無戸籍ネグレクト少女を拾ってしまったから(幸せを)わからせたい (エテンジオール)
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導入部(食材を用意します)
誘拐犯になろう


 ある深夜の公園で、全くもって危機管理がなっていない少女と出会った。残業に次ぐ残業と、終電ギリギリで何とか駆け込んだ後で、猛烈な腹痛で救急車を呼ばれかけた挙句の帰り道。

 

 次の日が休日なこともあり、帰宅の道で普段ほとんど人とすれ違わないこともあり、トイレ代としてストロングでロングな缶を買って半分くらい飲んだ頃。

 

 

 僕の体質的には、記憶も歩行能力も言語能力も問題なく働くけど、少しばかり遠慮というか、警戒心が薄くなっていた頃。

 

 

 もうしばらくすれば草木も眠るような時間帯に公園のベンチで、パジャマの袖を腕に擦り付けて僅かな暖を取っていた少女を見つけた。髪はボサボサでガリッガリに痩せていて、見るからに不健康そうな青白い肌の少女だ。

 

 

 時間帯のことを考えれば警察に通報するべきだし、考えなくても関わるべきではない。間違いなくなにか厄介な事情があるだろうし、そもそも声をかける時点で下手すれば事案だ。

 

 何も見なかったことにしようと思って、モヤモヤする気持ちを流すべく缶を呷る。安っぽいエタノールを誤魔化す炭酸と、ベッタリとした人工香料のにおい。舌にこびりついたこれは念入りに歯を磨いても明日の昼まで残るのだと、嫌なことを思い出す。

 

 その不快感も流そうともう一呷りしても、込み上げてくるのは二酸化炭素と嘔吐感だけ。人工香料の甘ったるいにおいが鼻に抜けて吐きそうになる。

 

 ああ嫌だと、疲れとアルコールの中思い、たとえどうなったとしても自分は罪には問われないのだからと自分に言い訳しながら去ろうと考え、

 

 

 

 

 

 気が付いたら話しかけていた。

 

 自分に言い訳するのは本心ではそれを望んでいないからだとセルフ正論パンチかまして、何か冤罪かけられた時に助けとなるようにと僅かな充電残量で録音して、とにかく自分に不都合がないように最大限用意する。

 

 

 それだけ済ませて、圧迫感や不快感を与えないようにゆっくり近付く。様子見としてかけた言葉はこんばんは。これに対して返事をしなければ念の為警察に通報して終わりにするし、悪態や舌打ちが返ってくれば気にせず家に帰れる。

 

 

 

「ぁ……ぇと……こんばん、は?」

 

 

 それを望んでいたはずなのに、返ってきてしまった挨拶。話しかけられると思っていなかったのか、目をぱちくりさせて、キョロキョロと周囲を見て、聞き返すかのように。

 

 

「こんばんは。こんな時間にそんな格好でどうしたの?」

 

 

 ちょっと夜風に当たりにとか、お散歩とか、危ないから程々にして帰るんだよと言えるような返答を求めつつ、格好からあまり期待しないで訊ねる。

 

 少し冷え込む中、ヨレヨレのパジャマで、大して整備されている訳でもない公園の薄汚れたベンチにちょこんと座っていて、そんな普通な理由なわけがないだろうと半ば確信を抱く。

 

 

 

「ぇっと……その、お、ぉ母さんに出てけって、も、もうかえってくるなって……」

 

「おま、お前のせいで再婚できないって、えっと、戸籍なくて、だから勝手に死ねっていわれて」

 

「……なにしたらいいかわからなかったから、お星さまみてました」

 

 

 どのような心境なのか、少女はへらりと笑う。言っている内容とその表情の差に、一瞬理解が追いつかなかった。

 

 その言葉が本当のことなのか、適当なことを言っているだけなのか、どうか適当なことであって欲しいと、そんな気持ちが湧き上がる。しかしそれも、明らかにサイズのあっていないくたびれたサンダルと、靴擦れで一部だけ真っ赤になった足を見た事で消えた。

 

 

「そっか……大変だったね」

 

 言えることなんて、それくらいしかなかった。

 

 とりあえず警察に連絡するべきだろうか。いやけど、本人は自分のことを無戸籍だと言っていた。どのような対応をされるのかわからないし、調べようとスマホを取り出したものの電池切れ。

 

 

「ぅ、ううん、大変じゃなかったし、困ってる訳でもないの」

 

「ただ、どうやって死ぬのが一番くるしくないかなぁって」

 

 

 そう言った少女の目には、光も、希望も、何かに対する執着も見られない。だから、目を離してしまえば本当に死を選ぶのだろう。それが餓死か凍死か他殺か自殺かはわからないが、きっとそうなのだろうと思った。

 

 

 死にたいから死ぬのではなく、苦しいから死ぬ訳でもない。死を特別視していない、と言えば一部の人は共感性羞恥に悶えそうだが、ようは死ねと言われてそれを拒否する理由がなかったから死のうとしているだけ。

 

 

 僕の目にはそのように映った。そして、それを飲み込むのがどうにも嫌だった。人工甘味料の不快さは丸一日もすれば抜けるだろうけど、今目の前にいるそれは一生引き摺りかねない。

 

 半分くらい残っていたアルコールを捨て、衛生状態が少し心配な水飲み場で水を飲む。

 

 

「死ぬのはとめないし、苦しくない死に方も教えてあげる。ただ、その前に少しだけ僕の話し相手をしてくれないかな?」

 

 

 自分が生きる理由を持っていなさそうな少女の、光の無い目が気に食わなかった。この先生きていたとしても、何もいいことなんてないだろうというような希望の無さが許せなかった。他の人に言われたくらいで躊躇いもなく命を投げ出すような執着のなさを壊したくなった。

 

 

「は、はなしあいて?わたしでよかったら、お、教えてくれるなら、いくらでもするよ?」

 

 

 

 僕の、突然でおかしな申し出に対して、少女は戸惑った様子を見せながらも受け入れる。とはいえ、戸惑った様子や言葉に詰まったりしているのは終始変わらないので、本人からすると普通の対応なのかもしれない。

 

 

「よかった。それなら、僕の家に来ない?ここは冷えるし、多分お腹も空いているよね。大したものじゃないけど、暖かいものくらいならご馳走するよ」

 

 

 まともな危機感を持っていれば、こんな誘いに乗るはずもない。乗ったとすれば、余程の無知か、自分をその対象外と考えているか、最初からそれを狙っていたかだ。

 

 

「おじさ……おにいさんのお家?うん、だいじょうぶだよ?」

 

 

 そして少なくとも、この少女が三つ目であるとは思えない。そんなに器用な子には見えないし、それならもっと釣りやすい設定があったはずだ。

 

 咄嗟に出た言葉でおじさんと呼ばれかけたとしても、そこについては気にしない。小学生から見れば大学生がおじさんおばさんなように、ミドルティーンと思わしき少女からすれば20代半ばの僕はおじさんだろう。別におかしいことではないし、気にしない。多少なりともショックを受けてるなんてこともない。

 

 

「よかったよかった。それじゃあ、着いてきてくれるかな?とはいえ、夜も遅いし、静かに移動しよう」

 

 

 僕の考えていることが当たっていれば、この子はきっとまともな生活を、人並みの幸せを知らない。何も知らずに、ただ何も無い中で全てを諦め受容している。それが気に入らないから、人並みの幸せを与えてあげたい。

 

 思わず目を輝かせてしまうような世界を見せてあげたい。あれがしたい、これがしたい、将来はきっとなんていう、夢とか希望を与えてあげたい。自分が死ぬ時に持っていたくなるようなものや、命の危機の間際に思い出して死にたく無くなるような、世界に対する執着を与えてあげたい。

 

 

 価値観を壊し、常識を崩し、当たり前を否定しよう。少女のためではなく、僕自身がそれをしたいから。義務感からではなく、ただの欲求として。

 

 

 昔の僕ですら持っていたものを、自分よりも若い少女が持っていないことが、どうしても気に入らないから。

 

「そんなに遠い訳でもないから、安心してね」

 

 

 

 

 

 こうして僕は、存在しないはずの少女を誘拐した。



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若い男女が2人きり、何も起こらないはずも……

基本的には現代日本準拠で書きますが、法律や制度周りに詳しい訳では無いので異なる点等あれば教えて頂きたいです。



少女を連れて帰って、真っ先にしてもらったことはお風呂に入ることだった。変なことをするからとか、いかがわしいことをするためではなく、ただ単純に臭ったから。ついでに汚れてもいた。

 

 悪臭はあるだけで不快になるし、その源は嫌悪の対象だ。場所が自分の部屋ともなれば尚更だろう。

 

 着替えとしてジャージを渡し、ポットに水を入れてお湯を沸かす。用意するのはコンソメを溶かしただけのスープ。食事を用意した方がいいとも思ったが、用意したところで固形物をまともに食べれない可能性もあるからひとまずはスープだけにした。

 

 待っている間にタオルケットと毛布を押し入れから出しておき、近所迷惑にならない程度に部屋を片付ける。

 

 そうしているうちに上がった少女に確認して、一日一食は食べてたから固形物でも問題は無いと判明。アレルギーもないらしいので、ひとまず胃に優しそうな煮物と米を解凍する。

 

 

 食べられそうな分だけ取り分けて食べるように伝え、シャワーを浴びたり浴槽を洗ったりして、15分ほど経ってから部屋に戻ると、少女は半分ほど米と煮物を減らしたところで箸を置いていた。

 

 

「……ぉ、おにいさんっ、ご飯、ありがとうございました」

 

 

 人をダメにするクッションに身を任せていたのに、ちょこんと座り直して少女は頭を下げた。

 

 

「どういたしまして。量は足りたかな?多かった分は残しておいてね。後で食べるから」

 

 そう言いながら、少女が使っている座卓を迂回して、部屋の一番奥にあるシングルサイズのベッドに腰をかける。

 

 

「……もうおなかは減ってない?そっか。ならよかった。今更だけど、僕は灰岡(はいおか)(りん)。25歳の会社員で、趣味はゲームと本を読むこと」

 

 少女が頷いたのを見て、そのまま自己紹介を始める。

 

「働くモチベーションは努力が目に見えて残るのが好きだからで、通帳の数字を減らさないために自炊と節約もしている。将来への備えにもなるから一石二鳥だしね」

 

「色々事情がありそうな君を見つけて、放っておきたくなくなったから、お節介を焼いている。嫌な思いとかしたらすぐに教えてね、なるべく直ぐに対処するから、よろしくね」

 

 全く興味を持たれないで聞き流されることも考えていたけど、少女は案外興味を持ってくれたらしく、コクコクと頷きながら話を聞いて、よろしくお願いしますと返してくれた。

 

 

「えっと、……名前はすみれです。おかあ、お母さんの苗字は莢蒾(がまずみ)だったので、わたしは莢蒾すみれ……だと思います」

 

「……戸籍がなくて、苗字も合ってるのか分かりません。好きだったことは、図鑑とかをなが、眺めることで、使う機会のない知識を増やすことが楽しかったです」

 

 紹介する側が正しく把握出来ていない、ところどころ説明の内容が過去形な自己紹介。

 

 

 

 その後しばし質問と回答を繰り返して判明した、少女、すみれの情報をまとめると、

 無戸籍且つ軟禁状態でこれまで過ごしてきたので、まともに外に出たのは今日が初めてだった。

 ネグレクト状態が始まったのはここ数年ほどのことであり、それまではお母さんはしきりに謝る人で、けれどもしっかりと愛を与えてくれていた。

 そのきっかけは、若い頃からすみれを育てるために全てを注いでくれた母が、パート先で出会った男性と恋に落ちたこと。

 まともな生活を送らせてあげられなくてごめんね、など、数年前まではよく言われていたため、すみれが無戸籍なのは、母が積極的に望んだことではない。

 その頃までは、男に気をつけろと言うことがあったため、そこに無戸籍の理由があるのかもしれない。

 ネグレクトが始まってからは、お腹が空かないようになるべく動かず、母の目に入らない押し入れの中で過ごしていた。

 そして、ついに自宅に男性を呼ぶことを決めた母により、家から追い出され、自身も野垂れ死ねと言われた。

 

 

 これを聞いて、正直な話僕は少しビビった。所々に不穏な言葉こそあったとしても、最低限まともに会話が成り立つくらいには言葉を教えられていて、その延長線上でのネグレクト、子捨てだと思っていたからだ。

 

 

 まともな食事を食べたことがない子供に美味しい食事を教えるのは簡単だ。ただ単純にその子の知らなかった食事を与えてあげればいい。

 けれど、かつてまともな食事を取ってきていて、ある日唐突にそれを奪われた子供に、食の喜びを与えることは難しい。

 ただの美味しい食事だけでは不十分で、昔のものを越えなくちゃならないし、何より一度裏切られたことで素直に受け止められない中で悪い意味で記憶に残っているのだ。

 

 

 

 僕の想像していたのは、まったくもって愛情を知らない子供だった。だからこそ容易く対処できると思って調子に乗っていた訳だが、すみれのそれは想像を超えて強いものだった。

 

 会話が通じる人が、母親以外と話したことがないなんて、義務教育すら受けていないなんて、誰が想像できるだろうか。

 

 

 けれど、元の予想よりも酷い過去だったとしても、僕が先程気に食わなかったすみれの姿が消える訳ではない。

 

 

 その目的の難易度とは裏腹に、僕のやる気はぐんぐん上がっていった。一番最初は自分が気に食わないからだったはずなのに、心が、心底すみれの幸せを願ってしまう。

 

 そう思ってしまうような危うさが、幸薄さがすみれにはあった。

 

 

「……えっと、あとは……ぁ、ごめんなさい、ずっと話してたらご飯食べらっ、食べられる時間が無くなっちゃいますよね」

 

 

 その境遇や話し方とは裏腹に、話すことが好きらしいすみれとの会話は、最初予想していた時間を大きく超えるほど続いた。

 

 お話をしようと言って応えてくれた以上、会話をする気があるのは当たり前かもしれないが、初日からこんなに話せるとは思わなかったのだ。そのせいで、直ぐに食べることになると思っていた残り物は1時間以上放置され、冷たくなっていた。

 

 

「ああ、大丈夫。お腹もそんなに空いていないし、出来たてが冷めたらちょっと寂しいけど、冷凍していたものなんて温め直せばいいだけだからね」

 

 とはいえ、言われてみれば空腹を感じなくもない。話の流れも切れてしまったし、時間もだいぶ遅い。よく見ればすみれも眠そうだし、このあたりで終わらせておいた方がいいだろう。

 

 

「でも、気にかけてくれたことは嬉しいよ。ありがとう。でもそうだね、時間も遅いからそろそろ食べることにするよ」

 

「嫌じゃなければベッドは使っていいから、眠かったら寝ちゃってね。多少物音はすると思うけど、それだけは我慢して」

 

 

 少し困惑した様子のすみれにベッドを譲り、茶碗を持って玄関すぐのキッチンへ移動する。僕の寝る場所なんて、ダメにするクッションの上で十分だ。普段からそれなりの頻度で寝落ちしているため、慣れたものである。

 

「それじゃあおやすみ」

 

「……っ、え、その、おやすみなさい……」

 

 

 電気を消し、扉を閉めればキッチンの明かりはほとんど部屋に届かない。

 

 

 扉の向こうから僅かに聞こえる、布の擦れる音。ベッドに移動したのだろう。ほぼ無音になったキッチンで、半食分だけ残った煮物と米を、水と一緒に流し込む。

 

 

 5分程度の簡素な食事。冷凍のせいか冷えたせいか、米は固くパサつくし、人参の食感も良くない。冷凍庫のにおいがついていないから食べることは出来るが、人様に食べさせるのは微妙なラインだ。

 

 

「……ごちそうさまでした」

 

 

 米のデンプンや乾いた煮汁などでカピカピになった食器をシンクに下げて水をかけておく。

 

 未明と呼べなくなった時間帯では、ほんの僅かな茶碗洗いの音が近所問題になるし、最悪通報されかねない。

 

 

 防音性の高い一軒家ならともかく、風呂の音がうるさいと苦情が出るような安物物件だ。夜中に人と話すなんてことをした以上、これよりも苦情の元になりかねない要素を積む訳にはいかない。

 

 

 

 僕は歯磨きだけ済ませてすぐに真っ暗な部屋に戻り、予め用意していた毛布等の防寒対策を当てる。

 

 寝床は人をダメにするクッション。クッションの性能に甘えて、枕は用意していないし、自分の体にかけるのは毛布一枚。

 

 十分暖かくはあるが、快適とは言い難い。床とかその辺のソファで寝るよりは間違いなく寝心地がいいが、だからといって快適に寝るためのベットと比べたら質は下がる。

 

 

「おやすみなさい」

 

 

 けれども、それでも、まだ起きていてうまく寝付けない少女に言葉を告げつつ眠りにつく環境として考えるなら、十分すぎるものだった。




 戸籍がなくても義務教育って受けれるんですって


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あたりまえの終わり、やさしいお母さん

すみれちゃん視点です


「頼むから出ていってくれ。もう帰ってこないでくれ」

 

 そんな言葉をかけられたのは、これまでずっと過ごしてきた部屋の中。お母さんの教えで、ある程度以上の掃除を禁止された部屋。

 

 周囲に気付かれるような音を出しちゃいけないし、そんな音を立てかねないことはしてはいけない。わたしの存在が周りに露見するようなことは控えなくてはいけない。

 

 

 ただただひっそりと、そこに在るだけの生活。救いがあるとすれば、インターネット機器が与えられていたことでしょうか。おかげで暇潰しには困りませんでした。

 

 

 

「お前がいるのが苦痛なんだ。お前のせいで何も出来ないんだ」

 

 

 そう告げてくるお母さんの顔はとても苦しそうでした。怒りと悲しみ、そして憎しみでしょうか、きっとそんなものが胸中で渦巻いているのでしょう。殴ったり蹴ったり、暴力的に発散したい気持ちもあるのでしょう。

 

 けれど、握った拳を震わせるだけで、お母さんは決してわたしに乱暴はしません。わたしの記憶がある中で、一度だってそんなことはしませんでした。

 

 きっと、優しい人なのでしょう。嫌になった子供を何年も養えるくらいには優しくて、けれどもわたしの存在がその優しさの範囲から外れてしまった。きっとそれだけの事なのです。

 

 

「今晩中に出ていってくれ。人殺しにはなりたくない」

 

 

 苦しそうな顔が、憎しみに染まりました。昔はあんなに優しかったお母さんのこんな顔は、見たくありませんでした。

 

 優しかったお母さんをこんなふうにしてしまったのは、わたしなのです。自己犠牲を問わず、献身的に愛してくれたお母さんをおかしくしてしまったのは、お母さんの人生をめちゃくちゃにしてしまったのは、わたしの存在なのです。

 

 わたしがいなければ、お母さんはもっと自分のために生きれたでしょう。わたしがいたから、お母さんの時間は奪われてしまったのでしょう。

 

 

 何もかも、わたしのせいです。わたしが生まれたことが悪かったのです。

 

 

 そう考えると、心の底から申し訳なさが湧き出てきました。自分でもこんなに申し訳ないと思えることがびっくりなほど、重たい罪悪感が胸を支配します。

 

 

「……わかりました。これまで育ててくれて、ありがとうございます」

 

 

 お先真っ暗です。明日から何をすればいいのか以前に、どこで明日の朝を迎えればいいのかすらわかりません。ホームレスデビューをしようにも、公園の場所すら知りません。

 

 

 けど、素直におとなしく追い出されます。駄々をこねてこれ以上お母さんに迷惑をかけるわけにはいきません。追い出されて、お母さんに当たり前の平穏捧げることが、わたしにできる最後の親孝行です。

 

 

「っ、そう、じゃあ準備しておきなさい」

 

 

 お母さんが鼻白んだように見えます。わたしがすぐに受け入れたことが、そんなに意外だったのでしょうか?

 

 そのままお母さんが離れていったので、家を出る準備をします。

 

 とはいえ、この家の中でわたしが使っていたものはどれもお母さんに使わせてもらっていたもの。準備と言っても、よく使っていたものを整理するくらいです。

 

 

 布団を畳んで、押し入れにしまう。お下がりのスマホを、使っていた歯ブラシを、茶碗と箸を、家の所々に置いてあるわたしの使ったもの、一人暮らしの女性の部屋にあったら不自然なものを集めて箱にしまう。

 

 言葉には出していないけれど、お母さんがわたしを邪魔に思う理由の一番は再婚を考えているからです。だから、わたしの痕跡は残しちゃいけない。わたしがこの家にいた事実なんてものは、私とお母さんの頭の中にしか残してはいけないんです。

 

 

 しまって、しまって、思いつくものを全て箱に納めても、非力なわたしの力で持ち上がるくらいの量しか集まりませんでした。まるでわたしの人生みたいですね。

 

 このスッカスカの箱の中から、私が持っていっても良さそうなものを選びます。下着なんかは、サイズがお母さんとは合わないので、残して言っても捨てるだけでしょう。持っていっても大丈夫なように思えます。

 

 服は……どうでしょうか。元がお下がりなので、着ようと思ったら着れるはずです。ただ、わたしが着古したものをお母さんが好んで着るとも思えないので、ギリギリ大丈夫だと思います。

 

 歯ブラシは問題ないでしょう。箸も問題ないと思いますが、使い道が見いだせないのでいりません。

 

 他のものも、使えそうなものはありません。衣類と歯ブラシだけ、ビニール袋に入れます。家にある中で少し大きめの袋に収まるものが、わたしの持つ全て。ここまで来ると、一周まわって安心感すらありますね。

 

 

 

 さて、今の時間は12時頃です。お母さんに言われた、今晩という時間にはまだだいぶ早いので、残った時間は適当に過ごすとしましょう。

 

 その内容はと言うと、今晩から送ることになるホームレスとしての心構えとか、正しく乞食行為をするための作法とか、生活に直結するものがほとんど……というより、全てです。

 

 惜しむべきは、検索したなかで多くのものが、“お金が無くなって困った時には”とか、“頼る人が居なくなったら”とか無駄に大きな文字で強調して相談窓口に誘導してきたことでしょうか。

 欲しい情報から少し外れたものしか示さずに、困ったら〇〇に相談してくださいなどと言われても、わたしにはそこに電話をかけることも出来ないのです。所詮、自由且つ満足にインターネットを使える人以外は想定していないサイト、ということでしょうか。本当に、私にとっては役に立たないものでした。

 

 

 調べても調べても何も意味のなかった時間の後には、睡眠をしつつ体を動かさずにカロリーを温存します。

 

 わたしの熱量に乏しい体にとって、起きて過ごしているということは苦難です。眠りにふけり、消費を減らすことが生きるための術。できることがないことによる眠りを経て、目が覚める頃にはお母さんが食べ残しを残していてくれます。

 

 

 食べかけのものであるため、量が多かろうが少なかろうがその日のうちに食べきらなくてはなりません。

 

 けれども、こんなわたしのために自身の必要量以上に調理をして、それを残しておいてくれるあたり、お母さんはやっぱり優しい人です。

 わたしはお母さん以上に優しい人を知りません。……まあ、そもそもお母さん以外の人なんて1人も知らないのですが。

 

 

 今日の晩御飯、わたしにとっては一日一度の唯一のご飯ですが、それは3日目の親子丼でした。

 

 全体的に冷たく、冷えたこともあり米も鶏肉も硬いですし、冷えた脂が舌にこびりついてベトベトします。固いくせに水分を沢山吸った米はボロボロにつぶれ、舌で潰せるくらいのやわらかさです。

 

 

 感想としては、離乳食より1歩進んだ米、と言った所でしょうか。初めて食べた時は思わず吐き気がしましたが、なんどもにたようなものをたべるにしたがってそんなことも無くなりました。ただただ、ご飯を用意してくれたお母さんに感謝です。

 

 

 今日の食事を部屋の片隅の、邪魔にならないところで済ませたら、お母さんに持っていきたいものを持って行っていいかの確認を取ります。

 

 

 

「勝手にすれば?どうせお前のものなんて全部捨てるし、私としてはその辺で野垂れ死んでろって思うけどね」

 

 

 パソコンを睨みつけながらお仕事をしていたお母さんに聞くと、舌打ちをひとつしてから答えてくれました。

 

 

 私の好きなようにしていいという言葉で、お母さんの優しさを痛感します。捨てるという言葉で、わたしの最後から2番目の親孝行の的確さを実感します。

 

 

 そして最後の言葉で、わたしは目からウロコが落ちました。野垂れ死ねばいいと思う。片手で持ち上げられるくらいのわたしの人生に対して、なんて的確な言葉でしょうか。

 

 わたしはこれまで、受動的に生きてきましたし、この期に及んで自分の命を当たり前のものだと誤認していたのです。

 だから当然のように明日の心配をしていましたし、生きていく上で必要なものを選んでいました。

 

 でも、違うのです。わたしに価値はない。わたしがいて、喜んでくれる人はいない。幸せになれる人もいない。そんなの、いない方がいいじゃないですか。

 

 こんな簡単なことにすら気がつけなかったことが、酷くかなしいです。なんなら、お母さんから切り出されるよりも先に、自主的に家を出ていくべきでした。やっぱりわたしはダメな子ですね。

 

 

 けれど、そうと決まれば話は早いです。あれがいるこれがいるなんて、小難しく考えていたことなんて馬鹿らしいくらいです。

 

 

 わたしは、自分の用意したビニール袋の中身を全て箱の中に戻しました。

 

 

 明日を迎える価値のないわたしが、未来のことを考えて用意することがあまりにも滑稽だったからです。そんなものは、私には必要ありません。直ぐに死ぬことを決めているのに、わざわざ生きるための準備をするなんて、あまりにも矛盾がすぎます。

 

 

 そうして、わたしは自分の人生が終わることを受けいれたのです。

 

 

 

 それから少し経ちました。

 具体的な時間、何時何分等の指定こそなかったものの、きっと家を出るのは早いに越したことはないでしょう。

 

 

 お母さんの告げた、今晩という括りの中。空の明るさとしては、日が暮れてから全般がその範囲内に含まれますが、夜の8時かそこらであればそれなりに人通りもあります。万が一わたしがこの家から出てくる姿を誰かに見られてしまえば、お母さんの、そして私のこれまでの努力が水の泡になってしまいます。

 

 なので、お母さんの言う今晩というものは、基本的には深夜帯であると考えていいでしょう。日付が変わって少しくらいの時間帯というものは、人々の外出量が少ないということは、わたしですら理解しています。

 

 

 仮にお母さんがそこまで考えていなかったとしても、いわれた言葉に対する今晩という条件はみたせますので、日付が変わるギリギリくらいまでは粘っていいのではないでしょうか。

 

 

 

 何も持たない中で、ただ時間だけを無駄にしている感覚もありますが、今はひたすら耐えのときです。いちばん都合よく振る舞えるタイミングを、ただひたすらに待ち続けます。

 

 

 

 お母さんの、食事が終わります。お母さんのお風呂が終わります。お母さんが、入眠直前の状態で、眠いはずなのに、明日も予定があるはずなのに起き続けています。

 

 

 そろそろ、一区切りつけるタイミングでしょうか。

 

 

 

 手ぶらの状態で、玄関に向かいます。何もいらないのだから当然ですね。

 下駄箱の中から、おそらく何年も履かれていないボロボロのサンダルを取り出し、お母さんに見せます。

 

 

「おかあさん、そろそろ出ようと思うのですけれど、このサンダルをいただいてもいいでしょうか?」

 

 

 裸足で外を歩くと足を怪我してしまうからです。わたし自身は良くっても、いつも道路を使っている人達は、誰かの血が擦り付けられていたら不快に感じるでしょう。なにか履くものが必要になります。

 

 お母さんはサンダルとわたしの顔を見て、少し嫌そうな顔をします。これから追い出す娘が、最後までわがままを言ってきたのだから当然です。

 

 

「……チッ、好きにしな」

 

 

 ……やっぱり、お母さんは優しい人です。

 

 

「……ありがとうございます。最後までわがままばっかりでごめんなさい。……どうかお身体を大切に」

 

 いけませんね。もっと言いたいこと、伝えたいこと、お礼や愛していること、幸せを願っていること。

 

 たくさんあるのに、何も伝えられませんでした。わたしが言葉にすることが苦手だから、伝えられませんでした。今からでも言いたいけれど、それではお母さんの時間を奪うことになってしまいますから。

 

 

 

 ぺこりと頭を下げます。顔を上げて、お母さんの姿を見ます。わたしが見る、最後のお母さんの姿です。わたしがずっと迷惑をかけてきた、人生を奪ってきた人の姿です。

 

 

 もう、この人をお母さんと呼ぶことは無いのだと、呼んではいけないのだと思うと、胸の内から悲しさが込み上げてきます。溢れそうなそれを必死に飲み込み、我慢しようとします。

 

 

 

「……さようなら、おかあさん」

 

 

 少しだけ、こぼれてしまいました。視界が滲みます。

 

 わたしは、上手に笑えているでしょうか。昔お母さんが褒めてくれた笑顔を、浮かべられているでしょうか。

 

 たぶん、できていないでしょう。年単位でまともに使っていなかった表情筋です。強ばって、引き攣っているのが自分でもわかります。

 

 

 すぐに後ろを向き、玄関のドアノブを掴みます。涙なんて、見せたくありません。これ以上、お母さんに心労をかけたくありません。だから、すぐに出てしまいます。

 

 

 開けたことの無いドアを、お母さんの真似をして開けます。ガタン、と大きい音が鳴って、開きませんでした。滲む視界をクリアにして見ると、鍵がかかったままでした。雫がふたつ、足元にこぼれます。

 

 

 少し恥ずかしさを覚えながら、鍵を開けて、今度はゆっくりドアを開けました。蝶番が軋み、夜の少し冷えた空気が入ってきます。

 

 

 

 このドアから、行ってきますと宣言して出ることを、昔は夢見ていました。お母さんが行ってらっしゃいと見送ってくれて、わたしは学校に行くんです。外で出来た、友達と遊ぶのかもしれません。

 

 けれども、現実はこんなものでした。行ってきますではなくさようならを言い、わたしの行く先には誰もいません。さようならだって、他の人には聞かれないように小さな声で、玄関を開ける前でした。

 

 

 玄関を出て、ゆっくり閉めます。家の中から、嗚咽のような小さい声が聞こえた気もしましたが、きっと気のせいでしょう。

 

 



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誘拐犯になろう(裏)

 初めての外です。アスファルトの小さなでこぼこが、とっても新鮮です。サイズのあっていないサンダルをカッポカッポ鳴らしながら歩くと、小さな小石がチャリチャリと転がります。すこしだけ、楽しいです。こういうのを、箸が転がっても面白いお年頃というのでしょうか?たぶん違いますね。

 

 ふと、家を振り返ると、カチャンと軽い音が聞こえました。家の鍵が閉められた音です。お母さんの高い防犯意識に一安心ですね。その音を聞いて寂しく思ってしまったわたしは、やはり親不孝者です。

 

 

 名残惜しく扉を見つめて、表札を見ます。書いてある文字は莢蒾(がまずみ)

 音だけは元々知っていたのですが、こんな漢字を書くんですね。一度見ただけでは忘れてしまいそうです。覚えていきたくもあるのですが、ずっと居座っていると誰かに見られるかもしれません。

 それは良くないことなので、見知らぬ世界を前に歩みを進めます。

 

 

 歩く度に目に入るのは、似たような形や構成を取っていながらも全く違う家の数々。効率だけを考えるのなら箱型でいい気もしますが、それだと景観なりなんなりに影響があるのでしょう。

 

 

 たくさんの住宅を経て、道路に出ました。この時点で、わたしの足は痛みを訴え、まともに動けない状況です。

 

 これが靴擦れでしょうか。確かに痛みを感じますが、おそらくそれ以前の問題。まともな歩き方を知らない弊害でしょう。足がプルプルしてろくに歩けません。

 

 

 仕方がないので休める場所を探して、ノロノロと歩きます。噂に聞く駐車場の車輪止めでもと思いますが、住宅街ゆえに需要がないのでしょう、全く見当たりません。見つかったのはコンビニだけです。

 

 

 これが昼間や夕方頃であればそれでも良かったのですが、今の時間は既に深夜。良い子は眠っている時間で、悪い子なわたしは見つかったら捕まってしまいます。

 

 

 ようやく車輪止めを見つけたのに、近寄ることは出来ませんでした。コンビニを迂回して、またノロノロ歩きます。

 

 

 

 30分、1時間くらい経ったでしょうか。わたしにとっては永遠にも近い長い時間でしたが、ようやく公園を見つけました。しかも、ベンチがあります。完璧です。

 

 草の上を歩くという、不思議な体験もしましたが、それ以上にわたしは限界でした。多少チクチクすることも厭わず、ベンチに座り込みます。家を出てすぐであれば踏みしめる感覚やサンダルの隙間から入り込む草の感触に驚く余裕もあったのでしょうが、今のわたしには無理です。

 

 

 ずっとまともに整備をされていなかったのでしょう、砂埃とサビ汚れの目立つそこに体を預け、頭をぐわんと上に向けます。キラキラ光る星が綺麗です。出来れば月も一緒に眺めたかったのですが、見つかりませんでした。

 

 残念ですが、仕方がありません。諦めて星を楽しみましょう。何が何座とか、なんて名前の星だとか、そんなことはひとつもわかりませんが、そんなことは知らなくても綺麗なものは綺麗なので問題ありません。

 

 

 

 この星たちが看取ってくれるなら、死もそれほど恐ろしいものでは無いでしょう。

 

 

 とはいえ、今すぐ死のうという気にもなれません。足も痛いですし、動きたくありません。なんなら、疲れているのです。だからぼーっとして、星を見ます。他にすることもないので、見続けます。

 

 

 どこで死のうかとか、どうやって死のうかとか、沢山考えます。できるだけ苦しくなくて、人に迷惑をかけないものがいいです。誰にも見つからず、ニュースにもならなければ最高です。

 

 多くの人は死に方なんて選べないのに、わたしは好きなように選ぶことが出来ます。沢山考えていいんです。きっと、とっても幸せなことでしょう。

 

 

 そんなことを考えながら、肌寒さを感じて腕をこすっていると、一人の男の人が歩いていました。手に持っている缶、お酒の入った缶を口元に運びながら歩いてきて、わたしを見つけて足を止めます。

 

 何やら少し考え込んで、一度目を逸らして歩き出して、少ししてからこちらに近寄ってきました。一度携帯電話を取り出してなにやら操作してからしまい、警戒しながら足を運んでいます。

 

 

 一般的に考えたら、警戒するのはむしろわたしの方だと思いましたが、わりかしどうでもいいです。攫われようが、乱暴されようが、どうせそろそろ死ぬのだからと考えるとあまり気になりません。むしろ、通報されていることの方が心配です。

 

 

「こんばんは」

 

 

 鬼畜が出るか犯罪者が出るかはたまたありがた迷惑な一般市民が出るかと待っていると、そんな挨拶が飛んできました。夜ですから、妥当と言えば妥当なものです。当然、わたしも普通に挨拶を……

 

 

「ぁ……ぇと……こんばん、は?」

 

 

 できませんでした。頭ではしっかり把握している言葉なのに、上手に声に出せませんでした。

 

 考えてみれば、お母さん以外との初めての会話です。変に緊張してしまい、呂律も回りません。心臓もたくさんドキドキしてます。当然こんな経験も初めてですが、楽しむ余裕なんてありません。

 

 

「こんばんは。こんな時間にそんな格好でどうしたの?」

 

 男の人が質問をしてきます。質問されたら、答えなくてはいけません。空回りする頭で精一杯言葉を作ります。

 

 

「ぇっと……その、お、ぉ母さんに出てけって、も、もうかえってくるなって……」

 

 

 わたしは、自分はどんな時でも頭の中のことを的確に音声化できる人間だと思っていましたが、全く違ったようです。脳内で単語だけが自己主張して、出来事の一部だけを伝えます。そこに、わたしの気持ちだとか、考えなんてものは含まれません。

 

 

「おま、お前のせいで再婚できないって、えっと、戸籍なくて、だから勝手に死ねっていわれて」

 

 

 

 吃ってしまうこの身が、恨めしいです。こんな説明では、まるでお母さんがとっても酷い人みたいに思われてしまいます。あんなに優しい人なのに、あんなに普通の人なのに。こんなふうな、人の心のないかのような扱いは好きじゃありません。お母さんは優しい人で、それだけは間違いがありません。

 

 

「……なにしたらいいかわからなかったから、お星さまみてました」

 

 

 そんなことを考えながらも、わたしの口はゆるゆるで、考えを完全に話してはくれません。お母さんとの会話とか、もっと大事なところがあるのに、そんなことは全く話さずにいらないところだけを話します。そこだけ話して、止まってしまいます。

 

 

 男の人も、わたしの話を聞いて黙り込んでしまいました。当然です。わたしだって、自分の環境が一般的なものでは無い認識はあります。ちょっと声をかけただけの相手からそんなことを話されたって困ってしまうでしょう。

 

 

 

「そっか……大変だったね」

 

 

 

 男の人が、やっと絞り出した言葉はそれでした。わたしにとっては、的外れもいいところです。けれど、真っ当な意見としてはそうなるのかもしれません。

 

 

「ぅ、ううん、大変じゃなかったし、困ってる訳でもないの」

 

 

 何も無く受け入れられたくらいには、大変ではありませんでした。足が痛くなってしまったこと以外には、特に困り事もありませんでした。

 

 

「ただ、どうやって死ぬのが一番くるしくないかなぁって」

 

 

 ただ、死に方だけは悩んでいました。なるべく楽で、誰にも迷惑をかけなくて、苦しくないそれ。

 

 こんなことを話しても、きっと命は大事だとか言われてしまうのでしょう。言われなかったら、だったら死ぬ前に楽しませてもらおうとか言われてしまうのでしょう。どちらにせよろくなものではありません。言葉にする必要がなく、しても悪いことにしかならないと予想できることです。

 

 

 なのに、わたしはそれを言ってしまいました。それだけ、その言葉が気に入らなかったのかもしれません。あるいは、自分のことを知ってほしかったのかもしれません。

 

 

「死ぬのはとめないし、苦しくない死に方も教えてあげる。ただ、その前に少しだけ僕の話し相手をしてくれないかな?」

 

 わたしは知ってます。これはきっと、そう、言っていけないことをしてくる鬼畜の類です。鬼畜というものは、相手に都合よく意見を合わせて、その過程で自分の欲求を満たすのです。きっと、俺に殺されることだよォ!とか言ってきます。

 

 とはいえ、それも悪いものではないのかもしれません。痛いのは嫌ですが、わたしの命の終わりに誰かに幸せを届けられるのなら、そう思えます。

 

 

「は、はなしあいて?わたしでよかったら、お、教えてくれるなら、いくらでもするよ?」

 

 

 なんて思考的な冷静を保ってるように取り繕っていますが、実際は文明人か疑わしいほど頭の中はぐちゃぐちゃです。あとから整理して出力したらこんな感じだっただろうと言うだけです。

 

 人って脊髄反射で会話ができる生き物なんですね。

 

 

 

「よかった。それなら、僕の家に来ない?ここは冷えるし、多分お腹も空いているよね。大したものじゃないけど、暖かいものくらいならご馳走するよ」

 

 

 お持ち帰り発言です。誘拐犯の手口です。きっとこのまま首輪をつけられてわんちゃんみたいに監禁されます。または全身バラバラにされて換金されます。

 

 けれど、そうだろうとわかっていても、お腹は行きたがります。すっかり忘れていた空腹感を思い出させられたせいで、きゅうきゅうと餌を強請ります。

 

 

 

「おじさ……おにいさんのお家?うん、だいじょうぶだよ?」

 

 

 痛くないといいなぁと1人覚悟を決めながら、男の人、お兄さんの提案を飲みます。流されに流されて、よくわからないことになってしまいましたが、今更嫌とは言えません。嫌なんて言ったら、何をされるかわかりません。

 

 

「よかったよかった。それじゃあ、着いてきてくれるかな?とはいえ、夜も遅いし、静かに移動しよう」

 

 

 うるさくしたら近隣の人にバレるからでしょうか。少しヒヤッとしましたが、こうなればもうなるようになれとしか言えません。ケセラセラ、好きな言葉です。まあなるようになった結果が今のわたしなのであまり素直に信じることも出来ませんが。

 

 

「そんなに遠い訳でもないから、安心してね」

 

 ニコリと笑うお兄さん。こわいです。足が痛むのを我慢しながら、あとを続きます。気分は子牛です。どな。



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若い男女が2人きり、何も起こらないはずも……(裏)

 着きました。どこにでもあるような、普通のアパートです。どこにでもと言えるほど世の中のアパートを見てきた訳ではありませんが、普通のアパートです。

 

 そんなアパートの階段を上って2階に行き、一番手前にあった部屋がお兄さんの自宅だそうで、いらっしゃいと言いながら玄関を開けてくれました。

 

 

「おじゃまします……」

 

 お兄さんに言いながら家に入り、サンダルを脱ごうとしたところで足が汚れていることに気がつきます。さすがにこんな足で部屋を踏み荒らすわけにもいきませんから、サンダルを履いたままたっていると、お兄さんが横をするりと通り抜けます。

 

 

「それなりに汚れてもいるみたいだから、先にシャワーでも浴びる?」

 

 

 お言葉に甘えてシャワーを浴びさせてもらうことになりました。サンダルを脱いで、玄関のすぐ近くにある浴室に案内してもらいます。着替えまで用意して貰えるようです。至れり尽くせりですね。

 

 教えてもらった通りにシャンプーやボディソープを使い、シャワーを浴びます。トリートメントはないのだと謝られましたが、そもそも使ったことがないので問題はありませんでした。シャンプーを使っていいと言うだけで、十分すぎるほど幸せなことです。

 

 

 冷たい水が、泡を流します。どこかで引っ掛けたらしいキズに沁みて、ちょっとだけ涙が出ます。やっぱり痛いのは苦手です。

 

 

 

 体温をあまり奪われないように、最低限の水で全身を流します。わたしが使っていた石鹸よりも泡立ちがいいからでしょうか、いつもより多めに水を浴びて、体が震えます。

 

 

 浴室から出ると、丁寧に畳まれたタオルとジャージがありました。ほつれや汚れも見えなくて、肌触りもいいです。とてもじゃないけれど、わたしが着ていいものだとは思えません。

 

 下着だけは着けていたものを身につけ、軽くて柔らかくてすべすべなジャージを着ます。裾をまくって、袖をまくって、長さを合わせます。ダボダボですけど、いい匂いがして嬉しいです。

 

「ああ、上がったんだね。ところでご飯なんだけど、何なら食べれるかな?」

 

 

 その格好で洗面所を出ると、お兄さんは部屋の片付けをしていました。好き嫌いなくなんでも食べれると言うと、わかったと言って冷蔵庫に移動します。

 

 所在なく立ちながら、本当は辛いものが苦手だと言っておけばよかったかなと考えていると、冷凍庫から出したタッパーをレンジに入れたお兄さんがお椀を片手に戻ってきました。歩く邪魔にならないように、横にずれます。

 

「ん?ああ、ごめんね。そこのクッションに座っててくれるかな」

 

 指し示されたのはかなり大きなクッションです。人が一人、十分に横になれるだけの大きさがあります。ありがたく座らせてもらうと、びっくりするほど体が沈みこみました。これがクッションならわたしがこれまで使っていたものはただの布切れです。

 

「どうぞ。熱いから気をつけてね」

 

 このまま寝っ転がってしまいたい衝動を堪えつつお兄さんを見ると、その手にあったお椀をわたしに差し出していました。

 

 ありがたく受け取ると、本当に熱いです。両手で包み込むように受けとってしまったため、手の全面から熱が伝わってきます。

 

 

 急いでテーブルの上に置くと、お兄さんは苦笑いをしてごめんねと言いました。そして冷蔵庫横の棚から食器を持ってきます。

 

 

 そのままそれをわたしの前に並べて、ちょうどなったレンジにタッパーを取りに行きます。わたしはその間所在なく待ってるだけです。申しわけないです。

 

 お兄さんはご飯と煮物を置いて、食べれる分だけ取り分けて食べていいと言うと、自身はシャワーを浴びに行ってしまいました。湯気をあげる食事がわたしの前に残されます。

 

 

 これは、本当に食べていいのでしょうか。いいと言われたからいいのでしょうが、そんな疑問が湧いてきます。

 

 

 けれど、そんな思いも匂いを嗅いだら消えました。こんなに美味しそうな匂いがするものを前にして、我慢などできるはずもありません。

 

 

 茶碗に、小皿に移して、煮物の肉を口の中に放り込みます。醤油の香りが口に広がるのと同時に、舌に熱が襲いかかりました。

 

 思わず吐き出したそれは、真っ白いお米の上に着地しました。冷やそうと慌てて水を探しますが、手元になくどこにコップがあるのかもわからずでどうしようもありません。

 

 仕方がないので舌を出してパタパタしましたが、あまり効果があるとも思えませんでした。

 

 

 少しの間、そんなことをしていると多少よくなってきたので、ヒリヒリする舌で食事を再開します。今度はちゃんと、少量を取って冷まします。美味しいです。冷ましてもまだ温かくって、冷えた体に染み渡ります。舌がばかになってしまったのでそこまで味はわかりませんでしたが、それでも美味しいです。

 

 

 ずっと空腹を訴えていた胃に、丸一日以上ぶりに食べ物を詰めます。普段は食べたそばから冷たくなっていくのに、今日は温かくなります。熱いのに、舌も痛いのに、食べる手は止まりませんでした。

 

 

 温めてもらったものを半分ほど食べたところで、お腹がいっぱいになりました。残してしまうのは申しわけないですが、これ以上食べると牛の真似をすることになりかねません。

 

 取った分を全部食べ切り、一息つきます。温かいからか、お腹がいっぱいになったからか、不意に眠気が襲ってきて、クッションに倒れ込んでしまいます。体が沈み、フィットするのが気持ちいいです。

 

 ぼんやりとした頭で部屋を見渡します。あまり特徴のない部屋です。ものはほとんど置いていないし、内装にも統一感がありません。機能性だけを見て、適当に集めたらこのようになるのでしょうか。

 

 お兄さんのシャワーの音も聞こえるので、防音性もあまり高くないのだと思います。たぶん、わたしが悲鳴でもあげれば隣の部屋に聞こえるでしょう。

 

 そう考えると、縛り付けて監禁されることはあってもバラバラにされて換金されることはなさそうです。

 

 となると、お兄さんがわたしに求めているのは体でしょうか。おもちゃに向いているとも思えませんが、多少は需要があるのかもしれません。

 

 いい死に方も教えてくれると言われましたし、最後の晩餐に素敵な料理も頂きました。その対価と考えるなら慰み者にされることにも忌避感はありません。

 

 

「……ぉ、おにいさんっ、ご飯、ありがとうございました」

 

 なるべく痛くないといいなあなんて考えながらぼんやりしていると、お兄さんがシャワーから上がってきたので、お礼を言います。背中をぴんと伸ばして座り直し、しっかり頭を下げます。

 

 完全に油断しきっていた姿を見られたのが恥ずかしいです。わたしの顔は赤くなっていないでしょうか。

 

 

「どういたしまして。量は足りたかな?多かった分は残しておいてね。後で食べるから」

 

 そう言いながらお兄さんはベッドに座り、わたしにもう食べないか質問してから自己紹介をしてくれました。

 

 

 今更ですが、わたしはご飯を食べさせてくれて、きっとこれから自分のことを慰み者にする相手の名前すら知らなかったのです。

 

 それほどおかしなことでもないのかもしれませんが、なんだか少し寂しく思いました。お母さん以外の、初めて話した人で、このまま何事もなければ最後に話した相手になる人です。

 

 知りたいし、わたしのことを知ってもらいたいと思ってしまいました。わたしがいたことを、わたしの存在を、覚えていてほしくなったんです。わたしのことを嫌っているお母さん以外の心に、残りたくなってしまったんです。

 

 

 それを自覚すると、言いたいことが沢山できてしまいました。どれから言えばいいのかも分からず、思い出したこと、思いついたことをそのままその場で話します。

 

 

 きっと、わたしの発言の多くは、整合性も取れずに聞き流されてしまったでしょう。それでも、わたしは言いたいことを伝えられましたし、お兄さんが教えてくれた雑学はとても面白かったです。

 

 

 おおよそ思い浮かぶくらいの身の上話を済ませて、わたしはお兄さんにたくさんのことを伝えました。わたしの半生どころか9割を伝えて、感情の面ではお母さんよりもわたしに詳しいと言っていいかもしれません。

 

 

 

 

 

 そうして話しているうちに、時間は経ってしまいます。時計の針が一回転して、のども乾いてしまいました。お兄さんにもらったペットボトルの水を飲んで、一息つきます。

 

 

「……えっと、あとは……ぁ、ごめんなさい、ずっと話してたらご飯食べらっ、食べられる時間が無くなっちゃいますよね」

 

 

 しばらくヒリヒリしていた舌もすっかり良くなって、もっともっと話したいと思ったところで、不意に自身の背後にある残ったご飯を思い出しました。

 

 

 あんなに温かくておいしかったのに、きっともう冷めてしまっています。すごく悲しいですし、寂しいです。

 

 

「ああ、大丈夫。お腹もそんなに空いていないし、出来たてが冷めたらちょっと寂しいけど、冷凍していたものなんて温め直せばいいだけだからね」

 

 

 もっと話したいことはいくらでもあります。けど、お兄さんのご飯の時間を奪っていい理由にはなりません。温め直せばいいとは言っていますけれど、そんな必要はない方がいいんです。

 

「でも、気にかけてくれたことは嬉しいよ。ありがとう。でもそうだね、時間も遅いからそろそろ食べることにするよ」

 

 わたしが申し訳なく思っていると、お兄さんはありがとうと言ってくれました。お礼を言われるようなことは何もしていないのになぜだか心がとっても温かいです。

 

 

「嫌じゃなければベッドは使っていいから、眠かったら寝ちゃってね。多少物音はすると思うけど、それだけは我慢して」

 

「それじゃあおやすみ」

 

 お兄さんはそう言うと、食器を重ねてキッチンへ行ってしまいました。話すことがなくなったら初体験を迎えるのだろうという、わたしの想定とは異なります。

 

 

「……っ、え、その、おやすみなさい……」

 

 予想外の事態に、わたしが言えたのはそれだけでした。先程まで話していた時はだいぶスムーズに話せるようになっていたのですが、またつっかえてしまいます。どうやら、わたしは緊張や突然の事態に弱いようです。

 

 少しして、頭の混乱が治まったので、ベッドに移動します。クッションほどではありませんが、柔らかく沈み込み、包んでくれるような優しさです。爽やかな香りは、消臭剤のものでしょうか。

 

 本当に使っていいのかわかりませんが、ベッドに横たわって、その上に置いてあったタオルケットを被ります。暖かくて、柔らかくて、くしゃみも出ません。

 

 

 寝心地が良すぎるのが逆に落ち着かなくてモゾモゾしつつ、もしかしたらこの後に襲われるのかもしれない、でもそれなら先に寝かせる必要も無いなんてことをぐるぐる考えます。

 

 起きていた方がいいのでしょうか、それとも、寝入ったところを襲いたいのでしょうか。まさか何もしないなんてことは無いでしょうし、悩みます。

 

 

 

 どうするべきなのか悶々としている間に時間は過ぎて、お兄さんが戻ってきました。

 

 

 これはもう、求められているシチュエーションとか考えずに、全てなるようになると、諦めることが正解なのでしょうか。

 

 ぐるぐる考えながら、気分はまな板の上の鯉です。実際に食べたことはありませんし捌いたこともありませんが、せいぜいピチピチしてやろうと思います。

 

 

「おやすみなさい」

 

 

 そんな内心をよそに、お兄さんは何もすることなくクッションに体を委ねてしまいました。



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燐くんのドキドキプレゼンタイム

 カーテンの隙間から差し込む光が目元に当たって、目が覚めた。頭の位置と隙間の位置、窓の方角からして、時間は12時頃だろうか。

 普段の休日と同じくらいの時間であるし、昨日寝た時間もそこまで大きく変わらない。十分な睡眠は取れたと言えるだろう。

 

 そこまで考えたところで、昨日遅くなった原因を思い出す。ベッドの方を覗き見ると、そこにはすやすやと寝息をたてるすみれの姿。

 

 起きたら居なくなられている――家のものを盗まれていたり、そうじゃなくてもその辺で死んでしまっている――可能性も覚悟していたため、ちゃんとそこにいてくれたことに一安心だ。

 

 もちろん、これからどう扱っていけばいいかは悩みどころではあるが、前二つの可能性と比べれば些細なものである。

 

 

 

 軽く伸びをして全身をゴキゴキ鳴らしてキッチンに行き、食パンを3枚トーストへと入れる。

 冷蔵庫からベーコンを出して火にかけ、程よく火が通ったところで上から生卵を落とす。

 

 

「……おはようございます」

 

 

 そろそろすみれを起こしてしまおうかと思いながら調理していると、扉が開いて本人がやってきた。挨拶を返して顔を洗ってくるように促し、ついでに何枚食べたいか聞く。

 

 

「そこの棚に入っている皿を2枚とってくれるかな。大きいの一枚と小さいの一枚でお願い」

 

 

 素直に顔を洗ってきたすみれに持ってもらった皿に、トーストからパンを取りだして乗せる。それを座卓まで運んでもらい、フライパンを片手について行ってトーストの上にベーコンエッグを乗せる。

 

 

 最後に軽く胡椒を挽いて、コップに野菜ジュースを入れれば完成だ。簡単なものだが、寝起きで直ぐに食べるものなんてこのくらいでいいだろう。なんなら一人ならベーコンすら焼かなかった。

 

 

 すみれと向かい合って座り、トーストを齧る。出来立てなので当然熱く、胡椒の香りとベーコンの塩気が口に広がった。

 

 味の方はそれほど悪くは無いだろう。特段良い訳でもないので、可もなく不可もない程度の普通な仕上がり。

 

 もっとちゃんとしたものを食べさせてあげたいなと思いつつ、けどそのためには少なくともあと一日死なせないようにしなくてはと気を引きしめる。

 

 流れで泊まらせて朝食まで用意したが、すみれから自殺の意志を除いたわけではない。このまま死に方を話してバイバイしてしまえば、明日には冷たくなっているだろう。

 

 目の前ではふはふしながらトーストを頬張っている少女が、そんなことになるのはやはりいやだ。

 

 

「死に方についてなんだけど、考えなきゃいけないことはふたつある。一つ目はどれだけ楽に死ねるかで、二つ目はどれだけ迷惑をかけないか」

 

 

 だから、引き伸ばす。最高の死に方のためにはまだ生きていないといけないと言い聞かせて、その間に生に対する執着心を植え込む。

 

 それが上手く行けば僕の勝ちで、すみれは生きる。上手くいかなければ僕の負けで、すみれは死ぬ。人の命がかかった大一番だ。

 

 その勝負の土俵にすみれを引きずり込むべく頭を回し、言葉を紡ぐ。

 

 

「一つ目だけなら、話は比較的簡単なんだ。頸動脈を圧迫して気絶して、その間に首が絞まるようにしておく。ドアノブで首を吊るとかがこの方法だね。他だと睡眠薬とかを沢山飲むのも苦しくないかな。逆に苦しむことになるのは、意識がある状態で即死できないもの。溺死とか焼死、窒息死とかだね」

 

 こちらには、そこまでの意味は無い。せいぜいが海に身を投げることを止める程度のもの。

 

 

「問題は二つ目。いかに周りに迷惑をかけないかの方だね。これはなかなか難しい。迷惑な自殺の筆頭として電車への飛び込みなんかがあるけど、これは賠償金だったりダイヤの乱れだったりで迷惑がかかる。すみれちゃんの場合は賠償の方は関係ないけど、色んな人に嫌な顔をされるだろうね」

 

「ほかだと、例えばどこかの建物の中で自殺した場合は持ち主が費用を払って処理をしないといけないし、建物の価値や評判も下がる。道路だって同じだし、樹海だったとしても誰かが見つければ処理されることになる」

 

 

 昨晩の会話の中で、すみれが他人に影響を与えたくないと思っていること、一人でひっそりと終わろうと思っていたことは知っている。人の死が他人にとって迷惑だと伝えて、そうならないものを教えれば食いつくはずだ。

 

 

「じゃあどうすればいいんだって話になるんだけど、これはそんなに難しい話じゃないんだ。ただ単純に、誰にも見つけられなければいい。仲がいい人や家族、付き合いのある人がいるなら行方不明者として捜索されることもあるけど、幸か不幸かすみれちゃんにはそんな人はいない。つまり、誰の迷惑にもならない」

 

 

 実際に興味を引かれたらしいすみれが真面目に話を聞いているのを見て、方向性が間違っていなかったことを確信する。あとは、このまま言質を取ってしまうだけ。

 

 

「だったら後は、誰にも見つからない死に場所はどこになるのかだね。人の手が入っていないところならだいたい大丈夫だと思うけど、この辺りにそんな場所はあんまりない。山の奥で土深くに埋められたりすれば話は別かもしれないけど、僕は殺人犯になるつもりも死体遺棄をするつもりもないから、かなり厳しいだろうね」

 

 すみれが、少し残念そうにした。ここまで期待値を上げたところでそんな方法は無いと言われたらたしかにガッカリだろう。けれど、だからこそプレゼンができる。

 

「でも、それはこの辺だったらの話だ。ここからだいぶ離れたところなんだけど、海があるんだ。崖からすぐ下が、それなりに水深が深い場所がある。体に重りでもつけて飛び降りたら、まず浮かんではこれないだろうね」

 

 けれど、この方法では溺死になる。先程苦しい死に方として話したから、きっと抵抗を感じるはずだ。そうであって欲しいし、そうでなくては困る。

 

 

「……でもそれって……っ」

 

 

 願いが通じたのか、すみれはしっかりと食い付いてくれた。あとは丁寧に釣り上げるだけだ。

 

 

「そう。苦しむ死に方だね。それに、だいぶ離れているから徒歩で行くのも難しい。普通の人でもそうなんだから、歩きなれていなくて体力のないすみれちゃんなら尚更だろうね」

 

 僕の今していることは、飢えた子供の前にご馳走を持ってきて、それを鍵付きの棚にしまうようなものだ。知らなかったら我慢できた飢えも、手の届いてけれども手に入らないところにご馳走があるとわかってしまえば耐えきれなくなる。

 

 

「お金があれば自力で行くこともできるし、睡眠薬だって買えるだろう。崖際で大量に睡眠薬を飲んだら、きっと目が覚めることなく落ちれるだろうね」

 

 耐えきれなくなったらどうする?鍵を持っている人にお願いするしかない。その頼む相手は誰だ?僕だ。

 

 

 

「……おねがいします、わたしに睡眠薬をください。その場所に連れていってください」

 

 

 すみれは深深と頭を下げながらそう懇願した。その必死さを考えるとその通りにしてあげたくなりもするが、それを素直に受け入れてはすみれがすぐに死んでしまう。僕としては、一番避けたい事態になるわけだ。

 

 

「うん、いいよ。ただ僕も慈善事業をやっている訳では無いから、何かしらのリターンが欲しい。それはお金でもいいし、それ以外の何かの価値があるものでもいい。ただ、僕がそれをするに足ると思えるだけのものが欲しいんだ」

 

 

 相手は、無一文で文字通り着の身着のまま家を出た少女だ。そんな子供が、持っている価値とは何か。

 

 

 新進気鋭の天才少女歌手だったりすればその声帯に価値を見い出せるだろうが、あくまですみれは普通の少女だ。育ちにおおよそ普通とは言えない要素があるとはいえ、その精神性だったりは普通の範囲内である。

 

 であれば、自ずと求めるものは体というものに落ち着くだろう。と言っても性的な意味で体を求めるのではなく、労働力としてのものだ。確かにパーツとしては整っていると思うが、僕にはガリッガリで骨と皮とが大部分を占めている体に欲情する才能はなかった。

 

 

 

「そこでひとつ提案なんだけど、この家で家事をやってみる気は無いかな?やること自体は多くないし、衣食住の面倒もこっちで見る分お小遣いくらいにはなると思うけど、お金も渡す」

 

 

 要は、欲しいものがあるならばそれだけ働けと言うだけの話。その中でほかの幸せを見つけられるなら一番いいし、そうでなくとも、幸せを知った上で死を選んだにせよ、それはその人にしか許されない選択だ。

 

 そんな建前を置きつつ、実際に頼む内容はただの家事である。自分がいるいないはともかくとして、日々積もっていく仕事を任せる。

 

 

「その分のお金は貯めてもいいし、何か欲しいものが出来ればそれに使ってもいい。なにか追加でやってもらった時にはプラスして払いもする。どうかな?悪い条件じゃないと思うけど」

 

 

 僕の提案に対するすみれの答えは、小さな首肯だった。



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燐くんのドキドキプレゼンタイム(裏)

 何もされませんでした。

 

 ……何もされませんでした。

 

 

 ピチピチする気満々で待っていたのに、指先ひとつ触れられませんでした。いいか悪いかで言えばいいのでしょうが、肩透かし感がすごいです。

 

 半分ミイラの分際で人様に相手されると思ったかと言われたらその通りなのですが、そうなると本格的にお兄さんの動機がわかりません。

 

 こんな厄介者を相手に食事と寝床を与え、何も求めないなど、余程の聖人なのでしょうか?知らない人から突然ものを貰って、わーいありがとうで素直に喜べるような人生を送っていないわたしとしては、むしろ胡散臭く感じてしまいます。

 まあ、ものを貰うどころか知らない人と会うのが昨日で初めてなのですが。

 

 お兄さんが動いている音で目が覚めてしまったので、起き上がります。いつもは出るくしゃみが出ず、寝起きなのに体も痒くありません。

 

 体が痛むこともありませんし、こんなに調子のいい朝はいつぶりでしょうか。

 

 そんなことを考えながら扉を開けると、お兄さんがキッチンにたって料理をしていました。パチパチと油のはじける音が耳に心地よく、思わずよだれが出そうな匂いもします。

 

 

「……おはようございます」

 

 

 よだれを意識して、口の中の状態に気付きました。昨日寝る前に歯磨きをしていなかったせいで舌の上がべったりしているし、歯の裏側だってザラザラです。

 

「おはよう、トーストは何枚食べたい?」

 

「一枚おねがいします」

 

「わかった。それじゃあそろそろできるから顔洗っておいで」

 

 

 わたしの分まで用意してくれることを嬉しく思いつつ、どうせならご飯だけじゃなくて歯磨きもしたかったのにと思ってしまったわたしは、ひどい恩知らずです。

 

 内心自省しながら顔を洗い、舌を爪で擦ってから口を濯ぎます。綺麗になったとはとても言えませんが、これだけでもだいぶ変わるのも確かです。

 

 かかっていたタオルを勝手に使わせてもらって顔を拭いたら、そのやわらかさに驚きました。ふわふわしていて、少し顔を埋めるだけで全部吸い取ってくれるのです。

 

 洗面所を出ると、お兄さんに頼まれてお皿を運びます。大きいのが一枚と比較的小さいものが一枚。それぞれの上に焼きたてのトーストが置かれ、テーブルに持っていくとベーコンエッグが乗せられました。

 

 促されて座ったクッションで待っているとそこに胡椒までかけられて、飲み物はなんと野菜ジュースです。朝からこんなに良くしてもらっていいのでしょうか。

 

 

 配膳までしてくれたお兄さんが対面に座りました。クッションをわたしに使わせてくれているせいで、カーペットに正座です。あまりに申し訳ないので、わたしが正座をするといっても聞き入れてもらえず、結局そのままでした。

 

 

 罪悪感と申し訳なさと、オマケに優しくしてもらった嬉しさでふわふわしながらお兄さんと一緒にいただきますをします。

 

 サクサクのトーストに、カリカリになったベーコン。卵と一緒に口の中に入ってきて広がります。温かくて、美味しくて、思わず頬が緩んでしまいます。

 

 少し冷めるまで待つことすら出来ずにかじりつき、その熱さにやられてはふはふします。それをお兄さんが微笑ましそうに見てきて、少し恥ずかしく思いますがそれでも手と口が止まりません。

 

 

 だって、出来たての料理です。温かくて、黄身がトロトロな卵です。ずっと食べたくて、焦がれて、我慢していたものです。それが目の前にあって、食べて良くって、きっと最後の食事なんです。我慢なんて、できるはずがありません。

 

 

 ……そう、です。最後の食事なんです。わたしはこれから、お兄さんに死に方を聞いて、出ていって死ななくちゃいけないんです。だって、そういう約束でここに来たのですから。

 

 

 同じ食卓を囲って、出来たての温かいご飯を食べながら笑っている。お兄さんの顔に、かつてのわたしを愛してくれていたお母さんの姿が重なりました。大好きなオムライスを勢いよく食べて汚れたわたしの口周りを、こんなふうに笑いながら拭ってくれたお母さん。

 

 ずっと戻りたかったあの頃に戻れたみたいな気分です。

 

 

 不意に、死にたくないなと思いました。こんな時間を過ごせるなら、これからもこんな優しい時が迎えられるのなら、死にたくないと思いました。

 

 

 もちろん、お兄さんにとても迷惑をかけていることもわかっていますし、こんなにも素敵なことが毎日続く訳では無いこともわかっています。それでも、週に一度、いえ、月に一度でもこんな時間が過ごせるのなら、わたしはもっと生きていたいです。

 

 

 死にたくないという恐怖は、生きていたいという願望に変わり、お兄さんが、わたしのことをこのまま抱え込んでくれたらいいのにという欲求へ変わります。

 

 

 お兄さんがわたしのことを求めてくれれば、そんな未来もあるのでしょうか。わたしが尊厳とかその他もろもろをお兄さんに捧げて、代わりに愛されて大切にされるような未来もあるのでしょうか。

 

 

 あってほしいと、思いました。きっとそのわたしはお兄さんのためにお掃除をして、料理をして、全部終わったら玄関で待機しておかえりなさいって言うんです。

 

 ただいまと返されて、美味しいと言ってもらいたくってうずうずして、実際に言われたら嬉しすぎてにやにやが止まらないでしょう。必要とされることが嬉しくて、喜んでもらえることが快感で、もっと求められたいとすら思うのでしょう。

 

 

 

 でも、そんなものはあくまで妄想の産物であり、わたしに対してそんな温情をかけてくれるはずがありません。トーストをかじりながら不意に冷静になった頭でも、そんなことを考えます。

 

 

 そんなふうな、理想を求めるような推定をして、それが現実に反映されるのであれば、わたしはお母さんに嫌われることなく幸せに過ごせていたはずなんです。

 

 

「死に方についてなんだけど、考えなきゃいけないことはふたつある。一つ目はどれだけ楽に死ねるかで、二つ目はどれだけ迷惑をかけないか」

 

 

 わたしが食べるのを止めたからでしょうか、こちらを真剣な眼差しで見つめながら、お兄さんはそう切り出しました。わたしとの約束を覚えていてくれたことは嬉しいのですが、とてもわがままなわたしは止めてほしかったです。

 

 やっぱり、希望なんて叶いませんね。わたしに夢を見させるだけ見させて、すぐに現実を突きつけてくるのですから、お兄さんはひどい人です。

 

 でも、最後にこんな素敵な夢を見せてくれたのだから、会えてよかったと思います。何も考えられずに流されてくれた昨日の自分に感謝ですね。

 

 

 お兄さんの話を聞いて、自分に出来そうなこと、これは嫌だと思うことなどを頭の中でまとめます。死ぬなら楽に死にたいし、他の人に迷惑をかけることも嫌です。

 

 わたしが考えていた死に方のほとんどは、誰かの迷惑になるらしいです。じゃあどうすればいいのかと思っていると、お兄さんはそれも教えてくれました。

 

 

「ただ単純に、誰にも見つけられなければいい。仲がいい人や家族、付き合いのある人がいるなら行方不明者として捜索されることもあるけど、幸か不幸かすみれちゃんにはそんな人はいない。つまり、誰の迷惑にもならない」

 

 

 つまり、当たり前ですがお兄さんはわたしのことを探してなんてくれないということです。わたしにそこまでの価値を見出していないということです。わかってはいたことですが、どれだけ優しくしてくれていてもそれはお兄さんの気まぐれに過ぎません。

 

 キュッと、胸が痛みました。

 

 

 お兄さんは誰にも迷惑をかけない方法を教えてくれていますが、今はすっごく迷惑をかけたいです。わたしと一緒にいてほしいし、それが無理でもわたしのことを見届けてほしいです。看取ってほしいです。

 

 わたしの終わりを知ってほしいし、覚えていてほしいです。ともすれば、お兄さんに終わらせてほしいと思うかもしれません。

 

 

「山の奥で土深くに埋められたりすれば話は別かもしれないけど、僕は殺人犯になるつもりも死体遺棄をするつもりもないから、かなり厳しいだろうね」

 

 

 すこし、気落ちしてしまいます。わたしが思った直後に、お兄さんはそれを否定します。わたしの心が読めているのかと錯覚するほど、ぴったりのタイミングで否定されます。残念です。

 

 

「ここからだいぶ離れたところなんだけど、海があるんだ。崖からすぐ下が、それなりに水深が深い場所がある。体に重りでもつけて飛び降りたら、まず浮かんではこれないだろうね」

 

 

 お兄さんが考えてくれた、誰にも迷惑をかけない死に方は溺死でした。先程、とても苦しいと教えてくれた死に方でもあります。

 

 苦しくなく、誰にも迷惑をかけない死に方などない、ということなのでしょうか。それを理解した瞬間、思わず声が出てしまいました。

 

 

「苦しむ死に方だね。それに、だいぶ離れているから徒歩で行くのも難しい。普通の人でもそうなんだから、歩きなれていなくて体力のないすみれちゃんなら尚更だろうね」

 

 

 さらに、苦しむ死に方すら難しいと言われてしまったら、私はどうすればいいのでしょうか。迷惑をかけながら死ぬしかないのでしょうか。

 

 

「お金があれば自力で行くこともできるし、睡眠薬だって買えるだろう。崖際で大量に睡眠薬を飲んだら、きっと目が覚めることなく落ちれるだろうね」

 

 

 けれど、わたしにはお金なんてありません。そこまで用意してくれるつもりであるのなら、わざわざこんな言い回しはしないでしょう。

 

 ……もしかすると、お兄さんは人が惨めに這いつくばりながら懇願するのを見ることが趣味なのかもしれません。だって、ここまで優しくしてもらった上でそんな餌をぶら下げられたら、お願いしちゃいます。そのくらいにわたしはそれを求めていますし、多少尊厳を奪われるくらいなら、気になりません。

 

 

「……おねがいします、わたしに睡眠薬をください。その場所に連れていってください」

 

 頭を下げます。それしか出来ないから、鼻がテーブルの上のトーストとくっつきそうになるくらい下げます。お兄さんがいいと言ってくれるまで、下げ続けます。1時間でも2時間でも下げ続けてみせます。……それはそうとして、真剣に頭を下げているのにベーコンエッグのいい匂いがしてよだれが出てきました。

 

 

「うん、いいよ。ただ僕も慈善事業をやっている訳では無いから、何かしらのリターンが欲しい。それはお金でもいいし、それ以外の何かの価値があるものでもいい。ただ、僕がそれをするに足ると思えるだけのものが欲しいんだ」

 

 わたしの覚悟とは無関係に、お兄さんはすぐにそう言いました。最初からそのつもりだったとしか思えない速さですし、まだ懇願らしい懇願もしていません。

 

 大事なものを対価に懇願する相手を、ニヤニヤと嗤いながら足蹴にして悦に浸る人かと、一瞬でも警戒してしまった自分が恥ずかしいです。

 

 けれど、当然ですがわたしに払えるようなものなんてありません。唯一差し出せそうなものは体ですが、据え膳に手が付けられなかったことから、それすら求められるかわかりません。

 

 おや?これはもしかすると、お前には何も払えるものなんてないだろ現実見ろよバーカとか言われるのでしょうか?お兄さん鬼畜説、早くも二度目の浮上です。

 

 

「そこでひとつ提案なんだけど、この家で家事をやってみる気は無いかな?やること自体は多くないし、衣食住の面倒もこっちで見る分お小遣いくらいにはなると思うけど、お金も渡す」

 

 

 はい、鬼畜説再沈殿です。なんというか、お兄さんのことを少しでも疑った自分が間違っているような気がしてきました。

 

 

 というか、この条件はわたしが妄想していたものの上位互換です。この家に置いてもらえて、やることをもらえて、存在意義が与えられます。きっとお兄さんは優しいでしょうし、お金まで貰えるなんて、考えたこともありませんでした。

 

 

「その分のお金は貯めてもいいし、何か欲しいものが出来ればそれに使ってもいい。なにか追加でやってもらった時にはプラスして払いもする。どうかな?悪い条件じゃないと思うけど」

 

 

 反射的に頷きます。頷かないはずがありません。だって、お金が貯まるまでここにいられるのです。こまめに使えば、いつまでも必要な分のお金が貯まらず、居座り続けるなんてことも出来るのです。そんな迷惑なことをされる可能性を、お兄さんは考えなかったのでしょうか。

 

 

 

 お兄さんから貰える額などを教えてもらいましたが、何の相場がどれくらいなのか全くわからないので、きっとまた聞くことになると思います。

 

 

「さて、食べてる途中に始めちゃってごめんね。話すのはこれくらいにして、食べきっちゃおうか」

 

 はい、と一言返事をして、お皿の上のトーストにかじりつきます。話していたぶん時間が経ってしまったので、もう温かくはありませんでした。

 

 これまでと同じ、冷たくなった食事。

 

 でも、不思議といつも感じていたさみしさを感じることは、ありませんでした。

 



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本編(下処理をし、下味をつけます)
おかえりなさいが聞ける日々


 

 2週間が過ぎた。最初の3日こそ服や布団やと色々足りずにトラブルも多かったが、ある程度落ち着いてくると徐々に日常になっていき、家に帰ると暖かい食事が待っている生活にも慣れた。

 

 これまでは土日に数食分まとめて作って、冷凍しておいたそれをその日の気分で食べていたが、毎日違う物を出来たてで食べれるというのは、なかなかいいものだ。エンゲル係数こそ跳ね上がってしまったものの、満足感が違う。

 

 

 

「お兄さん、おかえりなさいっ」

 

 

 家に帰ると出迎えてくれるのは、玄関前でクッションに座っていたすみれだ。

 

 目が合うやいなやにっこにこになって手を出してくる。わざわざ待っている必要も、荷物を受け取る必要も無いと言っても、自分がやりたいのだと言って聞いてくれないため、せめてクッションに座っているように言い聞かせて、ようやく今の状態だ。

 最初は連絡も何もしていない状態で、少し遅くなったこともあり2時間程度板張りの廊下に座り込んでいた。

 

 多少呆れつつもそれ自体は全く嫌では無いどころか嬉しくすらあるので、連絡を取れるようにSIMカードが入っていないお古の携帯を渡して、帰宅直前に連絡を入れるようになった。

 

 

 鞄を渡して、先に歩いていくすみれの後を、置いていかれたクッションを片手に追いかけると、座卓に用意されているのは、湯気の立ち上る食事。

 

 ご飯はどれくらい食べたいかと訊ねるすみれに対して少し多めと答え、クッションを持って部屋の奥側に座る。手前の方だと、茶碗を持ってくるすみれの邪魔になるからだ。

 

 戻ってきたすみれと一緒に手を合わせて食べ始めるのは味噌ベースの肉野菜炒め。ニンニクが強めに効いていて、食欲をそそる味だ。味噌汁にも野菜が多く、そのことを聞いてみたら昨日野菜が足りなかったぶんの補填らしい。栄養的にもこれで完璧との事。

 

 

 すみれが今日していたことを聞かされたりしながら、和やかに食事が進む。話しすぎて食事があまり進んでいないすみれがその事に気付く頃には僕は八割方食べてしまっているので、話すのをやめて真剣に食べ始める。

 

 そんなに急がなくていいと言ってはいるものの、すみれは急いでご飯を食べ始めた。僕がほかのことをする時間を削るのが申し訳ないとか、色々言ってはいるものの、個人的にはすみれが美味しそうにご飯を食べている姿を見るのは、嫌では無いどころか好きですらあるので、もっとのんびり楽しんでもらいたいものである。

 

 なんなら、僕はこの2週間で初めて、人が幸せそうにご飯を食べている姿を見て嬉しく思った。人の食事風景に対してある種特殊な喜びを得てしまったのはなかなか珍しいことだろう。

 

 のんびり食べているのも急いで食べているのも、見ていて和むなと考えながら待って、程なくして食べ終わったすみれと揃ってご馳走様を言う。僕の育った家では、いただきますとご馳走様はみんな揃っていないといけなかったから、待っている習慣が着いたのだ。

 自分で決めたことなのに、僕の食べる速度が遅いと不機嫌になる父に、ならやめればいいのにと不満を持っていたこともあったが、そのおかげか誰かと食事をする時に待たせることはなくなった。

 

 洗い物くらいしようとして、わたしがやるからと洗面所に押しやられる。正直家にいてもらうための口実に過ぎなかった家事をここまでしっかりやって貰えるとは思っていなかったため、嬉しさよりも申し訳なさが勝っていた。

 

 

 具体的には、これだけやってもらっていて一日当たり500円というところが申し訳ない。それを仕事にしている人たち相手なら軽く十倍以上はかかるような内容だし、常々愚痴を聞かされている、お嫁さんの尻に敷かれまくっている先輩であっても、一日当たりこの三倍はかかっているうえに細かな家事は押し付けられているらしい。

 

 そんな中で僕がすみれをこんなに安いお小遣いで酷使するのはよくないのではないかと、彼女いない歴イコール年齢の身で考える。きっと、もっとまともな条件ですみれを置いておける人もいるのだ。こんな風に自分の利益を考えるのではなく、完全な善性のみで優しくできる人もいるのだ。

 

 でも、僕はそこまで自分の生活を犠牲にすることはできなかった。すみれに、当たり前の幸せを感じてほしいと思いながらも、自分のことが一番大事だった。

 

 

 そんな思いによる、罪悪感とも懺悔ともつかないような感傷を流すべく熱いシャワーを浴びる。

 

 流れる水の音に紛れて、壁越しに僅かに聞こえるすみれの鼻歌。以前、自分がやりたいから頑張ると言った言葉に嘘は無いのだろう。聞いている限りでは間違いなく楽しそうで、実際に家事をしている時も嬉しそうにやっている。

 

 

 

 その頑張りに対して、何かしらのお礼をしたくなった。日々に渡す金額の増加でもいいし、何か欲しいものを買ってくることでもいいし、すみれがして欲しいと思うことをするのでもいい。

 

 内容自体はなんでもいいのだ。ただ、すみれが喜んでくれるだけでいい。ないとは思いたいがこの家に1秒でも長くいることが苦痛だというのであれば、そう言われるなら来週には終わりを見届けたっていいかもしれない。どうせ、それほどかからない睡眠薬代とガソリン代くらいのものだ。

 

 そのくらいなら、僕の精神的なところにある、他人と過ごすことが怖いという先入観を改善してくれた分として、払っても惜しくないのだ。

 

 

 そうと決まったら直ぐにそれを話そうと思いシャワーを終わらせて、湯気を上げながらリビングに戻る。夕食の片付けは既に済ませれており、僕のベッドと座卓を挟んだ位置にすみれの布団が敷かれていた。

 

 

「これだとカロリーが1000キロで、タンパク質が20だから……これをにんじんに変えると今度はこのビタミンが足りなくなるから……」

 

 

 敷いた布団の上にクッションを置いて、その上に座りながらすみれはメニューを考えていた。ある程度数日分まとめて考えた上で、その週の分を無駄なくまとめて買い出しリストを作ってくれるのだ。

 

 

 こういうところも申し訳なく思うところであり、同時に買い物さえ自分の力でできるようになれば完璧だなと一人思う。

 

 

「あ、お兄さん。今週買ってきてほしいものなんですけど、後でメッセージに入れておきますね」

 

 振り返りながら言うすみれに対してわかったと返して、その横を通ってベッドに座る。構図としては、少し高い位置からすみれの作業を見下ろす形だ。

 

 

「……すみれちゃん、ちょっと話があるんだけどいいかな?」

 

 独り言を言いながらメモを書いていたすみれが、顔を上げる。

 

「はい、大丈夫です。……もしかして、独り言がうるさかったですか?」

 

 独り言自体は滑舌の改善や思考を言語化する練習も兼ねているらしい。予め言われているし、すみれの声自体も個人的には好きなので、なくなると少し寂しくすらあるかもしれない。

 

「いや、そういう訳じゃないよ。ただ、僕が最初に思っていたよりもずっと頑張ってくれてるから、なにかお礼をしたいなと思ってね。なんでもいいんだけど、やって欲しいこととか欲しいものとかはあるかな?」

 

 頑張っているのところで表情が明るくなり、お礼のところで困惑が混ざり、最終的にはそれで満たされた。

 

「……お礼、ですか?本当になんでもいいんですか?」

 

 おずおずと、問われる。もちろん大金をせびられたりしたら叶えられないが、すみれはそんなことを望んだりしないだろう。

 直ぐに死にたいと言われたらきつくもあるが、この2週間、それなりに楽しそうにしていたことを考えると、それも言われないように思える。

 

 それに、2週間かけて生きたいと少しも思わせられていないのなら、きっと僕のやっていることに意味なんてない。

 

「なんでもいいよ。僕にできることなら何でもしよう」

 

 だからどうか、何かを欲しがってほしい。そんな思いを込めてすみれを見つめる。

 

 

 五分ほど、無言の時間が続いた。意識的に言うようにしているという独り言もなく、真剣に悩んでいるように見える。その悩みの内容が、欲しいものを考えるのではなく、欲しいものを選んでいるものであることを願う。

 

 

「……えっと、おにいさん、決めました」

 

 意を決したように真剣な表情を挟んでから、下手に出るようにおずおずとすみれは切り出した。こんなに申し訳なさそうに切り出すのだから、さぞすごいお願いをしてくるのだろうと少し期待しつつ続きを待つ。

 

 

 

「あの、……ドーナツが食べたいです。黄色いつぶつぶが付いてる、チョコレートのやつ」

 

 

 申し訳なさそうに、少し恥ずかしそうに、すみれはそんな言葉を口にした。

 

「その、出来ればふたつで、一緒に食べたいです。……だめ、ですか?」

 

 

 あまりにも、小さなお願いだ。ドーナツを食べたいと言うなら、一ダースくらいはほしがってくれていいのに、たったの二個。しかも自分の分は一つだけ。

 

 もっとないのかとも思ったが、一番最初のお願いなんてものは、こんなものなのかもしれない。

 

「もちろんダメじゃないよ。明日の帰りに買ってくるから楽しみにしててね」

 

 

 安心したように、すみれは微笑む。この子がもっと欲しがってくれるように、わがままを言ってくれるようにするには、どうしたらいいんだろう。

 




しばらくはのんびり幸せわからせパートになります。


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おかえりなさいが聞ける日々(裏)

 料理の下準備、食材を切り分けたり調味料を混ぜたりを済ませて、いつでも調理に移れる状態で待っていると、ピロリンとメッセージアプリの通知音が鳴りました。

 

 わたし相手に連絡をする人なんて、わたしの連絡先を知っている人なんて、1人しか居ません。すぐに内容を確認すると、案の定送り主はお兄さんで、内容はあと三十分で帰るというもの。仕事終わり前に予定時間を教えてもらったものと合わせて、今日二回目の連絡です。

 

 すぐさま既読をつけて、スタンプを返します。本当はメッセージでずっとやり取りをしたいけれど、そこまでしてしまうと間違いなくお兄さんの迷惑になってしまうし、ご飯の準備も出来なくなってしまうので我慢します。

 

 

 30分、と言いながら、お兄さんは25分くらいで家に帰ってきてしまうので、ここからは時間との勝負です。どうやら人一倍()()()()というものに執着が強いらしいわたしは、まだ熱々の状態で食卓に並べたく思います。そして、そのタイミングをお兄さんが帰ってくる時と合わせたいのです。

 

 

 予め沸騰させて、ある程度煮込んでおいた味噌汁の素に出汁を入れつつ温め直して、沸騰したら横に避けて代わりにフライパンを置きます。コンロがひとつしかないので、同時に作業が出来ないのです。

 

『火の通りにくいものから順番に炒めるの。順番を間違えると、炒めすぎだったり半生だったり、上手に出来ないから気をつけるのよ』

 

 昔、お母さんに教えてもらった通りに作ります。

 

『切る時は猫の手。大きさが不揃いだと焼き加減にムラができるから、ゆっくりでも丁寧にするの。うん、すみれは上手ね』

 

『……おっそい!!いつまでタラタラしてんのっ!!』

 

 

 時間がかかるから、野菜は先に切っておきました。お母さんの笑顔が嬉しくて、お母さんに喜んで欲しくて、いっぱい練習したことが今に生きています。

 

 もっともっと練習していれば、お母さんみたいに早く切れたのでしょうか。わたしがもっとできる子なら、お母さんに怒られることもなかったのでしょうか。

 

 不意に思考が逸れて、手が止まったことを自覚しました。いけませんね。今は何より、お兄さんのために頑張らなくてはなりません。

 

 フライパンが温まるまでの間に味噌を溶き入れて味噌汁を完成させ、炒める具材を逐次追加していきながら、菜箸でよく混ぜます。フライパンを振って混ぜる方法に憧れますが、わたしの力では難しいでしょう。

 

 最後に豚バラ肉と調味料を入れて、軽く全体を馴染ませたら蓋をして蒸します。

 

 テーブルに戻って紙やペンを片付け、食器を並べておきます。そうしているうちに、お兄さんから三度目のメッセージ。後2分くらいで着くというものです。

 

 お兄さんを待つためにクッションを持っていき、最後に味見をして炒め物を大皿に移します。それを運んで、味噌汁を少し温め直して配膳して、こぼさないように気をつけながらドタバタしつつクッションに座って待ちます。

 

 なんとか、お兄さんに見苦しいところを見せることなく待つことが出来ました。ドアノブが回るのを、今か今かとドキドキしながら待ちます。このドキドキは、緊張なのでしょうか、楽しみなのでしょうか。

 

 

『……チッ』

 

 

 不意に、お母さんの姿を思い出します。まだお母さんが、わたしのことをそこまで嫌っていなかった頃のことです。お仕事を頑張ってきたお母さんのことを、一日中何もしていなかったわたしが迎えた時のことです。

 

 なにもしていなかったわたしが無神経にお母さんを待っていたことが、お母さんを不快にしてしまいました。不快な思いをさせてしまいました。

 

 

 心が沈むのを感じます。あれだけあったドキドキが、不安に変わります。

 

 お兄さんは昨日もその前も、わたしがお迎えすることを嫌がらずに受けいれてくれました。今日だって、わたしのわがままのためにわざわざ時間を教えてくれています。

 

 きっと、嫌がられてはいないはずです。けど、それは昔のお母さんもそうでした。

 

『いい子で待っていてくれたのね、すみれ、ありがとう』

 

 わたしを見て笑顔になってくれました。わたしのことを褒めて、頭を撫でてくれました。けれど、そんなお母さんもわたしをいやがるようになったのです。お兄さんが同じようにならないと、何故言えるのでしょうか。

 

 今はわたしに優しくしてくれているお兄さんも、この生活が続けば疎むようになるのではないでしょうか。もしそうなら、わたしなんてここに……

 

 

 キィっと、音を立ててドアノブが回ります。

 

 

 思考が途中で止められ、緊張と不安が押し寄せます。昨日までは大丈夫だったけど、それがずっと続くとは思えないから、不安が止まりません。

 

 扉が開いて、お兄さんが入ってきます。ちゃんと、わたしがいるところに帰ってきてくれます。

 

 それだけで、不安は晴れてしまいました。何も解決していないのに、暖かい何かで胸がいっぱいになって、安心してしまいました。

 

 わたしのところに帰ってきてくれたのではなく、お兄さんが帰る場所にわたしが居座っているだけだって、わかってはいます。

 

「お兄さん、おかえりなさいっ」

 

 それでも、安心できてしまうのです。お兄さんが、わたしを見て、苦笑いを浮かべてくれる。苦笑いだけど、けして嫌な意味のものじゃありません。

 

 むしろどこか嬉しそうに見えるお兄さんを見ると、わたしも嬉しくなってしまいます。少し前まで固まっていた表情筋をいっぱい動かして、嬉しさを表現します。

 

 

『あらすみれ、持ってくれるの。ありがとうね』

 

 手を差し出します。お兄さんが持っていた鞄が、わたしの手の中に移ります。お兄さんの大切なものを預かることを、許してもらえます。

 

『大事なものが入ってるんだから触らないでっ!』

 

 わたしがいることが、許されています。わたしのことが、受け入れられています。それだけの事が、こんなにも嬉しいです。

 

 大切な鞄を定位置に置いて、炊飯器の前に移動してお兄さんが晩御飯を見るのを待ちます。この2週間でわかったことですれど、お兄さんは食欲次第で食べる量の変動が多いタイプです。パッと見て美味しそうだと思えばそのように、反対であれば逆になっていきます。

 

 

 なので、今日のジャッジはだいぶ良かったのではないでしょうか。食欲減退の少なめになるわけでもなく、お兄さんが自分で作ったもの、普通になるわけでもなく、少し多め。お兄さんが好物だと言っていたもの以外で、普通の多めを言われたことがないので、好物では無いものとしてはだいぶいけている方でしょう。

 

 わたしの中で、それなりに自信が上がります。自分が作ったものが、食べる前の第一印象だけであっても美味しそうに思ってもらえたということは、とても嬉しいことです。

 

 

 お兄さんと向かい合って、晩御飯を食べ始めます。何度経験しても、誰かと向き合いながら、一緒に同じものを食べるという経験は、素晴らしいものです。

 

 自分のことをなるべく知って欲しいというわたしの感情が、なるべく多くのことをお兄さんに伝えたいと思います。それがなかったとしても、わたしの考えを感情を、少しでも知っていて欲しいと思います。

 

 それに任せて、食事の時間にいらないことまで話してしまうのです。調理の時に気をつけたこととかであれば、まだまともなもの。その範疇に収まらないような、お兄さんに対する詮索などまで聞いてしまいます。

 

 

 お兄さんの仕事に関することなんて、わたしが知っていていいはずがありません。それでも、お兄さんのことをなるべく知りたいと思うから、ついつい聞いてしまいます。

 

 

『うるさいっ!!!!』

 

 

 水をかけられたように、冷静になりました。

 

 わたしは昔からお話することが好きで、そしてそのせいでお母さんに怒られました。疲れている時に無駄な話なんて聞きたくないと、養ってやってるんだからせめて黙って背景になっておけと怒られました。

 

 わたしは、また同じ失敗をするところだったのです。話しすぎたことをお兄さんに謝って、食べることに集中します。お兄さんは笑って許してくれましたが、何度も何度も続くようならそれも長くはないでしょう。

 

 

『いつまで食べてるの!早くしなさい!』

 

 わたしが食べるのが遅いから、見ていてムカつくのだとお母さんは言いました。同じものを見ているはずのお兄さんは、にこにこと微笑んでいます。急がなくてもいいのだと、優しい言葉をかけてくれます。

 

 けれど、そんな言葉に甘えるわけにはいきません。なるべくいっぱい口に入れて、味噌汁で流し込みます。口の中で、お母さんに作ってもらった猫まんまと同じ味が広がります。

 

 

 そのまま急いで食べ終わります。多少は待たせてしまいましたが、わたしにしては上出来ではないでしょうか。一緒にごちそうさまをして、茶碗洗いをしようとするお兄さんを止めます。

 

 それはわたしの仕事で、わたしがやらなくちゃいけないことです。それすらできないのなら、わたしはここに置いてもらえません。

 

 

 シャワーを浴びてもらっている間に洗い物を済ませてしまいます。後に残しておくと、気が付いたらお兄さんがやっていたなんてことになりかねません。

 

 

 片付けが終わったら、布団を敷いてしまいます。そこに座って、来週の分の食材を考えます。片手にスマホを持って、栄養価のサイトと電卓アプリを使って、一週間分の総和と、各日のバランスを考えてメニューを検討します。

 

 先週初めてやった時と比べたら、今週は時間もいっぱいあったので上手に出来ていると思います。この調子でもっともっとがんばれば、お兄さんがわたしを必要としてくれるまで頑張れば、ここはわたしの居場所になるかもしれません。

 

 

 気合を入れ直して考えていると、お兄さんがシャワーから帰ってきました。本当はまだ完成してないけど、お兄さんにできる子だと思ってほしくて、後で送るなんて背伸びをしてしまいます。悪い子です。

 

 その言葉を嘘にしないために頑張っていると、お兄さんから声が掛けられました。独り言がうるさかったのかと思って聞いてみますが、違うと言われます。

 

 

「僕が最初に思っていたよりもずっと頑張ってくれてるから、なにかお礼をしたいなと思ってね。なんでもいいんだけど、やって欲しいこととか欲しいものとかはあるかな?」

 

 

 褒められた喜びが最初に来て、すぐに困惑に変わります。わたしは頼まれたことをしているだけで、自分がやりたくてやっているだけです。養ってもらっている以上それは当然のことのはずで、その上にお金まで頂いているんです。それなのに、これ以上何を頂けばいいのでしょう。

 

 とはいえ、お兄さんがくれると言っているのに、それを断るのも失礼になります。何もいらないと言えればいいのですが、何かを考えなくてはいけません。

 

「……お礼、ですか?本当になんでもいいんですか?」

 

 

 わたしがしてもらいたいことと言われて、真っ先に思い浮かぶことは、ずっとここに置いてほしいというものです。ただ、それはあまりにもがめついと思い、別のものを考えます。

 

「なんでもいいよ。僕にできることなら何でもしよう」

 

 お兄さんに終わらせてもらいたい……は、以前お兄さんがそのつもりは無いと言っていました。

 お兄さんのことを考えるなら、早くここから出るべきなのはわかっているので、それを早めるためにお金をいただくことがいいでしょうか。けれど、わたしはここにいたいと思ってしまいます。

 

 それなら、頭を撫でてもらうとか?けれど、それでお兄さんは嫌な思いをするかもしれません。お兄さんと同じ何かを欲しいと言ってもいいのですが、それで気持ち悪がられたら、わたしは言葉通り死んでしまいます。

 

 

 どこまでなら、許されるのでしょうか。どこからが、許されないのでしょうか。

 

 わかりません。わからないくせに、欲張りなわたしはギリギリがほしくなってしまいます。お兄さんが許してくれる範囲で、一番いいものが欲しくなってしまいます。

 

 考えます。あまりお金がかかるものはダメです。いっぱいわがままを言えば聞いてくれるかもしれませんが、それで嫌われたら本末転倒です。お兄さんが大変な内容も、同じ理由でダメです。

 

 

 お金がかからなくて、お兄さんが楽で、わたしもうれしいもの。欲張り三点セットですが、何とか考えて考えて、

 

 

「あの、……ドーナツが食べたいです。黄色いつぶつぶが付いてる、チョコレートのやつ」

 

 出てきたのが、これでした。わたしの、大好きだった食べ物。もうずっと食べていなくて、忘れてしまっていたそれが、食べたくなりました。

 

「その、出来ればふたつで、一緒に食べたいです。……だめ、ですか?」

 

 

 わがままで、浅ましい子です。食べ物を、それを買うための時間をもらうだけに満足出来ず、お兄さんとの思い出まで欲しいと思ってしまったのですから。

 

 わたしが居なくなった後に、ドーナツを見る度に思い出してほしいと、思ってしまったのですから。

 

 



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幸福の黄色いドーナツ

 一日半経って土曜日の朝。これまでであれば、食事の作りだめだったり、掃除だったり洗濯だったりと、やることが多くて憂鬱な気持ちで迎えることが多かったが、今日は憂鬱な家事のほとんどをすみれが済ませてくれているおかげで、清々しく迎えられる。

 

 まだ寝ているすみれを起こさないように身支度を整えて、音を立てないように家を出る。目的地は近所のスーパーとドーナツ屋だ。

 

 今日やらなくてはいけない買い物を真っ先に終わらせ、あとは一日のんびり過ごしたい。すみれに貰ったリスト通りのものを買い、その帰りにゴールデンチョコレートを二つ、ついでにアソートのものを一つ買う。おやつにしてもいいし、お昼にしてもいい。

 

 

 店を出るとスマホに通知が二つ入り、送信者を見るとすみれの名前。

 

“おはようございます”

“今どちらにいますか?”

 

 起きた時に人が居なくて驚いたのだろうか、そんなメッセージが来ていたので、僕は軽く苦笑を浮かべながら、今から帰るところだと返信する。

 

 そのまま足を進め、程なくして家に着く。だいたい4000歩ほど歩いたからだろう、うっすらと汗ばんでいた。散歩としてはそこそこだろう。

 

 

「……おかえりなさい、お兄さん」

 

 玄関を開けてただいまと言うと、返ってきたのは少しテンションの低いすみれの声。眠いからだろうか、僕のことをぼーっと見て、思い出したかのように買い物袋を受け取ると冷蔵庫にしまう。

 

 ドーナツの袋は常温でも問題ないのでひとまずレンジの上に。

 

 

 少し暗い空気のままで、納豆と漬け物、前日の残りの味噌汁の朝食が進む。

 

 何故か口を開かないすみれのことを心配しながら朝食が終わり、洗い物をしようと申し出るも断られて、そのまま昼前まで引き摺った。

 

 

 この日のすみれは終始様子がおかしく、これまでとは違った。好きな事をやっていていいはずの、やらなくてはいけないことがない時間。少なくとも先週はスマートフォンを使って何かを調べていたはずの時間に、すみれは何もすることなく布団に横たわって、ボーッとしていた。

 

 定期的に瞬きだけして、ぼーっとしながら布団に転がり続けるすみれ。本当なら、今日はすみれの見たがる映画でも一緒に見て、それを楽しめればと思っていたが、とてもそんなふうには進みそうにない。なんなら、今から映画を見始めたら、無駄に映画を見る僕とその横で何も見ていないすみれという結果に終わるだろう。

 

 

 

 どうしたものかと考え、一旦ひとりにするのもありかとも思ったが、外出する理由も特にないし何よりこの状態で一人置いておくことも心配だ。

 

 スマホを使いながら、視界の端にすみれの姿を写して見守る。

 

 しばらくぼーっとし続けて、不意にこちらを見つめて、かぶりを振って目を閉じる。そのまま少しすると寝息を立てた。

 

 

 ただの寝不足だったのだろうか、それなら心配はいらないのだが、体調不良の可能性も残っているので、起きてからの様子次第で考えた方がいいだろう。

 

 

 風邪をひくといけないので毛布だけかけてやり、昼まで時間を潰す。

 

 昼食は、うどんでも茹でればいいだろうか。すみれがどんなメニューを考えているのかか分からないため、冷蔵庫の中の食材を勝手に使うのも憚られる。自分の家の食材なのにおかしなものだと、内心嬉しく思いながら考え、茹でること7分。お湯を切り一度冷水で締め、部屋の方を見るとすみれと目が合った。

 

 

「おはよう、温かいうどんと冷たいの、どっちがいい?」

 

「おはようございます、温かいのがいいです」

 

 一応希望を聞いたものの、気温的にそうなるだろうと思って沸かしておいたケトルから丼にお湯を注ぎ、濃縮つゆを薄めてうどんを投入する。しょうがとネギは好みでいいだろう。

 

 

 

 昼食を済ませて、改めてすみれを観察すると、今度はいつも通りに見える。食事中のお喋りこそなかったが、食べ終わってからの振る舞いに違和感はない。片付けくらいはという僕に対して、それも自分のやることだと主張して全部済ませてしまう。

 

 戻ってくるとスマホをいじっているし、やっぱりただ眠かっただけなのかと結論付けて、そういえばドーナツはどのタイミングで食べたいのだろうと思い出す。

 

 漠然と昼食かおやつの時間だろうと思っていたが、別に夕方に食べてもいいし夜に食べてもいいわけだ。すみれが食べたいと言って買った以上、すみれの好きなタイミングで食べてもらいたい。

 

 

 そう思って聞いてみたら、三時のおやつとして食べたいとのこと。ホットのカフェオレも一緒に飲みたいと小さなわがまままで言ってくれた。

 

 普段はあまりコーヒーなどは飲まないので、ストックがあるか心配に思い確認してみると、貰い物で埃をかぶっていたものがいくつか。美味しいからと勧めてもらったものだが、ドリップするのが手間でなかなか手をつけなかったものだ。

 

 

 貰った以上使わないのも悪いと思ってはいたためちょうどいい機会だと、3時少し前まで時間を潰して淹れてみる。一杯分ずつ個別のフィルターに入っている豆にケトルからお湯を注いで蒸らし、円を描くように回しいれる。この動きにどんな意味があるのかは知らないが、みんなやっているイメージがあるので何かしらの意図はあるのだろう。

 

 少しずつ入れて、充分濃いであろうものができたので、三分の一ほど牛乳を入れれば出来上がりだ。砂糖などはいれなくていいとの事なので、作業としてはこのくらいのもの。

 

 

 座卓に戻り、袋からドーナツを取り出してすみれに渡す。手が汚れないように紙で包まれているそれは、すみれが食べたいと言った黄色いつぶつぶ付きのもの。

 

 受け取って、匂いを嗅いで、すみれは笑った。商品名を言われた訳ではなかったので、同じものを想像できているか少しだけ心配していたが、この様子を見る限り大丈夫だったのだろう。

 

 一緒に食べ始め、程よい甘みをコーヒーで流す。自分で作るドーナツとは違って、冷めていても油のくどさがない。

 

 たまに食べるとやっばり美味しいなと思いながら食べ進め、すみれが食べ終わって心なしか寂しそうにしているところに、色々な味が楽しめるアソートのドーナツを取り出す。

 

 一口大の小さなドーナツが8種類入っているそれ。ほかのドーナツと比べると少しいいお値段だが、僕は小さい頃、これがとても好きだった。

 

「これ、ついでに買ってきたんだけど、まだ食べ足りないならどうかな?」

 

 

 そう言った瞬間にすみれの表情は笑顔に戻った。ともすれば、先程まで食べていた時以上かもしれない。それくらいの変化があって、すみれは食べたいと言う。

 

 なら好きなものを選んで、食べたいだけ食べたらいいと伝えると、嬉しさと困惑を混ぜたような顔に。そのまま少し考えると、

 

「お兄さんと順番に、食べたいです。お兄さんのおすすめで、食べさせてくれませんか?」

 

 不意に、これまでで一番ストレートなおねだり。言われた僕自身、少しどころかだいぶ恥ずかしいが、すみれがわがままを言ってくれるのは良い兆候だ。それに、ここで辺に断ったりして今後言ってくれなくなったら困る。

 

 気恥しさを、小動物に餌やりするようなものだと自分に言い聞かせることで押しとどめ、中にホイップクリームが入っているものをすみれの口に入れる。

 

 もきゅもきゅと小さな口を動かして、おいしいと伝えてくる少女の姿は実際とても小動物的で、一度そう思ってしまうともうそうとしか思えなくなった。

 

 本人の希望通り、次のひとつは僕が食べ、早く早くと目で訴えてくるすみれに新しいものを食べさせる。

 

 次第に身を乗り出してくるようになったすみれに、4つめを食べさせた頃には、すっかり満足してくれたようで、何度もお礼を言い、この日はいつもより気合いの入った晩御飯を作ってくれた。



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幸福の黄色いドーナツ(裏1)

感想への返信始めました。

ありがとうございます!の意味でのGoodと、何も言えないor何も考えていない(9:1)の(╹◡╹)ニッコリ

で済まさせて頂きます。




感想とか評価入る度にニッコリorニチャァって笑みが止まらなくなるので、もっと軽率いにれてくれて構わないのよ???(╹◡╹)


 今日は用事もないし、何時に起きるかも分からないからいつもみたいに早く起きなくていいよと言われ、ちゃんとわたしのことを気にかけてくれていることを嬉しく思いながら眠ったのが昨日、土曜日の夜のことです。

 

 

 お言葉に甘えて、ゆっくりねむらせてもらって、目が覚めたのは9時頃のことでした。ここしばらく朝は6時半くらいに起きて動き始めていることを考えれば、なかなかにお寝坊さんですね。

 

 内心ちょっと自省しながら、せっかく起きたのだからお兄さんのために朝ごはんを用意したいと思い、体を起こします。

 

 起きあがってもくしゃみが出ないことにも、それなりに慣れてきました。寝ていて体が痒くなることも無く、鼻水や涙が止まらなくなることもないお布団というのは、とても素晴らしいものです。

 

 

 そんな幸せをかみ締めつつ、まだ眠っているお兄さんの寝顔を見て気合いを入れようとして、思考が止まりました。

 

 

 いつもそこに寝ているはずのお兄さんが、そこにいないのです。わたしがご飯の支度をしているうちに、匂いにつられて起きてくるはずのお兄さんが、いるべきはずのベッドに居ないのです。

 

 

 いるべきはずの人がいない。そんなことは、誰でもわかる異変です。ようやく安定してきた、少なくともわたしはそう思っている世界が、ゆらされる事態です。

 

 楽観視をすれば、お兄さんはお散歩にでも行っているのでしょう。少しすれば戻ってきて、また元通りになれるのでしょう。

 

 けれど、最悪の事態を考えれば、悲観的に物事を見てしまえば、お兄さんはこのまま戻ってこないかもしれませんし、戻ってきたとしても誰かわたしにとって都合の悪い人を連れてくるかもしれません。

 

 

 あまり広くない部屋の中の、人が隠れられそうな場所を全て確認した上で、玄関の靴を見て、間違いなくお兄さんが今家にいないことを確信して。

 

 それでもきっと、お兄さんがそんなことをすることは無いだろうと、頭ではわかっています。けれど、頭でわかっていることがそのまま安心になるわけでもないし、わかっているからと言ってそれを信じれるわけではありません。

 

 

 頭の中がぐちゃぐちゃになり、もしお兄さんに捨てられていたらと想像して顔はきっと真っ青になっているでしょう。そのくらい、自分のメンタルが普通ではない自覚もあります。

 

 

『はぁ……帰ってきたくなかった……』

 

 

 お兄さんはきっと、そんなことは言いません。わかっていますが、それでも怖くなってしまいます。

 

 

 その恐怖を耐えきることが出来ず、わたしが救いを求めたのはスマートフォンでした。お兄さんのお下がりの、お兄さんが使っていた跡が残っている、お兄さんと連絡を取るための機械。

 

 恐怖に支配されるわたしにとって、これ以上に頼もしいものはありませんし、これ以外に縋れるものもありません。

 

 

 おはようと居場所を尋ねるメッセージを送って、少し待ちます。返信が来ないのであれば、既読無視されるのであれば、わたしはお兄さんに疎まれているのでしょう。けれど、既読をつけてもらって、返信までしてくれるのなら、わたしはまだお兄さんに存在を許されているのです。

 

 

 恐怖と不安に震えながら、画面を見つめます。少しして、既読の2文字が着きました。恐怖が大幅に削がれて、安心が強くなります。

 

 少し間を置いて、今から帰るところだよと返信が来ました。それを見て一番最初に感じたものは、間違いなく安堵です。ああ良かったと、全部わたしの杞憂に過ぎなかったのだと安心しました。

 

 

 

 

 そして同時に、何故でしょうか、家を出る前に、どこに行くのか教えてくれればいいのにと思ってしまいました。だって、わたしが不安になったのは、お兄さんがどこに行くのか、なにをするのかがわからなかったからです。それさえわかっていれば、こんな思いをすることは無かったのです。

 

 

 その考えが、自分勝手なものだという自覚はあります。所詮ただの居候、あるいはそれ未満に過ぎない分際で、家主様の生活を把握しようなんて、関与しようなんて、あまりにも傲慢な考えです。

 

 けれどもそれを理解しつつも、お兄さんの行動を知りたいと思ってしまい、お兄さんがわたしに教えてくれないことが恨めしく思ってしまいます。

 

 

 帰宅の途中を知らせる言葉が、どれだけ嬉しく、ワクワクすることでしょう。それを予め知れることが、どれだけ安心できることでしょう。なんなら、どこにいるのかを、何をしているのかをリアルタイムで把握できるのだとすれば。

 

 わたしはもう、ほかのことが手につかなくなるくらい、ずっと見ていられるかもしれません。

 

 

『なんで私の行動をいちいちおまえに言わなきゃいけないの?』

 

 

 さすがにそこまで求めるのは異常だとわかっているので、これは心の内にしまいこみます。実際にそう思ったことが同じでも、それを誰にも伝えなければないのと同じです。

 

 けれど、そんな夢みたいな妄想はともかくとして、お兄さんの用事を知っておきたいのは言い訳できない事実です。

 

 無理やり理由をつけるなら、ご飯のタイミングを考えるため、とかでしょうか。そんな建前でお兄さんのことを知って、わたしがすることはなんでしょう。

 

 タイミングのために必要なことは、わたしのわがままのおかげで既に知れています。これ以上のことは、わたしの自己満足にしかなりません。わたしのために、お兄さんの時間を奪う事にほかなりません。

 

 

 それは、とっても悪いことです。お兄さんに迷惑をかけないようにしなくてはいけないわたしが、ただでさえ迷惑をかけているのにそれより上を望むなんて、あまりに業突く張りです。

 

 

 

 

 けれど、もしお兄さんがわたしのためにそれをしてくれたらと考えて。わたしのためにしかならないことに貴重な時間を使ってくれて、それを是としてくれて。

 

 そう考えただけで、わたしの中ですごい“幸せ”が溢れました。

 

 お兄さんを縛って、お兄さんの負債になって、お兄さんの一部になれたら。

 

 どれだけ幸せでしょう。どれだけ、心地いいでしょう。

 

 

 

 けれど、こんなのはいけない感情です。

 

 優しいお兄さんに漬け込んで、自分のしたいように搾取しようだなんて、許されるはずがありません。許されてはいけません。

 

 自分の内から湧き上がるそれを、必死に押さえ込みます。悪いものだから、隠します。こんな気持ちがバレてしまったら、きっとお兄さんはわたしを直ぐに追い出すでしょう。

 

 気持ち悪いと、不快だと思って、わたしを遠ざけるでしょう。それは嫌だから、わたしはお兄さんの前ではいい子でいなくちゃいけないんです。

 

 お兄さんが嫌がらないように、叶うならば、お兄さんがわたしといることを望んでくれるように、いい子にならなくちゃいけないんです。

 

 

「ただいま」

 

 わたしが自分の心をどうにかしようとしていると、お兄さんが帰ってきました。こんなふうに思ってしまったわたしは、お兄さんに合わせる顔がありません。それでも面の皮を厚く重ねて、何とかお兄さんの前に出てお帰りを言います。

 

 

 自分でもわかるくらい、暗い声が出ました。お兄さんの顔を見て、また欲求が湧き上がってきます。悪い気持ちが、とめどなく出てきます。

 

 これに身を任せて、お兄さんにすっぱり嫌われて、終わりにするのもいいかもしれません。だって、わたしはきっとこれを我慢できなくなってしまいます。ずっとずっと溜めて、優しい思い出をぐちゃぐちゃにしてしまうくらいなら、今ここで終わらせる方がいいかもしれません。

 

 お兄さんの顔を見ながらそんなことを考えて、そのつらさに視線が自然と下がります。そうして視界に入った買い物袋を見て、わたしはギリギリ正気に戻りました。

 

 

 今しなくてはいけないことは、わたしなんかの心を考えることではなく、わざわざ朝から買い物に行ってくれたお兄さんの荷物をしまうことです。

 

 袋を受け取って、すぐそばにある冷蔵庫に食材を入れていきます。大きさや形、硬さなどを考えながらしまう作業にはパズルのような楽しさを感じますが、今のわたしにはそれを楽しむ余裕はありません。

 

 とりあえずお兄さんも帰ってきたので、朝ごはんの準備だけはしてしまいます。残り物と、冷蔵庫の中のもの。ご飯は炊飯器の中の残りをレンジで温めます。

 

 

 出来たてでもありませんし、体が温まるメニューでもありません。けれど、わたしの分があって、誰かと一緒に食べれられる食事です。わたしの一番の楽しみでいつも幸せな時間です。

 

 

 そのはずなのに、今日は美味しくありませんでした。味は決して悪くないのに、楽しくありませんし、心が冷たくなります。温め直した味噌汁を飲んでも、お兄さんの顔を見ても、温かくなりません。

 

 

 そんな自分が嫌で、優しいことを思い出そうとしても、悪い気持ちが全部持って行ってしまいます。何を考えても、そのまま努力せずにそれが続けばと、いつまでもいつまでもお兄さんに寄生して、たとえ困らせながらでも続いたらと思ってしまいます。

 

 わたしは、いい子でいなくちゃいけないのに。悪い子なんて、嫌われるってわかっているのに、わたしはいい子になれません。嫌われたくないのに、いい子になれません。

 

 

 味はあるのに味がしない朝食を済ませて、自分で洗い物をしてしまおうとするお兄さんから食器を回収して、洗います。

 

 なるべき姿はわかっているのに、なれません。嫌われることがわかっているのに、直せません。せめて我慢が出来ればいいのに、抑えられなくなります。

 

 

 ずっとここにいたいです。でも、ここにいたら迷惑になります。

 迷惑をかけたくないです。でも、離れるのが辛いです。

 離れたくないです。でも、そんなことを続けていたら嫌われてしまいます。

 嫌われたくないです。捨てられたくないです。見捨てられたくないです。そのためにはいい子でいなくちゃいけないのに、わたしはいい子であれませんでした。

 

 頭の中がぐるぐる回って、ぐちゃぐちゃになって、涙が出てきます。涙が溢れます。せめて心配だけはかけないように、必死に嗚咽を我慢しますが、少しは漏れてしまいます。

 

 今が、洗い物の途中で、本当に良かったと思います。そうじゃなかったら、きっとお兄さんは気付いてしまいました。気付かれてしまったら、わたしは全部話してしまいました。話してしまったら、嫌われてしまいます。

 

 そうならなくて済んだのは、水の音が声を消してくれたからです。洗う時間が長いと言われてしまうかもしれませんし、それで怒られるかもしれませんが、気が付かれるよりはずっといいです。

 

 

 

 涙が止まるのを待って、呼吸が落ち着くのを待って、頭はまだぐちゃぐちゃですが、何とか動くようになったので、洗い物を終わらせます。

 

 ついでに顔を洗って、洗面台の鏡でおかしいところがないか確認します。少し目が赤い気がしますが、これだけでは泣いたと思われないでしょう。

 

 ちょっと俯いた状態で戻り、布団にダイブします。顔は見られていないでしょうか。違和感は持たれていないでしょうか。気になって、不安です。

 

 

 

 

 天井を眺めながら、頭の中の整理を頑張ります。嫌われたくないから、どうにかいい子でいられないか、考えます。

 

『めそめそするな、鬱陶しい』

 

『すみれはにこにこしてるのが一番かわいいよ』

 

 

 暗いのは、ダメです。わたしが暗かったから、優しいお母さんもわたしを嫌いになってしまいました。暗かったら、いい子でも嫌われてしまいます。

 

 嫌われたくないので、わたしは明るい子にならなくちゃいけません。お日様みたいな子にはなれなくても、ろうそくみたいは子にはなれるかもしれません。

 

 

『ほんっとに役に立たない』

 

『着古した服も、雑巾にすればまた使えるでしょ?だから最後まで大事に使うの』

 

 

 

 役に立てば、いつまでもいれるのでしょうか。使えれば、ずっと大事にしてくれるのでしょうか。

 

 嫌いでも、使えるならいていいのでしょうか。悪い子でも、役に立っていれば捨てられないのでしょうか。

 

 

 

 

 それなら、捨てられないくらい大事なものになれば、捨てることが出来ないくらい役に立てれば。

 悪い子なわたしでも、捨てられることなくここにいれるのでしょうか。

 

 

 お兄さんを見ます。こちらに顔を向けて、スマホをいじっていました。その姿を見て、わたしの中で悪い感情が沸き上がります。一度出てきてしまったそれは、きっともう消えてくれません。

 

 

 だったら、わたしはもういい子でいることを諦めます。悪い子だってことを頑張って隠して、バレたとしても捨てられないくらいに、お兄さんの生活にくい込んでみせます。わたしにとっての、お母さんやお兄さんみたいな、居なくなられたら生きていられないくらい大事な存在になってみせます。

 

 

 少しだけ、良心が痛みました。だって、わたしがしようとしているのは、恩を仇で返すようなものです。わたしという不良債権を押し付けて、人生を圧迫しようという行為です。許されるわけがありませんし、許されてはいけません。

 

 

 ……けれど、わたしはもう悪い子です。悪い子だから、そんなこともしてしまいます。僅かに残った良心を、首を振って振り払い、目を瞑ります。

 

 

 

『すみれにも、いつか大事な人ができるといいね』

 

 

 お母さんが昔、言ってくれたその言葉。頭を撫でながら微笑んでくれたその言葉。

 

 

 

 

 

 

 きっと、その大事な人は、お兄さんです。

 



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幸福の黄色いドーナツ(裏2)

 同じ時間を過ごしてるはずなのにすみれちゃんだけ文量が多くなるのは、きっと若い分体感的な時間が長いからだと思います()



 ボコボコとお湯の沸く音、換気扇のファンが唸るのを聞きながら、意識が浮き上がってきます。キッチンの方に明かりが付いていて、お兄さんが何かを茹でているのがわかります。

 

 眠りから覚めて、少しだけ身動ぎをすると、体に暖かい何かがかかっていることがわかりました。わたしが眠る前は、お布団にダイブしたのです。当然、部屋の空気にそのまま曝されていました。少し室温が低かったことを踏まえれば、寒さでくしゃみでもして起きるのが妥当だったはずです。

 

 

 それなのに、わたしは音で起きました。目を開けないままで手を動かすと、柔らかくてふわふわした感触があります。

 

 お兄さんが、わたしに使わせてくれている毛布です。わたしが以前まで使っていたものと違って、体が痒くなることもなく、柔らかくて暖かい毛布です。

 

 でもそれは、わたしがダイブしてからモゾモゾしているうちに、足元の方に追いやられたはずのものでした。

 

 

 足元の毛布が、勝手にわたしの体にかかるなんてことはありえません。わたしが寒さに耐えきれず、器用に自分で毛布を被ったというものも、あまり現実的ではありません。

 

 であれば、残るものは、お兄さんがわたしの体を心配してかけてくれたというものになります。お兄さんがわたしのためにわざわざ手間をかけてくれたということになります。

 

 

 歓びが、溢れてきました。もちろんこれは悪い感情なのですが、わたしは既に悪い子として生きることを決めた身です。純粋に、この暖かさを噛み締めます。

 

 

 表情は、きっと緩みまくっているでしょう。自分でも、表情筋がにまにましている自覚があります。だって、お兄さんがわたしのためにしてくれたということが、それだけ嬉しいんです。お兄さんがそれをしてくれることで、とっても安心できるんです。

 

 

 けれど、いつまでもにまにましているわけにもいきません。

 

 だって、わたしがこうしている内にも、お兄さんは何かを茹でているのです。お兄さんの生活に、取り返しがつかなくなるくらいまで食い込むためには、ここで寝過ごすわけにはいかないのです。

 

 

「おはよう、温かいうどんと冷たいの、どっちがいい?」

 

 気合を入れて目を開けて、すぐにこんにちはしてしまった視線の直後に、言われたのはそんな言葉でした。

 

 それほど長くない言葉ですが、わたしのことを見てくれて、わたしの意見を聞いてくれる、優しい言葉です。胸の奥からポカポカが拡がって、もっと見てほしいと思ってしまいます。

 

 

「おはようございます、温かいのがいいです」

 

 

 自分の中にある悪い子を精一杯押さえ込んで、いい子に見て貰えるように、お兄さんが用意していそうな方を選びます。少し冷え込むこの季節に、わざわざ冷たいものを欲しがる人は少ないでしょう。

 

 本当は、お兄さんに今すぐ変わると言った方がいいのでしょうが、残りの茹で時間もわからないし、お兄さんもわたしの方を見ながら少し微笑ましそうにしています。

 

 もしお兄さんがこれを楽しんでいるのなら、無理に変わろうとするのはマイナスです。わたしの想像では、楽しんでいる確率は半分くらいでしたが、それはともかくとしてお兄さんがわたしのために動いてくれると考えると、暗い悦びが湧き上がります。

 

 わたしは悪い子ですから、それを受け入れて、さらに、そうであろうという推測はともかくとして、自分の欲しいものを告げてしまいます。

 

 

 お兄さんの好みに任せるのなら、どちらも好きだからお兄さんの好きな方でと言えたはずです。なのに、わたしは温かい方がいいと言いました。すごいわがままです。

 

 

 そのわがままに備えてくれていたのか、最初からそのつもりだったのかはわかりませんが、お兄さんが温かいうどんを用意してくれたので、ありがたくいただきます。

 わたしの存在意義を考えると素直に喜べませんが、悪い子なわたしは全力で喜んでお昼ご飯をいただきます。

 

 

 どんぶりに濃縮つゆとお湯が注がれ、かけうどんの汁が作られました。乾燥ネギとチューブのしょうがが横に置かれて、好みで使うように言われます。

 

 

 少し前までのわたしにとっては嗜好品だったしょうがも今となってはただの薬味です。

 

 気温が寒いから、温かいうどんを食べてもっと温かくなりたいから、わたしは少し多めにしょうがを加えます。ついでにアクセントとして乾燥ネギも加え、お腹の中からポカポカが広がりました。

 

 体の内側から広がる温かさと、目の前に大切な人がいる幸せ。それをかみ締めながら、お兄さんのことを眺めて、食べ終わったあとの食器を洗います。

 お兄さんがわたしのために茹でてくれた鍋、お兄さんが使ったどんぶり。ここにまで喜びを得てしまったら、さすがに人として大切なものも見失ってしまう気がしますので、少し疼く心を傍に何も感じなかったことにします。

 

 吹っ切った状態で、お兄さんに画面を見られることがないようにやることは、お勉強です。特に、明確な答えがわかる理系科目の、本来ならわたしが学んでいたであろう中学程度の範囲。

 

 数年前までお母さんが教えてくれた、小学校中高程度の内容よりも、だいぶ難しくなった範囲ですが、このままお兄さんの人生に寄生し続けるなら、最低限の教養は押えておかなくては、お兄さんに恥をかかせることになるかもしれません。

 

 自分の理解の限界とその少し先を常に把握しつつ、改めていくことが正しいのだと思いながら、トライアンドエラーを繰り返して学びます。何度も間違えて、その度に模範解答を見て確認して、正しい考え方を身に付けます。

 

 本当はわかっている人に教えてもらうのが一番なのでしょうが、教えてくれそうな人はお兄さんしかいません。頼めば教えてくれそうではありますが、もし、これから死ぬやつに学なんていらないだろと言われたらと思うと、どうしても踏み出せません。

 

 

 だから一人で勉強します。お兄さんにしっかり根を張るまでは、一人でやります。お兄さんがわたしを切り捨てられなくなったら、お兄さんにお願いして教えてもらいます。勉強のためのテキストを買ってもいいかもしれません。

 

 

 頭の中で計算して、それを入力します。計算間違えや覚え間違えなどの簡単なミスが、どうしても減りません。

 

 

「すみれちゃん、買ってきたドーナツだけど、どのタイミングで食べたいかな?」

 

 

 ミスの減らし方に悩んでいると、お兄さんがこちらに顔を向けて訊ねてきました。素直ないい子なら、お兄さんの好きなときでと言うのでしょうが、わたしはわがままな悪い子です。

 

 

「えっと、……できれば三時のおやつに食べたいです」

 

「……あと、できればカフェオレが飲みたいです。温かくて、甘くないやつ」

 

 だから、自分の好きなタイミングを言ってしまいます。ついでに、わがままを重ねてしまいます。

 

 緊張と、期待と、不安で胸がドキドキします。わがままが過ぎると怒られないでしょうか。ちょっとだけ、怒られてみたいと思いました。嫌われたくは無いけど、強い気持ちをぶつけられたいと思いました。

 

 わたしのわがままのせいで、コーヒーを探す羽目になったお兄さんを見ながら、どんな風に怒るのか想像します。

 

 宥めるように諭すのか、お母さんみたいに舌打ちするのか、目に見えて冷たくなるのか、語気が荒くなるのか、怒鳴るのか、手が出てしまうのか。

 

 怒られてみたいとは思ったものの、後半は悲しくなってしまいますし、怖いですね。やっぱり怒らせるのはなしの方向でいきます。

 

 勉強を再開します。途中、お兄さんが見つけたコーヒーをわたしが淹れると言ったりしましたが、コーヒー淹れたことあるの?と聞かれて轟沈しました。美味しいコーヒーを淹れられるようになりたいとも思いましたが、お兄さんは普段好んで飲まないらしいので、やっぱりいいかなと改めます。

 

 ケトルが沸いて、加熱が止まる音がします。とぽとぽと、ゆっくりお湯が注がれます。

 

 開いた扉の反対から、それを眺めました。

 

 コーヒーの香りと、音と、穏やかな微笑み。

 

 手に持っている物がやかんではなくケトルで、それをしているのはお母さんではなくお兄さんです。なのに、それはわたしが昔見たものと一緒でした。

 

 何もせず、できずにただそれを見続けます。お兄さんがこちらに戻ってきて、湯気の上るマグカップを置いてくれるまで、目が離せませんでした。

 

「はい、どうぞ。……これで合ってるよね?」

 

 

 差し出されたのは、黄色いつぶつぶが付いたドーナツ。お母さんが好きだったもので、わたしも大好きだったものです。わたしの、思い出の食べ物です。

 

 同じ袋、同じ包み方、同じ匂い。記憶のままです。わたしの幸せの記憶のまま、ここにあります。それが嬉しくて、でも何故か、ほんの少しだけ寂しいです。

 

 

 お兄さんと一緒に食べ始めて、小さく笑いながらコーヒーと一緒に楽しんでいるその姿に、やはりお母さんが重なります。美味しいと言っているのに、苦いコーヒーをしきりに飲む姿。

 

 わたしにはその理由がわからなくて、わかりたくて、お母さんの真似をしてコーヒーを飲んでいました。でも何度飲んでもやっぱり美味しいと思えなくて。

 

『すみれも、大人になればきっとわかるよ』

 

 苦いのと甘いののバランスがいいのだと、言っていました。一度苦味を挟むことで、より甘みが際立つのだとも言っていました。

 

 一口、飲んでみます。確かに甘さの再確認にはなりますが、わざわざ挟む必要性がわかりません。

 二口、飲みます。昔と違って美味しくないと思うことはありませんでしたが、やっぱりドーナツに合わせる理由はわかりません。

 三口、飲みました。やっぱり、わかりません。きっと、まだわたしが大人に成れていないからなのでしょう。

 

 ただ、甘さを純粋に楽しめなくなるのなら、わたしは子供のままで居たいかもしれません。

 

 コーヒーの確認をしながら飲んでいると、すぐにドーナツはなくなってしました。寂しいですが美味しかったです。ずっと食べていなかった、思い出の味。

 

 また食べたいなと思い、少し物足りないのを誤魔化すために、残ったコーヒーを飲んでしまいます。口の中に苦味が広がります。やっぱり、わたしは甘いだけでいいです。

 

 

「これ、ついでに買ってきたんだけど、まだ食べ足りないならどうかな?」

 

 

 わたしが内心物足りなく思っていると、そんなに物欲しそうにしていたでしょうか、お兄さんが袋から追加のドーナツを取り出してくれました。元々買ってあったものだとわかってはいても、食べ足りないのが見透かされたみたいで恥ずかしいです。

 

 ただやはり、それ以上に嬉しいものであり、思わず頬が緩んでしまいます。しかも、好きなものを好きなだけ選んで食べていいとまで言ってくれます。

 

 

 いい子なら、そんなことを言ってもらったとしても、しっかり遠慮します。失礼にならないように一つだけ頂いて、あとはお兄さんに食べてもらいます。

 

 でも、わたしはわがままな悪い子ですから半分こしたいなんて言ってしまいます。お兄さんが買ったものなのに、半分も貰ってしまいます。

 

 しかも、一緒に食べるだけではなく、食べさせてもらいます。お母さんですら、わたしを嫌いになる前からやってくれなくなってしまったことを、やって欲しいと甘えてしまいます。

 

 

 さすがに怒られるでしょうか、お兄さんの顔色を伺います。ちょっと困ったような顔をしましたが、一つをピンでさしてわたしの方に差し出してくれました。

 

 口の中に広がるのは、深みのある甘さです。ちょっとしつこいくらいに甘くて、でもそれが美味しいです。

 

 胸がポカポカして、安心できて、とっても幸せです。もっと、もっととほしくなってしまって、それが抑えられません。でも、それでいいんです。わたしは悪い子だから、甘えていいんです。

 

 

『わがままを言わなくて、すみれはいい子ね』

 

 

 

 

 

 

 悪い子って、すごく幸せです。

 

 

 

 




感想へのGoodって1日5回までなんですね……(╹◡╹)


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初めてのお買い物1

ここすき一覧を見るに、やっぱりみんなクソデカ感情とかクソ重感情が好きなんだなぁって(╹◡╹)

あたいも大好き()


「お兄さん、実はちょっと相談したいことがあるんです」

 

 そんなふうにすみれが切り出したのが、ドーナツから10日ほど経った日のこと。ようやく多少の肉が付いてきて、かなり痩せているというくらいになった頃。

 

 少しモジモジして、言いにくそうに、けど言いたそうにしている姿は、最初に見た時とは比べ物にならないほど少女らしいものになっていた。

 

 

「実はその、外でのお買い物というものに興味を持ってしまいまして。今週の土曜日か日曜日のどちらかで、少しお時間いただけないでしょうか?」

 

 買い物にかかる費用は、全部これまで自分が貯めてきた分から使うから、付き添いだけお願いしたいとのこと。

 

 

 最初にすみれがお金を使うとしたら、食べたいものだったり欲しい小物などだと思っていた。それも、良くてネット通販で、おそらく僕がお使いを頼まれるとも思っていた。

 

 そんな中での、初めてのお金を使いたいことが、お買い物。しかも、目的があって何かを買いに行くのではなく、買い物自体が目的と来たものだ。

 すみれがこれまで家の外に出たことは、僕が拾った日の一回だけ。ほぼ完全に未知なそれに対して、きっとこわがっているだろうと思っていた僕からすれば、一瞬何を言っているのか理解が追いつかなくなるほどの驚きだ。

 

「そのっ!……ダメだったら全然いいんです。完全にわたしのわがままですし、嫌で当然だと思います。やっぱり迷惑ですよね……」

 

「いや、ごめんね。全然ダメじゃないんだ。ただ、あまりにも予想外だったから理解が追いつかなくてね」

 

 僕が処理落ちしている、その間を忌避感によるものだと捉えたらしいすみれに、それは勘違いであると、ダメじゃないし、行くことが出来ると伝える。

 

 すみれが初めて、僕に何かをして欲しいと願ってくれたのだ。マイナスなものではなく、なにかのついでにできることでもない、純粋なお願い事。自分のためにしてほしいという、大きなわがまま。

 

 

 これはきっと、すみれの心が生きることに前向きになってきた証で、人並み程度の欲求が備わってきたことの表れだ。もしそうじゃなかったとしても、すみれをこの家に留める期間が伸びることになる。

 

 どちらにせよ、すみれに幸せになって欲しい僕としては喜ばしいことだし、最近家事をやって貰っているおかげで仕事の質まで良くなってきている身としても、長くこの生活が続くことはいいことだ。

 

「買い物だね、いいと思うよ。今はネットとかでも色々買えるけど、やっぱり自分で目で見て、手で触れたものの方がハズレは少ないからね」

 

 すみれの申し訳なさそうな言い出しとは反対に、僕は諸手を挙げてその提案を受け入れる。

 

 

「ほ、本当ですかっ?できれば色々なものを見てみたいから、たくさんのものがある場所がいいんですけど、おすすめのところってあったりしますか?」

 

 色々なものが売っていると言えば、大型ショッピングモールなどがすぐに挙がる。けれど、普段全く歩かないどころか外出経験が一度だけのすみれだ。そんなところに行って、無事に帰ってこられるとは思えないし、なんなら着けるかどうかすら怪しい。

 

 とはいえ、確実に行けるところとして、スーパーを伝えるのもまた微妙だ。百均などが入っていれば、色々と実用的なものなんかは見れるかもしれないが、所詮スーパーで扱っているものは日用品である。

 

 それでは、すみれの初めてのお買い物にふさわしくないだろう。さすがの僕でもそれくらいの判別はつくので、それはしっかりと候補から外す。

 

 

 となると、候補に挙がる条件は、ショッピングモールを名乗れるほど大きくなくて、けれども専門店などがそこそこありスーパーとは言えないようなもの、ということになる。

 

 本当にその近辺に住んでいる人しか寄り付かなさそうな、微妙な条件だが、幸い僕の住んでいる近くにはそんな施設があった。

 それのせいで、近くに大規模な施設ができない、ある種の厄介者ですらあったその施設だが、こと今回に限って言えば助かったと言えるだろう。

 

 

 

 その場所を伝えて、行き先を話した上で、この日の話は終わりになった。僕からすると、場所を教えたので、当日回る箇所だったりの細かい希望は可能な限り自分で考えて欲しいと、少しだけ思ったりする。

 

 一応、ここ2ヶ月ほど使っていなかった車の状態だけは確認しておいた方がいいだろうか。かかるお金のことを考えても、考えなかったとしても、僕が交通を担うのがいちばん安くて確実で、安全なのだ。

 

 だって、すみれがまともに駅まで歩けるとは思えない。そこに関しては期待していないどころか、そもそもダメだと確信すらしているのだ。引きこもりを突然歩かせたら死んでしまうし、すみれの過去の生活は、今まともに家の中をうごけてるだけですごいと褒められるほどのものである。

 

 電車を使うにも、そもそも改札の説明からしなくてはならないだろうし、人が沢山いるところに詰め込まれたら、どんな反応をするかもわからない。エスケープゾーンとしても、車の車内はあった方がいいだろう。

 

 

 

 

 

 

 そんなことを考えて、色々用意して、やってきた土曜日。これまですみれが貯めてきた分の約1.5万円を渡して、家から出る準備をする。時間は朝の10時、朝ごはんをしっかりと食べて、すみれの体調が大丈夫か聞く。

 

「大丈夫です。……ちょっと怖いけど、頑張ります!」

 

 

 少なくとも、気合いは十分。いつも室内で着ているラフな格好ではなく、ちょっとちゃんとした服を着て、初めての靴を履く。

 

「おかしいところとか、ないでしょうか?」

 

 やる気に溢れた、けれど少し不安そうなすみれの格好に、おかしいところはない。今どきとかトレンドとかは分からないけれど、街中で見た事があるような格好だし、多少肉が付いたおかげで、一緒に歩いていて虐待だと通報されることもないだろう。お金を介したいかがわしい関係かと勘ぐられることはあるかもしれないが、年齢差が存在する以上多少は仕方がないことである。

 

 おかしくないしちゃんとかわいらしくなってると褒めつつ、自分で外に出れるか確認する。気分は引きこもりの社会復帰トレーニングだ。すみれの場合は、復帰以前に一度も触れたことがないのでより深刻かもしれないが、似たようなものである。

 

 

 ドアを開かれて手を引かれるのではなく、自分で開いて踏み出したいという希望によって、僕はすみれが開けるまでは靴すら履かずに下駄箱前で待機だ。そこまで広くない玄関口では、二人同時に靴を履くことは叶わない。

 

 

 ゆっくり深呼吸して、ドアノブに手をかける。手が震えていて、でもしっかりと握って、回した。

 

 

 そのまま時間をかけて回し切り、そこそこ体重をかけて、ようやく開く。

 

 

 少し冷たい秋の風が流れ込んだ。

 

 

 すみれの足が、家の外に着く。おろしたての靴が、初めて土を踏む。

 

 

 この3週間、ずっと見てきた少女の、成長の瞬間だ。きっと、このまま生きる希望を見つけて、なんだかんだで自力で道を切り開いていけるのだろう。

 

 僕はそのまま一助にしかなれないけれど、どうかこのまま頑張って欲しい。

 

 そんなふうに、不思議な感傷と、あの時の少女をここまで立ち直らせたのだと達成感を感じると共に。

 

 外に出れたと喜び、僕に笑顔を向けるすみれのその姿と可能性に、嫉妬のような、寂寥感のような、薄暗い感情を抱いてしまったことを、自覚した。



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初めてのお買い物2

 明るい外は初めてだと、叫んだりはしないもののテンションが高くなって仕方がないすみれを、何とかなだめて車に乗せる。写真で見た外の景色と同じだと、もっと色々見たいと語るすみれを助手席に座らせ、出発。

 

 窓越しに見える街並みの一つ一つに興味を持ち、水族館に来た幼子のようにガラスに両手をつけながら、あちらへこちらへとひっきりなしに視線を走らせる。

 

 

 その様子をたまにルームミラーで見ながら、制限速度よりも少しだけ遅い速度で進む。そもそも車通りが多くない道ということもあり、出かけ始めるにしては微妙な時間ということもあり、後続車もいないのでクラクションを鳴らされる心配もない。

 

 たまにいる歩行者にだけ気をつけながらしばらく進み、国道に入るタイミングで一気にアクセルを踏み込む。

 

 わーときゃーの間のような歓声をあげる助手席が、なんとも楽しそうにしているのを見て一安心しつつ、先程までとは違って車が走っている道なので周りの速度に合わせる。何がとは言わないが、+15くらい。

 

 

「車って、人って、こんなにいっぱいいるんですね」

 

 車が増えてきたあたりから、少しテンションの高さが成りを潜め出したすみれが、ポツリと漏らした。

 

 これまで僕を含めて、2人の人としか関わったことがなかった少女には、その事実はどのようなものなのだろう。いや、知識としては知っていたはずの常識を、初めて見て実感した時の感情は、どんなものなのだろう。

 

 それは恐怖かもしれないし、怒りかもしれないし、悲しみかもしれないし、何も無いかもしれない。この約1ヶ月一緒に過ごした感覚から、たぶん怒りではないだろうと思うが、その実は本人にしか分からないし、本人にすらわからないかもしれない。

 

 

 ただ間違いないのは、高かったテンションが落ち着くだけの何かは感じたのだ。

 

 

「そうだね。これから行くところにはもっとたくさんの人がいるし、都会の方とかに行けばどうしてぶつからないのかが不思議なくらいたくさんの人が歩いているね」

 

 恐怖や不安なら、紛らわせることを言った方がいいのだろうが、今のすみれの中に何があるのかわからないから、まだ上があることを言うしかできない。

 

 これで怖気付くなら人が多いところでの買い物はまだ早いだろうし、自分でドアを開けて外に出られただけで十分すぎるほどの進歩だったからだ。

 

 

 そんな、少し試すような意図も込みで返事をして、すみれの返事を待つ。

 

 帰るなら、このまま帰ってもいいが、少し自然の多い方をドライブしてみてもいいかもしれない。もちろんすみれが望めばの話だが、程々に景色のいい場所にも心当たりがある。

 

「おにいさん、あの、今から行く場所で、困ったら、助けてくれますか?」

 

 

 そんな僕の想像を裏切って、すみれから出たのは前向きな言葉だった。正直帰りたがる可能性が高いと思っていたため、意外な言葉ではあったが、その内容自体は僕が最初からそうしようと思っていたことなので、何も問題は無い。

 

 すみれが人酔いして吐くかもしれないと、黒い袋も用意しているし、靴擦れを起こして歩けなくなることも想定している。迷子になりかねないから片時だって目を離す気は無いし、疲れきって歩けなくなったすみれを背負うことまで覚悟している。

 

 なんなら、すみれを家に置いている時点で、警察の厄介になることも想像はしているし、最悪の場合そのせいで首になることまで考えている。すみれとの約束を果たした時に、自分が自殺幇助でしょっぴかれる可能性もわかっていて、そのくらいの迷惑を被る覚悟があって、こうしているのだ。

 

 

 そうでもなければ、こんな明らかに事情がある少女なんて、自分で保護したりせず警察に連絡している。

 

 

 

「もちろん。どんな小さいことでも、すぐに何とかするから、安心して頼ってね」

 

 

 それなのにこんなに可愛らしい不安が出てくるのは、僕の覚悟を、背負っている危険を知らないということだ。

 

 よかった、と思った。

 

 だって、こんな覚悟は、会ったばかりの相手のために向けるには、あまりにも重すぎるから。すみれのこれからの幸せのために、余計な重圧はいらない。

 

 だから、これはすみれが知らなくてもいいこと。僕だけが知っていて、僕だけが背負っていればいいのだ。期待に応えるために幸せになろうとしても、どうせとりこぼしてしまうのだから。

 

 

 ポス、と、すみれはヘッドレストに頭を落とした。欲しい答えを言えたのかは分からないけど、フロントガラスにうっすらと映る表情は穏やかなので、悪い取られ方はしていないだろう。

 

 

 

 

 

 その後、少し静かな時間が過ぎた。車の中で、リラックスした様子のすみれと、横に人を乗せているからいつもに増して運転に気をつけている僕。

 ポツポツと、あまり中身のないような、ふんわりした会話をしつつ、車の流れに合わせて運転をしていくと、目的の商業施設に着く。

 

 

 この近辺で休日に訪れるような場所がここくらいしかないこともあって、あまり多くない車の半分くらいは同じ入口から入っていく。

 

 施設の上階層に設置されている駐車場に向かうための、スロープを登る時に、すみれが小さい声でわぁーと言ったこと以外には特に特筆することも無く、屋上の出入口から少し離れたところに車を止める。

 

 左右に泊まっている車が居ないから、すみれが勢いよくドアを開けたとしても安心だ。

 

 そんな想定が上手く働いたのか、それともそばに車が居ないことがわかっていてはっちゃけたのかはわからないが、すみれが勢いよくドアを開けたのを見て、この場所に止めて良かったと内心安堵する。

 

 その行動自体には、車への負担とかも多少はあるからちゃんと伝えなくてはならないが、楽しみでしょうがないというすみれの様子を見ると、今は言わなくてもいいかなという気持ちになってしまった。

 

 先程話した時の不安が見られないのは、それだけ僕のことを信じてくれているということだろうか。

 

 そうであればいいなと思いつつ、車に鍵をかけて、エコバックなどを入れている肩掛けのバッグをかけて、すみれを誘導する。

 

 

 

 

 まだ、誰もいない。そもそも人が少ない場所の、その中でも人が多くない駐車場を選んでいるのだから、当たり前と言ってもいいかもしれないが、誰もいない。

 

 

 少し肌寒い空気と、それだけならばポカポカした日光の下で、エレベーターホールまで歩く。少し距離があるのは、自分で選んだからしょうがない。

 

 誰もいないエレベーターホールでエレベーターを呼ぶ時と、そのエレベーターに数字の着いたボタンがあることに、謎の興奮を見せたすみれはともかくとして、3階の専門店エリアに着く。

 

 

 エレベーターがそのエリアについて、一瞬だけ嬉しそうにしながら、そこに人が待っているのを見て、一気に強ばるすみれ。

 

 エレベーターの仕様がわからなかったのか、驚きやらで固まってしまったのかはわからないが、ドアが開いても動き出さないすみれを促して、3階のフロアに降り立つ。

 

 

 少し呼吸が荒くなって、無意識に何かに縋りたかったのだろうか、僕の服の裾を握っているすみれを、誰もいないベンチに座らせる。

 

 

 この子は、本人の頑張りとかを除けば、所詮はネグレクトされて、これまで二人の人としか話してこなかった子供だ。いきなりたくさんの人がいる場所に晒されて、ストレスを感じないわけが無い。

 

 むしろ僕としては、人が多いせいでゲロを吐くことも想定していたため、多少異常があることくらいは織り込み済みだ。

 

 

 すみれの精神的な負担なんかを考えるのであれば、程々で辞めるべきだし、その辞めるべきタイミングは既に通り越していることもわかっている。

 

 

 でも、少し青ざめた顔をしながらも、僕のことをしっかりと見据えて、まだ頑張りたいと主張するすみれの姿は、尊いものだ。

 

 

 少し経つのを待って、落ち着くのを待って、すみれに続けたいかを聞く。ここから先は、進むにつれて人とすれ違うことが多くなるし、店員に話しかけられる機会もあるだろうと話す。

 

 

 それが辛そうであれば、諦めた方がいいかもしれない。今このタイミングで無茶をしても、負荷が溜まりすぎて成長にすら繋がらないかもしれない。

 

 

 それをそのまま伝えても、すみれは諦めなかった。少しだけ勇気をくださいと言い、僕の服の端を掴んで、すぐに立ち上がる。

 

 

 

 その心の強さを、精神性を間近で見て、僕の心はさらに掻き立てられた。知らない恐怖に立ち向かうその姿が、眩しくて仕方がなかった。





燐くんのバックボーンは一応考えてます。理由なく人生かけれるほどのナチュラルボーンクレイジーじゃないです(╹◡╹)


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初めてのお買い物3

 そんな眩しいものを見て、その選択を目にして、僕は自分の中の価値観を揺らされる。

 

 こんなに儚いものが、こんなにかよわいものが存在するのかと、存在していいのかと悩み、弱々しく握られた自分の服の裾に、かつてないほどの愛おしさを覚える。

 

 

 僕は、この子のために人生の一部を犠牲に出来ると思った。そんな子が、他に頼れるものがないと、自分のことを頼ってくれているのだ。支えない理由はどこにもないし、それが出来ないのなら僕など居なくてもいい。

 

 

 裾を握ったすみれが、今ほしがっているもの。今この瞬間のものも、今日来る目的になったものも。どんなものなのかは、僕には分からない。僕からわかるのは、すみれが何かを欲しがっていることと、それを手に入れるために自分が必要かもしれないことだけ。

 

 

 それだけわかるのであれば、行動なんてものはとても簡単だ。

 

 

 

「だいぶ落ち着いてきたみたいだけど、すみれはこの後どうしたい?行きたい場所とか、ほしいものがきまっているなら案内できるし、完全に決まってなくても大体のものは教えられるよ」

 

 

 

 この年頃の子が多く欲しがるもののざっくりした理解だけはしているが、すみれを一般的なこの年代の子と一緒に考えるのはだいぶ難しい。本人に聞くしか、正解を知る方法は無いのだ。

 

 

 深呼吸して、呼吸を整えたすみれの顔色はすっかり、とまでは言えないものの良くなっており、落ち着いたように見える。

 

 

「……ほ、本、本が欲しいです」

 

 

 欲しがったのは、本。最初に自己紹介した時にも好きだと言っていたし、僕が押入れにしまいこんでいたものも、何度かねだられて出した記憶がある。気になるのも当然だろう。

 

 

 新品のものと中古のものがあり、ここで取り扱っているのは新品で、中古専門の店は別の場所にあると伝えると、今日は新品を見たいと言われたため、書店に連れていく。

 

 

 顔色こそ良くなったが、態度としてはまだビクビクしているすみれを背中に隠すように歩いて、着いたのは紙とインクの匂いがする場所。

 

 少しトイレに行きたくなりながら、すみれを促して背中からだす。最初に連れてきたのは、キッズ向けコーナーの図鑑エリア。

 

 

「ひ、……うわぁ……っ!」

 

 視界が開けたことに一度怯えて、本人が好きだったと語った図鑑が並んでいることに、感嘆の声を上げる。

 

 おっかなびっくりながらも僕の後ろから出て、陳列されている図鑑のシリーズから、何かを探す。

 

 少し探して、見つかったらしいお目当てのものは、美しい海の生き物図鑑。嬉しそうに、懐かしそうに最初の数ページを開いて、少しだけ読むと閉じ、大切そうに胸に抱いた。

 

 少しだけにまにまして、来て良かった!と全身から喜びを放つ。そしてもう一度図鑑の表と裏を眺め回して、

 

 

「……ぇ」

 

 

 裏面の、バーコードの下を見て表情を消した。

 

 

 あんなに嬉しそうにしていたのに、どうしたのかと思って、つられてそこに目をやると、書いているのはほぼ4000。色々なものが欲しいから、揃っている場所をと要望を出したすみれには、きっと予算的な意味で厳しいのだろう。

 

 それに、まだ死ぬことを視野に入れているのだとすれば、その分のお金も貯めておかなくてはならない。予算の4分の1以上を一冊の本に取られるのは、だいぶ痛いだろう。

 

 

 しばし悩んで、とても辛そうに、寂しそうにすみれはそれを元の場所に戻した。

 

 

 その様子に、心が痛む。きっと、思い出深いものだったんだろう。ネットで調べて気になっていた程度であれば、あんなに嬉しそうにはしないだろうし、値段を見て棚に戻すなんてこともない。

 

 それを、諦めているのだ。値段を理由に、あんな顔をしながら見送っているのだ。

 

 

 すみれの買い物、と考えるのであれば、変なお節介を焼いて僕が買う、なんてことはするべきじゃないと思う。この先も生きていくなら、必要なものやほしいものを自分のお小遣いの中でやりくりしつつ取捨選択する必要もあるだろう。

 

 

 けれど、最初から余計なお節介のつもりで、すみれに幸せになってもらいたいと行動している僕が、こんな悲しそうな顔を見過ごすのは、それもまた違う気がする。いや、素直に言おう。こんな顔は見たくない。

 

 

「今見てた図鑑、よく知ってるやつなのかな?どんな内容なの?」

 

 

 人から見たら、ただのお節介焼きなだけではなく無駄に甘くて、教育に良くないとか思われたりもするのだろう。

 

 突然聞かれたことに驚いたらしいすみれが、その図鑑の簡単な内容と、それが自分にとってどんな存在だったのかを簡単に教えてくれる。

 

 

「やっぱり、思い入れがある図鑑なんだね。プレゼントするから、後で読ませてくれないかな?」

 

 

 以前読んだ、“デート必勝法!!”なんて胡散臭い記事なんかでは、“彼女が欲しがっていたものはこっそり買ってプレゼントすべし!”なんて書いてあったが、そもそもこれはデートでは無いので、堂々と目の前で買ってプレゼントする。

 というか仮にデートだったとしても、怯えてて背中に隠してあげなくちゃまともに歩けない子を1人放置して、プレゼントをこっそり買っておくとか鬼畜の所業ではないだろうか。僕は訝しんだ。

 

「あ、ありがとうございます!!」

 

 ちょっとおっきい声。キッズコーナーだったとはいえ、元が比較的静かな書店だ。周囲の視線が集まるが、嬉しそうに図鑑をとって抱きしめるすみれの姿に、それも生暖かいものになった。

 

 

 その温度に少し居心地悪くなりながら、すみれを促して他に欲しい本はないか聞く。何冊か伝えられた本は、少し古めのものだということもあり、書店には置いていなかった。調べてみたところ図書館で貸出ができるとの事なので、それを伝えて会計を済ませてしまう。

 

 すみれが最初に欲しがっていたものが買えなかったわけだから、落ち込んでいないか少し気にして見てみたが、袋に入れられた図鑑を抱えてにこにこしてるのを見るに大丈夫そうだ。

 

 

 他に見たい場所がないか聞いて、ヘアピンなどの小物や手芸セットなどを買い揃え、自分が楽をするためだとキッチン用品を自腹で買おうとするのを止めて買い、気がつくともう30分が経っていた。

 

 最初は背中の後ろから出てこれなかったすみれもお手頃な価格で売っていたキャスケット帽を被せてやると、少し安心したのか服の裾を掴んだまま斜め後ろを歩けるようになり、初めてのお出かけは大成功と言ったところだろう。

 

 

 歩き疲れて、ペースが落ちてきたすみれのために一度休憩を挟むべくベンチに移動して、先程とは異なり人がそこそこいるところに座る。

 

 やはりというか、人がいるせいで安心できてはいない様子のすみれだが、もっと人が多いところを歩いた経験のおかげか、極度に顔色が悪くなることはなくなった。だいぶ不安そうにこそしているものの、図鑑の入った袋をぎゅっと抱きしめながらそれに耐えられているようにも見える。

 

 

「この後はどうしたい?一応、ちょっと早いけどお昼ご飯を食べることもできるし、まだ買い物を続けてもいい。他にないなら、来週分の食材だけ買って帰ることもできるよ」

 

 

 だいぶ疲れてきているであろうすみれに尋ねると、お昼は決めているものがあるから帰ってから作りたいとのこと。買い物はまだしたいけど、体力が持つか心配だと言うからまた今度に回すことになった。

 

 

「食材は、買っていきたいです。どんな風に売られてるのか気になるから」

 

 

 一応、すみれにここか車で待っていてもらって、その間に僕が一人で買ってくることもできると伝えたが、本人の強い希望によりこれは却下。もう少ししたらちゃんと歩くから、一緒にいて欲しいと言われ、横に座ってお喋りをする。

 

 

「帽子と図鑑、ありがとうございます。どっちも大切にしますね」

 

 あまり気にしなくてもいいけど大切にしてくれるのは嬉しいと返し、その後はすみれが今日買ったものの話をする。前髪が伸びてきたから、分けるためにヘアピンを買ったこと。オシャレなものがわからないから、大きくて使いやすそうなものにしたこと。買った裁縫道具でちょっとした小物を作りたいから、完成したら部屋に飾りたいこと。

 

 

 のんびり話して、一階の食品コーナーに移動する。先程までよりもさらに多い人に、また背中の後ろに戻ってしまったすみれだが、買うものとその個数なんかはしっかり覚えているようで、聞くとひょこっと顔をのぞかせて教えてくれた。

 

 その動きがかわいらしくて、面白くてつい必要以上に訊ねてしまったのは、バレたらむくれそうだから、内心にしまっておく。

 

 

 ちょこちょこと後ろを着いてくるすみれを伴った買い物はそんな感じで終わり、帰りの車では、疲れてしまったのか小さな寝息を立てていた。



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初めてのお買い物(裏1)

 先日ドーナツを買ってもらった時から、わたしは生活のルーチン化に悩んでいました。

 

 お兄さんより早く起きて朝ごはんを作り、一緒にご飯を食べて見送り、片付ける。お昼は余り物で適当に済ませ、3時くらいから晩御飯の準備を始める。

 

 空いている時間にすることが、お昼寝だったり勉強だったり、まれにソリティアだったりと、細かな違いこそありますが、生活のリズムだったりは一定で、ほとんど変わり映えしません。最初こそ、何から何まで新鮮だったので、食事中の会話にも事欠かなかったけれど、最近はほとんど一日中お話できる内容を探している始末です。

 

 

 食事の質こそ少しずつ上がっているため、お兄さんの生活に食い込むという点では上手くいっているものの、こんなにいい子なだけの生活では、わたしはつまらなく思ってしまいます。

 

 それもこれも、悪い子の幸せを知ってしまった弊害です。もっとお兄さんに、わたしのことを考えて欲しいです。わたしのことを見て、わたしのために何かをして欲しいです。

 

 そのために、何かいいものがないか考えてみますが、あまりいい方法は思いつきませんでした。わたしが仮病でも使えば、お兄さんはとても心配してくれるでしょうが、その嘘がバレたら見放されてしまうかもしれないので、それはだめです。

 

 

 他の手段も考えて、考えているうちに、何も思いつかずに日々は経ってしまいます。瞬く間に一週間が過ぎて、 お兄さんからもらったお小遣いも、気付いたら一万円を超えていました。

 

 大体2万円分で、わたしの最初のおねがいを聞いてくれるという話だったので、何もしなければ今日までと同じ時間を過ごしてわたしはいなくなることになります。そう約束した以上仕方の無い事なのですが、当然わたしはまだ出ていきたくありません。

 

 

『頼むから出ていってくれ。もう帰ってこないでくれ』

 

 

 出ていってなんて、やりません。こんなことを言わせないように、ずっと居座ります。

 

 そのためには、まずお金を減らさなくてはなりません。欲しいものがあれば使ってもいいと、お兄さんにも言われています。何かを買えばそれだけ長くここに入れるわけですから、本当にお兄さんは隙だらけです。

 

 

 もしかしたらお兄さんなら、お金が十分に貯まった後でもここにいさせてくれるかもしれませんが、その可能性に甘えすぎてはいけないでしょう。なにか使い道を考えて、欲しいものを探しに買い物に行くことが思いつきました。

 

 知らない場所に行くことどころか、この家から踏み出すことすら怖くて仕方がないけれど、この理由なら、きっと優しいお兄さんは着いてきてくれます。わたしが行きたいと言って、でも不安だと言えば着いてきてくれるはずです。

 

 だって、お兄さんは優しいんですから。多少迷惑をかけることにはなると思いますが、もとよりわたしはお兄さんに捨てられるまでここから離れないつもりなのですから、迷惑は今更です。

 

 期限をつけずにいつまでもいていいとか言ったお兄さんが悪いんですから、わたしは全力で甘えます。悪い子ですから、当然です。

 

 

 それに、それに、一緒に出かけてくれると言ってくれるのであれば、お兄さんがなるべく早くわたしを追い出そうとしていないと考える根拠にもなります。たくさん無駄遣いしても笑ってくれるなら、お兄さんがわたしを疎んでいない証拠にもなります。

 

 

 そして何より、わたしを外に出すということは、周囲に住んでいる人達にわたしの存在が露見する危険があるということです。もし将来的に着の身着のまま追い出されたら、わたしがお兄さんの家にいたと思い出す人もいるかもしれませんし、綺麗に体が残ったまま海に沈んだら、誰かが関連付けて思い出してしまうかもしれません。

 

 

 つまりは、お兄さんにとって百害あって一利なしな行動になるわけです。また、仮に今は追い出すつもりがなかったとしても、将来的に追い出そうと思ったなら、その事実が心理的抵抗を覚える一因にもなります。

 

 

 とまあ、ここまで考えてはみましたが、まず間違いなくこの要望が叶うことは無いでしょう。あまりにもお兄さんに得がありませんし、わたしのわがままが過ぎます。

 だから、これはあくまでも断られる前提。ドアインザフェイスの大きな要望です。わたしは悪い子なので、最近知ったばかりのテクニックを使ってわがままを言います。

 

 本命のわがままは、お兄さんにお願いして通販を使わせてもらうことです。

 

 買い物さえしてしまえば、ここに居座れる日にちが増えます。役に立つものを買ったり、お兄さんに受けいれて貰えるようなものを買ったりすれば、よりここの居心地が良くなるかもしれませんし、お兄さんに大切に思ってもらえるかもしれません。

 

 我ながら、かなりの策士と言っていいのではないでしょうか。優しいお兄さんの性格を計算に入れた、高度な策略です。

 

 

「お兄さん、実はちょっと相談したいことがあるんです」

 

 

 そんな用意をしつつ、ご飯を食べ終わったあとの、お兄さんが一番油断しているタイミングを狙って、わたしはお兄さんに交渉?をもちかけます。こんなことは初めてということもありかなり緊張しながらになりますが、わたしは上手くお兄さんに伝えられているでしょうか。

 

 

「実はその、外でのお買い物というものに興味を持ってしまいまして。今週の土曜日か日曜日のどちらかで、少しお時間いただけないでしょうか?」

 

 

 ドアインザフェイスの、顔を入れたタイミングです。これは断られる前提で、本題はこれを断られた先なのですが、あまりにも厚かましい要求に、お兄さんが愛想をつかしてしまう可能性もあります。そうなってしまえば、わたしの思惑が破綻するどころか、今すぐ出て行けと言われてしまうかもしれません。

 

 その事に今気付いて、慌てて取り繕うとします。たとえドアインザフェイスを使っても、最初の顔が玄関から見えないくらいに大きければ、直ぐにバタンと閉めてそのままになります。

 

 

「そのっ!……ダメだったら全然いいんです。完全にわたしのわがままですし、嫌で当然だと思います。やっぱり迷惑ですよね……」

 

 

 必死の言い訳。その中に、もしお兄さんが気にしていなかったら、これを断ったら罪悪感を覚えるかもしれない言葉を入れることが出来たのは、わたしのアドリブ力の勝利でしょう。

 

 

「いや、ごめんね。全然ダメじゃないんだ。ただ、あまりにも予想外だったから理解が追いつかなくてね」

 

 嫌われただろうと思ったわたしの内心を推察してか否かはわかりませんが、お兄さんはそんなことを言ってくれました。

 

 

 

 ……正直なことを言うと、驚きすぎて叫びそうです。だって、これはあまりにもお兄さんにとって利益がなくて、リスクが高いからこそインザフェイスの役割にしていたのです。却下される前提の欲張りセットだったのに、それが認められてしまったのです。

 

 そんな中で、動揺しないはずがありませんし、考えないはずがありません。それなのに、お兄さんはほぼノータイムで答えてくれました。わたしの話を断る罪悪感なんて考える時間もなく、それが当然とでも言うかのようにすぐに返事をしてしまいます。

 

 

 

「買い物だね、いいと思うよ。今はネットとかでも色々買えるけど、やっぱり自分で目で見て、手で触れたものの方がハズレは少ないからね」

 

 

 その言葉の速さや、淀みのなさを考えると、お兄さんは素直にそう思っているのでしょう。でも、おかしいんです。あまりにも多い不都合を、お兄さんがわかっていないはずがありません。

 

 これは、調子に乗らせたところで身の程を弁えろとわからせられる展開なのでしょうか?正直なところわたしはもう何も分からなくなりつつあるので、言葉の表を素直に聞いた時の言葉を吐き出します。

 

 

「ほ、本当ですかっ?できれば色々なものを見てみたいから、たくさんのものがある場所がいいんですけど、おすすめのところってあったりしますか?」

 

 

 さすがに、ここまで甘えきったところを見せれば喝を入れられるでしょう。そう信じて言ったのに、お兄さんは真剣に悩んでくれた上に、良さそうな場所の検討が立ったと教えてくれました。

 

 しかも、当日はその準備やら時間のスケジュールやら、その他もろもろ全てひっくるめてエスコートしてくれるとまで言ってくれます。

 

 

 

 そうして、2、3日ほど気もそぞろな時を過ごして、その日は来てしまいます。あまり集中できない中で、朝ごはんを作りました。本当にそんな場所に行けるならと、ジャンル別でほしい物リストも作りました。

 

 

 お兄さんから聞かされていた出発時間を迎えて、今どきほとんど使われていないはずのがま口財布に入った一万五千円弱を受け取って、ドキドキというかビクビクしていると、お兄さんから体調と精神的なものが大丈夫か聞かれたので、今のところは大丈夫なことと、初めての経験に緊張と若干の恐怖を抱いていることをそのまま伝えます。

 

 その言葉に、若干緊張を解されたこともあり、お兄さんの服装を見ると、最近の流行りなどはわからないにしても、ある程度はバランスが取れていて、まともな格好であることがわかります。

 

 

 それに引き換え、わたしの着ているものは、お兄さんが一から用意してくれた一式のままです。まともに靴を履いたことがなかったこともあって、頭のてっぺんからつま先まで、全部お兄さんが選んでくれたもので溢れています。

 

 

「おかしいところとか、ないでしょうか?」

 

 

 それをおかしいと言われてしまうことは、おそらくないとは思いたいですが、服自体はかわいいけどわたしには似合ってないなんて可能性もあり、つい聞いてしまいます。お兄さんと一緒に歩かせてもらうのに、おかしな格好をして恥をかかせてしまうわけにはいきません。

 

 

 かわいらしいと褒められ、顔が赤くなってないか心配しながら、初めての靴の感覚を確かめるべく玄関で足踏みをしてみます。少し締め付けられるような感覚はありますが、足の裏に硬くて柔らかいものが挟まっている感覚が、不思議です。

 

 ドアノブを握って、ちょっと熱くなっていた顔が冷えるのを感じます。と言うより、全身から体温が無くなっていきます。お兄さんに、外に出ても大丈夫だとアピールしたくて、自分で玄関を開けて外に出れるなんて言ってしまいましたが、かなり早まったかもしれません。手を引いてもらえばよかったです。

 

 

 顔の熱が引いたのはいいですが、手や足が震えるまで怖いのは、全くよくありません。ドアノブなんてガタガタ言ってしまってますし、手だってすぐに外れてしまいそうです。足も、いつ崩れてしまうかわかりません。

 

 

 後ろでお兄さんが見ていることを支え、と言うよりも鞭にしながら、何とか回しきります。体重をかけて開けたせいで、押した扉に引っ張られて、足を踏み出します。

 

 

 以前一度だけ、サンダルで歩いた時とは、全く違う、やさしい踏み心地。お兄さんに買ってもらった靴を汚してしまうのは少しだけ心苦しいけれど、それが気にならなくなるくらいには、明るい外は綺麗でした。

 

 

 



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初めてのお買い物(裏2)

投稿時間は朝と夜の8時1分です。

遅れた時は、予約投稿忘れてたんだと思ってください(╹◡╹)


 いくら綺麗とはいえ、一人では不安で仕方がない外ですが、すぐに出てきてくれたお兄さんがそばにいてくれれば、それだけでもう怖くなくなってしまいます。

 

 普段は家から出てそのまま歩いていくお兄さんが、誰も家に居なくなるからと鍵をかけている後ろ姿を眺めて、新鮮な気持ちになります。普段は見送って、少ししてから寂しく思いつつ閉めていますから。

 

 車がどこにあるのかも、どれかもわからないので、お兄さんの後ろを歩きながら色々話しかけてみます。塀のこととか、草のこととか、建物のこととか。だって、どれもこれもわたしにとっては知らないもので、知らないことです。気にならないはずがありません。

 

 

 ちょっとだけ歩いて、まあとりあえず車に乗ろうかと宥められます。わたしは悪い子ですが、意味もなくお兄さんを困らせたいわけではないため、素直に従って車の乗り方を教えてもらいます。

 

 

 ドアを開けてもらい、足元に気をつけてと気を使ってもらい、閉めるから挟まれないようにねと教えてもらます。助手席に座り、シートベルトをつけると、思った以上にしっかり固定されました。

 

 車の中をキョロキョロ見て、どれをどんな風に使うのかと疑問に思っていると、危ないから勝手に触っちゃダメだよと注意されてしまいます。もちろんそんなことをするつもりはありませんが、確かに今のわたしのテンションだとやってもおかしくありません。

 

 

 出発した車から、流れる景色を見ます。色々な色の建物に、個性溢れる屋根の形。ガラス張りでスケスケな建物は、なにかのお店なのでしょうか。椅子が沢山並んでいたり、商品が並んでいたりします。少なくとも、普通の民家ではないでしょう。

 

 道路に描いている線や文字、看板や標識なども、初めて見るものばかりで新鮮です。思わずもっと近くで見たくなって、窓ガラスにピッタリくっついてしまいました。

 

 最初は顔もくっつけてしまいましたが、自分の吐く息で曇ってしまったため、逆に見にくくなったからやめました。お兄さんに笑われたのが、少しだけ恥ずかしかったです。

 

 けれど、顔こそ付けなくなったものの、外を見るのが楽しいことに変わりはありません。明るい中で外を見る経験がなかった上に、この場所はお兄さんがいる場所です。つまり、わたしにとって安全な場所です。

 

 その場所から考えれば、何も怖くはありませんでした。だって、わたしが一番信頼しているお兄さんがそこにいて、存在を認めていてくれているのです。

 

 とても早いけれども、まだ目で見て判断できる速度であったそれは、とある交差点を曲がるのと同時に、比べ物にならない速度に上がりました。体が、助手席のシートに押し付けられます。

 わたしが自分の足で歩くのとは、大違いです。こんなに早くて、こんなに快適で、こんなに便利なものがあるのなら、それは経済も発展するよなぁと、よくわからないことを考えてしまいます。

 

 突然加速して、後ろ方向に押さえつけられる感覚が少し面白くて、変な声が出ました。

 

 先程までの、どこかのんびりとした走りから一転して、倍くらいの速度で走り出した車の中で、引っ張られるような感覚が無くなると、前後や右にたくさんの車が走っており、左側には人も歩くようになりました。

 

 

 お母さんとお兄さん以外では、初めてみる生きた人です。もっと見たいと思うとともに、やっぱり少し怖くも思います。

 

 

 だって、わたしがこれまで会ってきた人は2人とも優しかったけれども、他の人もみんなが優しいわけがありません。そんな、わからない人がたくさんいる中に行かなくてはならないのです。

 

 

 

「車って、人って、こんなにいっぱいいるんですね」

 

 

 そんなことを考えていたら、ついこんな言葉が漏れてしまいました。独り言のつもりもない、ただ出てきてしまっただけの言葉。

 

 それだけで聞くとただの感想ですが、わたしの弱い心が出てきてしまったものです。

 

 

「そうだね。これから行くところにはもっとたくさんの人がいるし、都会の方とかに行けばどうしてぶつからないのかが不思議なくらいたくさんの人が歩いているね」

 

 

 そのことを察してでしょうか。いえ、お兄さんのことですから、まず間違いなく察していますね。そのうえで、試しているのではないでしょうか。わたしが突然、無茶なことをやろうとして、本当にやり遂げられるのか。

 

 

 落ち着いて考えれば、わたし自身ですらこのお買い物を成功させられる気がしません。そもそも通るはずがないと思っていた要望のため、まともに検討すらしていなかったからです。

 

 ……本当に、どうしましょうか。お兄さんが一緒にいてくれているからこそ、あんなに高いテンションをキープすることも出来ていましたが、トイレなんかで一人で行動しなくてはならなくなったら、立っていられるかすら怪しいです。

 

 もうこわいからおうち帰りたいと思いながらも、そんなことを言ってお兄さんに呆れられたら、見放されたらと思うともっと怖くて言えません。なんでわたしは知ったばかりのドアインザフェイスなんて使ってしまったのでしょうか。素直に最初から、通販を使わせて欲しいと頼めばよかったのです。

 

 過去の自分の迂闊さ、と言うよりも、判断能力の低さに頭が痛くなります。いえ、今考えても、どうして連れてきてくれているのかがわからないので、過去のわたしだけではなく今のわたしも同様なのですが、どちらにせよだめだめです。もっとお兄さんへの理解度を高めなくてはなりませんね。

 

 

 とはいえそれは後回しにするとして、今はこのお買い物を無事に済ませる方法を考えます。わたしの精神的な安定としては、お兄さんにずっとおんぶでもしてもらえば大丈夫だとは思います。恥ずかしさや申し訳なさで、別の意味で大丈夫ではありませんが、人としての尊厳は守られると思います。……わたしに人としての尊厳があるのかはわかりませんが。

 

 

 それはともかく、これではあまりにもお兄さんに負担をかけてしまうことになるので、さすがにいけません。重りを背負った状態で他人の買い物をしなくてはいけないなんて、ほとんど修行みたいなものです。

 

 だからそこまで頼むつもりはありませんが、多少以上の迷惑をかけてしまうことは避けられません。体調を崩してしまえば面倒を見てもらうことになるでしょうし、歩きすぎて動けなくなってしまえば休まなくてはなりません。

 

 

「おにいさん、あの、今から行く場所で、困ったら、助けてくれますか?」

 

 

 これは、すっごく厚かましいお願いです。迷惑に迷惑を重ねて、恥でコーティングしているようなものです。

 

 

 けれど、わたしは悪い子なので、そんなことを頼んでしまいます。これで嫌われたら嫌だなー、もう生きていけないなぁー、と思いはしますが、わたしには頼むしかありません。

 

『もう黙って。これ以上煩わせないで』

 

 

 ダメだと言われてしまったら、素直にごめんなさいを言って引き返してもらいましょう。だって、無理なものは無理です。ダメだと言われたなら、怒られたり呆れられたりすることを覚悟して、お家に帰るしかありません。

 

 

「もちろん。どんな小さいことでも、すぐに何とかするから、安心して頼ってね」

 

 怖くて、不安で、お兄さんの方を見れなくなっていたわたしにかけられたのは、そんな優しい言葉でした。始める前から迷惑をかけていて、これからもっと迷惑をかける前提で、他力本願なことを言われたはずなのに。怒っていいはずなのに、お兄さんの言葉は暖かくて優しいです。

 

 恐怖も、不安も、無くなってしまいます。お兄さんはいつも、わたしに安心と温かさをくれます。体から力が抜けて、起こしていた頭がポスンと倒れます。あんまり柔らかくなくて、ちょっと収まりが悪いです。

 

 

 

 一度下がったテンションに、安心まで加わってしまったので、またはしゃぐことも出来ずに車の中の時間を過ごします。雲の形の話とか、そんなことをポツポツと話すだけの、のんびりとした時間です。

 

 もう買い物とかいいから、ずっとこの時間が続かないかなぁと思っているうちに車は建物の中に入っていきました。ぐるぐる回りながら上っていき、着いた場所は屋上です。

 

 他に車がないところに止まり、降ります。そっと開けようと思ったのに、思いのほか勢いよく開いてしまったドアに驚きつつ、つい少し前までずっと続けばと思っていたことも忘れて、この先にある知らないものたちへの興味が湧き出てきます。

 

 怖いのも不安なのも、少しはありますが、一拍遅れて降りてきたお兄さんがいれば、そんなものは気になりません。

 どこに何があるかもほとんどわからない状態で、お兄さんに誘導されて少し離れた入口のような場所に向かいます。それ以外だと先程上ってきたぐるぐるしかないので、迷うこともないのかもしれませんが、一直線です。

 

 気になるかもしれないけど他の車には触らないようにねと念を押されつつ、たどり着いたそこにはガラスの扉。近付いただけで左右にスライドし、道が開きます。すごく不思議です。

 

 ピカピカでツルツルな床に、カラフルな写真が貼られた大きな箱。お兄さんいわく、アイスの自動販売機だそうです。不思議なものがいっぱいで、すごく不思議です。

 

 

 大きな建物にあると知って、調べておいたエレベーターがやってきます。調べていたもののままで、同じようにボタンが付いていて、数字が割り振られています。お兄さんがその中の、3が書かれたものを押し、少し浮遊感があったあと、本当にポーンと音が鳴ってドアが開きます。

 

 本当にこんなものがあるんだと少し感動しましたが、その直後に開いたドアの先に人がいて、固まってしまいます。どうしたらいいのかわからなくなって、歩くことすら忘れてしまって、すぐに察してくれたお兄さんに背中を押されるまでなにも出来ませんでした。

 

 

『誰にも見つからないように、静かにしていてね』

 

『昼間に音を立てるなって何回言ったらわかるの?お前は見られちゃいけないんだから、押し入れにでも籠ってなさい!』

 

 

 いえ、お兄さんに背中を押してもらったあとも、何もできません。人が、います。一人や二人ではなく、たくさんの人がいます。たくさんの人がいて、わたしを見ています。それがこわくて、こわくて、こわいです。

 

 

 全身から体温が消えて、息が上手に吸えなくなって、耐えきれなくなって、お兄さんの服をつかみます。お兄さんがいてくれなければ、わたしはきっとすぐに座り込んで、酷いことになってしまいます。

 

 胃の中がぐるぐる混ぜられるような感覚を必死に耐えます。ゆっくり誘導してくれるお兄さんについて行って、人気の少ないベンチに座ります。

 

 

 

 

 

 覚悟は決めていたのに、わかってはいたはずなのに、考えていたよりもずっと、人は怖いです。



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初めてのお買い物(裏3)

 少しの間座りながら、お兄さんに背中を摩ってもらいます。人のいない中で、数分はそうしてもらっていたでしょうか。迷惑をかける前提ではあったものの、だいぶひどいなと思いますが、おかげで少しずつ良くなります。

 

 

 何とか胃の中を落ち着かせ、体温が戻ってきて、物事を考えられるようになります。

 

 今の状態は、体調的な意味でも精神的な意味でも、あまりいいとは言えません。どちらかと言わずとも悪いですし、このままなら買い物を続けるのはほとんど不可能でしょう。お兄さんもたぶん、ここまで迷惑をかけるとは考えていなかったでしょうから、呆れて帰りたいと思っていると思います。

 

 

 でも、このまま帰りたくはありません。迷惑になっていることはわかっていますが、帰るわけにはいかないのです。

 

 だって、今ここで帰ってしまったら、わたしはエレベーターから降りただけでまともに動けなくなる子のままです。せめて、迷惑をかけつつも何とかお買い物はできた子にならないと、今後お買い物に連れてきてくれることはなくなってしまうでしょう。

 

 それじゃあ、いやです。わたしはお兄さんとお買い物をしたいです。一緒に歩いてみたいです。

 

 

『どうせお前は何をやっても駄目なんだから、もう何もするな』

 

 

 何もさせてもらえないのは嫌です。見捨てられるのは、嫌です。

 

 

 再度込み上げてきた吐き気を無理やり飲み込んで、気持ちを奮い立たせます。お兄さんの服を強く握りすぎたので、シワになってしまうかもしれませんが、今はそんなことを気にする余裕はありません。

 

 

「大丈夫そうかな?帰りたかったら、階段を使えるからそっちで帰ろう?」

 

 そう言ってお兄さんが指すのは、すぐ横にある階段です。エレベーターの方に行ったら、わたしがまた同じようになってしまうことを考えて、気を使ってくれているのでしょう。その優しさを嬉しく思いますが、今は首を横に振ります。

 

 

「……できれば、お買い物、したいです」

 

 つっかえつっかえになりながら、答えます。お兄さんが、本当に大丈夫かと、さっきの比じゃないほど人とすれ違うことになると念を押してくれますが、大丈夫だと言い切ります。

 

 

 

 きっと、呆れられているでしょう。こんなに迷惑をかけたのにまだ迷惑かけるつもりかよ、とか思われているでしょう。大丈夫なら一人で行ってこい、とはさすがに言われないでしょうが、言われてもおかしくないとは思います。

 

 

「それじゃあ、もうちょっと落ち着いてきたら行ってみようか。大丈夫。時間はいくらでもあるから、のんびり待てばいいよ」

 

 ずるいくらいに優しい言葉をかけて、お兄さんはわたしの横に腰を下ろします。体の片側に、ほんの少しだけ触れる体温が、とても安心できます。

 

 

 

「だいぶ落ち着いてきたみたいだけど、すみれはこの後どうしたい?行きたい場所とか、ほしいものがきまっているなら案内できるし、完全に決まってなくても大体のものは教えられるよ」

 

 しばし休んで、ようやく歩けそうになったのを、わたしの顔色を見て判断したのでしょう、お兄さんが質問します。

 

 

 先程までなら、まともに思い出すことも難しかったと思いますが、今はお陰様で落ち着いて物事を考えられるようになったため、自分が欲しかったものを思い出します。

 

 本と、髪留めと、キッチン用品。あとは針と毛糸。

 

 どれもいっぺんに伝えると迷わせてしまうかもしれませんし、全部回れるかわからないので、優先して欲しい本からにします。

 

 

 それを伝えて、案内してもらうこと少し。何故かトイレに行きたくなる匂いの場所に着いて、突然わたしのお兄さんシールドが目の前からなくなってしまいます。

 

 突然目に入る明かりと、それが照らす広くて沢山文字の書かれた壁。人がいるかもと一瞬恐怖しますが、そこにあったのは本、それも、わたしが好きだったとお兄さんに伝えていた図鑑だけでした。

 

 

『本物を見せてあげられなくてごめんね……。でも、世界にはこんなに素敵なものがあるの。すみれにも、いつか見れるようにしてあげるからね……』

 

 お母さんがわたしを嫌うより前、その中でも、わたしが字を読めるようになった時からの、短い時期ですが、お母さんが色々な図鑑を買ってきてくれることがありました。

 

 ネットで調べるよりもちゃんと根拠があって、簡単にまとめられていて、確実性の高いそれらの図鑑は、きっとわたしの情操教育に影響を与えていたのだと思います。

 

 だって、ほとんど内容を覚えているはずの図鑑達が、この場にないか探してしまっているのですから。

 

 

 知識のことだけを考えるのであれば、どれも九割方覚えているものです。けれど、もう一度見たいと思いました。あの美しかった生き物たちの写真を、もう一度見たいと思ってしまいます。もう一度見るために、このたくさんある図鑑の中から探し出そうと思ってしまいます。

 

 

 最初はお兄さんの背中に隠れ直そうとしたのに、気が付いたら図鑑を探し始めていた自分を、単純だなぁと思いながら、タイトルを流し読みして、大好きだった3冊の図鑑の内の、一冊を見つけます。

 

 10分ほど時間をかけて、ようやく見つけた“美しい海の生き物図鑑”。いつの間にか家からなくなってしまっていたもので、一番好きだった一冊です。

 

 どこにでもいるような魚から、外国のもの、その中でもごく一部の地域にしか生息していないものや、一度だけ深海で採れたものなど、珍しさは度外視して、幻想的な生き物たちがまとめられています。

 

 

 冒頭の文言や、一番最初に乗っている魚。著者の紹介など、どれも記憶の中に残っているもののままで、もう二度と見れることがないと思っていたから、感動です。

 

 自分のものでもないのに思わず抱きしめて、予定にはなかったけどこれは絶対に買って帰ろうと思って裏の値段を見て、固まってしまいます。

 

 

 だって、4000円です。渡した分は好きに使っていいとは言われていますが、全部使い切って、居座る気満々だと思われるわけにもいきません。貰った分の半分以上は残しておこうと思っていたのに、4000円です。わたしの中で決めていた予算の、半分以上を使うことになってしまいます。

 

 

 それでは、ほかのものを買うことができません。もっと役に立つものや、必要なものを買わないといけないのに、買えなくなってしまいます。

 

 ただでさえ、お兄さんにとっては何の利もない本を買おうとしているのに、それを増やしてしまうのはいけません。

 

 

 こんなに高価なものをいくつも買ってくれていたなんて、やっぱりわたしはお母さんに愛されていたのだなと、嬉しいような寂しいような気持ちになりながら、図鑑を元あったところに戻します。辛いけど、贅沢品です。わたしには過ぎたものです。

 

 

「今見てた図鑑、よく知ってるやつなのかな?どんな内容なの?」

 

 お兄さんに聞かれます。わたしが未練タラタラなのを見て、中身知ってるならいらないじゃんと言うつもりなのでしょうか?

 

 意図するものはわかりませんが、お兄さんに聞かれたのであれば、答えないという選択肢はありません。ずっと昔に買ってもらったこと、いつの間にか無くなっていたこと、どのページを見てもきらびやかで、とても美しいこと、生態欄が不明としか書かれていない生き物がそこそこ多いこと。

 

 上手に説明できた気はしませんが、お兄さんはうんうんとちゃんと聞いてくれました。わたし自身もこれまで言語化したことがなかった思いが見つかって、さらに欲しくなってしまいます。

 

 

「やっぱり、思い入れがある図鑑なんだね。プレゼントするから、後で読ませてくれないかな?」

 

 他の本を全部諦めて、小物とかもやめたら、何とかならないかなと考えていたところに、思わぬ申し入れです。言われてすぐは何を言っているのかがなかなか理解出来ず、頭が止まります。きっとわたしは今、間抜けな顔をしているでしょう。

 

 

 少しして、少しずつ内容を理解して、お兄さんが買ってくれるということがわかりました。わたしの説明に、興味を持ってくれたのでしょうか。それともわたしに同情してくれたのでしょうか。

 

 どちらかはわかりませんが、思わず大きな声でお礼を言ってしまいます。気を使ってくれているだけかもしれないのに、遠慮した方がいいのに、そんなことを考えるよりも先に声になって出てしまいます。

 

 はしたないとわかっていますが、一度出てしまった以上今更遠慮するのも決まりが悪いです。吹っ切って、素直に喜んで図鑑を取ります。だって、本当に大好きな図鑑なんです。買ってもらえるなんて言われてしまったら、我慢出来るはずがありません。

 

 しかも、お兄さんからのプレゼントです。わたしが今身につけているものも、お兄さんから貰ったという点では同じですが、必要だから買ってもらったものと、わたしを喜ばせるために買ってもらったものでは、嬉しさが桁違いです。

 

 元々買おうと思っていた本は買えませんでしたが、図書館に行けば無料で読めると教えてもらいましたし、今のわたしにはこの図鑑があるので気になりません。袋に入ったそれを片腕で抱きしめ、もう片方の手でお兄さんの裾を握ります。こうしていると、お兄さんがすぐ近くにいることがわかって、安心できます。

 

 

 少し困ったような顔をして、歩きにくいからピッタリ後ろについて歩くのはやめられないかと聞くお兄さんに、見られているような気がして怖いから無理だとわがままを言ってみます。

 

 困ったなあと言いながら、何故か少し嬉しそうにしているお兄さんが、これで少しは良くなるんじゃないかと帽子を買ってくれます。多少視界を遮るから、ないよりはいいんじゃないかと言われ、真後ろではなく斜め後ろに移動しました。あまり怖さに変わりはありませんでしたが、わたしを気にしてくれる気持ちが嬉しいことと、図鑑を持っているだけでとっても安心感があるので、移動出来てしまいました。

 

 

 安心のため半分、お兄さんがわたしを置いてどこかに行かないようにするため半分で、服を掴んだまま買い物を続けます。針や糸の裁縫道具を買い、毛糸を買い、ヘアピンを買います。

 

 ずっと目をつけていた時短用のキッチンアイテムを買おうとして、自分で買わせてもらえなかったのは少し不満ですが、結果的に欲しかったものは全部揃ったので良しとします。

 

 その後少し休憩を挟んで、食品コーナーを回ることになりました。お兄さんは待っていてもいいと言ってくれましたが、一人でいるのは不安ですし、もしお兄さんがわたしをここに捨てて帰ってしまったらと思うとこわくてしかたがありません。

 

 先程までまばらだった人々がたくさん歩いていることにまた怖くなってしまったので、お兄さんの後ろに戻ります。だって、ここならぶつかられることもありませんし、何より安心できるんです。

 後ろに隠れながら、沢山並んでいるものの値段を見て、今後のメニューの参考にします。これまではあまり値段を考えずに色々なものを買ってきてもらっていましたが、それで極端に高くなってしまうと、お兄さんに邪魔に思われてしまうかもしれないからです。

 

 もちろん全部は覚えられませんが、置いてあるものと置いてないもの、似ているものとの比較などを何となく頭に入れながら、たまにお兄さんに聞かれることに答えて、終わる頃にはクタクタです。

 

 

 帰りの車の中でも、気がついたら眠ってしまっていましたし、迷惑も沢山かけてしまいましたけど、わたしの初めてのお買い物と考えるのであれば、そこそこの成功だったのではないでしょうか。

 

 






 体が鬱を求めてるので、ネットで無料で読めるおすすめの鬱小説があれば教えてほしいです(╹◡╹)


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図書館にて

お兄さん達(性別固定)、すぐにおすすめ教えて貰えるのありがとうですわ(╹◡╹)

やること多くて逆に何もやる気にならない時に読みたくなるようなノーマル鬱から、にこにこ笑えるようなソフト鬱、読みながら胸が張り裂けそうになって、涙が溢れてドライアイ対策に最高なものまで幅広く好んでいるので、少しでも心当たりがあればSNSへのつぶやきくらいの感覚でくださいまし(╹◡╹)


 買い物を無事に終わらせて、明日は買えなかった本を借りるために図書館に行ってみようと話してから一週間が経った。

 

 翌日に早めに起きて、さあ行こうと意気込んでいたら、すみれの足が筋肉痛が判明して延期になったため、一週間の間が空いてようやくの図書館デビュー。

 

 先週と同じ外行き用の洋服を着て、先週買ったキャスケット帽を頭に被って、すみれの準備は万端だ。天気がいいことと、ちょっとした屋上スペースがあることを調べたらしく、お弁当まで用意している気合いの入りようである。

 

 

 すみれからの無言の急かしにやられて急いで準備を済ませる。玄関に向かうと、待っていたすみれはしっかりとドアノブを掴んで、無造作に開けて出た。先週の、何とかギリギリ自分で出たのとは違って、当たり前のように、普通に家から出られるようになったのだ。もっと時間がかかるものだと思っていたので、拍子抜けしつつも少し嬉しい。

 

 

 前回とは打って変わって、お行儀よく助手席に座っているすみれを乗せて、特に何事も起こることなく図書館に着く。

 

 公園が隣接されていることもあってそこそこ車が止まってはいたものの、肝心の図書館はガラガラ。まあ、休日の昼前の図書館なんて、どこもそんなものだろう。一昔前までは勉強の場としても使われていたらしいが、消しカスや席の占領、ペンの音などが我慢できない大人が大量発生したとかで、今は自習スペースがべつに設けられているとか。

 

 そんな事情はさておき、すみれの読みたがっていた本だ。数冊あるうちの、ほとんどは一般書架にあったものの、一冊だけは職員しか出入りできない場所にあると言う。

 

 以前の買い物の時と同じようにすみれを連れて本棚を回り、職員の人に頼んで取ってきてもらったものを適当な席に運ぶ。なるべく人通りが少なくて、何冊かあるからそれを置ける机がある場所。

 

 壁際の、南側の窓前に良さそうな場所があったので、そこの端に席をとる。普段家から出ていないもやし育成なすみれに日光を当てることにもなり、一石二鳥である。

 

 

 僕自身は特に目的もなくやってきたため、早起きした分のんびりしていようと考えていたら、いつの間にか寝てしまっていたらしい。肩を叩かれる感覚で目を覚ます。

 

 本の続きか、別の物を読みたくなったのかと回らない頭で考え、それにしても叩くのは少しすみれらしくないなと、それとも揺すったくらいじゃ起きなかったのかと考えながら隣に座っているすみれを見て、困惑しつつ怯えているすみれの表情と、叩かれた位置が反対側だったことに気付く。

 

 

「あれ?こっちこっち、こっちですよー」

 

 

 頭の後ろ側から、聞こえてくる声。図書館だからだろう、少し控えめになっている、聞きなれた声。昔からの知り合いで、仕事上の後輩でもある、溝櫛(みぞくし)瑠璃華(るりか)のものだ。

 

 

「こんにちは、先輩。なんでこんなところで昼寝なんてしてるんですか?」

 

 

 

 振り向いて、挨拶される。はたから見たら僕の状態は、図書館に来ているのに本も読まずに昼寝をしているだけの奇人である。相手も、本も何も持たずにいるのでそこまで差は無いかもしれないが、まあ明らかに不審なのは僕の方だ。

 

 ちゃんと理由を話さなければ怪しまれるし、すみれの付き添いであることを伝えても、それはそれで怪しまれる。

 

 親戚の子供とはぐらかそうにも、家族とはほとんど縁が切れていることを知られているし、知人の子供と言おうにも、僕が休日に子供を預かるような深い関係の知人なんていないことも知られている。

 

 となると、必然的に素直に説明するしか無くなる訳だが、死にたがっている子供を一日500円で搾取しているなんて言ってしまおうものなら、旧知の仲とはいえ通報不可避だろう。死なせないようにしていると説明すれば致命傷ギリギリで済むかもしれないが、それをすみれの前で説明することも出来ない。

 

 

「うーん、なんか隠し事の匂いがしますねぇ……先輩、ちょっと外の食事処で話を聞かせてもらいましょうか」

 

 もちろん先輩の奢りで。ゴチになります!と、小声なのに元気一杯な溝櫛。その様子に、なにか思うところがあったのだろう、すみれが僕の服を掴む。

 

 

「おや?先輩、その子とお知り合いですか?」

 

 面倒なやつに見つかってしまったと、内心思う。隠し切ることも出来ないだろうし、全てを言うことも出来ない。

 

 

「ぉ、お兄さん、おべんとう、作ってきてます」

 

 

 どの辺まで話そうかと考えていると、後ろからすみれの言葉が飛んできた。それによって、すみれがなにか関係していると察したらしい溝櫛が、視線をそちらにやる。

 

 

 掴まれている服越しに、ビクリと震えた反応。力が少し強くなって、引っ張られる。

 

 そちらに回って、すみれをのぞき込む溝櫛。それに怯えて、僕の背中にくっつくすみれ。ふむふむいいながらさらにのぞき込む溝櫛。もっと脅えるすみれ。

 

 

 

 そんなことを何度かして、すっかり怯えきったすみれが完全に顔を隠したところでようやく、溝口は満足そうにそれをやめて、こちらを見ながらにんまりと笑う。

 

 

 

「先輩、今日この後説明するのと、明後日会社で聞かれるのだったら、どっちがいいですか?」

 

 

 選択肢など、ないようなものだ。一人に知られただけでこんなに困っているのに、人前で話せるわけがない。

 

 図書館の中でする話でもないからと、せめて場所を変えるように頼んで、すみれを連れて屋上へ行く。

 

 屋上は誰でも入れるようになっていて、近年流行りの屋上緑化がされていた。ベンチなどもあって、それなりに綺麗に手入れされているにもかかわらず誰もいないのは、すぐそこにそれなりの大きさの公園があるからだろうか。

 

 少し物悲しさを感じないでもないが、今からする話の内容を考えると、人がいないに越したことはない。なんなら、人が多かったら一度僕の自宅まで帰っていたくらいだ。

 

 

 

「ふむ……少し腑に落ちないところがいくつかありますが、まあいいでしょう。近頃先輩が調子よさそうにしているのとも相違ありませんし、嘘は言っていないようですね」

 

 

 すみれに確認をとった上で、すみれの境遇を簡単に伝えて、流れでうちに連れ込んで、家事をやって貰っていることを教えると、言外にまだ隠していることがあるだろう?と圧を掛けられつつ、一応は納得した様子を見せてくれた。

 

「とはいえ、先輩が子供を連れ込んでいるのかぁ。変なことしてませんか?大丈夫ですか?えーっと、すみれちゃん。逃げたくなったら警察に行くとかも出来ますし、なんなら同性だからウチに来てもいいですよ?」

 

 溝櫛がすみれに向かって声をかけるが、すみれは首を勢いよく横に振りながら僕の服を掴むことで拒絶の意を伝える。

 

「ありゃりゃ、振られちゃいましたか。まあ先輩のことですから、大丈夫だろうとは思ってましたが、それにしてもよく懐かれてるもんですねぇ」

 

 やる事やってたら通報してましたよと、小さいつぶやきが横から聞こえる。

 

 

「とりあえず状況としてはこんな感じなんだけど、疑いとか疑問とかはもういいかな?すみれが本を読んでいる途中だったんだ」

 

「えー、先輩露骨に冷たいじゃないですか。ちょっとは私にも構ってやってくださいよ。すみれちゃんが本読んでいる間は暇っ、……でも難しそうですねぇ……」

 

 ガッチリ服を握ったまま離さない、離れないすみれの様子と、先程の話からおおよその推測ができたらしい溝櫛が、途中で自己解決する。

 

 

「うーんでも、こんなことを知った上でただ帰るのもなぁ……。そうだ先輩!さっきすみれちゃんがお弁当って言ってましたよね?ちょっとでいいんで私にも味見くれませんか?」

 

 それに、先輩だけこんなかわいい子と一緒にランチなんてズルいです!と溝櫛は主張。カチカチに固まっていたすみれの様子を見て断ろうと思っていたが、かわいいと言われたタイミングで少し弛緩したため、意見を聞いてみる。

 

 

 

「えっと、あんまりないから、ちょっとだけなら」

 

 あと、お兄さんの話を聞かせてもらいたいですと付け加えるすみれ。

 

 正直意外どころではなく驚愕しているが、すみれが自分からいいと言ったからいいのだろう。僕が自分の判断でストップを入れても、すみれの考えを蔑ろにするだけだし、溝櫛も絶対に納得しない。

 

 

 にんまりと、僕にとっては嬉しくない笑顔をうかべる溝櫛。こいつがこんな顔をしている時は、大抵僕にとって都合の悪いことを考えているときだ。

 

 

 

「もちろんですよ。それじゃあ、すみれちゃん謹製のお弁当を見せてくれますか?」

 

 

 すみれの作ってくれた弁当を食べながら、僕の恥ずかしかったり恥ずかしくなかったりする過去が第三者経由で暴露される時間が、始まった。

 

 

 




ようやくの新キャラです(╹◡╹)


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図書館にて(裏1)

 足が筋肉痛になったせいで、まともに動けなかった日曜日と月曜日を、ペンギンみたいになりながら過ごしました。せっかく連れていってくれると言われた図書館が延期になってしまい、やるせない思いを家事にぶつけていましたが、気を取り直していつも通りのケセラセラです。最近、流れに任せていい結果に繋がることがとても多かったため、特にお気に入りな言葉です。

 

 家事を済ませ、勉強をして、空き時間にお裁縫で雑巾なんかを縫ってみます。ゆくゆくはかわいい小物なんかも作れるようになりたいですけれど、最初は実用性のあるもので練習です。

 色々作れるようになったら、なにかお兄さんがつけれるようなものを作れたらなあ、なんて、少し妄想に浸ったりもしてしまいます。

 

 

『すみれは教えたことをすぐに理解出来てえらいね。こんなになんでも出来るようになっちゃったら、お母さんが家でやることなんてなくなっちゃうかも』

 

 

 お母さんが丁寧に教えてくれたから、家でやることの基本的な部分はほぼ完璧に身についています。縫い物も編み物も掃除洗濯料理まで、こうして一人で家事を任されていても問題なく回せる程度には、習熟しています。

 

 数年間のブランクがあるのに、指摘をされない最低限以上のパフォーマンスが発揮できるのは、わたしのセンスもあるのかもなと、ひっそりと自画自賛します。

 

 

『おっそい!!!もっと速くうごけ!!』

 

 

 けれど、丁寧に真似をしているだけのわたしは、どうしてもお母さんみたいに素早い家事が出来ませんでした。

 

 わたしが一枚洗濯物を畳む間に、お母さんは3枚畳みます。わたしが人参を一本いちょう切りにしている間に、お母さんはそれ以外の野菜を全部切り終えてしまいます。

 

 一番最初にそれをやった時と比べれば、わずかに早くはなっているでしょうが、お母さんの速度の前ではそんなもの、誤差のようなものです。

 

 ただ丁寧なだけの、遅い仕事をします。ある程度使えば捨てることがわかっている雑巾を、縫い目の幅や糸を引く強さなんかを気にしながら、一針一針、ゆっくりと縫います。

 

 

 そんなふうに時間を使って、一週間の時間をかけて10枚程度の雑巾を縫い上げました。

 

 時間だけは必要以上にかけたものの、一枚一枚が渾身の出来です。縫幅から返し縫い、縫い方の選択、果ては元になったタオルの大きさなど、おおよそこだわれる場所には全てこだわりました。当然、雑巾を作る速度としては落第点だとは思いますが、仕上がりにだけは自信があります。わたしはもしかすると、職人的な仕事に適性があるのかもしれません。

 

 

 練習中の風景を見られるのが恥ずかしいので、お兄さんが帰ってきてからは使ったものを片付けて、図書館の予習をしたりします。

 

 どんな場所なのか、何が出来そうなのか、色々調べます。わたしの知っている図書館の情報なんてものは、所詮図書館を扱った本に乗っている程度のものですので、正しい知識が入ってきている確証がありません。

 

 

 連れていってもらう図書館を調べたところ、屋上にフリースペースがあることや、そこが飲食自由であることがわかったので、お兄さんに確認してお昼を食べる言質を取りました。

 

 

 お昼ご飯、お弁当は、何にするのがいいでしょうか。おにぎりやサンドイッチなどが無難だとは思いますが、もう少し凝ったかわいいものを作りたい思いもあります。

 入れ物がタッパーしかないので、蓋を開けたら綺麗なお弁当!というふうにもできませんし、悩ましいところです。もっとちゃんとしたお弁当箱さえ買っておけばと後悔しますが、今からどうにかしようにも手遅れです。次のお買い物の機会にはしっかり用意しておきましょう。

 

 

 ついでに、お兄さんのお弁当もつくらせて貰えたらいいのになぁと思ったりもしますが、突然お兄さんがお弁当を持っていき始めたら、一緒に働いている人は驚くでしょうし、お兄さんもその言い訳をしなくてはいけなくなります。

 

 

 お弁当内容を考えながら、それに合わせて使う食材を変えて、それまでのメニューも変えていき、なんとか調整します。当日の朝に全部用意することも難しかったため、時間がかかりそうなものは前日の夜に作っておき、朝は少し早く起きるだけで済ませます。

 

 

 お買い物の時以上に気合を入れて、朝から準備をして、支度を済ませて玄関で待ちます。お兄さんがわたしのために用意してくれたものに身を包んで、お兄さんがわたしを心配して買ってくれた帽子を被ります。

 室内で帽子をかぶるのはあまりよくないとわかってはいますが、これがあるだけで安心感が全然違うので、ついつい被ってしまいます。

 

 

 

 そのままお兄さんを待つこと少し。わたしが待っているからでしょうか、いつもよりも急いで準備を済ませてくれたお兄さんが、玄関に来てくれました。急かしてしまった申し訳なさと、急いでくれた嬉しさで、心がムズムズします。

 

 それを誤魔化すため、お兄さんに悟られないために、何気ない顔をして玄関から出ます。すぐに後を追ってお兄さんが出てきて、家の鍵を閉めました。

 

 

 周囲に人がいないため、車まではお兄さんの隣を歩きます。どこに車があるのかわからなかった前回とは違い、今は場所がわかっているため、お兄さんに案内してもらう必要がありません。

 

 周りをキョロキョロするのではなく、お兄さんの方をチラチラ見て歩きます。たまにお兄さんがこちらを見て、目が合いそうになったら逸らします。

 

 車に乗ってからも同様に。取り留めのない話もしていますので、間が持たなくなったりもしていないでしょう。車に乗ってからは、お兄さんの視線が基本的に運転に使われているため、より安心してチラチラできました。

 

 

 

 少し揺られて、図書館に着いたら、先程までの横に並んでいたのは終わりで、わたしの位置はお兄さんの斜め後ろになります。お兄さんの邪魔にならないように、左側の服の裾を握ります。

 

 何人か駐車場にも人がいましたし、図書館に入ってからも見かけましたが、皆さんそれぞれ自分の事をやっていましたし、お買い物の時とは違って喋り声や必要以上の物音なんかもありません。

 

 足音や本をめくる音、機械を操作する音くらいしか聞こえるもののない環境は、初めてのものですし新鮮ですが、どこか落ち着くものでした。

 

 ここなら、一人で来たとしても何とか過ごせるかなと思いながら、お兄さんに教えて貰って読みたい本を探します。職員の方に取ってきてもらわなくてはならないもの以外は、区画整理されている通りに探しながら、本棚まで行って自分で見つけました。

 

 

 自分でできてえらいねと、ポンポンと頭を撫でるお兄さんの、優しさに溢れた視線がどこか恥ずかしくて、目を逸らしてしまいます。でも、少し嬉しくもあります。

 

 

 恥ずかしいから嫌なはずなのに、もっとして欲しいという矛盾した気持ちになりながら、お兄さんに案内してもらって席に着きました。少し冷え込む外とは違い、暖かな部屋の中から感じる、ポカポカとした日差しを感じれる場所です。

 

 図書館の横にある公園の様子が、僅かに見え、建物に出入りしている人がはっきり見えます。人が歩いているのを見ると少し身がすくんでしまいますが、ガラス越しだということもあり、すれ違ったりするのと比べると全然怖くありません。

 

 お兄さんは、そんなわたしの苦手の克服のためにもここを選んでくれたのかな、などと思いながら、お兄さんが運ぶのを手伝ってくれた本を机に置き、どれから読み始めるか悩みます。

 

 

 元々買おうと思っていた、少し古い小説にしましょうか。それとも、新しい料理を知るために、レシピ本を読んでみましょうか。雑談のネタを増やすために、雑学の本を読むのもいいですし、以前のドアインザフェイスは失敗してしまいましたが心理学の本を読んでもいいかもしれません。

 

 悩みに悩んで、悩みすぎて時間を無駄にしていることに気付いたので、一番手前にあった、小説を読んでみます。

 

 お兄さんが昔読んで面白かったと言っていた小説で、映画かもされている作品らしいです。海外の方が書かれているもので、小中学生でも読めるものだと言っていました。

 

 

 読み始めて、30分ほどだった頃でしょうか、隣でぼーっとしていて、眠そうにしていたお兄さんがこっくりこっくりと頭を降って、首をカクンと垂らして眠ってしまいました。休みの日の朝から起きてもらって、眠りが足りなかったのでしょうか。

 

 申し訳なさを感じるのとともに、お兄さんが寝ているところを見れてラッキーだと思ってしまいました。部屋のベッドで眠っている姿は、わたしの方がお兄さんよりも早く起きているため、よく見ることが出来ますが、それ以外の場所でとなると初めてのことです。

 

 嬉しく思ってしまった、悪い子な心のままに、いつもとは違うお兄さんの寝顔を写真にとって見たいと思いましたが、生憎なことに図書館での写真の撮影は禁止されています。

 

 仕方が無いので諦めて、お兄さんの寝顔を眺めるだけに留め、少ししたら小説の方に戻ります。年代問わず人気があると言うだけあって、かなり面白いです。

 

 

 

 そのまま一時間半ほどたった頃でしょうか、本を読む視界の端、図書館の建物への出入口の前で、突然足を止めた人がいたので、気になって顔を上げます。すらっとした女性が、不思議そうな顔をしながらこちらを見ていました。

 

 一瞬、わたしが見られているのかと思い、少し怖く思いましたが、それにしては少し視線が逸れているようにも思います。

 

 

 女性は、少しすると何も無かったように歩き始めました。あまりこちらがみていると不快な思いをさせてしまうかもしれないから、意図的にそらした視界の片隅で、建物に入っていく後ろ姿が見えます。

 

 

 なんだったのだろうと疑問に思いつつ、意識を小説の方に戻します。少々気にはなりますが、きっとわたしに関係する相手ではないだろうと、たかを括ります。わたしの知り合いなんて、お兄さんとお母さんの二人しかいないのです。関係のある可能性なんてほとんどありません。

 

 

 

 そう思っていたのに、少ししてから近付いて来た足音は、わたしの近くで止まりました。何故か気になったので振り返って見てみると、先程の女の人がお兄さんを挟んだ反対側にいます。

 

 

 女性が、お兄さんの方を叩きました。叩くと言っても乱暴なものではなく、起こそうとしての動作であることが見て取れます。

 

 

 先程見ていたのは、お兄さんだったのでしょう。知らない人を見かけて止まる人も、知らない人を見つけて、突然寝ているのを起こす人も、おそらくはいません。ということは、この人はお兄さんの知り合いの方、それも、休日に姿を見かけて声をかける程度には親交がある方、ということになります。

 

 

 ぞわりと、恐怖が走りました。お兄さんがこの方と知り合いなら、わたしの存在はバレたくないはずです。当然、知らないふりをするでしょう。

 

 そして、お兄さんが起きたら、この人と話をすると思います。少なくとも、こんにちはと言って去っていくのであれば、わざわざ起こす必要もありません。

 

 そうなれば、お兄さんは自然と、少なくとも一時的にはここを離れることになると思います。その時、わたしは置いていかれます。

 

 置いていかれたら、わたしはもうどうしようもありません。だって、何とか1人でも過ごせるかと思ったこの図書館とはいえ、それはいつでもお兄さんに会えるとわかっているからです。

 

 一人で本を探すくらいであれば問題がなかったとしても、いつまでかもわからない中で、ひとりで待っていることなんてできるわけがありません。

 

 しかも、家で待っているのとは違って、ここに置いていかれてしまえば、もうお兄さんに会える保証がないんです。

 

 

 

 それがこわくて、こわくて。起きたお兄さんと楽しそうに話す女性の顔を見ながら、わたしは血の気が引くのを感じました。

 



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図書館にて(裏2)

 わたしの位置からはお兄さんの顔は見えませんが、話し方や声のトーンからは、お兄さんがこの女性を嫌っている様子も見られませんでした。話している女性が、嫌われながら笑顔で話しかけるような人でない限り、その見立て自体には間違いは無いと思います。

 

 

 話している内容自体は、ほとんど入ってきません。わたしの中には、お兄さんがわたしを捨ててしまったらという考えがぐるぐるぐるぐる回っているので、そんなことにまでは意識が向かないのです。その内容こそ、大切なものだと頭でわかってはいても、できないものはできません。

 

 

 

『お前のせいで人付き合いに影響があるんだ。お前がいなければもっと普通の生活ができたんだ』

 

 

 わたしのせいで、お兄さんに迷惑をかけるのは、悪いことです。お兄さんにちょっとわがままを言うくらいの迷惑であれば、まだお兄さんの優しさだけで何とかなってしまいますが、他の人が関わってくるようになってしまうと、そうもいきません。

 

 だって、それはお兄さんの人生に関わってきてしまうからです。わたしは、わたしのような存在が、周囲からどのように見られるのか、それを匿うことが、どのように思われることなのか、ある程度調べた上で今こうしています。そうじゃなければ、お買い物で姿を見られることが、お兄さんにとってマイナスになりうるなんてことは想像できません。

 

 

 だから、今までのものくらいの迷惑であればまだしも、 お兄さんの人間関係なんかに影響を与えるような迷惑は、絶対だめなんです。そこを踏み越えてしまえば、まず間違いなくお兄さんはわたしのことを見限ってしまうでしょう。

 

 

 

「うーん、なんか隠し事の匂いがしますねぇ……先輩、ちょっと外の食事処で話を聞かせてもらいましょうか」

 

 

 だから、その言葉を聞いた時に、ついお兄さんの服の裾を掴んでしまったのは、全くもって本意ではありませんでした。ただ、恐れに掻き立てられて、少しでも安心できるものが欲しくてすがってしまっただけなんです。

 

 そうしたら、お兄さんがわたしのことを気にかけて、どうにかしてくれるんじゃないかなんて希望が、少しもなかったと言えば嘘になりますが、わたし自身、こんなことをするつもりはなかったのです。

 

 

「おや?先輩、その子とお知り合いですか?」

 

 

 そうは言っても、見られてしまって、そう追求されてしまった以上、お兄さんにとって私は、余計なことをして疑念を確信に近付けてしまった無能に他なりません。

 

 わたしが何もしなければ、お兄さんが何とか上手いこと言いくるめて回避出来ていたかもしれない面倒事が、間違いなく襲いかかってきます。

 

 

 お兄さんの安全や、安定を考えるのであれば、まず間違いなくわたしの掴んだ手は振り払われるべきで、そのうえでお兄さんはわたしを気味悪がり、女性の誘いに乗る素振りを見せるでしょう。

 

 それ以外に、お兄さんが危険を負わずにこの状態を乗り越える様子が想像できません。そうなれば、わたしは本格的に、お兄さんに捨てられてしまうでしょう。

 

 

 もう、こうなったらやけっぱちです。せいぜい、わたしがお兄さんに突然絡み出した不審者に見えるように、言葉を考えます。

 

 なるべく支離滅裂で、突拍子もなくて、周囲から見た時に虚言だと思われやすい言葉。お兄さんが被害者で、わたしが妄想癖のある人間だと思われる内容なら、なおよしです。

 

 

「ぉ、お兄さん、おべんとう、作ってきてます」

 

 出てきてしまったのは、こんな言葉。本当なら言おうとしていた言葉は、“わたしの作ったお弁当しか食べないって言ったのに!!そんなにほかの女の作ったご飯が食べたいの!?!?”でしたが、いざ言おうと女の人の顔を見たら、内容が全て飛んでしまってそんな言葉になってしまいました。

 

 さすがにここまで言ったら、わたしが奇人として見られるだろうし、お兄さんにも見捨てて欲しいという意図が伝わると思っての言葉でしたが、上手くいえなかったせいで、より状況を悪くしたように思えます。いえ、思える、というレベルではなく、実際に悪くしているのでしょう。

 

 

 ここから本来の意図がつたわり、お兄さんが最適な対応を取ってくれたうえで、わたしを見捨てなかったとしても、かなり白い目で見られるであろう事実に、少しだけ心が痛みます。待っているであろう一人ぼっちの時間と、その間の不安感を予想して、体がもっとこわばり、震えます。

 

 

 

 お兄さんがわたしを一度無視するだろうという、わたしの予想あるいは思惑に反して、お兄さんはわたしの言葉を否定しませんでした。そのままの意味でとったら、わたしがお兄さんのお昼ご飯をお弁当として用意していると捉えられてしまうのに、お兄さんはそのことを否定しません。

 

 

 何も会話がない中で、女性がわたしのことを覗き込みます。お兄さんが否定しないから、まるでわたしの言葉が本当だったみたいな空気の中で、女性がわたしのことを覗き込みます。

 

 

 見られることの恐怖と、見透かされるような気恥ずかしさに、お兄さんの背中に隠れました。お兄さんの背中に隠れる資格がないと言われてしまえばそれまでですが、わたしの心境としては、そうしてしまうのも仕方の無いことのように思えます。

 

 なんなら、わたしがつい口走ってしまった言葉も、それ自体が間違いという訳では無いので、わたしが考慮するべきところは限られています。

 

 

 

 

 そんな言い訳はともかくとして、女性はわたしの顔をのぞき込みました。わたしがお兄さんの服に顔を隠しても、それでもより深く覗き込んできます。わたしが顔を隠して、お兄さんの背中に埋めても、それでもなお覗き込んできます。

 

 

「先輩、今日この後説明するのと、明後日会社で聞かれるのだったら、どっちがいいですか?」

 

 

 女性のそんな言葉が聞こえました。続いて、お兄さんのため息も聞こえます。

 

 ごめんなさい、わたしが本を読みたいなんて言ったから、わたしが先週筋肉痛になってしまったから、こんなことになってしまっています。わたしが我慢できる子なら、お兄さんは知らない人の振りを出来ました。

 

 そう謝ろうとして、謝りたくて、口を開きましたが、こわくて、何も出てきませんでした。

 

 

 謝りたくて、謝れなくて、お兄さんの後ろを着いていきます。

 

 着いた場所は、図書館のホームページを見て、ここでお昼を食べたいなと思っていた屋上でした。よく晴れていて、風も強くないのでお弁当を食べるには最適な場所でしたが、この場所に決めた時のウキウキ感は今のわたしにはありません。

 

 

 空いているベンチに、お兄さんを真ん中にして3人で座ります。とりあえず自己紹介はしようという女性に流されて、会話をします。

 

 自己紹介の内容は、簡単なものです。女の人の名前が、瑠璃華さんだということ、お兄さんとは昔からの知り合いで、今は会社の後輩だということ。

 

 それを受けてわたしが返せたのは、自分の名前だけでした。ちゃんと、お兄さんにお世話になっていることなんかも言おうとは思いましたが、緊張して言葉が出てきません。

 

 

「……ちょっと事情があって、うちで面倒を見ているんだ。すみれちゃん、話しても大丈夫かな?」

 

 

 そのことを察してくれたのか、お兄さんが言葉を引き継いで説明を始めてくれます。緊張しちゃってどうしようもないわたしは、全部お兄さんに任せてしまいます。

 

 

 お兄さんが話しているのを横で聞き、たまに本当かと聞かれるのに対して首肯を返したりしているうちに、ようやく少し落ち着いて、自分のやってしまったことを反省します。特に、言おうと思っていたものと出てきたものが全然違ってしまったのは、直さなくてはいけません。

 

 あるかもわからない今後の反省をしつつ、瑠璃華さんに知られてしまったことで、これからどうなるのかが心配になります。瑠璃華さんが大事にしてしまえば、まず間違いなくこれまでの生活は消えてしまうでしょうから、機嫌を損ねる訳にもいきません。

 

 既に少し手遅れな気もしますが、まだ何とか巻き返しが出来るかもしれないのです。瑠璃華さんがお兄さんに対してフランクなことを考えれば、積極的にお兄さんの迷惑になる行動は取らないように思えます。そうであれば、最悪でもわたしが追い出される程度でしょうか。

 

 

 お兄さんの人生をめちゃくちゃにしてしまうのは、わたしの望むところではないので、そこだけは良かったと言っていいのかもしれません。

 

 

 

 

「とはいえ、先輩が子供を連れ込んでいるのかぁ。変なことしてませんか?大丈夫ですか?えーっと、すみれちゃん。逃げたくなったら警察に行くとかも出来ますし、なんなら同性だからウチに来てもいいですよ?」

 

 

 

 できれば、お兄さんと一緒にいられる生活が続けばいいなと考えているうちに、お話は終わったようです。少し思うところがありそうな瑠璃華さんが、お兄さんをからかうように言って、わたしに問いかけてきます。

 

 この様子を見ると、瑠璃華さんがわたしに対してマイナスの印象を持ってはいないように思えます。また、社交辞令の可能性も高いですが、どちらかと言うと好意的なようにも感じます。

 

 

 とはいえ、ほとんど知らない人に、自分の家で暮らさないかと言われても困ってしまうので、首を横に振ってお断りしておきます。

 

 

「ありゃりゃ、振られちゃいましたか。まあ先輩のことですから、大丈夫だろうとは思ってましたが、それにしてもよく懐かれてるもんですねぇ」

 

 

 断ったことで気を悪くされないか、少し心配もありましたが、そんなことは無かったようで、瑠璃華さんは微笑ましそうにわたしを見ていました。

 

 会話の雰囲気も、どこか和やかなものになってきましたので、わたしが家を追い出されるということにはならなさそうです。

 

 お兄さんが瑠璃華さんと楽しそうに話していることに、何故か寂しさを感じましたが、そんなふうに感じてしまうのはわたしが悪い子だからでしょうか。人が仲良くしているのを見て、やな気持ちになるなんて、悪い子どころか酷い子な気もします。

 

 

 

「うーんでも、こんなことを知った上でただ帰るのもなぁ……。そうだ先輩!さっきすみれちゃんがお弁当って言ってましたよね?ちょっとでいいんで私にも味見くれませんか?」

 

 

 変なもやもやを抱えながら、お兄さんの服を握ります。そうしていると、さっきまで二人で話していた瑠璃華さんが、半分こちらを見ながらそんなことを言いました。

 

 考えてみますが、お兄さん以外の人がいる中で、普通にご飯を食べれる気がしません。それに、お兄さんは美味しいと言って食べてくれていますが、それがお世辞だったら、瑠璃華さんに不味いと言われたらと考えると、どうしても乗り気になれません。

 

 

「私だって、家で適当な余り物食べるんじゃなくて、すみれちゃんみたいなかわいい子が作ってくれたご飯食べたいんですよ!私にも少女とのランチタイムを!!」

 

 

 そんなわたしの気持ちを察したのでしょうか、それともお兄さんが断りそうだったのでしょうか、瑠璃華さんがさらに言葉を重ねます。

 

 ほかの食べ物じゃなくて、わたしの作ったものがいいと言われたのが嬉しくて、かわいいと褒められたのが照れくさくて、少しは頬が緩んでしまったのを感じます。

 

 たぶんお世辞だとは思いますが、そう言われる経験が無かったわたしにとっては、ポカポカしてしまうものでした。

 

 

「……って言ってるけど、すみれちゃんはどうかな?僕としては断った方がいいと思うんだけど」

 

 

 お兄さんがわたしの意見を聞いてくれました。わたしも最初は断ろうと思っていましたが、なんというか、ポカポカしているので今なら話せそうな気になってしまいます。

 

 

「えっと、あんまりないから、ちょっとだけなら」

 

 お兄さんの気遣いを無視して、お兄さんがよくないと思った方を選ぶなんて、わたしは悪い子です。けれど、瑠璃華さんと上手にお話出来れば、瑠璃華さんに好かれれば、より安心してお兄さんの元で暮らせると思ったので、そちらを選びます。

 

 

「もちろんですよ。それじゃあ、すみれちゃん謹製のお弁当を見せてくれますか?」

 

 

 ついでに、お兄さんの話なんかを聞ければ、お兄さんの生活に食い込む上で、なにか役に立つかもしれません。そんな気持ちで、お兄さんの話を聞きたいと言うと、瑠璃華さんはとっても素敵な笑顔を浮かべました。

 

 肩から提げていたバッグから、タッパーを出します。中身はサンドイッチをメインに、いくつかの小さなおかずが入っています。お兄さんも瑠璃華さんも、それを見て褒めてくれます。頑張ったかいがありました。

 

 

 場所がなかったため、お兄さんの膝の上にタッパーを置かせてもらって、3人で食べます。ちょっとだけなら、と言いはしましたが、余った分は後日私のお昼ご飯にすればいいと思って多めに作っていたため、軽い昼食程度にはなるのではないでしょうか。

 

 

 美味しいと言われながら食べてもらって、工夫したところを話して褒めてもらって、お兄さんの好きなメニューの話なんかも教えて貰って。最初の緊張がなんだったのかと言うくらい、瑠璃華さんとは楽しくお話が出来ました。

 

 

 食後にはお兄さんの昔のことも色々教えて貰って、男の人には相談しにくいこともあるだろうからと連絡先まで教えてくれます。

 

 

「すみれちゃんはかわいいから、何時でも何でも相談してくれていいですからね」

 

 

 あんまり構ってくれないと、先輩の家まで押しかけちゃいますから。と、瑠璃華さんはわたしが気に病まないように気を使ってくれます。何も連絡しなかったら、本当に来ちゃいそうだなと、少し思ってしまったのは内緒です。



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閑話 昔昔の誕生日(after)

すみれちゃんネグレクト開始から一年経ってないくらいの頃の話です。

 afterとありますがbeforeは次の話になります。


 

 

 お母さんが厳しい表情をすることが多くなって、お母さんがわたしをよく怒るようになって、しばらくが経ちました。

 

 わたしの顔を見るのが嫌になったらしくて、わたしの居場所はいつの間にか押し入れの中になっていました。お母さんが買ってくれたものも、少しずつ無くなっていって、今では以前の半分ほどになってしまいました。

 

 

 何が原因なのかは、わかりません。ただ、何が原因があるのは確かだと思います。

 

 だって、お母さんはすごく優しい人なんです。理由もなく怒る人ではありませんし、八つ当たりをするような人でもありません。

 

 

 いつもお仕事を頑張っていて、わたしを育ててくれています。辛いことがあっても、わたしの前では笑顔でいてくれました。泣いていても、わたしが起きたらすぐに笑顔を浮かべてくれました。

 

 そんなお母さんが、怒っているのです。きっと、わたしがなにかしてしまったのだと思います。何をしてしまったのかはわからないけど、謝りたいです。ごめんなさいと言って、怒ってる理由を教えてもらって、直したいです。

 

 

 けれど、この間聞いた時には、お母さんは怒っていないと言って、怒りました。たぶん、なにか辛いことが重なっていたのだと思います。優しいお母さんが怒ってしまうだけの何かがあったのだと思います。

 

 

 

 考えて、考えて、考えます。お母さんに怒っている理由を聞くためには、お母さんが怒っていない状態を作るしかありません。そのためには、お母さんが笑顔でいてくれるための何かが必要になります。

 

 

 考えます。お母さんが笑顔になるもの。たとえ少し怒っていたとしても、思わず笑顔になってしまうようなもの。

 

 考えて、考えて、視界の隅に図鑑が映ります。美しい海の生き物図鑑、わたしの大好きな図鑑で、かなり前にお母さんからプレゼントしてもらったものです。

 

 

 いつもいい子だから、頑張っているからご褒美だよと、本屋さんの包みを渡してくれたこと。その時の嬉しさと、頭を撫でられた安心感を思い出します。

 

 あんな嬉しさがあれば、お母さんも笑顔になってくれると、確信がありました。そのためには、なにかプレゼントを送らなくてはなりません。

 

 

 

 考えます。わたしがお母さんに渡せるプレゼント。お母さんみたいに、外で買ってくることはできません。沢山ものを持っている訳でもないので、あるものの中からどうにか見繕わなくてはなりません。

 

 考えます。わたしが持っているものをそのままプレゼントしても、きっとお母さんは喜んではくれません。だって、わたしが持っているものは全部お母さんに貰ったものなのですから。それを渡しても、ただ返しただけになってしまいます。

 

 

 

 考えます。それなら、お母さんがくれたものから、なにか新しいものを作れれば、素敵なプレゼントになるかもしれません。幸いなことに、わたしは手先が器用だと褒められたことがあります。

 

 

 何なら作れるか、考えます。できれば長く使えるもので、普段の生活の中で使えるもので、身につけられるものがいいです。

 

 ちょっとしたアクセサリーを作るのがいいでしょう?

 いえ、普段お母さんが着けているものと系統が合わなかったり、素材の質が違ったりすると違和感の元になります。

 

 

 髪留めなんかはいかがでしょうか?

 いえ、お母さんの裁縫道具を勝手に借りるのは気が引けますし、そもそも良さそうな生地に心当たりがありません。

 

 

 であれば、手袋はどうでしょう?

 いいかもしれません。昔お母さんに編んでもらった、小さくなって着るのが大変になってきたセーターがあります。あれを解けば、作ることは出来そうです。

 けれど、手袋ともなればサイズが大切です。どんなに素敵なものが出来ても、入らなかったりブカブカだったりしたら、使えません。どうせならお母さんにはピッタリのものを作ってあげたいので、手のサイズがわからないのは致命的です。

 

 最後にお母さんの手に触れたのが、しばらく前のことでなければ、記憶の中の手の大きさから推測できたとも思いますが、ないものねだりをしても仕方がありません。候補の一つとして、ほかのものを考えます。

 

 

 編み物つながりで、マフラーはどうでしょうか?

 かなりいいと思います。手袋同様、作ることは出来そうですし、サイズなんかもありません。防寒着として首に巻いて歩くのも、そこまで異質に見えることは無いでしょう。ある程度の長さがあれば使える上に、外だけではなく家の中でつけることもできます。

 

 ひょっとして、完璧なのではないでしょうか。自分の発想を自画自賛しながら、具体的なものを考えます。シンプルな編み方もいいですが、少し寂しい気もします。ワッフル編みなどもいいかもしれませんが……やはり一番はアラン編みでは無いでしょうか。

 

 いくつか種類のある編み方で、独特の華やかさ、とでも言うべきものがあると思います。その中でも、お母さんに送るのにふさわしい模様、アランハニーカムなどがいいのではないでしょうか。労働への対価という意味があるので、いつも頑張ってくれているお母さんにはピッタリだと思います。

 

 

 編み方を決めたら、あとは時間をかけて編むだけです。不幸中の幸いと言うべきか、何もするなと言われているため、時間だけは沢山あります。プレゼントはサプライズで渡したいから、お母さんに隠れて何日も何日も編み続けて、お母さんの誕生日の一週間前に出来上がります。サプライズプレゼントにはピッタリのタイミングではないでしょうか。

 

 

 

 お母さんの誕生日とわたしの誕生日が一緒だから、これまでの誕生日はほとんどわたしが祝ってもらっていました。お母さんも誕生日なのに、わたしが食べたいものを作ってくれて、わたしが喜ぶプレゼントをくれて、わたしのために用意してくれていました。

 

 

 でも、今年は逆です。お母さんに怒っている理由を聞いて、仲直りするために、わたしがたくさんお母さんをおもてなしします。ご飯は勝手に作るなと言われてしまっているので、渡せるものはプレゼントとありがとうの気持ちくらいです。

 

 でも、それでもきっと伝わってくれるから。喜んでくれるから。プレゼントのマフラーを丁寧に畳んで、用意します。去年使った飾りがしまってある箱を引っ張り出して、部屋を綺麗に飾ります。お誕生日らしくなった部屋に満足して、後はお母さんが発揮できるのは、帰ってくるのを待つのみです。

 

 

 これならきっと喜んでくれるはずだと自信を持って、お母さんが帰ってくるのを待ちます。きっと今日も疲れて帰ってくるお母さんを笑顔で迎えようと、待ち続けること数時間。いつもならとっくに帰ってきている時間なのに、帰りが遅いのはそれだけお仕事を頑張っているからでしょう。

 

 だいぶお腹も空いてきましたが、我慢します。きっとお母さんも、お腹を空かせながら頑張っているのです。わたしだけが辛いとわがままを言うわけにもいきません。

 

 

 まだかな、まだかなと、サプライズへの楽しみ半分、ご飯への渇望半分でお母さんを待ちます。もう、いつ帰ってきてもおかしくありません。

 

 リビングのソファに座って待ちます。ここしばらくは待つ場所と言えば押し入れの中でしたが、お母さんをお出迎えするためには、こっちで待っていた方が便利です。

 

 

 待ち続けて、真っ暗になりました。お母さんが居ない時は電気をつけてはいけないので、真っ暗です。カーテンもかかっているので、外の明かりが差し込むこともありません。家電の、小さな明かりだけがわたしの光源です。

 

 暗いところでも見れるようにと、少し特別な塗料が塗られているらしい時計を見て、時間を知ります。時計以外、まともに見れるものがないから、時間を見るだけで待ち続けます。

 

 

 9時をすぎ、10時になり、11時が近付いて来ます。今まででいちばん遅い時間で、お母さんに何かあったのかと心配になりますが、わたしには待つしかできません。

 

 

 

 ガチャりと、玄関が開く音が聞こえました。飛び出して玄関でお出迎えしたいのを必死に耐えて、ソファで待ちます。玄関を開けた時に、他の人が偶然部屋の中をのぞきこんでしまったら、わたしの存在がバレてしまうからです。

 

 だから我慢して、玄関の電気が点いて、扉がしっかり閉まるのを待ちます。そこまで待って、お母さんの元に行きます。

 

 

「お母さん、おかえりなさいっ!!」

 

 

 笑顔でいた方がかわいいとお母さんは言ってくれました。笑顔でいるのを見て、嫌な気持ちになることなんてないと言ってくれました。

 

 だから、お母さんをお出迎えする時は、嬉しいこととか楽しみなことを考えながら、笑顔で迎えます。きっと、わたしのサプライズに喜んでくれるだろうと、いっぱいの笑顔を浮かべます。

 

 

「……チッ」

 

 

 壁に手を付きながら、靴を脱いでいるお母さんは、眠たそうな目をわたしに向けると、舌打ちをします。

 

 手に持ったままの荷物が、靴を脱ぐのに邪魔そうだから、一度受け取ろうとします。

 

 

「大事なものが入ってるんだから触らないでっ!」

 

 受け取ろうとした荷物は、引っ込められてしまいました。わたしが無理に受け取ろうとしたせいです。

 

 チクリと胸が痛みます。けれど、今日はお母さんに笑顔になって欲しいから、わたしは笑顔を崩しません。

 

「……っ、あのね、お母さん。今日はお母さんの誕生日でしょ、だからわたし、頑張って準備したの!」

 

 お母さんがちょっと怒っていても、きっとわたしが頑張ったのを見てくれれば、わかってくれるはずです。褒めてくれるはずです。

 

 だから見てほしいと、部屋の電気をつけます。

 

 部屋の飾りは、これまで毎年少しずつ増やしてきた、誕生日の時の大事な飾りです。一回しか使わないで捨てちゃうのがもったいないからと、わたしがわがままを言ってずっと残してきて、少しずつ豪華にしてきた、これまでの誕生日の歴史です。

 

 

 去年までは、高いところの飾りはお母さんにやってもらっていましたが、今年は一人で頑張りました。これを見たら、絶対喜んでくれるはずなんです。

 

 ちょっと悲しくて泣きそうなのを我慢しながら、お母さんに部屋を見せます。きっと褒めてくれる。そう思っていたのに、部屋の中を見てもお母さんは何も言ってくれません。

 

 

「……おかあ、さん?」

 

 

 ギュッと強く握られた手が、震えています。なにかに耐えるように、お母さんはじっと動かなくなってしまいます。

 

「おかあさん、おかあさん」

 

 わたし、頑張ったんですよ?高いところも椅子に乗って飾ったんです。壁に画鋲はダメって言われてたから、跡がつきにくいマスキングテープで止めたんです。なんで、褒めてくれないんですか?

 

 

 お母さんの腕に触って、お母さんを呼びます。呼んで、呼んで、呼んで、不意に力が抜けたお母さんの腕に押されて、転んでしまいます。床に並べた折り紙の飾りが、テッシュで作ったお花が、わたしの下敷きになって潰れます。

 

 

「……また余計な手間をかけさせて」

 

 お母さんは、喜んでくれませんでした。褒めてもくれませんでした。ただ、心底不快そうにわたしを見て、大きなビニール袋にわたしの飾った飾りを入れていきます。

 

 

 なんで、輪飾りを引きちぎるのでしょうか。なんで、紙風船を割るのでしょうか。なんで、一緒に作ってくれた飾りを、足で蹴りながら集めるのでしょうか。なんで、袋に入らないからと押しつぶすのでしょうか。

 

 

「邪魔だから押し入れに戻ってなさい」

 

 

 なんで、笑ってくれないのでしょうか。

 

 

 

 頭が真っ白になります。お母さんと一緒に作った、誕生日の思い出を壊されているのに、お母さんを止めることすらできません。お母さんと仲直りがしたいだけなのに、前みたいに優しくして欲しいだけなのに、余計にお母さんを怒らせてしまいました。

 

 

「はやくっ!!!」

 

 

 怒鳴られて、逃げます。こわくて、どうすればいいのかわからなくて、押し入れの中に逃げます。押し入れに入れば、お母さんに怒られることはありません。優しくしてもらうことも、褒めてもらえることもないけど、怒られることもありません。

 

 

 だから逃げて、なんで怒られてしまったのかを考えます。お誕生日の飾りが壊れたことを泣くよりも先に、お母さんに謝るために理由を考えます。

 

 

 お母さんがいない間に、部屋の中で過ごしていたことでしょうか。

 お母さんがいない間に、部屋の中を好き勝手していたことでしょうか。

 お母さんが帰ってくるまでに、押し入れに入っていなかったことでしょうか。

 お母さんの帰りを、ずっと待っていたことでしょうか。

 嫌だと言われていたのに、帰ってきたお母さんの前に顔を見せたことでしょうか。

 頼まれてもいないのに、お母さんの荷物に触ろうとしたことでしょうか。

 お母さんが頑張って働いていた間に、のうのうと過ごしていたことでしょうか。

 怒りを我慢しているお母さんに、しつこく話しかけ続けたことでしょうか。

 

 

 わたしが、お母さんの言うことを聞けない悪い子だからでしょうか。

 

 

 

 

 

 謝りたいと、思います。謝らなくてはいけないと思います。お母さんの意志を無視して、勝手に誕生日のサプライズなんて考えるべきではありませんでした。やりたいことがあるなら、まず最初にお母さんに相談するべきでした。

 

 

 一人でなにかと頭を回して解決しようとするのではなく、お母さんと仲直りしたいことを言う席でした。

 

 音を立てないように、ペちりと両の頬を叩いて気合を入れます。ちゃんとお母さんに、ごめんなさいを言って、怒っている理由を聞いて、いつもありがとうと、お誕生日おめでとうの気持ちを込めてマフラーを渡します。

 

 

 そう心に決めて、綺麗に畳み直したマフラーを抱いて、押し入れから出ます。わたしが長々と考えていたこともあって、もうお母さんはとっくに片付けを終わらせていて、誕生日の飾りは全部袋の中に詰められています。今日はお外でご飯を食べてきたのでしょうか、普段であれば料理をしていますが、コップの中の水だけを飲んでいます。

 

 

「……なに?」

 

 

 やっぱり、不機嫌なままです。でも、わたしは頑張ります。お母さんの機嫌だけで怯えたりせず、言いたいことを伝えます。

 

 

 ごめんなさいと、なんで怒っているのかと、ありがとうと、おめでとう。何度かつっかえながらも、全部伝えて、お母さんにマフラーを渡します。

 

 

 

「……チッ、ハァ」

 

 受け取ってくれて、広げてくれました。大切なお母さんへの、感謝の気持ちを込めたマフラーです。お母さんはそれを少し見ると、丸めてゴミ箱に投げます。

 

 

「ごめんなさいって言うくらいなら最初から何もするな」

 

「なんで怒ってるのかって?お前を見ているとムカつくからだよ」

 

「ありがとう?知らない間に皮肉まで覚えちゃってまあ、ウザったい」

 

「それで、おめでとうだって?あんな古くてボロボロなもの、貰ったところで喜ばれるとでも思ってるの?それとも私にはボロ着がお似合いだとでも言いたいわけ?」

 

 

 

 

 あたまが、とまります。なにもかんがえられなくなって、なにもわかんなくなって、きがついたら、おしいれのなかにいます。

 

 

 

 

 かなしいのでしょうか、くやしいのでしょうか、むなしいのでしょうか、おこっているのでしょうか。なぜだかわからないけど、むねがはりさけそうです。なみだがとまらなくて、とまらなくて、ひっしにこえをころします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気がつくと、朝になっていました。せめて、変わってしまったけどお母さんに貰ったものを取り戻したいとゴミ箱を覗くと、空になっていました。

 

 わたしの作ったマフラーは、誰にも着けられることなく、どこかに無くなってしまいました。



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閑話 むかしむかしの誕生日(before)

 ネグレクト開始前最後のお誕生日です。

 味変にどうぞ


「すみれ、もうすぐお誕生日だけど、今年は何が食べたいかな?」

 

 今年の誕生日の2週間前、夕飯の席で、向かい合ってご飯を食べているお母さんが、わたしにそんなことを聞きました。

 

 食べ物を食べている時に食べたいものの話をされて、反射的に今食べているものの名前を言いそうになりましたが、一度口の中のものと一緒にしっかり咀嚼して、考えてみます。

 

 

 

「食べたいものって突然言われても、そんなすぐに思い浮かばないよ。うーん……あ!オムライス食べたいかも!」

 

 

 飲み込んで、考えてみて、出てきたものはそれでした。半熟のトロトロふわふわのやつが食べたいです。自分でも作れなくはないけれど、お母さんが焼くとびっくりするくらい上手に作ってくれるので、まだまだ敵いません。

 

 デミグラスソースもいいけど、やっぱりシンプルなケチャップも捨て難いです。

 

 

「うーん、そういうのじゃなくて、もっとお祝いっぽさがあるものなんだけど、ないかな?」

 

 そうは言われてももう口の中がオムライスになっちゃったしなぁと思っていると、その事が伝わったのでしょうか。オムライスは明日食べようねとお母さんは言ってくれました。

 

 わーいと素直に喜んで、他になにかないか考えてみます。

 

 

「なんでもいいんだよ?ちょっといいお肉にしたり、お寿司を頼んでみたり」

 

 食べてみたい料理とかがあれば、買ってきてもいいし、チャレンジして作ってみてもいいと、お母さんは言います。外食に連れていくことは出来ないけど、大体のものなら何とかしてくれると言います。

 

 

「うーん、でもわたし、お母さんが作ってくれるご飯が一番好きだから……」

 

 

 お母さんが挙げてくれた、美味しいお肉は美味しかったです。出前を頼んでくれたお寿司も美味しかったです。テイクアウトで買ってきてくれたレストランのご飯や、ハンバーガーなどのファストフードコンビニのご飯やパンなども、どれも美味しかったです。

 

 

 けれども、一番好きなのは、お母さんがわたしのために考えてくれたご飯を、一緒に食べることです。こうして向かい合って、暖かいご飯を食べるのが好きです。今日知ったことや、面白かったテレビのことを話すのが好きです。

 

 お母さんが、ニコニコ笑いながら話を聞いてくれるのが好きです。

 

 

「……ごめんね、もっと普通の暮らしをさせてあげられなくて」

 

 

 だから、誕生日とか関係なく、お母さんのご飯が食べたいのです。なのに、それを言ったらお母さんは泣きそうになってしまいました。

 

 わたしは普通の暮らしなんてどうでもいいから、お母さんがいてくれればそれで幸せなのに、お母さんはそれを不幸なのだと言います。わたしがどんなに、今が幸せなのか伝えても、伝えれば伝えるほど、悲しそうな顔をします。

 

 

 お母さんのところまで歩いていって、ギュッと抱きつきます。言葉で言っても伝わらないから、行動で伝えます。

 

 

「ごめんね、すみれ。ありがとう、大好きだよ」

 

 ちゃんと伝わったみたいで、お母さんはわたしのことを抱きしめて、頭を撫でてくれました。優しく、安心できる匂いと、温かさに包まれます。そっと頭を撫でてくれるのが、嬉しいです。

 

 

「うん。でもお母さん、わたしの方がお母さんのこと大好きだからね!」

 

 ちょっとだけ照れくさくなって、そんなことを言います。お母さんもクスリと笑って、自分の方がもっと好きだ、なんて言います。

 

 

 自分の方がもっと好き、なんてことを、しばらく言い合って、なんだかおかしくなって、最終的には2人で笑い出してしまいました。お母さんが笑顔になってくれて、嬉しいです。

 

 

「もうっ、ご飯中に立ち上がるなんてお行儀悪いから、早く戻って食べちゃいなさい」

 

 

 冗談めかしたように、お母さんが言います。言葉だけ聞けば窘めているように聞こえますが、そこに籠った温度は、母娘のコミュニケーションのそれです。

 

 ちょっと不満そうに、はーいなんて返事をしますが、それは見た目だけのもの。お母さんもわたしも、内心はにっこにこです。

 

 

 お互いに目が合うと思わず笑ってしまうから、目を合わせないようにしながら晩御飯を食べます。会話こそありませんが、とても心地いい時間が流れます。

 

 このおひたしはわたしが全部作ったもので、この野菜炒めは味付けだけお母さんにやってもらいました。メインの生姜焼きはお母さんが全部作ったものですが、お豆腐とわかめのお味噌汁は、わたしが味噌を溶いたものです。

 

 

 一つ一つ、真剣に味わって食べてみると、なんというか、完成度の違いを感じてしまいます。わたしが手を加えたものも、食べれないというわけではないですし、普通に料理としては合格程度の出来ではあると思いますが、食材への味の染み込み方や、食感なんかを考えると、どうしてもお母さんが作ったものの方が美味しいのです。

 

 

 ちょっとだけ悔しく思いながら、でもお母さんの料理の腕は確かなので、目標として燃えます。わたしもいつかは、こんなに美味しい料理を作れるようになりたいです。これよりも美味しい料理を作って、お母さんが料理をしないでもいい状態を作りたいです。

 

 

 

 そんなことを考えながらご飯を食べ終えて、お母さんが茶碗を洗います。本当はわたしが洗いたいのですが、すみれが私より早く食べ終われるなら考えてあげる、と言って洗わせてくれません。お母さんの料理を味わうことと、茶碗を洗うことだとどうしても前者に軍配が上がってしまいます。

 

 

「……まったくそんなに膨らんじゃって。風船になっちゃうよ?すみれは笑顔でいるのが一番かわいいんだから、笑って」

 

 

 それでもやっぱり、お母さんのお手伝いがしたくてむくれていると、洗い物を終わらせたお母さんが後ろからやってきてわたしのほっぺを突きます。ふしゅ、と空気が抜けて、お母さんが笑います。

 

「うん、それでいいの。……さてすみれ、すみれにやってもらわないといけないことがあります」

 

 

 つられて笑ってしまうと、お母さんに撫でられます。優しくて、洗い物の後だからちょっとひんやりしているのに、暖かい手です。

 

 

「今年もそろそろ誕生日だから、いつもみたいに飾りを作って欲しいの。去年はお花を作ってもらったから、今年は紙風船なんてどうかな」

 

 

 そう言うと、お母さんは折り紙を取り出して、わたしに説明しながら折っていきます。

 

 

「こんな感じで折って、色んな色が沢山あったら華やかになると思わない?」

 

 

 テープ飾りがあって、お花があって、鶴があって、色々なものが並んでいます。そこにコロコロとした紙風船が並ぶのをイメージすると、うん、とっても素敵です。

 

 

「思う!いっぱい作るから、楽しみにしててね!」

 

 

 お勉強もちゃんとするんだよ、とお母さんと約束して、早速作ってみます。お母さんみたいにテキパキとは折れないから、一折り一折り丁寧に折ります。上手に出来たねと褒められて、お母さんの隣に座りながらたくさん折ります。

 

 

「たくさん折れたね。すみれ、そろそろ遅いからお休みしよう?」

 

 

 褒められるのが嬉しくて、眠い目をこすりながら折っていると、お母さんに止められます。えらい、えらいと撫でてくれるのが気持ちよくて、つい目を閉じてしまいそうになりますが、我慢です。まだ歯磨きをしてないのに眠ってしまうと、虫歯になってしまいます。

 

 

 わたしに合わせて、書類をしまったお母さんと並んで歯磨きをします。立ったまま眠ってしまいそうになるのを起こされながら、何とか歯磨きを終わらせて、お布団を敷きます。

 

 

 並べて二枚敷いて、お母さんと一緒にそれぞれの布団に入ります。でも、なんだか今日は甘えたい気分なので、お母さんの方にお邪魔しちゃいます。

 

 

「どうしたの?今日はやけに甘えんぼさんだね」

 

「だって寒いんだもん!」

 

 嘘です。そんなに寒くありませんから、ひとりでも大丈夫です。でも、こう言ったら優しいお母さんはぎゅっとして暖かくしてくれます。

 

「あらら。おやすみなさい、すみれ」

 

「うん、おやすみ、お母さん」

 

 とん、とん、とん。

 

 背中を優しく叩かれます。安心できて、すぐに眠くなってしまいます。すぐに、意識が遠くなっていきます。

 

 

 

 

 

 

 ───────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 起きると、お母さんは家を出ていることが多いです。わたしを起こさないようにこっそり起きて、こっそり支度を済ませて、こっそり家から出ています。朝ご飯の準備まで済ませてくれているのだから、起こしてほしいと度々言っていますが、子供は沢山寝るものなのと言って起こしてくれません。

 

 

 だから今日は、なかなかいい朝なのだと思います。朝起きたらお母さんが寝ていて、わたしが布団から出るタイミングで目を覚まします。起こしてしまったかと思いましたが、時計を見るとお母さんがいつも起きている時間です。

 

「おはよう、すみれ。お誕生日おめでとう」

 

「おはよう!お母さんもおめでとう!」

 

 誕生日当日の朝、いい朝です。お母さんと一緒に朝ごはんの準備をして、一緒に食べることが出来ました。

 

 

「それじゃあお仕事頑張ってくるから、いい子で待ってるんだよ」

 

「うん、行ってらっしゃい!」

 

 今日はいつもより早く帰ってくるからね、と言うお母さんを、笑顔で送り出します。

 

 

 昨日の夜のうちに、お母さんと飾り付けを済ませた壁に囲まれながら、お勉強をします。いつ外に出れるようになっても大丈夫なようにと、お母さんはわたしに色々なことを教えてくれます。

 

 普段はもっと長い時間勉強しているところを今日はお昼ご飯までで終わりにして、布団のために用意できなかった部分の飾り付けをします。お誕生暇のお祝いのための準備です。予め紙風船を折っておくこと以外で、わたしが唯一できることになります。

 

 

 そうして準備を済ませて、余った時間でまた少しだけ勉強をします。お母さんに、さすがにこれ以上は大丈夫だと言われてしまったので、これ以上の紙風船はいりません。わたしにできることは何もありません。残っていません。

 

 だから、わたしはお勉強をします。そのことをきっとお母さんは後で喜んでくれて、褒めてくれます。

 

 

 そうしながら暫く待って、玄関の悪音が聞こえたので、そこらかしこに散らばった花や紙風船を割らないように気を付けて避けながらそちらに向かいます。

 

 

「お母さん、おかえりなさいっ!!」

 

 

 お母さんが帰ってきてくれたことが嬉しくて、2人だけのお誕生日会が楽しみで、玄関と鍵が閉まるのと同時にお母さんをお出迎えします。

 

 お母さんが持っていた荷物を受け取り、靴を脱いだお母さんの手を引いて、リビングに向かいます。

 

 

「あらあら、上手に飾り付けできたね。えらいよ、すみれ」

 

 頭を撫でてくれたお母さんは、それじゃあ私も急がないとと言って手際よく買ってきた野菜を刻みます。二人用の鍋に野菜とお肉、割り下を入れて、30分も掛からずにすき焼きの準備を済ませてしまいます。

 

 

 お母さんが完成させるまでの間、白身だけならメレンゲができるだろうほどまで卵を混ぜ続けていたわたしは、自分の分と同じくらい沢山混ぜた卵を用意して待っています。お母さんが、出来上がったすき焼きを鍋つかみで掴んで持ってきます。

 

 

 グツグツいっているすき焼きから、お肉と野菜をたっぷりとって卵にくぐらせます。甘しょっぱい味が卵でマイルドになって、思わずご飯が進みます。

 

 

 新しく入ったお肉や野菜をもう食べてもいいかとお母さんに聞きながら待たされて、ようやく火の通った食材をかき込みます。

 

 

 食べ過ぎ!や、取りすぎ!や、ずるい!なんてやり取りもありますが、お母さんが二人でおなかいっぱいになるまで食べても十分な量を買ってくれているから、笑い話で終わるコミュニケーションです。

 

 

 

 

「すみれ、今年のお誕生日プレゼント、色々考えてみたんだけど図鑑がいいかなって思ったんだ。受け取ってくれるかな?」

 

 

 ご飯を食べ終わって、お母さんが渡してくれたのは本屋さんの包みです。開けていい?と聞いてみて、いいよと言われて開けてみると、美しい海の生き物図鑑という図鑑が入っていました。表紙を飾っている魚の写真を見て、わたしは一目でそれを気に入ってしまいます。

 

 

 ありがとうとお礼を言って、思わずお母さんに抱きつきます。頭を撫でてくれたお母さんは、実はまだあるのと言って、タンスの中からひとつのセーターを取り出しました。

 

 

「これからちょっと寒い季節が続くから、これを着て風邪をひかないようにしてほしくって」

 

 

 お母さんが着せてくれたそれは、わたしの体にピッタリのサイズで、とってもモコモコで暖かいです。

 

 私が編んだんだけど、きつくない?と聞くお母さんに、ピッタリだということを伝えて、また抱きつきます。

 

「お母さん、すごくあったかい」

 

 お母さんの温かさと、セーターの温かさと、プレゼントの暖かさです。

 

 

「ふふ、お母さんもすっごく暖かいよ」

 

 お母さんが、私のことを抱きしめてくれます。暖かさと、優しさと、愛情に包まれます。わたしは今、間違いなく幸せです。

 

 

 

 お母さんが買ってきてくれたケーキを食べて、おめでとうを言い合ったら、お誕生日会は終わりです。歯磨きをして、また来年使おうねと約束して飾りを片付けます。

 

 

 

 どうしても今日はこれで寝たいとわがままを言って、お母さんの編んでくれたセーターで寝ます。おかあさんといっしょの布団でわがままを言って寝ます。

 

 

 

 

 わたしはお誕生日が大好きです。

 





 ひつまぶしで言うところの出汁部分です。薬味分(お母さん視点)は今のところ出す予定は無いです。


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鍋パーティー

「先輩、お疲れ様です」

 

 

 仕事終わりに上司から呼び出されて、ねちっこい喋り方でしこたま褒められたのから戻ると、先に帰らずに待っていた溝櫛から声をかけられる。

 

 おつかれと返して、荷物を持って外に出ると、着いてくる。この後に約束していることがあるから、当然だ。

 

 

「それで、かわいいかわいい後輩ちゃんを待たせてまで、どんなお呼び出しだったんですか?」

 

 あ、機密とかあるんだったらなんにも教えてくれなくていいです。知らない方がいいことは知りたくないタイプなんで。と、続ける溝櫛。

 

 そんなに大したことじゃないと断りを入れてから、半分くらいプライベートの話だったので、褒められた内容だったりをそのまま伝える。

 

 

「あー、確かに先輩前よりも動きにキレがありますし、雰囲気も柔らかくなりましたよね。健康的にも見えますし、なんか人間らしくなった気がします」

 

 自分ではそんな自覚は無いので、そんなに違うかと聞き返す。上司だけでなく溝櫛からも言われるのなら、何か違いが出てるのかもしれない。

 

「結構違いますよー。健康診断で引っかかって、生活習慣を一新した山縣さんと、猫を飼い始めて生活に潤いが出たって言ってる福沢さんを足して2で割ったくらいには違ってます」

 

 

 溝櫛の例えはあまりわかりやすくなかったが、確かに上司からも、運動を始めたのかとか、なにかペットを飼い始めたのかとか聞かれた。

 

 とはいえ、最近変わったことなど、すみれが家にいることくらいである。

 

 

「うーん、タイミング的に考えてもまず間違いなくそれが理由でしょうねぇ。ペットは飼ってないけど女の子は飼ってます!とか言ってません?大丈夫です?」

 

 

 アホなことを言う溝櫛に、軽くデコピンをする。大袈裟に、いたーいとか暴力ハンターイとか訴えるのを軽くあしらい、すみれに連絡を入れて、もう少しだけ歩く。

 

 

「おー、そういえばここに来るのも随分と久しぶりですねぇ。すみれちゃんが来てから先輩、意地でも家に人を入れなくなってましたし」

 

 

 ついに先輩から嫌われたのかと思ってヒヤヒヤしてましたよ。と、嘘か本当かわからないことを言う溝櫛を連れて、玄関を開ける。

 

 

「お兄さん、おかえりなさいっ!!瑠璃華さんも、お久しぶりです!」

 

 

 玄関を開けてすぐのところで待ち構えていたのは、いつもに増してテンションが高いすみれだ。ウキウキした様子で僕からカバンを受け取り、部屋の奥に一度引っ込むとスリッパを取ってくる。客人用だと以前伝えたことがあったので、それを思い出したのだろう。

 

 どうぞこっちですと、先導するすみれについて行って部屋に入る。自分の家だから案内される必要も無いが、こういうときはその場の空気に流されておくものだ。

 

 

「おー、また随分と雰囲気が変わりましたね。前まであんなに殺風景だったのに」

 

 部屋に入って、中を見回した溝櫛が少しだけ驚いたようにそう漏らす。以前溝櫛が来たときは、当然ながらまだすみれがこの家に来る前だ。そのころは必要最低限のものだけを部屋の中に置いて、それ以外は収納の中にまとめてしまい込んでいた。

 

 そんな状態しか知らなかったのに、今の部屋の中は本や図鑑をはじめ、すみれが作った小物なんかがいたるところにある。机の上に無造作に置いてあったペンはフェルト生地のペン立てに入っているし、コップの下にはコースターがある。ドアノブにだってカバーが付けられているし、なにか人形のようなものまで飾られている。

 

 

「何もない部屋で待ってるのが寂しかったから、作っちゃいました」

 

 まじまじみられることが恥ずかしいらしく、少しだけ照れながらすみれは溝櫛が興味を持ったものに解説を入れていく。

 

 

 そのまま少しして、満足したらしい溝櫛がようやく座卓に着く。仕事終わりで、ここまで多少とはいえ歩いてきたばかりなのに、よくそんなに元気があるものだ。

 

 それじゃあ少しだけ待っていてくださいと、すみれが一瞬だけ席を外し、キッチンから土鍋を取ってきて、カセットコンロの上に置く。載せられた蓋を取ると、一気に広がる豆乳の香り。

 

 

 今更にはなるが、今日溝櫛が僕の家までついてきた理由がこれ、すみれの準備してくれていた豆乳鍋だ。

 

 

 以前図書館で遭遇した時に交換していた連絡先で、毎日何通かの間隔でやり取りをしていたらしく、いつの間にか仲良くなっていた。そしてそのやり取りの中で溝櫛が、またすみれちゃんの作ったご飯が食べたいなぁ、なんて言っていたらしく、困ったすみれが僕に相談。すみれが嫌じゃないなら招待してみようかという話になり、今に至る。

 

 

「いやー、先輩は毎日すみれちゃんのご飯を食べているわけですよね?ほんと羨ましいなぁ。そりゃあ仕事の効率も上がって褒められるわけですよ」

 

 私も毎日食べたい!と無茶を言う溝櫛に、すみれが困ったような顔になってしまったので、わがままはほどほどにしろと伝える。それほど本気で言っていなかったこともあって、すぐにやめたので、すみれに合わせていただきますと言って

 食べ始めた。

 

 豆乳と顆粒出汁で作られたスープが野菜にしみ込み、口の中に広がる。優しい味だ。かなりの時間をかけて煮込んだのだろう、歯がなくても食べられそうなほど、トロトロになっている。

 

 

「ご飯もありますし、これでラーメンを茹でてもおいしいんですよ。お兄さんに買ってきてもらったものなら二分もあれば茹で上がりますけど、お二人は食べますか?」

 

 スープの味が麺にもしみ込んで、とってもおいしいんですよというすみれの言葉に溝櫛と二人顔を見合わせる。うまうま言いながら食べていた僕達が、そんなことを教えられていらないなんて言うはずがない。すぐに二人前を頼んで、わかりましたと微笑みながら小鍋にスープを分取するすみれを見送る。

 

 

「すみれちゃん、本当に料理上手ですね。あの守銭奴の先輩が、食費にちゃんとお金をかけるようになったと聞いた時には何があったのかと思いましたが、あの子が毎日温かいご飯を用意してくれているからなら、納得です」

 

 

 しみじみとつぶやきながら、今から誘ったらうちの子になってくれないかなぁ、なんて漏らす溝櫛に、お前にはやらんと返すが、実際のところはどうなのだろうか。

 

 

 最初こそ、他に頼れる人がいなかったから、僕の下に置いておくしかなかった。でも、正確な年齢は知らないが、すみれも多感なお年頃だ。僕みたいな得体のしれない異性の下ではなく、顔を合わせた数こそあまり多くはないものの、結構仲良くなっている様子の同性である溝櫛の下で生活をしたほうがいいのかもしれない。

 

 近頃の振る舞いを見るに、今更死にたがっているとも思えないし、僕と最初にした約束は、もう忘れて他所に行ってもいいだろう。僕がこの子のためにできることは、もうやりきった。

 

 なら、これ以上この子をうちに縛り付けることは、すみれの人生を奪うことになるのではないだろうか。そうなるくらいなら、然るべきところに相談して、もっとすみれのために動くべきではないだろうか。

 

 

「せんぱーい?なんで突然黙り込んじゃったんですかぁー?」

 

 

 考えながら、少し暗い気持ちになりかけたところで、溝櫛から声をかけられて意識を戻す。

 

「そろそろすみれちゃん戻ってきそうですし、しっかりしてくださいよぉ。そんな顔してたら不安にさせちゃいますって」

 

 

 その言葉から程なく、というか、その直後にキッチンへのドアが開き、すみれが小鍋を持ってやってくる。

 

 

「お兄さん、瑠璃華さん、茹で上がりました」

 

 持ってこられた鍋の中身は、ラーメンと茹で汁。ラーメンを茹でる際に出てくるデンプン質だったり、豆乳を煮つめた影響だったりですごくドロドロしているが、これが美味しいとのこと。

 

 好みで鍋の汁を加えて薄めることもでき、好きな濃さで食べればいいらしい。

 

 

 豆乳だから肌に良いという言葉につられて、多めによそってと駄々を捏ねた溝櫛に、一人分弱を渡し、残ったものをすみれと半分に分ける。

 

 

「わたしはご飯で食べるのも同じくらい好きなので、だいじょうぶです。それに、お兄さんと瑠璃華さんに美味しく食べてもらいたいから」

 

 

 わざわざ茹でてきてくれたのに、あんまり食べれなくて大丈夫かと、良かったら僕の分を少し少なめにしようかと提案すると、すみれはそう言って微笑んだ。真っ先に半分近くをごねたどこかの後輩にも見習って欲しいくらいである。

 

 

 

 

「ご馳走様でした。あー、ここの子になりたーい」

 

 食べきれなかった分を明日の朝食に残して、だいたい満腹になったら晩御飯は終わりだ。すぐにだらしなく後ろに倒れ込んでいる溝櫛に、せめて洗い物くらいはやれと言って、さすがにそれくらいはやらないと申し訳ないと思ったらしく文句を言いながら直ぐに取り掛かる。

 

 

「瑠璃華さん、すっごく面白い人ですね。一緒にいて飽きませんし、楽しいです」

 

 

 少しだけ寂しそうに笑いながら、すみれは言う。溝櫛は確かに、時折面倒くさいけれど邪険にはされないような人間だ。あれで意外と気遣いもできるし、人の気持ちを考えることも出来る。

 

 

「すみれも……いや、なんでもない。シャワー浴びてくるね」

 

 すみれも、僕の家よりも溝櫛のところに行った方がいいのかもな、なんて言おうとして、やめた。肯定されて、すみれがいなくなってしまったら、もう以前までの生活に戻れる気がしなかったから。自分で栄養だけしか考えていない料理を作って、食べるのは虚しかったことに気付いたから。

 

 すみれのためを思って始めたこの生活を、僕のために続けたくなってしまったから。

 

 

 

 そんな自分に気付いて、その自分勝手さに吐き気がして。そんな自分を流して、上がったらちゃんと話そうと決めて、僕はシャワーに逃げた。

 

 

 

 



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鍋パーティー(裏1)

 瑠璃華さんと連絡先を交換して以降、ちょくちょくやり取りをしています。瑠璃華さんのおすすめのメニューや、好きなテレビ。面白かった小説の話など、教えてもらうことも沢山ありますが、何故かよく分からない事を聞かれることも、それなりの頻度であります。

 

 

“すみれちゃん、今日の晩御飯は何を作ったの?”

 

 

 これなんかは、よくわからない質問の代表格です。返信して、写真を送ると、“おいしそう!!いいなぁー(๑˘・з・˘)”と返ってきます。いいなぁーの部分は、私も食べたい!だったり、お腹空いた……だったり、先輩ばっかり……だったりしますが、共通しているのはそれ以降特に言及がないことです。たまにメニューの内容な盛り方などにも話が飛びますが、どちらにしてもそれほど長いやり取りにはなりません。

 

 そんな、反応にこそ困るものの、もはや日常にすらなったやり取りに、ある日突然一つの文言が追加されました。私も食べに行っていいかな?です。

 

 

 何度もやり取りをしてきましたが、初めての言葉でした。瑠璃華さんが直接わたしに関わろうとすることは、これまでありませんでした。

 

 

 

 普段作っているものを考えて、瑠璃華さんの要望に応えられるかを考えます。少なくとも今週と来週だと、今立てている予定では難しそうです。

 

 ただ、それ以上に、やはり一人人が増える以上食材の分も必要になるので、そこら辺を含めて、瑠璃華さんが家に来たがっていることをお兄さんに伝えます。

 わたしの考えられる、食品の事情は買い出しさえすればどうとでもなるので、家主であるお兄さんがそれを是とするか否とするかの問題です。

 

 

「ああ、溝櫛か。自分から積極的に来て欲しいって声をかけたりはしないけど、向こうが来たいって言うなら断る理由もないかな」

 

 少し前までならすみれがいたから断ってたけど、バレてるなら無理に押し通す必要もないしね。と、お兄さんは言います。なんというか、当然かもしれませんがわたしの知らない信頼関係が見えました。少しだけ、羨ましく思います。

 

 

 そんなふうに思っていることは隠しながら、お兄さんにありがとうと伝えます。瑠璃華さんの、そしてわたしのわがままを聞いてくれたお礼です。

 

 

 早速、瑠璃華さんにお兄さんがいいと言ってくれたことを伝えると、直ぐに既読が付いて“ヤッターッ!O(≧▽≦)O”と返ってきます。具体的な日程は、わたしだけでは決められないし、むしろわたしはいつでも合わせることが出来るので、お二人で決めるようにお願いします。

 

 

 お兄さんにもその事を伝えて、すぐにお兄さんのスマートフォンに通知が入ります。瑠璃華さんからだそうで、少しやり取りをした後に、今週の木曜日に一人分多く作れるかと聞かれました。

 

 わたしの作業量としては全然問題なくできて、けれども食材の方が足りなくなってしまうので、それを伝えます。また、瑠璃華さんの食べる量がわからないので、少し多めに作り、次の日の朝ごはんまで残るかもしれないことも伝えます。

 

 

「わかった。それじゃあ、面倒をかけちゃうけど必要な材料を後で教えて欲しいな」

 

 そう言って、瑠璃華さんへ返信を打ち込むお兄さんを傍目に、なんのメニューがいいかを考えます。幸い、なにかの料理にしか使えないような食材はほとんどないので、今から組み直せば十分間に合います。

 

 木曜日の気温は低かったはずなので、作るものは温かいもの。食べて安心感があって、女性である瑠璃華さんが喜んでくれるもの。健康と美容に、そこそこ気を使っていることは以前のやり取りでわかっているため、野菜は多い方が喜ばれるでしょう。ダイエットはしていないとのことなので、過度に糖質や脂質を控える必要もありません。

 

 

 条件が変に緩いので、これだというものが思い浮かびません。健康的で、温かいものはいつも作っています。ならいつも通りでいい気もしますし、何なら瑠璃華さんが食べたいと言っていたのはわたしが普通に作った料理です。変にこだわる必要はない気もしますし、むしろこだわらないのが正解な気もします。

 

 

 けれど同時に、いつもより豪華なものを作っておもてなしをしたいと思うのもまた事実です。正確にはお兄さんへのお客さんでしょうが、わたしが初めて迎えるお客さんです。

 

 ちょっとでもいいところを見せたいし、すごいと思ってもらいたいです。なにかぴったりなものは無いかと、瑠璃華さんとのやり取りを見返してヒントを探します。なにか好きな料理の話をしていれば最高ですが、食材だけでもひとつ決まればそこからつながります。

 

 

 そうして探してみると、瑠璃華さんから美容について教えて貰っていたタイミングの話題に、豆乳の話があったので、豆乳を使うことに決めます。ついでに、豆乳を使う料理を、わたしは豆乳鍋しか知らないため、メニューも決定です。豆乳鍋に何か問題があればほかのものを調べもしましたが、なかったので決定です。

 

 

 冷蔵庫の残りを見て、追加で買ってきてほしい食材を考え、ついでに明後日と金曜日の献立も変えて、足りないものを伝えます。

 

 

 そして当日。お兄さんを送り出して、朝の段階から準備を始めます。お二人にも確認をとって、鍋の野菜はクタクタになるまで煮ることになっていますので、早い内から焦がさないように、とろ火で火にかけます。底が焦げ付いてしまうと一気に台無しになってしまうので、気をつけなくてはいけません。

 

 

 鍋の用意が終わったら、あとは家事をやります。洗濯物を干して、掃除機をかけて、念の為トイレも掃除します。キッチン周りは昨日のうちに済ませておいたので、少し散った分を取るくらいです。

 

 

 途中、お昼ご飯にレンジでパスタを茹でて、冷凍しておいたミートソースをかけて食べましたが、それ以外の時間はほとんど全部使って、なんとか家事をギリギリ終わらせます。

 

 お兄さんからメッセージが届くころにシャワーまで済ませて、煮詰まりすぎていたので少し鍋に水を足して、グツグツ聞こえる音の中で待ちます。

 

 いつもならこの時間に、自分のやりたいことをやっていたりもしますが、今日は朝から頑張りすぎたのか、何もやる気が起きません。たまに鍋を混ぜるために立つ以外は玄関に置いたクッションに座って休んでいます。休むのなら部屋に戻ればいいのですが、今はそれすら億劫です。

 

 

 ぼーっと待ちながら、何かやり残したことがないか考えます。全部やったはずなのに、まだなにかし忘れているような、不思議なモヤモヤが残ります。

 

 たくさんのことを全部終わらせた時に、よくそんな感覚になると見たことはありましたが、実際に体験するのは初めてです。

 

 

 ピロリンと、スマートフォンから通知音がします。少し前までの、お兄さんからしか来ない時とは違って、今は送信者を見ないと誰からかわかりませんが、案の定お兄さんからです。

 

 内容はいつも通りの、後2分くらいで着くというもの。急いで身だしなみを確認します。今日は瑠璃華さんがいることもあって、いつもよりもおしゃれな私服です。いつもは、家の中くらい着やすい格好でいるべきだとお兄さんに言われて、ダボッとした服を着ていたり、お兄さんのTシャツなんかを借りていたりしますが、人前となったらそうもいきません。

 

 多少だらしない格好をするまで、家の居心地が悪くないか何度も聞いてきて、リラックスしているアピールをしてから無くなったので、その時の過ごしやすさのまま今に至りますが、今日はお兄さんが最初に買ってくれた部屋着です。変に皺がついていたり、だらしなかったりするととても目立ってしまいます。

 

 

 玄関にある姿見で、ちゃんといつもよりもかわいくできているかを確認します。ついでに、笑顔の練習をします。そのすぐ後に、鍵が開けられる音が、すぐ目の前の扉から聞こえます。

 

 

 開かれて、姿を見せたのはお兄さんと瑠璃華さん。二人で仲良く並んで入ってきます。

 

 

 

 

「お兄さん、おかえりなさいっ!!瑠璃華さんも、お久しぶりです!」

 

 

 

 二人の前で、飛びっきりの笑顔で笑います。

 

 



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鍋パーティー(裏2)

 お兄さんと瑠璃華さんを前に、おかえりと言えたことが嬉しくて、迎えられたことが楽しくて、いつもよりもテンションが上がった状態でお兄さんからいつも通りカバンを受け取って、そのタイミングで客人用とお兄さんが言っていたスリッパの存在を思い出します。

 

 お兄さんのカバンをいつもの場所に戻すのと一緒に、収納の中にしまい込まれていたスリッパを取ってきて、瑠璃華さんのところに届けます。わたしが、何かもやもやしていたものの正体は、スリッパを忘れていたことでは無いでしょうか。

 

 スリッパを出して、すぐに二人を案内します。案内が必要ないことや、2人とも知っている場所だということも分かってはいますが、それでも様式美として案内します。

 

 

「おー、また随分と雰囲気が変わりましたね。前まであんなに殺風景だったのに」

 

 

 スリッパを履いて上がってきた瑠璃華さんが、部屋の中を見渡して言います。瑠璃華さんが最後に来たのはわたしが来る前のことでしょうから、びっくりするほど変わっているのではないでしょうか。わたしが最初に来た時の、どこか生活感を感じない、無機質な感じの部屋とは異なり、今の部屋の中には温もりが感じられるように思います。

 

 

「何もない部屋で待ってるのが寂しかったから、作っちゃいました」

 

 一つ一つ、まじまじと観察されてしまうのが恥ずかしくって、そんなふうに言い訳をしてしまいます。本当は、ものがある方がお兄さんの生活に根を張れるように思ったのと、それを作ったらお兄さんが喜んでくれたり、褒めてくれたりするかと思ったからです。

 

 お兄さんにも瑠璃華さんにも、そんな本当の理由を伝えることは出来ないので、それっぽいことを言って、誤魔化しながら、一つ一つのものの材料だったり作り方だったりを簡単に説明してみます。お兄さんは一度聞いたことがある内容なので、暇に思われないかは少し心配ですが、瑠璃華さんは楽しそうに聞いてくれているので、少しだけ待っていて欲しいです。

 

 

「なるほどなるほど。すみれちゃん、ありがとう!」

 

 

 いくつか話しているうちに満足してくれたらしい瑠璃華さんをクッションに座らせて、お兄さんにはベッドに座ってもらいます。わたしの分の席は布団を丸めて確保してありますので、キッチンまで土鍋を取りに行きます。

 

 鍋つかみがないのでタオルを重ねてつかみ、タオル越しにでもわかる熱を感じながら、リビングのカセットコンロの上まで運びます。

 

 置いたら、今度は蓋を置きに戻ります。このテーブルはそこまで大きい訳では無いので、鍋の蓋まで置いてしまうと食べるスペースが無くなるからです。

 

『頼むから何もしないでくれ』

 

 リビングに戻る時に、三膳の箸と菜箸をひとつ、深めの茶碗と、お玉を持っていきます。お兄さんのために、瑠璃華さんのために何かをできることが、とっても嬉しいです。びっくりするほど楽しいです。

 

 

「いやー、先輩は毎日すみれちゃんのご飯を食べているわけですよね?ほんと羨ましいなぁ。そりゃあ仕事の効率も上がって褒められるわけですよ」

 

 

 鍋の匂いを嗅ぎながら、早く食べたいと言っていた瑠璃華さんが、お兄さんの前でそんなことを言っています。毎日食べたいと言われたことに嬉しつつ恥ずかしく思うのとともに、お兄さんの仕事の効率が上がって、会社で褒められていること、そしてそれをわたしの料理のおかげだと言っていることに嬉しさを感じ、わたしの計画が上手くいっていることに安心します。

 

 

 

 待っていたお兄さんと瑠璃華さんに食器を渡して、一緒にいただきますをします。菜箸とお玉を使って一人ずつよそうのを待って、最後にわたしも取ります。

 

 

 クタクタになるまで煮込んだ、トロトロの野菜。食感が残るシャキシャキの野菜では、どうしても味の染み込みに限界があります。シャキシャキなのもいいのですが、個人的にはお鍋の野菜はクタクタが好きです。

 

 

 

「ご飯もありますし、これでラーメンを茹でてもおいしいんですよ。お兄さんに買ってきてもらったものなら二分もあれば茹で上がりますけど、お二人は食べますか?」

 

 ひとくち食べたところで、主食を用意し忘れていたことに気がついたので、ラーメンとご飯のどちらがいいか聞いたところ、2人ともラーメンと言いました。念の為に炊いておいたご飯は冷凍して、後日わたしのお昼ご飯にでもしましょうか。

 

 買ってきてもらった袋麺に書いている水の量よりも多く、鍋のスープを小鍋に掬って、火にかけます。カセットコンロで温めていたこともあって、既に沸騰間近まで高温になっていた鍋の汁はすぐに沸騰します。

 

 吹きこぼれたりしないように、弱火にしながら袋麺をふたつ。細麺なこともあり、ゆで時間が90秒でしたから、タイマーで時間を計って茹でます。

 

 お母さんが使っていたタイマーは、ボタンを押す度に音が鳴るものでしたので、使うことが出来ずに壁時計の音を数えるしかありませんでしたが、お兄さんに借りているスマートフォンの時計機能を使えば、音を立てずに時間を測れるので、とても便利です。

 

 

 カウントがゼロになる直前にストップボタンをを押して、音を立てずにタイマーを止めます。お兄さんと瑠璃華さんが何かを話しているのを扉一枚隔てて聞いて、何を話しているのかは理解できないまま扉を開けると、お兄さんの表情がどこか暗いです。瑠璃華さんが何か変なことを言ったのではと思いそちらも見て見ますが、どうやら困惑している様子。

 

 

「お兄さん、瑠璃華さん、茹で上がりました」

 

 とりあえず空気が変わればいいなも思って少し明るめに声を出してみたら、二人の意識がこちらに向きました。テーブルの方まで持って行って、食べ方の説明をします。

 

 

 多めに食べたいという瑠璃華さんの主張に合わせて、配分したところ、お兄さんがわたしのことを気にかけてくれました。わたしがこのラーメンが好きだから買ってくるように言ったんじゃないかと気を使うお兄さんに、ラーメンもご飯も同じくらい好きだから問題ないと伝えます。

 

 本当は、余裕を持って三合も炊いてしまったお米の消費をしておきたいというのが大きいですが、二人に美味しく食べてもらいたいというのも嘘ではありません。優しいね、と褒めてくれるお兄さんに、罪悪感のようなむず痒さを感じながら、嬉しくなります。

 

 

 

 

 

「ご馳走様でした。あー、ここの子になりたーい」

 

 

 一番最後まで熱心に食べていた瑠璃華さんが食べ終わって、それに合わせてご馳走様をすると、瑠璃華さんはクッションの上でぐでーっと倒れ込みます。一番最初に会った時の、スタイルが良くて綺麗な人、という印象は少し弱くなってしまいましたが、明るくてみんなと仲良くなれそうなイメージは強くなります。なんというか、スルッと入り込んできて、程よく隙のある姿を見せるのが、好かれる理由なのでしょうか?

 

 お兄さんに、洗い物をするように言われて、不満そうにしながらもすぐに動く様子を見ながら、そんなことを思いました。わたしが洗おうとしたところ、お兄さんに止められたので、おまかせした形になります。

 

 

「瑠璃華さん、すっごく面白い人ですね。一緒にいて飽きませんし、楽しいです」

 

 食べるもの食べたんだから働けと言うお兄さんと、それに対してケチ〜とか適当な悪口を返す瑠璃華さん。言葉だけにすると仲が悪そうにも見えますが、お互いに遠慮や気遣いなどが必要なく、素のままの状態で仲良くしているふたりの様子に、少しだけ暗い思いが湧き上がってしまいます。

 

 わたしがいなければ、お兄さんと瑠璃華さんはもっと仲良くなれるんじゃないかとか、瑠璃華さんがお兄さんと結ばれたら、わたしはまた、邪魔な子になってしまうんじゃないかとか。そんなことを考えると、どうしてもこれ以上二人に仲良くなって欲しくないと思ってしまいます。

 

 

 これじゃあ、悪い子ですらなくひどい子です。二人とも優しいのに、二人のことが好きなのに、二人に仲良くしないで欲しいと思っています。そんなことは思いたくないのに、思ってしまいます。

 

 

「すみれも……いや、なんでもない。シャワー浴びてくるね」

 

 そんなわたしの表情を見て、何かを察してしまったのでしょうか、それとも、なにか思うところがあったのでしょうか。お兄さんは何かを言いかけて、やめてしまいました。返事を待たず、少し暗い顔をして浴室に向かったのから考えると、あまりいいことを言おうとしたわけではなかったのでしょう。

 

 

 お兄さんにそんなことを考えさせてしまったことを、無性に悲しく思いながら座っていると、3人分の洗い物を終わらせた瑠璃華さんが戻ってきます。元々それほど量が多い訳でもないので、直ぐに終わってしまうのは当たり前です。

 

 

「すみれちゃん、先輩が突然シャワーに入っちゃったんですけど、何かあったんですか?」

 

 

 

 普段は、人を帰す前にシャワーを浴びるような人じゃないのにと、お兄さんの様子を不思議に思ったらしい瑠璃華さんの言葉に、わたしの知らない“普段”を知っているということに、嫉妬と不安が膨らみます。

 

「……わからないです。何か言いかけて、やめて、そのまま行っちゃいました」

 

 それをそのまま出すわけにはいかないと、わたしから見た時の様子を、わたしの予想を踏まえずに伝えます。事実だけを伝えます。

 

 それを聞いて瑠璃華さんは、少し考えた後に得心のいったような表情を見せました。わたしが全くわからないのに、納得している瑠璃華さんがずるいです。羨ましくて、怖いです。

 

 

「あー、先輩はたまに変なことを考えて、一人で拗らせちゃうことがあるんですよ。あんまり気にしなくていいんで、トンチンカンなこと言ったら引っぱたいてやろうくらいの気持ちでいいです」

 

 

 お兄さんのことをわかっている様子なのが羨ましいのに、その言葉に救われる自分もいます。普段はあまり考えないで行動しているように見せている瑠璃華さんも、ちゃんと人のことを理解して、考えて行動しているんだなと思うと、とても素敵な人だなと思いました。

 

 

「そんなことより!!私はすみれちゃんともっと仲良くしたいんですよ!」

 

 とりあえずハグしていいですか!?と言う瑠璃華さんに押されて、イエスと返したところ、抱きつかれてもみくちゃにされます。

 

 

「ぐっへっへ、柔らかいしあったかいしいい匂いがしますねぇ〜。肌もすべすべですし、これが若さかぁ……」

 

 突然のことに、ぴぃっ、と変な悲鳴が漏れます。ギュッギュッとされたり、ほっぺをむにむにされたり、髪を手櫛で整えられたりします。

 

「やっぱりすみれちゃん素材いいなぁ。そういえば、ヘアケアとか何使ってます?今すみれちゃんが使ってるやつ、あまり合ってないと思うんですよ」

 

 せっかくしっかりさせていた身だしなみが崩された辺りで、ようやく解放され、毛先を弄られながら瑠璃華さんにそんな事を聞かれます。

 

「えっと、お兄さんが使っているシャンプーを一緒に使わせてもらっています。髪の毛がすっごくサラサラになるんです!」

 

 

 わたしの答えを聞いて、瑠璃華さんは少し顔を強ばらせます。何かおかしいことを言ってしまったのでしょうか?

 

 

「……そっか!それじゃあ、私がすみれちゃんにシャンプーとかプレゼントしたいんだけど、いいかな?」

 

 

 きっと先輩も喜んでくれるよ、と言う瑠璃華さんの言葉に、最初は遠慮しようと思ったのに思わずお願いしますと言ってしまいました。

 

 ちゃんとした使い方とかは、今度メッセージで送るねと、瑠璃華さんに言われて、そのまま髪の毛のお話をしたり、ちょこっとだけ編んだりしてもらいます。

 

 髪の毛が短めだからあんまり編めませんねぇ……と言う瑠璃華さんにわがままを言って、前髪をひとつまみ分だけ編んでもらい、ちょうどお兄さんが上がってきたので見てもらいます。

 

 

「うん、かわいくできてるね」

 

 お兄さんは、ぽかんとしたような、毒気が抜かれたような表情をして、ポンポン、とわたしの頭を撫でてくれました。

 



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家の中での過ごし方

 ちゃんと話そうと思って、頭を冷やして冷静になるためにシャワーを浴びたのに、あんまりにも無邪気な笑顔で、すみれが話しかけてきたから、それを壊したくなくて何も言えなかった。

 

 それを言ってしまうことで、笑顔が消えてしまったら。空気が悪くなったらと思うと、どうしても言えなかった。……いや、そんなのは言い訳だ。所詮、僕に勇気がなかっただけのこと。それを、他の何かに理由を求めたかっただけだ。

 

 

 最初は利とか損とかなにも考えないで、というか、損を見越して始めたことだったのに、なんでこんなふうになってしまったのだろうかとひとりごちる。聞かせるための言葉ではなかったのに、うっすらと聞こえてしまったらしいすみれが、作業の手を止めてこちらに向き直る。

 

 

「お兄さん?どうかしましたか?」

 

 なんでもないよと返して、不思議そうに作業に戻るすみれを見る。まさか、君のことをいつまでもここに縛り付けたい欲求に抗っていた、なんて言う訳にもいかない。少し前ならともかく、今の状態で監禁なんでしょうものなら、溝櫛経由で発覚してしまうリスクが高……、今、僕は何を考えていた?

 

 すみれのことを監禁してしまえば、ずっとこの子は僕といてくれるのに、なんて考えていたのか?すみれが家に閉じ込められていて、どんな生活をしてきたのか、それと比べた時に、今の生活がどれほど幸せか話してくれたことを、知っているのに?

 

 そんなことをしてしまったら、この子がどれだけ傷つくのかをわかっているのに、それを考えてしまったのか。あまつさえ、溝櫛がいなければ実行していたかもしれないのだ。

 

 

 そんなやつは、すみれの近くにいるべきでは、ないだろう。他の人の元に、他の環境にいる方が、すみれは幸せになれるだろう。

 

 

 先日は、すみれをうちの子にしたいなんて言う溝櫛の言葉を否定したが、本当にそうしてもらった方がいいのかもしれない。もし送り出して、それでも僕のところに戻ってきたいと、そう言ってくれるなら喜んで受け入れるが、きっとそうはならないだろうし、その方がすみれのためになるだろう。

 

 

『何もない部屋で待ってるのが寂しかったから、作っちゃいました』

 

 

 すみれは、そうも言っていた。僕が寂しい思いをさせているなら、僕のせいでそれが続くなら、他の人を頼った方がいいに、決まっている。

 

 あの日シャワーから浴びた時のすみれを思い出す。溝櫛に髪の毛をいじられながら、楽しそうにしていた。ちょっとしたアレンジをして、嬉しそうに見せてくれた。髪が伸びたらもっと色んなやり方を教えてあげると言われて、ワクワクしていた。

 

 

 やっぱり、考えれば考えるほどすみれは僕のところにいるべきじゃない。

 

 

『お兄さん!瑠璃華さんかわいくしてもらったんです!!……かわいい、ですか?』

 

 

 そう思って、すみれにそれを伝えようとして、溝櫛に髪型をいじってもらって嬉しそうに僕のところに来たすみれを思い出した。すごく笑顔でやってきて、不安そうにこちらを見上げたその姿。ちゃんとかわいくできているよと、髪型を崩さないようにそっと撫でた時の、花が綻ぶような儚い微笑み。

 

 それを思い出した時、心の底から束縛したいと思ってしまった。すみれのご飯が美味しいからとか、すみれがいてくれると生活が華やかになるからとか、そんな利益的な理由ではなく、この子を常に自分の元に留めたいと思ってしまった。

 

 

「お兄さん、その、実は少しだけ相談があるんです」

 

 

 自分の考えていた内容から、ついついすみれが僕から離れたがっているんじゃないかと考えるが、すみれの表情が、言い難いことを隠していながらもどちらかと言うと不安、その中でも甘えを含んだものに思えるから、そうでは無いのではないかと希望を持つ。

 

「どうかしたのかな?何かあったんだったら、なんでも相談してくれていいんだよ?」

 

 これまでと同じように、善意的な、親切なお兄さんとしての振る舞いを自分に言い聞かせて、返答をした。僕は、ちゃんと返せていただろうか。少し自信はないけれど、今はこれでゴリ押しするしかない。

 

 近いうちに余裕を見つけて、自分がこれまですみれに対してどんな言動をしていたのかを洗い出しておかなくてはいけない。

 

 

「えっと、その、相談なんですけど、わたしって、これまで暇な時間は家事のこととか、最近は手芸とかをやっていたんです」

 

 

 それは当然、平日の夜中だったり休日だったりでしか見ていない僕でも、しっかりと認識している。なんなら、すみれがあまりにも趣味らしいことをしないから、やっぱり居心地が悪いんじゃないかと不安の一因にしていたくらいだ。

 

「それでなんですけど、実はちょっと、一般教養くらいのこと、特に義務教育くらいの内容は知っておきたいなと思いまして。ほら、この先お兄さんと一緒に過ごすなら、それくらいの教養はあった方が、他の人と会う上でも恥にならないでしょうし、何よりわたしが知りたいなって思ったんです」

 

 

 

 そのことは、すみれが僕から旅立とうとしている意志の表れにも思えた。反射的にそれを否定して、少しでもすみれがここにいる時間を伸ばせないかと考えて、自分の考えの汚さに自省する。

 

 

 

「それで、なんですけど、実は少しずつ、ネットで調べられるくらいの内容は勉強してきたんです。勝手にしていたことは、お兄さんが気に入らなければ怒ってほしいです。でも、やっぱりお兄さんに相談しておきたいなって思ったのと……どうしても調べるだけだとできないところが出てきてしまったので、教えて欲しくって」

 

 

 内容を聞いてみなくては細かいとことは分からないが幸か不幸か僕は学生時代塾講師をしていた身だ。義務教育程度、つまり中学生程度の内容であれば、少なくとも適切なテキストがあれば問題なく教えられるだろう。

 

 

 それを教えている間は、すみれが僕のところから離れないのでは、という期待もあって、すみれのその告白を受け入れて、僕にできる程度であればいくらでも教えるとアピールする。

 

 

 かつて僕にとって、すみれが幸せになれることが、すみれの幸せに繋がることがいちばん優先されることであったはずなのに、そのためには多少僕の人生に傷がついたとしても多少であれば受け入れる覚悟があったはずなのに。

 

 

 今の現状は、その頃とはまさしく正反対なものだ。すみれの事じゃなくて自分の欲に従っている今の姿は、当時の僕から見たら吐き気を催すほどのものだ。

 

 

 

「よかったです……早速なんですけど、実はここの計算ができなくて……何度解いても答えがおかしな値になってしまうんです」

 

 

 どうすればいいのかわかりますか?と聞くすみれの計算の途中式を見せてもらうと、その原因はどれも計算ミスにある。

 

 

 移項の際のミスや、掛け算かける対象など、簡単なミスを指摘するだけで、すみれにとても喜ばれた。大したことをしていないのに、喜ばれた。

 

 

「こうやって、わからないところを教えて貰えるのって、とっても久しぶりなんです」

 

 

 こんなにわかりやすく教えてもらえるなら、もっと前から頼めばよかったかも。なんてすみれの言葉に、僕が勉強を見てあげれば、その間は自然とここに残ってくれるんじゃないかと欲を出す。

 

「これくらいなら、いつでも見てあげるからね。わからないところがあったらいつでも聞くんだよ」

 

 

 

 親切心の裏に隠した下心。自分でも、それに身を任せちゃいけないとわかっているのに、表向きの親切心を理由にして自分を正当化する。

 

 

 

 ああ、なんで、こんなことになってしまったんだろう。



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家の中での過ごし方(裏)

 瑠璃華さんが来て、また会おうねと約束して、数日が経ちました。

 

 チクチク?と、新しい毛糸を使ってマフラーにチャレンジします。今回はダイヤ柄、お兄さんにプレゼントして、受け取って貰えるかなと思いながら作ります。一応、ほんのりと探りを入れてみたところ、お兄さんは寒いのが苦手で、マフラーとネックウォーマーを一緒に使うこともあるくらいらしいので、期待値としては十分です。

 

 

 今度は、受け取って貰えるといいなと思いながら、編み進めます。上手に作れれば、お兄さんは優しいからきっと使ってくれます。瑠璃華さんの話だと、以前は妹さんが編んだものを愛用していたらしいので、手作りのものに忌避感があるということも無いでしょう。

 

 

 

 

 そんなことを目標にしながら、ひたすら編み物を続けます。あまり早くは編めないけれど、一編み一編みを丁寧に、綺麗に編めたマフラーを、お兄さんが着けてくれる姿を想像しながら編み続けます。

 

 

 

 そうして編んでいると、お兄さんがなにか呟いたのが聞こえました。編むことに集中してしまっていたせいで、お兄さんの言葉を聴き逃してしまったのは、反省するべきことですが、聴き逃してしまったものはどうしようもないので、お兄さんにもう一度伝えて欲しいことを伝えます。

 

「お兄さん?どうかしましたか?」

 

 少し、言葉足らずではあるかもしれません。ただ、上手く聞き取れなかったことを伝えるという点でも、あるいは要件があればもう一度言って欲しいという主張としても、最低限満足に意図は伝えられていると思います。

 

 

「ごめん、なんでもないんだ。ただの独り言だから、あんまり気にしなくていいよ」

 

 

 お兄さんはそう言って、わたしの疑問に対して煙に巻きました。

 

 

 なんでもないなんて、そんなはずは無いんです。だって、そう言ってからも、お兄さんの視線はわたしから外れません。ただ視線から外れないだけであれば、むしろたくさんわたしを見てもらえるのは嬉しくすらあるのですが、残念なことにお兄さんの表情は暗いです。

 

 もっと明るければ嬉しいのに、あんなに暗い表情をされてしまったら、わたしがお兄さんにとって、何かしらの負担になっているって言われているようなものです。

 

 負担になりたいと、お兄さんに寄生したいと思ってこそいますが、わたしとしてもお兄さんの人生に悪影響を与えたいわけではないので、やっぱり暗い表情をされることは、わたしの望むところではありません。

 

 

 

 ただこのまま、編み物をしてお兄さんに喜ばれたいと思いながら、日常の家事をするだけでは、この生活は長く続かないかもな、と、不意に思いました。もっとお兄さんの役に立てるような存在にならなくては、そう遠くないうちにお兄さんに捨てられてしまうのではないかと、思いました。

 

 

「お兄さん、その、実は少しだけ相談があるんです」

 

 

 だから、わたしはもっと、役に立つ子であるべきなんです。他の人から見た時に、お兄さんがわたしを保護していることが、わたしと一緒にいることが恥ずかしくないくらいには、まともな子であるべきなんです。

 

 

 目標の最低ラインとしては、この国が義務としている中学程度の内容を満足に習得していること。それでどれだけ、お兄さんの役に立てるかはわかりませんが、できていないのとできているのであれば当然後者の方がいいでしょう。

 

 それが満たせたら、高等学校レベル。その学校によってだいぶ水準が変わるようですが、一応そのレベルの認定があるらしいので、そこを目標にします。これはすぐには無理でしょうし、数年くらいかかってしまうかもしれませんが、それくらいの知識があれば、選り好みをしなければ仕事が見つかるらしいです。

 

 

 その頃まで、わたしがここにいることが許されるなら、わたしがお兄さんにお金を渡すことすらできるかもしれません。これまでのお礼や、家賃分や養ってもらっている分程度にはなるかもしれませんが、一方的にお兄さんから貰うだけの状態から抜け出せるかもしれないのです。

 

 

「どうかしたのかな?何かあったんだったら、なんでも相談してくれていいんだよ?」

 

 

 そこまで考えて、その第一歩として、中学程度の内容を習得したい、わからないところを教えてもらいたいと、言おうとしたわたしに対して、お兄さんはその言葉を聞く前に、優しい言葉を返してくれました。

 

 いつも通りの優しいお兄さんです。だからきっと、お兄さんはこのわがままも聞いてくれます。以前は、否定されるのが怖くって、これから死ぬやつに学なんていらないでしょ?なんて言われたらと思って言えなかった言葉も、今なら言えます。

 

 

「えっと、その、相談なんですけど、わたしって、これまで暇な時間は家事のこととか、最近は手芸とかをやっているんです」

 

 まずは、これまでの過ごし方から。必要なことはちゃんとやっていますと、アピールをしながら、少しだけ時間を持て余していて、それを手芸に使っていると伝えます。これからの相談の内容で、家事が杜撰になることは無いですと、アピールします。

 

 

「それでなんですけど、実はちょっと、一般教養くらいのこと、特に義務教育くらいの内容は知っておきたいなと思いまして。ほら、この先お兄さんと一緒に過ごすなら、それくらいの教養はあった方が、他の人と会う上でも恥にならないでしょうし、何よりわたしが知りたいなって思ったんです」

 

 

 誰かと話す上でも、知っておいた方がいい知識で、仮に出ていくことになっても困ることがない知識になります。お兄さんが、出て行って欲しい、でも死なれるのは寝覚めが悪い。という状況になった時に、出ていかせる理由の一つにもなるでしょう。当然わたしは易々と出ていくつもりはありませんが、お兄さんに嫌われてまで居着きたいとも思っていません。

 

 言い方のポイントとしては、お兄さんと一緒に過ごすなら、の部分でしょうか。わたしの中の、お兄さんと一緒にいたいという気持ちをさらっと混ぜた上に、お兄さんのそばにいたいと媚びます。

 

 

「それで、なんですけど、実は少しずつ、ネットで調べられるくらいの内容は勉強してきたんです。勝手にしていたことは、お兄さんが気に入らなければ怒ってほしいです。でも、やっぱりお兄さんに相談しておきたいなって思ったのと……どうしても調べるだけだとできないところが出てきてしまったので、教えて欲しくって」

 

 

 優しいお兄さんがそれで怒ることは無いでしょうし、まかり間違って、わたしがお兄さんから離れようとしてると思われて止められるのなら、それはそれで美味しいです。そう思われないためにも、相談しておきたいと言うことで、わたしの行動指針にお兄さんがあることを言外に伝えます。

 

 ついでに、勉強を教えてもらえたらよりお兄さんと話せる時間が増えるなんて考えて、もしかしたらよくできたねと褒められるかもと期待までしてみます。

 

 

「なるほど。うん、いいよ。ただ、だいぶ昔に習っただけのこととかもあるから、どれくらい役に立てるかはわからないけどね」

 

 わかるところならいくらでも説明するよ、というお兄さんが、昔塾の講師のアルバイトをしていたという情報は、かねてからの雑談の中で取得済みです。きっと教えることが嫌いではないだろうし、覚えている範囲も多いだろうと予想していました。

 

 

「よかったです……早速なんですけど、実はここの計算ができなくて……何度解いても答えがおかしな値になってしまうんです」

 

 

 とはいえ、最初からお兄さんがわからないなんてことになったら、何となく居心地が悪くなってしまいそうなので、最初はお兄さんの得意そうな科目から挑戦します。理系出身で、今もたまに計算する機会があるということなので、数学なら問題ないでしょう。

 

 自分で計算をしてみて、何度解いてもだめだった問題を、いくつか見せます。

 

 

「……うん。これくらいの内容なら問題なく教えられると思うよ。ただ、どこで間違えているのかがわからないから、一回解いてみてくれるかな?」

 

 お兄さんに紙とペンを渡されて、その場でもう一度解いてみます。何故かいくつか、解けてしまったものもありましたが、ほとんどは解けないままです。

 

 

「ここの式は、ここで移項のマイナスをつけ忘れているね。こっちは、左辺に掛け算を忘れている。そうだね、まずは式変形の基本、イコールの話からしてみようか」

 

 

 まず、イコールの記号の意味はわかるかな?と話を始めるお兄さん。右と左がおなじだという意味の記号だから、片方に何かをしたらもう片方にも同じことをしなくてはいけないのだと、それを利用して、式の中の邪魔なものを見かけ上消すのだと教えてくれます。

 

 

 それ以外にも、いくつか教えてもらった数学の基礎。それらを意識しながら計算するだけで、びっくりするほど簡単に解けました。

 

 

「その調子。すみれちゃんは要領がいいね」

 

 横に座って、教えてくれた、見てくれていたお兄さんが、頭をポンポンと撫でてくれます。サラッとしてて触り心地がいいから、つい手が伸びてしまうのだと、嫌だったらやめるからごめんね、と言われていますが、とっても安心できるのでもっとやってもらいたいくらいです。

 

 目を閉じて、その心地良さを謳歌します。瑠璃華さんが教えてくれた、今度くれると言っていたシャンプーを使ったら、もっとサラサラになって、もっと撫でてくれるようになるでしょうか?

 

 思わずにへらにへらしてしまいます。でも、その後すぐにやめられてしまったので、少しがっかりします。

 

 

「こうやって、わからないところを教えて貰えるのって、とっても久しぶりなんです」

 

 ガッカリしていることを悟られないように、あえて少し明るく振る舞います。撫でて、なんておねだりをして、断られてしまったらつらいから、何も言いません。褒めて欲しいなんて言わないで、褒めて貰えるように頑張ります。

 

 

「これくらいなら、いつでも見てあげるからね。わからないところがあったらいつでも聞くんだよ」

 

 

 うっすらと浮かべた笑顔と、優しい声。いつでもなんて言われたら、毎日でも聞きたくなっちゃいます。ずっと教えて欲しくなっちゃいます。

 

 

 でも、お兄さんの迷惑になってしまっては行けませんから、程々にしておきましょう。……一週間に一回くらいなら、お兄さんは快く教えてくれるでしょうか?

 




ラブコメ書いてみたい気持ちはあるけどどうやったら書けるのかがわからない……(╹◡╹)


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初めての外食

“先輩!焼き鳥が食べたいです!!”

 

 そんなメッセージが届いたのが、平日の昼頃のこと。当然と言うべきか送り主は溝櫛で、近くにいる本人の方を覗き見ると、へらっと笑って手を振っている。ほかのタイミングではなく、あえて今送ってきたことも、何かしらの意図があるのだろう。

 

 昼休憩に入るのと同時に目配せをして、ちょっとツラ貸せやと伝えると、溝櫛はなぜかにまぁっと笑って、お昼に誘おうとする同僚に何かを囁いてからこちらに来る。

 

 この時点でもう、嫌な予感しかしないが、呼んだのは僕なのでそのまま人気のないところまで移動。普段なら自分の口から要望を言ってくるこの後輩が、わざわざメッセージを使うなんてものは、僕にとって面倒なことか、最近であればすみれ関連の2択だ。どちらにせよ、不特定多数に聞かれたいものでは無い。

 

 

 メッセージだけで満足にやり取りを出来ればよかったのだが、かつてそれを思いついた僕が結局会話でのやり取りに帰着している時点で、その効果はお察しの通りである。

 

 

「それで、今度はどんなに突拍子もないことを考えたのかな?」

 

 

 予想できる範囲だと、以前すみれに渡すと約束していたものを口実にした、再度の家庭訪問か飲み屋への引きずり出し。

 

 家庭訪問の場合は、焼き鳥を用意することになるであろうすみれの負担が多いので、おそらく後者ではなかろうか。すみれの負担を考えて分担すればいいのだが、我が家の家事を担っているあの子が基本的に全部自分でやろうとしてしまうのは、僕と溝櫛の共通認識である。もっとのんびり生活してもらいたい。

 

 

 となると、あのメッセージの意図は自ずと飲み屋への引きずり出しになるだろう。屋台で軽くつまむ、なんて可能性もないでは無いが、すみれとこれだけ仲良くしている溝櫛が、すみれの料理への執着に気付いていないとも思えない。

 

 僕が突然晩御飯はいらないなんて伝えたら、その場では何ともなさそうにわかりましたと言うだろうが、家に帰ったら悲しそうに微笑んでいそうな少女を前にして、この後輩がそんな誘いをするわけが無い。

 

 

「いやー、先輩突然ごめんなさい!どーしても焼き鳥が食べたい気分になっちゃったんっすよぉ」

 

 突拍子もないことなんて、そんなとんでもー、と、へらへらと笑いながら誤魔化す溝櫛。どう考えてもただ焼き鳥を食べたいだけでは無いが、こういうところで言質を取らせないのは昔から上手い。どうせ今回も、僕が勝手に察したという形に押し込められるのだろうと考え、

 

 

「すみれちゃんに、外食の経験させてあげたくありません?きっとあの子、すごく喜びますよ」

 

 そんな言葉で、想定が返された。けれど、突然そんなことを言われても、後暗い感情を抱えている僕としてはあまり乗り気になれない。すみれと溝櫛がこれ以上仲良くなったら、と危機感を抱いてしまうからだ。

 

「とはいえ、先輩は理由がないと突然そんなことは言い出せませんからね。私が一肌脱いで、言い訳を作ってあげましょう。……すみれちゃんと約束したシャンプーとか一式渡したいんですよ。いえ、先輩がかわいいラッピングをしてある袋を会社で私から受けとって、何を貰ったのか隠しながら帰れるならいいんですよ?」

 

 

 にんまりとした笑顔。勝利を確信しているようだ。

 嫌ならいいけど、先輩の奢りで焼き鳥食べたいなぁー、なんてのたまう後輩様に、否と言えるはずもなく。

 

 すみれに話しておくことを約束させられ、この日はランチに連行された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから一週間後の金曜日。唐突な予定の変更で献立を考え直すことになったスミレに、溝櫛と二人ペコペコ頭を下げて、そんなに気にしてませんよとお許しをいただいた。

 

「ところですみれちゃん、先輩の服を掴むんじゃなくて、私と手を繋いでもいいんですよー?」

 

 

 一度家まで迎えに行ったすみれは、ソワソワした様子で僕の服の裾をぎゅっと握りながら歩いている。

 

 それを見て羨ましく思ったのか、ちょっと冷っこいけどすべすべですよーなんてアピールした溝櫛だったが、あえなくふられて撃沈する。恨みがましい目をこちらに向けるのは筋違いだと思ったが、気持ちはわからなくもないので受け入れる。

 

 

 あまり歩くのが速くないすみれのペースに合わせて、駅までの道をのんびりと歩く。週末毎に外出を重ねている甲斐があってか、それほど人目を気にすることなく話せていることに安心していると、程なくして目的地に着いた。

 

 

 フランチャイズの居酒屋だ。焼き鳥に力を入れているが、当然他の料理もあり、アルコールやソフトドリンクを提供している。まあ、普通の居酒屋だ。

 

 今更ながら、初めての外食が居酒屋というのもどうなのだろうかとも思ったが、既に来てしまったしテーブル席に案内までされてしまったので、今更ファミレスにしようとも言い出せない。

 

 最初は何呑もうかなーなんて、メニューのアルコール欄を見ているあたり、すみれに外食をというのは半分口実で、ただ酒にありつきたいというのがメインだろう。

 

 

「これ、なんでも頼んでいいんですか?」

 

 こちらは、目をきらきらさせながら不安そうにしているすみれ。残さない範囲ならいくらでも食べていいと伝えると、嬉しそうにはにかむ。料金は後日請求とかもないから、安心して食べてほしい。

 

 

 決めました!先輩もビールでいいですよね!と、勝手に人の分まで決めた後輩に、未成年の前なんだから程々にするようにだけ伝えて注文を任せる。

 

 

 少し待っていると、お通しのお新香と一緒にビールとオレンジジュースが届く。乾杯を済ませて、色々な串を食べたがるすみれに、一口分ずつ味見を分ける。

 

 

「……?お二人とも、食べないんですか?」

 

 

 真剣な顔をしながら、小さい口をもきゅもきゅ動かしている姿に小動物的なかわいらしさを見出して、溝櫛と二人で和んでいると、その様子に疑問を持ったらしいすみれが質問してくる。なんでもないよと二人ではぐらかし、不思議そうにしている様子と焼き鳥で一杯。

 

 

 すみれが来てからはお酒を控えるようにしていたが、ただ食べているところを見ながら呑むのが不思議と進む。

 

 

「そういえば、お兄さんはいつも早く帰ってきていますが、本当はこんなふうに会社の方とご飯を食べたりしたかったりしますか?」

 

 これはハマらないようにしないとなと思っていると、そこそこ焼き鳥と、主食になるものを食べて満足した様子のすみれが、突然そんなことを聞き出し、溝櫛がにんまり笑う。

 

 

「いやー、すみれちゃん。先輩ってば、前まではそこそこ付き合いがあったんですけど、ある日突然ぱったりと来なくなっちゃったんすよ」

 

 よっぽどだれかのことを大切にしてるんでしょうねー?と僕を揶揄う溝櫛だが、それとは対照的にすみれの表情は暗くなる。

 

 

「それって、お兄さんは大丈夫なんですか?そういうところでコミュニケーションを取らないと、距離を取られるって聞きました!」

 

 

 僕のことをおもちゃくらいに考えている後輩とは違って、この子は僕の交友関係まで気にかけてくれているらしい。そこまで心配されてしまうのは、どこか気恥ずかしくはあるが、少し嬉しいものだ。

 

 

「そこは大丈夫。元々そんなに飲み会が多いところでもないし、そこで話さなくても昼休憩の時によく話すからね」

 

 自由参加かつ毎度主催者や人数が変わるため、そこに出れないことによる影響はほとんどない。それよりも僕はすみれの作ったご飯が食べたいのだ。

 

 

「そうだ、お昼と言えばすみれちゃん、先輩って家ではすみれちゃんが作ったご飯食べてるけど、会社ではカップ麺ばっかり食べてるんですよ!その分家でちゃんと食べるからとか、お手軽で美味しいからとか色々言ってますけど、どう思います?」

 

 そこそこアルコールが回ってきたらしい溝櫛が、ダンっとテーブルにジョッキをたたきつけながら言う。真正面からの大きな音に、すみれはビクッと震えた。

 

 

「……おにいさん、わたし、お兄さんにはずっと健康でいて欲しいって思ってるんです」

 

 けれど、溝櫛の言葉の内容を理解すると、すみれの様子が少しおかしくなる。

 

 

「お兄さんの体のことを考えて、栄養バランスも調整していますし、お兄さんが美味しく食べてくれるように、メニューや味付けも調べてます」

 

「全部、お兄さんのためです。お兄さんが喜んでくれると思って、頑張っていたんですけど、お兄さんはカップ麺の方が、好きでしたか……?わたし、めいわくでしたか……?」

 

 

 不安そうな表情だ。親に置いていかれそうな子供のような、怯えと懇願が混ざった顔。

 

 その顔は、嫌いだ。こんな表情は見たくない。

 

「そんなことはないよ。すみれのご飯はいつも美味しいし、飲み会を断っている理由の半分くらいは、家に帰ってすみれのご飯を食べたいからだ」

 

 

 すぐに誤解を解くべく、本心からの言い訳をする。すみれの頭をポンポンと撫でながら、いつもありがとうと伝える。

 

 けれど、その表情は明るくならない。

 

 

「ほんとう、ですか?」

 

「本当だよ。なんなら、すみれがお弁当を作ってくれるなら喜んでカップ麺はやめる。お昼ご飯まで作って貰ったら、すみれが大変だと思って遠慮してただけなんだ」

 

 

 これは、半分本当だが半分は嘘だ。正確には、お昼ご飯に突然健康的でかつ凝ったものを持っていったら、誰が作ったものなのか聞かれることがわかっていたからである。僕が同じものしか作らないことはみんなに知られているし、家族と絶縁状態なのも隠してはいない。

 

 そんな状態で持っていけば、よくても恋人ができたのかと、何かしら疑われてしまうだろう。すみれが死にたがっていないとわかっている今ならともかく、最初の時期でそれはリスクが高い。

 

「……そうなんですか?……なら、月曜日からわたしが作っても、いいですか?」

 

 縋るような表情。当然否と言うはずも、言えるはずもなく、お願いしようかなと言うとようやく表情がへにゃっとゆるむ。横目で溝櫛を見たら、小さく両手を合わながら頭を下げていたので、余計なことを言った自覚はあるのだろう。

 

 

「えへへ、実は美味しいお弁当のおかずも、この前調べてみたんです」

 

 

 明日はお弁当箱を買いに行きましょうね!と、転じてニコニコ顔になるすみれ。面倒なことになりそうだけど、すみれが嬉しそうだからまあいいやと思ってしまう時点で、僕はだいぶ重症なのかもしれない。



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初めての外食(裏)

 こういうの好き?私は大好き()


 瑠璃華さんと一緒に、焼き鳥を食べに行かないかと誘われて、お母さんが一時期よく行っていた外食というものがどのようなものなのか気になったわたしは、二つ返事で行くと言いました。

 

 日程は一週間後の金曜日。既に決めていた献立は、一日分減って野菜などの扱いが変わってしまうため、一から組み直しです。

 

 こういう時に、お兄さんがかつてやっていたという、同じものを大量に作って冷凍して使い回すという方法は、融通が効くのでしょうが、毎日別のものを栄養バランス考えて作るとなると、とても難しくなります。不足分の食材を適宜買い足せるのであればまだまともに回せるのでしょうが、今のわたしのようにまとめ買いしていると、どうしても難しいものがあります。

 

 メニュー決めを最優先で済ませて、その後はいつも通りの生活をしているうちに自然と一週間は過ぎます。

 

 晩御飯の支度をする必要が無いので、いつもよりものんびり過ごして、マフラーを編み進めたりしながら連絡を待ちます。駅で合流した方がいいんじゃないかとも思いますが、甘えたい気持ちと、何かあった時の連絡手段がなくなってしまうことを理由に迎えに来てもらうことになりました。

 

 正直なところ、そろそろ一人で外出も出来そうですが、心配してもらえるのはとっても心地がいいです。

 

 

 いつもと同じ頃に入った帰宅通知で、いつでもお出かけできるように身支度をします。外は寒いけど室内に入ると暖かいからと、ちゃんと脱げる防寒着を選ぼうとして、あまり良さそうなものがないことに気がつきます。

 

 

 今度買わないと、でもお金足りるかな、なんて独り言を言っているうちに、お兄さんが帰ってきたのでお出迎えします。

 

「それなら、今日は僕のやつで凌ごうか。だいぶぶかぶかになっちゃうけど、寒いよりはいいでしょ」

 

 わたしの相談を聞いて、お兄さんが出してくれたのはひとつのコートです。着てみるとたしかにぶかぶかで、手なんて指先まですっぽり隠れてしまいますし、裾も足首まであります。歩いている時に汚さないよう、気を付けなければいけません。

 

 

「こんばんはすみれちゃん!突然でごめんね、空けてくれてありがとう!」

 

 

 お兄さんのコートでぬくぬくしながら玄関を出ると、見るからに楽しそうにしている瑠璃華さんに、謝りながらお礼を言われたので、あんまり気にしていないこととこちらこそありがとうございますを言います。

 

「あとこれ、前話してたヘアケアセット。使い方とかはまたメッセージで送るから、そっちで確認してほしいかな」

 

 そう言いながら渡されたのは、とてもかわいらしいラッピングが施された包みです。まさかここまでしたものを貰えるとは思っていなかったため、驚きながらお礼を言って、持ち歩いて汚さないように部屋の中に置いてきます。

 

 

 玄関に戻ると、お兄さんと瑠璃華さんが待っているので、鍵を閉めたら出発です。いつもと同じように、お兄さんの裾を握って歩きます。

 

 

「ところですみれちゃん、先輩の服を掴むんじゃなくて、私と手を繋いでもいいんですよー?」

 

 少しすると、会話をしながらわたしの手をちらちら見ていた瑠璃華さんがそんなことを言います。すべすべの手はとても魅力的ですが、今は寒いので冷っこいのは少し抵抗があります。

 

 それに、どうせなら一番最初に手を繋ぐのは、お兄さんがいいです。今みたいに連れていってもらうのではなく、一緒にお出かけする時に、必要もないのに繋ぎたいです。

 

 でもそんなことをお兄さんの前で言う訳にもいかないので、濁しながらお断りをします。お兄さんの服の方が安心できる、というのは、少し瑠璃華さんに失礼だったかもしれませんが、先輩だけずるい!と明るく八つ当たりしているのを見るに、それほど気にしてはいないのでしょう。

 

 一度、お兄さんではなく瑠璃華さんの服を掴んでみるというのも考えてはみましたが、考えただけでも違和感が拭えませんでした。それはそれでありなのだとは思いますが、安心感という意味では全然足りません。

 

 視界の半分にもなる大きな背中を見ながら、やっぱりこれだなと一人得心し、さっきまでよりもちょっと手に力を込めます。何かあった?と振り返るお兄さんに、なんでもないと伝えます。少し笑いが漏れて、なんでふたりで笑いあってるのと瑠璃華さんに突っつかれます。

 

 

 そうしながら15分ほど歩いたでしょうか。マンションが目立つようになり、そこかしこに多層階の建物やカラフルな看板が現れます。

 

 駅が近くなってきたかららしいです。慣れた様子で歩く二人とは違って、横断歩道や信号など、初めての経験に内心ドキドキでしたが、何とかついて行って目的地の居酒屋に着きます。

 

 入店して直ぐに、店員さんに声をかけられますが、そこは全てお兄さんが対応してくれて、テーブルの席に案内されます。

 

 4人がけの席で、奥に促されて座ります。偶然かもしれませんが、上座の席です。そんなことはさておき、正面の席には瑠璃華さんが、隣の席にはお兄さんが座ります。

 

 ここから好きなのを選んで注文していいよと言われたメニュー表を見ると、名前を見ただけでは何が出てくるのか想像できないものまで、たくさんの品名が並んでいます。

 

 どれも気になりますし、まだ全部確認すらできていません。本当に何を頼んでもいいのかもう一度確認して、他のものも気になる中で一つだけ選んで注文してもらいます。まだわたしには、大きな声で店員さんを呼ぶことは難しいです。

 

 少し待っていると、飲み物がまとめて届けられます。お兄さんと瑠璃華さんの分には、お通しと言ってお新香まで付いてきました。わたしの分は無いのかと聞いてみたところ、アルコールにしか付いてこないとの事です。

 

 ちょっとずるいと思いましたが、届いたオレンジジュースを飲んだらそんなことはどうでも良くなりました。昔は好きでよく飲んでいたジュースですが、お母さんに嫌われてからは水しか飲んでなかったので懐かしいです。りんごジュースと迷いましたが、この酸っぱいビタミンCが健康にいいのだと、お母さんに教えてもらったのでこっちです。野菜ジュースなんてものもあるらしいので、これが飲み終わったらそっちにもチャレンジします。

 

 ちびちびオレンジジュースを楽しんでいるうちに、瑠璃華さんが頼んだ焼き鳥がいくつも届きました。どれを食べたいのか聞かれて、どれがどんな味なのか分からないからちょっとずつ味見させてもらうことにします。

 

 お兄さんが取り分けてくれたお肉の、名前と味の特徴をしっかり覚えるために真剣に食べます。

 

 比較的あっさりした鶏ムネに、思わずご飯が食べたくなるような豚バラ肉のネギマ。焼き鳥と言っているのに豚肉ってどうなのでしょう?あとは、コリコリした食感が特徴的なハツ。

 

 どれも美味しくて、味わいながら食べていると二方向から視線を感じます。顔を上げて見てみると、お兄さんと瑠璃華さんが二人ともわたしのことをじっと見ていました。

 

 

 よく見ると全然食べていないので、本当は食べちゃいけなかったのかもと不安になりつつ聞いてみると、なんでもないと返されてしまいます。ただ、2人とも思い出したように食べ始めたので、良かったです。

 

 

 そうしているうちに届いた白湯クッパで口の中をリセットしつつ、頼んだら直ぐに、こんなに美味しい料理が出てくることに驚きます。わたしなんかは元々決めていたものを作るのが精一杯ですし、どこかで簡略化されているとしてもすごいシステムです。

 

 お腹がすいたタイミングで入って、その時の気分で食べたいものを直ぐに用意してもらえるなんて、お母さんが何度も行きたくなるのも当然ですね。

 

 しかしそう考えると、お兄さんだってもっとこういうところに来たいのでは無いでしょうか?わたしみたいにわがままを言うことも無く、好きなタイミングで来て好きなものを食べれるなんて、来たくなるのが自然です。それを邪魔する形になっているのだから、わたしはもしかしたら、内心で疎まれていたのかもしれません。

 

 

 

「そういえば、お兄さんはいつも早く帰ってきていますが、本当はこんなふうに会社の方とご飯を食べたりしたかったりしますか?」

 

 

 頼んだ分を食べ終わって、結構お腹が脹れたタイミングで、そう聞いてみます。普段ならわたしに気を使ってくれるかもしれませんが、今のお兄さんはお酒を飲んでいます。お酒を飲むと、人は本音を話しやすくなるというのは本でも読んでいますし、お母さんもそうでした。

 

 

「いやー、すみれちゃん。先輩ってば、前まではそこそこ付き合いがあったんですけど、ある日突然ぱったりと来なくなっちゃったんすよ」

 

 

 だから今なら、普段は言ってくれない不安や不満を言ってくれるんじゃないかと思って聞いてみると、回答は予想外の方向から来ます。

 

 やっぱり、元々は来ていたようです。瑠璃華さんの言い方からはわたしのせいでこういう店に来れなくなってしまったということしかわかりませんが、以前まで来ていたのに突然来なくなるのは、また問題があります。

 

 社会人にはノミュニケーションという言葉があるとも聞きますし、わたしのわがままのせいでお兄さんが困ったことになるのはよくありません。それを言ってみると、そういうのは大丈夫だとはぐらかされてしまいます。

 

 やっぱり、迷惑になっているのでしょう。夕方に突然、晩御飯が要らないと言われたら辛いとは思いますが、そこでわがままを言って嫌われたりしてしまったら元も子もありません。

 

 余った分は翌日のわたしのお昼ご飯にしてもいいですし、帰ったらこれまでのわがままを謝って、これからはわたしのことは気にしないで外でご飯を食べて貰えるようにお願いしましょう。

 

 

 そうひとりで決意していると、正面からジョッキを置く大きな音が聞こえて、思わずびっくりしてしまいます。

 

 

「そうだ、お昼と言えばすみれちゃん、先輩って家ではすみれちゃんが作ったご飯食べてるけど、会社ではカップ麺ばっかり食べてるんですよ!その分家でちゃんと食べるからとか、お手軽で美味しいからとか色々言ってますけど、どう思います?」

 

 テーブルに置いたビールジョッキから手を離さずに、瑠璃華さんはそんなことを言いました。

 

 

「……おにいさん、わたし、お兄さんにはずっと健康でいて欲しいって思ってるんです」

 

 その内容に、気分が暗くなって、嫌だって気持ちが出てきてしまいます。わたしがそんなことを思う資格なんてないのはわかっているのに、わがままが漏れてしまいます。

 

 

「お兄さんの体のことを考えて、栄養バランスも調整していますし、お兄さんが美味しく食べてくれるように、メニューや味付けも調べてます」

 

 わたしが勝手にやっているだけです。お兄さんが何を食べていても、何を好んでいても、それはお兄さんが決めればいいことで、わたしが口を挟んでいいことではありません。

 

 なのに、わたしは今親切の押し売りをして、お兄さんに文句を言っています。人伝に聞いた、お兄さんが美味しいと言っていたカップ麺に、自分の存在意義を奪われたように感じて、おかしなことを言っています。

 

 

「全部、お兄さんのためです。お兄さんが喜んでくれると思って、頑張っていたんですけど、お兄さんはカップ麺の方が、好きでしたか……?わたし、めいわくでしたか……?」

 

 

 そう言ったら、お兄さんがわたしを慰めてくれることをわかっていて、お兄さんがわたしが作ったもの以外においしいって言ったことに嫉妬して、不安になって。

 

 面倒くさくて、汚い子です。わがままが多いこと後悔したばかりなのに、もっと汚い手口で安心を求めています。こんなことを続けていたら、いつかお兄さんにウザがられて捨てられてしまうってわかっているのに、汚い気持ちが止まりません。

 

 

「そんなことはないよ。すみれのご飯はいつも美味しいし、飲み会を断っている理由の半分くらいは、家に帰ってすみれのご飯を食べたいからだ」

 

 

 お兄さんが、わたしに気を使って言ってくれているのはわかっているのに、美味しいと褒められて、食べたいと言われて、嬉しくなって満たされてしまいます。

 こんなふうに認められても意味はなくて、満たされても錯覚なのはわかっているのに、わたしが言って欲しい言葉をお兄さんに言わせているだけだとわかっているのに、かけられる言葉が嬉しくて、嬉しく感じてしまう自分が嫌です。

 

 

「すみれがお弁当を作ってくれるなら喜んでカップ麺はやめる。お昼ご飯まで作って貰ったら、すみれが大変だと思って遠慮してただけなんだ」

 

 瑠璃華さんと、ランチに行ったことを知っています。たまに誘われて、外のお店でご飯を食べることも知っています。お弁当なんて作ったら、ただでさえ減らさせてしまった交友の機会が、さらに減ってしまうことも、わかっています。

 

 

「……そうなんですか?……なら、月曜日からわたしが作っても、いいですか?」

 

 ついさっき、機会を減らしてしまったことを謝ろうと決めたばかりです。お兄さんのために、我慢しようと思ったばかりです。なのに、自分で言わせたこの言葉を嬉しく思って、さらにお兄さんを縛ろうとする自分が、気持ち悪いです。

 

 気持ち悪いのに、嬉しくて笑顔になってしまいます。お兄さんの予定も聞かず、勝手に約束を取り付けてしまいます。

 

 

 悪いことをして、汚いことをして、笑っています。

 

 

 

 それが、そんな自分が、この上なく気持ち悪いです。



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ひとりでおつかいできるもん!

 すみれに作ってもらったお弁当をみんなの前で食べて、ついに春が来たのかとか、相手は誰だ?溝櫛ちゃんか?みたいなからかいをしこたま受けて、何とかやり過ごして終業時間。

 そこからさらに上司から呼び出しを食らって、最近本当に成績とか諸々いいねぇ〜、この調子だと来年はそこそこの昇給は固いだろうねぇとお墨付きをもらって、家に帰る頃にはいつもの時間だ。

 

 途中すみれに定時的な連絡を送って、それに合わせて到着時間を僅かに変えたりしながら、すみれが待ち構えている状態に、そのタイミングに合わせて家に帰る。

 

「おかえりなさいっ!」

 

 いつも通りの笑顔。カバンの中からお弁当の空箱を出してお礼を言い、カバンも渡す。

 

 美味しかったよと伝えると、よかった、晩御飯も自信作ですと返される。その流れでメニューを聞いてみると、チーズの入ったハンバーグだと教えてくれた。

 

 自分で作る時はチーズを入れずに作ることが多いので、最後に食べたのはいつだったかと考えながら食べると、できたてなこともあって舌を少し火傷したが、いつもより豪華な感じがしてとても良かった。

 

 焼き鳥屋に行ったせいか、無性にアルコールを合わせたくなってしまったが、健康のことを考えても、すみれの前で醜態を晒さないためにも控える。酔っ払うことは好きだが、この子に情けないところは見せたくない。

 

 

「あの、お兄さん。今までって、食材の買い出しとかは全部お兄さんがまとめてしてくれてましたよね」

 

 図らずとも禁酒が捗りそうだと、次の健康診断を楽しみにしていると、なにか覚悟を決めたような雰囲気のすみれが、そう切り出した。

 

「でも今のままだと、この前みたいに突然予定を変更する時とかに、不便だと思うんです」

 

 確かに、毎度毎度スミレに考え直してもらうのも大変だろうし、もっとこまめにした方がいいかもしれない。考えてもらう頻度が高くなってしまうが、週三回、そこまで出来なくても週に2回は買いに行った方がいいだろう。

 

 

「だから、近いうちに一人で買い物に出れるようになりたいのですが、見守っていただくことはできますか?」

 

 

 僕の負担が多くなるから遠慮させてしまっていたのかなと一人反省していると言われた内容は正反対のものだった。

 

 一瞬、すみれの行動範囲が大幅に広がってしまうことに、独り立ちへの第一歩かと思って止めたくなったが、止めるだけのまともな理由を思いつかないから問題ないと答えた。

 

 すみれが自主的に何かをしようとしているのに、それを応援するのではなくまず止められないかと考えてしまった自分の変化が嫌になる。死のうとするのすらなくなったら程なくしてどこかの施設を頼ることになるだろうと、それまでの繋ぎとして面倒を見ようとしていたはずなのに、気がついたらこのザマだ。

 

 

「……それじゃあ、ちょっと性急だけど今から試してみる?今の時間だと人通りも少ないだろうし、ちょうどソースが無くなったところだしね」

 

 ソース一本であれば500円もあれば足りるだろうし、それくらいなら今財布の中にある。すみれに心の準備が必要なければではあるが、お試しとしては悪くない条件じゃないだろうか。

 

 

「今からですか!?……いえ、わたしはいつでも大丈夫ですが、お兄さんは大丈夫ですか?」

 

 帰ってきたばかりで、まだ疲れているのではないかと言うすみれに、そんなに遠い訳でもないから気にならないと伝える。高々歩いて七分程度の距離を歩けないほど疲れ果ててはいない。

 

 

 茶碗をうるかしておく間に言ってしまおうと決めて、すみれに財布を渡す。今更すみれが財布を盗んだり同行するなんて心配はしていないので、カード類まで入ったままだ。

 

 

「それじゃあ、僕は先に外に出て、ちょっと距離を置いて見守っているから、ちゃんと電気を消して、鍵をかけてから来るんだよ。ちゃんとついて行くから、あまり後ろを振り返らないようにね」

 

 僕が視界に入っている時しか買い物を出来ないのでは意味が無いから、ちょくちょく振り返って確認しそうなすみれに念を押してから家を出る。とはいえ、鍵をちゃんとかけたかの確認もしなくてはいけないから、この時点では玄関の前で待機している。

 

 

 もう寝巻きに着替えていたこともあってか、多少準備に時間を要したすみれが、おっかなびっくり出てきて、目が合う。軽く手を振ってみると、安心したように息をついてから気合を入れて、玄関に鍵を差した。

 

 ガチャガチャと、鳴らして、鍵がかかった音がした。すみれが一度ドアノブを回して、鍵がかかっているのか確認してから歩き出したのを見て、念の為自分でももう一回確認してから後を追う。

 

 

 とはいえ、近い場所だし、一度一緒に訪れたこともあるところだ。つい数日前に行った駅までの道中でもある。よっぽど地理感覚が無いとかでなければ、迷うこともないだろう。

 

 そう自分に言い聞かせながら、一人でまともに外を歩くことが初めてなすみれなら、道が全く覚えられないこともあるかもしれないとドキドキする。

 

 これまでで唯一の一人歩きの経験が、家から追い出されて行くあてもなくさまよっていた時のものだ。帰るつもりがなかったのもあるかもしれないが、その時の道は全く覚えていないと言っていたし、可能性としては充分ありえるだろう。

 

 

 万が一すみれが迷子になったら、財布と鍵とを預けているので、僕は家に帰ることも出来ないしどこかに泊まることも出来ない。そうでなかったとしても探すことに変わりはないが、より危機感を持ったのでその一挙手一投足からも目を離さないようにしながら歩く。はたから見たら、今の僕は間違いなく少女をストーカーする不審者だろう。

 

 

 幸い道を間違えることも、近所の人に見られることもなくすみれがスーパーに着いたので、少しだけ安心しながら距離を詰める。

 

 

 以前に案内した時に、商品の場所は棚の上に大体のジャンルが書かれているから参考にするようにと教えたことを、ちゃんと覚えていたらしいすみれが上の方をキョロキョロしながらあるくのを見守る。そのままセルフレジで会計を済ませたところを確認して、中濃ソースを一本抱えた少女の後ろを歩きながら帰る。

 

 途中で困りそうならレジくらいは助けに入らなくてはと思っていたが、少し手こずりながらもポイントカードまで読み取っていたのを見て、問題ないことがわかった。

 

 

 

 帰り道も迷ったりすることなく、無事に部屋に入ったところまで確認して玄関を開けると、想像以上に気疲れしてしまったのか、すみれが座り込んでいた。

 

 

 よく頑張ったねと褒めながら頭を撫で、靴を脱ぐのを待って財布と鍵を返してもらう。

 

 ちゃんとレシートも取ってきてくれたし、あと何回か試して問題がなさそうなら、すみれに財布をプレゼントするべきだろう。ついでに、今は家から出ないからとSIMカードの入っていないお下がりのスマホを渡して連絡をとっていたが、外に出るのならちゃんと外でも使えるようにしなくてはいけない。

 

 

 

 格安SIMっていくらくらいなのかな、とか、渡す財布に食費分はどのくらい入れておくべきなのかとか、新しく考えることは増えてしまった。それに、すみれが僕から離れるように手助けをしているような気もする。

 

 けど、褒められてえへへとはにかむこの子のことを考えるなら、これでいいのだろう。

 

 もう何回か試してみて、無理だと投げ出してくれればいいのにと思う自分の心を押さえ込んで、僕はすみれが普通に外出できるようにする算段をし始めた。



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ひとりでおつかいできるもん!(裏1)

 すっごく自分勝手なわがままを言ってしまった後、大変なことをしてしまった申し訳なさと、形だけでもそれを許してくれた嬉しさ、それを許させてしまった罪の意識でぐちゃぐちゃになりながら、リカバリーの方法を考えます。

 

 

 本当ならわたしのことは気にしないで食べてきてくださいとお願いするはずだったのに、カップ麺に嫉妬してしまった後でそれを言っても絶対に本心からだとは思ってもらえません。

 

 その分もひっくるめて、お兄さんに疎まれないようにしなくてはいけないのです。元々マイナスだったものを、さらにマイナスにしてしまった以上、少しでもゼロに近付けなければいけません。わたしがいなくなれば全て丸く収まることは確かですが、それをしたくない以上難易度は一気に上がります。

 

 今のわたしにできることはほとんど全てやっていますし、お兄さんにしてもらっていることはお兄さんの好意によるものなのでそれを無下にすることはできません。

 

 

 せいぜいが、お兄さんから貰っているお金を使ってなにかプレゼントをするくらいですが、そもそもプレゼントを買うためにはお兄さんに着いてきてもらわなくてはいけません。お兄さんに迷惑をかけているお詫びで、さらにお兄さんに迷惑をかけるのは、おかしな話でしょう。

 

 

 わたしが一人で外に出れれば問題なかったのですが、まだどうしてもこわいです。早く克服したいと思うのですが……いえ、これは甘えですね。今まで後回しにしてきたせいで、お兄さんにお詫びが出来ないのです。

 

 

 何通りか、わたし自身がこの部屋から出て、お礼やお詫びの品を買う姿を想像します。

 

 何も無く一人で外に出るのはまず無理です。お兄さんと外に出るのは、つかみたくなっちゃうからダメです。お兄さんの後ろを、距離をとって追いかけるのは出来ると思います。逆にお兄さんが後ろから着いてきてくれるのも、大丈夫なように思えます。姿が見えなくても会話ができるなら、ギリギリ大丈夫ではないでしょうか。すぐに助けを求められるけど基本的には一人、というのは、まだ少し難しそうです。

 

 

 結局また負担をかけてしまいますが、どの道いつかはやらなくてはならないことでしたし、一人で外出ができるようになればお使いにも行けるようになります。長い目で見れば、比較的プラスになるでしょう。

 

 

 お兄さんにお願いする理由としては、買い出しの担当ができるようになる、というもので大丈夫でしょう。献立の融通がききやすくなることを伝えれば、しっかりとプラスの面もアピールできます。

 

 

 お願いする内容の方は、着いてきてもらうのがいいでしょうか。本当は会話だけから始めた方がいい練習になるのでしょうが、わたしがお兄さんに使わせてもらっている携帯は家の中かお兄さんのスマホの近くでしか使うことができません。それに、一人でお出かけをしたことがないので、道に迷わないかも心配ですし、これが無難な気がします。

 

 

 多分断られることは無いでしょうから、今日お兄さんが帰ってきたらお願いしてみましょう。実際にできるのは、早くても今週の週末になると思いますが、心の準備もありますから早いうちに伝えた方がいいです。

 

 

 ハンバーグを作りながら、お兄さんからの帰宅連絡に返信します。汁物のこととかを考えると、コンロがひとつじゃ不便なので、お兄さんへのプレゼントとは別にコンロが欲しくなります。晩御飯の支度は時間こそかかりますが一つで回せていましたが、朝のお弁当作りは時間が限られているのでどうしても作れるもののクォリティに限界が出てしまいます。

 

 お弁当ということもあって、出来たてで食べてもらう訳でもないので、作り置きに手を出すことも視野に入れつつ考えます。

 

 ひとまずものは試しで、一口サイズのハンバーグをいくつか作ってみます。冷めてから食べてみて、美味しく食べれたらお弁当にも入れてみましょう。お兄さんがレンジで温めてから食べれるのであれば、温めた際の味も確かめなくてはなりません。

 

 幸いと言うべきか、ハンバーグのタネを多く作りすぎてしまっていたため、数はそこそこ確保できます。上手く出来なかった場合はわたしのお昼ご飯になるので、もしもの場合も大丈夫です。

 

 

 一口サイズのものをタッパーに入れて、あら熱をとるために置いておくと、ちょうどお兄さんからメッセージが届きました。いつもの帰宅2分前通知です。

 

 

 料理の途中で汚れた手を洗って、姿見を見ながら身だしなみを整えます。にこっと口角を上げて、笑顔の練習をして、変な笑いにならないかチェックします。

 

 

「おかえりなさいっ!」

 

 どれも問題なさそうなので玄関の前で待って、ドアを開けたお兄さんに笑顔で言います。笑顔で元気よく挨拶されて、嫌な気持ちになる人はいないとネットでも見ましたが、確かにお兄さんはいつも少し嬉しそうにただいまと言ってくれます。お母さんのように、おかえりなさいと言われたら舌打ちしてしまうくらいには嫌な気持ちになる人もいるので、あまり信用していなかった記事でしたが、瑠璃華さんに挨拶した時の反応を見るにあながちおかしなものではなかったのかもしれません。

 

 お弁当箱を受け取って、シンクの横に置きます。カバンを受け取って、いつもの場所まで運びます。

 

 お弁当の感想も言ってもらって、感触が良さそうなことに満足します。お弁当を作って渡すのは初めてだったので、少し心配していましたが、おかしなものにはなっていなかったようです。

 

 

 晩御飯がチーズINハンバーグだと話しながら配膳をして、一緒に食べます。ちゃんと全体に火が通っていて、けれどもパサついてはいない、いい感じの仕上がりです。付け合せの人参やアスパラガスも美味しくできていたし、お兄さんがご飯をおかわりしてくれたので、大成功と言ってもいいでしょう。

 

 

 食べながらお弁当のフィードバックをもらったり、職場の人の反応とか、それを話すお兄さんの表情を見たり聞いたりします。

 

 明日はもう少し、おかずの分量を増やした方が良さそうだということがわかった所で、お弁当の話がひと段落着いたので、一度頭の中を切りかえて、お兄さんにお願いする内容を思い出します。

 

 

「あの、お兄さん。今までって、食材の買い出しとかは全部お兄さんがまとめてしてくれてましたよね」

 

 

 今の今まで話していた感触から、想定通りお兄さんの機嫌はいいです。また、お弁当を作ったことに関しても、普通に喜んでいるように見えます。

 

「でも今のままだと、この前みたいに突然予定を変更する時とかに、不便だと思うんです」

 

 なので、変に機嫌をとったり、言い回しに気を使ったりするよりも、不便だから解決しませんか?というような提案の方が良さそうだと判断しました。

 

 

「だから、近いうちに一人で買い物に出れるようになりたいのですが、見守っていただくことはできますか?」

 

 

 突然の申し出であることもあって、驚いた様子のお兄さんは少し考え込みます。これまで外出の度に服を握っていたわたしが、突然こんなことを言い出すのだから当然です。

 

 

 

「……それじゃあ、ちょっと性急だけど今から試してみる?今の時間だと人通りも少ないだろうし、ちょうどソースが無くなったところだしね」

 

 

 考えた結果、やってくれる気になったようです。とはいえ、週末くらいを想定していたわたしは、その急さに驚いてしまいます。自分の心の準備ができていない中で一丁前にお兄さんの疲れの心配をして、それじゃあこれねとお財布と鍵を渡されます。

 

 

 先に家を出てしまったお兄さんを見送って、頭の整理をします。とりあえず、すぐにしなくてはいけないのは着替えでしょうか。家の中は常にエアコンが付いているため、過ごしやすい温度ですが、外は寒いはずです。急いで外出用の服に着替えて、土曜日に買ってもらったばかりのモコモコな上着を着込みます。

 

 ふと気がついてしまったのですが、わたしが何も考えずに受けとってしまった鍵とお財布は、どちらもお兄さんにとってとても大切なもののはずです。

 

 当然そんなことはしませんが、今わたしが鍵をかけてしまえば、お兄さんは家に入れなくなってしまいますし、お財布の中に至っては個人情報の塊です。

 

 誘惑に負けて、中身を見てしまうと、ポイントカードから銀行のカード、保険証から運転免許証まで、全部入りっぱなしでした。

 

 

 悪いことをしている自覚は、ありました。お兄さんが不用心なのをいいことに、知らなくていい事まで知ろうとしています。やってはいけないとわかっているのにやめられなくて、止まれなくて、お兄さんの個人情報を頭に詰め込みます。

 

 お兄さんはわたしのことをなんでも知っているのに、わたしはお兄さんの名前の漢字すら知りませんでした。お兄さんがわたしに自分のことを話してくれないのがいけないのだと無理やり自分を正当化しながら、誕生日や勤め先なんかを覚えます。

 

 お兄さんのことを知れる喜びと、悪いことをしている罪悪感とでぐちゃぐちゃになりながら、何とか理性をフル動員させて全部をお財布の元あった場所に戻します。

 

 あまり遅いとお兄さんが戻ってきてしまうかもしれないし、もし戻ってきた時にわたしが個人情報を覚えているのを見たら、良い気がするはずもありません。

 

 結構な罪悪感を感じながら、わたしはお財布をポケットにしまい、玄関を開けました。



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ひとりでおつかいできるもん!(裏2)

 個人情報を見るのに、思った以上に時間をかけてしまっていたため、お兄さんが不審に思っていたり怒っていたりしないか少し不安になりながら、玄関から出ます。

 

 もしかしたらお兄さんがいないかもしれないと、暇を持て余して先に行ってしまっているかもしれないと思いながら周囲を見ると、少し離れたところにいたお兄さんと目が合って、手を振られます。

 

 この様子だと、違和感を持たれたということはなさそうです。内心罪悪感とか背徳感が凄かったりしますが、そこだけは安心できました。

 

 

 ほっと一息ついて、玄関に鍵をかけます。当然ながら初めての経験なので上手くいかず、鍵の向きを一度間違えてしまいましたが、結局はちゃんと掛けれたので結果オーライです。

 

 

 後ろを振り返ってはいけないと言われているので、それに従って確認することなく、歩き始めます。道なりに真っ直ぐ進んで、特徴的な緑色の建物のところを左に曲がり、その先にある五叉路を右前に曲がります。

 

 途中見つけた横断歩道では、4回くらい念入りに左右の確認をして、反対側から来た人が不審そうにしながら渡るのを見て、ようやく渡ることができました。

 ショッピングモールで乗ることになったエスカレーターと言い、世の中には流れに合わせなくてはいけないものが多すぎるのではないでしょうか?とてもではありませんが、何も考えずに渡れるようになる日が来るとは思えません。先程の方は、なぜあんなに簡単に渡れたのでしょうか?

 

 

 そんなことを考えながら、道路の右側をひたすら歩き続けます。歩行者と車両のすれ違いの際により安全にと定められたらしい法律を、車が全く通っていない道でも守れるのは、わたしのいい子なところの表れではないでしょうか。

 

 少しすると、目的地のスーパーに到着しました。ほとんど人とすれ違っていないことはともかくとして、不安になってお兄さんがいるはずの後ろを振り返らずにここまで来れたのは、とてもすごいことでは無いでしょうか。いえ、普通の人にとって外を出歩くというのは至極当たり前のことだとは思いますが、わたしの環境であればここまでの進歩は十分に誇れるものであると思います。

 

 もちろん、そこまで精神を保てたのも、ちゃんとお兄さんのものと思わしき足音が聞こえていたからですが、それだけでできるなら、お守りでもあればなんでもできるようになってしまうでしょう。

 

 

 つまり、わたしは頑張ったのだと精一杯自画自賛して、スーパーの中に入ります。今日の目的は、中濃ソースを買うことです。

 

 

 けれど、これまで普通にお買い物をしてきた人達であれば、ある程度陳列されている場所も推測が着くのでしょうが、まともなお買い物が初めてなわたしには皆目見当もつきません。

 

 入口の野菜売り場で、どうしたものかと立ち止まって、なんとなしに上を見上げると、保存食と書かれた板が吊り下がっているのが目に入りました。そこで、以前お兄さんに教えてもらったことを思い出します。

 

 乾麺、袋麺、カップ麺、お菓子と、色々な文字が釣られている中で、見つけたのは調味料の文字。棚の上から下までみっちりと並べられた調味料の中から、ソースを探します。大きいので、あまり上の方にはないだろうと検討をつけて、下の方から探すと、予想が当たっていたようですぐに見つけることが出来ました。

 

 これまで使っていたサイズのものと、もうひとつ大きいサイズのもののどちらにするべきかを考えます。大きい方を買っても、悪くなるよりも先に使い切れるでしょうし、グラム単価で考えるとこちらの方がお得です。

 

 買い物の目的が、足りなくなったソースを買い足すことですから、今までと違う大きさを買って怒られることも無いでしょう。

 

 こちらにしようと手に持ったところで、冷蔵庫のことを思い出します。普段ソースはドアポケットの方に入っているのですが、元々高さがギリギリでした。さらに大きくなってしまうと、中に入り切るかが心配です。

 

 

 元々かなりの頻度でソースを使っていたというお兄さんが、お徳用サイズではなくひとつ小さいものを買っていた理由を、もっと考えておくべきでした。

 

 

 買う前に気付けたことに一安心して、いつもの大きさのものを選びます。そのまま、店員さんのいないレジでバーコードを通して、お金を払います。

 

 自動精算機の案内にしたがって操作して、無事に購入完了です。しっかりレシートを取って、お財布にしまいます。

 

 

 お兄さんが普段使っている買い物袋を持ってくればよかったなと、ソースを抱きながら思い、帰ります。

 

 車に気をつけて、横断歩道では何度も左右の確認をしてから渡ります。家の前について、部屋があっているかの確認も念入りにして、鍵を開けて中に入ります。

 

 

 思いのほか緊張していたらしく、扉が閉まるのと同時に気が抜けて、座り込んでしまいました。体に力が入らなくて、どうしようと思っているとお兄さんが帰ってきて、褒めてくれます。

 

 よく頑張ったねと言われて、頭を撫でられます。それが嬉しくて、温かくて、頑張ってよかったなと思えてしまいます。

 

 

 体に力が入らないわたしを避けて、お兄さんはわたしが持っていたソースを冷蔵庫にしまってくれます。

 

「だいぶ疲れているみたいだけど、まだやる気があるなら次は電話でも繋げながら行ってみる?」

 

 すみれちゃんのスマホは家の中でしか使えないから、その時は一旦僕と交換することになっちゃうけど、と言うお兄さんの言葉に、驚きます。わたしが1度考えた内容で、お兄さんが嫌がるだろうと思って諦めたものだったからです。

 

 週末にでもどうかなと言うお兄さんに、ぜひお願いしますと返して、ようやく体に力が入るようになったので起き上がって靴を脱ぎ、借りていたお財布と鍵を返します。

 

 お財布を受け取ったお兄さんが、この場でそれを確認しだして、おかしいところを咎められたりしないか少々不安にもなりましたが、幸いと言うべきかお兄さんはそれをその辺に放って、シャワーに入ってしまいました。

 

 もっと撫でて欲しかったなと欲しがりながら、水に浸けて落ちやすくなった茶碗の汚れを落とします。

 

 

 それも終わって、ダボッとした部屋着に着替えて、なんとなしにお兄さんの働いている会社の名前を調べます。その広報ページを見て、お兄さんがちゃんと写っていることも確認します。

 

 やっていることが、ストーカー行為、悪いことだということはわかっていても、やめられません。

 

 

 お兄さんがシャワーから出てくるまでの短い時間、わたしはそこに乗っているお兄さんの写真を見つめていたのでした。

 



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本編(よく捏ねます)
楽しい楽しい?お泊まり会1


 曇らせ展開がアップを始めたかもしれません

 

 ─────────────────────────

 

「突然なんだけどねぇ、灰岡くぅん。ちょっと申し訳ないんだけど、来週出張に行って貰いたいんだよねぇ……」

 

 

 本人の言うように突然、いつもの様に粘度の高い喋り方で言い出したのは、上司の青柳だった。本人の言うように、たしかに申し訳なさそうに見えるし、実際に申し訳なく思っているのだろう。八の字になった眉からもそれは見受けられる。

 

 

 本当に申し訳ないんだけど、ちょっと大事な要件になるから、拒否権は無いと思って欲しいんだ。と言う上司に対して、僕が返せる答えはYESだけだ。会社の中で仕事をしている以上、大した理由も話さずに嫌だと言う訳にもいかない。

 そして、前まで出張と言われても特に拒否することなく受け入れていた僕にとっては、精神的に何かしらの疾患があるなんてことを主張できる訳でもないので、理由がない以上それを受け入れるしかないのだ。

 

 

 

 少なくとも今、僕には出張と言われて懸念材料があるが、それはすみれを一人にしてしまうこと、あるいはすみれを自分の元から離してしまうことだ。これが理由として話せれば、この上司であれば普段なら認めてくれそうでもあるが、僕がすみれのことを周りには隠していることや、ちょっと大事な要件ということを考えるに、まともに説得できる可能性はゼロと言っても過言ではないだろう。

 

 

 すみれが1人になってしまうのを、どうしようかと考えながら話を続けると、僕が出張に出る期間は、2泊3日だと伝えられる。

 

 

 

 

 すみれが一人で外出をする練習を始めてから、既に一ヶ月が経っていて、つい先日には合鍵を作って渡すのと、新しい財布をプレゼントするまでに至っていた。

 僕が何もせずとも、問題なくすみれが一人で、少なくとも買い物くらいは満足にできるようになっていたのだ。

 

 そのことを考えれば、すみれを一人家に残して出張することも、難しくはなさそうに思える。家に長時間一人で残すこと自体には、まだ不安があるものの、まあ、無理ではなさそうだと思ったのだ。それに、上司から言われた時点で、拒否するだけの理由をつけられない以上、この先の選択肢はとても限られている。

 

 

 

 

「あれ、先輩。なんか暗い顔してるけとま、何があったんですか?」

 

 そう言いながら、やってきたのは選択肢の一つこと溝櫛(みぞくし)瑠璃華(るりか)だ。正直、話したい気持ちはすごくあったのだが、今の時間はまだ就業中て、雑談のために無駄にしていい時間ではない。この場は一度流して、また後で話すと伝える。

 

 

 

 そうしてやることを済ませてのお昼時。何があったのかと聞いてくる溝櫛に、少し出張することになったと話すと、察したような顔をされる。すみれをどうするのか聞きたそうにこちらを見ているが、僕もまだ決めていないのでなんとも言えない。

 

 

“すみれちゃんの意志次第ですけど、心配なようならうちで預かりますよ”

 

 

 そのことを察したのか、送られてきたのはこんなメッセージだった。他の人がいる場所で話すのではなく、こうしてくれたのは溝櫛の思いやりだろう。それに感謝して、相談してみるとだけ伝えて、その後何も無く帰宅。帰り際、溝櫛は話したそうにしていたが、同僚に拉致されてどこかへ行ってしまった。

 

 

 溝櫛からの提案に乗って、すみれを預けるのはありだろう。僕の場所だけではなく、あの子が色々な場所を知って、その結果自分のいたい場所を見つけた方が、きっと幸せになれるはずだ。

 そうはわかっていても、あまり乗り気になれないのは、怖いからだ。すみれが僕の元を離れて、他の場所に行ってしまったら、今ある僕の幸せな日常は消えてしまう。きっと残るものは空虚で、味の無くなったガムみたいな生活だけだ。

 

 すみれと溝櫛が仲良くしているのを知っているから。以前冗談半分かもしれないが、溝櫛がうちの子になってくれないかなんてことを言っていたから。そして、自分の元にいるよりもそっちの方がすみれのためになるんじゃないかと思ってしまうから。

 

 一度僕以外の居場所を見つけてしまえば、すみれはきっと離れてしまうだろうから、離したくはない。

 

 その点で、留守番をしてもらうのは安心だ。だって、すみれはずっと家にいてくれるわけで、溝櫛の家に居場所を見つけることにならない。いつもみたいに、家を出るのを見送ってもらって、帰った時には出迎えてくれるのだ。もし一人で夜を越すことを不安がるのなら、音声通話はビデオ通話をすることも出来る。

 

 なんだ、問題ないじゃないかと、溝櫛には、お留守番の練習をしてもらうためとか何とか理由をつけて勝手に断ってしまおうと考えて、

 

 

「お兄さん、おかえりなさいっ!」

 

 

 いつものすみれの笑顔を見て、正気に戻った。

 

 自分のことながら、酷い思考の偏りだっただろう。自己中心的で、人の気持ちを考えなくて、人の善意を踏みにじるところだった。

 

 そのことに気付いて、自分の考えを恥じると共に申し訳なく思っていると、僕の様子に違和感を持ったらしいすみれから、大丈夫かと問われる。

 

 あまり大丈夫じゃないかもしれないと、後で相談することがあると伝えると、すみれは少しビクッとしてすぐに取り繕ったかのように明るく戻った。

 

 まるでやましいことでもあるような態度だなと、ちょっとほっこりして、むしろやましいことが全くない方が不健全かもしれないと安堵する。

 

 やましいことがあることに安心するのもおかしいかもしれないが、すみれなら隠していたとしても大したことじゃないだろうという信頼がある。

 

 

 すみれに変な心配をかけないために、大したことじゃないから気にしないでくれと伝えて、晩御飯を食べる。この日のメインは酢豚だった。

 

 

 

「相談なんだけど、今度出張に行くことが決まったんだ。2泊3日で、数日開けることになるからどうしようか話そうと思って」

 

 

 出張という言葉の意味の確認から入って、すみれは驚いたように止まる。

 

「……それはつまり、その間、わたしが一人で待っていればいい、ということでしょうか?……」

 

 少し不安ですというスミレに、案としては一人で待っていてもらうものと、溝櫛の家に預かってもらうことの二つがあると伝える。

 

「すみれも突然一人になったら不安だろうし、溝櫛も前にお泊まり会をしたいとか言ってたから、この機会にどうかと思うんだ。僕がいたらしにくい話とかもあるだろうし、きっと楽しいと思うよ」

 

 

 心情的には、いってほしくないという気持ちが強いが、それではすみれのためにならないだろうから、ぜひ行っておいでと言う。

 

 すみれは少し悩んで、ちょっとだけ寂しそうに笑う。

 

「わかりました。お兄さんがそう言うのなら、瑠璃華さんにお願いしてみますね」

 

 

 寂しそうな顔の意味を聞くより先に、ちょっと洗い物してきますとすみれは席を立った。全力で喜ばれたらショックだっただろうが、すみれもそっちの方が楽しいし嬉しいだろうと思っての提案なだけに、少し困惑する。

 

 

 

 とりあえず溝櫛に連絡して、よろしく頼むと伝える。直ぐに既読が付いて、こちらは大喜びの返信が届いた。そのまま送る時間や迎えに行く時間、持たせるものなんかの話をする。

 

“ふっふっふ、これですみれちゃんがうちを気に入ってくれたら、引取りの大チャンスですねっ!せいぜい甘やかしてメロメロにさせちゃうから、奪われる覚悟をしておいてくださいっ!”

 

 最後に送られてきたこんなメッセージに、すみれがそうしたがったらねと返す。

 

 

 きっと半分くらいはふざけているだけなのだろうけど、僕が一番気にしているところをズブッと刺してくる後輩だ。

 

 

 

 

 

 そうして出張の前日、僕はすみれを溝櫛に引き渡した。

 





 キャラの外見がわからない……どんなイメージですか?(╹◡╹)


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楽しい楽しい?お泊まり会(裏1)

 いつも通りのお出迎えの際に、お兄さんの表情が暗いことに気付きます。なんというか、お仕事で辛いことがあって帰ってきた時のお母さんに似ているのです。

 

 

「……お兄さん、大丈夫ですか?」

 

“……疲れてるの。見てわからない?”

 

“心配かけちゃってごめんね、すみれ。大丈夫。お母さんは大丈夫だよ”

 

 

 思わず、口から言葉が出てしまって、直ぐにお兄さんを不快にさせてしまっていないか不安になります。

 

「うん、あまり大丈夫じゃないかもしれないけど、大丈夫。後で少し話さなきゃいけないことがあるから、その時に理由は話すよ」

 

 

 不快にしてしまったわけではなさそうなので、そこを安心するのとともに、お兄さんが大丈夫じゃないかもしれないという話の内容に不安が募ります。

 

 おそらくは会社で何かあったのだとは思いますが、それではわたしに話さなくてはならないことにはなりません。

 

 わたしに話さなくてはならなくて、そしてお兄さんが大丈夫じゃないかもしれないと言うようなもの。一体何なのだろうと考えて、少し思い当たる節があってビクッと体が震えます。

 

 わたしに関係があることで、お兄さんが気にすることなんて、わたしがなにか良くないことをしたことくらいです。そして、わたしがした悪いことなんて、いくらでも心当たりがあります。

 

 

 お兄さんの個人情報を勝手に調べたこともそうですし、料理用に買った食材を使って、おやつにプリンを作ったこともあります。デザートを作った時に、途中味見をしすぎて、結局お兄さんの倍くらい食べてしまったこともありますし、お出かけ練習の際に入れた位置情報共有アプリを使って、定期的にお兄さんの居場所を監視したりもしています。

 

 あまり怒られなさそうなものから、知られたらドン引きされそうなものまで、隠し事は沢山です。その中のどれか、あるいはいくつかがバレたのであれば、大丈夫じゃないかもしれない事態になるかもしれません。

 

 

 本当はバレた段階で、自分から謝った方がいいのだと思いますが、あまりにも心当たりが多いせいで、どれを謝ればいいのかわかりません。違うもので謝ったら、より深刻化してしまうでしょう。そう考えると、満足に謝ることもできません。嫌われたくなくて保身に走ってしまうとは、わたしの悪い子加減にも磨きがかかってきました。

 

 

 とはいえ、ビクッとしてしまった以上、そのままだととても怪しいと思いますので、何事も無かったかのようにシラを切ってみます。お兄さんの言葉に、そうですかと明るく返して、今日の晩御飯は酢豚ですよと話を逸らします。

 

 それが幸をなしたのか、お兄さんは楽しみだと言いながらわたしの頭をポンポンと撫でてくれました。ごまかし成功です。内心でこっそり、ガッツポーズを取ります。

 

 

「そんなに大したことじゃないから、気にしたり緊張したりしなくていいよ」

 

 わたしがビクッとしたところも見られて、その後の振る舞いも全部悟られていたのでしょう。ごまかし失敗です。ちょっとしょんぼりしますが、おそらくわたしにやましいところがあると察した上でのこの対応です。多少なら目を瞑ってくれるということでしょう。お兄さんの優しさが嬉しくて、やっていたことがバレていたということが、少し恥ずかしいです。

 

 

 とはいえ、この言い方であれば最初からわたしに何か問題があった訳ではなさそうです。そうなると、お兄さんの言う大丈夫じゃないかもしれないことの想像が本当につきません。

 

 気になりながらも、気にしなくていいと言われたからあまり考えないようにして、晩御飯を食べます。今日の酢豚は自信作でしたが、あまり味が分かりませんでした。お兄さんが気になることを言ったせいです。そのままご飯を食べ終えて、お兄さんが口を開くのを待ちます。

 

 

「相談なんだけど、今度出張に行くことが決まったんだ。2泊3日で、数日開けることになるからどうしようか話そうと思って」

 

 

 出張。聞いたことはあります。お仕事の関係で、普段行かないところまで遠出する時に、日帰りが難しいから泊まりがけになることです。念の為、お兄さんに言葉の意味を確認して、その認識で大丈夫と言われます。

 

 

 そうなると、まるっと2日間はお兄さんには会えなくなってしまうということでしょうか。とても寂しいですし、本音を言うと行って欲しくないのですが、あんまりそんなことを言っても、迷惑になってしまうので何も言えません。

 

 せめて、朝ごはんとお弁当はしっかり作って、晩御飯にはいつも以上に力を入れましょう。夜は寂しいので、おやすみの挨拶だけは電話をかけてしまうかもしれませんが、ちゃんと一人で寝ます。

 

 

「……それはつまり、その間、わたしが一人で待っていればいい、ということでしょうか?……」

 

 わたしだって、いつまでもお兄さんがいないと何も出来ないんじゃいられません。お兄さんが安心して家のことを任せてくれるようにならないとと、そう覚悟を決めて、けれどもだという気持ちが漏れてしまいます。

 

 

「そうだね。それもあるし、溝櫛の家に預かってもらうこともできる」

 

 ()()()()()()()、その言葉が、刺さりました。お兄さんは、わたしに一人でお留守番をさせることが、不安なのでしょう。信頼できる人の元で見てもらっていた方が、安心できるのでしょう。

 

 わたしがこれまで、頑張ってきたことがあっても、まだまだお兄さんにとってわたしは、保護してあげてる対象に過ぎないのでしょう。

 

 そう考えると、胸が痛くなります。なぜかはわかりませんが、とても苦しくなります。

 

 

「すみれも突然一人になったら不安だろうし、溝櫛も前にお泊まり会をしたいとか言ってたから、この機会にどうかと思うんだ。僕がいたらしにくい話とかもあるだろうし、きっと楽しいと思うよ」

 

 お兄さんの言葉が、痛いです。わたしを心配してくれる優しさが、つらいです。

 

 けれど、お兄さんの前で情けないところを見せるのは嫌なので、隠します。辛いのも悲しいのも、それを隠しながら明るく振る舞うのも慣れています。

 

 あのころと同じように、望まれるままに。こんな風に言うくらいですからお兄さんはわたしに、瑠璃華さんのおうちに行ってほしいのでしょう。その方が安心するのでしょう。

 

 

「わかりました。お兄さんがそう言うのなら、瑠璃華さんにお願いしてみますね」

 

 

 今のは、上手く笑えていなかった自覚があります。きっとお兄さんにも気付かれてしまったでしょうから、お茶碗を洗うと言って立ち上がります。食べ終わったものを運んで、キッチンと部屋の間の扉を閉めます。

 

 

 お兄さんの言うこともわかります。確かに瑠璃華さんは、うちに来ないかと何度かわたしのことを誘っていましたし、わたしもお泊まり会に関しては結構乗り気でした。お兄さんがいたら聞きにくい話も、確かにあります。

 

 だから、お兄さんは何もおかしなことは言っていないのです。ただわたしが、変なところで勝手にショックを受けているだけ。そんなことはわかっていますし、お兄さんがわたしのことを考えてくれていることも嬉しいです。

 

 

 けれどそれ以上に、自分が居なくてもお兄さんにはなんの問題もないのだということが、苦しいです。わたしはお兄さんがいないとダメなのに、逆は大丈夫なのが嫌です。

 

 もっとわたしを必要としてほしくて、もっとわたしに執着してほしくて、もっとわたしを使ってほしくて。そんなよくない欲求が、強くなります。お兄さんがわたしに色々教えてくれて、色々なことをさせてくれるのが、わたしを独り立ちさせる準備に思えて、怖くなります。

 

 

 洗い物ついでに顔を洗って、気持ちを切り替えます。思うところはありますが、まずはお泊まり会をしっかり楽しまなくてはなりません。



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楽しい楽しい?お泊まり会(裏2)

 出張の前日、お兄さんの明日の朝ごはんとお弁当を作って、冷蔵庫にしまいます。本当は朝に出来たてを出したかったのにと、内心でぼやきますが、お兄さんに食べてもらうものである以上、当然手抜きはしません。

 

 出張なら、行った先でなにか食べたいものがあるだろうと思って、お弁当を作るのはやめておこうと考えていましたが、移動中に軽くつまめるものが欲しいと言われたのでサンドイッチを用意します。おにぎりも考えましたが、冷蔵庫で冷やすとどうしても固くなってしまうため、不採用になりました。

 

 朝ごはんの分は、焼き魚とおひたしに晩御飯の残りのお味噌汁です。お好みで漬物と納豆もどうぞと伝えておいたため、しっかり食べて行ってくれるでしょう。

 

 

 瑠璃華さんの家に行く前に、最後の確認を済ませます。賞味期限が近いものも残っていませんし、洗い物も終わっています。長期間家を空けると排水溝の匂いが大変だと見たので、ラップをかけてもらうようにお兄さんにも言いました。

 

 掃除もできていますので、安心して出発します。お泊まり用のセットをまとめた、大きめのリュックを背負って、鍵をかけます。念の為一度ドアノブを回してみて、開かなかったので一安心です。

 

 家の前にお兄さんが着けて、待っていてくれている車に乗りこんで、そのまま発進です。以前までは準備を待ってもらって、その後で一緒に移動していましたが、わたしが一人で外に出れるようになったので、もうそこまでしてもらう必要も無くなりました。少し寂しくはありますが、これも成長なのでしょう。

 

 

 これからしばらく離れることになるため、寂しくならないように車の中で沢山お話をします。さっき食べた晩御飯の話だったり、明日の分の朝ごはんやお弁当の話だったり、テレビの話だったり。

 

 食べ物の割合が多くなってしまいますが、お兄さんとお話をすることが目的なので、内容はなんでもいいんです。とはいえ、食べ物のことしか考えてない子だとは思われたくないので、もう少し会話のネタを集めておくべきかもしれません。

 

 

 少しの間そんな風に過ごして、車が止まったのはわたしの知らないお店の駐車場でした。そこから少しだけ歩いて移動して、着いたのは一つのマンションです。

 

 慣れた様子のお兄さんが、自動ドアの前にある操作盤になにかの番号を打ち込んで、呼出音を鳴らします。これが話に聞くオートロックマンションというものでしょうか、いくつか間を置いて、瑠璃華さんの声が聞こえます。

 

 いくつかの問答を経て、自動ドアが開きました。お兄さんに案内されてエレベーターに乗り、着いたのは408号室です。ドアの前のインターホンを鳴らすと、満面の笑みの瑠璃華さんが出てきました。

 

 

「すみれちゃんいらっしゃい!いやー、このときを待ってたんですよ。あ、先輩お疲れ様です。もう帰っていいですよ」

 

 それじゃあと帰ろうとするお兄さんと、嘘だから待って、お茶くらい飲んで言ってと慌てて引き止める瑠璃華さん。仲の良さがわかります。

 

 

「とりあえず中へどうぞ。せま……先輩の家よりは広いところですが」

 

 直後にお兄さんにおでこをピンッと弾かれて、いたーいと訴える瑠璃華さんに、思わずクスリと笑いがこぼれます。本当に仲が良くて、楽しそうで、羨ましいです。

 

 玄関の横に飾られた花の香りでしょうか。部屋に入るといい香りがして、不思議と落ち着きます。

 

 部屋の中に案内されて、ソファで待つように言われて、お兄さんと二人並んで待ちます。少しすると、瑠璃華さんがお盆に乗せてカップとお皿を持ってきました。

 

「本当は紅茶を入れたいところですけど、この時間ですからねぇ。ハーブティーとチーズケーキです」

 

 コトッと、ソファの前のテーブルにケーキとお茶が置かれます。2種類のいい香りが混ざって、ふわふわします。

 

 わたしが自分で作ってみた時に失敗してしまったチーズケーキとは違って、この前ちょっといいお店で買ってみたものと同じくらい美味しくて、びっくりします。見た目もとっても綺麗です。

 

 それを伝えると、瑠璃華さんは嬉しそうに笑いながら、お菓子作りが得意なことと、わたしのために焼いてくれたことを教えてくれました。

 

 

 食べ終わって、少しするとお兄さんが帰ります。排水溝のラップを忘れないように念を押して、気をつけてくださいと送り出しました。

 

「なんか今のやり取り、母親と息子みたいでしたね」

 

 プッ、と笑いながら、瑠璃華さんがそう漏らします。お母さんみたい、だったのでしょうか。いつも心配してくれて、気にかけてくれていた、お母さんみたいに見えたのでしょうか。

 

 お母さんからもお兄さんからも、心配された経験しかないので、全く予想外の言葉でした。

 お母さんやお兄さんにちょっと近付けたのかなと、少し嬉しくなりかけて、実際には一人でお留守番すら任せてもらえないことを思い出し、落ち込みます。

 

 

「そうだっ、すみれちゃん、お風呂入りましょう!」

 

 わたしの雰囲気が暗くなってしまっていたのか、切り替えるように瑠璃華さんが切り出します。

 

 ちゃんとお手入れできているのか確かめるためと熱弁する瑠璃華さんに流されて、そのまま気がついたらお風呂場にいました。

 

 さっきお風呂上がったばかりだからと、かけ湯だけして湯船に浸かった瑠璃華さんに見守……ガン見されながら、貰ったものと同じシャンブーやトリートメントを使います。最初普通にワンプッシュ使っていて、ある日値段を調べてからは恐ろしくて半プッシュしか出来なくなったやつです。

 

 

 

「うん、問題ありませんね。ちゃんと洗えていますし、トリートメントも頭皮には付いていません。体を洗う時はゴシゴシしすぎないで、もう少しだけ優しく洗いましょうか」

 

 いつも使っているタオルとは違って、柔らかいスポンジだったので念入りに洗っていると、瑠璃華さんから洗いすぎだと言われました。なんでも、洗いすぎると乾燥や体臭の原因にもなるらしいです。

 

 臭いと言われるのも、思われるのも嫌なので、ちゃんとした洗い方を瑠璃華さんに教えてもらいます。

 

 

「それじゃあすみれちゃん、湯船にどうぞ。ちょっと狭いと思いますが、向かい合ってはいるのと、私に後ろから抱きしめられながら入るのならどっちがいいですか?」

 

 

 一緒に入らない、とは言わせてくれなさそうな瑠璃華さんに、まだ比較的恥ずかしくなさそうな対面を希望して、三角座りで小さくなります。

 

 もっとリラックスしてくださいと脇腹をつま先でつつかれたり、言われた通りリラックスすれば顔にお湯をかけられたりして、わちゃわちゃしながらお風呂を上がる頃には、すっかり疲れてしまいました。

 

 

「ほらすみれちゃん、そんなふうにぼーっとしてないで、お風呂上がりにはすぐにスキンケアですよ。今は何もしてなくてもすべすべモチモチかもしれませんけど、油断してるとすぐ乾涸びちゃいますからね」

 

 

 疲れてぼーっとする原因を作った瑠璃華さんが、全くもうと言いながらわたしの顔に液体をぺちぺちぬりぬりします。されるがままになって、目を閉じたり開けたりします。

 

「瑠璃華さん?何してるんですか?」

 

 突然わたしのほっぺたを摘んだまま動きを止めた瑠璃華さんにそう聞くと、無言で伸ばされます。引っ張られて痛いです。

 

 何とかやめてもらって、どこまで伸びるのか試したくなったと悪びれることなく言う瑠璃華さんに、そんなに伸びそうだったのかと聞きます。

 

 

「もうお餅が付いてるのかと思いましたもん。ぷにぷにもちもちで、ついビンタしたくなるほっぺです」

 

「ぴぃっ」

 

 

 未だにわたしのほっぺたから手を離さず捏ね回しながら、真顔で怖いことを言う瑠璃華さんに、思わず悲鳴が漏れます。

 

「あはは、半分くらい冗談ですから大丈夫ですって。こんなかわいいすみれちゃんにビンタなんてしたら、私が先輩に怒られちゃうからやりませんよ」

 

 冗談ということにして誤魔化そうとしてるけれど、ビンタをしたくなったこと自体は本当なのでしょう。なんというか、本当にわたしはここにいても大丈夫なのでしょうか。少し心配になります。

 

 

 

 そんなことよりと話を変えられて、瑠璃華さんからスキンケアの種類やその使い方なんかを教えてもらいます。

 

 

「はい、次で最後です。あとは身体中によーく塩を揉み込んでください」

 

 

 言われた通りに塩の入った壺を手に取って、すぐに瑠璃華さんに回収されます。そんなんじゃ食べられちゃいますよー、にゃあにゃあ、なんて言われてようやく自分がからかわれていたことに気づいて、恥ずかしくって赤くなります。

 

 ほらほら、もう遅いし寝ましょうと瑠璃華さんにベッドまで連れていかれて、ひとつしかないそこに一緒に横になります。

 

「夜ふかしと寝不足はお肌の敵ですからねー。それにしてもすっかり信じちゃうなんて、すみれちゃんはやっぱりかわいいなぁ」

 

 そんなんじゃいつか本当に食べられちゃいますよ、と言いながらわたしのことをぎゅっときつく抱きしめる瑠璃華さん。柔らかくていい匂いがしますが、それよりも苦しいです。

 

 

「キュートアグレッションってやつです。人って、小動物とか赤ちゃんとか、かわいらしいものを見ると攻撃的な欲求が強くなる生き物なんですよ。だから、すみれちゃんがかわいすぎるからかもしれませんね」

 

 

 なんでさっきからこんなに怖いことを言ったりしたりするのかと聞くと、瑠璃華さんはそんなことを言って、わたしのことを擽りだします。

 

「なーんていうのはあんまり関係なくて、先輩がいなくてすみれちゃんが寂しそうにしているのと、私がすみれちゃんの色んな表情を見たいだけですよー」

 

 

 話している内容の半分くらいが入ってこないくらいくすぐられて、不意に優しく抱きしめられます。

 

 

「こうしていれば、あんまり寂しくないでしょ?すっごく楽しみにしていたから、すみれちゃんにも笑顔で楽しんで欲しいんですよ。……すみれちゃんは、笑顔でいるのが一番かわいいんですから」

 

 

“すみれは笑顔でいるのが一番かわいいんだから”

 

 そっと頭に触れる、細い指。その感触に、懐かしさと安心感を感じて、わたしの意識はスっと眠りに落ちました。



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楽しい楽しい?お泊まり会(裏3)

 2種類の柔らかさと2種類のいい香りに包まれながら、背中をとんとんと優しく叩かれた振動で目を覚まします。

 

 

 これまで経験したことの無い事態に、一気に眠気が吹っ飛んで、周りを見ます。少し見上げたところにある瑠璃華さんの顔と、柔らかいベッド。窓辺に飾られた、青紫の花の植木鉢。

 

 

「おはよう、すみれちゃん。よく眠れましたか?」

 

 お兄さんの出張で、瑠璃華さんの家にお邪魔していること、瑠璃華さんと一緒のベッドで寝たことを思い出しながら、おはようございますと返します。

 

 寝ながら抱きついてしまっていたのか、瑠璃華さんのことをしっかり挟んで、離れられなくしていた腕を離します。甘えん坊さんですねとからかわれて、顔が真っ赤になってしまったのを自覚します。

 

 

「それじゃあ朝の準備もするので、そろそろ起きましょうか。朝ごはんはスコーンを焼くので、10分くらいしてからですね」

 

 その間に色々しちゃいましょうと言って、瑠璃華さんは冷蔵庫から出した生地を多機能レンジに入れます。

 

 普段はわたしが朝ごはんの用意をする立場ですので、あまりこういう経験はありませんでしたが、なんというか手持ち無沙汰です。自分もなにかやらないとと思うのに、余計なことをして邪魔になったらと思うと何もできません。

 

 

 結局何もせずに、瑠璃華さんがやってくれるのを待ちながら座っていました。

 

 

 何も出来なくてごめんなさいと、焼きたてのスコーンと紅茶を持ってきてくれた瑠璃華さん謝ります。

 

 

「ごめんなさい、じゃなくて、ありがとうって言ってほしいです。私はすみれちゃんに謝って欲しくてやってるんじゃなくて、喜んでもらいたくてやってるんですから」

 

 

 すみれちゃんも、先輩にご飯を作って謝られたら嫌でしょう?と瑠璃華さんに諭されて、想像したらすごく悲しくなりました。

 

 瑠璃華さんに謝ろうとして、言われたばかりなことに気付いてありがとうを言います。

 

 

「どういたしまして。すみれちゃんが作ってくれる晩御飯、私も楽しみにしてますから、お返しはそれでいいですよ」

 

 そんなことよりも今は食べましょうと言う瑠璃華さんに急かされて、焼き立て熱々のスコーンを手に取ります。一つ一つの大きさは小さいので、沢山食べれそうです。

 

 チョコチップ入りのものや、レーズンが入っているもの、お茶の香りがするものまで、色々な味があり、どれを食べようか迷ってしまいます。プレーンのやつにどうぞと色んな味のジャムまで増えてしまい、選びきれなくなってしまったので手前の方から順番に食べます。

 

 

「ちょっと焼きすぎたかと思いましたけど、その辺は大丈夫そうですね。むしろお昼ご飯の分が足りるか心配です」

 

 朝から甘いものを食べることに背徳感を感じながら楽しんでいると、苦笑い気味の瑠璃華さんに言われます。

 

 その後少しお話しながら食べて、時間が来てしまったので瑠璃華さんはお仕事に向かいます。

 

 冷蔵庫に入っているものはなんでも使っていいよと残して去っていく瑠璃華さんを見送って、冷蔵庫の中身を物色します。

 

 鶏肉、豚肉、牛肉と3種類のお肉と、たくさんの野菜があります。調味料も一通り揃っていて、器具もしっかりありますし、何よりもコンロがふたつもあります。キッチン事情は間違いなくお兄さんの家よりも整っていますね。

 

 確認が済んだので、まだ温かいスコーンを食べながら、紅茶を飲みます。こちらは冷めてきてしまっていますが、やはり美味しいです。

 

 晩御飯は、以前瑠璃華さんに写真で送った際に、すごく羨ましがられたオムライスにしましょう。

 

 付け合せにサラダと照り焼きチキン、玉ねぎのスープなどをつければ栄養価的にも問題は無いでしょうし、なれないキッチンですのでちょっと簡単なくらいがちょうどいいです。

 

 

 早くもやることが終わってしまったので、お泊まり用のカバンから図書館で借りた本を読んで、お昼になります。冷蔵庫の中に入っていた野菜ジュースを頂いてもいいか瑠璃華さんにメッセージを送って、大丈夫だと返ってきたので、それと一緒にスコーンの残りを食べます。

 

 

 

 また本を読んで、3時くらいまで時間を潰します。それからご飯の支度を始めて、瑠璃華さんの帰宅メッセージに合わせて完成させます。オムライスの卵部分だけは、帰ってきてから食べる直前に焼きたいので、溶き卵の状態で待機です。

 

 

 

「瑠璃華さん、おかえりなさい!」

 

 いつもと違う玄関で待って、おかえりのぎゅーはしないの?と言う瑠璃華さんに、ちょっと照れながらハグをします。

 

 卵はトロトロでいいか確認して、食べる分だけチキンライスをよそってもらって、その上に出来たてを乗せます。

 

 美味しい美味しいと、嬉しそうに食べてくれる瑠璃華さんを見ながら食べて、洗い物をしようとしたらお風呂に連れていかれます。

 

 

「いやー、先輩は毎日こんなに生活をしているんですね。……ずるい!」

 

 すみれちゃん、本当にうちの子になりませんか?と瑠璃華さんに聞かれますが、お兄さんの元から離れる気にはなりません。

 

 

 

「……これは結構お節介な話なんですけど、今のすみれちゃんと先輩の関係って、一般的には受け入れられにくいものなんですよ」

 

 即答で断ったわたしに、そっかぁと軽く返事をして、一呼吸おいてから瑠璃華さんは真剣な顔で話し始めます。

 

 

「すみれちゃんが先輩の家にいることは、法律的には問題ありません。本当は未成年の子供が無関係の大人の家に住むのはダメなのですが、すみれちゃんには戸籍がなくて、お母さんから捨てられている以上、世間にとっては存在しないのと同じだから大丈夫なんです」

 

 そんなんだから、やばい人に監禁されてたら酷い目にあっていましたよと挟んで、瑠璃華さんは続けます。

 

 

「ただ、法律的には大丈夫であってもね、それ以外のところで、大の大人が無関係の未成年者を囲ってるのって、やな目で見られるんですよ」

 

「私は先輩のことを元々知っていたから大丈夫でしたけど、正直眉を顰める人はそこそこ多いと思います。行為があったなかった問わずに、中傷されることもあるでしょう」

 

 

「先輩は、それを全部わかっていて、すみれちゃんのことを匿っているわけです。でも、私の家であればそんなことにはなりません。すみれちゃんは、その事を理解してなお、先輩の家にいたいと思いますか?」

 

 考えたことは、ありました。迷惑かかかっていることも、知っています。わたしに戸籍があったらお兄さんは犯罪者で、世間の反応ががそういう人に対して厳しいことも、知っています。

 

 何も知らないフリをして、ただお兄さんに甘えていただけで、全部知っていました。わかっている上で、お兄さんと一緒にいたいと思っています。

 

 

 酷い子だなあと思いながら、その事を瑠璃華さんに伝えます。

 

 

「いえ、わかってるならそれでいいんです。……それにしても、すみれちゃんは先輩が大好きなんですね」

 

 やっぱり脈ナシだったかぁーと、先程までの真剣な表情をふにゃふにゃにしながら瑠璃華さんは湯船に溶けます。

 

 言われて改めて自覚しますが、わたしはお兄さんが大好きで、きっと依存してしまっているのでしょう。瑠璃華さんの言葉に、元気よくハイと答えます。

 

 

 

「それじゃあ、すみれちゃんが先輩を落とすための作戦会議をしましょうか」

 

 私はかわいい女の子の味方です!と言う瑠璃華さんですが、わたしは少し戸惑ってしまいます。話したことのある異性はお兄さんしかいないので断言はできませんが、お兄さんへの“好き”はそういう“好き”とは違う気がするのです。

 

 だって、これはお母さんへの好きとほとんど一緒です。一緒にいたくて、優しくしてくれるのが嬉しくて、そばにいると安心できる。

 

 居場所をくれて、やることをくれて、優しさをくれたお兄さんとずっと一緒にいたいだけで、ずっとこんな生活を続けたいだけで、なにか特別な関係になりたい訳ではありません。

 

 

「えぇー……ついに先輩に春が来たと思ったのに……」

 

 恋バナできないかぁ……と一気にやる気を失った瑠璃華さん。そのテンションの、あまりの落差にびっくりします。

 

 

「いえ、恋バナもしたかったんですけれど、それ以上に先輩のことが気になってるんですよ。あの人はある時を境に、女性全般に忌避感を持つようになっちゃったから」

 

 そっかぁ、家族愛の方かぁと、ちょっと残念そうなのが抜けない瑠璃華さんが、呟きます。

 

 お兄さんが忌避感を持つという理由も聞いてみましたが、長くなるからまた後でにしましょうとはぐらかされてしまいました。

 

 

「すみれちゃんが先輩に求めているのは、たぶん父性に近いんだと思います。以前、片親でファザコンだった友達が同じようなことを言っていたので、おそらくはこれかと」

 

 

 わたしにはお父さんがいたことがないので、やはり正解かはわかりませんが、お兄さんがお父さんだったらと思うと、胸がポカポカします。どちらかと言えばお兄ちゃんの方がしっくりくるのは、これまでの呼び方のせいでしょうか。

 

「あー、すみれちゃん。先輩のことをお兄ちゃんって呼ぶのは、ちょっとやめておいた方がいいかもしれません」

 

 

 ただ、この話は長くなりますから、お風呂を上がってからにしようと言われます。わたしも少しのぼせそうだったので、それに従って上がります。

 

 

 スキンケアを、今日は自分でやると言うわたしに対して、今日はほっぺ抓ったりしないから。ね?と少し必死に触ろうとする瑠璃華さんに任せて、その後すぐベッドに連れていかれます。ソファでいいのではと思いましたが、パジャマパーティーはそういうものなのだと押し切られてしまいました。



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楽しい楽しい?お泊まり会(裏4)

 伝聞系で明かされる燐くんの過去です。諸々含めると結構好きな辺りなので、血迷ったら閑話としてあげるかもしれません(╹◡╹)


 昨日と同じように、ベッドの上で横になります。わたしが落ちないようにと、壁際の方を譲ってくれて、瑠璃華さん自身はお菓子とジュースを持ってきた後で、横になりました。

 

 

 食べたり飲んだりするなら、やっぱりソファの方がいいんじゃないかと思いますが、これこそがと瑠璃華さんが言っている以上、そういうもので、わたしの考えは無粋なのかもしれません。

 

 

 

「それで、先輩のことをお兄ちゃんって呼んじゃいけない理由ですよね」

 

 

 サクッとクッキーを噛んで、その欠片がベッドにこぼれたことに、あっと声を漏らしながら、瑠璃華さんが話し始めます。やっぱりソファの方がいいと思いますが、半ば意固地になったらしい瑠璃華さんはベッドの上の欠片を払うと、そのまま何事も無かったかのように続けました。

 

 

「正直なところ、この話は先輩の過去、個人的なことの話になりますから、あんまり吹聴したくない内容ではあるんです。ただ、先輩が自主的にすみれちゃんに話すとも思えませんし、本人も特に隠さず周りに話している内容なので話します。先輩の、()()になりたいのなら、絶対に知っていなくてはならないことです」

 

 

 ないとは思いますけど、先輩がこのことですみれちゃんを責めたら、私の事を悪役にしてくださいねと念を押して、瑠璃華さんは話し始めます。瑠璃華さんがそこまで言うのなら、お兄さんがそれを責めることは無いのでしょうが、それでももしもの時に備えてわたしに逃げ道を残してくれる瑠璃華さんには感謝しかないです。

 

 

「まずはそうですね、先輩は4人家族二人兄妹の長男として産まれました。怒った時に、暴力的になる父親と、その暴力の理由を子供に求める母親の間に生まれて、物心が着く頃には幼い妹を守るために、暴行の全てを受けていたそうです」

 

「暴力自体は、ある程度手が抜かれていたようで、日常生活には問題がなかったと聞いています。幸いと言うべきか、外面はまともな父親だったこともあり、後に引くようなことはされていなかったようです」

 

茉莉(まり)ちゃん、先輩の妹さんですね。この子も小さい頃は全然そのことに気付いていなくて、昔はよく優しいお父さんだと言っていました」

 

 私が遊びに行った時も、優しいお父さん、といった印象だったんですよと話す瑠璃華さん。瑠璃華さんはどのタイミングでお兄さんと知り合ったのかと聞いてみると、ジュースを一口飲んで話を続けます。

 

「そうですね。先輩の妹の、茉莉ちゃんと小学校のクラスが一緒で、最初の席がお隣さんだったんです。そのまま仲良くなって、遊んだ時に挨拶しました。茉莉ちゃんが、いつも大好きと公言しているだけあって、すごく優しくてかっこいいお兄さん、って印象でしたね」

 

 

 お兄さんの優しさを考えると、きっと素敵なお兄ちゃんだったのでしょう。わたしにもお友達がいたらきっと自慢してしまうでしょうから、茉莉さんの気持ちはとてもわかります。

 

「おかしくなり始めたのは、中学校に入ったあたりですね。いえ、先輩が茉莉ちゃんの知らないところで暴力を受けていたのは、最初からおかしなところではあったのですが、私から見た時の話です」

 

「一言で言うと、茉莉ちゃんがいじめられるようになったんですよ。6人の仲良しグループの中で、私と茉莉ちゃんを除いた4人が、私に隠れて茉莉ちゃんをいじめていたんです」

 

「私もうっすらとした違和感しか感じていなくて、仲良くできていると思っていた中で、今度は先輩が暴力を受けていることを、茉莉ちゃんが知ってしまいました」

 

 

「きっと、相談したかったんだと思います。家族のことを信頼していたから、何かあったらいつも話していたから。先輩ならきっと何とかしてくれるって思って、見てしまったんだと思います」

 

「私が茉莉ちゃんから聞いたのは、先輩がお父さんにお腹を殴られて、何度も蹴られていた、ということです」

 

 

 

「思い返してみると、先輩は夏でも長袖長ズボンでしたし、小さい頃から茉莉ちゃんとお風呂に入ったことはなかったそうです」

 

「茉莉ちゃんは抱え込んじゃうタイプの子でしたから、先輩にも相談できず、家族に知らなかったそれを問いただすことも出来ず、どうにもならなくなってしまいました。私にも、家のことは多少相談してくれましたが、学校でのことは誰にも言えていなかったのだと思います」

 

「そのまま卒業して、田舎でしたからほとんど同じメンバーで高校に入ったんですけど、その時に勇気をだして、先輩に聞いてみたんですよ。なんで殴られていたのかと、いつから続いていたのかと、どうして抵抗しないのか」

 

 飲み物を一口飲んで、瑠璃華さんは続けます。

 

 

「お父さんのストレスが溜まったからで、物心がついた頃からで、変に抵抗したらマリちゃんの方に被害が行くかもしれないから、って言っていました。自立できるまで育ったら茉莉ちゃんを連れて出ていくつもりだったって」

 

「自分が我慢すれば全部丸く収まるって考えちゃうのは、兄弟揃っての事だったんですよね。茉莉ちゃんも同じようなことを言っていたので、そっくりです」

 

 

 

「ただ、それも良くなかったのかもしれませんね。私が、自分も行くから聞いてみようなんて言ったから、聞くことになったんですけど、それ以降茉莉ちゃんは、大好きなお兄ちゃんが殴られているのは自分のせいだと落ち込むようになっちゃったんです」

 

 

「学校でも一気に暗くなっちゃって、私がいじめに気付いたのもこの辺りですね。何度も庇ったり止めたりはしたのですが、茉莉ちゃん自身が、お兄ちゃんはもっと辛いはずだからとか言って何も言わなくて」

 

 

「そのままエスカレートして、止まらなくなっちゃって、気がついたら、もうダメになっちゃったんです」

 

「自分がいなければ、お兄ちゃんはもう我慢しなくていいんだって、自分もお兄ちゃんも楽になれるんだって言って、屋上から飛び降りちゃいました」

 

 

「重症で、意識もほとんどなかったと聞いています。うわ言のようにお兄ちゃんとごめんなさいを繰り返して、駆けつけた先輩のこともわからないままで。私は、目の前にいたのに何も出来ませんでした」

 

 

「……と、これじゃあ先輩の話じゃなくて私の話みたいになっちゃいますね。要点を簡単にまとめると、自分の行動と学校でのいじめが理由で大好きな妹を失って、そのいじめの主犯や無責任な担任、傷心に漬け込んでやろうとする周りの人のせいで女性不信。子供が死んだのに世間体のことしか気にせず、ストレス発散に殴ってきた父親に殴り返して勘当。唯一守りたかった妹の葬式にすら出れず、大切なものを取りこぼしてしまった後悔の日々」

 

 

「先輩にとって、お兄ちゃんって呼び方はそんなものを思い出してしまうものなんです。だから、使わないようにしてあげてください」

 

 

 

 

 

 そう言って、瑠璃華さんは話を締めくくりました。お兄さんがこれまで教えてくれなかった、お兄さんの過去のことです。知りたかったはずなのに、気になっていたはずなのに、知ってしまったことに罪悪感を覚えています。

 

「すみれちゃんがこれを聞いてどう思ったのかは、聞きませんし言わなくてもいいです」

 

 瑠璃華さんはクッキーをひとつ取り、サクリと音を立てながら食べます。瑠璃華さん自身も経験したことのはずなのに、話を聞いていただけのわたしよりもずっと普通そうにしています。

 

 きっと、もう乗り越えているのでしょう。そうじゃなくても、しっかりと受け入れているのでしょう。

 

 

 

「すみれちゃんも一枚どうですか?手前味噌ですが、美味しくできていますよ」

 

 瑠璃華さんはそう言ってわたしにクッキーを差し出してくれましたが、残念ながら今はまともに食べれる気がしません。わたしの気質の問題か、人生経験が足りないせいかはわかりませんが、お兄さんと瑠璃華さんの過去の話は、わたしには少し重過ぎました。



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楽しい楽しい?お泊まり会2

 出張でやることが終わり、あとは好きにしていいよと言われたので、すみれと溝櫛に買っていくお土産を選ぶ。シンプルかつ名産品で、食べたら無くなるものだ。

 

 比較的賞味期限が長いものの中からいくつか選び、自分でも食べたいので3セット買う。

 

 

 

 寂しくなったら電話とかしてもいいと伝えたのに、結局来なかったなと思いながら帰りの電車に乗り込み、溝櫛に到着予定時間を送れば、あとは電車に揺られるだけだ。

 

 夜遅くなるならすみれちゃん、もう一泊預かりますよとアピールされたので、すみれの作るご飯が食べたいからと却下して、折衷案として溝櫛の家ですみれが作ることになっているので、少し遅めの時間だが何も食べずに空腹だ。

 

 

 電車に乗る前に、何か少し食べておくべきだったなと思いながら、揺られ続けて、ようやく覚えのある駅名。そこから更にいくらか揺られて、溝櫛の家の最寄り駅に着く。

 

 本当なら、1度自宅まで帰って車を回収してから来たかったが、結構びっくりするほどお腹がすいていることと、すみれにも電車に乗る経験があった方がいいかなという理由をつけて、なるべく早くご飯にありつける、直行を選択する。

 

 

 その旨を伝えて、僕の家から最寄りまでよりは多少短い道を歩き、ようやくたどり着いた溝櫛のマンションの前。お腹を好かせながらインターホンを鳴らして、中に入れてもらう。

 

「お疲れ様です、先輩。ゆっくりしていってください」

 

「お兄さん、おかえりなさい!……おかえりなさい?いらっしゃい?」

 

 荷物はそこでいいですよと玄関を指す溝櫛と、受け取れる荷物がないせいで手を出したまま戸惑い、なんて言い方が正しいのか混乱していいる様子のすみれ。あまりにもかわいくて、頭をわしゃわしゃしたくなったが、年頃の女の子にすることでは無いし、まだ手も洗っていないので我慢する。

 

 待ってもカバンが来ないし、来たとしてもどこに置けばいいかすらわからないことに気付いたらしいすみれが、ちょっと恥ずかしそうに顔を赤くしながら手を下げるのを見てから、部屋の中に案内してもらってソファに座る。すみれも同じように座るかと思いきや、食器を運ぶからと言って溝櫛とキッチンに引っ込んでしまった。

 

 

 お待たせしましたと言って、溝櫛が運んできたのは、一人暮らしの女性が持っているにしてはサイズの大きい土鍋。後ろからちょこちょこと、重ねた食器を持ったすみれが着いてくる。

 

 こんな大きな土鍋を持っていたんだねと驚くと、昨日買いました!と、元気よく答えられる。随分と気合を入れているものだと半分呆れていると、今日の鍋は途中で味変があるんですよとすみれが教えてくれた。

 

 

「一人じゃこんなにおっきい鍋、いりませんからね。ずっと使い続けられるようにって、願掛けみたいなものですよ」

 

 

 昔の約束を、果たされなかったそれを思い出して、場が冷える。すみれが、なにか察したように表情を暗くしてしまっているのは、溝櫛が何かいらないことを話したのだろう。

 

 

「そんなことより、先輩。すみれちゃんが今日帰るなら明日は私一人じゃないですか。私が朝食べきれないくらい残っちゃったら、すみれちゃんにも泊まって一緒に食べてもらいますからね」

 

 嫌だったら、沢山食べてください。作りすぎちゃったから難しいかもしれませんけど。と、溝櫛はふざけるように言って、空気を戻す。すみれも表情を、おそらく意識的に明るくしたし、今は楽しむべき時なのだから暗いままにするのは良くないだろう。

 

 

 きっとご飯がすすみますよと、多めに米を盛り付けてくれたすみれに、それで鍋が減らなかったら、溝櫛のことだから本当にもう一泊させるんじゃないかと不安になり、まさかすみれもそのつもりなのかという考えが頭をよぎる。

 

 けれどそれも、わたしも沢山食べます!と鍋をいっぱいよそうすみれと、苦笑いしながらそれを見守る溝櫛を見れば、すぐに勘違いだということがわかった。気にせずに具材を掬い、諦めた様子の溝櫛が普通に取るのを待つ。きっと溝櫛なりの、沢山食べてくださいねだったのだろう。どこか背中が煤けて見えるが、そういうことにしておく。

 

 

 

 キノコと野菜の旨味がよく効いた醤油ベースの鍋に、途中味変として上からとろろをかけて、ご飯のおかわりまでしながら食べる。鍋が空になる頃には三人ともすっかり満腹になっていた。

 

 

 動いたら吐きそうだと言う溝櫛に代わり、洗い物を済ませる。普段ならすみれに押し切られて任せることになってしまっていたが、有言実行して沢山食べていたすみれも溝櫛ほどでは無いがグロッキー気味だったため、何とか洗い物の仕事を奪い取ることに成功した。

 

 

 鍋のスープは明日使いたいから取っておいてくださいと言う溝櫛の言葉に従って、あまり残っていないスープ部分を丼に移して、ラップでぴっちり密閉する。ラップの皺が全部つかないくらいの、ラップをかけているのかすらパッと見てわからないくらいにしっかり密閉させるのが、僕の趣味だ。

 

 

 

 さすがに、ご飯食べて洗い物だけしてすぐ帰るのも寂しいのと、今の状態ですみれを歩かせたら良くないことになりそうなので、食休みを兼ねて軽くトランプで遊ぶ。現代っ子なら、ここでスマホゲームだったり、スマホじゃないゲームだったりをするのかもしれないが、これまで全くゲームに触れてこなかったすみれが、いきなり始められるものは比較的単純なアナログゲームくらいであった。

 

 

 

 そのまま30分くらい遊んで、この日は解散した。最後の最後まで、すみれちゃん、やっぱりもう一泊しませんか?と言い縋っていた溝櫛に対して、お兄さんのお家が一番落ち着くのでと言ったすみれの姿とそれを聞いた溝櫛の表情に、あまりよろしくはない優越感を抱きつつ、溝櫛に預かってもらったお礼を伝えて家を出る。

 

 

 結論から言うと、すみれは溝櫛の家よりも僕の家の方がいいと思ってくれたのだろう。半分くらい冗談めかして言っていたけど、本当に溝櫛が誘っていたであろうことは想像にかたくない。

 

 それであれば、もう一泊と言われたのに対して、僕の家をすみれが選んでくれたということは、そういうことになる。自分のところにいるよりも、溝櫛の家なり、他のところにいる方がすみれのためになるんじゃないかと思っていた僕にとっては、自分がすみれに求められるような環境を提供出来ていたことは、この上なく嬉しいことだ。

 

 

 普段と比べて多い荷物と、すみれのお泊まりセットのカバンを持って駅までの道を歩き、すみれがちゃんとお泊まり会を楽しめたかを聞く。

 

 

 しっかり楽しめて、またしたいと、でもそれ以上に、お兄さんと居られなかったのが寂かったのだと話すすみれ。

 

 僕としても、出張先で食べたご飯は美味かったけれど、やっぱりすみれのご飯が一番だと伝える。僕のために、気を使ってくれて、沢山考えてくれるご飯が、どんな美食よりもいちばん嬉しいものなのだと伝える。

 

 

 ここで綻んだすみれの笑みは、きっと狙って見れるようなものでは無いのだろう。

 

 ふにゃふにゃと笑みを浮かべながら、横に座っている僕の方に擦り寄るのはこれまで見たことがない姿で、僕は思わずその頭を、初めて会った時とは比べ物にならないくらいサラサラな髪を撫でて、いつもありがとうと伝える。

 

 すみれのこれからの事を考えたら、言わない方がいいであろう、これからよろしくねの言葉も伝えてしまって、ようやく自宅に着いた。やけに張り切ったすみれが鍵を開けて、近所迷惑にならないくらいの声で、お帰りなさいと言い、僕より先に部屋に入って、いつもと同じように僕を迎える。

 

 

「お兄さん、おかえりなさいっ!!」

 

 

 いつもと同じはずの言葉。いつもであれば、嬉しさはあれども感動はしなかった言葉。

 

 

 それなのに、その言葉は、その笑顔は、この上なく僕を安心しせてくれるものだった。僕は、この子が居ないともうまともに過ごすことは出来ないんだと思ってしまうほど、強い安心感を抱かせるものだった。



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楽しい楽しい?お泊まり会(裏5)

 お兄さんの話を聞いて、そのまま何もするつもりになれずに寝てしまった昨日。

 

 

 頭の中でぐるぐる色々なことを考えて、やっとお兄さんが見ず知らずのわたしに優しくしてくれた理由に見当がつきました。

 

 きっと、守れなかった、大切にしていた妹さんの、茉莉さんのことをわたしに重ねてしまったのでしょう。考えてみれば、お兄さんはわたしのために行動してくれつつも、時折強迫観念のような、こうしなくてはという考えに陥っていたように思えます。自分のことを度外視して、でも、そうあろうとしていたように思えます。

 

 

 

 これまでのわたしは、それはお兄さんの優しさの表れだと思って、あまり深く考えていませんでしたが、きっとお兄さんにとって、それは贖罪だったのでしょう。瑠璃華さんの話を聞いて、お兄さんの行動を振り返ったらそうなんだろうなと思いました。

 

 

 そもそもとして、身近に置いておくだけで、マイナスになるような存在を、優しくしながら受け入れるなんてことは、なおかつそれに自由を許すなんてことは、それを大切にすることが目的でもない限り、おかしなことです。

 

 瑠璃華さんですら、自分であればマイナスが少ないからと受け入れの意を伝えてくれたのですから、全く利のないどこかマイナスになってしまうお兄さんがわたしを求めてくれるのは、おそらく半分くらいはお兄さんの自己満足のためのものでしょう。

 

 

 特に、最初期のわたしなんて、なんにもプラスの要素のない、不良債権どころかそのまま借金みたいな存在でした。それにあれやこれやと理由をつけて受け入れてくれた恩は、忘れてはならないものです。わたしがお兄さんの居場所に縋りたいと思っていなくとも、お兄さんには何の利もないのに問題だけを集めるような存在でした。そんなふうに存在を認めてくれた相手に、マイナス感情が抱けましょうか。

 

 

 一応、今であれば最低限、お兄さんに存在を認められるだけの技術は揃っていると思いますが、マイナス部分がどうしても大きくなってしまうため、初期段階ではそんなふうにも行きませんでした。

 

 

 それを受け入れてくれたのは、やはりお兄さんの優しさなのだろうなぁと思いながら、その優しさが、わたしだから向けられたものでないことを、少し嫌だと思ってしまいます。誰でもいいけどわたしを大切にしてくれたんじゃなくてわたしだから大切にしてくれたのなら良かったのにと思ってしまいました。

 

 

 きっと、独占欲なのでしょう。わたしを大切にしてくれたように、他の人に優しくして欲しくないと、わたしだけに優しくして欲しいと思ってしまいます。

 

 

 お兄さんが、わたし以外に優しくなければいいのに。そんな有り得ないことを、願ってしまいます。もしお兄さんがそんな人なら、はなからわたしには優しくなかったであろうことをわかっていて、そんな願いを持ってしまいます。

 

 きっとこれは、世のお兄ちゃんお姉ちゃんが、親からの愛情を弟や妹に取られたくないと思ってしまうのに近いです。お兄さんがわたしのことを雑に扱って、他の人をもっと大切にしたらと思うと嫌で嫌でしかたがありません。

 

 こんなふうに想像出来る以上、瑠璃華さんの言う、わたしがお兄さんに向けているのは家族的な愛情だというのも、きっと当たっているのでしょう。

 

 

「そんなに暗い顔をして、どうしたんですか、すみれちゃん」

 

 

 そんなふうに思いながら、わかってはいても自分勝手な思いを抱いてしまうのは嫌だなと思っていると、そんな顔をしていると幸せが逃げちゃいますよーと、瑠璃華さんが私を抱きしめながら言います。

 

 幸せが、今の生活がなくなってしまうのは、嫌ですね。急いで表情を明るくして、瑠璃華さんにおはようの挨拶をします。

 

 

「うんうん、素敵な顔です。それじゃあすみれちゃん、起きて早々ですけど、出かける準備をしちゃいましょう」

 

 せっかくのお休みですし、今日はいいお天気ですから、デートです!と、にんまりと笑いながら言う瑠璃華さん。デートという言い方は気になりますが、ただのお出かけのことを冗談めかしてそう称することもあるのだと勉強済のわたしは、混乱することなくそれに乗ります。

 

 

 

 

 どうせなら朝一番からと主張する瑠璃華さんに合わせて、すぐに支度を済ませて家から出ます。バスに揺られて、少し歩いて、着いたのはおしゃれなカフェです。スーツを着た若い男性がパソコンとにらめっこしていたり、私服姿の女性たちが談笑したりしています。

 

 

 わたしみたいなのがこんなところに入ってもいいのかと、卑屈な気持ちになりながら瑠璃華さんについて行って、案内されたのは奥の方の落ち着いたスペース。

 

 

 渡されたメニュー表にはたくさんの横文字と、筆記体でしょうか?少なくともわたしには読めない文字が書かれています。きっと日本語が読めない人への配慮なのでしょう。

 

 どれを頼んだら何が出てくるのかがいまいちわからないので、瑠璃華さんのおすすめだというパンケーキとりんごジュースを頼みます。

 

 

 少し待つと出てきたのは、アイスや生クリームやチョコレートソースをトッピングされたパンケーキです。朝ごはんにしては随分甘い気がしますが、昨日のスコーンのことを考えるに、瑠璃華さんは朝から甘いものを食べる派なのでしょう。

 

 わたしは、これまで朝に甘いものを食べてなかったのと、そもそも甘いものを食べること自体が多くなかったこともあり、少し違和感というか、しっくり来ないものがありますが、ものはとっても美味しかったです。ただ、パンケーキとジュースがどちらも甘かったので、次の機会にはコーヒーや紅茶にした方がいいかもしれません。

 

 

 食休みに少しお話をして、今摂った糖分が頭に回るのを待ちます。程々で切り上げると、今度はお散歩です。あまり遠くないところにあるらしい商業施設まで歩いて向かい、到着すると服を見るという名目で着せ替え人形にされます。

 

 寒い季節なのに、おへそがちらっと見えちゃうようなものとか、やたらと丈の短いズボン?パンツ?を推してくる瑠璃華さん。オシャレは我慢!と主張されるのを、外に出れなくなっちゃうので無理ですと何とか拒否して、普通に暖かそうな服にします。

 

 

「私がすみれちゃんに着せたくて買うんですから、私が当然払いますよすみれちゃんのお小遣いは、すみれちゃんが欲しいものを買うのに取っておいてください」

 

 

 お兄さんから貰っているお金があるので、それで払おうとしたら、瑠璃華さんに止められました。そんなことを言われても、欲しいものがほとんど見つからないせいで貯まりに貯まって、結構な額になっています。

 

 

 それを伝えると、瑠璃華さんはさっき戻した、おへそが見える服を持ってきます。

 

 

「それなら、すみれちゃんはこれを買ってください。先輩の家でこれを着て、そうですね、ツーショット写真を送ってくれればお代としては十分です」

 

 さあ早く!と急かされて、言われるがままに約束して買ってしまいます。少ししてからとんでもない約束をさせられてしまったことに気付きますが、時すでに遅しです。

 

 瑠璃華さんの方を見ると、にんまりと笑っています。完全に勢いに乗せられた形ですね。とても恥ずかしいですが、これを着たらお兄さんも褒めてくれるかな?という考えが頭を過り、満更でもなくなってしまうわたしはチョロい子なのでしょう。

 

 

 もう乗せられないようにしようと決心して、ちょっと警戒心高めに瑠璃華さんに向き合うと、威嚇してる子猫みたいでかわいいとこねくり回されます。ふしゃぁー!

 

 

 ウィンドウショッピングなるものをして、13時になったのでお昼の時間です。何か食べたいものはあるかと聞いてくれた瑠璃華さんに、実はずっと気になっていたお子様ランチを食べてみたいと伝えます。

 

 

 ちょっと生暖かい目をされましたが、お子様ランチという名前でも子供以外が食べちゃいけない訳ではないと、ちゃんと調べてきましたし、大人になってから食べたくなることもあると知っています。わたしは幸いと言うべきか、まだ子供ですし、お出かけの回数だけで言えばそこらのお子様とは比べ物にならないほど少ないです。

 

 なので、わたしがお子様ランチを食べることはおかしなことでは無いのだと瑠璃華さんに説明して、よりいっそう生暖かい目で見られます。不思議です。

 

 初めて訪れたファミレスでお子様ランチを頼んで、店員さんにも生暖かい目で見られましたが、食べたかったのだからしかたがありません。食べたい人が食べれるように、ドリームとかスペシャルとかそんな名前ならいいのにと思いながら待ちます。

 

 少しして届いたのは、ハンバーグにオムライスにナポリタン、エビフライにコーンスープと、誰でも好きなものが少しずつのせられた夢の一皿です。オムライスの旗が旭日旗なのは少し大丈夫か心配になりますが、きっとお店の思想が強いのでしょう。

 

 

 好きな食べ物を同時に食べれる嬉しさとともに、この量を少量ずつ作るのは家ではできないことだなぁと少し寂しく思います。冷凍の作り置きを駆使すればある程度は出来そうですが、やっぱりできる限り出来たてがいいです。

 

 

 食べ終わってからまた少しウィンドウショッピングを続けて、ちょっと大きい土鍋を買ったら、今日のお買い物、瑠璃華さんとのデートはおしまいです。最後に買った食材を含めてものが多かったため、たくさんのものを持って移動することになりました。いつもよりも多めに歩いたことを踏まえると、明日はもしかしたら筋肉痛になってしまうかもしれません。



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楽しい楽しい?お泊まり会(裏6)

 瑠璃華さんのお家に帰って、一緒にご飯を作ったり、お掃除をしたりして、余った時間で遊びます。

 

 

 わたしがデジタルゲームをよく理解していないこともあって、瑠璃華さんがよくやるというものを横で見せてもらったり、比較的簡単な部類のアナログゲームをやって見たりします。

 

 ルールがとっても簡単だったリバーシをしばらくやってみましたが、当然と言うべきかなんというべきか、瑠璃華さんには全然勝てません。ぱっと思い浮かぶ程度にはこのゲームを知っている瑠璃華さんと、先ほどルールを知ったばかりのわたしでは、全く理解度が違うのです。運が絡むものでもないので、実力が着くまではずっとこのままでしょう。

 

 

 無料で練習できるアプリを教えてもらったので、今度暇な時間にやって練習しておきましょう。最初から勝ち目がないとわかっていても、悔しいものは悔しいのです。

 

 

 他にもいくつかのゲームを教えてもらい、どれもメタメタに負けます。一応確率的には引き分けになるはずのジャンケンですら、心理戦で負けて勝率は三割程度です。

 

 もういつまでたってもまともに勝てるゲームが見つけられませんが、負けて悔しくってもそれを楽しめるのが、ゲームのいいところなのかもしれません。

 

 この日は一度もまともに勝つことが出来ず、また瑠璃華さんと一緒に寝ました。

 

 

 

 

 

 3度目ともなると慣れてきたもので、自分が寝ている時に無意識に抱きついてしまった瑠璃華さんから手を離します。わたしがわがままを言って、朝からご飯を作らせてもらって、瑠璃華さんに食べてもらいます。

 

 

 美味しいと喜んでもらえたことに一安心して、お昼までやることがないのでまた瑠璃華さんと遊びます。どうやら瑠璃華さんは、初日二日目とあまり遊ぶことが出来なかったことを気にしているらしいです。

 

 

 瑠璃華さんに本気を出されてしまうと、どうして負けたのかの反省点すらわからないくらい完敗してしまうことがわかったため、わたしがギリギリ勝てないくらいまで手加減をしてもらいながら、少しずつ考え方を身につけて、練習します。

 

 

 わたしみたいな弱い相手と戦っていて、瑠璃華さんはつまらなくないのかと思って聞いてみましたが、わたしが悩んでいるのを見るのがかわいくて好きと言われてしまいました。喜べばいいのか、照れればいいのか、悔しがればいいのか、どうするのが正解なのでしょう。

 

 

 

 お昼ご飯を食べて、わたしが昨日一昨日その前と着ていた服が乾いるのを確認して畳みます。

 

 もう何度か瑠璃華さんと遊んで、お兄さんから到着予定時間が届いたらご飯の支度に入ります。普段は連絡から実際に帰ってくるまでにそこまで時間がないので予め準備をしていますが、出張先から帰ってくるお兄さんが着くのは数時間後です。お鍋ということもあって、煮込む分にはいくら煮込んでも問題ないので、多少余裕を持てば時間の見通しは適当で大丈夫です。

 

 瑠璃華さんに、こうやって切ればもっと効率よく切れるという、調理の際のテクニックのようなものを教えて貰いながらお鍋の準備をします。わたしはお母さんに基本を教えてもらってからは、実直にそれを守る切り方しかしてこなかったので、効率や速さを重視した切り方や、丁寧ながらも速さを両立した切り方の、包丁の先端に軸を置いて円を描くように切る切り方など、初めて知る知識が沢山です。

 

 

 なんでも話を聞いてみると、昨日一緒に料理をする中で、わたしに足りないものを考えてくれていたとか。瑠璃華さんの優しさや、思いやりの深さには頭が上がりません。

 

 

 教えてもらった包丁さばきを練習しながら、お兄さんのためにお鍋を用意します。わたしの技術向上のために、瑠璃華さんが指導役に徹してくださったので、鍋自体が完成したのはお兄さんの到着予定時間の少し前くらいです。味変枠であるとろろは、わたしが間に合わなさそうだったので瑠璃華さんが磨り下ろしてくれました。

 

 

 

 程なくして、お兄さんが帰ってきます。ギリギリだから手伝ってもらったので当然と言えば当然でしょう。

 

 

「お疲れ様です、先輩。ゆっくりしていってください」

 

「お兄さん、おかえりなさい!……おかえりなさい?いらっしゃい?」

 

 おかえりなさいと言うのは、お兄さんの家でない以上おかしいでしょうし、いらっしゃいというのも、わたしの家ではないので的確ではありません。なんて言えばいいのかわからなくなりながら、とりあえず荷物だけは受け取ろうとします。

 

 お兄さんと瑠璃華さんから、揃って生温い目で見られていることに気が付いて、なぜなのかを考えたら、お兄さんが既に荷物を置いていることに思い至りました。いつもの習慣とはいえ、変な状態になってしまっていたのが恥ずかしくて、顔が熱くなるのを感じながら手を下げます。

 

 多分赤くなっている顔を見られたくないので、食器を運ぶという名目でお兄さんから離れます。本当はお鍋を運べればよかったのですが、わたしに持たせるのは不安だと言って瑠璃華さんが譲ってくれませんでした。

 

 

 必要な食器を集めて、顔の熱がだいぶ引いてきたことを確認して、瑠璃華さんの後ろについて行って部屋に戻ります。

 

「一人じゃこんなにおっきい鍋、いりませんからね。ずっと使い続けられるようにって、願掛けみたいなものですよ」

 

 

 お兄さんが土鍋の大きさに言及して、瑠璃華さんがそう言った時には、つい2日前に聞いた話を思い出して、なんと言えばいいのかわからなくなってしまいましたが、その空気も瑠璃華さんがすぐに変えてくれました。

 

 

「そんなことより、先輩。すみれちゃんが今日帰るなら明日は私一人じゃないですか。私が朝食べきれないくらい残っちゃったら、すみれちゃんにも泊まって一緒に食べてもらいますからね」

 

 結構たくさんの量を作ったから、頑張って食べないとなぁと思いながら、お兄さんにもいっぱい食べて貰えるようにご飯を大盛りにします。瑠璃華さんとのお泊まり会も楽しかったのですが、せっかく帰ってきてくれたのだから今日はお兄さんの家に帰りたいです。

 

 

 お鍋もたっぷりよそって、瑠璃華さんにお玉を渡します。この季節、部屋の中が暖かくてもお鍋は食べたくなるものです。

 

 

 沢山食べて、しっかり味変もして、残ったのはスープだけです。瑠璃華さんの明日の朝ごはんの分も残しておけばこんなに満腹になることは無かったと思いますが、全部食べきってしまったのはその場の勢いというものでしょうか。

 

 

 洗い物をする仕事をお兄さんに奪われて、スープを残しておいてと伝えていた瑠璃華さんに、何に使う予定なのかを聞いてみると、冷蔵庫の中にあるうどんと一緒に食べると言っていました。朝は甘いものを食べてるイメージが強い瑠璃華さんでしたが、甘いもの以外食べない訳では無いようです。考えてみれば、今日の朝ごはんも甘くないものを作りましたが、ちゃんと食べてくれていました。

 

 

 洗い物を済ませたお兄さんが戻ってきて、すぐに動くと戻しそうだと言われたので、少し休憩がてらトランプをやります。昨日やっていたものや、今日やっていたものは二人用だったため、また新しいものでしたが、やはりまともに勝てませんでした。お兄さんが加わったことで瑠璃華さんの狙いがつけにくくなったのか、2回だけ勝つことが出来ましたが、瑠璃華さんには負けっぱなしのままです。

 

 

 そろそろ大丈夫そうだからとお兄さんに言われて、もう一泊だけしませんか?もう一泊だけですから!と誘ってくる瑠璃華さんにお断りを入れて、忘れるところだったとお兄さんがお土産を渡すのを見て、瑠璃華さんの家から出ます。

 

 

 瑠璃華さんに渡していたお土産が、わたしの分もあると教えて貰って嬉しさと安心感を感じて、特に不安を感じているわけではないけど、無性にお兄さんの裾を掴みたくなって、スーツにシワをつけちゃいけないのて我慢します。

 

 瑠璃華さんとお出かけしたことや、そのお出かけで食べたもののこと、お子様ランチを食べて、美味しかったけど視線が恥ずかしかったこと、服を買ってもらったことなんかを話しながら、駅までの道を歩きます。

 

 

「お泊まり会は楽しめたかな?」

 

 実は使うのが初めてな電車に乗って、その速さに驚いていると、お兄さんからそんな事を聞かれました。ちゃんと楽しかったこと、びっくりしたことや瑠璃華さんにからかわれたりしたことを話して、またしたいと言います。そして、楽しかったけど寂しかったことを伝えて、次があるならお兄さんのお家に瑠璃華さんを招待したいことも伝えます。お兄さんがいないと、どうしても寂しく思ってしまうからです。

 

 

「そっか、そうだね。僕も向こうで色々食べたりしたけど、やっぱりすみれちゃんが色々考えて作ってくれるものを食べるのが一番嬉しいし、なんというか安心出来る」

 

 出張はもう嫌だと伝えると、お兄さんがそんな嬉しいことを言ってくれます。胸が暖かくなって、そっと横に触れる体温が愛おしくって、もっと欲しくて擦り寄ってしまいます。はしたない子だと思われてしまうでしょうか。でも、抱きつくのは我慢するので、これくらいは許してほしいです。

 

 

「いつもありがとう。すみれちゃんのおかげで、今が幸せなんだ。これからもよろしくね」

 

 

 温かくて大きな手が、わたしの頭を撫でます。瑠璃華さんに教えてもらったように、毎日しっかり手入れしている自慢の髪です。お兄さんの優しさが、わたしだけにしか向かない訳ではなくても、今ここにあるのは、わたしのものです。わたしだけのものです。

 

 その幸せをいっぱい感じて、これからもしばらくはこれが続くことを喜び、これが終わらないように気を引き締めます。この幸せが日常になり、ずっと続くように努力する決意をします。

 

 

「お兄さん、おかえりなさいっ!!」

 

 駅から歩いて帰り、家の鍵を開けて小さくただいまを言ってから、お兄さんを迎えます。わたしの日常は、お兄さんを待つことです。お兄さんの家に、わたしたちの家に帰ってきたお兄さんをお出迎えして、お兄さんのために頑張って、大切にしてもらうことです。

 

 

 お兄さんに家族と思ってもらえないと、この生活はなくなってしまうのですから。

 




 これで終わったらただのハッピーエンドなのでは?(終わりません)

 この子この段階に至るまで、自分の家って認識がなかったんですよね(ニッコリ)


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うれしいことと……

出張から少しして、すみれからマフラーを貰った。すみれの真面目で丁寧な性格がよく表れていて、機械で編んだのかと錯覚するほどの綺麗な編み目の揃いだ。若干細めの毛糸を使っていることを考えると、かなり時間をかけて編んでくれたことがわかる。

 

「隙間時間を見つけながら、毎日少しずつ編んでたんです。ちょっと遅くなっちゃいましたけど、使ってもらえたら嬉しいです」

 

要らなかったらわたしが使うので遠慮なくいらないと言ってください、と言われたが、こんなにも期待と不安で揺れている表情を見て、そんなこと言えるはずもない。これまで使っていたマフラーを捨ててでも欲しいくらいだ。

 

嬉しさで飾りたくなり、むしろ一周まわって使えないかもしれないと伝えて、早速明日からつけていくことを決める。わたわたしながら、飾るようなものじゃないので使ってほしいと言ってくるすみれ。

 

 

「さすがに飾るのは冗談だけど、それくらいいいものを貰ったと思っているし、嬉しいと思っているのは本当だよ。こんなにいいものを貰ったんだから、何かお礼をしないといけないね」

 

 

手触りが良くて、柔らかくて、暖かい。デザインも派手な華やかさは無いが、ロープのような模様が綺麗に編まれている。そんなものを、見ただけで時間と手間がかかっているとわかるものを前にして、ただありがとうの言葉だけで終わりにするなんて言うことが有り得るだろうか。

 

ただですら貰いすぎな僕に、さらなる贈り物が届いたのだから、なにかしらのお礼は考えて然るべきだろう。とはいえ金銭ではあまりにも品が無いし、日頃の感謝として大体のことはしている自覚がある。これ以上何をすればお礼に、すみれの行動に報いたことになるのだろうか。

 

 

「えっと、その……お兄さんが嫌でなければなんですけど、ギュッてしてほしいです。頭を撫でながら、褒めてほしいです」

 

正直あまり思い浮かばなかったのでそのまま聞いてみたら、言われたのはそんなかわいらしいお願い。むしろこれまで、そうしたいと思いつつ嫌がられたらと我慢していたくらいなので、内心結構喜びながら撫でまくる。昔通学路でよく会ったわんこを撫でるような、わしゃわしゃした撫で方ではなく、眠れないと枕を持ってやってきた茉莉を寝かしつけた時のような、気をつけた手つき。

 

途中何度か要望を聞きながら、撫でること数分。子供体温でないところに、女の子と言うよりも少女なんだなと感じたり、僕の生活を握っている大きさとは対称的な、腕の中にすっぽり収まる小ささを感じたり、溝櫛にハグマウントを取られても気にならないメンタルを手に入れたりして、そろそろいいかと手を離す。

 

 

すみれがどこか名残惜しそうにしているのは、きっとそうであって欲しいという僕の願望のせいだろう。こんなことで良ければいつでもするよと言いながら、たぶんこんな頼み事をされるのは今回くらいだろうなと少し寂しく思う。

 

 

「ありがとうございます。……その、お父さんがいたらこんな感じだったのかなって、嬉しかったです」

 

僕の父親は、少なくとも子供を、僕を抱きしめるような人ではなかったが、そんなことは言わない方がいいだろう。すみれに悪意があって言っているのなら別だが、少しだけ恥ずかしそうににこにこしている姿から、そうとは思えない。

 

 

出来ればお父さんって言われるよりも、お兄ちゃんの方が良かったなと一瞬思い、昔を思い出してそうでもないかと、やっぱりお兄さん呼びがちょうどいいなと考え直す。

 

「えへへ、実は手袋も編んでみたいって思ってるんですけど、お兄さんは編んだらつけてくれますか?」

 

 

あまり僕のことに時間をかけすぎたらすみれのためにならないから断った方がいいのかもしれないが、そうやってものを作るのがすみれの趣味になるかもしれないし、作ってもらえることはとても嬉しいので、どこか罪悪感を抱きながらよろしくとお願いする。

 

 

それじゃあ手の大きさを調べさせてください。と、手を掴まれてむにむにされたり、糸を巻かれたりする。ひんやりとした、小さい手。ほんの少し力を入れて曲げるだけで、簡単に折れてしまいそうなこの手で、いつもご飯を作ってくれているのだと感慨深くなりながら待つ。数分もしないうちに採寸?は終わって、離される。

 

空調を効かせすぎて少し暑かった中での、心地いい冷たさがなくなってしまったことに少し物悲しさを覚えながら、早速材料を買ってくると準備するすみれを見る。

 

 

「どこまで行くかはもう決まってる?車出すよ」

 

せっかくの休日なので、すみれの買い物について行こうかと思って聞いてみると、お散歩も兼ねてるので大丈夫ですと断られる。沢山悩むから長くなっちゃうし、すぐ近くですからと言われてしまえば僕はもう何も言うことが出来ない。

 

 

行ってきますっ!とテンション高めに家を出ていったすみれの姿に、成長を感じながら、こうやって寂しくなるのなら、いつまでも僕から離れて歩けないままだったら良かったのにと思ってしまい、自省する。

 

こうやって寂しく思えることは、すみれにとってはいいことなのだ。すみれが一人で買い物に行けることは僕にとっても利点になるし、今はこんなふうに思っていたとしても、もし本当に離れられないままだったら、きっといつかどこかで面倒に感じてしまう時がくる。

 

そうならなかったという意味でも、この変化はいいものなのだと自分に言い聞かせて、寂しさを誤魔化すためにすみれの読んでいた本を手に取る。

 

以前までなら目的として本を読んでいたのに、今は誤魔化すための手段にしてしまうことに淡い寂寥を覚えて、それでもあまり誤魔化せずにいる自分に本当にもう末期だなぁと苦笑い。

 

 

一時間くらい、何をやってもやる気が起きずに、ダラダラと時間を潰して、すみれを待つ。普段僕の帰りを待っているすみれも、こんな気持ちで待っていてくれているのだろうか。いや、すみれの場合は時間に合わせてご飯を作ってくれているし、こんなふうにダラダラ考えているような暇なんてないだろう。こんな待ち方をしているのはどうせ僕だけだ。

 

 

そんなことを考えているうちに、すみれが帰ってきた。少しマイナスになっていた気持ちが、一気にプラスに傾く。なるほど、こんな気持ちになるのなら、いつもすみれが元気いっぱいな笑顔で僕を迎えてくれることにも納得だ。

 

 

「おかえり、すみれちゃん」

 

きっといつもみたいに元気よく、ただいまと返してくれるだろう。そう思って期待してそちらを見て、

 

 

「ただいま帰りました、お兄さん」

 

やけに沈んだ表情のすみれを見て、その声を聞いて、僕の気持ちは冷水をかけられたように鎮まった。



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うれしいことと……(裏1)

 毎日少しずつ編み続けてきたマフラーがようやく出来上がって、その出来を確認します。

 

 編み目がおかしいところはないか、不細工になっていないか、最終チェックです。とても気を付けながら編んでいたので、今更見つかることは無いと思いますが、おかしなところにあったら最悪一から編み直しです。

 

 

 幸いおかしなところは見つからなかったので、完成です。だいぶ時間がかかって、もうお兄さんはマフラーを使っていますが、大丈夫でしょうか。もう持っているからいらないなんて言われてしまったら、心がポッキリと折れてしまいそうです。

 

 

 

 どのタイミングで渡すのが一番かを考えながら、いつもよりちょっと早い夕食の支度を始めます。時間的にちょうどいいのと、やり遂げた実感でほかのことをする気になれないからです。

 

 

 理想としては、お兄さんがのんびりして油断している状況。とはいえあんまりにものんびりしている時だと反応が鈍いかもしれないので、程々の状態です。眠そうにしている時や、疲れている時などは、ないとは思いますが素っ気ない対応をされてしまうかもしれません。ああ、とか、うん、とかしか言ってもらえなかったら、きっとわたしは後で泣いてしまいます。

 

 

 お兄さんの様子を見ながら、ベストな状況を待っているうちに、この日は終わってしまいました。お仕事が大変だったようで、すごく疲れたように帰ってきたからです。次の日には同僚と飲み会に行くことになったからご飯はいらないと、遅くなると言っていたので、翌日もダメです。酔っ払っている状態のお兄さんではなく、いつものお兄さんに渡したいからです。

 

 

 ようやく完成して、渡せるのがいつかいつかと待ちに待ってのその翌日。土曜日で休日だったため、朝からお兄さんはいます。そろそろ渡さないと、どきどきとわくわくでおかしくなってしまいそうです。二日酔いになってしまったらしく、朝は見送って、お昼寝明けの午後二時。お昼ご飯の時に、体調はすっかり治っていることを確認したため、隠してるだけで実は体調が悪かったなんて事故も恐らくありません。

 

 今しかないだろうと、お兄さんが用意してくれた私物入れの中から、畳んで入れていたマフラーを取り出します。

 

 

「あの、お兄さん、実は最近、お兄さんが使ってくれるんじゃないかと思って、マフラーを編んでみたんです」

 

 

 お兄さんの前に、マフラーを差し出します。おそらく反射的に受けとったお兄さんが、広げてまじまじと眺めます。

 

 

「隙間時間を見つけながら、毎日少しずつ編んでたんです。ちょっと遅くなっちゃいましたけど、使ってもらえたら嬉しいです」

 

 

 今のところ、喜んでくれているようには見えないです。怖くなって、要らなかったらわたしが使うのでと伝えます。大丈夫、のはずです。受け取ってくれるはずです。もうマフラーを持っていたとしても、たとえ使わなかったとしても、受け取ってはくれるはずです。

 

「ありがとう、すみれちゃん。次から是非使わせてもらうよ。……いや、こんなにいいものなら使わずに飾っておくのもありかもしれない」

 

 もう使っているマフラーがあるのに、突然マフラーを渡されても迷惑だったかな、ひとつあれば十分なのに、2つ目なんて邪魔だったかなと不安に思っていると、お兄さんはそんなことを言ってくれました。

 

 ちょっと残っていた不安が晴れます。安心で、表情が緩んでしまいます。飾れるほど立派なものではないから、ぜひ使ってほしいとお兄さんに伝えます。本当に飾ってくれるなら嬉しいですけれども、せっかく作ったのに使ってもらえないのは寂しいですし、ちょっと恥ずかしくもなってしまいます。

 

 

「さすがに飾るのは冗談だけど、それくらいいいものを貰ったと思っているし、嬉しいと思っているのは本当だよ。こんなにいいものを貰ったんだから、何かお礼をしないといけないね」

 

 

 使って貰えそうなことに安心して、喜んで貰えたことが嬉しくて、ほっとしているとお兄さんがおかしなことを言い出します。わたしが日頃の感謝のお礼に作ったものに対して、さらにお礼をするというのです。

 

 お兄さんが受け取ってくれたことに、わたしがお礼をするのならともかく、受け取ってくれたお兄さんがなにかするようなことではありません。一言のありがとうだけで、使ってくれると言う言葉だけでわたしは満足なのです。

 

 そのことを伝えると、お兄さんはマフラーの編み目を見ながら、丁寧な編み方だと、細かい仕事だと、わたしが拘って頑張ったところを褒めてくれます。簡単に作れるものではないと、とても時間がかかるものだと褒めてくれます。

 

 褒めてくれて、その上で、この頑張りにはもっと報酬がないといけないのだと言ってくれます。最初の言葉だけで満足だったのに、そんなに言ってもらえたらもうオーバーキルです。

 

 なんでもいいから欲しいものをして欲しいことを教えてと言うお兄さん。わたしの欲しかった言葉を言って、それ以上のものまで言ってくれたのに、さらにもっと欲しがれと言います。わたしが断れないようにめちゃめちゃに褒めてからそんなことを言うなんて、お兄さんはずるい人です。

 

 

「えっと、その……お兄さんが嫌でなければなんですけど、ギュッてしてほしいです。頭を撫でながら、褒めてほしいです」

 

 そんなずるい人なお兄さんに、頭の中をぐちゃぐちゃにされて、ふにゃふにゃな脳みそからこぼれてしまったのはそんな言葉でした。これまで何度も何度も思いながら、お兄さんに迷惑をかけてはいけないと、お兄さんに嫌がられたらと思うと、ずっといえなかったお願いです。たぶん、今でなければずっと伝えることが出来なかったお願いです。

 

 

 そんなことを、そんなことならいつでもいいのにと言って、お兄さんは手を広げます。こういう時は、前からいくのがいいのでしょうか。後ろからというのもいいとは思いますし、横向きでというのも魅力的ですが、一番スタンダート?な向かい合っての状態でいきます。

 

 

 重たくないか心配しながらお兄さんの膝の上に座らせてもらい、背中に手を回します。お母さんや瑠璃華さんとは違って、ゴツゴツしていて、硬い体です。

 

 ちょっと体を持ち上げれば、すぐに目線が合うところにお兄さんの顔があります。10センチも動けばおでこがくっついてしまうような至近距離です。目が合って、少し恥ずかしくって顔を俯けます。

 

 石鹸の香りと、汗の匂いと、柔軟剤の香りと、うっすらと残った二日酔いの匂い。何故か不思議と、安心できる匂いです。もっとドキドキしたりするものなのだろうと思っていたのに、びっくりするほど安心感しかありません。

 

 

 ぎゅっと、抱きしめられます。頭の上に、大きな手が乗せられます。こうしているだけで安心できて、幸せで、満たされます。

 

「おにいさん、できれば、もっとつよくしてください」

 

 

 わがままな子です。でも、お兄さんが欲しがれと言ったのだから、しかたがありません。ぎゅっと締め付けられ、ちょっとだけ苦しくなります。苦しいはずなのに、お兄さんにしてもらっていると思うと、苦しいのもまた嬉しくなります。

 

 たまに撫で方を変えてもらったりしながら、幸せな時間は過ぎて、終わります。もっと、ずっと続けばいいのに、始まったからには終わりが来てしまいます。

 

 

 お兄さんの手が止まって、腕が離されます。もっと続けて欲しい気持ちはありますが、そこまでわがままを言ったらこのままわたしがねむるまでずっと続けてもらう羽目になるので、さすがに諦めます。

 

 

「まあ、こんな感じかな。こんなことで良ければ、お礼でもなんでもなくいつでもするよ」

 

 

 そう言ってくれたのは、きっとお兄さんの優しさです。わたしが気にしないように、言ってくれているのでしょう。もし本心からなら、お兄さんはこれから家でずっとわたしとくっ付いていることになってしまいます。抱っこ紐が必要になるでしょう。

 

 

「ありがとうございます。……その、お父さんがいたらこんな感じだったのかなって、嬉しかったです」

 

 

 さすがに面と向かって、幸せで気持ちよかったですなんて伝えるのは恥ずかしかったので、ちょっと言葉と伝え方を選びながらお礼を言います。ゴツゴツした感触から、最初少しそう思ったことも嘘ではありません。

 

 

 離れてしまった温かさと、そこから伝わっていた幸せが無くなってしまい、ぽっかりと穴が空いてしまったような喪失感が残ります。またすぐに抱きしめてほしくなりますが、ここで欲求に負けたら、きっとわたしは完全に駄目になってしまうでしょう。

 

 我慢して、我慢して、また理由があればお願いしても大丈夫なことに気付きます。理由なくしてもらったら駄目になってしまっても、ご褒美であれば逆にモチベーションになるのです。

 

 また、お兄さんがお礼と言ってくれそうなことは、何があるでしょうか。ちょっと前までぽやぽやしていた脳みそを必死に働かせて、考えます。

 

 お兄さんは比較的寒がりで、最近は外出の度にいつもフル装備です。今回わたしが贈ったマフラーもそこに加わることになるわけですが、そこの周りで何かいいものは用意できないでしょうか。

 

 帽子や耳あて、ネックウォーマーなどを考え、そういえば最近手袋がヨレてきたと呟いていたことを思い出します。マフラーを選んだ時にはサプライズで渡したかったから見送りましたが、サプライズにこだわらなければお兄さんの手のサイズは調べられますし、いいかもしれません。

 

 

「えへへ、実は手袋も編んでみたいって思ってるんですけど、お兄さんは編んだらつけてくれますか?」

 

 サプライズじゃないからお兄さんの前で編むこともできてかかる時間も短くなるでしょう。そうすればまた抱きしめてもらえるかもしれません。そのことを想像してにまにましながらお兄さんに聞いてみると、よろしくと言われます。

 

 早速お兄さんの手の大きさを調べさせてもらって、温かくて大きい手をむにむにします。そうしているだけで楽しくって幸せになるので、お兄さんはずるいです。ちゃんと調べながら、半分くらいはお兄さんの手を堪能するためだけに使って、調べ終えます。

 

 途中、このまま手を頭に誘導したら撫でてくれないかななんて邪心が湧きますが、理性の力で留めます。



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うれしいことと……(裏2)

 早速材料を買ってくると伝えると、車を出そうとしてくれるお兄さんに歩いていくことを伝えます。わたしの個人的にやりたいことの買い物ですし、それに何より、今お兄さんと一緒にいたら、すぐにくっつきたくなってしまいます。一回一人になって冷静になるためでもあるので、一緒に車に乗っていたら意味がありません。

 

 

 編み終わった時への期待でウキウキしながら、お兄さんに行ってきますを言います。普段外出する時はお兄さんがいない間に行って帰ってくるか、一緒に出かけるかのどちらかなので、お兄さんに対して行ってきますと言うのはなかなかレアな体験です。

 

 

 実際に家から出て、目的の店まで向かう過程では、なんの問題もありませんでした。何度か行ったことのある手芸用品店ですので、迷うこともありません。

 

 毛糸コーナーでお兄さんの服装に合いそうな色の糸を探し、その太さや質感なんかを選びます。わたしは買い物に結構悩むタイプなので、こっちがいいかいやでもこっちもと、しゃがみこみながらうんうん唸ります。

 

 

 10分くらいそうしていて、ようやく決めて立ち上がります。編んでみないと実際の感覚はわかりませんが、多分この毛糸なら悪いものにはならないでしょう。念の為二玉確保して、ちょっとだけ店内を見て回ります。

 

 

 ごく普通の専門店ですので、置いている糸や布の種類が豊富ということ以外、基本的には特色することはありません。唯一見つけた変わったものは、電気を通すという糸くらいでしょうか。手芸用品店にあるものとしては少し疑問符が浮かんでしまいますが、店主さんの趣味かもしれません。

 

 

 少しだけ気になることが出来たので、そのまますぐに調べて見ます。お兄さんに使わせてもらっている携帯は、こういう時にとても便利です。

 

 

 考えた使い方で使えそうだということがわかったので、買い物かごに入れます。毛糸二玉と糸一巻しか入っていない寂しいかごですから、お会計の金額も可愛いものです。これはいい買い物をしたとにこにこほくほく顔になります。

 

 

 

 

 

「……すみれ?」

 

 昔から何度も見たことのある袋に買ったものを入れてもらい、さあ家に帰ろうと店を出ると、わたしの名前を呼ぶ、懐かしい声が聞こえました。

 

 

 ずっとずっと聞いていて、大好きだった声です。わたしの全てだった声です。もう二度と、聞けることはないと思っていた声で、聞き間違えるわけがない声です。

 

 

 

 

 

 振り返ると、そこにはお母さんがいました。わたしを産んでくれて、わたしを育ててくれて、わたしが人生をめちゃくちゃにしてしまった、お母さんがいました。

 

 

 ビクリと、体が震えます。だって、お母さんはわたしのことが嫌いなはずです。散々迷惑をかけて、最後の最後までわがままだらけだったわたしのことを、嫌っているはずです。

 

 だから出て行けと言ったのに、野垂れ死んでいればいいと言っていたのに、そんな嫌いな相手が幸せそうに、その辺を歩いているのです。その心情は、察して然るべきでしょう。

 

 

 今更になって、自分の不注意を実感します。お母さんの家からわたしたちの家までは、体力のたの字もなかったあの頃のわたしが徒歩で移動できる程度の距離です。つまりは、結構ご近所さんだということ。この店の袋だってお母さんが買って帰ってきたのを見たことがあったくらいには、行動範囲が被ります。

 

 

「おかあっ……その……えっと……」

 

 

 つい癖でお母さんと呼びそうになって、お母さんにとってわたしはすでに捨てた子供であること、周囲に親子関係がバレたらこれまでの努力が水の泡になることに思い至って、慌てて言葉を止めます。そうして、お母さんのことをなんと呼べばいいのかわからなくなって、言葉が出てこなくなってしまいます。

 

 

 考えてみたら、わたしはお母さんの名前すら知らないのです。ずっとお母さんとしか呼んでこなかったから、電話の時はがまずみと名乗っていたし、呼ばれていたから。

 

 漢字で書くと莢蒾だということすら、追い出された日まで知りませんでした。お母さんのことなんて、何も知りませんでした。迷惑をかけないために出ていくと云う最後の親孝行も、今また会ってしまったことで帳消しでしょうし、全く、ひどい親不孝な娘です。お母さんにも、嫌われて当然でしょう。

 

 

 

「……こんにちは、莢蒾さん」

 

 

 何とか絞り出した言葉は、そんな簡素で、平坦なものでした。お母さんと呼びたいのに、昔みたいに笑顔を向けて欲しいのに、それが無理だとわかってしまうから、距離を取ります。意識的にそうしていないと、わたしはきっと泣いてしまいますから。

 

 

 自分のお母さんなのに、自分の苗字でもあるのに、こんなふうに呼ぶしかないことに、強い悲しみを抱きます。呼んだだけなのに、こんなにも胸が苦しくなります。

 

 きっと、わたしとお母さんとの親子関係が、もう直らないくらいに壊れてしまっていると、わかってしまうからでしょう。一緒にご飯を食べた幸せな時間が、もう戻らないとわかってしまうからでしょう。

 

 

「……そう、やっぱり……いえ。すみれ、久しぶりね。少し話したいことがあるのだけれど、ここでするのもなんだし、少し付き合ってくれるかな?」

 

 一瞬苦々しい顔をしたお母さんが、それを押さえ込んでわたしを誘います。話したいことも、謝りたいことも、伝えたいことも、沢山あります。ずっと聞きたかったことも、言えなかったことも、沢山あります。

 

 

 それに、わたしを嫌っているお母さんが、わざわざ誘ってまでわたしに伝えなくてはならないことがあるんです。それならば、それがたとえ暴言でも暴力でも、わたしは受け入れなくてはいけません。お母さんの人生をめちゃくちゃにしてしまったわたしには、その義務があります。

 

 わかりましたと伝えて、お母さんの後ろをついていきます。少し歩いて、自販機の前に来ました。

 

 寒いからとホットのココアを買ってもらいます。自分の分は自分で買おうとすると、こういう時は大人が払うものなのと窘められて、結局ご馳走になりました。わざわざ嫌いな相手であるわたしに買ってくれたことに、ごめんなさいと伝えます。

 

 やっぱり本当は買ってくれたくなんてなかったのでしょう、お母さんの表情が歪んで、直ぐに戻ります。嫌だったのに買ってくれるなんて、やっぱりお母さんは優しい人です。

 

 

 最終的にたどり着いたのは、寂れた公園でした。ベンチと、枯れかけの草しか無い、寂しい公園です。けれど、わたしにはとってはとても大切な、あの日の公園です。

 

 

 道から外れて、ほとんど人も通らなくて、けれど座る場所はあります。人目をはばかって話すのであれば、なかなかにいい場所と言えるかもしれません。

 

 

 あの日と変わらず、汚いままのベンチに腰をかけます。とはいえ、今日着ているのは瑠璃華さんに買ってもらった服なので、そのまま座って汚すわけにもいきません。お兄さんに持ち歩くように言われているティッシュをおしりとベンチの間に挟んで、汚れないようにして座ります。これじゃあ背もたれにもたれることは出来ませんが、一人ならともかくお母さんとお話をする時にそんなだらしない姿は見せられません。

 

 

 横でお母さんが、同じようにハンカチを引いているのを見ながら、ホットココアで指先を温めます。

 

 

「……すみれは、今幸せ?」

 

 どこかおずおずと、聞きにくそうにお母さんが聞いてきます。どういう答えを求めているのかはわかりませんが、とりあえず素直に、幸せだと伝えます。

 

「……そう……だろうね。私のところにいた時とは違って、綺麗な服を着れて、自分の意思で外出ができて、肌や髪にも艶がある。聞くまでもなく、今のすみれは幸せなんだろうね」

 

「今は、どなたかの家に居候させてもらっているのかな?きっと、良い人なんだろうね」

 

 

 聞かれるままに、話します。お兄さんがどんな人なのか、どれだけ優しい人なのか、わたしがどれだけお兄さんのことを好きなのか。話せば話すほど、お母さんの表情は歪みます。それでも、聞かれるので答えます。

 

 きっと、お母さんにとっては気に入らない話でしょう。お母さんの人生をめちゃくちゃにした私が、めちゃくちゃにしたそのままで他のところで幸せになっているんです。許してくれるわけもありませんし、話せば話すだけ、お母さんの神経を逆撫でしてしまっているのでしょう。

 

 それはわかっていても、お母さんが話を辞めない限り、わたしは答え続けます。それがわたしのやらなくちゃいけないことだからです。

 

 

「……ねぇ、すみれ。貴方は私に言いたいこととか、聞きたいこととか、無いの?」

 

 お母さんからの質問が終わって、無糖の缶コーヒーを飲み干したお母さんが、わたしに聞いてきます。言いたいことも、聞きたいことも、謝りたいことも、沢山です。

 

 

「……どうしてお母さんは、わたしのことを嫌いになっちゃったんですか?」

 

 もっと先に言わなきゃいけないことがあるはずなのに、そんなことよりも先に沢山謝らなくちゃいけないのに、出てきてしまったのは、そんな言葉です。

 

 

 お母さんの顔が、今まで以上にゆがみます。そうなって当然の質問をした自覚も、あります。

 

 

「……私は……」

 

 ピリリリリッ、お母さんが口を開いた直後、お母さんのポケットに入っていた携帯がけたたましい着信音を鳴らします。

 

 話の腰を折られて、いい気分はしませんが、前までと同じならこの音は緊急性の高い電話です。休みの日にまでかかってくるということは、よっぽどの内容なのでしょう。

 

 仕草で出るように促すと、お母さんはごめんなさいと一言言って立ち上がり、わたしから少し距離を取ります。そのまま一二分ほど慌てた様子で話して、電話を切りました。

 

 

「すみれ、ごめんなさい。どうしても行かなきゃいけない用ができてしまったの。文句でも疑問でも、言いたいことでも聞きたいことでもなんでも答えるから、何かあったらここに連絡して」

 

 お母さんは焦った様子で、上着の前を開けて内ポケットからメモ帳を取りだし、何かを書き込んで破ったそれをわたしの手に押付けます。

 

 

 手にあるそれよりも、わたしはお母さんの首元から、目が離せませんでした。くたびれた様子の、随分使い込まれてボロボロになっている、アランハニーカムのマフラー。

 

 

「それと、これだけは言っておく。私はすみれのことを、嫌いになってなんていない」




アンケートの結果が予想外すぎたので念の為の確認アンケートです(╹◡╹)


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うれしいことと……(裏3)

 お母さんは、それだけ言い残して足早に去っていきました。

 

 

 意味がわかりません。だって、お母さんはわたしのことを嫌いになったから、きつく当たるようになったんです。そのはずで、ずっとそうだと思っていました。

 

 

 なのに突然、わたしのことを嫌いになったわけじゃないなんて、そんなことを言います。意味がわかりません。

 

 あんなボロボロなと言って、捨てていたはずのマフラーを、もっとボロボロになるまで着けていました。意味がわかりません。

 

 

 嫌いになっていないわけがありません。嫌われていないわけがありません。嫌っていないのなら、お母さんが、あんなに優しいお母さんがあんなふうになってしまったわけがありません。嫌われていなければおかしいのです。意味が、わかりません。

 

 

 

 嫌われていると思っていたから諦めていたのに、もう無理だと思っていたから考えないでいたのに、頭の中がぐちゃぐちゃになって、いやな気持ちがぐるぐるします。わたしのことを嫌いになったのでなければ、わたしの悲しみは、苦しさは、なんだったのでしょうか。わたしが悪いことをしたから、わたしがお母さんに嫌われるようなことをしたから諦めていた、辛い気持ちは、一体なんだったんでしょうか。

 

 

 お母さんが嘘をついていたんだと、そう思いたくなります。わたしのことを嫌っていたと思われたままだとなにか不都合なことがあって、そのためにわたしに嘘をついているのだと、わたしを混乱させることか、わたしを騙すことが目的なのだと、そう考えたくなります。

 

 

 

 

 そうなのだと、自分の中で決めてしまって、やっぱりもうなるべく関わらないようにしようと、これから外出する時はちゃんと気をつけて出かけることを決めて、渡されたメモ帳の切れ端を捨てる。

 

 もしかしたらそんなふうに、してしまっていたかもしれません。実際に思考はそちら側に片寄って、信じたくないと、信じられないと、強く思ってしまいます。

 

 それなのに、お母さんの言っていることが本当なのだろうと思ってしまうのは、わかってしまうのは、お母さんがあの日捨てたはずのマフラーをつけていたからです。わたしがお母さんに喜んでもらいたくて作って、お母さんを怒らせることになってしまったあのマフラー。着けてもらえずに捨てられてしまったはずのマフラー。

 

 それが見えたことが、それを残していたことが、それを着けて外を出歩いていたということが、それをまだ大切に使ってくれていたことが、お母さんの言葉を真実なのだと裏付けます。

 

 嫌っている相手からの、一度捨てたプレゼントなんて、わざわざずっと使うわけがありません。それなのに使っていたということは、そういうことなのでしょう。

 

 

 ならなんで、わたしはずっと怒られていたのでしょうか。

 なんで、わたしは何もさせてもらえなかったのでしょうか。

 なんで、わたしは普通にご飯を食べさせて貰えなかったのでしょうか。

 なんで、わたしと話してくれなかったのでしょうか。

 なんで、わたしに笑顔を向けてくれなかったのでしょうか。

 

 なんで、なんで、なんで。疑問が湧き出ます。嫌われていたから、わたしが悪いからと無意識にしまい込んできた不満が、悲しみが、怒りがドロドロとわたしを満たします。

 

 

 ぐちゃぐちゃで、気持ち悪くて、吐きそうな気分です。こんな気持ちになるくらいなら、なにか聞く前に電話がかかってきてくれればよかったのにと思ってしまいます。こんな気持ちになってしまう自分自身が嫌で、嫌で嫌で嫌で仕方がなくなって、ここにいたくなくて仕方がなくって、突然お兄さんの顔が思い浮かびます。

 

 

 お兄さんなら、何とかしてくれるかもしれません。お兄さんがいれば、こんな嫌な感情を追い払えるかもしれません。

 

 お兄さんがいてくれれば、きっと安心できます。きっと落ち着きます。そばにいてくれるだけで、幸せな気持ちになれるはずなんです。

 

 

 早くおうちに帰りたくて、今すぐ帰りたくて、帰ることしか考えられなくなって、何も考えないで袋の取っ手に腕を通していた袋だけを持って、走ります。今すぐお兄さんに会いたくって、少しでも早く帰るために、息を切らしながら走ります。

 

 

 走って、ようやく着いた家の前。すぐにでも入って、お兄さんの顔を見て安心したいけれど、今の自分をお兄さんに見られるのは嫌なので、少し我慢して呼吸を落ち着けます。

 

 浮かんでいる汗をハンカチで拭いて、ボサボサになってしまった髪を手ぐしで軽く整えて、最低限身だしなみを整えます。お兄さんの前で、意図的ではないだらしなさを見せるわけにはいきません。内心のぐちゃぐちゃがあるので、表情はいつも通りにはなっていないと思いますが、最低限わたしらしさを保てるくらいには取り繕って、玄関を開けます。

 

 

「おかえり、すみれちゃん」

 

 

 お兄さんの、明るい声が聞こえます。座っている位置の関係で、空きっぱなしになっていた扉の関係で、玄関を開けて直ぐに顔が見えたお兄さん。その安心たるや、わたしの中に渦巻いていた嫌な気持ちのほとんどが、すぐさま塗りつぶされてしまうほどのものです。

 

 その顔を見ただけで、安心出来ました。その姿を見るだけで、落ち着きました。その声を聞くだけで、楽になれました。

 

 

「ただいま帰りました、お兄さん」

 

 

 こう返したわたしの言葉の中には、おかしなところはなかったように思えます。もちろん、明るく元気いっぱいに言った訳ではありませんが、最低限普通に返すことは出来ていたはずです。

 

 

 

 そのはずなのに、お兄さんはわたしの姿を見て、声を聞いた瞬間に、のんびりした雰囲気を一気に捨ててしまいました。わたしの未熟な気の使い、隠しておこうなんて言う思惑は何の役にも立たずに、お兄さんに見破られてしまいました。

 

 

「すみれちゃん、何かあったのかな?」

 

 

 お兄さんは、何かに怒っているのでしょうか。いつもよりも冷たくて、どこか真剣な話し方です。わたしの様子が、きっとおかしかったからでしょう。わたしがある程度いつも通りを飾れると思っていたそれは、お兄さんにとってはこの上なく幼稚なものだったのでしょう。

 

 その事がわかったので、完全に諦めて、お母さんと偶然会ったことを、その時にした話の1部をお兄さんに伝えます。勝手にお兄さんの話をしてしまったこともありますから、逆にお兄さんに物事を伝えることに対しては何も抵抗がないです。

 

 さすがに全部の話を覚えていられたわけではありませんが、大体のことは伝えられたと思います。お母さんが電話の用事で去っていったこと、お兄さんに会いたくて走って帰ってきたことを伝えると、お兄さんはわたしの頭を優しく撫でてくれました。

 

 

「そっか。おかえり、すみれちゃん」

 

 さっきと同じ言葉なのに、うれしいです。受け入れて貰えている感じがして、胸が温かくなります。あんなにあったドロドロが、全部わからなくなります。

 

 

「すみれちゃんが帰ってきたいって思うなら、ここが君の家だよ。だから、安心して」

 

 

 そう言われて、わたしは自分でも気付いていなかった不安に気付きます。お母さんがわたしを嫌っていないのに追い出したのなら、お兄さんだってそうするかもしれません。そんな不安を、わたしが自覚するより先にお兄さんは解いてくれました。すごくて、なんだかちょっとずるいと思ってしまいます。

 

 

 お母さんに対して怒るでもなく、わたしをただ憐れむのではなく、安心感を与えてくれるお兄さんの傍は、やっぱり心地いいです。ずっと、ここにいたいと思ってしまいます。

 

 でも、だからこそ、今の心地いい、不思議な関係から、もっとちゃんとした関係に、一度変化をつけるべきなのかもしれません。最初に話した、わたしが楽に死ぬためのお小遣い稼ぎなんて関係は、もう終わらせてしまった方がいいのでしょう。

 

 

 

 ただ、今はまだこの温かさに浸っていたいと思って、こんな大事な話を後回しにしてしまいます。だめだとわかっているのに、後回しにしてしまいます。やっぱりわたしは、悪い子です。

 

 



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懐かしいこと

鬱と曇らせを別枠に考えている人が多い……?(╹◡╹)ワカラン

ちなみに作者的には鬱1.5くらいの感覚でした(╹◡╹)
ついついお漏らししちゃってた程度(╹◡╹)


 帰ってきたすみれから外出先であったことを聞き、僕の家を自分の家として帰って来てくれたことが嬉しくって、すみれの頭を撫でた。

 

 これまでの経緯を考えると無いとは思っていたが、元住んでいた家に帰りたいと、お母さんの元に戻りたいと言われてしまったら、僕では止めることが出来なかった。そうならなかったのは、もうすみれのいない生活には戻れない僕にとっては、極めて重要な事だ。

 

 

 

 そして、話を聞く限りすみれのお母さんがすみれを連れ戻そうとしているようにも思えない。もし連れ戻そうとしていれば、何かそれを匂わせる行動をとるだろうし、すみれに連絡先を教えるだけで終わりということはしないだろう。

 

 正直なところ、そうされたら打つ手がなかったため、助かったと言えるだろう。たとえどれだけ僕とすみれが良好な関係を築けていても、親子関係を持ち出されてしまえば所詮僕は誘拐犯に過ぎない。戸籍がないことも、DNA鑑定か何かで解決されてしまうかもしれない。こちらから出せる札はネグレクトされていた事実くらいだが、だからといってすみれがすぐに得体の知れない僕の元に返されるなんてことはないだろう。

 

 

 推測でしかないが、すみれのお母さんは罪悪感を抱いているのではないだろうか。すみれの聞かれた質問からするに、今の状態がいいものなのか悪いものなのかを探ろうとしているように思える。そうなったら、考えやすいのは連れ戻そうとしている事と幸せそうならもういいやと考えていることで、前者ではないだろうから放任の線が濃い。

 

 そうである、と言うよりも、そうであったらなぁという程度の願望じみた推測だが、あまり間違ってはいない気もする。

 

 

 

 まあ、僕がいくら頭を悩ませてもなんともならないことはともかくとして、今はすみれのことだ。話しているうちにそこそこ立て直したように思えるが、あんな表情で帰ってきたのだから、大丈夫なはずもないだろう。

 

 せっかく素敵なプレゼントを貰ったのに、嫌なことになってしまったものだ。すみれとお母さんが和解できるならした方がいいと思うし、出会えたこと自体はいいと思うが、何もこのタイミングでなくても良かったのにと思ってしまう。

 

 

 本人は大丈夫だと言っているものの、やはりこうなってしまうと心配なので、今日は一日ゆっくりしてもらう。すみれが来て以降、全くすることがなかった久しぶりの家事だ。

 

 でもわたしの仕事が、お金をもらっているのに休むなんてと言って働こうとするすみれに、有給休暇という言葉を教えて何とか家事をもぎ取る。

 

 これまで毎日休みなく働かせてしまっていた僕も問題だが、休んでいいと言っているのにここまで渋るすみれも大概だ。

 

 特に予定していたメニューなんかもないということなので、ローテーションでいつも食べていた煮物を久しぶりに作る。しばらくブランクがあるとはいえ、慣れに慣れた作業だ。特に滞ることもなく終わる。

 

 今回は一食分しか作っていないので、過去一で早く仕上げて、あとは煮るだけ。弱火にして待っている間にお風呂を洗っておく。普段はシャワーで済ませてしまうことが多いが、今日は湯船に浸かってゆっくりしてほしいと思ったのでお風呂の日だ。

 

 

 

「あ、お兄さん!お鍋を火にかけてる時は離れちゃダメです!」

 

 お風呂の栓を閉めてキッチンに戻ると、玄関の前で腰に手を当てながら立っていたすみれに、めっ、と怒られる。一応弱火にはしていたのだと言い訳をしてみたものの、火種がある以上変わらないと正論を言われた。

 

「わたしのやることが全部なくなっちゃったんですから、お鍋の番くらいは任せてください」

 

 何故か少しだけ、必死そうに見えるすみれ。残っている家事は全部僕がやると言った手前、それじゃあお願いというのも迷ったが、今はそうしておくのが正解な気がしたので、頼むことにした。

 

 

 鍋を任せて、すみれが朝干してくれた洗濯物を取り込み、畳む。3日分くらい溜めてから洗ってもらっているため、それなりの量になる。

 

 さすがに年頃の少女の下着を触ると嫌がられるだろうから、そこだけは鍋の番をしているすみれにやってもらって、それなりに時間が経ったので火からあげる。代わりに小鍋にほうれん草を入れておひたしを作り、最後に豆腐と乾燥わかめで味噌汁を作れば、夕食は完成だ。

 

 少し寂しい気持ちもするが、それはすみれの料理になれてしまったからだろう。僕だけだった頃はおひたしも味噌汁もつくらなかったし、それを寂しいとも思っていなかった。

 

 

 すっかり胃袋をおさえられていることを実感しながら、少し早めの夕食を食べる。今日はお風呂がわいているから、のんびり入るために早めにした。いきあたりばったりで行動したら自然とこうなってしまったとも言える。

 

 

 

 慣れ親しんだ、面白みの無い味。作っている時こそ、久しぶりに食べるのだと少し楽しみにしていたが、実際に食べてみるとこんなものかという感じだ。けして不味いわけでは無いし、すみれもおいしいと言ってくれてはいるが、なんというか食べ飽きてしまっているのだ。

 

 すみれがいなくなったらこれに戻さなくちゃいけないことに危機感をおぼえて、どうしたものかと考える。すみれだっていつまでもこうしてうちにいてくれるわけでは無いだろうし、いずれ何かしらの形で独り立ちするだろう。そうなったら僕は残されるわけで、そこにこの生活はない。

 

 生活能力が最低限の人間が、生活水準をはねあげられて置いていかれるわけだ。干からびるか、水準を下げれなくて破産するかの2択だろう。恐ろしい話だ。

 

 

 そんなことを考えながら食べて、すみれをお風呂に送りだす。不意に昔を思い出して、以前はよく見ていた銀行口座を見ると、すみれが来るまでとは比べ物にならないほど、増える速度が落ちていた。来てすぐのころの収支は一気にマイナスに傾いていたし、一時期の僕が見たら悲鳴をあげかねないだろう。

 

 それなのに、今の僕はこんなにも満たされた気持ちになっているのだ。昔のことがなんだか馬鹿らしく思えて、でも実際貯金も大切だしどうしようかと考える。

 

 解決策が出てくるわけがないとわかりながら考えつつ食器を洗って、一時間くらいのんびり入ってきたすみれと入れ替わりでお風呂に入る。

 

 

「おにいさん、その、よかったら一緒にゲームしませんか?」

 

 普段からシャワーが多いためあまり長風呂をする習慣がない僕が上がって、ベッドに腰をかけていると、すみれが携帯を持って寄ってきた。

 

 話を聞いてみると、溝櫛とやっていたリバーシを一緒にやりたいとのこと。ゲームと言うからネットゲームかなにかかと思ったが、すみれにはこれまでゲームという考えがあまりなかったらしく、デジタルゲームの話をするとぽかんとしていた。

 

 なにかすみれに渡すのに良さそうなものはあったかなと考えつつ、しばらくリバーシを続ければ、それなりの時間だ。明日が休みということを踏まえても、そろそろ寝た方がいいだろう。

 

 

「お兄さん、今日、お兄さんのベッドで寝たいです。……だめ、ですか?」

 

 

 寝際に、そんなことをすみれが言ってきて、いきなりこの子は何を言い出すのかと思ったが、話を聞いてみると言葉のそのままの意味で、僕のベッドで寝たいとのこと。要は寝床の交換をしないかという話で、すみれが嫌ではないのであれば僕には何も問題がない。

 

 

「おやすみなさい、お兄さん」

 

「うん、おやすみなさい」

 

 

 ただ、普段の自分のものとは違う、少女っぽい甘い匂いの染み付いた布団に包まれながら寝ることは、僕にとっては少し、眠りにつきにくいものだった。



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懐かしいこと(裏)

「そうだ、すみれちゃん。今日の分の残りの家事だけど、色々考えたいこともあるだろうから僕がやるよ」

 

 わたしが悪い子だから、バチが当たってしまったのでしょうか。お兄さんの手の温かさを感じていると、そんなことを言われました。

 

 

「これまで毎日やってくれていたし、休むこともなかったでしょ?すみれちゃんだって体を休めないと」

 

 

 休ませなかったのは僕だけどと、お兄さんはわたしに休息を強いります。今日はもう何もするななんて、ひどいことを言います。いえ、お兄さんの厚意であることは、わかっているのです。けれど、それが辛いのです。

 

 

 毎日家事をすることを条件にこのお家に置いてもらっているという、最初の約束を持ち出して、仕事はわたしがやらなきゃいけないことなのだと主張します。

 

 

「そうは言っても、さすがに休み無しで毎日働き続けるのはダメだよ。仕事とかでも有給休暇があるんだし、すみれちゃんも、たまには休みながら貰えるものだけもらっていいと思うんだ」

 

「それに、たまには家事をしないと、僕が何も出来ない人になっちゃうからね。最低限の家事能力くらいは確保しておかないと」

 

 

 それが嫌なのに、そう言われてしまえば何も言い返せません。お兄さんが、わたしがいなければまともに生きれなくなればいいと思っているのに、それを伝えてしまえば気持ち悪がられるでしょうから、何も言えません。

 

 

 考えているメニューや、使う予定のある食材がないことを確認されて、お兄さんがキッチンに行くのを見送ります。扉が閉められて、お兄さんの姿が見えなくなります。

 

 

 トントントントン、と、包丁がまな板にあたる音が聞こえます。わたしよりもずっと早くて、迷いがありません。

 

 きゅうっと、胸が痛くなります。わたしがいなくてもお兄さんは普通に過ごせてしまうことが、苦しくなります。

 

 お兄さんが料理をしている音が、わたしが何もせずに座っていることが、昔を思い出させます。いらない子で、邪魔な子で、何もさせてもらえなかった昔を思い出します。

 

 寒くて、何もなくて、ただ生きているだけだったあの頃。もう戻りたくないあの頃を思い出して、息の仕方がわからなくなるくらいの怖さが込み上げてきます。

 

 

 お兄さんがわたしのことを捨てたりしないって、わかってはいるのです。わたしのことが嫌でなにもさせてくれないのではなくて、わたしのことを思ってなにもさせてくれないのだと、わかってはいるのです。

 

 けれど、わかっているからと言って、それが怖くないということにはなりません。

 

 

 お兄さんに気付かれないように、心配をかけないように、過呼吸になってあらくなった息を、必死になって鎮めます。トントントンの音が、何もしていない事実が、わたしの頭を蝕みます。

 

 耳を塞いでも聞こえるまな板の音。こわくてこわくてしかたがないその音が止まったのは、どれくらい経ったころでしょうか。それほど長い時間ではなかったはずなのに、ずっとずっと続いていたようにも思えます。

 

 換気扇の回る音と、お鍋の蓋がコトコト鳴る音だけになって、だいぶ落ち着きます。完全にいつも通りとはいきませんが、耳を抑えてうずくまらなくても大丈夫になりました。浴室の開いた音が聞こえて、お鍋の音が止んでいないことに疑念を持って、覗きに行きます。

 

 

 扉の先には案の定お兄さんはおらず、火にかけられたままのお鍋があって、その近くには袋も落ちていました。

 

 危ないので回収して、ちゃんとゴミ箱に捨てておきます。ついでに、お兄さんが戻ってくるまでお鍋の番をします。吹きこぼれるくらいなら、大変って言えば済む話ですが、何かの拍子にさっきの袋みたいなものに引火してしまったら火事になりかねません。ちゃんとお兄さんにも注意しておきましょう。

 

 やることが出来たおかげか、先程までとは違って、怖くなることは無くなりました。もしかすると、わたしは病気なのかもしれませんが、お兄さんが受け入れてくれるならそれでもいいです。

 

 

 戻ってきたお兄さんに、めっ、と注意して、その流れでお鍋の番をもぎ取ります。あんなふうにこわくなるのはもう嫌ですし、もっと続くようであれば、お兄さんに隠すことも出来ないでしょう。変な心配はかけたくありませんし、できるなら伝えずに済ませたいです。

 

 

 コトコト鳴るお鍋の蓋を見ながらのんびりして、お兄さんに呼び出されてリビングの方に移動して、自分の分の下着を畳むように言われます。

 

 

「すみれちゃんも女の子だし、さすがに勝手に下着を触られるのは嫌でしょ?」

 

 そんなことを言うお兄さんに、お兄さんが相手なら全く気にしないと、むしろ頼まれたらつけてる状態で見せると言うと、もっと自分を大切にしなさいと真面目な顔で言われてしまいました。

 

 初めて会った時の半分くらい自暴自棄になっていた頃ならともかく、今であればわたしも大切にしています。その上でお兄さんが見たがって、喜ぶのであればと思って口にしましたが、軽く流されてしまいました。

 

 見せたがりの痴女というわけでもないので、変にその話を引き摺ったりはしませんが、ここまで興味無さそうにされてしまうと乙女的には複雑です。見せたいわけじゃないけど見たがられたいと言いますか、多少は興味を持ってほしいと言いますか。

 

 

 お兄さんもお母さんも瑠璃華さんもかわいいと言ってくれていますし、鏡を見ても整っている方だと感じましたが、お兄さんの好みではなかったのでしょうか。なぜか少しもやもやします。

 

 

 そんなことを考えながら下着とにらめっこして過ごしていると、いつの間にか時間が過ぎていたようで、お兄さんからそろそろご飯が完成すると伝えられます。全く畳めていなかったものを急いで畳んで、テーブルの周りを片付けます。

 

 

 お兄さんが作ってくれたものは、お兄さんが初めて食べさせてくれたものと同じ、煮物でした。少し冷めてきていますがまだ十分に温かくて、美味しいです。わたしに最初の幸せを教えてくれた、大好きな味です。ひと口ひと口、じっくりと味わいながら食べます。

 

 

 お兄さんの食べるものは全部わたしが作りたいという思いと、お兄さんがわたしのために作ってくれたご飯を食べれる幸せを考えて、どちらを取るべきなのだろうかと悩みつつ食べていると、美味しいご飯はすぐになくなってしまいました。

 

 

 先にお風呂に入っておいでと譲ってもらって、お言葉に甘えてのんびりと入らせてもらいます。瑠璃華さんに教えてもらったように全身を洗って、そこそこ伸びてきた髪をタオルでくるんで湯船に浸かります。

 

 浮力でふわふわする中で、自分の体や、顔を触ってみます。まともな食生活と生活習慣のおかげで、初めて会った時とは比べ物にならないほどちゃんとお肉が付いてます。瑠璃華さんいわく、まだ痩せすぎらしいですが、ちゃんと女の子らしい体にはなっているのではないでしょうか。

 

 

 積極的にそういう関係になりたいわけではありませんが、いつまでもお兄さんと一緒にいるためには、お兄さんの好みであった方がいいでしょう。恋人ができたと言って追い出される可能性も十分にあるわけで、わたしがそこのポジションに収まれればいちばん効率的です。

 

 まずは少しでも魅力的に思ってもらえるために、なにかしなくてはいけないなと思いながらお風呂をあがり、お兄さんが入ったところでスキンケアをします。

 

 

 瑠璃華さん曰くもちもちすべすべらしいほっぺたで何とか気が引けないかと思いますが、どうでしょうか。こんなことなら瑠璃華さんとお話する中で、恋バナの辺りをもっと深堀しておくべきでした。

 

 

 クッションに座りながらむむむと悩んで、こうして座ってお兄さんを待っているのは最初の日以来かもなぁと思います。考えてみればあの日も今日も、お母さんと話して、お兄さんに話して、たくさん優しくお世話してもらって、こうしてお兄さんのクッションに座っていました。

 

 

 実はお兄さんとご飯食べる時以外はほとんど使っていない、お兄さんに買ってもらった自分の分のクッションを見ながら、感慨深い気持ちになります。あとはお兄さんのベッドを借りてそこで寝たら、ほとんど同じ行動と言えるのではないでしょうか。

 

 

 ちょっとはしたない気もしますが、後で頼んでみたいと思います。

 

 

 

「おにいさん、その、よかったら一緒にゲームしませんか?」

 

 お風呂から上がってきてホカホカなお兄さんに近寄って、おねだりをしてみます。瑠璃華さんとやっていたリバーシですが、お兄さんも知っていたようで受けてくれました。

 

 どこかにしまってあるらしい、いくつも種類があるゲーム機の一つをまた今度探してくれると言ってくれたお兄さんと、しばらく携帯を使って対戦します。瑠璃華さんとやっていた時のような、石をひっくり返す手間がないのはいいことかもしれませんが、置ける場所が最初からすべて表示されてしまうのは少し微妙です。便利ではあるのかもしれませんが、風情がないと言いますか、相手が気付かないといいなって思っていたところをすぐに表示されてしまうのがいやです。

 

 瑠璃華さんに引き続きお兄さんにもボコボコにされて、お兄さんにそろそろ終わりと言われておしまいになります。

 

 

「お兄さん、今日、お兄さんのベッドで寝たいです。……だめ、ですか?」

 

 歯磨きをしたりして、寝る支度を済ませて、さあ寝ようというところでお兄さんにお願いしてみます。瑠璃華さんと寝た時みたいに一緒のベッドで寝るのもゆくゆくは視野に入れていますが、突然お願いして引かれてしまったら嫌なので、まずはここから。

 

 もっと自分を大切にしなさいというお兄さんに、そういう意味ではないと急いで訂正をして、そういうことならばと許してくれます。お兄さんの様子的に、ドアインザフェイスの効果が働いた気もしますが、結果として通ったのだからいいとしましょう。

 

 

 早速ベッドに入って、その感触を堪能します。真ん中の部分の、少し柔らかくなっている部分は、いつもお兄さんが寝ていてバネがヘタっている場所です。

 

 こっそり深呼吸をして、枕に頭を乗せます。お兄さんの匂いです。瑠璃華さんみたいに、いい匂いがするわけではありませんが、ほっと安心できる、好きな匂いです。

 

 

「おやすみなさい、お兄さん」

 

 お兄さんの布団に包まって、その匂いに包まれます。心臓がゆっくりとくとく鳴って安心感と眠気が襲ってきます。

 

 

「うん、おやすみなさい」

 

 

 優しい声。安心できる匂い。大好きなものに包まれて、わたしは眠りにつきます。今晩は、ぐっすり眠れそうです。



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ひとつの関係の終わり

 目が覚めると、すみれの布団の匂いに包まれていた。正直なところ寝足りないが、このままこの布団で二度寝をするのも、少し罪悪感というか、気まずさのようなものを感じるので起床。時間は、日曜日の朝にしては少し早めなくらいだ。

 

 僕はよく眠れなかったのに、ふにゃっとした表情でまだ眠っているすみれの寝顔を見る。寒いからだろう、布団で繭のように包まって、あたまだけがでている。

 

 無防備で柔らかそうな頬を突っつきたくなる衝動を、起こしてしまったら可哀想だと理性を総動員することで耐える。年頃の少女の寝顔をじっくり眺めて、無遠慮に触れるなんて、許されるようなことではないからだ。

 

 

 ずっと見ていると我慢できなくなりそうなので、ほどほどで引き上げて朝ごはんの準備にかかる。昨日の夕食に引き続き、たまには僕が用意しても構わないだろう。

 

 

 卵とベーコンがあったのでカルボナーラ風トーストをひとまず一人分作り、すみれが起きてくるかを確認する。深い眠りについているのか、全く起きる気配がないので先に食べてしまうことにした。

 

 すみれの布団を畳んで場所を作り、座卓の上を片付けてスペースを作る。比較的長めに焼いたため、カリッとしたトーストに半熟の卵が染み込んで、ベーコンと胡椒の香りが食欲をそそる。匂いにつられて起きてきたりしないかなと少し期待して見てみるが、まだまだぐっすり眠っている。

 

 食べ終わって、皿の片付けをしてもまだ寝ているため、朝食は起きてから作ればいいだろう。それほど時間がかかるものでもないため、すぐに作ってあげることができる。

 

 片付けを済ませて、暇つぶしにスマホでゲームをする。まだまだ眠っているすみれをそのままに、気がついた頃には頃にはお昼前。さすがに心配になって、呼吸しているかの確認をする。

 

 規則正しい呼吸音は聞こえるし、顔の前に手を置くと鼻息もあたる。となればただ寝ているだけだと思うのだが、これまでこんなに長時間眠っているのは見たことがない。

 

 

「すみれちゃん、そろそろ12時だけど、まだ起きないの?」

 

 さすがにそろそろ起こした方がいいかと思い肩を揺らそうとして、首から下が完全に布団の中に収まっていることを思い出す。仕方がないので推定肩を揺らしながら声をかける。

 

 

 あーとなーとおーの中間みたいな鳴き声を出しつつ、眉間にキュッと皺を寄せてから、すみれはゆっくりと目を開いた。

 

 

「……ぁれ?おにいさん?……おはようございます……」

 

 ぽやぁんとした顔のすみれにおはようと挨拶を返して、その目に知性が戻るのを待つ。

 

 

「っ!!ごめんなさいお兄さん!すぐに朝ごはんの準備します!」

 

 10秒ほどでいつも通りになったらしいすみれは、窓から差し込む光と僕の姿を見て、ガバッと跳ね起きる。朝ごはんはもう食べたし、時間もお昼だと伝えて、止まってもらうと、すみれはしゅんとした様子で僕のベッドに座り込んだ。

 

「そんなに落ち込まなくてもいいよ。それより、よく眠れたかな?」

 

 お昼まで寝ていたくらいで、少し過剰なまでに落ち込むすみれに、聞くまでもないだろう質問をかけてみる。こんなに沢山寝ていたのに、よく眠れなかったなんて言うはずもないだろう。

 

 

 案の定はいと言って、ついでに少し顔を赤くしながら目を背けるすみれ。寝坊してしまったことが、それほど恥ずかしかったのだろうか。ちょっと強引に話を変えて、朝ごはんには何を食べたのかと聞いてくるすみれに、カルボナーラ風トーストだと答える。

 

 

「……おいしそうです……わたしも食べたかったのに」

 

 ちょっと恨めしそうに、なんで起こしてくれなかったのかと聞いてくるすみれに、あまりにも気持ちよさそうに寝ているから起こすのが忍びなかったのだと伝えると、次からは絶対に起こしてくださいと言われてしまった。

 

「本当にお願いします。自分の力で起きれなくて、お兄さんに迷惑をかけるようなことはなるべくないようにしますが、お兄さんの朝ごはんを作れないことの方が、わたしのお仕事ができないことの方が大変なんです」

 

「……ねぇ、すみれちゃん。すみれちゃんがいつも頑張って、真剣に家事をしてくれていることは知っている。楽しそうに話してくれるから、いやいや義務感でやっているわけじゃないこともわかってる。でもね、そこまで執着するのは、ちょっとおかしい事だと思うんだ」

 

 

 昨日に引き続き、やけに“仕事”にこだわるすみれ。ここまでの執着を見れば、さすがの僕でも何かおかしいことくらい気が付く。

 

「他にやりたいことだってあるはずなのに、全然手を抜かないのはすごく偉いと思うよ。僕がお金を渡す代わりにって頼んだことだから、その分働かないとって意識には素直に尊敬する。でも、他にもなにか理由があるんじゃないかな?」

 

 もし何も無くて、単純に約束のためだけにここまで執着しているのであれば、もうこんな関係は終わりにしてしまった方がいい。もとよりすみれが生きる理由を見つけるまでの繋ぎだ。

 

 

「…………お兄さんにご飯を食べてもらうのが、好きなんです」

 

「お兄さんに、美味しいって言ってもらえたら、それだけで幸せなんです」

 

「お兄さんが、わたしがつくったもの以外のものを美味しいって言うのが嫌なんです。お兄さんの食べるものは全部わたしが作りたいんです」

 

「お兄さんに頼られたいです。お兄さんに褒められたいです。わたしがいないと何も出来なくなるくらい、お家の中のことは全部やりたいんです」

 

 

 そう思っていたのに、ぽつぽつと伝えられるのは、そんな言葉。ひどく純粋で、歪んでいて、重たい感情。あまりにも予想外な回答に驚くが、当初の僕の目的だった、すみれの生きる理由を見つけるというものは、知らず知らずのうちに達成できていたらしい。もう死のうとしていないことはわかっていたが、それよりも進んでいたことは、僕がその理由になれたことは、少し嬉しかった。

 

 

「そっか。それならすみれちゃん、僕からも伝えたいことがあるんだけど、いいかな?」

 

 すみれは小さく頷く。きっと、ずっと欲求を、本心を隠していたすみれの告白に、僕も真摯に答えなければならない。

 

 

「すみれちゃんとの最初の約束なんだけど、本当は僕は、君を死なせるつもりなんてなかったんだ。死なせたくないと思って、時間稼ぎのために話をもちかけた」

 

 当然、それが失敗したら責任をもって看取るつもりでいたことも伝える。

 

「だから、すみれちゃんがやりたいことを見つけて、死ぬつもりが無くなったのなら、僕にとってあの約束のそれ以外の分はどうでもいい。休まず毎日完璧に働かなくても家から追い出したりしないし、多少のお小遣い位は渡す。そもそもあの話をした時には、すみれちゃんは何も出来ない前提での条件だったし、さっきの話を聞く限り僕がそう言ったから明日から何もしなくなるなんてことも無いでしょ?」

 

 

「そこで、ひとつ提案があるんだ。今までの約束、家事の代わりにお金を渡す関係、誘拐犯と虐待児の関係じゃなくて、ただ一緒に暮らそうって約束、お互いに相手のことを思って協力して生活する関係を、新しく作らない?」

 

 要は、変に形にこだわるのはもうやめて、これからは同居人ではなく家族として一緒に暮らしませんか、というお誘いだ。言い方が多少迂遠で、聞き方を変えればプロポーズの言葉にも聞こえるような、小っ恥ずかしい言い方だが、意味さえ伝わっていればきっと断られることは無いだろう。これで断られたら僕はもう羞恥で死ぬしかない。

 

 

「わたし、普通の子じゃないです」

 

 知っている。すみれが普通の子だったら、きっと僕が声をかけることは、家に連れて帰ることは無かった。

 

「わたし、重たい子です」

 

 知っている。知らなかったけど、先程聞いてその重さは十分理解している。

 

「わたし、わがままばかりの悪い子です」

 

 知らない。すみれはこれまでほとんどわがままなんて言わなかったし、むしろ足りていないくらいだ。悪い子だと感じたことも、今まで一度も無い。

 

「それでも、お兄さんはわたしと居てくれますか?絶対に捨てないで、離さないで、ずっとそばにいて、家族になってくれますか?」

 

 そうしようと、そうなってくれと頼んでいるのはむしろ僕の方なのだ。

 

 

 

 

「そうしたいから、お願いしているんだよ。僕と家族になろう」

 

 

 

 

 返事の言葉はなかった。ただ、ひとつの温もりと、小さな嗚咽が腕の中にあった。



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ひとつの関係の終わり(裏)

まだ終わりません(╹◡╹)


 好きな匂いに、安心する匂いに包まれて。温かな感覚と、キュッと身を締め付ける圧迫感が心地いいです。

 

 人肌程度の温もりと、全身を包み込む匂い。お兄さんが抱きしめてくれているのでしょうか、とっても、とっても幸せな気分です。安心感があって、すうっと落ち着いて、眠ってしまいそうになります。

 

『寝ててもいいんだよ』

 

 お兄さんの声が聞こえます。優しい声、優しい言葉です。その言葉に従って、意識を手放します。水面のギリギリにいた意識を、一番下まで突き落とします。なにか美味しそうないい匂いがしたのは、きっと気のせいでしょう。

 

 

 

 再び暖かい人肌とお兄さんの匂いに包まれながら、意識が浮上します。やっぱりとっても幸せで、ずっとこのまま過ごしたいと思ってしまいます。それだけ、わたしが魅力的に感じることを踏まえると、やはりここはお兄さんの腕の中でしょうか。キュッと、締め付けが強くなります。離さない、と求められているように感じて、嬉しくなります。

 

 幸せだなぁと浸っていると、突然体が揺れます。ぐわんぐわん揺れているのに、お兄さんは何も言ってくれません。

 

 

 

 どうしたのかなと思っていると、不意に意識に光が入りました。眩しくって、眠たくって、目を強く瞑ります。後頭部が熱いのは、窓から射す日差しに背中を向けていたからでしょうか。

 

 ああ、夢だったのだなと、夢でも、いい夢だったなと思いながら目を開けると、すぐにお兄さんが目に入りました。おはようございますと言って、お兄さんの格好を見ます。

 

 きっとわたしが起きてこないから、起こしてくれたのでしょう。お兄さんの着替えも終わっていますし、日光も射しているから朝です。すぐに朝ごはんの準備をしないとと思って、跳ね起きます。

 

 

「ストップストップ、一回止まって外見てみて。太陽はどこにある?それと、もう朝ごはんは食べてるから今から作ってくれなくても大丈夫だよ」

 

 太陽の位置は南。それも、多少のずれこそあるとおもいますがほぼ真南です。太陽と時計で方角がわかることを逆用すれば、太陽の位置と方角で時間がわかりますし、その事を知らなかったとしても太陽が南にあれば12時だということはわかります。

 

 ひどい寝坊をしてしまった上に、お兄さんはもう朝ごはんを済ませてしまったと言います。わたしのやらなくてはいけないことなのに、できなかったことにショックを受けて、思わず座り込んでしまいます。

 

「そんなに落ち込まなくてもいいよ。それより、よく眠れたかな?」

 

 やらなくてはいけないことができなかったのだから、落ち込みます。よく眠れたかについては、はいと返事をします。どれくらいよく眠れたかを伝えようとして、本人の前でお兄さんに抱きしめられる夢を見るくらいよく眠れた、なんて恥ずかしくて言えないことに気が付き、お兄さんの顔を直視できなくなります。

 

 

「そ、そんなことよりお兄さん、朝ごはんは何を食べたんですか?」

 

 とりあえず話題を変えるために、少し気になっていたことを聞いてみると、ベーコンや半熟に焼いた卵、マヨネーズにチーズを使って作った、カルボナーラ風トーストのことを教えてくれました。話を聞いているだけで美味しそうで、昨日の夜以降何も食べていないお腹がきゅうと鳴きます。

 

 

 

 わたしも食べたかったと伝えて、どうして起こしてくれなかったのかを聞きます。お兄さんが起こしてくれれば、朝からお兄さんに料理をさせてしまうことにもなりませんでしたし、仮になっていたとしてもわたしも食べれました。

 

「ごめんね、すみれちゃんがあまりにも気持ちよさそうに寝ていたから、起こしちゃかわいそうだと思ったんだ」

 

 

 お兄さんが謝ることではありません。自分で起きることの出来なかったわたしが全部悪いのですから、謝らなければならないのはわたしの方です。

 

 

「本当にお願いします。自分の力で起きれなくて、お兄さんに迷惑をかけるようなことはなるべくないようにしますが、お兄さんの朝ごはんを作れないことの方が、わたしのお仕事ができないことの方が大変なんです」

 

 

 

 次から起こしてくださいと言って、わかったと返事をしたお兄さんがことの重大さをわかっていなさそうだったので、重ねて言うことで念押しします。

 

 

 

「……ねぇ、すみれちゃん。すみれちゃんがいつも頑張って、真剣に家事をしてくれていることは知っている。楽しそうに話してくれるから、いやいや義務感でやっているわけじゃないこともわかってる。でもね、そこまで執着するのは、ちょっとおかしい事だと思うんだ」

 

 

 少し間を開けて、真剣な顔をしたお兄さんが、ベッドに座っているわたしの目線に合わせて、膝立ちになります。見つめられながら褒められていることに照れたいところですが、それ以上にこの先に続く言葉を聞くのが怖くて、どうしたらいいのかわからなくなります。

 

 

「他にやりたいことだってあるはずなのに、全然手を抜かないのはすごく偉いと思うよ。僕がお金を渡す代わりにって頼んだことだから、その分働かないとって意識には素直に尊敬する。でも、他にもなにか理由があるんじゃないかな?」

 

 

 他のやりたいことなんて、お兄さんのお世話をすることに比べたら暇つぶし程度のものです。やりたくてやっている事だから、お金の分なんてものはただの言い訳です。

 

 ただ、それをそのまま伝えるのは気が引けました。だって、こんな気持ちでお家のことをやるのなんて、おかしいです。お兄さんのために働くのが好きなんて言ったら、気持ち悪がられてしまうでしょう。

 

 

「…………お兄さんにご飯を食べてもらうのが、好きなんです」

 

 けれど、お兄さんが真剣に聞いてくるなら、わたしは答えなくてはいけません。お兄さんに嫌われないように頑張るのはいいのですが、嫌われないために嘘をつくことは、黙っていることはいけません。

 

「お兄さんに、美味しいって言ってもらえたら、それだけで幸せなんです」

 

 お兄さんが食べてくれることを考えながら作っているだけで幸せです。美味しいと言ってくれたことを思い出すだけで胸が温かくなります。

 

「お兄さんが、わたしがつくったもの以外のものを美味しいって言うのが嫌なんです。お兄さんの食べるものは全部わたしが作りたいんです」

 

 食べ物に、それを作った人に嫉妬してしまいます。わたしの関係ないところでお兄さんがものを食べているだけで、嫌になります。わたしはカップ麺にすら嫉妬してしまうような、あさましい子です。

 

「お兄さんに頼られたいです。お兄さんに褒められたいです。わたしがいないと何も出来なくなるくらい、お家の中のことは全部やりたいんです」

 

 こんなことを言ったら、嫌われてしまうとわかっています。突然、身の回りのお世話を全部したがるなんて、おかしな性癖を持っている人だけです。お兄さんの前では、なるべく普通の子だと思われたかったからいえなかったことです。ただでさえ面倒な事情を抱えているのに、これ以上マイナスなところを知られたくなかったから、知られて愛想をつかされたくなかったから、ずっと内側に隠していた、わたしの願いです。

 

 

「そっか。それならすみれちゃん、僕からも伝えたいことがあるんだけど、いいかな?」

 

 わたしの目をしっかり見ながら、いっそう真剣な表情になったお兄さんが話し出します。きっと、ドン引きしたことでしょう。もう出て行けと言われてしまうでしょう。

 

 

「すみれちゃんとの最初の約束なんだけど、本当は僕は、君を死なせるつもりなんてなかったんだ。死なせたくないと思って、時間稼ぎのために話をもちかけた」

 

 薄々わかってはいました。あんまりにも、わたしにとって都合が良すぎる条件でしたから。途中からは居座る理由にしかしていませんでした。それだけが、わたしとお兄さんを繋げるものでした。

 

 だからもう終わりにしようと言って、追い出すのでしょう。心が擦り下ろされるように痛みます。お兄さんと会ったときに、最初に約束をした時に、本当はもう死にたくないと言えていれば、こんな終わりにはならなかったのかもしれません。お兄さんを信じきれなかった、わたしの失敗です。

 

 

「もちろん、嘘をついたわけじゃない。すみれちゃんのことを死なせないようにしようとは思っていたけど、僕が何をしてもダメだったら、その時は責任をもって君を終わらせるつもりでいた」

 

 少し、予想していたものとは違う空気を感じました。もしかすると、わたしは追い出されないのでしょうか。そして、お兄さんの言葉が嬉しいです。わたしはもうずっと、最後の時はお兄さんにと思っていたのですから。

 

 

 

「だから、すみれちゃんがやりたいことを見つけて、死ぬつもりが無くなったのなら、僕にとってあの約束のそれ以外の分はどうでもいい。休まず毎日完璧に働かなくても家から追い出したりしないし、多少のお小遣い位は渡す。そもそもあの話をした時には、すみれちゃんは何も出来ない前提での条件だったし、さっきの話を聞く限り僕がそう言ったから明日から何もしなくなるなんてことも無いでしょ?」

 

 わたしは、夢でも見ているのでしょうか。あんなにおかしいことを言ったのに、お兄さんは明日の話をしています。初めて会ったころであれば、お兄さん鬼畜説を上げて警戒していたところですが、お兄さんがそんな人じゃないことはもうわかっています。ということは、お兄さんはこんなわたしをまだ家に置いてくれるつもりなのでしょうか。

 

 

「そこで、ひとつ提案があるんだ。今までの約束、家事の代わりにお金を渡す関係、誘拐犯と虐待児の関係じゃなくて、ただ一緒に暮らそうって約束、お互いに相手のことを思って協力して生活する関係を、新しく作らない?」

 

 まるで、プロポーズみたいな言葉です。お兄さんがわたしのことをそういう目で見ていないと知らなければ、絶対にプロポーズだと思ってしまいました。そう思った上で、ぜひと答えてしまっていました。

 

 舞い上がって、すぐに返事をしたくなるのを、必死に止めます。まだ、ちゃんと確認しなくちゃいけないことがあるのです。

 

「わたし、普通の子じゃないです」

 

 きっと、たくさんの迷惑をかけるでしょう。わたしといるだけで、わたしがいるだけで良くないことが起きたりも、するでしょう。

 

「わたし、重たい子です」

 

 隠そうとしていながらも、カップ麺に嫉妬するあさましい子です。本性を伝えた上でまだ一緒にいてくれると言うのなら、もっともっと依存してしまうでしょうし、お兄さんのことを束縛してしまうこともあるでしょう。

 

「わたし、わがままばかりの悪い子です」

 

 他のことよりも、他の人よりもわたしのことを優先してほしくなります。突拍子もないことや、理不尽な要求だってこれまでもしてきました。

 

「それでも、お兄さんはわたしと居てくれますか?絶対に捨てないで、離さないで、ずっとそばにいて、家族になってくれますか?」

 

 

 わたしにとっての家族はお母さんだけで、わたしはお母さんに捨てられました。普通の家族の形なんて知りません。また捨てられたら、わたしはもうきっと耐えられないでしょう。それでもお兄さんは、誓ってくれるのでしょうか。家族になってくれるのでしょうか。

 

 

「そうしたいから、お願いしているんだよ。僕と家族になろう」

 

 

 胸の奥につっかえていたものが、とれます。悲しくないのに涙が出てきて、息が上手にできなくなります。

 

 これまであった不安や恐怖が、湧き上がってきた嬉しさで押し流されます。返事をしなくちゃいけないのに、言葉になりません。

 

 お兄さんの胸に飛び込んで、押し倒します。お兄さんの部屋着の一部を涙と鼻水、よだれでべちゃべちゃにしながら、ただただ泣きます。お兄さんに背中をとんとんされてあやされながら、沢山泣きます。

 

 

 まるで、夢みたいです。もう、夢でもいいです。この先一生覚めないのなら、これが夢でも、わたしは幸せなのですから。



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本編(しばらく寝かせます)
自転車デビュー


 しばらく糖度マシマシになるかもしれません(╹◡╹)

 ならないかもしれません(╹◡╹)


 すみれがお母さんと遭遇したことで、その外出機会は減るだろうと僕は思っていた。予想外の事態が起きることを知って、それを減らすためにより慎重で消極的になってしまうだろうと、当初はそう考えていた。

 

 

「おにいさんっ!ちょっとお茶を切らしてしまったので買ってきます!!」

 

 

 そう思っていたのだが、ところがどっこい、すみれは消極的になるどころか、ちょっとでも必要になればすぐに出かけるほどのフッ軽になっていた。

 

 正直、少しどころかかなり意外な事だ。関係性を変えて、すみれが今までよりも多少活発になったことも影響しているのだろうが、どんな影響があるかや、そもそも影響があるのかすらわからなかった僕にとっては、あまりにも驚きの変化である。

 

 

「えへへ、お買い物ついでにお菓子も買ってきちゃいました。ちゃんと生活費からは分けてるので、安心してくださいね」

 

 30分もしないうちに帰ってきたすみれが、エコバッグからティーパックのお茶とたけのこの形のチョコレート菓子を見せて、お菓子を持って僕のすぐ横にクッションを持ってきて座る。

 

「おにいさん、あーん……えへへ、おいしいですか?」

 

 

 白くて細い指がクッキーを持って、僕の口元へ伸びる。先程まで外出していた冷たいそれが、僅かに口に触れた。

 

 しっとりほろほろの食感と、無邪気そうに覗き込みながら、僕の反応を待つすみれ。

 

 

『おにいちゃん、あーん……ふふん、これでどーざいだねっ』

 

 その姿が、別の少女と重なる。夕食前にお菓子を食べるのを注意した僕に対して、半ば無理やりお菓子を食べさせて、しぃー、と言って笑ったあの子。

 

 口の中のほろほろが、サクサクのクラッカーと混ざる。脳がデジャブを起こして、今食べているものがきのこなのかたけのこなのかすら、わからなくなる。

 

 

 

 

「お兄さん……?どうかしましたか……?」

 

 その言葉で、視界と認識が安定した。いたずらっぽく笑うあの子の姿は溶けて、心配そうに僕を見つめるすみれの姿だけが残った。口の中にあるのはサクサクのビスケットではなく、ほろほろのクッキー。

 

 

「ああ、ごめんね。なんでもないよ」

 

「わけてくれてありがとう。久しぶりに食べたけど、やっぱりたまに食べると美味しいね」

 

 もうずっとなかったデジャビュを、そのせいで思い出してしまったあの頃を苦い記憶を再び心の底に沈める。これは、僕だけが背負っていればいいものだ。僕だけが、いつまでも背負わなくてはならないものだ。

 

 

 それをすみれに知らせるわけにはいかないので、ひとまず感想を返す。この感想が、きのこに対するものなのかたけのこに対するものなのかは、自分でもよくわかっていないが、きっとすみれから見た時のものとしてはおかしなものでは無いだろう。

 

 

 

「そうだ、すみれちゃん。すみれちゃんは普段外出する時に、徒歩で移動しているよね?」

 

 

 たぶんおかしくないとは思うけれども、もし違和感を持たれていたらいけないので、念の為話題を変える。

 

 代わりの話題自体は、前々から少し思っていた内容ではあった。一人で行動する際のすみれの行動範囲の狭さと、その際の移動時間の占める割合、無駄な時間については、減らせるに越したことはない。僕の問いかけに対してすみれが肯定の意を返したのを確認して、話を続ける。

 

 

「車で移動している時のことを考えれば一目瞭然だとは思うんだけど、移動の速度っていうのは行動範囲にも影響するし、狭い範囲でも移動時間の削減に繋がると思うんだ。……何が言いたいのかを単刀直入に言うと、すみれちゃん、自転車に乗れるようになってみないかな?」

 

 

 言いたかったことは、自転車に乗れるようにならないかということ。具体的なデータなんかはとったことがないものの、おそらく日本人のほとんどが乗れる乗り物、自転車を使えるようにならないかというもの。自転車に乗れない人なんて、無戸籍者の数ほどではないが稀だ。

 

 であれば、乗れるに越したことはないし、すみれが望むのであれば、あまり高いものは難しいかもしれないが、買い与えて教えて、使わせるというのは妥当な行動だろう。

 

 僕の家族になってくれた少女には、なるべく普通の環境にいて欲しいし、みんなができることはやれるように、やれなかったとしても、挑戦する機会があってほしいと思ってしまう。

 

 

「自転車……ですか?あまり必要だと思ったことはありませんでしたが、お兄さんが乗れた方がいいと言うのであれば、挑戦してみたいです」

 

 

 

 少し悩んだ上で、すみれはおずおずと遠慮がちにそう答えた。車のことを考えなければ、乗れるべきだし乗れなかったら不都合があるとすら考える僕は、すみれの言葉に対して乗れた方がいいと返す。

 

 

 

 

 そう伝えるとそれなら乗れるようになりたいと返したすみれを、驚安の店に連れて行って、すみれの体格でもギリギリ乗れるサイズで、調整すれば何とか僕も乗れなくはないものを一つ、一万円程度で購入する。

 

 それだけ買って、都合的にもあまり合わなかったため、実際に練習を始められるのは1週間後の休みのタイミングだ。初挑戦で一人というのは心配なので、ちゃんと僕が付き添えるときまで乗らずに待っているように約束してもらう。

 

 

 そうして、やってきた週末。僕とすみれが出会った小さな公園ではなく、もっと普通の大きい公園、無駄に広さが確保されていて、遊具以外にも開けたスペースがある公園だ。

 

 休日の昼間で、別のスペースではキャッチボールをする親子や、ボール遊びに興じる学生もいる中、誰も使っていなかった広めのスペースに陣取る。

 

 横に立っているのは自転車を持って、頭にヘルメットと肘膝にサポーターをつけたすみれだ。

 

「できるかはわからないけど、がんばりますっ!」

 

 さすがにこのサイズの自転車で、と言うよりも大人用のもので補助輪が付いているものはは見つからなかったので、ぶっつけ本番の補助輪無しだ。

 

 やる気は十分そうだが、じゃあいきなりとやらせるのはさすがに無理なので、ペダルの漕ぎ方を覚えさせるために停めた状態で漕いでもらう。これを見越して後輪を地面から離して停めるものを選んだので、この練習は問題なく終わった。

 

 次にペダルを漕がずに、足で押すだけで乗って、バランスを取りながら進むことを挟んでから、実際に自転車に乗って漕いでもらう。一応最初は後ろの荷台を支えて見るつもりだったが、思いのほかすみれの運動神経が良かったと言うべきか、ほとんど何もすることがないまま、乗れるようになってしまった。

 

「実はすぐに乗れるようになるために、ちゃんとお勉強しておいたんです。自転車が倒れないのはジャイロ効果のおかげだから、スピードを出せばそれだけ倒れにくいって書いてありました!」

 

 

 四度ほどの転倒で、すっかり乗りこなせるようになったすみれが、ベンチで座っている僕のところまでやってきて、自慢げに教えてくれた。僕が昔乗れるようになった時には、数え切れないくらい転んで、何度も泣きながら覚えたものだ。それをこんなに軽くできるようになってしまうのだから、自慢げなのも妥当だろう。

 

 

 ブンブン揺れるしっぽが幻視できそうなすみれの頭を撫で回したい衝動にかられながら、よくできたねと褒める。途中少し面倒なこともあったが、ここまで乗れるようになればもう一人で乗らせても大丈夫だろう。一ヶ月くらいは週一で練習するつもりだったから、予想外と言えば予想外だが、嬉しい誤算だ。

 

 

「お兄さん、わたし、これでもっともっと頑張りますね」

 

 

 もう既に頑張りすぎだから、頑張ることじゃなくて楽しむことに注力してほしいと伝えて、日が暮れ始めたので帰る。すみれは自転車で帰ると言っていたが、さすがに土地勘がない場所で突然帰るのは難しいだろうから、この日は大人しく車に乗せて帰った。



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自転車デビュー(裏)

 お兄さんと家族になりました。血の繋がりこそないものの、心は間違いなく家族です。わたしがお兄さんのことを思いやって、お兄さんがわたしのことを慈しんでくれる。それだけでいいんです。それだけで、わたしは幸せなんです。

 

 ともすれば、本当の家族であったお母さんよりも、お互いのことを思いあっているかもしれません。少なくとも、わたしのことを嫌っていなかった……いえ、お母さんが言うにはわたしのことを嫌っていたことなんてないとのことですので、わたしに優しくなかったという方が適切でしょう。その頃のわたしとお母さんとの関係と比べると、比べ物にならないくらいには大切にしてもらっています。

 

 わたしは、お兄さんに愛されているのです。わたしは、お兄さんに大切にされているのです。

 その事実があるから、その事実があればこそ、わたしは安心して、日常生活をおくれて、半分くらい自分の都合で、お出かけに励んだりできます。

 

「おにいさんっ!ちょっとお茶を切らしてしまったので買ってきます!!」

 

 

 お茶は切れていますが、別に今すぐ買いに行く必要はありません。本命の目的は、お兄さんがどんなお菓子を好むのかの調査です。あまり食べているところを見た事はありませんが、瑠璃華さんのタレコミによると結構甘いものが好きとのこと。であれば、お兄さんが好きなものを、好きな味を作って、美味しいと言ってもらいたくなるのは当然のこと。

 

 有名どころのお菓子をいくつか買って、食べている時の反応で探ることにします。お兄さんに直接聞くのがいちばん早いとは思いますが、言葉だけで説明されるよりも実物があってこんな感じと教えてもらった方がわかりやすいこと、感想を聞くことでお兄さんの表現する擬音とわたしのイメージを擦り合わせる目的もあるので、最初は既製品です。

 

 

 もう通い慣れたスーパーで、何度も買っているお茶のパックを買い物かごに入れて、お菓子コーナーを物色します。これまではあまり見る機会のなかったコーナーで、その種類の豊富さに驚かされます。

 

 

 たくさんの種類のお菓子が、味の豊富なお菓子たちが、棚いっぱいに並んでいます。お菓子を選んだことのなかったわたしでは、どれを選べばいいのかがわかりません。

 

 なので、あらかじめお菓子の定番と調べたきのことたけのこの形をしたお菓子を探して、人気投票で勝っているらしい方を選びます。おまけにいくつか目に止まったお菓子を入れて、お買い物は終了です。ひとりじゃまともに外も歩けなかったわたしが、よくここまで慣れたものだと感慨深くなります。

 

 

 家に帰って、お茶のパックとおまけのお菓子をしまってから、たけのこのお菓子をもってお兄さんの横に座ります。欲を言えばもっと横にピッタリとくっつきたいですし、許されるならお兄さんの膝の上に座りたいとも思いますが、さすがにそんなはしたないことはお願いできません。

 

 お兄さんの横で、袋を開けます。チョコレートの香りです。甘くて美味しそうな香りが、鼻をくすぐります。ちらっとお兄さんの方を伺ってみると、わたしの方、正確には、わたしの手元を見ていました。興味を持ってもらえたみたいで、ひとまずは成功です。

 

「おにいさん、あーん……えへへ、おいしいですか?」

 

 一粒先に食べて、飲み込んでからお兄さんに差し出します。いらないと言われたらどうしようかと思っていましたが、そんなことはなくちゃんと食べてくれました。

 

 胸がポカポカして、少し疼きます。指先が触れた、少し乾燥した唇の感触。僅かに温かいその残りを、こっそり自分の口元に運びます。心臓がどくどく鳴って、イケナイことをしているような背徳感が、わたしの頭をしびれさせます。

 

 これは、ダメです。これはわたしをダメにします。ダメな子に、なっちゃいます。せっかく用意したのに、ほとんどお兄さんの反応を見ることが出来ませんでした。

 

 

「お兄さん……?どうかしましたか……?」

 

 わたしがおかしかったからでしょう。お兄さんが、わたしの顔をじっと見て、止まっています。言及されたくないのでしらばっくれてみます。これではさすがに誤魔化しきれないでしょうから、どうしたらいいのか迷います。

 

「ああ、ごめんね。なんでもないよ」

 

 

 幸い、と言うべきでしょうか。お兄さんは追及することなく、ちょっとだけ困ったように微笑みました。お兄さんにこんな顔をしてほしかったわけではないので、反省します。

 

 

 ありがとうと、たまに食べると美味しいねと言ってくれたお兄さん。自分で食べさせておいてお菓子に嫉妬しますが、今大事なのはそこではありません。上手く感想を聞き出せなかったので、もう一度食べさせて今度こそ聞こうと思い、けれど食べさせたくないなとちょっと嫌な気持ちになります。

 

 

「そうだ、すみれちゃん。すみれちゃんは普段外出する時に、徒歩で移動しているよね?」

 

 

 そうしているうちに、わたしから変な気配を感じとったのでしょうか、お兄さんが話題を変えました。内心で計画の失敗を嘆きつつ、お兄さんの言葉にはいと返します。

 

 話の内容は、自転車に乗れると色々いいことがあるから練習してみないか、というものでした。

 

 必要か必要じゃないかと言えば、今のところ必要だと思ったことは無い、という答えになりますし、なくても何とかなったからこれからもそうだろうとは思います。けれど、それは自転車に乗ったことのないわたしの感想ですから、お兄さんが乗れた方がいいと言うのであれば乗れた方がいいのでしょう。

 

 挑戦してみたいと伝えると、それじゃあ買いに行こうかと連れ出されます。てっきりもう持っていて、使っていなかったものを使わないかと言う話だと思っていたため、買ってもらうのは申し訳ないと言いましたが、僕がやりたいことだからと押し切られてしまいました。すみれちゃんは僕のご飯を作りたいってわがままを言うのに、僕が自転車を買ってあげたいってわがままは聞いてくれないの?なんて言われてしまったら、わたしは言い返すことができません。

 

 

 あれよあれよという間にピッカピカの自転車が手に入ってしまって、退路は絶たれてしまいました。ここまで揃えてもらっておいて、練習しても乗れなかったからお蔵入りなんてことになったら大変です。

 

 間違ってもそんなことにはならないように、ある種の強迫観念にすら駆られながら自転車のことを調べます。ジャイロ効果、リムブレーキ、ドラムブレーキ、最高時速。関連法規や事故の例、自転車泥棒の発生率まで、おおよそいらないだろうことまで調べを尽します。いらないことであったとしても、知っていて損することはありません。知っていてマイナスになることでなければ、調べておくに越したことはありません。

 

 

 

 

 自転車に乗っている人の動画を見てイメージトレーニングをしたり、チェーンの構造を調べてみたりしながら、当日までの時間を過ごします。お兄さんに車を出してもらって、広くて人の少ない公園に着いたら、自転車をおろして準備します。

 

 お兄さん曰く、ここであれば転んでもそこまで痛くないらしいです。適度にしばが生えていて、踏み固められていない地面だからアスファルトに比べて怪我をしにくいし、アスファルトよりも運転をしにくいから、ここで慣れておけばどこでも大丈夫だろうと言っていました。

 

 お兄さんの指示に従って、自転車に乗る前の練習をします。不思議な練習方法でしたが、話を聞いてみたら意図するものはわかりました。わたしがバランスをとる練習のために、片足立ちで過ごした時間も全くの無駄にはならなかったのか、自転車に乗ってもバランスをとるのは完璧です。

 

 

 練習もそこらで本番に入って、何度か失敗して転がります。最初こそサポートする気満々でいたお兄さんも、わたしがスイスイ漕げるようになるうちに、少し離れたベンチでのんびりし始めました。

 

 

 自転車に乗れるようになったのは面白いけど、今日はわたしのために使うと言ってくれたお兄さんが、わたしを放ってのんびりしているのは面白くありません。

 

「どうですか、お兄さん。こんなに上手に乗れるようになりました!」

 

 わたしを見てほしくて、わたしにかまってほしくて、お兄さんの座っているところまで自転車を漕いでいって、アピールします。

 

 

「すごく上手に乗れていて、いいと思うよ。僕に内緒で練習してたんじゃないかって思うくらいの上達ぶりだ」

 

 

 もちろんわたしはお兄さんに内緒で練習なんてしていませんし、お兄さんもそれはわかっていて言っています。つまり、それだけすごいという褒め言葉です。

 

 

「実はすぐに乗れるようになるために、ちゃんとお勉強しておいたんです。自転車が倒れないのはジャイロ効果のおかげだから、スピードを出せばそれだけ倒れにくいって書いてありました!」

 

 嬉しくて、胸がトクトクいって、表情がへにゃへにゃになりそうです。こんなところでお兄さんに、だらしない顔を見せる訳にもいきませんから、こんなに頑張ったのだと伝えて、にやけるのを必死に抑えます。

 

 きっと今頭を撫でられてしまったら、我慢できずに抱きついてしまうでしょう。そうわかっているから、ヘルメットをつけていることに感謝します。ヘルメットのせいで撫でてもらえないことで、邪魔に思いながらも感謝します。

 

 

 何はともあれ、自転車に乗れるようになったので、これからは行動範囲と移動速度が増します。徒歩で行くのには少し遠かった図書館だって、お兄さんの手を煩わせることなく行けるようになるでしょうし、身近なところでは取り扱っていなかったものも買えるようになるかもしれません。

 

「お兄さん、わたし、これでもっともっと頑張りますね」

 

 これならばもっと、お兄さんのために働けるでしょう。お兄さんとの幸せのために、できることが増えるでしょう。

 

 そう思って口にしたら、もう充分頑張っているから程々にと言われてしまいました。けれど、幸せのためであればそんな小言は破ってしまいます。

 

 だって、わたしはわがままでいてもよくて、悪い子であってもいいと言ってくれたんです。いっぱいいっぱい幸せになるために、努力を惜しんでなんていられません。

 

 

 そろそろ日が暮れるから今日は帰ろうというお兄さんに、早速自転車を使って帰ってみたいと伝えて、しばらくは明るいうちじゃないとダメだと、それと初めてが知らない場所からの帰宅だと心配だからやめて欲しいと言われてしまい、大人しくお兄さんの車に乗せてもらいます。

 

 助手席から見える、真剣そうなお兄さんの表情。それを真横で眺めます。いつまでも見ていられる、大好きな光景です。

 

 これが見られるのは今のところわたしだけで、見れるのはお兄さんと車に乗っている時だけ。

 

 そう考えると、お兄さんが車で送ってくれていた所へ、自転車で行くのがもったいなく思えてしまいました。この機会を減らすのが、嫌に思えてきました。

 

 

 

 せっかく自転車を買ってもらったのに、こんなにもすぐ使いたくないと思ってしまうなんて、やっぱりわたしは悪い子です。



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2人でのお買い物

「お兄さん、ちょっとお願いがあるんです」

 

 ある平日の夕食後、以前までなら直ぐに僕がシャワーで、すみれが洗い物をしていたタイミングだが、食休(じきやす)みは大切だと熱弁するすみれに負けて設けたおしゃべりタイムで、座卓を挟んで座っていた位置からあえて僕の隣に移動してきたすみれが、僕の服の裾をいじいじしながら切り出した。

 

 

 もうこの時点で、僕の中で断る気なんてものは限りなくゼロに近くなるまでなくなってしまっているが、一応話を聞かないことには何も決められない。何も聞かないままなんでもOKなんて脳死するわけにはいかないのだ。

 

「実は最近、外に出る時に寒さが気になって……防寒具を買おうと思うのですが、一緒に選んでもらえませんか?」

 

 裾をいじれるくらいの至近距離で、上目遣いになりながら、ちょっと恥ずかしそうに切り出すすみれ。わかっていてやっているのだろうか、さすがに完全に天然というわけでもないだろう、実にあざとい。

 

 それはさておき、おねがいへの答えはもちろんYESだ。元々必要になったら買おうと話していたものだし、今すみれが使っているのは僕のお下がりのマフラーだけ。むしろどうしてこれまで買わなかったのかというくらいである。

 

 

 

 買いたいものや、どこに行きたいか、いつがいいかなんてことを話して、週末。初めて買い物に連れて行った時と同じショッピングモールに行く。

 

 あの日と同じように車に乗って、同じように駐車場に停めた。あの日とは違って丁寧に車から降りるすみれは、もうすっかり外慣れたようで、自動ドアにもエレベーターにも驚いていない。

 

 当たり前のことなのに、どこか感慨深いなぁと思っていると、すみれが半眼でこちらを見ていることに気付いた。失礼なことを考えてないかと聞かれてごめんと返しながら、3階のフロアに降りる。

 

 かつてまともに呼吸も出来なくなっていたとは思えないほど、自然体で過ごしているすみれ。普通にしていられることも、外に慣れたこともいいことではあるのだが、ここまで実感してしまうとどこか寂しさがあった。

 

 

「おにいさん、その、よかったら手を繋いでくれませんか……?」

 

 

 掴まれていない左の裾を、なにか物足りない感覚で気にしていると、すみれがおずおずとそう言った。

 断る理由もないし、物足りない感じを埋められればと思ってイエスと返す。ひんやりとした、小さな手が僕の手の中に収まった。

 

「えへへ、お兄さん、いきましょう!」

 

 小さな手が、冷たい手が、僕を優しく引っ張った。

 

『もうっ、遅いよお兄ちゃん、こっちこっち!』

 

 小さな手が、子供特有の高い体温が、僕を急かすように引っ張った。

 

 

 重なって、一瞬混ざって、溶けて消える。残ったのは温かい子供ではなく、冷たい少女。僕が守れなかった子供ではなく、守らなくてはいけない少女。

 

 

 冷たい手に引かれて、衣料品売り場に向かう。ふわふわでモコモコなガウンや、あたたかそうなコートなどを通り過ぎて、耳当てやマフラーなどのコーナーに着く。

 

 すみれが手に取って確かめているのは、耳当てと手袋、帽子。ネックウォーマーやマフラーはいらないのかと聞いてみると、僕のお下がりのものがあるからいらないとのこと。お下がりのものは見た目もそれほど良くないし、何よりくたびれているから新しいものの方がいいのではないかと思い聞いてみたが、これでいいのではなくてこれがいいのだと言われてしまったので、それ以上言うのはやめておいた。少し気恥ずかしくはあるが、自分が使っていたものを大切にしてくれると言うのは、案外嬉しいものだ。

 

「お兄さん、これとこれなら、どっちがいいと思いますか?」

 

 すみれが差し出しているのは、右手に持った明るい灰色の耳あてと、左手に持ったベージュにピンクが混ざったような色のもの。

 

 どちらも似合いそうなので、どちらをつけてもいいと思うが、灰色の方だと僕がもらったマフラーの色と同じになってしまい、身につけている防寒具の色がほぼ同じになってしまうので、左の方をゆびさす。あまり色合いや組み合わせに詳しい訳では無いので、あくまでただの感想、一意見だが、すみれはそれを聞いて決心がついたらしく、その耳あてと、同じ色の手袋を選んだ。

 

 自分のお小遣いの中からお金を出そうとするすみれに、これはすみれの趣味じゃなくて生活に必要なものだからと言い聞かせてお金を払い、ついでにこれまで買っていなかったヒートテックも必要分揃える。あまり合わないとかの理由で着ないことはあるかもしれないが、ただでさえ基礎体温が低いのだから、少しでも暖かい格好をするに越したことはない。

 

 

 会計を済ませて、衣料品店を出る。せっかくここまで来たのだから、他にも見ていきたいものの一つや二つくらいあるだろうと聞いてみて、それじゃあと連れていかれたのは製菓専門店。

 

 

「実はお菓子作りに興味がわいたので、色々買ってみたいものがあるんです」

 

 そう言ってすみれが買ったのは、数種類の小麦粉と砂糖、バターにベーキングパウダー、電子測りを買う。お菓子作りというのだから、結構な量の小麦粉を揃えるのかと思いきや、一種類一種類の量は200グラム程度。正直予想外だったが、きっとすみれにも何か考えがあるのだろう。そうでもなければこんな奇妙な買い方はしない。

 

 

 すみれが自分のお小遣いで買ったのを見て、袋くらいはと預かる。一つ一つはそれほど重くなくても、合わせれば二、三キロくらいにはなるだろう。それをそのまま持たせるのは僕の矜恃が、と言うよりも、お兄ちゃんとしての経験が許さない。

 

 

 

 他にはなにかないかと聞いて、何も無いと言われたので今日の目的は概ね達成。あとは、どうせなら大きなお店で食材を見てみたいと話していたすみれの希望に従って晩御飯の分の買い出しをするくらいだ。

 

 

「お兄さん、連れてきてくれたお礼も兼ねて、今日はお兄さんが食べたいものをなんでも作っちゃいますよ!」

 

 言ってくれればいつでもお兄さんが食べたいものを作りますけど。といたずらっぽく言って、すみれは僕に夕飯の希望を聞く。こんなことを言っているが、実際に好きな時に好きなものを食べたいと希望を出したら、栄養バランスを考えるすみれの負担が大きくなってしまうため、僕はなかなか言うことが出来ない。

 

 本人は頼めば喜んで苦労してくれそうではあるが、僕としてはすみれの料理がなにか考えながら待つことも楽しんでいるので、不思議なバランスである。

 

 

「それなら、今日は魚介が食べたいかな。寒いから鍋で、何かある?」

 

 少し考えて要望を伝えてみると、すみれは一瞬固まって、ちょっと待ってくださいと言ってスマホを確認し始めた。

 

 あまり心当たりがないなら別のものでもいいと伝えるも、新しく開拓するための一歩になると聞かずに調べるすみれ。鮮魚コーナーで色々見ながら三分くらい経って、何かを見つけたらしく、ようやく表情を明るくした。

 

 

「お兄さん、ブリしゃぶが美味しいみたいです!……お肉と比べるとやっぱり、ちょっと高くなってしまいますが、どうでしょうか?」

 

 しっかり考えて、値段まで踏まえて少し難しいかもと尋ねるすみれ。普段の一食と比べるとそこそこ高くつきそうだが、すみれが即興でここまで考えてくれたのだから、水を差すのも無粋だろう。

 

 本当はシーフードミックスか何かを使って、鍋とは言ってしまったがカレーなんかを作ってくれれば満足だったことは胸の内にしまいつつ、僕からのOKを聞いてパッと華やいだすみれを見る。

 

 今まで食べたことの無い鍋の味を想像しながら、これがあったらもっと美味しいかもなぁなんて独り言を言っているすみれ。この日すみれが作ってくれたブリしゃぶは、初めて食べた味だが美味しかった。



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2人でのお買い物(裏)

 寒い風がピューピュー吹く中で、買い物袋を片手に提げながら、外を歩きます。お兄さんに貰ったマフラーが、首から入り込もうとする冷たい空気を止めてくれる以外は、服のそこかしこから入ってきますし、最初から丸出しな手や顔はキンッキンに冷えてます。

 

 手の方は、縮こめて袖に隠すことで、多少はマシになりますが、いちばん冷えやすい指先は相変わらず冷たいままですし、かじかんで上手に動かなくなるのも変わりません。

 

 お兄さんの手袋を編むよりも先に自分のものを用意しておくべきだったかもと思いますが、やはりお兄さんに喜んでもらえることの方がより大切です。自分のものは、どこかで買えばいいでしょう。

 

 少し回り道をして、100円ショップで買っていくことも考えましたが、あまり味気がないなと思ってしまいました。ただ必要なものを買うのに、味気も何もいらないのですが、どうせならお兄さんに選んでほしいと思ってしまいます。

 

 優しいお兄さんはきっと嫌とは言わないでしょうし、わがままを言ってみましょう。デートのお誘いです。恋愛感情がなくてもデートと呼ぶのかはわかりませんが、こういってみるとなにか特別なことをしているみたいでドキドキします。

 

 

 今日の夜にでも、早速誘ってみようと決めて、お家に帰って晩御飯の準備をします。毎日料理している成果か、最近は最初の頃と比べて格段に調理の速度が上がったので、よほど手間がかかるものでなければ3時くらいに取り掛かれば間に合うようになりました。お母さんみたいに、パパっと作れるようになるまでにはまだまだかかりそうですが、このまま頑張ればいつかはいけるかもしれません。

 

 

 お兄さんが帰ってくるまでにしっかりと晩御飯を作り終えて、おかえりなさいと迎えて、一緒に食べます。今日のメニューは鶏肉の炒め物です。

 

 

 食べ終わって、食器をうるかしている間に、お兄さんの横に座ります。お兄さんとのんびりお話する時間が欲しくって、わがままを言って作ってもらった食休みです。お話をしないで、横に座っているだけでも満足な時間ですが、今日は伝えたいことがあります。

 

 

「お兄さん、ちょっとお願いがあるんです」

 

 お兄さん、デートしましょう!なんて言える性格であれば、もっとはっきり誘えたのかもしれませんが、わたしには難易度が高すぎます。

 

「実は最近、外に出る時に寒さが気になって……防寒具を買おうと思うのですが、一緒に選んでもらえませんか?」

 

 わたしに出来るのは、こんな遠回しなお誘いだけです。こんなお誘いであっても、心臓がドキドキしてしまいます。落ち着かなくって、お兄さんの顔をチラチラ見ながら、断られたら嫌だなと思い裾を摘んでクリクリします。

 

 思いついた時にはドキドキして、楽しみだったはずなのに、いざ実際に行動に移してみると、お誘いするというのはとても緊張しますし、不思議な気恥しさがあります。

 

 

「お買い物のお誘いかな?週末まで待ってもらうことになると思うけど、それでも大丈夫?」

 

 もし緊急性が高いなら、今からでも大丈夫だけどと、お兄さんは簡単にOKをくれました。急ぎではないことと、他にも見たいものがあることを伝えると、ショッピングモールに行こうと言ってくれたので、その話に乗ります。

 

 無事にデートのお約束を取り付けたので、あと少しだけのんびり隣に座って、お兄さんがシャワーにいったのを確認して、小さくガッツポーズを取ります。わたしにしては、よくできました。完璧ではなかったとしても、上出来でした。

 

 どの服を着ていくのが、一番かわいく思ってもらえるかを考えて、当日それが綺麗に洗濯した状態になるように服のローテを検討します。

 

 

 そうして訪れたデートの当日。いつも通り、普段通りの動きでショッピングモールまで着いてしまいました。普段からお兄さんに恥じないように、服装に気をつけていることを踏まえても悲しいくらいの無反応です。一応今日もかわいいねと言ってはくれましたが、今日は特に気合を入れたのだからもう一声欲しかったです。

 

 ちょっとしょんぼりしながら、不意に自分が求めすぎていたことを理解して、内省します。いつもかわいいと言ってくれるだけで幸せなはずなのに、それを当たり前のものとして考えてしまっていました。家族であっても、図々しいことです。厚意でもらっているものを、足りないとケチつけるなんて厚かましいことです。

 

 

 

 運転するお兄さんの横顔を見ながらそんなことを考えているうちにショッピングモールに着いて、エレベーターへ歩いていると何やらお兄さんが生温い目でこちらを見ています。

 

 

「いや、前に来た時と比べたら随分と成長したなぁって思ってたんだよ。ごめんね」

 

 わたしの過去の醜態を思い出しているのだろうと思って、なにか失礼なことを考えていないか聞いてみると、案の定考えていたようです。じとぉっとした目でお兄さんを見て抗議の意を伝えますが、そのことはそこまで大切なことでは無いのでそれだけで流します。

 

 

「おにいさん、その、よかったら手を繋いでくれませんか……?」

 

 だって、そんなことよりも今はデートです。ずっとずっと前からしてみたかった、手を繋いで歩くことを、今日初めてお願いします。わたしが一人で歩けるようになって、少々依存度合いが高いとはいえ、お互いの納得の元で対等な関係を築けたので、ついに繋ぎます。

 

 温かくて、大きな手です。わたしの手をすっぽりおおってしまう手です。手を繋がなきゃいけないわけじゃないのに、ただ繋ぎたいから繋いだ手から、幸せが溢れます。もっともっとこうしていたくなって、こうしていられることが嬉しくって、お兄さんの手をにぎにぎしてしまいます。

 

 

 心臓がどくどく鳴って、緊張と恥ずかしさで顔が赤くなっていそうです。繋いだ手が、よりピッタリくっついていくように感じるのは、わたしの手から出た汗のせいでしょうか。その事がさらに恥ずかしさを掻き立て、同時にお兄さんに気持ち悪がられないか心配になります。

 

 わたしの心の平穏を考えれば、手は離した方がいいのでしょうが、せっかく繋いだそれを離したくなくって、そのままやってきたのは洋服売り場です。今の季節に合わせた暖かそうな服がいっぱい並んでいる中で、目当ての場所は少し端の方にありました。

 

 

 買うものを選ぶために、自然と手は離されます。ドキドキから開放された安心感と、つい少し前まであった温もりがなくなる喪失感。そのふたつを抱えながら、まず見るのはイヤーマフです。寒すぎて耳が取れてしまいそうなので、他の物が買えなくてもこれは必須です。

 

 触った感じの質感なんかを調べながら、好みのものを探します。お小遣いはそれなりに溜まっているため、納得して買えるものを選びます。

 

 

 ひとまずイヤーマフの見当をつけたら、次は手袋です。同様に調べて、選びます。マフラーとかは見なくていいのかとお兄さんに聞かれましたが、お兄さんがくれたものがあるので他のものなんていりません。

 

 

「お兄さん、これとこれなら、どっちがいいと思いますか?」

 

 似たような色合いのものが、イヤーマフと手袋で共通してあって、更にそこから気になる色を選んだら、残ったのは2組だけでした。

 

 ピンクベージュのものと、灰色のもの。前者はわたしが普通に気に入ったもので、後者はお兄さんの防寒具とのお揃いを企んだものです。

 

 お兄さんにあげたマフラーも、今編んでいる手袋も、灰色です。それと同じ色をつけていたら、一緒、という感じが強くして、ふわふわします。

 

 内心で、灰色の方を選んでくれたら嬉しいなぁと思いながら、お兄さんの選択を待ちます。少し考えて、お兄さんが出した結論はピンクベージュの方。ちょっとだけガッカリしながら、選んでもらったイヤーマフと同じ色の手袋を手に取ります。

 

 

「すみれちゃん、ちょっと待って」

 

 

 それじゃあ買ってきますねとレジに向かおうとすると、お兄さんに呼び止められて、手に持っていた二つをするっと回収されてしまいます。

 

「これはすみれちゃんが趣味で買ってるんじゃなくて、ないと困るから買うものでしょ?それならお小遣いを使うんじゃなくて、家のお金で買わないと」

 

 ついでに、寒いならこれも必要だよねとヒートテックのシャツを勧められます。聞いたことはありましたが、使ったことはないものです。そんなに違うのかなと思いながら、シャツのサイズを聞かれてお兄さんに伝えます。

 

 そのままお会計をして、洋服売り場を出たら、そっとお兄さんが手を繋いでくれました。不意打ちでの行動にびっくりしながらも、自分ではドキドキしてしまって切り出せなかったでしょうから、とても嬉しいです。

 

 

「すみれちゃん、他には買いたいものとか見たいものとかないかな?」

 

 お兄さんに聞かれたので、製菓専門店を見てみたいと伝えると、それならこっちだよと、手を引きながら案内してくれました。ふわふわドキドキしながら歩いて、着いたのはたくさんの粉が並んだお店です。

 

 

 色々な小麦粉や砂糖がある中で、瑠璃華さんに特徴を教えてもらっていた小麦粉をいくつか、小さめのものを買います。砂糖は、普通の上白糖に粉砂糖、正確には砂糖じゃないらしい果糖やブドウ糖なんかも一緒に買い物かごに入れ、ベーキングパウダーとバターは一つだけ買います。砂糖の違いや、小麦粉の違いがある中で、どんな組み合わせが一番わたしにとって、お兄さんにとって美味しいのかを確かめるためです。

 

 色々なレシピを試してみたいけれど、わたしが食べられる量はそれほど多くないので、小スケールで試します。そのために、少なめの小麦粉を選びましたし、0.01グラム単位で測れる電子秤も買います。

 

 

 今度はちゃんと自分のお小遣いで買って、自分で持とうとしたらお兄さんが持ってくれました。やさしくて、うれしいです。

 

 

 

「お兄さん、連れてきてくれたお礼も兼ねて、今日はお兄さんが食べたいものをなんでも作っちゃいますよ!」

 

 嬉しくなって、お兄さんにわたしがしてあげられることを考えて、そんなことを言います。お兄さんが食べたいものを言ってくれれば、いつでもなんでも作りはしますが、お兄さんは普段何も希望を伝えてくれません。

 

 こんな機会でもなければ言ってくれないでしょうし、いつもより腕によりをかけて作りましょう。お兄さんの横顔を見上げながら、希望は何かと期待します。

 

 

「それなら、今日は魚介が食べたいかな。寒いから鍋で、何かある?」

 

 そう要望を言われてしまって、少し困ります。なんでもいいとは言ったものの、これまでに作ったことがあるものから希望が出てくると思っていたからです。

 

 特に困り所なのが、魚介というところです。お兄さんと暮らすようになってから、色々なものを作ってきましたが、実はわたしには、魚を使った料理の経験がほとんどありません。お魚を1匹買ってきても、捌き方がわかりませんし、お兄さんがお刺身を食べたいと言った時も、サクを買ってそれを切るだけでした。

 

 動画か何かで見ながら挑戦してみようかとも思ってはいますが、さすがにぶっつけ本番は不安です。

 

 しかし、だからといってお兄さんがせっかく出してくれた希望に、無理でしたなんて返すわけにもいきません。少しだけ時間を貰って、美味しいお魚の鍋と、ここのお店に売っているものの種類を調べます。

 

「難しそうだったら、他のもの、すみれちゃんが作りたかったり、作りやすかったりするもので大丈夫だよ」

 

 お兄さんはこんなふうに言ってくれましたが、わたしはここで引くことはできません。調べて、検討して、すっかり覚えてしまった栄養表と照らし合わせながら、メニューを決めます。

 

 

 目をつけたのは、ブリしゃぶ。名前のまま、ブリのしゃぶしゃぶです。刺身用にもなるぶりの切り身を、ダシの効かせたスープでしゃぶしゃぶして食べるらしく、ちょうど旬の魚でもあるため選びました。以前ほかの店でブリを見た時よりも安かったことも、理由の一つです。

 

「お兄さん、ブリしゃぶが美味しいみたいです!……お肉と比べるとやっぱり、ちょっと高くなってしまいますが、どうでしょうか?」

 

 お兄さんに確認をとって、それにしようと言ってもらったので、決定です。お魚は高いなぁと思いながら、少しでも安く食べれるように、捌き方を覚えますとお兄さんに伝えると、それなら僕が教えてあげると言ってくれました。

 

 一人で挑戦するのは怖かったのですが、お兄さんが教えてくれるなら一安心です。来週の週末に教えてもらう約束をして、今日はお家に帰って、サクを切ります。ちゃんと上手に作れるか、お兄さんが美味しく食べてくれるかを考えると心配になるので、いつも以上に慎重に味見をしながら作りましょう。

 




すみれちゃんが甘すぎて砂糖吐きそう……()


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水族館と網焼き

 すみれに魚の捌き方を教えると約束してから6日後、僕はすみれと一緒に、水族館に来ていた。

 

 いや、勘違いしないでほしい。あまりまともでは無いかもしれない僕だが、これから食べる魚が生きている姿を観察して、そのうえで締めて捌いて美味しく食べようね!!これも食育だよ!!なんて実行するような人間では無いし、そんなことはこれまで考えたこともない。

 

 ただ、ここの水族館が水族館としてはだいぶ異端な部類で、一階で新鮮な海鮮食品を扱っていて、2階では網焼きと水族館を経営している場所なのだ。

 

 ただ水族館に来たのではなくて、メインの目的は一応、一階の海鮮食品である。とはいえわざわざ水族館にまで来て何も見ずに買い物だけするのも野暮だろうから、2000円しないくらいの入館料を払って入る。

 

 

「わぁ……」

 

 ごく自然にすみれと手を繋いだ状態で入場ゲートを潜り、薄暗くて青い空間に入る。僅かなあかりが水槽を照らして、その中で色とりどりの魚が泳いでいるのは、初めて見るであろうすみれが感嘆の声を漏らしてしまうくらいには幻想的だった。

 

 

 そんな中で、すみれが見たいというのに任せて、片っ端からゆっくりと展示されている魚を見ていく。入ってすぐの瑠璃色の小魚から、有名な映画作品の魚じゃないと書かれたカクレクマノミ、すみれの好きなクラゲなどを見ながら、展示されている魚たちを少しずつ見ていく。

 

 

「お兄さん、このお魚、すっごく見つけ難いです!!」

 

 そんなふうにすみれが話題にあげたのは、展示されていたオニオコゼ。見つけ難いだけではなく、背びれに毒を持っていること、実はそこそこの高級魚で、美味しい魚として有名なことを教える。半分くらいは、水族館の説明でわかる事だったが、味や値段なんかは説明論に書くのが偲びなかったのか、カットされていた。そのおかげで、すみれから見た僕は一端の知識人である。気分はいいが、実態はそれほど立派なものでは無いので心苦しいところがあったりなかったりだ。

 

 

 すみれの趣味に従って、主にクラゲなどの生き物をメインにした観察をする。本人がこよなく愛した図鑑の傾向に関係するのかしないのか、一番テンションの上がっている場所は幻想的なライトアップの施されたクラゲたちのスペースだった。

 

 

 これ自体は、仕方がない。すみれをここまでつけれてきた時点で、きっとクラゲや深海の生き物など、美しくも儚いもの、より正確には、すみれの愛読書である、“美しい海の生き物図鑑”に掲載されるような生き物たちへの執着は予想していた。

 に掲載されるような生き物たちへの執着は予想していた。

 

 クラゲたちのスペースを通り抜けて、たどり着いたのは触れ合いコーナー。触られてもそこまでストレスを感じない生き物たちや、触ってもそれほど有害な影響を与えない生き物たちがいるコーナーだ。

 

 

 頭を触らないように言及された亀や、なんの関係もなさそうに縮こまっているナマコの姿なんかが見られる中で、ガラスにピッタリとくっつくヒトデに、すみれが手を伸ばす。

 

「……もっと柔らかいのかと思ってたんですけど、意外と硬いんですね……なんというか、不思議な感じです」

 

 おっかなびっくり指先でつんつんつついて、驚いた様子のすみれがつぶやく。他にも触れ合える魚がいるので、すみれが触っているのを眺めて、たどり着いたのはドクターフィッシュの前。

 

「お兄さん……その、良ければ一緒に手を入れませんか?」

 

 

 前の人が手を入れていた時の、集りに集った小魚の群れを、その様子を見て少し怖くなったらしいすみれが、掴んだままの僕の左手を引っ張りながら言う。

 

 当然、と言うべきかは分からないが、すみれから頼まれたのなら僕が拒否することはない。もちろん、あまりにも無理なことや抵抗があることであれば話は別だが、このことはそんな内容では無いので、関係ないだろう。

 

 もちろんと返して、一緒に手を水槽の中に入れる。すぐさま群がってくるドクターフィッシュと、それに表皮を食まれる擽ったさ。人によってはこれが癖になったりするのかもしれないが、僕はあまり好きではなかった。なんというか、変な感覚が首筋で疼く。

 

 

「……なんかこう、むじゅむじゅします」

 

 少しして、モゾモゾと体を動かしてから我慢の限界が来たらしいすみれが、手を水槽から出してからそう言った。ムズムズかと思って聞き直してみたが、むじゅむじゅでいいとの事。言いたいことはわかるが、不思議な擬音だ。

 

 手洗いを済ませて道なりに進むと、もう展示は終わりだ。順路で進むと終わりと言うだけで、一度通り過ぎたところを戻っても問題ないため、まだ観ておきたいものがないかすみれに確認してみると、クラゲのところをもう一度見たいと言う。それなりに長い時間をかけて見はしたものの、まだ見たりなかったのだと。

 

 すみれが楽しめるのであれば、全部合わせて1時間くらいであれば、変化のない光景でも耐えると決めた僕にとっては、ある意味想定の範囲内であったため、3種類くらい連続で展示されているクラゲコーナーに戻る。もっと大きな、ちゃんとした水族館であれば、クラゲコーナーももっと大きくなるのかもしれないが、ここの水族館で見られるのはそれくらいのものだ。

 

 

 けれども、数が少ないだけで、その展示方法に手を抜いているなんてことは、ない。少なくともすみれがもう一度見たいと思うほど、僕もそれを聞いて、いいなと思ってしまうくらいには、その展示方法は考えられていた。

 

 

 紫がかった光が、クラゲたちを照らしていた。直接光ではなく、間接光。けれど、それによってクラゲたちは紫色に照らされて、ゆっくり時間をかけながらその光の色を青、緑、赤と変えていく。

 

 

「おにいさん、お願いがあるんです」

 

 光がまた紫に戻ってくるのを、3回繰り返して、ただ無言で、色の移り変わりとクラゲの泳ぎを見ていた僕に対して、すみれはそう切り出した。

 

「わたし、お兄さんの事が大好きです。お兄さんのことを誰よりも大切に思っていますし、お兄さんのためならなんだって出来ると思っています」

 

「それなのに、わたしはこんなに大切に思っているのに、お兄さんがわたしのことを、すみれちゃんって呼ぶのが、悲しいんです。切ないんです。わたしの、いちばん大切な人には、わたしのことを呼び捨てで呼んで欲しいんです」

 

 不安によるものだろうか、僕の左手にキュッと力を込めながらそう言うすみれの右手に、優しく力を込める。

 

「すみれ」

 

 そう、一言声に出した。ずっと頭の中では呼んでいた呼び方で、こんなふうに馴れ馴れしい呼び方をされたら嫌だろうから、これまで口に出したことのなかった呼び方だ。

 

「すみれ、僕がすみれのことをすみれと呼ぶのなら、すみれが僕のことをお兄さんって呼び続けるのもどうかとおもうんだ」

 

 実はこれまでもこんなふうに呼ぼうとしたことがあるのだと白状してから、だから僕のこともお兄さんじゃなくて名前で呼んでくれないかと、要望を伝える。

 

 

「えっと、……その……り、りん、さん……?」

 

 下から見上げるその顔はしだいに、ライトのせいではないであろう赤に染る。

 

 

「…………っ!はずかしいです!なんか、すっごく恥ずかしいです!」

 

 お兄さんはお兄さんのままです!わたしのことは呼び捨てで呼んでください!というすみれ。もう少しからかってあげたら、もっとかわいいところが見れそうではあったが、やりすぎて拗ねさせてしまうわけにもいかないのでやめておく。

 

 

 

 

 こっち見ないでくださいと言ってクラゲに向き直ってしまったすみれが満足するのを待って、今度こそ見たいものを全部見たことを確認して、水族館から出る。時間はちょうどお昼頃。

 

 

 併設されている網焼きの店に入って、魚介を焼く。時期的に牡蠣が美味しいこともあり、ガンガン焼きを頼んで、待ち時間に他の貝やエビなんかを焼く。

 

 

 ホッケや焼きおにぎりなどを途中追加で注文しながら、すみれが満腹になるまで食べさせる。魚介以外に、肉もあったが、今日は魚介の日と決めていたらしく肉が頼まれることは無かった。

 

 

 会計を済ませて1階に降りれば、ようやく今日のメインだ。まだ生きている魚から、刺身に加工されたもの、切り身、干物まで、様々な状態の魚介が揃っている。

 

「今日の目的は1匹の状態の魚。選び方のポイントはわかるかな?」

 

 網焼きの店を出てすぐに僕の左手に収まったすみれに、質問をしてみる。わからないのが当然だと思っての質問だったが、すみれはその辺もしっかりと調べていたようで、新鮮な魚の見分け方をスラスラ口にした。

 

 内容も正しかったので、それじゃあ実際に選んでみようかと、すみれに任せてみる。難しそうな顔でしばらく魚と睨めっこして、あまりわからなかったと諦めるすみれに、ここの魚はどれも新鮮だからどれを選んでも対して変わらないのだとネタばらし。次からここの魚を基準に考えてごらんと伝えると、すこし不服そうにむくれていたが、そこまで大きくないものを4尾ほど選んで買ったら、今日の買い物は終わりだ。

 

 

 あとは、家に帰って捌き方を教えるだけである。

 



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水族館と網焼き(裏)

 お兄さんに魚の捌き方を教えてもらう約束をしていた今日ですが、朝の早いうちから準備するように言われていました。

 

 魚の処理に時間をかける必要があって早くから取り組むのかと思って内心怖くなっていると、早く行くのはついでに水族館を見るためで、わたしが見たくなければその分の時間は大幅カット、お昼出発でも間に合うとのことです。

 

 当然、わたしはお兄さんが連れていってくれるのであればどこにでもついて行きますし、水族館ともなればお願いしてでも着いていきたいくらいです。

 

 是非にと朝早い時間からの水族館をお願いして、それに合わせて当日のお昼ご飯が要らなくなるとのことなので、それまでのメニューを考えます。とはいえ、減らすだけだからそれほどむずかいしところではありません。当日のお昼の栄養バランスを考えた上で、その日の夜や翌日の朝昼で釣り合いを取らせればいいだけの話です。

 

 水族館で生きている魚たちの姿を楽しんだ直後に、少し前まで生きていた魚たちを捌いて食べるという流れは少し気が引けますが、これまでわたしが食べていた食べ物たちも、元々は生きていたもの。その末路を食べていたのだと考えれば、今更そこに躊躇していいはずもありません。そこに躊躇いを覚えてしまったら、わたしはこれまで無知をいいことに非道を働いていたことになります。

 

 それは、いやです。間違ったことをしていたと認めるのは辛いですし、それを認めてしまえば、わたしは今後、動物を食べる度に、お兄さんに動物を食べてもらう度に後悔することになるでしょう。

 

 それは、良くないです。お兄さんに食べてもらうご飯を作る、幸せな時間にそんなものはふさわしくないです。楽しんで欲しい時に、辛いことを考えるのは良くないです。だから、わたしはどんな状況であっても、魚を美味しく食べれなくてはなりません。そうでなくてはいけません。

 

 

 そう、覚悟を決めて、お兄さんに連れて行ってもらって、初めての水族館です。わたしの一番好きだった図鑑が“美しい海の生き物図鑑”であったことから自明なように、わたしは色々な生き物の中でも海の生き物が特に大好きです。その展示場という前提から、わたしの興奮は約束されたようなもので、展示されている一番最初の魚を見た時点で、わたしのテンションは振り切ります。

 

 そのまま展示されている魚たちを眺めます。どの魚もこの魚も、わたしにとっては魅力的で、素晴らしい環境の元で育っています。

 

 

 当然、自然のままであればもっと普通に育っていて、ここでのものとはまた異なる生育を遂げたであろうとこは理解していますが、偉い学者の先生たちの意見を聞きながら育てての結論が、現状これである以上、今想定しうるものの中ではこれがスタンダードでしょう。

 

 思わず声を漏らしたりしながら、時が過ぎます。青くて、紫色なのはこの水族館の、あるいは他のものも含めた水族館全体としてのスタンダードなのでしょうか。そうであったにせよ、そうでなかったにせよ、これは綺麗なもので、そうあるのが当然と思わせてくれます。

 

 

 知っている魚に、知らない魚。かわいいものに少し怖い顔のもの。どれも面白くて、楽しいです。どれもこれももっとじっくり、それこそ日が暮れるまで眺めたいものですが、そんなことをしてしまえば他のものが見れなくなってしまいますし、元々の目的の魚だって買えません。程々で切り上げて、次へ次へと進みます。

 

 そうして着いたのは、触れ合いコーナー。危険がなくて、比較的ストレスに強い魚たちが集められた水槽で、実際に手で触ることができるらしいです。

 

 注意書きに従ってまず手を洗い、どの子から触っていこうか考えます。亀さんは噛み付くことがあるから、頭の近くは触っちゃいけないらしいです。

 

 最初は大人しそうな子と決めて、見て回るとヒトデがいました。ナマコとも迷いましたが、まずはこの子にしましょう。

 

 

 掴んだり、摘んだりしてしまったらこの子が可哀想ですから、ひとまずは指先で触れるだけ。そのまますっと滑らせて、表皮の質感を確かめます。もっとツルツルというか、ヌルヌルしてそうなイメージがありましたが、思いのほかザラザラです。

 

 つっついて反発力なんかを確かめますが、思ったより硬いですね。軟体動物というのだからもっと柔らかいものばかりだと思っていましたが、そうとも限らないみたいです。不思議な気持ちになりながら触って、満足したら次の子を触ります。

 

 そうしているうちに、みんな触り終わってしまいました。残っているのは、小さな魚が沢山入った水槽、ドクターフィッシュの水槽です。なんでも、手の角質を食べてくれるのだとか。テレビで顔の角質を食べてもらっているのは見たことがありますが、実際に見るのは当然初めてです。

 

 前の人が楽しそうに手を入れているのを見て、不意にお兄さんが今日、ずっと着いてきてくれたことを思い出します。わたしにとってはとても新鮮だった水族館ですが、お兄さんはちゃんと楽しめたのでしょうか。私だけが楽しんでいたのであれば、それは申し訳ないです。

 

 そして、わたしに手を引かれて着いてきてくれるだけだったお兄さんが、ちゃんと楽しめたかと言うと、少し微妙でしょう。なら最後にせめて、一度くらいは楽しいを共有したいです。同じものを感じて、楽しんで、同じ思い出を作りたいです。

 

「お兄さん……その、良ければ一緒に手を入れませんか?」

 

 だから、ひとつおねだりをしてみます。お兄さんが魚に触るのが嫌いだったり、トラウマがあるなんてことがなければ、きっと一緒にしてくれるでしょう。前の人たちもキャーキャーと楽しそうだったので、これならお兄さんも楽しんでくれるかもしれません。

 

 もちろんと軽く返事をして、お兄さんは手を洗ってきてくれます。せーので手を入れると、小さな魚が一気に集まってきました。痛くはありませんが、ずっと手を入れておきたくない、変な感じがします。

 

 変な感じが背筋から昇ってきて、一気に我慢できなくなってしまったわたしは、水槽から手を出しました。なんだかとってもむじゅむじゅします。

 

「ムズムズじゃなくて?」

 

 わたしの表現が気になったらしいお兄さんが、水槽から出した手の水を切りながら聞いてきます。ムズムズではなく、むじゅむじゅです。不思議そうに首を傾げるお兄さんと手を洗って、次のものを見に行こうとしたら、出口でした。

 

「こんな感じの場所だけど、まだ見足りないものとかはあるかな?時間も少し早いし、あるならそれを見に行こう」

 

 なかったらちょっと早めのお昼ご飯にしようとお兄さんは言いましたが、まだまだ軽く見ただけですので、見ていいのならもっとみたいです。とはいえ、お昼の時間までには終わりにしなくてはならないので、見たいものの中でも特に見たいものを選びます。

 

 

 やはり一番は、クラゲでしょう。他のものも、どれも素敵でしたが、これはもうわたしの趣味です。お兄さんに力説して、お兄さんの手を引いて向かいます。

 

「すみれちゃんがこんなに張り切るなんて、よっぽど気に入ったんだね」

 

 

 面白そうに微笑むお兄さんの左手を握ります。光を受けたクラゲが、ぷかぷかきらきらしていて、とっても綺麗です。

 

 こんなふうにライトアップされていないクラゲの写真しか見た事がありませんでしたが、ライトアップされてるのも素敵です。のんびり泳ぐ姿はまるで宝石みたいで、目が離せなくなってしまいます。

 

 なびく触手が綺麗です。毒があるから触ってはいけないとわかっていますが、指でクルクル巻取りたくなります。

 

 

「お兄さん、お願いがあるんです」

 

 神秘的で、幻想的な空間です。だからでしょうか、本当は言うつもりのなかった言葉が、溢れ出てしまいました。

 

 

「わたし、お兄さんの事が大好きです。お兄さんのことを誰よりも大切に思っていますし、お兄さんのためならなんだって出来ると思っています」

 

 一度出てしまえば、もう引っ込みはつきません。恥ずかしいことや、言わなくてもいいことまで口から出てきてしまいます。自分でも意識していなかった願望が、口から溢れます。

 

「それなのに、わたしはこんなに大切に思っているのに、お兄さんがわたしのことを、すみれちゃんって呼ぶのが、悲しいんです。切ないんです。わたしの、いちばん大切な人には、わたしのことを呼び捨てで呼んで欲しいんです」

 

 わたしにとってかつて、いちばん大切だったのはお母さんでした。けれど、今のわたしにとってそれはお兄さんです。

 

 もっと普通に、呼び捨てで呼んで欲しいと言えば、お兄さんもそれほど気にする事なく呼んでくれたでしょう。完全に言う必要の無い気持ちで、けれども言いたかった言葉です。

 

「すみれ」

 

 

 たった一言で、心が軽くなりました。ちょっと恥ずかしかったのが、認められたようで温かくなりました。お兄さんが、本当はこれまでにも呼ぼうと思ったことがあったと聞いて、嬉しくなります。それと同時に、もっと早くお願いすればよかったと、小さく後悔します。

 

 

「すみれ、僕がすみれのことをすみれと呼ぶのなら、すみれが僕のことをお兄さんって呼び続けるのもどうかとおもうんだ」

 

 たった三文字の言葉。わたしの名前です。わたしの名前を、お兄さんが何度も何度も繰り返し口にします。耳が幸せになって、頭がふわふわです。

 

 ふわふわのままお兄さんの言葉の続きを聞いて、そのまま口にします。

 

「えっと、……その……り、りん、さん……?」

 

 そう呼んだ途端、体の内側から、心の内側から、すっごく熱いものが込み上げてきました。心臓がバクバク鳴って、顔が真っ赤になるのを感じます。胸がキュンとして、わけがわからなくなります。

 

「…………っ!はずかしいです!なんか、すっごく恥ずかしいです!」

 

 お兄さんの、燐さんの顔を見るのが、恥ずかしいです。つないだ手が、離せなくなります。こんなわたしを見られたくなくて、でもずっとわたしだけを見ていてほしくて、頭の中がぐちゃぐちゃです。

 

 ただ名前を呼んだだけなのに、だめです。燐さんの名前を呼んでしまうと、意識してしまうと、だめです。お兄さんをお兄さんとして、家族として見れなくなってしまいます。

 

 そんなのはいけません。だから、お兄さんをお兄さんと呼んで、意識をそちらに戻します。芽生えかけたよくわからない気持ちは、お兄さんの名前と一緒にしまいこんでしまいます。

 

 

 お兄さんから顔を背けて、一歩前に出て見られないようにして、クラゲの水槽を見ます。さっきまでとは違って、全然集中できません。お兄さんの手の温かさと、たぶんわたしの汗のせいで湿っている感覚がまた恥ずかしくて、でも離したくはありません。

 

 一度、自分の中でしっかりと意識の確認をしてみます。お兄さんは、大切な人です。わたしの家族で、大好きな人で、全部です。生き甲斐です。

 

 そのことをしっかり自分に言い聞かせて、先程みたいに取り乱すことがないように、いつもの莢蒾(がまずみ)すみれを定着させます。これでもう、いつも通り、大丈夫です。

 

 

 だいぶ長いこと時間をかけてしまったので、もう十分見たとお兄さんに伝えて、水族館を出ます。本当はもっと見ていたかったのですが、あまり時間をかけすぎて晩御飯が遅れても大変です。また機会があれば連れてきてもらおうと決めて、網焼きのお店に入ります。

 

 

 メニューはよくわからないので、お兄さんにおまかせです。お兄さんが美味しいと思うものを、美味しいと思う食べ方を教えてもらえれば、わたしはよりお兄さんに喜んでもらえるようになります。

 

 わたしが調理できないのは悔しいところですが、ここで覚えておけば次に生かせるのでしかたなしです。焼き色や焼き時間、火の強さなんかを可能な限り覚えるため、お兄さんが焼いていく姿をじっくり観察して、ところどころで質問なんかも挟んでみます。

 

 網焼きのためのトングの使い方までしっかり覚えたので、これでもう次からは完璧でしょう。お兄さんが焼いてくれた海老の殻を剥きながら、次回への抱負を固めて、プリップリの身にかぶりつきます。とっても美味しいです。

 

 

 満腹になるまで味わったら、一階のお買い物コーナーでこれから捌く魚を選びます。2階で見た魚はさすがに売られておらず、一安心です。お兄さんにちょっと意地悪なクイズを出されたりしましたが、わたしがお勉強したことはちゃんとアピールできたので、良しとしましょう。

 

 

「今日はおまけの水族館だったから小さかったけど、すみれが気に入ったようなら次はちゃんとした水族館に行ってみようか」

 

 帰りの車の中で、お兄さんはそんなことを言ってくれました。ここでもまだ見足りないのに、もっと大きいとこなんて、一日かかってしまいます。

 

「うん。その上で、一日お出かけしないかってお誘いなんだけど、嫌だったかな?」

 

 予定とかもあるだろうからすぐにじゃないし、時間も空いちゃうと思うけどと言うお兄さんに、是非連れて行ってもらいたいと伝えます。

 

 

 お兄さんは、わたしの大好きな人は、いつもわたしの期待の一歩先を行きます。




 余談
 没展開として、初めて会った翌日に、勇気をだして距離を詰めようとして、燐さんって呼んでみたすみれちゃんと、まだそんなに仲良くないよね?って返して心ポキポキする燐くんがありましたが、すみれちゃんが押し入れルートに入りそうだったのでなくなりました(╹◡╹)


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閑話 すみれちゃんのお菓子作りたいむ

 なにも思いつかなかったから箸休めです。



 お兄さんとお買い物に行って、色々買ってから少ししての平日、わたしこと莢蒾すみれは、部屋の中でたくさんの粉を広げています。

 

 今日の目的はクッキー作り、なのですが、ひとつのレシピのものを沢山作るのではありません。いえ、正確には、使うレシピは一つですが、材料の小麦粉などを変えるため自ずと違うものになります。お兄さんが教えてくれた、対照実験というものです。

 

 

 まず基本となるレシピは、瑠璃華さんに教えてもらったもの。

 材料はそれぞれ、

 小麦粉300g

 砂糖100g

 バター140g

 卵40g

 ベーキングパウダー小さじ2/3

 です。とはいえ、このまま作るわけではなく、少ない量で行います。ついでにベーキングパウダーだけ単位が分かりにくいので、統一してみましょう。

 小麦粉30g

 砂糖10g

 バター14g

 卵4g

 ベーキングパウダー0.27g

 10分の1スケールです。このくらいの量になってしまうと、1gの誤差が大きな変化を産んでしまいますから、0.01g単位まで計れる電子計りを使って、ベーキングパウダー以外は有効数字3桁でピッタリ揃えます。

 

 まずは小麦粉の種類から検証してみましょう。今回用意したのは普通の小麦粉、ドルチェ、エクリチュール、リスドォルの4つです。普通の小麦粉は、元々お家にあったやつなので、名前はわかりません。

 

 まずは常温に戻したバターを、元の形が無くなるまで練ります。そこに砂糖とバニラエッセンスを少し加え、よく混ぜます。今回の砂糖は、上白糖です。おうちに元々あったのにわざわざ買ったのはもったいなかったと思いますが、人間ですからこんな失敗もあるでしょう。一番量が多いため、気にせず使うことが出来ます。

 

 数回に分けて混ぜながら卵を注いで、全体がしっかり馴染んだら、ここからが変化の付けどころです。

 

 混ぜていたものをピッタリ4等分して、それぞれに予めベーキングパウダーを混ぜておいた小麦粉を、ふるいにかけながら入れます。ヘラを使って全体がポロポロになるまで混ぜて、袋に入れて寝かせます。この時、混ぜすぎると仕上がりが固くなってしまうらしいので、要注意です。

 

 冷蔵庫の中で30分寝かせて、平らなところで麺棒を使い伸します。厚さは、割り箸くらいです。昔ながらの割り箸を横に寝かせた状態で、その上を転がすと均等な厚さに仕上げることができます。このとき、クッキングペーパーを生地の上下に挟むことで、まな板にも麺棒にも生地がくっつかなくなります。便利です。

 

 シート状にしたら、あとは型抜きです。かわいい型があればそれを使えばいいのですが、わたしは買い忘れてしまったので持っていません仕方が無いので包丁を使い、食べやすそうな大きさに分けます。

 

 この伸す作業も、型を抜いた残りをまとめて繰り返したりすると、どんどん焼き上がりが固くなってくると教えてもらったので、要注意です。

 

 ここまで出来れば、あとは焼くだけです。わたしが教えてもらった方法だと、レンジのオーブン機能を使って、150℃で13分との事でしたが、それぞれのレンジのばらつきや、焼く際の熱源との距離なんかもあるので、あくまで目安です。程々に様子を見ながら、爪楊枝で刺した時に生地がくっつかなければ焼きあがっているらしいので、暫くは待ちです。

 

 次の、お砂糖の種類を変えた時の影響を調べる準備をしましょう。先程までのものは同じお砂糖で作ってそれを分けていたため、4つ分まとめて用意できましたが、次は違います。

 

 ひとつずつ分けてバターを練ってそれぞれにお砂糖を入れていきます。今回使うのは上白糖、粉砂糖、ブドウ糖、果糖の四種類です。この中でもブドウ糖は、塊になっているものしか売っていなかったため、先程30分寝かせている間に頑張って削りました。ふるいにかけてサイズの選別もしたので、すっかり粉末状ですが、なかなかしんどかったので出来ればもうやりたくないです。

 

 それぞれ混ぜて、よーく混ぜて、普通の小麦粉を入れていきます。あとは先程と同様の手順で30分寝かせます。

 

 途中、焼き加減の確認なんかをしながら作業を進めて、寝かせている最中に最初の子たちが焼き上がりました。4種類の全部に、ひとつずつ代表として穴あきになってもらって、問題なく火が通っていることを確認します。

 

 どれも綺麗な白い色です。クッキーと言えばもう少しきつね色に近いイメージがありましたが、これはほとんど焼く前と同じ白のままです。恐らく、低温で長く焼いたからでしょう。ドルチェを使ったものなんかは、少し力を加えると焼きあがったはずのクッキーが曲がって、元に戻るなんて不思議なことが起こりましたが、焼けてるはずです。

 

 鉄板の上から、下に敷いたクッキングペーパーごと下ろして、テーブルの上に置きます。出来たてのものは熱くてまだ食べれないので、少し冷めるまで待ちます。お兄さんに食べてもらうのも、冷めた状態のものでしょうから、さすがにクッキーは出来たてにこだわりません。

 

 

 切り分けた時の、切れ端の部分から息を吹きかけて冷まして食べてみます。お兄さんの前に出すのは、ちゃんと綺麗な四角形のものがいいので、このあまりの部分は全て自分で食べてしまいます。

 

 まず普通の小麦粉のものから。おそらく一番特徴に乏しい小麦粉だけあって、普通に美味しいもののあまり特筆することはありません。

 

 次はドルチェ。焼き上がりの瞬間のような、指で曲がって元に戻る性質は消えてしまいましたが、とてもしっとりです。実はまだ生なのではないかと疑ってしまいますが、多分焼けています。

 

 お次はエクリチュールです。これまでのふたつと比べると格段にサクッとしていて、クッキーを食べてる!という感じがします。

 

 最後はリスドォルですね。これは一つだけ薄力粉ではないので、前三つのどれとも異なった味わいです。グルテンの量が多いせいか、クッキーと言うには少ししっかりしすぎていますね。

 

 

 あくまでわたしの好みですが、エクリチュールが一番いいように思えます。ドルチェも美味しいので、そこはもう感性でしょう。しっとりを求めるか、サクサクを求めるかの違いです。

 

 

 そうして食べ比べている間に寝かせる時間が終わったので、伸して切って焼いていきます。お家のレンジだと時間が短かったようなので、5分分延長して18分です。

 

 焼き上がりは、見た目ではほとんど区別がつきませんね。心做しかブドウ糖と粉砂糖のものの表面がなめらかな気がしますが、比較しなければわからない程度です。

 

 味の方は、上白糖と粉砂糖は余り変わらず、ブドウ糖は少しスッキリとした後味で、甘さは控えめです。果糖は、甘さは他のものよりも強めで、名前の如く果物みたいな甘さです。

 

 食感は、上白糖と果糖、粉砂糖とブドウ糖に別れており、おそらく砂糖自体の粒子の細さによる変化でしょう。小麦粉を入れる前から、前者は少し砂糖の粒が残ったような見た目、後者は溶け合っている様子と別れていました。よりサクッと仕上がるのは後者なため、わたしはこっちが好きです。

 

 サクサク×サクサクにすれば、まだ見ぬ至高のサクサクにたどり着けるのではないかと、わたしはエクリチュールと粉砂糖に期待を寄せます。ブドウ糖は、あまりにも面倒なのでいやです。お兄さんがこれだと言うのであれば小型のミキサーを購入しましょう。

 

 

 ひとまずは今日の成果をまとめて、小麦粉ごとの特徴と砂糖ごとの特徴をまとめます。あとは、わたしの趣味で作ってもあまり意味が無いからお兄さんへのヒアリングをしてからですね。

 

 ちょうどいい時間ですので、クッキーの余り部分を食べてお昼替わりにします。だいぶ少なめですが、その分は晩御飯でカバーしましょう。

 

 8種類、正確には普通の小麦粉と上白糖の組み合わせを2度作っているため7種類ですが、それらが混ざらないように、わからなくならないようにラップでくるんで、名前を書いていきます。

 

 あとはお兄さんが帰ってくるのを待つだけ。スーパーまで買い物に行って、晩御飯の支度をします。

 

 いつも通り時間を合わせ、お兄さんが帰ってくるタイミングで完成。出来たて熱々の晩御飯を食べ、お兄さんがシャワーからあがってからが本番です。

 

「お兄さん、お兄さんのためにクッキーを焼いてみたのですが、食べてくれませんか?」

 

 少しずつ違うので、どれがいちばん美味しいと思ったかも教えてほしいと伝えます。

 

「すみれちゃんが作ったクッキー?ぜひ食べさせてもらいたいな」

 

 

 お兄さんの反応はそこそこ良さそうです。まずは小麦粉を変えたものから、食べてもらいます。 

 

「風味とか食感とか、全然違うね。どれも特徴が別れていて美味しいけど、僕はこれが一番好きかな」

 

 お兄さんが選んだのは、エクリチュールで作ったもの。わたしが好きなものと一緒です。お兄さんとクッキーの趣味が近いことに嬉しくなりながら、次は砂糖を変えたものを食べてもらいます。

 

「味ならこの二つ。食べ慣れていて、落ち着く味だね。食感だとこの二つかな、よりサクッとしていて、美味しいと思う」

 

 選ばれた味は、上白糖と粉砂糖。食感はブドウ糖と粉砂糖でした。わたし自身は、味だけで言えばブドウ糖もかなり好きですが、次作りたいものとなるとエクリチュールと粉砂糖です。

 

 お兄さんにサクサク加減はこのくらいがいいのか、もっとサクッとしたものの方がいいのかを聞いて、もっとと言われたので次の方針は確定です。次のお買い物の時に、エクリチュールを購入しておきましょう。

 

 不採用になった小麦粉や砂糖達は、これから料理をする時に少しずつ使っていきます。フライパンを使って粉物を焼くのもいいかもしれません。

 

 

「すみれちゃん、今日はわざわざ僕のために作ってくれてありがとう」

 

 

 そんなことを考えていると、お兄さんがわたしの頭を撫でてくれました。ふわふわして、幸せになります。朝から頑張ってきたものが、全部報われたように思えます。

 

 この言葉だけで、頭を撫でてくれただけで、また作りたいと思ってしまいました。やっぱり、お兄さんはずるいです。





 このレシピ通りにエクリチュール、粉砂糖、カルピスバターを使って作れば作者が作ってるのと同じクッキーができます。八割方実体験です(╹◡╹)


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お肉、フォーク、ナイフ

「そういえば先輩、すみれちゃんっていつも、栄養バランスをしっかり考えてご飯を作ってくれているんですよね?」

 

 仕事終わりに飲み会の誘いをばっさり切り捨てて僕の元までやってきた溝櫛が、会社から出て寄り道を口実に駅方面とは別方向に僕を誘導して、そう言った。わざわざここまで来てから話題に出したのは、会社の人に聞かれないようにという配慮だろう。

 

 ここしばらくお弁当を作ってもらっていることもあって、誰かが僕の家にいることはバレているだろうから、そこまで気を使わなくてもいい気はするが、気持ち自体はありがたいものだ。

 

「そうだね。近頃はバランスだけじゃなくて彩りとか、かかる費用なんかも考えながら作ってくれているよ」

 

 おかげで毎日美味しそうで、実際に美味しい食事をとれている。食費だって、普通の自炊をしない一人暮らしよりはずっと抑えられている。

 

「うーん、それならなんですけど、すみれちゃんってこう、ジャンキーな食べ物とか、ガッツリしたものと買って食べたことあるんですかね?」

 

 本人の希望もあって、自炊したものを食べていることが大部分なため、僕の前でジャンクフードを食べているところは見たことがないし、こう聞いて来る時点で溝櫛の家に泊まっていた時も食べなかったのだろう。ガッツリしたものは、この前の網焼きか、たまに作ってくれるハンバーグが一番近いだろうか。

 

 

「やっぱりそうですか。うーん、ところで先輩、たまにはステーキとか食べたくなりませんか?」

 

 うちに来る前はわからないけど、僕の知っている限りではどっちも無いかもしれないと伝えると、私の分は半分自腹で払いますよとアピールしてくる溝櫛。もしかしなくても、最初からたかるつもりだったのだろう。

 

 半分じゃなくて全部自分で払えと言いたくなったが、なんだかんだで溝櫛には世話になっているし、すみれのために色々買ってくれたりもしている。そのことを考えれば、半分どころか全額こちらで持ってもいいかもしれない。

 

 

 ステーキはすみれが食べたいと言ったらと伝えて話は終わり、帰宅後食休みの時間ですみれにその話をしてみる。外食でバランスがあまり良くないステーキと聞いて、当初あまり乗り気ではなさそうだったすみれだが、溝櫛が会いたがっていたことを教えると一転して乗り気になった。

 

 

 その後メッセージのやりとりで日程を決めて、決まった当日の土曜日。昼間からはそんなに食べれないので、時間は夕方のご飯時より少し前だ。すみれに話してお昼は軽めにしてもらったため、時間が早くても充分空腹である。

 

 

 ステーキチェーンのファミレスは、この辺りだと駅からも僕らの家からも少し離れたところにあるため、移動は車。先に溝櫛を拾いに行って、送迎もする。

 

「先輩の車、後部座席に乗るの初めてですね。なんか新鮮です」

 

 助手席の後ろに乗り込んで、後ろからすみれにちょっかいをかける溝櫛。すみれが嫌がっているようなら止めなくてはならないが、嫌がられない程度に留めるだろう。この後輩はそんな後輩だ。

 

 

 ……あの子が生きているうちに免許を取っていれば、こんなやり取りもあったのだろうか。いや、あの子の事だから、溝櫛と一緒に後部座席に座っていたかもしれない。そっちの方がありそうだ。

 

 信号で止まった際にふと、そんな考えが頭をよぎった。気持ちが暗くなりそうなのを留めて、頭を振って運転に集中する。おかしなことを考えながら事故を起こしてしまえば、取り返しのつかないことになるからだ。

 

 幸いにも横と後ろの2人には不審がられなかったようで、仲良さげにやり取りを続けていた。

 

 

 そのまま20分ほど車を走らせて、目的のファミレスに着く。もう少し高価なところの方がいいのかとも思ったが、あまり高すぎるとすみれが遠慮するだろうと溝櫛に説かれたため、比較的リーズナブルな店だ。

 

 

「えっと、お兄さん、瑠璃華さん、どのお肉がいいのでしょうか?」

 

 駐車場から店内までの短い距離で自然と手を繋いできたすみれと、それを普通に受け入れた僕を前にえもいえぬ表情を浮かべた溝櫛。そんなことはつゆ知らずボックス席で当然のように隣に座ったすみれは、メニューに乗っている多数のステーキの写真を前に、僕らに助けを求めた。

 

「そうですね、すみれちゃんの好みかはわかりませんが、私のおすすめは柔らかくて美味しいヒレ肉です」

 

「どれくらい食べれるかもわからないから、僕が多めに注文して取り分けるものいいかもしれないけど、せっかくこういう店に来たんだからどうせなら一人で一プレート食べたいよね。噛み切れなかったりしても良くないからヒレ肉でいいと思うよ」

 

 他の部位は、僕や溝櫛から味見を渡せばいいだろう。もしそれでそちらを気に入るのであれば、交換してもいい。

 

 そう思って注文を決めたところ、少しだけバツが悪そうにしながら、自分の分もヒレステーキを頼んだ溝櫛に裏切られる。釈然としない気持ちで自分の分のサーロインを頼んでから、すみれと二人、ジト目で見ていると、ソースは変えたから許してくださいとの事。

 

 少し言いたいことはあったが、まあ好きなものを食べればいいかと収め、ドリンクバーを取りに行くすみれについて行って、自分と溝櫛の分の水を取ってくる。両方とも氷はなしだ。

 

 先に戻って奥の席に座り、すみれが戻ってきたらステーキが届くまではおしゃべりタイムだ。とはいえ、僕は2人ともそこそこ話す機会が多いため、主にすみれと溝櫛のおしゃべりである。 話の内容は、この前作ってくれたクッキーの話だったり魚の捌き方の話だったり、水族館の話だったり。どうやらメッセージのやりとりで近況報告自体はそれなりに頻繁にしているらしく、溝櫛からの話題提供も多い。

 

「そうだ、瑠璃華さん。今日、クッキーを焼いてきたんです。我ながら自信作なので、良かったら今度感想を聞かせてもらえませんか?」

 

 今は店の中なので、車に戻ったら渡しますねと言うすみれ。ちょうどタイミング良く、二人の分のステーキが届く。米の量が普通で、洋風な味付けの溝櫛と、少なめで和風なすみれ。

 

 直ぐに食べ始めた溝櫛と、フォークとナイフだけで食事をとるのが初めてなようで、戸惑った様子のすみれ。

 

 右手にナイフ、左手にフォーク、一口分ずつ切り分けながら食べるんだよと教えると、右端から切り分け始めた。普段食材を切る時の癖だろうか。確かに包丁を使う時は大元を手で押えて切るなと納得しつつ、左端から切った方が食べやすいと伝える。

 

 少し恥ずかしそうにしながらなるほどと言って、直ぐに行動に移したすみれ。初めてのはずなのにその手つきがやけに様になっているのは、日頃の料理の慣れによるものだろうか。

 

 すみれが問題なく食べ始めたのを見ながら水を飲んで待っていると、3分ほど遅れて僕の分のサーロインが届いた。一番美味しそうなところを一口分切り分けてすみれの鉄板の上に、もう一口分切り分けて斜め前の溝櫛のところに置く。すみれにはなるべく美味しいところを食べさせてあげたいのと、溝櫛はおまけだ。

 

 

「お兄さん、ありがとうございますっ!」

 

 にっこにっこのすみれに、こっちの方が良かったら交換するからねと伝える。

 

「あの、お兄さん。これ、お礼の味見です!」

 

 そう言ってすみれが差し出してきたのは、一口大のステーキ。たっぷりとソースを絡ませて、何故かフォークに着いたままこちらに向けられている。

 

「あーん、です。……食べてくれませんか?」

 

 少し不安そうにしながら、左手を受け皿代わりにしてこちらに肉を伸ばすすみれ。さすがに人前でこういうのはどうかと思い、アイコンタクトで溝櫛に助けを求めると、食え、早く食えと急かされる。

 

「えへへ、おいしいですか?」

 

 味よりも気恥ずかしさが先立つが、ここは頷く以外にないだろう。口の中のものを飲み込んでから、改めてありがとうと美味しかったよを伝える。

 

「よかったです。……それでなんですけど、お兄さん、お兄さんのステーキ、もう一口もらっていいですか?」

 

 今度はお兄さんの洋風ソースでと言われ、いいよと返すとすみれは目を閉じながらこちらに向かって口を開けた。

 

“お兄ちゃん!もう一口だけちょうだい!!”

 

 あの子が重なり、離れる。気恥ずかしさはほとんど消えて、全くしょうがないなという気持ちになった。

 

 先程の続きで、一番美味しそうなところを切って、良くソースを絡ませる。向かわせる先は、すみれの小さな口の中。ぱくりと閉じられた口と、そこから取りだしたフォーク。いつかのドーナツの時みたいにもきゅもきゅと咀嚼して飲み込んだすみれは、唇の端についたソースをぺろりと舐め取った。

 

「……おいしいです。ありがとうございますっ」

 

 

 にっこり笑うすみれと、その正面で水を飲みながら甘っ……とこぼす溝櫛。

 

 気に入ったのなら交換しようかともう一度尋ねると、それは大丈夫ですと断られた。



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お肉、フォーク、ナイフ(裏)

「すみれ、今度一緒にステーキを食べにいかない?」

 

 突然そんなことを言われたのは、晩御飯が終わって、お兄さんの隣で食休みに耽っている最中です。

 

 まず、名前を呼んでもらえたうれしさでふわふわします。初めて呼んでくれた時と比べるとだいぶ慣れてきて、普通にふるまえるようにはなりましたが、慣れてしまうというのは良くもあり悪くもありますね。いい面として、取り乱さないことですが、悪く言えばお兄さんに名前を呼んでもらっただけでは満足できなくなってしまいます。

 

 ……いえ、今考えなくてはならないことはそこではありません。お兄さんが、ステーキを食べに行かないかと誘ってくれました。ステーキ、分厚くて大きいお肉を焼いたものです。わたしの記憶にある中で一度だけ食べたことがあって、上手に食べられなかったからあまり好きにはなれなかったものです。

 

「食べに行く、ということは外食ですよね。どうしましょう……」

 

 その、それほど好きでは無いもののために、一食分お兄さんにご飯が作れないのは、わたしの中では嫌なことに分類されてしまいます。行きたいか行きたくないかで言えば行きたくないというのが本音です。

 

 とはいえ、わざわざ誘ってくれたからには、お兄さんはわたしにステーキを食べさせたいのでしょう。お兄さん自身が食べたいだけというのもあるかもしれませんが、それであればわたしを誘う必要はありません。

 

 さて、そう考えると、話は一気に難しくなります。お兄さんにご飯を作りたいというわがままと、お兄さんがわたしのためにしてくれることを全部受け止めたい欲望が喧嘩をして、どちらを取ればいいのかがわからなくなるのです。

 

「ちなみにお兄さん、どうして突然ステーキに誘ってくれたんですか?」

 

 行こうと言う方に意思が傾いていますが、いまいち踏ん切りがつかないので、お兄さんに追加で質問をして後押ししてもらいましょう。

 

 

「ああ、溝櫛が、すみれはステーキを食べに行ったことがないんじゃないかって言い出してね。すみれが行きたがったら一緒に行こうって話をしたんだよ」

 

「それなら行きます」

 

 お兄さんだけのお誘いではなく、瑠璃華さんもわたしに会いたがってくれているとなれば、断る理由はありません。熟考の必要もなく、即決です。あまりの即答ぶりにお兄さんも少し驚いていましたが、行くと決まったら問題は日程です。次の日が平日で、あまり遅くなるようならお弁当の用意に支障が出るかもしれません。

 

 そのことを伝えると、早めの時間、それも次の日が休日の日になることが決まり、あっという間に土曜日に決定しました。

 

 

 

 そして土曜日です。以前瑠璃華さんに教えてもらったレシピでクッキーを作ったら上手に出来たので、今日はそのお礼とプレゼントを兼ねて、瑠璃華さんにクッキーを焼いていきたいと思います。小麦粉はエクリチュール、砂糖は粉砂糖で、サクサクへの挑戦です。

 

 朝から作り始めて、お昼前には完成します。焼きたてを食べてみたいというお兄さんと一緒にお茶休憩です。ほっと一息ついて、焼きたてにはまた無二な美味しさがあることを堪能します。

 

 そうしているうちにお昼になってしまったため、急いでトーストを焼き、お兄さんに以前食べさせてもらったカルボナーラ風トーストに仕上げます。あまり手の込んだものではありませんが、今から普通に作ろうとするとお昼には少し遅くなってしまいますし、軽めにしてほしいと頼まれているのに反してしまいます。

 

 本当は少し早めの時間に普通の昼食をと思っていたのですが、わたしとしたことが時間を忘れていました。おまぬけさんです。

 

 お昼ご飯を済ませて、クッキーの放熱が十分に済んだら、今度はラッピングです。とはいえ、この家には女の子っぽい、かわいらしい包装資材はないので、割れないようにキッチンペーパーでくるんでジプロックです。……本当に全くかわいくなくて、少し悲しくなりますがないものは仕方がありません。

 

 十分に冷めたクッキーでもう一度お茶をして、それが終わってからまた少しのんびりして、そろそろいい時間になったのでお兄さんと家を出る準備をします。まだ寒いので暖かい格好、右のポケットに携帯、左のポケットにお財布。左手に瑠璃華さんに渡すためのクッキーを入れた紙袋を持てば、準備は万端です。お兄さんの誘い方やこれまでの傾向から、きっとお金は出してくれるのでしょうが、最初から全部払ってもらって当然と考えてはいけないのでしっかりとお財布は持ちます。もちろん、買い出し用のものではなく自分のお小遣い用のものです。

 

 お兄さんの運転する助手席に座って、まずは瑠璃華さんをお迎えに行きます。この間、助手席に座っているだけのわたしは一見何もすることがないように見えますが、現在地やどれくらいで着きそうか等を瑠璃華さんに連絡する役目があるのです。

 

 その甲斐あってか、わたしたちが到着するのとほぼ同時に瑠璃華さんはマンションから出てきました。

 

「先輩の車、後部座席に乗るの初めてですね。なんか新鮮です」

 

 一言二言の挨拶の後、ドアを開けて乗り込んだ瑠璃華さんが、助手席の後ろの席、わたしの後ろに座りながら言います。わたしが来る前は、お兄さんと瑠璃華さんはきっと何度も二人で出かけていたのでしょう。わたしの知らないお兄さんを知っている瑠璃華さんに、ちょっとジェラシーです。

 

 車が動き出す中で、そんなことを考えながら座っていると、不意に後ろから、2本の腕がにゅっと生えてきて、わたしのことをむにむにし始めました。当然と言うべきか、犯人は瑠璃華さんです。

 

「ほぉーれ、ほぉーれ、ここか?ここがいいんか?」

 

「ふにゃっ!?やぁっ、やめっ、てっ!くださいっ」

 

 ゲッヘッヘッと、わざとらしく笑う瑠璃華さんに、ほっぺや、耳や、首筋をさわさわされます。くすぐったくってムズムズして、変な感じがして思わず声が出てしまいます。

 

 

「あはは、やっぱりすみれちゃんはかわいいなぁ。もっと続けていいですか?……だめですか」

 

 当然です。こんなのずっと続けられてしまったら、おかしな扉を開いてしまいそうです。これ以上続くのを許すわけにはいきません。

 

 内心ふしゃーっ!と威嚇しつつ、後ろをむく訳にもいかないのであまり意味は無いのだろうなぁと諦めます。せいぜいが、背もたれから体を浮かせて、チョロチョロと生えてくるお指をぺちぺちするくらいです。

 

 

 そんなふうにして遊んでいるうちに、車は目的地のファミレスに着きました。とんっ、と車から降りて、運転席から降りたお兄さんの手を捕まえます。入店して、お兄さんが受付の紙に名前を書くまでの短い時間でしたが、やっぱりわたしにとっては幸せな時間です。

 

 まだ空いている時間だからか、すぐに席に案内され、お兄さんと瑠璃華さんがそれぞれ別の方に座ったため、お兄さんの隣に行きます。瑠璃華さんの隣も嫌ではないのですが、いつちょっかいをかけられるかがわからないので、こっちの方が落ち着きます。

 

 初めてのお店で、何を頼めばいいのかがわからないので、お兄さんと瑠璃華さんに任せて決めてもらいます。わたしが選んだのは、ソースを和風にすることだけです。

 

 お兄さんがおまけに付けてくれたドリンクバーで、今日は野菜が不足しているため野菜ジュースを取ってきて、席に戻ったら瑠璃華さんとお話をする時間です。

 

 クッキー作りの対照実験がどのような結果だったのか。ブリしゃぶが美味しかったこと。水族館でクラゲがどんな風に泳いでいたのか。ドクターフィッシュについて。牡蠣がおいしかったからまた食べたいこと。お兄さんに魚の捌き方を教えてもらって、嬉しかったこと。

 

 どれも、文字だけのやり取りでは伝えたものですが、やはりそれだけだと伝えきれないものはあります。わたしの中の感動を、思いを、正確に伝えたくて、言葉にして話します。

 

 最後に、今日クッキーを焼いてきて、それをぜひたべてほしいこと。本当は車の中で渡そうと思っていたのに、イタズラのせいで忘れていたことを話していると、店員さんがステーキのプレートを持ってきてくれました。わたしの分と、瑠璃華さんの分です。

 

 

 せっかく届いたんだから先に食べちゃいなと言うお兄さんに、瑠璃華さんと一緒に先にいただきますと言って食べ始めますが、目の前にあるのはフォークとナイフだけ。普段お箸しか使わないわたしには、どのように使って食べればいいのかわかりません。

 

 そのことを察してくれたお兄さんに教えてもらって、ようやく一口食べることに成功します。ついでにご飯の食べ方で、フォークの背に載せる方法があるとも教えてもらいましたが、食べやすいように食べても問題ないらしいです。必要そうなら箸を使うかとも聞かれましたが、このような機会ですのでチャレンジのために箸は使わないことにします。

 

 

 口の中に入れたお肉は、温かいと言うよりもまだ熱くて、思わずはふはふしてしまいます。最初はそのせいで味なんてほとんどわかりませんでしたが、ちょっと口の中が落ち着いてきて、お肉を噛む余裕が出てくると、その柔らかさと美味しさに驚きます。

 

 これだけおいしいのなら、お兄さんが連れてこようとしてくれたのも納得です。焼き方が違うのか、部位が違うのか、はたまたそもそもの質が違うのか、わたしが食べたことのあったステーキとは大違いです。一口一口は大きくないものの、パクパク食べれてしまいます。

 

 おいしいお肉と少し格闘していると、お兄さんの分が届きました。わたしの奥に座っているため、一度食べる手を止めて店員さんとお兄さんの間にステーキの通り道を作ります。

 

 受け渡しが無事に終わったので、お肉との戦いに戻っていると、突然鉄板の上に乱入者が現れました。わたしが食べていたものとは違う見た目、お兄さんの注文したお肉です。

 

 ありがとうございますをちゃんと伝えて、わたしの二口分くらいのそれをひとくちで食べてしまいます。わたしが食べていたものよりも脂の甘みと、その量が多い印象です。ご飯がより進むのはこちらですね。

 

 思わずご飯を食べて、お兄さんにお礼の準備をします。お兄さんが味見をくれたのに、わたしが何も返さないわけにはいきません。たっぷりソースをつけて鉄板の上に置こうとして、それだと鉄板にソースが付いてしまうことに気がつきました。

 

 

 危ないところでした。ソースが付いてしまえば焦げの原因にもなるでしょうし、お兄さんが他のものを食べているときに味が混ざることにもなりかねません。それではいけないので、フォークに刺したそのままでお兄さんの口の近くまで運びます。なんだかんだ理由をつけるだけつけておいて、半分くらいはお兄さんにあーんをしたいだけだと言うのは、ここだけの秘密です。

 

「あーん、です。……食べてくれませんか?」

 

 わたしが口をつけたフォークでは、食べたくないのかなと少し不安になりながら、ソースがこぼれても大丈夫なように左手を下に添えます。

 

 

 ちょっと恥ずかしそうにしながら食べてくれたお兄さん。わたしのフォークで食べてくれて、美味しかったよと言ってくれました。不思議な高揚感が、背筋がゾクゾクするような気持ちよさが広がります。いつか一度だけでいいから、一食全部お兄さんに食べさせてあげたいと思ってしまい、これは良くないものなので急いでしまいこみます。何はともあれ作戦は大成功です。

 

 

 

 大満足して、それじゃあステーキに戻ろうと思ったところで、わたしの悪い子が囁きます。“お兄さんにあーんしてもらいたい”……今なら、いける気がします。このままおねだりをして口を開けて待てば、お兄さんはきっとしてくれるはずです。

 

「よかったです。……それでなんですけど、お兄さん、お兄さんのステーキ、もう一口もらっていいですか?」

 

 そうと決まれば善は急げです。自分のソースだと鉄板の上に渡されて終わりでしょうから、お兄さんのソースの味見をしたいと言って、少し身を乗り出しながら口を開けます。

 

 はしたない子だと思われてしまったでしょうか。いえ、思われてしまっても問題ありません。お兄さんはわたしに、わがままであってもいいと、そうであっても捨てたりしないのだと言ってくれたのだから、責任を取るべきです。

 

 まだかな、まだかなと、楽しみにしながら待ちます。わたしのことを放置して、鉄板の上に置いていないかと不安になりながら待ちます。

 

 ちょっとだけ間を置いて、わたしの口の中にお肉が入ってきました。上手に入らなかったようで、いえ、少し大きかったようで、唇に少しソースをつけながら、入ってきます。

 

 和風ソースよりも酸味があるソースに包まれたお肉を、口でしっかり捕まえます。フォークごと捕まえてしまっているのは、たぶん事故です。ええ、きっと事故です。

 

 わたしの適切な一口よりも大きいそれを、口をいっぱい動かして咀嚼します。脂が強い分、酸味がある方が食べやすいなぁと、頭の隅っこで考えながら、お兄さんが食べさせてくれたそれをしっかり味わいます。

 

 さっきのものがゾクゾクする幸せなら、こっちはとろけるような幸せです。一食分お兄さんに食べさせてあげるのも魅力的ですが、食べさせてもらうのもそれ以上に魅力的かもしれません。これは、と言うよりこれも、わたしをダメにするおこないです。

 

 

 たっぷり堪能して、唇の端に付いたソースを舐めとって、綺麗にしてからお兄さんにお礼を言います。この後、お兄さんがわたしの口の中に入ったフォークでステーキを食べるのだと考えていけない気持ちになりながら、お礼を言います。

 

 

 

 ちょっとジュースのおかわりを取って来ると言って席を立ち、少し時間を開けて戻ると、お兄さんと瑠璃華さんはもう食べ始めていました。美味しいものを食べている時、人は無言になると言いますが、実際にその通りなのか、2人とも真剣にお肉と向き合っているように見えます。

 

 

 ……今なら、きっと怪しまれないでしょう。さっきお兄さんにあーんをしたフォークを、バレないように眺めます。

 

 

 お兄さんの口の中に入っていたものです。それを見ると、考えると、わたしはいけない気持ちになります。

 

 

 

 

 きっとわたしは、へんたいさんだったのでしょう。



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本編(加熱していきます。好きなタイミングで火から上げましょう)
嫌な知らせ1


 これまで透明化レベルで影が薄かったタグ“鬱展開あり”君にようやく出番が来ました。皆様拍手でお迎えください。

 ※今後、苦手な人にはとことんきつい展開が出てくると思います。無理のない範囲でお楽しみください。


「灰岡くぅん、ちょおっと話すことがあるんだけど、いい話と人によっては嬉しい話、どっちから聞きたいかなぁ?」

 

 いつものごとく粘度の高い喋り方の上司青柳がから、突然呼び出しを食らって向かったのは小会議室。数人で話し合いをする時や、小さなグループでの誕生日会などの催しで使われる以外には、他の人に聞かれてはいけない話をする時くらいにしか使われない部屋だ。

 

「そうですね、その二択であれば、いい話から聞かせていただきたいです」

 

 そんな部屋での、先程の質問。最終的にはまず間違いなく喜ばしくはない話だろうから、せめて一時でも気分を上げておかないとやってられない。

 

「そっかそっかぁ。おめでとう!灰岡くぅん。君の成績、スキル、将来性および人格、その他もろもろを加味した結果来年度の君の昇進と昇給が決まった」

 

 それは、いいことだ。ただ一つ解せないのは、それを今伝えたこと。もっと適切なタイミングで伝えるべきであろうこのことを、こんなふうに伝えたのには、なにか理由があるはずだ。

 

「それで、もうひとつの話なんだけどねぇ、君も知っているように、近頃ウチは海外企業との提携もしている。その中で〇〇に一人派遣しないといけなくなったんだけど、ウチだと通訳が要らないのは私と、君と、溝櫛ちゃんだけなんだよねぇ」

 

 上司の青柳は、しゃべり方はこんなんだが優秀で忙しい人だ。たとえ一時的であっても居なくなられたら大変だろう。

 溝櫛は優秀だが、まだ一年目。仕事も覚えきってはいない状態だ。海外で突然働くのは無謀だろう。

 

 そうなると、適切なのは一人前とギリギリ呼べて、該当業務に親しんでおり、オマケに言葉の問題もない都合のいい人材のみ。

 

「というわけで灰岡くぅん、ちょっと急だけど来月の頭から2ヶ月、〇〇に出張してもらいたいんだぁ。手当とかは多めにつくし、季節外れのバカンス感覚で行ってきてくれないかなぁ?」

 

 幸福ですかと聞かれた時に、ずっと昔の僕であれば、茉莉(まり)が無事なら幸せだと答えただろう。以前までの僕なら、あの子を失ってから、すみれと出会うまでの僕なら、自身は不幸だと答えただろう。では、今の僕は?

 

 今の僕であれば、間違いなく自分を幸福だと言い切れる。家に帰れば出来たてのご飯が用意されていて、毎日大切な子と共に過ごせて、その子は大切な家族、妹みたいなものだ。たまに距離感が家族としてのそれを逸脱しているような気がしないでもないが、まあそんなことは些細な問題だろう。

 

 その生活が普通のことになってきて、その生活が当たり前のことになっていて、僕は忘れていたんだ。

 

 

 僕の生活は、僕らの生活は、少しも普通のものなんかじゃなかった。誰にも知られてはいけなくて、誰にも知られていなくて、だからこそ何にも守られていない、ひどく脆いものなのに。

 

「わかりました。現状の引き継ぎ次第、準備に入ります」

 

 僕に返せる返事は、YESしか残されていなかった。

 

 

 

 

 出張、それも2ヶ月だ。僕の住んでいるアパートは会社が一度借りた上で家賃補助をしているため、解約して戻ってきてから別のアパートを借りることになるか、大家さんに話を通して確保しておいてもらい、帰国後に再契約するかになるだろうか。少なくとも、借りたまま2ヶ月置いておくというのは無理だろう。

 

 

 そうなると、どうしてもすみれは住む場所がなくなってしまう。いや、仮に部屋をそのまま残せて、電気ガス水道代を払って貰えたとしても、2ヶ月間もすみれを一人にするのは心配だし、そんなに寂しい思いはさせたくない。

 

 連れていければそんな心配はなくなるのに、安心して一緒にいれるのに、連れていくことも出来ない。存在しない人は、飛行機に乗って国から出ることはできない。

 

 なら、今から戸籍を取ればいいのか。無理だ。数年かけて取れればいい方で、取ろうとしても生涯獲得できないままの人だっている中で、たった二ヶ月で取れるわけがない。

 

 僕は、すみれを置いていかなくてはいけないのだ。そしてそのことを、他の誰でもない自分の口から伝えなくてはいけない。

 

 そのことが、ひどく憂鬱だった。今朝、いつものかわいい笑顔で送り出してくれたあの子に、今日の晩御飯はお兄さんの好きなハンバーグですと教えてくれたあの子に、そんなことを伝えなくてはいけないのが、悲しかった。

 

 すみれは、この話を聞いたらどんな反応をするのだろう。怒るだろうか、悲しむだろうか、取り乱すだろうか。どの姿も、見たくなかった。すみれに辛い思いなんて、させたくなかった。そんな姿は、見たくなかった。

 

「お兄さん、おかえりなさいっ!」

 

 全く集中できないまま、気がついた頃には就業時間が終わっていて、家に帰っていた。同僚からなにやら声をかけられた気もするが、記憶に残ってはいない。電車に乗ったり歩いたりした記憶も朧気なのに、ちゃんと家に着いたのは帰巣本能だろうか。すみれがしっかりと迎えてくれているということは、連絡もしていたのだろう。習慣とは恐ろしいものだ。

 

 

 自分が家に帰ってきたということに、まだ認識が追いついていない頭でただいまを伝えて、誘導されるままに荷物を手渡す。いつもなら笑顔のすみれだが、今日は心配そうな表情を見せている。僕の様子がおかしいのは、この数秒で見抜かれてしまったらしい。最初から隠そうとしていない、というよりは、隠すという発想すら出てこなかったが、僕の表情はだいぶ素直らしい。

 

「お兄さん、何があったんですか?」

 

 僕のカバンをその場において、手も洗っていない僕の手を掴んで引っ張って、半ば無理やり座らされたのはいつものクッション。並べられた食器の前で、出来たてのハンバーグの匂いがする中で、僕はすみれに問いただされる。

 

 

「そんなことより、さ。先にごはん食べない?話はそれからでもいいんじゃないかな?」

 

 我ながら、情けないことだ。嫌な話を少しでもあとに回したくて、ここまで聞かれたのに先送りにしようとしている。すみれの保護者として、家族として、情けない限りだ。

 

 

「……お兄さんの悩みが、今日のご飯よりも軽いものならそれでもいいです。そんなことって言えるくらい軽いものなら、食べ終わってからゆっくり話しましょう」

 

 横に座って、じっと僕の目を見つめながら顔を見上げるすみれ。誤魔化そうとしていた僕には、痛い言葉だ。

 

 優しく叱るような、諭すような言葉。僕にまともな母親がいて、真剣に僕のことを考えてくれる機会があったのなら、きっとこんな気持になったのだろうか。簡単に誤魔化そうとしたことが申し訳なくて、でもすぐに打ち明けたくもなくて、その真摯な視線に負けて折れる。

 

 せめて晩御飯の後までは伸ばしたかったが、先に視線を逸らしてしまったのだから仕方がない。いや、そもそも玄関で気付かれた時点でダメだったのだろう。

 

 

「ごめんね、すみれ。僕が間違っていた」

 

 この謝罪は、誤魔化そうとしたことへのもの。心配をかけたくせにそのまま後回しにしようとしたこと。

 

 

「そして、ごめんね。来月の頭から2ヶ月、海外に出張に行かないといけなくなった」

 

 

 

 この謝罪は、どんな理由があるにせよ、ずっと離れないでそばにいるという約束を、破ることへのものだ。





 1700文字くらいの初期構想の内、前話までの部分って三十文字分だけだったんですよね()

 すみれちゃんの暴走で構想半分くらい壊れちゃったけど最初書きたかったのはむしろここから先だったり(╹◡╹)


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嫌な知らせ2

「……ぇ?」

 

 つい数秒前まで、僕が自身を恥じるくらいに強い意志を見せていたすみれの口から、そんな素っ頓狂な声が漏れる。

 

 

「うそ、ですよね。ちょっとわらえないだけの、じょうだん、ですよね?」

 

 信じられない、信じたくないといったように、すみれは首を左右に振る。僕の服を掴んで、イヤイヤと示すその姿に、先程までの強さはない。

 

 ごめんねともう一度言って、嘘でも冗談でもないことを伝える。

 

 

 出張に行くこと。以前の短いものとは違って、2ヶ月という長さであること。外国であるため、パスポートのないすみれを連れていくことは出来ないこと。これまでどこにも存在していないことになっているすみれでは、場合によっては無戸籍でも取れるパスポートを取れないこと。

 

 そこまで伝えた頃には、既にすみれの目には涙があった。声を上げて泣き叫ぶのではなく、ただただ零れるその涙。すぐに拭ってあげたいが、今の僕にはその資格すらない。

 

 

 この家の契約者が会社になっていること。そのため、会社の対応次第では今月いっぱいでこの家から立ち退かなければならないこと。仮にそこまでいかなかったとしても、おそらく電気ガス水道は止められること。

 

 ここまで伝えると、すみれは力無く崩れ落ちた。僕らの生活が崩れることに、その基点がなくなってしまうことに、耐えきれなかったのだろう。

 

 

 いや、僕はまだいいのだ。二ヶ月間外国に行くことになったとはいえ、その間の生活は保証されているし、どうなったにしろ職と生活拠点を失うことはない。問題は、すみれだ。

 

 生活拠点がなくなって、保護者がいなくなって、この先頼ることが出来そうなのは溝櫛だけ。何かあったら連絡するようにとお母さんからメモを渡されてはいるらしいが、これまでの経緯を考えれば、僕としては信用出来ない。

 

 

「とりあえず、僕が戻ってくるまでは溝櫛の家にいられるように相談してみる。もしそれで難しそうなら、その時は上司に全部事情を話して、何とか生活を確保できるようにしてみるよ」

 

 一度は本気で引き取ろうとしていた溝櫛のことだからきっと大丈夫だろうし、ダメだったとしても上司の青柳であれば預かってくれるだろう。あの人は去年子供が自立して、奥さんと2人だけの生活が寂しいと漏らしていた。人柄的にも情の厚さも、信頼出来る。

 

 

 そしてもし、どちらもダメであれば、僕が自分で部屋を借りて、その分の生活費を全て負担すればいいだけの話だ。あまり貯蓄が潤沢ではないとはいえ、それができる程度には溜まっている。

 

 最初からこの選択を選べないのは、今後のことを考えてのこととはいえすみれの家族としては情けない限りだが、大事な家族を一人で二ヶ月も放っておくのが心配だという側面もある。

 

 

 そのことをすみれに話して、信じてもらえないのは不本意だけど心配してくれるのは嬉しいですと納得をしてもらって、まずは溝櫛に頼ってみると決めたら、ひとまずはご飯だ。

 

 せっかくすみれが作ってくれたものが冷めてしまうのも良くないし、溝櫛から返信が来るまでは次の方向性も決められない。あまり味に集中できないまま、ちょっと居心地の悪い空気のままご飯の時間が進んで、終わる。

 

 いつもなら食休みを挟むはずなのに、すみれは洗い物のために席を立ってしまった。きっと考えたいことや、僕と顔を合わせたくない理由があるのだろう。辛く思いもするが、その気持ちもわかるため、大人しくシャワーを浴びてきて、あがって確認すると溝櫛からの返信が届いていた。

 

『要約すると、先輩が2ヶ月海外に行っている間、すみれちゃんがうちの子になるってことですよね?』

 

『安心してください、私が責任をもって、しっかりとお世話させてもらいますから♪』

 

『ただ、しっかりお世話しすぎちゃって、元のまま先輩のところに返せなかったらごめんなさいっ♪』

 

 おそらくおふざけ半分の文面だが、答えの内容としてはYESだ。以前一度断られているはずなのに、まだ僕の家族を狙っていることに関しては若干の危機感と、こいつじゃなくて上司に頼んだ方が良くないか?という思いが湧いてしまうが、僕のすみれが誑かされて戻ってこなくなるなんてことはないだろう。

 

 すみれに一度文面を見せることでOKをもらったと教えてから、溝櫛に返信する。内容は突然なのにありがとうと、一度振られたくせに見苦しいぞというもの。プクーッと脹れたお餅が怒っているスタンプが返ってくる。

 

 

 

 やり取りはそこで終わって、わざわざおしゃべりをする気分にもなれず、この日は就寝。

 

 翌日は上司に、僕がいない間の家の扱いなんかを確認する。わざわざ一度解約して契約し直す手間と敷金礼金、荷物の移動などのことを考えて、契約は残しておくとのこと。これですみれに忘れ物があった時には取りに戻ることも出来る。

 

 ついでにその流れで行きと帰りの飛行機チケットを渡され、軽い説明を受ける。帰国日時は、飛行機の問題以外で遅れることは無いから安心してくれと笑われた。なんでも、僕が定日までに帰って来れないようなトラブルがあったら、向こうの会社が最悪畳むことになるくらいには厳しい状況らしい。

 

 プレッシャーになるから聞きたくなかったなあと思いながら戻って溝櫛に捕まり、昨日メッセージでは話しきれなかったちゃんとした説明をする。

 

 昨日の意趣返しか、すみれちゃんのことは私に任せてくださいねっ、なんて満面の笑みで言われて、この日は他に何事もなく帰宅。

 

「二ヶ月もお兄さんと離れることになるので、その分しばらくはお兄さん成分を貯めておきます!」

 

 そんなことを言いながら布団に潜り込んでするすみれを抑えることが出来ずに同衾して、自分を紳士だと証明する。

 

 帰宅後のそんなやり取りと、会社での引き継ぎ作業を繰り返す数日。

 

 

 

「お兄さん、ぜったい、ぜったい帰ってきてくださいね。わたし、まってますから。ちゃんと電話もしますから、無視しちゃやですよ」

 

 玄関の前で、僕にお弁当を渡すことを渋って抱きついたすみれが、そんなことを言う。ちゃんと帰ってくるし、なんならいつも通り仕事が終わったら連絡することも約束して、すみれが満足して、離れてくれるのを待つ。

 

 

 

「約束、ですよ。もうお兄さんは一回破ったんだから、次破ったら許しませんからね」

 

 約束だと、指を絡める。こんなことがもうないように、僕が戻ってきたら、すみれの戸籍を取る準備をしよう。

 

 約束をして、最後にちゃんと帰れるおまじないをしてもらって、寂しそうにしながらも照れるすみれに見送られて僕は出発した。

 

 その後会社の人にも空港で見送られ、到着後にも問題なく過ごし、働くことが出来た。毎日すみれとメッセージや通話をして、お互いの近況報告もできていた。

 

 

 

 

 すみれと連絡がつかなくなる、半月後までは。



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嫌な知らせ(裏1)

 晩御飯の支度を済ませながら、お兄さんの帰りを待ちます。今日のメニューはお兄さんの好きなハンバーグで、いつも通り出来たてです。

 

 今日の連絡がいつもよりも少しだけ早かったのは、朝メニューを聞いて嬉しそうにしていたお兄さんが、楽しみすぎて早く帰ってこようとしてくれたからでしょうか。多分違うとは思いますが、もしそうだったらなぁと思うと、思わずにまにましてしまいます。

 

 

 先日のステーキソースと、似た味が作れないかと試行錯誤して作ってみた、和風のソース。お兄さんは喜んでくれるでしょうか?気付いてくれて、喜んでくれたら、どれだけ頑張って似せたのかを話してみてもいいかもしれません。きっと沢山褒めてくれるでしょうし、気に入ってくれるようなら定期的に作るようにしましょう。

 

 そんなことを考えながら、うきうきしながら待ちます。お兄さんが帰ってくるのを待って、おかえりなさいの準備をします。

 

「お兄さん、おかえりなさいっ!」

 

 ガチャリと鍵が開いて、一拍遅れて玄関が開き、お兄さんが帰ってきます。いつも通りの笑顔でお迎えして、直ぐにその様子がおかしいことに気がつきます。

 

 少し遅れたただいまに合わせて、荷物を受け取りますが、どこか心ここに在らずといったように見えます。顔色が悪いといったことはないので、体調不良ではないように思えますが、そうなると、精神的な不調でしょうか。どちらにしても、あまりいい状況には見えません。

 

 

 お兄さんはこういう時に、自分一人で考えて悪化しがちなタイプです。実際にどうなのかはわかりませんが、少なくとも私はそうなのだと思っています。

 

 預かったカバンをその場において、お兄さんの手を掴みます。外から帰ってきた、ひんやりとした手ですが、気にせず掴んで連れていきます。出来たてのハンバーグのことも、今は放置です。

 

「お兄さん、何があったんですか?」

 

 お兄さんからちゃんと話を聞くために、クッションに座らせます。イタズラを隠したい子供みたいに、バツが悪そうにしているのは、わたし的にはちょっとかわいいと思ってしまいますが、今はそんな風に思うタイミングじゃありません。

 

 そんなことより、なんで言って誤魔化そうとするお兄さんに、言葉を選びながら今すぐ話すように言います。お兄さんがこんなにおかしくなるようなことが、ご飯よりも優先されないはずがありません。いえ、お兄さんがこんなふうになってもなおわたしのご飯が大事だと言ってくれたらとても嬉しくはあるのですが、わたしにとってはお兄さんの方が大切です。

 

「ごめんね、すみれ。僕が間違っていた」

 

 お兄さんの目をしっかり見ながら、返事を、話始めるのを待ちます。最初の言葉は、謝罪でした。きっと、後回しにして誤魔化そうとしていたことに対する、謝罪です。

 

 これは、受け入れます。小さく頷いて、お兄さんの話の続きを促します。どんな話にせよ、真正面から受け止める覚悟をして、促します。

 

 

「そして、ごめんね。来月の頭から2ヶ月、海外に出張に行かないといけなくなった」

 

 

 けれど、この内容はあまりにも予想外です。頭が理解を拒んで、真っ白になります。そこから少しずつ言葉の意味を咀嚼して、理解出来たのは、2ヶ月お兄さんがいなくなるということ。

 

 思わず、声が漏れます。だって、2ヶ月です。ずっとずっと一緒にいてくれるって約束したのに、お兄さんはわたしから離れると言います。

 

「うそ、ですよね。ちょっとわらえないだけの、じょうだん、ですよね?」

 

 からかっているだけにしては、悪質な冗談です。こんなイタズラをされたら、三日はお兄さんに冷たくなると思います。それでもいいから、イタズラであってほしいと、冗談であってほしいと思います。

 

 

 けれど、お兄さんの表情を見るに、本当のことなのでしょう。そもそもお兄さんがそんなひどいことをするはずがありませんし、最初に聞いた時点で、本当のことなのだとはわかっていました。ただ、わたしがそれを受け入れたくなかっただけです。

 

 

「出張に行くことになったんだ。2ヶ月外国で、国内ならともかく海外だからパスポートがないと連れていけない。すみれは戸籍がない上に住民票も何もない、公的な身分がない人だから、パスポートを作ることも難しい」

 

 わかってはいました。お兄さんがわたしのことを普通の子と同じように、当たり前のように人として見てくれているだけで、そう扱ってくれているだけで、社会にとっては、わたしなんてどこにもいないんです。わたしには身分がないから、それが当たり前なんです。

 

 わかってはいたけど、改めてわたしは普通の子じゃないのだと、普通の子にはなれないのだと実感して、涙が出ます。もしわたしが普通の子であれば、お兄さんに連れていってもらうことができたのかもしれません。

 

「それと、この家なんだけど、家賃補助の関係で契約主は僕じゃなくて会社になっているんだ。だから会社の対応次第では今月中に引き払わないといけないし、そうならなくても電気ガス水道は止められると思う」

 

 連れていってもらえないのは、一緒にいられないのは、とても辛いことですがわたしが我慢すれば何とかなることです。我慢に我慢を重ねれば、できないことはないでしょう。わたしの心が持つかはわかりませんが、お兄さんが帰ってくるまで命は繋げられます。

 

 けれど、お家がないのはどうしようもありません。まだ外は寒いので、下手をすれば凍死してしまうでしょうし、そうでなくても体が持たないでしょう。そうなれば、わたしは命の保障すら、お兄さんが帰ってくるまで無事でいることすら困難です。

 

 心が折れて、体から力が抜けます。こわくて、嫌で、助けて欲しくて、お兄さんに縋ります。だって、わたしにはお兄さんしかいないのです。お兄さんに見捨てられたら、生きていることすらできないのです。

 

「とりあえず、僕が戻ってくるまでは溝櫛の家にいられるように相談してみる。もしそれで難しそうなら、その時は上司に全部事情を話して、何とか生活を確保できるようにしてみるよ」

 

 お兄さんは、わたしのことをちゃんと考えてくれていました。わたしが無事でいられる方法を考えてくれていて、ちゃんと帰ってくるから待っていてと言ってくれます。もし当てが外れても、住居だけは何とかするからと言ってくれます。

 

 自分が酷く取り乱していたことを自覚し、落ち着きます。取り乱すのも仕方が無い内容ではありましたが、最初からもっともっとお兄さんのことを信じて、話を最後まで聞けていればここまでひどくならなかったはずなので、反省です。

 

 話はひとまずこれで全部だというお兄さんに促されて、晩御飯の配膳をします。せっかく作ったソースの話も、できるような空気ではなくなってしまったため、静かでくらい晩御飯です。いつもより上手にできたはずなのに、いつもより美味しくありません。

 

 ちょっと感傷的になって、自分の空気が暗くなっている自覚があるので、食休みの時間はなしです。いつもならともかく、今のわたしが隣にいても、お兄さんは居心地が悪いでしょうし、嫌な気持ちになってしまうでしょう。そんな思いをさせてしまうのは嫌なので、そそくさと洗い物に励んで、お兄さんが上がってくる前にお布団を引いて横になります。

 

 

 上がってきたお兄さんに、瑠璃華さんからの返信を見せてもらって2ヶ月の滞在先が決まります。文面から見るに、瑠璃華さんはまだわたしを確保することを諦めていないのでしょう。そんな気がします。

 

 とはいえ、瑠璃華さんのことですから、変に無茶なことを言ったりしたりはしないでしょうし、わたしがお兄さんへの大好きの気持ちを忘れなければ、問題は無いでしょう。

 

 今日は他に何かをやる気が起きなかったので、早めに寝ます。明日起きる頃には引き摺らず、いつも通りのわたしでいなくてはいけません。

 

 せっかく作ったソースの感想を明日こそは聞けるようにしようと、意識をしっかり固めて目を閉じます。早めに起きて、朝からお話する時間を、その余裕を確保しましょう。



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嫌な知らせ(裏2)

 朝起きてお兄さんのお弁当の準備をして、朝ご飯の支度をします。今日の朝はお手軽に、昨日の残りのハンバーグ、と行きたいところですが、お弁当にハンバーグを使ってロコモコ丼風にしているので、そうすると三食ハンバーグになってしまいますので、お野菜たっぷりの野菜炒めにします。味付けが昨日のソースなので、気がついてくれると嬉しいです。

 

 だいたい完成したところでお兄さんを起こしに行くと、寝起きのお兄さんにおはようより先にありがとうと言ってもらえます。ちょっとしたライフハックですね。

 

 ここで朝ごはんの仕上げをして、顔を洗ってきたお兄さんが戻って来るタイミングと配膳の終了を合わせます。

 

 一緒にご飯を食べて、ソースを褒めてくれたことににまにまします。本当は昨日のうちに聞きたかった言葉でしたが、今日であっても問題はありません。お兄さんが出張に行く前にもう一度くらい作っておきましょう。

 

 マヨネーズと中濃ソースをケースに入れてお弁当箱を包めば、お弁当の準備も完了です。あとは少しだけ残っている時間でお話して、お兄さんを見送れば朝のやることは終わり、自由時間に入ります。

 

 とはいえ、昨日までであればこの時間に自分のやりたいことをやっていましたが、今日はそうもいきません。お兄さんがいない2ヶ月の間、瑠璃華さんの家で過ごさなくてはならない訳ですから、その間の準備も必要になりますし、長く家を空けることになるので、念入りにお掃除もしておく必要があります。

 

 瑠璃華さんと会えるのは嬉しいけど、お兄さんと一緒にいれないのはやっぱり辛いなぁと考えながらお掃除を進めて、お昼ご飯を食べ、晩御飯の準備をします。

 

 お兄さんが帰ってきて、一緒に食べて、食休み。2ヶ月の間も家の契約自体は残っていて、なにか忘れ物があったら取りに帰ってこれると教えてくれました。これで、忘れ物をしても大丈夫です。もちろんするつもりはありませんが、したら終わりというのとしても大丈夫というものであれば、気の楽さが全然違います。

 

 お兄さんがシャワーに入っている間に洗い物を済ませて、自分のお布団を敷かずにお兄さんのベッドに座って待ちます。

 

 上がってきて、どうしたのと聞いてくるお兄さんに、そういう気分なのだと、嫌なら避けますと言うと、別に避けなくてもいいと言われたので、横にくっつきます。お兄さんは少しスペースを空けましたが、そこにさらにグイッと寄っていくと諦めたのか逃げなくなりました。

 

 シャワーから上がったばかりのお兄さんに、こんなにくっつくのははしたない気もしますが、寒いことを理由にすればギリギリ許される気もします。許されない気もしますが、その時はその時です。

 

 

 くっつきながらおしゃべりして、お兄さんに一緒にゲームをしてもらって、幸せな時間です。この時間がいつまでも続かないことが悲しいですが、それがわかっているのなら2ヶ月分を耐え切るために、いつもよりたくさんお兄さんを感じておかなくてはいけません。その結果もしかするとより寂しくなるかもしれませんが、その時はその時のわたしが何とかしてくれるでしょう。

 

 

 そろそろ寝るよというお兄さんにはいと返事をして、その場に寝転びます。

 

「お兄さんにしかこんなことはしませんから、大切にするならお兄さんが大切にしてください」

 

 ちょっと真剣な顔をして、自分のことをもっと大事にしなさいと言いかけたお兄さんに、そう被せて黙らせます。今のわたしは悪い子で、わがままな子で、はしたない子です。だから自分がしたいことをするために、お兄さんに対してちょっと生意気なことだって言ってしまいます。

 

 2ヶ月離れている間に寂しくならないように、寂しくなっても大丈夫なように、沢山お兄さんを感じておくのだと伝えて、一緒にいてくれると言ったのに離れなくてはいけないお兄さんの弱い所を突きます。罪悪感を抱えているお兄さんは、こんな言い方をしたらきっと受け入れるしかないからです。

 

 すこし、言い回しがえっちな風に聞こえますが、たぶんそちらの方には取られないでしょう。万が一取られてしまっても、思うところではありませんがよりお兄さんをわたしにずぶずぶにすることに繋がりますし、問題はありません。

 

 落ちないようにとベッドの壁側を譲ってもらって、左腕を抱きしめながら寝ます。一人のお布団よりもずっと暖かくて、お兄さんにベッドを借りた時よりもずっとお兄さんを感じられて、落ち着きます。

 

 

 ゆっくりと意識が溶けていって、深くて幸せな眠りにつけました。

 

 

 

 

 

 そのせいでしょうか、お兄さんが出張に行く日まで何度かベッドにお邪魔しましたが、どの日もお兄さんに起こしてもらうまで起きれませんでした。普段は、目覚ましをかければ携帯のバイブ機能だけで目が覚めるんです。

 

 お兄さんにギリギリまで寝てもらって、しっかりと自分は起きれるようにそうしているのですが、目が覚めないとそれもできません。お兄さんいわく、お兄さんが起きてわたしを起こすまで、とても幸せそうに寝ているとのことですが、結局解決しませんでした。

 

 寝起きにお兄さんが微笑みながらよく眠れたか聞いてくれて、頭をポンポンしてくれるので、わたしの幸せ的にはむしろプラスですが、お兄さんの食事を考えると、解決策を考えておかなくてはなりません。お兄さんが気にしていなさそうなことは不幸中の幸いですが、2ヶ月後までにどうにかしておきましょう。

 

 幸いと言うべきか、出張の出発日である今日はいつもより家を出る時間が遅いため、いつも通りに起きたお兄さんと同じタイミングで起きれば準備は十分に間に合います。

 

 朝ごはんは、ちょっとちゃんと目にご飯と焼き魚。同時並行で、お弁当として持って行ってもらうサンドイッチも用意します。お兄さんの見送りをしてから、お昼すぎくらいにはわたしも家を出るので、一応二人分です。

 

 朝ごはんを済ませて、出張ということもあってしっかりスーツを着ているお兄さんの、ネクタイを締めさせてもらいます。ここで、燐さん、なんて言ったら、まるで新婚さんみたいですね。

 

 自分で考えて自分で恥ずかしくなって、真っ赤になりながらネクタイを結び終えると、お兄さんがありがとうと言ってくれます。

 

 出発する前に、わがままを言ってお兄さんにぎゅってしてもらいます。2ヶ月も会えないから、最後の補給です。ふわっと香るのは、いつものお兄さんの匂いに混ざった防虫剤の匂い。

 

 

「お兄さん、ぜったい、ぜったい帰ってきてくださいね。わたし、まってますから。ちゃんと電話もしますから、無視しちゃやですよ」

 

 嫌いな匂いではありませんが、どうせならいつもの匂いそのままが良かったですね。どうしても我慢できなくなったら、瑠璃華さんの家を抜け出してお兄さんのベッドで寝に来ましょうか。

 

「大丈夫、絶対ちゃんと帰ってくるし、毎日仕事が終わったら連絡もする。すみれからも、ちゃんと連絡してくれると嬉しいな」

 

 この前の時は連絡くれなかったし、と、少しだけいたずらっぽくお兄さんが言います。忙しいかなと思って控えていた前回とは違って、今回はお兄さんが引くギリギリを狙って連絡しましょう。

 

「約束、ですよ。もうお兄さんは一回破ったんだから、次破ったら許しませんからね」

 

 許さない、なんて言っても、意味はありません。許さなかったからといってわたしに何が出来るわけでもないですし、ただちょっと念を押すだけです。けれどお兄さんは、それをわかっていて、それなら絶対守らないとねと言ってくれます。お兄さんのそういうところが、好きです。

 

 約束だと言って、指切りをします。破った時に飲ませるのは、針千本ではなくわたしのわがままです。特に飲んでもらいたいわがままもありませんから、何か考えておきましょう。

 

「お、お兄さんっ!ちょっと待ってください!!」

 

 もうやり残したことはないといった様子で、気合を入れて出発しようとするお兄さんを引き止めます。こちらを向いてもらって、屈んでもらって、おでこにちゅってします。急いで離れて、ドキドキするのを隠します。

 

 これは、家族へのものです。ネットで調べたので、家族にしてもおかしくないことは、わたしも知っています。だから、これはただ、大切なお兄さんに、無事に帰ってきて欲しいという気持ちしかなくて、やましい気持ちなんてちょっとしかなくて、普通の、普通の!!ことなんです。

 

「お、おにいさんが!ぶじにかえってこれるように、おまじないですっ!」

 

 バレていないでしょうか。バレている気がします。バレているでしょう。わたしの気持ちなんて、きっと筒抜けでしょう。恥ずかしくて床下収納に潜りたくなっていると、不意にお兄さんに頭を押えられて、前髪を上げられます。そしておでこに感じた、ちょっと湿っぽい感触。

 

「僕が帰ってくるまで、すみれが無事に過ごせるようにっておまじないだよ。……それじゃあ、いってきます」

 

 理解して、心臓が爆発しそうになります。いたずらっぽく笑って家を出た燐さんに言った、行ってらっしゃいはちゃんと聞こえていたでしょうか。恥ずかしい気持ちを抑えるのにいっぱいで、頭が吹っ飛ぶのに耐えるのが精一杯でした。

 

 

 

 

 気が付くと、玄関は閉まっています。間違いないのは、燐さんがずるくて、わるい人だということでしょう。

 

 真っ赤になった顔を押えながら、わたしは確信しました。



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■しい■しい?お泊まり会1

 燐さんが出発したのを見送って、まずはキッチンのお片付けです。

 食べたあとの食器を移動させて、うるかしてから洗うのですが……いけませんね。呼び方が悪いのか、頭の中がとってもふわふわして、ピンク色になっています。

 

 燐さんが使っていた食器を見ると、イケナイ衝動が込み上げてきます。抑えなくてはいけないとわかってはいるのに、それを前にすると動きが鈍ってしまいます。頭の中で、それくらいならバレないのだからいいんじゃないかと言う何かがいて、それがわたしを人の道から外れた方に誘導します。

 

 

 ダメです。いくら燐さんのことを近くに感じたいからって、使ったあとの食器に手を出してしまったら、人としての大切なものを失ってしまいます。いえ、そんなものはどうでもいいのですが、バレたら燐さんに気持ち悪いと思われてしまうかもしれません。

 

 それは、ダメです。それだけは、ダメです。自分の奥底からふつふつと沸き上がる感情を、“燐さん”の呼び方と一緒に奥の奥に閉じ込めます。お兄さんに、変な姿を見せるわけにはいきません。お兄さんの前では、わたしはなるべく普通の子でなくてはならないのですから。そしてそれは、お兄さんの見ていないところから心がけなくてはならないのです。

 

 

 何とか洗い物を済ませて、お掃除に移ります。お布団を畳むついでにお兄さんの枕にころんってしようかとも思いましたが、わたしがご飯を用意している間に畳まれていたようで、きれいな状態でした。ひどい話です。

 

 しぶしぶ諦めて、30分くらいにはなってしまいますがお布団を干して、その間に掃除を終わらせます。予め用意していたこともあって、今日やらなくてはいけないことはほとんどないです。

 

 お昼ご飯を食べて、お布団を取り込みます。まだ干したりない気がしますから、今度換気しに来た時に干しなおしましょうか。定期的に空気を入れ替えないとお部屋はダメになると言いますし、そうしましょう。

 

 お泊まりセットと呼ぶには多すぎる荷物を用意して、戸締りの確認をします。窓の鍵はかけましたし、小窓も閉めています。電気も消して、冷蔵庫の中身も使い切りました。メニューは少し無茶をしましたが、突然出張になってしまったせいです。仕方ありません。

 

 家電をコンセントから抜いて、ガスの元栓もしっかり閉めます。ブレーカーも落としておいた方がいいのかなと思いましたが、流石にそこまでする必要はないでしょうか。

 

 外出前のやることリストに全部チェックがついていることを確認して、荷物を持ちます。前回の3日分とは違って、一時的にとはいえ生活拠点を移すわけですから、荷物の量も多いです。前回使ったものはお兄さんの出張で必要になったので、今回は瑠璃華さんのカバンをお借りしています。

 

 お家の鍵を閉めて、電車に乗ります。実は一人で電車に乗るのは初めてですが、手順は覚えていますし、お金もちゃんと持っていますから問題はないです。荷物が重たくて移動するのが大変なのは、問題と言えば問題かもしれませんが、まあ仕方の無いことでしょう。

 

 

 瑠璃華さんのマンションについて、部屋の番号を押してピンポンします。ちょっと気の抜ける音で、かわいいです。数秒してから、瑠璃華さんが応答してくれます。予めこれから向かうことを伝え、家にいるかの確認をしているため、瑠璃華さんが意地悪をしていなければいないということも入れ違いになることもありません。

 

 

「すみれちゃんいらっしゃいっ!随分と大荷物ですねぇ」

 

 どうぞどうぞ、洗面所はあっちですよーと言いながら、瑠璃華さんは迎えてくれて、荷物を運んでくれます。自分で運べますが、なんというか、悪くない気分です。くすぐったくてちょっと嬉しくて、むずむずします。普段わたしがカバンを受け取っている時、お兄さんもこんな気持ちなのでしょうか。そうだとしたら、帰ってきてからも続けなくてはいけませんね。

 

「首を長ーくしながら待ってたんですよ。すみれちゃん、ご飯は食べてきたんでしたっけ?」

 

 リビングに入るとすぐさま座らされて、目の前にお菓子が運ばれてきます。ご飯を食べたばかりなのでお腹は空いていないと言いましたが、どうぞどうぞと勧められてしまいます。

 

「この2ヶ月の間に、すみれちゃんを3キロは肥えさせることが、私の使命です。先輩の元に出……こほんっ、返すころには、ちょっとつまめるくらいにはお肉をつけてみせます」

 

 すみれちゃんは痩せすぎなんです!と熱弁する瑠璃華さん。ところで、どうやらわたしは出荷されるらしいです。自覚がないだけで、実は子豚さんだったのでしょうか。ぶぅー。

 

 せっかく貰ったのに手をつけないのも失礼になってしまうでしょうから、立派なぶたさんへの一歩を食みしめます。しっとり柔らかタイプのクッキーで、わたしの理想とは異なりますがこれもひとつの完成品でしょう。わたしの作った、包丁で切り分けただけのものとは違って、チェス盤のように色分けされていたり、ぐるぐるの渦巻き模様になっていたりしています。茶色の部分はココアの味です。

 

 どうやって作ったのかを聞いてみると、アイスボックスクッキーという作り方を教えてくれました。太巻きのように巻くことで、金太郎飴みたいに同じものを作れるそうです。模様が崩れないように一度冷凍して固めてから切るのが特徴だとか。金太郎飴が何なのかはわかりませんでしたが、太巻きのようなものと言うことであれば検討がつきます。そんな作り方があったなんて、目からウロコです。

 

 甘いバニラの香りと、ほの苦いココアの味を同時に楽しめるという、魅惑の一品にぶたさんゲージを貯められます。気が付くと、それなりに量があったはずのクッキーは半分まで減っていて、わたしのお腹はいっぱいになっていました。出荷まで一直線です。

 

 

 このままではまずいと思い、ソファから立ち上がります。わたしを肥えさせると宣言した瑠璃華さんは嬉しそうににこにこしながら見ていましたし、もっと食べていいんですよーなんて言ってくれますが、このままではいけません。

 

「瑠璃華さん、晩御飯、晩御飯の準備をさせてください!」

 

 このままだと、栄養バランスが壊滅します。一般的な女の子は気にするらしい体重に関しては、お兄さんに嫌われない限りどうでもいいので気にしませんが、健康は別です。こんなふうにおなかいっぱいになるまでお菓子を食べて、朝ごはんやお昼ご飯も以前のお泊まり会と同じであれば、体がボロボロになってしまいます。

 

 

 何とか、キッチンは確保しなくてはなりません。二ヶ月もお世話になるのだから当たり前程度の家事はやろうと決めていましたが、その中でも特にキッチンは手放せません。

 

 今日くらいは出前でいいじゃないですかと甘言を囁く瑠璃華さんに、たくさんお願いをして何とかご飯を作らせてもらいます。ついでに、食材を買いに行くのに必要だろうからと合鍵やお財布も預かります。

 

「すみれちゃんなら大丈夫だと思いますが、レシートはちゃんともらってきてくださいね。無駄遣いとか、お釣りをポッケに入れちゃったりはメッ!ですよ」

 

 もちろんそんなことをするつもりは無いので、問題ありません。スーパーの場所もわからないでしょうし、今日は一緒に行きましょうと言う瑠璃華さんと一緒におうちを出て、一番近いというスーパーに向かいます。わたしの家よりも駅に近いためか、とても近いところにスーパーがありました。24時間営業で、とっても便利なスーパーでしたが、いつものところよりは少し狭くて品数も少ないですね。

 

 とはいえ商品の価格自体はそれほど変わらないので、あまり差を感じることはなさそうです。痒いところに手が届かない可能性はありますが、その時は使うものを変えましょう。

 

 

 寒い外に出てからメニューを考えたせいで、温まれてお手軽な鍋にしようと決まって、それに合わせた食材を買います。たっぷりのお野菜と、お野菜と、お野菜です。お肉はクッキーの脂肪分が気になるので、さっぱりとした鶏胸肉。鶏肉を使っていることですし、ベースは鶏がらスープと塩でいいでしょう。

 

 こっそりと買い物かごの中にお菓子を忍ばせる瑠璃華さんに、メッ!ってしながらお買い物を続けます。お金の出処は瑠璃華さんなので、わたしが止めるのもおかしな話だとは思いますが、瑠璃華さんが言うにはこれも様式美らしいです。バレずにお菓子をカゴに入れたら勝ちだとか。

 

 私がメッ!ってしたかったのにと不満そうにしていた瑠璃華さんですが、実際に始めると楽しそうにしていましたし、わたしもちょっと楽しいです。不思議な感覚ですが、お姉ちゃんがいたらこんな感じだったのかなと、少しだけそう思いました。




カクヨムに追いつきました(╹◡╹)


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■しい■しい?お泊まり会2

追いついたので不定期更新です。なるだけ毎日あげれるようにはしてますが、時間と気力と体力次第です(╹◡╹)


 お鍋を食べて終わった一日目、一緒にパウンドケーキを作った二日目と過ごして、平和な時間が過ぎます。今日は瑠璃華さんがお仕事の日なので、会社に向かう瑠璃華さんを見送ったら、お掃除の時間です。

 

 とはいえ、わたしを迎えるために大掃除まで済ませたと言っていただけあり、隅から隅まで片付いていますし、わたしができることなんてお布団を干してポカポカのふかふかにしておくことくらいです。せっかく、鍵のかかった引き出し以外は好きなように見て、掃除していいよと言われてるのに張合いがありませんね。

 

 そういえば、鍵のかかった引き出しと言えばですが、お兄さんはわたしに対して隠し事とかもしていませんし、普通の男の人なら多少持っているらしいコレクションも見かけたことがありません。どこかわたしがわからないところに隠している可能性もないわけではありませんが、少なくとも家の中でものをしまえそうな場所は全部お片付けした自信があります。

 

 そうなるとお兄さんは現物を持たずにデータだけで楽しむタイプなのでしょうか。それだと調査が難しいので避けてほしいところですが、実際にものが上がってきていない以上、その可能性は高いです。

 

 瑠璃華さんが隠しているものが、そういうものだと決まったわけではありませんが、少なくともお兄さんはそういうものを隠していませんね。隠していてくれればもっと簡単に誘惑できるのですが、難儀なものです。

 

 一応容易くお兄さんが色に負けてわたしを追い出さない保証になっているのは、不幸中の幸いでしょうか。そう考えればいいことですが、わたしに発情してくれないということはそれなりに危険性を孕むことですので、わたしとしては避けて欲しいところであります。

 

 お兄さんがロリコンさんであれば、こんなに信用することは無かったのに、いざ信用してしまうと、お兄さんがロリコンさんだったら良かったのにと思ってしまうのは人の不具合でしょうか。

 

 

 早速やることがなくなってしまったので、家から持ってきた毛糸を編みながら時間を潰して、お昼を待ちます。トーストを1枚食べて、思い出したのはお風呂掃除です。

 

 毎日湯船に浸かる習慣がある瑠璃華さんのお家では、毎日浴槽を洗わなくてはいけません。毎日張り替えるのはお水がもったいない気もしますが、瑠璃華さんにとっては譲れないことらしいです。

 

 洗って、お湯張りのボタンを押したらやることは終わります。ボタン一つで適切な量までお湯を入れてくれるのは、とても便利ですね。家でお湯を入れる時は、自分でお湯を止めないと溢れてしまうので気が抜けませんが、これであればそんな心配もいりません。

 

 食材の買い物に行って、いつも通り作り始めようと思ったところで、ふと瑠璃華さんの要望を思い出します。家に帰ってきたら、ご飯よりも先にお風呂に入りたいというものです。

 

 

 いつもの癖で作り始めそうになってしまいましたが、危ないところでしたね。今作り始めてしまうと、帰ってくる頃に完成してしまいます。そうすると、食べる頃には冷めてしまうでしょう。

 

 またせずご飯を用意するのは諦めて、お風呂上がりにちょっと時間を置いてからご飯を食べてもらうことにしましょう。

 

 

 それに合わせて少し遅めに、下ごしらえを済ませます。スープは温め直すことにして、おひたしは常温でもいいでしょう。あとはメインを焼くだけにして準備はOKです。

 

 帰ってきた瑠璃華さんと一緒にお風呂に入って、毎度のように顔をむにむにされます。反応が面白いからと言って脇腹をくすぐるのは、ちょっとやめてほしいです。

 

 半分くらいのぼせた瑠璃華さんがソファで放熱している間に料理を済ませてしまい、復活した瑠璃華さんとご飯を食べます。

 

 お兄さんに晩御飯の写真と、お兄さんもちゃんとご飯を食べてくださいねのメッセージを送って、返信を楽しみに待ちます。時差を考えると、お兄さんの仕事が終わるのは明日の朝頃。今頃はお仕事始めの時間でしょうか。もしかすると朝ごはんを食べている途中かもしれません。

 

 そんなことを考えながら食べ終わり、お兄さんから届いた、寝坊してご飯食べ逃したからお腹空いたというメッセージを見ます。しばらくはわたしがお兄さんを起こすか、ご飯の匂いで自然と起きるかのどちらかでしたので、そのどちらもない環境になってしまうと起きるのも難しいところがあるのでしょう。

 

 明日からはちゃんと朝ごはんを食べてくださいねと送って、瑠璃華さんと話しながらようやくご飯に集中できて、一緒に横になります。すぐ横に感じる人肌の温もりは、とっても安心できて落ち着くものです。

 

 これになれてしまったら、うちに帰ってからもお兄さんに同衾を迫ることになりかねないと反省しながらも、すぐ近くにある温かくて柔らかな誘惑に負けて眠ってしまいます。……おうちからわたしのお布団を持ってきた方がいいかもしれませんね。

 

 朝になって起きて、そのことを瑠璃華さんに相談すると、すっごくしぶしぶといった様子で取りについてきてくれることになりました。わたし一人で運べればよかったのですが、お兄さん曰くそこそこ立派なお値段がするお布団ですから、抱えて電車に乗って運ぶのは難しいです。

 

 私と一緒に寝ればいいじゃないですか、誰かと一緒じゃないと寝れなくなったっていいじゃないですか、なんならずっとここにいてくれてもいいんですよと主張する瑠璃華さんを説得するのは大変でしたが、車を出してくれることになったので解決です。

 

 明け方頃に届いていたお兄さんからのメッセージに返信をして、瑠璃華さんを送り出します。コンロが二口あると、朝の準備が楽でいいですね。お弁当も作らなくていいと言われているため、間違いなく普段より楽なのですが、早速少し物足りません。

 

『もしもし、すみれ?』

 

 お兄さんにメッセージを送って、暇かを確認します。暇で、家にいるとの事なので、声が聞きたいと言って電話をかけると、すぐに出てくれました。

 

「お兄さん、おはようございます。突然わがまま言っちゃってごめんなさい」

 

 

 大した要件はありません。本当にただ、声が聞きたかっただけです。話したかっただけです。作業しながらで良ければいくらでも付き合うと言ってくれたお兄さんに甘えて、おしゃべりをします。わたしの方からは、何のご飯を食べたのかとか、週末にお布団を取りに行くこととか、そんなことばかりです。

 

 それほど面白い話でも、目新しい話でもないのですが、お兄さんはちゃんと聞いてくれます。そして、お兄さんの方の話もしてくれます。食べ物の値段が違ったり、味付けが慣れないものだったり、普段使わない言葉しか聞かないから慣れなかったり。

 

 仕事で、外部に話さない方がいいこと以外はなんでも教えてくれます。途中お兄さんのタイピングの音を聞くだけの時間を挟みながら一時間半ほど通話を続けて、これ以上は明日に響きかねないからと言われて終わります。

 

 ちょっと寂しいですが、大満足です。また明日も電話をしたいですが、毎日するようでは迷惑になってしまうでしょうから、程々に控えなくてはなりませんね。



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■しい■しい?お泊まり会3

 お兄さんが出張に行ってから二週間が過ぎました。だいたい4分の1が終わって、一区切りです。いえ、もっと区切りをつけるタイミングは他にあると思いますが、様々なタイミングで一区切りつけることで帰ってくる日が近付いていることを実感するライフハックです。当然のように10分の1が終わった時も、6分の1の時も、5分の1の時も頭の中では一区切りでした。

 

 それはさておき、しっかり瑠璃華さんの生活サポートもします。お兄さんと瑠璃華さんの発言からして、誰かにお金を貰うでもなく無償で家に置いてくれているのですから、わたしにできることはしなくてはなりません。お兄さんに関しては、家族だからと甘えることは出来ますが、瑠璃華さんにも同様のものを求めて甘えるのはだめでしょう。いえ、もちろんお兄さんにも甘え切るつもりはありませんが、わたしから見ての関係性の問題です。

 

 一通りの家事が済めば時間はあまりますから、勉強をしたり、瑠璃華さんの私物の本を読ませてもらったりして過ごします。二口のコンロ等、色々便利なこともあり、わたしの自由な時間はかなり増えました。

 

 しかしこうなると、もっと家事をしたいと言いますか、働きたいという気持ちが出てきてしまいます。しなきゃいけないことがないことがストレスと言いますか、他にやることがないかと考えて、ソワソワして落ち着かなくなります。

 

「あははっ、すみれちゃん、ワーカーホリックみたいなこと言ってますねぇ」

 

 それが悪いとは言いませんけど、結構難儀な気質ですよー、と感想を漏らしたのは、飲み会のため晩御飯はいらないと言って少し遅くに帰ってきた瑠璃華さんです。

 

 お酒自体は残っている、というより入っているようで、普段と比べるとだいぶ発言がポワポワしていますが、お酒を飲んだ時の感想などを聞くに、今の言葉は普段のそれよりも本音に近いのでしょう。

 

 そこまでワーカーホリック気質だという自覚はありませんでしたが、確かに何かをしていないと落ち着かないというのはその症状としてはよく聞きます。

 

 もしかしたらそうなのかもしれないと考えながら、瑠璃華さんに押されて入ったお風呂を上がって、半分くらい理性が働いていなさそうなのをサポートしながらスキンケアをします。

 

「ん〜、すみれちゃんありがと〜」

 

 毎日一緒にやっている、やってもらっていることもあって、どれから使うのかとか、どのくらい使うのかとかはわかっていますので、瑠璃華さんの手につけていきます。少し苦戦しながら瑠璃華さんにケアをしてもらって、髪を乾かします。

 

「すみれちゃんはいい子ですねー。ちっちゃくて、かわいくて、頑張り屋さんで、かわいくて」

 

 バチンと、ちょっと湿った音がしました。

 

 ほっぺたが突然痛くなって、頭の向きが変わります。頭の中が真っ白になって、わけがわからなくなります。

 

 ジンジンして、手を添えると熱くて、何も分からないまま顔の向きを直すと、振り抜かれた瑠璃華さんの手があって、口角が少し上がった瑠璃華さんの顔があります。

 

「あっ……」

 

 緩んでいた、瑠璃華さんの表情が普段のものに戻り、それを通り越して青くなります。自分自身の動きに理解が追いつかないかのように声を漏らして、未だに止まっているわたしを見ます。

 

 

「ち、ちがうんですよ!いえ、実際の行動を見たら何も違うことは無いんですけど、ちがうんです、こんなことをするつもりじゃなかったんです!ごめんなさい、ごめんなさいっ!信じてください!」

 

 アワアワとして、言い訳をするように言葉を紡ぐ瑠璃華さん。その姿を見て、わたしの頭はようやく理解をします。自分が、何故かはわからないけれども瑠璃華さんに叩かれたということを。瑠璃華さんがそれをしながら、一瞬とはいえ楽しそうにしていたことを。

 

 

「…………ぇ?」

 

 理解は追いつきましたが、納得は当然できません。これまでわたしにずっと優しくしてきてくれた瑠璃華さんが、こんなふうに酷いことをするだなんて、予想すらしていませんでした。

 

 直前までの酔いをどこかにやってしまったように顔を青くしながら言い訳をする瑠璃華さん。とりあえず冷やさないとと言って動いた瑠璃華さんに、近付けられたその手に怯えてしまい、体が小さく震えます。

 

 瑠璃華さんの言い訳を信じて、瑠璃華さんを信じたいのに、こわくて、信じることができません。瑠璃華さんの性格を考えれば、本当にただ冷やそうとしてくれているだけだとわかるのに、わたしの知っている瑠璃華さんは叩いたりしないので、何を考えているのかがわかりません。

 

「……あーあ、やっちゃったなぁ」

 

 わたしが一歩引いたのを見て、逃げたのを見て、きっと怯えの感情が表れているであろう表情を見て、瑠璃華さんの顔から、声から、心配の色が消えます。残ったものは、後悔と、僅かな喜び。

 

「ちゃんと我慢してたのに、我慢できてたのに。すみれちゃんがいけないんですよ?そんなに健気で、かわいい顔するから。我慢できなくなっちゃったじゃないですか」

 

 お酒、飲みすぎましたかね。と言いながら、瑠璃華さんはわたしのことを捕まえて、また叩きました。頬の痛みと、瑠璃華さんの豹変。どうにかしなければならないことはわかりますが、これまで感じたことのなかった痛みのせいで頭が真っ白になって、やめてということもできず無意識的に頭を守ります。

 

「ごめんなさい、すみれちゃん。本当はずっとこうしたかったんです。これ以上先輩を傷つけたら壊れちゃいそうだから我慢していたけど、初めて会った時からこうしたかったんです」

 

 突然抱きしめられて、かと思ったら次の瞬間には両手を抑えられます。

 

「怖くて不安だとは思いますけど、あまり抵抗しないでくださいね。むやみに痛い思いをさせるのは、私としても思うところではありませ……それはそれでむしろありですね。沢山抵抗してくれたら、いくらでも痛い思いをさせてあげますよ」

 

 痛いのは、嫌です。仮に抵抗しなかったとしてもろくなことにならないのはわかりますが、それでも意味もなく痛いのは嫌です。

 

 大人しく瑠璃華さんに誘導されて、部屋に戻ります。逃げるには、瑠璃華さんを突破しなくてはなりませんし、わたしに逃げ切れるとも思えません。

 

 とりあえずこれでいいやとガムテープで両腕を固められて、鍵付きの引き出しから出された手錠で両足と両手をそれぞれ繋げられます。わたしが抵抗しないからでしょうか、追加で暴行を受けることはなく、布団に転がされます。

 

 

「私ねぇ、人が苦しんでるのとか、悲しんでるのを見るのが好きなんです。ドキドキして、ワクワクして、そんなふうに思っちゃうことに罪悪感で胸がキューって締め付けられて、それがとっても気持ちいいんですよ」

 

「痛いことをして苦しませるのも、ずっとやってみたかったんですけど、捕まっちゃうから我慢してたんです。でもすみれちゃんなら何をしても捕まらないじゃないですか。羨ましいなって、うちの子になってくれればって思ってたんですよ」

 

 この先のことを考えて、無理だったから諦めていたのにとこぼす瑠璃華さん。

 

「すみれちゃんのせいで、私の人生設計はめちゃくちゃです。すみれちゃんが先輩に拾われてなければ、先輩があんなふうに前向きになることもなかったのに、私が我慢できなくなることもなかったのに、先輩の前から姿を消さなきゃいけなくなることもなかったのに」

 

 

 わたしのせいなのだと、責めるように言う瑠璃華さん。けれど、その表情には暗い喜びが見えます。何をしてくるのかわからない瑠璃華さんを視界から離さないように、せめて心の準備ができるように、警戒します。

 

 

「何も出来ないのって、何もわからないのって、とっても怖いですよね。大丈夫、私が全部教えてあげます。怖いのも、痛いのも、苦しいのも」

 

「たくさんの、素敵な表情を見せてください。たくさんの、かわいい声を聞かせてください。安心して、ダメになってください。最終的には、ちゃんと先輩の元に帰してあげますから」

 

 

 身動きの取れないわたしに馬乗りになって、ニコニコ笑いながら頭を撫でてくる瑠璃華さん。何を考えているのか、これまで何を考えていたのかが全くわからないその笑顔が、とっても怖いです。

 

 

 

 ただひとつ間違いないことは、わたしとお兄さんはこれまで、信用する相手を間違っていたということでしょう。

 

 

 




みぞくしるりか
 るりみぞかくし

 トゥルーエンド書き終わったらこの子も掘り下げねば(使命感)


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帰宅

 すみれからメッセージが届かなくなった当日は、溝櫛と出かけているとかの理由で、連絡を忘れられていたのかと思った。こちらからのメッセージに既読がつかないのは、携帯を見ることすら惜しいような何かを楽しんでいるのだろうと。

 

 それならこちらから変にメッセージを送って、邪魔をするのも悪いだろう。そう思ってそこまで気にせずに過ごして、翌日、溝櫛とも連絡が途絶えた。最後に送られてきたのは、ごめんなさいの一言だけ。

 

 連絡が来ることに、既読が着くことに期待してメッセージを送っても、電話をかけてみても、何をやってもダメだった。すみれの身に、溝櫛の身に何かあったのかもしれない。事故かもしれないし、事件に巻き込まれたりしたのかもしれない。

 

 どんな理由だったとしても、突然連絡が取れなくなって、一言の謝罪だけ送られてくるような状況は、まともなものでは無いだろう。溝櫛はメッセージが来ているので、比較的無事である可能性が高いが、二人とも心配だ。

 

 

 せめて安否だけは確認したい。本当ならすぐにでも溝櫛のマンションに向かいたいが、休日を使ったとしても直ぐに往復して帰ってくることは難しいだろうし、メッセージすら返ってこないのにマンションに入れてもらえるとも思えないので、現実的ではないだろう。

 

 

 どうしかしてどちらかの最低限の無事を確認できないかと考え、何とか思い至ったのは会社に溝櫛が出社しているか確認すること。普通に生活しているのであれば間違いなく出社しているだろうし、そうであれば繋げてもらうなり、伝言を頼むなりで接触を図れる。

 

 そのことに気がついて、仕事終わりに電話をかけてみたのが、すみれと連絡が取れなくなって3日後のこと。

 

「溝櫛君なら一昨日に突然退職願を出してきたよぅ。プライバシーもあるから理由は言えないけど、一身上の都合として手続きは済ませた。それと、君に対して伝言を預かっている」

 

 かけた先は、上司の青柳。伝えられた伝言は、これまでずっと騙していてごめんなさい、預かっていたものはちゃんと返します。

 

 規則だし急ぎだったみたいだから退職の手続きはしちゃったけど、何かあったのかと聞く青柳に、突然連絡が取れなくて心配になったから電話をかけただけで何もわからないのだと答える。もしまた会話する機会があれば、僕の方に連絡するようにと言付けを頼んで、きっと意味は無いのだろうと思いながら二人のことを心配する。

 

 本来なら一身上の都合として扱っていると話すことすら良くないはずなのに、これまでの僕と溝櫛の関係性からか、あるいは僕の必死さからか話してくれた青柳に感謝を伝える。

 

 ずっと騙していてごめんなさい。この伝言からわかることは、少なくとも溝櫛は無事であり、それが何かはわからないが僕に対して何かしらの隠し事をしていたこと、騙していてという言葉の不穏さやすみれと連絡が取れなくなったことなどを考えれば、信じたくはないがすみれの身が危ういかもしれない。

 

 そう思って気だけ焦って、でもできることが何も無いから、毎日電話とメッセージだけして、不安を募らせる。預かっていたものは返すと言っていたのなら、きっとそれはすみれのことだろう。骨だけは返してあげますとか言われてしまうともう諦めるしかないが、溝櫛はそんなことをする人間ではない。

 

 いや、そう思ってはいたが、そもそも僕の知る溝櫛は突然おかしな伝言だけ残して音信不通になるのような人間ではなかったのだから、あまり楽観視するべきでは無いかもしれない。

 

 ただすみれが無事であってくれることを祈って、早く戻れるように日々の仕事をこなす。集中しきれない状態でも問題ない程度の内容ばかりだったのは、不幸中の幸いだろうか。

 

 帰るまでの日数を指折り数えて、どうせなら帰国の時に出迎えするから飲みに行かないかという青柳の誘いを断る。僕はなるべく早く、すみれのことを探さなくてはならないのだ。一度家を見て、溝櫛の家にも行かなくていけない。

 

 それでもダメなら、両親経由で溝櫛の家庭に連絡をとって、すみれを帰すように伝えてもらえるか確かめる必要もある。何があってもあの二人に連絡することは無いと思っていたし、絶対に関わりたくないと思っていたが、すみれの為ならば仕方がない。僕の親に対する気持ちなんて今はどうでもいいのだ。

 

 

 そう決心して、まずは家に帰る。鍵は渡したままになっているので、玄関を開けたらそこにいたなんてことになっていればいい。もちろん溝櫛の家に行ったら何事もなく迎えてくれるのが一番いいのだが、そこまで期待できるほど僕の頭はお花畑ではない。

 

 

 

 案の定と言うべきか、2ヶ月ぶりに帰ってきた家には誰もいなかった。空気の動きがなかったせいか、うっすらとホコリは積もっているし、当然ながら部屋も冷えきっている。

 

 定期的にお掃除しますねとすみれが言っていたことを踏まえると、少なくとも連絡が取れなくなって以降は掃除をすることも出来なかったのだろう。極僅かに残っていた、すみれが無事でいることへの期待が完全になくなる。

 

 荷物を全部放り出して、動きやすい服に着替えるだけ着替えて、すぐに家を出る。目的地は溝櫛の家で、今から出れば向こうで1時間くらい時間がかかっても終電には間に合うから大丈夫だ。

 

 すみれと溝櫛の携帯にメッセージを何度も送り、全く既読がつかないまま電車に乗る。既読がつかないから自宅に向かうなんて言うと少しストーカーっぽく聞こえるが、やりたいことは生存確認だし、僕の家族の安全を確かめることなので気にしない。

 

 

 マンションの前について、部屋の電気が着いていないことを確認する。おそらく不在だろうが、一縷の望みをかけて呼び出しをして、やはり無反応。

 

 もう一度溝櫛の部屋の電気を確認して、着いていないこと、そもそもカーテンが外されているように見えることに気が付く。おそらく溝櫛も僕同様家賃補助を受けていただろうから、退職となると退去することも十分にありえるだろう。そう考えれば、ここに居ないことも納得出来る。

 

 

 そうなると今度は、どこに行ったらすみれを見つけられるかが本格的に問題だ。すみれの居そうな場所なんて、僕らの家と、溝櫛の家と、元々すみれが住んでいたお母さんの家くらいしか心当たりがない。その上、前二つにはいないのがわかっていて、残ったところは僕の正確な場所を知らない。昼間であれば図書館まで自転車を使って出かけていることも考えられるが、家に自転車があったし今の時間では開いていない。

 

 何度も電話を、メッセージを送りながらすみれを探す。公園、ベンチ。溝櫛の家の周りで、人目につかなくてすみれがすぐ見つけられそうな場所。唯一溝櫛に繋がりそうな、親を経由した連絡方法は今すぐには難しいから、それに頼るのは早くても明日の朝だ。もしすみれがひとりで外にいるのなら、まだかなり寒いこの時期、夜を明かせるかすら心配になる。

 

 

 もしかしたらすみれが電車を使えずに歩いて帰ってきて、その途中で休んでいるかもしれないと考えて溝櫛の家から走って自宅に帰り、見つけられないまま家に着く。

 

 そもそもすみれが僕の元に帰ってこようとしている保証すらないのに、帰ってこようとしていたとして、いま自由でいるのかも、帰っている途中であるのかもわからないのに、体が止まらなかった。心配でおかしくなりそうで、動かずにはいられなかった。

 

 出張の、なれない生活のせいで、心配するしかできない日々のせいで体力が落ちた体で、季節外れの汗をかきながら、空腹なのに嘔吐きながら。それでも足を動かして、たどり着いたのは初めてすみれと会った公園。

 

 

 あの日と同じように、薄汚れたベンチに座りながらすみれは空を眺めていた。



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帰宅(裏)

 瑠璃華さんのすることに逆らわずに、日々を過ごします。縛られるままに縛られ、お兄さんがわたしに買ってくれた携帯が目の前で壊されるのを見て、わたしは自分が普通に助かるのを諦めました。少なくとも、これまでのようにお兄さんの元で幸せに過ごすことはできないでしょう。

 

「酷いって、これからもっと酷いことをするのにこんなものでそんなに言われたら困っちゃいますよ」

 

 連絡を取られると面倒だからと言われて壊された携帯を見て、悲鳴をあげると瑠璃華さんはにっこり笑います。連絡を取れなくするだけなら電源を抜いたりすれば良かったはずなのに、わざわざ壊すのは酷いと文句を言ったら、ほっぺたをギュッとつねり上げられながら言われます。

 

「ああ、すみれちゃんにとってこの携帯はただの携帯じゃなくて、先輩がすみれちゃんのために買ってくれた大切な携帯でしたね。すみれちゃんの幸せのために、安全のために、便利のために買ってくれた携帯。あははっ、壊れちゃいましたねぇ」

 

 ただ壊すだけに留まらず、瑠璃華さんは念入りに壊します。わたしの見ている目の前でデータを削除し、バックアップを消します。

 

 お兄さんに買ってもらってからの、全部の思い出が消されました。壊されてしまいました。毎日撮っていた晩御飯の写真も、水族館で撮った写真も、こっそり撮り溜めていたお兄さんの寝顔も、全部、消えてしまいました。奪われてしまいました。

 

 そのうえで、わたしの目の前に一つのメモリーカードが見せられます。瑠璃華さんが言うには、わたしの携帯に入っていたメモリです。データを消されても、バックアップを消されても、先に抜かれていたのならこのメモリにも残っているはず。つまり、わたしの思い出が唯一残っている媒体です。

 

「ねぇ、すみれちゃん。今からすみれちゃんに、いーっぱい痛いことをします。もしすみれちゃんが、私が飽きるまで我慢できたら、これは壊さないで渡してあげます」

 

 

 スタンガンを、バチバチされます。体に電流が、痛みが叩き込まれます。

 

 我慢して、我慢しようとして、できませんでした。これまで痛みから遠ざけられてきたわたしには、瑠璃華さんから与えられるそれを我慢することができませんでした。

 

「すみれちゃん、それを壊せば、すぐに楽になれるんですよ。たかだか電子データに過ぎないそれを壊すだけで、すみれちゃんは痛い思いから開放されるんです」

 

 メモリとペンチを渡されて、すぐそこにある救いをだしに、幸せな思い出を壊すことを求められました。少しでも失いたくない、大好きなお兄さんとの思い出を守ろうと思っていたのに、気がつくとわたしは自分の意思でメモリを壊していました。

 

 

 

 

 

「すみれちゃん、すみれちゃんが先輩から貰ってきたものと、すみれちゃん自身、どちらの方が大切ですか?」

 

 そう聞かれて突如始まったのは、一日の間痛いのが続くか、残りの一日痛いのがない代わりにお兄さんからの贈り物を自分で壊すかを選ぶ日々です。

 

 お兄さんから貰ったものはどれもわたしにとって宝物なのに、かけがえのないもののはずなのに、わたしはほとんどを壊してしまいました。わたしの心が、意思が強ければ我慢できたはずなのに、お兄さんから貰ったほとんどを、わたしが自分で壊しました。

 

 

 

 

 

「すみれちゃぁん、ダメじゃないですかぁ、逃げようとしちゃぁ」

 

 瑠璃華さんが目を離している隙に、外に逃げようとしました。つけられていた手錠を外して、隠されていたわたしの服を回収して、お兄さんの家の鍵を見つけて、残っている大切なもの、お兄さんから貰ったものの残りを探している間に、帰ってこないはずの瑠璃華さんが帰ってきました。お兄さんから貰ったものを諦めていれば十分に逃げきれたはずなのに、一部でも壊してしまったから、残りは全部取り戻したくて、失敗してしまいました。

 

 

 逃げようとしたわたしに怒った瑠璃華さんが、これまでになかったほど直接的な、肉体的な暴力を振るいます。動きがまともにとれないわたしに対して、過剰すぎるほどの攻撃。もう逆らえなくするためだろうそれは、わたしの左手、その肘より先から、一切の感覚を奪いました。

 

「ねぇすみれちゃん、私もこんなことしたくなかったんですよ。ちゃんと、無事に帰してあげるつもりだったんですよ。逃げようとしなければ、こんなことにはならなかったんです」

 

 だから、これはすみれちゃんが悪いんですよと、躾なんですよと瑠璃華さんは言いました。わたしの頭を、やさしくやさしく撫でながら、わたしの心を折りました。

 

 

 

 

 

 それから先のことは、ほとんど覚えていません。ただひたすら従順に、瑠璃華さんに求められるままにふるまっていました。抵抗しなければ、ぜんぶ受け入れれば、お兄さんのもとに帰れるんです。それだけを支えにしながら、もうきっと帰れないのだと諦めながら、日々を過ごします。

 

 

 

 だから、それは突然でした。

 

 瑠璃華さんが私物をダンボールに仕舞い始めて、数日経つと手錠が外されました。

 

「すみれちゃん、これまで楽しませてくれてありがとうございました。ちょうど今日先輩が帰ってくるので、私はここらで蒸発させてもらいます」

 

 あんなに素敵だった部屋は飾り気がなくなって、ダンボールと大きい家具しかありません。この家から引っ越すのでしょう。そうなると、次はどこに連れていかれるのでしょうか。

 

「あれ、喜ばないんですか?……ああ。頭が悪くなっちゃったんですね。すみれちゃん、私はいなくなるから、おうちに帰っていいよと言っているんですよ」

 

 少し間を置いて、瑠璃華さんの言葉の意味を理解します。何も考えないようにしていた頭を動かして、ようやく解放されることを、お兄さんに会えることを理解します。

 

 つらい時間は、終わったのです。もう痛い思いも、苦しい思いもしなくていいんです。その安堵で、力が抜けて、立ち上がれなくなってしまいます。

 

「なーんて言われたらうれしいですよね。安心してください、嘘ですから。すみれちゃんはちゃんと連れてってあげま……あははっ、なんて顔してるんですか、ちょっとした冗談だったのに、そんなにかわいい顔されたら本当に連れていきたくなるじゃないですか」

 

 本当に帰してあげますから安心してくださいよと、わたしを弄ぶ瑠璃華さん。瑠璃華さんが笑うだけのことはあって、わたしもだいぶひどい顔をしていた自覚はあります。だけど、それ以上に瑠璃華さんの言葉が嘘でよかったという安心がありました。

 

 理解したなら、早く身の回りの支度を済ませて帰る準備をしてくださいという瑠璃華さんと、支度できるほどの荷物がないので、なくなってしまったので、準備できるものがないわたし。残っているものは瑠璃華さんが買ってくれたものが多少と、お兄さんが買ってくれた布団くらいです。

 

 

 お兄さんに貰ったものも、お兄さんに借りたものも、全部わたしが壊してしまいました。壊してしまったものは、瑠璃華さんが捨ててしまいました。だから、わたしの元にはもう何も残っていないのです。わたしが自分で選んで、自分で壊したから、何も残らなかったのです。

 

 

 

 日々の日課でところどころほつれてしまった服を着て、洗って使ってを繰り返している間に汚れが落ちきらなくなったガーゼをつけて、何も持たずに瑠璃華さんの家から出ます。体が、両腕が軽くて、開放された気分です。

 

 このままお兄さんの家に帰って待っているといいと言われて、電車に乗らないでもお兄さんの家に帰れる道を歩いて、途中体力が切れて休憩を挟んだりしながらお兄さんの家の前に着きます。

 

 

 

 着いた時間は、まだ太陽が高いところにある時間。お兄さんが空港に戻ってくるのが、夕方くらいだったはずなので、家に帰ってくるのは早かったとしても夜になるでしょう。まだまだ、お兄さんが帰ってくるには早い時間ですね。

 

 

 携帯がないのは、お兄さんに連絡が取れなくて、時間の確認もできないのは、やっぱり不便だなと思います。とっても、とっても不便です。お兄さんの家の前でずっと待っているのも、ご近所さんからの視線などが痛いでしょうから、初めてお兄さんに会った公園に移動して、ベンチに腰かけます。まだ寒さの残る季節なので、時間が経つにつれて身体は震え、耐えられなくなっていきます。

 

 

 寒いのに、耐えられなくなりました。防寒具を手に入れようにも、暖かいものを食べようにも、わたしの手元には先立つものが何もありません。

 

 お腹が、空きました。口の中に入れられるものなんて、蛇口から出てくる水くらいしかありません。一度知らないおじさんが心配してくれて、暖かいものをご馳走してくれると言ってくれましたが、怖くて、信じられなくてついていけませんでした。瑠璃華さんすら信じてはいけなかったのに、わたしがお兄さん以外を信じれるわけがありません。何もかもが怖いです。

 

 

 

 寒さの震えと、飢餓感に苛まれながら、空を見上げます。今が何時なのかは全くわからなくて、いつになったらお兄さんが帰ってきてくれるのかもわかりません。そもそもここで待っていて、お兄さんが見つけてくれるはずもありません。

 

 

 だって、お兄さんはまだ帰ってきているのかも怪しくて、帰ってきていたとしても真っ先に家に帰るはずで、わたしを心配してくれていたとしても瑠璃華さんの家まで向かうのが精々のはずです。わたしのことを探して、こんなところまで見てくれるはずがありません。お兄さんとの思い出を台無しにしたわたしには、そこまでして探してもらう資格はありません。

 

 

 なら、お兄さんが帰ってきたらすぐに見つけてくれるように、お兄さんの家の前までいかなくてはいけません。そこで待っていれば、お兄さんは帰ってきてくれるはずです。わたしのことを、また助けてくれるはずなんです。

 

 

 それなら、帰らないといけません。わたしたちの家に、お兄さんが帰ってくる場所に。

 

 

 この公園に来るまでに使い果たした体力も、だいぶ回復しています。お腹が減ったまま動くことも、久しぶりではありますが慣れたものです。それじゃあこのベンチから立ち上がろうと()()をつこうとして、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベンチにつこうとした腕は感覚がなくて、何も支えてくれませんでした。



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再会……

 そこに座っているのがすみれだと気がついて、最初に抱いたのは安堵だった。無事でいるのかすら、今どこにいるのかすらわからなかったその姿を捉えることができて、僕と縁のある場所にいてくれたことに、ちゃんと帰ってきてくれたことに対する安堵。

 

 

 

 次に抱いたのは、怒り。そこには確かにいるし、その姿はすみれのものだけど、全体的に汚れているように見えた。少なくとも、僕の元にいた日々と比べると見窄らしく見えたし、あんな伝言をしたのであれば、すみれが人並み程度に扱われなかったのは想像にかたくない。

 僕の一番大切な人に、そんな扱いをしたことに、僕はここにはいない溝櫛に怒りを覚えた。

 

 

 

 そして、心配。すみれは、無事ではなかった。少しづつ近付くに連れて顕になる、その姿。ただ着ているものが汚れているとか、ほつれているとかでは済まないほどの異質さ。

 

 

 

 姿を見た時、声をかけた時、既に僕は手遅れだったのだ。

 

「お兄さん……えっと、その、お久しぶりです。ごめんなさい、わたしには、お兄さんを迎える資格なんてありませんでした」

 

 だらんと吊り下げられた左腕と、その手の甲から滲んで見えて、薬指の先からぽたぽたと垂れている血の跡。僕の知っているすみれなら直ぐに応急処置をしているはずなのに、そのままになっているその腕の違和感。

 

 

 全体的に汚れきったガーゼと、それを当然のように身につけているすみれ。本来なら、ありえないはずだ。すみれならもっとちゃんと、手当をしているはずだ。

 

 

 それが出来ないような状態なんて、それが出来ないのが当然な状態なんて、まともなものでは無いことはすぐにわかった。すみれが普通の治療を諦めて、粗悪なそれを普通と受け入れる環境なんて、日常的に非道な行いがまかり通っていたからだろう。すみれの身の保全が十全に保たれていなかったからだろう。

 

 溝櫛を信じてしまった自分に、信じてしまったその過去に反吐が出るほどの気持ち悪さと後悔を感じて、その結果を思い知る。もっと別の道を選んでいれば、こうはなっていなかったのだ。

 

 

 

「すみれっ!!」

 

 

 すみれに声をかける。逡巡とか、躊躇なんて言うものは、既に考え終えた。すみれの姿を捉えて数秒もしないうちにどこかへ行ってしまった。

 

 

 だって、すみれは僕の前で、傷跡を残したまま座っているのだ。僕が失敗しなければ負うことのなかった傷を負って、目の前にいるのだ。大切で、大好きな家族のそんな姿を前にして、大人しく黙っていられるほど図太い神経は、僕は持っていなかった。

 

 

 近寄って、まずは手当をしないとと触れようとして、すみれの体が震えたことに気が付く。寒さによる細かなものではなく、僕が近付いたことによる大きな震え。

 

 

 おそらく意図的では無い反射的なそれ、頭では大丈夫だとわかっていても、つい出てしまうその反応には、思い当たる節が、身に覚えがあった。昔、不意に父親が近付いて来た時の僕のそれと同じだ。

 

「……ちがっ、ごめんなさいっ、違うんですっ!」

 

 何もされないと頭でわかっていても、もしかしたら突然何かをされるかもしれない。なにかしてくるかもしれない人が近くにいるストレス。身体的な暴力への恐怖。

 

 

「大丈夫、僕は何もしないから。痛いことも、苦しいこともしない。安心してほしい」

 

 

 一歩距離をとって、しゃがんで目線を合わせる。すみれが落ち着いたのを見計らってゆっくり近付き、少し隙間を空けてベンチに座る。

 

 

 すみれが生きていてよかった。体も、心も、無事ではないようだけど、生きていてくれれば助けられるし、守ることができる。今日は難しいかもしれないけど温かいお風呂に入って、ご飯を食べて、たくさん眠れば少しは元気も出るだろう。心の方はすぐに良くなりはしないだろうけれど、時間をかければ少しずつ元の明るさを取り戻せるはずだ。

 

 だから、一緒に帰ろうと、そう言って、

 

 

「ごめん、なさい」

 

 すみれは、小さく首を横に振った。

 

「わたしは、お兄さんと一緒に帰れません」

 

 返されたのは、そんな言葉だった。

 

 

「この腕、左腕、肘から先が全く動かないんです痛いのもわからなくて、すぐぶつけちゃうんです。ぶつけて、擦って、切っちゃうのに全く気付けないんです」

 

 今も血を流している左腕を、見せつけるようにプラプラ揺らしながら、すみれは続ける。

 

「こんな手じゃ、何もできません。ご飯も作れませんし、お片付けもできません。お兄さんのために、なにも出来ないんです。なんにも役に立てないのに、一緒にいていいわけがありません」

 

 

 

「そんなことは、どうだっていいんだよ」

 

 

 すみれの言葉を聞いて、どうしても受け入れることが出来なかった。それを受容することが出来なかった。

 

「料理ができるとか、家事ができるとか、そんなことはどうだっていいんだ。僕にとって大切なのは、すみれと一緒に歩めることで、すみれが隣で笑っていてくれる事なんだ。すみれが作ってくれるご飯は好きだけど、それがなかったとしても君と一緒にいたいんだ」

 

 だってそれは、そもそも僕が求めていなかったものだ。今はもう捨てた約束ではあったが、その頃から僕はすみれに役に立つことを求めていなかった。この守られるべきはずの子供に、あって当然の幸せが訪れて欲しかっただけなのだ。

 

「すみれが何かをしてくれるのは当然うれしいけど、それよりも何かしようと思ってくれることが嬉しいんだよ。もしそれでもなにかしたいなら、できるところから少しづつ頑張ればいいんだ」

 

 

 僕の食事を全部作りたいと、身の回りの事を全てしたいのだと言っていたすみれにとっては不満の残る生活にはなるだろうが、それでもこの子が心配だった。もう手元から離したくなかった。

 

 隣に座っていたベンチから立ち上がる。右手のザリっとした感触は、腐食している部分でも擦ってしまったのだろう。今はあまり気にしないようにして、すみれの前に立つ。

 

 

「だからすみれ、一緒に帰ろう。僕らの家に」

 

 また脅えてしまうかもしれないから、軽く腰を下ろして視線を合わせる。すみれがしっかりこっちを見返しているのを確認して、ちゃんと言葉が届いていることを確認して。この手を掴んでくれと、僕はすみれに汚れていない()()を差し出した。



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再会……(裏)

マルチエンディング方式を採用してます(╹◡╹)


 

 

 

 身体が、支えを失ってベンチに倒れます。本当なら立ち上がるために使われたはずの腕が、役目を果たせずにへにゃりと折れます。

 

 知っていたはずなのにびっくりして、自分の手が自分の意思に従わなかったことが受け入れられなくて、1度しっかりと見てみると、そこにあったのは擦り傷だらけで、汚れていて、ところどころに血の跡がある腕です。感覚もなくなってしまっていて、何をするにもまともに動かすことのできない、重りくらいにしか役に立たない腕です。

 

 

 それを見て、上手に立ち上がることすら出来なかった自分を顧みて、不意に、自分がお兄さんの近くにいていいのかという思いが込み上げてきます。

 

 

 わたしがお兄さんのところに帰りたいのは、お兄さんなら優しく受け入れてくれるとわかっているからです。わたしの居場所はお兄さんのところにしかなくて、なによりわたしがお兄さんのことを大好きだからです。

 

 でも、それはわたしがそうしたい理由です。お兄さんの優しさに甘えて、これまで以上にお世話になろうとしています。これまで以上に、お兄さんに迷惑をかけようとしています。

 

 腕がこんなふうになってしまったわたしが、お兄さんの隣にふさわしいとは思えません。わたしが帰ってしまったらお兄さんはきっと、この先ずっとわたしを背負ってくれるのにわたしではお兄さんを不幸にしかできません。

 

 

 

 そんなわたしなんて、きっといたって迷惑なだけでしょう。第一、わたしはお兄さんに貰ったものをたくさん、自分の意思で壊してしまったのです。今更どこに合わせる顔があるのでしょうか。

 

 ……この公園で、ずっと座っていましょう。きっとまだまだ寒いから、明日のお昼には全部終わっているでしょう。帰ったらお兄さんに助けられてしまうのですから、帰ることもできません。

 

 

 寒いなぁと考えながら、両腕を擦ろうとして、片腕が動かなくて、そもそも感覚がないことを思い出しました。とっても寂しくなって、でもこのまま我慢しなきゃいけなくて、嫌になっちゃって空を見上げます。

 

 

 あの日は、何も分からなかった星空。今は、全部が全部ではありませんがいくつかは知っているものがあります。そのうちの少しは自分で調べて覚えたもので、ほとんどはお兄さんに教えて貰って、忘れたくなかったものです。

 

 無くしたくないと、思ってしまいました。なくなりたくないと思ってしまいました。あの日は何も怖くなかったのに、ケセラセラなんて言って考えていなかったのに、一度考えてしまうともうダメです。あれも、これも、全部がこわくって仕方がありません。

 

 

 そんなことを考えていると、誰かの走っている音が聞こえました。ちょくちょく途切れて、だんだん近付いてきて、公演のすぐ手前で止まったその音の正体は、お兄さんの足音でした。お兄さんが何か、いえ、状況的に考えるとわたしを探したものだったのでしょう。

 

「すみれ!?……よかった、ここにいたんだね」

 

 わたしを捉えてすぐのお兄さんの発言。わたしのことを心配してくれたことが、大切に思ってくれていたことがよくわかる素敵な言葉でしたが、どうして探してしまったのかと思ってしまいました。

 

「お兄さん……えっと、その、お久しぶりです。ごめんなさい、わたしには、お兄さんを迎える資格なんてありませんでした」

 

 逆の立場ならわたしも探すのに、探さないでほしかったと思ってしまいました。お兄さんに会いたかったのに、それだけを心の支えにして頑張っていたのに、会いたくなかったとさえ思ってしまいました。

 

 

 わたしを見るお兄さんの表情が、安堵のそれから心配に変わります。わたしの姿を見て、左腕を見て大きな声を出して近付いてきて、わたしの方に手を伸ばします。

 

 

 それが、一瞬瑠璃華さんの手に重なって見えました。全く似ていないはずの手なのに、その心配の手に叩かれるんじゃないかと怖くなって、身体が勝手に怯えてしまいます。

 

 それは、お兄さんにも伝わってしまったようです。お兄さんが、悲しそうな、辛そうな表情になります。わたしの反応は、はたから見たら心配してくれたお兄さんを拒絶するような反応です。お兄さんのことを嫌がっている訳では無いのに、むしろ近くにいたいと、いて欲しいと思っているのに、怖がってしまいます。

 

 

 お兄さんのことが嫌いなのではないのだと、心配してくれたのに変な反応をしてしまってごめんなさいと、そう伝えたかったはずなのに、焦って言葉が上手に出てきませんでした。

 

 

「大丈夫、僕は何もしないから。痛いことも、苦しいこともしない。安心してほしい」

 

 わたしを怖がらせないためでしょうか、一度距離をとって目線を合わせて、言い聞かせるようにゆっくりと言ってくれます。勝手に震えようとしていた身体が、ちょっとだけ落ち着きました。まだ意識していないと震え出しそうなことに変わりはありませんが、ちゃんと会話できるくらいには落ち着いています。

 

 隣に座ってもいいかというお兄さんの問いに首肯で答えて、寒いだろうからとお兄さんの着ていた上着をかけられます。

 

 ふわっと香る、お兄さんの匂い。たくさん走って探してくれたのでしょうか、汗のにおいも混じっているそれは、いい匂いではないはずなのに好きなそれです。わたしのことを安心させて、落ち着かせてくれる匂いです。

 

 怖さがちょっと紛らわされて、肩と背中から伝わる温もりに、諦めたはずの心が傾きかけます。お兄さんのために身を引くべきだとわかっているのに、依存したくなります。

 

 時間がかかっても、わたしが前みたいに笑えるようになるまでずっと守ってくれると、普通に暮らせるようになるまで今まで以上に助けてくれると言うお兄さん。だから一緒に帰ろうと言われましたが、わたしはそれに応えてはいけません。

 

 

 左手はまともに動かなくって、お兄さんのために何も出来なくって、そして何より、お兄さんに貰ったものを自分の意思で壊したわたしです。お兄さんの優しさに縋っていいはずがありません。その先に、わたしが楽な未来はあっても、お兄さんが幸せになれる未来はないのです。

 

 だから、断ります。一緒にいてはダメなのだと伝えて、離れようとします。

 

 

「料理ができるとか、家事ができるとか、そんなことはどうだっていいんだ。僕にとって大切なのは、すみれと一緒に歩めることで、すみれが隣で笑っていてくれる事なんだ。すみれが作ってくれるご飯は好きだけど、それがなかったとしても君と一緒にいたいんだ」

 

 それなのに、お兄さんはこんなにもわたしに優しい言葉をかけてくれました。わたしが何もできなくても、居ていいのだと言ってくれました。

 

「すみれが何かをしてくれるのは当然うれしいけど、それよりも何かしようと思ってくれることが嬉しいんだよ。もしそれでもなにかしたいなら、できるところから少しづつ頑張ればいいんだ」

 

『最初から上手にできる方が珍しいの。ちょっとずつできることを増やしていこう?』

 

 初めて家事をして、失敗した時にお母さんが言ってくれた言葉を思い出しました。少しずつできることを増やして、少しずつお手伝いをしてくれるとうれしいと言われて、頑張りました。

 

 また、頑張れるでしょうか。頑張ったら、できるようになるでしょうか。

 

 

「だからすみれ、一緒に帰ろう。僕らの家に」

 

 わたしたちの家。わたしとお兄さんの家。差し出された手をとって、お兄さんと一緒に帰れば、あの場所に、あの日々に帰れます。

 

 それはとっても魅力的で、抗えなくて、浮かされたように手を伸ばそうとして、



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TRUEEND 掴まれなかった左手

 裏投稿したら書きたかった短編ちょっと書いて、過去編瑠璃華さん挟んで別ルートの予定です(╹◡╹)


 

「ごめん、なさい」

 

 伸ばした手は、とられなかった。

 

「やっぱり、わたしはお兄さんと一緒に帰れません。お兄さんにたくさん迷惑をかけることになってしまいますし、一緒にいてはいけないのだと思いました」

 

 迷惑なんて、かけてくれてよかった。かけてほしかった。家族になろうと言ったのだから、すみれが体調を崩して寝込むことだって考えていたし、怪我をして家事ができなくなることもあるかもしれないと思っていた。

 

 それがこんな形だったことは予想外だったが、そういう大変な時こそ支えたくて、助けたかったのだ。

 

「こんなふうに手を差し出してくれるお兄さんだから、わたしは救われたんです。お兄さんが助けてくれたから、わたしは普通の子みたいな幸せを知れたんです」

 

 でも、これ以上はダメなんですと頭を振るすみれ。ダメなんかじゃないと、一緒に過ごしたいのだと、すみれのことが心配なのだと伝える。

 

 

「お兄さんと一緒に帰ったら、きっと幸せな暮らしに戻れるんだと思います。お兄さんがいてくれて、優しくしてくれて、上手にできないなりに家事をがんばったら褒めてもらえて。でも、それじゃあお兄さんは普通の幸せを手に入れられないんです。ずっとわたしが、わたしみたいなのがくっついていたら、お兄さんの幸せは制限されちゃうんです」

 

 

 僕にとっては、少なくとも今、すみれと一緒に帰れないことの方が不幸だ。大切な家族をこんな寒空の下に放置して帰って、一人部屋の中でぬくぬくと過ごすことの方が度し難くて、許せないことだ。

 

 

「お兄さんがそう言ってくれることも、そう思ってくれることも、わかっています。でも、それだけじゃないんです。お兄さんが近くにいると、人が近くにいると、怖くて仕方がないんです。周りにいる人がみんな、わたしに酷いことをしようとしている気がして、こわいんです」

 

 お兄さんがそんなことしないのはわかっているのに、怖いんですと伝えるすみれ。頭ではわかっているのに、もしかしたら、もしかしたらと強迫観念のように不安が先行するのだと言う。

 

 

「わたしが一番信じているのはお兄さんなのに、そのお兄さんすら信じれないのが辛いんです。誰よりも優しくしてくれたお兄さんのことを信じられなくて、酷いことをしようとしてるんじゃないかと思ってしまうんです」

 

 内心どこかで、すみれが何か遠慮をしたり、拒否したりしても連れて帰って、これまで異常に大切に守っていくことがすみれのためになるのだと思っていた。それ以外に、それ以上にすみれが救われる未来はないと考えていたから、断られたとしてもめげることなく連れ戻そうとしていた。

 

「わたしは今、お兄さんがこわいです。ずっと我慢してたけど、ちょっと気を緩めたら体は震えてしまうでしょうし、お兄さんが不意に近付いてきたら悲鳴もあげてしまうかもしれません。大好きで、信じているはずなのに、こわいんです」

 

 けれど、すみれがもし本心からそれを望んでいないのなら、どうだろうか。僕がすみれのためと考えていたこの行動が、すみれからすると嫌なものでしかないのだとしたら、どうだろうか。

 

「お兄さんのことは誰よりも信じていますし、大好きです。でもそれ以上に、こわいんです。それに、もしお兄さんに裏切られたらと思うと、とっても苦しくて辛いんです」

 

 僕のしていることは、ただすみれを不必要に苦しませているだけなのかもしれない。僕が頑張ったところで、マイナスにしかならないのかもしれない。そう思い至ってしまうと、無闇にすみれを連れ帰ろうとすることが怖くなった。すみれに幸せになって欲しいのに、すみれを不幸にしてしまうことが恐ろしくなった。

 

「なのに、お兄さんを信じきれない自分が嫌なんです。今別れられたら、お兄さんのことを疑わないままで、信じきったままでいけるんじゃないかと期待してしまうんです」

 

 信じなくていいと、怖がったままでもいいから一緒にいてほしいと、そう言いたかった。わがままでもいいから一緒にいたくて、でもそれがすみれのためにならないのなら諦めるしかなかった。

 

 

「わたし、行政の厄介になろうと思います。今更ですけど、最初からそうするべきだったんです。こわいことも不安なこともいっぱいあるけど、お兄さんが幸せを教えてくれたから、頑張れます」

 

 

 何も考えていないのであれば、無理にでも連れて帰ろうと思っただろう。このまま死ぬつもりだとか言うのであれば、今度こそ本当に誘拐してでも、そのせいで職を失うことになったとしてでも、連れて帰っただろう。

 

「だからもし、わたしが普通の子になれたら、お兄さんに会いに行ってもいいですか?それで、お兄さんがよければそのときは、わたしと一緒に暮らしてくれませんか?」

 

 だけど、すみれが考えた上で、前向きに努力しようとしながら、僕の手を取らないのであれば、その選択を僕が不意にすることは、正しいことなのだろうか。

 

 正しいことでは、ないだろう。すみれのことを考えても、それ以外のことを考えても、正しいことではない。

 

 

 

 その時まで待っていると、答えた。ずっと待っているからちゃんと戻ってきて欲しいと、戻ってこなかったとしても、どこかで幸せになっていると教えてほしいと伝える。叶うなら、その役目を果たすのは僕でありたかったが、すみれが幸せになれるのなら、他の人に譲ろう。

 

 

「お兄さんのことも、お家も、電話番号も、ちゃんと覚えてます。絶対、絶対にまた会いに来ます。だからそれまでの間、ちょっとだけお別れです」

 

 ひとまず近所の交番に行って保護してもらうのだと話すすみれをそこまで送ろうとして、覚悟が揺らいでしまうからと断られる。それくらいで揺らぐなら最初から僕の元にいるべきだと言ってみたが、お兄さんをこわがって震えるところは見られたくないと言われて諦めた。

 

 寒いだろうからと掛けた上着はそのまま渡す。本当なら、僕の家にある程度残っているはずのすみれの服を渡すべきだし、そうした方がいいのだろうが拒否されてしまったから仕方がない。身につけていた防寒具と、財布の中に残っていた少しの紙幣をすみれに押付けて、この後の安全を祈る。

 

 

 

 

 すみれに言われて一人で帰って、久しぶりの自宅で空虚な時間を過ごした。本当なら、すみれが迎え入れてくれたはずだった。本当なら、すみれと温かい食卓を囲っているはずだった。そのはずなのに、僕の今の状況はそれとは大違いなものだ。

 

 

 一人だけの、寒くて寂しい部屋。出張中にも慣れていたはずのそれだが、自室ともなるとそのきつさはひとしおだ。せめてすみれがたどり着くところまでは見守っていたかったが、それも無理だったのだから今更どうしようもない。僕にできることは、ただすみれが無事に警察のところまで行けて、そのまま保護されることを祈ること。また、その行先としてまた会えるよう願うことだけだ。

 

 

 

 そんな日が来ると、無条件に、盲信的に信じて、三日が経った頃。連絡方法も何も無いからおそらく無事でいるだろうと推測していた僕の元に訪れてきた来客は、2人1組の国家公務員。より正確に言うと、治安を守る市民の味方、お巡りさん達だった。

 

 

 

 何かしらの事件の参考人兼被疑者として捜査に協力して欲しいと言われて、寝起きの頭ではそれを理解しきれないままでの協力。DNA鑑定の結果が出るまで待たされて、推定無罪とされた僕に教えられたのは、僕の名刺をサイズの合わない上着のポケットに入れた少女が、暴行を受けた状態で発見されたということ。

 

 

 心当たりはないかと尋ねてくる警察を前にして、全身から血の気が引く感覚を覚える。だって、そんな状況の子なんて、一人しかいない。また帰ってくると約束したすみれ以外に、そんな状態で出歩いている少女なんて、いるわけがない。

 

 

 質問に答えるよりも先に、あの子が無事なのかを尋ねた。心配で冷静ではいれなくて、怒鳴るようになってしまったその質問。相手からの質問に答えていないようで、ちゃんと答えになっている回答。

 

「心当たりはあるみたいですね。件の少女ですが、性的暴行を受けた後に低体温症を理由にこの世を去ったと結果が出ています。その体内に残された遺伝子情報から犯人を探そうとして、最も可能性が高かった灰岡さんの元に我々が来たわけです」

 

 当然だが、僕はすみれの体内にDNAを残すような行為はしていない。それでも僕が疑われたのは、最後まですみれが身につけていたものと、周囲の住民の証言だろうか。

 

 

 

 

 その言葉を一度聞き流して、もう一度咀嚼して理解して、僕はようやく、すみれのことを守りきることが出来なかったこと、すみれに至極当たり前な、普通で幸せな世界を与えられなかったことに思い至る。

 

 これから先に明るい未来が待っていた少女が、こんな理由でそれを失うことの、なんてやるせないことか。

 

 

 それを考えて、僕は一切を隠すことなく警察に伝えた。僕の知っている限りのすみれの素性、僕が形はどうあれ誘拐していたこと、そしてその結果の末路の話。全てを信じてもらえはしなかっただろうが、参考としては役立てると言われた。

 

 何かしらの罰を受けるつもりでの告白だったのに、被害届が出ていないことと、僕の話が本当ならその子は存在しないことになっているからと捕まることはなかった。すみれを守れなかったのに、何も罰してはくれなかった。

 

 

 

 人違いじゃないか確認するためと連れてこられた安置室で、対面したのは目を閉じたままのすみれ。こんな形で再会することなんて、考えたくもなかった。

 

 あの温かな笑顔は、やっと手に入れた幸せは、こぼれ落ちてしまった。僕はすみれを、幸せにすることが出来なかったのだ。



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TRUEEND 掴まれなかった左手(裏)

 手が、動きませんでした。

 

 頭から冷水をかけられた時のように、熱が引きます。お兄さんの言葉に浮かされて、冷静さを失っていた思考がそれを取り戻します。

 

 何も考えずに手を取ってしまえば、残っているのはお兄さんを不幸にする未来だけです。

 

 

 それに、少しずつできることを増やせばいいと言ってくれたお母さんは、結局わたしのことを捨てました。ずっとわたしに優しかったお兄さんも、大切にしてくれたお兄さんも、わたしが何も出来なくなってしまったら、同じようにするかもしれません。

 

 もしお兄さんがわたしのことを捨ててしまったら、見限ってしまったら。それを考えるのが、いちばん辛いです。だってわたしにとって、唯一信じられるものがお兄さんです。一番お母さんを信じていた時よりも、瑠璃華さんを信じていた時よりも、ずっとずっと強い信頼です。

 

 

 それがなくなってしまったら、その信頼に泥を塗られてしまったらと考えると、信じることが怖くなりました。だってわたしは、お兄さんへの信頼だけを頼りに今生きています。それを失うかもしれない恐怖は、ほかの全ての物に勝ります。

 

 お兄さんと一緒にいれないことよりも、お兄さんに嫌われることの方が怖いです。一人になることよりも、縋り所を失う方が怖いです。

 

 体が、震えます。お兄さんのためにも、わたしのためにも、この手を掴んではいけません。わたしはわたしからお兄さんを解放して、自由になってもらうべきなんです。

 

「こんなふうに手を差し出してくれるお兄さんだから、わたしは救われたんです。お兄さんが助けてくれたから、わたしは普通の子みたいな幸せを知れたんです」

 

 離れるのが、辛いです。近くにいるのは、こわいです。あれも嫌で、これも嫌で、でもどれもしたいです。ひどいくらい、自分勝手でわがままです。わたしを離したら、お兄さんがどれだけ心配するのかをわかっていて、それでも自分のわがままを通そうとしているのですから。

 

 

 これ以上信じることが怖くって、お兄さんから離れようと思いました。お兄さんから離れるのが耐えられなくって、消えてしまいたくなりました。でもお兄さんが、そんな終わり方を許してくれるはずがありません。全く知らないわたしを見過ごせなかったお兄さんが、家族であるわたしを諦められるわけがありません。

 

「わたし、行政の厄介になろうと思います。今更ですけど、最初からそうするべきだったんです。こわいことも不安なこともいっぱいあるけど、お兄さんが幸せを教えてくれたから、頑張れます」

 

 だから、離れてくれるために何を言ったらいいのか考えて、それっぽいことを言います。お母さんの元に帰ると伝えるのとも悩みましたが、それでお兄さんが諦めてくれるとも思えないので、これから頑張るためにと理由を作ります。

 

 優しいお兄さんは、わたしに対してとっても甘いお兄さんは、わたしのことをいつだって尊重してくれるお兄さんは、口先だけとはいえ前向きな理由を述べたわたしのことを、止めません。

 

 後ろ向きな理由なら、きっと止められていました。無理やり引き摺ってでも、わたしたちの家に連れていかれていました。でも、一度離れてしまえば、もうお兄さんにはわたしを止めることができません。わたしがどうなろうが、お兄さんにはどうしようもありません。

 

「だからもし、わたしが普通の子になれたら、お兄さんに会いに行ってもいいですか?それで、お兄さんがよければそのときは、わたしと一緒に暮らしてくれませんか?」

 

 

 そうして、自由になって、勝手に消えようと思っていたのに、気がついたら、お兄さんと約束をしていました。また会いたいと、一緒にいたいという気持ちが抑えられなくて、わたしが普通になれたらの約束をしてしまっていました。

 

「すみれのことを、ずっと待ってる。すみれが帰ってきてくれるまで、僕と暮らしてくれるようになるまで、いつまででも待ってる。……でも、すみれを縛りたいわけじゃないんだ。もし君がこの先どこかで、僕よりも一緒にいたいと思える人に出会えたなら、その時は教えてほしい。きっと他の誰よりも、すみれのことを祝福するから」

 

 

 いなくなるつもりだったのに、こんなにもストレートな気持ちを伝えられてしまったら、そうするわけにもいきません。やっぱり、お兄さんはずるい人です。こうなったら、本当に警察とかのお世話になって生きるしかないじゃないですか。そこで生きて、お兄さんよりも大切な人に出会えるわけがないじゃないですか。

 

「お兄さんのことも、お家も、電話番号も、ちゃんと覚えてます。絶対、絶対にまた会いに来ます。だからそれまでの間、ちょっとだけお別れです」

 

 希望が、生まれてしまいました。いつかまた、お兄さんの元に帰ってきて、お兄さんのためにたくさん家事をして、お兄さんに頼られたいです。わたしの唯一の生きる意味を、満たしたいです。

 

 

 そのためにはまず、普通の人になるために、戸籍が必要になります。普通に生きている人であれば、誰でも持っている戸籍。存在していないはずのわたしには無いそれは、わたしが普通の子になるために必要不可欠なものです。

 

 

 どれだけ手続きをしても手に入れられない可能性があることは、調べたので知っています。でも、身元不明が理由で得られた事例があることも、知っています。そして、お母さんが協力してくれれば、手に入れられる可能性が高くなることも、知っています。

 

 

 

 わたしの身を案じて、着いてきてくれると言ってくれたお兄さんに、半分くらい本当に思っていたことを伝えて、一人で帰ってもらいます。お母さんに、戸籍が欲しいとお願いしに行くのに、お兄さんには着いてきてほしくありません。頼めば着いてきてくれるでしょうが、わたしのことを大切にしてくれているお兄さんはきっと、わたしを捨てたお母さんのことをよく思っていないでしょう。

 

 

「すみれの防寒着を持って行けるに越したことはないんだろうけど、そこまで言うならしょうがないか。今渡してる上着は、寒いだろうから持って行っていいよ。また会えた時に返してくれてもいいし、邪魔になるようだったら処分してくれてもいい」

 

 

 それと、もしかしたら必要になるかもしれないからと、お兄さんはお財布から全部のお札を取り出してわたしに渡しました。いつでもわたしのことを考えて、心配してくれたお兄さんです。自分のことよりも、わたしのことを優先してくれる、大好きなお兄さんです。

 

 

 去りゆくお兄さんの背中を追いかけて、やっぱりずっと一緒にいて欲しいと言いたくなる気持ちを抑えて、お兄さんを見送ります。だって、今のわたしにはお兄さんの隣にいる資格がないのですから。

 

 

 ずっと一緒にいて欲しかったのは、隠さなくては行けないことです。知られてしまったらその通りにされてしまうから、誰にもバレては行けないことです。

 

 

 お兄さんが完全に見えなくなってから、お兄さんが知らないところで、これから先を考えます。まずは、お母さんへ決意表明をしましょう。これまではずっと、お母さんに迷惑をかけないことを気にかけていたわたしが、それを気にせず行動に移るのですから、お母さんにとって迷惑にせよ許せることにせよ、報告しておくに超したことはありません。

 

 

 

 そうなると、わたしは一度育った家に、お母さんの家に帰らなくては行けません。お母さんには嫌われていて、避けられているとずっと思っていましたが、この前会った時の言葉を信じるのであれば、そうでもないのかもしれません。

 

 どちらにせよ、どのような理由にせよ、お母さんの協力の有無で大きく変わるのですから、まずはそこの確認をするべきでしょう。そこまで考えて、お母さんの家に向かおうと歩き始めたところで、目の前に一人の人が立ち塞がります。

 

「お嬢ちゃん、さっきはお腹がすいてないなんて言ってたけど、こんなにずっと何も食べないでいるなんて、お腹がすいてないわけがないじゃないか」

 

 お兄さんと離れてから少しして、一度わたしのことを心配してくれて、声をかけてくれたおじさんが、心配してくれます。お母さんの元に行くから大丈夫だと、お母さんにすがればどうにかなると伝えても、執拗に話しかけてくるおじさんが、わたしの口を塞ぎます。

 

 

「そんなに、頼れるところがないならボクが好きにしていいじゃないか。いいから黙って、抵抗しないで、都合がいいようにしてればいいんだよ」

 

 

 

 本当なら、叫べていたはずでした。怖くって、トラウマで、何も声を出すことができませんでした。口の中に布をねじ込まれて、声を出すことができませんでした。

 

 

 知らないおじさんの、好きなように扱おうとするそれに逆らうことが出来ずに、わたし自身が遠くにやったお兄さんが助けてくれることもあらずに、体の動きを制限されて、周りにバレないように声を制限された状態で、おもちゃにされます。

 

 

 服が、剥かれます。わたしの身に纏っていたものが、ボロボロになって、その価値を失います。残ったものは、お兄さんの上着だけ。

 

 身体が、弄ばれます。本当ならお兄さん以外に触れられたくなかった身体が、瑠璃華さんのお遊びで散らされてしまった身体が、汚されます。

 

 

 そこで、諦めてしまいました。痛いのを、苦しいのを、受け入れてしまいました。そうすることでしか、わたしは自分を守れませんでした。

 

 

 

 

 全部終わって、体が冷たくなっていくのがわかります。自分の意思で動かせなくなっているのがわかります。

 

 きっとあの日、お兄さんに拾われていなかったら、もっと早くこうなっていたのでしょう。おもちゃにされて、使い終わったら捨てられて。何も残せずにいなくなってしまったのでしょう。

 

 

 そう考えて、すごく悲しくなって。不意に、あの頃のわたしならこんなに悲しくならなかったのかなと思ってしまいました。

 

 お兄さんが優しかったから、お兄さんが幸せにしてくれたから、こんな終わり方が辛いのかなと思ってしまいました。幸せを知らなかったら、こんなに辛くなかったのにと思ってしまいました。

 

 

 思考が鈍っていきます。こんなことを思ってしまうなんて、きっとわたしは恩知らずです。

 

 ただ、もし伝えられるなら。

 

 

 

 おにいさんに、ごめんなさいといわなきゃいけません。



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閑話 幼い“悪意”の発露

 短編書こうとしたら思ってたものが書けなかったので帰ってきました(╹◡╹)

 思考が子供っぽくないのは回想だからです(╹◡╹)


 

 私が自分のおかしさを自覚したのは、幼稚園に入った頃だった。外で遊ぶのが、虫を取ったりするのが好きだった私は、積み木やお絵描き、絵本やかけっこなんかには興味を示さず、園庭で捕まえた虫で遊んでいた。

 

 巣の近くにいる蟻をさらって、離れたところに移動させて迷子になっている様を観察してみたり、折り紙で作ったはこの中に閉じ込めた虫が、どれだけの間元気に暴れているかを調べてみたり。

 

 良くも悪くも、知的好奇心が旺盛な子供だったのだ。一つ問題があったのは、少々共感性の発達が遅れていたこと。

 

 トンボの羽を毟って、飛べなくなった子がどうやって移動するのかを調べていたら、周りの男の子たちが騒いで、先生を呼ばれた。

 

「トンボさんがかわいそうだから、もうこんなことはしちゃダメだよ」

 

 優しくたしなめてくれた先生に、ようやく悪いことなのだと気が付いた。たしかに、生き延びるための術を奪われたトンボは、このままだと無抵抗に命を奪われることになる。

 

 なるほどそれは良くないことだ。自然に動けないのはかわいそうだし、この先に不安が残るのもかわいそうだろう。そう思った私は、手元にいた毟られたトンボを、大きなクモの巣に投げた。

 

 せっかく生まれてきたのだから、私が楽に終わらせて無に帰すのも忍びない。どこかに命を繋ぐべきだと思って、一番手っ取り早くて確実な蜘蛛の餌という道を選んだ。

 

 かわいそうなものをなるべく自然に返してあげようという私の想いは、受け入れて貰えなかったらしく、先生からはおかしなものを見るような目で見られた。

 

 

 次に問題が起きたのは、交尾しているカマキリを捕まえて、その雄が逃げないように腹の先から雌に食べさせた時だった。

 

 カマキリの共食いは、自然なことだ。私はただその手伝いをしていただけなのに、こういう()()()()()はしてはいけないのだと怒られた。

 

 帰り道を失って、彷徨う蟻がかわいかった。ずっと暴れていた虫が動かなくなって、でも突っつくとまた元気になるのが好きだった。足が残っているのに、突っつかれても掴まれても、お腹をぷにぷにされても逃げようとしないトンボが愛おしかった。食べられて子供のための栄養になるカマキリは、とても素敵だと思った。

 

 

 私は、ただ純粋に、自分の好きな姿を見たかっただけだった。自分が見たいと思うものを見て、その姿に愛おしさを感じているだけだった。

 

 何も、悪いことがしたかったわけではない。酷いことをしたかったわけでもない。ただ、私がやりたいと思ったことが、他の人にとっては残酷だと言われることだった。

 

 

「あのね、瑠璃ちゃん。虫さんと遊ぶの、これからはしないでほしいの。瑠璃ちゃんが虫さんと遊ぶの好きなのは知ってるんだけど、お母さんたちのおねがい、聞いてくれるかな?」

 

 今でこそわかる事だが、おそらく私の行動に危機感を持ったらしい先生が両親に連絡を入れたのだろう。カマキリの件から数日経って、私は両親と一つ約束をすることになった。

 

 虫と遊んではいけない。虫で遊んではいけない。自分で言うのも恥ずかしいが、周りの子供たちよりは比較的聡明であっただろう私は、それが()()()()で、けれども見られなければ問題ないことを理解した。

 

「……うんっ!おかあさんがいうなら、もうむしさんとはあそばないねっ」

 

 ただし、お母さんに伝わるような状態では。

 

 私は虫で遊ぶのが好きだった。ほかの遊びよりもずっと、それを楽しむことができてしまった。だからこそ、()()()()だとわかっていても、すぐさまそれをやめるということは考えられなかった。ダメだと言われていることが、良くないことだとはわかっていたのに、それをやめようとは思えなかった。

 

 バレなければ、好きなようにしていいのだ。胸の奥のこの衝動を、晴らして、満たしてもいいのだ。

 

 

 お母さんに対して、罪悪感はあった。きっと私の初めての嘘に、何も感じないような教育は施されていなかった。

 

 でも、その罪悪感と、実際に隠れて虫で遊ぶ背徳感、遊ぶことによる楽しさは、きっと私の人格形成に大きな影響を与えたのだろう。

 

 罪悪感が苦しかった。背徳感が辛かった。なのにそんな心を踏みにじるように、()()()()()()()()()()()をするのは、たまらない快楽だった。

 

 

 先生に、ほかの園児に、見つからないようにしながらこっそり虫で遊び続けた。バレなければ怒られることがないのだから、やりたいようにやれるのだから、やらない理由は……あるにはあるが、それは私を抑えるには弱いものだった。

 

 表では、幼稚園の先生や周りにいる園児たちの前では、上手に普通の園児であれたはずだ。自分のズレているところがわかればこそ、そこの細かいずれを修正することは出来た。周りに合わせて、振る舞うことは出来ていた。

 

 自画自賛するのであれば、そこまでの修正を、半ば感覚的とはいえ周囲にバレることなくできていた私の才能だろうか。

 

 ギリギリの、卒園ギリギリのタイミングまでは、しっかりとそれを隠し通すことが出来て、けれども偶然見つけた小鳥で遊んだことで、それが見つかってしまったことで、私はここにはいれなくなった。ここにこのままいたら周囲からまともな扱いを受けられなくなるという、お父さんの予想によって、小学校に入る前にこれまでの人間関係が一新された。

 

 

 

 新しい家、新しい土地。そして両親との新しい関わり方。両親は、私のことをおかしな子供としてみるようになった。けれども距離をとるのではなく、愛してくれた。

 

 この引越し自体も、その現れだろう。私のことを心配してくれたからこそ、いじめの可能性を考えてくれたからこそ、少なくとも中学生になるまでは知り合いに会うことがないであろう隣町まで引っ越してくれたのだ。当時はそこまで考えられなかったけれども、今であればその意図は理解できる。

 

 

「よーく聞いてね、瑠璃ちゃん。自分がされたら嫌なことは、他のものにもしちゃいけないの。他の人が嫌がっていたら、それもしちゃいけないの」

 

 そうしないと、周りの人と仲良くできないのだと、お母さんは教えてくれた。普通の子供になれとは言わず、普通の子供に擬態する方法を教えてくれた。周囲から排斥されない方法を教えてくれた。周りに悟られない範囲なら、虫で遊ぶことも許容してくれた。

 

 両親のことは好きだったから、私の遊びを許してくれるなら、わざわざ反抗する必要もつもりもない。お母さんに教えてもらった普通を自分に塗りつけて、問題ないと判断されて学校に行くことになった。

 

 お母さんが心配したことにならないか、せっかく練習した普通をちゃんとできるのか心配になりながら、小学校まで手を引かれて歩く。少ししたら一人で行かないといけなくなるから、ちゃんと道を覚えてねと言われながら、着いた小学校。

 

 お母さんが大人の人と話して、私はお姉さんに引き渡された。そのまま手を引かれて、連れて行かれたのは教室。

 

 明らかに不安そうにしている大部分と、多少緊張しつつも何か考えていそうな者。そして、見るからに何も考えていない、頭の中のお花畑が見える子。

 

 

 はいおかまり。灰岡茉莉。出席番号順に並べられて、偶然隣の席になったこの子は、初対面でも分かるほどの愛嬌こそあれど、お花畑なタイプだった。本人自身に悪意や悪い考えが無い分、付き合う上で気をつける必要のない、()な友人であった。

 

 そこまでわかっていれば、私が人間関係の構築を躊躇う理由はない。純粋な存在を挟むことで、自分への警戒を下げられることは、お母さんからも教わっていた。可能であれば、そのような存在を見つけて仲良くなり、利用するべきだと教わっていた。

 

 

 

 つくづく、子供に教えるような内容では無いと思うが、お母さんに教えてもらったその動きはどれもこれもが正しかった。

 

 

 私はきっとほとんどの人に違和感を持たれることなく過ごしているだろう。全くもって普通とは言えないが、行動だけは良識の範囲内に収めておいたのだ。

 

 

 問題があるとすれば、この茉莉ちゃんと仲良くなりすぎた、悪い言い方をすれば無駄に懐かれすぎたことで、虫で遊ぶ時間が取れなかったことだろうか。とはいえ、それが楽しいからずっとやっていただけで、やらないと死んでしまうわけではない。

 

 毎日聞かされる“お兄ちゃん”の話。すごく優しいとか、頼りになるとか、子供の貧困な語彙力で繰り返される褒め言葉。こんな、人の善性しか見てこなかったような子がここまで褒めるなんて、どれだけのお人好しなのだろうと興味を持った。

 

 興味のあるものの話というのは、聞いていて楽しいものだ。ちゃんと聞いて、覚えていて、同じことを話していても嫌がらない。それだけで、茉莉ちゃんは私と好んで話すようになったのだ。

 

 

 数日もしないうちに仲のいい“お友達”になって、入学から一週間もする頃にはお家にお呼ばれされた。

 

 同年代の子供、というよりも虫や小鳥以外と遊ぶのは初めてのことで、何をすればいいのかお母さんに相談したりしてから向かった、茉莉ちゃんの家。

 

 

 茉莉ちゃんに手を引かれながら入ったその一軒家で、私は()()に出会った。




胸糞タグについてですが、最初からつけるつもりがあった訳ではなく、感想を見てつけることを決めました。誤解されるような返信だったので、ここで弁明します。


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閑話 幼い“悪意”の自覚

「いらっしゃい、あなたが瑠璃華ちゃんね」

 

 茉莉ちゃんの家におじゃまして、まず迎えてくれたのは茉莉ちゃんのお母さん。のんびりとしていて、優しそうなお母さんだ。

 

 リビングに案内されて、苦手な食べ物なんかがないかの確認をされて、茉莉ちゃんの部屋に案内される。茉莉ちゃんの大好きなお兄ちゃんとは一緒の部屋らしくて、そこにあったのは真新しい学習机とやけにものの少ない学習机。

 

 その二つの真新しい方に近付いて、茉莉ちゃんが取りだしたものは折り紙だった。

 

 

 一緒に折り紙をしたいのだと、少しだけ心配そうにしながら話す茉莉ちゃんの提案に、“お友達”との遊び方を知らなかった私はすぐさま乗った。これを否定した時に、代替案として挙げられるものがひとつもないのだから当然だ。

 

 

 茉莉ちゃんと一緒に折り紙をして、途中茉莉ちゃんのお母さんが持ってきてくれたお菓子とジュースを楽しみながら時間は過ぎた。私の知らないことを教えてくれて、どうやら人よりも器用らしい私の指先を褒めてくれる茉莉ちゃんに、私もすっかり絆された頃。

 

 

 玄関が開く音がして、声変わりを迎える前のまだ高い少年の声が聞こえた。

 

 ただいまという言葉と、一気に浮かれた様子になって、私を置いて走り出してしまった茉莉ちゃん。これまでの話の流れからして、きっと大好きな“お兄ちゃん”が帰ってきたのだろうが、この場に一人放置された私としては、どうすればいいのかわからないというのが本音だ。

 

 まだアウェーな状況で、唯一の知り合いが飛び出して行ってしまったら、そこは私にとって安心できる場所ではない。わりとすぐに茉莉ちゃんが帰ってきてくれたからよかったが、そうでなければ私は人の家に遊びに行くことにすらトラウマを覚えていたかもしれない。

 

 

「……ぁっ……」

 

 その感覚は、不思議なものだ。初めて会ったはずなのに、安心してしまった。初対面のはずなのに、相手のことをよく知っているかのような錯覚を、不思議な親近感を抱いた。

 

 

 ああ。それは確かに、自慢したくなるくらい優しいお兄ちゃんだろう。ああ。それは確かに、自慢したくなるくらいかっこいいお兄ちゃんだろう。

 

 お花畑のお兄ちゃんなんて、同等かそれ以上のお花畑だろうと思っていた。

 

 優しいとは言っても、甘いだけだろうと思っていた。甘やかしに甘やかして、わがままを聞いてくれるだけだろうと思っていた。

 

 

 違った。

 

「こんにちは、瑠璃華ちゃん。それじゃあ僕はリビングにいるから、何かあったら呼んでね」

 

 初めましてで距離を詰めようとするのではなく、私が慣れるまでそっとしてくれた。結局この日は、まともに話をすることなく、帰る時に一言二言挨拶しただけだった。

 

 

「これ、お菓子とジュースね。それじゃあ僕はリビングにいるから」

 

 何度か茉莉ちゃんの家に遊びに来て、その全てで茉莉ちゃんのお兄ちゃん、燐さんは、優しくて思いやりがあった。

 

「おにいさん、おにいさんもいっしょにあそびませんか?」

 

 興味を持ってしまったのだ。もっと知りたいと思ってしまったのだ。何度目かの茉莉ちゃんの家で、お菓子とジュースを持ってきてくれたお兄さんに対して、私はそんなお誘いをしていた。

 

 なぜかわからないけど心惹かれて、気がついたら目で追ってしまう、優しいお兄さん。そんなものに対して、無関心であれという方が難しいだろう。

 

 

 そんなお誘いに対する燐さんの返事は、僕でよければ是非、なんて大人なものだった。燐さんが良いと言っているのだから、私は思うように燐さんに構ってもらっていい。

 

 わからないのに、近くにいたいと思った。この人のことを知りたいと思った。

 

 

 きっと、これは恋なのだろう。私の貧困な語彙力では、この感情をそれ以外の言葉で形容することが出来なかった。

 

 近くにいれるだけで嬉しくて、茉莉ちゃんに接するように近い距離感で頭を撫でてもらえるとふわふわして、いつでも優しくしてもらえる茉莉ちゃんにちょっと嫉妬してしまったりしていた。

 

 

 きっとこれは、甘酸っぱい初恋だった。私もそう思っていたし、お母さんに相談してもそうだと言っていた。

 

 だから、私は燐さんのことが好きなのだと思っていた。恥ずかしがってちゃんと話しかけられなかっただけで、きっと初恋だった。なんなら、話で聞いていただけでも好意を持っていた。

 

 そう思っていたのは、最初の一年もしないうちだけだった。

 

 すっかり仲良しになって、茉莉ちゃんの家にはお泊まりできるくらいには関係を深めた。茉莉ちゃんが別の用事があるときでも、燐さんと遊ぶために遊びに行けるくらいには気心がしれた。

 

 

 虫で遊ぶよりも、燐さんのことを考えていることの方が楽しかった。まともに動けない捨て犬に小石を投げて、怯える様を見るよりもずっと、燐さんに優しくしてもらえることの方が幸せだった。

 

 

 

 

 この頃になると、私も自分の《癖》を把握していた。私は何かが苦しんでいるのが、目的を持ってもがいている姿を見るのが好きだった。

 

 そのはずだったのに、燐さんに執着してしまっているからこそ、私はその感情を恋なのだと思ったのだ。他の好きなものとは違うのに、どうしようもなく求めてしまうからこそ、私にとってそれは恋だった。

 

 

 ただ優しいのお兄さんだったからこそ、私は恋だと思えていたのだ。ゆくゆくは茉莉ちゃんにも協力してもらって、自分だけで独占してしまいたいと思えたのだ。

 

 

 それなのに、燐さんはただ優しいだけの人ではなかった。辛いことを、苦しいことを知っていて、それを自分の周囲に隠しているような、自己犠牲精神の強い人だった。

 

 

 

 あぁ、それは良くないものだ。素晴らしいものだけれども、私にとっては悪いものだ。

 

 だって、やっと普通の人でも好きになれるのだと、好きになれたのだと思っていたのに、その相手は本当は普通の人ではなかったのだ。私が気に病んでいた、可能ならば治すべき“癖”のど真ん中を貫いている人だった。

 

 

 要は、私の初恋の相手は、私の好みから外れていない人だったのだ。冷静に考えれば、好きになる人が好みの人だなんて当たり前のことだが、自分の基質を好ましく思っていないものにとっては、悪夢にほかならないだろう。

 

 

 

 

 なのに、お兄さんは最初から私の好みのまんまの人だったのだ。

 

 

 

 そのことに最初に気がついたのは、子供特有の無邪気さを利用して、お兄さんにアタックした時のこと。

 

 アタックと言っても何かしらの駆け引きではなく、物理的なものだ。くっつきたくって、ちょっと体当たりをした。

 

 きっと優しく受け止めてくれるだろうという確信があって、優しく受け止めてもらった上で危ないからダメだよと窘めてくれるだろうという予感があって、その上で受け入れてくれるだろうと期待したから。

 

 体当たりなんて呼ぶのも大袈裟な、抱きつきのようなもの。当然勢いなんてほとんどないし、痛みを感じるようなこともないだろう。

 

 

 そのはずだったのに、お兄さんは僅かに顔を顰めた。

 

 私のことを嫌っているわけではないはずだ。自分で言うのもなんだが、私は燐さんにとてもかわいがられている。茉莉ちゃんへのそれと比べるとお互いに遠慮が残るが、本当のお兄ちゃんみたいに仲良くしてくれていた。

 

 なら、顔を顰めた理由は体当たりにある。

 

 痛かったのだろうか?いや、痛くないようにした。嫌だったのだろうか?いや、それならちゃんとやめなさいと言ってくれるだろう。

 

 その理由がわからなかった。わからなかったから、気が付かないふりをした。喉につっかえるような違和感だけを覚えながら、その場ではそれを見落としたように振舞った。

 

 でも、その場をごまかせたとしても、家に帰ってちゃんと考える時間があれば、そのおかしさには当然検討がつく。普通にしていて、そんな軽い衝撃が苦しいわけが無い。それこそ、最初から痛かったか、偶然何かの間違いでそのタイミングだけそこが弱かったかの二択だ。

 

 

 その二択ならば、間違いなく前者だろう。あまり詳しい訳では無いけれど、燐さんの言動や服装を少々穿った視線で見れば、それは暴行を隠そうとしているものにしか見えない。

 

 

 燐さんは、肌を見せないのだ。茉莉ちゃんですら一緒にお風呂に入った記憶が無いと言っているくらいには、誰にも肌を見せない。夏でも長袖長ズボンだし、不意に体に触れようものなら嫌そうな、痛そうな顔する。

 

 そんなもの、体に痣などがあって、触れられると痛むと考えれば、至極当然のことなのだ。どのような事情があるにせよ、お兄さんは肉体的に虐待されていて、それを隠そうとしているというのは、間違いないだろう。

 

 

 お兄さんの優しさが好きだった。燐さんの努力が好きだった。

 

 優しく頭を撫でてくれるお兄さんが好きだった。苦しんでいるはずなのに、それをひた隠しにして優しくしてくれる燐さんが好きだった。

 

 お兄さんの笑顔に、ドキドキした。苦痛に歪んだ燐さんの表情に、興奮した。

 

 

 あぁ。私は、苦しいはずなのにそれを我慢して、そんな状態でも周りに優しくできるお兄さんが好きだったのだ。そして、そんな燐さんが苦しんで、壊れるところを誰よりも近くで見ていたいのだ。

 

 

 その自覚を持った時に、私の初恋は終わったのだ。



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閑話 幼い“悪意”の決意

 お兄さんへの“初恋”が終わって、燐さんへの執着が生まれた。どうすれば、燐さんは苦しんでくれるだろうか。どうすれば、燐さんを壊せるだろうか。そんなことばかり考えて、でも思い浮かぶどれもが大したことの無いものに思えてしまう。

 

 私が燐さんを壊せるのは、きっと一度だけだ。だからその時には完全に壊し尽くして、後悔が残らないようにしなくてはならない。

 

 考えに考える。共感性に乏しい私では、どのようにすれば理想的に壊せるのかがわからなかったから、たくさんの物語を見て、悲劇を味わって勉強した。半分くらい娯楽目的になっていたが、全ては燐さんのために。普通の感性を持っていれば、こんなに悩むこともなかったのにと、少しだけ羨ましく思いもした。

 

 

 学校で勉強している時も、茉莉ちゃんと遊んでいる時も、お兄さんとおしゃべりしている時も、ふとした時々にその事を考えながら数年が経って、ついに満足のいくプランが完成したのが、6年生の途中頃。

 

 人は大切なものを失うと弱くなることがわかった。無力感を抱くと弱くなることがわかった。すれ違うと、取りこぼすと、裏切られると弱くなることがわかった。

 

 なら、それを全部体験してもらおう。弱りに弱って、カバーガラスよりも簡単に割れるようになってもらおう。そもそも一度しかチャンスがない上に、相手は身体的虐待を受けながら周囲には悟らせていない燐さんだ。

 

 生半可なものでは壊れてくれないだろうし、私の考えられる中で最も悪辣な、人の心を捨てたものを選ぶしかないだろう。そもそも私に、まともな人としての心が備わっているかが疑問であるが。

 

 

 そのプラン自体は、それほど特異なものでもない。大切にしているものを奪って、それをなるべく自分のせいだと思うように仕込んで、一度立ち直らせて油断したところで全部ぐっちゃぐちゃにしてしまうだけだ。

 

 

 

 お兄さんが自分のせいだと思い込むような状況で茉莉ちゃんを奪って、そのせいでどん底まで落ち込んだお兄さんのことを何とかして元の状態に近いところまで戻す。そこからどうにかして私が一度幸せにして、十分に心に根を張った状態で、唯一残った拠り所が諸悪の根源だと知らしめる。

 

 きっとその時の燐さんは、これ以上ないほど私を憎むだろう。その時の表情を見れるだけでも満足だし、衝動的に私を害して、少ししてそのことに苦しむ姿も見たいと思う。なんなら、心底憎みつつも、それまでの関係のせいで嫌いきれず、心がぐちゃぐちゃになってくれてもいい。

 

 

 私との関係や、精神状態によってだいぶ形は変わるだろうが、いずれにせよ素晴らしい終わりだ。燐さんのその瞬間の表情を見れるのであれば、私はその次の瞬間に死んだとしても後悔しないだろう。

 

 それだけの思いが、自らの“癖”による、燐さんの苦しむ姿を見たいという欲求があった。

 

 

 きっと、“癖”に逆らって、初恋をそのまま貫き通すことが出来れば、私は人並みの幸せを手に入れることが出来たのだ。お兄さんに対する好意は、間違いなくそこにあったのだから。その由来が何であったにせよ、お兄さんに1番に大切にしてもらって、“癖”による快楽に惑わされずに、いじらしく甘酸っぱい青春を過ごすことが出来て、そのままゴールイン出来れば女の子としての幸せを掴めたのだろう。

 

 この当時こそ妹の友達という認識しかなかったであろうお兄さんも、私と他の茉莉ちゃんの友達とでは扱いに差があった。私の方がより近くて、それこそ私が押しに押せば、他の人ではなく私を伴侶候補にしてくれるだろうという確信はあった。

 

 

“普通”の幸せは、すぐ近くにあったのだ。すぐ手の届くところにあって、けれども手を伸ばすことは無かった。私が求めていたのが、幸せではなく“癖”だったから。

 

 

 

 

 だから私は、大切な親友を犠牲にする未来を選んだのだ。茉莉ちゃんを追い詰めて、自殺させよう。茉莉ちゃん以外にまともな拠り所がないお兄さんは、きっと生きる意味を失うだろう。そこを私が支えて、可能であればちゃっかりすぐそばに居座ろう。一番簡単なのは、慰めつつ恋人になることだろうか。そうして、お兄さんが私だけしか見なくなったところで一切合切全てを暴露する。

 

 その計画を立てても、特に心は痛まなかった。むしろ少し興奮すらしていた。

 

 茉莉ちゃんが嫌いなわけではない。一番の友達だし、大好きだ。そうでなければこんなふうに何年も一緒にいたりしない。なのに、茉莉ちゃんが自殺するまで追い詰めようと、当然のように考えられた。お兄さんに距離を取られないように、これまで通りちゃんと友達でありながら、いじめてしまおうと思えた。

 

 やはり私には、人の心が無いようだ。その事が少し悲しいのに、茉莉ちゃんを自殺させようとしても悲しく思わないことが、少し可笑しい。

 

 

 

「瑠璃ちゃん、随分と楽しそうだね。何かいいことがあったの?」

 

 茉莉ちゃんと遊んだのから帰って、晩御飯を食べているとお母さんにそう聞かれた。秘密なのだと伝えるとちょっと嬉しそうに、残念だと言っていたが、私はお母さんが見てすぐわかるくらいには浮かれていたらしい。

 

「茉莉ちゃんと会ってから、ううん。例のお兄さんと会ってから、瑠璃ちゃん、すごく明るくなったからお母さん安心したんだよ」

 

 知っている。私が寝ている横で、お父さんとお母さんが私の“癖”について夫婦会議していたことも、お兄さんと会ってから私がむやみに()()ことがなくなったのを、とても喜んでいたことも聞いていた。

 

 二人に心配はかけたくなかったから、燐さんのことは伝えていないし、伝えるつもりもなかった。私が遊ばなくなったのは、もっと素敵なものを見つけたからだなんて、言えるわけがなかった。

 

 きっとまだ私の初恋が続いていると思っているのだろうお母さんに、お兄さんのことを話させられるのから逃げて、自分の部屋に帰る。

 

 

 頭の中でもう一度計画をおさらいして、ベッドに横になる。整理として考えればノートにでも書いておくべきなのだろうが、もし誰かに見られたらと考えるとそれもできない。

 

 両親にバレないように、お兄さんにも茉莉ちゃんにも怪しまれないように、大好きな人達を使って、最低なことをしよう。

 

 これでいいのかと、後悔しないのかと、最後に自問する。

 

 

 しないだろう。もしするような心が私に備わっていれば、そんなことはしたいとも思わなかったはずだ。



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閑話 ある“悪意”の暗躍1

 茉莉ちゃんの家に行って、一緒に登校する。家がそれほど離れていないことと、茉莉ちゃんと話すのが好きなこと、1年半前までは毎朝お兄さんと一緒にいられたこともあって、習慣になったことだ。

 

「じゃあ僕はこっちだから。二人とも、勉強頑張ってね」

 

 向かう場所が違うから、お兄さんとは途中で別れる。毎日とは行かないが、週に1、2回くらいの頻度でこうして一緒にいられることもまた、迎えに行き続けている理由である。今日は当たりだった。

 

 当たりじゃなかったとしてもガッカリするとかは無いのだけれども、当たりであれば特段嬉しくなってしまう。だって、私はお兄さんのことが好きなのだから。好きな人のすぐそばにいられて、テンションが上がらない乙女はいないだろう。

 

 

 朝からいいことがあったので、少しテンションが高くなりながら学校についた。

 

 茉莉ちゃんは、小学校のクラスの中で、マスコットみたいな立ち位置だ。純粋で、優しくて、かわいい存在。積極的に茉莉ちゃんを嫌うような人なんていないような、みんなに好かれるような子だ。

 

 その中で、そんな風潮の中で、私の立ち位置は茉莉ちゃんの親友で、でもけっして積極的に周囲と仲良くしない、どこか距離を取られるようなものだった。実際に、私がちゃんと友達と呼べるような相手は茉莉ちゃんしかいなかったし、それ以外の友人たちについてはとっても浅いところでのやり取りだけだった。

 いや、私の性質を考えれば、その浅いやり取りこそが普通で、茉莉ちゃんのことを特別視している現状の方がおかしかったのだろう。

 

 ともあれ、茉莉ちゃんと、浅い付き合いをしていた4人、ついでに私で、ひとつのグループを作ることには成功した。

 

 浅い付き合いの内の4人、その内で積極性がある方の3人が様々な理由で私に弱みを握られていて、逆らうことが出来ない者共ということを除けば、どこにでもあるような仲良しグループだ。

 

 

 

 明らかな弱みと、それを握っている私。その一部が、周囲に知られてしまえばこの先まともに過ごせなくなるようなものであることを鑑みれば、仲良しグループの半分は、私に忖度して従うだけの者共である。

 

 残りの一人も流されやすく、周りがやれと言えばなんでもやってしまいそうな子なので、多数決で考えてもこのグループは私のものだ。この子もどこかそれを察しているようで、私に逆らうことはない。

 

 このABCとDを上手に使って、茉莉ちゃんをいじめる。けっして命令することなく、彼女らが私に忖度して、勝手にいじめるように仕向ける。

 

 どのようにやればいいのか迷ったが、なんてことはなかった。私がちょっと茉莉ちゃんの愚痴を言ったら、それだけで勝手に行動してくれたのだ。最初はきっと、ただの善意。でも、それが悪意になるまでに一年もかからなかった。

 

 AもBもCも、あまりいい子ではなかったから、次第に楽しくなってきてしまったのだろう。そもそもが犯罪行為を私に握られて従っていたような子達だ。茉莉ちゃんのような純粋で天然でかわいい子は気に食わなかったのだろう。

 

 私に隠れて茉莉ちゃんをいじめていた。本人たちはバレていないつもりらしいが、当然バレバレである。まだ、ちょっと意地悪されてる程度の認識の茉莉ちゃんが、困ったようにしているのが愛おしい。

 

 中学校に上がって、私と茉莉ちゃんが別のクラスになったこともあってか、いじめは少しずつ酷くなっていく。陰口、悪口、仲間外れに始まって、少しすると物隠しや足掛けなどにも以降した。

 

 この頃になると、ABCたちは私に対する忖度、私が愚痴を言っていたから茉莉ちゃんに文句を言うという理由ではなく、ただただ自分たちが楽しむためだけに茉莉ちゃんに酷いことをするようになっていた。おまけに最初から流されやすかったDは、天然物ではないが故の遠慮のなさというか、歯止めの効かなさを見せており、少々過激なこともやり始めていた。その辺のバランスを取るのは手間だったが、まあ、決行するタイミングで私が茉莉ちゃんの元にいれば阻止できるので問題は無い。

 

 

 

「昨日は茉莉ちゃん忙しかったんだよね?一緒に遊びたかったのに残念だなぁ」

 

 中学校からの帰り道。いつも通り待ち合わせをして、茉莉ちゃんと帰る。茉莉ちゃんにとっては唯一、絶対いじめが起きない貴重な時間だ。そんな中で私が話題に挙げたのは、忙しかったという名目で茉莉ちゃんがハブられた前日のこと。

 

「う、うん。どうしても買わないといけないものがあって。ごめんね」

 

 実際は誘われてもいなかっただろうに、咄嗟にそれっぽい理由を捻り出せたのは、茉莉ちゃんの優しさだろうか。

 

 当然、こんなのは取ってつけた嘘だ。だって、A達は誘ったら断られたなんて言っていたけれども、私の茉莉ちゃんが私に何も言わずに断るわけがない。何も言わなかったとしても、今日の朝に謝ってこないわけがないのだ。

 

「……瑠璃ちゃん、あのね」

 

 だから、用事があったというのは嘘。それを素直に言えなかったのは、言うなと脅されているからか、客観的に見た私の平穏を守ろうとしているのか。

 

「どうしたの?茉莉ちゃん」

 

 私の想像と推察でしかないが、おそらく後者だ。脅しまでするのであれば、何も言うなではなく表面上誘った上で断れと言う方が確実だろうし、私ならそうする。

 

「ううん、やっぱりなんでもない」

 

 いじめのことを相談したそうにしながらも、相談してしまえば“仲良しグループ”が壊れてしまうことはわかっているのだろう。5人で遊びに行くなど、私は表面上仲がいいアピールもしている。そのうえで、彼女らと茉莉ちゃんを比べたら、私は茉莉ちゃんを選ぶこともわかっているのだろう。

 

 だから、私のために何も言えなくなってしまう。自分だけが我慢すればいいからと、抱え込んでしまう。

 

「なにー?気になっちゃうじゃん」

 

 これだから、この兄妹は愛おしいのだ。バレバレなのにバレていない気で、とってもいじらしい。燐さんを壊すためにいじめている茉莉ちゃんも、こんなにかわいいと趣旨を忘れそうになってしまう。

 

「本当になんでもないの。ごめんね」

 

 こんな、誤魔化しとも言えないような誤魔化しが通用すると考えるのなんて、よっぽど頭の中がお花畑でないといけない。そして茉莉ちゃんは、間違いなくお花畑なタイプだ。全て想定している上で、それに乗っかっている私でなければ誤魔化されないような雑なごまかしを本気でするような子だ。

 

 

 

 その愚かさが、鈍さが、たまらなく愛おしい。



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閑話 ある“悪意”の暗躍2

 茉莉ちゃんはしっかりいじめられている。物を隠され、足をかけられ、水もかけられる。どうしてお兄さんが気付かないのかが不思議なレベルで、どうして私が気付いていないのか周りから怪しまれるレベルだ。

 

 今の私は、周囲から見たら結構な間抜けだろう。一番大切にしている友達が、虐められているのに、それに気付かずいじめっ子側とも仲良くしているのだから、そう見られて当然だ。

 

 お兄さんや茉莉ちゃんと同じくらいのお花畑認定は少し癪だが、そう思われている方が好都合な以上、受け入れるしかない。

 

 

 

 髪についたガムテープを何とか取ろうと頑張っている茉莉ちゃんを助けてから、一緒に帰る。どうしてこの子は、お昼寝してたらガムテープにダイブした、なんて適当すぎる理由で人を騙せると思っているのだろうか。

 

 少なくとも私にとっては、茉莉ちゃんがABCD達に虐められているのはわかりきったことだし、茉莉ちゃんのする言い訳やごまかしなんてものは、茉莉ちゃんと、お兄さんくらいしか騙せないような幼稚なものだ。

 

 

 それで誤魔化せると思わせてしまったのは私の失敗かもしれない。茉莉ちゃんが私にとって都合のいい解釈をする度に、それにある程度合わせてきたのは事実だ。お兄さんの解釈もしかり。私を騙すという成功体験のせいで、灰岡兄妹には分不相応な自信を持たせてしまっているかもしれない。

 

 

「瑠璃ちゃん、取ってくれてありがとう」

 

 見えなかったから取るのが大変だったのだとこぼす茉莉ちゃんに対して、そのお礼に答えることは簡単なことだ。そのままの意味として捉えて、どういたしましてと伝えればいい。

 

 

「茉莉ちゃんってば、もう同じことしちゃダメだよ?」

 

 

 茉莉ちゃんの認識に合わせて、ガムテープを外す。友達として、茉莉ちゃんのドジを笑いながら注意する。自然な光景だろう。これを見て、私が茉莉ちゃんがいじめられることを望んでいると思う人はいないはずだ。

 

 

 

 今日はこのまま家まで遊びに行って、お泊まり会をする。学校帰りに泊まりとなると、普通であれば学校に余計な荷物を持っていくことになり、指導される。ところが、二人の両親はかなり私を気に入ってくれているらしく、私のお泊まりセットが一通り灰岡家に常備されているので、このまま向かっても問題は無いのだ。

 

 私に対して向けられているその優しさを、3分の1でもお兄さんに向けていれば、この家族は真に幸せな家庭になれたのになと考えつつ、でもそうなると燐さんは私が好きな燐さんとは違ってしまうので、これで良かったと思う。

 

 

 

 私の求めるものをすぐ近所に用意してくれたおじさんとおばさんへの感謝を感じつつ家にお邪魔して、茉莉ちゃんと二人の時間を過ごす。

 

 

 内容はおしゃべりだったり、勉強だったりと多少ばらつきがあるが、ここまでに関してはまあ、予想の範囲内だ。途中帰ってきたお兄さんに、私の苦手な科目を教えてもらったことが収穫と言えば収穫だろうか。

 

 

 この先の受験の結果は、私はおそらく問題なくお兄さんと同じ学校に受かるだろう。問題は、ブラコンを拗らせて学力スレスレの所を志望している茉莉ちゃんだ。

 

 今この時期であればまだどうにでもできるだろうが、かなり優秀なお兄さんや、それよりも頭の回る私と比べて、茉莉ちゃんは決して頭が回る方ではなかった。

 

 当然、一番の友達としては茉莉ちゃんの応援はしたいし、余裕で受かりそうな身としてはその手伝いをするのは当然とも言える。というか、茉莉ちゃんが別の学校に通うなんてことになったら、私としては大失敗だ。

 

 せっかくここまで丁寧に育ててきた茉莉ちゃんが、私の元から離れてしまったら、これまでの努力が水の泡になってしまう。

 

 

 だから私が教えるのにもそれなりに熱は入るし、茉莉ちゃんのためには時間も惜しまない。もちろん遊ぶ時はちゃんと遊ぶし、勉強だけではないが、それもあって灰岡家からの信頼はいくらでも高まっていく。

 

 

 信頼が得られて、茉莉ちゃんの学力が上がって、お兄さん成分も補給できる。一見誰にとってもそんがない、Winだけの関係に見えるが、実は一人だけ損をしている人がいた。

 

 

 それは、何を隠そう燐さんだ。

 

 私の長年の観察から、燐さんが暴力を振るわれているのは、まず間違いないし、手を出しているのも9割9分9厘おじさんだろう。動機はわからないが、おじさんにストレスが溜まってそうな日の翌日には暴行の痕跡があったことから、ストレスの発散の可能性が高い。

 

 そしてストレスを溜め込む気質と、私や茉莉ちゃんの前では我慢している事実。これらから、私がお泊まりをした日の翌日に、かなりの高確率で燐さんが暴行を受けることがわかる。

 

 

 つまり、私が遊びに行くとお兄さんが苦しむのだ。それなのに私のことを邪険にするでもなく、暖かく迎えて優しくしてくれる。こんな燐さんがこの後暴行を受けると考えると、少し興奮する。

 

 

 

 

 それから何度か同じような日々を過ごして、次第に茉莉ちゃんは学力が上がっていった。それに合わせて、ストレスを持て余すようになったABCDによるいじめも悪化していったが、勉強に集中している茉莉ちゃんはあまり気にすることなく、4人はそれにいらついた様子でいた。

 

 

 

「瑠璃ちゃん!!!合格っ!!!わたし、合格したよ!!!!」

 

 そんな状況で勉強を続けて、茉莉ちゃんはめでたく、と言うべきか、無事に、と言うべきか、第一志望であるお兄さんの通っている高校に受かることが出来た。

 

 私の手を握って、ぴょんぴょんしながら喜びを顕にする茉莉ちゃんを、よく頑張ったねと褒めながら合格者手続きのために移動する。当然のように私も受かっていたため、一緒に行動する。

 

 

 心底嬉しそうに、安心しきった様子で家族に連絡する茉莉ちゃんを連れて学校まで戻り、浮かれっぱなしなこの子を家まで送る。このまま一人にすると、なにかしでかしそうで心配だからだ。

 

 

 無事に連れて帰って、おばさんとお兄さんと一緒に茉莉ちゃんをもみくちゃにする。合格おめでとうと、よく頑張ったねと、心配したんだからねの気持ちを込めて、茉莉ちゃんの髪形や服装が崩れるまで撫で回す。

 

 誤解を避けるために述べておくと、髪形がお兄さん、服装が私とおばさんだ。かなりシスコンを拗らせているお兄さんも、さすがに年頃の少女の体をまさぐったりしない。むしろ、そんなことをする人であれば百年の恋も冷めるというものだ。

 

 

 ちょっとくたっとした様子の茉莉ちゃんを主役にして、沢山お祝いをした。きっとこのあとメインで待ち構えているであろう家族だけのお祝いには全く届かないものの、つなぎのお祝いとしては十分なほどのおめでとうを伝えられただろう。

 

 

 茉莉ちゃんに与えられるお祝いの言葉と、私に向けられる、やっぱり受かった、受かって当然という、納得の言葉。

 

 結果だけ見れば、同じのはずだ。なのに、茉莉ちゃんは私を含めて誰からも祝われて、私はそうあって当然だと、自分自身からも、両親からも流された。誰も、私の合格を疑っていなかった。誰も、私のことを褒めてくれはしなかった。

 

 いや、私が受かるのは自明だったことは、間違いのない事だ。誰から見ても受かって当然の人間が受かっただけのこと。それに対して、無為な褒め言葉を重ねろというのもそれはまた無茶なものであり、出てきたとしてもそれは上辺っ面だけのものになるだろう。

 

 

 そんなことを考えながら一人布団に入って、何故か少しむしゃくしゃしたので、茉莉ちゃんに曇って貰うことにした。まだする必要がなかったことだけれど、少し早めて壊してしまおうと思った。

 

 遊びに行って、泊まりに行って、おじさんがストレスを貯めていそうな日。その日を選んで、私は茉莉ちゃんをお出かけに誘った。お兄さんは置いていって、私と茉莉ちゃんの2人だけのお出かけ。少しだけ遠いから、お財布が必要なお出かけで、私は意図的に茉莉ちゃんの荷物から財布を抜き取って、いつも置いてある机のところに戻しておいた。

 

 

 ただの忘れ物。家に帰って、ただいまと言って、持って出ればすむだけのことだ。それなのに、茉莉ちゃんは出たばかりの家にすぐ戻ることを、恥ずかしいことだと思ってしまった。そう思うように、私が出発前の会話の内容を少しだけ調整した。

 

 

 こっそり家に戻った茉莉ちゃんと、家でストレスを溜めていたおじさん。何が起きるのかは、自明のことだろう。

 

 

 駅の前でようやく、カバンに入れたはずの財布がないことに気がついた茉莉ちゃんが、申し訳なさと多少の恥ずかしさを混ぜながら、私にそのことを告げて、一度家に取りに帰りたいのだと言う。

 

 

 ああ、きっとお兄さんはそろそろ、おじさんからストレス発散のための暴力を受ける頃だろう。茉莉ちゃんに見てもらうのは、まさに暴行されている瞬間がベストではあるが、最悪事後の、お兄さんが苦しんでいる姿だけでもいい。どちらにせよ茉莉ちゃんにとってはショックなことだろうし、私にしてみれば美味しいものだ。

 

 

 それを踏まえた上で、茉莉ちゃんを家に帰らせた。私は外で待っている状態で、3割くらいの期待値で起こるであろうそれを求めて、茉莉ちゃんを待った。

 

 

 

 私が何も関われない、そのやり取りの先。その先でたどり着いたのは、見るからに、なにか良くないものを目にしてしまった、それによってどこか血の気が引けた様子が見える茉莉ちゃんの姿だった。



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閑話 ある“悪意”の暗躍3

 茉莉ちゃんがお兄さんの現状を理解して、その苦しみを知った。

 

 普通ならば、お出かけどころの話じゃなくなるだろう。大切な家族が、大好きな家族のことを虐待しているのを知って、それが自分の知らないうちから常態化されていたともなれば、たかがお友達程度と一緒にお出かけをする所ではない。

 

 

 

 それなのに、明らかに様子のおかしい茉莉ちゃんが私の前に戻ってきて、普通にお出かけをしようとしていたのは、ある種の正常性バイアスによるものか、ただ茉莉ちゃんが度し難いほど純粋だったかの二択だろう。

 

 

 茉莉ちゃんがどちらかかはわからなかったが、一つだけ間違いないことは、大切な家族のピンチを前にして、家庭が壊れる事態を前にして、茉莉ちゃんが何もしなかったということだ。

 

 

 きっと、混乱していたのであろう。どうすればいいのかわからなかったのであろう茉莉ちゃんは、結果として私とのお買い物を選んだ。

 

 

「茉莉ちゃん、なんか元気ないけど、大丈夫?」

 

 

 それに対する茉莉ちゃんの返事はどれも迷うような、何かを隠しているようなものばかり。本当はこんなやり取りではなく、直ぐに私に相談するべきなのに、自分一人で抱え込んでしまった。

 

 

 まあ、結果論としては、その選択自体は間違いではなかった。茉莉ちゃんのために考えられる人ならともかく、貶めようとしている私に相談したところで、より私にとって都合のいいように誘導するだけだ。つまり、結局私に遊ばれているのだから、どちらにせよ大して変わらなかったと言える。

 

 

 けれども一般論としては、茉莉ちゃんは私に相談するべきだった。私が私でなければ、そうすることだけで救われていたかもしれなかった。

 

 

 様子がおかしい茉莉ちゃんと一緒に半日を過ごす。いつもの明るさが全くなくて、どこか思い詰めたような様子が垣間見える茉莉ちゃんの姿。

 

 直接茉莉ちゃんとお兄さんのやり取りや状況を確認できない私としては、これで9割9分9厘お兄さんの虐待を茉莉ちゃんが目撃したのだと確信した。

 

 実際に見れる訳では無いから、100%とは言えないものの、これだけの情報があればまず間違いなく事実だ。

 

 

 その辺のことを理解した上で、より自分の描いた未来図のために()()は良くないと思って、私は追い詰められた茉莉ちゃんを追い詰める。

 

 

「何も無いわけがないじゃん。茉莉ちゃんのことか、お兄さんのことか、何かあったんでしょ?私が、そんなことにも気付けないと思う?気付いたのに、知らないフリをするほど無情だと思ってるの?」

 

 

 すこーし、けれども、それなりに茉莉ちゃんを責めるような言い回し。こんな言い方をされて、完全に無視できるほど茉莉ちゃんの心は強くない。

 

 

「瑠璃ちゃん……あのね……」

 

 

 茉莉ちゃんから告げられたのは、茉莉ちゃんが見た事の全てと、これからどうしたらいいのかという相談。つまり、私が求めていたものだ。

 

 お兄さんがおじさんから暴行を受けているという事実と、それを見てしまった茉莉ちゃんがどうすればいいのかの行動指針を決めること。

 

 

 一番最初に伝えたのは、お兄さんが暴行を受けているのには理由があるのかもしれないということ。ぶっちゃけ理由の有無によらず、暴行する側が悪いのだが、この時点では茉莉ちゃんにとっては、いつも優しいお父さんだ。

 

 そんな人が優しいお兄さんを虐待する理由なんて、茉莉ちゃんが想像出来るはずもないだろう。

 

 

 そうなると茉莉ちゃんは、自分の中で整合性を保とうとするわけだ。優しい両親が鬼畜であるのか、最愛の兄が虐待されて当然の人間なのか、その二択で考えなくてはならない。どちらにせよ苦しいふたつの可能性の、どちらかを選ばなくてはならない。

 

 

 

 茉莉ちゃんはここで一度、選択から逃げた。自分が見たものを気の所為だったのだと、勘違いだったのだと自分に言い聞かせて、忘れたフリをして、無かったことにしてしまった。

 

 

 

 

 

 とはいえ、それはあくまでも表面上、茉莉ちゃんの意識の上での話。それがないところでは、無理やり保っている日常から外れたところでは、茉莉ちゃんも自分の認識のおかしさに気付いている。

 

 

 

 

 ひとつの境になったのは、私たちが卒業して、同じ高校の入学式を迎えた日のことだろう。

 

 

 この日、しっかりと自分と家族の現状を把握していた茉莉ちゃんは、これまで何度か暴行を受けている姿を確認したお兄さんに対して、どうしてそれを受け入れているのかと問いただした。

 

 すぐ近くには私もいた、純粋な疑問。明らかにおかしいところ。それまで長いこと受けていたはずの暴行を、何故受け入れていたのかという疑問。

 

 

 1人では不安だからという茉莉ちゃんの意思に合わせて、私もその場にいた。お兄さんの意志を、意図を、しっかりと聞き遂げた。

 

 暴力を振るわれているのは、おじさんの気分によるもの。おじさんのストレス次第で、お兄さんは暴行を受けていた。それを素直に受け入れていたのは、全て茉莉ちゃんのため。茉莉ちゃんを守るために自分一人が犠牲になって、それをこの時までずっと貫き通していた。

 

 

 ある程度想定していた内容ではあるが、それをなしとげたのはどう考えても異常者の所業だ。まともな子供が、兄妹のために自分だけが犠牲になる道を選べるはずがない。仮に選んだとして、不満を持たずに自分だけを犠牲にし続けられるわけが無い。

 

 

 そのはずなのに、お兄さんはそれを成していた。誰かのために自分を犠牲にし続ける道を、誰に強制されるのでもなく自分自身の意思で選べていた。

 

 

 

 

 

 その自己犠牲は、多くの人にとっては理解できないレベルのものだ。私にとっても無理であったし、実際に守られている茉莉ちゃんからしても、お兄さんのあり方は、その自己犠牲はどこかいたましいものに見えたことだろう。

 

 

 

 

 私に対して、お兄さんがまともに自立する頃には茉莉ちゃんを連れてどうにかするつもりだと言う期限が示されたことが、このやり取りの中での一番の収穫だろうか。本来ならば高校卒業時点で茉莉ちゃんの身請けをしたかっただろうに、見込める収入やその先を考えて大学進学まで入れたのは、これまでの虐待情報や、その他のことも考慮した上でのことだろう。

 

 

 お兄さんにとっては、これまで通りの日常が続く中で、茉莉ちゃんの周囲のものは、どんどん暗い道へとたどって行った。

 

 

 

 単純な話で言うと、茉莉ちゃんはどんどん、ABCDからのいじめが悪化していった。ぱっと他所から見てわかるような内容から、周囲が止めないのがおかしいような内容まで、どんどん酷くなっていった。

 

 元々、私のせいとはいえいじめられていた茉莉ちゃんだ。当然、いじめるだけの理由がそもそもあった中で、お兄さんの真実を知って性格が多少暗くなるというおまけまでついた。その上、それまでは私に怯えていたABCが、今となっては大したことの無い話だと、私の支配下から逃れたこともあって、茉莉ちゃんへのいじめがひどくなるのは当然の帰結だった。

 

 

 私がいなければ、茉莉ちゃんがお兄さんの虐待に気がつくことはきっとなかった。私がいなければ、誰とでも仲良くできる茉莉ちゃんがABCから虐められる理由は生まれなかった。私がいなければ、自由になったABCが、より茉莉ちゃんをいじめようと思うことは無かった。

 

 

 

 ようは、茉莉ちゃんの不幸は、その8割くらいが私のせいということになる。私のせいで虐められて、私のせいで家族の闇を知って、私のせいでよりいじめられているのだ。私が諸悪の根源と言っても過言ではないだろう。

 

 

 

 私はこのあたりでようやくいじめに気付いたということになるので、当然のようにABCDを止めるが、最初から支配下にないDも、支配下にあったものの、そろそろ脅しの理由が無意味なものだと気付いているABCも、まともに私の言うことを聞くわけがない。

 

 

 結果として、茉莉ちゃんは普通のいじめ以上に、私に対する嫌がらせの意図もあって、虐められていたのだ。私が茉莉ちゃんを大切にしているからこそ、ひどくいじめられることになったのだ。

 

 

 

 そしてその茉莉ちゃんはと言うと、お兄さんのことをおかしな受け止め方をして、全部自分のせいだと考えていた。そしておまけに、いじめられていることを自分に対する罰だと考えて、半ば積極的にその環境を受け入れてしまっていた。

 

 

 おかしなことだ。虐待において悪いのはおじさんだし、いじめにおいて悪いのはABCDだ。にもかかわらず、茉莉ちゃんの中では自分のせいで虐待があって、その罰としてのいじめということになってしまっている。

 

 

 

 これは、おかしな考えだ。茉莉ちゃんを壊そうとしている私ですら異常だとわかるほどの、本来あるべきでは無い自責、自罰思考。

 

 

 想定よりも早く、より深い所へ向かう茉莉ちゃんの軌道修正をするべく、何度も私は思考がおかしいと伝えた。そうはならないだろうと、それは間違っていると伝えた。

 

 

 

 それでもこうなってしまったのは、ああ。頑固なのは兄妹揃ってのことだったのだろう。自責思考も、自罰思考も、嫌になるほど似ていた。そして、似ているくせに、お兄さんに無い悲壮感が、茉莉ちゃんにはあった。

 

 

 それに気づいてから、私は止めたのだ。それは違うと、おかしいと、茉莉ちゃんは今冷静では無いから、考え直すべきなのだと。伝えても、宥めても、窘めても、茉莉ちゃんは止まらなかった。私は茉莉ちゃんを、止められなかった。

 

 

 少しでも時間を稼ごうとして、なんならお兄さんに現状を伝えて止めて貰えるように図ろうかとすら考えて、それをしてしまったら私の目的を達することが出来なくなると踏み止まる。

 

 友達としては止めたいのに、ほかの何を差し置いても止めたいと思えるのに、私には止めることが出来なかった。茉莉ちゃんの親友としての私は、止めようとしているのに、愉快犯としての、自分の楽しみを追求する私は、止めてはいけないと考えていた。

 

 

 そこで止まってしまったら、茉莉ちゃんは冷静になってしまう。茉莉ちゃんが冷静になってしまったら、私の目的は達成できない。それは私のこれまでの否定になってしまうから、止められなかった。表面上での主張はある程度したけど、次第に壊れていく茉莉ちゃんを止めることが、私にはできなかった。

 

 

 そのまま高校生活を送って、たくさんの理不尽が茉莉ちゃんを襲った。本来ならば、青春を満喫できたはずの大切な時期を、私のせいで茉莉ちゃんは苦しむ羽目になった。その苦しみは、私が望んだそれではなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 私の元に、一通の手紙が届いたのは、謝罪と懺悔にまみれたそれが靴箱に入っていたのは、高校生活も終盤に差し掛かった頃のこと。その内容は、茉莉ちゃんからの謝罪だった。謝罪であり感謝であり、願いだった。

 

 

 手紙に書かれていたその場所、屋上へ向かう。

 

 

 

 待っていたのは、全てを諦めているような茉莉ちゃん。私が昨日の朝見た時は、まだ大丈夫そうだった。こんなことをしそうなようには見えなかった。

 

 

 

「瑠璃ちゃん、来てくれてありがとう」

 

 

 すぐにでも崩れそうな笑みを浮かべながら、茉莉ちゃんは柵のすぐ側で私を迎えた。駆け寄ってでも止めたい気持ちはあったけど、少しでも近付こうものならすぐにでも茉莉ちゃんは飛び降りてしまいそうだった。

 

 

 

 

 私は、茉莉ちゃんが追い詰められていたことを知っていた。ここまでだとは思っていなかったとはいえ、追い詰められていたことは知っていたのだ。それに対して、対策しようとすればできたのだ。

 

 

 

 つまりこの現状は、私の想定以上に茉莉ちゃんが追い詰められてしまっているのは、私の失敗でしかない。

 

「あのね、やっぱり、わたしがいるのが悪いの。わたしがいなければ、お兄ちゃんは幸せになれるはずなの」

 

 そんなことは無い。虐待に関しては、悪いのはおじさんだ。茉莉ちゃんがいようがいまいが、お兄さんは幸せにはなれなかった。

 

「でも、わたしはもう何も見れないから、大好きな瑠璃ちゃんに、お兄ちゃんのことを任せたいんだ」

 

 見るべきなのだ。私なんかに任せるのではなく、茉莉ちゃん自身がちゃんと生きて、お兄さんの未来を見守るべきなのだ。

 

「他の人は信じれないけど、瑠璃ちゃんならきっと、お兄ちゃんを幸せにしてくれるし、お兄ちゃんと幸せになってくれると思うから。お兄ちゃんを任せられるのは、瑠璃ちゃんしかいないから」

 

 ああ。私のせいとはいえ、茉莉ちゃんは一番信じてはいけない相手を信じてしまった。茉莉ちゃんの不幸の元凶たる私のことを信じて、大切な家族を託してしまった。

 

 

 

 止めなきゃ、いけなかった。全部白状して、考え直してもらわなくてはならなかった。それが、親友としての誠意だった。

 

「茉莉ちゃん……だめ……そんなのだめだよ」

 

 

 そのはずなのに、私の口から出てくる言葉はどれも迂遠なものばかりで、茉莉ちゃんからしてみれば後押しするであろうものだけだった。

 

 

「……1回、戻ってきて。戻ってきてゆっくり、話を聞かせて。今のままなんてダメだよ。まだやりなおせるんだよ」

 

 

 そんなことを言う私は、この時点で既にあるべき姿、当初の予定から外れていたのだろう。それをわかっていても、自身の宿願にそむくものだとわかっていても、何故か私は茉莉ちゃんを止めたかった。

 

「瑠璃ちゃん、ごめんね。さようなら、ずっと、ずっと大好きだよ」

 

 

 止めたかったはずなのに、止められなかった。こんなはずじゃなかったのに……



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閑話 ある“悪意”の後悔

 茉莉ちゃんは、私の見ている目の前で飛び降りてしまった。私の唯一の友達。他のほとんどを無視してでも優先できるだけの信頼関係のあった、大切な、大切な友達。

 

 そんな彼女が、私の見ている目の前で屋上から飛び降りた。私が予想していなかったところで、茉莉ちゃんは勝手に飛び降りてしまった。

 

 

 

 

 私は、茉莉ちゃんの覚悟をぐちゃぐちゃにしてでも茉莉ちゃんを生かすべきだったのだろうか。親友としては、そうするべきだと思うし、そうするべきだったと一丁前に後悔までする。

 

 けれども、心のどこかで、抜けないのだ。茉莉ちゃんが飛び降りたことを都合がいいと思ってしまう自分がいることも、また間違いのない事実なのだ。

 

 

 

 

 幸いと言うべきか不幸と言うべきか、茉莉ちゃんはこの時点でまだ、生きていた。私が茉莉ちゃんの味方として振舞っていた状態のままで、茉莉ちゃんは生きていて、無意識下ではあるものの遺言のようなものすら残していた。

 

 

 

 けれども、それを知らない私にとっては、一番の、唯一の親友が自殺を図った結果だ。

 

 

 まともでいられるはずがない。取り乱しに取り乱して、茉莉ちゃんのことを守れなかった自分に嫌悪した。茉莉ちゃんを止められなかった自分を貶めた。

 

 そのはずなのに、私はどこか冷静に、茉莉ちゃんが飛び降りたことによって生じる影響と、それから副産物として生じるあれやこれのことを合理的に分析していた。

 

 

 それが出来てしまったのは、私の心無さによるものだろう。苦しいはずなのに、私は最初、茉莉ちゃんのそれを客観的に、自分には関係の無いもののように捉えてしまった。そして、その状態のままで警察に通報してしまった。

 

 

 

 異常なのだ。目の前で人が飛び降りて、真っ先に通報するなんてことは。落ちたのが親友ならばなおのこと、狼狽えるべきだし、直ぐに助けようとするはずである。まかり間違っても、初手で救急車を呼ぶなんてことはありえない。

 

 

 でも、それを私はできてしまった。通報から少し時間を置いて、自分の所業に絶望しつつも、私はどこかしらで冷静を保っていた。

 

 

 

 けれども、それは私が傷つかなかったという訳では無い。私とて、人並みに傷ついたのだ。茉莉ちゃんという唯一の親友を失って、まともであれるわけがない。

 

 

 

 

 人並み程度、いや、人並み以上に、私は傷ついたし、ショックを受けた。

 

 確かに、元々考えていた道筋として、茉莉ちゃんがこんなふうになることを考えていなかったと言ったら嘘になる。間違いなく考えていたし、そのつもりで動いていた。

 

 

 

 けれど、私は知らなかったのだ。大切な人を失う悲しみも、その人を失った世界の虚しさも。

 

 

 茉莉ちゃんが飛び降りて、落ちた先で赤い花を咲かせながら、小刻みに震えていた姿を見て、私はようやくそのことに気が付いた。普通の子供なら、幼稚園のうちに済ませておくであろうそのことに気がついた。

 

 

 

 

 違うのだ。私はお兄さんを追い詰めたいだけで、壊れるまで貶めたいだけで、茉莉ちゃんを壊したい訳では無かった。こんなに辛くなるなんて、茉莉ちゃんがいなくなるだけで、二度と話せなくなるだけでこんなに苦しくなるなんて知らなかったのだ。

 

 

 苦しさと同時に、私の掌の上で雑に転がされて、大切なものを全て失おうとしている茉莉ちゃんへの興奮も、感じてしまう。

 

 これは、私の性癖によるものだ。度し難くて、許されるべきでは無い私に与えられるもの。

 

 

 

 そのはずなのに、苦しいのだ。茉莉ちゃんがいなくなってしまったことが。

 

 

 

 

 壊したかったはずのお兄さんを壊すことに、躊躇してしまった。茉莉ちゃんを壊したことを省みて、それをするべきでは無いと思ってしまった。

 

 私の理想は確かに、お兄さんを壊すことだった。そのためにこれまでを積んできたし、それは間違っていなかったのだ。

 

 

 

 唯一間違っていたのは、私の意思。私の予想。それが、私の本当の意志とは、随分離れたものであったことに、この段階に至るまで気付くことができなかったこと。

 

 

 私が作ってしまった茉莉ちゃんの終わりは、私の望むものでも、茉莉ちゃんが望むものでもなかった。誰にとっても救われない、誰もが幸せになれないそれだった。

 

 

 これから導き出せるものは、茉莉ちゃんが望んでいたものでは無い。私という善良な存在がお兄さんを支えて、幸せになるなんて未来はありえない。

 

 

 きっと茉莉ちゃんの想定なら、私が気付いて、お兄さんを慰めて、正しい道に導くことになっていたのだろう。けれども私は、あくまで自分のためだけに動いている外道だ。

 

 

 

 そうであれば、そこまで気付けているのであれば、私はそれに合わせた行動を、言動を見せるべきだったのだ。そのはずなのに、私が選べたことは、ただひとりの、どこにでもいる誰かとしての視点だけだった。

 

 

 

 

 

 

 茉莉ちゃんは、死んだ。私の目の前で、私に遺言を残して、死んでいってしまった。

 

 

 

 それが事実で、それを受けて、お兄さんがこれまでにないほど取り乱したことが、真実。お兄さんのことを壊したくないと、これ以上壊してはいけないのだと思った。これより上を求めたら、きっとお兄さんは無事でいられないから。それを見届けるには、私の覚悟が弱すぎたから。

 

 

 

 その先を見たいはずなのに、それを見たくなかった。茉莉ちゃんを犠牲にしたくせに、お兄さんが壊れ尽くすところを見るのが怖くなった。

 

 

 私は、要は弱かったのだ。自分の理想がありながらも、それを実現することに対して恐怖と躊躇を抱いてしまう。それが普通のことで、普通であれば、恐怖や躊躇を抱くより前にそれを避けるべきではあったのだ。

 

 

 茉莉ちゃんが犠牲になったことで状況が動いたことが、喜ばしかった。茉莉ちゃんの犠牲によって、自らを追い詰めていくお兄さんの姿が、愛おしかった。

 

 

 そこで終われればよかったはずなのだ。少なくとも私にとっては、いいものだけで終われていたはずなのだ。それなのに、茉莉ちゃんを失ったことが、私のことを深く傷付ける。

 

 

 

 私にとっての茉莉ちゃんの存在は、大切な大切な親友の存在は、自覚していたもの以上に、私の深いところを占めていたのだ。

 

 

 

 

 それに気がついた時には、もう遅かった。だって、もう壊してしまったのだから。気付くのが遅かった。遅すぎた。

 

 

 自分の所業を省みる。とても人のものとは思えない、畜生にも劣るそれ。

 

 私のしたことを知れば、誰もが私を罵倒するだろう。そうされて当然のことを、私はしたのだ。

 

 

 自分というものが、たまらなく気持ち悪くなった。消えてしまいたくなった。茉莉ちゃん達をめちゃくちゃにした私なんか、死んでしまえばいいのだと思った。それだけが私にゆるされる唯一の贖罪だと思ったから。

 

 

“お兄ちゃんを任せられるのは、瑠璃ちゃんしかいないから”

 

 

 

 そう思ったはずなのに、自分も後を追おうと思っていたのに、その言葉を思い出してしまったせいで、何も出来なくなった。

 

 茉莉ちゃんの最後の、私にお兄さんを託した言葉。身の回りに味方がいない、状況を理解して寄り添ってくれる人がいないお兄さんを、唯一その現状を理解している私に託した茉莉ちゃんの言葉。

 

 

 私が支えなかったら、お兄さんは両親からの虐待に耐えられずに折れてしまうだろう。私が支えなかったら、お兄さんは周囲からの同情や奇異の眼差し、悪意のない悪質な好奇心によってボロボロになってしまうだろう。

 

 

 それがわかっていたから、それを避けるために、茉莉ちゃんは私に託したのだ。託された私が、“優しい瑠璃ちゃん”が、そうされてしまったらその通りにするしかないことを知っていて。

 

 

 

 ならば、それはもう私の責任だ。私が責任をもって、茉莉ちゃんの意志を継がなくてはならない。茉莉ちゃんにそう求められた私が、しなくてはいけないことは、自己満足のために死ぬのではなく、茉莉ちゃんの、お兄さんのために全てを使い潰すことなのだ。

 

 

 そうして、燐さんに幸せになってもらって、私が要らなくなってから、私の価値をとことん下げてから、燐さんに全てを打ち明けよう。周囲の人にも、両親にも、全部全部をぶちまけて、みんなに軽蔑されてから消えてしまおう。

 

 

 そう思うと、そうすることが一番なように感じた。それが一番なのだとしか、思えなくなった。

 

 茉莉ちゃんの遺志に従って、私がしっかり罰を受けて。

 

 

 無意識的な自己保存の欲求も働いているかもしれないが、これが一番いい形なのだと、私は思った。そしてそれと同時に、自分がしなくてはならないことも理解した。

 

 

 大切な燐さんに、何処の馬の骨ともわからないようなものが、燐さんと真剣に向き合っていないものが、近付いていいわけがない。燐さんの近くにあるのであれば、それ相応の資格を示してくれないと、許せない。

 

 その資格がないものが燐さんに近付くのであれば、全力を持って追い払おう。けれど、もしこの人なら燐さんの全てを、私の存在意義を果たせると思える人がいれば、その時は全力でサポートして、多少無理やりであろうとも燐さんの隣にねじ込もう。

 

 

 

 行動方針としては、私が最初に立てていた計画と余り変わらない。だからこそ自然に移行できたともいえるが、一番の違いは、私がそこに入るか否かのところだ。

 

 私が、燐さんにとって大切になりすぎないようにする。私が、凛さんを狙わずにサポートだけを狙う。

 

 

 

 少し何かが違えば、それこそ私が罪悪感を抱かなかったりすれば、こんな形にはならずに、私はお兄さんのことを玩具としてみていたのだろう。あるいは、感情移入しすぎて茉莉ちゃんのことを犠牲にできなかったのだろう。

 

 

 

 

 

 後者であればよかったのになと、私は思った。そうであったなら、私はもっとまともで幸せな人生を送れたかもしれなかったのだ。茉莉ちゃんさえ犠牲にしなければ、お兄さんと結ばれる未来もあった。いや、今もあるのだけど、私は、自分がそんな幸せを手にすることが許せなかった。

 

 

 

 私に求められるのは、有象無象を散らすこと。

 あぁ。それならばこれまでもこなしてきた。自ら、お兄さんにとってのちょっと気になるあの子、隙が多くて気になるけど、行動には移しにくいしでも気になる妹のような後輩。お兄さんに性を感じさせすぎない程度にセックスアピールをして、けれどもこちらからの好意は隠さずに、周囲に対して牽制を行う行為。

 

 

 けれど、それをできたこれまでとは違って、これからはそれを使わずにお兄さんの交遊管理をしなくてはならないのだ。

 

 

 それならば、お兄さんに、周囲への不信感を抱かせるのが一番容易い。

 

 元々お兄さんに好意を持っていた連中が、アピールとしてするであろう行動を、適当な理由をつけて気をつけるべき行動だと話しておくだけでいいのだ。長年一緒にいる、幼なじみとも言える私と、たかが一、二年の付き合いの連中では、信頼度が違うのである。私の行動はお兄さんにとって裏切り9割なので、一概に信頼度を信じる訳にもいかないが。

 

 

 

 ともあれ、私の新しい目的は、こうやって決まった。



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閑話 ある“悪意”の贖罪

 燐さんが勘当された。おじさんは錯乱して殴りかかってきたからだと、頬にガーゼを貼りながら吹聴していたが、周囲は少し訝しげにしていた。お兄さんの人あたりの良さと優しさはみんなに知られていたし、おじさんが言うような行動をとるとは誰も思えなかったからだ。

 

 当然、前々から燐さんが虐待を受けていたことを知っていた私がおじさんの言葉を信じる訳もなく、家を追い出されたと聞いて真っ先にお兄さんの身柄を確保したし、両親と話してお兄さんをしばらくの間うちに匿ってもらうことにも決まった。

 

 

 私とお兄さんの関係、両親からしてみての、親友の兄という間柄だけであれば、もしかすると断られたかもしれなかったが、両親の前で異常性を晒した後の私が、それまで向けていなかったまともな興味の先。考え方を少し変えると、私に普通の子供のような甘酸っぱい感情を教えてくれたのが、両親にとってのお兄さんだ。

 

 申し訳ないことに私のせいで気苦労をかけていた両親であればこそ、そんな恩人とも言える人で、私にとっての初恋の相手でもあり、いつも優しくて素敵な人なのだと惚気けていた相手を邪険にすることは無かった。

 

 むしろ、私が何もしなかったら、積極的に私とお兄さんを結び付けるべく、いつまででもいていいと、自分の居場所だと思っていいと話しながら空き部屋をそのまま使わせる始末だ。お父さんに至っては、自分のことをお義父さんと呼ぶようにと言ってすらいた。

 

 けれども、そんな展開は、あってはならないのだ。お兄さんが婿入りみたいな感じで私の家に入って、そのまま幸せに過ごすなんてことは、あってはならないのだ。

 

 お兄さんの視点からしてみればあってもいいかもしれないけれど、それでは私が幸せになってしまう。

 

 私が幸せになることは、許されないことだ。私がしてきた、お兄さんへの行動からしても、茉莉ちゃんにしてしまったことからしても、私が幸せになることだけは許してはいけない。

 

 だから、誰にもバレないように、お兄さんが自主的に自立しようとするように計った。お兄さんが私のものになってしまったら、茉莉ちゃんに償えないから。

 

 

 意地でも燐さんを留めようとする両親と、そんな両親に影響されて、居場所をみつけそうになっている燐さんを止めつつ、怪しまれないようにするのはなかなかに骨が折れる作業だった。燐さんの鈍さがなければ不可能だっただろうし、両親が私のことを警戒しているままであれば即バレていただろう。

 

 

 

 茉莉ちゃんの死によって人並みの罪悪感を知っていなければ、その時の私を見ていなければ、こうも上手くはいかなかっただろう。それがこのタイミングだったのは、私にとって幸と言うべきか不幸と言うべきか。結果が出るまで気付けなかった以上、多分不幸に入るのだろう。

 

 

 

 

 何はともあれ、半年もしないうちに、燐さんは生活基盤の目処を立てて、一人暮らしに移行した。その優秀な成績もあって貸与型と給付型の二つの奨学金を使い、大学の費用を賄っていたこともあり、そもそもひとりで暮らす分には十分より少し足りないくらいの収入があったこともあり、私の家で必要最低限プラス少し程度の貯蓄を確保したら、部屋を借りて自立した。

 

 

 私としては当然、思ってはいけないことだけれども寂しかったし、少なくとも燐さんの実の父以上に父性に目覚めているお父さんに至っては、いつでも帰ってこいと、これはほんの餞別だと数万を握らせていた。

 

 

 

 こんなに貰えないと言う燐さんと、礼としてはまだまだ足りないと、追加で必要な分は無心しろというお父さん。お父さんがこんなふうに言うまでに、お兄さんに恩を感じさせてしまったのは、私の振る舞いが異常で、心配だったからだろう。

 

 こういうところを見ると、やっぱり申し訳なく思う。私が普通の子であれば、お父さんは、こんな罪悪感を抱く必要がなかったのだ。

 

 

 電車で一時間半くらいの大学の近くに引っ越して、その手伝いをするだけして、私にできることはなくなった。定期的に連絡はとるけれども、顔を合わせることはなくなった。

 

 オープンキャンパスなんかで理由をつけて押しかけることは何度かあったが、それも数えられるほど。その僅かな機会で、燐さんがおかしくならないように、ちゃんと幸せになれるようにメンテナンスをする。

 

 

 

 

 

 そんなふうにして、一年が経った。

 

 ちょうど受験が終わり、私は再び燐さんの後輩になった。

 

 

 燐さんに教えて貰って、楽な講義や難しい講義なんかを知った。燐さんを追いかけてきただけだから、正直科目に関してはどうでもよかった。幸いなことにあたしの頭は優秀だったから、特段興味のない学問でも、充分に学ぶことが出来た。

 

 

 燐さんの周りに変な人が寄らないように気をつけて、たまに不味そうなのが近付いているのを見て、それを撃退している燐さんを見て安心して、たまにお父さんに送り込まれて燐さんのご飯を作る。

 

 

 私には過剰な程に、幸せだった。自分の罪を忘れて、いつまでもそこに浸っていたくなるほど、心地いい時間だった。

 

 誰にも私の罪はバレていないのだから、やろうと思えばできるのだ。私は今からでも、幸せになれるのだ。もしそうするなら、どうするべきかを考えて、茉莉ちゃんにしてしまったことを思い出して吐いた。自分の幸せを考える度に、自分の罪を思い出した。汚れた自分が幸せになろうとしていることが心底気持ち悪くて、何よりも許せなくて、吐いた。

 

 

 

 

 

 お兄さんのために働いている間は、許されている気がした。気が楽だった。償っていることで、救われていた。だから私はこのままでいいのだ。

 

 友達はできなかった。知り合いはいくらかできたが、一緒に遊びたいと思える相手には出会えなかった。

 恋人もできなかった。猫を何匹も被っている状態の私の、上っ面の一枚目しか見ていないくせに言い寄ってくるやつはいくらかいたが、そのどれもがお兄さんとは比べたらへのへのもへじだった。

 勉強も、楽しくなかった。もとより大して興味のなかった学問だ。せっかく通っているのだから、授業には真面目に取り組んだものの、楽しい大学生活ではなかった。

 

 燐さんのための、学生生活だった。結局、思い出らしい思い出は何一つとして作れなかった。



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閑話 ある“悪意”の衝動

 大学を卒業して、燐さんは少し離れたところにある企業に就職していった。これまで通りそれを追いかけて、私もそこに就職した。近すぎるといけないから、私は事務職。基本的には、仕事中に燐さん、先輩と関わることは無いだろう。

 

 先輩の交友関係を見張るのにちょうど良くて、先輩を狙う馬の骨共を品定めするのにもちょうどいい。近い方が色々わかりやすいとは言え、近すぎるとそもそも先輩が狙われなくなってしまうので、このくらいの距離が適切だ。

 

 

 たまに一緒に飲みに行く程度の距離感。先輩に興味を持った人間なら、まず間違いなく接触してくるだろう。私はそれを見定めるだけでいいのだ。我ながら、いい位置取りをできたと思う。

 

 

 燐さんが一人暮らしを始めても、最低限関わりを持っていたから、情報は十分にある。それに、燐さんの信頼の向け所としては、私以上のところもないだろう。

 

 その信頼の高さから、私は燐さんに不釣合いな人間が近付こうとした時に、自然に警戒するように仕向けることが出来るのである。燐さんを一番不幸にしたのは間違いなく私だが、燐さんを一番魔の手から護ったのも、同時に私であることは間違いない。

 

 そんなふうに燐さんを守りながら、少しの時を過ごして、燐さんはこれまでとは比べ物にならないくらい、優しくて落ちついた様子を見せるようになった。茉莉ちゃんを失ってからはずっと、どこか陰がある様子が残っていたのに、纏う空気が柔らかくなったのだ。

 

 

 動物でも拾ったか、なにかか弱いものを保護したのだろう。もしかしたら女性かもしれないが、それなら年下で頼りない感じの人だろうか。

 

 他の人には分からなかったとしても、燐さんへの執着をこじらせてきた私からしてみれば容易にわかるくらいの変化。茉莉ちゃんに頼られていた時のそれに似ていることから、守らなくてはと思っているに違いない。

 

 

 程々のタイミングで確認しないといけないと考えつつ、燐さんが幸せそうならそのままほうっておいた方がいいのかなとも思いつつ、けれど誰よりも幸せになって欲しい人の変化を、適当に見送る訳にも行かない。

 

 

 先輩の家の前に張り込んで、何処の馬の骨ともしれぬ少女がいることはわかった。けれども、私は車を持っていなかったから、その行先までほ分からなかった。

 

 

 

 だから、偶然そこで出逢えたことは、ただの幸運に過ぎなかった。

 

 就職して、実際に対価を貰った上での労働というものを経験して、私は自分の知識量に不満を覚えた。

 

 直接その知識が必要になる仕事では、ない。けれども、それを知っていることでより効率よく、より正しくに仕事をこなせるようになる知識があって、それが図書館で貸し出されているくらいには公共的なものだった。

 

 いくつもの資料を、無料で閲覧できて、それが直接役に立つものだった。

 それならば、私が用事のない時に、読みたい本を借りに行くというのは、どこまでも当然で、当たり前のことだったのだ。

 

 

 

 

 そんな日課の中で燐さんを、それにくっついている少女を見つけられたのは、幸運としか言いようがないだろう。他の場所にも、いくらでも行先の候補地がある中で、私がそこに行ったタイミングで、ちょうどそこにいた。

 

 

 ある意味で、運命と言われても否定できないくらいには、偶然が積み重なったことだ。燐さんが出入口付近の窓際に居なければ、私がそこを通らなければ、出会うことのなかった偶然。

 

 

 けれども、どれほど偶然が重なったものであったとしても、実際に起こったことだけが現実なのだ。

 

 たくさんの偶然の末に、私とすみれちゃんは出会った。すみれちゃんのそのあり方に、茉莉ちゃんのそれを重ね合わせて、無事でいて欲しいと思った。

 

 

 燐さんを襲うろくでもないものの一つだと思っていたのに、話せば話すほど、知れば知るほど、すみれちゃんこそが燐さんの相手にふさわしい子だと思えるようになった。

 

 そのあり方が、茉莉ちゃんに近かった。燐さんとの向き合い方に、誰よりも燐さんを幸せにしようとする、燐さんの幸せを求める心意気を感じた。

 自分よりも燐さんのことを考えていて、それを最優先にしている、あるいは自分のことを最低限に考えながら燐さんのことを考えている。

 

 そんな、自分の存続を考えて然るべき人間らしい性質を持ち合わせていないこの子になら、自分のことよりも他の誰かを優先できるこの子になら燐さんのことを任せられる。

 

 

 

 先輩に変な絡み方をしながら見極めたすみれちゃんは、私にとって合格点以上のものを見せてくれた。この子が成すことであれば、燐さんのために動くことならば、きっと、どんな事でもプラスに変えてくれるのだろうと思わせてくれるくらいの、善性があった。

 

 

 自分のことをネグレクトしていた親のことを優しいお母さんと称せる子供だ。自分が捨てられることを、最後の親孝行と話せる子供だ。その自己肯定感の低さに関しては、少々問題もあったが、ほかの女狐共とは比べ物にならないくらいの、優良物件である。

 

 

 擦れてしまった燐さんに対して、擦れていないのに献身的なすみれちゃん。素晴らしい組み合わせで、きっとこのふたりなら幸せになってくれるだろうという、淡い期待があった。本当なら、そのまま現実になってくれていたはずの、淡い期待があった。

 

 

 年齢を知って、その性格を知って、期待するに足るべき子供であることがわかった。話を聞いて、健全な関係であることがわかった。

 

 

 ならば、私がやるべきことは、この二人がやがてなすべき形に収束することを見ることだけだった。

 

 それだけのはずだったのに、この少女は、すみれちゃんは、茉莉ちゃんと同じように、どこまでも私好みの性格をしていたのだ。

 

 

 半ば無意識のうちに、すみれちゃんにお誘いをかける。 それが自分の癖によるものだとわかっていても、気がついた頃にはことを進めていた。

 

 

 そしてそれと同時に、自分のしてしまったことへの後悔が、懺悔の意思が私を包み込む。何度も吐きながら、後悔した自分の性質が、結局のところ変わっていなかったのだと、他ならぬ自分の言動によって示されてしまったのだ。誰よりも燐さんの幸せを願っているはずの私が、燐さんを幸せにしてくれるであろう人に、邪念を抱いてしまったのだ。

 

 ああ。私はきっと、反省も後悔もしたけれど、治せないのだろう。きっと最初から壊れていて、茉莉ちゃんのことで自分が壊れていることを自覚しただけで、治るだけの余地を残していないのだろう。

 

 どうしようもなく、壊したくなった。ぐっちゃぐちゃになって、絶望して、終わってくれる姿が見たくなってしまった。

 

 

 それは、ダメだ。それだけは、ダメだ。それを認めてしまえば、私は茉莉ちゃんへの行為を認めることになる。何よりも認めては行けないそれを、認めることになってしまう。

 

 

 何よりも、先輩の幸せを祈っていた。そのはずなのに、すみれちゃんの不幸を願っていた。

 

 

 自分はそのままでいてはいけないのだと反省した。すみれちゃんの不幸を願ってはいけないのだと、理性はずっとそう主張し続けてくれた。

 

 それなのに、そのままで進んでくれなかったのは、私がすみれちゃんのことをビンタしてしまったからだ。溢れ出る魅力に抗うことが出来ずに、ずっとずっと前からビンタしたいと、めちゃくちゃにしてしまいたいと思っていた相手に対して、ちょうど理性が緩んだタイミングで機会があったから、ビンタしてしまった。

 

 

 おもちみたいに柔らかくて、とっても魅力的なそれを、無遠慮に、思いっきり叩きたくなったのだ。普段は止めてくれる理性も、お酒のせいで働いてくれなかった。

 

 

 



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閑話 ある“悪意”の最高

 ビンタした瞬間、すごく気持ちが良かった。かわいいかわいいすみれちゃんに、か弱いか弱いすみれちゃんに、暴力を振るうのは快楽だった。ずっとずっと我慢していたから、その開放感もあいまってきっと私はだらしない顔をしていただろう。

 

 驚いたような、困惑したようなすみれちゃんの表情。すっごくかわいくて、もう一度したくなってしまう。

 

 その余韻に浸っている暇もなく、先程まで職務放棄していた理性が途端に働き出す。

 

 

 私は今何をした?すみれちゃんにビンタをした。

 私にとってすみれちゃんは何?先輩を任せられる、かわいい妹分。

 ビンタの影響は?これまで築き上げてきた信頼関係の喪失、高確率で私の本性がすみれちゃんや先輩にバレることになる。

 

 

 血の気が引いているのがわかる。自分の行動が、これまでの全てを台無しにしてしまったのだと理解出来る。

 

 

 何とかリカバリーができないか、自分でもわけのわからない言い訳を捲し立てながら、考える。

 

 虫がとまっていたことにする?緩んだ表情の理由が作れない。

 酔っ払って、おかしくなっていたことにする?自分の暴力性を隠すことは出来ない。

 

 関係が、壊れてしまう。幸せが、消えてしまう。唯一そうならない道があるとすれば、すみれちゃんが全く気にしていない場合だろうか。

 

 

 そんな未来、あるはずがない。どこか冷静な部分で、そうわかっているにも関わらず、私は限りなくゼロに近い可能性にかけようとして、そこでようやくすみれちゃんの頬が赤くなっていることに気がついた。

 

 手当をしないといけない。急いで冷やさないと。そう思って動いたら、すみれちゃんの体が怯えるように小さく震えた。その目に浮かぶのは、恐怖。

 

 これは、もうダメだ。リカバリーは不可能だ。この目は、自分のことを危険に晒すものを見る目だ。ABCの目と、同じものだ。

 

 これが見えてしまった以上、私がすみれちゃんから信頼を得る未来はありえない。すみれちゃんは私に対して恐怖を抱くだろうし、そうなってしまえば全てが無に帰ってしまう。

 

 その認識をして、それが意味することを正しく理解して、私は絶望しなくてはならなかった。自分の失敗に、これまでの努力が無に帰ることに、絶望しなくてはならなかった。

 

 

 そのはずだったのに、私が感じたのは諦めだけだった。

 

 自分のあり方と比べて、ほとんど心配していなかったすみれちゃんのことを心配するでもなく、これから頑張って信頼関係を築き直そうとするでもなく、もう全部どうでもいいやと、やりたいように、好きなように振舞ってしまって、その中でいちばん気持ちいいものを探そうとおもってしまった。

 

 自分が怪我をさせてしまった少女の前で、その子を心配するよりも先に保身を考えるような人間が、普通を手に入れるだなんて、土台無理な話だったのだ。

 

 

 すみれちゃんのことをビンタしても全く痛まなかった心が、自分の異常性を痛感した時には痛んだ。自分の努力が消えることは苦しいのに、すみれちゃんを甚振れることにひどく興奮した。

 

「……あーあ、やっちゃったなぁ」

 

 諦めたら、楽になれた。

 

 我慢する理由がなくなって、理由を失って、私はようやく自由になれたのだ。私をほぼ無条件で信頼してくれる、おもちゃを手に入れたのだ。

 

 すみれちゃんを怖がらせるために、本心を、動機を、私の隠していた悪意をさらけ出す。バレた途端に取り繕うことをやめて、全部打ち明ける悪役など二流だと思っていたけれど、なるほどこれは気持ちいい。無邪気で無垢な信頼を汚して貶めることが出来るのだから、考えてみれば当然だ。

 

 まだ状況を理解しきれていなくて、頭がまともに動いていなすみれちゃんを、ムチとムチで操る。妄想だけで留めていた、私の“好き”なことを実現する。足掻く姿が、藻掻く姿が好きだったから、無抵抗だといまいちそそらないのではないかと危惧していたが、特にそんなことは無かった。むしろ、保身のための無抵抗が、学習性無気力に転じるまで徹底的にいじめ抜きたいとすら思えた。どうやら私には、ただの加虐性も備わっていたらしい。

 

 

 

 

 いじめることが気持ちよかった。怖がって、怯える姿に嗜虐心をくすぐられた。なんで、どうしてと責めるような言葉に胸がジクジクして、泣きたくなるのが気持ちよかった。気持ちよくなっているバチが当たっているような気がして、とても良かった。

 

 沢山苦しんでもらうために、何でもした。暴力は当然、水責めもしたし、“傷物”にもした。後遺症が残るようなこと以外はやりたいことを好きなようにして、特に心は念入りにぐちゃぐちゃにしてあげた。

 

 大事にしていた宝物を目の前で壊すところから始めて、壊されたのではなく自分の意思で壊したのだと思わせるために、苦しみから逃れる条件として自分で壊させたりもした。普通なら脅された結果や、暴力から逃れるための選択を自分の意思だなんて判断はしないだろうが、自責思考の傾向があるすみれちゃんならば自分の意思だと後悔してくれるだろう。悪いのは全部私なのに、自分が悪いのだと気に病んで、思い出す度に曇ってくれるだろう。私が見ることのできないその姿を想像するだけでも、手間暇かけて壊した甲斐があるというものだ。

 

 

 ある程度ストレスを与えて、あと少しというところで、一度すみれちゃんに逃げるチャンスを与える。チャンス、と言っても、本当に逃げられるわけではなく、逃げる意思があるかのテストだ。何事もなければそれでよく、逃げようとするならちゃんと躾をし直す。

 

 結果は、逃げられかけた。外そうとしてもギリギリ外せなくて、でもその痕跡だけは残るくらいにしておいたはずの手錠が外されていて、鍵や私物などもほとんど回収されていた。

 

 早めに帰ったからよかったものの、すみれちゃんが大切にしていた本を別のところに保管していなかったら、きっと逃げられてしまっただろう。

 

 

 ひとまず反省と焦り。自分の想定や、実際に用意した状況に対する見積もりの甘さなんかを反省がてら、少しきつめにおしおきをする。

 

 その手段は、前半は純粋な肉体的な負荷。電気を流したり、ストレートに暴力を振るったり、様々な選択肢がある中で選んだのは、基本にして最も簡単な方法である肉体的な暴行。すみれちゃんが逃げることよりも優先して、結局見つけられなかった図鑑で、疲れて腕を上げるのが億劫になるまで殴って、すみれちゃんの反骨心を可能な限り削ぐ。

 

 それをした上での、本番の後半。図鑑(これ)のために頑張ったんだよねと、すみれちゃんの思いや努力を尊重しながら、自らを危機に晒したものをおもちゃにされる屈辱と悲しみを教えながら、私はすみれちゃんで遊んだ。

 

 多少油断があったにせよ、自分がすぐに助かることよりも優先された、美しい海の生き物図鑑。すみれちゃんの一番のお気に入りで、ほかのプレゼントと比較して一際大切にしていた一品。

 

 

 それを使って苦しめられるのは、きっとすみれちゃんにとっては許容できないレベルの苦痛だろう。思い入れのあるものが、自らを苦しめるだなんて、私であれば受け入れられない。

 

 

 

 

 そんな苦痛を経験させて、大好きだったものを恐れるようになるまでおもちゃにし尽くして、既に憎しみを覚えていた図鑑(それ)が、どれだけ大切なものなのか思い出させた上で、私はすみれちゃんの前で大切な大切な図鑑をビリビリに破って、切り刻んで、換気扇の下で燃やした。

 

 肉体的な虐待だけではなく、自分の直近の安全よりも大切にしていたものを目の前で失ったすみれちゃんは、私が思っていた通りの、しっかりとした絶望に浸ってくれた。

 

 すみれちゃんの不具に関しては少しやりすぎたと思ったものの、そこから先の流れに関しては、自分が怖くなるほど上手く進んだものだ。

 

 しっかりと、すみれちゃんは自分の意思や自分らしさなんて呼ぶべきものをあらかた失って、ただただ私のために弄ばれるだけのおもちゃになってくれた。

 

 それだけでも、私には十分すぎるほどだった。人を一人駄目にして、お人形で遊ぶように着せ替えて、餌やりをする。動かなくなった虫からはすぐに興味を失ったのに、ほとんど動かないすみれちゃんはどこまで行っても私のおもちゃだった。

 

 もう手錠を外していても、逃げなくなったすみれちゃん。私の大切なおもちゃ。綻ぶような笑顔はもう見れなくて、そのことが心を痛ませたが、遊ぶ楽しさの前ではスパイスにしかならなかった。

 

 そして、人生で最高の瞬間は終わる。



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閑話 ある“悪意”の結末

 先輩が帰ってくるまでには、全部終わらせないといけなかった。どこまでも連れて逃げられないからとか、見つかることを恐れてとか、そういう理由ではなく、ただただちゃんと返さないとという使命感から、私はすみれちゃんを解放した。

 

 なぜなのかは、正直自分でもよくわからない。初志貫徹を目指したのかもしれないし、もしかしたら私の中に、先輩やすみれちゃんに対する気持ちが残っていて、2人には幸せになって欲しかったからかもしれない。

 

 それはあまりなさそうだと思いながら、不思議な虚脱感に浸る。逃げないと、引っ越さないといけないのに、何もする気になれなかった。もういっそ、先輩が殴り込んでくるまでこのままいるなんて、自殺みたいなことをしたくなった。

 

 最後に抱きしめてみた、柔らかさを失ったすみれちゃんの温かい体を思い出す。私は、あの子を肥えさせようと思っていたはずなのに、気がついたらこんなことをしていた。

 

 

 楽しかった。間違いなく、私はこれまでの人生で一番解放されていた。仕事(日常)の裏ですみれちゃん(非日常)を飼っている背徳感。非日常の喜び。罪悪感も残ってはいたけれど、そんなことが気にならないほど楽しい時間だった。

 

 

 だから、これは当然の罰だ。溢れ出る涙も、ぽっかり空いた胸の痛みも、私が感じないといけないものだ。いや、私にはそれを感じる資格すらないのかもしれない。

 

 熱から冷めた頭が、ようやく復活した理性が、私に私の罪を理解させる。大切にしていたものを壊して、自分のためだけの快楽に耽り、何もかもをめちゃくちゃにしながら醜く喜んでいたその姿。

 

 吐き気を催すほど邪悪で、誰にも肯定されない、自分勝手な行動。誘拐監禁強姦傷害虐待、すみれちゃんに戸籍がなくて、守られるべき日本国民ではないとはいえ、あるいはそれだからこそむしろ、世間一般に広く知られたら、厳罰を求められることだろう。それだけの事をした認識はあるし、自分でもどこからどこまでが罪に問われることなのか把握しきれないくらいだ。器物破損が大したことのない罪に思えてくる。

 

 

 しばらく一人で落ち込んで横たわっていたが、引っ越す準備も終わっているわけで、少しすると業者の人達がやってくる。過去の自分が、私に逃げるよう急かしてくる。

 

 

 もう何もしたくなかったのに、まだ苦しみたかったのに、流れに任せるままに運び出しが終わった。私は終始酷い顔をしていただろうが、きっと心を病んだ社会人一年目くらいに思ってくれたことだろう。今の私の精神状態を考えれば、あながち間違っていないかもしれない。

 

 

 荷物を実家に戻して、適当なホテルに入る。しばらくは、誰とも会いたくなかった。財布の中身が空っぽになるまでホテルに籠って、ただ何も考えずに横になる。

 

 何もかもが申し訳なくて、苦しくて、嫌になった。もう今すぐにでも消えてしまいたくて、裁かれたくて、償いたかった。

 

 

 何も食べずに餓死してしまいたくて、湯船の中で溺れてしまいたくて、二度と目覚めたくない。罪の意識がべっとりと張り付いて、逃げて楽になりたいのに自分でそれを許せなかった。

 

 

 数日もすると財布も空になり、ホテルから追い出される。残った手持ちは、交通系ICの中に残っている数千円程度。あと2日くらいならどこかで何とかなりそうだが、そうするともう何も出来なくなるだろう。その状態で先輩の家に向かうのも心惹かれるが、そんなことをしたらいくら優しい先輩でも犯罪者になってしまうだろうし、きっと今頃私が壊してしまった幸せを取り戻そうとしている()()のためにも、そんなことは出来ない。

 

 他でもなくそれを壊した私が二人のためなんて、思いやりみたいなものを抱いているのは滑稽でしかないが、私は本当に、そんな理由で会いに行くのを躊躇った。

 

 もうほかに行き先もなく、重たい足で実家に向かう。私の家は、先輩や茉莉ちゃんの家と違って、家族仲もいいし、両親も優しい。幼い頃は心配もされていたけれど、私がしっかり擬態できるようになってからは、信頼されるようにもなっていた。

 

 今回の引越しのことも、突然伝えたにもかかわらずすぐに受け入れてくれたし、お父さんに至っては少し喜んですらくれた。

 

 なんの不満もない、大好きな、自慢の家族だ。どこかぼかした理由しか伝えず、しかも突然仕事をやめた娘を何も言わずに受けいれてくれるのだから、親の当たり外れで言えば大当たりだろう。

 

 ジクジクと痛む胸に苛まれながら、それに救いを感じながら、実家に戻る。暖かく迎えてくれる両親。私の行動を、失恋の結果だとでも誤解したのだろうか、お前は美人なんだから次があるなんて、見当違いの慰めをするお父さん。

 

 違うのだと、そんなまともな理由ではなく、最低なことをして、会社に居られなくなったから帰ってきたのだと、伝える。私が先輩達の幸せをぐちゃぐちゃにしてしまったから、逃げてきたのだと伝える。

 

 

 細かいことは、言えなかった。全部話してしまうと、先輩にも迷惑がかかってしまうから。そんなことを言い訳にして、本当は自分の汚いところを家族に見せたくないだけだった。

 

 そんな説明で両親が考えたのは、職場で恋愛した先輩とそのお相手に対して、私が嫌がらせをしたというシチュエーション。

「瑠璃ちゃんはたしかに悪いことをしたんだと思う。でも、高大就職ってずっと追いかけてきた好きな人を取られちゃったんだから、冷静でいられないのも仕方がないよ」

 

 そんな慰めを言うお母さんに、心が沈む。私にあったのは、そんな綺麗な思いじゃなかった。そんなに純粋なものではなかった。

 

 例えば、私が相手の子のことを、監禁して虐待して片腕までダメにしたと言っても同じことを言えるのかと、真実を話す。見せたくない汚いところを、仮定として見せてしまう。

 

 こうすれば、嫌ってくれると思った。失望して、罵って、私のことを責めてくれると思った。

 

 

「瑠璃ちゃん、瑠璃ちゃんがそんな酷いことをするような子じゃないってことは、あなたを育ててきた私たちがいちばんよくわかってる」

 

 いい、両親だった。けれど、その目は節穴だった。

 

 その言葉を聞いて、なにかが私の中で折れた気がした。あとから考えれば、そんな大事になったらこんなふうにしているはずがないという常識的な判断もあっての事だと理解できた。けれど、(救い)を求めていた私にとっては、その言葉は耐えられないものだった。

 

 

「お父さん、お母さん、ありがとう。変なこと言っちゃってごめんね」

 

 そう言って、表面上は励まされて心が軽くなったように振る舞う。そうでないと、心配をかけてしまうから。

 

 

 

 

 

 誰かに責められたかった。叱られたかった。否定されたかった。そうじゃないと、いつまでたっても罪の意識が苦しいから。

 

 誰かに、私の罪を攻撃してほしかった。罰が欲しかった。けれども、誰も責めてくれなかった。私の罪を知らずに優しくしてくれる人や、私の罪を信じずに優しくしてくれる人。みんなみんないい人で、その優しさが私には毒だった。

 

 

 嫌われたくて、でももう誰も傷つけたくなくて、何もしなかった。家の中に引きこもって、死んだように過ごす。酸素と食料を消費するのだから、むしろ死んでいるよりも酷いかもしれない。そのまま半年、ほとんど部屋からも出ずに過ごして、ふと、二人がどれだけ幸せを取り戻せたのかが気になった。

 

 

 きっと、お互いを想い合いながら、暮らしているだろう。もしかしたらすみれちゃんの腕も良くなって、以前までとほとんど変わらない生活を送っているかもしれない。

 

 

 もしそうなら、私は許してもらえるのだろうか。許してはもらえないだろう。きっと、酷く罵られて、もう二度と面を見せるななんて言われるのだろう。

 

 私の罪を、認識してくれて、罰を与えてくれるのだろう。

 

 

 罰がほしかった。だから、気が付くと私は先輩に連絡をとっていた。以前逃げた時に、ブロックしてそのままになっていたメッセージアプリ。私のやった事は、すみれちゃん経由で知っているはずなので、ブロックされているかもと思っていたが、幸いと言っていいのか、数分で既読は着き、その二時間後には返信が来て、呼び出される。2日後土曜日の昼過ぎに、数年に一回は自殺者が出るという岬。

 

 どこかで()()しながら遺書をしたためて、久しぶりに家から出て外出費を銀行から下ろす。久しぶりに活力を取り戻して外出をしたため、お父さんとお母さんは驚いていた。土曜日に大学時代の友達と会ってくるなんて言ったら納得してくれたが、当然嘘だ。私の大学時代に、友達と呼べるような相手なんて一人もできなかった。

 

 

 喜んでくれている両親に少し申し訳ないと思いつつ、準備をする。半年もまともに手を入れていなかった外見を、最低限不快にならない程度に整えて、部屋の掃除を済ませておく。

 

 遺書には何枚か追加して、以前の例え話が本当のことだったことや、もう良心の呵責に耐えられないことなどを書き加えておく。私に良心とは愉快な話だが、こんなにも罪悪感を引きずっているのだから、そろそろ私も自分の良心を認めてあげるべきなのかもしれない。

 

 

 そして、すみれちゃんとの生活を聞くために先輩に会いに行って、とても幸せそうには見えない、曇りきった顔を見て、不思議な気持ちになった。

 

 罪悪感がある。申し訳なさがある。罰を与えてくれるかもしれないという、期待がある。久しぶりに会えた嬉しさが、愛しさがある。そして、欠片ほども幸せそうでないことに対する絶望と、同じくらいの高揚がある。

 

 岬の小さいベンチに座って、波の音を聞く。不思議な気持ちのまま、先輩の話を聞く。私がすみれちゃんを解放してから何があったのか、先輩の知っていることを教えてもらう。

 

 

 

 すみれちゃんが死んでしまったなんて、私にとってあまりにも想定外な事だった。すみれちゃんが先輩から離れようと言うのも、私にとっては予想外すぎるものだった。そんなことになっているはずがなかった。

 

 なら、私の罪は。私の罪は一体どれだけのものなのだろう。先輩の、燐さんの幸せを何度も何度も奪って、一番の親友をかわいいかわいい妹分を死に至らしめてしまった私は、どうすれば償えるのだろうか。

 

 償えるはずがなかった。自分の罪すら把握していなかったような私が、罰を求めるなんて考えが甘すぎたのだ。

 

 

「それで、お前は何をやったんだ?何がしたかったんだ?」

 

 ドロリとした視線を向けられながら、私は全部を話す。幼い頃から、燐さんの虐待に気付いてずっと燐さんが好きだったこと。ずっとずっと私のものにしたくて、茉莉ちゃんをいじめさせたこと。

 

 茉莉ちゃんのことを話した辺りで、燐さんの拳に力がこもっているのがわかった。このまま進めば、殴ってもらえるかもしれない。

 

 茉莉ちゃんが死んでしまって、改心して反省したこと。それ以降燐さんの幸せのためにずっと動いていたこと。燐さんに言いよろうとしていたあいつもあいつもあいつも、心を折って近寄れなくしてやったこと。

 

 そして、すみれちゃんになら任せられると思って、かわいい妹みたいに思いながら幸せに感じていたこと。反省していたはずなのに、ずっとずっと心のどこかにドロドロした欲求があって、気がついたらダメになっていたこと。

 

 

 すみれちゃんにしたことも、簡潔だけど正確に説明した。握ったてから血が出ても緩める様子のない燐さんのその姿に、顔に、たまらなく興奮した。

 

 やっぱり、私は癖からは逃げられないのだ。

 

 殴ってもらえるかもしれない。もしかしたら、勢い余って終わらせてすらくれるかもしれない。罰を求めながら、より燐さんの表情をゆがめるために、話続ける。

 

「……もう、いい」

 

 硬いものと、やわらかさの中に硬さがあるものがぶつかった音がした。肉を殴る音がした。私が求めていたそれ。私の求めていた罰。その特徴である、鈍く響く音。

 

 

 

 

 その音が聞こえたのに、私に痛みはなかった。少し遅れて痛むなんてことも無く、全く何もなかった。

 

 それが鳴ったのは、燐さんの足の方。血が出ても力を入れ続けていた拳を、燐さんの腿に叩きつけた音だった。

 

「話を聞いていて、人を殺したいと思ったのは初めてだ。でももういい。お前の顔を見てわかった。僕はもう、お前の近くにいることが耐えられない」

 

 二度と関わらないでくれと吐き捨て、燐さんは去っていった。その背中を見送って、自分の顔に触れると、鏡を見るまでもなく歪み切っていることがわかる。

 

 

「……ははっ」

 

 鏡を見たら、乾いた声が出た。それはそうだ。あんな話を、こんな顔をしながら話せるような鬼畜外道。そんな人間なんて、私なら親の仇でも近寄りたくない。

 

 

 また。まただ。また失敗した。私は、あれだけのことをしたのに、殺したいとすら言われたのに、罰すら与えてもらえなかったのだ。あれだけ憎しみを煽って、殺してしまってもバレないかもしれない状態にいてさえ、失敗したのだ。

 

 私は、罰を与えられたかった。なのに、一番罰を与えてくれるはずの先輩は、私に何もしてくれなかった。罵倒の一つも、吐いてはくれなかったのだ。



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届いた右手

 伸ばした右手は、すぐに掴まれた。僕が手を差し出した、その直後。手を伸ばした僕自身が少し戸惑うくらいの、全く間を置かずに掴まれた手の先にいたのは、本人も戸惑っている様子で、けれども僕の手をしっかりと握っているすみれの姿。

 

 

「わたし、お兄さんと一緒にいたいです。お兄さんと一緒に、幸せに暮らしたいです」

 

 その願いは、僕にとって抱えて欲しいもの。一緒にいて欲しい僕にとって、これまでの日常に執着してくれることは、歓迎するべきことだ。

 

 

「僕も、すみれと一緒にいたいんだ。君と一緒にいるだけで、救われるんだ。君がいないだけで、寂しくて、苦しいんだ」

 

 だから、すぐにすみれに対して口説き文句のような、きっと心底冷静になってしまったら、悶えるような言葉を紡いでしまう。

 

 これでハシゴを外されたら、きっと数年後になっても悶えてしまうような、僕の心を、欲望をそのまま伝える言葉。傍から見たらクサイどころの話じゃないないだろうけれども、僕の中にある、一番素直な気持ち。

 これを録音されて、悪意的に晒されでもしたら、きっと僕はもう立ち直ることが出来ないだろう。それでも、伝えたかった。それだけ、僕にとってすみれは大切な存在だった。

 

 

「わたしも、お兄さんがいないとダメなんです。自分一人で頑張ろうと持っても、お兄さんが待っていてくれいてくれるってことが何より先にあるんです」

 

 お兄さんがいてくれないと、わたしはなにもできないんですと語るすみれ。それは、世間一般で考えれば良くないことだ。誰かの存在を、自分の根本に置くことは、ただの依存に過ぎない。

 

 なのに、僕はそれを嬉しく思ってしまった。僕がいないとダメなすみれが、その事実が、すみれが僕の元から離れない証明のように思ってしまった。

 

 

 

 

 正しくないことは、わかっている。それなのに、僕にとっては、すみれが近くにいてくれることだけが大切であった。正しくはなくても、僕が一番救われる道だった。

 

 

「それでもいい。だから、一緒に帰ろう。僕には、すみれがいない生活なんて、もう無理なんだ」

 

 

 

 最低の告白だろう。自分の存在意義すらわかっていない子供に対して、自分のためだけに生きてくれと伝える言葉。凡そまともな人であれば、絶対に告げることのないような、どこまでも自己満足な言葉。

 

 

 それでも、どれだけ最低なものであっても、僕はすみれと一緒にいたかった。それがたとえ、すみれの未来を狭めるものであったとしても、一緒にいて欲しかった。

 

 

 だから、これは僕のわがままだ。断られることが前提の、軽蔑されることが前提のわがまま。好きな人には、自分のすぐ横で笑っていて欲しいと願う在り来りなわがまま。

 

 

「わたし、ダメな子です。ひとりじゃ何もできないし、これまで以上にお兄さんに迷惑をかけることになります」

 

 

 それでいい。すみれからかけられる迷惑なんて、僕にとっては積極的に背負いたいものだ。

 

 

「これまでできていたことも、きっとできないです。頑張っても、沢山迷惑をかけてしまいますし、お兄さんの期待に答えられないです」

 

 

 気にしない。そもそも期待なんてしていなくて、それでも一緒にいたいと思ったのだ。今更多少できないところが、行き届かないところが増えたところで、大した問題は無い。

 

 

 

「それでもいいなら、何もできないわたしのことを、それでも必要としてくれるなら、やっぱりわたしはお兄さんと一緒にいたいです」

 

 家事をしてくれるから、ご飯を作ってくれるからすみれと一緒にいたいと思ったのではない。仕事で疲れて帰った時に、おかえりなさいと言ってくれた。何も無い日を、一緒に過ごして幸せな日にしてくれた。そんなすみれだから、一緒にいたいと思ったのだ。

 

 

 悪い言い方をすれば、ペットに求めるような癒しを求めていたのだ。いい言い方をすれば、僕が生きるための、活力になってくれたのだ。

 

 だから、僕の答えは当然ひとつだ。すみれのことを求めた時点で、すみれが僕を思ってくれる限り、その温かさを持ってくれる限り、僕はすみれを求め続ける。

 

 

「何もしてくれなくてもいい。ただ一緒に過ごして、一緒に笑って、僕の過ごす人生の横にいてくれるだけで、僕は幸せなんだ」

 

 きっと、こんなふうに考えるのは、僕の隣にいてくれる人がこれまで、いなくなってしまった茉莉と、裏切ってしまった溝櫛しかいなかっただろう。僕はほかの人よりも人一倍、隣にいてくれる存在に執着していた。そうでなければ、もう少しまともな言葉を言えていただろう。

 

 

 

 それでも、僕にとっていちばん伝えたかった言葉はこれであり、きっと僕の中にある寂しさを解消するために一番適している言葉がこれだった。

 

 

 そんな言葉に、答えてくれたすみれの小さな右手。

 もう片方の手をプラプラと揺らしながら歩くその手を握って、家に帰る。

 

 僕の家だ。僕たちの家だ。ずっと抱えていた心配が、望み通りのものとは離れていたにせよ、僕がいて、その横にすみれがいてくれる生活。“あたりまえ”の形が変わってしまったとしても、ずっと戻りたかった大切な家だ。

 

 

 久しぶりに帰った家は、掃除がされておらず、少し埃っぽい。最初の頃はすみれが掃除をしてくれていたようだが、それも途中から途絶えてしまったのだろう。ところどころ、中途半端な掃除の痕跡が見られる。

 

 すぐに掃除をするから待っていてほしいと動き出そうとするすみれを止めて、逆にすみれに休んでいてもらう。狭い家であることが幸いして、最低限の掃除は10分そこらで済んだ。十分な掃除とは言えないが、今日一日休む分には問題ないだろう。

 

 僕が掃除をしている間にすみれが沸かしておいてくれたお湯を使って晩御飯を作る。お腹がすいていることと、冷蔵庫の中にまともな食品が入っていないことから選ばれたのは常備していた賞味期限の怪しいカップラーメン。

 

 

 一食には少し足りないくらいの量を食べながら、左手が使えないせいであまり行儀がいいとは言えない食べ方をしているすみれを見る。

 

 左手が使えないのだから、カップを持つことは出来ない。カップを持てないのだから、容器の近くに顔を近付けなければならない。高さがある程度決まっている机と椅子で、顔を近づけるためには覆い被さるようにならざるをえない。

 

 結果として、すみれは自然と行儀の悪い食べ方をすることになっていた。周りに汁を飛ばすことを恐れなければもう少しまともな食べ方が出来たのかもしれないが、すみれが選んだのはそんな食べ方だった。

 

 俗に言う、犬食いに近い食べ方。

 

 品がないとは思う。何も知らずにこの食べ方をしている人を見て、好印象を抱くかと言われれば否だ。

 

 それでも、それは仕方がない理由で、背景を理解しているのであればむしろ好印象にもなるだろう。まともな教育も経験もないのに、僕のために苦しんでくれるのだ。否定することの方が、難しい。

 

 多少机が汚れたところで、何も問題は無いのだ。少しぬぐえばなかったことになる僅かな汚れを避けるそのあり方、その想いが何よりも僕には嬉しいものだった。

 

 ようは、僕にとってその行動は、僕の前で多少気を使っている、考え方次第では、僕にいい所を見せようとしてくれているということなのだ。そうであるのであれば、そう思って貰えるだけの好意を抱いてくれていることが、僕には嬉しいとしか言えない。

 

 

 

 すみれの布団がなくなってしまったから、僕の布団をひとまず使ってもらう。その間、僕が寝る場所はいつもの人をダメにするソファーでいい。出張の先の布団事情から考えれば、クッションに毛布を被るだけの環境でも、だいぶ改善されているのだ。

 

 

 断面的に話を聞いただけでも、溝櫛の家に監禁されていた時よりもずっとまともな生活を送れているはずなのだ。

 

 

 布団があって、最低限の食事が保証されていて、苦しいものが何も無い環境。すみれのこれまでを、溝櫛の元にいた頃を考えれば、比べ物にならないほど幸せな環境だろう。少なくとも僕は、僕らの家がすみれにとって安心できて落ち着ける場所であって欲しいと思っている。

 

 それなのに、僕の目から見てすみれの表情は、どこか浮かないものであった。僕が気を遣える中で最大を尽くしたのに、すみれは暗い表情のままだった。



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届いた右手(裏)

 その手を、半ば無意識のうちにその手を握ってしまいました。温かくて、少しだけ固くて、とっても、とっても安心できるその手。

 

 わたしはダメな子なのに、片手がダメになって、もっとダメな子になってしまったのに、お兄さんの手を取ってしまいました。わたしみたいなダメな子が、お兄さんにずっと付きまとっていても、お兄さんにとっていいことは何もないとわかっているのに、我慢することが出来なくてつい握ってしまいました。

 

 わたしがお兄さんに付きまとったら、きっとお兄さんのことを不幸にしてしまうことはわかっています。わたしの存在が、お兄さんに迷惑をかけてしまうことも、わかっています。それなのに、一度握ってしまった手はお兄さんのことを離せませんでした。自分の手が、お兄さんのことを良くない沼に引きずり込む魔手だとわかっていても、離れることができませんでした。

 

 わたしは、それだけ繊細な存在だったのです。わたしは、偶然の積み重ねでやっとここにたどり着いた存在だったのです。

 

 

 理性的に考えれば、わたしはお兄さんから手を引いて、勝手に野垂れ死ぬ道を選ぶべきなのです。そのはずなのに、わたしはお兄さんから離れることが出来ずに、できる限り一緒にいられる理由を考えてしまいます。

 

 一緒にいたい人と、一緒にいられる方法を考えてしまいます。

 

 

 それを成し遂げる方法は、簡単でした。それが求められているように、物事を運べばいい。ようは、わたしがお兄さんの近くに居座れるだけの理由があれば、わたしのことを求めてくれているお兄さんがそのように計らえる猶予があれば、行動としては簡単です。

 

 

 お兄さんが、燐さんが、わたしのことを求めてくれるとすれば、それはわたしが家事をできるからで、役に立てるからです。ほとんど何もできないわたしが、唯一役に立てることは、お兄さんのために家事をすることです。

 

 わたしが初めてここに来た時から、それは変わりません。お兄さんにとって負担になっているであろうことを、代わりにやっておけることだけが、わたしの存在意義です。

 

 であればこそ、わたしは今の状況であっても、役に立てるということを示さなくてはなりません。たとえ片手が使えなくても、役に立てることを示さなければ、私はただの穀潰しになってしまいます。

 

 だから、久しぶりに帰ってこられた、私たちの家で、家事をしなくてはなりません。お兄さんがどれだけ優しくても、わたしが何も出来なくても見捨てたりしないと言ってくれたとしても、わたしの存在意義は家事をすることです。

 

 

 だから、久しぶりに帰ってきたおうちで、役に立つために、中途半端で途切れていた片付けを掃除をしようと思いました。瑠璃華さんに監禁されていたせいでできなかった役目を果たそうとしました。

 

 それなのに、お兄さんはわたしに休めと言います。大変だったから、辛い思いをしたからと理由をつけて、わたしに休めと言ってくれます。

 

 

 その言葉自体は、思いやり自体は、とても嬉しいことです。お兄さんがわたしのことを大切にしてくれている証拠ですし、 思いやり自体はとても嬉しいことです。

 

 それでも、その思いやりは、わたしにとってはわたしがいなくてもお兄さんは困らないのだと、多少の面倒を被るだけで問題は無いのだと言われているようなものでした。

 

 お兄さんにそんなつもりがないことは、わかっています。お兄さんには優しい気持ちしかないのだと、わかってはいます。それでも、わたしの唯一の存在意義を否定されたことは、わたしにとっては耐えられないことでした。

 

 お兄さんの身の回りの事は全てしたかったのに、お兄さんに求められるために依存されたかったのに、お兄さんはその行動で、わたしが居なくても充分生きていられることをしてしてしまいます。元々一人暮らしをしていたのだから当然のことなのに、わたしにはその事が酷くショックでした。

 

 

 わたしが何もしなくても、お兄さんは食事を用意できます。わたしのことを気遣いながらも、お兄さんは生きていられます。

 

 当然のことです。当たり前のことです。わたしがいなかったとしても、お兄さんは生きていられます。

 

 

 わたしがいなくても掃除はできますし、ご飯も用意できます。用意する食事のクオリティが多少変わったとしても、根本的に必要とされていないことに変わりはありません。わたしはお兄さんがいないと何もできなくても、お兄さんはわたしがいなくてもなんとでもできます。

 

 わかっていたことです。知っていたことです。それでも、その事が何故かショックでした。自分の存在意義を否定されるような感覚。

 

 

 わたしに何もするなと、ゆっくり休んでいてくれと言って、お兄さんはテキパキと掃除をしました。わたしの役目、わたしがやらなけてはならないことを一人でこなしながら、お兄さんはわたしを待たせました。

 

 何もできないまま、何も役に立てないまま全部片付いてしまいました。

 

 

 お兄さんが、わたしがいなければ何も出来ないなんて、そんなことはありえません。わたしが会うより前のお兄さんは、全部一人でやっていたのですから。一人でできていた以上、わたしがいなくてもお兄さんは大丈夫なのです。

 

 わかっていたことでした。それでも、認めたくないことでした。わたしの願いとして、お兄さんに依存されたいというものがある以上、お兄さんにはわたしがいなければ何もできない人であって欲しいのです。それがどれだけ歪んだ欲求であるかは理解した上で、お兄さんにはそういうものであって欲しいのです。

 

 そんな思いがあるせいで、お兄さんが私に優しくしてくれることが、苦しかったです。嬉しいはずの思いやりを、わたしは素直に受け入れることが出来ませんでした。

 

 お兄さんがわたしのために時間をかけて、わたしが快適に過ごせるように動いてくれることが、悲しくて、苦しくて仕方がありませんでした。

 

 

 わたしがやり途中で、ちゃんとこなせなかったお掃除をしてくれます。お家の中をしっかり綺麗にした上で、ちょっとしたご馳走を用意してお兄さんを迎えたかったのに、わたしは何もできないままお兄さんのベッドに座っています。

 

 やりたかったことが、やろうとしていたことがなにもできていない中で、お兄さんは全部こなしてくれました。わたしにできたのは、任せてもらえたのは、電気ケトルでお湯を沸かすことだけです。

 

 お湯を沸かして、わたしが来るよりも前から蓄えられていたカップラーメンを作ることだけです。

 

 

 味の濃いカップラーメンを、栄養なんて考えられていないカップラーメンを食べます。久しぶりのお兄さんとの食事。まともなものとは言いたくないそれでも、とっても安心感がありました。美味しいと思ってしまいました。わたしがちゃんと作れればもっと美味しくて栄養バランスに優れたものを作れたのだとわかっていても、それを美味しいと思ってしまいました。

 

 

 とても、悔しいです。本当ならもっとちゃんとしたものを食べてもらうはずでした。本当ならもっと、ちゃんとしたものを作れたはずでした。

 

 お兄さんのお腹を満たして、喜ばれる役目はわたしが担当できたはずでした。

 

 それなのに、お兄さんが久しぶりに食べて、やっぱり美味しいなとしみじみと漏らしたのは、カップラーメンでした。

 

 元々わたしは、お昼ご飯のカップ麺に嫉妬するような子です。こんなタイミングでわたしがやっていたはずのことを奪った大盛カップラーメンに、嫉妬しないはずがありません。

 

 羨ましくて、悔しくて、辛いです。必要として欲しいのに、何の役にも立てません。一緒にいたいのに、近くにいたいのに、怖いと感じてしまいます。

 

 手を掴めたのは、考える暇もなかったからです。反射的なものだったから、頭が理解していなかったから掴めただけで、きっと少しでも考える余裕があったら掴めませんでした。

 

 

 そんなことを考えながら食べ終えて、染みるのを我慢しながらシャワーを浴びます。痛いのが怖いのだと言い訳をしながら、お兄さんを怖がっているのを隠して手当してもらいます。

 

 優しくて、丁寧な処置です。そのままお兄さんの布団で寝かせてもらって、長かった一日が終わります。

 

 とても、安心できる匂いです。思わず涙が出てきて、お兄さんの枕を濡らします。帰ってこれたのだと、ようやく実感が湧きました。



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見える問題と、見えない問題

 出張先のベッドよりも寝心地の良かったソファから起きて、それでもあまり良くなかった睡眠の質を振り返る。早め、と言うよりも今日中にはすみれの分の布団を用意しなくてはいけない。

 

 まさかすみれが溝櫛の家に持って行って、それが向こうで処分されてしまうなんて思ってもいなかったため、少し痛い出費ではあったが、出張分の手当があるのでそこまで大きな問題は無い。

 

 どちらかと言えば、問題になるのは病院代の方だ。動かなくなっている腕に、痛々しい感電の痕。痣が残っているところもあるし、目に見えないだけで内側にも問題があるだろう。

 

 その分の検査と治療、保険証なんて当然ないので完全に自己負担。いくらかかるのか、検討もつかない。

 

 穏やかなすみれの寝顔を眺めながらそんなことを考えて、とりあえずATMまで現金を確保しに行く。ついでにある程度の食材を買って帰ると、すみれはもう目を覚ましていた。

 

 

 僕の帰宅と同時に、どこか影が残っていたすみれの表情が、少しだけとはいえ明るくなった。

 

 すみれからすると、久しぶりに帰った家で、唯一外との繋がりを確保している相手がいなかったわけだ。当然、緊張もするだろうし驚きもするだろう。

 

 

 

 そのことをそんなふうに素直に受け止めて、直後に起き上がろうとして、バランスが取れずに倒れ込む姿を目の当たりにする。起き上がろうとして支えにしようとしたのであろう左手が、何も支えることなく潰れた。

 

 僕が思っていた以上に、片手が使えないということは重いことだった。慣れれば多少はマシになるのかもしれないが、それにしてもベッドから起き上がろうとするだけで問題があるなんてことは、想定すらしていなかった。

 

 

 認識が足りていなかった。気遣い語りていなかった。咄嗟に駆け寄って、起こそうと伸ばした手が、小さな声とともにはたかれる。

 

 サッと青ざめる顔と、違うんです、ごめんなさいと繰り返される言葉。

 

 ただならぬ様子に驚きながら、近寄ろうとするとビクリと震えるので一度距離を置いて落ち着くのを待つ。

 

 落ち着くまでにかかった時間は、5分程度だろうか。落ち着くように伝えながらしばらく待って、ようやく話せるようになったすみれに、事情を聞く。

 

 怖かったのだと、言われた。僕が、ではなく、人自体が怖いのだと。頭では大丈夫だとわかっているのに、体が勝手に拒んでしまうのだと言われた。

 

 その理由は、聞くまでもないだろう。信頼していた人に裏切られて、全部聞けたわけではないけれど、酷い目に遭わされているのだ。多少の人間不信ならなって当然だし、反射的に拒んでしまうような状態で頭だけでも信用してくれているのであれば、むしろ幸いと言っても過言ではない。

 

 

 落ち着いたから今はもう大丈夫だと言うすみれが体を起こすのを手伝って、座って待ってもらっている間に朝食を用意する。片手しか使えないことを考慮して、メニューは簡単なサンドイッチ。

 

 お腹を空かせていたらしいすみれががっつくのを見ながら、僕自身は普段通りのスピードで食べる。いつも僕が食べ終わってもまだ食べていたすみれは、僕よりも先に食べ終えていた。

 

 少しだけ待たせながら食べきって、今日の予定を話す。必要なことは、病院に行くことと布団を買うこと。ついでに食品の買い出し。本当なら戸籍の確保のために動き出したいが、今日はあいにく休日だ。役所は開いていない。

 

「がんばります。少しでも早く、普通に戻りたいから」

 

 外に出るのが怖ければ後ろの二つは僕がやっておくのだが、病院だけは本人がいないとどうもできない。そう伝えると、すみれからはポジティブな回答が返ってきた。

 

 幸い半分くらいは残っていた服を着てもらい、助手席に乗ってもらって向かう先は一先ずは病院。怖いのなら、気になるようなら後部座席に乗ってもいいのだと伝えても助手席に座ったすみれは、たまにビクビクしながらも、僕に気を使わせないようにしてくれていた。

 

 

 

 きっとわざわざ話したい内容が無い中で続く会話を、少しでもそれを続けたいのだという意思。

 

 大した話はできないけれど、出張先で大変だったことを話す。すみれがいないことで、どれだけ大変だったのか。すみれに任せていたことで、自分がいかに堕落していたのか。

 

 離れたからこそ、痛感できた事実。

 

 家に帰ったら食事があるのなんて、普通じゃないのだ。予め作り貯めしていたとしても、主食におかずだけでも温めるのには数分かかる。液体なんかは保存に向かないし、教科書に載っていてもおかしくない献立なんて、普通の生活で作れるはずがないのだ。

 

 家に着いてから、最低限の食事を用意するのに一時間かけた。もっと、栄養価を考えていないものなら早くできたのかもしれないが、健康のことを考えると、どうしても選ぶものは少し高めになってしまっていた。

 

 

 そして何より、誰もいない部屋はひどく寂しかった。

 

 

 病院について、問診票に必要なことを書き込む。住所は一先ず僕の家。生年月日は、正しいかはわからないがすみれの記憶を頼りに大体のものを。異常のある箇所は、ぱっと覚えている部分だけでも20以上。服を着れば隠れるものだけだったことと、長袖でも暑くない時期であることが不幸中の幸いだろうか。

 

 待合室の人々に怯えるように小さくなるすみれ。すぐ近くにくっついていて、その不安を誤魔化してあげられれば、まだ良かったのだろう。

 

 けれど生憎なことに、すみれは僕のことすら警戒するようになってしまった。だから、不安にさせないために近くにいることも、できないのだ。僕は、すぐ横で怖がっているすみれの支えにも、なれないのだ。

 

 呼吸が安定していないまま、目を閉じた状態で少しでも落ち着こうとしているすみれに歯がゆい思いをしながら呼ばれるのを待つ。

 

「灰岡さーん、灰岡すみれさーん」

 

 診察室にお越しください、と続けられた言葉。

 

 

 少し顔を赤くしたすみれと一緒に、診察室に入る。中にいたのは、医者らしいおじいさんと、看護師らしいおばさん。促されるままにすみれを座らせて、僕は一歩後ろの保護者用の席に座る。

 

 問診票の内容を確認して、少し険しい表情になるおじいさん。今のすみれの様子を見て、ただ転んだとかの怪我だと思うようなら節穴もいいところだ。どう考えても虐待と思って然るべきで、彼からした場合での1番疑いの高い人物は、その目の前にいる。

 

 

「細かく確認したいことがあるので、少々別室で検査します。こちらへどうぞ」

 

 

 簡単な診察の後、医師はそう言ってすみれを奥の部屋に連れていった。ぺこりとお辞儀をして看護師さんもそれについて行く。一人で数分待たされて、戻ってきた医師が指圧やすみれに手足を動かさせたり、なにかの画像を確認したりする。

 

「まず左手ですが、神経が切れているわけではないので、ストレスなどの心因性のものだと思います。その他の外傷については、痛みや発熱はあると思いますが、後遺症が残るようなものはありません。相当上手に虐待されていますね」

 

 リハビリは別の病院を紹介しますと言って、医師は診察を終えた。待合室に戻り、少し待った後に診察料と湿布代を払う。車のシートに座って、少し息を整えたところで、すみれはやっと緊張の糸を緩めた。



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見える問題と、見えない問題(裏)

 片手じゃ上手にご飯が食べられなくて自ずと犬食いになっちゃう女の子ってかわいくない?かわいいよね(╹◡╹)




 

 

 痛みも衝撃もなく、ふわっと意識が上がってきて、目が覚めます。外から何も無い、自然な目覚めというのはとても久しぶりなものです。

 

 起きて最初に考えたのは、おそらく直後に来るであろう衝撃への備えでした。わたしが自分一人で起きれたとしても、起きたその直後には瑠璃華さんからの虐待が始まります。

 

 だから、用意しました。いつも大体お腹を殴られるから、少し力を入れておきます。ちゃんと力を入れると、対処しようとしていたことがバレてもっと痛い目をみます。

 

 

 そうして、目を閉じたまま備えて、少しすると自分がちゃんとお家に戻ってこれたことを思い出しました。

 

 目を開けると、お兄さんの家です。お兄さんとわたしが暮らしていた、いつもの家です。わたしが寝ているのは、お兄さんのベッドです。埃っぽい匂いの中に、ちゃんとお兄さんの匂いが残っています。

 

 安心できる匂いで、わたしの好きな匂いです。お布団の中から、出たくなくなります。しばし堪能して、周りを見ると、部屋に明かりがついていませんでした。

 

 窓から差し込む日差しの角度を考えても、時計を見ても、お兄さんは起きている時間のはずです。それなのに、部屋が暗いということは、お兄さんはどこかへ出かけているのでしょうか。寝ているわたしを置いて、出かけてしまったのでしょうか。

 

 お兄さんのことですから、ちゃんと帰ってきてくれることはわかっています。わたしが変に不安になりすぎているだけで、何も問題ないことはわかっています。これまでだって何度か似たようなことはありましたから、大丈夫なことはわかっています。

 

 

 それでも不安になってしまうのは、お兄さんがこのまま戻ってこなくなったらと思ってしまうからです。怖くなってしまうのは、目の前に瑠璃華さんが現れたらと思ってしまうからです。お兄さんがいてくれれば考えなくて済むことを、お兄さんがいないだけで考えてしまいます。

 

 自分のいる場所がわからなくなって、不安になって、お兄さんの匂いに縋ります。布団にくるまって、枕に顔を擦りつけます。今はこれだけが、わたしを守ってくれます。

 

 

 しばらくそうしていて、玄関が開く音が聞こえたのでそちらを向きます。案の定というか、当然というか、帰ってきたのはお兄さんです。手に提げている袋を見るに、食材を買ってきてくれたのでしょう。昨日の晩のカップラーメンがなくなると、家に食べ物は皆無と言っても過言ではありません。買い出しをしてくれたのは、とてもありがたいことです。

 

 それをお兄さんにさせてしまったということがもうしわけなくはありますが、わたしのことを寝かせておいてくれたのはお兄さんの優しさです。これには、美味しいご飯を作って報いなくてはいけません。

 

 そう思って、お兄さんが買ってきてくれた食材を確認しようとして、体を起こします。起こそうと、します。

 

 両手を使って、起き上がろうとして、左手に力が入りませんでした。自ずと、力のバランスが取れなくて、崩れます。体が傾いて、倒れた後にお兄さんが私を心配してくれて、身体を起こそうと駆け寄ってくれます。

 

 支えてくれようとして、手を伸ばされます。ありがたいはずの、嬉しいはずのその気遣い。そのはずなのに、それがひどく怖いものに見えてしまい、わたしは反射的に振り払ってしまいました。やさしい手を、拒絶してしまいました。

 

 

 お兄さんのことを、拒絶してしまいました。

 

 そのことを理解して、頭の中が真っ白になります。血の気が引くのがわかります。お兄さんに嫌われたら、捨てられたら、わたしにはもう何も残らないんです。

 

「ちがうんです」

 

 それなのに、お兄さんの手が、わたしに伸ばされる手が、悪意に満ち溢れたあの手と重なってしまって、怖くなってしまいました。お兄さんはそんなことをしないとわかっているのに、こわくなってしまいました。

 

「ごめんなさい、違うんです。わざとじゃないんです。ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 パニックになっていることが、自分の中の冷静な部分でわかります。これは良くないとわかっているのに、頭は白いままで、ひたすら言い訳にもならないような言い訳を繰り返します。

 

 

 冷静になるまで、お兄さんは待ってくれました。放置するのではなく、わたしのことを心配そうに見ながら、待っていてくれました。

 

 お兄さんにわけを話します。大丈夫だとわかっているのに、こわくなってしまったのだと。お兄さんがこわいのではなく、人がこわくなってしまうのだと。お兄さんことは、他の誰よりも信頼しているのだと。

 

 

「そうなんだ。気が付かなくてごめんね」

 

 悪いのはわたしなのに、こわくなってしまうのもそれを隠そうとしていたのもわたしなのに、お兄さんが謝ります。謝ることなんて何も無いのに、お兄さんに謝らせてしまいます。

 

 

 それが嫌で、お兄さんの気持ちが嬉しかったのだと伝えたくて、もう大丈夫だからと起きるのを手伝ってもらいます。本当は一人でも、片手だけでも起きられるのに、お兄さんの優しさに甘えます。

 

 起き上がったことで見れた買い物服の中身は、卵と野菜と食パンです。これで作れるのは、サンドイッチでしょうか。片手だけだとそれでも難しいかもしれませんが、久しぶりのお料理です。気合いを入れなくてはなりません。

 

「朝ごはんは僕が作るから、すみれはゆっくりしていて」

 

 そのはずなのに、お兄さんはわたしを頼ってはくれませんでした。わたしに、仕事をくれはしませんでした。

 

 少し落ち着いて考えれば、当然のことです。だって、わたしは片腕が使えないのですから。片腕が使えないのに、両腕が使えた時のように料理ができるはずがありません。もちろんある程度は可能でしょうが、いまのわたしには、どこからどこまでが自分にできて、どこからどこまでができないのかの判別がつきません。

 

 むしろ、なんで御飯の用意をする気だったのかが分からなくなるレベルです。お兄さんの判断はどこまでも真っ当で、わたしはあまりにも何もできません。

 

 無力感に、襲われます。お兄さんがご飯の準備をしているのを、何もしないまま見ています。卵を茹でて、野菜を切って、挟んでいくその手際は、わたしが料理をしていた時よりもずっといいです。

 

 

 20分もかからないで、3種類のサンドイッチができました。ついでに野菜ジュースもついています。片手でも食べやすいように、小さな三角形に切り分けられたサンドイッチを食べますが、片手しか使えないとやっぱり綺麗に食べることが難しいです。

 

 こぼれてしまっても大丈夫なように、お皿の上に口を運んで食べます。なるべくこぼさなくて済むように、急いで食べます。

 

 お兄さんの前ではできる限りいい姿を見せたいのに、今のわたしははたから見たら食い意地が張っているように見えます。たしかに美味しいから、いっぱい食べたいのも間違いではありませんが、あまり汚い食べ方をしてしまうと、軽蔑されてしまうかもしれません。

 

 

 それは、嫌です。でも、口に入れた端からボロボロこぼすのと、食べるのが少し汚くて早いのであれば、後者の方がまだマシです。お兄さんの前ではずっと上品に振る舞いたかったけれども、比較すれば多少下品な程度で住む方がマシです。

 

 お兄さんよりも先に食べ終わって、お兄さんが食べ終わるのを待ちます。食べ終わったお兄さんが、今日やっておきたいことを、わたしに気を使いながら伝えてくれることに対して、なるべく、可能な限りお兄さんの方針に従うことを告げます。わたしが考えて行動できることと、お兄さんがわたしのことを考えて用意してくれることであれば、間違いなく後者の方がいいからです。わたしのことを思ってくれているお兄さんが選ぶのであれば、それはわたしが考えるものよりも優先されるべきです。

 

 

 自立心がないと、自己決定能力にかけていると言われてしまえば、その通りでしょう。けれども、わたしは自分の選択を、考えを信じられません。何も知らないわたしが考えつくことなんて、お兄さんであれば考慮しているはずですをその上でわたしに判断を委ねてくれるのは、わたしの心理的な抵抗を考えてくれているからです。

 

 

 何はともあれ、わたしには、お兄さんが与えてくれた選択をするしかありません。買い物が必要なのだと言われれば、それは必要なものです。病院で検査をしてもらった方がいいと言われれば、検査をしてもらうべきです。たとえわたしが、部屋から出ることが怖くても、お兄さん以外の人と関わることが恐ろしくて仕方がなかったとしても、そうすることが正しいのです。

 

 もちろん、お兄さんはわたしが嫌だと言えば、本気で拒否をしたら、それがどれほど大切なことであったとしても聞いてくれるでしょう。戸籍のないわたしを、リスクを踏まえて保護してくれるような人です。

 

 そんな人だから、信頼できます。わたしの全部をかけてもいいと、かけたいと思えます。お兄さんがわたしのために考えてくれたことであれば、わたしは無条件にそれを信じます。恩人のことを、誰よりも大好きな人のことを信じます。

 

 たとえそれが、辛いことであったとしても。お兄さんのことすら怖いと思ってしまうわたしが、耐えられるかギリギリなものであったとしても、わたしはただただお兄さんのことを信じて、お兄さんの選択に従います。



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久しぶりの“お買い物”

すみれが落ち着いたのを見て、車を動かす。次の目的地は、ホームセンター。スーパーが隣接されているところで、晩の食材もついでに買える。

 

半歩後ろから着いてくるすみれに気を遣いながら店内を周り、一番最初に買うものはメインの布団。以前は色々入り用だったのでそれなりのもので済ませたが、今回はあの時よりも余裕があるし、新生活が始まる時期ということもあって少し安くなっている。

 

あまり値段は気にせずに、好きなものを選ぶように伝えて、選ばれたものをカートに載せる。あとは、片手しか使えなくても料理はしたいと言うすみれのために、いくつかキッチン用品を揃えれば、追加で必要なのは雑貨。

 

普段の日常品に関しては、僕よりも家の管理をしっかりこなしてくれていたすみれの方がずっと詳しいので、即必要なものとあった方がいいもの、念の為の予備などいくつかのパターンで必要なものを教えてもらう。

 

 

考えてみれば、自分の家の中に何がどれだけあるのか、ほぼ正確に把握していた、一人暮らしの時代からは大きく変わったものだ。いちいち確認しなくてはならないのは面倒なことのはずなのに、その作業が全く負担にならない。すみれが、大切な人が身の回りの世話をしてくれることが、家の中のことを把握して、こなしてくれるということが嬉しかった。純粋に、僕のことを気遣ってくれることが、幸せだった。

 

 

そう思って貰えるだけで、僕は生きている意味を感じられたのだ。妹の、茉莉のためだけに耐えていた生活の中で、気がつけば僕は“自分のためという意識”を失っていた。

 

何かのために、誰かのために生きることが、努力することが、僕の生きがいであり、モチベーションだったのだ。おかしいことは、不自然なことはわかる。けれども、僕はそのあり方しか知らなかった。

 

 

そして、すみれは僕のことを必要としてくれるのだ。衣食住の根本的なところから、僕の推測が間違っていなければ精神的なものまで。僕のことを必要としてくれている。信頼関係を築いた僕のことを、求めてくれる。

 

 

その事は、僕にとって幸せな事だったのだ。無論、それが歪なものだという自覚はある。それでも、離れることが出来ないくらいに、それは甘美で、幸福で、罪深い幸せだった。

 

要は、僕はすみれの不幸を、自分が満たされるために利用しているのだ。感情的には、すみれが幸せになることを求めているにしても、僕の中のどこかが、すみれを幸せにした自分の行動やあり方で気持ちよくなろうとしているのだ。

 

 

やらない善よりやる偽善とは言うけれど、moreであったとしてもmostではないのが、僕の動機なわけだ。

 

どこからが利他思考になるのかはともかくとして、僕の考えは、僕にとっては利己的なものだった。

 

 

「えっと、トイレットペーパーが残り2ロールです。あと、お砂糖と卓上胡椒がそろそろ予備に手がつきそうで、柔軟剤も残り半分くらいです」

 

そんな僕の思いを、汚さを無視するように、すみれは細かいところまで把握していて、僕が知りたかったことを的確に教えてくれる。

 

 

一人暮らしの時は、気が楽だった。何かあったとしても困るのは自分だけで、誰にも迷惑をかけることなく自己責任で全てが済んでいた。

 

 

その頃の方が気が楽なのに、僕は今の方が幸せだった。他に必要なものは特にないはずだと少しだけ不安そうにするすみれに、晩御飯は何を食べたいか尋ねる。そのための食材と、その他に数食分のものを揃えたら、買い物は終了だ。

 

家に帰って、明るいうちから晩の準備を始める。煮物はしみればしみるほど美味しくなるものだ。

 

弱火で煮込んでいる内にすみれの布団を開封して、僕の布団の上でぼーっとしていたすみれを移動させる。これまでは、基本的にいつも動いていたり、何かを楽しんでいたりと能動的に動いていたすみれが、何もしないでいるのはめずらしい。

 

テレビをつけて、暇を潰す。一応火を使っているので、何かに集中できるほど意識を離すことはできない。けれどただ何もせずに鍋を眺めているのも退屈なので、このくらいがちょうどいい。

 

 

会話がない時間が過ぎる。どこか思い詰めた様子のすみれに、どう声をかければいいのかが分からなかった。これまではすみれから話題を降ってくれることが多かったから気にしたことがなかったけれども、どうやら僕は話題の提供能力も低かったらしい。

 

 

すみれが傷つかなくて、ちゃんと乗ってくれる話題で、話していて明るい気持ちになってくれるような話。考えても考えても、ひとつも出てこない。出てくるのはどれも難点のある話題ばかりで、今よりも空気が重くなる可能性を考えると、どうしても決心がつかない。

 

 

一つだけ幸いなのは、すみれがこの空気の中で、そのことを全く気にしていなさそうなことだろうか。僕が一方的に気まずく思っているだけで、すみれからすると気まずくもなんともないということは、今の僕にとっては唯一の救いだ。

 

結局、良さそうな話題を見つけることが出来ないままで煮物は完成して、レンジで作ったおひたしと合わせて一汁二菜の食事を用意する。すみれが基本的に一汁三菜で用意してくれていたことなんかを考えると、僕の作ったメニューは少し物足りないものだ。

 

すみれと暮らしてきたから、すみれに家事をやって貰っていたからこそ、そのことを痛感する。これからは、これまでと同じものを作ってくれるために、もっと途方もない労力が必要になるのだ。

 

僕にとって面倒なことを、負担になることを積極的にこなしてくれた、こなすことのできたすみれは、もういない。

 

 

それでもいいと思った。たとえ何も出来なかったとしても、今そこにいてくれることが大切なのだ。

 

だから、すみれに少しでも喜んでほしくて、すみれが食べたいと希望した煮物を用意したのに。

 

それを食べているすみれの表情は、どこまでもくらいものだった。喜んでほしくて、作ったこの料理に対してすみれが見せてくれたものは、悲しそうな表情と、目の端っこから流れ続ける小さな水滴だけだった。

 

僕は、すみれのためと思って頑張ったその全てで、すみれのための行動を取れなかった。すみれを、泣かせてしまうような道しか見つけることが出来なかった。

 

僕は、少なくともこの時に限って言えば、きっと全ての選択を失敗したのだ。もっと真っ当な道があったはずなのに、選ぶことが出来なかった。



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久しぶりの“お買い物”(裏1)

 頑張って病院に行くことを伝えると、お兄さんは優しい、穏やかな表情になりました。すぐにお出かけの準備をします。お兄さんが他の服よりもたくさん可愛いと言ってくれた、お気に入りの服はほとんどがなくなってしまいましたが、残っているものも全部お兄さんが買ってくれたものです。

 

 着替えて、ハンカチなどの小物も持って、右側のポケットが軽いことに気がつきます。いつもそこにあった、携帯電話が無くなっているからです。お兄さんから貰った大切なもので、最終的にはわたしが壊してしまったもの。ないと不便だから、もう一度欲しいと思いますが、また失うのが怖いです。

 

 お兄さんのことを待たせてしまっているので、喪失感と罪悪感を感じながら車に向かいます。家の中から出ることが、1人だけの安心出来る場所から出ることが、とてもこわくて、わたしに気を使って先に車に向かってくれたお兄さんに、申し訳なく思います。

 

 わたしは、人がこわいです。自分の近くに誰かがいるのが怖くて、一番安心できるお兄さんが相手でもこわいです。車の助手席に乗り込むと、その事がよくわかります。

 

 ふとした拍子に、お兄さんの小さな動きに、過敏に反応してしまう体。反射的につぶってしまう目と、頭を庇うために小さくなろうとする全身に、動く右腕と反応のない左腕。

 

「あまり辛い様なら、後ろの席に移動する?多分そっちの方が多少マシだと思うよ」

 

 こわいんでしょと気を使ってくれるお兄さん。お兄さんの言う通り、後ろの席に行った方がきっとわたしは落ち着けるのだと落ち着けるのでましょう。それは、他でもないわたしがいちばんわかっています。けれど、それをしてしまえば、わたしはいつまでたってもお兄さんを怖がるままです。

 

 もしかしたら、半年も経てば自然と受け入れられるようになるのかもしれません。時間が全部を癒してくれて、すっかり平気になる。そんな未来も、あるのかもしれません。

 

 

 けれども、わたしは自分の中にある恐怖は、そのくらいのものだとは思えませんでした。この恐怖は、早いうちにどうにかしないといつまでたってもしつこく居座り続けるものだと思いました。

 

 

 

 お兄さんが外国でどんな生活をしていたのか、わたしがいない場所で、きっと身の回りのもの全てがなれないものの中でどのように過ごしていたのかを聞きます。わたしが要らなかった時間のことを聞くのは心苦しいものですが、わたしがこれからもっともっと必要としてもらうためには、知っておかなければならないことです。

 

 その話を聞いていたら、お兄さんはわたしがいないことが大変だったのだと、わたしがいることでどれだけ救われるのかと、詳しく話してくれます。

 

 半分くらいは、いえ、半分以上は、きっとお世辞でしょう。それでも、お世辞だとわかっていたとしても、お兄さんがわたしを必要としてくれているという言葉が、そのエピソードが、心の弱い部分を、甘く溶かします。

 

 お兄さんにとって役に立てたということは、わたしがそこにあった意味があったということです。今はもうできることは少ないかもしれないけれども、頑張って元に戻れれば、また必要として貰えます。

 

 

 そのための一歩目が、今から向かう病院です。早く健康になって、可能であれば左腕も治して。そうすればわたしはまた、必要としてもらえるのですから。

 

 

 頑張らないとと思いながら病院の自動ドアを通ると、待合室の中にはたくさんの人がいました。

 

 息が、詰まります。人が、人が、たくさんの人がいることが、怖くて怖くて仕方がなくなります。この中の誰もわたしに悪意を向けたりしないと、なんなら興味すら向けたりしないのだと理性では理解出来ているのに、体が震えてしまいます。

 

 でも、それを表面に出してしまうと、あまりにも不審です。病院に入って、そんなふうになってしまったら、逆に人の興味を引いてしまうでしょう。そんなことになったら困ってしまいますから、わたしの前に病院に入ったお兄さんにそのままついて行って、受付に向かいます。

 

 受診歴や保険証の有無などを聞かれて、問診票を渡されます。慣れているお兄さんが代わりに書いてくれるので、わたしはお兄さんからの質問に答えるだけです。

 

 生年月日は、お母さんがお誕生日を祝ってくれた頃の言葉と、祝ってくれなくなってからどれくらい季節が変わったかで推測して、苗字はお兄さんのものを借りることになりました。

 

 身体の異状箇所は、痛みが残っているところや、痣が残っている場所、火傷の位置などを書けば、顔以外は全身どこもかしこも丸だらけです。

 

 もう一度受付に行って、紙を受け取ったお姉さんが少し引き攣った笑顔になるのを見てから、端っこの方の、人の少ないソファに座ります。

 

 人が、怖いです。わたしに対して何かをする訳では無いと頭ではわかっているのに、頭以外のところが怖がってしまいます。ぼんやりとした表情の老人が、どこかの痛みに耐えているように見える青年が、みんな揃ってわたしのことを“おもちゃ”にしようとしているように思ってしまいます。被害妄想も甚だしいことはわかっていても、そのように思ってしまうのです。

 

 そんな被害妄想から、瑠璃華さんにされたことがフラッシュバックして、今この場にいること自体が怖くなります。だって、わたしにとって今ここにいる人達は、お兄さんを除けばみんながみんな知らない人です。

 

 

 知っている人で、かなり信頼していた瑠璃華さんがあんなことをした以上、わたしにとって頭だけでも信頼できるのはお兄さんだけです。いつもおまけしてくれた八百屋のおばちゃんも、お肉屋のおじさんも、瑠璃華さんより信頼できる相手ではありませんでした。

 

 

 それはつまり、瑠璃華さんを信じられなくなってしまえば、その人たちも信じられなくなってしまうということです。顔見知りで、仲良くしていた人ですら信じられなくなってしまったわたしにとって、お兄さん以外の人はみんな信じてはいけない存在になってしまいました。

 

 だって、他の誰よりもわたしに誠実で、わたしに真剣に向き合ってくれた人は、おにいさんです。わたしが唯一信じれる、お兄さんです。

 

 お兄さん以外は、信用できません。お兄さん以外のものは、本当に信用していいのか分からない相手です。

 

 

 放送がかかって、名前が呼ばれます。わたしの名前と、お兄さんの苗字。間違いなくそんなつもりは無いと思いますが、わたしがお兄さんのものだと言われているような気がして、少しドキドキしました。

 

 白衣を着たおじいさんの前に座ると、いくつか質問をされたり、手足の触診をされたりして、別室に連れていかれます。背中やお腹などの傷を確認されて、左手を調べられます。

 

 その最中にやんわりと、傷がお兄さんに付けられたものじゃないかと聞かれましたが、お兄さんはむしろ助けてくれた側だと伝えると理解してくれました。

 

 そのまま少し話して、戸籍取得の支援をしてくれるNPO団体のことや、必要なもののことを教えてもらいます。職業柄似たような人と関わることがあったのだと、少し辛そうにこぼすおじいさんの姿には、人を信じることが怖くなったわたしでも、思わず信じてしまうような、重くてくらい影がありました。

 

 

 お兄さんの待っている診察室に戻り、おじいさんの先生がお兄さんに見立てを話しているのを聞きます。ところどころ見られる打撲については特に問題がなくて、少し見られる感電火傷の痕に関しても、後遺症が残るようなことは無いと言ってくれました。

 

 全く動かない左手に関しても、解決してくれるかもしれない病院を紹介してくれるのだから、ありがたいことこの上ないでしょう。お兄さんの前以外で話した無戸籍者支援のこともありますし、お兄さんの次くらいには信じていい人かもしれません。とはいえ、瑠璃華さんの壁があるのでほとんど信じていないと言っても過言では無いレベルですが。

 

 

 

 教えてもらった結果と、お兄さんに借りたスマートフォンで調べた結果からして、わたしが戸籍を得るために、一番簡単なのは、お母さんに頼んでお母さんの子供として戸籍を取らせてもらうことらしいです。その方法ですら、確実に取り切れると言いきれないのはこの国の不具合な気もしますが、 機関側がそうだと言うのであれば、わたしの扱いはその程度なのでしょう。

 

 自称無職で、自称無戸籍で、自称何も出来ない存在。公共機関に姿を見せた以上存在こそはっきりしているのかもしれませんが、公式には存在すらしないのがわたしです。

 

 

 普通に病院で生まれていれば、もう少し話は簡単だったようですが、その場合は行政に捕捉されて、戸籍の有無に関わらず学校に通えるらしいので、わたしは病院で生まれたのではないのでしょう。どのような環境でお母さんがわたしを産んだのかはわかりませんが、よく無事に産まれたものです。

 

 

 そんなふうに調べ物をしているうちに、ホームセンターに着きました。片手しか使えず、カートを押すことも出来ないので、大人しくお兄さんの後ろを着いていきます。寝具コーナーに着くと、値段じゃなくてそれを使いたいかで選ぶようにと言って、お兄さんは少し離れたところで止まってしまいました。

 

 

 変にいいものを買うべきではないことは、わかります。最初に買ってもらったものをダメにしてしまったわたしが、お兄さんの言葉に甘えていい布団を買ってもらうなんて、あまりにも申し訳ないです。

 

 触ったり、手で押してみたりして一通り選んでいるアピールをしてから、二番目に安い、そこまで寝心地が良くなさそうなものを選びます。一番安いものだとお兄さんにバレてしまうでしょうから、わたしには十分すぎるものを買ってもらいます。

 

 

「ちなみにすみれ、僕は性格が悪いから今使っているものをすみれに譲って新しい方を使おうと思っているんだ。すみれが選んだものならきっと、いいものだろうからね」

 

 

 選び終わったと言ったわたしに対して、お兄さんが言ったのはそんな言葉でした。お兄さんの布団の寝心地の良さは、わたしもよく知っています。そんな布団から乗り換える先が、わたしが選んだ布団だったら。

 

 睡眠の質が下がる、なんて言葉ではフォローしきれないでしょう。お兄さんは体の節々が痛む状態で出勤することになりかねません。床が畳で、多少でも柔らかいのならばともかく、わたしたちの家の床はフローリングです。薄い布団で寝ようものなら、その硬さと冷たさがダイレクトに体に来るでしょう。

 

 お兄さんを、そんな目に合わせるわけにはいきません。何もできないわたしがそうなるのであればともかく、お兄さんをそんな目に合わせるわけにはいきません。

 

 

 お兄さんに、もう一度選び直したいと伝えます。布団の厚さを確認し忘れたと、自分で言っていて無茶だとわかる言い訳をして、もう一度選び直させてもらいます。理由がむちゃでも、いいんです。お兄さんにバレていても、いいんです。だって、どうせわたしの考えはお兄さんに筒抜けなのですから。ただ、“言葉にしてはいけない本音”を隠すためだけの共通認識なのですから。

 

 布団を選ぶ振りをしながら、お兄さんのことを覗きみます。目が合って、いたずらっぽく笑われました。きっと、わたしが変なものを選んだら自分が使って、まともなものを選んだらわたしに使わせるつもりなのでしょう。そうでもされないと真剣に考えて選ばないわたしの思考が、読まれています。

 

 お兄さんはとっても、ずるい人です。



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久しぶりの“お買い物”(裏2)

 追加で二十分くらいかけて、しっかり検討に検討を重ねて、最低条件を、“お兄さんが使ったとしても問題ないレベル”という、おかしな設定で選び直した布団を、お兄さんに伝えました。

 

 ちゃんと教えて貰っている訳では無い、大体の予測でのお兄さんの予算と、多少の好みの差はあれど間違いなく良いものと言える質の良さを考えて、一番いいものだと自信を持って言えるものです。もう少し高くていいものはあれど、コスパ的には微妙で、もう少し質がいいものもあるけれど、それだと必要な諭吉さんの人数が変わってしまう。

 

 そんな、ちょうどいい布団を目にして、わたしが説明するのを聞いて、お兄さんは酷く簡単にいいんじゃないかなとそれを認めました。まるで最初からそれを選ぶことを想定していたかのような、2+2は4であると言うような、そのあたり前を受け入れるような反応です。

 

 

 

 いえ、何はともあれ、お兄さんに対しての、お兄さんの中での、わたしの布団の話はこれで終わりました。わたしがお兄さんの布団よりも質の悪いものを選べば交換させられて、いいものならそのままという恐ろしい脅しは解消されたのです。

 

 

 そのまま隣にあるスーパーに移動して、食材や消耗品の補充をします。調味料なんかはだいたい残っていますが、ごま油とチーズはそろそろなくなりそうですし、トマト缶は使い切ってしまいました。

 

 わたしが個人的に好きなこともあって比較的よく使うトマト缶がないのは、少し寂しくはありますが、そもそも今のわたしには、まともに料理をすることは望めないので、考えるだけ無駄だったのでしょう。

 

 これまで両方の手を使って、なんならもう一本腕が多ければいいのにと思いながら家事をしてきたからこそ、片手しか使えないという状態がどれだけマイナスなのかがわかります。

 

 そして、わたしはこれからその状態を基本として頑張らなくてはならないわけです。多少役に立つ便利グッズなんかはあるかもしれませんが、それを使えたとしても不便なことに変わりはありません。わたしのしたいこと、お兄さんの食生活の管理をなすためには、すぐにでも解決しなくてはならないことです。

 

 

「お兄さん、わたし、これまでみたいに上手にはできなくても、お兄さんのためにご飯を作りたいです。お兄さんに求められて、必要としてもらえるわたしでありたいです」

 

 

 効率的に考えれば、わたしがお兄さんの食事を用意する理由なんてものは、皆無に等しいのです。ちゃんと作るよりも、格安スーパーで出来合いのものを買った方が、間違いなくコスパはいいんです。お金のことを考えるならば、わたしは安い冷凍食品を毎日買い漁るだけの生活でもいいのです。

 

 それでもそれが嫌なのは、その冷凍食品に身を任せたくないのは、結局のところわたしの意地です。わたしのわがままです。大切なお兄さんが、大好きなお兄さんが美味しいと言って笑ってくれるものは、安いだけの冷食ではなくて、わたしが手間暇かけて作った料理であって欲しいです。

 

 完全な、わたしのわがまま。何の役にも立てないわたしが、役に立ちたいのだと吐いた妄言。

 

 普通なら、帰ってくる言葉は、良くてもちょっとずつできることを増やせるように頑張ろうなんてものでしょう。それでも、十分すぎるものだと思っていました。最悪、手もまともに動かせないのに料理なんて無理に決まっていると全否定されると思っていました。

 

「もちろんいいよ。僕も少しだけど調べたことがあるから、どんなものがあったら便利なのか一緒に考えようか」

 

 そのはずなのに、お兄さんはわたしのことを肯定してくれます。わたしがお兄さんのためになることを、役に立つことを許してくれます。

 

 実際に体を動かす時に片手が使えないとどのようなタイミングで不便なのかとか、それを解決するためにはどうすればいいかとか、推測と、わたしの意見と、ネットの情報を統合して、わたしに必要なものを見つけてくれました。

 

 新しいまな板と、野菜を固定するための釘。片手だけでも使いやすいキッチンバサミ。滑り止めに、みじん切りチョッパー。色々なものを買ってくれました。これなら、今のわたしでも少しは料理を作れるでしょうか。

 

 他に足りていないものや予備がなくなりそうなものを買い揃えたら、おうちに帰ります。お兄さんの背中に隠れながら歩き、車に乗って帰ります。いつでもやさしくて、わたしのことを大切にしてくれるお兄さん。

 

 そんなお兄さんのことが怖いことが、わたしにとってはストレスです。このままでいるのは嫌ですし、それはわたしにやさしくしてくれるお兄さんに対しても失礼だと思います。

 

 だから、なるべく早くこの状況を改善する必要があります。お兄さんにいらない気をつかわせないためにも、わたしがお兄さんのために行動するためにも、どうにかしなくてはいけません。

 

 そんなことを考えているうちに、車は家に着きました。たくさん荷物があるから、せめて少しでも役に立てるように片手で持てる限りのものを持とうとして、筋力が下がってしまったせいでほとんど持てないことに気が付きました。買い物袋は三つあって、お兄さんは一番大きな布団を運びます。それなら、わたしが持たないといけないのは袋です。なのに、わたしが持てた袋は一つだけでした。

 

 二つ持てれば、お兄さんが布団を置いて戻ってくるまでの間に一往復半で運びきれたはずです。なのに持てたのは一番軽いものだけ。一番重たいものに至っては、持ち上げることすらできませんでした。

 

 

「重くて持てないなら、それは僕が運んでおくから、すみれは車に鍵をかけてくれないかな」

 

 わたしが一人で何とか運ぼうと頑張っていると、様子を見に来たお兄さんがわたしに鍵を渡して、あんなにも重かった袋を軽々と持ち上げてしまいます。わたしにカギ閉めの役目をくれたのは、わたしが気に病まないようにという気遣いでしょう。お兄さんのやさしさの表れです。

 

 やさしさの表れなのに、少し胸が苦しくなりました。お兄さんに必要とされたいのに、お兄さんのためになることをしたいのに、全くできていないどころか、むしろ足を引っ張ってしまっていることがかなしくて、くるしくて、まるで、自分を否定されているかのような被害妄想を抱いてしまいます。

 

 めんどくさい子だなと、自覚します。何もできないくせに自分勝手だなと、自嘲します。他人のやさしさを素直に受け入れられない、いやな子です。

 

 大きな背中を追いかけて、お家に帰ります。すぐ近くのはずなのに、すごく遠いところに感じてしまう背中。お兄さんがそのままご飯の準備を始めるのを見ながら、車の鍵をお兄さんの鞄の中に戻します。変なところに置いてしまったら、お兄さんが明日困ってしまうからです。

 

 それが済んでしまうと、わたしはやることがなくなってしまいます。普段なら以前までならご飯を作っていましたが、それはお兄さんがやってくれますし、お片付けや掃除はご飯を作っている横でするようなことではありません。時間つぶしに本を読もうにも、いえにあるものはどれも読み終えてしまっています。

 

 手慰みに編み物でもしようかとも思いましたが、片手だけでできるものではないため、諦めました。もしかしたらできるやり方もあるのかも知れませんが、わたしはその方法を知りません。すると、今のわたしにできることはなくなってしまいます。

 

 なので、折角ですから、考え事をすることにしました。何もすることがない時間を、少しでも有意義に使うために、どうすればお兄さんのことが怖くならないかを考えます。わたしがおお兄さんのことを怖く思ってしまう一番の理由はお兄さんに何かされるかもしれないという恐怖です。

 

 頭では、わかっています。お兄さんがわたしに対してひどいことをするはずがないのはわかっています。それでも思わずそれを考えてしまうのは、わたしが信頼できる人瑠璃華さんに裏切られたせいです。裏切られたということが体に染みついてしまったせいです。

 

 それならば、裏切られないと、安心できるものだと体に教え込むことができれば、わたしはもう一度お兄さんのことを信じることができるのでしょうか。お兄さんのことを、盲目的に信じられるのでしょうか。

 

 そんなことを考えながら、ご飯を作ってくれているお兄さんを見ます。とんとんとんとリズミカルに野菜を切り分けて、コロコロと鍋の中に入れたそれを、ほのかな笑顔を浮かべながら炒めています。

 

 

 その姿を見ることが、少しつらくなりました。わたしがしたかったことを、お兄さんにさせてしまうのは、やはり嫌なことです。それでも、それと同時にそう思ってしまう自分のことが何よりも嫌になってしまいます。

 

 

 お兄さんの作ってくれた煮物を、美味しく食べます。お肉とか香辛料をがっつり利かせたものみたいに、無性にご飯が進むものではありませんが、自然とお米が欲しくなる煮物です。わたしがここにきて、初めて食べさせてもらったものと同じ、思い出の煮物。

 

 わたしにとっては、二度目の人生の始まりと言っても過言ではない、思い出のものです。その時の自分のただただ温かかっただけでうれしかった時の記憶を遡ると、自分がいかに変わってしまったのかがわかります。

 

 目の前のものをただただおいしいと思えた過去の自分と、それがひどく恐ろしいものに思えてしまう今の自分。わたしはあの時のままでいるべきだったんです。その方が、きっと幸せだったんです。美味しいのに、そのことを喜べません。苦しくなってしまって、涙が出てきてしまいます。

 

 自分のメンタルがおかしくなっている自覚はあります。おかしくならないほうがおかしいような体験だったという認識も、あります。それでも、こんな風に思ってしまうことが嫌でした。普段通りのわたしなら、ここまで思わないとわかっているからこそ、今の自分が嫌で嫌で仕方がありません。

 

 

 だってわたしは、折角お兄さんがわたしのために作ってくれた料理が、美味しくなければよかったのにと思ってしまったのですから。

 

 

 





作者の食べたいものや直近で食べたものをキャラ達にも食べさせてきたので、今ならすみれちゃんのレパートリー増やせるけどそもそもほとんど料理できないことに気がついた(╹◡╹)

存在意義失っちゃってかわいいね(╹◡╹)


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変わってしまった日常1

 かなしくて、くるしくて、もうこれ以上食べたくないと思ってしまいました。食べることがつらくて、胃の中がむかむかして、そんな風に思ってしまった自分が、何よりも気持ち悪くて吐き気が止まらなくなります。

 

 心配してくれるお兄さんに謝って、食べ途中で残させてもらいます。残したくはなかったけれども、無理をしてお兄さんの前で粗相をしてしまうことの方がいやでした。

 

 わたしの布団は、テーブルがあると敷けないので、お兄さんのベッドを借りて少しだけ横にならせてもらいます。きっとひどい顔になっているでしょうから、心配してくれるお兄さんに背中を向けて、心配をかけているという罪悪感に苛まれながら時間が経つのを待ちます。

 

 お兄さんが目の前にいる間は、我慢していないといけません。お腹の中の熱いものを、留めておかなくてはなりません。

 

 食べ終わって、片付けて、シャワーに入ります。お兄さんの姿が、見えなくなります。そこでようやく、わたしはトイレに向かうことができます。込み上げてくるものを、出せるようになります。

 

 吐き出せれば、きっと楽になれます。我慢しなくても良くなります。そうわかっているのに、お兄さんがわたしのために作ってくれたものを、出したくありません。気持ち悪いまま、苦しいまま我慢します。

 

 20分くらいそのまま耐えていると、次第にきついのは収まって来ました。お兄さんがまだお風呂にいるのは、ついでに掃除でもしているのでしょうか。わたしがこうしていることを見られなかったので、幸運と思っておきましょう。

 

 心配をかけてしまうのはもちろんですし、自分が作ったものを吐かれているのを見たら、お兄さんはきっと嫌な気持ちになってしまいます。逆の立場だったらと考えると、わたしには耐えられません。だから、わたしも隠さなければいけません。

 

 お兄さんが上がる前にトイレから出て、何事もなかったかのようにお兄さんの布団に戻ります。本当は自分の布団の方がいいのかもしれませんが、今のわたしには安全にテーブルを移動させて、布団を敷くというのは少し難しいことです。ですから仕方なく、仕方なくお兄さんの布団に入ります。

 

 長いことつかわれていなくて昨日久しぶりに使われたのに、それがわたしだった布団には、もうほとんど匂いは残っていません。それでも少しでも残っている気がして、深呼吸をします。昔お母さんの家にいた時のように、鼻がムズムズします。

 

 お兄さんがお風呂から上がる音が聞こえたので、目の下くらいまで上げていた掛布団を首のところまで下げます。お兄さんに変なところを見られて、変な子だと思われるのは嫌です。お兄さんの前では、なるべく普通のいい子でいたいですから。……まあ、普通のいい子なんて、今のわたしとは似ても似つかない存在でしょうが。

 

「すみれ、体調が大丈夫そうなら、シャワー入っちゃった方がいいんじゃないかな。厳しいようなら無理はしないほうがいいと思うけど」

 

 シャワーから帰ってきて、少しホカホカしているお兄さんが、わたしの方を見ながら、心配してくれます。ひどい理由でご飯を残して、食欲がないのだと嘘までついて、お兄さんの見えていないところでおかしなことを楽しんでいたわたしのことを、お兄さんは心配してくれました。

 

 少しだけいたたまれなくなって、その心配そうなまなざしから逃げたくて、もう大丈夫だからとお風呂に逃げます。心配そうに、一人で大丈夫かと声をかけてくれますが、片手が使えなかったとしてもシャワーを浴びるくらいなら問題ありません。それとも、わたしが大丈夫じゃないといったらお風呂のお手伝いもしてくれるのでしょうか。

 

 わたしとしては、今からだがお兄さんのことを怖がってしまっていることを除けば、もとよりお兄さんくらいしか頼れる人も、信頼できる人もいません。お兄さんにそのつもりがあるのであれば、その責任を取ってくれるのであれば、たとえ今すぐであったとしても、怖いのは我慢しましょう。

 

 そんな道もありなのかなと少し考えつつ、どうせお兄さんは変な意味を込めて聞いてきたわけではないとわかっているので、大丈夫だと返します。

 

 実際、自分の体を洗うのなんて片腕だけでもほとんど問題なくできました。体を洗うために使っている右腕を洗うのには少しだけ苦労もしましたが、膝と左前腕の動かせる範囲を使えば、問題なく洗いきることができました。

 

 もしああ答えたら、もしそれを選んだら。意味の無い仮定だけが頭の中を駆け巡って、結局何にもならないだろうと帰結します。わたしが多少、なにかを頑張ったところで、なにかを能動的に変えようとしたところで、きっと大した意味はないんです。

 

 

 だって、わたしの行動に、細かな、客観的に見てめんどくさいとしか形容できないような感情の行く末なんて、お兄さんは考えていないのですから。お兄さんが考えているのは、もっと根本的でわたしのためになることです。

 

 

 わたしが、どうすれば周囲の理解と協力を得られるのかを考えてくれました。わたしが、この国に生きる人として当然の、人権を得るために、戸籍を得るために何が必要なのかを調べて、教えてくれました。

 

 

 これまでもずっと戸籍がなくて、それでもなんだかんだでいきてこれたから、そこまでそのことを重要視していなかったわたしに対してそのの重要性と、それがなかったせいでわたしがどれだけどれだけ無駄な苦労をしてきたのかを教えてくれました。

 

 そんなことを教えてもらって、教えてもらったおかげでわたしは今こうしていられます。今わたしにあるわずかな幸せはどれもこれもお兄さんのおかげです。もし拾ってくれた人がお兄さんでなければ、あるいは、お兄さんみたいに優しくて思いやりのある人でなければ、わたしは自分でこんな風に考えることもなかったでしょう。

 

 

 その結果としての今がどうであったにせよ、お兄さんがわたしのために考えてくれることも、動いてくれていることも間違いありません。今こんな風になってしまっているのは、お兄さんが悪いからではなく、ただ不幸な事故に遭っただけです。

 

 体を流して、お風呂場から出ます。洗う時はあまり気になりませんでしたが、体を拭くのは比較的大変です。タオルの端っこが床につかないように気を付けながら拭き終わったら、パジャマを着て部屋に戻ります。

 

 

 戻ると、テーブルは片付けられていて、わたしの布団も敷かれていました。お兄さんも自分の布団にいるので、おとなしくわたしも自分の布団に向かいます。新品の布団のまだ家のにおいに染まっていない違和感。少し気になりますが、使っていくうちに気にならなくなるでしょう。

 

 まだそれほど遅い時間ではありませんが、お兄さんは明日からの出勤の準備をしていて、わたしに構っている暇はなさそうです。話しかければ普通に話してくれるでしょうが、お兄さんが何かをやっているときにその邪魔をするのは本意ではありません。

 

 

 何も出来ないまま、ふかふかの布団の中で目を閉じます。明日はちゃんと、役に立てるでしょうか。



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変わってしまった日常2

 朝起きて、ご飯とお弁当を用意しようとしましたが、ご飯をよそうだけでも一苦労でした。まず、片手にしゃもじを持つと茶碗が持てません。そうすると炊飯器と茶碗の距離が長くなり、零してしまいます。綺麗に盛りつけるのも一手間です。

 

 お兄さんが昨日作った煮物をお皿にのせて、お味噌汁をお椀に入れます、ご飯の用意なんて立派そうなことを言っても、わたしがしたことなんて、ただそこにあったものをよそって温めただけです。お兄さんの朝の支度の時間を3分ほど縮めることにはなったかもしれませんが、その程度です。

 

 

 わたしが動いている音で目を覚ましたらしいお兄さんにテーブルを出してもらえるように頼んで、温めていたご飯たちを一つずつ運びます。その間にお兄さんが顔を洗って、口を漱いでくるので、戻ってくるのに合わせて冷蔵庫で冷やしていた水をコップに入れて用意しておきます。

 

 お兄さんの寝起きのルーティーンは、当然把握しています。一連のいつもの流れの中でお水を渡すと、半分一気に飲んで、まだちょっと眠そうにしながら、優しく頭をなでて、ありがとうって言ってくれるんです。寝起きの、いつもよりも緩んだ雰囲気のお兄さんは、いつもよりも少し声が低くて、でも優しい気持ちが伝わってきて、わたしの好きな日常風景です。

 

「……ん。ありがと」

 

 その時の眠さに対応してお礼のテンションが変わるお兄さんですが、まだ半分寝ているような状態だとたまにこうして最低限の言葉で済ませます。ちょっぴり雑に扱われている気もしますが、テンションが低くてわたしに気をつかっていないお兄さんの言動は、それすなわち普段のお兄さんがどれだけわたしを慈しんで、大事にしてくれているかの表れです。

 

 そう考えるとむしろこれは普段とのギャップがある分ラッキーで、わたしはお兄さんのこの姿も大好きでした。寝不足なのは心配になりますが、わたしにとってはちょっとうれしいものでした。ちいさく、ちいさく胸がとくんと鳴ります。わたしの大好きな手が近寄ってきます。

 

 

 ゆっくりと近付いてくる手。30センチ、20センチ、10センチ、5センチ。大きな手が、だんだん大きくなっていって、すぐそこに迫ってきているのを感じて。

 

 わたしは、わたしの体は、恐怖を思い出してしまいました。

 

 近付いてくる優しい手が、あの手と同じに見えてしまいました。反射的に体がすくんで、足が一歩後ろに下がります。からだが勝手に、逃げてしまいます。

 

 そんなつもりはなかった、思わずの行動、ちゃんと考えていれば変な反応はしなかったはずなのに、半ば日課のようになっていたばかりに何も考えずに行って、引き起こしてしまった反応。

 

 あっ、と思ったときには、もうだめでした。わたしは疑いようがないくらいお兄さんを拒絶してしまっていましたし、そんなわたしの反応を見たお兄さんも、眠気が一気に覚めたようで、ひどく申し訳なさそうにしています。

 

「ちがうんです。ちょっとよろけちゃっただけなんです!!だから、だから、いつもみたいにしてください……」

 

 自分で言い訳を始めてしながらあまりにも無理があると諦めてしました。今のはさすがに、ダメです。どうしようもないタイプの失敗で、リカバリーは効きません。

 

 

 案の定というかお兄さんはわたしに、無理はしちゃだめだと優しい言葉をかけてはくれましたが、頭をなでてはくれませんでした。一番油断しているであろう状態でダメだった以上、お兄さんは今後、わたしがトラウマを克服するまではもう撫でてくれないでしょう。

 

 たとえトラウマであったとしても、からだが怖がったとしても、わたしがそうしてもらったらうれしいことに変わりはないんです。だって、わたしは以前までと同じように、お兄さんのことが大好きなままなのですから。瑠璃華さんがいなくなった分、むしろあの頃よりも今の方がもっとお兄さんに依存しています。

 

 

 その重たい感情を、暗い感情を受け取ってほしいのに、お兄さんは受け取ってくれません。だからわたしはまた漏れそうになっていたその感情を心のずっと奥の方にしまい込んで、わたしが振舞うべきわたしとしてお兄さんに向きなおります。

 

 お兄さんが朝ごはんを食べ始めるのを確認して、今日のお昼はどうするかを尋ねます。わたしがちゃんとお弁当の用意をするのであれば、昨日の内には確認していたはずのことですが、昨日の晩御飯をお兄さんに作ってもらったことや、これまでは多少常備していた冷凍の副菜が使えないこと、朝から突貫で準備しようにも、調理できるだけの体がないことから、お兄さんに三食連続で同じものを食べる弁当か、出社してから何を食べたいか考えるかの選択を迫ります。

 

 

「さすがに三食連続で自分の作った煮物だと飽きるし、同僚と会話するためにも今日は外食しようかな。わざわざ気にしてくれてありがとう」

 

 また明日、美味しいお弁当を期待しているねとお兄さんは微笑みます。それは、受け止め方によっては明日までに少なくとも一食分のお弁当を、片手しか使えない状態で用意しなくてはならないという重圧だったかもしれませんが、わたしにとってはそれは救いでした。頑張って、それだけに時間をかければ、お弁当は用意できるだけの自信が、わたしにはあります。

 

 一つ一つの動きは大変でしょうけど、時間が十分にあるのであれば何も怖いものはありません。ただでさえ、お兄さんが仕事をしている最低八時間、休憩を入れれば九時間の間、わたしは家事くらいしかする事がないのです。その家事すら一部やりやすいようにサポートされているのですから、やらない理由がありません。

 

 

 そうと決まればお弁当用の買い出しからです。昨日お兄さんが買ったものは昨日の晩御飯につかう材料だけだったので、他のものを作ろうとしたら追加で買わなくてはいけないものがたくさんあります。

 

 定番の玉子焼きを作るための卵、緑を添えるためのほうれん草、それとプチトマトがあれば、メインのおかずが何であっても、お弁当はそれっぽく見えます。

 

 明日のお弁当のメイン、今日の晩御飯は、工程がだいぶ簡単な炒め物にしましょうか。カゴの中に小間肉と葉物野菜をいくつか追加して、帰ります。携帯電話はなくなってしまったけれども、食費用のお財布は瑠璃華さんの家に持って行っていなかったので無事です。これがなければわたしは買い出しにすらいけなかったので、助かりました。

 

 片手しか使えないせいでレジで手間取って、後ろのおじさんに舌打ちされます。次からは、もっと手際よくお会計を済ませなくてはいけませんね。

 

 キャッシュレスに変えたら少しはましになるかと考えながら、帰り道を歩きます。変えるも何も、わたしは自分で使えるカードも持っていませんし、アプリを入れることができた携帯もなくなってしまいましたから、完全に無駄でしかない考え事です。歩いている間、他にできることが何もないからただただ時間を潰すためだけの無意味な行為。

 

 

 そんな風にぼんやりしていたのが悪かったのでしょうか。突然勢いよく右の肩に衝撃があって、買い物袋が前に押されます。ちょうど右足が浮いている状態で、不意打ち気味にそんなことがあったら、当然ですがわたしは体勢を崩します。

 

 出来も悪い独楽みたいに不格好によろめいて、左側からアスファルトに転びます。とっさに両手で顔をかばいはしましたが、袋は飛んでしまいました。上の方に置いておいた卵は無事であってほしいですけれでも、少し厳しいかもしれませんね。

 

 すぐ横を誰かが足早に通り過ぎるのを感じて、ようやく自分が人にぶつかられたのだと理解しました。このとくに狭いわけではない道で、ぶつかった相手を心配するそぶりもなく、鼻で嗤いながら去っていく人に、ぶっつかられました。手に持っていたのはわたしのものと同じ買い物袋。さっきのスーパーで買えるレジ袋です。

 

 わたしの記憶が間違っていなければ、その服の様子は、さっきわたしの後ろのレジで舌打ちをしていたおじさんのものと同じに見えます。いえ、タイミングから考えても、あの人は後ろのおじさんで間違いないでしょう。

 

 お母さんから向けられた怒りと、瑠璃華さんから向けられた悪意以外では、初めて向けられた怖い感情です。そのことを理解して、怖いという思いが沸き上がってきて、わたしは呆けてしまいます。

 

 こんな、ほとんどかかわりがないと言っていい人にすら、こんなことをされることがあるんです。なら、もしわたしが知らず知らずのうちに誰かの恨みを買ってしまっていたら、それは、一体どれだけの害意になって返ってくるのでしょうか。

 

 頭をかばった腕の痛みが気にならないくらい、その“もしも”がこわくなります。気になるどころか一番ダメージを負っているはずで、見た目的にも血が出ている左手が痛くもなんともないことはそれはそれで不安になりますが、今わたしにとって大切なのは、“もしも”の方です。

 

 

 全く知らない人が“ああ”ならば、恨みを買ってしまった誰かがもし“そう”ならば。

 

 それなら、もしも、もしもお兄さんがわたしに愛想を尽かして、わたしのことを邪魔に思うことがあれば、それはいったいどんなものになってしまうのでしょうか。

 

 その可能性を考えると、わたしは立ち上がることすらできなくなってしまいました。ここでこんな風に座り込んでいるのはおかしいと、よくないとわかっているのに、二メートルくらい先に、投げ出された買い物袋があるのに、その一番上に置いた卵から、内容物が漏れているのに。

 

 わたしは、動くことすらできませんでした。立ち上がることすら、できませんでした。



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変わってしまった日常3

推しに補足された(╹◡╹)

こわぁ(╹◡╹)


 あの日は結局、少ししてから我に返って、擦り傷で痛む体を無視しながら、底が破れてしまったせいで片手では上手に持てなくなってしまった買い物袋を抱えて家に帰りました。手当てが必要になるような傷がどれも左側に偏っていたのは不幸中の幸いでしょう。おかげで、お兄さんが帰ってくるまで手当てできないなんてことにはなりませんでした。

 

 割れてしまったと思っていた卵も、半分は罅すら入っていなかったのでよかったです。おかげで、買い直す必要はありませんでした。

 

 お兄さんは絆創膏だらけのわたしを見て、驚いていましたが、転んでしまって、上手に手を付けなかったのだと話すと納得してくれます。左手が使えないのは、こうやって言い訳をするのにとても便利ですね。全く嬉しくはありませんが。

 

 

 五大栄養素をバランスよく摂るために野菜ジュースを導入して、朝ごはんは片手でも作りやすくて食べやすいパン食をメインにします。そうすることで、朝から作りたてを食べて貰えるようになりました。

 

 少し遠いスーパーで切られた冷凍野菜を買うようにしたり、予め切られているお肉を買ったりすることで、調理時間もだいぶ短くなりました。多少見栄えが悪くなることかおかずが一品減る事に目を瞑れば、以前と同じ時間で用意できます。手の込んだものは作れませんし、レパートリーもすごく少なくなってしまいましたが、それでも何もできないよりはずっといいです。

 

 一つ嫌なことをを挙げるなら、お兄さんが好きな料理を、美味しいと特に喜んでくれた料理を食べてもらえないことでしょうか。わたしと同じで子供っぽい食べものが好きなお兄さん、ハンバーグとかオムレツなんかにすると目に見えてテンションを上げていました。でも、片手しか使えないわたしはハンバーグの成形をすることも、中がトロトロの状態でオムレツを仕上げることもできません。

 

 以前喜んでくれたから、また喜んでほしいのに、今のわたしにはできないこと。それがとっても歯がゆくて、悔しいです。

 

 

 

「すみれ、申し訳ないんだけど、今日の晩御飯は僕が作りたいんだ」

 

 だから、そういわれるのも時間の問題だったのでしょう。お兄さんが当食べたいと思ってくれるものを用意できないのなら、お兄さんがわたしの作ったもの以外を食べないでくれる状況は、お兄さんにとってつらいだけです。

 

 それがどんなに切なくても、わたしのわがままだけに付き合わせてしまうわけにはいきません。せめて少しでも手伝いたくて、なにかお兄さんが帰ってくるまでに手伝えることはないか聞いておきます。ただ自分で料理を作りたいのであれば、何もないと言われてしまうでしょうが、わたしが作れないものを食べたいだけならば、メイン以外は任せてもらえるかもしれません。

 

 そんな、あわよくばの言葉はいい方向に働いたようで、それならとお兄さんはチキンライスを炊くこととスープを作ることを任せてくれました。十中八九、今日の晩御飯はオムレツでしょう。ただお兄さんが自分の食べたいものを作ろうとしただけだったことと、必要だから料理ができるだけで、料理大好き人間ではなかったことも幸いしました。

 

 わたしみたいに、多少不純な動機があるにせよ積極的に料理をしたがる人は少数派でしょうから、よかったです。……まあ、わたしも最初は料理が好きなのではなく、それくらいしか必要としてもらえることがなかったから始めただけですが。

 

 わたしも自分一人のために料理をするかと言われたらたぶんしないので、結局、誰かのことを想っているから続けられているだけなのかもしれませんね。

 

 

 

 わたしがもともと過ごしていた押し入れの中とは比べ物になりませんが、人が二人生活するうえでは、あまり広くない家の中を掃除します。

 

 この家に初めて来たときの感想は、ひどく殺風景で寂しい部屋、というものでした。必要なものは最低限一通りそろっているけど、飾りけも明るさも温かさも感じられない、ものはあるのに何もない部屋でした。

 

 だから、ほんの少しの労力ですぐに綺麗になって、楽だったけどすぐ暇になってしまいました。

 

 その暇な時間に少しずつ増やしたものが、わがままを言って買ってもらった小物が、お部屋の掃除を大変にします。どれもこれも大切なものだから、隅々の汚れまで取ってあげたくなります。大切なものが汚れているのを受け入れられなくて、自分の中で掃除の時間と決めた時間をいっぱいに使って、小物を綺麗にします。

 

 そして、長い時間をかけて、少しずつ掃除を進めれば、次はお兄さんにまかせてもらった晩御飯の準備をする時間です。正直なところまだまだ時間的な余裕はありますが、早めに準備しておくに越したことはありません。もしお兄さんが予定より早い時間に帰ってきてしまえば、そのときに不手際に見えるのはわたしです。

 

 いえ、きっとお兄さんはそんなこと気にもしないでしょうが、お兄さんが帰ってきてくれた時に食事もできていないと言うのは、わたしとしては不本意なのです。

 

 炊飯器の中で蒸らす時間も含めて、お兄さんの帰宅時間の予想にぴったりの時間でチキンライスが炊き上がります。それに合わせて、ちょっとしたサラダと、コンソメのスープも用意しました。スープの方は、完成するよりも少し早くお兄さんが帰ってきてしまったので、お迎えは完璧なタイミングではできませんでした。あと一、二分の差で、お兄さんを迎えられなかったのは少し悔しいですね。

 

 

 そんなわたしの気持ちはともかくとして、帰ってきたお兄さんは他の何よりも先に卵を焼くことに意識を注ぎました。ほかに作るものは全部できているからこその、スピードクッキングです。一人当たりにかかる時間は驚異の二分弱。

 

 お兄さんが食べそうな量を皿に盛って、焼き上がった卵を上にのせてもらってテーブルに置きます。実際に作っていないわたしでもわかるくらいに、上手につくられたオムレツ。きっとおいしいでしょう。運びながら見ていて、思わずよだれが出てしまうほどです。これだけのものを作れるのにわたしの普段のものを褒めているのはただの社交辞令なのではないかとも思いますが、その次にお兄さんが作ったものは、控えめに言って火を通し過ぎたスクランブルエッグの親戚でした。

 

 お兄さんにもらえるのならば親戚でも構わないと思いながら目の前のご飯を待つと、最初はよくできたから自分の分なんて言っていたお兄さんが、それよりも失敗してしまった目の前のものを見て、口惜しそうに自分の前に起きます。

 

 わたしとしては、ふわとろのオムレツの方が嬉しいことは間違いありませんが、ここでお兄さんが食べたいものを食べられなくて、何度も作るのが嫌だという方が優先されたので、スクランブルもどきを回収します。食感こそ違えど、中に入れているものが一緒なら味はそれほど変わらないでしょうから、問題ありません。

 

 人によってはこっちの方が好みという人もいるでしょうし、ちょっとしゅんとしながらも自分好みのものを食べれて満足そうにしているお兄さんもかわいいです。

 

 

 そこまでは穏やかにいられたのに、その様子を長く見ていると、苦しくなってきます。わたしの、面倒くさくて良くないところがでてきます。卵以外は自分で作ったのに苦しくて、嫌になって、お腹の中がぐるぐるします。

 

 大丈夫だと思って、油断しました。自分の心のことを、全く理解出来ていませんでした。普通に食べ進めていたのに、突然止まります。胃が、受け付けてくれなくなります。

 

「すみれ?どうしたの?」

 

 口に合わなかったかと心配しているお兄さん。違うんです。ちゃんとおいしいんです。でも、おいしいからだめなんです。

 

 トイレに駆け込んで、半固形の流体を口から流します。ベチャベチャと、食事中には聞きたくない音が、すぐ下から聞こえます。

 

 その音と、先程まで食べていたものの味と胃液の酸味が混ざった味、鼻の粘膜を直接刺激する流体の感触と臭いに誘われて、第二波が。

 

 第三波がすぎる頃には、わたしがお腹の中に入れていたものはすっかり無くなってしまいました。全部、無くなってしまいました。喉や鼻の中に残ったものを出して、ちょっと飛び散ってしまったものを拭います。

 

 

 流して、口を濯いで戻れば、そこで待っているのはお兄さんです。あまり遮音性の高くないこの家では、廊下との扉を閉めなければ、トイレの音は聞こえてしまいます。普段は聞こえないようにしているのですが、今回は急いでいたので閉める余裕がありませんでした。

 

 

 つまるところ、お兄さんはわたしが戻している音を、しっかり聞いてしまっています。寄りにもよって食事中に、ひどい失敗です。せめてお兄さんがお風呂に入ってからならごまかせたのに、これではどうにもできません。

 

「体調、良くないの?」

 

 違います。良くないのは体じゃなくて、心の方です。

 

「辛いことがあったら、なんでもすぐに言ってくれていいんだよ」

 

 言ったら、お兄さんはわたしを気持ち悪く思うかもしれません。嫌いになるかもしれませんし、そうでなくても不快になるでしょう。

 

「すみれがくるしんでいるのが、それを話してくれないのが、すごく辛いことなんだ」

 

 そんなふうに言われてしまうと、話すしかなくなってしまいます。どれだけ黙っていたかったとしても、話さないといけなくなってしまいます。

 

「だからおねがい。話してくれないかな」

 

 

 お兄さんからのおねがいは、わたしにとっては絶対です。





かわいい子を吐かせたくなる発作、無理やり突っ込んだのでちょっと違和感があったりなかったり(╹◡╹)

もうそろそろニンニク控えめ砂糖マシマシする予定です(╹◡╹)


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浮き彫りになる異常

 帰ってきてから、すみれは様子がおかしくなった。いや、以前と同じままでいられる方が異常なのはわかるが、なにかを隠しているような、なにかを我慢しているような、そんな違和感だ。

 

 僕のことを怖がってしまうのならわかるが、それにしては直前まで目を合わせて話していたのに突然黙り込んでしまうことだったりと、突然拒絶のような反応を見せてくる。

 

 ただ、違和感こそあっても、そこを突くことの方がすみれにとって良くないことになってしまうかもしれないから、むやみに踏み込むこともできない。だからひとまずは様子見だ。僕の思い違いかなにかだったり、すみれが一人で解決できることならベストで、様子を見ているうちに話してくれたり、気が付くことができればベター。僕の知らないところで、なにかが壊れてしまうようなことになってしまったらバッド。

 

 ひとまずの指針は、簡単だがこんなものでいいだろう。

 

 

 そんなことを思って、すみれを見守る。勿論僕が見れないときもあったし、むしろそちらの時間の方が長かっただろうが、僕が近くにいられるときはしっかり見ていた。

 

 違和感は、山ほどあった。

 

 話している最中に、突然黙り込んでしまうこと。普通にご飯を食べているように見えたのに、突然もう食べられないと言い出したこと。明らかに普通じゃないけがをして帰ってきたこと。

 

 どれもこれも、以前まではなかったことで、すみれが抱えているであろうトラウマや受けた仕打ちから考えても、どうしてそうなるのかがわからない。理由に検討がつくのならばそれなりの対処ができるのに、わからないから何もできない。おかしいとわかっていても、軽く探りを入れる程度だと、雑にごまかされてしまう。

 

 だから、すみれがごまかせないような何かを待つ必要があった。ごまかせないということはそれだけの何かが起きないといけないわけで、そんなことは起きないほうがいいと思っていながらも、すみれの様子がおかしい原因を知るためにはそれを待つしかないという現実。

 

 いやな気分だ。すみれが傷付くような、苦しむような何かを待つしかないことは。

 いやな気分だ。僕の前では気丈に振舞いながらも、些細な動作からストレスが滲みでてしまっているすみれを見ているしかできないのは。

 

 食事中に顔色を悪くすることがあった。体調が悪いとか、食欲がないのだとごまかされた。直前まで普通に食べていて、そんなに即座に体調が悪くなったり食欲がなくなうのなら、それはもう病気だ。

 

 上手に貼れていない絆創膏をいくつも身に着けていたことがあった。ちょっとバランスを崩して転んでしまったのだと言われた。ただ転んだだけで、レジ袋がこんなにもボロボロになるわけがない。スキップでもして勢いをつけてから吹っ飛ばしたくらいしか、ただ転んだだけでこうはならないだろう。

 

 いいたいことはいくつもあった。そんな適当な言い訳で誤魔化し切れるはずがないだろうとか、嘘を吐くならもっとましな嘘を吐けとか、相談すらできないほど、僕は頼りないのかとか。

 

 その全部を我慢して、普段通りに振舞った。その日は偶然、前日にオムレツを見てしまったから食べたくなって、でも今のすみれには僕の好みのオムレツを作ることは難しいだろうから晩御飯を自分で作りたいと話した。

 

 

 すみれが作れないものを食べたいからではなく、たまには料理をしたいからとすみれに気をつかって言い方を考えた甲斐なく、メニューを聞かれて察されて、そのまますみれのできる部分を任せることになる。

 

 正直、あまり料理をすることが好きではない僕にとっては、ありがたい申し出だった。自分がやるしかないところ以外を積極的にやってるのは、あまりにも都合がいい。僕自身、決して料理が嫌いなわけではないので、やらなきゃいけなければできるのだ。そうでなければ、すみれと会う前は総菜で済ませていただろうし、今回の機会だって、食べたいものがあるからお弁当はいらないと言って好みのお店に行けばよかっただけの話だ。

 

 そこまで考えて、もしかしたらそうした方がよかったのではないかと思った。いつも僕のために頑張ってくれているすみれに直接頑張らなくてもいいのだと伝えるよりも、人付き合いの中でどうしても外せないことがあると言って、仕方のないものとしてこっそり済ませるのが一番よかったのではないかと考えてしまう。

 

 だけど僕は、すみれに対して嘘を吐くことの方が、他の何よりも嫌だった。これまでずっと僕のことを、周りのことを信じてきて、溝櫛によってその信頼のほぼ全てを否定されてしまったすみれに対して、わずかなものであっても嘘を挟みたくなかった。

 

 

 だから素直に話して、僕が帰ってすぐに卵を焼く。久しぶりで温度管理や時間管理なんかは適当だったが、自分でも驚くほど理想に近いものが仕上がって、すみれが用意してくれていたチキンライスの上にのせる。

 

 贅沢に卵を三つ使った大きめのオムレツで、スプーンで切れ目を入れると半生の中身が広がりチキンライスを覆う。火を通し過ぎると固くなってしまうし、通しが甘いとギリギリのところで崩れて、そのままリカバリーに失敗するとスクランブルエッグもどきになってしまう。

 

 先に食べ始めていてもいいとすみれに言って、自分の方に取り掛かる。オムレツはコンマ1℃でも温かいうちに食べるべきだからだ。そう言っても僕のことを待ってくれているすみれのためにも、少しでも早く作るために気持ち火力を強めにして作り始めて、失敗した。

 

 食べられないものには当然なっていないし、入れてる調味料も同じだから味も大差ない。ただ食感が、僕が久しぶりに食べたかったそれとは異なっているだけだ。悔しくはあるが、また次の機会に頑張ろうと、少し残念な気持ちになりながら皿を運ぶと、すみれが僕の持ってきたものともともと置いてあったものを入れ替える。

 

 そうして僕の目の前に残ったのは、先に作った理想の一つ。こんなにチキンライスは食べれないからと米だけ譲られて、久しぶりに食べるオムレツを楽しむ。出来立て直後ではないからほんの少しだけ冷めてしまっているが、十分満足のいく仕上がりだった。叶うなら、出来立て直後で食べたかったし、すみれにも食べてもらいたかったが、それはまた次の機会の楽しみにしておこう。

 

 そんなことを考えながらオムレツを食べていると、徐にすみれの様子がおかしくなっていった。少しずつペースが下がっていくことから始まり、顔の血の気も少しずつ引いていく。

 

 ああ、それは、僕が待っていた異常だ。

 

 ああ、それは、僕が見たくなかった異常だ。

 

 少しずつ食べる速度が下がっていって、やがて全く食べなくなった。栄養をちゃんと取り切れていないせいでよくなかった顔色が、少しずつ、もっと悪くなっていった。

 

 一つ予想外だったのは、これまでのものと比較して、様子がおかしくなるのが早かったことだろうか。いつもより早く、いつもよりひどくすみれは食事のスピードを落とし、顔色を悪くして、我慢ができなくなってしまったらしく目の前に残っている食事を放置して、トイレに駆け込んでいった。

 

 

 それなりに粘度のある流体、細かな固体と液体が混ざあったものが、流線型のセラミックスとぶつかって、汚い水音がする。推測のために頭を働かせるまでもなく、すみれが嘔吐した音だ。

 

 びちゃびちゃと、便器を打つ音が聞こえる。とてもではないが食事中に聞きたくなるようなものではないし、もし全く知らない人がそれを聞いたのなら、不快以外の感情を示すことはなかっただろう。善人ならあるいは心配の気持ちも沸くかもしれないが、僕が感じたものは後悔だった。

 

 これしか、方法がわからなかった。こんな風にすみれが苦しむ方法でしか、話してもらえる確証が得られなかった。

 

 

 

 少し時間を経て、戻ってきたすみれに声をかける。体調が良くないのかなんて、浅い質問。

 

「違うんです。いえ、気分が良くないことに変わりはないんですけど、これはどちらかというと心のほうの問題なんです」

 

 何かあったのなら、なんでも話してほしい。僕自身ができることはそれほど多くなくても、話を聞くことや一緒に悩むことはできるし、それが出来ないレベルならば病院に連れていくこともできる。

 

「相談したら、きっとお兄さんが嫌な気持ちになります。それに、わたしの嫌なところ、お兄さんには見せたくないです。綺麗なところだけ、見ていてほしいです」

 

 たとえ嫌なところでも、綺麗じゃないところでも、今すみれが苦しんでいるのは間違いのないことで、僕はそれを見ているしかできないのが嫌だった。

 

 だから、話して欲しいと言った。本当に嫌なら話してくれなくてもいい。けれど、もしそれが話せるくらいのものであれば、力になりたかったのだ。



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歪んだ共依存

 台詞と長めの空行で視点交代です(╹◡╹)

 読みにくくてごめん(╹◡╹)


 

 お兄さんに頼まれたら、わたしには断ることができません。それこそ出ていけとでも言われない限り、多少嫌なことであっても受け入れるでしょう。わたしにはここしか居場所がないのですから。

 

「わたし、前にも言ったことがあると思うんですけど、おかしい子なんです」

 

 環境的に、ごくごく普通の子供として育つのは無理だっただろうし、多少変わったところはあるかもしれない。けれど、自己認識がおかしい子になるほどの異常さと言うか、異質さなんてものは感じられない。おかしい子、なんてのは少し言い過ぎで、せいぜいが変わった子といったところだろう。

 

 

 

 

 隠しておきたかったことでも、言いたくないことでも、お兄さんが求めるのならば逆らいません。逆らえません。だから、何でも話しますし、何でも言うことを聞きますから、わたしがお兄さんと一緒にいることをゆるしてほしいです。

 

「お兄さんに必要とされたいんです。お兄さんに大切にしてほしいんです。わたしがいないとお兄さんが死んじゃうくらい、わたしのことを求めて依存して、ダメになっちゃってほしいんです」

 

 思っていた話とは、少し毛色が異なる話だ。冷静に考えるのであれば、すみれの望みをかなえるのはかなり難しいだろう。だって僕は、本質的には自分一人だけで生きていける人間だから。

 

 すみれが家事を頑張ってくれたのは助かったし、ありがたかったけど、求められているほど依存するには少々、僕は生活能力が高すぎた。

 

 

 

 だって、わたしはお兄さんがいなければダメなのに、お兄さんはわたしがいなくても大丈夫なんて、不公平じゃないですか。お兄さんにも、わたしと同じ気持ちになってほしいじゃないですか。

 

 はじめてわたしを必要としてくれたお兄さんが、わたしに生きる理由をくれたお兄さんが、わたしのことを捨ててしまったら、いらなくなってしまったら、わたしには今度こそ何も残らなくなってしまいます。

 

 幸せなことを知る前ですら受け入れられなかったそれを、今のわたしが耐えられるはずがありません。お兄さんのやさしさに浸って、弱くなってしまったわたしには無理です。

 

「わたしにはお兄さんしかいないから、お兄さんにもわたしだけになってほしいんです。でも、そんなのは無理だってわかっています。だからせめて、もっと必要としてほしいんです。わたしがいないとだめとまではいかなくても、わたしがいないと大変くらいには、わたしのことを手放したくないくらいには思ってほしいんです」

 

 手放したくないくらいの気持ちなら、最初から持っている。途中からは家族として一緒にいたいと思っていたし、そうでなければ、どうでもいいと思っているのであれば、あんなにも必死になってすみれを探したりしない。少しでもすみれが健やかに過ごせるように、自分の身の回りのもの以上にお金がかかるものを買ったりしない。

 

 その気持ちがちゃんと伝わっていないのは、少しだけショックだった。言葉にせずとも伝わると思っていた感情、僕があの日に拾った、一人の少女に対する、異質な執着。それはきっと届いていると、思っていたのだ。

 

 

 

 

 お兄さんのことが、好きなんです。誰も助けてくれなかったわたしを、唯一助けてくれた人。ほかの何よりも優先したくて、わたしにとっては、世界の全て。

 

「僕は、すみれが望むほど君に依存することはできないよ」

 

 それでも、いくら大切であったとしてもそれは依存にはならない。自立して生計を立てていて、必要なら一人でどこにでも行ける僕には、そこまで盲目的に誰かに縋れる才能がない。

 

 

 

 

 わかっていた答えでした。お兄さんはわたしがいなくても大丈夫で、わたしはお兄さんがいないとだめ。わかっていたからこそ、変えたかった。だから言葉にされても、そこまでのショックはありません。ショックはないけれども、諦念はあります。わたしには無理だったのだと、ダメだったのだと、悲しくなります。

 

「僕は一人でも生活できるし、生きていける。それは間違いないんだ。でも、それでも一緒にいたい。それが答えじゃ、ダメかな?」

 

 けれど、人並み程度の、人並み以上の執着はある。何よりも大切だった妹を亡くして、元々仲が良くなかった両親とも喧嘩別れした。そんな僕が、家族なんて言葉は聞くことすら好きじゃなかった僕が、この子に対しては家族のようになりたいと、居場所になりたいと思ったのだ。

 

 

 

 

 捨てられる可能性がありました。それでも、受け入れてくれました。わたしがこんなことを思っていると知っても、わたしをそばに置いてくれると言ってくれました。それならば、いいでしょう。少しだけわがままを言っても、きっと許してくれるでしょう。

 

「それなら、わがままを言ってもいいですか。お兄さんに、わたしが作ったもの以外何も食べないでほしいって、身の回りのお世話は、全部したいって言っても、いいですか」

 

 情はある。けれどもただの情と言うには、きっとこの感情は汚すぎるだろう。ただの執着、ともすれば、自身が失った家族に対する代償行動でしかないのかもしれない。そう考えるのが妥当で、そうでもなければこんなふうに、僕にとって不利益しかないような束縛を、受け入れていいなんて思わないのかもしれない。

 

 

 

 

 さすがに、本当に全部させてもらえるとは思っていません。したいのは本当ですが、現実的に考えればできないこともあるでしょう。

 

「それですみれが苦しまなくなるんだったら、いいよ。すみれが慣れるまではサポートくらいするかもしれないけど、それも最小限にする」

 

 けれど、それでもいいと思った。この子が悩んでいたことがそれで、僕が受け入れるだけで解消されるのなら、元々したくてやっていた訳ではない家事ができなくなるくらい、些細な問題のように思えた。

 

 

 

 

 最初に始めたときは、必要だったからでした。わたしがしてほしいことのための、対価でした。それはすぐに、お兄さんに喜んでもらうためになって、ずっとそうだと思っていました。お兄さんに喜んでもらうために、お兄さんのためにやっているのだと思っていました。

 

「それなら、少しでも早く慣れるために頑張らないといけませんね」

 

 頑張らなくてもいいと思うが、それがこの子の見つけたやりたいことなら、応援してあげよう。

 

 

 

 

 でも、違いました。全部全部、わたしのため。これしかできることがないから、これでしか自分の価値を見出せないから。わたしの自己満足のために、お兄さんを使っているだけでした。

 

 きっと、良くないことなのでしょう。自分のために人を利用することは、いけないことなのでしょう。

 

 

 

 

 不純なことだろう。もう満たせない感情を満たすために、すみれを必要としている。すみれのことを見ているつもりで、すみれのことを思っているつもりで、あの子の影を求めているだけなのかもしれない。僕にはもう、そうなのか違うのかすら、自分ではわからない。

 

 

 

 

 それでもいいと思いました。だってわたしの幸せはきっと、ここにしかないから。

 

 

 

 

 それでもいいと思った。僕が救われる中でこの子が幸せになれるのならば。



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怖がらないために

 自分が自己満足のためにすみれを利用している可能性に気付いても、僕の行動は何も変わらなかった。せいぜいが、今まで比較的積極的に行っていたすみれの手助けや家事を、ごくごく消極的にしかしなくなったくらいだ。

 

 すみれが自由に動けなくなった分を補おうとしていたことが嫌がられてしまったので、僕のお手伝いは以前までと同程度。すみれに頼まれたときに少しだけする程度に落ち着いた。とはいえ、以前までと比べると頼まれること、すみれの手が届かないことも多少は増えたので、心なしか頼られることも増えた気もする。

 

 それがいいことなのか悪いことなのかはわからないが、少なくとも僕らにとってはいい形になっている。それなら、それでいいだろう。必要もなく余計なことをする意味はないし、このまま平和に過ごせるなら、それが一番だ。

 

 このまま何もせず、何も変えずに今を続ける。積極的な変化を好まない僕の性分からしてみると実に素晴らしい話だが、そうとも言ってられない理由もある。

 

 それは、僕がすみれを連れ帰るために言った言葉の中の一つ、一緒に帰って、戸籍を取ろうというもの。すみれ自身はもしかすると覚えていないかもしれない口約束だが、一度声に出して約束したものは、僕にとってはとても大切なものだった。

 

 取るために必要なものや、必要な手続きなんかは以前に何度か調べた。まずは戸籍を持っていないことが条件で、行政機関に捕捉されていることや親との血縁を保証するもの。

 

 戸籍を持っていないのは当然としても、すみれから聞いた話だと後ろ二つは難しいかもしれない。そうなるとゼロから戸籍を作る就籍が必要になるが、……いや、そこまでいくと専門的な知識がない僕が考えたところで意味は無いだろう。大人しく専門家に頼るべきだ。

 

 そんなことを考えながらそれに該当するNPO団体のことを調べていると、お風呂から上がってホカホカなすみれが、布団に横たわりながらちらちらとこちらをうかがっていることに気が付いた。

 

「さっきからこっちを見てるみたいだけど、なにか相談事でもあったかな?見ての通り今は暇だから、何でも話せるよ」

 

 すみれがこちらを気にしているときというのは、なにか話があるときか、僕の何かしらの反応を待っているときだ。本人からすると特にそういうつもりはないのかもしれないが、これまでの経験上まず間違いない。話を聞く態勢を整えるために、ベッドの上で少し勢いをつけて起き上がる。他人の話を聞くときに、寝ながらなんて失礼だからだ。

 

 

「……えっと、その。……実はちょっとお願いしたいことがあるんですけど、今大丈夫ですか」

 

 僕の行動に、突然の問い掛けに少し驚いた様子で、いそいそと布団の上で正座をしだしたすみれがそんな風に聞き返してくる。僕の方から話があるのかと切り出したのだから、大丈夫じゃないわけがないのだが、きっと突然のことで気が動転しているのだろう。

 

 すみれに話すことがあるかと聞いたのだから、話を聞かないわけがないだろうと伝えると、すみれは少し焦ったような振る舞いを見せた後に、冷静になったように、落ち着いたように僕に向き合いなおした。

 

「その、お兄さんにお願いしたいことがあるんですけど、そのせいでお兄さんがいやな気持になるかもしれないんです。それでも本当にだいじょうぶですか?」

 

 すみれが何やら気にしているようだが、まず間違いないことは、すみれが気にしているような、僕が嫌がりかねないようなことは、すみれから伝えられるようなことはないだろう。僕が気にするどころか、しっかり考えたうえでようやく気にしている理由がわかるかわからないかくらいのことを、真剣に心配しているのがすみれだ。

 

 言い方は少々よくないが、きもちとしては大の大人が小学校低学年レベルの下ネタを気にしないのと似たようなものである。

 

 まったくもって気にしないから、早く話してほしいと思いながら、すみれの発言の続きを待つ。

 

「えっと、わたし、お兄さんは優しいってわかっているのに、お兄さんのことが怖くなっちゃうんです。お兄さん以上に信じられる人なんていないのに、お兄さんになら何をされてもあきらめて受け入れられるのに、頭じゃないところが勝手に怖がっちゃうんです」

 

 

 

 

 

 その発言からは、多少の危うさが見受けられた。その言葉を向けられた僕でも、あるいは向けられた僕だからこそそのまま受け入れてはいけないのだと、心の底の深い部分で思ってしまうような危うさがあった。

 

 怖いのは、心がそれを受け入れ切れたいない証だ。それを無理に受け入れる必要なんて、自分から苦しもうとする必要なんてないのだ。

 

「だから、わたしがお兄さんのことを怖がらないくらいに、お兄さんがそばにいることが普通で、安心できることだとわかるくらいに、お兄さんの存在を刻み込んでほしいんです。もう二度と警戒することがないくらいに、お兄さんがいれば何も怖くなくなるくらいまで」

 

 言葉にされたものはいささか物騒で、その詳細も平和なものとは言えない代物だったが、求められていることだけで話を運べば簡単なものだ。僕が求められていたのは、すみれのことを抱きしめること。おかしな意味でも、不純な意味でもなく、言葉通りの意味。英語にするとHug me。

 

 断る理由もなく、すみれがそれをしたがる理由も納得のできるものだ。強いて言えば無理していないか心配なくらいだが、僕がそれを口にしたらすみれは拒絶されていると感じてしまうかもしれない。

 

 それは嫌だから、いいよと言ってこちらに来るように促す。お邪魔しますと遠慮がちな言葉とともに、懐に感じる温かさ。エアコンをつけていなくて少し肌寒かったこともあって、とても安らぐ。お風呂上がりでいい匂いがするのもグッド。

 

 体勢としては、父親の膝に座る子供の姿が一番適切だろうか。頭の上に顎を乗せて、ジョリジョリとちょっかいをかけるあれだ。 ちょっかいはかけないが、実際にやってみると思いのほか首の辺りがこそばゆい。

 

 腕の中のすみれは、最初こそ硬くなって緊張していたが、少しするとその緊張も取れて、僕を背もたれにするようになった。

 

 この時点で、すみれの目的は達成しているように思えるが、すみれに甘えられることは嫌ではないし、何よりこれは昔のことを思い出す状態だ。あのころの懐かしさと、もう戻らない切なさを感じて腕に少し力が籠ってしまうのも、仕方のないことだろう。

 

 

 驚いたらしいすみれはピクりとしたが、そこまで気にはならなかったようで、またリラックスする。間違いないのは、すみれが無理しているのでは無いかという僕の心配は杞憂だったことだろう。居心地が良さそうにくつろいでいる様子からは、無理なんてものは欠片ほども見受けられなかった。

 

 シートベルトのように回していた手が手持ち無沙汰になり、顎の下あたりのちょうどいい位置にあるさらさらしたものに伸びる。

 

 あの子も、この子もこうされるのが好きだった。乱暴なものではなく、柔らかな髪の流れに沿ったもの。撫で回すのではなく、撫でつける。

 

 止め時を失って、そのまましばらく続けていた。気が付くと、すみれは眠っていた。途中から完全に目的を履き違えていたが、それも悪くなかった。

 

 なんだかんだで僕も、理由があると、仕方がないとわかっていても、すみれに避けられて、怖がられていた現状はどうにかしたいと思っていたのだ。こうして無警戒に眠っているようなこの現状は、嬉しいものだった。



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怖がらないために(裏)

 わたしが自分の意を伝えて、わがままを言ってから少し経ちましたが、その間お兄さんは本当にわがままを受け入れてくれていました。守らないといけない理由なんてない約束を、真面目に守ってくれています。

 

 そんなお兄さんだから一緒にいたくて、わたしが迷惑をかけている分少しでも幸せになってほしいです。こんなにも優しくていい人だから、その優しさに見合うだけの幸せを手に入れてほしいです。

 

 そのためには本当ならわたしはお兄さんの前から姿を消すべきなのはわかっています。わたしが優しい子なら、いい子ならそうしていたかもしれません。お兄さんの幸せの邪魔になることはせずに、おとなしく身を引いていたのかもしれません。

 

 でも、わたしは悪い子ですし、お兄さんに一緒にいていいと言われているのです。もう離れることなんて、できるはずがありません。

 

 うまく動いてくれない左手のせいで上手に洗うことができない右手に苦労しながらようやく洗い終わって、湯船に浸かります。最初は片手だけでお風呂にはいるのは大変だと思っていましたが慣れてくると右手を洗うこと以外ではそれほど困ることもなくなりました。

 

 このまま、お風呂以外のことも片手でそこまで困らなくなるのでしょうか。それなら、わたしは何も気にしなくていいです。ちゃんとお兄さんのために働けるのなら、わたしの不具くらい些細な問題です。

 

 一つ息をつくと、お湯の温かさが体に沁みわたって頭の中のあかるくない考えが溶けてなくなってしまいました。考えなくてはいけないことなのに、目を逸らしちゃいけない事実なのに、今は、今だけはどうでもいいです。そんなことじゃなくて、どうすればわたしはもっとお兄さんと幸せになれるのかを考えます。

 

 

 温かい湯船の中で、頭を茹らせながら考えます。まず大前提として、お兄さんはわたしのことを大切にしてくれています。きっとわたしがどうしてもと言ったら、自分が周囲から変な目で見られるリスクを負ってでも、わたしのことを助けてくれるでしょう。

 

 ただでさえ、知らなかったわたしを連れて帰ってしまうお兄さんが、もっともっとわたしに甘くなったのなら、もしかすると職場の人に紹介くらいはしてくれるかもしれません。それは言い訳が大変そうですし、そこまでしてもらおうとは思いませんが。

 

 思考が妄想に変わっているのを自覚して、頬をペチッとして頭をはっきりさせます。お風呂は気持ちいいですしいくらでも入っていたくなりますが、こうやって頭がダメになるのはよくありません。

 

 それた思考を元に戻します。お兄さんはわたしを大切にしてくれていて、常識的な範囲内であればきっと大抵のことはしてくれます。それならば、わたしは現状に甘えるのではなくて、少しでもできることを増やさなくてはいけません。巡り巡ってお兄さんの役に立てるように、今はお兄さんに助けてもらわなくてはいけません。

 

 

 それなのに、今のわたしの現状はどうでしょうか。何もかにもが怖くなって、唯一信じられるお兄さんのことすらも十分に頼れていません。お兄さんとだらだらする、一番幸せだった時間すら、十分に楽しむことができていません。

 

 

 こんなの、あんまりです。お兄さんと一緒に過ごすために、幸せな時間を取り戻すためにあんなにたくさん我慢したのに、頑張ったのに、やっと手に入れたものを楽しめないのでは、何の意味もありません。あんなに頑張ったのだから、わたしはもっとお兄さんに甘えていいはずです。

 

 そうすると、目下最大の問題は、わたしが人を怖がってしまうことです。正確には、他人を怖がってしまうことは比較的どうでもよくて、お兄さんを怖がってしまうことが問題です。実際問題、外に出かけるにしても、お兄さんに頼ることができるのであれば、ほとんどのお買い物は怖くありません。もとより知らない人が怖いのは同じなのですから、そんなものはいくらでも我慢して見せましょう。

 

 

 さて、そうすると、わたしはお兄さんが怖くなくなればいいということにすべての問題が行き着きます。勝手にお兄さんのことを怖がる体に、心に、お兄さんのことを慣れさせればいいわけです。だめだめなわたしに、お兄さんがどれだけ優しいのかを分からせればいいのです。

 

 そこまで考えて、わたしはとある実験の話を思い出しました。条件付けに関する実験、無垢なわんちゃんに、音とご飯を刷り込む素敵な実験です。パブロフさんが行ったその実験は、本能に、特定の条件を覚えさせるというものでした。

 

 それを思い出して、茹ったわたしの脳みそはひらめきます。

 

 犬が音でよだれを出すように、わたしもお兄さんの姿で、感触で、匂いで安心するようになってしまえばいいんです。お兄さんがひどい人だったら、その後何をされても離れられなくなってしまう恐ろしい方法ですが、お兄さんがそんなことするはずがないので、心配は無用です。

 

 そうと決まれば、早速お兄さんの事を全身で感じられる環境を用意しなくてはいけません。そしてその条件であれば、お兄さんに抱きしめてもらうことが一番でしょう。文字通り全身でお兄さんの事を感じることができて、もし私が怖くなってしまったとしても逃げることはできません。

 

 茹だる頭でひらめきます。わたしに、お兄さんに対してそんなお願いをできる勇気がないことを除けば完璧なアイディアです。ひょっとしなくてもおばかさんですね。

 

 しかしその事実にわたしが気付くはずもなく、るんるんとしながらどんな風にお願いすればいいのかを考えます。ちょっとはしたないことを思いついて、恥ずかしくなってぶくぶくしたりします。

 

 ひとまず三つくらいお願いの仕方を考えて、湯船から上がります。ちょっとフラフラするので、シャワーで頭に水をかけて、シャキッとしてからあがります。体を拭くのは、片手だけでもほとんど問題ないからよかったです。

 

 

 着替えに手間取ることにも慣れて、ほかほかの状態で部屋に戻ると、お兄さんはベッドの上で転がっていました。ちょうどいいくらいに暇そうな顔をしているので、今がチャンスです。今であれば、考えていた方法の一つ、近寄って上目遣いでのお願いができます。

 

 できるから、やろうと思っていたのに、気が付くとわたしは布団の上で転がっていました。冷静になって考えれば、できるはずがありません。上目遣いでおねだりなんて、恥ずかしすぎます。

 

 本当に冷静になれていれば、わたしがこれからしようとしているおねがいの方が数倍恥ずかしいのですが今のわたしにはそんなことすらわかりませんでした。いえ、考え直してみたら、わたしは普段から冷静になると恥ずかしいことばかりお願いしているかもしれません。でもそうしてほしいのですから、仕方がありません。

 

 してほしいから仕方がないという気持ちと、でもそんな風にお願いするのは恥ずかしいという気持ちが混ざって、どうにもできなくなってしまいます。結局わたしがしたのは、自分の布団に帰ってぬくもりを広げることだけでした。

 

 つまり、何もしないことを選んだのです。わたしにはどうせ何もできないし、できたとしてもなにも役に立たないことだけでしょう。

 

 お兄さんの方が気になって、ちらちら見てしまいます。よくないとわかっていても、気になってしまいます。

 

 お兄さんの事を見ていると、自身が逃してしまったタイミングを探っているとちょくちょくとお兄さんと視線が合います。お兄さんが、わたしのことを見てくれるタイミングがあります。

 

 

 そのタイミングで、言い出すべきです。そのはずなのに、そのことはよくわかっているのにわたしには勇気が足りませんでした。当然です、だってわたしは、怖い気持ちになることがわかっていることを、自主的にできるほど、強い子じゃないのです。

 

 結局、何もできないまま時間が過ぎて、もうあきらめそうになったあたりで、突然勢いをつけて起き上がったお兄さんが、わたしに対して声をかけてくれました。

 

 気付いてくれたことに対するうれしさと、気付くくらいわかりやすくお兄さんの事を見ていたことに対する恥ずかしさの中で、お兄さんにわたしの考えたお願いをします。

 

 お兄さんに合わせてお布団の上で正座をして姿勢を正します。今のわたしに対する簡単な説明から入って、それの解決のために考えたこと、そしてお兄さんにしてほしいことを伝えます。

 

 たぶん断られることはないと思っていましたが、もしかするとそうなることもあるかもしれません。少しどきどきしながら、お兄さんがわたしのお願いについて考えているのを待ちます。

 

「うん。それくらいなら全然かまわないよ。いつでもしてあげる」

 

 さすがにいないときとかやらなきゃいけないことがあるときなんかは無理だけどねと言って、ベッドに座り直してポンポンと自身の隣をたたいたのを見て、お兄さんの膝の間に座ります。

 

 わたしが逃げられないようにするためには仕方ない位置ではあるのですが、横に座るように促されたのにここに座るのは少しはしたなすぎる気がしますね。顔が赤くなっているのを感じながら、同時に体から血の気が引くような恐ろしさを感じます。

 

 

 背中から感じる、とくとくとした鼓動。人肌の温かさ、そして人間というもの全般に対する恐怖。

 

「本当に大丈夫?一回しかできないわけじゃないんだから、無理そうなら今日はやめたほうがいいんじゃないかな」

 

 お兄さんの優しい言葉に、大丈夫だと返します。実際に、少しずつ怖くなくなっていますし、きっと今日中にはなれることができるでしょう。

 

 その予想は当たって、十分もしないうちに怖さはなくなりました。考えてみれば、当然の話です。だってもともと、わたしはお兄さんを感じるだけで幸せな気持ちになれるほどお兄さんのことが大好きなんです。一時的に怖く感じるようになっていただけで、お兄さんが好きなことに変わりはなかったのです。

 

 それならこの結果は、当たり前のことです。わたしが今、お兄さんから離れたくなくなってしまっているのも、当たり前のことです。お兄さんがわたしを心配して、わたしのためにわたしを抱きしめてくれている現状。それから離れられないのは、仕方のないことです。

 

 お兄さんに無駄な心配をかけていることに少しの罪悪感と、わずかな高揚感を抱きましたが、後者はその辺に捨てておきましょう。心配してくれているお兄さんとそれを楽しんでいるわたしの密着状態はそのまま続き、もっとくっ付こうとしたことで終わりました。

 

 怖がっている人の様子が安定してきていて、それどころか体重を預けながら接触面積を増やしているのです。きっと誰でも気付くことでしょう。

 

 顔の見えていないお兄さんが心配をやめて、わたしを抱きしめる力が上がります。ここからは、ただただわたしがお兄さんに甘やかしてもらう番です。

 

 抱きしめてもらって、優しく頭をなでてもらって。最高のご褒美ですね。あまりにもお兄さんが甘やかしなれているので、それを鍛えたであろう茉莉さんに少し嫉妬しましたが、今はそんなことはいいでしょう。

 

 ぬくもりと、鼓動と、それに合わせて髪をなでる手。すごい安心感と温かくなる気持ち。あまりにも幸せで、落ち着いて、わたしは気が付くと、眠ってしまっていました。



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人になる、ということ

 法律関係はちょっと調べただけでたぶんがばがばだから有識者の方がいれば教えてください。今回のは無理でも次回以降に活かしますので……(╹◡╹)


 すみれを抱きしめて、眠ってしまった後も撫で続けていた日から、すみれは本人の目論見通り、僕が近づいても大丈夫になった。そのせいか、これまでの時間を埋めるためか、以前にもまして近い距離で過ごすようになったが、すみれが楽しそうにしているのでそれはいいだろう。

 

 毎週の週末に役所に行ったり、NPO法人の下を訪れたり、すみれが戸籍を取るための手続きをして、平日はこれまで通り仕事をする。溝櫛がいなくなったことや、その溝櫛が作っていると思われていたらしいお弁当を、まだ持ってきていることに対していろいろ聞かれたが、あまり話せることではなかったこともあり、曖昧な返しをするしかなかった。

 

 唯一、入社した直後から色々気にかけてくれて、世話を焼いてくれた上司にだけはあらましを伝えたが、溝櫛もまた信頼されていたため、受け入れ難いといった様子だった。それに関しては、まあ仕方が無いだろう。僕だってこんな状況にならなければ周りから言われても信じられなかっただろうし、なんなら今ですら何かの間違いであって欲しいと思ってしまう。

 

 溝櫛は、それだけ巧妙に周囲に対してその本性を隠し通してきた。

 

 全面的に信じることはできないけどひとまずは信じるということと、警察の厄介にならないうちにすみれのことをどうするか考えるようにとだけ言葉を貰って、事情聴取のような面談は終わった。

 

 それが、ここ1ヶ月くらいの話。

 

 僕に関しては、自分の周りの問題は解決したといえるだろう。だからこそ、よりしっかりとすみれのために動くことができる。これまで後回しにしていたことに、時間をかけることができる。

 

 

 

 戸籍は、おおよその人が生まれながらにして持っているものだが、それは出生届を提出した場合だ。それをしなければその人は無戸籍状態になり、様々な行政支援を受けれなくなる。ほかにも記憶喪失で身元がわからなくなってしまった人なんかも無戸籍状態になりうるが、様々な手続きと審査を通過することで取得自体は可能だ。

 

 とはいえ、そんなにほいほいと戸籍を手に入れられたら、後ろ暗い人は戸籍ロンダリングするかもしれないし、不法滞在者が戸籍を得てしまうこともあるだろう。当然のように戸籍の取得には手間がかかるし、時間もかかる。すみれが戸籍を取ろうとしても、いつになるかもわからなければ、いくら時間をかけたところで取れない可能性もあるわけだ。

 

 と、ここまでは身元不明の無戸籍者Aさんの場合。身元を保証してくれる存在がいて、その人は間違いなくこの国の戸籍を持つ資格があると判断された場合は、また話が別だ。細かいところは抜きにして、ざっくりいうと親子関係を保証するものがいくつかあれば、比較的簡単かつ高確率で戸籍が取れるのである。

 

 そして、ここで問題になるものが親子関係の保証だ。身一つで出てきたすみれが、そんなものを持っているはずもなく、学校に行ったことがないと言っていたことから住民票なんかがあるとも思えない。出生証明書や母子手帳なんかはあるかもしれないが、あったとしてもすみれのお母さんしか知らないだろう。

 

 そんなものは、僕にはどうすることもできなかった。すみれのお母さんの情報なんて、苗字くらいしか知らないし、その苗字が特徴的だからって、だれかれ構わず聞いて回ったりしようものならすぐに不審者だ。

 

「……お兄さん、ひょっとして、今わたしの戸籍のこと考えてますか?」

 

 完全にお手上げだなと思いながらどうにかできないか考えていると、なぜか僕の隣に座っていたすみれが遠慮がちに声をかけてきた。それはそうだろうと、むしろ今他に考えることなんてあるのかと返す。

 

「えっと、たぶん今気にしているのって、お母さんの居場所がわからないことですよね。それなら、たぶん何とかなります。前にお母さんにあったときに、連絡先を教えてもらったんです」

 

 それが本当なら、今の問題は解決できるだろう。すみれのお母さんの協力があるのであればすみれの身元は保証できるはずだ。もしすみれが戸籍を取ることに賛成してくれなければまた逆戻りだが、今は一筋の光明が差しただけで十分だ。

 

 

 すみれ自身が話すのと、僕が電話をかけてみるのだとどちらがいいかすみれに聞いて、自分でやりたいというので携帯を渡す。話す内容をあらかじめまとめておくようにとアドバイスをして、もしも話が進まなくなった時のために備えて僕も横で話を聞く。

 

 

 結論としては、何とか無事にすみれのお母さん、莢蒾さんは無事に協力してくれることになり、その中で僕も面識を得ることになった。少し疲れているように見えるが、優しそうな人だ。とてもすみれにしたことができそうな人には見えなかった。

 

 本人曰く、あの頃はおかしくなっていただけなのだと。すみれを普通に育ててあげられなかったことも、申し訳なく思っていると。実際にやったことから考えるととても信頼できたものではないのに、信じたいと思ってしまったのは、すみれを見つめるその目がどこまでも優しかったからか、僕の目が節穴なだけか。僕からすみれを奪おうと、自分の下に取り戻そうとしなかったからだとは、思いたくない。

 

 何はともあれ、協力してもらえることにはなった。莢蒾さんはこれはもともと自分がやらなくてはならなかったことだから当たり前だと言ったが、それでも僕ではどうにもできなかったことを解決してくれたのだ。感謝するしかない。

 

 

 だれにも知られずに一人で産んだから、証明書関係は何も持っていないとのことで、その場は一旦解散になった。その後また専門家に相談したところ、DNA鑑定でもどうにかできるかもしれないとのことなので、再び莢蒾さんに連絡を取る。

 

 快く協力してもらって、DNA鑑定を済ませて、手続きを済ませる。僕の想像していたすみれのお母さんのイメージと、実際に目の前にいる莢蒾さんの姿がうまく重ならない。そのせいか、すごく居心地が悪いのだ。

 

 優しい目を向けているのに、一対一で話しているときはずっと罪悪感に潰されそうにしている様子が。すみれと話したそうにしているのに、移動するときはいつも一人だけ一歩後ろにいる。自分を押し殺して、他のことを優先しようとしている。何かを我慢しているときのすみれとそっくりなその姿が、すみれをネグレクトしたという過去の話とまったく一致しない。

 

 すみれの過去が嘘なわけではないのに、目の前のものが間違いというわけでもないのに、どうしても重ならない。そんな違和感をずっと抱えたまま、全部の手続きは終わった。

 

 それからまたいくらか時間が経って、すみれに戸籍ができた。莢蒾(がまずみ)すみれ。この日から正式に名乗れるようになった、すみれの名前。正式な住所を得て、保護者を得て、すみれのいるべき場所はここではなくなった。いない少女をかくまっていた僕は、正式に誘拐犯になった。

 

 その事実が、なんだかチクチクと胸に刺さる。

 

 僕が守って、ようやく手に入れて、そして危うく見失うところだった幸せは、こうして終わるのだと。僕のすみれは、僕だけのすみれは、失われてしまったのだと。

 

 嬉しそうに母親と話すすみれと、微笑みながら受ける莢蒾さんを見る。

 

 その姿を見て、少しだけ面白くないと思ってしまった。最初にその笑顔を向けられるのは僕でありたかった。

 

「灰岡さん、これまですみれのことをありがとうございました。私にはこんなことをいう資格なんてないってわかっていますけど、これからもよろしくお願いします」

 

 私には、この子のそばにいる資格なんてないからと、悲しそうに言う莢蒾さん。すみれの戸籍を取ることを決めて、一番最初に話したこれからの話で、決めていたことではあったが、やっぱりうれしいものではないのだろう。

 

 任せてくださいと、きっと幸せにして見せますと返し、すみれと一緒に家に帰る。これからは、すみれの居候先という名目になる家に、知人から預かっていることになるすみれを連れて帰る。

 

「……お母さん、また、会いに来てもいいですか?」

 

 不意に足を止めたすみれが、振り返って少し不安そうに尋ねる。それを聞いた莢蒾さんが、目の端から涙を流しながらもちろんというのを見て、僕は言葉にしがたい感覚に襲われた。

 

 実態は、何も変わらない。すみれはこれまで通り僕と暮らすし、莢蒾さんも基本的にほとんど干渉してくることはないだろう。ただただすみれが戸籍を得たことで、これからいろいろ便利になることが増えるだけだ。

 

 なのに、すみれの居場所が僕の下以外にできることがいやだった。一緒にいない事の方が自然な形なのだと明言されてしまったことがいやだった。もう僕にはすみれしか残っていないのに、すみれ以外のものは全部失ってしまったのに、すみれがいなくなってしまう可能性ができたことが、いやだった。

 

 

 ああ、僕は、こんなにも独占欲が強かったのだ。

 

 





 44話時点でお母さんと遭遇イベントをこなし、該当時のすみれちゃんの親愛度を規定値にしておくことで、キーアイテム“お母さんの連絡先”を入手することができます。またこの際に、すみれちゃんの状態を依存にしておくことによって、すみれちゃんが買ってもらったココアを飲まずに話し続け、半錯乱状態で帰ったことで公園に“土で汚れたココアの缶”が残されます。もしかするとまだ待っているかもしれないと思い、急いで休養から帰ってきたお母さんがこれを見つけることで、罪悪感が大幅にプラスされ、ついでに諦念が着きます。この状態でないと、高確率でnormal end、“踏みにじられた善意04”に移行してしまいます。

 だからすみれちゃんを依存させながら外出できるようにする必要があったんですね。(╹◡╹)


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人になる、ということ(裏1)

 お兄さんに沢山甘えてからは、わたしが考えていたように全部大丈夫になりました。近くにいても大丈夫ですし、隣に座っても大丈夫です。ふとした拍子に触れてしまった時も、ふわふわするだけでした。

 

 ずっと我慢していたことが、できなかったことが、今ならいくらでもできます。足が、頬がくっつくほど近い距離に座れます。そんなふうにしていても、身体は震えなくなりましたし、お兄さんも逃げたりしません。そばにいられるだけで幸せというのは、こういうことを言うのでしょうか。

 

 昼間に家事を頑張って、夜はお兄さんにくっつきながら本を読みます。前に教えてもらったゲームはこの左手だとできませんが、こうして横にいながらお兄さんがゲームしているのを見ている、というのもなかなかにいいものです。この距離にいると、ゲームをしながらピクりと反応するのまで感じられます。

 

 もっとくっついてみたい気持ちと、あまりはしたないと思われたくない理性がせめぎ合いつつ均衡を保って、直接手でお兄さんに触ったりすることはありませんでしたが、それも時間の問題のような気がしますね。正直、わたしの理性が崩れるのが早いか、お兄さんに拒否されるのが早いかの、最終的にはアウト確定のチキンレースです。どれだけギリギリで止まれても、勝手に進んでしまうのですから当然ではありますね。

 

 

 平日はそんなふうに過ごして、休日には戸籍取得のために色々なところにお出かけします。役所とか、お医者さんに教えてもらったNPO法人のところとか。念の為の経過観察のためとかで、あの病院にもまた行きました。人がたくさんいて怖かったけれども、お兄さんが一緒にいて、手をつないでいてくれたおかげで何とかなりました。手汗がすごいことになっていたので、嫌な思いをさせてしまっていないかだけが心配です。

 

 たまにはどこかに遊びに行かないかと言ってくれるお兄さんに、家にいるのが一番落ち着くから一緒にいてほしいとわがままを言って、そばにいてもらいます。何も特別なことのない、この時間が、わたしにとっては何よりも幸せでした。

 

 

 

 そして今日も、相談から帰ってきて、幸せを満喫します。ピッタリくっついて、わたしの手の甲がお兄さんの太ももに触れます。ふわふわして、ドキドキして、なんだかとても悪いことをしている気分です。

 

 顔が赤くなっていないか気になりながらお兄さんの方を覗き見ます。何か少しでも、変わった反応を見せてくれないかと、ささやかな期待を胸に覗います。

 

 そこにあったのは、わたしの方なんてまるで見ていない、なにか別のことを考えこんでいる険しい顔でした。

 

 少し、もやっとします。わたしがこんなに近くにいるのに、幸せな気持ちになっていたのに、お兄さんはこんなにも心ここにあらずです。何を、考えているのでしょうか。何が、お兄さんの気をここまで引いているのでしょうか。

 

 少し考えてみると、先ほど帰ってきた相談のことが頭に浮かびました。そして、お母さんの協力がないと難しいかもしれないと言われたことも思い出します。もしこのことをお兄さんが考えていたのなら、少しうれしいですね。わたしがそばにいても、気が付かないくらいわたしのことを考えてくれていることになるのですから。

 

 お兄さんに、わたしの戸籍のことを考えていたのかを聞いてみます。

 

「ああ。ここまで厄介だと思っていなくてね」

 

 戸籍を取る、ということを甘く見ていたみたいだとぼやくお兄さんに、今悩んでいることはお母さんの居場所も何もわからないことじゃないかと、もしそうなら連絡先を以前教えてもらったと伝えます。わたしが、捨ててしまいたく思ったりしながらも、捨てることができずにしまい込んでいた、ノートの切れ端のことを伝えます。

 

「それならぜひ連絡を取りたいけど、大丈夫?お母さんと関わるのは、まだ抵抗があるんじゃない?」

 

 抵抗があるかないかで言ったら、もちろんあります。あの日家を追い出されてから今日まで、お母さん関わったのは、偶然会ったあの時だけです。お母さんがわたしのことどう思っているのかもわかりませんし、お願いしたところで助けてくれるとも思えません。でも、嫌いなんかじゃないという言葉が、あの首についていたマフラーが、信じたいって、もしダメだったとしても、もう一度会って今度こそちゃんと話をしたいって思わせてくれました。

 

「すみれがそう言うなら、僕は応援するよ。でも、一人だけで会いに行くっていうのは、心配になるからやめてほしいな」

 

 お兄さんがそう言ってくれるならお母さんに会う日は休みの日にしなくてはいけませんね。ゆっくり話すのならどちらにせよそうなりそうな気はしていたので、何も問題ありません。

 

 そうと決まれば、善は急げで早速電話をかけてみます。わたしのスマホはまだ買ってもらっていないので、お兄さんのものを借りて。

 

 殴り書きで書かれた、お母さんの字。そこに書かれている通りに番号を入力して、電話を掛けます。

 

 1コール。元気でしょうか。

 2コール。出てくれるでしょうか。

 3コール。体を壊したり、していないでしょうか。

 4コール。もしかしたら、忙しかったのでしょうか。

 5コール。また後で、掛け直した方がいいでしょうか。

 

「はい、莢蒾です」

 

 6コール。懐かしい声、懐かしいフレーズ。何度も、何度も何度も何度も聞いてきた、お母さんの声です。

 出てくれました。いえ、わたしからの電話だとはわかっていないのですから、出るのは自然のことです。問題は、このまま普通に話しだしても、ちゃんと話を聞いてくれるかどうか。

 

「……もしもし?もーしもーし!」

 

 直前になったら、怖くなってしまいました。ついさっきお兄さんの前で立派そうなことを言ったばかりなのに、怖くなってしまいました。

 

 お母さんが、不審そうにしているのがわかります。いたずら電話だと思って、切ってしまうかもしれません。そうわかっていても、最初の一言が言えなくて。

 お兄さんが背中をさすってくれました。左の耳元で、小さく頑張れとささやいてくれました。

 

「もしもし、わたし、すみれ、です」

 

 お兄さんに助けてもらって、力をもらって、声を出します。とぎれとぎれで、単語ずつになってしまっていましたが、ちゃんと声を出せました。

 

 それだけ言葉にして、お母さんの返事を待ちます。もしかしたら今度こそこのまま切られてしまうんじゃないかって怖くなりますが、お兄さんが頭をなでて褒めてくれたので、まだ大丈夫です。

 

「……すみ、れ?……本当にすみれなの?」

 

 少ししてから返ってきたのは、とても小さくて、かすれてしまっている、そんな言葉。お母さんに本当だと返して、今日はお願いしたいことがあるのだと伝えます。

 

『おねがい?私にできることなら何でも言って』

 

 お母さんが協力してくれるみたいなので、戸籍を取ろうとしていることと、そのためにお母さんの助けが必要なこと、そしてそれとは別に、一度機会を作ってお母さんと話したいことを伝えます。

 

 それに対してのお母さんの返答は、全部イエスでした。断られることも覚悟していたので、素直にうれしいです。早速お母さんの空いている日にちと、お兄さんが空いている日にちを教えてもらって日程を決めます。

 

 一週間後の正午、場所は、あまり人目に付かないところがいいからと、お母さんがどこかのお店を予約してくれるらしいです。ここからそこまで離れていない所で、心当たりがあるから予約出来次第折り返してくれるとのこと。

 

「それじゃあお母さん、また来週会いましょう」

 

 電話口でしないといけない話が片付いたので、話を切りあげます。聞きたいことや話したいことはまだあるけれど、今それを話してしまうと来週にできる話がなくなってしまいますし、お兄さんの電話の電話料金もかかってしまいます。

 

『うん。すみれ、他に方法がなかったからだとしても、頼ってくれてありがとう』

 

 お母さんはそう言って、わたしが何かを言うよりも先に電話を切りました。そうしてくれて、良かったと思います。だって、そうじゃないとわたしは何も返せないまま電話を切ることになっていたでしょうから。



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人になる、ということ(裏2)

 電話の日から一週間経って、お母さんと会う日になりました。予約してあるという店に向かうと、目の肥えていないわたしでも高そうだなと思う立派なお店がありました。

 

 萎縮してしまったわたしを連れて、お兄さんが受け付けに行ってくれます。少し緊張しているように見えるのは、お兄さんも馴染みがないくらいのお店だからでしょうか。

 

 予約していた莢蒾と伝えると、店員さんが案内してくれ、ひとつの扉の前で止まります。この先にお母さんが待っているらしいです。

 

 開けたいのに開けたくない、開けるのが怖いと思っているわたしに気を使ってか、動けないわたしを見かねてか、本来開けなくては行けなかったわたしのかわりに、お兄さんが扉を開けてくれました。

 

 お兄さんに連れられて中に入ると、お母さんが座っていました。以前あった時よりも疲れていそうで、目の下に化粧では隠しきれないクマが目立っていましたが、こちらを見ると微笑んで座るように言います。

 

 

 久しぶりに会ったお母さんは、随分とやつれて見えました。そのことに驚いていると、お兄さんに座るように促されたので、お母さんの対面になる位置に座ります。

 

「すみれ、今日は来てくれてありがとう」

 

 わたしが用事があって来てもらったのですから、むしろお礼を言わなくてはいけないのはこちらな気もしますが、何と言って返したらいいのかがわからないので、とりあえず首肯で返します。

 

「そして初めまして、すみれの母の、莢蒾文目(あやめ)と申します。これまで、

 挨拶の一つもせずに申し訳ありませんでした。そして、すみれを守っていただきありがとうございます」

 

 お母さんはお兄さんの方に体を向けて、深々と頭を下げます。そういえば、お母さんの名前は文目というんですね。今日になって初めて知りました。

 

「いえ、僕はただ自分のやりたいようにしただけなので。それに、この子のことは家族だと思っていますから。お礼を言われるようなことは何も」

 

 お兄さん、少しピリピリしている気がしますね。わたしがされたことを代わりに怒ってくれているのか、お母さんがわたしの保護者の様にふるまっているのが気になるのか、もしかしたらわたしをお母さんにとられないのか心配してくれているのでしょうか。……それはなさそうですが、もしそうならとてもうれしいです。

 

「そう……ですか。そうですね、今更私が母親面したところで、すみれにしてしまったことに変わりはありませんものね。安心してください、私はもう、自分からすみれにかかわりに行ったりしませんし、なにかを主張することもありません」

 

 わたしは、決してお母さんと関わりたくないわけではありません。連絡を取らなかったのだって、本当に電話をしてもいいのかわからなかったからです。

 

「あなた達が必要としている役目を、すみれの母親として、一番最初にやらなくてはならなかったことを済ませたら、それ以上はきっと、何をしても私の自己満足になってしまうでしょうから」

 

 でも、お母さんの言葉の重さに、わたしは何も言えませんでした。口を挟むことができませんでした。

 

 

「それで、私は何をしたらいいでしょうか」

 

「先日すみれが話したと思いますが、今僕らはすみれの戸籍を取得しようとしています。莢蒾さんには、すみれの身元、生まれを保証するために、親子関係が証明できるもの、具体的には母子手帳などを貸してもらい、親として登録してもらいたいんです」

 

 何も言えなくなっているわたしの代わりに、お兄さんが要件を伝えてくれます。

 

「……そうですか。それなら、あまりお力になれることはないかもしれません。すみれのことは、病院にかかることもなく私一人だけで産みましたから。証明になる書類はないんです。私が生んだということだけは間違いがないのですが……。ほかに何か、できることはありませんか?」

 

 わたしとお兄さんが調べたり、教えてもらったりした中では、他の方法はありませんでした。何もないというのがおそらくかなりのレアケースだということもあるのでしょうが、もう一度相談してみるまで、わかりません。

 

 気まずい沈黙が流れます。わたしたちにとっては、目の前のクモの糸が急に遠くに行ってしまった状態で、お母さんにしてみれば何でもするつもり出来たにもかかわらず、何もできることがなかったから帰ることくらいしか残っていない状況です。

 

 わたしたちがお店に入ってからまだ五分かそこらしか経っていないので、この空気はあまりにも気まず過ぎます。

 

 

「えっと、なにかできることがあったら、何でもするから教えてくださいね。あと、もちろんですけどここの支払いは私がすませましたから、気にしないでください。値段がするだけあって、美味しいですから」

 

 私がいても空気が悪くなるだけでしょうし、お先に失礼しますねと言って、お母さんが帰ろうとします。それを、そのまま行かせてしまったら、もうお母さんと話せる機会がないかもしれません。それは、いやです。

 

「あの、お母さ……」

 

 コンコン、と、扉が叩かれ、店員さんが入ってきます。持ってこられた料理が、テーブルの上に配膳されます。料理の説明を、全く頭に入らない状態で聞いて、お兄さんが対応していると、店員さんは去っていきました。

 

 先ほどまでは帰ろうとしていたお母さんも、さすがに料理が並んでしまったら帰りにくいのでしょう。それでも先程の発言のせいで、この場に残って一緒に食べるのもいたたまれない、そんな空気を感じます。

 

「お母さん、わたし、お母さんともっとお話したいです。お母さんのことも、教えてほしいです」

 

 空気を変えたいのが一割と、ここを逃したら機会がなさそうだからという気持ちが九割で、お母さんを引き留めます。以前は聞きたくても聞けなかったこと、聞こうとして、聞けなかったことを、今なら聞けます。

 

「……それなら、食べ終わってからゆっくり話しましょうか。せっかくのおいしいごはんが、冷めちゃったらかなしいでしょ?」

 

 その言葉も最もですから、ひとまず先にご飯を食べることにします。片手だけだと食べずらい物は、隣にいるお兄さんに手伝ってもらいながら食べました。

 

 以前ステーキを食べた後に、色々なお店の作法を調べて恥をかかないように勉強したのですが、片手しか使えないのでは作法も何もあったものではありませんね。わたしの覚えた知識は、使われることなく忘れることになるのでしょう。

 

 わたしが作り方を知らない、名前も知らない料理に舌鼓を打ちながら味わいます。お兄さんも美味しそうに食べていますね。普段であればわたし以外が作った料理を食べていることに悲しくなりますが、今回ははわたしのための用事ですし、一人だけ食べないでと言うこともさすがにできません。ちょっとだけジェラシーするくらいで済ませておきます。

 

 多少まごつくことはありつつも、無事にお皿の上は空っぽになりました。食べきれなかった分はお兄さんが代わりに食べてくれたので、完食と言っていいでしょう。

 

 

 



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人になる、ということ(裏3)

 気が付くと100話目だけどいつも通りです(╹◡╹)

 これからもよろしくお願いします(╹◡╹)




 

 

 お兄さんと出会ってから、お母さんと再会するまでの話は、以前一通りしたので割愛して、お母さんの話を沢山聞きました。わたしのことをどう思っているのかとか、なんでわたしのことをネグレクトしたのかとか。

 

 わたしのことは大切な娘だと思っていて、色々追い詰められて精神的に不安定になってしまっていたかららしいです。

 

「愛していたはずなのに、気がついたらそれ以上に疎ましく思うようになっていたの。すみれがいなくなって始めて、自分がおかしくなっていたのだって自覚した。でも、それを自覚した時にはもう遅かったの」

 

 お母さんは確かに、ずっとわたしに優しくしてくれていました。忙しい中でもわたしの相手を毎日してくれて、寂しい思いをすることなんてほとんどありませんでした。そんなわたしが、お母さんを追い詰めてしまっていたのなら、ああなってしまったのも不思議なことではなかったのでしょう。

 

「すみれのお父さんは、かなり乱暴で、執着心の強い人でね。私一人なら我慢出来るつもりだったのだけど、お腹の中のあなたには同じ思いをさせたくなくて。守らなくちゃって思って、少し過剰なまでに警戒していたの」

 

 わたしの生まれ、どうして戸籍がないのかを聞くと、お母さんはそんなことを教えてくれました。守ってくれる家族もいなくて、一人でわたしを守るしかなくて、逃げて、隠れて、それでもわたしの幸せのために頑張っていたのだと。

 

 お母さんが言っているだけだから、証拠がないからといって、信じないこともできるでしょう。でも、わたしの記憶の中の優しいお母さんと、お母さんの語るお母さんの姿は、とてもよく似ています。

 

 

「でも結局、私がしてしまったことに変わりはないから。今すみれが幸せなら、そのまま幸せでいてほしい。灰岡さんが迷惑そうにしているなら無理には、って思ってたけど、私よりもすみれのことを心配してくれているみたいだから、杞憂だったね」

 

 そう言って寂しそうに笑うお母さん。お兄さんはわたしのことを大切にしてくれているので当然ですが、もしかしたらそうでなかったらわたしのことを引き取ろうと考えていたのでしょうか。向氏の優しかったころのお母さんとまた暮らす、いやだとは思いませんがあまり心が惹かれません。

 

 あの頃はずっと戻ってきてほしかった生活なのに、今のわたしは今のままの方がいいです。わたしがいて、お兄さんがいてくれる生活。お兄さんがわたしのことを必要としてくれる生活。それだけあれば、十分です。今のままでも贅沢です。

 

 だってわたしは、お兄さんのおかげで生きがいまで手に入れました。安全も幸せも全部お兄さんにもらったものです。それなのにお兄さんの下から離れたいなんて、そんなことは思うはずがないんです。

 

「はい!わたし、お兄さんと一緒にいることができてとても幸せなんです!」

 

 言った勢いに任せて、お兄さんの方にちょこっとだけ体を近付けます。お兄さんが顔を少しだけ背けたのは、ひょっとすると照れてくれたのでしょうかわたしの想像でしかありませんが、もしそうならうれしいですね。

 

「そう。……灰岡さん、順番が逆になってしまいましたが、すみれのことをこれからもお願いしていいでしょうか」

 

「……はい。すみれはこれからも、僕の家族です」

 

 わたしが一人もの思いに耽っている間に、お母さんとお兄さんの間でやり取りが結ばれていました。これはもしかしなくても、これからはお母さん公認でお兄さんと一緒に暮らせるということでしょう。親公認の同棲というと、かなり特別感があっていいですね。戸籍を取った後におのずと親権を得ることになるお母さんを、先に落としておけたのは嬉しい誤算です。まだ戸籍が取れると決まったわけではありませんが。

 

「それを聞けて良かった。灰岡さん、少しだけどこれ、いろいろ入用だったでしょうから、その補填に使ってください。私なんかからもらいたくないってことなら、その辺の募金箱に入れてもらってもいいので」

 

 そう言って、お母さんはお兄さんに少し厚みのある封筒を渡しました。断りにくいように予防線を張って、さらには謝る側でありながらお願いされる側という立場を使った卑怯にすらおもえる渡し方です。

 

「それじゃあ私はこれで。何か役に立てることがあれば何でもしますからすぐに教えてくださいね」

 

 そう言い残して、お母さんは帰っていきました。寂しそうにしながらも、来た時よりも心なしか明るい様子で。きっと、ずっと一人でため込むしかなかったことを話せてすっきりしたのでしょう。誰にも言えずに一人で自分を責めるしかなかったわたしのことが、いい形に落ち着いたことに安心したのでしょう。わたしの知っているお母さんは、そういう人です。自分一人で全部抱え込んで、つらいはずなのにわたしの前では笑顔でいてくれる、そんな人です。

 

 

 少しの間何もしゃべらず、お兄さんに寄りかかって甘えます。何も聞かずに、何も言わずに撫でてくれるから、もっと甘えてしまいます。

 

 

 あまり長い時間居座ってもお店の迷惑になってしまうので、名残惜しく思いながらもほどほどで甘えるのをやめます。もう少し後少しと思ってしまう自分に、家の方がもっとちゃんと甘えられるからと言い聞かせて、豆腐の意思で乗り切りました。木綿だったから耐えられたけど、おぼろだったら耐えられなかったでしょう。

 

 家に帰って、お兄さんの膝の間に座ります。ここにいる時が一番、お兄さんがわたしのことを甘やかしてくれるので、わたしが甘えたいときにはこうしてアピールするようになりました。お兄さんもそのことに気付いているので、毎度しっかり甘やかしてくれます。気持ちがふわふわして、ドキドキして、落ち着いて。なんて言ったらいいのかわからないくらい、不思議な気持ちになります。その不思議なのが心地よくて、ずっとそれに浸っていたくて、最近甘える時間がどんどん増えています。

 

 あまり甘えすぎるのはよくないと、頭ではわかっているのに、どうしても我慢できなくなってしまいます。この幸せにおぼれそうになってしまいます。もっとお兄さんがわたしのことを愛してくれたら、もっと幸せになれるのでしょうか。もっとお兄さんを好きになったら、もっと幸せになれるのでしょうか。

 

 これ以上先があるなんて、考えるだけでもおかしくなっちゃいそうなくらい幸せなのに、まだ先があるのなら。それはぜひとも、手に入れたいです。もっとお兄さん

 に求め得られれば、さらに必要とされたら……。

 

 と、考えているとお兄さんは突然撫でるのをやめてしまいました。せっかく幸せな気持ちになっていたのに、お兄さんはまじめな顔になっています。経験上、こうなってしまうと甘える時間は終わりです。気持ちを切り替えて、シャキッとします。

 

「とりあえず、これからも一緒にいられそうでよかった。あとは戸籍の方だけど、相談に行くのは来週でいいかな。そこなら予約が取れそうなんだ」

 

 お兄さんの都合が合うのであれば、わたしはいつでも空いていますから大丈夫です。予定を作れるような何かがあればよかったのですが、あいにくわたしにそんなものは何もありません。そのまま来週の予定が一つ決まります。

 

「お兄さん、わたしのお母さんと話してみて、どうもいましたか?」

 

 わたしにとってのやさしいお母さん、けれども、わたし伝手にしか話を聞いていなかったお兄さんは、どうも悪印象ばかりを持っているようだったので、折角の機会ですから質問してみます。実際に合ったお兄さんもお母さんに悪いイメージを持つのであればわたしが間違っていて、そうでなければわたしの感覚は正しかったということになります。

 

「……悪い人、だとは思えなかった。やった事が事だけに、全面的に信じることは出来ないけど、根はいい人なんだと思う」

 

 伝わっていたようで、よかったです。お母さんはいい人なのに、誤解されたままになってしまうのは悲しいことですから。出来ればお兄さんにも、お母さんと仲良くなってもらいたいです。こう思ってしまうのは、わたしのわがままなのでしょうか。



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101話

 所感:ここ一年以上エタノール75ml/日(最低量)を休肝日1/月以下で過ごしていた甲斐あって健康診断の肝臓の値がやばかったです。寝つきが悪いのも相まってやめられなかったけどそろそろ不眠症状で病院に行くべきか……(╹◡╹)



 

 

 お母さんと話した一週間後に、書類がないのならDNA鑑定でもどうにかなる場合がある、ということを教えてもらい、早速その事を伝えます。都合を合わせて2週間後に鑑定を頼むことが決まり、予約はお母さんがしてくれることになりました。

 

 お兄さんに連れて行ってもらって、立会人さんのいる採取場に向かいます。今回の場合は法的証拠になるものだから、誤魔化したりができないように公的な人の前でやらないといけないらしいです。

 

 お母さんにも途中で合流して、ぎこちないながらもおしゃべりをしながら待ちます。どんな話をすればちゃんと話せるか、お母さんが普通に話してくれるかを考えながら話しているのですが、もしかすると客観的に見たら沈黙が気まずくて無理に話しているようにも見えるかもしれません。そう思われているとしたら、少しかなしいですね。

 

 しばらくお母さんの仕事の話を聞いて、次第にお母さんとも普通に話せるようになって来ました。近付かれてしまうとまだこわくなってしまいますが、それはお母さんに限らずお兄さん以外みんな同じなので気にしません。

 

 途中、近付かれて震えてしまったのと、左手が使えないことに着いて突っ込まれて、瑠璃華さんの話をすることになりました。お母さんの顔色がなんて言ったらいいのかわからないくらいコロコロ変わり、しばらく空気がお通夜みたいになりましたが、本当のことを言っただけなので大丈夫でしょう。まあわたしはお通夜なんて行ったことがないので、本当のお通夜がどんな空気なのかは知りませんが。

 

 それ以降その前よりもずっとわたしのことをお母さんが気にかけてくれるので、むしろ話してよかったかもしれませんね。少しでも困ったことがあればすぐに知らせてほしいと、わたしにスマホを渡そうとしたのには驚きました。お兄さんにもらったものをダメにしてしまってからは、どうにもわたしからはお願いしにくくてまだしばらくは難しいと思っていましたから。

 

 お兄さんもお母さんがあまりに熱心なのに押されて、お母さんがわたしにスマホを買い与えることを許諾します。自分が親なのだからと意見を押し付けず、保護者の意見を尊重するのは、お母さんのいいところでしょう。親なのに保護者じゃないという変わった状態に関しては、突っ込んではいけない所です。多分一番気にしているのはお母さん自身でしょうから、何も言いません。

 

 検体採取もほどほどに、お母さんに連れていかれて携帯ショップに行きます。たくさん携帯が並んでいますが、残念ながらわたしにはどれがよくてどれが悪いのかなんてわからないので二人に任せてしまいます。もともとお兄さんが使わなくなったものを使わせてもらっていたわたしにとっては、どれもこれもがおーばーすぺっくです。

 

 傍から話を聞いているに、なるべくいいものをと最新機種を選ぼうとしているお母さんを、普段のわたしの使い方を知っているお兄さんが止めているようです。えふぴーえすが快適にできると言われても、わたしがスマホでやるゲームなんてソリティアがせいぜいなので、きっとスマホが泣いてしまうでしょう。

 

 速度だけを求めたら完成までに50秒を切ったソリティアの話はともかくとして、わたしもお兄さんの方に賛成ですね。持っているだけで使わないものなんて、もったいないだけです。何なら、ソリティアですらトランプがあるからやらなくてもいいくらいなのですから。

 

「客観的な事実として、すみれにはそんな高性能のスマホがあっても仕方がないんですよ。少し前までデジタル機器に触ってこなかったこの子にとって、最新の端末なんて未知の塊なんだ。昭和の時代に今のスマホをもっていったとして、まともに使いこなせる人がどれだけいると思いますか」

 

 まるでおばあちゃんみたいな扱いに、少し不服の気持ちが上がります。わたしだっていろいろ検索したり、電話やメッセージをつかったりと最低限使っているはずです。あんまりないいようにお兄さんに文句を言うと、それを聞いたお母さんが素直にお兄さんの言葉を受け入れてしまいました。何というか、すごく納得できません。

 

 結局、二世代前の、お手頃らしいものに決まり、基本的な携帯代はお母さんが全部払ってくれることになりました。わたしはまだ少しむくれていましたが、新しい携帯がお兄さんの使っているものの同機種で、二世代先のものと聞いて機嫌が直りました。少し違うかもしれませんが、お兄さんとおそろいみたいなものです。

 

 ……最新機から4世代遅れているお兄さんが、さらにその前に使っていたもので十分すぎたわたしが、新しいものを満足に使いこなせるのか、早くも心配になってきましたが、先のことは考えないようにしましょう。その方が精神衛生上いいと思います。

 

 買ってもらったばかりのスマホで、早速お兄さんと連絡先を交換します。一番最初に連絡先を入れるのは、やっぱりお兄さんがよかったです。順番が違っても何も変わらないことはわかっているのにそれでもそうしたいと思ってしまうのは、おかしなことなのでしょうか。お母さんに買ってもらったのだから、最初はお母さんと交換するのが妥当で、自然なことだとはわかっているのです。わかっていてなお、そうできないのです。

 

 

 

 いえ、そうできないとか、そうしたかったとか、そんなあいまいな言葉でごまかすのはもう無理がありますね。わたしはお兄さんの事が他の誰よりも好きだから、愛しているから、わたしの一番最初はどれもお兄さんであってほしいと思ったのです。お兄さんの一番を全部わたしがもらいたいと思うのと同時に、わたしの全部はお兄さんにもらってほしいのです。

 

 勿論、わたしもこんなことをそのままお兄さんに伝えたら引かれてしまうかもしれないことはわかっています。だから全部を全部そのまま伝えるなんてことはせずに、多少上辺を取り繕いながら、無邪気な好意を装いながらお願いして、無事に連絡先をもらいました。

 

 気にするかもしれなかったお母さんも、どこか微笑ましそうにわたしのことを眺めているだけだったので完全に問題はないです。お兄さんの後にお母さんにありがとうと伝えながら連絡先を交換すればだれにとっても不幸にならないパーフェクトコミュニケーションの完成です。

 

 最後にお母さんと一言二言言葉を交わしてこの日は別れます。相談したいことがあったら何でもしてくれていいからねといたずらっぽく耳打ちしたお母さんの声は、こっれまでわたしが聞いたことのないような、どこか楽しそうで幼げな響きでした。

 

 

 お母さんのこの声音が、わたしの中に残ります。話してもいい相手として、わたしがどうしたらいいのか相談できる相手として、残ります。だって、その声には楽しさとか期待とかはあっても、悪意とかそういう嫌な気持ちはなかったんです。わたしの想像の中のものでしかない、友達の恋路を面白半分に応援するみたいなそんなものと似ていたんです。わたしに友達なんていないので所詮ただの妄想ですが。

 

 

 けれども、わたしはそんな妄想に任せて、お母さんに恋愛相談をしました。わたしがお兄さんに向けているものが恋愛感情と呼べるものなのかはともかく、わたしの抱いている感情をどうすればいいのか、どうしたらお兄さんに気持ちが正しく伝わって、お兄さんにも同じように思ってもらえるのかを相談します。

 

 お母さんは、教えてくれました。わたしがお兄さんに向けている感情と、お兄さんがわたしに向けていてくれているものは多少の違いがあったとしてもほとんど同じものであると。このまま何もしなくてもいつしか自然と思いは形になるだろうけれども、それを促進したいのならば、あることをすればいいと。

 

 それは、わたしにとってはあまりにもはしたないことです。お兄さんとのことを相談して、その答えとしてえたものでなければ間違いなくそんなことはしなかったでしょうし、できなかったでしょう。

 

 けれど、わたしはそれを聞いてラッキーだと思いました。わたしがしたくてもできなかったそれで、お兄さんがわたしを思ってくれるのなら、一石二鳥というほかないでしょう。

 

 お母さんにそれを教えてもらってから、普段通りに過ごします。わたしの戸籍に関する話が次々と送られてくる中でも、あくまで平静を保ちます。来るべきそのタイミングまでは、なにも知らないふりを続けます。

 

 そうしている内に、わたしの戸籍ができました。お母さんの子供として自分の権利を、今までは主張できなかった権利を主張できるようになります。もういらない心配をお兄さんにかけることもないし、お母さんが認めてくれるからお兄さんとずっと一緒にいられるんです。やっとわたしは、お兄さんの下で普通の人として過ごせるようになるのです。

 

 お母さんのおかげですね。この手伝いがなければわたしがこうして普通になれることはありませんでしたし、仮に普通になれていたとしても、ずっとお母さんのことを引きずることになっていたでしょう。

 

 また何度も会う機会はあるはずなのに、なぜかお別れみたいなことをお母さんが言い出します。わたしはお母さんともう会えないなんて嫌です。また会いたいですし、前までは瑠璃華さんにしていたような、お兄さんにはしにくい相談もしたいです。

 

「……お母さん、また、会いに来てもいいですか?」

 

 なにか嫌な予感がしたので、お母さんの下に行って、ちゃんと確認します。涙をこぼしながらもちろんというお母さん。やっぱり、もうほとんど合わないつもりだったのでしょう。

 

 わたしにとっては全部丸く収まって、お兄さんの元に戻ります。少しじっとりとした視線をお兄さんから感じる気がしますが、わたしがこれからすることに比べれば些細なことでしょう。

 

 家に帰って、リラックスしだしたお兄さんに甘えに行くふりをしながら近付きます。いつもみたいにわたしのことを受け入れてくれたところで、無防備になっている口元を狙います。

 

 少しカサカサしたものが唇に触れました。触れるだけのものでしたが、わたしのはじめてです。

 

 顔を離すと、お兄さんの呆気にとられた表情が見えます。

 

 わたしのことをこんな風にしたのですから、何もなかったわたしを普通にしてくれたのだから、お兄さんには責任を取ってもらわなくてはいけません。

 

 もう、ただの家族のままじゃ、いられません。



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一線

まだもう少しだけ続きます(╹◡╹)


 

 

 すみれに突然キスをされて、驚きながらもうれしく思ってしまう自分がいた。こんなことはよくないとわかっているのに、それだけ僕のことを思ってくれていることが嬉しかった。嬉しいなんて思うのは正しくないことはわかっているのに、大切にしている相手から強い感情を向けられるというものは、抗いがたい幸福だった。

 

 僕はきっと、この感覚から逃れることは金輪際できないのだろう。ずっと前に失くしてしまった、僕のことを、ありのままの僕をほぼ無条件に肯定してくれる存在を相手に、理性なんてものはほとんど無力だった。

 

 勿論僕がすみれに対していだいているのは、すみれが僕に求めているであろうそれとは異なるものだ。僕はあくまで、家族として一緒にいることをすみれに求めている。それ以上の何かは、それ以外の何かは、求めていない。

 

 

 そのはずだった。家族以外のものは求めていないはずだった。けれども、僕が一番感じているのは、求めているのはすみれの独占だ。すみれのお母さんから与えられたものすらも本心では受け入れたくない、どこまでも歪んでいて自分本位な独占欲だ。

 

 

 すみれには、僕以外の人と話してほしくない。関わってほしくない。介入してほしくない。

 

 こう思ってしまうのは、一言でいうと異常だ。異常な気持ちが異常なままに当たり前に振舞っている。

 

 けれど、それがいけないことだろうか。自分の人生をかけて助けた少女を、自分に好意を持ってくれている少女を、他の誰の手にも触れてほしくないと思ってしまう。そんなことは普通のことだと、僕は思った。

 

 

 異常な気持ちに、けれど当然な感情に思考回路が支配される。そのことに気付いた時にはもう、僕はすみれを抱きしめていた。この行動が社会理念的に正しくないということはわかっているのに、胸の内からこみあげてくるこの感情を表す術が他になかった。

 

 僕の腕の中ですみれは、抵抗するように小さく藻掻く。このまま襲ってしまえば、この子は僕だけのものになってくれるだろうか。嫌われていない、好かれている自覚はある。少しくらい傷つけてしまっても、おとなしく受け入れてくれるだろうか。

 

 すみれに付けられている傷が、どれも溝櫛に与えられたものだということが不快だった。()()()()()()、僕以外の誰かの痕跡だけが残っているのが不快だった。

 

 それなら、もっともっと深いところに僕だけの痕跡を刻み込んでおかなくてはならない。すみれを抱きしめる腕に力がこもる。細く小さい体は、今にも壊れしまいそうだ。

 

「……お兄さん、すこし、苦しいです」

 

 左の耳元から絞り出すような声が聞こえて、正気に戻った。今自分が何をしようとしていいたのかを認識して、慌てて腕を解いた。家族に対してするようなことでも、思うべきことでもなかった。そのうえ、すみれはまだ未成年なのだ。()()()()で済む相手ではない。

 

「……なにも、しないんですか?」

 

 責めるように、あおるように、耳元ですみれは囁く。首元にひんやりとした腕を回して頭を抱えるようにしながら、ささやく。

 

 間違いなく、俗にいう据え膳というものだろう。僕がおかしな思考に動かされた結果だし、途中まで僕が襲ったようなものだったから、男の恥にならないようにしたほうがいいのかもしれない。ここでやめたら、すみれに恥をかかせるだけになるのかもしれない。

 

「真剣に考えての結果で、ちゃんと責任を取るなら好きにしていいって、お母さんも言ってくれました。だから、()()()がしたいようにしていいんです。燐さんのすることなら、わたしはなんでも受け入れますから」

 

 

 頭が、冷えた。自分のしたことに、流されそうになったことに、自身を殴りたくなるほどの怒りを覚えた。何が、恥だ。そんなものは犬にでも食わせてしまえばいい。

 

 どのような形になるにしろ、責任は最初から取るつもりだった。すみれを拾ったあの日に、どのような結果になろうともその責任はとるつもりでいた。だから、それはいい。

 

 でも、こんな風に衝動的に、流されるままにしていいことではないだろう。もしするとしても、もっと順序を踏んで、気をつかって、なるべくいいものとして終わるようにしなくちゃいけない。間違っても、傷つけることが目的なんかであってはいけない。

 

「ごめん、すみれ。離してくれないかな」

 

 しぶしぶといった様子で、すみれは僕の首から手を離し、顔のすぐ横にあった頭を遠ざけた。すみれに恥をかかせる結果になったが、今は仕方がないものとして諦めてもらおう。

 

「ごめんね、でも、今の僕の気持ちのままでそういうことをするのは、やっぱりいけないことだと思ったんだ」

 

 すみれから好かれていることは、わかっていた。そういう対象として見られているであろうことも、どことなく察していた。なのに、僕は逃げていたんだ。責任を取るつもりでありながら、まだそういうことをすることはないだろうと高をくくって、考えないようにしていた。家族だからと、家族でいるためにと、すみれと真剣に向き合うことから逃げていた。

 

 そんな状態で、できるはずがない。ちゃんとすみれのことを真剣に想って、()()()からじゃないと、あまりにも不義理だ。そして何より、僕自身がこんな気持ちのままですみれとの関係を変えたくない。

 

「だから、もう少しだけ待ってほしいんだ。ちゃんと、すみれの気持ちにこたえあれるようになるから」

 

 衝動的なものではなくて、しっかりと惚れて、愛していると臆面もなく言えるようになってからじゃないと、僕はすみれを幸せにできないと思ったから。本当にこの子のことを考えるのなら、そうして通すべき筋は通さなくてはいけないと思うから。

 

「……燐さんのヘタレ」

 

 ぼそっと呟かれた言葉は、かなり刺さるものだったが、そういわれて仕方がないようなことをしたので、甘んじて受け入れる。ついでに謝りもする。すみれからしたら、突前迫られて受け入れようとしたらはしごを外された形だ。文句の一つも言いたくなるだろう。

 

「でも、いいです。燐さんがわたしのことをちゃんと考えて、向き合ってくれるのなら、今はそれだけで満足してあげます」

 

 すみれはいたっずらっぽく笑うと、僕にしなだれかかって、唇を奪う。

 

「安心してくださいね、燐さん。すぐにわたしの気持ちに応えたくなるようにしてあげますから」

 

 幼さの中に宿った婀娜っぽさ。相反するものが一つの器に入って成り立つ、危険な魅力。

 

 胸が、高鳴った。どうやら、僕がすみれに夢中になるのは、それほど遠い未来ではなさそうだ。



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一線(裏)

 お兄さんがわたしに対して独占欲を抱いてくれるようになると、それは行動に出ました。

 

 じっとわたしを見つめていることが多くなったり、お兄さんからのスキンシップが増えたり、抱きしめてくれる時の力が強くなったり。

 

 一歩引いたところから、保護者的な視線で見守ってくれていたのも心地良いものでしたが、こうやってある種のモノ扱いされているような感覚も、悪くありません。むしろ、求められているということが実感できるので、気持ちいいとすら言えます。

 

 わたしが買い物に行こうとすると着いてこようとするのも、お母さんと電話をしているとやたらとこちらを気にしているのも、少し離れたところに座ると近くに座りなおすのも、どれもこれも、お兄さんがわたしに執着しているからすることです。それが嬉しいから、あまり良くないこととわかっていながらも、あおるようなことをしてしまいます。

 

 もっともっとわたしのことを見てもらえるように、アピールしてしまいます。

 

 

 それが功を奏したのか、そんなことを続けていたある日お兄さんに突然抱きしめられました。どちらかと言えば締め付けると言った方が正しいくらいに、沢山力が込められます。肺が圧迫されて、息をするのも苦しくなります。手はほとんど動かせなくなります。

 

 苦しくて、きついはずなのに、お兄さんに与えられたものだと思えば、それすら愛おしくなりました。瑠璃華さんに痛いことをされた時は嫌なだけだったのに、お兄さんのせいで苦しいのは嫌じゃありません。

 

「……お兄さん、すこし、苦しいです」

 

 けれど、さすがに呼吸出来ないのはつらいので、お兄さんにそのことを伝えます。お兄さんの腕の中で終わるのは本当ですが、まだまだこれからいくらでも幸せになれる今終わるのは不本意です。

 

 でも、こんなふうに抵抗できないくらいに抱きしめられて、ドロっとした気持ちを向けられるということは、そういうことなのでしょうか。わたしのアピールが届いて、そういう対象として見て貰えるようになったのでしょうか。

 

 そうであれば嬉しかったのに、お兄さんはごめんと言って手を離してしまいました。残念ですが、今までで一番それっぽい雰囲気になった気がします。今なら、少し押してみれば、案外コロッと堕ちてくれるかもしれません。

 

「……なにも、しないんですか?」

 

 耳元で囁きます。何をしてもいいのだと、アピールします。わたしからこんなことをするのはふしだらな子だと思われそうで避けていましたが、体温を伝えるためにお兄さんの頭を抱え込みます。ここまでやってダメなら、しばらくは押し入れの中にひきこもらないとやってられませんね。でも、もう少し、あと一押しです。

 

「真剣に考えての結果で、ちゃんと責任を取るなら好きにしていいって、お母さんも言ってくれました。だから、()()()がしたいようにしていいんです。燐さんのすることなら、わたしはなんでも受け入れますから」

 

 燐さんの理性を、最後の抵抗を奪うために、お母さんからもいいと言われていることを伝えます。成人するまでは、避妊はしなさいと言われていますが、それはつまりそれさえしていればすることはしていいということです。

 

 わたしの意志も、よっぽど倒錯したことでなければなんでも受け入れられるということも伝えます。実際にやってみないと喜べるかはわかりませんが、燐さんが求めるのなら多少の我慢は覚悟しています。

 

 だから、何も気にしないで、何も我慢しないで、好きなようにしていいのに、残念なことに燐さんはそうしてくれませんでした。真剣そうに、わたしに離れるように言います。少し押し過ぎたのかもしれません。もう少し背中を押すだけでよかったのに、勢いをつけすぎてしまったせいで踏みとどまってしまった、そんな気がします。

 

 悔しさと、ここまでしたのに断られたという恥ずかしさと悲しさが沸き上がってきますが、ひとまずは燐さんの言うとおりにします。一度失敗した以上、今この場でこれ以上迫ったところで逆効果になるのは目に見えています。

 

「ごめんね、でも、今の僕の気持ちのままでそういうことをするのは、やっぱりいけないことだと思ったんだ」

 

 どんな気持であったとしても、燐さんが最終的に責任を取ってくれることくらいわかっています。だからどんな方法でもなりふり構わずに迫ったのに、これじゃあ台無しです。どうせ同じ結果になるのだから、少しも我慢なんてしたくないのに、こんなことを言われてしまったら我慢するしかないじゃないですか。

 

「だから、もう少しだけ待ってほしいんだ。ちゃんと、すみれの気持ちにこたえあれるようになるから」

 

 もう、たくさん待ちました。ずっとずっと我慢していたのに燐さんはまだわたしに我慢しろと言います。ひどい人です。鬼畜の所業です。

 

「……燐さんのヘタレ」

 

 だから、こんな言葉が出てきてしまっても、わたしは悪くありません。今までで一番頑張ったのに、断られたらしばらく引きこもろうと思うくらい頑張ったのに、こんな仕打ちなのですから。

 

「でも、いいです。燐さんがわたしのことをちゃんと考えて、向き合ってくれるのなら、今はそれだけで満足してあげます」

 

 それなのに、恥ずかしくて恨めしく思うのと同じかそれ以上に嬉しく思ってしまっているわたしもいます。だって、一度衝動的になったのに、そこから冷静になれるくらい、燐さんはわたしのことを大切にしてくれているのです。そしてそのうえ、これからはわたしのことをそういう対象として見れるようにするとも言ってくれています。

 

 このことが嬉しくないのであれば、一体何が嬉しいのでしょうか。大好きな人に大切にされていて、これからもっと大切に思ってもらえることが決まっているのです。これが嬉しくないという人がいるのであれば、その人はきっとどこかがおかしいのでしょう。

 

 でも、わたしは欲張りな子なので、悪い子なので、この嬉しさだけでは止まってあげません。真剣な顔をしている燐さんに再度顔を近付けて体重をかけます。こうしたら優しい燐さんはわたしを支えてくれて、そのせいでわたしの邪魔ができなくなります。

 

 すっかり無防備になった燐さんの唇。これはもう、わたしのものです。ほかの誰にも、触れさせたりはしません。その所有権を主張するために、そうして見せると意思表示をするために、奪います。三回目は、燐さんからしてくれるでしょうか。

 

 ほんの一瞬だけの、淡く甘美な時間を楽しみます。きっと次はもっと長く、もっと幸せに。

 

「安心してくださいね、燐さん。すぐにわたしの気持ちに応えたくなるようにしてあげますから」

 

 考えるだけで、頭が溶けてしまいそうです。我慢ができなくなってしまいそうです。ちゃんと我慢しきれる自信がありません。

 

 わたしは、燐さんが受け入れてくれるまで、我慢できるのでしょううか。いえ、できなかったとしても、いいのかもしれません。仮に寝込みを襲うようなことになってしまったとしても、そんなの、いつまでも待たせるようなことをした燐さんが悪いんですから。



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HAPPYEND?小さな幸せの集まる場所

 すみれに迫って、覚悟を決める約束をしてから僕が陥落するまでにかかったのは、結局二週間程度だった。度重なるアピールと、あの日以降所作の一つ一つが魅力的に見えてしまうこともあり、間違えようのない愛情を実感するまでにかかったのが一週間。

 

 そこから、自分の気持ちは本当に愛情なのか、ただの性欲なのではないかと迷ったり、愛情だとしてもそもそもすみれのような幼げな少女に恋慕の情を抱くのは大丈夫なのかと苦悩して、最終的には何をとち狂ったのかすみれのお母さんの莢蒾さんに相談した始末だ。

 

 その際に、すみれに恥をかかせることになったことについてこんこんとお説教をされて、たとえその衝動が性欲でもそれまであの子を守ってきたのはそれ以外の愛情なのだから、今更感情が一つ増えたところで大事なところは変わらないでしょうと諭された。あと、そろそろ法律的にも大丈夫な年齢になるから気にするなとも。周囲の目線に関しては男ならあきらめなさいと言われた。本当に、過去の行いが信じられないくらいまともな人だ。

 

 

 その後家に帰って、すみれの気持ちを受け入れると伝えると、それならと目をとじてなにかを待たれる。

 

 何を待っているのかも、どうするべきなのかもわかっていても、人間思いのほか踏ん切りがつかないものだ。結局、痺れを切らしたすみれにジト目で見つめられてようやくだった。ヘタレの汚名はまだまだ返上できそうにない。

 

 

 それが、半年ほど前の話だ。

 

 すみれからの猛プッシュに風前の灯かと思われた貞操もなんだかんだで守られて、清い関係のまま……若干オフホワイトな関係のまま、籍を入れた。10代半ばだと思っていたすみれだが、実際のところは17だったらしい。10歳頃からネグレクトされていたと考えれば、成長が遅れているのも納得のいく話ではあった。

 

 そしてこの半年の間に晴れて18になったすみれは晴れてお嫁さんデビューを果たしたわけだ。外見年齢のせいで酷い犯罪臭がする。

 

 これまでの経緯とか、すみれの人に対する恐怖が治っていないこととか、その辺のことを考えて式を挙げることはせず、けれどせっかくの記念だからと写真だけは撮っておくことにした。うれしそうに写真を抱きしめる姿は、他の誰にも見られていない、僕だけの宝物だ。

 

 

 本格的に二人で生活を始めるにあたって六畳一間は手狭だったので、引越しもした。すみれは今のままでもいいと言っていたが、今ある必要最低限のものだけでの生活は卒業したかったし、そうなるとものを置く場所がないのはいけない。するとどうしても、もう少し広い家に引っ越す必要があったのだ。

 

 新しい住居は家賃こそ多少上がるものの、面積で言ったら倍以上になる1LDK。これならば、すみれが欲しがっていた水槽を置くことも出来る。

 

 一通りのものを新居に移して、足りないものやほしいものも買った。手持ちの問題で妥協しようとしていたところは、莢蒾さんが援助してくれた。本来すみれにかけるはずだった分のお金を回すから使いなさいとの事。断ろうとしたら、桐たんすを送られるのとどちらがいいかと言われたため、諦めてありがたく使わせてもらうことにした。

 

 そんなこんなで引越しは済んで、一昨日から新居に移った。部屋は広くて、便利で、何も言うことは無い。あとは今日一日、会社で仕事をしつつ手続きを済ませれば、明日からは休みだ。

 

 お祝いということで、朝から仕込んでいつもよりも豪華なご飯を作ってくれると、()の方も、今日こそは恥ずかしがらずに頑張るから期待して欲しいと言っていた、すみれの赤くなった顔を思い出す。その楽しみが待っているだけで、いつもの何倍のやる気と集中力が湧いてきた。

 

 のんびり休憩するのももどかしくて、休憩とそこそこに仕事に戻り、しばらくしてから規定通りの休憩を取れと上司に呼び出される。大人しく休んでいるのが耐えられないと伝えたところ、それなら帰宅後に休んだことにしていいからさっさと8時間働いてしまえと匙を投げられた。ホワイト且つ気の利く上司で、感謝しかない。

 

 そのまま時間を忘れるように仕事に没頭して、普段の定時よりも30分早くあがらせてもらう。

 

 帰り道を進むにつれて、もっと早く帰りたくなる。少しでも早く、すみれに会いたくなる。早く帰ったら、すみれは喜んでくれるだろうか。もしかしたら料理のタイミングが合わなくて、むくれてしまうかもしれない。それはそれでかわいいので、見たい気持ちもあるが何も言わずに突然だと起こるかもしれない。早く帰れるようになったことだけ伝えて、その後で急ごう。

 

 

 電車の中でメッセージを送って、一番改札に近いドアの前に立つ。早くあって、抱きしめたかった。朝からずっと楽しみにしていて、もう限界が近かった。

 

 走らない程度に、汗をかかない程度に急ぐ。走って帰って、臭いと思われたら心が折れかねないからだ。

 

 慣れない道を帰って、やっと見えてきたのは緑色の屋根のアパート僕らの新しい家だ。すみれが待っていてくれる、幸せな家。帰ったらおかえりなさいと言ってくれる、当たり前の幸せが集まる家。小さな幸せの集まる家。

 

 もう、玄関で待っていてくれているだろうか。いや、メッセージを見ていなくて、びっくりして出てくるかもしれない。どちらであっても、うれしいし、喜べるだろう。

 

 期待と、楽しみにあふれたまま、僕は玄関を開けた。





 ちょっと短いので早ければ夕方頃には次を載せます(╹◡╹)


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H■PP■■ND?小■な幸せの■■■場所(裏)

・・・おや!? HAPPYEND?のようすが・・・!(╹◡╹)


 思い返してもさすがに少しはしたなかったかなと後になってから少し反省した、燐さんに迫られて迫り返した日から一週間ほどすると、燐さんがわたしに向けてくる視線の質が変わりました。以前までのものと比べるとどこか粘性が高くて、全身を撫でまわすような、そんな視線です。

 

 最初にそうみられたときは何事かと驚いてしまいましたが、それが本で読んだことのある、情欲の視線に似ていることに気がつけば、もうウェルカムです。正直大口は叩いたものの、これまで全くそういう目で見られていなかったことなどを考えれば、わたしが燐さんの好みから大きく外れている可能性も十分にありましたし、考えたくはありませんでしたが燐さんが仙人様になってしまっている可能性もありました。そうじゃなくて本当に良かったです。

 

 そこから一週間は、燐さんのことを誘惑しながら、いつになったら手を出してくれるかドキドキする時間です。わたしからのスキンシップだけではなく、それに応える燐さんからのスキンシップも激しくなっていって、素敵な時間でした。首筋を執拗に撫でまわされた時は、危うく粗相しかけたくらいです。

 

 けれど、決定的な一線は越えてもらえないまま、一週間が過ぎてしまいます。間違いなく、燐さんはわたしを欲してくれているのです。なのに、手を出してはくれないのです。

 

 もうそろそろ辛抱がきかなくなったわたしが、もう我慢をやめようかと思った頃、お母さんから避妊は忘れないようにとメッセージが届いて、意図がわからず混乱します。その答えは、その日珍しく一人で外出していた燐さんが帰ってきたことでわかりました。

 

 何でも、燐さんはわたしに手を出すことをためらって、お母さんに対して相談に行ったらしいです。そこで答えを見つけたように見えたから、お母さんが気を付けるように念を押したとのこと。

 

 でも、少しいただけませんね。これが、手を出しても大丈夫かの最終確認であれば、燐さんはただしっかりと、真面目に筋を通しただけで済んだのですが、燐さんは手を出したいけど出していいのか迷っているという類の相談をしてきたようなのです。

 

 わたしが、あんなにも恥ずかしいのを我慢して、早くその気になってもらえるようにがんばって、その結果が他の人に背中を押してもらうなんてものだったのですから、わたしの怒りも当然でしょう。これまでの鬱憤を全て晴らすべく、やっとその気になった燐さんにはたくさん頑張ってもらわなくてはなりません。

 

 そう思って、燐さんの言葉を、やっと燐さんからしてくれた告白を受け入れました。告白というよりもプロポーズと言った方が適切な言葉でしたが、わたしからはすでにそれ以上の言葉を伝えていたので、比較したら普通の告白相当です。

 

 それを聞いて、燐さんがちゃんとわたしに発情してくれているんだと確認を取って、いざ初めての瞬間を迎えようとして、まずは燐さんからのキスを待ちます。いつかいつかとまっても、いつまでも燐さんはキスをしてくれません。わたしはこんなに待ってるのに、何もしてくれません。

 

 しびれを切らして、いつになったらしてくれるのかと、目を少し開けてねだります。早くしてほしくて、早く行動で示してほしくて。そうしてようやくしてもらって、次に移ります。そして、この時初めて、ある事が発覚しました。

 

 わたしは、自分で読んできた本の内容やら、燐さんに対する愛情を頼りに、何でも受け入れられると思っていただけで、実際の生々しいものは、全くの知識がなかったのです。義務教育の範囲の性知識すらまともに持っていないのだから、当たり前といえば当たり前のことでしたが、実際に始めてみた男の人の象徴は、わたしの恐怖とこらえようのない羞恥心を掻き立てるには十分すぎるものでした。

 

 こうして、誘うだけ誘ってやっとの段階で逃走を図ったわたしと、それまでのもうプッシュから突然逃げられた燐さんの構図ができました。ひとつ後悔するとしたら、対象年齢を真剣に守ってきたせいで、実際の行動なんてものを全く知らなかったことでしょう。次のタイミングまでには、ちゃんと向き合えるように、予習をしておくことにします。

 

 

 

 そんなわたし失態はさておき、燐さんはわたしの準備ができるまで待ってくれると言ってくれました。生殺しもいいところでしょうが、それ以上にわたしも我慢をしてきたので、諦めてほしいです。……いえ、それはあまりにも燐さんがかわいそうですね。わたしも頑張りましょう。

 

 色々工夫しながら、どうにかできないかを試しているうちに、時間は経ちます。いつの間にか、わたしは18歳になっていました。お母さんに最後に誕生日を祝ってもらったのが10歳のときで、まだ燐さんに出会ってから一年も経っていないので、わたしは7年もネグレクトされていたということになります。

 

 時間の感覚が曖昧だったのであまり考えたことがありませんでしたが、あの状態でよくお母さんはそんなに長い間わたしを手元に残しておけたものです。時間のことを考えれば、お母さんがやたらとわたしたちの生活を援助しようとするのも、納得のできる話ですね。ちなみにわたしは就籍の手続きの際に初めて自分の年齢を知りました。

 

 

 それはさておき、わたしが不甲斐ない姿を見せた後も、燐さんは相変わらずわたしに良くしてくれます。誕生日をお祝いしてくれた後に、ちゃんと籍を入れてくれます。女の子なら式も挙げたいんじゃないかと気にもしてくれましたが、そうなるとわたしの側の参加者がお母さんだけになってしまいますし、事情が事情だけに燐さんが周りからどんな目で見られるかも分かりません。

 

 だから遠慮して、でも綺麗なドレスは着てみたかったので、写真だけ撮らせてもらいます。わたしだって乙女の端くれなので、ウェディングドレスへのあこがれくらいはありました。それでも自分には全く縁のないものだと思っていたので、こうして形だけでも実現出来て、実現してもらえて、とても嬉しかったです。

 

 新婚生活のための新しいお家も、用意しました。狭いところで燐さんをすぐ近くに感じられる生活を失うのは少し寂しくもありましたが、代わりにベッドをくっつけて寝れるようになったので、総合的に見たら大幅にプラスです。わたしが、いつかほしいと言っていたクラゲも、飼えるスペースができました。

 

 

 そして、ここまでわたしのためにしてくれたのだから、いい加減わたしもちゃんと想いに応えたいという気持ちが、強くなります。どんなものが燐さんの好みなのかわからないながら、わたしがかわいいなと思った下着を用意しました。当日喜んでもらうための、いつもより豪華な晩御飯も考えました。どんな風に雰囲気を作っていくのかも調べて、考えました。

 

 あとはもう、“その日”を迎えるだけです。

 

 

 わたしが“その日”に決めたのは、燐さんが会社に行って、休暇の申請をしてくると言っていた日です。しばらくバタバタしていたから、身の回りの整理と休憩を兼ねて、週末に2日多く休みを取ってくるとのことでした。

 

 今日で絶対に決めると強い意志を持って、いつもより早く起きます。早く起きて、普段なら燐さんの寝顔を眺めているのを諦めて、朝からちょっと気合を入れてご飯を作ります。

 

 いつもよりも二品多いおかず。食べ応えは普段と変わりませんが、いつもよりも手間がかかっています。

 

 早く起きすぎてそれでも時間が余ったので、少し早いですが唐揚げの下準備もしてしまいましょう。柔らかくなるようにフォークで滅多刺しにして、料理酒に漬けておきます。そうしているうちに、ちょうどいい時間になったので、燐さんを起こします。

 

 朝が弱いわけではないせいで、声をかけただけで起きてしまう燐さんに少し物足りなさを覚えますが、決して悪いことではないのであきらめます。もっとゆさゆさ揺すりながら、いたずらとかしてみたかったのはここだけの話です。

 

 燐さんを起こして、ご飯をよそってもらって、一緒に食べます。不便なこともありますが、一緒に何かをするというのはこれはこれでいいものです。そのまま向かい合ってご飯を食べて、お兄さんを送り出します。

 

 

 行ってらっしゃいのキスは様式美です。そう自分に言い聞かせて、ちゃんとすぐにやめます。したいからする、となってしまうと、いつまでたっても終わりが来なくなってしまいますからね。カバンを渡す時に、今日はご馳走を用意しておくことと、今晩は楽しみにしていてほしいことを伝えます。朝からこんなことを言うのは少し恥ずかしいですが、宣言することで自分の逃げ道をなくすためですから、仕方がありません。

 

 行ってきますと抱きしめられて、行ってらっしゃいと返します。ずっとこうしていたいけれど、燐さんが遅れてしまうので程々で切りあげます。

 

 そうして見送ったら、すぐに家事の時間です。まだ暮らし始めて日の浅い家だから基本的にほとんど汚れていませんが、今日は特別な日にしたいので一通り掃除をします。晩御飯は唐揚げにオムライス、あとはお野菜が足りていないので野菜たっぷりのミルクスープ、付け合せに茹で野菜にしましょう。本当はハンバーグも作りたかったけれど、さすがにこの手じゃハンバーグは作れません。

 

 掃除と料理をしているうちに、いつの間にかお昼は過ぎていました。野菜は茹で終わって、ミルクスープをじっくり煮込んでいます。

 

 あとは唐揚げの2度揚げと、オムライスの卵だけです。火を使っているうちに少し汗をかいたので、一足先にさっぱりして、燐さんのために選んだ下着を身に付けます。少し早いけどパジャマに身を包んで、寝室の準備をします。燐さんが帰ってくるのは、まだ先です。でもいつ帰ってきてもいいように、今できる中で一番いい状態のわたしをキープします。

 

 

 そうしているうちに時間は過ぎて、不意にインターホンがなりました。時間的にはまだ帰ってくる頃ではありません。頼んでいた荷物が届いたのでしょうか?パジャマに着替えてしまったので他の人に見られるのは少し恥ずかしいなと思いつつ、玄関に向かいます。



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106話

 おめでとう!HAPPYEND?はBADENDにしんかした!(╹◡╹)

(もう残っていないと思うけど)苦手な人はブラウザバックして本当のハッピーエンドが投稿されるまでお待ちください(╹◡╹)
 今後の予定
 ハッピー→ワースト→ベスト?
 の順番で書きます。もう騙さないから安心してね!!(╹◡╹)


 ドアを開けると、焦げ臭い臭いがした。

 

 この時点で、僕の興奮は冷める。普段すみれは料理中に目の前の鍋から目を離さないし、離すことがあってもそれは弱火で、かつごく短時間の場合だけだ。火にかけているものが焦げるようなことは、普段ならありえない。

 

 それなら、この臭いは一体何だ?一人で暮らしていた時以来の、この臭いはなんでしている?そんなの、すみれに何かがあったからにほかならない。頭の中が真っ白になって、慌てて部屋の中に入る。すみれが料理中にうたた寝しているとかならまだいい。けれどもし、何かよくないことが起きているのなら。すぐにでも、何とかしないといけないんだ。

 

 すみれの名前を叫びながら、転びそうになりながら駆け込んで、まず目に入ったのは黒い煙を上げながら、なおも熱され続けている焦げ付いた鍋。煙自体は換気扇に座れているが、臭いは吸いきれていない。焦げ臭い臭いの原因はこれだろう。でも、今はそんなことはどうでもいい。

 

 コンロの火を消すことすらせずにリビングに向かい、そのまま奥の部屋に向かう。

 

 そこにあったのは僕が探していたすみれの姿だった。そこにあったのは、僕が見たくなかったすみれの姿だった。

 

 手足は投げ捨てられた人形のように放りだされ。お気に入りだったはずのパジャマはボタンが引きちぎられ、下着は汚されていた。さらさらだった黒髪からは赤い液体が染み出して、水たまりを作っている。

 

 

 

 頭が、理解することを拒んだ。だって、今日帰ったらすみれが笑顔で迎えてくれるはずで、豪華な晩御飯と嬉し恥ずかしい初体験が待っているはずだったんだ。朝、すみれがそう言ってくれたから、それを楽しみに一日休む暇も惜しんで頑張った。そのはずなのに、これはなんだ。なんで、見覚えのない段ボールの横で、すみれはこんな風に打ち捨てられている?

 

 わけがわからない。意味が分からない。右手に持っていた鞄が、手から滑り落ちる。頭が追いつくよりも先に、すみれに駆け寄っていた。

 

 

 名前を呼ぶ。肩をたたく。反応がない。

 揺さぶり、体を起こそうとする。いや、いけない。頭を怪我しているときは動かしちゃいけない。

 呼吸を確認する。小さいけれどもある。胸に触れる。ゆっくりと、鼓動が感じられる。

 

 

 まだ、まにあう。

 

 頭の中は相変わらず真っ白なのに、不思議と体が動いていた。すぐに119を押して、住所と状況を話した。説明を終えて、何かできることはないかと聞いたら素人は何もしないでいいと言われたから、ただすみれの手を握っていた。それしかできなくて、それしかさせてもらえなかった。幸いにも比較的近くに消防署があったことで直ぐにきてくれた救急車を呼び込むことしかできないままに、気が付くと救急車に一緒に載っていた。

 

 そのまますみれの入院が決まるまで、僕は何もできなかった。ただそばにいるだけで、何の役にも立てなかった。

 

 

 

 

 

 

 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

 

 

 インターホンを聞いて玄関に出るとそこにいたのは、見慣れた制服に身を包んだ、どこかで見た覚えのあるおじさんでした。

 

 届け物は予想通り荷物で、品物は燐さんがわたしのために買ってくれた、クラゲ用の水槽です。小さめの魚を飼育するのにつかわれるサイズのものですが、あまり動かなくて共食いもしないタイプのクラゲであれば、いくらか飼育するには十分な大きさです。

 

 燐さんがいないタイミングで届いたのは少し予定外でしたが、宅急便屋さんの働く時間を考えれば、このくらいの時間に来るのが普通ですので、特に疑うこともなく普通に受け答えます。そのまま受領票だけ書いて帰ってもらおうと、わたしの苗字である灰岡と書いてお引き取り願おうと思いましたが、ここで一つ思考が回ります。

 

 それは、今これを受け取ったとして片手しかつかないわたしにこれを運ぶ手段はありません。そうなると、わたしが燐さんを迎えるときに、明らかに異質なものが残ることになってしまいます。そんことになれば、燐さんはわたしに集中しきれなくなってしまうでしょう。

 

 それでは、締まりません。わたしの求める理想のものと比べて幾段と劣るものになってしまいます。そうすると、おのずとこの段ボールを家の中に運び入れる必要がありますが、わたしの手では残念なことに自力で運び込むことができません。意地を張ったとしても、廊下からリビングに移ることもできず、バランスを崩して大惨事になりかねません。

 

 そんなもしものことを考えて、わたしは玄関での受け取りではなく、部屋まで運び込んでもらえないか頼むことにしました。怪訝そうにしていたおじさんも、わたしが左手のことを告げると納得して運び入れてくれます。

 

 水槽の置き場所に選んだのは、寝室でした。だからそこに置いてもらって、お礼を言います。ここなら燐さんが帰ってきてからも変にムードを壊すことなく迎えられますし、完璧です。

 

 配達員のおじさんにお礼を言って、帰ってもらおうと思ったら、おじさんの様子がおかしいことに気がつきました。好色な顔になって、わたしを値踏みするような目で見ています。

 

 燐さんからそう見られた時はうれしいだけだったのに、知らないおじさんから同じようにされると、恐怖しか感じませんでした。

 

 おじさんが手を伸ばします。逃げようと、悲鳴をあげようと思ったのに、怖くて体が動きませんでした。声が詰まって、出てきませんでした。

 

 声が出るようになる前に、口を塞がれます。体が動きません。抵抗が、できません。

 

 ようやく抵抗を示せたのは、パジャマのボタンが引きちぎられた後でした。何をされるのか、何をされようとしているのかが明確になって、燐さんのために用意していたものが踏み荒らされそうになっていることがわかって、やっと拒絶の言葉がでます。腕を使って距離を離そうとします。

 

 でも、今更抵抗しても手遅れでした。口は塞がれていますし、わたしの力で、成人男性にかなうわけがありません。頭を殴られて、今更抵抗して萎えさせるなと言われます。

 

 それでも、そのまま受け入れることはどうしてもできなくて、抵抗を続けました。意味なんてないことは、わかってます。無駄に終わることも、わかっています。それでも続けて、

 

 顔を掴まれたまま、頭を何度も床に叩きつけられました。

 

 

 痛くて、こわくて、苦しくて。

 

 燐さんに、助けを求めながら、わたしの意識は途切れました。



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107話

 この作者な、自分で苦労して編んだマフラーを勢いよく解くのが好きなんだ。努力が全部無駄になった時の開放感と徒労感が堪らないんだ……(╹◡╹)

 このエンディングのために重ねてきた40万文字(╹◡╹)



 

 

 病院に着いても、僕が何も出来ないことに変わりはない。処置室に運び込まれたすみれの無事を祈って、その前のベンチに座っているだけだった。

 

「危ないところでした。あと30分遅かったら、命は危うかったでしょう」

 

 待っていた僕にかけられたのは、そんな言葉。命が無事だったのは不幸中の幸いと言うべきだろう。たまたま今日、早く帰ることができたから間に合った。そのことに安堵すると同時に、間に合ったのが奇跡のような、危うい状況だったことに背筋が凍った。

 

 早いうちに帰らせてくれた上司に心底感謝しながら、処置室からでてきた医者の言葉を待つ。

 

「詳しくは検査をしてみなくては分かりませんが、体の機能に障害が残る可能性や、このまま目覚めない可能性、最悪の場合は、急変することも考えられます」

 

 告げられたのは、そんな言葉だった。突然こんなことになって、まだ受け止め切れていないのに追い打ちをかけるようなことを言われる。そのまましばらく放置されて、少しするとやってきた警官に事情を聴かれた。

 

 詳しい事情なんて、何も知らない。僕はただ帰った後のことを楽しみにしていて、突然あんな状況に放り込まれただけなのだから、一番事情を知りたいのは他でもない僕だろう。

 

 それでも、わかる限りのことは話した。今日のこと、家に帰ってからの事、部屋の中で感じた、些細な違和感。全部話して、事件性がありそうだと判断されたらしく、家の中を調べていいか確認されたので、好きなようにしてくれていいと伝える。見られて困るようなものも、取られて困るようなものもどうせない。何なら、鍵をかけ忘れていたことにすら今になって気付いた。

 

 けれど、いいといったからそうですかともいかないらしく、その場に立ち会うことを求められた。本当はすみれのそばにいたかったけれど、医者にもはっきりと何もできることはないから協力してきた方がいいと言われてしまったので、おとなしく言うことを聞いて一度家に帰る。

 

 

 こんな時、どうすればいいのかが僕にはわからなかった。何をすればよくて、何をしてはいけないのか、何もわからなかった。

 

 だから僕よりも詳しい人の言うことを聞いて行動することしかできなかったし、そうした結果このようになったわけだ。あとから聞いた話だが、この時の僕はまともに頭が働いていなかった、現実を受け入れられていなかったせいか、ひどく冷静であるように周囲からは見えていたらしい。被害者の身内ということを踏まえても、変に気をつかう必要がないくらい冷静なように見えていたらしい。

 

 けれどそのかいもあったのか、現場である僕らの家とすみれの体に残っていた残留物の鑑定結果と、念のためと取られた僕のそれから、かなり早い時点で僕の疑いは晴れたらしい。そして、僕が何かをする前に状況確認をできたおかげで、すみれをこんな目に合わせた容疑者の候補も立った。

 

 何でも、玄関から部屋までの間に抵抗や争った痕跡が見られなくて、その部屋でのみ抵抗や暴行の痕跡があったことから、あの部屋に置いてあった見知らぬ段ボールの箱、その元の持ち主に疑惑が回り、その日やたらと不自然な行動があった配達員に疑惑が寄せられているらしい。

 

 そのあたりのことは僕にはどうしようもないので、僕は空き時間のほとんどをすみれの横で過ごした。いつ目を覚ましても、すぐ隣で迎えられるように。ただただ一日中、面会時間いっぱいまですみれのそばにいた。

 

 それができたのは、すみれとの時間のためにあらかじめ金月と取得していた休暇のおかげだ。本当はもっと幸せな時間のために使うはずの休暇だったが、すみれが目を覚ますまでそばにいるためには、役に立ったのでよかった。

 

 

 

 結局、すみれが意識を取り戻したのは、ことが起きてから四日目の昼頃。深刻そうな顔をした医者に、今後目を覚まさないことも考慮した方がいいかもしれないと忠告された翌日の事だった。

 

 目を覚ましたすみれに、まず抱いたのは安心。前日にもう起きないかもと言われたのだから、それは安心もする。その次は、すみれを一人にしてしまったことに対する、強い後悔。

 

 目を覚ましたすみれは、出張から戻ってきた時と同様に、いや、その時よりもずっとひどく、人を恐れるようになっていた。一番すみれに信じてもらえている僕なら、だれよりもすみれに受け入れられてる僕ならまだまともにやり取りができるだろうと思ったのにそんなこともなく、他の人たちと同じかそれより多少ましなくらいで、普通に怖がられた。

 

 なるべくすみれを怯えさせないように、その場にいた全員で見つけた方法は距離をとること。そして一番まともに会話ができたおばあさんの看護師を間に立てて話をすること。

 

 もどかしさもやるせなさもあったが、それが一番すみれの負担にならないのだから、仕方がない。おばあさんも快く協力してくれたこともあって、すみれの事情聴取は比較的すぐに終わった。聞けた話は、荷物を運んでもらったらその宅配員から暴行を受けたというもの。そして、かなり早い段階で意識を失ったから、何をされたのかがわからないということ。

 

 被害者の供述を聞いた警察は容疑者を確保するためにすぐに行動を始めて、残ったのは僕と病院の人。

 

 痛いところや違和感のあるところはないかの、自覚症状の確認がまずあって、その後検査に移る。ひとりで上手く立てないすみれを、怖がらせてごめんねと謝りながらおばあさんが車椅子に移動させた。

 

 そして検査の結果知らされたのは、右脳の機能の著しい低下と、一部内臓のダメージ。具体的な症状は、まず左半身の不随。こちらはリハビリ次第では多少快復する可能性も残っているらしい。とはいえ多少の快復で、可能性はあるという程度の物言いだから、もう治らない可能性の方がずっと高いのだろう。

 

 

 そして二つ目は、今後子供は望めないということ。それを聞かされた時のすみれの表情は、きっと一生忘れることができないだろう。そこにあったのは、僕の言葉では言い表せないほど深い絶望だった。

 

 





 時間をかけたものほど、思い入れのあるものほど壊れる姿は美しいのよね(╹◡╹)


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BADEND AFTER 小さな幸せの末路1

 すみれが病院に運ばれた日から、二年が経った。

 

 犯人自体はすぐに捕まって、いくつかの罪で裁かれた。すみれに預けていた財布を盗まれていたことで強盗罪まで追加されていたことを後から知ったが、正直それ以外のことが大きすぎたせいでそれほど衝撃は受けなかった。

 

 その近辺で唯一驚いたことは、犯人が青柳、僕の上司の弟だったことだろうか。弟とはいえ随分前に勘当されて、今どこにいるのかも知らないような間柄だったらしいが、これもまた嫌な繋がりだ。恥とはいえ身内のしたことだからと、彼が賠償金の一部を立て替えてくれたことには助かったが、こんなことになったせいでそれ以降はずっと負い目を持たれている。

 

 就職した頃から僕の事情を知っていて、気にかけてくれて、目にかけてくれた恩人にとの関係は、そんな経緯で変わってしまった。表面上は、仕事をしているあいだはこれまでと同じように振舞ってくれているが、それ以外の時は接し方を忘れたかのように不自然になる。謝られるたびに、何も悪くないはずなのに謝っている姿に、胸が苦しくなる。

 

 そうして仕事が終わって、帰ったら今度は家事をしなくてはいけない。結局奇跡なんて起こらなくて、左半身の不随は残ってしまったすみれ。一人ではまともに生活することもできなくなってしまったすみれの介護も、僕が毎日やらなくてはいけないことだ。

 

 家に帰って、体をきれいにてやって、ご飯の用意をする。ある程度は土日の休みにまとめてできるが、それでも毎日やらなくてはいけないことだってたくさんある。すみれの朝食や昼食も、前日のうちに用意しなくてはいけないし、洗い物だって、以前と比較すればましなもののけして広くないキッチンでは貯めれて二日分が限度だ。

 

 やらないといけないことは毎日あるし、一人で暮らしていた時のそれよりもずっと多い。のんびり過ごす時間もないし、早く帰らないといけないから残業もまともに出来なくなって、収入も減った。

 

 安さを目当てにスーパーをはしごする気力もなく、買った食材を効率よく使いまわすことを、最低限以上の栄養バランスを考える余力もない。支出は増えて、僕は嫌なことから逃げるために酒を使うようになった。

 

 それでまた支出が増えても、僕には逃げ道が必要だった。もとより、僕は酔っぱらった勢いですみれを保護したような人間だ。ほかに救いがあった間はからっきしだったが、なくなったらそこに戻るのは当然のことだろう。この頃、僕は自分が限界なのだと感じていた。

 

 けれど人間、限界なんてものは迎えてからが本番だったようで、そのままずるずると時間だけが経った。僕はただ逃げ続けた。

 

 今振り返ると、前後関係は定かではないが、すみれから笑顔がなくなったのも、何も悪くないはずなのに仕切りに謝るようになったのも、そのころからだった。僕の飲酒を受けてすみれがそうなったのか、すみれのそれに耐えられなくて僕が逃げたのかはわからないが、時期的には一緒だった。

 

 

 こうなってしまうと、それ以前の自分がいかに何も考えず、浅い想像で物事を語っていたのか、考えていたのかが見えてくるものだ。

 

 どんな君でも変わらず愛せるだなんて、そんなのは嘘だ。愛しているのに、だれにも触れさせたくないのに、こんなにも苦しいのだから。そばにいられるだけでいいなんて、それだけで幸せなんて、そんなのは嘘だ。誰よりも近くにいるのに、今の僕は苦しい。自分だけで独占しているのが幸せなんて、閉じ込めておくことが幸せなんて、そんなものは嘘だ。他の誰かと関われていた時の方が、自由に、たのしそうにしていた時の方が、君は間違いなく魅力的で、そばにいたい存在だった。

 

 

 ……たまに、すみれがこんなことになっていなかったら、僕はどれだけ幸せになれていたのだろうかと考えてしまうことがある。きっとその僕は毎日帰ったらすみれの作るご飯を食べながら談笑して、たまに夫婦の営みなんかをしていたのだろう。すみれのトラウマになってしまって、無理は絶対にさせたくなくて、終ぞ僕が一度もすることのなかった行為に励んだりもしていたのだろう。

 

 そんな未来が、ほしかった。いや、多少違ってもよかった。一緒にいて、お互いに笑い合えるような関係が築けたなら、何でもよかった。そんなことを定期的に考えては、僕は自己嫌悪に浸る。

 

 すみれが幸せならそれでいいと、すみれのためになるのならそれでいいと思っていたはずなのに、結局僕が求めていたのは自分にとって都合のいいすみれだった。すみれのためという美辞麗句に踊らされて、一人で気持ちよくなっているだけだった。

 

 

 けれど、そんなことを考えてしまうのは今のすみれに対する裏切りに他ならない。こうなってしまったときに、自身のことを鑑みて、自分を捨てたほうがいいと言って、僕のことを思ってくれた彼女に対する裏切りに他ならない。

 

 そのときに、僕はすみれがどうなろうと一緒にいたいといったのだ。なのに、今更一緒にいることが苦しいだなんて、いえるはずがあろうか。病めるときも健やかなる時も、命ある限り真心を尽くすことを誓ったのに、今更になって相手が病める時だからと逃げることが許されてはいけない。こう思ってしまったのは、きっと僕が薄情な人でなしだからに違ない。

 

 その自覚を持ったころから、僕は酒だけではなく煙草にも手を出すようになった。ギャンブルに手を出さなかったのは、そもそも使える金がなかったからか。三重苦まではいかなかったが、余裕がないのに酒とたばこに溺れるのは、きっとダメだったのだろう。

 

 それでもアルコールのまやかしと、ニコチンのニコチンの沈静作用にまかせて、僕はダメな道に進んでしまった。

 

 二つのバランスが取れずに吐き散らかして、心配をかけた時期も乗り越えた。もう、そんな粗相をすることはない。それを成長と呼ぶことはできるだろうが、すみれにとっては、僕のその姿はきっと進んではいけない道に自ら転がり進もうとしているように見えたのだろう。そのタイミングからして、わざわざそれを選んだ理由があるとするならそれは、僕のことを止めるためだった。

 

 酒でも、たばこでも、十分な休息が取れなくなってしまった僕が次に求めた道、睡眠導入剤に手を出してから数日後、すみれはベッドから体を落としながら、そのベッドフレームとタオルケットを使って自ら命を終わらせた。

 

 

 

 

 僕は結局、すみれのことを幸せにすることができなかった。



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109話

 書いててめちゃくちゃつらくなった(╹◡╹)


 

『こうやって手紙を書くのははじめてで、どんな風に書けばいいかわからないので、変な風になっちゃってたらごめんなさい。

 本当ならおしゃれな封筒に包んで、封蝋でもして残したかったものですが、今のわたし、右半身しかまともに動かすことができなくて、できませんでした。紙を抑えられないから字も汚いですし、ぐちゃぐちゃです。本当はわたし、もっときれいな字がかけたんですよ。本当なんです。もっと早く手紙を書いていればよかったって、すごく思います。』

 

『でも、ぐちゃぐちゃでも、上手に書けなくても、やっぱり紙が良かったんです。こうして紙に書くと、いつまでも残ってくれそうでしょう?スマホのデータは、いつ消えちゃうかわかりませんからね。』

 

『なんて、変な書き出しになっちゃいましたね。ごめんなさい、こんな出だしですが、これはわたしが最後に残す手紙、いわゆる遺書というものですね。今日は、燐さんに最後に伝えたいことを、ここに書かせてもらいます。ノートに書いてたら手紙じゃなくて書き置きじゃないかなんてツッコミは、しないでくださいね。』

 

『さて、一体何から書けばいいでしょうか。書きたいことも伝えたいこともたくさんあるけれど、いざ書き始めると迷ってしまいますね。こんな調子で書くので、途中おかしなところがあっても大目に見て貰えると嬉しいです。』

 

『まず最初は、燐さんに対するお礼から書きましょうか。わたしのことを拾ってくれて、まだ生きていたいと思わせてくれて、ありがとうございます。本当は、拾ってもらった次の日にはもう、自殺したいなんて思わなくなっていたんです。燐さんは前に、わたしにそう思わせないために頑張ったと言っていましたね。すぐに素直になれなくてごめんなさい。』

 

 

『でも、そのおかげでわたしは、普通の幸せを知ることができました。何もなかったわたしに、幸せを、生きる目的をくれたのは燐さんでした。書こうと思ったらどれだけ書いても終わらないくらい、燐さんには、お兄さんにはたくさんのものをもらって、そのどれもがわたしにとっては宝物だったんです。』

 

 

『瑠璃華さんとのことも、燐さんはずっと自分のせいだと気にしていたみたいですけど、燐さんは何も悪くありません。誰もわからなかったことだったんですから、仕方がなかったんです。……それに、あの後から、燐さんはわたしのことをずっとずっと甘やかしてくれるようになりました。片手がうまく使えなくなってあの時は苦しかったですけれども、それと同じくらい幸せな時間でもあったんです。』

 

『それに、あの事があったおかげで、わたしは戸籍を取って、ずっと大好きだった燐さんと結ばれることができました。燐さんならもしかしたら、あの事がなくてもゆくゆくは、わたしをもらってくれたのかもしれませんけど、わたしにとってはあのおかげという気持ちがあったんです。』

 

『どれもこれも、素敵な時間で、わたしの宝物です。』

 

 

 

 

『それじゃあ次は、謝らないといけないことですね。』

 

『謝らないといけないことは、お礼よりもたくさんあります。でも、全部を伝えたらわたしのお礼の気持ちが伝わらない気がするので、ほとんどは言わないでおきますね。最後の最後まで、悪い子でごめんなさい。』

 

『なかでも最初に謝らないといけないのは、不用心なことばかりだったことでしょうか。一番のきっかけになってしまったあの日のことも、わたしがムードの事なんて余計なことを考えていたから、あんなことになってしまいました。普通なら、もっと警戒心を持っていれば、そんなことよりも自分の身を心配して、防げたはずのことだったんです。』

 

『その結果、あんなことになってしまって、燐さんに何もすることができなくなってしまいました。ずっとやっていた家のことも、ずっと作っていたかったご飯のことも、これから幸せな家族になるために期待していた、子供のことも。また燐さんのことを怖がるようになってしまって、今度は簡単には治らなくて、何もできなくなってしまいました。』

 

 

『それにわたし、あんなことになっちゃったのに、最初の方少しだけ、悪くない生活だなんておもっちゃったんです。燐さんがいつもわたしのことを考えてくれていて、燐さんが他の何よりも優先してくれて、そして燐さんから捨てられる心配がなくて。大好きなあなたを一生わたしだけで独占できるって思ったら、思っていたほどつらくなかったんです。燐さんはずっと苦しんでいて、何もかにも全部頑張っていてくれたのにそんなことを思っていたんです。ごめんなさい、ひどい奥さんですよね。』

 

『そのあと、そのことに気付いて、ちょっと不安定になっちゃったりもしました。自分のひどさに、みにくさに気付いて、自己嫌悪が止まらなくなっちゃった時期もありました。今思い出せば、燐さんがお酒を飲むようになったのも、この頃でしたね。』

 

『燐さんがもともとはお酒を飲んでいたことは知っていましたし、最初はそこまで深刻に考えていませんでしたが、それまで飲まない生活をしていた人がほぼ毎日飲むようになるということがどういうことなのかを考えられていませんでした。燐さんがお酒に頼らないといけないくらい苦しんでいることに、気付けませんでした。』

 

『気付けても、何もできなかったとは思います。きっと一番のストレス源になっていたわたしでは、愚痴を聞くこともできませんから。でも、それでも気付いていないといけなかったんです。気付いているだけでも、しないといけなかったんです。本当にごめんなさい。』

 

 

『これ以上書いてると、謝るだけでノートを使い切ってしまいそうなので、ごめんなさい、謝るのはここまでにしておきますね。まだまだわたしが伝えなくてはいけないことは残っていますから。』

 

『次に書いておきたいことは、わたしの気持ち、突然こんなものを残して、燐さんを残して、こんなことを決めた理由です。』

 

『燐さんがくるしんでいることがわかっていて、その原因がわたしであることもわかっていました。わたしがいるせいで、燐さんは毎日頑張らなくてはいけなくて、わたしがいるせいで、燐さんは今幸せから遠いところにいます。これをどうにかするには、わたしがいなくなるしかないです。』

 

『わたしが離れるだけだと、今よりは多少良くなるかもしれませんけど結局燐さんに負担がかかります。相談したらお母さんは助けてくれるかもしれませんが、わたしにはそれで燐さんが幸せになれるとは思いませんでした。』

 

『わたしは、燐さんのことが好きです。誰よりも近くにいたくて、だれよりもあなたのことを愛していたくて、だれよりもあなたに愛されていたいです。そうしていられることがわたしの目的で、幸せです。そのはずなのに、間違いなく幸せなはずなのに、すごく心が苦しいんです。』

 

『自分が幸せになるために燐さんの生活に入り込もうとして、やっと手に入れたはずの幸せなのに、燐さんが幸せそうにしていないと、全然うれしくないんです。悲しくなるんです。』

 

『燐さんには、あなたには幸せでいてほしいんです。でも、そのためにはわたしが一番じゃまで、一番いらないんです。』

 

『苦しかったんです。あなたが苦しんでいることが。悲しかったんです。あなたがお酒に、たばこに溺れて、どんどんやつれていくところを見るのが。』

 

『幸せそうにしていたあなたを好きになったから、あなたのことを愛しているから、もう、全部やめて幸せになってほしかったんです。』

 

『何も相談しないで、一人で決めてかってにこんなことをしてごめんなさい。でも、もし誰かに相談したら、きっと止められてしまうから、わたしの周りには、そんな優しい人しかいないから、できませんでした。』

 

 

『最後に、一つだけ、すごくひどいことを書かせてください。』

 

『燐さんはきっと、わたしがいなくなったら、悲しんでくれると思います。あなたはとっても優しくて、いろんなことに責任を感じてしまう人だから、きっと引きずってしまうと思います。』

 

『だからどうか、わたしの事なんか忘れてしまって、わたしよりももっと素敵な人と結ばれてほしいんです。わたしが無駄にしてしまった三年間を取り返せるくらい幸せになってほしいんです。あなたは素敵な人ですから、少しすればきっとそんな人に出会えるはずです。瑠璃華さんの邪魔がなくて、わたしみたいなのがいなかったら、本当にすぐだと思います。』

 

 

 

 

 

 

 

 

『ごめんなさい、紙がぐちゃぐちゃになっちゃいました。』

 

『大好きだから、幸せになってほしいんです。これから出会う、幸せにしてくれるひととの未来を、必ずつかんでほしいんです。わたしに無理だったから、その人に任せたいんです。』

 

 

『だから、燐さん、必ず幸せになってください。しぬのはまだちょっとこわいですけど、あなたのしあわせのためならがんばれます』

 

 

 

 

『ちゃんと向かい合って、言葉で伝えられなくてごめんなさい。あいしています。ほかのだれよりもきっと。あいしています。できれば、あなたのことをこんなにもあいしている人がいたのだと、おぼえていてくれるとうれしいです』

 

『さいごになりますが、わたしにしあわせをおしえてくれて、ありがとうございました。あなたのおかげでわたしはしあわせでした。さようなら、おにいさん』



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BADEND AFTER 小さな幸せの末路3

 バットルート、ラストです(╹◡╹)

 前話本当につらかったのに誰も信じてくれなくてかなしい……(╹◡╹)


 全身から力を失っていたすみれを見つけて、駆け寄って何とかならないか試そうとして、その冷たくなった体に、もう助からないことを悟った。以前のことがあって、もし次があったらいけないからと多少勉強したことで、もう助かりようがないくらい手遅れなのだとわかってしまった。

 

 筋肉が強ばっていたのだ。もう、とっくに間に合わないところまで来ていた。そのことはきっと僕にとっては不幸なことで、幸せなことだったのかもしれない。何も迷うことなく、警察に通報できたから。きっとまだ間に合いそうなら、何時間でも続けるか、途中でポッキリ折れてしまっていただろうから。

 

 そうならなくてよかったと、間に合わないタイミングで良かったと思ってしまった僕の心は、きっともうだいぶ擦れてしまっていたのだろう。毎日が大変で、苦しくて、でも逃げられなかった。悲しみよりも先に感じたものが、開放感だったことが、僕の心の無さを表しているように思えた。

 

 この後どうするのが正解なのかわからなくて、調べて、警察に連絡する。偶然かそうじゃないかは定かではないが、以前対応してくれた人と同じ人が来て、いくつかのやり取りと確認の末、事件性は見受けられないと言って死体検案書をくれた。少し異なるところはあるが、警察が発行する死亡診断書という認識でいいらしい。役所への届出とかで必要になるから、無くさないようにと言われた。

 

 そのまま警察の人に教えて貰って、するべきことから始める。まずはすみれのことを安置できる場所を確保するために葬儀会社を決めて、関係のある人に連絡をする。

 

 関係のある相手なんてのは、僕らにはほとんどいないので、とりあえず身内から。お義母さんに電話をかけてみて、仕事中だったのか出なかったのでメッセージで伝える。他に事情を知らせないといけないのは、色々な意味で伝えないわけにはいかない上司。

 

 ……あとは、誰がいただろうか。僕が独占しようとしすぎたあまりに、すみれの人間関係はあまりにも狭すぎた。僕の同僚すらも、合わせたことがなかったのだから当然だった。さすがに医者の先生や担当してくれた警察の人を呼ぶわけにもいかないから、すみれを送るのは僕を含めて3人。ああ、入居の時の数回くらいしか顔を合わせたことは無かったけど、大家さんがいたか。住民が自殺してしまったのだから今後心理的瑕疵物件にもなるだろうし、どちらにせよ連絡は必要なのだから声をかけてみようか。何度も警察を呼ぶようなことになってしまい、申し訳ない限りだ。

 

 しばらくするとやってきた葬儀会社の人にすみれを預けて、頭を回していられたのはそこまでだった。いろいろやらなくてはならないことや、決めなくてはならないことが押し掛けてくる。普通の葬式とは違って、あまりにも突然のことだったから何の心の準備もできていない中で、全部決めなくてはならない。

 

 相談できることは青柳とお義母さんに相談して、自分で決めなくてはいけないことは一人で決めた。こんなことになるのなら、お互いの葬儀はどうしてほしいかあらかじめ話しておくべきだった。いや、僕はすみれがいなくなってしまうことなんて考えたくもなかったから、結局無意味に終わっていただろう。

 

 一番つらかったことは、二人とも、僕を責めてはくれなかったことだろう。

 

 大切な一人娘を守ることができずに、挙句死に追いやった僕は、お義母さんに恨まれていて当然だ。二年前の時に、一人で介護するのはつらいだろうから手伝うと言ってくれたのに、その思いやりを不意にしてずっと心配をかけて、こんな風になってしまった僕は殴られて当然だ。

 

 弟のしたことから、そうなる前から僕のことを心配してくれていて、事情が事情だから働く時間をもっと減らして休んでもいいのだと、それで減った分は多少サポートするからと言ってくれた上司を、自分は大丈夫だからと突っぱねていたのは僕だ。だから言っただろうと、どうしてこうなる前に相談してくれなかったと胸ぐらをつかまれてしかるべきだ。

 

 そこにあった助けの手をはねのけて、一人で勝手に失敗して、そうしてこんなことになってしまっている僕を、なぜか二人は責めなかった。責めては、くれなかった。

 

 

 

「燐君はただ、すみれを守りたかっただけなのでしょう?その気持ちがどんな結果につながったところで、一度あの子を捨てた私に、怒る資格が、今更何か言う資格があると思う?」

 

「溝櫛君のことと言い、あの事と言い、あの時の君には、君たちには、自分たち以外のものなんてまともに信じることができなかったんだろう。仕方のないことだよ」

 

 火葬場の待ち時間で、三人だけで待っている間に、どうして僕のことを責めないのかと聞いたら、二人はそんなことを言った。

 

 言いたいことはあるはずだ。思っていることもあるはずだ。それでも、二人はそれを伝えるよりも、僕のことを気遣ってくれた。情けなさで、涙が出る。二人のやさしさに、涙が出る。すみれを守れなかった僕は、すみれを追い詰めてしまった僕は、きっとすみれからも恨まれているはずなのに。

 

「……すみれからね、メッセージが届いたの。きっと燐さんは落ち込んじゃうから、思いつめないように止めてほしいって」

 

「こちらには、灰岡君が立ち直れるようにいい人を紹介してあげてほしいと。今度こそ、幸せになれるように助けてあげてと。灰岡君、君は、すみれさんからの言葉を見落としているんじゃないかな」

 

 信じられなかった。どうして自殺してしまったのかもわからないすみれが、僕のことを恨んでないなんて。でも、しっかり家の中を探すように言いつけられて帰ったら、それはすみれが寝ていたベッドのすぐ横に置いてあった。

 

 すみれがいつも手元に置いていたノートの何代目か。どこにでもあるキャンパスノートの、ふせられていた表紙。元々別の言葉が書いてあったそれはペンでぐちゃぐちゃに塗りつぶされて、その下に綺麗とは言えない字で、遺書、とだけ書いてあった。

 

 

 

 読みたくない。読んだら、すみれが残した言葉を受け入れないといけなくなるから。すみれが僕のせいで死んだのだと、わかってしまうだろうから。

 読まなくてはいけない。すみれが残した最後の言葉を、知らないままでいいわけがない。

 

 ページを開く。最初は、ただの日記だった。たまにクロスワードだったり、ナンプレだったりの時かけのものが書かれているだけの日記だ。ほとんどない、その日あったことをつらつらと書いているだけの日記。かつてのすみれなら、晩御飯を食べながら楽しそうに話してくれていたものが、ここに書かれていた。

 

 懐かしさと、そんな些細な会話すらなくなってしまっていたのだという後悔を押し殺しながら、続きを読む。パラパラと流みしながら10分ほどして、ようやくたどり着いた遺書の部分。

 

 

 正しい遺書の書き方なんて知らない僕でも、変だとわかる書き出し。けれど、すみれらしい。そんな言い訳を書かなくても、すみれの字が上手でかわいらしいものだったことくらい、ちゃんと覚えていた。けれど確かに、こんなことになるのなら、あとから読み返せる手紙で、もっとやり取りを残しておくべきだったのかもしれない。

 

 

 

 謝る必要なんてない。すみれが生きていたいと思えるようにと願っていたのだから、その通りであってくれたことは、嬉しいことだった。

 

 僕の方こそ、すみれからたくさんのものを貰った。安心も、安寧も、幸せも。すみれがいればなんでも耐えられると思っていたくらいには、替えがたい幸せだった。

 

 

 溝櫛のことは、やはり僕のせいだ。僕が一度でも、気づいていれば避けられたことだ。何年間もずっと騙されていなければよかったことだ。

 

 甘やかしたのだって、本当はずっとそうしたかった。初めこそ、失った家族の代わり、茉莉の代替としてだったのかもしれないけど、僕はすみれのことが愛おしくて、僕に甘えてくれるのが嬉しくて甘やかしていただけだ。

 

 

 いずれは、きっとそうしていただろう。だから、あのことは素直に悲しんでいいんだ。

 

 ああ、けれどもたしかに、どの時間も今にしてみれば輝いていた記憶だ。戻りたくても戻れない、幸せな日々だ。

 

 

 

 

 謝らないといけないのは、僕の方だ。すみれは最後の最後まで、誰かに恨み言を残すようなことをせずに、優しくあった。そんな優しいすみれを、こんなふうに終わらせてしまった僕こそ、謝らなくてはならない。

 

 不用心だったのは、仕方のないことだろう。普通に過ごしていたら当然のように養われるはずの危機感が、養われていなかったのだから。一度襲われかけた経験でもあれば話は別だったのかもしれないが、鳥籠の中で育ったすみれに警戒心を求めるのは厳しい。お義母さんと僕が、外を見せてあげられなかった責任だ。

 

 

 家事ができなくなったのは仕方がないことだ。右半身しか動かせないのに家事をしようとしていたら、むしろ僕が止める。どれもこれも、すみれが悪い事じゃない。すみれが謝るような事じゃない。

 

 

 僕も、最初は少しだけ思ったんだ。大好きなすみれを誰にも触れさせずにいられることを、うれしく。でも、介護をしているうちに、それが負担になってしまっていた。独占欲だけ拗らせて、後ろ暗い喜びを感じていながら、体力が限界だった。

 

 きっと、介護がなければ、すみれの体がちゃんと動くのならば、あの生活は僕にとって理想だったのだろう。けれども僕の体力が、心の余裕がなかったせいでこうなってしまった。酷いのは、謝らなくてはいけないのは僕の方だ。

 

 

 

 思い出した。それまでは辛くても、すみれが普通に会話をしてくれていたから頑張れた。けれどもすみれが少し鬱っぽくなって、謝られるばかりになってから、僕は逃げたのだ。不安なはずのすみれを支えることではなく、アルコールに逃げることを選んだのだ。

 

 本当に気付かないといけなかったのは、僕の方だ。向き合わないといけなかったのは、僕の方だ。

 

 違ったんだ。愚痴なんて聞いてくれなくても、すみれが笑顔で話してくれればきっと、僕はまだまだ頑張れたんだ。……いや、あの状況のすみれに、いつも笑っていろと強いる方が酷だろう。やっぱり、僕ではだめだった。僕が間違った。

 

 

 

 

 そこからのすみれの推測は、乾いた笑いが出るほど僕に刺さるものだった。

 

 確かに僕はすみれがいなくなったら頑張る理由を失うし、少し前までの僕は完全に幸せというものを見失っていた。すみれがお義母さんのところでお世話をしてもらうと言っても、反対しただろうし、仮に受け入れても高頻度で様子を見に行くか生活費を削ってお金を用意していただろう。

 

 だから、だめだった。だから、すみれは死んだ。僕にすみれを捨てることが出来なかったから、すみれは僕のために死んだ。きっと誰よりも愛していたから、だれよりも愛されていたから、そうすることしか出来なかった。

 

 ひどい話だ。すみれに幸せになってほしくて頑張っていた行動が、すみれのことをおいつめていた。無理をしてもすみれのためにという気持ちが、執着が、一番すみれのことを苦しめていた。

 

 

 でも、最後のお願い。これはあんまりじゃないだろうか。こんなに愛して、愛されて、後悔したことを。すみれのことを忘れて、一人で幸せになって欲しい?すみれのことを忘れて、誰かを愛して欲しい?

 

 そんなこと、できるわけが無いだろう。忘れられるわけがない。そんなことをするまで僕のことを思ってくれたすみれのことを、どうして忘れられようか。いくらすみれの最後のお願いでも、それだけは聞けない。

 

 ノートの紙がカピカピになるまで涙を染み込ませておいて、それほどまでに思われていたことを僕に知らせておいて、それ以上の幸せを僕が見つけられる?バカバカしい。

 

 視界が滲んで続きが読めなくなる。すみれの最後の残し物を汚さないために、遠ざける。

 

 

 頑張らないでほしかった。覚えておいてほしいというのなら、忘れろなんて言わないでほしかった。もっと話して、気持ちを伝えておくべきだった。

 

 膝の上に抱えた骨壷を、小さくなってしまったすみれを見る。まだ少しだけ熱が残っていた。こうすることで、いつまでも一緒にいられる気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 もし、叶うのなら。

 

 幸せを教えてくれてありがとうではなく、幸せでいさせてくれてありがとうと、言われたかった。

 

 



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HAPPYEND1 鳥籠の中の終わらない幸せ、わたしたちだけのやさしい世界

 ルート分岐条件、すみれちゃんのことを無理に外に出させない、すみれちゃんを頑張らせない、甘やかしつくす、ありのままの状態で好意を示す。

 溝櫛瑠璃華に見つからない。

 分岐元、幸せの黄色いドーナツ


 お兄さんがわたしのことをおうちに置いてくれるようになって、しばらくが経ちました。わたしに優しくしてくれるお兄さん。少し家事をするしかできないわたしに、なんでお兄さんはこんなにも優しくしてくれるのかが、わかりません。

 

 確かに家事はしていますが、それくらいで、わたしを家に置くというリスクが犯せるものなのでしょうか。何かを間違えれば、自分の生活を丸ごと失ってしまうかもしれないのに、そんなことを許容できるのでしょうか。

 

 それが心配になって、お兄さんにそれとなく聞いてみました。少し困ったような顔をして悩みながら返ってきたこたえは、わたしがただそこにいてくれるだけでも十分だというもの。わけがわかりません。わからないけど、お兄さんがわたしには言えない、言いたくない理由があって、わたしを置いてくれていることだけはわかりました。

 

 いつかは、理由を聞かせてくれるのでしょうか。聞かせてほしいとは思いますが、下手に聞いて嫌な気持ちにさせてしまうのも嫌です。いつでも家の中で動くことができて、わたしが作ったごはんを食べてくれる、一緒にご飯を食べてくれる幸せがなくなったら、今度こそわたしはどうすればいいのかがわからなくなってしまいます。

 

 だから、嫌がられそうなことは何も聞きません。今のわたしはまだ、お兄さんの前ではニコニコ笑っているかわいいだけのお人形さんでいいのです。かわいいと思ってくれているかはわかりませんが。お兄さんがそう求めてくれるのなら、それに答えるだけでこの幸せは続くのですから。

 

 

 こわい外に出なくてもよくて、わたしのことを慈しんでくれて、わたしのことを褒めてくれる。わたしがいても嫌な顔をしなくて、わたしとお話してくれる。ただそれだけの事が、わたしがずっと欲しかったものです。お母さんに求めていて、ダメだったものです。

 

 わたしはただ、家のお掃除をして、ご飯を作るだけ。それだって、やれることが何も無かったのと比べたら、天国みたいなものです。もしかしたら本当に天国に来てしまったのではないかと思ってつねってみたら痛かったので、天国ではありませんでしたが。

 

 次の日のご飯の食材を買ってきてくれるよう、お兄さんにお願いして、晩御飯の準備をします。冷蔵庫の中の人参に元気がなくなってきたから、今日は人参マシマシです。それでもさすがに全部使うと今日のビビンバの半分以上が人参になってしまうので、多い分は調理してから冷蔵庫にしまいます。わたしの数日分のお昼御飯が決まってしまいましたが、それでも冷凍庫にしまうよりはずっといいです。あのぶよぶよの食感は、お腹が空いているときでも食べたくありません。

 

 ところで、今思い出しましたがつねったら覚めるのは夢でしたね。勘違いしてしまったことに気付いて、顔が赤くなるのを感じます。今ここに、お兄さんがいなくてよかったです。もしいたら、一体どうしたのかと心配させてしまったでしょうから。そうなることは本意ではありませんし、それで理由を話すことになったらもっと恥ずかしい思いをするところでした。

 

 熱いのは火を使っているせいだと、ちょっと無茶な言い訳を自分にして、意識を料理に戻します。メインはビビンバでいいとして、サブはどうしましょうか。冷蔵庫の中に入っているレタスを千切るサラダと、ほうれんそうのお浸し、汁物は卵スープにしましょう。いつもと比べるとだいぶ簡単な仕上がりですが、そもそもビビンバ自体が単体で三菜を体現しているようなものなので、おまけの一汁さえ用意してあれば問題ないでしょう。

 

 ちょっと持て余してしまった時間を使って、お兄さんに使わせてもらっているスマホをいじります。調べ方さえ間違わなかったら危険なものの作り方まで簡単にわかるというこの道具は、何度使ってみても意味が分からないほど便利です。古い小説を無料で読むこともできるし、勉強もできます。ひとつあるだけで、何でもできてしまいます。

 

 けれど、何でもできると言っても決してわたしが使いこなせるわけではないので、基本的な使い道はお兄さんと連絡を取ることと、料理のバリエーションを増やすために検索することくらいです。お兄さんはもっと遊ぶのに使ってもいいのだと言ってくれましたが、わたしにはこの使い方だけで十分でした。

 

 たくさんの料理を知れて、それを実際に試すことができて、上手に出来たら褒めてもらえるのです。こんなに楽しいことがあるのに、それを楽しまないなんてもったいありません。

 

 たくさんのレシピを見て、動画を見て、お勉強をします。お兄さんが美味しいと言ってくれた味と、頭の中で想像する味のどれが合いそうか、どれを作ったらお兄さんが喜んでくれるかを考えます。ただ想像しているだけなのに、うれしくなってきてしまうからお料理はすごいです。

 

 そうして調べているうちに、途中で変なサイトに入ってしまって慌てて戻ったりしながら、お兄さんが帰ってくるまでの時間を潰していると、いつもと同じ時間帯にお兄さんからのメッセージが届きました。内容はいつも通り簡単なもので、今会社を出たから何時ごろにつきそうだというもの。

 

 その時間に合わせて温かい出来立てになるように時間を調整しつつ、温めと最後の仕上げを済ませれば、あとはお兄さんが帰ってくるまでの短い時間を玄関の前で待っているだけ。いつも通りの同じ時間に帰ってきてくれることもあって、ここで待っている時間は長くても二分程度。

 

 この時間だけは、何度経験しても、いつも同じものであっても、つい緊張してしまいます。ちゃんとお迎えできるかとか、服装がおかしくないかとか、帰ってきたら何を話そうとか、思い浮かぶことがたくさんで頭の中身がパンクしてしまいそうになりますが、胸がポカポカして大好きな時間です。

 

 玄関の鍵が開く音がします。ドアノブが回されます。そしてゆっくり開けられて、お兄さんが顔を出します。

 

「ただいま、すみれちゃん」

 

 たった二言の、小さな声。

 

 いつもと同じ、変わらない言葉です。何も特別じゃない、日常の言葉です。そのはずなのに、もう聞きなれた言葉のはずなのに、不思議とわたしの心は弾みます。弾んで、それと同時に一番緊張します。

 

「おかえりなさい、お兄さんっ」

 

 気持ちを出し過ぎると、自然と大きな声になってしまうから、努めて冷静にふるまいます。それでも、うれしいのは本当だから、つい声は弾んでしまいます。幸せでへろへろになりそうな顔に意識を集中して、お母さんに昔かわいいと褒められた笑顔を浮かべます。

 

 お兄さんの表情が、わたしのことをみて和らぎました。お仕事のあとの疲れた顔が、明るいものに変わります。それを見て今日の笑顔も完ぺきな出来だったと確信します。

 

 そのままお兄さんの荷物を受け取って、食材を冷蔵庫の中にしまいます。数日分で少し多めにお願いしたせいで、冷蔵庫の中はパンパンです。もう少し大きい冷蔵庫があればいいのにと思ってしまいますが、スペースがあったら消費しきれない分まで詰めてしまいそうなので、今のままでいいのかもしれませんね。

 

 先に座って待ってくれているお兄さんの元に、ご飯を持っていきます。器の数が足りないせいで、普段ご飯が入っているお茶碗にお浸しが入っていますが、小鉢が足りないので仕方がありません。ちょっとおかしさを感じますが、ないものはないのです。今度お兄さんに買ってきてもらいましょう。

 

 クッションに腰をかけて、向かい合って座ります。一緒に手を合わせて、いただきますをします。お兄さんが食べ始めるのを待って、顔がほころんだのを見てから食べ始めます。予め味見をしていても、多分大丈夫だとわかっていても、実際の反応を見るまではやっぱり安心できません。今日はいつもよりも反応がいいので、大成功ですね。明日も同じくらい喜んでもらえるように頑張らないといけません。

 

 今日あったことをお話したり、何か近いうちに食べたいものはないかリサーチしたりしながらご飯を食べます。ご飯を食べながらほかのごはんのはなしをするのも、少し変な気はしますが、こういう雑談の中で聞くのが、一番自然に聞き出せました。

 

 一緒にご飯を食べて、お兄さんがお風呂に入っている間に洗い物を済ませます。そうしたらあがったあとは、おしゃべりをしたり、お兄さんに借りた本を読んだりして好きなように過ごします。

 

 そのまま少し過ごしたら、あとは寝る時間です。お布団に入って、おやすみなさいと挨拶をして、一日が終わります。もう終わってしまうのはさみしいですが、寂しいということはそれだけいい一日だったのでしょう。また明日、明日はもっといい日になりますように。



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HAPPYEND 鳥籠の中の終わらない幸せ、わたしたちだけのやさしい世界2

 分岐元が早いから正史とは違うやり取りがあったり(╹◡╹)


 お兄さんが起きるより少し前に起きて、朝ごはんの準備をします。人参はわたしがお昼に食べるから一旦忘れておくとして、困ったことに今日は少し寝坊してしまいました。普段であればいくつか用意する時間があるのですが、これではほとんど時間がありません。

 

 仕方がないので朝ごはんの分は鮭を焼いて、あとは冷蔵庫の漬物と卵焼きで済ませます。卵焼きは昨日の残りで、今度わたしが食べようと冷凍庫に入れていたものなので、不覚です。お弁当用に料理をする時間はなさそうなので、昨日の晩御飯のビビンバをほとんどそのまま入れてしまいます。少しオカズが足りないかもしれないので、ふりかけも入れておきましょう。わたしのお昼ご飯が人参オンリーに決まった瞬間です。冷凍庫の中からいくつか見繕うので、本当に人参だけにはなりませんが。

 

 もう寝坊しないように、寝坊の原因を後で調べようと決意しながらお兄さんを起こして、2人分の盛りつけをテーブルに運びます。だいぶ簡素になってしまったことを謝ると、一人で暮らしていた時は用意してもレンジでチンするだけだったと言って、ありがとうと言ってくれました。それを聞くだけで少し沈んでいた気持ちが軽くなって、うれしくなってしまうからお兄さんはずるいです。

 

 でも、だからこそ次からはもっと喜んでもらいたくなって、よりいっそう反省します。けれど今はそれよりも、反省するよりもご飯を食べることの方が大事です。反省はあとで一人の時にいくらでもできますが、こうやってお兄さんと朝ごはんを食べるのは今でないとできません。

 

 朝は時間があまりないので、ご飯を食べながらお話することはあまりできません。けれど、一緒にいられることだけで、こんなにも幸せなんです。ただそれだけの事で、私はこんなにも満足出来てしまうのです。

 

 きっと、わたしはかるくて、ちょろい女の子なのでしょう。色々調べれば調べるほど、そのことがよくわかります。でも、まるで悪口みたいに言われているその呼び方が、わたしにとってはそれほど嫌なものではありませんでした。

 

 だって、ただ食べてくれるだけで、お兄さんが喜んでくれることだけで、わたしはこんなにも幸せでいられるのです。他の人たちがもっともっとと、たくさん求めないといけない中で、わたしはこれだけで満足できるのです。

 

 これはきっと、わたしにとってこの上なく幸せなことでしょう。お兄さんにとっても、きっと都合のいいことのはずです。それであれば、無理にそれ以上を求める必要なんてありません。

 

 大人しく今のまま幸せをかみしめて、お兄さんの事をお見送りします。お兄さんが美味しいと喜んでくれて、毎食食べても飽きないと言ってくれたから作るようになったお弁当ですが、毎日作っているうちに作らないと落ち着かなくなりました。以前一度だけ二人で寝坊してしまい用意できなかったこともありましたが、その日は朝からお兄さんのテンションが低かったので、きっと楽しみにしてくれているのでしょう。それだけに昨日の晩と同じメニューになってしまったのは悔しいです。

 

 朝ごはんの片付けをしたら、自由時間です。掃除もしますが、昨日したばかりで毎日やってもあまり変わるものでは無いので、今日はしません。おさぼりさんですね。

 

 おさぼりの分時間は沢山あまりますから、その時間を使って寝坊の原因について調べます。色々調べて見たところ、一番理由として考えられるのは寝不足、次が睡眠の質不足と出てきました。このふたつだと、昨日はいつもと同じ時間に寝ていたので一つ目はなさそうですね。

 

 そうなると、今回の寝坊の原因は睡眠の質が悪かったことになるのでしょうか。いつも通りよく眠れたと思っていたので、少し予想外です。何がよくなかったのかがわからないので、ついでに睡眠の質が下がる要因についても調べてみます。

 

 出てきた検索結果は、お酒が原因だというものや、たばこが原因だというもの、疲れていないことやストレスなど、いろいろなものがありました。けれどそのどれも、いまいちわたしの状態と一致しない気がします。

 

 お酒やたばこは年齢的にもまだできませんし、多少良くなってきたとはいえほとんど動かない期間が長かったからか、立って家事をやっているだけでも健康疲れてしまいます。これに関してはもっと体力があったほうがいいと思うので、少しずつ改善していかなくてはいけませんね。

 

 そうなると、残った理由はストレスでしょうか。これもあんまりピンときませんが、一応調べてみたら、人は特に何もしていなくてもストレスを感じるものなのだと出て決ました。今の生活はこんなにも幸せなのにそれでもストレスを感じているのだそうです。

 

 本当か少し怪しく思いながら、それならとストレスを解消する方法を調べてみます。趣味、睡眠、スポーツ、お風呂、いろいろなものが出てきましたが、あまり興味がないものだったり、もう普段からやっているものだったりします。やっぱりわたしの寝坊はストレスなんて関係なかったのだと、あまり参考にならないなと考えながら見ていると、ページの一番最後の方にハグでストレスが減るのだと書かれていました。

 

 思わず、読み飛ばしそうになった視線が戻ります。背筋が伸びて、真剣に読んでしまいます。わたしの寝坊にストレスはきっと関係ないから読む必要なんてないのに、目が勝手に続きを読んでしまいます。

 

 

 ハグ。ハグです。むかしお母さんがやさしかったころによくしてくれた、あのハグです。温かくて、やさしい気持ちになれる、あのハグです。

 

 してほしいと、思ってしまいました。そうできたらうれしいと、思ってしまいました。お兄さんはもしかしたら嫌がってしまうかもしれないけど、わたしはお兄さんに抱きしめられたらうれしくなると思います。

 

 もちろん、だからと言って何も理由がないのに突然抱きしめてほしいなんてお願いしたら、それはただの変な子です。変な子ですし、そんなことをお願いするなんて少しはしたないです。

 

 頭をぶんぶん振って、雑念を追い払います。お兄さんの前では、いい子でいないといけないんです。悪い子になれたらどれだけ幸せでも、我慢しないといけません。お兄さんにもし嫌われたら、わたしには何も残らないのですから。

 

 頭を切り替えるために、お掃除をします。昨日したばかりだからしなくてもいいけれど、今何もしないでいたらわたしはずっと変なことを考えてしまうでしょうから、体を動かします。簡単なお掃除だけだとすぐに終わってしまうので、いつもしているものよりも時間がかかる、ちゃんとしたお掃除です。

 

 お掃除が一段落したら、そろそろお昼ご飯を食べる時間です。昨日たくさん作った人参のナムルが残っているので、これを減らさないといけません。ところで、生の人参は冷凍すると食感がおかしくなってしまいますが、加熱済みのものはどうなのでしょうか。もし大丈夫になるのであれば、わたしの中では革新的な事実になるのですが、ダメだったことを考えるとなかなか試すこともできません。

 

 ナムルと冷凍してあった卵焼きと、朝食べきれなかった分の焼き鮭を食べたら、もう晩御飯の準備に取り掛かります。いつもよりも少し早いですが、今日の晩御飯はハンバーグで、ハンバーグを作るときはお弁当にも入れられるように小さめのものをいくつか一緒に作るようにしているので、時間がかかります。

 

 付け合わせとして、まだ残っていた人参を今度はグラッセにします。スープの中にも入れたら、ようやく元気のない人参たちはなくなりました。悪くなる前に使いきれてよかったと、ほっと一安心です。

 

 メインのハンバーグは、お弁当用の小さいものから順番に焼いていって、お兄さんから連絡が来る頃にはもう焼き上がっていました。ハンバーグの焼き時間と、お兄さんの帰宅速度を考えれば十分に間に合う時間です。連絡が来る時間の前にシャワーを済ませて、時間に合わせるために少し待ちます。

 

 その間に考えてしまうのは、考えないようにしていたハグのことです。わたしから理由もなくお願いするのははしたないからできないけれども、どうにかしてできないかなと考えてしまいます。そんなこと考えないで、今まで通りに過ごしていた方が絶対に安心なのに考えてしまって、一つアイデアが思いついてしまいます。

 

 わたしが素直にお願いできないのは、お願いできるような理由がないからです。お願いしたときに、そこから断られるときに、自分が傷つかなくて、お兄さんにも負担をかけないものがわからなかったからです。

 

 それはつまり、その理由を覆せるだけの何かがあれば、わたしはお願いできるし、お願いしたいということです。そして、わたしはそのための言い訳を思いついてしまいました。すなおにわたしがその情報を知った経緯、寝坊の原因にストレスを考えたことと、そこからハグでストレスを軽減できると知ったこと、ちゃんと朝ご飯を用意するために協力してほしいことを伝えてしまえばいいのです。

 

 お願いの動機に今朝のことがあればきっとそこまで不自然にはならないでしょうし、お兄さんのためという目的を用意することで、わたしのお願いではなく提案という形に持っていくことができます。

 

 完璧な作戦で、一分の隙もない計画です。お兄さんの良心に付け込んで自分の欲求を満たそうとしていることに罪悪感は抱きますが、そのことが相まって余計にイケナイことをしているのだとドキドキしてしまいます。こんな風になってしまうわたしはきっと悪い子ですね。



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HAPPYEND 鳥籠の中の終わらない幸せ、わたしたちだけのやさしい世界3

 お兄さんが帰ってきたら、いつも通りご飯の時間です。鞄を運んで、お兄さんのためにご飯の準備をして、いつも通りのご飯の時間が始まります。普通のハンバーグと迷って、直前で変えたロコモコ丼です。レタスを千切って卵を焼くだけの違いですが、お兄さんの反応を見るにこの選択は正解だったようで、いつもよりも嬉しそうにしていました。お兄さんが丼ものが好きなのか、みんな丼ものが好きなのかはわかりませんが、どちらにせよ、お兄さんが嬉しそうなのは事実です。そして、事実は変えようのないものであり、お兄さんの反応を見るしかないわたしにとっては何よりも参考になる要素でもあります。

 

 お兄さんが美味しそうにしていたのなら、それだけが大事なことです。幸いなことにお兄さんとわたしの味覚はそれほど相違のないものであるようなので、わたしにとって美味しいものを作れていれば問題ありません。それでもマンネリ化を避けるために、ある程度新しいレパートリーの更新は必要になりますが。

 

 それで、今回に関しては問題なくお兄さんに美味しいご飯の時間を過ごしてもらえました。お兄さんの反応がいつもよりも気になるのは、わたしがお兄さんに対して伝えたいことがあるからでしょうか。

 

 お兄さんに対して言いたいこと、わたしの本音を隠した状態での提案は、やっぱりよくないのではないかと思いながらも、伝えることを、それによって得られるものを諦めることができずに、することを決めてしまいました。

 

 しかし、それは決めたとしても、どのタイミングが一番いいのかはわかりません。帰ってきた直後、ご飯を食べ終わったタイミング、そのどちらも、今ではないという感覚が強くて、ダメでした。結局、お兄さんは今お風呂に入っています。

 

 こうなるともう、この後の時間、普段のんびり過ごしている時間に話を持っていくしかありませんね。少しだけハードルが上がりましたが、本来真剣に話さなくては去らない話題なので、これが適正なのだと思うようにしましょう。

 

 洗い物を終えて、机を片付けてお布団の準備をします。わたしのお布団は机を片付けてからじゃないとスペース的に引けませんから、これをすることもお兄さんがシャワーに入っている間にしなくてはおけないことです。正直、毎食の度にしなければならない洗い物については、もっとシンクが広ければいいのにと思いますが、いつも綺麗を保つためであればこれでいいのかもしれませんね。

 

 お兄さんが上がってきて、ホカホカと湯気を上げながら、少し水分の残った頭でベッドに横たわります。ちゃんと乾かさないで寝るのは良くないと読んだことがあるので、ドライヤーで乾かしてあげたくなりますが、さすがにそこまでわたしに干渉されるのは、お兄さんとしても嬉しいものではないでしょう。こんなところでお兄さんに嫌がられるのは本意ではないので、ここは何も言わないでおきましょう。わたしの伝えたいことは、話したいことは、ここではないのですから。

 

 どのタイミングで、どうやって話を切り出せばいいのかわからないまま、時間が経ちます。お兄さんのことをちらちら見ながら、お兄さんに話しかけられそうなタイミングを伺います。

 

 きっと、話しかければ特に気にせずに聞いてくれることはわかっています。なにか作業をしている途中でも、きっと切り上げて聞いてくれるとは思います。でも、お兄さんになるべく迷惑をかけたくないわたしとしては、一番問題ない時を探してしまうのです。お兄さんが暇を持て余していて、わたしに話しかけられることが嬉しいと思ってくれる時を探ってしまうのです。

 

 結局そんなタイミングを見つけることは出来ないままで、一時間が経ってしまいました。お兄さんの起きる時間以外は気にしなくていいわたしとは違って、次の日に起きなくてはならない時間が決まっているお兄さんは、あと一時間もすれば寝なくてはいけない時間です。お兄さんの寝る時間に合わせるわたしも同じ時間に寝なくてはいけませんが、それは今は置いておきましょう。

 

 

 そしてそうなると、わたしがお兄さんに話しかけていい時間はもう残り僅かになってしまいます。別に今日しなくてはいけない話ではないので、そこまで気にする必要のない内容ではありますが、もう頭の中のほとんどをお兄さんとのハグで占められてしまっているわたしにとっては、この状態をあと一日、あるいはそれ以上キープしなくてはいけないという事実は、とても辛いものです。辛いものですので、なるべく早く解消しなくてはなりません。そして、それを解消するにはお兄さんにお願いするしかありません。

 

「お兄さん、お願いしたいことがあるのですが、今お話しても大丈夫ですか?」

 

 だから、わたしは話しけるしかありません。幸いなことに、時間を持て余しているとまではいかなくても、お兄さんは今それなりに暇そうです。だから話しかけてみようと思って声をかけてみると、お兄さんはスマホをすぐに置いて、わたしの方に向き直りながら全然大丈夫だと微笑みかけてくれました。

 

 

 話しかけてしまった以上、いいと言われてしまった以上、もうわたしに逃げ道は残っていません。お兄さんにたいして、わざわざ話しかけた理由を話すしかありません。ひとまず、今日の朝いつもみたいにちゃんと起きれなかったことから、話を切り出します。

 

「それで、寝起きがよくない原因を調べてみたんですけれど、ストレスが理由になることがあるらしいんです。それで調べていたら、ハグでストレスが解消できるって書いてあって。お兄さんがいやじゃなければですけれど、よかったらハグ、してもいいですか?」

 

 提案を、します。本当はもっとそれとなく伝えて、わたしがそうしたいという気持ちを抑えるつもりでしたが、実際に言葉にしてしまうとそれを隠しきることができずに、ハグをねだるような言い方になってしまいました。わたしの本心としては間違っていないのでいいのですが、これでお兄さんにはしたない子と思われないかが心配です。

 

 お兄さんはわたしの言葉を聞いて、数秒だけ黙りました。やっぱり突然こんなことを話すなんてダメだったかなと、自分の気持ちを抑えられなかったことを反省します。でも、そのすぐ後に返ってきた言葉は、そんなことなら全然かまわないという、うれしいものでした。

 

 おいでと言って、お兄さんが腕を開きます。嬉しさと恥ずかしさで回らなくなった頭で、それに従います。

 

 石鹸の匂いと、シャンプーの匂いと、柔軟剤の匂い。その中に混ざっているそのどれでもないものは、お兄さん自身の匂いでしょうか。お兄さんのベッドの匂いとも同じですから、きっとそうなのでしょう。安心する匂いなのに、なぜかドキドキする、不思議な匂いです。

 

 ギュッと抱きしめられて人の体の温かさがわかります。記憶の中にあるお母さんのものよりも温かくて、わたしの体も内側から熱くなってきます。お母さんとは違って硬い体、強さの中にもやさしさが感じられる腕。

 

 たくさんの情報が頭の中に入ってきます。わたしの頭の中がお兄さんで埋め尽くされてしまいます。さっきまであった不安がとけていって、心地よさだけが残ります。

 

 これは、だめです。こんなのを知ってしまったら、わたしはだめになってしまいます。お兄さんにしてあげられることが少なくてもらってばかりなのに、もっとたくさんもらいたくなってしまいます。

 

 そんなふうになってしまったら、いつかお兄さんに嫌われてしまうかもしれません。そうなってはいけないのに、そうなることに危機感を覚えるのに、そんな考えもすぐにとけてしまいます。今はもうこれだけあればいいやと、なにも考えずにこうしていたいと思ってしまいます。

 

 

 お兄さんとのハグは、よくないものだったかもしれません。わたしはこれを知っていけなかったのかもしれません。そんなことを本気で考えてしまうくらい、わたしの頭は幸せになってしまっています。涼しい部屋なのに暑くなって、少し汗までかいてきてしまったから、もう離れないといけないとわかっているのに、もうすこしだけもうすこしだけとのばしてしまいます。

 

 

 結局、お兄さんから離れることができたのは、ずっとくっ付いて動かなくなってしまったわたしのことを心配したお兄さんに、ちゃんと意識があるか確認されてからでした。時計を見るといつの間にか十五分も経っていて、お兄さんが確認してしまうのも納得です。

 

 これで今夜はいい睡眠がとれそうかなと言うお兄さんに、よく眠れ過ぎて明るくなる前に起きてしまいそうだと言ったら、それなら朝ごはんは期待しているねと言われました。さすがにいつもより早く起きるのは出来なさそうですが、その分気持ちはたくさん込めて作りましょう。

 

 お兄さんにお礼を言って、今度はお兄さんがなにかわたしにしてほしいことがないかを聞きます。いつもたくさんやさしくしてくれるお兄さんに、とっても良くしてくれるお兄さんに、少しでもいいからお返しがしたいです。

 

「してほしいことか。あんまりないけどそうだね、あえて何か挙げるとすれば、すみれちゃんにもっとおわがままを言ってほしいくらいかな。すみれちゃんはいい子なんだけど、ちょっといい子過ぎるから寂しくなるんだ」

 

 そう思って聞いてみると、お兄さんから返ってきた答えはそんなものでした。冗談を言ってからかっているのかと思ってお兄さんを見つめてみますが、そこにあったのは真剣そうな表情だけで、嘘があるようには見えません。

 

 

 こんなにたくさんよくしてもらっているからそのお礼がしたかったのに、もっと欲しがれなんて言われるのは予想外ですし、本末転倒です。もっともらったらもっと返したいのに、お兄さんがそれを求めてくれないと、わたしの気持ちはどうすればいいのかわかりません。

 

 でも、お兄さんがわたしにわがままを言うことを求めているのは確かで、それは変えられないことです。わたしが何かしてあげたいことは置いておいて、お兄さんに何かお願いされる方法を考えるのもおいておいて、わがままを言うことを考えなくてはいけません。

 

「……それなら、もうすこしだけだきしめてもらえませんか?」

 

 ハグの余韻が残って、まだ少しふわふわする頭で思いついたわがままは、これしかありませんでした。お兄さんがいたずらっぽく笑いながら、別に今すぐ言わなくてもよかったんだよと言って、わたしは早とちりしてしまった恥ずかしさで顔が真っ赤になっているのを感じます。

 

 あわてて、今のはなしでと言ったら、お兄さんはこちらに来て、やさしく抱きしめてくれました。恥ずかしさでいっぱいだった頭の中が、またお兄さんでいっぱいになります。

 

「今度はもっと、お菓子を食べたいとか、アイスを買ってきてほしいとか、そういうわがままも考えておいてね」

 

 ポンポン、と頭を撫でられます。それだけでまたうれしくなって、わがままとは逆のことを考えていたのに、何も考えずにはいと返事をしてしまいます。そのままお兄さんに抱きしめられて、なでられたまま、わたしはおやすみなさいを言えないまま、気がついたら眠ってしまっていました。

 

 

 





 ニンニクの丸焼きくらいのものを書いたので口の中の砂糖に耐えきれなくなった時にでもどうぞ(╹◡╹)

https://kakuyomu.jp/works/16817330658791757233


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HAPPYEND 鳥籠の中の終わらない幸せ、わたしたちだけのやさしい世界4

 目が覚めたら、まだ真っ暗でした。半分くらい冗談で言ったはずでしたが、本当に早起きできてしまいましたね。いつもよりも早い時間に寝たことが理由だとは思いますが、早い時間に眠れたこともハグのおかげですので、ハグのおかげで早起きできたといっても間違いではないのかもしれません。

 

 部屋の隅に置かれている時計を見ると、いつも起きている時間よりも一時間早いです。目もぱっちり覚めましたからこのままご飯を作ってしまいます。お兄さんは朝ごはんに期待していると言ってくれましたが、こだわるのは何も朝ごはんだけでなくてもいいのです。お昼のお弁当も、メニューが同じでもちょっとかわいくしたり、いろいろな工夫ができます。

 

 そんな工夫をすれば、お兄さんは喜んでくれるでしょうか。喜んでもらえると嬉しいですが、あまりかわいすぎても嫌がられてしまうかもしれませんから、どのあたりまでが許容ラインなのかを探っていく必要がありますね。ひとまず今日のところはウインナーをタコさんにするくらいにしておきましょう。

 

 お弁当を先に作ったら、外はもう明るい時間です。まだお兄さんの出勤時間までには十分な時間がありますが、それでも朝の準備が早いに越したことはありませんから、気を引き締めてご飯の用意を続けます。

 

 昨日は鮭を焼いただけでしたが、時間があるので今日はちょっとひと手間加えて、マヨチーズパン粉焼きにします。とはいえ、メインを用意するのは一番最後なので、その前におひたしやお味噌汁の準備です。ちゃちゃっと用意したら、焼き始めて、部屋につながる扉も開けます。こうすることでお兄さんの寝起きがよくなるからです。ちゃんと調べたことはないのでおまじないくらいのものですが。

 

 出来立てでまだ脂がぱちぱち鳴っている状態のものをすぐにお皿に移したら、お兄さんを起こします。顔を洗っている間にご飯をよそって、配膳を済ませておけば後はもう一緒に食べるだけです。

 

 お兄さんと一緒に手を合わせます。いただきますを言って、食べ始めます。ご飯もお魚も、出来立てでアツアツなので、急いで食べるのには向きませんが、十分に時間に余裕がある日はこうやってハフハフしながら食べるのがいいです。

 

 本当にいつもよりも少し豪華な朝ごはんだねとお兄さんに言われて、ハグのおかげで早起きできましたと伝えます。だからまたしてほしいと付け加えたら、お兄さんは少しだけおかしそうに笑いながら、いつでもしてあげると言ってくれました。言質はとったのと、昨日もっとわがままを言えと言われてしまったので、本当に遠慮なくお願いするようにしましょう。

 

 お兄さんに嫌がられないギリギリを攻めるチキンレースが始まることが決まったところで、いつもよりも少し早い時間ですが、お兄さんが出発する準備をします。基本的にはいつも同じ時間に家を出ているお兄さんですが、その時間に家を出なくてはいけないのではなく、出勤のしやすさで選んでいるだけらしいです。

 

 定時よりも少し早めについて、朝早いうちから少しだけ残業をすることで、帰りにあまり残業できない分を補っているのだとか。朝からなのに残業といういい方なのは少し違和感がありますが、お兄さんが言うにはそういうものなのだと。

 

 今日はいつもの時間よりも余裕をもって朝の支度が済んだから、その分の時間を有効活用する、ということらしいので、わたしも冷ましていたお弁当に蓋をして、保冷バックの中に入れてお兄さんの鞄に入れます。

 

「あの、お兄さん。いってらっしゃいのハグ、してもいいですか?」

 

 玄関まで鞄を持ってお見送りして、渡すタイミングでそうやってお願いを口にしてみると、お兄さんはおいでと言って受け入れてくれました。

 

 ふわふわして、ポカポカして、朝からとっても幸せな気持ちになります。まだ暗い時間から準備していたのは、このためだったのだと思うとそれだけで明日もまた頑張ろうと思えてきます。まだ朝なのに、もう明日のことを考えてしまうなんてさすがに少し気が早いですね。

 

 少しそうしていると、昨日ほど長くは抱きしめてもらえないままでお兄さんはわたしから手を放してしまいました。もっと続けてほしくて、お兄さんに回した腕に力を入れます。お兄さんにももっとしてほしいのだと、言葉にせずに伝えます。

 

「あんまり続けているといつまでも離れなくなっちゃうから、今はこれでおしまい。足りなかったら帰ってきてから続きしてあげるから、それまではいい子で待っててね」

 

 お兄さんはわたしの頭を撫でながらやさしく諭すと、最後に強めにギューッとして、お仕事に向かってしまいました。寂しい気持ちが少しだけ残りますが、それと同じくらいお兄さんが帰ってくるのが待ち遠しくなります。

 

 早く帰ってきてほしくて、待っているのがもどかしくて、そわそわしながら片付けを済ませてしまいます。今日に限って他にやらないといけない家事もないので、やれることは布団にころがってごろごろしているくらいです。お兄さんはお仕事に行ったのに、わたしがこんなに自堕落にしているのは少し罪悪感がありますね。

 

 

 そのことからは全力で目を逸らしつつ、見ていてもいまいち集中できないスマホを離します。何も集中できなくて、とてもさみしくなって、お兄さんのベッドにお邪魔します。本人がいなくて、何も迷惑をかけないのだからお邪魔じゃないのかななんて思いますが、そんなことは今は大切ではありません。今大事なのは、お兄さんのお布団はお兄さんを感じられるからさみしい時にピッタリだということです。

 

 早起きしたこともあり、安心できることもあり、お兄さんのベッドに入るとみるみるうちに眠くなっていきます。まるで魔法みたいですね。

 

 そのままウトウトして、目が覚めたのは1時半。普段ならお昼ご飯も食べ終わって自由な時間ですが、食べてすぐに寝たせいか全くお腹は減っていません。もしかしたら牛さんになってしまうかもしれませんが、わたしのサイズでは食用には向かないでしょうから売られていくだけですね。どな。

 

 頭の中がドナドナしたら、お肉の気分になってきます。今日の晩御飯はお肉にしたいのですが、残念なことに牛肉はありませんでしたから、鶏モモにしましょう。お肉と言えばお兄さんはラム肉が好きと言っていましたが、わたしは食べたことがありません。癖が強いということは読んだことがあるのですが、どんな味なのでしょうか。

 

 お肉をフォークで滅多刺しにしながらそんなことを考えて、下味をつけます。30分くらいつけておけば十分ですが、個人的にはもっとつけておいた方が味が染み込んで美味しくなる気がするので、時間は長めです。

 

 唐揚げに味が沁みるのを待ちながら洗い物をして、サラダと和え物をします。メインが油物なので、副菜はあっさりさっぱりしたもの。今朝のお味噌汁が残っていたのでそれだけ食べて、新しいお味噌汁の準備もします。中に入れる具材は昨日とほとんど変わらないので目新しさはありませんが、やっぱりお米にはお味噌汁が合いますからね。

 

 唐揚げ以外がほとんど完成したところで、小休憩です。再びお兄さんのベッドに戻って、どんなわがままを言うべきか、どうしたらお兄さんがわたしにお願いをしてくれるようになるのかを考えます。いまのままの状態ではどうしても申し訳なさを感じてしまいますし、そう出なかったとしてもいつものお礼になにかしたいという気持ちはあります。本当なら何をしてほしいか聞かずにそれをしてあげられれば1番なのだと思いますが、残念なことにそうできるほどわたしはお兄さんのことを知りませんでした。

 

 

 そう考えると、さみしくなりますね。いつも一緒にいて、こうして暮らしているにもかかわらず、お兄さんのことをわたしはなんにも知りません。ただわたしに優しくしてくれるということくらいしか、わたしはお兄さんのことを話せません。

 

 考えてみたら、お母さんについてもそうです。わたしのお母さん。ずっとやさしくて、でもある時からわたしのことを嫌いになってしまって、きっともう会うことのできないお母さん。今考えてみたら、名前も知らなくて、好きなものだってほとんど知りません。どうしてお母さんがわたしのことを一人で育てていたのかも、どうしてわたしを家から出したがらなかったのかも、なにも知りません。

 

 ……だから、わたしはお母さんに嫌われてしまったのかもしれませんね。お母さんはわたしのことをよく見ていてくれて、知っていたのに、わたしは何も知らなかったから、愛想を尽かしてしまったのかもしれません。

 

 考えてみたら、ありそうだなと思いました。そしてもしそうなら、お兄さんがお母さんみたいにならない理由は、あるのでしょうか。だってお母さんも、前はあんなに優しくてわたしのために色々してくれていたんです。お兄さんと一緒で、大事にしてくれたんです。

 

 その事を考えると、鳥肌が立つくらいこわくなります。寒くはないのに寒いような気がして、お兄さんの布団の中に潜り込みます。

 

 お兄さんに嫌われるのは、捨てられるのは嫌です。でも、このままだとそうなってしまうかもしれません。わたしがお兄さんのことを何も知らないせいで、お兄さんがどう思っているのかを知らないせいで、知らず知らずのうちに不快な思いをさせてしまうことになるかもしれません。

 

 それは、すごくこわいです。でも、知っていればそんなことにはならないはずです。だから、わたしはお兄さんにお願いすることを、叶えてもらうわがままを決めます。お兄さんのことを、お兄さんの過去を、全部教えてもらいたいです。何が好きなのか、どんなことをしてきたのか、何があったら嬉しいのか、嫌なのか。全部知っておけば、きっと嫌われるようなことにはなりません。これは戦いではないけれど、彼を知り己を知ればと言いますし、知っておけばいい事ばかりのはずです。

 





 これはハッピーエンドなのでハッピーのまま終わります。迸る曇らせ欲を抑えるのが大変だね(╹◡╹)


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HAPPYEND 鳥籠の中の終わらない幸せ、わたしたちだけのやさしい世界5

 作者の中のすみれちゃんが過去一でイキイキしてる……(╹◡╹)


 お兄さんに伝えるわがままを決めて、もう少しごろごろします。唐揚げはお兄さんから連絡が来たタイミングであげ始めれば充分間に合いますから、念の為通知をオンにしたスマホを脱衣所に置いておいて、ササッとシャワーを浴びてしまいます。ギリギリまでのんびりしていられるというのは、なんというかこう、すごく悪いことをしているみたいなうれしさがありますね。

 

 体の全部を洗い終わって、残った泡を流していると通知音がなり、お兄さんが帰ってくることがわかります。急いで流しつくしてパパっと体を拭いたら油の入った鍋を火にかけ、温まるのを待つ間にお肉を揚げる準備をします。味が滲みて色の変わったお肉を卵にくぐらせ、袋の中の片栗粉に落としてシャカシャカすれば、あっという間に準備は万端です。

 

 鍋の上に手を掲げて感じる熱気と、試しに菜箸を入れた時の音で温まってきたことがわかれば、急いで、でも慎重に油の中にお肉を入れていきます。わたしたちの食べる量と鍋の大きさだと一回だけでは揚げきれないので、入れ終わったらすぐに次の準備です。

 

 そう言えば唐揚げにはたくさんの宗派があるようですが、わたしがお母さんから教えてもらったのはこの作り方でした。お兄さんは卵を使わず、片栗粉に半分小麦粉を混ぜると言っていましたし、それぞれの家での作り方があるのでしょう。本当に正し作り方は一つしかないとも言っていましたが、そんなことはまあ、あまり興味がないのでいいです。

 

 揚げ始めたところで大変なことに気が付いてしまったのですが、お昼寝したりといろいろしていたせいで、せっかく作ったお味噌汁が冷めきってしまいました。わたしとしたことがとんだ失敗です。今から唐揚げを揚げきって、お味噌汁を温めきる時間があるか、少し微妙なところです。もしかすると、温めている間お兄さんを待たせることになってしまうかもしれません。

 

 気持ちだけが焦りいますが、だからと言って揚げ物の時間が早く終わるわけでもなく、時間だけが無情に過ぎます。唐揚げのタイマーが鳴って、回収した中で一番大きい一つを切って、火が通っていたので完成です。

 

 急いで鍋を入れ替えて、火にかけたらいつもより少し早い時間なのに、もうお兄さんの足音が聞こえてきます。時間を確認すると、いつも通りのペースで帰って来たお兄さんなら、あと二分はかかるはずです。まだエプロンもつけたままで、ご飯だってできていないのに、こんなのは予想外です。

 

 そう思っていたら、まだお出迎えの準備ができていなかったのに、お兄さんは帰ってきてしまいました。お兄さんの前ではなるべく完璧な状態でいたかったのに、大失敗です。

 

 お兄さんにがっかりされていないか心配になりながら見てみると、お兄さんは珍しいものを見たとでも言いたげな顔でわたしのことを見ていましたが、曽於湖に失望の色はなく、むしろどこかうれしそうにすら見えます。

 

 一瞬だけ、頭にの中にお兄さんはわたしが失敗しているところを面白がったのではないかというお兄さん鬼畜説が浮かんで、扇風機の前に置いた線香の煙みたいに呆気なく消えます。さすがに今のわたしは、お兄さんの事をそんな人だと勘違いするようなことはありません。理由はわかりませんけど、そんなものでないことだけは確かです。

 

 ひとまずお兄さんの鞄を受け取って、中に入ってもらいます。まだもう少しだけかかりそうだから待っているようにお願いしたら、お兄さんは洗面所に手を洗いに行き、そのままなぜかドライヤーをもって戻ってきました。

 

「髪、ちゃんと乾かさないとダメだよ。鍋の様子を見ている間にかけてあげるから、あんまり動かないでね」

 

 コンセントにプラグをさして、お兄さんは慣れたようにわたしの髪の毛を乾かし始めます。まるでいつもやっているみたいに、そうでなればずっとやっていたかのように、お母さんみたいに自然な様子で、わたしの髪を乾かしてくれます。

 

 なんだか不思議な気分になって、それを悟られないようにお鍋を見続けます。今はどんな顔をしているかわからないから、あまりお兄さんに見られたくありません。ありがとうございますとお礼を言ってじっとしていると、お兄さんが乾かし終わったのとお味噌汁が温まりきったのは、ほとんど同時でした。

 

 細くて柔らかいからすぐに乾いたねと言ってドライヤーを片付けるお兄さんの横目に、配膳をします。そのまま一緒に食べて、美味しいと言われてうれしい気持ちになります。でも、なんだかそれだけに集中できなかったのは、これからお兄さんに叶えてもらうお願いが、伝えるわがままのことがあったからでしょうか。

 

 わたしの様子がおかしいことに気付いたのか、お兄さんはご飯を食べ終わると足早にシャワーに向かいました。普段は少しだけそのまま雑談したりしているので珍しいことです。とりあえずわたしもすぐに片付けに取り掛かって、なにかに急かされているかのようにカラスの行水を済ませてきたお兄さんに少しだけ手伝われます。

 

 

 わたしの様子が少しおかしいのはまだわかりますが、今日はお兄さんの様子も少しおかしいです。いつもより早い時間で帰ってきて、焦ったようにシャワーを浴びて、今はこうしたい気分なのだと言って洗い物の手伝いをしたと思ったら、終わるなりベッドに座ってスマホを見るでもなくわたしのことをじっと見ています。こんなの、変です。一つ一つならともかく、全部いっぺんにあるなんて、なにかがあるとしか思えません。

 

 そう思ってお兄さんの方に近寄ると、おいでとばかりに両手を広げられます。まるでハグの準備をしているかのようです。一体どうして突然ハグをしようとしているのかを聞いてみると、今朝帰ってきたらと約束したから、その時間を長くとれるように急いだのにと返されました。わたしの様子がおかしかったのも、楽しみで家事に集中できなかったからで、だったらなおさら急がないといけないと思ったのだと。

 

 推理としては外れていますが、けれども気持ちがとてもうれしい理由でした。何かもう、辛抱ができなくなってしまったので、お兄さんに抱き着きます。そのまま少しの間を撫でてもらいながら、お兄さんを堪能します。

 

 

 少しして、気持ちが落ち着いたら、お兄さんにわたしのお願いを伝えてみました。すると、お兄さんは少し複雑そうにした後、すみれちゃんならいいかと言って、話を聞かせてくれます。わたしが知りたいといったお兄さんの事を、隠さずに教えてくれます。

 

 

 聞かせてくれた内容は、元々お兄さんに妹さんがいたことと、その妹さんがどうなってしまったのか。抱きついている状態なのでお兄さんの表情はわかりませんが、決して明るいものでないことだけはわかります。お兄さんがこんなことを明るい気持ちで話せるわけがありませんし、なによりさっきからお兄さんの体が少しこわばっています。

 

 聞かない方がよかったかなと思いました。おにいさんのことは知りたかったけど、それでお兄さんに嫌な思いをさせたかったわけではありません。そんなことになるのなら、なにも知らないままでもよかったです。よくはないけど、よかったです。

 

 

 辛いことを思い出させてしまいました。そのことをあやまると、お兄さんは気にしなくていいよと笑ってくれます。むしろ自分の方が、すみれちゃんのことを妹に重ねているのかもしれないと、君自身をちゃんと見れていないのかもしれないと、不誠実でごめんねと謝ってきます。

 

 そんなことは、わたしは気にしません。どんな理由があったとしても、お兄さんがわたしに優しくしてくれたことと、その優しさに救われたことは間違いがないのですから。

 

 むしろわたしは、もっと重ねてほしいとすら思ってしまいます。いなくなってしまったあとでもここまでお兄さんに思われている妹さんが、少しだけ羨ましくて、妬ましくて、わたしがそうなれればいいのにと思ってしまいます。

 

 そんなことを思ってしまうのは、きっといけないことです。お兄さんにも妹さんにも失礼なことで、わるいことです。そう思っていても、わかっていても、抑えることはできませんでした。

 

「お兄さん、わたし、妹さんの話、茉莉さんの話、もっと聞かせてほしいです」

 

 お兄さんにねだって、もっと話を聞かせてもらいます。茉莉さんがどんな人だったのか、何が好きだったのか、どんなことをしていたのか。お兄さんから見た時の茉莉さんを、お兄さんの中にある茉莉さんを、教えてもらいます。茉莉さんがどんなことを考えていたのかはわかりませんが、どんな風にお兄さんと接していたのかはよくわかります。そしてそれさえわかれば、もう十分です。

 

 体を伸ばして、お兄さんの耳元に口を寄せます。そのまま肩に腕を回して、重ねていいのだと、重ねてくださいと囁きます。お兄さんがわたしに茉莉さんを求めるのなら、それに応えると、上手には出来ないかもしれないけどがんばると、そう伝えます。

 

 

 お兄さんは少しビクッとして、弱々しくわたしのことを抱き返してくれます。そのまま少しだけ何も言わなくて、絞り出すように声を出します。

 

「……お兄さんじゃなくて、お兄ちゃんって呼んでほしいんだ」

 

 暗い、暗い歓びが、胸の奥底から込み上げてくるのがわかります。わたしに優しくしてくれるだけだったお兄さんが、わたしのことを求めてくれていることがわかります。わたしの居場所になってくれたのが、お兄さんの居場所になれたことがわかります。

 

 これは、間違いなくよくないことで、間違っていることなのはわかります。でも、それでもわたしは今、これまででいちばん幸せな気持ちです。お兄さんのなにかになれたのが、なにかになり代われたのが、おかしいくらいに幸せです。

 

「はい。……ううん、うん、お兄ちゃん。今度は、ずっと一緒にいてね」

 

 

 ぎゅっと力を入れて抱きしめると、それ以上の力で抱き返されます。求められているものは本当のわたしじゃなくて、お兄さんが、お兄ちゃんが求めているのは他の人です。でも、それでもいいんです。そのままだったらお母さんにすら求めてもらえなかったわたしなんて、いなくってもいいんです。

 

 お兄ちゃんが求めるように振る舞うだけのかわいいかわいいお人形。それを受け入れるだけでわたしの幸せは約束されて、お兄ちゃんも泣くほど喜んでくれるのですから。強く抱き締めながら嗚咽を漏らすお兄ちゃんに、ちょっと苦しいよと伝えながら、背中をさすります。

 

 わたしのことを必死に抱きしめながら泣いているのは、ちょっとかわいくてキュンとしてしまいます。苦しいのも、お兄ちゃんにされているのだと思えば、それほど嫌なものでもありません。

 

「ねえお兄ちゃん、今日は一緒に寝たいな」

 

 泣き止んだお兄ちゃんにそうやっておねだりをします。小さい頃の茉莉さんとはよくしていたと言っていたので、こう言えばきっと嫌とは言わないでしょう。案の定受け入れてくれたお兄ちゃんに抱きつきながら、この幸せを離さないと決めます。

 

 お兄ちゃんは、この場所は、この幸せは。もうわたしのものです。わたしだけのものです。誰にも奪わせないし、わけてあげもしません。これが、やっと手に入れたわたしの幸せです。



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HAPPY AFTER 鳥籠の中の小鳥はもう鳴かない

 ワーストエンドはまた少し空けてから書きます(╹◡╹)



 

 朝、お兄さんが起きるまで、すぐ横で寝顔を眺めます。お兄さんが見ていない間は、わたしがただのわたしとしていていい時間です。お兄さんが起きるまで、起きる時間になるまで、わたしは何もしなくてよくて、お兄さんのことを眺めていられます。

 

 以前まではお兄さんのために毎日朝からしっかりとご飯を用意していましたが、お兄ちゃんは、そんなことをしなくてもいいのだと言ってくれました。お弁当も作らなくていいし、作るとしても冷凍食品を詰めるだけで十分すぎると。

 

 だから、わたしはお兄さんよりも早く起きなくてもよくて、お兄さんが起きるまでこうしてのんびりしていられます。お兄さんのためにご飯を用意しないのは少し寂しいけれど、お兄ちゃんがそういうのだから、仕方がありません。

 

 のんびりして、お兄さんが起きる時間になったら、アラームがなるよりも少し先にわたしがお兄ちゃんを起こします。アラームがあるからわざわざ起こさなくてもいいと言われているけれど、わたしが起こしたいから起こします。お兄ちゃん起きてと言いながら肩を揺すって、起きたお兄ちゃんの顔を覗き込みながら笑顔でおはようと言います。

 

 寝ぼけ気味のままふにゃっと笑っておはようと返してくれるお兄ちゃんから離れて、お味噌汁を温めにいきます。朝から作ったものではなく、昨日の夜の残り。冷蔵庫からパックの納豆をふたつと漬物を出して、食卓に並べれば朝ごはんの準備はほとんど終わりです。あんまりにも簡単でやることがなくて味気ないですが、朝はこれくらいでいいのだそうです。

 

 炊きたてのご飯をよそって、お味噌汁が温まるのを待てばお兄ちゃんが箸を出してくれています。おわんをふたつ持っていくと、いつもありがとうと言われますが、気持ちとしては少し複雑ですね。

 

 簡単な朝ごはんを食べて、チョコレートのお菓子が食べたいとわがままを言って、お兄ちゃんがお皿を洗っている間に冷凍庫から出したおかずをお弁当箱に詰めます。わたしがちゃんと作った方が絶対に美味しいはずなのに、これでいいのだそうです。

 

 お弁当を保冷バッグに入れて、お兄ちゃんに渡します。玄関までお見送りに行くことはせずに、その場でいってらっしゃいと言って、わたしはお勉強の準備をします。今までみたいに家事を全部やらなくていいと言われてしまったのでやることがなくなったわたしは、お兄さんに買ってもらった教材で勉強しているくらいしか、やることがありません。

 

 一日中勉強して、お昼ご飯に冷凍庫の中を減らします。あとは5時になったら勉強をやめて、今日はわたしがご飯を作る日なので用意を始めます。鶏肉を切ってフォークで刺し、下味を染み込ませている間にお味噌汁を用意して、冷凍庫の中の常備菜を解凍します。残りの量が少なくなってきたので、今週末にでもまたお兄ちゃんと作らなくてはいけませんね。

 

 下味をつけている間にお風呂に入っていると、お兄ちゃんが帰ってきたので急いで上がって、お風呂を交代します。お兄ちゃんお風呂あがったよーというと、うんともおおとも区別が付かないようなあいまいな返事をされますが、ちゃんと動いている音がするのでお風呂の準備はしているはずです。上がったと言ってすぐに入ってきたら、まだ体を拭いている途中のわたしとこんにちはしてしまうので仕方ないと言えば仕方ないことですが。

 

 ほかほか湯気を上げながら部屋に戻ると、準備を済ませていたお兄さんが入れ違いでお風呂にはいります。お兄ちゃんには今日の晩御飯を伝えているから、いつぞやのようにすぐに上がったりはしないでしょう。もともとお兄ちゃんが楽しみにしている湯船に浸かれる日ということもありまし、逆にいつまでも上がってこないことを心配しなくてはいけないくらいです。

 

 漬け時間は個人的にはまだ足りませんが、時間的に仕方がないのでこれくらいで済ませて、片栗粉を付けたらそのまま油の中に投入します。パチパチといい音を鳴らしながら、少しずつきつね色に変わっていくのを眺めて、途中でひっくり返します。本当はたっぷりの油で全体を覆えればいいのですが、満足にできるだけの量を使うと、油の量が二倍から三倍に増えることもあり、わたしはこちらにしています。

 

 一陣を挙げ終わり、二陣を揚げ始めます。このタイミングで、お兄ちゃんと相談して買った卓上IHにお味噌汁の鍋を乗せて弱火で火を入れ始めれば、少し時間が経つ頃にはいい塩梅です。

 

「お兄ちゃーん!!そろそろご飯できるよー!!」

 

 お兄ちゃんにそう声をかけて、唐揚げが揚がるのを待つと、お兄さんが上がる準備をしているのがわかります。ちょうどそのタイミングでタイマーが鳴ったので、お味噌汁の鍋の火を止めてから唐揚げを回収すれば、ちょうどお兄ちゃんが上がるころには完璧な状態です。

 

「うん、やっぱりこの唐揚げが一番落ち着くね」

 

 そのままお兄ちゃんと一緒にご飯を食べ始めれば、お兄さんはそんなことを言ったりしながら、パクパクと唐揚げを食べて、お茶碗の中のご飯を減らしていきます。

 

 わたしが作ったものを褒めてもらえるのは、、よろこんでもらえるのは、わたしにとって間違いなく幸せなことです。お兄ちゃんがそれに対してどんな理由を込めていても、皮肉を込めていたとしても、そんなことはそれを知らないわたしにとってないのと同じなのですから。

 

 ご飯を食べ終わったら、今日一日やっていた勉強の中で、どんなことがわかったのか、どんな内容がわからなかったのかをお兄ちゃんに話して、わからなかった所を質問します。わたしの学習範囲がお兄ちゃんにとっては簡単なこともあるかもしれませんが、わからないところをすぐに教えてもらえるのはとてもありがたいですね。質問をするとお兄ちゃんも心做しか嬉しそうなので、時間をかければわかりそうな内容でも、質問に回すようにしています。

 

 そうして勉強の時間が終わったら、あとはのんびりします。一緒にゲームをしたり、別々で本を読んだり。寂しくなった時は、暇だからかまって!と言うとちょっと雑に対応してくれます。軽く流される感覚がなんというか癖になりそうですが、あんまりやりすぎると鬱陶しそうにするので程々が大事です。

 

 これまでわたしが見ることのなかった、何気なく暮らしているお兄ちゃんの姿。優しさは変わらないし、むしろ今までよりもわがままを聞いてくれるけど、やっぱり違和感はあります。それだけお兄ちゃんがわたしに対して気を使ってくれていたということでしょうから、喜ぶべき変化なのかもしれませんが、何も出来ないことは、させてもらえないことは歯がゆいです。

 

 

 けれど、どれだけ歯がゆくても、これがわたしの望んだこと。わたしのままでお兄さんに尽くし、やさしくしてもらうのではなく、お兄さんのもとめるものとして期待に応え続ける生活。思うところがないと言えば、辛いことがないと言えば嘘になりますが、この生活は間違いなく幸せなものでしょう。何もしなくてもやさしくしてもらえて、そこにいるだけで愛してもらえて、ほんの少し何かをしただけで喜んでもらえる。わたしの感情を抜きにして考えれば、いいことしかありません。わたしは楽で、お兄さんはより満たされていそうで、悪いことなんてなんにもありません。

 

 でも。

 

 

 

 

 

「それじゃあおやすみ、茉莉」

 

「うん。おやすみなさい、お兄ちゃん」

 

 この幸せが苦しくないと言ったら、それは嘘になります。



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WORSTEND 溝櫛瑠璃華のハッピーエンド1

 分岐条件
 溝櫛瑠璃華が改心していない。


 

 燐さんが子供を拾った。せっかく私だけしか見ないようにしたのに、頑張って頑張って頑張って、私の事だけを思ってくれるようにしたのに、その辺で知らない子供を拾ってきた。身の回りのことはだいたい把握していて、今更ライバルが現れるとは思っていなかったから、少し驚きだ。

 

 どこの馬の骨とも知れない少女だ。話を聞いてみると、家から出たこともなければ今まで親以外の人に会ったことすらないらしい。とてもかわいそうで、同情できる。憐れむことができる。

 

 かわいそうで、いたいけで、無力な少女。とてもとても、庇護欲をそそられる存在だ。しかもその上善良で、奉仕気質。なんて都合のいい子供なのだろう。守って、閉じ込めて、慈しんであげたくなる。怖いものや恐ろしいものから隔離して、優しさで包んであげたくなる。同じくらい追い詰めて、依存させて、壊してしまいたいと思うのは私の性癖がおかしいからだ。

 

 そして同時に思うことは、なんて邪魔な子が現れてしまったのだろうということ。だって、小さい頃からずっと進めていた計画が、もうそろそろひとつの節目を迎えるというこんなにめでたいタイミングで、ぽっと出の少女が燐さんの家に転がり込んでしまったのだから。燐さんをゆっくり孤立させて、私に依存させて、そのいちばん深いところまで入り込むことが出来たのに、燐さんにとって一番大切な存在になることが出来たのに、こんな子がいてしまっては台無しになりかねない。

 

 排除しよう。

 

 特に深く考えることもなく、当然の手段としてその案が浮かんだ。欲しいものは手に入れる。邪魔なものは排除する。簡単なことだ。電子レンジに卵や金属、ぶどうを入れてはいけないのと同じくらいわかりきったこと。

 

 だから、私は笑顔で少女、すみれちゃんに声をかけた。決してなかよしこよししたかったからではなく、その方が都合がいいから。一部の例外を除けば、嫌われているよりも無関心、無関心よりも好かれている方が都合がいい。その一部の中には私のような存在も含まれるのだが、今はその話はいいだろう。

 

 怖くないよーとアピールして、カバンの中に入っていたお菓子を与える。人というのは単純なもので、自分にとっていいことをしてくれる人間であればほぼ無条件にいい人だと思ってしまう。そう思い込もうとしてしまうのだ。特に子供はそれが顕著だから、だますのが簡単でいい。これでも私は子供が好きなのだ。単純でだましやすいし、何よりも懐かせておけば周囲の印象がよくなる。

 

 私のことを怖がっているように見えるすみれちゃんは少し、懐かせるまでが面倒そうではあるが、その分一回懐かせてしまったらきっと甘えてくるようになるだろう。そうなってしまえばあとは私の好きなようにできるし、少女のお世話を焼く姿はまず間違いなく燐さんにいい印象を与えることだろう。

 

 そんないろいろな思惑があって、すみれちゃんにやさしくする。その方が後々役に立つことがわかっているから。そうしているうちにすみれちゃんの警戒はみるみる解けていって、すぐに私に懐いてくれるようになった。最初の出だしが少し微妙ではあったけれど、まともに対人経験のない子供というのはこんなにも単純なものなのだろうか。あまりほかの比較対象がいないからなんとも言えない。

 

 とりあえずちょろっちょろで扱いやすいことだけは確かなので、悪いことではないだろう。本人の気質的にもあまり積極的なものではないし、私が自分から譲ったりしない限り、燐さんが奪われることもなさそうだ。もし奪われそうになったら、その時は手段を選ばずに消してしまえばいいし、そうなったら身寄りのないこの子は好きなようにできる。

 

 近所の子供と接する時のような、優しいお姉さんとして振る舞って、少しするとすみれちゃんからはお姉ちゃんとしたわれるようになった。燐さんがまだお兄さん呼びであることを考えれば、懐かれ度としてはそれなりにリードできているのではないだろうか。

 

 それでもまだ、二人きりになると緊張しているようなのは、母親からネグレクトされていたせいだろう。本人もあまり自覚はないようだけれど、燐さんが外出すると僅かに体がこわばる。燐さんは見る機会がないはずだから、このことを知っているのはおそらく私だけだろう。だからといって何かがある訳でもないが、行動指針の参考にはなる。ひとまずは、そうやって緊張しなくなるようにするのがいいだろう。それが達成出来れば私の家に連れ込むことだってできるようになるだろうし、そうすれば処分するタイミングには困らない。

 

 情が湧くことだけは心配だが、誰よりも仲が良かった茉莉ちゃんに対してあんなことを平然とできた私に、そんなものを期待する方が間違いだろう。いや、平然と、と言うと語弊があるかもしれない。正しくは心底楽しみながら、だったのだから。どちらにせよ、よりひどいことになっているだけで大差は無いのだが。

 

 

「お姉ちゃん、上手なご飯の作り方、教えてくれませんか?」

 

 ある日の夜、すみれちゃんの作るご飯を3人で食べて、一休みしていた頃。燐さんがシャワーを浴びに行っていて、2人きりになっている時に、すみれちゃんからそんなお願いをされた。

 

「ご飯の作り方ですか?私もそこまでこだわっているわけじゃないので、それほど学べることは無いと思いますよ」

 

 そもそも、すみれちゃんの作るご飯はいつも美味しいですしと続ける。これはもちろん本心だ。すみれちゃんの作るご飯はとても丁寧に作られていて、食べる人に喜んでもらいたいという気持ちがよく伝わってくる。だいぶ時間はかかっているようだが、あとは慣れれば自然と早くなっていくだろう。

 

「ありがとうございます……でも、わたしが作るご飯よりも、お姉ちゃんが作ったご飯の方が、お兄さん美味しそうに食べるんです。わたしがつくったのもおいしいって言ってくれるけど、どうせならもっと喜んでもらえるものを作りたくて」

 

 味の好みに関しては、昔から慣らしてきたのだから私のものが好みで当然だ。茉莉ちゃんやおばさんへの聞き込みを重ねて、トライアンドエラーの繰り返しで少しずつ合わせてきたのだから、好きな味じゃないわけがない。ぽっと出の女に取られないように胃袋を掴んだのだ。人は食から離れられないから、一番好みの味を作れる私はその一つだけでも周囲への牽制になる。

 

「そんなに褒められると照れますね。いいですよ、でも、これといったコツがある訳ではないので、上手く教えられるかは分かりませんからね」

 

 好感度を考えても、これまでの私の振る舞いを考えても、ここで断るという選択肢はない。やろうと思えばできることではあるが、それをしてしまうとすみれちゃんは怖がってしまうだろう。仲良しのお姉さんにお料理を教わろうとしたら突然冷たい態度で断られるなんて、すみれちゃんが耐えられるとは思えない。

 

 むしろそれはそれでちょっと見てみたい、いや、大分見たいなと思いつつ、そんな内心はおくびにも出さない。私の返答を聞いて喜んでいるすみれちゃんに、どうせなら今度一緒にご飯を作ってみようと声をかけて、私の家に連れ込む約束をする。燐さんの家にはコンロがひとつしかないし、キッチンも狭いからそうした方がいいと説明すると、警戒心に乏しいすみれちゃんは何も疑わずに私の家に来ると言った。

 

 

 ゆくゆくは家に住まわせて、何時でも処分できるようにするための第一歩、そのためにすみれちゃんを連れ込んだのは、料理の話をしてから二週間後のことだった。金曜日の夜に燐さんの家に行って、そこですみれちゃんを回収して帰る。夜ご飯は燐さんの家で、燐さんと一緒に食べてきたので、あとはお風呂に入って寝るだけだ。

 

 今頃お兄さんは何をしているのでしょうかと落ち着かない様子のすみれちゃんを剥いて、お風呂で丸洗いにする。美容室のシャンプーが気持ちいいことからわかるように、人間は人から洗われると心地よく感じてしまうのだ。

 

 きっと長いこと人から現れた経験なんてないであろうすみれちゃんに、茉莉ちゃんで鍛え上げた全身丸洗いコースを披露する。ところどころ痛くないタイプのマッサージも混ぜているので、終わる頃にはすみれちゃんはふにゃふにゃだ。本当は痛い方のマッサージの方が得意だし、やっていて楽しいのだけれど、下手をすればそれだけで嫌われてしまいかねないから今回はお預け。普通の心地いいお風呂の時間で、すみれちゃんをもてなす。

 

「お風呂、気持ちいいです」

 

 一足先に湯船に浸けたすみれちゃんが、無邪気にお湯でチャパチャパしているのに対して、それは良かったと返しつつ自分の体を洗い、湯船に浸かる。すみれちゃんが私の家に魅力を感じてくれれば感じてくれるほど色々とやりやすくなるし、無邪気な女の子が私に対して信頼に溢れた眼差しを向けている光景は、それだけでも心地いい。




 どうでもいいけど作者は瑠璃華さんがかなり好きです(╹◡╹)

 幸せにしてあげたいね()


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WORSTEND 溝櫛瑠璃華のハッピーエンド2

 すみれちゃんをゆっくり湯船に浸からせて、程よく茹だったらお湯からあげる。ほんのりピンク色に色付いた肌がどこか艶かしいので、燐さんには見せないように伝えた。まだ肉付きが貧相だし、小柄だからおそらく燐さんはそういう目で見ないだろうけど、見せるところに見せれば襲われても仕方がないレベルだ。

 

 異性の前でそのままの状態で過ごしたらはしたない子と思われるかもしれないと言うと、それは嫌だと言ったのであまり問題は無いだろう。幼くても少女と言うべきか、既に異性という認識を持った少女を燐さんのそばに置くことに警戒心を抱くべきか。

 

 どちらにせよ、言ってはなんだがちんちくりんなすみれちゃんがアピールしたところで、燐さんは大して反応しないだろうし、すみれちゃん自身にもそういうことをするつもりはなさそうなのでセーフとしておく。これがアウトになる前に、何とか処分しないとと思いつつすみれちゃんの体を拭いて、今日は少し料理の仕込みをするだけで寝る。いろいろ作り方を知りたいと言っているすみれちゃんのために、明日は朝から何品も作らないといけないからだ。

 

 翌朝、お寝坊さんなすみれちゃんを起こして、まだまだ早い時間から晩御飯の支度を始める。燐さんからは自分一人で起きて朝の準備をしていると聞いていたので、私よりも先に起きている可能性も考えてはいたのだが、私と比べるとそれほど朝が強いわけではないらしい。比較対象がロングスリーパーな燐さんだから仕方がないが、拍子抜けと言えば拍子抜けである。

 

 朝から作り始めて、途中お昼ご飯なんかも一緒に作ったりしながら、たくさんの料理を作る。種類はたくさん作っても、食べきれなかったらよくないから一品一品はかなり少ない。せいぜいが、一人当たり三口くらいで食べきれるほど。

 

 少量多品なんて、普段だったら絶対にしない作り方だ。一品ごとに手間ばかり無駄にかかるし、時間もかかれば材料だってたくさん買わないといけない。自分一人の分であればある程度まとめて作って冷凍しておくのだから、ある意味貴重な経験をさせてもらったといえるだろう。もう一度やりたいかと言われたら、燐さんの誕生日に頼まれでもしない限りやらないと言えるが。

 

 しかしまあ、無駄に時間をかけただけあって、テーブルの上に並んだ料理は圧巻の一言だ。あれも作りたいこれも作りたいというすみれちゃんのわがままの通りに作った、子供が好きそうなメニューの数々。どれも燐さんの好物で、何度も作ってきた私の得意料理だが、こうしてまとめて作ってみるとこれまで気にしていなかった工程の無駄がいくつも見つかったので、私も得られるものがあった。

 

 予想よりも早く晩御飯の調理が終わったので、少し余っている時間でお弁当箱に詰める。もともとはタッパーにでも詰めていくつもりだったが、時間があるのなら、折角のごちそうだ。どうせ燐さんの家で綺麗な食器に移したりはできないのだから、運ぶ時くらいは映えを気にしたい。

 

 温めたい時間ごとに詰め終わったのは午後の五時くらいで、燐さんと約束していた時間までにはまだいくらか時間があった。燐さんの家に向かうのにはまだ少しだけ早くて、けれども何もせずに過ごすには長すぎる時間。そんな空き時間で私がすみれちゃんとしたのは、何でもないただのおしゃべりだ。

 

 燐さんには相談しにくい悩みとかはないかとか、燐さんと過ごす日々に不満や治してほしいところはないかとか。そういう、燐さんの家では、燐さんが近くにいる時では少し話しにくいような内容を、いくつも質問する。

 

 すみれちゃんが迷わず返してくれるのは、燐さんがどんな風に接しているかというものが多い。逆に、少し考えてから返事をするのは、大体がすみれちゃんが燐さんのことっをどう思っているのかというもの。すみれちゃんから見て、ほとんど恋人のように見えているらしい私と燐さんの関係を前にして、本人からすれば横恋慕になってしまう感情を伝えるのはそれなりにハードルが高いのだろう。

 

 このまま進めば、私と燐さんが結ばれるのはほとんど確実で、そうなるとすみれちゃんが入り込めるのは私たちの妹のような立場というのがせいぜいだろうか。そう考えると現状は決して悪くない。悪くない。悪くないのだ。

 

 悪くはないのだけれども、もしそのまま話が進んでいってしまったら、燐さんの人生には私だけではなく、すみれちゃんの存在も残ってしまうことになる。普通に考えたらそのことはどうでもいいことであるのだけれども、こと私にとっては大問題だ。

 

 だって、私が求めているのは、これまでずっと頑張ってきた理由は、完全に騙されて私のことをどこまでも内側まで受け入れてしまった燐さんを絶望させること。とても立ち直れないような深い傷を負わせることなのだ。

 

 なのにその場にすみれちゃんがいてしまったら、私以外に依る先がないはずの燐さんの下に希望があってしまったら、燐さんは立ち直ってしまうかもしれない。人一倍責任感が強く、人にいいところを見せようとする燐さんであれば、それを糧に立ち直ってしまうかもしれない。

 

 そんなことを許すわけにはいかないのだ。だからすみれちゃんには適当なタイミングで退場してもらう。私も積極的に傷つけたいわけではないので、すみれちゃんが自主的にお母さんの元に帰ってくれれば1番なのだが……嘘だ。沢山苦しめたいし、このかわいらしい少女が傷付いているのを想像すると、それだけで少し幸せな気持ちになれる。

 

 そんな私の本心はともかくとして、会話をしているうちにいい時間になる。すみれちゃんに甘々な燐さんが車を出して迎えにきてくれるので、沢山作った料理を運ぶ。すみれちゃんに料理が崩れないか見ていてほしいと頼むと、単純な少女は喜んで後部座席に乗り込んだ。

 

「お兄さん、瑠璃華お姉ちゃん、すごいんですっ!すっごく手際がよくて、魔法みたいに次々に料理を作っちゃうんですよ」

 

 わたしもあんなふうにお料理できたらなぁと、助手席の後、私の後ろで喋るすみれちゃん。かなり努力してきたことだから、褒められるとやはり嬉しいのだが、自分の前で自慢げに話されてしまうと、やはり気恥ずかしさが勝る。

 

 少し褒めすぎですよと謙遜してみせると、そんなことはないと追加で褒めてきたのは燐さんだった。

 

「瑠璃ちゃんは家事万能で、ついでに頭もいいからね。おばさんだって自分よりも瑠璃ちゃんの方が料理が上手いって言っているし、瑠璃ちゃんと結婚できる人は幸せだろうね」

 

 さすが、誰よりも私に胃袋を握られている人は言うことが違う。その幸せ者は未来のあなたですよと言えばすぐにそうなってしまいそうだが、正直私と結ばれたとしても燐さんが幸せになれるとは思えない。いや、一時的には間違いなく幸せの絶頂に連れていくつもりだけれども。

 

 ここで否定すると良くないので、照れますねとだけ言って、左のミラーを覗いて後ろに座るすみれちゃんを見てみると、羨ましそうな、少し寂しそうな、居心地の悪そうな顔になっていた。そりゃあ、三人しかいない車の中で突然こんな惚気みたいなやり取りを見せられたらこんな顔にもなるだろう。しかも、自分自身は親から捨てられたという過去を持つすみれちゃんだ。かなりのストレスになっていることは想像にかたくない。

 

 自然と会話が少なくなって、そのまま燐さんの家に着く。自然とただいまと言っているすみれちゃんは、きっとなにか考えているわけではなく、天然だろう。だからこそこの少女はかわいいのだが、世に出したら一部の深読みするタイプから無自覚に嫌われてしまいそうだと思った。もちろん私は嫌わない。嫌う人よりもひどいことはするかもしれないが、それはきっと愛おしさの裏返しだ。

 

 燐さんの家で食事をする。燐さんが何かを食べる度に、すみれちゃんがそのメニューに関して覚えたことを説明するのがかわいかった。

 

 私に妹がいたらこんな感じだったのかな、なんで一人っ子なんだろうと思ったところで、こういうタイプの子は間違いなく今も昔も私の“好み”なことに気付いて、両親が産まれる前の子を守るために作らなかった可能性に思い至る。上手に擬態できる前の私は、何をしてもおかしくない、というより、何をしでかすかわからない子供だったのだから、そうして当然だ。

 

 今少し考えただけで、頑張って息をしようとしているのがかわいいからなんて理由で、濡れタオルを赤子の顔の上に乗せて遊んでいる幼い自分が想像できたのだから、命を守るためにも、私を人殺しにしないためにも、私は一人っ子じゃないといけなかったのは間違いないだろう。

 

 そんなことを考えている私を横に、すみれちゃんは燐さんに、わたしもこんなふうに美味しいごはんを作ってみせますと意気込んでいる。必要になったら何時でも教えますからねと応援してあげると、すみれちゃんは嬉しそうにありがとうと言った。このままだとすみれちゃんが燐さんに住み着いてしまいそうだけれど、まあ、どうせそう遠くないうちに一度私の下に来ることになるのだ。外国との取引の話が上がってきていて、そちらに回せそうな人員が燐さんくらいしかいないので、まず間違いない。数ヶ月ほど出張に行って、その間は私が好きなようにできる。燐さんに違和感を持たれないような言い訳なんていくらでも思いつくのだから、処分するのには最適だろう。

 

 この余裕があったから、私はすみれちゃんが燐さんに擦り寄っていることに、危機感を覚えなかった。どうせどちらも私のものになるのだから、多少ペットと戯れていたところで嫉妬はしない。むしろペットを失った時の反応を考えれば、もっと入れ込んでもらって構わない。茉莉ちゃんくらいまでの入れ込みようであれば、スパイスにしかならない。

 

 

 すみれちゃんが楽しそうに料理の説明をして、それを燐さんが微笑ましそうに聞いている暖かい団欒を、その内側で眺めながら。

 

 私は笑顔を浮かべつつ、具体的なすみれちゃんの処分方法を考えていた。




 いまいち調子が出ないので薄味……(╹◡╹)ゴメン

 たぶん後二話くらいで終わります(╹◡╹)


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WORSTEND 溝櫛瑠璃華のハッピーエンド3

 時間が経てば経つほど、すみれちゃんは燐さんに心を開いていくし、燐さんもすみれちゃんのことを受け入れていく。最初に見た時はお互いに遠慮しあっているのがよく見えて、居候と家主という関係だったのに、いつの間にか二人の関係は年の離れた兄妹のような、家族のようなものになっていった。

 

 人は血の繋がりなんかなくても家族になれるのだと思わせてくれる、素敵な光景だ。2人ともまともな親に恵まれていなかったことを考えれば、その感動も一入である。まあ、燐さんの一番大切にしていた茉莉ちゃんを壊したのは私だし、この光景を壊すのも私なのだけれど。

 

 トランプタワーは崩す瞬間、真っ白なキャンパスは泥を塗る瞬間、愛情は失う瞬間がいちばん綺麗だ。信頼が崩れて失われる瞬間ははた言うべきにあらず。

 

 そんなことを思いながら定時上がりすると、どこか焦燥した様子の燐さんが目の前を歩いていたので声をかける。タイミング的にもなんとなく想像はつくけれど、実際に話を聞いてみたらやっぱり出張のことだった。

 

 予想通り、出張の話は燐さんの元に行ったらしい。行った先で通訳無しで喋れる人材が私と燐さんとその上司しかいなくて、私は一年目。燐さんの上司はとても忙しいらしいので、自ずと燐さんに白羽の矢が立つのは仕方のないことだろう。

 

 そして案の定、すみれちゃんを一人で家に置いておく訳にはいかないと、その間他のところいてもらわないといけないのだと困っている燐さんに、それなら私の家で預かりますよと伝える。元々何度か粉をかけていたこともあって、私自身がすみれちゃんに対して友好的に振舞っていたこともあって、その申し入れは直ぐに受け入れられた。一人で決めるのではなく形だけでもすみれちゃんに相談した方がいいんじゃないかとはおもったけれども、まあ、あと少しすれば消えることになる関係のことを、私がとやかく言うものでもないだろう。

 

「すみれちゃんが家に来ることになるのなら、私も一緒にその場にいた方が話が早いですよね。今日は定時だから早いですし、一緒に行きますよ」

 

 そう言って有無を言わせず燐さんの家までついて行けば、お出迎えをしてくれるのは玄関で待機していたすみれちゃん。まあ、燐さんの家ですみれちゃん以外の人がもし待機していたらそれはもうホラーなのだけれど。

 

 かわいい笑顔を見せてくれたすみれちゃんは、待ち人以外の存在に一瞬それを曇らせて、そのおまけが私であることに笑顔を取り戻す。なんで来たんだよ、とか思われなくてよかった。それなり以上になかよくしているすみれちゃんにそんなことを思われてしまったら、さすがの私でも少し傷つく。

 

 突然私が来たことに驚いて、料理が二人分しかないっ!とすぐに慌てた様子になるすみれちゃん。ついでに、瑠璃華お姉ちゃんが来るならわかった時点で教えてください!と怒られる燐さん。見ていてとても、家族っぽい。

 

 そんなすみれちゃんに、今日はちょっと話したらすぐ帰るからそんなにもてなしてくれなくてもいいよと伝えると、すみれちゃんは少し残念そうにしながらそうですかとつぶやいて、私を案内してくれる。

 

 普段燐さんが使っているというクッションを勧められて、そこに座る。すみれちゃんは自分用のものだという同じものに座って、家主のはずの燐さんはただまれた布団の上に座らされていた。なんでも、燐さんのせいで準備できなかったのだからそれくらいは我慢してもらわないととの事。

 

 そんな風に、ちょっとツンツンした様子を見せていたすみれちゃんだったけれど、それが続いたのは燐さんから出張の話を聞くまでのこと。いざ話を聞いたら、すみれちゃんは突然足元が崩れ去ったような顔をして、何とかできないんですかと私たちに聞いてくる。少なくとも私の思いつく範囲内では、燐さんと一緒に外国に行くことは不可能で、会社の命令をもし無視すれば、職と住を失った燐さんはめでたく無職ホームレスだ。当然すみれちゃんの居場所も残らない。

 

 そうならないためにも、私が一緒に来たのだと伝えると、すみれちゃんは悲しさや寂しさの中に、僅かに安堵を混ぜて見せた。

 

 そのまま話を続けて、10分もすればすみれちゃんはもう私の家に来る気満々になっている。決め手が毎週料理を教えることだったのには少し思うところがないわけではないが、まあそれも連れ込んで処分してしまったら全部なかったことになるのだから無問題。

 

 ある程度大きなものを持ってきさえすれば残りの細かいものは私が用意すると伝えて、今日はここらで退散。すみれちゃんはやっぱりなにか出しましょうかと言っていたけれど、私だって家に帰れば作り置きが待っている身だ。いきなり押しかけたのだし、ご飯までお世話になる必要はない。

 

 

 そうして、一月足らず過ぎて、すみれちゃんが私の家にやってきた。かわいいかわいいお人形さんは、燐さんのものではなく私のものとして終わることになったのだ。とはいえうちに来て直ぐに連絡が取れなくなる、とかだとさすがにかなり不自然なので、1ヶ月くらいはこのまま家で育てる。育てて、適当なタイミングでお母さんにでも連れていかれたことにすればいい。すみれちゃんの実際のバックボーンは知らないけれど、少なくとも燐さんはすみれちゃんの説明を信じているようだから、それで問題ないだろう。私の方も、勝手に処分して不味いことにならないか確かめるために行方不明者リストを見て、すみれちゃんが載っていないことは確認した。少なくとも事件性のある失踪と思われていないのは確かだ。

 

 開けないように言った押し入れの中に、自分を処分するための道具が沢山入っているとは欠片ほども思っていなさそうな、脳天気なすみれちゃんと共同生活を送る。押し入れの、開けてすぐ見える部分にはカモフラージュとして、すみれちゃんが見たらきっと気まずくて私と話せなくなるものを入れてあるので、普通に共同生活を送れているということは言いつけを守って開けずにいるのだろう。素直なとてもいい子だが、そのせいで逃げることすら出来ずに命を落とすのだから、この世は残酷だ。

 

 すみれちゃんが抵抗して暴れたら面倒なので拘束するのはすみれちゃんが寝た後にして、両手に錠をかける。眠りが思っていたほど深くなかったのか、それだけで目を覚ましてしまったので口を抑えて、怯えた様子のすみれちゃんにしゃべっちゃダメですよと優しく言ってあげると、すぐにわかってくれたようで静かになった。

 

 すかさず口を塞ぐものを手からガムテープに取り換えて、怖くないから大丈夫とあやしてあげると、こんな状況にもかかわらず少し落ち着いた様子になる。面白いなぁと思いつつ今の状況を理解できるか聞いてみると、ふるふると首を横に振った。理解できないのに落ち着けと言われたら落ち着けてしまうのは、この子の才能と言えばいいのかそれだけ私が信じられているということなのか。もし後者なら完全に信じる相手を間違えている。

 

 ここで、安全を考えるのであれば首をキュッとしてあげるのが一番なのだけれども、それだけだといささか物足りないのも事実だ。せっかくの貴重な機会だから、多少のリスクを犯してでも楽しんでおきたい気持ちがある。

 

 少し考えて、やっぱり我慢できなかったので遊ぶことにした。おもちみたいなほっぺを餅つきしたり、たくさんの虫さんと“なかよし”させてあげたり、たくさん仲良くなった虫さんを食べさせてあげたり。茉莉ちゃんの時にはこうして目の前で鑑賞することが出来なかったけれど、無事に返すつもりのないすみれちゃんにならなんでもできた。やりたいことを全部やって、やり残しの内容にして、思い出の振り返り様に沢山写真を撮っておく。もしもの時には全部消さないといけないから、クラウド保存とかができない昔の携帯を使って、容量がいっぱいになるまで楽しむ。

 

 楽しむだけ楽しんだら、あとは処分するだけだ。最初はあんなに元気に反応してくれていたすみれちゃんも時間が経つにつれて大人しくなってしまって、最後には虚ろな表情で自分の終わりを受け入れていた。

 

 

 燐さんには拘束した翌日に、お出かけしていたらすみれちゃんがお母さんに連れていかれて、これ以上関わるようなら拉致として被害届を出すと脅されたと伝えた。朝のやり取りの分は私がすみれちゃんの文章を真似て送信したし、すみれちゃんからの言伝として数言のお礼と謝罪の言葉を捏造しておいたので、違和感はあまり持たれないだろう。動揺を装っておけば私がこんなことをしているとも思われないはずだし、仮に多少おかしく思われたとしても、信じて貰えるだけの関係性が私たちの間にはある。

 

 あとは燐さんが帰ってくるまでの間に、すみれちゃんだったものを綺麗に消してしまえばバッチリだ。




余談

瑠璃華さん無改心ルートだと、燐くんは瑠璃華さんへの高い好感度を刷り込まれると共に、トラウマが若干緩和されることによって、すみれちゃん相手でのコミュニケーションに若干のマイナス判定があります。これによりすみれちゃんへの感情が“かわいい妹分”以上に成長しないことに加え、すみれちゃんからの感情も“優しいお兄さん”程度で低迷、“実らない初恋”で停止します。この際に少しだらしないところや、瑠璃華さんへの好感度上げ行動などを見せることで、“好きになってはいけないあの人”に移行し、それ以降対応に遠慮が少なくなる“真・大事な家族モード”に至ります。


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WORSTEND 溝櫛瑠璃華のハッピーエンド4

 すみれちゃんをほとんどなくしてしまったら、あとは燐さんの帰りを待って、私、何も出来なかったんです……なんて言っておく。戻ってきてから本格的にすみれちゃんがいなくなったことを実感したらしい燐さんのお世話を焼いて、元気のない燐さんの傷心につけ込む。

 

 大切な家族を失うのは二度目な燐さんは、二回目だからって平気になるなんてことはなく、むしろまた守れなかったと落ち込んでいた。また奪ったのは私なのに、そんなことには微塵も気付かず近くにいさせてくれるのは、思わず全部白状して楽しみたい衝動に駆られてしまうが、今はまだその時じゃない。せっかくここまで積み重ねてきたのだから、崩すのはもっと高く積上げてからだ。

 

 落ち込みに落ち込んで、仕事も手につかない様子の燐さんの家に押しかける。今のままだと、燐さんまで消えてしまいそうだからと言えば、燐さんをつなぎ止めておくため、一人にしないためだと言えば、燐さんは私を拒まなかった。私のことを受け入れて、私のことを求めてくれた。全部私のせいなのにも関わらず。

 

 痺れるような幸福感。幼かったあの日に抱いた初恋がやっと実ったことに対する喜び。あんなに酷いことをした相手から、瑠璃ちゃんはどこにも行かないよねとすがられる快楽。迷子のような不安げな顔をしながら、今日は帰らないでと言われた時には思わず笑い出してしまいそうだった。

 

 心の隙間に入り込むように、燐さんの中に根を張っていく。茉莉ちゃんがいなくなった時でも、ここまで弱ってはいなかった。ここまで私に対して無防備になってはくれなかった。でも今は、私を失うことを何よりも恐れてくれている。それこそ、私が全てを白状したら、死んでしまうか、それでも離れないか、信じられずに現実逃避するかの三択だろうと言うくらいに。

 

 その時点で、間違いなく燐さんは壊れてしまっていたのだ。いや、ギリギリ壊れていなかった燐さんのことを私が壊したのだ。私が甘やかして、ヒビを広げた。そのまま崩れるはずのものを雁字搦めにして固めた。壊れかけの人を壊して、壊れていないように見せかけていた。

 

 普通に壊れることすらできなかった燐さんに愛おしさを感じる。あんなに優しくて、素敵だった人がこんな姿になったのだと、私がこんなふうにしてしまったのだと考えると、たまらなく嬉しくて、誇らしい。

 

 

 

 そんなことを誇りに思いながら生きていたら、いつの間にか時間は経っていた。燐さんはすみれちゃんがいた事を忘れてしまったかのように仕事をするようになって、すみれちゃんがいた事を忘れたいかのように私に溺れる。

 

 私のことを受け入れて、私と一緒に暮らして、私と籍を入れる。そうして燐さんが手に入れたものは、ずっと昔から一途に自分のことを見続けていたかわいい幼なじみのお嫁さん。

 

 優しくって、思いやりがあって、家事万能なお嫁さんを手に入れた燐さんは、周囲から祝福されながら、少しずつ心の傷を癒していった。その過程で、自分の何よりも大切なところに私を抱えたまま、治ってしまった。私がいなければもう普通に生活できない状態のままで固まってしまった。

 

 そんな燐さんのことをそのまま受け入れて、共に時間を重ねる。すみれちゃんを失ってから一年が経ち、二年が経ち、十年も経つ頃には私たちの元には新しい命が二つ増えていた。男の子と女の子、まだまだ幼い兄妹だが、燐さんのいい所を引き継いだのか、とても素直で優しい子たちだ。お父さんの言うことも、私の言うこともしっかり聞く。私にはもったいないくらいのいい子たちだ。

 

 

 そんな子供たちのことを眺めていると、燐さんがおもむろに私の隣に座る。結ばれてからそれなりに長い時間が経ったけれども、相変わらず燐さんは私に対して優しいし、私も燐さんのためなら大体のことはした。おかげでご近所ではおしどり夫婦として有名だ。

 

 あたたかい幸せ。小さな、でも尽きることのない幸せ。普通の女の子として、これ以上の幸せは中々見つからないと確信できるほどの、きっと周囲からは嫉妬されてしまうであろう幸せ。

 

 でもそれは、ある日突然終わるものだ。いつもの光景は少し目を離した瞬間に壊れて消えてしまう。まあ、私にとっては壊れてしまうのではなく、壊してしまうのだけれども。

 

 下の子、娘が初めてご飯を作った日、とは言っても全部一人でやるのではなく、私のお手伝いをしてくれただけではある。それでも子供の成長というのは嬉しいもので、私と燐さんは子供たちが寝たあと、リビングで少し話していた。

 

 ママみたいに上手にできないとしょげていた娘に、ママは何年もご飯を作っていたから慣れているんだよと慰めていた燐さん。いっぱい練習すればいつかママみたいに作れるようになるさと慰めていた燐さん。そのやり取りは、いつかのだれかとのやりとりと重なるものがあったらしく、珍しく話は昔話に向かった。

 

「あの子は、すみれちゃんは元気にしているのかな。もう大人になっているだろうけど、今頃どうしているんだろう」

 

 燐さんは、すみれちゃんが親に連れ戻されたという話をまだ信じている。私がそう言って騙したのだから、当然と言えば当然だ。

 

「大丈夫ですよ、きっと。すみれちゃんは間違いなく、私たちの中でまだ生きています」

 

 その言い方だとまるで死んじゃっているみたいじゃないか、ちょっと不謹慎じゃないかと小言を言う燐さん。ちょっと物を取ってきますと言って、席を外す。取ってくるものは、あの日たくさん写真を撮った古い携帯。回収して、パスワードを打ち込んで、写真を開く。最初に入っているのは、まだ笑顔だった頃のすみれちゃん。私が楽しむ前の、燐さんの下で幸せに暮らしていた頃のすみれちゃん。

 

 懐かしいなと言いながら、燐さんが次の写真を見ていく。一緒に鍋を食べた時の写真や、私の家にお泊まりした時の写真。燐さんの知っているものから知らないものまで、たくさんのすみれちゃんが写真に収まっていた。

 

 そして、日付はあの日に至る。私の家で過ごしているすみれちゃんの写真から、突然現れる縛られた姿。なんの写真かと訝しげにしながら、燐さんは次の写真へと進む。ガムテープを貼られた口、それが無くなったと思ったら赤く腫れている頬。目から、鼻から、口から流れた液体の跡。

 

 怯える表情、苦痛に歪む顔。何も感じなくなったみたいな、虚ろな表情。たくさんのすみれちゃんが、色々なことをされているすみれちゃんが、燐さんの知らないすみれちゃんの姿が、次から次へと写し出される。

 

 なんだ、と燐さんが声を漏らす。後ろから燐さんを抱きしめながら、肩越しに顔を並べながら、早く次のを見てくださいと急かす。

 

 突然のことに正常な判断ができなくなっているらしい燐さんは、黙って私の言うことを聞いた。裸の体の上に虫を這わされるすみれちゃんの姿、それと同じ虫が口の端から半分こぼれている写真と、口の中でぐちゃぐちゃになった写真。

 

「大丈夫ですよ、すみれちゃんは私たちの中で生きています。あなたも食べたでしょう?すみれちゃんの、最後のハンバーグ」

 

 いなくなる前に、すみれちゃんが最後に作ったハンバーグ。そう言って私が燐さんに食べさせたのは、すみれちゃんで作ったハンバーグだ。わざわざ冷凍して残しておいて、すみれちゃんが燐さんに食べて欲しいと言っていたと偽って食べさせたもの。文字通りの意味で、すみれちゃんは私たちの中で生きている。私たちの一部として、生きている。もう代謝でいなくなっているかもしれないけれど。

 

 まさか、そんなと現実逃避をしようとする燐さん。座っている燐さんに後ろから抱きついたまま、次を見るように急かす。次へ、次へ、次へ。すみれちゃんのかわいいところから恥ずかしいところまで、余すところなく燐さんに見せる。

 

 言葉を失ってしまったかのように、燐さんは何も言わなくなってしまった。それでもあまり問題はないので、そのまま次に開くべきフォルダの名前を伝える。

 

 そのフォルダの中の写真、沢山あるそれらに写っているものは、先程までのすみれちゃんのものと比べれば、いくらかマイルドにはなっているものの、一人の女の子がいじめられている写真だ。一つ違うのは、その被写体がすみれちゃんではなく、茉莉ちゃんであるということだけ。

 

 

 燐さんの体が、びくりと反応する。先程まで、すみれちゃんの写真を見ていた時は反応しなかったのに、茉莉ちゃんの写真を見ただけで体が動いた。

 

「ねぇ、燐さん。私一つ、ううん、二つ謝らないといけないことがあるんです。燐さんの大事な大事な茉莉ちゃんも、燐さんが守ってあげたかったすみれちゃんも、2人とも私が殺しちゃったんです。燐さんを私のものにするために、どうしてもそうする必要があったんです」

 

 茉莉ちゃんに関しては、直接殺したわけじゃないですけどと補足する。私の言葉を聞いた燐さんは、勢いよく立ち上がると私のことを突き飛ばした。

 

 お前がやったのかと、お前のせいで2人は死んだのかと大きな声で怒鳴る燐さん。穏やかで優しい燐さんの、普段見ることのない激しい感情。強い怒り。

 

「……あんまり大きい声を出すと、あの子たちが起きちゃいますよ」

 

 そう伝えると、燐さんの勢いはおさまる。けれどその激情が消えたわけではないようで、倒れた私に馬乗りになると、首に両手を添えた。このまま絞められるのも、まあ悪くはない。燐さんの心に間違いなく大きな傷を残して、誰よりも許せない相手として永遠に残り続けるのも、それなりに魅力的だ。

 

 

「私がいなくなったら、あの子たちにはなんて説明するんですか?」

 

 でも、私はそれよりももっと魅力的なものを知っている。こう言えば、燐さんは私のことを殺せなくなってしまうと知っている。そういう風に、燐さんを作ってきた。そうなるように、作り替えてきた。

 

 この一言だけで、燐さんは想像するのだ。私が居なくなった後に子供たちがどんな気持ちになるのか。周囲から素敵な奥さんとして評判が高くて、子供たちからも優しいお母さんと慕われている私を殺してしまったら、たとえ私がどれほどの悪人だったのかを主張しても信じる人はほとんどいないだろう。燐さんはおかしくなった人殺しとして扱われて、やっと手に入れた大切な家族を、子供たちを失うことになる。

 

 そう、想像できるように仕込んできた。そして、その仕込みはちゃんと機能して、燐さんは私の首から手を離してしまった。

 

 

「……頼むよ、もう僕から何も奪わないでくれ」

 

 私の上で、うずくまるように小さくなる燐さん。かつて大切にしていたものを奪われて、今大切にしているものを壊されて、それでも残ってしまったものを守るために、私にすがるしかなくなってしまった燐さん。

 

 

 その姿が愛おしかった。この光景を、ずっと求めていた。あれほど素敵だった人が、心をぐちゃぐちゃにされて、私にすがるしかない。最高の気分だ。

 

「……いいですよ。あなたがこれまで通りに接してくれるなら、私はもう、あなたから何も奪いません。……だからほら、いつもみたいに笑ってください」

 

 燐さんの頭に手を添えて、その瞳をじっと覗き込む。そこにあったのは、恐怖。わけのわからない存在に自分の全部を奪われて、残ったものを守るためにそれに従わないといけない、恐れの感情。

 

 二本の親指で、燐さんの頬を引っ張る。引き攣った、不細工な笑み。口元しか笑顔の形になっていない、悲壮感しか伝わらない素敵な表情。

 

 愛おしさが我慢できなくなって、燐さんのことを抱きしめる。なにかされるかと思ったのか、燐さんの体が小さく跳ねた。子供を寝かしつけるように、背中をさすりながら大丈夫と言い聞かせる。たったそれだけで緊張がほぐれたように見えるのは、これまでの刷り込みの効果が出たのだろうか。すみれちゃんの時とおなじ状態になっていて、思わず口角が上がってしまう。

 

 そのまま燐さんのことを落ち着かせて、寝室まで連れていく。起きたら、今日のことはなかったことにして、普通に過ごすんですよと伝えると、燐さんは少し怯えたようにしながらも、確かに頷いた。

 

 

 

 翌日起きると、横に寝ている燐さんを起こす。いつも通りに目を覚ました燐さんが、昨日のことを思い出したのか表情を変えたので、いつも通りに振る舞わないとダメですよと教えてあげたら泣きそうな顔になった。愛おしい。

 

「パパ、ママと喧嘩したの?だめだよ、ちゃんと仲直りしないとっ!」

 

 朝の支度をしているうちに起きてきた子供たちが、私たちの間の違和感に気付いたようで、燐さんに向かってそんなことを言う。言われた燐さんは少し気まずそうにしながら、でも日常を壊さないために、私の機嫌を損ねて、子供を失うことにならないために、私から見たらまだ歪に見える笑顔を浮かべながら、パパとママはちゃんと仲良しだよと言って、私のことを抱きしめる。

 

 小さく、震えが伝わってきた。まだ私のことが怖いのだろう。ずっと信じてきた人の知らなかった一面を、おぞましい一面を知ったのだから当然だ。それなのに、子供たちのために、燐さんはその気持ちを必死に我慢して、私の望むこれまでを守ろうとした。

 

 本当は、これまでの生活なんてどうでもいい。子供ともう会えないとなると寂しくはあるけれど、それでも満足できるほどの感動を、燐さんは私にくれた。だから、燐さんが何をしても、何をしなくても、子供たちになにかするつもりなんて最初からないのだ。さすがの私でも、自分の子供にくらいは情というものが湧く。

 

 だから、こうしているのはただ燐さんを見るため。大好きな燐さんから、ぐちゃぐちゃになった感情を向けられるため。

 

 子供に、仲良しアピールをするために、燐さんの顔に顔を寄せて少しだけくっつける。ちょっと嫌そうな声を出す子供と、体を強ばらせる燐さん。人の感情を味として認識できるのなら、私にとってこれはこの上なく甘いものだろう。

 

 

 私は今、間違いなく人生の絶頂にいる。

 

 




 この話書いてきた中で5本指に入るくらい楽しかった(╹◡╹)キャッキャッ

 ワーストルートは以上です(╹◡╹)


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BESTEND やさしいせかい1

 分岐条件
 溝櫛瑠璃華が自分の癖を目覚めさせず、幼心に封印する。
 灰岡茉莉が自殺に追い込まれず、兄妹仲が良好である。



 

 

 お母さんに別れを告げて、暗い夜の道を歩きます。お外に出るのは初めてなわたしですが、さすがに夜が暗いこと、昼が明るいことは知っています。それくらいのことは、家の中にいてもわかりますから、当然です。お母さんが帰ってきて、電気をつけてくれるまで、真っ暗なのは家の中でも一緒でしたから。

 

 もしかすると、真っ暗な時の家の中よりも、お星様の灯りがあるお外の方が明るいんじゃないかなと思いながら、初めての外を楽しみます。カポカポいうサンダルも、チャリチャリ転がる小石も、とても楽しくて、気持ちがどなどなしてきます。お歌を歌いたくなってしまいますが、今はまだお家からそれほど離れていないので、我慢です。お母さんに迷惑をかけるわけにはいきませんからね。

 

 のんびり歩いて、でも人目にはつかないように気をつけます。たくさんの人に見られてしまったら、わたしがここに存在していたことがバレてしまいますからね。このまま勝手に、こっそりと死ぬわたしは、人に見られるわけにはいかないのです。少なくとも、お母さんの元から離れるまでは。

 

 誰ともすれ違わなかったのは、きっと運が良かったからでしょうか。わたしのまともとは言い難い判断基準でも、わたしみたいな子が外を歩いているのは異常だとわかるので、誰にも怪しまれることのない今の環境は、きっと奇跡ですね。

 

 少し歩くだけで痛む足に途方に暮れながら歩いていると、正面から人が二人、歩いてくるのが見えました。どこかに隠れて、やり過ごさなくてはいけないとすぐにわかりましたが、それがわかったところで隠れられる場所はどこにも見あたりませんし、仮に見つけられたとしても、相手を見つけた以上向こうもわたしの存在には気がついているはずです。今から隠れても、なかったことにはならないでしょう。

 

 道、間違えたなと思いながら、せめて相手がわたしに対して無関心でありますようにと祈ります。最近の人は周囲に無関心だと読んだことがあるので、もしこの人たちが最近の人であれば、まだ何とかなるかもしれませんからね。最近の人じゃなかったら、どうするかはその時にまた考えましょう。

 

 なんでもない風をよそおって、一歩、また一歩と近付きます。とても緊張しますね。考えてみれば、お母さん以外ではじめて会う人です。そう考えると余計緊張してくるので、よくないですね。

 

「ねえ、君。こんな時間にそんな格好でどうしたの?何か困ってることがあるなら助けになるよ?」

 

 なるべく頭を空っぽにしながら、歩いていると、正面の二人、お姉さん二人は、わたしの方を見て小声でなにかを話した後、わたしに向けて声をかけてきました。知らない人に声をかけられるなんて、もしかしたら不審者さんかもしれません。……嘘です。さすがに、冗談でも親切にしてくれる人を不審者扱いなんてしたら失礼ですよね。考えていることを声に出さない習慣があってよかったなと思いながら、もうしわけなく思います。

 

 しかし、そんなふうに考えて現実逃避してしまいたくなるわたしの気持ちも、しかたがないと言えばしかたがないのではないでしょうか。だって、一番避けたかったことが目の前で起きてしまったのですから。家を出て最初に会った人が、わたしみたいな知らない子、それも、明らかになにか問題がありそうな子に対して迷うことなく声をかけるようないい人で、最近のじゃない人だったのです。

 

 途方に暮れたくなるのを我慢しながら、なんと答えるのが正解かを考えます。素直に目的、その辺で野垂れ死ぬことを答えたら、まず間違いなく止められるでしょう。こんなふうに声をかけてくる人が、それを聞いて何もしないと考えるほど、わたしはおばかさんではありません。

 

 関係ないから話しかけるな、というのも悪手のように思えます。好意を無下にするのは、相手に不快感を与えるか、逆にムキにさせるかのどちらかだと読んだことがあるからです。そうなると、どうするべきでしょうか。ただの変な子、と思われるのが、一周まわって安全かもしれません。変な子であれば、関わりたいとは思わないでしょうし、このまま離れてくれる可能性が高いです。記憶には残ってしまうでしょうが、それはこらてらるだめーじというやつですね。

 

「……えっと、その、わたし」

 

 冴えたやり方を思いついた!と思ったのですが、いざ実践しようとすると、上手に言葉が出てこないですし、考えれてみればわたしは何をすれば変な子だと思われるのかがわかりません。そんなことにも気付けないのに、これを選んでしまうなんて、さてはわたしはおばかさんですね。

 

 二人のお姉さんの、優しそうな顔の人、わたしに声をかけてきた人の顔が、少しずつ難しくなっていって、次第に怖い顔になっていきます。もしかしなくても、怪しまれているのでしょう。せっかく家を出るまでは上手にできていたのに、とんだ失敗です。

 

「ねえ、君。自分のお名前は言える?お姉さんに教えてくれないかな?」

 

 きっと、意識的に柔らかくしたであろう表情で、お姉さんがわたしに名前を聞いてきます。間違いなく、アウトなやつです。ここから自然と別れる道には、進める気がしません。けれど、だからといって自力で逃げてしまおうにも、わたしの体力とこのサンダルでは10メートル逃げられれば上出来なくらいです。

 

 完全に、詰んでしまいました。何とかならないか考えるのも無駄なくらい、詰んでしまいました。こうなってしまえば、あとはもう自棄です。ケセラセラの精神で、行く末を見届けるしかありません。なるようになる、と言うよりも、なるようにしかならないという諦めに近いですね。

 

 大人しく、聞かれるままに名前を答えます。わたしの名前はすみれ、年はわかりません。歩いている目的はお散歩……ではなく、家を追い出されてさまよっています。

 

 質問と言うよりも、聴取と言いたくなるような内容ですね。もしかすると、このお姉さんたちは警察さんなのでしょうか?スーツとほろ酔いっぽい頬の赤みを見るに、きっと違いますね。

 

「……うん。すみれちゃん、うちに来るのと、一緒に交番に行くのとどっちがいい?」

 

 一通り聴取を終えたお姉さんが、腰を落としてわたしと目線を合わせながら、そんなことを聞いてきます。そのどちらかしかないのであれば、お姉さんの家に行った方がいいですね。交番に行ったら、巡り巡ってお母さんに迷惑をかけかねません。もちろんお姉さんと行ってもそうなる可能性はありますが、それが遠くなるのは確かでしょう。それであれば、わたしの行動は自ずと決まります。

 

 灰岡さん!?と、もう一人の方のお姉さんが驚いた声を上げても、お姉さん、灰岡さんは、近所迷惑だから静かにねと言うだけで、取り合いません。わたしのような得体の知れない人間を連れて帰るのは危ないんじゃないかというニュアンスのことを、きっとわたしに気を使って回りくどく伝えているお姉さんは、きっといい人でまともな判断ができる人ですね。

 

 それでも、まともな判断ができない人であったとしても、今のわたしにとって都合がいいのは灰岡さんの方なので、大人しくついて行きます。お姉さんの言葉から、灰岡さんの家にお兄さん、男の人がいることがわかり、少し緊張はしますけれど、それ以上に人と話すことに緊張している今、それくらいは誤差です。

 

 気がつくと話はまとまっていて、わたしは灰岡さんのお家でご飯を食べさせてもらうことになっていました。なんでそんな話になるのか、わけがわかりませんわかりませんが、返事をしてしまったので今更断ることもできません。幸いと言うべきかお腹はきゅうきゅう鳴いていますし、全然食べられないなんてことにはならないでしょう。……考えてみたら、お腹がすいているのはいつものことでしたね。毎日、朝から夜までずっと鳴いているような卑しい子でした。

 

 卑しいお腹のことは置いておいて、灰岡さんのお家に連れていかれます。食べ物で釣られてしまうようなわたしは、交番が嫌なこともあって、簡単に連れていかれてしまいます。誘拐とか、拉致とかを考えている人から見たら格好の獲物ですね。カモが鍋を背負って歩いているようなものでしょう。わたしなんて、大して食べれれる場所があるとも思いませんが。

 

 お姉さんにやんわりと止められながらも、止まる様子のない灰岡さんが、どこかに電話をかけました。話している内容は、ちょっと子供拾ったから連れて帰るねというニュアンスのこと。これだけ言われてOKを出す人がいるとすれば余程の変人でしょうが、電話の相手はそんな変人だったようです。どうなっているんでしょうね。

 

 わたしが常識だと思っていたことは常識じゃなかったのかな、まあ、わたしがまともな常識持ってるわけないもんなとも思いましたが、お姉さんの反応を見る限り、わたしと同じような価値観を持っているように見えます。やっぱり、見知らぬ子供を連れて帰る人も、それを簡単に受け入れる人も、普通じゃないですよね。正直、ついて行ったらバラバラにされて食べられると言われた方が納得できるくらいです。可食部の少ないわたしですが、それでもきっとお出汁くらいにはなれるでしょう。

 

 恐ろしいことに気がついて、ビクッとしてしまいます。わたしのことを食べようとしているのなら、こんなふうに連れて帰ろうとするのも、それを受け入れるのも何も不思議じゃありません。目の前のご飯につられて自分がご飯になってしまうなんて、わたしはお魚さんだったのでしょうか。

 

 一気に不安になりますが、ここまでついてきてしまったら、もう今更逃げることも出来ないでしょう。手を引かれているわけでも、紐で繋がれているわけでもありませんが、逃げられる気がしません。どなどなとおぼつかない足で左右に揺れながら、灰岡さんの家に着きます。お姉さんは途中で別れてしまったから、今ここにいるのはわたしたち二人だけです。悪いことをするのにはおあつらえ向きですね。

 

 ガチャりと扉が開いて、灰岡さんがただいまと言います。つられて入って、お邪魔しますと言うと、優しそうなお兄さんが迎えてくれました。




 Q.なんでこんなに遅くなったの?

 A.(この子達をちゃんと幸せにするのは)気が乗らなかったから(╹◡╹)


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BESTEND やさしいせかい2

「いらっしゃい。大したものがない家だけど、歓迎するよ」

 

 わたしと灰岡さん、いえ、きっとどちらも灰岡さんですね。わからなくなってしまうのでお兄さんとお姉さんにしましょう。ちょうど、さっきのお姉さんがいなくなったので、枠が空きましたし、ちょうどいいです。

 

 わたしとお姉さんが家に入ると迎えてくれたお兄さんは、そんな恰好じゃ寒かっただろう。お風呂に入ってくるといいと言って、わたしにお風呂を勧めてくれます。調理する前に汚れを落としておこうという考えでしょうか。自分で下処理させようなんて、まるで注文の多い料理店みたいですね。お風呂上りにクリームとお塩を勧められたら、間違いなしです。

 

 完全になるようになれとしか考えていないわたしは、勧められるままに動きます。ここまで来てしまえば、あとはもう、何かされるなら痛いことじゃなければいいなと祈るくらいしか、できることは残っていません。

 

 お姉さんに使うように言われたもので全身を洗って、いい匂いに包まれます。湯船に入れるように言われた入浴剤を入れて、肩まで浸かって百秒数えます。体から、疲れやいろいろなものが抜けていくような感覚があって、とっても気持ちいいです。

 

 のんびり浸かって、ボーっとする頭で入浴剤の説明を見てみると、バスソルトと書いてあってびっくりするなんてこともありましたが、それ以外は変わったことも起きずに時間が経って、数え終わったので上がります。

 

 用意されていた着替えを身にまとい、部屋に出ます。ふんわりとやさしい香りのする、素敵な部屋です。そこで待っていたのは、先ほどまでのスーツのままのお姉さんと、わたしを迎えてくれた時のままの部屋着姿のお兄さん。突然白衣やエプロン、作業着になっていたらきっと怖くて固まってしまったと思うので、一安心ですね。

 

 わたしと入れ替わるように、というか完全に入れ替わりで、お姉さんがお風呂場に向かいます。お風呂にはいるのかなと思ったら、お酒を飲んでいるからシャワーだけにするようにとお兄さんから釘を刺されていました。わたしが入るときは一番風呂でしたし、お兄さんはもうあがっているように見えますので、もしかしたらわたしのためにわざわざお湯を沸かしてくれたのでしょうか。もしそうなら、なんだかとってももうしわけないことをしてしまいましたね。

 

 お姉さんがシャワーに入っている間、わたしとお兄さんの二人だけの時間が流れます。わたしは知らないところにきて、借りてきた猫さんになっていますし、お兄さんはあまりおしゃべりな人ではないのか、それともわたしに気を遣っているのか、会話らしい会話はありません。

 

「えっと、すみれちゃん、でいいのかな。話は少しだけ聞かせてもらったよ。僕は灰岡(はいおか)(りん)。一応この家の家主、ということになるね。無理に連れてきちゃったみたいだけど、嫌じゃなければ気が済むまでゆっくりしていくといい」

 

 沈黙に耐えきれなくて、お姉さん早く帰ってきてくれないかな。初対面の人といきなり二人っきりなんて何を話せばいいかわからないし……なんて考えていたわたしの気持ちに気付いてくれたのか、お兄さんはそんふうに話かけてくれました。とっても助かりましたが、考えてみればお姉さんの方も初対面でしたね。

 

 今は留守にしてるもう一人の同居人もきっと受け入れてくれるから安心してほしい。何か気になることとかないかな、と言ってくれたお兄さんにありがとうを伝えて、頭ではばかばかしいとわかっていてもどうしても考えてしまったことについて、お言葉に甘えて聞いてみます。ずばり、わたしはこのあとお出汁にされてしまうのか、という質問です。

 

 言葉にしてみると、本当におばかさんな質問ですね。知らない人の家に連れてこられて、最初にする質問とは到底思えません。あまりに予想外だったのか、お兄さんも先程までの表情を崩して、心底訳がわからなさそうにしながらわたしに問い返します。

 

 どういう意図の質問なのかと、一体どうしてそんなふうに思ったのか。一つ目は簡単で、そのままの意味ですね。それを聞いたお兄さんが眉間に皺を寄せながら頭を抑えているのを見ながら、二つ目に答えます。

 

 二つ目は、わたしを連れて帰るメリットがそれくらいしか思いつかなかったことと、湯船に塩を入れて、塩ゆでにされたからと答えます。きっと、あのお風呂でした味をつけていたのでしょう。それにしては色々おかしい気もしますが、思ってしまったものは仕方がありません。

 

「……そうだね、まず、連れて帰るメリットだけど、そんなものは最初から考えていない、というのが正解だね。僕たちも昔、親との関係のことで色々と悩んだことがあったから、ただすみれちゃんの抱えているであろう悩みを、見て見ぬふりしたくなかっただけ。少なくとも、僕がいいと言ったのはそれが理由で、本人じゃないからあっているかはわからないけど、あの子も同じだと思う」

 

 そんなことが、あるのでしょうか。ただの善意で、優しさで、そんなリスクを背負えるものなのでしょうか。現実的じゃないと考えるわたしがいるのと一緒に、その言葉を信じてみたいわたしもいます。ただの善意で、助けられたいと思ってしまいます。

 

「それと、下味?の事だけど、バスソルトは塩が入っているとは限らないし、うちにあるのにはたしか入っていなかったはず。お風呂で下味付けるって発想は面白いと思うけどね」

 

 なるほど、僕らは山猫だったのかと笑うお兄さん。わたしは羞恥心で死んでしまいそうです。触らなくても、自分の顔が熱くなっていることがわかります。突拍子のない勘違いをして、それを正されたのですから、恥ずかしいのも当然です。しかも、相手は今日初めて会った人、恥ずかしさもひとしおですね。

 

「……セクハラでもしたの?」

 

 そんなやり取りをしているうちに、お姉さんがシャワーからあがってきました。真っ赤になっているわたしを見て、それを楽しそうに見ているお兄さんを見て、二秒ほど考えて出した結論がそれです。心なしか、お兄さんに向けられている視線が冷たいように見えます。

 

 違うと否定しながら、わたしの方を見るのは、きっと話していいかと聞いているのでしょう。一緒に否定することを求めている可能性もありますが、そうだったとしたらわたしのぽんこつなお口ではなにもいえません。こくりと頷いて肯定の意を返すだけにしておきます。

 

 わたしの意図を汲み取ってくれたお兄さんが、お姉さんに説明をして、それを聞いたお姉さんがプクっ!と噴き出します。そのままお腹を抑えて、くっくっくっと痙攣しているのは、きっとよほどツボにハマってしまったのでしょう。羞恥心をぐりぐり刺激されますね。

 

 

 しばらくして、落ち着いたらしいお姉さんが、まだ少し笑いたそうにしながら、笑ってごめんねと謝ってきます。恥ずかしかったけれど、元々はわたしの勘違いが理由なので、気にすることなくゆるします。

 

 そうしているうちに、一度席を外していたお兄さんがいくつかの食器を持ってきてくれました。もちろん食器だけで中身が入っていないなんてこともなく、お魚とお味噌汁が入っています。お米だけ入っていないのは、食べられる分だけ自分で取れということでしょうか。

 

 空のお茶碗をもって、炊飯器のところに連れて行ってもらいます。自分で食べられる量、考えてみると、少し難しいですね。ずっと余り物だけだったので、わたしには自分のお腹の容量すらわかりません。

 

 少なめに見積もるべきか少し多めに取るべきか考えて、お残ししてはいけないので少なめにすることにします。おなかいっぱいにならなかったとしても、いつもの事ですから問題ありません。

 

 よそった分のご飯をレンジで温めさせてもらって、熱々になったお茶碗を運びます。部屋の方に戻るとお姉さんがお味噌汁を飲んでいたので、お隣に失礼して食べ始めます。

 

 温かいご飯は、とても久しぶりでした。固くなくて、柔らかくて、とても美味しいものでした。切り身のお魚も、見るのは随分と久しぶりです。これを本当にわたしが食べていいのかと悩みながら、でも我慢できずに食べてしまいます。おいしくて、涙が出てきてしまいます。そんなわたしのことを二人は、とても温かく見守っていてくれました。

 

 温かいご飯も、温かいお風呂も、柔らかい服も。全部久しぶりです。ずっと忘れていたものです。まるでわたしが、生きていていいのだと言われているような錯覚に陥ってしまいます。家を追い出されたのに、こんなに嬉しいことがあっていいのでしょうか。

 

 温めればおかわりもあるから遠慮しないように言われて、遠慮ではなく本当にお腹がいっぱいになってしまったので遠慮します。日本語ってむずかしいですね。それはともかく、少し少なめによそっておいて良かったです。

 

 わたしがおなかいっぱいだと言うと、二人は少し寂しそうにしながら、これからもっと食べられるようになろうねと言ってくれます。まるで、いいえ、わたしがまだここにいていいと、もっと食べられるようになるまで一緒にいて、ご飯を食べさせてくれると言ってくれたのです。お母さんからいらないと言われたわたしを、もう一人で野垂れ死ぬしかなかったわたしを、いてもいいと言ってくれたのです。

 

 うれしくて、涙が出てきます。さっきから泣いてばかりですね。二人が、大丈夫かと心配してくれます。大丈夫に、決まっています。お母さんへの最後の親孝行が途中で止まってしまいますけど、そんなことももう気にならないくらい、うれしいんです。

 

 そのことを説明しながら、急いで泣き止みます。泣きながらだと、せっかくのおいしいごはんに、嬉しい時間に集中できません。沢山泣いていいんだよとお姉さんは言ってくれますが、まだちゃんとお礼も言えていないのに、こんなのではいけません。

 

 背筋を伸ばして、ご飯とお風呂のお礼を言います。2人の言葉に甘えていいか、本当にこの家でお世話になっていいのかを確認します。二人の答えは、肯定でした。わたしに居場所をくれると言ってくれました。

 

 自分がいてもいいのだと認められて、また涙腺が緩んでしまいます。なぜか涙を流しているお姉さんに抱きしめられて、人の優しさに、温もりに、涙が止まらなくなってしまいます。ずっと気づいていなかっただけで、わたしはきっと寂しかったんです。お母さんと話せないことが、お母さんに愛してもらえないことが、寂しかったんです。そのことを自覚したら、今のこの奇跡みたいな瞬間が、とても素晴らしいものに感じられます。

 

「おにいさん、おねえさん、わたし、がんばります。ふたりのやくにたてるように、がんばります」

 

 抱きしめてくれるお姉さんのことを、小さく抱きしめ返しながら、するのは決意表明です。わたしにできることなんてきっとほとんどないでしょうが、少しでもお礼をして、恩を返したいです。既に返しきれないくらいある恩を、少しずつでも返したいです。

 

「それじゃあ、すみれちゃんには少しずつ家事を覚えてもらおうかな。でも、今日はもう遅いから寝ること。沢山頑張るのはまた今度にして、しばらくは体を丈夫にしないとね」

 

 そう言って、わたしを肥させて食べるつもりかもしれないと思っても、不思議といやではありませんでした。二人が美味しく食べてくれるのなら悪くないかもななんて考えてしまうわたしは、きっととってもチョロい子なのでしょう。自覚はありますし、それでいいとも思います。

 

「それじゃあ、すみれちゃんは私のお布団使ってくれるかな?」

 

 今いないもう一人の布団もあるけど、さすがに本人に何も言わずに人を寝かせるのは良くないから、と言ってお姉さんは別の部屋から押し入れから布団を出し、敷いていきます。すみれちゃんの布団も買わないとと言ってくれるのは、自分が受け入れられているのが実感出来て、とても胸がポカポカします。

 

「そういえば、お姉さんのお名前はなんて言うんですか?」

 

 抱きしめ合って?泣いたにもかかわらず、そんな相手の名前すらまだ聞いていなかったことに気がついて、名前を聞いてみます。灰岡さん、という苗字だけは聞いていますが、大事なのは名前です。

 

「そういえば、まだ自己紹介していませんね」

 

 うっかりうっかり、と頭を掻きながら、お姉さんは姿勢を正して、わたしに向き合います。

 

 

「私の名前は、灰岡瑠璃華です。あのお兄さん、燐さんの奥さんで、今旅行に行っている茉莉ちゃん、灰岡茉莉さんの義理のお姉さんで親友です。どうか気軽に、瑠璃華お姉ちゃんって呼んでね」



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BESTEND やさしいせかい3

 どのくらいで終わらせるのか迷う(╹◡╹)


 瑠璃華お姉さんに借りたお布団で寝て、起きるとご飯が用意されていました。うれしいのとびっくりするの以上に、何もしていないのにご飯だけ食べさせてもらうのがもうしわけなくなってしまいますね。きっと二人は気にしないのでしょうが、わたしは気になってしまいます。

 

 気になるので、なるべく早く家事をさせてもらうために、まずはお手伝いから何をしたらいいか聞きます。

 

「それなら、食器をシンクに持って行ってくれるかな?」

 

 洗うのは潤かしてからやるから、水も溜めておいてねと言われて、その通りにします。茶碗洗いくらいならわたしでもできるのですが、自己申告したとしても二人からしたらどの程度できるかわからないと任せるのが不安でしょうし、最初は簡単なものからでも仕方がありません。それにしても簡単すぎる気はしますが。

 

 洗いやすいようにお皿を重ねて、上から水をかけます。油汚れがひどいものはないので、単純に重ねるだけでいいのは楽ですね。重ねることで節水にもなりますし、いい事づくめです。

 

 部屋に戻ると、二人は視線だけでなにかのやり取りをしていました。アイコンタクト、というやつですね。もしかするとただ見つめ合っていちゃついていただけかもしれませんが、それだとわたしがただの邪魔者になってしまうのでアイコンタクトです。邪魔者扱いだととても悲しいですから。

 

「すみれちゃん、今から買い物に行くんだけど、一緒に行けそうかな?」

 

 難しそうならお留守番をお願いしたいのだけど、と言うお兄さん。外に出るのは少し怖いですが、二人が一緒にいてくれるのであれば、がんばれます。けれど、わたしの服はボロボロのものしかありません。そんな格好で一緒に歩かれるのは、嫌ではないのでしょうか。

 

「すみれちゃんの着れる服、何かいいものがないか試してみましょうか。実家に帰れば昔のがあるんですけど、さすがにそんな時間はありませんし……」

 

 そう疑問に思っていると、別の部屋に行っていた瑠璃華お姉さんが何やら布の山を抱えて戻ってきます。瑠璃華お姉さんと、まだ会ったことのない茉莉お姉さんの服で、オーバーサイズでもそこまで気にならないものを持ってきてくれたようです。布団は勝手に借りちゃダメなのに服は借りていいのかなと疑問に思いましたが、何かあった時の責任は全部私が取る!と瑠璃華お姉さんが言っているので、大丈夫なのでしょう。

 

 部屋の真ん中に立たされて、服を体に当てられます。実際に当ててみて、いちばん良さそうなものを選んでくれているそうです。わたしに服の善し悪しはわからないので、選んでもらえるのはありがたいですね。

 

 ちょっと緩めで、丈がわたしにちょうどいいズボンと、ぷよぷよしたキャラクターのTシャツを渡されて、着替えるために脱衣所に来ます。何も考えずにその場で着替えようとしたら、男の人の前で着替えるなんてはしたない!と怒られてしまいました。反省しなきゃですね。

 

「ちょっと背伸びしてお姉ちゃんの服を着てみちゃったけど、オシャレ着はサイズが合わなかったから部屋着になった妹」

 

「それだ」

 

 鏡で見てみても、わたしにはそれがいいのかわかりません。おとなしく二人のところに戻ると、一瞬黙り込んだ二人が、そんなことを言いながら納得した様子を見せます。

 

 なんか既視感あると思ったら小さい頃の茉莉だ、なんて言い合う二人ですが、わたしからするとちんぷんかんぷんです。話についていけないと少し寂しくなってしまいますね。

 

 わたしが置いてけぼりなことに気付いた二人が、ごめんねと言いながらわたしのことを思い出してくれます。格好が変じゃないか聞くと、生暖かい視線で大丈夫と太鼓判を押してくれます。全然大丈夫じゃない気がするのは、きっと気のせいではないでしょう。

 

 靴だけは他に何もなかったので、昨日履いていたのと同じ、お母さんのお下がりを履いて、お兄さんの車に乗せられます。お兄さんが運転席、瑠璃華お姉さんがその後ろで、わたしはその隣です。初めて乗る本物の車にドキドキしていると、あんまりはしゃがないでいい子に座っていてねと瑠璃華お姉さんに言われてしまいます。もしかしなくても、すごく子供扱いされていますね。ちょっとだけムッとしましたが、わたしはいい子なので素直に大人しくします。子供扱いなのに大人しくって不思議だなと思っていたら、横から頭をいいこいいこされました。少しだけくすぐったくて、むずむずしてしまいます。

 

 優しくしてもらえるのがうれしくて、にまにまと変な顔になっちゃいます。そんな顔を見られるのが恥ずかしくて顔を背けると、瑠璃華お姉さんは首筋をスゥっとなぞってイタズラをしてきました。変な声が出てしまって、顔を見られるよりも恥ずかしくなります。それを見ながら楽しそうにしている瑠璃華お姉さんは、もしかしたらいじわるさんなのかもしれません。

 

 そうしているうちに、車が建物の中に入ります。ぐるぐる回って、一番上に来たら空いているところに止まりましたお兄さんと瑠璃華お姉さんが降りて、いつまでも動かないわたしのことを不思議そうな顔で見ます。動かないのではなく、どうすればいいのかわからないというのが正しいのですが、そとから見ていてもいまいち想像がつかなかったのでしょう。

 

 少し無言の時間があって、気が付いてくれた瑠璃華お姉さんが扉を開けてくれたので、わたしは車から降りることができます。

 

「すみれちゃん、こんな風に外に出るのは初めてだから緊張しちゃうでしょう?おねーさんがおてて繋いであげるから安心してね」

 

 わたしに向けて、すっと手を伸ばしてくれる瑠璃華お姉さん。やっぱり、子ども扱いされています。でも、緊張してしまうのも、実は不安なのも、間違っていませんから、素直につないでもらうしかありません。わたしとは違って柔らかくて、すべすべな手を握って、ちょっとだけ勇気をもらいます。いじわるなのかやさしいのか、わからないお姉さんですね。

 

 はじめてのエレベーターに乗って、お店の中に入ります。さっきまで人なんて、車の窓から見えるくらいしかいなかったのに、入ってみたらそこはもう人の海でした。休みだからちょっと多いねなんて話している二人の会話から考えれば、これでもそこまで多すぎるわけではないのでしょうが、つい昨日までお母さん以外の人を知らなかったわたしにとっては多すぎる環境です。

 

 それでも、何とかパニックにならずに済んだのは、瑠璃華お姉さんが一緒にいてくれたからで、手をつないでいてくれたからです。全身から血の気が引いている自覚がある中で、瑠璃華お姉さんの手の温かさが、心配そうに背中を擦ってくれるお兄さんの手の温かさが、わたしをわたしでいさせてくれました。

 

 少しして落ち着いてきたら、周りに気を配る余裕もできました。わたしのことを見ている人もいますが、それはきっと突然様子がおかしくなったわたし(子供)を心配するもので、落ち着いてみれば怖いものではありません。それ以外の人たちは私に対して全く関心を持っていないようなので、やっぱりこわいものではありません。わたしが怖がるようなものは、ここには何もないのです。

 

 そうわかれば、必要以上に怖がることはありません……嘘です。本当は、瑠璃華お姉さんが一緒にいてくれなかったら、手をつないでくれなかったら、まだ怖いままです。でも、つないだこの手があれば、その間はわたしは大丈夫です。

 

 瑠璃華お姉さんを確認するために、何度か手をにぎにぎしながら、二人にもう大丈夫だと伝えます。ちょっとふるえている手からわたしの強がりを感じた瑠璃華お姉さんが、ギュッと手を握ってくれて、わたしのことを先導してくれます。

 

 最初は、お母さんのお古のサンダルを替えるための靴屋さん。歩きやすくて、靴擦れ?しにくいというものを選んでもらって、その場で履き替えます。次は、靴を履くときに必要だという靴下、今日の夜以降に使う替えの下着、そこまで揃えてからの、わたしのための服の時間です。

 

 正直、わたしはもう疲れてしまったので、何でもいいから早くしてほしいという気持ちでいっぱいでしたが、瑠璃華お姉さんにとってはここが一番大事だったようで、わたしとつないだ手が離れていることにも気付かない様子で洋服選びに集中しています。離された時はどうなるかと思いましたが、幸いすぐにお兄さんが気付いてくれて、僕でよければと言いながら手をつないでくれたので、変なところは見せずに済みました。

 

 お兄さんの、瑠璃華お姉さんよりも温かい手の温度を感じながら、瑠璃華お姉さんが服を決めるのを待ちます。しばらくしていくつかの服を抱えながら、やっと戻ってきた瑠璃華お姉さんが、わたしと手をつないでいるお兄さんを見て、浮気だー!と怒って見せます。

 

 二人の間によくない影響を与えてしまったのかと思って、慌ててお兄さんとつないでいた手を離すと、そんなことは関係なくこちらにやってきた瑠璃華お姉さんが、すみれちゃん!私というものがありながらっ!と言いながら泣き真似をします。てっきり、お兄さんがいわれのない誤解をされてしまったのだと思っていたわたしは、予想外の状況に目が点になります。

 

 わたしの空いている反対側の手を握って、これで良しと言っている瑠璃華お姉さんの、これまたいたずらに気が付いて、いたずらでよかったと安堵します。そのまま着せ替え人形にされて、ようやくわたしの服が選ばれました。わたし自身はまったく選んでいないのでいまいち現実感はないですね。



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BESTEND やさしいせかい4

 服を選ばれて、その次は布団を選びました。わたしの使う布団なんて、フローリング、いえ、押し入れの床板よりも柔らかければそれで十分なのに、二人はそれじゃ許してくれません。

 

 少しでも負担をかけないために、なるべく安いものを選ぶわたしと、二人にとっての最低限以上を求める二人。普通、こういうのは買ってもらう側がよりいいものをとわがままをいうのだとおもっていましたがどうやらそうとも限らないようです。二人が優しすぎるのかもしれませんね。

 

 そうして必要なものを買ってもらって、ふたりのごはんの買い物についていきます。疲れているのならベンチで休んでいいとも言われましたが、こんなに人が多いところで一人ぼっちにされる方が怖いです。

 

 瑠璃華お姉さんに手を繋いでもらって、ちょっとだけ安心できる状態で歩きます。買ってもらったばかりの靴はわたしの足にぴったりで、サンダルの時のように擦れていたくなることもありません。お洋服も、他の子たちが着ているものと同じで、一人だけ格好が浮いているなんてこともありません。びくびくしているのは他の子たちと違いますが、これは簡単に治せる気がしないので仕方がないでしょう。

 

「すみれちゃん、大丈夫。私がついているからね」

 

 ちょくちょくわたしを気にしてくれる瑠璃華お姉さんに勇気付けられながら、何とかお買い物を終わらせます。とはいえ、わたしは二人の後ろに隠れながらついていっただけなので、何もしていないのですが。

 

 帰りの車は、たくさん買った荷物が積まれているので、後ろの席には一人しか座れなくなっています。その一人も、膝の上に荷物を抱っこしないといけないので、だいぶ狭くなってしまいますね。どう考えても買い過ぎで、ふたりはわたしのためにお金を使い過ぎです。

 

「後ろだと狭くなっちゃいますから、すみれちゃんが助手席に乗ってください。そっちの方が、燐さんとも私ともお話がしやすいでしょう?」

 

 どうぞどうぞと勧めてくる瑠璃華お姉さんですが、わたしの第六感は何か怪しいと警鐘を鳴らしていました。ちょっと考えて気が付いたのは、積まれた荷物が運転席の後ろ、お兄さんの後ろにまとまっていることです。

 

「いえ、わたしの方が体が小さいですから、後ろに乗ったほうがいいと思います。瑠璃華お姉さんが前に乗ってください」

 

 わたしがそう言うと、瑠璃華お姉さんは少し驚いたような顔になって、すぐにいたずらっぽい表情に変わります。

 

「すみれちゃんだと荷物に潰されちゃうかもしれないじゃないですか。それとも、燐さんの隣がいやな理由でもあるんですか?」

 

 避けられてるなんてかわいそー、と瑠璃華お姉さんは楽しそうに笑います。勿論そんなつもりはありませんが、きっと否定させることでわたしを助手席に座らせる作戦なのでしょう。最初はただの好意で深い意味なんてないのかなとも思いましたが、ここまでしてわたしを座らせようとしているのを考えれば、なにか企んでいることは明確です。

 

「お兄さんの隣がいやなんじゃなくて、瑠璃華お姉さんの前がやなんです!絶対後ろからいたずらするつもりじゃないですか!」

 

 それに、いくらわたし荷物でつぶれたりなんかしません!と伝えると、瑠璃華お姉さんはペロッと舌を出して、ばれました?と企みを白状します。これには、運転席でやり取りを見ていたお兄さんも苦笑いです。

 

 バレちゃったなら仕方がないと諦めた瑠璃華お姉さんが助手席に座って、わたしはちょっと狭い後部座席を確保します。これでいたずらされることはありません。わたしの勝ちです。

 

 

 そうおもっていたのですが、車が動いたことでバランスが崩れた布団がわたしの方に倒れてきて、瑠璃華お姉さんが言ったとおりに潰されることになりました。お兄さんは気を付けても駄目だったかと少し申し訳なさそうにしていて、瑠璃華お姉さんは、だから言ったのにと、楽しそうに笑っています。試合に勝って勝負に負けたというのは、こんな感じなのでしょうか。なんだかとっても悔しいです。

 

 結局、お家の前に着いて、瑠璃華お姉さんに助けてもらうまでの間、わたしは荷物潰されたままでした。

 

 

 協力して荷物を運び、家の中に入れていきます。どれもわたしのものですから、手伝ってもらうのは申し訳ないのですが、一人でやろうとするといつまでかかるか分かったものではありません。わたしが運んでいる荷物の、4倍以上を一気に運んでしまうお兄さんの姿を見たら、自分だけで全部やろうなんて気持ちは飛んでいってしまいます。

 

 手伝ってもらうと言うよりも、ほとんど全部やってもらって、お片付けをします。こっちは、自分が触るのはちょっとと言ってお兄さんが辞退したので、わたしと瑠璃華お姉さんのふたりでやることになります。さすがに、下着とかもあるので手伝われるのは少し恥ずかしいです。別にいいかなとも思うのですが、瑠璃華お姉さんにそれは恥ずかしいことだからダメ。と言われたので恥ずかしいです。そういうものだと理解しました。

 

 瑠璃華お姉さんのタンスを一部空けてもらって、スペースをわけてもらいます。場所ができたらそこに買ってきたものを仕舞って、作業は終了です。全身疲れたと話すと、いっぱい動きましたからねと瑠璃華お姉さんに褒められます。あんよが上手でしたというのは、子供扱いにも限度があると思うのですが、優しい声と手つきでいい子いい子されてしまうとわたしはなにも言えません。

 

 疲れただろうからと布団に入らされて、撫でられているうちにすっかり眠ってしまいます。疲れていたこともあると思いますが、魔性の手です。

 

 目を覚まして、時計を見て、3時間もお昼寝をしてしまったことに気が付きます。何かがあるというわけではありませんが、あわてて起きて動こうとすると、全身が痛いことに気がつきました。

 

 動かないでいる分には大丈夫なのに、少しでも動かそうとするとそこが痛くなります。何が起きたのかわからなくて、どうすればいいのかわからなくて、瑠璃華お姉さんが来るまで布団の中で動かずにいます。

 

「……うん、ただの筋肉痛ですね」

 

 どこか悪いんじゃないか、病気なんじゃないかと不安になりながら、けれど自分から二人を呼ぶことはできずに、布団で待機していたわたしの言葉に対して、最初心配そうに聞いていた瑠璃華お姉さんはほっと安心したような顔をすると、わたしの症状にそう結論付けます。

 

 これまでずっと動いていなかったのだから仕方がない、当日で、こんなにすぐにくるのなら治るのも早いだろうとのこと。若いっていいですねとつぶやく瑠璃華お姉さんですが、わたしにはいまいちわかりません。なんで、痛いのが早い方がいいのでしょうか。けれど、わたしの話を聞いたお兄さんも同じことを言っていたので、きっと世の中ではそういうものとして知られているのでしょう。不思議です。

 

 晩御飯はお兄さんがお鍋を作ってくれていて、わたしが起きたのとほとんど同じタイミングでできあがったそうなので、寝起きでそうそうにご飯を食べます。食べて直ぐに寝るとうしになるといいますが、起きてすぐ食べると何になるのでしょうね。そんなことを考えながら食べていた水炊き鍋は、昆布つゆで食べるととても美味しいです。

 

 ご飯がすすむなと考えながら食べて、美味しいのにすぐにおなかいっぱいになってしまって悲しくなります。もっとたくさん食べられるようになれば、もっと美味しく食べられます。

 

 けれど、あまりよく食べるようになりすぎても、きっとよくありません。二人が食べる分が減ってしまいますし、わたしの食事だってタダではないのです。わたしのために、出費が嵩んでしまうのは、きっとあまりいいことではありません。

 

 そんなことを考えているわたしに気がついたのか、それともただの偶然かはわかりませんが、瑠璃華お姉さんは、今食べられないのならまた少し時間を置いてから食べればいいと言ってくれました。お兄さんも、栄養状態が良くなるまでは多少無理するくらい食べた方がいいと言って、わたしが後で食べる分を確保します。

 

 本当に、食べてもいいのでしょうか。わたしの気持ち、欲求としては食べたいのですけれども、それが二人の迷惑になっているんじゃないかということが気になります。

 

「ふぅ……いいですか、すみれちゃん。これは投資なんです」

 

 本当に食べていいのかと、迷惑になっていないかと聞くと、瑠璃華お姉さんは少し呆れたようにしながらわたしを見つめて、そんなことを言います。

 

「今のすみれちゃんは確かに、何もできませんし、いたとしても私たちが安心できるとか、見ていてかわいいくらいしか利点がありません。けれどしっかり元気になったら、その分もりもり働いてもらいます。掃除に洗濯ご飯の準備、しっかり分担ローテーションに組み込みますからね」

 

 私たちはわるーい大人だから、いたいけな子供に恩を売って働かせようとしているんです。だからすみれちゃんは気にしなくていいんですよと、優しい声で言う瑠璃華お姉さん。労働力のためなんて、嘘に決まってます。わたしに遠慮させないためのでっちあげです。

 

 でも、もし本当だったとしても、わたしはそれでもいいかなと思います。こんなに優しくしてくれる二人のためにお手伝いができるのなら、わたしはそれでも構いません。

 

 こんなに優しい、わるーい大人がいるのなら、みんなわるーい人になっちゃえばいいんです。



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BESTEND やさしいせかい5

 二人の家に住まわせてもらうことになってから、一週間が経ちました。食べて、動いて、寝込んで、食べて、寝込む。わたしのこれまでの環境がまるっと変わってしまう、激動の一週間でした。寝込んでばかりでしたが。

 

 なるべく早く、体力をつけないとと考えながら、筋肉痛で痛む体でご飯の準備を手伝います。本当なら、わたしも自分一人でお料理くらいできるのですが、筋肉痛で動きがおぼつかないせいで、心配だからとまかせてもらえませんでした。ちょっとだけ、悔しいですね。

 

 トントントンと野菜を切る瑠璃華お姉さんの隣で、野菜を洗って皮を剥きます。ピーラーを使っているので簡単ですが、手まで剥いてしまうこともあるので、気をつけなければいけません。

 

 今日はお兄さんは帰りが少し遅くなるとのことで、早めに帰ってきた瑠璃華お姉さんは少し豪華な料理にしようと張り切っています。とってもなれた手つきで、次々に完成させていくのは、わたしが手伝う必要なんてないくらいです。わたしも、ちょっとでも近付けるように、弟子入りした方がいいかもしれませんね。

 

 学ぶところがたくさんあるので、邪魔にならない程度に解説をしてもらいながら、どうやって手を動かせば効率がいいのかを学びます。ちょっと空いた時間に、試させてもらったりすれば、頭では理解できるようになりました。あとは何度もやっていくうちに、自然と早くなっていくとのことなので、頑張らないといけませんね。

 

 そんなふうに、瑠璃華お姉さんと料理をしていたら、玄関が開くのが聞こえました。お兄さんが帰ってきたのでしょうか。遅くなると言っていたはずなのに、全然そんなことなかったなと思っていると、足音が違うことに気がつきます。なんなら、足音だけじゃなくて声も違います。ただいまと言った声は明らかに女性のもので、お兄さんの喉から出るとは思えません。

 

 一体誰だろう?と考えるふりをしますが、そんなことをするまでもなく、その人が誰かなんてわかります。この家に帰ってくる人で、わたしが声を聞いたことがなくて、瑠璃華お姉さんが当たり前のものとして受け入れている存在。そんなの、まだ見ぬ茉莉お姉さんしかいないでしょう。

 

 わかっているのに考えた振りをしたのは、怖かったからです。二人から、優しい人だと言われている茉莉お姉さん。でも、いくら優しい人と言われても、あったことがないわたしには不安しかありません。もし嫌われたら、疎まれたらと良くない考えが頭の中でぐるぐるしてしまって、こわくなってしまいます。

 

 けど、現実逃避をしていられる時間も、もうありません。だって、茉莉お姉さんはもう帰ってきてしまったのですから。帰ってきて、知らない人がいることを知っていれば、まず挨拶をしようと思うはずです。つまりは、わたしも挨拶をしないといけないということ。

 

 なんと挨拶をすれば、失礼と思われないかを考えます。考えてみて、何も思い浮かばないことに気が付きます。当然と言えば当然です、わたしはこれまで人に失礼と思われるかなんて考えることのない人生を送ってきたのですから。こう言うととても人聞きが悪いですね。まるでわたしが傍若無人みたいです。

 

 ぐるぐるの頭でそんなことを考えて、お母さんに嫌がられないかはずっと考えていたことを思い出します。なんだ、わたしも人のことを考える子だったんですね。なら安心です。きっと今回も、失礼にならないように振る舞えるでしょう。何がどう関係あるのかはわかりませんが、きっと大丈夫です。

 

「瑠璃ちゃんただいまー!……君がすみれちゃんだよね?はじめまして!よろしくねっ!」

 

 元気よく帰ってきたお姉さんが、にこっ!と笑いながらわたしに話しかけてきます。あまりの眩しさに頭が真っ白になって、直前まで考えていた内容はどこかに飛んでいってしまいました。元々大したことは考えていなかったので、あまり変わらないかもしれません。

 

 しどろっもどろっと、自分でも何を言っているのかわからなくなりながら、これからよろしくお願いしますをして、ぺこりと頭を下げます。そんなわたしの挨拶を聞いていてかいなくてか、茉莉お姉さんはわたしのことをじっと見つめると、ポケットからお菓子を取り出します。

 

「お近付きのしるしにこれをおたべ。だいじょうぶだいじょうぶ、すぐにぷくぷくのこぶたちゃんにしてあげるからね」

 

 こんなに細い腕じゃ出荷もできないじゃない!という茉莉お姉さん。お兄さんと瑠璃華お姉さんが隠していただけで、やっぱりわたしは食べられるために育てられているのではないかという疑念が湧き上がってきて、すがるような気持ちで瑠璃華お姉さんを見つめます。

 

「すみれちゃんそんな目で私を見ないでっ!……茉莉ちゃん、すみれちゃんはピュアっピュアなんですから、あんまり変なこと言ってたら怖がられちゃいますよ」

 

 めっ!と言いながら茉莉お姉さんに注意する瑠璃華お姉さん。食べも売りもしませんよと言いながらわたしのことを撫でようとして、キャベツまみれの手に気が付いて止まります。キャベツと同化しなくてすんで良かったです。

 

 ごめんねー、ただの冗談のつもりだったんだけどと悪びれることなく笑う茉莉お姉さん。わたしに対して悪印象は持っていなささそうですし、きっと悪い人ではないのでしょうが、仲良くなれるか少し心配です。

 

 あははと笑いながら、ごめんごめんと謝った茉莉お姉さんは、先程ポケットから出したお菓子をパクリと食べて、新しいものを取り出してわたしの口の中に入れます。知らない人から貰ったお菓子、食べも大丈夫なのかは少し心配でしたが、いただいたものを吐き出すわけにもいきません。ありがたく思いながら、サクッとした食感を楽しみます。

 

「こら茉莉ちゃんっ!ご飯の前にお菓子食べちゃダメって言ってるでしょ!」

 

 めっ!する瑠璃華お姉さんと、ちゃんと食べれるもーん!と言い返す茉莉お姉さん。二人ともとても楽しそうなのは、それだけ仲良しさんだということでしょう。ちょっとだけ、いいなぁとうやらましく思います。

 

 

 途中、2人のじゃれあいがわたしまで飛び火したりしましたが、なんだかんだで収まって、料理も完成します。交代でお風呂に入りながらお兄さんが帰ってくるのを待って、帰ってきたらみんなで揃ってご飯の時間です。

 

「もう自己紹介していると思うけど念の為に伝えておくね。茉莉、こちらはすみれさん。色々な事情があってうちで面倒を見ることにした。とってもいい子だから、迷惑をかけないようにね」

 

 お兄さんがそう言うと、茉莉お姉さんはもちろんだよ!と言ってわたしに手を振ります。お兄さんから真っ先に釘を刺されるのは、それだけ普段から自由な言動が見られるからでしょうか。

 

「そしてすみれちゃん、これが茉莉。僕の妹で、突拍子もないことをすることもあるけれど悪い人間じゃない。嫌なことがあったら、言ったらやめてくれるから遠慮なく伝えるんだよ」

 

 悪い人間ではないけど、いい人でもないかもしれませんねと瑠璃華お姉さんがちゃちゃを入れて、意地悪モードになったら泣くまでやめてくれない瑠璃ちゃんほどじゃないよと茉莉お姉さんに言い返されます。

 

 誤解されるようなこと言わないで、それはこっちのセリフだし誤解じゃないですぅ〜!と、まるで子供みたいにやり取りをする二人。これまでかっこいいところばかり見てきた瑠璃華お姉さんのこんな姿は新鮮ですし、なんだか不思議な気持ちになります。

 

「見ての通りで、二人とも仲がいいんだけど、その分お互いに遠慮が全然ないんだよね。最初のうちは喧嘩じゃないかって心配になるかもしれないど、じゃれてるだけだから気にしなくていいよ」

 

 ご飯に集中してないわるい二人の分を先に食べちゃおうかと言って、お兄さんはわたしのお皿の上にメインのおかずを載せていきます。二人がそのことに気付いたのは、もうわたしたちが食べ始めてしまってからのことでした。

 

 私たちは待ってたのに先に食べちゃうなんてひどい!と言う二人に、いつまでも食べないのが悪いと言って、わたしに同意を求めてくるお兄さん。同意しても否定しても角がたちそうな恐ろしい状況です。なんでわたしを巻き込んだのでしょうか。

 

 わたしが困っておろおろしていると、瑠璃華お姉さんと茉莉お姉さんはお兄さんを責めるような目で見ます。その圧に負けたお兄さんにごめんねと謝られて、この話は終わりました。なんだか、茉莉お姉さんがいるだけでお家の中がとても賑やかになりますね。

 

 お兄さんも瑠璃華お姉さんも、茉莉お姉さんがいると元気になります。茉莉お姉さんがいない時の二人が暗いというわけではないのですが、生き生きとしていますね。まるで、友だち同士みたいな距離感になります。

 

「すみれちゃん、ちょっとおかずの減りがよくないね。ちゃんと食べてる?もっと食べなきゃだめだよ」

 

 それとも私のご飯が食べられないというのかー?とおかずを乗せようとしてくる茉莉お姉さんが、作ったの茉莉ちゃんじゃないでしょ、酔っぱらいみたいな絡み方やめなさいと二人から叱られて引き下がります。お兄さんに渡された分でもちょっと多すぎるくらいだったので、助かりました。これ以上はお腹に入らなくなってしまいますから。

 

 お米とおかずのバランスをおかずに偏らせて食べながら、何とか食べ切ります。もっと食べなさいとみんなから言われているから、わたしも胃袋を大きくできるように頑張っているのです。お腹いっぱいになってから、プラス一口。どれくらい効果があるのかはまだわかりませんが、きっといつか変わってくるはずです。

 

 わたしが最後の一口を食べると、待っていてくれたみんなと一緒にごちそうさまを言います。遅く帰ってきたお兄さんはお風呂に、食器洗い当番の瑠璃華お姉さんは台所に。自然と、わたしと茉莉お姉さんの二人が残されます。まだ少し、どう向き合えばいいのかわからないこの人と、今だけは二人きりです。



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BESTEND やさしいせかい6

「ご飯は美味しかった?」

 

 わたしが会話のきっかけに困っていると、それに気付いて気を使ってくれたのか、それとも単純に気になっただけなのか、茉莉お姉さんがそんなふうに話しかけてくれました。おいしかったと、いつも暖かいご飯を食べられて幸せだと伝えると、それなら私も頑張らないとねと茉莉お姉さんは笑います。こうしてみると、お兄さんに少し似ていますね。顔の造形とか、そういうものよりも、纏う雰囲気が似ています。特に、笑顔が。

 

 ご飯を食べて、少し落ち着いて、やっと元々話そうと思っていたことを思い出します。突然住ませてもらうことになってごめんなさいと、仲良くしてもらえたらうれしいですと伝えます。

 

「そんなに何回も言わなくても、全然気にしてないから大丈夫だよ。最初はちょっと心配だったけど、すみれちゃんいい子だし、むしろ大歓迎!」

 

 私末っ子だから妹がほしかったの!とカミングアウトする茉莉お姉さん。その言葉から察するに、わたしは頭の中が真っ白の中でも話さなきゃいけないことは話せていたようです。失礼にならなくて一安心ですね。

 

「本当に、よかったよ。二人を二人っきりにするために家を空けてたら、いきなり家族が増えるよ!なんて言われてびっくりしたんだもん」

 

 おめでた報告にしては早すぎるし、何事かと思ったんだからと言う茉莉お姉さん。わたしが聞いていた話では、茉莉お姉さんはいんたーんしっぷ?に参加するために留守にしていると聞いていたのですが、二人のためというのはどういうことなのでしょう。

 

「そのことね。元々私たち三人でルームシェアしてたんだけど、お兄ちゃんと瑠璃ちゃんが結婚しちゃったから、私っておじゃま虫みたいになっちゃうでしょ?二人ですることもあるだろうから、その時間も確保してあげたくてね」

 

 茉莉お姉さんが言う、二人ですることというのがなんのことなのかはわかりませんが、茉莉お姉さんがおじゃま虫になってしまうのであれば、わたしはもっとおじゃま虫なのではないでしょうか。優しくしてくれる二人にそんなふうに思われていたら、悲しすぎます。

 

「あんまり気にしなくていいよ、すみれちゃんと暮らすってふたりが決めた以上、私の考えすぎだったってことだし。余計なお世話のいらぬお節介だね。この分だと叔母さんになるのはまだかかりそうだし、私もしばらくはここでいいや」

 

 見事に空回りしちゃったねー、と言う茉莉お姉さん。ところどころ、繋がりがわからない部分はありましたが、きっとわたしがものを知らないだけなのでしょう。とりあえずわたしがここにいても大丈夫そうだということはわかったので、今はそれだけでいいです。

 

 そう考えていると、洗い物を終わらせた瑠璃華お姉さんが戻ってきました。二人でどんな話をしていたのかと聞く瑠璃華お姉さんに、茉莉お姉さんは私が末っ子脱却って話をしていたのだと言って誤魔化します。きっと、わたしに話してくれたことは、瑠璃華お姉さんには聞かせたくなかったことなのでしょう。それをわたしのせいで台無しにするのはいやなので、茉莉お姉さんの話に合わせます。嘘はついていないから、大丈夫です。

 

「そうなんですね。でもすみれちゃんしっかりしてるから、茉莉ちゃんじゃすぐに抜かされちゃうかも」

 

 抜かされるって何が!?年齢!?と反応する茉莉お姉さんに、瑠璃華お姉さんは私の中で茉莉ちゃんは高校の時に……うぅ……と返します。よくわからないけど、なぜだか笑えないタイプの冗談のように聞こえました。とても不思議です。

 

「それに、茉莉ちゃんはあんまりお姉ちゃんって感じがしないじゃないですか。どこからどう見ても妹枠ですし、さらなる妹が現れたらもうそこからも落ちちゃいますよ」

 

 私だって成長してるもん!お姉ちゃんだもん!と言う茉莉お姉さんに、瑠璃華お姉さんがそう返します。たしかに、あまりお姉さんっぽくは見えないかもしれません。こんなことを言ってしまうとよくないからお口チャックですが、少なくとも瑠璃華お姉さんと比べると瑠璃華お姉さんの方がとてもオトナに見えます。同い年と言っていたのに、不思議ですね。

 

「やめてっ!私から妹枠を取らないで!」

 

 見捨てないで瑠璃お義姉ちゃん!と主張する茉莉お姉さんを見ながら、瑠璃華お姉さんはくすくすと笑います。よしよし、茉莉ちゃんはかわいいですねぇと頭を撫でながら、すみれちゃんもおいでとわたしを流し目に見ます。

 

 優しそうな表情なのに、感じるとても強い圧。逃げることはできなさそうなので、諦めてそちらに寄ると、キュッと捕まって抱きしめられました。

 

「妹なんていくらいてもいいですからねぇ。おーよちよち。この子達は私が育てます」

 

 顎の下をこちょこちょとくすぐりながら、逃れようとするわたしをホールドしたままの瑠璃華お姉さんが言います。瑠璃お義姉ちゃん、これ妹じゃなくてペット扱い。と、わたしと同じようにされているはずなのに何故か全く抵抗しない茉莉お姉さんに指摘されて、おやおやと言いながら撫でる場所を頭に変えます。こっちならくすぐったくありませんから、抵抗する必要もありません。

 

「……これはどういう状況なのかな?」

 

 撫でられながら落ち着いていると、お風呂から上がってきたほかほかのお兄さんが、わたしたちのことを怪訝そうに見ています。私のペットと妹です、と楽しそうに言う瑠璃華お姉さんと、顎の下をくすぐられながらごろにゃーんとおどけてみせる茉莉お姉さん。

 

「タマのことは置いておくとして、そうしているのを見ていると、姉妹と言うよりも母娘に見えるね」

 

「……フシャー!」

 

 ペット扱いのまま流された茉莉お姉さんが、瑠璃華お姉さんのように顎に伸ばされたお兄さんの手をぺしっ、として威嚇します。まだ会ったばかりですが、わたしは早くも茉莉お姉さんのことがわからなくなってしまいました。さっきまで秘密のお喋りをしていたのに、いつの間にかこんなふうになってしまっているのです。わかるはずもありません。

 

 突然増えた情報量を処理しきれなくなり、何もかにも考えるのが面倒になってしまいます。優しく撫でてくれる瑠璃華お姉さんの手だけが安らぎで、目を閉じて体を預けると膝枕に移行してくれました。

 

「たくさん食べて、たくさん寝て、すくすくと大きくなるんですよ」

 

 目指せ、樹高5メートル!とつぶやく瑠璃華お姉さんがわたしを植物にしようとしていることに、気が付きながらも何もする気が起きません。愛情を込めて育ててくれるのなら、もう木でもいいかななんて思ってしまいます。

 

 本当は、全然良くないです。良くないですけれども、瑠璃華お姉さんの手はとっても優しくて、そんなふうに思ってしまいます。この優しさに包まれて、眠りたくなってしまいます。

 

 瑠璃華お姉さんの履いている柔らかいパジャマの肌触りと、その奥にあるやわらかさ。じんわりと伝わる人肌の温もりと、一定のリズムで撫でてくれる手。みんなが話している声や、電気が眩しいことなんて気にならないくらい、ここは心地いいです。

 

 そのまま、誰も止めないのをいいことに、瑠璃華お姉さんの膝を独占し続けます。目を閉じて、リラックスしたまま堪能します。

 

「すみれちゃん、もうお眠なら一回起きてお布団行きましょうね。私が着いて行ってあげますから」

 

 瑠璃華お姉さんが、わたしの幸せの時間に終わりを告げます。先程までずっと続けてくれていた手を止めて、肩をトントンとたたきながらわたしを起こしてくれます。しかたがないので、後ろ髪を引かれる思いで起きて、お布団で寝る。

 

 それが正しいことなのだと、そうするべきなのだと、頭ではわかっています。頭ではわかっているのですが、そうしたくないなと思ってしまいました。とっても幸せだったから、もっとこの時間が続いてほしいなと思ってしまいました。

 

 起きたら、絶対にもう終わってしまいます。もっと続けてほしいとオネダリするのは、なんだか恥ずかしくて気が引けます。でも、瑠璃華お姉さんに終わりと言われたのだから、終わりにして、いい子にしないと嫌われてしまうかもしれません。

 

 それは、嫌です。でも、終わってしまうのも同じくらい嫌でした。どっちも嫌になってしまって、どうしようもなくなった時に、ふとイケナイことを思いつきます。

 

 言うことを聞かなくて嫌われてしまうのは、ちゃんと言ったのに聞かなかったからです。もし、聞いていなかったのであればしかたがないので嫌われることはきっとありません。そして、今のわたしは偶然にも、瑠璃華お姉さんの膝で、目を閉じたままずっとじっとしていました。

 

 もしも眠っていたのであれば、瑠璃華お姉さんの言葉が聞こえなくても仕方がないことです。だって、寝ているのですから反応しようがありません。

 

 そのことに気がついてしまって、一気にそうしたい気持ちが膨れ上がります。でも、それは瑠璃華お姉さんに嘘をつくことです。本当は起きているのに、自分はもう寝ているのだと騙すことになります。騙すのはとってもいけないことで、バレたらきっと嫌われてしまうでしょう。

 

 だからダメだとわかっているのに、わたしは誘惑に負けてしまいました。狸寝入りをして、瑠璃華お姉さんの言葉を聞き流します。とんとんと肩を叩かれても動かないでいると、お兄さんがわたしのことを運ぼうかと提案しました。

 

 瑠璃華お姉さんはそれを聞いて少し考えると、自分が運ぶから大丈夫だと言って、お兄さんに布団の用意をしてくるように頼みます。わたしのために、面倒をかけさせてしまうのが申しわけなくて、今からでもえいっ!と起きてしまえばいいのですが、なんだかんだでまた手を動かしだした瑠璃華お姉さんのせいでそれもできません。人のせいにするなんて、わたしは悪い子ですね。

 

「それじゃあすみれちゃん、移動しちゃうからちょっと頭避けますね」

 

 お兄さんがお布団の用意を済ませて戻ってくると、瑠璃華お姉さんはわたしの頭を持ち上げて、膝枕を終わらせます。そのまま茉莉お姉さんに手伝わせて、わたしのことをおんぶしました。その間、わたしは眠っていますのでされるがままです。

 

「運びますから、あんまり動かないようにしてくださいね。暴れられると落としてしまうかもしれないので」

 

 言われずとも、暴れるつもりなんてありません。けれど、もしかしたら落ちるかもしれないと考えると、絶対に動くわけにはいきませんね。緊張して、少し体が強ばってしまいます。

 

 幸い、落ちるようなことにはならずに、お布団まで運ばれることが出来ました。その場でそっと下ろされて、布団をかけられます。髪を整えるように、優しく撫でられます。

 

「すみれちゃんは、とっても甘えん坊さんですね。大丈夫ですよ、変に気を使ったりしないで、もっと甘えてくれていいんです」

 

 とても、優しい声です。まるで、わたしに話しかけているかのような言葉です。わたしが本当は起きていることを知っているかのように、声をかけて、髪を撫でます。

 

 思い出してみれば、瑠璃華お姉さんは最初からずっと、わたしに話しかけて、声をかけていました。寝ている人を相手にするのならする必要のないことを、ずっとしていました。そのうえで、今の言葉。最初からばれていたのではないかと気が付いて、薄目を開けて瑠璃華お姉さんの表情を確認します。

 

 瑠璃華お姉さんは、いたずらっぽく笑っていました。そんな瑠璃華お姉さんと、目が合ってしまいました。間違いなく、ばれていたし、今ので確信も持たれたでしょう。

 

「大丈夫、これは私たちだけの秘密にしておきますから。その代わり、またたくさん甘えてくださいね」

 

 慌てて閉じたまぶたの向こうに、何かが近付いてきたのがわかり、耳元で囁き声が聞こえます。わたしの行動が全部ばれていた申しわけなさと、恥ずかしさが混ざって、顔が真っ赤になっているのがわかります。

 

 おやすみなさい、と言われた言葉に返すこともできずに、わたしにできたのは枕に顔を埋めることだけでした。




よからぬ欲求が溜まってきたので発散してきます(遺言)(╹◡╹)


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