百万回転生した俺は、平和な世界でも油断しない (稲荷竜)
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1話 百万と一回目の人生
「かわいい男の子ですよ!」
危機に備えろ。戦いは生まれた瞬間に始まっている。
あぶう。俺はうなった。
今回の体はあまりにも弱い。生まれたての状態では満足に目は開かず、拳を握ることもできず、自分の足で移動することさえできない。
こんな体でできることはたかが知れている。
弱すぎる肉体への転生――今回も『ハズレ』らしい。
俺はジタバタと手足を動かした。しかしなんの抵抗にもならず、俺を抱き上げて見ている連中は「元気いいねぇー」「お母さんに似てかわいらしい子ですよ」などとこちらを見下しきった言葉を並べている。
以前の転生で習得した翻訳スキルが機能するのもよしあしだ。
言葉がわかったせいで、かわいいかわいいと言われてるのに気づいたせいで、俺はさすがに憤った。
あまりにもなめられすぎている――力ない俺を好き放題できるのだと、周囲を取り囲む悪辣な強者どもは、これから待ち受ける運命を知らない俺を心の底からあざ笑い、道化として扱っているのだ。
さすがに捨て置けない。
百万回の転生で負け続けてきたが、それでも誇りは失っていないのだ。
俺は怒りのあまり大泣きした。
精神はとうに数千万年を生きているが、転生のたびに心は体に引っ張られる。
また、感情表現の手段も生まれた生物なりにやるしかない。
今回の人生を送る肉体は、『泣く』ことによって激しい感情をあらわすようだった。
ほんぎゃあほんぎゃあと泣く俺に、周囲の連中は「すっごい元気!」「この子はきっと将来大物になりますよ、お母さん」と楽しげにケタケタ笑っている。
その言葉にはきっと末尾に小括弧があって、「すっごい元気!(これからなにが起こるとも知らないで)」とか「この子はきっと将来大物になりますよ(将来なんていうものがあればな)」とかの皮肉に違いないのだ。
許せない。
見ていろ、今に逆転し、おまえたちを残らず倒してやる。
俺はいっそう声をはりあげて泣いた。
しかし――
「お母さんも、赤ちゃん抱いてみます?」
「……はい」
ぴたりと泣き声を止めてしまう。
俺を包み込むように抱くそのぬくもり、そのにおいは、妙な鎮静作用があった。
「……これが、私の赤ちゃん……」
その声には、ちっともイヤな感情が浮かばなかった。
ひょっとしたら、この人は、俺の味方なんじゃないか?
俺は本当に、皮肉ではなく、みんなからかわいいかわいいと言われているんじゃないか?
ひょっとして――
この世界において、赤ちゃんは、かわいがられるべき存在なんじゃないか?
そんな考えが浮かんでしまい、ハッとする。
――
危ないところだった。百万回の不遇人生経験が活きた。
思い出せ。俺は裏切られ続けてきただろう。不遇がスタンダードで、苦境以外の境遇に身をおいたことなどなかっただろう。
そんな人生を送っておいて、他者を信用する?
ありえない。
言葉には裏がある。行動には裏がある。
俺に向けられる感情は差別、侮蔑、憎悪、よくて憐憫しかありえない。
本当に危ないところだった。俺は気を引き締めて、俺を抱きかかえるやつを見る。
まだ完全に目が開かない。そのぼやけた視界の中で見たそいつはすごくきれいで優しそうでぼくはこの人のことを一瞬でだいすきになったのだ。
ほんのうが理解した。この人がぼくのママだ……
――そうじゃない!
感情が肉体にひっぱられている。大好きなママだと? 笑わせるな! 誰かを好きになったなら、それは裏切られる下準備が完了したということだ。好きになったのではなく、好きにさせられている。なんらかの精神汚染を疑うべき事象にすぎない。
俺はもうだまされない。
無限転生地獄。『ある条件』を満たさない限り永劫に終わることのない
今度こそ『条件』を――『天寿をまっとうする』という条件を満たして、俺はこの永劫に決着をつける。
老衰で穏やかに死ぬために、俺はすべてを疑い、すべてを利用する!
でもママだけはべつだ。ぼくはこのひとのために生きていくんだ。だいすきなママはやわらかくていいにおいがする。目はよく見えないけど、ぼくがわらうとママもわらうのがわかるんだ。
そうじゃない。危ないところだった。俺はもうだまされない。俺はもう誰も愛さないし、信じない。
でも――
ママだけは信じてもいいかな。
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2話 パパとの遭遇
俺という個体を識別するために連中がつけた
レックス。
それが俺の名前らしい。
名前というものの意味を俺はもちろんよく知っていて、それは『管理者が家畜を区別するためにつけるもの』だ。
数字、文字、なんだっていい。だが簡便なものがつけられるのが世の常だ。
ではなぜ、俺は『レックス』なのか?
決まっている。家畜の数が多いからだ。
俺という家畜に『レ』でも『あ』でも『1』でもなく『レックス』だなんてごたいそうな名前をつけるのは、『レ』がすでにいて、『レッ』もすでにいて、『レック』もすでにいるから、かぶりを避けたのだろう。
産後しばらくたち、俺はママに抱きかかえられて家に戻ることになった。
そこにはきっとたくさんの、俺とにたような家畜どもがいることだろう。
けれど広々とした家には家畜らしきものはどこにもおらず、通された部屋はどうやら俺とママ専用の個室のようだった。
用意してあったベビーベッドに俺を寝かせたママは、うれしそうに俺をみおろして笑っている。
俺もママに合わせて笑った。この世界もきっと敵だらけだろうけれど、ママだけは別なのだ。
そうして信頼できる愛すべき人との時間を楽しんでいると、なにものかが俺たちの部屋に入ってくる。
俺はそいつをにらみつけたかったが、なにせ首がすわっていないもので、手足をバタバタするだけで終わった。
「カミラ! おかえり! ベッドの組み立てやっておいたけど、どうだい?」
男の声だ。
ママはいとおしそうに言う。
「ただいま、あなた。ごめんね、家のことやってもらって」
その声には甘えたような響きがあって、俺は強い嫉妬を覚えた。
俺は赤ちゃんなので、激しい感情を覚えると泣く。
ほんぎゃあああああああああああああああ!
「うわ、本当に元気だなあ。レックス、覚えてるかい? 生まれた直後にも君を抱いたんだけどね。僕がパパだよ?」
パパ?
俺はきょとんとした。『パパ』。その言葉がうまく思い出せなかったのだ。
そうだ、思い出した――パパとは、一般的に、『ママに乱暴を働き子供を産ませた男』のことだ。
許せるものではない。クズだ。俺は怒った。つまり泣いた。ほんぎゃあほんぎゃあと泣いた。この声でパパを倒せるものなら倒したいと殺意をこめながら泣いた。
「あなた、レックスをだっこしてみる?」
「え、いいのかい?」
いいわけねーだろタコ――そう思ったが、俺はまだ言葉も話せない乳児だ。泣く。わめく。だが首もすわっていなくて寝返りさえうてない。できることは寝ること、泣くこと、もらすこと、おっぱい飲むことだけなのだ。
パパ野郎が俺を抱き上げる。
「うわ、あらためて、本当に小さいなあ……」
きっとこのまま俺にも乱暴を働くつもりに違いがない。パパという存在はとにかく乱暴で無神経で暴力的だ。これまでの百万回の転生において、人生最初の敵がパパだった経験は数限りない。
だが、意外にも今回のパパは紳士的に俺を抱き、紳士的に俺をゆすり、そして紳士的に俺をベッドに戻した。
あまりにも赤ん坊への扱いが丁寧すぎて、『この男はどこかイカれてるんじゃないか?』と思った。
なぜ自分よりあきらかに弱い存在に対して暴力的にならないのだろう? 意味がわからない。そんな性質でよくここまで生きてこれたものだと不思議に感じた。
まさか――
赤ん坊は、大事にされるものなのか?
その可能性に思いいたり、俺は愕然とした。
赤ん坊は大事にされる――なぜ? 意味がわからない。
俺が今まで生まれてきた世界は、たいてい、生まれた直後から生存競争が始まる。その生存競争の相手は同日に生まれたほかの赤ん坊の場合もあるし、大人がまざって子供を狩りに来ることもあった。
だというのに、俺はなぜか、大事にされている。
……罠か?
じゅうぶんにありえる話だ。俺の油断を誘う計画。
とすれば一つの仮説が立つ――すなわち、この赤ん坊の肉体は無力にしか思えないけれど、油断を誘いたい程度の力は持っている、ということだ。
うかつだったな。
どうせ赤ん坊だと思って馬鹿にしたのだろう。しかし俺は人の裏側を読み続けてきた経験がある。いかにベイビーといえども、俺はおまえたちの行動から裏を読み取ることができるのだ。
早めに発見しないとならない。
連中が赤ん坊の油断をさそいたがる理由――赤ん坊の持つ『力』を!
俺は人生最初の逆転チャンスが見えて、きゃっきゃと笑った。
「あ、見てよカミラ! レックス、僕を見て笑ったよ!」
「きっと、この子もあなたがパパだってわかったのね」
きゃっきゃ。
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3話 ベイビー、自分の可能性に気づく
「ねぇカミラ。赤ちゃんがさあ、たまにふっと真顔になるの、なんでなんだろうね?」
「そうねえ。なんでなんでしょう? あ、でもほら、真顔になるとすぐ笑うのよね。なんでなんでしょうねえ」
「なんでだろうねえ」
俺は自分の力に気づいてほくそ笑んだ。
首がすわり、寝返りがうてるようになったころ、俺は、自分の中に眠る力に気づいたのだ。
つまり――魔法だ。
この世界は剣と魔法の世界だった。
異世界というのは大別すると二種類で、だいたいが『魔法世界』か『科学世界』かに分類される。
この二つの違いはいろいろあるが、大きなものをあげると、『個人のエネルギーでまわっている世界』か『資源エネルギーでまわっている世界』かとなるだろう。
魔法世界は個人のエネルギーでまわっている世界だ。
社会の仕組みも『一人一人がエネルギーを持っている』前提で成り立っているだろう。
これのなにがいいかっていうと、魔法世界では赤子でも大人を倒せる可能性があるのだ。
科学世界だと武器を扱うにはある程度の知能や力が絶対に必要だが、魔法世界ならば『現象を起こす』という確固たる意思さえあれば、魔法を使用できる。
つまり連中が俺のご機嫌をとり、俺を丁重に扱うのは、俺の魔法を警戒してのことだったのだ。
だが――俺はそれだけで気楽に魔法をぶっ放そうとは思わない。
なぜならば、不遇こそが俺のスタンダードなのである。魔法が大事な世界ならば、それを使うためのエネルギー……魔力が、きっと人類最低値に決まっているのだ。
生きていくのに必要な能力ならば、最弱に決まっている。
それが今までの俺の人生だった。
だから、油断せずにこっそりと練習をしたい。
親の目を盗んで魔法の練習を……
そう思っていたのだが……
親は、常に赤ん坊を見ている。
異常な監視網だ。
ちょっとぐらい目をはなすとかしないのだろうか?
わからない。そこまで警戒するほどの力が赤ん坊にあるとでも? なぜそんなにジッと見てるんだ。一挙手一投足に反応するんだ。わからない。まるで理解ができない。
こいつらはなにが楽しくて赤ん坊を見ている?
……!
ひょっとして――赤ん坊は、強いのか!?
ずっと気になっていたことがあったんだ。
俺が「腹減った」と泣けばすぐにおっぱいが提供され、「おむつべしょべしょ」と泣けばすぐに下の世話をされる。
ほかにもちょっと機嫌が悪くて泣けばすぐさまあやされるし、扱いは総じて丁寧で、まるで壊れ物でもさわるように俺をさわる。
そしてなにもしていない時でも、俺に物語を読み聞かせたり、音楽を聴かせたり……
VIPだ。
赤ん坊とはVIPなのか? こんな無力で排泄しかしない存在が? そんなわけはない。だから、連中には俺をVIP扱いするだけの理由があるはずなのだ。
すなわち――弱者が強者におもねっている。
赤ん坊とは、最強だったのだ。
そういう説ならば、両親の行動すべてに説明がつく――そうでないならば、両親は好きで俺の世話をやいているとしか思えない。
ママはともかく、パパは違うだろう。
俺の知る『パパ』という存在が、『好きで赤ん坊の世話をする』ことなどありえなかった。
なぜならば、赤ん坊とは将来の敵になるかもしれない存在だからだ。早めにつぶそうとする親はいても、いつくしみはぐくもうとする親などいるわけがない。
俺はほくそ笑んだ。
だが、ふと真顔になる――そうだ、赤ん坊が最強だとすると、時間がない。俺の前までいた世界では、生まれたての幼生体は、日増しに大きくなり、成体へと近づいていくのだ。
そして成体であろうパパが俺の機嫌をとり、俺の力をおそれているのだとすれば、俺もまた、成体に近づくにつれ、今は最強のこの力を失っていく可能性がある。
だが、魔法の練習をしようにも両親の監視網はきびしく、寝ても覚めても必ず誰かがそばにいる始末。
……クソ! 考えられている!
赤ん坊が親へ反逆を企図するなどと、お見通しということか! この異常な監視網はそのために違いない。……非道。しかし狡知に長けた見事な対策と言うよりほかにない。
練習なしでいきなりやるか?
……ダメだ。俺は魔法世界も多く経験し、総計五十万ほどの魔法体系を知っている――が、大別できてもそれぞれ細かい部分では異なる魔法体系ばかりだった。この世界の魔法体系もまた、俺の知るものとは少しずつ違うだろう。
その『少しの違い』が致命的に俺を追い詰める可能性もあるのだ。
おまけに、『赤ん坊最強説』は俺がそう仮定しただけのことだ。真実かどうか、これも確かめねばならない。
問題は山積みだ。
俺はあまりに状況が厳しいので苦悩した。泣いた。
「おや、また泣いた。レックスは本当に、ころころ表情が変わるなあ……」
「赤ちゃんって、自分の泣き声にびっくりして真顔になる時あるわよねえ」
おぎゃあ!
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4話 新たなる土地、新たなる敵
つかまり立ちからの数歩の歩行ができるようになったころ、俺は『保育所』という施設へあずけられることになった。
そこには俺以外にも複数の乳児、乳幼児、幼児が収監されていて、『保育士』と呼称される看守が存在し、俺たちを常に見張っている。
きっと保育士どもは乳幼児など監視の専門家だ。
心なしか、俺が泣いたりした時の反応がママやパパより過敏な気がする。
ママは俺を保育所へおいて、仕事に行ってしまった(パパも)。
俺はまだ一歳だが、どうやらこの世界ではそのぐらいから監視者を変える仕組みになっているらしい。
だが、これはチャンスでもある。
保育士は二人。対して、同じ教室には乳児幼児乳幼児が合わせて二十人。
一人につき十人を監視せねばならない体制だ――絶対にスキが生まれる。
そのスキをついて魔法の訓練を積もう。
そう決意していたのに……
「レックスくん、あそぼー!」
俺を監視するのは、保育士だけではなかった!
幼女だ!
俺より一つか二つ年上のそいつは、二足歩行をしており、体は主観的に言えば俺の倍ぐらいあった。
言葉もハッキリとしており、多少走っても転ばない足腰をしたそいつは、やたらと俺にかまってくるのである。
おそらく洗脳教育が進んでいるので、保育士の指示で俺を監視しているのだ。
見れば一歳ぐらいの乳幼児たちには全員『担当』がいるようで、それぞれ三歳ぐらいの年長者たちが、マンツーマンでついている様子が見られた。
ばぶう。俺は苦りきってうめいた。
この金髪幼女をどうにかして振り切りたい。だが、足は向こうのほうが速い。
俺も二足歩行がかろうじてできるようにはなっているが、五歩も走れば転んでしまう。
しかも金髪幼女は基本的に俺をがっしり抱きしめて放さない。
食事時もトイレも俺につきっきりどころか、むしろ食事の世話もトイレの世話もその幼女にされてる。
きっとこの保育所という収容施設の方針なのだろう――子供に子供の世話をさせつつ、保育士が全体をまんべんなく見て、必要とあれば行動する。うまいシステムだ。憎らしいほどに。
俺は絶望感を発散するためにおもちゃの積み木ブロックを投げ捨てた。
世話役幼女はすぐさま拾って、また俺の手に返してくる。サンキュー幼女。
俺は角の削られた積み木ブロックを唇であむあむしながら考え込む。
「食べちゃダメだよ」とアンナおねえちゃん(俺を監視している幼女の名前)が言う。
食べてない。唇でさわってるだけだ。幼女には『食べる』と『唇で触れる』の違いがわからないらしい。
あだあ。俺はうなった。言葉は一語ぐらいしかしゃべれないので、説明をしてやることもできない。最初にしゃべった言葉はもちろん『ママ』だ。
どうにかして幼女を出し抜かない限り、俺はまともに魔法の練習もできやしない……
しかし『一人にしてくれ』とも言えない。
なぜなら、俺は二つ以上の単語を連続してしゃべれないのだ。
また、『ひとり』ぐらいは言えるが、『してくれ』が『ちてくりゅぇ』になってしまう。これでは意味が通じない。
あぶう……まいったぜ。俺は積み木ブロックを生えてきた前歯でごしごしとこすった。アンナおねえちゃんが「だめだよ」と言いながら積み木ブロックをとりあげる。俺は泣いた。ぼくの積み木ブロックかえちて!
俺の泣き声に反応して保育士の一人がこちらに来た。
しまった! だが、俺はピンチをチャンスに変えることができる一歳児だ。アンナおねえちゃんを保育士に押しつけて一人の時間を確保するため、俺の世話係から
俺は保育士にアンナおねえちゃんの横暴を声高に訴えた。
びえーん! おぎゃー! ぎゃー! うわあー!
「ん? どうしたのかな?」
満足に言葉をしゃべれないこの身がもどかしい。
俺の熱烈なアンナ更迭要望はすべて泣き声に変換されてしまうのだ。
しかし情熱は伝わったようで、保育士の視線がアンナに向く。
俺もそちらへ視線を向けた。
幼女アンナは泣きそうだった。
ちょっとこらえたが、一秒もこらえきれずに泣いた。
ええ……? 俺は真顔になる。おまえが泣くの? 俺の積み木ブロックとりあげておいて? 泣きたいのはこっちのほうだよ。
なんという理不尽。やはり俺の人生は俺が不利になる補正にまみれている。
俺もまた泣いた。
だってどうすりゃいいんだよ。俺より二歳も年上のおねえさんが大泣きしてるんだぜ。俺だって泣きたくなるよ。
俺とアンナは泣き続けた。
次第に泣くのに疲れてきて、俺たちはなぜか抱きしめあい、眠った。
すやあ。
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5話 優しい別離
俺がはねるような挙動ではあるが走れるようになったころ、アンナがうれしそうになにかを報告してきた。
「アンナね、もうちょっとで『ようちしゃ』にいくんだよー!」
ようちしゃ。
俺のあずけられている乳児および乳幼児および幼児監視施設は、とある巨大学園に属する施設なのである。
この巨大学園には年齢に応じて様々な施設がある。
保育所(もっとも若くて生後六か月~四歳まで)
幼稚舎(四歳から六歳まで)
初等教育科(六歳から十二歳)
中等教育科(十二歳~十五歳)
このあたりまでで進路が決まった者は専門教育科(十五歳~二十歳)に行ったり、まだまんべんなく学びたい者は高等教育科(十五歳~十八歳)に行ったりと、分岐が始まる。
基本的に保育所にいた者はそのまま同じ学園の幼稚舎に上がるし、初等、中等とスイスイ進んでいくようだ。
つまりアンナはあと半年ほどで、別な監視施設へと繰り上げられるのであった。
アンナは俺に祝ってほしそうだったが、俺は真顔でかたまった。
彼女は気づいていないようだが、保育所を卒業して幼稚舎に行けば、俺とアンナは別々の教室に配属されることになる。
つまり別れの時が近づいているのだ。
俺はアンナの進級を素直に喜ぶことができなかった。
「『ようちしゃ』っていうのはね、せいふくがあるんだよ」
どうやらアンナは、俺が『ようちしゃ』というものを理解していないと思っているらしい。
制服があるだとかみんな四歳よりお姉さんなんだとか、現在放映中の女児向け映像娯楽の主人公の妹も四歳なんだとか、いろんなアピールポイントを語ってくる。
これは俺が『すごーい』とやらないと終わらないやつだ。
まあ、俺は大人だ。
本心がともなわなくとも、『口先だけで祝う』という建前を使った会話もできる。
アンナのような信頼できる年上女性とめぐりあえたのは幸運だったが、俺の人生には常に『別れ』がつきまとっていた。
百万回の転生経験――今回はまだ、この世界は俺に牙をむいてこないが、いずれ陰惨にして悪辣にして非道なる真実の姿を俺に見せつけることだろう。
そうなれば『別れ』はすなわち『死別』となる。特に俺を思いやる者ほど、残酷な現実に打ちのめされ苦しんで死ぬことになるのだ。
それを思えば『卒業』という別離のなんと優しいことか。
まるでこの世界が平和であるかのように錯覚してしまう――そんなわけはない。俺が生まれる世界が平和だなんてこと、あるはずがない。俺は百万回も転生しているからくわしいんだ。
……俺にできることは、後腐れなく、アンナを笑って見送ってやることだけだ。
現在まだ三歳(今年四歳になる)の彼女はとても大人で、ふとした瞬間――たとえば俺が投げた食器を拾う時などの行動の素早さに、大人の女の強さを見せつけてくれたものだ。
かと思えば女児向け映像作品について語る彼女はとても熱くて、まさに童心を持った大人という感じの三歳児だった。
半年間、彼女と保育所で過ごした記憶がよみがえる。
俺が口に入れようとした積み木ブロックを没収したり、俺が口に入れようとした小石を没収したり、俺が口に入れようとしたほかの子の手を没収したり……あれ、アンナに奪われてばっかりじゃないか俺?
そうだ。アンナは
俺のお気に入りの立方体積み木ブロックを奪った彼女への恨みは忘れていない。
俺は立方体にあこがれていた。円柱でもなく、三角柱でもない。立方体の安定感こそが、まさしく俺の目指す姿だったのだ。
将来は立方体になりたい――そう願ったことは一度や二度ではない。安定。それこそ俺があらゆる人生で望んで、しかし手に入らなかったものだから。立方体は俺の理想を体現する形状なのだ。あこがれないはずがなかった。
でも俺は二足歩行だった。
立方体には――なれない。
だから立方体を常にそばにおいていた。一体化したいとさえ思った。俺は気になるものはとりあえず唇で触る癖があるものだから、いつも立方体を唇で触っていた。
アンナは、その立方体を俺からとりあげたのだ。
だから――こんな女、知らない。
行くならさっさとどこにでも行ってしまえ。
そう思うのに――
俺は、泣いた。
アンナをぎゅっと抱きしめて泣いた。
「レックスくん?」
「やだ」
一歳児の俺にはそれ以上言葉を重ねることができなかった。
けれどアンナは俺の言わんとすることがわかったらしい――わかってしまった、らしい。
彼女は別れに気づいてしまった。
卒業とは、別離なのだと気づいてしまった。
彼女は泣いた。
俺も泣いた。
俺たちは抱き合って泣き続けた。
もはやなんで泣いてるかわからなくなって、声をはりあげつつ、なんで泣いてるかわからないよー! という気持ちをこめて泣いた。
疲れて寝た。
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6話 新たなる出会い
新緑がねっとりとした濃いにおいを発するころ、アンナは幼稚舎へと行き、俺たちの保育所には新しい子が入ってくることになった。
卒保育所式でアンナは泣きそうになりながらも立派に卒保育所生代表のあいさつをした。俺は泣いた。アンナがしゃべってる最中にギャーギャー泣いた。最後のほうはアンナも泣いた。みんなつられて泣いた。こんなに全員が泣く式典は百万回の人生でも初めての経験だった。
認めよう。
その瞬間だけ、俺は『敵』の存在を忘れることができたんだ。
『敵』とはなにか?
その正体はわからない。なにせ連中は影さえ踏ませず存在感を殺している。
けれど『敵』は確実にいる。なにせここまでの人生、あまりにも平和すぎるのだ。平和の中で俺たちの牙を抜き、そして戦う気力さえ失ったところで俺に辛酸をなめさせるために、『敵』は今この時もチャンスをうかがっているに決まっている。
なぜなら俺の百万回の人生で不遇でなかったことなど一度もないし、得たものを奪われなかった人生だって一度もない。
今生はあまりに平和で牧歌的すぎて、ついつい『本当に平和なんじゃないか?』と信じそうになるが、そんなわけはない。百万回平和でなかったものが、一回だけ平和だなんて、そんなの確率的にありえない。
だから俺は新しい保育所のおともだちを警戒した。
俺はどうにかギリギリのところで洗脳されずに自分をたもっているが、親や大人に洗脳されきったヤツが入ってきて、おともだちの内側から俺たちの平和をかき乱す可能性があるからだ。
ところで俺たちの保育所では、その年に卒保育所を控えた連中(三歳~四歳)が一歳以下の子の世話をするのが通例だ。
なので二歳児はわりと自由に同期と遊ぶことになっている。
俺もいよいよ二歳児になり、言葉や足もしっかりしてきたので、同期の中で信頼できる者を見つけないといけない。マーくんとか目をつけてる。あいつは将来大物になるだろう。
しかし、俺の思惑を外すかのように、保育士が俺へと依頼を持ちかけてきた。
「レックスくん、ミリムちゃんのお世話してくれるかな?」
う!(了解、の意)
……ハッ! 洗脳されている!
保育士の言葉には基本的に全力肯定をするようすりこみがなされているのだ。俺は自分を恥じた。警戒しつつもこれだ。この世界はやはり手強い。
しかしここで今さら『やっぱりやめた』も心証が悪いだろう。
保育所の子供たちは保育士に従順なのだ。一人だけ反抗的な態度をとって目をつけられれば、今後の人生でどんな妨害をされるかわかったものではない。
いいだろう。俺は愚かな二歳児を演じることにした。
「ありがとう。今年は新しいおともだちが多くてね……レックスくん、しっかりしてるから、ちょっと早いけど、おにいさんおねえさんたちと一緒に、一歳の子のお世話、よろしくね。あ、でも、見ててくれればいいからね?」
俺はコクンとうなずいた。いいでしょう、見事ご期待に応えて見せます。ぼくは従順なあなたの
皮肉げに言ってニヤリと笑いたいところだったが、俺は二歳児なので、二語ぐらいしかつなげてしゃべれない。なので肯定の意思をこめてにこーっと笑うだけにとどめた。頭をなでてもらえてうれしかった。
かくして俺が世話することになったミリムだが、なんと獣人種であった。
この世界にはいろんな人種が住んでいる。昔は人種ごとにキッチリすみかがわかれていたようだが、最近ではグローバル化が進み、あらゆる地域にあらゆる人種が分布しているのだとか。
しかし獣人というのは海をわたった遠いところにいる種であり、グローバル化が進んでいる世界とはいえ、このあたりで見るのは珍しい。
俺はまだつかまり立ちもあやうそうなそいつの目をじっと見つめた。
黒い瞳がじっと俺を見返し、頭上の黒い毛に包まれた耳がピクピク動き、腰の後ろのしっぽがパタンパタンと左右に揺れた。
こうなると俺は学術的興味をおさえきれなくなり、その子のしっぽをつかむのだけれど、しっぽをつかまれてもそいつはキョトンとしていた。
なにを考えているのか全然わからない。
しっぽをつかまれながらも、しっぽを出さないとはなかなかやる。
俺はそいつの脇の下に手をさしいれて近くでじっと見つめた。
気になったので唇でほっぺをもむもむして味もみてみた。こいつは……すべすべでクリーミィだぜ。
「ミリムちゃん、おとなしいでしょう? きちんとお世話してあげてね。わからないことがあったらすぐに先生を呼ぶのよ?」
俺は力いっぱいうなずいた。
こうして俺にミリムという後輩ができた。
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7話 できすぎた先輩
成長していく小さき者どもをお楽しみください
後輩との関係性に悩んでいる。
ミリムは本当におとなしい。基本的にペタンと座って、指をくわえて、じっとしている。
俺がなにをしても全然動かない。遊びにさそっても動かない。くすぐっても動かない。食事もおとなしくする。ただ、静かにオムツを汚すのだけはやめてほしい。泣いて教えろ。
この獣人の女の子は放っておいてもよさそうなぐらいおとなしくて、実際、もし俺がただの二歳児だったらミリムのことは放置して同期連中と交友を深めてそうなのだが、俺は百万回の転生をした転生者である。ミリムのおとなしい態度について理由を推測するぐらいはできる。
ミリムは、俺を監視しているのだ。
最近はどのような時も彼女の視線を感じる。食事もトイレもジッと見られている。
遊ぶ時だって、こいつは俺がお気に入りの立方体を持たせてやってるのに、立方体になんか興味がないみたいに俺の顔ばっかりジッと見ている。
しかしそれが悪辣な罠であることなど、もはやいちいち確認をとるまでもないだろう。
『油断』。
それこそが人の判断力を曇らせるのだ。
歴史を紐解けばわかるだろう。どこの世界での記憶だったか……関ヶ原の戦いというものがあった。開戦前での下馬評では西軍絶対有利で始まったこの戦いが、蓋を開けてみれば裏切りに次ぐ裏切りによって東軍の勝利に終わり、西軍の指揮官は処刑の憂き目に遭った──というのは有名な話だった気がする。
なにが悪かったのか?
そう、油断だ。
戦力差というものによってなまじ上回ってしまったばかりに、将の配置を誤り、人心掌握を怠った。それが裏切りを許す空気を生んでしまったのだ。
もちろん俺はそこまでの規模の軍を率いたことはないが、一兵卒としてこういった『相手より上回っているがゆえの油断』というものによる敗北を経験したことは、もちろんある。
まさか俺以外の全員が知らないあいだに敵側に寝返っているなどと、予想だにしなかったのだ。
開戦と同時に周囲を囲む味方だったものに袋だたきにされた俺はその人生を終えることになった。
ここで学ぶべき教訓は『しっかりコミュニケーションをとらないと、自分を磨くだけではどうしようもない戦力が知らないあいだに自分を取り囲んでいて、死ぬ』ということだ。
つまり、俺は今、目の前で、くりくりした目でこちらをじっと見る、無表情の赤ちゃんを味方にするように立ち回らねばならない状況にあった。
こうなると俺は『なにか失敗をしたらいけない』とおびえて、一つも
「……ねえ、レックスくんさ、ミリムちゃんのお世話完璧すぎない?」
「そうよね……手間がなくていいんだけど、二歳児の動きじゃないっていうか……見てて、なにかあったら知らせてもらうぐらいでよかったのに、すごく助かる……」
……罠だった!
そうだ、俺は二歳児だ。二歳児相応の肉体を持ち、二歳児相応の感情発散をする。
しかし俺は転生者だ。ひとたび強い意思をもって『ミリムのお世話を完遂しよう』とこころざしたならば、満足に体が動く今、できてしまうのだ。
この意思力はたしかに怪しい。
二歳児なんだからお世話とか放置して遊ぶべきだった……!
……今からやめるか?
だが、今度は『噂したのを聞いて、あえてやめた』と思われてしまうだろう。
くそう、油断した。
このままミリムのお世話を完遂するしかないようだ。
俺はミリムの背中をぽんぽんたたいてゲップを出させながら、今後の予定について思いをはせる。
ミリムはそんな俺の顔を、黒い瞳でジッと見つめていた……
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8話 二歳児は使命を思い出す
「れくしゅ」
くしゃみではない。
俺の名前だ。
ミリムをむかえに来たミリムの両親に言われてしまったのだが、ミリムは『パパ』『ママ』より先に俺の名前を口にしたらしい。
俺の両親とミリムの両親が、俺たちを挟んで会話をしている。
「うちのミリムはおとなしくって、ハイハイもほかの子より遅かったし、言葉もなかなか話し始めないから、ちょっと不安だったんですよ。でも、おたくのレックスくんのおかげで、ようやく言葉を……」
ミリムパパの言葉に、俺は達成感と感動を覚えていた。
だってしかたないだろう。ミリムはもう俺の妹みたいなものだ。俺の姿を見つけると腰の黒いしっぽをブンと一回振るし、表情はとぼしいけれど、耳としっぽでだいたいの機嫌がわかるようになってしまっている。
もはやミリムは俺の家族も同然だった。食事の世話もおしめの世話も俺がしている。
そのミリムが初めて話した言葉に、『レックス』なんていう、俺自身さえまだ発音が不安な難読名前を選んだんだから、こんな感動はない。
心をいましめているが――
二歳児相当の精神性の俺には、この喜びをおさえるのが不可能だった。
両親の足もとで俺とミリムは抱き合っている。
俺はだっこしているつもりなのだが、俺もミリムもそう体の大きさがそれほど変わらないため、俺がミリムを膝にのせて抱きしめている状態になってしまう。
後輩の親の目の前で、後輩と熱烈なハグだ。背徳的な気分になってくる。
抱きしめているミリムがぶるりとふるえた。トイレだ。俺は素早くミリムを床に寝かせ、所定の位置からオムツをとってくる。誰に言われるまでもなくテキパキとオムツ交換をこなす。保育士たちが近づいてくる。触るな。ミリムは俺のだ。
「レックスくん、ほんとうにありがとうね」
ミリムママに言われる。
俺は当然のことをしたまでだと言おうとしたが、まだ俺も言葉がしっかりしていなくて、感じている使命感についてじゅうぶんな表現ができなさそうだったので、力強くうなずくだけにとどめた。
「それにしてもレックスくん、しっかりしてますね……二歳ってこんなにいろいろできるものなんですか?」
「うちの子は天才なんですよ」
隣でパパが「おいおい」と仕方なさそうに笑っている。
ママの言葉に俺は照れた。
天才。それは百万回の人生を思えば、俺をあらわす表現として絶対にありえないものなのだけれど、ママに言われると皮肉でもなんでもない真実みたいに思えてくるから不思議だ。
俺はほこらしげにミリムの汚れたオムツをかかげた。
これは俺のトロフィーみたいなものだ。
しかし保育士が回収していった。トロフィーは奪われ、適切な手順で処分されるだろう。惜しい……いや惜しくない。どうせまた出る。
それにしても、こうまで褒められるとやはり自信がついてくる。
俺はこのまま保育士を目指すのもいいか――そう思い始めて……
ハッとした。
……魔法の訓練をなにもしていない!
生まれてから今まで、激動の二年間だった。
生後数ヶ月は親の監視下に置かれ、一歳になってからはだいたい保育士と……………………
………………名前を思い出せない!?
なぜだ!? あんなになついていたおねえちゃんの名前が全然出てこない――そう、おねえちゃんが卒保育所してからもう半年がたっていた。二歳の脳には、半年という期間は長すぎる……おねえちゃんはその美しい思い出だけ残して、すでに過去の人になってしまったのだ。
ともかくおねえちゃんに管理されていた。
そして二歳になってからはミリムの世話だ――もちろん家に帰ればいぜんとして両親が俺を見ており、俺は隠れて魔法の練習をするタイミングを完全に見失っていた。
このままではまずい。
もし俺の仮説通り『赤ちゃんをVIP待遇するのは、赤ちゃんが魔法的に最強だからで、年齢を経るごとに魔法の力はおとろえていく』というのが正しかった場合、俺はとっくにピークをすぎてから二年たっていることになる。
なんということだ。俺はあくせく生きるうちに、いつのまにか老いていたのだ!
二歳の肉体を見下ろす。ようやく走るのが安定してできるようになってきた今日このごろ。言葉もずいぶんハッキリしてきて、今では赤ちゃんの世話さえできる。
だというのに、俺の魔法の力はおとろえているのだ!
いや、俺の『赤ちゃんこそ魔法的に最強生物』という仮説が本当に正しいかさえ、確認していないのだ!
洗脳されていた。
『平和な日常』というテクスチャにすっかりだまされていた。
一枚めくればそこには醜く悪意に満ちた世界があるに決まっているのに、それに対抗する準備をおこたり続けていた。
『敵』は危機感なく生きる間抜けな二歳児を見て、ほくそ笑んでいることだろう。
保育士どものあたたかなまなざしがその事実を端的にあらわしている。
だが、俺はピンチをチャンスに変える二歳児だ。
これまでただの二歳児のようにのほほんと生きてきたおかげで、『敵』も俺などとるにたりないその他大勢の二歳児だと思い込んでいるはずだ。
天寿をまっとうするためにも、今から準備をおこたってはいけない。
不遇で不才で不運な俺が、普通に生きるためには、不断の努力が必要なのだから……
俺はいよいよ魔法勉強に本腰を入れることにした。
「れくしゅ」
だがその前に、ミリムがおなかすいたと言っているので、そのお世話からだ……
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9話 洗脳された彼女
俺は自己鍛錬をおこたらない。
二足歩行できるようになってからは、毎日体を鍛えている。
目の前には動画を映し出す
その踊り狂う画像はループ再生され、俺は飽きるまで魔導映像板に映し出されるキャラたちと同じ動きを繰り返している。
あまりにも楽しくて時間がすごい速度ですぎていく。
「レックスはあの踊り、本当に好きだよねえ」
「見せておけばずっと踊ってるし、そのあいだに家事ができて助かるわ」
両親はわかっていない――まるで俺が純粋な興味から踊り狂っているかのように思っているが、違うのだ。
ダンスは全身の筋肉を使う。
すなわち俺は全身の筋肉を鍛えているのである。
どのような世界でも肉体は資本だった。健康というものがなにものにも代えがたい宝であることを、俺は誰よりもよく知っている。
健康のため、体を鍛えている――俺のことを『りゅうおうさま体操』が大好きなだけの、そのへんの幼児と一緒にしないでほしい。意識の高さがまったく違う。
しかしそろそろ飽きてきたので、魔導映像板のスイッチを切っておやつを要求する。
ママは最近お菓子作りを始めていた。
ミリムママをはじめとする、俺と同じ保育所に子供を通わせる親御さんたちと同じ料理教室で習っているのだ。
そこには保育所のメンツのほかにも幼稚舎のメンツなんかもいた。
そんなほぼ保育所マダムの料理教室で俺はアンナおねえちゃんと劇的な再会を果たしたりもしたのだが、幼稚園児になった彼女はすっかり大人びていて、どこかツンとしていて、俺を抱きしめてはくれない……
おねえちゃんは幼稚園で変わってしまった。
俺にはもうミリムしかいないのだ。
たぶんおねえちゃんが俺に冷たくなったのは、俺がおねえちゃんの名前を忘れていたこととまったく無関係ではないのだろうけれど、もう四歳の大人なんだから、そのぐらいは大人の度量でどうにかしてほしい。
ところでおやつはまだだろうか?
ママ、わたしはおやつを要求しておりますが?
「今日はお友達が来るでしょう? その時にね?」
おともだち?
俺は首をかしげた。
友などと!
そんなものはいない。いたこともない。
もちろん百万回の転生を繰り返した俺だ。大事な人はいた。だが、それは友と呼べるような浅い関係性の相手ではなかった。裏切られぬ結びつきを持った、なにものにも代えがたい相手なのである。
そういった大事な人たちは、残酷な世界のせいでひどい別離ばかり味わってきた……
だからもう俺は誰も愛さない。奪われるのも裏切られるのも、もうたくさんだ……
「ミリムちゃんとアンナちゃんが来るのよ」
え、ほんとに?
やったー!
俺ははしゃいだ。喜びの感情を表現するために『りゅうおうさま体操』をおこなった。
いちいち記録映像を見ているのは自分の動きをチェックする目的であり、本当はフリをすべて暗記しているのだ。映像を見ずとも軽やかなステップをふむことができる。
俺が踊っていると、家のチャイムが『キンコーン』という音をたてた。
俺は走って玄関に向かう。俺用の台も忘れない。この台がないと、ドアノブに手がとどかないのだ。
おきゃくさまを迎え入れれば、そこにはアンナとミリムがいて、二者の両親もついでにそこに存在した。
俺はママの世間体のために二者の両親へと型どおりのあいさつをすませると、まっさきにミリムのほうへ駆け寄った。
ミリムはパタリと真っ黒いしっぽを軽く振ってよちよち歩いて俺に抱きついた。俺はミリムを強く抱きしめてそのほっぺたにキスをする。ミリムがしっぽを振って喜んだ。無表情だけれど表情豊かな後輩なのだ。
そうして後輩とふれあっていると、バシンバシンと背中をたたかれる。
痛いなコンチクショーと思って見れば、アンナおねえちゃんが俺の背中をたたいていたところであった。
「こらアンナ! す、すいません……アンナ、レックスくんに会いたがっていただろ? なんでたたいたりするんだ」
「しらないもん!」
アンナがなぜか怒っている。
怒りたいのは俺のほうだった。なんでたたかれなきゃならん。出会いがしらにたたいてくるとか、おまえが大人なら精神を心配されるような行為だぞ。
しかし俺はある可能性に思いいたった。
洗脳だ。
親元、保育所と、その洗脳教育はすさまじいものだった。『この世界は平和だ』『大人は子供を思いやっている』『世界には敵なんかおらず、君たちは愛されている』――これには俺も精神をいくらかねじ曲げられ、真実を見る目をくもらされているかもしれない。
百万回転生を繰り返した俺でさえそうなのだから、ただの四歳児であるアンナなんかはもう、とっくに洗脳がすんでいるだろう。
だが、まだ洗脳は甘いのかもしれない。
彼女が俺に暴力的にふるまうのは、洗脳されかけた彼女が俺に『助けて』と求めているのかもしれない……
『かもしれない人生』を送っている俺は、そういった、ともするとロジックに不明な点が多々ある真実に素早く気づくことができた。
そうして俺の心に芽生えたのは、『洗脳されかけたアンナを切り捨てる』ではなく、『彼女を助けたい』という気持ちだった。
なぜならば、俺は彼女と過ごした一年間を忘れたことがない。
アンナ。その名前は俺の心に深く刻まれている。きっと過去現在未来において忘れられない女性の名前になるだろう。なぜならば、俺の人生の大半は、彼女とともにあったからだ。
一年間という半生をともに過ごした相手を思いやる心は『天寿をまっとうしたい』と願う俺にとってマイナスなのだけれど、俺はこの情というものを捨てきることができそうもないのだ。
俺は、ツーンとそっぽを向くアンナに抱きついた。
アンナは俺をひきはがそうとしていたけれど、俺がしつこく抱きつくと、ひきはがすのをあきらめたらしい。「おこってないよ」となだめるような口調で言った。ほんとに? おまえの怒りは本物だったよね? 俺、忘れないから。
ともかく十秒で仲直りをすませた俺たちは家の中で遊ぶことになった。
『りゅうおうさま体操』を踊り、『スイート聖女カミキュア』の話題で盛り上がった。
まったく子供の相手は大変だ。
俺は『りゅうおうさま体操』を踊りながらニヒルに笑った。
パパママたちが作ったお菓子はおいしかった……
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10話 保育士への反逆
引き続き園児生活をお楽しみください
さらに時が経ち、先輩たちが保育所を卒業していく。
今回は俺が泣かなかったので卒保育所式はさほどの混沌につつまれず、みんな笑顔で卒保育所していった。
彼ら彼女らを待ついっそう厳しい洗脳教育を思えばそんな気楽に笑ってもいられないのだけれど、俺には誰かを救えるほどの力がない。自分が天寿をまっとうするだけで精一杯なのだ。洗脳される彼ら彼女らの未来に幸福がおとずれますようにと願うだけだった。
しかし俺もすでに三歳。
あと一年もすれば幼稚舎に進む。
ミリムとの別れはすぐそこまで近づいているのだ。保育所を卒業してしまえば、もう、ミリムとはプライベートでしか会えない。よく遊びに来るから。
俺は耐えられるだろうか、その別離に……
さて、三歳になった(今年いっぱいで卒保育所をひかえた)俺は通例であれば一歳以下の新入生の世話をまかされることになる。
しかし一年早くミリムの世話をしてた俺はマンツーマンが免除され、代わりに二歳児全体の監視を任されることとなった。
どうやら保育士たちに『レックスは従順な手駒である』と思わせることに成功したようだ。
このまま従順なフリを続け、いずれこの残酷なはずの世界に反旗をひるがえす時、せいぜいびっくりさせてやろう……
だが、その前に、保育士たちのびっくり耐性を調べておく必要がある。
俺は二歳児を集めて、とある作戦をおこなうことにした。
今の俺は保育士どもから二歳児たちの監視および管理をまかされる立場である。二歳児どもは保育士に従うかのように俺に従う。
まして俺はもう三歳のお兄さんだ。三歳の言うことは絶対だ。一度に話せる言葉の数が二歳とはまったく違う。俺の語彙でまくしたてれば、二歳児どもはうなずく以外にできない。
俺は二歳どもを使って『準備』を始めた。
その日から大量の色紙を用意し、保育士たちに隠れるように準備を始めた。
危険な作業をともなう準備だ――なにせ『ハサミ』を使う。
ハサミは……刃物だ。
安全性に配慮された手が切れないはさみとは言え、一歩間違えば……いや、三歩か四歩か五歩ぐらい間違って、なんらかの悪い奇跡が起これば、命を失いかねない。ハサミ使用中にいきなり隕石降ってくるとかな。
もちろん保育士たちは俺たちを監視しているが、二十三人のクラスをたった二人で見ているのだから、二歳児どもを使えばスキを作ることは可能だった。
俺たちは隠れに隠れて『準備』をちゃくちゃくと進めていった……焦りもある。この作戦にはタイミングが重要で、そこに間に合わなければ、『びっくり効果』は半減以下になるだろう。
そうして……ついに準備を終え、その日がやってきた。
俺たちはおひるごはんの時間を待つ。すべての保育所生たちが静かになるタイミングでことを起こさないと、これもまた効果が半減すると考えたのだ。
なにも知らずに食事の準備をさせる保育士を見ていて、俺は笑いをこらえるのが大変だった。
おまえたちは監視していたはずの愚かな保育所生たちに、これからまったく意外なことをされる……その時に泣くのか、叫ぶのか、絶望するのか……楽しみで仕方がない。
俺たちは保育所生の全員が席についたタイミングで、いよいよ計画を実行に移した!
『せんせい おたんじょうび おめでとう』
俺たちは用意していた紙製の飾りをいっせいに展開し、用意してあった折り紙をプレゼントした。
文字を満足に書ける俺がみんなの発言をまとめた手紙をわたした時、保育所最年長の保育士は言葉も出ないように呆然としていた。
結婚を機に今年で退職するらしいその保育士は、しばらく言葉を忘れたようにぼんやりしたあと、涙を浮かべてお礼を述べた。
せいぜい泣きわめくがいい……
せんせい、今までありがとう……
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11話 祖なる母
祖父母が来たぜ。
俺は基本的に他者に対しては警戒してあたっているが、特に祖父母に対しては最大限の警戒をもっている。
なぜならば連中はこの過酷なる世界で五十年以上を生き抜いた猛者なのだ。
ありえない。俺の百万回の人生で、それがどのような生物としての生であろうが、この世界で言うところの『五十年』という時間を生きられたことなど一度もない。
よほどの天運、よほどの才覚、よほどの実力……それ以外にもさまざまな『この世界にある暗黙のルール』に抵触しない慎重さ、時に突きつけられるであろう選択肢に対し正解を選び続けてきた判断力……
数え上げればキリがないほどのものを持っている。それが『老人』だ。
老人どもは、俺が無力な三歳児のフリをして、いずれ現れるであろう『敵』に対し牙を隠し研いでいることなどお見通しかもしれないのだ。
いや、きっと見通しているのだろう――だからこそ、老人たちは、俺に洗脳をほどこそうとする。
「レックス、おばあちゃんとおじいちゃんが来たわよー。隠れてないで出てらっしゃい」
俺はリビング入口に半身をかくして様子をうかがっていた。
祖父母はそんな俺をニコニコ笑いながら見ている――まるで『貴様の警戒心などお見通しだし、無意味だ』と述べているかのようだ。
「お
「いいのよいいのよ。レックスちゃん、ほら、おばあちゃんのお膝に、いらっしゃいな!」
さすが、老練だ。
俺は知っている――祖母の膝が悪いことを。冷えたりすると痛むらしく、よくさすっている姿が見られるのだ。
すなわち、祖母は膝が弱点だ。
その弱点への攻撃を誘っている。
これが老練でなくてなんと言うのだろう?
弱点をさらし、弱点に誘い、そうして俺をおびき出そうとしている。
祖母には『ある』のだ――俺に弱点を攻撃させてなお、膝の上にまねく『メリット』が!
しかも俺には、そこまでして彼女が得る『メリット』がなんなのか、まったく想像もつかないのだ。
裏はあるに決まっているのに、その裏が想定の外にある。……おそろしくてたまらない。俺を膝の上にのせてなんの得があるのか? そうすることで祖母はなにを得るのか? 意味がわからない。狂気さえ感じる。
しかもだ!
『膝に乗る』『膝枕』という言葉がこの世界にはあって、それは慣用的に用いられるのだけれど……
そういう場合の『膝』とは、『ふともも』を指すのだ!
膝が悪い祖母が膝に招く――これは弱点をさらし、差し出す行為だ。そう、少し聞いただけではそう思う。けれど実際のところ、祖母は膝などさらしていない。俺に自由にさせるのは、『膝』と慣用的に呼んでも違和感のない、『ふともも』なのだ!
つまり彼女はなにも失わない。
それでいて、俺をそばに招くことで、まったく正体不明な『メリット』を得ようとしている。
なんという老獪さだろう! 身震いがする。あんな無害そうなニコニコ笑顔を浮かべておいて、その言動はすみからすみまで計算に満ちている。
『なにも失わず、なにかを得る』ということを、祖母はああも息を吐くように簡単にやってのけるのだ。
しかもママが「ほら、レックス」と俺をせかしてくる。
これでは『黙って立ち去る』という選択も封じられたが同然だ。俺は祖母の膝に向かうしかない……『膝』と呼ばれる『ふともも』に!
対抗手段は……ない。
俺はほぞをかんだ。せめてもの抵抗に、すりあしでじっくりと祖母のもとまで向かう。
そして慎重な動作で祖母の
「まあまあ、どんどん大きくなるわねえ、レックスちゃん」
祖母は俺の頭をなでさすった。
その後も祖母はなにかと俺に触れ、俺をかまい、俺にお菓子やおこづかいをあたえまくった……
俺は恐怖におののき続ける……
わからない……俺をそうまで厚遇して、彼女になんのメリットがあるんだ……
おばあちゃんすき。
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12話 来年の話
引き続き赤ちゃんとか幼児の気持ちをお楽しみください
俺が四歳になった年の暮れ、家に来たアンナがやけにニコニコした顔で俺に告げる。
「レックスくんも、来年はアンナとおんなじ『ようちしゃ』だね!」
俺はおもちゃの車をいじる手を止めてハッとした。
そうだ、俺が幼稚舎入りするまでもう半年も残っていない――また無為に時間を過ごしてしまっている。
いや、まったくの無為ではないのだろう。保育所での生活は充実したものではあったのだ。
二歳になったミリムはもうとっくに俺の手を離れているのに、ずっと俺の後ろをついてくる。そのチョコチョコした歩きかたを見るたび俺の心には充足感がわき起こり、永遠にこいつを手放したくない気持ちでいっぱいになった。
だからこそ別れの時はつらい……
最近はアンナもミリムもものすごい頻度で家に来るし、なんなら今も部屋で三人で遊んでいるのだが、保育所で会えなくなると思うと、寂しさはやはりつのる。
だが一方で幼稚舎にはアンナがいる。
まあ年齢的に俺が入舎するころ彼女は卒舎してるのだが……
年上の頼れる女性である彼女は、幼稚舎であったさまざまなことをしつこいぐらいに俺に教えてくれる。
さっきから俺はまったく興味なさそうな顔をして聞いているのに(実際に興味がわかない)、アンナはまくしたてるように幼稚舎であったあんなことこんなことを話し続ける。
それはきっと忠告なのだ。
幼稚舎にかようぐらいのおにいさんになれば、いよいよ『世界が持つ悪意』も、俺に本気で手を伸ばしてくる可能性が高い。
世界はつらく苦しいところだ。例外はない。百万回の転生経験があるからわかる。優しい世界はないし、平和なんてもっとない。
だからこの世界もつらいところに決まっていて、『敵』は必ずいる。……だというのに、この世界は『平和』という
ならばこの世界では多くの人が『平和』を作るために礎にされている。
ママもパパもおじいちゃんもおばあちゃんも、悪意をもって俺をVIP待遇し油断させているのではなく、ただ世界がおこなっている洗脳教育の結果、この世界を
子供に優しく。
人に情愛をもって。
みんな仲良く。
すばらしいことだ。目もくらむほどまばゆい平和だ。
全員がそれを美徳と思う教育を受け、他者に情愛をもって接している。――洗脳されているせいで!
……ん? それはどういうことだ? 洗脳されていても人々が他者を思いやっているなら、それはいいことなのでは?
あれ?
………………
四歳の脳には難しいことを考えたようだ。
頭がクラクラしてきた。
かつて『考える器官』だけしかない情報生命体だったこともある。その当時の肉体であればなんらかの答えを得られたのかもしれないが、今の肉体ではこれ以上の思考は無理そうだ。
ともかくアンナは無作為に思いつくまま情報をしゃべることで、幼稚舎でほどこされる、より厳しい洗脳教育について俺に忠告をしてくれているのだ。
さすが五歳のおねえさんは賢さが違う。
俺はその情報にまったく興味がもてなくて、多くを聞き流してしまっているが(おそらく保育所の洗脳教育のせいで、重要な情報に興味を抱けないようにされているのだ)、アンナのもたらす情報は貴重だ。あとでヒマな時とか思い返して検討してみよう。
だが今の俺はいそがしい……
毎日考えるべきことがある。
それはもちろん『魔法』についてだ。初等科で習うという魔法……それはどんなものなのか、どういうことなのか、そういったことを考えながら、おもちゃの車を事故らせたり戦わせたりするので毎日いそがしい。ぶいーん。ぶおーん。ききー! どかーん! トラック転生!
なん人目かの人をトラック転生させ、なん人目かのトラック運転手の人生を壊したところで、不意に興味が尽きて、俺はその場で横になった。
俺が横になるとまずはミリムが俺の隣で横になり、反対側にアンナも横になった。
両側を美女に挟まれながら俺はなにかを考えようとした。魔法のこと、幼稚舎のこと、この世界でどうすれば天寿をまっとうできるか……そういうことを考えようとしたのだと思う。
けれど俺の頭はすぐに車のおもちゃのことでいっぱいになった。消防車……真っ赤な大きい車だ。大きくて赤い。つまりカッコイイ。ほしいけどパパもママも買ってくれない。なぜって先週、すでに新しい車を買ってくれたからだ。今度おばあちゃんにねだろう……
俺たちは眠った。
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13話 幼稚舎、忍び寄る新たなる暗い影
この世界に魔法はありまぁす!(バトルはないです)
引き続き主人公くんの人生をお楽しみください
街路樹が薄桃色の花びらを舞わせるころ、俺は幼稚舎へと進んだ。
新しいおともだちの顔ぶれは保育所とさほど変わりがない。それはそうだ。保育所も幼稚舎も同じ巨大学園のいち施設であり、保育所のメンツがそのまま幼稚舎に行くし、幼稚舎のメンツはそのまま初等科に行くのが普通だからだ。
あまり同期生と遊ばず年下のめんどうばかりみていた俺だが、浮いていたりはぐれていたりすることもなく、ただの幼児のように同期生たちの中に溶け込めていると思う。
これならば『敵』も油断をすることだろう――そう、生き延びたいのならば己を弱く見せ相手の油断を誘う擬態こそがもっとも必要なのだ。『本気でつぶす価値もない』と思ってもらえれば、それだけこちらの生存確率が上がる。
保育所でそうしていたように、幼稚舎でも俺は目立たず騒がず、適度に幼稚舎のせんせいに従順で、適度におともだちと仲良くし、適度にやんちゃなことをする――そういう生活を送っていくつもりだ。
しかし代わり映えのない日常が始まるかと思われた幼稚舎生活に、一つの不穏な暗い影が落とされた。
転入生だ。
正しくは『転入生』ではない――違った保育所、または家庭保育からこの幼稚舎に入舎してきた者であり、入舎式で一緒になるのだから、『転入』と言うと少し違うだろう。
ともあれ保育所で同じ鍋のミルクを飲んだ仲ではないヤツに対し、俺は当然、警戒した。
警戒したならば、どうするか?
当然、『知る』ことだ。
世の中には警戒することが本当に多くて、そのすべてにマックスの警戒を続けることはできない。精神は疲弊し、体力を失い、いざという時に対処できなくなる。
だから知ることで、警戒を続けるべきか、やめるべきかの判断をするのだ。
俺は自由時間になると、保育所からのエスカレーター組を率いて、外部入舎組を取り囲んだ。いくぜおまえら! おー! 適度に目立たず適度に従順で適度にやんちゃした結果、俺は保育所組の大将みたいになっていた。適度ってすごい。
外部入舎組はどこかおどおどしていて、俺はそいつらをジッとねめつける。
「な、なによ」
外部入舎組の中にあって、一人、俺のほうへ歩み出る女がいた。
お? と俺は首をかしげた。
俺たちはまだ四歳だ。さすがに二足歩行に問題はなく、普通に走り回ることが可能で、木登りなんかもできちゃうし、手先は複雑な『折り紙』という技術さえ問題なくこなせる。
言葉だって、さすがにハッキリしてきている。まだ一部不安な言葉もないではないが、日常会話をこなすには十分すぎるほど言語を操る。
だが、その俺をしてさえ、そいつの『な、なによ』という発言は、なんだか大人びて感じられたのだ。
言葉に舌足らずさがないというか、ハッキリしているというか。その大人みたいにしっかりした発音に、俺は思わず感心した。
そして一つの仮説を立てる。
さてはコイツ――『四月生まれ』か!
俺が転生してきた世界の実に三分の二がそうであるように、この世界もまた、十二ヶ月制を採用している。
一年は当然ながら一月から始まるのだけれど、不思議なことに、入舎などの行事は四月におこなわれるのだ。
この制度によってなにが起こるかというと、『四月生まれがクラスの中で一番早く誕生日を迎える』ということが起こる。
なんだ、そんなことか――意識の低い連中はそう思うだけだろう。だが、俺たちは四歳児だ。四歳の幼児はまたたくまに成長する生き物である。
四歳十ヶ月と四歳二ヶ月とでは、四歳十ヶ月のほうが、体も頭も成長している――すなわち、強いのである。
別に『赤ちゃんが魔法的に最強生物』ということもなかったこの世界において、『ほかのクラスメイトより早く誕生日をむかえる』というのは有利な補正と言える。
俺はいっそうの警戒をもって外部組の女を見つめた――これだけ言葉がハッキリしていて、しかもよく見ると俺より背も高いそいつは脅威だった。敵に回してはならない。
俺は指をくわえて悩む。四月生まれ。体の大きい女の子。どうしよう、ちょっとこわい。なんだか目つきもするどいし、怒らせてはいけない存在なのかもしれない……
外部組の連中は保育所組の連帯感を見て不安なのかもしれないが、保育所組の俺たちだって、外部組という未知なる存在に対し恐怖を抱いているのだ。
ファーストインプレッションでなめられないようにとりあえず大人数で囲んでみたものの、囲んだあとどうするかとかの具体的なプランがあったわけじゃないし、女の子は体が大きくてこわいし、どうしよう。泣きたくなってきた。
しかし俺はもう四歳のおにいさんなのだ。おにいさんは泣かない。では、どうするか?
そう、おにいさんは――優しくするのだ。
俺は保育所で教わった心得を思い出していた。『おにいさんだから、年下の子には優しくしましょう』――保育所は人生に役立つ様々なことを教えてくれた。俺の人生は保育所とともにあったと言える。
保育所。保育士。そこで学んだことは、幼稚舎に来ても俺の中にたしかに息づいていた。
俺は四月生まれっぽい女に手を差し出した。
ぼく、レックス。よろしくね。
女は一瞬きょとんとしたあと、くしゃくしゃの赤毛の中に手をつっこんでから、俺へ手を差し出した。
「わたし、シーラ!」
俺たちは手を握り合ってぶんぶん振った。
そのあとみんなで折り紙をして遊んだ。
せんせいが俺たちのことを笑顔で見ていた……
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14話 家畜化された人々
これはやさしい世界で幸せを受け止めきれない物語━━
運動会だ。
幼稚舎はだいたい三十人ごとに組分けがなされており、俺はその中で『スライム組』となっている。
スライムというのはペットとして一般的な生き物であり、朝の
くだらないニュースのあいまに差し挟まれるそのコーナーは、いそがしく気分がくさくさしがちな朝に貴重な一服の清涼剤となっており、主にママが食い入るように見ている。
俺も自分のスライムがほしいものだと思うのだけれど、世話をするのは意外と大変そうだし、ペットショップのウインドウにへばりついて見てみたところ、四歳児には想像もできない値段がするので、ほしいけどさすがに無理な感じだ。あのプヨプヨに上からのしかかったり抱きしめたりしたい……
そういうわけで組対抗の運動会だ。
ほかには『アンブロシア組』とか『ホウキ組』とかがあって、『生き物か植物か道具か、どれでもいいからクラス名のジャンルを統一しろ』と俺などは思うのだが、この世界で未だしっぽさえつかませない『敵』の意図があるに違いないので、今後精査していきたい。
だが今は目の前の運動会だ。
目の前っていうかただいま運動会のさなかだ。
ナウ。
スライムの名を冠する我らに敗北は許されない。
スライムはすごいんだ。アブンロ……あんぶろ……あんぶろち……アンなんとかとかいうわけのわからない名前のクラスに負けるわけにはいかない。
スライム組の敗北はすなわち世界に生息するスライムの敗北だ。
俺たちは背負っているものの重さが違う。
あんな焼き菓子によく使われる果物なんだか野菜なんだかよくわからない赤い果実の名前を冠したクラスに負けるわけにはいかない。そう、いかなる手段を用いても勝たねばならない……
俺たちはおおいに駆けた。おおいに玉を転がし、時に入れた。
こっちには四月生まれのシーラがいる。四月生まれはすごい。体が大きい。当然、足も速い。ボールのコントロールもうまい。俺たちはシーラを筆頭に順調に点数を重ねていった。
運動会は余興ではあるが遊びではない。
俺たちは真剣に勝負をした。綱引きでも手を抜かない。リレーでも当然手を抜かない。
父兄対抗借り物競走では声を張り上げて応援した。応援は途中で叫ぶことがメインになり、もはや自分がなにをしているのかさえ忘れるほど熱中した。運動オンチでインテリのパパが足を引っ張って父兄対抗は負けた。ふざけるな。
やはりパパは『敵』の手先なのかもしれない。
俺は勝利を渇望している。だからこそ、『敵』は俺から勝利を奪っていくのだろう。どの世界でもそうだった。欲したものほど手に入らない。あとでパパにも精査が必要だ。おまえの書棚にエロ本がかくしてあることを俺は知っているぞ……
そうしてスライム組とアン以下略組はデッドヒートを繰り返した。
ややスライム組が優勢だが、俺は油断などしない。ホウキ組とかいう雑魚はともかくとして、アンブロシア組にはちらほら四月、五月生まれの姿が見えるのだ。
生まれの早さは力になる。特に俺たち幼児は成長が早い。半年も生まれが違えば、それはまったく別種の生物と言っていい。
デッドヒートは白熱に白熱し、ついに勝負はラスト種目『クラス対抗仮装リレー』まで持ち越された。
この仮装リレーの勝者が運動会の勝者となる――ここで俺の百万回にもおよぶ転生経験が活きた。ほかの幼児どもが思い思い好きなキャラとかの仮装をする中、俺は『運動をする園児』の仮装をしたのだ。すなわち『動きやすい格好』を仮装に選んだわけである。
そうして俺の知略により運動会の優勝はスライム組となった。
幼児にもわかるほどの点差だ。俺たちはすでに四歳。――そう、数字が読めるのだ。
けれど、最後のしめくくりに、園長先生が言う。
「みんながんばりましたね。優勝は、みんなです」
……はあ?
俺はキレた。しかし園児が一人キレてわめき散らしても『園長』という巨大権力に抵抗はできない。キレるならみんなでキレるのだ。
俺はキョロキョロと納得できなさそうな顔をした園児を探す。これだけ熾烈な争いをさせておいて『優勝はみんなです』なんて通るはずがない――そう思っていたのだけれど、俺の目に映ったのはおそろしい光景だった。
笑顔。
笑顔笑顔笑顔。
みんな競技が完了した達成感で満ちあふれた顔をしていた。
三位のクセに優勝扱いされたホウキ組のクズどもが笑顔なのはまあわかるが、あれだけ僅差で争ったアン組も笑顔だし、我らスライム組の年少はおろか年長さえも笑顔だった。
意味がわからない。俺はふらついた。熱中症かもしれない。今日は日差しがやけに厳しい……五月の空は高く、青い。
いや、違う。熱中症ではない。気づいてしまったんだ。
洗脳されている。
闘争心というものが奪われているのを理解した。争いの果てに勝利をつかんだというのに、その勝利をかっさらわれてなんとも思っていない顔をしている。
俺はギリィと奥歯をかみしめた。一人でキレるか? いや、やめたほうがいい。俺は感情をコントロールできる四歳児だ。ジタバタと地面を強く踏んで怒りを発散する。うぎぎぎぎ……感情をコントロール……うおおおおおお!
「れ、レックス、どうしたの?」
近場で見ていたママがひそひそ叫びをする。
俺はハッとした。そうだ、父兄! この結末に園児はおろか父兄さえも声をあららげない……これはあきらかな異常。すなわち洗脳だ。
俺は怒りにまかせて叫びたかった。しかしさっきやったので多少の落ち着きがあった。
そうだ、冷静になれ……俺は自分のふとももをつねって自分をいましめる。すごい痛い。ほんと痛い。痛いよう……だが冷静になれた。
そう、俺はピンチをチャンスに変える四歳児。
逆境から情報を得ることもできる。
ここまで不自然な状況ならば『敵』の意図が容易に読める。
この世界で未だに息をひそめ影さえ踏ませない『敵』は、なんらかの目的をもって、人々の『闘争心』を奪おうとしているのだ……!
ようやく敵の末端に触れられたのだ。喜ぼう。
この敗北はたしかにくやしい。だが、敵が闘争心をおそれていることがわかったならば、俺は闘争心を抱き続ければいい……俺は学習できる四歳児だ。字だってクラスの誰よりもきれいに書けるし、かけっこだってリレー代表になるぐらい早い。いもむし競走では先頭だ。
こうして俺は苦い敗北とともに、一歩だけ『敵』の正体に近づくことができた。
勝利はかっさらわれたけれど、俺は忘れない。
101対99で、スライム組は、たしかに勝っていた。
勝っていたんだ……
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15話 契約 ―テスタメント―
幼稚園は敗者のいない管理された世界です
洗脳……やはり洗脳を受けている
ハーメルンではリアタイ気分をお楽しみください。
ところでアンナについてなのだが、彼女はどうにも大きな勘違いをしていたようだ。
幼稚舎課程は四歳から六歳までの幼児にほどこされる。
すなわち四歳で入舎し、入舎した年に五歳となり、五歳で上のクラス(年長)にあがり、その年に六歳になり、卒舎する。
俺とアンナは厳密に言うと一年と半分ほどの年齢差があり……
……くっ、頭が混乱してきた!
四歳の脳ではあまり複雑なことを考えられない――そう、特に数字になるとこんがらがりやすい。今も指を使っていっしょうけんめいに計算しているのだが、これだけ複雑に足し算引き算みたいなことをやると、さすがに頭が熱くなってくる。
アンナもおそらく俺と同じような状態におちいっていたのだろう。
すなわち、俺が幼稚舎に入舎するころには、アンナは初等科に進んでいたのだ。
アンナはなぜか俺と同じ幼稚舎で学べると思っていたようだが、俺が幼稚舎に来た時、アンナはその香りだけを残して初等科に進んでいたのである。
なのでアンナは機嫌が悪い。
……なんで?
わけがわからなかった。
アンナは俺と幼稚舎でいっしょになれると思っていた。しかし彼女の計算はズレていて、俺が入舎するころアンナは初等科課程に進んでいた。だから俺に対してキレている。ええ……なんで……?
なん度情報を整理してもさっぱりわけがわからない。
たまにうちに来て「アンナ、おこってるからね!」と言いつつ一緒に遊ぶのだが、そんなの俺に怒られても困る。
しかし俺は百万回転生した五歳児だ。
こういう理不尽にはなれている――むしろ理不尽でない応対をされるほうが珍しいぐらいでさえある。
今までの人生、俺に理不尽な不満をぶつけてくる連中とは常に敵対かそれに近い関係性にあった。その理不尽を理不尽だと相手に気づかせる機会がなかったのである。
しかしアンナとは比較的会話しやすい関係性だ――であれば、今まではできなかった『誤解を解いて仲間にする』という選択肢をとれるかもしれない。
仲間にする――それはなんと甘い考えだろうと自分でも笑ってしまう。けれど、俺はその道を選びたかった。いつでも選びたかった。ただ、環境がそれを許さなかった。
けれど今は環境がそれを許す。俺に理不尽をぶつけてきているアンナは、俺が半生をともに過ごした大事な人であり、毎週一回のペースで遊びに来る相手であり、一緒のおふとんでお昼寝をするあいだがらであり……本当に怒ってる? 俺たち仲良くしてない?
だが、幼児にロジックは通じない。
その週の末、俺は家に遊び来たアンナと和解をはかった。
俺はうったえる――あなたの怒りはまったくもって理不尽なものであり、それをぶつけられた当方は対応に困るばかりである。しかし当方としてはあなたと末永く健全な関係を続けていきたいと考えておりますので、どうかご自身のおっしゃられていることが理にかなってないとご理解いただき、その怒りをおさめていただきたい。
これを五歳なりに言うと「けっこんしよ」になる。
「うん。けっこんする」
アンナと俺はこうしてちぎりを交わした。
なんか横にいるミリムにしっぽでペシペシされた。
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16話 ひねくれた芸術
結婚するのか? 俺以外のやつと……
でも幼稚園児は重婚上等だから
俺はスライムを飼いたいんだ。
ペット。それは余裕のある者のみに許された
余裕というのはもちろん経済もそうだが、心の余裕もあり、さらには生活も時間に追われていないという余裕が必要になる。
なにせペットというのは癒やしなのである――癒やしというのは上流の者にのみ許された娯楽だ。癒やし。それは俺が幾度渇望しても一度だって得られなかった、恵まれぬ、本当に癒やしが必要な者にこそとどけられない、甘美なる宝石なのである。
そうしてふと今回の人生に目を向ければ、余裕があるとは言いがたい。
幼稚舎に通う。おおいに通う。運動をする。勉強もする。うちはパパが教師なので教育はわりと熱心なほうだ。
最近は料理も始めた。お菓子がおいしいので自分でも作りたいから、ママに習っているのだ。
週末にはミリムやアンナが家に来るのでそれと遊ぶ。いや、家に来るだけではない。逆に俺が彼女らの家に行くこともある。そして遊ぶ。車のおもちゃで遊ぶ。アンナのぬいぐるみを『巨大怪獣』とか言うとひどく怒られる。だって怪獣じゃん……
そんなわけで俺はいそがしく、ペットを世話するためのあらゆる余裕がない。
だから俺は文化祭にスライムを模した粘土細工を提出することに決めた。
芸術というのは渇望から生まれるものだと俺は考えている。渇望。己のもっとも欲する、けれど手に入らないものが、粘土のしかくいかたまりを見た瞬間に浮き上がって見えるのだ。
粘土細工とは己が粘土に投影したものを浮き彫りにしていく作業である。俺には見える。スライムのかたちが……
俺は熱心に粘土かたまりをながめ続ける。周囲ではスライム組の同級生どもがさわいでいる。粘土を投げたり粘土をザクザクとへらで刺しまくったりしている。猟奇的だ。だが俺は心乱されない。もう少しじっと見つめていれば、俺の心が求めるスライムのかたちが浮き上がってくるのだ……
シーラが「レックスくん、寝てるの?」とか聞いてきた。寝てるんじゃない。集中して心の渇望するかたちを投影しているんだ。芸術だ。五歳児にはわからないかもしれないが、これは必要な作業なんだ。
誰かが投げた粘土玉が俺の粘土カタマリにヒットしたのはそんな時で、俺は熱心にスライムのかたちを粘土に投影しながら、やったなーと言いつつ粘土をちぎって丸めて投げ返した。芸術だ。粘土を投げれば粘土が投げ返される。
ふん。アホな男子どもめ。おまえたちはそうやって粘土ボールの投げ合いを楽しんでいるだけだろうが、俺は投げ合いながらも心の渇望するスライムのかたちを投影し続けている。勢いを増していく粘土キャッチボール。バカが! キャッチボールはすでにドッジボールに変わっているんだぜ! 俺は大きめの粘土を丸めて剛速球を投げた。もちろん芸術だ。
クラスの男どもはスモックを粘土でべたべたにしながら投げ合っている。俺は同じような見た目だが芸術をしている。
シーラととりまきの女子どもが「やめなよー! せんせいにおこられるよー!」と叫んでいる。いい子ちゃんどもめ! 用事で職員室に行ってる先生がどうやって俺たちを怒るんだ!? イタズラはなあ! 現行犯が基本なんだよ! 芸術ゥ!
芸術をこめた俺の粘土ボールが芸術的に園児にヒットし、俺は芸術をもって芸術的に芸術した。その結果芸術が起こる。俺は唐突に理解した。そうだ、芸術とは騒乱だったのだ。このらんちき騒ぎこそすなわち芸術。
芸術を知った。粘土細工だからといって粘土のかたちを整えようとしていた俺のなんとスケールの小さいことか! この状況こそがまさしく芸術なのだ。
「こら! 粘土を投げて遊ばないの!」
戻ってきた先生が言う。しかし俺はほこらしげに胸を張って先生に訴えたい。この状態こそが俺の作品なんだ――だがうまく言えない。
五歳児の語彙は多い。しかしこの芸術性を表現するにはさすがに足りなかった。その結果俺は叫んだ。芸術ゥ!
「芸術じゃありません! 女の子たちを見習って、ちゃんとしましょう。ね?」
普通に怒られた。
俺はうなる。
げ、芸術……
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17話 後輩の穴
引き続き変な幼児(直球表現)の人生をお楽しみください
先輩園児を見送り俺が年長となった年、ミリムが幼稚舎に入ってきた。
後輩との再会だ――俺は四歳に成長したミリムをじっと見つめる。
大人びた立ち姿。スモックという大人ファッションに、乳児のころから変わらない無表情があいまって、なんだか俺の知らないあいだにミリムが成長してしまったような、そんな寂しさを感じた。毎週末遊んでいたというのに、女の子の成長は早いものだ……
これから二年、ミリムは幼稚舎で過ごす。
世界にはびこる『敵』は、俺たちにそうしたように、ミリムにも洗脳教育をしていくことだろう。
闘争心を奪う洗脳教育……そうすることでなにを成そうとしているのか、『敵』の目的のはっきりしたところはまだわからない。けれどそれに従い続けていては『敵』の思うつぼなのはたしかだった。
俺はミリムに『闘争心を忘れるな』と教えたかった。
けれど俺は五歳でミリムは四歳だ。『闘争心』という言葉の意味がよくわからない……なんだよ闘争心って。そういう概念的な? 抽象的なの、困るんだよね。幼児は抽象がよくわからない。気持ち悪くてもやもやする。
俺は不安からミリムを抱きしめた。スモックのゴワゴワした感触。高い体温。さらさらの黒髪からはミリムのにおいがした。
俺たちが大人だったら事案だった。幼児だから許される熱烈なハグだ。
ミリムは相変わらず無言で無表情で、しかし彼女のしっぽだけは雄弁で表情豊かだった。
というかスモックにしっぽ穴が空いてる。
しっぽ穴……俺は最近穴を見ると指を入れたくなる年齢なので、ミリムをぎゅっとハグしながらしっぽ穴に指をつっこんでみた。ふさふさしたしっぽの付け根の感触があった。
たぶんミリムママがスモックの腰あたりに自分で穴を空けている。このへんは獣人がいないから、獣人向け衣服の確保は大変そうだなと思った。
「れくしゅ、だめ。しっぽあな、ゆび、いれたら、だめって、ままが」
え、だめなの?
しっぽ穴……今まで気づかなかったが、それはひょっとしたらとてもエッチなものなのかもしれない。
というかもしかして『穴』ってエッチな言葉なのだろうか?
俺はドキドキした。なんだろうこの胸の高鳴りは? ミリムのもじもじしたようなしっぽの動きが俺のドキドキに拍車をかけている。ぱたりぱたりと照れ隠しみたいに揺れる、真っ黒い毛に包まれた太いしっぽを見ていると、俺は本能的にそれをつかみたくなってくる。
けれど俺は判断力のある五歳児だ。しっぽをつかみながら考える。しっぽ穴がエッチなら、しっぽもエッチなのかもしれない……わからない。なんだかドキドキが止まらない。
ミリムはエッチなものを穴から出してゆらゆらしている。ミリムってエッチだ。俺は……俺はなんだかこわくなってくる。エッチなものはこわい。
正直なところ、ミリムが赤ちゃんのころからミリムの服にしっぽ穴は空いていたし、俺は今までミリムを抱きしめるたびしっぽ穴に指を入れ続けてきた。
だってしょうがないじゃん。抱きしめたらちょうど手がとどくところにしっぽ穴があるんだ。それはつっこむでしょう。でもダメなのか……どうしよう……俺はしっぽ穴に指をつっこみながら考えた。どうしたらいいんだ。俺はなにを考えようとしているんだ。わからない。
「あな、のびちゃうから、やめてって」
穴がのびちゃう。
俺はなんだかエッチすぎてこわくてたまらない。ミリムがエッチでミリムがこわい。
俺はミリムを抱きしめるのをやめて彼女から半歩遠ざかった。するとミリムは半歩近寄ってくる。俺はミリムを抱きしめた。反射的な動作だった。
俺は気づく。恐怖していた。エッチしていた。でもミリムはそれ以上に大事な後輩だった。エッチでこわいからと言って、ミリムを抱きしめることをやめられそうもない……
俺はエッチをのりこえてミリムをぎゅっとした。ミリムも俺の胴に両腕を回して抱き返してくる。ミリムがエッチなら俺もエッチでいい――今はそんな気分だ。
俺たちは幼稚舎の下駄箱で抱きしめあった。
これはもう完全にエッチだった。
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18話 初等科への進学、環境の変化
幼児もついに小学生になりました
今後は反射的行動が減ると思います
きっと……たぶん……
運動会で苦い引き分けを強要され、芸術祭ではダンボール工作に挑み、そうこうしているあいだに年長の一年はまたたくまに過ぎていった。
俺もいよいよ初等科へ進むことになる。
アンナが「三年生のおねえさんになって待ってるからね!」と言っていた。計算ができるようになっている。
初等科でほどこされるカリキュラムは、やはり今までのものと比べてハイレベルになっているようだ。まさか『相手が卒舎した時自分が何年生か』をああもやすやすと導き出すとは……
俺は新しい制服を採寸され、ランドセルを買い与えられ、おばあちゃんから入学祝いにおもちゃをたくさん買ってもらった。
制服はなんだかきゅうくつだったけれど、これはきっと『敵』が初等科児童たちに『貴様らは制服という首輪をつけられて過ごすのだ』と思わせるためにきゅうくつにしているに違いない。
そうだ、この世界で、まだ俺は『敵』の正体をつかめていない。
漠然と『闘争心を奪う』ことをおこなっているのだと知ってはいる。けれどその規模も、目的も、なにもかもがわからない。
百万回の転生においてさえ、ここまで正体を見せない『敵』がいたことは一度もなかった。まるでいないかのような存在感のなさだ。
いつこの悪辣なる世界が牙をむくのか、タイミングをずっとつかめないでいる。緊張状態が続き、精神が疲弊していく。『敵』はきっとそれを狙っているのだ……
しかし初等科生になった俺はこれから体もガンガン大きくなるし、力も知恵もついてくるだろう。
『敵』がこちらの疲弊とそれによる気の緩みを待っているならば、それは『時間がある』ということだ。世界が俺に牙をむくまでに、俺は己を鍛え上げよう。
最近ふと『この世界は本当に敵なんかいない、平和で優しい場所なんじゃないか?』と思うことが増えてきた。
よくない傾向だ。『敵』の術中にはまっている――だが、漫然と過ごしているだけではかりそめの平和を信じてしまうのも事実だ。この肉体に入ってからというもの、精神がゆるふわで緊張感の維持が難しい。
こういう時は、気合いでどうにかなるものではない。
環境だ。環境を変えなければならない……根性論で己をいましめるのは意外と早く限界を迎える。精神というのは体調や摂取した栄養にかなり左右されることを、俺はよく知っているのだ。
そんなおりだった。
アンナからピアノの発表会に招待されたのだ。
ピアノというのはおそらくこの世界でもっとも有名な楽器である。三つ足の巨大な箱で、白黒の鍵盤をたたいて箱内の弦をはじき、音を奏でる。
アンナは三歳当時から週に二度ほどピアノ教室に通っており、初等科になってからはなん度か発表会をおこなっているようだ。
今回初めて俺に招待状が来たのはアンナなりに『レックスに聞かせてもいい』と思えるレベルまで仕上がったかららしい。
アンナの中で俺は耳が肥えた人になっているのかもしれない。
そんなことを感じられる逸話はないつもりだが、アンナはたびたびロジックが通じないことがあるので、今回もそういうアレだろう。
壇上でスポットライトを浴びながらピアノを奏でるアンナは美しかった。
長い金髪をきらきらと輝かせ、青い瞳で真剣に譜面を見つめ、真っ青なドレスをまとって熱心に演奏する様子には思わず目を奪われた……音楽はよくわからなかった。
八歳のおねえさんはやはり大人だ。
昔は幼稚園児もかなり大人に感じたものだが、八歳はやはり格が違う。
しかもアンナは今年、九歳になる……その次は十歳だ。二桁……俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。二桁年齢。なんだかそれは想像もつかないほどオトナに思えた。
そうしてピアノの発表会の帰り道、きれいに着飾ったママとちょっといいレストランで夕食をとっていた時、ママから提案があった。
「レックスもなにか習い事する?」
習い事!
思いもよらぬ提案だった。だが、さすがはママ……十歳よりずっと年上の、本物の大人の女性だけある。
なるほど俺は己の精神を律し続けることに苦心していた。なんらかの外的要素がなければ、俺はこの世界を『平和だ』と信じてしまいそうなほどには精神が疲弊している。
その外的要素として『習い事をする』というのはすばらしいことに思えた。だって同級生のシーラもなにかやってるらしいし。俺もやってみたい。あ、いや、精神のためにね。意識の高さがほかの連中とは違うのだ。
こうして俺は漠然と習い事をしようという選択肢を抱いたまま家に帰った。
ぐっすり眠ったら忘れた。
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19話 大人の余裕
ゆっくり主人公くんの人生をお楽しみください
初等科校舎は海のそばにあって、土のしかれたグラウンドでは風が吹くたび潮の香りがした。
エスカレーター式の悪いところではあるが、やはりクラスメイトの顔に代わり映えがないのは退屈に感じる。
幼稚舎に比べれば多少は外部入学組も増えてきたようだが、やはり大多数はエスカレーター組であり、それら顔なじみどもを前に自己紹介をするというのは、妙な照れくささがあった。
俺の初等科での目標は『目立たないこと』だ。
注目を浴びるのはまずい。クラスメイトに注目されるような人材ならば、当然ながら『敵』にも注目されるだろう。
『敵』……いまだ輪郭さえつかめない、この世界に必ずあるはずの脅威。
俺が転生してきた世界には必ず『敵』がいた。それは人物であったり、社会制度であったり、現象であったり、あるいは俺のことを『敵』と呼ぶ大多数であったりした。
敵のいない世界はなく、敵は必ず、どこかのタイミングで俺の生命をおびやかすだろう。
百万回そうであったのだから、今回だけ違うだなんて、そんなことがあるはずがない。
そして百万回の人生で学んだのは、『敵と対峙した時点で失敗だ』ということである。
もちろん俺は勝利を求める――しかし、勝利とは『敵と対峙し、勝つ』というものではない。俺にとっての勝利は『天寿をまっとうする』ことだ。
そのために最善なのは『戦わない』ことだ。
注目されない。気づかれない。影のような一生を送る――それこそが俺の望むライフスタイルなのである。
ところが初等科課程において、俺は注目を集めることになってしまった。
これが全然不慣れで困惑するばかりなのだけれど、俺はどうやら、『できる』ことにより人からまなざしを集めているようなのだった。
『できる』。すなわち勉強が、あるいは運動が、もしくはその他のことが。言い換えてしまえば『優れている』となるわけだが、これが全然まったくどうしてそうなったかわからないのだ。
だってそうだろう、俺の人生は不遇がスタンダードだった。必要な能力が平均未満でなかったことはない。努力に成果がともなったこともなく、また、そもそも努力のしかたさえわからないということも少なくなかった。
だからこそ『全力でいどめば平均より少し下ぐらいに位置できるだろう』と思って入学後最初のテストにいどんだところ、満点で学年一位をとってしまったのだ。
これはまずいと思い、なにか失敗をしようとする。
できれば次のテストで悪い点をとって『一回目はまぐれだったんだな』と思われたいところだが、次のテストはまだ来ない。
だから俺はあらゆるところで失敗をしようとした。運動で、あるいは素行で。失敗をしようとする。失敗することが正しいのだとわかっているから、そのようにしようとする。
けれど俺が失敗するたび、クラスメイトのシーラが言うのだ。
「レックスに勝ったー!」
勝ったー! じゃねーよ!
俺はわざと失敗してんだよ!
いやしかしこらえるべきだ。そうだろう、俺はトップをとりたいわけじゃない。目立たず長生きすることが目的なのだ。
シーラね。ふん、たかが六歳児だ。勝利? いいでしょう、くれてやりますとも。そんなの惜しくもなんともねーや。ふん。大人には大人の余裕があるんだ。百万回転生した俺の精神年齢をなめるなよ。
「レックスもたいしたことないね!」
なんだとこのやろー!
六歳児の分際でぼくをばかにするなよ!
五歳だってやればできるんだぞ!!!!!
俺は本気を出した。
次のテストも学年一位だった。
やったぜ。
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20話 トレンドとマジョリティ
体調に気をつけてあったかくしてよく寝てください!
俺は性別で人を区別しない。
だってそうだろう、性での区別になんの意味がある?
性別にかかわらず、多くの者は俺を迫害する存在だ。
『マジョリティ』――それは俺が百万回の転生で一度もなることのなかったものだ。俺は常にマイノリティであり、すべての生命は俺より価値が上で、それらから迫害され続けてきたのだ。
人類は『俺』と『それ以外』でわけられる。
だから俺は性別を理由に交友する相手を選んだりしないのだ。
「女子と遊ぶとかダッセーよなあ!」
だよなー!
俺は性別で人を区別しないが、女子と遊ぶのはダサいと思う。
クラスの男子のあいだで女子と遊ぶのはダサいという風潮が広がっていた。俺もそう思う。理由? 理由はまあないけど、なんかダサいっていうかさ。トレンドじゃないんだよ。
だから俺は男子とばっかりつるんだ。男子はいい。気楽だ。
男子の中で男子と遊ぶのがトレンドなので、そこに乗っかることで俺の存在感を消すという目的もあった。俺の初等科での目標は『目立たないこと』で、それは今後一生抱き続ける目標のはずだ。
そもそも俺がテストとか運動関連で目立ってしまってるのも、シーラがやたら張り合ってくるからで、つまり女子のせいだ。
あの赤毛の女め。なんで俺を目のカタキにしてやがる。なんでことあるごとに俺につっかかってくるんだ。やっぱり女子はダメだな!
「レックス、お前、家に女子呼んでね?」
クラスメイトのマーティンが言う。女子を呼んでいる――心当たりがなかった。なんのことだかさっぱりわからない。俺は当然よくわからないという対応をした。しかし別のヤツが言う。
「三年生の女子とか呼んでるだろ」
三年生の女子?
俺は気づいた。アンナだ。アンナとミリム……俺たちの交友は今も続いており、だいたい四週間に一度ぐらいの頻度だが、二人は俺の家に来るのだった。
まいったな、やれやれだぜ。どうやら初等科一年のガキどもは同級生の女子のみならず、年上も年下もひっくるめて『女子と遊ぶのはダサい』と思っているらしい。
まあいい。俺の目的は『目立たないこと』だ。穏便にこの場をおさめよう。俺はすでに五歳。愛想笑いも身につけている。初等科一年生といえば大人だ。俺は笑顔で大人の対応をしようとした。
「もう女子とか家に呼ぶなよー。女子臭いからさー」
は? ぶっ殺すぞ。
俺はキレた。意味がわからん。だいたい『女子と遊ぶな』とかなんだよ。どうしてお前にそんなこと言われなきゃならないわけ? だいたいミリムが女子臭い? 幼稚舎通いの女児に女感じてんじゃねーよマセガキ!
俺はケンカした。『目立たない』『目立たない』『目立たない』。三回心の中で唱えた。以前の人生で身につけた格闘術を駆使してクラスメイト男子たちをボコッた。俺は一人。お前らは十人。だが戦いは数じゃない。戦いは……意思の力がものを言う。
俺は俺とミリムを引き離そうとするあらゆるものを許さない。『目立たない』『目立たない』『目立たない』。三つ唱えて息を吸う。三つ唱えて息を吐く。関係ないやつを巻き込みつつ俺は戦った。昼休みにやったせいであらゆるクラスの生徒が見に来て、最終的に先生が四人ぐらい来た。
最終的にみんなで『ごめんなさい』して仲直りし、その後クラスでは『女子と遊ぶのはダサい』と言うやつはいなくなった。
よかった、これで女子と遊んでも目立たずにいられる。
俺は今週末もアンナやミリムと遊ぶ予定だ。
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21話 大人の世界
前回は主人公がチートで無双しましたね(誇張表現)
引き続きすくすく成長する主人公見守りをお願いします
学んで遊んで運動していると時間がまたたくまに過ぎていく。
初等科一年生期間はすぎ、相変わらずシーラと張り合ったりマーティンと殴り合ったりしているあいだに、いつのまにか二年生になり、その二年生も過ぎていった。
クラス替えがあってもまだくっついてくるシーラと互いに憎まれ口をたたきあったりしつつ三年生期間を過ごし、いよいよ初等科課程も折り返しを超え、四年生になり、クラス替えでまだシーラがついてきて、五年生になることを控えた春休み、ある大事件が起こった。
「レックスくん、私、中等科課程に入ったらいそがしくなるから、もう遊びにこれないかも」
アンナだ。
今ではアンナはもうすっかり大人の女だった。背もぐんと伸びたし、おっぱいも出ている。金髪碧眼の美女……まあうちのママのほうが綺麗なんだけれど、たぶん大多数のママよりはずっとずっと綺麗だ。
俺たちの交友はまだ続いていた。ぐっと頻度は減ったけれど、アンナとミリムはあいかわらず定期的に俺の家に来る。俺は来た彼女らに最高のもてなしを心がけた……ゲームで遊び、動画を見た。買いためた大事なお菓子さえ分け与えた。
けれど綺麗になった彼女から告げられたのはつらい別れの言葉だった。
俺はしばらく呆然としてしまう……そうだ、中等科。アンナは大人で綺麗で、俺はまだまだ子供だった。変身ヒーローの番組を見るのをやめて、ブラックのコーヒーをちょびっとだけ飲めるようにはなったけれど、まだまだ、アンナから見れば子供なのだ。
子供には子供の世界があるように――
大人にも、大人の世界があるんだ。
アンナは中等科に進み、大人の世界に行く。
そこでの戦いはつらいものとなるだろう――この世界は順当に大人のほうが子供より強いので、大人となったアンナはよりいっそう洗脳教育を受けるはずだ。もはや自我の維持が困難なほどの、すさまじい教育が予想される。
思えばアンナは昔から、自分が洗脳されていることに気づいているフシがあった。
だからきっと、この別れもそういうことだ。いっそう洗脳されている自分が、俺に近づいてよからぬ影響を振りまくのを嫌った……そういうことだろう。
アンナ。離ればなれになってもきっと、俺は彼女のことを忘れない。今までだって、一度も忘れたことがなかった。
アンナ……目を閉じてその名を心の中でつぶやけば、きらびやかに浮き上がるのは、楽しく美しい思い出たち。
俺は悲しかった。でも、こらえた。笑って大人になる彼女を見送ろうとしたのだ。
けれどそばで遊んでいたミリムが悲しそうな動作をした……表情は相変わらず無表情のままなのだけれど、彼女はモフモフした黒いしっぽを足のあいだにはさみこんでいた。これは不安や恐怖を抱いている時のしっぽだ。
そうだ。俺たちはいつも三人の時間を過ごしてきた。
アンナと俺。ミリムと俺。それは俺を挟んだ関係性ではあったけれど、一緒に過ごすうちに、アンナとミリムのあいだにも、俺を経由しない関係性ができあがっていたのだ。
ミリムはアンナに抱きついた。
アンナもミリムを抱きしめた。
俺は……俺も抱きついて団子になりたかったけれど、なんか二人の世界ができあがっていたし、アンナのおっぱいが気になってしまって、最近は無邪気にアンナに抱きついたりできないので、二人をそっとながめた。
「長いお休みとか、勉強を教えに来るから」
最終的にそういう話で落ち着いた。
抱きしめ合うアンナとミリムの横で、俺は、『俺もどさくさにまぎれて抱きつけばよかった』と思っていた……
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22話 去り行く彼女
この物語は同じ鍋のミルクを飲んだ幼なじみと幼なじみの間に挟まらない男の物語━━(挟まらないとは言ってない)
通算UA10万突破!
ありがとうございます!
初等科課程はあっというまに過ぎていき、その生活のすべては俺の心に深く刻まれていた。
わかっている。
これもきっと洗脳なのだろう。
だって思い出は美しく、楽しかった。世界にはなんの
油断している。
ならば悲劇がおとずれる。
悲劇はなにによりもたらされるのか?
その具体的なところはわからない。けれど悲劇はいつだって親友のような顔をして近づいてきて、生まれた時からつきあいのあるおさななじみのように親しげにこちらの肩を抱き、甘い声で『お前の幸福は幻だったんだよ』と心に消えないひっかき傷をつけるものなのだ。
だから俺はシーラから突如呼び出されて、警戒した。
すでに俺も十二歳になった初等科六年生課程の暮れだった。
肌を刺すような寒さの中、携帯端末ぐらいあるし、互いに連絡先を交換してもいるのに、『手紙』という古風な手段で、俺に一人だけで人気のない場所に来るように厳命する内容での呼び出しだ。
警戒しない理由がない。
シーラ。それは腐れ縁の赤毛の女だ。
思えばヤツとは幼稚舎課程からのつきあいになる。
保育所からいっしょのアンナやミリムよりつきあいは新しいが、同級生なので単純な時間比較だけで言えば、誰よりいっしょにいた相手かもしれない。
おまけに初等教育課程では二年ごとに計二回のクラス替えがあったのに、そのことごとくで俺といっしょのクラスときている。
しかも会話もかなりしている――シーラというのは、なにかと俺に張り合ってくるのだ。
『目立たない』という信条をもって生きる俺をたくみに扇動し、目立たせてきた強敵である。実際、未だ正体のわからない『この世界に必ずいるはずの敵』の先兵なのかもしれないと思ったことも、一度や二度ではない。
俺はそのシーラからの呼び出しについて、様々な想像をめぐらせた。
そして様々な対策を描いた。
一人で来いと言われているからこそ、仲間を引き連れて行くとか――
待ち合わせ指定時刻より早めに行って、様子をうかがうとか――
様々なケースを想定し、様々な方策を練った。
そして考えすぎて徹夜して、寝オチして、気がついた時には待ち合わせの時刻になってしまっていた。
慌てて着替えをすませてコートをひっつかんで家を出る。
ママに夕食までに帰るとだけ叫んで寝癖を手でおさえながら走る。
待ち合わせ場所は近所に二つある児童公園の一つで、そちらはすべり台が一台あるだけの広くもない公園のせいか、いつも一人も中にいない。
夕暮れの赤い光に照らされ、シーラはすべり台に背をもたれさせて待っていた。
クセが強くて外側にはねた赤毛をいじりながら、俺に気づくと気まずそうな顔をする。
なんだよ四月生まれ、と俺はたずねた。
シーラは笑って、予想もしなかったことを告げた。
「あーあのね、あたし、引っ越すの」
引っ越す――そう言われただけだが、意味はわかった。
俺が過ごす学園は、基本的にエスカレーター式で進学していく。
つまるところ、俺がそうであるように、俺と同じ初等科課程を受けていた者は、同じ学園内の中等科課程に進むのが普通なのだ。
だけれど、引っ越す。
ならばそれは『同じ中等科課程には進まない』という意味なのだろう。
俺は愕然としていた。自分でもよくわからないけれど、ショックが大きすぎてなにも言えなかった。
だって俺の生活する場所には必ずシーラがいた。はりあってきて、うるさくて、邪魔な赤毛の女。背が高くて、でもだんだん俺も追いついてきて、いよいよ中等科に入れば追い抜くはずだった、おさななじみ。
彼女はずっと俺の暮らす場所にいるものと思っていた。
でも、いなくなる。
せいせいする――普段ならそう言っているはずだった。今もそう言ってやりたかった。でも、言えなかった。ちっともせいせいしない。よくわからない大きすぎるショックのせいで、ただ呆然とするだけだった。
「だから、その」
シーラはなにかを言いたいようだった。
でも、「あの」「そのね」と繰り返すだけで、なにも言わなかった。
最後に、力なく笑って、
「……ばいばい。またね、レックス」
そう言った。
俺はどう返事したのか、自分でもわからない。
ひどく動揺していた。ばいばいと言った気もする。なにも言わなかった気もする。気づいたら家に帰って、部屋にこもっていた。夕食を食べる気分になれなくて、いろいろなことをぐちゃぐちゃと考えた気がした。
夜通しそんなことをして、俺の弱い肉体が眠気に耐えきれなくなったころ、俺はシーラに携帯端末で一言だけメッセージを送った。
『休みになったら遊びに行くから』
どうしてそんなメッセージを送ったのかはわからない。
きっと、俺の体と精神がそうすべきだと思ったんだろう。
メリークリスマスイブ
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23話 二人は思春期
クリスマスイブにふさわしい物語でしたね
本日はクリスマスですね。はい。
薄桃色の花をつける街路樹のある通りを抜けていくと、なだらかな上り坂が見えてくる。
中等科校舎はその先にあって、このなだらかでしかし長い坂は、遅刻ギリギリで駆けていく生徒たちの体力を容赦なく奪う。
おまけに一時間目が社会科ともくれば、担当教師の眠気を誘う声もあいまって、学習用机は枕と化し、硬いだけの椅子はベッドと化す。
クラスメイトの顔ぶれは初等科からさしたる変化がなかった。
外部入学組も少なく、そこにシーラがいないことを除いて、初等科六年生のクラスがそのまま進んだような感じだった。
中等科一年生となった俺は窓際で外を見ることがクセになっていた。
ここまで十二年間生きてきて、俺はもうだいぶ『ひょっとしたらこの世界に敵はいないんじゃないか?』と思い始めていた。
今までは『確実にいる』と思っていたのに、今では半信半疑ぐらいの割合だ。
そう、俺は人生に飽いていた。
中等科。算数が数学になり、社会科が複数種類に分かれ、国語には古代言語の科目が増えた。体育は男女別になり、クラスの男子のあいだでは『拾ったエロ画像』のトレードが流行している。
だが俺は活力に満ちる同級生たちを見て、ほほえむだけだ。……ああ、くだらない。生きる意味とは。人生とは。人はなぜ生きるのだろう?
わからない。わからない。モチベーションがわかない。人生とは『死』にいたるまでのモラトリアムを退屈に気づかないよう過ごすだけの無為なものではないのか?
次第に俺は誰ともかかわらず、昼休みなどは屋上でぼうっと遠景をながめるだけになっていった。
手をついた飛び降り防止用フェンスはところどころ塗装がハゲて茶色い中身を露出させている。綺麗な緑色の塗装の中身は錆まみれで醜くて、それはどこか人というものと同じに思えた。
この倦怠感の正体にはなんとなく気づいている。
俺は知りたいんだ。この人生が無為なものではないんだと。この人生に、俺の戦いには意味があって、それは誰かに認められ、ねぎらわれるものだという保証がほしいんだ。
でも、俺の悩みは誰にも話せない。
異世界転生。正体のわからない――『いる』と保証さえできない『敵』との戦い。
……そうだ、このむなしさは、理解者不在が原因だった。
十三歳になる年、俺の心に『独り』という事実が重苦しくのしかかってくる。
アンナ先輩は生徒会でいそがしく、最近は話すこともできていない。
ミリムもうちに来る頻度は減っている。会えば親しくするし、携帯端末で連絡をとりあうことも多いのだけれど、俺の心にわだかまる悩みを打ち明ける相手ではない。
シーラ。いなくなった彼女のことを思い出す。
思えば遠慮斟酌のない言い合いができた相手はあいつぐらいだった。今までは意識さえしていなかったのに、急に彼女と過ごした時間が尊いもののように思えてきた。
でも、さすがに――言えないよな。
俺に〝前世〟があるってことなんて、さ。
誰もいない屋上だった。だから俺はたしかに声に出してつぶやいた。もし誰かに聞かれてもそれはそれでいいかという捨て鉢な気持ちがあったことも否定しない。
「前世?」
だからその声を誰かに聞かれたのだとわかった時も、あきらめたような、どうでもいいような、あいまいな笑みを浮かべて声のほうを振り返るだけだった。
そこにいたのは眼帯で左目をかくし、肘から上に包帯をグルグルに巻いて、首輪をした女だった。
『なんかヤバい』と見た目でわからせるそいつは、片手で眼帯をおさえるようなポーズをとりつつ言う。
「あなたにも〝前世〟があるのね。――血塗られた前世が」
……五月の風は強く吹き付け、がしゃんがしゃんとフェンスを揺らす。
それが俺とカリナとの出会い――
〝前世〟からの〝因縁〟が結んだ、〝呪われし〟〝運命〟の始まりだった……
メリークリスマス
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24話 立ちはだかるもの
ただの厨二病……いやよそう。きっと何かあるかもしれない……
あと今日は予約投稿設定ミス!
投稿遅れてすみません!
俺たちは間違った世界に
カリナというのは俺より一学年上の十四歳で、最近〝使命〟に気づいたらしい。
〝使命〟に気づいてからというもの、カリナはそれまでの交友関係がわずらわしくなり、俺のように屋上で遠景をながめることが増えたのだとか。
わかる。
世界の表層はくだらない嘘に覆われていて、一枚めくったところでうごめく不気味な〝ナニカ〟に誰も気づこうとさえしない。
連中の頭の中では世の中は見えているまま、単純なままであり、誰も〝真実〟に目を向けようとしない。向ける必要性にさえ、気づかない。
あまり言いたくないが、同級生たちは馬鹿なのだ。
勉強、運動、そして恋愛。……それはまあ、きらびやかだし、楽しいんだろうさ。
努力して、成果が出て。苦労して、成就して。がんばって、ほめられて。労力に見合う評価がもらえるというのは気持ちがいい。いや、評価されなくとも、ダメならダメという結果がすぐに見えるのは、ありがたいし、快感でもあるだろう。
けれど、世界の〝真実〟はそんなに単純なものではない。
俺の戦いは簡単に結果がわかるようなものではない。
俺の戦っている『敵』はもっとあやふやであいまいで、そいつらへの対抗は失敗したように見えて成功だったり、あるいは成功したように思わされて失敗していたりする。
そもそもどの時点でのなにが『失敗』で『成功』なのか、それさえわからない。
「ボクらが戦っている相手は、あやふやで強大だ。世間はボクらの戦いなど理解しない。けれど……ボクらだけは知っている。『敵』が今この瞬間も、ボクらを、世界を狙っていることを」
わかりみが深すぎる。
俺は昼休みになるたびカリナと話しこむようになった。
同級生は〝真実〟に目を向けようともしない愚か者ばかりだ。
アンナやミリムだって、俺の悩みはわからない。
だがカリナだけは、俺と同じ悩みを抱き、俺と同じ戦いをしているのだ。
俺たちはたびたび集まって『敵』との戦いについて論じた。
そこでは様々な対抗策があげられる。
対抗策の内容は『神話の悪魔を呼び出す』とかに代表される、『強大な力を宿した、しかしこの世界ではいないとされている者の力を借りる』方向が主だった。
これは世間では一笑に付されるものであり、もしも世の連中に『悪魔』だの『神』だのの実在を語れば、『いるわけねーじゃん』と小馬鹿にされるだろう。
だが俺は百万回転生した十三歳だ。
世界にはびこるマジョリティどもが信じてさえいなかった脅威と出遭ったことだって幾度もあるし、この世界にもまた、そういった者がいると言われてもおどろきもしない。
俺たちは戦いを続けた。
カリナがそばにいない時は戦っていないフリをし、世間の連中にまぎれて同じことをする。
けれどカリナと会えば『敵』への対策をおおいに論じ、なん度か実際に『神』を呼び出す儀式めいたこともおこなった。
そのどれもが成功はしなかったけれど、一つ一つ『できないこと』をつぶしていくのは、この世界で生まれて初めて、有意義に『敵』と戦えている実感を得られるものだった。
「ボクたちは〝前世〟での〝因縁〟がある」
カリナはたびたびこう言った。
どの前世でのどんな因縁か、俺にはわからない。百万回も生きたのだ。かかわった者の数はあまりにも膨大だったし、カリナも己の正体をあいまいにしか語らなかった。
ただ、カリナの口ぶりだとどうにも彼女は俺の導き手として過ごしたことがあるようだった。
俺を導く相手……すなわち敵だ。師匠ポジションのやつにはいつも裏切られてきた。
俺を庇護するために俺を庇護していた者などいない。庇護には必ず理由があった。それも、俺の生命や人生をないがしろにするような、おぞましい理由が。
「ボクは君に〝償い〟をしなければならない。……そう、〝あの時〟の償いを」
どの時だろう……
思い当たることが多すぎて特定は困難だ。カリナが時おりにおわせる『カリナの前世』も、その時々によって老人だったり子供だったり、令嬢だったり貧民だったり、はたまた生命でさえなかったり、概念だったりした。
きっとわざと俺を幻惑するように情報を流しているのだろう。
そんな彼女から『前世での正体』を聞き出すことは困難に思われた。
それに、どうでもよかった。過去にあった確執などにこだわって、現世でせっかく得られた〝同志〟を失うほど俺は愚かではない。
そうして中等科の一年は過ぎていき、カリナが三年生、俺が二年生に進むころ、いよいよ俺たちの前に〝敵〟がその魔手を伸ばしてきた。
「レックス……ボクはもう戦えない」
なぜだ、と俺はたずねた。
カリナはいつもつけていた眼帯――〝魔眼〟の〝封印〟のためのもの――を外し、肘から先に巻いていた包帯を解きながら、言う。
「ボクには……高校受験があるんだ……」
俺たちの前に〝現実〟が立ちはだかる。
カリナは――外部進学組だった。
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25話 彼女は勉強ができない
立ち塞がる〝現実《リアル》〟……
その果てに彼らがつかんだものとは……
受験生の皆さんもがんばってください
成績で人の価値をはかれるか?
俺は『はかれない』と考えている――だってそうだろう。成績なんていうのは、この世界のシステムの外側に立つ支配者気取りの大人たちが、これから進出していく者たちを選別するために作り上げた概念にしかすぎない。
本当の頭のよさは、成績とは別なところにある。
俺は通知表の評価で人を差別したりはしない。
俺が馬鹿だと思う者は、熱意のない者であったり、短慮な者であったり、あるいは他者を馬鹿にしたいがために馬鹿にするような者であったりする。
カリナはそのどれでもない。
真摯に『敵』と戦い続けた戦士だ。
だけれど俺は思うのだ……
カリナは馬鹿だ。
「レックス、君を見込んで頼みがある。ボクに勉強を教えてくれ」
この時、俺は中等科の二年生で、カリナは三年生だった。
そしてこの世界では、年齢が進むごとにより高度な教育を受けるようなシステムになっている――二年生は一年生で習ったことを前提にしたカリキュラムを受けるし、三年生だって二年生で習ったことを下敷きにしたカリキュラムを受ける。
つまり二年生の俺に勉強を教わる意味なんかないはずなのだが……
しかしカリナはフッと笑って言った。
「レックス、君はテストのたびに成績上位者として名前を張り出されるぐらいだからわからないかもしれない。しかし……世の中には君の想像さえ超えた者がいる。たとえば目の前にね」
カリナの成績表には、5段階評価で1が大量に並んでいた。
裁縫は得意なんだよ、とカリナは家庭科のところにある『4』をしきりにアピールしたが、お前魔法科でも1ってなんだよ。
神を召喚する術式とか一緒にやったじゃん。
古い文書をひもといて(古代語)(社会科)、術式を予想して(魔法科)、陣を描いて(美術)、召喚の文言を現代語にして(国語)、必要な道具を作製した(魔導機械科)じゃん。
しかしそうだ、古い文書をひもといて召喚陣とか参考にしたものの、まともな部分は全部俺が描いて、カリナは謎の装飾を二、三点付け加えただけのような気がした……
あと古文書の翻訳も俺だし、術式の予想も俺だったし、陣を描いたのも俺なら、道具の作製もカリナはもっぱら雑談とコーヒー用意要員だった……
結論、カリナは勉強ができない。
俺は……どうしようか迷った。
二年生の分際で外部受験をひかえた三年生に勉強を教えるとか責任が重すぎる。
カリナには悪いがそんな責任は負えない……俺は責任を負うことを極度におそれていた。『責任』とは『負債』だ。人生という道を歩む俺の背にのしかかる、目に見えない重しなのである。
『天寿をまっとうする』という目的をかかげる俺には、少ないほうがいいに決まっている。
だが……だが、俺はカリナを見捨てられなかった。
目を閉じれば一年間、彼女と過ごした思い出がよみがえる。
中等科に進んでからというもの、退屈で色の抜けた俺のモノクロ人生に色をつけてくれたのが、カリナだった。同志と出会えた。ともに努力できる同志と……それだけで俺の心はずいぶんと救われていたのだ。
あとカリナは身体的接触にあんまり頓着しないほうで、古文書とか一緒に見ると肩がくっついてドキドキしたし、夏とかブラウスから下着が透けてたりして、俺は本当にもう目のやり場に困りつつチラチラ見た。
同志を相手にこんなこと意識するというのはいかがかと思うのだけれど、俺は十三歳……精神は肉体に引きずられるもので、なんていうかまあその、思春期だった。
相手が女子だと一度の会話で好感度が十ぐらい上がり、一回の接触で好感度が百ぐらい上がり、今は『ひょっとしたらカリナは俺のこと好きなんじゃないか』と思い始めてるところだ。
下心はないが……
下心は本当にないんだが……
マジで下心はみじんもないが……
俺はカリナに勉強を教えることにした。
幸いにも教師の父のおかげで三年次でおこなうカリキュラムまではわかっている。
努力の成果だ。今は成績がいいものの、いつこの奇跡みたいな能力がガクンと落ちるかわからない。その時に備えて成績を落とさないよう手を打つ意味でわりと先まで予習しているのだ。
俺の油断しない性格のおかげで、こうして三年生に勉強を教えるという異常事態にも対応できる。
百万回の転生という自慢にもならない経歴のおかげで芽生えた油断しない心が、こうしてカリナとの勉強タイムにつながるのだから、世の中なにが起こるかわからない。
受験まであと約十ヶ月……
俺たちの勉強は、まだ始まったばかりだ。
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26話 デニール
タイトルに思春期って入ってたころよりよっぽど思春期してないか? そんなまさか……
今回のタイトルは『デニール』です。よろしくお願いします。
『目立たない』という命題と向き合い続けながら生きている。
『目立たない』『目立たない』『目立たない』。
毎朝三回唱えて鏡を見る。
目立つことは愚かなことだ。目立てば『敵』からも注意を向けられる。『勝利』とは『戦い、勝つ』ことではない。
俺にとっての勝利は『生ききる』ことで、それはようするに『殺そうとさえ思われない』ことだ。
ならば俺が目指すのは路傍の石にほかならない。
道ばたに落ちている石に殺意を向ける者がいるだろうか?
そこそこの大きさの石ならば、なんの気なしに蹴飛ばしたりするかもしれない。けれど指先でつまめるぐらい小さな石ならば? そう、俺は小さな石になりたかった。誰にも見られず、なににも関心を持たれない、路傍の小石。
そのためにはなにより目立たないことだ。
初等科課程以来俺はずっとその目標に向けて全力でとりくみ続けていた――シーラという女がいた初等科時代に、この目標を達成できたとは言いがたい。
だが、今、シーラはおらず、俺のクラスにも、シーラのようにやたらと俺に張り合うヤツもいない。
俺はただ生きればいい。
部活動をやらず、委員会に属せず、とにかく注目を浴びないように……
ところで中等科二年生に進級するとほぼ同時、俺は生徒会に所属していた。
アンナさんから「レックスくん、生徒会に入ってくれない?」とお願いされたからだ。
アンナさんは元生徒会長という役職である。
この学園において、生徒会のメンバーが後輩に生徒会入りを打診するのは珍しいことではない。
だけれどなぜ俺なのだろうという疑問は残る。
俺は当然、問いかけた。あ、あの、その、アンナ先輩……俺を頼ってくれるのはうれしいんですけど、なんで俺なのかなあ、って……
「生徒会って雑用が多いし、時間もとられるし、いいところが内申点しかないのよね。だから、ほかの子には頼みにくくて」
アンナさんはデメリットしか語らなかった。
そんなものを受ける筋合いはない――そもそも『生徒会』という組織は『教師からある程度の権限をあたえられ、生徒を監視する役割』だ。
つまり、大人たちの手先みたいなものである。
洗脳された者の中でも、より大人に従順な者が、『内申点』というエスカレーター進学においてほぼなんの役にも立たないものをエサに就かされる雑用係にしかすぎないのだ。
しかもことあるごとに生徒の前に立つから目立つポジションなのである。
『目立たない』という目標をかかげ、なおかつ洗脳教育から脱し闘争心を失わぬよう心がけ生きている俺にとって、生徒会など所属するメリットが一個もない。
その結果、俺は中等科二年生課程開始と同時に生徒会に所属することにした。
……なにが起こっているんだ!?
わからない。なぜ俺は生徒会に所属してしまったのか……メリットなんか一個もないって思ってたはずだろう。だからやめようと思っていたはずなんだ。
でも俺は気づいたら必要書類を仕上げて生徒会室の門をたたいていた。
いくつかの可能性を考え、俺はようやく、俺が生徒会に所属してしまったもっとも大きな理由に思いいたる。
アンナさんの存在。
彼女は幼少期の俺を管理していた存在だった。保育所時代に出会い、今にいたるまでずっと細々とだが交友のある相手なのである。
生徒会はマジでいそがしいらしくて中等科に進んでからはあまり連絡を密にしていなかったものの、会えばそれなりに話すし、彼女は姉のように優しく接してくれる。
すなわち俺は弟扱いされていて、それのなにが困るかっていうと、アンナさんは俺との物理的距離が常に近い。俺以外に接するのより半歩ほど近いのだ。
そしてこれがもっとも重要なことなのだが……アンナさんは美人だ。
これが遠目に見ると女神かと思うようなブロンドの美女であり、背が高くすらりとした体つき、頭は小さく頭身が高く、おまけに足には黒タイツときている。
タイツ……俺はもちろん思春期男子だから、肉体に精神が引きずられており、女子の体には人並みに興味がある。
タイツと言えばその体をぴったりと覆い隠すものにほかならない。できたらなんかのウッカリで裸とか見たい俺にとってタイツは敵と言えた。
敵と言えるのに、タイツのおかげで俺がアンナさんの脚を見る時のドキドキは三割増ししている。
なぜかわからないから俺は調べた。『知らない』ならば『知る』――これこそ、俺が未知なるものにいどむ時の心構えである。
その結果、俺はタイツの目のあらさの単位が『デニール』と呼ばれていることを知る。
さらに綿密な調査の結果、アンナさんが愛用しているタイツは60デニールであり、一見して真っ黒なのだが、ほどよい透け感を醸し出す、上品にして淫靡なるその『60デニール』という単位に俺は夢中になり、結果、最近は『60』という数字を見聞きするだけでちょっと興奮するようになってしまった。
60デニールのタイツをはいた金髪碧眼の美女が、手を伸ばせばとどきそうな距離で『生徒会入って。お願い』と言ってくる。
俺の精神力では、そのお願いをはねのけることができない――『あ、は、はい。わかりました。アンナ先輩の頼みなら、なんだってやっちゃいますよ』とまごまごしながら答えるのが限界である。
かくして俺は生徒会に所属することになった。
目立たない――この目標の邪魔をするシーラがいなくなったと思ったら、意外なところから伏兵があらわれ、俺を注目の集まる場所に追い込んできたのである。
だが、俺は思い出す。
アンナさんはそもそも伏兵でさえなかった。
なぜならば……
俺が『廊下に名前が張り出される』という危険を冒してまで成績上位者で居続けるのも、勉強を教えてくれているアンナさんのためだったのだから。
アンナさんは最初から俺を目立つ場所に追い込むための活動をしていて――
俺は美人なおねえさんに逆らえない……
年末年始も毎日7時投稿です
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27話 夏の陣
幼なじみのお姉さんが美人なのいいよね……
でも思春期を超えて距離ができるの……やっぱつれぇわ……
「プール行こうぜ」
忙しさのただ中で過ごすうちに、日々はいつのまにか過ぎていく。
先日まで激しい春風と花吹雪の中を登校していたと思っていたのに、季節はいつしか陽光が厳しさを増す夏になっていた。
生徒会の仕事とカリナへの教師役で忙殺されていた俺にとって、中等科二年生になってから夏休みをあと一週間後に控える今日までの日々はどこか夢のようだった。たしかに過ごした日常のはずなのに、『過ごした』という実感がきわめて薄い。
そんなおり、俺が二学期にせまった文化祭の準備のことで頭をいっぱいにしていると、マーティンから声がかかったのだった。
プール――この学園で『遊ぶために行こう』という文脈でその単語が用いられた場合、それは学園と駅のあいだにある大型遊泳アミューズメント施設を指す。
入場料は学割がきくものの決してお安くはなく、行くのには多少の勇気を必要とする場所だ。
また、市民プールとも違うので、学園指定水着で行くのはためらわれる。水着代と入場チケット、それから当日の飲食代と考えると、金銭的事情から、中等部の学生がおいそれと行ける場所ではない。
そういった事情はマーティン側も認識しているはずだが、彼は言う。
「実はチケットがあるんだ」
なんでも親戚に該当プール施設の株主がいるらしく、そこからチケットが流れてきたのだとか。
その親戚は『彼女でも誘って行きなさい』と言っていたらしいが、マーティンに彼女などおらず、結果として俺を誘ったのだとか。
「なあレックス、こうは思わないか? 彼女はいなくてもいい。現地調達だ。わかるな?」
でも俺にはカリナがいるからな……俺はぽつりと漏らした。
案の定マーティンは食いついてきたので、俺はニヤニヤをおさえながら言う。いや、彼女とかじゃないよ。全然そういう関係じゃないんだけど、ちょっと三年生の先輩……女子の先輩とプライベート? で会っててさ。その関係でいそがしいっていうか……
俺は女子の先輩と個人的関係を持っていることをマーティンに自慢したくてたまらなかった。
もちろん彼女じゃない。彼女じゃないが……先輩女子とつきあいがあるというのは、同級生男子に自慢したい衝動がわくのである。
俺はこの衝動をおさえきれなかったし、保育所からつきあいのあるマーティン相手だったら、まあ多少自慢げに話しても敵対関係にはならないだろうという打算もあったし、まあ敵対してもいいかなという気持ちもないではなかった。
ただ、マーティンの応手はこちらのまったく予想外なものだった。
「お、俺だってそういうのいるし」
お前にぃ?
嘘だぁ。
俺は疑った――マーティンというのはもちろんあの保育所で過ごしたから、一歳のころは三歳のおにいさんおねえさんに世話されていた経験がある。
保育所からずっとエスカレーター式のこの学園において、そういった『一歳のころ世話してくれていた相手』とつきあいが続くケースは、実のところ少なくない。
ただしマーティンの世話役は男性のはずだった。アンナに世話されミリムを世話した俺などは、マーティンによく『俺も女の子に世話されたかった』とうらやましがられていたのだ。
そういった関係性の女子もおらず、さらにそれ以外にも女性の影がまったく見えないのがマーティンという十三歳男子だ。
だから俺はマーティンに色々と先んじてるし、うらやましがられる立場だと認識していた。
……だというのにマーティンは断固として『個人的につきあいのある女子がいる』と言ってゆずらない。
もしもそれが真実であれば、俺はマーティンという男のことを見誤っていたことになる。
近しい者の認識を誤っているというのは放置できない。
俺は言った。そこまで言うなら俺も金出すからチケットを二枚追加して、互いの『そういう相手』をつれてこようぜ。できるもんならな――俺はマーティンが引き下がるのを期待した。しかしマーティンは引かなかった。
こうなると俺も策をめぐらせねばならない……
カリナの名前を出した以上、それはもちろんカリナをつれて行かねばならないのだろう。
しかし困ったことにカリナは闇属性だ。
人の多い場所を嫌い、肌をさらすのを嫌う……学生でごったかえす夏休みのプールとか、カリナがもっともいやがりそうなスポットのうち一つに違いない。
そのカリナをどう説得するか……あれ、これ無理じゃね? 俺の冷静な部分が『やめとけ。今からでも取り下げろ』とうったえてくる。しかしマーティンが言う。
「レックスこそ『やっぱナシ』とかナシだからな。お前が嘘ついてねーならちゃんと証明しろよ!」
やってやろうじゃねぇか。
俺は引き下がれなかった。
男には意地がある。それは客観的に見れば『生きる』という目標のうえでいかにもちっぽけな意地かもしれないが、主観的には時に命より重い意地だった。
俺とマーティンは互いに相手を見下すような笑みを浮かべる。
これはたぶん、生まれて初めての戦い。
男のプライドをかけた、中学二年生、夏の陣――
年末年始も毎日7時投稿です
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28話 なかま
難しいお年頃になった主人公の成長を見守ってね
もちろんカリナはイヤだってさ。
「ボクにとって陽光は敵なんだ。ヤツとはわかりあえないのさ」
あと水着とか恥ずかしいし……そう小声で付け加えた。小声で付け加えたほうが本音のような気がした。
しかし感触は思ったより悪くない。
度重なる会話やボディタッチで『カリナはひょっとしたら俺のことが好きなのかもしれない』と思っている俺ではあるが……
油断をしない性格なので、ひょっとしたらカリナが俺にまったくの無関心で、プールに誘っても『は? なんであなたと?』とかいう返事をされて心に消えない傷を刻まれることも覚悟していたのである。
しかしその懸念は払拭された――カリナはやっぱり俺のこと好きなのかもしれない……図書室で隣り合っているこの距離になんだかドキドキしつつ、俺は周囲の迷惑にならないよう小声でカリナを説得する。
基本ラインは『勉強の息抜き』という名目で、チケット代は払わなくていい旨を告げ、二人きりではなく友達と四人になるはずだ、ということも付け加えた。
論理的に考えて『言い訳の提示』『デメリットがないことの提示』『複数人で行くことの提示』……ここまでそろえればかなり心のハードルは低くなると思う。
だが『人混みが苦手』『水着を人前でさらすのがイヤ』などは本人の心の問題なので、これらを乗り越えるためのなんらかの動機付けが必要だ。
そしてカリナをたきつけるような言葉は俺の口から出てこなかった。
俺は追い詰められる――カリナに羞恥心をどうにか飛び越えてもらうために言える言葉がないのである。
思えば俺はカリナと前世の因縁で結ばれているらしいのだが、今生のカリナのことをそこまでよく知らない。
なにが好きで、なにが嫌いで、朝食はジャムなのかバターなのか、ベーコンなのか、ソーセージなのか、目玉焼きは半熟なのか固焼きなのか、そういうのをなんにも知らないのである。
交渉のための手札がないので、俺はぶっちゃけることにした。
実は幼なじみのマーティンにカリナのことを自慢してしまった。プールに連れて行くと言ってしまった。非常に個人的な事情で本当に申し訳ないんだけれど、どうか俺のプライドを守ってはくれないだろうか――
ぶっちゃけるのは最後の手段というか、ほぼ捨て身特攻だった。
へたするとここまでの関係性が無に帰らないとも限らない情報提供である。
俺は言い終えたあとで後悔した。カリナと築き上げてきた関係性と、マーティンとのくだらないプライド争い。この二つを天秤にかけた時、俺のプライドよりカリナとの関係のほうが重いことに気づいたのだ。
俺はすぐに陳謝した。そしてプールは忘れてくれと申し出た。
しかしカリナは言う。
「まあ勉強のことでなんらかのお礼をしたいと思っていたところだ。よかろう。君の召喚に応じ、ボクの力を貸してあげよう……」
これはまったく意外な反応で、俺はおどろき、呆然とし、しばらくそうしたあとでようやく我に返って感謝した。
カリナがなかまになった!
コンゴトモヨロシク……
年末年始も毎日7時投稿です
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29話 不可知
料理の好み、秘めた性癖……
十人十色の人生を引き続きお楽しみください
俺の中の百万回転生した部分が警鐘を鳴らしている。
そうだ、どうして気づかなかったのだろう?
マーティンからの誘い、カリナの快諾。プールに行く話はとんとん拍子で決まり、そこにはなにも障害らしきものがなかった。
俺はいともたやすく目的をかなえてしまったのである。
おかしい。
だってそうだろう、物事はうまくいくはずがないんだ。うまくいっているならそれは『敵』からの罠を疑うべきなんだ。
だというのに――中等部の夏休み、男女二人ずつで遊泳アミューズメント施設に行こうとしている。そこにはなんの障害もなくて、いともたやすく、夏をエンジョイする準備が整おうとしていた。
間違いない。罠だ。
だが、誰がなんの目的で俺に仕掛けた罠なのかわからない。
これは脅威だ。
『敵』の姿はあいかわらず見えない。ならば目的もわからない。俺が『敵』について知っていることといえば、『闘争心を削ごうとしている』という、おおまかな方針だけなのである。
検証が必要だ。
大型遊泳アミューズメント施設行きを週末にひかえたころ、俺は『罠』の仕掛け人が『どちら』なのか検討していた。
この状況にかかわっているのは二つの勢力だ。
プールに行こうという話とチケットを持ってきた、マーティン。
そして、俺の誘いにいともたやすく乗ったカリナ。
マーティンは幼なじみだ。
つきあいは保育所時代からになる。すなわちすでに十年来の友人だった。
その言動や思想はそこそこの注意深さをもって精査し続けていたので、マーティンが『敵』である可能性は低く思える。
しかし一方で『親戚からプールのチケットをもらった』というところに陥穽があるようにも思えた。
『親戚』がマーティンを使ってなにかをしようとしている可能性もまた、捨てきれないのである。
そしてカリナ。
彼女はどうにも前世からつきあいのあるらしい俺の同志だ。
だが俺はカリナについてよく知らない……『敵』との戦いのため、あるいは外部受験対策の勉強のためにおおいに語らうが、彼女のパーソナルデータにかんして、なんら情報を持っていないのである。
そもそも俺の見立てでは、カリナという女子は夏休みのアミューズメント施設とか絶対に行きたがらない性格の持ち主だった。
それがあっさりと同行を承諾したのだ。
『勉強を教えてもらっているお礼』という承諾理由にはいったん納得したが、それが『行きたくもない光属性の空間に行く』ほどの動機の発生源たりうるとも思えない。
それとも女子とはそういう気まぐれを起こすものなのだろうか?
わからない。
俺は女子について知らなかった。知ることは願いでさえあったのだけれど、男子と違って女子の中身は複雑で、俺は彼女たちの内心についての推察にいつも難儀させられていた。
プールに行く日までは残すところ一週間さえなく、この期間で、今までなしえなかった『女子について知る』という難行をこなせるとはとうてい思えない。
そこで俺は、女子の内心について知るために、アドバイザーを招くことにした。
中等部一年生となったミリムである。
家に招いて宿題を見るついでに、俺はミリムに問いかけた――実は来週末に大型プールの、ほら、あそこに行くことになったんだけど……
「…………わたし、誘われてない」
俺はテーブルを挟んで向こう側にいるミリム――の後ろで揺れるしっぽの動きを見た。
カーペットの敷かれた床の上で、彼女のふわふわした黒いしっぽは、床をこするようにだらりとたれ、ゆったり動いていた。
あれは『いやな気持ち』のサインだ。
俺は慌てて補足した――ほら、クラスメイトとのつきあいだから。同級生とのあいだに持ち上がった話で、なんていうの? 後輩を誘うヒマはなかったっていうか……
なぜかすさまじく言い訳がましいなと自分で思った。
俺は話しながらミリムさんにおやつのクッキーを食べさせた。俺の差し出したクッキーにミリムさんはかじりつき、もぐもぐと
わからない、なぜ俺はこんなにミリムさんにへりくだっているのだろう?
『同級生とのあいだに持ち上がった遊びの約束にミリムを誘わなかった』――別におかしいことじゃない。おかしいことじゃないんだけど、なぜだかすごい悪いことをしてしまった気持ちになってたまらなかった。
支配されている。
自己分析の結果、発見する。俺はミリムの機嫌を損ねることを極度におそれていた。
ミリムはかわいい妹みたいなものだ。つきあいは長く、深い。月に最低一度という頻度でミリムは俺の家に来る。用事がなくても来る。
それはもはや習慣化していて、ミリムを一度も部屋に招かない月などあると、俺はなんだか落ち着かない気持ちになるぐらいだった。
そうだ、俺にとってミリムは『水』『空気』『食事』『ミリム』という感じだった。生命活動に必要な要素なのである。
生命活動に必要なんだから、ないと死ぬ。俺はミリムに嫌われて生きる自分というものをまったく想像できないのだった。月に一度はあの真っ黒い短髪をわしゃわしゃしないと生きる気力がわかないのだった。
俺がミリムの機嫌をそこねることをおそれるのはそんな理由からで、これはもう赤ん坊時代のママのおっぱいと同じであり、すなわちミリムは今の俺にとっておっぱいも同然だった。いやまったく同然じゃない。ミリムはおっぱいではない……俺は冷静さを欠いていた。
深呼吸。
そうして落ち着きを取り戻した俺が、ミリムに『女心』についてたずねる前に、ミリムのほうから口を開く。
「誘って?」
俺は首をかしげた。
「わたしも、プール、誘って」
えっ、いや、その、いいのかなあ? ルール違反じゃないかなあ? うーんその、ミリムには難しいと思うんだけど、これは男と男の意地のぶつかり合いなので、俺がミリムを連れて行ったら必要以上にマーティンをたたきのめす結果につながりかねないっていうか、まあその、一緒に行こう。
俺はミリムを誘った。
あの黒い瞳でジッと見られると俺はまったく逆らえなくなる。
表情にとぼしいミリムはそれでもちょっと笑って、腰の後ろでしっぽをぶんぶん振った。
スカートとしっぽの相性はとても悪いゆえに、ミリムはスパッツ着用なので、スカートがめくれても心配はない。心配はないんだが、俺の前だけにしてくれっていうふうには思う。
ミリムはクッキーを一枚手にとり、俺の口に運んだ。
俺はそれを口で受け取ってうーんと悩んだ。マーティンに『もう一人連れて行っていい?』って聞いたらあいつ発狂しないかなあ。
この世には謎がたくさんだ。
女子の考えはけっきょくわからない。俺にはあまりにも難しいメカニズムにより動く、謎の知的活動体なのだろう。
よいお年を
1月1日も7時投稿です
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30話 男の友情
本年もよろしくお願いします
感想ありがとうございます!
幼馴染(かわいい)がいる人生。きっと陰謀。
人生なので年末年始も休まず続きます。
金を払うことが格好つけることではないとわかっている。
しかし、なぜか、ミリムを説得してまで俺はミリムのチケット代金を払うことを求めてしまったのである。
わからない。『払いたいミリムの意思をまげさせ』『決して多いとは言えない貯蓄を切り崩し』それでも払ってしまう……この精神の働きが、百万回転生した俺にさえ複雑怪奇で、自分の行動原理がさっぱりわからなかった。
でも、俺が払うと決まったあとに胸のすくような心地があったので、たぶん、俺の心になんらかの自己満足があったんだろう。
その日の大型遊泳アミューズメント施設でのできごとを詳細に記憶するのは、少々情け容赦がなさすぎると俺は感じている。
マーティンは、誰も連れてくることができなかったのだ……
これは『マーティン、撃沈!w』という単純な話ではない。
たとえばクラスメイトを誘えば一人か二人、マーティンの誘いに応じそうな者はいたように思う。
あるいは後輩か。ホウキフットボール部で活躍するマーティンはそこそこの人気があって、マーティンの中身を知らない、あこがれにより描かれる幻想マーティンしか知らないような後輩をうまくだまくらかして連れてくることも、不可能ではなかっただろう。
だが、のちにマーティンに述懐されたことだが……彼は、俺に、格好つけたかったそうだ。
俺が先輩女子を誘う。
ならばマーティンも、先輩女子を誘いたかった。
俺が後輩女子を連れて行くと連絡した。
その時まだ誘いに応じる相手を見つけられていなかったマーティンはおおいにあせり、そして自分でハードルをあげてしまった……なんと、高等部の先輩女子を求めたのである。
いくらなんでも無茶がすぎる。
中等部学生など、高等部学生にとっては『子供』だ。
アンナなどがいい例だろう。彼女にとって俺は常に『子供』だった。
あとアンナの見た目を見れば一目瞭然だ……あんなに頭身数の高い中等部生徒なんかどこ見回してもいないだろう。高等部は骨格からして大人なのだ。俺たちみたいなへちゃむくれの誘いに乗るはずがない。
俺はマーティンを哀れみ、ちょっと優越感を覚え、しかし彼の健闘をたたえた。
その日は一日中マーティンの機嫌ばかりとっていた気がする――もちろんカリナやミリムをないがしろにしたわけではないが、プール遊びの日に俺の心の中心にいたのは、間違いなくマーティンだった。
「レックス、お前はいいやつだよ。やっぱ、男友達はいいよな……」
そうだ。俺たちには女の子のことなんかわからない。
俺たちはまだ子供で……女の子と遊ぶよりも、男と遊ぶほうが、心地がいい。
ただなんとなく……彼女とかいたら、仲いいやつに自慢できるかな、とか。そういう程度に考えているだけだ。
その考えはいかにも子供で、そして女性に対しても失礼なものだろうと思う。
でも……自慢したいよな。なんでもないフリして、『俺、彼女いるけど』って同級生ににおわせたいよな……ズバッと言うんじゃなくてさ、さりげなく、『ひょっとして彼女いる?』『あ、わかっちゃった?』ってやりたいんだよな……
「わかる」
俺たちは水着姿で抱き合った。
半裸で抱き合う中等部男子が珍しかったのか、周囲がちょっとどよめき、ミリムにしっぽでたたかれ、カリナがなにかに目覚めたような顔をしていた。
俺たちの姿を見てカリナがなにに目覚めたのかわからない。でも、カリナは言ってくれた。「男同士……そういうのも、いいね」。
彼女はやはり俺の味方だった。マーティンもまた、俺の味方だった。
カリナとミリムを連れている俺を見て、まずマーティンが『口汚くののしる』という行動に出たせいでその日のプール遊びがご破算になりかけた朝のことをすっかり忘れ、俺たちは夕暮れまでプールを楽しんだ。
帰り道、カリナを駅まで送った時、彼女は言った。
「レックス、ボクは今日の感動を忘れないよ。男同士の友情……目の前で見たその衝撃を忘れない」
俺たちの姿が人に感動を与えるのは少々予想外だったが、それでも、カリナがなにかに心動かされたなら、それはすてきなことのように思えた。
だからきっと、今日はいい日だったのだろうし――
今生の俺は、前世までより、ちょっとだけ幸せなのかもしれないと、そう思えた。
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31話 卒業
感想ありがとうございます
前話は書いた時作者も「こうなる!?」っておどろきました
本年もよろしくよろしくよろしくお願いします
文化祭を終えてようやく本年度の大がかりなイベントがすべて終了し、ホッと安堵の息をつくのもつかの間、目前にはカリナの受験がせまっていた。
エスカレーター式の学園において、わざわざ外部に行く者の事情については詮索をしない文化があった。
そこにはどうしようもない『家庭の事情』が立ちふさがる場合が多かったし、時には家庭の経済事情にまで踏み込んだ話になってしまうからだ。
だから雪がちらつき始める季節がおとずれ、受験最後の追い込みに入るまで、俺はカリナが外部受験を選ぶ理由を知らなかった。
「クラスにうまくなじめなかったんだよね」
それは周囲に人のいない図書室の片隅で、唐突に語られた。
「ボクは中等科からの外部入学組だったんだけど、クラスの半分ぐらい初等科からのエスカレーター組じゃない? だからまあ、なんていうか……すでにいろんなグループがあって、外部入学組のグループにも入れなくて、これが高等部まで続くと思ったら、ちょっとね」
もし俺が、今生で人生一回目ならば、『そんなことで?』と無邪気に聞き返していたかもしれない。
だが俺は知っている。人間関係の大事さを。その取り繕いがたさを。
スタートでつまずくと、もう挽回は難しい。
そうして自分不在で固まりきった人間関係に割り込んでいくのは大変な労力が必要だ。エスカレーター式の学園ではその『固まりきった人間関係』が中等科を卒業しても続いていく。
ならば『知らない土地で最初から始める』というのは、悪い選択ではないように思えた。
「レックスはボクと同類ではなかったんだよね」
春風の吹きすさぶ屋上での出会いを思い出す。
前世。この世界に必ずいるはずの『敵』。それを意識さえしない同年代の連中……俺は独りきりだった。自分以外が馬鹿に見えてしかたがなかった。
でも、俺の孤独は、孤独ではなかった。
だって戻れる場所があったから。戻る気になれば戻れる『居場所』は、クラスに、あるいはそれ以外にあったのだ。
「実は外部受験しなくてもいいかなっていう気持ちも、ちょっとあったんだよ。だって君がいたからさ。高等部に入っても、君とまたこうやっていればいいかななんて……まあでも、君にはボク以外にもいたんだよね。だから、やっぱり頼りっぱなしはよくないかな、なんて」
……そういえば、あの夏のプール以降、カリナの勉強への熱意が増したような気もする。
あのお誘いは、彼女にとってなんらかの転換点だったのかもしれないと、今さらになって思えた。
「実はね、クラス以外の場所に目を向けたら、けっこう同志がいてさ。今ではネット上だけだけど、そういう人たちとも、ちょっとつきあいがあるんだ」
同志?
彼女は「男の友情を好む、同志だよ」と答えた。男の友情を好む同志……その意味するところはうまくつかめなかったけれど、それはきっといいことなのだろうと思った。
「受験がんばるよ。もう少しだけど、よろしくね、先生」
カリナは笑った。
もう眼帯も包帯もない。出会ったころとすっかり変わった彼女が笑って、俺はなんだか、寂しく思えた。
だって、彼女は変わる。受験を終えて外部の高校に行ったら、俺のことなんか忘れてしまうかもしれない。
妙な確信があった。
彼女はきっと、もう、『敵』と戦わない。
この世にひそむ悪辣なる真実を見ることもないだろうし、『敵』に対して対策を立てることもしないで――普通の人のように、生きていくのだろう。
……卒業していく。
望むと望まざるとにかかわらず、彼女は卒業していく。
どこかはかなげにほほえむ彼女を見ていて、それはきっと、いいことなのだろうと思った。
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32話 再会
前回は人の人生が大きく動き出しましたね
立派な大人になってほしいと思います
カリナは受験に成功し、外部の高校へ進んだ。
ちょっとしたお別れ会もおこなった。参加者は俺とミリムと、マーティンと、彼女だけだった。
彼女の個人的な友人はいない。
そのことについてなにかを言うような者は、お別れ会には一人もいなかった。
いよいよ俺は三年生となり、昨年十月あたりになんかうっかり生徒会長になってしまったので、任期満了まで慌ただしく活動をすることになる。
当然のようにミリムに生徒会入りを打診し、ミリムはこれを了承。成績も問題なく、エスカレーター式にこのまま高等科課程へ進むことになるだろう。
慌ただしくも平穏な日々が過ぎていく。
だからきっと、なにかが起こるだろうと俺は覚悟していた。
今生の俺はたしかに前世に比べればちょっと幸福なのかもしれない。
俺の周囲の人は軽々に不幸にならず、俺にも『人生を楽しむ』ということが少しぐらいはできているのだろう。
だが、さすがに平穏すぎる。
これは前フリだ。たとえばゴム。それは伸ばせば伸ばすほど、強い勢いで縮むだろう。あるいは川。時間をかけて水をせき止めた
俺が過ごしている今の『平穏』は、ゴムを伸ばす時間であり、水をせき止める時間にしかすぎない。
いつか来る。今にも来る。すでに来ている。もう来る。俺は俺を襲う『敵』のよからぬ力への警戒をおこたらなかった。
情報収集は可能な限りしている。自己鍛錬も十全だ。ただ、『敵』は予想もしないところから来るのが常であり、事前に己をどれほど鍛えようがすべて無意味になることも珍しくはない。
本当の本当に、『敵』はその影さえさらさないのだ。
このまったく姿を見せない『敵』はいつでも俺を戦慄させていたし、『敵なんかいないんじゃないか?』と信じたい衝動をこらえるのには、大変な意思力が必要だった。
『目立たない』『目立たない』『目立たない』……俺はいつも三回唱えて壇上にのぼり、生徒会長のあいさつをする。
中等科の生徒たちの視線がいっせいに俺に集まるのを感じる。俺はあまり目立たないようにそつなく特徴のないあいさつをし、教師に強制されたような拍手をもらい、壇上を降りる。
今日も存在感を消しつつみんなの注目を一身に集め、そうして一学期の終業式は終わり、夏休みが始まる。
その夏休みも過ぎ、ミリムを次期生徒会長にするべく根回しをしていたら文化祭も終わり、生徒会長選挙も俺の計画通りミリムを会長として終了した。
あまりにも平穏にいっさいがすぎていく。
中等科課程はそうして終わり、大きな事件もなく、俺がようやく『中等科ではもうなにも起らないだろう』と気をゆるめた――
その間隙を突くように、『それ』は現われた。
「久しぶり。あたしのこと覚えてる?」
春休み。
中等科と高等科のあいだに位置する、期間――
高等科のクラス分け掲示板を見る俺の背後からかけられた声があった。
振り返り、見たそこにいたのは――赤毛の女。
この学園の制服に身を包んだそいつは、初等科卒業時にわかれた、四月生まれのシーラその人だった。
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33話 ライバル
百万回も転生してるとなにがなんだかわからなくなりそう
レックスくんの学生生活も折り返しです。よろしくお願いします
俺が外部受験しなかったことを失敗だと感じるのは急なのぼり坂をのぼっているさなかのことで、中等部よりも標高が高い位置にある高等部は見晴らしと引き替えに交通の便を手放していた。
校舎についたらついたで一年生は教室が三階なので、俺たちは急な勾配をのぼりきった足で三階まで階段をのぼっていかねばならない。
高等部には外部入学組もかなりいる。
今までは多くとも三分の一程度の割合だった外部入学組は、高等部に入ったとたんにクラスの半数となった。
俺が選んだのは高等教育科なので、それでも半数
外部組。
エスカレーター組。
高等部に進学してからというもの、こういった区分がよりいっそう強固に生活の中に仕切りを作るようになってきた気がする。
エスカレーター組はやはりエスカレーター組なりの『誇り』みたいなものがあるようだったし、外部組も『エスカレーター組は自分たちを見下しているような気がする』とよくわからない対抗心を持っている様子だった。
争わなくていいところで争う……やはりみな洗脳を受けているのだ。
エスカレーター組に蔓延する貴族的な空気は、まさしく『エリート意識』だった。
この『エリート意識』というものは支配者によりもたらされる甘い蜜であり、実体のないその蜜をさも『ある』かのように思わされることで、いさかいが生まれる。
いさかいをおこなう二者は、真の『敵』が自分たちの外部にいることに気づかず、幻想のエリート意識を守るために、目の前の、本当は味方になるはずだった相手との争いに血道をあげるようになっていくのだ。
まあ、争いが好きな者たちは勝手に争えばいい。
俺はもちろん、争いなど好まない。
俺の目的は『生き残ること』だ。そのために『目立たない』という目的をもって行動しているし、『勝利』とは『戦わず勝つことだ』というのを身にしみてよく知っている。
そして俺は知っている――戦いの結果は味方の数では決まらない。敵の数で決まる。
つまり俺の行動はすべて『敵を増やさないこと』に終始すべきであり、間違っても『元中等部生徒会長だから』とかいう理由でエスカレーター組の代表みたいに持ち上げられる流れは避けるべきなのである。
ところで、俺は再会したシーラと同じクラスだった。
「あのさ、レックス……その、なに? なんていうの? その……」
再会直後のシーラは、このように、『なにか言いたいことがあるが、うまく言えない』という様子だった。
その様子に俺も似たような態度でかえしてしまうことが多い。なにその? なに? なんなの? なんていうの? ……照れる。
初等科卒業と同時に離ればなれになった彼女は、高校生となって、すっかり大人びていた。
落ち着きが出たのはもちろんだが、体つきもすっかり女性らしくなっていて、なんかいいニオイがする。
俺は照れてしまって、『あいかわらずハリネズミのトゲみてーな髪の毛してんな』とか、『その赤毛は血で染めたんですか?』とかそういうことしか言えなかった。
そうなるとシーラのほうも「あんたも死んだ魚みたいな目してるわね」とか「勉強以外の友達はできた?」とかかえしてきて、俺たちのコミュニケーションは九割ぐらい照れ隠しの罵詈雑言で成立していた。
そうやって言い争っていると、いつのまにか俺の周囲にはエスカレーター組の連中がいて、シーラのまわりには外部入学組がいて、俺とシーラのごくごく個人的な言い争いが、エスカレーター組代表の俺と外部入学組代表のシーラの戦いみたいにされていった。
いや、違うんだよ。
俺とシーラは本当は仲良しなんだ。
でも顔を見れば言い争いが始まり、学年はじめのテストでは俺とシーラで同点をとって引き分けとなったりして、それ以来、成績はおろか授業中の受け答えなんかでも競っている。
もちろん俺は争いを避けたいと思っている。
そのためには、俺がどこかで折れればいい。そうすればシーラとの戦いは終わり、俺の敗北というかたちで、エスカレーター組の連中も、俺ではない代表者を祭り上げるようになるだろう。
ここでシーラに敗北するのは、将来的には勝利を得ることにつながる。
勢力を代表し矢面に立ってバチバチやりあうのは、いらない傷を増やすばかりだ。得がない。俺は得のない行動はしない。
なぜならば、俺はただの十五歳ではない。百万回生きた十五歳だ。精神の成熟具合はクラスメイトの比ではない……将来のために、今、負けておく。その程度のこと、簡単にできる。
「次の中間テストで勝負ね。負けたら勝ったほうの言うことをなんでも聞くこと」
ん? 今『なんでも』って言ったよね?
やってやろうじゃねーか!
負けられない勝負が始まった。
盛り上がるクラスメイト。俺とシーラを中心に真っ二つにわかれたクラスは叫びに叫び、俺たちの戦いをあおりにあおった。
俺はシーラに負けたくなかった。
いや、『なんでもいうこと聞く』っていうのが魅力的とかじゃなくてさ。ほんと、そうじゃなくてね? シーラを相手に手を抜いてわざと負けることは、全力で争い続けた初等科時代の美しい思い出をけがすことになるような気がしたのだ。つまり礼儀作法の問題である。
俺は百万回転生を繰り返した十五歳だ。『生ききる』……その目的に変わりはない。変わりはないが、それはそれとして、シーラがなんでもしてくれるっていうから、勝ちたい。
俺たちの戦いは二つ隣のクラスまで知れ渡り、なぜか賭けがおこなわれ、胴元のマーティンからオッズがだいたい五分五分であることが知らされた。
俺はいさかいを好まない……だが外部入学組の連中にバカにされるのは正直しゃくだ。いいだろう、シーラに賭けたことを後悔させてやる。
俺は裂帛の気合いをもって中間テストにいどんだ。
そして――
俺は勝利した。
俺はこうしてシーラに『なんでもいうことを聞かせる』権利を得たわけだ。
そして気づいた。
…………この権利、いざ行使する段になると、めっちゃ困らない!?
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34話 シーラと命令権とプライド
いったん離れてから再会した相手を幼馴染と定義することもありますね
たぶん寝かせてもっちりさせるパンみたいな感じだと思います
引き続きよろしくお願いします
人生とはプライドを適切に捨て続ける旅路である。
プライド――それは精神の
プライドというガラスの檻の中に展示すると、どれほど価値のないものでも、失いがたい重要な宝物のように見えてくるからやっかいだ。
プライド一つあるだけでくだらないものを身命を賭して護りぬき、そうして本当に大事なものを護れないことも起こりうるだろう。
だから俺は、プライドなどない心作りを目指して、日々適切にプライドを捨て続けている。
俺の宝物は俺の命一つきりだ。それ以上はいらない、それ以外もいらない。
『天寿をまっとうする』――そのためだけに俺は生き、死のう。言うなれば、『長生きのためならプライドさえ捨てる』ことが、俺のプライドだった。
ところがこのプライドというのは知らないうちにわいてでているものだ。
プライド一つ見かけたら三十はプライドがあると思え――俺が心に刻む名言である。さて、どこの世界で知った言葉だったか……
ところで俺はシーラに『なんでもいうことを聞かせる』権利を得た。
もしここが『口に出した言葉が強制力を持つ世界』であれば、本当に『なんでも』言うことを聞かせられるだろう。
俺が『死ね』と言えばシーラは死ぬし、俺が『今後の人生、語尾にニャンをつけて生きていけ』と言えばシーラはその通りにするはずだ。
しかしこの世界にはそういった法則はない。
それはいいことのようで、悪いことだ。なぜならば、社会通念とか空気とか、明文化されない様々なものを加味せねば権利行使もできない。
明文化されないルールが大量にある世界というのは、実際に強制力を持つ明文化されたルールのみが支配する世界よりも、より『生き抜く』ことが難しい。
なぜならば自分がルールに違反しているのかどうかわからず、ルール違反者への罰則は静かに、わかりにくく与えられ、気づけば取り返しのつかない場所に踏み入っているということも多いからだ。
そういった社会の風潮を加味したうえで俺はシーラへの命令を考えなければならず、これがクソめんどうくさい。
だいたいクラスメイトの女子になにを命令すりゃいいんだよ。なんにもねーよ! 法律もモラルもあるんだぞ!
だから俺は命令権の拒否をしたいとシーラに申し出た。だがシーラは言う。
「勝ったんだから、ちゃんとやりなさいよ」
なんでお前が命令するんだよ!!!!!!!!!
俺はいらない心労を背負うことになった。
命令権の放棄をしたい。だがシーラは意地っぱりで情けをかけるような行為は断固として拒否する。クラスメイトも俺がシーラになにを命じるか楽しんで鑑賞しているフシがある……
勝利して追い詰められる。
これが『明文化されたルール』のみによって動いているわけ
だが俺は逆境を追い風にできる十五歳だ。いいだろう、命令。お望みとあらばしてやろうじゃねーか。
俺は覚悟を決めて笑った。そうして普段であればとても聞けないようなことを聞くことにする。シーラにとっては答えにくいことかもしれないなあ? けれど命令権がある。逆らえまい……俺はたずねる。
初等科の終わり、家庭の事情で転校していったじゃん。
高等科になって戻ってきたのも、家庭の事情?
「それ、命令権使ってまで質問すること?」
シーラはなにやら勘違いをしているようだ。
たしかにこの質問は、特別、命令権を使ってするようなことではない……
俺にとって、『シーラに質問する』という行為そのものが、命令権なしではできないことなのだ。
『質問する』。
その行為単体を取り出して見た場合、抵抗がある者はいないだろう――だが、ここに幻妙なる『社会の空気』というものがかかわると、とたんに行為のハードルが上がる場合がある。
それはたとえば『みんな知ってるよね』という前提で人が話している時、その話を中断してまで『なんのこと?』と聞きたい場合だったり――
社会的権力のある者がつまらないダジャレを言って周囲が笑っている時、『どこがおもしろいのかわかりません』と首をかしげたい場合だったり――
そして、対立関係にある相手に、家庭の事情など相手のパーソナリティに深くかかわる話題を出す時であったりする。
いや、対立関係にあれば、どのような話題でも『質問する』という行為のハードルははねあがるだろう――『質問する』のは『教えを請う』行為だ。
つまり、なんとなく相手にへりくだっている感じがするので、イヤなのだ。
そう――『プライド』!
俺はプライドという精神の枷に、行動を阻害されていた。
『シーラになんか絶対に負けない』という思いはプライドという名のガラスの檻に入れられ、俺の心の中でさも大事な宝物のように展示されてしまっていたのだ!
おそろしい。
いつのまに俺の心に、こんな枷があったのか。こんな、こんな、くだらない、けれど捨てがたい大事なものが、いったい、いつ……
「まあいいけど。初等科卒業の時は家庭の事情だったの。こっちには、一人で戻ってきたのよ。今は寮に住んでる」
つまり進学目的ということだろうか?
この学園はエスカレーター式だ。高等科課程から同じ学園の大学教育課程に進む場合、外部受験よりも多少有利な補正がかかる。
また、指定校推薦という制度もあるが、この学園からしか選べない推薦先も多い――実は名門なのだ、この学園は。
「あーんー……進学……まあ進学も目的かな……あ、あとほら、幼稚舎からの友達も多いし……ほら、あんたもその一人っていうか……」
ふとそこで、思い出が脳裏によぎった。
それは土と金属のニオイのする思い出だった。夕暮れ時、人のいない公園。遊具がすべり台一つきりしかないその場所で、俺はシーラに別れを告げられた。
今の煮え切らない態度のシーラは、その当時のシーラと印象がかぶる。
そういえばあの時もなにかを言いかけていたが、それはなんだったのか……
「そんな昔のこと、忘れた!」
なぜかシーラは怒ったように言った。
だがきっと忘れていないだろう――シーラは記憶力がいい。
俺たちの成績は常に拮抗していて、わずかに俺が勝っている状態だが……
もしもこの学園が『とにかく知識を詰め込め』というような暗記力以外試さないテスト形式だった場合、俺たちの勝敗は逆転している可能性だって低くないだろう。
つまりシーラが答えを避けたのも、また『プライド』。
彼女の心の中にあるガラスの檻の中にしまわれた、本人にとっては大切な『なにか』が、答えることによって刺激されそうになったから、拒否反応を起こしたわけで――
俺はそれ以上、踏み込まないことにした。
そのくだらないものを捨て去れない気持ちは、充分にわかっていたから……
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35話 盤石なる人生
こうして見るとこいつの人生フラグまみれだな……
引き続きフラグ人生をお楽しみください
アンナさんから突然『会いたい』という連絡をもらったのは俺が十六歳になった冬のことだった。
通常の高等部三年生は受験の準備でいそがしい時期だ。
ここはエスカレーター式で進める学園ではあるのだが、高等科から大学への進学には入試がある――外部から入ろうという者よりは有利な補正が得られるとはいえ、それなりに気合いを入れた勉強が必要な試験難易度のようだった。
ところがこの入試を免除されるケースがあって、それは高等科の三年間を成績・品行ともに優秀に過ごした者にあたえられる『推薦』という特権を有している場合だ。
推薦において評価される『品行』は、生活態度の優秀さはもちろんのこと、学業以外の学校関係活動も問われる。
たとえば生徒会長におさまるなどすれば、品行面では盤石と言えるだろう。
その点、アンナさんはいっさい問題なく推薦の権利を得ている。
成績優秀、スポーツ万能、習い事でやっているピアノでは何度もコンクールの花形となり、後輩にも優しく、なにより中等、高等それぞれの教育課程でともに生徒会長をつとめあげているのだから。
雪がまばらにちらつくその夜、呼び出しに応じた俺は、アンナさんと出会った日のことを思い出していた。
最初、彼女は俺の監視役として遣わされた三歳児だった……思えばそのころにはもう、遠大なる彼女の計画は始まっていたのだろう。
俺も十六歳になればわかることも増える。彼女は保育士に従順なフリをして、将来の安定をあの当時から考えていたのだ。
実際、彼女は『ひずみ』や『ねじれ』のない人生を歩み続けてきた。
幼稚舎時代から始めたピアノでは界隈で名を知られる演奏者になっているし、成績は当然のごとく優秀で、その人格から人気も高い。
当たり前だが教師陣からの覚えもよく、かといって偉ぶることもないから同級生、後輩からも好かれている。
彼女は『世界』を味方につけるために行動を続けていたのだ。
その盤石にして確固たる歩みは、俺の見習うべき、そして俺の目指すべきものであった。
『世界を味方につける』。
そんなこと、俺は考えにさえ浮かばなかった。世界とは敵であり、いかにあざむくかは考えても、『いかにあざむき、味方につけるか』などと、そこまで期待できるものではなかった。
難行に決まっている――だが、アンナさんはこれをたやすくやってのけ、十八歳現在の様子だけ見ても、この先なん十年経とうが、あの人はずっと盤石なる道を確固たる足取りで歩み続けるのだろうと想像できる、たしかさがあった。
もしかしたら、アンナさんについていけば人生は安泰なのではないか?
そんな考えが浮かんでしまい、俺は実際に、なん度もアンナさんのヒモ(女性の稼ぎで食べていく職業。業務内容は『でっかい夢を語る』『家事』など)になろうと計画したぐらいだった。
雪は次第に強さを増していく。
俺は待ち合わせ場所に向かう足取りを速める。
街は夜だというのに明るい。それは今が『聖誕祭』と呼ばれる宗教的行事のさなかだからだろう。
宗教的行事――とはいえ、もはやその宗教色は薄まっている。
とある大きな宗教の中心的存在である聖女の誕生を祝うはずのこの日は、しかし、多くの人にとって『家族や恋人とごちそうを食べながら語らう日』になっているようだった。
そういえば街中には男女二人組が多い。――カップル。いつの間にか聖女は愛のダシに使われ、宗教は企業の金儲けに利用されていた。
神の存在感が薄れたこの世界を、俺はしかし、いいところだと思うようになっていた。
神というのは俺にとって『突如出てきて理不尽なルールを押しつけるだけ押しつけてあとは放置する』という迷惑存在だ。神とは祈る対象ではなく呪うべき存在なのである。そんなものを感じない暮らしが続くのは、いいことに違いがなかった。
ただ、街にはどうにも『普段よりちょっといい服を着る』みたいなドレスコードがあるように思える――格好つけているのだ。聖なる夜だかなんだか知らないが、みな気楽でいいものだと思う。
だがドレスコードはドレスコードだ。やはり目立たないことが第一目標の俺も、普段よりちょっとだけよさげな格好をしていることは、否めなかった。
別にアンナさんに呼び出されたからなにかを期待してるとかそんなことはなくて、そう、偽装にしかすぎない。いつもより多めのお金を持っているのも偽装の一環だ。デートコースについて書いてある雑誌を試し読みしたのもまた、偽装の一つだと言えよう。
俺は待ち合わせ場所にたたずむアンナさんを発見して、思わず隠れた。
このあたりは特にカップルどもの〝圧〟が強い――普段、普通に待ち合わせによく利用されるランドマークなのだが、今はカップル以外立ち入り禁止みたいな明文化されていないルールを感じる。
アンナさんからの呼び出しでなければミリムに『ショッピングモールに入りたいのにカップル多すぎて一人だと入りにくい。助けて』と連絡をしているところだ。
しかし、アンナさんとの待ち合わせだしな。一人で行かないのは失礼だろう……
いや、なにかを期待しているというわけではないのだけれど。
この聖誕祭は『もともとできてるカップルが愛を確かめ合う』のと同じぐらい『つきあおうという男女が告白するタイミング』としての側面が強いのは既知のことである。
が、俺は別になにも期待はしていない……そんなことがあるはずないと、百万回の人生経験でわかっているからだ。
俺は待ち合わせ時刻にまだ少しあるのを確認してから、身だしなみの最終チェックのために近場のトイレに駆け込んだ。
鏡を求めたのだ……けれどそこには俺と同じようなことを考えているのか、鏡の前で長々と身だしなみを整え続ける男たちがいた。
けっきょくタイムリミットまでに鏡を使うことはかなわず、俺はいくらかの呪いの言葉を心の中で『鏡の男』に向けて吐くだけで、待ち合わせ場所に急いだ。俺は呪いにおいても才能はなかったが、それでも『鏡の男』には小さな不幸ぐらいはおとずれるだろう……そう、犬のウンコを踏むとかだ。
俺は前衛芸術的な巨大時計の前でたたずむアンナさんのもとに駆けていく。
まばらに咲く傘の花のあいだを抜けて、石畳の上にうっすらと積もった雪を踏みながら近づけば、彼女は俺に気づいてうれしそうにほおをほころばせた。
俺はなにも期待していないが、彼女の顔をまともに見ることができなくて、視線を下げた。
下げた場所にはタイツに包まれた足がある……60デニール。中等部時代の甘酸っぱい思い出とともに、そんな言葉が頭をよぎった。
「ごめんね、いきなり」
彼女はまず、謝罪した。
俺は色々と彼女にお追従する言葉を探したんだけれど、なにを言ってもボロが出るような気がして、はにかみながらうなずいた。うなずいたあとで、『首を横に振るべきだろ』と気づいた。死にたくなってくる(天寿はまっとうしたい)。
俺はまだまだ緊張などでこういう失敗をしてしまう――盤石なるアンナさんから、俺のこういうところは、どう見えているのだろう?
俺はやはり彼女にあこがれていた……彼女が緊張や不安から失敗する姿はまったく想像もつかない。そして、そんな『安心感』とも呼べる確固たる歩みは、将来なん十年も、同じように続いていくだろうと想像にかたくなかった。
アンナさんは口ごもったあと、言う。
「実は、家出したの」
盤石な……
……
……えっ?
…………えっ?
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36話 年長者の矜持
死ぬというのは生きるということかもしれない……
引き続きよろしくお願いします
「うん、実はね、進路のことでお父さんとモメて……レックスくんの家に行くって言って飛び出してきたの」
ここで俺が一人暮らしならばドキドキするところだが、俺は普通に両親と一緒に住んでるし、アンナさんも「これ、おばさんにお土産……」と紙袋を示した。
アンナさんが俺を頼ったのは、俺の両親の存在が前提である。
むしろ俺を頼ったんじゃなくて、俺のママを頼ってるまである。
そうなのだった――俺はアンナさんと長いつきあいだ。そして、俺を挟んで、アンナさんとミリムも長いつきあいになる。
俺たちは定期的に俺の家で遊んでいたあいだがらなのだ。
そうなると自然な流れで、うちの母とアンナさんも長いつきあいになる。
こいつは盲点だ。
幼いころの記憶。三人だけで遊んでいた思い出。そこには俺とミリムとアンナさんしかいなかったけれど――オヤツもジュースもママが出してくれたものだし、アンナさんやミリムが遊び疲れて眠ってしまうと、それをベッドに運んだのもママなのである。
俺はとりあえず携帯端末でママに連絡した。
『急に夫婦で旅行行くとかしない?』
『どうして?』
ママからの返信はよくわからないスタンプがくっついてきたので、俺も使いどころのないスタンプを送り返し反問をスルーした。
というかアホか!
ママたちを追い出そうみたいな意図が見えるメッセージのあとで『アンナさんがうちに泊めてほしいって』って言うのかよ!
俺が二人きりになりたいと思ってると思われるじゃねーか!
思ってるけど! ちょっとね!!
俺はアンナさんのことが好きだった。
愛してるかと聞かれるとそんな積極的な気持ちはぶっちゃけないんだが、なにかの間違いで告白されたら喜ぶぐらいの、そういうアレだ。綺麗な表現で述べれば『あこがれ』になる。
いやしかし聖女聖誕祭の夜に呼び出されたらなにごとかと思うじゃん。
俺はちょっと怒った。この怒りはなにかを期待しててそれがスルーされたからとかそういうのは全然なくって、ほら、なに? 寒いからさ。外で待ち合わせなくても直接うちに来たらいいじゃん風邪ひくよって、そういうアレ。
「うん、その……いきなり家にお邪魔するのも、ちょっとなって……あ、うん。いきなり連絡しておいて、なに言ってるんだろうって思うけど……」
アンナさんは金髪をいじりながら目をふせた。
ハァ~……美人。
俺はアンナさんの横顔を
『二人であってるの? わたし誘われてない』
すぐに返事が来た。
ミリムは俺がどこか行く時、常に誘われたがっている……いや、今回に限っては、俺とアンナさんがセットでいるっぽいのに自分がいないから不満なんだろう。
というか俺は気が動転してるようだった。
落ち着け。落ち着きを取り戻せ。だいじょうぶ、俺は理性で感情を支配した十六歳だ。
俺はアンナさんをうちに泊めていいかの旨を連絡した。
ママに連絡したつもりが、間違ってミリムに送ってしまった。
『いいって』
いいのかよ。
どうしよう、冷静になろうと深呼吸して何度も冷たい空気を吸い込んでいるのに、俺はあわてふためくばかりだ。
だが俺は自己客観視ができる十六歳なので、おたおたする自分の姿を客観的に見てみた。
ハハッ、ウケる――聖なる夜に女性の前で慌てふためく十六歳男子がそこにいて、それがもしも自分でないのなら、ほほえましいか、あるいはおもしろい光景だったが、残念なことに俺自身なのだ。
しょうがないから俺は告げた。アンナさん、泊まっていいってさ。ミリムファミリーが。
「えええ? どうしてミリムちゃんのおうち……?」
俺のミスなのだが、これ以上醜態をさらしたくないので、話を逸らすことにした。
進路でモメた――あれほど順調な人生を確固たる足取りで歩んでいたアンナさんが、なぜそんな大人の機嫌を損ねるようなことをしたのか……俺はそれが気になっていたのだ。
「私は音楽の道に進みたいんだけど、お父さんがあとを継げって」
まあ音楽家よりは医者のほうが堅実だし、子供に堅実な道を選んでほしい親心はわからないでもない……
アンナさんのうちの子が俺だったら、俺は喜んでアンナパパの方針に従っただろう。
俺は人生にレールを敷いてもらうのが大好きだ。無個性に大人の言うことをハイハイと聞いてるだけで天寿をまっとうできるなら、願ってもないことなのだ。
しかしアンナさんの深謀遠慮が俺にもわかる。
レール通りの人生はレールがあるうちはいいのだが、自分でレールを敷いていない以上、いつそれが崩れるかがわからない。
すなわちリスクヘッジだ。レールの外にあることをしていないと、レールがなくなった時に生きていけなくなる。
しかしまあなに、別に病院経営とかやらなくても、医者の資格さえあれば音楽家よりは食っていけるイメージあるし、べつにリスクヘッジじゃなくて、普通に音楽やっていきたいのかもしれない……アンナさんは昔からピアノに熱心だったしな。
「レックスくんはどう思う?」
俺? 公務員とか好きだな。
とか答えたらアンナさんからの信頼度が下がるのが目に見えているので、俺は考えた。
しかし俺は安定を好むので、安定を捨ててまで音楽の道に進もうというアンナさんの情熱がさっぱり理解できない……困ったな。俺はアンナパパ側の人間らしい。
というかアンナさんが乗らないならそのレール俺が乗りたいわ……
くそ、どうにかしてアンナパパの敷いたレールに俺が乗る方法はないものか……俺は家督乗っ取りに思いをはせた。
合法的にアンナ家の家督を乗っ取るには、アンナさんと結婚するしかないだろう。
結婚か……アンナさんと結婚……うーん、したい。美人の年上妻がほしい。家督なくてもしたい……
けれど俺は安定至上主義を標榜していながら、そのためにアンナさんを利用するのは死んでもごめんだという両立しがたい二つの主義を持っていた。
この二つの主義はまったく均衡ならざる天秤の両皿にのっており、アンナさんを利用したくないという思いは、安定至上主義側の皿になにを乗せても釣り合わないほど重い。
うーん困ったな……俺たちは雪の降りしきる聖なる夜の街を歩き始めた。
困ったな。ここでなにかこう、格好いいこと言ってアンナさんの生きる道を示したい……
俺は十六歳、アンナさんは十八歳。ただし俺は百万回転生した十六歳だ。生きた年数はアンナさんの百倍ではきかない。
年長者としてなにか気のきいたことを……うーんうーん。俺たちは歩き続ける。俺は考え込んでいて無言で、アンナさんも無言だ。
繁華街から遠ざかる俺たちの耳には、遠くの喧噪と雪を踏むサクサクという音がとどくのみだった。
うーん……悩んでいるうちに住宅街に入った。明かりのともった家々の中には気合いを入れてイルミネーションをほどこしているものもある。よくやるなあと半笑いになりながらその家の横を通り過ぎる。ちなみに俺の家だ。ママがこういうの好きなんだよな……
うーん……悩んでいるうちにちょっと造りの変わった家の前にたどりついた。妙に庭の広いデザインのその家はミリムのハウスだった。
俺はインターフォンを押した。応じたミリムに『オレオレ。オレだけどさ』と告げる。なぜこんな詐欺みたいなことをしているのか、そこに大した理由はなかった。
というか気の利いたことを言えないまま、ミリムの家についてしまった!
こればかりは肉体のせいではない。魂に刻みついた悪癖だ――難しい状況になると『停滞』を求めてしまう。これは俺の安定を求める精神性と切り離せないことだ。
『賭けに出ない』――その方針自体に間違いはないと思うが、賭けに出なければどうしようもない時まで立ち止まって無言でやりすごそうとするので、そのせいで命を落としたことすらあった。
だがどうにも治らない――だが、だが、俺は人生百万と一回目。今ここで変わらない? だったらいつ変わるの? 今でしょ! 俺の中の塾講師の魂が叫ぶ。
アンナさん――
「あ、レックスくん、ありがとうね。……巻き込んじゃって本当にごめんなさい。この埋め合わせはいつかするから」
そう? 楽しみにしてます!
俺は手を振ってアンナさんとわかれることにした。……いやわかれるな! なにも言えてないよ!
けれど俺の百万回の人生をひっくり返しても、進路に悩む十八歳の才媛に言える言葉なんかなに一つ出て来なかった……
『命か誇りか』みたいな選択なら死ぬほどしてきたし実際に死んでもきたが、『進路どうしよう』とかいう『どっち選んでもまあただちに命に別状はなさそう』みたいな選択はしたことがない――そんな平和な状況、今までの人生で一回もなかった。
だから俺はなにも言わずにクールに去るぜ。
ミリムハウスに背を向けて歩き始める。目指すのはビカビカイルミネーションがまきついた我が家だ。
イルミネーションを巻いてる最中、『家が苦しそう』とかいう感情を初めて抱いた我が家……
まあ明日だ。
一晩眠ればなんかこういい感じのセリフも思いつくだろう――
そうして俺はミリムに「いっしょに泊まらないの?」と聞かれていやさすがに……ってなりながら家に帰り、今日の顛末をママに話し、眠って、それから翌朝、別になにも思いつかないので普通に学校行ったのだった……
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37話 将来と労働
人生は選択の連続だ
選びたくねぇな……
引き続きよろしくお願いします
もしも自分が『主人公』だったら?
そう思ったことは一度や二度ではない。
もちろん俺は『生き残る』ことを目的にしていて、俺の思う『主人公』とは、そういう安定した人生とは対局に位置するものだ。
それでもふと、英雄願望がよぎるのを止められない瞬間はあったし、そういう時にはいつも、英雄願望のせいで手痛い目に遭ってきた――のみならず、俺がかかわったせいで、かかわった人によりひどい運命を歩ませることになったことさえあった。
俺が幾度もの失敗を繰り返した果てに学んだのは、『人は、勝手にやっていく』ということだ。
たとえばアンナさんの一件を見てもそうだろう――彼女は自分の力で悩み、結論を出し、そして親を説き伏せ、音楽の道に進んだ。
俺は彼女がガンガン決断していくのを横で見ていただけだ。
これがびっくりするぐらいの真横で、ミリムの家に宿泊して『なにか』精神的なターニングポイントを迎えたらしいアンナさんに引きずられるように、なぜかアンナさんとアンナパパママとの会談に連れて行かれ、ご家庭の進路問題をマジ真横で見せられることになったのだ。
のちになんで俺をともなったのかたずねたところ、アンナさんは色々言っていたが、総括するに『眠るときにぬいぐるみを抱えると安心する』ぐらいの気持ちで俺を連れていったのだと俺は判断した。
ようするにバフ要員である。
俺がいるだけで度胸が出るならまあ、生きるだけで精一杯で人の力になる余裕などないと自認する俺にしては、人の役に立てたのではあるまいかと、ほこらしい限りだ。
そうしてアンナさんの進路あれこれを見せつけられた俺も、いよいよ進路について悩む時期がやってきた。
高等部校舎までのきつい坂道をのぼっていると汗ばむ陽気になってきたある春の日、高等科二年生になった俺は、進路希望について提出することになったのだ。
とりあえず一番身近な人生の成功者たる父が教師→塾経営のルートで人生を歩んでいたので、俺もそのルートにならおうかと思い、第一志望は教師にしておいた。
だが、俺には夢があった――こんな、俺みたいな者が夢だなんて抱くのもおこがましいぐらいで、その夢はきっと『敵』に察知された瞬間ご破算にされるのだろうと目に見えているのだけれど、それでも捨てきれない夢が、あったのだ。
『ヒモ』。
俺はヒモにあこがれていた――ヒモとは無職であり、職業ではない。だが一方で、このうえなく安定した職業とも言えた。
ヒモというのは一般的に『無職で誰とも結婚関係になく、夢を追っていると言い訳しながら、(主に)女性に養われる男性』のことだ。
この職業に俺は安定性と可能性を見た。
もちろん『女性に養われる』というのはほぼイコールで『たった一人の出資者に命運を握られる』ということになる。
しかもきちんと契約書を結ぶような関係性でもないので、出資者の気分一つで即刻一文無し住所なしにまで追い詰められる可能性さえ、あった。
これのどこが安定なのか?
なるほど、一般的な運勢と才覚を持つ者にとっては、まったく安定しているように見えないかもしれないし、それは正しい。
だが俺は百万回不遇人生を味わってきた十六歳だ。
社会に進出し歯車の一部になると、いつ、どこで、どんな理由で人生を壊されるのか予想しきれない。味方が増えればその全員を味方のままとどめおくことはできず、地位を得ればあらゆる者からの注目を受け、結果として敵が増える。
そう、俺は生き抜くためには『敵を減らすこと』が肝要だと考えているのだ。
ならばヒモはどうか?
たった一人でいい。たった一人以外とかかわらず、その者との関係にさえ気を配れば、ずっと安定的に暮らしていけるのだ。
ヒモは他の職業に比べ、不確定要素が少ない。
俺は勉強と平行し、料理や家事などの腕前を磨いている。ママにつきあってイベントごとに家の飾り付けをするのも、ヒモ精神を養うための修行と位置づけているぐらいだ。
このように努力を欠かしていない俺だが、二つだけ、どうにも修行の進んでいないことがあった。
まずは『夢』。
ヒモとはふわふわしたデッカイ夢を語る生態があるようで、俺にはふわふわしたデッカイ夢が一個もない。
むしろ『ヒモになること』自体がふわふわしたデッカイ夢と言えるのだが、『画家』とか『小説家』とかのように、出資者が『この人が夢を叶えたら出資したぶんを取り返せそう』と思えるような夢が必要らしいのだ。
――なるほど『出資したぶんはいつか見返りがほしい』というのは、投資もしくはギャンブルをさせるためにおさえておくべきポイントである。
そして――ヒモとは、多くの場合、女性に経済的支援を受ける男性を指す。
ならば出資者たる女性の機嫌をそこねないよう立ち回るのは、必須スキルだろう――だというのに、俺は、女性のことが全然わからない。
連中の考えは複雑怪奇だ。よく笑う。よく怒る。いつまでもいつまでも感情を引きずる。
かと思えば翌日には昨日のことなんか忘れたみたいにケロッとしていて、だというのにふとした瞬間に過去の感情を思い出し、糾弾したりまた笑ったりする。
興味の対象があまりにも異なりすぎて、『ええ、そこ大事?』みたいなことをいつまでも覚えている一方で、本当に大事だと思うようなことをあっさり忘れていたりする。
女性というのはかくも謎の生命体であり、この生命体について理解し、その機嫌を損ねないよう立ち回るのは、俺には不可能かと思われた。
まあ納得だ――俺が本当にしたいことならば、それはきっと『できないこと』なのだろう。
いつだってそうだった。抱いた夢は最初からスタートラインにさえ立てないぐらい才能がなく、努力でどうにかなるようなレベルにいたれたことさえまれだ。
だが俺には頼れるアドバイザーがいる――この手の女性心理の問題を相談するのに一番身近な相手、すなわちミリムである。
俺は部屋でいっしょに勉強をしているさなか、タイミングを見て切り出した――実は俺、ヒモを目指してるんだ……
ミリムはヒモというのがなにかわからないようだったけれど、ヒモについて俺がまとめた資料を読んで理解したらしい。
「つまり、わたしがレックスを養えばいいの?」
………………。
……あっ、なるほどお!
盲点だった。ミリムに養われるというのは、実はまったく考えてもみなかったのである。
たしかにミリムならば色々と安心だ。俺は女性については全然知らないが、ミリムについてはすみずみまで知っている――なにせ彼女のおしめを取り替えたことさえあるのだ。
将来ミリムの旦那になる者がこの世のどこかにいたとして、そいつがミリムのおしめをとりかえることは、おそらく永劫にないだろう……いや、介護まで視野に入れるとあるかな……
だんだん不安になってきた。
俺はミリムのことならなんでも知ってる気がする……
だが、実際に考えてみると、ミリムの普段の交友関係とか、最近だんだんと視線を吸い寄せるようになってきたバストのサイズとか、俺といない時のこいつがどうやって時間を過ごしているかとか、そういうのを全然知らないことに気づいたのだ。
まあしかしミリムが養ってくれるなら俺の人生はだいたいゴールしてる。
うん、俺はミリムに養われたい。その気持ちは、よくよく心の中を見渡せば、たしかに存在したのだ。
だが一方で、俺の中の『兄』の部分が、無視できないほど大きな声で叫ぶのだ。
『ミリムにヒモの世話なんかさせたくない』
ミリムに寄生するヒモ男――そう考えただけで吐き気をもよおすほどの邪悪さを感じる。
許せない。ぶっ殺してやる……殺意さえ覚えながら、しかしミリムに寄生するそのヒモ男は、俺自身なのだった。
本当にどうかしてると思うが、俺は……ミリムに寄生するぐらいなら……働きたい。
働くというのはまったく無駄な行為だと思う。なぜ生きるためだけに労働なんぞせねばならないのか……意味がわからない。生きることはそれだけで苦難なのだ。そのうえ労働だなんて……やはりこの世界もまた、悪辣なる『敵』の意図が存在する。
それでも俺は働きたい。ミリムに寄生する自分に耐えるぐらいなら、労働するほうがずっとマシだと思われた。
俺、働くよ。
「わたしも働く」
こうして俺たちは労働意欲を確認しあった。
だが俺はあきらめない。
いつか罪の意識を覚えず遠慮なく寄生できる相手が見つからないとも限らないので、ヒモになるための努力は続けよう……
俺は不遇人生を百万回生きた十六歳だ。
努力をおこたった瞬間から能力が落ちていくことを、イヤになるほど知っている……
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38話 連休は勉強ができない
労働《ストレス》のない人生が長生きには必要
引き続きよろしくお願いします
異世界の話だ。
俺はこの世界の人類が想定しうるあらゆる生命体になったと思う。雌雄どちらもあったし、定形・不定形も問わなかった。
そもそも生物でさえない『概念』そのものとして生まれ、永劫に近い時を過ごし、けれど天寿をまっとうできなかったこともあった。
そうして生まれ変わるたびに思うことがある。
『俺には他の生命体の気持ちがわからない』
メスの生き物だった時には、オスの生き物の気持ちがわからなかった。不定形であった時には定形の生き物の気持ちがわからなかった。
繰り返し繰り返し生まれ変わり続けた俺の魂は、蓄積された記憶からほか生命体の気持ちをなんとなく察することができる――俺はそう思っていたし、実際、過去の経験から他生命体の気持ちを予想してきたこともあった。
けれどことごとくを外した。
世界が違うのだ。たとえ『女』と呼ばれる生命体に生まれたことがあっても、それは同じような呼び名であらわされる別なナニカなのである。
そもそも――今、俺が生きている世界は特に多様だ。同じ生物だから考えが同じとは限らない。
立場、風潮、そういったふたしかで、けれど大きな影響を及ぼす要素が複雑にからみあい、人の思想を多様化させているのだ。
だから俺には、シーラの気持ちが全然わからない。
「だから映画見に行こうって言ってるだけでしょ!?」
言ってるだけじゃねーだろ! 怒鳴ってるだろ!
俺たちはなんだかケンカしていた。これが本当に『なんだか』始まったケンカで、明確な理由がさっぱり思いつかない。
発端はシーラと彼女が率いる外部入学組女子二人と、俺、マーティン、そしてもう一人のエスカレーター組合わせて三人とで、五月の長期休暇中に映画を見に行こうという話が持ち上がったことだった。
そもそもシーラが外部入学組代表みたいな感じなのが最初から解せない――こいつ幼稚舎から初等科まではエスカレーターだったし、いなかったの中等科だけだぞ。
いいのかよ外部の連中。こいつは外部みたいな顔して実質エスカレーターなんだぞ。
まあそれはいいんだ。
そんなことよりこの怒鳴り合いだ。
俺はマーティンたちとともに、五月の連休、映画に誘われた。
俺は『いや、連休は勉強したいから』と断った。
そうしたらシーラにガチギレのトーンで怒鳴られた。
意味がわからない。
もちろん俺は『学生の本分は勉強だ』なんて言って、他者にも予習をしいるつもりは一切ない。
俺が勉強を熱心にするのは『しないより自分の可能性が広がるから』であり、『学力なんか予習をやめた瞬間に下がる』という恐怖があるからだ。
つまり完璧に俺の個人的事情であり、連休中の予習復習をおこたる連中を責めたりはしない。
むしろどんどんおこたってほしいと思っているぐらいだ――なぜって、他の連中がサボればサボるほど、競争相手が減るから。
ようするに勉強したいのは俺の個人的事情である。
その個人的事情で俺が個人的なスケジュールを決定しているだけなのに、なぜ怒鳴られなきゃいけないのかが全然わからないのだ。
シーラのコミュニケーションはだいたい『怒鳴る』か『怒る』なので、それはまあ慣れてる。
俺たちの怒鳴り合いはじゃれあいみたいなところもあって、俺もシーラにはかなりひどいことを言ってきた自覚がある。それこそ、俺たちのあいだがらでなければ許されないような罵詈雑言をお互いにかけあった。
だが、俺たちには信頼があった。
その信頼がなににより担保されてきたかといえば、『引き際』である。
俺たちは互いに『これ以上言ったらまずい』というラインをなんとなく把握していて、そこを超えてまでしつこくものを言うことがなかった。
また、まったく事実と異なる理不尽な文句を言うこともない――俺はシーラにけっこうひどいことを言っているが、『ハゲ』とか『デブ』とか『バカ』とか『ブス』とか、事実と異なる罵詈雑言は吐かない。シーラ側もそれは同じだった。
目に見えない協定により俺たちの関係は成り立っているのだ。
今回のしつこいガチギレは、あきらかに協定違反である――俺はさすがにシーラがなにを思ってこんなにキレてるのか理解できず、困惑しつつ、売り言葉に買い言葉で怒鳴っていた。
「ちょっと、ちょっと、こっち」
怒鳴り合いがきわまってきた時、シーラに招かれる。
表に出ろということか。
いいだろう。世間には『男性が女性に対し物理的な暴力を働いてはならない』という風潮があるようだが、俺たちのあいだにそんなものは無効だよなあ!
俺はなん度か前の人生で習得した軍隊式格闘技の型を頭の中で復習した。
その時は人型ではあったものの腕が四本だったので今生と勝手は違うが、応用できることは初等科時代に実証済みだ。
そうこうして教室から廊下に連れ出された俺は、シーラに耳打ちされる。
「マーティンを連れ出す口実がほしいのよ」
どうやらシーラが本当に殴りたい相手は俺ではなくマーティンのようだった。
俺は承諾してシーラにもちかける。わかった、俺がヤツを後ろから羽交い締めにする。お前はマーティンが助けを呼ぶ前に意識を刈り取れ……
「そういう話じゃなくて! ……なんていうか……」
『これ本当にレックスに言っていいのかな』――そんな葛藤を感じさせる歯切れの悪いシーラの発言を総括すると、以下のようになる。
『友達Aがマーティンのこと気になってるので、どうにか二人が話をする場を作ってあげたい』
事情を知った俺はクラスメイトの恋愛仲介人なんぞさせられているシーラに同情した。彼女の力になってやりたいと思った。
でもそれはそれとして俺は連休、予習復習したいので、俺抜きで話を進めろ。
「手伝ってくれてもいいでしょ! 一日ぐらい!」
わかった、本音を語ろう――俺はマーティンが幸せになるのが許せないんだ……
「それはちょっと最低じゃない!?」
だいたい論理的ではない。マーティンとその子をくっつけたいなら、俺を通す必要性は皆無なはずだ。なにせ今、俺とマーティンともう一人いるところにお前は声をかけてきた。つまり、俺がいなくても、マーティン以外にもう一人いる。
青春的配慮で一対一という状況を避けたい気持ちは想像できなくもないのだけれど、二対二なら充分俺たちの中の青臭い部分への配慮もできるはずだ――
そう語る俺にシーラは打ち明けた。
こちらのもう一人とそちらのもう一人もまた、くっつけたいのだと。
つまり俺とシーラを緩衝材にしたダブルデートを画策しているのだという。
俺はシンプルに思った――リアルが充実してますね。死ね。
というか最近甘酸っぱい系空気が蔓延してないか? 学生の本分は勉強だぜ。勉強しろよお前ら。連休なにするの? デート? ううん、予習復習。
俺は勉強に連休を費やさない学生どもをどうかと思っていて、そういうやつらを見かけるたびに『学生の本分は勉強だろうが!』と怒鳴りたい気持ちでいっぱいになる。今この瞬間からそんな感じだ。
だがシーラには同情の余地がある……
俺たちはクラスで成績一位と二位だ。互いに対抗心を持っており、成績ははっきり言って拮抗していて、いつ順位が逆転するかわからない状態だ。
だというのにシーラはクラスメイトの恋愛相談なんかで重要な勉強時間を浪費しているのだ。なにが悲しくて他者の幸福のために尽くさねばならないのか。
自分を幸せにすることで精一杯の俺には、シーラが聖女あるいは頭のおかしいやつに見えた。その二つは同じものかもしれない。
だが説得を繰り返されるうちに、ここでシーラに恩を売っておくのは悪くない選択のように思えてきたのも事実だ。
俺の勉強は五割ぐらいシーラに勝つためにやってる側面もあるので、シーラが俺と同じだけ勉強時間を失うなら、差し引きはゼロというふうにも考えられる。
俺は仕方なさそうに承諾した。やれやれ。やれやれやれ。やれやれ、やれやれ――
「ありがとう。なんかでお礼するから」
やれやれ? やれ。やれやれ。
やれやれ。
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39話 時間というリソースの有効消費と非効率消費
やれやれ。やれやれやれやれ! やれやれ。
やれやれやれやれやれやれ。
やれやれ。
時間というのは誰しもにとって有限のリソースである。
そのリソースの使い方は生存理由に準じて個々人で決めればいいと俺は思う――が、そうもいかない生命体がいる。
主に『社会』に属する生命体がそれにあたる。
『社会』に属する者は、自己の時間の使い方さえ自分では決められない事態がまま発生するのだ――たとえば今の俺のように。
五月に始まった連休は日差しの強い日が続いていた。
強風と直射日光にさらされて唇はガサガサ、体はカラカラ。気温はやや暑いぐらいだというのに、精神的には砂漠にいるも同然だった。
連休半ば、俺は映画館に来ていた。
映画というのは大型
大音量・大画面で見る映像作品はたしかに迫力があるのだろうが、しばらくすれば家庭向けに配信されたりもするので、俺としてはわざわざ金銭と魔力を徴収されてまで映画館に足を運ぶ必要をあまり感じていない。
ようするに映画鑑賞は俺にとって時間というリソースを割く価値の低いことだ――が、ここで俺が『社会』に属する生命体であることが問題になる。
つまり俺自身価値を感じていないことであろうが、『つきあい』という名の圧力によって時間というリソースを割かねばならないケースが発生しているのだ。
さて、映画開始時刻までは、あと十分を切った。
なにごとも早めに万全なる準備をしておきたい俺としては、そろそろ座席に着いておきたいころあいだ。日差しは強く風も強く、そして映画館にぞくぞく人々が流れていっている。すごい焦る。というかチケット購入はまだ間に合うのだろうか……先に買っておいたほうがいい?
俺は焦りたくない……焦りはストレスだ。俺は今生において約九十年ほど生きねば『天寿まっとう判定』が出ないので、ストレスなどで寿命を縮めたくないのである。
マジでなんだ。なぜ誰も来ないんだ。
マーティンはいい。あいつは遅刻が常だ。しかしシーラは遅刻するイメージがない……いや待て、イメージがないだけで、そもそもシーラと待ち合わせたことが全然ない。
早まった……!
待ち合わせ時刻からはや二〇分。俺は一人でここにいるわけだが、ひょっとして、俺から勉強時間を奪うための、シーラの悪辣なる罠だったのかもしれない。
『シーラはそんなことしない』と信じ切っている俺がいて、だからこそ罠の可能性を疑うべきだろう。
罠でも襲撃でも、悪意ある行動は必ず意外な方向から一撃を入れてくる。
だから理想はあらゆるものを常に疑い続けることだが、全方位に疑いの目を向け続けることによる精神的疲弊は避けたい。
だからこそ、俺は疑うべきもの、疑うべきでないものを慎重に選別し、シーラが奸計を用いるなどとは『疑わない』と結論づけたのだが……その判断さえ超えてきたというのか。
もしや――シーラは『敵』なのか?
そう考えれば思い当たるフシがモリモリ浮かぶ。
俺は『目立たない』という目的を常に抱き続けて生きてきた……だが、初等科の時など、シーラに成績で対抗されてそのもくろみははかなくも崩れ去った。
中等科は比較的目立たない日々が続き(生徒会長になったぐらいだ)、しかし高等科に進んでシーラと再会したとたん、いつのまにかエスカレーター組代表みたいな立ち位置にされ、外部組代表みたいな感じにおさまっているシーラとやりあい、目立つ日々が続いている……
だが、だが、それは少しおかしいのだ。
シーラが『敵』だとすれば明らかにおかしな点があって、それは『敵』が『闘争心を奪う』という方針で動いているのに、シーラがあからさまに闘争心をむき出しにし、俺の闘争心をあおってくることだ。
どちらが間違いだ?
シーラが『敵』だという判断か?
それとも、『敵』が『闘争心を奪う』という方針で動いている、という分析か?
いったいどちらが……
悩ましくうつむいていると、視界の端に赤毛の女があらわれた。
シーラだ。
待ち合わせ時間より二十五分遅れでの登場である――だから走ってきたのだろう。息を切らせ、汗を流し、俺の目の前で止まった彼女は、呼吸を整えるために数秒を必要とした。
そして、
「ごめん。今日来るはずだった二人が、いきなり、来れないって言って……事情の確認してたら、遅くなった」
二人がいきなり?
一人が、ならわかる。だが二人同時に? そんな偶然があるのか?
疑問を覚える俺の手の中で、さっきから握りしめていた携帯端末が鳴る。
それはマーティンと、やはり今日映画を一緒に見る予定だった男からの連絡で、二人はグループチャットでこんなことを述べた。
『悪い、今日行けなくなった』
……考えろ。
こんな偶然はありえない。六人のうち四人がとつじょ欠席を表明するか?
そもそもマーティンは遅刻魔だ。しかし、遅刻する時は必ず待ち合わせ時間前には連絡してくるマメさを持ち合わせてもいる。
罠だ。
なにかの罠なのは間違いがない――だが、いったいなにを目的とした罠なのかがわからない。
見ればシーラは事情を知らない様子だ。ということは、シーラもまた、俺と同様、罠にかけられた側なのだろう。
もちろんそうではないケースもあるが、思考する時間さえ惜しい。シーラも俺もともに被害者という観点で考察を進めるしかない。
罠をかけた者は、俺とシーラを映画館に送り出し、どうする?
俺とシーラの共通点とは。
なぜ、マーティンたちが、俺とシーラを罠にかけた?
……そうか、そういうことか。
俺はシーラに告げる――
マーティンたちはどうやら、今度のテストで、成績トップを狙っているようだ。
「どういうこと!?」
俺とシーラはクラスで成績トップ二だ(俺の名誉のために言っておくと、俺は学年でもトップで、シーラは学年だと三位だ)。
この二人だけを映画に送り出す……つまり、そこには『レックスとシーラの時間を勉強以外に浪費させる』という意図が感じ取れる。
時間というのは有限なリソースだ。映画を見ている約二時間、俺たちは映画を見るしかない……館内は暗くなるから、館内で勉強をすることは難しいだろう。
ならば目的は明白だ。
マーティンたちは、俺たちから勉強時間を奪い、今度のテストで自分たちが勝とうとしている。
これはいい悪辣さだと評価できる。
そろそろ成績が人生において重大な意味を持ち始める高等科二年生、大学進学を目指す者たちは、他者よりもよい成績をおさめたがるだろう。
外部受験ならばけっきょくは実力だから俺たちを罠にはめる意味は薄いが、推薦入試を狙う者にとって、『学年一位』の座は魅力的だろう……
「そんな卑怯なことするかなあ?」
シーラよ。お前は生命体の悪辣さを知らないだけだ。
ささいな気持ちで他者を迫害し、善意の刃で弱者を突き殺すのが、『社会』を形成する生命体の常なのだ――まあこのへんは言ってもしょうがないだろう。シーラはまだ人生一回目だから、きっと自分と同じ種族を信じたい気持ちが強いだろうし。
しかしこのあくどい罠にはめられて、俺はちっとも悔しいとか裏切られたとかいう気持ちになれなかった。
むしろ『よくぞ!』と歓迎したいような気持ちになるぐらいだ――そう、学生の本分は勉強なのである。
マーティンたちが俺とシーラを罠にかけたということは、つまり男二人と女二人のあいだで事前に相談があったということだ。
それがなにかといえば、あくまで『マーティンのことが気になる』とかは俺を映画に巻き込む口実でしかなく、ようするにマーティンに告白したい女子なんかこの世に一人もいなかったことが証明されたことになる。
こんなに胸のすくような快事が人生において他にあろうか!
……もちろん俺は成績トップを維持したいし、『生ききる』目的に向けて勉強は大事だと思っている。
本来ならばマーティンは俺の生存をおびやかす『敵』認定されてもおかしくないことをしたわけだが――
どうしたことだろう。
今の俺は『成績でたたきつぶして、罠にかけたことを後悔させてやる』という、きわめて好戦的な気持ちだった。
だから俺はシーラに呼びかける。
なあ、シーラ――勉強、しようぜ。
稚拙な罠をはったマーティンたちをたたきつぶすために、勉強、しよう。
「罠かなあ? 本当に? そんな姑息なことさすがにしないと思うんだけど……」
シーラは人を信じたいようだった。
それはまばゆいばかりの素直さだった。人生一回目――俺にもシーラのような時期があったかもしれないけれど、闇の中を歩み続けた俺には、もう、一回目の人生のことなんか、まぶしすぎて見えなかった。
こうして映画を見るために集まった俺たちは、そのへんの喫茶店で勉強を始めた。
俺もシーラも当たり前のように勉強道具を持参しているあたりが、〝意識〟が違う感じだった。
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40話 愛と社会
青春には2種類ある
主役か脇役だ……
引き続き脇役自認の人生をお楽しみください
「レックスって、ほんと、バカ」
バカというのはなんだろう?
俺は、やはり『バカかどうか』を問うのに成績は考慮する意味がないと考えている。
学校の勉強は、正直なところ、モチベーションの問題だ。
俺は成績トップだが、自分の知能がほかと比べて優れているとは思わない。
ほかと違うのは『今度こそ天寿をまっとうする』という熱意であり、『天寿をまっとうするために勉強(=この世界で多くの者が履修していること)はできたほうがいい』という経験からの確信であり、『シーラなんかに絶対に負けない』という対抗心なのである。
ゆえに『バカ』という言葉を『知能が低い』という意味で用いるならば、成績は問わないと俺は考える。だから成績トップの俺がバカ扱いされても、不思議とは思わない。
だが一方でこう出し抜けにバカ扱いされると不満を覚えるのも事実だ。
俺はことのほか『成績トップ』という事実にほこりを持っており、バカと言われた瞬間『まあ俺は成績トップなんだけどね』ととっさに頭によぎるあたり、成績がいいことを無意識のうちに『頭がいい』条件にふくませている可能性があった。
いけないいけない。
まあ――成績はトップなのだが。
さて、俺がマーティンに『バカ』と言われた経緯について考察しよう。
なぜ俺より成績が悪く、女の子にも別に好かれていなかったマーティンが俺をバカ扱いしたのか?
話の流れはこうだ――先日の映画鑑賞会にマーティンたちは来なかった。その理由を俺は問いかけた。
するとマーティンは言葉を濁し、「それよりも、シーラと映画、どうだった?」とたずねてきた。
質問に質問で返すんじゃねーよ。『それよりも』ってなんだ。ドタキャンしておいてヘラヘラするな――そういう言葉が浮かんだが、俺は感情を完璧に制御できる十六歳だ。マーティンのボディに一発入れるだけですませ、親切にも彼の質問に答えることにした。
喫茶店でずっと勉強してた。
そうしたらバカと言われた。
「レックスお前……お前……勉強以外にさ、ない? もっと、こう……」
マーティンはやはり、よっぽど俺たちに勉強してほしくなかったと見える。
だから俺はヤツの肩を抱いてこう言った。お前もしてたんだろ、勉強。
「いや、してないって」
そこはしてろよ。
俺とシーラの勉強時間を奪う罠をはって、自分は勉強しないというのはいかにも片手落ちだ――俺はわずかに落胆してしまう。
敵対者の足を引っ張る時は、足を引っ張った勢いで自分も前に進まねばならない。
ところがマーティンは足を引っ張るだけで満足し、その勢いを利用しなかった――俺たちから勉強する時間を奪っておいて、自分は勉強しなかったのだ。
それでは差は縮まらない。本気で成績トップを狙うなら――勉強しろ。
「いやいやいや……成績トップを狙うとかじゃなくって……その、ほら、なに? シーラとお前さ、なんていうの?」
俺はこういう『察して』みたいなことが苦手だった。
『わかるだろ』的な態度で接されると、『わかる』としたほうが角が立たないことは知りつつも、ついつい『わかるかよ!』と返したくなってくる。
社会に属する生命体がしばしばかけられる、『同調圧力』というやつである。
さも『共通の認識』があり、『それを知らないことはいけないことだ』というような雰囲気を作り出し、目には見えないコモンセンスの威を借りて高圧的に接されることを、俺はなにより気持ち悪く感じていた。
しかしこういったコモンセンスの威を借る個人は悲しいかな、多い。
無意識的、意識的問わずに『ついついやってしまう』ようなことだと考えている――高圧的な者は悪意をもって高圧的にふるまうのではない。己が高圧的にふるまっているとさえ気づけないから、高圧的になってしまうだけなのだ。
マーティンとは気のおけない友人同士だから、本人が自覚できない
だから俺はやわらかくマーティンに注意した。今の『察しろ』的な態度、場合によってはアームロックかけられるゾ☆
そう言いながら俺は右手をマーティンの右手に伸ばした。アームロックをかけるためだ。
「本当にわからないのか……」
マーティンは半歩俺から遠ざかったが、今の『本当にわからないのか』がちょっとアームロックポイント高かったので、俺は一歩距離を詰めた。
「いや! バカにしてるんじゃなくて! その、お前さ……シーラのこと、どう思う?」
俺はシーラについて正直な所感を述べる。あいつ外部組代表みたいな顔してるの絶対おかしいって。だっていなかったの中等科だけじゃん――
「そうじゃなくって……くそ、俺から言っていいのかわかんねぇから、これ以上言えない……」
どうやらマーティンにはなんらかの禁則事項があり、今の歯切れの悪い言葉の数々は、その禁則事項に抵触しないための、彼なりの精一杯らしかった。
俺は感動し謝罪する。ごめん。アームロックポイントは取り下げる。
洗脳だ。
マーティンはなんらかの洗脳を受けている。だというのに俺に情報をもたらそうとしている……なるほどいちいち『察して』みたいな態度だったのは、洗脳により脳髄に刻み込まれた禁則事項に違反しないようにしていたからだったのだ。それは察してもらうしかないだろう。
だがわからない……俺とシーラを罠にかけたのに、俺たちの勉強時間を奪う以上の意味が?
俺とシーラ……この組み合わせに『成績がいい』以外の共通点があるのだろうか……わからない。俺たちをセットで勉強から遠ざけたかった理由……
「レックス、お前の人生、勉強以外にないの?」
もちろんある。
勉強以外にも俺は運動だって欠かしていない。
『健康こそが生存の
加えて、どれほどの武装を奪われても筋力だけは奪われないこともまた知っていた。
だからこそ俺は勉強と筋トレを欠かさない。そして体は資本だという認識から、食事もまた気をつかっていた。
ヒモを目指しているのでそのためにも料理は役立つし、平行して家事全般も履修している。今では一瞬で三枚のシャツを同時にたたむことさえできる……そう、魔法ならね。
「……」
マーティンは言葉を失っていた。
彼の目つきはなぜだろう、優しかった。小首をかしげ、慈愛に満ちた目で俺を見ていた。
「なあレックス――愛は、大事だぜ」
それはもちろん知っている。……いや、今生を十六年過ごしてきて、ようやく最近気づいたというべきか。
今生の俺は、一人では生きていけない――機能の話だ。社会に属する生命体がなぜ社会に属しているかといえば、それは『社会がなければ生きていくことが困難』だからだ。
食べ物を確保し料理し食事し排泄し、排泄物を片付けそのかたわら様々なことをし……と本気で『一人で生きよう』と思うと、生きていくだけで人生が終わってしまう。
そんなカツカツな人生、少し体調を崩しただけで終わる。すなわち支え合いが、より効率のよい人生の基本で――愛とは、『他者に気持ちよく支えてもらうために必要なもの』なのだ。
この完璧な理論を聞いて、マーティンは無言になった。
そして慈愛に満ちた優しい目つきで俺を見て、俺の肩をぽんと叩き、言うのだ。
「違う。そうじゃない」
マーティンはそれ以上言わなかった。
きっと禁則事項なのだろうと思った。
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41話 夏祭りのおさそい
レックスがモテない理由は
・自分のことを目立たないと思い込もうとしている言動と実際とのズレから見える性格
・生徒会長(アンナ)、妹系猫娘(ミリム)、同級生(シーラ)がいてなんか主人公みたいなポジションに落ち着いてること
・マーティンが上の情報を顔見知りに流して「やめとけやめとけ」してる
あたりです
他にも挙げればキリがない。モテる理由もモテない理由も無数に挙がる人生をお楽しみください
空の青さがうらめしい。
妙に落ち着かない空気が教室中に蔓延してる中、それなりの速度で春が過ぎていき、いよいよ校舎までの坂道をのぼるだけで汗が額から流れ落ちるような暑い季節がやってきた。
うわついた空気はうわついたまま夏の熱気のせいで熱膨張を繰り返し、教室中、いや、二年生クラスのある校舎二階のすべてが針の一刺しで爆発しそうな、そんな緊張感を放っている。
すべては『恋愛』のせいだった。
恋愛という名の熱病は、夏の熱気を受けていよいよ重篤な病と化している。
俺は恋愛に興味がない――興味がないが、右を見ても左を見てもこの熱病に罹患している者ばかりの状況だと、恋愛に興味がない理由というやつをいちいち捻出しなければ興味がないと言うことも許されず、率直に言ってすごくうざったかった。
あるだろう、『興味のない話題なので好きでも嫌いでもないのだが、世間がその話ばっかりするので否応なく耳目にとどき、結果としてうんざりし、嫌いになる』ということが。
俺にとっての恋愛話というのはまさにそんなものと化しており、今では恋愛熱病患者がそばを通るだけでわかるぐらいには忌避感を覚えてしまうようになっていた。
そんなわけで熱病に罹患したクラスの連中と距離をおきたい俺にとって、目前に夏休みがせまっているのはいかにもちょうどよいタイミングだった。
なにより高等科二年生の夏休みである――俺は将来のため、生ききるためにこの夏休みで成績をさらに上げ、勉強のおさらいをし、将来へのレールを確固たるものにしておきたい。
だからマーティンなどから夏休みのスケジュールをたずねられた俺は、常に『一人で勉強』と切って捨てるようにしてきた。
このあいだから協定を結んでいるシーラならば一緒に勉強してもいいし、アンナさんやミリムと会う予定はあるのだが……
恋愛熱病患者は『他者も自分と同じ熱病にかかっている』と思い込む性質がある。
やつらは異性とのスケジュールをちらつかせると『お前も恋愛か?』と身を乗り出してくる傾向があって、それがとても邪魔くさいので、俺は夏休み、断固として『一人で過ごす』という態度をくずさなかったし、ミリムたちと会うことを少しも漏らすことはなかった。
そんなわけで俺のスケジュールは勉強と勉強とあと勉強で埋まっていく。
ここまで勉強してどうするのかと自分でも思うことはある。しかし俺は恋愛に興味があると勘違いされるのは業腹であり、どうやら『恋愛』の対極に『勉強』がある(と思う者が多いらしい)ので、俺は恋愛熱病をはらうためにも必要以上に勉強に熱をあげていった。
そんなおりだ。
勉強まみれのスケジュールでミリムにさえ「遊んだほうがいいよ」と言われる始末になった俺に、一通のメッセージがとどいた。
送り主を見た瞬間、あまりの懐かしさに俺の心は一時中等部時代に戻る――そう、メッセージを送ってきたのは、俺が高等部に入ってからあまり連絡をとっていなかった、カリナからだったのである。
かつての同志、ともに前世を記憶せし者、『暗黒の令嬢』『魔炎を操りし者』……中等部時代の記憶は痛みとともに俺の脳髄に刻まれている。すごくイタイ。
しばらくフラッシュバックのせいでもだえてからようやくメッセージをまともに見ることができた。
久々に連絡をしてきた彼女は、簡単なあいさつと前置きをしてから、こんなことを俺に告げた。
「『祭り』で売り子をやってほしいんだ」
――それは〝約束〟された〝再会〟。
かつて〝前世〟の〝因縁〟ゆえにともに過ごした〝同志〟からの、他の人には頼めないような救援依頼だった――
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42話 夢へ向かう人たち
祭りだ祭りだ祭りだ
ワッショイワッショイ
久々に再会したカリナはやはり眼帯も包帯もしてはおらず、代わりにメガネをかけていた。
「私たちがこれからいどむのは――戦争なんだよ」
祭りの売り子、と言われて俺は市の出店みたいなものの店番を想像したが、それは間違いであり、ある意味で正解だった。
俺たちが扱うのは焼いた粉物でも綿飴でもなくて、『本』なのだ。
同人誌即売会――そういったイベントが大きなものだけでも年に二回おこなわれており、そこでは素人が書いた漫画や小説、その他グッズが発売されるのだという。
カリナは高校に入ってからというもの毎年参加しており、今年は三回目の参加となるらしい。
今では常連客もいるそうだ。
なるほど彼女の描いている漫画は絵もうまく、漫画をあまり読まない俺にも内容がわかりやすく、これで『素人レベル』だというのだから最近の漫画界はいったいどうなっているんだと恐怖さえ覚えるような代物であった。
現在、俺は『勉強』をなによりも優先しておこなっている。
だが、あらゆる誘いを断っているのでスケジュールは空いているし、カリナの誘いからは例の熱病患者が発するような独特のニオイはなかったし、なにより同人誌には彼女の熱意と夢がこれでもかと詰め込まれているらしい。
その夢の手伝いをするというのはどこかほこらしさを覚えるようなことだった。
俺には人に堂々と言えるような『これ』という夢がなく、また、寝食を忘れるほど情熱をかたむけられることもないあたりも、カリナの手伝いに前向きな理由になるかもしれない。
ようするに懸命な人がうらやましいのだった。そして、好ましいのだった。
人生において『なにかに打ち込む』ということをしない俺としては、彼女が熱量をかたむけるものが『生ききる』目的からすればなんら意味のない寄り道だとわかってはいても、そこに労力を費やせることに喜びさえ抱いているのだった。
そういうわけで手伝いに『否』はない。
俺はコスプレ売り子を引き受けた。
待って。
コスプレ売り子ってなに?
「コスプレ売り子は……コスプレをして、売り子をすることだよ」
彼女は重苦しい声で語った。
俺はそれ以上詳しい話を聞けない――向かい合う彼女の顔には、疑問を差し挟ませない迫力があった。
コスプレ売り子がなにかは知らないが、重大な任務だということが言葉ではなく心で理解できた。
彼女が『これのコスプレをする』と示したのは、あまり漫画などに詳しくない俺でも知っているキャラクターで、語られた公式設定を参照するに、なるほど体格が俺に近いことがわかった。
彼女は布を買いカツラを買い、手縫いでその衣装を仕上げるのだという――想像以上の熱の入れようである。
なにかに真剣に打ち込む人を見ると、こちらも気が引き締まるような思いになってくる。俺はすすんで彼女の手伝いを申し出た。
彼女は『他の仲間』と俺を引き合わせるついでにと、俺の申し出を承諾した。
そこが深淵の入口だった。
手伝いを申し出たが最後、その瞬間から俺たちは運命共同体になった。
夏休みが始まったとたんにカリナの部屋に招かれる。
カリナはどうやら高等科から一人暮らしを始めていたようで、『祭り』の準備期間は仲間たちとそこで寝泊まりするのだという――カリナの部屋。カリナの仲間は二人とも女性。男一人女三人泊まりこみ。部屋は一つ。なにも起きないはずがなかった。
徹夜に次ぐ徹夜。壊れ始める心。言動は支離滅裂になり、ささいなことでキレる。
最初は俺という異分子に緊張していた面々であったが、次第にそんな余裕さえなくなり、高校三年生のお姉さんたちに俺はこれでもかというぐらい『女性』への幻想を砕かれる羽目になった。
それは大変な毎日だったけれど、得がたい日々でもあった。
終わってみれば『よかった』と思える経験になることは間違いないのだが、いつ終わるんだこのデスマーチ。
せまる締め切り。間に合わないスケジュール。
どうして前もって余裕をもってスケジュールを設定しておかないんだ、と俺は責めるようにたずねた。
カリナは言う。
「スケジュールを設定する。スケジュール表を見る。『あ、まだ余裕があるな』と思う。翌日、スケジュール表を見る。『どこかで二日分がんばれば余裕だ』と思う。また翌日、スケジュール表を見る。『三日分ぐらいなら徹夜すればこなせるかな』と思う。だんだんと『二日分を二回がんばれば』『三日分を二回』『三日分を三回』となっていく。そうして――『今』がある」
なにもわからないことがわかった。
俺が漫画関係でできる作業は皆無だったのでそちらはカリナたちにまかせ、もっぱら衣装方面と物資補給面(雑用)で力を発揮することとなった。
俺は裁縫ができる。掃除ができる。炊事ができる。奇しくも『ヒモ』を目指して鍛え上げてきた家事能力がここで役立ったわけである。
「いいなあレックス。ほしかった。ちょうど君のような存在が二年前からほしかった……」
目の下に尋常じゃないクマをつくりながら、肌も髪もボロボロにして語る彼女は、それでも美しかった。
その空間には『男女』というものがなく、『恋愛』というものがなかった。
いや、恋愛はあったが、それは紙の上で創作された男女……ではなく男男が語らうものであって、それを創作している俺たちとは縁のない世界の話だった。
恋愛熱病でうわついたクラスメイトたちをうんざりして見ていた俺としては、その混沌に満ちた空間は居心地がよく、あと男女を意識しないとは言ったが、やっぱり連日の徹夜で精神がとろけた先輩女子に抱きつかれたりすると俺はちょっと嬉しい。
「今回はレックスがいるから、みんな最低限の身ぎれいさは維持できてて助かるよ……」
俺がいなかったころの話を聞くのがこわい。
俺は掃除をし、料理をした。コーヒーをいれ、栄養ドリンクを差し入れた。
机で寝る者あらばたたき起こし(寝たらなにをしてでも起こせと厳命されていた)、部屋の換気をし、印刷所のスケジュールを確認した。
すべてが終わったあと俺たちは『終わった!』という充足感などみじんもなく、一人、また一人と死ぬように眠りにおちていく。
一方で普通にスケジュールを組んで普通に毎日寝て普通に仕事を終えていた俺は、印刷所に連絡をし彼女たち入魂の漫画をデータから実物へと昇華させる地味な作業をおこない、床に散らばる十八歳(&十七歳)女子たちをきちんと並べてブランケットをかけたりする。
買い出しに行き、お菓子を作ることにした。
カリナの部屋は調理器具が少ない……だが俺はフライパンさえあればたいていのものは作れる。ついでに掃除と整理をすませ俺が使いやすいようにしたキッチンは快適でさえあった。
彼女たちがほぼまる一日の睡眠のあと目覚めたころ、俺は彼女らにまずは風呂をすすめ、そのあいだに準備していたお菓子を用意した。
コーヒーは原稿中にガバガバ飲んでいたのでこれ以上は胃に悪いかと思い、ささやかな脱稿祝いとして買ったちょっといい茶葉を水出ししておいたアイスティーを三人に注ぎ、フライパンだけで作ったワッフルに生クリームとフルーツをあしらって提供した。
「執事だ……リアル執事だ……」
俺ははにかんで答えた。実は俺、『ヒモ』を目指してるんだ――それは誰にも語ることのなかった、俺の、ささやかだけれど、本気の夢だった。
カリナたちは「いいと思う」「向いてると思う」「冬もお願いしたい」と口々に言ってくれた。
俺は知ったのだ。夢を肯定されることがどれほど嬉しく、気持ちいいかを……
俺たちは夢に生きている。
そして――夢の祭典が、いよいよ、始まろうとしていた。
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43話 命と尊厳
現在と過去と未来と夢と希望と絶望が交錯する物語をお楽しみください。
いやほんとに交錯するか?
生きることが最優先で、それ以外のすべては
だから俺は『死』を感じさせるあらゆることをやらないように生きている。
他の者、今回特にカリナたちから『どうしてそこまでカッチリやるの?』と言われた『スケジュール管理』も『死なないための活動』の一環だ。
疲労をためない。あせらない。無理をしない――『生きる』ことをまったく甘く見ていないので、生きるための戦略的努力が俺のスケジュール管理にはあらわれているのだ。
さて、どうにか締め切りに間に合わせ、つつがなく印刷を完了し、カリナと俺たちは夏の祭典へと旅立った。
印刷した本は、印刷会社から会場に直接搬入されるらしい。
去年などはそのへんのコピー機でコピーして手作業で綴じて手ずから持ち運んだようなので、これもまたスケジュールをしっかり管理したおかげでいらない苦労をしなくてすんだ好例と言えよう。
俺たちは即売会会場で、六時間をかけておおよそ六十部の本をさばくことになる。
完売は『すればいいけれど、しないと思う』とのことなので、一時間に客は平均すれば最大でも十人で、立ち読み客をふくめても三十人は絶対にいかないだろう。
楽な業務だ。
コスプレ売り子と聞かされた時はてっきりキャラクターにそぐわないあらゆる行動をしてはいけないのかと想像し勝手にヒヤヒヤしたものだが、『服を着て座っていればいいだけ』らしく、余計な心労を負わずにすみそうだ(いちおうキャラを演じるために予習はした)。
もちろんうちの店(サークル、と呼ぶらしい)は四人もいるからして、交代で店番にあたることができ、休憩時間が発生する。
始まった即売会は開場直後こそ人通りも多く、客も多かった。
カリナたちの固定ファンみたいな人がいるようで、その人たちがいくらかのあいさつを交わしながら本を買っていき、俺は応対するカリナの横で存在感を消しているだけでよかった。
一時間もすればだいぶ人の波もおさまってきて、俺はカリナに休憩の許可をもらう。
休憩といってもすることはない。
トイレ、あとは食事ぐらいだろうか。
たった一人でよく知らない会場に放り出されてもやることが思いつかない。
が、ここで扱っている本は一般書店ではまず扱わないものばかりなので、見てまわるのはやぶさかではない。俺は本が嫌いではなかった。なぜなら、本を読むことで命の危険を味わうことはありえないからだ。
俺は本を求めて会場を歩き回ることにした。
会場はいくつかのブロックにわかれており、それぞれ扱っているジャンルが違うらしい。
カリナたちはいわゆる『女性向け二次創作』だが、
まあなんとなくめぐろう、まずはトイレ――そんなことを思いつつ、俺は一時間という時間をどう使ってどうまわるか、会場内の地図を見て予定を立てた。
――この時の俺は、わかっていなかったんだ。
即売会会場がどれほど混んでいるのか。
サークルから見る景色と客として見る景色はまったく違うものだった。
長蛇の列ができるトイレ。トイレ列に並んだと思いきやそこはサークルの最後尾で、トイレを横目になぜか俺はよく知らないキャラの二次創作本を買っていた。
並んでるだけで三十分経ってるとかウッソだろお前! 俺に許された休憩時間は一時間。すでに半分を消費してしまったことになる……
俺はさっき『せっかく並んだんだからただ引き返すのも悔しい』という思いで購入した薄い本を抱きしめながら考える。
トイレ、トイレは無理だ。
今からあの列に並んでは三十分以内にカリナのもとに帰れない……俺は
いける? 無理? そこをなんとか。わかったわかった。無理を強いる代わりにそちらからの条件は可能な限り呑もう。走るな、下腹部に衝撃を受けるな、これ以上の水ものをとるな……わかった。だが会場は暑い。熱中症と失禁なら俺は失禁をとる。人は恥をかいても死なないが、汗をかかないと死ぬのだ。わかってくれ。わかった? よし、契約成立。
膀胱とは話がついた。
俺は慎重な足取りでカリナたちのいる場所へ戻り始める。会場は時が経つにつれ空いていったが、俺がいる男性向けブロックはそれでも人が多い……暑い、そして変なニオイがする……
俺は人波の流れに逆らいすぎないように歩く。膀胱との契約があって、あまり力強い動きができないのだ。
流され流されようやく男性向けブロックを出たところで残すところあと十分。間に合わない可能性を見てカリナたちに連絡を入れようとするも、携帯端末は『通信不能』を示していた。
魔法世界である。そこらにいる一人一人がアンテナの役割を果たすこの携帯通信端末は、しかしあまりに人と邪念が渦巻きすぎてその機能に不全を起こしているようだった。
焦る。だが焦るな……焦りはストレスだ。ストレスは寿命を縮める。
俺は急いで歩いた。
膀胱が叫ぶ。『話が違う!』いや違わない。走ってはいない。走るのはそもそも会場のルールで禁じられている……これは早歩きだ。
女性向けブロックに戻った時、俺の頭は『おしっこ』という言葉でいっぱいだった。
思考がおしっこに支配されている……俺は人なのか、それとも尿なのか。そもそも人とは尿なのではないか? 人はそのほとんどが水分でできている。尿もそのほとんどが水分だ。そして尿の成分は血液に近い……利尿作用のある飲み物はだいたいが心拍数増加をうながす効果も持っているのはそのためだ。心臓が興奮作用で脈打ち全身に血液を巡らせる時、尿も膀胱を目指してめぐっているのである。つまり血液とは尿なのだ。
俺は血管中をかけめぐる尿の流れを感じながらカリナたちのところを目指す。イヤな汗が出てきたが、逆に考えよう。人は尿。血液は尿。ならば汗も尿に他ならない。
俺は許された休憩時間を超過してしまうことへのストレスから額に尿を流し、そしてドキドキと心臓を鼓動させ全身で尿をまわしながら、すりあしで向かう。
カリナたちの姿が見えたタイミングで時間を確認する――どうにかまだ数秒ある。よかった……俺は額に浮かんだ尿をぬぐいながらカリナのもとへすり足で歩いていく。よかったよかった。焦りすぎて口から尿が飛び出すかと思った。ここで言う尿とはすなわち心臓であった。
おりしも我らがサークルはちょうど来客中で、カリナはその応対をしていた。
人のはけたタイミングを狙ったのか、来客はカリナとずいぶん長く話し込んでいるようであったし、カリナも迷惑をしている様子でもなかった。
俺は感慨深いものを覚えた――かつて、中等部の同じクラスに友達がいなかったカリナが、趣味の場所で多くの同志を見つけた。
これは俺には関係がないことだ。カリナが勝手にやったことだ。完全にカリナの力だ――そうわかっているのに、なぜだか俺の中にはほこらしいような気持ちがわきあがってきた。
「あ、レックス」
カリナが言う。俺は尿のように軽く手をあげる。お客さんがちょうどいいという感じでカリナに別れをつげる。ちょうど俺がお客さんとすれ違うタイミング。
まわれ右したお客さんの手が、俺の下腹部を叩いた。
「あ、ごめんなさい」とお客さんは言う。軽い謝罪だ。実際そんなダメージでもない。とん、と手がおなかにぶつかっちゃっただけだ。今の俺には致命の一撃だった。
出るぞ、いいか? ――膀胱が言う。俺は『否』と告げた。出るな。人は恥では死なないが、高校二年生男子はコスプレ中に一つ年上の女子の前で失禁すると死ぬ生き物だ。
しかも今はエロではないがほとんどエロに近いエロよりエロい本を薄い本を持っているんだ。こんな状態で失禁したら色々あってもだえ死ぬ。
俺はお客さんを見送ったあと深く長く息をはいた。肺の中の空気を出し切る。全身に尿がめぐっているのを感じる。額から尿が流れるのを感じる。目を閉じる。息を短く吸い、長く吐く。
「レックス、どうしたの?」
なんでもない。次の休憩に入るんだろう? 行ってくれ――
俺の理性はそのような言葉を口にしようと思った。
だが実際に俺が述べたのは、『トイレいかせてください』だった――
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44話 新たなる命
登場人物たちがいろいろな方向に進んでいく世界をお楽しみください
主人公はどこに行くのか書いてる最中ずっと不透明でした
黄土色の葉っぱが昨日の雨で地面に貼りついている。
気づけばみずみずしい緑色の葉は枯れ、あたりには落ち葉の敷物ができあがっていた。
特に高等科校舎に向かう坂道のふもと付近はこの時期になると街路樹からたくさんの葉が落ち、清掃をする人たちが初等科生徒たちとあいさつを交わす光景が風物詩となっていた。
熱すぎた夏はこうして過ぎ去り、俺たちはまた一歩進級へと近づいていく。
文化祭、生徒会選挙とつつがなく終えて(また生徒会長になった)、本年度のイベントもその多くを終了したころ、ようやく学年内に蔓延していた恋愛熱病も過ぎ去る気配が感じられ、気温がほどよい涼しさになったのもあり、クラスの居心地もよくなってきたように思う。
俺は過剰に『勉強してるアピール』をする必要もなくなり、授業の合間に雑談をしつつ、携帯端末に来たカリナからの「冬はどうする?」という問いかけに「そちらこそ受験は?」と返して既読無視を食らったりしていた。
そう、俺たちも来年は受験だ。
まだ一年あるとも言えるし、もう一年しかないとも言える。
周囲にはあせり始めた者が三分の一ほど、根拠もなく『まだだいじょうぶ』とのんびりしている者が三分の一ほど、残った三分の一はきちんと来年の受験に備えている者で、少数ではあるが就職を目指す者もいた。
就職。
自分の力で稼ぐというその道を、俺も考慮しなかったと言えば嘘になる。
現在のような、生活のすべてを他者(親)に握られている状況は、『安定』と言えるか? ということは考えたのだ。
安定。それは俺が求めてやまないものだった。
長生きするためには安定が肝要で、ストレスなく、困窮せず、自分のために使う時間を持ち、それでいて自力で生活していけるという状況は俺の目指すところだ。
考慮した結果、俺は学生を続けることに決めていた。
なぜなら就職とは『雇用主を変える』ことに他ならない――はて、学生の身分で雇用主がすでにいるような口ぶりではないか? と思う者もあるだろう。
いる。
俺たちはみな生まれた瞬間から『親』に雇用されているのだ。
俺が長らく疑問だった『大人はなぜ赤ん坊をVIP待遇するのか?』という理由についての答えがこれで、親は赤ん坊がそのうち成長し、そして利益をもたらすことを実体験から知っている。
だから赤ん坊を世話し、恩を売り、そうして赤ん坊が生み出すであろう利益の分配を受けるべく、一人前になるまで育てるのだ。
つまり俺は衣食住の世話をされいくらかの自由になる金銭を受け取る代わりに、『将来性』というものを親に支払っていたのである。
長年の疑問が氷解して俺は胸がすくような気持ちだった――思い返せば十七年前、俺はこの世で新たなる生命を始めた。
泣き、喰い、漏らすしかない、己の足で立つこともかなわない脆弱なる生命として生まれたのである。
こんな生き物の世話をして、いったいなんの得があるのか?
あまりに手厚く俺を遇する母や父の意図をはかりかね、たとえば『赤ん坊こそ最強』という仮説を立てるなどもした。
だが、赤ん坊は――弱かった。
小さく弱いその生命は親の自由になるがままだった。
俺の百万回の転生経験から言って、こんな生き物を世話する価値などない。だが、俺は世話された。なにも提供できない俺という赤ん坊は、こうして十七歳になる年まで生かされ続けているのである――『将来性』というものを対価に支払って!
なるほど『赤ん坊状態ではなにもできず、老いれば能力の下がる』生命体であるゆえの先行投資だ。いずれ親が老いた時、赤ん坊だった生命は勢力絶頂の『大人』になる。
これは己より若い者からの反逆を防止し、かつ老いたあとに世話をさせるという遠大なる計画だったのだ。
それに気づいてからというもの、俺も幼い子たちに恩を売る活動を始めた。
具体的には生徒会活動で幼稚舎、初等部、中等部に出向くことがたまにあるので、そういった機会には子供らの世話をし、彼らをうやまい、かわいがったのである。
お前たちは今、なんの疑問もなくすくすく育っているかもしれないが――
将来いずれ、思い出すだろう。『愛情』という名の呪縛。『恩』という名の足かせが、すでにその身につけられていることを。
フフフ……大きくなあれ……大きくなあれ……
ところで高等科二年生も終わりかけたある日、ミリムからこんな連絡を受け取った。
「赤ちゃん産まれた」
ちょっとなにを言ってるかわからないですね。
俺はおおいに混乱した。『目立たない』『目立たない』『目立たない』……三つ唱えて息を吸う。三つ唱えて息を吐く。
俺は『目立たない』と唱えることにより心の平静をたもとうとするクセがあった。人生において幾度『目立たない』と唱えたかわからず、もはや俺の中で『目立たない』という言葉は意味を失い、呪文のようになっているおもむきさえあった。
俺は自分の頭が色々な想像をするのを止めるのに必死にならねばならなかった。
ミリムに赤ちゃんが生まれた――
まずミリムとは誰だ?
そう、俺のかわいい妹分だ。
はるか東方島国に多く住まうという『獣人』種の少女で、今は高等科の一年生で、先日、生徒会にも入った。
二週間に一度は部屋に招いて勉強会のような、ただの雑談会のようなことをしている。
高等科となった女子のスケジュールを二週間に一度という低くない頻度で奪うことに多少の罪悪感も覚え、別に保育所時代から続いている習慣とはいえ、そんなにいっぱいうちに来なくてもいいんだよと言ったこともあったが、ミリムは頑としてゆずらず、俺たちの交流は続いているのだ。
しかしミリムの高校生活について、俺は知らないことも多い。
学年の壁だ。一学年違えばそこはまったくの別世界となる。もちろん生徒会活動で学園でも時間をともに過ごすが、俺の知らないミリムの生活はたしかにあるし、知らないあいだ、ミリムが誰となにをしようが、知らないんだから知らないのだ。
祝福すればいいのかなにすればいいのか、俺は対応を決めかねていた。
思えばミリムももう十六歳。肉体機能的に赤ちゃんがいてもまあ不自然ではないと言えるかもしれないが、社会の風潮的に学生で赤ちゃんがいるというのは世間からの白眼視は避けられないだろう。
冷たい世間の風にさらされるミリムに対し、俺がしてやれることはなにか?
それは――祝福だろう。
あと、場合によってはミリムの相手を異世界転生させてやらねばならない……
「レックス、あのね、聞いて」
はい。
「親戚の赤ちゃん。わたしの赤ちゃんでは、ない」
はい。
……だよねー!
そうだと思ってた!
そうに決まっていた。それ以外になかった。逆にどうしてミリムの赤ちゃんだと思った? 意味がわからない。そんなこと、考えるまでもないだろうに。
「レックス、心当たりないでしょ?」
ないよ。
っていうか二日前に家で会った時、『赤ちゃんがいそう感』なかったよ。
俺は『冗談だよ』とミリムに告げて、ついでに赤ちゃん鑑賞に付き合うことにした。
なんでもミリムの父方の親戚に赤ちゃんが生まれたらしい。それでミリム家に来るので、なぜかミリムが俺を呼びつけたというわけだった。
冷静に考えればなんでミリムの親戚の赤ん坊を俺が見せられることになるのか、その因果関係には不明瞭な点も多いんだが、俺は赤ん坊に恩を売れるなら機会を逃したくないタイプだ。その将来性、買い付ける。
かくしてミリム家で見た赤ん坊は小さくてかわいかった。
俺がこれまで自分の中で練り続けた『両親、将来性の対価に赤ん坊の世話をしてる説』は打ち砕かれる。
だってこんなかわいい生き物、世話せずにはいられない。
そう――両親をはじめとして、俺を世話していた面々が買っていたのは、将来性ではなかった。
かわいさであり――癒やしだったのだと、ほとんど知らない人の赤ん坊のオムツを替えながら、俺はようやく知ることができた。
あとオムツは日々進化していることも、知ることができた……
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45話 ウンコ道
そろそろ将来のこと考える時期ですね……
今回もまじめに進路の話です。よろしくお願いします
俺は赤ん坊のウンコについて考えていた。
ウンコは汚い。それは生理的にもそうだし、もちろん細菌学的にもそうだ。
排泄物であり、体が『いらない』と判断したものが詰まっている――生物によっては自分のウンコを食べて栄養補給をするものもあるようだが、『人間です。自分のウンコ食べます』とか言う人がいれば、正直言って吐き気をもよおすし、そいつとはお近づきにならないようにつとめるだろう。
ウンコは汚い。これはゆるぎようがない事実だ。
だが赤ん坊のウンコはどうだ?
ウンコは見ただけで不快になる。他人のウンコなんか不愉快で当たり前だ。公衆トイレ、流し忘れた大便器……思い出したくもない体験を俺もしていて、レバーをひねって水が流れていく様を見ている時、俺の心にはなんとも言えない、虚無のようなものが満ちていた。
だがオムツを替える俺に、そういった気持ちはない。
もちろんウンコなので食べようとも思わないし、触ろうとも思わない。だが、不愉快ではない……そのウンコは実に不可思議なものだった。
「ないわ……」
マーティンにウンコトークを仕向けたところ、そのように反応された。
どうにも世間では赤ん坊のウンコも大人のウンコもともにウンコであり、ウンコはすべて同列にウンコでしかないようだった。
ここに俺は可能性を見た。
つまり、俺の感性は『世間』から外れていることとなる。
『ウンコは汚い。それがなにもののウンコであろうとも』。
これが一般的な感性だとするならば、俺の『赤ん坊のウンコならそうでもないし、オムツを替えるのも苦ではない』というのは一般的でない、俺特有の感性ということになるだろう。
世間から外れているというのは、『目立たない』という目的をかかげる俺からすれば、避けるべき事態だった。
だからこそ俺はそれ以上マーティンに赤ん坊のウンコトークをしかけることなく、華麗に話題転換をして毒にも薬にもウンコにもならない話をしたわけだが……
一般的であるかのようにふるまうことと、中身まで『一般的』に合わせてゆがめることとは、違う。
俺は『赤ん坊のウンコは平気』と思う自分の感性を是正する必要を感じなかった。むしろこれは得がたい特性だと考えたのである。
すなわち赤ん坊のウンコに対する耐性こそが俺の欠落あるいは長所であり――『人とは違う、自分だけの感覚』であり、換言するに『才能』と呼ぶべきものだと判断したのだ。
俺は自分の『才能』を発見することができずに人生を送ってきた。
最初から『才能なんかない』とあきらめていたというのもある。俺は百万回の転生で、一度たりとも己に才能があると認めることがなかった。
不遇だった。不幸だった。才能も運もない人生はうまくいきようもなく、俺は幾度となく『人生は(才能+努力)×運勢で成り立っており、運と才能がないならば、どれほど努力しても成功はつかめない』と思わされてきた。
ところがこの俺に才能があったのだ。
ウンコ!
俺は己の将来を親のたどったレールをなぞることしかできないと思っていた。いや、それさえもどこかで運勢や才能の壁につまずき、失敗すると考えていた。
ところがここで才能が発覚し、俺の目の前には考えもしなかった新しいレールが出現する。
すなわち、ウンコの道に進む。
そう、保育士だ。
他人の赤ん坊のウンコをいやがっていては保育士はつとまらない。
三歳児が一歳以下の子の世話をする習慣は続いているようで、オムツ交換なども三歳児がやることも多いようだが、それでも保育士がまったくその手の世話をしないわけではない。
保育士になる上ではいくらかの壁があるだろうし、なってからも続けていくためにぶつかる壁は多いだろう。
もちろんその壁は『他人の子供のウンコを世話することへの抵抗』だけではなかろうが――ウンコが平気な俺は、いくつかある壁のうち一つをすでにクリアしていることになる。
これは、その道を志す上で大きなアドバンテージなのではないかと考えたのだ。
そして俺の前に新たにあらわれたレールは、一本だけではなかった。
もう一つある。赤ん坊のウンコが平気という才能を活かせる道。
すなわち――専業主夫だ。
こちらで世話するのは他人のウンコではない。我が子のウンコだ。平気でないはずがないだろう。
これは俺がひそかに努力を続け、カリナたちに『向いている』とほめられた『ヒモ』に用いる技術をそのまま転化できるのだ。
家事ができる。赤ん坊の世話ができる。なるほど専業主夫は考えれば考えるほどヒモと同じ技能を求められる職業だ。
なによりヒモは契約書を交わさないが専業主夫は契約書を交わす……その一点だけで考えても、安定度はヒモより数段上と言える。
俺は将来目指すべき職業の欄に、新たに二つを書き加える。
もちろん他者に見せるようなものには『教師』『保育士』だけだが、他者に見せない将来の計画表の一位は『ヒモ』から『専業主夫』に変わり、結果として『教師(からの塾講師)』は四位に転落した。
おりしも受験が来年にせまったころではあるが、俺にはもはや受験勉強の必要はない。
望む進学先はたいてい推薦で行くことが可能だし、エスカレーター式に学園の大学課程に進むならば、それこそなんの問題もないだろう。
ならば俺は高校三年の一年間を、将来のために活かせる時間としなければならない。
そう――『ヒモ』『専業主夫』……これら二つの職業に就くには、ある難題をクリアせねばならないのだ。
すなわち『相手』。
俺を養える経済状況を(将来的にでも)持ちうる相手を探し、その人に雇用されなければ始まらない。
こうして俺は嫁探しを始めることになる。
具体的にどう活動していくかは――想像もつかない。
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46話 伏兵
両親は教師→塾講師&専業主婦への華麗なる転身を遂げています
両親ともヒモだと生活できない
これは働かずに暮らしたいすべての人に贈る物語(そういうわけではないです)
引き続きよろしくお願いします
よき助言者がいる人生は幸福だ。
俺にはわからないことが多い。
それは『調査不足』『知識不足』『想像力不足』というだけではなく、俺が俺であるゆえに――たとえば俺が『男』であるゆえに、『高校三年生』であるゆえに、あるいは『あの両親の息子』であるゆえに、『アンナのような存在と知り合いであるがゆえに』――わからないこと
が、数多くある。
もしも女性であればわかることがあるだろう。もしも高校二年生でなければわかることもあるだろう。もしも両親が違えば、アンナやミリムと知り合わなければ、わかることは、ある。
世の中のすべてを知ることはできない。
俺を百万回も転生させた全知無能なる存在でもない限りすべてを知り得ない――全知無能のあいつでさえ、全知ならぬ者の気持ちは知り得ないと、俺は思っている。
だからこそ人生には助言者が必要だ。
さて、俺は女性について知りたい。
女性の気持ち、女性の望み……いや、ぶっちゃけてしまえば性別は問わないのだ。とにかく俺が専業主夫あるいはヒモとして雇用されるに足る存在であれば、人種性別年齢、あらゆるものを問わない。
だが、長らく雇用されることを視野においてストレス面その他を考慮する場合、同性よりも女性のほうがいいなとは思っているし、年齢は近いほうがいいとも考えている。
つまり――年齢の近い女性にモテたい。
だが俺にはモテかたが想像もつかない……女性というものの気持ちを知りたいというのはいつでも思っていることではあるが、たしかに知ることができたという実感をもてたことは一度もないのだ。
だから外部にアドバイザーがほしい。
同年代の女性の気持ちを知りたいのだから、それはもちろん同年代の女性であるべきだろう。
俺はそういった時に幾度もミリムを頼ってきた。
だが今まで結果はかんばしいとは言えなかったのだ。ミリムのことを信じたいし頼りやすいという気持ちはありつつも、厳正に結果から判断し、頼るべき相手を変える必要性にかられていた。
そうなると誰が適当か?
考えた結果、俺はある休日、シーラをちょっとおしゃれな喫茶店に呼びだしていた。
実は俺――女の子の気持ちが知りたいんだ。
「は? え? うえ? は? な、なにが? なんで? え、なんであたしに?」
意味がわからないほど混乱された――まあたしかに切り出しかたがちょっと唐突すぎたかもしれない。
だが変に言葉を飾って本題がボヤけてしまってもいけないしな。俺は嘘偽りのない信念をシーラに打ち明けることにする。
将来に就くべき職業の第一位に専業主夫を志している。
そのためには――嫁を見つけないといけない。
「どうしよう、説明を聞いても意味がわからない」
そう言うシーラはしかし、最初にくらべてずいぶん落ち着いていた。
たぶんコーヒーの香りが彼女を落ち着かせたのかもしれない――奮発してかなりいい喫茶店に来たかいがある。
俺はたたみかける。
用意していたお手元の資料をごらんください。こちらにあります円グラフが『私の可能性』でございます。昨今、学力というものはかなり万能な『将来を購入するための通貨』であり、私の学力はシーラさんもご承知のことと思います。
では資料の二枚目をごらんください。私の学力で就くことができる職業を一覧にしてあります。様々な要職、重職がございますが、それら職業に就いた者の平均寿命が一覧の右にまとめてあります。そう、原因は様々でしょうが、みな八十程度までしか生きられないのです。
私の目的は『九十歳まで健やかに生きる』ことでございます。
そうなるとこれら職業は、おそらく多大なストレスやそれに伴う不摂生、睡眠時間の確保の困難さなどから寿命を削ることになることが想像にかたくありません。すなわち――
「待って待って待って。心がついていけないよ! つまりなに? なんなの?」
俺は――長生きしたい。
そのために最良な職業が、専業主夫だと結論づけた。
だから専業主夫になるために、雇用主、すなわち相手を見つける必要がある。
見つけた相手とうまくお近づきになるためのアドバイスをシーラにもらいたい。
「まずなんであたしをチョイスしたの!?」
仕方ない。俺はミリムについて話さざるを得なかった。
俺は携帯端末に保存してあるミリムの画像を選ぶ。シーラに見せてもよさそうなのは……高校の入学式の写真だろう。
制服を着たミリムと俺が並んで映っているそれを見せる。
「これがあんたの彼女?」
違います。
「でも距離感が恋人のそれじゃない?」
そうか、シーラは幼稚舎からだから知らないのか。
俺は学園の保育所における制度の説明をしなければならなかった。保育所では子供が子供の世話をする状況が起こって、そこで世話したほうとされたほうのつきあいは末永く続くことが珍しくない……つまり俺はミリムのオムツを替えたのだ。ようするに兄と妹に近い。
それはいいんだ。問題はこのミリムがなぜアドバイザーにふさわしくないかという話で、ミリムは俺が『実は遊びに行くことになったんだけど……』と切り出せば『わたし誘われてない』と言い、『実はこういう会合が……』と切り出せば『わたし誘われてない』と言い、とにかく誘われたがる……
おまけにミリム自身に彼氏的なのがいるのかと聞くと非常に不思議そうな顔でこちらを見つめるばかりで、まったく会話にならない……
返す返すアドバイザーとしては不適格で、しかし俺は兄補正でミリムを頼ってきたが、このたび心機一転してアドバイザーをより的確な人に変えようと思った。
そうして選ばれたのがあなたでした。
引き受けてください。
「というかミリムちゃん? あんたの彼女のつもりでいるんじゃない?」
それはない……が、アドバイザーに指名した者の意見をいきなり『ないわ』と切り捨てるのであれば、なんのためのアドバイザーかわからない。
ミリムが俺の彼女のつもり? ……思い当たるフシが全然ないが、それは俺が俺だからであり、俺以外の視点をもってすれば、また違った結論が導き出せるのかもしれない。
わかった。ではミリムに確認をとろう。
そこで早速アドバイザーに質問なのだが……どうやって切り出せばいい?
お前、俺の彼女なの? って聞くの?
さすがにそれがどのケースであれまずい聞きかたなのは、俺でもわかるんだけど……
「あー……うー……んー……そうねえ」
付き合って。
「は?」
ミリムに彼女かどうか確認する時、付き合って?
「……いやいやいや」
シーラはなぜかいやがったが、俺がしつこく食い下がると承諾した。
こうして俺はミリムに『お前、俺の彼女?』という今後なん回転生しようとも二度とする機会がなさそうな質問をすることになったのだった――
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47話 試用期間の重要性
果たしてこれが最後の転生になるのでしょうか?
長寿を目指すレックスの人生を引き続きよろしくお願いします
「逆にどうする?」
逆。
俺の人生はいつでも逆転現象が起こっていた。
それはもちろん『転落からの浮上』ではなく『幸福からの不幸』の方向での逆転現象だ。
もちろん幸福と不幸はつねに天秤の両皿にのっているものだ。
他者から見て不幸でも俺にとって幸福という場合はあるし――というかそんなんばっかりだった――逆に、俺が人生をあきらめるほどの不幸だと認識していることも、ある視点から見れば幸福に見える場合もあるだろう。
では、幸福と不幸の転換はどのようにして起こるのか?
その契機にはいつでも『決断』があった。
決断とはすなわち『ある選択肢を捨て、ある選択肢に賭ける』ということで、ようするに俺は決断が裏目に出ない人生が今まで一度もなかったのだった。
さて、シーラ先生のアドバイスを受けて、俺はある日ミリムを部屋に呼び出し、たずねた。
ひょっとして俺たちは――付き合っていたのか?
ないと思う。ないとは思うが、『俺はないと思うんだけど、客観的にそう見えるらしいという意見が出てるんだけど』などとは前置きしなかった。
余計な配慮を生む可能性があって、俺が聞きたいのは、配慮しない、ミリムの率直な意見だったからだ。
そうしたら『逆に』と来た。
逆……逆か……俺はどうなんだろう……ミリムと俺……
俺はミリムを妹だと思っていたが、そもそも妹ってなんだろう……厳密に言って、俺に妹はいないのだった。ミリムは妹的存在ではあるが、血縁はないし、人種は違うし、本当にまったく全然女性として意識していないかと言えば、そこまででもない。
逆に俺はミリムをどう思って――
ん?
『逆にどう思う』とは聞かれてないな?
『逆にどうする』?
『どうする』ってなんだよ。
「レックスにまかせる」
まかせられた。
俺はとりあえずミリムを正座させて、説教を開始する。
よろしいですかミリムさん、おつきあいというのは二者の合意なくして成り立ちません。それに、大事なことでもあります。それを『相手にまかせる』というのはいかがなものかと。
「そういう話、めんどくさいから……どっちでもいい。レックスだったらずっといっしょでも気楽だし」
その視点はなかった。
たしかにそうだ――俺は『恋愛』だの『結婚』だのを、『新たなる関係性を始めるもの』だと認識していた。
だが、別に、いいのだ。俺の人生にはミリムがいる。ミリムとのつきあいは気楽だし、お互いに黙ったまま同じ空間にいてもなにも気まずくならない。
俺の目標である専業主夫が結婚後死ぬまで続くものだと仮定すれば、『気楽さ』というファクターは重要視してしかるべきものだ。
ならばミリムが俺の雇用主筆頭になるのは、俺にとってメリットしかない。
しかしここで俺の中に
それは『意地』と呼ばれるものだった。
生きていくうえで必要のない精神性ベスト3に入るであろう『意地』と呼ばれるそれが、俺の心の中で小さく、けれど必死に叫ぶのだ。
『ミリムに養われるのはさすがに格好悪い』
格好悪い。
いいんだよ格好なんか悪くても。格好よく生きて格好よく死ねたらそりゃあ、それが一番いい。けれど人生には妥協が必要だ。
完璧に生きられる者などいようはずもなく、俺ほどの不運であれば、『完璧に生きよう』などと望むことさえ身の程を知らない愚行に違いなかった。
格好悪くても、気楽に長生きするべきだ。
意地と虚栄心とプライドは身を滅ぼす三大精神要素だ。
『格好つける』という行為にはその三つがまんべんなくふくまれている。ならば格好なんかつけないべきだ。
ミリムさんの足にすがりついて『私を養ってください』とふくらはぎでもなめるべきなのである。幸いにもミリムの成績はいい……将来高給取りになる可能性は低くない。
だが俺の中で『意地』が必死の抵抗を見せている。
黙れ。つぶれろ。そう唱えても、意地のやつは俺とミリムの交際に断固として首を縦に振らないのだ。
……ああ、思い出す。
俺はいつでもこうだった。生きるのに不要なものを全部切り捨ててきたのに、最後の最後で、切り捨てきれなかったものに殺されてきた。
今回は――ただちに死にそうではない。
だがきっと、将来的に、ここでミリムの世話になる道を選ばなかったせいで、いらない苦労をするのだろう。
それもいいか、と俺は笑った。
生ききることを目的にかかげながら、俺は、意地を通せない人生を、また、選べなかっ――
「高校卒業までお試しでやってみる?」
――。
お試しかぁ。
お試し。試用。高校卒業まではもう一年もない。なるほど試用期間としては妥当なところだろう。
それに俺は経験不足だ。恋愛の素人である。人生九十年リアルタイムアタック本走の前に一年ぐらい試走してみるのは、今後の人生のためにも大事なことだろう。
俺は自分の中の意地に問いかけた。お試しだって。どう?
意地「お試しなら、まあ」
「じゃあよろしく。なんかそれらしいことしたくなったら言って。わたしもしたくなったら言う」
こうして俺たちはお試し恋人を始めたのだった。
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48話 雨雲のすきまから
だんだん将来というものが実際の重量を伴ってのしかかり始めてきましたね……
引き続きお楽しみください
常になまぬるいプールにつかっているかのような、湿度と気温の高い季節がおとずれた。
この時期は生きているだけでストレスがたまっていく。
生きるとは苦しむことだ――そういう考えかたもあって、俺はその考えにだいたい賛同している。早く死ぬにこしたことはなく、俺の『生ききる』という目標はすなわち『無限転生という苦の輪廻から一刻も早く脱したい』、ようするに『死にたい』とも換言できる。
三年生の教室は受験へ向けたピリピリとジメジメ気温へのストレスがあいまって、不機嫌のるつぼと化している。
俺はもちろん目立たないことを目標に生きているわけだから、いらない騒ぎを好まない。
だから明らかにいらだっていそうなヤツとはかかわらないようにつとめるわけだが、三十人超が詰め込まれた教室内では限度があって、今回俺が巻き込まれた騒動もまた、そういう、避けようのない、ある意味では『いつもの不運』というものなのだろう。
「成績トップのエスカレーター受験組は気楽でいいよなあ!」
そんなからみかたをされたように記憶している。
だが俺は穏やかな性分の、自分の精神を完璧に制御できる、人生百万一回目の十七歳だ。
人生一回目の十七歳男子にからまれたところで心に波風が立つはずもない。ただ、相手の精神に余裕がないことを哀れむだけだ。
しかしこの時はたまたま親切な気持ちだった――たぶん将来における『雇用主確保』という目的がいったんの解決を見せたからだろう。
未来が安定していると心が広く、また、人に優しくなれるものだ。
だから俺は勉強をがんばるあまり心に余裕をなくしてしまった外部受験を目指すそいつの考えの誤りを正してやろうと思った。
成績トップというのは、日々のたゆまぬ努力により達成できたものだよ。
君たちは今、必死に勉強してて、『自分はこんなにがんばってて偉い』と思っているのだろうけれど、俺はただ、君たちが今慌ててしているような努力を、これまでの二年間、ずっとやってきただけなんだ。
だから、人のことを気楽だなんだとわめきたてて、むやみに酸素を消費するよりは、もっと頭に酸素まわして、お勉強がんばったほうがいいんじゃないですかぁ~↑?
なぜだろう、キレられた。
しかし俺は今、優しい気持ちでいっぱいだった。
心の広さは空と同じで、気持ちの明るさもまた、同じだった。
雨期のせいで分厚い雨雲に覆われ、いくぶんか低くなっているような空を教室の窓から見上げながら、ため息をつく。
世界は真っ昼間だというのに全然明るくなかった。もうずっとこんな調子で、長く、長く、強くはない雨がしとしとと数日にわたって降り続いている。長らく太陽の光を浴びていないせいだろう、少しだけ体調が悪いような気さえしていた。
だけれど俺には慈悲があった。心はあの空のように広々としていたし、気持ちは今この瞬間の世界と同じぐらい明るく、晴れやかだ。
だから俺はキレたヤツになおも対話を試みる。
尽くした言葉は色々だったが、そのすべてを集約すると『黙れ、猿』になる。
猿vs人の戦いが始まった。
なぜこの蒸し暑い中、戦いなどという愚かなことをしなければならないのかわからない……俺は悲しみでいっぱいだった。
まとわりつくような湿度の高い空気は動くたびに不快感という重しを俺の手足に乗せてくる。少し動けば発散できるかと思い、猿との戦いに応じてやったが……やれやれだ。シャツは汗で濡れるばかりだし、空気は相変わらず重苦しいし、まったくもって不愉快なだけだ。
俺は慈愛の心をもって、いどみかかってくる猿をあやした。
クソが! お前だけがイラついてると思ってるんじゃねーよ! 三年生になってから俺がいったいなん人にお前と同じからみかたされたと思ってんだ! こちとら地道に勉強してんだよ! 楽して成績トップとってるみたいな言いかたされるのは心外なんですけどねぇ!
心は穏やかだった。俺は今、悟りにいたっているのかもしれない。
そう、いらだつはずがなかった。
たとえば飼いスライムがズボンの上で粗相をしたら、いちいち全力で怒るだろうか?
いや、もちろん最初はいらだちにまかせて怒鳴るかもしれない。しかし怒鳴っているうちに気づくはずだ。『こいつには言葉が通じないのだから、怒るだけ無意味だ』と。
だから論理的に自分の怒りを表現する必要はない……ただし、しつけは必要だ。
相手の苦労をおもんばからず、自分のいらだちのために不当に他者をおとしめる……これはきっと、社会に出たあとで悪癖となって自分の首をしめる。
だから俺は相手のために、二度とそんなことをする気が起こらないようしつけてやらなければならない……俺は猿の腕を極めて床に引き倒しながらそんなことを考えていた。慈愛のあふれた肘関節が極まっていた。
「だからお前のケンカは素人のヤツじゃないんだよぉ!」
猿の名前はマーティンといって、こいつは俺とケンカするのが初めてではなかった……
しかし俺は壊さない程度に肘と肩を極めながら思うのだ。
彼の勇気は賞賛に値する……マーティンとはなにかにつけてケンカをしてきた。絶縁を考えたことも一度や二度ではない。相手もそれは同じようで、時には口で、時には暴力で雌雄を決し、そのことごとくに俺は勝利してきた。
だというのにいどみかかってくる勇気……それは蛮勇とも呼べるのかもしれないが、それでも、一度たりとも勝利できない相手にいどみかかる踏ん切りの良さ、とでも言うものは、俺も見習うべきかもしれない。
ちょうどミリムとの関係が手詰まりで、あの日恋人試用期間を始めてから、妙に緊張してしまい、いつものように家に呼ぶことさえおぼつかなくなってしまっている。
このままではせっかくの試用期間がいたずらに疎遠になったままで終わってしまう。
俺はなにか、ミリムと恋人らしいことをせねばならなかった。だが、なにをしようがまったく勝算が見えないために、ことごとくをためらっていたのだ。
だが、マーティンに教わった。
時には勝算の見えないまま進む、蛮勇も必要だ――
ありがとうマーティン……俺は肩関節をひねりながら礼を述べた。暴力はいい。モヤモヤが晴れる。
特に『仕掛けてきた相手をひねる』というのはほどよく自尊心も満たされ、正当防衛の大義名分も立つので、俺の大好きな種類の暴力と言えた。
マーティンを組み敷きながら、窓の外を見る。
――いつのまにか、空を分厚くふさいでいた雨雲に切れ間が。
そこから漏れる光は、まるで俺の明るい未来をあらわしているかのようだった――
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49話 沼
前回は空のように穏やかな気持ちでいられました
今回のタイトルは沼です
よろしくお願いします
からりとした暑さがあたりを満たすころ、俺は学園に進学内定をもらい、ミリムとどこかに出かける頻度も増えてきた。
特別なことはなにもしていない。
せっかくの恋愛試用期間なのだからなにか特別なチャレンジをしてみるべきなのかもしれないが、ぶっちゃけなにをしていいか想像もつかず、「まあいいんじゃない?」というミリムの厚意に甘えて、俺たちは今までと同様に遊んだり学んだりしていた。
不思議なものだ。なにも起こっていない。断じてなにも起こっていないのだが、夏の暑さが高まるにつれて、『なにかが起こりそう』という期待だけがどんどん高まっていく。
そんなおり、一通のメッセージが再び俺を混沌のるつぼへといざなうことになる。
「今年の夏は、どう? 受験?」
それはカリナからのお誘い……いや、いざないだった。
昨年カリナとともに腐海をのぞきこんだ俺には、腐海のにおいがしみついているらしい……そのにおいを目指して、カリナがまた闇の中から俺に手を伸ばしてきたのである。
ようするに同人誌即売会の手伝いのお誘いだ。
俺はすかさず『受験はどうしたの?』と返した。
カリナとは昨年、『冬もよろしく』『受験は?』というやりとりを既読無視されてから音信不通だったのだ。
どうにか大学には合格し、サークル活動なんかしているらしいという報告を聞いて、俺はホッと胸をなでおろす。
俺たちはカリナが先輩、俺が後輩というあいだがらだが、奇妙な縁から俺がカリナに勉強を教えたこともあったのだ。
カリナの勉強方面はそれ以来地味に気にしているし、なんなら受験勉強で頼られるものだという想定もしていた――まあ、その想定は外れたわけだが。
さて、カリナの本造りの手伝いだが、俺は再び参加してもかまわないような気持ちでいた。
あの時間はたしかにこう、なに? なんていうの? 充実感というか、満足感というか……『沼に引き込まれた』ような感覚があって、あのあと俺も単身で同人誌作製を始めようかと思ったぐらいだった。
しかし冬祭りの申し込みは夏祭り終了直後ぐらいに締め切られるという話で、そんなことを知らなかった俺は申し込みをしていなかった都合上、冬祭り単身デビューはあきらめたわけだが……
あの夏のムワッとした充実感をもう一度味わいたい気持ちはたしかにあったのだ。
だが今の俺は彼女持ち。
同人誌造りは女性三名と泊まり込みでの作業になる……冷静に考えればどういう状況だとツッコミたくもなる。
ぶっちゃけ作業が大変すぎてカリナたちとはおどろくほどなにもなかったし、今年もきっとなにもないが、それはミリムに対する不貞と見られかねないような気がした。
そこで俺に天啓がおりてきた。
常々ミリムとの関係性に新しい刺激が必要だと感じていたが、なにをもって『新しい刺激』としていいかわからないことで悩んでいた。
しかしここに『夏祭り』というイベントが発生する――俺はミリムを引きずり込もうと思った。あの腐臭のする沼の中で、ぬたぬたとした充足感をともに味わおうと考えたのだった。
「わかった。行く」
ミリムは神妙な顔で承諾した。
あんまりにもアッサリな承諾で俺はちょっと拍子抜けしたぐらいだ――なにせ『女三人、徹夜連続、風呂さえまともに入る時間がない。部屋の中は地獄と化す』みたいな話をしたのである。
話しているあいだにだんだん『断られるだろうな』という気持ちが高まってきていた俺としては、ミリムの一も二もない承諾は意外と言うよりなかった。
ひょっとして『地獄』が通じなかったのだろうか――百万回も転生していると『死後に落ちる悪いところ』をたくさん記憶していて、この記憶の引き出しがこんがらがることがある。
しかし意味は通じていたようだ。
理由を聞いてもミリムは「行く」と言うばかりで、まあそれならそれでいいか、と思い、俺はカリナに連絡し、今年はミリムも作業にくわわるのだと告げた。
「沼へようこそ」
カリナは歓迎してくれた。
こうして俺たちは深く暗い沼へと足を踏み入れることになる。
去年を上回る混沌がそこにあるなどと、まったく知らずに……
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50話 神の顕現
人の気持ちがわかる人の方が少数派かもしれない
人生は続くよ。引き続きよろしくお願いします
人は数ヶ月ごとに記憶喪失になる生き物だ。
地獄を見たはずだった。
せまる締め切り、真っ白な原稿、『一日に五日ぶんのペースで毎日ノルマをこなせば』という無茶なスケジュールはぶっちゃけ普通に寿命を削っていると思う。
それは間違いなく二度と繰り返したくはない苦しみのはずで、きちんと計画を立てその通りに行動すれば避けられた苦しみのはずだった。
だからきっと、カリナは去年のことを忘れてしまったに違いない。
「いや、忘れてはいないよ。私たちはきちんと覚えている。去年、大変な目に遭った。もうコピー機で印刷して手作業で製本するしかないんじゃないかという進行スケジュールだった。……でも、私たちは、覚えているんだ。『そんなスケジュールだったのに、どうにかなった』っていうことを――」
シンプルに死んだほうがいいと思った。
ハッ! いけないいけない……俺は穏やかな心を持つ十七歳。
百万回の転生経験は俺の『感情』と『言動』のあいだにたしかな壁を作った。もちろん心が乱されることは避けられないが、それでも、感情がそのまま表に出るような未熟なことにはならないのが、俺である。
たとえ――
『印刷所に待ってもらえるのがあと五日で、すべてのページが白紙であり、今回はフルカラーでやろう。うん、二十ページ』
とかいうことになっていても、穏やかな態度で的確なスケジューリングをしなければならない。
五日でこの作業をこなすには、どういう進行表を作ればいい?
考えろ……なぜ俺がスケジュール管理を一任されているのかいっさいわからないのだが、というか俺にスケジュール管理と雑務を任せきる用意が最初からされていたのが気になってたまらないのだが、今はスケジュール管理のために使う時間さえ惜しい。
まず必要ないものから切り捨てていって時間を確保せねばならない。
睡眠……睡眠か……睡眠、いる? どう? いやいるか。そうだなええと、三十分ぐらいでいいか。次は食事……まあ人ならば食事も睡眠もいるんだけれど、人のままではこなせないスケジュールなので、人であることは捨てるとして……
計画ができあがった。
俺たちは白紙を埋めていく。
『インスピレーションがなくて展開が浮かばない』と言うものあらば本棚でたまたま目についた漫画をバーッとめくり『この展開パクれ!』と返し、『突然主人公の顔が認識できなくなって描けない』と言う者あらば『前髪伸ばせ! もしくは影!』と返した。
エナジーポーションで精神高揚を維持しながら栄養ドリンクをむさぼる姿は、まさに『文明人が野生化したらこうなるだろう』という感じだ。
文明的野人と化した女子が発する熱量はすさまじく、クーラーの効いた部屋の中で脳みそがゆだるような気持ちを味わいながら俺は丸投げされているコスプレ衣装をガンガン仕上げていった。
『徹夜』と『思うほどには進まない作業へのストレス』で俺たちは殺気だっており、何度か殺し合いに発展しかけることもあった。
そのたびに一服の清涼剤として機能したのが、連れてきたミリムの存在である。
ミリムは獣人種なのだ――獣のような耳としっぽが生えている。そして……モフモフしたものには精神鎮静作用があった。
俺たちは気持ちが高ぶるたびミリムをモフった。ミリムには部屋で一番広い場所に寝床を用意し、お風呂も食事も自由にとっていただき、毛づやを維持してもらった。
四日も経ったころ、部屋はミリム様という唯一神を信仰する宗教組織の秘密基地と化しており、日に日にミリム様に供えられる栄養ドリンクの数は増え、三十分しか確保していない睡眠時間で目を血走らせながらミリム様用の祭壇を作ったりもした。
だんだん俺たちは言葉を失い、『ミリム様』という言語だけで会話をするようになっていった……「ミリム様?」「ミリム様」「ミリ……ミリム様!?」「ミリムさまぁ~!」俺たちはそれですべての意思疎通をすませた。
なぜ疎通が可能だったのか、あとから振り返るとさっぱりわからない。
俺たちがすっかり『ミリム様』以外の言語を忘れ、固形物で食事をとらなくても生きていけそうな確信が芽生え、妙な光が視界に常にチラつくようになったころ、ようやく原稿とコスプレ衣装は完成した。
それはまぎれもなく奇跡的なペースでの入稿だった。
すべてを終えた俺たちは放射状にミリムを取り囲んで作業の終了を報告するための礼拝をした。
四方を囲まれ土下座されるミリムは無表情だったが、ケツ側にいた俺はしっぽの動きで彼女の内心がわかる。めっちゃ困惑してるし、軽くおびえてもいた。
今回の鬼気迫る進行を振り返り、カリナは言う。
「本気でやれば……このぐらいは、できるんだね」
そのやりきった表情は間違いなく神話級の激闘を制した英傑のものだった。
たしかに俺たちは超えたのだ。あの無茶で無謀なスケジュールを……『しなくていい激闘はしない』という信条の俺でさえ、ちょっとグッとくる達成感がある。涙が流れっぱなしで止まらない。変な光が見える。ミリム様の光……
この感動はなにものにも代えがたいだろう。きっと、一生忘れないだろう。
でも、俺は思うんだ。
人生には余力が必要で――
また俺にスケジュール管理をさせようと思うなら、もっと早く呼べ、って――
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51話 自己改変
主人公くんはわりと見るべきところ見えてねぇからな……
見過ごし人生を引き続きよろしくお願いします
夏祭りで甘くみてはいけないものが三つある。
熱気。
湿度。
行列。
この三つだ。
俺より先輩であるカリナは『なんかこういい感じに』ぐらいしか忠告をしてくれなかった――ものごとを論理的にとらえず感覚でとらえるタイプなので、俺は後輩たるミリムに対し論理的な忠告をしようと思う。
まずはそうだな。
トイレの重要性から話そうか――
軽く説明を終えたころにはもう移動開始時間であり、俺たちはやや急いで祭りの会場に向かうことになった。
今回の祭りは本当になにもソツがなく――会場の空気に慣れていないはずのミリムがなにか困りごとを抱えたりすることもなく進み、終わる。
終わったあと、俺たちは焼き肉を食べた。
それはいくつかのサークルが合わさった焼き肉パーティーで、なんでも冬祭りの時にカリナが約束をとりつけていたものらしかった。
あのカリナが……と俺は感慨深い気持ちになる。カリナがなにかをするたびいちいち感慨深い気持ちになっている気がする。
俺の中でのカリナは『勉強ができず、友達もできない』者だった。
そのころの記憶がいつまでも俺の中のカリナ像なのだけれど、もはや、そんなカリナはどこにもいない。彼女は彼女の生きやすい世界で、生きやすいように、生きていた。
むしろ改めるべきは俺の脳内イメージのほうだろう。
カリナは成長した。そして――ミリムも、成長している。
俺たちは恋人試用期間中だ。
けれどそんなことは関係なく、一時期、緊張して付き合いかたに戸惑ったこともあったが、以前通りに俺とミリムの関係は続いている。
俺の中のミリムはまだ赤ちゃんなのだった。
恋人という言葉は俺の中でどこかままごとのような軽い響きを持っていて、恋愛だのその先にあるだろう結婚だのというのは、まだまだ先の遠い遠い未来のように思える。
けれど俺は十七歳だ。
うちの両親が三十手前で結婚したことを考えれば、まだまだ結婚は先の話だという認識は間違っていないのだろう。それでも思うのだ。『十七年、あっというまではなかったか?』と。
前回参加した夏祭りも、一年前だというのに、思い返せばまるで数日前に起こったことのようにしか思えない。
俺が生まれたのも十七年以上前だというのに、体感的には一月ほどしか経っていないような感じがする。
イメージの刷新が必要だった。
ミリムはもう赤ちゃんではなく、俺もまた幼児ではない――そのことを、頭ではなく心で理解する必要がある。
だが、どうやって?
俺は今まで百万回生きてきたが、この手の悩みとは無関係だった。
命の直接的な危機に対し頭を働かせない日はなかったが、こういうどこか牧歌的で、けれど放置すればジワジワ真綿で首を絞めるがごとく俺を悩ますであろう種々の問題に対処をした経験が絶無だったのだ。
この手の問題は解決法を調べることさえ難しい。
検索社会の弱点だ。
一言でわかりやすくまとめられない概念は、共有できない。
誰かインフルエンサーが定義化して名付けてくれれば、それこそあらゆるところからこの問題に対する答えや『自分も悩んでいる』という共感の声があがるとは思うのだけれど、この複雑でわかりにくく、きっと誰もピンとこない問題を定義化するメリットがまるでなく、期待はできない。
もしも同じ人生をなん度もやりなおす能力が俺にあったならば、それこそ無限に近しい数のトライアル&エラーを繰り返すところだが、俺の転生に二度同じ人生はない。
無為だとわかりつつも全知無能存在への恨みごとが頭に浮かぶ。どうしようもない問題について悩んでいる時はいつもこうで、つまり答えが出ない時、俺の思考は空転を繰り返すのだ。
夏が遠ざかり短い秋が過ぎて、いつしか俺は十八歳になっていた。
吐く息が白くなり街には聖女聖誕祭のイルミネーションが準備され始め、気の早い世間が聖女聖誕祭に向けた商品を早くも陳列棚に並べ始めた時――
――不意に、『彼女』から、連絡が来たのだった。
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52話 もし最初に出会った女性をメインヒロインと言うならば
登場人物もそろってきました
高校時代ももうすぐ終わりですが人生は続きます
よろしくお願いします
あこがれは人を変える。
たとえば十八年ほど前、俺は世界すべてを憎んでいるし疑っているし、どんな世界に生まれようとも敵以外存在しないと思っていた。
『戦いは生まれた瞬間に始まっている』
この世界で長く生きていると比喩としか思えなくなるこの言葉は、俺の標語であり、俺のリアルだった。
生を受けた瞬間から競走は始まっていて、『誰かが死ぬこと』が唯一、自分の生存時間をのばしてくれる筋道だと本気で信じていたのだ。
それを変えてくれた女性がいた。
ママだ。
生後数分の俺が『この世界には信じてもいい相手がいる』と思えたのはあきらかに彼女のおかげだった。
思えば俺が思い悩む時、いつでも彼女は有言不言問わずアドバイスをくれた。俺の悩みは俺が解決するものだけれど、そのヒントとなるものをくれたのは、ママだったのだ。
十八歳の冬、自己の成長が伸び悩み、しかし打開のヒントさえない状況だった俺に、天啓のように連絡をくれたのも、やはりママだった。
「大学行ったら、一人暮らしする?」
それは実に意外な言葉で、俺はしばらく応対に困った。
一人暮らし。
たしかに大学進学を機にそういうことを始める者は多いと聞く。データの収集をしていなかったので実数は不明だが、クラスにもなん人か、一人暮らしを始める者はいるようだった。
一人暮らしを始める者には様々な事情はあるが、やはり『距離』というのが一番大きな動機だろう。
単純に大学までの距離が家から遠く、通学に二時間も三時間もかけてはいられない都合上、大学そばのアパートメントなどを借りるという者が多い。
けれど俺の進む大学は、保育所から高等科まで進んだ学園のいち施設だ。
今住んでいる家からはさほど距離がない――つまり、特段一人暮らしをするような理由はないはずなのだが……
「あなたは反抗期もなくって、いい子だったけれど……それでも、実家暮らしだと、色々きゅうくつな思いをさせているんじゃないかって」
きゅうくつなどと、そんなことを感じてはいなかった。
むしろ俺は一生実家暮らしをしたいぐらいだった。
もちろん、俺が社会人になれば家にいくらかのお金をおさめないといけなくなるだろうが、いや、この両親ならばそんなことは要求しなさそうな気もするが、とにかく金を払ってでも実家で暮らしていたいと俺は思っている。
なぜって一人暮らしをする、すなわち『新しい家に一人で住む』と、増えるのだ。
そう――手続きが!
家賃水道光熱費!
通信費!
その他雑費!
この世界はすべてが契約で成り立ち、書面に名前を書きハンコを押さなければ水も飲めないありさまとなっている。
俺がおそれているのはこの『契約』だった。
家事、倹約、果てはサバイバルまで幅広く『生きていく』ための知識や技術を身につけ、いくらかの実践もしている俺ではあるが……
まだ水道などの契約を結んだことは一度もないのだ。
俺は契約というものをおそれていた。
それはハンコをついた瞬間から自分の体にのしかかる重しのように感じられたのだ。
二年間変更できない、すれば違約金が発生するというシステムもまた、俺の心にストレスをかける。
そして家賃、契約更新、さらには――敷金礼金!
『どうしてそんな色々項目を分けてお金をとっていくの?』というシステムがこの世にはあまりに多すぎる。
俺は金を払うたび寿命を削られているような心地を味わうタイプなので、細々と、総合金額的にはたくさん、社会インフラや保険にお金を払うのがだいぶイヤなのだ。
いや、生きていればいずれ払わされるのは間違いない……けれど扶養されている今の立場ならば、家長として父がそのへんの手続きをしてくれる。
父がやってくれる限りにおいて、俺は『うわ……こんなにとられるの……? なんで……?』みたいなストレスを味わうことなく、父になんとなく要求されたお金を払うだけでいい。
金額は変わらなくとも、意味のわからないものに金をとられるより、父に払うほうが幾分か気持ちがマシなのだ。
手続きの多さはそのまま寿命へのダメージとなる。
俺は寿命へのダメージを負いたくない。
よって実家暮らしという立場を手放したくない。
だが。
……だが、ママの声はいつだって天啓だった。
俺の一人暮らしなど、現在専業主婦になっているママよりも、塾経営し生活費を稼いでいるパパのほうから持ちかけるべき話題だろう。
だというのにママの口から話されたということに、俺はなにか、大いなる意思のようなものを感じていた。
大いなる意思。運命。
運命とはすなわち敵だった。俺を百万回転生させ続けた全知無能存在が司るものだからだ。
運命は俺から様々なものを奪い、今もなお奪い続けている。
だというのに、ママを通して知らされた運命には、まったく
不思議なものだ。……最初から、こうだった。彼女の声には、俺に大胆な決断をさせる勇気をもたらし、そして、俺に『この世界』の優しさを信じさせてくれる不思議な響きがある。
ママが言うならば、それはきっと、今後の俺にとって必要なことなんだろうなと、そう思えるのだ。
俺はうなずく。
わかった。一人暮らしをするよ――
「じゃあ、細かい話は、お父さんと三人でしましょうね」
ちなみに――
このあと、父に一人暮らしのことについて話したら、めっちゃおどろかれた。
一人暮らしの話は、ママが独断(思いつき)で俺にもちかけたらしい。
うちのママはこういうところがあるのだが……
まあ、俺も父も、最後には『ママが言うならしょうがないか』と笑った。
うちの家族は母に弱い。
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53話 想像・共同生活
新生活応援フェア
引き続きよろしくお願いします
俺の十八年間は平穏だったと、ここに認めよう。
俺は百万回転生をしてきた。
それら人生において危機的状況におちいらなかったことなど一度もなく、人生は誰かに奪われるためのプレリュードを奏で続けていた。
安寧とは『よりひどい未来』への前振りだ……そう、思っていた。
けれど、この人生は違うんじゃないか?
ただ優しく、ただ平和で、ただ報われているだけなんじゃないか?
もちろん、俺の心は安心したがっている。俺ばかりではなく、人は『いつまでも危機的状況にあり続ける』ということができないから、どんな危機的状況でも心が勝手に安心感を覚えるようにできているはずだ。
それもふまえたうえで『一秒先に起こる危機』を想定し続けている俺ではあるが、さすがにもう、警戒をして生きなくてもいいのではないかという気持ちになっていた。
そんな俺のたるんだ精神を引き締めてくる事件が起こったのは、住む場所もだいたい決まり、あとはハンコ――親指を使って押す魔術的な刻印のことだ――を押すべき書類の完成を待つばかりとなったある日のことだった。
「……いっしょに、暮らさない?」
あんまりにも出し抜けに言われて、俺は困惑するしかなかった。
だって俺たちはそういうあいだがらじゃなかったはずだ。
たしかに『一人暮らし始めるんだよ』という話はしたし、遊びに来いよ的なことも言ったと思う。
俺たちの仲は悪くはなかった。長い時間をいっしょに過ごしたクラスメイトだ。
競い合い、戦い合った。……時にはすれ違いからケンカのようになったことだってあったけれど、俺たちの関係は深刻な亀裂が入ることもなく、続いてきた。
だけれど、一緒に暮らすとなると、また話が変わってくる。
俺たちはきっとうまくやっていけるだろうという予感は、たしかにあった。
相性のよさはつねづね感じている。それは、つかず離れず、ぶつかり合っても深刻にならなかった今までの人生が証明しているだろう。
だからこそ、俺は緊張を思い出す――『うまくいきそう』と思ったことほど、意外なことが起こり、うまくいかない。
そういうことをなん度となく経験してきたことで、俺は『いっしょに暮らそう』という提案に安請け合いせずに踏みとどまることができていた。
けれどそいつは言うのだ――いっしょに暮らせば、色々なメリットがある。家事の手間は半分、家賃も半分、そして、悲しみも半分こできて、笑顔は二倍だと。
その発言を聞いて、俺はようやく決断できた。
お前とはいっしょに暮らせない。
なあ、そうだろう――マーティン。
「なんでだよ! 笑顔が二倍だぞ二倍!」
マーティンは短絡的なので、そういうふんわりした感情論で動く。
だが俺はそこまで短絡的になれない……むしろ最後に『悲しみが半分』とか言われたあたりで、ゆらいでいた心が『無理』という方向に決まったぐらいだ。
お気持ちにうったえかけるのは、詐欺の常套手段である。
家事の手間が半分とは言うが、家事には『こだわり』が出る。
修学旅行中のマーティンの様子など見るに、服は脱ぎ散らかしっぱなし、荷物はぐしゃぐしゃにして部屋の真ん中に放り出しっぱなし、靴はベッドに寝転がると足をぶんぶん振って脱ぎとばし、泥落としもしない。
マーティンと俺では『家事ができる』にもとめるランクがあきらかに違う。
マーティンが『整理できてる』と言う時、俺は『整理整頓をなめるな。自分が場所をわかってればいいってものじゃねーんだよ』と思うし、マーティンの料理は『火を通せばたいていのものは食べられる』という信念だけがあり、俺の料理は『食べやすく作りやすく片付けやすくおいしいものを安く仕上げる』という信念によって作られるものだ。
この差異は必ず軋轢を生むだろう……
危なかった。頭の中で以上の特徴を持つマーティンとの共同生活を想像してみたが、俺がマーティンを殺して牢屋に行くルートが八十パターンぐらい想定された。
この世界は誰かを殺すことのリスクがあまりにも大きい。想像するだにマーティンへは殺意がわいて、もう『死ね』って感じなのだが、その殺意に振り回されて俺の人生がだめになるのは避けたいところだった。
「お前、神経質だもんな……」
マーティンの無神経さも基準値を大幅に下回っていると思うが、たしかに俺の神経質さも『特徴』と言えるぐらいのものではあるかもしれない。
俺たちはどちらも中庸ではなかった。
俺は住環境をぐしゃぐしゃにされるのがけっこう我慢ならないほうなので、マーティンと共同生活をするさいに抱えるストレスは殺人級のように想像されてならない。
俺はそのことをマーティンにもわかるように伝えることにする――死にたくなかったらそれ以上口を開くな……
「わかったよ。でもさあ、お前もそういうとこ、直したほうがいいって。人生はゆずりあいだぜ。そんなんじゃモテねーぞ」
俺の脳裏にはすぐさまミリムの存在が浮かんだ。
けれどミリムとはあくまでも試用期間中なので、自慢げに語るのはちょっとはばかられる。
なので話題を逸らすことにした――お前こそテキトーすぎてモテないんじゃないか?
「大学行ったらガンガン彼女作ってガンガンいくからヘーキヘーキ」
ガンガン彼女作る――それはなんだか『私は禁酒のベテランです。もう三十回も禁酒してますからね』みたいな響きに聞こえたのだが、その印象をマーティンに正しく伝えるのは、かなりの苦労がともなうような気がした。
「まあとにかく、家具とか見に行くの付き合うよ。気分変わったら、いっしょに……暮らそうぜ」
なぜタメて言った。
こうして俺は警戒心を取り戻す。
大学生活もまた、マーティンのような罠師がたくさんいるだろう。
この世界はそう危険でもないが――
やはり安全でもない。
そのことをかみしめながら、俺たちは卒業していく。
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54話 労働のよろこび
いっしょに過ごす時間がきみへの殺意を自覚させてくれるRPG
引き続きよろしくお願いします
金銭とは生命であり、預金残高はHPだ。
俺は仕送りで生きている。
それは家賃など生活必需支出を払っても充分に生きていけるだけの金額だ。
しかも俺は倹約技術を知っているし、そのうえに金のかかる趣味というのもない。
だというのに俺がアルバイトを決意したのは『生きていくため』だった。
まずこの世界の大多数は間違えて認識していることがある。
多くの者は『人は働かなければ生きて行けない』と思っている。
だが、それは間違いなのだ。
それはここが魔法世界で、エネルギーが個人の中にあり、それを家の各施設(照明とか炊事場とか)に回す技術をきちんと研鑽すれば、ライフライン会社にさえお金を払う必要がない――
――という意味では、ない。
たとえば科学世界。
『料理に火を使う』場合、『ガス管につなげたガスコンロを使う』という方法がとられることがあった。
そのためにはガス管およびそれを管理する会社との契約が必要で、ガスコンロが必要で、他に『料理をする』ならば、フライパンや鍋などが必要で、もちろん、材料となる野菜や肉が必要だ。
ではこれらすべてを他者の手を借りずに用意することはできるか?
もちろん、できる。
火おこしはガスに頼る以外にも方法があった。
フライパンなぞいらない。直火でも料理は可能だ。
動物も森などに入ればいないでもないし、野草はそこらへんに食べられるものが生えていたりする。
だが、その生活は大変だ。
それらの手間を他者に肩代わりさせることで、社会性を持つ生物は日々余計な苦労を負わずに生きることができる。
この魔法世界においても同様だ――人は一人で火おこしから水の精製から鍋作製、はたまた獲物を狩ることまでできる。
できるが、それはあまりにも大変で、文化的ではない。だから、金を払って他者にやってもらう。
そして金を獲得するには働くことが必須だ。
それでも俺が『働かなくては生きていけない』という言葉に異を唱えるのは、ある前提が意図的に抜かされているのだと、見抜いたからだ。
『金さえもらえるならば』働かなくても、生きていける。
ところが労働の対価として金銭を受け取る以外の手段が、この世界にはない――これは明らかになに者かの悪辣なる意図を感じる。
たとえば肉を得たいなら、狩り、購入、その他複数の手段が考えられるだろう。
だが、金がほしければ、必ずなんらかの労働をしなければならないのだ。
なるほど、この世には『敵』がいる。
人々に労働せざるを得ない環境を用意し、それ以外にないと信じ込ませることで、全人類の寿命をストレスと過労で縮めさせようとする『敵』の存在を、俺はこの社会システムの裏側にたしかに感じ取ったのだ。
そして俺は『敵』に勝利することを目的としているが――
俺の勝利を『敵』に悟られないように、注意をはらっている。
つまり俺は……働かなければならない。
だが『働く』というのは聞くだにストレスだ。
ネット社会には違法に従業員を酷使する企業の話が尽きず、国家はこれに対してなぜだか刑罰を執行しない。
もちろんそれは『敵』の意図通りだからで、『敵』はやはりこの国家の、いや、世界の裏側で強権をふるっているのだという俺の予想はますます確固たるものとなっていく。
だから俺は、敵の意図に乗って――働く。
第一目標は専業主夫だが、それとて『仕事』の一つと俺は認識している。
だが、突然、社会に出てしまった場合、急激にかけられるストレスは俺の寿命を縮めるだろう。
そこで避け得ない『労働』という名の残酷な運命に備えて、俺はじっくりと、この精神をストレスにならしていくことを決めた。
その手段こそが『アルバイト』であった。
しかしここでなにも知らない環境に突然飛び込んでいっては、『少しずつストレスになれる』という目的はかなわない。
適切な職場選びが必要だ……そんな時、俺にとある誘いがあった。
「私のアルバイト先、私が抜けたあとを埋めるホールスタッフを捜してるんだけど、来ない?」
それは大学三年生になったアンナさんからの誘いであった。
彼女の後釜におさまる――それは俺が人生においてなん回もしてきたことであった。
アンナさんの期待に応えることによって、俺の人生はうまくまわってきたのだ。
今回もまた、応えない理由がなかった。
「ありがとう。半年ぐらいだけど、私がつきっきりで仕事教えるからね」
アンナさんがつきっきりとかすごい嬉しい。
謎のワクワク感だった。ひょっとして仕事って楽しいんじゃないか? という錯覚さえしてしまう。
こうして俺はアンナさんと同じ職場で働くことになった。
俺の大学生活と――勤労生活が、今、幕を開ける。
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55話 ルート分岐?
そろそろ『将来』が重い足音を響かせ始めた昨今、いかがお過ごしでしょうか
引き続きよろしくお願いします
いつだってアンナさんは俺より二歩先を行っている。
それはもちろん生まれが俺より二学年ぶん早いから当然なのだけれど、『じゃあ同じ年に生まれていたら?』と仮定しても、やっぱり彼女は俺の二歩先を行くんじゃないかと思っている。
アルバイトだ。
アンナさんは音大の三年生なので(四年制に通っている)、もうそろそろアルバイトをやめて就職のための『実習』に出るらしい。
俺はそのあとがまを埋めることを期待され、教育を受けている。
音楽の実習というのがどんなものか、俺は説明されてもよくわからなかった――なんていうか、話が壮大すぎるのだ。
『とある巨匠の弟子として楽団に入る』とか言われてもスケールが全然実感できない。
ともあれアンナさんは努力と才能を認められ、音楽家としての一歩を踏み出す。
日々の練習は困難なものだっただろう――にもかかわらず、アルバイトをこなしているのだからおそれいる。
しかもその仕事ぶりは丁寧で後輩に優しく、ものを教えるのがうまく、飲食店のホールスタッフという仕事がら、客にも人気だということで、『はえー』って感じだ。
『天は二物を与えず』というのはどこの世界の言葉だったか。
とんだたわごともあったものだと思う――天恵は一極集中するものだ。
持てる者はどんどん持っていくし、持たざるものは、なにかを獲得するための元手もなく、失い続けるのだ。
通常、そういった『天に愛されている人』を見ると、俺の心には厭世的な嫉妬心が芽生えるものだった。
才覚があり天に愛されなおかつ努力をし、あと、すごい美人――こんな人を見ると世の中に嫌気がさし、『どうせ俺なんか』と思ってしまうのが、常であったのだ。
だが、アンナさんを見ていてもまったくそういう感情がわいてこない。
愛される人なのだ。どこに行っても中心にいるような人なのだ。
見る者の心に嫉妬しか生まない要素を兼ね備えていながら、しかし実際にふれあうとそのほがらかさに救われるような、そんな人なのだ。
アルバイトの仕事を一通り伝授され終えたころ、俺はアンナさんにこんなことを言われた。
「コンサートに出られるようになったら、チケット送るからね」
俺にはあいかわらず音楽がわからないし、アンナさんが専攻しているような音楽は敷居が高く感じられ、興味もなかった。
それでも、俺は絶対にコンサートに行こうと思った。
格調高い音楽には興味がなくても、アンナさんの奏でる音には興味があったからだ。
俺はとっくに、アンナさんを『遠くの人』のように感じている。
たまに、想像することがある。
『もし、どこかでなにか、違う選択をしていたら、今とは違う運命があったんじゃないか?』
それこそ――アンナさんと俺の関係がもっと深くなるような運命も、あったんじゃないか、と思う。
……うーん。
ないな。
想像がつかない。
雪の降る聖女聖誕祭の日、事故みたいな展開で間違ってアンナさんをミリムの家に送りとどけず、普通に俺の家に招いていたらあったか?
両親が普通にいる俺の家に招いてそんな展開が?
……俺は人生を終えるたび『人生の感想戦』をしている。
だからこそ、わかった。『そんな道はない』。俺の性格がもし違えばありえたかもしれないが、俺の性格という要素をゆるがせにしていいなら、それこそなんでもアリだ。
性格は変わらない。
百万回生まれ変わっても、俺は、冒険をしない。
だから俺は、アンナさんに言う。
「応援してます。がんばってください」
テンプレートな応援の言葉。
でも、万感の思いをこめて、俺は彼女の行く道を祝福したのだった。
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56話 契約満了、更新
いよいよみんな大人になっていきますね
主人公は天寿をまっとうでこるのか
引き続きよろしくお願いします
正直に言えば、俺は『愛』というものを美しいと感じることができない。
俺は死にたい。
完全に、死にたい。
死後に転生などしない『完璧なる死』こそが俺の望みだ。
『完璧なる死』を迎えるにはどうすればいいか?
『天寿をまっとうすること』が、唯一の方法だ――そのように『全知無能存在』、いわゆるところの『神』から宣告されている。
転生のたびに『その時の俺がもっとも強く愛情を抱く容姿』であらわれる全知無能存在は、心がとろけそうな甘く優しい声で言う。
「愛しています」
愛ゆえに、そいつは俺を生かすのだという。
愛ゆえに、そいつは俺に人生を繰り返させるのだという。
愛ゆえに――『幸せに長生きする人生を味わわせたい』という純真な想いゆえに、そいつは、俺になん度も人生をやり直させるのだと、言う。
俺は彼女を救ったことがあるらしい。
もちろんそんな自覚はない。
彼女は俺を幸せにしたいらしい。
ただし俺の意見には一切耳を貸さない。
彼女は俺の幸福だけを願っているらしい。
けれど彼女は、『人』のことを、全然まったく、理解していない。
俺たちのあいだには存在の違いによる認識の違いがあった。
そして――そんなあいだがらでも、相手を愛することは、できてしまうのだ。
かようにやっかいすぎる『愛』にさらされ続けている俺が、どうして『愛』を美しく尊いものだと思えようか? 思えるはずがない――愛は身勝手に押しつけるものである。こちらの事情の斟酌などせずに。
だからまあ、なに?
そういうことなんですよ、ミリムさん。
「……どういうこと?」
恋人試用期間が終わって半年以上経っていた。
そもそも俺とミリムの関係性は『俺が高校を卒業するまで』の約束だったのだ。
まあしかし、その後、わかれるでもなく、試用期間を終えて本使用期間に移るでもなく、俺たちの関係はだらだらと、なにごともなく続いていた。
俺は冒険をしない性質だ。
それはきっと、なん度転生しようとも変わらない。
しかし今、冒険を――決断を求められているのだった。
続けるか、やめるか。
だが、これは責任逃れをしたい心から放つ疑問というわけではなく――もちろんちょっとはそういう最低なヘタレ心もあるだろうが――気になることがあった。
ミリムは、いいのか?
そもそも決定権が俺側にあるのか、という疑問だった。
「わかんない」
えええ……
「恋愛の話は、人にふられてうざったかったから、レックスと付き合うのちょうどいいかなと思ってた……」
女子から告白されたり、したらしい。
ミリムは俺の知らないミリムの話をしてくれた。
後輩人気の高さ(当たり前だが、ミリムにも後輩がいたのだ。俺はなぜかそのことにひどくおどろいた)。
獣人種への物珍しさから声をかけてくる者の多さ。
生徒会内でもそういう恋愛沙汰があって、ミリムとしてはただただうっとおしかったという話だった。
そんな時、俺の彼女という立場はちょうどよかったのだという。
俺は有名で(えっ?)、レックスと言えば『逆らったらまずい人』ランキングがあればみんなから一位に推薦されるぐらいの人だから(ええっ?)、『レックスが恋人です』と告げると、たいていの人は身を引くのだという。
待って。
俺、有名人なの?
「……中高と生徒会長やっておいて、有名じゃないわけないけど……」
成績優秀(知恵)、生徒会長(権力)、マーティンとのケンカにまつわる武勇伝(腕力)を兼ね備えた俺の名は、畏怖とともに学園に残っているらしかった。
『目立たない』という標語をかかげて生きてきた俺にとってはまさしく雷に打たれたような衝撃的事実の発覚だった。
嘘やん……俺が目立たないためにどれだけ苦心してきたと思ってるの?
具体的には………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
がんばってたよな。
つまり俺たちはメリットがうまくかみ合って恋人関係だったわけだ。
ドライだ。そして心地がいい。
俺は『愛』というものを全然心地よく思えない。むしろはっきりした利害関係があるほうが好ましいとさえ思うぐらいだ。
恋人から、結婚。
それはきっと、人によって様々なドラマがあるんだろう。
甘酸っぱい青春の記憶なんだろう。結婚式でさ、二人のなれそめとかドラマ仕立てにして流したり。
俺は、そういうの――
――必要? と疑問に思っているほうだ。
利害関係いいじゃない。
ドライなの最高だよ。
愛とかいうゆるふわしたものよりもよほど信頼できる。
俺の心は決まった。
ミリム――
続行でお願いします。
「ずっといっしょでいい?」
うん、ずっといっしょ。
こうして俺たちは正式に恋人同士になった。
それはドライな契約関係であるはずなのに――
俺もミリムも、なんだか奇妙にニヤニヤしていた。
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57話 趣味の話
将来が決まっていく……
引き続きよろしくお願いします
『自分』とはなんなのだろう?
サークル活動というものをしていない俺にとって、日々は『バイト』と『講義』で過ぎていく。
したほうがいい、なにかするべきことを見つけたい――そういう思いはあるのだけれど、俺はどうにも、『趣味』を持つことが苦手だった。
趣味というのは人物を構成する重大な要素の一つだと思う。
たとえば『Aさん』のことを誰かに紹介する時、どういうふうに言うだろうか? 『十八歳の男性で、趣味は――』というように言葉を続けないだろうか?
成績、運動神経、経歴……もちろん大事だ。けれど、『ある人とある人を友達にしよう』と思った場合、そこではやっぱり、『趣味』というものが重要なとっかかりになるのは間違いがないだろう。
「彼はレックス。趣味はBL同人誌の制作指揮だよ」
待てコラ。
カリナのサークルの新人を紹介されたのは、冬祭りも近いころだった。
街は翌週にひかえた聖女聖誕祭に向けてイルミネーションでいろどられていたんだが、『そんなリアルが充実した連中のことなんか知るか』というメッセージ性を感じる殺風景な空間――カリナの大学のサークル室――で俺たちは面通しをしていた。
新人が入ったのは春ごろらしいのだが、俺が今年はバイトの都合で夏祭りに参加できなかったので、今ごろの紹介となったのだった。
しかし『趣味がBL同人誌の制作指揮』って紹介はさすがにないでしょ?
そんな趣味聞いたことないし、俺だって趣味で制作指揮をしてるわけじゃない。
俺以外にスケジュール管理をするやつがいないからやってるだけだ。
それを『趣味』と言われるのは、もう二冊ほどBL同人誌制作にたずさわった俺でも、少々心外だった。
「じゃあなにが趣味なの?」
そう、それだ。
カリナの論法にはひどい前提が無言のままにしこまれている。
すなわち、『人は趣味があって当然』という前提だ。
趣味がない、ということをありえないと無意識のうちに断じる彼女の態度に、俺はちょっと不快感を覚えた。
第一、『趣味がないならBL同人誌制作指揮が趣味だよ』みたいな感じもおかしい。なぜ『他の趣味がある』と『BL同人誌制作指揮が趣味』の二択なのか、これがわからない。
趣味は特にない。
そして、趣味でBL同人誌の制作指揮をしているわけではない。
俺がBL同人誌の制作指揮をしているのは、なんていうか、そう、『俺以外にできる人がいない』というきわめてまっとうな必然性により発生した使命感のようなもので……
「レックスの使命はBL同人誌の制作指揮なの?」
それも違うんだけどね!
ダメだ。泥沼だ。なにを言っても俺が人生においてBL同人誌の制作指揮を重要な位置においている人みたいになってしまう。
たしかに昨今は
俺は悩んだ。
ぶっちゃけ、俺の趣味がBL同人誌の制作指揮だと思われることで不利益は発生しない。思わせておけばいい――だが、正したい、その勘違い。
これは人生において必要のない寄り道みたいなものだった。
生きていくうえで必要がないのにゆずりたくないという、言うなれば俺の『こだわり』だった。
その時、俺は気づいてしまった。
俺の趣味とは。
すなわち――『人の間違いを正すこと』ではないのか?
想像してみる。
『レックスです。趣味は人の間違いを正すことです』。
……ないわ。
独裁者の気配を感じる。
BL同人誌制作指揮が趣味の人と、独裁者思考の人と、どちらが評価としてマシなのだろうか……
うーん。
……そうだね! BL同人誌の制作指揮が趣味です! がんばって指揮するぞ!
こうして俺は後戻りのできない泥沼に足を踏み入れる。
だが、もはや泥沼をおそれる気持ちはなかった。
なぜならば、俺はすでに沼にいる。
今年もまた、地獄のような進行スケジュールによる同人誌作製が、始まる――
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58話 寛容さの習得
指揮官レックスの采配やいかに?
引き続きよろしくお願いします
俺の趣味はBL同人誌の制作指揮だ。
というよりも、指揮官願望があったのかもしれない。
たしかに、カリナに『趣味だ』と言われてちょっと冷静にBL同人誌の制作指揮をしている自分を客観的に観察してみたところ、意味がわからないほどハイテンションだし、すごくいきいきしていた。
俺は誰かを率いるのが好きで、たてたスケジュール通りにことを運ぶのが好きだった。
なぜかと考えてみれば、『率いる』のも『スケジュール通りにことを運ぶ』のも、今までの百万回の人生でできなかったことだからだろう。
そしてふと思う。
かつての人生でできなかったことが、小規模ながらも、今の人生ではできているのだ。
不和もなく、軋轢もない。
カリナたちは新人もふくめてよく俺の指揮に従うし、モチベーションも高い。
……なるほど、完全に理解した。
これは――罠だ。
俺は気持ちよくBL同人誌の制作指揮をしている。
締め切りがめっちゃ近いので言葉づかいは乱暴になるし、怒鳴るし、みんな極限状態だから泣いたりキレたりするけれど、それでも最終的には俺のたてたスケジュールに従ってみんな動いてくれている。
これに気をよくした俺を、どこかで裏切ろうという『敵』の算段なのだ。
『敵』はどこにいるのか?
カリナとそのサークルのメンバーか?
あるいは同人誌即売会の運営か?
わからない。
だが、そろそろ来ると思っていた――俺は油断していた。十九年間、なにごともなかったから、この世界は平和なんだと思い始めていた。
もちろん緊張を忘れないようにつとめていたけれど、それでも俺の脆弱な精神はすぐに安心したがり、『今』という『恵まれた毎日』を、『当たり前のこと』だと思いこもうとする。
危なかった。
油断し、『敵』なんかいないと思ったころにこそ――『敵』は現われるのだ。
これに気づかず調子にのって、カリナたちへの気配りを忘れようものなら、俺はきっと手ひどい復讐をされ、カリナたちと別離の道を進むところだったろう。
生ききるためには敵を増やさないことが肝要だ。
そのためになにができるか?
俺はパンケーキを焼いた。
俺たちのスケジュールは意味がわからないほど切迫している。
むしろ祭り一回ごとにギリギリ感がましていき、『本当にさっさと俺を呼べ。さっさと作業を開始しろ。そのうち「ペンを音速で動かせれば間に合う」ぐらいまで追い詰められるぞマジで』と思っているぐらいなのだが……
栄養ドリンクとエナジーポーションだけでは気が立つし、肌も荒れるし、心も荒れる。
俺自身コスプレ衣装作製で時間的余裕はまったくないのだが、それでも俺はパンケーキを焼いた。クリームとフルーツをあしらって、ハチミツをかけた。
小麦色に焼けたパンケーキの上をトロリとしたハチミツが滑り落ちて……『落とす』は禁句なので……流れていく光景には、ささくれだった精神を保湿する効果がある。
俺はみんなに呼びかけた。スケジュールに余裕はないけれど、ティータイムにしよう。
みんな最初はいやがったけれど、無理矢理にでもパンケーキを食べさせ、お茶を飲ませると、それまで張り詰めきっていた精神が弛緩したらしい。空気はなごやかになり、おしゃべりが始まった。
おしゃべりが終わらない。
え、いつまで続くの? パンケーキ食べたらいいところで切り上げて充溢した心身で作業に戻ろうよ……
俺は一人で焦っていた。けれどカリナたちはしゃべり始めると長い……どうしよう、俺が用意したパンケーキのせいでガンガン命にもひとしい時間が失われていく。
いよいよどう計算しても絶対に締め切りまで間に合わない段階になった時、俺は悟った。
――ああ、そうか。すべてに『成功』する必要なんか、ないんだ。
失敗してもいいんだ。
俺の人生に足りないのは、『失敗』を許容する寛容さだったんだなって――
俺は、コピー本用のマックスを人数分用意しながら、思うのだった。
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59話 それぞれの展開
もしかしたらツンデレだったかもしれない男の人生を引き続きお楽しみください
「次は、今回やりかけたぶんがあるから、いつもより早くできそうだね」
『人は失敗から学ぶ生き物だ』と言われていたのは、いったいどこの世界だったか?
もしくはカリナはギリギリの中に光明を見いだしていくのが好きなのかもしれない。
たまにいる。逆境を楽しむ――より正確に述べれば、『逆境からの脱出』を好む気質が。
そういった者に運と才能があれば『英雄』と呼ばれるようになる。
カリナはひょっとしたら英雄の器なのかもしれない、と思うことはある。
なんだかんだ今まで致命的失敗はしていないのだ。
今回だって『土下座コピー本』というものを作製することになったが、ヤケクソで仕上げたはずのそれは妙に評判がよく、「ギリギリでこのクオリティなら、次もギリギリまで追い詰められてください」なんて冗談で言われたぐらいだった。
俺は英雄という人種を知っている。
それにかかわった人生もあった。俺がそうじゃないかと思っていた人生も、あった。
俺にだって人並みの英雄願望はある。神の寵愛を嬉しく感じ、寵愛がある俺の人生はきっと祝福に満ちているのだと信じていたころも、あったんだ。
その当時の自分は、『この世界の法則はすべて自分のために動くに違いない』と思いこんでいた。
だからこそ英雄的行動をしたし、英雄になろうともした。
まあ、無理だった。
そもそも英雄として成功していたとして、それが『天寿をまっとうする』ことにつながったとは、とうてい思えない。
英雄とは地上を駆ける
だから俺がカリナに言うのは……そうだな。たった一言。たった一つの言葉だけだ。
お前……このペースの作業を次もやったら、早死にするぞ……
あっ、あと普段の食生活もよくないのかキッチンが俺の知らないあいだに荒れに荒れてるし、冷蔵庫にはエナジードリンクと栄養ドリンクしかないし、ベッドもたまに干せよ? 小さな虫とかな、日光で死ぬんだから。ジメッとしたなにがひそんでるかわからないベッドで寝るより絶対に体力回復するって。必要なら俺が簡単な家事のやりかたとか教えるし……
「お母さん……」
サークル内での俺のあだ名がお母さんになってしまった。
『趣味でBL同人誌の制作指揮をしてる人』といい、このサークルでの活動は俺に不名誉なあだ名ばかりを付与してくる。
俺はちょっと真剣に、今後もサークル活動に参加すべきかどうか悩んでいた。
必要か不要かで言えば不要だ。不要っていうか、俺の人生には邪魔だ。
なにせ祭りのたびに心身を削る。カリナに忠告したように、あの生活は絶対に体に悪い。
しかも大学のサークルという扱いになり、作業設備などはサークルに置けるようになったが……
サークルに割り当てられた部屋自体は、カリナの家より狭い。
今回も『あ、この部屋では睡眠がとれない』と確信した俺がカリナの部屋を作業場にさせてどうにか睡眠をとらせたものの、こいつら夏祭りの準備はサークルでやってたらしいし、なんかもう、『死』に向けて一直線って感じだ。
しかも彼女らの一直線な勢いは、かかわった者を巻き込んで加速していく。
まさしく英雄的ありかただ。
英雄どもは周囲を無自覚に巻き込み、そして早死にさせていく。
人は綺羅星と同じ速度で人生を駆け抜けることはできない。たいていの凡人は『綺羅星とともに走れた』という満足だけを抱いて道半ばで燃え尽きていくのである。
俺もまた、そうして燃え尽きる凡人となるかもしれない。
だが……
不必要どころか危険と判断してなお、俺はこのかかわりを捨てようと決断できない。
……しかし、ミリムから『今回はなんで誘ってくれなかったの』という連絡がひっきりなしに来てるあたり、彼女も俺の身を案じてくれているのだろう。
……よし、そうだな。
寂しさは無視できそうもないけれど、ここは決断の時だろう。
なあ、カリナ、俺さ、今回でこのサークル――
「あ、待って。なんか通信が」
カリナは通信端末の向こうにやたら丁寧に応対し、そして、しばらくの会話のあと、「えっ、本当ですか!?」とおどろいた声を出した。
そして俺を振り返って言う。
「レックス、私――プロになるかもしれない」
えっ、どういうこと?
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60話 俺たちの将来設計
一歩一歩迫る将来の重圧をお楽しみください
俺が昔過ごした世界にはシンデレラストーリーという概念があって、それは夢を詰め込みまくったサクセス願望だった。
最下層で努力している者が、奇跡を味方につけ、権力者に見初められ、結婚する。
しかし現実にそんなことなどあるはずもなく――あるのかもしれないが、俺が経験するわけもなく――カリナもまた、『ネームを持ち込んでみてください』というようなお誘いなのであった。
書籍化確約では全然ない。
それでもカリナは嬉しそうに、「よかった……堅苦しい服装で面接とか絶対したくなかった……よかった……」と喜んでいた。
まだ全然なにも決まってないが、彼女が嬉しそうならいいのだろう。
堅実を旨とする俺としては、そんな『ギャンブル場にようこそ』みたいなお誘いはなんにも安心できる要素がないのだが、だからといって他者にまで堅実を求めるのは違うだろう。
人は人、俺は俺。
この認識を誤って痛い失敗をしてきたことも、失敗をしている者を見たことも、たくさんあった。
今、この世界で『人類』を名乗っているのは同一思考で動く『単体生命とその情報収集端末』ではなく、一人一人違った信念や思考をする『人間』なのだ。
だから人が俺と違う決断をし、違う信念をもって行動するのは、当たり前のことなのであった。
……年上で親しくしている二人が、立て続けに将来の方向性を定めていく。
俺はまだ一年生で、通う大学は四年制だ。
暫定で教員の道に進むことを決めている(いきなり専業主夫だと世間体が悪い)ので、『将来』についての悩みはない。
悩みがないのはいいことだ。
悩まなければストレスもない。ストレスは寿命を削る……ストレスが強すぎるとまぶたがケイレンしたり、寝てるあいだに歯を食いしばりすぎてアゴと歯を痛めたり、顎関節症になったり、耳鳴りがしたり、動悸が激しくなったりする。
だが、たしかに徐々に重みを増していく『将来』というものには、進路をすでに決めている俺とて圧力を感じる。
カリナが心底からこぼした『堅苦しい服装で面接とかイヤ』というのは俺もまた思うところだ……しかも教員を目指すなら教育実習がある。
堅苦しい格好をしてアホガキどもの輪に乗り込まなければならない……
ウッ! ストレスが!
小中高どこが一番楽なのか、あるいはやはり保育士ルートに進むべきか(学部的に可能だ)。それとも世間体など配慮せずにいきなり専業主夫として進むべきか……
将来は無限に見えた。
しかしそれは幻で、俺から見えているルートは、実際に向かってみたらすでに『道』ではなく『壁』だということさえ、ありうるのだ。
人は人、俺は俺――だが、俺の将来は、ちょっとミリムとも話し合ってみるべきかもしれない。
こないだカリナたちとの祭り準備にさそわなかったことをなんだかすごい言われるので、ちょっと距離をおいていたのだが、いい機会だし話しかけてみよう。
……緊張するな!
ちょっと距離をおいていた、といっても二日ぐらい連絡をとらなかっただけなんだけれど、それでもなにを話していいかわからない……どう切り出せばいいんだ!
だが俺は百万回転生した十九歳。
メンタルコントロールには自信がある。
『目立たない』と三回唱えて平常心を取り戻す。この言葉とともに生きてきた俺にとって、もはや『目立たない』という言葉は本来の意味を失い、呪文の領域に達している。唱えるだけで平常心を取り戻せるのだ。
この言葉とともに俺は数々の難局を冷静にのりきってきた……
一番古い記憶は初等科一年生のころだろうか。懐かしい……当時は『女と遊ぶなんてダセーよな!』みたいな風潮があって、そのせいでミリムと遊んでいる俺も『女と遊ぶな』と言われた。
その時に俺は『目立たない』と三回唱えることで冷静にマーティンを説き伏せ、目立たずことを終えたのだ。間違いない。俺は記憶力には自信がある。
だから俺は今回も『目立たない』と三回……いや、念のため三の三乗回ぶん唱えてからミリムに連絡した。
最近どう?
「え、なにが?」
怒ってはないがびっくりしているようだった。俺もびっくりした。なんだ『最近どう?』って。俺はなにを口走っている……そこからどう会話を転がすつもりだ……? やばいな、全然わからない。
しかし俺は目立たない。じゃない、冷静だ。冷静に会話を続けよう……昨今の社会情勢には不安がつのるばかりで、未来のことを思うと心が重くなるばかりで、私は生きていくという不安に耐え切れるのか、生きていきたいというこのささやかな大それた願いが本当に叶うのかわからなくて、だから君の声を聞きたかったんだ。
俺は即興で歌い上げた。
「だいじょうぶ?」
よし、心配を引き出した!
計算通りだな!
けけけけ計算通りだな!
深呼吸が必要だった。
そういうわけで将来について話したい。俺はどうしたらいいんだろう?
「まかせる」
じゃあしばらくは共働きでお願いします。
「うん。ついていくから、誘ってね。なにするにも」
わかったわかった。
こうして俺たちは仲直りした。
将来設計について話そうとしていたことを思い出したのは、通話を終えてだいぶ経ったあとだった。
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61話 はるのはなし
何かが固まっていくな……
人生です。よろしくお願いします
気温の低さにいつまでもコートをしまえないでいるうちに、すっかりクリーニングに出す機会を逸してしまった。
学年が始まったころにはすでに春の花は散っていた。寒空の下で花見をした人々が体調を崩すニュースなんかも聞こえてくる中、気持ち欠席者多めで新しい学年は始まった。
俺はといえばやはり普通に講義に出るし、サークル活動はしてないし(カリナのサークルでの活動は断るタイミングをなくしてしまったが)、あとはバイトぐらいなもので、退屈な大学生活を送っていた。
いよいよミリムも大学に入ってきたので彼女と過ごす時間は増えたものの、俺たちはやっぱり進展らしきものはなく、ただ一緒にすごし、ただ一緒に遊び、ただ一緒に帰っていた。
人生が安定期に入っている感じがする。
これは俺の百万回の人生においても、たまにある瞬間だった。
安定期……ようするに『あ、今日と同じような日がしばらく続くな』と思える時期はたしかにあって、そんな時にこそ『今後起こるなにか』への準備をしておくことこそが、長生きの秘訣だと俺は思っている。
だがこの人生はなにも『予感』がない。
『敵』の意図が見えなさすぎるのだ。
そろそろ俺は油断していると思うのだが、それでも『敵』はやってこない。俺になにもしない。
これは『うまく敵からの注目を回避できている』と受け取るべきか、あるいは『今回の敵はよほど慎重だ』と思うべきか……
俺の求める答えはたくさんあった。知りたいことは数知れない。だというのに、俺が本当に知りたいことを知るのは、いつだって命が尽きる瞬間なのだ。
『生ききる』ことを目的としている以上、『生ききった』あとにしか、自分の行動が目的のために正しかったのかは、わからない。
事件はほしくないが、自分の行動が間違いではないという確信はほしい。
俺が『なにか起こらないかな』と花の散った街路樹を見上げる時はだいたいそんな心境で、隣を歩くミリムも一緒に立ち止まって枝を見ているが、同じ気持ちかどうかは、わからなかった。
なに考えてる? と彼女に聞いた。
「枝……」
そうだね、枝だね。
ミリムはちょっとぽやぽやしたところがある。
彼女はひょっとしたら生きるのがめんどうくさいのかもしれない。
気持ちはわかる。俺だってそうだ。生きるってのは、考えて行動を決め続ける荒行だ。できたらしたくはない……だが、俺はそうして生ききらなければ、また次の人生が始まってしまうのだからしょうがない。
俺はミリムになんとなく告げた。
実は俺、百万回生きたんだ。
「ふぅん」
疑うでもなく、信じるという感じでもなく、ミリムはただそう言った。
俺は俺で、なぜ今このタイミングでそんな秘密を明かしたのか、自分で疑問に思っていた。『するりと口から出た』と言うしかない、それは不可思議なタイミングでの、する必要のなかった告白だった。
したあとも、『まあいいや』という感じだった。
ミリムといると、よく、こういう空気になる。
弛緩しているというか、安らいでいるというか。
頭に浮かんだことをそのままポツリポツリと言ってしまって、でも後悔なんか全然しない、そういう時間だ。
だから俺は、こうも言った。
俺、お前と相性いいかもしれない。
「わたしも」
俺たちはそのまま、なんとなく帰路についた。
ただそれだけの春の日だった。
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62話 彼女の話
マルギットという二歳年下の子がバイトに入ってきたのは夏になろうかというある日のことで、そいつはどうやら俺のことを知っているようだった。
通っているのが同じ学園ということだったので、そこで俺は不本意ながらも有名人だったようだし、そういうことだろうと勝手に納得していた。
だが、そうではなかったらしい。
「ミリム先輩からよく聞いてるんですよ」
マルギットはなぜか機嫌悪そうに言う。
彼女はいつだって機嫌が悪そうだった。それも『そういう顔』とかじゃなく、俺に対してだけ、機嫌が悪い。きっと俺が無自覚になにかしているのだろうと思う。人はすべての行動を自覚的にできるわけじゃないから、そういう可能性は考慮してしかるべきだ。
彼女の顔立ちはどこか子供臭さの残る感じで、背も低いので、周囲の大人たちからよくちやほやされている。
俺もちやほやしたかったのだが、俺たちの関係は決して良好とは言えなかった。
赤茶色のお下げをもてあそぶクセが印象的な彼女は、休憩時間になるとなぜか俺にからんでくる――まあ休憩時間がかぶっても休憩場所が複数あるわけではないので、自然、狭い場所に二人きりになるから、しょうがないのだけれど。
「レックスさんは……ダメだと思います」
拝聴しよう。
俺は常に自己改善のための助言を求めているタイプだ。人は己のことを己一人では把握できない。いつだって、俺はアドバイザーというものをそばにおいてきたのだ。
「ミリム先輩は……言葉少ないけど、かっこういい人なんですよ。それが……」
俺がどうダメなのかという話を始めたはずなのに、マルギットがするのはミリムの話ばかりだった。
俺はいくつもの『俺の知らないミリムの話』を聞くことができた。運動神経が万能だとか、後輩の面倒見がいいだとか、成績も優秀だとか、そういう話だ。
マルギットの話を聞いていて、俺はとある点と点がつながったような気がした――前にミリムがちらりと言っていた『女の子に告白されたことがある』という話、あれ、相手はひょっとしたらマルギットなんじゃないだろうか、と。
もちろんそんなことを本人に確認するほど野暮ではない。
とにかくマルギットは不機嫌そうにいくらでもミリムのことを語ってくれたし、俺は、ミリムについての新鮮な情報をいくらでも聞き続けることができた。
休憩時間の終わりぎわ、またミリムのことを話してほしい、と言った。
マルギットは不機嫌そうだったけれど、断りはしなかった――まあ、他に俺と休憩時間がかぶった時に話すこともないだろうし、自然とそうなるだろうとは、彼女も思ったんだろう。
俺は休憩室から出る時に、ミリムに一つ連絡をした。
スポーツ万能だったんだって?
『まあね』
絵文字もスタンプもないけれどなんとなく嬉しそうなミリムの顔が浮かんだ。
これからもマルギットとの会話は大切にしていきたいと思った。
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63話 BL同人誌制作指揮からの卒業
労働の影が迫っている中いかがお過ごしでしょうか
引き続きよろしくお願いします
「今回はきちんとした理由があるんだ」
言葉というのは難しい。
たとえば『おいしいリンゴを食べた時』、どのように表現するだろう?
おいしい、とひとことだけ言うのが、おそらくもっとも間違いがない。
だが人はなぜか『詳細に語らなければ』『なにかと比較しなければ』というような強迫観念を抱くようで、ただひとことですむだけのことに、なにかと装飾を加えたがる。
その結果、相手に余計な情報を与えてしまって印象を悪くされることは多いだろう。
今回のカリナのケースもそうだった。
夏祭り。
今年は時間に余裕を持てよ、いいか絶対に余裕を持てよ――三日に一度のペースで連絡し続けはや七ヶ月。「わかったわかった」「わかったよ」「わかってる」既読無視、未読……そんな日々が続いたあとの、案の定ギリギリになってからの夏祭り準備の時である。
今回はきちんとした理由がある、と彼女は言った。
それはもちろん『今回は(こんなに作業開始が遅れたのには)きちんとした理由がある』という意味の言葉で、前回までは理由なかったんだな、マジで、ということが、はからずも発覚した夏の日であった。
「今回は商業用の原稿をやってたんだ」
読み切りが雑誌に掲載される流れになっているのだとカリナは言った。
これは業界的に見てわりと類のないシンデレラストーリーであり(島サークルだとまずありえない展開らしい)、やっぱりカリナは英雄の天運の持ち主なのだろうと俺は確信する。
英雄というのは『出会うべき人に出会うべき時に出会える人』のことだ。
導き手が必要な時には導き手が現われ、仲間が必要な時には仲間に恵まれ、ライバルがほしい時にはライバルが出現する……そうして出会った人たちを綺羅星のごときスピードでぶっちぎって消し炭にしながら進んでいくのが英雄というものである。
ぶっちゃけ、俺が中等部時代に屋上で彼女と出会ったのも、彼女の持っている英雄としての天運に導かれたものだった可能性がある。
それが彼女の人生にどういうよい影響を与えているのかは、凡夫たる俺にはわからないが、たぶん、彼女の人生に必要な外付けパーツとして、俺の生命もあったのだろう。
俺は前々から悩んでいる……そう、そもそも、俺はBL同人誌の制作指揮をやめようと思っていたところなのだ。
理由は俺が英雄ではなく、綺羅星のスピードに振り落とされて塵にされる側だからである。
だから俺は言った。
もう俺はやめようと思っている。本当は前回言おうと思ったんだけれど、言うタイミングを逸して言えなかったんだ。だから今回は手伝うけれど、今回で最後だ。
「えっ、なんで!? やめちゃうの!?」
俺は長生きしたい。
しかしカリナたちの参加する祭りの準備は間違いなく寿命を削っている……俺は綺麗な部屋で毎日決まったタイミングで食事をし、適度に趣味に時間を費やし、決まった時間には眠りたいタイプなんだ……
無理は楽しい。認めるよ。でもさ俺は……そんな生活をして心身を壊したくはないんだ。
それに……
誰かが心身を壊すのも見たくはないんだ。
俺はなるべくみんなが睡眠と栄養補給ができるようにスケジュールを立てるけれど、それにも限度はある。なぜなら、一日は誰にでも等しく同じ時間だからだ。
だから……余裕をもってほしい。
食べて寝て片付けて、それで原稿をしてほしい。
原稿! 原稿! 原稿!! 原稿!!!!!!!!!!
……みたいな生活はやめたほうがいいと思う。
計画を立てればきっと、できるはずだからさ。
「……わかった。そうだね。私も勝手だった……『追い詰められなきゃインスピレーションはわかない』と言い訳して、追い詰められるまでずっとソシャゲの周回をしていた……」
お前それは本当にふざけんな……と言いたいが、まだ言わなかった。
俺は黙ってカリナの話の続きを待つ。
「……でも、わかったよ。スケジュールを立てる。そうしてきちんと、健康に漫画を描くよ」
ああ、そうだな。それがいい。
「それでレックス――スケジュールってどうやって立てるの?」
……は?
「そんなもの立てたことないからわからないよ」
俺は絶句した。
『スケジュールの立てかたがわからない』。
どういうこと? なにを言ってるの? スケジュールの立てかたなんて、初等科の夏休みで覚えるものでしょ? ほら、円グラフ形式で一日の予定を描いてさ、カレンダーにおおむねのスケジュール書きこんで……
「レックス、私には未来のことなんかなにもわからない。……いいかい? スケジュールを立てるのは、能力なんだよ。特殊能力なんだ。なぜなら、私たちは、今日立てた週末の計画について、いざ週末になったころには興味を失っているような性格だから」
サークルメンバーたちがすごいうなずいてる。
えええ……なんだよその……いや、なにこの、なに?
なにを話されているのかがわからないぞ……興味? 興味がなんでスケジュールに関係してくるの? 異星人と会話をしているのか俺は?
スケジュールというものに対する認識が違いすぎて、俺たちの会話は全然かみ合わなかった。
俺は混乱していた。俺の話している言語とカリナの話している言語が『似た響きの言葉でも違う意味をもつ言語』じゃないかと本気で疑った。
ためしに『パンケーキ』と言った。
カリナは「食べたいね」と言った。
通じている。
俺はますます混乱する。
「レックス、もう大変な思いはさせない。だから……私たちの一年間のスケジュールを、君に立ててほしい」
えっ? なんで? なんでそうなるの?
わかんない。俺もうぜんぜんわかんないよ。
「君なら漫画のネームと作業と仕上げにどのぐらいかかるかわかるはずだ……プロを目指す私が無理なく長生きできるように、スケジュールを立ててください。お願いします」
えっうーんまあ無理なく長生きできるようにスケジュール立てるならいいのかな?
「やった! じゃあ夏祭りの準備をしちゃおう」
ああ、うん。
こうして俺はBL同人誌の制作指揮からカリナたちのスケジュール管理者にジョブチェンジした。
これがのちのち、人生にまで響く決断だったと知るのは、だいぶあとになってのことである。
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64話 レックスはママですか?
家事、事務無双を引き続きお楽しみください
ところで俺とマーティンの関係も未だに続いていて、俺たちは互いの家に行くことがある。
俺の家にマーティンが来た場合、俺たちはなにをするでもなくダラダラと話す。出前とかとる。ファミレスとかいく。話題はない。目的もない。
それでも俺たちは胸襟を開いて益体もない話をするのだ。
しかし俺がマーティンの家に行った場合、その日は話をする余裕もない。
「レックスママ、助けて」
いつだってそんな救援依頼を受けて俺はマーティンの家に行く。
そうして数々の『武装』を道中でそろえ、そいつの家のドアの前で俺は言うのだ。
レックスだ。掃除しに来たぜ。
「ママ!」
マーティンは幼い子供かあるいは飼い犬のように俺に抱きついてくる。
俺は相手の勢いを受け流してマーティンを後方に投げたあと、マスクと手袋と三角巾とゴーグルを装備し、バケツいっぱいの洗剤や掃除道具の重みをたしかめながら、中に入る。
マーティンの家は汚い。
洗剤や掃除道具は、マーティンの家においておくと『使わなさすぎておいてある場所がわからなくなる』のでその都度持ち帰り、足りないぶんは道々で補充している。
おかげで俺の家には俺の家用の掃除道具のほかに、『マーティンの家用』『カリナの家用』が存在する。
今日の俺は鬼軍曹だ。いつまでも落下防止フェンスに背中をぶつけて痛がっているマーティンに優しく声をかける。ハッハッハいつ来ても素敵な家だなあマーティン二等兵! 貴様にお似合いのゴミだめ(直喩)だ! 口から垂れ流したクソが排水溝に詰まって水が流れねぇじゃねぇか! どうやったら三ヶ月でここまで汚くできるのか言ってみろ!
俺はマーティンが口からクソをたれ始めたタイミングで軍手を投げつける。
まずは荷物をどかすところから始めねぇと床が見えねぇな! マーティン二等兵、このゴミだめのゴミどもを『燃えるもの』と『燃えないもの』に分別しな! 『残したいもの』があるなんて言わせねぇ! だがそうだな、十秒以上『残そうかなあ』と悩むようなもんはたいていいらないものだから、処分に回せ!
マーティンが「サー! イエッサー!」と敬礼した。
俺たちの関係はノリがよくないとやっていられないし、そもそもノリをよくしないと俺が『なんで俺は幼なじみの家を掃除とかしてるんだ? ヒロインなのか?』というまっとうな疑問を抱いて手を止めてしまうので、ノリは大事だ。
俺たちはノリノリで部屋の片付けをしていく。
あっというまにゴミ袋が三個も四個も出て、排水溝の詰まりは改善し、湯垢だらけの風呂はもとのクリーム色を取り戻していった。
ガスコンロの上に置かれていた大量の漫画雑誌が縛られて、ようやくコンロの姿が見えるようになったころ、俺たちはいったん休憩を入れるために食事に出た。
掃除に来た時だけは、マーティンが俺におごるのがルールだ。
「レックスママほんとありがとう」
みんなして俺をお母さん扱いしやがって……
俺の抱く『ママ』のイメージと、みんなの抱く『ママ』のイメージがどうにも違う。
俺のママだって専業主婦になってからは(たしか俺が初等科か中等科にあがるころまでは共働きだった気がする)家事はしてる。家がゴミだめだったことはない。
しかしそんな熱心に家事をするイメージがあったかと言うとそんなことはなくて、なんかこう、のほほんとしながら趣味に打ち込む時間が多かったような、そういうのが俺の『ママ』だ。
ママっていうのはそう、なんていうのかな……自由で報われてなきゃいけないんだ。こんな鬼軍曹ロールプレイしながら他人の家を掃除しにくるマスク男はママではない……
「俺が大学卒業して、社会人になって……結婚してもさ。……こうやって掃除に来てくれよな……」
マーティン……
死ね……
俺たちはこうして友情をたしかめあい、食事をとった。
戻ったら、ようやく見えてきた床の掃除を始めようか――
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65話 友と再び
将来の夢は無職の者の人生を引き続きよろしくお願いします
シーラという名前がもはや懐かしいものとなってしまったのには様々な理由があった。
俺たちが違った学部に進んだこともそうだし、そもそも、俺たちの関係は『テストの点数の上下を競う』という軸により続いていたものだったから、その『テスト』がなくなってしまい、自然と接点もなくなってしまった、というわけだった。
だから年の瀬に連絡が来た時にはおどろいたし、なんの用事だろうと身構えたものである。
俺たちは競争相手だったのだ。
協調したこともあったが、基本的には対立関係なのだ。
「教師に進むの?」
それは進路にまつわる相談事で、俺は答えに窮した。
迷っていたのだ。悩んでいたのだ。このままだと『なんとなく』教師になるだろう。いや、そもそもこの大学のこの学部に入ったのは教師を目指してのことだから、それは自分で選びとった未来なのだろう。
それでも俺の頭には『専業主夫』『ヒモ』『保育士』などの夢もあって、そのどれもがまだ目指しうるところにある。
だが、もうじき三年生になる。そうすると選択決定の時期が近づき、選択肢のどれかを放棄しなければならなくなるだろう。
そして……そういった相談を、ミリムとできたことがない。
俺たちはぼんやりいっしょにいることはできても、シリアスな相談をするような関係性ではなかった。
俺はミリムに居心地のいい空間に一緒にいてもらうことを望んでいるし、ミリムもまた同じような望みを抱いているらしく、俺たちはいつしか深刻な話題をなるべく避けるようになってていたのだ。
シーラの存在は俺の将来への悩みを打破する助けになるかもしれない。
だから彼女には『直接会って話そう』と返事をした。それに、シーラ側もそうしたいと思っているような気がしたんだ。
話はトントンと進み、その週末にはもう会うことになる。
指定された喫茶店で久々に再会したシーラはどこか男まさりだったところが消えていて、遠目に見るとどこのお嬢様かというような、フェミニンでおとなしい装いをしていた。
外に跳ねた赤毛は相変わらずだが、それも昔日のような攻撃的な感じではなく、心なしかギザギザ感がないように思われた。
「久しぶり」
俺たちは不器用にあいさつを交わし合う。
しばらくは他愛ない会話が続いて、俺たちが会っていなかった一年と少しのあいだ、互いになにをしていたかの情報交換を続けた。
店員の圧力に負けて二杯目の飲み物を頼むころ、ようやく話が進路へと移る。
シーラの通っているのはいわゆる女子大であった。昨今は少子化の影響で共学化しているらしいのだが、それでも女子比率が多いらしい。
学校の空気的に男性が入りにくいのが影響している、ということだった。共学化しながらもまだ男子比率が少ないのは営業戦略の失敗だ――などとシーラは語る。
ずいぶんと通っている大学の方針ややり方に疑問、というか反発をもっているような様子だった。
今通っている大学、嫌いなのか?
「……まあ、親の顔を立てるために入った感じだし。好きってわけじゃないかな」
あの学園――俺たちが通っていた保育所から大学まである巨大学園は、わりと富裕層の子供が多い。
シーラもまた富裕層なりの悩み、政治、しがらみ、家長制、みたいなものに困らされている様子だった。
うーん……安心する。
「なんでよ!」
だって俺の周囲にはキラキラした人が本当に多いんだ。
アンナさんは夢を叶えた。叶って現実になったあとの夢は大変そうだけれど、それでも充実しているらしい様子がたまに送られてくる手紙でわかる。
マーティンはステレオタイプなキャンパスライフを送っているらしい。あいつは明るくて朗らかだし、きっと向こうの大学でもうまくやっているのだろう。俺とのつきあいはまだあるけれど、たぶん、そのうちいそがしくなってそれどころじゃなくなると思う。
カリナは漫画家への道を歩き始めている。漫画家も最近は増えたけれど、それでもやっぱり、商業からお声がかかる漫画家っていうのは珍しい。そしてカリナはなんだかんだ商業側に席を確保しそうな感じがする。あいつの人生はうまく転がる予感しかしないんだ。
そんな中、シーラだけがどこにも進めず、しがらみにしばられ、悩み、足踏みしている。
久方ぶりに同胞を見つけた気持ちで、俺はついつい嬉しくなった。
「同胞ねぇ。あんたこそ悩みなんかないと思ってたけど。……ほら、昔から計画立てるの好きだったじゃない」
好きじゃない。
なんていうの? 生態?
一般的な人類は呼吸を止めると苦しいだろう。
俺も、計画を立てて生きないと不安で苦しいんだ。
「へぇ。意外」
そこでいったん会話は途切れて、俺たちの前に新しい飲み物が運ばれてきた。
俺は甘い飲み物で、シーラは苦い飲み物だ。
「……ひょっとしてだけどさ、まだ専業主夫目指してたりする?」
それはゆくゆく……
俺は率直に述べた。
俺には『答え』がわからない。
ただ長く生きることだけを目標にしている俺は、考え得る限りで最良の
だが、それさえ正しいのかどうか、わからない。
そう、俺は誰かに『君の選んでいる道は正解だよ』と保証してほしかった。
正解だけを求めている。正解かどうかだけを重要視している。
けれど、『お前の人生はそれが正解だ』と言ってくれる人なんか、どこにもいない。
三年過ごして『正解だった』と思えることが、三十年後も同じように思えているかはわからないし、同じように『間違いだった』と思ったことが、長い時のあとにひるがえることだってある。
死ぬまでわからない答えを、死ぬ前に知りたい。
だけれどそんなもの、わかるはずがないから――俺は毎日不安で、毎日悩んで、日々、なにも決めきれないまま過ごしている。
「……あたしもそう、かな」
俺は大多数の人がそうだと思っている。
でも、自信がなくなるんだ。だってまわりにいる連中はみんなキラキラと輝いている。自分がどうすべきか知ってるみたいに、進むことに迷いがない。
不安にもなるんだ。『あっちが普通で、人生をかけられるほどの夢もない俺たちは、どこかでなにか間違ったんじゃないか』って。
まあ――俺の悩みが多数派だろうが、少数派だろうが、関係はないんだけどさ。
マジョリティでも、マイノリティでも、俺が悩んでいるという事実は変わらないし、自分が多勢なのか
だから、将来についての話は、俺が答えを知りたいぐらいで、お前に答えてやれることはなんにもないんだ。
ごめん。
「……そうね。でもまあ、同じように悩んでる人がいるってだけで安心したかも」
シーラのまわりも、キラキラしている連中ばっかりだそうだ。
……ああ、違う。俺とは逆なんだ。
シーラの通う大学にいるような連中は、将来までビッチリレールが敷かれきっていて、そのまま進むことになんの迷いもなくって――
シーラだけは、そうではない。
そういうことらしかった。
「また時々遊ぼうか」
そうだな、と俺は言った。
そういうことで、と彼女は言った。
俺たちは自分の飲んだぶんだけを支払って、まだ日も高いうちから「またね」とわかれた。
俺とシーラはそういう関係でつきあいを再開した。
きっとまた、そういう関係で続いていくんだろうと思う。
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66話 一つの節目
外堀的なものが埋まっていく人生をお楽しみください
その日はなん年かぶりの豪雪らしくて、朝から様々な交通機関に影響が出た。
ニュースはひっきりなしに雪のすさまじさを喧伝し、止まった交通機関を映し出し、足止めされる人々が困っている様子を流し続ける。
俺は家にこもってそのニュースを見ながら、彼ら彼女らが『なぜ豪雪を予報されていながら休みをとれなかったのか?』ということについて思索していた。
『敵』のせいだ。
やはり敵はいる……久々にそう確信できるトピックスにふれて、俺は興奮していた。
今まであまりにも存在感がなさすぎて、『俺が今まで敵にしてきた対策はすべて無駄だったんじゃないか』と思い始めていたところだった。
いかにも本末転倒だ。『敵』なんかいないほうがいいのに、いることを喜ぶ……俺はもう『敵』のいない人生が想像できないのだ。いるに決まっているし、いてほしいとさえ、思っているのだろう。
俺は戦って勝ちたいのかもしれない。戦わないことこそ最良とさんざん言っておきながら、それでも、戦って勝ち取りたいのかもしれない。
英雄願望。
だって『敵』は悪なのだ。
今日の様子を見るに、そう確信できた――『敵』は大勢の人を害する立場にある。
だってそうだろう、人命より優先されるべきものはないはずなのに、こんな、事故でも起こりそうな日に社会は『働け』と命じるのだ。
そう、ニュースで交通機関麻痺による足止めを食らっている人たちは、すべて『敵』の意図でそうさせられているのである。
だってそうじゃないなら、わざわざ止まるに違いない交通機関を頼って、死ぬかもしれない豪雪の街を歩く意味がわからない。
きっと人質でもとられているのだろう。それは具体的なものではないかもしれないが、『稼ぎ』とか『ライフライン』とか、そういう、生活の首根っこなのだ。
まず『働かないと生きていけない』という概念からして俺は『敵』の策略だと思っているぐらいだ。
うまく言えないが、この世界の文明には意図的な『ひずみ』があると思う。
どこかで違ったルートを選べば『人類が働かずに生きていけた世界』が現在あって、でも、『敵』が邪魔をし続けたせいで、人類は今、働かなければ生きていけないのだと、俺は思っている。
人類から労働という枷を取り去れそうだった偉人たちはいくらもいる。
だというのにできなかった今の状況がある……『敵』の敵は人類そのもので、社会そのもので、文明そのものなのだろうと推測できた。
だが、おかげで安心もできる。
『敵』は『社会を外側から動かす存在』ではあっても、『社会』そのものではない。
俺はママを信じてよかった。パパを信じてよかった。アンナさんを、ミリムを、マーティンを、シーラを信じて、よかったんだ。
カリナ……うーん。カリナは信じてるっていうかほっとけないっていうかそういうカテゴリなのでちょっと違うが……
信じてよかった。
信じるって、ハッピーだな!
なあ! おい!
「レックスお前、酒弱いな……」
今日は俺の二十歳の誕生日だった。
あいにくの豪雪だが、前日から泊まりこんでいるマーティンには関係がなく、豪雪の予報を見て飲食物を買いだめしておいた俺にスキはない。
「わかったわかった。はいはい。もう寝ろ。とりあえず寝ろ」
マーティンにベッドへおいやられ、俺はころんと寝た。
二十歳だぞ。
俺は二十歳なんだぞ……
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67話 正装獲得
最近は成人の日でしたね(1ヶ月ほど前)
20歳を超えた主人公の今後をよろしくお願いします
近年まれに見る豪雪がおさまったころ、俺は実家に帰り、両親やミリムたちに二十歳の誕生日を祝われ、そして
オーダー品である。
この世界の衣服はいわゆる『吊るし』と呼ばれる既製品と、オーダーし細かく採寸され作られる一点モノとがある。
どちらがより高級かは、かかる手間の差を思えば歴然だろう――オーダー品は高い。最近は既製品と比べても『ケタが違う』というほどではないものの、やはり値段は倍とか、そのぐらいにはなるようだった。
世間では大学の入学式でスーツを着る者も多く、そのタイミングでちょっといいものを仕立てる場合もあるようだったが、保育所から大学までエスカレーターのうちの学園では、『去年まで着て通っていた制服』を着て入学式などは参加するならわしとなっていた。
つまり『自分のスーツ』というものを手に入れるのは初めての経験であり、採寸を終えて、完成を待つあいだ、俺はぼんやりと『スーツを着た自分』というものを想像していた。
想像もつかない。
制服だってそうスーツと違うデザインというわけではなかった。シャツを着てジャケットを着てスラックスをはく。タイだって締めていた。
だというのに、ずっと制服を着ていたはずの俺は、制服と近しいデザインであるはずのスーツを着た自分をうまく思い描けていなかった。
このどうしようもない不安? 焦燥? を抱いた俺に浮かんだのは、『アンナさんに連絡する』という選択肢だった。
連絡してなにをするのか? いそがしいんじゃないのか? そもそも、俺に応対してるヒマなんかあるのか……
わからないことだらけだった。普段ならまずとりえない選択だった。
なぜなら俺は敵を増やさないことを目的に生きているのだから。相手に『失礼だ』と思われることを極度におそれているのだから……
それでもアンナさんに意味不明、目的不詳の質問を送ってしまったのは、きっと、今の肉体に引きずられている俺の心がまだまだ未成熟で――いや、言い訳はよそう。百万回転生しようが、俺の心はいっこうに、成熟しないままだから、なのだろう。
大人になるって、どういうことですか?
俺が送ったのは、こんなわけのわからない質問だった。『自分で答えかたを想定できない質問はしない』という、俺が密かに抱いているルールを破ったものだ。
さぞや困るだろう、無視されるかもしれない……俺のおそれは質問送信後に秒単位で増していった。数分も経って、『すいません、忘れてください』と送ろうかと決意したその時、
『大人になっても、わかんないよ』
そんなメッセージが、送られてきた。
それは突き放したようにも見えるメッセージだったけれど、俺は不思議と、『あ、そうなんだ』という安心と納得を抱くことができた。
飾り気のない単文だったけれど、アンナさんは、俺がどう受け取るかがわかっていたのかもしれない。補足はなかった。ただそれだけで、俺からの返事を催促することもなかった。
もうすぐスーツができあがり、俺は三年生に進む。
社会に出る日が刻一刻と近づいてきていて、俺は、ふと、自分の行く末を決められた気がした。
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68話 わたし、誘われてない
大きくなってきた主人公を引き続きよろしくお願いします
自分の悩みが解決すると目が外に向くもので、俺は、俺の一番身近にいる『謎の存在』について、ようやくその謎を解き明かそうという心持ちになっていた。
ミリムというのはまさしく謎のカタマリだ。
もちろんよく知っている。赤ん坊のころからのつきあいだ。オムツも替えた。よく遊ぶ。最近は一緒にいる時間も増えたし、なにかにつけて祝い事は一緒におこなう。
彼女の口癖は一時期『わたし、誘われてない』だった。
なるほど仲良しなのだから、遊ぶ時には誘ってほしいというのはまったくもってその通りだ。
俺は『かわいいヤツめ』とスルーしてきたが、ちょっと考えてみると、『いや、男同士で遊んだんで、普通誘わないでしょ?』みたいな時にも言われているので、持ちネタだと思ってもやや、こわさがある。
思えばミリムの『誘われてない』は幼いころからずっと続いていた気がする。俺が遊びに行ったと言えば必ず『誘われてない』が出てきた。
修学旅行まで『誘われてない』と言われた時には、いや学校行事やん……という気持ちをさすがに禁じえなかった。その文句は俺じゃなくて学校に言ってほしい。
なぜあんなに誘われたがるのか。ひょっとしてミリムの一発ギャグみたいなものなのか……様々な可能性を想像し、しかし結論が出なかった俺は、ついにミリムの『誘われてない』という言葉の意味について聞くことにした。
マルギットに聞くことにしたのだ。
「いや、知りませんよそんなの。だいたい、ミリム先輩、そんな頻繁に『誘われてない』って言う人じゃないですし」
バイトの休憩室には四角いテーブルが一つだけあって、俺とマルギットは隣り合った辺にいた。
テーブルが大きめなのだ。対面すると会話にはやや遠くなる。
だからこそ会話を避けるなら対面に座ればいいと思うのだけれど、マルギットは必ず、四角いテーブルの俺と隣り合った辺に座り、ほおづえをついて、俺のほうを見るのだった。
「というかお二人のあいだでわからないことが、なんで私にわかるんですか。皮肉ですか?」
マルギットの応対はおおむね敵対的だ。
しかし俺は彼女を『敵』だとは判断しなかった――理由は簡単だ。あからさますぎる。そして、これだけあからさまに『お前のこと気に入らないオーラ』を発していながら、手ぬるすぎる。
この世界の『敵』はもっと狡猾で慎重だ。
敵意をむき出しにするなら、それは俺にトドメを刺せるタイミングだろう。
だからマルギットは『単純に俺のこと嫌いな人』だと判断できる――待って、なんだそれは。悲しい。
「別にレックスさんのこと嫌いじゃないですよ。ただ許せないだけで」
許せない、というのは初めて言われたことだった。
俺が許せないという感情を誰かに対して抱くのはどんな時だったか――考えてみて、思い当たるケースがいくつかある。
ひょっとして俺――
マルギットの故郷の村、燃やした?
「放火のご経験が?」
あるわけがない。
俺はこの世界に生まれてからというもの、『素行』というものに気を払って生きてきた。
なぜなら『現在』は『過去』に根ざすものだからだ。
過去に『若気のいたり』でやってしまったことが、現在、思わぬ痛手となって足をすくうことも起こりうる。
俺はそういった予想しがたい角度からの攻撃には常に備えていて、その結果、素行に気を配り、やや杓子定規と思われようが、ルールを守って――守っているように見えるように――生きてきた自覚がある。
よって放火はしたことがない。
「いやまあ、そこは『あるわけないだろ』って言ってくれたら普通に話が進みますよ。そんな本気で検討しないでください」
しかし人は無意識で動くこともある生き物だからな……
この世界の人類も、肉体が精神の制御を離れることはままあるらしい。ネットなどには『不良にからまれた。意識がなくなって気づいたら全員ボコッてた』みたいな投稿も散見されるのだ。
俺は異世界でいくらかの格闘技をやっていたし、この世界では生活のそこここでちょっとした役に立つ程度の『魔法』を、兵器みたいに転用する式も知っている。
俺が無意識になったら、俺の非才を加味しても、わりと大規模な破壊活動が可能になってしまう。
話では不良にからまれると意識を失い暴力行為に走るらしいので、からんでくるような不良がいない今の環境はだいぶ恵まれているのだろうと思っている。
俺は異世界人であるあたりを伏せたまま、『本気で検討する価値がある』ということを熱弁した。
「……レックスさんって、考えかたっていうか、物言いが、半歩ぐらい世間とズレてますよね」
おかしい。
偽装には心を砕いているはずだ。
そりゃあ、俺には百万回の転生経験があるのだから、この世界にまったく問題なくなじめるとは思わない。だからこそ平均的であろうというたゆまぬ努力をしている……
つまりマルギットは鋭いところがあるのだろうか?
俺はやや警戒を強めた。ひょっとしたらマルギットは『敵と思わせて敵じゃないと思わせて敵』みたいな相手かもしれない……
そもそもマルギットは出会った時に『こいつは大丈夫だろう』とこちらを安心させてきたのだ。それを思えば、相当な手管の持ち主とも言えるかもしれない。
「……とにかく、レックスさんが知らないミリムさんのことなんか、私が知るはずないでしょう。私はただの後輩なんで。……第一、なんで私に聞くんですか。ミリムさんのこと知りたいなら、直接本人に聞いてくださいよ」
いや、だってさ……
ミリムのことミリムに直接聞くの、緊張するじゃん……
「……ハァ~。あの、失礼だと思いますが、正直に言わせてもらうと、『のろけんな、死ね』って感じです」
今の『のろけ』なんだろうか。
マルギットは立ち上がって休憩室を出ていってしまった。
気づけばもうすぐ休憩時間が終わる。俺も業務に戻る必要があるだろう。
『わたし、誘われてない』の言葉の意味は、本人に聞くよりほかにないようだ。
……まあなんだ、あんまりふれてはいけない気配も感じるので、勇気が出たらそのうち聞こうと思う。
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69話 二人ぶん
くだらない話をできる相手がいる人生は素晴らしいものかもしれない
引き続きよろしくお願いします
「お前にしか頼めない」
おそらく初等科までの俺ならば『俺に頼めることなら誰にでも頼めるだろう』という感想を抱いただろうが、今の俺は、そこまで自分の能力に無自覚ではない。
俺は己を鍛え続けてきた。
『敵』との戦いに備えた自己鍛錬だった。『敵』は未だ姿を見せないが、備えた時間は無駄にはならない。
自分には才能がなく、不遇だ――そう百万回の人生で学んできた俺ではあるが、最近はちょっと人にほこれることもいくつかあるし、きっとマーティンが俺を頼るなら、そういうあたりが理由なんだろうなと思った。
だから俺は、堂々とたずねる。
俺に頼りたいのは――掃除か、洗濯か、料理か、裁縫か、さあ、どれだ?
「いや――合コンの数合わせだ」
サヨナラ。
通話を切ればブツリという音とともに完全なる無音となった。
ここに俺とマーティンの交渉は完全に断絶したのである。
だが、マーティンは死んでいなかった!
再び通信端末が着信を俺に知らせる。
ディスプレイを見れば――マーティンの名前があるではないか!
通話開始。
「いきなり切ることないだろ!?」
俺は合コンというものを知っている。
むろん、『知識で』だ――実際に経験したことはない。
なぜならば俺にはミリムがいる。合コンというのが『恋人を探す会』である以上、参加それ自体が浮気になるだろう。
俺は敵を増やさないことを目的に生きている……ミリムを敵に回すようなあらゆる行為は避けていきたいという考えはゆるぎない。
「いや、大丈夫だって。数合わせだから。一人ドタキャンしたんだよ。それでさ……」
なにが大丈夫なのかわからない。
数合わせの意味はわかる。噂では合コンというのは男女同数でおこなうべきことなのだ。どちらかが少なければ、どちらかが不満を抱く。
だけれどマーティン、俺は思うんだ。
お前が二人ぶんがんばれば、二人ぶんの恋人を得られる可能性、あるんじゃないか?
「いや、ねーよ!」
しかし考えてみてほしい。
お前は――二人ぶんある。
「なにが!?」
本当にわからないのか?
お前は、二人ぶんある。
一人の人間は、一人ぶんなのが通常だ。あらゆることは、一人につき一人ぶんだろう。
だからこそ『二人ぶんある』と言われれば、心当たりがあると思う。なにせ、一人で二人ぶん持っているものなんか、そうそうない。
あるだろう? ――二人ぶん。
「えっ、いや、うーん……あっ、アレか?」
気づいたようだな。
なら、俺から言えることはなにもない。
二人ぶんを活かせ。そうすればお前は、マーティンというたった一人でありながら、二人ぶんだ。
「そうか……なるほど、それも一つの考え方だな。わかったよ、しょうがねぇな。……二人ぶん、やってやるぜ」
そう、その意気だ。
じゃあな――俺は通話を切った。
そしてごろんとベッドに横たわりながら思うのだ。
マーティンに二人分あるもの――
いったいなんなんだ……
俺のほうには心当たり全然ないぞ……
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70話 夏のある日
人生万事物は言い様
引き続きお楽しみください
水のきらめきが目に刺さるような日だった。
中天には世界全土を照らす天体が存在した。日に日に暑くなっていく季節は、一度解決したはずの俺の『将来への不安』をじりじりと焦がして顕在化させていく。
さりとて心にくすぶる焦燥感に対してできることもそれほどなかった。
俺はすでに充分に学業をし、心の準備をしている。アルバイトで稼いだお金は大半が貯金にまわされ、仮に就職を決められなくてもしばらく食いつなぐ用意もあったし、そもそも父の経営する塾に就職するという滑り止めさえあった。
万全の用意をしているのだから安心するべきだと頭ではわかっているのだけれど、この脆弱なる人類という肉体に宿った俺の未熟な精神は、すぐに不安と焦りで揺れ動く。
そんな俺の様子を感じ取ったのか、珍しくミリムのほうからお誘いがあった。
「プール行こう」
それは俺が中学のころにカリナたちと行ったプールだった。
月日はすぎて世間は変わっている。幼いころに遊んだ公園はいつのまにか駐車場になっていて、近場の商店はチェーン店へと変貌していた。
老夫婦がいとなんでいた料理店はでかいマンションに吸収されあとかたもなく、初等部時代をすごした校舎さえ、改築されてそのシルエットを少しとはいえ変えてしまっていた。
ミリムと二人でプールサイドに立った俺は、人混みや客層もふくめて当時と変わらないプールの様子に、なんとも言えない感動を覚えていた。
そう、このプールは『立方体』だった――俺があこがれてやまぬかたち。『不変』と『永遠』を表す形状。変わらぬまま有り続け、変わらぬまま愛される。俺の目指すべきもの……立方体そのものだった。
俺、立方体になる。立方体になるよ……
「レックス、やっぱり疲れてたんだね」
俺は疲れていたようだった。
ミリムの提案で俺たちはプールサイドあたりに立って、ぼんやりと遊泳に来た客たちをながめることにした。
夏休みに突入しているだけあって、学生が多い。家族連れもいた。プールは広いはずなのに、これだけの人がいると、どうしても手狭に見えた。
そんな中、ふと俺の目にとまったのは、幼い女の子だった。
水着姿の幼い女の子を目で追う――というといかにも不審者だが、俺が目で追っているのは女の子だけではなかった。男の子も追っているのでバランスはとれている。
どうやら男の子と女の子はデートに来ていたようだった。
ギリギリ保護者が同伴しなくてもいいぐらいの年齢の二人だ。初々しいその二人の様子を見ていると共感を覚える。俺とミリムにもあんな時代が……と、思ったが俺とミリムはあの地点にさえいたっていない……恋人らしいこと一つもしてない。初々しい以前の問題だった。
ごめんな、と俺はなんだか謝った。
「どうしたの?」
その問いに答えられなかった。
だって謝りたいことが多すぎたんだ。たくさん彼女に言いたいことがある。胸の中にはいくつもの言葉が渦巻いている。それらの言葉には優先順位がちっともつけられなくて、だからのどでつかえて、出てこない。
俺はもう一度、ごめんな、と言った。
それから、ありがとう、と言った。
なにも伝わらないだろう。
でも、なにかが感じ取れたらしい。
ミリムは黙って俺の手をとった。
俺も少しだけ、とられた手に力を入れた。
相変わらず俺たちのあいだに言葉はなくて、俺たちがなぜ今こうしているのかは、きっと誰にも説明できない。
わからないことだらけの夏のある日、でも、今日は子供のころのように精一杯遊べそうな予感だけは、たしかにあった。
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71話 現実処理能力
引き続きいい関係の二人をお楽しみください(ミリムとレックスとは言ってない)
「ひょっとしてレックスは同人誌作りから足を洗いたかったのかな……」
俺が『就職、どう?』と聞いたら、カリナはそんなことを言った。
その日はやけに肌寒く、また乾燥した日だった。
吐く息は当然のように白くて、手の甲や唇がガサガサしている。
俺たちは俺の淹れた温かいお茶を飲んで過ごしている。冬祭りは近く、けれど俺たちには焦りがなかった。
作業は順調に進んでいて、そのことに俺たちはわずかばかりの寂しささえ感じていたのだ。
「ボクなりに――」カリナの一人称はなぜか中等部時代のものに戻っていた。「――考えたんだけど、今思うと、レックスはあの時、BL同人誌の制作指揮をやめるって言ってたような気がするんだよね」
気がするっていうか……
普通に言ったよ。
バッチリ聞こえるタイミングで、バッチリ聞こえるように言った。
『えっ、なんで!? やめちゃうの!?』と反応もされた。
だからバッチリ聞こえてたと思うんだけど、なぜかカリナは『今気づいた』みたいに言う。
「レックス、ボクたちはね、話を聞いてる。でも、話を聞いてないんだ」
またカリナが始まった。
カリナは俺にとって不可解なことをよく述べる。
カリナなりの理論というか、生態というか……俺からは理解しがたい謎の法則によってカリナは生きており、それは、カリナのまわりに集まる漫画描きたちも、同じ様子だった。
「たぶん、ボクたちは主張が強すぎるんだ。頭の中でなにかを思いつく。すると、その思いつきにばかり気をとられて、人がなにか言っても全然頭に入らない……そういうことがよくあるんだよ」
そりゃあ、大なり小なり、人にはそういうところあると思うけど……
「そんな話じゃあないんだ。どう言えばいいのかな……そうだ、物語。ボクらは現実のことを自分の描いている物語だと思っているフシがあって、『このシーンはこのメッセージ』と無意識に頭の中で定めたなら、そのシーンにはそれ以外のメッセージを持たせることができない……」
??????????
「レックスがBL同人誌の制作指揮をやめると言ったのは、事実なんだと思う。ボクはきっとなんらかの反応をしたんだろう……でも、ボクの記憶だと、そのシーンは『レックスがスケジュールマネージャーに昇格したシーン』として記憶されていて、それ以外のことは覚えておけないんだ」
やべぇ、なにを言われているかわからない……
カリナさん面接とか……大丈夫ですか?
「そう、そのことなんだよね。面接……ひいては就職……ボクはしない。漫画家として生きていくつもりだ。もう、そう腹をくくった」
そうなのか。
それは不確かな道だし、俺としてはまったく推奨しないんだけれど、カリナの道だからな。カリナがいいなら、他人の俺がどうこう言うべきことじゃないだろう。
「しかしねレックス、今は、いつだい?」
十二月ですね。
「そうなんだ。十二月なんだ。そうしてあと二ヶ月もすると……始まるんだよ」
なにがだよ。
「確定申告」
…………。
それは税金まわりのアレコレで、収入が一定以上の者は誰しもやらなければならない国民の義務だ。
当然ながら知っている――国という庇護者からの庇護を受けて生きているのだから、税を取り立てられるのは自然なことだ。医療、ライフライン、その他サービスは、国という基盤あってこそ受けられるものなのである。
だが、妙なことに、学校では確定申告について教えてくれないのだ。
だから俺も独学でやるしかなかった――まあ俺はまだ確定申告をする立場でもないので、エア確定申告をして、将来に備えているだけなのだが。
しかし実際に俺が自分の手でやることも、きっとないだろう。
世の中にはそういった税務関係を専門にしている職業もあるのだ。そういった人たちに金銭を支払って依頼すれば、よほど安全で確実に確定申告をしてもらえるものと思う。
「レックス、あのね、ボクたちの仕事は収入が微妙で、『税理士にお願いするほどでもないのだけれど、なるべく多く控除されたい』という状況が発生するんだ。その場合……自力で確定申告をするしかない……」
ちょっと想像がつかない状況だが、まあ、俺は漫画関係にかんして門外漢だ。
その道に進もうとしているカリナが『ある』と言うなら、そんな状況もあるのだろう。
「しかしレックス……ボクは押し寄せる現実に対処できないんだ」
ちょっとなにをおっしゃっているのかわからないです。
「世の中には『やらなきゃいけない現実的作業』があるだろう? たとえば……就職の面接の準備とか、試験前の勉強とか、部屋の掃除とか……ボクは、そういうの、ダメなんだ。『やらなきゃいけない』ことはわかるんだけど、やれないんだよ。やろうと思うと、体が全然動かなくなるんだよ」
いや……
やる気出すべきでしょ……
「レックス、ボクの生きている世界は現実じゃないんだ。夢の世界に、生きているんだよ」
呼吸止めてみたら自分の居場所が現実だって理解できると思うよ。
「そういう話じゃないんだ。君にはわからないかもしれないが……どうしても現実的な作業ができない人っていうのは、世の中にいるんだよ」
まあ、うーん……そうだな。そういう症状もあるのかもしれない。
決めつけと思い込みは世界を狭め、死角を増やす。
なにごとも『あるかもしれない』と思って生きる、かもしれない人生を生きている俺が、みだりに『それはない』と決めつけるべきではないだろう。
「まあだからね……レックス、ボクの確定申告をやってくれないか?」
それはない。
「お金は払う。そうだ! 肉はどうだい!? 焼き肉! 映画とか連れて行ってあげるよ!」
カリナがやけに必死だった。
俺に払う金があるなら税理士に払えよと言うけれど、なんかモニョモニョ言うだけだ。なんらかの事情でそれはイヤらしい。
たぶん新しい相手とコミュニケーションを始めるのがイヤだとか、そういう理由だと思う。
俺は迷った。まず『なんで俺がそこまで?』というまっとうな疑問が浮かぶ。
確定申告とか収入も支出も細かく見ないとやってられないので、当然ながらカリナの金の動きは俺にさらされることになる。他人だぞ俺。俺の前に家族に頼めよ……
「家族には普通に就職するって言ってあるんだ」
まずいやつじゃんそれ……
わからない。なぜ俺はカリナ関係でこんなに色々抱え込みそうになってるんだろう……俺はカリナのなんなんだ? ママか? ママなのか?
俺自身の人生をストレスフリーにしてるはずなのに、カリナまわりでなんだか妙に抱え込んでいる……これが英雄に巻き込まれた一般人である。
だがここで一つの光明が俺の心によぎった。
すなわち『変則的ヒモ』と呼ばれる立ち位置に、俺は就けるのではないか? という疑問だ。
カリナのスケジュール管理やら財政管理やらを任される立場はまさしく秘書だった。そして秘書とは『ヒモをかっこうよく言っただけの職業』という認識だ(怒られそうなので表では言えない)。
人生の選択肢は多いほうがいいに決まっていて、今の俺には『普通に就職』『親の経営する塾で働く』『ミリムのヒモ』という三つの選択肢がある。
ここに『カリナの秘書』を加えるのはなかなかやぶさかではないと思う。商業漫画家としてカリナが成功した場合、そのリターンもまた、大きいものになるだろうと予想できるからだ。
そのルートを閉ざすのはいかにも惜しいように思われて、俺は『わかったよ』と承諾した。
「やった! じゃあ領収書とかあとで渡すから!」
――二十一歳を迎えた冬の日。
俺は――確定申告を始めた。
人の確定申告を、始めたんだ――
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72話 未知の領域へ
学生期間の残りをお楽しみください
進むべき方向を定めても、やはり迷う心は消えなかった。
毎日のように悩んでいる。
きっと俺の経験か、あるいは直感が、『ここでの選択は一生を左右するものになる』と理解しているのだ。
あるいは、そう思っているだけ、なのかもしれない。
『直面している時には重大に思えた選択が、すぎてみれば意外と
問題は、今、この選択が重大か矮小かは、やはり未来に振り返ってみなければわからない、ということだ。
予想はできても確定はできない――人生は生きるたびに新しく、生きるたびに、難しい。
ともあれ二十一年というこれまでになかなかない年数をすでに生きたのだ。
ここまでの選択はあまり間違ってはいなかったということにして、自分を信じて生きていきたい。
寒すぎた冬が終わるとあっというまに暑くなり、バイトを辞めるための引き継ぎをしているあいだにいつしか秋がせまってきて、一瞬で過ぎ去った。
俺は好んでいそがしい日々を過ごした。
迷うし悩むからだ。ぼんやりしているとどうしても重苦しい不安が心にのしかかってきて、それを振り払うために多忙の中に身を投じた。
自ら多忙の中に身をおいて思うことがあった。
俺は働きたくないが、いそがしくはしていたい。
これはまったく意外な心境だった。
いそがしいというのは時間がないということだ。『時間にゆとりをもつこと』がストレスを軽減し、ひいては寿命をのばすと信じ切っている俺は、『なるべくいそがしくない人生を』と思っていたはずだった。
ところがちょっとした旅行に行ったり、就職に備えた活動をしたり、バイトの引き継ぎをやったり、他人の確定申告をしたりしているうちに、そこに充実感を覚え始めている俺がいた。
この充実感というのが生きるために重要な要素っぽい。
充実している、というのは言い換えれば『満足している』とも言える。他者とのかかわりの中で自らの存在を認められ、楽しい疲労を覚えてベッドにもぐりこむ。適度にうまいものを食べ、アトラクションを楽しみ、イベントへ行く。
これまでの人生、そういう騒がしい人生は『縁がないもの』と思っていた。
というか、『楽しく騒がしい人生』が、縁のないものだった。
俺の百万回の人生は局所的に騒がしかった。
『きゃー、わー』という感じの騒がしさではない。『ドンパチ』という感じの騒がしさだ。
つまり――今までは『騒がしい状況』イコール『死と隣り合わせ』だったのだ。
しかし今回の人生、いくら騒がしくっても……命の危険を感じることがない。
そうだ、俺は死にたくないだけなのだった。死なないなら、それでいいのだった。
本末転倒だ。『生ききる』という目的のために気をはらって、自分を押し込めて……そのストレスで早死にしては、意味がないだろうに。
俺はもうすぐ就職する。
これからの人生はいそがしく、さわがしいものになるだろう。
迷いも悩みも期待も不安も抱えたまま、ただ、時間は一定の速さで進み続ける。
惑いに結論は出せないままだし、むしろ、自分の将来について『正しい選択』を検討する時間を自ら減らしていたような気さえするけれど――
それでも俺は、この春から教師になる。
俺が大人になれるかは、大人になっても、きっとわからないままだろう。
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73話 回想 ~罠~
社会人になります
レックスくんの将来をご心配ください
それは俺が大学三年生のころ、教育実習に行っていた時の話だ。
俺が出向いた先は学園の中等科だった。
順当に教師になればここで教鞭をとることになるらしい。つまり、今実習でお邪魔しているクラスの連中が三年生になるころ、俺は新米教師として赴任することになるのだ。
なのできわめて打算的に、俺はこのクラスの連中に
就労環境を整えることは重要だ。
そして環境というものについて考える時に、『そこにいる人たち』を除くことはできない。
環境というのは人が作る――もっと具体的に言うならば、『一番数が多い存在』と『直属の上司』が作り出すものだ。
なので『一番数が多い存在』であるところの『生徒』というものを軽視することはない。
幸いにも俺のことは学園の中等部でもよく知られているようで、廊下を歩いていると「あの人がレックスさんだって」「ああ、あの……」「俺、兄ちゃんから聞いたことある」「まずい、こっち見た……」というヒソヒソ話が聞こえてくる。
俺は普段使いに買った吊るしのスーツに身を包み、新鮮な気持ちでヒソヒソ話を聞いていた。
この時の俺は将来に対する不安が心を支配していて、気持ちが浮沈を繰り返していた。
踊りたくなるようなハイテンションと死にたくなるようなローテンションがコンマ秒で入れ替わっていて、ヒソヒソ話を聞いた時には『みんな俺のことを知ってるみたいだ。やりやすそうだなあ』と思うと同時に、『みんな俺のこと噂してる。きっと俺を殺す算段に違いない』とも思っていた。
しかし、誰も俺を殺そうとはしなかった。
それどころか歓迎してもらえた。
俺が授業をしていると突然背中から丸めた紙を投げられたり、俺が教室に入ろうとするとドアのところにトラップがしかけられていたりしたのだ。
これはまあ、概要だけ説明すればきっと『お前嫌われてるじゃねーか』と言う者もあるだろうが、重要なのは『程度』だ。
このトラップ、殺意がない。
しかも回避は簡単だ。
俺は背中に投げられた紙玉を背面キャッチしてゴミ箱に投げ捨てた。
たったそれだけで歓声があがる。
ドアを開けたら頭上からペンがたくさん降ってきたので、一本残らずキャッチして『持ち主は?』と問いかけた。
みんな黙ってしまったのだが、一人、あからさまに動揺しているのがいたので、そいつに手渡すと、みんないいリアクションをしてくれた。
殺意がなく簡単なトラップを回避するだけで、俺はどうやら、クラスのみんなから尊敬を集めてしまったらしい。
つまり、このトラップを仕掛けたヤツは、俺が早くクラスになじめるように手助けをしてくれたのだ。
これほど幸先のいいことがあろうか?
俺はトラップの仕掛け人を放課後、指導室に呼び出した。
お礼を言いたかったのだ。
場所が指導室なのは、それ以外に実習生の俺がクラスの特定個人と二人きりになるために使える場所がなかったからだ。
「あ、あの、その……」
なぜか挙動不審になるそいつをにっこりと見つめ、俺はそいつの名を呼んでやる。
アレックス。
「は、はい」
これからもよろしく。
「……は、はい」
アレックスはクラスメイトの中ではわりと横暴な振る舞いが目立つのだが、さすがに教育実習生とはいえ教師側の俺と向かい合うと、緊張するのだろう。
俺は優しくささやいた。教育実習が終わって教師になったら――また来るから。君の前に、もう一度、来るから。
「ゆ、ゆるしてください……」
なにを許すことがあろうか。
君にはお礼を言いたいぐらいだ。
ありがとう、俺がクラスに溶け込めるように手を尽くしてくれて。
でも、もう少し回避の難しいトラップでも平気だったよ。
よければ教えようか? こう見えて、トラップ作りもやったことあるんだ。
まあ、仕掛けるよりも、かかるほうがうまかったんだけどね。
なるべく優しく、笑いどころなんかも交えて語りかけているのだけれど、アレックスは萎縮してしまって、答えてくれない。
このあたりは今後の課題だ――立場の差による萎縮。これをなくさないと、やはり円滑な生徒とのつきあいはできないだろう。
しかしアレックスは萎縮し、緊張してはいるが――やはり、俺のことを気づかってくれていたのだろう。
俺は彼の不器用な優しさに、マーティンを思い出した。
あいつも不器用でおおざっぱで乱暴で、しかし心には優しさのあるヤツだった。
俺にはあいつの優しさがわかる。だってあいつ、ケンカになっても殺意がなかったもの。
『殺す気のない暴力のふるいあい』は、哺乳類系の動物に見られる親愛表現だ。
子猫などがよく、きょうだいたちと歯を立てないかみ合いをすることがあるだろう。
人もそうだ。拳を握り、とっくみあい、投げとばしても、急所を狙わず、打ち抜かず、投げたあとの落下地点をきちんと考えるような『じゃれあい』は存在する。
俺はマーティンとの思い出を胸によぎらせながら、ほほえんで言った。
仲良くなれそうだね、俺たち。
アレックスは「は、はい」と緊張しきった顔で言った。
今回はアレックスに助けられたが、今後、一人でクラスになじまなくてはいけないケースも増えるだろう。
いつか俺が本物の教師になったら、もっと距離を縮めたやりとりができるような、柔和な雰囲気を身につけたいと思う。
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74話 戦略的勝利
ここに来て異世界転生者が出てきたレックスくんを引き続きよろしくお願いします
「なあレックス、人はなぜ働かねばならないんだろうな」
俺たちには安息日というものがあって、週に一度おとずれるその日には、マーティンと居酒屋で落ち合って語らうのが習慣と化していた。
もはや俺たちも立派に社会人だ。
とはいえ始めてからまだ二月と経っていない――現在は五月も半ば。ようやく業務に慣れ始め、仕事に自ら『楽しみ』を発見できるようになるころあい、だろうか。
そんな時期だというのにマーティンの顔が完全に世を
「来る日も来る日も意味のわからない過剰なタスク……上司に『ご教授していただく』営業のコツは犯罪スレスレ……過去ならそりゃあ通じたかもしれないけどさ、今の時代のモラルだと無理なもんばっかりで、しかも景気がよかったころの基準で『できる』『できない』を判断する。『じゃあお前がやってみろよ! 今の時代! 今の経済状況でさあ!』ってなん度叫びかけたことか!」
マーティンのつとめ先は誰でも聞いたことがある一流企業のはずだが、なるほど、中身はだいぶ古くてガタがきている様子だった。
俺はそんなマーティンの愚痴を聞きつつ、かつての人生を思い返していた。
俺にもあった。時代柄を見ることのできない上司のもと、絶対服従を強いられていた時期……その人生はいろんな不運が重なって火刑に処された。しかし上司は無事だったと全知無能存在から聞かされて、ハラワタ煮えくりかえったものだ。
「レックスは仕事、つらくないのか?」
幸いにも、つらいと思ったことはなかった。
そもそも俺が『教師』という職業を選ぶにあたってなんのリサーチもしないはずがなく、リサーチの結果、『そう大きなストレスがかからないだろう』と確信してのことだった。
世間一般の『教師』は聞くからにストレス職だ。残業代の出ない残業、上司からのパワハラ、生徒はクソ生意気で、みんながそんな状況なものだから職場それ自体がギスギスしているという……
しかし学園を保育所から大学までエスカレーターで駆け抜けた俺が『教師を目指す』というのは、『一般的な教師を目指す』というのとは、少し意味合いが違う。
教師になりつつ生徒でいることができるのだ。
なぜならば学園で教師になった者は学園の教師になる。
俺が出向することになったのは中等科課程とはいえ、当時の恩師はまだいらっしゃって、おまけに俺は教師たちから覚えがいい。
成績は優秀、品行方正。中、高と生徒会長をつとめた実績がある。
そうなると教師のみなさんは『優秀な生徒に接するように』俺に接してくれるのだ。
このメリットを一から説明しないとわからないほどマーティンは察しが悪いわけではないのだが、ストレスとアルコールで心がぐちゃぐちゃで判断力が落ちているので、かいつまんで説明すれば、『パワハラがない』というのが第一のメリットだ。
そしてデメリットになりそうだった『生徒との関係』も、アレックスという知り合いができたおかげでデメリットにはなっていない。
親しみやすい、というよりは、番長、みたいな扱いをされているのがじゃっかん気になるが、生徒との距離は遠すぎず近すぎず、みな俺の言うことを素直に聞いてくれる。
わかるかマーティン。
俺は――就職前に、職場環境を整えたんだ。
「そんなんチートだ!」
チートか。
まあたしかに『就職前に職場環境を整えておこう』だなんて発想、人生をなん周かしないと出てこないよな……
しかしマーティンよ、俺は今の職場に一つだけ不満がある。
それは同世代の知り合いがいないことだ……
いや、もちろん、同期はいる。いるんだが、なんか遠いっていうか、俺以外の同期は名字に『さん』付けで呼び合ってるのに、俺に対してだけ『レックスさん』なんだよ。
名前に『さん』付けってさ……
大人になると、逆に距離遠く感じるよね……
「いや……お前と同期だろ? それはしょうがないわ……」
なんで『レックスなら仕方ない』みたいな感じなのか全然わからないけど……
まあそんなわけで、俺とお前は……ズッ友だょ。
愚痴とか聞くから……
「そっか、お前もつらいんだな……」
二年ぐらいは休みの日にこうやって飲めると思うし。
「なんで二年なの?」
二年後結婚するから。
「えっ?」
ミリムと結婚するんだよ、俺。
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75話 外堀
年齢ごとにいろんなものが埋められていく
人生
引き続きよろしくお願いします
『娘さんを僕にください』というアレをやってみたかった思いはある。
いや、それもやらずにすんだから思うことなんだろう。アレは絶対に過剰なストレスがかかる。相手がミリムの両親であっても、いや、だからこそ、どういうツラしてそんなことを言えばいいのかわからない。
ともあれ俺とミリムが結婚するという話については、ぶっちゃけ俺の全然あずかり知らないところで進んでいて、というかミリムが勝手に進めていて、気づいたらそういう空気になっていた。
俺はと言えば『よくできた嫁だなあ』と感心した。
いや、この時点ではまだまだ嫁じゃないのだけれど、結婚という行事にかんしておそらくもっとも面倒くさい『あいさつまわり』を勝手に進めておいてもらえたのだ。感謝しかない。
「……まあミリムちゃんはけっこう、そういう子だよね」
アンナさんに『二年後結婚するんで』という連絡を送ったところ、速攻で音声通話がかかってきて、しばらくぶりに俺たちは話し込んでいた。
静かな夜だった。
俺が一人暮らしをしているアパートは狭くて壁が薄いので、夜になると鳥や虫の声がよく聞こえる。
五月も半ば以上をすぎたこの日は特に虫の声が大きいように思われた。最近、季節がぐちゃぐちゃで、春が寒すぎたり夏が暑すぎたり、秋が消え去ったりしている影響か、生態系にも変化が起こっているのかもしれなかった。
そんな壁の薄いアパートだから、俺は自然と声をひそめるような話し方になる。
ミリムがそんな子って、どういうこと?
「……んーと……手段を選ばないっていうか……」
手段を選ばない。
なるほど、たしかに一般の人たちは、かなり『手段を選ぶ』ように思われる。
『卑怯』『善悪』『こだわり』『不必要な労力カット』……そういった様々な理由で、かなり手段を限定し、非効率な人生を送っているような印象があるのだ。
その点、ミリムはたしかに『手段を選ばない』。
俺と同じく非効率と無駄を嫌う性分なのだった。もちろん法やモラルは守るが、効率のためなら『こだわり』を捨てられるタイプであり、また、そのへんが周囲には理解されないところでもあった、のだとか。
「まあレックスくんがいいならいいんだけど……あ、いいならいいんだけど、じゃなくて、まずは『おめでとう』だったね。ごめんなさい」
祝福してもらえて嬉しいです。
あと、こんなこと言っても反応に困ると思うんですが……
俺、あなたにあこがれてたかもしれません。
「そういえば、したねー、結婚の約束」
アンナさんは通話口からでも相好を崩しているのがわかる声で言った。
今日の彼女はどこか普段以上に軽やかで、結婚相手が決まっている俺でさえ、その少女のような口ぶりにはドキドキした。
「あったかなあ、私たちが結婚する未来って」
なかったと思う。
聖女聖誕祭の日にちょっと考えてみたけど、俺たちはきっと、そういう運命の中になかった。
運命――その言葉を俺は嫌悪してはいるのだけれど、運命という言葉がはらむ意味の多さ、それゆえの利便性には、どうしたって逆らえない。
俺たちが結ばれる運命は、なかった。
それは、ずっと前に、俺が考えて、結論したことだった。
「レックスくんは断固としてるよね」
……ひょっとして俺は今、ものすごいチャンスを自らたたきつぶしたのだろうか?
「いやいや。チャンスって。ダメだよそういうの。……まあでも、レックスくんってさ……『とりあえずレックス』みたいなところあるじゃない?」
なんですかそれは。
「安定感あるんだよね、性格に。だからこう、すべてあきらめて帰った時に、つい頼りたくなる感じっていうの?」
アンナさんは酔っているのかもしれなかった。
まあしかし、彼女が濁した言葉の真意が、俺にもなんとなくわかる。
俺はいわゆる『キープ枠』なのだろう。
派手さがなく、堅実で、そこそこ。
だからきっと、いろんな人にとって『めんどうくさくない相手』なのだと思う。
「派手さがなく? 堅実で? そこそこ?」
えっ、違う?
「いや、派手だよ君は……堅実でもないよ……『そこそこ』でもないよ」
どうやら俺の思う俺と、アンナさんの中の俺は、だいぶ違う人物のようだった。
ここまで地味に堅実に生きている生物も、俺の他には家スラ(家飼い用スライムのこと。愛玩動物として進化している)ぐらいのものだと思うのだけれど……
「地味に生きるのは、派手だからだよ。堅実に生きようとするのは、そうじゃないからだよ。自分がそうじゃないから、目指して生きるんだよ」
……たしかに、言われていることはわかる。
俺が地味で堅実でそこそこであれば、そうあるように生きる努力は必要ない。
きっと俺がそうじゃないから、俺は地味に、堅実に、『そこそこ』で生きていこうという努力を重ね続けたのだろう。
「まあとにかく、ミリムちゃんならいいと思う。君たちはなんていうか――嘘つきだから。すごく似合ってる。……あ、褒めてるんだよ?」
どこか口調がふにゃふにゃとしている。
しかもそれは、会話の最中にだんだんとふにゃふにゃ感が増しているようにさえ感じられた。
ひょっとしたら俺と通話を始めたあたりで飲み始めて、今なお飲み続けているのかもしれない。
アンナさん――深酒は禁物ですよ。寿命が縮むから。
「私は短く派手に生きたいんだけどね」
それは意外な言葉に思えた。
けれど、すぐに意外でもないと気づけた。……大輪の花を咲かせ一瞬で燃え尽きるような人生を望まない者が、堅実な道を捨てて、冒険のような人生を選ぶわけがないのだから。
アンナさんは、今では注意深く音楽関係のニュースを追っていれば、はしばしでその名が聞こえるような人にはなっているが……
『音楽家』というものの不確かさから考えれば、そうならない可能性のほうがずっと高かったのだ。
きっと努力をしているのだろう。
でも、努力なんかみんなしている。
才能があったのだろう。
でも、プロになる者は多かれ少なかれ、才能があるはずだ。
その中で淘汰されず生き残るには、才能と努力の上に運が必要で、運なんていうものは、たまたま手にするものだ。手にする確率を高くできたとしても、手にできるかは、それこそ『運次第』、なのだ。
「……レックスくんは、たまに、私より年上なんじゃないかって思うよ」
まあ人生百万一回目ですからね――俺は冗談めかして言った。
アンナさんは笑って、「じゃあ、遅いから。招待状はちょうだいね」と言って切った。
俺は――
通話の切れた携帯端末をながめて、ぼんやりとする。
なぜだろう。
アンナさんとの関係は、今までと変わりなく続いていくだろうはずなのに――
なにか、妙な寂しさがあって、その日はなかなか寝付けなかった。
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76話 面従腹背
たのしい しゃかいじんせいかつ はじまり
引き続きよろしくお願いします
『顧問をやってみてくれないか』という申し出はあまりにも唐突に思えて、俺は一瞬、言葉に詰まってしまった。
だって俺には顧問要素が一個もない。
顧問というのは『経営顧問』とかではなく、もちろん新米教師にその上司が依頼するのだから、『部活動の顧問』に他ならないと推測できるわけだ。
しかし俺は部活動に所属したことがなかった。
趣味がなかったのだ。
また、内申点を稼ぐのに『部活動で一定の成績を残す』よりも『生徒会所属』のほうが難易度が低かったこともあり、部活動に熱意をかたむけようという気持ちさえなかった。
まあしかしよくよく話を聞いてみれば、『指導はコーチがやるので、学園側の管理責任者として名前を貸してほしい』ということだった。
それならまあ、とはならない。
俺は――責任者になんかなりたくないからだ。
なぜ見ず知らずの子供たちの行動に責任をとらなければならないのか……
あまりにもリスクが高すぎる……
責任者になるということは、俺が責任をとることになっている相手に、俺の昇進や降格、はては免職までをかけるということだ。
もちろん『部活動でケガ人が出た』即『免職』ではないだろう。
だが経歴には
「まあまあ、そう言わずに……多少の問題が起きても、学園がどうにか処理しますから」
処理?
俺はゾッとした。恐怖を表に出さないように、多大な労力をはらわねばならなかった。
今のは――脅迫だ。
問題が起きても学園が処理できる――すなわちそれは、『お前という問題をいかようにも処理できるのだ』と言っているも同義である。
『敵』か?
たしかに『敵』ではあるのだろう。けれど、これはまだ『敵』の本体じゃない。たぶんなにも知らずに、『敵』の味方をするようコントロールされているだけの一般市民なのだろう。
この世界の『敵』は狡猾で、社会を裏から操る以上の行動をしない。
いちおう『敵』の意図を直接言い含められるような立場であるかもしれないと警戒はするが、こんなに簡単に目の前に現われて、あからさまに『敵』みたいな行動をするコイツは、やはり『敵』そのものよりも、なにも知らない末端Aみたいなものだと考えるほうが自然だ。
観察と警戒をおこたるつもりはないが……
目の前のこの人を即倒せば、それですべてが解決する――とは、とうてい思えない。
観察だ。
俺は生来持ち合わせているヘタレさからではなく、『今、目の前の男を倒して問題が解決する可能性』と、『目の前の男を倒してなにも解決しなかった場合、負うリスク』を冷静に検討し、
そして――
観察にまわると決定したうえで、次に俺がとるべき行動はなにか?
それは決まっていた。『恭順』――正しくは、『
今までの人生も、『騙されているフリ』『従っているフリ』でなにごともなく乗り切ってきた。
しつこく自分に言い聞かせていることだが、俺の『勝利』とは『生き抜くこと』である。
つまり『問題の先送り』というのは、俺が天寿をまっとうするまで先送りし続けられるのであれば、勝利への近道たりうるのだ。
わかりました。
部活動の顧問――引き受けましょう。
「じゃあ文芸部……第二文芸部の顧問、よろしくね」
そういうわけで、俺は文芸部の顧問になったのだった。
……えっ? コーチ来るの? 文芸部に?
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77話 腐の香りがつきまとう人生
若い頃に一度背負って、しかし降ろしたつもりでいた荷物が重みがふとした瞬間に肩にのしかかってくることはあると思います
引き続きよろしくお願いします
人生最大のストレスがおとずれていた。
これはきっと俺の『こだわり』のようなものが原因のストレスなのだろう。無意識下にきざまれていたもの……本来ならばきざまれるべきでないものが原因の、ストレスなのだ。
しかし俺にはその『きざまれたもの』を取り払うのに多大なる労力が必要だった。
こんなことを思ってしまうのはおかしい、間違っている……そう思うのに、どうしたって心の中に『でもなあ』がよぎってしまう。そういうものなのだった。
自分でもおどろいたが――
俺は、カリナに頼み事をするの、めっちゃイヤ……!
こればっかりは自分でも醜い心根だと認めざるを得ないが、俺はカリナを無意識に『下』に見ていたようだった。
相手は年上で、漫画家先生だ。
俺の周囲の三大夢追い人の一角を成す偉大なるルーキー漫画家なのである。
でも、なんか、『下』……!
そもそも『他者と自分とのあいだに上下関係を見いだす』ということ自体が愚かだ。
くだらない上下関係にこだわって命を落としてきた連中はいくらでもいる――俺自体も『下』の立場にこだわるあまり、命を落としたことがあるぐらいだ。
個性ある知的生命のあいだに『上下』はない。
瞬間的に発生することはありうるかもしれないが、『あいつはあいつだから下』とか『あいつはあいつだから上』なんてことはありえない。
学校の勉強にかんして間違いなく俺が上だが――
漫画という道にかんしては、間違いなく相手が上だ。
このように見方を変えれば瞬間的に発生するのが上下であり、それは能力間で起こりうるものではあっても、人格間で起こりうるものではない。
でもなんだろう――
この、『カリナに頼み事をする』と思っただけで心に発生する、多大なるストレスは……!
そうだ、想像できてしまうのだ。俺がなにかを頼んだあと、めっちゃ調子にのるカリナが……それがイヤ。すごくイヤ。
しかし俺は教師だった。
文芸部の顧問だ。
文芸部……それは名前から察するに、きっと文学を愛する少年少女が、書について語らったり書をしたためたりする集まりだと思っていた。
だから俺も有名どころの文学はあらかじめ予習したし、そのつもりで顧問としてあいさつをした。
しかしその実態は、めちゃくちゃ、オタサー。
文芸書いてる時間より漫画描いてる時間のほうが多い。
そして女子比率が高い。
運命的なものを感じたぐらいだ。逃れられぬ腐の海の香り。一度ハマった沼から抜け出したと思いきや、進んだ先が別の沼だったという末路。
しかも俺が不用意にこぼした『あ、その漫画描いてる人知ってる』という一言から、二つの沼はつながろうとしていて、架け橋は俺なのだった。
生き抜くことが目的なのだが猛烈に死にたい。
『死ぬ気があればなんでもできる』とかいうおためごかしを信じるわけではないが、俺の中に他に使えそうなエネルギーがなかったので、この死にたい気持ちを利用してカリナに連絡をした。
実は文芸部という女子オタサーの顧問になったんだけれど、カリナ先生に一回だけでもご指導たまわれないかと思いまして。あっ、ご多忙ですか? ご多忙ですよね? じゃあいいです。
「えっ、そんなん絶対行くんだけど……」
絶対行くって。
「生の女子中学生と触れあいたい」
危ないおっさんみたいな動機でカリナが部活に来ることになった。
生徒たちは喜んだ。
めでたしめでたし。
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78話 逃れられない
しかしまわりこまれてしまった
ひきつづきよろしくおねがいします
「想像してみてほしい。『先生』っていう言葉は――エロいよね」
「君たちはまだ気づかないだろうけれど、ボクらの周りにはカップリングがあふれているんだ。ほら、窓の外。小鳥が木の枝にとまっているだろう? あの時点ですでに『木の枝が小鳥に組み敷かれてそれを手を出すこともできずに見てる木の葉』って感じだよね」
「ボクはデジタル派だけど、たまにアナログをやるのもいいと思ってるよ。ほら、アナログでいい絵描けたりするとさ……嫉妬するじゃん、デジタルのヤツ」
カリナ先生は様々なありがたいお言葉を中学生に聞かせて去って行った。
あと俺の趣味が『BL同人誌の制作指揮』であることをバラされた。
待って。趣味じゃないよ。
たぶん世界広しといえど、「先生、私たちのBL同人誌の制作も指揮してくださいよー」と女子中学生に言われた教師は俺だけではないだろうか。
やだよ。
まあさらりとBL同人誌描きであることをカミングアウトされる関係になれたのはよかったかもしれない。
俺は『威圧感のない、生徒と距離が近いタイプの教師』を目指している……カリナの来訪はその一点においては役立った気がする。他にいろんなものを犠牲にしてくれたような気もするが……。
さりげに部員を同人サークルに引き抜かれたりもしたので、カリナが奪っていったものは多いかもしれない。
かくして一学期の文芸部は『熱意ある行動をし、多大なる活動意欲が認められた』という評価になった。
大会とかはないから名門文芸部になりようがないので(やってることがガチ文芸だったら名門の道もあったが、ガチ文芸は第一文芸部の役割だ)、成果の出しようもなく、このまま細々と続いていくのだろう。
万一ぐらいにしかケガもない部活動なので責任者としては楽なのだが、カリナの来訪以来、『俺は沼の浅瀬で遊ぶ子供たちの背中を押して、腐臭のする沼にたたき落としてしまったのではないか?』という
カリナ関係でなぜ俺はこうもストレスを抱えることになるのだろう……?
寝ても覚めてもカリナのことばかり考えている気がする……
もう夏祭りも近いのに、きっとだらだらソシャゲ周回をしてるんだろうなとか――
さぼってることに罪の意識があって俺に怒られるのイヤだから連絡を絶ってるんだろうなとか――
ギリギリになって連絡してきて『今からでも間に合う制作スケジュールを組んでほしい。あと料理と掃除』とか言ってくるんだろうなとか――
カリナの秘書的立ち位置をキープしたのは誤りだったかもしれない。
そんなわけで夏には部活動をしたいという子もおらず(勝手にカリナのサークルに参加するため。俺が斡旋したみたくなってるので絶対に無理はさせるなと念を押した)、夏休みはもちろん通常業務はあるが、空き時間もそれなりに多くなった。
というわけで、少々中途半端なタイミングだが、俺は引っ越しをすることになる。
今住んでいる場所からそう離れていない場所に、やや広い家を借りるのだ。
いよいよ二人暮らしを始めるのだ。
この夏、俺はミリムと同棲を始める。
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79話 新しい我が家
ここがあの女のハウス
新生活よろしくお願いします
持ち家という手段は、二十年ほど前ならアリだったかもしれない。
うちの両親はその両親(つまり、俺にとっての祖父母)に頭金を出してもらって家を買った。
俺も『家を買うなら頭金ぐらいは出す』と言われてはいたが、相手が誰であろうと金銭的な借りを作りたくないので、それは辞退して借家とした。
幸いにも後見人である両親の身元がしっかりしていたので、スムーズにことは進む。
俺たちはかくして、とある低めのマンションの上層階にて二人暮らしを始めたのだった。
ベッド。
保冷庫。
室温調整機。
洗濯機。
魔導映像板。
テーブル。
椅子。
調理器具。
それから……
そろえるものが多すぎる。
ライフライン契約。
転居とどけ。
転居にともなう郵便物の配送とどけ。
転居にともなう免許の住所変更とどけ(俺ではなくミリムの)
転居にともなう……
転居にともないすぎ。
社会のシステムにはやはり『敵』の意図が見える。
おそらく『敵』はあまりコロコロ引っ越されるのがイヤで、だからわざと手続きを煩雑にしているに違いなかった。
闘争心を削るという方針から考えれば、『敵』は住所の固定化、すなわち身分の固定化を目指しているのだろうと考えられた。
住所というのは収入によって変わり、収入というのは身分によって変わる。
貴族制が廃されて久しいが、やはり貴族制の名残が息づいているのはそこらで感じる。もともといい家で生まれなかった者がチャンスをつかむのは大変だし、チャンスをつかんで立場をつかんだところで、それを維持するための苦労も多大なものになる。
どこを見ても『ジッとしてろ』という意図を感じるこの世界は、やはり『敵』が一枚噛んで、なにもかもを安定させようとしているのだろう。
ということは、『敵』は通俗的な『権力』を求め、保持せんとする者――なのだろうか?
引っ越しを通してまた一歩『敵』の正体に近づいたかもしれない。
なるほど政治の中枢――ちょっと前に父が『父さん、立候補しようか迷ってるんだ』と相談してきた時に、やめとけやめとけ、と忠告したのは間違っていなかったようだった。
いそがしい手続きまわりを終えて、それから家具をある程度そろえる。
結構な額の貯金が消し飛んでいて、やっぱり『敵』は引っ越しをさせないよう引っ越しにともなう労力を多めに設定しているのだろうと確信した。
「わたしも学校、休みでよかった」
俺たちは引っ越しのせいでクタクタだった。
大きなベッドに隣り合って寝転がり、家の天井を見る。
新居というわけではないけれど、目を閉じて寝転がっていると、かぎなれない家のにおいがした。
俺の右手に、ミリムの左手がふれる。
俺はその手を握って、なんだかぼんやりと考えていた。
そっか――
家に、女子大生いるんだ――
一歳差なので、ミリムはまだ大学に通っているのだった。
一歳差というだけで、なんにもやましいことはないんだけれど、『家に女子大生がいる』という響きには謎の魅力がある。
とりあえず俺の勤めている学校にはまだミリムとの同棲は言ってないんだが、これひょっとしたら無自覚に綱渡りしてるんじゃないか? と今さら思った。
まあ世間もそこまでゴシップ好きではないので、名門とはいえ新米教師が、一歳年下の結婚を前提におつきあいしている相手と同棲していたところで、とやかくは言われないだろう。
このあたりの『変なモラルへの警戒』はいつだかの前世が影響している。
たぶん俺が一番最初にいた世界だっただろうか? あそこには妙なマナーと妙なモラルと、それから『なんでもいいから人に説教したい人たち』があふれていた。
俺は転生の多くを歓迎していないけれど、一番最初だけは、『転生できてよかった』という感慨がある。最初に過ごしていた世界は安全ではあったけれど、妙な閉塞感が常にあって、そこから逃れたい気持ちでいっぱいだったのだ。
まあ――その後百万回も人生を歩まされると知っていれば、そんな気持ちは消し飛んでいただろうけれど。
……ああ、俺は、早く死にたい。
天寿をまっとうするという条件を満たして、さっさと、あとくされなく、死にたい。
そればかりを願い続けてきた。今もそれを願っている。『この次の人生』なんかほしくないし、なんども人生を繰り返してきたことには、暗い気持ちしか抱けない。
けれど、今、この瞬間だけは――
「この世界に生まれてよかったかもしれない」
心から、そうつぶやくことができた。
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80話 うたかたの
学生から大人、まだ大きくなる子をよろしくお願いします
「しかし、早めに孫の顔を見れそうだね」
誕生日の祝いかたには地域、文化が色濃く出るようだが、では俺の住まうあたりはどうかといえば、『誕生日は家族と祝う』のが主流である。
恋人がいる者は家に恋人を招いて両親と面通しをするのもまた伝統的なようで、その日、俺は実家にミリムをともなって戻り、俺の誕生日会をおこなっていた。
百万回の転生で誕生日など迎え飽きた俺ではあったが、それでも誕生した日を祝われるというのは嬉しいものだ。
なにせ『生きている』のである。
二十歳の誕生日は『ああ、二十年も生きたのか』と思っていたし、二十一歳の時も、二十二歳の時も、一年一年着実に『ゴール』へ向かっているのだという実感があり、それを『誕生日会』というかたちで祝われるのは、なかなか感慨深いものがあった。
そして二十三歳になったこの日、俺たちは結婚を目前に――とはいえまだ一年以上あるが――控えているため、自然と話題が『俺とミリムの家庭について』に及んだ。
孫。
正直なところ不意を突かれたと言える。
俺は全然まったく、子供というものを意識していなかった。
なにせ自分が生きていくだけで精一杯なのである。貯金はある。定職もある。技能もある。勉強もしてきた。しかし、『だから余裕だ』などと言えるほど、俺は人生というものを甘く見てはいないのだった。
絶対、なにか起こる。
状況が順調に推移していく時ほど、俺の警戒心はますます強まるばかりなのだ。今回の人生で『敵』が全然あからさまに行動を起こしていないあたりもまた、俺の警戒心を刺激する要素であった。
そんな人生不安定な俺が、扶養家族を増やすというのはいかにも高望みで、そんな無茶な賭けに出る可能性は、無意識下で却下していたぐらいだった。
しかし、世間体というものもある。
『結婚したら子供を作るもの』というのはひどく強固な暗黙のルールだった。
文化は変わり、新たな技術が次々生まれ、社会制度が変化し、貨幣が新しくなっても、連綿と受け継がれるルールなのである。
おそらくそれは、我々が生命体であるがゆえにかせられたルールなのだろう。
たいていの生命は絶滅しないように行動する。
それは個人の生命を長らえさせる方向ばかりではなく、種全体として絶えないように、行動していくものなのだ。
考えれば考えるほど『結婚』の次に『子供』を望まれるのは自明の理で、この可能性について考慮しなかったのは俺のケアレスミスと言えた。
そもそも俺の『結婚しよう』という着想の出発点が『養われたい』なので、子供というのは俺にとって同じ財布の中身を奪い合う敵たり得るのだ。作らなくてすむなら、それはもちろん、作らないほうが生きやすいに決まっていた。
だからこそ両親や社会に対して『子供ができない言い訳』を早い段階から考えておくべきだったのだが……ううむ、迂闊。俺は内心で冷や汗をかいた。
ちょっと論理的に物事を考えすぎていたかもしれない。
結婚と子供は論理的には結びついていないのだ。
けれど社会のみんなは望む。
……まあ、そのへんにある明文化しがたい『ズレ』を認識できただけでも、よしとしよう。ポジティブにものを考えなければ長生きはできない。
とりあえず――『先送り』しよう。
俺は両親に対しあいまいな笑みを浮かべて述べる。
まあそのへんの話は、まだ早いって。俺もミリムもまだ籍を入れてはいないわけだしさ。
両親は「それもそうか」と笑った。よし、うまくいった。この先もどんどん先送りして、両親があきらめ、社会がなにも言わなくなるまで先送りを続けよう。
天寿をまっとうするその日まで先送りし続けられれば俺の勝ちなのだ。答えを急ぐ必要はない。
だがここで隣席のミリムから、こんな発言があった。
「レックスはあんまり子供好きじゃない?」
えっ?
いやっ……好きか嫌いかで言えば……まあ、好きかな……
正直に告白すれば、俺は『子供』という存在自体は好きなのだった。
中学校教師という立場であるから、そのように自分を最適化しているだけかもしれないが、子供の元気さと騒がしさは嫌いではないし、言うことをきかないような、世間において『生意気』のレッテルを貼られている子供を見たって、興味深く、またおもしろく思っている。
中学ぐらいの子供はまあ大きいから、どんな行動にも『子供なりの思考』があるのだ。
彼ら彼女らの思考は興味深く、それを解き明かしていくことに楽しさを覚えもしている。
そこまで大きくなくともやはり俺は『子供』を好ましく思う。
というか、俺は百万回転生しているので、生まれた時点から常に『年下の子供』に囲まれているも同然の人生を送ってきた。
子供に対し嫌悪があれば、とうてい耐えきれるものではなかっただろう。
ただ、俺は将来的に『家事だけしてミリムの稼ぎで生きていく』という目標を捨てていないので、やはり『ミリムの稼ぎ』というパイを食い合う敵対者を増やしたくないというのも、また否定できない本音ではあった。
「レックスがなにを考えてるか、わかるよ」
ミリムはかすかにほほえんで言った。
「でも、わたしはいつまでも働けないよ。だって歳をとるから」
すげーな、『子供、好きか嫌いかで言えば、まあ好きかな』しか発言してないのに、なんで俺のモノローグが聞こえてたみたいに会話できるんだ……
まあミリムにはかつて、俺の将来の夢が『ヒモ』であることを幾度となく語ったし、そのために女性心理についてのアドバイスを求めたりもした。
俺たちのあいだには歴史があり、ミリムと俺の会話は互いに共通のハイコンテクストのうえに成り立っているところがある。
「子供は……わたしより長く働くよ」
なるほど、『子供に養ってもらう』という方針か。
それはわかる……だが、それは、賭けだ。子供が親の要望に完璧に応じる義務はなく、また、俺はどうしたって子供をそんな奴隷とか将来の外付け定期収入みたいに扱うことはできそうもない。なぜって、好きだから、子供。
もちろん関係が良好なら、こうして一緒に食事をしたり、将来に色々世話をやいてもらったりも可能だろう。
……だが、それはあまりにも、ギャンブル性が強すぎる。なぜなら子供の人格や俺たちとの関係がどうなるかなんて、どれほど考えても読みようがないからだ。
俺としてはある年齢まで多めに貯金をして、その貯金を切り崩しながら死んでいくというプランを立てていた。
しかし『子供』に投資をするならばどうしたって貯金額は目減りする……事前に調査したデータがあるが、子供というのを大学まで進ませようと思うと、俺の年収にして軽く十年分ぐらいが飛んでいくのだ。
もちろん教育および生活の水準を下げればもっと節約できるだろうが……それでも多大な額が子供の養育に消えていくのは否めない。
だから俺はその賭けには乗れない……
思ったこと全部こめて『賭けがすぎる』とだけ俺はミリムに言った。
「でも、幸せになれるよ」
幸せ。
そう言われて、俺は反論する言葉をもたなかった。
なにせ俺は幸せをよく知らない。百万回の転生で『幸せのような幻』を見せられたことは幾度もあった。だがそれは
今回の人生もきっとそうなのだろうという覚悟はしている。
覚悟はしているが――
なぜだろう。
『この人生では、本当の幸せを得られるんじゃないか?』という可能性を、あきらめきれない。
たぶん、幸せという言葉を口にしているミリムのほうにも、根拠はないのだろう。
俺と同じだ。
俺と同じで――なんとなく、俺たちは幸せになれるのだという可能性を、感じているのだ。
そうかもな、としか、俺は言えなかった。
「そうだよ」とミリムはうなずいた。
俺たちはこうして『子供』を意識し始めた。
うなずきあう俺とミリムの正面で、両親が『この二人はなんでこれだけの言葉でわかりあった感じを出してるんだろう』みたいな顔をしていた……
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81話 贈る言葉
いろんな人が大きくなっていくのもお楽しみください
『高校生活はどうだったのか?』と聞かれることが増えた。
卒業が間近なのだった。三年生たちが高校に進む日が近づいているのだった。
進学というのはどうしたって『慣れた環境を飛び出し新しい環境に身を置く』ことになる。それに不安を感じるのは自然なことで、そして、不安というのはできれば解消したいものだということも、想像にかたくない。
しかし卒業を控えたアレックスから高校生活について聞かれて、俺は答えるべき言葉を全然持たなかった。
不安……
不安……?
……高校生活の前に抱いていたであろう不安が、全然思い出せない!
抱いていないはずがないのだ。
俺は百万回転生してきた――換言すれば百万回死んできた。世界には『敵』がいるという認識を持ち、その『敵』どもはいつかきっと俺の命を奪うという確信をもって生きてきた。
この俺が不安を抱いていないはずがない。
俺は必死に思い出そうとした。不安なこと、不安なこと……しかし俺の中学生活はすでにもう十年ほど前のことである。
えっ、マジで……? 十年って早くない? まあ入学から十年とはいえ卒業してからはまだ十年経っていないものの、この調子だと、主観的にはあっというまに十年、二十年と経っていきそうな気がした。
喜ばしい。
この調子であっというまになんの波乱もなく天寿をまっとうし、『ああ、人生あっというまだったな』と思いながら死ねたなら最高だ。
しかし同時に不安も感じた。
それはもちろん『敵』にまつわることで、『十年という期間をあっというまだと感じるのは、なんらかの洗脳をほどこされているのではないか?』ということだった。
十年。
これは無視できない長さのはずだった。毎日を命の危険におびえながらすごしてきた俺にとっては、目を閉じれば繊細に思い起こせる日々の、はずだった。
だというのに記憶の中の十年前はやたらあやふやで、ちょっと大きめのトピックスが、時系列順でさえなく、ぽつぽつ思い浮かぶだけだ。
これはおかしい――俺は記憶力がいいほうだ。というよりも、『よくない記憶力を必死の努力でおぎなっている』と言ったほうが正しい。
たしかに、かつて情報端末として生きた時に比べ、この肉体は『記憶する』という行為に不向きだが、それにしたって、印象深くあったはずの中学時代のことをさっぱり思い出せないとか、そんなことはありえないだろう。
今も、見られている。
俺は久々に緊張を思い出した――『敵』はそこかしこにいる。俺の日常にまじって、俺を都合のいい存在に作り替えようとしている。
それにあらがうには、やはり、自覚的に生きていくしかないのだろう。
……そうだな。
俺は、卒業していくアレックスに対し語る、『高校で注意すべきこと』を決める。
アレックス――
お前を見ているモノがいる。
それに、気をつけろ。
「えっ? ど、どういうこと?」
詳しくは言えない。だが、お前は、見られている。お前だけではない、すべての人類が、見られているのかもしれない。
そいつらはお前の行動一つ一つをうかがっているし、お前が目立った行動をとれば、すぐにその魔手をのばしてくるだろう。
だから――とがめられない生き方をしろ。
内心でなにを思ってもいい。ただ、外面だけは、恭順したように生きるんだ。
おおっぴらに逆らわず、品行方正に、優秀に、従順に生きるんだ。
そうすればきっと……
いや、希望的観測は避けよう。
とにかく――アレックスよ。
お前は、見られている。
いつも、どんな時も……
「わ、わかりました……勉強とかがんばります……」
そうだそれでいい。
お前が優秀である限り、どのような『敵』も、お前には手を出せない。
真の自由を手にする日まで、どうか、優秀で、従順であれ。
ただし、心の中までは屈するな。
「なんか難しい話ッスね。でも、今の言葉、先生みたいでした」
俺はたしかに先生なので先生みたいなのは当たり前なのだが、今のは個人的なアドバイスっていうか、うーん……
なにかがかみ合っていない感じがする。
微妙な消化不良感を残したままだが、アレックスたちは卒業していく。
妙に寂しさを感じる。
彼らの多くは同じ学園内の高等科に進むだけだというのに、胸にじわりと広がるこの感覚は、無視できないぐらいに強かった。
……これはちょっと、心構えをしなおす必要がありそうだ。
だって担任を受け持ったわけでもないアレックスたちの卒業に、俺はけっこう心を揺さぶられている。
俺は来年度から担当クラスを持つことになるのだが――
その受け持った子たちの卒業に、俺の心は耐えられるのか?
心というものが全然ロジカルではなく、理性をたやすく凌駕するものであるということをもう一度勘定に入れて、『担任になる』ということを考えるべき、なのかもしれない。
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82話 重なる心
誰もわかってくれない悩みを抱えた主人公をよろしくお願いします
世間にはいくらか規制された情報がある。
俺は情報収集をおこたらない。しかし調べられることには限界があって、たいていの場合、一番知りたいことほど秘匿されている。
たとえば――年収とか。
俺はあらゆる職業の年収を知りたかった。そして業務実態を知りたかった。もっともコストパフォーマンスの高い職業に就きたかったのだ。
もちろん俺の第一目標は『ヒモ』であった。
だから俺は俺の年収よりも、むしろパートナーの年収を上げていきたかった。
そこでミリムが就職するにあたり、俺は、俺自身の就職よりも熱を入れて、あらゆる情報の収集にあたったのである。
しかし――わからない。
もちろん就職情報サイトなんかはあって、そこには年代別の年収一覧がのっていたりする。
けれど情報を収集していくとどうにもキナ臭い感じがあるというか、情報サイトにのっている年収は、賃貸サイトに乗っている『駅から徒歩なん分』みたいな、そういう程度の正確性しかない様子なのであった。
人は早足で歩き続けることはできない。
そりゃあ、必死にがんばって働き続ければもうけは出るのだろう。しかしがんばり続けると疲れる。疲れれば充分なパフォーマンスを発揮できない。
だから俺は『手を抜いて長く続けられ、なおかつもうけが出やすい仕事』を知りたかった。……しかしそんな細かい情報まで知ることはできなくて、けっきょくのところ、ミリムの就職先は、ミリムの意思に任せるしかなかったのである。
だからミリムが出版社勤めをすると決めた時、俺は、反対する言葉を持たなかった。
いや、反対はした。出版社のことは漫画家になったカリナから聞いている。
出版社はおかしな空間だ。みな過労死寸前でヘトヘトになりながら働き、どうにもそれが常態化している様子さえあった。
もちろん会社の大きさや、部署の予算にもよるのだろうが、カリナのいる場所は常に少ない人手で回っており、作家も編集者も心身の限界に常に挑み続けているのだというし、カリナの作家ネットワークで回ってくる情報では、どこも同じような状況だという話だった。
俺の目的は『長生き』である。
そして俺の最終目標が専業主夫であり、妻の稼ぎで暮らしていくことであるならば、当然、妻にも長生きしてほしい。
しかし出版業界はどうにも『細く長く』とは真逆の業界だった。
みんな綺羅星になりたがっている。燃え尽きることに血道をあげているような、業界全体で全力疾走する流星群みたいな業界なのだ。
「わたしは中途半端なのが苦手」
やめておいたほうが……と、代案の出せない都合上、強くは言えない俺に対し、ミリムは断固とした口調で言った。
「半端にひまだと、なんか、やだし……半端にいそがしいのも、なんか、無理。わたしは、いそがしすぎるか、なんにもしないか、どっちかがいい」
ここで『じゃあ二人でヒモをやろう』と言えたらどんなによかったか。
『二人でヒモ』は画期的アイデアだった。俺の理想だった。……けれど、俺かミリム、どちらかしか、ヒモにはなれない……
俺は油田を欲していた。
いや、油田というのはしばらく前の人生で価値があったもので、この人生においては『努力をせずにいくらでも富がわき出てくる私有資源』という意味で、俺は『油田』という言葉を出す癖があった。
なにかないものか……俺たちが働かず、俺たちを養ってくれる、なにかが……
そうだ、カリナだ。カリナに俺たちを養ってもらおう。俺がカリナの秘書として稼ぐ。その稼ぎで……
「レックス……それは、できないよ」
どうしてだ。カリナは今のぼり調子だ。うまくすれば……いや、俺があいつの健康管理と制作指揮をおこなって、うまくやってみせる。だから……
「だって……カリナさんに、わたしたちの生活を支える、義理がないから……」
……たしかにそんな義理はなかった。
カリナの秘書として俺がもらっている収入は『焼き肉をおごってもらう』ぐらいなのだ。
そのぶんを金銭でもらったとしても、俺とミリムが生きていくぶんには足りない。カリナは……俺たちの『油田』にはならなかった……
「あと、人を『油田』扱いは普通に失礼だと思う」
すげーな、その通りだわ……
俺はちょっと錯乱していた。ミリムの前で幾度か『油田』という言葉を使っていたのだろう、ミリムは俺の言う『油田』のニュアンスを細かくとらえていた。
たしかに人に使う言葉ではない……俺は心の中でカリナに謝った。でも本当は養ってほしい。
それにしたってなにも、出版業界という『死ぬほどいそがしいことがすでにわかっている世界』に飛び込むことはないはずだ。
お前なら……お前なら……なんだろう、その、スポーツとか得意じゃなかったっけ?
「レックス、わたしたちが今から、なるべく労力少なくもうけるには、どうしたらいいと思う?」
その話題について俺はいくらでも考えていたので、サッと答えることができた。
まずは宝くじだ。これが当たればだいたいの金銭的憂慮は吹き飛ぶ。
次に株だ。宝くじよりだいぶんギャンブル性が強くなるものの、チャンスさえつかめればもうかると聞く。
だが……俺はこれら手段をとろうとは、一考さえしていなかった。
これらはあまりにも『運』の要素が強すぎるのだ。
そして俺は、自分の運勢を全然信用していない。……今は、大過なくすごしている。だが、俺の不運はいつ俺に牙を剥くかわからない。
だからこそ、俺は『運』の振り幅がなるべく少なくてすむような人生設計をしている。
まあ、宝くじぐらいは仕事をしながらでも買えるので試してみてもいいかもしれないが、『どうせ当たらない』と思いつつ買うくじほどむなしいものはない。
「そう、だから……わたしは、本を書くべきだと思っている」
本。
「本は、大ヒットすれば大きいし、ヒットしなくても、出版さえできれば、ある程度の収入になる。もしもうまくいって専業作家になることができたら……ずっと、家で、いっしょ」
それは俺になかった視点だった。
なるほど、本! たしかに最近は兼業作家も多いと聞く。そういった人たちは本業のかたわら本を出しているから、きっと出版のもうけはまるまる貯金にできているはずだ。
「出版社つとめで、イヤでも本を読むことになるから、勉強もできる……レックス、わたしも……なるべくなら、働かないで、ずっといっしょに、ぼんやりしてたい。だから、そのために、出版社でがんばる」
俺は頭にガツンと強い一撃を受けたかのような心地だった。
ミリムだって考えていたんだ。そして――ミリムもまた、『働きたくない者』だったのだ。
そうだ、俺たちは今までどうすごしてきた? ぼんやりしてきた。二人で一緒に、なにをするでもなくすごしてきた。
俺たちは――ぼんやりするのが、大好きだ。
ああ……俺は今、感動に打ち震えている。
俺たちは同じ志を持っていた。ずっと同じ志を持ち続けていたんだ。アプローチの方法こそ違うが、俺もミリムも、『運に頼りすぎることなく、自活しつつ、働きたくない』という同一の意思を持っていたんだ。
俺たちは働かないために働く。
結婚前に、俺たちは、二人の心が一緒だということを再確認しあった。
俺たちはどちらからともなく抱きしめあい、「働きたくないよね」「ああ」と不労の意思をたしかめあった。
俺たちの心は一つだった。ミリム……一緒に、働かないですむ人生を目指そう。
俺たちはアーリーリタイアを目指している。
ミリムの不労のための就職一年目が、そして俺の就職二年目が、始まろうとしていた……
今日は猫の日です
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83話 酒と起業と思い出話
この世から労働が消え去る日を願って
引き続きよろしくお願いします
「俺、起業しようかと思ってるんだ」
がんばれ。
それじゃ。
「聞けよぉ~!」
酔っ払いにからまれている。
その酔っ払いの名を『マーティン』と言って、最近では会えば愚痴、会わなくても愚痴、毎夜ごとに通信端末に『なあ、生きる意味ってなんだと思う?』と送ってくる男だ。
昨今は本気でお疲れのようで、だんだん発言の意味がわからなくなっていくので、俺はなん度も『転職しろ』とすすめているのだが、これが不思議なもので、『辞めてやる!』とかいくらでも言うが、実際に転職する気はゼロのようだった。
「お前、転職はめっちゃすすめてくるのに、なんで起業って言ったとたんそんなに冷たいんだよ!」
酔っ払いは酒のおかわりを所望したが、俺はそれをキャンセルし、熱いお茶を二人分頼んだ。
俺たちには酔い覚ましが必要だった。
というか俺はマーティンに『あと二年しか一緒には飲めないと思う』と言ったことを後悔していた。
だってミリムとの同居はとっくに始まっているのだ。『二年』とか口をすべらせずに『今年いっぱい』ぐらいに限定しておけばよかったと、わりと本気で思っている……
マーティンというのは話しててつまらない男ではなかった。
が、仕事が彼を追い詰めるあまり、最近は精神にまったく余裕がなく、話題は『会社の愚痴』しかなく、しかも聞き手である俺のことを考えない話しぶりと、いつまでもいつまでも居酒屋に居座ろうとするタチの悪さも備えており、まあなんか色々ダメ。
俺は言う――起業はいいと思う。でも、そもそもなにを扱いたいのか、それをなぜ扱いたいのか、理論というか、『起業』に対するパッションを感じない。起業が目的になってしまっている感じが非常にダメ。
「淡々と言うなよ! もっとこう……ああ、いや。いや、そうだ。お前がそういうヤツだから、俺もこうやって色々言える……ここで『やっちまいましょうよ!』みたいなこと言われたら、上司にこの場で退職を言いそうだ」
マーティンはじゃっかんの冷静さを取り戻したようだった。
「いや、わかってんだよ。でもさ、今の職場、たしかに給料は……うん、まあ、なに? 他の同業他社に比べて? 給料は……うーん、でも残業代出ないし……まあ、給料はギリギリ? いいのかな?」
知らないよ。
お前の年収と勤務時間を教えろ。
そこでマーティンの口から語られたのは驚愕すべき数字であった。嘘……お前の給料(時間割で計算すると)安すぎ……?
俺は普通に法律の手にゆだねることをすすめた。なんなら俺がキープしてる弁護士を紹介してもいい。
「えっ、なんでお前弁護士とかキープしてるの?」
人はゼネラリストにはなれないからな。
俺は、今の職業に就くために様々なリサーチをし、様々な技能を修得し、様々な勉強をした。
人の時間は有限だ。だから、俺の法知識は、俺が教師になるために費やしたのと同じぐらいの時間を法律の勉強に費やしたやつには、絶対に勝てない。
だが法というのは生きていればかかわることがある……そしてアレは弱者の味方ではない。より法を知っている者の味方だ。
よって俺は法を味方につけるためにコネをつないでいるのだった。
「はー……レックス、ほんと、レックス」
俺は俺の主張に論理的整合性があると確信しているのだが、どうにも他者にとって『行き着かない結論』に達してしまうことがままあるようだった。
そういう時に『ほんとレックスだよね』みたいに言われることが、今思い返すと、あった気がする。
おそらく、俺の知らないなんらかのロジックが世の中にはあるのだろう。
「知らないロジックがあるとかじゃなくて、お前はいつでも考えすぎなんだよ。もっとなに? パトスをもって生きようぜ」
しかし俺の理想は情熱やら熱意やらに頼らずとも『なんとなく』生きていけるような人生だからな……
普通のことが、普通に起こる、そういう暮らしが俺の理想だ。
やる気なんか出さないで生きていけるほうがいいに決まっている。しかし人生はそうもいかないから、俺はきっと『考えすぎ』るのだろう。
「相変わらず宇宙人してるよなー。……実を言うとさ、俺、ずっとお前のことこわかったんだぜ」
保育所からのつきあいなのに?
「保育所とか幼稚舎はまあ、お前のこわさがわからなかったけど、初等科でぼんやり感じて、中等科ぐらいで確信した。お前はこわい。なんて言うんだろ……うまく言えないけど、マジでやばいと思う」
そこはうまく言ってほしい。
俺は、世間から異常だと思われることをおそれている。世間は『自分と違うもの』に厳しい……俺が理想とするのは敵を作らない生き方だ。だからなるべく一般的な二十三歳でありたい。そのために努力もしている。
「そのために努力してるようなヤツは『一般的』にはなれないと思うけどな……あー……そうだよなー。これこれ。これなんだよ。お前を見てるとだいたいの問題は『あ、ちっぽけだな』って思う。お前と飲むのはやめらんねーな」
マーティンは一人で納得して、勝手に帰る準備を始めてしまった。
俺は彼を引き留めた。まあ待てよ。あらいざらい吐いてもらおう。俺のこと……俺がお前からどう見えているのかを……
俺はマーティンが一人でなにもかもわかったような顔をしてスッキリしながら帰って行くのがどうしても許せなかったのだった。
「……俺明日も仕事……まあいいか。わかった。今日は俺がお前に付き合う。普段はお前が俺に付き合ってるからな。そうだな、まずはなにから話そうか……『初等科の子供が、たった一人でクラスの半数とケンカして勝つのはマズイ』っていうところからかな……」
――それは俺たちの初めてのケンカの話。
初等科一年生で『女と遊ぶなんかダッセーよなー!』という風潮が広がった日、俺たちの力関係がなんとなく決まった時の物語だった……
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84話 神と悟り
みんな健やかでいてほしい
引き続きよろしくお願いします
俺たちはどれほど進化しようとも『神』を捨てることができない。
もちろん定義の話はある。『神』をなにとするか――これはきっと議論すべきことではあるのだろう。
俺の場合は『意味のわからない、不都合なもの』を『神』と呼んでしまうクセがあって、今回その存在を感じた『神』もまた、そのようなものだった。
「結婚式はなるべく派手にやりたいわね」
このセリフの発言者がミリムであるなら『へえ、意外だな』と感心しつつ、滅多に自分の意見を言わない彼女の主張を尊重するのになんの迷いもなかっただろう。
ところがこの発言をしたのは俺のママで、そこがちょっとよくわからない。
さらに言えば俺とミリムのあいだではすでに『まあ区切り的なものは必要だし、簡単にすませられればいいよね』みたいな話になっていた背景もあり、俺たちは『おいおいおい』と思った。
しかしここは実家であった。
休みの日はたまに俺の実家やミリムの実家に顔を出すのが習慣となっている。
もちろん婚前には色々相談もあるのでその都合もあるのだが、実家というのは両親にとって有利な補正が入る地形であり、ここでの我が母の押しの強さは、外のおおよそ三倍ほどはあった。
ちなみに平均的な人類の押しの強さを『十』とすると、うちのママはそもそも『三十』ぐらいあるので、俺とミリムはたじたじになり、テーブルに身を乗り出すママの主張を聞くよりほかにないのであった。
「人をたくさん呼びましょう。資金は出します。私が働いていた時にためてたお金がそのままあるから」
金がかからないならいいか、という話でもない。
労力はかかるし、俺的には、俺たちに使える金があるなら『結婚式』なんていうものに使わずに、もっと実利的なことに使ってほしいというのが本音だった。
ミリムもまた俺と似たことを考えているのだろう。
彼女のしっぽが、腰の後ろで困惑を表している。
「あなたたち、わかっていないようね。結婚式はね……大事よ」
大事。
まあそりゃあ大事だろう……しかし俺はうったえる。ママ、そんなところに使うお金があるなら、もっとこう、実利のある方向に使ってほしい。たとえば……たとえばまあ、なんだ、急な病気とかそういうアレに。
「レックス、あなたはお父さんとよく似ているからそういうことを言うけれど、あなたたちは『結婚式って大事』という言葉の意味を理解していないのよ」
うぐう……俺はうなった。
この言い回し、完全に俺を説得しに来ている。
俺たち理屈勢は、『意味を理解していない』と言われたら、もう説明を聞く体勢になってしまう。俺が感情論と勢いだけでは説得されないことを知っている者の言い回しだ。
今のママには神が宿っていた。つよい。あまりにつよい。まだ具体的な説得をなにもされていないのに、このまま押し切られる予感がひしひしとする。
「結婚式の規模は今後の人生を決めるのよ。あなたには具体的に言うけれど、実はパパと離婚を考えた時があって」
………………えっ、マジで?
今明かされる衝撃の事実だった。
俺の目からは『こんなにラブラブな夫婦が実在するのか』とほとんど珍獣みたいなカテゴリで扱われていた両親が、なんと離婚の危機を迎えたことがあったのだという。
「ほら、パパが教師をやめて塾経営を始めた時があったでしょう?」
あー……
たしかに、教師としてそこそこ安定した収入を得ていたはずなのに、それを捨てて新しい仕事を始めるというのは、離婚原因になりかねないことだった。
「パパに塾経営をそそのかしたのが、マーティンくんのお母さんで……『どうして私以外の女の助言で人生を変えようとするの?』って思ってね」
……。
続けて。
「もうマーティンくんのお母さんと結婚すればいいじゃない! って思ってね。別れようと思ったの。だって……いやでしょう? 私がいるのに、そんな、ねえ。三割ぐらい浮気じゃない?」
それが三割浮気になるのか、そもそも『三割浮気』とはなんなのか、疑問はつきないが……
隣でミリムが激しく同意しているので、気をつけようと思った。
「そんな時にね、結婚式を録画したものを、二人で見返したのよ。……そうしたら当時の感動がよみがえってきてね……パパも最初、規模が小さめの結婚式をやろうとしていたんだけれど、規模が小さい結婚式とか、あとから見返しても感動が薄めでしょう? だからひょっとしたら、結婚式の規模が小さかったら、あの時、感動が弱くて別れてたかなって思って――」
その後もママの話は続いたが、俺には理解できなかった。
「――あと、親戚ね。結婚式の規模が小さいと親族になめられるのよね……ほら、旦那の家族の中での立ち位置って大事でしょう? 旦那の家族っていうか、旦那の家族に嫁いだお嫁さんたちの中でのランキングっていうか……低いとストレスがたまるのよ」
そっちのリアルな話はなんとなくわかった。
ママの話はその後もとりとめもなく続く。
なんていうか、主題が……主題がふらふらしている。
彼女の話は『結婚式派手にして』という感情を軸に展開されていて、論理的にこちらを説得にかかっているというよりは、結婚式を派手めにしたメリット(とママが感じる事象)をとりとめもなく列挙しているだけのように思われた。
その列挙されるメリットの数があまりに膨大で、さらに話が全然終わらないこともあり、俺はもう長いこと「ああ」「うん」「はい」しか言えなくなっていた。
隣で熱心に聞いてるミリムはすげえや。
「というわけなのよ。あとね」
もうそろそろ夕ご飯を食べて家に帰りたい俺は、ついに『わかったよ。結婚式は派手めにするよ』と約束をしてしまった。
ママは喜び、なぜか質素婚希望だったはずのミリムまで喜ぶ。
帰ってきたパパは俺の肩を叩いて言う。
「これが結婚生活だよ」
メガネの奥で笑うその人の顔には、悟りを開いた者特有の穏やかさがあった。
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85話 レックス先生の相談室
普通の人生で……長生きして……そう思っていた時期もある主人公の今後をよろしくお願いします
「レックスさ……レックス先生、担任と顧問を両方受け持っていらっしゃいますけど、きつくないですか?」
同期にそんなことを言われた俺は、まず『名字で呼べ』と思った。
しかし今に始まったことじゃなかった。同期の連中はなぜか俺のことを『名前』『さん』で呼ぶ。しかもおどおどしながら呼ぶ。
そのおびえた感じには覚えがあった――あれはそう、俺が剣闘士と呼ばれる職業に就いていた人生の話だ。猛獣と同じ檻に入れられた闘士が、猛獣に向ける顔が、こんなものだった気がする。
その表情の意味をくわしくたずねたくもあるのだが……
ここで『その前になんで俺のこと名前で呼ぶの? あとその顔なに?』という『質問に対し質問をかぶせる』行為が相手の心証をそこねることを知っていたので、まずは相手の疑問の解消につとめることにした。
きついかどうか。
どうだろう、きついと思ったことはない。
ある独裁国家の宰相をつとめた時などは、比喩ではなく書類が山のようにテーブルにあったものだし、必要な指示を部下にする時も心証を損ねたら普通に殺されるようなギスギスした空気があったし、もちろん上司である独裁者の機嫌を損ねればそっちでも死ぬ。
『死』と『死』のあいだで書類仕事をしていたあの時期を思い返してしまえば、この程度の事務と実務量では死なないことがわかるので、許容範囲だ。俺、定時には帰るし。
だが、この世界の基準で考えてみよう。
以前に調査したデータによれば、教師という仕事の評判の悪さの一因には、たしかに『激務』というものがあった。
教師だけではないような気がするのだが、この世界では『昇進すればするほど業務が増える』というおかしなシステムが存在している。
担任と部活顧問をやっている俺は実務時間も当然長いのだが、それに加えて事務処理すべき仕事も増えていて、結果として『時間がない』『帰れない』という事態が発生する。まあ俺は帰るけど。
『仕事を持ち帰れない』というのも『帰れない』事態に拍車をかけている。
守秘義務的観点から持って帰っちゃいけないデータがあるのは理解できるのだが、いかにも過敏にすぎて、大したことのないデータまで持って帰ってはいけないというような状況になっている気がする。
まあ俺は帰ってまで仕事をする気がないので関係ないけど……
……ひょっとして、きついのか、今の仕事?
えっ、困る……どう答えるのが正解なんだ……?
俺は悩んだ。主観的には普通に定時で帰ってるしきついという感覚もないんだけれど、俺は世間から浮くことを嫌っている。
初等科入学から『目立たない』を標語にし続けてはや十八年だ。『目立たない』ためには周囲と意見をそろえる必要がある。
しかし『きつくないですか?』という問いかけが『私はきついんですけど』なのか『あなたの仕事量は多そうだけど、あなたはきつくないですか?(私と同じとか違うとかはどうでもいい)』なのか、わからない。
だから俺はたずねた。
逆にどう思います?
「……えっ、逆に? 逆、逆かあ……レックス先生の書類さばきは余波で風が起こるレベルですけど、私はちょっと、最近、残業気味ですね」
『私はきついけどあなたはどう?』の問いかけだった。
確認は大事だ――俺は『私もきつい』という方向で意見を偽装することにする。
私の事務処理早そうに思えるかもしれませんけどね、工夫してるんですよ。
私も仕事大変だなーって思って、ちょっと考えてみたんですね。
「あ、コツとかあるんですか?」
はい。まずは必要な数字を全部覚えます。
「えっ?」
各種データを暗記してしまえば、いちいち参照する手間がなくなるでしょう? 受験と同じですよ。やったでしょ、受験。
「えっ、はっ、はあ、そうですね」
あと今ね、アナログでやらされる仕事多いでしょ?
直属の上司である校長先生に言ってもなんにもならないんで、こないだ理事長にかけあいまして、もうちょっとデジタルで仕事ができるように環境整えてもらおうって話にしてます。
「……はあ、なるほど……」
私は長生きしたいので、仕事の手間とストレスを減らすのは最優先事項ですからね。
そちらも仕事のために仕事してるわけじゃないでしょ? 不要なストレスだと感じたらなにをおいても減らすべきだと思うんですよね……
こんな感じで、先生もやってみてはいかがでしょうか?
俺は誠心誠意のアドバイスをした。
敵の少ない人生を志しているのだ。可能なら『誰ともかかわらない』≒『敵や味方を作る機会を得ない』のが理想ではあるのだけれど、かかわった以上は最低限悪い印象を残さないよう努力せねばならない。
そのために『提案』形式で『より楽できそうな方向性』を提示した。
同期・同格の相手から命令形式でものを言われたり、また『俺はやった。お前は勝手にしろ』みたいに突き放されると印象が悪いので、気を配ったのだ。
先生はしばし黙りこくった。
そうして、意を決したように口を開く。
「レックス先生……あの、実は私、高校の時、ずっとあなたと同じクラスだったんですけど」
知ってますよ。
「ずっと先生のこと、誤解してたみたいです」
誤解?
「はい。先生のこと、『レックスさん』と思ってましたけど……思った以上にレックスさんでした……では私、授業があるので。相談にのっていただいてありがとうございました!」
同期の女性教師は一礼して去って行った。
俺は書類仕事の手を止めて、ぼんやり彼女の後ろ姿を見送る。
……え?
レックスさんと思ってたけど思った以上にレックスさんでしたってどういうこと?
レックスさんって……なに?
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86話 やすらかなる婚前準備
レックスさんはもうレックスさんです
引き続きレックスさんをよろしくお願いします
どうして人は競争しなければならないのだろうか?
「誰に招待状送ろうか?」
結婚式である。
式場を見に行ったり算段をしたりしているうちに季節はもうすっかり秋をすぎようとしており、学園への通り道にも葉を枯らした木がチラホラと見えるようになっていた。
結婚式までもうあと半年とないこの時期、俺たちはいよいよ具体的に式の全貌を描かざるを得ないタイミングを迎えていた。
段取り、そして招待客。
客の数は新郎新婦でそろえるのがのぞましいらしい。
つまり新郎vs新婦のコミュ力の総決算みたいなものが開催されるのだ。
ここで相手よりも招待客が少ないと、それは今後の結婚生活に長くかかわってくるらしい――具体的には『招待客の数』というよりも『ご祝儀の金額』なのだが、資本を重要視するこの社会では、結婚まで『いかに他者より稼げるか』というマネーゲームと化すのだ。
俺とミリムのあいだにそんなつまらないいさかいは発生しない――そう、現時点の俺は思っている。
だが、今後ミリムのヒモになるからには、結婚式ぐらいは稼いでおくべきだろう。
俺はそういうわけで、自分が呼びたいと思うような人をピックアップしていった。
祖父母で四人。
もちろん両親。
マーティン。
カリナとサークルのメンバー。
生徒……生徒はアリか? うーん、クラスの連中? いやさすがに……まあ文芸部の子らぐらいは呼んでもいいのかな?
あとシーラも俺の顧問弁護士みたいなところがあるので、都合がつけば来てもらおう。
共通の知り合いではもちろんアンナさんも呼ぶ。
こうして考えていても、誰か一人二人忘れているだろうから、またなん度かカウントしなおそう。
なぜだろう、絶対忘れるんだよな……いや、忘れていないのかもしれないけれど、忘れてるっていう強迫観念にかられるんだ。
あっ上司……上司か……うーん、まあ一応呼ぶか。正直プライベートでのつきあいがなさすぎて微妙な感じだけど、今から式までに『こいつにご祝儀払うのは仕方ないな』ぐらいまで好感度を上げておこう。
こうして『結婚式に呼ぶような相手』をカウントしていくと、意外な多さにおどろく。
「……なんか、多いね」
テーブルを挟んで自分側の招待客を選んでいたミリムも、予想外に多かったらしい。
俺たちは互いを見て笑う。
互いに発表した招待客の人数は奇しくもぴったりで、ミリムの親戚はだいぶ遠方からも来てくれるようで、俺たちはかかわる人数の膨大さにあらためて『結婚式ってすげーな』という感想を抱いた。
準備ははっきり言って大変で、よくわからないところに金が流れていくのはちょっとモヤッとしないでもなかったが、まあこうして計画を練る時間は悪くないと思った。
「すごい。なんにもない」
ミリムはそんなことをつぶやいた。
主語の明確でないその言葉は、きっといろんな意味をはらんだものだったのだろう。
問題がなにもない。
事件もなにもない。
大過なく、日々がすぎていく。
ふと俺は弛緩している自分に気づく。
張り詰め続けて生きてきたとは言えない。そんなことは不可能だとわかっていたから、ある程度警戒する対象を選別し、それ以外ではリラックスをたもつように生きてきた。
それでも心の底では、世界に、『敵』に対する警戒を抱き続け、いつ窮地におちいっても一瞬で心を臨戦状態にできるよう己を戒めてきたはずだ。
だというのに、結婚式の準備をしている俺は、心の底から弛緩していた。
これではいけない。この弛緩は『敵』の罠かもしれない――そうやって自分を叱咤してもゆるんだ心が引き締まることはなかった。
どことなくぼんやりしたまま日々がすぎていく。授業にも部活にも身の入らない時間が流れ、秋は気づかないうちに終わり、冬が過ぎ去り、俺はいつのまにかまた一つ歳を重ねて、そして――
ある、うららかな春の日だ。
俺たちはついに、式をあげた。
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87話 人生への興味
幸せに天寿をまっとうしてほしいですね……
引き続きよろしくお願いします
日々は俺に緊張を忘れさせていく。
策略だ、謀略だ、いやこれ自体が『敵』の攻撃そのものだ――そのように俺は心の一番深い部分において必死の警鐘を己に鳴らし続けるのだが、しかし今回の転生先である『人類』の精神は、長く危機にさらされないと弛緩するものらしく、警鐘も無意味となってきていた。
俺たちは結婚をした。
そうしたら人生の速度が一段階早くなったように思われて、結婚後の一年はなにごともなくすぎ、二年目もまた過ぎ去ろうとしている。
俺もミリムも仕事に慣れ、生活に慣れたのだ。
相変わらず俺たちは互いの仕事を家庭に持ち込まないので、お互いになにをしているのか、詳しいところはわからない。
たずねるようなことも、しなかった。
『互いが知らないところで、互いがなにをしているのか、興味がない』
……などと表現すると『早くも夫婦仲が冷えてるのか』とマーティンあたりにはからかわれるのだが、そうではない。
俺もミリムも『興味がない』という言葉をネガティブに捉えていないのだ。
だって俺が熱心になにかを調べる時、そこには危機感があった。
大学について綿密な調査をしていた時も、職業について熱心な調べ物をしていた時も、俺の心にあったのは不安であり恐怖だった。
『おそろしいから、知っておく』。
それが俺にとって『興味がある』ということだった。『興味』は不信のあらわれだったのだ。
だから俺たちが互いに会っていない時なにをしているか全然詮索しないのは、間違いなく信頼のあらわれであり、パートナーが自分の見ていないところでなにかをしていて、その結果、家庭に『なにか』が持ち込まれても対処できるだろうという、自信のあらわれとも言えた。
だから俺はある日、ミリムに「相談がある」と言われた時も、大した危機感を覚えていなかった。
「そろそろいいと思う」
ミリムには主語を抜いて話すクセがある。
俺はそれでも彼女の意図するところをなんとなく察することができていたのだが――今日ばかりはいくらなんでも唐突すぎて、全然わからない。
俺たちは単語ではなく文脈から物事を判断するタイプの生き物だ。ミリムの主語なし提案にはだいたい文脈があった。
しかし今日はわからない。
俺は、なにが? と問いかけた。
「子供」
あーはいはい子供ね。子供子供。
わかってたよ。用意は万全だ。
……子供!?
「そろそろ産休とってもクビにならない感じになってきたし、今ならやれる」
なるほど。
俺は腕を組んで考え込む。
子供。産休。まあ、世間はだいぶ出産子育てに理解がある。
保育所で幼児に乳幼児の世話をさせる制度が当たり前のように根付いているあたりがその証左だろう。
だからミリムが産休をとっても、会社での地位が失われることはないという見立てはもっともだと思う。
俺が悩んでいるのは別なところで、それは『子供を持つ』ということそのものに対する不安だった。
子供は金を食う。子供は時間を食う。子供は心をむしばむ。
子供という存在に対し、俺は肯定的だ。
俺たちはかつて子供についての話題に触れ、そして、なんとなく『いつかは授かるべきだ』という方向性で、明言しないまでも合意のような雰囲気になったことはあった。
だが、『いつか授かるべき』の『いつか』が『今』になった時、俺の心にはあらゆる不安と恐怖が――『興味』が出てくるのだ。
俺は先延ばしできることは先延ばしして、そのまま死んでしまえたらいいと思っているほうだが……
この話題は先延ばしできない。人類に限らず生命体は『繁殖』という宿命を遺伝子にきざまれておきながら、出産や子育てをどの年齢になってもできるというわけではないのだ。
俺ももう二十代後半だ。
今までは『成長』してきたが、これからは『衰え』を覚悟せねばならない。
衰えを計算に入れ、子供というパワフルな存在を育成しつつ働ける体力などを考慮すれば、『今』子供を授かるかどうか決めるしかない……
なぜ人類は老後のヒマな時期に子育てできるような設計になっていないんだ……若くて体力がある時期にやるべきことが多すぎる。これは全知無能存在の設計ミスだ。
あらゆる状況が俺に『決断』をせまっていた。
決断というのはストレス行為だ。だから俺はなるべく決断をせずに生きていきたい……
しかし一方で決断を避けられないケースというのも、人生には多くあった。
……ああ、そうだ。考えるべきは『命』だ。決断すべき時は、命がかかっている。ならば俺は、俺の命のために決断をしよう。それ以外に大事なことなどないのだから。
俺は生きているうちに収集したさまざまな情報を思い出す。
頭の中には走馬燈のように生まれてから今までのことが思い浮かんだ。
……ああ、わかってる。『生ききる』ことだけが俺の目的だ。それ以外の寄り道をしているほどの才覚も運勢も俺にはない。
そう思う。
そう思うが――
そう、思いながらも、
俺は、決断した。
「たしかに、俺たちが子供を授かるにはいい時期だ。そうしよう」
ミリムが初めてしゃべった言葉が、俺の名前だった。
その感動を思い出した。その感動を、ミリムにも味わってほしいと思った。
生きていくうえで『感動』なんか、メシの種にならないことを、俺は当然わかっている。
情を捨て、他者を利用し、合理性のみで動いたほうが、賢く長生きできることを、俺は身にしみて知っている。
『それができれば長生きできたろうに』と、いくらだって後悔してきて――
俺はどうやら、それができないらしいことを、よく知っている。
人は、持って生まれた性格を、変えることはできない。
だから持って生まれた性格のまま、長く生きようと俺は思う。
ミリムはうなずく。
「じゃあ、計画を立てよう」
俺たちはさっそくスケジュール帳に、子供を授かるまでのフローチャートを設計し始めた。
話し合いは様々な情報を調べながら数日にわたり、ついに俺たちのおおまかなスケジュールは決定したのだった。
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88話 凪いだ湖にて
新キャラ(二人の子供)の姿はどうなるのか
今回はまだです。引き続きよろしくお願いします
「釣りにでも行くか」
ミリムの懐妊が判明したある夏の日、父から唐突にそんな誘いがあった。
なにからなにまで前例のない誘いだ。
まず、父が俺の携帯端末に直接連絡してくること自体が今までなかった。
だいたい、母を通した連絡が来るのみだった。
父はインドア派だった。
海だの山だのに俺を連れていってくれたことは今までに一度もなく、俺が子供のころには遊園地などのレジャー施設に連れていってくれたものの、それは母の意向という意味合いが強く、父自身でなにか遊びを発案することはなかった。
そして、二人きりで俺と出かけることも、そうそうなかった。
俺たちは別に仲が悪いわけではない。
おそらく世の平均的な『父と息子』はこのような関係性なのではないだろうか?
父は能力はともかくとして、その性質は平凡で平均的な男なものだから、彼が『変わった行動』をするのは珍しく、俺は裏を疑うことも忘れて『あ、うん』と承諾してしまった。
まあ、今さら父を『敵』の手先とは思っていない――『考慮の余地がない』というよりは『考慮しても仕方がない』という感じだ。
もしも父や母が『敵』の手先か『敵』そのものだとすれば、俺の人生の大前提が揺らぎ、人生計画は最初の段階で頓挫していたということになる。考えたところで、仕方がないのだ。
「釣りはね、最近始めたんだ」
父は二本の竿とクーラーボックスをトランクに詰め込んで、車を出した。
朝の三時だった。朝というかもはや夜だ。
俺は助手席に座り、夜の道路を疾駆する車の中で、運転する父の横顔をながめる。
父は神経質そうな細面の男だ。視力が弱く、いつもメガネをかけている。
体格は肉がつきにくいらしくガリガリで、体を丸めるようにして本を読むことが多いせいか、やや猫背だった。
真っ黒だった髪にはいつしか白髪がちらほらと見え始めていて、横から見る顔には脂っけがなかった。
俺たちはただ無言で車の中にいた。ラジオからは道路情報と天気情報が流れてきていて、これから向かう釣り場にはすんなりたどり着けるだろうことがわかった。
けっきょく目的地に着くまで俺たちは一言もしゃべらず、窓の向こうにある黙々と風景をながめていた。
……けれど、ひょっとしたら俺たちが見ていたのは、窓の向こうではなくって、窓に映った父と息子の姿だったのかもしれない。
目的の湖につくと、父は慣れた様子で場を作り、椅子を出し、釣り竿を並べる。
「そっち、やってみなさい」
彼はちょっと不慣れな感じで俺にそう言うと、やけにまじめくさった顔で湖のほうへ集中した。
俺は言われた通り椅子に座り、釣り竿を持つ。
いくらか待つと俺の釣り竿に魚がかかり、それをとり、父はクーラーボックスに入れた。
「うまいじゃないか」
俺は褒められて嬉しく思った。
たかが釣りがうまいと言われたぐらいで、たかが一回のマグレあたりだったけれど、それでもなぜだか、妙に嬉しかったんだ。
「……うん。そうだな。レックス、僕はやっぱり、うまくないらしい」
獲物のかからない釣り糸をながめながら、父は穏やかに笑った。
「君に語りたいことはたくさんあったはずなんだ。これから親になる君に、君を育てた親として伝えるべきことは、いくらでもあると思うんだ。でもね、君を前にすると、全然話す言葉が浮かばない」
講師をやっているのにね、と父は言った。
冗談めかした感じでもなかった。実際、気に病んでしまったのかもしれない。……妙にまじめな父なのだ。
「……うん。そうだ。僕たちはね、けっこう、恵まれた人生を送っていると思う。母さんのおなかにお前ができた時もね、こうして、実の父にも、義理の父にも、連れ出してもらった。考察するに、たぶん、お前のおばあちゃんたちは、母さんを連れ出したりして、色々話してたと思う。父らが僕にしてくれたようにね」
なんだか学術的な話でもされているかのような口調で、俺は思わず笑ってしまう。
父は湖から視線を逸らし、俺を見た。
「どうしたんだい?」
なんでもない、と首を振った。
そうか、と彼は湖に視線を戻した。
「レックス、君はたぶん、僕らのことをうるさく思う時があるかもしれない。……ああ、それはまさに、今かもしれないし、明日かもしれない。君は昔から、すべてを知っているみたいな、あきらめているような、そういう目をすることがあったから、ずっとずっと昔から、僕らのことをうるさく感じているかもしれないが……」
ドキリとした。
俺は父に、俺の転生のことを告げてはいない。
まじめで、現実的で、論理的な父にその手の話は通じないか、通じたところで必要以上に悩ませてしまうものと判断していたからだ。
……まあ、最初のころは、『敵』かもしれない相手にあまり自分の手の内を明かしたくないという思いもあったけれど。
「……僕らはね、君が寿命で死ぬ時に、『恵まれた人生だった』と思ってほしくて、一生懸命なんだ。だから……うん、だからね、君も、君の子に、そうしてあげなさい。うるさがられることもあるかもしれないし、疎んじられるのはおそろしいことだけれど、僕らは僕らにできることをやるしかなくって、僕は、子供のために、やれる限りを、やりたいんだよ」
父はそれきり黙って、垂らした糸を見つめ続けた。
最初に俺が釣ったもの以外の収穫はなく、俺たちは昼頃まで、黙って、凪いだ湖を見つめ続けた。
常に学んで生きてきた。
効率的に、時間に無駄がないように、
無為な時間を俺は嫌う。
だから、その観点で言って――
この、なにも釣れずにすごした数時間は、決して無駄ではなかった。
長い沈黙もふくめて、大いに学べた時間だと、思った。
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89話 論理の外にあるもの
いつのまにか過ぎ去って行く人生を引き続きよろしくお願いします
ほとんど脊髄反射的に、俺とミリムは俺の実家でしばらく寝泊まりすることを決めた。
それは寒さが厳しくなってきたある日のことだった。
妊娠中のミリムのおなかはだいぶ目立つ大きさになってきた。出産予定は来年の五月半ばごろなので、考えてみれば、もう半年も経たないうちに俺たちの子が生まれる、そんな時期だ。
産休もとって自宅で安静していたいこの時期にわざわざ自宅を離れ実家で寝泊まりすることにしたのは、父のためだし、母のためでもある。
というのも母方の祖父が体調を崩して入院してしまったのだ。
母はその世話のために里帰りしているのだった。
いつまでかかるかわかるものではなく、また、母方の実家も俺たちの生活圏よりやや遠くにあるため、母が一人でヘルプに行くこととなったのだ。
その母はといえば俺への連絡の頻度が増え、母の母(ようするに俺にとっての祖母)と毎日のように病院帰りに街をぶらつき、写真映えする食べ物を撮り、その画像をSNSにあげたりしている。
むっちゃイキイキしてる。
ちなみに現在、祖父の状態は安定しているようだった。
ただまあ、そう長くもないらしい。
あの年代の男性には珍しくもないのだが、祖父は多少の不調があってもそれを我慢する性分があって、それで色々と発見が遅れてしまったのだとか。
だから亡くなるまではそばにいると、そういうことらしい。
もっと期間がはっきりしてしまえば俺たちもそばに行くのだが、現在はなんとも言えない状況らしい。発生する問題に合わせて行動していくしかなく、もどかしくも落ち着かない日々が続きそうだった。
父は家事を一通りできる男だ。
だから、母がいないからといって、俺がわざわざ父一人の家に、妊娠中のミリムを連れて来るほどのことはないとも思うのだけれど……
うん、論理的に、俺が来た理由を分析できない。
ただ『そうすべきと思った』という以上のことはなかった。
俺の働く学園も家から近いし、ミリムも産休中だし、『生活基盤を実家に移すこと』に対するハードルが低かった、あたりが理由だろう。
「間に合うといいね」
ミリムの言葉には主語がなかった。
これはいつものミリムのクセだが――今回ばかりは、あえてそうしたのだろう。
ミリムの立場では言いにくいこともある。
祖父が亡くなる前に、ひ孫の顔を見せてあげられればいいね。
そう言いたかったのだろう。けれど、それはなんだか言いにくい。
……これもまた論理的ではなかった。因習とか、慣習とか、そういう『明文化されていないルール』がミリムに『俺の祖父の死』についての言及を遠慮させたのだ。
俺はといえば、わりと冷酷で、出産と祖父の死期がかぶらないことを祈るばかりだった。
なんて薄情なんだろう。
母方の祖父は寡黙な男で、俺が遊びに行った時も、自分の部屋でジッとすわりこんで、新聞なんかを読んでいるような人物だった。
けれど優しくて器用な人で、甘えれば不器用そうに笑うし、俺たちが欲するものは、それがハンドメイド可能なものならば、黙々と材料を用意し、手際よく作り上げてしまう。
俺が飲酒できる年齢になったあと一度だけ一緒に酒を飲んだことがある。
やはり祖父は静かだった。無言で隣り合って、俺と一緒に酒杯をかたむけるだけだった。でも、それでも、嬉しそうにしてくれていたことを、よく覚えている。
思い返せば思い返すほど、あんなにいい人が亡くなろうとしているのに、『出産と死期がかぶらないといいな』という心配をしてしまっていることに自己嫌悪してしまう。
「それはしょうがないよ」
父が寝静まったあと、自己嫌悪を抱えきれなくてついついこぼしてしまった俺に、ミリムが産着を編みながらつぶやいた。
このあたりの地域では、母が子に産着をあたえると、その子はすこやかに育つという風習があった。
ぶっちゃけ裁縫は俺のほうがうまいのだが、そういう都合で、ミリムが産着を編んでいるのだ。
効率は悪い。
そもそも、産着なんか店で買ったほうがいい。
それでもミリムは産着を編むし、俺もそれに反対したことは一度もない。
理論化、明文化できない、大きな力が、俺たちを納得させていた。
「人はそんなにいっぱいのことを考えられないと思う。たぶん、優先順位の問題」
ミリムの声には、最近になって、相手を諭すような優しさが多くふくまれるようになっている気がした。
母になるからなのだろうか。それとも、母になる彼女に対し、俺が無意識にそういうロールを押しつけているだけなのだろうか。
「仮に子供がいなかったら、レックスは仕事を休んでおじいさんのところに行ってると思うよ。でも、今は、子供を優先してるから、そうしないだけなんだと思う」
なるほど、俺は無意識下で決断していた、ということなんだろうか。
『亡くなりそうな祖父』と『生まれそうな子供』があった。
祖父のことだけを考えるならば、仕事を休むか辞めるかして、祖父のもとへ行き、看病なり延命のための俺にできることなりをすべきだ。
けれど、俺は生まれてくる子のために仕事を捨てるわけにもいかない。
……そもそも、母体というのは不安定なものだ。なにがきっかけで異常が起こるかわかったものじゃない。
ある意味では、ミリムおよびおなかの子と、祖父とは同じぐらい『目が離せない状況』にあると言えた。
しかし俺は一人しかおらず、ミリムと祖父の居場所はバラバラだ。
だから俺は――ミリムを優先したのだろう。
『一人しかない俺がどちらにつくべきか』という選択で、ミリムにつくことを、決断したのだ。
「落ち着いた?」
頭の中で整理できて、だいぶスッキリした。
やはりミリムの声には、どこか聖女を感じさせる落ち着きと優しさがあった。
声だけではなく、性格もまた、なんとなく普段よりなん割か増しで優しさが強まっているような気がする。
どうやら経験したことのないことが二つも同時に発生して、混乱していたようだ。
この種の悩みは不慣れだ。だって、こんなにも大事な人が多い人生なんか、今までに一度もなかったから。
しかしミリムも人生一回目とは思えないほど冷静で、俺はついつい彼女も異世界転生者なんじゃないかと疑ってしまう。
そもそも、妊娠で一番混乱し、心細くなるべきはミリムのはずだ。俺ではなく、俺以上に当事者である彼女のはずだ。
それがこの落ち着きにくわえ、俺をなだめる慈愛まで持ち合わせている。
なんだこのできた嫁は……
「そばで慌ててる人がいると、落ち着くから」
誰だよ。
俺だよ。
「あとなんか、今はすごく度胸がついてる。不思議。たいていのことは笑って許せそうだし、たいていのことはこわくない」
もとからミリムは度胸あるほうだと思うのだが、その彼女がわざわざ『度胸ついてる』と口に出すぐらいだから、よっぽど劇的な心境の変化が起こっているのだろう。
子供ができるとそうなるのか、ミリムだけに起こった特異な変化なのかはわからない。
……ああ、そうか。
俺の母にとって実の父のはずの男性が今にも亡くなろうとしているのに、母のほうがやたら元気な理由が、なんとなくわかった。
彼女たちには不思議な度胸があるのだろう。
論理的は説明できないが、それがきっと正解のように思えた。
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90話 パフェがくるまで
引き続き生きる度胸を持った人たちの人生をお楽しみください
「大変なのはわかるよ。でも……ボクは君に確定申告をやってほしいんだ」
痛みさえ感じるほど寒い日々が続く、ある一月初めのことだ。
祖父の入院は続き、ミリムのおなかはいよいよ『なにかいる』とハッキリわかるほどにふくらんでいた。
色々な忙しさが重なる中、これ以上なにか予定を入れては身がもたないと思い、俺はこれまでやっていたことを一つ、やめることにした。
カリナの秘書業である。
こんなタイミングだし通話でもいいかなと思って連絡したところ、いかにもカリナらしい返事が来たため、『こりゃ直接会わないと無理だ』と思い、カリナの実家(職場を兼ねている)近くの喫茶店で落ち合うことにしたのだった。
そしたらこれだ。
俺は前々から言っていたことを重ねて言うほかなかった――税理士に相談しろ。
「わかってよレックス……オタ趣味に理解のない税理士にイケメンフィギュアの用途について聞かれるとか死んでもイヤなんだ……」
それは普通に『図書研究費です』って答えろよ。
まあ気持ちはわかる……というかカリナの気持ちに一定以上の理解を示せないなら、もう俺たちの関係は切れてるはずだしな……
しかし俺はおじいちゃんがいつ危篤になるかわからないし、妻が妊娠している……
ここらで一つ勇気を出すタイミングだと思うんだよ。税理士、意外とこわくないよ。
「ずるいよレックス……親族の危篤と奥さんの妊娠とか……ボクのほうにそれに対抗できるカードが一個もないの知ってるくせに……」
ずるいと言われても事実なんだよなあ……
「仮にボクが妊娠したらどう?」
いや、がんばってとしか言えないけど……
ご予定は?
「リアル方面の話題はなにを振ってもボクに都合の悪い方向にしか転がらないから嫌いだ」
このタイミングで注文したコーヒーが来たので、俺はブラックのまま口に運んだ。
カリナの前にはまだなにも来ない。俺は話を続ける。
なんだっけ……そうそう、税理士だよ。俺がお前の税務やるのって法律的にグレーっていうかさ、バレたらブラックだよ。
金銭の授受があるとまずいと思って焼き肉払いにしてもらってるけど、それもいつまでも続けられないっていうか……
だからさ、ここらで気分を一新して、新しいことを始めるべきなんじゃないかな?
「ボクを捨てるの!?」
休日のファミレスにはたくさんの家族連れがいて、その人たちが一斉に俺たちを見て、そして慌てて視線を逸らしていった。
俺はテーブルの向こうにいるカリナに手招きして、顔を寄せた。
勘違いされるからまぎらわしい言い回しをやめて。
「あ、ごめん……でもボクは実務関係を全部レックスに投げてたから、今ここで捨てられるとどうしていいのか……」
だから税理士を雇えって、すさまじい回数忠告してるんだけどさ……
俺たちの話は全然進まなかった。
最近、カリナとの会話はいつもこんな感じだ。
「……うーん、わかった。自分でやってみるよ」
なん度かの押し問答のすえに、カリナはようやくそういう方針で決めたらしい。
いや、税理士を雇えってば。
「レックス……ボクはね、『新しい知り合いを増やす』ことへのストレスがすごく高いんだ。必要とか不要とか、そういう話じゃない……ボクは心の健康のためを思って、税理士さんにお願いしないんだよ」
お前と俺って本当に『出身惑星違うの?』ってぐらい遠い精神性だよなー。
かつて俺は『人類は年齢を重ねれば自然と大人みたいな考えかたになっていくものだ』と思っていた。
しかしカリナや他の連中を見るに、大人になるには、大人になろうと志す必要があるようで、誰でも自然と大人になるわけではないようだった。
もうカリナもアラサーと呼べる年齢なのだけれど、彼女は中学のころのままだ。
というか見た目も全然変わらない。服装に多少フリルが増えたぐらいで、なぜコイツはこんなにも若々しいままなのだろう……
いや、背は伸びてるし、化粧とかもしてるはずなんだけど、それでもなんか若い。
やはりストレスか? 自分の心の正直に生きている彼女にはストレスがないのか?
しかし睡眠は時間帯も時間も不安定で、食事はまともにとらず、おまけにとってもジャンクフードとエナジードリンクで、常に締め切りを抱えているようなコイツが若いのは、解せない……
「よし、わかった」
カリナはどこか遠くを見ながら、唐突にうなずく。
たぶん注文の品がまだ来ないので、店員さんの動向をうかがっているのだろう。
「レックスも本職があるもんね。税理士チャレンジしてみるよ」
動画のタイトルみたいな言い回しだなと思った。
「ボクがもっと大御所漫画家だったら普通にアシとして雇うんだけどな……やはり金か……世の中お金でできないことはない……五千兆ほしい」
まあ仮にアシとして雇ってもらえるとしても、俺のほうが職業を『漫画の作画アシスタント』にする気がないからな……
そんな不安定でいそがしそうな職業、やだよ。
「レックスが三十歳まで結婚してなかったら専業主夫として雇ったんだけどな」
マジかよ……そのルートがあったのか……
でもなあ、不安定だしな……ミリムと結婚する前に、カリナの夫になって人生が安定する保証が一つもなかったから……うーん、未来さえ見えたらアリだったかも……
「レックスの人生は『全部のヒロインにある程度好意的に接してたら結果として一番攻略が簡単なヒロインのルートに入った』みたいな感じだよね」
的確すぎてイヤなたとえだった。
まあ、マーティンルートに入らなかっただけよしと思おう。
「ああ、なつかしいねぇマーティンくん。水着で抱き合ってた相手だよね」
そんなことあったっけ……
「とにかくボクもがんばるからさ。なんか、雑談とかあったら声かけてよ。今、色々大変なんでしょ? とりとめもない会話ができる相手は貴重じゃない?」
……。
失礼ながら、カリナに気づかわれて、俺は感謝するより先に驚愕してしまった。
そんな気づかいができるとは思っていなかったのだ。
くわえて言うなら、『とりとめもない会話ができる相手は貴重』と言われて、俺自身、初めてその『とりとめもない会話』の大事さに気づいた。
仕事中はもちろん仕事のことを考えているし、家にいるとどうしても祖父のことと生まれてくる子供のことばかり考えてしまって、たしかに、それ以外の、力が抜けるような会話をする機会を俺は失っていたのだ。
「いやほら、いつまでもシリアスパートばっかりだと読者の息が詰まるでしょ? ボクも漫画とか書いてるからね。そういうのはわかるよ」
そう言うカリナは中学校から全然変わっていないようで、やっぱり変わっていたのかもしれない。
人は勝手に大人にならないが、それでもちょっとずつ、子供ではなくなっていくのだろう。
「あと赤ちゃん産まれたらスケッチさして。赤ちゃんエピソードも教えて。あと触らせて。赤ちゃんの前腕とかすごくいい感触らしいんだよね」
やはり下心はあったらしい。
その下心の打ち明けもまた、彼女流の『とりとめもない会話』の提供かもしれない。
こう見えて意外とものを考えているのだろう。
俺は礼を言って、その場を去ろうとした。
しかしカリナが「待って」と言う。
なんだろう、まだなにか話があるのか――不思議に思って首をかしげる俺に、彼女は言う。
「まだボクのパフェが来てないから、食べ終わるまでそこにいて」
一人でパフェ食べるの恥ずかしいじゃん、と彼女は言った。
俺は肩をすくめて、彼女の食事を待つことにした。
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91話 煙
愉快なレックスくんが歳を重ねる様子を長生きを祈りつつお楽しみください
病院に定住の気配を見せていた祖父の容体が悪くなって、それからあっけなく亡くなった。
人が死ぬとあまたの事務処理が発生するというのはリサーチ済みだったけれど、実際の作業はリサーチで覚悟していたよりも煩雑をきわめた。
俺は母の手伝いで母方の実家に出向き、様々な事務処理をして、そして葬儀の段取りがすべて決まるころにはもう三月もはじめのころとなっていた。
作業と作業のあいまには数分単位で時間が空いて、そんな時に俺が考えるのは、『担任をしていたクラスの卒業式には出られるだろうか』ということと、『ミリムのおなかの子はそろそろ生まれるんだよな』ということだった。
祖父の葬儀まっただ中だというのに、俺の中で祖父はもう『過去の人』と化していた。
ただ淡々と必要な書類を埋め、必要な連絡をし、葬儀の折衝をしていく中で時間はどんどん過ぎていく。
煩雑な事務作業をなにもしていない親戚が大泣きに泣いていたりして、俺はそれを横目に見て、虚無を感じていた。
つつがなく葬儀がすんだあと、親族で色々と話し合いがあった。
議題は様々だったが、大きなものは『一人で家に残される祖母をどうするか』であり、祖母が家を離れたがらないので一時紛糾したが、祖母自体はまだまだ壮健なこともあって、『遊びに来る頻度を上げよう』ぐらいに落ち着いた。
こなすべきことが終わったころ、ようやく俺の心に悲しみが押し寄せてきた。
それは激しい感情ではなかった。
祖父の部屋を見る。そこにいつも座って新聞を読んでいた祖父は、いない。もう、あの椅子に座ることもないし、持ち前の器用さで俺たちにおもちゃを作ってくれることもない。
けれど祖父愛用の椅子を見ていると、夜にもまた祖父がそこにすわって新聞を読むのだろうなと思えてきて、それを否定して、そのうち『祖父のいない椅子』に見慣れるのだと思うと、そのことが妙にさびしかった。
このあたりには『煙』をあがめる信仰がある。
人は死後、煙になって世界に溶けると言われていた。この世界で生きた人は、この世界の一部になるのだ。
転生ではなく、世界にとどまり、世界を動かす力になるのだという。
俺も願わくばそうなりたいと思った。新しい人生ではなく、この世界の一部になって、この世界を漂って、この世界そのものになりたい。
祖父はきっとそうなったのだろう。
……ああ、わかっている。なにも論理的ではない。けれど宗教というものは、抱えきれない悲しみにそれらしい理屈をつけてくれる。理屈がつけば、なんとなく受け入れることができる。俺ばかりではなく、人類そのものが、そういうふうにできているらしかった。
翌日には自宅に帰ることになっている夜、俺とミリムに与えられた寝室で、俺たちは話した。
それは『会話』と呼べるものではなかったかもしれない。俺がただ、ミリムに対し、つらつらと祖父の思い出を語っただけだ。
その中で俺は、あることを思い出していた。
幼少期の俺は立方体というものに強いあこがれを抱いていた。今も抱いている。
『立方体』は完全な形状だ。どうやって立てても、たいてい安定する。俺は安定しているものが好きだった。
当時、語彙がまだ少なかった俺は、祖父に立方体のすばらしさを熱く語ったことがあるらしい。ぶっちゃけまったく覚えていない。
自分の忘れている自分の幼少期の話を人から聞かされると、どうにもむずがゆさと居心地の悪さがあるものだ。
だが、母や父から聞かされた話が――幼少期の俺が立方体について祖父に熱く語ったことを証明する物品が存在する。
それは、木製の立方体だった。
祖父の遺品を整理していたら見つかったその品物は、なるほど幼児用に角が削られていて、そして何カ所かの歯形が存在した。
鑑定をすれば幼少期の俺の歯形であることがわかるだろう。
やわらかな木材で作られたそれは今、俺の手のひらの上に乗っていた。
……『だからなんだ』という部分がまったく浮かばない。
とりとめもない思考をつらつらと開陳してしまった気恥ずかしさから、俺は言う。
子供が生まれたら
「それは、やめるべき」
もちろん冗談だったのだが、かなりガチなトーンで怒られて俺はしゅんとした。ごめんなさい。
それはそれとして子供の名前をそろそろ考えねばならない。
そうだった。俺にはやることがたくさんある。
今の俺が抱いているこの、よくわからない、悲しみとも寂しさともつかない頭のぐちゃぐちゃが解決するより早く明日はくるのだった。
家に戻ったら掃除とかしないといけないし、休んでいた学校にも手土産の一つでも持って復帰しないといけない。
できうることなら教え子の卒業式には出たいのでゆったりもしていられない。
人生にはわけのわからない気分のまま過ごせる時間はほとんどなかった。
俺は悲しみや寂しさを乗り越えられないのに、それでも明日はやってくるのだ。
「生きるって大変だよな」
俺は言った。
ミリムはうなずく。
「長生きって、えらい」
その通りだ。
……祖父は、九十を迎えずに亡くなった。
それは俺からすれば『天寿をまっとうした』とは言いがたい年数だった。俺なら再転生確定だ。
それでも彼は、きちんと生ききったのだと思う。
だから――ああ、そうだ。だから、俺はようやく、死者にかけるべき言葉を手に入れる。
「おじいちゃん、お疲れ様」
きっと多くの『わけのわからない気持ち』を乗り越えて、『明日』を迎え続けた人に、ささやいた。
もしも信仰される通り、死者が煙となって世界の一部になるのなら――
きっとこの声はとどいているのだろう。
ひな祭り~
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92話 予想外に早いんですよ
レックスくんも無事煙になれるのか
引き続き応援してあげてください
ボーッとしてたら子供が生まれそう。
俺たちの日常はすっかり平時の通りに戻っていた。
もっとも、ミリムが産休中でいつも家にいるというのは変わっていなかったが、それでも俺は教職に復帰したし、念願の教え子たちの卒業式も見た。
そのはずなのに俺の日常は特に思い出深いこともないままに過ぎていった。いや、思い出に刻むべき出来事はあったのに、それらを深く記憶に刻むことができないでいたのだ。
なぜって、子供が生まれそうだったから、気が気じゃなかった。
妊娠中のミリムにもすっかり見慣れたものだったし、俺は『妊婦がいる生活』にも慣れたつもりでいた。
ところが出産が近くなると病院のお世話になる頻度は増えるし、ミリムが体調を崩すことも増えるし、俺は得意だったはずの書類仕事さえ手につかないようなありさまで、あわわわわわわ……
そんなおり、ミリムが産気づいたという連絡を病院からもらった。
予想外に早い。俺たちは出産にあたって、五月の大型連休中に子供が生まれるような計画を立てていた。ところが予想外に早い。なんていうのかな、こう、予想外に早いんだ。
どうしよう、予想外に早い。
俺は考える。予想外に早い……ダメだ、頭がぜんぜんまわらない……予想外に早い。同期の先生にも言った。予想外に早いんですよ……「なにがですか?」妻の出産……出産しそうナウ……「病院行ってくださいよ!」
そうだった。俺は病院に行かねばならないのだった。
同期教師の助言により『病院に行く』という選択肢を思い出した俺は、とりあえず病院に向かった。
あ、やべぇ、早退するって言ってない……事前に妻の妊娠は話してるのだが、さすがに連絡なしで早退はまずった。
通信端末で連絡すると、直属の上司にあたる人は快く俺の事後連絡を受け止めてくれた。
好感度を稼いでおいてよかった。今度またホウキラグビーの観戦に行きましょう。俺の処世術が無意識に働いて、したくもない約束を取り付けてしまった。
俺は病院の受付で予想外に早い旨を告げた。いや、そんな旨告げてどうする。受付さんがすごい困ってる。あの、予想外に早くて……ダメだ、言葉が出てこない。
俺は黙って深呼吸して、それからようやく、絞り出すように『出産、妻、生まれる』という単語をひねり出すことができた。
予想外に早く出産しそうな妻がこの病院にはミリムしかいなかったらしく、俺は受付の看護師さんに案内されて分娩室までたどりついた。
扉の前でかたまる。めっちゃこわい。どうしよう、すごいこわい。生命? 生命が生まれようとしているの? この過酷あふれる世界に? どういうこと? 意味がわからない。
看護師さんに押されて中に入れば、ミリムはとっくにスタンバイできていて、今にも新しい生命がミリムさんからアウトしてこの世界にインしそうな感じだった。
苦しそうな彼女の手を握る。始まった。握られた手がクッソ痛い。ミリムも俺も自宅での運動を欠かさないし、ウォーキングとかもしてきたので、筋力が強い。握力が実にハイパー。それにしたって強すぎる。生命が、生命があふれている。
ミリムが叫ぶ。俺も叫ぶ。うわあああ! もう俺が産む! 俺が産むから! 分娩室の中にミリムの声と俺の『俺が産む』という叫びが響き渡って、隣にいる病院の先生に「お父さん、落ち着いてください」と言われた。
俺は落ち着いた。
落ち着いてる。俺は落ち着いてるぞ。落ち着け。落ち着けえええええ! 俺は叫んだ。背後から口をおさえられた。落ち着いてるだろ! 離せ! 俺は叫び続ける。生命力だった。
ミリムと一緒に息を止めたり吐いたりしているうちにどうやら子供は生まれたらしい。
汗だくでがんばるミリムしか見てなかったので誕生の瞬間を見損ねたのかもしれない。
子供を取り上げた先生は言う。
「かわいい女の子ですよ!」
見せられた生物はぶっちゃけ『かわいさ』とはかけ離れていた。
くしゃくしゃした顔をして、肌を真っ赤にそめて、怪獣みたいな声で泣いていた。
でも、たまらなくかわいかった。
その生物を差し出され、俺は一瞬固まってから、抱く。
そいつの顔を見て俺はまた固まってしまった。「お母さんの顔を、見せてあげてください」と言われて、初めてやるべきことに気づく。
俺は赤ん坊をミリムの顔のほうに近づけた。
これ、と俺は言った。それ以上言葉が出てこなかった。
「うん」
ミリムはそれだけ言った。声はかすれていて、体中汗まみれで、ぐったりしていて――
でも、その姿は美しかった。
きっと、まだ目も満足に開いていない赤ん坊をかわいく感じるのと同じ理由、なのだろう。
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93話 君の名は
愉快に混乱するレックスくんと新しい人生をお楽しみください
しばらく病院で時間を過ごしたあと、ミリムは家に帰ってきた。
連れてこられた赤ん坊は生まれたてよりかはくしゃくしゃじゃなくなっていて、だいぶ目も開いていて、俺やミリムを見て不思議そうな顔をしながらヨダレを垂らしていた。
この時期の赤ん坊はマジでヤバイ。
食べて寝て排泄するだけの存在だ。
しかも寝起きのペースが一定じゃないので、俺たちは赤ん坊の泣き声にしょっちゅう起こされ、そのたびに食事だ、いや排泄だ、と原因の究明と解決に奔走させられた。
困ったのは排泄でも食事でもないのに泣いている時で、病気なんじゃないかとか、ケガでもしてるんじゃないかとか、色々な不安がよぎり、両親に相談したり医者に行ったりしてもなんにもわからなくて、不安のあまり俺たちが眠れなくなり――
『たぶん、暑かっただけ』ということがわかって、リアルにコケて倒れ込んだこともあった。
生後一ヶ月ぐらいになるといよいよ前腕がマシュマロみたいになってきて、俺たちはヒマさえあれば赤ん坊をプニプニして笑う。
赤ん坊も俺たちを見て笑うので、そろそろ俺たちを『親』と認識し始めてきたのかもしれない。
この時期になると手足をバタバタするのだが、俺とミリムの子は獣人なものだから、しっぽもバタバタするし、頭の上にある耳もピクピクする。
ちなみに顔の横にも耳があって、こちらが本当の『耳』であり、頭上の獣耳は『かつて耳だったものがかたちだけ残って退化したもの』らしい。
獣耳はわりと感覚がにぶいもののようで、しかし体の一部だからぶつけたら痛いらしい。
ベビーベッドに獣耳をぶつけては泣くので、俺たちはベビーベッドをちょっと改造せざるを得なかった。
「このあたり獣人いないから、わたしのママも苦労してたみたい」
獣人の多い地域だとそれ用の品が売られているのだが、このへんでは取り扱いがなく、通販でも輸送料がアホみたいに高くてなかなか手が出ないのだった。
そういえばミリムママも服のしっぽ穴は自分の手で空けていたようだ。俺は裁縫スキルを磨いていてよかったと心から思った。
我が家はかなり恵まれた環境にあると思う。
俺とミリムの両親は育児のヘルプによく来てくれた。
それでも俺は育児休暇をとった。なんでも、生後二ヶ月ぐらいから色々認識し始めるらしいので、俺が親だという事実をわからせてやろうと思ったのだ。
ところが赤ん坊というのはかなりいろんな人に狙われる存在だった。
うちの両親もミリムの両親も一度抱きしめると離したがらないし、俺にとっての祖母、すなわちこの子にとっての曾祖母たちも来て、我が家は一時騒然とした。
赤ん坊争奪戦の勃発であった。
俺たちは戦った。これは生命をかけた戦いなのだ。
戦いをしていると、日々があっというまにすぎていく。
ミリムが職場復帰したりカリナが我が子をさらいそうになったり様々な事件が起こった。
そんな中で誰が決めたか、この赤ん坊争奪戦の勝者は『最初にこの子に呼ばれた者』だという取り決めが自然とかわされていた。
この子が『パパ』と言うか『ママ』と言うか、あるいは『ばぁば』か『じぃじ』か、『カリナ』か……
まあ『カリナ』を最初に発言したら、もう俺はこの子とうまくやっていく自信がなくなってしまうので、非常に困るんだけれど、とにかく俺たちは、自分のことを赤ん坊に呼ばせようと必死になった。
授乳期を過ぎ、離乳食を食べるようになり、俺も仕事に復帰し、保育所にあずけるようになった。
保育所にはライバルがいっぱいだ。保育士の先生、世話担当となる子……俺は保育所に娘をあずけだしてから、本当に気が気じゃなかった。
だってミリムが最初に名前を呼んだのは俺なのだ。当時のミリムをお世話していた俺……俺の娘もまた、お世話役の子の名前を最初に呼ぶ可能性はあった。
俺は焦った。焦るあまり生徒に相談した……『どうしたら娘が最初に話す言葉が「パパ」になるだろうか……』生徒たちは意見をくれた。やはり拉致監禁してずっと二人きりで過ごすのが一番確実そうだった。
その日は俺がお迎え担当だったので、保育所まで娘を拉致しに行った。
それはやけに暑い春の日だ。
昼夜の気温差が大きくてうちの母などは体調を崩してしまっていた。
俺も通った学園の保育所には様々な赤ん坊・幼児どもがいて、俺はむらがってくるそいつらをかきわけて、娘を抱き上げる。
世話役の子がやけに大きく叫ぶ。
「あのねー! あのねー! ボール投げたんだよー!」
謎の報告だった。俺は幼児どもによく謎の報告をされる。だから俺はボールの色やかたちをたずねて、投げ合いの感想を求めた。幼児はボールの大きさを身振りで表現して、色を果物にたとえた。
俺は幼児を褒める。そう、報告はそうやって具体的にするのだ……特に必要のない謎の報告に思えても、こうやって丁寧に聞いていけばなにを伝えたいかがわかるのだ。
幼児は楽しかったことと、我が娘にボールがぶつかったことを報告したかったらしい。
俺は娘の体をまさぐってケガがないことを確認する。そして『うん、無事だな』と幼児に向けて言った。
実はすでに保育士の先生からケガがないこともボールがぶつかったことも聞いていたが、幼児の報告を受けてのパフォーマンスとしてわざわざおこなったのだ。
『行為』には『反応』があるほうがいい。子供が『報告』したなら『報告された』なりのリアクションをとるクセが、教育者を続けていくうちに、俺にも身についていた。
まとわりついてくる幼児の相手をいい加減切り上げて、娘に呼びかける。
サラ。
名前を呼ぶと、真っ黒い髪に真っ黒い瞳を持つそいつは、俺のほうを見て、ぼんやりした顔をしていた。
もうじき一歳になるこの子は、もうだいぶ動きもしっかりしていて、自分の意思みたいなものを態度で見せるようになっていた。
最近はパジャマの着方にもこだわりがあるようで、俺が着替えさせるために両腕をあげさせようとしても、『いやだ』という意思をあらわにすることが増えてきた。
なぜだか俺の首筋をくわえるのが好きで、よく俺の襟首をヨダレでべっとべとにする。
そのサラが俺の首筋を口にくわえることもなく、もの言いたげに俺を見上げている。
俺は期待した。まだ赤ん坊争奪戦の結果は出ていない。サラが最初に話すのは、パパか、ママか、ばぁばか、じぃじか……
このタイミングだ。『パパ』だろう。
発音もしやすい。よし勝ったな。帰って風呂入ろう。
俺がジッと顔を見ていると、サラは言う。
「……え……」
え?
「えう……」
えう?
「えう!」
娘のサラはどこかを指さしている。
そこにはボールについて俺に報告してきた女児が存在した。
彼女の名前はエルマ。
「えう! えう!」
……。
そんなまさか嘘だろ……?
まさかサラ、お前……お世話役幼女の名前を最初に呼んだの……?
他人じゃん……
俺はショックを隠しきれなかった。
そしてこの事実をとりあえずなかったことにした。
ああ、今さらながら、わかったことがある。
ミリムが俺の名前を最初に発した時、ミリムの両親はこんな、なんとも言えない気持ちだったんだろうな……
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94話 居酒屋にて
フラグまみれの人生を引き続きよろしくお願いします
『子供と過ごす時間』以上の価値ある時間を子持ちに提供するのは難しい。
それでも俺が我が子とのふれあいの時間を削ってまでマーティンの呼び出しに応じたのは、俺が『今現在は価値を感じないことでも、将来的に価値が生じるケースがある』ということを知っていたからだ。
「結婚を考えてるんだ」
木枯らしが厳しく吹き付け、世間が早くも聖女聖誕祭準備にうわつきだす十一月のことだった。
俺がマーティンに呼出されたのはミリムと結婚するまでは週に一、二度は通っていた居酒屋だ。
ここに来ると結婚前の若かったころを思い出す――そう、俺ももう、若いという感じではない。俺たちはもう三十歳をすぐそこに控えていた。
まあ、実際に三十路になるまではまだ二年ほどあるのだが、子供ができてからいそがしくて毎日が爆速で過ぎていくのを加味するに、体感的には一週間ほどで三十路を迎えそうな気配がある。
俺は語る――うちの子のサラはもう一歳半ぐらいなんだが、これが動き回って大変で、しかも今は寒い季節なものだから親としては厚着させたいんだが、子供は体温が高いせいか暑がってすぐ服を脱ぎたがって、脱いでは着せ、脱いでは着せのいたちごっこが我が家で繰り広げられて大変なんだ……あ、画像見る?
「なん度も見せられたよ! 子持ちはほんと、子供のことしか話さねーな!」
子持ちが子供の話しかしないのには論理的な理由がある。
そもそも『話題』というのは生活の中から拾い上げて提供するものなのだが、乳幼児・幼児がいるとその世話で毎日が終わっていくので、他の『話題』が生活の中から閉め出されるのだ。
世で子持ちと非子持ちが乖離傾向にある現象の正体がこれである。
この世界の人類は『共通の話題』で『仲間感』をたしかめあう。それも毎日たしかめあわないと不安でしかたがないときている。
よって、『共通の話題』を持てない子持ちと非子持ちの距離は開いていき、疎遠になり、しまいには関係が断絶するのだ。
まあ仲違いによる断絶ではないので、特にきっかけとかもなくまたつきあいが再開したりもするんだが。
「レックスの話はなんでいちいち『経験済み』みたいな感じなんだ」
まあ経験済みだから――というのは黙っておこう。
百万回転生している旨をマーティンに明かすのは別にいいし、日々の雑談の中でほぼ明かしたこともないでもないはずだが、今、主題は俺のことではない。
なんだよ――『結婚を考えてる』って。
相手でも見つかったのか?
「いや、婚活サイトに登録した」
そうか。
トラップに気をつけろ。
「なんだよトラップって」
婚活サイトには『おとり役』がいる。
これは別な世界の話だが……『サクラ』と呼ばれる存在があった。
そいつらは婚活サイトを利用したお客さんに長くサイト利用料を払わせる目的で、『手応え』を感じさせる業務に就いていたんだ。
ようするに『惜しいところまでいくお相手』を演じるわけだな。
しかも演じる人は『収入の高い職業』を名乗っていたり、美人だったり、イケメンだったりするわけだ。
こうして『惜しいところまでいった』という手応えを感じさせられたサイト利用者は、サイトに金をつぎ込み、さらにこうやって『惜しいところまでいったんだよ』とサイト外に宣伝までしてくれる。
さらにおそろしいことに……
そうやって『美人/イケメンの高給取りと惜しいところまでいった』経験が積み上がることで、利用者の中で相手に求めるハードルが上がる。
すると理想的な相手に出会えても『でも、もっといい相手がいるかもしれない』という思いにとらわれ、『惜しいところまでいってやめる』ことになり、利用者自身がサクラになるという事案が発生するんだ。
ところで、婚活サイトでいい人は見つかったか?
「話の流れェ! 見つかってても言いにくいわ!」
俺は……悪い経験ばかりをしすぎたかもしれない。
人を形成するのは経験だ。悪い経験ばかりすると、『どうせ次も悪いんだろう』とか『その行動にはこういう悪い結果が』ばかり気になってしまう。
俺のことは気にせず、自分の人生を生きてほしい。
「お前、悪い経験ばかりしてきた? 本当に?」
マーティンの知らない俺もいるのさ。
俺はニヒルに笑ってジュースの入ったグラスをかたむけた。
帰ったら子育てがあるので、アルコールは入れないのだ。
ところでマーティン、いいのか?
お前が話したいことをさっさとぶちまけないなら……俺は、子供の話をするぞ。
いくらでもあるんだ、子供の話は。
「……結婚は人生の墓場だって話をな、職場ではよく聞くんだよ。でも……なんだ、お前を見てると『人による』としか思わないよな」
まあこの世のすべては『人による』からな……『絶対にこう』というのは、どのような立場であっても言えない。
しかし、結婚前にお前には『絶対に』しなければならないことがある。
それは……家事だ。
結婚後、専業主婦として契約を結んでもらって、家事を担当してもらうという手段もまあ、ないではないが……
家事をしたことのない者は、家事にかかる労力を軽視しがちだからな。
マーティンだって雇用主に『お前の仕事簡単じゃん。なんで片手間でできないの?』とか言われたら殺意の感情を取得するだろう?
お前が専業主婦の家事にかかる労力を軽視する言動を一つでもとった瞬間、拠点の安保と貯金まで掌握した殺し屋が発生する……
だから家事の苦労を知っておいたほうがいい。少なくとも子育てと家事は両立できないことを肌で感じておくんだ。
あと、俺、もうお前の家を掃除しに行くの難しいから……
なんでアラサーになってまで数ヶ月に一回ペースで幼なじみの家を掃除しに行かなきゃならんのだ。
俺には妻も子供もいるんですよ。
「レックスが女なら嫁にした」
そうですか……僕はいやですね……
お前なにげに結婚したら無自覚に暴君化しそうな気配があるから。
「……まあとにかく、お前の発言は正論すぎてムカつくこともあるけど、言ってることは正しそうだから、聞く価値があるんだよな。結婚について教えてくれよ。あと婚活についても」
まあ違う世界の話がどこまで役に立つかはわからないが……
俺はかつて『サクラ』をやっていた記憶などを思い起こしつつ、マーティンに助言をすることにした。
そうだな、まずは――
お前が女性だと思っている相手は、おじさんかもしれないというところから、かな。
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95話 招待状前
参考になったりならなかったりする経験を持つ人の今後をよろしくお願いします
価値観は時代とともにアップデートされるものだ。
現代の風潮をかんがみるに、別に『二十代で結婚する必要がある』とか『三十を超えて結婚していない女性が行き遅れ呼ばわりされる』とかいうことはない。
……まあ皆無ではないが、そんなことを言う人は頭の固い年寄り扱いされて、多くの人に相手にされないだろう。
だが、それでも知り合いにちらほらと既婚者が増えてくるのもやはり二十代後半ごろで、俺もサラが生まれてから数回、知人の結婚式に出席する機会に恵まれた。
……嘘はよそう。
『結婚式に出席する機会に恵まれた』とは思っていない。他者の主催する式典はなんであろうとだいたい面倒くさいから、『恵まれた』なんて思えない。
俺は人の幸せで喜べない人格の持ち主だった。
正直、『同じクラスで過ごした』程度の知り合いの結婚式とか、しかもそいつが俺のまったく知らない誰かと結婚するとか、『勝手にして』ぐらいにしか思えないし、本当なら出たくないし、なによりご祝儀とか払いたくない……
しかし、それでも俺は結婚式のお誘いは必ず承諾して出席した。
準備は面倒だった。時間をとられる。少額とは決して言えない金が飛んでいく。
それでも『おめでとう』という意を示したかったのだ。
処世術として相手の結婚式に出ておくべきだという判断はもちろんあった。けれどそれ以上に、『出席者の多さ』はのちに自信につながる。
自分を祝ってくれている他人の数は(それを『数』ととらえるのはいかにも非情な気もするのだが)、うまく言えないけれど、『力』になるのだ。
だからこそ俺は出席を迷ったことはなかった。
ためらったことはあるし、本音では『行きたくない』と思ったことはあるが、そういう後悔はいつも、出席の旨を記した招待状を返送したあとだった。
けれど、俺は今、『出席』に○さえつけられずに固まっている。
食事にも使っているテーブルの上は綺麗に片付いていて、上には一枚の招待状と、じきに二歳になるサラが乗るのみであった。
俺はサラを自分のふとももの上に戻し、招待状を見る。
それは、アンナさんの結婚式の招待状だった。
まったくの突然に送られてきたこの招待状は、俺をおおいに混乱させた。
『アンナさんには俺にいちいち交際にまつわる話を報告する義務がない』と言われれば、それはまったく正しいと思う。けれどあんまりにも唐突すぎて、俺はなんだか、わずかに不満のようなものを感じていた。
そもそも……アンナさんは保育所時代に俺を世話してくれたり、その後もなにかと俺をとりたててくれた恩人だ。
恋愛関係になったことは一度もない。そういった気配さえ漂ったことがない。
彼女は姉で、俺が弟だった。
俺は物思いにふける。サラが俺の拘束を脱してテーブルにのぼろうとする。俺はそれを止めて、また招待状を見やる。
そうだ、だからこそ、かもしれない。
彼女を姉のように感じていたからこそ、俺はこんなにも打ちのめされているのだろう。自分にかまってくれていた優しい姉が、いきなり『姉』ではなく『誰かの嫁』になってしまうことに、心がついてきてくれないのだ。
サラがテーブルをのぼろうとする。俺はそれを止める。
サラは「つくえ!」と叫ぶ。俺は机にのぼってはいけない理由を淡々と説明する……だが幼児に理屈は通じない。サラはあがく。俺は止める。そこは食事したり文字書きをしたりするところだから! お前のステージではないのだ!
もがくサラを抱きしめる。そのふわふわボディを堪能しながら俺は物思いにふける……そう、アンナさんは姉で、俺が弟で……サラが俺の拘束を脱する。
俺はサラを止める。なんだ、なにがそんなにお前をテーブルの上に駆り立てるんだ……こないだからやたらと踏み台昇降運動をしたがる……お前は将来トップに上り詰める人材だが、それは今ではない……だからテーブルに乗るな。
俺はアンナさんについて物思いにふける。思えば彼女との出会いは保育所のころで、それからしばらく同じ学園に通ったりしつつ……テーブルに乗るんじゃない。そんな低いところで満足するな。お前はもっと高みにのぼりつめる人間だ。だからテーブルはよせ。
お前の大好きな『りゅうおうさま』も言っていただろう、『フハハハハ! 自由にするがよい! ただし行儀は大事だ!』と……そう、テーブルの上にのぼるのは行儀が悪いんだ。わかってくれ、娘よ。
俺は物思いにふける……そう、『りゅうおうさま』といえば俺も幼児期に見ていた番組だが、俺がいよいよ三十歳をむかえようとしている今もまだ続いているのだ。すげーよりゅうおうさま……俺の経験した人生の半数以上より長寿やん……
違う、アンナさんのことで物思いにふけりたかったのだ。
しかし最近の娘は足腰がしっかりしてきていて、すごく動く。すごくのぼる。
縦方向への移動が特にすごいのは獣人種ならそういうものらしいのだけれど、親としては横移動より困るのでもうほんとおとなしくしてて……って感じだ。
子持ちは物思いにふけることさえままならない。
俺はサラの腋に手を差し入れて高くかかげた。
あんだけテーブルにのぼりたがったくせに、別に高い場所自体に執着はないらしい。テーブルよりも高く掲げてやったのに、『なんで?』みたいな顔をしている。
っていうか……あらためて見ると、でっかくなってる……
生まれた時は片手でも持てそうなサイズ感だったのに(実際に片手で持ったことはない)、今は両手でないと確実に落とす。
子供の成長は本当に早くて、親はちょっとした物思いにふけるような時間さえない。
ふと思いついて、俺は手にしたペンをサラに持たせて、テーブルのほうを向かせた。
そして、『それに、一つだけ、丸を描いて』と依頼する。
サラは使命に燃えた真剣さを背中から漂わせ、ペンを口に入れようとしたので、あわててやめさせる。
するとサラは不満そうにペンを口に入れようとする。やめさせる。サラの抵抗。やめろ。やめろ! それは口に入れるものじゃないんだ! なんでもかんでも口に入れようとするんじゃない!
しばらくそんな攻防があったあと、どうにか泣き喚くサラをなだめて、ちょっと躊躇しつつももう一回サラに丸を書くよう依頼する。
果たしてサラはようやく俺の意図を理解したように、招待状にぐるっと大きく丸を描いた。
その丸は招待状の大部分を覆うようなものだった。
まあそうなるよな。
こう、理想としては、サラが『欠席』か『出席』どちらかに丸を描いてくれて、俺はそれに従うということだったんだけれど……
子供は俺の迷いに答えを出してはくれない。
だから俺は迷いながら、自分で『出席』に丸を描いた。
「大人も迷うんだよ」
サラに言った。
通じている気配はあんまりないが、サラは俺の手からボールペンをとって、新しい丸を描いた。
こうして『出席』と『欠席』に一つずつ丸のついた招待状ができあがったのだった。
いや、出席するけどさ。
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96話 空漠~穴~
娘が……娘がテーブルを踏み台昇降している……!
それぞれの新しい人生をよろしくお願いします
結婚式前はいそがしくなるということを俺はもちろん知っている。
だからこそアンナさんからの『会おう』というお誘いに俺たち夫婦が子連れで出向いたのは、いそがしい中に会う時間を捻出してくれた彼女へのお礼という意味合いもあった。
そこは俺やミリムが入ったこともないようないかにも高そうな喫茶店で、俺たちは気後れしながら店奥のテーブルでアンナさんと再会した。
アンナさんは旦那連れではなかった。
また、やっぱりいそがしいようで、時間もあまりとれず、一時間ぐらいしかこうして話せないらしい。
「あー、サラちゃんだ! 写真いっぱい見せてもらったけど、実際に会うのは初めてかな? よろしくね」
とっくに三十歳になっている彼女は、まともに会えなかった数年間でさらにその美しさに磨きをかけていた。
ピアノ奏者という人に見られることの多い仕事がそうさせるのか、普段から見た目の手入れをおこたっていないのだろう。
『俺たちに会う』というそこまで気合いを入れなくてもいいこのイベントにおいても、彼女は髪も顔もきちんと手入れしていて、ただ、妙に野暮ったいメガネだけが美しすぎる彼女に対する親しみを思い出させてくれた。
しばらくテーブルに身を乗り出してサラとたわむれていたアンナさんは、名残おしそうにサラの小さな手を放すと、穏やかな笑みを浮かべて俺たちに向き直った。
「いやー、なんかいきなりだったね。もっと早くに連絡したかったんだけど、バタバタしてて。ごめんね」
アンナさんは会うたびに、しゃべりかたというか、表情というか、雰囲気すべてが柔らかくなっているような気がする。
それはやっぱり他者と接することの多い職業がそうさせるのかもしれなかったし、あるいは、結婚を控えた幸せがそうさせるのかもしれなかった。
今ここに、アンナさんの旦那となる人物は来ていないが……
彼女の顔を見れば、結婚は望んだものであり、周囲からも望まれたものであることは自然とわかる。
俺はつい、言った。
幸せなんですね。
アンナさんは一瞬おどろいたような顔をして、それから、笑う。
「そっちこそ」
そうだった、と俺も笑った。
「うん、よかった。二人が結婚してくれてよかったよ。特にミリムちゃん……」
ミリムがなにか?
「……あ。こうなるとレックスくんは『なんなのか』を聞くまで引き下がらないよね」
俺のイメージがすごい。
しかし間違っていない気がする。
俺は『言いよどまれること』にトラウマがある気がした。
それはなぜかわからないが、心の中に『言いよどまれたことを追求し損なうと、永遠にその時に言いかけた言葉を聞くことができない』という謎の焦燥感があるのだ。
「ミリムちゃんはほら、レックスくんに色々助けてもらってたから。それで昔から好きだったんだよね」
……俺はなにかをやったのだろうか?
こわい。
記憶がない……ミリムに俺はなにをしたんだ? なぜ『なにかをした』という記憶がないんだ?
まさか……何者かが俺の記憶に介入をしている?
あるいは、俺も意識しないあいだに、俺の意識がなにものかに乗っ取られている?
アンナさんは「あ、また黙ってなにかよくわからないこと考えてる」とつぶやき、それから言う。
「ほら、今はそうでもないけどさ、あのころは獣人種って珍しくって……みんな、ミリムちゃんをさ」
……まさか、いじめが?
「ううん。すごく異常にかわいがってて……私もだけど。それがうざったかったみたいで」
ミリムを見た。
彼女は目を閉じて深くうなずいていた。
「それでさ、そばにレックスくんがいると、人が寄ってこないでしょ?」
え、待って待って待って。
なんで俺がそばにいると人が寄ってこないの?
「表現が難しいから、今度そのテーマで作曲するね」
マジで? 俺のそばに人が寄ってこない理由、旋律でつづらないと説明できない?
言語より高次のコミュニケーションでしか語れないとか、どうなってるんだ。
「いやほら……誰でも触りたくなるじゃない、耳とか、しっぽとか。それがイヤだったみたいで。レックスくんのそばにペッタリとくっついてると、人が寄ってこないから安心できたんだって」
そうは言うが、俺もけっこう、ミリムの耳とかしっぽ触ってた気がするんだけどな。
「レックスくんは穴しか触らなかったって」
穴?
「しっぽ穴」
……ああ~……
そんな記憶がよみがえってきたわ。
穴をいじくる幼児とか完全にエロワードじゃん……
俺はへこんだ。
「そういえばサラちゃんのしっぽ穴も自分で開けてるの?」
そうですね。
「じゃあ……触られないといいね。穴。伸びちゃうもんね」
たぶんアンナさんにシモネタを言ってる意識は全然ない気がするんだが、俺がもう『穴』をエロいものと認識してるので、アンナさんがめっちゃシモネタ振ってくる人みたいになってしまっている。
いや、振ってるのか? 実はシモネタを振っている?
わからない……アンナさんはすべてを受け入れるかのような優しい笑みを浮かべているだけだ。
すべてを受け入れる人が穴の話をしてると思うだけで、俺の心は男子中学生当時に戻れた気がした。
俺たちは幼いころから今までのことを話し続ける。
そして話題が会っていなかった数年間に移り、続いて未来についての話を多少したところで、アンナさんにタイムリミットがおとずれた。
「あ、そろそろ戻らないと。実は本当にバタバタしてて、衣装合わせがまだ終わってないの」
それかなりヤバい進行では。
俺はつい進行についてコメントしそうになって、しかしそんなことよりもっと、伝票を持って去ろうとするアンナさんに言うべきことがあるのだと気づく。
アンナさん、ごちそうさまです。
「あ、うん」
あと、ご結婚おめでとうございます。
「……うん」
アンナさんは笑って、去って行った。
俺はサラを抱いたまま、彼女の長い金髪がサラサラとなびくのを見送った。
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97話 人生初の?
親父になった主人公の人生をお楽しみください
あと娘の成長も(娘の性別、転生者か否かはサイコロ振って決めました)
アンナさんの結婚相手が一目で『すべてを持っている』とわかるイケメン野郎(しかもいい人オーラがにじみ出ている)だったのに妙なジェラシーを感じつつ、俺たちは帰宅した。
家に帰ると食卓について一息つくのがルーティンと化していて、この時ばかりはサラがテーブルにのぼるのを止める気力が、俺たち夫婦にはなかった。
まあ疲労はするとはいえ、子供を連れての結婚式出席も慣れたものだった。
というか俺よりサラのほうが慣れている感じだった。外だと本当におとなしいし、言うことを聞く。
学習能力も高いし、運動能力も高い。
というか物事ののみこみが早いのだ……そう、まるで、これが初めての人生ではないかのような、すでにあまたの経験をしているかのような……
俺は悪い予感を覚える。
まさか……サラは異世界転生者なのではないか?
この疑いを抱いた俺は発声器官の許す限り、記憶している異世界言語でサラに語りかけた……
だがサラは楽しげに笑うだけで異世界言語に反応しない。
俺の知らない言語系統の異世界から来た可能性も捨てきれないし、サラ側が俺を警戒している可能性もあるだろう。
俺はミリムに相談した。
うちの子が天才すぎるから、ひょっとしたら人生二周目以降なのかもしれない。
「いや……そういうのじゃないと思うよ……レックスみたいな感じじゃないもの」
ミリムには俺が転生者ということで話が通っている。
それを信じているかは、正直微妙だったのだが……今の発言を見るに、ミリムは『異世界転生』というものを普通に受け入れている様子だった。
「だいたい、天才って具体的にはどういうところからそう思うの?」
具体性を問われると困るな。
所作一つ一つというか……スプーンの使い方が超うまかったりそういうあたり。
三歳になる前だっていうのに、食事をスプーンで投げ捨てたりしない。
絶対に最初から食器の使い方を知っている動きだ。
「うーん……いや、最初のころはスプーンのこと投石機みたいに使ってたよ。ご飯とか投げ捨ててたよ。レックスも見てたでしょ」
そうだっけ?
俺の記憶では『最初から完璧だった』ことになってる……
……!?
まさか記憶への干渉を受けているのか!?
「受けてないよ……レックスは記憶したいことしか記憶しないから……」
ミリムは俺の『記憶したいことしか記憶しないエピソード』を挙げてくれた。
それは実に多岐にわたった――中には俺の母から聞いた話も混ざっていて、なんと、この俺の人生において、アンナさんのことを忘れていた時期が存在するらしいという話もあったぐらいだ。
俺は人生においてアンナさんを忘れたことなど一度もない……
しかし母は『レックスがアンナちゃんを見て「この人誰?」みたいな顔をして、それでアンナちゃんが怒っちゃってね』と語ってくれたのだという。
その話、俺、参加してない……
というか嫁と
その会合恐い。遠くで見てたいような、見たくないような……
「とにかくレックスは昔から、思考のスイッチが入ると暴走するところがあるから……」
ミリムは淡々と『ミリムから見たレックス』について語り始めた。
それは俺の認識していない俺の話だった。
まず、俺はどうやら世間では『しゃべってる最中、たまにピタリと話を止めることがある人』のようだった。
続いて『黙りこくったあとに妙なことを言い始める人』でもあるらしい。
それゆえに『思いつきで行動をする人』に見えているのだとか。
さらには『沈黙がこわい(いい意味で)』人だとも言われた。
(いい意味で)ってなんだよ。
「……パンパンにふくらんだ袋とかをさ、つぶすと、『パンッ!』って鳴るじゃない。『パンッ!』って鳴る前のつぶしてる時間、ドキドキしない?」
えっ、それ、今の俺の質問に対する回答?
「そう」
ミリムはたまにちょっとよくわからない表現をする。
主語が足りないこともあるし、国語が苦手だったのかもしれない。
「とにかくレックスとは全然違うから、そういう心配はいらないよ」
ミリムはあまり断言をしない。
『かも』や『と思うよ』などを語尾につけて発言にあいまいさを持たせることが多いのだ。
その彼女が心配はいらないと言い切るのだから、きっと、俺には説明しがたい彼女なりの根拠があるのだろう。
しかし、追求せざるをえないセンテンスがあった。
サラが――俺と、全然違う?
鼻筋とか似てるだろ?
「鼻筋は……わたしかな……。目とかも……わたしかな。……わたしだね」
いや、鼻は……俺でしょ。
俺とミリムは見つめ合った。
そして――
人生初の、夫婦げんかが始まったのだった。
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98話 甘すぎるもの
適度にケンカもする夫婦の将来をお楽しみください
四月生まれ最強説を推している。
四月から年度が始まるこの社会において『四月生まれ』と『三月生まれ』にはかなりのスペック差が生じる。
もちろん『教育』によってその差は縮まり、大学受験をするような年齢になれば頭脳でも肉体でもほぼスペック差は消え去るだろう。
しかし幼児期の肉体的スペック差はやはり無視できないものがある。
うちのサラは五月生まれだ。
本当は四月生まれにしたかったが、四月は出産のための休みがとりにくいという判断をしたため、五月生まれになるよう調整したのだ。
まあ、連休中に生まれてほしいという計画は、その通りにはならなかったわけだが……
ともかく、サラは強い。
強いというのも不便なものだ。
特に同級生との身体能力的な差が大きいと、ちょっとしたことで相手にケガなどを負わせかねない……
このあたりを言い含めるだけで配慮させられたら、どんなに楽か。
二歳になったサラはとにかく『イヤ』が多くなってきていた。
俺がなにかを言えばとりあえず否定をし、ミリムがなにかを言えばちょっと考えてから否定をし、自分で積んだ積み木はなぜか不満げに崩すし、本棚の中身とかも勝手に並べ替えて、そしてやっぱり納得いかない様子で本を投げ捨てたりもする……
頭では理解していたことだが、今は実感をともなってわかる。
『子供には、子供なりのこだわりがある』。
『子供は素直』というのは幻想だ。『親の言うことは絶対』というのも幻想だ。
子供には子供なりの、大人からすればまったく理解のできない美学がある。
子供とは、美学をもとに行動する『一つの人格』なのだ。
ならば一つの人格を相手にするなりの下準備をせねばならない。
そして俺は『わからないことは、まず知る』というのが信条だった。
そのような理由で時間をとってもらった本日のゲストのシーラさんです。
よろしく。
「……いや、いいんだけどね」
静かで狭いこの喫茶店は、俺がシーラに法律関係の相談をするさいによく利用する場所だった。
なにを隠そう、シーラの現在の職業は弁護士なのである。
しばらく弁護士をやって、そのうち親の地盤を継いで政治家になるとかいうルートを歩んでいるのだった。
レールの上の人生だ。俺はうらやましいが、シーラはそうでもないらしく、そのへんのことに触れないのが俺たちのあいだでは暗黙のルールとなっている。
六月を迎えて気温は例年をはるかに上回る高まりを見せていた。
俺たちが喫茶店で注文したのは冷たいコーヒーとサラ用のジュースであった。
サラはミリムの膝の上でおとなしくしている……そう、外面がいい子なので、あんまり知らない相手の前だと、家での暴虐ぶりを隠蔽することを知っているのだ。
「っていうかなんで、子育てについての相談であたしに来るの? ないんだけど、経験」
子育ての経験を分けてほしいのではない。
四月生まれの経験を分けてほしいのだ。
お前が幼児の時、どういう配慮をしていたか、また、どうしてそんな配慮をしようと思ったのか、そういうあたりを教えてほしいんだ。
「あの……覚えてるわけがないんだけど……」
ほんの二十五年ぐらい前の話なのに?
……あっ、マジで? もうそんなになる?
感覚的には数ヶ月前まで幼児だった気がするのに、俺はもう三十を迎えようとしているのだった。自分で言って自分で愕然とした……
俺、もう二十八歳やん。
「あの、自分で言って自分でショック受けるのやめてもらっていい? っていうか同年代にショック受けられるとあたしもなんだかショックだわ……」
しかもシーラは四月生まれだもんな。俺より一歳上……
「一歳も上じゃないんですけど!? せいぜい八ヶ月とか――ってそんな話はどうでもいいのよ。……あのねえ、レックスのことだから、またおかしな考えをもとに、あたしに相談に来たんでしょうけど……」
どうやら友人・知人のあいだで俺は『おかしな考えをする人』であると根強く支持されているらしかった。
普通であろうとして生きてきた二十八年間はいったい……
「そういうのは、四月生まれ本人よりも、四月生まれの子供を育てた経験のある人に聞くべきなんじゃない?」
つまりシーラの両親か。
しかし……俺はシーラの跳ねた赤毛を見つつ記憶を探る。
シーラの両親……その容姿さえ記憶にない。というか会ったことはあっただろうか? シーラの勝ち気そうな顔立ちも、クセの強い赤毛も、高い身長も、それらは両親由来のものなんだろうけれど、彼女を見てたって全然思い出せない。
「まあ、行事に来るような両親でもなかったし、あんたは知らないかもね。っていうか、大人の事情があって、あの学園の子たちとつきあいが深まるのをよく思ってなかったみたいだし。出身校による派閥があるみたいで……」
俺は当時子供だったのでよく知らなかったが、シーラが初等科修了と同時に転校していった背景には、政治家をやっているシーラパパの政治的派閥移籍が関係していたっぽい。
「……まあ、うちの両親にいきなり『子育てについて教えてください』って言いに行っても、門前払いされるでしょうね。だから、あんたらはあんたらでがんばりなさいよ。あたしは力になれそうもないから」
シーラはどこか吐き捨てるような様子で言っていた。
しかし俺はサラがオレンジジュースを一口飲むたびびっくりしたような顔をして俺たちになにかをうったえようとするので、そっちの対応でいそがしくて、シーラの内心にまで踏み込めなかった……
サラ、お前、なんでオレンジジュース初体験みたいな顔するの?
それともこの喫茶店のオレンジジュースそんなにおいしいの?
俺も頼もうかな……いやまあ、あまるか……
俺はシーラに言った――ごめん、言葉の後半聞いてなかった。
「……あたしじゃ力になれないって話よ」
シーラはぶっきらぼうに言った。
サラがオレンジジュースを一口飲んで、またこっちの顔を見る。
なんだ、なにをうったえたいんだ……サラはとっくにある程度の言葉を操れるのだが、それはまだ達者ではないせいか、目が口以上にものを言うのだ。
うちのサラはぱっちりおめめのかわいい子なので、目をまんまるに見開くと本当に目がでかい。アニメかなんかのヒロインみたいだ。あるいはお姫様なのかもしれなかった。
俺はついに耐えきれずに言った――パパにもジュースを一口ちょうだい。
しかしサラは首を横に振る。びっくりした顔のまま首を横に振る。最近、サラは俺の発言を耳にするととりあえず首を横に振る。反抗期だろうか。早くない? それともうちの子は成長が早いのだろうか……
俺はショックを受けながら言う。シーラ、お前も反抗期早かった?
「だから覚えてないって言ってんでしょ!? 聞きなさいよあたしの話!」
どうして怒ってるんだろう……
シーラにはよくわからないポイントでキレる悪癖があった。それはどうにも治っていない様子で、彼女との会話は地雷原を歩いて抜けるかのような緊張感が常につきまとう。
俺はシーラをなごませるつもりでサラに言う。サラ、お姫様のポーズをとれ! サラはお姫様のポーズをとった。
俺の言うことに逆らいがちなサラは、しかしアニメで見たお姫様のポーズだけは誰に言われてもやるのだった。
しかしもう一度ジュースちょうだいと言うと、サラはやっぱり首を横に振る。
俺は悲しくなってきた。そのうち洗濯物もパパと同じ洗濯機で洗わないでとか言い出すんだろう。俺はサラさんにおうかがいをたてる。あの、姫、抱きしめてもよろしいですか?
姫はミリムのふとももから俺のふとももへ移動した。俺は姫を抱きしめた。まだまだ脂肪分が多い幼児の体はふわふわで温かくて、俺は生命のぬくもりを感じた。
「レックスはほんと、会話してる相手を放っておいて変なことやりだすわよね」
お前をなごませようと思って……
「なんでそうなるのよ」
どうやらシーラは『お姫様のポーズ』だけではなごまない、かたい心の持ち主のようだった。
仕方がない……
俺はサラの大きな真っ黒い目をじっと見る。姫、あの赤い髪の人をいやしてさしあげなさい……
俺は今、たいていの問題はサラのいやし効果によって解決すると思っているので、妙にいらだっているらしいシーラの機嫌も、サラによって治ると信じていた。
さいわいにもサラさんは珍しく俺の指示にうなずいてくださったので、いったんミリムにサラを返し、ミリムがサラをシーラのところまで運搬した。
しかしここでシーラは変なごねかたをする。
「こ、子供はいい。あたし、子供との接しかたわかんないから……」
本気でいやがってるんだったら『なら仕方ないな』と引き下がるのだが、シーラがサラに興味津々なのは視線の動きでバレバレだった。
親というのは自分に向けられる視線以上に子供に向けられる視線に敏感になるものなのだ。嘘やごまかしは通じない……
押し問答を三回ぐらいしたすえに、シーラにサラをあずけることに成功した。
シーラはこわごわとサラに触れる。サラは外面がいいのでおとなしい。というか自分をかわいがらせるのを自分の仕事だと思っているフシがあった。あの年齢にして自分には役割があると認識し、その役割をこなしてみせる。天才だった。
「……あ、一個だけ思い出しちゃった」
シーラがちょっとだけイヤそうな顔をした。
「ここまで小さいころの話じゃないけど、初等部時代とかさ、あたし、レックスによく、つっかかってたじゃない。アレね、両親の影響だわ」
初等部時代っていうか、俺の人生でシーラと衝突してなかった時代のほうが珍しい。
「『一番をとれ』って言われてたのに、あんたが常に立ちふさがって……まあ、ほんと、気に入らないヤツだったの、思い出した。……そうね、そこから教訓めいたものを言うなら……『一番を強要しないであげて』ってことかな。一番になれるかどうかなんて、同じ時代に誰がいるかによって変わるんだから」
強要もなにも、サラは俺の一番なので……
一番をとれとは言わない。なぜなら、もう一番だから。
「……やっぱ、あたし、子供苦手だわ」
サラが帰ってくる。
シーラが全然口をつけていなかったコーヒーを飲み干した。
「もっと大人にならないと、やっぱり苦いものね」
砂糖入れろよ……
とは、言わなかった。なぜか、それはコーヒーに対しての感想ではないように思えたからだ。
「じゃあね。相談料はいらないけど、コーヒー代はよろしく」
こちらの都合で弁護士先生を呼び出したので相談料ぐらいは払う腹づもりでいたのだが、うまくかわされた。
それは俺にとって無駄な出費ではないので払うと食い下がりたかったが、シーラの行動は迅速で、俺がなにかを言う前に、サラをミリムに渡し、彼女は店を出て行ってしまった。
俺はまだ残っているコーヒーを見つめ、それからオレンジジュースに視線をやった。
パパにもちょうだい。
再三のお願いについにサラが折れて、俺はオレンジジュースを飲むことに成功した。
そのあとに飲んだコーヒーはやたらと苦くて、俺は自分で『砂糖入れろよ』と思った。
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99話 さよなら、○○○○
あらゆる生命を尊重しながら生きていく主人公をよろしくお願いします
それは五年ほどで死ぬ生命なのだという。
スライムという生き物がいた。冷たくてプルプルした謎の生命体だ。
科学世界においては『ありえない』と一蹴されそうな体構造をしたそいつも、魔力というエネルギーが生命にあるこの世界においては普通に存在するし、なんなら愛玩動物として一般的だ。
幼いころだ――俺は最初こいつを見た時に『なんだあの不気味な生命は……』とドン引きだったのを覚えている。
当時の俺にはスライムに対する抵抗感があって、以下のようなことを考えていた。
こんなものが『かわいい』ともてはやされて、毎朝の番組では特集コーナーまで組まれるのだから、この世界の人類は不気味だなと思った。
まあしかし? 俺もこの世界で生きていくわけだし? 世間的には『かわいいもの』らしいし? まあ見てやるか。俺は絶対に『かわいい』だなんて思わないけどさ。
ふぅん……跳ねるじゃん。すっげー跳ねるじゃん。なんだその嬉しそうにピョンピョンするそのそれ。ふぅん……
へぇ……温厚なんだ。ああ、変温動物なのね。でもあったかいのが好きだから人に寄ってくると。へぇ。
軟体っぽいけど、けっこう丈夫なんじゃん。幼児ぐらいなら上に乗れるんだな。でも振り落とされてケガとかするんだろ? ……あっ、なるほど。乗せた相手には結構配慮できる知能があるのか。そもそも信頼した相手じゃないと上に乗せないのね。へー。
動画とか見てみようかな。
しゃべるスライム? バッカじゃねーの? しゃべらないよ。ぷるんぷるんって……いやこれそもそも鳴き声でさえないじゃん……うーん、でもまあ、『ごはん』って言ってるように聞こえるかな。
『エサがほしすぎる子すらがむっちゃ体を登ってくる動画』? ……へぇ。ぴょんぴょんじゃん。ぴょんぴょんしてるわ。あっ、主食マシュマロなんだ。食べ物までかわいいとかなんだよお前……お前……
そんな経緯で、幼い日の俺は気づけばスライムのことばかりを考えるようになっていた。
当時はまだ子供だった。
収入は当然なく、また、スライムという一つの生命を世話する余裕さえなかったし、そんなものを飼うことに『かわいい』以外のメリットも見いだせなかった。
だが、『かわいい』は特大メリットだ。
そして……今は言い訳ができてしまう。
「スラたん」
三歳の誕生日になにがほしいか娘に聞いたところ、スライムを要求されたのだった。
そう、これで俺には『理由』がそろってしまったのだ。
『かわいい』という特大メリットに気づいた。
娘から要求されている。
しかもスライムの寿命は五年ほど……娘が八歳ぐらいになるタイミングで、『生物の死』を経験することになる。それは情操教育的にいいことだというデータがあるのだった。
まいったな……どう考えても『理由』がそろってしまっている……
『理由』がそろったなら……やらないといけないよな。
よし、じゃあサラ……ママに許可をとろう。
「ママはちゅよい……」
この『わかってる』感じ……やはりサラは同世代の平均よりだいぶ頭がいい。
普通の三歳未満はここまで意味のある会話ができないはず……いや、どうかな……なんか最近の子、賢いんだよな……
まあいいや。サラは賢い。
ともあれ俺とサラは真剣な顔をして見つめ合い、うなずきあった。
ママは強い。なにがどう強いのかと言われると、俺なんかは『握力』と答えたくなるのだが……そういう説明できるアレじゃなくて、説明できない力関係みたいなものが、俺たちのあいだにはある。
俺はサラの両わきに手を差し込んで『サラシールド』のかまえをとった。
なにか大きめの決断をようする意見を通したい時、俺が非武装で行くよりも、サラシールドをかかげて行くほうが、意見を通せる確率が上がるのだ。
ミリムは親子の寝室で執筆中だった。
最近は夫妻かねてからの目的である『小説か漫画による副収入』を目指して、創作活動をおこなっているのだった。
俺はサラシールドをミリムへ突き出すようにして接近した。
俺はたずねる――サラ、三歳の誕生日になにがほしい?
「じゅーす」
お前えええええええ!
お前! 裏切ったな!
俺はサラシールドのかまえを解いて、いったんサラを床におろした。
地面にはいつくばるようにして、娘とひそひそ話をする。
違うだろ? お前はさっきなんて言ってた?
「パパ」
そうだね。
そうだねではない。
俺は心を尽くしてサラの記憶を刺激した……ほら、さっきパパと一緒に
こういう朝の時間にさ、毎日、見てから保育所行くほら……『ス』で始まる……そういう動物がさ……ぷるんぷるん、ぴょんぴょん、って……
ところがサラ、おもむろに立ち上がり、ミリムのほうへ歩いて行ってしまった。
こ、行動が読めない……
四つん這いになってうちひしがれる俺の前に、サラを抱いたミリムが来た。
「レックス……だめだよ。サラの記憶は長くはもたないんだから……」
そうだった。
幼児の記憶は長くはもたない……
っていうか『同じ話題を続ける集中力』がない……
「自分の要求は、サラを通してじゃなくて、自分で言わないと」
言われてハッとした。
そうだ、俺はスライムを飼う理由がそろうのを待ち続けていた。
理由ができたから仕方ねぇなあとか言いながら、その本心では、常にスライムを飼う理由がそろうのを待ち続けていたんだ。
スライムを飼うのは――サラに求められたからじゃ、なかったんだ。
俺の、夢だったんだ……
「レックス、なにかあるなら、言って」
ミリム……俺はさ……
スライム、飼いたい……
小さいころからの夢だったんだ……
「レックス……この賃貸……ペット禁止……」
あっ……うん……
うん……
さよなら、スライム……
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100話 わくわくどうぶつふれあいパーク
この物語には多くの生き物が登場したり想像上で登場したりします
引き続きレックスという生き物をよろしくお願いします
モンスターハウスだ!
そこは正式名称を『わくわくどうぶつふれあいパーク』といって、様々な生き物と気軽に触れあうことのできる場所だった。
五月の長期休暇のあるうららかな日、俺は家族連れでこの『わくわくどうぶつふれあいパーク』におとずれていた。理由はもちろん動物と触れあうためだ。
俺は嫁と娘にあらかじめ言っておく。
いいか二人とも、この『わくわくどうぶつふれあいパーク』への来園は俺が望んだことだ。だから俺は……俺が好きな動物と触れあう。俺の望みを叶えに来たんだ。
嫁は静かにうなずいて、娘も同じうなずきかたをした。
クソ、似てるじゃねーか。
できれば娘には俺と似ててほしかった……だが、そもそも娘のサラと嫁のミリムは両方獣人種なのだ。人種がどうこうという問題は聞いてるだけで疲労するので取り合わないことにしているのだが、こうなるとさすがに人種の壁を感じてしまう。
今度俺用の獣耳としっぽを用意しよう……心に秘めながら三人分のチケットを買って入園した。
目的のスライムは屋内飼育だが、園の七割をしめる屋外スペースにも実に様々な生き物がいる。
屋外飼育されてる中で人気なのはウサギなどの小動物系と、『乗れる』系の生き物だ。
中でも『ウマトカゲ』の男の子人気がヤバい。まあウマトカゲは『騎乗できる恐竜』って感じの見た目なので、男の子は恐竜好きだよな。
俺は……俺は恐竜にいい思い出がないからやめとくわ(※そもそも大人は騎乗体験できない)。
まあ俺がイヤな思い出を持ってる相手は正しく言えば『恐竜』ではなかった……そう、かつて過ごした世界での記憶だ。
そこでは恐竜に酷似した生き物が闊歩していた。そいつらは単一の国家みたいなものを形成していたんだけれど、『生まれによる格差』がひどすぎて、俺はもちろん最底辺弱者という立場だったのだ。
ちなみに格差っていうのはようするに『デカい種族に生まれたヤツが強い』みたいな、思想とか信条とかそれ以前の問題で、なんていうかどうしようもなかった。
その世界での絶望的な気持ちがよみがえるので恐竜っぽい生き物はダメなんだ。
さっさとスライム飼育スペースに行こう……俺は足早にウマトカゲスペースを通り過ぎようとした。
しかし……
「あれ」
サラがウマトカゲに興味を示した!
俺は腕の中のサラに言う……サラ、パパは……大きめの爬虫類がダメなんだ。なんていうか、いじめ殺されそうな気がする。あいつら豪快そうに見えて意外と陰険だからさ。性格悪いんだよ。ほら、見てみろ、あの血も涙もない感じの目……
しかしサラはウマトカゲに夢中で、俺が離れようとするとゴネる。
俺は対話を試みた……しかし三歳と化したサラは力強く暴れ、俺の腕から抜けようとする。うわっ、なにこれ、三歳児強い……暴れる。叫ぶ。今にも俺の腕を脱してウマトカゲへと躍りかかろうとする。
まずい、サラがめっちゃ叫ぶので注目が集まり始めた……
しかし俺は落ち着いている。人生経験の豊富さは伊達ではない。
持ち前の冷静さでサラが暴れ、叫び、周囲がこちらを見ている状況を客観視した。その狂騒の中央にいるのは子供がゴネるのにあたふたする三十路間近の新米パパだった。あたふたしてやんの。ウケるー。
客観視したところでなにも解決しない。
わかったわかった……俺は大人の余裕を発揮することにする。
サラ、わかったよ。お前がウマトカゲに乗りたい気持ちはわかった。もっとこう、ウサギとか小動物系に興味を示してくれるとやりやすかったんだが、まあ、時代はもう『女の子だから』とかそういうこと言うような感じでもないしな。
そこまでしてお前がウマトカゲと触れあいたいなら、要求を飲もう。
ただし人生は等価交換だ。お前がウマトカゲに乗りたいというわがままを通そうと思うなら、俺のわがままも通させてもらおう。いいな?
ちなみに俺の言葉を、サラは叫ぶことでスルーした。
三歳児ッ……!
言葉が通じない……!
しょうがない。俺は切り札を使うことにする。
サラッ! お姫様のポーズだ!
すると暴れていたサラは一瞬でお姫様のポーズに移行した。
なぜかこの指示には反射的に従うのである。そしてポーズをとらせると一瞬だが叫びやむのであった。
そしてお姫様のポーズをとるサラに問う……乗りたいか、ウマトカゲ?
「のる」
そうか。でも、パパはあの生き物嫌いなんだ。
「のるの」
うん、わかった。じゃあ、『お願い』をしてみよう。「のるの」じゃなくて「のってもいい?」って、まずは聞いてみてくれるかな?
「のってもいい?」
しょうがないな。いいよ。
俺は折れた。
サラを地面におろし、手をつないでウマトカゲ騎乗の列に並ぶ。
列が縮まり、ウマトカゲが近づいてくるとやっぱり嫌悪感があるが……
まあ、しょうがない。
俺は、俺の趣味で『好きな動物』と触れあうという俺の望みを叶えに来たが……
俺が一番好きな動物は『人類』……それも娘がその中で一番好きなのだから、しょうがない。
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101話 ほうれんそう
子育ての悩みが襲い来る人生を引き続きお楽しみください
俺は最近、男が滅びればいいと思っている。
冷静じゃない。自己分析をしよう――そう、この高い攻撃性は、警戒心のあらわれであり、防衛のためのものだ。
大事なものが危機にさらされるがゆえに、俺はこんなにも男……特にゼロ歳から四歳ぐらいまでの男に対する警戒心が高まっているのだ。
なぜって最近、サラがキス魔。
サラというのは三歳になった娘である。
保育所では乳児のお世話をまかされた影響か最近とみに大人びてきて、どこか物憂げな表情など浮かべるようにもなった。
最近は「はたらくのってたいへんね」とか意味深なことを言われて、『なにがあったお前……』ってなってる。
その大人びたことに関係があるかどうかはわからないのだが、最近、サラはかなりキスをせがむようになっている。
俺にだけじゃない。俺の父母にも祖父母にもだし、もちろん妻のミリムにもだ。
ちなみに今、保育所にサラをお迎えに来ているわけだが――
俺の目の前で、乳児にキスをしていた。
ちなみにその乳児は性別・男だ。
許せない。
……そう、俺は冷静ではないのだった。
普通に考えよう。
もし、三歳児とゼロ歳児がキスしていたら、大人はどう思う? ――そう、『ほほえましい』と思うはずだ。俺だって、小さな子同士がキスしていたらほほえましく思う。
ところが『片方が自分の娘』となっただけで、俺の心には謎の炎が燃え上がるのだ。
これは……嫉妬? 憎悪? 憤怒? わからない。こんな感情には覚えがない。しかしこの黒い炎は身を焦がすほどに燃え上がり、ふとした瞬間、よそ様の子に『滅びよ』とか思いそうになるほどであった。
この炎は次第に強く大きくなり、今ではサラがよその男(乳児)とキスをしている時だけではなく、親族とキスをしてる時も燃え上がってしまう。
俺は独占欲が強すぎるのか? 娘を束縛しすぎるのか?
自己分析し、世間と自分との乖離について思いをはせた。冷静に、そう、つとめて冷静に考えるんだ。
サラは娘だ。いつまでも手元に置いておけるわけではない……
実家暮らしをいつまでするのか、結婚はするのか、どんな職業に就くのか……それはまだわからないが、いずれ親の手を離れる日は必ず来るだろう。なんせどうがんばっても俺のほうが先に死ぬわけだし。死ぬって。先に死ぬよ。
そうするとサラは俺の手を離れていくのだ。
その時に、強い独占欲や束縛は、サラにとっての重荷とな……ダメだ。無理だ。『サラが離れていく』と考えただけでストレスで吐きそう。
しかも俺の論理的頭脳が『先に死ぬけどそれは順当な場合で、事故とかに遭うとその限りでは』とかいうイヤな現実を突きつけてくる。やめろ。俺は思考を打ち切ろうとした。しかしできなくてとりあえずストレスで吐いた。
保育所トイレの低い洗面台で顔を洗いながらなおも考える。
滅びよ……滅びよ……俺とサラ以外の人類……黒い炎が意思をもって体内で暴れ狂う。ダメだ。冷静になれない。
なんでこんな妄想でここまで心乱れるんだ。これが、『親』ということか……!
冷静になるために携帯端末を取り出し、誰かに連絡をしようと思った。
名前順の都合でアンナさんが最初に目についたので、アンナさんに通話した。いい加減アンナさんの苗字を結婚後のものに変えなきゃならないなと思考の端でチラリと思う。
音楽家のスケジュールについてはわからないのだが、休憩中だったのか、就労時間以外は演奏しないのか、アンナさんはわりと早く通話に応じてくれた。
「もしもしレックスくん? どうしたの?」
サラが他の男にキスしてて……俺は世界の滅びを願ったんです……
「なるほど」
あとから思い返せばどのへんが『なるほど』なのか全然わからないのだが、アンナさんは黙って俺の愚痴を聞いてくれた。
サラがお迎えを待っている都合上そう長くは話せないので、俺は愚痴をわかりやすく整然とまとめる必要にかられた。
サラが最近、誰かれかまわずキスをするので、パパはすごく嫉妬とか憎悪とかしてる。
俺は……独占欲が強いのでしょうか?
「独占欲は強いと思うけど、うーん、ごめん、答えられないや。だってわかんないもの」
そりゃそうだった。
アンナさんはまだ子持ちではないのだ。
「今年の夏ぐらいに産まれるからそしたらサラちゃんに会わせにいくね」
あっ、はい。わかりました。
えっ? 産まれる?
「赤ちゃん。私の」
あっ、そうですよね。
この文脈でいきなり飼い犬の子とかはないですもんね。
じゃあ妊娠中のお忙しい時に失礼しました。
今度またみんなで食事でも。
はい。
通話を切った。
……えっ? 妊娠?
夏に出産?
アンナさんに子供ができる?
冷静に考えれば既婚者だしそういう可能性は当然あるのだが、なんだろう、俺はおどろきのあまり頭が漂白されて、結果として悩みを忘れることができた。
ありがとうアンナさん。
えっ? 出産? マジで?
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102話 人生初の『大成功』
レックスくんは必死に人生を、作者はアズレンをやっています
結婚とおめでたにまみれた陰謀うずまく(※感じ方には個人差があります)この世界をよろしくお願いします
『国』を感じている。
人は大きすぎるものを『背景』だと思ってスルーしてしまうことがあるようだ。
たとえば普段から目にしているはずの山などでも、『ほら、近くに○○っていう山があって』と言われて『そんな山近くにあったっけ?』となることがままある。
『国』というのは当然ながら山よりでかいので、その存在を認識する機会はまれだ。
しかし俺は今、『国』を感じている――
正しく言えば国民皆保険を感じている。
病院に来ていた。
『まじない師』『祈り屋』『巫女』――名前やありかたは違えども、『人の病やケガを治す場所や人』という概念が存在しない世界は皆無だった。
この世界にも病院はある――というかまあミリムの出産の時にも利用したし、子供はなんかすごい風邪とか引くのでよく『病院』には来る。
そのたびに普段支払っている保険料の恩恵を得ているはずなのだが、今、俺はかつてないほど保険のすごさを感じていた。
俺が風邪引いた。
診察・治療のための諸経費を払って明細を見ていると感動を覚える。
えっ、マジで? 保険に入ってるとそんなに診察代引かれる? ってことは入ってないとこのぶんがお財布から飛んでいく? ええー、マジ? でもまだ元とれてないし、もっと積極的に風邪引こ……って感じだ。
家に帰って『隔離スペース』に入る。
隔離スペースというのは我が家における『開かずの間』であった。
家族三人で過ごすには決して広いとは言えない賃貸ではあるが、『普段誰も使わない部屋』を一つ用意してあるのだ。
そんな部屋を用意している理由はいくらかある。
一つは将来的に娘の部屋にしようというもくろみがあってのこと。
あと、俺たちはけっこう仲がいい夫婦ではあるけれど、一人でいたい時もきっとあるだろうから、そういう時に利用する空間を確保しておきたかった。
なにより、こうやって風邪を引いた時などに家庭内パンデミックを避けるためだ。
俺は隔離スペースに入り、眠りにつく。
しばらくは眠れず現実と夢の境界をさまよっていた……そのあいまいな意識のまま考えたことがある。
これは現実なのか?
人生がうまくいきすぎている感じがある。もちろん努力はおこたっていない……しかし人生とは、努力したからどうにかなるという程度のものではなかったはずだ。
どうにもならないことはある。実際にあった。転生後に毎回『人生反省会』をやるのだが、『もし、違う行動をとっていれば?』と想像しても、けっきょく詰んでいた、みたいなことばっかりだ。
そもそも、今、俺は誰だったっけ……
人生を繰り返しすぎた弊害か、意識がもうろうとすると、今の自分がどういうパーソナリティだったのか忘れそうになることがある。
今の俺は……そう、たしか四足歩行……いや、二足歩行……歩行、してたっけ……? そもそも物質の体はあっただろうか……わからない。俺はウネウネと動いた。両腕と両脚があった。四肢で二足で二腕だ。
幼体だったか成体だったか老体だったか……老体? 老体はないな……老体経験は百万回のうち二回しかないのでさすがに覚えている。
「レックス、寝た?」
もうろうとした意識の中で誰かの声が聞こえた。
誰だ……? 敵? わからない……わからないからとりあえず意識をハッキリさせて臨戦態勢をとろうとした。しかし体の不調のせいでうまく動かない。俺はなにかをうめいた。自分でもなにを言っているのかわからない。
「無理に起きないでいいから。飲み物とか持ってきたけど、飲む?」
持ってきた? 飲み物を?
なぜ俺に施しをする……? なにが目的だ?
「えっ、風邪の完治?」
俺の体調をよくしてどうする気なんだ……
こわい……俺は抵抗する力もない状態で目的のわからない存在に接して恐怖を覚えた。俺は無力だ。この無力感は……そ、そうか! 俺は己の正体を思い出した。
赤ちゃんだ。
俺の百万回の人生において、『なにもしなくても庇護される存在』であった経験はそれほどない。たぶん一回目の人生と……まああと一回ぐらいだろうか。
赤ちゃん……その存在についてのデータを呼び起こす。赤ちゃんとは、ウンコして泣いてるだけですごく優しくされる存在……至高のVIP……俺はそうだ、赤ちゃんになりたい。立方体の赤ちゃん……立方体? わからない、なぜ俺はキューブ状の赤子を目指しているんだ?
「だいぶ頭がまずそうだね」
俺の頭はまずいらしかった。
今の俺は頭のまずいキューブ状の赤ちゃんだ。なんだその存在は? 意味がわからない。自分のことのはずなのに、どういうことなのか全然わからない。教えてくれ……俺はなぜ立方体なんだ?
「わたしが知りたい……あなたはなにを言っているの? ……とにかく、体だけ起こして。ほら」
言われるがままに上体を起こすと、背中にそっと手が添えられ、口に飲み物が運ばれた。
なんだこの待遇は……意味がわからない。厚遇されすぎてておそろしい。いや、そうか、赤ちゃんはこうだったな……ばぶう……俺は人生の苦みを知りつくしたようなうめき声を出した。
とにかく求められるロールが『赤ちゃん』ならそれを演じきらねばならない。
世間から求められる自分になるのは大事だ。世間は求めたことを適度にこなす者に害があるとは思わない。俺は世間から『無害』と見られなければならない。なぜなら、注目されないことこそが最高の処世術だと知っているからだ。
俺は求められるまま赤ちゃんになった。
「……まあいいけど。体ふくから、服を脱ぎましょうね」
こうして俺は赤ちゃんになることに成功した。
今回の偽装は、俺には珍しく大成功だと言えただろう。
そう、風邪が治ったあと――
――この時の記憶を正常になった頭で思い出すまでは、たしかに、大成功だと思っていたんだ……
ハッピーホワイトデー
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103話 赤ちゃんはどこからくるの
迷ったり風邪引いたり赤ちゃんになったりする主人公をこれからもよろしくお願いします
雨期が過ぎたとたん、季節は駆け足で熱気を増していった。
昨今の気候の変化は生物の体で対応するのが難しいほどめまぐるしくなっていた。
それは体調に常に気づかっているはずの俺が風邪を引いてしまうほどであり、世界はだんだんとその悪辣な牙を俺たちに突き立てようとしている。
世界が人類を滅ぼそうとしている――そんな不吉な予感の中でも慶事はあって、それはもちろん、アンナさんの第一子がめでたく誕生したことだった。
それはかわいらしい男の子で、アンナさんとその旦那さんの顔立ちから推測するに、きっと将来とんでもなく顔のいい男になるんだろうなという予感がした。
俺の胸中は感動や安堵ばかりではない非常に複雑なものだったのだが、アンナさんの子供と出会った我が娘の胸中にはもっと大きく、そして筆舌に尽くしがたい感情がうずまいたらしい。
しきりにアンナさんの赤ちゃんに触りたがり、実際に触らせてもらい、そして赤ちゃんと離れる時には泣き叫んで別れを惜しみ、なにより家に戻ってからも赤ちゃんの話題ばかり出してくる。
これはちょっと特異なことだと思う。
なにせ娘のサラは俺が通っていた保育所にいるのだ――すなわち『年上が年下の世話をする』という習慣がある保育所通いであり、三歳となったサラは、もう年下の子のお世話を任されているはずだったのだ。
赤ちゃんというものに触れるのは初めてじゃない。
なんなら飽きるほど見ている。
だがアンナさんの赤ちゃんに出会った時のサラの感動っぷりは、まるで『産まれて初めて自分より年下の存在と出会った』と言わんばかりであり、俺はちょっと違和感を覚えた。
「ぱぱ……サラも赤ちゃんほしい」
大好きなりんごジュースに口もつけず、物憂げにじっとテーブルに視線を落としていたかと思えば、いきなりそんなことを言われた。
俺は言う――サラ、お前はまだ赤ちゃん産めない。
「かわりに、だれかがうむ」
この年齢で代理出産の概念をとらえているとは、俺の娘は天才なのではないか?
同じテーブルについているミリムから「そういう意味じゃないと思う」と言われて、俺はちょっと考えてみる。
代理出産ではないとすると、誘拐か。
誘拐……誘拐はしかしリスクが高すぎる。サラよ、まず、この国には法律というものがあって……
ここでミリムから「弟か妹がほしいっていう意味じゃない?」という注釈が入った。
なるほど、一理ある。『赤ちゃんがほしい』と言われて、俺なんかは言葉のまま『赤ちゃんを手に入れたい』という意味にとったが、サラの語彙はまだ少なく、表現方法には(同年代と比べれば天才的な域にあるとは思うが)つたないところがあった。
ならば発言の裏にある真意をこちらで見抜いてやる必要があるだろう。
弟か妹がほしい――なるほど、そういう意味で『赤ちゃんがほしい』と言っている可能性は高そうだ。
しかしサラよ、弟や妹というのは、『ほしい』と思ったからすぐ手に入るものではないのだ。
「チャージがひつよう?」
サラは語彙の一部を朝のヒーロー番組から得ていた。
俺は解説しようとして気づく――これ、性教育だな?
どうしよう。俺は困った。中学校教師をしている俺は中学生から性教育に片足突っ込んだような質問をされることもないではないし、その対応法も考案、実践をしている。
しかし三歳児に対しての性教育方法はまだなんにも考えていなかった……
こういう時にこの世界では『煙が雲になって、その雲から雨が降ると、たまに地面から赤ちゃんが生えてくる。大人はそれを収穫してるんだよ』みたいな話でお茶を濁すのが通例だ。
しかし俺はそうやって濁すのをあんまりいいことだとは思っていない。
子供は質問魔なので、『収穫ってなあに?』『赤ちゃんは地面から生えるの? なんで?』『煙が雲になって赤ちゃんになるの? どうして?』と質問責めにされる。
そうやってされた数々の質問に『赤ちゃんが地面から生える』という嘘設定を維持したまま答えることの困難さを知っているし、こちらが矛盾した回答をすれば子供は即気づくし、『大人に嘘をつかれている』と子供が感じた時に負う心のダメージをまったく甘く見ていないのだった。
俺は固まった。
理解できないだろうが正直に言うのがもっとも手っ取り早い……しかし子供は吸収した知識をすぐに人に広めたがる。
ファンタジーのないリアルをサラに教え込めば、サラはすぐにそれを保育所で大声で吹聴するだろう……そうなると、サラが周囲の子から『変なこと言ってる』と思われかねない。そして人には『変なこと言ってるやつ』を排斥する本能が備わっている。
子の世間体のためにも、時に親は与える情報を絞らねばならないのだ。
悩む。困る。苦悩し尽くし、俺は、俺の得意な方向でサラに納得してもらおうと結論した。
いいかいサラ。
その話は――お前にはまだ早い。
時が来たら必ず教えるので、今はなにも聞かないでくれ。
俺の得意技は『先送り』だった。
「ままー!」
俺が教えないのでサラがミリムを呼んだ!
まいった……ミリムにまかせてもいいんだが、ミリムってけっこうあっさりリアルを教え込みそうなところあるんだよな……
しかし俺から言えることは思いつかないので、黙って成り行きを見守るしかない。
ミリムは無表情のままコクリとうなずいて、サラの目をまっすぐに見て、言う。
「今日のおやつは……プリン」
「プリン!」
プリン!
サラはプリンが大好きだった。
最近は都合が悪いことが起こるたびに『お姫様のポーズ』を要求されすぎて、もう反射的にお姫様のポーズをとらなくなってきたサラだったが、プリンの話をするとあっさりと話を逸らすことができるのだ。
俺はミリムを見た。
瞳に『助かった。しかしそのごまかしかたもいつまでもできるものじゃない。次の対策を考える時が来ているのだろう』というメッセージを込める。
ミリムはうなずいて、冷蔵庫からプリンを取り出した。
みんなで食べたプリンはおいしかった。
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104話 聖女聖誕祭(子持ち)
偉大なるプリンはすべてを解決する
引き続きよろしくプリン
ついに三十歳を迎えたとある冬の日だ。
間近に迫る聖女聖誕祭を前に、俺は困窮していた。
最近の俺を悩ますものは娘の存在以外になかった。俺は悩みを抱えないように生きてきたのだ。しかし、そんな俺の策謀も配慮もまったく無意味な予測不能存在こそが娘なのであった。
三歳になってからというもの娘のサラは体も強くなり、頭も強くなった。
操る語彙が爆発的に増え始め、そして己の願望をハッキリと、つたないながらも、言葉であらわすようになっていたのだ。
こうなると困るのが聖女聖誕祭で渡すことになるプレゼントであった。
聖女聖誕祭――それは今の文明よりずっとずっと前に存在した、とある聖女の生誕を祝う祝日である。
なにせ伝説の人物なのだから色々語られる聖女ではあるが、おおざっぱに言えば、『聖地に閉じこもりそこを独占していた悪魔を、武器を用いずその場から出すことに成功し、さらに眷属にした』とかいう活躍をした人だ。
これがなにをどうして家族でケーキを食べたりプレゼントを渡しあったりする日になったのか、宗教に詳しくない俺にはわからないが、とにかく現代では『お祝いの日』として、信仰にかかわらず世界的な行事として浸透していた。
これまでそのメリットを享受してきた立場だから気にもしなかったが、『子供にプレゼントを渡す』というのが、これほど神経を使うことだとは思いもしなかった!
いや、去年までだってもちろん渡していた。
しかし去年、サラはまだ二歳だった……二歳。言葉を操る。動く。それでもまだどこか『個性』にはぼんやりしたところがあって、なにを渡してもだいたい喜ぶような、そういうありさまだった。
しかし三歳になると『好み』というものが急に存在感を強めてきて、新米両親の俺とミリムは、突如わいて出た娘の『個性』に振り回され、こんな時期までプレゼントの選択を終えられないでいた。
俺たちは仕事中のちょっとした休み時間などに、携帯端末でおおいに会議を開いた。
「サラはちょっと、好みが男の子っぽいところがあると思う」
ミリムからそんなメッセージが送られてきたのは、幾度もループした話し合いの果てだった。
サラの好みが男の子っぽい……言わんとするところはわかる。
見ている番組の傾向とか、あと、反応を示すものとか、たしかに男の子っぽい。
まあ今時は男の子がお姫様になったっていいし、女の子がヒーローになったっていいという風潮ではある。俺たちだってサラがどう育ってくれても愛すると思う。
だが、プレゼント選択においては、そういった性向は無視できない指標だった。
「でも、巨大ロボットのおもちゃとかをプレゼントされても、うれしがらないと思う」
それもまた『わかる』という感じだった。
サラはロボットが好きではない……というか『戦い』のシーンが好きではない。三歳児にしてすでにヒーローものの中にある人間ドラマを楽しんでいるフシがあった。天才だよ。
そもそも今の時期に『ロボットほしい』とか言われても困る。
すでに聖女聖誕祭に向けた商戦は数ヶ月前に始まっていたのだ。子供に人気が出そうなおもちゃなどは予約しないと手に入らないのが必然であり、今からかけずりまわっても『鉄板商品』みたいなものは入手不可能だろう。
事前の用意をおこたらない性格の俺とミリムのプレゼント選択がこんな時期まで続いていることが、とりもなおさず『娘への誕生日プレゼントを選択する困難さ』を示しているとも言える。
俺たちはもうかれこれ半年ぐらい、プレゼントを決めかねているのだった。
だって――サラが成長とともにガンガン好みを変えていくから。
俺たちは成長する娘に振り回されていた。
すでにプレゼントについてのやりとりの履歴はすさまじい長さになっていて、スクロールして会話を振り返れば、『こいつらなんでこんなに同じような会話のループばっかりしてんの……』とじゃっかん不憫に思えるほどだった。
しかし俺は……俺と、きっとミリムもそうだけれど、たしかにこのループまみれの協議のあいだ、『親』をやっているような満足感にひたっていたのだ。
俺は成果主義だ。重ねた努力の量に意味がないことを死ぬほどよく知っている。
その視点で言えば結論の出ない相談は無意味と言うほかになく、努力のあとは見えるが、『だからなんだ』というように思うはずだった。
それでも俺は、この長い『娘へのプレゼントについての相談履歴』を宝物のように思えている。無駄にまみれてしか見えないこの会話に、一つだって無駄なところなどないと誇れるような、そんな心地なのだ。
俺たちの会話はやっぱり休み時間のあいだには終わらず、けっきょくプレゼント選びは紛糾に紛糾を重ね、聖女聖誕祭前日に『なさそう』と思いながらおもちゃ屋をかけずり回る羽目になるのだった。
娘が三歳を迎えた年度は、聖女聖誕祭以降もこんな感じで終わったと思う。
新しい年度が始まり、サラは四歳となった。
時の流れは本当に、早すぎる。
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105話 金と命と信念
時間経過は止まらない……加速する!
引き続きついてきてください。君のいない世界のスピードに……
幼稚舎入りにそなえてすべきことは数多いが、一番面倒な下準備は『制服作り』だと思う。
俺が半生を過ごし、そして今なお教師として在籍する学園には制服がある。
この制服というのは基本的にオーダーメイドで、採寸して作ってもらうのだが、幼児に採寸のさい『じっとしててもらう』ことが困難なのだ。
うちのサラの外面のよさは乳児のころから大したものではあるのだが、それでも採寸は『知らない大人に体中をはかられまくる』というので、緊張するのか、わたわたと落ち着きがない。
「いやあ、おたくの娘さんは、だいぶお利口でいらっしゃる。もっと元気のよいお子様も、たくさんいらっしゃいますからね」
採寸を担当する人は目尻の笑いシワが特徴的な老紳士だった。
細い体をきちんとしたシャツとスラックス、ベストで包み、首から伸ばしたメジャーをぶらさげ、しきりに手にした紙になにかを書いている姿などは、『一世代前からずっと生き残っている古き良き職人』という風情で、なかなかあこがれるものがある。
『職人』。それはあこがれる生き方の一つだった。
一つの技術に打ち込み、ひたすらに高みにのぼっていく……そういった生きかたで天寿をまっとうできるならば、どれほどいいことだろう。
しかし世の中は『ただ、己の技を高めていく人』がそれだけで生きていけるようなものではない……稼がなければならない。
我々はなにをするにしても『生きる』という、こなさなければならない、コストの高い、そういう責務を背負い続けているのだ。
技術を追い求める職人は
しかし生きていくのは一点特化では難しい……やはり立方体だ。精神的に、技能的に、肉体的にも、立方体こそ、もっとも安定した形状なのだ。
今にも暴れ出しそうなサラをどうにかあやしつつ、そんなことを考え続ける。
これは『親』なら誰しもが身につけざるを得ないスキルだと思うのだが、親の業務になれてくると『子供の世話をしながら、別なことを考える』というのができるようになる。
というか、そうでもしないと、やってられない。
しばしば子持ちでない知り合いなどは、子供が『朝七時には起きて、昼から夕方まで力いっぱい遊んで、夜九時か十時ごろにはきっちり眠る』と思っているフシが見受けられる。
だが子供とはそんなスケジュール通りに動いてくれる存在ではない。
赤ん坊時代は平均三時間ごとに泣くし、起きるし、暴れるし、乳をねだる。サイレントおもらしもする。
幼児となってからもだいたい変わらない。連中は好きなように遊び、好きなように騒ぎ、そして疲れれば動力が切れたように眠るのだ――直後に夕食がひかえていようがなんだろうが、おかまいなしに。
そして早めに眠ってしまった子供はどうするか?
そう、起きるのだ――夜中に。
夜中に起きておいて『眠れない』と泣くのだ……
冗談でなく親は子供から片時も意識を放せない。
が、現実的に『常に警戒を続ける』のが不可能なので、保育所にあずけたり、そして、『世話をしながら別なことを考えるスキル』を身につけたり、ということが必要になってくるのであった。
とか考えていたら採寸も終わり、制服は一週間ほどで仕上がる旨が告げられた。
このへんの制服ビジネスはどういったラインで動いているのだろう? 吊るしの服よりはあきらかに時間がかかっているが、オーダーメイドよりは絶対に早いペースで制服が仕上がるメカニズムに俺は思いをはせつつ、『制服作りをがんばった』という理由で、サラを連れてケーキなどを売っている店に向かった。
子供がいるとこのように『ご褒美』の機会が増えていき、出費も雪だるま式にふくらんでいく。
金は命だ。この世界は金銭があればたいていのことはどうにかなるが、金銭がなくなってしまうとどうにもならなくなる。
サラの入園のための準備で貯金が削られていく現状はかなり心にくる……子供は金を食うというのは理解していたし、計算もしていたのだが、予想以上に、『制服作りがんばったご褒美』とかの出費がすごい。
ならば『子供を持ったのは失敗か?』と当然そこまで思考はめぐるが……これが全然、失敗とは思えないのだった。
……論理性と効率性が、だんだんとなくなっていっている気がする。
今、俺が人生を過ごしている『人類』という生命体は、『同じ信念を抱き続けること』が難しい脳構造をしている。
それを加味したうえで、俺は『生ききる』以外の余計なものを抱かず生きてきた。貫く信念が増えれば増えるほど、同じ信念を抱いたまま生きることが難しくなるからだ。
だからこそ『生ききる』だけはまげていないはずだった。それが最優先で、それ以外は、『生ききる』ことの邪魔になりそうならば、容赦なく切り捨てられるものばかりのはずだった。
だというのに子供の存在は俺の信念に食い込み、それを変えようとしていっている。
これは『敵』による洗脳か? あるいは、サラこそが『敵』なのか?
わからないが――
未だに『生ききる』を至上命題としながらも、俺は、サラのせいで寿命が削られ、この人生もまた『生ききる』ことができなくなっても、それはそれでいいか、と思えるようになっていた。
……ああ、たぶん俺は、また失敗したのだろう。
また、命より大事なものができてしまった。
そのせいで命を落としても全然かまわないというようなものを、この世界でも獲得してしまったのだった。
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106話 月日は百代の過客
人は無職になれる
引き続きよろしくお願いします
日々というのは過ごしていれば遅く感じるものだが、振り返れば一瞬で過ぎ去ったように思えるものだ。
つい先ごろ幼稚舎に入った娘のサラはいつのまにか言葉も達者になり、オシャレを自分でするようになり、そして先日、初等科へと進んだ。
俺が敷いたレールはこのまま学園の中等科、高等科、大学と進んでなんらかの職に就くか、俺の夢だった専業主婦あたりにおさまってもらうことだった。
『夢だった』――俺は専業主夫という目的をあきらめてはいない。まだミリムの稼ぎで食っていく夢を見ている。しかしそれが経済的に不安定な道だということも充分に理解していて、結果としてまだ教職を続けていた。
三十二歳となった俺はまだまだいち担任でありいち部活顧問でしかないが、このまま歳を重ねていけば、いずれ学年主任となり、教頭になり、あるいは校長まで上り詰めることもあるのかもしれない。
そこまで行きたいのか、行くなら生涯の職を教師とするのか、あるいは父の塾を手伝うのか……大学卒業と同時に終わったと思われた『進路』にまつわる悩みは、どうやらまだまだ続いていくことになりそうだった。
悩みを抱えつつも日常を『こなす』ことをようやく覚えたある日、娘も手がかからなくなってじゃっかんの退屈を覚えていた俺のもとに、さる人物からの連絡があった。
『普通のちょっと偉い社会人と会うんだけどどうしたらいい!?』
なんの話だ、というそのメッセージの送り手は、漫画家のカリナ先生であった。
二十代はじめから漫画家をやっている彼女はもはやその道の中堅クラスになっていた。
妻が出版業界にいるのでわかったことだが、漫画家一本で十年やっていくというのは、とてつもないことらしい。
まあカリナの場合は実家の太さもあってのことっぽいので、ガチで一人暮らししながら漫画家をやっている人たちとはちょっと条件が違うっぽいが、それでも一つの道をひたむきに歩んでいっている彼女には、尊敬の念を覚える。
……尊敬の念を覚えつつも、俺の中で『カリナを尊敬する』というのがうまくいかなくて、まあその、あまり敬意のこもった接し方はできていないのだけれど。
ともあれメッセージの意図がつかめない。
俺は率直に問いかける――なんの話?
カリナは冷静さを取り戻したのか、その後に送られてきた事情説明は、整然としてわかりやすいものだった。
仕事でゲーム会社の社長と会うことになった。
しかしどんな服を着ていけばいいかわからない。
あと、出版社の人としかかかわってないので、いわゆる『社会通念』みたいなものが全然わからない。
教えて。
俺は教師だ。教師は教えることのプロだ。
また、俺の相手は主に中学生なのだが、中学生はまあ、生意気だし、変な知恵がまわるし、教師のことを敵だと思っているフシもあって、『意味のわからない、どうでもいいようなこと』をしつこく聞かれたりすることもある。
こういう時に『授業妨害や「教師を困らせよう」などの意図でされた質問』なのか『本気の悩み相談』なのかの判断が難しい場合があり、俺はたいていの質問への答えかたをリストアップして暗記してあるのだが……
カリナの質問、超困る。
『社会通念を教えて』って……
いやまあ、言いたいことはわかる。
カリナはいわゆる『社会経験』がない。
漫画家として社会に出ているのだからそれも社会経験ではあるのだが、ここで言うのは『スーツを着てネクタイを締めて積むタイプの経験』である。
漫画家は特殊な職業なので、そういったワイシャツ組が積むような経験を積む機会がないようなのだ。
しかしここで、俺はカリナに屈辱的な――なぜカリナと接すると俺はいちいち屈辱を覚えるのだろう――告白をしなければならなかった。
カリナ、実は……
『教師』も特殊な職業なので、ゲーム会社の社長さんに通じるような社会通念は俺も知らないんだ。
『レックスなのに!?』
俺という存在のどのへんにそこまでの信頼があるのかがいまいち不明だが、まあ、レックスなのに知らない。
教師というのはこれもまた特殊な職業だった。特に学園で卒業してその学園に就職した俺は、狭い世界で生きていると言わざるを得ない。
狭い世界で生きること自体は、俺が望んだことだった。
全容を把握できるぐらいまで切り取った世界の中でないと、どこからなにが出るかわからなくて不安になる。
世界は狭いほうがいい。認識できる範囲ですべてが完結しているほうが安全だ。俺は心からそう思っている。
しかしそのせいで、『教えを請うてきたカリナに教えることができない』という屈辱を食むことになってしまった。
俺は『カリナに自分の知識、見識不足を露呈すること』をことのほか屈辱に感じるようだった。メッセージに吐き捨てる。くっ、殺せ!
『ふむ、男騎士の「くっ殺」ですか。それいただきますね』
ネタにされた。
とにかくこの話はここまでだ。俺にはカリナに教えられることがなにもない……
『レックスがダメなら……いったい誰に頼ればいいんだ』
税理士さんと会う時どうしてるんだ……
その時の感じで行けよ。
『あれは出版社に紹介してもらった税理士さんだから、息がかかってるんだよ』
たぶんそれが大丈夫なら、漫画家を
しかしカリナはグダグダといろんな言い訳を並べ始める。
俺たちのつきあいももうかなり長い。だから俺は知っている。カリナがこうやってグダグダし始めた時は、俺がなんらかの『満足できる回答』を出さない限り、永遠にグダグダし続けるのだった。
なんかあっちのが年上なのに、手のかかる娘って感じ……
そこで俺に雷光のようなひらめきがよぎったのは、まさに天の助けと思わざるを得なかった。
俺は『天』が嫌いなので舌打ちをしてからカリナにメッセージを送る。
社会通念は、マーティンに聞いてくれ。
あいつはいわゆる『一般社会人』だから、俺より社会通念に詳しい。
『なるほどその手が! じゃあよろしく!』
いや……自分で連絡して、自分でお願いしてよ……
『えっ、だってマーティンくん、陽の者じゃん……むり。あとレックスを介さない連絡とかとったことないし』
マーティンが陽の者だから無理という言葉の裏に、『レックスは陰の者なのでアリ』という響きを聞いた気がした。
否定しにくいので気づかなかったことにして、悩む。悩むが、カリナの性格上、『二人で勝手にやれ』というルートはたぶん存在しないんだろうな……
俺は折れた。
わかった。じゃあセッティングしよう。
『いっしょにきて』
カリナは俺のことを保護者だと思っているフシがある。
一度折れてしまった俺はもはや雪崩をうつように折れ続けた。結果としてあさっての休日にマーティンと俺とカリナでファミレス会議が開催されることになった。
――この時の俺は、まだ知らなかったんだ。
まさかこの軽率な決定が、あんな結果につながるだなんて……
【後書き】
悪いようにはならないので作者を信じよう
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107話 夢と幻想
影響し合いながら人は生きているので引き続きよろしくお願いします
朱に交われば朱くなる。
どこかの世界のことわざだったと思う。
この世界にも似た意味の言葉はあって、『つながった二つの川は見分けがつかない』だとか、『混ざった煙は一つになる』だとかそういった言い回しが存在した。
環境から人への影響力、あるいは人から人への影響力の強さを説き、『だから身を置く環境や付き合う友達は選ぼうね』というように使われるこの言葉を、俺は今、かみしめていた。
「レックス、俺、会社辞めて漫画家になるわ」
カリナに社会通念を教えた帰りであった。
俺は予想通りマーティンに居酒屋へと連行された。
マーティンは最近居酒屋で愚痴を言うことが趣味みたくなっていて、それはもう最初からわかっていたことだから、今回も『カリナとのやりとりが終わったら直帰できる』と俺はみじんも思っていなかった。
果たして予想通りマーティンは俺を居酒屋に連行し、そして愚痴を言う――かと思えば、しばらくぼんやりした様子で黙りこくって、『お通し』にも手をつけないありさまだった。
そうして注文した酒がぬるくなろうかというタイミングで、そんなことを切り出したのだった。
俺はたいていのことを予想しながら生きている。
もちろん万能ではないので的中率はそこそこだが、『あらかじめ予想しておく』、すなわち『意外なことに直面した時に落ち着いていられるよう準備をしておく』ことは重要だ。
今回も俺は、様々なことを予想しつつ居酒屋に入った――また『起業したい』と言われるだろうなとか、仕事やめたいトークが始まるだろうなとか、そういうことを言われると、予想していたわけである。
しかしマーティンの口から出たのは実に意外なことで、俺はあやうく注文したお茶を取り落としそうになった。
困ったぞ……まさか『カリナに会わせよう』という軽率な決定が、こんな結果につながるだなんて……
「漫画家っていいよな。なんていうか……自由でさ。輝いて見えたよ」
マーティンはどこか遠くを見ていた。
俺は意外すぎて対応を決められない――まあ、他者が職業選択をしているだけなのだから『好きしろ』以上のことを言えるわけもないのだけれど、それでも俺の心はとっさに『やめとけ』という言葉を絞り出しそうになった。
マーティンがどうなろうとマーティンの自由ではあるのだが、なるほど、カリナと引き合わせた責任を俺は感じているのだろう。
俺はとりあえずマーティン漫画家計画を止めるという立ち位置に自分をおくことにして、どうしたらこの夢見がち社畜ボーイを止められるのかを考え始めた。
マーティン、その、えっと……
漫画家は不安定だぞ。
「レックス、安定と自由はトレードオフだ。そんなことは俺もわかってる。そして……今、俺に必要なのは安定じゃない。自由なんだ」
マーティンは綺麗な目をしていた。
教師経験十年にのぼろうかという俺は、この目をよく知っている。
この目は『動画配信で生きていきたい。動画とか見ないけど』とか『建築士になりたい。なにするのか知らんけど』とか、そういう、ふわふわした夢を見ている中学生と同じ目だ。
どんな職業も否定はしないが……
『職業の輝かしい部分しか見えていない者』が、しばしばこういった目をするのだ。
こういう時、中学生に現実的な話をすることは、実のところ、ない。
中学生の夢はふわふわしていて当たり前なのだ。
だからふわふわした夢を持つ中学生に向けて俺が言うのは『調べてみろ』だけである。なんなら資料なども探して提供することも少なくない。
まあ、そういった資料にはきっと目を通さないのだろうけれど、もしも高校を卒業してそれでもやりたければ、そのころに『昔、もらったな』と思い出して俺の提供した資料を見たり、また他の手段で『あこがれの職業』になるための具体的な方法を調べたりするだろう。
そう、中学生には時間があるのだった。俺たちロートルから見れば無限とも思える時間があって、情熱があるのだった。
時間の中で頭が冷えれば夢の現実を見つめる機会も生まれる。そもそも、中学生のころに抱いた夢なんか、高校を卒業するころには忘れているのが常だろう。
だからふわふわした夢を語る中学生相手ならば、『情報の入口だけ示して、あとは放っておく』という手段がとれるのだ。
しかしマーティンは三十代である。
自分の収入で生活しているのだった。立場があるのだった。
仮に失敗したらもとにもどれない、そんな年齢なのだった。
ふわふわした夢を見ている場合ではない――夢を見ることも、漫画家を目指すことも否定はしない。しかし俺たちの年齢で夢を追うのは、けっこう命懸けだという事実だけは認めたほうがいい。
俺が引っかかっているのは『会社辞めて』の部分だ。
辞めるな。続けつつ漫画描け。
「しかしレックス、やっぱりさ、創作には時間が必要なんだよな。あとは、自由な心っていうの? すばらしいものを描くための発想は、やっぱりそういう落ち着いた時間から生まれてくるっていうかさ……」
なんでまだイラストの一枚も描いたことないのにいっぱしの作家みたいなことを語り始めてるんだ……
あのなマーティン、俺は漫画家というものをある程度は知っている。カリナをそばで見てたし、妻が編集者だしな。
まあミリムは今、異動で児童書籍系の部署にいるんだが、その前には月刊系の漫画家を相手にしていた……
中には当然専業もいたのだが、実家の太さがないと生活はきついらしい。
あと、小説系だと受賞者にまず『今やってる仕事はやめないでください』と言うとも聞いてる。
わかるかマーティン、漫画家は不安定なんだ……
不安定な収入は、心をも不安定にする。
だから仕事は続けろ。
「俺、才能あると思うんだよな」
なにを根拠に!?
「カリナさんの作業風景、ちょっと見たじゃん。あれ見て思ったんだよ。『あ、俺でもできそう』って」
お前は創作の入口に立った者がだいたい陥る精神疾患をわずらったようだな……
まあそうなるともう言葉は通じない。
とりあえず会社やめる前に一本ぐらい漫画を描き下ろしてみたほうがいいと思う。
現実はお前が思うほど甘くはないと、カリナのそばで悲鳴を聞いてきた俺は知ってるから……
「いやでも……いけるんじゃないか? 案外」
マーティンが根拠のない自信を根拠に食い下がってくる。
俺は……『もう好きにしろ』と言いたい気持ちをこらえつつ、マーティンへの説得を続けた。
まあほんと、俺が口出すことじゃないとは思うんだけどさ……
友人が地獄に落ちようとしているのをどうしても見過ごせなかったんだ。
このあと、なんとか『会社を辞めずに賞に投稿できるぐらいのものを描き下ろす』というところで説得に成功した。
のちにわかったことだが――
後日、マーティンに漫画の進捗をたずねたら、死にそうな声で『やっぱやめた』と返されたので、ここで俺が食い下がったのは、正解だったんだと思う。
俺は一人の人生を救うことができたのかもしれない。
人生百万回のうちそうは経験しない、得がたい勝利であった。
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108話 尿酸値
マーティン変なやつだな……
類は友を呼ぶ人生をよろしくお願いします
年代ごとにホットな話題は変わっていく。
それは世間のはやりが移り変わるという話ではない。
『今、俺たちは三十代だから三十代なりの話題で会話をしているが、かつて三十代だった今の四十代たちもまた、同じようにこの話題で会話していた時期があったのだろう』という――他者に語って納得を得ようと思うと少々複雑な意味で、話題が移り変わっていくのである。
十代のころ、俺たちははやりのゲームの話ばかりしていた。
二十代のころ、ちょっと流行からは遅れたゲームやその他娯楽の話をすることが多かった。
そうして三十代になった俺たちは――健康についての話しか、しなくなっていた。
「このあいだの健康診断で尿酸値がやばかった」
サラが初等科二年生になったとある春のできごとだ。
華々しかった並木道もいつしか葉が目立つようになり、気温はきちんと段階を踏んで上がっていく。
去年おととしと世界が温度調節のやりかたを忘れたかのような急激な気温・天気の変化があったので、今年は『ようやくまともなペースで季節が移り変わっていく』と多くの人が安堵していることだろう。
そんな時、マーティンに呼び出された。
マーティンが俺を呼び出すというのは、実のところ珍しいことではない。
その気になれば相手の顔を見ながら遠距離通話ができるこの時代に『直接会う』というのはいかにも非効率なのだけれど、それでも俺はマーティンの呼び出しにはそこそこの頻度で応じていた。直接会って話さないといけないこともあると知っているからだ。
マーティンからの呼び出しの場合、落ち合う場所はたいてい、安居酒屋となる。
しかし今回はいかにもオシャレで、飲み物の種類がやたら多くて、値段のわりに料理の量が少ない、そんな場所に呼び出されて、俺は困惑していた。
その理由を今、語られたのである。
『尿酸値がやばい』。
尿酸値。
そんな言語、二十代のころは認識さえしていなかった。だが、今の俺は知っている。
健康に生きていれば本来気にする必要もないはずの数々の言葉を、三十代、健康診断を定期的におこなう俺たちは、知ってしまったのだ……。
俺はなんとも言えない顔で目の前の料理に視線を落とした。
俺は上品にチーズをあしらったパスタを注文したのだが……
マーティンの前には、サラダと炭酸水だけがあった。
「なあレックス……俺はさ、健康診断なんか、どうだっていいと思ってたんだ。だってそうだろう? 健康に気づかっても、人間、死ぬ時は死ぬ。……でもさ、健康診断の結果を見て、俺は……なんだか、ガックリしたんだ。医者にいろいろ言われたのも効いたのかもしれない。でも、でもな。一番効いたのは……」
マーティンはいったん言葉を句切って、視線を落とした。
俺たちの着いたオシャレな一本足丸テーブルより、さらに下を見ているようだった。
しばしあって、視線を上げたマーティンは、言う。
「……鏡に映った、自分の腹が、ぼよぼよしてたことが、一番、効いたんだよ」
マーティンはスポーツマンであった。
高校のころはホウキラグビーに精を出し、大学でもなんらかの運動をしていたようである。
しかし就職してからというもの会社がよほどブラックらしく運動する時間は消え失せ、ある程度忙しさが安定してからも、運動の習慣は彼には戻らなかったのだ。
そのくせ休日になると酒にひたり、ストレスを食べて解消する始末。
太らないわけがなかった。
「なあ教えてくれよレックス、お前はなぜ、体型を維持できる?」
親子でランニングとかしてるからだけど。
「そういうんじゃない」
どういうのだ……
ランニングで不満なら筋トレとかストレッチとか言ってもいいけれど。
「そういうんじゃないんだ。俺は……『一日五分! これさえこなせば理想のカラダに!』みたいなものを求めてる」
その手の書籍は『情報』というものに人々が触れやすい世界には必ずあって、一定の人気を集めているようだった。
俺も手にとったことはあるのだが、まあ、なんていうの? ……『成功バイアス』と『まあなんにもしないよりはマシかな』という感想以外を抱いたことはない。
俺は正直に言う――お前の求めるものは存在しない。
「わかってる! わかってるんだよ! 簡単に健康になれるわけなんかないって、わかってるんだ! ……でもさ、俺がほしいのは『救い』なんだよ。実際の効力よりも、今、目の前にある絶望感をすぐにどうにかしてくれる『救い』がほしくてさ……そこに実際の効力があったとしたら、それは素敵なことじゃないか?」
マーティンが歳を経るごとにダメ人間になっていっている。
俺はなるべくマーティンの期待に沿う運動法を脳内で検索して、言う。とりあえず一日三十分だけストレッチしろ。それだけで全然違うはずだから。
「三十分もストレッチとかなにすんだよ」
どうやらマーティンの中から失われたのは、『運動の習慣』だけではなく、『運動していたころの記憶』もらしかった。
ホウキラグビーは激しい運動なので、筋トレ基礎トレの他にけっこう長い時間をストレッチに割くはずなんだが……
「レックス、条件を確認しよう……俺は、五分以上の運動はしたくない。いや、できれば三分ぐらいがいいんだが、そこは俺も折れよう。五分だ。それ以上はまけられない」
俺たちに『保育所からのつきあい』がなければ、見捨ててる。
しかし俺はマーティンを見捨てない……なんかこうコイツを見捨てないことで俺にメリットが発生するとかいう理由があってコイツとのつきあいを続けていたはずなんだが、最近はメリットとか気にせずに見捨ててない気がする……
じゃあ五分ストレッチしろ。
「痩せる?」
三年ぐらいやれば痩せるんじゃない?
「夏までに痩せるにはどうすればいい?」
じゃあな。
俺は伝票を持って席を立った。
「待て! 待ってくれ! 理想! あくまでも理想を語っただけだから!」
俺は席に戻った。
テーブルにほおづえをついて、うろんな目でマーティンを見る――確認しておきたいことがある。人体についてお前がどう認識しているかだ。この世界の人類の肉体は、夏まで、仮に七月までとして、今から約二ヶ月半で急激に体型が変わるように設計されてると思うか?
「やべぇな……お前の言い回し、社畜生活で疲れ果てた脳みそにまったく入ってこないわ……」
人間は二ヶ月半で体型を変えることはできない。そういう生き物なんだ。
「でも」
わかってる。
『情報バラエティで激痩せしてる人を見た!』『コマーシャルで短期間ですごく痩せた人を見た!』『雑誌の折り込みチラシで見た!』と言いたいんだろう。
そういう事例を挙げて反論する相手に俺が言えることは一つだ。
『コマーシャルで痩せてたなら、そのコマーシャルを打ち出している会社を頼れ。俺を頼るな』
「くっ……相変わらずお前は言論封殺が得意だな……」
お前との会話は予習済みだ。
カリナにも似たことを言われたから……
「カリナさんと俺は似てるのか? ということは俺も漫画家になれるのでは?」
教職に就いてる三十代という立場だと非常に言いにくいんだが、今、俺はお前に『死ね』と言いたい気持ちでいっぱいだよ……
「言ってるじゃねーか!」
まあとにかく、健康は長生きのために必要だから、俺は色々とリサーチと実践をしている。
それでも俺は万能でもなく、他者に教えるために健康について調べているわけでもない。
俺がすすめられるのは、俺がやってることだけだ。
成功バイアスっていうやつだな。俺がやってる、俺に合う方法しか勧められない。『二ヶ月半で素敵ボディを手に入れたい』とかいうヤツに返せるのは『お帰りください』だけだ。
「わかったよ……俺は覚悟を決めた」
そうか、ストレッチするか。
ストレッチで慣れてきたら筋トレとかランニングも取り入れていこうな……
「いや、尿酸値を……受け入れるよ」
………………は?
「健康診断で出たこの数値は『ありのままの俺』なんだ。俺は、俺を受け入れる。くよくよしない。この数値はな、俺をあらわした、俺自身なんだ。自分が自分を受け入れてやれなくてどうするよ。よし、そうと決まれば――」
マーティンはガツガツとサラダをかきこみ、ゴクゴクと味のない炭酸水を一気のみし始めた。
そして俺をせかしてパスタを食べさせると、会計を済ませ、ニッコリと笑って言った。
「――さあ、行こうぜ、肉」
そこには男の覚悟があった。
俺は苦笑し、「ああ」とうなずく。
他に言うべきことも、浮かべるべき表情も思いつかなかったんだ……
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109話 デートのお誘い
マーティンの人生はどうなるのか
今日は違う人の話です
お楽しみに
注視していたはずなのに、気づけなかったことがいくらかある。
サラのことだ。
娘は大きくなった。すでに八歳を迎えて、体も心もすくすくと成長していく。
大きくなるにつれて、彼女の顔立ちや体つきは、当時のミリムを思い出させるものになっていった。やはり人種の影響は大きいような気がする。猫耳としっぽがついてたら、どんなに顔立ちが俺に似てたとしても、やっぱりミリム寄りに見えるだろう。
彼女はいつのまにか言葉が達者になって、口調から舌足らずさが抜けてきたように思う。
友達もたくさんできたようだ。彼女の口から知らない男の名前が飛び出すと、俺はドキリとして、その名前を持つ男がどんなヤツなのか、確認したい衝動をおさえきれなくなりそうだ。
服装もいつのまにかオシャレになっている。
昔は俺やミリムが買い与えたものをそのまま着ていたのだが、今では自分で服を選ぶし、アクセサリーなんかにも興味を持ち始めている――まあ、金属製アクセサリーとかではなく、髪を留めるシュシュとか、そういうものではあるのだけれど。
片時も目をそらしていないとは言えないかもしれないが、俺はサラのことをずっと見てきたはずだった。
それでも『いつのまにか大きくなっていた』という感覚がぬぐえないのは、それだけ、子供の成長というのが早いからかもしれない。
きっとこのまま、彼女は『いつのまにか』大人になるのだろう。
ならば俺にできることは『心の準備』だけだ。
俺はサラを愛している……愛しているものを奪われるのは、誰だってつらいだろう。しかし彼女は俺の手を離れていく。それが当然なのだ。
だから俺にできることは、彼女が離れていっても『奪われた』ではなく『成長し、彼女は彼女自身の世界を作り上げた』と認識し、そして『いつでも彼女は帰ってくるのだ』というのを心に抱き、送り出すことである。
ところで七月の夏休み間近のある日、サラからこんなことを言われた。
「夏休みプールでデートするの」
ダメですけど!!!!!????????
俺はとっさにそう言いかけて、あわてて口をつぐんだ。あわてすぎて舌を噛んだ。クッソ痛い。
くそ、誰だいたいけな娘をデートに誘うとか……しかもプール……プールってアレやん。水着やん。娘はもう八歳なんだぞ……八歳の娘とプールでデートとか誰だよマジで……
しかし俺は冷静な判断力をもっていた。
百万回の人生経験は伊達ではない……まずはどこの不埒な野郎が娘をデートに誘ったのか調べ上げて、平和裏に撤回してもらえるように裏で手を回さないといけない。
俺は『親として相手を確認するのは不自然なことじゃない』という気持ちを抱きながら娘にたずねた。――誰とデート行くの?
「ルカくん」
その名前を聞いた瞬間、俺の中で荒れ狂っていた『絶対に行かせないぞエネルギー』が急にピタリと躍動を止めた。
ルカ。
それが誰かと言えば、そう、誰あろう、アンナさんの息子だった。
たしかそろそろ五歳になっているはずだ。
俺はあんまりつきあいがないのだけれど、最近働き方を変えて家にいる時間の増えたミリムなどは、よくサラを連れてアンナさんの家に行き、ルカくんと遊んでいるようだった。
俺が振り上げた拳の置きどころに困ったのは言うまでもない――『アンナさんの息子』『五歳になったばかりの幼児』。この二つの特徴を兼ね備えた相手が、八歳の娘とデートする。
ほほえましく送り出すべき条件がそろっている――っていうか保護者同伴しないとアレな条件がそろっている。
っていうかそのデートはなに? どっちから誘ったの?
「ルカくんに誘われたの!」
サラは嬉しそうに言った。
俺はこの笑顔の意味を解釈する――『ルカくんが男前だから』というよりも、弟のように接してる幼い子に誘われて、お姉ちゃんとして嬉しくなった、という感じだろう。きっとそうだ。
さすがに八歳だしな。五歳児は恋愛対象の外だよな……外だよな?
俺は自分が八歳の時にどうだったか思い返そうとした。
けれど、そんな細かな感情の機微までは覚えておらず、そのころはとにかくアンナさんにあこがれてたような気がするだけで終わった。
うーん……六歳のころ五歳のミリムが恋愛対象だったかと問われると、全然そんなことはないと思うんだが……
まあ、そうだな。俺にとってミリムが『妹』だった感じで、サラにとってルカくんは『弟』なんだろう。そうだな。そうに決まっている。
俺はサラに告げた――いいけど、パパもママもついていくからな。ほら、ルカくんはまだちっちゃいし……っていうかアンナさんとかには許可とってるの?
「アンナおばちゃんは、パパに聞いておいでって」
アンナおばちゃん。
俺の中では永遠にお姉さんであるアンナさんも、サラにかかればおばちゃんなのだった。
そのくせカリナのことは『カリナ』って呼び捨てなのだ。
これはサラが無礼とかじゃなくて、『おばさん』と絶対に呼ばれたくないカリナの洗脳調教によって、カリナと呼ばされているのである。
というか――五歳になったばっかりの子が八歳の女の子をプールに誘うってなに?
どういうコミュ力?
「……誘われちゃったの!」
サラがほっぺたをおさえてモジモジする。
俺は胸をおさえてモヤモヤする。
こうしてアンナファミリーとのプール行きが決定した。
けっこう憂鬱である――あのイケメンすぎるアンナさんの旦那さんと水着でプールに立つんだぜ。
密かに筋トレの量を増やそうと誓った、七月のある日。
約束の日まではもう、一週間ぐらいしかないのであった――
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110話 幸せそうな人々
引き続き不意打ち気味に大きくなる人たちに振り回されるレックスさんをお楽しみください
ケッ、なんで新しい水着なんか買わなきゃならねーんだよ!
俺は不機嫌だった。
妻と娘が水着売り場に旅立ったあと、ショッピングモール特有の『柱のそばのベンチ』で一人すわってふてくされている。
休日だけあってあたりには幸せそうな家族連れがたくさんいた。
こういうところで一人でいると、俺はこれまでの人生を思い出してしまう。幸福なことなどなく、与えられたと思えばそれはさらなる不幸の前振りでしかなかった、そういう報われなかった百万回の人生だ。
最近は『ひょっとして俺は百万回転生したと思いこんでいるだけの人なのではないか?』と疑うことも増えてきた。
あるいは、本当に夢だったのかもしれない。今の俺に、俺の記憶を『実際にあったことだ』と証明する手段はなに一つないのだから……
しかしこうして一人で座って幸せそうな人たちを見ていると確信する。
俺の百万回転生は夢などではなかった。
百万回の『報われない人生』はたしかにあったのだ。そこで得たものも失ったものも、今の俺を構成する要素となっている。
立方体ではない……俺は、俺をかたちづくる百万回の過去が、俺をトゲトゲしい不安定な形状にゆがめているのを強く感じていた。
だって、俺は『生ききる』ことを目標にしているのに。そのためには他者にかかずらわっている余裕なんかないっていうのに。こうも、幸せそうな人たちを見て、気分が悪くなる。
具体的には――男児が憎い。
クソッ! どいつもこいつも幸せそうにしやがって! 男児はな……男児はな、成長すれば俺の娘を奪っていくかもしれないんだ……五歳程度の幼児だって娘をデートに誘ってくるんだぞ……
だが、俺はここで『滅べ』と軽々に思うことができなくなっている自分に気づいた。
男児には人生があるのだった。いや、それだけではない。彼らには親がいるのだった。そしてたぶん、教師や保育士もいるのだった。
男児どもはもうとっくに世界の一員で、それをとりまく環境が、すでにある。
男児らが滅びた時の男児ども自身の無念さ、親の悲痛、教師の悲哀を思えば、俺はもう個人的感情だけで他者の不幸を願うことさえできなくなっている……
不幸を願うのは犯罪ではない。
願うだけなら軋轢も生まない。
誰だって人生で一度ぐらいは『コイツムカつく。ウンコ踏め』と思ったことはあるはずだし、そう思う自由は誰にだってある。
だというのに、俺はもう、思うだけで罪の意識を覚えるようになってしまっている。
きっと百万回転生のせいだろう。
俺の記憶に蓄積しているのは、『生きたくても生きられなかった想い』なのだった。
軽々に『滅びろ』と願ってしまって、もし本当に滅びてしまったら、俺は滅びた者たちの無念を想って心が砕け散ると予感しているのだ。
俺は知っている。『今、突然、隕石が降ってきて、あたり一帯の人が死ぬ』というのが、奇跡と呼ぶにはあまりにありふれた理不尽であることを。
世界はいつなんどき、理不尽な鉄槌を下してくるかわからない。
その鉄槌の呼び水が、『たった一人の男が、心の中でほんの一瞬だけ描いた願い』でない保証なんかどこにもないのだ。
俺は深呼吸をして、心を落ち着ける。
そうだ、娘はいずれ飛び立つもの……わかっている。わかって、それを受け入れる心の準備もしたはずだ。
しかし『心の準備を一度した。だからもう迷わない』というほど、俺の心は――あるいは人間の心は、強くないらしかった。
強くない俺には、安心が必要だ。
どうすれば安心できるんだろう? あんなに嬉しそうにルカくんとのデートを待ち望む娘の様子を見せつけられて、デートのための水着までねだられた父親として、いったいどうしたら安心を得られるのか……
妻と娘がこちらに来る姿が見えた。俺は考える。俺を安心させるものはなにか。まやかしでもいい。安心なんかしょせんは幻想だ。どうすれば幻想にひたれるのか、俺は考えて考えて、そうして、近くに来た娘に言った。
今日買った水着を着た姿は――一番最初に、パパに見せてね。
娘はきょとんとした。
妻から「なんか変態っぽいからダメ」と言われた。
俺はニヒルに笑って立ち上がる。
見上げたショッピングモールの天井は高く、幸福そうな人々の声は、どこか遠く――
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111話 予定不調和予定調和
主人公も歳をとりました
引き続き老成をご期待ください
人生は予定していた通りにはすすまないものだ。
アンナさんファミリーとのプールをいよいよ明日に備えた日、俺のもとにとどいたのは父方の祖母が骨折したというニュースだった。
骨折ぐらいなんだ、と近場で誰の骨も折れたことのない者は思うかもしれない。
しかし骨折というのは大事だ。なんせ骨が折れているわけである。しかも祖母は階段で転んで足の骨を折ってしまったのだから、一人ではなんにもできない。
そこで手伝いが必要となるわけだが、入院直後というのは色々と入り用で、『きちんと状況を整理しなにをすべきかわかっている人手』が必要になるのだった。
俺は母に手伝いを頼まれた。
当然ながらそっちを承諾してしまえばプールには行けない。
しかしことわってしまうのはあまりにも薄情というものだろう――情というものは、生きていく上で不可欠だ。
もっと冷徹に語るならば『情』ではなく『印象』と言い換えてもいい。
『誰かからの印象を損ねないこと』は生きていくうえでことのほか重要で、そして、つきあいが長い、自分にとって大きな存在からの印象は、なにを払ってでも良いものとしてとどめるべきである。
そういった理由で母や父、父方の祖父母やそこに連なる親戚の印象を損ねないために『手伝いに行く』ことのメリットは大きい。
一方で俺が控えていたのはアンナさんファミリーと俺ファミリーでの家族ぐるみのプール遊泳である。
大人たちは事情を話せばわかってくれる。だが、ここで問題となるのは子供からの印象だ。
特にサラに『一緒にプールに行くって言ったのに、行ってくれなかった。嘘つき』と思われることは、なにを犠牲にしても避けたいところである――『しょうがない』事情はそろっているのだが、八歳の子供に『感情より事情へ配慮しろ』というのは不可能だ。
俺が祖母の入院まわりの手伝いに行ったとしても、ミリムとサラにはプールを楽しんでもらう予定だが、これは『究極の選択』と言えた。
こんな状況で俺は……『そうだよな! こうだよな!』と思っていた。
だって人生だぞ。
不都合は起こって当たり前なのだった。『どうしても外せない二つの用事』がブッキングするのは当然なのだった。
どれほど周到に計画を立てても、それがアッサリくつがえることはありえて当然だ。
今までがうまくいきすぎていて、俺はすっかり『敵』への警戒心を薄れさせていたが……
こういう不都合が起こると、やはりこの世界にも『敵』はいるのだという、妙な安心感を覚える。
いや、いないにこしたことはないんだ。
でも、いないわけがないんだ。
『敵』とは世界に実在する謎の組織や思想であり、そして、俺のいる世界にそれら『俺に不都合な巨大なもの』をもたらす運命そのものだ。
全知無能存在のねじくれた寵愛こそ、俺が百万回の転生で戦い続けてきた『敵』なのだった。
いないにこしたことはない。
なん度でも思う。いないにこしたことはない。『敵』のいない人生がもしも存在するならば、それはすばらしいことだと思う。
けれどいるのだ。いたのだ! 今まで存在を確認できず、ずっとしっぽを出さなかった『俺にとって不都合な運命』が、いよいよ世界の陰からわずかに漏れ出してきた。
俺は、自分のしていた警戒が報われたようなうれしさでいっぱいだった。
人知れず、人に言えずに続けてきた、無駄かもしれなかった苦労が、無駄ではないと証明されたのだ。こんなに嬉しいことはない。
……ああ、けれど一方でむなしさも覚える。
俺は『敵』を求めていた。
絶対にいないほうがいいに決まっているし、『いない』となんらかの信用できるモノから保証されたならば、安堵のあまり倒れ込むかもしれない。
それでも俺が『敵はいない』という何者かの保証を信じることは決してないだろうし、『敵』がいないと認められないからこそ、『敵』の存在が匂い立つと、こんなにもテンションが上がってしまう。
幾度も『この世界は安全で、敵なんかいない、幸せな場所だ』と思える機会があったけれど――
それでも俺の心の底は、ずっと『敵』を信じることをやめなかったのだ。
そういうわけでアンナさんファミリーに連絡をして、プールの予定を一週間ずらしてもらうことにした。
向かう予定だった大型プール施設に入るにはチケットが必要だが、キャンセルによって半額返還してもらうことが可能だ。
夏休みに入ってチケットをとりにくくなることが予想されたので、あらかじめとっておいた一週間後のチケットが役立ったわけである。
そうして予定を一週間後にズラすことで、家族三人で俺の祖母の見舞いに行くことが可能となり、ひ孫のサラを祖母に見せることにより俺の印象がよりよくなる効果も見込めるのだった。
だが、やはりすべてがうまくいくわけではない。
俺は事務的にこなせるすべての手続きと、社会通念やロジックを解するすべての相手への根回しを済ませたあと、もっとも大きな問題にとりかからざるを得なかった。
それはもちろん、サラとルカくんへの配慮。
『プールは一週間先になりました』と肩すかしを受ける子供たちのガッカリをどう埋めるのか、俺は半日ほど頭をひねらねばならなかった……
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112話 生者の円心
敵だ!(おおはしゃぎ)
複雑な気持ちの人生をよろしくお願いします
暑い、夏だった。
年々と夏はその暑さを増していっている。
酷暑が体力を奪ったのだろうか、祖母は骨折の完治を待たずに亡くなり、それから一月と経たないあいだに、あとを追うように祖父もまた亡くなった。
大往生だった。
俗に『老衰』でひとまとめにされる症状で亡くなった祖父母はどちらも九十歳を超えていた。
彼らは生ききって煙となり、この世界を巡っていくのだ。
俺も三十代だ。
この年齢になると色々と亡くなる直前のお年寄りたちの情報も入ってきていて、中には子供の顔さえ判別がつかなくなり、あらゆるものを敵視するような精神状態で亡くなっていく方もいるらしい。
けれど俺の祖父母はどちらもしっかりと記憶と意識をたもっていた。
精神的には健康なまま、次第に起きている時間が短くなり、そうして最後は眠るように亡くなったのだ。
それはまぎれもなく俺が理想とする死に様だった。
病院近くに詰めていた俺や俺の両親、そして俺の娘までもに見送られながらの逝去は、まさしく絵に描いたような『幸福な末期の風景』にほかならないだろう。
彼らの死を目の当たりにして俺が考えたのは、よりにもよって、俺を苦しめ続けてきた全知無能存在のことだった。
彼女であり彼であるその存在は俺を転生させ続け、俺の精神を生かし続けている。
それは、俺視点で無限の苦しみに他ならない。
人生とは、なにかを失い続ける旅路だ。
得たもの自体が少なかった俺は、その貴重な『得たもの』を失うたびに慟哭し、
もっとドライに生きることができれば、きっとすでにすべてをあきらめたような、悟りの境地に達することもできているのだろう。
しかし転生のたびに若返る俺の精神は、達観することもできず、諦念に身をゆだねることもできず、いつだって、胸中で暴れまわる『心』というものに痛めつけられ続けてきた。
それでも今生までに経験した百万回の転生は、どれもがつらい世界での人生だった。
だから亡くなった人に対しては『こんな世界で生きなくてもよくなったのだ』と、『救われた』と思うことができた。
だが、こうして、幸福な予感に包まれた……事実はまだ不明だが、少なくとも『予感』には包まれた世界で大往生した祖父母を見て、しみじみと胸中に悲しみや、それ一語ではとうてい表しきれない気持ちが発してきて、あらためて、思ってしまう。
『できればもっと生きてほしかった』。
この世界で生きてほしかった。
彼らは充分に幸福だっただろうけれど、この世界では、さらにその先の幸福が予感できる。
だから、生きて、もっと幸せな出来事を経験してほしかったと、そう思うのだ。
この大往生した相手に抱く、生者ならではの『もっと生きてほしい』という、ある意味で身勝手な想いは――
俺を転生させ続けている、全知無能存在の気持ちそのものなのではないか?
そんなことを、考えてしまうのだ。
「こっちのおばあちゃんも、そろそろかもしれないわ」
冬の入口にさしかかった時、母が不意にそんな言葉を漏らした。
父方の祖父母をこの夏に失い、母方の祖父をずっと前に亡くした俺にとって、もう、祖父母と呼べる存在は、母方の祖母しか残っていない。
そして暑い夏と寒い冬は、お年寄りが亡くなることが多いように、経験からは感じ取れた。
きっと母も同じような経験則から語ったのだろう。……あるいは、仲のいい親子ならではの予感みたいなものが働いたのかもしれない。
「そうなったら、田舎のおうちを引き払わなきゃね。もう、誰も住まないだろうし……」
ともすれば冷たいような言動ではあったが、俺はそれが冷酷さから発せられたものではないことを知っている。
覚悟が決まった人の発言というのは、こんなものだ。喪失の悲しみを前提にした時、人は初めて『喪ったあとのこと』を論理的に思考できる。
……そうやって自分の母親の死期について語る母も、ずいぶんと歳を重ねているように見えた。
手や首などからはいくぶんか肉が薄くなっていたし、綺麗な金髪の中には、白髪も混じっているように思えた。
後ろ姿などはやせ衰えた感がぬぐえず、こうして寂しげに背を丸めていると、いよいよ母も老境にさしかかっているのだという事実が、いやおうなく思い知らされるようだった。
……当たり前のことだが、母も父も、いずれ、亡くなる。
亡くなることが当たり前で、亡くなった『あと』なんかないのが、当たり前の、幸福な、人生というものだ。
……ああ、でも。
俺がこんなことを思ってしまうのは、間違っている。口が裂けたって、言葉にはできないのは充分にわかっている。
それでも、思うことだけを許してもらえるならば――
やはり、亡くなってほしくはない。
百万と一回目の人生において、俺は『喪失』の真の悲しさを知った。
人が死ねば悲しいのは当たり前で、亡くなった人が親しいほど悲しみもまた深くなるのは、誰しもが想像のおよぶことだと思うけれど……
悲しみの中で、『ありえたはずの幸福な未来』を思い描いてしまうことが――
その幸福な未来が閉ざされたのだと気づいてしまうことが、なにより悲しいのだと、ようやく、わかった。
……ふと、思考が進んでしまう。
なんて益体のない考えだと自嘲してしまうが――
全知存在ならば、どれだけの『ありえたはずの幸福な未来』を思い描けるのだろうか?
そんな、考えても仕方のないことにまで、俺は、思いをはせてしまったのだった。
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113話 いつか迎えるはずだったものを、今日
成長と老化と寿命を引き続きよろしくお願いします
時間が過ぎ去るのは本当に早い。
つい先日祖父母の葬儀を終えたと思ったら、俺はまた歳を重ね、そして娘は初等科の三年生へと進んだ。
日々は特筆すべきこともなく過ぎていく――『特筆すべきこともない毎日』。なんとすばらしいのだろう!
世間では『毎日を記念日に』とかいう勢力もいて、そいつらがキラキラしたグループとして台頭している向きもあるのだが、俺はそういう人たちには『勝手にしてほしい』と思っているタイプだった。
キラキラを好む彼ら彼女らはおそらく、『ただ生きている』だけで満足できない人生一周目なのだろう。
……だとしたらうらやましくもある。『明日、いきなり幸福のすべてが砕かれるかもしれない』という恐怖を抱かずにすむ人生があるならば、それはとてもすばらしいことだと思うのだ。
そう、日常というのは、あっけなく、ある日突然、壊れるものだ。
「パパと運動するのやめたい」
初等科三年生にあがってさっそく九歳の誕生日を迎えたサラに言われたのは、そんな、意外なことだった。
我が家は健康のために家族ぐるみでの運動を日課としている。
週末ともなればちょっとランニングなんかしつつ遠出もするのだが、どうやら娘は、その習慣に自分を混ぜるのをやめてほしいようだった。
まあわかる。
自分の意思によらぬ習慣に巻き込まれ、自分の時間が削られていくのは、看過できないものだ。
俺は定期的な運動を長生きのためにやっているし、口ではどう言おうとも『健康に長生き』したくない人類など存在しないと思っている――今は『すぐに死にたい』と言っているような人でも、実際に病気になって苦しいまま没する直前になれば、生きたいと思うものだと、そう考えているのだ。
俺は家族でおこなっている『運動の習慣』を悪いものだとはまったく思っていないし、必要なものだと強く信じて疑っていない。
だが、それでも、イヤになることはある。
『よい』『悪い』という軸で語るならば『よくたってやりたくないことはある』だろう。
そもそも、本当に人類に運動が必要かどうかは、証明のしようがない。
極論を言うならば、『運動が健康にいい』という俺の主張は『信仰』のようなものなのだ。
なぜって、今『正しい』とされているデータが、百年後に覆っていない保証なんかどこにもないのだから。
だからサラの自由意思を尊重していこうと思っている。
真理を知らない俺たちは、おのおの好きなように生きていくしかないし、そうするのが、ある意味でもっとも『健康』なのだから……
俺はサラに合わせて神妙な顔になってうなずいた。
俺とサラのあいだには、サラの誕生日を祝うケーキが存在する。ロウソクが消えたばかりでわずかに煙をあげるそれを挟んで、俺たち親子はあくまでも真剣に見つめ合っている。
俺は言う――わかった。でも、気が向いたら、また一緒にやろうね。
おそろいのスポーツウェアも買ったしさ。
「その『おそろいのスポーツウェア』がはずかしいの」
……………………………………。
俺はミリムを見た。ミリムはうなずき、言う。
「たしかに、この歳でお父さんとおそろいの服は恥ずかしい」
えっ、娘ってそういうものなの?
俺は愕然とした――おそろいのスポーツウェア。いいじゃん、チームみたいで。連帯感っていうの? そういうのがさ……
うーん、でも、そうか、たしかに俺も中等科ぐらいのころは母親の買ってきた服とか恥ずかしくて着たくなかったしな……女の子は成長が早いのだという。それは体もだが、きっと心もなのだろう。
そう、俺は女の子のことがわからない。
女の子について知りたいと熱望し、ミリムに助言を求めたりもしたのだが、いつのまにか助言を求めた相手が奥さんになってしまったため、けっきょく女の子について詳しくないままここまで来てしまったのだ。
ミリムが俺の妻になった経緯は擬音であらわすと『ぬるり』って感じだ――そう、俺は今気づいたんだが、ミリムの夫だったのである。
夫として生きてきたし、今では一子をもうけているし、ミリム以外とは付き合ったこともないし、断じて浮気もしていないんだが、なんだか急に、俺は自分が彼女の夫であることを思い出したのだった。
内心の混乱はあったが、今はお誕生日会の途中だ。
なんか週末はクラスの子と祝いたいとかでお小遣いをせびられたりもしたし、順調に娘が巣立っていく感が増してきて、半端じゃないストレスで毛が抜けそうになっていたりもするが……
抜けそうと思う前から頭皮ケアをおこなっている俺にスキはない。
混乱していて思考の主題が定まらない。どうして俺は娘の一言一句にこれほどまでにうろたえるのだろう……平常心、平常心。俺は心の中で三回唱えた。三回唱えたか? 二回か? いや三回か。三回だな。
俺には百万回の人生経験があるのでいついかなる時も冷静なのだった。
俺はケーキが冷める前になんとかしないと誕生日ですねと思いながら言う――スポーツウェアを勝手に買ってきたのはパパの落ち度だ。けれど……せめてパジャマとして着てほしい。パパは外で着る。サラはうちで着る。するとおそろいであることは、誰にもバレない。
俺は冷静なので、反抗期から思春期にかけての子供がもっとも気にするのが『人の目』であることを知っているのだった。
ある年齢にさしかかった時、過剰に『人の目』というものを気にして、妙に格好つけてみたり、妙にキャラをつけてみたりした経験は誰にでもあると思う。
思春期の正体がそれだ。
ある程度まで年齢を重ねると『世間はそんなに自分に注目していない』という見識を得る。
だが、それまでは自分の行動一つ一つに世間の目が向いているような気がして、細かい動作で謎アピールをしてみたり、その結果気づいてほしい相手は全然自分を見ていなくて、どうでもいいようなヤツに『さっきのなんだよ』と突っ込まれたりして叫びながら天元突破したくなったりするのだ。
ああ、ダメだ! サラの思春期に思いをはせていたら俺自身の黒歴史がよみがえってきて、思い出し羞恥が俺を襲う!
のたうちまわりたい気持ちを抑えつけながらサラの返事を待った。
サラはどこか不満そうな顔をしたまま俺をジッと見て、言う。
「バレなくても、おそろいなのは、なんかイヤ」
…………。
そうか。
うん、そうか。
――それはとある五月のあたたかな夜の話。
ついに娘が父親に反抗を始めた、記念すべき九歳の誕生日……
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114話 在りし日のこと
れいせいなしゅじんこうの今後をお楽しみください
その夏、母方の祖母が亡くなった。
これぐらいの年齢になると、やはり祖父母が亡くなることが多い。マーティンなんかも葬式が重なってしまったようで、仕事を休めることをうれしがる一方、仕事先に休みをとる旨を告げるのが憂鬱だと笑いながら話していた。
我が家の祖母の死はある程度みんな――亡くなる祖母自身もふくめて――が覚悟していたし、準備もしていた。
だからつつがなく終わり、俺たちはいつになくのんびりと葬儀後のモラトリアムを過ごしていた。
祖母の住んでいる場所は、ずいぶん田舎だった。
最寄り駅まで車で四十分という僻地にその家はあった。
二車線の道路を走り続けて、曲がるのに少し気を遣う狭いカーブを抜け、とても急な坂をのぼったところだ。
この坂があんまりにも急なもので、徒歩だろうが車だろうがここを通るのはたいそうこわい。少し足を滑らせて転んだら一気に坂のふもとまで転げ落ちそうなのだ。しかも左右には川があって、下手するとそこに落ちるかもしれないということも危惧しなければならない。
家は広く、どこか寂しい。
二階建てではあるのだが二階は二部屋しかなく、そのどちらも今は使われていない。
かつて、俺の母が私室として利用していたそこは、今、客間となっていた。俺とミリムとサラは、祖母の葬儀が終わって家に帰るまでのあいだ、そこで寝泊まりをすることになる。
夜中、部屋の窓からはなんにも見えなかった。
暗すぎるのだ。街灯さえない田舎の景色は、『星がまたたいて綺麗!』なんていうことは全然なくて、ただただ暗い。
第一、星程度の光量で夜の道を照らせるのであれば、人類は街灯なんか発明していないだろう。
その暗闇からはカエルやら虫やらの声が無限に聞こえ続けていて、サラなどはこの声や窓に反射する自分の姿にさえおびえてしまい、この部屋での寝泊まりはイヤで早く家に帰りたいのだと、有言無言で俺に表明してきた。
俺はそのたびに言う。
『まあ、これで、最後だから』。
俺の祖父母はみな亡くなった。
ミリムのほうは、一人を残して亡くなっているとかいう話だった。
彼女の祖父母は遠い遠い東方の国にいるのだ。
ミリム自身はあまり会う機会もなく、中等科ぐらいからとっくに疎遠で、葬儀に出るのには手間もお金も莫大にかかることもあって、色々と免除されているらしい。
こっちの国にも祖父母はいるようなのだが、そちらの話はあまり聞いていない。
俺たちは互いの性格を信用しているので、必要があるなら相手は話すだろうと思っている。ミリムの祖父母について話が出ないのは、『必要がない』という判断をミリムがしているのだと、俺は考えていた。
さて、俺は祖父母の死にわりと思うところがあるのだが、そんな感傷は子供にはわからない。
サラと俺の祖父母との交流はそこそこあったが、それでも物心つく前もふくめて十回ほどしか接触していない。
そんな相手に哀悼の意を捧げるよりも、早いところなにもかもがある都会に戻りたいと子供が思うのは、仕方のないことだと思う。俺のセンチメンタルに付き合え、と強要するのは傲慢というものだろう。
大人は強い。
だから、傲慢になってはいけない。
肉体的に子供より強い。経済的に子供より強い。
子供を経て大人になった俺は今さらながら痛感する。子供というのは不自由だ。親の庇護なくして生きていけず、特にまだ法的に働けない年齢である我が子は、たとえ行きたくもない場所だって、親の都合によっては行かざるを得ないのだ。
俺はこの世界に生まれ落ちた時、真っ先に周囲の生き物を警戒したが――
警戒したところで、周囲の者たちが本気の殺意をもって向かってきたら、なんら抵抗できずに殺されていただろう。
大きすぎる力の差があった当時を思い出す。
その当時、俺は『力の差』をまったく感じることもなく、のうのうと生きていた。
力の差は、相手が強権を行使して初めて実感するものなのだ。
そしてうちの両親は、強権を行使しなかった。
あるいは、行使の仕方が、うまかった。
納得への配慮。
ふと、俺は大事なことに気づいた気がした。
大人は傲慢になってはいけない――それは正しいと思う。
大人は我慢をしなければいけない――それは、間違いだと思う。
子供のようにわがままを言ってはいけないだけだ。
きちんと配慮して、周囲を納得させるように立ち回って、わがままを通す――それが、大人の、わがままのやりかただ。
だから俺は、娘の感じている恐怖と退屈に配慮しつつ、感傷にひたりたいというわがままを通す方法を考えた。
話をしよう。
お前はきっと、全部のものがこわく思えるんだろう。
田舎の真っ暗な夜。そこらじゅうから聞こえるカエルや虫の声。窓をのぞけば自分の姿が反射していて、そいつがなんだか、よくわからない化け物に見えるんだろう。
あるいは家鳴りや、この家に漂う空気そのものが、お前を恐怖させるのかもしれない。
けれどね、知ることでやわらぐ恐怖もある。
だから、パパがお前に聞かせよう。
ここであったこと。ここにいた人のこと。
お前のひいおばあちゃんと、ひいおじいちゃんが生きていたころ――
俺がこの家で経験した楽しかったことを、お前に話させてほしいんだ。
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115話 刺客
このあと、レックスの人生に大事件が
引き続きお楽しみください
それは予期せぬところから這い出てくる刺客のようなものだった。
情報収集を欠かさない人生を送ってきた。
恐怖していたからなのだった。『未知』というのが俺には、人生に差す暗い影のように思われてならなかったのだ。
知らないことを可能な限りなくして、人生という道行きの暗い箇所をなくしていくのを、俺はたゆまずやってきたつもりだった。
それでも意外なところに影は残っていたのだ。
それら影は意識の死角にあって、たとえば俺がちょっと『安心』の上にあぐらでもかこうものなら、真下から這い出て俺を串刺しにする機会を狙っている。
俺はそういった影におびえ続けて生きてきた。
そうだ、片時だって警戒を怠ったつもりはない。けれど、人の精神はもろい。
いつだったか思った通り、この世界の人類の精神は『常にすべてを警戒する』ことができるほどの頑強さを備えてはおらず、刺客は決まってフッと警戒を緩めた瞬間に、思いもよらぬ場所から現れるのだった。
ある日、娘の口から飛び出した言葉が、俺の心を粉々にするかと思われる勢いでたたきつけられた。
「おうちに彼氏呼んでいい?」
絶望に姿かたちがあるなら、きっと小学三年生男子の形状をしているに違いがなかった。
そう、絶望だ。娘の口から語られる『彼氏』という言葉は、俺にとって絶望そのものだった。強いストレスを浴びないように警戒をおこたらない俺に、突如として撃ち込まれた天空からの
しばらくのあいだ、心身の麻痺によりちっとも動けなくなる。呼吸は忘れていた。鼓動さえ忘れていたかもしれない。
『彼氏』というそんなに珍しくもない言葉には、俺の生命を一瞬以上の時間止めるだけの威力が秘められていたのだ。
俺は『彼氏』という言葉を禁止しようと強く思った。
政治を意識した。もしも俺が独裁者ならば、彼氏という言葉の使用を禁じたうえで、権威の及ぶ範囲にいる十歳以下の男児を皆殺しにしろと命じたかもしれない。
あきらかな過激思想はそれだけ強いストレスが与えられている証拠だった。
打ちのめされて未だ麻痺を続ける意識の中でヒーリングミュージックが流れ始める。これは俺が強いストレスを感じて我をうしないかけた時に流れるように設定しておいた、アンナさんの作曲した音楽だった。
俺はようやく麻痺から立ち直る。
脳内には未だ音楽が流れ続けている。深呼吸をしてしばし妄想の中の音に身をゆだねた。
そのあいだ、精神に防壁を重ねていく。
その防壁は魔術的なものとかでは全然なくって、ただの理論武装にしかすぎなかった。
『今時の女の子なんだから彼氏ぐらい珍しくもないさ』
『どうせ気の迷いなんだからすぐ別れる』
『そもそも娘をいつまでも手元においておくっていうのは親のエゴだ』
『成長が早いと喜ぶべきところだ』
――様々な言い訳を脳内で構築して、俺は風の前の塵めいた、頼りない己の心を
十全の備えをしたうえで、俺は再び娘との会話を試みる。
わかった。いいよ。いつ来るの?
「えっとね、ジーンくんが来週で、アランくんがその次の週で、ブラッドくんがその次で、コンラッドくんがその次」
えっと、誰が彼氏?
「みんな」
ぐはああああああああああ!?
俺の精神防壁は砕け散った。
えっ、待っ、早っ、ちょっ、そっ……
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。
――自己修復シークエンスを開始します。
精神フォルダ『レックス』の項目を解凍。自己再現を開始しました。
再起動まで十、九、八、七、六……
レックスの人生を再開します。
「……パパ?」
私はレックス。サラの父親だ。
……ハッ!? 精神が砕けた!?
危なかった。かつて情報生命体だった時の経験が活きた。廃人になるところだった。
この世界では基本的に『脅威』に巡り遭うことが少ないが……
まさか人生で初めて『死』を間近に見たのが、娘からの言葉による攻撃だとはな。
精神の再起動を終えた俺には、記憶にちょっとあいまいなところがあった。
俺は状況を確認する――すまないサラ、なんの話をしてたっけ?
「サラの彼氏をおうちに呼んでもいい? 四人いるんだけど」
お前九歳にして乙女ゲーのヒロインみたいな交友関係してるな。
どうしよう、俺はどうしたらいいんだろう……そもそもサラよ、なぜ四人も彼氏ができることになったのか、パパに教えてほしい。
「なんか……みんなサラのこと好きって言うから?」
九歳ってどうなんだっけ?
こんな幼稚園児が結婚するみたいなノリで彼氏できる?
彼女が大人側なのか子供側なのか、俺は判断に迷っていた。
幼稚園児の婚約みたいなノリだったら彼氏なんぞダース単位でいたってかまわないが(かまわないとは言ってない)、もうすぐ年齢が二桁だしな……普通に四又判定しちゃっていいんだろうか……?
わからない。俺はもう女の子がわからなくてこわい。
俺は人生に暗い場所をなくしたくて努力してきた。知らないことを知ろうという労力をおしんだことはなかった。わからないことはアドバイザーさえ
俺のころクラスで四又してた女子とかいなかった気がするんだが、時代は進むし、時代が進めば言葉の定義も変わっていく。
ひょっとしたら『彼氏』という言葉に俺が思うような重い意味はなくて、『ちょっと仲のいい異性の友達』ぐらいの意味合いなのかもしれない。
しかしうちのサラは純粋な子だし、男を手玉にとってもてあそぶようなことはできないはずだ。
ということは、世間においてどうかは知らないが、少なくともサラ側は『好きって言われたから』以上の強い気持ちはなく、なんとなく自分に好きって言ってくれた子を彼氏扱いしているだけかもしれない。
俺はそう結論して、サラに言う。
四人の彼氏、一人に絞れない?
パパはお前に四人も彼氏がいるって聞かされた瞬間、死にそうになったよ。
パパのためにもどうか、一人に絞ってくれ……
「決められない……みんな優しいから……」
そっかあ。
俺は
だから俺は寛大そうに言う。
そこをなんとか一人に絞れない?
「世界で一人しかだめ?」
お前の交友関係、そんなにグローバルなの?
このへん以外の土地までふくめたら彼氏八人ぐらいになったりする?
それはちょっと……パパ、こわいな。
「パパこわいの? そっかあ。じゃあね、パパにする……」
うん?
「世界で一人だけなら、パパにする」
おそろいのスポーツウェア着る?
「それはやだ」
おそろいのスポーツウェアは着ないが――
世界で一人だけ男を選ぶなら、俺になるか。
そうか。
俺はフッと笑った。
そして言う――いいよ、四人の彼氏を呼んでも。
「いいの?」
うん。でも、そのうち一人に絞りなさい。
この国は一夫一妻制だからね。
笑ってサラの髪をなでる俺には余裕があった。
大人の余裕だ。親の余裕だ。もしサラが世界で男を一人だけ選ぶなら、それは俺なのだ。その事実がある限り、彼氏が四人いようが八人いようが、それらはすべて『遊び』に他ならない。
子供の遊びだ。
いいよ、大人の俺は笑って見守りましょう。
俺はサラの頭をなでる。サラも嬉しそうに笑う。獣人種の彼女の気持ちはしっぽの動きでわかる。よし、嘘はない。俺は慎重に確認してから安堵する――俺がサラの『一番』だ。
こうして我が家に週替わりで四人の彼氏が招かれることになった。
でもサラの一番は俺だから。
俺なんだからな。
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116話 仮面をかぶるころ
父親が転生者!? 〜それとはまったく関係なく彼氏が4人〜
引き続きよろしくお願いします
小三男子に『おとうさん』とか呼ばれてキレそう。
『怒り』によく似たもやもやを抱えたまま、激動の『娘の彼氏が毎週くる一ヶ月』が過ぎていった。
その期間中の俺はうまく『親しみやすい友達のお父さん』というペルソナをかぶれていたと思う。
人は、内外に己の正体を偽りながら生きている。
内外に、だ――他者にはもちろん、己自身にも、己を偽ることがある。
もしも俺が初等科三年男子であれば、娘の友達に『おとうさん』とか呼ばれたらキレ散らかしてケンカを始めることだろう。
だが、俺は大人というペルソナをかぶっている。
大人が小三男子とケンカするのは、デメリットがあまりにも大きい。
世間は子供の味方であり、先に手を出したほうの敵である。どれほどの侮辱を受けても、子供相手に先に手を出した大人は獄中への特急切符を切られるさだめなのだ。
だから俺は言い訳で心を
人は成長の過程でいくつものペルソナを手に入れていくものだ。
しかも知らぬまにそれらペルソナは、まるで産まれた時から俺の皮膚の下にひそんでいて、成長とともにだんだん体になじんでいったものであるかのように、無意識のうちに自然と選択されるものになっていっていた。
娘の友達(彼氏ではない)に『おとうさん』呼ばわりされた時、俺の本性と呼べるものはたしかに怒りの声をあげそうになった。
けれどまるで出て行くタイミングをはかっていたかのように『父親』のペルソナがすっと俺の顔や心に張り付き、娘の友達(彼氏ではない)に理解ある優しい『友達の父親』めいた態度をとったのには、俺自身、おどろかされたものである。
こうまで見事に内心と態度を分けられるようになったのか、と俺は自分で自分がおそろしくなった。
そう考えると、子供は無垢なものだ――好意はそのまま好意だ。信頼はそのまま信頼だ。『状況の要請に応じてペルソナをかぶる』ということがまずない。
うちに来た男どもも、振り返ってみれば、みんなかわいいもんだった――裏表のない好意であふれていた。性を感じさせない、年齢相応の、幼い恋愛感情を隠そうともしなかった。
実際に家に連中がいた時は『どうにかして神隠しをおこなえないか』と思案したものだったが……
こうして過ぎ去ってみると、『また遊びに来させてやってもいいかな』ぐらいには思えるようになっている。
というかまあ、なに?
普段娘とできない遊びができて、俺も楽しかったっていうかさ。
言わずもがな俺は定時に帰るタイプの学校教員なので、娘の友達が家にいるあいだに帰ってくる。
そうしてあいさつがてら彼らと遊んだ記憶を振り返れば、己自身が童心にかえり、心が洗われるかのような、そんなみずみずしい輝きに満ちている気がした。
だから俺はサラに問いかける――彼氏たち、まあ彼氏じゃないけど、今度はいつ来るって?
するとサラは携帯端末を見て、淡々と告げた。
「ジーンくんは食べ方が汚いから呼ばない。アランくんはゲームに夢中すぎたから呼ばない。ブラッドくんはなんかだめ。コンラッドくんは来るかもしれないけど、優しくないからあんまり呼びたくない」
えっ? 今、なにを見ながらしゃべってるの?
「みんなの態度を一覧にしてまとめたの」
……どういうこと?
「おつきあいする人、一人にするなら、いい人がいいから。データにしてまとめて、ポイントつけてるの」
その言葉を聞いた時、俺の背筋にすさまじい寒気が駆け抜けた。
そして冷や汗が吹き出す。
えっ、サラ……えっ、お前、だって、みんなと遊んでるとき、けっこう楽しそうだったじゃん……?
あんなはしゃいでた裏で、そんなポイントとかつけてたの……?
「あれはつきあいだからー……」
九歳女児は物憂げにため息をついた。
超こわい。
俺は今まで娘のことを『かわいい』『愛しい』ぐらいにしか感じたことがなかった。
きっと将来、どんなに娘が大きくなっても、『かわいい』ぐらいにしか思わないもんだろうと思っていた。
けれど今――俺は、娘が、おそろしい。
っていうか女の子全体がこうなの? わからない。俺は相変わらず女の子のことが全然わからない。ミリムが実家から帰ってきたら聞こうかと思う。
えっ、ていうか……どうしよう、『こわい』以外の感情がない。
点数? 遊びに来た彼氏に点数とかつけるの? しかもデータにしてまとめてる? なんだその……いやまあ変なところで一覧表とかつくるのが『俺の娘』って感じがするんだけど……
ここで俺の口をついて出そうになったのは、『その点数つけるのはみんなやってるの?』とか『じゃあ彼氏たちとはお別れする?』とか、そういうことではなかった。
『パパはなん点?』
そんな質問が今にも口をついて出そうになる。
しかし俺は思案した――点数いかんでは俺の心に一生消えない傷がつくことになる。
知りたい。
その欲求は、常に俺の中にあった。俺の人生は『知らないことを知る』ことによって安寧を得てきたと言ってもいい。
『知ること』は俺の人生における命題だった。この世の暗い場所を知識の光で照らすことこそが、俺の足場を固め、今の人生をかたちづくっていると言っても過言ではない。
だが、世の中には『知りたいが、知りたくない』ことがあった!
俺は迷いに迷う。
人生で――百万回と一回の人生で、これほどまでに俺を惑わせた選択肢があっただろうか?
『娘からパパへの点数』!
ああ、絶対に聞きたくない! でも、聞かないではいられず、きっと聞かないことにしたならば、毎夜毎夜悪夢にさいなまれ、俺は永遠に安眠ができないに違いがないのだった!
一方でもしも低い点数を言い渡されたならば、きっと俺は娘の前でおこなうすべての行動を迷い、おそれ、いつでも娘の目におびえて過ごさねばならなくなるだろう!
聞かぬべきか、聞くべきか、それが問題だ。
聞かずにすませ心の中に永遠に消えぬ煩悶を抱えながらも人生をやり過ごすのか、それとも質問し点数を言い渡され、それいかんによって娘に気に入られるような生き方を意識させられるのか、いったいどちらが……
……よし、聞こう。
俺は二つの選択肢の先に己にかかるストレスを計算し、『聞く』ほうが、どのような状況であろうともストレスが低いと判断した。
サラ。
パパは――いったい、なん点なんだい?
「……」
サラはじっと俺を見る。
そして、わずかな、けれど俺からすれば永遠にも感じられる時間のあと、笑った。
「パパはパパだから、点数はつけないよ」
俺は深い安堵に包まれた。
そうか、そうだよな。パパはパパだもんな。点数はつけないよな。
よし、ああ、ええと、これは前々から決めてたことで、今の答えとは全然関係がないんだけれど、今晩はごちそうにしようか。
なんとなくお祝い気分だしちょうどいいよな。
「うん!」
じゃあ宿題とかすませてらっしゃい。
娘が元開かずの間、現在は彼女の個人部屋へと駆けていく。
その小さな後ろ姿を見送って、パタンと部屋の扉が閉じる音を聞いて――
ふと、『ペルソナ』という言葉が、再び頭によぎった。
……その意味はわからない。きっと、さっきまで考えていたことをふっと思い出したのだろうと思った。
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117話 フラット
なんか……なんか……だめ
引き続き……なんか……よろしくお願いします
娘が初等科の四年生になったすぐあと、俺はブラッドという名の少年に思いをはせていた。
そいつは赤毛が特徴的なやんちゃそうな男の子で、娘とは学校の成績でよく争う間柄だったのだという。
それがなぜ彼氏(のうち一人)になったのかは全然わからない。
娘に『なんかだめ』とすごい切り捨てられかたをされたが、それでもうちに来て、娘からの好感度を下げつつ俺の好感度を稼いでいく彼には、いくらかマーティンを思い起こさせるところがあった。
マーティンを思い起こさせるところがあるので、俺はこのブラッドくんが一生独身、すなわち娘の正式彼氏になることはなかろうと安心しているふしもあり、いつしか彼と男同士の語らいをすることになって、衝撃の事実に気づいた。
ブラッドくん、シーラの甥っ子。
シーラというのは俺と同級生の四月生まれ女子である。
俺が初等科のころから成績において熾烈な争いを繰り広げ続けた好敵手であった。
今は弁護士をやっているのでいくらか法律的な相談をしたこともある――そろそろ年齢的に父親の地盤を継ぐために政治家秘書になるとかいう流れの中にいたはずが、どうやら本人は弁護士を続けている模様だった。
っていうかシーラ、きょうだいいたのか。
俺は今さらながらシーラのことを全然知らないことに気づいた。
父親が政治家であること、本人は弁護士をしていること、独身であること。
これぐらいしかシーラにまつわるデータを知らない。
おかしい。昔調べたはずなのだ。
同級生なんだからそりゃあ調べるはずなんだ。当時、シーラは一人っ子という事実を俺は獲得していたはずなんだ。
だというのになんで甥っ子がいるのだろうか?
ちょっとブラッドくんから聞いてみたところ、かなり複雑な家庭の事情が明るみに出てきて、俺はそのすべてを聞かなかったことにしたし、ブラッドくんにも俺に話したことは忘れるように言った。
しかしブラッドくんはまだ九歳である。
『言わなかったことにして』という俺の言葉に素直にうなずくあたりもふくめて、本人の性質的にはかなり素直であけっぴろげだ。ちょっと口の固さは信用できない。
かといって根回しするべきツテもない。
困り果てた俺はとりあえずシーラに言っておこうと思って、久々に彼女に連絡をとることにした。
「ああ、ブラッドのこと? うちの父親も、別に知られても困らないと思うけど」
シーラはさばさばしているというか、なんとなくヤケになってるみたいな雰囲気で、吐き捨てるように語る。
「あたしが地盤を継がないって言ったから、あたしのイトコを養子にしたの。ブラッドはそのイトコの子供。公然の秘密っていうか、別に秘密でさえないから安心しなさいよ」
俺、消されない?
「あんたは政治家をなんだと思ってるの?」
俺にはあえて知らないようにしている世界がこの世に三つあって、それは『政治』『宗教』『スポーツ』だ。
この三つだけは調査さえしないように心がけている――あらゆるバイアスを自分の中に入れたくないのだ。だから教頭とホウキラグビーに行く時でさえ、チーム名以外の情報は仕入れない。
「相変わらずね。……まあそれならちょっと聞いてよ」
そこから色々政治からまりの話をされた。
まあなんていうか、色々あって、またシーラパパの派閥が元に戻り、ブラッドくんは俺たちの通った学園に通うことになったのだとか。
彼もゆくゆくは政治家にされるために育てられているとかで、シーラはそのあたり超気にくわないらしく、ここぞとばかりに俺に愚痴ってきた。
俺、政治情報入れないようにがんばってるって言ったじゃん。
「こんなの政治情報じゃないわよ。変に支持政党とかある人には言えないのよね」
まあわからんでもない。
政治の話題は職場でも大人気で、主に現政権批判だとか、報道番組に提起された問題についての意見交換だとか、みんな嬉しそうにやっている。
こうなるとノリが宗教とかスポーツのサポーターとかみたいなもんで、なんとなくアンチになる団体がみんなあって、その団体に味方するようなことを口にしようものなら面倒くさいことになるのだ。
こういう『みんなが機会があれば語りたいと心に秘めている話題』について、俺は無知であり無関心でいられるようつとめてきた。
その話題に触れなければコミュニケーションをとれないような状況に自分をおかないように戦略的に動いてきたわけである。
……その基準に照らし合わせると、つきあいでホウキラグビー観戦に行くのも、実はギリギリアウトって感じだ。
「あんたはフラットでいいわよね。『お父さんは立派な人なんだから言う通りにしなさい』とか『政治は生活の基盤だからもっと志高く政権を担うぐらい言いなさい』とかそういうこと言わないから」
俺がフラットでい続けるためにもそういう話題はナシにしていただきたいのだが。
俺は『思想』というものをおそれている。人の『それ』に感化されることも、自分の中に『それ』が芽生えることも、両方おそれているのだ。
なぜって思想はたいていの場合において寿命を縮める遠因たりうるからだ。
『美学』『矜持』『思想』……このあたりは『生きる』ということを鼻歌交じりにやってのける人生余裕勢だけが持てる嗜好品だ。
俺みたいに生きることで手一杯のヤツが手を出そうものなら、取りこぼして色々なものをなぎ倒しながら自分の足をすくうことになるだろう。
「あんたはほんと、『どの紛争地域で暮らしてるの?』って感じよね」
生きることは戦いだからな。
「……まあいいけど。そういうわけだから、あたしはブラッドとはあんま関係ないし、ブラッドまわりのこと多少知ったって刺客が放たれたりはしないから安心していいわよ。っていうか刺客とか放たれないからね、普通に」
普通に、か。
俺は『普通』という言葉をあまり好まない。それは意味するところが広すぎて、人によって変化しすぎるからだ。
まあそのへんまで言うと面倒くさい人扱いされるのは、いい加減俺も学習している――もう三十代も半ばだからな。
しかし一点、これだけは指摘しておこう。
シーラがブラッドと関係ないっていうのは嘘だ。
「……どうして?」
シーラおばさんと仲良くしてるって話をブラッドくんから聞いてるから……
「…………」
通話口の向こうで無言になられると、襲撃でもされたかと思う。
「……いいでしょ別に、仲良くしてても! 甥っ子だし!」
いや悪いとは言ってないけど……
しかしシーラさんの羞恥ポイントを踏んでしまったようで、通話は慌ただしく切られた。
俺は肩をすくめて携帯端末をポケットに入れる。
そうして、思うのだ。
あいつも相変わらずのようだ。
この年齢になって思うことだが――
昔からの知り合いが『相変わらず』というのは、とても安心する。
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118話 変化
マーティンはいいやつだったよ
引き続き活躍をご期待ください
人類にはみな個性がある。
このあたりの地域は『個性』を比較的歓迎するほうだと思う。
……いや、どうだろう。『比較的』とした時に比較する対象が『出る杭はなにがなんでも潰すのでみな個性あることを罪か精神障害のように思っている世界』になっている気がするので、真実はわからないが、少なくとも、俺から見て個性に寛容に見えるのはたしかだ。
しかしこれはどれほど『個性』を歓迎する地域、社会、世界においてもそうなのだが、『個性的なだけの人物から人は遠ざかる』。
個性には能力が不可欠だった。あるいは魅力が必要だった。
ただ『個性的なだけ』は『変人』なのだ。変人は社会性を身につけ魅力的にふるまうか、変人のままでも受け入れざるを得ないほどに高い能力を持っているかしなければ、『変なだけの人物に人は近づかない』という当たり前の現実に打ちのめされることになる。
そして『変なだけの人』なのか『個性的な人』なのかは、社会生活において『既婚かどうか』で判断されることがわりと多い。
結婚していますよ、というのは『パートナーが見つかるだけの社会性を持ち合わせている』という意味合いにとられることが多いのだ。
パートナーの成立経緯の多様性を思えば『それはどうなんだ?』と思わなくもないのだが、世の中では少なくともそういうことになっている。
では、マーティンという男はどうか?
パートナーはいない。三十半ば、独身。
趣味は『辞めたい』と言いながら社畜生活を送ることで、たまにふわふわした夢にとらわれて暴走する時があるが、それ以外はきわめてまじめな
収入は問題がない。
……むしろ月給換算では同世代の平均よりもらっているぐらいではなかろうか?
まあ、時間給換算すれば、ずいぶんと低いような気はしないでもないが……
ではなぜ、彼は結婚できないのか?
いちおう言うと、俺は人生において結婚というものをまったく必須だとは思っていない。
結婚するしないは自由だし、高校のころからつきあいのある相手を、既婚かどうかでジャッジすることもありえない。
でも――
同窓会でマーティン独身が明らかになった時――
『ああ、レックスがいるからね』
『レックスのせいでしょ』
『まあレックスと仲いいから』
――俺のせいでマーティンが結婚してないみたいに言われたのがクッソ
俺たちはいつも利用している安居酒屋で『第一回マーティン結婚させよう会議』を開催した。
参加者は俺とマーティンの二名で、あとから思えばこの人選の時点で俺たちは『レックスがいるからマーティンは結婚できない』と言われた背景について解き明かす気もなければ、俺たちの関係性が抱えているらしい問題に真剣に取り組む気もなかったんだなと思われる。
「まずさ、レックスに言いたい。俺は自分の意思で結婚してないだけであって、する気になればできるから」
ほんとにぃ?
俺はおおいに疑った。
なぜならば俺はマーティンのずぼらさを知っているからだ。
家事力が全体的に足りていない。
そう言うと彼は『いや、仕事のせいで時間がないから……』とか言うのだが、一事において仕事を言い訳にする者は、万事において仕事を言い訳にする傾向が強い。
別に俺に対して仕事を言い訳にするのはかまわない。
だが……嫁に対して仕事を言い訳にするのはまずかろう。『仕事のせいで』は万能の言い訳に聞こえるのだが、実際、それで済ませられないこともけっこう多いのだから……
「そういうのね! そういうのが面倒くさいから俺は結婚しない方針でいるの!」
なんかマーティンは早速酔っていた。
同窓会でけっこう飲んだのだろう。俺も似たようなものだった。
俺は言う――まあ落ち着け。お前はこの会合の趣旨を勘違いしている。
この会合はお前を結婚させるためにおこなっているのだが、俺にはお前を結婚させる気はない。
「どういう意味だよ?」
そもそもこの会合が開催されたのは、同級生どもに『マーティンが結婚できないのはレックスのせい』と言われたことが、俺の癪に障ったからだ。
つまり、お前が結婚できること、あるいは、お前が結婚できないのは俺のせいではないことが証明できれば、俺の溜飲は下がるのだ。
この会合のすべては――俺の溜飲を下げるためにおこなわれる。
だから俺はお前が、俺の存在と関係なく結婚できない理由をしゅうとめみたいにチクチクあげつらう。
お前は悔しかったら『自分は結婚できる』ということを俺にわからせればいい。
「……なるほど。つまりこれは」
そう、これは――
俺たちは互いの手札を切り合った。
俺のターン! マーティンが結婚できない理由! 『放浪癖』! 心身ともに安定性がない! 体は休日に思いついてふらっと旅行に行く! 心は会社辞めて楽に稼げそうな話を見つけるとフラフラと追い求める! これは結婚できない!
「俺ターン! 『貯金額』! 働けど働けど使う機会のない金が口座にめっちゃ貯まる! 放浪癖は『金を使いたい』という欲求からくるものだ! 金の使い途がほかにあれば放浪はしない!」
俺ターン! モンスターカード!
「モンスターカード!?」
俺たちは適当なことを言いながらマーティンをディスりまくった。
酔っていた。俺も久々に飲んだ。マーティンは久々ではないのに飲んだ。しゃべっているうちにほのぼのと酔いが発してきて、俺たちは店員が注文をとりにきただけでも笑うほどだった。
語っている内容は相当容赦ないマーティンこきおろしだった気がするのだが、なぜか俺たちは、というかむしろマーティンが大爆笑をしていた。
俺とこいつのつきあいが今もって続いている理由は、マーティンの人格によるところが九割ぐらいを占めているだろう。
俺はわりと容赦のない正論を言うほうだ。それが正しいとはまったく思っていないし、相手を追い詰めるために正論を並べ立てるほど愚かなことはないと思っている。
だから普段は他者に迎合するようなことをよく言うのだが、それはどうにも、俺の本質ではないらしい。
昔から――それこそ前世からずっと俺の基本的な人格は変わらない。
正しいことは正しくあるべきで、間違っていることは間違っていると思う。
俺の思う『正しさ』なんてものは真理でもなんでもないし、俺が間違いと思うようなことが世間では正しいともてはやされることはままある。
そんなあやふやで主観的な『正誤』を俺は信じたくてたまらないし、主張したくてたまらない――そういうのが、俺の本質的な人格のようなのだ。
社会で生きていくには邪魔な、そして人に嫌われる、融通の利かない性質だ。
だから俺は普段、隠蔽して生きている。
やわらかさを心がけて人と接している。
けれどそれは俺にとって無理がある生き方だった。
その生き方を続ける限り、俺の心には
……そんな心に堆積したものをはき出してスッキリできる相手が、マーティンという男なのだった。
最初はマーティンが結婚できない理由をあげつらっていたはずが、だんだんと互いの悪いところをけっこうガチめに言い合う会合になってきた。
でも俺は笑ったし、マーティンはそれ以上に笑った。
けなし合っているのになぜこれほど心が晴れやかなのだろう?
わからない。きっとマーティン以外にこんなことを言われたら俺は黙って席を立つだろう。
マーティンもまた、俺以外に言われたら不機嫌そうに押し黙るものだと、俺はなんとなく想像……いや、希望した。
酔っ払い二人は互いの輪郭が溶け合うぐらいに飲んで笑った。俺たちは一つの生物みたいになりながら会計を済ませ、店を出る。
人通りに混じれば俺たちはすっかり自分の輪郭を思い出して、俺とマーティンは別個の生命体としての自我を取り戻した。
昔遊んだ公園まで行って、ブランコに座る。
あたりはすっかり夜だった。
これからだんだんと暑くなっていくのだろうけれど、酒を浴びるように飲んだ俺たちに、今日の夜風は少し冷たい。
かつて漕いだはずのブランコはずいぶん低くなっていた。
俺たちは足を地面につけて申し訳程度に前後に揺れるだけしかできない。
「はー信じられねーな。俺たちもうすぐ四十歳だぜ」
たしかに信じられなかったけれど、おどろきもなかった。
むしろ両親が六十歳になったほうが、よっぽど信じられないし、驚愕の事実だ。
俺たちはどちらも自分の加齢についてはとっくに受け入れているフシがあって、このまま老いていって体に不調が出てきたりすることも、『まあ、だよな』ぐらいに思っている。
けれど俺たちは、『自分が一歳年をとるごとに、自分のまわりも一歳年をとる』という当たり前のことだけは、なぜか受け入れがたく思っているようだった。
「俺はほんと、金の使い途がねーからさ。今貯めてるの、両親の介護に回そうかと思ってるんだ。まあ旅行も好きなんだけどな」
マーティンは夜空に向けてつぶやいた。
俺は応じない。彼が話している相手は俺のようで俺ではないと思えた。話し相手にここから見える星と同じぐらいの沈黙を求めているように感じられたのだ。
「でもさあ、そろそろこわいよな。仕事辞めてヒマになった時、なにすりゃいいのって。俺の人生、マジで仕事しかねーからさ。結婚すればなんか変わるのかな。旅行もなあ。老いた体にムチ打ってまでってほどじゃねーし」
俺には彼の言葉に対して、色々と言えることがあった。
結婚をするしない、は関係がない。趣味を見つけられるか、その趣味のために時間を使えるかは本人の資質の問題だ――
趣味なんかなくたってべつになんとでもなる――
いっぽうで『今』しかできないことはあるから、時間は無理にでも作ってなにか始めるべきだ――
俺には、『思想』がない。
長生き以上の希望がない。すべての行動は『生ききる』ためにおこなわれている。
だから、『趣味を見つける』ことを肯定も否定もできず、俺の意見はどこか傍観者めいた、パッションのないものにしかならない。
マーティンは俺が無理矢理にでも彼をなにかに誘うことがないとわかっているのだろう、最後まで星を見上げたまま、
「独りで生きて、独りで死ぬのかな」
彼は俺に、意見も答えも求めなかった。
だから俺は、なにも言わなかった。
「付き合わせた。……嫁と娘がいるってのに悪いな」
俺は首を横に振る。
今日は時間を作ってある。
お前としゃべる時間ぐらい、いつだって作れる。
「……珍しいこともあるもんだ。お前にしては感傷的なこと言うじゃねーの」
それはきっとお互いさまだろう。
俺は夜空を見上げて、ブランコをこいだ。
大きくなりすぎた俺たちに、幼少期のままのブランコは低すぎる。成長した俺たちは新しい遊具を探さなければならなくて、大人は適した遊具を見つけるのも一苦労だ。
視点が高くなって、体は重くなった。
そのことを『成長』だなんだと、さも『前に進んでいますよ』みたいに表現することはできるのだろうけれど、これはそんないいもんじゃなくって、きっと、ただの『変化』なんだろう。
とりとめもないことだ。口に出さずに俺たちはわかれる。
吹き抜ける風に身震いしながら、俺は家族の待つ家へと、帰った。
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119話 キミの力(女子中学生)
類は友を呼ぶ人生
引き続きよろしくお願いします
冬が来てまた一つ歳を重ねることができた。
同世代たちはそろそろ誕生日というものを祝わなくなってきているようだった。
三十歳も半ばになり、いよいよ四十歳に手がとどこうかとなるこの時期、みなそろそろ『老い』を気にし始めるらしい。
顔を合わせれば健康と筋トレと親の老後の話ばかりだ。
まあ『生ききる』ことを目的にしている俺としては興味のあることしかないのでいい。
しかしそんなに年がら年中最新の筋トレ法やら長寿法やらが発表されるわけでもないので、どうしても話題は同じところをいったりきたりするだけになって、『新しい情報をくれ』という気持ちを禁じ得ないのも事実ではあった。
そんな退屈にして平和な日々を破壊するかのようなメッセージが俺の携帯端末にとどいたのは、誕生日から数日経ったある日のことだった。
『誕生日おめでとう』
誰? と首をかしげた。
メッセージの送り主はカリナだ。それは見ればわかる。
だが俺はあいつから誕生日を祝うメッセージをもらったことは人生で一度もなかった。
送ってくるのが当日じゃなくて数日遅れたあとだというのは、『カリナだなあ』という感じなのだけれど、『他者の誕生日を祝う』という行動があんまりにもカリナらしくなくって、俺はアカウント乗っ取りによるスパムメッセージを警戒した。
返信してもいいものなのだろうか……その迷いを抱いた俺は、既読した状態でとりあえず一日ほど熟成させてみることにした。
そうしたら半日も経たないころに、再びメッセージが来た。
『キミの力が必要だ』
まだスパムメッセージの可能性を感じる文面だった。
が、こういう対処に困る文面はいかにもカリナらしい気もして、俺の中のカリナ度が上がっていく。
不思議なもので、あいつがこういう回りくどいメッセージを送ってくる時はだいたい事態がどうしようもないほど切迫していることが常だった。
なぜかあいつは『普通に助力を頼む』ことができない性格の持ち主で、他者に強く救援を求める時ほど、まわりくどいというか、伝わりにくい文言を選んで、相手から『どうしたの?』という反応を引き出したがる悪癖があるのだ。
素直に言えよ……
もう四十近い大人なんだからさ……
俺は今使ってる端末のアカウントにスパムメッセージを送られたくないので、そこからさらに半日ほど寝かせることにした。
そうしたら半日も経っていない夕食後のまったりタイムに通話が来た。
「既読無視しないでよ!?」
だって内容がスパムみたいだったから……
どこかの業者が俺の作ってるアカウント情報を買って誕生月に合わせて営業してきたかと思ったんだよ。
知ってる? 個人情報ってそれなりに簡単に買えるんだぜ。
通販サイトとかでアカウント作製の時に読む
「約款なんか読んだことない」
まあ、だろうと思った。
今度読んでみなよ。意外とおもしろいこと書いてあるから。
それじゃ。
「切らないで!」
カリナが面倒ごとを俺に持ってくる気しかなさそうなので話を逸らして切り上げようとしたら、さすがに気づかれた。
まあ長年の経験からこの手の話題逸らしは無駄だとわかっちゃいるのだが、なんかカリナに対してはいったんはぐらかすのがクセになってて、やっちゃうんだよな。
彼女と話す時、俺は童心に返っているのかもしれなかった。
「わかってるみたいだからもう本題入るけど、実はレックスにお願いがあるんだ」
まあお前が俺の誕生月にお祝いをよこすとか、つきあいができてから二十年近く、一回もなかったからな……
えっ、嘘、もう二十年もつきあいがあるの?
意味がわからない……
「意味はわかるでしょ!? そうじゃなくって……レックス、君にしか頼めないことがあるんだ。実は……女子中学生を
いったん通話切るね。ちょっと警察に用事があるから。
「通報しないで! 怪しい意味じゃなくって! 女子中学生の力が必要なの!」
カリナはこういう時、わざとなのかどうなのかはわからないが、非常にまわりくどく、とっちらかった話をする傾向がある。
なのでまとめると、どうにも最近、彼女の描く漫画のファン層が上がってきていて、これに彼女は危機感を覚えているらしい。
なので若い読者がほしいから、若い読者の意見を聞きたいそうなのだ。
まあ俺がカリナに女子中学生を斡旋したのは部活顧問になったはじめの年だけで、以降は教育庁から『あそこの私学の文芸部顧問が漫画家に女子中学生の横流しをしている』とか言われてもイヤなので、なるべくカリナを部活から遠ざけ続けていた。
当時の女子中学生も今や社会人なので、ここらで新しい女子中学生を入荷したいというのがカリナ大先生の思惑なのだろう。
片棒かつぐと思わぬところからリスクが飛び出してきそうだから、イヤだな。
「そんなこと言わないでさ……追い詰められてるんだよ。昨今は出版業界も縮小してきてるんだ。今、勢いがあるのは若者も見る無料配信漫画なんだけど、あれはセンスが若すぎてボクでは理解ができない……理解ある若者の理解した発言がほしいんだよ……生の声……女子中学生とか女子高生の生がほしいんだ……」
どうしよう、カリナが言葉を重ねるほど、俺は紹介するのがイヤな気持ちになっていく……
というか教師の立場で漫画家に女子中学生を個人的に紹介するとか、誰が聞いても真っ黒だから普通にやりたくないんだよな……
しかし俺はこういった時に『カリナを切り捨てる』という選択がとれない性格を持っていた。
生ききるためには切り捨てねばならないものが山ほどあるのは知っている。
いっときの同情やストレスを重んじるばかりに、将来的な安寧を手放すというのが愚かなのは、比喩ではなく『死ぬほど』知っているのだ。
が、それでもできない。
ドライな選択をできる人格ではないのだった。
『天寿をまっとうする』と標榜し、そのために生きるとうそぶいておきながら、俺は自分が『目的のためにすべてを捨てる』というのができないのだと、とっくにあきらめているのだった。
もちろん、精神の自己改造には余念がない。
今の状態でも、最初期に比べればずいぶんと合理的で冷徹な判断をくだせるようになったとは思うが……
カリナとここでつきあいを完全に絶つほど非情な決断をできるようになるには、あと数百年はかかるだろう。
さりとてカリナに女子中学生を斡旋するのもリスクが高い。
なので俺は説得を試みることにした。
よく聞けカリナ。
むしろ俺よりお前のほうがよく知っていると思うんだけれど、『読者の意見』はそこまで役に立つか?
「どういう意味?」
いや、ビジネスの話だけどさ。
顧客っていうのは、自分の要望を正確に言語化できないのが普通なんだよ。
たとえば女子中学生の『こんな漫画読みたい!』を具現化するとするじゃん。
で、読ませるじゃん。
絶対に読んだあと『なんか違う』って言うぜ。
「……あああ……あああああああ」
カリナ史上もっとも深い納得が吐息となって通話口から漏れてきた。
「編集さんとあるわー……ボクもなん社かとつきあいあるけど、なんか、『もうちょっとフューチャーな感じで』とか『いい感じに修正して』とか言うのに、具体案はおろか方向性さえ思い描いてない人いるわ……」
まあそれと同じケースかは正直よくわからないんだけど、女子中学生の読みたいものを女子中学生に聞いたとしても、女子中学生の読みたいものを作るのに有益な意見はもらえないと思うんだよな。
あとさ……
そこまで具体的に『自分の読みたいもの』を語れる女子中学生がいたとしたら、普通に漫画描いてると思うんだよな。
今は昔より漫画描き始めるハードル低いじゃん。
「あー! あるねー! あるねー! そういう可能性超あるねー!」
だろ?
「ああくそう! おばさんはもうお呼びじゃないのか! 若者にウケる漫画を頭使わずに描きたかったのに!」
どうして歳を重ねるごとに人としてダメになっていくんだろう……
とにかく女子中学生は斡旋できないし、斡旋したとしてもお前の思う通りにはならないと思うから、あきらめな?
それとさ……
「うん?」
たぶん、『女子中学生斡旋して』って本音じゃないよな。
「どういう意味? ボクはいつでも女子中学生を斡旋されたいけど……」
いや、なんか追い詰められて、解決法見つからなくて、どうにもならないストレスがたまった時、俺に連絡する癖があるじゃん。
今回もそれでしょ。
「……」
そういう時はさ、微妙に遠慮したみたいなスパムまがいのまわりくどいメッセージよこさないで、普通に連絡してくれよ。
俺もこわいからさ。スパムメッセージ。
「えっ、こわい……レックスに言われてみたらたしかにその通りだわ……めっちゃこわい……レックス心読んでる……こわっ……」
ええええ……
自覚ナシか……
「でもさ、なんていうの? 物語の始まりみたいなのを演出する小粋なサービスじゃない?」
お前の物語って、『勉強以外に取り柄がないおとなしい美少年とヤンチャで活発な少年が恋に落ちる話』ばっかりじゃん……
俺の人生にそんな物語の始まりを演出しないで。
あんまりにもその組み合わせで話描くから、ネット上でその組み合わせを『カリナってる』とか言うレベルじゃん。
「まあ……好きだからね」
カリナは晴れやかな声で言った。
そうして俺たちはその後も無駄話をいくらかしたあと、通話を切った。
後日――
カリナのSNSアカウントで『女子中学生の描いてほしい話を漫画化します!』とか募集していたのだが、それはまた、別なお話。
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120話 四十路へ
長らくお付き合いありがとうございます
人生も折り返しです。引き続きよろしくお願いします
子供の成長は早いものだが、特に初等科四年から五年にかけての成長はめざましいものがある。
背はでかくなった。遠目に見るとどこの大人かと思う。
しかしこれがうちの娘で、こんな大きな生き物をうちの奥さんは産んだのだということを考えると、生命の神秘というか、不可思議な感銘というか、理屈はわかるが感情がついていかない感を味わうことになる。
俺たちは家族という一つの集合体だった。
けれど最近の娘には娘の世界があって、俺たちが『家族』というくくりで動くことはだんだんと減っているように思えるし、きっと、これから先、どんどん減っていくのだろう。
俺ももう三十七歳になったのでいよいよ体力の衰えを実感し、特に目のあたりは、老眼とまではいかないが、若いころに比べてだいぶん疲れやすく、かすみやすくなったように思える。
もう、ごまかしようもないほどに、おじさんなのだった。
これまでの人生はどうにか生きてくることができた。鍛えた成果は如実に体に表れていた。思考は若いころよりも深みを増し、知識と経験にもとづいた判断力もついただろう。
けれどこれからは衰えを意識して生きていかねばならない。
この世界の人類もまた、長く生きるほど生きるのが難しくなるというクソ仕様が組み込まれている。
『老い』。
これからの人生は、『それ』と向き合うものになるだろう。
去年寝てれば治った病気は今年から寝てるだけでは治らないかもしれないし、去年からあげ五個食べられたけれど今年は三個しか食べられないかもしれないし――
昨日ランニングした距離を今日走ったら、五日後ぐらいに『なんか足がだるいな?』とか思う羽目になるかもしれない。
人生の基盤である腰の調子にはことさら気をつけたいところだ
――俺は『ギックリ腰』をおそれている。
もちろんそうならないように適度な運動はしている。
だが、最近の俺は座って資料を作る仕事が増えていた。テスト作りも採点ももちろん座っておこなう。
本音を言えば座り仕事を立っておこなえるような、バーカウンターみたいな高さのテーブルが職場にほしいところだが、さすがにそこまでの業務環境改善は依頼したところで難しいだろう。
そんなおり、ミリムからまったく予想もしていない言葉を告げられることとなった。
「マルが結婚するんだって」
俺の思考は真っ白にされてしまった。
マル。
……マルって誰だ?
「マルギット。バイト、一緒だったんでしょ。わたしたちの結婚式にも呼んだよ。ほら、わたしの後輩の……」
そこまで言われてもなかなか記憶を取り戻すことができなかった。
そう、『老い』だ――覚えている。きっと覚えている。しかし、記憶のフォルダへのアクセス処理が重いのだ。なかなか思い出せないし、思い出したあとも、なかなか言葉が出てこない。
俺がマルギットという人物のことを思い出し、それをうまく言葉にまとめるための数秒間、ミリムはなおも矢継ぎ早にマルギットについて補足した。
昔生徒会で一緒になって、色々手伝ってくれた女の子だったのだという。
ミリムの一つ下にあたり、公私(公にあたるのは生徒会活動らしい)ともに仲良くしていたあいだがらなのだとか。
いや、思い出してるよ。
思い出してるんだけど、思い出してることをお前に証明するためのセンテンスをひねり出すのに時間がかかるんだ。
あのー、ほら、アレだろ。アレ。あの、なあ?
ちょっと気が強そうで生意気な。
「……うーん……あ、レックスにはあたりがちょっと強い、かも?」
俺たちはさらに数分ぐらいかけて、互いの『マルギット像』のすりあわせを行なった。
年齢のせいか、俺たちは情報一つ一つを確認するのにやたらと時間をかけるようになってしまっているのだ。
しばらくあれやこれやとマルギットの情報をすりあわせ、俺たちはようやく互いの『マルギット』が同一人物であることの確認を終了した。
やっと話が本題に入る。
「結婚するの」
ミリムの一つ下ということは、三十五歳ぐらいか。
どうだろう、結婚する年齢としては、年々晩婚化が進む時流を考えても、やや遅い感じがする。
ちなみにだけれど、マルギットさんの結婚相手、性別は?
「男性だけど……?」
ミリムに告白した後輩がマルギットだったと記憶していたが、違ったのかもしれない。
あるいはどちらもいけるか、もしくは若いときの性癖誤認かも。
「されてないよ……してきたのは別な人」
なるほど、俺の思い込みによる記憶のねつ造だった。
ほんと、よくあるんだよ最近……『あなた、アレでしたよね?』『えっ、それは私じゃなくってあの人ですよ?』みたいなの。
事実を記憶しているというよりも、事実をもとに抱いた印象を事実のように記憶しているせいで、幻想の記憶が増えてきている。
三十代後半から
どうして人類は人生後半に無駄なタスクが増えるように設計されてるんだ。全知無能存在はこれだから……
昔は本題に向けて一直線に会話をしていた俺だったが、年々本題の合間に無駄話を挟むようになってきていて、話の進みが遅くなってきている。
このあたり娘のサラにはあんまりよく思われていないようで、俺が話題を横にずらすとちょっと不服そうな顔をするのがめっちゃかわいい。
違うんだ……パパはな、本題をスパッと終わらせたいんだ……
でもパパは思い出すことがへたくそになってて、一つの記憶を取り出そうとするといらん記憶までまとめてひっついてくるし、その無駄な記憶をはき出していく中で話題に必要な情報を吟味してるんだ。
無駄話はシンキングタイムであると同時に、発掘した化石から砂埃をはらっていく作業でもあるんだよ。
「あー……わたしも、最近そういうのあるかも」
だよなあ。
俺は妻と老いをわかちあった。
しばらくほっこり笑ってから、ようやく本題を思い出す。
「結婚式、招待されてるの。時間、空く?」
俺は結婚式とあらば節操なく出るタイプだぜ。
それに――思い出せよミリム。俺たちにとって時間は『空く』ものじゃない。『空ける』ものだ。
俺の記憶がたしかならばマルギットは俺たちの結婚式にも出てくれたんだ。参加人数水増しのため、ご祝儀水増しのため、出てやろうじゃねぇか、式。
「じゃああとでサラにも確認しないと。してくれる?」
うーん、最近、サラと話しにくいんだよな。
でもミリムはこのあと実家だよな。
「うん。お母さんの薬取りにいったりしないといけないし」
そうか。わかった。
まさか娘との話題の枕に困ることがあるだなんて夢にも思っていなかった俺ではあるが、最近は話題の枕に困っている。
しかしミリムはちょっと病気してしまった義母(ミリムの実の母)の面倒をみないといけないので、最近はうちと実家を行ったり来たりしてるしな。
俺がやらねばなるまい。
とりあえずサラの携帯端末によさげなスタンプでも送っておくわ……
「……それやめたほうがいいよ。普通に切り出したほうがいいって」
そうなの?
でもなんかいきなり文章だけで切り出すって、いかめしいっていうか……
「変なスタンプ送られると『はぁ?』ってなるから……」
マジで? スタンプ逆効果なの?
ミリムに数々の『娘とのコミュニケーション方法』を教えられ、俺はそれを実行した。
最近なんか『怒ってる?』って感じだったサラからの返事は意外なほどすんなりきた。
まあ、『母の後輩の結婚式』に出ることには面倒さを覚えているようだったが、最終的に、サラも連れて結婚式に出席することとなる。
最近はこんな日々を過ごしている。
もうすぐ俺は、四十歳になり――
サラはじきに、初等科を卒業する。
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121話 娘と仲良くするために
時の過ぎるのはあまりにも早く、天寿まではなんか長いバグ
引き続き生きていく主人公をよろしくお願いします
俺が十四歳のころ、四十歳は『おじさん』『おばさん』だった。
たぶん当時の俺には三十歳以上、どころか二十歳以上の人間は全員『年寄り』だったのだと思う。
この世界もまた二十歳で成人として扱われるわけだが、『成人』と『未成年』との断絶はそれだけ広かった。
十四歳の俺にとっては『二十歳以上』はすべて『大人』でひとくくりで、『大人』カテゴリ内の細かい差異については、さして気を払っていなかったような気がする。
俺は三十九歳になり、サラは十三歳になった。
夫婦仲は言うにおよばず、親子仲も悪くはないようだ。
『悪くはないようだ』と伝聞形式でしか語れないのは、俺の中に確信がないからだった。
最近の俺はサラとの会話があまりない。
別に険悪なわけではなくって、本当に、単純に、話題がないのだった。
だって俺たちの関係はあけっぴろげで、互いに疑問を差し挟む余地がない。
サラもミリムも俺も家族で共用しているスケジュールにきちんと予定を書き込むし、互いの予定に対して根掘り葉掘り聞かない。
家族での時間も、もちろんサラが幼いころに比べれば減ったが、月に一度ぐらいは三人でどこかに出かけるぐらいにはとっているし、世間と比較しても仲が悪い様子は見られなかった。
だというのに俺の中に『仲良し親子』の確信がないのは、俺を長年苦しめ続けている問題が影を落としているからだった。
俺には女性の気持ちがわからない。
本当にまだこれで悩み続けるの? いい加減にしろよお前……という感じなのだが、結婚して娘が中学生になって、それでも俺はまだ女性に不慣れなのだった。
娘が『俺の一部』から『一個の人格』へと変化し、その中で『社会性』やら『女性性』やらを獲得していく課程で、俺にとってのブラックボックスが増えてきた。
俺はそのブラックボックスに対しついおどおどしてしまい、相手に迎合し気に入られる話題を探しすぎてしまい、その結果、どうにも、娘に対しぎこちない様子になってしまう。
そんなぎこちなさ、言い換えるならば『恐怖』が伝播しているのか、娘から俺への態度も薄壁一枚挟んだような――あるいは俺がそう妄想しているだけかもしれないが――ものになってしまい、結果、会話には常に『うまくいってないんじゃないか?』という疑念がつきまとう。
これはきっと、俺の臆病な性格がおおいに影響していることだろう。
俺は知らないものに対し慎重だった。迂闊に踏み込むことは『死』につながるのだと、魂のレベルで深く刻み込まれているのだ。
……まあその結果、『踏み込めなくて死』みたいな人生を積み上げてきたので、実際にこの警戒心が有為かどうかは疑問の余地があるのだが。
この種のぎこちなさには、経験があった。
これは一時期、アンナさんに対して俺が抱いていたぎこちなさだった。
極論すれば俺は娘を意識しているのだった。
もちろん恋愛対象としてじゃない。
俺は娘に気に入られたい。幼いころのままパパ大好きでいてほしい。
しかし娘は俺やミリム以外にも様々なものの影響を受けて成長している――『成長』とは『変化』に進歩感を持たせた言い方にすぎない。俺の知らない様々なものにより変化していく娘の実態を、俺はつかむことができず、怖じけているのであった。
そんな時に俺がアドバイスを求める相手は、娘の二学年先輩にあたるエルマちゃんだった。
保育所時代にサラの世話役をしていた彼女は、俺とミリムがそうであるように、未だにサラとのつきあいが深い。
うちに遊びに来たことも一度や二度ではなかった。
まあ、アンナさんやミリムが俺の家に遊びに来た頻度よりはずっとずっと少ない感じがするのだけれど、どうにも俺の目のないところでのつきあいが深いらしく、我が家のスケジュールにはよく『エルマさんと出かける』という項目が見られるのだった。
そんな彼女は俺が顧問をつとめる第二文芸部に所属している。
第二文芸部は設立以来ずっとオタサーの地位を確立し続けていた。
どうにも俺が初めて顧問をした女子たちが後輩に『ここの顧問はBLに理解がある』という情報を継承し続けているようで、女子比率は脅威の九割、文芸部なのにメインの活動はキャラクターのカップリング談義という健全な部活動なのであった。
四十歳を控えてなお『趣味はBL本作製の制作指揮です』という文言が俺の首を絞め続けるので、もしも過去に戻れたらカリナとのつきあいをどうにかしたいと思っている。
そんな中で俺は今日もこっそり端っこでエルマちゃんに相談をするのだ――どうしたら娘とうまく会話できるだろう。もっと仲良くなれるだろうか、と。
こう聞くとエルマちゃんは決まってこう切り出す。
「おじさんは、ちょっと求める基準が高すぎるんですよ」
俺は彼女の先生でもあるのだが、長い間『おじさん』と呼ばれてきたので、部活でもおじさんと呼ばれるほうがしっくりするようになってしまった。
「月に一回は一緒に旅行行くでしょう?」
うん。
「お互いの誕生日は家で祝うでしょう?」
うん。
「新作映画とか一緒に見に行くでしょう?」
うん。
「一般家庭の基準で言えば、すでに充分仲がよすぎるんですけど。こないだだってね、聖女聖誕祭の二週間前ですよ? そんな日にね、おじさんの誕生日プレゼント選びに付き合わされたんですよ、私」
聖女聖誕祭は長らく家族ですごす日として浸透していた。
が、最近は企業戦略か、『恋人とすごす日』という風潮が高まっていっているようだった。
まあ我が家は家族ですごすので関係ないけれど……
「聖女聖誕祭前とか、恋人とすごしたいと思いませんか?」
えっ、いるの?
「私はいませんけども!」
君じゃなくて、うちの子に……
「どうかなあ。たぶんいないんじゃないかなあ……恋人いて、あの頻度で私と遊んでるとか、ちょっとおかしいですしね」
娘が中学一年生になり、ぐっとかわいらしさを増してきた今日このごろ、俺の心を過去の記憶がさいなんでいるのだった。
俺の娘は四又かけてたことがある。
その当時の恋人関係は自然消滅したっぽいのだが、ブラッドなんかはまだ俺を通してサラと接触をしようとしてくるし、娘はかわいいからたぶんモテるし、また四人から同時に告白とかされてないか、パパは気になって夜も眠れない。
「だからなんていうか……そっちの親子はそれ以上仲良くなってどうするのかって感じなんですけど」
俺には『仲良し』の限度がわからなかった。
というよりも『限度』というものが存在するかどうかに対して懐疑的だ。
いくら仲良くなってもいいと思っている。
そりゃあこの年齢で『いまだに一緒にお風呂入ってます』とかなったらまずいと思うが……
親子の節度を守っていればいくら仲良くてもいいんじゃないかなあ。
まあしかし、最近、会話におどおど感が出てしまっているのは事実だと思う。
どうにかサラの好きな話題とか知っておきたいんだけど……
「おじさんからの相談内容が、サラのこと気にしてる男子からの相談内容と一緒なんですけど」
男子? そいつのクラスと名前は?
「言いませんよ。言いませんからね」
即座に個人情報を聞きだそうとするのは俺の悪い癖だった。
もっと段階を踏んで聞かないと、教えてもらえるものも教えてもらえなくなる。
「というかおじさん、私に対してこれだけフランクに話してくるんだから、サラとも大丈夫でしょ」
エルマちゃんはほら、なんか話しやすいんだ。
俺の腐れ縁に『カリナ』というのがいてね。君はどこか、そいつを思い出させる。
人生の道を踏み外さないように気をつけな。
「日常系ゆるふわBL四コマでアニメ化した先生を指して『人生の道を踏み外した』扱いはすごいですね」
あいかわらずジャンル名で胸焼けをおこしそうだった。
最近のカリナは年齢とともに服装にフリルが増えてる感があって、そろそろ人格がフリルに飲み込まれているような気がする。
俺より一つ上なので現在四十歳のフリルおばさんのはずなのだが、なぜか見た目が超若いので、アシで来た若者の生き血をすすっている説が俺の中で根強い。
失礼ながら四十前に不摂生がたたって死ぬと覚悟していたのに、逆に今では俺よりカリナのほうが長生きしそうな気配があって、すごく納得いかない。
健康とかむっちゃ気をつけてる俺には白髪がすでにあるのだが、カリナにはないのだ。
まあ、『ある』って言ってもよく探して一本見つかるぐらいなのだが。
「私たちが産まれる前から漫画描いてるんだから、すごい人なんですからね」
カリナはその道で有名どころになっているので、俺がカリナアンチ発言をするとファンからこのように言われる。
しかしこないだ『お前、今の中学生が産まれる前から漫画描いてるんだよな』って言ったらキレられたりもしたので、今のエルマちゃんの発言も褒め言葉かは微妙だ。
三十代最後の年の日常はこんなふうにすぎていく。
俺の毎日はBLもなくゆるふわもしていない。
今年の冬、俺は四十路になる。
サラからは『四十歳の誕生日はなにか記念になることをしようね』と言われているのだが、俺はサラと仲良くなる方法が見つからなくて、毎日を不安に生きている。
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122話 娘の行く道
カリナ先生の次回作にご期待ください
あとレックスの人生を引き続きお楽しみください
進路。
娘は中学二年生になり、一学期のはじめには進路調査がおこなわれた。
最近始まった職場体験制度により、つきたい職業の人たちが実際に働いている場に行く機会があるのだった。
そうしてその機会は受験を控えた者もいる中等科三年ではなく、二年のあいだにおこなわれる――すなわち二年生一学期頭で出した進路希望は、そのまま職場体験でどこに行くかという話に直結するのだ。
公立は知らないが私立校である我が校では、親が教師をし、普通に娘が生徒をしてもいい。ただし親は娘の担任にはならない、みたいなルールがある。
そこで俺はある日、娘の担任をしている後輩教師から、こんな相談をされた。
「あの、先生のところの……あっ、クラスじゃなくて、娘さんの、サラちゃんなんですけど」
その言いにくそうな様子から、俺はある程度の覚悟を決めた。
娘の素行が悪いという話は今まで一度も聞いたことはない。しかし親や幼なじみなどの知らないところでも、我が娘は活動しているのだ。
『うちの子に限って』と親としては思いたいものだが、それが幻想であることは、実際にそう口にしている親御さんがいる家庭の子の素行が必ずしも親の評価通りかを考えれば、自然と理解できる。
俺は俺の知らない娘の素行を覚悟した。
それは理性的な思考であって、感情的なところでは『まあ大丈夫でしょ』という不思議な安心感、信頼あるいは妄信が強く根付いていることは否定しない。
果たして理性的な思考か、感情的な信頼か、どちらが正しいのか?
なんか俺がこのぐらい思考できるほどやけにタメを作ってから、娘の担任は続きを口にした。
「ちょっと進路調査票に書いてあることがですね、どういうふうに言っていいのか、わからなくって……三者面談とか、したいんですけど」
俺が来年教頭に昇格するからか、後輩教師はやけに腰のひけた態度だった。
俺そんなに横柄なんだろうか……親しみやすいレックス教頭を目指しているのだけれど、この後輩教師はまだ二十代だ。世代による感覚のズレは常に『ある』と思っていかないといけない。
俺は直感的に付き合うのが難しい若い世代の先生に、ゆっくりと、噛んでふくめるように言う――相手にとってわかりきっていることまで話すと『馬鹿にされた』と感じるようなので、優しく言うのも厳しく言うのも、結構気をつかう。
俺の説得のかいあって、後輩教師はようやく問題の本質を俺に開示してくれた。
「これ、サラちゃんの進路調査票なんですけど」
と、見せてくれたのだ。
守秘義務的観点からちょっと見るわけには……と思ったが、それより興味がまさってつい視界におさめてしまった進路調査票には、このようなことが書かれていた。
『進路調査票
第一希望 専業主婦
第二希望 無職
第三希望 ヒモ』
俺は名前の欄を確認した。
そこにはたしかに娘の名前があったけれど、俺はうっかり、これは過去の自分が書いた調査票ではないかと疑ったのだ。
その疑いが口をついて出たらしい――俺と同じこと書いてるやん……ついうっかり俺は口にしてしまった。
「ええっ!? レックス先生も進路希望に無職を入れたんですか!?」
どうだったかな……俺はそのへん如才ないので、無職を希望はしたけれど、けっきょく書くまでにはいたらなかった気はする。
保育士と教師あたりをカモフラージュで入れただろうか……やばいな、さっぱり思い出せない。
まあとにかくアレですな。
無職を第二希望にするあたり、配慮が見られます。
「あの、先生のご家庭はどうなっているのでしょうか」
すごくマジなトーンで言われて、俺は今、自分が世間体的にまずい発言をしたと気づいた。
もう四十歳なので、若者みたいなノリで話すと『立場を考えて』とか『年齢を考えて』みたいに言われることがあるのだ。
けれど四十歳の男は別に大人じゃない。
周囲からそういうロールプレイを求められるから外面を取り繕っているけれど、今でも旧友と会えば『マジで!? はーめっちゃすげーじゃん!』みたいに高校生のころの言葉で話したりするのだ。
まあしかしここは職場だし、目の前にいるのは若い先生だし、俺は自分の立場を思い出して四十代教員一筋のペルソナをかぶることにした。
先生、考えてみてください。
進路希望というのは、『将来的に就きたい立場』を書くものであって、『なりたい職業』を書かなければいけないものではありません。
身内びいきかもしれませんが、娘はその本質をよくわかっていると思います。
彼女に足りなかったのはそうですね……
世間体への配慮と、教員への
「えーっと……まあはい。それで、できればちょっと、うちのクラスから無職を夢に抱いた子が出るのもまずいので、三者面談などさせていただくか、ご家庭のほうで説得してもらって、どうにか無職を取り下げてもらうか、そのへんでよろしくお願いしたいんですが……」
うん、わかった。
俺はそういう旨のことを世間体をかんがみた難しい言い回しで告げた。
仲間内では『わかった!』ですむことも、職場ではこの二十倍ぐらい言葉を重ねないといけなくなる。面倒なものだった。
俺は、自分が中学のころ抱いていた夢に思いをはせた。
中学……中学だったか高校だったか、もはや俺には定かではない……けれど当時の俺は間違いなく無職を志していた。無職になるためにあまたのリサーチを重ね、その道の険しさにくじけた結果、今、教師。
教職に就いたことに後悔はない。
ないが……もしも天運に恵まれて無職で生きていけたなら、それはどれほどいい人生だっただろうと、そう思うのだ。
世間体というものにさらされず、自分に不似合いに思える仮面をかぶらず――
『次の週末どう?』
『無理』
『オッケー』
ですむやりとりを、
『お世話になっております。次の週末のご予定ですが、いかがでしょうか? 実は(中略)よろしくお願いします』
『お誘いありがとうございます。先ごろ(中略)大変難しく(中略)また機会がありましたら是非よろしくお願いいたします』
『(前略)お忙しい中のご対応、まことにありがとうございま(中略)それではまたの機会(後略)』
みたいに難しく言わないでもいい人生だったなら、それはすばらしいストレスフリー人生だと思うのだ。
なににせよ、俺は娘と話し合う必要があるようだった。
最近の俺は、俺が中学生のころの俺の父みたいな無口キャラで娘と接している……意識しちゃってなにを話していいかわかんないから……
しかし、俺はしゃべるキャラになって娘と話し合わねばならない……
人生で一番の緊張が俺を襲う。
俺は果たして……無事に長生きできるのだろうか?
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123話 無職のわだち
今回はみんなの夢についての話です
話をしよう。
たとえば君が無職を志した時、そこにはきっと様々な葛藤があることだろう。
わかっている。無職は簡単になれるものじゃない。
実は、俺もかつて、その道を志したことがある。
……いや。今でもきっと、その夢をあきらめきれていないのだろう。
でもね、あまりにも困難だった。
人は――収入がないと、生きていけないんだ。
経済を憎んだ。税金を憎んだ。
ただ生きているだけで金がかかるという不条理を憎まなかった日など、一日もない。
けれどね、俺は疲れてしまったんだ。
憎むことに疲れた。憎み続ける毎日に、疲れたんだ。
無職。
それは見果てぬユメだ。
けれど現実という名の鎖はいつだって俺たちを縫い付け、夢に手を伸ばす邪魔をしてくるんだ。
あと少し、ほんの少し、不労所得があれば。
そう思ってどうにか不労所得を得る道を模索したけれど、それはどれも厳しくって、仮に叶ったところで、次は税金という壁が立ちはだかる。
たとえば漫画家は、印税と原稿料で生きている。
そして、節税を間違うと――その収入の三分の二が税金で持って行かれるんだよ。
こんなにひどい話があるかい?
……ああ、そうさ。この世界はどこまでいっても、『働かせよう』っていう力が存在するんだ。
経済的なゴールなんか、ない。
だから――人は無職になれない。
パパはね、昔、無職になりたかった。
それが今では、教師をやっている。
今の生活は、まあ、幸せだよ。教師っていう職業も、向いていたんじゃないかって、思う時がある。
けれどね、たとえば後輩教師との会話の中、あるいは昇進を控えた根回しの最中、思うんだ。
『今、俺をあくせくと動かすこのエネルギーは、もしも俺が無職だったら、まるまる好きなことに使えたんじゃないか』ってさ。
俺は無職を夢見ながら現実を生きている。
眠れない夜がたまにあるよ。無職という夢を追い続けていれば叶ったんじゃないか、どこかで選択を間違えなければ、俺は無職でいられたんじゃないか……
無数の『ありえたかもしれない未来』が頭の中にうずまいて、眠れなくなる、夜が、あるんだ。
でもね、俺は、収入のある人生を捨てられなかった。
収入なしで生きていくっていうのは、勇気のいる決断なんだ。
五年先の自分が生きているか死んでいるかわからないという人生を、俺は、踏み出せなかった。
だからサラ――我が娘よ。
君が無職になりたいなら、しっかりと考えなければならない。
五年先の自分を活かすために、今、なにができるのか。
そして――収入のない毎日を送っている不安に、自分が耐えきれるのか。
パパは無理だった。
でも、君ならできるかもしれない。
だから夢をたくしてもいいのかな。
無職っていう、俺たち夫婦が見続けた夢の結実を、君に、たくしてもいいのかな……
「えっ、『無職はやめとけ』って言われると思ってた……」
テーブルを挟んで向かいに座るサラは、たいそうおどろいた顔をしていた。
このごろのサラは人種もあって顔立ちがとみにミリムに似てきている。声なんかは、携帯端末のスピーカー越しではちょっと聞き分けるのが難しいほどだ。
大人になってきた娘は、往年のミリムのなにを考えてるんだか全然わからない表情と、当時の俺の妙にロジカルな部分が合わさって、全然なにを考えているのかわからない。
しかしそれでも、ミリムよりはよっぽどわかりにくいけれど、彼女の真っ黒なしっぽは、彼女がおどろき、感動などの感慨を抱いていることを俺に示してくれた。
「パパ、私は……働きたくないよ」
超わかる……
俺も働きたくない……
あんまりにも働きたくないもので、最初はサラのこと『無職はやめろ』って説得しようとしてたのに、いつのまにか無職肯定しちゃってたもんな。
俺も話してるあいだに趣旨が変わってるのにはびっくりしたわ……
「でもねパパ、私は知ってるんだ。……人は働かずには生きていけない」
うん……
まあ俺も貯金してるけどさ、たぶんサラまで一生養えるほどではないよ。
本音を言えばさっさとお金ためてアーリーリタイアしたいからな……
だから残念だけれど、ある程度の年齢になったら、サラには自分で生活手段を見つけてもらわないといけないだろう。
俺のほうが先に死ぬしさ。
「そうだね。パパに頼るのが不安定な道なのは私もわかる。私は……安定的に働きたくない。手から黄金を生み出す能力がほしいんだよ」
俺もほしい……
この世界は魔法世界だが、その魔法は『無』から『有』を生み出すほど万能ではないのだった。
俺たちが持つ魔力は変換器なしにはガスの代わりにも電気の代わりにもなりゃしない。
「無職という夢を志してからは、パパともあんまりしゃべらなくなってたね。だって……絶対怒られると思ったもん」
そうね。
俺も怒るつもりだったのに、なんか無職なりたさがわかりすぎて、涙出そうだわ。
「でも、進路の欄に三つも書くところがあって、三つも夢ないし、どうしようかと思ったら……書いちゃったんだよ。『無職』って。パパに見られるかもしれないっていうのはわかってたのに」
もしくは、それは。
……遠回しに、俺に夢を伝えるために、無意識にサラがとった行動なのかもしれなかった。
夢を追うのは大変なことだからさ。
俺もいきなり面と向かって『無職になりたい』って言われてたら、今と違った対応になってた気もするし。
でも第三位の『ヒモ』もちょっとこう……
なにかひねりだそうよ、ほかの。
「今の私は、ルカくんに養ってもらうことを夢に見て、色々と恩を売ってるんだ」
ルカくんというのは言わずと知れたアンナさんの息子である。
まだ初等科に通っている子なのだけれど、早くも両親の血が色濃く表れている超イケメンなのだった。
「あれだけ顔がよければきっと、将来、稼ぐのに困らないし」
ルカくんは大変な女に目をつけられてしまったのかもしれない。
しかし俺は、娘だからという理由ではなく、一人の人間として、サラのことを好きになれそうな気がした。
発言とかもう、俺が『話せる相手』だとわかったのか、タガが外れて大変なことになっている気がするが……
俺もかなり似たようなことを考えていたし、そのための行動をしていた気もするので、シンパシーが半端ない。
娘よ……
お前がルカくんにしてることは全然応援できないし、アンナさんに恩がある身としては全力で止めるべきだとも思う。
でも、それはそれとして、無職を志すまっすぐな意思は尊重したい。
がんばれ。
「うん。がんばる」
でも、進路調査票は先生とか見るから、もうちょっと世間体を気にしたほうがいい。
無職に本気でなるのだったら、大事なのは世間体だ。
『働いてないダメなやつ』ではなく、『なにかよくわからないけれどお仕事はしている人』というふうに見られるよう、心がけるんだ。
無職を目指すうえでもちろん収入の問題はお前の前に立ちはだかるだろう。
けれど、それと同じぐらい、世間体も立ちはだかる。
お前を働かせようとするのは金銭だけではない。世間もなんだ。
敵に回さないよう、慎重に立ち回れよ。
「わかった。……そうなんだよね。私は、生半可な気持ちで無職を目指してないんだよ。野球選手を目指す野球部の子のように、音楽家を目指す吹奏楽部の子のように、無職を目指して、無職という夢に打ち込んでいるんだ」
一般家庭なら『野球部の子に謝りなさい』となるところだろうが、俺とミリムにはその気持ちがわかった。
なにせ無職になるために働いている夫婦なのだ。わからないはずがない。
俺たちはテーブルの上で手を重ね、見つめ合った。
娘の黒い瞳が俺をとらえる。俺も彼女の姿をまっすぐにとらえて、俺たちは同時にうなずく。
瞳の中には互いの夢を理解し合った同志がいた。
俺たちは世界に三人だけの本気で無職を目指す人たちかもしれない。
でも、俺たちは自分だけじゃないという喜びを知った。真剣に無職を志すその意思に曇りのないことをわかちあったんだ。
こうして、夢は次代にたくされた。
俺たちは歳をとったけれど、今、この志だけは、若い日のまま、みずみずしいまま――
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124話 次代が私を超えていく
無職を志す人たちの人生にご期待ください
41歳の春、娘はいよいよ中等科三年生となった。
昨今の気候は一言で言えば『わけがわからない』。
暑すぎる春があり、寒すぎる夏があり、秋はどこかに消え去り、冬はその季節の半ばをやや過ぎたあたりで急激に寒くなり、三日ぐらいで急速に暑くなったりもした。
そういった寒暖差の影響をモロに受けた学園前の並木道は五月を目前にしてまだ花をつけているものがあり、世間からは、『色の濃い四季』というものが失われているかのように思われた。
うちの父母も最近体調を崩しがちだ。
俺にとって父母はいつまでも若い存在だった。
俺は四十歳で父母は六十を超えているはずなのだけれど、それでもなお、俺が子供のころのまま、元気で丈夫なまま、まだまだ老いなどみじんも見せないような、そんな『感覚』が抜けない。
ところが現実には六十歳は六十歳であり、そのぐらいの年齢になれば体も弱くなるし、それに応じて心もいくらか弱っている様子があった。
昔はヒマだと向こうからこちらに出向いてきていたが、最近はそんな気力がわかないようで、『サラちゃんを連れて遊びに来なさい』という連絡が来る頻度が増えたように思われる。
俺は両親が心配なのもあってけっこう
しかし我が家は借家とはいえ物は結構あるし、実家では俺が使っていた部屋で俺とミリムが寝泊まりすればいいが、サラもそろそろ十五歳の女子だから、男親と近くで眠るのもどうかと思う年齢になってきている。
どうするかなと俺が答えの出ない問題に取りかかり続けていたある日、サラ側からこんな打診があった。
「高校は寮のあるところに行きたい」
それは進路相談ではなく、ただ決定していた意思を打ち明けただけのように思えた。
実際そうだったらしい。サラは次々と資料を取り出し、俺に外部受験のメリットと自分の希望をプレゼンし始めたのである。
家庭内プレゼンというのは我が家ではそう珍しいものではない。
俺が資料を用意するのが趣味みたいになっていることもあり、集めたデータをまとめてレジュメにして家族に配って説明会をするというのをよくやる。
家族旅行の行き先で意見がわかれた時などはこれで行き先を決めることが我が家の常であり、そんな経緯で鍛えられたサラのプレゼン力は、この年齢にしてはちょっと飛び抜けていると思う。
サラの主張のテーマは『無職になるために有効な進路とは?』ということだった。
無職とはなにか?
それは『働かない者』である。
では専業主婦は無職か?
これは違うと思う。なぜならば、専業主婦は法律上、夫に扶養されているからだ。
扶養とは養われることである。養われている以上、愛か、あるいは家事か、もしくはもっとほかに『対価』を支払っている。
これは無職とは言えない。労働という対価を支払って生活のための金銭を得る労働者と同じだ。言うなれば契約を結んだ正社員なのである。
ではヒモは無職か?
これは技能職であると思われる。
もちろんありのままの自分を結婚という契約もなしに一生養ってくれる相手がいれば、それは職ではないのだろう。
けれど多くのヒモは、愛だの夢だのをささやき、料理や掃除などの家事をこなし、『相手好みの自分』でいることに多くの時間を費やさねばならない。
しかも結婚という契約をしていない以上、扱いは派遣社員のようなものだ。雇用主の気分一つで好きなように切られてしまう。
これは目標とする『安泰なる無職』からははるかに遠い存在だ。
専業主婦は正社員であり、ヒモは契約社員である。
では、無職とはなにか?
それは『手から黄金を生み出す者』である。
無論、そのような異能は存在しないから、それは比喩表現だ。
黄金に代わるものを生み出す力、というのが正確なところであろう。
すなわち無職とは、『稼がないとまずいな』という時にすぐさま換金できるスキルを持ち、なおかつそのスキルを金に換えるコネを持ち、なにより生活するに充分な価値を持つスキルを保持するものである。
以上のことから、『無職』というのは『正社員』や『契約社員』よりも、『職人』寄りの職業であると言える。
では無職という職人になるためにとるべき進路は?
私は料理人がそれにあたると考える。
まず料理人はいつの時代も存在する。
そして料理というスキルは、無職を志しながら専業主婦やヒモに一時的に身をやつしたとしても、腐ることがない。
人類にとって食事は欠かせないものだ。『安く』『おいしい』食事を提供できる者は、スキルの価値がそのままその人物の価値になりやすい傾向にあるだろう。
ここに某社がとったアンケートがある。
男性向け雑誌にてとられた『結婚相手に望むことは?』という旨の質問だが、この答えでどの年代を切り取っても、『料理』というのは必ずトップスリーに入っているのがわかるだろう。
さらに別添えの資料によれば――
サラのプレゼンを聞きながら、俺は目頭をおさえていた。
一言では言い表せない感情が胸の中にうずまいているのだ。
まず、よくぞここまで、と思った。
無職というものに対するあくなき情熱、むやみやたらと高い、少なくとも十五歳女子のレベルにはないであろうプレゼン能力と、資料作成能力。なんだこの見やすいレジュメ……後輩教師にも教えてあげてくれ、お前の担任とか……
さらになんかもう、親として、大丈夫なのかこの子は、という心配。
俺は無職を肯定する者だ。本気で無職を志したこともある。
けれど、サラほど『本物』ではなかった。ここまではしなかった。ここまでの情熱は持てなかった。
目の前に熱い人がいると冷静になるもので、俺は今、『ひょっとしたら無職というのは無職なんじゃないか?』という、わけのわからない疑問で頭がいっぱいだ。
やばいな。感情が大きすぎてもう『助けて』って感じだ。
俺の百万回の人生において、ここまで取り扱いに困るクソデカ感情に胸を押しつぶされそうになった経験は一度たりともない。断言する。絶対に、一度もなかった。
かつて無職を志しけっきょく教師になった親の目の前で、娘が熱く『無職になりたい』とプレゼンしてるのだ。
どんな状況か全然わからない。整理すればするほどわけがわからない。
俺は自然とおがむように手を合わせていた。そして思った。
『料理人を目指すみなさん、ごめんなさい』。
もう目の前にある資料の内容が全然頭に入ってこないし、サラの声もなんか遠い。
俺は死ぬのかもしれない。死因はなんだろう……感情に殺されると、それは自殺なのか、他殺なのか。
混迷がきわまりすぎて真っ白になってきた頭の中で、俺は自分の意思を探った。
実のところプレゼンの内容はどうだっていいのだった。
サラが歩みたい自分の道を見つけた時、それがたとえば無職だった場合、俺は応援するのか、それともやめさせるのか、問われているのは親としてのスタンスなのだった。
四十代がもっていい大きさの感情じゃないよこれ。
困り果てて悩む。そうして悩んだ時のいつもの選択を俺はすることにする。
俺はうめくように言う。
サラ……その、なんだ、パパはお前の歩みたい道を応援したいと思っている。けれど、けれどね……
明日まで待って。
パパは感情に押しつぶされて死にそう。
「『持ち帰って検討する』っていうこと?」
そうじゃない。それは『聞かなかったことにします』と同義だから。
本当に、単純に、一日時間がほしいだけなんだ。
なんていうか……使ったことのない心の筋肉をいきなり動かしたせいで、今、パパはひどく肉離れを起こしている。
一日休めば色々飲み込めると思うから、一日待ってほしい。
「でもパパ……『決断は相手が疲弊してる時にたたみかけてでもさせろ』って言ったよね」
俺はひょっとしたらすさまじいクリーチャーを育ててしまったのかもしれない。
思わず人生を振り返った。娘と過ごした日々が高速で頭によぎり、消えていく。他愛ない日々の中で、俺は娘に様々なことを言った……そうしてできあがったのが目の前にいる黒髪の猫耳少女でございます。
彼女は俺が百万回転生で得た経験の、この世界に活かせそうな部分だけを素直に吸収した無敵の生物なのかもしれなかった。
百万回生まれ変わった俺が育てた娘は最強でした。
そうかこいつ、ミリムの娘じゃん。
ミリムはさりげに頭の回転が早くて物事を自然と客観視する冷静さも持っているので、その血に俺の転生経験をうまく蒸留したエキスを加えて完成したのがサラじゃん。
勝てる気がしなかった。
『親として娘の選択を尊重する』とかじゃなくて、ここで俺がサラに『無職を目指した進路設定はやめとけ』と言ったら、たぶん、よりいっそう鋭いプレゼンが連日俺を襲いそうな気がする。
才覚と情熱の差ももちろんあるが、かけられる時間が違いすぎる。
俺は仕事のかたわら娘の進路相談を受けているが、中学三年生の娘は生活の時間すべてを自分の進路に賭けられるのだ。しかも熱意と才覚をもって、親に進路を認めさせるという目的のもと、時間を使えるのだ。
気持ちのいいほどの完敗だった。
この勝負は繰り返せば繰り返すだけ俺が不利になっていくだけのものだ。
俺は肩をすくめる。
負けたよ、サラ。
「負けたっていうのは?」
油断も容赦もなかった。
そうだな。相手から言質を引き出す時は、あいまいな表現で濁させるな――それもまた、俺の教えだった。
俺はハッキリ言う。
認めるよ。お前が無職になるために料理の道に進むのを。
高校は料理系に行くんだろ? そうしたらいい。
「録音したよ」
実は俺も録音してた。
プレゼンが始まると同時にその内容を録音する癖が我が家にはあるのだった。マーティンに言ったら『超こわい』と言われた我が家の癖である。
ただ一つ、聞かせてほしい。
無職前の腰かけのつもりで就いた職業を一生続けることになる場合もある。
俺がそうだ。
お前は、もし料理人で一生を終えることになった場合――
自分の選択を後悔しないか?
「後悔しないなんて保証はできないな。だってこの世界の人類の精神はそこまで安定してないもの」
お前転生者なのかみたいな口ぶりだけれど、たぶん『この世界の人類』というのは俺がよくする発言がうつっただけなのだった。
そのせいで『お前の立場なに?』みたいな言葉になってしまっている。
客観的に見ると俺の発言、こんな感じか……
「でも、後悔しながらもやっていくと思うよ。自分で選んだっていう責任感があるからね」
娘の答えは完璧だった。
百点のうち千点ぐらいで――
俺は約十年ぶりぐらいに、娘が本当は異世界転生者なんじゃないかと疑った。
まあ、もうどっちでもいいことなのだけれど。
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125話 いそがしくも退屈な人生
記憶より記憶に残そう重要会話
これからもよろしくお願いします
まばたきのあいだに日々が過ぎていく。
かつて、夏は長い季節だった。
山のように出た宿題をこなし、積み上げていった日々。
プールで遊んだ。田舎にも行った。アウトドアな遊びはあまりやらなかったけれど、ふと勉強疲れを感じて背もたれにぐっと背中をあずけ天井を見上げながら、その時間の進みの遅さに軽くおどろかされた記憶がある。
昔は『秋』があった。
その季節は今も名前は残っているけれど、存在感はずいぶん希薄になったように思われる。たしかにあるし、秋の行楽を謳う宣伝は耳にする。
猛烈な暑さのあとは一週間も経たず気温が急速に冷え込んでいき、草木は色づききる前に落ちていくようになった気がする。
冬はとにかくいそがしい。
新年休みの前にこなさねばならない業務はあまりにも多かった。今年は特に多いように思われる。
聖女聖誕祭と新年が近いのもいただけない。
かつてサラへのプレゼントを求めておもちゃ屋をかけずり回った日も今は遠く、あのころはどうして『おもちゃ屋をかけずり回る』なんていう時間をとれたのか、もはや俺にはわからなくなっていた。
そうして春が来て、サラは寮のある高等学校へと進学する。
彼女一人いなくなった我が家はとても寂しくなったように思えた。
距離的にはそう離れてもいないので互いに望めば会えるのだが、『同じ屋根の下にいない』というのはことのほか距離を感じるものだった。
俺たち夫婦はもう四十代で、互いの両親は七十歳にさしかかろうとしていた。
サラのいなくなった家で、俺はなんとなくミリムのほおに触れた。
それは二人でソファに並び、なにかの番組を見ていた時のことだ。俺たちはどこかぼんやりしていた。互いにやるべきことはあるはずなのだが、なんとなく手につかないような、そんな気持ちだったのだ。
ミリムの肌はひんやりしていて、どこかペタリとしたさわり心地だった。
かつてのような若さはない。
俺は彼女を通して自分の加齢を思った。俺たちはほとんど産まれた時から一緒で、そうして、ここまでずっと一緒に来たのだ。
歳をとったな、と言った。
そうだね、と返ってきた。
言葉から互いの感情はうかがい知れなかった。
俺たちはぼんやりと頭の表層に浮かんだ言葉を吐き出しているだけで、そこに感情やら意味やらはこもっていなかったのだろう。
だから俺はもう一度、今度はしっかりと嬉しさをこめて、歳をとったな、と言った。
彼女は言葉を発さず、獣人種特有のしっぽで俺のほおをなでた。
あと五十年、俺は生きられるだろうか。
この世界は俺に平和な顔をさらしたまま、五十年待ってくれるのだろうか。
八十九歳と十一ヶ月ぐらいで、世界が俺を殺しにかかってきたりはしないだろうか……
かつて、俺はミリムと二人、静かに過ごす時間に安らぎを感じていた。
けれど四十代となった肉体で『九十まで生きる』という目標を意識すると、言いしれぬ不安が頭の奥からまろび出てきて、見るともなしに見ているだけの番組の音声だけでは、どうしたってこの不安は消えてくれそうもなかった。
そこで俺は提案する――しりとりしようぜ。
しりとりというのはこの世界にもある遊びだった。
ただしいくらか特殊なルールがあって、『リズムに乗っておこなわなければいけない』『末尾二文字を拾わなければいけない』という感じだ。
さらに無限に細分化されたローカルルールがいくらでも存在する。
転生直後、言語を学習する際に重要なのは『語彙に興味を持つこと』だと思っていた俺は自分を『語彙収集大好き人間』に調教し、その結果、幼稚舎では一番のしりとり使いとしてあがめられ、またおそれられた。
しかし家で幼児時代のアンナさんやミリムとしりとりをする時はそう圧倒的に勝利もできず、『こいつらはマーティンのようなクソ雑魚ではない』と緊張感で己を奮い立たせたものだった。
俺たちはしりとりをしなくなってだいぶ経ったが……
俺は教師として、ミリムは編集者として、語彙力はいささかも減じていないだろうと予想ができた。
もしくは、教師や編集者というのは、園児よりも語彙力があるのかもしれない……
俺は思いつきでもちかけた勝負で緊張した。ひょっとしたらこのしりとりは、ルール無用の殺し合いじみたものになるかもしれないと感じたのだ。
「……いいよ」
無表情なミリムがちょっとだけ笑った気がした。
そうして俺たちはしりとりを始めた。
最初はスローに相手を思いやる気持ちをもって単語を選択していたのだが、中盤ぐらいにさしかかるといよいよ勝負感が出てきて、『相手に「わ」から始まる言葉ばっかり振る』みたいな『勝利するための戦術』を駆使するようになった。
するとどうだろう、それまでの陰鬱な気持ちがどこかに吹き飛び、俺たちは意地でも互いの顔を見ないように興味もない番組に視線を釘づけたまま、ペースを早めて言い合いを続けた。
四十代の男女が、ここ数年なかったぐらいに頭を働かせながらしりとりをしている。
俺たちは互いに互いを見ることを絶対にしなかった。
それはきっと暗黙のルール、あるいは誇りのようなものだっただろう。『しりとり』という他愛ない子供の遊びを、番組を見たままダラダラ続けているというポーズをとり続けた。
態度に必死さをあらわにし、相手をにらみつけてしりとりを続けない矜持をなぜか守り続けた。
俺たちはしりとりをしていた。
けれど俺たちは社会で生きていた。
社会にはいくらでも明文化されないルールがあるのだ。謎のこだわりがあるのだ。よくわからないことで守られる矜持があって、『なんとなく周囲から感じる空気』によって求められた年齢・立場相応の態度がある。
俺たちは家の中にいたけれど、俺たちの魂は社会の中にあった。
子供の遊びで真剣になることをとがめる社会が、家という隔絶された空間内にいる俺たちには見えていたのだ。
俺たちは言葉を発するペースだけはヒートアップさせながら、一方でどこか冷静にしりとりをしている自分たちを見ていた。
この馬鹿らしい子供の遊びに必死で興じているのだというのを、家の中にはないはずの『外の社会』にバレるのがこわかった。
だから必死でないかのようなポーズをとり続けていたのだ。
俺たちはもう、子供のように純真に、子供の遊びをできない。
失われた若き日を思った。
今から考えたらエッチでもなんでもない言葉に興奮して、言うのをためらった若き日を思い出した。
エロ本を買うのにいちいち緊張して、エロ本を一般書籍でサンドイッチしてレジまで持っていった日を思った。
今はエロを連想させる単語は『あ、これ中学生のころだったら大興奮だったな』とどこか冷めた気持ちで思いながら普通に言えるようになった。
エロ本はほしいと思えばネットで普通に買うし、ぶっちゃけ数年買ってない。
俺たちはずいぶん生きやすくなって、けれどなにか大事なものを失ったのだ。
ミリムにもそういう感慨があるのかもしれない。
彼女の表情から感情を察するのは不可能だけれど、俺は彼女のしっぽの微細な動きから内心を察することができる。それは猫に似た、けれど猫より高度な思考をする人類特有の、複雑な動きをしていた。
俺は急にしりとりの最中まで社会生物であることがばかばかしくなって、ガッツリと体ごとミリムへ向けた。
彼女もまたほぼ同時に、体ごと俺を向いた。
俺たちはしりとりをした。
重なる言葉の動きは激しさを増し、スキあらば相手を陥れてやろうと容赦ない言葉選びを続ける。
しりとりなのに汗とか出始めた。しりとりしかしてないのに、俺たちの息づかいは荒く激しくなり、からみつくような心地がした。
永遠に続くかと思われた、しりとりだった。
けれど、終わりは来る――この世には無限と言えるほど名詞が存在せず、俺たちは『外国語』『創作上の技名などの名詞』『偉人含む人名』などを無言のまま縛っていたのだ。
ミリムの言葉が途切れたのは唐突で、俺はあまりにも不意な勝負の終幕に、目を丸くしてしまった。
まだ言葉があったのだ。言うのに適切な名詞はまだ数個だけだがあって、でも、ミリムはそれを言わなかった。
「負けちゃった」
彼女がそう言ったので、俺たちは感想戦に入った。
俺が『今はこういう言葉もあったよ』と言えば彼女は「あー」と納得したように言い、彼女が「あの時この言葉でこられたらもっときつかった」と言えば、俺も『言われてみればそうだ』と大きくうなずいた。
しりとりが終わって俺たちはまた静かになった。
けれど俺の心に先ほどまでの不安がよぎることはなかった。
『長く生きられないかもしれない』『これから、回避も対抗もできぬ大きな事件があるかもしれない』……その杞憂が消え去ったわけではないけれど、それはとても小さく、薄く、存在を無視できるぐらいにはなったのだ。
たぶん、なんとなく、未来を確信できたからだろう。
十年後も俺たちはきっと、こうしているのだろうと思った。
それ以降のことはわからないが――
十年経ったらまた考えようと、そういう心の余裕が、今の俺にはあったことに、気づけたのだ。
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126話 空漠のある空間
素晴らしき平和な日常
失われた過去の記憶
苦しみのない自由な日々
び
引き続きよろしくお願いします
サラが一時的に帰宅したのは彼女が十六歳になった夏のことだった。
五月の彼女の誕生日周辺やそのほかの休日など帰宅する機会はいくらでもあったはずだった。
それでも彼女は夏になり学校が長期休暇に入るまで、一度たりとも帰ってこなかったのだ。
「だって目指してるのは無職だからね。しっかり技能を身につけて自立しないと」
俺は不慣れな環境に身をおいても折れることのなかった彼女の信念に感動などしたのだが、それはそれとして『おじいちゃんおばあちゃんには、無職を目指してることは内緒にしておけよ』と言い含めた。
俺の両親は年齢なりの価値観を持っている。
七十近い彼らにはサラの新しすぎるあり方を受け入れる受け皿がない。
……まあ、それでもがんばって受け入れようとはしてくれるだろうけれど、もう若くないので、精神的な衝撃をあまり与えたくないという俺のエゴもあった。
ともあれ――サラ、帰還。
この報せを受けた親族はあらゆる歓迎の準備をしてサラを出迎えた。
我が両親とミリムの両親のあいだでおこなわれた歓待合戦は熾烈を極め、サラは滞在期間の一週間だけで三キロほど太ったと嘆く羽目になった。
嵐のような時間が過ぎて、いよいよサラは学校へと帰ることになる。
……ああ、まただ。
振り返ってみればサラがいた時間は二日か三日ぐらいに感じられた。
それだけじゃない。俺がかえりみたあらゆる時間は、実際の日数よりもずいぶん短く感じられるようになっていた。
一年というのはこれほど短かっただろうか?
四十年というのは――こんなにも、短いものなのだろうか?
この先の五十年を思えばそれは途方もない時間に感じられるのに、振り返った四十年はまたたくように過ぎている。
その時間感覚の齟齬について俺はサラに警告めいたことをしようと思ったのだが、うまく言葉でまとまらず、サラを見送る朝は早々におとずれた。
大荷物を持った彼女は、いつのまにか『大人の女性』へと片足を踏み入れているように見えた。
振り返った思い出の中の彼女はまだよちよち歩きで、オレンジジュースを飲んではびっくりしたような顔をして俺を見て、床に這うようなよくわからないポーズでしっぽをくゆらせながら笑っていた。
ボンレスハムのようだった腕はしゅっとしていて、赤ん坊から幼児期にかけてとはまた違った種類の柔らかさを秘めているように見えた。
背は、もう、ミリムより高い。
ミリムが小型の猫ならば、サラはどこか豹のような鋭いシルエットをしていた。
「お父さん、お母さん」
彼女は言う。
俺はなぜだか、おどろいた。……少しだけ過去を振り返れば、サラはまだ舌足らずに俺たちのことを呼んでいた。言葉だってうまくなかった。
それが今は、こんなにもハッキリと、俺たちを正面から見て、お父さん、お母さんと俺たちを呼ぶのだ。
嬉しいのか、寂しいのか、わからない。
もてあました感情が胸の中で暴れて、呼吸が上手にできなかった。
「じゃあ、またね。次は聖女聖誕祭かな」
俺は――なにかを言いたかった。
でも、うまく言葉にならなくって、とっさに、彼女が去らないように引き留めるためだけに出た言葉が、『学校では彼氏とかできそうか?』という、俺が子だったら親に聞かれたくない質問だった。
「私の養い手はまだ見つからないかな」
サラの人格や信念がはっきりしていたから俺の質問は大惨事を引き起こさずにすんだけれど、これは、嫌われても仕方のない質問だったなと思う。
中学生を普段から相手にしている――していた俺は、彼ら彼女らが大変ナイーブであることをよく知っているし、それに配慮した言葉がとっさでも出るように自分を調整してもいる。
だというのに、娘には、それら調整がうまく働かない。
もどかしさの中、どこか消化不良の中、娘が発つ時間がついにやってきた。
必要事項の質疑応答をすませるミリムの横で、俺はただ、黙って笑っていた。
「じゃあ、今度こそまたね」
去って行く。
引き留める言葉も、理由もない。
なんとなく寂しさを残したまま、彼女はまた、彼女の世界に旅立った。
俺は隣のミリムを見ずに言う――入学の時は平気だったのに、この別れはなんだか、寂しいな。
「たぶん、入学式の時はバタバタしてたからだと思うよ」
そうかもしれない。
ミリムはいつでも、俺のふわふわした感情を冷静にまとめてくれる。
彼女自身の感慨はどうなのか、表情からはわからない。
けれどしっぽがこちらに寄り添っているので、きっと、ミリムも寂しいのだろう。
「……結婚したらどうなるんだろうなあ」
それはどうやら、俺のつぶやきだった。
言い終えたあとで、そのことばが自分の口から出たことにおどろく。
「その時はその時だよ」
ミリムの答えに、そうだな、と同意する。
……かつて、俺はあらゆるものへの準備をしようと息巻いていた。
奇襲への警戒だった。準備こそが精神と肉体を守る唯一の対抗手段だと信じていた。今だって、信じている。
けれど、この歳になって、『どうしようもないことはある』という、一種のあきらめの気持ちを抱いていることに気づけた。
無計画に未来に丸投げするのではなく、俺ごときの計画性では未来への準備は不可能なのだと、そういう気持ちになっているのだ。
俺たちはしばらく立ちつくしてから、家に帰る。
……ふと、懐かしさがよぎった。
一人暮らしをしていた。
二人暮らしになった。
その生活は楽しかった。静かだけれど、安らいだ。
三人暮らしになって――
二人暮らしに戻った。
この生活は楽しく、静かで、安らぐけれど、どこか寂しさもある。
サラという存在が抜けた空気の中には見えない無数の空漠があって、ふと家の中でその空漠とすれ違うたび、俺はここにいない娘のことを思うのだ。
俺の両親は、どうやってこの空漠をやり過ごしているのだろうか。
それとも、ただ耐えているだけなのだろうか。
……夏は長いだろうけれど、俺の主観的にはきっと、あっというまにすぎるのだろう。
それでもなお、冬はまだまだ、遠そうだった。
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127話 モラトリアム
父に『経営する私塾を継がないか』という話をもらったのはその秋のことだった。
それは実家に帰って夕食をとったあと、テーブルで父と二人きりになったタイミングで、唐突に語られたことではあった。
けれど、俺はおどろかず、父の話に耳をかたむけることができた。
父ももう七十近いこともあって、最近、とみに体力の衰えを感じてきているらしい。そこでそろそろ隠居をしたいということで、俺に話を持ってきたのだった。
とはいえ、俺がこの話にのったらすぐさま引退というわけでもないらしく、
「ほら、レックスは事前準備をしたがる子だろう。だからね、こういう話は本格的に引退する二、三年前ぐらいにはしておくべきなんじゃないかと思ってね」
という、俺の性格をよく熟知したタイミングでの申し出だったようだ。
俺は先ごろ教頭に昇格したばかりで、教職としては昇進ルートに乗っていると言える。
なにより『子供に勉強を教える』という意味で塾講師と教師は近しいのかもしれないが、父から聞く塾講師業務と俺の知る教員業務はまったく違うもののように思えたし、元教師である父もまた、『違う』という印象を抱いていると教えてくれた。
違いについては実に様々な要素があった。
それは『どちらかがどちらかの上位互換だ』というような単純な話ではなくって、『こういう性質の持ち主にとっては、こっちのほうが向いているかもしれない』という、個々人の向き不向きの話になってくる。
「継いでほしいと打診しておいてなんだけれど、僕としては、レックスは教師のほうが向いていると思う。塾はね、学校よりもなんていうか……『特化』してるんだ。学校は生活の一部として、勉強したい子も、したくない子も来る。勉強以外のところに『その場にいる理由』を見いだす子が多数だ。けれど、塾は、基本的に、勉強しに来る。誰の意図かはご家庭の意向によるけれど、みんな、勉強をしに、あるいはさせられるために、来ているんだ。だからね」
と、父はそこまで言ってから、いったん言葉を句切った。
しばし、考えるような、あるいは『言うべきかどうか悩んでいる』ような、時間をおいてから、
「君みたいに、『人間』が好きな子には、塾講師は向かないと思う」
……それは。
なんとなく、父が言いよどんだ理由がわかる言葉だった。
今の一言は、俺が『塾を継がない』と決定するに足る発見だった。
俺は『人間』が好き。
人間の、『人間らしい』、無駄だったり、特化していなかったり、余分だったり、そういう部分を、なんだかんだ言って好きなのだという、俺自身も発見していなかった、しかし言われてみれば思い当たるフシのある真実に気づかせてしまった。
俺自身が『無駄なく長生きしよう』と志し続け、生き続けているのが、なによりの証左だった。
本当に無駄のない人間は『無駄なく生きよう』などと志す必要がない。
本当に根っこから『無駄がないこと』を愛する人間は、『無駄をなくそう』と己に言い聞かせ続ける必要は、ない。
父の今の言葉は、俺の正体を明らかにした。
そして、同時に――
「レックス、僕はね、あんまり『人間』が好きじゃないのかもしれない」
父の正体をも、明らかにしたのだった。
「人間って、わからない部分が多いだろう? 僕は『理解できないもの』に対する恐怖が、たぶん人より強いんだ」
俺だってそうだけれど、それでも俺は、人間の『理解できない部分』を好きなのだろうと、受け入れられた。
長くつきあいが続いている連中ほど、『わからない部分』が多い。
非合理だったり、不条理だったり、あるいは霧の中だったり。
謎の多さが、好感度の高さだった。
……俺はきっと、謎解きを楽しんでいるし、その謎を提供してくれる者のことを愛しているのだろう。
「……僕が勉強好きだったのも、この世の暗いところをなくしていく感覚が肌に合っていたのかもしれないね。そういうところ、君は僕に似てしまった」
そうなのかもしれない。
俺の個性は百万回の人生ですでに醸成されていた。
とはいえ、『俺はこういうヤツです』という定義は、この世界の言語で行なうことになるし、己を言語化するときの言葉選びには、育った環境というのが大きくかかわってくる。
俺は、己の性格を、両親や学校から吸収した言葉で定義し、言語化した。
ならば今の俺の性格は、たとえこの人生の前に百万回の人生があったとして、現在の両親の影響を色濃く受けているのだろうし――
受けていたいと、そう思った。
「君の母親はね、とても素敵な女性だよ。わからないことを、わからないまま楽しめる。僕には、それがうまくできなかった。……君の母は本当に、『教師』向きだった。僕と違ってね」
父は笑っていた。
俺から見ればどこか寂しさを感じる笑顔だったけれど、父の側にはそんな意図はなかったのかもしれない。
「レックス、君の性格は母親に似ている。でも、君の性質は、僕に似ている。……うん、なるほど、教師向きだという結論にしか到達しないな。けれどまあ、いちおう、返事だけはもらいたい。向いているもの以外になったっていいしね。塾の経営、継ぐかい?」
俺は、継がない、とハッキリ言った。
なんてエモーショナルな決断なのだろう。
もっと熟考して調査して検討してすべき決断だった。間違いなく人生の行く末を決定するような問いかけだった。
なのに俺は、こうして断ったことになんの後悔もしていないどころか、むしろ、胸のすくような快感さえ覚えているのだ。
父により発見させられた『自分の本当の性質』は、俺の心の一番外側を覆っていた黒雲を晴れさせ、常に迷いのつきまとっていた俺の人生に、一つの確信をくれたのだった。
俺は、教師に向いている。
それはもちろん『塾講師よりは』という意味なのはわかっている。
それでも、父からもたらされた言葉は、きっと俺が死ぬまで、俺の胸の中で優しく俺の人生を照らす光になるだろうと、そう思えた。黒雲の隙間から差し込む、明るいきざしのように、思えたのだ。
「ああ、安心したよ。実に予想通りだ。……まあ、少しばかり寂しいけれどね」
人の『わけのわからなさ』を恐怖する父は、ため息とともに笑った。
安心と寂しさを同居させる父を見て、人の『わけのわからなさ』を好む俺も、笑った。
「塾講師をやめたら釣りに出る時間が増えるかな。でも、最近は運転もこわくてね。なにをしようか。ああ……ふふっ」
突然、父は吹きだした。
俺はどうしたのかと聞いた。
「いやね、家の中でする趣味はなんだろうなと考えたら、僕の場合、『勉強』をしそうだなと思ったんだよ。中高生が見るような教科書を見て、参考書を見て、自分ならどんな受験問題を想像して、どういうふうにみんなに教えるか、そう考え続けそうだなと思ったんだ」
それは実に父らしすぎて、俺も吹きだした。
「……まだもう少しだけ、続けてみるよ」
父はそうつぶやいて、俺は『そうか』と答えた。
あとはもう会話はない。
無言のまま、向かい合ってすわったまま、俺たちはただ、そこにいた。
どんどん速度を増している時間の中で、久しぶりにゆったりと過ごせた気がした。
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128話 柔らかい場所
尊敬できる歳上の存在は人生を豊かにするかもしれない
一方でレックスくんはそのころ……
引き続きよろしくお願いします
目がかすむんですよね、と話した。
そうしたら『老眼じゃないですか』と言われた。
事務仕事の作業中、今日は帰りに眼科に行こうと俺は決めた。
三学期最後の登校日の、しかも下校時刻を三十分ほど過ぎていた。
デジタル化された書類はハードディスクの中で山のように積まれていて、俺はデータの海をキーボードとカーソルを使ってさまよっていた。
毎日『この時期はいそがしい』と言っている気がするのだけれど、今日は特例も特例だった。
こういうことがないようにスケジュールをきっちり組んで仕事をしている。
だけれど、外部でためこまれていた『さっさと俺に振るべきだった仕事』がついに
船体にたまった水をせっせと掻き出してどうにか沈没を防がなければならないのだけれど、すでに俺の船は腰までつかれるぐらい水がたまっていて、なにをしても沈没は避けられないのだという絶望感は俺の心にのしかかってきた。
『敵』だ。
ストレスを避ける人生を送ってきた。
これまではまあ、うまくいっていたと言ってもいい。
けれど『ついに来た』のだ。覚悟していたよりはずっと命の危機から遠くて、けれど予定していた以上の焦燥感を俺に味わわせ、いっそあきらめてしまいたい分量なのに立場上あきらめることの許されない、そういう攻撃が、ついに『敵』よりもたらされたのだ。
こうなると俺は『水を掻き出す』仕事をしつつも、沈没後に偉い人にする言い訳にも頭をひねらねばならなかった。
沈没は避けられなくって、けれど俺はきっと生還できて、生還した先に『さて、お前はなぜ船を沈めたのか?』という質問に対して弁解する大仕事が待っている。
『お前のせいだよ』と言えたなら楽なのだが、世の中はそういう構造になっていない。
正論と正義はまかり通らないのが世の常なのだ。それゆえに正義を題材にしたファンタジーはあとをたたず、正論を言うキャラクターが人にカタルシスを与えたり、『そんな正論言われたってどうしようもねーじゃん』とヘイトをためたりするのだった。
そういうわけで俺はディスプレイを見っぱなしで、だからこれは眼精疲労だと思うんですよ。
そんな俺の言葉を、隣で俺の仕事を手伝うアレックス先生は、どこか勝ち誇ったように笑った。
「いえ、教頭、私の父親もね、四十ぐらいのころは、それはまあ『老眼』だの『老化』だのを認めたがらなかったものなんですよ。けれどね、人間、四十歳にもなると、老いてくるものなんです。そして、それを認めたがらないものなんです」
そう言う彼もそろそろ三十代半ばなのであった。
アレックス先生は俺が教育実習をしたころ、中等科の生徒だった男だ。
教育実習という立場でうまくクラスになじめなかった俺にそっせんして配慮し、俺をクラスに溶け込ませてくれた恩人である。
そのさいに『教育実習生にトラップを仕掛ける』という、一歩間違えば事件にもなりかねないリスクある手段をとってくれた彼は、他者のために人生をかけられる男なのだった。
さりとてちょっと不遜なところがあるのも事実で、特に二人きりの時などはカチンとくるようなことを不敵な笑みとともに述べたりすることもある。
親しげな態度だと言われれば否定はしないのだが、それでもちょっと『線』を飛び越える瞬間があるのもまた、事実なのだった。
「老眼への対応は早いほうがいい。これはね、教頭、親切心で言っているんですよ」
俺が年若い教育実習生で、彼が中等部の生徒だったら、頭をグリグリして終わる話なのだが、時代は今そういう感じでもなく、俺は教頭で、彼は担任を持つ教師なのである。
老いと立場と時代背景が、俺たちの会話をむやみに複雑怪奇にしていく。
俺は言う。
ありがとうございます。ですが、仮に事実だとして、『老いを認めたがらない』とわかっている年代の相手に、老いを突きつけるようなコミュニケーションはやめたほうがいいですよ。
相手の柔らかいところを把握しつつ、それを狙って突くようなコミュニケーションは、ただの攻撃でしかないですからね。
「ご指摘ありがとうございます。以降気をつけます」
俺たちは悲しかった。
俺たちが若ければ、あるいは立場や時代がこうでなかったなら、『お前年取ったんじゃねーの?』『うるせーな、わかってるって。言うなよ』『悪かった』ですむのだ。
しかし俺たちの過ごす時代が、俺たちの立場が、無駄に会話を険悪な感じにしてしまっている。
社会人は縛りプレイで会話をしているのだ。
この言い回し縛りプレイは破ると『あいつ俺たちと同じローカルルールで遊べないやつなんだ』ということで仲間はずれにされるし、破らなくてもうまくできないと本意が伝わらずに過度な攻撃性をもった発言をしたと見なされたりしてしまう。
まあアレックスのほうも理解しながらやってるとは思うのだが、『相手に正しく自分の意図が伝わっておらず、過剰な攻撃性のある発言と受けとられているのではないか?』という心配は、社会人になってこのかた、つきまとわなかった瞬間がない。
まあアレックスのほうも理解しながらやってるとは、思うのだが。
なんかちょっとムカつくよね。
というかぶっちゃけ俺は老いを指摘されても別になんとも思わない。
老いることは、俺にとっては嬉しいことでさえある。
だからなに、単純に言い方っていうか、キャラの問題。
年寄り扱いは別にいいが、お前に言われるのは気にくわない。
俺はいつまで経っても心の底から大人になることはできそうもなかった。
子供の心に大人の仮面でフタをしながら生きている。
なので俺は考えた……この小さなムカつきに対する、小さな意趣返しの方法を。
そう、俺は……小物だった。もちろん相手は選んでやるし、長々と小さなムカつきを抱え続けたりもしないが、今は予定外の仕事のストレスと、アレックスという中等科から知っている相手だという安心感から、ちょっとした意地悪をしてやろうと思ったのだ。
俺は急に思い出話を始める――そう、それはアレックスがまだ中等科の生徒で、俺が新人教師一年目だった、ある春のことだ。
ぶっちゃけ大きな事件はなにもなかった。なので語ることはたかが知れていて、俺の知る『中等科時代のアレックス』を春から冬にかけて順番におさらいしていくだけになる。
だが……
「すいません、私が間違ってました」
ただ『中学時代の生活をつまびらかに語られる』だけで、たいていの者は平服し、戦意をなくすのであった。
これが中学教師の強さである。
人は幼少期のことを語られると『そんなこと言われても』と不快だったり他人事だったり、そういう気持ちになる。
人は初等科時代のことを語られると、『ああ、そんなこともあったな』と懐かしいぶることができる。
だが、中等科時代の思い出だけは、心に刃を突き刺すようで、そのあたりのことを語られると『もうやめて』と泣きついてくるのだ。
俺はこうしてむなしい勝利をおさめながら、最低限本日分の仕事を終えた。
最後まで付き合ってくれたアレックスに言う――夕食、おごりましょうか?
「……呑んでもいいなら」
俺は笑って帰り支度を始めた。
終業時間が読めなかったのと、アレックスにはお礼をする意思が最初からあったので、ミリムにはとっくに『遅くなる。夕食を食べて帰る』と連絡を済ませているのだ。
だから仕事と立場の枷から解き放たれて、語り合おうじゃないか。
主にお前の中等科時代のことを、心ゆくまで――
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129話 サプライズで心停止
いい思い出、悪い思い出、いいんだけど人から言われると居心地の悪い思い出、いろいろありますね
引き続き積み上がる思い出をよろしくお願いします
三年間料理の学校に通ったうちの娘は、そのあと大学に行くらしかった。
高校卒業資格はとれなかったので、一年ほど働きながら勉強し、資格を取得したのちに大学受験をするらしい。
さすがに学費のようなまとまったお金は俺が出すことになるだろうが、生活費のほぼすべてを娘は自分の収入でまかなっている。
バイト扱いとはいえ料理の仕事をして、その給料で自活しているのだ。
なんだろうその克己の心は。ちょっと意味がわからない。
我が娘は俺をしのぐ計画性と情熱をもって無職を目指している。
ひょっとしたら俺がかつて目指していた『すべての状況に対応できて、誰かに生殺与奪の権を握られることのない人生』を娘は体現しようとしているのかもしれなかった。
娘の人生に全然心配する要素がないのは親としては安心するような、寂しいような。
うちの娘ぐらいにまでなるとちょっとこわいような気さえしてくる。
そんな娘だが、恋愛系の話をほぼ聞かない。
一時期は四人の男から取り合われていたという乙女ゲーの主人公みたいな経歴を持つ彼女だが、当時の彼氏たちと自然消滅してからというもの、浮ついた話はぜんぜん俺の耳に入ってこなかった。
なので、
「彼氏だよ」
とか紹介された時は心臓が止まった。
『心臓が止まったような気がした』じゃない。たぶん、本当に止まっていた。
数瞬おいてから再び心臓が動き出した時、脈動は早く、呼吸は荒く、目は血走り、俺は息を整えるまでに数十秒の時間をようした。
だって今日は、一人暮らしを始めた十八歳の娘が手料理をパパにふるまってくれる日だったはずなのだ。
俺はそのための心の準備しかしていない。
しかし玄関口で出迎えた娘は『最初からそういうつもりだった』みたいな、なにを考えているかよくわからない表情をしているし、俺の横に立つ妻もまた全然まったくおどろきも慌てもしていない様子だった。
俺は高速で思考し、事態を把握する――これは、そう、『パパには言ってなかったが、娘とママのあいだでは話が通っていた』ヤツだ!
子にとって母親というのは、父親よりも話しやすい相手らしい。
まあそれは一般論で、俺とミリムは共働きしながらも均等にサラの世話をし続けたのだから、そういうのはないものとタカをくくっていたが……
性別だ。
男親に話しにくいことはあるし、女親に話しやすいことはある。
俺たちはサラにそそいだ時間とは違う格差があって、今、それがミリム有利に働いていたのだ。
俺は言う――彼氏連れて来るなら先に言って。
「パパに先に言うと素行調査とか始めそうだから……」
始めますけど!?
雇いますよ、探偵!?
「それはちょっとお金の無駄だし」
俺は言葉に詰まった――詰まらざるを得なかった。
だって、サラの横で彼氏面をするヤツは、俺もよく知っている男だったからだ。
ブラッド。
一時期サラの彼氏のうち一人だった男だ。
俺の同級生であるシーラの甥っ子でもある(血筋的にはイトコの子なのだが、複雑な家庭の事情により甥っ子になっている)。
赤毛の馬鹿そうなガキという印象だった彼は、長い赤毛をなでつけたスマートな青年に早変わりしていた。
というかブラッドは、彼がサラとの彼氏彼女関係の自然消滅を迎えたあとも、俺個人とはつきあいがあったのだ。
月に二回程度、新作のスタンプの試し打ちをする関係だ。
言えよ……
というかサラはてっきりルカくんを狙っているものと思っていた。
それがなぜブラッドで妥協をする結果になったのだろう。
聞きたいことは無限にあったが、その中の一つたりとも言葉にはならず、俺は酸素を求める魚のように口をパクパクとするしかなかった。
そしたらブラッドのほうから弁解を始めた。
「いやパパさん、言おうと思ったんですよ。言おうと思ってサラちゃんにも聞いたんですけど、『面倒くさいから黙ってて』って言われて。でもね! でも言おうと思ったの。言おうと思ったその迷いが、送るスタンプとかに出てたんすよ!」
わかるわけねぇーだろ!
俺は寛大な父親になりたかった。
ブラッドのことはぶっちゃけ嫌いじゃない……というか思い返せばサラよりもブラッドと遊んでいた時間のが長い可能性まである(サラは勉強ばっかりしてた)。
俺からブラッドへの好感度は高い。
しかし……彼が『娘の彼氏』という立場を得ているとわかった瞬間、ブラッドへの好感度がマイナスに振り切れてしまった。
ブラッドはきっと仕事仕事で趣味も満足に得られないまま会社に使い潰されて、たびたび『会社辞める』とか愚痴るものの行動は起こさず、婚活サイトに登録したりしつつサクラに引っかかり、そのうち『会社辞めて漫画家になるわ』とか夢しか見てないようなこと言い出すんだ。
俺は詳しいんだ。
「あー、それなんですけど、俺、じいさんの地盤継いで政治家になるんで、将来はわりと安泰なんスよね。サラが大学出るのも、じいさんの出した条件を守るためっていうか」
なんでそっちのご家族側には話が通っている感じなんでしょうか?
僕は意味がわかりません。
反射的にシーラに通話を開始した。
おいシーラァ! お前の甥っ子が俺の娘と結婚を視野に入れたおつきあいをしてるようなんですけれども、訴えるぞ!
『訴訟は相手と状況を見て起こしたほうがいいわよ。今は仕事中だからあとでね』
あしらわれてしまった。
くそ、土日も休みなく定時で上がれもしない弁護士め……
ちょっと地域のニュースで『美人弁護士』とか取り上げられたからっていい気になるなよ。俺は教頭だぞ……
「パパ、中に入ってもいい?」
まだ玄関口なのだった。
俺はブラッドにどうにか敷居をまたがせず、サラだけ家の中に入れるような、そんなアイデアはないかと考えた。
考えているうちにミリムが二人を家に招き入れ、サラが無表情のまま普通に帰ってきて(
そのままなし崩しにおうちで会食となり、俺はテーブルから離れてはいけないと厳命され、キッチンで仲むつまじく料理をするブラッドと娘の姿を鑑賞させられる羽目になった。
その日もまた、娘の料理をふるまわれたらしい。
しかし俺はその後の記憶がなく、当然ながら、料理の味も覚えていなかった。
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130話 よくわからないもの
女の子のことはわからない……
娘も人生が盛り上がってきています。引き続きよろしくお願いします
「気持ちはわかるけど、意味はわからない」
こっちは気持ちも意味もわからないで苦しんでいる。
シックな雰囲気の高級な喫茶店は涼しく、飲むコーヒーはやたらと苦く感じる。
シーラなのだった。
事務所を立ち上げてからというもの毎日いそがしそうにしている彼女に、貴重な時間を割いてもらったのだった。
ここ最近のシーラは本当にいそがしいようで、彼女とこうして会談を取り付けるまでには一月と少しという時間がかかった。
おかげで娘はとっくに十九歳で、季節はもう夏で、ねっとりと湿っぽい暑さの中、俺はスーツ姿で外を出歩く羽目になった。
それもこれもブラッドのせいだ。
シーラの甥っ子として生えてきたそいつは、俺の娘と交際している。
俺自身もブラッドとは個人的なつきあいがないでもない。
始まりは彼が娘の彼氏の一人として我が家に遊びに来て、娘から『なんかだめ』という判定を食らって彼氏候補から弾かれ、それでもあきらめないスピリッツで俺の家になん度も来訪し、その縁で主に俺と遊ぶことが増えたというものだった。
さすがに彼が中等科に上がってからは、『同級生のお父さんで中等科の先生』である俺とそこまで密に付き合う感じでもなく、家に遊びに来ることは減っていた。
しかしお互いにメッセージのやりとりはずっとあったのだ。
だから思うんだよね……俺に言えよ。
うちの娘と付き合うなら、俺に言えって。
いやまあ、うちの娘が報告は止めたとかいう話なんで、そこはいいんだけど、そもそもなんで『なんかだめ』判定から『彼氏正式採用』にまでいったのか、これがわからない。
俺の知らないあいだに、あいつらになにがあったんだ。
「いやだから、あたしに聞かれてもわかんないってば」
そこをなにか、心当たりの一つでも教えてほしいんだよ、シーラおばさん……
「同級生におばさん呼ばわりされるの、びっくりするほどムカつくわ……」
シーラはどうにも年齢に対する意識が強いようだった。
あるいは噂に聞く『弁護士はなめられたら終わり』みたいな心構えが、彼女の反応を過敏にし、なんにでもかみつくような、そういう反応を引き出しているのかもしれない……
と思ったが、シーラは俺の発言には昔からたいていかみつくからな。
だが、だが……問題のシリアスさを共有できていないのはいかんともしがたい。
俺の娘とシーラの甥っ子が結婚したら、俺たちは親戚になるんだぞ。
それはなんかすごく……シリアスな問題じゃないか?
「まあ本家とはぶっちゃけ切れてるし、あたしは関係ないんだけどね……っていうか、あんたに聞かされた話で一番おどろいたのは、アレよ。うちのじいさんの態度」
じいさん、というのはシーラの父親のことだ。
シーラの親嫌いはもはや彼女の骨髄にまで浸透しており、すべての発言にまんべんなく『嫌い』という感情がこめられている。
なので自分の親を絶対に名前で呼ばないし、どこぞの知らない偏屈で迷惑な老人でも呼ぶかのような、怒りにも似た感情を込めて『じいさん』と呼ぶ。
「サラちゃんが大学行ったら結婚を認めるとか、そういう話をされてたように聞こえるんだけど。あの政治屋がぶっちゃけ名門でもないあんたん
実際に『じいさん』に確認したわけではないが、ブラッドの口ぶりだと、どうにもサラとの交際は『じいさん』公認であるかのように思われた。
その公認の条件として『大学卒業』があるのだとか。
ただ、言い回しには微妙にあいまいさがあった気がする。
記憶を探るに『サラが大学出るのも、じいさんの出した条件を守るためっていうか』という言い回しだった気がする。
この口ぶりだと『じいさん』に許可をとったとも読み取れるが、『じいさん』が出した条件があって、それに当てはまるには大卒資格が必要(まだ許可はとっていない)とも読み取れる。
っていうかまあ、十九歳そこらの恋愛でしょ?
結婚までいくか?
「あんたとミリムちゃんはどうだったのよ」
……結婚するわ。
やべぇ。
「とにかくあたしの所感としては『ブラッドが舞い上がってるだけで、じいさんは認めない』って感じだけど……うーん、そうね、あんたはどうなの? してほしいの? 結婚」
俺は――まあ、俺の感情は俺の感情であるのだが、それとは関係なく、サラの満足いくようにしてほしいというのが願いだな。
たとえばブラッドが超絶悪いヤツで、サラが騙されていて、五年ぐらいのスパンで見ればサラどころか我が家が一生かけても返しきれないほどの借金を負わされる、みたいな未来が予測できたとして……
それでもサラの望み通りにやらせたい。
「極論大好きよね、あんた」
まあそもそも、サラの判断力を信頼してるので、悪いようにはならないと思う。
ブラッドの人格についてもある程度はわかってるし、いざとなったらシーラ先生に弁護をお願いするし、そのへんも不安はない。
「あたしの甥っ子とあたしを法廷で争わせようとしてるように聞こえたんだけど」
まあいざとなれば。
「いざとなったら、それこそ無理よ。あたしは甥っ子に敵対できない」
でもちゃんと依頼するけど。
「そうじゃなくって……あのね、人には『心』があるの。心は『理屈として正しいから』っていうんで、納得させられるもんでもないし、心と行動を切り離すことも、普通の人はできないの。できるのは、あんたんとこの家族ぐらいなもんよ」
そういうものなのか。
「……まあ、弁護士も長いとね、『絶対に利益が出ないのに心の納得を求めるためだけの訴訟』とか、そういうのを受けることも、けっこうあるわけよ。大金持ちが道楽でやるんじゃなくって、普通に、生活するのにも苦労するような人が、身を切って、そういうことをしたりもするの。『心』ってのは『法』の次に大事な要素よ」
中等科の教師を続けている俺にとって、『心』というのは『一瞬しか持続しないもの』だ。
中学生どもは瞬間瞬間の『楽しい』『興味がある』がすべてであり、長期的計画は心よりも――その発端が心にあったとしても――理屈と理性を重要視して決定する、というのが、俺の思う『心』と『理性』のバランスだ。
だからこそ、『心』を原動力にした行動は、たやすく『面倒くささ』によって止まる。
しかしシーラは『裁判を起こし、戦い続ける』なんていう面倒くさく長期間かかる行動を、『心』により引き起こす人が少なくないのだと語る。
一概に大人と子供の差とも言えないだろう。
俺には俺の歩んだ道があり、シーラにはシーラの歩んだ道があるということだ。
「それで?」
シーラはコーヒーフロートのアイスをかき混ぜながら言う。
俺は首をかしげる。それで、とは?
「仮に、サラちゃんとブラッドが結婚することにしたとして。仮に、うちのじいさんが二人の前に立ちふさがったとして。……あんたはどうするわけ? それでも応援する?」
うーん、ハイリスク。
俺は『生ききる』ために、なるべくストレスの少ない人生をすごそうと思っているし、そのための努力を惜しむこともなかった。
政治家と正面切って争うとか極大のストレスなのは間違いない。
やりたくねぇなあ。
でもやると思う。
「なんで?」
長生きしてると、『俺よりももっと願いを叶えられるべきだった人』っていうのがいくらでも存在することに気づく。
もちろん、俺が死んだから、その人が生き残る、とかいう単純な話は、ない。
多くは俺とは無関係で、いざその人のことを知るのは、その人の願いが叶わなくって、結果として『ひどいこと』が起こったあとの話さ。
「……具体的な誰かを指してるわけじゃなくって、比喩みたいな感じね」
そうそう。
で、俺はニュースかなんかで知って、心を痛めるわけだ。
『ああ、この人がこんな道半ばで亡くなるなら、代わりに俺でも殺せばよかったのに』『こんな人が不幸になるなら、代わりに俺が不幸になればよかったのに』って。
まあ、運命とか、
「長生きが目標じゃなかったっけ、あんた」
それでも、『俺が代わりに』と思うほどのことはある。
娘がもしブラッドとの結婚を願ったなら、まさに『俺が代わりに』案件なんだよな。
娘の願いが叶えられるなら、俺の命を差し出してもいい。
幸いにも、俺がストレスをこうむれば、どうにかできる可能性がある案件だ。
全部終わったあとで『ああ、俺の努力や生命でどうにかなったなら、どんなによかったか!』と嘆く前に、色々なことができる。
だったらするよ。
俺にとって『俺が長生きできないかもしれない』というストレスよりも、『願いを叶えてほしい人が、道半ばでいろいろなものをあきらめなければいけない』という悲哀のほうが、俺の寿命を縮めるし。
「……あんたが小難しいことを考えるのは、年齢のせいじゃないわよね。昔からそう。意味のわからないところで悩んで、意味のわからないところで答えを出してる。そういうこの世界の外にいる感じに、あたしはたぶん、ひどく、いらだってたんだと思うわ」
お前、俺のこと嫌いだよな。
「あんたが嫌ってくれたなら、いがみ合ってあたしたちのつきあいは終わりだったでしょうね。……まあ、歯牙にもかけられてない感じがして、あたしのほうはますますムカつくんだけど」
今も?
「四十年以上生きて、ようやく『こういう人だ』って受け入れることができたわ。多様性っていうの? 『よくわからない人』を見かけて、昔は自分なりに解釈して理解しなきゃダメだった。今は、よくわからない人に、よくわからないままで付き合える。……最近になってやっとね」
最近かあ。
弁護士業に多大な支障が出てたんだろうな……
「そうね。もっと早いところ『よくわからないものは、よくわからないままでもいい』って気づけたら、もっと若いころに事務所持てたかもしれないわね」
成長したなあ。
「ぶん殴るわよ。……それで、あんたの意思がサラちゃんの意思によるっていうのはわかった……っていうかあんたはわかってたんだから、サラちゃんの意思を確認しなさいよ。あたしもブラッドの意思を確認しとくから」
シーラおばさん……
とかつぶやいたらシーラの目がけっこうこわかったので、俺は咳払いしてコーヒーを一気飲みした。
「こういう時、イヤになるわよね。あたしはあんたに『おばさん』って呼ばれるとかなりイラつくのに、あんたはあたしに『おじさん』って呼ばれても、気にも留めないんでしょうね。まあ、気をつけたほうがいいわよ。戦うなら味方になるんだから、心証を損ねないほうが身のためよ」
最後に頼りになる言葉を残して、シーラは伝票を持ち、席を立った。
俺は笑って彼女を見送り、ふと、空になったコーヒーフロートのグラスを見つつ、思う。
俺と喫茶店に来ると、相手がたいてい伝票を持っていくんだが――
俺は支払い能力がないと思われているのだろうか……
世間での教職のイメージが気になった。
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131話 正しさと間違いと
全宇宙にこの回を捧げます
引き続きよろしくお願いします
「『無職』とはなんだと思う?」
俺たちは自宅でちゃぶ台を挟んで話していたはずなのに、正面に座る娘の背後には、なぜか宇宙みたいなものが見えた気がした。
過度に超論理的なことを話されている時、意識が宇宙に飛ぶことがある。
その暗闇の中に輝く星雲の光には、宗教的な色合いも感じられて、俺は一瞬、娘に怪しい宗教に勧誘されているような、不可思議な心地にとらわれた。
しかし、紛れもなく宗教ではない。
俺は『宗教』というものにはその情報の端っこにさえ触れないよう、注意を払ってはいるが、そんな俺でも、わかることがある。
『無職』という宗教はない。
「パパ、私は無職について考えない日はなかったよ」
そうか。
遊園地行った日とかは考えないでほしかったかな……
「私はたどり着いたね。『無職とは働かないことではない』って」
そもそも『なぜブラッドと交際し、結婚前提ぽいつきあいをしているのか?』『二人は結婚する気があるのか?』という質問をしたら『無職とは?』と返ってきたのだ。
俺自身に『本題に入る前の補足説明で全然本題と関係なさそうな切り出し方をする』という癖がなければ、『はぐらかさないで質問に答えなさい』と怒るところだ。
しかし俺は百万回転生した四十代半ばの男だ。
人生経験は豊富であり、それら経験から『知的生命の思想は想像もつかないほどに多種多様だ』ということを感覚でつかんでいる。
まあ、あと、俺とミリムに育成された娘なのだ。
彼女のわけのわからなさは、すなわち、俺たち夫婦のわけのわからなさだろう。
なにを言ってもブーメランを投げる結果にしかならない――俺は黙って、サラに話の続きをうながした。
「生きている限り、決断する機会は無数にある。無職だってそうなんだよ……ううん、無職こそ毎日決断の連続なんだ。だって、普通の職業人は『今日こそ働くべきか、それともこのまま働かぬべきか』なんて悩みから一日を始めることがないからね」
お前、無職経験ないのにどうしてそこまで『無職経験済み』みたいな発言ができるんだ。
「収集したデータにもとづく想像だね。私の同級生にも、すでに無職デビューしている人がいるし、そこから聞き取った話もデータの一部に入っているよ」
うん、そうか。続けなさい。
データを集めたと言われると、同じようなことをして理論展開する俺はなにも言えない。
教育の成果なのだった。
「自称家事手伝いの人の話だと、やっぱり無職はね、つらいらしいんだ。家族の目、世間の目……そしてなにより、自分が自分をせめさいなむ。なぜって、無職はマイノリティで、落ちこぼれ扱いされるから、常に『このままでいいのか?』という恐怖と戦わなければいけない」
まあ……
稼がないと生きていけないという社会の大前提がある以上、稼げない毎日は不安だろう。
サラの世代だと今は両親も壮健だろうし、仕事もしているし、子を養えたりもするが、子供は親より長生きするものだしな。自分の死後、あるいは老後まで養えるわけじゃない。
やはり自分で稼ぐ手段を持たない子をおいて死にたくはない親は、子供に働けって言うだろうな。
「そう、ただの無職は将来的に金銭面において困窮することが約束されているんだよね。そこで私は『無職』の定義について整理をしてみたの」
……唐突に。
俺と話してるシーラは、今の俺みたいな気持ちだったのかな、という思いつきが頭をよぎった。
「その結果、世間で言われる『無職』と、私の目指す、ストレスがなく、健やかに長生きできる『無職』とは、違うことがわかったの。そう、私の目指す無職は――『決断をせず、なんとなく安定した生活を送る者』だったんだよ」
どうしよう、ブラッドの名前がいつ出てくるのか気になって、話が頭に入ってこない。
今の理論展開のまま進むと、あいつの名前が出てくる気配が全然ないぞ。
「そこで感情というものを廃して、『私が目指す無職のために、ブラッドとの結婚は有用か?』と考えてみた場合、これが有用なんだよね」
出てきた。
知ってる名前が出てくるとこれほどホッとするものなのか……
酸素も重力もない宇宙空間からようやく大地の上に戻ってきたかのような気持ちだ。
「『政治家の妻』というのはね、とてもいそがしいようなんだ。人との交流もある。有権者やほかの政治家の奥さんとの付き合いもある……でもね、その時々の行動方針は、旦那に決めてもらえるんだよ。つまり――決断をしなくっていいんだ」
……それはなんかこう、『自由がない』とほぼ同義のような気が、パパにはするんだよな。
「『自由』は必要?」
……。
「自由っていうのは決断の連続なんだよ。自由という状況に立たされた時にかかるストレス、自由の果てに『自分で選び取った』という名目でのしかかる未来、それは本当にすばらしいものかな? 私はそうは思わない」
いやでも、ストレスたまらないか?
自由もそうでないのも、適度がいいっていうか……政治家の奥さんは『適度』からだいぶ外れているような気がするんだよな。
「パパ、イメージでものを語ってはならないよ。今の意見には二つの大きな思い込みがふくまれている。一つは『政治家の奥さんはいそがしそう』という思い込み。もう一つは――『私の人生における適度の基準が自分の中にある』という思い込みだね」
一瞬、意味をとりかねた。
しかしひと呼吸のあいだに理解する――そう、俺が思う『サラにとっての適度』と、サラが思う『サラにとっての適度』は、違うのだ。
サラの人生においてなにが適度かは、サラが決める。
『若者は、知識不足とか、経験不足とか、そういったものによって判断を誤るから、自分がアドバイスして正しい道に導かねば』と、年長者は思いがちだが……
年長者が判断をミスしない可能性は、皆無ではない。皆無ではないっていうか、普通に間違うし、その正答率は若者とそう大差ないだろう。
まあ歳をとってくると『自分が間違った』という記憶がどんどん消去や上書きされていき、なんだか自分の正答率が常に高かったような錯覚にとらわれたりもするが……
同じように『間違う』可能性があるなら、人生の主役である『自分』で、自分の人生を決めるべきだ。
若者の人生に最期の最後まで責任をとることがどうしたってできない年寄りが、若者の人生にしたり顔で口を出すべきではない。
まあ、
この手の介入バランスで悩むのはこの人生が初めてで、どうにも感覚がつかめないな。
ともかく――俺たちが議論するべきは、『政治家の妻は楽かどうか?』ではない。
そんなものは目先の問題だ。
俺はとっくに知っているはずなのだった。
サラが――そして俺も――こうして意見をこねくり回す時は、すでに『願望』がある。
世の中には真理などはなく、人は未来の視点から現在を決定することはできない。
だから『なにが正しいか』なんて、求めるだけ無駄だ。
今正しいことが五年後間違っている、なんてことはそれこそいくらでもある。
あるいは数ヶ月、数日、数時間、数秒後でさえ、『ああ、さっき正しく思えたことは、間違いだった』と思うことはある。
だから大事なのは『願望』だ。
俺は最初から、『なぜ』と問うべきではなかった。
――サラ。
結婚は、したいのか?
「……うん」
なら、しなさい。
お前はきっと、どのぐらい大変で、どんなことになるのか、調べて、思い描いているはずだ。
その予想は実際に結婚したあと、『間違いだった』となるかもしれない。
でも、結果的に間違いだったとして、『だからあのとき止めたのに』としたり顔で言う大人は、お前の親戚には一人もいないし、いたとして、俺が言わせない。
望みを叶えなさい。
失敗したらやり直しなさい。
でも、できれば成功して、幸せになりなさい。
それが、俺の願いだよ。
「うん。……ありがとう」
まあそれはそれとして、『俺がブラッドを認めるか』という問題は未だ立ちふさがっているわけだが……
それはお前とブラッドで知恵を絞って、俺をどうにか丸め込みなさい。
「資料を用意しなきゃ……」
サラのつぶやきに俺は笑う。
彼女はどこまでいっても不器用で、自分の感情にエビデンスと理屈で肉付けをしないと、想いさえ口にできない。
俺もそうだ。
だからきっと、俺たちは親子なのだろう。
血縁以上に魂のかたちとでも呼ぶべきものが似た、親子なのだろうと思った。
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132話 子を持つ親の業
ここまでくると『時の流れが早すぎる』と言いまくることになる気がします
時の流れを引き続きよろしくお願いします
孫の名前を考えているんだ。
「気が早すぎる」
娘が二十歳になった歳の暮れ、俺とミリムは二人きりで茶を飲んでいた。
それは俺が得られると想像さえしていなかった穏やかな時間だ。
『敵』がもっと人生をかき回すと思って生まれてきたのだが、『敵』は二十年に一度ぐらいのペースでほんの少ししっぽの先をのぞかせる程度で、俺に直接的な攻撃はしてこない。
いや、その『敵のしっぽ』さえも、実は俺の想像なのかもしれない。
人は起こった事象を自分の持っている情報だけで解釈しがちだ。
幽霊や妖怪なんかもそのたぐいで、『誰もいない部屋から笑い声が聞こえた』とかいう怪談の正体が、すきま風の音だったり、家のきしみだったり、『誰もいない』と思いこんでいるだけで実は人がいたという真相だったり、そういう肩すかしの種明かしはいくらでもある。
こういった話を聞いて思うべきは『知らないことを予断で解釈しないよう気をつけよう』、では、ない。
『人は、すべての事象に正確な理論を述べることができない』
人の知識は有限だった。人の技術には限度があるのだった。
もしも人類が無限に知識を吸収し続けることのできる生命ならば、『専門家』という概念は必要ない。
わからないことがあるのは、自然なことだ。
だから、起こった事象には常に一抹の疑いを持ち、『自分が持っている理屈だけですべて説明してやろう』などと勢い込まないことが大事だ。
特に――心の問題はそうだ。
だからミリム。
俺が孫の名前を考えるのは謎の焦燥に突き動かされてのことなんだ。
気が早いんじゃない。
今、考え始めないと、いてもたってもいられなかった、だけなんだよ。
「あなたが言いそうなことではあるけど、心情は当然ながらわからないよね……」
ミリムは俺の行動をだいたい予測している――というか俺が『よくわからないことをやり出す』ことを知っていて、『なぜそんなことをやり出したのか』という思考の流れをトレースする精度がめちゃくちゃ高い。
連れ添って生きるうちにその精度はもはや読心の域にまで達している。
だが、それでも読み切れないことはある……今日のように、突発的に孫の名前とか考え出すケースがそれにあたるのだ。
「というか、孫の名前はサラたちが決めるだろうし、二人の結婚はまだ先だろうし、なんならあなたはまだ許可してないよね……」
娘もブラッドもまだ大学生だからな。
それに、娘を二十年見てきてわかったことがある。
結婚を許可しないのに、『俺の娘をほかの男にとられたくない!』みたいな気持ちはまったくないんだよ。
ただ、なんていうんだろう……
そう、『
推しが結婚して誰かのものになるのあるじゃん。
別に俺と結婚しなくてもいいんだけど、『ファンという群体』じゃなくて『名前のある個人』と推しがくっつくのは、筆舌に尽くしがたい複雑な心境なんだ。
幸せになってほしいのはもちろんだし、それが推しの選んだ道ならファンとしては祝福もする。
でも、複雑な気持ちまでは止められない。
そう、変化だ。
推しは俺の生活のそこここに浸透していて、たとえば洗濯物を干す時とか、洗い物をする時とか、そういう手慣れた作業をしている時の思考の余白に、ふと姿や行動が思い浮かぶことがある。
でも特定の誰かとくっついたなら、そういう想像をするのはなんか不貞かなとか失礼かなとか……
距離感の変化っていうの?
それに戸惑い、配慮のしかたがわからなさすぎて面倒くさいんだよな。
今後どうやって付き合っていけばいいのか謎すぎるんだ。
まあ、今までと変わらずにいけばいいって言われるんだろうけどさ、そう言うのはわかるけど、それだけじゃ対応しきれない細かいものがあって……
だからその……恐怖? 不安? に負けて、ついつい結婚に反対みたいな感情を抱いちゃうんだよな。
「わからなくもないよ。『理解はできる』っていう意味だけど……」
共感はできないらしかった。
俺たちは共働きで、家事も分担し、サラが赤ん坊のころからほぼ均等な時間、サラに接してきた。
だが、それでもやはり、男親と女親の違いみたいなものは、あるのだろう。
あるいは『親』なんていう言葉はいらず、男女の違い、と単純に述べてしまってもいいのかもしれない。
けっきょく俺は、女性のことがわからなかった。
まだまだ人生は終わらないので、『わからなかった』とまとめに入ることもないのかもしれない。
しかし、俺も四十七歳になった。
ここから急に『女性のことがわかった!』となる可能性はすさまじく低いように思われたし……
ここからいきなり女性のことを理解できるような展開が今後の人生に待ち受けているのならば、それはじゃっかんどころではなく『なにが起こるんだ』という不安をかき立てられる。
というか、俺はすべて『わからなかったな』と思いながら死んでいくのだろう。
それは運勢とか『敵』とかとは関係なく、『自分の理解している範囲だけで物事を簡易に解釈しないようにしよう。一抹の疑いは常に持ち続けよう』という主義の問題だ。
なにも知らずに産まれてきて、なにもわからず死んでいく。
いかにも悲劇的な言い回しに聞こえるかもしれないが、きっとそれが『驕らない、普通の人生』ということなのではないかと思う。
まあ、俺の心情も信条もそれはそれとして……
最近の俺は、まだ見ぬ孫のために名前を考えたり、ベビー用品をネット巡回したりしている……
ミリムはないの? そういうの。
「孫のための口座は作った……」
俺よりやべーじゃないか……
「いや、でも、お金はお金だし。孫ができなくても、サラとかにあげたらいいし……」
俺たちはしばし見つめ合って、それから笑った。
本当に、産まれてくるであろう孫の存在と――
思春期に入った我が子の恋愛事情が気になってたまらないのは、『親』という存在が生まれつき持つ
まあうちの娘の思春期に浮いた話は一つもなかったんだけどさ。
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133話 時系列ふわふわメモリー
時の流れが早すぎる(2回目)
この親と子と腐れ縁の今後にご期待ください
それは去年のことだった。
「いや、一昨年だよ」
マーティンはジョッキに入った酒を飲みながら言った。
今年の初春の話だ。
五十歳を控えた俺たちは相変わらず安居酒屋を好んでいた。
経済的にも立場的にももっといい場所に行けるはずだし、きっと普段はお互いにもっと価格帯の高い店に入っていることだろう。
けれど俺たちは相変わらず安居酒屋の常連だ。
まあ行きつけの店はすでになんどか違うチェーン店に入れ替わっているわけだが……
テーブル席で向かい合いながらケチケチと一杯の酒をゆっくり飲んでいる時、若い時分に戻ったような、懐かしくもどこか恥ずかしいような気持ちを味わえるのだった。
そう、俺たちは若くない。
けれど自分が若くないということを、びっくりするほど気にしていないのだった。
ふと若い連中から『もう歳なんですから』と言われたりすると、『そういえば俺もいい歳だったな』と思い出す程度で、俺の心はまだ肉体が若いつもりでいた。
しかし他人からの指摘を受けないでも自分の年齢を自覚する時もある。
それがまさしくこういう時で――すなわち、『記憶の混濁を感じる時』であった。
俺たちが話しているのは『この居酒屋、前にあんなメニューあったけどやめたのかな?』ということだ。
それが『去年はあったよな』と俺は言い、マーティンは『一昨年だった』と言う。
俺たちは歳を重ねすぎて、記憶にあるのが去年のことなのか、一昨年のことなのか、判然としない。
『あった』ことだけは覚えているのだけれど、時系列記憶がどんどんふわふわになっていっている。
これで相手がミリムやサラだったら『そうだったっけなあ』と笑って済ませて、相手の記憶のほうが正しかったのだという扱いをするところだ。
しかし、俺の正面にいるのはマーティンなのだった。
そいつは学生時代よりだいぶ太ったし、俺と同じように年齢も重ねた。
互いに言わないだけで、もう数年前から抜け毛が増えていて、自分の頭皮の健康状態を心配しているかもしれない。
あるいは健康診断の正確な数値をお互いに言わなくなったのは、自分の不健康さに目をつむっていたいという共通の意識が生み出した紳士協定の可能性もあった。
俺たちはふんわりと健康と病状の話をしながら酒を飲み、塩分をとり続ける。
そこには『老い』と『健康』に対する配慮なんかみじんもなかった。
マーティンはともかく、俺さえも、今、この場で自分の健康について細かく気にすることは、なかったのだ。
俺たちは二人でいるとき、老いも不健康もおそれなかった。
正面にいい歳したおっさんがいると、『こいつよりは大丈夫』という暗い安心感を抱くことができたのだ。
そうだ、俺たちは――『自分は目の前の相手より若い』と思っている。
俺は運動もしているし健康に気づかっているので体型も維持しているのだから、それはもちろん、事実として目の前のマーティンおじさんより若いのだろうが……
マーティンのほうも、彼なりの、妄想かもしれない根拠があって、俺より若いつもりでいるのだろう。
だから、俺たちは、『自分の記憶こそ正しいのだ』というのを、目の前に相手にだけは、ゆずれない。
俺たちは議論を始めた。
『例のメニュー』があったのは、去年か、それとも一昨年か?
互いに根拠を述べていく。
俺は言う――あれはまだサラが十九歳のころだったから、間違いなく去年だ。
「いや、会社で部下が一人辞めた時期だから、おととしの秋ぐらいだって」
エルマちゃんの就職祝いをやったから、去年で間違いない。
「その時はたしか、俺がウォーキングマシンを買った直後だったから、一昨年に決まってる」
俺たちの言い合いは、互いに、互いの思い出とからめて時期を証明しようというものばかりだった。
マーティンはエルマちゃんのことを知らないし、うちの娘の正確な年齢もわかっていないだろう。
俺だってマーティンの職場で部下が辞めた話とか今初めて聞いたし、ウォーキングマシンの話も初耳だった。
互いの主観を根拠として挙げながら記憶の客観的正確性を証明しようとしている俺たちは、きっと第三者から見れば愚か者だった。
というかまあ、答えが知りたいだけなら携帯端末で調べるなり、店員さんに聞くなりすればいい。
それをしないのは、俺たちに誇りがあるからだった。
そして――客観的事実、たとえば大きなニュースなどとからめて『例のメニュー』があった時期を語らないのは、俺たちは互いに自分の時系列記憶にすごい不安を抱えていて、いざ大きなニュースを提示した時、そもそもそのニュースがあった時期を間違えている可能性が高いのをおそれているからだった。
昔はこうではなかった。
俺は記憶をきちんと整理しておくタイプで、『どの時期になにがあったか』を頭の中で紐づけておく努力をおこたらない。
だが、この年齢になってわかることがある。
努力ではどうにもならないことが、たくさんある。
紐づけた記憶の紐がこんがらがる。
二十年前の話と十年前の話が、同じフォルダの中にいる。
『昔』という言葉は今の俺にとって意味が広すぎるのだった。
昔は――十代、二十代のころは、『昔』に該当するのが『学生時代』ぐらいだったが、五十近くなると、十代二十代はもちろんのこと、三十代、あるいは去年ぐらいまで『昔』にカテゴライズされてしまうのだ。
『昔』『前に』『このあいだ』
それらは魔法の言葉だった。
『このあいださ』と切り出した時、俺は十年前のことを語りもするし、一週間前のことを語りもする。
『昔』は十年以上前のことを語りそうな表現だし、『前に』は数ヶ月から数年前を語りそうだし、『このあいだ』は直近一週間ぐらい、長くて一ヶ月ぐらいを語りそうな表現だ。
にもかかわらず、この三つの言葉は『なんかふんわり以前のことを語る時に使う』と俺の頭の中でなってしまっている。
きっとこれ以外にも言葉選びはテキトーになってしまっているのだろう。
五十を控えた今、あらゆるものの輪郭がおぼろげになってきている。
記憶の時系列しかり、言葉しかり。
人生から『精査』という概念が取り払われようとしているように思われた。そしてそれは、意識や努力ではどうにもならず、どんどんふわふわしていくもののようにしか感じられなかった。
俺はマーティンと言い争う中で、自分の老いを自覚していく。
それは新鮮な恐怖だった。
年齢を重ねることを喜ばしく思う俺ではあるのだが、自分の機能が次第にダウングレードされていくこの感じをようやく実感し、『俺は大丈夫か?』という不安が、ふと、よぎったのだ。
かつてこの世界にも『不老不死』を求めた権力者はいたという。
その権力者にとっては、『不死』よりも『不老』のほうが重要だったのではあるまいか?
権力を握るのだから、それはたいそうな能力を発揮し、活躍をしたのだろう。
そのスペックが次第におとろえていくことを自覚した権力者の恐怖たるや、いかほどのものだったのだろうか?
凡夫たる俺には想像するほかにはできないが、きっと、今、俺が感じた恐怖に数倍するに違いがなかった。
マーティンとの言い争いはある程度の根拠を出し尽くして終わった。
そして俺たちはどちらからともなく言い出す――まあ、去年でも、一昨年でも、いいか。
互いの頭に『負け』がよぎったのだろう。
『自分は正しい』と信じる気持ちよりも、『あれ、俺は間違ってたのでは?』と疑う気持ちがまさったのだ。
その結果、勝敗を確定させないことを選んだ。
勝敗を決めなければ、勝ちはしないが、負けもしない。
歳を食った俺たちは、社会性を身につけていた。その社会性にもとづいた思考は、『あるかもしれない勝ちを拾う』ことよりも、『負けを確定させない』道を選んだのだ。
俺は昔から保身第一だったので若い時と変わらない選択と言える。
だが、マーティンがこういうくだらない争いにまで『負けを確定させない』道を選ぶようになってしまったのは、まさしく老いであり社会への順応であった。立場あるおじさんの振る舞いそのものであった。
俺は悲しみのあまり笑う。
すると、目の前のマーティンもまた、同じように笑っていた。
「まだ早い時間だけど、俺は帰ってウォーキングしようかと思うんだ。水をたっぷり飲んでな。レックスは?」
今日はミリムも実家で、家に帰っても一人なのだが……
そうだな、俺も……強度の高いトレーニングをしよう。
ジムでな。
「じゃあ、解散だな」
俺たちは立ち上がり、会計を済ませて、店を出る。
きっと俺たちは同じ気持ちだった。
妙な焦りと恐怖から逃れるために、互いに普段よりも息せき切って運動をしたに違いなかった。
そして三日後――
しっかりストレッチをしたのに遅れてくる筋肉痛に、俺は『この空の下でマーティンもきっと俺と同じ苦しみを味わっているに違いない』と思った。
俺たちは一つだ。
同じように歳を重ね、そして、いつまでも『こいつよりは若い』と思い続けるのだろう――
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134話 ケーキとコーヒーとSNS
痛みを共有する強敵がいる幸せ
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病院に付き添った帰り道、母とちょっといいケーキ屋に入った。
母は病気と言えば病気だし、健康と言えば健康だった。
加齢のせいだ。
もう七十歳を超えた母の体にはあちこちにガタがきていて、いくらかの軽い病気があった。
二十代は遊びの話で盛り上がり、三十代は筋トレの話で盛り上がり、四十代になると健康診断で出た数値を使ってバトルをする人類は、六十代後半から『飲んでいる薬の種類』という話題で笑ったり愚痴ったりする。
だから母は病気だが、それは、不調とは断言しがたい病気だった。
人類なら誰もがこうなるという、見本みたいな、症状なのだ。
「最近は飲む薬の量が増えて、薬でおなかいっぱいになっちゃうわ」
そう言いながらメニューを見て、しきりに「こんなにたくさん、食べられるかしら」とつぶやく母に、俺は『余ったら俺が食べるよ』と言う。
すると母は安心したようにケーキを選び、いっしょにコーヒーも注文した。
「そういえば、ずいぶん昔になるけれど、あなたはコーヒーが飲めなかったのよね」
それは本当に、ずいぶん昔のことだった。
単純に『味覚が子供だったので、苦いコーヒーが苦手だった』というだけの話だ。
たぶんありふれたエピソードなのだろう。
けれどそれを宝物でもこっそり見せるかのように語る母に、俺はほほえみながら相づちを返した。
ほどなくして来たケーキは宝石のようにフルーツのちりばめられた逸品で、たしかに母が不安がるのもわかる、想像より一回りは大きなケーキだった。
とりあえず母は携帯端末で写真にとってSNSにアップした。
「前々から評判で、食べてみたかったのよね」
昔からだが、母には少女のようなところがある。
このあたりの無邪気さはきっと、これからさらに歳を重ねても失われることのない、母の性分なのだろう。
俺のほうに来たケーキも写真に撮り、母は言う。
「息子と来てるって言っちゃっていい?」
俺はうなずき、母は携帯端末を操作した。
そんな儀式が終わってようやく実食に入る。
母はケーキをカットしては断面を写し、フルーツをフォークで突き刺して掲げては撮り、美しい真鍮色のコーヒーカップに映し出され、ゆがんだケーキまでも写真に収めた。
俺は意識してゆったりとしたペースでケーキを食べるのだけれど、母は最近食べるのが遅いうえに、こまめに写真を撮るものだから、本当に進まない。
「そろそろ、お父さんも塾の経営から身を退くから、そうしたらいっしょに旅行に行こうって言ってるのよ。どこか景色のいいところへね。お父さんは『旅行は時間を持てあますんだけどね』って言うけれど、きっと、行けば楽しむと思うのよ」
母は写真を撮り、まくしたてるようにしゃべり、そしてまた写真を撮り、それからまた、まくしたてるようにしゃべる。
俺は相づちを打ち、ゆったりとコーヒーを飲む。
ケーキはもうなかった。母のケーキはまだ半分以上残っている。
母の話は次第に遠くの音のようになっていき、店内のBGMと混じり合うかのようだった。
のんびりとしたクラシック音楽に母の声が重なると、HIPHOPアレンジみたいだなと思った。
ようやく食べ終わると、母は俺に水を頼んでほしい旨を告げ、俺は従った。
小さなバッグからいくらかの錠剤とカプセル剤を取り出すと、ゆっくりゆっくり、一粒一粒、飲み込んでいった。
のどに詰まるとかでいっぺんには飲めないのだとか。
その後もしばらく母は、色々なことを語ったように思う。
なにせ言語量が多く、そして、語ることの一つ一つが俺にとってはささいなことすぎて、記憶することがうまくできなかった。
どれも俺の話だった。
小さいころの話、大きくなってからの話。
『なんでそんなことまで、印象深いできごとのように語れるのか』というような話を、母はいちいち楽しそうにした。
「そういえば、お葬式は、そんなに派手にしないでいいからね」
あまりにも唐突にそんなことを言われてぎょっとする。
いや、それは唐突だけれど、唐突ではなかった。実は母が五十代半ばだったあたりから、思い出したかのようにこんなことは言っていたのだ。
しかし毎回、切り出すタイミングが唐突というか……思い出したかのように語られるので、なかなか心臓に悪い。
もっとも、母の話はすべてがそのようなものだった。
思いついたことを思いついた順番にしゃべる。
あんまりにもしゃべるもので、俺なんかは『それだけ瞬時に色々話せるなら小説でも書いたらいい』と半ば本気ですすめたのだが、それはイヤらしく、母はそのまくしたてるようなしゃべる力を、もっぱら俺や父相手にしか使っていない。
「ああ、あと、私が死んだら、相互のみんなには知らせてね」
……SNSというものができてしばらく経っているので、『SNS墓標』という言葉も生まれている。
『葬式はしなくていいが、自分が死んだ旨だけフォロワーたちに知らせてほしい』と願う老人たちが、死後に『わたくしは命を終えました』と発信することで、それ用のサービスをしている会社なんかも、最近目立ち始めてきた。
「そろそろアカウントのIDとパスワードなんかも書いた遺言状でもしたためておかないとねえ」
七十を超えた母は、気楽に『死』を語る。
俺はそのたびに心にしこりみたいなものが生じてしまって、うまく笑えない。
母は俺の心情をわかっているんだかいないんだか、思いついたまま、まくしたてるように、話を続ける。
食事一割おしゃべり九割の時間はそうして過ぎて、ちょっとお茶をしに寄っただけのはずが、外に出ればもう夕食の時間だった。
「お父さんにはなにか買って帰りましょう」
七十になった母は夕暮れの中で笑う。
体は細くなり、特に手は骨張ったように思う。
筋肉が衰えて皮と脂肪の垂れた彼女の顔は優しげな輪郭をしていた。
もはや彼女にとって『死』はいつ来てもおかしくないと思える隣人なのだった。
祖母のことを思い出す。
母方の家系にはどうにも直感みたいなものがあって、それにより自分に起こることをなんとなく予測しているフシがある。
まさか、母も、七十代という若さで亡くなるのだろうか?
それをなんとなく予感しているのだろうか――
「ああ、見て、レックス」
母が夕暮れを背負いながら言う。
そして、なにかを示した。
逆光でよく見えないそれは――
「ケーキの写真がバズったわ」
携帯端末だった。
なぜだろう、これはただの直感なのだが……
この母はずっとこうやって新しい文化を取り入れていき続けるだろうし、なんだかんだ百歳ぐらいまで生きそうな、そんな直感が俺によぎった。
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135話 ひたすら苦い
親子の話が続いたので箸休めです(箸休めとは)
よろしくお願いします
思った通りになる人生はすばらしい。
それでもなお時折肩すかしを感じてしまうのは、『障害を待ち望んでいた!』という話ではなくて、『あると思った壁が、実はなかったのに、壁を破るための準備をしてしまっていた』からなのだろう。
サラとブラッドの結婚において、一番の壁になるかと思われたブラッドのじいさんは、壁にならなかった。
ホテルの高そうな部屋で二人きりにされた時は緊張で死ぬかと思ったが、そこでブラッドのじいさんは、サラとブラッドの結婚に反対しない旨を明言したのだ。
シーラの――娘の自由意思をずいぶん潰して、家出同然に出て行かれたことがだいぶ堪えているらしかった。
俺といるとキレてる印象の強いシーラだが、家では静かで、常にうつむいて、しゃべらず、怒りも泣きも笑いもしなかったのだとか。
そんなシーラが出て行く日に言ったのは『今まで私にかけた養育費は必ずお返しいたします』という一言で、実際、毎月、養育費返済名目のお金が振り込まれてくるのだとか。
……クッソきつい。
もしも俺がサラにそんなことをされたら首を吊りかねない。
実際、そのことを話すシーラの親父さんはずいぶん憔悴して見えた。
報道番組などで映っている、ひょうひょうとしてつかみどころのない老紳士という印象はなく、ただの小さい老人にしか見えなかったのだ。
老人との話を終えた帰り、俺は喫茶店でありのままを話した。
どう思うよシーラ。
「全部事実だけど、あたしに言うかあ?」
ブラッドとサラの結婚において、シーラおばさんはかなりのキーパーソンだった。
ブラッドの両親の説得や、説得のための連絡係など、我が家とシーラの実家をつなげる役回りもかなり負ってもらっている。
その縁で、今回、シーラの父親に呼び出された時も「なんかあったらすぐ連絡して」と心強いお言葉をいただき、会談場所のホテルそばで待機しててくれたのだった。
あたしに言うかあ? とこいつは言うが……
あったことを報告するのは普通に義務だと思う。
「あんた、娘を持つ父親として、うちのじいさんに同情してるでしょ」
同情はした。
でも、俺が心と行動を切り離すタイプなのを、お前は知ってるはずだ。
報告の義務を感じたから報告しただけだよ。
本当に他意はない。
だいたい、俺が気をつかって話の内容を伏せたら、それはそれで『なんで黙ってんのよ』ってキレたろお前……
俺にはわかるんだ。
「うっ、ま、まあ、そんな気もするけど……でもほら、テキトーにでっちあげるとか……ああ、うん。わかった、わかった。でっちあげる理由がないもんね、あんたには」
互いに互いのことをよくわかっているので、話がスムーズで助かる。
まあ、『じいさんは結婚を認めた』『シーラが出て行ったことを後悔している』の二点で報告は終了だ。
あとはだらだらコーヒー飲んで帰ろう。
俺たちはだらだらコーヒーを飲み始めた。
政界の大物と一対一で会談したのだ。内容は予想とちがうものではあったが、緊張感はあとから疲労となって押し寄せる。
シーラの見つける喫茶店はだいたいコーヒーがおいしいので、俺はだらだら二杯目のコーヒーを頼んだし、ケーキも頼んだ。
ミリムも連れて来ればよかったんだけど、あいにくと
俺はだらだらしながら三杯目のコーヒーを頼んだ。
シーラは一杯目のコーヒーに視線を落としたまま、ピクリとも動かない。
さすがにこれ以上ダラダラするのにもしびれを切らして、俺は言う。
シーラさん、あなた、なにか相談ごとがありそうな顔をしていてよ。
「……戻るべきだと思う?」
俺に『べき』を問うなよ。
当事者じゃないんだから事情の細かい部分もわかんないし、世間一般ほど無責任な関係性でもないから一般論も言えない。
「そう来ると思って言わなかったんだけどね」
俺たちは互いに互いのことをよく知っている。
だから、相手が言いそうなことはなんとなくわかる。
たとえば俺が『長い滞在をするのにカップが空のままだと店員さんに悪く思われそうだから、ガブガブコーヒーを飲む羽目になった』というのも、シーラはわかっているだろう。
「うちのじいさん、もうすぐ死ぬのかな」
それは予想だにしない言葉だった。
しかし、ただの思いつきとも思えない雰囲気だった。
「七十はもう超えてるし、聞くからに激務だし、寿命削っててもおかしくはないんだよね。そのうえ、けっこう、あたしのしたことでショック受けてたんでしょ? ……どうかなあ。どう見えた?」
小さかった。
報道番組で見るより、ぜんぜん、普通の――いや、普通よりも枯れた、『じいさん』だった。
「あたし、あの人のこと嫌いだけどさ。なんでだろう。『死ぬかも』ってリアルな予感がよぎっても……スッキリとかは、全然しないんだよね」
――ひたすら苦い。
シーラはそう言いながら、苦さを消したがるみたく、ブラックコーヒーを一気に飲み干した。
「姉さんはそのへん全然言わないから。まあ、大物政治家の死期にまつわる話なんか、『外部』に漏らせないわよねえ。でもなんか、そろそろ危ないんじゃないかって、そういう予感はずっとしてた」
まあ報道番組で顔とか見るからな。
世間一般からは元気そうに見えても、家族から見たら違うのだろう。
「ねぇ、レックスはさ」
シーラはそこでいったん言葉を切って。
肩をすくめて。
笑って。
「聞くだけ無駄そうだわ」
いちおう言ってよ。
「親の死に目を近くに感じるなら、顔ぐらい見せるべきだと思う?」
あー。
聞くだけ無駄だったわ……
「やっぱり。……あんたはほんと、責任回避の達人よね。安易にここで『帰るべきだよ』って言われたら、あたしは『じゃあ』って言って帰った。そんで後悔してもあんたのせいにしてたと思う」
わかってると思うけど、一応言う。
俺は、無関係だ。
我が家とそっちの家は親戚関係になるかもしれないが――
シーラとその父親の重ねてきた歴史について、俺は、永遠に部外者だ。
だから自分で決めて、自分で後悔したり、自分で満足したりしてくれ。
俺のせいにされても困るけど、自分のせいで後悔するなら、愚痴を聞くぐらいはできる。
「ひょっとしてあんた、あたしの友達だった?」
それはわからない。
俺は中等科の教員で、お前は弁護士の先生だ。
俺とお前はテストの点数で競い合ったライバルだ。
俺とお前は幼稚舎から付き合いのある腐れ縁だ。
気に入った関係性を選んでほしい。
多少は相手の要望に応じてかぶる仮面も用意してある。
悲しいことに、大人だからな。
「それもあたしに選ばせるんだ」
この話の主導権を持っているのは――
というか、お前とお前の父親にまつわる話の主人公は、お前と、お前の父親だから。
選択するのは、主人公であるべきだと思う。
「レックスはモテないわ」
いいよ別に。
奥さんと子供いるし。
「こんなに厳格でこんなに誠実なくせに、頭のネジがどこかに吹き飛んでるんだから、そりゃあ、まずい人だわ」
俺がまずい人扱いされたことがあるみたいな言いかたをやめてもらおうか。
「えっ」
えっ?
「……よし、わかった。じゃあ――ちょっと行ってくる。まだいるかもしれないし」
そう言うとシーラは伝票を持って立ち上がった。
俺はシーラが手にした伝票を、なんとか、つかんだ。
「なにすんのよ」
お前、俺に支払い能力ないと思ってない?
「思ってないけど、お礼っていうかさ」
俺は無関係だ。
で、お前は急ぐ必要がある。こうしてるあいだにもお前の親父が帰っちゃってるかもしれないから。
お前には娘の結婚関係で尽力してもらってるし、ここは俺がおごるよ。
だからさっさと行け。
「……お礼は言わないほうがいいんだよね」
俺がお礼としておごるって言ってるのに、お礼を言うとか妙な話だな。
「……じゃあ、またね」
シーラはなにかを飲み込むように俺を見てから、去って行く。
こうして俺がコーヒーを飲んでいるかたわら、俺とは無関係な話が始まったり終わったりするのだろう。
ふと、伝票を見る。
俺はそのあと顔をあげて、黒を基調とした天井でまわる、謎のオシャレファンの動きをじっと見た。
ため息をついて、思う。
シーラの選ぶコーヒーに外れはないが――
彼女の入る店は、ちょっと、高い。
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136話 折り返し/新生
仲良しはいいこと
引き続きよろしくお願いします
どれほど伏線があっても予想外なできごとというのはあるものだ。
娘が二十三歳になり大学を卒業したその年のできごとがまさにそうで、とある秋口の涼しい日、俺の娘とシーラの甥っ子が結婚した。
まだギリギリ四十代にしがみついている俺はといえば、もちろん当事者も当事者、新婦の父親という立場のはずで、実際に準備や手続きには半端でなくかかわったはずなのに、そのすべてが夢の中のできごとのようだった。
娘が結婚した。
俺はどうにもまだその事実を受け止めてはおらず、家で正装も脱がずに食卓の椅子に腰かけ、背もたれにたっぷりと体重をあずけて天井をながめながら、娘の晴れ舞台の記憶が夢だったのか現実だったのか、判断つかないままでいた。
ほどなくして俺の目の前にお茶が出される。
俺がおどろいてお茶を提供した相手を見れば、そこにいたのは意外でもなんでもなく、妻のミリムなのであった。
「お疲れ様」
彼女にそう言われて、俺はようやく現実というものを受け止めることができた。
娘が、結婚、した。
これは幻ではなかった。現実だった。
思わず顔を覆う。
後悔などない。
ブラッドは立派な青年だった。シーラの家にあった確執みたいなものも氷解しているように見えた。
もちろん政治家は特殊な職業だ。
年齢的にブラッドはまだ『カバン持ち』でしかないが、ゆくゆくは祖父の地盤を継ぐことになる。そうなった時のサラの苦労は、俺の持つ情報量では想像もできない。
それでも二人が選んだ道を、俺は祝福すると決めている。
だから俺が顔を覆ったのは――『羞恥』とか『後悔』とか『絶望』とかをあらわすジェスチャーとしてよく使われる、顔を覆う、という行為をしたのは、二人の結婚への反対があったからではない。
押し寄せてきた現実に耐えきるための防御行動なのであった。
あ~……
ほんとに結婚したんだ……
「それは、そう」
ミリムはこういった時、冷静だ。
まあ、この場合、俺が極度にうろたえているだけなのは、あるかもしれない。
頭の中は真っ白だった。なにも考えられない。なにも行動できない。
俺を支えていた一本の線みたいなものが途切れたような、そんな虚脱感があった。
椅子に座ったまま手足を投げ出し、かろうじて座ることができているけれど、おそらくミリムが対面に座っていなければ、このままずるずると椅子から滑り落ちていたことだろう。
燃え尽きた、という心境だ。
もしも人に生まれつき『天命』みたいなものがあるならば、俺の『それ』は今日、終わったのだとさえ思えた。
娘はとっくに、俺の手から離れていた。
にもかかわらず、今まではたしかに『子』だったのだ。
それが急に、『サラ』になった。
ああ、なんという筆舌に尽くしがたい心境なのだろう!
サラをひとりの人間として扱ってきたことに間違いはない。彼女を自分の所有物だったり、ましてや自分のパーツの一つのように扱わないよう、どんなに心を砕いてきたか!
だというのに、この結婚式を終えて、ようやくあの子が『自分から離れた場所にいるひとりの人間』であるかのように思われたのだ。
俺の中には『サラ』という存在がおさまっていた空間があった。
そこに、ぽっかりと、サラとおなじかたちの空白ができあがった。
空白ができあがったというのに、心は軽くならず、むしろ、失ったぶんだけ重くなったかのように感じられる。
だというのに俺は、その空白を埋めたいなどとはちっとも思ってないのだ。
こんなに複雑な精神活動は、今までの人生で一度だってなかった。
心の中に風が吹きすさぶせいで、肉体を動かす力を捻出できないなどと、そんなことがあるだなんて、想像さえできなかった。
しばし、時間の感覚さえなく、俺は虚空をながめていた。
お茶はとっくに冷めて、それでもミリムは俺の正面にいた。
いったいどれほどの時間が経ったのかわからない。
俺はようやく――俺と同じぐらいの『重い空白』を感じているであろう存在に、思い当たることができたのだ。
ミリムも、お疲れ様。
絞り出せた言葉は簡素で、ねぎらうような表情を浮かべる気力さえ、まだなかった。
けれどそれは、今の俺にできる精一杯の慰労だった。
「うん」
彼女の心の動きを語るしっぽは、彼女の体に隠れて見えない。
けれどきっと、ぴんと立てたのだろうと俺にはわかった。
……不可思議な世界で、俺たちは歳をとっていく。
目の前にいる五十がらみの獣人女性は俺の妻だ。
若々しさはさすがにもうないけれど、年齢を重ねた女性にしかもてないたぐいのかわいらしさのようなものがある。
ふと、思う。
歳を重ねて、よかった。
ここまで生きられて、よかった。
「その言葉は今にも死にそうな感じだから、気が早いかも」
……それもそうだ。
どんなに『全部終わった』みたいな心境になっても、俺の人生はまだ続く。
なにも終わっていない。
俺はこの世界で生きていく。天寿をまっとうし――死ぬために、生きる。
数年ももつまいと思っていた人生は、こうして五十年ほど続いた。
あと四十年、生きていく。
この世界で煙になるために、生きていく。
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137話 普通の人生
『いっぱい生きて欲しい』と思われて喜ばないヤツぁいねぇよなぁ!?
いるさ! ここに一人な!
いつか終わる人生を引き続きよろしくお願いします
サラが結婚しちょうど一年ほどが経ったころ、懐妊の報告が来た。
俺の心情は筆舌に尽くしがたい。
それはまあ結婚してるわけだし、跡継ぎが必要系の家庭に嫁いだわけだし、結婚して一年ほど経っているし、サラもお相手のブラッドもまだ二十代前半だし、そういうことはあるだろう。
しかし理屈ではなかった。
『娘が妊娠した』。
このなんでもないような事実にこめられた衝撃の大きさは、俺の覚悟や予想をかるがるとぶっちぎって、数分、放心させる威力があった。
上の空で生返事しかできない通話を切って、とりあえずリビングに入る。
そこでは妻のミリムが創作活動をしていた。
創作をするのはもちろん俺たちの不労所得のためだけれど、特に収入につながったことはなくって、今では半ば趣味のような活動になっていたのだ。
カタカタと端末を叩く妻へ語る――サラが、妊娠したらしい。
一瞬だけタイピングの音が止まり、すぐまた再開される。
ミリムは「少し待ってて」と告げてからしばし創作活動を続行して、キリがいいところになったらしく、やがて止めた。
情報端末を閉じてまっすぐに俺と向かい合う。
相変わらず表情に乏しい妻ではあったが、俺もいい加減、彼女と五十年ほどの付き合いになる。
半世紀もの長さ、かかわり続けているのだ――否応なくわかる。ミリムの今の表情は、『先にサラから連絡をもらっていた顔』だ。
「殺意は?」
えっ、なにその質問……
俺は困惑した。けれど理解した。
そう、ミリムが聞いているのは、我らが娘の夫、すなわち娘のお腹の子の父親であるブラッドへの殺意の有無なのだった。
娘の妊娠に戸惑う俺に最初に問うことがそれなのか、と愕然としたが、『殺意は?』と聞かれてすぐ『ああ、ブラッドに対する?』とわかってしまうあたり、殺意の有無の確認は必要なことなのだなと納得した。
納得したのだが、すげー切り出しかただ。
俺じゃなきゃ困惑したままオロオロするか、キレるぞ……
まあ俺だからいいんだけども。
俺は答える――不思議と殺意はないよ。
『不思議と』とか口から滑り落ちるあたり、俺の精神はどうやら結構まずかったらしい。
自覚させられてぎょっとした。
「あなたは人を管理したがるタイプで、わりと独占欲が強いから、いちおうね」
うーん、否定できない。
俺は常に『人と深くかかわらないようにしよう』とか『間違ってると思っても、俺の人生ではないのだから、好きなようにやらせよう。巻き込まれない限り、俺が口を出すべきじゃない』とか、『あいつにはあいつの人生がある』とか思いながら生きている。
根っからの放任主義ならば、こんなことは思うまでもない。
管理したい、独占したいという精神が根底にあるからこそ、『それは、いけない』と己を戒める必要があるのだし、戒め続けてきていたのだ。
なるほど付き合いの長さゆえに、ミリムは俺のことをよく知っている。
五十年だ……意味がわからん。こんなに生きられるとは思っていなかったし、この半生をずっと一緒にすごし続けるとも思っていなかった。
俺たちの頭には白髪らしきものが見え始めて、顔には年齢を重ねた痕跡がそこらにある。
もちろん赤ん坊のころからミリムを知っているのだから、確実に『昔と違う』顔なのはわかる。
わかるのだけれど、ミリムはずっとこんな顔のまま、こんなふうに俺と一緒に過ごしてきたんじゃないかと錯覚するし、それはきっと、十年後も似たようなことを思うのだろう。
懐古のような、それとは違うような不可思議な気持ちを胸に抱きつつ、俺は率直なところを述べる。
孫が生まれそうだということは、嬉しい。
娘の妊娠にかんしては、心が追いつかない。
結婚前からだいぶ自立していたから、結婚してもさほど変わらないものと思っていたけれど、なんていうか、サラはまだ、俺の中で『子供』だったみたいなんだ。
目を閉じてサラの姿を思い浮かべると、真っ先に見えるのは、二歳ぐらいのころのあいつの姿だ。
短い手足でわちゃわちゃ歩いたり、なにかにつけてイヤイヤしたりする姿。
もうとっくに二十歳も超えてるっていうのに、俺の中でサラはそのころのままなのかもしれない。
だから、そんな子が妊娠と言われると、まず、ぎょっとしてしまうかな。
ぎょっとしたあとで、現実を思い出す。
『ああ、もうサラは、大人だったんだ』。
……十代後半までずっとこの家で育ってきたんだから、もちろん、中等科やら高等科やらに通っていたころのあいつの姿を思い出すことはできる。
でも、俺が真っ先に思い出す二歳のサラと、現実の二十四歳のサラのあいだにある時間が、『妊娠した』と言われた瞬間にとんでもない速度で過ぎ去っていくような、そういう感覚があるんだよ。
心が、おいてけぼりで、ぽかんとしている。
喜ぶとか、悲しむとか、俺の心はそれどころじゃないんだ。
乗るはずだった列車が目の前で発進してしまったかのような、そんな、なんとも言えない気持ちだけがわき起こってくるんだよ。
「わたしは、妊娠と出産とそのあとに準備するもののことを考えてた」
ミリムの回答は彼女らしかった。
きわめて現実的で、冷静だ。
「たいへんなんだよ。ブラッドさんの親御さんと話し合って、決めなきゃいけないことがたくさんあるから。本人たちはそれどころじゃないから、こういう時こそ、わたしたちがやらなきゃいけないんだよ」
……よくよく思い返せば。
ミリムが妊娠し出産する時も、俺の両親やミリムの両親の、手厚い助けがあった気がする。
妊娠当事者のミリムはもちろん、伴侶の俺にもリアルな問題を片付けるためのキャパシティはなかった。
きっと、サラとブラッドもそうなんだろう。
五十にしてようやく俺は『後進がいる』という事実をしっかり受け止められたような気がする。
もちろん職務における部下はたくさんいる。『年下の知り合い』も増えた。
けれど職場の部下たちに教えることはすべてマニュアル化が済んでいて、それを順繰り覚え込ませるだけだった。
だが、『自分たちが妊娠していた時に、親がしてくれたこと』のマニュアル化は、できていなかった。
『今まで自分がしたこと』をまとめるのはやっていても、『かつて、自分たちの先達がしてくれていたこと』のまとめは、全然だったのだ。
「特にあなたは、出産の時、また前後不覚になるから、それまでにやれることはやらないと」
断定された。
まあそのたしかに、なに? ミリムの出産の時、じゃっかん、前後不覚だった気はしないでもないよ?
でもそれは我が子じゃん。
今度は孫じゃん。ワンクッション挟むじゃん。
さすがにもう、取り乱さないって。
「取り乱すよ」
断言された。
ミリムはよっぽど確信がないと断言しないので、きっと俺は取り乱すのだろう。
出産当日までに平常心を手に入れたいところだったが、人の精神はそう簡単に変化しないことを俺は知っている。
百万回の人生経験が生きた。人の心の軸というのは、そうそう簡単に曲がらないものだという体験を、俺は百万回しているのだ。
わかった。じゃあ――マニュアルを作ろう。
俺はやはりやるべきことをリストアップし、それをまとめ、データ化することを選ぶ。
サラの子が生まれるまで、生まれる時、生まれたあと、すること。
そして、そのハウトゥをまとめて――サラとブラッドにあげよう。
もちろん彼女たちの孫が生まれる時には時代が変わっているだろうけれど、そのオリジナルハウトゥブックは、きっとなにかの役に立つはずだ。
「……あ、ひらめいたかも。それ、出版社に持っていってみよう」
え?
「新書サイズで商品になりそう。物語系よりそっちのほうが書籍の可能性あると思うよ」
コネもあるし。
出版社に勤めているミリムは、そんなことを言った。
言われてみればそんなふうに思えてくる。
俺たちはもちろん不労所得を目指して物語を書いていたのだが、俺たちの書く物語はどうにも物語的ではないようで、ウケが悪いのだ。
俺たちは妄想することが苦手だった。
俺もあまり妄想することなく今までの人生を生きてきた……俺が頭を働かせてきたのは、『敵』の出現タイミングとそいつらがもたらすであろう被害、そしてその対応方法ぐらいなもので、それ以外には勉強と仕事しかしていないというリアリストなのである。
ミリムもまたなにが起きても受け流しその場で対応方法を編み出す生き方をしていたので、自分から見たこともないような世界を創造するのは苦手なのだ。
じゃあ、やるか――妊娠出産・その後ハウトゥブック作製。
「うん。まあでも、気負って書くと文章が意味わからないほど固くなるから、普通にね」
普通だな。
よし。
俺はグッと拳を握りしめた。
サラの出産予定は来年の夏。
それまで、慌てず、騒がす、普通に、色々とまとめたり、準備したりしていこう。
普通にな!
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138話 趣味への熱意
電車の窓横あたりに広告打たれそうな本になりそう
引き続き人生をよろしくお願いします
その年がいそがしかったのはもちろん娘の出産にまつわるアレコレのせいでもあったが、そこに俺の校長昇進までかぶさったことが大きな原因だろう。
そんな目が回る日々の中で、大して重要度の高くない会合に参加しようという気持ちになったのは、むしろ『いそがしかったから』というのが理由かもしれない。
息抜きが必要だった。
俺をせわしなくさせるあらゆるしがらみと無関係の、気の置けない相手との会話が、必要だったのだ。
そんな経緯でマーティンと落ち合って安居酒屋へ行く。
このかん、ミリムはミリムでマルギットあたりと会っているようだった。
さて、孫や昇進なんかと離れたところを求めていた俺ではあったが、やっぱり話題にするのは孫のことだった。
するとマーティンは目を丸くして、言う。
「……孫……? えっ、孫……? 誰の……?」
通い詰めているうちになん度か資本元の変わった安居酒屋で、いい年したおじさん(おじいさん?)二人でテーブルを挟んで座っている。
卓に並ぶのは酒と肉と、それから野菜だ。もう俺たちは『唐揚げ!』『チキン!』『肉!』『酒!』という年齢ではなくって、野菜を挟まないと胃もたれする体になっていた。
俺の対面に座るそいつは不摂生のカタマリだ。運動をしない、栄養バランスを気にしない。
『服を着ればやせて見えるから大丈夫』と言っておきながらそのシルエットは下っ腹のふくらみを隠しきれていないし、きっと、脱いだら骨に肉と皮が垂れ下がっている見事な中高年スタイルなのだろう。
マーティン――俺は優しく笑う。
俺に孫ができそう(できた、と言ってもいいのだろうか? よくわからない)という話をしたところ、急に現実を受け止めきれなくなった彼には、優しさが必要に思えた。
だから俺は噛んで含めるように言う。
俺たちは、もう、孫がいても、おかしくない年齢なんだよ。
「……いやいや。まだ中高生だぜ」
中高年なんだよなあ。
マーティンはあまりの出来事に精神が退行してしまっているようだった。
ほとんどの人にとって、『加齢』とは『避けたい』ものだった。避けたすぎて、自分が年をとっている事実をなるべく意識しないように立ち回るべきもののようだった。
そんな年齢を意識しない立ち回りをしているマーティンに対して、同級生の俺が『孫ができそう』と言えば、否応なく年齢を意識せざるを得なかったのだろう。
少し申し訳なくも思う。
でも……孫のほかにコイツに話したいこと別にないしな……
マーティンと俺とは趣味がまったくかぶっていないのだ。
俺は健康や長寿にまつわる運動・食事などに強い興味を持っているし、それらの情報を収集し、色々と試してみてもいる。
すなわち俺の趣味は『健康』だ。
対してマーティンは『不摂生で死ぬならそれでもいい。我慢して生きるよりマシだ』と思って生きているようで、健康関連の話題は少し出しただけでもあからさまにイヤそうな顔をする。
俺がマーティンにいちいち『運動しろよ』『食事制限しろよ』などと口うるさく言っているならば、その顔もわかる。
しかし俺はマーティンに『やれ』と強制はしないようにしている――最初のころは善意から運動をすすめていた気もするのだが、早々に無駄だとわかり、健康の話題は避けるようにしているのだ。
そうなるともう……孫の話しかない。
俺の提供できる話題は『最近の中学生』『職場であったこと』『孫、娘』『健康』の四本柱なのだ。
「いや、待ってくれよ。おかしくないか? 俺が結婚して離婚してるあいだに、お前、おじいちゃんなの?」
お前、結婚してたの!?
聞き逃せない話題に食いつくと、マーティンは目を伏せて「しまった」とつぶやいた。
中高年はコイバナに興味はないのだが、結婚・離婚には目を輝かせる。
重要なのは『結婚・離婚』に目を輝かせるということで、『結婚』単体だとそうでもないというところだ。
マーティンはため息をついて天をあおぐ。
そして、渋々という様子で口を開いた。
「会社の部下とさー。まあ色々あったんだよ。で、結婚までいったの。……俺は結婚式とかぶっちゃけ堅苦しいだけだと思ってるからやらないことにしてさ、彼女もそれで納得してくれたんだ。でもさ、婚姻届出してから一月も経たないうちに『やっぱりやりたかった』とか言い出してさあ」
家に帰ってからグチグチ言われ続けるのに耐えきれず、結果として二月ぐらいで離婚したらしかった。
俺は超笑顔で言う――ご愁傷様だな。
「なんで楽しそうなんだよ」
それは俺にもわからなかった。
マーティンは気の置けない友人で、俺は彼の幸福を願っている。
離婚したという話を聞いてご愁傷様と思ったのは本当だし、通常、すべての情報を収集し終えてから判断を下すタイプの俺が、マーティンの口から聞いた話だけでマーティンを被害者の側に認定している。
俺がマーティンに肩入れしているからだった。
正しさを気にするよりも先に、彼の言い分をすべて信じてしまうぐらい、彼の味方だからなのだった。
それでも……他人の離婚話はおもしろい。
五十代になるまではこんなんじゃなかったはずなのに、最近は人のスキャンダルとかに興味を示すようになってきている……
やばい。
俺は考察を発表する。
たぶん、娯楽がないからだ。
これと言える趣味がない――『健康』関連はもう日常の一部として根付いてしまっている。強いて言えば趣味ではあるのだが、『スポーツ』とか『サブカルチャー』みたいな、アクティブにおこなう趣味という感じではない。
そういった無趣味状態の時に、連日連日、番組を垂れ流しているだけで人様のスキャンダルやら大物の問題行動やらが滑り込んでくる。
脳を常に使って『子供の産前産時産後に親がすべきハウトゥ』をまとめている中、スキャンダルニュースへのそれっぽい説教は脳を止めててもできる手軽な娯楽だった。
それが習慣化し、俺の脳は、脳を止めてもできる娯楽に常に飢えている状態となっていたのだ。
こうして番組に説教したり文句言ったり正義の怒りを振りかざしたりするおじさんが完成する。
これはまずい……打ち込める系の趣味を見つけないと、俺が孫の教育に悪い存在になってしまう……
「ああ、でも、俺もあるわ……なんか娯楽をしたいけど、脳を使うの面倒くさいんだよな……でも、使わなきゃいけないよな、脳。退化するもんな……」
俺たちは顔をつきあわせてうなった。
脳トレに悩む五十代のおじさんたちは、普段から娯楽に使う脳の容量を確保していないので、話がそれ以上展開しない。
このままだと『趣味見つけなきゃな』『そうだな』で以下沈黙が続くばかりだ。
俺は提案する――一月後、趣味の発表会をしよう。
「趣味がないのに?」
だからタイムリミットを決めて、俺とお前で対決するんだ。
一ヶ月後に趣味を見つけられてなかったほうが、おごる。
我ながら脳を使えていないふわふわガバガバ提案だった。
こういう日常的、瞬間的に頭を働かせる瞬発力みたいなものが、年々減衰しているように思われた。
結構な焦燥感を覚える。
このままでは頭がとろけて死んでしまう。趣味を、趣味を見つけねば……
「まあそうだなー。趣味、趣味かあ。そう言われると、うん、難しい。時間がもったいないんだよな……若いころに大丈夫だったスケジュールも、今はダメだし……若いころは『休日遊ぼうと思ったら寝てるうちに終わった』がけっこうあったけど、今は『休日は寝る』という断固とした意思があるもんな」
というか――寝ないと死ぬ。
マーティンは全然笑い事にならない言葉を放って、笑った。
なんてこった、俺たちは趣味を探すのも命懸けの年齢に入っているのだった。
その日はけっきょく、『なにかやりたいけど一人だとちょっとな……みたいなことが見つかったら、お互いに、積極的に付き合おう』という約束を交わしただけで解散した。
でも、お互いに『たぶん誘いは来ない』と確信しているだろう。
趣味、趣味か……
五十にして、俺の前に大きな壁が立ちはだかる。
脳のため、そして、教育上問題ないおじいちゃんになるため、俺はなんとしても、趣味を見つけなければならない……!
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139話 アウトソーシング
友人っていいものですよね
通販で買えないのが悪いところです
引き続きよろしくお願いします
我が家はプレゼン家族だ。
なにか家族を巻き込んだ願望がある時、家庭内で資料をまとめてわかりやすくしたものを壁に投影しプレゼンをおこなうという家族は周囲であまり聞かない。
というか俺の勤める中等部の生徒たちの家庭までふくめても、やっているところは皆無らしい。
プレゼンというのは『自分の願望の価値がわからない相手に、自分の願望の価値を伝える』手法として優れていると思うのだが、家庭内プレゼンをしないというのなら、世のお子様たちはどのようにお小遣いの昇給をしているのだろう……
それに親の都合で子供を連れ回したい時などもあるだろうし、そういう時にプレゼンを経ずにどうやって子供に納得してもらって連れ回しているのか。謎は深まるばかりだ。
そんなわけで『伝えたいことがあるならプレゼンをする』と骨の髄まで浸透している我が家の者が文章を書くと、それはすなわちプレゼンになる。
「もっとビジネス書みたいにしてほしいって」
俺の『子供の出産時に親のすべきこと』についてのハウトゥ本の第一稿はそんなふうにボツを喰らい、内容はともかく文章面では書き直す羽目になってしまった。
しかし俺にはビジネス書とプレゼンの違いがいまいちわからない……『題する』『題に沿った文章を書く』『題に沿った結論へと導く』という工程はビジネス書もプレゼンも大して変わらないような気がするのだが……
「ビジネス書は、もっと余計な脇道に逸れるんだよ。『文章作品』として見た場合、ビジネス書ほどわかりやすくまとめているものもないんだけど、さすがにプレゼン用の資料とかと比べると、補足とかデータの列挙とかが多いから。あと、読み物としての満足感を与えるには、多少文章量が多いほうがよかったりもするの」
なるほど、『読み物としての満足感』という視点は抜けていた。
それに、言われてから見直せば、たしかに、俺のプレゼン風の文章は説明不足だったりして、『この資料を壁に投影して、その前に立ってポインターで文章をなぞりつつ補足説明をする』という前提の文面に見えた。
出版後に俺がいちいち読者のもとまで補足説明をしに出向けるならばいいのだが、そうではないと考えると、ちょっと言葉が足りなさすぎるのはわかる。
「……物語を書いてた時も思ったけど、わたしたちは、結論を定めたら全然横道に逸れないところがあるから、もっとこう、『人間味』? があるほうがいいみたい」
『人間味』。
それはきっと他の編集者に言われた言葉なのだろう。
ミリム自身も首をかしげななら、意味をよくとれていないような、そういう口ぶりだった。
俺たちは原稿を挟んで向かい合う。
目を合わせて、うなずき、提示された課題について考えることで同意する。
――人間とは?
俺たちの文章には人間味が足りない。なるほど、そう言われるとわかるような、わからないような、不思議な感じだ。
たしかに物語を書いている時など、他の小説を読んでいると、自分の小説と全然違って見えた。
分析と分解を繰り返して『似たようなもの』に仕上げている自信はあったが、みんなが普通に加え入れている『なにか』が足りない、そんな印象はたしかにずっとあったのだ。
そして読者には『なにか』が足りないことを見抜かれていたようで、俺たちがネット上に放流した物語はヒット数がいまいちだった。
それで小説家になって印税による不労所得生活(印税は不労所得ではないが、不労所得という扱いとする)を送ろうという目標を、半ばあきらめていた。
しかしプロの編集者に見せることで、俺たちに欠けている『なにか』に『人間味』という名前がつけられたのだ。
ならば考えることは一つだ――『人間とは、なにか?』。それは今執筆しているお産の書だけではなく、物語作りにも活かせるかもしれないもののように思われた。
まずは『人間』の定義を定めなければならない。
生物学的な定義はこのさいおいておいていいと思う。文章における『人間味』に、生物学的分類など関係がないことは予想にかたくないからだ。
つまり精神性の話題ととなる。
人の、心とは?
俺とミリムは顔をつきあわせて考え込んだ。
俺たち夫婦は、人の心がわからない。
そもそも俺は百万回転生している。生まれた時から『目立たないように、人らしい行動を観察し、それに合わせて溶け込むように生きていこう』と決意、実践して生きてきた。
いや、実践できていたかは、もはやどうでもいい。五十年も生きたのだ。たとえ実践できていなくても『あの人はああいう人だ』で済むぐらいの積み重ねが俺にはある。
しかし、最初から『人をまねする人外』という視点で生まれ、成長してきた俺に、『この世界の人らしい機微』などわかるはずがない。それはもう、あきらめるしかない。
一方でミリムにも人間性というものがあまりなかった。
なにが人間性かもわからない俺が『人間性がなかった』と語るのはいかにも滑稽で、人に聞かれれば冷笑されるかもしれない。けれどミリムには人間性がない。なぜって、俺の妻になるような女だからだ。
俺たちは精神的に人ではない。
その前提を間違えると、これから積み上げるべき思考に放置できない大きなズレが出る。
そこで俺たちは、自分たちの中でもっとも『人間らしい』知り合いを思い浮かべる。
ミリムのほうはきっとマルギットあたりを思い浮かべているのかもしれない。
俺はといえば、マーティンを思い浮かべていた。
マーティンは人だった。悲しいぐらいに、人らしかった。
なにが人らしさかわからない俺をして、あいつの一挙手一投足には『ああ、こいつ、人だ』と思ってしまうようななにかがある。
ブレ、というのか、不真面目さ、というのか。
『摂生をするぐらいなら、酒をかっくらい油ものをガバガバ食べ、死に向かう』という信念を掲げる一方で、糖尿病をはじめとする『不摂生による病気』で苦しむのは死んでもイヤ、というあの感じ。
運動しなきゃな~カロリーもそろそろ控えないとな~と言いながら唐揚げを食べるあいつは、悲しいぐらいに、人なのだ。
そうか、人とは――整合性がとれない生き物なのだ。
俺は人というもののことをようやくわかった気がした。
矛盾、というのか、ふらふらしている、というのか。
長期的目標のために努力しなければいけないことをわかっているのに努力はできず、普通に考えて指導員もつけずに薬だけで『二週間でやせる!』なんてありえないのに薬に頼ってみたりだとか、金がないと言いながらガチャを引いてみたりだとか、そういう、目の前の願望、快楽のために『やらなければいけないこと』から目をそらす自分への甘さ、そういうのが、『人』なのだった。
俺は感動しつつミリムを見た。
彼女もなにかの答えにたどりついたらしい――俺を見る瞳でわかった。
俺はまず、自分のたどりついた答えを述べる前に、彼女の意見を聞くことにする。
問おう――『人』とはなにか?
「『瞬間的なもの』かな……考えて出した結論よりも、その場その場を優先する、みたいなものかも」
表現方法は違うものの、ミリムの抱いた答えも俺と同じようなものだった。
もちろん、マーティンみたいな人ばかりではないだろう。けれど俺が『人』について考えようと思ったとき、まっさきにサンプルとして浮かんだのがマーティンであり、ミリムが『人』について考えたとき、サンプルとして採用したのが『瞬間的なもの』だった。
これはなんらかの啓示だろう。
俺たちの脳を設計した全知無能存在は、『人』というキーワードに『刹那的な生き方をしている者』がひっかかるような構造にしたのだ。
では――『人』の定義が整ったところで、本題だ。
俺たちは人間味のある文章を書けるのか?
「……」
ミリムは俺の目をじっと見て、うなずく。
俺も同じようにうなずく。
そして俺たちは声をそろえて言った。
「無理」
無理だった。
なんだよ刹那的で瞬間的な文章って。
そんなの表現できたらたぶんとっくに小説家になってるわ。
ではどうするか――俺たちは結論した。
そう、アウトソーシングだ。
俺の書いた文章を、マーティンなどに見せて、校正してもらう。
俺たちに人間味がないのなら、人間味を外注すればいいのだ。
それはうまくすればマーティンの趣味となり、そしてよく考えたら、『文章を書く』というのは俺の趣味にしてもいいかもしれない。
孫との会話をシミュレートする――「おじいちゃんのご趣味は?」「文章を書くことだよ」
「なるほど。すばらしいと思います」
孫をうまく想像できなくて、孫がなんだか気を遣って対応してくれてるみたいになってしまった。
孫に気を遣われるのきついな……
俺は一人で沈んだ。
「……じゃあ、校正面での手伝いを外注しよう。出版後の印税の分け前の相談とかもしないといけないから……あと、『内容はいいしコンセプトも売れそうだけど、実際に出版するかはわからない』って言われてるから、それも連絡しておいてね」
出版はだいぶ商業的になったが、まだ芸術の分野に片足を突っ込んでいるせいか、『完成品を見てみないとわからない』という対応をする編集者も少なくないらしい。
まあ趣味でやってるしダメなら一冊だけ折り本にしてサラに渡すだけだし、こちらとしては今まで俺たちになかった着眼点をもらったので手間をかけたかいはあったと思っている。
まあしかしミリムも一時とは言え物語系の編集者ではあった(今は同じ出版社内の児童書レーベルにいる)ので、もうちょい早く『人間味』についての指摘があってもよかった気がしなくもないが……
「すでにできあがってる物語を持ってきて、メディアミックスするまでがお仕事だったからね」
基本的に文章の内容をいじらない系だったらしい。
なんと妻が出版社に勤めてから二十年以上経って、俺は初めて妻の仕事内容について踏み込んだ話をしたのだ。
『家庭に仕事を持ち込まない』という誓いがあったとはいえ、なるほど、たしかに、『人間味があれば』一回ぐらいは話題に出すこともあるだろう、と思えた。
こうして俺たちは人間味のアウトソーシングを決めた。
マーティンは快諾し、俺たちは三人で『お産の書』を書くこととなる。
――季節はもう、冬を過ぎようとしていた。
孫が、少しずつ俺たちの人生に近づいてきている……
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140話 時間
人間を知りたい人たちの今後をよろしくお願いします
五十一歳の夏に孫が生まれてから、俺が実際に接触できるまでにはだいぶ長い時間が必要だった。
もちろん保育器の中の孫をウィンドウ越しに見たりはしたのだけれど、ふれあいというか、実感というか、『ああ、これが孫だ』と俺が孫のことを認知できたのは、誕生から二ヶ月近くあとになった九月の中ごろだ。
このころにはもう孫は
その脂肪でぷくぷくした手足がばたばた動く様子は見ているだけで幸福な気持ちになってくる。
まだ世界に陰謀が渦巻くことを想像さえできぬ我が孫よ。これから先、お前をあまたの苦難が襲うだろう。しかし強くあれ。備えを怠らず、冷静に対処できるよう常に準備を整え生きていくんだぞ……
「変な英才教育をしないで」
ミリムに遠ざけられて、仕方なく孫の世話を娘夫婦に返した。
娘夫婦の家はすなわち娘の夫たるブラッドの実家で、このいかめしい門構えの広い邸宅に入るのに最初のころは緊張していたような気もするが、今はすっかり自分の実家のような安心感を覚えるようになった。
もちろんブラッドの両親や祖父母などの前では世間体を気にした態度をとるけれど、いざ娘夫婦二人と孫だけのプライベート空間になると、自分でもわかるぐらい油断してしまう。
しかし夫婦の寝室とか親に入ってほしくない心情が働く気がする空間なのだが、よく入れてくれるものだ。
まあ寝室だろうがリビングだろうが『部屋』は『部屋』だし、俺もミリムも気にしないし、俺たちに教育されたサラも気にしないだろうが、よくブラッドが許可したなあというのは思わないでもない。
「お
孫娘が眠るまでたっぷり見つめたあと、ブラッドから改まった様子で切り出された。
どうやら『男の話』があるらしい――俺は寝室にミリムとサラを残し、ブラッドに求められるまま、離れの一室へと向かった。
小窓が一つきりの石造りの離れは、貴人を幽閉する空間のようだった。
華美すぎないがセンスのいい家具が必要最低限だけ並び、中央には一対一で話せるよう、テーブルを挟んで椅子が二脚置いてある。
ブラッドはお手伝いさんにお茶とお菓子の用意をさせると、お手伝いさんを下がらせ、その気配が充分に遠ざかってから、話し始めた。
「祖父がもう、長くありません」
俺の心に去来したのはおどろきでもなんでもなく、『だろうな』という納得だった。
ブラッドの祖父――すなわち、俺の同級生であるシーラの父親とは、一対一で話したこともある。
その当時、だいぶ憔悴していた。
あれはシーラが家を出て行ったことに起因するものだと思っていたが――実際に起因しているのかもしれないが――なんらかの病気を抱えているのではないか、ということをうかがわせる、弱々しい様子だった。
むしろ今までよくぞ隠しおおせたな、という感想を抱いてしまう。
「祖父には立場がありますから、あまり病気のことはおおやけにできません。おそらく、近々入院の旨がニュースで流れると思います。そうしたらもう、本当に、長くないのだと思ってください」
それからブラッドの語ったことは、彼の祖父の死後についてだった。
おそらく取材が来る。
その時に産後間もないサラや生まれたばかりの赤ん坊の負担になりそうだったら、俺の家で面倒を見ることも考えておいてほしいという話だった。
俺の家のほうには迷惑をかけないようにするつもりではあるらしいが、最近は会社に属さず、自分でチャンネルを開設して自分の取材した内容を流す記者も多いので、そういった手合いが来たらすぐ通報するように、とのアドバイスももらった。
迅速な対応をしてもらえるようにはからっているらしい。
今になってようやくブラッドの祖父の大物具合を実感できた気がする。
しかしまあ、ブラッドがここで『俺が護る!』とか言ってサラと孫を一人で抱え込もうとする男でなくて本当によかった。
一人でできることには限界がある。
ましてブラッドはまだ政界デビュー前、カバン持ちの段階の若造だ。将来は大物になるだろうけれど、今できることはさほど多くないだろう。
できないことはできないと認め、必要な範囲で他者を頼る――
これができる二十代はそう多くないと、俺は思う。
たいてい『絶対頼らない』か『なんでも頼る』のどちらかに振り切れるのだ。
このバランス感覚は評価ポイントだろう。
面倒ごともやっかいごともごめんではあるのだが、娘にまつわるものだ。背負うことに否はない。
俺はうなずき、お茶を飲んだ。
この家に来るたびびっくりするほどいいお茶を飲まされている気がする。なん度来ても、毎回違った感動があった。
お茶、お茶か……俺の『趣味獲得計画』はまだ続いていた。
一時期は『執筆』を趣味と言い張れたような状態でもあったのだが、その状態は『孫の誕生を控えたおじいちゃん・おばあちゃんがやるべき30のこと』(出版は冬ごろの予定)という本ができあがったのと同じタイミングで解除されてしまったのだ。
しかし茶と酒は趣味にするには金がかかるし、素養も必要だ。
やっぱり生まれた時からこういう高級なものを自然と口にできる環境でないと、五十歳を超えていきなり始めるのは苦労するだろう。
難しい顔でうなっていると、ブラッドが口を開いた。
「ご苦労かけてしまって申し訳ありません」
へ?
ああ、そうか。そりゃそうだな……シリアスな話してるのに難しい顔してたら、なんかこわいよな……
ぶっちゃけブラッドが依頼を出して俺がうなずいて引き受けた時点でその話は終わっているものと思っていたのだが、こういうところが『人間味がない』とされる部分なのだろう。
俺は言う――たしかに君の出した話には問題があって、それは、一時あずかりした娘と孫を返却する気がなくなってしまうかもしれないということだ。
「……いや……それは返してほしいんですけど」
冗談のつもりで言ったのだが、ブラッドは存外申し訳なさそうにおずおずと言った。
分析するに、おそらく依頼を出している負い目から、堂々と『いや、返せよ!』と言えないのだと思う。
あと俺はどうにもブラッドに初等科男子のつもりで接しているのだが、気づけばこいつももう二十代半ばで、『おじさんゲームやろうぜ!』と言っていたあのころとは違うのだ。
懐かしい……娘の四人いた彼氏の一人で『なんかだめ』判定を喰らっていたブラッドが、今では立派に社会人やってる。
俺は彼が子供のころの話をした。
彼はますます居心地悪そうにした。
話せば話すほど空気が悪くなっていく。
……ダメだ、心が現在に追いついていない。
最近の俺はどうにも思い出の中の相手と話すことが増えていて、目の前に、現実にいる、現在の相手との会話をおこたっているように思える。
時間の経過で人は変化していくのだ。大人になってから初等科時代のヤンチャの話とかされても困るだろう。俺だって困る。でも、しちゃう。
五十代のおじさん全般に言えることなのか、俺のみの特性なのかはわからないが、改める必要があるだろう。
悲しいな。若いころにいやがっていた『おじさん』の姿に、どんどん近づいている。
俺はお茶を飲み干して、孫のところに帰ろうとうながした。
ブラッドはいくらかホッとした様子で承諾し、先に立ち上がると部屋のドアを開ける。
このへんのマナーはよくわからないが、ブラッドぐらいの家格の者がお手伝いさんを呼ばずに手ずから俺をエスコートするというのは、かなりへりくだられていると思うべきなようだ。
古い家にはまだこの国に貴族制が残っていたころの文化が息づいている。ブラッドファミリーと接するようになって俺も勉強を始めたが、ナチュラルボーン名家のブラッドたちとはやはり立ち振る舞いに差が出る。
とりあえずマナー講師兼顧問弁護士のシーラ先生に今日あったことを簡単にまとめて報告し、俺のマナー違反ポイントを洗い出していただくことにして、部屋に戻った。
孫はいつのまにか起きていて、ミリムとサラがそのベッドをのぞきこんでいる。
俺も二人のあいだに入って孫をのぞきこんだ。
赤みがかった瞳がきょろきょろと俺たちをながめ、手にしたおもちゃをしゃぶりながら「だー」とか「ぶー」とか言う。
俺は言うともなしに言う。
赤ん坊の成長は本当に早い。たぶん気づいたころには立って、歩いて、学校に行き、嫁に行くと思う。
だからなんだというつぶやきだったが、サラはうなずき、ブラッドは「気をつけます」と言った。
いや、気をつけてもなあ……どうしようもないんだよ、マジで。
しばし孫をながめて、彼女が再び眠りについたタイミングで、屋敷を出た。
サラは赤ん坊のそばに残ったが、ブラッドやらお手伝いさんやらブラッドの両親やらに見送られての退出は、なんだか自分がえらくなったような、そんな錯覚をしてしまう。
帰りの道すがら、俺はミリムにブラッドに話されたことをそのまま話した。
「……ブラッドくんも根回しができる歳になったんだね」
ミリムのおどろきは俺の抱いた感想と似ていて、俺たちは笑う。
あたりはとうに夕焼けで、俺たちが家に帰るころにはもう、夜になっているだろう。
道行く誰もに平等に差す赤い日差しは、誰もが平等な時間浴びることができる。
俺はなにか複雑な想いが胸に去来するのを感じたけれど、それを言語化する前に家に着いたので、夕食作りを始める。
感慨にひたる余裕もなく、ただ、いっさいはすぎていった。
赤ん坊にも老人にも、平等に。
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141話 赤ん坊をめぐる陰謀
まともな人たちも変な人たちもいる世界を引き続きよろしくお願いします
「政治家というか、まともな職業全般と相性が悪いんだ」
そう言うカリナはずいぶんとまともな服装になっていて、具体的にはフリルが減っていた。
フリルの化身なんじゃないか、年齢を一つ重ねるごとにフリルを一段増やすルールでもあるんじゃないか――そんな疑いを抱いていた時期もあったし、たぶんそれは事実だったのだけれど、今のカリナにはフリルがなかった。
さすがにハンカチまでは見ていないが、あっさりした無地のシャツにどこにでも売っていそうなくるぶし丈パンツという姿は、あんまりにもまともな社会人みたいに見えて、なにごとかと思ったほどだった。
喫茶店での待ち合わせで先にたどり着いていた彼女を探すのに、俺は少なくない時間をようして、最終的には通話までしてしまったぐらいだ。
そのフリルをなくした姿について、彼女はこう解説した。
「いや、打ち合わせの帰りなんだよね」
詳しく聞いてみると、カリナは滅多に外に出ないし、一度外に出るなら、その一回で『表で済ますべき用件』をすべて済ませたいタイプらしかった。
なので今日は買い物をして打ち合わせをして、それから俺と喫茶店で合流したのだという。
「すごく疲れててもう帰りたい」
俺は言う――じゃあ、解散かな。
「待ってってば! 冗談だよ!」
カリナにすがりつかれたので浮かせかけた腰を下ろす。
というか今日、俺を呼び出したのがカリナなのだった。
しかも例によって呼び出しの理由がどうしようもない。
もしもカリナに俺の著作内漫画を担当してもらっていなければ無視したレベルだ。
「まず――『目的』は、常に護衛とお手伝いさんのいる大物政治家の家にいるわけじゃん」
目的とはなにか?
カリナはおそろしいことを考えているのだった。
すなわち――赤ちゃん。
カリナは俺に孫が生まれた情報を俺の孫自慢メッセージにより知って、生まれたばかりの赤ちゃんを映像に残したりあわよくば実際に触ったりしたいらしい。
こいつサラが生まれた時も似たようなことしたからな。
カリナのそんな目的に対して、俺はまったく協力的ではない。
中等科の校長先生と化した俺が、昼時の人の多い喫茶店でほおづえをつくぐらいに非協力的な様子を見せつけている。
今時『教師』という肩書きがある人が外でこんなぐんにゃりしたポーズとってたら学校にクレーム入るぞ。
どうしてくれるんだ? ええ、おい?
「そんなのは知らないよ……とにかくね、私は言いたい。赤ちゃんに、触れるものなら、触りたいってね」
最近は専門学校の漫画コースで講師(不定期)とかもしているようなので、だいぶ世間に触れることが多くなり、『女子中学生と触れあいたい』とかは言わなくなってきた。
そのぶん、専門学校にいない年齢層への興味が増しに増しているようで、なんていうか、よりまずい方向へ進化している。
そのうち未成年者略取とかでつかまれ。
「だいたいさー。本のページの端っこに四コマ漫画描いてるじゃん? 必要だよね、取材。赤ちゃんとその両親と、両親の両親を取り扱った内容なんだからさ。真横に赤ちゃんおいて観察しながら描くべきだよね」
いやもう、お前、原稿は上がってるじゃん……
カリナには目的を前にすると時系列とか理論とかがどうでもよくなる傾向があって、こいつが強い原動力を発揮すると、なにを言っているのかわからなくなってくる。
俺は中学のころからカリナを知ってるので『こういうヤツだよお前は』とわかるのだが、古い付き合いのない相手の前でこんな発言したら更年期障害を疑われる年齢にさしかかってるぞ。
いや、五十歳で更年期障害は早いと思うだろうけれどさ、若者にとっては『五十歳』も『七十歳』も『おじいさん、おばあさん』なんだから。
「とにかく赤ちゃんがほしいんだよ、私は」
妙齢の男性と二人きりで向かい合ってる時にその発言はやめてほしい。
俺の教師生命が終わりかねない。
うちの父も塾の経営から退いて今は違う人が継いでるんだ。
俺の第二の就職先はもうねーんだぞ。
「レックスんとこのパパの塾もかなり老舗だよね……」
うん、もう、外壁とかボロボロさ。
うちの父は自分に経営者の才能があんまりないのを察していたようで、チェーン展開などはしなかったが、地元ではそれなりの人気がある、質の高い塾という評判を維持し続けていたのだった。
俺の中等科にも結構通ってるやつはいる。
まあ、俺がそこの塾創始者の息子であることは知られていないようだけれど。
近いうちに大手の塾チェーンに吸収されるとかなんとかいう話も出てて、『ああ、うちの父は引き際を間違わなかったな』と安堵したものだ。
俺はそんな話をしつつ伝票を持って立ち上がろうとした。
伝票を持った手をおさえられた。
「赤ちゃんの話に戻ろう」
五十の男女が喫茶店の奥の席で赤ちゃんの話とかするのやめようぜ。
俺の浮気を疑われそう。
「じゃあ孫の話をしよう。孫だよおじいちゃん」
うるせーおばあちゃん。
俺の孫より先に俺をおじいちゃんと呼ぶんじゃねー。お前の勤め先の出版社に圧力かけるぞ(そんな権力はない)。
「いやでもほら、娘さんの嫁いだ家がアレじゃん。その発言冗談にならない気配あるよ」
そうだった。
俺の娘は今、けっこうな権力なのだった。
出版社に圧力をかけるぐらいできそう……ううむ、困る。歳を経て人間関係が増えるほど、自分の発言に意図せぬ力が宿ってしまう。
コネクション先の持っている力を俺が十全にふるえる理由はないのだが、よそから見れば俺もまた政治家とコネがあるおじさんなのだ。発言にはいっそう気をつけねばならないだろう。面倒くせーなあ。
お互い大人になると苦労が増えるよな。
俺はそう言って伝票を持ち立ち上がろうとしたが伝票を持った手を押さえられた。
「赤ちゃんを触りたいんだよ」
不可能だよ。
カリナの言おうとすることはわかる。赤ちゃん触りたいから、警備の厳しい政治家の家からどうにか連れだしてほしいとか、そういう話だろう。
しかし赤ん坊の保護者は娘とその婿であって、俺ではない。
俺の勝手でできることなど限られているし、孫を自分の子のように扱うことは、俺の倫理観的に『なし』だ。
なので俺に許可を求めたり協力を求めたりするのはまったくのお門違いで、協力を求めるべき相手は俺の孫の親であるサラであり、その夫のブラッドだ。
「サラちゃんとは連絡が途絶えてひさしいんだ」
あいつが料理人を目指し始めたあたりから、いそがしいのか、連絡の頻度は減った。
まあ子供ってそんなもんだろうと思う。
そして親にさえ連絡の頻度が減ったのに、『親の友人』への連絡頻度が維持されるわけもなく、カリナとサラは軽く音信不通状態だ。
まあ別にブロックしてるとかはないので、連絡すればできるとは思うが……
「いや、わからないんだよ。まともな人生を送って、一児の親になった二十代女性に、どう声をかけていいのかわからないんだ」
しかも内容が『赤ちゃんに、触れたい』だもんな。
迷惑メールか都市伝説だよな。
まあしかし、それはもはや俺が介入する問題ではない。
カリナとサラの問題だ。
サラはたしかに俺の娘だけれど、もう一個の独立した人格なのだ。
保護者が必要な年齢でもないし、たとえ隕石とか降ってきて俺たちがいきなり死んでも、一人でやっていける技能もバイタリティもある。
つまり俺越しの会話をして解決する問題なら、それはサラと向き合って話したほうが早く解決するだろうし、俺が挟まらなきゃ解決しない問題なら、俺は解決に協力する気がない。
だから俺には無関係さ。俺は伝票を持ったがその手をおさえられた。
いや、さすがにもう、話ないでしょ。
「サラちゃんにメッセージ送るから校正して」
ええええ……
なにが悲しくて五十代になった先輩と二十代になった娘のやりとりを校正しなきゃならないんだ……
そうだよ、お前先輩じゃん……
俺より一個上じゃん……
大人になれよ……
「漫画家は大人になっちゃいけないんだよ」
そんなこと言うならフリル姿で編集さんと打ち合わせしろよ……
服装が社会人になってるじゃん、お前。
「心の話! 心の話だから!」
いや、心って服装に出るって。
見ろよ俺の服装。オフだっていうのにスーツなんだぞ。
俺は常に心に社会性という鎧をまとっているんだ。
「あのさあレックス……なぜ、私と話す時に正論を言うの? そういうのいらないって学んでほしいんだけど……」
俺がどうしようもないヤツみたいな口ぶりをやめてほしい。
しかしこうなったカリナにもはや理屈が通じないのは学習しているので、けっきょく俺は、カリナからサラへのメッセージを添削する羽目になった。
サラからは『今ちょっと連れ出せない』という連絡が来たが、代わりに画像が添付されて送られてきた。
撮りたてとおぼしき孫の画像を俺に自慢げに見せたあと、カリナはそれを待ち受けに設定して『かわいくない?』と聞いてきた。
俺の孫がかわいくないわけないだろ。
こうしてカリナはひとまず満足し、孫奪還作戦をあきらめて解散となった。
その後俺は、サラに連絡して――
カリナに送ったのと同じ画像を送ってもらった。
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142話 釣り場にて
みんな歳をとっていく……
残りの人生もよろしくお願いします
隠居後の人生というのは一つの課題で、職業をなくしたあとになにをするかは常に考えている。
通常であれば『のんびり趣味でもして生きていく』となるのだろうが、あいにくと俺には趣味というものが存在しない。
もしも『余暇に優先してこなす事項』を『趣味』と定義するならば、俺にとっては生きることが趣味だった。今も趣味だ。ずっと趣味だ。生きる以上の優先事項は、俺にはそんなにないのだった。
だいたい『趣味』なんていうのは人生に余裕がある者のもつべきものだ。
生きていくだけで精一杯の俺が持ってもいいものではない。
そう、思っていた。
「塾の経営をやめてみると、案外、時間を持てあますんだ。仕事をしていた時は毎日いそがしくて、仕事をやめたって『余裕ができる』程度だろうと思っていたんだけれど、実際は、仕事と仕事のために使っていた時間がごっそりと空いて、ちょっと戸惑うんだよ」
七十歳も半ばを超えた父の運転で釣りに来ている。
父の趣味は釣りのままだった。かれこれもう、数十年は釣りを続けているだろう。
道具がそろい、魚のさばきかたを覚え、釣り場に知り合いも増えた。
同じような年齢の釣り仲間と釣果を比べ合ったり、『釣れませんね』なんて笑ったりする。
父は間違いなく釣りを趣味にしていた。
けれど、父は、実際、釣りがそこまで好きではないのだと述べる。
「なんていうかね、他にないんだよ。僕もたいがい仕事人間だったから、趣味を増やすことにあまり熱心ではなかったんだ。……ああ、うん、釣りは好きじゃあない。釣りでできた仲間と話すために、釣りをしている感じかな」
父はそれで言葉を止めて、しばしぼんやりと糸を垂らし続けた。
釣り場には人が全然いない。これは、今がシーズンではないというのが理由だ。
それでもちらほらといて、俺は、父の知り合いだという人たちと軽く世間話をしたりした。
たしかに彼らは釣りそのものよりも、会話を楽しんでいるふしがある。
この釣り場は、釣りをする場所という以上に、寄り合いの場所みたいになっていて、中には釣り竿を固定したままボードゲームをしている人などもいるぐらいだった。
「……そうだ、そうだね。人は『行為』に夢中になり続けることはできない。『行為』はすぐ飽きる。けれど、『人との付き合い』はいつまでも続くんだ。『行為』によってできた『人との付き合い』が、いつしか『人との付き合い』のために『行為』をする、というところへ落ち着くんだよ」
長い長い沈黙は、シンキングタイムだったようだ。
最近の父は不意に長く黙ることが増えて、もともとの顔が神経質そうなのもあって、唐突に怒ったのかと勘違いさせられることもあった。
けれど彼の沈黙はどうにも思考時間らしい。……目に見えて、思考時間が長くなっている。
「ただ、まあ、車がないとここに来ることはできないし、そろそろ、僕も別な趣味を探さないとね」
最近、運転に不安を覚えているそうだ。
「今日はお前を乗せるのでだいぶ緊張したよ」と父は疲れたような顔で笑った。
「あいつは旅行が好きだから、体が動くうちに、どこか遠くへ連れていってやりたいね」
不意に言われて誰の話かと思ったが、どうにも、母のことを語っているようだ。
プレゼントしようか? と俺は言った。
父は笑う。
「いやあ、そのお金は、孫のために使いなさい。僕もあくせく働いてきたからね。夫婦で旅行に行く資金ぐらいはある。孫というのはけっこう、お金がかかるものだよ。孫が望まなくても、祖父としてはなにかと与えてやりたくなるからね」
ああ、うん。わかる。
すでに俺もいろいろなものを孫に与えているのだった。
なにせまだ一歳にもならないのだから、孫からの要求なんかあるわけはない。
しかしそれでも、俺は孫への愛情を示すのに『プレゼント』というかたちをとりたがる自分がいることを知っている。
俺が子供のころ、祖父母がよくお小遣いをくれたり、おもちゃを買ってくれたりしたが、あれはこういう心境だったのだな、とようやくわかった。
愛を金で示す――と述べればそれは、なんだかなあという感じなのだけれど、実際、いつもそばにいるわけでもなし、孫の親のように孫に接するのも遠慮があり、結果として、間接的に愛情を示すためには『金を払う』のが一番だという結論になるのだ。
そういえば、俺の両親は、彼らにとってのひ孫にまだ会っていない。
機会を設けようか? と提案する。
「曾祖父の立場ででしゃばるのもね。そうだな……ひ孫が歩けるようになって、多少の言葉を覚えたら、会わせてくれるとありがたい。そういう目標があると、それまでなんとしても生きていかなきゃという気持ちにもなるしね」
七十歳半ば。
それは、俺が若いころに思い描いていた『七十歳』よりも、相当元気で、健やかで、しっかりしているように思えた。
それでも、当人には思うところがあるらしい。
彼の発言はすべてが『死』を意識していて、どう人生をたたもうか、ということに意識の多くが割かれているように思えた。
だから俺はたずねた。
次は、なにをするの?
「次?」
運転がこわくなってきて、釣りという趣味ももうおしまいかと言っていた。
だから別な趣味を探すと言ってたじゃないか。
次は、なにをするんだい?
「……うん」
父は黙って釣り糸を垂らし続ける。
それは長い、長い長いシンキングタイムだったのだろう。
日がのぼり、朝靄が晴れ、昼になってもまだ、父は黙って考え込んでいた。
その日は釣果もなく撤収することになる。
帰りの車の中で、父は運転席に座り、ようやく口を開く。
「……ああ、また勉強でも始めようかな。僕は人に教えることを仕事としていたけれど、それはきっと、自分が学ぶことが好きだったからだと思う」
学者にでもなればよかったかな、と父は笑った。
俺はなんとも言えず、走り出した車の中で、流れ始めた景色をながめる。
帰路も半ばにさしかかったころ、俺はようやく、『それはいい思いつきだ』と言えた。
父はわずかに笑う。
景色が後ろへ流れていく。
たぶん、こうやって二人で車に乗るのも、あと何回もないだろう。
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143話 中毒
人生は悲喜交々
引き続きよろしくお願いします
三年ほどが過ぎても俺の生活には全然変化がなかったが、たまに我が家をおとずれる孫がすさまじい勢いで大きくなるのを見て、『そうか、子供のころの三年は、すごいな』とまとまりのない感想を抱いたりもした。
娘のサラが子供のころも似たような体験はしたはずなのだが、どうにも毎日あくせくしていたせいか、『でかくなるなあ』と他人事のように思える心境ではなく、これほどしんみりと幼児の成長をながめられるのは祖父母の特権なのだと理解する。
孫娘の名は『エマ』という。
エマはすごい勢いででかくなり、知恵をつけていった。
うちのサラなんかは小さいころからおとなしくて聞き分けがよかったのだが、エマのほうはどうかというと、わりと我が強い。
ブラッド側の血筋の特徴が色濃く表れた性格と、サラ側の見た目が色濃く表れた容姿……とはいえ獣人ではない……の孫娘は、真っ黒い髪を長く伸ばして、遠目に見ればお人形のような美人なのだけれど、なんていうか、こう、我が強い。
管理癖というのか、監督癖というのか、そういうものがある。
「じーじは、しなければならない」
そんなのが口癖の三歳児で、これがどういうタイミングで使われるかと言えば、『おいしいお菓子をたべた時』に「(これはおいしいから)じーじはたべなければならない」とか、楽しい遊びをした時に「(これは面白いから)じーじはあそばなければならない」とか、そういう感じで使うのだ。
いったいどこからそんな口癖を仕入れたのかと思えば、それはやっぱり子供がよく見るような番組だった。
変身ヒーローものなのだが、その主人公のライバルっぽいやつが『君は~しなければならない!』というのが口癖らしいのだ。
うちの孫は変身ヒーローにあこがれるタイプの女の子だった。
乗りトカゲに乗りたいとだだをこねた娘を思い出す。
まあ、その口癖がただキャラクターのまねをしているだけならばいいのだが、エマは三歳児にしてはだいぶ賢く、きちんと意味を理解して『しなければならない』を使っているようだった。
つまり善意によって行動をすすめてくるのである。
問題はこちらがすすめられるままに行動をしないと「しなければならない」と繰り返すあたりで、そのへんの強要癖を、親であるサラやブラッドに怒られてたりするのだった。
まあしかし俺やミリムは孫にかかわるのが嬉しいもので、ついつい孫の言う通りにしてしまい、結果として孫の『しなければならない癖』はなかなかなおらない、という悪循環になっている。
そう、俺は孫に嫌われるのがこわいのだった。
人になにかを強要するのはよろしくない――強要というのは、強要した相手をたいてい不機嫌にさせるものだ。
それが真摯な忠告であろうとも、正鵠を射た意見であろうとも関係がない。人は人になにかを強制されるのが大嫌いというのが普通である。
『しなければならない』で人が従うという成功体験は、社会に出る前に払拭しておかなければならないのだ。
だってたいていは強要しても従ってくれない。強要するだけ損だ。同格や格上の連中がはびこる社会という戦場において、そんなわがままは許されないのである。
わかっているんだが、たまにしか来ない孫の機嫌をとりたい一心で、俺はついつい孫に言われるがまま色々やってしまう。
将来のことを思えば断固としてはねのけるべき強要なのだけれど、うーん、わかるんだよ本当に。でもなんかこう……本能? 本能で逆らえない?
そう、危機感がない。
俺がサラを育てていた時などは、俺の一挙手一投足がサラの人生に影響を与えるのだという危機感が常にあった。
ところが孫であるエマに対してはその危機感がないのだ。
孫とかかわる時の俺は、教育者ではなく、孫という存在をかわいがり、彼女に気に入られるならなんだってする『孫のお気に入りのおじいちゃん』でいたいのだ。
しかも孫はブラッドの実家暮らしで、ブラッド側の両親は孫と接する時間が長い。
付き合いが長ければ好感度を稼ぐ機会も多いわけで、なかなか孫に会えないほうのおじいちゃんとしては、一分一秒も無駄にはできないという思いがある。向こうのおじいちゃんに好感度で負けてはいられないという強い気持ちが、俺を孫に恭順させるのだ。
孫という存在は、生まれながらの王なのだった。
祖父母はその寵愛を受けるためにおもねり、恭順する。上納金もおさめる。
どうぞ今月の上納金です、おおさめください……俺は黄金色のお菓子を孫に与えた。お手製のクッキーである。最近の俺はお菓子作りが趣味のおじいちゃんを目指しているのだ。
「おやつはさっき食べたから、明日」
サラがわりとそのへん厳しいので、上納金は宰相のサラが管理することになってしまった。
俺の作ったお菓子が好きなエマはけっこう不機嫌だ。ああ、おじいちゃんに怒らないで……おじいちゃんは悪くない……ただ、タイミングが悪かったんだ……
しかし幼児は『その小さい体のどこに入るんだ』というぐらいいっぱいお菓子を食べる。
そしてご飯を食べられなくなるまでがセットなので、別腹はやっぱりないみたいなのだが、健康意識の高い俺としては小麦粉! 砂糖! 卵! の固まりであるお菓子でばっかり胃をいっぱいにする状況は、さすがに看過できない。
そこでお菓子を与えたい俺は、栄養バランスについてプロの料理人であり栄養士の資格も取得したサラと話し合い、『どうぞお菓子です』『さっき食べたから』というすれ違いをなくそうと努力をした。
もちろん幼児が突発的にお菓子をほしがってスーパーなどで座り込み泣きわめき、お菓子を与えるしかない状況を引き起こすことも知っている。
『泣いてだだをこねれば要求が通る』と覚えさせないように厳しく接する必要はあるものの、時間がなかったり、周囲の注目を浴びすぎたりすると、買い与えねばならないケースもあるのだ。
お前もそういうことあったよ。人生で一回か二回ぐらい……などと娘に言いつつ、俺たちは完璧なエマの食事プランを立てた。
『完璧』というのは『びっちりと固まっている』ということではない。ある程度の揺らぎをもたせて、都度修正が効くプランということだ。
俺とサラの話し合いは、サラが我が家で寝泊まりする期間の半分ほどを使っておこなわれた。
それをそばで見ていたブラッドが「うーん、この光景、やっぱ一般的ではないですね」と苦笑していた。
まあこいつが初等科のころ我が家に遊びに来てた時も、俺とサラはなにかと話し合ってプランニングをしていたので、慣れてはいるのだろう。
かくしてできあがった計画をもとに、俺は小麦と砂糖と卵をとりすぎず、他の栄養がとれて、なおかつおいしいお菓子を用意する必要にかられた。
それは一朝一夕でできるものではないので、次にサラたちが宿泊した時までに用意しておくということで話がまとまり、いくらかそれっぽいものを練習で作り、エマに与えて「もっとあまくするべき」とか言われつつ、一週間ほどの滞在期間が終わった。
そうして娘夫婦と孫が帰ったあと愕然とする。
時間の流れがまったく違うのだ。
娘夫婦がいた時は、俺とミリムはせこせこと動いていた。
せわしない、落ち着かない気分ではあったが、いそがしいことになれているので(※定時退社のためには時間内に仕事を終わらせる必要があるので、定時退社夫妻である俺たちの仕事はたいがい早く、仕事中はせわしない)心地よい疲労感があった。
けれど娘夫婦が帰ってからというもの、脳が半分死んだみたいに稼働を止め、ぼんやりと垂れ流される番組を見つつ、飲みもしないお茶のカップをいつまでも握っている、みたいな時間がいきなり増えるのだ。
これはいけない。
孫に……孫に会わなければ……老いる……
孫のためにお菓子のレシピを考え、孫のために脳を稼働させ、孫がいなくなるととたんに死んだようになる日々だ。
俺は最近、孫中毒になっている。
この孫依存を脱する方法は、きっと、存在しないのだろう。
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144話 惜別
人生の終盤をお楽しみください
義母が亡くなったのは孫娘の幼稚舎入園にわきたつとある初春のことだった。
兆候はあったと言えばあったし、なかったと言えばなかった。
義母はもともと病院には定期的に通っていた人だったのだ。重病とかではない。だいぶ前にそこそこの病気もしたが、今はそれも治った。彼女を悩ませていた症状は年齢を重ねれば誰でもかかるようなもので、現代においては薬さえ飲んでいれば緩和されるような、そういうものだった。
だから亡くなった理由は病院に通っていた理由とは全然別で、『風邪をこじらせた』というのが原因のようだった。
年齢を経ると、若いころはなんでもなかったような病気が、命を奪うようになることがある。それは俺も知識で知っていたのだけれど、実際に身近な人がそうして亡くなったことで、改めて実感として心に刻まれたようなかたちだった。
俺は葬儀にまつわる手続きなどを引き受け、ミリムと義父には死者をいたむことに集中してもらおうとした。
しかしミリムはこれを引き受けず、テキパキと葬儀準備を済ませ、弔問客への対応もこなしていた。
悲しくないのか、とは聞かなかった。
俺はもう悲しくたってテキパキ動ける人がいることを知っているし、悲しいからこそせわしなくしていたい人がいるのだということも想像がつく。
感情と行動は必ずしもリンクしない。大人になった俺たちは、泣き叫びたいままに泣き叫ぶことが許されないケースが多すぎて、それに慣れきってしまっているのだった。
葬儀はこじんまりとおこなわれた。
俺の家族からは、俺とミリム、そしてサラと孫のエマが来た。
ブラッドが参列できなかったのは様々な事情をかんがみてのことだ。そもそも、ブラッドとミリムの両親とはさほど縁がない。
まあ、エマも『縁があるか』と言われれば薄くはあるのだけれど、そこはそれ。ミリムの両親はブラッドが来ると気を遣うが、エマが来ると喜ぶので、そういう配慮だった。
そうして、ミリムの母は煙になった。
遠い異国の地で生まれ育ち、この国まで嫁いできた人だった。
故人が亡くなったあとで、故人のことを思う行為を『偲ぶ』と表現する。
俺は語られないことをなにも知らないまま生きていた。
人がわざわざ語ろうとしないようなことをほじくるような野次馬根性がなかったし、人が語らないことに興味を持っても自分の寿命を縮めることにしかならないと、百万回の人生で学習していたからだ。
それでも俺は、今、行ったこともない異国の地に思いをはせ、ミリムの父に、故人との出会いについて聞いていた。
旅行先で出会った小柄で綺麗な人、という印象だったらしい。
若いころのミリムの父はけっこう遊び人だった。仕事の都合で国外に行くことが多く、また、国外旅行は趣味でもあったらしい。まとまった休みをもらっては、外国に行くことが多かったようだ。
海に隔てられた異文化の地である故人の故郷にも、興味本位で向かったらしい。
そこでナンパして出会ったのがミリムの母だった。
そして、ミリムができた。
…………。
話を振ったのは俺だったのだが、話を聞いて、どんな顔をしていいかわからなくなってしまった。
いわゆる一夏の恋みたいなアレだったらしい。
もちろんわかった時にはバタバタしたし、故人側の両親にはすごく怒られたのだが、どうにか了解だけはとって、故人を連れて帰国。そこからまたバタバタと手続きを踏んで故人を帰化させ、夫婦でこの地に骨をうずめることにしたのだとか。
目の前にある祭壇には故人の写真があって、そこにはどこか幼さを残した、かわいらしい老婆の笑顔がある。
清楚な印象の黒髪美女が、綺麗に歳を重ねた姿、という印象だったのだが、なんかもう、直視できない。
『聞いてしまってすいません』と謝ることもできずに俺は固まった。
人に歴史ありとは言うのだが、俺の知るミリムの母は、外国に来たことを完璧に受け入れている感じだったし、ミリム父のほうも、精悍でまじめな印象としか思っていなかった。
どうしよう、葬式のムードが消え失せた。
夜中、ミリムの実家にある故人の祭壇前で、俺たちは沈黙する。
ミリムもたぶん知らなかった出生秘話だった。しっぽの動きでわかる。
けれど義父は、俺たちに、しんみりと、言うのだ。
「あの人以上の女性とは、きっと、巡り会えないと思ったんだ」
運命というものを、俺は信じない。
だから、運命を信じ、それをつかむために生きた男の言葉は――
実際に信じた運命に報われ、最期まで一人の女性を愛した男の言葉は、予想もできない角度から俺の心を殴りつけてきた。
七十代も後半にさしかかり、すぐにでも八十代になろうというミリムの父は、洒落ていて、姿勢もよくて、『運命の出会い』を語るのが様になる老人だった。
「……いい葬儀だった。私の時もお願いするよ」
そう言って笑う、年齢のわりにはがっしりした体格を持つ彼に、俺は姿勢を正して『はい』と答えた。
彼は笑った。
俺は、まだ祭壇にある妻の遺影を見て動こうとしない彼を一人にしてあげるべきだと考えて、その場を立ち上がる。
ミリムは残るべきか迷うそぶりを見せたが、俺とともに部屋を辞することにしたようだった。
部屋から出て、扉を閉める前に――
「まさかお前が先とはね」
笑うような泣くようなそんな声が、聞こえた。
一生忘れないような、複雑な声音だった。
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145話 ゲル・ザ・ブッチャー
死と生と老いと若きとスライムをよろしくお願いします
ほぼ五十年越しの夢と対面している。
それはブラッドの家に孫の様子を見に行った時のことだ。
俺は孫に好かれるおじいちゃんなので、こういう時にはエマが真っ先に俺を出迎えに来るのだが、なかなか来ない。
なんでかなー、忘れられたかなーと不安に思っていると、ブラッドファミリーから遅れること約一分ほどして、エマがなにかに騎乗して現れた。
スライムだ。
あの、ペットとして百年以上不動の地位を確立し続け、毎朝放映されているたいていの番組で特集が組まれ、一分ほどのカワイイ動画がSNSに氾濫し、今なお人気がおとろえることのない、ペットオブペットのスライムなのである。
しかも珍しいメスのブチスライムだ。
それに乗りながらぼよんぼよんとエマが登場したので、俺は携帯端末を取り出し、連写モードを起動して、跳ねる孫とスライムの姿をおさめまくってメモリをパンクさせた。
あいさつもそこそこに孫オンザブッチャーに語りかける。
なにそれどうしたの? 飼い始めたの?
「エマちゃんのこぶん」
孫の一人称はころころ変わるのだが、最近は『エマちゃん』がマイブーム一人称なのだった。
しかし子分というのはなんていうか、ガキ大将みたいなこと言うなお前。
今の時代、『子分』というのはなんていうか、古めかしい。
古典とまではいかない、リアルで使っているお年寄りが一定数存在して、若者に『なにそれ』と言われる感じの、微妙な古めかしさだ。
まあいいか。
俺はメモリがパンクした携帯端末をミリムにあずけて、ミリムの携帯端末で動画を撮りながらたずねる――名前は?
「エマちゃん!」
うーん、そうだねえ。
孫がかしこいなあ。
スライムの名前は?
「ゲル・ザ・ブッチャー」
待って、孫のセンスじゃない。
俺は周囲を見回す。
ブラッド邸入口で俺たちを出迎えてくれたのは、ブラッド、サラ、エマ、ブラッドの両親、ゲル・ザ・ブッチャーだ。
俺が一人一人に視線を向けると、みんなが苦笑いで俺の視線を受ける中、一人だけ顔を逸らした男がいた。
犯人は貴様か、ブラッド!
「いや、聞いてくださいよお義父さん。ゲル・ザ・ブッチャーっていうのは試合前のスライムロデオパフォーマンスで有名なプロレスラーなんです。強い男なんですよ」
娘婿が知らないあいだにプロレスファンになっている。
しかしよくよく思い返せばこいつ、初等科のころからゲーム中とかやたら知名度の低いプロレス技名を叫びながら技出してたような気がしなくもない。
知名度の低いプロレス技をなぜプロレス技だとわかったかと言えば、こいつが叫んだ技名をあとから調べたからである。
「ゲル・ザ・ブッチャーはスライムに育てられた野生児で、かつては悪の組織に所属していたんですけど、正義のピーチャーオンノックを喰らって善の心に目覚め、今ではスライム保護団体に陰ながら出資している善のレスラーなんです」
たぶん『ピーチャーなんとか』はオリジナルの技名なんだろうなと思った。
いやまあ、いいんだけどさ……
人の趣味に口出しするのは俺の流儀ではない。趣味の話は『宗教』の分野だ。趣味を神聖視し、自分の好きなプレイヤーを神格化する者も少なくない。
宗教系の話題に触れるのはいらぬ激しい怒りをかいやすいので、俺はそういうリスクを嫌うのだった。
俺はそれ以上プロレスに触れないようにブッチャーと孫に視線を戻す。
孫は俺をジッと見上げ、キリリとした表情で言う。
「じーじ、スライムロデオは、『きずな』なんだよ。わるいレスラーに、きずなでかつんだよ」
ああわかったよ! 俺もプロレス見るよ!
意味もわからない感じで今の言葉の羅列を言い放ったので、たぶん、俺の知らないところでブラッドがたいそう熱心にプロレス語りをしているのだろう。
おそらくエマがそらんじてしまえるぐらいに、似たようなことを何度も話しているに違いない。
俺はサラを見た……嫁いだ夫が謎の宗教にハマってたけど大丈夫? という目だ。
サラは俺の視線を受けてうなずく。
「『派手に見えるけど壊れにくい体の使い方』が学べるよ」
たぶん俺にすすめてるんだろうなー!
そういえばサラがブラッドのどのへんを気に入ったのか全然わかんなかったんだけど、ひょっとしたら二人の縁はプロレスが結んでいたりするんだろうか。
俺は『娘であっても恋愛事情に踏み込まない』という方針をとっている。
俺が『方針をとる』時、そこには例外やらブレを認めない確固たる意思があるので、一度『恋愛事情に踏み込まない』と決めたなら、マジで半歩さえ踏み込まない。
だが、だが……知っておくべきだったかもしれない。
孫がプロレスの話しかしなくなるなら、俺はあらかじめ学んでおくべきだったのに、(おそらく)サラとブラッドのなれそめを知らなかったせいで、準備ができなかった。
くそ、情報収集はやはり大事だ……
人はすべての情報を収集しきることができないので、ある程度最初から『切り捨てるべきところ』を定めておくという方針で生きてきた。
しかしその方針に甘えて切り捨てすぎたかもしれない……今後はもう少し視野と興味を広げていくべきだろう。
とりあえず俺はブラッドにプロレス入門のためになにを見たらいいか聞こうと思った。
――だが、それは間違いだった。
沼にどっぷりハマっている人に、沼への優しいつかりかたを聞いても無意味なのだと、俺は予測すべきだったのだ。
後日郵送されてきたプロレス関係の資料の量に頭を抱えることになるのだが、この時の俺はまだ、そんなことを知らない……
伸ばし棒指摘ありがとうございます
それと孫を上位に、スライムを下位にしておきました
ありがとうございます
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146話 『敵』の正体と対策
スライムに乗られた孫……
残そうか迷ったけど直しました。
引き続きよろしくお願いします
孫の初等科入学祝いを考えていて気づいたのだが、時間の流れがおかしい。
俺は生きている。
毎日きちんと考えながら生きている。健康に体を保ちながら生きている。
運動をしたあと、若いころと違って、数日後に来るダメージを計算しながら生きている。『体調不良の原因は二週間前の生活態度にあり』を標語に、食べたもの、した運動、眠った時間などを記録しながら生きている。
もちろん人類の記憶容量には限界があるから、俺は俺の記憶をそれほど信用してはいない。
だからこそ記録をつけて生きている。主観によりゆがめられないデータを常に確保しておくことは、若かったころより重要な行いとなってきている。
もう、五十代も半ばを過ぎた。
親は八十歳を超えさすがに見て分かるぐらい『お年寄り』になった。
妻側の両親にいたっては片方が亡くなって三年ほどが経ち、残されたお義父さんは元気をなくしたというか、おとなしくなったというか、お義母さんが亡くなってからずいぶんと長く『ガッカリ』し続けているように思う。
浦島太郎という話を以前にいた世界で聞いたことがあった。
それは『三日ほど過ごしていただけのつもりなのに、気づけば三十年が経っていた』みたいな話なのだけれど、もちろん三日のつもりで三十年なんていうのは大げさだけれど、歳をとると、そんな方向性の事態はまま起こる。
年齢を重ねるとかように時間感覚がガバガバになるもので、それは覚悟していたのだが、さすがに『ついこのあいだまで三歳だった孫がもう初等科入学』という事実には俺もおどろき、自分がついに『時間感覚ガバガバ勢』に両脚を突っ込んだことには愕然とした。
俺はこの三年間の記憶をたどる。
そこにあるのは孫とブッチャーの記憶だった。
三年前は孫を乗せてぴょんぴょんしていたブッチャー(スライム)も、最近は孫がぐんぐん大きくなるので乗せるのに難儀し、孫ののしかかりを避けようとうにょうにょしている姿がよく見られた。
しかし孫のエマは自分の体が大きくなった自覚なんてないかのようにブッチャーに乗ろうとするので、そろそろブッチャーがかわいそうになってくる。
そういえば幼稚舎の入園と卒園のお祝いもやった。
そこでもブッチャーと孫が一騒動あって……ダメだ、スライムにまつわる記憶ばかりが鮮明に色づいていて、それ以外の記憶がおざなりになっている感がある。
そう、ブッチャーのせいで孫が我が家に来る回数は激減し、もっぱらこちらから孫をたずねるようになったので、孫はいつもブッチャーとともにあったのだ。
こう言ってはなんだが、婿側家族の策略を感じないでもない。
スライムというペットを与えておくことで孫を家に居着かせ、俺の家に来ない(俺の家はペット禁止の借家だ)ようにする意図を感じるのだ。
まさか……『敵』か?
いやしかし、『敵』がこんなぬるいことをするか?
しばし考え、俺は気づく。
そうだ――『敵』の定義を間違っていたのではないか?
俺は今までの人生の感覚から、『敵』が行動するならば、それは俺を破滅ルートに追い落とし、逆転のための策を練ることさえできないほど怒濤の展開に押しやると思っていた。
だからこそ、この世界ではまだ『敵』の襲撃がなく、奇妙に感じていたのだが……
『敵』とて、この世界で暮らしているのだ。
この世界のルールには逆らえない。
前々から俺は仮想敵を『社会そのもの』とか『ルールの裏側にいるもの』とかいうふうに定義してきた。
それは、これまでの人生がすべてそうであったからだ。『世界ごとの道理』があったうえで、その道理をいかに利用しようがまったく及ばない存在こそが、俺にとっての『敵』だったし――あるいは、『道理』そのものが『敵』だった。
しかし、ひょっとして、今回の人生の『敵』は、そこまで強大ではないのでは?
そう仮説を立てると、今までの人生の見え方が変わってきた。
たとえばシーラ。
彼女は俺の通っている幼稚舎に突如出現した四月生まれだった。
生まれの早さという力を持ち、初等科あたりからはなにかと俺に張り合い、その関係は学生時代ずっと……というか今も続いているように思える。
たぶん、彼女は『敵』だった。
たとえばマーティン。
俺は保育所時代に彼に目をつけた。おそらく優秀な男になるだろうと……今から振り返ればまあ合っていたような、間違っていたような、そういうよくわからん感じだが、あいつの素のスペックはけっこう高いものがあった。
あれが悪意をもって俺に向かってきていれば、間違いなく強大な『敵』だっただろう。
マルギットもアレックスもそうだ。ミリムの後輩であり俺に妙に突っかかってきたマルギットや、俺が教育実習生時代になにかと罠を仕掛けてきたアレックスも、思えば『敵愾心』を持って俺に接してきていたのではなかろうか?
その悪意があまりにぬるいうえ、俺への攻撃手段があまりにフェアなので気づかなかったが……
彼らはたしかに、この世界における、この世界のルールに縛られた、『敵対行動』をおこなってきていたのだ。
そうだ、今、ようやく気づいた。
『敵』はいた。そこらじゅうにいた。
その攻撃のあまりのぬるさに攻撃だと気づかなかっただけで、俺は、攻撃にさらされていたのだ。
そうして定義を見直せば、ブラッド一家が俺に仕掛けてきた『孫に生き物を与えることで孫を家に居着かせ、俺のところに遊びに来ないようにする』という、地味な嫌がらせは、たしかに敵対行動だと言える。
本当に地味で、たぶん悪意はそれほどなく、『結果的にそうなってしまった』ぐらいのものなのだろう。
けれど俺はこの世界で生きて身にしみてしっている。
悪意のある妨害は、実のところさほど脅威ではないのだ。
本当に脅威なのは、善意による、法に抵触せぬ妨害だ。
そもそもこの世界は人を『敵』と『味方』で線引きするのが非常に難しい。
東西や南北に別れて、違う意匠の鎧をまとい、殺し合いをしているならば、『目の前の自分と違う鎧を身につけた、こちらに槍の穂先を向けてくる者』は間違いなく敵なのだけれど、この世界でそこまで明確に他者と敵対することは、まずないのだ。
そうか、『攻撃のぬるさ』の正体はこれだった。
俺にも百万回の人生で得た知識や技能、心構えがある。
だから本気で『敵』になる者があるならば、それを滅ぼすことに迷いはない。
ところがこの世界の『敵』は味方のような顔をして、いや、真実味方で、しかし行動だけは『敵』ということがありうる。
そういった相手に対し、俺の得た技術や知識はあまりにも無力だ。
俺の『反撃』はたいてい相手を滅ぼすためにおこなわれるものばかりなので(そうしないとこちらが滅ぼされるから)、明確に『敵』ではない相手には使えない。
この世界の『敵』はそこを突いてくる。
俺が完全に相手を『敵』だと見定められない状況を作り、完全に敵対行為だとわからない程度の妨害を、長々とおこなってくるのだ。
俺は懐かしさを覚えた。
久しぶりに全知無能存在の悪辣なる意思を感じることができたからだ。
いつだって『敵』は人の姿や民衆の総意という姿を借りた、全知無能存在の意思だった。
俺はこの世界であの忌々しい存在について思い出すことが減っていた。俺の記憶している前世は偽りで、ひょっとしたら俺は、この世界で一回目の人生を送り、そうして『天寿をまっとうしないと永遠に転生を続ける』だなんていうこともなく、普通に煙になるんじゃないかと、そう勘違いしていた。
しかし――全知無能存在の意思は、ここにあった。
ずっと俺の生活のそこここにあって、俺を見つめ、俺をその冷たい指先で谷底に突き落とす機会を狙い続けていたのだ。
これはもはや信仰だ。『自分に悪意を持ったなに者かが存在する』という信仰――悪意や不運、不遇を通して『
では、全知無能存在の意思を感じたところで、どういう対策をとるべきか?
シーラもマーティンもマルギットもアレックスも『敵』だった。
しかし今は味方だと俺は思っている。
『敵』は味方にできる。
この世界に限らず『誰かと明確に敵対すること』のリスクは大きく、メリットは少ない。
だから敵対せずに目下最大の『敵』であるブラッド一家から孫の支配権を割譲する方法はなにかないだろうか――
そこまで考えて、俺は決意した。
ペットが飼える家に住もう。
今の借家を引き払って、俺の、あるいはミリムの両親と同居をするのだ。
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147話 謙虚と配慮
この物語はジャネーの法則を採用しています
加速していく時をお楽しみください
不動産とは負債である。
以前にも考えたことがあったが、世界はやはり『安定』を望んでいる。
俺も望んでいるし、多くの人も望んでいるだろう――だが、世界視点で語る『安定』と、個人視点で語る『安定』はまったく意味が違っていて、世界視点での『安定』は個人視点で言えば『不変』ということになるのだった。
地位の向上、収入の向上、あるいは倹約。
そういったものを世界は嫌う。
個人の『安定』とは『少しがんばればよりよい生活ができる状況が続くこと』――すなわち『少しの努力で常に昇給、昇進の可能性があり、努力すればそれが確実に叶う社会』なのだが、世界はみんなに昇進されては困るのだ。
世界が俺たち個人に求めるのは『ずっと同じ家に住み同じ生活をして社会に同じだけの金を安定して流し続けること』であり、これがひどい社会情勢になると『立場も権利も向上させないがもっと多く金を流せ』となる。
今、社会はそう乱れていないから、俺たちはとられても生活が立ち行き、月々決まった額を貯金できる程度の税しかとられていないが……
政治が乱れればそのぶん多くの無駄金をとられるのだった。
そして、金というのは『支払わなければどうしようもない』ところから優先的にとられるのだ。
不動産なんてその最たるものだろう。
人は家に住まなきゃどうしようもない。
こういうことを言うと『路上でも生活するだけならできる』と返してくる中学生が俺の勤め先にもいるのだけれど、身支度、貯金、法律の問題、世間体……『社会生活を送る』ことを考えると、路上生活ではできないことが山のようにある。
俺は、あるいは人は、『生きていたい』のではない。
『安定し、健康に、生きていたい』のだ。
死にたいという人の多くが語る『死にたい』が『病気やケガで苦しんでもとにかく死にたい』ではなく『苦しまずにさっぱりと人生を終えたい』であるように、『生活したい』『生きたい』という言葉にも、言葉の前に小さいカッコでなにかが書いてあるものなのだった。
ゆえに不動産は生活に不可欠であり、これに課される税もまた重い。
また不動産などの大きな買い物は金銭的にも重いし、どれほど細心の注意を払って購入したとして、俺の運勢ならばなんらかのトラブルに、それも家を建て替えない限り解決し得ないなんらかの、地味で気になるトラブルに遭うに決まっているのだ。
そこで生前相続だ。
ミリムの両親も、俺の両親も、家を持っている。
俺はかつて、俺の祖父母が亡くなった時に、遺された家の取り扱いで親族がもめるのを見た。
同じ
そういった意図でミリムや義父、両親と話し合いがおこなわれることとなった。
ある程度の結末予想をしつつ、『ミリムの実家』で集まって話し合った結果、今は義父一人しかいないミリムの家へ引っ越すことに決まった。
「この年齢だからそれはありがたいんだけど、大丈夫か?」
義父はどうにも俺を気づかってくれているようだった。
たぶん、介護関連の心配だろう。
俺の親世代はもう八十代なのだ。そろそろ介護が視野に入ってくる……というかもう介護されてておかしくない年齢でさえある。
まあ彼らが健康なのは俺がしつこく健康的生活に勧誘していたからという面が大きくもあるので、これもまた俺のリスクマネジメントの成果と言えるのだけれど……
いかに健康に気をつけていても、人体には限界がある。
最近の義父は歩くのがめっぽう遅く、立ち上がるのにもひと苦労という様子で、もともと国外旅行などが好きな人だったのだけれど、もう長くそんな旅はしていない様子だった。
食事を作ったりするのもおっくうなようだが、外食をしたりデリバリーをしたりということも面倒なようで、たまに里帰りしたミリムの作る食事を少しずつ温めながら食べている、みたいな現状だった。
そんな事情だから、食事のことだけ考えても住み込んだほうがミリムの負担が小さいし、住み込めるなら俺のほうでもできることが増える。
また、ミリムの実家は俺の実家にも近いので、俺の両親の面倒もみやすいという特典がつくわけだ。
……あと、俺ももう五十代半ばなので、これ以降の年齢だと『引っ越し作業』が重苦しいタスクと化す可能性が高い。
まだ俺の健康状態が運動や食事だけで維持できているうちに、将来継ぐことになるだろう家に住んでおくのはそういった将来のリスクを軽減する意味合いもあるのだった。
そんなようなことをデータなんかを交えつつ義父に提示すれば、彼はめっきり感情表現のとぼしくなった顔に、久方ぶりにおどろきの色を浮かべた。
「……すごいなあ。レックスくんは昔から安定してるねえ」
なんか珍獣に対するコメントって感じだった。
普通を求め続け『平均』『普通』を知りたいと苦心してきた俺は、すっかり『普通じゃないキャラクター』として周囲の人々に受け入れられている感がある。
まあ『普通』になれたかは怪しいのだけれど、ここまで生きてしまえば関係がない。
『ちょっと変だけど、あいつはこういうやつだよ』というポジションにおさまることができたのは、間違いなく努力の成果と言えよう。
かくして親族会議は終了し、俺とミリムは義父の住む家へと引っ越す手はずとなった。
俺はいったんミリムと義父に別れを告げ、両親を家まで送ることとなる。
道すがら住所変更に伴う煩雑な手続きを頭の中でリストアップしていると、母から声がかけられる。
「そのうち、うちのほうにも住むの?」
それはなにげなくかけられた言葉ではあったけれど、その言葉で、両親の胸中を知った。
ミリムの実家に住まうことが決定し、義母がおらず義父が家に一人ということもあり身を退いていた俺の両親ではあったが、内心では、ともに住んでもらいたがっていたのだ。
謙虚は美徳と人は言う。
実際にそれで避けられた争いもあったのかもしれないし、『一人きりで過ごしている義父』と『夫妻ともに健在な俺の両親』では、なんとなく義父の側に俺たちと同居するためのより強い権利があるような気がするものだが……
その結果、黙り込むことで俺の両親だけが心のしこりを残してしまったのには、いかんともしがたい、不満のようなものが感じられた。
『言ってくれればよかったのに』と俺は言おうと思った。
けれど、俺は黙り込んで、代わりに『わからないな。すまない』と謝った。
両親と同じことをしている自覚はある。
こうして俺が抱えてはき出すことをやめた不満は、俺が当然わかるべきであった両親の思いをわからなかったことへの、きわめて自己満足的な罰だった。
歳をとってもやはり、俺にはまだまだ、人の心がわからない。
そうしてそれは、データを集めて知識を仕入れて経験を積んでも、『人の心の機微への関心』というものが根っこから抜けている俺には、きっと永遠にわからないものなのだろうと思った。
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148話 子世代
珍獣家族を引き続きお楽しみください
アンナさんから演奏会のチケットがとどくのはもはや定例と化していたのだが、今回のチケットには二通の手紙が添えられていた。
一通はもちろんアンナさんからで、それもまたチケットとともにとどく『いつもの』やつだ。
しかしもう一通……誰だろう? 旦那さんだろうか? しかしアンナさんの手紙は毎回夫妻で連名となっているし、ぶっちゃけ旦那さんのほうとは付き合いが浅くてよくわからない。
首をかしげながら差出人の名前を確認すればそこにあるのはアンナさんの息子であるルカくんからの手紙で、さらに招待状にはルカくんからという名目で、サラ一家へのものが追加されていた。
そう、ルカくんである。
かつてサラが養ってもらおうと色々画策していた子だ。
それはサラが幼い……中等部ぐらいだったような気もするが……ころの話で、その後、養ってもらうどころか恋人関係にさえならなかった相手で、疎遠気味だったのもあり、『顔がいい』以上の情報が記憶できなかった子なのである。
しかし彼ももう二十歳をとうに超えて、大学に進学していたとして、すでに卒業している年代であることに今さら気づいた。
卒業しているどころか社会人二年生か三年生ぐらい? いやもっと?
わからない。子育てを終えてサラが『大人』というざっくりしたカテゴリに入ったとたんに、サラより三つ下の彼が今どのへんの位置にいるのかがパッとわからなくなってしまっていた。
サラへの手紙ということで読んでしまってもいいものか……そう悩みながら俺はルカくんからの手紙にすみずみまで目を通した。
別口じゃなくてアンナさんからの手紙に同封してあったし、読んでまずそうだったら読んでない体裁をつくろってサラに流そうという寸法だ。
手紙によれば、ルカくんもまたご両親と同じく音楽の道に進んだらしいことが書いてあった。
そして若くしてけっこう大きな演奏会でオーケストラの末席をいただいたから、是非来てほしい、という内容だった。
ちなみに俺かミリムが読むことを想定した手紙らしく、サラさんの住所がわからないのでこの手紙と同封したチケット三枚を渡してください、という端書きがあった。
サラ……
ルカくんに住所教えてないのか、お前……
まあ幼いころからの付き合いではあったが、深い付き合いではなかったし、当たり前と言えば当たり前のような気はしないでもない。
しかしデビューコンサートのチケットを送ってくるぐらいの間柄ではあるのだろう。サラ視点はともかく、少なくともルカくん視点では……それなのに住所を教えてない……
サラの人の感情の機微に対する関心度合いは、俺と同じぐらいなのかもしれない。
まあ必要な場だと思ったらデータを集めて対応を練りに練るだろう。
そうして空回りすれば俺に似ていると断言できるのだが、サラはミリムゆずりの如才なさがあるので、より完成度の高い俺って感じの能力をしている。
しかしサラ一家あて、ということでエマのぶんまでふくめたチケットを送りつけるのだから、子供が生まれたことぐらいは知っている……?
いや、俺がアンナさんに言ったから、そこから知ったのか?
サラとルカくんの関係がいまいちわからない。
ともあれ俺はサラに連絡した。
ルカくんがデビューするコンサートのチケットを送ってよこしたので取りに来るように――
届けたり送ったりしないのは、孫を我が家に呼び寄せるためだった。
最近めっきり外出の減った俺の両親を、ひ孫に会わせてやろうという配慮である。
今の俺の持ち家はミリムの実家だが、ここと俺の実家は近い。エマらを俺の実家に泊まらせて俺たちがそちらに出向けば、お義父さんも軽い運動ができるし、ちょうどいいだろうと思ったのだ。
ほどなくしてサラからメッセージがとどいた。
『ルカくんがなんで?』
まったく心当たりがないって感じだ。
なんかルカくんからサラへの一方通行な気持ちを感じる。
あるいはアンナさんがルカくんに『送っておきなさい』と言ったから送った、という背景を感じる。
もしも強制だとしたら、ルカくんには悪いことをしたと思うのと、紙にペンで手紙を書くことがほぼなくなった現代人なのに、不慣れなその形式でよくもまあここまで綺麗で如才ない手紙を書けたものだと感心した。
サラ世代の如才なさは俺世代から見ると、ちょっと半端ないところがある。
なんかすごく『文化人』って感じなんだよな、あの世代。脳の回路が俺らと違うっていうか……
最近の中学生とかも俺らの時代とは全然違って、静かというか、おとなしいというか……
俺たちの世代は『ノープランで騒ぐ! トラブルがあってもそれが青春!』って感じだったけど、今の中学生は『事前に計画を立てて無駄のない人生を。振り返る思い出には汚点がないほうが望ましい』って感じだ。
そのへん俺の信条とはすごくマッチしているので、俺は生まれるのが四十五年ほど早かった感ある。
今の中学生たちと一緒に中学生やってたら、『普通』として世間に溶け込むのも難しくなかったように思われてならない。
まあとにかく、サラに俺は『ルカくんから招待状が来た背景』を語った。
ルカくんからの一方的な気持ちか、あるいはアンナさんが裏で糸を引いているか。
『アンナおばさんの差し金だと思う』
俺なんかは未だにアンナさんをお姉さんだと思っているので、『アンナおばさん』と言われると『えっ?』ってなる。
しかし俺より二つ上のアンナさんはもう六十間近なのだった……ウッソだろ……俺の中のアンナさん、まだ二十代なんだけど……
さすがに見た目はもう二十代とまではいかないのだが、六十間近にしては相当に若々しく美しい感がある。
まあ、それでも現役の若者からすればおばさんであることに違いはない。
違いはないんだが、なんていうか、この、アンナおばさんという響きには、心情的に納得できない感覚。
ともあれともあれ、俺は社会通念を覚え始めた五十六歳だ。
そう、覚え始めたばかりなのである。社会通念という巨大な山は、なん年経っても二合目ぐらいをうろうろしてる感じが抜けない。
ルカくんから招待状が送られてくるというルカくんの、あるいはアンナさんの配慮があった以上、それに応じないのは社会通念的にだめだろう。
『しかしうちの家族は、音楽に行く時間でプロレスに行きたい家族……』
政治家ってクラシックコンサートとか超行くイメージなんだけど、あいつらはプロレスなんだよな。
まあサラもわかっているので、今の食い下がる感じのコメントはあくまで冗談だったらしい。日取りはすでに決まっているものの、時間を空けられるかブラッドにおうかがいをたてて、アンナさんとルカくんに直接お礼の手紙をしたためるそうだった。そう、紙で手紙。
手紙をしたためる、というひと手間にもコミュ力が現れている。
五十代の俺が『メッセージ送ればいいや』と思っていたのが恥ずかしい。
俺だってアンナさんじゃない人にこんなに丁寧な招待状とお手紙をいただいたら手紙で返すぐらいの社会性はあるのだが、どうにも相手がアンナさんだと気を抜いてしまう。
だが今回はルカくんからの招待という体裁もとられているので、えーと……めんどうくせーなあ社会人。
サラももう三十歳だし、そのへん、俺よりしっかりしてる。
えっ、マジで?
俺の娘、三十?
やはり周囲の人の加齢を意識するほうが、自分自身が歳を食っている事実を認識するのの百倍つらい。
孫もアホみたいな速度で成長するしな……
『一年』という時間が、年々短く感じられるようになっていっている。
幼いころ、『一年』はあまりにも長い時間だった。
一日一日が無限にも等しく感じられて、それが『たくさん』積み重なった一年は、永遠に過ぎ去ることがないかのような時間に思われたものだ。
ところが時間の流れは年々早くなった。
最初はやることが増えたからだと思っていた。一日一日、目的があって、やりたいこととやるべきことであふれていて、時間が足りないといらだつことも多かった。
けれど歳を重ねてからの時間は、あのころよりも全然密度が薄いにもかかわらず、どれほど汲み取ろうとしても、砂のようにサラサラと手の中から抜け落ちていくかのようだった。
小さな手では、あんなにたくさん、保持できたのに。
手が大きくなったのに、時間はどんどん、こぼれ落ちていく。
それは九十歳まで生きて死ぬという目的がある俺としては、嬉しいことだった。
でも、なぜか――寂しいことでもあるなと、思った。
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149話 偲ぶ、誓う
大きくなったりしていく話をよろしくお願いします
父が亡くなったのは俺が六十歳を間近に控えたある秋のことだった。
穏やかな気候が続く、静かな日々のことだ。
普段はやかましく世間を騒がせるニュースも、その時期には少なかったように思われる。
大病なく大けがもなく、父はその物静かな気性同様、静かに、穏やかに、息を引き取った。
九十歳を迎えることはかなわなかったけれど、それは全知無能存在の『大往生』判定があまりにも人の基準から外れているだけのこと。
八十半ばで亡くなった父はまぎれもなく生ききったし、それに異を唱える者があるならば、たとえ神でも論破する自信がある。
いくつになっても葬儀前後はいそがしいもので、冠婚葬祭における手続きを整理しリストアップしている俺でさえ、あいさつや手続きに追われ、葬儀前後は父の死を悼む暇さえなかった。
特に父は教師、塾講師としていたこともあり、参列者には生徒さんが多い。
様々な職業に就き、長く父の教えを離れ、それでも参列してくださった方々には頭が上がらない。故人の人望がしのばれるその事実は、俺を忙殺もしたけれど、俺の胸にたしかな誇らしさを抱かせもした。
葬儀後しばらく経って、ようやく父の遺品を整理する余裕ができた。
着替えなどの日用品のほかには釣り具と、誰でも遊び方を知っているようなボードゲームがあった。
もっとも多かったのは勉強のための資料だ。
高校、大学受験用の参考書は特に膨大で、それは父が塾講師を始めてから、亡くなる前年度分まであった。
対策と傾向をまとめた、受験生にとってはなんとしても手に入れたい虎の巻となるであろう父のノートは、七十九歳だったころで更新が止まっていたけれど、それでも習慣として、あるいは力が及べばまとめるつもりで、参考書だけは買い続けていたのだろう。
一次資料にとぼしい父の蔵書たちは『学者の部屋』という感じではないけれど、生涯現役を貫いた教育者の部屋のように見えた。
「捨ててしまうのもねえ」
母は寂しげにつぶやいた。
……シワの多くなった顔からは、その内心をうかがうのが難しい。感情表現のハッキリした母ではあったけれど、やはり歳には逆らえず、最近は表情の変化にとぼしくなっていた。
書斎に集まった父の遺品をながめ、俺たちはその処理をする必要にかられている。
参考書のたぐいと、父のまとめた受験対策ノートは我が校で活かせるだろう。俺が継ぐことにした。場所があれば、学園の図書館に蔵書してもいいだろう。
ただ、釣り具は型も古いし、俺には整備方法もわからない。
釣りを趣味とする誰かにゆずろうにも周囲にそんな心当たりもなく、今から釣りを趣味にするには俺も歳をとりすぎている。釣り場までの移動がしんどい年齢になってきていた。処分するしかないだろう。
ボードゲームは父が『釣り以外の趣味を探そう』とした名残のようで、比較的新しいものが多い。
……現代、ゲームをしたければ携帯端末のアプリで事足りる。
もちろん父だって携帯端末のアプリを扱えたはずだ。それでもこうして物質の、というのか、実際の、というのか、リアルボードゲームを手元に置いたのは、父なりの考えがあったのだろう。
ネット上には父の遺品はほとんどないようだった。
父は、その世代でも珍しいぐらいアナログな男だった。書き物は紙のノートにおこなう。SNSはやらない。写真なんかはそもそも写るのも撮るのも恥ずかしがってしまって、母が撮影したいくらかの写真が、母のクラウドにあるのみだった。
父のまつられた祭壇から、煙の香りがする。
人が死して煙になるのだという信仰がある世界だ。だから供養も煙を用いておこなう。
死者の祭壇の前で弔いの想いをこめて煙を焚くことで、それが死者の向かう先にとどくのだという。
……まあ、実際に家の中に置いてある祭壇で『空にとどくほどの煙』なんか焚く習慣は、今はもうない。そんなことをしたら、家の中が煙くてたまらないから、上がる煙はほんのわずかだ。
だから俺が生まれた多くの世界がそうであるように、この宗教も『生者の気持ちのため』におこなうものとなっている。
俺は父の遺品の前でもっとぼんやりしていたかったのだけれど、ふとやることを思い出した。
それはもちろん遺品などの整理もあったし、それ以上に、一人になってしまった母のそばに来るべきかどうか、来るつもりなら今の生活をどう変えるのか、そのあたりを考え、妻や義父に相談せねばならないということだった。
もちろん最近の俺はよく実家に顔を出すようにはなっていたけれど、母ももう八十を超えているのだ。
うっかり転んだだけでも重傷になりかねない年齢だし、そもそも、父を亡くした彼女をたった一人きりで家においておくということは、あまりしたくなかった。
だいたいにして俺とミリムがミリムの実家で暮らすようになった大きな要因の一つが『義父が義母を亡くしたばかりで一人きりだったから』というもので、うちの父が亡くなった現在、その要因は消え去ったと言ってもいいだろう。
前提条件に大きな変化があったならば、その前提をもとにした行動は再考すべきだと思う。
……もちろん、そこに息子としての想いがあるのは否定しない。
母を一人きりにしておくのはかわいそうだという気持ちと、一人きりの母を放っておけないという気持ちが、あった。母への思いやりと、俺の危機感が、あったのだ。
もうめんどくせーからみんなで同じ家に住んだらいいのになあとかも思った。
いちおう提案はするつもりだが、受け入れられることはないだろう。人はどれほど不便になったとしても慣れた場所を離れたがらないもので、その想いは年齢とともに強くなっていく。
父はいなくともこの家に父の思い出があるように、義母はいなくともあの家には義母の思い出はあるのだ。
廊下を歩きながら、あるいは寝室の扉のノブを握った時、もしくは食卓についてふと正面を見た時、ふと感じる『空白』の中に故人は存在する。
オカルトでもスピリチュアルでもない。人の記憶の話だ。
香りや物体とひもづけられている人の記憶は、ふとした瞬間によみがえる。
生前に故人がいた場所、使っていたもの、故人とともに嗅いだことのある香り……とてもリストアップしきれない様々な『環境』を通して故人を思い出し、そうして記憶に亡くなった人の影をよぎらせることを『偲ぶ』と表現する。人が人を思うことこそが、偲ぶと表現される行為の正体だ。
歳をとるとおどろくほど記憶力が悪くなる。
昔の思い出ばかりが輝いていて、その輝きにくらまされ、最近のできごとを忘れてしまうことが増えるのだ。
だから、母は、若いころの父を思い返すことは目を閉じていてもできるだろうけれど、亡くなる寸前の父を思い返すことは、この家にいないと難しいだろうと思う。
若き日の美化された記憶ばかり偲ぶのはいいことかもしれないが、俺はそんな物語の登場人物みたいにではなく、最近の、歳をとった、リアルに生きた父を偲んでほしいのだと、きわめてエゴイスティックに思うのだ。
考えるべきことが山積みだ。
人の死は様々なものを遺す。
それはプラスばかりでなく、マイナスばかりでもなく、プラスともマイナスとも割り切れない、実に様々な実際的な問題であったり、心情的な
母にこの種々の問題について思考させるのは負担が大きいように思えた。
思考する、というのは体力を削るのだ。若いころは『思考により消費した体力』と『肉体を動かす体力』がまるで別物のように感じられるのだが、年齢を重ね、体力の最大値がおとろえてくると、この二つの体力の合一が進む。
だから、母に比べればまだ若い俺が考えなければならないだろう。
……まあ、そうは言っても、俺だってもう歳だ。
少しだけ考えることをやめて、祭壇をみやった。
書物に囲まれた場所にある祭壇の上で、父の遺影が笑っている。
俺は両手を組み合わせて祈りの姿勢をとる。わずかにくゆる煙を鼻で感じながら目を閉じて、故人へと誓う。
きっと。
……必ず、いずれ、俺もそちらに行きます。
この世界で俺も煙になります。
あなたたちのいた世界で、俺も。
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150話 思春期をとりまく
次は若者の話です。お楽しみください
十二歳になった孫のエマはどうにも自宅の居心地が悪いようで、しばしば俺の住まう家に来ることがある。
もちろんスライム的には高齢となったブッチャーも連れて来るのだけれど、『子供』と『動物』という組み合わせが家に来ることに我ら老人勢は大喜びで、ついつい二人を甘やかしてしまう。
それがまたこちらの居心地をよくし、エマの中での実家の居心地を相対的に悪くし、結果としてこちらに入り浸る時間を増やすという悪循環を生んでいた。
さすがに現状のままではいけないような気がするので、エマに内緒でサラと直接会って現状について話すことになった。
「父さんは子供に甘いところがあるから……」
行きつけの喫茶店はなくなってしまったので、新たにこういった交渉の場に使うようになったのは、俺の自宅よりもブラッドの家のほうに近い喫茶店だった。
以前愛用していた店はコーヒーとケーキに注力していたようなのだが、こちらのお店はどちらかと言えばお茶系が強い。お茶の炭酸割りという、俺の世代からすればびっくりするようなメニューがあったりもする。
客層はまだ若いマダムたちが多く、この中に一人白髪のおじいさんである俺がいるというのは、どうにも居心地が悪い感じを否めない。
もしくは俺がハイハイとサラの話に余計な口を挟まないよう、サラはこの店を選んだのかもしれない。
計算だとしたら見事なものだ。客層と店の雰囲気の効果で俺はさっきから萎縮してしまっていて、内心のビクビクを表に出さないように、奥歯に力を入れていかめしい顔を作るので精一杯である。
「とりあえず、問題の整理をしよう」
サラがそう言いながらタブレットを取り出したので、俺も同じように取り出す。
ほどなく『エマが俺の家に入り浸ること』の問題と原因予測をまとめた資料が共有されて、俺はとりあえずざっと目を通した。
まず問題なのは、『一人(ペット同伴)での行き来が単純に危ない』ということだ。
どうにもエマは俺の家に来る時、両親には事後承諾をとっているようなのだった。つまり、『ふらりといなくなる』。
この『ふらり』が習慣化するのは見過ごせない。
今はまだ十二歳の子供で、来る場所が俺の家だからいいようなものの、この『ふらり』スキルで友達の家などに遊びに行かれると場所の捕捉ができないのだ。
また、『ふらり』と家人のスキを突いていなくなる手腕のうまさも問題だ。
日中にいなくなる今はまだいいが、これが年齢を重ねて夜に出歩くと、とたんに危険度が増す。
夜の街はやはり危ないのだ。エマはかわいいし、誘拐でもされたら困る。『かわいさ』という指標に頼らず客観的なことだけ言っても、ブラッドの立場などを考えれば、エマには誘拐する価値があるだろう。
エマがいなくなることで発生する問題の項目には、そんなふうに、将来を見据えたことが多く書かれていた。
そして『なぜ、エマが実家の居心地を悪く思っているのか?』という項目だが……
「まったくの不明なんだよね……」
親の視点ではわからないらしかった。
実際、サラがわからないと言うのだから、そこには、わかりやすい理由などないのだろう。
俺に輪をかけて論理的な彼女は、因果のはっきりした問題ならばすぐに見抜く。『怒った』から『不満に思った』とか、『押しつけた』から『いやがった』とか、そういう入力に対し出力がある場合、サラは簡単に問題の原因を把握するだろう。
だからサラが把握できない時点でエマが自宅に不満を抱いている原因は二つのカテゴリに絞られる。
サラの知らない場所でなにかがあった。
あるいは、サラたちの入力したものが、エマの心の中で妙な変換(サラには理解しえない超理論による変換)をされて出力されてしまっている、ということだ。
知らない場所でなにかがあった場合はどうにもならない。
少なくとも、現在、机上でできることはなにもない。『知らない場所でなにがあったか?』の情報を集めるフェイズに移行するしかないだろう。
だが、エマの心の中の問題ならば、話し合いの時間をとる価値はある。
というかまあ、俺にはだいたい、エマが考えていることと、なぜそんなふうに考えてしまったかが、わかるのだった。
たぶんな、シーラのせいだわ。
「……シーラさんが? なんで?」
シーラというのはブラッドのおばさんで、俺の同級生で顧問弁護士(非公式)だ。
エマが生まれてからは『顔も口も出さないが金だけは出す』というスタンスを徹底しているようで、ブラッドの家でその姿を見ることはない。
シーラは一時期あの家に戻ったのだが、ブラッドにとっての祖父、すなわちシーラにとっての父が亡くなった直後あたりからまた一人暮らしに戻ったのだった。
うん、まあ、若い夫婦とその両親が暮らしている家に間借りするとか居心地悪いもんな。
そのシーラがなんの関係があるかというと、これがまったく関係がない。
「意味がわからない……」
シーラという存在が落とした影とでも言うのか、あの家にはシーラが家出同然に出て行ってからというもの、『なるべく子供を拘束せずに、自由にやらせよう』という気風が芽生えたように思える。
それはいいことだ。でも悪いことだ。
拘束されないことを喜ぶ子もいるが、喜ばない子もいる。
特に中等科に入るか入らないかぐらいの子供は世界のすべてが自分を中心にして動いていると思うフシがあって、すべての情報を『自分にまつわるもの』だと認識し取り込む傾向がある。
すなわち、シーラの家出騒動からできあがった『放任の気風』は、もちろんシーラという原因があって成り立っているものなのだけれど……
エマはたぶん、放任されている理由が自分の中にあると考えている。
「どうしてそうなるの?」
思春期の子供は、『自分と関係ないところでも世界は動いている』という認識ができない場合が多いから。
……まあこれは、中学校教師を長くやってきた俺の、感覚的な意見だ。けれど確信がある理論だ。
ようするにエマは、自分が期待されてないから、自分が放任されていると感じているんだと思うよ。
「……?」
サラは全然わからないという顔をしていた。
まあこいつはそうだろう。なんていうか、異世界転生者をうたがうレベルで『他と違う』子だった。
思春期はあっただろうし、反抗期らしきものもないでもなかったが、それらすべては彼女の中で言語化できる理由からのものだったし、言語化したものに耳をかたむければ『なるほど、そういう理屈でそういう態度だったんだな』とこちらが理解できるものだった。
けれど世の中理屈で分析できないことのほうが多い。
特に思春期を迎えた子供のかかえるモヤモヤなんていうのは、大人からすればわけのわからないものだ。
感情を言語化するのには特殊な訓練が必要で、多くの者はその訓練を積んでいないし、学習指導要領にも『国語』以上の『精神の言語化力を鍛えるプログラム』は存在しない。
大人に子供の気持ちはわからないが、子供も自分の気持ちを理屈にできない。
だからモヤモヤの結果、そのモヤモヤが晴れようもない的外れな発散方法を選んでしまったりして、時にそれが問題になったり、ならなかったりする。
『子供の気持ちはわからない』ということを、認識しておくのが大事っていうことかな。
無理に歩み寄ったり、『いいもの』を押しつけるんじゃなくって、時には『放置する』しかない問題もある。
もちろん大人側が必ず『子供の心にとって正しいアクション』を起こせるならいいんだけれど、人にはそんな真理を見抜くみたいな能力はないので、放置するしかない時期というのがある。
そのあたりをさっきから『意味がわからない』みたいな顔をしているサラにわかりやすくまとめると――
よく見ておこう。でも、過剰に触らないでおこう。
「父さんの話だと、『触らないこと』が問題なんじゃないの?」
うーん、『触らない』っていうのは、心に触らない、ってことなんだけどな……
放置を気にする子を放置するのは、『触る』ってことなんだ。
このあたりは本当に言語化が難しい。
現場の感覚というのか、俺はなんとなしにバランスがわかるんだけれど、これをマニュアル化することはついぞできなかった。
おそらく『俺はわかる』という自分の自信を疑うところまでが大事だからだろう。
集積した知識と経験があるから、なんとなくわかるんだけれど、『わかる』という状態にあぐらをかかないように常に気を払うべき、みたいな……
説明できないので切り上げた。
ようするに問題が解決すればいいのだ。
俺は現職中学校教師に渡しているマニュアルを一部抜粋してサラに渡した。
マニュアルとは言うが俺が勝手に作った俺の私物なので、私的流用は問題がない。問題があるとしたら、私的なマニュアルを教師たちに渡していることのほうかもしれない。
いやだって学校側が用意するやつって、大事なこと書いてないし、無駄に婉曲なんだもん。
校長とはいえ保育所から大学まである大型学園のいち施設長なので、色々大変なのだった。
なんらかの役に立つはずだ。
まあ一番大事なのは、『軸足を親や教師というところにおいた上で、子供の仲間を目指そう』というあたりなのだが、ここの表現が学校のマニュアルを悪く言えないぐらい比喩的でわかりにくいので、表現の修正がずっと課題だ。
「……思春期の子供を抱えるのって、大変だね」
サラがいくぶんか疲れたようにつぶやいた。
俺からすればサラがそんなことを言うのは意外だった。
だってあからさまに大変そうじゃないか。理知的なサラが今さら気づくというのに、少しの違和感がある。
が、思い至った。
サラは必要だと思うことについては綿密に調査をしたりスキルを身につけたりするのだが、必要性を感じられないことについてはけっこう甘い。
たぶん俺とミリムがサラの思春期に苦労していた姿を見せていないので、サラの中で『思春期の子供が難しい』という認識がなかったのだろう。
というか、サラが手かからなさすぎなんだよな……
俺も中学校教師をしていなかったら、『子供って意外と簡単じゃん』とかなめくさったことを思っていた気がするわ。
まあしかしこうして向かい合って座った娘はいろんな意味ですっかり大人で、子供のことで悩み疲れた様子を見せる顔などから、否応なく年齢を感じてしまう。
子供の年齢を通して見えるのはやっぱり自分の年齢なわけで、俺もじき六十半ば、教師人生もそろそろ終盤にさしかかっているのだった。
サラと話していて少し懐かしく思ったのは、やはり担当クラス持ちの教師としてやっていた若いころのことだった。
あの当時はクラスに三十個超の爆弾を抱えて、しかもその導火線がどこにあるのか、導火線に火がついているのかどうかさえわからない、みたいな感覚が毎日あった。
間違いなく神経を削るし体力を使うけれど、今、あの生活が妙に恋しい。
父は教師をやめて塾講師としてかなり長く現場で勉強を教え続けたが、実に今さらながら、俺にもそんな人生が合っていたのかなあ、とほんのちょっとだけ想像してみる。
まあそちらはそちらで今の俺とは別な苦労があったことが容易にわかるので、やっぱり今の人生でよかったな、という結論に落ち着くわけだが。
ぽつりとつぶやく。
老後はどこか小さな塾でも開いて、子供に勉強でも教えようかな。
「いいんじゃない?」
サラは言った。
まあ、でも、俺は知っている。
それはきっと実現しない未来図だ。
近頃は老後の夢みたいなものが日になん度もわいて、翌日にはもう、すっかり忘れているようなことばかりなのだから――
今語った夢もきっと、泡沫のごとく消えるのだろう。
その泡のはじける感じは、俺にとって好ましく、楽しいものだった。
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151話 〝呪われし〟〝運命〟の終焉
受け継がれしプレゼン……
引き続きよろしくお願いします
六十歳も半ばになるといい加減『身の回りの誰が死んでもいい覚悟』が自然と身につくもので、たとえば知り合いの誰が亡くなろうとも、『そういえばあの人はあんな体調だったな』とそれっぽい理由が思い至るようになるものだった。
覚悟や準備という意味では義父や母が逝去したって受け入れられるぐらいのものはある。
悲しみや喪失感を度外視すれば――人間という生き物がそんなものを度外視できないことはすでに知っているが、それでも机上の空論として度外視すれば、誰がみまかろうとも冷静に冷徹に事後処理ができるだろう。
だから俺をおどろかせたのは、カリナの急逝であった。
カリナという女にかんしてはとにかく不健康な生活をしていたという印象しかないが、同時に、不健康なくせに異常なまでに若々しかったという記憶もある。
殺しても死ななそう、というマーティン系の強さ・しぶとさとはまた違うけれど、『ひっそりと永遠に生きそう』みたいな、吸血鬼とかエルフとか、そっち系の『死への遠さ』を感じさせる存在だった。
だからカリナが亡くなったという連絡をカリナの親御さんから聞いた時に、俺は思わず、笑いそうになってしまった。
カリナの死は俺にとって、あまりにも現実的ではなかったのだ。
それこそ笑うしかないような事件である。出し抜けに笑いどころのわからないジョークを言われたかのような、そんな心地だった。
あいつとマーティン以外の全員について俺は『明日死ぬかもしれない』という覚悟を固めてはいたのだが、あいつとマーティンだけは、まさか死ぬなんて、という、これも笑うしかないような心持ちでいたのだ。
まさかこの年齢になって他者の
どうにか絞り出したのは『交通事故かなにかですか?』という問いかけで、それは違うのだという答えをもらった。
カリナ急逝の原因は聞いてしまえば意外性もなんにもなく、不摂生ということだった。
これは元編集者の妻から聞いた話だが、漫画家などのちょっとアウトロー系(これはカリナのイメージだが、世間にはアウトローでない漫画家もいるかもしれない)な職業の人には、若くして亡くなる者も少なくはないらしい。
たしかに芸術方面と考えれば、古い文豪なんかは
『古い文豪』という言葉から彼らの生活スタイルを思い描けば、座りっぱなし、酒びたり、ヘビースモーカー、自殺癖、と不健康さばかりが思い浮かぶ。
カリナは酒もタバコもやらなかったし自殺癖もなかったが、座りっぱなしだし運動が嫌いだった。
前に運動しろと俺が忠告したときには『ジム通い流行ってるし前向きに検討する』という返事が来て、そうして、それっきりだったようだ。
通話口でもわかるぐらいに消沈しているカリナの親御さんから葬儀の日取りを追って連絡する旨などを聞き、ついでに遺品整理の手伝いを頼まれたのでそれを快諾し(漫画家の持ち物はその道の人でないと価値がわからないことが多く、俺はカリナの秘書として親御さんに認識されている)、通話を切った。
食後のティータイムであったので、妙にぼんやりしている俺を心配してミリムが声をかけてきた。
俺はミリムがなんと言っているのかさえ認識できないような状態だったが、なん回か声をかけられるうちに通話の内容について聞かれているのだろうとアタリをつけて、ただ短く『カリナが亡くなった』とだけ述べた。
指先さえ動かせないほどのショック状態から立ち直ったころには二時間ほど経っていたようで、いつのまにかお茶は片付けられていて、目の前にはミリムが編み物をしながら座っていた。
ようやく思考を取り戻した俺は無性に『気になること』ができて、携帯端末をいじり始める。
カリナとは税務の時期以外に直接会うことはなくなったが(税理士は雇っているが、税理士に渡す領収書などをまとめるのに俺の力が必要だった)、それでもメッセージのやりとりはしている。
通話が苦手という彼女とのやりとりはだいたいが携帯端末の中に文字情報として入っていて、俺はそこから、彼女との最後のやりとりを探した。
『この歳で夏祭りきつすぎわろた』
『運動しろ』
それはまだ二月も経っていないほど最近の会話だった。
こうしてチャットルームをながめていると、なにか送ったら返事が来るんじゃないかという気持ちが強くなる。
けれど実際に送らないだけの分別はあった。カリナの携帯端末は今、親御さんが管理しているだろう。そこに、すでにカリナの死を知っている俺からメッセージがとどくとか、あまりにも悪質に思えたのだ。
こうして俺はようやく冷静な思考を取り戻して、ミリムに言う。
葬儀の準備、しなきゃな。
それは自分でもびっくりするほど感情の抜け落ちた声だった。
俺の中でカリナというのがどれほど大きな存在で、彼女が抜け落ちた時の、どれほど多くのものを巻き込んだかがわかるようだった。
もちろん父や義母、祖父母だって大事で大きな存在だった。それはカリナに勝るとも劣らないほどだ。
けれど同世代が亡くなるというのはべつなダメージがあるようで、思考を取り戻しても、肉体が力を取り戻すまでは時間がかかった。
……義母が亡くなってから突如老け込んだ義父。
父が亡くなってから、一気に心が老化したようで、静かになってしまった母。
同世代を失うダメージというのはなるほど人格を変えるほどの威力があった。
今、俺が住んでいるミリムの実家に母を招いた時、往年の母であれば軽い感じでのってきたように思えたのだが、今の母は、父のいた家に残ると言ってきかなかった。
やっぱり思い出のある場所を離れがたいよな、程度に思ったものだが、そうではなくって、たぶん、伴侶を亡くしたショックで『人』が変わってしまったのも、あるのだろう。
ほんと、最近はばたばたと人が死ぬなあ。
気づけばそんなつぶやきをしていた。
まあすぐに『そんなことはない』と理解した。
年齢もあって俺のまわりでばたばたと人が死ぬことが多いだけで、俺が幼いころにも祖父母の周囲はばたばた死んでいたように思うし、俺の青年期を思い返せば、両親が少なくない回数、葬儀に出かけていたような気もする。
ようするに、関心をもって接している相手が、歳をとって、亡くなる年齢に達してきただけなのだった。
これもきっと『順調』ということなのだろう。
『敵』は悪辣な手段をとらず、生命が直接の危機にさらされることなく、周囲で戦争も起こっておらず、俺を巻き込む悪の組織の陰謀もない。
前世があろうがなかろうが俺は劇的なことにはなに一つ巻き込まれていないし、俺を主人公に変わった話が展開していくなんていうこともなかった。
それでも人は死ぬ。
それだから、人は、普通に、死んでいく。
珍しいことに、酒を飲みたくなった。
我が家では飲酒の習慣がないので常備酒は料理に使うようなものしかないから、仕方ないので自家製シロップを炭酸で割ったジュースでも飲もうとミリムを誘う。
彼女はちょっと笑ってから「そうだね」と言い、まだ肉体を動かせない俺の代わりに飲み物の用意をしてくれた。
さびたようににぶい指をどうにか動かしてコップを手に取り、室内灯に透かしてながめる。
これは死者に捧げる
古い友人は夢を叶えて綺羅星のように駆け抜けた。
俺は、ゆっくり朽ちていこう。
〝前世〟からの〝因縁〟が結んだ、〝呪われし〟〝運命〟の終焉に、健康ドリンクを捧ぐ……
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152話 晩節に思い描くもの
みんなが年齢を重ねていく果てを引き続きお楽しみください
カリナの葬儀がつつがなく終わったあとにまた葬儀ができて、誰のかと言えば今度は義父のだった。
こちらはカリナに比べれば覚悟ができていたことであり、九十歳一歩手前で亡くなったのは非常に惜しくもあったのだけれど、娘婿の俺も、実子のミリムも、さほど衝撃を受けずに葬儀や相続関係の手続きを済ませることができた。
流れから言えばミリムの実家を俺が継いで、俺の実家は母が亡くなったら引き払う感じで話し合いが済んでいた。
だから義父のいなくなった家に母を招いたのだけれど、やはり母は離れがたいようで、というか母が家にいたがる理由がなんも解消されてないので、当たり前だが母はミリム家に来ない。
そうなると近いとはいえ別な家に住んでいる理由もほぼないので俺とミリムが俺の実家に移ることになるのだけれど、母は「それは大丈夫」と遠慮がちなことを言う。
しかしあと半年もすれば九十歳になるお年寄りなので、一人で置いておくのはあまりしたくない。
義父存命中も俺とミリムで別居みたいな感じにして、ミリムが義父のそばに、俺が母のそばにいようか、と提案はしたのだけれど、これも辞されている。
ひょっとして母は俺を嫌ってしまって、そばに置いておきたくないのだろうか?
ありうる話だ。
というよりも、逆に、よく今までそうならなかったな、と驚嘆すべきことである。
なにせ俺は『違う』存在だった。
普通を志していようとも異世界転生者であり、冷静になって過去を思い返せば、行動というか、行動の原理たる思考というか、そういうのがやはり『一般的』ではないように思える。
さすがに六十年超もこの世界で生きれば『この世界の常識』もわかってくるというもので、過去を思い返すたびに俺は『あの行動はねーよ』と恥ずかしさにのたうちまわりたくなってくる状態なのであった。
こんな異分子なのだから、嫌われるのは当然だろう。
自分がお腹を痛めて生んだ子が異世界転生者でした――まあ異世界転生者だと母にはわかるように言ったことはないのだけれど、思考的に異邦人であることはたぶんあきらかだったので、こんなの、気味悪がるのが普通だとは思う。
俺は異世界転生者なりの、あるいは『常識に疎い』という立場なりの真摯さで、思ったことをだいたいそのまま母にたずねた。
俺がおかしいから、母さんは俺のことを嫌いになってしまったのだろうか……
駆け引きもなにもない、素直な言葉だった。
俺と母、家の中で一対一、座る母の前に立って、ストレートにぶつけた言葉だった。
どうにも母を相手に取り繕ったり迂遠にしたりするのは違うような気がしたのだ。アンナさんに対するものと近い、これはようするに『甘え』からくる実直さだった。
「……あなたは、変わった子だったわねえ」
俺の問いかけに、母は目を細め、懐かしむように答えた。
かつての、活動的で、少し向こう見ずで、理屈よりもパッションで動くような人の面影はない。
けれど、そこにあったほほえみは、まぎれもなく、この世界に生まれたばかりで周囲すべてを警戒していた俺を安心させた、『最初の味方』の顔だった。
「難しいことを考える子だったわ」
品のいい、落ち着いた老婆となった母は、一言一言、力を振り絞るように、ゆったりと呼吸を繰り返しながら、口を開く。
「気にしなくってもいいようなことを、気にするような、子でね」
……最近の母は、物忘れが多くなってきている。
けれど目を閉じ、開き、考え、口を開く彼女の中には、幼かった俺の姿と、若かった父の姿が、克明に刻まれているのだろうとうかがわせた。
「……お父さんにそっくり」
母のしわくちゃの手が俺のほおに触れた。
冷たいその手の甲に手を重ねる。
……気づけば、じきに冬が来る。
季節は高速で輪転を続け、過去をどんどん上書きしていく。
ともすれば記憶はすぐに混線し、大事な思い出が去年のことだったのか、おととしのことだったのか、わからなくなっていく。
きっと母の思い描いているであろう、彼女にとっては克明な、輝ける思い出も、いろいろな年の楽しいものだけを縫い合わせたパッチワークなのかもしれない。
それは厳密に言えば記憶ではなく創作の領分なのだろう。時系列を無視し、あるいは一部をねつ造し、そうして完成する、人生というタペストリー。
じろじろと野暮な批評をするために観察すれば、きっと細かいところがつぎはぎだらけで見れたものじゃないだろうけれど……
衰えた目を細めてながめれば、それは輝くばかりの至高の芸術なのだろう。
「あなたは、私たちの息子よ」
母の言葉は飛び飛びで、並べただけでは俺の問いかけの答えになっていないかのように思われた。
けれど、母には母なりの理由があって、この家に残るのであり――
俺とミリムを家に住まわせないのにも、なんらかの考えがあって――
俺を嫌って遠ざけているわけではないんだろうな、と理解できた。
だから俺は改めて言う。
心配だから、そばにいさせてほしい。
本当はずっとそばにいたかったんだ。
「最初は私が言ったことなのにねえ」
意図のつかみがたい言葉に、考え込む。
すぐにはわからなかった。わからないうちに、母がうなずいた。
たぶん、俺とミリムが一緒に住まうことを許可したのだろう。
さっそく準備をすべくミリムの実家に戻り、色々な雑務をこなしているうちに、ふと、思い出す。
最初は私が言ったことなのにねぇ。
……ああ、なるほど。そうか、そうだった。
最初、俺に一人暮らしをすすめたのは、母だった。
俺は一生実家暮らしでもいいと思っていた……今となっては記憶に自信がないが……はずだったけれど、母の一声で一人暮らしを始めて、それから長いこと、親元を離れて過ごしてきたのだ。
母が一緒に暮らすのを辞するのは、自分が自立をすすめた手前の遠慮、だったのかもしれない。
そんな昔のこと、覚えちゃいなかったよ。
でも、まあ、きっと――その当時の思い出もまた、母の中で美しいものに昇華しているのだろう。
なら、俺の側からも母の晩節を汚さないように、美しいものだけを積み上げていけるように、努力しなければならない。
……そう決意してから、一年後、母は亡くなった。
御年九十歳。
俺が目標とすべき、文句のつけようもない、大往生だった。
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153話 おじいちゃんは健康
たまには人の死なない話です
引き続き余生をよろしくお願いします
俺が校長職を辞して家でお菓子作り回数を増やした影響か、孫がよく遊びに来るようになった。
この来訪はサラとブラッド公認のもので、一時期はわけがわからなくなっていた親子関係もどうにかいい感じのところに落ち着いたらしいことがわかった。
俺が五十一歳のころに生まれた孫もすでに十七歳であり、かつて俺が勤めていた学園の高等部に通うお年頃だ。
最近の子は発育が早いと言うが、エマは遺伝のせいかやや小柄であり、さすがにミリムよりは大きいものの、同世代の中では身長が低いのが悩みなのだという。
身長が伸びるお菓子作って! とせがまれたものの、そんな世界の低身長ボーイズ&ガールズを救済できるような発明品などあるわけもなく、俺は困り果てて、しかし孫のためにできる範囲で努力しよう、というあたりに落ち着いているのだった。
俺の作ったジュースを飲み、俺の作ったお菓子をたべながらリビングで宿題をする孫が、ふとつぶやいた。
「おばあちゃんって、おとなしいよね。昔の女性の理想像そのまんまって感じで」
昔の女性の理想像とやらがあんまりわからないのだが、エマの話を聞いていると、どうにも昔は『男に三歩下がってついてくる、自分の意見を言わない女』が理想像だった、という認識らしい。
いや、その理想像はね、おじいちゃんが生まれるよりも前のものなんだよ……
なんなら俺の父が生まれるよりも前の、俺でさえが歴史の教科で習ったほど昔の『理想像』ではあるまいか。
しかしエマの世代からすると歴史で習う近現代も、俺の青春時代も、まとめて『昔』というひとくくりらしい。
さすがに年号とかも覚えているはずなんだからひとくくりにはならないと思うのだが、知識ではなくイメージの問題なんだとか。
「うちはプロレス婚だけど、おじいちゃんとおばあちゃんはどんな感じだったの? やっぱりお見合い?」
エマの中で俺はなん年代の人なのだろうか……
お見合い婚が一般的だったのも、やっぱり俺さえが歴史の教科で習うぐらい昔の話で、どちらかと言えば俺の時代は『婚活』とかが中心だったと思う。
そもそも結婚する若者が少ない時代ではあった。三十代で結婚、というのも珍しくない、というか結婚する者の中では多数派で、よくよく思い返せば『結婚は裕福な者のたしなむ高尚な趣味』みたいな、皮肉交じりの評価をされていたような気がしないでもない。
というかまあ、予想はしてたんだけど、サラとブラッドはプロレス婚なのね……
俺と一緒に暮らしていたころのサラにはプロレスの影は見えなかったので、たぶん料理人を目指して自活を始めたあたりで、誰かに沼へ引きずり込まれたんだと思う。
信じて送り出した娘がプロレス好きになったうえ『なんかだめ』認定をしてた男と結婚した件について……
「『なんかだめ』ってなに?」
俺は洗いざらい暴露した。
昔サラには四人の彼氏がいて、その彼氏たちはテストの結果、次々はねられた……
中でもひどいはねられかたをしたのがブラッドで、『なんかだめ』と言われてはねられた。
しかしブラッドは不屈の精神で俺の家に遊びに来続け、俺と遊び、俺と遊び、あと俺と遊び、サラからの好感度を落とす代わりにガンガン俺と仲良くなっていった。
そうして数年後……
なんかいきなり結婚相手として紹介された……
「わからない部分が多すぎる」
そうだね。
まあサラ視点で語るならばなんかしらの青春があったんだろうけれど、さすがの俺も娘の内心の変化や、娘の体験までをつぶさに知ることはできないし、そのための努力さえする気はないのだった。
そこまでプライバシーを暴こうと行動するのは、ちょっと拘束が強すぎて父親失格だと思うの。
「あっ、違うよ。ごまかさないでおじいちゃん! 私はおじいちゃんとおばあちゃんのこと聞きたいの!」
ごまかしてはおらんのじゃが……
俺は老人のようにフォッフォッフォッと笑った。特に意味はない。こんな笑いかたしたことなかったのでムセた。
飲み物を飲んで、考える。
俺とミリムの出会い……結婚した経緯……
わからない。俺たちは雰囲気で結婚した。
「お見合い?」
いや……高校生のころだったかなあ。お試し恋人みたいなことをして、あとは流れで。
「ぜんぜんわからない」
俺もわからない。
ただ、ミリムの側には俺とくっつく目的意識があったっぽいことを、アンナさんから聞いてはいる。
聞いてるっていうか『ミリムちゃんはよかったね。前から狙ってたよね』みたいなことをこぼしたのを横で聞いただけだと思うんだけど、あれからその手の会話もなく、その会話をした当時はどうにもミリムの内心を聞くことに遠慮があった。
『お前、どうして俺の嫁になろうと思った?』と質問するのは、なんだか傲慢というか、恥知らずな感じがして、ミリムの機嫌を損ねそうで、こわかったんだ。
あ、俺、けっこうミリムに嫌われるのこわがってたわ……
かなり昔からそうだった気がする……
七十間近になって唐突に気づく自分の気持ちであった。
そんな会話をしているとミリムがリビングに入ってくる。
最近の彼女は老後の趣味として小説を書いているようで、若い時分に書いていたものよりも評価されているのか、熱を入れているようだ。
カリナの早世以来、俺は小説だの漫画だのはどうにも早死にするタイプの趣味に思えてしまってあんまりいいようには思えないのだけれど、そこはミリムの趣味なのでなるべく苦言を呈したりしないようには心がけている。
エマは飲み物をとりに来たらしいミリムを引き留めて、俺の隣に座らせた。
「おばあちゃんは、どうして、おじいちゃんと結婚したの?」
若い子はコイバナが好きだなあとほほえましく思ったのだが、エマの顔はコイバナが大好きな女子高生というよりは、興味深い歴史書を発見した史学の研究者みたいで、俺たちの結婚過程はどうにも『歴史的資料』として蒐集しているっぽい気配を感じた。
七十歳も近づくと自分が『歴史化』していることに気づかされる。
特に若者や、若者を対象とした映像配信などを見ていると、自分たちのころは当たり前だったものが史跡みたいに言われてて、面白いと同時に、やや傷つく。
ミリムおばあちゃんは七十間近だというのにどこか幼さを残す丸い輪郭に手を当てて、獣人の特徴であるしっぽをゆらゆら動かしたり、ピタリと止めたりした。
考えごとをしているのである。
「結婚以外に望ましいかたちがなかったから、かな」
それがミリムのセンスにはピタリとはまる表現だったらしく、言ったあとでミリム自身は『ようやく腑に落ちた』と喜ばしそうだった。
しかし俺とエマはわけがわからず、顔を見合わせて首をかしげる。
「おばあちゃんはね、おじいちゃんと、赤ちゃんのころから知り合いだったの。一緒にいてこんなに楽な人はいないと思ったんだけど、おじいちゃん、けっこう、まわりに女の人が多くてね。他の人とくっつくと、いつか離れないといけなくなるじゃない?」
まわりに女の人は多かったのかもしれないが、恋愛関係に発展しそうな女性は皆無だったように思うんだよなあ……
アンナさんには恋愛対象として見られてなかったし、シーラは終生のライバルだったし、カリナはカリナだったからな……
「たまたま男女だったから、結婚に持ち込むのが一番苦労がないかなあと思って」
「え、おばあちゃん、好きだから結婚したんじゃないの?」
「好き……好きっていう気持ちはねえ、よくわからないかな。中学とか、高校になると、まわりが好きだの嫌いだのでさわぐでしょう? あれが本当に、居心地悪くてねえ。恋をしていないとそこにいちゃいけないみたいな雰囲気が、苦手だったの」
わかる、とエマはうなずいた。
世代は変わっても、やはり高校生はそんなものらしい。
あるいは細かいところでは全然違うものになっているのかもしれないが、『恋に騒ぐ周囲に合わせられない』というのは、恋愛というパラメーターを持たずに生まれてきた者共通の悩みのようだった。
「ちっちゃいころから、この人と一緒にいたら、たぶんずっと楽に過ごしていけそうだって確信があったのね。だから、一緒にいる方法を模索したら、結婚になったのよ」
ちなみにミリムの内心は俺も初めて聞くのだが、『彼女の考えはきっと広く理解はされないだろうな』と思えたし、同時に、『わかる』とも思った。
ミリムは『生きる』ということにかかるコストをきちんと見積もっている。
誰かと一緒に生きねばならないならば、低コストで過ごせる相手と一緒がいいのだと、本能か、あるいは理屈かで理解したのだ。
ミリムもけっこうパッション系なところがあるのでたぶん本能だと思うのだけれど、彼女の『一緒にいて楽そう』は俺も求めているものだったし、そういう意味で、彼女が俺を選んだのは必然で、俺が彼女を選んだのは理想的な選択だったように思えた。
俺は言う――たぶん、魂が合うんだろう。
ミリムはうなずいて「それ」と言った。
「おじいちゃんの考え方は、わたしによく合うものだったのかも。『魂』があって、『肉体』がある……ううんと、宗教的な話じゃなくってね。生まれつきの性質がまずあって、それが肉体をまとって出てくる、っていう認識かな? だからね、きっと、わたしの性根は永遠に変わらないんだと思ったんだ。だからね、おじいちゃん以外が相手だと、すごく苦労しそうだなあって。そうなるともう、おじいちゃんしかいないでしょう?」
俺はめっちゃうなずいた。
わかるわ……超わかる……
百万回生まれ変わっても性根は変わらない。
理屈で考えるようにして、生存を第一目標にしたって――
非情な選択をできないまま、死に続けたのが、俺だった。
魂、あるいはそう呼ぶしかないもののかたちは最初から決まっていて、人格はそこで決まる。
環境による細かな変化はあっても、芯みたいなところはきっと、変わらない。
だから、自分の魂に寄り添える相手を見つけるのが大事で……
ミリムは俺を見つけたし、俺はミリムがそうだと、今気づいた。
そういえば俺が転生者であることを告白した時も、ミリムはやけにすんなり受け入れて、特にリアクションもなかった気がする。
聞き流されたかなと思ったが、そうじゃなくって、ミリムにとっては最初から『魂』と『肉体』は別のものだという認識があったから、転生という概念はむしろ『腑に落ちた』のだろう。
いやあすごいな、五、六十年前に解いておくべきだった謎が今解けてるわ……
やっぱ若者とは話してみるべきだなあ。
ありがとうねエマちゃん。
「私はなにもかもわからないんだけど!」
お菓子をお食べ。
「食べるけど!」
ついでに思いついたことをエマに言ってみよう。
エマちゃん、おじいちゃんはね、運命とか、神様とか、そういうものが大嫌いで、否定したくてたまらない感じなんだけど……
「おじいちゃん、意外とロックだね……」
そう、ロックじじいなんだよ(意味不明)。
否定したいのはね、誰よりも、神様や運命を信じているからなんだよ。
たぶん、そういうものは、あるんだ。
だからなんていうのかな……
うん、がんばれよ、若者。
「着地点!」
若者は元気でいいなあ。
ジュースをお飲み。
明日は朝から運動しようねえ。
最近はそんな感じで孫の健康を管理しながら生きている。
とりあえずは理想的な七十代になれそうで安心しつつ――
やはりまだ、どこかに『敵』はいるのだろうという警戒はおこたらない。
この世界の『敵』ははっきり言ってしょうもない被害しか与えてこないが、それさえも油断を誘うための策略である可能性があるのだ。
今の俺はもっぱら、危機的状況におちいっても孫娘をかっこうよく助けられるスーパーおじいちゃんを目指して体を鍛え続けている。
こうやって細々と目標を抱き続けることが、運動を長続きさせるコツだ。
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154話 中二病・老
老年になってきた主人公の余生をお楽しみください
七十歳を超えておどろいたことは、思いの外ぼうっとする時間が増えたことだった。
職を辞してすでに数年が経つ。孫の大学受験も終わり、一時期は教師役となっていた俺もお役御免となってすでに一年ほどが経過していた。
そうなるとやることがなくなるので、ぼんやりする時間が増えるのは必然だし、覚悟みたいなものはあったのだけれど、それにしたっていくらなんでも、なにもしていない時間が増えすぎだと思う。
これが『タスクを見つけ出せずぼんやりするしかない』時間なら、まだいい。
ところが俺にはやることがたくさんあるのだった。
締め切り的に切迫した作業は全然ないのだけれど、やるべきことがまったく見つけられないというような、そんなことはない。なにせ、老後のヒマな時間に備えて俺は趣味の開発に余念がなかった。数々の手をつけられる趣味が俺の前には転がっている。
そこで俺はウムとうなずき、よしやるぞ、と気合いを入れる。
ところが気合いを入れたあと、なぜだかぼーっとしてしまう。
だらだらとお茶を飲み、孫の帰りを(大学生になった孫は、俺の家から学校に通っている)待つばかりなのであった。
まずいのはわかるのだが、まったく危機感を抱けない。
それは客観的というよりも傍観的な視点で己の人生を見ているのだった。自分の人生に当事者意識が全然ないのだった。
奇妙な心情だ。たしかに俺は生きている。生きているのだけれど、生きているかどうかわからない。
俺は……俺は……締め切りがほしい。
いや、締め切りでなくたっていい。なにか、『時間までにやらなきゃな』と思えるようなものがほしいんだ……
働きたい……
ぼそりと口にした言葉に、自分でおどろいた。
俺は今……働きたいと言ったのか?
というか俺、今……無職じゃん。
あれほど渇望しあこがれた無職に、今、なっている。
実際になってみた無職は死ぬほど(この年齢だと冗談にもならない)ヒマで、かつての俺はどうしてあそこまで無職を志したのだろうと首をひねる。
ああ、そうか、もう、俺は……無職を志した若い日となにもかも違うんだ。
労働に慣らされてしまった。労働なしでは生きていけない体にされてしまったのだ。
もう取り返しがつかない。
若き日、俺は『なぜ、人は働くのか?』と疑問に思っていた。
それはもちろん『お金のため』なのだが、お金のために働いているうちに、いつしか働くことが生活の一部に組み込まれ、労働なしでは落ち着かないようになってしまい、気づけば働くために働いている自分が生まれているのだ。
今も俺はすごく働きたい気持ちだ。
目を細めて教師人生を思い出す。
つらいことも困ったこともいっぱいあったはずなんだけど、それはサッパリ思い出せなくて、なんかいい思い出しか脳裏によぎらない。
ひょっとして……いいことしかなかったんじゃないか?
……危ない。これは洗脳だ。洗脳を受けている。
俺は今、過去の自慢話ばかりする老人たちを思い出していた。彼らは、聞いてもいないのに、自分の人生に一切の汚点も失敗もないかのように、自分の活躍ばかり話していた迷惑な人種だった。
若き日の俺は『よくもまあそこまで自分に都合のいい話をねつ造できるものだ。俺ツエー創作でもやればいいんじゃないか』と思ったが……
そうじゃ、なかったのだ。
彼らは……記憶を失っていたのだ。
いいことしか思い出せない。別に活躍なんかしてなくっても、たいへんな活躍をしていたかのように、脳が勝手に補正してしまう。
自分で自分を洗脳しているのだ。
今、俺がそうだ。俺は百万回転生した経験から、自分の脳さえあまり信用しておらず、『いいこと』しか思い出せない己の記憶を疑うことができた。
けれど妙に記憶に自信があり、『記憶にはねつ造はなく、勘違いもない』と思いこんでいる一般老人であれば、きっと武勇伝まみれで汚点の一切ない自己洗脳したすえのねじまがった過去を信じこみ、孫や若者なんかに語りたくてたまらなくなっていたことだろう。
冷静に自己客観視をした俺でさえ、すでにちょっと語りたい。
転生経験のない『年老いた若者たち』ならば、きっとこの衝動を抑え込むのは不可能だ。
……なるほど、最大の『敵』は己だったのだ。
人類の肉体に仕込まれた数々のバグこそが、この世界でもっとも強大な『敵』であった。
なるべく目立たぬよう、人と敵対せぬよう、自己を客観的に見つつ、先延ばしできる問題は死ぬまで先延ばし……俺はそういうふうに生きて、七十歳を迎えた。
しかし七十歳になったとたん、若者に武勇伝とか語りたいし、そのせいで他者と敵対する可能性が頭をよぎるのは遅れるし、自分の記憶の正しさを妄信しそうになるし、先延ばしでいい問題も『俺ならできる。なぜなら経験があるから』とかいう意味不明な自信によって解決してしまいたくなるのだ。
まさか七十歳になって中二病にかかるとは思ってもみなかった。
経験うんぬん言うなら俺にはすでに百万回の人生経験がある。
それでもどうにもならないからこんなに慎重に生きているのだ。それを、たかだか七十年の経験でどうこうできるはずがない。
……よし、冷静になった。
俺は……無職でいい。
再び仕事をする必要はない。仕事をしないために働き続けた人生だった。そうしていたった無職という境地を再び捨てさる理由などないのだ。
そう頭でわかっていても、俺の中には、再就職の欲望がくすぶっている。
正しくは、『経験を積んだ老人になってからの再就職で、若者にチヤホヤされたい』という欲望がうずまいているのだ……!
くっ、静まれ、俺の右手……!(老人再就職募集サイトを開こうとしている)
俺は、無職だ。
断固として、無職のまま――あと二十年、生きていくんだ。
ハッピー端午の節句
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155話 しゅうかつ、かいし
本日は子供の日2日目です
おじいさんの話をよろしくお願いします
マーティンがいい酒を持っておとずれたのは孫のエマが二十歳になった歳の暮れで、それを俺は孫にあげようと思ったのだが、マーティンはどうやら俺と飲むために持ち込んだらしい。
孫が一人暮らしを始めてからというもの、俺の再就職欲望(正しくは再就職自体を望んでいるのではなく、『再就職すれば豊富な経験から発揮される有能さで若者にチヤホヤされる』という妄想と現実の区別が難しくなっている)、毎日再就職募集サイトを開こうとしては『鎮まれ、俺の右手!』というのを繰り返していた。
今では情報にアクセスできる端末を体から遠ざけておくことで対処しているが、そうなるとヒマで、俺は端末を使わない時間つぶしの手段として、お菓子作り(改良の段階なのでネットのレシピはもういらない)や、父の遺したボードゲームなどを用いるしかなかった。
そんなおりにおとずれた旧友の存在はありがたく、俺はなん回か『いいお酒なら孫にあげたい』とねばったすえに、マーティンと語らう時間を確保する目的で、酒を孫に贈ることをあきらめ、彼を受け入れた。
「っていうか俺が持ってきた酒をそのまま孫に横流ししようとか、お前はほんと……」
マーティンは俺と同じくすでに七十一歳のはずなのだけれど、口調は若々しかったし、体の動きも健康そのものだった。
俺が世の七十代より動けるのは若いうちから健康に気づかい運動をしてきた成果なのだから因果がはっきりしているのだけれど、マーティンがこうも健康なのは理由がまったく不明だ。
本人に健康の秘訣を聞いたら、彼はこう答えた。
「病院に行かないことだな」
俺は『マーティンの葬儀がいつ入ってもいいように準備しておく』とメモしてから、ミリムとマーティンと三人で酒盛りを開始する。
持ち込まれたのはたったひと瓶の酒だ。
それは若い時分ならば一瞬でなくなるような量だったのだけれど、もう数十年単位で酒を飲んでいないこともあって、コップ一杯でさえ、なかなか減らない始末だった。
いくらかのツマミもこしらえたのだが、そちらもなかなか手がつかず、孫がいた時と同じ分量で作ってしまった料理たちは、どうにも残ってしまいそうな気がした。
「俺にも孫ができてさ」
マーティンはなんでもなさそうにそんなことをつぶやいた。
待って待って。
お前そもそも子供いたの?
「ああ、言ってなかったっけ。式はあげてない。五十代のころに三十代の子とちょっとな」
『ちょっと』ではすまない物語性を感じたのだけれど、マーティンは「まあそこはいいだろ」と話を先に進めたがった。
全然よくないし、なんなら孫の話よりも気になるのだけれど、マーティンは自分に都合が悪い話はしたがらないので、たぶんこっちとも離婚してるんだろうなあと察した。
「まあまあ、言っても息子は元嫁の連れ子だったんで、孫とは血縁はないわけなんだけど、やっぱ初孫っていいよな。小さい生命、好きだわ」
俺の知らないところで色々あるんじゃねーよ。
知っておかなきゃならない前提をまったく知らないせいで、『孫が生まれた』というマーティンが一番語りたがっているであろうニュースに全然興味が持てない。
「養育費払ってた関係で義理の息子のほうとはそれなりの付き合いがあるんだけど、元嫁とはあんま顔合わせたくないから、元嫁のいない時しか孫に会えないのが難点だな」
とりあえずマーティンに『お前の葬式の時呼ぶ必要があるから』と言って義理の息子の連絡先だけ教えてもらって、あとは彼の語りたいことだけ語らせた。
言葉の端々からうかがえる俺の知らない彼の歴史が気になって気になってしょうがない。
たしかに昔、『もうすぐ四十になる男が同年代の男の家の掃除には行けない』ということでマーティンの家の清掃業務を辞めてから付き合いは浅くなったけれど、にしても、そういう節目では連絡をしてくれ。
衝撃の事実が次々におわされて、おどろきのあまり心臓の鼓動がやばかった。
七十代の心臓にダメージを与えるな。
「俺はもうね、死ぬ時はそれが運命だと思ってる。俺の心臓が止まったら救急車が来るようにもしてるしな。孤独死が人様に迷惑をかける時代は終わったんだ。これからは一人で死んでもいい……もう、そういう未来なんだぜ」
ディストピアかよ。
まあ社会制度が充実している、という意味でいい時代なのは間違いないのだけれど、マーティンみたいにいつ死んでもいいと自分で言ってるヤツの『死』と、なんとしても九十までは生きると決意している俺の『死』とを同列に語らないでほしかった。
俺は死にたくないんだ。
だから心臓に悪い話はこれっきりにしてほしい。
「お前の心臓に悪い話がどれかわからん。社内恋愛した相手が同級生の姪っ子だった話とかは大丈夫?」
お前の人生は大丈夫?
誰かから刺されて死なない?
「いやしょうがないじゃん。俺のモテ期、五十代だったんだよ。あのぐらいの年齢のころ、なんか妙に若い子にモテてな……俺だってできれば十三、四歳ぐらいのころに十六とか十七とかのお姉様にモテたかったよ。でもしょうがないよ、モテ期ばっかりは。神様の思し召しだもの」
つまり呪いである。
そうなるのがもっとも都合が悪いから、あの全知無能存在はそうしているのだ。……マーティンは運勢極振りみたいなところがないでもないのだけれど、それでもなお全知無能存在に困らされてはいるらしい。
ちなみに彼のどのへんが運勢極振りだと感じるかと言うと、運動も食事制限もしていないのに、七十歳の体が妙にシュッとしているあたりだ。
お前の細い体つきやらまっすぐな背筋やらは鍛錬によってようやく維持できるもので、自堕落な生活をしてるのに持ってていいものじゃない。
マーティンを見ていると俺は、理不尽を感じる。
昔だったらちょいちょい『死ね』と言っているところだ。
今は冗談にならないので言わないが……
「まあ七十歳は即死圏内だから。俺は死ぬ準備はできてる。お前もしとけよ」
死ぬつもりはないが、準備はしておかねばならないのだろう。
終活というやつだ。
『つもりがない』と『可能性がない』はまったく別の話で、もしも俺がこの世界で煙となれないのならば、せめて遺された者たちに迷惑をかけないようにしたい。
俺が別世界にまた転生することになっても、やはり親族友人に『最期になんてものを遺してくれたんだ』とは思われたくないのである。
そのほかくだらなかったり『いや、先に教えてくれよ』という感じだったりする話を終えて、マーティンは暗くなる前に去って行った。
人と会話すると脳が一気に動く。
お陰でやるべきことが明確になった。
そう、俺は再就職なんぞ渇望している場合じゃなかったのだ。
九十を迎えられるとしたって、歳をとってからの二十年はあまりに短い。
まして八十代後半にもなればまともに頭が動かなくなる可能性がある。
ならば今のうちから遺言やら身辺整理やらをしておこう。
そう、俺は――終活を始める。
さしあたってはデータ収集をし、それを元に終活ですべきことをリストアップしたりすべきだろう。
久方ぶりに楽しくなってきた。
でも、その日はしゃべって疲れてしまったので、早々に寝た。
歳をとると、一日にできる行動量が信じられないぐらいに減る。
やはり終活は急務だ。こうして俺の晩年をいろどる主な活動は決定したのだった。
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156話 老人としての生き方
マーティンもいろいろありました
現実で実用化されてたり理論だけあったり実用化はされてるけど一部の人のみにしか適用できなかったりするシステムがはびこる魔法世界です。余生をよろしくお願いします
就職してからというもの孫は再び我が家住みになり、ミリムと話す時間が増えたようだった。
なんでもミリムの母方の生家について、というか国家についての質問をしているらしい。この国からはるか遠い東にあるかの国家に興味があって、そこの文化を蒐集しているのだとか。
とはいえミリムも血がつながっているだけで彼女の母方の国についてはあまり詳しくはない。それでも『孫の頼みだから』ということで、亡き義父や義母の遺品を取り出しては、その国のことを調べたり、遺品そのものを孫に渡したりしているようだった。
ミリムは『思い出の品』を大事にする。
俺が父母の遺品のだいたいをなんらかのかたちで処理してしまった(データであったものはそのまま、データ化が容易なものはデータ化して残してある)のに対し、ミリムは遺された物品そのものをかなり保有している。
これは意外と思われることが多い。娘のサラにさえ、ミリムが『物』を大事に保管しているのはおどろかれた。ミリムはどうにも、もっとドライで効率を重んじ、無駄の一切を切り捨てるというようなやつだと思われているようなのであった。
それは不正解ではないがズレている。
ミリムが一番大事にしているのは『無駄なことにコストを払わない』ことだ。
基本的に生きていくこと自体はめんどうくさいが、さりとてさっさと死んでしまいたいわけでもない俺たちは、『生きる』ことにかかるコストを小さくし、リスクマネジメントをするのが趣味みたいなところがあった。
その低コスト生活は俺の場合、『生きる』という目的に対し払うコストを捻出するためのものなので、『生きる』目的に合致するならば、多くのコストを払うこともいとわない。
ミリムの場合もまたコストを支払ってもいいものがあるようで、『思い出の品』の保管などはその『支払ってもいいもの』の中に入るようだった。
そうしてコスト――気力とか、手間とかを支払って保管し続けたものを最近、ねだられるまま孫にあげてしまっているのは、たぶん、彼女もまた
俺たちはすでに七十代半ばだ。
病院に行く頻度も増えた。
もともと俺たちは病院通いをまったくいとわないので、健康診断などでちょくちょく利用するのだが、この年齢になるとやはり体にガタがくるのは避けられないらしい。
俺もミリムもいくらかの薬をもらうことが多くなった。それはうちの母が同じぐらいの歳のころと比べればだいぶ少ないように思われたが、それでも老いというのは確実に肉体へダメージを与えてくるのだ。
だんだんと『死』までの距離がわかってくる、とでも言うのか。
青年期や中年期にはぼんやりして正体のわからない存在だった『死』が、老齢になるとすさまじく身近に感じられるのだ。
それは恐怖も焦燥もない、不思議な気持ちだった。
こうまで『死』の気配をはっきり感じながら、俺は全然あわてていない。
気配をはっきり感じるからこそ正確な距離がわかるというか、『まだ死なない』という確信がある。
ただ、一日に活動できる時間が減ってきていて、たとえば俺の死まであと二十年あるとしたって、その『二十年』が決して長い時間ではないことを、今の俺は知っているのだった。
毎日毎日、コツコツと、有終の美を飾るために準備をする必要がある。
俺のしたためている遺書なんかもその準備だし、ミリムが孫に母方の生家にまつわる思い出の品々(俺の義母の日記など)を与えているのも、生前の遺品整理なのだろう。
老人には老人の忙しさがある。
ぼんやりしていたり、日がな一日テラスでお茶をすすっていたりするイメージのあった『老人』であったが、実際になってみると、そうぼんやりしたものでもない。
若者が一日に十八時間動けるとしたら、老人は六時間ほどしか全力稼働ができない。
いや、俺は健康に気づかってきたからこうまで多くの時間動けるのだけれど、特に健康に気づかわず老齢になったならば、きっと三時間ほどの全力稼働が限界だろう。
だからその少ない全力時間を効率良く使うために多くの休息が必要なのだった。
若いころの俺が『老人はヒマそうだな』と思いながら描いていたお茶したりするシーンは、まさしく『休む』という仕事の最中にほかならなかったのだ。
特に俺は存外いろんなものを抱えてしまった。
教師になって、校長まで出世した。
その前は担任やら部活顧問やらもやった。
そうしてできた関係の中には今もって切れていないものもあって、それは『定期的に会う』ほどまではいかなくとも、なにかの折には贈り物がとどいたり、メッセージのやりとりがあったり、そういうものだった。
カリナの亡くなったあとのことについて、そうして残っていたつながりが絶大な力を発揮したのは言うまでもない。
俺が顧問をしていた文芸部はその道に進んだ者も少なくなかったため、カリナの遺品整理や『漫画家が亡くなったあとにすべきこと』について、俺やミリムでは思いつかないこと(SNSまわり、アシスタント関係)をいくらかアドバイスもしてもらった。
こういうつながりは切るに切りがたく、疎遠ではあるのだけれど、細々と続いていた。
俺が死んだ場合、こういった人たちにも俺の死を連絡し、借りのある相手に対しては死ぬまでになにかを返さねばならないだろう。
人付き合いは可能な限り最小で――そう思っていた。そうしてきたつもりだった。
だから今残っているのは『最小』のはずの、厳選に厳選を重ねた関係だけのはずだ。でも、かなりの量がある。
七十年以上も人生を過ごすというのは、そういうことなのだった。
少なく少なく切り詰めてきたつもりでも、膨大な量の関係性を抱えてしまっている。
半ば社会から卒業したと言える今でさえ切れない関係は本当に多い。
俺の『死』に際して、彼らとの関係をどう終えるか、彼らに、そして俺にどう悔いを残さない別れを演出するかは、数年がかりで考え続け、ようやく三分の一ほどの演出プランが決まった、という段階であった。
九十歳までと考えれば、あと二十年もない。
ざっと計画を立ててはみたけれど、けっこう、ギリギリだ。
それでも慌てて活動時間を増やすことはできない。
老齢になった今、一時間の無理が一週間を棒に振る結果につながりかねないからだ。
若きは勢いと無茶でどうにかできた。
青年期は仕事密度を濃くして時間を確保した。
中年期になると仕事量は多くなったが頭を使うものばかりで、目の前に『仕事の資料』がない状態でも、日常的に、頭の中で仕事をすることが多くなった。思考持久力で、プライベートに仕事を食い込ませながら、生きていた。
老人は、頭も体も、無茶ができない。
事前のスケジューリングがすべてだ。
余計なことを考えないよう、余計な仕事を増やさないよう、己のことを把握しきったスケジュールを立て、半自動的にそれに従う生活が求められる。
七十半ばにして、ようやく老人としての生き方がわかってきた。
あとは『死』に向けて一直線だ。もはや不安はなく、恐怖もない。
それでも油断だけはせぬように、事前に計画を立てていこう。
『敵』がいつどこから現れるかわからないということに変わりはなく、『それ』への警戒をゆるめたとたん、俺はきっと、なにかの糸がぶつりと切れる気がするから……
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157話 生きていく/八十歳を控えて
終わりが近づいていく人生を最期までよろしくお願いします
二十代前半からじらされ続けた孫の結婚は、彼女が二十代中盤にさしかかってもつかず離れずという青春ドラマみたいなものを見せられ、気づけば孫は三十代に近づき、『おじいちゃん、私ね、もうすぐ結婚するかも』と言われてからはや五年が経とうとしていた。
そのあいだにも俺はもちろん歳をとるわけで、気づけば八十歳まであと一歩だ。
周囲の八十歳手前の面々と比べればまだ若いような気はするのだが、俺の母も八十歳を超えたあたりからガクリと活動時間が減ったので、七十九~八十のあいだに一つの『谷』があるだろうことは想像にかたくなかった。
塩を控え、運動をし、睡眠をよくとる人生を送ってきた。
しかし健康を司るモノは気まぐれだ。健康に気づかい続けた者に報いるとは限らないし、気づかわなかった者に罰を与えるとも限らない。
口惜しい限りだが、人の身ではどうしようもないこともあるのだった。
努力とはその『どうしようもないこと』になるべく行き当たらないように人生の乱数を狭める行為である。
努力を怠ってはいけないが、万能と思ってもいけない。『努力しているから安心だ』という油断こそが悪いモノを呼び込むと信じて、今日もウォーキングと簡単な筋力トレーニングを欠かさない。七十代で筋トレやってるんだぜ。すごくない?
俺とミリムは今のところ壮健だが、シーラもまた壮健だった。
法曹界に君臨する女帝となった彼女は相変わらずで、自他共に厳しい性格から同世代にはとっつきにくいと言われ、後輩世代にはおおいにおそれられている。
あいつは若い時から『敵対』以外のコミュニケーションをしてこなかったし、そのまま、しないまま人生を終えるのだろう。
『戦って、勝つ』という人生だった。そうして勝ち続けたのだ。
そして今も戦っているのだ。
俺との生存レースである。
あいつの意味のわからない対抗心は、幼い時分から今にいたるまで変わることがなかった。
特に俺に対する時はいつでもケンカ腰で、なにかと競いたがり、態度はむやみにトゲトゲしく、表情は意味もなくツンケンしている。
俺たちはそうやってコミュニケーションをとって生きてきたし、死ぬまでそうするのだろう。
それは俺にとっていいことだった。
対抗する相手がいると気力がわく。気力というのは歳をとればとるほど重要になってくる。気力があっても無理はできないが、気力があれば『あとはご本人の気力次第です』というタイミングで息を吹き返すこともできるのだ。
隣でがんばっている妻の存在と、向こうでがんばっているシーラの存在があって、俺も心折れずに生きることをがんばっていける。
ところがこの『気力』が一気に折れるような事件が起こる。
本当に意外なほど一瞬で気力がなえてしまったその事件は、『アンナさんのご逝去』だった。
俺より二つ年上の彼女はすでに八十歳を超えている。
若いころから七十歳近くになるまで、ずっと音楽の道を進み続けた。
大変な苦労があっただろう。
演奏というのは体力を使うイメージがある。アンナさんがどれほどの鍛錬をし、どれほど節制して現役を維持していたのか、俺の想像力で思い描くことは難しい。
しかし、彼女はなにせ俺より二歳も上なので、俺より先に死ぬ可能性については前々から考慮していた。
八十一歳は充分に『大往生』と言えるだろう。
アンナさんの旦那さんも、息子さんも、お孫さんも、みんな彼女の死を受け入れていたようだった。
俺だって、受け入れる準備はしていた。ところが意外なほどに、心が折れている。
思えば彼女の存在は俺にとって代わるもののない、大きなものだった。
音楽の道に進んでからは疎遠気味ではあったけれど、連絡はそれなりの頻度でしていた。
歳を重ねるにつれ『姉離れ』は進み、今ではたまに互いの安否を確かめ合うだけで嬉しいような、そんな程度の間柄にまで落ち着いていた。
きっと俺の中でアンナさんより大きなものがたくさんできたから、相対的に、彼女の大きさが変わっていったのだろうと思っていた。
ところが亡くなったと聞かされた時にはしばらく呼吸もできないほど気力が落ち込み、このまま俺もあとを追うように死んでしまうのではないか、と本物の危機感が頭によぎったものだった。
彼女は俺にとって日差しだったのだ。
普段は意識しないほど当たり前にあって、生きていく中でその存在をだんだん意識しなくなっていく。
けれど、いざ、日差しが永遠に消え去るならば、その事態の大きさに困惑し、取り戻せないものかと焦燥し、戻らないのだと理解した時、絶望するだろう。
歳をとったせいか、悲しくても、涙が出ない。
ただただ空っぽがおしよせてくる。
俺は葬儀の準備のためにテキパキ動くこともできず、ただ家の中でぼんやりした。
目の前にはミリムがいて、彼女と一緒に見つめ合って、植物のように、椅子に根付き続けた。
言葉を発したのはどちらからだっただろう。
ぽつりぽつり、と俺たちはアンナさんのことを語り合う。
それは遠慮のない思い出話だった。
俺さ、最初、アンナさんのこと、ずいぶんキレた幼女だと思ってたんだよな……
当時のアンナさんにはキレ芸みたいなものがあった気がする。なんかすごく理不尽に怒られた印象ばかりがよみがえってくる。
しかしかわいかった。
かわいいは正義というのはどこの世界で覚えた言葉だっただろう? アンナさんは俺より二歳年上のお姉さんで、俺の精神よりはだいぶ年下のおしゃまな女の子だった。
理不尽に怒られると『は? ふざけんなよ幼女』と思うものだったが、彼女が表情をくるくる変えて嬉しがったりすると『まあいいや、寛大な心で許してやるよ、幼女……』とついつい折れてしまうのだ。
「……年上のお姉さんを心の中で幼女呼ばわりしてたの?」
いや、年上だけど……幼女ではあっただろう。
父親のことを『彼』と呼ぶと不自然だろうけれど、父親もまた『彼』には違いないのだ。
そんな感じ。
幼女幼女と口にしていると、不思議なことに元気が出てくる。
幼女の話をしている俺たちはいつのまにかニコニコとしていて、幼女の話題で盛り上がるうちに、どうにも心の中でどんどんふくらんでいた『空っぽ』は次第にしぼんでいき、ずいぶんと呼吸するのが楽になってきた。
俺たちの思い出話の中で、幼女は少女になった。
少女は女性になり、結婚し、子供が生まれた。
演奏家としての側面が語られ、母親としての側面が語られた。
話の中のアンナさんの姿が現代に近くなるにつれ、その姿は不鮮明になっていき、また俺たちの話は彼女の少女時代に戻る。
最後にはいつまでも若々しい彼女の姿が脳裏に残った。美しいお姉さん。きっとその姿は俺の青春の擬人化なのだろう。
死者を通じて、俺たちは心を若返らせる。
それはきっとまやかしにすぎない。
イメージの中のアンナさんには現実と違う部分がたくさんあって、俺たちの話はどこまでが想像でどこまでが事実なのか、もう、確かめるすべはどこにもないのだった。
まあ実際には昔からつけている記録をひもとけば当時の俺たちの正確な姿が浮き上がってくるのかもしれないけれど、俺もミリムも、自分たちが記憶だけを頼りに語る思い出話の不正確性を理解しながら、そのまま、語り続けた。
生きている人物を過剰に美しく語るのを、俺は好まない。
けれど思い出の中でしか話せない相手を美しく語るのは、よいことだと思う。
死者を偲び、語り合う。
その語り合いは哀悼の意からおこったものではあったけれど、死者ではなく生者である俺たちがなぐさめられるかのようだった。
「……おんなじものを見てた人が、すぐそばにいるのは、助かるねえ」
ミリムはのんびりと言った。
俺はそうだなとうなずいた。
それきり、黙った。
黙らなければ、せっかく縮んだ心の中の『空っぽ』が、また大きくなりそうな気がしたからだ。
俺たちはわかっていた。
夫婦だからって、同時に死ねるわけじゃない。
どちらが遺されるのかはわからない。でも、遺されたほうには、もう、『おんなじものを見てた人』がそばにいないのだ。
誰かと一緒に死者を悼んで、自分を慰めることは、できないのだ。
生き残るって、残酷だ。
でも、俺たちは生きていく。
二人で長く生きるために、怠らずに、生きていく。
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158話 光陰
老人です。最期までお楽しみください
孫が結婚したのは彼女が三十歳になった夏のことで、その冬にはもうひ孫が生まれた。
八十を越えた俺はといえば覚悟していた通り活動時間が目減りして、相対的に見れば健康に問題はないが、若い時分と比べればやはり不健康になっている。
最近は筋力トレーニングも休みがちだ。
この年齢になって過度なトレーニングは関節がすり減るだけでいいことがない。だいぶ前から『筋力向上』ではなく『運動性能維持』のためのトレーニングに重点をおいていたのだが、どうにもそれも、いずれ難しくなる気配があった。
最近は毎日誰かの訃報がないか確認するところから一日が始まって、そうして月に一度は同級生やら先輩やら後輩やらが亡くなったという話が入る。
基本的には弔辞をメッセージとしてとどけるだけになったが、よほど親しい相手の葬儀には出向くこともある。
その移動がなかなかきつくて、ブラッドに運転手と車を貸してもらったりもしているのだけれど、『ただ車に乗って移動する』というだけでけっこう体が重くなってしまうのには、苦笑しつつ『まいったな』と言うよりほかになかった。
五十代半ばとなったブラッドは政治家として脂がのった年齢であり、その妻であるサラもまた忙しさがいや増しに増しているようだった。
サラは無職を目指してブラッドに嫁入りしたと俺は記憶しているので、たいそう不満だろうと思ったのだが、どうにもそういうことはないらしい。
俺は人がいつまでも無職を目指し続けられないことをよく知っていた。世界は労働を求め、労働する者を優遇し、労働しない者を冷遇する。
そんな狂った労働世界では次第に人は『労働することが普通なんだ。労働しないと落ち着かない』と発狂していき、だんだんと『働きたくない。五千兆ほどのお金がほしい』と言っていたころの志を忘れていく。
きっとこれもまた『敵』の陰謀だったのだろう。
この世界の平和さに合わせたみみっちいスケールの『敵』ばかりかと思っていたが、やはり世界単位での動きもあったようで、今思えば生活のそこここにやっぱり『敵』の手があったような、なかったような感じだ。
最近の俺は過去を思い返すのもおっくうなので、そろそろ老人ホームにでも入ろうかなと思っていたりする。
しかしミリムが今さら住環境を新しくするのを好まない様子なので、八十代の老人二人、いつまでもミリムの父のものだった家で、毎日毎日、静かに過ごしているのだった。
今月の死者は同級生が三名で、彼ら彼女らとはそこそこの付き合いを続けてはいたものの、やっぱりアンナさんほどの『空っぽ』は押し寄せてこない。
メッセージを送るだけにとどめて、体調を理由に葬儀には出席しなかった。
実際には同年代と比べれば俺はすさまじい健康体だと思うのだけれど、最近は気力のほうが目減りしていて、行動を起こすのにものすごい事前準備がいる。
老人になってからの人生は『やりたくないことはやらない』というものだった。やれないのだ。やりたいと思えないことには気力がわかない。気力がわかないから無理して気合いを入れることもできない。
ところが趣味のほうでは気力が萎えることもなく、俺は日がな一日お菓子作りをしているし、ひ孫がそれを口にする日を待ち続けている。
最近の行動するかしないかの判断基準は『やる気』に一任されていて、すっかりリスクヘッジをしなくなっているのが自分でもわかった。
だから久々にパッとやる気にまかせた判断ができなくて困ったのは、アンナさんの旦那さんの葬儀へ参列するかしないかだった。
彼は顔と性格のいい音楽家で、やはりアンナさん同様、長いあいだ現役奏者として名をはせた人物だ。
付き合いは深くもなく浅くもない。
アンナさんを通しての交流がほとんどだったので、彼は俺にとっていつまでも『アンナさんの旦那さん』であり、けっきょく、他の立ち位置になることがなかった。
まあアンナさんの忘れ形見であるルカくんからの連絡だったので、出よう、と決意する。
参列した葬儀では、俺の中でアンナさんが永遠に若く美しい少女になってしまった影響で、五十代となったルカくんの姿におどろいてしまった。
五十代となっても美おじさんではあるのだけれど、俺の中のルカくんは紅顔の美少年だったのだ。
『顔のよさだけで生きていけそう』というひどい評価をサラからされていたこともあったが、それはあながち否定もできないぐらいの、本当に中性的美しさを持った少年だった。
だからびっくりした俺はつい『君も歳をとったねえ』と当たり前のことを言ってしまう。
吐いた言葉は呑めないものだ。つい先日、アンナさんの葬儀で会ったばかりだというのにこんなことを口走る俺に、ルカくんはおどろいたようだった。
しかし彼はこういうのにそつなく対応するコミュニケーション能力がある。
「……母の葬儀からもう二年経ちますからね。私も少し、変わったのでしょう」
……ああ。
そうか。あれから、もう、二年も経っているのか。
時間の流れの早さを改めて認識した気がした。
つい先日と思っていたことは、二年も前の話で、俺の中での『年』がどんどん短いものとなっていっている。
ぼんやりしているうちに時間がすぎていくというのは、こんな感覚なのだろう。
なんだか胸をおさえた。苦しくなって、目頭が熱くなった。
俺はまだアンナさんの死を受け止め切れていなかったのだ。
『綺麗な思い出』として心にとどめることで、どうにかおしよせてくる『空っぽ』をおさえているのだけれど、それは急場しのぎでしかなくって、正しく彼女の死を飲み込むには、まだまだ時間がかかりそうだった。
この年齢での『時間がかかる』は、いったいどのぐらいなのか?
二年前を『つい先日』と思ってしまうような時間感覚だ。……きっと、死ぬまで受け止めきれないのだろう。
これから先、受け止めきれない死を抱えて生きていくんだな。
理解して、納得して、ちょっとだけ受け入れた。
俺はルカくんに『もう二年なのか。早いものだねえ』と笑って、彼に導かれるまま、妻とともに参列者の席に着く。
椅子に腰を下ろす、という動作が、なかなかおっくうだ。
杖でも持とうかなとぼんやり思う。
それはとてもいい思いつきに感じた。杖を持った老紳士というのは、なりたいジジイの姿ランキングでかなり上位に入る。
そうだ、どうせなら杖を作ってしまおう。木を削って、磨いて、塗料を塗る。きっと気に入るものができるだろう。
そして俺が死んだら、一緒に煙にしてもらおう。
死後に向けての準備をとっくに終えた八十代のある日、新しいライフワークを見つけた。
楽しみを探して、悲しみを振り払おう。
なに、先送りと引き延ばしは俺の信条だ。受け入れられない悲しみをいくつも抱えるなら、引き延ばして引き延ばして、受け入れないまま、煙となればいい。
なに、時間の流れはこれだけ早い。
だったら、もう十年もない『生存強要期間』は、きっときっと、ほんの一瞬で過ぎ去ることだろう。
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159話 生涯の味方
晩年です。最期までよろしくお願いします。
ひ孫は遊びに来るたびに、倍々に大きくなっているようだった。
エマの子は元気な男の子で、そいつはもう言葉も操るし、あちこち走り回るし、お菓子をむさぼり食う。
今は――今は、ああ、もう、八十代も半ばにさしかかっているのだったか。
杖を削って、お菓子を作って、妻と語らうでもなくお茶を飲む。
たまにおとずれる娘とはそれなりに話すのだけれど、俺のほうで言いたいことをハッキリまとめることはできない。けれど、娘は熱心に聞いて、なにかを感じ取っているようだった。
自分の年齢について意識することをやめた。
九十まで生きなければならない。そうしなければ再転生し、俺はこの世界で煙になることができない。
だけれどもう、これ以上の延命の努力はしようがないのだった。やれるだけはやった。
若いころから続けていた行動はもはや習慣となり、どれほど俺が意識をあいまいにしたって体が勝手に続けてくれる。
あらかじめ立てておいた計画は、今より思考力があったころのもので、今の俺にそれを修整するほどの力はないと思ったほうがいいだろう。
俺は、俺が無思考状態でも生きられるように、努力を重ねきった。
「父さん、ブラッドとも話したんだけど、そろそろここを引き払って、うちに来ないかなって。母さんも一緒に」
俺は短く『十七番』と答えた。
サラに『一緒に暮らそう』と言われた時の対応を書いてあるノートの番号だ。
データでも物質でも残してある。そこには今の俺よりも思考持続力があった時代に考えたことが細かく載っているはずだった。
しかしサラは携帯端末を操作して『十七番』を開いたりもせず、少しだけ疲れたような息をついてから、言う。
「……わかった。母さんに聞いてみる」
どことなく諦念のこもった声だった。
俺の意思は、俺の意思だ。俺の行動しか、自由にできない。
俺とミリムは、夫婦という名前の共同生命だ。生きている限り離れることを望まない。だから、俺たちの行動を決定するためには、俺たち両方の判断が必要だ。
最近の俺とミリムはかわりばんこに起きている。
俺たちは家事をこなすと妙に眠くなってしまうのだった。互いに分担して一日の家事をおこなうのだけれど、それはすでに『互いが疲れて休んでいるあいだに、仕事をこなしておこう』という前提の分担であるようだった。
眠気は我慢して行動はできるだろうけれど、俺たちはなるべく眠気にあらがわない暮らしを心がけている。
人間に有用なあらゆる行動の中でも、最優先すべきは睡眠だと心から信じているからだ。
だから寝室に向かったサラを見送り、走り回るひ孫を目を細めてながめる。
杖を削り出す作業は、まだ幼いひ孫がそばにいるうちは、やらないと決めていた。
刃物を使うし、木くずは舞うし、幼い子供には危険がいっぱいだからだ。
一日の活動時間が短くなっていて、自分の寿命を九十歳とすると、たぶん、急いで作らないと間に合わないとは思う。
それでも、ひ孫がいるあいだは、やらない。ひ孫の様子を見る以上に優先すべきことは、この世に一つもないからだ。
しばらく元気に暴れるひ孫をながめていると、寝室のほうから争うような声がした。
……そういえば、そうだった。珍しいこと、でもないのだった。
だんだん記憶が鮮明になってくる。ミリムとサラは住処をどこにするかという話題において意見がまったく合わないようで、この家に残りたいミリムと、自分のもとに引き取りたいサラとは、しばしばああして対立する。
もっとも、二人とも冷静で理屈っぽいところがあるので、『争うような声』というのはそうボルテージも高くなく、すぐに互いに用意した資料を用いてのディベートになるようだった。
けれど俺同様、活動時間が減ってきているミリムの不利は否めない。
サラもサラでいそがしいようではあったのだけれど、今はブラッド付きでの社交をエマとその旦那に任せる機会も増えてきたからか、こうしてひ孫を連れてうちに来ることも増えた。
サラの時間が空くにつれてミリムの敗色はますます濃厚になり、もってあと二年かな、と俺は思っている。
十七番。
記憶力への不安をようやく認識した俺は、自分で用意したその対応メモを、携帯端末で読んでみることにした。
十七から二十までは住居変更にかんする対応のメモで、『サラが家に招こうとしてくる』『老人ホームへの入居をすすめられる』、はては『サラ夫妻と不仲になったケース』までが想定されている。
その中で十七番はもっとも平和にことが運んだときのもののようで、内容がどこか牧歌的というのか、『見守る』選択肢が多いように思われた。
そうしてスッスッとめくっていくと最後のページに、手書きメモでこのように書かれている。
『サラとミリムの意思にゆだねるのもいいけれど、あまり中立すぎてもいけない。二人の話をちゃんと見守って、基本的には、妻の味方でいること。サラがこちらを説得しようとする時、サラのまわりにはブラッドやエマがいる。けれど、ミリムのまわりには、俺しかいないのだから』
……ああ、そうだった。
自分で書いたことだけに、ストンと腑に落ちた。
中立じゃなくていい。誰かに過剰に味方をして敵を増やさないように立ち回らなくていい。もうそんな、バランスを気にしなければならない年代は終わった。
もう俺は、なにを考慮するまでもなく、妻の味方でいいんだ。
俺は立ち上がって、ひ孫に呼びかける。
「なんだい、ひいじいちゃん」
どこか生意気そうなその様子は、幼いころのブラッドを思い出させた。
俺は彼に『一緒に行こう』と言った。
彼は「ばあちゃんが話してるときは、いったらいけないんだぜ」となぜだか胸を張って言った。
それでも俺が一緒に行こうと言えば、彼はそっと手をさしだし、俺と手をつないだ。
ひ孫に言う――これから俺は、ひいおばあちゃんの味方をしに行く。でも、そうすると、おばあちゃんと対ひいおばあちゃんと、ひいおじいちゃんで、一対二になっちゃうだろう?
「おう」
それはちょっとずるいから、お前は、おばあちゃんの味方になってあげなさい。
「おう!」
敵同士となった俺とひ孫は、仲良く手をつないで女の戦場に入った。
本日の勝者は、俺とミリム。
サラに味方するひ孫を見て、ミリムは「いつか負けちゃいそうだね」と笑った。
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160話 その時期には
晩年を引き続きよろしくお願いします
シーラがついに亡くなった時、俺は八十代後半にさしかかっていた。
アンナさんの死はまだひきずっている。
幼く、あるいは若く、美しい少女として心にとどめることで、ふくれあがる『空っぽ』を止めている状態だ。
やはりこの悲しみは生きているあいだに飲み込みきれないものなのだろう。そしてまた一つ増えた、アンナさんよりは小さいけれど、たしかに俺に大きな影響を与える悲しみも、きっと、受け止めないまま死んでいく。
シーラは戦い続けたのだった。
初等科で俺と戦い、中等科でもきっと誰かと戦い、高等科ではまた俺と戦い、大学に行ったところで、戦っていた。
彼女にとってもっとも大きな敵は『親』であり『実家』だった。
あるいは『期待』であり『義務』だった。
親とは和解した。和睦した、のほうが正確かもしれない。心の底から打ち解け合うことは難しかったけれど、互いに落としどころを見つけて、互いの願いをちょっとずつ叶えて、シーラと彼女の父親との関係性は終わったのだ。
シーラの生涯を通した戦いはその時終わったのだけれど、もう、彼女はすっかり『戦う』以外の選択肢を思い出せなくなっていた。
だから彼女は弁護士として戦い続けた。わけのわからない、意味のわからない、かたちのわからない、あるかもわからないものと、戦いを続けたのだ。
俺と、同じように。
誰にも証明できないけれどたしかにそこにいて、誰の目にも見えないけれどきっと近くにいて、誰も知覚できないけれど遠くない未来、やってくるものがある。
それの具体的な名前はわからない。『敵』以外に表現のしようがない。
けれど俺は戦いをやめなかった。今もまだあらがっているつもりでいる。いつ来てもいいように準備はやめなかった。
思考持続力が高かった時期にした準備で突発的状況相手にどこまでできるかはわからないけれど、ここまで来て、たとえ道半ばで人生を終えたとしても、『これ以上はやりようがなかった』と胸を張れるだけの徹底抗戦はした。
もちろん、勝利するつもりでいるのだから、負ければ悔しいだろう。
負けると悔しいということを忘れずにいられたのは、シーラのおかげだった。
俺はこの世界で、勝負をせず、勝利をせず、敗北をしなかった。だから敗北の悔しさは『前世の記憶』という箱につめられ、だんだんと希薄になっていく一方だっただろう。
ところがそばでシーラが戦い続け、主に成績で俺に負け続け、そのたびに悔しそうにするもので、俺は『あんなのは味わいたくない』と、悔しさを忘れずに居続けることができたのだ。
俺の勝ちだぜ。
最後の最後まで――俺の、勝ちだ。
……まあ、なんだ。
もうじき煙となるシーラを見ながらこんなことを考えてれば、悔しさのあまり飛び起きてくるかな、なんて思ってみたけれど、そんなことあるはずもなく、シーラはじき、煙となる。
死者はよみがえらない。
煙となった者は、記憶を残したまま転生したりはしない。
同級生は減るばかりで、『死』が近くの部屋のドアをノックしながら、だんだんと俺のもとにせまっているのを毎日感じている。
それは穏やかな気持ちではあった。ノックの音は安らげる音階を刻んでいた。
死にたいという願望はないし、今死んだら相当悔しいことに間違いはないのに、一方で、すでに『充分に生きた』なんていう満足感を覚えている自分もいる。
……近しい人が死ぬたびに、一つずつ、心の中のなにかが死んでいくような気がする。
アンナさんは俺にとって『安心感』だった。
彼女という大きな存在が消え去って、俺はまごついて、困惑して、なにも手につかないほど絶望した。
今もまだ心の中にアンナさんはいる。その幻影にすがったまま、俺はかりそめの安心感を得て生きている。
シーラは『闘争心』だったようだ。
彼女が亡くなって、ふっとすべてを受け入れられるような心地になってきた。あれほど嫌っていた『死』にさえ、門戸を開いてかまわない気持ちになっている。
だから俺は、シーラとの日々を思い出した。
記憶の中のアンナさんはいつでも笑っていたけれど、シーラは、いつでも怒っていた。
なにかとつっかかってきた。すべてを競争にしようとしてきた。
……ああ、どう見たって敵対行動ばっかりだった、あいつの人生。
あいつがいなかったら、俺はどこかで『がんばる』ことをやめていた気がする。ちょっとした不幸で心が折れて、『今回の人生も不遇なまま終わったんだな』と思って、すぐにあきらめていたような気がするんだ。
笑っているアンナさんを思い描くと、明日もまた楽しいことがありそうな気がする。
怒っているシーラを思い描くと、ここで折れたらいけないと己を奮い立たせることができる。
カリナのことを思い出しかけたのだけれど、あいつは全然、そういう感じじゃなかった。
カリナは俺の中で相当特殊な立ち位置だったのだと、改めて気づかされる。あいつの人生は俺の血肉にはできなかったが、俺の人生こそ、あいつの血肉になっていたような気がしてならない。
つらつらと思考がわけのわからないところに逸れたあたりで、シーラが燃やされ、えんとつから上がっていく煙が、窓の外に見えた。
空は鉛色の雲がぶあつくふさいでいて、今にも雪が降り出しそうな様子だ。
ここで俺は、最近意識しないようにつとめてきた、あることを思い出してしまう。
――もうじき、聖誕祭だ。
聖女聖誕祭は時代を経ても廃れることなく残っているイベントの一つだった。俺も若いころには祝っていた気がするが……ああ、もう、ごくごく自然に五十代までをふくめて『若いころ』と表現してしまう……妻と二人暮らしになってからは、そうそう祝うこともなくなっていた。
最近は特にそうだ。
なにせ、聖誕祭と俺の誕生日は近い。年齢を意識するのをやめたのだから、誕生日を意識するのもやめたのだった。
それを、思い出した。
きっとこれからも思い出す。
鉛色の空を見るたび、煙となった彼女を思うだろう。
さようなら四月生まれ。
気が強くて、口うるさくて、なにかとつっかかってくる、一生涯の、友達。
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161話 煙と来世
腐れ縁との会話をお楽しみください
九十も間近になると『お前まだ死なないのか』というのをあいさつのように交わす間柄もあるようなのだが、俺は自分が死にたくないもので、言霊というのか、そういうのを気にして、そんなあいさつはできないでいた。
ところが九十歳間近だというのに当たり前のような顔で酒を持って現れたマーティンについ、ガチめのトーンで聞いてしまった。
お前、いつ死ぬの……?
「お前こそ」
マーティンはニヒルに笑ってそう言った。
どうやら『年寄りのあいさつ』として受け取ったようなのだが、俺はマーティンがまだぴんぴんしてるのがマジでこわい。
マーティンをここまで送ってきた孫? いや息子? は俺に軽くあいさつをすると、『あとで迎えに来るから』と言い残して去って行った。
たぶん車で来たのだろう、離れていく車の小さなタイヤ音が、シンとした住宅街に響く。
しかしマーティンだ。
ひょっとして俺が八十代を過ごしているあいだ、マーティンはコールドスリープかなにかで肉体時間を止められていたのではないだろうか?
そう思ってしまうほど彼は健康そのものという様子だった。
七十代……六十代……いや、この若さは……五十代にも匹敵する……!?
マーティンの存在は理不尽だった。
かつて思ったものだ――健康に気づかって過ごしている者が報われるとは限らないし、不健康に過ごしているものにバチがあたるとも限らない。
健康を司るモノは気まぐれで、俺は『病気』という確率でかかる状態異常にかからないよう、耐性をつけ、かかる乱数の幅を減らしているにすぎないのだと。
マーティンはかなり耐性が低く、病気入れ食い状態だと思うのだけれど、妙に健康だった。
理不尽だ。
よこせ……健康をよこせ……!
「こう見えて、腫瘍がいくつもある」
マーティンがあんまりにも気楽にそう返してきたもので、俺は『マジで!?』と若い者みたいなノリで返しそうになり、そんな若くないのでせきこんだ。
「痛み止めをもらってるんだ。お陰ですこぶる調子がいい。調子がよすぎて、こないだ、骨折に気づかなかった」
骨折には気づけ……
しかし言葉にならなかった。マーティンといると気分が三十歳ぐらい若返るのだが、体は若返らないので、気持ちに体がついてこないのだ。
というか、病院には行ったんだな。
病院に行かないことが健康の秘訣とか言ってたのに、行ったか、行かざるを得ない状況になったんだな。
「『あと半年の命です』と言われて、もう五年ぐらい経った。でもたぶん、そろそろ死ぬ」
……どうやら、それが、今日の来訪の理由らしかった。
よくよく見れば健康そうなのは動作だけで、顔は変な色に見えたし、体の末端には震えもあった。目もどこか濁っているようだ。
「酒は孫にあげてくれ。お前、やりたがってたろう」
声のかすれ、発声の濁り、そして言葉の遅さ。
俺自身が歳をとっているから若やいで感じるだけで、マーティンもやはり年老いているし、病気だと言われれば、数々の違和感がわかる。
「最期にお前と飲みたかったけど、俺もお前ももう無理だろう。若いころみたいに安居酒屋でだべるわけにもいかないしな」
俺たちの通っていた安居酒屋は、もうない。
いくらかの変遷を経て、今はどんな店になっているのか、わからない。
俺たちは変わり果てた街について話した。
母校が今もまだ存続しているというのは奇跡みたいなことで、俺たちが学生のころ、あるいは社会人になったころに見た街は、もう、この世のどこにも存在しない。
俺たちの青春はレトロな風景として番組かなにかで後世につたわるかもしれない。
だけれどそれは、美しいだけの街並みなのだ。俺たちが路地裏で見た酔っ払いのゲロも、飲んだ翌日激しい頭痛に襲われるような安酒も、空き缶と吸い殻の落ちた汚い街並みも、客引きがぼったくるべきカモを探して目を光らせているあの緊張感も、きっと後世には残らない。
美しいものだけを残した『芸術品としてのレトロ』に、俺たちのいた場所はなかった。
芸術にもならない街並みを覚えている俺たちは、どんどん数を減らして、いずれ絶滅する。
そうしたらきっと、歴史の中の俺たちのことを、誰かが想像して編纂するのかもしれない。
それは恣意的な記録となるだろう。……記録とはおしなべて恣意的なものだ。編纂者が着目している事象しか残らないのが、当たり前だ。
「一発殴っていいか?」
出し抜けに言われて困惑する。
俺たちの年齢で一発殴ったら、殴ったほうも殴られたほうも死にかねない。
まさか頭が……俺がそんな目で見ていることがわかったのだろう、マーティンは笑った。
「お前とのケンカ、一回も勝てなかったから。負け越しはイヤなんだ。それでギャンブルで大損こいたりもしたけどな」
次こそは勝てる、という気持ちばっかり抱くらしい。
そりゃあカモだわ。
「まあ主流な考えじゃあないんだけどさ、創作とかで『転生』って概念があるだろう? だからさ、生まれ変わったら、お前を殴る。それでよしとしとこう」
「いや。生まれ変わらない。俺はこの世界で煙になる」
あまりにも無意識のうちに言葉が出た。
それは俺がこの世界で願い続けて、今まさに叶えようとしている夢だった。
「マーティン、俺は煙になる。お前も、煙になれ。だから、俺の勝ち越しだ」
あまりに自動的に言葉が放たれたせいか、マーティンは長く絶句した。
死んだんじゃないか、という不安がわりと本気で胸中にうずまき始めたころ、ようやくマーティンは生存証明するように声を発する。
「ずるいやつだな、お前」
彼は笑う。
……ちょうど、外を通るタイヤの音が聞こえた。
ほどなくしてマーティンの子だか孫だかが迎えに来たようだった。
以前に聞いた話では血のつながらない子と孫がいたということだった。彼の人生は詳しく聞いてみたかった程度には波瀾万丈だったようだが、最終的に、子らとはうまくいっていたのがうかがえる。
マーティンは去り際に、述べる。
「じゃあな」
……その声は。
実際に、マーティンを迎えに来た若い人の声とくらべると、ゆっくりで、しわくちゃで、にごっていて、小さかった。
俺もしわくちゃでかすれた声で、応じる。
「お前とは、二度と会わないだろう」
マーティンの送迎をした人が、「ケンカでもしたのか?」と小声でたずねているのが聞こえてきた。
マーティンがなんと答えたのか、俺の耳ではもう聞こえない。
でも、これがケンカなら、マーティンはなにがなんでも『いいや、転生して来世で俺が勝つ』と言ってゆずらなかっただろう。
だからこれは、『さよなら』以上の意味のない、さよならだ。
強いて意味を付加しなければならないなら――
きっとたぶん、『楽しかった』ということ、なのだろう。
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162話 二度と会わない彼より
晩年を引き続きお楽しみください
八十代終盤となった春の暮れ、俺とミリムはついにブラッドの家へと引っ越すことになった。
今まで過ごしていた家は引き払われるらしい。俺の過ごした実家と同じように、知らない人が買い取って、彼らの人生を過ごしていくのだろう。
ミリムが引っ越しを承諾した理由はいくつかあったが、そのうち大きな一つが、もう完全に、ディベートでサラに勝てなくなったことだと思われる。
俺より一つ若いとはいえ、もう九十も間近にせまった老人なのだ。
六十代なりたての若者に口と頭で勝てる道理はない。
ましてや最近両親が亡くなったばかりのブラッドに「もう、父母と呼べるのはあなたたちだけだから」と説得されては心情の面でも拒否は難しい。
超多忙のあいまを縫って家に招くためだけに俺たちをたずねたならなおさらだし、外でSPと送迎車が待っているとくればもはや詰みだ。
そういうわけで俺は手続きやらなんやらを済ますために『やることメモ』の十七番を開いたりもしたのだが、そのへんの手続きはブラッドが全部やってくれて、俺たちは身一つ、家と一部の家具以外なにも処分することなくブラッド邸へと移ったのだった。
ブラッド邸にはエマ夫妻も住んでおり、当然ながらひ孫もいる。
さらにゲル・ザ・ブッチャー二世もいた。
二世とは言うがブッチャーが死んでからもう二十年ぐらい経っている。
エマは多感な時期にペットロスをしたせいでスライムを飼えない状態になっていたのだが、俺にとってのひ孫がねだるので、このたびめでたくブッチャー二世が飼われる運びとなったのだった。
名前、ブッチャーにする必要ある?
俺はそのあたり強烈に疑問だったが、いきなり来た化石みたいな老人がペットの名前に異を唱えるのも感じ悪いだろうし、飲み込んだ。
まあ同じ名前をつけたぐらいだからエマもペットロスから立ち直っているだろうし、別な名があるスライムをうっかりブッチャー呼びしてエマのトラウマを刺激しないでいいのは楽だ。
俺たちにあたえられたのは、かつて、サラとブラッドが過ごしていた部屋だった。
ブッチャーに乗った小さなエマの姿が、目を閉じるとはっきりと思い浮かぶ。
「手狭かもしれませんが、こちらを寝室になさってください。持ち込んだ荷物は別な部屋に運んでおきますので、そちらも自由にしてください。模様替えなどありましたら、家の者に命じていただければ」
ブラッドはやけに俺たちを厚遇しているようだった。
俺に話しかける時など膝をつくほどだ。
しかし大人になったブラッドはでかくて、目の前でしゃがまれるとこれからプロレス技でもかけられるんじゃないかと、する必要のない心配が頭をよぎる。
ブラッドのこのうやうやしすぎる態度に……思い返せば、俺がこの家に来た時はだいたいこんな感じだった気もするが……疑問を覚え、こっそりとサラに真意をたずねてみた。
「実際、父さんは小さいころからブラッドとよく遊んでたでしょ。父親なんだよ、本当に」
アレが『父親』に対する普通の態度だとしたって、そうとうな厳しい教育が垣間見える感じなのだけれど……
まあ、きっとサラの言ったことは裏のない事実なのだろう。
ブラッドも『敬愛する父』に対するものとして普通の態度をとっているつもりなのだろう。
ただ、育ちが違いすぎて、俺が受け止めきれないだけだ。
これもたぶん、もう一生受け止めきれないやつだろう。
あと、ブラッドはでかくて、俺はなんだか縮んでしまっている。
そして九十間近の俺の声は小さいので、膝をついて耳を寄せないと、俺の声が聞き取りにくいというのはあるのだと思う。
俺はうっかり「大きくなったなあ」とつぶやく。
そんな時に俺の脳裏にあるのは、初等科に通っていたころの、俺とゲームをしていた小さなブラッドの姿だった。
もう六十代の立派な紳士だというのにおかしな話もあったものだ。……ああ、本当に、どうして昔の記憶はすんなり出てくるのに、今を認識するのにはワンテンポかかるのだろう。
俺の中では若く美しいアンナさんと、気の強さを隠そうともしない中等科ぐらいのシーラと、それから、幼く小さかったブラッドが、一緒にいた。
時系列的にありえないのに、俺より年上の人は少女と女性の中間ぐらいに思えてならないし、俺と同世代は中等科ぐらいな気がするし、俺より下の世代はみんな、十歳ぐらいの子供なのだった。
そうなると俺の描く俺の姿は中等科課程に通っているぐらいでないとおかしいのだけれど、どうにもその美しい思い出の中で、俺だけが老人で――
ミリムの姿が、どこにもない。
死んでいる人だけが若やいだ姿で記憶にきざまれるのだろうか?
いや、それはない。ブラッドもサラもいる。エマも生きている。
不可思議だ。俺の頭の中では世界が若いまま止まっているのに、俺だけ歳をとるし、ミリムの存在は本当にどこにもなくって、現実の、目の前にいるまま、すんなりと彼女の姿をミリムだと認識できる。
「マーティンさんのお葬式には、呼んでもらえなかったね」
部屋に落ち着いたあと、彼女はそんなことを言った。
葬式、あったのか。
訃報は担当の広報機関があって、特段の拒否がない限り、そこで告示される。
たぶんミリムはそれを見てマーティンの死を知ったのだろう。
俺は『そうか』とつぶやいた。
たぶん親族に俺を呼ばないよう、マーティンが遺言を遺したのだ。
俺たちのわかれはあの日、済んでいた。
二度と会わないというのが誓いだったのだから、彼はそれを守った。
もしくは、あいつは未だ『転生』に賭けていて、来世で会った時に俺を殴るつもりで死んだのかもしれない。
ならば俺は煙となることに賭けるだけだ。
あと少し、ほんの少し。
八十代の終わりはそうして過ぎていく。
最後の最後で親友からもらった熱意を糧に生きていこう。
俺たちに来世はいらない。
今生だけでも、充分に、楽しかったから。
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163話 百万と一回目の
お楽しみください
シーラの命日を迎えた月に、どうやら俺は九十歳の誕生日を迎えたようだった。
手にはよくなじむかたちの杖。健康に気づかった人生だったけれど、杖の安心感は心地よいものだ。
ゆったり、ゆったりと赤い絨毯の上を歩み、ひ孫に補助されながら椅子に導かれる。
ここ数年、誕生日というものを意識しないようにしてきた。
だから祝いもされないようにしてきたはずだが、サラにか、ミリムにか、それともエマにか、九十歳が俺の目標だということを告げていたのだろう。その誕生日会は久々で、それから、経験したことがないぐらいに盛大だった。
まあしかし、ここでコロリと死んでもいいとは思っていない。
もう九十年も前のことなので、全知無能存在の示した『大往生基準』が『九十歳以上』だったか『九十歳より長く』だったのか、忘れてしまったのだ。
ここで油断して死んで『九十歳より長く』だったら目もあてられない。
「あと一年は生きるぞ」
誕生日の抱負を聞かれて、そう答えた。
拍手が響いて、宴が始まった。
それは子供たちにとって、聖女聖誕祭と合わせて二回もごちそうが食べられるすばらしい日だったようだ。仮にも主役である俺をそっちのけで、子供たちがはしゃいでいた。
子供たち――ああ、そうか。どうやら、ブラッド夫妻、エマ夫妻の他にもいくらかの親族や知り合いがいるらしい。
聞いていた気もするのだが、忘れてしまったようだ。
なににせよ、にぎやかなのはいい。
すっかり遠くなったこの耳には、子供ぐらいのけたたましさでないととどいてくれない。
音のさざなみに包まれながら、九十年という人生を噛みしめた。
甘くて酸っぱくて、どこか食べ慣れた味だった。
……そうか、俺のレシピの、ケーキだ。
味覚は衰え、食べる楽しみは少なくなった。
けれどそのみずみずしさと甘さはしっかりと感じられた。
『十四番』だ。
九十歳になった時にとるべきプランのうちに、味覚についての項目があったように思う。
もはや詳しい内容を思い出すことはできない。
けれど過去の俺はどうやら必死に考えたらしい。
考えて考えて、ここまで生きたのだ。
ここまで、生きたのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
空は切れ間のない雲でふさがれていた。
九十歳の誕生日を盛大に祝ってもらったあの日から、春がすぎて、夏がすぎて、かつてあった秋という季節がその存在感を示さぬままに過ぎ、そうしてもう一度、冬になったらしい。
九十一歳を間近に控えた灰色の空は今にも雪がちらつきそうな様子で、家を出る前にはひ孫にずいぶん厚着をさせられてしまった。
そもそも、出るなと言われたっけ。
でも、それはできない。だって妻と並んでおこなう散歩は、俺たちの大事な習慣だ。運動を続けて健康を維持してきた俺たちは、もう健康を維持する必要性を感じなくなっても、やっぱり運動を続けてしまう。
車通りの少ない時間帯を選んで、周囲の住宅と顔をつないで、なにがあってもすぐに助けてもらえるように、万全の対策はしてある。
油断のない人生だった。常に無駄かもしれない対策を続けてきた。それらが必要な事態になったことはなく、無駄になった備えの数々を振り返って、それだけ平和な人生だったのだとようやく理解する。
杖をついて舗装された道を歩いていく。
袖口をにぎる妻と、足並みをそろえていく。
彼女はずいぶんと小さい。昔から小柄ではあったけれど、老婆になって、さらに小さくなったように感じる。
持ち前のかわいらしさは、歳を重ねてもまったく減じることはなく、むしろシワを増やし、加齢による筋力の低下で体が細くなってなお、いっそうの愛嬌を身につけているような気がする。
……そうだ。笑ってしまう。若いころのミリムは本当に愛嬌がなかった。
振りまく必要はなく、俺も求めはしなかったけれど、たぶん、世間一般は、彼女に『猫のようなかわいらしさ』を求めていたのではないだろうか?
俺たちは恋愛を嫌って一緒になった二人だった。
熱に浮かされる周囲についていけなかったんだ。世間が無意識に他者に課す『恋をする男女』という役割をこなすことをうとんじて、低コストで、安心して一緒にいるだけの関係を求めた。
その人生を間違っているとはまったく思わない。
俺たちは一度も互いに『愛している』と言ったことはなかった。
だって、愛とは上位者から下位のものに与えられるものだと認識していたんだ。
親が子を愛する。金銭的強者が金銭的弱者を愛する。
神が、人を、愛する。
『愛』という雇用関係が世の中にはあって、無職やヒモは愛と引き替えに収入を得ているものだと、俺たちは思っていた。
だから俺たちに愛はいらなかった。だって二人とも自立している。一人だって、生きていけた。二人のほうが生きるコストが安くすむから、二人だった。
子供ができて、孫ができて。
俺たちは仕事をやめて、それでも、愛によらない、コストだけを見た関係を――
……ああ、無理か。
どれほど思考をこねくり回しても、望み通りの結論には持っていけそうもない。
俺は、彼女のことを愛していないのだと、結論付けたかった。
だって俺たちは『愛』を嫌っていた。
俺自身がはた迷惑な全知無能存在の愛により、永劫とも思える苦しみを味わわされたからだ。
だから、大事な人は、愛したくなかった。
大事な、対等な関係の人への気持ちは『愛』なんかではないのだと、そういうふうに、結論づけたかった。なのに、
「なあ、ミリム。俺が、お前を愛しているって言ったら、怒るかな」
愛を告げずに、この人生を終われない。
……三歩ぶん、沈黙があった。
十年という時間はまたたきの間にすぎていくのに、たった三歩歩くだけの時間は、やけに長く感じる。
胸が苦しい。けれどそれを悟られないように歩調を乱さない。平常心をよそおう。けれど、平常心がなんだったか、考えれば考えるほど、わからなくなっていく。
九十歳の俺は、どうやら、青春をしているらしい。
『愛していると言ったら怒るかな』という腰の退けた言葉といい、相手の返事を待つこの体感時間の長さといい、さっきから頭によぎるネガティブな想像の数々といい、どう考えてもこれは、七十年以上前にこなしておくべきだった、青春だった。
耐えきれず視線を向けた先にいるのは、小さな老婆だ。
こちらを見上げる彼女の目に映るのだって、杖をついた老爺だろう。
道の真ん中で立ち止まって見つめ合った。
ドキドキして死ぬかもしれない、というのはもう冗談にもならない本物の危機感だ。
青春は毒薬だ。
若いうちに慣れておかないと、命を落としかねない。
冗談でなく死にかけていた。九十一歳をすぐそこに控えた俺は、いよいよ油断して死んでいいと判断できるその年齢を間近に、こんなところで青春によって殺されるのかもしれない。
彼女はわずかに笑って、ゆったりと口を開く。
「 」
声は小さすぎて、かすれていて、そのうえ彼女はうつむいていて、俺の耳はもう、若かったころと比べて、どうしようもなく悪かった。
なにも聞こえない。
でも、なんとなく察した。様子でわかる。かすかな動きでわかる。もう俺たちは九十年も一緒にいて、俺は、表情にとぼしく口数の少ない彼女の気持ちを、動作から知るすべを、きわめていた。
……きっと、この長い散歩ももうじき終わる。
この人生を終えたあと、俺は煙になるのだろうか。それともまた、あの全知無能存在のもとに行くのか。
なんの確証もない。けれど俺はなんだか安心していた。
だって、仮にまたあの全知無能存在に出会ったならば、今度こそあいつに言ってやれることがある。
愛しています、とそいつは言った。
俺は、その言葉にいつも苦々しい気持ちで押し黙るか、顔を逸らして不満げに舌打ちをするかだった。
けれど、愛していますと次に言われたならば、こう言える。
『俺にはもう、愛し合う人がいる。だから、あなたの気持ちには応えられない』
……きっと、それが正解だったのだ。
断固とした態度で拒絶すべきだったのに、ずいぶんと引っ張ってしまった。……恨めしい存在ではあるけれど、申し訳なくも思う。
愛を知らなかった俺には、言い寄ってくる美しい存在をきっぱりと拒絶するだけの覚悟が足りなかった。
俺の愛した人は、この世界にいます。
だから俺は、その世界で、煙になります。
息をつくと同時に、身体中から力が抜けるような心地があった。
……笑ってしまう。きっと、過去の俺が今の俺の状態を知ったら、怒るのだろう。
だって俺は、あきらかに油断している。
百万と一回目の人生の終わり。
俺はようやく、自信を持って言うことができそうだ。
世界に『敵』はいなかった。
この人生は油断したっていい、幸せなだけのものだったんだ、と。
語り部としてのレックスはここまでとなります。
最期に控えたイベントの時は語ってる場合じゃないので文章としてみなさんにご覧いただけるのはこれで最後です。
最終話までお付き合いいただきありがとうございました。
完結マークにいつまでもチェック入らなかったら作者が認識してないか、ここにアクセスできない状態にあると思います。その時はご了承ください。
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