東京喰種[滅] (スマート)
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#001「誕生」改訂版

1985年、先進国「日本」。

 近代化が進み、今や先進国へと成ったその国は今、ある一つの危機に直面していた。

 どこの国でも有りがちな、先進国特有の環境汚染問題ではない。地球温暖化でも、原子力発電問題でもなく、もちろん核保有を巡る各国の牽制なんてものでも…ない。

 

 もっと直接的に…そう、人間の命に直接関わる迅速に対応しなければならないモノ。

 

妖怪、悪魔とされていた存在は決して目に見えないわけではなく、何百年もの昔からそれらは人間社会に波風を立てずにひっそりと潜み続けていた。過去の伝記や書類を読み解いてもそれらに関する詳しい情報を知ることが出来ない。それほどまでにそれらは人の前に現れることが無かったのだろう。

もしくは、数が少なかったのだろうと考えられた。

 

彼らはオカルトではない、確固とした生物で世界に生きている。

 

 

 だがその絶妙なバランスの取れた均衡は崩壊してしまう。ある日、専業主婦26歳が、無残に腹を開かれた状態で発見されるという事件が起こった。

首の根元から、へその辺りまで何か鋭利な刃物で魚の開きの如く切り開かれ、骨や内臓を周囲に撒き散らし仰向けに転がっていたのだ。

 

惨殺死体、それを見たものは総じて吐き気を催し、そしてこれを行ったであろう凶悪な思想を持つであろう犯人に対して感じる狂気を恐れた。だが、事件現場に向かった地方警察が感じたのは、その感想とは少し違ったものだったのだ。

 

 その無残にも切り開かれた死体には、その冷たく動かなくなった体には、明らかに足りない部分が多数見受けられたのだ。指が、目が、内臓が…まるで誰かの手によって強引に引き千切られたかのように無くなっていた。

 

快楽殺人者、または余程の恨みをこの被害者に持つ人物の犯行なのかと警察は目星をつけ、捜査を行うも、凶器となったであろう犯人の持つ刃物でさえ見つけることが出来なかったのだ。

 

 そして、また数日中に悲劇は繰り返された、次は通勤途中のまだまだ年若い30代のサラリーマンが会社付近にある狭い路地の中で、死体となって発見された。

まるで被害者が大した抵抗する事もなく、比較的大きなな刃物で首をスッパリと切られた死体から、相手がもしかすると軍隊か相応の職業(非社会的団体)の人間ではないかと考えられた。

 

 しかし、それでも被害は一向に抑えられず、やがて被害者の数は尋常でない程に膨れ上がり、ついには2ケタを越えてしまう。

警察は、「これ以上被害を繰り返させるな」と国民からのバッシングやマスコミなどの批判を受け、とうとう日本で始めて起こった、大規模なテロ事件として、公安部が動き出したのだった。

 

公安は、今までの狡猾で陰惨な手口から、犯人が複数であり、銃刀法違反に抵触する殺傷能力の極めて高い武器を持っていると判断し、銃器の携帯が警察捜査官全体に義務付けられ、捜査本部が立ち上げられる捜査が始まった。

 

 だがしかし、結果として捜査は案の定難航する、殺害された被害者の明確な共通点は無し。恨みによる犯行という線も、あまりの被害者の違いから捜査上から霧散してしまう。

 

老若男女構わず、生きている人間を殺傷している犯人は、行動パターンが読みにくかったのだ。

それでも、警察公安もただの無能の集まり(税金泥棒)ではない、完璧にとは言わないまでも国民を恐怖に陥れる犯罪者は間引いてくれるだろう、少なくとももらった血税分は働いてくれる。

 

 熱を入れて、自衛隊をも捜査協力に参加させ、テロの沈静化はいわば国家プロジェクトとなる規模にまで達していた。それほど自体を政府は重く捉えていたのだ。

捜査を一新し、新しい人員を投入しての再度の捜査を始めた彼らが、まず最初に目を付けたのは、被害者の人物像ではなく犯人の殺傷パターンだった。

 

ほんのその一点において、この日本至上まれに見る大犯罪は、共通点があった。いずれも一人でいたところを、人通りの少ない暗い場所で襲われていたのだ。

路地裏や、溜池の近く、果ては平日の昼の住宅街などが、殺人の主な場所に選ばれていた。

 

そして、最後に被害者達は全員、どこか身体の一部分を奪われていたのだ。それは手であったり、足であったり様々であったが、近くにその切り取った部位が落ちていなかったということから、犯人がそれを持ち去ったという事で、警察犬による被害者の血液からの捜索が行われもした。

 

 ここから公安は徹底的に人が少なくなる場所や、犯人が出没したであろう範囲を綿密に地図で調べ上げ、心理学の専門家や元暴力団にも話を聞き…ついに発見する。

赤黒く変色した不気味な眼を持つ生物を……

 

 それは最早、人と呼んでも良い存在なのかすら、あやふやな生物だった。その手で殺した人間の腕を、罪悪感を微塵も感じさせず、まるでツマミのスルメのように口にくわえて噛んでいた生き物を、もう…ヒトとは人間とは言わないだろう。

躊躇なくヒトを殺害し、躊躇なく同族を食すことの出来る人間、その人として犯してはならない禁忌を2つと犯した生物を、人類は潰すべき害虫と見なした。

 

 だがこの生物は驚くほどに強靭でタフな肉体を持っていたのだ。公安たちの持っていた拳銃がことごとくその硬い皮膚によってはじき返されたのだから、その異常性も一塩だろう。

 

政府から射殺命令が下されるも、未だ生物を殺すことができない状況に公安は業を煮やし、今まで協力を渋っていたある組織の協力を得ることを容認する。

 

「和修」それは当時で言うオカルトに属する者を専門的に狩る集団とまったくは何市にも上らななった組織集団だった。だが、政府の錯乱から彼らの一団を内部に取り込んだことにより事態は幸か不幸か好転する。

 

「和修」の指示によって、戦車などの分厚い装甲を打ち抜くための兵器である84mm無反動砲を装備させた自衛隊が東京各所に借り出され、それによって殺人犯が起こすと思われていた事態は沈静化し始めたのだった。

 

流石に人命に対して過剰な戦力を持ち出すのはどうかという意見も政府内にはあったが、「和修」からもたらされた殺人犯に対する恐るべき情報、及びこれ以上の事態の悪化は政府の沽券に係わると当時の総理大臣が決行を容認したのだ。

 

 数度にわたる公安警察との交戦の末、莫大な火力からなる鉛の雨に晒された害虫は、次第に活力が無くなっていき、やがて地面へと崩れ落ちたのだった。

ただ…強力な銃器を使ったのにも関わらず、傷が直ぐに再生してしまう生物。動かなくなった生物の直接の死因が銃殺ではなく、交戦を長く続けていたための「餓死」という事実に、公安の捜査官達は恐れおののき、二度とこれらの事件が起こることの無いようにと、神に誓ったのだった。

 

 しかしながら、その悪魔のような事件から数ヶ月もしない内に、似たような生物があらわれ人を襲いだすといった類の事件が頻発し、警察は、そして政府は、これを早急に対処するべく、抗争に参加しいち早く彼らの対処法を政府に提示した「和修」を組織の中核にそえ、ある一つの組織を作り上げた。

 

 人に在らざる生物を駆逐し、人類に永劫の平和と生物の脅威から未来を約束する組織。

 CCG[喰種対策局]が置かれることになったのだった…

 

 

 

 群衆に紛れ、人を狩り、その死肉を食す存在。

 人はそれを[喰種(グール)]と呼ぶ。

 

       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

198X年、7月8日

 蒸し暑い夏の日の夜のことだった。 

もうもうと立ち込める空気は加湿器を焚いた様に白く、歩けば汗ではなく湿気で服が肌に吸い付いてしまう。まるでサウナの中にでもいるかのような鬱陶しく感じる茹だる様な暑さの中、通行人と言えば犬と干からび始めたミミズくらいだった。

 

電化製品の使い過ぎや火力発電の仕様過多が原因で増えるCO2のが原因とされる地球温暖化、東京郊外もその例にもれず最高気温は38°と人間の体温を軽く超え、外に出れば身体の弱い人なら一発で熱中症で倒れてしまいかねない世界が広がっている。

 

だが、東京で働く社会人達はそれすらも自分には関係ないとばかりに、都市に繰り出していたのだった。寿司詰状態の電車に乗り限界まで詰めさせられて、渋滞の高速道路にイラつきながら日々のストレスをお金という対価と引き換えに身体に溜め込んでいく。

 

お金を儲けることが決して悪とは言わない、だが身の安全を切り捨ててまで働こうとする人間が増えている人間が多くいるのも事実なのだ。過労死という言葉を聞いたことがあるだろう、家庭の事情や会社の事情その他もろもろの理由で金儲けに専念せざるを得なくなってしまった結果、肉体の限界を超えてしまい起こる悲劇。

 

目的の為にお金を稼ぐという行動が、いつの間にかお金を稼ぐことが目的にすり替わってしまう。何に使うのでもなくただお金が溜まっていく事が嬉しい、何かあるといけないからもしもの時に備えてお金を貯めていよう、それがもう悪循環になっていることに気が付いている人は少ない。

 

暑さで休むことが、身体の安全を守る事がまるで悪い事かのように、人間たちは黙々と働きに出て来ている。だが、それで人が過労死すればその時だけ騒ぐだけで大した法改正も無く事件は忘れられていってしまうのだ。「我関せず」自分と関わりのない事に人はあまり関心を示さない。

かれらは自分が同じ目にあった時初めてその辛さを知り、世界に訴えるのだ……自分がしてきたことを棚に上げ、周りに無視されることを夢にも思わず訴える。

 

そしてまた同じ悲劇を繰り返す。

 

それは自分達が周りを無視するという選択をとってしまった事で選び取った危険な未来。世界にはまだ自分が選択する事も出来ない理不尽で不条理な未来が待ち受けている。

 

 

 

 

 日本の首都である東京と言えども廃墟とも言える人が立ち寄らなくなった場所は少なからず存在している。

どこか近くで野良犬の遠吠えが聞こえる、東京2区のとある付近は、その中でも暫くの間まったく人の手が入っておらずひび割れた建物が多く立ち並ぶ荒れ果てゴーストタウンと化した住宅地の一宅。

そこでまるでこの世の終わりのような、壮絶な呻き声が響いた。

 

「う、っぐあああああああああぁぁ……あああああああああああぁぁ!!」

 

 叫び声にもにた、必死さを感じさせる声は、だが逆に新たな命への祝福を告げる声でもあった。薄汚れ、埃が散る、汗や垢で黄色に変色してしまった不衛生な布団の上で、長い髪の女性は白いタオルを噛み締めて踏ん張っていたのだ。

 

女性の大きく前に飛び出したお腹には、この世に生まれたいと願う次の時代を担う命が宿っている。女性は荒い呼吸を何度も繰り返し、仰向けに寝転がって出産が始まる予兆の陣痛を沈痛な面持ちでたえ忍んでいた。何度も身を引き裂くような陣痛に襲われる女性、だがその顔は絶望で彩られてはいない。むしろ苦痛に耐えながら彼女は始終笑顔だった。

 

苦しいだろう、痛いだろう、意識を飛ばしてしまえば楽になるだろうと何度も考えたことだろう。だが彼女はそれ以上に嬉しかったのだ。自分の愛する子が今この瞬間にも生まれ出ようとしていることが。

 

 だが、赤ん坊の誕生、その人間の人生において最も重要な局面において、彼女の周りには全くといって人の気配はなかったのだ。席を外しているのでもない、一室の外にも人の話し声や物音が聞こえることはなく、産婆の姿や恐らく父親になるであろう男の姿でさも見えなかった。

 

そもそも大切な記念日と成りうる我が子の誕生を、こんな花のない場所で行っているという事から何かがおかしかった。普通なら病院か実家で家族に見守られながら挑む者だろう、産婆や母が付き添い不安になりがちな妊婦を優しく慰めてやるのがあるべき姿だ。

 

だが女性はそれを気にすることも無く、そして少し寂しそうに割れて日々の入ったガラス窓を見て、息を深く吐いた。

 

 彼女を見守るのは、明らかに寿命がつきかかった電球の明滅する光だけ。 彼女は右腕に銀色の十字架を堅く握りしめ、もう片方の手でゆっくりとお腹を慈しむように撫でた。

真っ赤に朱色に染まった瞳に一筋の涙が零れ落ちる。それはあまりの痛みから漏れたモノではなく、子供を一人この世界に残していくことに対する自身の憤りだった。彼女は窓の外を眺め自分の死期が差し迫っているのを敏感に感じ取っていたのだ。

寿命などではなく、自分を今にも殺しにくる存在の事を、その優れた聴覚で聞き取っていた。

 

「ふふふ、私の可愛い可愛い赤ちゃん…早く生まれておいで。掛け替えのない、あの人との私の子供…絶対にあいつらなんかには渡さない」

 

 薄暗い部屋の中、独りで出産しなければならない彼女の負担は、相当なものだったろう。だが、母は強しと言ったところか。この度重なる陣痛に襲われても笑顔を絶やさない彼女。滝村 朱美[たきむら あけみ]は、この後、決死の力を振り絞って、愛おしい我が子を出産する。そして、我が子の鳴き声を、神の祝福の掲示のように涙しながら、迫りくる敵と戦い息絶えたという……

 

 母親の死の後、その後すぐに血相を変えた黒いスーツ姿の捜査官達が家へと飛び込んで来た時には、赤ん坊の姿は何処にもなかったという。自力で動いたのか、はたまた第三者の力が働いたのかは不明だが、これだけは言える。

 

 闇に消えたその赤ん坊の眼は、片目だけが赤く、そしてこの世界の全てを恨むように輝いていたと…

 



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#002「蟋蟀」改訂版

―群衆に紛れヒトの肉を喰らう、ヒトの形をしながらヒトとは異なる存在…人々は彼らを―『喰種(グール)』と呼ぶ。

 

 

 

 僕は両親の顔を知らない、生まれて来た時に見たであろう顔を僕は写真という形でさえ僕は持ってはいなかった。母乳の味も、その優しいであろう母の温もりすらも僕は知らずに育ってきたらしい。

 

らしいと言うのは、そのことに関しては余り鮮明には覚えてはいないからだが、どうと思う事は無いがそれでも矢張り何処かにいるかもしれない両親に思いを馳せることが無いとは言えない。最もそれは肉親に再開したいとか、明るい気持ちでは無く僕をこの生き辛い世界に何故産もうと思ったのか、その理由を聞きたかった。

 

この東京で生き抜くためにした苦労を、はたして何処かにいる僕の両親は知っているのだろうか。知っていて僕を生んだというのであればそれは理不尽以外の何物でもない、せめて人に任せず自分の手で独り立ちできる所までは育てて欲しかった。

 

他人に僕を預けたりせず、本当の肉親の元で育てて欲しかった。僕はきっと悪い意味で特別なのだ、だからこそ両親はそれを知ったうえで僕を見捨てたという事になる。無責任すぎる。正直、もし再会できたとして感動の再会になるかといえばNOだろう。

 

両親にもし会えたなら、悪態をついてから殴りかかるのだろうか。それとも感動に打ち震えて泣きながら抱き着くのだろうか。いやそのどちらも違うだろう、僕はきっと両親にあったとしても何も感じない、親愛の情もそれが憎しみに転じる事でさえないだろう。

 

そういうとまるで僕が冷徹な情の欠片もない親不孝者のようにも聞こえるが、僕がこの10年間歩んで来た道のりはそれほど辛く苦しいモノだったと言及しておこう。無責任な人達の所為で僕は今の幸せは奪われ、愛おしかった妹でさえも奪い奪われる関係に堕ちてしまった。

 

 

だから……僕は人間(ひと)を食べられない。

 

 

 

 

 

 

「くだらない」

 頭に浮かんでいた幸せだった時の情景をその言葉とともに吐き捨てる。今は感傷に浸っている場合じゃない。僕にはそんなくだらない、今考えても仕方のない事よりもまず先に行わなければならない重要な事があった。それは、肉体労働でもあり、江戸時代において武将の間で流行っていたスポーツであるところの、鷹狩りにも似ている。

 

いや狩っている獲物が害獣な分、鷹狩と言うよりは保健所の仕事代行と言った方が良いのかもしれない。彼らは其処に存在しているだけで人々に不幸を招くまさしく疫病神以外の何物でもない。

 

彼らを駆除する事は喜ばれこそすれ、疎まれることなど絶対にないだろう。

某動物アニメブームとして日本に持ち込まれて野生化したアライグマや、観賞魚として持ち込まれ飼いきれなくなって放流されてしまったブラクッバスの様に、本来の生態系を乱す有害な生物である彼らを僕は常日頃から狩る事にしていた。

 

それが僕が出来る、どこかで平和に暮らしている妹への罪滅ぼしだと信じて。

 

 真っ黒い夜の闇に溶け込むような、光沢のある雨合羽に、雨の日でも動きやすい滑り止めのスパイクがついた黄色いメーカーもののスポーツシューズ。それに加えて、漆塗りの陶器のような黒光りする、昆虫の頭部を模した丸い仮面を顔に貼り付け、僕は今日も暗い暗い、町の奥に存在する路地裏に立つ。

 

害獣駆除の為、妹の為、人類の敵を殺す為、僕は夜の冷えた空気を物思いに耽っていた所為ですっかり冷えて乾いた肺へと目いっぱい吸い込んだのだった。

 

「これは…いるな」

 

 生暖かい風を肌に受け、深呼吸をすると鼻に入ってくるのは、どうにも食欲を刺激する、鉄のような香ばしい匂い。自然と唾を飲み込み、呼び起こされる衝動を無理やり抑えつけ、僕はゆっくりと闇に溶けるように移動を開始する。

 

 忍者のように物音を一切立てないように、絶対に気付かれないように静かに、静かに目的の場所へと進んでいく。すると、路地裏の最奥、少し開けた場所に2つの人影が、月明かりに照らされて見えた。

 その内の一つは汚いゴミだらけの地面に横たわっており、生気を感じさせないものだ。

 

 だが、遠目からでもソレが辛うじてかつて生きていたモノだと分かるのは、この漂う匂いが、血の臭いだと知っていたからだ。何度感じても嫌な思い出しか浮かんでこない香りに眉を顰め、僕はあまり匂いを吸い込まない様に口での呼吸に切り替える。

 

そんな人影の側にひざを付けて今にも襲いかからんと口元だけ面をずらして口を開けているのは、兎のような面を被った小柄な人影…人が、人を食べようとしている。それはとても残酷で、人類史おいては絶対に犯してはならない禁忌であり、本能的に忌避すべきモノであるはずだ。

 

 

 俗に言うカニバリズムと呼ばれる忌まわしき行為を行おうとする人影は、そっと頭に被った兎の面をずらし、赤黒く染まった眼と、だらしなく唾の垂れた口を露わにする。

 

その表情はまるで大好きな食べ物の前で我慢できず腹を鳴らしてしまう子供の様で、とても人間の身体を目前としてするような顔では無かった。場に即していない酷い違和感を感じる、まるでここがレストランの一室だとでもいっているかのような不快な感覚、それが彼らと人間の大まかな見分け方。

 

 「確定だな…あれは喰種だ」

 

 言うが早いか僕は、雨合羽を脱ぎ捨て、動きやすい黒いスポーツウェアのまま、兎面の人影に接近した。音を立てずに移動するのは昔から得意だった、抜き足差し足でゆっくり近づくのではない。相手に接近を気づかせないような位置まで接近した後は、一転して一気に走り出すのだ。

 

これが意外と気づかれにくい、もちろんドタドタと汚らしく音を出せば気づかれるが、スムーズに足を運ぶ走り方さえマスターしてしまえば、後はゆっくりと近づいて緊張から洩れる呼吸音を聞かれない分、効率が良い。僕はその走りに加えて大きく跳躍し、兎面の人影へと一足飛びで距離を詰める。

 

 「はい、ごめんねぇ…楽しいディナーを邪魔しちゃって悪いけど。人殺しはもぉっといけないことなんだよぉ?」

 

「…っ!?」

 

 倒れた人影の首筋に今にも歯を突き立てんとしていた兎面の頭をつかみ、顔面ごと地面に押し付ける。コンクリートの地面と、柔らかい頭が地面に打ち付けられる、鈍い音が響き兎面の身体は大きく痙攣する。頭から外れた仮面がその衝撃でバウンドし路地の隅へと消える。

 

「あ…が…」

 

 兎面の人影はだが、直ぐに倒れた身体を捻って僕の手を振りほどき、十分に距離をとってゆっくりと立ち上がる。なるほど不意を突かれても直ぐに体勢を整え攻撃に打って出ようとする辺り、かなり手慣れた雰囲気を感じる。しかし、僕の先制は相手にかなりのダメージを与えたようで、兎面は額から流血を滝のように垂れ流して、頭を押さえていた。

 

 近づこうとする僕から距離をとろうと思ったのか、兎面の…少女は足を動かそうとして、思うように身体が反応してくれないことに気が付いたようだった。当然だった、勢いよく頭を地面に恣意的にぶつけてやったのだ。アスファルトの地面に空中から体重を乗せて叩きつけたのだ、普通の人間なら下手をすると、そのまま帰らぬ人となりかねない威力で…だ。

 

 脳髄を頭蓋骨の中でシェイクされれば、誰であろうと例え喰種であろうとも暫くは平衡感覚を失わさせることが出来る。それが食事前の飢えて力の無い喰種なら、尚更この攻撃は響くだろう。

 現に、兎面を被っていた少女は時折つらそうに足をふらつかせているのだから。

 

 

「おやおや、それで気絶しないなんて、あなたは不思議ですねぇ?そ・れ・と・あれれぇ…あなた眼が赤いですねぇ。

まるで…喰種のようだ。全く偶然です、実は喰種も全く同じ特徴をしているのだそうですよ?」

 

 これは茶番でしかない、言ってしまえば軽い挑発行為。相手が若い喰種なら、技能に長けた老獪な喰種に比べ感情的になりやすいので、少し怒らせて行動パターンを制限してしまえば、簡単に攻撃をいなせられる。

 

問題は素顔を見せないように、仮面を被っている喰種が一般的なため、年齢の特定がし辛いという事だ。今回はその点において非常に運がいいと言えるだろう。この兎面の喰種は、目の前の餌を前にして絶対に人間には見せてはならない素顔を僕に対して晒してしまっていた。

 

黒い髪を肩のあたりまで伸ばし、片目を隠すようなヘアスタイルに、切れ長の気の強そうな瞳。だが、歴戦の喰種と言った雰囲気はなく、その威嚇する相貌からは、どこか幼さが感じられた。強者の威圧と言うものでは無く、どちらかと言えば「小さい犬は良く吠える」といった意味合いが強いモノだ。

 

 まだ、中学生くらいだろうか。何れにしてももう顔と、体臭…それに動きの癖はしっかりと頭に入れたので、逃がしてもこの付近の外に出られない限りは残り香を辿ってまた追縋ることが出来る。

 

 あとは余裕に構えて、挑発という釣竿を垂らすだけで、舞台は調うのだ。

 

策を立てるのに面倒なのは相手の警戒心、どんなものが待ち構えているのかと周りを注意されていると非常にやりにくい。だからこそまずは戦闘の常套手段として相手の油断、怒りを誘い我を忘れさせてしまうのだ。

 

自己を保てず我を忘れて突っ込んでくる相手程、パターン化されて戦いやすい相手はいない。相手の実力が低ければ、攻撃を回避する必要もなく一瞬で蹴りをつけられるほど隙が生まれてしまうのだ。

 

 これに乗ってくるか、僕と自分の戦力差を冷静に見て、そのまま逃げ出すかでこの兎面の効率のいい堕し方が決まる。僕の希望としては後者は追いかけるのは無駄な労力と人脈を使うので、前者の方がよかったが、少女は運良く僕の挑発に乗ってくれたようだった。

 

 もう、ありがとうとしか言いようがない。

 ご飯が口を開けていたら勝手に入って来たとでも言うような、間抜けな図だった。

 

「…っ、ほざけ!」

 

 ズッ…それはとても深みのある、血が変化したかのような赤色だった。暗闇でも発光しているのかと言うほどはっきりと見ることが出来る赤は、兎の背中から霧状に発生していた。まるで赤い翼のようにも見える。

 『赫子(カグネ)』と呼ばれるそれは、忌まわしき種族が人間を捕食するときに出す捕食器官。カマキリの鎌や、ライオンの牙のようなものだ。

 

その流動する液状の赫子は見た目に反し非常に頑強で、そのうえ高い殺傷能力を持っている。柔軟性にも優れたそれはさながら『液状の筋肉』と称されるほどだ。

 

この少女の場合、天使というよりは羽の毒々しい色彩は悪魔や妖精のそれと似ているが、それでも攻撃性については折り紙付きだろう。

 

普通は喰種といえどそう簡単に発現させ得るものではない赫子。特にこのくらいの少女ならばまだ上手く使いこなせないと踏んでいたがそうか、この若い少女はこの歳にして使いこなすことが出来るのか。ふむ、これは挑発をしたのは失敗だったのかもしれない。

 

 食事前ということもあって、今まで見てきたソレとは大分形が崩れてきているが、だがまだ殺傷能力は大分残っている。そして、なまじ羽のような形をしているというのも、この場合少女の助けになっていた。注意するべき凶器の面積が大きい、それは戦闘において集中力を削がれる大きな要因となる。

 

「これはこれは、羽赫(うかく)ですかぁ…」

 

 

 例えるなら、一方通行の通路で無数の拳銃を持っている相手と対面していると考えて良いだろう。背中を見せて逃げることなど論外、隙を見せた瞬間に急所へと高威力の羽赫が迫ってくるだろう。

 

 特に、背中はまずい。そこは僕にとってかなり重要な急所となり得る場所だ。場所を誤れば心臓や脳を打ち抜かれるよりも手酷い有様になり兼ねない。

 

 そこを恐らく少女は計算ずくではないだろうが、もし背中を見せたとすれば躊躇なく羽赫を発射することはさっきまでの少女の態度から推測できる。腹ぺこの肉食獣ほど気がたっているモノは無い、だからこそ用心に用心を重ねた所でそれは過剰ではないのだ。

 

「兎の面に羽赫、あなたその意味を分かっていますか?」

 

「……」

 

 たとえ話をしよう。兎は、他の動物と違い、匹や頭ではなく羽で数えるという珍しい生き物だ。

そして、その理由は昔、修行の僧が戒律によって肉を食すことを禁じられていたとき、鳥だけは食べてもよかったので、近くにいた兎を耳が大きいから羽に見えるという事で、鳥とし捕まえて食べたのだという。

 

 つまりは、狩られるべき存在であり、それを暗喩しているという事だろう。いたいけな兎が、人を刈る世の中は絶対にあってはならないのだ。

兎は、狩られる側…美味しく頂かれる側でなくてはならない。

 

 「……あんた、なんなの…?それにしては動きが早すぎるし、でも…その態度はハトにそっくり。その私達を蔑んだ、害虫としてみている態度は…私達だって、生きてるの!」

 

「だから人を食べる、生きていくために必要だから…か?」

 

「あんた…知って」

 

「そんな事はずっと前から知っているさ、正確には生まれ落ちたその日から強いられていることだ…でもね、僕は人間が大好きなんだ、儚くてガラスのように柔らかい命が…愛おしい。だからさぁ、僕は人間を食べないのさ…」

 

正確には食べることが出来ない、というのが正しいだろう。だがそれを正直に少女にいう必要もない。どうせ今日で終わりの命に冥土の土産をくれてやるほど僕は甘くないし、それは死亡フラグだという事も知っている。

 

僕の言葉に少女は訝しげに眉をひそめた、分からないのだろう。

僕が、喰種なのか人間なのか。僕の臭いは、例え喰種であってもその判別を妨げる。

 

そして、僕は今人を食べないという発言をした。この言葉が、額面通りなら僕は人間だと少女は思いいたるだろう。だが、僕はワザと「人は」食べないとニュアンスをぼかした。

 

 今少女の中では、僕へどんな攻撃を仕掛ければいいのか迷いに迷っているはずだ。人間ならば手元かそのすぐ近くにあるある道具を警戒し、周囲に仲間がいないか警戒すればいい。そして相手が喰種なら、背中から発生する自由自在に動き回る狂器に注意して戦えばいい。

 

知識があるモノほど、こういう状況では理性的になりすぎて行動が遅れるのを知っている。そして、その時にもっとも致命的な隙が出来ることも……

少女は言わば、血に飢えた獣。餓死寸前の獣は生き残るためにどんな動きをするか分からない。

 油断は禁物であり、仕方なく僕も本気で少女に相対する。力無き少女に刃を向けるのはどうにも気が引けるが、彼女が今まで人間にして来た事を、身を持って自分で体験させるのだと思えばその気概もいささか楽になった。

 

 僕の嫌いな力、生まれ落ちたその瞬間から僕が持っていた、世界から忌み嫌われる力をつかう。

 

「ぬう…っがああああああ!!」

 

 息を力一杯吸い込み、体内で流動する血液を背中に込め、突き破るように自らから発生させる。ヌラヌラと真っ赤に輝く触手のようなモノが二本、僕の背中からズルリと服を突き破って現れた。

 

 「なっ!?喰種?」

 

 少女にとって僕の背中から生えるモノは予想外だったのか、少女は眼を見開いて一歩後ろに下がった。その判断は賢明だろう、一般的な格闘ならいざ知らず、喰種同士の戦闘において、公平というモノは存在しない。

 

 つまり生き残ったモノがその日の勝者で、死んだモノが敗者なのだ。

 少女が後ろに下がったのは、別に僕の赫子に恐れをなしたからでも、喰種同士の戦いに不馴れなわけでもないだろう。

 

 少女は間合いをとったのだ。矢張り何かの戦闘経験を積んできてはいるのだろう。恐らくはどこかの区で肩慣らし紛いのことをやってきたバトルマニアなのか。とっさの判断だろうが、僕の赫子の種類を瞬時に見抜き、羽赫が届き、かつ僕の攻撃が届かないギリギリの位置へ移動したのだ。

 

「ははぁ…今回の獲物は随分と頭が回るようだ?そう言うのを天才だとか、秀才とか言うんですよねぇ、羨ましいなぁ。さぞ、ご立派な両親に恵まれたんでしょうねぇ…」

 

 おどけながら前へと一歩出ると、少女が牽制なのか羽赫を小さな針状に変化させ、数本飛ばしてきた。

 

「おやぁ、おいたはいけませんねぇ?人に暴力を振るってはいけませんって、ご両親に言われませんでしたかぁ?」

 

 だがそれも、僕の赫子で簡単に弾き飛ばすことが出来た。一切傷付くことなく、また一歩足を進める。その間に僕と少女の間に、明確な実力の差があることに気が付いたのか、少女は腕を自らを抱くように合わせ、羽赫を消滅させてしまった。油断…ではないだろう、もう少女は自らの赫子を保てるほどの力がないほど、限界に迫っていたのだ。

 

 空腹時にエネルギーを使う赫子を出すだけでも、気絶しかねないほどにも関わらず、少女は張り詰めた空気の中10分近くもも赫子を維持し続けた。僥倖といっても言い、奮闘だった。

 僕はこの事を、この少女が死んでも数日間は覚えていようと思う。

 

「どうして、喰種の癖に私を狙う!あんたの狩り場を荒らしたのか?だったら謝るから…見逃して…」

 

「ふふ…勝てないと見ると命乞いかなぁ…、良いよその生きたいという意志はとても素晴らしいものだぁ」

 

 唇を噛み、気絶しそうになる身体を必死にこらえて踏ん張る少女の姿は美しかった。

 生きたいと願う純粋な気持ち、只それだけのみが、喰種と人間どちらにも共通する感情なのか。

 実に美しく、人間らしい。

 

 狩ることに慣れた喰種は、人間よりも自身が上位の存在だというように、傲慢になる傾向がある。

 それは人間でいうならば不平等だ、自然界において天敵が存在しない生き物などいないように…

 

 また、喰種にも天敵は必要なのだ。 傲慢をかき消すために、自惚れだ喰種に人間らしさを取り戻させるために。人間が大好きだからゆえに、僕は人を殺さず、人間のように傲慢さが消え、怯えて震える子羊に成り下がった喰種を喰らう。

 世界中にひっそりと生きる喰種全てに人間らしさを取り戻させて、また傲慢になる前に腹に収めて刈り取ってあげる。

 

 実に美しく、綺麗な行いだ。世界は潤い、人間は僕に感謝こそすれ、恨んだりはしないだろう。

 「悪い喰種は食べちゃわないと」

 ソレが僕の、生まれてきた意味であり、僕に課せられた大切な使命なのだ。

 

「あ……ああ、あんた、その黒いコオロギのマスクに真っ黒な服……一三区の!?」

 

「おやぁ、今更気が付いたのかぁ…それは出会った瞬間に気付くべきだったねぇ…?

もう逃げられない距離に迫られてから、気付いても、もう君の死は揺らがないぞぉ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 喰種を専門に狩り、その死肉を喰らい世の洗浄を歌う、狂った思想を持つ喰種の男がいる。

人間を食べる喰種の思想など大概が大いに狂ってはいるが、その中でも、東京全区全体に響きわたるほど、ソレの思想は独特で異質だった。

 

 美食でも、大食いでも、屍漁りでもない…只純粋な共食いのみを主とする喰種。

 

 同種の肉を喰い漁り、執拗に追い回し、ねらった獲物は例え逃げ切れても人生に絶望するほどのトラウマを負わす天性のサイコパス。暗闇に息を潜め、本当に最悪のタイミングで姿を現し、実に狡猾に獲物を狩っていく彼は、何時しか東京全土の喰種に知れ渡っていた。

 

 曰わく、その男は何時も闇に溶け込むような黒い服を着込んでいるという。

 曰わく、その男に捕まった喰種は、身体の…骨の一本にいたるまで、血の一滴もこぼさず平らげられたという。

 

 誰が呼んだか、「共食い蟋蟀(こおろぎ)

 

 昆虫の複眼のように虚無を映し出すマスクからは、何も感じさせない冷徹さへの恐怖の象徴として。

 同族であろうとも、何の感慨を抱かず、餌として貪り喰らう蟋蟀の暴食性を指して…

地獄の鬼さえ逃げ出しかねない、その共食い喰種特有以上の強さから…

 

彼は、闇に潜む地獄の裁判官…「閻魔蟋蟀」と呼ぶ。

 

 喰種を捌き、人間を愛する彼は、陰湿と名高い笑みを無感動な昆虫のマスクに隠しながら、月光を背にして、命乞いする少女の前に立ちふさがる。

 

「それでは、頂きます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……僕は人間を食べられなくなった。

 



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#003「捕食」改訂版

「ひ…いやっ…来るな…来るなく…ああああああああああああ!!」

 

 狩る事になれてしまった喰種は、総じて狩られる側に回ったとき、あっけなく理性が崩壊し汗と涙まみれの顔になってしまう。

 だらしがない、生き物を殺し、自らを生きながらえさせているのなら、何時か自分が他者の糧になる日が来てもおかしくないというのに、皆その覚悟が足りていない。

 

 自分は一生狩る側なんだと息巻いて、恐怖から必死に逃げる人間をまるでゲームのように追いかけて遊ぶ喰種もいた。

 これがもし人間の感性ならば、食べ物で遊んではいけないと拳骨の一つ落ちていたところだろう。

 

 そして、自分が少し人間から見て強いからと言って油断する喰種の多いこと…

 これではいつも自分が狩られる側だと心に秘めて戦っている、愛しいCCGの皆さんの方がマシじゃぁないか。油断しないだけ、喰種と違い弱くてもどこかで必ず起死回生のチャンスが巡ってくる。

 

 そうやって勝歴を連ねてきたCCGの捜査官を僕は何人も知っていた。

 重要なことは、どんな状況にも絶対に逃げたりせず必死に食らいついて諦めないことだ。

 生きるという行為を諦めてしまった瞬間、その生物はもう生き物として死んだも当然なのだ。

 

 だからこそか、もう足を捻って転び、再び立ち上がる気力すら残っていない少女の、悲壮に満ちた泣き顔を見ていると…イラついてくるのは。

 弱々しい姿、まさか自分がこんな目に遭うなどと、昨日の夜には全く想像していなかっただろう顔。

 

 それがどうにも僕の心をかき乱し、余計に喰種を食べたいという、奥底からくる本能を呼び起こさせる。

 早く、早くと僕の胃が叫び声をあげ、一足先に胃酸を分泌し始めた。

 

 息をすれば、少女の汗の臭いが嗅覚を最大限に刺激し、口一杯に唾液を溢れさせる。

 だが、それでもあくまで僕は前座を優先させ、空腹を後回しに、少女をいたぶることを続ける。

 

 食用になる豚や牛は、高級なモノになるほど、マッサージを欠かさず行うという。

 それは、肉の凝固、筋肉の健を少しでも柔らかくし、口答えを良くするためだ。

 

 僕が行っているのも、やり方こそ違えど、似たようなものだ。

 絶望し、恐怖心を抱いた肉は、最高のスパイスとなって、舌触りを良くしてくれるのだ。

 少女が死へ絶望し、それでも生へ渇望することで見せる人間性が、最高の肉への調味料へと変わる。

 

「もっと逃げろよぉ!もっと叫べよぉ!

死ぬのが怖いだろぅ?痛いのが怖いだろぅ?

だったらもっと精一杯、生きることに執着して足掻いて見せろぉ!」

 

 人間のように、欲にまみれた頭の良い、だが肉体は極めて脆い人間のように…

 泣け、叫べ、苦しめ、悲しめ、恐れろ、おののけ、僕のもっと君の人間らしい所を見せてくれよ。

 

 さあ…もっとその君の可愛い悲鳴を聞かせて頂戴?

 

「やめて…何、するの!?」

 

段々と反応の鈍ってきた少女、怯えて呂律も回らなくなってきている少女の頭を、スニーカーの踵で踏みつけ、コンクリートに勢い良く打ち付ける。

 

「がう……っ」

 

 地面に打ち付けた頭が、今度はバウンドしないようにしっかりと、足の踏む力を強くする。

 後頭部が固いコンクリートにぶつかった衝撃を、もろに受けた少女は、赤い眼から血のように真っ赤な涙を流し、グルンと白目をむいて小刻みに何度も何度も痙攣を繰り返した。

 脳が先ほど以上に揺らされ、しかも出血や空腹という要因が二重に重なり、少女の精神はブラックアウトしてしまったようだった。

 

 

 割れた頭からじわりと血液がコンクリートへと広がっていくが、それでも流石に喰種と言うだけあって死にはしない。

 矢張り弱り切っているためか、他の喰種に比べ傷の治りがかなり遅いが、それもまた許容範囲内だ。

 どこぞの爬虫類顔のように拷問が趣味と言うわけではないが、こういう風に苦しそうな顔みるとどこか癒された気分になるのは否定できない。

 

 

「まだ気絶しちゃぁいけませんよぉ?

もっと、もっと君には良い悲鳴を聞かせて貰わなければいけないからねぇ」

 

 サッカーボールのように、靴の先端で少女のこめかみを蹴り飛ばすと、少女の身体全身が電流でも走ったかのように、大きく痙攣した。

 

 起きる気配の全くない少女に、ふとするともう死んでしまったのではないかと左胸に手をおけば、辛うじてまだ生命の鼓動が続いていた。

 大分、音が小さくなりつつあるが喰種の分、まだまだ人間よりは余裕がある。

 

 どうせ僕に食べられる命なのだし、もう少し悲鳴をあげて欲しかったが、希望と現実は食い違うものだ。

 ディナー前のショーはそろそろお開きにして、そろそろ本番としようか。

 改めて少女の身体を観察してみると、本当に美味しそうで綺麗な、良い肉付きをしているではないか。

 色々な戦闘をくぐり抜けてきたであろう少女は、全く贅肉がついておらず引き締まった身体に、少女らしい丸みを帯びた形がまた堪らない。

 

 コンクリートに垂れた血を指ですくって嘗めてみれば、高級な血酒よりも美味しい、絶品とも言える味だった。 ただの漏れ出た血でこれなのだから、本当に肉を食べればいったいどんな美食が待っているのだろう。

 

 

溢れ出る唾を飲み込み、まずはと小さく白い手を握り、背中に生える触手のような赤い赫子で突き刺して切断する。

 

ゴリ…グチャッ…

 

 肉の切れる音、血飛沫のが飛び散る音が聞こえ、最後に骨の折れるひどく鈍い音が響く。

 

 一般的な喰種は、その種族名が示すように、人間を襲って自分が生きるために必要な糧とする。

 それは彼らの趣味ではなく、人間以外を食すことが出来ないと言うだけ、味覚の異常性と、体構造に由来する。 喰種は人間、人間の体内に含まれるRc細胞を摂取することで、その強靭でタフな肉体構造を維持することができる。

 

 骨を折られても、肉を裂かれても、心臓を握りつぶされても、人間の…Rc細胞の無限の供給があればそれこそグールのように蘇り、再び動き出す。

 もっともそんな喰種も頭と身体を引き離されたり、急所である背中の器官を損傷したりすれば、いくらRc細胞があろうとも、死んでしまうのだが。 だが、そうして人間を殺さなくてはいけない喰種は、自分達と同じ喋り知性を持つ存在を殺すという事を多々行うことで、命への観念が薄くなってしまうのだ。

 

 これは以前出会った喫茶店の店長の受け売りだが、「喰種は自分への人殺しの責から逃れるために、何も感じないようになっていく」のだという。

 そう、そして僕もその例に漏れず、本当に不本意きわまりないが喰種の為、空腹時の飢餓感は凄まじく、何度か理性を失いかけたことがあった。

 

 喰種の主食が人間なら、僕は理性が切れた瞬間に、大好きな人間を襲ってしまうかもしれない。

 だから、僕は、人間で腹を満たす代わりに、喰種で腹を満たすのだ。

 

 幸いにも、Rc細胞は同種を襲うことでも摂取することが出来るので、強烈な空腹は収まってくれる。

 

 そして、そんな共食いの影響からか、僕の身体は喰種を見れば、人間を見たときよりも食欲が喚起されるようになってしまっていた。

  

「ではその、何人もの人を殺めてきた愚かな右手から、頂く事にしましょうかぁ。

うううん、この臭い、この血と汗の混ざり合った、この臭いが堪らないなぁ!」

 

 黒く丸い形をしたマスクを上へずりあげ、僕は切り離された少女の可愛らしい手のひらを、大きく開いた口に入れる。

 歯で肉を潰し、骨をすりこぎ機のように潰していくと、口一杯に何とも言えない至福の美味しさが広がってきた。

 

 脂肪臭くない、まったりとした風味の血液に、若々しい引き締まった筋肉の健…

 そして骨からは、噛めば噛むほど濃厚な甘みと、動物的なほろ苦さがにじみ出してきて止まらない。

 

「美味しい!」

 

 気付けば僕は叫んでいた。

 この少女の肉体は、今まで食べてきたどの喰種よりも深く、味わいの深いモノだった。

 人間の味覚で例えるのなら、そうだ…五星ホテルのフランス料理のフルコースを頂いている気分というのか。

 

 キザな美食家では無いにしろ、衝動的にトレビアン(素晴らしい)と叫びたくなってしまった。

 

これは、止まらない…

 

グチャッ…ガリッ…グチュッ

 

 肉を裂き、骨を砕き、鮮血を啜る、僕としたことがあっと言う間に、少女の右腕を食べてしまったのだ。

 喰種としての本能をある程度制御出来るようになった今でも、我慢できないことがあるのだから恥ずかしい。

 

 触手のような僕の赫子を次に、左腕をもぎ取るために伸ばしたところで、少女が目を覚ました。

 

「あ…うっで? あ、あああう゛ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 

 眼を開けた少女は自分の無くなった肩から先を見て、唖然と口を開け、やがて襲ってきた痛みに雄叫びのような悲鳴をあげたのだった。

 

 人が人を食べるという共食い行為を、カニバリズムという。

 「共食い」とは本来生物学的には、本能の観点から避けられてしかるべき行為なのである。

 種の保存本能において、悪戯に個体数を減らすという事が、どれほど愚かで先を見ない行いであるかは、明白である。

 

 だが、ある種類の動物は、同種が同種を食すという行為を、一定の条件下において頻繁に繰り返すのだ。

 その代表例が昆虫である。

 昆虫は、餌の不足という極めて貧困な状態にのみ、近くにいる同種の昆虫を襲い、自らの生きる糧へと消化する。

 

 だが、これは本当に餌が限られた状況下、という明確で厳しい条件が無ければ、絶対に行われないことだ。

 ……しかし、その例にも必ず例外というものは存在する。

 コオロギ科の昆虫は、主に雑食性で大食いであり、仲間の死体であれども、躊躇なく食すのだ。

 

 動かなくなった仲間など、自分の腹を満たす料理でしかないというように……

 喰らい、自分の子孫へとその遺伝子を繋いでいく。

 

 

 この僕のかぶっている面…コオロギのマスクも、僕の通り名が広まってからあるマスク職人が作ってくれたものだった。

 あの男は少しひねくれたところがあり、そのマスクを作ってもらう人物の本質を理解した、本当に皮肉なマスクを作ってしまう。

 共食い行為を主として、使命にしている僕にとって、コオロギはある意味ぴったりのマスクだった。

 

 貪り喰らうという面においても、コオロギに準ずる部分があると、自分でも苦笑いが浮かぶ。

 こうして中学生くらいの幼い少女の肉体を、高級ステーキのように少しずつ削り取って、口へと運んでいる僕は、コオロギに似ているのだろう。

 

 まあ、だからと言って僕は共食いを止めるつもりはないし、かといって人間を襲うつもりも毛頭無い。

 13区に飛び跳ねる蟋蟀は、獲物を見つけて今日も今日とて襲いかかるのだ。

 

「う…あ…あああ…」

 

 虚空を見つめ、腹を切り裂かれ、一切れずつ内蔵を削られていく少女は、もう痛みでさえも感じていないのだろう。

 腹を開かれた時点で人間なら死んでいるが、そこは喰種…Rc細胞の許す限り生命機能は持続し続ける。

 これが本当の生け作りかと思いつつ、細長い小腸を数センチ切り取って酒のつまみ感覚で口に放り込む。

 

 意識は朦朧としていたが、まだ多少は生きているのか、条件反射的に、僕が内蔵にふれると怯えたように呻き、赤い涙を目から頬へ伝わらせる。

 僕がまだ少女を生かしたまま、肉を貪っているのは、死んでしまえば味が落ちてしまうと言う一点に他ならない。

 

 生きたまま、Rc細胞が循環し再生しようと蠢く内蔵を、その瞬間に切り取って食べる。

 すると新鮮で濃厚な血の旨味と、出来立ての肉特有の柔らかい感触が、口一杯に広がるのだ。

 

 再生が滞った切り傷は、かっぽりと無数の内蔵を晒しながら、月に反射してヌラリと光っていた。

 腎臓、肝臓、膵臓、胃、小腸、大腸、肺…そして心臓に子宮。

 少女の体内に存在する内蔵という内蔵を血の一滴も残さず食べていくことが、生きながらにして食べられるという事が、どれほど僕の愉悦になり、少女の心を壊していくのかは計り知れない。

 

「い…や、も…ゆる、て」

 

 息も絶え絶えに吐き出された懇願も、残念ながらそんなもので僕の食欲が治まるわけもなく拒否されてしまう。

「よぉく考えて見てくだいよぉ、君が今まで殺してきた、食べてきた人間たちはいったいどんな顔で、死んでいったんだろうとねぇ?

多分、今の君とあんまり変わらない、醜く歪んだ顔を晒して居たんだろうねぇ。

プライドをかなぐり捨てて、君へ懇願し容赦なくそれを否定し、命を簡単に奪ってきた訳だぁ。

後悔、罪悪感?

そんなの君にあるはずが無いよねぇ、そこに転がっている人間の可哀想な死体が、ソレを証明しているよ。

君は、悪鬼羅刹とおんなじだ、殺人者だ…」

 

 黒い髪をつかみあげ、辛そうに歪んだ顔に向かって罵声を、喰種としての醜い欠点を突きつける。

 そうすれば、例え心を消し去った冷徹な喰種であっても、産まれたばかりの純粋な罪悪感を取り戻すことができる。

 自身の死を経由して、他者の痛みを知るということだ。

 

「あ……ううっ」

 

 今の自分が置かれている状況は、今まで自分が人間に対してしてみたこと。

 そう説かれれば、この状況で誰も何も言い返すことができなくなってしまう。

 

「さあ、闇の生き物[喰種]よ、か弱き神の子人間に代わって、君を裁いて(捌いて)あげよう」

 

 少女の身体をほぼ半分ほど食い尽くしたところで、僕はそう告げると、もう話は終わったとばかりに、赫子を動かして少女の頭に押し当てた。

 少女は自分の行いを懺悔出来るようになった、傲慢さが消え、人間のようなか弱き純粋な心を取り戻した。

 なら、最後の仕上げだ…

 

 痛みを感じる暇もなく、脳をミキサーにかけたようにグチャグチャにかき混ぜてやろう。

 そして、そのあとで死んだ少女の生肉を全て僕の腹の中に収めてやるのだ。

 

「さあ…っ!?」

 

 伸ばした赫子が少女の頭に触れるかという瞬間、急に一陣の風が吹き荒れたのだ。

 途端に路地裏に漂う臭いにも変化が訪れる。

 血の充満した鉄分の臭いではなく、あっさりとしたほろ苦い香ばしさを滲ませるコーヒーの臭い。

 この臭い…どこかで嗅いだことのある、肉とはまた違う旨味を感じさせるものは…まさか。

 

「芳村……さん」

 

 瀕死の少女の呟きにいち早く反応した僕は、少女へ向けた赫子の向きを変え、真後ろに現れたもう一つの気配へと伸ばした。

 

 後ろを…取られた。

 それは第一の危険信号だ。僕も喰種としてはそれなりに強い方だと自負している。

 少なくともそこらの雑魚や、中堅ごときには傷を負うこともなく、余裕で勝つことができる。

 

 その僕が、臭いが届く距離まで近づかれないと気配に気付くことが出来なかったと言うのは、いささか異常である。

 自惚れるつもりはない、ただ的確自己判断で考えた結果だ。

 眼を閉じ、意識を集中させれば、相手の呼吸音でさえ、何メートルも離れた人間の足音でさえ聞くことができた…

 

 それが、まったく捉えられなかった。この事実が意味することは、つまり格上…

 僕と同等か、それ以上の新手がやってきたという事を示していた。

 

 伸ばした赫子はだが、何かを貫いたという感触はなく、堅い何者かに当たって止まってしまう。

 これは、不味い…確実にレベルが違う相手だ。

 喰種は全てイートする野望を持つ僕も、闇雲に力の差を考えず敵に挑むほど馬鹿じゃない。

 

 実力が違うのなら、潔くその場から撤退し、後日また実力をつけ狙えば良い。

 焦る必要はない、今問題にすべきなのは、この背後の人物から、どうやって逃げ切るか、だ。

 

 予想では、この人物は僕が倒し喰らった少女の知り合い、という線がもっとも高い。

 喰種は人間に対して圧倒的だが、対喰種に関しては、ただの個でしかない。

 

 隔絶された差は彼らにはなく、純粋な才能と磨き上げた肉体のみがものを言う血みどろの世界だ。

 そしてCCGの捜査官もまた、レベルが違う化け物が多数、存在している

 だからこそ、喰種は自らに迫る火の粉を振り払う為に、一定数で徒党を組み、集団で行動する事があるのだ。

 

 この僕の後ろを取った喰種は、その徒党の集団のリーダー格なのだろうか。

 

「ふうん…君が13区の蟋蟀君かい?」

 

 しわがれた…それでいてしっかりと芯の通った男の声。

 気付けば黒く丸い帽子を被った、初老の男が人の良い笑みを浮かべて、僕の赫子を素手で受け止めていた。

 有り得ない、等とは思わない。僕が戦った事のある漢字一言で喋る、筋肉隆々の喰種などは、腕で僕の赫子を止めていた事もあった。

 

 だが、流石にあの「疾っ!」男であっても、僕のひと突きで喰種を絶命させるほどの威力を込めた赫子を、あっさりと受け止め、なおかつ傷つかずに立っていられるだろうか?

 答えは否だ、あの男がコクリアにぶち込まれる前に戦った時には、この赫子を受けて無傷とは言えない程のダメージを受けていた…

 

 そして、この攻撃を受けて無傷な人物を僕は、記憶の中に一人しか覚えていなかった。

 

 

 

 

 

「この子はまだ先があるんだ、未来ある若者の命を積むのは、少し待ってはくれないかな?」

 

 「芳村」下の名前は聞いたことがないが、この区において喫茶店を営んでいる喰種だ。

 あまり聞き慣れない名前ながら、彼の異名を知るものは多い。

 かのCCG本部と大戦闘を行い、何十人もの特等捜査官相手に善戦したとされるレートSSSの異例の喰種。

 

 人間でありながら喰種をも上回る才能と技能を持つ、あの人間にして人外、有馬と戦った喰種だ。

 

 

 闇に生き、白き翼を広げる最強の狩り人の名を「梟」という…

 命を刈り取る恐怖が、僕を久しぶりに包み込んだ。

 

 

 黒く丸い帽子を被った初老の男は、少し意外そうな顔で、僕の顔をまじまじと見つめてきた。

 本当に優しそうな顔をしている男だった、僕という敵を前にしても笑みを絶やさないのは、余裕の表れなのか。

 何れにしても、僕はこの梟よりは格下であることには違いない。

 逃げるにしても、まずこの男に追い付かれないように、彼の注意を反らすことが何よりも先決だった。

 

「君は…どうして喰種を襲うんだい?」

 

 観察されている、だがそのニュアンスは偵察ではなく、僕に対しての憐れみに思えた。

 それが逃げようと思っていた僕の足を止めてしまう。苛ついたのだ、勝手に僕を分かろうとしてくる相手に…

 

 紡がれた言葉も、またかと思うような、聞き飽きたものだった。そんな質問は昔からされ尽くされているものだ……

僕は理解されたくないと言うのに、初老の男は僕の言葉を待っているかのように静かに口を閉ざしていた。

 

 

「どうして喰種を襲うかぁ?

決まっているじゃないかぁ、喰種が僕のか弱く愛しい人間を壊してしまうからだぁ。

だってぇ…嫌じゃないか、自分の大好きなものが、目の前で僕から取り上げられてしまうのは…」

 

 眼に焼き付いたあの記憶、大切な僕の親友が、喰種によって見るも無惨な肉塊へと変わっていく様は、地獄でも見ているようだった。

 楽しかった日々を、僕から大切な友人を奪っていったのは、いつも喰種だった。

 

 「喰種は悪だ、生きていてはいけない存在だぁ…もちろん僕も」

 

「…自虐的だね、だけどね、喰種も生きているんだ。

ちゃんと呼吸して、今を生きたいと、しっかり鼓動を響かせている。

君はこんなに幼い少女の命を、ただ喰種だからという理由で奪うのかい?

 

それなら、私怨で喰種を殺すというのなら、それは殺人鬼と同じだ。

恨みで動く殺しは、非生産的だとは思わないかな」

 

 喰種は明日を生き残るために、人間を喰らう。何故ならそれ以外を食べることが出来ないからだ。

 人間の食べる食料が、喰種にとってとんでもなく不味く、食べれば腹をこわしてしまう。

 

 確かに、生きるために他者を食い物にするという考え方は、自然界において一般的ではある。

 だが、僕はそれでも喰種を許すことが出来なかった。

 動物ならばそれは自然に弱肉強食になっただろうが、アレはどうみても殺害だ、快楽殺人だ…

 

 友人を目の前で食べられたという残酷なことを平気で行える奴らが、仕方なく人間を襲っている?

 本当は襲いたくない?

 

 ふざけるのもいい加減にしろ、喰種は悪だ、害悪だ。

 この世の中から一匹残らず駆逐しなければならない。

 あんな狂ったものの考え方を持っている、知的生物をこれ以上陸上にのさばらせてはならないのだ。

 

「…なら、どうして君はこの子を殺さなかったのかな?」

 

「な、にを?」

 

 怒りで拳をふるわせていると、思わぬ方向から、言葉の矢が飛んできたので僕は、とっさに言葉が出てこなかった。

 今、梟は何といった?

 誰が誰を殺さないだって?

 はっ…この僕が今まで出会ってきた喰種を一度でも生かして殺したことがあっただろうか。

 そんな事は一切、情の欠片も一片たりとも見せず、一匹一匹潰してきたはずだ。

 

 そんな僕に対して、梟は何を呆けた事を言うのか…

 年月を重ねすぎた所為で、耄碌してしまったのかもしれない。

 

「傷を見ただけでも分かるよ、赫胞には一切傷が付けられていない。

喰種は赫胞が損傷しない限り、飢餓状態であっても、肉を摂取すれば息を吹き返すことが出来る。当然、知っているよね」

 

それは…ただ単に新鮮な肉を楽しみたかったからで…

 

「違う、君は真似ている。私は知っているよ、この子が受けた傷のと同じ傷を作り、人を狩っていた喰種を…

その喰種に受けた痛みを、そっくり真似ることで喰種へ恨みをぶつけているんじゃないのかい?」

 

「ち…がう」

 

 黒い帽子の梟は、僕に背を向け死んだように眠ってしまった少女の口へと、紙袋から出した、赤い塊を押し込んだ。すると目に見えて少女の血色は赤みを取り戻し、開いていた腹も、細胞が活発に蠢き塞がりだす。

 

 目の前で殺すはずの少女が、男によって蘇生されてしまっているというのに、僕は動けなかった。

 それ程までに、気づかぬうちに僕は男の言葉を受け止めていたのだ。

 

い、いや…違う!認めてはいない。

僕は喰種を食べる、その行為はどこも間違って等いない…

 

「そして、君は迷っている…このまま共食いを続けるべきなのか…止めるべきか」

 

「違う!!」

 

 そんな、そんな馬鹿な話があるだろうか、僕が喰種を食べることを、襲うことを戸惑っている?

 有り得ない!

 奴らは僕の友を殺した憎い憎い敵で、僕の大好きな人間の敵だ。

 

 

 そんな産まれながらにして残虐性を秘める悪を殺すことに、どんな躊躇が生まれるというのか……

 

 躊躇が、生まれるというのか…

 

 僕は…僕は僕は僕は僕は僕僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は!!!!

 

 そうだ、この男はそう言う「心優しい喰種」だ。偽善に塗り固められた善意を行使する、人か喰種どっちつかずの蝙蝠野郎。

 僕はこういうやたらと他人に同情する奴が嫌いだ。

 他人に対して感情移入し、同じ様に涙して「その気持ちわかる」等と軽々しく口に出す奴は大嫌いだ。

 

 同情するなら肉をくれ!

 そのお前の死肉を持って、僕への手向けとすればいい…

 

 僕から母を奪ったあの男のように、父を惨殺したあの狂った男のように、所詮は自分の掲げる正義で動く、偽善ヒーローだ。

 だが、世の中はシビアで弱者には途轍もない苦痛を強いる。

 

 そうだ、そうに違いない。それ以外にあり得ない。

 何故なら喰種は悪なのだから。

 

 そこの少女がそうだったように、僕も弱者ゆえに幾度となく殺されかけた。…偽善に、死ねと脅された。

 だから僕は、その場から逃げ出すことをいったん取り止め、自己理論に陶酔した正義論者に相対する。

 

 コンクリートの床に落ちた黒い光沢のある昆虫のマスクを拾い上げ、再び顔へ貼り付ける。

 

 理論が…僕の今まで作り上げてきた存在意義が、この男に出会ってしまった所為で、崩れていくことが怖かった。

 僕が今まで喰種に対して行ってきたことが、悪いことだと否定されることが怖かった。

 梟は…何十年も生きてきた人生の卓越者だ。当然、僕には及びも付かない知識を持っているだろうし、僕を断罪できるだけの言葉は知っているだろう…

 

 改めて手負いの少女を庇うように立ちふさがった男に向かい合えば、そのレベルの違いからくる威圧感に愕然とする。

 

 ああ…これは勝てないなと、心の芯まで思い知らされた。

 理論や技術の問題ではない、皮肉にも僕の中の喰種の本能が叫ぶのだ。

 これと戦ってはいけないと、蟋蟀だけに梟には勝てないと…

 

 だが…逃げ出すことは出来なかった。声をかけてしまった以上、それは僕から男に挑発をかけたという事になる。

 そんな僕が勝てないと見るとわき目もふらず逃げ帰っては、僕の喰種を食うという理念に反する。

 誠心誠意、威風堂々と構えること、打ってしまった喧嘩は例え死んでも受けなければいけない。

 

 我ながら面倒くさい性格をしていると感じる。しかし、この自分ルールを破ってしまえば、僕はもう喰種としても、生きていけない。

 これは育てて貰った親への恩返しでもあるのだから。

 

 持論を語った上で、それを否定されみっともなく撤退する様をあの人は望んではいないだろう。

 だから…だから僕は前に出て、背中へと、力を最大限に注ぎ込む。

 

 もう知らない、全ての感情をいっきに解放してやる。

 今までの僕を否定するな。僕の気持ちを無視するな!

 

 

「う…うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおォォオ!!」

 

 自分が、自分でなくなっていく感覚。怒りに全てが支配された、目の前の敵の消滅だけしか考えられなくなっていく。

 

 「これは…」

 

 近くで梟の息をのむ音が聞こえる、そして僕の理性を削り取り、赤く太い長い触手が、もう2本対になって姿を現した。

 それで終わりではない、計4本の赫子がそれぞれ意識を持つように僕の身体の四肢へと絡みつき、形状を鎧のそれへと変化させていく。

 

「ギュ…ギュギュギュギュギュギュギュ!!」

 

 虫の鳴き声にも似た奇声を発しつつ、僕は全身を黒から真っ赤に染め上げ、マスクの上へ重ねるように三つの眼の模様が浮かび上がった。

 最後に再び背中から、今度は大きな丸い羽のような赫子が飛び出し、細かく振動して甲高い音を発し始める。

 

コロコロコロ

 

コロコロコロ

 

コロコロコロ

 

 

理性が消し飛んだ虫並の頭で考える、目の前の鳥は…僕の餌だと。

 

 

 

 13区でその名を知らしめた、地獄の裁判官「閻魔蟋蟀」が、いまその薄汚れた本性を解放する。

 



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#004「変貌」改訂版

 私は…此処で死ぬのか…

 思えば、殺されて当然の事をしてきた。無闇に人間を家畜のように扱い、何の尊厳も持たず殺していた。この、私を食べようとしている「蟋蟀」の言うとおりだった。

 

 私は、自分が喰種としてではなく弱い生き物として殺されるという段階になってから、初めて自分の犯した過ちに気が付いたのだから。

 

 私は、食べる事以外ででも、ただその個人に腹が立ったと言うだけで、人間を殺していた。命の価値を、見失ってしまっていた。父親に先立たれ、弟と二人、貧しく汚く、このずさんで歪んだ世界を歩んできた、はずだった。

父親が死んでしまったと分かったとき、私はどんなに悲しみ、そしてその悲しみを持ってなお、生きていかなければならなかったか。

 

 死とは、軽々しく恣意的に起こしてはならなかったのだ。

 自身が生きるために、仕方なく命を食べるのならまだわかる。

 それならばこの「蟋蟀」にも、罵声を浴びせられたときも私は言い返せていた。

 

 どこかで、私は人間に対して、自分よりも下に見て居たのかもしれない。

 私と同じ様に喋り、意志を通わせることの出来る存在を、見下していたのかもしれない。

 

 私の元から居なくなった弟なら、こんな時、なんと言うだろう。

 一緒になってキザ野郎を倒した時のように、自分の意志を曲げず、人間を殺し続けるのだろうか。

 

 さっき昏倒させた人間の男もそうだった、私はお腹が空いていたのにも関わらず、わざと足を遅くし、相手が必死で逃げる姿を追いかけることを……楽しんでいた。

 

 「蟋蟀」、13区に止まらず「美食家」や「大食い」とならんで東京23区全体に響き渡る大物に出会ってしまったのも、そんな私に神様が罰を与えたからなのかもしれない。

 「蟋蟀」に自分の身体を食べられていく感覚は、とてもおぞましく、死への恐怖が頭をかすめた。

 

 空腹に羽赫の使いすぎで、私の身体はもう指の一本たりとも動かす事が出来なくなっている。

 それに加えて、ほんの少し残っていた力でさえ、切られ続ける身体を再生させるために使うしかない。

 

 切られては治り、切られては治りの繰り返し、私の赫胞は何度も何度も肉を再生させていた所為で、段々と動きが鈍くなってきていた。

 それに伴い、私の頭も靄が掛かったように急に視界がぼやけ、痛みがあまり響かなくなってくる。

 

 背中にあって赫子を作る場所の赫胞は、喰種にとっての心臓と同じ。

 そこの機能が止まってしまえば、喰種は身体の全身の機能を保つことが出来なくなってしまう…

 

 死が近づいていた…

 

 痛かった、だけどそれ以上に、今の自分が信じられなくなってしまったのだ。

 楽しんで人間を殺していく自分は、もう喰種でも生き物でも無いのではないのかと…

 「蟋蟀」が言うように、人間を面白半分で死へと追いやってきた私は、悪なのだと絶望に沈んでしまったのだ。

 

 だから「蟋蟀」がそのおどろおどろしい赫子を私の頭に向けたとき、私は「ああ、やっと殺してもらえる」と思ってしまった。

 この痛みから、訳の分からない喰種のしがらみから解き放ってくれる、と。

 

 眼を閉じ、静かに自分の死を受け入れようとした時、私の鼻に漂ってきたのは、忘れもしないあの香ばしいコーヒーの香りだった。

 ほろ苦さとほのかな旨味が出たあのコーヒーの匂い、その匂いが漂ってきたという事は、つまり…

 

 私は幻覚でも見ているのだろうか、「蟋蟀」の背に黒い帽子のあの人の姿を見た。

 死ぬ寸前に見るという走馬灯?

 だけど…その人影は幻想とは思えないほど暖かく、優しい笑みを浮かべていたのだった…

 

 気が付くと私はその人の名前を呼んでしまっていた。

 私に喰種としてではなく、学校へ通わしてくれ、人間として生きる事が出来るように計らってくれた恩人。

 私がアルバイトしている喫茶店の店主の名を…

 

「芳村さん…」

 

 呼んでしまってから、対応は早かった「蟋蟀」は即座に私への攻撃をとり止め、先手必勝とばかりに赫子をぶつけたのだ。

 驚いた、あの「蟋蟀」の赫子を威力がではない…その太く大きい赫子の柔軟性に対して、私は驚愕した。

 

 私は自分が食らった技の威力から、あの赫子が鱗赫だと思っていた。いや、確かにあの蟋蟀の赫子は間違いなく鱗赫なのだろう、だが鱗赫に彼処までの伸縮性はあっただろうか…

 

 まるで羽赫のように軽やかに蟋蟀は、赫子の長さを瞬時に変えて、真後ろの敵に向かって伸ばしたのだ。矢張り…レベルが違った。

 

 私とは、磨き上げられた自力が違う。人間を殺してきた私と、喰種のみを殺してきた蟋蟀では…戦闘経験値が違いすぎている。アレは多分、弟と共に戦ったとしても、勝機を見つけられないほどの、正真正銘の化け物だ。「美食家」なんて相手にならない…「蟋蟀」がまだS級を名乗っているのは冗談かと感じてしまう。

 

蟋蟀の赫子を軽くいなし、数本の羽毛のような赫子を背後に生み出して牽制をしていた芳村さんが、私の側に来てしゃがみこんだ。芳村さんは、笑っていた。

 こんな事を…人が大好きなアナタに反抗して、勝手に喫茶店を飛び出して…

 勝手に人を襲って、自業自得に無惨な姿をさらしてしまった私に対して、優しく微笑んでくれたのだ。

 

 よく頑張ったね、もう大丈夫だよ…顔がそう言っているように感じられた。

 多分、それほど間違った考えでは無いのだろう。芳村さんが私の口へ、人間の肉を押し込んでくれたからだ。

 力無く沈んでいた私も、死ぬことを受け入れていた私も、人間の肉の匂いに身体が反応して、口を動かししっかりと粗食してく。

 

 私の中の赫胞に力が戻っていくのがわかる、活力が戻ってくるにつれて、勝手に頬から大粒の涙が溢れ出してきた…

 まだ、私はここまでの醜態をさらしてなお、生きていたかったらしい。

 

 はは…私は何がしたいのだろう?

 死にたいと思ったり、生きたいと考えてみたり…本当に…本当に…

 

 感謝しても仕切れないよ、芳村さん…

 

 

 

 

 

 それから二人の言葉の言い合いが始まり程なくして、蟋蟀の身体が大きく膨れ上がった。

 赫胞が一体いくつあるのか、私を倒したときには2本だけだった鱗赫を4本に増やし、それらを順に身体に巻き付け始めたのだ。

 

 ゆっくりとした、動きだった。だけど、私はその光景を見ているだけで、足が震え、歯がガチガチと鳴ってしまう。

 

「なに…あれ」

 

 赫子を身体にまとわりつかせ、鎧のように変化させる喰種を、私は今まで見たことがない。

 赤く鈍い流動が、蟋蟀の黒い服を着た身体にすい付くように張り付き、まるで昆虫のような外骨格を出現させる。

 

 腕に外側へと生えた無数のトゲ、蟋蟀のマスクに現れた3つの小さな文様…

 蟋蟀自身もその姿を制御出来ていないのか、所々鎧に包まれていない部分があるが、それだけでも感じた。

 感じずには居られなかった。

 

 何を? 決まっている、恐怖をだ。 アレは、まさに喰種を、私を裁かんと鎌首をもたげる死神だった。

 禍々しく、悪魔のような昆虫の外見に息が止まりそうになる。

 これが13区の「蟋蟀」の本気…

 

 最早あれが私と同じ喰種なのかさえ、疑わしかった…

 あんなものと戦えば、私なんか跡形もなく消し飛ばされていただろう。

 それだけに、その異形とも言うべき蟋蟀を前に、驚きこそすれ余裕の笑みを絶やさない芳村さんには感服する。

 

「ギュ…ギュギュギュギュギュギュギュギュギュギュ!!」

 

 気持ちの悪い虫に似た奇声を発し、蟋蟀は新たな赫子を背中から出現させた。

 楕円形で平べったい、一見すると甲赫にも羽赫にも似ている、奇妙な赫子。

 だがそれは、どちらとも似つかない、余りにも恐ろしい叫声を叫ぶ。

 

 まさに蟋蟀だった、この「蟋蟀」の意志なのか、それとも自然にそうなってしまったのか。

 現れた二枚の奇妙な赫子は、互いに互いを擦り会わせ、黒板を引っかいたときのような、聞くも不快になる音を発生させる。

 

 ……頭が揺さぶられる、これは長く聞いていれば、心が負けてしまう。

 反抗心を、抵抗しようとする心を丸ごとへし折り、砕いていくかのような音色。

 

 「あ、あれ」

 

 人間の肉を食べ、ある程度回復したはずの私の身体が…

 立ち上がろうと足に力を入れた瞬間、私の意志を拒絶したかのように、身体の力が抜けてしまった。

 これ…は…蟋蟀の音…をきいた…から?

 そのまま私の意識は深い闇の中へと引きずり込まれていったのだった。

 

 

 

                        ・

 

 闘いは、二頭の野獣のぶつかり合い、お互いにSSレートを超えた喰種どうしの、意志のぶつかり合いだった。

 人間が大好きな「梟」と「蟋蟀」が、好みを等しくして何故対立しているのか。

 理由は喰種に対しての思いにある。

かたや共存を望み、助け合いを語る「梟」、かたや喰種の根絶を望み、人にのみその愛を注ぐ「蟋蟀」。

 

 例えお互いに人が好きであったとしても、その到達点には天と地ほどの明らかな差が出来ていたのだ。

 そして、その黒い帽子を被ったもっとも有名で、CCGの精鋭からも勝てないといわしめる喰種「梟」は、自分の助けを必要としている仲間を置いて、無関心を貫けるほど冷たくはなかった。

 

 闇の狩り人「梟」は、背後で気絶してしまった、娘のような存在を見やり覚悟を決める。

 「蟋蟀」は下さなければならない相手だと…

 そして、この喰種もかつての「黒犬」や「魔猿」のように救ってあげなければならないと…

 

 

 「梟」は薄い眼を開き、老獪な相貌に鋭い赤き光を宿す。

 夜を馳せる猛禽類の瞳が、蟋蟀という今回の餌をじっとりと睨みつけていた。

 正に絵は、鳥と虫…本来弱肉強食である鳥に軍配が上がることは必至の組み合わせ。

 だが、彼らは鳥でも昆虫でもなく、死肉に群がる悪しき喰種。

 

 その戦いは、まだどちらが勝つのか全くわからないものだった。

 しかし、この両者の発する歴戦の気配には、どちらにも負けるなどという諦めは存在していないのだ。

 

「赫者……いや、半赫者か。君は今まで、何人の喰種をその手で殺めたんだい?」

 

 その言葉に呼応するようにして、梟の背中、特に肩の辺りが羽毛に包まれたかのように大きく肥大した。

 バキバキと身体を変化さえ、梟もまた「蟋蟀」と同じような、黒髪の少女が形容した化け物へと姿を変える。

 

 肩から腕にかけてを何種類もの剛毛のような赫子に被わせ、サーフボードのような巨大な太剣を肩口から、双方の手の先まで伸ばしきる。

 顔がマスクをつけていないのに変形し、口を引き結んだ厳ついものへと変貌を遂げた。

 

 右目は真っ赤に輝き、閃光の糸を引かせ、左目の位置には三本の線を引いたかのような文様が浮かび上がる。

 その姿はまさに何百、何千の戦いを経験してきたかのような、武士にも見える。

 

 赫者…同族のRc細胞を一定量接種し続けることで、喰種としての肉体に起こる体力の向上と、赫子の変容をさして、そう呼ばれている。

 同族を多く喰らい喰らったという、汚く浅ましい証であり、人間にも喰種にも一歩下がった見方をされる、悲しみの権化。

 

 多種多様の異質な変容を遂げていく赫者において、共通点は赫子が自らの肉体を守るように、鎧のように巻き付いてくること。

 赫子を覚醒させた者として、悟りを開くなどの意味と皮肉を込めて赫者。

 

 だが、圧倒的な威力と強靭な肉体性能を誇る赫者には、一つだけ致命的とまでいわしめる欠点があった。

 

「ギュギュギュギュギュギュギュ!!」

 

 それが自我の崩壊である。

 変容するRc細胞は、喰種の肉体を新たな進化をもたらす替わりに、喰種としての理性を著しく削り取ってしまうのだ。その姿は獣…いや凶戦士と呼んだ方が良いだろう。

 

 喰種としての本能を最大限まで高めてしまう狂った形態は、総じて何もかもを吹き飛ばす最悪の災害となる。

 

「ぎゅええええええええええええええええええええええええうぇっうぇっっうぇえええ!!」

 

 その喰種の本能に身を委ねてしまった幼い蟋蟀が、停滞する闘いに嫌気がさしたのか、勝負を仕掛けた。

 

コロコロ コロコロ コロコロ

 

コロコロ コロコロ コロコロ

 

 甲高く、それで居て脳髄を揺さぶられるような音が、狭い路地裏で反響し、より複雑な音階を伴って広がっていく。

 

「む…!?」

 

 突如として蟋蟀が梟の視界から唐突に姿を消した。

 まるで古いテレビの映像を見ているかのように、蟋蟀の姿が揺らぎ、霧のようにその場から消滅してしまったのだ。

 

 逃げられた?いや、あの赫者には明確な殺意があった。

 逃げたのならそれでも良いが、自分を油断させ、隙を狙っているのだとすれば気を抜くわけには行かない。

 恐らく、赫者特有の向上したスペックで、目にも留まらない速度で動き、自分の背後にでも回ったのだろう。

 

 一瞬でそこまで考えた梟はしかし、一つの間違いを犯してしまう。

 今まで戦ってきた闘いの経験が、今このときは梟の蟋蟀に対する、考え方の柔軟性を奪っていた。

 この時、自分の視界の変化…敵の不可思議な消滅に対して、もう少し疑いを持っていれば、結果はもう少し違ったものになっていただろう。

 

 

 一閃。

 距離を消してしまったかのように、瞬間移動のごとく梟の眼前に姿を表した蟋蟀は、驚き動きが止まった梟を前に、頭へと回し蹴りを撃ち込んだのだった。

 一本の伸ばした鱗赫を地面へ突き刺し、回転するようにもう一撃を後退する梟の胸部に打ち込む。

 

「ぬ…ぐっ!!」

 

 胸を抑えて負けじと黒い弾丸を背中に生えた羽毛に似た赫子から、無数に射出するも、その頃にはもう蟋蟀は随分と離れた場所へと後退してしまっていた。

 

 羽赫の弾丸に頼った攻撃は、Rc細胞を体内から失わせ著しい体力の消耗を招きかねない。

 だが、だからといって梟が近付こうものなら蟋蟀は、お得意のすばしっこい動きで、さながら闘牛を交わすように適切な間合いを維持し続けてしまう。

 

 弾丸は当たらない、接近戦も不可能…だがそれは相手に対しても、近付くことが困難だと言うことを意味している。

 相手の赫子はどう見ても鱗赫…羽赫のように細胞そのものを弾丸のように発射することは出来ない。

 ならば、詰まるところ相手が攻撃しようと近付いてきたところを、その両腕の強大なブレードで引き裂いてしまうこと…

 

 だが、そう戦略を整えた梟の耳にまたあの音色が聞こえ始めたのだ。

 

コロコロ コロコロ コロコロ

 

コロコロ コロコロ コロコロ

 

 ズキリと頭が痛み、その変化と共に蟋蟀の姿が、先ほどと全く同じように消えてしまった。

 喰種の聴覚を生かしても、嗅覚を使っても蟋蟀の姿は、場所は掴むことは出来なかった。

 

 気付けば梟はまた、死角から頭部に回し蹴りを喰らわされ、横に弾け飛んでいた…

 

 「これは…なんだ?」

 

 コンクリートの壁に背中から突っ込んだ梟は、蟋蟀の攻撃に対応出来なかった自分に、自分の身体に違和感を覚えていた。いつ追撃が来ても良いように、両腕のブレードを頭部を被うようにクロスさせて梟は思案する。

 

 赫者とはいえ、まだ生まれたてのヒヨッコに過ぎない蟋蟀。いくら喰種だけを喰らってきたからと言っても、老獪で聡明な梟が負けるには、まだ技術が足りなさすぎる若輩だ。頭に受けた蹴りも、胸部に受けた蹴りも、その威力を見れば、普段の梟なら難なくかわす事が出来たはずだった。

 

 言ってしまえば、蟋蟀が最初危惧していた通り、梟に対して蟋蟀の勝機は万が一にも有り得なかった。

 それだけ技術において、肉体において力が違いすぎていたのだ。

 

 それが、今…半赫者となった事で、梟に劣る肉体面を補って余りある「何か」の獲得に成功したと見て良い。

 拙い攻撃ながらも、あの有馬やCCG特等レベル何人もの相手と多対一で戦った梟を翻弄しているのだ。

 

 これはある意味、異常ともいえた…有り得ない、最悪の意味での奇跡が起こってしまっていた。

 路地裏という狭い場所なのも蟋蟀を後押しして、梟の驚異的な攻撃の要であるブレードの使用を著しく制限しているというのも幸運だろう。

 

 梟はブレードを防御に回し、盾とすることは出来ても、力一杯それを振るうことは出来ないのだ。

 振るえばブレードはあっさりとコンクリートに突き刺さり、抜くための時間で致命的な隙が生まれてしまう。

 

 恐らくだが、蟋蟀は本能的にそれをわかった上で、梟に接近してきているのだ。

 ブレードを最大限に生かせない梟など、少し注意をすれば良いだけだと、考えているのかもしれない。

 

 この状況を突破するには、矢張り蟋蟀の持つ奇妙な技の秘密を暴かなければならない。

 視界から完全に消滅し、意識の外から攻撃を当てられ続ければ、やがてタフな梟であっても力尽きる時は来てしまうだろう。

 

 だからと言って、蟋蟀を消える前に先制して襲うことは論外だった。

 梟には今、守らなければいけない少女がいる。

 梟が彼女の存在を忘れ、特攻すれば確かに勝機は見いだせるかもしれないが、今の状態の少女から目を離すのは危険きわまりない行いでしかない。

 

 蟋蟀は、今赫者として目覚めている…

 半赫者とはいえ、暴走状態にある精神状態の蟋蟀…

 彼が当初行っていた行為は何だったか?

 

 答えは簡単「共食い」だ。

 躊躇の消えた今の蟋蟀の脅威に、少女を晒してしまったら…どうなってしまうかは想像に難くない。

 

「ふう…」

 

 蹴り飛ばされた頭が痛む、梟は静かに溜め息をついてまた、受け身の姿勢で意識無き少女の前へと立つ。

 

「まったく、面倒な相手にあたったね…」

 久しぶりに…梟は追いつめられていた。 闘いは苛烈を極めた。攻撃しては姿を消すという、タッチandエスケイプを繰り返し、梟に全く攻撃の隙を与えない蟋蟀は、あの強靭な梟の顔面についにひびを入れることに成功していた。

 

 頭部から斜めにひび割れた梟の面は、喰種の再生能力が遅れ、未だに直る兆候が見られない。

 喰種は、人間の使う武器…一般的にはナイフや銃弾などの攻撃を、その硬い皮膚で防いでしまう。

 

 だが、そんな硬い皮膚で被われた喰種であっても、喰種の発生させる赫子による攻撃を受ければ、たちまち肉は断絶されてしまうのだ。

 そして、赫子によって切られた傷は、再生しようとするRc細胞に、傷を穿った喰種のRc細胞が反発するのか、再生能力が低下する。

 

 よって梟は自分が攻撃できないまま、悪戯に時間を過ごし、自らの身体に何本もの打撲痕を残していた。

 

 蟋蟀はあくまで赫子を補助として使い、元々の身体能力に赫子をバネにしてブーストをかけることで、高速な軌道を可能にしていた。

 そのため、蟋蟀は赫子で戦うという喰種の基本とも言える戦闘スタイルを捨て、近接格闘に近いスタイルを生み出していた。

 

 回し蹴り、蟋蟀の鍛え上げられた脚力を回転を加えることで、威力を増大させ、地面に穿った一本の赫子でしっかりとした軸を保ちつつ打たれる攻撃は、その単語からは及びも付かないほど千差万別だった。

 梟が頭を守れば、足へと、ブレードを振り上げればその背後へと、予想も付かない連続攻撃を加えていく。

 

 中には、赫子を最大限に利用し、逆さまの体制下から、斜めに肩に掛けて繰り出された蹴りもあった。

 

「……っ」

 

 段々と蓄積されていったダメージがついに、梟の足元をぐらつかせる。

 そして、その間に生まれたわずかな隙を逃すほど蟋蟀は鈍くはない。

 

 「ギュッ…ゲァァァァァアアアア!!!」

 

 ふらついた足へと、蟋蟀は回転しながら回し蹴りを当て、梟に体制を大きく崩させる。

 直ぐに梟は眼前の蟋蟀に向けてブレードを突き刺そうとするが、蟋蟀は器用に身体を捻って、また回転し今度は開いたわき腹へと蹴りを浴びせる。

 

 ボキリと梟から何かが折れる嫌に鈍い音が響いた。

 

「ぐ…ぬっ」

 

 それは梟のわき腹の下、肋骨の骨が何本か折れた音だった。

 何度も何度も連続で攻撃を喰らい、皮膚が弱っていたのだろう。

 蟋蟀の射し込むように鋭い足技は、見事に梟に決まり、梟は地面に膝をついてしまう。

 

 もしも、この光景をかのCCG特等の面々が見たならば、驚愕し、そして新たなSSSレートクラスの出現に、苦虫を噛み潰したような顔になっただろう。

 それ程までに、蟋蟀は強く…いや、巧くなっていたのだ。

 赫子の扱いが、まるで自分の腕のように繊細で細かいのだ。

 

「ギュッギュッ…!!」

 

 梟を地面に下した蟋蟀は、勝利を確信したかのように、虫のような奇声を高らかに発し、そして…

 

「が……ぁああ!?」

 

 自分の背中を突き破って、腹へと生えた大きな太剣を見つめ、ドサリと何も喋ることなく地面へと崩れ落ちたのだった。

 油断、蟋蟀はこの強靱かつ老獪な化け物に対して、一番してはいけない事をしてしまったのだ。

 

 それが戦闘中での油断、一瞬でも気の張り詰めた空気を乱すことは自殺行為だ。

 もっとも、一般的な喰種であればその一瞬ではどうすることも出来なかっただろう。

 

 だが化け物であるところの梟は、それをわざと狙っていた。

 攻撃をわざと防御せず、自分が弱ってきていると相手に見せ付け、膝を付き隙を大きく見せる行為。

 

 一見すればそれは起死回生の一手であり、一か八かの賭けだった。

 失敗すれば、梟はさらした隙によって逃げることもままならないほどの大怪我を追ってしまう。

 

 肋骨や頭部を負傷してしまっている今、このまま耐え続けてもいずれ負けると判断した梟が出たのは、まるっきり運任せの作戦だったのだ。

 だが、そこは老獪な梟。

 彼が長い人生経験に裏付けられた知識から出たフェイクは、生まれて間もない暴走する蟋蟀を意図もたやすく騙してのけたのだ。

 

 梟は賭に勝った。

 勝利を確信し、動きに余計なものが混じるその瞬間で、梟はとっさに動き、背後からその巨大なブレードを突き刺したのだった。

 

「が、ぎあ…がば…ぎぎ」

 

「私が此処まで追い詰められたのは…随分と久しぶりだよ」

 

 梟が無造作に、だが蟋蟀の赫胞を傷つけないように、ゆっくりとその大きなブレードを抜き取った。

 真っ赤な血がついたブレードを、一回虚空で降り、血液を振り飛ばしてから、梟は自身を覆う鎧を解いた。

 

 地面に落ちていた黒く丸い帽子をそっと拾い上げて、頭に被ると梟はもう語ることはないとばかりに、背を向け少女を担ぎ上げる。

 

「な…ぜだ、何故!何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故」

 

 胴体に開けられたら大穴を直すためにRc細胞が其方の方に多く使われ、身にまとう鎧が崩れ落ちた蟋蟀が、狂ったように梟に向かって叫んだ。

 その言葉は、「自分はどうして負けたのか」ではない。

 

「何故、喰種が僕を助ける!留めを刺さない!

僕はお前を殺そうとした、なら僕はお前に殺されても文句は言えない!

喰種は自分の利害で他人を殺すんだろう!

自分が殺したいから殺す、生きたいから殺す!食べたいから殺す!戦いたいから殺す!

なのに……どうしてお前は僕を殺さない?

 

どうして…殺してくれないんだ…」

 

掠れ切った蟋蟀の口から紡がれたそれは、皮肉とも懇願ともとれるものだった。

 

 少女を背に背負い、静かに路地裏を後にしようとしていた梟は、その訴えかけに立ち止まり、振り向かずにただ応えた。

 

「喰種は利害で人を殺す、確かにそう言う喰種もいるのだろうね」

 

「ああ!?」

 

「…なら私は、君に生きていてほしい、だから生かす。これでは駄目なのかな?」

 

「な……」

 

 梟の言葉は、蟋蟀が戦ってきた喰種からは聞いたこともないような、まるで人間のような言葉だった。

 殺そうとした、憎い喰種相手に情けをかけられたと怒りで頭が煮えくり返りそうだった蟋蟀の感情が、氷でも入れられたように冷やされていった。

 

「何を…言っている、喰種の戯れ言はもう聞き飽きた!」

 

違う、これは戯れ言ではない、この梟がそんな理由もなく嘘をつくとは思えなかった。

出会って間もない関係だが、蟋蟀はこの梟の事を噂だけだが知っていたし、意識無き戦いの中でも、彼の紳士さに気が付いていた。

 

ならば、梟の紡いだ言葉は例え綺麗事だろうと、彼の本心なのだろう。喰種が喰種を倒し、そして生かす…そんなことを言ってのける梟に蟋蟀は何も言えなかった。いや、言いたいことは沢山あった、だが…口が開かなくなってしまっていた。

 

長時間における戦闘の所為で、初めて赫者となった蟋蟀の身体は、もう限界だった…

 

「君のその喰種でありながら、人間の側に立つ姿勢…私は尊重したい。君は、これから沢山の苦難に直面していくだろう。君の、君のその気持ちは喰種には理解できないものなのだろう。そして…人間にもね」

 

「そうだ、僕は誰からも理解されない、守ってきた人間から攻撃を受けることだってある。だがそれでいいんだ!それで、大切なものが守れるのなら、僕は進んで醜くもなろう!」

 

 

「守るもの……か、大切な存在がある者は……等しく強い。だけど恨みに任せて喰種を殺める君の所行は、私から見れば、君の言う喰種と変わらないよ」

 

「くっ…」

 

 理解はしていた、梟に諭されずとも「蟋蟀」が今まで行ってきた行為は、共食い。

 喰種を食べ尽くすという理念を掲げると言っても、所詮は一匹の喰種に過ぎない。その蟋蟀がいくら喰種を食べたとしても、人の眼には恐怖しか写らないだろうと言うことは…そしてその残虐行為はまた僕の殺してきていた喰種に通ずるということも、わかっていた。

 

 拳を握り締め俯く蟋蟀に、梟はまた言葉を投げかける。

 それは蟋蟀の心に強く…とても強く響くものだった。

 

「だけどね、私は人間と喰種の共存が、本当に出来れば良いと考えているんだ。君はまだ若い…若者は大いに悩みなさい。君は…恐らく境界にいる……人間と喰種のね。それは極めて珍しくそして幸運だ。悩んで、悩んで…そして自分の結論を導き出しなさい。

 

君とは考えが違うけれど、私もまた人を愛している喰種として覚えて置いて欲しい…」

 

 

「あ…」

 

 自分の持つ考えを、理解してくれた、知った上で自分も人間が食糧としてではなく愛していると言ってくれた。今まで孤独に生きてきた蟋蟀にとって、思想は異なるがそれを尊重し、理解してくれた喰種は後にも先にも彼だけだろう。

 蟋蟀はほんの少し暖かい気持ちになり、去りゆく梟を見ながら涙を流したのだった。

 



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#005「動揺」改訂版

 月明かりに照らされながら僕は音楽を聴き、ただそれだけを……自分はこれからどうやって生きていけば良いのかを考えていた。 

 

人生に迷った時、自分のしていることが分からなくなった時、僕は決まって音楽を聴くことにしている。音楽は数少ない僕の癒しの一つで、耳にお気に入りのイアホンを当て、人通りの少ない静かな路地裏それも血なまぐさくない場所で目を瞑りながら鑑賞する時間はとても有意義だ。

 

壮大な曲なら勇気を与え、楽しげな曲なら余裕を貰い、安らかな曲なら思考を纏めてさえくれる。特に昔から聞きなれた童謡やゆったりとした歌謡曲は良い、あの古からの研ぎ澄まされた音色は聞いている者の心を鎮めてくれる。

 

優しく染み渡る様な曲を聞いていると、先日起こった梟との戦いにおいて僕に突きつけられてしまった、今まで隠し続けていた事がどうしようもないちっぽけな事にも思えてしまうから不思議だ。

 

何故あんなことで悩んでいたのだろうと、思春期の悩みを大人になってから下ら何事で悩んでいたと昔を懐かしむ人のような思考に成りかけていたが、悩むことを止めただけで僕の問題が解決したことにはならない。

 

僕は何のために、何をするためにこの歪んだ矛盾や間違いだらけの世界に生まれてきたのだろうか。嘘や偽善が横行し人を信じられなくなるまで騙し騙され、自分以外が全て的に見えるまで心を鋭く尖らせて、僕は一体何がしたかったのだろう。

 

何のために喰種を殺すのか、何のために人間を護ろうとするのか。そう問われた時、僕は決まって「喰種をこの世界から撲滅するため、全ては妹のため」と連呼してきた。三日前までの僕ならそう断言することが出来ただろう。そう今までは信じて疑わなかった。あの…喰種に出会うまでは。

 

 闇夜の路上に仲間を助けるために颯爽と現れた喰種の事を、夜に生きる者なら噂として小耳にはさんだことくらいはあるだろう存在。「隻眼の梟」、喰種の天敵であるCCGに対して大規模な喧嘩を売り、多数の特等捜査官相手に戦い善戦したとされる、喰種の中でも最強クラスの化け物。

 

彼と戦ったとき、意識が跳びかけていたが、あの男が身体に纏う赫子がまさに梟と呼ばれるに相応しい姿になっていたことは、辛うじて覚えていた。あれは天災だった…とてもではないが、僕が生きているということ自体、奇跡に近いのだ。

 

場所が良かった、運が良かった、そして何より僕と戦った「梟」の人柄がよかったのだろう。

 

 梟は手加減していたつもりだろうが、僕があの後、腹に開いた穴を塞ぐために三日は費やした。途中でCCGの捜査官が何処かで漏れた交戦現場の調査に来た所為で、物陰に隠れてやり過ごしたが、アレはアレで生死の境をさまよったのだ。

 

他の喰種からRc細胞を奪うことが出来なかったので瞬間的な肉体の再生は出来ず、開く傷口を抑えながら物陰で休む事を数度繰り返しての復活だったが、全快とは言わないまでも立って動けるまでには回復することが出来た。

 

そんなSSSレートの化け物が何でも今から七年前に20区で喫茶店を開いている、人間好きの喰種なのだという。

 

 あの「梟」が人間好き?

 

 CCGの捜査官をあの時かなりの数惨殺したという、あの恐ろしすぎる肩書を幾重も持つ「化け物」が?

 

あり得なさすぎて、三日前に出会った梟は、似ているだけで別人ではないのかと思ってしまう。僕も実物を見たことが無いだけにその答えもあながち間違ってはいないのではないかと思考の海に沈んでいく。

 

 人間好き…ともするとその言葉は喰種にとって肉が好きという風に聞こえるかもしれないが、その喰種の人間好きは意味が違うのだという。本当の意味で、共存する隣人としての意味で、彼は人間を愛していたのだ…

 

 今まで僕が出会ってきた喰種は、いずれも人を私欲だけで喰らう野蛮な獣のようなもの達だった。それだけに僕は喰種の存在を全て野蛮だとイコールで結び付けていたのかもしれない。

 

だが、実際にあって対面し、言葉をぶつけてみると、今まで考えていた喰種像が鏡を割ったかのように崩れてしまう。彼は僕が今まで出会ってきた殺人鬼のような奴らとは正反対の温厚な人格を持っていたので驚いた。

 

 好戦的で血気盛んなものが喰種という生物に共通している特徴かと思っていたからだ。あの日も、13区に入り込んだ見知らぬ喰種の匂いを追い掛けて、黒髪の少女に出くわしたのだった。

 

 そう考えてみれば、あの少女もまた違っていた。性格がおかしく狂っているように見えた喰種の中で、あんな悲しそうな顔をして、死を受け入れていた喰種は初めてだったかもしれない。あの少女は僕がいた13区の喰種ではなかった、だとすれば僕の住んでいる13区の喰種が、血気盛んな奴らが多いだけという事になってしまう。

 

僕は、喰種に対して酷い思い違いをしてしまっていたらしい。偏見も良いところだった。血気盛んな野蛮な喰種というのは、どうやら13区だけの特殊なものだったようだ。まあ早合点はいけないが、それでも多種多様な性格を持つ喰種がいることは分かった。

 

 今でも喰種は、愛しい家族を襲った喰種は憎くて仕方がないが、また違ったものの見方を持つ喰種がいると言うことが分かったのは、あの戦いでの収穫だった。負けてしまったことは、当然とは言え悔しかったが、敗北というものが直結して死に繋がる世界に生きてきただけに、あの経験は新鮮で驚いてしまった…

 

 まさか、喰種が僕に生きて欲しいなどと口にするなんて、夢にも思わなかったのだ。近しいものであろうと、親兄弟であっても、自分の邪魔になったら躊躇なく始末をつける、それが13区における常識だった。

 

 下克上、裏切りが頻繁に起きては鮮血が飛び散るいわば戦国時代のような世界、そこで数年間を過ごしてきた僕は、今まで餌場争いや単純な殺意で僕を殺そうとする喰種達を殺し、喰らってきた。

 

 それで…良いと思っていた。

 アレは害悪なのだと。倒さなくてはならない存在なのだと。

 

 拷問好きでねちっこい爬虫類顔の男や、やたら付き纏ってくる煩わしいオカマ野郎は殺すことが出来なかったが、どこからどう見ても悪という面構えをしていたし、どちらかというとあちらの方から喧嘩を吹っかけてくることが多かった。だがそれはある意味ありがたかった、殺される側が従順なのは殺す側としてもどこか気が引けてしまう。

 

最初から最後まで一貫した悪を貫いてくれるのなら、僕としても余計な感情をさしはさまずに済む。同情せずに、人間の敵として最後の一匹まで屠ることが出来るのだ。

 

そうやって僕は見たくない現実から眼を反らしていたのかもしれない。彼らもどこか人間に通じる所があると、僕は知ったうえで知らない振りをして来たのだ。しつこい様だが何度も言うように、僕は人間を食べることが出来ない。

 

それは妹が……人間だから。だから僕は妹を…妹と同じ種であるところの人間を襲い食べる喰種が嫌いだったし、人間を食べることに抵抗を感じていたのだ。罪滅ぼしとも言い換えることが出来るだろう。

 

あの日、僕がしてしまった取り返しのつかない過ちの懺悔。全ては僕の所為で心に深い傷を与えてしまった妹の為に、僕は少しでも彼女の負担を減らすために人間の敵の喰種を狩って来た。その為に僕は執拗以上にに喰種を痛めつけていたのかもしれない。

 

「あの娘には、悪いことをしたな…」

 

 あの可愛らしい黒髪の少女に悪意は感じられなかった、喰種としてまだ見完全なら、痛めつける前に人思いに殺しておくべきだった。別に残酷に腹を捌いて、痛い痛いと泣き叫ぶ様を、二度と蟋蟀の羽音に立ち向かえないトラウマを与えずとも…

 

逃げ惑う喰種の姿に自分の過去を重ね、愚かしい過ちを繰り返す喰種に罰を、そして自分自身に二度と人間を喰いはしないと戒めて来た。過去の過ちを繰り返してはいけない、あの日の悲劇を二度と起こしてはならない。それが僕があの時血みどろの世界で信じ誓って来た思いだ。

 

「だけど……」

 

矢張りあの梟の言葉が脳裏をかすめる、僕を否定するかと思えば肯定し喰種でありながら人間が好きだというあの男が口にした言葉が忘れられない。それは数十年一途に思い続けた妹への誓いが本当に正しかったのかと訝しんでしまう程に、僕の心に突き刺さっていた。

 

亀の甲より歳の劫と言うが、それは本当にその通りであの男が口にする言葉の一つ一つがまるで自分自身が体験した事だというような、どこか実感のこもった重みのあるものだった。考えを改めさせられたのではなく、説き伏せられた。

 

僕が今までしてきたことは、間違っていたのかもしれない……そんな、気分にさせられた。

 

確かに、喰種を殺すあの瞬間、僕は何とも言えない快感に身を沈めた事もあった。立ち上る鉄と生臭い生き物の匂いが、戦いの最中僕の気分を高揚させていった事もあった。あれは、決して……害獣駆除をする人間のしていい顔ではないだろう。恨みに任せて本能のまま、人の代わりに喰種を狩っていたと言われても納得してしまう。

 

「あの少女の血に少なからず興奮してしまった僕も…また喰種には違いない…のか」

 

血の匂いと言うのは本当にいけない。本能とでもいうのだろうか、あの鉄のような濃厚な匂いが立ち込めるだけで僕の胃は空腹を訴えて来るのだ。長時間嗅ぎ続けていると僕でさえ我慢の限界が来そうなほど、あの匂いには逆らい難い。

 

最初にあの匂いを間近で感じたのは高校生の時、嫌な思い出しか無いあの頃の記憶を脳裏に映し出すほど嫌なものだというのに僕は、血の匂いを嫌いにはなれなかったのだ。

 

空腹の喰種になると血の匂いを少し嗅いだだけで、赫眼という喰種特有の眼が赤く染まる現象が本人の意思とは関係なく起こってしまうという。それほどまでに喰種には人間の肉の味が本能に刻み込まれているのかもしれない。

 

少なくとも、涎が出るくらいには……

 

僕は…僕の抱いていた意思が脆いものだと実感させられてしまった。妹の為にたてた誓い、その為に僕は全てを捨てて力を喰種としての能力を磨いてきたつもりだった、赫子だけでは無い聴力や純粋な筋力を、それこそ苛め抜いてきた。

 

なのに……あの梟は僕のそんな誓いの力を、腕に纏った赫子の一本で防いだのだ。罅が入ったとか、その後壊すことが出来たとかはこの際どうでもいい。戦いは殺し合いだ、一撃でとどめを刺さなければいくら最終的に赫子を突破できようが意味が無い。

 

問題なのは、僕とあの男の間にどれ程の実力差が横たわっているかだろう。梟という名から察せられる通り、あの男は恐らく羽赫のはずだ。たしか獲物となった兎面の喰種も羽赫だった。他の赫子の喰種を上回る瞬発力と飛び出す様に背中から発生する無数の赫子。

 

縦横無尽に障害物を利用し、平面では無く立体を移動し敵を捕らえる戦法をとる事も出来る羽赫の喰種はだが、その身軽さに反比例する様に肉体的な耐久度は著しく低いのだ。そして発射する赫子はブーメランのように自身へは戻って来ず、消費が激しい事でも有名だった。例えるなら段数が限られたガトリングガンと言ったところか。

 

対して僕の鱗赫は、一撃必殺型の巨大な砲台に近い。多少速度においては羽赫に劣るがそれを補う再生速度があるおかげで、重い一撃一撃に集中するば十分に分があったはずだ。現に兎面の喰種は僕に反撃する事も出来ず地に伏せる事になった。

 

なら、赫子を纏ってまで戦っても防がれるほどの相手とは、僕とはどこまで力の差が開いているのだろう。

 

力も違う、そして心も脆いと知った……

 

「……僕は、僕は如何すればいい?」

 

何も返すものがいない目の前の壁に向けられた言葉、当然ながら答えなど帰ってくるはずもなく、そしてもしそこに他人がいたとしてもきっと、その答えは分からないだろう。当事者が分からないのだ、何も知らない第三者にわかるはずもないし、分かってほしくも無い。

 

妹なら、僕の愛する妹ならこんな時どうしただろう?ふと脳裏をよぎった疑問に、だが僕は首を横に振って即座に否定する。

 

「いや、あの娘は…迷わないだろうな」

 

妹は、僕とは違う。こんな僕に命を懸けてくれた妹なら、きっとこんな事で心が揺らいだりなんかしない。あの頑固者は昔から意思を貫き通すことが出来ていた、自慢の妹だったから。

 

人間は弱くない、彼らがか弱く脆いのは肉体だけ。人間は天敵が現れたときも、ただじっと堪えるだけでなく虎視眈々と敵の喉元に食らいつかんと牙を磨く、喰種に対しても同じ人間に対しても彼らは強くそして果敢だった。そして彼はついに忌まわしい獣へ対抗できる兵器を開発した。

 

CCGや喰種対策法もまた同じだ、一早く喰種を攻略するために人間は余念がなく、皆一丸となって事に当たっている。喰種が生き残りのために作る、恐怖や強さで支配した徒党とは異なり、人間が作る集団は「信頼」と言うコミュニティで繋がっているのだと。義理や人情で繋がった集団は、圧力や恐怖等の利害のみで集った集団よりも遙かに強く、強固な結束を作り出す。

 

 何度か僕も不本意ながらCCGと相対したことがあったが、あのCCGの白髪の男や、筋骨隆々の禿頭の男は恐ろしく強かった。それこそまるで相手が喰種であるかのような錯覚を覚えるほどに。クインケをまるで喰種の赫子のように振るい、僕の赫子を軽く切断してしまった威力には、流石の僕も死ぬと思った。

 

あまり多くは語らないが、あの交戦で僕は自分の戦闘能力の低さを一度見直す事になったとだけ言っておこう。それほどまでに無力を痛感させられ、かつ喰種に対抗する人間の底力に憧れを抱かざるを得ないものだった。

 

妹のためにと進んで喰種を殺していた僕は、人間と戦う気は全くなかったので戦闘を放棄して逃げても良かったのだが、あの時はそれがアダになってしまった。戦いの最中、相手が人間とはいえ戦意無く背後を向けることの恐ろしさを思い知った。

 

 不意を突かれ、丁度僕が梟に負けたときのように、伸び縮みする節がある特殊なクインケで背中を貫かれたのだ。それを行ったのは当時あまり目立った特徴のない白衣を着た男だったことを覚えている。喰種に対して異様に執着した粘着質な殺意を向ける男は、どういうわけか僕に似ていたのだ。

 

外見が、という意味ではなく。そのあふれ出る殺意が憎しみがそっくりそのまま戦意に置き換わっているような狂気じみた戦い方が、僕にそっくりだった。だからなのかもしれない、あの男の追撃を避ける事が出来なかったのは。

 

 ……喰種に殺されるのなら嫌だが、大好きな妹がいる人間側に殺されるのなら、それでも良いとその時の僕は覚悟を決めたのだった。だが生死の狭間で思い出した妹の言葉のおかげで僕はこうして生きることが出来ている。

 

『生きて、お兄ちゃん』

 

喉元に迫ったクインケの凶刃をとっさに避ける事が出来たのは、必然だったのかもしれない。

 

妹から貰った命だ、それを簡単に捨てるなんてやってはいけなかった。死ぬ事はあの日僕を救った妹の努力を無にする事になってしまう。僕はどうなってもいい、だがもうどんな形であれ妹を蔑ろにして、あの時の妹の気持ちを傷つける事はしたくない。

 

CCGと戦い彼らの凄さを見せつけられ、妹の願いを思い出したあの日から僕は妹の為に、妹を苦しめた喰種を殺すことを選んだ。だが、それは行き場のない僕が勝手に作り出した勝手な妄想なのかもしれない。

 

自分の生きる理由に妹を利用したのだ。僕は自分勝手でわがままな男だ。偽善者だ、妹の為と言っておきながら結局は自分の為でしかない。

 

「13区を出ようか…」

 

 この場所に留まっていれば、ぼくはまた喰種とは何かを、自分の意味について分かりそうな何かを、忘れてしまう。梟から与えられたこの疑問を無くしてしまう事が何故か駄目な事のような気がしたのだ。

 

梟は自分なりの答えを見つけろと言った、それにはまた13区の思想に染まるのはまずいだろう。この区から外にでて、また一からやり直すのも僕には必要な事なのかもしれない。

 

とは言え喰種でありながら喰種を殺し続けてきた僕に居場所なんか、人間側にもまして喰種側にもありはしない。正体がばれれば悲鳴を上げられるか、名を上げようとする喰種に殺されるかの二択だ。それに区が変わったとしても13区のように廃ビルを拠点とした放浪生活を止められるわけでもない。

 

まあそれでも、この凄惨とした13区に居続けることに比べれば、他の区へ行くという行動は幾ばくかマシなのだろう。恐らく、梟や少女の様な喰種は13区では絶対に育たない。地獄の鎌のふちでは、争いの絶えない血の海の中では心が無くなってしまうのかもしれない。

 

「取りあえずは、20区に行ってみるのもいいかもしれないな」

 

あそこは喰種も比較的大人しい場所だと聞く。大きな事件は聞かないし、ビッグネームの喰種たちも最近は20区では目撃されていない。その話だけを聞けば何か大きな存在が、その区の実権を握っているような気がしないでもなかったが、それを踏まえても平和というなら矢張り20区だろう。

 

それ以外は余所者が入っていけば少なからず面倒事が起こる可能性がある。特に縄張り意識の強い喰種ならばなおさらだ。僕には関係のない話だが、彼らは自分たちの狩場(生活の拠点)を犯されるのを極端に嫌う。

 

取りあえず、この場所から出れば何かが変わるかもしれない。そんな曖昧な感覚に突き動かされて僕はこの13区を出る決心を固めたのだった。 

 

一応の結論を出した僕は耳に付けていたイアホンを外し、そろそろ充電が切れかかっているので、久々に近くのネットカフェで充電しなければと思いつつ、ズボンの内ポケットにしまい込む。時刻は5時12分、ゆっくりと上る太陽に目を細めながら、僕は重い腰をあげた。

 

 

 

 20区、そこまで13区から移動するのに僕の体力ではそれ程苦にはならなかった。梟と交戦した後とはいえ、その前日に大量の喰種を捕食していた僕の体力は、万全には程遠いものだったがそれでも普通の人間以上の力は問題なく出す事が出来た。

 

 もちろんそんなオリンピック選手顔負けの速度で移動していれば嫌でも目立つので、人通りの多いところを避けて路地の隙間を伝い、今の僕が出せる最大限の速度で移動する。無駄に白鳩を呼び寄せて面倒くさいに事になればそれだけ体力を消費してしまう。

 

ただでさえ最近は13区を中心に喰種の動きが活発化し始めて白鳩が気を張っている。何人かの増援が13区周辺に配備され始めている状況でうかつに姿を見せれば最悪、特等クラスとさえ戦うことになりかねない。梟と比べてしまえばその強さは低いものだが、白鳩は仲間が大勢いる。

 

特に捜査官の箱持ちともなれば万全を期して2人1組で行動しているだろう。逃げ切るにしても通信網を使われて待ち伏せされたり、特等数人で追われては僕にも勝ち目がなかった。人間は絶対に殺さない、それを守っているが故の困難だったが、僕はそれを悔いてはいないし今後やめるつもりもない。

 

 同族と認めたくはないが、喰種の中でもずば抜けたモノだと自負する僕の脚力は、あっという間に3、4区を突破していった。足には昔から自信がある、梟と戦ったときも、他のリーダー格の喰種と戦ったときも、僕はこの足を頼りに闘ってきた。

 

 足は、手や腕よりはずっと重い一撃をぶつけることが出来るのに加えて、赫子と異なり、いちいち変則的な空間把握を行う必要もない。流石にピンチの時は赫子に頼らずにはいられないが、それでも僕は、赫子を補助として主に脚を使う戦術を行ってきた。

 

 なので、バランス感覚や下半身の力は、洗練され、凸凹した道や壁の上も赫子でフックを掛けて固定すれば、平らな地面と同じ様に走ることが出来る。以前、暗闇で壁を走る姿をCCGの捜査官に見られ、「蟋蟀」ではなく「ゴキブリ」だと言われた所為で、もう壁は当分走るつもりはないが…

 

 そう言えば、この俺の蹴りの上手さを自負している喰種が20区には居るのだという噂も、少ないながら聞いたことがあった。何でも、蹴りだけで同じ喰種の頭を吹っ飛ばす事の出来る、まさに蹴りのエキスパートなのだという。

 

「確か…名前は西野西…って言ってたっけ?一度闘ってみたいな」

 

 勿論、人を食べる喰種であるならばそれは殺すのだが、僕も蹴りに自信を持っている者としては興味があった。

 僕の蹴りと、その喰種の蹴りは、一体どちらが強いのだろう…

 

 『美食家』や少し前に騒がれていた『ブラック・ドーベル』のボスのような技巧派なのだろうか、だとすると力に自信がある僕では勝つことは難しいかもしれない。狡猾に勝負の先を見据えた戦いを展開されると、挑発を繰り返して思考をパターン化させる僕とは相性が悪い。

 

 それとも蹴りという強さが噂になっているという事は「オニヤマダ」や「大食い」のように力のみに主力を置いたタイプかもしれない、逆にこういうタイプなら僕はかなり戦う事が出来る。力に頼り過ぎ、知能のない筋肉馬鹿ほど扱いやす者もないのだ。考え出すときりがない、ああ…早く闘ってみたい。

 

「ダメだな、こんな事を考えたらいけないのに……」

 

最近、妙に好戦的な思考に偏ってしまう事がある。血が滾るとでもいうのかどうも喰種との戦闘では、気が高ぶり必要以上の攻撃を加えていたぶってしまう傾向にあった。猫は捕まえた獲物を死ぬまで掌で弄ぶというが、仮の本能なのか喰種としての本質なのか油断するとすぐに戦いを楽しもうとしてしまう。

 

本当に、これでは喰種を笑えない。自分がこんなに不安定で歪んでいるに、他人を指さして蔑むことなどできるはずもない。自分の中で膨れ上がる衝動を抑え込む、これも僕に課せられた今後の課題だった。

 

「なんだ…喰種と人間の、血の臭い?」

 

 区と区の間、もう少し行けば20区に着くと言うところで、僕の鼻に入ってきたのは、喰種の赫子が持つ濃厚な生臭い臭いと、鉄分のような人間の血の臭い…

 

また、か。

 

いつもいつも喰種は、僕の大好きな命を狩ろうとしているのか。

 

良いだろう、丁度お腹も空いていた頃合いだ。走り詰めで疲れ切った身体を癒すため、喰種を喰らって渇きを癒してしまおう。僕は懐から蟋蟀の真っ黒なマスクを取り出し、顔に被る。僕はまだ、喰種を許したわけではない、一つだけ梟や少女のような心根の良い喰種がいると知っただけだ。

 

 彼が善なる喰種なら、人を殺す喰種は全て悪という解釈でいいのか、その問題の答えは分からないが、少なくとも人を殺してるのならば、同じ喰種の殺されて食べられたとしても文句は言うまい。空腹からか若干思考に靄がかかり始めるが、とにかく今は目先の喰種の補食に専念するとしよう。

 

「おやおやぁ、こんな所で人を食べている、そこの貴女ぁ?人殺しは感心しませんねぇ…」

 

口調を変えるのは保身の為、このマスクを被っているときは僕は、偽物の自分に擬態している。それは本当の僕と、蟋蟀としての僕の口調から、正体を見抜かれないためだ。

 

おどけた態度を取りつつ、喰種に襲いかかられても良いように、十分な警戒は怠らない。路地からほんの少し離れた、公道を越えた先にある森林地帯。東京における自殺の名所と言われる、薄暗く気味の悪い場所に、三人の男女の影があった。

 

一人は人間で、太い古木に縄を巻き付けて死んでいた。だがこれは恐らく喰種に殺されたのではなく、この男自身の意思での自殺だろう。何かにすがるように虚空を見つめていた男の顔は酷くやつれており、人生に疲れていたのだと言うことが窺い知る事が出来る。

 

それを囲むように長髪の女と、その子供なのか背の低い少女が立っていた。この喰種は死んでいる人間を食べるのだろうか。あまり認めたくない事だが口に入るものに新鮮さを求めるのは人間も喰種も変わらない。だから僕は一瞬この二人の喰種が何をしたいのかよくわからず先ほどの偽装のテンションも忘れて呆然としてしまったのだ。

 

「どういう、事なんだ……?」

 

自殺者の肉を食べるのは、人間でいうその辺に落ちていたものを食べる拾い食いに近い感覚なのではないかと思ったからだ。少なくとも13区ではそういった捕食嗜好を聞いたことがなかった。

 

どういうことだ、喰種が人間の死者を埋葬でもするのだろうか。それとも血酒と同じ要領で腐った死体のほうが独特のうまみが出るという感覚なのだろうか。

 

突然現れた僕に気を取られつつも、女の喰種は警戒心をむき出しにして小さな少女を守る様に後ろに移動させた。視線をこちらから外さず、一挙一動に注意を払いながら後ろの少女と共に徐々に後退する女、まるでその動作は、親愛に溢れた人間の親子の様で……

 

「あ、貴方は喰種…それとも人間?」

 

一般人に見られてしまった、通報されてしまうかもしれないという不安感と相手がもし喰種だったらという可能性が捨てきれていない表情。その一瞬の隙が戦いにおける致命的なものとなりえるのだが、僕としてはもう戦う気も捕食する気も失せてしまっていた。

 

悪役じみた喰種なら、何の情もかけることなく簡単に殺せただろう。それは僕の家族を殺した喰種がそうだったからに外ならず、それが人間と喰種の違いだと思っていたからだった。

 

人間なのか喰種なのか、僕のほうこそ尋ねたかったぐらいだ。いや、匂いで相手が喰種だとは分かりきってはいる。だがそれでも、僕は今までこんな事をする喰種に出会ったことがなかった。いや、親子の情を感じさせる喰種に会ったのは、初めてではないのか。

 

ふと3日前の梟の姿が脳裏に浮かぶ。あの老獪な喰種は、僕に殺されそうになっていた少女を助ける為にあの場所にやって来たのだろう。損得を抜きにして、自分の情のままに仲間を助ける。それを僕は記憶に刻みつけて久しい。

 

まさかとは思うが、この2人は梟や少女のように、人間のような心を持っているとでも言うのだろうか。

 

当然草陰から飛び出し、そして動かなかくなった僕に一層警戒心を増したのか、娘に何か耳打ちすると、僕に向き直り眼を赤く染め上げる。赫眼の出現は、その喰種の極度な命の危機や、興奮状態に起きるRc細胞の活性化が表面に現れた証。

 

任意で赫眼を出すことも出来るが、この場合、相手は赫子を発生させる直前だと推測する。二人の喰種は恐らく血縁のある者なのだろう。二人の顔立ちはよく似ていて少し色素の薄い髪色も非常に酷似している。違うのはその僕に向けられた視線だった。

 

母親であろう女の喰種の背後でじっと僕の様子を伺う喰種の少女は、蟋蟀の仮面をかぶった僕が恐ろしいのか歯をカチカチを鳴らしながら制御できなくなったのか赫眼を発現させている。反対に背後にいる少女を庇うように両手を広げた女は、キッと僕を鋭い視線でにらみつけていた。

 

 ボコッという音と共に、女性背中から巨大な羽根のような膜が発生し、それに合わせて娘は母親から離れて、近くの木の裏に逃げ込んだ。蛾のような気味の悪い印象を受ける赫子は、一見羽赫のようにも見えるが、発生した背中の位置から甲赫のようだった。

 

僕としてはもう戦う意思はなかったが、あんな登場をしてしまった以上、そしてこの女の意思を見るからに戦闘は避けられないだろう。できる事ならこの女の真意を知りたかったが、仕方ない。こちらに危害を加える戦意があるのならば、それは排除しなければならない。

 

逃げることも考えなかったわけではないが、赫子を展開している敵に対して背後を向けるのは得策ではない。相手の実力のほども分からない以上迂闊に逃げることを選択してその瞬間急所を突かれてしまう可能性だってあるのだ。

 

普通なら草むらから飛び出した瞬間に襲い掛かる手はずだったが妙なところでペースを乱されてしまった。森林地帯ということもあって、地盤がしっかりしていない地面では赫子が固定し辛く僕の跳躍力もあまり役立ちそうにない。反対に女の喰種はこの地を知り尽くしているはずだ、地の利は完全に向こう側にあった。

 

「厄介だな……」

 

迂闊な自分の対応を呪いたくなる。なぜ喰種が屍を漁っていただけであそこまで動揺してしまったのか。それは自分には全く関係のない事だったじゃないか。生きた人間を食べようとしていない、それは考え方によってはあの梟が言っていた人間と喰種の共存のようにも見える。

 

なんだ……僕は……期待していたのか?

全ての喰種が……必ずしも悪ではないことを…

 

それは僕という存在が、どうしようもなく汚れきった僕が、まだ救いがあると言われているようで。目の前にぶら下げられているかの様な免罪符につい手を伸ばそうとしてしまう自分の心の弱さに無性に腹が立った。

 

無言で僕が構えていることを交戦する意思があると受け取ったのか、ギギィと空気を引き裂く音を立てて女の背中に生えた甲赫が僕の体を包み込むように迫ってくる。殺傷能力が低そうな鈍い赫子だが、いかんせん甲赫だ。鋭利さを欠いているからと言って油断していれば、その硬さに押しつぶされかねない。

 

甲赫は、4種類ある赫子の中で他を凌ぐ強度を誇ることで有名だった。凝縮し固形化した赫子は金属の刃でさえも凌ぎきり、同族の赫子でさえもほとんど防ぎきってしまう。そして極めつけはその重さにあった。血液中に含まれる微量な鉄分を凝縮したかのような鈍重さは、その硬さに鈍器のような攻撃性を加え極めて強力な凶器と化す。

 

そして奇妙なことにこの甲赫は羽赫のように大きく広がって、蛾のような大きな目玉模様を作り出していた。女の意思に沿っているのか赫眼のように発光する模様はまるでこちらを睨めつけている様だった。面積が大きい、それはそのまま殺傷力に結びつく。つまり僕は巨大なハンマーを無作為に目の前で振られている状況に等しかった。

 

「どちらにしても、あの娘には手を出さないで」

 

ドクンッ

 

「……っ」

 

それは酷く遅い攻撃だった。梟や少女の羽赫から繰り出された攻撃を先日受けていた僕からしてみれば、目が留まってしまうかの様な、拍子抜けしてしまうゆっくりしたもの。

 

これは警戒するだけ無駄だったのかもしれない、そう思い軽くいなそうと身体の軸をずらそうとしたところで異変に気付く。身体が、脚がまるで地面に吸い付いてしまったかのように動かせなかった。

 

「なっ……!?」

 

何か赫子によって脚を絡め取られているのかと女の背後にいた少女を見るが、赫眼は発現しているものの背中から赫子を出している気配はない。なら……どうして身体が動かせない!?

 

予想外の身体の不調、それに戸惑ってしまった僕は迫ってくる甲赫を、避けられなかった。

 

「くっ…がぁぁっ」

 

わき腹に鈍い痛みが走る、女が出した甲赫が僕の体を切り裂かず、だがハンマーの要領で僕の身体ごと空中に押し上げたのだ。肋骨が何本か折れたのだろう、草木のあふれる森林地帯を転がりながら、僕は反撃のために背中へと意識を集中させる。

 

今度は動く……

 

一瞬で体制を整えた僕は、四つん這いのまま追撃を掛けようと迫ってきた甲赫を睨みつけ紙一重で横薙ぎに飛んで攻撃をかわす。

 

「あ、ぐぉぉぁぁぁ!」

 

ずるりと濁った音が響き僕の意思に従って節目のついた赤黒い触手が二本、僕を守るように螺旋を描きながらあらわれる。先ほど食らってしまった攻撃が想像以上に後を引いている。

 

自分の顔が見えないので分からないが、恐らく頭が切れてしまっている。目元へと流れる血に目が霞んでしまい、思う様に狙いが定まらない。

 

まだ何故身体が動かなかったのか

その状態でもう一度甲赫の攻撃を食らえば意識が飛びかねない。そうなったら一巻の終わりだ。

 

全力で迎え撃とうと背中により力を込める、鱗赫の節に棘が増えより凶悪な形に姿を変える。昆虫の脚の様な姿へと昇華された赫子は、僕の意思に従って女の赫子を受け止める。槍のように突き出された僕の赫子は豆腐を突き刺すように女の甲赫へと沈み込み、その奥にいた本体である女のわき腹を抉る。

 

「お返し……だ」

「うぅぅっ……」

 

間一髪、カウンターには成功した。追撃をしようとしていた女はまんまとその勢いを殺しきれず僕の赫子に沈み込むように体を突き入れてしまう。無数の棘が皮を抉り取り地面の草に真っ赤な鮮血をまき散らす。くそ、また外した……胴体の真ん中に風穴を開けてやるつもりだったが、この暗さに加えて目が霞んだ状態では狙いがそれる。

 

だが甲赫にはしっかりとその刃は刺さっていたので、甲赫へと突き刺さった鱗赫ごと女の身体を上へと押し上げ、周囲に生えそろった古木へぶつけてやろうと脚に力を込めたところでまた足に違和感を感じた。だが今回のそれは僕自身の不調というわけではなく……先ほどまで女尾背後に隠れていた少女が僕の足をつかんでいたからだった。

 

 

「お、お母さんを……いじめ…ないで!!」

 

ドクンッ

 

「う…ぁ…っ」

 

邪魔をするなと赫子を振るおうとしたところで急に頭が朦朧とする。僕の意識が遠のいた所為で赫子の制御が外れ、鱗赫はぼろぼろと形を崩しながら消えてしまう。なんだというんだ、いったい何が起きている!?

 

「はぁ……はぁぁ…」

 

呼吸が早まり早鐘のように心臓が鳴り響き、頭をガンガンと揺さぶってくる。

 

「すず……」

「え?」

 

母親を守ろうと必死に僕にしがみつく少女の姿に、僕はあの時の妹の姿が浮かんでしまった。自分の事はどうなってもいいから……誰かを助けたい……

 

急にこの少女を傷つける事が恐ろしくなる。背中に力を入れても赫子が出てくれない、手も脚もまるで持ち主に逆らうかの如く、石のように重くなり動かせなかった。いや、むしろそれは僕がこの少女に妹の影を見てしまったからなのかも知れない。

 

それは太陽のような眩しすぎるほどの笑顔だった。喰種を殺し続け自分の存在意義も分からなくなってしまった僕には、それはとても痛かった。考えれば考えるほど妹に会いたいという気持ちが募っていく、それが絶対にしてはいけないことだと分かっていても考えることを止める事は出来なかった。

 

僕の、最後の家族。懐かしい、昔の思い出……それはもう取り戻す事が出来ない、僕の宝物。

 

徐々に薄れていく思考、真っ暗に染まる視界の端に不安そうにこちらを見る少女の姿が映っていた。

 

 

 



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#006「記憶」改訂版

 そう、あの日の僕も、自分が分からなくなっていた。

これは僕の、始まりの記憶。

 

 

 

 

 

 この世界に生まれ落ちた時、僕は孤独だった。

 周りには誰もいない、家族も親戚も友人も、知り合いでさえも僕には……いない。正確にはいたというのが正しいだろう。今から思えば、僕は棄てられたのだ。生まれて直ぐにその辺りの路地に棄てられて、そのまま放置されたのだ。

 

その事を、ある日育ての親から聞かされたときは唖然とした。唖然として、開いた口が塞がらなかった。この人達は何を言っているのか、あなた達が僕の両親ではないのかと、自身の血の繋がりを疑い憤慨したこともあった。

 

 悲しく、苦しく、嫌な気持ちにさいなまれたが、あまりそこまで深く考えても仕方がない。確かに言われたように考えてみれば、昔から親に似ていないといわれることも多かったが、どこの家庭の子供であっても、親に似ていない部分は少なからず誰でもあるものだろう。

 

 それこそどこもかしこも親とそっくりだったら、それはもう子ではなく親から生まれたクローン(複製体)だ。個性も何も全く同じものだったら面白味もかけらも無い。工業製品ならまだしも人間のような生物が全く同じだったら気味が悪いじゃないか。

 

 それに、僕を育ててくれた人は、どこまで行っても今の両親だけなのだし、その事実は僕が覚えている限り、というか死んでも変わることない。

 

 なら、驚きこそすれ、今の親を嫌いになると言うことがあるはずがなかった。まあ多少鬱陶しく思う事はあっても、そんな赤の他人にするといった具合に嫌えるはずもない。

 

「大岡裁き」でも言っていたように、もし他の家庭において生み親と育ての親が違っていた場合、そしてどちらの両親をとるか選択を迫られた場合、生みの親よりも、育ての親の方が子供は信頼しついて行くだろう。

 

それに僕には妹もいる、義理とは言え幼いときから本当の家族のように育てられた妹を、血の繋がりがないからといって今更邪険に扱えるわけもないだろう。いつもいつも義兄である僕のそばをついて歩いてくる妹の健気さは、とてもではないがそんな事を口走ってわざわざ泣かせる気にもなれなかったのだ。

 

もっとも最近賢しくなってきて僕に何かと小遣いをせびる様になって来たので、多少の拳骨くらいはくれてやっても良いと思ってはいるが、それを抜きにしても目に入れても痛くない家族だ。

 

 両親は真実を告げたことによる僕の変化を心配していたようだったが、それは無用な心配と言わざるをえなかった。と言うか、そう思われていたこと自体に少し憤慨した。僕を嘗めないでほしいと怒りたいぐらいだった。

 

両親は僕を愛してくれていた、小っ恥ずかしくて面と向かっては言えないが、血の繋がっていない僕を実の娘が生まれてからも愛してくれていた事は素直に感謝している。といえばきっと父さんも母さんも僕を叱るのだろう。僕の事は何のしがらみもない本当の家族だと、心の底から愛していると僕を叱ってくれるのだろう。お互いに思い思われているつまりはそういう事なのだ。

 

そして、今さら僕の本当の両親に対して何故捨てたのかなどと恨むつもりも勿論ないし、それ以前に何も感じることはなかった。勿論どうして僕を捨てたのかという純粋な疑問が無かったわけでは無いが、それをあえて蒸し返して両親を悲しませたくはなかった。

 

子供を捨てることは世間一般的には悪いことだが、生み親達にはそれをしなければならないほどの、何かしらな理由があったのだろうし、例え無かったとしても今の両親に囲まれた僕は満足していたからだ。

 

 今さら、本当に今更だ。僕に本当の血縁者が居たからと言って、「はあ、そうですか」という気持ちでしかないし、正直考えるのも億劫で面倒くさかった。本当の両親の事を考えるという事は、今の両親を否定してしまうというどうしようもない罪悪感にかられたのも理由の一つだ。

 

だが、そんな幸せな家族も一瞬にして僕の前からいなくなってしまうとは、そのときの僕は予想だにしていなかった。

 

東京3区のまあまあの成績を誇る進学校に通っていた僕は、何時もと同じように勉強をし、少ないながらもいた仲の良い友人たちと、放課後運動場や教室でスポーツに興じたり雑談をして家へと帰宅したのだった。

 

帰り際に中学校により、少し反抗期になってしまった所為で不満そうに頬を膨らます義妹を迎えに行くのも忘れず、共に手をつないで帰る様子は今考えても教科書通りの「良い兄」をこなしていたと思う。

 

「いつも迎えに来てくれるけど、別に来なくてもいいんだよ?私だってもう13歳だし子供とは違うんだから……」

 

中学生にもなって誰かに迎えに来てもらっているという恥ずかしさがあるのだろうか、妹は周囲を見渡して誰もいない事を確かめてから、小さな声で話しかけてきたのだった。

 

部活帰りという事で学校指定の青色に白のラインが一筋入ったタイプのジャージを着こんだ妹は、汗が染み込んでベッタリと肌にくっ付いた黒髪を鬱陶しそうにかき分けてポケットから出した消臭スプレーを丁寧に身体にかけていく。

 

妹の取り組んでいる部活は剣道部、道着や防具を身に着けて小一時間特訓すれば、そう頻繁には洗うことの出来ない防具の汗と体液が凝縮された何とも言えない酸っぱいような匂いが肌に移ってしまう。

 

僕も小学生の時両親の付き添いで剣道の試合に連れて行ってもらった事が数度あったが、道場中に立ち込めるあの独特の匂いがどうも身体に合わなかったのか、いずれも意識が飛んでしまったり記憶が曖昧になってしまうのだ。

 

両親に聞いてもその時の事をあまり覚えていないとはぐらかされてしまうので、きっと僕は子供ながらに大きな失態をしてしまったのだろう…多分暑苦しい雰囲気に乗せられてお吐いてしまったのだろうと思う。

 

立ちくらみ解消のために両親から薬を持たされている程なので、あまり心配をかけないようにあれから僕は剣道の部室へ近づかないことにしていた。

 

こうして妹と並んで歩いている時に漂ってくる汗の甘い匂いならまったく気にならない。むしろ妹の匂いより柑橘系のスプレーの匂いの方が鼻について気持ち悪いのだが、兄として自分の体臭を気に掛ける妹にそれは言ってはいけないだろうと押しとどめる。

 

妹の体臭について語る兄の姿など、それは変態以外の何物でもないじゃないか。僕の友人にも一人、妹属性とかいうのに憧れている奴がいるが正直「萌え」について嬉々として語っている奴の姿は気持ち悪かった。

 

それから僕は奴を反面教師として、妹に絶対にやってはいけない事を奴の気持ち悪さから学んでいる。まあその趣味を除けば至って普通の奴なので、極端に避けたりはしていないのだが。

 

「ねえ、聞いてるのお兄ちゃん?」

 

「あ、ああ…聞いてる、獅子舞を育成するゲームを買ってもらった友達の話だっけ」

 

「違うって、何それ……私の迎えがもういらないって話、お兄ちゃんもそろそろ勉強で忙しくなる時期だし、私も部活が何時もの時間に終わるとは限らないし……待ってて貰うのも悪いし」

 

僕が中学生の時はお父さんに偶に迎えに来てもらっていた時があったが、その時は少しこっぱずかしく感じる程度で、妹の様にあからさまに怒気をあらわするほどの事ではなかったように思う。

 

矢張り男女でその辺りには違いがあるのだろうか、だとしてもこの件に関しては周りから妹に甘いと揶揄される僕でもはいそうですかと引く訳にはいかない理由があったのだ。

 

「分かってるよ、でもこの辺りはよく不審者が出るって言われてる場所じゃないか、年頃の女の子をそんなところで一人にするほど僕は人間やめてないんでね」

 

妹の通う中学校から僕たちの家までは大人の足でも歩いて30分はかかる、その道は非常に入り組んでいて、集合住宅が一種の迷路のようになっている場所を通らなくてはならなかった。

 

背の高い住宅は通り道に影を作り人の眼には見えない死角を沢山作ってしまう、いわば不審者の出没スポットのような場所に成り果ててしまっている。早朝の通学はまだ妹の同級生の姿もちらほらと居るのでそこまで心配の必要はないが、下校となると話は別だった。

 

妹は夜遅くまで部活をやっているので、必然的に帰りは遅くなってしまう。仲の良い友人もその頃には皆帰ってしまっているので妹は一人で帰る事になってしまうのだ。

 

兄の欲目か僕の妹はそれなりに容姿が整っているので、こうして黙ってうつむいていればそれは淑女の様な可愛さが溢れてくるだろう。それは言ってしまえば不審者の格好の的である。

 

口ではこう言っている妹もいざ不審者と面と向かい合ったらそれは怖いだろうし、今後そのことで妹に取り返しのつかないトラウマが出来てしまうかもしれない、それはなんとしても兄として避けたかった。

 

「ええ、不審者ってお兄ちゃん心配しすぎだよ、最近はそんな話全然聞かないし学校でも話題にならないよ。私、こう見えてもちゃんと初段はとってるからさ、不審者なんか来ても返り討ちにしちゃうかもよ?」

 

「それでも注意するに越したことはないさ、お前は黙っていれば可愛いんだから……それに剣道やってるからって中学生の腕力で大人は倒せないだろ?」

 

背中に背負った竹刀の入った麻袋を自慢げに指さした妹に溜息を吐いて、僕は首を横に振った。正直どこまで本気で言っているのかわからない、本当に不審者を倒すつもりでいるのかそれとも僕の言葉に売り言葉に買い言葉でとっさに出てしまったものなのだろうか。

 

もし妹の言葉が本気なら、危なっかしい事はやめてほしいというのが僕の本音だ。

 

この妹は昔からそうだった。女の子という事を接している内に忘れてしまいそうになるほど好奇心旺盛で活発なのだ。気になる事があれば躊躇なく誰かに尋ねたり、誰にも相談せずに勝手に実験してしまう時だってあった。

 

そしてとりわけ厄介だったのがこの子の持つ妙な正義感だったのだ。妹は僕を含めた現代っ子にしてはなんとも時代錯誤も甚だしいような感性をもっていた。

 

とやかく言いすぎても妹は頑固なので聞く耳を持ってくれないだろうから、声に出して注意する事はないが、いつか彼女の中の変な正義感が暴走しそうで怖かった。ある日突然、不審者を倒しに行ってきますと桃太郎の如く家を飛び出していく姿が目に浮かぶ。

 

「黙ってればって…素直に可愛いっていってよ、ほら…年頃の女の子と夜の通学路で一緒にいるってドキドキしない?」

 

「ドキドキか、確かに普段僕に冷たい態度のお前がそんなことを言ってくるから、小遣いでもせびられるんじゃないかって、ドキドキしてるけどな」

 

「なにそれ……すっごい落ち込むわぁ不満爆発ですよ」

 

上目づかいで僕を見つめて来る妹、だが今は歩いている最中だという事もあって夜道を照らす電燈も少ないので妹の表情を正確に窺い知ることが出来ない。というか手を繋いでいる状態でそんな事をされると歩きにくくて煩わしい。

 

此処で妹の同級生の青春真っ盛りの男子辺りなら心臓の鼓動が高まってしまうのだろうが、例え血の繋がらない妹と言えども、今まで一つ屋根の下で過ごしてきた家族だ。親愛の情は湧けども恋愛感情なんて抱くわけがない。

 

最近妹は僕をそういう恋愛絡み、女性がらみでからかってくることが多くなった。中学生になり思春期の女の子としてしっかりと成長している印なのだろうとは思うが、矢張り僕としてはこういう事をやっている内は一人で帰らせるわけにはいかないと強く思うのだ。

 

妹は危機感が足りていない、若い女の子が一人で夜道を帰るという事がどれだけ危険と隣り合わせなのか分かっていないのだろう。それに加え剣道部に入り、なまじ高成績の所為で不審者という恥も外聞のない存在に油断してしまっている。

 

剣道は一本入れれば仕切りなおされるが、不審者に一本入れた所で逃げられるか逆上して襲い掛かられるかのどちらかだ。相手が刃物を持っていたら目も当てられない、竹刀を向けた所で金属製の刃物には歯が立たないだろう。

 

通り魔、痴漢、誘拐……世の中には一見テレビでしか聞いたことが無いようで、何時どこにでも存在してもおかしくないような不審者が多くいるのだ。世間を全く知らない子供が不審者に相対しようとしたところでどうなるかは決まっている。

 

大人は汚い、都合の悪い事は棚に上げて自分に都合のいいことしかしようとしない子供以上に自分勝手な生き物だ。それを叱ってやれる人間が居ないのもよりたちが悪いのかもしれない。

 

せめて妹がしっかりと周りに警戒心を持つようになるまで僕がこうして、悪い大人たちから護ってあげたい。

 

無邪気に笑うこの笑顔をもう二度と失わせたくない。最後にはお嫁に行ってしまう妹、その時まで僕は彼女にとって良いお兄ちゃんでいたかった……

 

「そういえばお兄ちゃんは学校を卒業したらどうするの、やっぱり成績も良いし進学?」

 

これ以上からかうと怒られるという雰囲気を感じたのか、妹は明後日の方を見て唐突に話題を変えてきた。僕としてもこれ以上居もしない彼女やガールフレンドについて探られるのは嫌だったので特に何も言うことなく先を促したのだった。

 

「そうだなぁ、進学も良いけどちょっと興味がある仕事があるんだ、まだしっかりと決まってるわけじゃないけど進めるならそっちに進みたいと思う」

「へえ、就職かぁ。それ、なんて職業?教えてよ」

「ええ……ちょっと恥ずかしいからまた今度で良いかな?」

「そこまで話したんだから最後まで言ってよ、これじゃぁ夜寝られないよ、不完全爆発だよ、燃焼不満だよ」

 

良くわからない言葉を矢継ぎ早に繰り出す妹、まあ言いたい事は分かるのだが、僕はこの場で妹に話すつもりは無かった。まだ、父さんにも母さんにも言っていない事だ。

 

日本国内で最も常に命の危険に晒される職業、でも僕はその職員の在り方、誇りが憧れだった。自己犠牲の精神と言うのだろうか、自分の命を糧に周りを救う。自分は傷ついても護りたかったものを護れればそれで満足だと、RPGゲームの勇者のような感性に僕は、昔テレビの密着取材番組を見た時から囚われていた。

 

ああいう人間になりたい、当時の僕はそう強く思った。感覚としてはテレビのスーパーヒーローに対するチビッ子の憧れに近いだろうか、そしてこの手で自分の護りたいものを護ってやるんだとその職業を志したのだ。

 

ヒーローに憧れる子供と僕が違いその憧れを失わずにいれたのは、目の前に護るものがいたのと、憧れたものが現実のものだったからなのだろう。確固として存在しているからこそ、僕は現実と言う「冷め」に襲われることなく夢を今まで持つことが出来た。

 

もっともそんな危険な職業に家族が賛成してくれるのかは難しいところだが、今まで僕の事を家族として受け入れてくれた優しい人たちだ、今すぐには打ち明けず徐々に外堀を埋めていって、僕の意思を真摯に伝えていけばいつか認めてくれるだろう。

 

良心に漬け込むようで何となく背徳感が無いわけでもないが、僕の護りたいものを護ることが出来るのなら安いものだろうと思う。あとは、勉強しかない。仕事に必要な最低限の知識を吸収して、就職試験に備える……それが今僕が出来る最低限の事だった。

 

「はぁ……お兄ちゃんは何時もこういう時は頑固なんだから、良いよ。でも、いつかは教えてもらうからね」

「わかった。そうだね1年後、その時に改めてお前に話すよ」

「約束、約束だからね!」

 

 将来に向けた覚悟を決め、早く知りたいと急かす妹と指切りをした日、その約束がまさか叶わない夢になってしまうとは思いもよらなかった。運命の歯車はまるで僕の事を嫌っているかのように動き出す。

 

 

その日、妹と共に帰宅した僕が感じたのは微かな違和感だった。僕の家は東京の田舎に位置するベッドタウン、その端っこにある古寂れたマンションの一階にある。

 

まだ新婚だった両親が少ない給料を切り詰めて購入した初の新居だった中古マンション、当時はいつか安定した収入を貰えるようになった辺りで、これよりランクの数段上の住居に引っ越すことも考えていたらしい。

 

だが、何時しか僕を引き取り義妹が生まれ、成長を今まで見守って来たこ思い出の詰まったこの家をとても手放す気には成れなかったのだという。

 

東京という都会に越してきた両親は、この府が故郷と言うわけではなかったが、彼らに言わせてみればこの家は第二の実家になっているのかもしれない。そう考えてみれば僕もこの古い雰囲気は嫌いではないし、修学旅行で行った先の沖縄のホテルでこの家の有難みを実感した事もあった。

 

長年同じ場所で過ごした鳩は、自分が其処から遠く離れた場所に連れていかれても、必ず自分の故郷である地を目指して帰って来るのだという。帰巣本能と言われるそれは、きっと僕の中にもあるのだろう。

 

何気なく過ごし住んで来た家だが、そこは何よりも僕にとって、義妹にとって掛け替えのない場所だったのだ。

 

しかし、コンクリートの壁はカビで所々黒く変色し、大きな亀裂が目立つ壁、今にも崩れてしまいそうだと心配になった事は何度もあるが、僕が感じた違和感はそんな日常にありふれたものでは無かったのだ。

 

「扉が…開いてる?」

 

103号室、立てつけが悪くなり近々大家さんに代えてもらう予定だった僕たちの家の扉が無造作に開かれていたのだ。今の時間帯は8時35分、いくら時間にルーズな両親と言っても流石に帰ってきている時間帯。だが、それでも何故玄関の扉が開きっ放しになっているのは分からなかった。

 

東京の田舎と言ってもそこは不審者も泥棒も当然のように出現する地域、金目のものを蓄えている筈の若い家庭の玄関の扉が開きっ放しになっているは聊か不用心ではないだろうか。

 

というか、僕の両親は家の扉を開けたまま放置するほど能天気な性格じゃない。家に帰ってきたら鍵はしっかりと閉めるし、ドアチェーンだってしっかり嵌めるくらいの警戒心はもっていたはずだ。

 

外に出ているのだろうか、家に帰って来たとたん急に会社から電話が来て慌てていて扉を閉める余裕がなかったとか、それともお隣さんとでも話している内に何処かへ行ってしまったのかもしれない……と考えて僕は首を横に振った。

 

有りえない、時刻は何度も言うが夜の8時を回っている。父の会社はもうとっくに営業を止めて全員帰宅している頃だろうし、母の会社も流石に仕事を行ってはいないだろう。残業にしろ二人とも接客系の客商売なので、人が少なくなる時間帯には防犯の事も含めて早めに切り上げて帰って来るのだ。

 

それなのに……扉が開いているという事は、つまり。

 

「泥棒……?」

「お、お兄ちゃん……?」

 

妹も僕と同じ考えに至ったのか心配そうに自分の家と僕の顔を交互に仰ぎ見た。とっさに僕は扉と妹の間に入り僕の背後に隠した。開けられた扉から洩れでる微かな電光、それはまだ中に侵入した犯人がいるということも考えられるからだ。

 

泥棒がものを盗んで去っていく時間はざっと5分くらいだという、侵入してから短時間で犯行を終わらせて出ていく泥棒が家に残っているという可能性は低かったが、それでも悪戯に家の中を覗き込んで犯人に気づかれでもしたら、僕の未熟な体力では妹を逃がせられない。

 

ここは警察に通報した方が良いと考えて、近くのコンビニで警察へ電話でもかけようと引き返そうとした瞬間、僕の後ろに立っていた義妹がすり抜ける様に開いている扉から中へと入って行ってしまったのだ。

 

「お母さん!お父さん!」

「あ、おい!?」

 

泥棒に部屋を荒らされている可能性、そして両親が帰ってくる時間帯、開け放された扉。妹はきっと我慢できなかったのだろう。この扉の向こうで何が起こっているのか、はたして自分の両親は無事なのかどうか心配だったのだ。

 

かくいう僕も心配していなかったわけではないが、両親よりもか弱い妹の手前、そんな愚行を犯すわけにはいかなかった。とは言え妹が先行してしまった今、僕もそれに慌てて続き泥棒が潜んでいるかもしれない部屋の隅々に注意を払いつつ進む。

 

中古でそれ程ローンを組むことなく購入することが出来たというマンションの間取りは、小さく僕と義妹、そして両親の部屋と台所とリビングがあるだけのとても質素なものだ。

 

ひょろりと長い柱についた横に伸びる無数のカッター傷は、僕と義妹の成長の証。他にも落書きをしてしまった壁や、両親に反抗した義妹が竹刀付けた壁の穴など、様々な思い出が刻まれた屋内。

 

家に帰って来たのだという安心感と共に僕に襲い掛かって来たのは、どうしようもない空腹感と鼻を刺激する何とも美味しそうな香りだったのだ。なんだ、父さんと母さんはとっくに帰ってきていたのか。

 

それで僕たちの帰りをまって料理を作ってくれていたのだろう、先ほどまで感じていた嫌な気持ちも何処かへ吹き飛び、リビングの前で妹の背を見つけ、今日の夕飯は何なのか尋ねようとした所で僕は見てしまったのだ。

 

「何なんだよ、これ」

 

部屋一面に真っ赤な液体をまき散らしたかのように染め上げられ、鉄のような鼻の奥に残る臭いに、僕はいったい何が起こったのか理解できなかったのだ。いや、何が起こったのか、それを考えることを拒否していたのかもしれない。

 

それは…きっと僕の人生のなかで一番衝撃的で……二度と味わいたくない程恐ろしいものだったから。

 

何時もの様に家に帰った僕の目の前で、ある日突然何の前触れもなく誰かの犯行によって僕たちの両親は殺害された。無残に腹を切り開かれ、内臓が周囲に飛び散った無残としか言えない姿が見つかるなど、夢にも思わなかった。

 

この惨状が余りにも突飛で唐突過ぎて、それが死んでいて今日の朝まで生きていた僕の家族だと、妄想でも仮想でも夢でも白昼夢でもなんでもなく、実際に起こってしまったいう事実を理解するまで数分をようした。

 

当時の気持ちとしては、驚いたというよりも呆然としたというのが正しいだろう。この光景が本当に真実なのか、先日読んでいた小説の続きを夢に見ているのではないかと一瞬馬鹿な事を考えたが、周囲に漂う死臭に現実から引き戻されてしまう。

 

とっさに僕は妹にこの光景を見せてはいけないと思い、両手で顔を被ったのだが、その行為はもう遅かったようで、義妹の眼にはもう真っ赤な鮮血にまみれた、両親の姿が焼き付いてしまっていた。一瞬その光景を見て固まった妹は、この現場がこの状況が表している意味を理解して顔を真っ青にする。

 

「い、いやあああああああああああああああああああああああああああああああ」

 

もはや人間の形をとどめていない、辛うじて朝着ていた服の所為で両親だと判別できるだけの肉の塊へと成り下がった存在に向かって、妹は泣いた、それはそれは大きく声を荒げて「お母さん、お父さん」と肉塊に問うのだ。

 

自分が血塗れになる事すら厭わず、妹は血の染み込んだリビングへと足を踏み出しぐちゃぐちゃになり、どちらのモノか最早わからなくなった内臓を掻き集めて抱きしめたのだ。

 

「いやだ…いやだ、いやだ…」

 

同じ言葉を繰り返し、妹は飛び散った肉塊に引っ付けと、元に戻れと意味のない罵声を浴びせ、涙を流し肉の塊を掻き集めていく。ひとしきり周囲に巻かれた肉が集まったか頃、敷かれたカーペットに転がった目玉を愛おしそうに妹は拾い上げ、そっと掻き集めた肉塊の上に乗せたのだった。

 

小説の中では軽々しく触れられてきた「死」という出来事。殺人、病死、老衰、事故死それは数あれど違わないのは、この世から人が居なくなったという虚無感と悲しさだけ。それを何処か紙を隔てた上で感じていた僕は矢張り「死」を軽んじていたのだろう。

 

「死」とはこれこれこういうモノだと、小説や漫画の情報を鵜呑みにして自己満足の悲しさに浸っていたのだ、軽々しく可哀想と口にする上から目線の同情のごとく、自分に一切害が及ばない高見から見下ろす様に僕は「死」と言うモノを捉えていた。まだ縁遠いものだと。

 

目の前の死に対して何も言えなかった。

狂ったように叫ぶ妹を前にして何の言葉もかけてやることが出来なかった。

 

もう、父さんの怒った顔も、優しく頭を撫でてくれた武骨な手も僕に向けられることは無い。母さんの心のこもった手料理、何時も学校に持っていっていた弁当の味も、朗らかにほほ笑む慈母のような笑顔ももう僕は見ることも味わう事も出来ない。

 

だが、此処で物思いにふける様に死の悲しさについて考えてしまった僕は、一つ重大な過ちに気が付いていなかったのだ。いや、気づけていたのならそもそもこんな事態には成っていなかったのかもしれない。

 

ここで、僕が……僕自身が惨殺された両親の死体を見ても何ら感情を揺さぶられることなく平然としている事実に気が付けたのなら、これから先に起こる周りの人生まで変えかねない転機を未然に防ぐことだって出来たのかもしれない。

 

そう、僕は両親二人の血の匂い、内臓の香りに空腹を感じてしまっていたのだ。泣き叫ぶ妹の目の前で、腹が空腹を訴えるかのごとくぐうと音を上げたのだった……

 

 あの光景は今でも鮮明に、それこそ動画の映像のように色褪せず思い出すことができる。吐き気がした、妹にあんな顔をさせている状況に、そして両親だった肉に対してお腹が空いていると無意識に思ってしまった事に対して。

 

確かに育ての親が死んでしまったことに対して涙したし、妹とともに喪服に身を包んで親族らと葬儀に出席したときは悲しかった。悲しかったが、それ以上に僕はあの火葬されていく二人の肉に対して空腹を催していたのだ。

 

その事実に気がついたとき、僕は驚愕し、そして自己嫌悪した。どこに自分の両親を「喰いたい」などと感じる息子がいるのか。この時はまだ、僕は自分が一度にいろんなことがあった所為で、ストレスでどこかおかしくなってしまったのだろうと思っていた。

 

 自分に対して恐ろしくなった僕は、葬儀場から尻尾を巻いて家に逃げ帰りあれほど愛おしく思っていた妹をもほっぽり出して、家に自分の部屋へと閉じこもった。外に出ることが、怖かったからだ。

 

外に出て、人間を見ればまた両親のように美味しそうなどと感じてしまうのではないかという恐怖心が僕を支配していたのだ。

 

だが、そんな引きこもりも長くは続かなかった、家に閉じこもる生活…つまりは引き篭もりは僕には向いていなかった、というより僕の腹が持たなかった。

閉じこもりを始めてゆうに3日目で僕の身体は限界を向かえ、何か口に入るものが欲しいと思うようになってしまっていた。

 

 ……そこで初めて僕は人間ではないのだと、気づかされた。

 

心配する妹のことも気がかりになり空腹に負けて、自分の部屋の前に置かれた食事を食べてしまったのだ。炊き立てのご飯からはあり得ない腐臭がした。妹の自信作という味噌汁は雑巾の搾りかすを飲まされているのかと感じた。

 

メインの生姜焼きは食事が不味かったという表現では収まりきらなない、とても口にできないような人の食べるものでは無いだろうという触感と匂いだったのだ。牛乳を拭いた雑巾のような味がする肉、長く掃除されていない公園のトイレのような匂いのするチーズ、全てが最悪のものだった……

 

盆の上に乗せられていたもの全てが、僕を拒絶しているように感じた。当時あれを食べ物として出してきた妹に怒りを覚えたほどだ。

 

なんの悪戯だろうと思った。こんな時に……大切な家族が死んでしまったときに……

だが、それは違ったのだ。思えば、妹を外食に連れて行くことはあっても、僕は家で留守番をしていることが多かった。

 

大方それは両親が可愛らしい妹を贔屓しているのかと、あきらめていたのだが、実際は間逆だったのだろう。両親……僕の育ての親は僕の正体に気がついてなお、僕を生かすために…「人間の肉」…を僕に与え続けていたのか。

 

わかりにくいようにしっかりと加工して、ほかのステーキやしゃぶしゃぶ等と見分けがつかないように細工までして。そのことに気がついたとき僕は死にたくなった。最近巷を騒がせている殺人鬼の種族が、僕だと知ってしまったのだから。

 

両親が死んで居なくなってしまったことで、僕は自分で食事を作ったり、他人からのおすそ分けを食べるしかなくなり、その食事の得も言われぬまずさから、皮肉ながらその事実に気がつくことができたのだ。

 

当初は自分の味覚が両親の死体を見たトラウマか何かで変になったのか、それとも僕に対しての周囲の圧力か何かだと思ったが、時がたっても料理がおいしく感じることは無かった。

 

周囲の人間には、僕が引き篭もっている理由が、両親の死にトラウマを抱えたかわいそうな男の子、という印象だったのだろうが、妹だけは違っていた。僕が人の肉を食べなければ生きてはいけないとどこで知ったのかは分からないが、大方僕の態度で気が付いたのだろう。

 

妹の料理に一切口をつけない傍ら、僕はじっと慣れない料理を作り怪我をした手の先を凝視し続けていたのだから。

 

あろうことか、引きこもってこのまま餓死してしまおうと死を覚悟していた僕に、義妹は自分の腕をカッターナイフで切り裂いて、僕に……自分を食べろと促したのだ。まだ、15歳にも見たない中学生がだ。

 

そのとき、僕は怒れなかった……自分の命を簡単に捨てようとした妹に対して、怒ることが出来なかった。ただ義妹の手首から湧き上がる鮮血に、皮膚の切れ目からのぞく柔らかそうな桃色の肉に目を奪われてしまったのだ。

 

「美味しそう」だと思ってしまった自分自身を殴り飛ばしたかった。兄失格だ、両親を、義妹を「食べる」などと、考えただけでもおぞましかった。だが…僕はその匂いに、色に、次第に抗えなくなり…

 

一緒に生活を共にしてきた家族を、僕は喰らったのだ。あの楽しかった生活を、今までの思い出をかなぐり捨てて、目の前の肉に眼を奪われてしまった。最悪で、最低、クズで醜悪で下種の所業だった。

 



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#007「回答」改訂版

 これは、噂に聞く走馬灯なのだろうか。死の淵に立った時、その人生の道のりが断片的に次々と脳裏に浮かんでしまう現象。あの日の忘れてしまいたい記憶が、まるで今起こった事のような鮮明さで頭に流れ込んできた。

 

通学路での掛け合い、自宅での異変、惨殺された両親、それらの思い出がアルバム写真の様に僕の頭の中に浮かんでは消えていく。胸を鷲掴みにされているような重圧を感じながら、僕の身体はやがて徐々に深い闇の底へと落ちていく。

 

 あの日から、僕の地獄のような毎日は始まった。喰種として、人の営みから外れることを余儀なくされた最初の1年はまさに死んだほうがましと言える程過酷なものだった。だが、僕は生き続けた、惨めに生を望み続けた。汚泥を啜り喰種を殺し必死に生にしがみ付いてきたのだ。

 

それは、喰種を悪と断じ、殺す事が全て妹の為になると信じてきたから。まだ死ねない、世界中の妹(人間)の敵敵を殺しつくすまでは死ぬわけにはいけないとここまでやってきた。

 

だが、それは……あの親子の喰種を見た今ならわかる。もう、見ない振りをして自分に嘘をつき続けることなんて出来なかった。梟にも少女にも、そしてあの親子にも人間と同じように心があったのだ。

 

ただ人間を殺し続ける殺戮機械、そこに何の信念も意思もないと漠然と思っていた僕のは、その事実に気づき怖気づいてしまったのだ。正義の味方気取り、弱気を助け強きを砕く、悪を倒すヒーローごっこに僕は浸っていたのかもしれない。

 

英雄症候群(ヒロイック・シンドローム)、確か僕のことを一度診断した精神科医がそんなようなことを言っていた。当時の僕はまだ無知だったので特に深刻に捉えることもなくすぐに記憶の隅へと消えてしまった言葉。

 

それは、あの時の僕が抱いていた将来の夢にも少なからず影響があったのだろう。自己満足の正義感を振りかざして、制御できない感情のまま喰種を殺す……なるほどそれは梟の言う通り、僕の嫌う喰種像そのものだった。

 

「は、はははははははははっ!!」

 

だからこそ、喰種が人間の様に、誰かを守ろうと行動した時……そして人間の様に命乞いをし生を求めようとした時、僕は決まって止めを刺すことを躊躇してしまった。そしてそれを梟に指摘された時、僕は癇癪を起した子供の様に怒り狂い暴れまわった。

 

まるでその言葉が真実だと認めたくないかのように。そして結果として梟に諭され敗北を決する羽目になる。

 

「僕は愚かだ」

 

どっぷりと暗闇の淵へと沈んでいくような感覚。底なし沼にも似た、それでいて妙な安心感がある不思議な世界。恐らくこれは僕の深層そのものなのだろう。何もない、ただ過去の思い出のみが写真の様に点在する引きこもりの部屋の様な世界。

 

そこでは、誰も僕を否定しない。ああ、このままずっとこの中にいたい……

 

「……んっ?!」

 

だがその願いは叶わなかった、頭部に生じた重い痛みに僕の意識は覚醒へと向かってしまう。深い海の底から無理矢理引き上げられているかの様な圧迫感を感じながら、僕は大粒の涙を流す瞳を開けたのだった。

 

周囲に広がる森林と、僕をまっすぐと見据えて大きな翼の様に左右へ広げた甲赫を向ける女の姿を捉えれば、昨夜の記憶が戻ってくる。そうだ、僕は13区から20区への移動中人間を喰べようとしていた喰種の親子と遭遇してしまった。

 

そのまま交戦しようとした僕は、だが彼女らが死体を食べようとしている事に気付いて、自分の価値観、喰種を悪だと断じてこられた理由が揺らいでしまった。そして追い打ちの如く人間味あふれる少女の必死の叫びを聞いた僕は、そのまま意識を失ったのか。

 

女の赫子の角度や僕のいる位置、そして未だに僕の足にしがみついたままの少女の様子を見るに、どうやら僕が意識を失ってから一分と経っていないらしい。意識が落ちるということはこと戦闘において死を覚悟しなければいけないことだ。

 

敵に晒してしまう無防備な時間、それがどれほど危険なものなのかは身をもって理解している。今回瞬間的に意識が覚醒できたのは奇跡に近いだろう、だが僕にはもう彼女たちと戦う事は出来なかった。

 

赫子を展開させる気も起きない、今この少女を傷つけることはそれこそ偽善でしかない。『何を馬鹿な事を、この女は喰種で、今まさに人間の肉を食べようとしていたんだ』だがそれは死体だった、生きていない人間だった、この喰種は人間を殺してはいない。痛めつけていない。

 

『わからないぞ、たまたま今見た光景が真実とは限らない。この女は今まで何度も生きた人間を殺しているかもしれない』そうかもしれない、けど……それもこの娘を守る為に仕方のない事だったら……

 

『人間を襲ってもいいというのか、それは僕が嫌っていた喰種の思考そのものじゃないか』それは……『それを認めてしまったら、僕は何の為に喰種を殺してきたのか、分からなくなるぞっ』それこそ、自己満足だ。

 

自分の存在意義のために、僕は喰種とはいえ罪なき命を奪ってはいけなかった。

 

「……やめだ」

 

此処は逃げさせて貰おう。

僕は自分の中に湧き上がる感情の波とはまた別の奔流を感じていた。それは食欲、喰種が全て悪ではないと気づいた今になっても、僕の内側で暴れまわる食欲は留まることを知らなかった。

 

いや、なまじ捕食することを自分の意思で止めてしまったゆえに、高ぶる食欲はより膨れ上がり身を焦がそうとし始めている。この森林へ来た時からそうだった、心が理性と本能の狭間で揺れる。

 

過去の幻影も見たのも、感傷的になっていたのもその根本的な原因は僕の食欲にあったのかもしれない。腹の減った動物はいやに攻撃的になる、それは身体に余裕がなくなって冷静な思考が出来なくなってしまうからだ。

 

女の喰種もだいぶ消耗して肩で息をし始めている、逃亡には背後からの急襲の恐れがあるが、この状態では追っては来れないだろうという確信もある。

 

僕はそっとしゃがみ込み、僕の変化に驚いたのか脚から手を放してしまった少女から一歩距離を置く。少女はまだ警戒を解いていないようで、だが即座に女に大声で呼ばれハッとしたように一目散に女の元へと走って行った。

 

きっと、無茶をしたことを怒られているのだろう。徐々に顔から精気が失われしゅん俯いて少女。だが叱っている側の女はそんな少女の身体をこれでもかというほど抱きしめていたのだった。

 

「どういうつもり……?」

 

だが女も馬鹿ではない、子供の無事を確認できた安堵で気が緩んでもなお、僕のほうへ向ける鈍く重い甲赫の切っ先は此方を向いていた。僕が少女を特に何もすることなく返したのを見て、何か裏があるのではと勘繰ったのだろう。

 

女は再び少女を自分の背後へと隠し、戦いを仕切りなおさんと赫子をゆっくりとだが確実にこちらへと伸ばしてくる。 矢張りというか血みどろで性格がおかしい喰種がいたのは13区のみのようだった。

 

 ここの場所には少なくとも、こういう人を殺さず最低限の殺生で押さえようという喰種がいることは間違いなかった。こういう喰種がいてくれたのなら、「梟」のいう人間との共存も出来るのかもしれない。

 

 喰種に対して思っていたイメージを払拭してくれるような家族愛に、僕は久し振りに頬が緩んでいた。マスクを被っているので相手には分からないが、僕は嬉しかった。

 喰種が…、例え死に直面しなくとも、人間のように振る舞ってくれることが。

 

 人間というカテゴリーに属し、亜人として派生したものが喰種なのか、突如何もないところから生まれた存在が喰種なのかは分からない。だがそれでも、この二人を見ていれば喰種も生き物なのだと、思うことが出来るのだ。

 

 本能を抜きにして、他者を庇い、自身を犠牲にする。

 こんな愚かでありながら、美しい行いをするモノを人間らしと言わずに何というか!

 

「ああ、僕は間違っていた」

 

どうかしていたとさえ言える。こんな……こんな家族を殺そうとしていたなんて…

 

 まさか僕が見つけた喰種を、自分の意志で食べない日が来ようとは思いも寄らなかった。 喰種に会っているのに関わらず、怒りがこみ上げてこないことも無駄な正義感が湧かない事も、以前とは違っていた。何か背負っていた重みが僅かばかり消えた様な吹っ切れた気分だった。

 

「人間の肉は……美味しいのですか?」

 

 気が付けば僕はそんな質問を、彼女に向けて話していた。あの日を除いて僕は今まで喰種の肉しか食べたことはない、その限られた味覚で善し悪しはあったが、まったく違う肉の種類である人間の味がわからない。まあ、美味しいから食べるのだろうし、それしか口に入れることが出来ないから、食べるのだろう…

 

 矛盾していると思うが、それでも僕は本人の口からその答えが知りたいと思ったのだ。喰種は人を食べるとき、一体どういう感情を持って、何を考えているのか、しりたかった。空腹に突き動かされた故での行動だったとはいえ、この場でそれを訪ねることが出来たのは僥倖だったのだろう。

 

「……分からないわ、私は人しか食べられないもの。でも、人の振りをしているときに食べる、人間の食べ物よりは…人間のお肉は美味しいと感じるわ…

でも、私は人を狩れない、私の娘のように生きて、歩いている人間たちの顔を見ると、何も…出来なくなってしまう」

 

 僕の言葉に戦いの張りつめた、緊張の糸が途切れ、彼女は呆気にとられていたが、考えるように手で顎をなで、真摯に、彼女は答えてくれた。敵対していた相手に見せる反応ではなかったが、今はそれがありがたいとさえ感じた。

 

 その答は半ば僕が予想していた答と同じものだったが、それでもう満足だった。矢張り、彼女たちが屍を漁っていたのは、人間を傷つけたくないからなのか。赫眼を出さなければ、人を食べなければ、赫子がなければ、彼らは人と何ら変わらない。

 

「僕は…喰種が嫌いだった。人間を食い物にして、悪しく欲望にまみれた奴らが疎ましかった……」

「それは」

「変わってますよね、でも僕はそうすることしか出来ない。人を……食べられない僕には、喰種を恨み続けるほかなかった……でも、それは大きな間違いだった。悪じゃない喰種……守りたい人…僕は何のために生きていけばいい!?」

 

自分でも、何を言っているのか分からない。自問自答にも思える心の叫び、誰にも分かるはずのない憤りを見ず知らずの他人にぶつけてしまった。その事に気づくと急に恥ずかしくなってしまう。

 

何を言っているのか、そしてもし答えを知っていたとしても僕と先まで敵対していた女が僕の質問に答えてくれるとは思えないのに。

 

それだけを告げて去ろうとする僕をだが、女の声が呼び止める。何か謝罪を要求されるのかと勘繰るも、その女の表情は明るく打算のかけらもない心地の良いものだった。何だと言うのだ何故この女は僕に笑顔を向けている…?

 

「私もね……昔はそうだった。貴方の言うように汚い事もした、生きるためとは言え人殺しだってしたわ……でも、この娘が出来て私は変われた。

私に、命の大切さを教えてくれた人がいるの、そうこの20区で喫茶店を営んでいる人なんだけど、きっと今の貴方の力になってくれるはずよ」

 

その言葉は僕に余計な刺激を与えまいとしたゆえに紡がれたものだったのかもしれない。だが、それでも僕の心へその言葉は深く響いたのだ。

 

「喫茶店…」

「そう、私は貴方の気持ちを分かってあげることは出来ないけれど、あの人なら……人間が本当に大好きなあの人ならきっと……」

 

 なら、僕がこんなにも人間を守りたいと、あの大切な家族を愛おしく感じているのも、個性で良いのだろうか。彼女も僕に敵意がないことが分かったのか、赫子を戻して、静かに僕の話に聞き入ってくれていた。

 いつの間にか隠れているはずの娘まで、母親の背後にしがみついて、僕の顔をじっと見つめていた。

 

「どうしたの?」

 

 大人しそうな印象を受ける少女だったが、その好奇心旺盛な眼差しはどこか妹を彷彿とさせる。何とも奇妙な気分になりつつも、不思議そうに見つめる視線に疑問をぶつけると、娘はおもむろに僕の顔を指さした。

 

「蟋蟀?」

 

 蟋蟀と言う言葉に敏感に女性は反応するが、僕のマスクと娘を見比べて、ふうとため息を付いた。

 

「気付かなかったわ、黒い蟋蟀のマスク…13区の蟋蟀なのね…噂とぜんぜん違うわね。いえ、さっきまでの貴方は噂通りだった」

 

「ああ、このマスク……まあ、貴方たちなら良いのかな」

 

 この二人に対して素顔を晒す危険性を考えてもそれは意味のない事だろう。娘の好奇心旺盛な質問に僕はマスクを外し、懐にしまう。すると女も少女も驚いたような顔で僕を見るのだ。

 

「まだ……こんなに若かったのね」

 

「よく言われます、僕は音葉……今日は御免なさい、そしてこんな僕の話を真摯に聞いてくれて……笑わないでくれて有難うございます」

 

 初めての印象は失敗してしまったので、今度は友好的にと思い、精一杯の笑顔で挨拶すると、娘は顔を真っ赤に染めて照れたように母親の陰に隠れてしまった。

 

「ごめんなさい、ちょっと人見知りなの……それに少し怖い思いをしてしまったしね、私は笛口リョーコよ、こっちは」

 

「ひ、ひなみです、よろしくお願いします!」

 

 笛口さんが、ぽんとひなみの背中を僕の方に押し出せば、ヒナミちゃんはあわあわと口を動かして、顔を百面相に変える。

 可愛い…

 人間以外で、何かを可愛いと思ったことは初めてだった。懐かしい、家族と過ごしていたときの日々を思い起こさせるようだった。こんな感じであの小さな少女も、人見知りなところがあった。

この子とは違い、嫌な事があると少し頬を膨らませて拗ねる癖があった、可愛い家族。今頃、どうしているのだろう?

 

「よろしく、笛口さん」

 

 長髪の女性と手を交わして、おずおずといった風に手を差し出すヒナミちゃんを見ていると、愛でたいよりまず苛めたいと強く思ってしまう、だからちょっと僕の悪い癖がでたのかも知れない。

 ほんの少しだけ、ヒナミちゃんの困った顔が見たくなってしまったのは、偶然だと弁明させて欲しい。

 何時も喰種を襲っていたので、怖がらせたいなというSっ気が出たのは否めない。

 

 

「よろしく、ヒナミちゃん…」

 

 僕は恐る恐るといった具合に差し出された手を握り締めそのまま口元に持っていき、パクッと口にくわえたのだった。

 ……甘噛みだが、結構美味しい汗の旨味と、こんな薄暗い森でいるからか、扱けてしまったのだろうか、少し怪我をしているのか血の味が身体に染みる。

 

 このまま手を噛み千切ってやりたいと湧き上がる衝動を抑えながら、口から手を離すと、ヒナミちゃんは、顔をまるでリンゴのように真っ赤にして、その場に崩れ落ちてしなったのだった…

 

 

 

 僕の食欲も少し限界に近いのかも知れない。

 早めにここを離れなければ、本当に彼女たちを襲ってしまいそうだった…

 

 差し出した手を、二人はしっかりと握ってくれた。この日、僕は食糧の友人が出来た。それが良いことか悪いことかは分からないけど、20区へ向かう足取りが何時もより軽かったのは確かだった…

 

あの人間好きを自称した喰種は、人間と喰種の共存をまるで叶えられる実現可能な夢のように語っていた。おとぎ話のような夢物語、だがその口調はまるでその世界を見てきたかのように重みがった。それが本当に叶うように思えてしまうのが、梟の強さから迸る強みでもあるのかもしれない。

 

風の噂でも聞く、20区にある人間好きな喰種が営む喫茶店、それは人との共存を掲げた喰種の未来への一歩なのかもしれない。喰種を根絶するという叶えられない願望を掲げ人間の平和を望むよりは、その未来はなるほど安定していて、とても面白そうだ。

 

 そこで僕はあの人から色々と学ぶことが出来るような気がする。

 今度は僕から喫茶店へ行くのも良いかもしれない、そして恐らくいるだろうあの少女に謝っておくのも悪くないだろう。

 

 考えて考えて考えて考えて、そして僕の答えをだそうと思う。

 喰種は悪なのか、それとも善なのか…

 

 その答えは誰も知らない。だけど……自分なりの答えというものを僕は見つけよう。



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#008「凶兆」改訂版

 『CCG本部より報告、今日未明、13区のマンション地帯、路地裏にて喰種のものと思われる戦闘跡を発見。

 

繰り返す、CCG本部より報告、今日未明、13区のマンション地帯、路地裏にて喰種のものと思われる戦闘跡を発見』

 

 人間に出来る喰種への唯一の抵抗と言えば、ターゲットにされないように夜を出歩かないこと、出会ったら直ぐに逃げることしかない。喰種は人間に比べ身体能力に優れており、通常の武器では傷一つでさえ付けることが出来ないのだ。

 

 ただ食べられることを恐れて人間達は泣き寝入りするしかないのか。

 そんなときに出来上がったのが、喰種の脅威から住民を守ることを主にした、対策組織だった。

 

 政府により制定された、喰種を駆逐するために作られた法案「喰種対策法」に基づき作られたそれは、Commission of Counter Ghoul」の頭文字を取り「CCG」と呼ばれるようになる。

 

 喰種が人間を狩るこの世界に、喰種を狩る人間を作り出し、喰種撲滅を歌う組織。

 それは、人間からは頼りにされ、期待され。反対に喰種からは疎まれ、親の敵のように嫌悪される組織でもある。

 

 

 

 CCG「喰種対策局」、一区に作られた本部ではその放送に一同が騒然となっていた。

 13区は確かに血の気の多い喰種が多数存在し、捜査官も困難を極める魔所として有名だった。だが、今回の放送に聞こえた喰種の名前には、喰種対策局の捜査官達を騒がずにはいられない。

 

「うそ…」

 

 ある喰種についての資料を纏めていた私は、何気なく耳に聞こえてきた情報に耳を疑った。

 

 自慢ではないが「準特等」に先日昇進した私でも、その報告は滅多に回ってくることのない異常なものだったのだ。これはどちらかというとS2辺りの秘匿情報なのではないか、私の様な一般区を担当されたしがない捜査官の耳には入れてはいけない情報。

 

そんなあり得ない放送がけたたましく鳴り響いた驚愕で落としそうになった書類を慌てて持ち直し、自分のディスクへと運ぶ。だが周囲の捜査官たちも私同様にその放送に動揺しているらしく、中にはCCG上層部へと確認の電話を取っているものまでいた。

 

 

『戦闘跡から採取された血痕には、3名の喰種ものと思われる、Rc細胞を検出された。

CCGの誇る喰種の過去数百種類のデータが登録された総合データベースから、Rc細胞の種別特定を行った結果、一名の喰種の正体が特定された』

 

再度立て続けに細かい情報が放送され、それに合わせて部屋の隅に取り付けてあったファックスから参考資料が事務所類に交じって送られてくる。

 

 

だが、私が驚いたのは、その交戦が行われたという放送ではない、珍しいが一部の区ではそういう事件は度々報告されていた。だからこそ、珍しいが本部の捜査官が躍起になって現場へと急行していくほど、大げさな話ではないのだ

 

 問題は、その放送がこの私の部署にまで流れたことにあった。

 

CCGでは喰種の強さを簡単にランク分けして、赫子発生を確認できた、もしくは赫眼の発生を確認できた、捜査官一人で十分相対できるBレート。上等以上捜査官数名で駆逐できるAレート。準特等以上捜査官数名で駆逐できるSレートが存在する。

 

そしてそのSレートの中でも強すぎる喰種に対してSSやSSSレートと分類されるのだ。S2とはつまりSSレートの喰種を駆逐するために組まれた複数の班が集まった合同班の事を指す。

 

その存在は常に命の危険が付きまとうことから、万が一にもそれが外部に漏れてはいけないという事からCCG本部で厳重に情報管理されており、万が一にもその情報が一般の捜査官の耳に入ることは無い。

 

「誤報……?」

 

可能性としては、それが本部の放送局員が間違えて全棟に向けて機密情報を流してしまったという事だろう。だが地方の局員ならいざ知らず、精鋭ぞろいのCCG本部局員がこんな致命的なミスを犯すだろうか。

 

だとすると……私の背にうすら寒いものが走る。これは、CCG全ての局員に伝達する必要性があるもの、至極切迫したものであると考えられないだろうか?

 

13区のS級喰種、捜査官の間でも一切人間を襲わないと有名な、共喰いを主とする「蟋蟀」が何者かの喰種と交戦を行ったものだと判断された。

 

そしてその場所に付いた傷跡や血痕の付き方から戦いは相当苛烈なモノと予想され、13区にS級もしくは、それ以上の喰種の襲来が予想された。喰種と喰種が出合えばどうなるか、その問いに答えられるものは少ない。

 

縄張り意識が強く、自分の縄張りに執着の強いほとんどの喰種は、自分の縄張り外からやってきた部外者を酷く嫌う傾向にある。その者が縄張りの外の区からやってきた余所者だとするならその嫌悪度は一入だろう。

 

だが、喰種同士が出会ったとき、争いと言えるものは頻繁には起こらない。それは何故か、それは外部からやってきた侵入者が殆どの確率で強者であるからだ。誰かの縄張りを奪おうとしている時点で、その喰種は腕に自信があるということになる。

 

まして周囲一帯に切り刻んだ跡を残すなど普通では有り得ない。それは少なくとも外部からやってきた喰種が、S級の実力を持つ「蟋蟀」に匹敵するほどの実力の持ち主ということになってしまう。

 

暗闇の中で蠢く大きな影を見たような気がして彼女は息を吐き出した。一度、徹底的に13区を綺麗にする必要がある。徐々に集結しつつあるS級レートの動き、そして組織的な喰種の犯行はここ最近増加の一途をたどっていた。

 

 

「それが全て、13区から始まっている……?」

 

確かに13区は他の区と比べても総合的な喰種数が多く、そして凶暴な喰種が集まるスラム街と化している地域だった。だが、端的に言えばそれだけで黒幕がいるというよりは不良のたまり場といったニュアンスの方が近い場所だったはずだ。

 

それがここ最近様子がおかしい。かつてあれ程当区で猛威を振るっていた「13区のジェイソン」の消息不明。そして最近きな臭くなってきた「アオギリの樹」もこの周辺に出没しているという。

 

「これは、まさか考えすぎかな」

 

 手元に無数のペンと、東京都の細かな地図を広げながら、ふと女は物憂げな表情で、窓の外を見つめた。彼女の脳裏に思い浮かぶのは、一人のとても優しげな笑顔を浮かべる、線の細い男の顔。

 

 今はどこでどうしているのだろうか、たまにこうして話題に上がることはあるので、元気なのは分かるが…懐かしそうに薄く微笑んだ彼女は、そして背後に誰かが立っていることに気が付き、振り返った。

 

「13区か、確かに最近きな臭くなってきている。私の見立てでは20区の方に主眼を置いてみた方が良いと考えるがね。「大食い」「美食家」探せばボロが出てきそうな大物を一刻も早く駆逐することが大事だと思うがね?」

 

 色の抜けたような、真っ白な白髪を首あたりまで伸ばした、不健康に痩せた格好の男。ギョロギョロと左右で不釣り合いな目を動かしながら、私を観察するように見つめてくる男は、名前を「真戸 呉緒」と言った。

 

 私と同じ捜査官であり、何かに執着するように喰種を追い掛け回す一風変わった性格を持っている。直情的な性格では無い為、あまり知れ渡ってはないが、この人ほど喰種に恨みを抱いて心の底から憎んでいる人も少ないだろう。

 

 喰種の赫子から造られるある武装を収集する事に楽しみを覚えているのは、憎い敵をより酷いやり方で殺す事に生きがいを感じてしまっているからなのだろう。こうして暇を見つけては喰種(武器)の情報を聞いて回っているのだった。

 

「いえ、あくまでそれは私の主観ですから」

 

「ふむ…そうかね」

 

 素っ気なく答えた私の対応に、若干不満さを見せながらも、真戸さんは何かを思い出したように手を打った。如何にも聞いて欲しそうなキラキラとした目で見つめられては、彼女としても、聞かないではいられなかった。

 

 階級が下だとは言え、真戸は彼女の師であり、また共に喰種と闘ってきたパートナーだった。喰種を狩ってきた功績を認められ、準特等へと階級が変わるまで、彼女と組んでいたのはこの真戸なのだ。

 

 一見ホラー映画に出てきそうな怖そうな外見なので、何度かCCGで保護した子供に泣かれた事があったが、内面は其処まで恐ろしくないという事を彼女は、今までの同僚として知っていた。

 

 特に大好きなクインケを語るときの顔など、子供が新らしい玩具を親にねだるような顔をしているのだ。

 

そして彼の娘同様、どこか天然なボケを時折かます、その外見とのギャップが激しすぎて少し顔がにやけてしまうが、彼女は外面だけ平常心を保って、冷静に対応した。

 

「はい、なんですか?」

 

「そうだ、一度君のクインケを見せてくれないかね?あの[朱美protectー1]は興味深い!」

 

 狂気が入り混じる顔で迫られれば、彼の事情を知らない新米の捜査官なら、理由を求めることなくあっというまに自分のクインケを差し出してしまうだろう。だが、私…は違う。もうこの人の対応には手慣れたものだ。

 

「またですか、真戸さん…私は無闇に人にクインケを見せびらかしたくないのは知っているでしょう?」

 

喰種とは言え、彼らも生きている。そんな彼らを殺す道具は十分「凶器」だ。禍々しい死の匂いが染み付いたそれを、私は理由も無く他人に見せようとは思わない。生物を殺したナイフを誰が好き好んで見せびらかしたがるだろうか。

 

血の染み込んだ武器で喜べるのは、漫画の中のキャラクターか戦闘に狂った狂戦士だけだ。

 

「知っている…君とは長い付き合いだからね。だが君も知っているだろう、どうしても気になってしまうんだ!どうかね、今度飯でも奢ろうじゃないか?」

 

 真戸さんの執着心は人並みはずれている。だが、こういう捜査官がいるから、喰種は無闇に人を襲えなくなっているのには違いない。抑止力というか毒をもって毒を制すというか、普段はかなり凄腕の捜査官で当時は私もその腕にあこがれたものだが、いかんせんこの粘着性がそれら全てを上書きしてしまう。

 

正直ちょっと煩わしい……

 

「…そうそう今度新型のクインケが造られるらしいそうじゃないか?

心が躍るね、確か…名前は…アラ」

 

「真戸さん、それ以上は機密です。とても、こんな一介職員のいる場所で話して良い話題じゃない…」

 

 おいおいと私は冷や汗を書きながら、どこで掴んできたのか、特等にのみ伝えられた機密情報をしっていた真戸さんに辟易する。大方、彼の知り合いであるところの、不屈のなんたらが教えたのだろうが…

 

 今度、合ったら絶対に抗議してやる。いくら旧知の間柄とは言え公私はきちんとわけてもらわないと困る。やがて真戸は、諦めたのか、それとも別の捜査官へとターゲットを変えたのかいそいそと何処かへ言ってしまった。

 

「あの人も、あれで子持ちなのが凄いよ…ふふっ。さて、仕事、仕事っと」

 

兎に角これで13区はしばらく捜査官の出入りが多くなるだろう。それに伴い喰種たちの動きも多かれ少なかれ変化する。逃げる者もいれば反発して襲い掛かってくるものもいる、どちらにしろこの数か月は荒れるだろう。

 

私の仕事はそのお手伝いだ。迅速に書類をまとめ上げ、対応する記事やスクラップを抜き出し前例から喰種の性格、赫子の癖を分析する。いわゆる研究者といったところか、もっともクインケ等の製造に携わる専門職ではなくあくまでも情報分析官としての役職だが。

 

眠気覚ましに階下で先ほど買ってきた缶コーヒーの蓋をあけ、一気に飲み干そうとしたところでふと真戸さんがこちらを振り返り……

 

「おっと、言い忘れた。どうやらこの放送は誤報等ではないようだ……上等以上の捜査官に召集命令が出ている、時間は10分後……大ホールらしいね」

「はい!?」

 

いつもそうだ…この人は私が油断をした時を見計らったかのように重要な事を言ってくる。もっとも彼にとってはCCG捜査官として常に気を張っていなければならないという苦言なのだそうだけれど、私としては少しは休む時間がほしい。

 

いつも緊張の糸を張り詰めていてはいつか千切れてしまう……もしかすると真戸さん自身、もうその糸は解れかかっているのかもしれない……

 

 

 

 

 

 

 

 

 私が物心ついたころ、もう私の側に兄という存在はいた。それは当然だろう、私より後に生まれた家族を兄とは呼ばないのだから、私より前に生まれた、そして親よりも後に生まれ出た家族を、私は「兄」と呼ぶ以外言葉を知らなかった。幸途鈴音それが私に付けられた、幸途家の家族として、父や母の娘として、兄の妹としてつけられた名前だった。

 

私の家はそれほど裕福な家計でもなかったが、だからといって明日食べていく食料に貧窮するほど、貧乏な家計という訳でもなかった。有り体に言えばどこにでもある平凡な家計。

 

父親が二流企業のしがないサラリーマンで、母親が近くのスーパーでパートに勤しむ専業主婦という、両親と兄妹の4人の核家族。探せば日本全国に何千人と見つかりそうな、珍しくもない家族構成でしかない。

 

祖母や祖父は私が生まれる前にどちらも他界してしまったらしく、どこかのアニメの家族の様に家族大団欒といった事は今までされたことは無い。だが、別にそのことに関して私は何も感じてはいなかったし、まあ月に貰えるお小遣いが少ないと不満はあったけど、おおむね私はその家族に満足していた。

 

とても仲の良い家族だったように思う。父や母は顔を合わせばいつも笑顔を見せ、兄は少し無愛想だったが、いつも学校に迎えに来てくれたりと、内面はかなり優しかった。流石に中学生になった時にも学校に迎えに来てくれたのには恥ずかしかったが、嬉しくもあった。

 

ああ、兄はそこまで私の事を心配してくれているんだなと、友人達にあれこれ言われる恥ずかしさも忘れて物思いに耽ってしまったこともあった。兄妹は歳が近いと険悪になりやすいと、学校の友人から聞いたこともあったが、その言葉が都市伝説に思えるほど私たちは仲が良かったのかもしれない。

 

兄と過ごす時間は、私にとって友達と遊ぶ時間や一人で過ごす時間を潰してでも得たい、至高の時間だった。私は中学生になるまでに何度も何度も事あるごとに兄の部屋を訪れて、知識人だった兄の話に聞き耽っていた。

 

昔から本を沢山読む兄は、兄と同年代の人と比べても、頭一つ抜けて知的で、それゆえに兄のする話は難しかったが、とても内容が深く最後には私にも成程と思うものばかりだった。

 

兄は年下の私のわがままに、全く嫌な顔ひとつせずに付き合ってくれた……分からない勉強や作文もそれと無く教えてくれ、友人たちとの約束を蹴ってまで、私と共にいてくれたのだ。

 

当時はそれが普通だと疑わなかったが、中学生になるにつれて徐々に心から話せる友人も出来てきた時点で、私の兄が他とは違っていることに気が付いたのだった。

だから、私は誇りだった。優しく賢くカッコイイ兄との日々が、私にとっての宝物だった。

…あの日までは。

 

 あの日、私たち家族の住んでいた家が真っ赤に染まってしまった日から、私の幸せだった日々は終わりを告げることになる。それは、本当に唐突に何の前触れもなく、私の目の前から家族を全て奪い取った……両親を血に染め上げ、そして、あんなに優しかった兄を変えてしまった。

 

血に濡れた部屋を兄は私に見せまいと、手で眼を隠してくれた時の兄の顔は、どこか暗く……何か遠くを見つめているようでもあった。数少ない親戚が集まったしんみりとした葬式の最中、うわ言のようによくわからない言葉を呟きながら、当然葬式の会場を飛び出していった兄の背中を今でもはっきりと覚えている。大きかった憧れの背中は、どこかやつれてひどく小さく見えた。

 

その日から兄は自分の部屋から何をしても、何を言っても出て来なくなり、心配になった私が無理やり部屋にかけられた鍵を壊して中に入ったときには、部屋の隅に頭を抱えて蹲り、今にも死にそうな風に蚊の鳴くような声で呻いていた……「食べたくない」と。

その、言葉が聞こえてしまった時、兄の右目がやつれた体に対して嫌に真っ赤に輝いているのを見た時、私は兄が人間ではない事を知ったのだった。

 

 巷でガセネタと共に色々なメディアにも取り上げられて、今や日本中の人間が知っている生物。だが、殆どの人間はその存在とは無縁に人生を送り、そして無縁なところで人生を終える。私もよく騒がれているなとニュース番組を横目に、だが私とは無関係だとあまり気にはしていなかったのだ。

 

兄が教えてくれた都市伝説の一種か何かだと、その時までは思っていた。本当に存在するはずはない、空想上の産物なのだと……恐ろしい殺人鬼の別称か何かなのだと、そう、思っていた。

 

『喰種【グール】』、日本では「屍鬼」と書くゾンビなどの別称。それを捩り、「人を喰べる、人では無い新たな種類」ということでつけられた喰種は、私の兄だった。

だったが、それだけで私の心が変わってしまったわけではない、そして兄の心が根本から全てそんな化け物になってしまったのかというと、そういう訳でもなかったのだ。

 

兄は、私の大好きな兄は、「人を喰べたい」という強烈な空腹感と戦っていた、部屋の隅に居座る兄は私の存在にいち早く気が付き、その口を開け…床に思い切り自分の顔を叩きつけたのだ。

ゴンという鈍い音が聞こえた、私は悲鳴をあげそうになったが、兄の声を聴いてその喉から出かかったものを飲み込んだ。

 

「にげ…ろ」

 

 兄は…何処まで、私の兄であろうとするのか、知っていた…兄が本当の私の兄ではないことくらい。以前、夜に目が覚めた時に両親が話していたのを聞いてしまった。

 

それなのに、兄は兄のままで…こんなに苦しい状態でも兄は私の事を思い、私を絶対に食べまいと自分自身を痛めつけていたのだ。涙がこぼれた、兄をこんな状態になるまで気が付くことが出来なかった自分を恨んだ。いつもいつも私のわがままに付き合ってくれ、少ないお小遣いを使って私の服やアクセサリーを買ってくれる兄に、いつしか私は負い目を感じていたのかもしれない。

 

兄は私の事をどう思っているのか、もしかすると要らない子だと思われているんじゃないだろうか。

兄に甘え過ぎていた私は、兄がおかしくなってしまって初めて、自分のしてきたことに気が付き、兄にどう見られていたのかが酷く気になってしまったのだ。

 

大好きな兄に嫌われてしまっていたのなら、それに気が付かず何年も過ごしてきたのなら、私は兄にとって目の前をうろつくハエ以下の邪魔ものでしかない。

 

だから…だからせめて、いままで兄が私にしてくれた分の感謝と謝罪をしようと、最後の最後まで私の兄でいてくれた音把に、私も最後まで音把の妹として兄を救ってあげたかったのだ。途轍もない苦しみから、解放してあげたかった。それが、その行為が後の兄の心をどれほど傷つけてしまうかも分からずに、私は自分の肉を差し出したのだ。

 

部屋に散らばっていたカッターナイフの刃で自分の手首を、目をつぶって思い切り、切り裂いてから溢れ出る自分の血を肉を骨を、飢えに苦しむ兄にささげた。これが、今まで兄にわがままを言い続けた、生意気で蟲以下な私の出来る恩返しなのだと思っていた。私の命で兄が救えるのならば、少しは兄は私の事を好きになってくれるのだろうか…と。

 

兄が…何のために、私を食べずに今まで我慢していたのか、何のために、私のために時間を作ってくれていたのかを……その時の私は何も知らなかった。

 

私の肉を食べ、正気に戻った兄のあの……この世に絶望したような叫びと、私に向けられた涙が……忘れることが出来ない。

 

 

 

「どうされました、顔色が優れないようですが?」

 

CCG本部の上階層、大きく区切られた部屋の隅に申し訳程度に座った私は、大型スクリーンに映し出される喰種の情報を自前のノートに書き写したデータと見比べながら、壇上に立つ捜査官の有りがたい話を耳に入れる。

 

だがいくら話を聞こうとも、肝心な事は一切頭に入って来ずにあの時の、兄との思い出が延々と脳内に浮かんでは消えるのを繰り返していた。徹夜明けで疲れているのだろうか、矢張り慣れないことはするものじゃない。

 

昔から、私はそうだった。事あるごとに兄に突っかかり、兄のすることなす事にケチをつけていたように思う。部活の帰り、頼まれもしないのに自分から迎えを買って出ていた兄の気持ちを考えもせず、私はただ自分が恥ずかしいからという理由だけで兄を遠ざけようとした。

 

意地っ張りで、そのくせ後先考えずこうして熱を出したり、たまたま道に置いてあったなんてことのない小石に躓いたりしてしまう。兄にとって私はきっと、不出来な妹として映っていたのかもしれない。

 

だけれど……だとしても、私はあの時兄に確かに必要とされていた、家族として……愛してもらっていたことはわかる…

 

「いや、大丈夫だ…すこし疲れただけだよ」

 

いけない……また感傷的になってしまった。こんなことを延々と考えていたらそれこそ兄に申し訳が立たない。私は隣に座っていた捜査官に一言礼をしてから、気分を入れ替えてくるとだけ言ってその場を後にしたのだった。

 

会議中に途中退出するのは決して褒められたものではないが、トイレや気分が悪くなった際などの退出はある程度例外として認められている。それに、私のような準特等の捜査官ともなれば、ある程度会議を聞いた程度でも全体の概要は、全部聞かなくとも大体分るという経験に裏打ちされた知識もあった。

 

会議室の大扉を音を立てないようにそっと開けてそこから身を滑り出すように外へ出た私は、深呼吸を繰り返し廊下に満ちた窓から入る新鮮な空気を肺に取り込んだ。

 

鬱屈としたピリピリしたという表現が似合う部屋に長時間いるのは矢張り慣れない、一つの部屋に閉じこもるという何て事の無い行動が、私にはどうしようもなく気持ち悪く感じてしまう。

 

「はぁ……」

 

ため息交じりに廊下に立てつけられた窓から外を見ると、見る者の心を奪うような真っ赤な夕焼けに包まれ、とても幻想的な色彩の街並みが映っている。 そしてこんな光景を見て思うのだ、こんなに綺麗な都市の暗闇で今日もまた、誰かが喰種に殺されているのだろう。理不尽に、まったく抵抗も出来ず、一方的に惨殺されているのだろう。

 

「私がこうしている間にも、何百と知れない命が失われている……」

 

そんなことを決意しつつ私はそっと視線を窓からずらし、至近距離まで迫ってきていた真戸さんの少し怒ったような表情に次に来るであろう運命を悟りつつ、辛いからと言ってさっさと会議を抜け出そうとしてしまったさっきまでの私を呪ったのだった……

 

 

 

嫌な事からすぐに逃げ出したくなる私の癖は、この時途轍もない方向で運命の歯車を狂わせていく……

 

その事実に私が気付くのは、この実に3日後だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『SSレート喰種、蟋蟀討伐作戦を開始する』



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#009「救援」改訂版

 青く雲ひとつない海のような空模様が、どこまでも続いているかに思える晴天の景色、私はその暖かい太陽の日差しを受けて、ゆっくりとベッドから身体を起こしたのだった。

 

治安の比較的良い、20区にあるマンション。東京なら何処にでもあるごく普通のマンションの一室に私は一人で住み込んでいた。以前は弟と二人暮らしだったのだが、ほんの1年前に出て行ったきりまるきり消息がつかめない。

 

あの弟のことだから、きっとどこかで上手くやれているのだろうと思うがそれでも姉としては心配にならざるを得ないのだ。見知った親戚はもう弟しかいない、父は殺されたし、母も現在に至るまで消息さえわかっていない。だからこそ、私と弟は二人でこの暗い東京の闇を生き抜いてきたのだ。

 

ともに協力し合い、お互いに足りない力を補い合いながら戦ってきた。

だが、それも私がほんの少しの平凡を望んだ所為で、人間のような暮らしを望んだ所為で、弟は家を出て行ってしまった……

 

甘い奴だと思われたのかもしれない、心が弱いと思われたのかもしれない、いずれにしても私はともに戦い抜いてきた弟の気持ちを裏切ってしまったのだ。

朝、起きてすぐに窓の外を見れば、決まって思い出すことといえば、出て行った弟のこと、この広い東京のどこかにいるとは思うのだが、それがどこかは分からなかった。

 

探してみようとは思った、思ったがもしそれで弟が見つかったとして、彼を裏切ってしまった私に対して、何を言われるのかが無性に怖くなってしまったのだ。

 

「いっつ……くそっ」

 目が覚めてからしばらくたってから遅れて鳴り響く、内臓が飛び出したウサギをデフォルメしたピンク色の目覚まし時計を止めてから、私は勢いよくベットから立ち上がった。

 

するとお腹に、電撃が走ったかのような鋭い痛みが来て、私はお腹を押さえて床にうずくまってしまう。あまりの自分のふがいなさに、床を叩こうとしてここがマンションだったことを思い出しかろうじて踏みとどまる。近所の人たちとの余計な争いごとはもうごめんだった。

 

あの思い出したくもない凄惨な一夜から、今日でざっと5日。光沢のある黒い虫のようなマスクを顔に貼り付け、同じく真っ黒なレインコートを着込んでいた男に傷を負わされてから、それだけの時間が経過していた。

 

私が喰種ということもあって、傷の治りは人間に比べ早いが、それも事故や人為的以外の要因によって付けられたものに限る。同じ喰種によって付けられた傷は、自分の中にある再生機能を低下させて、切り口の再生が未だに遅れていたのだ。

 

まだ私のお腹には何針も縫われた糸が入り、それを覆うように包帯でしっかりと締め付けている状態だった。無理をしたり少しでも息が上がる運動をすれば、傷口が開いてしまいかねないのだ。

 

何度か喰種とも戦ったこともある私だったが、ここまで傷の治りが遅いと何か毒でも盛られていたのかと勘ぐってしまう。もっとも喰種にはよほどの毒でない限り効きはしないのだが。

 

まあ、おおむねあの赫子に貫かれて切り開かれた傷や、食べられた内蔵の所為で再生に予想以上に負荷が掛かっていたのだろう。

「……はぁっ」

 

 ほんの少しでも自分の身体に付けられた傷に目が行くと、嫌でもあのときの光景を思い出して肩が震えてしまう。私は自分の体を腕で抱きしめて、再びベッドに突っ伏してしまった。

 

恐ろしい、男だった。マスクを被っていた所為であまり素顔を見る機会はなかったが、あの人を食ったような口調、語ること全てが自分の存在を揺さぶってきたのだ。

 

あの男は言った、私のことをこの世界に存在するすべての喰種を指して「悪」だと。自らが喰種であるに関わらず、それを言ってのける感性は私には分からなかったが、余程の事でもない限りああは、ならないだろう。男がどれだけ喰種という種に対して恨みを抱いているかが伝わってくるようだった。

 

多分だが、あの男は自分のことでさえ嫌っている。

私も、少なからず喰種という存在に対して、凄まじい悪感情を抱いている人間を数多く見てきていた。それを私は今まで、さして気にせず、人間はそういうものなのだと割り切って、「自分が生きるために仕方がない」とそんな人々の命を奪ってきた。

 

安易な理由を定めて自身を肯定していたのが私なら、あの男は端から自分のことを否定しながら生きているのか。

 

そこに自分との明確な違いがあり、きっとそれは本人でさえ気がついていないことなのだろう、闇がある。

それが私にはどうにも恐ろしかった。あの時に見せた、まさに蟋蟀のような姿もそうだ。

自分を含めた喰種を喰らい尽くすという意思がにじみ出んばかりの異形な、共食いをする昆虫を模した姿……赤黒く虫の外骨格にもにた赫子を鎧のようにまとう男。

あれはもう、化け物と言わずして何だというのだろうか。

 

治安の悪く喰種同士で争いあう13区に突如現れた超新星、そういう噂が5年前に流れたきり、「蟋蟀」の話はめっきりと聞かなくなっていた。だがそれは違ったのだ。

聞かなかったのではなく、もうあの男が13区において当たり前の存在になってしまったと言うだけのこと、珍しければ噂にもなるが在り来たりな光景ならば、話題にも上らない。

 

だからこそ、私は蟋蟀の恐ろしさについて失念してしまっていたのだろう。だから私は逃げることが遅れ、今こうして痛みを抱えている。

 

「……でも、蟋蟀の言い分も間違ってはいない」

 

 まるきり間違いならば、私も否定することが出来ただろう、だが男の言葉は本当に鋭くいままで、自分を騙し騙し生きてきた私の心を勢いよく貫いたのだ。

 

 今日は休日、学校は休みなので芳村さんが営んでいる喫茶店でバイトをする日だ。芳村さんはしばらく身体を直すために来なくても良いと言ってくれていたが、流石に私が今日抜けてしまうと経営的に今日と明日は立ち行かなくなってしまう。

 

新しくバイトを雇うという手も考えられるが、数日後には復帰できそうな私の代わりを入れたとしても、すぐに任期が終わりというわけには雇うほうも、雇われるほうもいかないだろう。

 

さっそく着ていた寝巻きを取り、肌を露出させると痛々しいまでの戦闘の痕跡が残っていた。

擦り傷や浅い切り傷は流石に治ってはいるが、首の付け根や、お腹に入った真一文字の傷は今も残り続け私の気分を鎮めていた。

 

 

少なくともしばらくの間は、学校で体育は出来ないだろう。勉強べたな私としては、喰種としての能力もあいまって、体育においては、かなり成績上位な方だったので、少し残念に思ってしまう。

頭部を思い切り打ち付けられたときに出来た顔の傷が、比較的見えなくなるくらいには直ったので、よしとしよう。頭に包帯を巻いて学校に行った日には学校中の質問の的になるに違いないのだから。

 

「4日も学校休んじゃったから、依子にはどやされるだろうけどね……」

 

 私の人間としての親友、いつも私のことを小食だと心配してくれる彼女は、きっと何も言わず私が学校を休んでしまったことを心配している、そして自分に何も教えてくれなかったことを起こっているはずだ……あの子は、とても優しくて良い友人なのだが、怒ったりするとなかなか口を利いてくれなかったりする。

 

いろいろな事を想像し、あまり良くはない未来像にますますブルーになりながらも、私は手短にTシャツとGパンに着替え、マンションを出たところで後ろから声をかけられたのだった。

 

「すいません、ちょっと良いですか?」

「…っ!?」

 

5日前にあんなことがあったからだろうか、私は急にかけられた声に対して敏感に反応してしまっていた。それに後ろから漂う気配からは、仄かに喰種の血の匂いが染み付いていたのだ。

 

肩を震わせてしまってから、しまったと後悔する。相手に不自然な動作を見せてしまったと。この手の輩とは、出来ることならば戦うことは避けたいと思っていた。

 

「はい、なんですか?」

 

顔の強張りを無理やり治して、あまり違和感を感じさせないようにと努力しながら、声の主の下へ振り返ると、予想以上の光景に思わず息を飲み込む。今度は態度に出ないように肺から送り出された空気を口で止めるが、その動揺も目の前の人物には悟られてしまっただろう。

 

夜の闇を映し出しているような艶のある黒髪をたなびかせ、口元を手に持ったハンカチで覆う女性。一見すると普通の何処にでもいる通行人だが、学校に通いバイトをして多少の人間を見る目を養ってきた私にはわかる、その仕草が塗りつくろっただけの上辺だけの上品さだと。

 

私が黙っているのが不思議に思ったのか、子供に話しかける様に人当たりの良い笑みを浮かべる女性。だが研ぎ澄まされた感覚が教えてくれるのだ、あれはまるで獲物を狙う猛禽の眼……保護色を纏い、獲物に限界まで近づこうとする捕食者の顔だ。

 

直前まで漂っていた喰種の匂いとあいまって、私の予想は確信に変わる。ならば、これはただ道を尋ねる意味合いで近づいてきたのではなく。この地区に住んでいる私に対しての威嚇…もしくは牽制…?

 

「あんた、喰種?」

 

「あぁら、もうバレちゃった?20区は平和ボケしてると思ってたけど、意外に鋭い子もいるのねぇ。引っ越してきてそうそう悪いけど、私すっごくお腹がすいているのだから貴方の狩場……ちょうだい?」

 

「……っ」

 

今日は学校に行けそうもない思わず舌打ちする、こんな時に最悪のタイミングで厄介ごとが降りかかってくる。一瞬視線を反らした隙に目の前に巨大な触手が振り下ろされていた。

 

咄嗟に身体を捻って後ろへと飛びのくが、矢張り鱗赫は相性が悪い。力の限り振り下ろされた鱗赫は少しでも掠っただけでその鉄鑢のような胴体に皮膚を削られてしまう。他の喰種よりも速度に優れているはずの羽赫の私でさえ、その突貫する鱗赫の速度には反応しきれなかった。

 

赤黒く流動する鱗赫は豆腐でもつつくかのように軽くアスファルトの地面を抉り陥没させる。周囲に亀裂が蜘蛛の巣上に走り私が飛びのいた先の地面をも揺らし体制が崩れてしまう。

 

「くそっ…」

「ふうん、避けるんだ」

 

どう考えても相手は私よりも一枚も二枚も上手。ここは逃げに徹した方が良い。下手に戦おうとして殺されてしまっては目も当てられない。きっと数日前の私ならここで意地を張って戦おうとしてしまっただろう。

 

だけれど、あの恐ろしい蟋蟀の姿を見てしまった私は、どこか戦いというものに対して臆病風に吹かれてしまっていた。殺される、命を奪われるという事がどうしようもなく怖くなっていた。

 

幸いにして相手は区外から来た余所者、この付近の地理は私の方がよく把握している。一度巻いてしまえば、そして血の匂いさえ漂わせなければ例えどんな喰種であっても、羽赫をくしして逃げる私を追いきれないはず。

 

赫眼を発現させ、嘗め回すようにじっくりと私を見つめる女の動きは油断しているのか前に見た蟋蟀と比べて幾ばくか遅い。これなら逃げきれるかもしれない。

 

「へぇいるじゃない、少しは骨のある子が……でも残念ね」

 

僅かにできた希望が、私にとっての足かせになってしまう。それは僅かな間にできた隙だった。私が女の言動に疑問を感じてそこに意識を集中してしまった所為で、女が今何処にいて何を狙っているのか、赫子がどう動いているのかを意識の外に置いてしまった。

 

「私、今すっごく機嫌が悪いのよ」

「うぐっ…っはぁああ!?」

 

突如わき腹に感じる鈍痛、そして間髪入れず背後から頭めがけて打ち出された赫子のハンマーのような重く鋭い一撃が命中する。視界が真っ白に染まり、足から力が抜けそうになって慌てて力を入れるが、頭を打った衝撃のせいで思うように体が動かせなかった。

 

これは…あの時と同じ。蟋蟀に先制されて手も足も出なかった時も、まず蟋蟀は頭をねらって動きを止めに来た。硬い皮膚を持っている喰種でも、脳だけは柔らかいという点をついた攻撃、それは見事に私を朦朧とさせ立ち上がることもできず硬い地面にしりもちをついてしまう。

 

ドクドクと血が流れていく音が聞こえる、霞んできた眼で身体を見れば、蟋蟀との戦闘で切り裂かれた傷口を狙って女は赫子を突き刺してきたらしい。開ききった傷口はぱっくりと内臓を晒し来ていた衣服ごと黒い地面を鮮血に染めていった。

 

陰湿な戦い方をする……蟋蟀とはまた違った意味で厄介な喰種だった。意識しない死角から次々と責めてくる、計算された動きに暴力的なまでの赫子の威力、私の一挙一動を見逃さず的確に対処してくる正確さ。

 

それは何十もの戦闘を繰り返してきた強者の証。実力のある喰種ほどこういった場の掴み方は卓越している。

 

「うふっ…若い芽はここで詰んでおきましょう、なんてただお腹すいてイライラしたただけなんだけどね。運が悪かったわね貴女、私の機嫌がよかったらもう少し遊んであげたのに」

 

逃げられない…どうしよう…どうして、私ばっかり…

必死に力を入れて何度も試してみるが、神経が通っていないかのように下半身はまるで動こうとしてくれない。喰種の肉体というのも、あるいみ精神的な面では人間とあまり変わらないのかもしれなかった。

 

「…たくない」

「え?」

 

情けない、本当に情けなかった。弟の気持ちを不本意だったとはいえ裏切り、芳村さんに人間の事を学んで学校まで通わせてもらって、蟋蟀に喰種の本質を見せつけられ……挙句の果てにだらしなく道の端にうずくまってしまったのだ…。弱い、私は何もかもが弱い。

 

喰種という存在にかこつけて、自分は強いと思い込んできてしまっていた、だけど実際ふたを開けてみると、私は何も手に入れることが出来なかったじゃないか。

両親も、弟も、本当の友人も、なにもかも!!

 

そして、もう芳村さんが助けてくれるなんて奇跡がそう何度も起こるわけない。今度という今度こそ、私は死ぬんだ。あの時死ぬ運命だった私……そのわずかに伸びた寿命が尽きてしまっただけの事。

 

だから…怖くなんか…

 

「死にたくない!!」

 

決して届くことの無いだろう悲鳴、私はここで死ぬんだと、そう悟り無意識に目を閉じたとき。目の前に移った女の顔が引きつったかのようにゆがんだ気がした。

 

「うん?こんなところでどうしたんだい?何か困ったことがあるのなら僕に言ってみるといい、出来る範囲の事でなら協力するよ?」

 

それと同時に耳元で聞こえるどこか聞き覚えのある、優しい声。それは暖かく私を包み込んでくれる。

この日、この時、この時間、私の人生は大きく変わっていくことになる。

突然現れた男の人…それは私にとってヒーローだった。

 



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#010「葛藤」改訂版

 遅れてしまい申し訳ありません。ご意見ご感想些細な事でもいいのでお待ちしております。


 笛口さん、ヒナミちゃんと別れてから三時間、空腹が胃を刺激して、隣を通り過ぎていく人間の臭いに発狂しそうになるが、僕は指を噛みながら俯いて歩いていた。小店が並び、連なった小さな通りを歩いていた僕は今、人生において久し振りの空腹感に襲われていた。

 

 「はぁ…はぁ…」

 

 漂う汗の臭い、ほのかに漂う血液の臭い、涎が垂れそうになるのを、ぐっと飲み込み、赤く染まった片目を手で覆い隠す。意思を離れて赫眼が発現している状況は、客観的に見ても非常にまずい。

20区とは言え、人間がいるところなら、喰種は絶対にいるはずだった。それなのに、喰種の興奮したときに出る発汗したツンと鼻を刺激する臭いが、全くしなかったのだ。それだけ治安がいい場所と言うことなのだろうか。流石人好きの梟が居るところだと思いたがったが、それはとても嬉しく思うとともに、皮肉なことに、僕にとって、喰種の有無は死活問題だった。

僕も全くもって遺憾だが、喰種というカテゴリーに属す以上、Rc細胞の摂取無しには生きていけない。だから僕は喰種を殺しつつ、その肉体を全て平らげることで、Rc細胞を補ってきたのだが。

 

さっき笛口さんと出会い、良い思考を持った喰種もいるとわかった…わかってしまった所為で(おかげで)、無作為な喰種の惨殺が出来なくなっていた(何を言っている、それが正しい事じゃないか)。本来なら、何処か都合のいい狭い場所を見つけて、そこに張っていれば喰種が勝手に集まってくるのを待つだけで良かったのだが、そうも言っていられなくなってしまった(喰種を食べたいみたいな言い方をするな)。

悪い思考を持った喰種だけを食べるとした僕の状況は、言わば食事に制限を付けられた入院患者に近いのかも知れない。食事を選り好みして食べるという思想は、「美食家」に通ずる所だが、僕の場合好むポイントはその味ではなく、『心』なのかもしれない。

 

 喰種の捕食を制限した所為で、そういう待ち伏せも出来なくなってしまい、悪か善かを見つける必要性で、余計に食べられなくなってしまっていた。

「ああ、こんな事ならヒナミちゃんの手をもう少し味わっておくべきだった(何を言っているんだ僕は……)」

 

 若い喰種の張りのある、それでいて柔らかい肌は、それを引き裂き溢れ出す肉汁もまた最高級に美味しい。弾力の強い肌を手で感じ、目で美しさを感じ、鼻で微香を吸収する。そういった手順を踏んでから、初めて味わうことでより一層喰種の旨味がたのしめるのだ。(だからそれは、唾棄すべき喰種の思考だ)

 

 僕が一ヶ月で食べる喰種の量は、2人から5人。普通の喰種が人間の一部を食べただけで一ヶ月以上持つのに比べれば、存外僕も大食いであり、美食家でもあるらしかった。もっとも喰種限定のという注釈は付くが。Rc細胞を多量に使い、強靭な身体を手に入れた喰種は、その細胞を自力で生産することが出来ないため、他所から補うしかない。そして、そのタフな身体を作るRc細胞が底を突けば、喰種の身体は機能を停止し、動かなくなってしまう。

つまりは死だ。

 

 人間よりも死の危機に直面しやすい喰種の飢餓は、その性質から喰種の本能に肉を食えと訴えかける。鼻息を荒く、肩で息をしていると隣を通る人々がいぶかしげ顔で僕を見るが、そんな事も気にしていられないほど、僕は今ピンチだった。肉が喰いたくて喰いたくて仕方がなかった。梟と戦ってから、もう三日半もたつ、負ったダメージの事もあり、そろそろRc細胞を摂取しなければ、本格的に僕は死にかねなかった。(死ねばいいんだ、喰種のような嗜好に染まるくらいなら、いっそのこと)

 

 だが、人間を襲うというのは天地がひっくり返っても有り得ない、あり得てはいけないことだ。

 

 そんなことをするくらいなら、僕は潔く死を選ぶ…

 

 今から引き返してヒナミちゃんを食べようか?

 

「いや…駄目だそんな事を…友達に…でき…食べだい食べ物…食べる、食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ」

 

 無理があったのだ…人間を食べないと言うだけで大分の負荷を身体に強いてきていた。それに拍車をかけたのが、今回の喰種の選別。食べる量まで制限してしまった事で、僕はもう取り返しの付かないほど弱り切ってしまっていたようだった。道にあった小石を避けられず、躓き、そのまま僕はアスファルトの黒い地面に崩れ落ち、その瞬間…霞む視界に藍色の髪の色をした、顔の半分を覆うようなヘアスタイルをしたの少女のが視界に写った。

何処かで見たような、美味しそうな面影があった。(…………)

 

 それは先日見つけた兎面の少女、梟と戦うに至る経緯でぶつかったいたいけな喰種だった。絶叫したくなるほどの空腹感が、あの時の彼女の肉の味を呼び覚まし僕の意識を半強制的に覚醒させる。背中から無理矢理赫子が僕の意思に反して飛び出してくるのがわかった。(やめ…ろ、それは…駄目だ)

 

 (あの少女は食べないと決めたし、食べなくてよかったとそう思ったじゃないか!!人間の様な思考の出来る喰種をいたぶって殺すのは止そうと、心まで喰種のようになってしまうのは止そうとそう誓ったばかりのはずだ……

少女は言った…遠くから聞き取りづらくて分かりにくかったが、それでも確かに言ったんだ!『生きたい』って……)

 

 思考が、心が…食欲に塗りつぶされていくのを感じる。言葉の端々から漏れ出る本音と食欲がせめぎあい、そして……入れ替わる…

 

「うん?こんなところでどうしたんだい?(僕に食べられたいのならそういうと良い)」

「何か困ったことがあるのなら僕に言ってみるといい(どこから食べられたいのかな?)」

「出来る範囲の事でなら協力するよ?」

 

 感動の再開、まさかこんなことがあるとは、運命というものも馬鹿にできない。見逃した小魚が僕のピンチに食べられにやってくるなんてそんな上手い話があるだろうか。僕は口元に浮かぶ笑みを消す事も出来ず、ゆっくりと少女を捕食しようと手を伸ばそうとして、地面を切り裂きながら迫ってきた赫子に手を切り裂かれてしまう。

 

「ぐおぁっ……」

「あらぁ…誰かと思えば虫の坊やじゃない。それは私の獲物よ、欲しいのなら相応の対価を払いなさい?」

「リゼ…神代リゼぇぇぇぇぇ、どこまでお前は僕の邪魔をするんだぁ!!」

 

 あまりの空腹に周りの状況が見えていないが故に起こった必然、鋭く尖った鱗赫に左手を切り飛ばされた僕はだが、そこでバランスを崩すほど軟な鍛え方をしてはいなかった。13区で鍛えた赫子が風を切って鞭のようにしならせ、その衝撃で追撃を繰り出したリゼの赫子を受け止める。鱗赫同士のぶつかり合い、純粋な火力対決の勝負になった打ち合いはだが、僕の勝利で始まりそうだった。平均的なRc細胞の量は、『大食い』神代リゼと僕で互角。だがその僅差を埋めたのはリゼが間違っても高難易度な戦闘経験をつんでいないという一点に尽きる。

 

「くっ……面倒ね、ゴキブリはすっこんでろつってんだよ!!」

 

 

 

 赫子ごと強引に後ろへ押し戻されたリゼは額に青筋を浮かべて先ほどの上品な口調が嘘のようにまくしたてる。だがそれでも僕はペースを崩されることは無い。何故なら彼女のその口調は以前の時と変わらなかったからだ。ゴキブリと言われたのは些か不本意だったが、それで一々怒っていてはきりがない。(早く食わせろ!!)

宙を漂う腕をつかんだ僕はそれを自分の傷口に押し付けて再生を早める。

 

 僕の中の喰種は、最後の力を振り絞って、赫子の力を最大限に引き戻す。これは奇跡に近かった、死にかけ野垂れ死にする寸前で、僕の前に少女というご飯が与えられたのだ。それも人間をただの餌だとしか思っておらず、自慢の赫子で人間を捕まえるまでの、優しそうな女性像で人を騙す過程を楽しむ外道な喰種のおまけつきで。

食べるのに、殺すのにこれほど丁度良く、適した存在は他にいないだろう。(早く食わせろ!!)

20区にやってきていたのは、予想外だったが、今回はそれに救われた。

 

幸いなことに今は、夜、擦れ違う人の数もずいぶんと減った。ここでなら、人間を巻き込まず効率的にリゼの内蔵を貪ることが出来る!早く、早くと身体が急かす。残虐非道な女喰種、「大食い」[神代利世を補食せよと!!

 

「りぃいいいいいいぜええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」

 

 肉を渇望する本能のまま、僕は素顔を隠すことも忘れ、背中から勢い良く2本の触手に似た、赤黒い赫子を発生させる。食事前に赫子を出すと言うことは、Rc細胞の著しい減少を招き、その喰種の生命活動の低下を意味している。だが、それでも眼前の肉を僕の口の中に入れるためには、リゼは余りにも赫子無しで闘うには強すぎた。

 

 SSレートの喰種「大食い」の名の通り、大量の人肉を計画性もなく食べ続けるかなり危険な存在。大食いという食性なのか、生まれ持った才能なのかは分からないが、彼女の力は恐ろしく強く、そして凶暴だった。油断するつもりはない、最初から最後まで全力を出し切ってしとめてやる。

 

 綺麗で色白な腹を切り裂いて、溢れ出る鮮血を、滲み出る汗を、蠢く内蔵を全て引きずり出して、僕の腹の中へ収めてやる。こいつは、誰がどう見ても悪だ、喰い場を荒らす所為で、同族からも嫌悪される諸悪の根元だ。

 

 人間を大量に惨殺して来た醜い喰種は…

 

「僕に喰われても、文句は言えないよねぇ?」

 

 バキバキと言う音ともに、伸びた2本の赫子は、僕の肌に巻き付いて硬質化し、鎧のように変化していく。梟と戦ったときの記憶を頼りに、その赫子の変化に少しずつ干渉しながら、僕は身体の変化を終えた。

「悪」は退治しなければならない、その意思は絶対に揺らぐことはないのだ。梟にいわれた言葉でも、僕のその本質の根本を変えることは出来なかった。

昔、僕にあったことを、両親を食い殺された思い出を、悲しむ義妹の姿を……もう二度と味わいたくない、そして誰にもこの悲しみを味合わせたくない!!僕はそのためなら化け物にも、喰種を殺し続ける悪者にだってなってやる。憎しみの元凶、諸悪の根源、喰種の「悪」を駆逐(捕食)してやる!!

 

 あの時のように喰種の力を解放すれば、その時点で僕はRc細胞が枯渇してゲームオーバーだ。だからこそ、一点に威力を集中させた無駄の少ない体型で挑むしかない。赫子が巻き付く箇所を足だけに限定して、それ以外の部位の軽量化をはかり、従来のジャンプ力を再び背中から伸ばした2本の赫子の力で後押しする。黒いアスファルトの地面へ鋭い鱗赫の先端を差し込み、蹴り場の軸を整えて、呆気にとられている女性に食らいつく。だが、リゼは僕の動きに全く動じず、余裕の笑みを崩さなかった。

 

「あら、私を食べるつもり?それは少し、おいたが過ぎるんじゃないかしら?」

 

 地獄のような、一寸先が闇の底である喰種の世界を生き残ってきた強者ゆえの油断なのか。何れにしても、僕の方から彼女にかける哀れみは一切ない。勧善懲悪、悪は滅び正義は必ず勝つのが世界の決めた正しいあり方だ。

 

「うがあああああああああああああ!!」

 

 赫子の力で威力の上がった回し蹴りをまずリゼの頭部に向かって放つ。渾身の力を込めて、一撃で意識を刈り取り、そのまま地面とキスをするような蹴りを。だが、リゼはただ身体を捻るだけで軽々とそれを避け、優しそうな笑みを浮かべると、鋭く尖った威圧感のある赫元を露わにした。

 

「くっ…」

「あっはァ」

 

 悪魔のような蠱惑的な表情を浮かべる彼女に、僕は一瞬ひるんで、次へ繋がる攻撃の蹴りの軌道が歪んでしまう。官能的な艶のある声を出したと思った次の瞬間には、リゼはもう僕の視界には写っていなかった。否、僕の回し蹴りを交わした一瞬で、彼女はもう僕の背後に回り込んでいた。

 

 戦闘において、死角になりやすい背後に回り込むことは有効である。背後は哺乳類などの幅広い生物にとって、主な状況判断器官である死角が唯一届かない場所だ。戦車の砲台のように首が回るのならいざ知らず、人間の首も喰種の首も180°は回らない。だがそれは喰種に限った話においてのみ、異なった側面を見せる。確かに背後は喰種にも死角、デッドスポットになり、攻撃を受ければ致命傷を受ける場所だ。だが考えてみて欲しい、何故、致命傷を受けるのかと…

 

 喰種は類い希な瞬間再生能力によって、瞬時に肉体を活性化させ、傷を簡単に塞がらせてしまう。致命傷が致命傷にならないのだ。だが、前述した通り、喰種の弱点…Rc細胞の発生機転である赫胞がやられれば喰種は死んでしまうのだ。

 

 もう…分かっただろう。なら、一つだけ質問をしよう。それならば、その喰種の武器である赫子が生まれる場所は…どこだったのか、と。そう、背中である。喰種は死角である背中に、強力な武器の発生器官を担う赫胞を持っているため、死角(背中)を攻撃されようと容易く対処できる。いちいち振り返らずとも良いのだ、喰種の聴覚で位置を掴めば、後は赫子を動かしすれば良い。

 

 だが…そこで僕の動きは止まる。いや、止まらざるを得なかった。

 

 迂闊にも喰種の死角に回り込んだリゼに対して、制裁を与えようと赫子を動かした所で、そこへ追い打ちをかけるように、リゼから放たれた、鋭くとがった鱗赫が僕の腕を勢い良く貫いた。傷を修正しようと背中の赫子の動きが止まり、その所為でどうしようもない隙が生まれてしまう。

 

 

「っがああああああああああ!!」

 

 流石に威力重視の鱗赫だけはある、リゼに貫かれた腕は、空中に弾き飛ばされ、大量の血をまき散らしながら、地面に落ちる。

 

「ふふふ、あっけないわね虫の坊や、私に喧嘩を売るなんて、愚かにも程があるわよ?」

 

 リゼは…笑っていた。真っ黒い笑みを浮かべ、頬に付いた僕の血を舌を動かして器用に舐めとる。全て計算ずくだったのだと気付かされた。彼女は簡単な牽制をする事で僕を油断させ、なおかつ明らかに無駄な背後に回り込むことで、僕に心的余裕を生じさせたのだ。

 

 卓越された戦闘スキル、彼の父親にはまだ一歩足りないが、何処か神々しいものの片鱗を感じてしまう。天才とはこういうものなのかと、凡才である自分の才能を呪った。

 

 不味い、非常に不味い状況だった。 腕に入った傷は、人間なら重傷だが喰種にとっては掠り傷。しかし、赫胞が傷つけられない限り、無限に傷が直り続けるというわけでのないのだ。喰種といえど、創作物の怪物のように不死性を帯びているわけではない。頭と身体を切り離されれば、簡単に死んでしまうし、肉を食べなければやがて衰弱死してしまうだろう。これ以上、身体の残り少ないRc細胞を悪戯にたれ流すわけにはいかなかった。

 

 傷をあっと言う間に直すのも、赫子を発生させて動かすのも、全てが全てRc細胞の恩恵なのだ。こうしている間にも着実に僕のRc細胞は減り続けている。

 

「私、今ちょっと苛ついているの…今までいた狩り場が住み辛くなったから出てきてね、お腹が空いているのよ。だから…邪魔しないでほしいわァ?」

 

 4本、リゼの背中から出た鱗赫の赫子が、まるで獲物を狙う蜘蛛の足のように蠢いていた。くそ…もう、身体が動かない、言い訳でしかないが、あの女はリゼは本調子なら勝てた相手だ。碌にご飯にあり付けないほど弱ってしまうとは、喰種のみを食べる僕の弊害だろうか…何が「狩り場」だ、そんな風に人間を、か弱くそして意志の強い人間たちを、餌の様に言うな、お前のような下種が、彼らの尊い命を奪って良いわけがないだろう。

 

 どうせ、狩り場で「大食い」でも起こしたせいでCCGにでも目をつけられたのだろう、だからこんなに平和な20区にこんな危険な奴を招いてしまったのだ。冗談じゃない、こんな危険極まりない喰種をのさばらせておいたら、いったいどんな被害がでるか、考えたくもなかった。

 

「ふふふ…もう良いわ、今日は貴方をサンドバッグにしてしっかりストレスを解消してみようかしらァ」

 

 足に纏った赫子も形を失い、古くなった壁のように、ボロボロと崩れて消えてしまった。身を守るものと言えば、着ている薄く黒い服しかない。こんなもの、リゼの鱗赫にかかれば、豆腐よりも柔らかいだろう。

 

 ここで僕は死ぬのか…

 

 憎い喰種に負けて、勝てる相手に無様に敗北を期して、あっさりと死んでしまうのか。まあ…それも後悔しても仕方のないことだ、死ぬ時は死ぬのだから、もう…抵抗も出来ない…せめて、死ぬ前に美味しい肉が食べた…かった。

 

 

 

 

 

いや…まてよ…

 

 

美味しい肉なら…

 

 

そこにあるじゃないか…

 



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第一章「蟋蟀」
#003「悲劇」


 

 

何時もの様に家に帰った僕の目の前で、ある日突然何の前触れもなく誰かの犯行によって僕たちの両親は殺害された。無残に腹を切り開かれ、内臓が周囲に飛び散った無残としか言えない姿が見つかるなど、夢にも思わなかった。

 

この惨状が余りにも突飛で唐突過ぎて、それが死んでいて今日の朝まで生きていた僕の家族だと、妄想でも仮想でも夢でも白昼夢でもなんでもなく、実際に起こってしまったいう事実を理解するまで数分をようした。

 

当時の気持ちとしては、驚いたというよりも呆然としたというのが正しいだろう。この光景が本当に真実なのか、先日読んでいた小説の続きを夢に見ているのではないかと一瞬馬鹿な事を考えたが、周囲に漂う死臭に現実から引き戻されてしまう。

 

とっさに僕は義妹にこの光景を見せてはいけないと思い至り、両手で顔を被ったのだが、その行為はもう遅かったようで、義妹の眼にはもう真っ赤な鮮血にまみれた、両親の姿が焼き付いてしまっていた。

 

「い、いやあああああああああああああああああああああああああああああああ」

 

もはや人間の形をとどめていない、辛うじて朝着ていた服の所為で両親だと判別できるだけの肉の塊へと成り下がった存在に向かって、義妹は泣いた、それはそれは大きく声を荒げて「お母さん、お父さん」と肉塊に問うのだ。

 

自分が血塗れになる事すら厭わず、義妹は血の染み込んだリビングへと足を踏み出しぐちゃぐちゃになり、どちらのモノか最早わからなくなった内臓を掻き集めて抱きしめたのだ。

 

「いやだ…いやだ、いやだ…」

 

同じ言葉を繰り返し、義妹は飛び散った肉塊に引っ付けと、元に戻れと意味のない罵声を浴びせ、涙を流し肉の塊を掻き集めていく。ひとしきり周囲に巻かれた肉が集まったか頃、敷かれたカーペットに転がった目玉を愛おしそうに義妹は拾い上げ、そっと掻き集めた肉塊の上に乗せたのだった。

 

小説の中では軽々しく触れられてきた「死」という出来事。殺人、病死、老衰、事故死それは数あれど違わないのは、この世から人が居なくなったという虚無感と悲しさだけ。それを何処か紙を隔てた上で感じていた僕は矢張り「死」を軽んじていたのだろう。

 

「死」とはこれこれこういうモノだと、小説や漫画の情報を鵜呑みにして自己満足の悲しさに浸っていたのだ、軽々しく可哀想と口にする上から目線の同情のごとく、自分に一切害が及ばない高見から見下ろす様に僕は「死」と言うモノを捉えていた。まだ縁遠いものだと。

 

目の前の死に対して何も言えなかった。

狂ったように叫ぶ義妹を前にして何の言葉もかけてやることが出来なかった。

 

もう、父さんの怒った顔も、優しく頭を撫でてくれた武骨な手も僕に向けられることは無い。母さんの心のこもった手料理、何時も学校に持っていっていた弁当の味も、朗らかにほほ笑む慈母のような笑顔ももう僕は見ることも味わう事も出来ない。

 

だが、此処で物思いにふける様に死の悲しさについて考えてしまった僕は、一つ重大な過ちに気が付いていなかったのだ。いや、気づけていたのならそもそもこんな事態には成っていなかったのかもしれない。

 

ここで、僕が……僕自身が惨殺された両親の死体を見ても何ら感情を揺さぶられることなく平然としている事実に気が付けたのなら、これから先に起こる周りの人生まで変えかねない転機を未然に防ぐことだって出来たのかもしれない。

 

そう、僕は両親二人の血の匂い、内臓の香りに空腹を感じてしまっていたのだ。

 

 あの光景は今でも鮮明に、それこそ動画の映像のように色褪せず思い出すことができる。吐き気がした、義妹にあんな顔をさせている状況に、そして両親だった肉に対してお腹が空いていると無意識に思ってしまった事に対して。確かに育ての親が死んでしまったことに対して涙したし、義妹とともに喪服に身を包んで葬儀に出席したときは悲しかった。

 

悲しかったが、それ以上に僕はあの火葬されていく二人の肉に対して空腹を催していたのだった。

 

その事実に気がついたとき、僕は驚愕し、そして自己嫌悪した。どこに自分の両親を「喰いたい」などと感じる息子がいるのか。この時はまだ、僕は自分が一度にいろんなことがあった所為で、ストレスでどこかおかしくなってしまったのだろうと思っていた。

 

 自分に対して恐ろしくなった僕は、葬儀場から尻尾を巻いて家に逃げ帰りあれほど愛おしく思っていた義妹をもほっぽり出して、家に自分の部屋へと閉じこもった。外に出ることが、怖かったからだ。

 

外に出て、人間を見ればまた両親のように美味しそうなどと感じてしまうのではないかという恐怖心が僕を支配していたのだ。

 

だが、そんな引きこもりも長くは続かなかった、家に閉じこもる生活…つまりは引き篭もりは僕には向いていなかった、というより僕の腹が持たなかった。

閉じこもりを始めてゆうに3日目で僕の身体は限界を向かえ、何か口に入るものが欲しいと思うようになってしまっていた。

 

 ……そこで初めて僕は人間ではないのだと、気づかされた。空腹に負けて近所のスーパーで豚の生肉を購入し、家に帰るのも億劫になりさっそく口に入れてみると、豚とは思えない臭みと腐臭に吐き出してしまったのだ。

 

味覚が変わってしまったのだと思っていた、だがそれは違った、僕がいままで豚だと思っていた肉が、まったく別の肉だったのだ。両親は僕の正体に気がついてなお、僕を生かすために…「人間の肉」…を僕に与え続けていたのか。

 

わかりにくいようにしっかりと加工して、ほかのステーキやしゃぶしゃぶ等と見分けがつかないように細工までして。そのことに気がついたとき僕は死にたくなった。最近巷を騒がせている殺人鬼の種族が、僕だと知ってしまったのだから。

 

思えば、義妹を外食に連れて行くことはあっても、僕は家で留守番をしていることが多かった。大方それは両親が身内びいきをしているのかと、あきらめていたのだが、実際は間逆だったのだろう。

 

 両親が死んで居なくなってしまったことで、僕は自分で食事を作ったり、他人からのおすそ分けを食べるしかなくなり、その食事の得も言われぬまずさから、皮肉ながらその事実に気がつくことができたのだ。

 

あれは、食事が不味かったという表現では収まりきらなない、とても口にできないような人の食べるものでは無いだろうという触感と匂いだったのだ。牛乳を拭いた雑巾のような味がする肉、長く掃除されていない公園のトイレのような匂いのするチーズ、全てが最悪のものだった……

 

当初は自分の味覚が両親の死体を見たトラウマか何かで変になったのか、それとも僕に対しての周囲の圧力か何かだと思ったが、時がたっても料理がおいしく感じることは無かった。

 

周囲の人間には、僕が引き篭もっている理由が、両親の死にトラウマを抱えたかわいそうな男の子、という印象だったのだろうが、義妹だけは違っていた。僕が人の肉を食べなければ生きてはいけないとどこで知ったのかは分からないが、大方僕の態度で気が付いたのだろう。

 

あろうことか、引きこもってこのまま餓死してしまおうと死を覚悟していた僕に、義妹は自分の腕をカッターナイフで切り裂いて、僕に……自分を食べろと促したのだ。まだ、15歳にも見たない中学生がだ。

 

そのとき、僕は怒れなかった……自分の命を簡単に捨てようとした義妹に対して、怒ることが出来なかった、ただ義妹の手首から湧き上がる鮮血に、皮膚の切れ目からのぞく柔らかそうな桃色の肉に目を奪われてしまったのだ。「美味しそう」だと思ってしまった自分自身を殴り飛ばしたかった。兄失格だ、両親を、義妹を「食べる」などと、考えただけでもおぞましかった。

 

だが…僕はその匂いに、色に、次第に抗えなくなり…

 

一緒に生活を共にしてきた家族を、僕は喰らったのだ。あの楽しかった生活を、今までの思い出をかなぐり捨てて、目の前の肉に眼を奪われてしまった。最悪だ、最低だ、クズで醜悪で下種の所業だった。

 

 不幸中の幸いというか、義妹の身に不幸を招いたのはほかならぬ僕なのだが、彼女の腕の肉をほんの少し引きちぎったあたりで正気に戻り、僕は痛みからか流れ出る血液に貧血になったのか、崩れ落ち意識を失った義妹を置いて、そのまま外へ逃げ出したのだった。

 

救急車はしっかりと呼んだ、本来ならば一緒に付き添う事が良かったのかもしれないが、これ以上血の匂いを纏った義妹の側にいれば、僕は僕の中の食欲を抑えられる自信がなかったのだ。

 

かならず、僕は空腹で義妹を肉として、身体の全てを貪り喰らってしまうだろう、それだけは、それだけはどうしても避けたかったのだ…

 

 

 義妹との僕が両親の家で過ごしてきた日々が思い出される。学校でいじめにあったと泣く義妹に報復として僕がそのいじめっ子に制裁を加えに行き、全治3か月の怪我を負わせ(と言っても義妹が負わされた怪我に比べれば遥かに軽いものなのだが)親に拳骨でなぐられた事もあった。

 

着物を着て一緒に、僕たちの住んでいた地域で小規模に行われる花火大会を見に行ったこともあった、大きな花火が打ちあがる音に吃驚した義妹が目じりに涙を浮かべていたのは、良い思い出だ。海へ海水浴へと行ったこともあった、山へ登ったこともあった、芋ほり、虫取りと数えだすと切りがない。

 

「う、うああああ……」

 

家からそう離れていない少し入り組んだ、家々に挟まれ奥が影で暗くなっている狭い通路の中で、僕は口に染みついた義妹の肉の味を必死に忘れようと、地面に顔を打ち付けていた。

 

だが、黒いアスファルトで舗装された固い地面にいくら頭を打ち付けようと、どれだけ死ぬ気で首を振ろうとも、そのたびに形容できない激痛と痣が出来るだけで、すぐに痛みは引いて行ってしまい、痣もあっというまに元の傷一つない肌へと戻ってしまうのだ。

 

口の中に、歯の間に挟まった義妹の肉の味が広がっている、どれだけ時間をかけても口から出すことが出来ずに、じっくり舐る様に最後の一滴でも残さなまいと味わってしまう。

 

噛めば噛むほど味が出るとでもいうように、僕の意思に反して本能が勝手に僕の口を動かし、少ない肉をもっと味わおうと卑しく動く。

 

可愛くその黒い髪が自慢だと良く話していた、義妹……その身体を僕は傷つけさせ、挙句の果てにはその肉体を喰べようとしたのだ。

 

「何だっていうんだ、僕は何なんだ……どうして、どうして僕なんだ!!」

 

どうして、僕がこんな目に合わなければならない?どうして、僕が自分の家族を食べなければならないと言う状況に陥らなければならないのか。可愛い義妹をどうして食べなければならないのか。僕は何か神様に恨みを買うような悪いことをしてしまったのだろうか。

 

愛していたものを食べるなど、そんな不幸な事があっていいはずがない。

救急車のサイレンの音がけたたましく周囲に響き渡り、僕の家の前がサイレンランプの光で赤く染まる、それがまるであの時の両親の死体が転がっていた部屋の記憶を呼び起こさせるようで、眼から真っ赤な液体が頬へと流れ落ちた。

 

これで義妹は助かるだろう、慌ただしく救急隊員たちが家に入っていき、真っ赤な血だまりの中に貧血で倒れていた義妹を2人がかりで運びだしている姿が遠目から伺えた。そして恐らく義妹はもう僕の前に二度と姿を現すことは無いだろう。僕はあの小さく健気な少女にそれだけのことをしてしまったのだ。

 

「嫌だ、嫌だ嫌だぁぁぁぁぁぁ」

 

義妹の肉を、血液を美味しいと思ってしまう自分が許せなかった。死にたくても死ねない自分がこれ以上なく憎かった。僕は化け物だ、人間の死体を貪り人の皮を被った化け物だ!!

 

 

 

.

 

 

 

 

 あれから、僕は数日を東京の住宅密集地に出来た狭い空間で過ごしていた。

薄暗い隙間を転々としながら、誰とも鉢合わせない様にひっそりと身を隠す生活は、今までの暮らしから考えて酷いものだったが、僕はたいして苦に感じていなかった。

 

喰種としての生まれ持った耐久性とでも言うのか、どれほど劣悪な環境でも僕の身体は痛むことは無く、どんなところでも簡単に眠る事が出来たのだ。

 

本当に皮肉な事だったが、あの時義妹の肉を口に含んだ所為で、幾ばくか空腹が収まり、餓死せずに済んでいた。

 

だがその結果として、僕という怪物をこの世界にのさばらせていると言うのなら、僕は義妹に間違いを犯させてしまったのだろう。

 

人間の死肉を貪る、家族であろうと食欲の対象になる存在、「喰種」を救ってしまったことは、悪なのだから。

 

喰種を匿った人間は、例えそれが善意であろうとも罰せられる。その罪は人間の犯罪者を匿う事より重く厳しい。国の法律でそう厳格に定められている。

 

僕を助けたという事で義妹が罰せられない事を祈るしかない……

 

 

 

薄ら寒い夜風に身を任せ、時折まとわりついついて来る虫を追い払いながら、僕は物音を立てずに息を潜めていた。

 

「……これから、どうしていけばいいんだ」

 

 人肉を食べなければ生きることが出来ない化け物など、人殺ししか能のない化け物など、世界には望まれていない。悪は成敗されるのが世の常だし、僕はそれでも良いと思っていた。

 

両親を殺され、義妹から離れた僕にはもう、頼れる人も守るものも、何もない。

こうしてじっと静かに路地裏に座して、再び空腹を待って餓死する事が、僕に最も相応しい未来なのだろう。異業の化け物には「死」を、罪深き家族を傷つけた男には「死」を…

 

だが、3日経った今でも僕の身体は健在で、鏡を見てはいないが、恐らく顔も綺麗なものなのだろう。人間は1週間何も食べなければ死んでしまうと言うが、僕の場合、それ以上は確実に生き長らえそうだった。

家で引きこもっていたときは、それ程時間をかけずに空腹を感じたが、それは食べ物の所為だったのかもしれない。

 

 本当におぞましく、鳥肌が立つ予想だが、僕の身体は人間を生のままで喰べることが本来の形なのかもしれない。

 

映画作品の吸血鬼の如く、生の血液を飲むことでそれこそ無限の命を得ることが出来るのかも知れない。もっとも、餓死という「死」が存在している時点で、僕が歳を今まで取ってきている時点で、「永遠の命」というものは無いだろうが。

それでも少なからず「死」が遠ざかっていることは確かだった。

 

僕の身体は、義妹の肉を体内に取り込むことで、何十日も絶食状態で生きる事が出来るようだった。

そう考えれば、僕が両親に焼いた肉を食べさせて貰っていたときと違って、活力が溢れてくるのにも納得がいく。死ねない身体に、餓死しにくい身体、それに加えて我慢できなくなりそうな、人を食べるという本能。

 

「はぁっ…」

 

 八つ当たりの一つもしたくなり、民家の柵として作られたであろうレンガの壁に拳をぶつける。

ガツンと拳の骨がレンガに反響してジーンとした鈍い痛みが走るが、僕はそれよりもまず、拳をぶつけた壁に愕然とした。

 

嘘だと思いたかった、誰かこれが夢なのだと教えて欲しかった。

拳を打ち付けられたら薄い赤色のレンガの壁は、ほんの少しだけひびが入っていたのだから。

 

「死にたい」

 

見る見るうちに、レンガに打ち付けた所為で切れた皮膚に新しい膜が張り、普段となんら変わらない肌色に戻るのを見つめながら、僕はそう呟いてしまった。

 

力までもが上がっているではないか、生命力だけではなく、筋肉の力まで普通ではなくなってしまっている。こんな力持っても意味がない。それは全て人を捕食するがために備わった力なのだろうから。

 

シマウマの首に齧りつくライオンの牙のような、バッタを挟み込むカマキリの鎌のごとく、僕のこの拳も人を僕の口に入れる為だけに作られた器官なのかもしれない。

 

 何処かの漫画のように自分の超常的な力に目覚めても、その力を使うべき「悪」となる存在が他ならない僕なのだ、それに補給するべきエネルギーとも言えるものが、人間の肉体というのだから目も当てられない。倒すべき敵もおらず、肉体を維持するがためにひたすら無駄に人間を食べ続ける生物は、本当にこの世から絶滅するべきなのだ。

 

実際、こんな化け物になったのが僕自身ではなく、どこかにいる他人だったのだとしたら、僕は迷わずその存在に対して「死ぬべき」だと言っていただろう。

「人を食べる」その行為は明らかに、根本から人間としての存在を著しく侵害した行為だった。

 

当然ながら、人間は自分が死ぬのは嫌だと思っている。というか地球上に存在する知性を持つ生物の中でさしたる理由もなく「死」を許容できるものなどいないだろう。

もしいたとしても、その生物はまず間違いなく進化の過程で省かれてしまっている。

 

 人間はそのなかでも一際ずば抜けた「感情」を持っている生物だ、「喜怒哀楽」喜び、怒り、哀しみ、楽しむという多種多様の精神的表現を生み出すことが出来る動物である。

 

その生物である人間が、自分の死というものに寛容になるかと言えば、その答えはNoというしかない、不特定の可能性は省き、一番多い意見を一般論とすれば、人間は死に対して並々ならぬ恐怖心を持っているのだ。

 

死んでしまうという現象が、残されるモノ側の干渉によってからでしか、発見することが出来ないという欠点はあるが、おおむね死というものを人間はネガティブなイメージとしてとらえている。

 

だからこそ人間は、法律で人が故意で他者を死に追いやることを厳格に規制し、その抑止手段として、人間の怖い死を罰として与えるという手段を取るに至ったのである。

そんな歴史を踏んで来た人間が、こんな何の変哲もなく人間を食べるだけの害悪のために進んで命を投げ出すことが出来るか?誰かの命を差し出すことが出来るのか?

 

まず、無理である。第2の質問に関しても、僕は自分の家族を(もういないが)差し出すつもりはなかった。

 

人が人を殺せばそれは「悪」の所業として捕まり、牢屋に放り込まれる、最悪「死」が与えられるかもしれない。それほどまでに人間は自らの死を、まるで自分の敵のように忌避しているのだ。

 

 始めから、「化け物として」人を襲い喰らう異形の化け物として生まれていたのなら、どれだけ気が楽だったのだろうかと……考えなくもない。

 

もし、僕にそういう未来があったのなら、今の自分からは許容できないことだが恐らく、僕は今ほど悩まずに平然とこの世界に生きていくことが出来ていただろう。平然と、路行く人を殺し、その血肉を餌と貪って満面の笑みを浮かべていた事だろう。

 

両親は、一体何を思ってこんな僕を育てようという気になったのだろうか、わざわざ食べ物に細工までして、僕にソレと気が付かせないようにしながら、何故……

 

少し厳しいところがあったが、矢張り大黒柱としてとても頼りになった父、優しいが偶に怒るときは父よりも恐ろしい形相になった、家族思いで心配性の母。あの2人は僕に、何を望んでいたのだろう。

 

誰しも好き好んで、人間を殺す化け物を育てたがらないはずだ。もしくは凶暴なペットを飼っているという感覚で育てられていたのか。だが、そうすれば義妹は……あの両親の実の子である義妹は、そんな猛獣とともに育てられていたという事になる。

 

僕自身を過剰評価するつもりはないが、義妹を襲うという点に関しては、そういう凶暴性を発揮しないと考えていたのかもしれない。

 

というか、さすがにその理論は飛躍しすぎていると、僕は頭を振って理解を諦めた。

それは、いわば熊の子供と同じ屋根の下、義妹を共に生活させるに等しい行為だ。

僕の両親が、どこにでもいるごく一般的な常識人だったならば、そんなことはしないという推測がたつ。

 

「なら…」

 

 なら何故僕はこの家に引き取られ、そのまま育てられてきたのだろう、さして不自由もせず実子と比べた身内びいきもされず、本当の家族同然として育てて貰えたのだろう……?

 

考えれば考えるほど、分からないことが増えていくような感覚だった。

学校ででる、ある程度規則性がある問題と比べてもわかるほどに、この僕の直面した問題はそのヒントでさえ明かされていなのだから……

 

 

 

  それから僕は2日を同じ路地裏で過ごし、未だ僕に降りかかる不幸は、まだまだ終わりを告げてはいなかったのだと、この後思い知ることになるのだった。

 




少年編です。少し矛盾点の修正の為、1話、2話の修正を大幅に行っております。お見苦しい点が御座いますがご容赦ください。


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#004「襲来」

 僕にはそんなくだらない、考えても仕方のない事よりもまず先に行わなければならない重要な事があった。

 それは、肉体労働でもあり、江戸時代において武将の間で流行っていたスポーツであるところの、鷹狩りにも似ている。

 

 真っ黒い夜の闇に溶け込むような、光沢のある雨合羽に、動きやすい黄色いメーカーもののスポーツシューズ。

 それに加えて、漆塗りの陶器のような黒光りする、昆虫の頭部を模した丸い仮面を顔に貼り付け、僕は今日も暗い暗い、町の奥に存在する路地裏に立つ。

 

「これは…いるな」

 

 生暖かい風を肌に受け、深呼吸をすると鼻に入ってくるのは、どうにも食欲を刺激する、鉄のような香ばしい匂い。

 自然と唾を飲み込み、呼び起こされる衝動を無理やり抑えつけ、僕はゆっくりと闇に溶けるように移動を開始する。

 

 忍者のように物音を一切立てないように、絶対に気付かれないように静かに、静かに目的の場所へと進んでいく。

 すると、路地裏の最奥、少し開けた場所に2つの人影が、月明かりに照らされて見えた。

 その内の一つは汚いゴミだらけの地面に横たわっており、生気を感じさせないものだ。

 

 だが、遠目からでもソレが辛うじてかつて生きていたモノだと分かるのは、この漂う匂いが、血の臭いだと知っていたからだ。

 そんな人影の側にひざを付けて今にも襲いかからんと口元だけ面をずらして口を開けているのは、兎のような面を被った小柄な人影…

 人が、人を食べようとしている。

 それはとても残酷で、人類にとって禁忌であり、忌避すべきモノであるはずだ。

 俗にカニバリズムと呼ばれる行為を使用とする人影は、そっと兎の面をずらし、赤黒く染まった眼と、だらしなく唾の垂れた口を露わにする。

 

 「確定だな…あれは喰種だ」

 

 言うが早いか僕は、雨合羽を脱ぎ捨て、動きやすい黒いスポーツウェアのまま、兎面の人影に接近した。

 

 「はい、ごめんねぇ…楽しいディナーを邪魔しちゃって悪いけど。人殺しはもぉっといけないことなんだよぉ?」

 

「…っ!?」

 

 倒れた人影の首筋に今にも歯を突き立てんとしていた兎面の頭をつかみ、顔面ごと地面に押し付ける。

 コンクリートの地面と、柔らかい頭が地面に打ち付けられる、鈍い音が響き兎面の身体は大きく痙攣する。

 

「あ…が…」

 

 兎面はだが、直ぐに身体を捻って僕の手を振りほどき、距離をとってゆっくりと立ち上がる。

 しかし、僕の先制は相手にかなりのダメージを与えたようで、兎面は額から流血を滝のように垂れ流して、頭を押さえていた。

 

 僕から距離をとろうと思ったのか、兎面の…少女は足を動かそうとして、思うように身体が反応してくれないことに気が付いたようだった。

 当然だった、勢いよく頭を地面に恣意的にぶつけてやったのだ。

 普通の人間なら下手をすると、そのまま帰らぬ人となりかねない威力で…だ。

 

 脳髄を頭蓋骨の中でシェイクされれば、誰であろうと喰種であろうとも暫く平衡感覚を失わさせることが出来る。

 それが食事前の飢えた喰種なら、尚更この攻撃は響くだろう。

 現に、兎面を被っていた少女は時折つらそうに足をふらつかせているのだから。

 

 

「おやおや、それで気絶しないなんて、あなたは不思議ですねぇ?そ・れ・と・あれれぇ…あなた眼が赤いですねぇ。

まるで…喰種のようだ。全く偶然です、実は喰種も全く同じ特徴をしているのだそうですよ?」

 

 これは茶番でしかない、言ってしまえば軽い挑発行為。

 相手が若い喰種なら、老獪な喰種に比べ感情的になりやすいので、少し起こらせて行動パターンを制限してしまえば、簡単にいなせられる。

 

 問題は素顔を見せないように、仮面を被っている喰種が一般的なため、年齢の特定がしづらいという事だ。

 今回はその点において非常に運がいいと言えるだろう。

 この兎面の喰種は、目の前の餌を前にして絶対に人間には見せてはならない、素顔を晒してしまっていた。

 

 人殺しの種族、喰種であろうとも、人間の住む世界にて生活するにおいて、喰種として人を食べている時に本来の顔を知られてしまえば、世間を歩けなくなる。

 

 写真でも撮られた日には、瞬く間に町中に指名手配が周り、CCGの白鳩が大勢で押し寄せてくるだろう。

 黒い髪を方のあたりまで伸ばし、片目を隠すようなヘアスタイルに、切れ長の気の強そうな瞳。

 だが、歴戦の喰種と言った風ではなくその威嚇する相貌からは、どこか幼さが感じられた。

 

 まだ、中学生くらいだろうか。何れにしてももう顔と、体臭…それに動きの癖はしっかりと頭に入れたので、逃がしてもまた追縋ることが出来る。

 

 あとは余裕に構えて、挑発という釣竿を垂らすだけで、舞台は調うのだ。

 

 これに乗ってくるか、僕と自分の戦力差を冷静に見て、そのまま逃げ出すかでこの兎面の効率のいい堕し方が決まる。

 僕の希望としては後者は追いかけるのは無駄な労力と人脈を使うので、前者の方がよかったが、少女は運良く僕の挑発に乗ってくれたようだった。

 

 もう、ありがとうとしか言いようがない。

 ご飯が口を開けていたら勝手に入って来たとでも言うような、間抜けな図だった。

 

「…っ、ほざけ!」

 

 ズッ…それはとても深みのある、血が変化したかのような赤色だった。

 暗闇でも発光しているのかと言うほどはっきりと見ることが出来る赤は、兎の背中から霧状に発生していた。

 まるで赤い翼のようにも見える。

 

 天使、というよりは羽の毒々しい色彩は悪魔や妖精のそれと似ている。

 そうか、この若い少女はこの歳にして使いこなすことが出来るのか…

 ふむ、これは挑発をしたのは失敗だったのかもしれない。

 

 食事前ということもあって、今まで見てきたソレとは大分形が崩れてきているが、だがまだ殺傷能力は大分残っている。

 そして、なまじ羽のような形をしているというのも、この場合少女の助けになっていた。

 

「これはこれは、羽赫ですかぁ…」

 

 

 例えるなら、一方通行の通路で拳銃を持っている相手と対面していると考えて良いだろう。

 背中を見せて逃げることなど論外、隙を見せた瞬間に急所へと高威力の羽赫が迫ってくるだろう。

 特に、背中はまずい。そこは僕にとってかなり重要な急所となり得る場所だ。

 

 そこを恐らく少女は理解していないだろうが、もし背中を見せたとすれば躊躇なく羽赫を発射することは理解できる。

 

「兎の面に羽赫、あなたその意味を分かっていますか?」

 

「……」

 

 兎は、他の動物と違い、匹や頭ではなく羽で数えるという珍しい生き物だ。

そして、その理由は昔、修行の僧が戒律によって肉を食すことを禁じられていたとき、鳥だけは食べてもよかったので、近くにいた兎を耳が大きいから羽に見えるという事で、鳥とし捕まえて食べたのだという。

 

 つまりは、狩られるべき存在であり、それを暗喩しているという事だろう。いたいけな兎が、人を刈る世の中は絶対にあってはならないのだ。

 兎は、狩られる側…美味しく頂かれる側でなくてはならない。

 

 「……あんた、なんなの…白鳩?

それにしては動きが私達に届いているし、でも…その態度は白鳩にそっくり。

 その人を蔑んだ、害虫としてみている態度は…私達だって、生きてるの!」

 

「だから人を食べる、生きていくために必要だから…か?」

 

「あんた…知って」

 

「そんな事はずっと前から知っているさ、正確には生まれ落ちたその日から強いられていることだぁ…

 

でもねぇ、僕は人間が大好きなんだ、儚くてガラスのように柔らかい命が…愛おしい。

だからさぁ、僕は人間を食べないのさ…」

 

 僕の言葉に少女は訝しげに眉をひそめた、分からないのだろう。

 僕という個人が、喰種か人間か。

 特殊な香水を身体に塗って体臭を覆い隠している僕の臭いは、例え喰種であってもその判別を妨げる。

 

 そして、僕は今人を食べないという発言をした。

 この言葉が、額面通りなら僕は人間だと少女は思いいたるだろう。だが、僕はワザと「人は」食べないとニュアンスをぼかした。

 

 今少女の中では、僕へどんな攻撃を仕掛ければいいのか迷いに迷っているはずだ。

 知識があるモノほど、こういう状況では理性的になりすぎて行動が遅れるのを知っている。

 そして、その時にもっとも致命的な隙が出来ることも……

 少女は言わば、血に飢えた獣。餓死寸前の獣は生き残るためにどんな動きをするか分からない。

 油断は禁物であり、仕方なく僕も本気で少女に相対する。

 

 僕の嫌いな力、生まれ落ちたその瞬間から僕が持っていた、世界から忌み嫌われる力をつかう。

 

「ぬう…っがああああああ!!」

 

 息を力一杯吸い込み、体内で流動する血液を背中に込め、突き破るように自らから発生させる。

 ヌラヌラと真っ赤に輝く触手のようなモノが二本、僕の背中からズルリと服を突き破って現れた。

 

 「なっ!?喰種?」

 

 少女にとって僕の背中から生えるモノは予想外だったのか、少女は眼を見開いて一歩後ろに下がった。

 その判断は賢明だろう、一般的な格闘ならいざ知らず、喰種同士の戦闘において、フェア等というモノは存在しない。

 

 つまり生き残ったモノがその日の勝者で、死んだモノが敗者なのだ。

 少女が後ろに下がったのは、別に僕の赫子に恐れをなしたからでも、喰種同士の戦いに不馴れなわけでもないだろう。

 

 少女は間合いをとったのだ。なるほど戦い慣れているという印象を受ける。

 とっさの判断だろうが、僕の赫子の種類を瞬時に見抜き、羽赫が届きかつ僕の攻撃が届かないギリギリの位置へ移動したのだ。

 

「ははぁ…今回の獲物は随分と頭が回るようだ?

そう言うのを天才だとか、秀才とか言うんですよねぇ、羨ましいなぁ。

さぞ、ご立派な両親に恵まれたんでしょうねぇ…」

 

 おどけながら前へと一歩出ると、少女が牽制なのか羽赫を小さな針状に変化させ、数本飛ばしてきた。

 

「おやぁ、おいたはいけませんねぇ?

人に暴力を振るってはいけませんって、ご両親に言われませんでしたかぁ?」

 

 だがそれも、僕の赫子で簡単に弾き飛ばすことが出来、一切傷付くことなく、また一歩足を進めることが出来た。

 その間に僕と少女の間に、明確な実力の差があることに気が付いたのか、少女は腕を自らを抱くように合わせ、羽赫を消滅させてしまった。

 油断…ではないだろう、もう少女は自らの赫子を保てるほどの力がないほど、限界に迫っていたのだ。

 

 空腹時にエネルギーを使う赫子を出すだけでも、気絶しかねないほどにも関わらず、少女は張り詰めた空気の中10分も赫子を維持し続けた。

 僥倖といっても言い、奮闘だった。

 僕はこの事を、この少女が死んでも覚えていようと思う。

 

「どうして、喰種の癖に私を狙う!

あんたの狩り場を荒らしたのか?

だったら謝るから…見逃して…」

 

「ふふ…勝てないと見ると命乞いかなぁ…、良いよその生きたいという意志はとても素晴らしいものだぁ」

 

 唇を噛み、気絶しそうになる身体を必死にこらえて踏ん張る少女の姿は美しかった。

 生きたいと願う純粋な気持ち、只それだけのみが、喰種と人間どちらにも共通する感情なのか。

 実に美しく、人間らしい。

 

 狩ることに慣れた喰種は、人間よりも自身が上位の存在だというように、傲慢になる傾向がある。

 それは人間でいうならば不平等だ、自然界において天敵が存在しない生き物などいないように…

 

 また、喰種にも天敵は必要なのだ。 傲慢をかき消すために、自惚れだ喰種に人間らしさを取り戻させるために…

 人間が大好きだからゆえに、僕は人を殺さず、人間のように傲慢さが消え、怯えて震える子羊に成り下がった喰種を喰らう。

 世界中にひっそりと生きる喰種全てに人間らしさを取り戻させて、また傲慢になる前に腹に収めて刈り取ってあげる。

 

 実に美しく、綺麗な行いだ。世界は潤い、人間は僕に感謝こそすれ、恨んだりはしないだろう。

 「悪い喰種は食べちゃわないと」

 ソレが僕の、生まれてきた意味であり、僕に課せられた大切な使命なのだ。

 

「あ……ああ、あんた、その黒いコオロギのマスクに真っ黒な服…

一三区の!?」

 

「おやぁ、今更気が付いたのかぁ…それは出会った瞬間に気付くべきだったねぇ…?

もう逃げられない距離に迫られてから、気付いても、もう君の死は揺らがないぞぉ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 喰種を専門に狩り、その死肉を喰らい世の洗浄を歌う、狂った思想を持つ喰種の男がいる。

 まあ、人間を食べる喰種の思想など大概が大いに狂いまくっているが、その中でも、区全体に響きわたるほど、ソレの思想は独特で異質だった。

 美食でも、大食いでも、屍漁りでもない…只純粋な共食いのみを主とする喰種。

 

 同種の肉を喰い漁り、執拗に追い回し、ねらった獲物は例え逃げ切れても人生に絶望するほどのトラウマを負わす天性のサイコ。

 暗闇に息を潜め、本当に最悪のタイミングで姿を現し、実に狡猾に獲物を狩っていく彼は、何時しか東京全土の喰種に知れ渡っていた。

 

 曰わく、その男は何時も闇に溶け込むような黒い服を着込んでいるという。

 曰わく、その男に捕まった喰種は、身体の…骨の一本にいたるまで、血の一滴もこぼさず平らげられたという。

 

 誰が呼んだか、「共食い蟋蟀」

 

 昆虫の複眼のように虚無を映し出すマスクからは、何も感じさせない冷徹さへの恐怖の象徴として。

 同族であろうとも、何の感慨を抱かず、餌として貪り喰らう蟋蟀の暴食性を指して…

地獄の鬼さえ逃げ出しかねない、その共食い喰種特有以上の強さから…

 

彼は、闇に潜む地獄の裁判官…「閻魔蟋蟀」と呼ぶ。

 

 喰種を捌き、人間を愛する彼は、陰湿と名高い笑みを無感動な昆虫のマスクに隠しながら、月光を背にして、命乞いする少女の前に立ちふさがる。

 

「それでは、頂きます」

 




2015/3/31 加筆修正
2015/4/1  合併修正

脱法狸さんが挿絵を描いてくれました
【挿絵表示】


名無しさんが挿絵を描いてくれましたhttps://or2.mobi/index.php?mode=image&file=102509.jpg。


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#005「蹂躙」

「ひ…いやっ…来るな…来るなく…ああああああああああああ!!」

 

 狩る事になれてしまった喰種は、総じて狩られる側に回ったとき、あっけなく理性が崩壊し汗と涙まみれの顔になってしまう。

 だらしがない、生き物を殺し、自らを生きながらえさせているのなら、何時か自分が他者の糧になる日が来てもおかしくないというのに、皆その覚悟が足りていない。

 

 自分は一生狩る側なんだと息巻いて、恐怖から必死に逃げる人間をまるでゲームのように追いかけて遊ぶ喰種もいた。

 これがもし人間の感性ならば、食べ物で遊んではいけないと拳骨の一つ落ちていたところだろう。

 

 そして、自分が少し人間から見て強いからと言って油断する喰種の多いこと…

 これではいつも自分が狩られる側だと心に秘めて戦っている、愛しいCCGの皆さんの方がマシじゃぁないか。

 油断しないだけ、喰種と違い弱くてもどこかで必ず起死回生のチャンスが巡ってくる。

 

 そうやって勝歴を連ねてきたCCGの捜査官を僕は何人も知っていた。

 重要なことは、どんな状況にも絶対に逃げたりせず必死に食らいついて諦めないことだ。

 生きるという行為を諦めてしまった瞬間、その生物はもう生き物として死んだも当然なのだ。

 

 だからこそか、もう足を捻って転び、再び立ち上がる気力すら残っていない少女の、悲壮に満ちた泣き顔を見ていると…イラついてくるのは。

 弱々しい姿、まさか自分がこんな目に遭うなどと、昨日の夜には全く想像していなかっただろう顔。

 

 それがどうにも僕の心をかき乱し、余計に喰種を食べたいという、奥底からくる本能を呼び起こさせる。

 早く、早くと僕の胃が叫び声をあげ、一足先に胃酸を分泌し始めた。

 

 息をすれば、少女の汗の臭いが嗅覚を最大限に刺激し、口一杯に唾液を溢れさせる。

 だが、それでもあくまで僕は前座を優先させ、空腹を後回しに、少女をいたぶることを続ける。

 

 食用になる豚や牛は、高級なモノになるほど、マッサージを欠かさず行うという。

 それは、肉の凝固、筋肉の健を少しでも柔らかくし、口答えを良くするためだ。

 

 僕が行っているのも、やり方こそ違えど、似たようなものだ。

 絶望し、恐怖心を抱いた肉は、最高のスパイスとなって、舌触りを良くしてくれるのだ。

 少女が死へ絶望し、それでも生へ渇望することで見せる人間性が、最高の肉への調味料へと変わる。

 

「もっと逃げろよぉ!もっと叫べよぉ!

死ぬのが怖いだろぅ?痛いのが怖いだろぅ?

だったらもっと精一杯、生きることに執着して足掻いて見せろぉ!」

 

 人間のように、欲にまみれた頭の良い、だが肉体は極めて脆い人間のように…

 泣け、叫べ、苦しめ、悲しめ、恐れろ、おののけ、僕のもっと君の人間らしい所を見せてくれよ。

 

 さあ…もっとその君の可愛い悲鳴を聞かせて頂戴?

 

「やめて…何、するの!?」

 

段々と反応の鈍ってきた少女、怯えて呂律も回らなくなってきている少女の頭を、スニーカーの踵で踏みつけ、コンクリートに勢い良く打ち付ける。

 

「がう……っ」

 

 地面に打ち付けた頭が、今度はバウンドしないようにしっかりと、足の踏む力を強くする。

 後頭部が固いコンクリートにぶつかった衝撃を、もろに受けた少女は、赤い眼から血のように真っ赤な涙を流し、グルンと白目をむいて小刻みに何度も何度も痙攣を繰り返した。

 脳が先ほど以上に揺らされ、しかも出血や空腹という要因が二重に重なり、少女の精神はブラックアウトしてしまったようだった。

 

 

 割れた頭からじわりと血液がコンクリートへと広がっていくが、それでも流石に喰種と言うだけあって死にはしない。

 矢張り弱り切っているためか、他の喰種に比べ傷の治りがかなり遅いが、それもまた許容範囲内だ。

 どこぞの爬虫類顔のように拷問が趣味と言うわけではないが、こういう風に苦しそうな顔みるとどこか癒された気分になるのは否定できない。

 

 

「まだ気絶しちゃぁいけませんよぉ?

もっと、もっと君には良い悲鳴を聞かせて貰わなければいけないからねぇ」

 

 サッカーボールのように、靴の先端で少女のこめかみを蹴り飛ばすと、少女の身体全身が電流でも走ったかのように、大きく痙攣した。

 

 起きる気配の全くない少女に、ふとするともう死んでしまったのではないかと左胸に手をおけば、辛うじてまだ生命の鼓動が続いていた。

 大分、音が小さくなりつつあるが喰種の分、まだまだ人間よりは余裕がある。

 

 どうせ僕に食べられる命なのだし、もう少し悲鳴をあげて欲しかったが、希望と現実は食い違うものだ。

 ディナー前のショーはそろそろお開きにして、そろそろ本番としようか。

 改めて少女の身体を観察してみると、本当に美味しそうで綺麗な、良い肉付きをしているではないか。

 色々な戦闘をくぐり抜けてきたであろう少女は、全く贅肉がついておらず引き締まった身体に、少女らしい丸みを帯びた形がまた堪らない。

 

 コンクリートに垂れた血を指ですくって嘗めてみれば、高級な血酒よりも美味しい、絶品とも言える味だった。 ただの漏れ出た血でこれなのだから、本当に肉を食べればいったいどんな美食が待っているのだろう。

 

 

溢れ出る唾を飲み込み、まずはと小さく白い手を握り、背中に生える触手のような赤い赫子で突き刺して切断する。

 

ゴリ…グチャッ…

 

 肉の切れる音、血飛沫のが飛び散る音が聞こえ、最後に骨の折れるひどく鈍い音が響く。

 

 一般的な喰種は、その種族名が示すように、人間を襲って自分が生きるために必要な糧とする。

 それは彼らの趣味ではなく、人間以外を食すことが出来ないと言うだけ、味覚の異常性と、体構造に由来する。 喰種は人間、人間の体内に含まれるRc細胞を摂取することで、その強靭でタフな肉体構造を維持することができる。

 

 骨を折られても、肉を裂かれても、心臓を握りつぶされても、人間の…Rc細胞の無限の供給があればそれこそグールのように蘇り、再び動き出す。

 もっともそんな喰種も頭と身体を引き離されたり、急所である背中の器官を損傷したりすれば、いくらRc細胞があろうとも、死んでしまうのだが。 だが、そうして人間を殺さなくてはいけない喰種は、自分達と同じ喋り知性を持つ存在を殺すという事を多々行うことで、命への観念が薄くなってしまうのだ。

 

 これは以前出会った喫茶店の店長の受け売りだが、「喰種は自分への人殺しの責から逃れるために、何も感じないようになっていく」のだという。

 そう、そして僕もその例に漏れず、本当に不本意きわまりないが喰種の為、空腹時の飢餓感は凄まじく、何度か理性を失いかけたことがあった。

 

 喰種の主食が人間なら、僕は理性が切れた瞬間に、大好きな人間を襲ってしまうかもしれない。

 だから、僕は、人間で腹を満たす代わりに、喰種で腹を満たすのだ。

 

 幸いにも、Rc細胞は同種を襲うことでも摂取することが出来るので、強烈な空腹は収まってくれる。

 

 そして、そんな共食いの影響からか、僕の身体は喰種を見れば、人間を見たときよりも食欲が喚起されるようになってしまっていた。

  

「ではその、何人もの人を殺めてきた愚かな右手から、頂く事にしましょうかぁ。

うううん、この臭い、この血と汗の混ざり合った、この臭いが堪らないなぁ!」

 

 黒く丸い形をしたマスクを上へずりあげ、僕は切り離された少女の可愛らしい手のひらを、大きく開いた口に入れる。

 歯で肉を潰し、骨をすりこぎ機のように潰していくと、口一杯に何とも言えない至福の美味しさが広がってきた。

 

 脂肪臭くない、まったりとした風味の血液に、若々しい引き締まった筋肉の健…

 そして骨からは、噛めば噛むほど濃厚な甘みと、動物的なほろ苦さがにじみ出してきて止まらない。

 

「美味しい!」

 

 気付けば僕は叫んでいた。

 この少女の肉体は、今まで食べてきたどの喰種よりも深く、味わいの深いモノだった。

 人間の味覚で例えるのなら、そうだ…五星ホテルのフランス料理のフルコースを頂いている気分というのか。

 

 キザな美食家では無いにしろ、衝動的にトレビアン(素晴らしい)と叫びたくなってしまった。

 

これは、止まらない…

 

グチャッ…ガリッ…グチュッ

 

 肉を裂き、骨を砕き、鮮血を啜る、僕としたことがあっと言う間に、少女の右腕を食べてしまったのだ。

 喰種としての本能をある程度制御出来るようになった今でも、我慢できないことがあるのだから恥ずかしい。

 

 触手のような僕の赫子を次に、左腕をもぎ取るために伸ばしたところで、少女が目を覚ました。

 

「あ…うっで? あ、あああう゛ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 

 眼を開けた少女は自分の無くなった肩から先を見て、唖然と口を開け、やがて襲ってきた痛みに雄叫びのような悲鳴をあげたのだった。

 

 人が人を食べるという共食い行為を、カニバリズムという。

 「共食い」とは本来生物学的には、本能の観点から避けられてしかるべき行為なのである。

 種の保存本能において、悪戯に個体数を減らすという事が、どれほど愚かで先を見ない行いであるかは、明白である。

 

 だが、ある種類の動物は、同種が同種を食すという行為を、一定の条件下において頻繁に繰り返すのだ。

 その代表例が昆虫である。

 昆虫は、餌の不足という極めて貧困な状態にのみ、近くにいる同種の昆虫を襲い、自らの生きる糧へと消化する。

 

 だが、これは本当に餌が限られた状況下、という明確で厳しい条件が無ければ、絶対に行われないことだ。

 ……しかし、その例にも必ず例外というものは存在する。

 コオロギ科の昆虫は、主に雑食性で大食いであり、仲間の死体であれども、躊躇なく食すのだ。

 

 動かなくなった仲間など、自分の腹を満たす料理でしかないというように……

 喰らい、自分の子孫へとその遺伝子を繋いでいく。

 

 

 この僕のかぶっている面…コオロギのマスクも、僕の通り名が広まってからあるマスク職人が作ってくれたものだった。

 あの男は少しひねくれたところがあり、そのマスクを作ってもらう人物の本質を理解した、本当に皮肉なマスクを作ってしまう。

 共食い行為を主として、使命にしている僕にとって、コオロギはある意味ぴったりのマスクだった。

 

 貪り喰らうという面においても、コオロギに準ずる部分があると、自分でも苦笑いが浮かぶ。

 こうして中学生くらいの幼い少女の肉体を、高級ステーキのように少しずつ削り取って、口へと運んでいる僕は、コオロギに似ているのだろう。

 

 まあ、だからと言って僕は共食いを止めるつもりはないし、かといって人間を襲うつもりも毛頭無い。

 13区に飛び跳ねる蟋蟀は、獲物を見つけて今日も今日とて襲いかかるのだ。

 

「う…あ…あああ…」

 

 虚空を見つめ、腹を切り裂かれ、一切れずつ内蔵を削られていく少女は、もう痛みでさえも感じていないのだろう。

 腹を開かれた時点で人間なら死んでいるが、そこは喰種…Rc細胞の許す限り生命機能は持続し続ける。

 これが本当の生け作りかと思いつつ、細長い小腸を数センチ切り取って酒のつまみ感覚で口に放り込む。

 

 意識は朦朧としていたが、まだ多少は生きているのか、条件反射的に、僕が内蔵にふれると怯えたように呻き、赤い涙を目から頬へ伝わらせる。

 僕がまだ少女を生かしたまま、肉を貪っているのは、死んでしまえば味が落ちてしまうと言う一点に他ならない。

 

 生きたまま、Rc細胞が循環し再生しようと蠢く内蔵を、その瞬間に切り取って食べる。

 すると新鮮で濃厚な血の旨味と、出来立ての肉特有の柔らかい感触が、口一杯に広がるのだ。

 

 再生が滞った切り傷は、かっぽりと無数の内蔵を晒しながら、月に反射してヌラリと光っていた。

 腎臓、肝臓、膵臓、胃、小腸、大腸、肺…そして心臓に子宮。

 少女の体内に存在する内蔵という内蔵を血の一滴も残さず食べていくことが、生きながらにして食べられるという事が、どれほど僕の愉悦になり、少女の心を壊していくのかは計り知れない。

 

「い…や、も…ゆる、て」

 

 息も絶え絶えに吐き出された懇願も、残念ながらそんなもので僕の食欲が治まるわけもなく拒否されてしまう。

「よぉく考えて見てくだいよぉ、君が今まで殺してきた、食べてきた人間たちはいったいどんな顔で、死んでいったんだろうとねぇ?

多分、今の君とあんまり変わらない、醜く歪んだ顔を晒して居たんだろうねぇ。

プライドをかなぐり捨てて、君へ懇願し容赦なくそれを否定し、命を簡単に奪ってきた訳だぁ。

後悔、罪悪感?

そんなの君にあるはずが無いよねぇ、そこに転がっている人間の可哀想な死体が、ソレを証明しているよ。

君は、悪鬼羅刹とおんなじだ、殺人者だ…」

 

 黒い髪をつかみあげ、辛そうに歪んだ顔に向かって罵声を、喰種としての醜い欠点を突きつける。

 そうすれば、例え心を消し去った冷徹な喰種であっても、産まれたばかりの純粋な罪悪感を取り戻すことができる。

 自身の死を経由して、他者の痛みを知るということだ。

 

「あ……ううっ」

 

 今の自分が置かれている状況は、今まで自分が人間に対してしてみたこと。

 そう説かれれば、この状況で誰も何も言い返すことができなくなってしまう。

 

「さあ、闇の生き物[喰種]よ、か弱き神の子人間に代わって、君を裁いて(捌いて)あげよう。

 

 少女の身体をほぼ半分ほど食い尽くしたところで、僕はそう告げると、もう話は終わったとばかりに、赫子を動かして少女の頭に押し当てた。

 少女は自分の行いを懺悔出来るようになった、傲慢さが消え、人間のようなか弱き純粋な心を取り戻した。

 なら、最後の仕上げだ…

 

 痛みを感じる暇もなく、脳をミキサーにかけたようにグチャグチャにかき混ぜてやろう。

 そして、そのあとで死んだ少女の生肉を全て僕の腹の中に収めてやるのだ。

 

「さあ…っ!?」

 

 伸ばした赫子が少女の頭に触れるかという瞬間、急に一陣の風が吹き荒れたのだ。

 途端に路地裏に漂う臭いにも変化が訪れる。

 血の充満した鉄分の臭いではなく、あっさりとしたほろ苦い香ばしさを滲ませるコーヒーの臭い。

 この臭い…どこかで嗅いだことのある、肉とはまた違う旨味を感じさせるものは…まさか。

 

「芳村……さん」

 

 瀕死の少女の呟きにいち早く反応した僕は、少女へ向けた赫子の向きを変え、真後ろに現れたもう一つの気配へと伸ばした。

 

 後ろを…取られた。

 それは第一の危険信号だ。僕も喰種としてはそれなりに強い方だと自負している。

 少なくともそこらの雑魚や、中堅ごときには傷を負うこともなく、余裕で勝つことができる。

 

 その僕が、臭いが届く距離まで近づかれないと気配に気付くことが出来なかったと言うのは、いささか異常である。

 自惚れるつもりはない、ただ的確自己判断で考えた結果だ。

 眼を閉じ、意識を集中させれば、相手の呼吸音でさえ、何メートルも離れた人間の足音でさえ聞くことができた…

 

 それが、まったく捉えられなかった。この事実が意味することは、つまり格上…

 僕と同等か、それ以上の新手がやってきたという事を示していた。

 

 伸ばした赫子はだが、何かを貫いたという感触はなく、堅い何者かに当たって止まってしまう。

 これは、不味い…確実にレベルが違う相手だ。

 喰種は全てイートする野望を持つ僕も、闇雲に力の差を考えず敵に挑むほど馬鹿じゃない。

 

 実力が違うのなら、潔くその場から撤退し、後日また実力をつけ狙えば良い。

 焦る必要はない、今問題にすべきなのは、この背後の人物から、どうやって逃げ切るか、だ。

 

 予想では、この人物は僕が倒し喰らった少女の知り合い、という線がもっとも高い。

 喰種は人間に対して圧倒的だが、対喰種に関しては、ただの個でしかない。

 

 隔絶された差は彼らにはなく、純粋な才能と磨き上げた肉体のみがものを言う血みどろの世界だ。

 そしてCCGの捜査官もまた、レベルが違う化け物が多数、存在している

 だからこそ、喰種は自らに迫る火の粉を振り払う為に、一定数で徒党を組み、集団で行動する事があるのだ。

 

 この僕の後ろを取った喰種は、その徒党の集団のリーダー格なのだろうか。

 

「ふうん…君が13区の蟋蟀君かい?」

 

 しわがれた…それでいてしっかりと芯の通った男の声。

 気付けば黒く丸い帽子を被った、初老の男が人の良い笑みを浮かべて、僕の赫子を素手で受け止めていた。

 有り得ない、等とは思わない。僕が戦った事のある漢字一言で喋る、筋肉隆々の喰種などは、腕で僕の赫子を止めていた事もあった。

 

 だが、流石にあの「疾っ!」男であっても、僕のひと突きで喰種を絶命させるほどの威力を込めた赫子を、あっさりと受け止め、なおかつ傷つかずに立っていられるだろうか?

 答えは否だ、あの男がコクリアにぶち込まれる前に戦った時には、この赫子を受けて無傷とは言えない程のダメージを受けていた…

 

 そして、この攻撃を受けて無傷な人物を僕は、記憶の中に一人しか覚えていなかった。

 

 

 

 

 

「この子はまだ先があるんだ、未来ある若者の命を積むのは、少し待ってはくれないかな?」

 

 「芳村」下の名前は聞いたことがないが、この区において喫茶店を営んでいる喰種だ。

 あまり聞き慣れない名前ながら、彼の異名を知るものは多い。

 かのCCG本部と大戦闘を行い、何十人もの特等捜査官相手に善戦したとされるレートSSSの異例の喰種。

 

 人間でありながら喰種をも上回る才能と技能を持つ、あの人間にして人外、有馬と戦った喰種だ。

 

 

 闇に生き、白き翼を広げる最強の狩り人の名を「梟」という…

 命を刈り取る恐怖が、僕を久しぶりに包み込んだ。

 

 

 黒く丸い帽子を被った初老の男は、少し意外そうな顔で、僕の顔をまじまじと見つめてきた。

 本当に優しそうな顔をしている男だった、僕という敵を前にしても笑みを絶やさないのは、余裕の表れなのか。

 何れにしても、僕はこの梟よりは格下であることには違いない。

 逃げるにしても、まずこの男に追い付かれないように、彼の注意を反らすことが何よりも先決だった。

 

「君は…どうして喰種を襲うんだい?」

 

 観察されている、だがそのニュアンスは偵察ではなく、僕に対しての憐れみに思えた。

 それが逃げようと思っていた僕の足を止めてしまう。苛ついたのだ、勝手に僕を分かろうとしてくる相手に…

 

 紡がれた言葉も、またかと思うような、聞き飽きたものだった。そんな質問は昔からされ尽くされているものだ……

僕は理解されたくないと言うのに、初老の男は僕の言葉を待っているかのように静かに口を閉ざしていた。

 

 

「どうして喰種を襲うかぁ?

決まっているじゃないかぁ、喰種が僕のか弱く愛しい人間を壊してしまうからだぁ。

だってぇ…嫌じゃないか、自分の大好きなものが、目の前で僕から取り上げられてしまうのは…」

 

 眼に焼き付いたあの記憶、大切な僕の親友が、喰種によって見るも無惨な肉塊へと変わっていく様は、地獄でも見ているようだった。

 楽しかった日々を、僕から大切な友人を奪っていったのは、いつも喰種だった。

 

 「喰種は悪だ、生きていてはいけない存在だぁ…もちろん僕も」

 

「…自虐的だね、だけどね、喰種も生きているんだ。

ちゃんと呼吸して、今を生きたいと、しっかり鼓動を響かせている。

君はこんなに幼い少女の命を、ただ喰種だからという理由で奪うのかい?

 

それなら、私怨で喰種を殺すというのなら、それは殺人鬼と同じだ。

恨みで動く殺しは、非生産的だとは思わないかな」

 

 喰種は明日を生き残るために、人間を喰らう。何故ならそれ以外を食べることが出来ないからだ。

 人間の食べる食料が、喰種にとってとんでもなく不味く、食べれば腹をこわしてしまう。

 

 確かに、生きるために他者を食い物にするという考え方は、自然界において一般的ではある。

 だが、僕はそれでも喰種を許すことが出来なかった。

 動物ならばそれは自然に弱肉強食になっただろうが、アレはどうみても殺害だ、快楽殺人だ…

 

 友人を目の前で食べられたという残酷なことを平気で行える奴らが、仕方なく人間を襲っている?

 本当は襲いたくない?

 

 ふざけるのもいい加減にしろ、喰種は悪だ、害悪だ。

 この世の中から一匹残らず駆逐しなければならない。

 あんな狂ったものの考え方を持っている、知的生物をこれ以上陸上にのさばらせてはならないのだ。

 

「…なら、どうして君はこの子を殺さなかったのかな?」

 

「な、にを?」

 

 怒りで拳をふるわせていると、思わぬ方向から、言葉の矢が飛んできたので僕は、とっさに言葉が出てこなかった。

 今、梟は何といった?

 誰が誰を殺さないだって?

 はっ…この僕が今まで出会ってきた喰種を一度でも生かして殺したことがあっただろうか。

 そんな事は一切、情の欠片も一片たりとも見せず、一匹一匹潰してきたはずだ。

 

 そんな僕に対して、梟は何を呆けた事を言うのか…

 年月を重ねすぎた所為で、耄碌してしまったのかもしれない。

 

「傷を見ただけでも分かるよ、赫胞には一切傷が付けられていない。

喰種は赫胞が損傷しない限り、飢餓状態であっても、肉を摂取すれば息を吹き返すことが出来る。

当然、知っているよね」

 

それは…ただ単に新鮮な肉を楽しみたかったからで…

 

「違う、君は真似ている。

私は知っているよ、この子が受けた傷のと同じ傷を作り、人を狩っていた喰種を…

その喰種に受けた痛みを、そっくり真似ることで喰種へ恨みをぶつけているんじゃないのかい?」

 

「ち…がう」

 

 黒い帽子の梟は、僕に背を向け死んだように眠ってしまった少女の口へと、紙袋から出した、赤い塊を押し込んだ。

 すると目に見えて少女の血色は赤みを取り戻し、開いていた腹も、細胞が活発に蠢き塞がりだす。

 

 目の前で殺すはずの少女が、男によって蘇生されてしまっているというのに、僕は動けなかった。

 それ程までに、気づかぬうちに僕は男の言葉を受け止めていたのだ。

 

い、いや…違う!認めてはいない。

僕は喰種を食べる、その行為はどこも間違って等いない…

 

「そして、君は迷っている…このまま共食いを続けるべきなのか…止めるべきか」

 

「違う!!」

 

 そんな、そんな馬鹿な話があるだろうか、僕が喰種を食べることを、襲うことを戸惑っている?

 有り得ない!

 奴らは僕の友を殺した憎い憎い敵で、僕の大好きな人間の敵だ。

 

 

 そんな産まれながらにして残虐性を秘める悪を殺すことに、どんな躊躇が生まれるというのか……

 

 躊躇が、生まれるというのか…

 

 僕は…僕は僕は僕は僕は僕僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は!!!!

 

 そうだ、この男はそう言う「心優しい喰種」だ。偽善に塗り固められた善意を行使する、人か喰種どっちつかずの蝙蝠野郎。

 僕はこういうやたらと他人に同情する奴が嫌いだ。

 他人に対して感情移入し、同じ様に涙して「その気持ちわかる」等と軽々しく口に出す奴は大嫌いだ。

 

 同情するなら肉をくれ!

 そのお前の死肉を持って、僕への手向けとすればいい…

 

 僕から母を奪ったあの男のように、父を惨殺したあの狂った男のように、所詮は自分の掲げる正義で動く、偽善ヒーローだ。

 だが、世の中はシビアで弱者には途轍もない苦痛を強いる。

 

 そうだ、そうに違いない。それ以外にあり得ない。

 何故なら喰種は悪なのだから。

 

 そこの少女がそうだったように、僕も弱者ゆえに幾度となく殺されかけた。…偽善に、死ねと脅された。

 だから僕は、その場から逃げ出すことをいったん取り止め、自己理論に陶酔した正義論者に相対する。

 

 コンクリートの床に落ちた黒い光沢のある昆虫のマスクを拾い上げ、再び顔へ貼り付ける。

 

 理論が…僕の今まで作り上げてきた存在意義が、この男に出会ってしまった所為で、崩れていくことが怖かった。

 僕が今まで喰種に対して行ってきたことが、悪いことだと否定されることが怖かった。

 梟は…何十年も生きてきた人生の卓越者だ。当然、僕には及びも付かない知識を持っているだろうし、僕を断罪できるだけの言葉は知っているだろう…

 

 改めて手負いの少女を庇うように立ちふさがった男に向かい合えば、そのレベルの違いからくる威圧感に愕然とする。

 

 ああ…これは勝てないなと、心の芯まで思い知らされた。

 理論や技術の問題ではない、皮肉にも僕の中の喰種の本能が叫ぶのだ。

 これと戦ってはいけないと、蟋蟀だけに梟には勝てないと…

 

 だが…逃げ出すことは出来なかった。声をかけてしまった以上、それは僕から男に挑発をかけたという事になる。

 そんな僕が勝てないと見るとわき目もふらず逃げ帰っては、僕の喰種を食うという理念に反する。

 誠心誠意、威風堂々と構えること、打ってしまった喧嘩は例え死んでも受けなければいけない。

 

 我ながら面倒くさい性格をしていると感じる。しかし、この自分ルールを破ってしまえば、僕はもう喰種としても、生きていけない。

 これは育てて貰った親への恩返しでもあるのだから。

 

 持論を語った上で、それを否定されみっともなく撤退する様をあの人は望んではいないだろう。

 だから…だから僕は前に出て、背中へと、力を最大限に注ぎ込む。

 

 もう知らない、全ての感情をいっきに解放してやる。

 今までの僕を否定するな。僕の気持ちを無視するな!

 

 

「う…うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおォォオ!!」

 

 自分が、自分でなくなっていく感覚。怒りに全てが支配された、目の前の敵の消滅だけしか考えられなくなっていく。

 

 「これは…」

 

 近くで梟の息をのむ音が聞こえる、そして僕の理性を削り取り、赤く太い長い触手が、もう2本対になって姿を現した。

 それで終わりではない、計4本の赫子がそれぞれ意識を持つように僕の身体の四肢へと絡みつき、形状を鎧のそれへと変化させていく。

 

「ギュ…ギュギュギュギュギュギュギュ!!」

 

 虫の鳴き声にも似た奇声を発しつつ、僕は全身を黒から真っ赤に染め上げ、マスクの上へ重ねるように三つの眼の模様が浮かび上がった。

 最後に再び背中から、今度は大きな丸い羽のような赫子が飛び出し、細かく振動して甲高い音を発し始める。

 

コロコロコロ

 

コロコロコロ

 

コロコロコロ

 

 

理性が消し飛んだ虫並の頭で考える、目の前の鳥は…僕の餌だと。

 

 

 

 13区でその名を知らしめた、地獄の裁判官「閻魔蟋蟀」が、いまその薄汚れた本性を解放する。

 




2015/4/1  合併修正


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#006「音色」

 私は…此処で死ぬのか…

 思えば、殺されて当然鋸とをしてきた。無闇に人間を家畜のように扱い、何の尊厳も持たず殺していた。

 この、私を食べようとしている「蟋蟀」の言うとおりだった。

 私は、自分が喰種としてではなく弱い生き物として殺されるという段階になってから、初めて自分の犯した過ちに気が付いたのだから。

 

 私は、食べる事以外ででも、ただその個人に腹が立ったと言うだけで、人間を殺していた。

 命の価値を、見失ってしまっていた。

 父親に先立たれ、弟と二人、貧しく汚く、このずさんで歪んだ世界を歩んできた、はずだった。

 父親が死んでしまったと分かったとき、私はどんなに悲しみ、そしてその悲しみを持ってなお、生きていかなければならなかったか。

 

 死とは、軽々しく恣意的に起こしてはならなかったのだ。

 自身が生きるために、仕方なく命を食べるのならまだわかる。

 それならばこの「蟋蟀」にも、罵声を浴びせられたときも私は言い返せていた。

 

 どこかで、私は人間に対して、自分よりも下に見て居たのかもしれない。

 私と同じ様に喋り、意志を通わせることの出来る存在を、見下していたのかもしれない。

 

 私の元から居なくなった弟なら、こんな時、なんと言うだろう。

 一緒になってキザ野郎を倒した時のように、自分の意志を曲げず、人間を殺し続けるのだろうか。

 

 さっき昏倒させた人間の男もそうだった、私はお腹が空いていたのにも関わらず、わざと足を遅くし、相手が必死で逃げる姿を追いかけることを……楽しんでいた。

 

 「蟋蟀」、13区に止まらず「美食家」や「大食い」とならんで東京23区全体に響き渡る大物に出会ってしまったのも、そんな私に神様が罰を与えたからなのかもしれない。

 「蟋蟀」に自分の身体を食べられていく感覚は、とてもおぞましく、死への恐怖が頭をかすめた。

 

 空腹に羽赫の使いすぎで、私の身体はもう指の一本たりとも動かす事が出来なくなっている。

 それに加えて、ほんの少し残っていた力でさえ、切られ続ける身体を再生させるために使うしかない。

 

 切られては治り、切られては治りの繰り返し、私の赫胞は何度も何度も肉を再生させていた所為で、段々と動きが鈍くなってきていた。

 それに伴い、私の頭も靄が掛かったように急に視界がぼやけ、痛みがあまり響かなくなってくる。

 

 背中にあって赫子を作る場所の赫胞は、喰種にとっての心臓と同じ。

 そこの機能が止まってしまえば、喰種は身体の全身の機能を保つことが出来なくなってしまう…

 

 死が近づいていた…

 

 痛かった、だけどそれ以上に、今の自分が信じられなくなってしまったのだ。

 楽しんで人間を殺していく自分は、もう喰種でも生き物でも無いのではないのかと…

 「蟋蟀」が言うように、人間を面白半分で死へと追いやってきた私は、悪なのだと絶望に沈んでしまったのだ。

 

 だから「蟋蟀」がそのおどろおどろしい赫子を私の頭に向けたとき、私は「ああ、やっと殺してもらえる」と思ってしまった。

 この痛みから、訳の分からない喰種のしがらみから解き放ってくれる、と。

 

 眼を閉じ、静かに自分の死を受け入れようとした時、私の鼻に漂ってきたのは、忘れもしないあの香ばしいコーヒーの香りだった。

 ほろ苦さとほのかな旨味が出たあのコーヒーの匂い、その匂いが漂ってきたという事は、つまり…

 

 私は幻覚でも見ているのだろうか、「蟋蟀」の背に黒い帽子のあの人の姿を見た。

 死ぬ寸前に見るという走馬灯?

 だけど…その人影は幻想とは思えないほど暖かく、優しい笑みを浮かべていたのだった…

 

 気が付くと私はその人の名前を呼んでしまっていた。

 私に喰種としてではなく、学校へ通わしてくれ、人間として生きる事が出来るように計らってくれた恩人。

 私がアルバイトしている喫茶店の店主の名を…

 

「芳村さん…」

 

 呼んでしまってから、対応は早かった「蟋蟀」は即座に私への攻撃をとり止め、先手必勝とばかりに赫子をぶつけたのだ。

 驚いた、あの「蟋蟀」の赫子を威力がではない…その太く大きい赫子の柔軟性に対して、私は驚愕した。

 

 私は自分が食らった技の威力から、あの赫子が鱗赫だと思っていた。

 いや、確かにあの蟋蟀の赫子は間違いなく鱗赫なのだろう、だが鱗赫に彼処までの伸縮性はあっただろうか…

 

 まるで羽赫のように軽やかに蟋蟀は、赫子の長さを瞬時に変えて、真後ろの敵に向かって伸ばしたのだ。

 矢張り…レベルが違った。

 

 私とは、磨き上げられた自力が違う。人間を殺してきた私と、喰種のみを殺してきた蟋蟀では…戦闘経験値が違いすぎている。

 アレは多分、弟と共に戦ったとしても、勝機を見つけられないほどの、正真正銘の化け物だ。

 キザ野郎なんて相手にならない…「蟋蟀」はもうSS級を越えているのかもしれない…

 

 

 

 蟋蟀の赫子を軽くいなし、何か牽制をしていた芳村さんが、私の側に来てしゃがみこんだ。

 芳村さんは、笑っていた。

 こんな事を…人が大好きなアナタに反抗して、勝手に喫茶店を飛び出して…

 勝手に人を襲って、自業自得に無惨な姿をさらしてしまった私に対して、優しく微笑んでくれたのだ。

 

 よく頑張ったね、もう大丈夫だよ…顔がそう言っているように感じられた。

 多分、それほど間違った考えでは無いのだろう。芳村さんが私の口へ、人間の肉を押し込んでくれたからだ。

 力無く沈んでいた私も、死ぬことを受け入れていた私も、人間の肉の匂いに身体が反応して、口を動かししっかりと粗食してく。

 

 私の中の赫胞に力が戻っていくのがわかる、活力が戻ってくるにつれて、勝手に頬から大粒の涙が溢れ出してきた…

 まだ、私はここまでの醜態をさらしてなお、生きていたかったらしい。

 

 はは…私は何がしたいのだろう?

 死にたいと思ったり、生きたいと考えてみたり…本当に…本当に…

 

 感謝しても仕切れないよ、芳村さん…

 

 

 

 

 

 それから二人の言葉の言い合いが始まり程なくして、蟋蟀の身体が大きく膨れ上がった。

 赫胞が一体いくつあるのか、私を倒したときには2本だけだった鱗赫を4本に増やし、それらを順に身体に巻き付け始めたのだ。

 

 ゆっくりとした、動きだった。だけど、私はその光景を見ているだけで、足が震え、歯がガチガチと鳴ってしまう。

 

「なに…あれ」

 

 赫子を身体にまとわりつかせ、鎧のように変化させる喰種を、私は今まで見たことがない。

 赤く鈍い流動が、蟋蟀の黒い服を着た身体にすい付くように張り付き、まるで昆虫のような外骨格を出現させる。

 

 腕に外側へと生えた無数のトゲ、蟋蟀のマスクに現れた3つの小さな文様…

 蟋蟀自身もその姿を制御出来ていないのか、所々鎧に包まれていない部分があるが、それだけでも感じた。

 感じずには居られなかった。

 

 何を? 決まっている、恐怖をだ。 アレは、まさに喰種を、私を裁かんと鎌首をもたげる死神だった。

 禍々しく、悪魔のような昆虫の外見に息が止まりそうになる。

 これが13区の「蟋蟀」の本気…

 

 最早あれが私と同じ喰種なのかさえ、疑わしかった…

 あんなものと戦えば、私なんか跡形もなく消し飛ばされていただろう。

 それだけに、その異形とも言うべき蟋蟀を前に、驚きこそすれ余裕の笑みを絶やさない芳村さんには感服する。

 

「ギュ…ギュギュギュギュギュギュギュギュギュギュ!!」

 

 気持ちの悪い虫に似た奇声を発し、蟋蟀は新たな赫子を背中から出現させた。

 楕円形で平べったい、一見すると甲赫にも羽赫にも似ている、奇妙な赫子。

 だがそれは、どちらとも似つかない、余りにも恐ろしい叫声を叫ぶ。

 

 まさに蟋蟀だった、この「蟋蟀」の意志なのか、それとも自然にそうなってしまったのか。

 現れた二枚の奇妙な赫子は、互いに互いを擦り会わせ、黒板を引っかいたときのような、聞くも不快になる音を発生させる。

 

 ……頭が揺さぶられる、これは長く聞いていれば、心が負けてしまう。

 反抗心を、抵抗しようとする心を丸ごとへし折り、砕いていくかのような音色。

 

 「あ、あれ」

 

 人間の肉を食べ、ある程度回復したはずの私の身体が…

 立ち上がろうと足に力を入れた瞬間、私の意志を拒絶したかのように、身体の力が抜けてしまった。

 これ…は…蟋蟀の音…をきいた…から?

 そのまま私の意識は深い闇の中へと引きずり込まれていったのだった。

 

 

 

                  ・

 

 闘いは、二頭の野獣のぶつかり合い、お互いにSSレートを超えた喰種どうしの、意志のぶつかり合いだった。

 人間が大好きな「梟」と「蟋蟀」が、好みを等しくして何故対立しているのか。

 理由は喰種に対しての思いにある。

かたや共存を望み、助け合いを語る「梟」、かたや喰種の根絶を望み、人にのみその愛を注ぐ「蟋蟀」。

 

 例えお互いに人が好きであったとしても、その到達点には天と地ほどの明らかな差が出来ていたのだ。

 そして、その黒い帽子を被ったもっとも有名で、CCGの精鋭からも勝てないといわしめる喰種「梟」は、自分の助けを必要としている仲間を置いて、無関心を貫けるほど冷たくはなかった。

 

 闇の狩り人「梟」は、背後で気絶してしまった、娘のような存在を見やり覚悟を決める。

 「蟋蟀」は下さなければならない相手だと…

 そして、この喰種もかつての「黒犬」や「魔猿」のように救ってあげなければならないと…

 

 

 「梟」は薄い眼を開き、老獪な相貌に鋭い赤き光を宿す。

 夜を馳せる猛禽類の瞳が、蟋蟀という今回の餌をじっとりと睨みつけていた。

 正に絵は、鳥と虫…本来弱肉強食である鳥に軍配が上がることは必至の組み合わせ。

 だが、彼らは鳥でも昆虫でもなく、死肉に群がる悪しき喰種。

 

 その戦いは、まだどちらが勝つのか全くわからないものだった。

 しかし、この両者の発する歴戦の気配には、どちらにも負けるなどという諦めは存在していないのだ。

 

「赫者……いや、半赫者か。

君は今まで、何人の喰種をその手で殺めたんだい?」

 

 その言葉に呼応するようにして、梟の背中、特に肩の辺りが羽毛に包まれたかのように大きく肥大した。

 バキバキと身体を変化さえ、梟もまた「蟋蟀」と同じような、黒髪の少女が形容した化け物へと姿を変える。

 

 肩から腕にかけてを何種類もの剛毛のような赫子に被わせ、サーフボードのような巨大な太剣を肩口から、双方の手の先まで伸ばしきる。

 顔がマスクをつけていないのに変形し、口を引き結んだ厳ついものへと変貌を遂げた。

 

 右目は真っ赤に輝き、閃光の糸を引かせ、左目の位置には三本の線を引いたかのような文様が浮かび上がる。

 その姿はまさに何百、何千の戦いを経験してきたかのような、武士にも見える。

 

 赫者…同族のRc細胞を一定量接種し続けることで、喰種としての肉体に起こる体力の向上と、赫子の変容をさして、そう呼ばれている。

 同族を多く喰らい喰らったという、汚く浅ましい証であり、人間にも喰種にも一歩下がった見方をされる、悲しみの権化。

 

 多種多様の異質な変容を遂げていく赫者において、共通点は赫子が自らの肉体を守るように、鎧のように巻き付いてくること。

 赫子を覚醒させた者として、悟りを開くなどの意味と皮肉を込めて赫者。

 

 だが、圧倒的な威力と強靭な肉体性能を誇る赫者には、一つだけ致命的とまでいわしめる欠点があった。

 

「ギュギュギュギュギュギュギュ!!」

 

 それが自我の崩壊である。

 変容するRc細胞は、喰種の肉体を新たな進化をもたらす替わりに、喰種としての理性を著しく削り取ってしまうのだ。

 その姿は獣…いや凶戦士と呼んだ方が良いだろう。

 

 喰種としての本能を最大限まで高めてしまう狂った形態は、総じて何もかもを吹き飛ばす最悪の災害となる。

 

「ぎゅええええええええええええええええええええええええうぇっうぇっっうぇえええ!!」

 

 その喰種の本能に身を委ねてしまった幼い蟋蟀が、停滞する闘いに嫌気がさしたのか、勝負を仕掛けた。

 

コロコロ コロコロ コロコロ

 

コロコロ コロコロ コロコロ

 

 甲高く、それで居て脳髄を揺さぶられるような音が、狭い路地裏で反響し、より複雑な音階を伴って広がっていく。

 

「む…!?」

 

 突如として蟋蟀が梟の視界から唐突に姿を消した。

 まるで古いテレビの映像を見ているかのように、蟋蟀の姿が揺らぎ、霧のようにその場から消滅してしまったのだ。

 

 逃げられた?いや、あの赫者には明確な殺意があった。

 逃げたのならそれでも良いが、自分を油断させ、隙を狙っているのだとすれば気を抜くわけには行かない。

 恐らく、赫者特有の向上したスペックで、目にも留まらない速度で動き、自分の背後にでも回ったのだろう。

 

 一瞬でそこまで考えた梟はしかし、一つの間違いを犯してしまう。

 今まで戦ってきた闘いの経験が、今このときは梟の蟋蟀に対する、考え方の柔軟性を奪っていた。

 この時、自分の視界の変化…敵の不可思議な消滅に対して、もう少し疑いを持っていれば、結果はもう少し違ったものになっていただろう。

 

 

 一閃。

 距離を消してしまったかのように、瞬間移動のごとく梟の眼前に姿を表した蟋蟀は、驚き動きが止まった梟を前に、頭へと回し蹴りを撃ち込んだのだった。

 一本の伸ばした鱗赫を地面へ突き刺し、回転するようにもう一撃を後退する梟の胸部に打ち込む。

 

「ぬ…ぐっ!!」

 

 胸を抑えて負けじと黒い弾丸を背中に生えた羽毛に似た赫子から、無数に射出するも、その頃にはもう蟋蟀は随分と離れた場所へと後退してしまっていた。

 

 羽赫の弾丸に頼った攻撃は、Rc細胞を体内から失わせ著しい体力の消耗を招きかねない。

 だが、だからといって梟が近付こうものなら蟋蟀は、お得意のすばしっこい動きで、さながら闘牛を交わすように適切な間合いを維持し続けてしまう。

 

 弾丸は当たらない、接近戦も不可能…だがそれは相手に対しても、近付くことが困難だと言うことを意味している。

 相手の赫子はどう見ても鱗赫…羽赫のように細胞そのものを弾丸のように発射することは出来ない。

 ならば、詰まるところ相手が攻撃しようと近付いてきたところを、その両腕の強大なブレードで引き裂いてしまうこと…

 

 だが、そう戦略を整えた梟の耳にまたあの音色が聞こえ始めたのだ。

 

コロコロ コロコロ コロコロ

 

コロコロ コロコロ コロコロ

 

 ズキリと頭が痛み、その変化と共に蟋蟀の姿が、先ほどと全く同じように消えてしまった。

 喰種の聴覚を生かしても、嗅覚を使っても蟋蟀の姿は、場所は掴むことは出来なかった。

 

 気付けば梟はまた、死角から頭部に回し蹴りを喰らわされ、横に弾け飛んでいた…

 

 「これは…なんだ?」

 

 コンクリートの壁に背中から突っ込んだ梟は、蟋蟀の攻撃に対応出来なかった自分に、自分の身体に違和感を覚えていた。

 いつ追撃が来ても良いように、両腕のブレードを頭部を被うようにクロスさせて梟は思案する。

 

 赫者とはいえ、まだ生まれたてのヒヨッコに過ぎない蟋蟀。

 いくら喰種だけを喰らってきたからと言っても、老獪で聡明な梟が負けるには、まだ技術が足りなさすぎる若輩だ。

 頭に受けた蹴りも、胸部に受けた蹴りも、その威力を見れば、普段の梟なら難なくかわす事が出来たはずだった。

 

 言ってしまえば、蟋蟀が最初危惧していた通り、梟に対して蟋蟀の勝機は万が一にも有り得なかった。

 それだけ技術において、肉体において力が違いすぎていたのだ。

 

 それが、今…半赫者となった事で、梟に劣る肉体面を補って余りある「何か」の獲得に成功したと見て良い。

 拙い攻撃ながらも、あの有馬やCCG特等レベル何人もの相手と多対一で戦った梟を翻弄しているのだ。

 

 これはある意味、異常ともいえた…有り得ない、最悪の意味での奇跡が起こってしまっていた。

 路地裏という狭い場所なのも蟋蟀を後押しして、梟の驚異的な攻撃の要であるブレードの使用を著しく制限しているというのも幸運だろう。

 

 梟はブレードを防御に回し、盾とすることは出来ても、力一杯それを振るうことは出来ないのだ。

 振るえばブレードはあっさりとコンクリートに突き刺さり、抜くための時間で致命的な隙が生まれてしまう。

 

 恐らくだが、蟋蟀は本能的にそれをわかった上で、梟に接近してきているのだ。

 ブレードを最大限に生かせない梟など、少し注意をすれば良いだけだと、考えているのかもしれない。

 

 この状況を突破するには、矢張り蟋蟀の持つ奇妙な技の秘密を暴かなければならない。

 視界から完全に消滅し、意識の外から攻撃を当てられ続ければ、やがてタフな梟であっても力尽きる時は来てしまうだろう。

 

 だからと言って、蟋蟀を消える前に先制して襲うことは論外だった。

 梟には今、守らなければいけない少女がいる。

 梟が彼女の存在を忘れ、特攻すれば確かに勝機は見いだせるかもしれないが、今の状態の少女から目を離すのは危険きわまりない行いでしかない。

 

 蟋蟀は、今赫者として目覚めている…

 半赫者とはいえ、暴走状態にある精神状態の蟋蟀…

 彼が当初行っていた行為は何だったか?

 

 答えは簡単「共食い」だ。

 躊躇の消えた今の蟋蟀の脅威に、少女を晒してしまったら…どうなってしまうかは想像に難くない。

 

「ふう…」

 

 蹴り飛ばされた頭が痛む、梟は静かに溜め息をついてまた、受け身の姿勢で意識無き少女の前へと立つ。

 

「まったく、面倒な相手にあたったね…」

 久しぶりに…梟は追いつめられていた。 闘いは苛烈を極めた。

 攻撃しては姿を消すという、タッチandエスケイプを繰り返し、梟に全く攻撃の隙を与えない蟋蟀は、あの強靭な梟の顔面についにひびを入れることに成功していた。

 

 頭部から斜めにひび割れた梟の面は、喰種の再生能力が遅れ、未だに直る兆候が見られない。

 喰種は、人間の使う武器…一般的にはナイフや銃弾などの攻撃を、その硬い皮膚で防いでしまう。

 

 だが、そんな硬い皮膚で被われた喰種であっても、喰種の発生させる赫子による攻撃を受ければ、たちまち肉は断絶されてしまうのだ。

 そして、赫子によって切られた傷は、再生しようとするRc細胞に、傷を穿った喰種のRc細胞が反発するのか、再生能力が低下する。

 

 よって梟は自分が攻撃できないまま、悪戯に時間を過ごし、自らの身体に何本もの打撲痕を残していた。

 

 蟋蟀はあくまで赫子を補助として使い、元々の身体能力に赫子をバネにしてブーストをかけることで、高速な軌道を可能にしていた。

 そのため、蟋蟀は赫子で戦うという喰種の基本とも言える戦闘スタイルを捨て、近接格闘に近いスタイルを生み出していた。

 

 回し蹴り、蟋蟀の鍛え上げられた脚力を回転を加えることで、威力を増大させ、地面に穿った一本の赫子でしっかりとした軸を保ちつつ打たれる攻撃は、その単語からは及びも付かないほど千差万別だった。

 梟が頭を守れば、足へと、ブレードを振り上げればその背後へと、予想も付かない連続攻撃を加えていく。

 

 中には、赫子を最大限に利用し、逆さまの体制下から、斜めに肩に掛けて繰り出された蹴りもあった。

 

「……っ」

 

 段々と蓄積されていったダメージがついに、梟の足元をぐらつかせる。

 そして、その間に生まれたわずかな隙を逃すほど蟋蟀は鈍くはない。

 

 「ギュッ…ゲァァァァァアアアア!!!」

 

 ふらついた足へと、蟋蟀は回転しながら回し蹴りを当て、梟に体制を大きく崩させる。

 直ぐに梟は眼前の蟋蟀に向けてブレードを突き刺そうとするが、蟋蟀は器用に身体を捻って、また回転し今度は開いたわき腹へと蹴りを浴びせる。

 

 ボキリと梟から何かが折れる嫌に鈍い音が響いた。

 

「ぐ…ぬっ」

 

 それは梟のわき腹の下、肋骨の骨が何本か折れた音だった。

 何度も何度も連続で攻撃を喰らい、皮膚が弱っていたのだろう。

 蟋蟀の射し込むように鋭い足技は、見事に梟に決まり、梟は地面に膝をついてしまう。

 

 もしも、この光景をかのCCG特等の面々が見たならば、驚愕し、そして新たなSSSレートクラスの出現に、苦虫を噛み潰したような顔になっただろう。

 それ程までに、蟋蟀は強く…いや、巧くなっていたのだ。

 赫子の扱いが、まるで自分の腕のように繊細で細かいのだ。

 

「ギュッギュッ…!!」

 

 梟を地面に下した蟋蟀は、勝利を確信したかのように、虫のような奇声を高らかに発し、そして…

 

「が……ぁああ!?」

 

 自分の背中を突き破って、腹へと生えた大きな太剣を見つめ、ドサリと何も喋ることなく地面へと崩れ落ちたのだった。

 油断、蟋蟀はこの強靱かつ老獪な化け物に対して、一番してはいけない事をしてしまったのだ。

 

 それが戦闘中での油断、一瞬でも気の張り詰めた空気を乱すことは自殺行為だ。

 もっとも、一般的な喰種であればその一瞬ではどうすることも出来なかっただろう。

 

 だが化け物であるところの梟は、それをわざと狙っていた。

 攻撃をわざと防御せず、自分が弱ってきていると相手に見せ付け、膝を付き隙を大きく見せる行為。

 

 一見すればそれは起死回生の一手であり、一か八かの賭けだった。

 失敗すれば、梟はさらした隙によって逃げることもままならないほどの大怪我を追ってしまう。

 

 肋骨や頭部を負傷してしまっている今、このまま耐え続けてもいずれ負けると判断した梟が出たのは、まるっきり運任せの作戦だったのだ。

 だが、そこは老獪な梟。

 彼が長い人生経験に裏付けられた知識から出たフェイクは、生まれて間もない暴走する蟋蟀を意図もたやすく騙してのけたのだ。

 

 梟は賭に勝った。

 勝利を確信し、動きに余計なものが混じるその瞬間で、梟はとっさに動き、背後からその巨大なブレードを突き刺したのだった。

 

「が、ぎあ…がば…ぎぎ」

 

「私が此処まで追い詰められたのは…随分と久しぶりだよ」

 

 梟が無造作に、だが蟋蟀の赫胞を傷つけないように、ゆっくりとその大きなブレードを抜き取った。

 真っ赤な血がついたブレードを、一回虚空で降り、血液を振り飛ばしてから、梟は自身を覆う鎧を解いた。

 

 地面に落ちていた黒く丸い帽子をそっと拾い上げて、頭に被ると梟はもう語ることはないとばかりに、背を向け少女を担ぎ上げる。

 

「な…ぜだ、何故!何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故

 

 胴体に開けられたら大穴を直すためにRc細胞が其方の方に多く使われ、身にまとう鎧が崩れ落ちた蟋蟀が、狂ったように梟に向かって叫んだ。

 その言葉は、「自分はどうして負けたのか」ではない。

 

「何故、喰種が僕を助ける!留めを刺さない!

僕はお前を殺そうとした、なら僕はお前に殺されても文句は言えない!

喰種は自分の利害で他人を殺すんだろう!

自分が殺したいから殺す、生きたいから殺す!食べたいから殺す!戦いたいから殺す!

なのに……どうしてお前は僕を殺さない?

 

殺してくれないんだ…」

 

 少女を背に背負い、静かに路地裏を後にしようとしていた梟は、その訴えかけに立ち止まり、振り向かずにただ応えた。

 

「喰種は利害で人を殺す、確かにそう言う喰種もいるのだろうね」

 

「ああ!?」

 

「…なら私は、君に生きていてほしい、だから生かす。これでは駄目なのかな?」

 

「な……」

 

 梟の言葉は、蟋蟀が戦ってきた喰種からは聞いたこともないような、まるで人間のような言葉だった。

 殺そうとした、憎い喰種相手に情けをかけられたと怒りで頭が煮えくり返りそうだった蟋蟀の感情が、氷でも入れられたように冷やされていった。

 

「何を…言っている、喰種の戯れ言はもう聞き飽きた!」

 

違う、これは戯れ言ではない、この梟がそんな理由もなく嘘をつくとは思えなかった。

出会って間もない関係だが、蟋蟀はこの梟の事を噂だけだが知っていたし、意識無き戦いの中でも、彼の紳士さに気が付いていた。

ならば、梟の紡いだ言葉は例え綺麗事だろうと、彼の本心なのだろう。喰種が喰種を倒し、そして生かす…そんなことを言ってのける梟に蟋蟀は何も言えなかった。

 

 いや、言いたいことは沢山あった、だが…口が開かなくなってしまっていた。

 長時間における戦闘の所為で、初めて赫者となった蟋蟀の身体は、もう限界だった…

 

「君のその喰種でありながら、人間の側に立つ姿勢…私は尊重したい。

君は、これから沢山の苦難に直面していくだろう。

君の、君のその気持ちは喰種には理解できないものなのだろう。

そして…人間にもね。

恨みに任せて喰種を殺める君の所行は、私から見れば、君の言う喰種と変わらないよ」

 

「くっ…」

 

 理解はしていた、梟に諭されずとも「蟋蟀」が今まで行ってきた行為は、共食い。

 喰種を食べ尽くすという理念を掲げると言っても、所詮は一匹の喰種に過ぎない。その蟋蟀がいくら喰種を食べたとしても、人の眼には恐怖しか写らないだろうと言うことは…そしてその残虐行為はまた僕の殺してきていた喰種に通ずるということも、わかっていた。

 

 拳を握り締め俯く蟋蟀に、梟はまた言葉を投げかける。

 それは蟋蟀の心に強く…とても強く響くものだった。

 

「だけどね、私は人間と喰種の共存が、本当に出来れば良いと考えているんだ。

君はまだ若い…若者は大いに悩みなさい。

悩んで、悩んで…そして自分の結論を導き出しなさい。

 

君とは考えが違うけれど、私もまた人を愛している喰種として覚えて置いて欲しい…」

 

 

「あ…」

 

 自分の持つ考えを、理解してくれた、知った上で自分も人間が食糧としてではなく愛していると言ってくれた。今まで孤独に生きてきた蟋蟀にとって、思想は異なるがそれを尊重し、理解してくれた喰種は後にも先にも彼だけだろう。

 蟋蟀はほんの少し暖かい気持ちになり、去りゆく梟を見ながら涙を流したのだった。




2015/4/1  合併修正


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#007「報告」

 『CCG本部より報告、今日未明、13区のマンション地帯、路地裏にて喰種のものと思われる戦闘跡を発見。

 

繰り返す、CCG本部より報告、今日未明、13区のマンション地帯、路地裏にて喰種のものと思われる戦闘跡を発見』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人間に出来る喰種への唯一の抵抗と言えば、ターゲットにされないように夜を出歩かないこと、出会ったら直ぐに逃げることしかない。

 喰種は人間に比べ身体能力に優れており、通常の武器では傷一つでさえ付けることが出来ないのだ。

 

 ただ食べられることを恐れて人間達は泣き寝入りするしかないのか。

 そんなときに出来上がったのが、喰種の脅威から住民を守ることを主にした、対策組織だった。

 

 政府により制定された、喰種を駆逐するために作られた法案「喰種対策法」に基づき作られたそれは、Commission of Counter Ghoul」の頭文字を取り「CCG」と呼ばれるようになる。

 

 喰種が人間を狩るこの世界に、喰種を狩る人間を作り出し、喰種撲滅を歌う組織。

 それは、人間からは頼りにされ、期待され。反対に喰種からは疎まれ、親の敵のように嫌悪される組織でもある。

 

 

 

 CCG「喰種対策局」、一区に作られた本部ではその放送に一同が騒然となっていた。

 13区は確かに血の気の多い喰種が多数存在し、捜査官も困難を極める魔所として有名だった。

 だが、今回の放送に聞こえた喰種の名前には、喰種対策局の捜査官達を騒がずにはいられない。

 

「うそ…」

 

 ある喰種についての資料を纏めていた黒い髪の女は、何気なく耳に聞こえてきた情報に耳を疑った。

 

 「特等」と呼ばれるその「CCG」でも指折りの捜査官に列をなす女は、驚愕で落としそうになった書類を慌てて持ち直し、自分のディスクへと運んでいく。

 

 彼女が驚いたのは、その交戦が行われたという放送ではない、珍しいが一部の区ではそういう事件は度々報告されていた。だからこそ、珍しいが本部の捜査官が躍起になって現場へと急行していくほど、大げさな話ではないのだ。

 

 問題は、その放送の次にあった。

 

 

 

ー戦闘跡から採取された血痕には、3名の喰種ものと思われる、Rc細胞を検出された。

CCGの誇る喰種の過去数百種類のデータが登録された総合データベースから、Rc細胞の種別特定を行った結果、一名の喰種の正体が特定された。

 

13区のS級喰種、捜査官の間でも一切人間を襲わないと有名な、共喰いを主とする「蟋蟀」が何者かの喰種と交戦を行ったものだと判断されたのだ。

 

そしてその場所に付いた傷跡や血痕の付き方から戦いは相当苛烈なモノと予想され、13区にS級もしくは、それ以上の喰種の襲来が予想された。

 

「あいつ、まだ共食いなんかやってるのね…」

 

 手元に無数のペンと、東京都の細かな地図を広げながら、ふと女は物憂げな表情で、窓の外を見つめた。彼女の脳裏に思い浮かぶのは、一人のとても優しげな笑顔を浮かべる、線の細い男の顔。

 

 今はどこでどうしているのだろうか、たまにこうして話題に上がることはあるので、元気なのは分かるが…懐かしそうに薄く微笑んだ彼女は、そして背後に誰かが立っていることに気が付き、振り返った。

 

「あいつ? だれかね、それは?喰種の話なら是非、参考の為に聞かせて貰いたいのだが…」

 

 色の抜けたような、真っ白な白髪を首あたりまで伸ばした、不健康に痩せた格好の男。ギョロギョロと左右で不釣り合いな目を動かしながら、彼女を観察するように見つめてくる男は、名前を「真戸 呉緒」と言った。

 

 彼女と同じ捜査官であり、何かに執着するように喰種を追い掛け回す一風変わった性格を持っている。直情的な性格では無い為、あまり知れ渡ってはないが、この人ほど喰種に恨みを抱いて心の底から憎んでいる人も少ないだろう。

 

 喰種の赫子から造られるある武装を収集する事に楽しみを覚えているのは、憎い敵をより酷いやり方で殺す事に生きがいを感じてしまっているからなのだろう。こうして暇を見つけては喰種(武器)の情報を聞いて回っているのだった。

 

「いえ、少し昔の友人の事を思い出していただけですから」

 

「ふむ…そうかね」

 

 素っ気なく答えた彼女の対応に、若干不満さを見せながらも、真戸は何かを思い出したように手を打った。如何にも聞いて欲しそうなキラキラとした目で見つめられては、彼女としても、聞かないではいられなかった。

 

 階級が下だとは言え、真戸は彼女の師であり、また共に喰種と闘ってきたパートナーだった。喰種を狩ってきた功績を認められ、特等へと階級が変わるまで、彼女と組んでいたのはこの真戸なのだ。

 

 一見ホラー映画に出てきそうな怖そうな外見なので、何度かCCGで保護した子供に泣かれた事があったが、内面は其処まで恐ろしくないという事を彼女は、今までの友として知っていた。

 

 特に大好きなクインケを語るときの顔など、子供が新らしい玩具を親にねだるような顔をしているのだ。

 

そして彼の娘同様、どこか天然なボケを時折かます、その外見とのギャップが激しすぎて少し顔がにやけてしまうが、彼女は外面だけ平常心を保って、冷静に対応した。

 

「はい、なんですか?」

 

「そうだ、一度君のクインケを見せてくれないかね?あの[朱美protectー1]は興味深い!」

 

 狂気が入り混じる顔で迫られれば、彼の事を知らない新米の捜査官なら、あっというまに自分のクインケを差し出してしまうだろう。だが、彼女…特等捜査官[幸途 鈴音]は全く動じず、逆に呆れたような顔でため息を付くだけだった。

 

「またですか、真戸さん…私は無闇に人にクインケを見せびらかしたくないのは知っているでしょう?」

 

喰種とは言え、彼らも生きている。そんな彼らを殺す道具は十分「凶器」だ。禍々しい死の匂いが染み付いたそれを、私は理由も無く他人に見せようとは思わない。生物を殺したナイフを誰が好き好んで見せびらかしたがるだろうか。

 

血の染み込んだ武器で喜べるのは、漫画の中のキャラクターか戦闘に狂った狂戦士だけだ。

 

「知っている…だが、どうしても気になってしまうんだ!どうかね、今度飯でも奢ろうじゃないか?」

 

 この男の執着心は人並みはずれている。だが、こういう捜査官がいるから、喰種は無闇に人を襲えなくなっているのには違いない。

 

しかし、こうやって何度も私に絡んでくるのはウザいと鈴音は心の中で思うのだった。

 

「…そうそう今度新型のクインケが造られるらしいそうじゃないか?

心が躍るね、確か…名前は…アラ」

 

「真戸さん、それ以上は機密です。とても、こんな一介職員のいる場所で話して良い話題じゃない…」

 

 おいおいと鈴音は冷や汗を書きながら、どこで掴んできたのか、特等にのみ伝えられた機密情報をしっていた真戸に辟易する。

 大方、彼の知り合いであるところの、不屈のなんたらが教えたのだろうが…

 

 今度、合ったら絶対に抗議してやると、鈴音は心に決めるのだった。

 やがて真戸は、諦めたのか、それとも別の捜査官へとターゲットを変えたのかいそいそと何処かへ言ってしまった。

 

「あの人も、あれで子持ちなのが凄いよ…ふふっ。

さて、仕事、仕事っと」

 

 外は真っ赤な夕焼けに包まれ、とても幻想的な色彩の街並みが映っている。

 

 そして、こんなに綺麗な都市の暗闇で今日もまた、誰かが喰種に殺されているのだろう。理不尽に、まったく抵抗も出来ず、一方的に惨殺されているのだろう。

 

 女は溜め息を付き、着ていた白衣のポケットから取り出した飴玉を一つ口に放り込む。甘い飴玉の味が口一杯に広がり、女は幸せそうに頬を緩めてから、気を引き締めて、資料をめくり始めたのだった。

 

 だが、その引き締めた気も、次の放送が耳に入った瞬間、真面目な彼女に珍しく、指の動きが止まってしまう。

 

『コンクリートに付けられた傷と赫子の形状を、喰種総合データベースに登録したところ、残った二名の内、一名の喰種の個人特定が成功』

 

交戦対象はSSS級駆逐対象、「隻眼の梟」ー

 

「生きてる…よね?」

 

 誰に言ったのか分からない言葉、慌ただしく捜査官達が駆け巡る部屋の中で、彼女はそっと首から下げた十字架に祈る。

 どうかあの人が生きていてくれますように…と。

 

 

 

歯車が動き出す、人間と喰種の生き残りをかけた戦いの幕はもう、上がっている…




2015/4/1  合併修正


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第二章「喰種」
#008「人間」


 僕は何のために、何をするためにこの歪んだ間違いだらけの世界に生まれてきたのだろうか。

 喰種をこの世界から撲滅するため、そう今までは信じて疑わなかった。

 あの…喰種に出会うまでは。

 

 闇夜の路上に仲間を助けるために颯爽と現れた喰種の事を、僕は昔から噂として知っていた。

 「隻眼の梟」、喰種の天敵であるCCGに対して喧嘩を売り、多数の特等捜査官相手に戦ったとされる、喰種の中でも最強クラスの化け物。

 

 彼と戦ったとき、意識が跳びかけていたが、あの男が梟と呼ばれるに相応しい姿になっていたことは、辛うじて覚えていた。

 あれは天災だった…とてもではないが、僕が生きているということ自体、奇跡に近いのだ。

 

 梟は手加減していたつもりだろうが、僕があの後、腹に開いた穴を塞ぐために三日は費やした。途中でCCGの捜査官が来た所為で、物陰に隠れてやり過ごしたが、アレはアレで生死の境をさまよったのだ。

 

 そして、そんなSSSレートの化け物が何でも今から七年前に20区で喫茶店を開いている、人間好きの喰種なのだという。

 あの梟が人間好き?

 CCGの捜査官をあの時かなりの数惨殺した、あの恐ろしすぎる化け物が?

 

 あり得なさすぎて、三日前に出会った梟は、似ているだけで別人ではないのかと思ってしまう。

 

 人間好き…ともするとその言葉は喰種にとって肉が好きという事に聞こえるかもしれないが、その喰種の人間好きは違うのだという。

 本当の意味で、共存する隣人としての意味で、彼は人間を愛していたのだ…

 

 今まで僕が出会ってきた喰種は、いずれも人を私欲だけで喰らう、野蛮な獣のようなもの達だった。

 それだけに僕は、喰種の存在を野蛮だと、イコールで結び付けていたのかもしれなかった。

 だが、実際にあって対面し、言葉をぶつけてみると、今まで考えていた喰種像が崩れてしまう、温厚な人格を持っていたので驚いた。

 

 好戦的で血気盛んなものが喰種という生物に共通している特徴かと思っていたからだ。

 あの日も、13区に入り込んだ見知らぬ喰種の匂いを追い掛けて、黒髪の少女にでくわしたのだった。

 

 そう考えてみれば、性格がおかしく狂っているように見えた喰種の中で、あんな悲しそうな顔をして、死を受け入れていた喰種は、初めてだったかもしれない。

 あの少女は元々13区の喰種ではなかった、だとすれば僕の住んでいる13区の喰種が、血気盛んな奴らが多いだけという事になってしまう。

 

 僕は、喰種に対して酷い思い違いをしてしまっていたらしい。

 偏見も良いところだった。

 血気盛んな野蛮な喰種というのは、どうやら13区だけの特殊なものだったようだ…

 

 今でも喰種は、愛しい友人を襲った喰種は憎くて仕方がないが、また違ったものの見方を持つ喰種がいると言うことが分かったのは、あの戦いでの収穫だった。

 負けてしまったことは、当然とは言え悔しかったが、敗北というものが直結して死に繋がる世界に生きてきただけに、あの経験は新鮮で驚いてしまった…

 

 まさか、喰種が僕に生きて欲しいなどと口にするなんて、夢にも思わなかったのだ。

 近しいものであろうと、親兄弟であっても、自分の邪魔になったら躊躇なく始末をつける、それが13区における常識だった。

 

 まるで戦国時代のような世界、そこに生まれた僕は、今まで餌場争いや単純な殺意で僕を殺そうとする喰種達を潰し、喰らってきた。

 それで…良いと思っていた。

 アレは害悪なのだと。

 爬虫類顔や、オカマ野郎は殺すことが出来なかったが、どこからどう見ても悪という顔をしていた。

 

「あの娘には、悪いことをしたな…」

 あの可愛らしい黒髪の少女に悪意は感じられなかった、喰種としてまだ見完全なら、痛めつける前に人思いに殺しておくべきだった。

 別に残酷に腹を捌いて、痛い痛いと泣き叫ぶ様を、二度と蟋蟀の羽音に立ち向かえないトラウマを与えずとも…

「まあ、あの娘の血に少なからず興奮してしまった僕も…また喰種に違いないんだな」

 

 13区にある病院の屋上、誰もいないそこのフェンスの上に腰掛け、僕は東京に広がる都市を見下ろしていた。 立ち並んだビルディングに、所々重なり合う四角形の建物達。

 それらを動かし、担っているのは全て人間の力だ。

 

 人間は弱くない、か弱いのは肉体だけ。人間は天敵が現れたときも、ただじっと堪えて、それに対抗できる兵器を開発した。

 CCGや喰種対策法もまた同じだ、いち早く喰種を攻略するために、人間は余念がなく、皆一丸となって事に当たっている。

 

 喰種が生き残りのために作る、恐怖や強さで支配した徒党とは異なり、人間が作る集団は…「信頼」と言うもので繋がっているのだと…

 好意で繋がった集団は、悪意で繋がった集団よりも遙かに強く、強固な結束を作り出す。

 

 何度か僕もCCGと相対したことがあったが、あの白髪の男や、筋肉ハゲは恐ろしく強かった。

 クインケをまるで喰種の赫子のように振るい、僕の赫子を軽く切断してしまった威力には、殺されると感じた。別に人間と戦う気は全くなかったので、逃げても良かったのだが、あの時はそれがアダになってしまった。

 

 不意を突かれ、丁度僕が梟に負けたときのように、伸び縮みする節があるクインケで背中を貫かれたのだ。

 

 ……喰種に殺されるのなら嫌だが、大好きな人間に殺されるのなら、それでも良いとその時の僕は覚悟を決めたのだった。

 そして今こうして、僕が生きている事が、その答えであり、「生きろ」と言ってくれた彼女には感謝しても仕切れない。

 

「13区を出ようか…」

 

 この場所に留まっていれば、ぼくはまた喰種とは何かを、自分の意味について分かりそうな何かを、忘れてしまう。

 この区から外にでて、また位置からやり直していこう。

 あの人間好きを自称した梟は、人間と、喰種の共存をまるで叶えられる、実現可能な夢のように語っていた。

 

 そしてそれが本当に叶うように思えてしまうのが、梟の強さから迸る強みでもあった…

 20区にある、人間好きな喰種が営む喫茶店、とても面白そうだ。

 

 そこで僕はあの人から色々と学ぶことが出来るような気がする。

 今度は僕から喫茶店へ行くのも良いかもしれない、そしてあの娘に謝っておくのも悪くないだろう。

 

 考えて考えて考えて考えて、そして僕の答えをだそうと思う。

 喰種は悪なのか、それとも善なのか…

 

「よっ、久し振り音把」

 

「ああ、久し振り永近くん」

 

 物思いに耽っていた僕の背後に現れたのは、以前ちょっとした事で知り合った[永近 英良]。薄い茶髪の髪を書きながら、ニコニコと笑みを浮かべたその人間の事を、僕は憎からず思っていた。

 

 僕が年上だからと言って物怖じしないで話しかけてくる雰囲気に、皆やられてしまう。この子といると、つかの間だが僕は自分が喰種であると言うことを忘れることが出来た。

 

「ん、音把はこんなとこで何してんの?」

 

「それは君にもそっくりそのまま返してあげるよ永近くん。こんな病院の屋上で、何をしていたんだい?」

 

 永近くんは僕の隣に立って、一緒に都市を眺めながら、僕に振り向いて綺麗な白い歯を見せて笑った。この他人までも巻き込んでいく明るさは本当に気持ちが良い。

 

「いや、さ…道を歩いてたらたまたま此処に音把が居るのが見えてさ!」

 

「それで、ここまで来たの?どんなに暇なんだよ…声をかけてくれればこっちから行くのに、それに今は受験シーズンでしょ学校の勉強とか良いの?」

 

 僕が年上として一応苦言を言うと、永近くんは、あははっと何でもないようにまた笑い、僕の肩に手を置いた。 暖かい、血に汚れた僕には勿体無い手だった…

 そんな笑顔を僕は向けて貰う資格は無いのに。永近くんは、この僕の残酷な本性を見たら何と思うのだろう。

 

 恐怖で逃げ出すのかもしれない、CCGへ報告するのかもしれない、もしかすると自分からナイフか何かで僕を殺しにくるのかもしれない。幸せになれる笑顔を向けてくれる友人の顔を見ながら、僕は不安な気持ちになった。

 

 喰種である僕は…僕を本当の意味で知ってくれる、逃げないでいてくれる人間に出会うことは出来るのだろうか。

 

まあ、もしそんな人に出会うことが出来たとしても、僕はきっとその人から距離を置いてしまうのだろう。あの時の義妹のような行為を、僕の事を知ってくれた大切な理解者にさせないために……

 

僕に関わった人間は不幸になる、否定したい気持ちでいっぱいだがその理論はおおむね間違ってはいないだろう。人間と喰種という区分が僕と人を分けている限り、僕は人の側に立つことが出来ないのかもしれない。

 

それは、あの「梟」だって同じだろう喫茶店を開いているという話だが、それだって本性を偽って人間として暮らしているだけの事だ。分かり合えた気になっているだけで、心の底から分かり合えてはいない関係だろう。

 

そう考えると、今目の前にいる永近くんがとても遠い所にいる様に感じられた。手を伸ばせばと届く距離にいるにも関わらず、大きな壁が僕と彼を寸断しているかのようなどうしようもない疎外感を感じる。

 

「俺の友達に金木ってのがいてさ…そいつが優しくて勉強教えて貰ってるから」

 

 二人で他愛のない話をしながら、何気ない一時を過ごす。

 だが、この一時は僕の正体がばれた瞬間にきっと破綻してしまう。

 絶対にバレてはけない、そう心に誓いながら、僕は彼に相槌をうつのだった……

 

「金木…って子、永近くんに勉強を教えるなんてチャレンジャーだね」

 

「おいおい、そりゃどういういみだよぉ!」

 

 喰種と人間、出来ることなら、それらが共存していくという、梟の思想も案外こういう出来事から生まれていったものなのかもしれなかった。




2015/4/1  合併修正


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#009「個性」

 20区、そこまで13区から移動するのに僕の体力ではそれ程苦にはならなかった。

 人通りの多いところを避けて、路地の隙間を伝い、喰種の出せる限界の速度で移動する。

 

 喰種の中でもずば抜けたモノだと自負する僕の脚力は、あっという間に3、4区を突破していった。

 足には昔から自信がある、梟と戦ったときも、他のリーダー格の喰種と戦ったときも、僕はこの足を頼りに闘ってきた。

 

 足は、手や腕よりはずっと重い一撃をぶつけることが出来、なおかつ赫子と異なり、いちいち変則的な空間把握を行う必要もない。

 流石にピンチの時は赫子に頼らずにはいられないが、それでも僕は、赫子をまず軸として固定する戦術を行ってきた。

 

 なので、バランス感覚や下半身の力は、洗練され、凸凹した道や壁の上も赫子でフックをすれば、平らな地面と同じ様に走ることが出来る。

 以前、暗闇で壁を走る姿をCCGの捜査官に見られ、「蟋蟀」ではなく「ゴキブリ」だと言われた所為で、もう壁は当分走るつもりはないが…

 

 そう言えば、この俺の蹴りの上手さを自負している喰種が20区には居るのだという噂も、少ないながら聞いたことがあった。

 何でも、蹴りだけで同じ喰種の頭を吹っ飛ばす事の出来る、まさに蹴りのエキスパートなのだという。

 

「確か…名前は西尾錦って言ってたっけ、一度闘ってみたいな」

 

 勿論、一度戦った喰種は美味しく僕が頂いてしまうのだが、僕も蹴りに自信を持っている者として、その喰種に興味が出てきたのだった。

 僕の蹴りと、その喰種の蹴りは、一体どちらが強いのだろう…

 

 「美食家」やブラック・ドーベルのボスのような技巧派なのだろうか、だとすると力に自信がある僕では勝つことは難しいかもしれない。

 狡猾に勝負の先を見据えた戦いを展開されると、僕も対処に困る。

 

 もしかすると、「オニヤマダ」や「大食い」のように力のみに主力を置いたタイプかもしれない、こういうタイプなら僕はかなり戦う事が出来る。

 考え出すときりがない、ああ…早く闘ってみたい。

 

「なんだ…喰種と人間の、血の臭い?」

 

 区と区の間、もう少し行けば20区に着くと言うところで、僕の鼻に入ってきたのは、喰種特有の臭いと、鉄分のような人間の血の臭い…

 また、か。

 いつもいつも喰種は、僕の大好きな命を狩ろうとしているのか。

 

 良いだろう、走り詰めで疲れ切った身体を癒すため、喰種を喰らって渇きを癒してしまおう。

 僕は懐から蟋蟀の真っ黒なマスクを取り出し、顔にはめ込んだ。

 僕はまだ、喰種を許したわけではない、一つだけ梟のような喰種がいると知っただけだ。

 

 彼が善なる喰種なら、人を殺す喰種は全て悪という解釈でいいのか、その問題の答えは分からないが、とにかく今は目先の喰種の補食に専念するとしよう。

 

「おやおやぁ、こんな所で人を食べている、そこの貴女ぁ?人殺しは感心しませんねぇ…」

 

 口調を変えるのは保身の為、このマスクを被っているときは僕は、偽物の自分に擬態している。

 それは本当の僕と、蟋蟀としての僕の口調から、同一性を見抜かれないためだ。

 

 おどけた態度を取りつつ、喰種に襲いかかられても良いように、十分な警戒は怠らない。

 路地からほんの少し離れた、公道を越えた先にある森林地帯。

 東京における自殺の名所と言われる、薄暗く気味の悪い場所に、三人の男女の影があった。

 

 一人は人間で、恐らく喰種に殺されたのではなく、木に縄を巻き付けて死んでいた。

 それを囲むように長髪の女と、その子供なのか背の低い少女が立っていた。

 この喰種は死んでいる人間を食べるのだろうか。

 

 死肉を漁るという点において、人を無闇に恐怖に陥れて殺していないのであれば、僕も何も言うことはない。

 やはり血みどろで性格がおかしい喰種がいたのは13区のみのようだった。

 

 ここの場所には少なくとも、こういう人を殺さず最低限の殺生で押さえようという喰種がいることは間違いなかった。

 こういう喰種がいてくれたのなら、「梟」のいう人間との共存も出来るのかもしれない。

 

 だが、一応話は聞いてから殺すか殺さないか決めようと声をかけた所で、娘に死体の肉を切り取って与えようとしていた女性が動いた。

 さっと僕と娘の間に立ち、自分の娘を守るように手を広げたのだ。

 

 親子、それを感じさせるには十分な光景だった。

 人も喰種も襲わない手前、実力としては下の下の方なのだろう。

 だが、それでも自分を盾にしてでも子を守ろうとする気概は、決して悪いものではなかった。

 

 喰種に対して思っていたイメージを払拭してくれるような家族愛に、僕は久し振りに頬が緩んでいた。

 マスクを被っているので相手には分からないが、僕は嬉しかった。

 喰種が…、例え死に直面しなくとも、人間のように振る舞ってくれることが。

 

 人間というカテゴリーに属し、亜人として派生したものが喰種なのか、突如何もないところから生まれた存在が喰種なのかは分からない。

 だがそれでも、この二人を見ていれば喰種も生き物なのだと、思うことが出来るのだ。

 

 本能を抜きにして、他者を庇い、自身を犠牲にする。

 こんな愚かでありながら、美しい行いをするモノを人間らしと言わずに何というか!

 

「は、はははははははははっ!!」

 

「あ、貴方は喰種…それとも人間?」

 当然笑い出した僕に一層警戒心を増したのか、娘に何か耳打ちすると、僕に向き直り眼を赤く染め上げる。

 赫眼の出現は、その喰種の極度な命の危機や、興奮状態に起きるRc細胞の活性化が表面に現れた証。

 任意で赫眼を出すことも出来るが、この場合、相手は赫子を発生させる直前だと推測する。

 

 ボコっという音と共に、女性背中から巨大な羽根のような膜が発生し、それに合わせて娘は母親から離れて、近くの木の裏に逃げ込んだ。

 蛾のような気味の悪い印象を受ける赫子は、一見羽赫のようにも見えるが、発生した背中の位置から甲赫なのかもしれない。

 

 

「どちらにしても、あの娘には手を出さないで、私を殺すのならそれでも構わないけれど…

あの娘だけは、お願いっ…」

 

 梟と戦う前の僕なら、喰種なら誰彼かまわず襲っていたが、それでは喰種と同じだと気付かされた。

 

 だから僕は女性とは話を聞くだけで、闘うつもりはなかったのが、どうやら僕の口調が良くなかったようだ。

 今の彼女に何をいってもまず信用されないだろう。

 第一、彼女は子連れだ…警戒心は人一倍強くなくてはならない時期…

 

 なら、此処は逃げさせて貰おう。

 戦うこともやぶさかでは無いが、僕を感動させてくれた喰種を殺してしまうのは勿体無い。

 あの娘の肉は、黒髪の少女と同じで張りがあって美味しかったかも知れないけど僕も彼女を見習って、無益な殺生をしないようにしよう。

 

 食糧はまた、何処かにいる悪い喰種でもしとめて食べるか、まさか僕が見つけた喰種を、自分の意志で食べない日が来ようとは思いも寄らなかった。 喰種に会っているのか変わらず、怒りがこみ上げてこないことも、前とは違っていた。

 

「人間の肉は……美味しいのですか?」

 

 気が付けば僕はそんな質問を、彼女に向けて話していた。

 僕は今まで喰種の肉しか食べたことはない、その限られた味覚で善し悪しはあったが、まったく違う肉の種類での味がわからない。

 まあ、美味しいから食べるのだろうし、それしか口に入れることが出来ないから、食べるのだろう…

 

 矛盾していると思うが、それでも僕は本人の口からその答えが知りたいと思ったのだ。

 喰種は人を食べるとき、一体どういう感情を持って、何を考えているのか、しりたかった。

 

「……分からないわ、私は人しか食べられないもの。

でも、人の振りをしているときに食べる、人間の食べ物よりは…人間のお肉は美味しいと感じるわ…

でも、私は人を狩れない、私の娘のように生きて、歩いている人間たちの顔を見ると、何も…出来なくなってしまう」

 

 僕の言葉に戦いの張りつめた、緊張の糸が途切れ、彼女は呆気にとられていたが、考えるように手で顎をなで、真摯に、彼女は答えてくれた。

 その答は半ば僕が予想していた答と同じものだったが、それでもう満足だった。

 

「話しを聞かせてくれてありがとう、貴女のような喰種が居てくれたことを、僕は誇りに思う。

僕は…僕の置かれる喰種というカテゴリーが嫌いだった。

人間を食い物にして、悪しく欲望にまみれた奴らが疎ましかった」

 

「……人間が好きなのね」

 

「変わってるだろう」

 

「ええ…でも、それでも良いと私は思う、喰種も個性豊かよ、どんな性格の喰種がいても…それは個性の一つ」

 

「個性、か…」

 

 なら、僕がこんなにも人間を守りたいと、あの大切な友人を愛おしく感じているのも、個性で良いのだろうか。

 彼女も僕に敵意がないことが分かったのか、赫子を戻して、静かに僕の話に聞き入ってくれていた。

 いつの間にか隠れているはずの娘まで、母親の背後にしがみついて、僕の顔をじっと見つめていた。

 

「どうしたの?」

 

 大人しそうな印象を受ける娘だったが、臭いは完全に喰種のものだった。

 何とも奇妙な気分になりつつも、不思議そうに見つめる視線に疑問をぶつけると、娘はおもむろに僕の顔を指さした。

 

「蟋蟀?」

 

 蟋蟀と言う言葉に敏感に女性は反応するが、僕のマスクと娘を見比べて、ふうとため息を付いた。

 

「気付かなかったわ、黒い蟋蟀のマスク…13区の蟋蟀なのね…

噂とぜんぜん違うわね」

 

「ああ、このマスクか…

そうだね、噂の僕はもういないんだ…」

 

 この二人に対して隠し事は無用だと、娘の好奇心旺盛な質問に僕はマスクを外し、懐にしまう。

 すると女性もその娘も驚いたような顔で僕を見るのだ。

 

「まだこんなに若かったのね」

 

「よく言われます、僕は[幸途 音把]よろしくお願いします」

 

 初めての印象は失敗してしまったので、今度は友好的にと思い、精一杯の笑顔で挨拶すると、娘は顔を真っ赤に染めて照れたように母親の陰に隠れてしまった。

 

「ごめんなさい、ちょっと人見知りなの……それに少し怖いオーラがあるしね、私は笛口リョーコよ、こっちは」

 

「ひ、ひなみです、よろしくお願いします!」

 

 笛口さんが、ぽんとひなみの背中を僕の方に押し出せば、ヒナミちゃんはあわあわと口を動かして、顔を百面相に変える。

 可愛い…

 人間以外で、何かを可愛いと思ったことは初めてだった。懐かしい、家族と過ごしていたときの日々を思い起こさせるようだった。こんな感じであの小さな少女も、人見知りなところがあった。

この子とは違い、嫌な事があると少し頬を膨らませて拗ねる癖があった、可愛い家族。今頃、どうしているのだろう?

 

「よろしく、笛口さん」

 

 長髪の女性と手を交わして、おずおずといった風に手を差し出すヒナミちゃんを見ていると、愛でたいよりまず苛めたいと強く思ってしまう、だからちょっと僕の悪い癖がでたのかも知れない。

 ほんの少しだけ、ヒナミちゃんの困った顔が見たくなってしまったのは、偶然だと弁明させて欲しい。

 何時も喰種を襲っていたので、怖がらせたいなというSっ気が出たのは否めない。

 

 

「よろしく、ヒナミちゃん…」

 

 僕は恐る恐るといった具合に差し出された手を握り締めそのまま口元に持っていき、パクッと口にくわえたのだった。

 ……甘噛みだが、結構美味しい汗の旨味と、こんな薄暗い森でいるからか、扱けてしまったのだろうか、少し怪我をしているのか血の味が身体に染みる。

 

 このまま手を噛み千切ってやりたいと湧き上がる衝動を抑えながら、口から手を離すと、ヒナミちゃんは、顔をまるでリンゴのように真っ赤にして、その場に崩れ落ちてしなったのだった…

 

 

 

 僕の食欲も少し限界に近いのかも知れない。

 早めにここを離れなければ、本当に彼女たちを襲ってしまいそうだった…

 

 差し出した手を、二人はしっかりと握ってくれた。

 この日、僕は食糧の友人が出来た。

 それが良いことか悪いことかは分からないけど、20区へ向かう足取りが何時もより軽かったのは確かだった…

 

 

                  ・

 

 

 笛口さん、ヒナミちゃんと別れてから三時間、空腹が胃を刺激して、隣を通り過ぎていく人間の臭いに発狂しそうになるが、僕は指を噛みながら俯いて歩いていた。

 小店が並び、連なった小さな通りを歩いていた僕は今、人生において久し振りの空腹に襲われていた。

 

 「はぁ…はぁ…」

 

 漂う汗の臭い、ほのかに漂う血液の臭い、涎が垂れそうになるのを、ぐっと飲み込み、赤く染まった片目を手で覆い隠す。

 おかしい…喰種の臭いがしない?

 20区とは言え、人間がいるところなら、喰種は絶対にいるはずだった。

 

 それなのに、喰種の興奮したときに出る発汗したツンと鼻を刺激する臭いが、全くしなかったのだ。

 それだけ治安がいい場所と言うことなのだろうか。

 それは結構なことで、流石人好きの梟が居るところだと思いたがったが、僕にとって、喰種の有無は死活問題だった。

 

 僕も全くもって遺憾だが、喰種というカテゴリーに属す以上、Rc細胞の摂取無しには生きていけない。

 だから僕は喰種を殺しつつ、その肉体を全て平らげることで、Rc細胞を補ってきたのだが…

 

 さっき笛口さんと出会い、良い思考を持った喰種もいるとわかった…わかってしまった所為で、無作為な喰種の惨殺が出来なくなっていた。

 本来なら、何処か都合のいい狭い場所を見つけて、そこに張っていれば喰種が勝手に集まってくるのを待つだけで良かったのだが、そうも言っていられなくなってしまった。

 

 悪い思考を持った喰種だけを食べるとした僕の状況は、言わば食事に制限を付けられた入院患者に近いのかも知れない。

 食事を選り好みして食べるという思想は、「美食家」に通ずる所だが、僕の場合好むポイントはその味ではなく、心だ。

 

 喰種の捕食を制限した所為で、そういう待ち伏せも出来なくなってしまい、悪か善かを見つける必要性で、余計に食べられなくなってしまっていた。

「ああ、こんな事ならヒナミちゃんの手をもう少し味わっておくべきだった…」

 

 若い喰種の張りのある、それでいて柔らかい肌は、それを引き裂き溢れ出す肉汁もまた最高級に美味しい。

 弾力の強い肌を手で感じ、目で美しさを感じ、鼻で微香を吸収する。

 そういった手順を踏んでから、初めて味わうことでより一層喰種の旨味がたのしめるのだ。

 

 僕が一ヶ月で食べる喰種の量は、2人から5人。

普通の喰種が人間の一部を食べただけで一ヶ月以上持つのに比べれば、存外僕も大食いであり、美食家でもあるらしかった…喰種限定のという注釈は付くが。

 

 Rc細胞を多量に使い、強靭な身体を手に入れた喰種は、その細胞を自力で生産することが出来ないため、他所から補うしかない。

 そして、そのタフな身体を作るRc細胞が底を突けば、喰種の身体は機能を停止し、動かなくなってしまう。

つまりは死だ。

 

 人間よりも死の危機に直面しやすい喰種の飢餓は、その性質から喰種の本能に肉を食えと訴えかける。

 鼻息を荒く、肩で息をしていると隣を通る人々がいぶかしげ顔で僕を見るが、そんな事も気にしていられないほど、僕は今ピンチだった。

 

 肉が喰いたくて喰いたくて仕方がなかった。

 梟と戦ってから、もう三日半もたつ、負ったダメージの事もあり、そろそろRc細胞を摂取しなければ、本格的に僕は死にかねなかった。

 だが、人間を襲うというのは天地がひっくり返っても有り得ない、あり得てはいけないことだ。

 

 そんなことをするくらいなら、僕は潔く死を選ぶ…

 

 今から引き返してヒナミちゃんを食べようか?

 

「いや…駄目だそんな事を…友達に…でき…食べだい食べ物…食べる、食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ食べ」

 

 無理があったのだ…人間を食べないと言うだけで大分の負荷を身体に強いてきていた。

 それに拍車をかけたのが、今回の喰種の選別…

 食べる量まで制限してしまった事で、僕はもう取り返しの付かないほど弱り切ってしまっていたようだった。

 

 道にあった小石を避けられず、躓き、そのまま僕はアスファルトの黒い地面に崩れ落ち…

 その瞬間…霞む視界に紫色の髪の色をした、長い髪の女性が写った。

 何処かで見たような、面影があった…

 

 

「あらぁ…誰かと思えば虫の坊やじゃない」

 

「リゼ…リゼ!?」

 

 僕の中の喰種は、最後の力を振り絞って、意識を現実に引き戻す。

 これは奇跡に近かった、死にかけ野垂れ死にする寸前で、僕の前にご飯が与えられたのだ。

 

 人間をただの餌だとしか思っておらず、自慢の赫子で人間を捕まえるまでの、優しそうな女性像で人を騙す過程を楽しむ外道な喰種。

 食べるのに、殺すのにこれほど丁度良く、適した存在は他にいないだろう。

 

 20区にやってきていたのは、予想外だったが、今回はそれに救われた。

 神様はまだ、僕に生きていて欲しいとお思いのようだ。

 

 幸いなことに今は、夜、擦れ違う人の数もずいぶんと減った…

 ここでなら、人間を巻き込まず効率的にリゼの内蔵を貪ることが出来る!

 早く、早くと身体が急かす。

 残虐非道な女喰種、「大食い」[神代利世を補食せよと!!

 

「りぃいいいいいいぜええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」

 

 肉を渇望する本能のまま、僕は素顔を隠すことも忘れ、背中から勢い良く2本の触手に似た、赤黒い赫子を発生させる。

 食事前に赫子を出すと言うことは、Rc細胞の著しい減少を招き、その喰種の生命活動の低下を意味している。

 

 だが、それでも眼前の肉を僕の口の中に入れるためには、リゼは余りにも赫子無しで闘うには強すぎた。

 SSレートの喰種「大食い」の名の通り、大量の人肉を計画性もなく食べ続けるかなり危険な存在。

 

 大食いという食性なのか、生まれ持った才能なのかは分からないが、彼女の力は恐ろしく強く、そして凶暴だった。

 油断するつもりはない、最初から最後まで全力を出し切ってしとめてやる。

 

 綺麗で色白な腹を切り裂いて、溢れ出る鮮血を、滲み出る汗を、蠢く内蔵を全て引きずり出して、僕の腹の中へ収めてやる。

 こいつは、誰がどう見ても悪だ、喰い場を荒らす所為で、同族からも嫌悪される諸悪の根元だ。

 

 人間を大量に惨殺して来た醜い喰種は…

 

「僕に喰われても、文句は言えないよねぇ?」

 

 バキバキと言う音ともに、伸びた2本の赫子は、僕の肌に巻き付いて硬質化し、鎧のように変化していく。梟と戦ったときの記憶を頼りに、その赫子の変化に少しずつ干渉しながら、僕は身体の変化を終えた。

「悪」は退治しなければならない、その意思は絶対に揺らぐことはないのだ。梟にいわれた言葉でも、僕のその本質の根本を変えることは出来なかった。

昔、僕にあったことを、両親を食い殺された思い出を、悲しむ義妹の姿を……もう二度と味わいたくない、そして誰にもこの悲しみを味合わせたくない!!僕はそのためなら化け物にも、喰種を殺し続ける悪者にだってなってやる。

憎しみの元凶、諸悪の根源、喰種の「悪」を駆逐してやる!!

 

 

 あの時のように喰種の力を解放すれば、その時点で僕はRc細胞が枯渇してゲームオーバーだ。

 だからこそ、一点に威力を集中させた無駄の少ない体型で挑むしかない。

 

 赫子が巻き付く箇所を足だけに限定して、それ以外の部位の軽量化をはかり、従来のジャンプ力を再び背中から伸ばした2本の赫子の力で後押しする。

 黒いアスファルトの地面へ鋭い鱗赫の先端を差し込み、蹴り場の軸を整えて、呆気にとられている女性に食らいつく。だが、リゼは僕の動きに全く動じず、余裕の笑みを崩さなかった。

 

「あら、私を食べるつもり?

それは少し、おいたが過ぎるんじゃないかしら?」

 

 地獄のような、一寸先が闇の底である喰種の世界を生き残ってきた強者ゆえの油断なのか。

 何れにしても、僕の方から彼女にかける哀れみは一切ない。

 勧善懲悪、悪は滅び正義は必ず勝つのが世界の決めた正しいあり方だ。

 

「うがあああああああああああああ!!」

 

 赫子の力で威力の上がった回し蹴りをまずリゼの頭部に向かって放つ。

 渾身の力を込めて、一撃で意識を刈り取り、そのまま地面とキスをするような蹴りを。

 だが、リゼはただ身体を捻るだけで軽々とそれを避け、優しそうな笑みを浮かべると、鋭く尖った威圧感のある赫元を露わにした。

 

「くっ…」

 

「あっはァ」

 

 悪魔のような蠱惑的な表情を浮かべる彼女に、僕は一瞬ひるんで、次へ繋がる攻撃の蹴りの軌道が歪んでしまう。

 官能的な艶のある声を出したと思った次の瞬間には、リゼはもう僕の視界には写っていなかった。

 否、僕の回し蹴りを交わした一瞬で、彼女はもう僕の背後に回り込んでいた。

 

 戦闘において、死角になりやすい背後に回り込むことは有効である。

 背後は哺乳類などの幅広い生物にとって、主な状況判断器官である死角が唯一届かない場所だ。

 戦車の砲台のように首が回るのならいざ知らず、人間の首も喰種の首も180°は回らない。

 

 だがそれは喰種に限った話においてのみ、異なった側面を見せる。

 確かに背後は喰種にも死角、デッドスポットになり、攻撃を受ければ致命傷を受ける場所だ。

 だが考えてみて欲しい、何故、致命傷を受けるのかと…

 

 喰種は類い希な瞬間再生能力によって、瞬時に肉体を活性化させ、傷を簡単に塞がらせてしまう。

 致命傷が致命傷にならないのだ。

 だが、前述した通り、喰種の弱点…Rc細胞の発生機転である赫胞がやられれば喰種は死んでしまうのだ。

 

 もう…分かっただろう。

 なら、一つだけ質問をしよう。

 それならば、その喰種の武器である赫子が生まれる場所は…どこだったのか、と。

 

 そう、背中である。

 喰種は死角である背中に、強力な武器の発生器官を担う赫胞を持っているため、死角(背中)を攻撃されようと容易く対処できる。

 いちいち振り返らずとも良いのだ、喰種の聴覚で位置を掴めば、後は赫子を動かしすれば良い。

 

 だが…そこで僕の動きは止まる。

 いや、止まらざるを得なかった。

 

 迂闊にも喰種の死角に回り込んだリゼに対して、制裁を与えようと赫子を動かした所で、そこへ追い打ちをかけるように、リゼから放たれた、鋭くとがった鱗赫が僕の腕を勢い良く貫いた。

 傷を修正しようと背中の赫子の動きが止まり、その所為でどうしようもない隙が生まれてしまう。

 

 

「っがああああああああああ!!」

 

 流石に威力重視の鱗赫だけはある、リゼに貫かれた腕は、空中に弾き飛ばされ、大量の血をまき散らしながら、地面に落ちる。

 

「ふふふ、あっけないわね虫の坊や、私に喧嘩を売るなんて、愚かにも程があるわよ?」

 

 リゼは…笑っていた。真っ黒い笑みを浮かべ、頬に付いた僕の血を舌を動かして器用に舐めとる。

 全て計算ずくだったのだと気付かされた。

 彼女は簡単な牽制をする事で僕を動揺させ、なおかつ明らかに無駄な背後に回り込むことで、僕に心的余裕を生じさせたのだ。

 

 卓越された戦闘スキル、彼の父親にはまだ一歩足りないが、何処か神々しいものの片鱗を感じてしまう。

 天才とはこういうものなのかと、凡才である自分の才能を呪った。

 

 不味い、非常に不味い状況だった。 

 腕に入った傷は、人間なら重傷だが喰種にとっては掠り傷。

 しかし、赫胞が傷つけられない限り、無限に傷が直り続けるというわけでのないのだ。

 

 喰種といえど、創作物の怪物のように不死性を帯びているわけではない。

 頭と身体を切り離されれば、簡単に死んでしまうし、肉を食べなければやがて衰弱死してしまうだろう。

 これ以上、身体の残り少ないRc細胞を悪戯にたれ流すわけにはいかなかった。

 

 傷をあっと言う間に直すのも、赫子を発生させて動かすのも、全てが全てRc細胞の恩恵なのだ。

 こうしている間にも着実に僕のRc細胞は減り続けている。

 

「私、今ちょっと苛ついているの…今までいた狩り場が住み辛くなったから出てきてね、お腹が空いているのよ。だから…邪魔しないでほしいわァ?」

 

 4本、リゼの背中から出た鱗赫の赫子が、まるで獲物を狙う蜘蛛の足のように蠢いていた。

くそ…もう、身体が動かない、言い訳でしかないが、あの女はリゼは本調子なら勝てた相手だ。

碌にご飯にあり付けないほど弱ってしまうとは、喰種のみを食べる僕の弊害だろうか…

何が「狩り場」だ、そんな風に人間を、か弱くそして意志の強い人間たちを、餌の様に言うな、お前のような下種が、彼らの尊い命を奪って良いわけがないだろう。

どうせ、狩り場で「大食い」でも起こしたせいでCCGにでも目をつけられたのだろう、だからこんなに平和な20区にこんな危険な奴を招いてしまったのだ。冗談じゃない、こんな危険極まりない喰種をのさばらせておいたら、いったいどんな被害がでるか、考えたくもなかった。

 

「ふふふ…もう良いわ、今日は貴方をサンドバッグにしてしっかりストレスを解消してみようかしらァ」

 

 足に纏った赫子も形を失い、古くなった壁のように、ボロボロと崩れて消えてしまった。

 身を守るものと言えば、着ている薄く黒い服しかない。

 こんなもの、リゼの鱗赫にかかれば、豆腐よりも柔らかいだろう。

 

 ここで僕は死ぬのか…

 

 憎い喰種に負けて、勝てる相手に無様に敗北を期して、あっさりと死んでしまうのか。

 まあ…それも後悔しても仕方のないことだ、死ぬ時は死ぬのだから、もう…抵抗も出来ない…

 

 せめて、死ぬ前に美味しい肉が食べた…かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「待て…そいつを殺すのは私の役目、何処にでもいる雑魚の喰種が、勝手に私の仕事を取らないで貰えないかな?」

 

 懐かしい、声が聞こえた。 

 




はい、スマートです。
今までこの小説をご愛読くださってありがとうございます。
お陰様でUAが3000を超えることが出来ました、本当にありがとうございます。

それでは今後とも、この小説は続いていくのでお付き合いくださいませ。

ご意見、ご感想お待ちしています、気軽に思ったことを書いてみてください、お願いします。

2015/4/1  合併修正


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#010「脆心」

 真っ白な足元まである白衣を、夜の冷風に靡かせながら、黒い髪を後ろで縛った女は、目の前にいる倒すべき巨悪を睨み付けた。

 白衣の胸ポケットには、赤い文字で「CCG」と刺繍が入っている。

 

「喰種対策局」の略称であるそれは、人間を喰らって生きる喰種を、逆に狙って殺すことの証明。

 

「あら、CCGの捜査官が此処に何の用かしら。私は今、可愛いくも憎たらしい坊やに女性の扱い方を、身体で教えてあげようと思っていたのだけれど…」

 

 喰種を狩ろうとする唯一の組織に、並みの喰種ならば動揺し、その姿を見ただけで逃げようとするだろう。

 だが、SSレートと認定され、実力に裏打ちされた、強者はその出現に対しても、慌てず…言葉を返す。

 

 リゼは、空腹と言うこともありかなり精神的に気が立っていた。

 そこへ自分を食べようとする、気の狂った喰種の出現、彼女の怒りのボルテージは一気に最高潮に達していたのだ。

 

 そしてその怒りを発散するための玩具を手に入れる寸前で、また邪魔が入ったのなら、外面は柔和なものだが、彼女の堪忍袋はとっくに弾け飛んでいた。

 だがそれでもリゼが、怒りにまかせて、突然現れた女に突撃していかないのは、今までの培ってきた経験から、CCGと付く人間の手強さを知っていたからだ。

 

 CCGと一言にいっても、その喰種を対峙するための捜査官の数は多く、よって階級も強さも様々である。

 どこまで言っても所詮人間の限界に左右されがちなため、直ぐに殺されてしまう捜査官もいるが、反対に何度も喰種と戦い、勝利を納めてきたものも少なからず存在する。

 

 それが准特等や特等と呼ばれる人間たちである。

 彼らは人のみでありながら、一介の喰種を軽く凌駕する戦闘技術と、経験を持っている人間の中の化け物集団だった。

 

 この年若い女もその例に漏れず、CCGの特等クラスに最年少で上り詰めた、異例の化け物の一人だった。

 梟と交戦した有馬にはネームバリューにおいて劣るが、彼女も6区のリーダーや、4区の「ノーフェイス」と抗戦し、激戦を繰り広げるなどの戦果を数多くのこしている。

 

 

 静かに、だがふつふつと沸き上がってくる怒りの気配を周囲にまき散らし、女は右手に持っていた銀色のセラミックケースに突き出た丸いボタンを押す。

 

「貴様がその蟋蟀にどんな思い入れがあるのかは知らない、分かりたくもない…

だが、それの命を狩るというのなら、まず私を殺してからにしろ」

 

 口から放たれる、煮えたぎる怒りを押し殺したような声に呼応して、ケースが大きく口を開け、中からけたたましい金属音を響かせて、鋭く光る刃が姿を現した。

 日本刀のように先端が緩いカーブを描いた剣は、女の手に収まると、毒々しい朱を刀身に写り込ませる。

 

「こふぅぅぅぅぅ……」

 

 右手に握った刃に左手を添えるように持ち、リゼを見据えたまま女は全ての生きを吐き出し…脱力する。

 

「何のつもりかしら、もしかして来て見たら私が強くて勝てないと思ったのかしらァ。

良いわよ、命乞いなら聞いてあげる…わ……っ!?」

 

「閃」

 

 その一瞬で女はリゼの背後におり、立ち尽くすリゼの片腕に一本の線が入りそこから大量の血飛沫が上がり、ずるりと地面に落下した。

 だが、女の持つ刃には、リゼの血は一滴もついておらず、本当にその剣で切ったのかさえ疑われる早業だった。

「ぐ、ぎゃがあああああああああああああああああっ!?」

 

「これでおあいこだ…」

 

 刃を振り切ったままの体制で、地面に膝を付けていた女は、ゆらりと立ち上がり、自分の腕を唖然と見つめるリゼに無表情を向ける。

 女の持つその刃、ある喰種の赫胞から作られたクインケの名は[明美protectー1]。

 

 強靭な再生力と、鋭い一撃を叩き込む鱗赫から造られた、刃状のクインケは例え喰種の硬い硬皮でさえも、紙切れのように寸断する。

 だがその威力を発揮するためには、元々の才能は勿論の事、鍛え込まれた剣術の技術が必要だった。

 

 「居合い」と呼ばれるその剣術は、無と有というように、ゼロの状態から一気に最高潮のボルテージにまで緊張を引き上げる技。

 本当に、ほんの一瞬だに力を集約させる固めに、蓄積する疲労は並のものではないが、かわりにそれを補って余りあるほどの切断性を帯びるのだ。

 

「くっ、が…ああ…この、私が!」

 

 切られた腕は滑らかな断面を残し、血を大量逃がさせるばかりで、まるで再生する気配がない。

 それはクインケが、喰種の赫子の性質を受け継いでいるからであり、クインケに含まれる他人の喰種のRc細胞が、再生力を妨害しているからに他ならない。

 

 だからこそ、CCGの捜査官は通常の武器で対処できない喰種に対して、喰種から作り出したクインケでもって戦うのである。

 毒をもって毒を制す。

 か弱いからだを持つ人間が、喰種に対抗するために生み出した、技術の集大成である。

 

「ふうううっ…」

 

 滝のように流れる汗と、物凄い疲労感に苛まれながら、女はリゼの一挙一動を見逃さまいと、刃を強く握る。カチャリと金属音が夜の闇の静けさに反響し、リゼは叫ぶのを止めて、一歩また後ろに下がった。どちらも譲らぬ目線での戦いに勝利したのは、人間の女の方だった。

反撃を微塵も許さないというように、朱色に発光しだす刃の切っ先を恨みがましい視線を送るリゼへと向け、静かにまた息を深く吐き出して、体中の筋肉を緩めてく。油断の一切ない構えだった。

 

「くっ…私を此処までコケにしたこと必ず後悔させてあげる…」

 

 リゼも空腹で自分の腕を切った相手と戦うのは分が悪いと判断したのだ。悔しそうに唇を髪ながらきびすを返し、だが隙を与えぬようあっと言う間に夜の闇に溶け込んでしまったのだった…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よう…蟋蟀、久しぶり」

 

 展開させた朱い刃を元のセラミックケースに戻しながら、女は如何にも、煩わしげに、背後で横たわった男に声をかけた。

 蟋蟀と言われた男は傷付いた腕の止血を行いながら、朗らかな笑顔を女に向ける。

 敵対しているという牽制や威圧のための笑顔ではなく、本当に心から嬉しく思っているような笑顔。

 

 

「ああ、久し振りだね…スズ、元気にしてた?」

 

「ふん…少なくとも今のお前よりは元気だよ。

まったく、お前は何時も血だらけだな…それが自分の血か、もっともそれが相手の血かは分からないがな」

 

 仏頂面で男のもとに歩き出した女は、近くに落ちていたリゼの細腕と、この男のものだと思われる腕を拾って、差し出した。

 

「ほら、喰え…それで治せ」

 

「良いのかい? スズはCCGに入ったんだろう、喰種を助けたらクビになるんじゃないのかな?」

 

 その前に、寧ろ喰種を庇ったという時点で喰種対策法に違反し、重罪として処罰されることになるのだが、スズは知っていてもそれを男に言うつもりは無かったようだ。

 スズは軽く口元をにやけさせると、コンと男の頭を叩いたのだ。

 

「ふん…勘違いするなよ、これは助けたんじゃないお前が万全の状態で戦いたいからだ。

喰種は一人残らず殺してやる、それが私の捜査官になった理由」

 

「うん、知ってる…僕もそれを応援してるよ」

 

 スズは、血塗れでリゼの細腕をバリバリと骨を砕きながら食べながら、自分の腕をひっつける作業をしていた男の隣に座り込んで、しんみりと眼を閉じた。

 何か、遠く昔のことを思い出しているかのような、悲しそうな表情を浮かべる。

 

 拳を握り締め、今は無き誰かに誓うように言葉を吐き出すスズに、男はそっと背中に手を回して、寄り添うのだ。

 人間と喰種、ここにほんの少しだけあの梟が望んだ共存の未来が有るようだった。

 

「あんな雑魚程度にやられるほど弱ってるなんて思ってなかったよ。

……本当に戦ったんだな、梟と」

 

 男の腕が完全に繋がり、リゼの腕が全て男の腹へと納められた頃、おもむろにスズが、責めるように口を開いた。

 どうしてあんなものと戦ったのだと、スズはもう一度、隣の男を肘で小突いた。

 

「お前は私の獲物だ…勝手に野垂れ死ぬのも、私以外に殺されるのも許さない」

 

「わかってる、約束だからね」

 

 男がスズの手を握って、笑みを浮かべれば、スズも安心したように頷いて、息を付いた。

 殺す約束をしている殺伐とした光景だが、絵だけを見るならば仲のいい親友同士にも見えるのかも知れなかった。

 

 喰種と人間、喰い喰われる二つの存在がこうして、互いに信頼しあい、一つ空のもと過ごす姿は、また異常なものだろう。

 

「…強かったか、梟は?」

 

「強いよ、あれは人間じゃ適わない、僕でさえ赤子のようにあしらわれたんだから、君なんか直ぐにやられてしまうだろう…

もう…喰種なんかと関わるのを止めてくれ…君は」

 

 

「その先は言うな、私だって分かっている…その道がどれだけ厳しい道なのか、死の危険が常に付きまとう茨の道なのかは…

でも、私は母を父を殺した喰種を殺して、仇が取りたい…」

 

 明けない夜はない、だがこの2人に広がった深い闇は、果たして払われるときが来るのだろうか…




すいません、ただいま各話編集中です。ご迷惑をおかけします。2014/7/22
2015/4/1  合併修正


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#011「珈琲」

はい、スマートです、しばらく更新できずに申し訳ありませんでした。
すこし以前投稿した文章を読み直して修正、加筆修正を加えていたので時間がかかりました。
やはり、小説を書いていると、時系列やその辺りの矛盾が出てきてしまいます。
それらをなくす為に、これからも随時修正を加えていきますが、どうかご配慮ください。
ちなみに#002と#003を加筆した結果、あらたに話が増えてしまったことをお詫び申し上げます。



 青く雲ひとつない海のような空模様が、どこまでも続いているかに思える晴天の景色、私はその暖かい太陽の日差しを受けて、ゆっくりとベッドから身体を起こしたのだった。

治安の比較的良い、20区にあるマンション。東京なら何処にでもあるごく普通のマンションの一室に私は一人で住み込んでいた。以前は弟と二人暮らしだったのだが、ほんの1年前に出て行ったきりまるきり消息がつかめない。

あの弟のことだから、きっとどこかで上手くやれているのだろうと思うがそれでも姉としては心配にならざるを得ないのだ。見知った親戚はもう弟しかいない、父は殺されたし、母も現在に至るまで消息さえわかっていない。だからこそ、私と弟は二人でこの暗い東京の闇を生き抜いてきたのだ。

ともに協力し合い、お互いに足りない力を補い合いながら戦ってきた。

だが、それも私がほんの少しの平凡を望んだ所為で、人間のような暮らしを望んだ所為で、弟は家を出て行ってしまった……

甘い奴だと思われたのかもしれない、心が弱いと思われたのかもしれない、いずれにしても私はともに戦い抜いてきた弟の気持ちを裏切ってしまったのだ。

朝、起きてすぐに窓の外を見れば、決まって思い出すことといえば、出て行った弟のこと、この広い東京のどこかにいるとは思うのだが、それがどこかは分からなかった。探してみようとは思った、思ったがもしそれで弟が見つかったとして、彼を裏切ってしまった私に対して、何を言われるのかが無性に怖くなってしまったのだ。

 

「いっつ……くそっ」

 目が覚めてからしばらくたってから遅れて鳴り響く、内臓が飛び出したウサギをデフォルメしたピンク色の目覚まし時計を止めてから、私は勢いよくベットから立ち上がった。

するとお腹に、電撃が走ったかのような鋭い痛みが来て、私はお腹を押さえて床にうずくまってしまう。あまりの自分のふがいなさに、床を叩こうとしてここがマンションだったことを思い出しかろうじて踏みとどまる。近所の人たちとの余計な争いごとはもうごめんだった。

あの思い出したくもない凄惨な一夜から、今日でざっと5日。光沢のある黒い虫のようなマスクを顔に貼り付け、同じく真っ黒なレインコートを着込んでいた男に傷を負わされてから、それだけの時間が経過していた。

私が喰種ということもあって、傷の治りは人間に比べ早いが、それも事故や人為的以外の要因によって付けられたものに限る。同じ喰種によって付けられた傷は、自分の中にある再生機能を低下させて、切り口の再生が未だに遅れていたのだ。

まだ私のお腹には何針も縫われた糸が入り、それを覆うように包帯でしっかりと締め付けている状態だった。無理をしたり少しでも息が上がる運動をすれば、傷口が開いてしまいかねないのだ。

何度か喰種とも戦ったこともある私だったが、ここまで傷の治りが遅いと何か毒でも盛られていたのかと勘ぐってしまう。もっとも喰種にはよほどの毒でない限り効きはしないのだが。

まあ、おおむねあの赫子に貫かれて切り開かれた傷や、食べられた内蔵の所為で再生に予想以上に負荷が掛かっていたのだろう。

「……はぁっ」

 

 ほんの少しでも自分の身体に付けられた傷に目が行くと、嫌でもあのときの光景を思い出して肩が震えてしまう。私は自分の体を腕で抱きしめて、再びベッドに突っ伏してしまった。

恐ろしい、男だった。マスクを被っていた所為であまり素顔を見る機会はなかったが、あの人を食ったような口調、語ること全てが自分の存在を揺さぶってきたのだ。

あの男は言った、私のことをこの世界に存在するすべての喰種を指して「悪」だと。自らが喰種であるに関わらず、それを言ってのける感性は私には分からなかったが、余程の事でもない限りああは、ならないだろう。男がどれだけ喰種という種に対して恨みを抱いているかが伝わってくるようだった。

多分だが、あの男は自分のことでさえ嫌っている。

私も、少なからず喰種という存在に対して、凄まじい悪感情を抱いている人間を数多く見てきていた。それを私は今まで、さして気にせず、人間はそういうものなのだと割り切って、「自分が生きるために仕方がない」とそんな人々の命を奪ってきた。安易な理由を定めて自身を肯定していたのが私なら、あの男は端から自分のことを否定しながら生きているのか。そこに自分との明確な違いがあり、きっとそれは本人でさえ気がついていないことなのだろう、闇がある。

それが私にはどうにも恐ろしかった。あの時に見せた、まさに蟋蟀のような姿もそうだ。

自分を含めた喰種を喰らい尽くすという意思がにじみ出んばかりの異形な、共食いをする昆虫を模した姿……赤黒く虫の外骨格にもにた赫子を鎧のようにまとう男。

あれはもう、化け物と言わずして何だというのだろうか。

治安の悪く喰種同士で争いあう13区に突如現れた超新星、そういう噂が5年前に流れたきり、「蟋蟀」の話はめっきりと聞かなくなっていた。だがそれは違ったのだ。

聞かなかったのではなく、もうあの男が13区において当たり前の存在になってしまったと言うだけのこと、珍しければ噂にもなるが在り来たりな光景ならば、話題にも上らない。

だからこそ、私は蟋蟀の恐ろしさについて失念してしまっていたのだろう。だから私は逃げることが遅れ、今こうして痛みを抱えている。

 

「……でも、男の言い分も正しいんだよな」

 まるきり間違いならば、私も否定することが出来ただろう、だが男の言葉は本当に鋭くいままで、自分を騙し騙し生きてきた私の心を勢いよく貫いたのだ。

 

 今日は休日、学校は休みなので芳村さんが営んでいる喫茶店でバイトをする日だ。芳村さんはしばらく身体を直すために来なくても良いと言ってくれていたが、流石に私が今日抜けてしまうと経営的に今日と明日は立ち行かなくなってしまう。新しくバイトを雇うという手も考えられるが、数日後には復帰できそうな私の代わりを入れたとしても、すぐに任期が終わりというわけには雇うほうも、雇われるほうもいかないだろう。

さっそく着ていた寝巻きを取り、肌を露出させると痛々しいまでの戦闘の痕跡が残っていた。

擦り傷や浅い切り傷は流石に治ってはいるが、首の付け根や、お腹に入った真一文字の傷は今も残り続け私の気分を鎮めていた。

少なくともしばらくの間は、学校で体育は出来ないだろう。勉強べたな私としては、喰種としての能力もあいまって、体育においては、かなり成績上位な方だったので、少し残念に思ってしまう。

頭部を思い切り打ち付けられたときに出来た顔の傷が、比較的見えなくなるくらいには直ったので、よしとしよう。頭に包帯を巻いて学校に行った日には学校中の質問の的になるに違いないのだから。

 

「4日も学校休んじゃったから、依子にはどやされるだろうけどね……」

 私の人間としての親友、いつも私のことを小食だと心配してくれる彼女は、きっと何も言わず私が学校を休んでしまったことを心配している、そして自分に何も教えてくれなかったことを起こっているはずだ……あの子は、とても優しくて良い友人なのだが、怒ったりするとなかなか口を利いてくれなかったりする。

いろいろな事を想像し、あまり良くはない未来像にますますブルーになりながらも、私は手短にTシャツとGパンに着替え、マンションを出たところで後ろから声をかけられたのだった。

「すいません、ちょっと良いですか?」

「…っ!?」

5日前にあんなことがあったからだろうか、私は急にかけられた声に対して敏感に反応してしまっていた。それに後ろから漂う気配からは、仄かに喰種の血の匂いが染み付いていたのだ。

肩を震わせてしまってから、しまったと後悔する。相手に不自然な動作を見せてしまったと。

この手の輩とは、出来ることならば戦うことは避けたいと思っていた。

「はい、なんですか?」

顔の強張りを無理やり治して、あまり違和感を感じさせないようにと努力しながら、声の主の下へ振り返ると、案の定……その人物は全身を真っ白に包み込む白衣を身にまといながら、右手に銀色のセラミックケースを持った出で立ちで立っていたのだ。胸ポケットに付けられたワッペン状の刺繍には、大きく「CCG」という文字が浮かんでいた。喰種を狩り、人間から喰種という脅威を打ち払うことを目的としている集団、俗に「白鳩」と呼ばれる、黒い長髪を後ろで結んだ髪型をした人間が、薄く微笑みながら、私の前に立ちはだかっていたのだった。

 

「ここに『あんていく』というお店はあるかしら?」

 

 瞬間、私の目の前は真っ暗になった。

 

 

 この長く黒い長髪を後ろで結んだ実に動きやすい格好をしている白衣の女は、一体何を言っているのだろうと、私の意識は一瞬別の事を考えていた。いわば、これが俗にいう現実逃避という奴なのかもしれない。本当に5日前に立て続いてこうも自分の身に不幸が降りかかってくるものだ。

先日の不幸ではある意味では身から出た錆、自業自得なのかもしれないが、今回は違う。私が喰種に生まれたのは私が望んだことではないので、ここで退治されてしまうとしても、わたしは「悪」…ではないと思いたい。

兎に角、今の現状としては、何故か私の目の前にCCGの捜査官が立っている、という非常に不可解な問題について解決しなければならない。まずは、私の聞き間違いかもしれないこの女の言葉の確認から進めよう。もしかすると本当に馬鹿な私の耳が、何か別の単語を聞き違えたという可能性もなくにはない…

 

「えっと、あんたい…ななんでしたっけ?」

「…あんていくよお嬢ちゃん?」

 はい、確認終了…私は自分の肩にのっかたプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。まさか、私がバイトに行く時間を見計らって来たという可能性はないとおもいたいけれど、その可能性もCCGの捜査官が従業員である「私」に「あんていく」の場所を尋ねるという時点で非常に高くなっている。考えたくはないが、もしかすると私の正体や「あんていく」について、とうとうCCGが感づいてしまったのかもしれない。

そしてこの状況が、本当に偶然によって引き起こされた状況なのか、それともこの女が全て知っているうえであえて、私を試しているのか見分けがつかないという所が、最大の難点だった。捜査官一人に居場所がばれたくらい、本当ならよほど強い相手ではない限り、私一人ででもなんとかなる。「あんていく」の場所を知っているにしろ、知らないにしろ殺してしまえば、丸く収まる話だった。

だが、問題は今私がマスクをかぶっていない、素顔をよりにもよってCCGの捜査官にさらしてしまっているという所にある。

喰種といえど、その攻撃力、潜在能力は強いと言えど所詮個としての強さしかない、素顔をばらされて指名手配書等が出回ってしまえば、私は毎日捜査官に追い立てられ、二度と陽の目に出れない生活を送らなければならない。

 

 口封じのために一瞬で女を殺害するに越したことは無いのだが、そこはCCGの捜査官だ、簡単には息の根を止めさせてはくれないだろう。まだ喰種の血の匂いが漂っていることから、この捜査官が少なくとも一等捜査官以上の実力を持っていると判断する。

だとすると、最悪の場合として、攻撃しようとした私がそのまま返り討ちに会う事も考えられるのだ。私も強い捜査官と戦った経験はそう何度もない。それにいつも背後から赫子をつかって不意打ちするのが基本だったので、正面きっての戦いは皆無と言ってよかった。

喰種との戦いならば少ないが、正面切っての戦いがあるが、今それをするにしても、私の身体は切り傷を直すためにかなりのエネルギーが使われてしまっている。赫子も出したところでいつまで維持が出来るかわからないのだ。

羽赫を展開して距離をとりつつ撤退するという作戦もあるにはあるが、それをするのは先に言った「素顔露出の危険」と羽赫のエネルギー消費から出来るだけ避けたい。

私の持つ羽赫は、羽のような赫子を発生させて、遠距離からの攻撃が可能になるが、それは逆に私自身の身を削っての攻撃になる。弾数が限られた攻撃だと相手に読まれれば、その瞬間に私の敗北が決定してしまう。

 

 どうすればいい?私はここでどういう判断をすればいい?こんな時、芳村さんや四方さんならどう考えてどういう風に動くのだろう。人生経験が浅い分、そういう所に差が出てしまうのは仕方がないが、彼らの気持ちを少しでも思い浮かべられない私自身に少し腹が立った。

「あ、あんていく…ですか、中古のリサイクルショップですかね?そ、それでしたらきっと20区にはないと思いますけど」

こういう時、自分の嘘をつけない体質というか顔に出る性質にはうんざりする。多分、女は私の明らかに動揺した言葉に疑いを持ってしまったのだろう。ギラリと光るまなざしが、鋭く私の心臓を射抜いた気がした。

この感覚はどこかで感じたことがあった、そう忘れもしない5前の夜、「蟋蟀」に出会った時に感じたドロドロと渦巻くような恐怖だった。恐ろしく鋭い研ぎ澄まされた気配、それを向けられただけで、私は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなっていた。トラウマとも言える、どうしてもその気配を受けると、あの時受けた痛みや恐怖を思い出して、何も考えることが出来なくなってしまうのだ。

 

「そう、仕方ないわね、なら自分で探すわ…じゃぁね、手間取らせちゃったわねお嬢ちゃん?」

 

 だが…不幸中の幸いだったのか、私の言葉を信用してくれたようで、女は銀色のセラミックケースを肩にかけて、踵を返してまた来た道を歩いて行ってしまったのだった。

「あ…あああ…っ」

女が視界から消え、気配や匂いも完全にしなくなると、私は途端に緊張が抜けてしまい、地面に内またで座り込んでしまったのだった。CCGの捜査官に相対しただけで、ここまで精神的に追い詰められてしまうなんて無様だと笑うしかない。しかし、私の足は力を入れようにもまったく動いてくれず、腰が抜けてしまったようで全く動くことが出来なかったのだ。

偶に通りかかる通行人に変な目で見られるが、それは此処が東京の市街地ということもあって、皆われ関せずといった風に通り過ぎていってしまう。世知辛い世の中だとは思ったが、今この瞬間においてはそれは有り難かった。

腰が抜けて歩けなくなった女子中学生など、もし知り合いにでもバレてしまったら終わりだ。喰種だとバレる以前に私は社会的に死んでしまう……

「ん…くっ!」

必死に力を入れて何度も試してみるが、神経が通っていないかのように下半身はまるで動こうとしてくれない。喰種の肉体というのも、あるいみ精神的な面では人間とあまり変わらないのかもしれなかった。

「ううっ…」

情けない、本当に情けなかった。弟の気持ちを不本意だったとはいえ裏切り、芳村さんに人間の事を学んで学校まで通わせてもらって、蟋蟀に喰種の本質を見せつけられ……挙句の果てにだらしなく道の端にうずくまってしまったのだ…。弱い、私は何もかもが弱い。

喰種という存在にかこつけて、自分は強いと思い込んできてしまっていた、だけど実際ふたを開けてみると、私は何も手に入れることが出来なかったじゃないか。

両親も、弟も、本当の友人も、なにもかも!!

泣き叫びたい気持ちだった、ないてこの心に渦巻く気持ちが消えて無くなってしまうのなら、私は何時間でも泣き続けてやりたかった、人目を気にせず、泣きたかった。

 

「うん?こんなところでどうしたんだい?何か困ったことがあるのなら僕に言ってみるといい、出来る範囲の事でなら協力するよ?」

 今にも泣きそうな私に声をかけてくれたのは、20代半ばのような線の細い、笑顔が素敵な男の人だった。混乱した気持ちの中、私はなんとも今思い出しても恥ずかしいことを、たまたま通りかかっただけの人にしてしまう。人間とも喰種ともつかない変な匂いを漂わせる人だったが、それゆえに私の警戒心を解いてしまったのかもしれない。人間も危険、同じ喰種どうしでも赤の他人なら襲われるかもしれない、それが私たちの抱えるジレンマだ。

だからこそ、声をかけてきた男の人に、私はそのどちらの警戒を捨ててしまい、思わず抱き付いてしまったのだ、この気持ちを癒してくれなくてもいい、ただほんの少しだけ、支えを……

 

 

「ちょっとだけ、ちょっとだけ…泣かせて」

 

不思議なことに、男の人の手は優しく私を抱きしめ返してくれたのだった。

 




今日も最後まで読んでくださりありがとうございます。この二次創作もUAが10000を越えることが出来、非常にうれしい思い出いっぱいです。
これからもアニメ東京喰種を見たり、原作を読んだりと奮闘しながら誠心誠意書いていくつもりなので、よろしくお願いします。

さて…アニメの方、とうとうヒナミちゃん出てきましたね、大人しい系の役こそ花澤さんでは?と思っていた私には新鮮なアニメ、予想以上にクォリティが高くて驚きました。
所々にアニメオリジナルを挟んでいるのもまた味ですね。

2015/4/1  合併修正


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#012「捜索」

 懐かしい友人との再会、それはもう二度と有りえることは無いと思っていた。もしあり得たとしても、それはCCGの捜査官として、「悪」である喰種を駆逐するためにやってくるのだろうと、漠然と思っていたのだ。僕は、彼女にそれだけの行いをしてしまった。二度とそんなことを繰り返してはいけないと誓ったとき、僕は彼女の名前を…本名では呼ぶことができなくなった。

本名が呼びづらい字という意味ではなく、これは僕の意識の問題。彼女の名前を呼んでしまうことで生まれる、人間への羨ましさへの戒めだった。だからこそ、僕は彼女を「スズ」と呼称している。

だが、ふと気がつけば、できる事ならば昔へ戻りたいと、やり直したいと思っている自分がいるのだ。

喰種でありながら、人間を喰らうことなく世界に生きている理由も、元をただせばまた彼女と一緒に笑いあいたいというだけなのかもしれない。

花火を見たり、プールへ行ったり、遊園地へいったりと、もうそんな子供染みた事はできないだろうが、せめて車でドライブにでも行けたらと思ってしまうのは、未練がましいだろうか。

 

 喰種を怖がるのではなく、明確な殺意を持って、憎しみを込めて喰種を狩る人間。「家族を喰種に殺された」「彼女を喰種に食べられた」などと言う理由で捜査官になるものも多いが、彼女のソレはより酷く歪んでいる。彼女の意思は僕から見ても、また普通の喰種からも人間からも常識を外れてしまっているのだ。

ただ冷血に目の前にある喰種を駆逐し続ける、CCGでも屈指の捜査官、だがその本質は挑んでも敵わない「隻眼の梟」と戦うことにのみ、重きを置いてる。…何故か彼女は僕を殺すことを後回しにしようという節があるが、それは僕の気のせいなのだろうか。

ともかく、命の危険が伴う捜査官にしてしまったのは、全て僕に責任がある。雨の降る夜の日、今でも人間の間でも語られることのある大事件の日、人間を絶対に襲わないと決めたあの時、僕はもう彼女には会えないと……そう、思っていた。

 

 狂ってしまった彼女と、喰種として間違い、人間として正しくなってしまった僕たちが、出来ればもう出会う事が無いようにと、あの時は神に祈ったものだった。

それが、今日何の運命かは知らないが、運よくお互いに敵対することなく出会うことが出来たのは吉報と言っても良い出来事だった。懐かしい、忘れるはずもないあの娘の匂い。

「大食い」リゼとの戦いで負けそうになっていた時も、その匂いに僕は一瞬で気が付いた。ああ、あの娘が来てくれたのだと。会いたくないとは言ったものの、数年ぶりの再会というものは、矢張り嬉しかった。

 

 赤い刃の形をしたクインケを使い、一瞬でリゼの腕を切り取った実力は、最後に別れた時とはまるで比べ物にならないほど上達していた。身内びいきではないが、あれはもう一つの達人の域に入っていると言っても良いほど、卓越している。余程のことをしなければ出せない動きを見て、この娘はそれだけ沢山頑張ったんだなと感慨深く涙が出そうになってしまった。

自分の腕とリゼの腕をぶっきらぼうに差し出されたときは、無言で立つあの娘の顔が少し笑っていたのを思い出す。彼女の笑顔は、僕にとっても、かなり嬉しい出来事だった。

自分の腕から溢れた血に塗れた姿、雨の中、どす黒い返り血を浴びて佇む姿。過去の記憶が浮かんでは消えていき、それらを修正するような今の彼女の明るさが暖かく、闇に生きるしかなくなった僕にはとてもまぶしく見えたのだった。

何度か暴言や暴力を振るわれたりもしたが、頬を膨らませたりする癖は昔と何も変わっていない。それがどうしようもなく、僕の口をにやけさせて訝しげな表情で見られてしまった。

 

 あの後、僕たちはすぐに分かれることにした。CCGの捜査官が僕のような喰種と一緒に話している光景を、もし誰かに見られでもしたら、それは彼女のこれまで作り上げてきた人生を終わらせてしまうことに等しい。僕はもうあの時のように彼女から何も奪いたくはない。

両親を奪われてしまった彼女のそばで、ただ俯くことしか出来なかった情けない自分に、逆戻りしたくはない。

そのためになら僕は喜んで自分の心臓を赫胞をも彼女にささげられるだろう。必要とあらば、僕の身体でクインケを作ってもらっても構わないとさえ、思っている。

愛すべき存在に必要とされ、武器としてともに憎い喰種を殺し尽くすことが出来るのなら、僕は何も反論はしないのだろう。喜んで身を差し出す覚悟はもうとっくに整っていた。

だが、彼女は……その言葉を言った時、怒ったのだ「勝手に死ぬな」と「私が決着をつけるまで待て」と、僕をそう良い留めたのだ。つまりは「お前は私が殺すから、その時まで絶対に死ぬな」と言いたいのだろう、まったくわがままが過ぎる所もまた、まったく変わっていない。

優しくて気高い僕の家族であり、親しい友人は、今も僕の心の中に大きな意思となって住み続けているのだった。

 

「でも、梟は…本当に僕たちの両親を殺したのか?」

 

 あの気前のよさそうな、喰種ではないようなオーラを纏う存在が、とても僕や彼女が追う最凶の喰種だとはとても思えないのだ。始めてあってこの目で見て確信した、アレとこの老人では噂による特徴こそは似てはいるが全くの別人だと。まだ僕個人の推測の域は出てはいないが、おおむねそれで間違いはないと思う。嬉しいよう悲しいような気持ちで僕は再び東京20区の街並みを眺めながら、偶に立ち止まって看板を眺めたりしつつ、再開した友人にも手伝ってもらって「あんていく」という喫茶店を探していた。

もちろん彼女にはその喫茶店が珍しい場所にあって珈琲がおいしいらしいから、探しているという事しか言っていない。一緒になって探してくれるとは思わなかったが、彼女も存外珈琲好きなのかもしれない、それだけに関して言えば味覚は合うだろう。

 

「あんていく」そこに……事の真相を聞くために、彼が本当に「隻眼の梟」であるのかを確かめるために。気合を入れなおして、歩き出した。

しかし、その僕の決心はものの数分で揺らいでしまった。リゼの肉の一部を食べたとはいえ、あの時の僕は戦いの疲れで消耗しすぎていた、身体に残るRc細胞も、もうそこまで残ってはいないだろう。きゅうと腹が締め付けられる感覚を感じつつ、そろそろ食事(喰種)を摂らなければ、また喰種特有の飢餓感に追い詰められてしまうだろう。

今度という今度はもう、彼女は助けてはくれないだろう。もし助けられるとしてもこれ以上彼女のCCGで働く彼女の手を煩わせる事はしたくなかった。

「ん、この美味そうな匂いは…」

ふと漂ってきた喰種の血のにおいを辿っていくと、大きなマンションが数多く立ち並んだすぐ近くの場所で、一人の中学生くらいの少女が地面に座り込んでいる光景を発見したのだ。少女は足が動かないのか悔しそうに自分の握り締めた拳を凝視しており…どこかで見たことがあるような気がしたのだった。どこか、最近あったことのあるような……

 

 まあ流石に人間のように悔しそうにしている少女を喰種とはいえ、襲うことは出来ないと、僕は少女を警戒させないように正面から近づいてからしゃがみ込み、そっと頭を撫でて見た。昔からあの娘に対して行ってきた動作だったが、つい彼女と印象が被ってしまい手に出てしまったらしい。

余計な事をしてしまったかとも思ったが、意外な事に少女は僕に抱きついて大きな声で鳴き始めてしまったので、僕は仕方なく少女を抱きしめて背中を撫でてやったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少しだけ、少しだけなら腕を食べても怒られないだろうか…?

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し時間が欲しかった。いや、正確には誰かにこの状況の説明をお願いしたい。確かに食べ物の若干美味しそうな匂いに脳が鈍ってしまっていたとはいえ、こうして獲物…肉…いや少女に抱きしめられているという状況は如何ともし難いものがある。

東京20区に存在するマンション地帯、天から照り付ける日差しが眩しい昼間は、比較的人の往来が少ないので、そうそうこの状況を誰かに見られることはないが、それでも僕は内心焦っていた。

餌…いやまだ中学生くらいの少女に、一八歳の僕が抱きしめられるという状況は、ある意味では警察官が急いで飛んでくる事態に発展しかねないからだ。

駆け付けた警察官を巻くのは容易いが、それでも僕の素顔を彼らに覚えられてしまうのは、その情報がCCGに伝わってしまう危険性があるのだ。あの娘が何かしらの決着をつけるまで、僕は死ねない事になっているので、そんな醜態をさらした挙句CCGのお縄につくという馬鹿な死にざまだけは演じたくなかった。あの娘はきっとそんなことがあったとしたら、地獄にまで僕を殺しにきかねない。

喰種を殺してそいつを地獄行きの切符を与えてやるのは良いが、あの娘には地獄には来てほしくない、人間であり人の敵を倒す彼女にはきっと天国のような、ふさわしい場所というものがある。

そういう僕も、科学崇拝の国である日本に生まれているわけで、そこまで神秘的な話を信じているわけではないのだが、あれば良いなと、そう思っている。

行ってしまえば、地獄も天国も生前に何をしたかが報われる場だ、因果応報、自業自得、自分がしてきたことが全て自分に跳ね返ってくる場所だと僕は考えてくる。

その地獄、天国に関する考えは人それぞれで「罪」や「悪」一つとってみても、個人によって多種多様の考え方があるわけで、一概に僕の理論が正しいとは言えないが、僕はきっと地獄へ行くのだろう。

 

 「罪」と言えるものは、生きていく中で何度も何度も繰り返し行って来た。生きるために何かの命を奪う行為は等しく「悪」だと。その点においてはこの世に生きる動植物全てが「悪」となってしまうが、実際そういう事なのかもしれない。

最後はその個人の考え方次第なのだ。罪悪感にさいなまれるのも、人を殺す快感に身体を震わせるのも…そして、喰種を自分の理念のために殺すのも、それが「善」である当人が思えば、それは当人の中では「善」になるのだ。

考えを持った生物の数だけ善悪が存在するとはよく言ったものだ、だからこそ世界は「悪」に致されていて、反対に「善」にも満たされているのかもしれない。

だから、僕は己の善をただ純粋に遂行すればいい、そうすることが「悪」にならない唯一の道なのなら……

この場合、喰種を殺して人生を終わらせてしまうよりも、話をしっかりと聞いてあげて心のケアをしてあげる方が「善」だと、僕は思ったのだった。幼いときに、まだ生きていた父に言われたことがあった「困っている人がいたら助けてあげなさい」と、当時はそれがどういう意味なのかはあまり分かっていない内に反射的に返事をしてしまっていたが今ならわかる。

父はこういう時、道端で泣いている可笑しな少女=困っている人?を助けることが「善」だと言っていたのだ……

しかし、善を遂行しようにも、僕としても分からないことはある。喰種を襲い喰らう事が「善」だとそれだけを考えていたので、僕は中学生くらいの少女の喰種の慰め方を知らなかった。

そもそも、何がどうしてこの黒髪の少女が泣いているのかも、そのヒントすらない状況なのだ。

 

 

 

 未だに嗚咽を漏らして僕の胸の中で泣き続ける少女に対して何も思わなくはなかったが、首を締め上げて鳴き声を止めるにしてもそれは息の根も止めてしまう。なら、僕はどうすればいいのだろうか。アメでも買ってやれば泣き止むのかもしれないが、生憎僕の財布には食事も生活も主にサバイバルなので一銭も入っておらず、それを買ってやることも出来ない。

……っと、相手は喰種なので、アメの味も分からないから吐き出してしまうのか、これは渡してしまう前に気が付いてよかった。もしもたまたま僕がアメを持っていたら、少女に気を遣わせてしまって不快な気持ちにさせてしまっただろう。

だとすれば、喰種が喜ぶことといえば、僕は一つしか知らない。「人を、食べる事だ」。

これはどんなに小さく可愛らしい外見をした幼い喰種であっても、まず喰種というカテゴリーに属するのなら、例外なく当てはまる事だ。勿論僕にも、当てはまる……

まあだからと言って、わざわざ自殺者から先の笛口家族の様に肉を切り取って、人肉を与えてやるほど僕は喰種に対して心を開いているわけでもないので、そこは諦めろと言うしかない。

生きている人間を殺すなどもっと論外だ、そんな事をするくらいなら、ここでこの少女の息の根を止めて美味しく僕の腹に収めてやった方が、まだ世のため人のためになろう。

CCGから感謝状が届くかもしれない。

 

 「うああああっ、うぐっ…ひっぐ…ううう」

 だらしなく眼から涙を滝の様に流し続ける少女は、喰種というだけで僕の感性に全く響くことなく、ただただ煩い雑音でしかなかった。確かにこの苦しげな声は、喰種を惨殺している時にも似ていて興奮しなくもないが、所詮それまでのものだ。

いい加減、イライラもMAXなので、此処は本当に息の根を止めてやろうかと思ったが、善行をしなければという信念から、辛うじて踏みとどまる。

……そう、少女は優しく…喰う、慰めてあげなければいけない。

 

「よしよし辛かったね、何があったのか僕には分からないけど、きっと余程な目にあったんだろうね……、でももう大丈夫だよ、今日は僕が居るから存分に泣くと良いさ。

泣いて泣いて、そして全部忘れてしまえ。辛かった事も、悲しかったことも全部思い出にしてしまうと良い。背負い込まなくてもいいんだ、吐き出してしまえ」

 

 ポンポンと背中を軽く叩いて、少女の中のリズムを整えてやると、次第に少女の鳴き声も収まり始め、乱れていた呼吸も徐々にだったが安定していったのだった。

頬へと線を描くように流れる無数の涙を、ポケットから取り出した黒い生地のハンカチで拭ってやると、少女はくすぐったそうに眼を細めてから、そっと僕から離れてくれたのだった。

言うまでもない事だが、今日来ていた黒いシャツとズボンは彼女の体液の所為でとてもべたべたに濡れ、喰種のとても美味しそうな匂いを放っていた。

口に溢れ出る唾液をゴクリと飲み干し、まだ若干涙目で嗚咽を漏らす少女を見れば、頬を赤くして顔を伏せられてしまう。

 

「落ち着いたかな?」

 

 精いっぱいの笑顔で少女のリラックスを促すが、どうやら逆効果だったようで、今度は耳まで飛び散った鮮血の様に真っ赤に染めてしまったのだった。

「あ…えっと、すいません…ちょっと最近いろんな事があって…」

「ああ、言わなくてもわかるよ、ちょっと君は一人でいろんなことを溜め込んじゃうタイプみたいだね、もっと周りの人に相談でもしてみたらどうだい?

よかったら、これからは僕が相談に乗ってあげようか?」

 

 

「そ、そんな…悪いです…えっと…わ、わたし霧島董香って言います!」

 少女は僕の言葉に首を横に振っていたが、はっと何かを思い出したように顔をあげた。ようするに自分の名前をまだ言っていないことに気が付いたのだろう。

喰種の名前を聞いたところで、ああこれはトン子という豚の肉なのか、くらいの意識しかないが、こうも積極的に教えてくるので、一応は覚えておくとする。

それにしても霧島…か、他人の空似か偶然だとは思うが、その男勝りそうな釣り目がちの目元を除けば、その顔はあの男に似ていた……

 

 

「ああ、自己紹介がまだだった…僕は幸途音把、よろしくね」

 

 出来れば君の肉を相談に乗ってあげる代償として払ってくれないかな?などと僕は口が裂けても言えなった。

 

 




 昨日ヤングジャンプを読んだのですが、最近の東京喰種は展開がインフレし過ぎですね、面白いから良いのですが。
もう初期の馬糞先輩が完全なモブに成り下がっていますね…
そう言えば、馬糞先輩は馬糞食べたらしいですけど(笑)、喰種の味覚って人間とは違うらしいじゃないですか?
……鯛焼きと馬糞が同じ味なのか、馬糞を例えに出したのか、ことばのあやなのか…
考えれば考えるほど疑問がつきない問題です。

アニメの方は大分巻いて月山が急に登場…段階をすっ飛ばしているから、そっち系にしか月山が見えない。
…アニメは成功なのか、失敗なのかで意見が割れると思いますね…

2015/4/1  合併修正


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#013「喫茶」

 丸く大きな月が、じめじめとした夜の蒸し暑い空に、まるで幾人かを映し出すスポットライトかのように煌びやかに輝いていた。東京都20区にあるマンション地帯から少しだけ歩いた場所に点在する、商店が立ち並んだ道を抜けると、古式の様式美に現代風な雰囲気を混ぜ込んだような、所々に木の柱が立っている喫茶店を見つけることが出来た。木で作られた店先にある独特な雰囲気を出す看板にはひらがなで「あんていく」と書いており、これがこの喫茶店の名前なのだろう。

あんていく…恐らく外国語のアンティークをもじっているのだと思われる。なるほどその通りで中の内装も見る限りでは所々に中世ヨーロッパ風の古具が置かれていた。

中の様子はガラス張りになっている大きな窓のおかげで眺めることが出来、中にも真夜中ながら数人の人影が歩いていることから、営業が続いていることがわかる。

「此処かい?」

「はい」

僕は、背中に負ぶさった、まだ眼を擦っている、肩の方まで伸ばした髪が顔の半分を被っていしまっている少女に向けて語りかけた。二人の服装は互いに少し汚れており、だが少女はそれをたいして気にすることも無く、僕は喫茶店の入り口である木製の扉を押したのだった。

あのまったく嬉しくなかった出会いから数時間後、やっとのことで元の調子を取り戻した少女を、家に送ってあげようとした所で、少女は自分がバイトへ行かなければならないことを思い出したらしい。慌てて立ち上がろうと、まだ腰が抜けたままなのか、何とか奮闘する少女をこのままにするわけにもいかず、仕方なくこの喫茶店まで負ぶって来たのだった。

少女は始め恥ずかしがっていたが、このままではずっとこの場所に留まらずるを得ないことに気が付いたのだろう、頬を羞恥から真っ赤に染めて小さく「お願いします」と言ってくれた。

少女の身体はとても軽く、いままで喰らって来たどの喰種よりも体重がなかった。これが子供の重さなのかと少し驚いたくらいである。

「おや、すまないね、もう店は終わり……トーカちゃん?」

 喫茶店に入った僕たちを迎え入れてくれたのは、小さなカウンターの中で黒い色のコーヒーメーカーから、白い陶器製のコップの中へと湯気の立つコーヒーを注いでいた、初老の男だった。この喫茶店の制服なのか、白と黒の配色が目立つウエイトレス風の格好をしている様子は、長年培ってきたものなのか様になっていた。

この男が店長なのだろうか、部屋全体に充満したコーヒーの香ばしい匂いに邪魔されてあまり感じ取ることは出来なかったが、多分この男も喰種だろう。

喰種が開いている喫茶店に従業員が喰種という組み合わせで、お客さんが全て喰種というのなら丸く収まるのだが、少女にここに来るまでに聞いた話によると、この「あんていく」という喫茶店は特に会員制ではないらしく、来る者拒まずというスタイルらしいので、恐らく人間のお客もくるのだろう。

こういう喰種が営むお店というものも僕は何件か知ってはいるが、そこの店長の多くが実力者揃いという事が多いので、僕は喰種をそこへ襲いに行ってはいなかった。SS級くらいなら一対一でなら倒せると思うが、SS級を交えた多対一になってしまえば、以前梟と戦った時よりも分が悪い。

僕の赫子一本で一人を相手にするにしても通常レベルの雑魚喰種5人とSS1人の6人が限界だろう。あの技を使えばもっと多くの喰種と戦えるかもしれないが、如何せんアレはまだ練習不足のために暴走して収集が付けられなくなってしまう。

冷静さを欠いた状態で多対一に挑むのは、不意打ちされやすい為、僕はそういう店には近づかなかったのだ。

 そして補足とでも言っておくが、この背中に負ぶわれている少女は、僕が喰種だとは気付いていないようだった。何度かここに来るまでにそのような質問をしたのだが、全部言葉を濁されて躱されてしまった。これは僕に自分が喰種だと知られたくないのだろう、まあその思考は喰種であれば当然のものだし、他ならない僕も永近君に対して思っている感情だった。

だから僕はその事を深く追求することをやめて、僕の正体を気づかれるまでは明かさないように決めたのだった。個人情報は出来る限り隠蔽した方が世間をわたって行きやすいというのは、今までの13区での経験から学んだことだ。

と、そういえばさっきから少女の声が聞こえないと思って後ろを見ると、少女は僕の背中にしがみ付いたまま静かな規則正しい呼吸音を響かせて眠ってしまっていたのだった。

初老の男は店に入って来た僕と、その背中に負ぶわれていた少女を見て何か意外そうに眼を見開いていたが、やがて察したように眼を元に戻して、よく来たねと微笑んでくれた。

すやすやと熟睡してしまった、後ろの少女を店長と協力してstaffonlyと書かれた扉をくぐり、二階にある部屋のベッドの上に寝かせた後、カウンターにある丸い椅子に腰かけた僕にそっとコーヒーを初老の男は差し出してきた。

「飲むといい、この子をここまで送ってきてくれたお礼だよ」

「あ、すいません…」

 砂糖の類は一切入っていないようで、一口飲めば口いっぱいにほろ苦い香ばしい旨味が広がり、身体が暖かくなった。人間の肉、または喰種の肉しかまともに食べる事が出来ない喰種という種族だが、何故かコーヒーだけは味覚においても人間と同じらしく、楽しんで飲むことが出来るのだった。

「これは、美味しいですね」

自動販売機や、そこらへんの喫茶店で出される酸味の強いものとは違う、しっかりと香、艶、コクと三拍子そろっている見事なコーヒーだった。この店にやってくる客は皆こんなに美味しいモノを飲んでいるのだと思うと、少し負けた気分になってしまう。これからは此処にコーヒーを飲むためにやってこようか……だとすれば矢張りお金が必要になってくるし、問題は山積みだ。

「まったくトーカちゃんにも困ったものだ、今日は安静にしていなさいと言ったばかりなのに……本当に君には感謝してもしきれないよ、ありがとう」

「いえ、そんな」

正直なところ、そんなに褒められるようなことを僕はしていない。善行を積むという打算に裏打ちされた行動の結果であって、それはして当然の事なのだ。褒められる筋合いすら存在しない。

「まさか、あれから数日も経たないうちにきてくれるとは思わなかったよ」

「はい…僕もまさかあの少女のバイト先がここだとは思いませんでした、でもそれ以外にもここを探していたんですけどね」

「おや、それはまたどうしてだい?」

僕は手元のカップにまた口をつけて、暖かい味を噛み締めながら、また言葉をつなぐ。暖かいうちにこのコーヒーを飲んでしまわなければ、僕の今からする話は長いので、冷めてしまうからだ。

美味しいものはもっとも美味しい時に食べなくては、食材に失礼だろう。それはコーヒーでも喰種(ご飯)であっても同じ事だ。

「梟…いや、芳村さんに聞きたいことがあったんです。早急に正さなければならない真実がある気がして、居てもたってもいられなくて…貴方は人間と、喰種の共存を望んでいる数少ない思想を持つ喰種だ、そしてその心もまた人間を愛している…」

「概ね、間違ってはいないよ」

芳村さんは、洗い終わったカップを白い布で水滴をふき取りながら、にこやかな顔で答えてくれた。

ならば、これから言う僕の質問にも、彼は答えてくれるのだろうか。

「なら…人を愛しているなら、どうしてアンタは僕の両親を殺した?」

笑顔が消えた…一瞬で部屋が張りつめたように暗く重いものに変わってしまう、これはただの比喩ではなく、この目の前に立つ梟の何十年も生きた喰種の持つ気迫なのだろう。

流石は梟だと喉を鳴らしたが、そんな気迫程度のもので諦めがつくほど、僕の意思も生半可なものではない。予想外に喫茶店にたどり着いてしまったが、そうなってしまったら最後まで言ってしまうのが一番いいだろう。

何故、僕の育ての親を、梟が殺さなければならなったのか、人を愛すると歌う喰種が何故、それとは正反対の事をしたのだろうか、僕にはそれが知りたくて仕方なった。

この男に対する恨みは、ただ単に喰種に対する悪感情でしかもっていない。僕の両親を殺した事に対しても当時はそんな暇はなかったし、今としても僕はこの優しい笑みを浮かべる男を糾弾するつもりはなかったのだ。

だが、問題はこの「梟」をCCGがいつか戦うべく狙っているという事、そんな日が近いうちに来れば、きっとあの娘も特等ということで駆り出されてしまうのだろう。だからこそ、僕は相手の事を知らなければならなかった。「梟」という存在を知り尽くして、あの娘を守らなければ…そう思っていた。

 

 静かな喫茶店の中で淡々と洗い終わったコーヒーカップやソーサーを拭いていた、短い白髪の店長は暫くの沈黙の後、やがて溜息をついて諦めたように僕の顔を見た。店長の顔は何を考えているのかわからない微笑をたたえていたが、じっくりと観察してみるとほんの少しだけ冷や汗をかいていることがわかる。動揺しているのだ、この老獪でまだ若者にはまけないという迫力を感じさせる、ベテランの喰種は僕の話し出した話題にひどく混乱していた。

 

「この話は他言無用で頼むよ……」

右手の人差指を口元に持って行って少し眼を開けて赫眼を発現させた店長、そこから溢れ出る強い威圧に、今から話す話題が僕の予想を遥かに超えるものだという事に気づき、静かに僕は店長に頷きを返した。それを確認した店長は店内に眼を走らせてから、磨き終わったカップを棚に並べ、カウンターの僕の隣の席に腰をかけた。

「君は、確か赫眼が片方だけだったね」

「え…はい」

唐突にふられた話題に答えに貧窮してしまうが、別に嘘をついたところでどうとなる問題でもないので、僕は正直に話した。この店長は今この場においては信用できる、今更変なところに話題を変えて自分の事を隠そうとはしないだろう。だから、この何気ない好奇心から来たような質問も何か意味があるに違いない。

だが、一体赫眼が片方だけだからと言って何なのだろう、少し他の喰種とは違っているなくらいの認識しかなかったが、何か理由があるのだろうか。そんな僕の疑問を見抜いたのか、店長は自分の眼を見開きその双眸を赫く染めた。

「喰種の赫眼は基本的にその両方の色が変わる、これは喰種の中にある細胞が目に影響を及ぼしているからだね。だが、喰種の中には赫眼が片目だけにしか発現しないものがいるんだ」

「隻眼……の梟」

そうなのだ、この店長の眼はどう見ても両方に赫眼が発現している。噂で聞いていた「隻眼の梟」の赫眼はその異名の通り、片目だけが赤いという。なら店長は「隻眼の梟」ではないのか?

それならば、僕の両親を殺した人物と、人間を愛すと言う人物が別人ならば、今までの店長の優しそうな風貌にも納得が出来た。

しかし、一つだけ疑問が残ったのだ、それはこの店長の何か勿体ぶっているような喋り方だ、まるで店長は、僕や梟のように片目だけが赫く染まる喰種の理由を知っているかのような……

微妙な違和感に支配されつつも、店長がそれを言わないところを見るに、しつこく聞いても教えてはくれないのだろう、残念だがその辺は自分で調べることにする。

 

「そうだよ、私は君の言う梟じゃない……でも、責任の一端は私にもある。今、全てを語るわけにはいかないが、謝らせてくれないかな」

「……やめてください、僕は貴方に誤ってもらうために、こんな話をしたわけじゃないんです。

真実を知りたかった、それはさっき言った事と同じです」

そっと頭を下げる店長を僕は手で制し、首を横に振った。本当にそういう問題ではないのだ。

人間を愛し共存を語るこの男が、もし人殺しを楽しんで行っているその辺りにいる、下種な喰種と同じなのか確かめたかっただけだった。

そして「梟」がこんな出来た人物だったなら、僕はあの娘の為とはいえ、この喰種を殺すことを躊躇してしまっていただろうから。まあ、もちろん勝ち負けの問題はあるが。

それに、例え「隻眼の梟」が店長と関係のある人物だったとしても、僕に謝らなければならない奴は店長ではなくその「隻眼の梟」だろう。

 

「貴重なお話、ありがとうございます…」

もう十分店長の心は伝わって来た、こんなにも話が分かる、人の良い喰種がいるのだとわかった。だからもう聞くことはないと僕は立ち上がり、あまり迷惑をかけるわけにもいかないので、ここから出て行こうとしたところで、店長に手を掴まれた。

「よかったら、此処で働かないかい?」

「え?」

「この喫茶店は、人間も喰種もえり好みせずに美味しいコーヒーを提供するお店だよ。でも、お客様の中にはこの喫茶店にやってくる人間のお客を食べようとする子がいるんだ。

喰種としては仕方ないのかもしれないけどね、せめてお店にいる人間のお客様には、店を出ても安心していて貰いたいんだよ…」

「僕を…用心棒に?」

それは建前だろう、店長の口調はずっと暖かい。多分そのような事を言って、僕にコーヒーの淹れ方などを教授したりとしてくれるのだろう。きっとこの人は僕に同情してくれたのだ。

5日前、初めて店長と出会った日にも、店長は僕の顔を見るなり憐れみににたモノを浮かべていた。あの時は本当に腹の底から煮えくり返るほど怒りが込み上げてきたが、その憐れみという感情が、ここまでの優しさから来るものだと分かってからは、その視線はとても心地いいものだった。

まるで両親の優しかった眼を見ているようで、一瞬「はい」と言ってしまいそうになった僕はあわてて口をつぐんだ。

 

「君のその腕を買いたいと思ってね、君さえよければ…」

「すいません、僕にはまだやらなければならない事があるんです、もっと僕は強くならなければならないんです」

そうだ、最後の生きている家族でもあるあの娘の事を守らなければ、本当の殺人鬼としての「隻眼の梟」の脅威からか弱いスズを守らなければいけない。

「ふむ…よければ君を鍛えてあげるよ?」

さっさと帰えらなければこの喫茶店の雰囲気にやられてしまいかねなかったので、店長の手を振りはらい、木でできた扉に触れたところで、僕の手が凍り付いたように動かなくなった。

いや、店長の口から出た言葉を僕は聞き逃せなったのだ。この人は今なんといったのか?

今、確か鍛えてくれるとか……言っていなかったか?

「何のために強くなりたいのか私にも、なんとなく理解は出来るよ。ちょうど四方君もいるし、君も一緒に鍛えてあげよう……赫者の制御の仕方もね」

 

その申し出は願ったり叶ったりというか、むしろこちらから誰かに頼みたかったことだった。梟ではないにしろ、噂の梟に似た姿かたちをして梟並の力がある喰種に鍛えて貰えるのならば、それは外に出て通り魔的に喰種を狩っていくことよりも効率は良いだろう。

四方という人物は分からないが、店長の言葉から恐らく僕と似たような境遇の人物なのだろう。そんな喰種とも会ってみたいとも、話してみたいという好奇心も湧き上がってくる。

……まったく、これもすべて店長の計画通りなのならば、この人はとんだ狸だ。

近い将来、この店長のミステリアス加減に翻弄される人が居なければいいのだが……

ともかく、もう僕としても強くなることに越したことは無いわけで、もう店長からの誘いを断る理由は無くなってしまった…

赫者という、僕がどうしても暴走してしまう形態の制御方法を教えてくれるというのも、喉から手が出るほど望んでいたことだった。ここまで飴をちらつかされてしまうと、僕としても迂闊に返事をして店長の気持ちを変えてしまうのはどうしても避けたかった。

 

「……お願いします、守りたい人のために、僕に力をください」

 

 その日から僕は喫茶店「あんていく」でウエイターとして働くことになったのだった。注釈しておくと、もともとサバイバルのような生活をしていて家のない僕は、店長からの好意にあまえて喫茶店の二階で寝泊まりすることにしたのだが……

何故か一週間に3度の頻度で、黒髪の少女が僕の部屋にいるのは一体どういうことなのだろうかと、一時期かなり困惑したのは、また別の時に話そうと思う。

 




はい、今回も最後まで読んでいただきありがとうございます。おかげさまでこの二次小説も一瞬ですがランキング1位になることが出来ました、本当にありがとうございます。

原作とアニメの方向性が随分とズレて行っているようですが、あれですかね1クールでアオギリまでやってしまう気なんですかね……
第一話の冒頭でヤモリが出ていましたし、ちょくちょく伏線のようにヤモリが絡んでくるところを見ると、もう8話くらいでアオギリ…というのを覚悟しなければなりませんね。
せめて2クールくらいにしておけば楽しめたのに、と思うことしきりです。

 今回もご愛読ありがとうございます。今回の話で第二章は終了です。ここまでお付合いしてくださった方々、本当にありがとうございました。
それでは次回をお楽しみください。

ご意見、ご感想、些細な事で構いませんのでお持ちしています。

2015/4/1  合併修正



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#014「惨劇」

 私が物心ついたころ、もう私の側に兄という存在はいた。それは当然だろう、私より後に生まれた家族を兄とは呼ばないのだから、私より前に生まれた、そして親よりも後に生まれ出た家族を、私は「兄」と呼ぶ以外言葉を知らなかった。幸途鈴音それが私に付けられた、幸途家の家族として、父や母の娘として、兄の妹としてつけられた名前だった。

私の家はそれほど裕福な家計でもなかったが、だからといって明日食べていく食料に貧窮するほど、貧乏な家計という訳でもなかった。有り体に言えばどこにでもある平凡な家計。

父親が二流企業のしがないサラリーマンで、母親が近くのスーパーでパートに勤しむ専業主婦という、両親と兄妹の4人の核家族。探せば日本全国に何千人と見つかりそうな、珍しくもない家族構成でしかない。

祖母や祖父は私が生まれる前にどちらも他界してしまったらしく、どこかのアニメの家族の様に家族大団欒といった事は今までされたことは無い。だが、別にそのことに関して私は何も感じてはいなかったし、まあ月に貰えるお小遣いが少ないと不満はあったけど、おおむね私はその家族に満足していた。

とても仲の良い家族だったように思う。父や母は顔を合わせばいつも笑顔を見せ、兄は少し無愛想だったが、いつも学校に迎えに来てくれたりと、内面はかなり優しかった。流石に中学生になった時にも学校に迎えに来てくれたのには恥ずかしかったが、嬉しくもあった。

ああ、兄はそこまで私の事を心配してくれているんだなと、友人達にあれこれ言われる恥ずかしさも忘れて物思いに耽ってしまったこともあった。兄妹は歳が近いと険悪になりやすいと、学校の友人から聞いたこともあったが、その言葉が都市伝説に思えるほど私たちは仲が良かったのかもしれない。

兄と過ごす時間は、私にとって友達と遊ぶ時間や一人で過ごす時間を潰してでも得たい、至高の時間だった。私は中学生になるまでに何度も何度も事あるごとに兄の部屋を訪れて、知識人だった兄の話に聞き耽っていた。

昔から本を沢山読む兄は、兄と同年代の人と比べても、頭一つ抜けて知的で、それゆえに兄のする話は難しかったが、とても内容が深く最後には私にも成程と思うものばかりだった。

兄は年下の私のわがままに、全く嫌な顔ひとつせずに付き合ってくれた……分からない勉強や作文もそれと無く教えてくれ、友人たちとの約束を蹴ってまで、私と共にいてくれたのだ。

当時はそれが普通だと疑わなかったが、中学生になるにつれて徐々に心から話せる友人も出来てきた時点で、私の兄が他とは違っていることに気が付いたのだった。

だから、私は誇りだった。優しく賢くカッコイイ兄との日々が、私にとっての宝物だった。

…あの日までは。

 

 あの日、私たち家族の住んでいた家が真っ赤に染まってしまった日から、私の幸せだった日々は終わりを告げることになる。それは、本当に唐突に何の前触れもなく、私の目の前から家族を全て奪い取った……両親を血に染め上げ、そして、あんなに優しかった兄を変えてしまった。

血に濡れた部屋を兄は私に見せまいと、手で眼を隠してくれた時の兄の顔は、どこか暗く……何か遠くを見つめているようでもあった。数少ない親戚が集まったしんみりとした葬式の最中、うわ言のようによくわからない言葉を呟きながら、当然葬式の会場を飛び出していった兄の背中を今でもはっきりと覚えている。大きかった憧れの背中は、どこかやつれてひどく小さく見えた。

その日から兄は自分の部屋から何をしても、何を言っても出て来なくなり、心配になった私が無理やり部屋にかけられた鍵を壊して中に入ったときには、部屋の隅に頭を抱えて蹲り、今にも死にそうな風に蚊の鳴くような声で呻いていた……「食べたくない」と。

その、言葉が聞こえてしまった時、兄の右目がやつれた体に対して嫌に真っ赤に輝いているのを見た時、私は兄が人間ではない事を知ったのだった。

 

 巷でガセネタと共に色々なメディアにも取り上げられて、今や日本中の人間が知っている生物。だが、殆どの人間はその存在とは無縁に人生を送り、そして無縁なところで人生を終える。私もよく騒がれているなとニュース番組を横目に、だが私とは無関係だとあまり気にはしていなかったのだ。

兄が教えてくれた都市伝説の一種か何かだと、その時までは思っていた。本当に存在するはずはない、空想上の産物なのだと……恐ろしい殺人鬼の別称か何かなのだと、そう、思っていた。

『喰種【グール】』、日本では「屍鬼」と書くゾンビなどの別称。それを捩り、「人を喰べる、人では無い新たな種類」ということでつけられた喰種は、私の兄だった。

だったが、それだけで私の心が変わってしまったわけではない、そして兄の心が根本から全てそんな化け物になってしまったのかというと、そういう訳でもなかったのだ。

兄は、私の大好きな兄は、「人を喰べたい」という強烈な空腹感と戦っていた、部屋の隅に居座る兄は私の存在にいち早く気が付き、その口を開け…床に思い切り自分の顔を叩きつけたのだ。

ゴンという鈍い音が聞こえた、私は悲鳴をあげそうになったが、兄の声を聴いてその喉から出かかったものを飲み込んだ。

 

「にげ…ろ」

 兄は…何処まで、私の兄であろうとするのか、知っていた…兄が本当の私の兄ではないことくらい。以前、夜に目が覚めた時に両親が話していたのを聞いてしまった。それなのに、兄は兄のままで…こんなに苦しい状態でも兄は私の事を思い、私を絶対に食べまいと自分自身を痛めつけていたのだ。涙がこぼれた、兄をこんな状態になるまで気が付くことが出来なかった自分を恨んだ。いつもいつも私のわがままに付き合ってくれ、少ないお小遣いを使って私の服やアクセサリーを買ってくれる兄に、いつしか私は負い目を感じていたのかもしれない。

兄は私の事をどう思っているのか、もしかすると要らない子だと思われているんじゃないだろうか。

兄に甘え過ぎていた私は、兄がおかしくなってしまって初めて、自分のしてきたことに気が付き、兄にどう見られていたのかが酷く気になってしまったのだ。

大好きな兄に嫌われてしまっていたのなら、それに気が付かず何年も過ごしてきたのなら、私は兄にとって目の前をうろつくハエ以下の邪魔ものでしかない。

だから…だからせめて、いままで兄が私にしてくれた分の感謝と謝罪をしようと、最後の最後まで私の兄でいてくれた音把に、私も最後まで音把の妹として兄を救ってあげたかったのだ。途轍もない苦しみから、解放してあげたかった。それが、その行為が後の兄の心をどれほど傷つけてしまうかも分からずに、私は自分の肉を差し出したのだ。

部屋に散らばっていたカッターナイフの刃で自分の手首を、目をつぶって思い切り、切り裂いてから溢れ出る自分の血を肉を骨を、飢えに苦しむ兄にささげた。これが、今まで兄にわがままを言い続けた、生意気で蟲以下な私の出来る恩返しなのだと思っていた。私の命で兄が救えるのならば、少しは兄は私の事を好きになってくれるのだろうか…と。

兄が…何のために、私を食べずに今まで我慢していたのか、何のために、私のために時間を作ってくれていたのかを……その時の私は何も知らなった。知らなかったのだ!!

 

「う、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ」

私の肉を食べ、正気に戻った兄のあの……この世に絶望したような叫びと、私に向けられた涙が……忘れることが出来ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私は…愚か者だ」

 




本日もご愛読ありがとうございました。
今回は幸途鈴音の過去編という事で楽しんでもらえれば幸いです。
ここから物語はゆっくりと、原作の方へと近づいていきますのでお楽しみに。

脱法狸さんが、この小説の主人公の絵を描いてくれました、ありがとうございます。
【挿絵表示】


2015/4/1  合併修正


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第三章「喰事」
#015「淹方」


 芳村さんの営む喫茶店へ働くことを決めてから数日、着々とその下準備は進み、ウエイターの制服やエプロン等は予備があったのか、芳村さんが2階にある倉庫から出してきてくれた。

制服があるからと言って僕はまだまともにコーヒーも入れたことが無いので、店に出るよりもまず閉店の後の時間を利用して、美味しいコーヒーの淹れ方の練習をしていたのだった。

今日は明日が休日という事もあって、少女…ああいや董香が僕に付きっ切りでコーヒーの淹れ方、タイミングについて教えてくれていたのだった。

「えっと、まずはこの紙の袋に炒ったコーヒーの粉を入れて、ガラス製のサーバーに固定してお湯を入れていくんです」

サーバーというのは、緩やかな逆三角形の形をした、ガラス製のやかんのような形状をしている器具で、コーヒーを作るときに欠かせないものなのだという。コーヒー粉に湯を流しんこみ、それを余計な固形物を取り除くために紙でろ過し、そのサーバーに貯めていくという過程を繰り返す。

スーパーや外の自販機で売っていたコーヒーに比べて、この喫茶店のコーヒーが酸味が無い美味しさを保っていたのはすべてこの過程があるからなのだという。

コーヒーはとても繊細な飲み物で、入れる者の技術次第で美味しくも不味くも、それこそ千差万別に味を変えてしまうと芳村さんは教えてくれた。市販で売られているコーヒーの殆どがスチール缶に入っているのは、コーヒーが空気と反応して酸化してしまうのを防ぐためなのだという。

だがそれでも、空気は何処にでも入ってくるものなので、少なからず味は落ちてしまうらしかった。

 

 こうして黙々と作業を続けていると、ほんの少し前まで13区で血濡れの殺伐とした生活を送っていた毎日が、随分と昔の出来事のように感じられた。コーヒーの粉に熱い湯を注ぎいれる時に出る香ばしい匂いは、喰種の肉以外で始めて僕の腹を鳴らしてくれた。唐突に漏れた滑稽で大きな音に、きょとんとした董香は、僕の顔を驚いたようにまじまじと見て、笑いが我慢できなくなったと言うように口を決壊させてしまう。

「ふふ…幸途さんもお腹は鳴るんですね」

「恥ずかしいな、ちょっと最近忙しかったんで食べてなくてね」

肩の長さまでまで伸びた黒い髪で顔の半分を隠してしまっている董香は、まだ僕が喰種だという事に気が付いていない。僕の喰種としての匂いは少し他と違っているようで、同種であっても僕を喰種とは見抜くことが出来ないようなのだ。それに加えて僕はいつも匂い消しの香水をつけているので、董香が自分から僕の正体に気が付くという事はあり得なかった。

芳村さんもそのことに関しては黙認してくれているようで、僕もそれならばとバレるまで隠し通すことにしたのだった。喋らなくて良い情報を無暗にしゃべらなくて済むなら、あえて言わなくてもいいだろう。

相手が勝手に誤解してくれるのならば、それに越したことは無い。迂闊に真実を話してその噂が喰種に広まってしまえば、僕の命が危険になるのは明白な事だった。僕が今まで行い、これからも続けて行こうとしている行為は喰種を喰らうという共喰い。

同種を喰らうと言う天敵の存在がミステリアスな内は恐れられるだけだが、その素顔がどこどこの誰だという風にバレてしまえば、いつか集団で襲い掛かられるかもしれない。

6人程度なら捌けるが、前にも言ったようにそこにSSが一人でも追加されてしまえば、僕が負けてしまう確率がグンと跳ね上がってしまうのだ。だからこそ、僕は喰種を襲うときにもマスクを欠かしたことは無かった。

まあ正体を話したところで、下種そうな喰種に比べると董香が漏らすとは考えにくいのだが、何処でどういう風に情報が漏れるとも限らないのだ、人の口には戸が立てられないとも言うので、僕は彼女に何も話してはいなかった。もちろん、「人間関係」についてもだ。

 

「そ、そういえば、お、美味しいケーキがあるんですけど一緒に食べませんか?」

……本当にこの少女の考えることはよくわからない。喰種の味覚は人間のそれとは違い、普段人の食べているものを食べようものなら、想像を絶する不味さに顔をしかめるというのに。

もっとも、僕は今まで人間の社会に溶け込むという事をあまりしてこなかったので、人間の食べ物の味は豚肉くらいしか知らないのだが、あれは暫く舌が動かせなくなるような鋭いエグ味があった。

あの娘の言葉を借りて、人間にも伝わる様にするなら、渋柿を30倍にまで濃くした後に、ミキサーにかけて泥水と一緒に飲んだような味覚だと思う。

ケーキというものはあの娘の誕生日に見かけて、僕は眺めているだけだったスイーツだったが、恐らくそれも豚肉と同じで、食べない方がマシな味なのに間違いはない。にもかかわらず、この少女はわざわざ自分からそんな苦痛を味わいたいと言って来たのだ。人間だという事にしている僕に進めてくるのならわかる、だが彼女は一緒に食べようと言ったのだ。

この喰種は、下種で意味不明な言動の多い喰種の類に漏れず、自分が苦しんでいる様を誰かに見られて興奮するような変態だったのだろうか、もしくは泥水も汚水も喜んで食べるゲテモノ食いだったのだろうか……少し、董香の印象に対して改めなければならない部分があるらしい。

 

「いや、遠慮しておくよ、僕はあんまり甘いものは好きじゃないんだ」

その言葉は嘘ではない、人間の味覚になぞらえた甘いものを僕は食べようとは思わない。先日出会ったリゼ程ではないが、僕も喰種の肉の甘さに美味しさを見出しているので、目の前の董香の肉の甘さなら是非とも美味しくいただきたいのだが、此処は「あんていく」だ。

そんな立場を無視したことをすれば、折角僕を鍛えてくれると言っていた芳村さんに、僕への不快感を植え付けてしまう事につながってしまう。最悪、此処を追い出されるだけではなく人生ですら諦めさせられることになるかもしれない。

目の前にとても美味しそうなごちそうが転がっているのに食べてはいけないなんて、どんな据え膳だと思わなくはなかったが、楽しみは先に残していくのも悪くないと、ひとまずは納得することにしたのだった。

 

「そ、そうですか…」

「悪いね、その気持ちだけもらっておくよ…そうだ、今度一緒に映画でもみにいかないかい?」

僕がゲテモノの賞味を断ったからだろうか、眼に見えて落ち込み肩を落とす董香……あまり喫茶店での関係が悪くなっても、コーヒーの淹れ方などまだ完全に教えてもらっていないので、それに支障が出ても困るので、僕は董香の肩に手を置いてそんな話題を切り出したのだった。

正直なところ、餌と二人っきりで出かけるというのは、僕の精神状態的に悪影響しか及ぼさないだろうが、それもまたこの喫茶店でやっていくためだというのなら、我慢しよう。

映画を見ている最中にポップコーン感覚で董香の肉を貪ってしまわないように注意すれば、あとは大丈夫なはずだ。

 

喰種が楽しく一日を過ごせる場所、レジャー施設と言えば、ある3つの項目をクリアしなければならないだろう。それは「人気が少ない」「飲食店ではない」「ほかの喰種に出会わない」というものだ。

最初の2つはある程度目星が付くが、最後の1つはかなり難しい問題である。だが、これを守らなければいつなんどき、CCGの捜査官に包囲されたり、敵対する喰種グループに絡まれたりといったバッドイベントが発生しかねないのだ。

そして、そこから僕が頭をひねって考え付いたのが、デパートにある映画館だった。あそこなら人の往来はあるが、混まない時間帯というものがあるし、出入りが激しいので他の喰種とのバッティングも少ないと考えたのだ。

「は、はい!!い、行きます!!」

董香はまるで生き別れの両親に再会したとでもいうように眼を輝かせて、大きく威勢のいい声で返事を返してくれた……

 

 

                     ・

 

 映画とはただ単に大きい外観のテレビのような物というわけではない。薄暗い空間の壁の一面を覆う巨大なスクリーンに、背後から映写機によって投影される映像は、場面の変化とともに響き渡る大きな音と共に、まるで自分自身がそこにいるかのような、恐ろしいまでの臨場感を与えてくれるのだ。

自宅や電気量販店においてあるテレビで、そこまでのリアリティを求められるかという話ではあるが、近未来的なVRゲームにも通じる、体験できる映像というものが映画なのだ。

真っ暗な空間において、一箇所だけに映像を大きく展開し、迫力ある大きな音を発生させることで、まるで自分が本当にその世界へ言ってしまったような錯覚を与えてくれる。

特に、特撮やホラー、パニックもののなどは、その映画独自の特徴をより効率的に利用しているといえよう、例としては、視界に突然何か異形のモンスターが写るなどしたり、巨大な音を静かな音の後に挿入することで、視聴側の驚愕を誘うのだ。

映像が動けば、自分自身が移動しているかのような臨場感がある映画は、総じて世界的に評価されるクォリティが高いものなのである。それだけ監督の技能と、まるで心理学に精通したかのような躍動感あふれる登場人物の動きは、見ていて飽きが来ない。

 少し聞きすぎのクーラーの冷気が立ち込める人気の少ない映画館の1ブースで、電車の座席や飛行機の座席のように規則的に横に並べられた指定席に座り、スクリーンに映し出された映像を眺めていた僕は、隣の席に座っていた少女、霧島董香の現状に若干引いてしまってしまっていた。

「う…うあああああっ」

カチカチと歯をかち合わせ、身体全身で何かに怯えるように小さくなって震えているのは、いったい何の冗談なのかと聞きたかった。いや、だっておかしいだろう、いくら感情移入がし易い映画とは言っても、今僕が董香と見ているモノは、最近流行りの飛び出してくる3D映画でもなければ、泣けるともっぱらのうわさの動物との人間ドラマ映画でもなかったからだ。

これは、「人喰いババア」…しわくちゃで入れ歯をした70超えの歳のお婆ちゃんが、よたよたとおぼつかない足取りで手に包丁を持って人を襲いに来るという、シュール極まりないホラー映画?なのだから。

じめじめとした陰湿で、暗い雰囲気が目立つ海外のホラーとは一線をかくした、数々のジャパニーズホラーをヒットさせて来て久しい日本。「井戸から出てきて、画面から出るヤバイ奴」は、何人もの惨殺現場に鉢合わせたことのある僕でさえ、薄ら寒いものを感じたというのに。

この映画は、ただお婆さんが奇声をあげながら、だれかその辺に歩いていた人に襲い掛かるというどこにでもありそうなB級なものだった、こんなもので怖がるのは馬鹿くらいだろう。

最後に入れ歯を発射するお婆ちゃんのシーンがあったのだが、あまりにも映画館内が静まり返って空気の温度が2度くらい冷えたかのような錯覚に襲われた。

 ギャグとホラーの融合大作とでもいうのだろうか、映画というものは永近君と何度か行った事があったが、その時に見たものはもう少し迫力と、心を揺さぶるものがストーリーにあったはずだ。

喰種とはいえ、年頃の女の子と映画に行くという事で、僕のセンスではまずいと思い、喫茶店の同じく従業員の金髪に近い茶系の髪を、前方に盛り上げた軽いリーゼントの様にしている人に、最近どんな映画が女の子の好みなのか聞いたのだったが「女の事を一緒に行く映画と言えば、ホラー映画しかないでしょ」と言ってくれたドヤ顔は間違っていたのだろうか。

此処は矢張り、董香よりも年上の女性である、同じく従業員の髪の長い地味な女性の「恋愛映画…に決まってるわね」に賛成しておけばよかったかもしれない。

恋愛など生まれてから一度もしたことが無かったので、そういうのを見ても董香と映画の感想について話すことは出来ないと感じ、前者を取ったのだが、まさか彼女がこれ程までの怖がりとは予想していなかった。

何かに怯えているかのように、偶に顔をあげては心配そうにキョロキョロと周囲を見回す董香を見ていると、いやお前喰種だろ、というツッコミを入れようとした言葉が止まってしまう。

「大丈夫?気分が悪いのなら、もう出ようか?」

「ゆきみ…ち…さん」

 自らの身体を抱きしめるように、腕を胸の前で交差させていた董香は、焦点の定まっていない瞳に大粒の涙を浮かべながら、青白い顔で僕に助けを求めるかのように、手を伸ばしてくる。

正直、今の状況で喰種の手を眼前にさせだされると、つい自然に口元に持っていきそうになるのだが、その衝動を深い呼吸を繰り返すことで抑え込み、董香のおいし…か細い手を受け止めて、僕は少し腰を浮かせ董香の正面に移動し、董香の背中に手を回して僕と董香の身体を反転させる。つまり、僕が董香の座席に座り、董香は僕の膝の上に正面から抱き付いた格好になったのだった。

「え…?」

「仕方ない、落ち着くまでこうしててあげるから、さ…」

小さな子供には、親にあたる人がこうやって自分の体温の温もりを感じさせてあげるのが、一番良い恐怖の拭い方だと、以前読んだ小説に書いてあった。

董香もその例には漏れないようで、おっかなびっくり僕の背に手を回すと、絶対に離さないとばかりにしっかりと抱きしめてきたのだった。喰種と言えども、創作物の蘇りのグールとは違い、しっかりと人並みの体温を彼女から感じることが出来る。若干心音が速い気もするが、それも泣いていた所為だろう。

まだ恐怖が残っているのか、僕の胸に頭を埋めて震える董香に抱きしめる腕に力を入れてぎゅっと力を込めてやれば、少しは落ち着きを取り戻してくれたようで、時たま口から洩れる苦しそうな嗚咽が聞こえなくなっていった。

身動きするたびに、彼女のほのかな髪から洩れる喰種の汗の匂いが鼻腔をくすぐり、食欲を増進させる。本当の事を言うなら、そろそろリゼの肉で補っていた空腹がまたぶり返してきそうだったが、今日この時だけは暴走できないと、必死に理性を保ったのだった。

 そういえば、董香と始めて出会った時も、似たようなことがあったのを思い出す。あれも含めてこの董香という喰種は、色々と心が不安定なのかもしれない。芳村さんの話によれば、董香は最近になって何かの転機があったのかは知らないが、自分で生きている人間を襲って食べる行為に躊躇し始めたらしい。まだ喰種としての本能からか、お腹が空くと人間を襲ってしまうらしいが、それでも芳村さんは良い変化だと言っていた。

……このままいけば董香も、以前の笛口のように既に死んだ人間の肉を食べて生活するようになるのかもしれない、それは僕にとっても人間への被害が抑えられて非常に喜ばしい限りだったが、僕の空腹という意味で、董香を「悪」だから食べてもいいという大義名分が無くなってしまったのには、微妙な気持ちになったりもした。

まあ、それはともかく、この董香という少女も、芳村さんのような思想に目覚めたのかもしれない、人と喰種が共存できる可能性に、何を思ったかたどり着こうとしているのかもしれないのだ…

 だが、芳村さんの意見も尊重したいが、僕は矢張り死体であっても人間の肉を食べるという行為には食欲よりも嫌悪が先に立ってしまう、過去のトラウマとも言っていいいあの光景を、鮮明に思い出してしまうからだ。

喰種のみを襲って食べる僕は、喰種からも人間からも敬遠される立場にあった、永近君は何故か僕に構ってくれるが、あれはほんの一握りでしかない。だからだろうか、寂しかったのかもしれない。この僕の腕の中で安心したような表情を浮かべている少女に、喰種の肉の味を教えてあげたいと思えるほどに……

幸い僕たち以外の視聴者は、かなり後ろの方にいるので、こうして董香を抱きしめていても何も変な目で見られることはない。

 

 20区に存在するそれほど大きくない、どちらかというとマイナーな映画館から、どうしてもと言って董香が頼むので手をつないで出てくると、ブース内のクーラーの効きすぎた空間と、外との温度差に息が詰まった。まるで分厚い壁の様に、熱気が出口を越えた先に広がっているのだ。

乾燥した冷たい空気から、じっとりとした暖かい空気の場所へと放り出されれば、身体能力の高い喰種と言えども例外なくだるくもないだろう。

むしろ、感覚が普通の人間以上に研ぎ澄まされている喰種の方が、そういうモノに関してより大きな弱点になりえるかもしれないのだ。極端に言えば、冷凍室からサウナへと放り出されたような、肌でも感じられるほどの変化があった。

董香の方も、僕と同じ状態らしく、照り付ける太陽に日差しに眼を細めて、小さく溜息をついていた。だがチラリと僕の顔を見て笑顔を浮かべるのは何なのだろうか……、それだけ僕が信頼されているのだろうか。

「さて……次は何処に行こうか、近くのデパートに服でも見に行こうか?」

泣き顔はなんとかおさまったが、まだ目元を見れば泣きあとが残る董香には、気分転換が必要だろう、映画の恐怖心を払拭してやるために、僕は眼の先に見えるデパートの看板を指差したのだった。

「女の子は見るだけの買い物も大好きなんだよ」とまたドヤ顔の従業員が言っていたので、今度はその言葉を信用してもう一回試してみることにした。

 そして僕の隣にいる少女、董香はあくまで喰種だ、だからいくら映画の後良い昼食時になったとして、人間の様にレストランへ連れて行くという選択肢は存在しない。人間の形式に従って、そんなことをしてしまえば、董香の喰種としての肉質が落ちて……いや、彼女をまた不快な気持ちにさせてしまうだろう。別に食い物である喰種にいくら嫌われようとも、最後には腹に収まるので心底どうでもよかったが、喫茶店で働く同僚として、お互いに険悪というのもお客の印象としてはまずいだろう。

愛しくか弱い人間の用心棒という名目で芳村さんに雇われている以上、守るべき対象に変な不信感を抱かれて逃げられては守れるものも守れないからだ。

一度守ると決めたものを、憎きゴキブリ以下の喰う事しか考えられない畜生共に奪われてしまうのは、とても許容できない。

そもそも僕は人間を守るために、こうして喰種悪しき喰種でありながら生きているだけの存在だ。あの娘との約束がなければ、とっくにCCGに出頭するか、自殺するくらいはしている。

勿論、自殺方法は理性が無くなりかねない餓死ではなく、自分の赫子で自分の頭を握りつぶすだけの簡単なもので、だ。

「えっと、そうですね、じゃ……じゃあデパートに」

小一時間、映画を見ている最中ずっと僕に抱き付きっぱなしだった事への羞恥からなのか、董香は僕の視線に自分の視線を合わせようとしない。顔を合わせようとすると、さっと微妙に眼をずらしてしまうのだ。恥ずかしいなら、あの時拒否するばよかったじゃないかという話だが、まあそんなの事も言っていられない状況になりつつあるらしい。

董香の言葉が途中で言いかけて止まってしまったのは、ただ僕を恥ずかしがっていたからではない、映画館を挟んだ道路の反対側に漂ってくる空気が変わったからだ。鉄のような、それでいて食欲をそそるような匂いの発生。

「……っ!?」

 まだ赫眼の制御が完全には出来ていないのか、董香の眼がその匂いに反応して血の色をたたえた真っ赤に染まり、自分でもその変化に驚いてるのか慌てて顔を伏せた。そうなのだ、この道路から漂ってくる匂いは、普通の喰種なら惹かれてしまう程濃く、そして深いものだったのだ。

強烈な血の香、これはもしかすると死んでいる人間の数は一人では無いのかもしれない、強力な喰種による大量の捕食行為、もしくは喰種の集団的な捕食……

いずれにしても、愛しい人間がこんなに近くで命が失われていくことを僕が許せるはずが無かった、助けられる掌にいるのなら、そこに助けを求める人間がいるのなら、僕にその力があるのなら……もう、迷う必要はなかった。

「ゆ、ゆきみちさん?」

「え、ああ、いや何でもないんだ、ただちょっと嫌な気配がしたというか…」

僕が黙ってしまったことに、董香は自分の赫眼を見られたのかもしれないと不安になったようで、僕の顔を上目づかいに伺ってきた。だが、董香が喰種だというのも僕は、あの時地べたに座り込んで泣きそうになっていた初対面の時から、そのとても美味しそうな匂いからわかっていた。

だから今の董香の心配は完全に無用のものなのだが、此処はまだ「知らぬ存ぜず」で通した方が潤滑に彼女との関係はうまく回っていくだろう。

だから僕は適当に言葉を濁し対応しつつ、董香の存在を記憶の片隅に追いやってから、どうやってこの漂う臭いの元凶である所の喰種を潰すかを考えることにした。

人間を守る行い、それに加えて、久しぶりのまともな食事にありつけるチャンスだ、敵が複数でも少数でもこの規模で血の匂いをまき散らしているのから考えれば、大した相手ではない。

強い喰種というのは、その肉体もさることながら、地獄のようなこの世界を渡ってこれるだけの脳味噌が必要であり、あまり目立った動きをしようとしないからだ。

喰種の汗や分泌物の匂いが、人間の血液の匂いが漂い始めていた時から、僕の食欲はじわじわと増大し始めると共に、僕の胃はまだ捕まえても殺してもいない喰種の肉を溶かすために、胃酸を分泌し始めていた。唾も飲み込んでも飲み込んでも切りがないほど溢れ出してくるのだ。

もう、今ここでターゲットを逃したら、なりふり構わず董香を襲いかねない、それは更生しつつある喰種を襲う事になってしまい、それこそ僕のしていることが、僕の嫌っている喰種と同じになってしまう。

僕の行いは、あくまでも世界からの喰種の抹殺、梟に出会ったことで若干の方針転換があったとはいえ、その大まかな理由は変わらない。だからこそ、僕はその憎しみと、喰種の食欲に耐えるため、人間をまかり間違っても食べてしまわないように喰種を殺すのだ……

 

 リゼの腕を先日食べていたおかげで、まだ身体能力においてはリゼと一戦を交えた時よりは余裕がある。拳を握りしめて、背中に意識を集中すれば、赫子を出せるぐらいの細胞が十分に集まっている事がわかる。喰種を食べる事ばかり考えていると、口全体にまろやかな舌触りの喰種の肉の味が浮き編んでくるのだ。もう…流石に我慢できそうもない。

「ふむ、やっぱり、映画館の寒さの所為かな、ちょっとお腹壊しちゃったみたいだからさ……その」

「え、あ…はいごゆっくり!!」

我ながら苦しい言い訳だったが、この嘘をつく相手は数々の地獄を見てきた歴戦の喰種でも、恨み憎しみと絆で切磋琢磨してきたベテランのCCG捜査官でもない、ただの喰種の少女だ。

僕の言葉をまったく疑う様子もなく、快く承認してくれた董香に笑顔を作って、臨場感を出すために腹を押さえながら、映画館の中に戻ったのだった。そうして、逆の入り口から外に出て、董香に気づかれないように道路の反対側に素早くわたり、匂いの漂う場所へと急いでかける。

懐から、黒い光沢のある蟋蟀のマスクを取り出して顔へとはめて、上着を脱ぎ捨てて、いつでも赫子を出せる状態にする。

早く…早く…殺して捌いて、その潤った肉を骨の一本、血の一滴に至るまで味わいたい!!

何度も命乞いする喰種に、自分の罪を教え、涙ぐんだ顔を恐怖で歪めたうえで、もっとも痛い方法で肉を切り取っていきたい!!

絞殺、刺殺、撲殺………何がいいかな。




ここから「梟」「リゼ」に続く暫くぶりの喰種とのガチバトルに入ります、弱い者いじめが印象的な彼の本領発揮です、次回をお楽しみください。

2015/4/1  合併修正


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#016「救援」

今までこの作品を読んでくれてありがとうございます。おかげさまでこの小説も30話になる事が出来ました、本当にありがとうございました。
これからも頑張っていく次第なので、つきましてはご意見、ご感想を些細な事でもいいのでお聞かせください。
出来る限り、反映させていこうと思っています。


 血の鉄臭い匂いが濃く広がっていく方に走っていくと、徐々に人間の気配がもともと少なかったが、ほとんど感じなくなっていった。敵はもう人間を全て殺してしまったのだろうか、だとすると…

「だとすると、ただの処刑では物足りないですねぇ、此処は執拗に、強引に、強制的に、身体の皮を剥がしたうえで、脂肪を、筋肉を、骨を目玉を一つずつ切り取って行こう…もちろん生きたままで」

絶望する顔、その顔を見ながら食べる食事ほどこれ以上ない美味たりえるのだ、今まで犯してきた罪の数、人間に与えてきた恐怖の数まで、全身のありとあらゆる場所を粉々に潰すのもいいかもしれない。恐怖するがいい、絶望するがいい、そして今までしてきた自分の罪に、自分自身に恨みを言いながら、後悔しながら死んでいくといい!!

それが愚かで下種な生物としてのカスが出来る、ただ一つだけの善行なのだ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 東京において比較的安全な区である20区、その人気のないとある路地の中で、喰種と人間の熾烈な戦いが繰り広げられていることを、まだ誰も知らないだろう。

 

「うっ…く…まずいね、この喰種の数は予想してなかったよ…」

 ガキンと金属同士を打ち鳴らしたかのような打撃音が響き渡り、黒いスーツを纏った大柄の男が大きく壁へ向かってはじけ飛んだ。だが手慣れたもので、手足を巧みに使って柔道の所作のように反動を抑え込み、手に持った銀色のセラミックケースのボタンを押し込んだ。

勢いよくケースが開き、低い駆動音が路地全体に威嚇するように響き渡ると、そこから大きな赤い、カッターナイフの様に斜めに入った線の模様がある、人間半分ほどの長さはある大剣が姿を現した。

 

「むん…これで、何とか切り抜けられたら良いんだけどね」

大柄の男はその重そうな大剣をいとも簡単にふって見せ、空気の切れる鋭い音を奏でる。

その動作によって男の周囲を囲んでいた、髑髏の面を模したマスクを被っている集団に動揺が走るが、その中の一人だけマスクを着けていない色素の抜けたような薄い金髪の男が、大きく叫べば集団は再び殺気を取り戻し男に背中から延びる赤い触手を向けたのだった。

「これで特等倒せば、俺、もうちょーーー有名じん!! 神アニキにも褒められるぜええええ!!やっべ想像したら泣けてきた」

眼の上に黒いアイシャドーのようなものをを塗った集団の男は、本当に目に感激の涙を浮かべ、未だに抵抗し続ける大柄の男に向かって皮算用を始めている。状況は客観的に見ても喰種の集団の方が明らかに有利に見えた。いくら喰種対策局のエリートの称号「特等」を掲げているからと言っても、その強さはあくまでも一対一を想定した場合にのみ限る。

あくまで大柄な男は人間、そして一方や髑髏のマスクの集団は全員が人間よりも身体能力の高い、喰種なのだ。純粋な戦闘能力では人間側の化け物である所の「特等」が強いのかもしれないが、人間の血肉さえあれば気持ち悪いほどの耐久力を誇るただの喰種が何人も集まっていれば、いささか分が悪い。

吹き飛ばされた衝撃を受け止めたとは言っても、大柄な男は人間の域を出ていないので、多少のダメージは確実に蓄積しているはずだった。

 

 大柄な男、名を「篠原幸則」は考える。どうしてこんな絶体絶命の窮地に陥ってしまったのだろうかと。本来、特等捜査官と言えども、喰種と戦う時や捜査中は少なくとも2人1組のツーマンセルが基本である。それは一方が奇襲を受けたとしても、もう一方が何らかの対処を行い、応援を呼ぶなどの対処が出来るからだ。

それに先に述べたように、身体能力において人間を上回っている喰種に対して、1対1で戦いに挑むという考え方自体、基本的に自殺行為なのだ。正義の味方や公平を規す立場の人間はフェアではないというかもしれないが、それは相手が人間だったらの話。喰種との戦闘において、1対1はそれこそ多対1を強いられているようなんものなのだ。1対1ならツーマンセル、多対1ならそれこそ相手の数の2倍は最低でも欲しいところだった。喰種の集団にツーマンセルで挑むしかなかった結果が、見るも無残に胴体を上下に切り離されて路地の地面に横たわっていた。

篠原は、今日捜査官の仲間と共に20区においての喰種の出没調査を行っていた、どこどこの喰種を倒す、というものではなくただ、この区は喰種が大体どれくらいいるか、という殆ど捜査官の腕で行われる至極アバウトな捜査だった。

操作方法も極めて簡単で、路地に入り、そこに付着した布辺や血液痕等を地味にメモに取っていくという作業である、時間のかかる作業という事と、そういう調査をしているという事で喰種に襲われるかもしれないという危険性からクインケの所持が義務づけられていたが、まさかその時を狙って喰種の集団に待ち伏せられているとは思いもしなかったのだ。

 

 奇襲により自分の部下だった男が何の抵抗も出来ず死んでいくさまを見なければならなった篠原は、心中穏やかではなった。喰種捜査官になった以上、そういう命を何時失ってもおかしくない危険な環境に身を置くのだと分かってはいても、その覚悟と殺人者への恨みはまた別物だろう。

だが、篠原も部下と同様に攻撃を受けてしまったため、持っていたクインケの展開が遅れてしまったのは痛手だった。髑髏のマスクの喰種は集団で篠原の逃げ道を塞ぐかのように、じりじりと距離を詰めてくる。

応援も呼ぶことが出来ず、自分一人でしかこのピンチを逃れるすべはない、そしてこの状況に陥った時、特等捜査官として篠原の覚悟はもう決まっていた。

例え死んでも、それまで喰種を倒して倒して倒しまくる。自分が死ぬその瞬間まで、少しでも世間を揺るがす恐怖の種を刈り取ることが、自分の最後にできる事だと悟ったのだった。自分が死んでしまえば、家族も同僚も寂しい思いをさせてしまう事を分かったうえで、篠原は必死に抵抗して自分の命を守るのではなく、最後まで戦い抜くことで皆の命を守る選択をしたのだ。

 

「すまん真戸、いわ…先に逝くわ」

 これはもう勝ち戦だとマスクの下から薄気味悪い笑い声を出す集団。その声にいらだちつつも、冷静さをかけばそれこそ何も出来ずに終わることになってしまう。壁に打ち付けられた背中が痛む、骨折はしていないようだが、どうやら内出血しているらしい。死への恐怖心と孤独での戦いに、視界がかすむが、それは弱音だと、今まで自分はそんな道を何度もくぐって来たじゃないかと叱咤する。

オニヤマダと戦ったときも、梟と交戦した時も、これ以上の緊張感があった。

何を一人だという理由だけで怯えている…何を弱気になっている!!

せめて殺された部下の敵は取ってやろう、ではない。過半数を纏めて始末してやろう!!

大剣のクインケを振りかぶり、遅いかかる髑髏のマスクの一人に相対するが、喰種の集団も律儀に一対一で戦ってはくれないようで、隙が出た背後から金髪の喰種が笑いながらとどめを刺そうと襲い掛かってくる。

「がっ…」

だが、それをよけようとした瞬間、狡猾に動作を読んでいたかのように、金髪の男が横なぎに胴へと赫く固い赫子で、深く重い一撃を打ち込んだのだった。喰種の人間を捕食するための器官である赫子をただの人間が生身で受けて無事なはずがない。幸いなことに胴を貫通はしなかったが、その攻撃の所為で篠原は横へ転がり、周囲に無防備な姿をさらしてしまった。

今から体制を整えたところで反撃は不可能、今までの捜査官としての経験が訴えるが、篠原はまだ手の中に納まったクインケの柄を強く握りしめたのだった。

死を覚悟した、何もできない自分を恨んだ、部下を殺してしまった自分のミスを悔やんだ…だがより自分が死ぬわけにはいかないと思い直した。脳裏に白髪の友人や、いかつい顔の友人の顔が浮かび、最後に若くして捜査官になり特等に上り詰めた女の子の姿が浮かぶ。まだ、しなければいけない事がいくつも残っている、こんなところで……死にたくない。

「ははははっ…死ねぇ!!」

「くっ…」

 

 振り上げられる死神の鎌、だがその一撃が篠原に届くことは無かった。

何故なら金髪の男は突如飛来した黒いシルエットに反対に弾きとばされてしまったからだ。黒いYシャツを着た細いが筋肉質な体の男が、篠原の前に立ちふさがり守る様に辺りの喰種を威嚇する。黒い光沢のある蟋蟀のマスクの右目からから洩れる朱い光が糸を引き、不気味かつまがまがしい印象を与えている。

13区に住む喰種なら誰もが一度は目にし、そして恐れたであろう、喰種にとっての喰種……共喰い蟋蟀が降り立った。

 

「おやおや、血気盛んな喰種さん、大勢で一人をいたぶるのは楽しいですかぁ?

私にも喰種をいたぶる楽しさを教えてくださいよぉ」

 

 人間と喰種の匂いを追ってたどり着いた場所は、人気のない路地だった、というか喰種が誰かを襲う場所と言えば大体がこういう路地や、どこかの廃棄された施設などに限られてくる。

遠くに喰種と思しき集団が見えた時点で、僕は一旦動きを止めて眼を閉じて周囲の音を一切漏らさず集中して聴く、こうすることで相手の足音から人数、話し声からその性別や性格、衣擦れの音や呼吸音からその人物の年齢や戦闘における技術レベルを簡単にだが把握することが出来る。喰種の並外れた聴覚とそれを識別できる経験がなければ出来ない技能だが、僕は普通の喰種よりも聴覚が優れていたことに加え、13区での経験を活かしそこらへんの喰種には負けない程度の効果を発揮していた。

「喰種の匂いの種別、約17種類。足音の歩調規則性、約18通り。声色、6種類。呼吸音18種類…」

敵の数は大まかに把握することが出来た、そして敵の実力がそれほど強くない事も、呼吸や足音、行動パターンから推測済みだ。あとはもう楽しい昼食を楽しむのみ!!久しぶりのご飯という事でいささかマナーが悪くなってしまう事に心配すればいい。

眼を開け、まず路地の壁に背を張り付けて物音を一切立てず、横歩きをしてそっと集団の陰に隠れるように忍び込んだ僕は、ちょうどそこで人間が襲われる瞬間、一番好きが大きくなるその時を見計らって背後からの奇襲を掛けた。

少し大柄で髪の短い人間の男性に襲い掛かろうとしていた、金髪で黒と白のスーツを着こんでいた喰種の顔面に大振りの蹴りを叩き込んだのだった。男に止めを刺そうと走り込んでいた勢いにカウンターを合わせて打ち込んだ蹴りは、見事に金髪の喰種の身体を中に打ち上げで、少し離れたコンクリートの地面に激突させた。

「ぐが……っ」

背中に展開していた堅そうな赫子が形を崩し、空気に溶け込むように消滅した。死んではいないだろう、あの金髪で黒いアイシャドーを塗った馬鹿そうな喰種を僕は、それこそ今まで住んでいた13区で見たことがある。あの拷問好きを「神アニキ」だとか言って慕っていたクズな喰種だ。あの馬鹿さ加減にうんざりして一息に殺してやろうと思ったら、本当に子げ足の速い事……流石にS級の喰種という肩書は伊達ではないようで、あっという間に煙に巻かれてしまったのだった。

思い出すだけでも腹が減ってくる……腹が立ってくる!!

「そ、そのマスク……13区のこ、蟋蟀!?」

 興味の失せる地味な粗雑料理……髑髏のマスクの集団の一人が口を開けば、その動揺は仲間内にも波及していく。その所為で集団の統率が乱れ、とびかかろうとしていた喰種たちまで動きを止めてしまったのだ。リーダーが指示しなければ簡単に崩れてしまう集団ほど壊しやすいものはない。

これでしばらくの間時間稼ぎが出来るだろう。

 

「大丈夫ですか、立てますか?」

まず戦闘準備に入る前に、この人間の男…髑髏のマスク集団の会話を聞くには、あの娘と同じ特等捜査官の人間を何処かに移動させなければならない。万が一人質にでもなってしまったら、僕には袋叩きにされるという選択肢しか残されていない。もっとも、その人質も人間が敵によって殺されてしまった時点で効力が無くなるため、敵側も迂闊なことは出来ないというデメリットを追う事になるのだが。危ない橋は渡らないに限るのだ。

「き、君は…一体?」

あの金髪の喰種の一撃を胴に喰らってしまったため、致命傷ではないにしろ腹部からの出血に顔を歪める捜査官であろう男は、僕の差しのべた手を取らず、自力で起き上がった。警戒されるのも無理はない、僕は喰種で相手は捜査官だ、例えこういう風に助けに来たという形になったとしても、何かの罠かと思うのは当然だろう。

そして僕としてもそう思われることにも慣れているし、だからと言ってこの捜査官を見捨てるという選択は皆無だった。たとえ自分の命が尽きようとも、この人間はこれ以上傷つけられる事なく、自分の住む家に帰してやる。それが、僕の存在意義、確固とした正義だ。

「……喰種、なのか?」

手元にあったカッターナイフの刃のように見える捜査官特有の武器、クインケを握り締め、周囲の喰種に気を配りつつ僕にその切っ先を向けた捜査官は、額に流れる汗を拭わずに、疑問をぶつけてきた。その質問に僕は面喰ってしまう。確かに、彼の前では赫子も赫眼も出してはいないが、それでも先ほどの金髪を吹き飛ばした蹴りの威力を見ていたはずだろう。あれはどう考えても人間が何の機械的補助なしでは放つことが出来ない威力だったはずだ。

にも拘らず、そんなバカげた問をすることに何の意味があるのだろうか、自分の体力の温蔵を図り、わずかに出来た時間の中で勝機を探っているのだろうか。

それとも……まさか助けに来た僕の事を、人間ではないかと思っている?だとすれば嬉しいが、残念ながら僕は喰種以外の何物でもないのだ……

 

「だとしたら?」

「お前も…倒す!!」

僕の返答に一層力を込めてクインケを握る捜査官の意思に反応して、クインケが赫くそして大きく発光し始めた、これはギミックが仕込まれているクインケにありがちな特徴で、その使用用途にもよるが、何かしらの強力な技を放つ前触れでもあった。

クインケももとは喰種の肉体、赫胞から作り出されているので、その予備動作とも言える赫眼の発現の様にクインケにも攻撃発動の予備動作というものが少なからず存在する。だが、僕は喰種を殺しても人間を殺す気はさらさら無いので、少し予想外の展開になりつつあることに苛立ちを覚えていた。

 

「何を言っているのかわかりませんけど、いま此処で僕と戦えば貴方は死にますよ?」

「死んだとしても、少しでもこの世から喰種が消えるのなら……喜んで僕は戦おう!!」

何というか、熱血な男だった。僕の言葉をまるで聞いてくれる気配がない、落ち着いて話し合おうといったところで、この状況下ではそれも無理だろう。時間の問題ですぐにこの場所は激戦地に姿を変えるのだから。だが、体の中で石炭でも燃えているのかというくらい、熱くそして眩しいくらいの正義感があふれてくる人物を、僕は嫌いになれなかったのだ。人間という理由もあったが、此処まで喰種を狩ることに集中してくれる人間は、捜査官の中にもそうそういない。

特等とは皆そういうモノなのかと納得しかけたが、今はまだ敵の集団の真っただ中だ、いまはリーダー格である金髪がダウンしたことで、出るに出れない状況になり事態が進展していないが、喰種の生命力は凄まじい。直ぐに奴は起き上がり、再び連携で攻撃を仕掛けてくるだろう、その前に何としてもこの捜査官を説得しなければ、僕も思うように動くことが出来ない。

 

「なら、その嫌いな喰種をもう少し多く殺せる方法があるとすれば、貴方はどうします?」

だからこそ僕は、彼の興味を誘うために一石を投じてみることにしたのだ。これが通じなければあとは強制的に眠らせて、どこかへ避難させておけばいい。

「喰種の戯言だ…そんなたわごとにはのらないよ」

「……たわごとねぇ、なら利害の一致という事にしましょうよ、私はこの髑髏マスク達を殺したい、貴方は喰種を少しでも多く倒したい…なら共同戦線と行きましょうか?」

「ぬ……」

喰種と人間の共同戦線、普通の場合ならば受け入れられない申し出だっただろうが、この時ばかりは捜査官も受け入れなければならなかったのだろう。彼は喰種を少しでも多く倒したい、その意思は喰種捜査官としての彼の存在意義のようなものだ。

そしてその意思は、自分よりも仲間の安全を優先する優しい心から来る。ならば、此処で戦いどちらにしても死ぬのなら、「目の前の僕と協力して他の喰種を多く倒す方が良いのではないか」という結論に結びつくだろう。もし僕に裏切られた場合のリスクも、どうせ死ぬという結末より下は無いのだから…捜査官はきっと、答えを出すだろう。

僕には確信があった。

 

 

 

 

「敵の敵は味方、今回はそういう事にしませんか?」

 

 

その言葉が彼への決起になったのだろう、今この瞬間……その数時間の間だけの儚い共闘とはいえ、相容れないもの同士の助け合いという言葉は揺らぐことは無い。

喰種と人間のあるひとつの共存が形となった……

 

 

  「それで、どうする?」

 金髪の喰種の回復が差し迫っている現状において、作戦を立てるにしても時間はもうあまり残されていない。状況は多対二というあまり進展のないものだったが、その実特等の捜査官に加え、S級なら軽く屠れる僕が入ったことで、大分戦況は傾き始めていた。大柄な体格をした人柄の良さそうな捜査官の男が、大剣のような真っ赤に輝くクインケを構えて僕の方を見た。

「決まっているでしょう、答えは簡単です、お互い支えあいながら一人ずつ殲滅…でしょう?」

か弱い、そして強い人間には、ほんの少しの間だけでも僕を信じて共に戦ってくれようとしてくれる仲間に、絶対に手出しはさせない。背後の敵は一人残らず、僕が喰らうし、傷を押して戦う彼を長時間この路地に居座らせるわけもない。

戦闘形式はサバイバル、向かってくる敵を片っ端から撃ち落としていく単純な作業だ。足首を動かいして何か不調が無いか確かめながら、あちこちでボソボソと話し合っている喰種に視線を合わせ、拳と拳を合わせて気合いを入れた。

「……ははっ」

「ん、どうかしましたか?」

と、今にも飛び掛かっていくというタイミングで隣に立っていた捜査官の人から笑い声が聞こえれば、足がもつれよろめいてしまう。大きな隙が出来てしまったが、敵の集団の方は僕たちの動きを予想以上に警戒しているようで、踏み込んでくる気配がなかった。

 

「いや…ね、どうにも君と話していると喰種と一緒にいるように思えなくてね、調子が崩れるというか……まさか支えあうなんて言葉が、喰種の口から聞かされるとは思わなかったよ」

「そう…ですか、ありがとうございます」

それだけで十分だった。幾人もの喰種と渡り合って来たであろう、本職のCCGの捜査官に、喰種に似つかわしくない行動をとっていると言われただけで、僕の心は漲り、歓喜に踊った。

両親を殺し、僕にあの娘を手にかけさせる起点となった喰種、それからも僕の人生を幾度となく翻弄し続けていた憎く、恨めしい奴らと…自分が違うと言われているようだったからだ。

僕も所詮は喰種、こうして自分の中の食欲に負けてのこのこと路地に現れ喰種を襲っているのも、見方を変えれば喰種が人間を襲う事となんら変わらない。

食欲と憎しみが重なり、喰種のみを狙って殺すだけの鬼と化した僕は、その実、本質的には喰種となんら変わらない行動をとってきていたのだ。

 

 そのことには気が付いていた、あの時、梟との敗北のあと諭されずとも、僕が何人も喰種を殺してくる前から知っていた、そして知ったうえでそのことに僕は目をつぶっていたのだ。分かってしまえば理解してしまえば、僕は僕でなくなってしまう。人間を愛する僕が、ただの喰種になってしまうのが怖かったからだ。

自分が生きてきた、自分が今までしてきたことが、後になって全て無駄だったと教えられるような気分だっただろう。存在意義の崩壊は、喰種からも人間からも嫌われている僕にとって致命的な欠陥になりえる。最近になって、抑えられていた喰種の食欲を抑えることが難しくなってきていた。

これが何を意味するのかは分からないが、恐らくこれから僕の身体は、僕にとって都合の悪い変化をしてしまうのだと、そういう予感じみたものを感じるのだ。

だからこそ、その矛盾に塗り固められた僕の心に、多分皮肉で言ったのだろう捜査官の言葉は、深く深く染み渡ったのだった。頑張ろうと、これからも生き抜いていこうとそう思わせてくれる叱咤にも近かった……

疑われることは承知の上、そして言葉巧みに丸め込ませ共同戦線を張るのは計画通りだった、だがいざ戦うという段になってそんな事を言われてしまうと、あまりにも嬉しすぎてにやけ顔が止まらなくなってしまうじゃないか。

 

「ん?」

「私…僕は人間に育てられた、だから貴方が僕の事を喰種らしくないというのなら、そういう経緯があるからでしょう」

気づけば僕は本当に無意識的に自分の事について語ってしまっていた、今となってはあの娘と僕だけしか知らない真実を、ほんの少しだけだが口に出してしまったのだ。

 

「な……そんな、馬鹿な」

捜査官の反応は予想通り、まあ喰種に育てられる人間の噂は多々聞いたことはあるが、人間に育てられる喰種など、聞いたことが無いのも当然だろう。喰種の世界を知った僕でさえ、その事実の異常性は分かっている。何をもって両親が僕を育ててくれたのかは永遠の謎だが、これだけは言えた…あの人達はちゃんと、僕を心から愛してくれていたと……

拾い子だからという理由で虐げたりせず、義妹と同じように接して、同じように可愛がってくれた。

最後の最後で、僕に自分の肉をあげようとした義妹には度胆を抜かれたが、今考えてみればソレはあの娘なりの僕への愛情だったのかもしれない。それを無残に散らし踏みにじってしまった僕が言えることではないが、僕は、はっきりと言える「僕は家族に愛されていた」と。

「信じなくても良いんです、ただ聞いてくれるだけでいい……だから…僕は人間が大好きだ、だから…僕は人間を食べたくない……」

「……」

話している間、捜査官は何も言わずただ黙って僕の話を聞いてくれた。彼が僕の話を聞いて何を如何思ったのかは僕にはわからない。だが、少なくとも僕の話した事が、僕の意思が本当だということが…伝わってくれれば、それ以上のことは無いが…

 

「いってええええええええ!!俺の大切な鼻を折りやがって、顔の形変わっちまったらどうすんだよこの馬鹿!!」

今まで蹲っていた金髪の黒いアイシャドーが目立つ、細身の男が部下であろう近くの髑髏のマスクの喰種に支えられながら、息を吹き返した。荒々しい呼吸を繰り返しながら、だが着実にその傷は完治していき、再び背中から毒々しい赫い色の赫子を発生させる。

意味することと言えば、それは戦闘の再開に他ならない。

「僕は篠原…篠原幸紀だ!!」

赫く発光するクインケを肩に背負い、速攻を仕掛けるために喰種の大群へ、傷ついた身体で走り出した捜査官は、僕に向かって自分の名前を叫んだのだ。

「僕は…蟋蟀!!とでも呼んでください篠原さん!!」

人間の名前を教えてもらうのは家族を除けばこれで2人目だった。嬉しかった、今まで眺めているだけだった人間に認めて貰った気がした。だから僕も大きな声で彼に言葉を返し、彼の動きを制限するように集まってくる喰種を蹴りで粉砕していく。

回転を交えた僕の蹴りは、飛び込んで来た喰種の頭部に命中し、頭と身体を泣き別れにさせて左右逆の方向に吹き飛ばした。雨の様に降りかかる血しぶきを受けて、肌が真っ赤に染まるがそれを気にしている場合でもない。

次々に第2陣、第3陣と喰種が休む暇もなく束になってやってくるので、例え雑魚だからと言って油断する気にはなれなかった。窮鼠猫を噛むという、追い詰められたネズミが猫を噛むということわざで、弱者でも追い詰められたものは予想外の事をしてくるという意味だ。

喰種同士の戦いにおいて、弱者だからと言って甘く見れば、あっという間に命を刈り取られているのがこの世界の暗黙のルールだろう。獅子は兔を狩るときにも全力を尽くす…僕も、雑魚を狩るときにも全力を尽くそう。

 

 

「殺してやる!お前ら絶対殺してやるううううううううう」

唾を飛ばしながら馬鹿のような奇声を発して金髪の逃げ足の速い喰種は飛び上がり、僕の方に真っ直ぐ突進してきたのだ。相手の持つ赫子は鈍重だが固さはほかのどの赫子をもしのぐという甲赫。

まともに攻撃を打ち込んでもガードされて体制を立て直されてしまうのが落ちだろう。

ならば、此処はあえて敵を自分の懐に抱え込んでやる。射程圏内に入って来たターゲットをさながらミンチの様に細切れにして食べてやろう。

背中に力を込め、二本の真っ赤な赫子を発生させた僕はその先端を地面に突き刺さして軸をつくり、足の回転をより速く鋭く強化する。

「ふ…ぐああああああ!!」

始めに金髪の顔面に蹴りを入れた時の様に、相手の向かってくる速度に僕はカウンターを合わせて、僕に向けられた甲赫の切っ先ごと回転蹴りで粉砕し、身体を吹き飛ばした。




はい、スマートです久々さのバトルシーンですから、今回は少し気合いを入れて書きました。

ご意見、ご感想、気軽にお待ちしております。

2015/4/1  合併修正


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#017「途惑」

お陰様で閲覧数、お気に入り登録数共にかなり高位なものになって参りました。
ランキングにも何度か入ることが出来、それを見たとき思わず泣いてしまいました。
私の書いた小説がランキングに乗った…と、それはもう感極まってしまいました。
それでは、今回もお楽しみください…

ご意見、ご感想、些細な事でも良いのでお待ちしてます!!


 「いでぇ…がぁ…っ」

 そのまま蹴りの威力で上へと再び跳ね上げられた金髪の喰種は、肺から絞り出すような苦痛の悲鳴をあげてコンクリートで舗装された固い地面に頭から叩き付けられた。生卵が割れるような生々しい音が狭い路地の壁に反響し、真っ赤な鮮血が辺り一面に飛び散って薔薇の花のような綺麗な模様を作る。頭蓋骨は見事に2つに割れ、脳漿が飛び散り残されたほぼ無傷に近い身体だけが、何度も何度も痙攣を続けていた。

だが、金髪の喰種の生命力は凄まじかった、身体が無事だったことも影響しているのだろうが見る見るうちに開いた頭蓋骨が元通りにふさがり、頭にできた傷が即興とはいえ完全にふさがってしまったのだ。本来喰種の再生速度は確かに早いが、此処までの傷を短時間で修復してしまうものではない。このスピードで回復していくという事は、戦闘が始まる数分前に人間の肉を食べたという事に他ならないだろう。

奴の体の中には推測するに、摂取したばかりのRc細胞が大量に貯えられているのだろう、その所為で僕の蹴りを2回喰らっても、こうして生きていられる……視線をそらし、さっきまで篠原さんが立っていた背後を見れば、そこに食い散らかされた人間だと思われる肉塊が散らばっていた。

来ている服の共通性から、恐らく篠原さんの同僚…準特等以下の捜査官だったのだろう、首から下を何度も執拗に噛み千切られた跡があり、もう原型が残っていることが奇跡に近いありさまだった。

生きている内に、その人間の反応を…苦しむさまを見ながら殺したのだろう。死んでしまった捜査官の手のあったであろう辺りには、爪で引っ掻いたような跡が何本も残っていた。

奪った人間の命でまた人を殺そうとする喰種を……その儚い命に何の敬意を示そうとしない喰種を矢張り僕は許容することが出来ない。

優しい喰種にもあった、賢く知的な喰種にも会った、考え方を変えた喰種にも出会った。だが、それでも僕の怒りは、喰種に対する底知れない恨みが癒える事は無い。この喰種の集団は絶対に生かして返さない。

二度とこんな残酷な真似が出来ないよう、全て僕の腹に収めてやる。

 

「あああああああああああああっ!!」

 肉体の再生を終えて動き出そうとしていた金髪に向けて僕は、地面に突き刺した赫子で軸を作り強化された回し蹴りを放った。狙ったのは足、相手の動きを封じて再生をする度に同じ個所を攻撃してやる。足という重要な移動手段を捥いで、Rc細胞のストックが切れるまで延々と地獄を繰り返させてやるのだ。

泣き叫べ、そして自分という存在が産まれてきた事を後悔しながら死んでいくがいい。

 

 

 戦いは結果から言えばあっという間に「蹴り」がついた。金髪の喰種はただ甲赫のくせに再生能力が少しだけ高いというだけで、あとは其処らのS級にも及びもつかないほどの弱さだった。

ナマズ髭の筋肉ダルマのような肉体も、老獪な梟のように卓越したフットワークも無い。加えて、美食家や大食いのような赫子の強靭さ、頭一つとびぬけたものを金髪の喰種は持っていなかった。

こうして集団の相手をしているがために、僕の動きも幾分か制限されてしまっているが、1対1で戦うならばもう勝負にもならない相手だっただろう。それだけの実力差が広がっていた。

そして、さらに僕を苛立たせるのが、止めを刺そうとする僕の周りに食らいついてくる雑魚の喰種たちだ、篠原さんの援護をしなければならない手前、金髪にのみ時間を割いていられないのを知ってか知らずが雑魚共は金髪の喰種の前に立ちふさがって、命を張って僕の蹴りを受け止めるのだ。

「ちっ、面倒くさい」

倒しても倒しても次から次へと集まってくる髑髏のマスクを被った喰種の集団、幾人かは戦闘不能か死亡にまで追い込んだはずだが、いかんせん狭く暗い路地の中だ。3人束で向かって来られただけで、かなり視界が遮られる。敵の数は約17人…リーダーの金髪はまだ戦闘復帰は無理なので、16人…本当に息が詰まる。

耳がなまじ良すぎるせいで、周囲の喰種共の呼吸音が邪魔して、正確な敵の位置情報の把握にノイズが生じやすくなってしまっている。リゼの腕から摂取したRc細胞も残りストックが少ない。

そろそろこの辺りで喰種の肉を食べなければ、何度も続く戦闘に身体が持たないだろうが、この人数を相手にしつつ、燃料補給を行うのは僕はともかく篠原さんを危険にさらすことに繋がりかねない。

彼はもう、長時間戦えるだけの体力は残っていないだろうし、僕が到着する前に受けてしまったダメージの所為で、本来の動きが取れなくなってしまっている。

そんな中で僕が食事のために戦線を離脱してしまえば、篠原さんは1分と持たない……

正面からだけの攻撃に集中できるのならば、彼は特等という戦力をフルに生かして敵を倒すことは出来るのだろう、そしてその威力は僕でさえ圧倒されるのかもしれない。

しかしながら、何度も言って来たように此処は集団戦の戦場だ、どれだけ彼が強くても耐久力が喰種以上でなければ囲まれ背後等の死角から無数に撃ち込まれる攻撃に対処は出来ない。

喰種のように赫子があるのならば、ソレを何度か振り回すだけで死角からの攻撃は回避できるのだが、彼は何処まで言っても人間だった。

強力なクインケを持ってしても、それを使うのは両腕……手数が少なすぎるのだ。

 

 人間は弱い、それは喰種からすれば揺るぐ事のない基本とも言える法則。ある喰種は言った「人間は俺たち喰種に食べられる為だけに生まれてきた食料タンクだ」と。

人間を愛し何度となく守って来た僕にとってその発言はまったく許せるものでは無かったが、喰種の言う理論が彼らからすれば間違ってはいないのだろうと、また納得してしまったのは事実だった。

それほどまでに、喰種にそう言わしめるほどに人間はか弱く、少し突けばガラスの様に砕け散ってしまうのだ……僕の両親も、あの娘も…

だからと言って、僕が戦いながら素顔をさらして捕食を行えば、当然喰種からも篠原さんからも僕の顔を覚えられてしまうだろう。

喰種に顔を覚えられた場合は、その情報がほかに漏れないように脳を割り開いて、脳髄ごと記憶を啜ってやればいいだけなのだが、人間に関してはそうもいかない。

出来る事なら変に脅しをかけることも避けたい位で、しかも篠原さんはCCGの特等捜査官だ。

今こうして共闘していたとしても、事が終われば捜査官と喰種の関係に戻るだろう、いやむしろそうなって貰わなければ困るのだ。彼らは喰種を狩るエキスパート、それが例え共に戦ったとはいえただの喰種に心を許してもらっては、僕としては嬉しいがそうなってしまえば喰種は今以上に増えることに繋がりかねない。

素顔が割れた僕の似顔絵はすぐに出回り、CCGにあるだろうデータベースからあっという間に僕の本名や戸籍情報まで割り出されてしまうだろう。それだけは……どうしても避けたかった。

13区の蟋蟀が…幸途音把だと知られる事だけは、絶対にあってはならない……

あの娘が、幸途鈴音が僕の義妹であり…家族であると、僕との関係性を見つけ出されることは、僕が墓の中にまで持っていかなければならない事だ。

あの娘の人生を、僕がもう一度破綻させることは許されない。

戦線離脱はNG、戦闘捕食もNG。

 

「ままならないな…本当に」

誰かを護りながらの戦いほど、精神と肉体をすり潰していくものは無いだろう…だかこれは僕の誇りを守るための戦いでもあるのだ……

弱肉強食だと言いきってしまえればどんなに楽だろう、強い者が弱者を喰らっていく世界、それは人間だけの世界でも繰り返されてきた事だろう。戦争も、政治も、友人間で起こる諍いでさえ最終的には強い者が勝利を収めてしまう。

だが僕は人間の中で暮らし、人間の営みの中で心を作って来た。今更人間を食べることなど、僕には出来るはずもない。僕にとって人間を食べる事こそが、共食いなのだ。

正義とは勝ったものが決める自分の理念の押し付けに過ぎない。……ならば、今この瞬間における勝者とは正義とはいったい何なのか?

決まっている…

 

「僕だ」

 

 正義が勝者によって形作られるのなら、僕がその勝者になれば良い、人間を食べる悪魔を世界から根絶する事こそが正義だと、改めて教えてやろう。出来ない事も、出来る限界までやればいい。

捕食が制限されたのなら、別の補給方法を考えればいい。さあ…もう時間はあまり残されていない、僕が死んだら人間が死ぬ…答えはもうすでに出ていた!!

 

 

 

 

 

 

 

絶望の鐘の音が響き、真紅の翼が花開く……

 

 

 

 

 結論から言えば、単純な答えだった。喰えない捕食が制限されている原因はといえば素顔の露出からの顔割れの危険性のみ。ならそれを解決する手段はと言えば、素早く相手を片付けるか、以前のように赫子を身体に巻き付けてマスクの代わりに伸縮自在の鎧を纏うという方法しかない。

つまり、両方の手段どちらかを選ぶにしても赫子を身にまとう行為は必須となる。

共喰いを繰り返した喰種は自身の中のRc細胞の変質によって、新たなる高みへとその身を昇華させる。赫者と呼ばれるこの技法を獲得した喰種は、総じてSSレートの実力者となり攻撃力、耐久力共に磨きがかったような著しい変容を遂げるのだ。僕もこの形態を知ったのは、ほん1年前の事だがそれから何とかこの形態を維持できないかと試行錯誤は続けていた。

だが、赫者という強大な力と引き換えに喰種はあるデメリットも一緒に背負ってしまう。それは大量のRc細胞を外皮に纏わせる事によって起こる、細胞の枯渇から発生する飢餓感と、共喰い行為が生み出す精神の異常。簡単に言うならば赫者となったものは、人間性というのもおかしな話だが、通常の喰種からは及びも付かない歪んだ思考回路を確立してしまうのだ。

 

 そのため僕は、赫子を一部分に巻き付けることは以前から出来てはいたが、それだけでも強烈な眩暈や自分が自分でなくなってしまう感覚が残ってしまい、身体全身に赫子を巻き付けたのは先日「梟」と戦った時だけだった。自分の意思、思考を捨てて湧き上がってくる喰種に対する憎しみにすべてを任せ戦った、だからこそ周囲を気にせずに力の限り戦うことが出来た…

梟と対峙した僕は自分が死んでも良いという覚悟で、自分の力をまるで制御しようとしていなかった、現状としてその方が本能に任せてしまった方が、より効率的に相手を屠ることが出来たからだ。しかしその戦法を今は使うことは出来ない、これは相手を駆逐するための戦いではなく、人間を…護ための戦い…

 

 

「オッ…オッおおおおおおおおおおおおォォ!!」

意識を保ったまま、最短時間で赫者状態を維持して全ての喰種を駆逐する、そうなってしまえば後は死体の1つや2つ持って身を隠せればこっちのものだ。全身の筋肉に力を籠め身体を巡る残り少ないRc細胞を背中に集中させる。

ドプリと2本の赤黒い触手の形状の赫子がもう1対現れ、合計4本となったそれを枯渇していくRc細胞から来る飢餓感に耐えて制御し、繊細かつ迅速に身体に巻き付けていった。ねっとりとして多少の水けを帯びた赫子の独特な質感が体に巻き付いてくる感触は、敵対した喰種の攻撃を連想させて不快感があった。だがそれも流動する赫子が身体に定着するまでの辛抱……

体中に巻き付いた赫子はその形状を徐々に堅く鎧のような姿へと変貌させていく、「身に纏う鎧」ではなく「身から出た鎧」こそが赫者としての特質すべき点なのだ。

壊れても細胞がある限り再生し続ける強靭な鎧は、防御に使えば大抵の攻撃を跳ね返し、クインケで起こされた衝撃でさえも防いでしまう。そして、その防御は反対に逆の方向性を持たせることで、あありとあらゆる赫子を弾き飛ばす武器ともなるのだ。

光沢のある黒い蟋蟀のマスクに上乗せするように現れた、複眼のような朱色の模様。地面に広がった血だまりに写る顔は以前とそこまで変わらなかったが、身体はまったく以前とは異なっていた。昆虫のような節々もあまり変わらないが、地に手を付いた獣のようなスタイルではなく、二本の脚でしっかりと地面を踏みしめていた。

意識もまだ、頭痛がひどいがまだ鮮明だった……いける!!

 

「だぁああああっ!!」

赫子が巻き付いた脚がバネの様に筋肉を補助し、先ほどとは別物の速度で迫りくる喰種へと蹴りを放つ。蹴りの威力は凄まじく打ち込んだ脚が、相手に到着する前に、もう相手の身体に穴が空き始めているのだ。大柄の捜査官の背後から赫子を使って奇襲を掛けようとしていた2人の喰種を、その背後から回し蹴りで吹き飛ばした蟋蟀は、再び跳躍して今度は遠くから羽赫を展開させていた喰種へ向かって、胴体をダルマ落としの要領で切断した。

身体が自分の思い通りに動く……思い描いた攻撃の軌跡を描いて綺麗に地面に着地すれば、口をぱっくりと開けて僕の方を見ていた篠原さんと目があった。

「……赫者だったのか、それも相当の手練れだね…まあ今はそれが頼もしいよ」

恐怖心かそれとも敵対心を向けられるかと思い少し身構えたが、返って来たのは少し以外な言葉だった、それがどうしようもなく嬉しくて、自然と喰種を貫く脚に力が入る。

全ての喰種を滅してやると決めている手前、こんなことを口走るのもどうかと思うがそれでも、篠原さんの言葉はもうここで死んでも良いと思わされるくらい甘美なものだったのだ。

「僕も、貴方と共に戦えて……嬉しいです」

互い互いに言葉を交わし、篠原さんの方へと突進してすれ違いざまに、彼の背後からまた奇襲を掛けようとしていた喰種の頭を下から上へと突き上げる蹴りを顎に当て弾き飛ばした。

後ろを振り向けば篠原さんは、僕の背後にいた喰種を自慢の大剣型のクインケで袈裟切りに胴体を切断している。痛みにあげる喰種の断末魔をBGMに僕と篠原さんは、今日この時間において通じ合っていた……

楽しい、楽しすぎる。喰種を狩っているというのにここまで晴れやかな気分になったのは久しぶりだった。何が悲しくて喰種なんかと映画館へ行かなければならないのかと沈んでいた気持ちが、一気に上書きされていく。今の僕はどんな悪口を言われても「笑顔」でその相手を殺してしまうだろう。

人間と共に戦うという行為が、これほど僕自身に力を与えてくれるものだとは夢にも思っていなった。

しかしながら、僕の感じる幸福もそう長くは続かないであろうことは予想できた。この戦いが終わってからの話ではなく、もっと身近な部分。少しずつ本当に少しずつだが、敵の頭蓋骨を破壊するたびに僕の身体からも何かが軋むような嫌な音が響き始めていた。恐らく僕の脳内ではアドレナリンが大量に分泌され続けているのだろう。

極度の興奮状態になり、多分次々と切れていっている筋肉の痛みを感じる事が出来ないのは、それのおかげなのだろう。

 

「ぐはっ……ごほっ…」

吐血、それは唐突だったが前兆は感じていたものだった、Rc細胞がもうほとんど無い状態で赫者になった挙句、常速を上回る速度で喰種を破壊していったのだから、弱って切れてしまった筋肉も、蹴りの威力の反動でひび割れた足の骨も…まだ、治る気配さえない。

多分だが急速体制を変えた時かかった衝撃であっけなく折れたあばら骨辺りが、内臓を傷つけたのだろう、もう僕の身体は限界…を越えていた。喰種として形作られていた強靭な体も、その源であるRc細胞を失えば燃料を失った車と同じ。

ボロボロに崩れ始めた身体…だが…でも、まだ動くことは出来る!!まだ、死ぬわけには…篠原さんを殺してしまう訳にはいかない。

「もっと…踏ん張れ、もっと…持ちこたえろ僕の身体!!」

この至福の時間を少しでも味わうために……全身の筋肉が赫者状態の無理な動きに負荷がかかり悲鳴をあげているのに構わず、僕は赫子の鎧を赫胞を使って動かし、糸の切れた人形のような身体を動かし近寄ってくる喰種に蹴りを放っていく。

 

 

 

スズ…君に殺されるまで、世界中の喰種を殺し尽くすまで、僕は死ねない。

 

視界が真っ暗に染まっても…足が動かなくなっても、動かせる場所があるのならそれを使って喰種を殺してやる。

 

 

 

『…人間好きな僕にも困ったものだ、でもまあそれも「僕」だから仕方ない……今回だけ、貸してあげるよ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  『力をさ……』




この私小説も30話を越えました、これも皆さまの応援とご声援のおかげです。
正直なところ、私は小心者なので皆さんからの反応を楽しみにしているところがあります。
これからも変わらないお付合いをよろしくお願いします。

ご意見ご感想、些細な事でもいいので、お待ちしています。

2015/4/1  合併修正


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#018「表裏」

最近、よく夜更かしをしてしまいます。身体が夜型になっているのか、それとも朝が低血圧なのかは分かりませんが兎に角小説の投稿がこんな時間になってしまう事をお許しください。
原作コミックスの「隻眼の梟」の正体…ヤンジャン最新話も合わせて一体誰なんでしょう、予想外の既存キャラが出てくる気がして今もドキドキしてします。

そういえば皆さんは石田スイ先生が東京喰種を描く前に書いていたネット限定漫画を知っていますか?
シュールなギャグマンガだと思いきや、シリアスな展開もあってまさに東京喰種のがあそこから生まれたのかもというキャラクターも登場する良作です。
機会があればぜひ検索してみてください、諸事情からタイトル名は出せませんご了承ください。

ご意見ご感想、些細な事でもいいので是非お書きください、お待ちしています!!


 ―常識とは、人間が18歳になるまでに持った偏見のコレクションだ―

                       アルベルト・アインシュタイン

 

 

 喰種でありながら人間を愛することを選んだ喰種は数多くいる、死んでいるか生きているかは別にしても、少なくともそういう存在がこの地球上に存在していたという事実は揺らがない。

だが、この蟋蟀の思想はそのどの人間を愛する喰種達の思想とは食い違っていると、此処で述べなければならない。

人間を愛する喰種とは一般的に見て、常識から外れている異端に分類される。いわば人間が食べるために育てている牛や豚などの家畜動物を自分の命よりも大事に思っている事と同じ事なのだ。

まあ、どちらも知的生命体である以上、その邂逅はある程度自然に起こりうる軌跡なのかもしれないが、蟋蟀…13区を恐怖のどん底に陥れた閻魔蟋蟀はそのどの思想にも当てはまらない。

人間を愛することが?いや、それはそれほど異端の喰種達とは変わらない、一線を隔しているのはその同族に対する喰種への執拗な残虐性にあった。

本来、異端の思想を持った喰種とは喫茶店を営む「梟」のように喰種という自分を「人間」の世界という枠組みに入れようと考える「共存」系を志すものなのだ。自己の肯定とも言える、喰種と人間が手を取り合えれば良いと考える極めて理想論に近い思想がそれらの喰種のほとんどを占めている。

しかし、蟋蟀の脳内で展開されている思考は、あくまで自分の愛する人間を護る事であり、そこに自分という存在を認めていない。自分を含めた全ての人間への外敵であり、命を軽々しく奪う喰種の絶滅を最終目的に据えている蟋蟀の思考は、一体どこから生み出されたものなのだろうか。

 

 人間に人間として育てられてきたからか、それとも育ての親だった人間の両親を喰種によって殺されたからだろうか、愛すべき義妹を傷つけ人生を歪めてしまった起点となった喰種への恨みなのか。

恐らくそのすべてが当てはまり、だがそれだけではまだ蟋蟀のその喰種に対しての凶暴性が説明できていないのだ……

目と目が合っただけで喰種を拷問し、死ぬ寸前まで死んだ良いと思わせるような悪魔も逃げる拷問を何度も繰り返し行って来た蟋蟀の歪んだ行動を作り出したものが、まだ足りない。

人間の世界で育ち、人の心を持ったのであれば、自分の両親を殺したその個人としての喰種は憎くても、まだ罪を犯していない赤子の喰種や無知で何もわからない幼子の喰種までも「拷問」しようという発想には思い至らないだろう。そもそも捕食行為を行わずに喰種をただ悪戯に切り刻むこともあるのだ。幼子の流す涙を見ながら心底嬉しそうに身体を震わせる蟋蟀の姿も、また13区で名を轟かせた理由の一つであろう。

まともなCCGの捜査官でさえ、そういう脆弱な喰種と戦うときは余り痛みを与えずに殺す事が多いというのに……彼は喰種を恨んでいる、憎しみ囚われている……義妹の意思と共にある様に喰種を殺しているようにも見える彼は、その実何かから逃げていたのかもしれない。

喰種を狩る時に口走る言葉「悪」それは、喰種に告げる断罪の言葉ではなく……自らへと告げる自白の杭。

 

 自らをそうやって戒め続けることで、喰種である自分の存在を肯定してしまう事を避け続けてきた、自分は悪だと…生まれてはならなかったのだと。喰種を執拗に痛めつけることで、彼らの醜悪で粗雑な悲鳴から蟋蟀はそれを実感していたのだろう。そうしなければ、彼は……自分の中に生まれたたった一つの欲求に飲み込まれてしまうからだ。

「人の肉が食べたい」

喰種を食べいくら飢えを凌いできたところで、喰種として生まれたからには本能が、遺伝子が人間を食べることを望んでしまう。人間が産まれてすぐに母の母乳にありつくように、喰種は生まれてすぐに死体の血液を啜るのだ。

欲求を理性で塗り固めた生物が人間だとすれば、喰種は理性を欲求が制御しているとも言っていい、彼らにとって食事とは採らなければ即、死に繋がる危機……

本当に無意識の中で彼は自分を戒めるその行為を行っていた、だからこそ彼は今まで自分という存在を保ってこれていたのだ、だがそれも過去の話…梟と出会い、喰種の存在を深く知り過ぎてしまった蟋蟀はほんの少しだけ喰種を「肯定」してしまった。それが途方もない飢餓へとつながりリゼとの戦闘に始まり、赫者状態を長く維持できず力尽きるという状況になるまで追い詰められてしまっている。

 

 弱まる意識、薄くなっていく執念……だがそれは蟋蟀が何年も誤魔化し続けてきた欲求が目覚めるという合図でもあったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『おなかへった』

 

 

 

 

 

 

 

 

 たったそれだけの言葉、それだけでこの場に集まった喰種も人間も一瞬足が止まってしまった。

余りにも場違いな、どこにでもいる子供が両親にふと漏らしたような言葉が、この場ではひどく印象的で……不気味だった。

「ひ…うあっ…」

殺気とも闘気でもない、言いようのない恐怖が迫ってくるような気配に、髑髏のマスクを被った集団の全ての肌に鳥肌が立つ。空気が先ほどまでの戦闘による張りつめたものとは違い、重くそれでいてありとあらゆる方向から自分に向けて刃物を向けられているかのように痛いのだ。

誰かが唾を飲み込む音が狭い路地に響いた、恐る恐るその全員が恐怖の声の主の方へと顔を向ければ、そこに立っていたのはボロボロになって膝をついていた蟋蟀の姿ではなく……

口元が割れてしまった蟋蟀のマスクから出た、サメの歯の様に幾重にも重なった朱く鋭い牙を生えそろえた大きな赤い顎を持つ「化け物」だった。

「な…なんだよ、アレ」

驚きは動揺へと変わり、喰種達は目の前に現れた異形の物体へと恐怖の視線を向ける。それもそうだろう、彼らは赫者など禄に見たことが無かったのだから、蟋蟀の今までの鎧を纏った騎士にも似た姿を見てあああれが赫者か、と漠然と思っていただけなのだから。

今まで戦っていた蟋蟀の鎧を纏った身体は、二つに分かれそこからあの「化け物」がまるで昆虫の脱皮の様に顔を出しているのだ。ひび割れていた外皮も艶々とした光沢を取り戻し、筋肉質に一回り大きくなった蟋蟀の身体は、人間というよりは異世界ファンタジーに登場しそうな亜人に近い、昆虫と人間を足してしまったかのような異形を誇っていた。

脚の節々に生えた棘に、頭部から顔を出した触覚は昆虫にも似ていたが、その蟋蟀の基盤となるべき羽が背には生えていなかった……

 

 

『ああ、こんなにごはんがたくっさん』

その瞬間、喰種達は悟った、自分たちが狩る側から狩られる側に回ったのだという事を。

自分たちは、なんというモノを敵に回してしまったのだと絶望した。13区の蟋蟀…自分たちのリーダーが警戒するネームバリューの相手が出てきた時点で逃げるべきだったのかもしれない。

SS級の幹部がいるからと、さっきまで人間の肉を食べたからと強気になって油断していたのかもしれない。だがその後悔ほど無駄なことは無く、運命はすでに決まってしまったのだろう。

しかし、変わり果てた喰種であるかどうかすらも疑わしいソレに対して……怯えることは決して恥ではない。

恐怖とは、人間喰種問わず動物…いや生物であるならば何であろうと持ち合わせている本能だ、危機回避能力の一部であるとも言えるそれを無くしてしまう事は、ぐっと生物を死に近づける。

それが今回は自らの動きを止めてしまうという真逆の方向へと働いてしまっただけ……彼らは何も悪い要因を作ってはいない、本当に運が悪かっただけなのだから。

解放された欲望はまず目の前に広がるご馳走の山に狙いを定める、幼く舌足らずな言葉を発する「化け物」は、一回り大きくなった身体をゆすり鋭利な口を開いたのだった……

 

 

『いただきます』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本来、昆虫としての蟋蟀は同種・同性であっても羽の長い姿を持つ成虫と、短い羽を持つ成虫がいる。これは個体の大きさつまり環境への順応によって起こるものでも、カブトムシの角形のように栄養の不足などから引き起こされるものでもない。

それは幼少期に受けた肉体的な外傷などのストレスが起因し、蟋蟀の肉体は特殊なホルモンを分泌することで羽というエネルギーを余計に消費する器官を退化させ、自らの体力を温存しようという方向に働くのだとされている。

羽のない羽化というのも変な話だが、現在人の殻を破り捨てて誕生した喰種の「蟋蟀」は不思議な事にその蟋蟀の特性を備えているようだった。極度な飢餓状態において必要なのは、羽という長距離移動・小細工をする器官ではなく、ただ「食べる」ための力。

羽を形成させるだけの余力を全て、肉体の進化に注ぎ込んだ彼の様相は、捕食者(プレデター)を連想させる。

 

 だが、何故蟋蟀は動けているのか、それが路地にいる彼以外の喰種にとって疑問であり、不気味な事でもあった。赫者となり赫子を身に纏った蟋蟀は髑髏マスクの喰種集団を数人吹き飛ばした辺りで、肉体に抱える負荷が許容量をオーバーして倒れたはずではなかったか。

喰種の集団もそれを視界に捉えていたからこそ、蟋蟀の脅威がなくなったことに安堵し、余念なく本来の目的である特等捜査官殺しに専念できると思っていた時の出来事だった。

何事も無かったかのように平然と姿を変化させて起き上がるソレを見た時、喰種の集団は「有りえない」と思ってしまった。それは、この蟋蟀が赫者とはいえ恐ろしく異形な姿をしている事と、エネルギーが尽きたはずの喰種が何故まだ立ち上がれるのかという疑問から……

これは現実だ、当然漫画の物語の様に瀕死になった主人公が仲間の声に応じて新たな力を獲得するという奇跡は起こっていない。何もない所から力は生まれない。

蟋蟀が今まさに現在進行形で作り出しているエネルギーにも、しっかりとした源がある。喰種が欲するエネルギーとは、簡単に言えば人の肉に含まれる細胞の事、そしてそれは喰種の体の中にも必然的に存在している。だからこそ蟋蟀は喰種を襲う事で飢えを凌いできていたのだ。

……そう、「喰種にも存在している」ならば彼自身にもRc細胞はある、これが蟋蟀を今も動かし続けている力の答えだった。

頑強な外皮に守られた蟋蟀は自らの既存の肉体を融解しながら含まれるRc細胞まで自身の強化のために使っていたのだ。言わば自分で自分を食べている状態、常識的にRc細胞が行ったり来たりするだけの無駄な行為に思える事も即席という面だけにおいては、かなり頭のいい作戦になる。

エネルギーとしてのRc細胞を使うのではなく、自分の肉を喰らってエネルギーとしてRc細胞を抽出する事は瞬間的にだが莫大な力を生むことが出来るのだ。

 

「ぎゃぁ…ぐぇっ」

 そのおかげで蟋蟀は自分の内から作り出されるエネルギーを使い、人型だった時よりもより獣の近い野性的で素早い動きを実現させていた。足を使い跳躍してはその勢いのまま強靭な大顎で喰種の身体の各所を引きちぎっていくのだ。

絶望の鐘はもう鳴らされた、タンというコンクリートの壁を蹴る音が聞こえると同時に、黒い影が喰種の側を通り過ぎる。するとその喰種は白目を剥いて地面に崩れ落ちる。仲間の喰種がその方向を向くと先ほどまで生きていた喰種の腹には野獣に食い荒らされたかのような大きな歯型が残っていた。

カチカチと何度も大顎を鳴らせ、地面に着地した黒い影……蟋蟀の口には、食いちぎられた喰種の肉塊がゆっくりと噛み潰され嚥下されていく様が展開されていたのだった。

人間の何倍も固い皮膚を持つ喰種の肉を、豆腐のように切り裂いてナイフなどの刃物では傷一つつくことのない骨をキュウリのように折ってしまう生物をもう「喰種」と呼んでいいのだろうか?

「ひ、ひいいいいいいぃぃ!!」

無残にも仲間が喰い千切られていく光景を目にした喰種の集団の一人が、「もう嫌だ、こんな奴と戦っていられるか」と路地の道を逃走した、人間も喰種もその恐慌状態に耐えられなくなってしまった可哀想な一人を止めようとはしなかった、なぜならその者の末路をもう知ってしまっていたからだ。

 

『ごはん、にげちゃ…だめだよ?』

「い、いやああああああああああああああああだああああああああああ……あっ」

軽快な足捌きで空へと跳躍した蟋蟀は、逃げ出した喰種の進行方向に降り立ち、とうせんぼする様に両手を広げ、何故そんな事をするのと問いかけるように首をかしげたのだ。

美味しいご飯は自分の口に入る為に集まっているんでしょうと説いたげな仕草に、喰種も人間も騒然となる……大柄の捜査官も、特等を殺すために集められた喰種のメンバーも、ここまで歪み捻くれたのにも関わらず純粋な思考を持つモノに出会ったことはない。

いくら赫者が本人の正気を奪うとはいえ、これでは丸で人格が変わったようではないか。特等捜査官の篠原はそう考え、いつ何時その牙が自分に向いた時の為に静かにクインケを構えていた。

今の蟋蟀にとって、喰種は大皿に盛り付けられた豪華なディナーに過ぎない、彼がした行為は箸から滑り落ちた料理を手で受け止めただけの事……

大事なご馳走は美味しく食べないとお母さんに怒られちゃう……悲鳴をあげ続ける喰種の前に立った蟋蟀は喰種の鮮血がしたたり落ちる大きな顎を開いて、ギロチンの刃の様に頭部を齧り取った。

噴水のように頭が無い身体から吹き上がる血液をジュースのように飲み干した蟋蟀は、腕、脚、胴と四肢を顎で骨ごと齧り、すり潰す様に捕食していったのだった。

 

『うまうまぁ』

 

 これはもう戦いとは呼べないものだった、蟋蟀単騎による一方的な蹂躙……戦意を喪失した喰種達を何の情け容赦なく狩っていく姿は、まさに喰種そのものともいえるのだろう。

人間を食べるために生まれてきた喰種は、か弱い人間を殺人という罪の意識なく殺してしまう。だが、それは生きるために必要な糧であり、人間もそれと同じだけの事をしてきている。

生物は生きているだけで周りの生命を殺してしまう、植物も動物も、菌にいたるまでそれは変わらない。間接的にしろ直接的にしろ、生物は何かしらの命を奪って生きているのだ。

そう捉えればむしろ、人間1人を長期にわたって食べる喰種の方が、殺してきた生き物の命の数という面では人間よりも少ないのかもしれない。

そう考えればこれは、人間という飽和した人口に対する何らかの処置なのではないのか、増えすぎた人間の数を減らす為の天敵動物の登場が喰種ではないのか?真相は闇の中だが、これだけは言えるその理論が間違ってはいないのならば、次はその増えすぎた喰種を間引くために生まれた天敵こそ、この「蟋蟀」なのだと……

生物には天敵が必ず存在する、「喰うモノと喰われるモノ」それが生態系であってこの世の理、弱肉強食とは弱者が強者に虐げられるという意味ではなく、命が食べられるというサイクルを通じて回っていることを指しているのだ。

 

 喰種の持つ抑えられてきた本能が目覚めた蟋蟀は、もう恨みではなく純粋な食欲を満たすためだけのご飯として喰種を殺し続けていた。獣の様に…いや無機質で遺伝子にのみ従う昆虫のようにそこに感情が介入することは無いのだろう。喰種の天敵動物「閻魔蟋蟀」は、動き出す。

そこに有るご馳走を平らげるまで空腹な蟋蟀の惨殺劇は止まることを知らない。

 




はいスマートです、お陰様で閲覧数が50000となりました。目標は1万だったのでそれを大幅に超えてしまう形となって自分でも驚いています。
これからもこの調子で、閲覧数を少しでも多くするように取り組んでいきたいので応援のほどをよろしくお願いします。

ご意見ご感想を些細な事でもいいので待っています!!




最近、BLEACHのマユリ様が、東京喰種の世界に来たら…という妄想をしていました。
2015/4/1  合併修正


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#019「羨望」

 「……幸途さん遅いなぁ」

 20区のあまり人の往来が少ない通りにある映画館の前、差し込む熱い日差しに眼を細めた私は、肌から流れる汗を拭いながら、じっとそこに立ち尽くしていた。目じりに残る涙の痕を拭いながら、初めて出かけた日にだらしない姿を見せてしまったと、心の底から吐き出すようなため息をつく。

最近、ホラー映画に弱くなってしまったのかもしれない。こういう場合、「きゃあ、怖い―」などと黄色い声を出して男に抱き付くのが常套だと依子に教えて貰ったのだけど、いざ映画を見てみれば蟋蟀に身体を切り刻まれた痛みが、恐怖が体中からせり上がってきてとても声を出すどころの話ではなくなってしまったのだ。

体中の筋肉が震え出し、血が噴き出るシーンが自分の内臓が喰われていく光景と重なり、脂汗がとめどなく溢れ出てきた……トラウマという奴だろう、本当に情けない。冗談じゃなく本当に幸途さんにまた慰められることになるとは思いもしなかった。

「ふふ……」

まだ仄かに身体に染みついた幸途さんの匂いを確かめながら、まあそれも悪くなかったと開き直ってみる。

 

 初めて出会った時に、初対面の私に対してまるでそうすることが当然の様にそっと胸を貸してくれ、あまつさえ喫茶店にまで自分の我がままを聞いて送り届けてくれた幸途さんに、私は段々と惹かれてしまっていたのだろう。

父親に先立たれ、弟に逃げられてしまった私は、独りだった。それこそ心にぽっかりと大きな穴が開いてしまったかのように、どうしようもない虚脱感にかられていた。

喫茶店でのバイトも身が入らず、何時もどうしてどうしてと自分自身をそして自分の前から去ってしまった父や弟の事を考えてしまう毎日で気が滅入ってしまいそうだったのだ。だからと言って大切な家族の事を例え離れ離れになったとしても、嫌われたとしても忘れることが出来なかった。…いや忘れたくなかった。

喰種は親戚等の血縁関係が人間に比べて極端に少ない、それは弱い喰種からCCGの捜査官や同族である喰種に食べられてしまうからだ。だからこそ血縁という広く大きな関係があっても、すぐに間引きされて数が減ってしまう、そのため多くの喰種は家族を大切にし、自分の子供を命を懸けても守ろうとするのだと芳村さんに教えて貰った事がある。

私のお父さんも優しい人だった、寝る前には絵本を読んでくれたり人間の暮らしの中で生きていく術というものを簡単にさり気なく教えてくれたりもした。結局最後には私たちの前から姿を消してしまったけれど、お父さんはきっと家族の事を愛してくれていたのだと思う。

私も弟も反対にお父さんの事が大好きだった……考えれば考えるだけ昔の楽しかった思い出が浮かんでくる。怪我をした小鳥を育てていたり、その餌のためにミミズを沢山とったりしたこともあった。

懐かしく悲しい、もう二度と戻ることが出来ない過去の思い出は、脳裏に焼き付いていつも私を締め付けてくるのだ。

そんな時だった、私は13区に自分の弟がいるかもしれないという噂を聞いてしまった、好戦的で羽赫の若い喰種が暴れまわっているという曖昧な情報を元に、居ても立ってもいられなくなり芳村さんの静止の言葉に「私の邪魔をしないで」などと癇癪を起こしてそのまま駆け出してしまったのだ。

もう一度、弟に会う機会はこれを逃せば二度と巡ってこないかもしれない、その焦りが冷静さをかくこととなり、最悪の結末へととながったのだった……

13区へやって来た私はそこで、どうやって弟を連れ戻す……どうやったら私の元へ弟は戻ってきてくれるのかそれだけを考えていた。例え再開出来たとしても、あの時の様に私に裏切られたと感じてしまったままだったのなら、きっと前の繰り返しになってしまう。

また、人間や喰種を何度も襲う好戦的な生活を送れば、また弟は帰ってきてくれるのだろうか、焦りがまた私の心を可笑しな方向へと導き……たまたまそこにいた人間を私は襲ったのだった。

人間の中に溶け込むことを弟は嫌っていた、それは亡き父のように信頼していた人間にあっという間に掌を返されて殺されてしまう事を……恐れていたからなのか…それとも。

そして…私は「蟋蟀」に出会ってしまう。

13区において最凶とも言われる「共喰い蟋蟀」は、確かに粗暴で残酷でとても勝てる相手ではなかった、だけど私が一番怖かったのは蟋蟀に言われた言葉……「悪」。喰種は悪だと、人間を殺して楽しんでいる私たちは生きていてはいけない存在なんだと言われたことが、それを心の何処かで否定できないと思ってしまった自分自身が怖かった。

軽々しく命を壊し弄ぼうとした私は、きっと悪なだろう。弟の為などと嘯いてはそれは寂しい自分の心を埋めるためのエゴだったのだろう。蟋蟀の断言するような口調に不思議と私は引き込まれ、私は死を覚悟したのではなく、死を望んでしまった……

きっと、あの時私は蟋蟀が手を下さなくても、自分自身で止めを刺していたのかもしれない、この過酷すぎる運命から逃れる為に、今まで犯してきた人殺しの罪を清算するために自身の断罪を望んだのだ……

 

 それをあの一瞬で変えてくれたのが幸途さんだった、抱きしめられていた時、背中に負ぶわれていた時、懐かしいお父さんとの記憶が蘇って来たようだった。何物をも受け止めてくれるような太陽にも似た暖かい笑顔は、世の中の事が一切合財嫌になりつつあった、凍り付いていた私の心を溶かしてくれた。とっさにお父さんと口走りそうになって慌てて飲み込んだくらい、幸途さんはお父さんに似ていたのだ。

彼が喫茶店で働くことになったと店の店長である芳村さんに聞かされた時は、耳を疑ってしまった。嬉しかった、何も聞かずに私の事を…私が感じていることを察して慰めてくれたあの人が、自分の近くにいるという事が。

それからというもの私は幸途さんの事が知りたくて堪らなくなってしまった、暇さえあれば喫茶店の二階に足を運び、幸途さんと話すことが多くなった。幸途さんは、私が知らないような言葉や面白おかしいファンタジーの話を次々に話してくれたのだ、私は彼とその話に引き込まれていってしまった。バイトのシフトが入っていない日は、彼が仕事を終えるまで彼の部屋で待っていたこともある、扉を開けて入って来た幸途さんの驚いた顔は忘れられない。渋い顔をしながらもやれやれと笑顔で私を許してくれる彼の事が私は大好きだった!!

困った顔をした表情も、笑った時の表情も、どれもこれも写真に残したいほど輝いていた。

 

 でも……私は喰種、あいては人間…私の抱く思いがあの人に届くことは無いのだろう。打ち明けてもきっと通報されるだけ、いくら楽しく過ごせていた時間もその一言で一瞬にして無に帰ってしまう。

優しかった隣のおばさんも、私が喰種だと知ったとき……私や弟をまるで化け物をみるような軽蔑した眼をしていた。

あれが普通、人間は喰種を怖がり怯えて逃げるだけ、食べる側の存在と食べられる側の存在が仲良くなるなんて絶対に有りえないのだから。…幸途さんも、きっと私が喰種だと知れば、私の大好きなあの笑顔を……消し去ってしまうのだ。「この野郎、よくも騙したな」と私をののしるのだろう。楽しかった事も、抱きしめられた嬉しさも、過去の思い出に成り下がってしまうのだ。

炎天下の空の元、私は肌をかすめる血の匂いを嗅ぎながら、どこかで人間を襲っている喰種を思い浮かべて、自分(喰種)という存在を嫌悪した。

 

 

そういえば幸途さんは、私が側に行くとよくお腹を擦っているがあれはどういうことなのだろう。

 

 

 

 

                   ・

 

 時間とはとても長く感じる時もあるが、反対にとても早く感じる時もある。それこそ世界が一定の速度で回っていないのかもしれないと錯覚してしまう程に。時の流れ程不確かでとても人間という不確かな感覚ではとても正確につかむことが出来ないものはない。

あれほど凄惨で、心の芯に焼き付くような酷い出来事も時が経つごとに少しづつ、本当に少しづつだが色褪せていってしまうのだ。両親が喰種に殺された悲しみも、私の兄が豹変してしまった途惑いも、全て昔懐かしい思い出として過ぎ去った過去の出来事として処理されてしまう。今とはこの一瞬であり、その一瞬も数秒と待たずもう過去のものとなっている。

大好きな私の兄は、兄と成ってくれたくれた人は今もどこかで私のために、私に対する勘違いも甚だしい罪の意識から喰種を狩り続けているのだろう。喰種でありながら、その主食である人間を食べずに喰種のみを好んで食べ続ける兄はきっと無理をしている。

CCGの捜査官になって他の人よりはまだ日が短い私だが、座学に関しては他の追随を許さないほど、暇さえあれば資料室に籠りきりになって頭に詰め込んで来た経験がある。だからこそ喰種が喰種を食べるという共喰いが、捕食者本人にどれだけの精神的ダメージを与えるかも理解しているつもりだ。

赫者……私もまだ数えるほどしか相対したことのない相手だが、その多くがどれも一般の喰種から見ても常軌を逸していたのだ。話も何も通じないただの殺人マシーンに成り果てていた喰種もいた、あれは恐らく同族を喰らう事で起こる体の変化に、喰種としての精神が浸食されて起こる現象なのだろう。強化される肉体に増強される本能……その辺の喰種はそれに耐えられないために、狂ってしまう。

 

「私の兄に限ってそれは無いと思うけど……」

CCG本部にある沢山の資料が積み重ねられた机に座って、私は湯気が出るコーヒーのカップに口をつけた。兄は自分に厳しく、そして他人にとことん甘い人だった。それゆえに自分だけで何か重いものを背負ってしまいがちになってしまう。あの日も私を護るために部屋に閉じこもって自分の本能と戦っていた。

何物にもへこたれない意思の強さなら誰にも負けることは無いだろう、兄は柔軟な考え方を持っているが決してそれは本質までを変えてしまうモノじゃない事を私は知っている。

どんな時も、誰かのために…誰かを護るために自分の意思を貫き通してきた兄…でも、だからこそ心配になってしまうのは私がおかしいからなのか。あり得ない……そう思っていた歪みがもし、あの兄を喰種の闇に陥れた時、兄は…一体どうなってしまうのだろうか?

人間を食べることをしない兄の中に蓄積されたストレスは、並の喰種のものではない。今でこそS級として登録されてはいるが、それは人間への被害度を含めた数値も含められる。純粋な強さで測るのならば彼はもうSSの領域に足を踏み入れているのだろう。

SSレートの赫者、想像するだけで怖気が走る響きだが……加えて兄にはその溜め込んだ大量のストレスがある、2つの要因がもし何らかの偶然で重なり兄が赫者に成った時に正気を失いでもしたら…

爆発するストレスと赫者の狂気が混じり合えば、とんでもない化け物が産まれる…それはもう誰にも止められない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「杞憂…だと思いたいけど」

 机の上に置かれた大きな地図には、細かくこの東京20区の全体が映し出されていた。「美食家」そして最近「大食い」が目撃されるようになったこの場所に兄…「蟋蟀」までやって来た。まだ正確な行動の数値化はされていないが再び動き出し始めた大規模喰種集団「アオギリの樹」、ナリを潜めるように此処数年姿を消したSSクラス喰種集団「ブラック・ドーベル」に「魔猿」率いる猿のマスクを付けた一派までも不確定な目撃情報が数件寄せられていた。

何か嫌な予感がする、この先…2年、3年後に何かが起こる、悪意渦巻き始めた比較的平和だった区で絶望の種が…芽吹き始めようとしているのかもしれない。不安が新たな不安を呼び、柄にもなく私は机の引き出しから取り出した写真にそっと唇を当てた。

線の細い身体に映える笑顔が眩しい顔が、CCGに入ってからの生活でいつも困った時の私の支えになって来た。孤児院で行われる剣道の試合の決勝戦も、初めて挑んだSレートとの戦いの時も…

その兄はこの世にいる全ての喰種を自分を含めて殲滅する、そしてその自分への止めを私にして貰いたがっているようだが、常識的に考えてそんな事が私にできるはずもないだろう。その辺にいる血に飢えたカスな喰種ならいざ知らず、10年以上もの日々を共に過ごしてきた家族を例え人類を脅かす喰種だとしても殺す事ができるのかという話だ。

口では兄にあんな事を言っしまったが、私はきっといざその時がきたら手が震えてしまって何も出来なくなってしまうのだろう。人類の敵であり絶対に倒さなければならない喰種を何十人と殺してきた捜査官としてあるまじき事だが、逆に問う……誰が私を責められるのかと。自分が育った家の大切な家族を、最後の血の繋がりはないが心で繋がった肉親ををどうして殺せよう?

「でも……殺さなければ話にならない」

私は頭を振ってその考えを消し去った、軟弱な考えはまだ私はしてはいけない、それは全ての喰種をこの世から絶滅させてからする事だろう。二度と私や兄のような不幸の連鎖を生まないために、喰種と人間の不毛の連鎖を断ち切らなければならないのだ。私の敬愛する白髪の上司も愛する妻を喰種に殺されてしまっている、CCGの運営する私もお世話になった孤児院には、今も大勢の親を殺された子供たちが収容されてきているのだ。中には私以上に喰種による過酷な現場を見て、心が壊れてしまった子供もいた。

何を考えているのか分からない虚ろな眼をしている過酷な運命を背負った子供たち、だが彼ら、彼女らは「喰種」という言葉に過剰に反応する。その言葉を聞いてしまっただけで泣き出してしまう子供もいれば、とても子供に似つかわしくない憎悪が込められたギラギラとした眼を見ているとやるせない気分になる。

死んだ者の気持ちは二度とわからない、だけれど生きている者、取り残された人間の気持ちは言葉にしなくともその眼を通すだけで伝わってくるようだった。痛かっただろう、苦しかっただろう、辛かっただろう、悲しかっただろう、寂しかっただろう…そして何より自分の大切な家族を殺した「喰種」が憎かっただろう。

憎しみは人間という種を動かす上でこれ以上ない動力源となる……小さいころに蓄積された憎悪は日を追うごとに「喰種」の凶暴性を知るごとに大きく強くなっていく。数多く喰種を殺し表彰された捜査官の胸の内にあるものは、褒められたことによる愉悦ではなく、もっと憎き喰種を殺してやりたいという復讐心なのだ。

復讐は…駄目だ、喰種にも残念ながら感情がある。感情あるものが互いの復讐をぶつけ合ったなら、それは2つの種族どちらかを滅ぼし終えるまで永久に終わる事のない、不毛な争いに火をつけることになり兼ねない。……結論として喰種は人間が居なければ生きることが出来ないために、どちらが勝とうとも喰種は滅びる運命なのかもしれない。

生命の命をただ何の気なしに潰し刈り取っていく喰種は私にとっても、この地球上にいる全人間たちにとっても「悪」だ。

悪の芽は……生える地面さえ根も残さず抉り取ってやる!!

その為には……私は例え自分の大切な兄であろうとも、殺さなければならない。

 

 空になったコーヒーカップをソーサーの上に戻し、ため息をついた私はいつの間にか拳を握りしめていた事に気が付いた。汗ばんだ手のひらには薄らとだが覚悟と決意に塗れた鮮血が滲んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大丈夫、その時は私も一緒に逝ってあげる……

 

 

 

 

 




はい、今回は董香視点と鈴視点でお送りしました、覚醒蟋蟀の状況を期待していたみなさんすいません。
次回は恐らくその蟋蟀が大活躍?します。
ご意見、ご感想をお待ちしています。些細な事でもいいのでドンドンください!!
2015/4/1  合併修正


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#020「標的」

 はいスマートです、久方ぶりに新たな原作キャラクターを登場させてみました、まだこのメンバーの実力もノロくらいしか分からないので、戦闘描写はノロを主軸に置くところが多くなっています。

アニメの方での赫子の配色はあれはアニメ監督側の配慮なんですかね、それとも本来ああいう色をしているのでしょうか、真戸や月山の使うモノの色の配色はとてもカラフルでした……

ご意見ご感想、些細な事でもいいのでどんどんください、お待ちしています!!



『あむ』

「へ……っがあああいあ」

呆気ない音と共に、倒れた仲間の喰種の死体を戦々恐々とした面持ちで見ていた喰種の右腕が何の衝撃もなく消失した。何か腕の感覚が無くなったと不思議に思った喰種が、自分の腕を見るとそこには鋭利な刃物で刈り取られたかのように、右方から先が骨ごと切り取られていたのだ。

まるでおやつを齧る気軽さで、切断した腕を貪る化け物の速度は、喰種の肉を食べる毎に格段に上昇しつつあった。飛び上がる時に若干聞こえた足音も、喰らいつく時に聞こえた耳に張り付くような鈍い音も今では全く聞こえなくなっていたのだ。痛みで咽び泣く嬌声も、それを発する頭を齧られれば、聞こえなくなり空しく血液を外に押し出す心臓の鼓動もやがて停止する。

空気の抵抗を極限まで減らし、最大の力でそれでいて音を全く発生させないなめらかな動きが出来るほどに化け物は洗練れた動きを見せていた。喰種達には止まって肉を貪っている化け物の姿は視認できても、予備動作なく動いた時にはもう肉を切り取られるという、高速で動きまわる蟋蟀を見ることは出来ない。

「ふう…さて、これはどういう状況なのかな」

あっという間に自分を苦しめていた喰種達が化け物の腹の中に納まっていく光景を見て、大柄な坊主頭の捜査官、篠原はこの先の状況がまったくつかめないことに内心焦りを感じていた。

先ほどまで状況が状況とはいえ共闘する事になった恐らくSレート以上の喰種、それが倒れたと思った瞬間再び息を吹き返したと思ったら、彼の目の前には赤い紅蓮地獄が広がっていたのだ。

喰種が勝手に共喰いをして数を減らしてくれるのは、彼にとってもCCG捜査官としても願ったり叶ったりの事だ、だがこのペースで進めば喰種はあっという間に駆逐され、最後に残るのは捜査官である自分と満腹になった化け物のような姿の喰種という事になる。

 

 喰種のRc細胞を大量に取り込み今も強さを増している化け物が、数分前に共闘していたからとはいえ人間に対して何もしないとはとても考えられなったのだ。喰種は何処まで言っても人間を食べる悪しき生物、それがCCG全体の見解であることに間違いはない。

共喰いという行為を好んで行う喰種はそれほど珍しくない、しかしその行為を行う喰種のほとんどが自身の強化であり食料調達のために同族の捕食行う喰種は皆無に等しいのだ。手ごわい同族よりも弱く手間をかけずに手に入れられる食料を食べた方が効率的ではあるだろう。

もっともCCGという組織があるため、それほど簡単にはいかないかもしれないが、実力差があり過ぎる喰種を捕食しようとして返り討ちにあって死亡、という馬鹿な最後だけは回避できる。

喰種と1対1でまともに戦える捜査官の数が少ないのだから、必然的にそういう統計にはなる。

だが、篠原はそこで自分がその化け物に命を救われたという事を思い出した。化け物は助けに来たと、捜査官である篠原を喰種の集団から救いに来たと言っていた。

だがまあ、その言葉が百歩譲って真実だったとしても、今のこの理性を無くした昆虫に人を助けるという意思が残っているのかと言えば、怪しい所だろう。

「……まったく今日は厄日だね、悪運が強いだけに回避するたびに次から次へと厄がふってくる」

もう体力の限界を迎えていた篠原には、クインケを振るい喰種を牽制するだけの力だけで精いっぱいだったが、幸いにも今の状況に集まっていた喰種は全て誕生した化け物に釘付けになってしまっている。

篠原ははそっとスイッチを押し、クインケの起動を停止させもとの銀色のセラミックケースに戻すと、力を温存するためにその場の壁に倒れ込んだのだった。自分を取り囲んでいた喰種の集団が限りなく0に近づいた時、人垣が無くなった開けた道から脱出するために、彼は最後の力を溜め込んでいた。

「死ぬわけにはいかない」強き意思が彼を現に引き寄せる。

 

 

カチカチ カチカチ

 

カチカチ カチカチ

 

悲鳴しか聞こえなくなった路地の嫌な静寂に、ふと何か固いものを叩き合わせるような火打石にも似た音が響き渡った。それは獲物の狙いを定めた化け物が、大きく尖った牙を何重にも生やした顎を噛み合わせる音。静まり返った狭い空間に終焉を告げる音色が反響し、何重もの層になってさまざまな音階を作り上げていく。

「あ……ああっ」

脳を揺さぶるような調は、反撃か逃走かを決めかねていた喰種の脚を絡めとり、意識を朦朧とさせ筋肉を弛緩させてしまう。化け物の近くにいた者ほどその影響は顕著でまるで見えない糸に全身を絡め取られたかのように身体全身を動かせなくなってしまっていた。

「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

至る所で血飛沫が高らかに上がる、過剰な痛みの信号に覚醒した脳が出す、絶望の色をにじませた苦痛の悲鳴が上がるたびに、他の髑髏のマスクを被った喰種達は、その悲鳴を最後には自分も出すことになるのかと周りで動けなくなっていた。

圧倒的だった、一騎当千という言葉が相応しいほどに敵である者たちに一切の反撃を許さない、いや……反撃をしようとする気力でさえも削ぎ取ってしまう。逃げる事さえ、自分の命を守る事さえも忘れてただ茫然とその場にたたずんでしまう。次々と喰い散らかされていく喰種だった者達は、路地の中に君臨する蟋蟀を象った暴君の前に悲鳴をあげることなく無抵抗にその身を差し出していたのだった。

だが、彼らは髑髏のマスクを被った彼らは、この毒々しい朱色をした「化け物」の姿に度胆を抜かれているからでも、逃げ出しても無駄だと自暴自棄に陥ってしまっているのでもない。原因はこの昆虫のような外観をもった「化け物」にあった。時折口からならされるカチカチという発達した大顎を噛み合わせる大きな音、何気ない個人個人の喰種が各々の持つ捕食の癖だと彼らは油断していたのだ。

もし、この場にこの姿と似た形態時と赫子を交わらせた老獪な梟が居合わせたのならば、狭い空間に嫌に響き渡る音を警戒し、耳を塞ぐなどという対策をとっただろう。

それほどまでにこの音は、以前の戦いで梟を苦しめた音に音程は違えど波長が似ていたのだ。あの羽音ほど耳にはっきりと聞こえるものではないが、逆にそれが喰種達の警戒から外れてしまう。

そして、繰り広げられた捕食の残酷極まりない虐殺劇の光景が彼らの精神の抵抗を著しく下げていたのが最大の不幸だった。

この音はあくまでも動きを鈍らせるだけのもの、Sレートを越えうるでなくとも赫子を制御できる戦闘に成れた喰種ならば、十二分に対抗できる縛りだったはずだ……

無意識にゆっくりと路地の壁に反響していく音は、時間をかけて喰種達の心を、身体を逃げられないご飯へと変えていったのだった……

 

 

 

 

 

 

「…へぇ、寄せ集めといっても結構強かった奴らをほとんど一撃で静めちゃってるよ、暴走してるのに強いねあの喰種、もしかするとヤモリさんや最近入って来た新人君にも勝てるかも…実力は申し分なしだね。蟋蟀くんか…いい友達になれるかも」

「……集めた奴らを殺されたら計画に差し障る、もう十分だそろそろ止めるぞ」

「はーい」

立ち並ぶコンクリートの建物の屋上、その申し訳程度に付けられた金属製のフェンスの上に体育座りで器用に座っている全身に包帯を巻き、その上からフードをかぶっている人物と光沢のある顔の下半分のみを隠すマスクをした、長めのコートを羽織った大柄の男がいたことをこの時誰も知らなかった。

 

 

 あれだけ集まっていた髑髏を模したマスクを被った喰種の集団も、空腹によって理性を失い全身の力を最大限まで解放した蟋蟀によって、過半数が地に伏せ無様な肉塊と成り果てているのだった。

それも散らばった死体は喰い散らかされたという多くの肉が残るものではなく、食べ残しお椀に残った数粒の米のように欠片しか残ってはいなかった。皮を肉を骨を内臓を余すところなく全て自分の空腹を癒すために取り込んでいく蟋蟀の胃は最早機能しておらず、吸収した喰種の細胞を体内に取り入れた瞬間にRc細胞へと分解しエネルギーに変換しているのだ。

食欲にのみ突き動かされた蟋蟀を被う真っ赤な赫子は、Rc細胞を吸収するたびに赤黒く発光を繰り返し、暗い色の外装に鮮血のような波を走らせた。喰種という存在が他人から摂取したRc細胞(栄養)を、人間よりも効率よく自らの身体に反映出来る種だとしても、蟋蟀の身体に訪れた変容は明らかに喰種としての限界を超えていた。何故なら敏い者ならもう気が付くとは思うが、蟋蟀が現在食べている喰種の数があの「大食い」の捕食量を軽く超えているからだ。

 

 喰種とは言え胃袋の大きさや肉体構造は微妙な差異こそあるが大まかな点では人間とそれ程変わらない、よって一度に肉を食べることが出来る量も人間の胃袋と変わらないのだが、蟋蟀は今回通常あり得ない程の喰種の肉を体内に取り込んでいた。捕食数8人、平均体重を総合すると480㎏の肉の塊を食べたことになるのだ。

蟋蟀の体重を53㎏とするのなら、それは約9倍の重さの食料を食べたという計算になってしまう。しかも喰種は人間一人で2、3か月は持つほどのRc細胞しか必要としていないのだ。いささか過剰に取り込み過ぎたエネルギーが全て蟋蟀の身体能力及び肉体の防御力に使われているとするならば、まさにそれは普段の9倍の力を発揮しているという事になってしまう。

老獪で戦術経験に長けた梟を特定条件下においてだが一時的に追い詰めた蟋蟀の機動性が9倍に上がっているのだとすれば、Sレートの領域を越えようという蟋蟀はもうSSSの領域にまで足を踏み入れているのかもしれなかった。

もっともそれはこの有り余る力を制御できてこそ言えることではあるのだが……

 

カチカチ カチカチ

カチカチ カチカチ

 

 幾度も大顎を噛み合わせ反響する音階を狭い路地空間に響かせ狩りを行う蟋蟀は、赤子の手をひねるよりも簡単に、心を絡め取る音に動かなくなってしまったご飯を食べ続けていくのだ。

『もっともっと、たりないよぉ』

抑え込まれていた本能は、蟋蟀の理性よりも多くの食料を欲し減りつつあるご馳走に若干の憂いを感じさせ始めていた。このまま行けば全て食べ終わってしまうが、まだ満足のいく量を食べきっていないと、蟋蟀はここに来て初めて食事のペースを落としたのだった。

食事を長続きさせることで、少しでも多くの満腹感を感じようと思ったのだろう、そして同時に待っていれば増援なりなんなりと喰種の仲間が駆けつけて来ることを期待していた。彼の理性が積んだ経験は本能であってもしっかりと蓄積されている、経験上この規模の喰種集団には予備勢力と呼ばれる数人の戦闘に参加しないメンバーがいることを知っていたのだ。

そして若干の違いはあれど、蟋蟀のこの空腹の本能が直観と経験で導き出した推測に間違いはなく、増援と呼べる者は到着する。

 

『……あ?』

唐突に次の捕食対象に狙いを定めた蟋蟀の視界が回転した、いや……飛び出そうとした瞬間に足に赫子を絡み付けられ転倒させられたのだ。足をばねの様に使って高速の移動を繰り返していた蟋蟀は、自分の走るために振り絞った威力のまま地面に激突してしまう。

コンクリートで舗装された地面が大きくへこみ、蜘蛛の巣状にひび割れが広がるが、堅く強靭な鎧で覆われた蟋蟀はその衝撃を全く意に介さず、痛がる素振りを見せず起き上がった。顔の上半分を辛うじて覆っていた蟋蟀のマスクがついにその役目を終えて、バラバラ砕け散ってしまったが露わになった彼の顔には傷一つついていなかった。

「やっぱり、きかないか……かったいね。これじゃあ作戦変えるしかないね」

いつのまにかその場に立っていた全身を包帯で巻いた小柄な人物が、自分の手を擦りながら隣に立つ長身の男に意見を聞くように顔を向けた。長く大きなコートを羽織り、顔の下半分に鳥の嘴にも似た硬質なマスクを付けた男は無言頷き、日差しが沈みかけ夕焼けが写るオレンジ色の空を仰ぐ。それは自分と相手にある絶対的な格差に諦めを感じたからではなく、ある一つの合図。

『ごはんごはんっ……!?』

予想外に増えた食料に喜んでいた蟋蟀は決して油断していたわけではない、油断とは常に気を張っている状態が緩んでしまった時を言うのであって、何も警戒などしていない蟋蟀に言うべきことでも、そもそも食べ物を食べる時に油断するもなにもないだろう。だが、蟋蟀は突如飛来した謎の塊によって背中を攻撃され、地面にめり込んでしまったのだった。

「……」

『あ…れ?』

しかし、普段の9倍の力を発揮できている彼は、痛みも肉体の損傷もなく再び起き上がり自分を攻撃してきたご飯を食べようとしたところで、自分の身体が動けない事に気が付いた。

どれだけ強く力を籠めようともビクともしないそれは、今蟋蟀の背に乗っている大きな歯茎の見えた口の形が印刷されたマスクを被った人物が、髪の毛のような赫子で蟋蟀の身体全身を縛り上げているから。それでももがこうと暴れる蟋蟀に耐えきれず何本か赫子が千切れるが、その瞬間にはもう長いコートをした人物が頭に向かって強烈な蹴りを放っていた。

『ぎっ……』

一瞬昏倒する頭だが、彼のタフさは群を抜いている、かっと眼を見開いた蟋蟀は右眼に赤い光を宿し、身体に入れる力をより強くした。

『ごはん……たべる、じゃま……しないでっ!!』

ご飯を食べる邪魔をするのは、例え「ご飯」本人であろうと許さないというように蟋蟀は朱色に血管のような線が入り脈動し始めた鎧の棘を使い、身体に巻き付いた全ての赫子を背中にいる仮面の人物ごと強引に引きちぎったのだった。反動で後方に飛ばされた仮面の男を見据え体内の温度が高温になっているのか蒸気のように真っ白い息を吐き出し、蟋蟀は食事を遂行する為に襲い掛かった。

朱い牙の生えた大顎げ飛ばされた仮面の男の胴体を削り取るように食べるが、ふわりとまた布が揺れるように軽く避けられ、壁にぶつかってしまう。

「ノロの赫子も引きちぎるか……」

「捕まえるのは結構骨が折れそうだね……」

壁にぶつかった衝撃で流石に折れてしまった首をゴキッと元の位置に戻した蟋蟀は、振り返りざま自慢の脚力で空中に跳躍し、壁を垂直に移動して攻撃を避けたノロと呼ばれた人物の頭上から襲い掛かった。

『……うううっ、おなかへったよぉ』

滑舌の悪い幼児じみた声に似あわず、禍々しく開いた口は真っ直ぐにノロの頭部に狙いを定め胴体と切り離したのだった。だが顎に挟まれたノロの顔をいざ噛み砕こうとすれば、顔は次第に形を無くし不定形になると、頭部を無くした胴体の歩へ吸い寄せられていき、またマスクもそのままに頭の形に戻ってしまったのだ。

直線的な攻撃は回避され、変則的な攻撃で与えたダメージでさえもこうも簡単に回復されてしまうのでは、圧倒的な攻撃力を誇っている蟋蟀も埒が明かない。しかも相手は3人で隙を見ては死角から攻撃を放ってきたりと攻撃の補助に回ることが多い為、綺麗な攻撃を多く当てることが出来ず攻めあぐねていた。

だからと言って、小柄な方や長身の方を狙えば今度は警戒が疎かになった背後からノロが赫子で動きを止めてくるのだ。何本もの変動する赫子で身体の動きを封じられてしまえば、脱出にもそれなりの時間と隙を作ってしまう。その間に2人は適度な間合いに逃げられてしまうのだ。

相手も決め手に欠け、蟋蟀も完全に敵の動きを止める方法が分からず、戦いは泥沼化していく一方だった。

 

 元来、こういった死合においての簡単な勝敗のルールは、どちらかが先に力尽きるか、負けを認め自ら死を選ぶかである。だが圧倒的な攻撃力に加え鱗赫特有の柔軟性に特化した蟋蟀の肉体再生力は、まさに無限に弾が補充されていくバズーカ砲の様でもある。反対に三位一体の攻防で巧みに蟋蟀の攻撃を躱していく、喰種集団の増援は弾道を弾くのではなくわざと当てて起動を反らす盾。

蟋蟀の攻撃を牽制していくのは腕をならした喰種である為、感情に任せた野性的な攻撃は全て見抜かれ反応されてしまう、加えてRc細胞を十全に補給し終えた蟋蟀が自らの力を全て吐き出すのは浅く見積もっても明日の午後になるだろう。

赫胞か頭部に再生不可能なレベルでの致命傷を負わない限り、蟋蟀はその再生力で何度も身体を修正し、一瞬で死の淵から舞い戻ってくる。それに力のほどは明らかに集まった三人を超えているのだ。

一つ一つの攻撃がそれぞれ一撃必殺の威力を持っている蟋蟀の技を警戒してか、三人は動きを止めたり攻撃の反動を反らしたりと期を見るような動きしかとっていなった。

さらに蟋蟀の十八番である音による攻撃も、羽による音ならともかく即興で作り出した顎を噛み合わせた雑音ではとても冷静沈着に行動する敵の足さえも絡めとる事が出来なかった。

止めを刺すことは互いに不可能、ならばこの戦いは自然に持久戦にもつれ込む。

 

「……これって少し不味くない?捕獲するって作戦だったけどさ、この強さ流石に何度も躱すことは出来ないよ。ノロさんもタイミングよく縛ってくれてるけど、もしその調律がずれたら……」

目の前の獲物を食べたい一心で直進する蟋蟀の突進を軽く体を捻って避けながら、包帯を全身に巻いて汚らしいフードをかぶった人物は、隣で息を整えていた長身の男に話しかけた。

「ああ……この戦いは奇跡のようなタイミングの連続で成り立っている、だが勝機がなかったら戦わない俺たちにはコレがある。奴が隻眼だという興味深い事実も判明したことだ…何としてでも捕まえる……あの医者の居所を知っているかもしれないしな」

肩で大きく息をしていた長身の男はそれだけ包帯の人物に伝えると、再び蟋蟀の死角になる背中から赫子を伸ばして攻撃を仕掛けていったのだった。男の攻撃に合わせてノロが素早く赫子をロープの様に展開し、蟋蟀の四肢全体に巻き付け動きを止める。

長時間動きを止められずとも、一瞬だけ隙を作れば赫胞を潰していくことが出来るという算段だったのだが、そのフェイントは以前蟋蟀が戦った相手にいた……

 

『うっがあああああああああああああああああああああああああああああああ!!』

判断したのは本能、だがその知識を溜め込んでいたのは蟋蟀の理性の部分だった。強い相手程視界から外れた瞬間死角に回りたがるというのは、彼が読み漁って来た小説の中では一般常識でもあった。

正々堂々戦わないキャラクターが使う卑怯な戦闘方法ベスト1に入る使い古された作戦は、何百回と喰種と戦いその上でほんの知識を加えた蟋蟀には通用しない。

何もない場所で唐突にノロによって動きを封じられた蟋蟀は、ノロ以外の誰かから第二の攻撃が来ると予想し地面に押さえつけられた腕に力を入れ、脚の片方だけをほんの少し浮かせたのだ。

喰種の中でも特性上からか、人一倍音を聞くことが出来る蟋蟀は背後へと迫りくる気配を確認し、射程圏内に入った瞬間、脚を思い切り腰ごと回転させ巻き付いた赫子を引きちぎりながら攻撃したのだった。

「う…ぐほっ」

「タタラさんっ!?」

半ばカウンターじみた攻撃は見事、仲間が動きを止めてくれているからと若干の余裕が生まれていた長身の男に命中し、長いコートに覆われた胴体に大きな風穴が開いた。身体が内側から爆発する様に外側へと血が噴出し、男は眼を見開いて地面に転がった。

まだ息はあるようで手がかすかに動いてはいたが、蟋蟀の一撃それも彼が自分で得意だと言う足技を喰らったのだ少なくとも30分は動くことすらままならないだろう。そしてその30分が事態を急速に三人にとって悪い方向へと進めていく。

人数が一人減ったことによって繰り出される戦い方法のバリエーションは明らかに減り始め、ノロの赫子の縛りも何度も繰り返すうちに耐久性が見るからに落ち始めてきたのだ。3分は止められた縛りも今では良くて30秒、悪くて6秒が限界だった。

徐々に追い詰められていく包帯とノロ、互い互いに顔を見合わせて逃げる算段を考えていた時、蟋蟀が突然苦しみだしたのだ。

 

『あ…がぎいいいいいいっ』

「で…いけ」

『ごは…んたべ…』

「ぼく…から…でて、いけ!!」

金切声を上げて絶叫した蟋蟀は、全身を覆う赫子の鎧に亀裂を生じさせ何かうわ言のような事を呟きながら自分を護っていた堅く強靭な鎧を自分の手で剥がし始めたのだ。肌に張り付いた装甲を無理やり剥がすさまは血飛沫が飛び、痛々しく壮絶な拷問を見ているようだったが、蟋蟀はまるでそれをすることが正しいというように一切の躊躇なく剥ぎ取りを続けたのだった。

『な…ぜ…ボク…が消えれ…おまえ…』

「煩い……お前は僕じゃない、二度と僕の前に現れるな!!」

肌から離れることに抵抗する様に形を何度も粘土状に変形させる赫子を蟋蟀は毟り取りながら、段々と稚拙な滑舌から大人のようなはっきりとした滑舌に口調が戻って行った。

やがて糸の切れた人形のように地面に倒れ込んだのだった。ガシャンという金属をぶつけた様な音が反響し、鎧を作る赫胞が機能を停止させたのか次々に外装が剥がれ消滅していった。

 

「……スタミナ切れ、でも何か違う?」

呆気ない幕引きに呆然とした包帯の人物は、現状の変化の見分はひとまず先延ばしにして、動かなくなった蟋蟀の身体をノロに完全に身動きできなくなるほど縛り上げて貰い、そこで先ほど飛ばされた長身の男の元に駆け寄って肩を貸して立ち上がらせた。

勝敗は不完全な形でだが決してしまった、共喰い蟋蟀の身体に起きた変化は更なる不幸を彼自身に呼び込んでいくことになるのだろう。

不幸はやってくるときに新たな不幸の残滓を残しておく、その残滓がまた新たな災禍の始まりとなり絶望が繰り返されていくのだ、それは人間と喰種の中で起こる憎しみの闘争とも変わらない。

三人のメンバーによって何処かに連れ去られてしまった蟋蟀の未来を、彼に待ち受けている運命をもし誰かが見ることが出来るのなら、それは谷を落ちていく行為に等しいと悟るだろう。

絶対に「逃れられない」不幸のレールの上を走り続ける蟋蟀は、恐らく生まれたその瞬間から常人ではとても耐えられない重く辛いものを背負っていたのだろう……

 

 

 

 

隻眼の王が率いる「アオギリの樹」……それさえも彼にはまだ天国だったのかもしれない。

 

 




流石に毎日投稿は疲れますね、ストックをあまり残せないので間が空いてしまうと如何にも更新しずらくなってしまいます。
とうとう閲覧数が60000を超えました、10万まで本当に夢じゃない気がしてきます。これからも誠心誠意頑張っていきたいので、みなさん応援よろしくお願いします。
ご意見ご感想、些細な者でもいいのでどんどんください!! お待ちしています。


正々堂々戦わないキャラクターが使う卑怯な戦闘方法ベスト1

1位 後ろですよ…
2位 上だァ!!
3位 お、俺の負けだ許してくれぇ

はいここまでご愛読ありがとうございます。ここまで書くことが出来たのも皆さんのおかげです。
次は第4章が始まります、この章を経て次の5章から原作本編へとつないでいきます。
4章はかなり黒い部分があると思いますがその辺は、ご理解ください。

ご意見、ご感想をお待ちしています。些細な事でも構いませんのでどんどんください!!

2015/4/1  合併修正


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第四章「絶望」
#021「深淵」


 僕はどこからどう見ても喰種だ、人間の様に多種多様の色のついたカラフルな食べ物を食べることが出来ない、悪戯に人間の……自分とそう変わらない生物の命を糧に生きて行かなければならない存在だ。でも「僕」は違った、優しい僕は人間を深く、それはそれは深く愛してしまった。人間を食べられなくなるほどに……愛おしく感じてしまった。

矢張り人間に育てられたって事が一番の理由なのかな、人間の親に育てられたからこそ、人間の愛情を育てられたからこそ、僕は他人に対して優しく愛情を振りまくように育ってしまった。それが自分自身をどれだけ苦しめるか気づかずに。

 

「僕」は人間の生活で愛情を知った、喰種の世界に生れ落ちていたならば、生涯味わう事が出来なかったであろう安らぎを手に入れた、だが逆にそれは本当に正しかったのかな?

厳しい父親、優しい母親、自分を頼ってくる健気な妹、人間でさえうらやむほどの理想の家族だ。でも…それを失った時、「僕」は今まで受けてきていた幸せの分、地獄に叩き落とされた……違う?

人間を…妹を可愛いと思ってしまった瞬間から、僕は人間を食べる喰種として失敗してしまったんだ、どこの世界に豚を恋人にする人間がいる?いないだろう、何処まで言っても食べ物は食べ物だ、そう割り切っておかなければ、そういう一線を置いておかなければ簡単に餓死してしまう。

一つ例外を作ってしまえば、その種族を食べることが出来なくなる。人間ならまだ食べられる生物の数はより取り見取り、一つ食べないからと言ってさして困ることは何もない。

だが!!僕は違う、もう一度言う、僕は「喰種」だ!!

喰種なんだ!!

 

 

―僕は喰種なんかに生まれたくなかった―

 

 

 

 

 ・

 

 

 「う…ぐぁ」

 全身の筋肉が引き裂かれたかのように体中が痛い、暗い暗い意識の底から意識が戻って来るにつれて、夢の中のような黒一色の世界で話していた会話がばらばらと砕けるように記憶から消えて行った。何か凄く重要な話をしていたという認識はあるが、それが何なのかどういう内容だったのかが丸きり思い出せないのだ。

 

夢の中の話など所詮そんなのものだと割り切ってしまえばいいのだが、どういう訳か今回に限ってそれをこのまま忘れてしまう事はいけない事なのだと強く感じたのだった。

じっくりと記憶を手繰り夢を思い出そうと再び意識を深く鎮めようとした所で、喰種集団と戦っていた前後の記憶が泉の様に湧き出してきたのだ。寝ている場合ではないとカッと目を見開き周囲を確認すると、そこは荒んだ廃工場のような埃が至る所に積もった来たならしい場所が目に入る。

 

「ここ…は?」

 

僕はついさっきまで喰種の集団と血沸き肉躍る戦いをしているはずではなかったか、16人以上いる喰種と向かい合い、人間と共に戦うという夢のような戦闘を行っていたはずだ。それがどうして、どういう理由でこんな所にいるのだろう……

そういえば、あの時無理に赫子を出した所為で身体が動かなくなった……矢張りあの局面で赫者になるのは早計過ぎたのだろうか、ともかくだとすれば僕は喰種の集団に負けて連れ去られたと考えるのが妥当だろう。

 

はっきりとし始めた視界で自分の身体を見ると、真っ赤な鎖で体中を締め上げられている事から、何者かによって僕は捕まってしまったのだという事が推測できた。監禁されているにもかかわらず予想以上に落ち着いている自分自身に若干驚きを感じつつ、まずは脱出を試みようと痛みを今も訴え続ける腕に力を入れて鎖を引きちぎろうとしてみたが、金属音がなるだけで鎖はひびも入らなかった。

喰種用の鎖なのだろうか、赤い色もそういいうデザインからではなく、特別な金属を含んでいるのかもしれない。

 

鎖を切ることは不可能、だがそれだけで諦めるわけにはいかない、見たところ今この廃工場にいるのは僕だけだ、幸か不幸か目覚めた時に脱出のチャンスが巡って生きたのだ。喰種なんかに捕まって何らかの拷問を受けて死んでいく末路は御免だった。義妹との切っても切れぬ約束がある以上、僕は絶対に愚かで下等な喰種に殺されるわけにはいかない。僕は奴らを狩る側であり、奴らは僕に狩られる側…その不変の真理は決して覆されてはならない。

 

「…くっ」

 

肩の関節を曲げ外し、鎖の緩みを期待したがどうも鎖は僕の四肢を通して複雑に絡んでいるようで、それだけでは全く余裕が生まれなかった。むしろ肩が外れた所為で筋肉痛に加えて痛みが増してしまった。仕方なくもう一度関節をはめ直して別の脱出手段を考えるが鎖は足にも巻き付いているので、それを巻き付かせたまま立ち上がって逃げる事も出来なかった……

 

背中の赫胞に力を込めて赫子の発生を促してみたが、どういう訳か霧のような赤いモノが辛うじて空気中に広がるだけで、鉄を切り裂くことが出来る僕の赫子は出てくることは無かったのだ。

闘いで消耗しすぎたのか?だとしても身体は嫌に良く動き、体中から感じる痛みを除けばむしろ健康そのものと言っても良い。

まるで喰種の肉を何人と食べた時のような、妙に満たされた気分だった。にも関わらず赫子が出ないという事は一体どういうことなのだろうか。その答えはあっさりと解消された。

目の前に現れた顔の下半分を金属質なマスクによって覆った、長身の男によって……

 

「起きたか、Rc抑制剤を打ってあるが辛うじて赫子が発生する辺り、矢張り隻眼の喰種と言ったところなんだろうな。お前は…13区の蟋蟀で間違いないな?」

 

Rc抑制剤……聞いたことのない単語だったがその言葉を額面通り受け取るのなら、僕の中のRc細胞がその薬によって止められているから赫子が出来なかったのだろう。そして僕に気配を目の前に現れるまで感じさせなかったこの男は、かなり強いと直感でわかった。

全開の僕でも戦えなくはないが、勝利できるかと言えば難しい所だろう良くて相討ちが限界かもしれない、もっとも梟と戦う事に比べれば何十倍もマシには違いないのだが、まあ薬によって赫子が制限されてしまっている僕では勝てない相手だという事は間違いない。ここは余り反抗的にならない方が得策だろう。

そうして油断させて隙をついて脱出する……

 

「ああ…僕に、何の用ですか?」

「お前はその隻眼をどこで手に入れた?」

「……は?」

 

……突拍子もない質問に思わず間抜けな声が漏れてしまった、慌てて口を噤むが男は訝しげに眉をひそめている。いや、だがそういう反応をしてしまうだろう、この長身の男はそれだけ可笑しなことを口走ったのだから。隻眼を手に入れた?

隻眼…意味はそのままの眼が片方だけ、例えば柳生重兵衛のようなものという意味ではなく、喰種に稀に発生すると言われる片目だけが赫い喰種の事を言っているのだとわかる。しかし、手に入れたという質問は何かの比喩なのか全く理解できなかった。移植でもされたのかと聞いているのだろうか、あり得ない喰種と人間は子は作れるが所詮は其処までの話だろう、喰う側と喰われる側の臓器を一緒くたにするなどどんな拒絶反応が起こるか目に見えている。

 

「手に入れるも何も、産まれた時から隻眼の喰種は隻眼なんじゃないんですか?」

 

元々両目に赫眼が発現している喰種が、途中から隻眼になるという話を僕は聞いたことが無い。恐らく人間でいう皮膚が白い症状の「アルビノ」のように先天性のものだと思っていた。

オッドアイはそれほど珍しくない、異邦人とのハーフがその2人の親の眼の色を片方ずつ受け継いでしまうときがあるというのは、小説で読んで知っていた。

 

……ん?ハーフ? そういえば店長は隻眼の喰種がある特別な時に生まれると言っていたが……まあそのことは良いか、今はこの男の質問に答える事だけに集中しよう。下手に回答を伸ばし時間稼ぎをしていると取られれば何をされるか分かったものではない。

痛みには最大限耐えられるが、殺されるのは堪えられない……

 

「……そうか、お前も……天然の隻眼か、ならもう聞くことはない」

「なら、もうこの鎖を解いてくれませんか?さっきからギチギチって締め付けが強くなってきてるんですけど……」

「その問いに答えられるかは、蟋蟀…お前の返答次第だ。最早隠す必要はない、王の元に付け。

お前に対する見返りもある、お前は其処で喰種の秘密を知ることが出来るだろう」

 

王の元…それはこの喰種の集団に属せと言う言外からの意味だろう。冗談じゃない、何をどう間違えれば僕が憎くしみしかない奴らの元へとつかなければならないのだ。同じ喰種だから?笑わせてくれる…僕はこの人生の中で奴らを仲間だと思ったことは無い。

倒すべき敵だ、それ以下でもそれ以上でもない。喰種の秘密と言う話も同じだ、興味が無いわけでもないが知るために必要な対価が多すぎる、ぼったくりも良い所だ。

 

「お断りだ」

 

簡潔に、それ以外の一切の感情を排除して告げた。唾でも履いてやりたい気分にかられたが、身体が動かせない状態で相手を挑発するのは馬鹿の所業だ。だが相手が怖いからと自分の意思を言えずに隅で震えるような弱い奴になった覚えもなかった。

判断は冷静に、だが最低限の自尊心は守る。そうすることで僕と言う存在は13区という血で血を洗う紅蓮地獄な世界を生き残って来たのだ。憎い喰種の下に付けだと?冗談も大概にしろ、生きる為なら排水溝の泥水も、パンもケーキも美味しそうに食べてやるがこれだけは、これだけは許容できない……はずだった。

 

「……でも僕は此処で死んでしまう訳にもいかない、条件を飲もう」

 

しかし、長く続くプライドと存在意義、そしてあの娘との約束の中の葛藤で僕が辛うじて導き出した答えは、場合によってはその王というモノの下につこうというものだった。苦虫を噛みつぶす思いだが、僕のこの寂れた下らないプライドよりも優先しなければならないものがある。全ては可愛いくか弱い人間の為に、僕を慕ってくれた妹のために。

 

地獄の底へ喜んで飛び降りよう。

 

 

 そうだろうね、「僕」はきっと人間に生まれた方が人生上手くやって行けただろうさ、普通に学校に通って、普通に友人たちと美味しいものを飲み食いして、普通の彼女と普通に結婚して、普通な人生に普通に幕を下ろすんだ。

普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通その人間からしたらごく一般的な事でさえ、常識的な事でさえ僕は無理をしなければ行う事が出来ない、それが喰種「悪」だ。生まれてきたときから僕は悪という烙印を押されて、人間の眼から隠れて生きなければならない。だからと言って人間が居ないジャングルでの生活なんか出来るわけがない、人間を食べなければ死んでしまうのだから……

まさに悲劇の主人公だ、大勢の人の涙が誘えるような悲しい宿命を背負って生まれてきたんだぜ?

 

―人を傷つけたくはない―

 

それは自分を死ぬ間際まで痛めつけようとも貫き通す事なのか?人間も喰種も本質は違うがその性格はどちらも多種多様だ。悪い奴もいれば、良い奴もいる。「僕」だって気が付いているはずだ、笛口親子……彼女らが持っていたものは人間とそう変わりのないものだった。反対に芥子のような「僕」の知る限り二度と会いたくない非道な奴もいた。

人間も同じだよ、妹のように可愛らしく彼女が居てくれるだけで世界が彩ってくれる人がいれば、そんな子供を寄ってたかって苛める奴もいるのさ。別に喰種に生まれたからと言って、人間を殺さない生き方もできるし…人間に生まれても言って人を殺す生き方も出来る。今の「僕」の様に……

人間であろうとしている反面、「僕」は喰種を殺している…それは悪じゃぁないのかな。

笛口のような罪のない喰種を見てどうおもった、何も感じていないわけではないだろう。「僕」そんな無感動な喰種じゃぁなかったはずだ。殺してきた喰種達にもまた家族がいることを想像し、悲しむ姿を思い浮かべた時…自分と親を殺した喰種が重なった…

 

―違う―

 

いいや違わないね、「僕」がいくら否定しようと「僕」は僕だ、自分自身につく嘘ほど空しいものはないよ。でもさ、それで良いじゃないか、悪に生まれついたのなら悪のままに生きて残虐非道な人生を送ってやろうと何故考えない?いや…考えていないわけじゃないのか、「僕」が喰種に行って来た仕打ちは全て自分の中に眠る衝動を抑える為だろう?

楽しかった?逃げまどう喰種を追い回して、泣き顔を、絶望した顔を切り刻んでいくのは?

嬉しかった?勝利を確信した喰種を背後から突き刺して驚きの顔を、そのまま激痛と悲鳴にゆがませるのは?

 

―やめろ―

 

僕が喰種に行ってきたことを、数々の素晴らしい拷問劇を人間にもやってやろうじゃないか。そうだよ選別すればいい……良い人格を持った人間は残してそれ以外は全て殺す、世界中に良い人しか残らない。妹を苛めた奴らも皆拷問するんだ。

きっとすごく楽しいぞ、血が噴き出る様に興奮し、悲鳴が上がるたびに悶えるんだ、そのおかげで世界は平和に保たれる、「僕」の欲求も解消される万事解決じゃないか?

 

―その、考えは間違ってる―

 

 間違ってるのは「僕」の方だ、人間を食べることを禁じた喰種の末路は決まっている、抑え込んだ食欲に精神が屈服するか、同種を喰らい続け膨れ上がった本能を制御しきれなくなってしまうか、待ち受けるのはどちらも「死」だ。好き好んで自殺する生物がいるか、自らの命を目先の事しか考えられず、あっけなく捨てるのは人間だけだ。「僕」はそこまで人間臭くなってしまったのか!?

それを一つとってみて「僕」は全てを「か弱」いという言葉で片付けようとするが僕は知っているぞ。人間の脆さ、危なさ…その全てを他ならぬ「僕」自身が身をもって理解していることを!!

欲に塗れた人間の本当の恐ろしさを、「僕」は知っているはずだ。眼をそらすな、現実を見ろ…広がっているのは喰種によってゆがめられた世界じゃない。

人間、喰種そのどちらもが歪んでいるからこそ出来たのが今の世界なんだ。

根本から間違っている世界に何をしようが「僕」を咎める者は誰もいやしない。

 

―いもうとは、どうなる―

 

何を馬鹿な事をいっている、「僕」の妹がそんなに大事なら、あんな戦地へ送らずにずっと自分のものにしてしまえばよかったじゃないか。監禁でも拷問でも好きな方法で自分好みに、自分を愛してくれるように変えてやればいい、「僕」にはそれが出来る力がある。

「僕」は喰種で相手は人間だ、「僕」の言うか弱い人間なんか少し痛みを与えてやれば直ぐにでも「僕」に尻尾を振ってくれるだろう。僕に自分の身体を差し出す健気でかわいい妹だぁ、少しいたぶったら喜んで命を捧げてくれるさ。

 

―駄目だ、あの娘にそんな事したくない―

 

この思考ももともとは「僕」から派生したものだ、だから言ったろう?したくないって思ってても心の奥底ではそう思ってるんだよ。大切な宝物を滅茶苦茶にしたいってさぁ!!

それに…覚えておくといい、別に僕は「僕」に生きていて貰おうなんてこれっぽっちも思っていない。優しさに負けた失敗作の喰種は潔く僕に身体を譲ればいいんだ。今はまだそんなことは出来ないが、血の濁りはこれからも大きくなってくぞ。

僕が産まれたのがその良い証拠だ、外に現れた鎧もその助長だ、順調に「僕」は精神がおかしく成りはじめている。大きな力を手に入れればその分のリスクは付き物だ。人間を食べず喰種を食べ続ければ、いつか「僕」は自分を見失う。

 

そうなった時、「僕」は僕になる……

 

 

 

 




はいスマートです、今回の話は前々から予定していたもので、本来ならもう少し前の方に来る予定だったのですが、予想以上に話数が多くなりこの状態となった次第であります。
裏と表の駆け引きは、少年漫画において王道といっても良いものではないでしょうか、楽しく読んでいただけたのなら幸いです。
それではまた次回お会いしましょう、ご愛読ありがとうございました。

ご意見ご感想、些細な事でもいいのでどんどんください、お待ちしています!!
2015/4/1  合併修正


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#022「調査」

まただ、私の前から人が居なくなるのはこれで4度目だ、お母さん、お父さん、アヤト……音把さん。どうして、どうして皆私の前から居なくなってしまうの?私があの人に迷惑を掛けてしまったから?私の思いが皆には重かったから?私が足手まといだから?

心を許せると、心のそこから腹の内を嘘偽りなく明かせられると思った人は、いつも決まって私の前から居なくなってしまうのだ、それも私の冷え切った心を溶かしてしまってから。どうせ居なくなるのなら初めから私に関わらないでほしい、私に暖かいあの両親と過ごした日々を思い出させないでほしい。

「どう…して?」

あの日、段々と心引かれ始めていた人と映画館へ行ったきり、あの人は笑って私の前から居なくなってしまった。そして3日が経とうとしているにも関わらず、あの人は私の前にも吉村さんの元にも現れては居ない。『人が行方不明になる』その言葉に私は最悪の想像をしてしまう。

あの日薄っすらと漂っていた血の匂い、張り付くようなピリピリとした雰囲気…思い返せば思い返すほど私の中で作られる結末は、どんどんあの人の不幸へと繋がってしまうのだ。

嫌だ、もう私は一人になんか成りたくない……私を、おいていかないで……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アオギリの樹、それは集まり統率のとれた動きで捕食を行う喰種組織の中でも一際大きく、喰種からも脅威として認知されている組織である。その何十人もの構成員を統括し支配している者こそが「隻眼の梟」なのだと風の噂で聞き及んではいたが、ならばそのボスにあった時に同士討ち覚悟で赫子を出してやろうかと意気込んでいたが如何にもそれは無駄な努力だったらしい。

あれから僕が組織への参加を渋々とだが認めると、拘束はあっさりと解かれ軽い近況説明の後僕はこの懐かしの13区へと送りこまれていたのだった。組織に入ったむねをリーダーに面会して伝えるのが基本的な組織構造におけるマナーだと思い込んでいた僕は、彼らのその意外な僕に対する信用と無防備さに肩すかしを喰らっていた。

なんでも「ある目的」を達成するために結成されたアオギリの樹は、その本懐達成のために必要な構成員の勧誘を行っているらしい。勿論任意ではなく僕の様に半ば強制的に、だ。だがまあ強制的に仲間に引き入れた面々は裏切る確率が高くなるのは誰でも分かる事なので、極力任意での勧誘にしているらしいが……

兎に角、今日この日僕に任された任務というのはその13区で頭角を現しつつある喰種の勧誘とのことだった。正直捕食対象を仲間にするという言いようのない違和感は拭えないが、それを断りアオギリの樹に制裁を加えられるのは何としても避けたかった。何度も言うように僕はまだ死ぬわけにはいかないのだ。

 

「……確かイナゴとかバッタとか言ったっけ」

 

13区の『飛蝗』…ゴロは良いが僕が13区にいた時には全く聞きもしなった通り名だ、多分だがそれ程実力のない喰種が自分の力を誇張する為にわざわざ言いふらしているのだろう。弱肉教職の世界だ生き残るために実力以上の噂話をばら撒き余計な争いを避けるのは良い手段だとは思うが、ある程度大きくなりすぎた噂は逆に大きな災厄を招きかねない。そう、今回のようにアオギリの樹に眼を付けられるようなどうしようもない事態に……

13区に存在する古寂れた住宅地、その裏路地に足を踏み入れた僕は、20区では感じる事のなかった複数の殺気に晒されてふと足を止めた。……数はざっと4人、息を潜めているが僕くらいの経験を持っているとすぐに分かるような幼稚な隠れ方だった。

所詮は食べる事しか考えられない下種の集団が多く集まる血塗られた区、隠れる事よりも戦う事を選ぶ血気盛んな喰種が大勢いる。

 

「…仕方ない、ちょうどお腹も空いてきたしここ等へんで昼食と行きましょうかぁ」

 

 懐にしまっていた黒い蟋蟀のマスクを取り出して顔にはめると、その瞬間隠れていることがばれたと思ったのか、7人の喰種が一斉に路地の隙間から僕を囲むように飛び出しそれぞれ赫子を展開する。

力の強い者に挑むとき、集団戦は極めて有利に事を運ばせることが出来る手段だ。いかなる強者であっても捌ききれる限界の人数と言うものが存在する。一個の大きな力よりも小さくとも統率のとれた力の方が厄介というのは経験則だ。

だが、しかし…彼らにとっては残念な事に僕は至極余裕で向かってくる喰種に対して赫子を出さずに佇んでいた。舐めているわけではない、そんな事をする必要もないという確固とした事実だ。

集団戦で優位に立てるのは、あくまでターゲットよりも低いがそれに近いという実力のものがいてこそだ。目の前にいる喰種集団は、最高でもAレートの奴だろう衣服や体に染みついた人間の匂いと戦闘へと足運びからそう判断できる。

有り体に言ってしまえば実力不足、悪い言い方をすれば美味しい昼ご飯だ。

 

「しねええええ!!」

「まったく喰種というのは其れしか言えないんですかぁ、語彙が不足してますねぇ」

集団を乱し、一人先に突っ込んで来た黄色いニット帽を被った汚らしい喰種の赫子を躱し、その勢いを利用してカウンター気味に蹴りを頭にぶち込んでやれば簡単に首が宙を舞った。肉体の強度も以前戦った梟と比較にも及ばない程柔らかかった、例えるなら骨と肝臓くらい違う。

恐らくこいつ等は共喰いを行っていない並の喰種だ、大方ここに歩いてきた僕を人間だと思い襲い掛かって来たのだろうが……

「はい、二人目」

仲間の首が一瞬で飛ばされたことに動揺したのか、集団の動きが鈍くなる。禄に統率も出来ていない寄せ集めの集団かもしれない、だが僕がその絶好の隙を逃してあげるほどお腹が空いていないわけでもないのだ。動揺を誘うように少しでも残忍な殺し方に集中し、動きを精神的に拘束して次を順番に仕留めていく。

アオギリの樹とのぶつかり合いで消耗した体力を回復させるために、少なくとも此処にいる喰種全てを腹に収めなければならない。でなければ後に控える「飛蝗」との戦闘に身体が耐えられないだろう……

リゼの時のような失敗は犯したくない、此処は非常に不本意だが「大食い」の様に徹しよう。

「三、四、五、ろーく、しち!!」

「ぐあ…」

「げ…」

幸いにも襲い掛かって来た喰種集団は甲赫と尾赫の混成だったようで、接近してこない羽赫が居ない分、十分回し蹴りだけで対処することが出来たのだった。必要以上に赫子を使ってRc細胞を無駄使いしたくない。13区は何が起こるか分からない地獄の入り口だ、一寸先が見えない闇の中では自分の切り札は無暗にさらさないほうが良いだろう。赫子の種類が相手にわれてしまうだけで戦い方の難易度が跳ね上がる事を思えば、この程度の我慢は気にならない。

「さてっと……いただきます」

手をパンと喰種の死体に合わせてしゃがみ込んだ僕は、マスクを懐にしまい込んでから大きく口を開けて久々のご馳走に貪りついたのだった。

 

「ねぇ…それ美味しいの?」

固い骨を砕き血肉を全てのみ込んでいると、不意に後ろから声を掛けられて息が詰まりそうになる。背後を取られたと赫子を放出しそうになるが、声の主が幼い少女のものだったと寸でのところで抑え込んだ。振り返りざまに殺したのが人間だったなら目も当てられない、低い可能性だがこんな路地に迷い込んで来た人間の少女と言う可能性はあるのだ。

だが一つ気がかりだったのは、匂いが分からなかった事だ。喰種でも人間でもないような奇妙なにおい、それはまるで僕の匂いのようだった。

 

 変な匂いのする異質な少女、幼さながらも苦労してきたのか若白髪が目立つ長い髪を、禄に手入れもせず放置した姿を見て一番に思いつくのは、矢張り虐待だろう。

育児放棄(ネグレクト)、発達した文明は時として社会を優先し家庭を顧みないワーカホリックを作り出してしまう。その結果、仕事に人生の全てを掛け子供の育児を放棄してしまう親が増えているのだ。もちろん子供のような我がままな親が、自分勝手に育児を放棄する事もあるが、おおまかな原因は世知辛い世の中にあるのかもしれない。

 

他の国ならいざ知らず、喰種という脅威を除けば比較的安全なこの国において、放浪児という線は極めて低いだろう。そんな子供がもしいたとしても直ぐに保護施設に連れて行かれるはずだ。

兎に角、僕の仮にも人型をした喰種を食べる光景を見て、動揺しないというのは例え喰種だとしても奇妙だった。幼い喰種を僕はあまり見たことは無いが、「命を奪う行為」それも自分に近い生命体の生命を奪う行為はどんな生物も躊躇するものだ。

それは種の保存本能から繋がっている生きとし生きるものの基本。

悪である喰種も生まれた瞬間から悪だったわけではないと僕は、考えが変わった。何故ならあのヒナミちゃんのように生き物に対して純粋な気持ちを保っている者もいると知ったからだ。

人間しか食べる事の出来ない本能が、喰種の喰種としての有り様へと「生命の尊さ」を歪めてしまうのかもしれない。

13区で出会った喰種は皆、心が荒んでいた。人間をただスーパーで買える豚肉程度にしか思っていない彼らの脳裏に浮かんでいたのは、自分が上位に立っているという愉悦。

地上に生まれた生き物としての価値、強さに対する陶酔だった。

世界中に点在する生態系を支配しつつある人間を喰らうからこそ、自分たちは人間より強いと子供じみた愚かな考えをしてしまう奴らが多かった。

人間は単体では弱く脆い、だが彼らの強さは団結の…絆の強さなのだ。

恐怖から集まり引かれあった喰種の集団ではなく、人間の他者を愛し守りあう結束は何よりも固く、そして強いのだ。憎悪や復讐と言うものも喰種がするものと比べ、人間が行うモノの方が残酷で、醜悪なのは一重に愛があるから。

生命の生き死にに何かを感じられる心こそが、人間らしいとされるゆえんなのかもしれない。

 

だからこそなのだろうか、この人間とも喰種ともつかない少女の対応に僕は、昔の自分を重ねてしまった。喰種の蔓延った血みどろの世界で生きなければならなかったあの時を……自分の中の価値感がガラリと塗り替えられてしまったあの事件を、この目の前の少女に感じていたのだ。

それほどまでに、少女は僕に似ていた。纏う雰囲気も…荒んだ…歩んで来た道は違うだろうが、たどり着いたところは同じだったという共感。この少女も…きっと僕と同じようなそうすることを強いられるような環境で生きてきたのだろう。

 

「…美味しい、と思うよ。まあ僕はこれしか食べられないから、比べようもないんだけどね」

「…あなたは、喰種です?」

「…ん、そうだよ、僕自身それを認めたくは無いけどね」

これはまた直接的な質問をする。それもこんな惨殺現場を見た上で、捕食シーンを網膜に焼き付けた上で問うという行動は、つまるところ自殺行為だろう。いや、そもそもこの現場に今なお留まっているという事が死に急いでいるとしか思えない愚行だった。

この少女が喰種にしろ人間にしろ、僕と言う……喰種を見て恐怖を感じないわけはない。喰種は悪だ、怖いものだ…人間を脅かし、生命を冒涜する存在してはならない存在だ。僕も含め、喰種には同族に対する「親愛」というものも極めて薄い。

日常的に人間を喰らっているからか、姿かたちが殆ど同じの喰種を喰らっても何も感じないという思考、慣れが存在しているのかもしれない。

「そうなんですか、ママとは違うんですね」

「君の言うママが何を指すのか知らないけど、そうだね……違うよ、僕は僕だ」

そんな恐ろしいはずの喰種の捕食現場を目撃して、震えずに…また逃げようともしない……未だにこうして会話と呼べる会話が続いているあたりが、異常だった。

この少女の立ち振る舞いや雰囲気により興味を持ってしまった僕は、それとなく少女の家庭を探ろうとして、先ほど会話に出た「ママ」と言う単語に不快感を覚えたのだ。なんというか、違和感とでも言えばいいのだろうか。

子供が親を呼ぶときに発する声色と、この少女が「ママ」と話す声色が何処かとは言えないが違って聞こえたのだ。まるで少女は「ママ」を畏怖すべき対象の様に呼び、そして「ママ」と違うと述べた僕に何処か安堵するような視線を送っていたのだ。

 

「まさか…」

 

 嫌な予感がした、いやそれは予感と言うよりは直感と言うべきものなのかもしれない。喰種なのか人間なのか分からない匂い、それは……もしも喰種の側で何年も暮らしているからだとすれば、この少女の抱える闇の深さにも納得がいってしまう。

『飼い人』……以前一三区に居た時風の噂(死にゆく喰種の命乞い)で聞いたことがある、喰種が人間を自分の個人的な理由で保有し、捕食ではなく私利私欲で痛めつられる喰種にとって都合の良い人間「奴隷」。

それは尊い人間の命を、生きる権利を当然のごとく切り捨てたまるで人形のごとく扱う許されざる狂気の沙汰だ。これがまだ人間の「奴隷」ならまだよかった、人間は例え刃部よりも下だと見下した人間に対しても一定の人権を保障し、それを最低限の範囲で守らせることが出来る。

それが、同族を殺す事を忌避する本能的意味が強いものだとしても、人は人にそこまで暴力的、猟奇的に染まれないのだ。

 

しかし、喰種は違う…奴らは人間を食べるという忌むべき行為を繰り返し行って来た結果、人、喰種を殺すという行為自体がただの食事という作業へと昇華されてしまう。奴らにとってその食料を奴隷にするという事に対する忌避感は「たべものを粗末にしてはいけません」という好き嫌いをする子供に対する親の苦言程度のものしか持ち合わせていないのだろう。

だからこそ、奴らはこうまで「奴隷」である人間に残虐的になれる。手に持ったリンゴを食べるでは無く自分の力を誇示するがために握りつぶす様に、奴らは簡単に人間を殺すのだ。価値が無いと……存在そのものを否定するように。

それが事の真相だとするのなら、こんな小さな少女を喰種は捉え自分の元で無理やりママ等と呼ばせていたぶっていたという事になるではないか。

 

「…どうしたんです?」

 

 僕が暫く黙っているとそれを不思議に思ったのか、少女が訝しげに僕の顔を見上げて来た。不安そうな、ともすれば一瞬で壊れてしまいそうな儚い表情をしていた。

脳裏にかつて護る事の出来なかった妹の姿が浮かんできた、少女の言葉から察するに「ママ」と呼ばれる喰種は恐らくまだこの辺りを徘徊、もしくはこの辺りに住んでいるのだろう。彼女が逃げ出してきたのか、それとも偶然何かの間違いでこの場に立っているのかはわからない。

だが、たった今、僕の中で決心が固まった。

助けたい。それは偽善だと思う。ただ自分の欲望に、助けられなかった義妹へ対しての償いでしかない。いうなればただの自己満足、結局僕は自分の事しか考えていないのかもしれない。

自分の気持ちが楽になるという事にしか、動けない自分自身に嫌気がさす。だが、それでも目の前の少女を……今現在虐げられている少女を助けたいという気持ちが揺らぐことはなかった。きっとそれは僕の偽りのない本心で……

感情の赴くままに僕は再びその黒く禍々しい蟋蟀の仮面を怒りに滲んだ顔に張り付けたのだった。

 

「もう、大丈夫」

「え?」

「お嬢さんは、私が助けてあげますよ」

 

 口調を変えて、喰種を殺すだけ為の鬼と化す……それが僕の選んだ選択だった。正義なんて輝かしいものではない、ただの人殺し……それでいい。それで、守れる命があるのなら。身を徹して悪に尽くそう。

 

「僕…男ですよ」

 

だから、背後から聞こえてくる少女の声に僕は結局気が付かなかったのだ。

 

 




2015/4/1  合併修正


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#023「思惑」

 外から入って来る僅かな光だけが部屋を照らしている薄暗い、今はもう誰も使われていないのだろう廃工場に、二つの影があった。小柄で子供のようにも見える人物と、大柄で足元にまで届く大きなコートを身に纏った人物。傍目から見ればどこかの親子づれに見えなくもない二人だったが、いかんせん二人ともその身体に身に着けているモノが辺りを歩いている人々を比べて異色過ぎた。

 

「エト…」

 

 大柄な口元を嘴のようにも見えるマスクで覆った人物は、ふと割れたガラス窓を一瞥して訝しげに目の前の小柄な人物に向き直った。彼の人物から何をせずとも溢れ出す物々しい威圧感に飲まれることなく、飄々とした態度で目の前に居座る小柄な人物も相当な修羅場を潜り抜けてきたのだろう。

 

「うん、なんだい?」

 

 特に周囲を気にすることなくとってつけた様な簡素な椅子に座り、ネジの外れかかったパイプ机に乗せられた肉塊をつまむエトと呼ばれた小柄な人物は、そんな疑われることは心外だといわんばかりに肩をすくめて見せる。上下関係を感じさせるものは無い、お互いにタメ口で会話し、エトの方は大柄な人物をさん付けで呼んでいるくらいで特に敬語を使うことは無い。

それ程の気の知れた間柄なのか、そんな軽いエトの返しに大柄な人物も特に眉根を顰めたりせずに口を開いた。

 

「良かったのか、捕まえた蟋蟀を監視もつけずに早々に放置して、奴は時間制限があったとはいえ、俺たち数人でも手こずる相手だ……また逃げられでもした…」

 

 アオギリの樹は大規模な数の喰種でまとめ上げられた、喰種が作り出した団体の中では珍しい規模の組織だった。幹部数名と構成員数百名で構成されているアオギリの樹は結成から水面下で動きながら着実に人員の数を増やし続け、今にいたる。

その目的はある近未来に起こる……起こす計画に備える為の手駒集めという意味合いが大きい。東京23区の喰種を目ぼしいものを全て勧誘していくスタイルは目を見張るものがあるが、それだけでは人一倍プライドを持つ縄張り意識の高い喰種は従わなかっただろう。

それを幹部数名の実力で力によって支配することは当初の予定ではあったのだが、それではいざという時の統制や裏切りへのリスクが増えてしまうといった問題も浮上してしまう。そこで考え出されたのが幹部となる部下の喰種の「管理者」を増やすことだった

だが先ほど述べたように実力を持つ喰種は独自のコミュニティを形成し、そこへの介入の一切を拒む。だからと言って、実力者を強引に引き入れようとすれば必然的に実力者の部下もついてくるため、それだけ裏切りのリスクは跳ね上がってしまう。

そのため仕方なく蟋蟀という実力者でありながら喰種のみを狙って殺すという異端な喰種を、情報提供という対価を払って招き入れようとしたのだが……

いかんせん、蟋蟀は喰種に対する辺りがきついという事で有名だった。

 

 そこでアオギリの樹は、交渉を持ちかける為に彼を一度拘束し改めて商談を進めようとしたのだが、その会話が済むやいなや直ぐに任務に駆り出させてしまったエトに対して大柄な人物は疑念を抱いていたのだった。

情報提供に対して、蟋蟀は確かに乗り気な姿勢を見せてはいた。だがそれはあくまで自身の利害の為であり心からアオギリの樹の思想に賛同したわけではない。極論を言えばお金をもらって戦ってもらう傭兵とあまり変わらないのだ。

裏切るという可能性は強制で強いた喰種と比べれば幾分かはましになるだろうが、蟋蟀は根本的には喰種を嫌っている節がある。

此処で何の監視もつけずに放置してしまえば、蟋蟀は再びどこか手の届かないところへと逃げてしまうのではないかというのが大柄な人物の考えだった。

 

 幹部を自分を含めて2人も招集したうえで捕獲した蟋蟀を逃したとあっては、アオギリの樹全体の士気のダウンにつながりかねない。「蟋蟀」が逃げたのならと、自分たちも逃げ出そうとするものも増えるかもしれない……

しかし、その懸念は目の前のエトに否定された。まるでそういわれることをあらかじめ分かっていたかのようにバッサリと否定する。

 

「逃げないよ」

 

「何?」

 

「蟋蟀は逃げない……うん、もちろんそれは私の勘でしかないけれど、彼はきっとタタラさんから言われた任務を最後まで全うする。目的の為に……私たちを裏切るという事が蟋蟀にとってかなりの情報面においての損失になるはずだ。勿論、裏切る可能性はゼロとは言えないけれどね」

 

「なら…何故?」

 

「監視を付けなかったのは、もうこれ以上部下の数を減らしたくないからさ。まだアオギリの樹の面子は少ない、そこに利害一致の関係とはいえ重要な戦力になりえる子が来てくれたんだ。ここは信用という意味でノーマークでも良いと判断した……

それに、耳の良い蟋蟀の事だし、下手な喰種なんて監視に付けたらすぐに撒かれるか殺されちゃうだろうしね」

 

「それもそうか……確かにあの聴覚は厄介だな、だがエト…お前は何故奴を仲間にしようと思った、戦力面では期待できるが奴はああいう性格だ。手を上げて我々の計画に賛同してくれるとは思えない、奴はいずれ我々の障害になる」

「だね、それは僕も同じ意見……でもねアレはきっと本質じゃないんだ」

「……」

「喰種を恨み憎んでる、その気持ちは喰種の持つ赫子に少なからず影響する、赫者もまず始めは感情の暴走がきっかけになって発現することが多いしね。でも、違う……」

「羽…か」

「そう……タタラさんとノロさんが一緒に蟋蟀と戦った時、状況によるものなのか、それとも自身の枷なのかは知らないけど彼は『羽』を出さなかった。蟋蟀の代名詞とも言える『羽』をだよ?」

 

 13区の蟋蟀、共喰いを繰り返す狂った蟲として有名になった喰種である蟋蟀は、その戦いにおいて過去何度か羽のような形状をした赫子を出すことが知られていた。『羽赫』と勘違いされがちだがこの蟋蟀の赫子はあくまで、羽に似通っていると言うモノでそれは実際に連射したり空中を滑空するためのものではなく、音を出すための器官だったとされる。

奇妙な音階を作り出し、自分の場を作り出して獲物を狩るというスタイルは成程好戦的であり共喰いも日常茶飯事な蟋蟀の特徴を如実に表しているといえよう。

当然ながら、蟋蟀との戦闘に備えて幹部2人はその音に対する警戒を十全に行っていた。

だが結局ふたを開けてみれば蟋蟀はその赫者となり強化された防御力と攻撃力で力任せに戦うだけで、噂に聞いた技巧の研ぎ澄まされた戦いは見ることが出来なかったのだ。

自分たちが実力を出せない相手だと舐められていたという可能性は、あの蟋蟀に限って存在しない。

蟋蟀は、喰種に対して一切の妥協も慈悲も与えないからだ。だからこそ蟋蟀は異質であり喰種でありながら、喰種の敵だという認識が広まっていた。

 

「アレの意味がどういうモノだったのかは分からないけれど、分かったことがある……蟋蟀はとんでもないものを内側に抱えてるよ」

 

 気楽に、気負うことなくとんでもないことをエトは少し眼を大きく見開いたタタラに言ってのけた。どこか彼のそういう反応を面白がっている風にも感じられる。

 

「……やっぱり、蟋蟀は私と似てる」

 

「蟋蟀は、嘉納とのかかわりもないようだった」

 

「そうなんだ、じゃあ……そこも私とおんなじだ……同じ経緯で生まれた、隻眼だ」

 

だから、とエトは小さくつぶやき椅子から立ち上がり、手を上へと伸ばし身体を大きく反らす。

 

「だから……蟋蟀も恨んでるんだろう?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……世界をさ……

 

 

 

 

 

 




 此処まで読んでくださりありがとうございます。次話もまた暇を見つけ次第投稿していく所存ですのでどうか応援よろしくお願いします。
さて今回はアオギリ幹部の会話でした、なんというか不穏な気配が見え隠れしてきましたが次は予想通り彼の主人公の蹂躙ですので安心?してお読みください。

ご意見、ご感想、どんな事でも良いのでお待ちしております。

15/03/05 誤字修正
2015/4/1 合併修正


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#024「錯誤」

 僕は喰種が嫌いだ。その事実だけはいくら人間と同じように暮らし、人間の様に穏やかな思考を持つ喰種を見ても変わる事は無かった。どこまで人に近かろうとも、喰種が生きていくためには必ず人間を食べなければならない、その現実だけで忌避するには十分だった。

 

確かに笛口という喰種の家族や、芳村さんといった喰種は僕が13区で出会って来た殺伐とした世界で生きる喰種とは性格も、その好むモノさえ違っていた。苦悩し、それでもめげずに明日を生きていく、だが生物の命は極力奪わない。あれは……あの生き方は限りなく人間に似ていた。

 

だが……それだけだった。

 

いくら喰種が人間を模したところで、いくら人間へと本質が近くなったところで、彼らは何処まで言っても喰種なのだ。彼らが本当に殺人を犯さなかったとしても、彼らが属するカテゴリーはまるで本能に刻まれた行為のように人を襲い喰らう。

他ならぬ僕もそうだ、人間を襲わないという意思は今のところ貫けてはいるが、最近になって義妹のあの肉の味を思い出すことが多くなった。

 

甘く芳醇な口の中で蕩ける柔らかい肉……食べた瞬間身体全身に走る、電撃のような快感。身体が満たされていくのを……比喩でも何でもなく現実として体感した。Rc細胞、ひいてはそれを生成する赫胞へと人間の肉が吸収されていく時、喰種は食欲だけでなくもっと重要な中枢の本能が満たされるのかもしれない。

 

そしてそれは一種の麻薬の様に、切れれば何が何でも人間という食料を貪り喰らいたくなるようにと作用する。なまじ力の強い喰種は生存本能もまた凄まじく、飢餓感から来る暴力性も人間の比ではない。

 

「難儀なものだ……」

 

ほんの一瞬、あの日…一度だけ食べた肉の味を鮮明に覚えているという現実が、喰種の醜く浅ましい面を象徴しているようで嫌になる。僕と言う存在が生きているだけで、自分自身を通して喰種の嫌な個所を発見してしまう。

 

何故、と切に思う。何故……僕の本当の両親は、僕と言う存在を生み落したのだろうか。何を思って子を宿し何を持って僕を……人間に託したのか。

 

 正直な所……こんなこと考えたくもない事だが、僕が喰種の両親のもとで暮らし、喰種として生活できてい居たならば……僕は今のような生活を強いられていなかったのだろうか。今の様に愛すべき義妹の肉に思いをはせるという最低の兄を……義妹に見せずに済んだのだろうか……

 

「無理か」

 

叶わない希望に縋りそうになってしまった思考を強引に切る、これ以上続けたらこれから行う喰種の捕食に支障が出かねない。それにもう…僕は喰種の醜さを知ってしまった、だからこそ今から過去へ戻れるのだとしたとしても僕は戻る事は無い。僕はのうのうと生き延びてただ惰性で人間を貪る愚かな生物に成り下がる気はないのだから…

 

そして、だからこそ。僕は強くならなければならない。

先の戦い、CCGの人と共同で戦ったあの戦いにおいて僕は格下相手数人に我を忘れて赫子を暴走させてしまった。ただでさえ扱いにくい『赫者』という形態、Rc細胞をふんだんに放出し続ける形態は喰種の捕食本能を刺激し続け、やがて喰種の意思とは無関係に餌を求める亡者と化す。

あの時……もし間違っていたら僕は人間をその手にかけていたかも知れなかったのだ。

人間を守ると誓った赫子で、人間を殺してしまう。そんな起こってはいけないことが確立として起こりえる状況になってしまった。

 

 僕はまだ未熟だ、まだ完全に『赫者』を制御しきれていない。どうしても長時間戦闘が続けば湧き上がる欲求に精神が押しつぶされそうになってしまう。何時もは、そうなる前に形態を解除していたが、あの時は飢餓から来る食欲が僕から理性的な思考を完全に奪ってしまっていた……

 

「次はない……」

 

 また同じことを起こしてしまった時、人間を巻き込まないという保証はどこにもない。理性が振り切れた時の記憶は曖昧にしか覚えていないので、正確には判断できないが喰種と人間とをとても選別出来るだけの余裕は無かった事だけは理解できた。

ただ目の前にあるものを空腹を満たす為だけに貪り喰らうだけ……それはまるで喰種じゃないか。

 

自分の食欲に負けて他者を喰らうのは獣だ、理性よりも本能を優先させる事はこれからも極力避けていかなければならないだろう。もし、何かの間違いで僕が再び人間の肉を口にしてしまったら……僕はもう自力では戻れない。きっと自分の欲望に飲み込まれてしまうのだから。

 

 

 

 

「什造ちゃーん、どこへ行っちゃったのォ!?」

 

 

 結論から言えば、あの薄幸の少女の言う「ママ」の手掛かりには直ぐにたどり着くことが出来た。恐らく近くにいるとあたりを付けて、あの子にこびり付いていた喰種の匂いを頼りに耳を澄まして捜索していれば、あちらの方からやってきてくれたのだ。

でっぷりと太った体系に、金銀の宝飾品をちりばめた見るからにお金持ちと言った風貌を持つ女性、それが何か叫びながら赫眼を露出させていればもう言わずもがな。

 

これはきっと胃もたれしそうな脂肪の塊だな、さっき食べた分と合わせて今回は殺しても食べずにどこかの森にでも保存しておいた方が良いか……ちょうど自殺者が多いという森も近くにある事だし、そこに四肢を切断して埋めておいても良いかもしれない。ただでさえ燃費の悪い身体だ、ここで一つ何処かに食料を貯蓄しておくのも一つの手かもしれない。

 

前の時の様に空腹になった時、何も獲物を狩れませんでしたでは話にならないからだ。リゼを取り逃がしたこともそうだし、髑髏の集団に押し負けそうになったのも空腹が原因だった。

僕はまだ死んではいけない身体だ、そのためには強くなくてはならない。「もし」「たまたま」であっという間に命を盗られてしまったでは意味がない。常に最悪の状況には備えて死から少しでも遠ざかる様に生きてきた。

 

13区で呼ばれた共喰いの「閻魔蟋蟀」という異名も、いわば強者との接触を極力避け自分でも勝てる相手、状況でしか絶対に戦わないという打算に裏打ちされた卑怯者のレッテルでしかない。確かに強者とは何回かカチ有った事はあったが、それは人間が目の前で殺されそうになっていた時や、相手が僕を狙っていた場合のみだった。

その戦闘も、自分が不利になった瞬間、持ち前の脚力と赫子を総動員させて、戦線放棄を繰り返していた……

 

撃ち殺した喰種の数はざっと見積もって200人以上、その全てが僕よりも実力低いいわば雑魚の喰種。僕よりも実力の上だった喰種といえばせいぜい「鯱」か「ヤモリ」としか戦っていないし、もちろん引き分けに近い敗北で終わった。

 

「もう、それでは駄目なところまで来ているのか」

 

 アオギリの樹の幹部に捉えられてしまったのは、僕がまともに強者との戦闘経験が不足していたからにほかならないだろう。死ねないという決意が、僕自身の成長を阻害していたのだ。そのツケが回って来た……

 

いつか、逃げ回るだけでは死んでしまうような事態が来るかもしれない、アオギリの樹に仮とは言え協力しているのならなおさら危険度はましている。強さを求めるのなら…矢張り戦うしかない。強い喰種と正面から小細工抜きで戦うのが手っ取り早い。

 

幸い目の前でノタノタと豚の様に左右に身体を揺らせながら歩く喰種は、そこまで強そうにも思えない。丁度良い……強者と戦うために必要な格闘術のサンドバックにでもなって貰おう。このまえ駅前の家電品屋のテレビでも肉は叩くと柔らかくなると言っていたし……

 

美味しく食べる為にも、強くなるためにも、協力してもらおう。

 

 一概に「強さ」と言っても「強さ」には色々ある。精神的なもの、肉体的なもの。だが、世の中は厳しくどんなな時も甘くない。どんなに身体を苛め抜き、心を無にし深淵を見通せたとしても負ける時は負けるのだ。

 

ビキナーズラックという言葉がある、これは「達人」レベルに到達した武人が全くの素人と戦う時、熟練された動きの者同士で戦って来た「達人」が、素人の動きを読めなくなってしまう現象だ。

 

「達人」ならその技術力で何とか勝利を手にできると思うかもしれないが、その素人が達人と同じ筋力を持っていたとすればどうだろう。行動が読めず困惑する「達人」を先制して倒す素人の姿が想像できたのではないだろうか。もっともこれは極論だが。

 

なら強さとは相手を知る事なのだろうか、素人であってもその者にはその者の癖がある、それをよく観察して自分の事の様に予想すれば強さが手に入るのだろうか。無理だ。

 

倒す相手が憎き宿敵一人ならその手段も有効だろうが、喰種全てを殲滅するのにどこぞの殺し屋のごとくいちいち戦う相手の事を知っていたら切りがない。

 

なら、油断しなければ良いのだろうか。素人の動きに惑わされず自分の我を持って細心の注意を払えば良いのだろうか。それも無理だ。

 

僕も生物だ、油断をしないと言ってもそれには限度がある。常に気を張っていたら気が滅入ってしまうし、それこそ普段の半分の力しかいざという時に出せなくなってしまいかねない。微かな気配にまで反応していたら挙動不審で職務質問にかけられた事もあった……

 

なら…絶対な強さとは何なのか、答えはまだ見つかっていない。だがいずれ見つける、見つけなければならない。死を許されていない僕は、喰種との戦いで負けるという選択肢でさえ無いに等しいのだから。負ければ即、死に繋がる世界で生きている以上、完全な強さは必ず必要になる。

 

欲望に負けない、鋼の意思を貫き。喰種に負けない、金剛のような肉体を持つ。そんな存在にならなければならない。

 

「そういえば、アイツは喰種の癖に拳法を身につけていた」

 

強い喰種、それを頭でイメージすれば真っ先に出てくる男が2人いた。一人は全身を禍々しい鎧で覆った優男、もう一人は筋肉ダルマのような外見で無数の拳法をそつなく使いこなす如何にも「達人」という風貌の男。

 

いずれも喰種で憎い存在だったが、こと戦いにおいては尊敬したくなるような洗練されたものを持っている二人だった。

 

特に筋肉ダルマの男の方「鯱」は、あらかじめ小細工やからめ手を仕掛けて、じわじわと勝機を相手からもぎ取っていく僕の戦い方を正面から突破し、技術を剛力を持ってして僕の動きを封じに来た喰種にも珍しい戦闘スタイルを持っていた。

 

赫子を惜しげもなく出し、それを力の限りふるって戦うという事をしていた当時の僕はあっという間に鯱のペースに巻き込まれ、全力を出すまでも無く一瞬で意識を刈り取られてしまった。相手の方も単なる小手調べのつもりだったのだろう、幸い命は取られずに済んだが僕は悔しかった……憎い喰種に情けをかけられたのだ。

 

それから僕は強かった鯱の戦い方を模倣し、鯱のような肉体を使った格闘戦に赫子を補助的に混ぜるというスタイルを確立させた。赫子でバネを作り跳躍力を伸ばし、鯱にはまねできないような壁面移動を使って再び鯱に挑んだがその時は引き分け。それもCCGとの戦闘で僅かに疲労していた鯱と引き分けたのだ。

 

それは誰が何と言おうと僕の負けだ、ベストなコンディションで挑まれていたら僕が負けていた。勝負は時の運とも言うが、僕はその運さえも確実に自分のものにしなければならない。偶然に頼っていてはだめなのだ、全てを必然に勝という結果のみ得られるようにしなければ意味がない。

 

 

 

 

 

 

 

「まっず……」

 

怒りのままに捉えた喰種の肉はとても食べられたものでは無かった、人間風に例えていうなら脂身の塊を調理もせずにそのまま口に含んでいると言ったところか。ギトギトした脂の触感は待ちに待った肉だというのに僕から食欲を奪っていく。

 

噛めば噛むほど口の中に溢れる独特の臭みと、雨の日の排水溝から溢れる水のごとく染み出す肉汁。表現する事さえ億劫になるような得も言われぬ不味さが其処にあった。

 

一応喰種ということでRc細胞は接種できて体調も回復してきてはいるが、代わりに何か別の部分が急速に失われていっているような気がしてならない。これを食べ続けるくらいならまだ豚肉の方が臭みが無い分ましかもしれない。

 

矢張り喰種の肉は健康状態の良い少女のものに限る、だからと言って人間を襲う喰種を見逃すようなことは無いが、どうせなら美味しいものが食べたいというのは、喰種、人間に共通した感情だろう。

 

そう、菫香の甘い柔らかな肉の味が恋しい……新鮮で張りがあって、噛むたびに優しい旨みが湧き出してくる高級感、あの映画館の別れ際に数切れもらっておけばよかったと後悔した。

 

今度「あんていく」へ行ってほんの少しもらってきても……いや、それはどちらにしても無理な事か。今こうして菫香とのお出かけをすっぽかして、仮にもアオギリの樹に参加している以上僕はあの芳村さんのいる場所に帰ることが出来ない。

 

人間を愛する喰種はきっと、生き物を殺す喰種の集団に、喰種の本質に立ち返ってしまった僕を再び受け入れてはくれないだろう。受け入れてくれたとしても、アオギリから抜ける様に説得されることは確実だ。それはあのタタラと交わした情報の為それは出来ない。

 

少しでも家族の敵に近づくために、少しでも喰種の数を減らすために、生き残るために、生き残らせるために情報はメモ用紙一枚たりとも見逃すことは出来ない。くれるというのなら人を殺す以外何でもしよう、それだけの覚悟をもって僕は今ここにいる。

 

「さて……外道ババァは始末したし、また13区の散策に戻るか。それにしても太った喰種がこんなに不味いなんて思っても見なかった…」

 

それはただの独り言だった、この路地裏には誰もいないそう思って呟いたただの愚痴に過ぎなかった。だがそれを呟いたがために、いらないことを気にして食事に気を使っているような仕草をしてしまった為に、僕は今後一切会いたくなった相手に再び出会ってしまう。

 

Ah, lo pensi anche tu?(君もそう思うかい?)

 

薄紫色の髪をワックスで整え七三分けにして、路地に似合わない派手な真っ赤なスーツを気取って着込んでいる、如何にも上流階級そうなキザったらしい男。そして非常に相手にするのが面倒くさい、口癖なのか疑わしい言葉の端々ににじみ出るイタリア語。

 

人の良さそうな態度と裏腹に、その内側に眠る感性は並の喰種以上の厄介なモノがある男は、暗闇からぬるりと顔を出すとゆっくりとこちらに近づいて来たのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

達人も負ける、素人が勝つ。だからと言って素人、つまり何も知らない無垢な者が強いなんてことは有りえない。なら……誰が一番強いのか、忘れがちなのが運命的なものだ。

 

試合なら「番狂わせ」、「奇跡」、「まぐれ」と言ったたまたま神が微笑んだだけの一瞬の強さ。だがそれが何よりも強い事は誰でも知っている。

 

 

 

そして何より何事にも動じない鉄の精神力をもってしても踏み越えられない壁はある。何物をも凌駕する圧倒的なパワーをもってしても、僅かなミスが亀裂を呼ぶ。だが、その二つの強さを全く手に入れられない者が、恐ろしく強いものに勝ってしまう事がある。

 

 

 

 

 




ご意見ご感想お待ちしています。


それとマイページの活動報告にもあるように、この作品の挿絵を募集しています、誰か書いてくれる人が居ればお願いします。

2015/4/1  合併修正


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#025 「本性」

目を合わせた喰種に対して僕は一切の容赦をしない、命乞いをしようとお金を差し出そうと、狩場を提供されようと僕は何の同情も抱かずに殺意のみを拳に込めて奴らを地獄へ送ることが出来た。

 

生き物を殺すからと、奴らの「悲鳴」「泣き顔」にいちいち心が揺らいでいたら、僕はもうこの世にはいないだろう。喰種の世界は「嘘」と「偽善」で出来ている、感情を表に出していれば読まれるし、それが自分の隙に繋がってしまう。

 

相手も生き残るのに必死だ、嘘もつくし平気で人間を人質に取る。だから僕は相手取った喰種をまず身動きできない身体にしてからじわじわと嬲り殺すのだ。

 

肉を削ぎ、内臓を引きちぎり、骨を砕く、自分が人間に対して行って来た行為を自分の身で体験させてやる。大抵の喰種はそこで音をあげて泣き喚き、かつて自分が喰らった人間の様に必死で許しを請うのだ。

 

自分のしてきた罪を清算させる、偽善に満ちた自己満足でしかない行為だが、僕は喰種が自分のしてきた行為に何の罰も無く一瞬であの世へ行くのが許せなかった。

 

臓物をまき散らし恐怖を顔に張り付かせて死んでいった人間が、それでは浮かばれない。何の罪もない人間が痛みを感じ、何故罪を犯し過ぎている喰種が安らかに死んでいくのか……

 

だから僕は奴らに苦痛を与えることで、自信を人間だと……か弱い人間を体験させることで、自分の罪を向い合せて来た。

 

「月山……習」

 

だが、目の前に立つ嫌らしい笑みを顔に張り付かせた男は違った。赤いスーツを身に纏った坊ちゃん風の男は、悪い意味で考え方が普通の喰種と違っていた。

 

喰種は普通、自分が生きる為に人間を食べる。その行為は等しく悪だがそこには必要に迫られて仕方なくという原罪じみた要素が関わっている。だからこそ、喰種は生き物を殺すという行為を「仕方なく」行い、その罪に気づいていながら触れない様にしている者が多いのだ。

 

奴らにも数少ない良心は残っている、僕は其処を念入りに抉り喰種の本性を、隠し続けて来た罪と向かい合わさせるのだ。しかし、月山は違っていた。あの喰種には本来あるはずの良心と言うモノが欠片もなかったのだ。

 

揺さぶっても、訴えかけても何も反応しない。奴の中にあるのは如何すれば人間という食材を美味しく食べることが出来るのかというおぞましい美食への渇望のみ。奴にとって人間とは罪の意識を抱けるほど対等な存在ではないのかもしれない。

 

月山にとって人間は料理……自分にとって最高の娯楽。

 

こんな奴をこの世界に生かしておく事は全ての人類の為にならない。丁度空腹も抑えられ身体の調子も万全だ、S級喰種との一騎打ちくらいなら今度は逃がす事無く仕留められるだろう。

 

僕はもう……お前と初めて出会った時の僕とは違うんだ。

 

sono contento!(嬉しいな)、僕のことを覚えていてくれたんだね!」

 

「忘れたくても忘れられないね、君にされた仕打ちは……お陰で喰種っていうのがより嫌いになった。そうだね、感謝するべきなのはその一点かな、彼らの醜さを僕に教えてくれてありがとう」

 

「やれやれ、相変わらず刺々しい!だが、その誰をも寄せ付けない孤高さ、一人だけで生き抜いていく理解者のいない様はまた悲劇的で、芸術的だ magnifico!(素晴らしい!)

 

昔からこの男のオーバーなリアクションは変わっていない。

両手を広げて誰が見ているわけでもなく演劇のように自分の感情を表現する月山。

何も知らない人からすれば、その姿はなかなかどうして面白くも見えるのだろう。

 

だが僕は知っている。この優しそうな笑みの裏に醜悪な思惑と、絶望的なまでの狂気が渦巻いていることを。

 

「それで、今日は何のようだ?潔く人を恐怖させる元凶として僕に始末される気にでもなったのかな」

 

「ふふ、つれないなぁ……いやなに、特にこれといった用事はないさ。

たまたま通りかかった路地裏から、何とも濃い血の香りがするじゃないか。これが普段なら気にもとめないが……そうしたら君のとても興味深い声が聞こえてきた。

不味い…だったかい?」

 

ぞわりと、言い知れない何かが僕の背中を走り抜けた。

 

心音が予期せずに早くなるのを感じた、わけが分からないまま立ちつくす僕に冷や汗だけが額から滴り落ちた。

 

何だ、この感覚は……まるでこの月山の言葉をこれ以上聞いてはいけないというように、身体が早く殺せを僕を急かしているようだった。

 

「何が言いたい…」

 

聞いてはいけない。頭の中で発せられる警告は次第に強くなっていく。そうだ、月山はこういった心を弄ぶ事に長けていた。他人との距離を上手く取りながら溶け込むようにいつの間にか隣に立っているような、狡猾な男だったはずだ。

 

それはきっと禄でもない話なのだろう、僕の冷静さを奪って行動を制限してしまうような、トラウマを抉る卑怯な手。でも……僕は耳を塞ぐことが出来なかった。一心不乱に赫子を出して月山に向かっていく事が出来なかった。

 

月山の言葉……何かが、僕の心の中で引っかかっていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何かが……おかしい。何か……

 

 

 

 

 

「珍しい…と思ってね。そう、4年前に会った君はもっと喰種を憎んでいた、味なんて噛み締めるなんて考えつかなかっただろう」

 

 

 

「味…」

 

 

ドクン……

 

心臓が、身体が大きく揺さぶられた。後頭部に何かに殴られたような鈍い頭痛が広がっていく。

 

喰種…不味い…味…

 

その意味を理解した時、僕はきっと真っ青な顔をしていたんだと思う。月山の言葉から初めて察することが出来た自分の変化、それは確実に僕自身を喰種たらしめていた。

 

「……僕が喰種に似てきてる……そう言いたいのか?」

 

空しい、最早意味のない反論……自覚してしまった今、それはもう自分の本性を隠す理由にはなってくれない。むしろそれを月山に問うという行為が、自分の変化を異常を認めてしまった事にほかならない。

 

だが、理解は出来ても僕は納得したくなかった、恨み憎んできた喰種、唾棄すべき存在に似ていると言われ怒らない人はいない。

何処にゴキブリとそっくりだと言われて喜ぶ人がいるだろうか、それと同じだ。

ギリッと握り締めた拳から血が流れ……

 

「……もっと自分の欲に素直になりたまえ。君は喰種だ、それも一級品のね。……喰種が肉を味わうのは当然だろう?」

 

「黙れ、僕はお前たちとは違う」

 

もう……いい加減にしてくれ、お前は僕に何をさせたいんだ。お前はいつもそうだ、幾度となく僕の前に現れては僕の心を引っ掻き回すだけ引っ掻き回して僕を苦しめる。

 

「それはさすがに無理があると思うよ音把クン!おなかが空いたのならデパートやスーパー、コンビニへ行けばいい。

お金が無いのなら、その辺の残飯を漁ればいい。君がもし!もし本当に人間なら!……お腹を満たす方法が限られていない状況のはずだ。

丸く太った獲物を捕食して感想を呟く、それを喰種じゃなくなんと言うんだい?」

 

「……黙っれ!!」

 

我慢できなかった、喰種と同じだと言われたことが…ではない。

月山という一介の喰種に言われた言葉に一切反論できない自分に、無性に腹が立った。

そうだ……その通りだなと、一瞬怒りよりも先に納得してしまった自分が許せなかった。

生き物を殺してその命を喰らう、喰種にその魂を味わう事が出来るのなら、僕は喰種と変わらない。

 

「……月山、お前は何がしたい?僕を殺したいのか、だから僕を怒らせて冷静さを欠かせて……」

sbagliato(違う!)いいや、ただ僕は……同じく食を求めるもの同士、語らおうと思ってね!

どうだい、不味い喰種の肉なんて食べてないで、高級な……柔らかく透き通るような食を求めてみないかい?丁度会員制の喰種レス…」

 

「質問してるのは僕だ、ちゃんと答えろよ、お前がそんな理由で僕に近づくわけがない……下種が」

 

芳村さんにも言われたことだった、正義を盾に暴力をまき散らすのは理不尽な捕食を行う喰種と何ら違わないと……

だが……自分自身、その味覚という感性まで喰種と同じようになっていたのは…正直な所月山に言われるまで気がつかなかった。

 

だが、気がついてしまえば反論の余地なく正論だとわかってしまう。

全てを消すと豪語している憎い喰種を「味わう」

それでじゃまるで、人間を襲って味わう喰種と変わらない。

 

「ふっ……君を見ているとまるで、…哀愁を感じるよ!」

 

滑稽だと、演劇でも見ているようだと月山はおどけて見せた。そうかもしれない……

僕はおかしい、自分でもわかる程に…自分が分からなくなっている。切っ掛けは、そう……芳村さんと戦った時、感情を抑えきれず出せる限りの力を身体から絞り出したその時から僕の中で何かが狂いだした。

 

赫者……喰種としての頂とも言っていいそれの危険性は十分に理解している。油断すれば強大な力と引き換えに「喰種」の本能に飲み込まれる事も、分かっていたつもりだった。

 

それを分かったうえで覚悟して、それでもなお力を求める為に受け入れた力。それがじわじわと今になって僕の心を犯し始めているのかもしれない。気づいていない部分で少しずつ、他人にしか分からない微妙な所が変わっていっている。

 

思い返せば、あの時、菫香を見る度に抱いていた感情はまさに僕が嫌う喰種の姿そのものだった。「甘く美味しい肉が食べたい」至極当然だと感じていたそれはおぞましい喰種の感性と一致してしまう。

 

「ぼくは…ぼくは…」

 

芳村さんが言っていた赫者の制御方法、恐らく戦闘方法か何かだろうと辺りを付けていたが、これは……きっと心を乱さない、本能に飲み込まれない為の方法だったのかもしれない。

 

incomprensibile!(理解できない)君は何をそんなに焦っているんだい?

君は喰種として普通の感性を持っている、美味しいモノを美味しいと言え、不味いモノを不味いと言える……実に素晴らしい事じゃないか!」

 

「美味しいモノは美味しい……」

 

consenso!(そうだ!)最上級の肉の味は鼻を焦がし身を蕩けさせる!ただ肉を貪るだけの食は愚かだ、そこに味わいを求めることに代え難い美しさが生まれるのさ、さあ音把君……君を喰種レストランへ招待しようじゃないか…」

 

恭しく執事のような礼をする月山……彼の言っている事は多分間違っていない。人間も、喰種もきっと味覚はあるし、美味しさも不味さも感じるのだろう。肝心なのはそこにどういう過程があったのかという事……

 

正直、僕は僕自身の考えが正しいのか自身が持てない。もともと不安はあったが今回月山に指摘されたことでそれが顕著になった。

 

だが…これだけは言える…

 

「喰種であることに不満を感じている、それはきっと良い食に巡り合えなかったからだと僕は思うけどね!」

 

僕はまだ…喰種を恨んでいるのだと!

先ほどから繰り返される人間への非道徳的な対応を表した言葉、それが呟かれるたびに僕の中で燻っていた憤りは少しずつ怒りへと置き換わっていった。

 

 

あの時の僕はどうかしていた、月山の言うとおりに勧められるままに人間の肉を食べて仕舞いそうになった、喰種である事を認めてしまいそうになった僕は……未熟だった。

逃がす暇なんて与えない、今度という今度は僕はお前に騙されない。

 

僕は…あの時とは違う!!

 

 

これは…逃げなのかもしれない。直面した問題から目を背け、湧き上がる怒りのまま暴力をふるう。彼が意図せず作ってくれた怒りと言う逃げ道に僕は逃げ込もう、もちろん同情はしないあるのは相手を殺そうとする殺意のみ。

 

「つきやまああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 

殺す……二度と僕にそんな口がきけない様に体全部をバラバラに刻んでから一つずつ喰ってやる!!

 

食べる…あれ、どうして「殺す」じゃなくて食べるの?

『美味しいから』

『刻んで、バラバラにして……』

 

 

「細かく刻んで一口サイズで…パクッ?…あれ?」

 

……きっと美味しいんだろうな…あれ、なんで憎いはずの喰種が美味しいの、なんで僕はこんなに嬉しいの、なんで? 美味しいものを食べるのは普通だよね、喰種は美味しいモノ、食べていいモノ、じゃあ美味しいそうな人間はどうするの、美味しいよ、食べたいな、たべちゃだめ、なんで、食べたいよ喰種も人間も、全部僕が食べちゃいたい、全部全部僕のものだ、美味しいの食べてないが悪いの?

 

『あれ?あれれれれれれれれれ、れ、れ、れ?』

 

『アハッ、今日はご馳走だね』

 

「カルマート!(落ち着きたまえ)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ご意見ご感想、お待ちしています。些細な事でもいいので是非お願いします。


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#026「半心」

申し訳ありません、このたび更新させていただいたのは3話の追加です。お手数おかけします。


 「triste!(悲しいな)なんという事だろうか、僕の美食を理解できないなんて」

 

 月山習、赤いスーツを着込み整えられた髪をした男は残念そうに頷き、眼前で巨大な化け物へと身体を変化させつつある蟋蟀に憐れみの視線を送った。

彼にとって美食は「生」だった、他の喰種とは違う上品で高級な食事、量ではなく味わいの深さを探求する事に彼は今生きているという事を実感させられたのだ。

 

貪り喰らう事が喰種の生きがいじゃない、喰種とはもっとかくあるべきものだと。だが彼の持つ一見して人間にも近い思想は一般の喰種からは認められることは無かった。確かに喰種も食べ物をえり好みする、美味しいも不味いも同じ人間の肉から生まれる感想である事には間違いない。

 

だが、それだけだったのだ。

 

彼がどれだけ喰種の味を説いても、その他の喰種はその思想には興味を示すものの、やがて彼から離れていってしまうのだ。それは……喰種が捕食に味よりも外見をより重視しているからだった。

 

舌が蕩ける様な触感も、ほっぺたが落ちるほどの旨味も、透き通るような美しさの外見に負けてしまうのだ。解体マニア、刺殺マニア、絞殺マニア、撲殺マニア、惨殺マニア、喰種の趣味嗜好は独特で十人十色だが共通しているのはそのどれもが目に見える特徴を有しているという事だった。

 

喰種は見た目を重視する、美味さはその次……彼はそれが許せなかった。

 

人間を少しでも美味しく食べようとする自分の考えが否定されたように感じたのだ、彼はその自分の考えを証明するがために人間を調理しては捕食し続けてきた。いつか、自分の理解者が現れてくれるその時まで。

 

だが、数年前彼が出会った自分と同年代のような若さの喰種は、一度は月山の思想に理解を示しそうになったがやがて彼から去ってしまったのだ、逃げる様に……彼とは相容れないとでもいうように。

 

そしてまた、さらなる美食を求めて足を運んだ13区で偶然の再会、月山の心は躍った。また……この喰種に美食の素晴らしさを説いてあげる機会が出来たのだと。今度こそはきっとよき理解者を得られると……

 

だが結果は案の定、話しかけた側から喰種は彼を拒絶し振り払おうと赫子まで発生させて来るのだ。僕は…僕はただ、美食と言う素晴らしさをもっと喰種に知ってほしいだけなのに!!

 

 

「カルマート!!」

 

月山は叫ぶ、「落ち着け」と絶望の果てに、またしても運命に裏切られ理解者を得られなかった自分に冷静になれと吠える。

13区の蟋蟀は喰種としての本質を見失っているだけに過ぎない、喰種を食べるという偏食思想は未だ美味しい食材に巡り合っていないが故に引き起こされたモノなのだと月山は考えたのだ。

 

ここでまた蟋蟀を自分の感情のままに傷つけてしまえば、殺してしまえば今後一切この喰種は美味しいモノを食べることが出来ずに天に召されてしまうかもしれない、それは月山にとって非常に不本意な事だった。

 

蟋蟀は強くそして刺々しい外面で敵を威嚇しあまつさえその命を刈り取るが、心の中に脆く崩れてしまいそうな内面を抱えている。その長所と短所の絶妙なバランスが月山の思う「美しさ」であり、これからの食を共にする友として相応しかった。

 

人間でありながら食欲が湧かなかった奇妙な関係の同級生のように、言葉では説明できない親友になりたいという欲求が彼を突き動かしていたのだ。

 

「君に!美食を語ってあげよう!」

 

だからこそ月山習は今はもう比べ物にならない程実力が離れた化け物に相対して逃げ出す事は無かった。昆虫入り混じる不気味な姿かたちへ変貌する蟋蟀に呼応するように、月山も赫眼を見開き、背中からドロリと蠢く赫子を発生させる。

 

暴走を始める赫者の危険性は百も承知、喰種を喰い続けて狂った喰種の強靭無比な強さは嫌という程知っていた。だが、月山は苦しそうにうめき声をあげる怪物を前に一歩踏み出し、腕に巻きつけた固く鈍重な赫子を天に高々と掲げたのだ。

 

それはまるで勝利を宣言する騎士のようで、雄々しく宣言するその顔は自分の心の底から溢れる欲望で醜くく歪んでいた。

 

全ては無知な蟋蟀の未来の為に、若き喰種の食を救うために!

 

 

 

 

「正気に戻りたまえ!!」

 

 

 

 

 

                  ・

 

 

 

 

 

 

 

 

 沈んでいく意識の中、母親の羊水に浸っているかのような穏やかな感覚が僕を包んでくれる。月山がまた何か変な事を言っているがもう聞こえない、視界もぼやけてやがって真っ暗になった……

 

きっとこれは、ぼくが意識を失ったんだろう。

月山にやられたのか、それとも僕自身の身体に限界が来たのか、あるいは僕の知りえない何かが起きたのか…

 

いずれにしても、僕は…もう死ぬのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ふふふ、私の可愛い可愛い赤ちゃん…早く生まれておいで』

 

だれ…だれのこえ?

優しそうなこのままずっと聞いていたくなるような、ずっと昔に聞いたことがある様などこか懐かしい声。会ったことは無いと思うけれど、それでもどこか安心してしまう音色のような声を僕は何処で聞いたのだろう。

 

赤ちゃんとは僕の事なんだろうか、それとも別の誰かの事なんだろうか。

 

 

『掛け替えのない、あの人との私の子供…絶対にあいつらなんかには渡さない』

 

場面が変わったのが分かる声はさっき同じ女性、でもその声色は打って変わって悲しそうな、悲壮にかられたようなものだった。この声の主に一体何があったのだろう、どうか泣かないでほしい。

 

どうしてか分からないけど、悲しそうなこの声を聴いていると僕まで悲しくなってしまう。だから、どうか……なかないで。

 

 

 

 

『お前の両親は……実は私たちじゃないんだよ』

 

お父さん、お父さんの声だ。久しぶりだなぁ、懐かしいなぁそういえば最近聞いてないけれど何かあったんだっけ。何処かに出張に行くことになったのかな。

ああ、また会いたいな怒ると怖いけど僕がテストでいい点を取るといつも一番に抱きしめて頭を撫でてくれたよね。

だから……起きてよ、冷たくならないで……

まっかっか……血がいっぱい、どろどろ、やめて、いやだ……

 

 

 

 

『お兄ちゃんの苦しむ顔、私は見たくないよ』

 

ああ、可愛い可愛い僕の妹…お願いだからそんな顔で僕を見ないで…僕はお前の兄じゃない、穢れた喰種の兄なんかじゃないんだ。だから僕はお前を義妹と呼ぶからさ……

だから腕なんかいらないよ、食べたくないよ、家族をもうこれ以上失いたくないよ。

だからどうか、僕の前からいなくならないで……

 

 

『この子はまだ先があるんだ、未来ある若者の命を積むのは、少し待ってはくれないかな?』

 

何を言うんだこの老人は、人間() の敵を駆逐する事の何がいけない。人間() が危険にさらされる可能性があるのなら、それを未然に摘み取るのが僕の役目だ。愛しい人間() が居なくなってしまったら、僕は一人になっちゃうんだから。

だから僕は人間() を襲わないし護るんだ 

 

 

 

『君は…どうして喰種を襲うんだい?』

 

またお前か爺、うるさいな何度も言ってるじゃないかそれは喰種が人間()の敵だっからだよ、人間() を貪り喰らおうとする喰種を蹴散らそうとする僕をお前に非難されたくないね。だれだって家族を失う事は辛いことのはずだ。

何度だって言ってやる、もう僕は一人になりたくない。

 

 

『…なら、どうして君はこの子を殺さなかったのかな?』

 

殺さなかったんじゃない、もっと痛めつけてから殺すつもりだったんだ、僕の両親の様に喰種にされた痛みを味わってもらうためにね。罰を…あたえ…て…

違うよね、それは誰よりも僕自身が分かってることだ、分かっていて分からない振りをして眼を背けてる。

 

「何を……僕は本当に、喰種に…罰を…」

 

ならその人間にそっくりな喰種をみて僕は何も感じなかった?

あの時の少女の喰種をみて僕に自分自身を食べてもらおうとした、可愛い妹を思い出したんじゃない?僕は優しいからね、喰種に対しても無情にふるまって惨殺しつくそうなんて始めから無理な事だった。

 

生き物の命を奪って食べているのなら人間と同じだ。人間が牛や豚、魚や鳥を食べているのなら喰種だって人間を食べても誰にも何の文句も言えないはずだ。生物は個人の趣味で主食を変えたりしない。

それが遺伝子に刻み付けられた最も効率のいい生き方だと知っているからだ。喰種だってそれは変わらない、人間を食べるのは何も人間が憎いからでも殺したいからでもない、それしか食べることが出来ないからだ。

 

Rc細胞を多く取り込まなければ生きられない喰種は人間からそれを取り込まなければならない、僕はただ純粋に生きたいと願う事まで否定するのか?僕が喰種を裁くなら、罰を与えるって言うのなら、それはどういう罰になるのかな。

 

……それも、わかってるか。分かってるから言葉一つでこんなに揺さぶられてるんだもんね。

 

「分かってる…そんなことは、わかってた……喰種を殺すたびに思うんだ、あの悲鳴が恐怖を含んだ表情で僕を見るその姿が……人間と重なるんだ!!」

 

そうだよね、いつだってそうだった。僕の考えはどんな時も矛盾してた、喰種を狩っている時も喰種の痛みのたうち回る姿、その行為自体を楽しんでいた。彼らの味を噛み締めて喜びに打ち震えたり、不味さに顔を顰めたりした。

 

罪を償わせるなんて大層な目標掲げちゃって、やってることはただの喰種の趣味嗜好と大して変わらない強引な赫子の暴力。痛めつけるだけ痛めつけて命乞いすら認めずに直ぐにパックンだもん、笑っちゃうよ。

 

なのに喰種を殺した後は自分のしたことに自己嫌悪してさ、口調まで変えて自分にまで嘘をついて、散々身体を痛めつけて人間に殺されかけたのに、なのにまだ人間を助けるの?

 

そろそろ建前と本能の境界があやふやになって来たんじゃない?

 

どれだけ助けた所で、何人もの人間の命を救ったところでこれだけは言える、こんな生活を続けていた所で僕は一生報われたりはしない。

 

誰が喰種に感謝する?全ての現況を生み出している喰種が、ほんの少しの気まぐれで襲う事をしなかった程度にしか人間は思ってくれない、自分の運に感謝しこそしても僕にその礼は回ってこない。

 

「違う、僕は人間()に感謝なんか求めてない、僕は家族を…失いたくないだけ…なんだ」

 

ならなんで妹以外を助けるのさ、僕は鈴の家族なんだろうそれは僕も異論はないよ、あの従順な妹は可愛らしいからね。でもさ、だからと言ってそれ以外の人間を助ける義理なんて僕にはないはずだ。

 

世界中の人間全員が家族全員なんてそんな大それたことを言うんじゃないよね、聖人でもあるまいし僕は世界の人間なんて愛せないし、嫌いな人だっているさ。良くて隣人どまり悪くて他人だ、家族だなんてとても思えない。

 

可愛い妹に気を使っているのかな、人間の妹の友人を何時か食べてしまうかもしれない

。自分のかつての友達を知らず知らず食べてしまうかもしれない。ほんと、僕は弱虫だね、結局……ただ逃げてるだけじゃないか。

 

「でも……」

 

ああ、そうだよこれは屁理屈だ、詭弁と言っても良い。でもCCGも人間もあっち側の思考で凝り固まった屁理屈だ。人間を殺すのは悪で、人間が動物を殺すのは悪じゃない?ふざけるのもいい加減にしろと思うね。

誰にも望まれずに生まれた子供は残念ながらいる、生んだ母親に疎まれ誰からも愛されず死んでいく子はきっと不幸なのだろう。だが、僕は違う少なくとも僕をこの世界に産んでくれた母は、僕の事を愛してくれていた。

 

弱っていく身体で懸命に僕を抱きしめて、自分が死ぬその瞬間まで僕を愛してくれた。でも、そんな母を人間は殺したんだ。

 

悪だからと、そっちの都合で決めつけて喰種だった母を、立ち上がる事もままならない無抵抗の母を殺した。幼いときに脳裏に焼き付けられたその光景は、こうして心の奥へと押しやられた僕でも思い出すことが出来るほど印象深く、そして憎いものだった。

 

僕を最初に愛してくれた人、一番初めに僕の誕生を望んでくれた人……その人を僕から奪った人間が憎い。

 

何故、僕の母は殺されなければならなかった?

 

喰種が人間を殺すからか?確かにそうだろう……だが、お前らも生き物は殺すだろう、それも喰種とは比べ物にならない程の命を、僕たちを悪だと罵るその口に入れてきたはずだ。

 

意思を持っている動物を食べたから?それなら生物は全部少なからず意思を持っているだろう、それを食べている人間も同罪だ、喰種を非難する資格なんてない。それに奪った命の数に関していえば、喰種よりも人間の方が極めて多い。

 

ただ自分たちが食べる為に育てている家畜など傍から見ればあれほど非人道の極みなものは無いだろう。家畜は殺されるために生まれてきたようなものなのだから。

 

だから、人間に喰種を裁く権利は無いはずだ、人間は自分たちがしていることを棚に上げて自分たちの利益の為に喰種を根絶やしにしようとしている。お前らが生き物を殺すのなら、喰種も生き物を殺しても良いだろうに。

 

母は人間の理不尽で殺された、まったく意味が理解できない理由で無残に殺された。だから僕も仕返ししてやるんだ、人間に……死んだ母と同じ苦しみを味あわせてやる。お前らの大切な人を奪ってやる、家族の泣き叫ぶ姿を友人の苦痛にゆがんだ顔を目の前で見せてやる。

 

惨殺はぬるい、生きたままだ……生きたまま全身の皮を剥いてやろう。悲鳴を上げる口を掴んで1本ずつ歯を圧し折っていこう。痙攣する指を掴みあげて一枚一枚指の爪を引きちぎってしまおう。

 

下位の生物が上位の生物に殺されて何が悪い、弱肉強食なんて言葉を作ったお前らが、どうしてそれを体現した喰種を殺す?

 

数が多い事がそんなに偉いのか、大勢で少数を押さえつけるのがそんなに楽しいか。か弱い人間を殺した?お前たち人間だってか弱い喰種を殺しただろう!!

 

 

 

「やめてくれ……僕は、まだ…自分を……!!」

 

頭の中で大きく反響する声、苦しげに訴えかける様に叫ぶそれは、正反対の事を言って本人を誘惑する二重人格などではなく、蟋蟀……音把が長年隠し続けて来た本心だった。

心の中で感じていたことが、今まで押さえつけて来た感情と矛盾が、赫者という本能の解放というトリガーをもって今押し寄せてきている。

 

数年にも及ぶ見て見ぬ振りをしてきた自分の行いの矛盾が、月山の言葉によって一気に溢れ出してしまったのだ。喰種を食べるという行為自体が元々不安定だった音把の精神を壊れさせ、そして矛盾を抱えながら行って来た行為がまた……いままで作り上げて来た理性という名の建前の崩壊を加速させた。

 

だが、その瞬間だった本心が黒く塗りつぶされた心から飛び出てくるという段になって、誰かの声が響いて来たのだ。

 

大それは浮き沈みする過去に聞いたような何処となく覚えがある声ではなく、まるで今その場で喋っているかのような臨場感のある叫び声だった。

 

自分の為に叫んでいるのかその声は酷く荒く、そして疲れていたが…何度も何度も蟋蟀に訴えかける様に繰り返されていたのだ。

 

 

 

「だれ…か、よんでる」

 

心理の淵から覚醒することが出来た蟋蟀はまだ本心を心の底に抑え込む、それは彼が言うようにただの逃げにしかならない。はたしてこの声蟋蟀を本当の意味で助けることが出来たのか、それを蟋蟀は数日後に身を持って思い知らされるのだった。




ご意見、ご感想、些細な事でもいいのでお待ちしています。

アニメ√aも完結したことですし「re:」はこれからどうなっていくんでしょうかね、非常に気になります。無印の方よりもしょっぱなから謎が謎を呼ぶ展開で読者を慌てさせてくれますね。

というか番組スタッフは「re:」をアニメで作る気があるのかという疑問が浮上してきましたが……個人的にはオロチ先輩がかっこいいと思ってしまいました。


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#027「速度」

 喰種と言えどもその強さは様々だ、年齢によらず鍛え方によらず彼らは環境という形で飛躍的に成長を遂げることがある。美食のみを求めて人間を多く喰らって来た月山習と全てが妹の為になればと喰種を喰らって来た蟋蟀。

 

体内に含有するRc細胞の蓄積量がその喰種の強さと言っても良い。そして人間より喰種の方がその蓄積量が多いのなら、それを好んで喰してきた蟋蟀に著しく勝負の軍配は上がるだろう。

 

そもそもの今に至るまでの過程が違いすぎるのだ、月山が家庭用の扇風機のようなモーターを持っているなら、今の蟋蟀は海外へと数時間で渡るジェット機のエンジンモーター並の出力を誇っている。

 

蟋蟀の身体は最早人間としての面影は完全に消え、赤黒い赫子が顔全体を覆い尽くして昆虫のような外装を作り出している。下あごからは凶悪な突起が無数に生え、喰種と言えどもその大きな牙に貫かれれば無事では済まないだろうことが覗えた。

 

昆虫の節目の様に身体を被う棘のある赫子の鎧は時折まだ成長するのかというように怪しく蠢くのだ。そして鱗赫の特徴である鱗のある赫子も数本背中から飛び出し、2枚の羽根を形成し始める。

 

喰種のみを襲い続けた蟋蟀に授けられた、喰種を捕食する為の器官。先日の無茶な戦いとアオギリの樹の薬の所為で若干その発生にラグが生じていたが、やがてあの梟をも追い詰めた思考を鈍らせ絶望を背後から這いよらせる、狂気なる曲を奏でる羽根が完成する。

 

勝負はすぐにつくかと思われた、風車に挑んだドン・キホーテのように月山という無謀な挑戦者の哀れな敗北という形で。

 

「まちきれないよ、はやくたべたいな」

 

不規則に伸ばされたうねる赫子の連打を放つ蟋蟀は、亀の様にのっそりと月山へと顔を向け涎なのか赫子から洩れる液なのか判断が付かない液体をなみなみと口から垂れ流した。蟋蟀は今、解き放たれた本能のみが事理行動している、いわば勝手に偶然目の前にいた餌に反応しているというだけだ。

 

食べ物があるから食べる、お腹が空いたから食べる、まるっきり幼児の様でいてそして喰種に近い考えを理性を持った蟋蟀が見ればどう思うのだろう、自分の本心の醜さに、後悔と懺悔に押しつぶされてしまうのだろうか。

 

どちらにしても今の蟋蟀に理性は欠片も残ってはいない、説得を聞くための耳さえも今は獲物の足音を聞くためにしか機能していないだろう。心無き昆虫は、無情に穀物を貪りやがて家庭を国を崩壊させてきた、イナゴは大量に空を舞い英国中の人間に恐怖を植え付けて来た。

 

蟋蟀もそうだ、古来より中国では闘鶏と同じく、好戦的な蟋蟀を戦わせる競技が昆虫の王と名高いカブトムシを差し置いて開かれるほど。雑食性で選り好みをせず食料を貪り時として同族までもその牙の餌食にする貪欲なまでの食欲と攻撃性は、喰種「蟋蟀」にも遠からず通ずるところがある。

 

「シット!僕のvida()は早々安いものじゃない、食べる気なら最低限のエチケットを持ちたまえ!」

 

しかし、蓋を開けてみればその勝負の行方は分からなくなっていた。実力の違う相手を前にして、決して引くことが出来ない状況に立たされた時、生物は決まって思考を放棄し硬直するか、ただ闇雲に勝利を諦めて何の作戦もなく特攻を仕掛けるかの二択へと選択肢を狭めてしまう。

 

勝てないという事実はそのまま生物から思考を奪い、逃げようと努力することまで失わさせてしまう。先の戦いに置いてアオギリの樹の配下であった髑髏マスクの喰種達がそうだったように、圧倒的な差は逃げることまで無駄だと本人の脳髄に叩きこんでしまうのだ。

 

何時いかなる時でも冷静さを保ち、行動できるような訓練をされていれば話180°変わって来るが、この場にいるのは美食を求める上流階級の裕福な喰種と戦場に身を置き続けた血みどろの化け物のみ。とてもでは無いが月山はそこまでの冷静な判断を下せる状況になかった。

 

だが、彼にはアオギリの樹の喰種集団とは違う所があった、それは経験と執念。月山は過去数度に渡って勧誘と称した戦闘を蟋蟀と行った事があったのだ。その経験が月山自身の肉となり骨となり、自信の飽くなき欲望と混ざり合い今この瞬間の彼の命を繋ぎ続けていた。

 

その戦闘のいずれも、赫者となっていない蟋蟀との戦いと呼べるのかどうかさえ怪しい攻防ではあったが、蟋蟀の得意とする音、そして鱗赫の特徴に漏れない一撃必殺じみた威力を誇る攻撃の危険性は十二分に把握することが出来ていたのだ。

 

戦いに置いて重要なのは、強い事ではない。どんな手段をもってどんな行動に出るのかと相手の動きを瞬時に察知し動く事の出来る「相手を知る」という事が時として勝負の命運を分ける。

 

「ぱくっ!」

 

「…っ」

 

だからこそ、月山習は瞼を瞑る一瞬の内に繰り出された顎での攻撃に対処する事が出来たのだ。

 

喰種「蟋蟀」は彼が位置するSレート喰種の中でも群を抜いて速度がある、つまり脚力に特化した喰種だった。伸縮自在の赫子を足首の関節に巻き付けバネの代わりを果たすことによって驚異的に上昇する動きの速さは他のS級喰種も一度相対すればもう戦いたくないとごねるほどの厄介なモノだ。

 

戦略を一瞬で見極め、不意打ちやからめ手を持ち前の速度でのみ回避しきる蟋蟀は、速さだけなら、「梟」を筆頭としたSSSレートへ迫りつつあった。赫者となった彼の速度はポテンシャルが人間のそれより高い喰種と言えど見極めるのは困難を極める。

 

だが、一見蟋蟀の強さを見ただけにしかならない経験、しかし月山はそこに蟋蟀の持つ唯一の弱点を見出していた。

 

速すぎるスピード、それは逆に自分でも些細な方向転換が出来なくなっているのではないかと。月山が覚えている過去の蟋蟀は、自分の赫子の一本を地面に刺す事で軸を作り、それを起点に相手が動いても対応できるように構築されていた。基本を忘れてしまっているのか、コンクリートの地面やビルの壁を利用し跳躍を繰り返す事で方向を自由に変えていた蟋蟀の自由度が著しく落ちている。

 

それでは突進の勢いが自分自身にも負荷を与えかねない。つまり…蟋蟀は前よりも強いが、頭が回っていない冷静さを失っている。

 

「んん、勝機…ん?」

 

地面を削るように打ち出される凶悪な大顎を流れる様にウエーブを描きながら紙一重で回避した月山は、頬から流れ出た血に気づき直感とも言える感覚を覚えて、慌てて赫子を地面に突き刺して後ろへと飛んだ。

 

その瞬間、月山が立っていた場所めがけて二本の鋭利なほど尖った赫子がミサイルの様に打ち込まれたのだ。内心冷や汗を掻きながら月山は自分が勝利へのビジョンを見たために油断してしまった事を恥じる。まだ皮算用の段階を出ていない勝機、焦っていたとはいえまだ曖昧な勝機に踊らされた自分自身を戒める。

 

油断は絶対にしてはいけない、勝利を確信した時こそより一層の警戒を込めて周囲を見なければならない。誰かが言ったかこれは戦術の基本原則の一つだった、月山家の人間としてそれなりに武術にも精通していた月山は、それを蟋蟀との戦闘のさなか思い出し背から伸びる赫子に力を込めた。

 

これは負けられない戦い、負ければ死ぬとかそういう問題では無く、一迷える子羊を救えるかどうか、自分自身のプライドとの戦いだった。

 

体内に蓄積されたRc細胞は既に限界を超えていた、これ以上戦えばいずれ肉体が再生できなくなり蟋蟀に食い散らかされるのは自明の理。陽炎のように揺れるその姿は余りにも高速で動くため残像を生み出しているためなのか、それとも月山自身が疲れているせいなのか判断できない。

 

だがそれだけでは終わらなかった、固い地面を抉るように突き刺さった赫子を軸にパチンコの要領で、蟋蟀は前へと強引に突き進んだのだ。風を引き裂くように二段階にわけて速度を増した蟋蟀に月山は驚きを通り越してあきれてしまう。

 

「これは…まだ、速くなると言うのかい?」

 

一体、どういう訓練を積めば、どういう意思を持てば、どういう欲望を持てば喰種はこれほどまでの化け物になれるのだろう?眼前に迫りくる蟋蟀の鋭い赫子の顎、数々のS強い喰種と戦い赫子を交えた事もあった月山、だがここまで一点に力を集約させた戦い方をする喰種に尊敬と畏怖を送る。

 

敗北という二文字が頭に浮かぶが、だが月山は戦いの最中に何の理由も無く降参すると言う恥さらしな行為に手を染めるつもりはさらさらなかった。死ぬのなら、せめてこの迷える若人に教えを説いてから死んでやろうと、歪んだ信念を持って月山は吠えた。

 

「正気に戻りたまえ!!」

 

 

 



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#028「見方」

 暗い暗い海の底を、ただ何も思うことなく漂っているような空虚感に襲われていた。何もする気が起きなくて、手足も顔も頭さえも動こうとしてくれない。いやむしろ僕自身がそれを心の何処かで望んでいるのかも知れなかった。何も考えたくない、少しも動きたくない、無理に体を酷使し続けていた反動か僕は欝にでもなってしまったのだろうか。

 

正直に言えば、もう疲れた。生きる事に、生き続ける事に疲れてしまった。そんな事を言えばまだ数十年も生きていない若輩が何を言うのかと笑われるだろうが、それでも僕の生きて来た人生は過酷で、そして辛く苦しくとても一人で生きるのには過酷過ぎるものだった。一介の喰種としての生だとしても、僕のそれは彼らの苦しみを軽く上回るものだろう。

 

光の届かないどこか現実ではない雰囲気の場所、だが夢の中かと問われればそれは違うと断言できる精神の世界。

そこで僕は僕に嘘を吐くことが出来なかった。義妹の為だと自問自答を繰り返し、何度も何度も取り繕い保って来た「正義」という名のアイデンティティ(存在意義)。

 

リゼや梟と相対した時にはまだ誤魔化しきれた僕の感情が、此処ではもう一切の嘘を挟むことなく白日の下にさらされていた。朦朧とした意識の中、眼を反らすことの出来ない真実と相対した僕は戸惑い、そして納得した。僕自身嘘で塗り固められていた所為で忘れてしまっていた「僕」に。

 

忘れてしまいたかった僕に、消えて欲しかった僕に、知りたくなかった僕を思いだした。だがそれは動揺を呼ばない、僕の心を揺さぶらない。それは……分かってしまえば簡単に納得できてしまえるようなものだったから。僕が「僕」だという証明であり、僕がどうあがいても喰種だという事の証。僕が生まれ落ちた瞬間からどうしようもなく付き纏い、そして永遠に逃れることが出来ないもの。

 

光が無い場所でなお、それと分かる人影が僕の思考を読み取ったように笑い満足げに揺らめいた。

 

そうだった…何故、忘れていたんだろう。○○を……

 

「僕は……」

 

そこで急速に意識が遠のいていき、逆に視界に光が差し込んでくる。否、僕の心がこの精神の世界から覚醒に向かっているのだ。現実に浮かび上がっていく身体、それに合わせて徐々にやる気の無くなっていた心に炎が灯り手足に力が湧いてくる。

 

前の様な僕を責め立てる「僕」の姿ももう何処にもいない。だがそれは決して消えたわけではないのだろう。僕がこうして真実を隠し続ける限り、喰種を襲い喰らい続ける限り「僕」は其処に存在し続ける。僕は「僕」自身であり、今の僕が必要ないと切り捨てた感情が集まって出来たもの。

 

それは僕の本当の気持ちであって、ならば受け入れれば簡単に消えてしまう儚い存在なのだろう。前の様に僕自身を脅かし身体を奪おうとするほど肥大してしまったのには少なからず僕に責任がある。しかしだ、だからと言って今ここで「僕」を受け入れてしまえば、僕はその口で今まで幾百もの喰種を屠って来た口で愛する義妹を殺してしまうだろう。

 

僕だからわかる「僕」自身の事。喰種だからこそ逆らえない喰への歪んだ愛情。愛と食を線で結んで繋げてしまうことの出来る喰種に、今はまだなるわけにはいかない。それが僕自身を「僕」を苦しめる結果に繋がるとしても……

 

 

 

 目が覚めると一番に目に入ってきたのはべっとりと生々しい血のついた鉄臭いコンクリートの壁だった。僕はその所々ひび割れたり切り裂かれている冷たい壁に横たえられたまま、赤いスーツのようなものを着せられて眠っていたらしい。一瞬どうして此処にいるのか理解できずに混乱したが、すぐに目の前に現れた男の姿によって疑問は解消された。

 

「ん…やあお目覚めかい?ふふ…さながら茨に穿たれた眠り姫の様だね」

 

狐のような狡猾で細い目に、ワックスで塗り固められたような整えられた髪。いかにも裕福そうな外見を持っている男。キザったらしく嫌味に感じた口調、僕に付き纏い喰種としての在り方だのなんだのとそれこそ「僕」のようにしつこく批判してきた男の声が耳元で聞こえて来た。だが、今は不思議とそれが不快に感じない。それは自分自身とほんの少しとは言え向き合った結果なのだろうか、この男の言葉も特に殺意を催す事も無くすっと胸に入って来る。

 

今に限っては何か鋭利な刃物で切断されたようなぼろぼろのYシャツと巨大な生物に噛み付かれたような歯形ある腕を露出させていた。美食家で有名であり若干人間臭くどことなく品性のある彼からしては似つかわしく無い、見るからに何かと戦ってきたような歴戦の騎士を思わせる風貌、だがこの場合討ち取られた怨敵というのは僕のことなのだろう。

 

我を失う赫者の暴走状態に陥ってしまってからの目覚め。きっと月山は僕の赫子の暴力によって殺されていると思っていた。あの深い心の海の中に沈んでいるときでさえ、彼の月山の負けは感じ取れたのだ。彼では暴走した僕には勝てない、それは奢りでも傲慢でもなく確固とした実力差からくるただの事実。

 

美食を求め良質な人間の肉を漁って来た月山と、戦闘を幾度も繰り返し傷つきその度に強くなってきた僕とでは経験地も肉体の強さも違いすぎる。それに加え、常識では図ることのできないカグネの暴走状態、液体の筋肉の名に相応しいその凶器が縦横無尽に敵を屠る地獄を、例え有名な月山習といえど生き残れるはずが無い。

 

勿論実は身体を鍛え、地下道場や24区などで実戦経験に富んだ修行に励んでいたという可能性も無くはないが、それでも彼が僕に勝てる勝機は限りなくゼロに近い。僕の事は僕自身が良くわかっている、赫子が言う事を聞かず段々と僕の支配から逸脱した動きを見せている事を。それが過去何度か戦った赫者の喰種と比べても化け物染みたモノになってしまっている事など鏡で見ずともわかる。

 

通常の赫者が鎧ならば、さながら僕の暴走は獣と言ったところか。はっきりしない記憶の中の映像を断片的に思い出していくだけの作業だったが、それでもアレが「普通」だとは誰もいないだろう。少し血の気が多くなったではとても説明できない領域に片足を踏み込んでしまっている。

 

……だが、と思考を繰り返す。だが、僕がこうして壁に横たえられ月山が満身創痍といえども傷を回復させ立っている所を見るに結果は違ったのだろう。暴走した僕に、赫子の怪物に成り果ててしまった僕に勝ったのか。それは……とても信じられない、奇跡を目の当たりにした気分だった。

 

「意外と詩人みたいなことを言いますね、ああ美食家を気取っているんでしたっけ。ならそんなとってつけた様な子供じみた批評も納得です、所詮子供の真似事ですけどね」

 

「ひどいな、僕はただ純粋に君の心配をしていたというのに!ふむ…まあ迷える子羊の照れ隠しとしておこうか」

 

ああ、今なら感じることができる。喰種というものにある程度折り合いをつけることが出来た今なら理解できてしまう。この人は僕の事を心の底から心配してくれている。過剰な表現が目立つ月山だがその心理は喫茶店のマスターのそれと近いのかもしれない。そこに別の思惑があったとしても、彼が心配していたという事には変わりは無いのだから。

 

だから僕は答える、少し熱く感じる顔を伏せがちに赫眼を発現させた瞳で月山を睨んだ。

 

「照れ隠しって、僕が貴方のどこに照れるというんですか?」

 

心まで、喰種には成ってはいない。だがそれでも歪んでいた自分自身が正されてしまった事の証明なのだろう。歪とは言え純粋な好意を持って紡がれた言葉に苛立ちを感じるほど僕はまだ常識を捨ててはいなったという事なのかもしれない。微細な、それでも確固とした心境の変化に自分自身少し困惑する。

 

「そしておめでとう……君はどうやら心の殻を破れた様だね」

 

そんな僕の変化に気づいたのか月山は何か感心したように腕を組んで頷き、だがと一本指を立てた。その仕草がまた上から目線で見ている者をイラつかせるのだろうが、今日だけは許そう…

 

「君は少し感情的になり過ぎる、言葉攻めに弱い気があるね……それは此処にしっかりとしたハートが無いからだ。でも今は違う、目覚めた君の眼はもう濁ってはいない」

 

「……そうですね、まあ、その辺に関してはあまり言いたくはありませんけど、感謝はしています…」

 

すっきりした気分と言うのか。たまりにたまった不純物を一気に身体から抜き出した様な妙に晴れ晴れしい気分だった。問題は何も解決していない、ただ未来へ先延ばししただけ。だけれども、その問題に正面から向き合って否定出来ただけ幾ばくか心の負担が減ったのだろうか。

 

僕が、「僕」と向き合っている時。「僕」に飲み込まれてしまいそうになっている時、必死に僕を呼び戻そうとその腕を振るってくれた男。至る所に傷を作りそれでなお僕に心配をかけまいと平静を装っている彼には……本当に迷惑をかけてしまった。

 

だとしても僕が彼に、喰種である月山習に返す言葉は変わらない。たとえどんなに好意を向けられようと、どんなに心配してくれようと僕を喰種だと思って接してくる相手と馴れ合うわけには行かないのだ。今までは痛まなかった良心が今日ばかりは胸を抉るように僕を攻め立てるが、僕の意思は変わらない。

 

暴走から引き揚げてもらった恩を仇で返す様ですいません、でも……僕にはしなければならない事があるんです。その為には喰種は邪魔だ、だから僕の義妹の為に…死んでほしい。

 

「黙れ、お前は僕の敵だ」

 

感謝と懺悔を込めて・・・僕は貴方の事を忘れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




長らくお待たせしてしまい申し訳ありませんスマートです。それとpixivの方でも投稿されている事をうっかり書き忘れてしまい余計な誤解を生んでしまった事を此処でお詫びさせていただきます、申し訳ありませんでした。

さて、今回の話ですが前話の続きという事で勘を取り戻すべく少しずつ進み始めたREの設定を少し入れつつ書いてみました。今後の展開の大まかは既に出来ていますので次回の投稿は今回の様に待たす事は無いと思います。

それではまた良ければ、ご意見ご感想些細な事でもいいので教えてください。誤字脱字もぜひお願いします。 


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