ボーダレス ホルダー (紅野生成)
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1 異物憑きの少年~過去

 やっと雪溶けを迎えた山裾の道に、土の道を擦る木の杖と二つの足音が響く。                                       

「イリス、手を出せよ。俺が誘導するから」

 

 ヤタカが伸ばし握りかけた手を、イリスはさっと後ろ手に隠した。払われた自分の手を眺めてヤタカは鼻から息を吐く。

 

「自分の感覚や杖を過信しすぎるな。なだらかだが岩の斜面が続いている。俺の手を握っていないと、転んで低い鼻が更に顔にめり込むぞ?」

 

 口を尖らせ自分の鼻を撫でたイリスは顔を背けながら、それでもヤタカの方へと手を差しだした。イリスに聞こえないように口の中でクスリと笑って、ヤタカはイリスの手を引き歩き出す。ヤタカは背中に大きな旅の荷を背負い、イリスは目元を布で覆い、手には奇妙に曲がった枝を杖の代わりに握っている。イリスが歩くと服の上から纏った薄衣と共に、黒髪が耳の辺りでふわりと跳ねた。

 

 

                   ***

 

 この世には土と水、日の光のもとに根付き種を落とす見慣れた植物とは別に、異種と呼ばれる植物が存在する。古より人が立ち入ることのない奥深い山で、ひっそりと命を紡いできた異質な静植物と動植物。

 自然の摂理を守る糸が何処で切れたのか、百二十年ほど前から異種は、人の住む平地へと山から湧くように這い出てきた。

 日を好むのは普通の植物と変わらないが、種を落とし芽吹く先は土ではない。

 異種は、血の通う生き物を苗床とした。

 獣、鳥、虫などに種として宿り、まるで蝉の幼虫が土の中で生涯のほとんどを終えるように、何年もその体内で眠りについた後に新たな種を落とし、子孫を残すために芽吹きの時を迎える。

 その時が来ると宿られた個体は一夜にして苔むし、生き物の形そのままに地に倒れた小山となる。種を落とし異種が枯れれば、かつて生き物であった苔むす小山は、自然の一部となり時間をかけて大地へと返っていく。

 異種を宿した獣が頻繁に人目につく平地へと、行動範囲を広げたのがことの始まりだったといわれている。種を落とした先に人がいれば、異種は迷うことなく宿るだろう。

 異種にとっては獣も人も、血の流れるただの生き物に過ぎないのだから。

 異種に宿られた者を、人々は「異種宿り」と呼んだ。

 

 そしてもう一つ、人々にとっては異種に比べまったく馴染みのない、異物と呼ばれる物が存在する。

 遺物や遺跡が人の手によって造り出された物ならば、異物は自然が気まぐれに吐き出した物なのかもしれない。異物とは、人間の手に触れて初めて人の目に見える物。少なくとも普通の人々にとってはそうである。

 たとえ目にしたところで、それを異物と気付く者はほとんどいない。

 自然に潜む姿をそのまま視ることができる者はごく僅か。野草師、ゴテ師の家系に生まれた者は血筋なのか、異物を視て感じることができる者が多いという。

 更にその内のひとつまみの者達が、悪意なき偶然か、異物の意思か……その身に異物を取り込むことも希にあった。

 異物を取り込んだ者は、宿した異物によって様々な奇行や奇弁を繰り返すようになる。 あるいは身体が可視、不可視の変化に見舞われる。

 異物の存在理由など、知る者は誰もいない。

 この世に異物が存在することを知る僅かな者達は、異物を宿した人間を「異物憑き」と呼んで古より哀れんだ。

 

 

時を遡ること十数年、まだ夏の盛りが過ぎない頃、八歳担ったばかりの少年を連れて、旅姿の僧が一歩、また一歩と山の木々の間を歩いて行た。

 遮る薄雲さえない夏の空のした、鬱蒼と生い茂る木々の枝葉に覆われた獣道は、陽光を遮る以上にじっとりと肌に纏わり付く湿気と熱を閉じ込める。

 

「ヤタカ、遠回りになるが、できるだけ川に沿って山を越えよう。水が無ければ辛いでああろう?」

 

 獣道をゆっくりと歩く僧の手には、ヤタカと呼ばれた少年の手が握られている。息を荒げながらも、僧についていこうとする 少年の細い足は、がしりと大柄な僧の歩みの倍の速さで必死に動いていた。

 

慈庭(じてい)、あといくつ山を越えるの?」

 

「二つほど」

 

 慈庭が振り向くことなく答えると、黒髪の前髪をはらりと揺らして、ヤタカはがくりと項垂れた。すでに三日は歩いている。うだるような暑さの中、ヤタカには大きすぎる作務衣を重ね着させられ、手には軍手、首から頭部にかけては目を除いて布をぐるりと巻き付けられていた。

 慈庭がいうには、山道には口にしなくとも微弱な毒を持つ植物が多いのだという。そして、ヤタカは恐ろしくそれらに弱い体質なのだと。普通の人間ならかぶれる程度で済むものでも、ヤタカが触れれば痛みを伴って赤く晴れ上がる。暑くてたまらなかったけれど、ヤタカは毒草に触れた苦しみはもっと辛いと知っていたから、文句を言うことなく歩き続けた。

 

「慈庭、水が飲みたい」

 

「もう少しで川が見える。少しだけ辛抱しなさい」

 

 張り付く喉の渇きに、ヤタカはこくりこくりと首を振るだけで答えた。とにかく水が欲しかった。大量に飲んだ水が何処に消えているのかと、幼心にも不思議だった。飲んだに見合う量の小便がでる訳でもない。底なし沼に沈むように、飲んだ水は何処かへ染みて消えていく。

 

「あの斜面を少し下れば川がある。飲んでくるといい」

 

 ぱっと慈庭の手を離し、ヤタカはころげるように斜面を駆け下りる。怪我をするぞ、とか背後から慈庭の声が聞こえた気もしたが構ってなどいられなかった。

 渇いた喉が、乾燥しきった鼻孔が流れる水の匂いに反応して抗えない。

 

「水だ」

 

 知らぬ者が見たら溺れているかと勘違いしただろう勢いで、ヤタカは顔から川の水面へ突っ込んだ。耳元でごぼごぼと音をたてて冷たい水が流れていく。息が続かなくなっては顔を上げ、何度も水に頭を突っ込んだ。飲んでも飲んでも、ヤタカの体内に巣くうモノが十分だとはいってくれない。飲んだ先から乾きが襲う。

 

「まだ幼いというのに、水の器に魅入られるとは。哀れなことよ」

 

 慈庭の呟きは、ヤタカの耳には届かない。

 

「ヤタカ、水浴びをしたければ良いのだぞ。里をでてからそのままであろう?」

 

 川からやっと顔を離して尻をついていたヤタカは、慈庭の言葉に首を振る。

 

「寺に着いてからでもいい? あの日から、水浴びは好きじゃないんだ。水に浸かるとさ、体が水に溶けてしまいそうな感覚がして、それがイヤ。自分がいなくなっちゃうみたいで」

 

 そうか、慈庭は無理強いすることなく再びヤタカの手を引いて歩き出す。しばらくは川沿いを進めるから、ヤタカが乾きに苦しむこともないだろう。

 あの日、とは異物である水の器を取り込んで、ヤタカが異物憑きとなった日のこと。

 二度と人里では暮らせない少年を哀れんでか、歩みを止めることなく慈庭の頬が奥歯を噛みしめたようにみしみしと動いた。

 

 

 

 村を出てから七日目、目前に開けた景色にヤタカは感嘆の息を吐いた。

 

「でっけぇ寺だな。すっげぇ」

 

 深い山間に神が造り間違えたかのような平地がぽかりと広がり、大きな古い寺が山向こうに沈みかけた夕日を受けて朱く染まっていた。

 四方を囲む山の斜面の一部は岩が剥き出しで、岩を掘り出した人工的な建造物が遠目に見える。

 

「あの岩場からは水が湧いている。小さく水が溜まり細く川を成しているから、ヤタカが水に飢えることはない。森の中には泉もあるが、危急でもない限りは川の水を飲むようにしなさい。あの泉は別の者が良く使っているからな」

 

「お坊さん?」

 

「いや、ヤタカより少し年下の少年だ。日光に弱い病を患っていてな、日の光を避けるために奇妙な恰好をしているが笑ってやるなよ。ヤタカが水を欲するように、あやつも……イリスも辛い業を背負った子なのだから」

 

 イリスという名が、ヤタカの胸の中で木霊する。こんな山奥に年の近い子供がいるなんて思ってもいなかったから、少しだけわくわくした。ごま塩頭の爺さん坊主達に囲まれて一生を過ごすものと覚悟していたヤタカにとって、イリスという名は小さな希望そのものだった。

 甘い秋の果物を一口だけ含んだかのように微笑んで、イリス、イリス、噛みしめるように何度も口の中で呟いた。

 

「会いにいってもいい?」

 

「そのうち会える。自ら小屋に尋ねていくことは許されぬ。イリスが呼びかけに応じた時なら良いがな。それにおまえには、イリスと会う以前に覚えて貰わねばならぬことが山のようにある。明日からはその衣を脱いで手足を晒したまま野山を歩くのだ。己にとって危険な植物は、痛みを持って覚えると良い。そうしなければ、いつか命を落とす」

 

 希望の輝きがしゅくしゅくと萎んで遠ざかる。かぶれる程度の草に触れても手足が赤く腫れ上がったり爛れたりするようになったのは、異物憑きになってから。それまでは普通の子と同じく、ひりひりと赤くなる程度だったというのに。何度も味わったあの痛みが蘇って、ヤタカはくしゅりと顔に皺を寄せた。

 生き延びたければ野山の草花に精通しろ。里を出るときに厳しい修行が待っているとは聞かされていた。寺について修行が目前に近づたと実感するほどに、無理矢理の元気も湧かなくなる。

 

「今夜は休め。明日の朝、素堂(そどう)様に会いにゆく。休む暇はないぞ、昼からは森に入る。わたしも付き添って野草の名を教えよう。毒草には気をつけろ。泣いても痛みは引かぬ。痛い思いをしたくなければ、早く見分けをつけることだ」

 

 すっかり元気をなくしたヤタカに一瞥をくれ、慈庭はさっさと寺へ向けて歩き出す。慌てて後を追うヤタカは、にっと口の端を上げて白い歯を見せた。

 

――嘘でもね、笑った振りをしていれば本当に楽しいことがやってくるよ。

 

 ヤタカの母親の口癖だ。二度と会うことはないだろう。たとえ会っても、母親にヤタカはわからない。両親の記憶からも里のみんなの記憶からも、ヤタカが確かに存在したという記憶はきれいさっぱり消されているのだから。

 村人を集め滋養に良いからといって慈庭が焚いた香木の焚き火から立ちのぼる煙が、霧のように頭の中に立ちこめてみんなの記憶を消したのだとヤタカは思っている。

 戻れぬのに戻りたい場所があることほど、辛いことはないのだと慈庭はいう。

 二度と会えぬ子を手放した記憶を持って生きるほど、辛いことはないのだとも慈庭はいった。良くわからなかったけれど、それで母ちゃんと父ちゃんが苦しまなくて済むなら、いろいろなこと全てを我慢しようと思った。

 父ちゃんも母ちゃんも、里のみんなもヤタカの胸の中では今も笑ってくれている。ヤタカを忘れることなく、微笑みかけてくれている。

 それでいいと思った。

 こうなったのは、自分が悪いのだから。

 咳払いして、ヤタカはもう一度にっと笑う。母ちゃんは嘘を吐かない。だからこの作り笑いはいつかきっと、ささやかなの幸運を運んできてくれる。

 この夜ヤタカは、出された飯に口をつけること無く眠りに落ちた。床に大の字になって眠る、まだ小さな体を抱き上げ寝床まで運ぶ慈庭は、ヤタカが目覚めている時には決して見せぬ柔らかな笑みを浮かべ、ヤタカの目尻に浮かんだ涙を拭う。

 

「夢の中でまで苦しむな、ヤタカよ」

 

 布団に寝かしつけたヤタカの髪をそっと撫で、明日からヤタカが味わう痛みを思って慈庭は目を閉じる。

 

「わたしの行く先を御仏は通してくれまい。地獄行きだとして、その門が開くまではおまえを導こう。恨まれようと、鬼の面を外すことなく導こうぞ」

 

 慈庭が出ていった狭い部屋の中、ヤタカは夢の中にいた。

 ごつくて大きな手が頭を撫でる感覚がくすぐったい。肩を竦めて見上げたけれど、なぜか顔は見えなかった。夢の中で目を閉じて、ヤタカは柔らかな眠りの底の落ちていった。

 

 

 

 障子の向こうに紺色がかった夜闇が名残惜しげに残るころ、胃袋を揺さぶるほど低く響き渡った鐘の音でヤタカは目を覚ました。寝癖でぐちゃぐちゃの前髪を掻き上げ、四つん這いでこっそり障子を開けると薄暗い中、鐘を突く僧の姿が見えた。

 

「目が覚めたか? これに着替えて本堂に来なさい」

 

 味気なく野太い声に顔をあげると、風呂敷を持つ慈庭が表情のない顔でヤタカを見下ろしてた。

 

「おはようございます」

 

「おはよう」

 

 無地の風呂敷を渡して立ち去る慈庭を見送り、ヤタカはふっと息を吐く。悪い人ではないと思うのだが、半端な破落戸より筋金入りの鉄仮面だと鼻の頭に皺を寄せる。

 解いた風呂敷から出てきたのは、袖を切り取り下も尻が見えない程度に短く切った作務衣だった。無意識に唇がむんずと尖る。ここまで肌を露出して山を歩けば、今夜は全身が腫れ上がりとても寝付けるような状態では無いことなど想像するまでもない。

 

「死なない為に野草を覚えろなんて、これじゃ覚える前に死んじゃう」

 

すでに姿の見えない慈庭が居るであろう方向に、ヤタカはべっと舌を出す。

 枕元に用意されたどんぶり一杯の水を一気に飲み干し、全然たりないなと手の甲で拭った水滴をぺろりと舐める。だがこれ以上多量の水を側に置くのは得策とはいえなかった。大量の水を欲するというのに、飲む時意外にあまりにも近くに水があると体が疼く。身の置き所が無いほどにヤタカの身が疼くのは雨の日も同じ。だから寝床で飲みたければ、何度もどんぶりに水を汲んでくるしかない。肩で小さく息を吐き、障子の隙間から空を見上げた。これだけ空が青いなら、今日中に雨が降ることもないだろう。

 

「母ちゃん、父ちゃん、おはよう」

 

 聞く者のいない挨拶をそっと唇から零し、ヤタカは受け取った作務衣に着替えた。庭の隅でみかけた井戸の辺りから、しゃりしゃりと米をとぐ音がして、思い出したのは里を出てから最後に口にした握り飯の味。丸い握り飯は母ちゃんの味そのもので、思い出した途端不覚にも瞼の際が熱くなる。

 

「笑え……笑え」

 

 口の端をグッと上げ、ヤタカは無理矢理に白い歯をのぞかせると、勢いよく障子を開け放ち、薄っぺらな胸を張って駆け出した。

 

「こらこら新入り、廊下を走るなって」 

 

 声に振り向くと、箒を手にした作務衣姿の若い僧が古びた灯籠の向こうから顔を覗かせる。

 

「おはようございます。あの、本堂ってどこにあるの?」

 

「まさか場所も知らずに走っていたのか?」

 

 呆れたように目をしばたかせ、それから若い男は声を上げて笑った。

 

「本堂はあっちだ。走ってきた方に戻らなくちゃいけないよ」

 

 あちゃ、とヤタカは頭を掻く。慈庭が歩いて行った方向に何となく走り出したものの、本堂の場所など知るはずもなかった。

 

「ありがとう、俺はヤタカ」

 

「わたしは円大(えんだい) 。よろしく」

 

 円大に手を振ってまた走りだしそうになったヤタカは、慌てて踵で急ブレーキをかり、照れ笑いでもう一度手を振ってから足早に来た道を戻っていく。

 本堂に辿り着くまでに数人の僧に会ったが、想像していたより若い者が多く、みな気持ちの良い連中に思えた。

 

「素堂様がお待ちだ。きちんと正座をしてお言葉を聞くように」

 

 真逆へ進んだはずの慈庭が、板張りの廊下にどしりと座っているのを見てヤタカは目を丸くする。ヤタカはこの時確信した。慈庭はのっぺりと表情がない妖術使いだ。妖術に力を取られすぎて、顔の筋肉が固まっているに決まっている。そう思うと可笑しくて自然と小鼻がひくついた。慈庭に見咎められまいと、ヤタカは大げさな咳払いを一つして、これ以上ないほど真面目な表情を整えて本堂へと入っていった。

 

「そこへ座って顔を見せておくれ。長旅で疲れたであろう?」

 

 素堂の親玉みたいな爺様を想像していたヤタカは、決まり文句のおはようございますを言うのさえ忘れてぽかりと口を開き、申し訳程度に頭を下げた。

 慈庭が黒なら素堂は白に喩えられるだろう。細く筋張った手に、皺だらけの顔が柔和な笑みを浮かべる。慈庭のような張りはないが、低く少し嗄れた声が耳に心地よい。

 

「ここでは慈庭の言うことを良く聞き、しっかりと学ぶのだよ。寺の掃除や炊事仕事は、順を追って若い僧達が教えてくれる。みなヤタカの兄のようなものだ。ヤタカがここに居て困る者などひとりもおらぬから、みなと仲良くするのだよ」

 

「はい、よろしくお願いします」

 

 正座をしてヤタカが頭を下げると、素堂は嬉しそうに何度も頷いた。そしてふっと目元から笑みを消し去り、静かな声でこう尋ねる。

 

「水の器を見つける前にも、その手のモノを目にしたことはあるのかね?」

 

 水の器、ヤタカが己の身に宿してしまった異物の名。水の器を取り込んでしまったがために、ヤタカは今ここにいる。水の器のせいで、里に居られなくなったのだから。

 

「変わったモノはあったけれど、わからないや。水の器ははっきり見えたし、この手で持てたけれど」

 

「そうか。子供であるなら、異物を目にしても気づかぬことは多い。子供にとって、目に映るモノはただそこに存在するに過ぎない。いいのだよ、何か思いだしたら教えておくれ」

 

「ねえ、俺もここでお坊さんになるの?」

 

 その問いに、素堂は目を細めてくしゃりとした笑みを浮かべた。

 

「おまえはここの僧にはなれぬよ。なる必要もない」

 

 こくりと頷いてヤタカはにこりと笑う。そんなヤタカに素堂はこの寺の成り立ちと、ここに住む者達の話を始めた。ここに寺を建ててからは八十年ほどしかたっていないが、場所を変えただけでこの寺の存在には数百年の歴史があること。万が一人目に触れたときのことを思って、寺と僧を装う在り方は、代々受け継がれてきたものだという。だからこの寺に名は無く、本物の僧も居らぬのだと。

 異種と異物の存在を見極め、時にそれらを人里から引き離し、ゴテ師や野草師と呼ばれる者達と共に、異種宿りや異物憑きとなった人々の助けになっているのだと。

 

「ヤタカのように、この寺に引き取られた子供も初めてではない」

 

 素堂はそういうと、かさかさに乾いた手でゆっくりとヤタカの黒い髪をなでた。

 異種と異物、名前だけなら知っている。異種のことなら里に住む普通の人々だって知っていたのだから。だがヤタカに宿った異物は別だ。異物は、この寺のような存在によって、歴史の中、闇に葬られてきたのだと慈庭がいっていた。

 素堂の話は難しくてヤタカには半分も理解できなかったけれど、一つだけ良くわかった。

 自分はもう、この寺と寺を囲む山の外には出られない。

 

 気付けば障子から朝の光が差し込んでいる。けっこうな時間を、素堂と向かい合っていたのだろう。

 

「さあて、朝飯の時間だ。行こうか?」

 

 朝飯とは何となく坊様っぽくない言い方だと思いながら、飯の前にまずは水をと口を開きかけ、片膝を立てたヤタカはその場でごろりとでんぐり返る。

 

「あ、足がしびれちゃった」

 

 転がったヤタカを見下ろして素堂が笑う。そのずっと向こうの方では、慈庭が眉間に皺を寄せてヤタカを睨み付けていた。

 すっとしゃがみ込んだ素堂が、慈庭に背を向けたままヤタカの耳元に口を寄せる。

 

「それからのう、心してかかれよ。湧き水の側にある岩牢だが慈庭は厳しくてな、少しのことでも直ぐに岩牢に閉じ込めるからのう」

 

 喉元でくつくつお笑いながら素堂が去って行く。

 

「どんと来い岩牢!」

 

 小声で言い放ち、顔を背けたままヤタカは大きく舌を出し、歯をぎりぎりさせながらジンジンと痺れる足を揉みほぐした。

 

 

 

 





覗いて下さった皆様、ありがとうございました。


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2 黒曜石の双眼に惹かれる血

 

 

 寺へやってきて十日が経つころには、素堂の助言も空しくヤタカは岩牢の常連となっていた。岩牢へと放り込まれる理由が、これまたくだらない。

 素堂の座布団の上に蛙をのせた。

 慈庭の茶の中に、苦い草の汁を混ぜた。

 草履を紐で結んで、それを履いた若い僧がひっくり返った……などなど。

 そんな悪戯をしても、ヤタカは顔を合わすたびに寺の者達に構われた。慈庭だけは鬼の形相でヤタカを追いかけ襟首を引きずっては、岩牢へと放り込む。

 若い僧達は慈庭に見咎められないよう、袖に顔を隠してくすくすとその様子を笑って眺めていた。

 

「ほら、夕飯だ。いっそのこと荷物も岩牢に運び込んで、ここで暮らしたらどうかってみんな笑っているぞ? 慈庭(じてい)様も飽きずによく追いかけられるものだ」

 

 夕飯を盆にのせて運んでくれた円大が笑う。

 

「だってさ、掃除や飯炊きの手伝いと痛いだけの山歩きばっかりじゃつまらないよ。どうせ一日中痛いなら、慈庭から逃げ回っていた方が気が紛れるんだもの。あっ、素堂の爺ちゃんは好きだよ」

 

「こらこら、慈庭様、素堂様だろ? 懲りずに呼び捨てにしやがって」

 

 人前では丁寧な言葉で話す円大も、年齢が一番近いこともあってかヤタカと二人きりの時には、少しだけくだけた口調で話すようになっていた。近いとはいっても、五つ六つは離れているのだろう。

 

「野草師の置いていった薬、塗り忘れるなよ」

 

 そういって円大は寺へと帰っていく。

 笑顔で手を振っていたヤタカだが、円大の背が闇の向こうに見えなくなると顔を顰め、なるべく肌を擦らぬように、身につけている作務衣をそっと脱いだ。

 腕も足も赤く腫れ上がり、今日の山歩きで擦った葉のせいで首筋には紫のミミズ腫れが浮いている。一人きりで黙っていると、自然と額に汗が浮く。

 

「こんなに痛いと、塗り忘れるわけないっての」

 

 ヤタカが寺に来て直ぐ、寺を訪れた野草師が置いていった練り薬を水で溶いて肌にかけていく。これがなければ、以前のようにのたうち回るほどの痛みに襲われていたのだと思うと、今の痛みは何とか我慢できるものだった。まんべんなく薬が肌を覆うと、心なし痛みも和らいでくる。

 ほっと息を吐いて、ヤタカは岩牢の柵から小屋が建っている場所を眺めた。毎日のように悪戯を繰り返し、馬鹿みたいに岩牢に放り込まれるにはヤタカなりの理由があった。

 我慢できるとはいえ、誰に気兼ねすることなく痛みに顔を顰め、呻き声を上げられる一人の時間が欲しかったのがひとつ。

 もう一つは、あの小屋に住む人物が出歩く夜にこの場所に居たいから。

 小屋に住む者の名はイリス。ここへ来てから昼も夜も、まるで幸せの呪文のように口の中で呟き続けた名前。

 姿を見せてくれたら、声をかけてみたかった。

 イリスの出歩ける夜だけでも、一緒に遊べたらいいのにと。

 寺のみんなが口にするイリスの話は、あまり明るいものとはいえない。  

 小柄な男の子。話せない子。笑わない子。何を言っても、反応しない無表情な子。

 誰もが同じことを口にする。

 それでも会ってみたいとヤタカは思う。話せないなら自分が話せばいい。大人相手では聞いて貰えないようなくだらない話だって、年が近いイリスならおもしろがってくれるかもしれない。

 月明かりに黒く染まった枝葉が揺れるのをじっと眺め、いよいよ体の痛みに睡魔が勝ろうとしたとき、ヤタカははっとして目を凝らした。

 木々の隙間に蝋燭の灯りがチラチラと揺れている。

 

「イリス? イリスなの?」

 

 思うより先に叫んでいた。横へと移動していた小さな灯りがぴたりと動きを止める。

 

「俺はヤタカ! いたずらして、慈庭に岩牢に入れられちゃったんだ」

 

 返ってくる声はない。

 

「ねぇ、こっちに来ない? ひとりっきりで暇なんだよ。一緒に遊ぼうぜ!」

 

 吹き消したように灯りが消えた。草を踏んで歩く音がしんとした森に響く。

 小屋の戸が閉まる音がして、主を失ったように森の闇が深みを増す。

 

「だめか……顔くらい見せてくれるかと思ったのにな」

 

 かぶれた肌の傷みも眠気も忘れるほどに、ヤタカの脳みそはフル回転していた。

明日からは毎日岩牢に放り込まれなければならない。ということは同じ回数分、新たな悪戯を考えなくてはならないということ。これはヤタカの得意分野だ。

 

「あきらめるもんか。イリスはここで生きていく俺の、ちっちぇーきら星なんだから」

 

 痛みに耐えながら目を閉じて、明日は慈庭の足袋に毛虫を仕込んでやろうと、ヤタカはひとりにやりと笑った。

 

 

 

「ヤタカよ、おまえが岩牢に放り込まれる回数が減れば、あやつらもちっとは楽をできるだろうにのう」

 

 息を詰まらせながら慈庭に引きずられるヤタカを、呆れた笑みで見送るのは素堂。慈庭はといえば、数日ほど前から赤鬼を通り越して青鬼と化している。足袋に毛虫を仕込んだ日には、足首を掴まれ逆さまに担がれたまま岩牢に放り込まれたヤタカだった。たとえ慈庭の顔色が紫に変わろうと、ヤタカは悪戯を止める気などさらさらない。

 最初の夜から少しずつだが、蝋燭の灯りが近寄ってくれるようになっていた。相変わらず返事はなくとも、灯りが吹き消されるまでの時間は確実に延びている。

 数日前からヤタカは、日が暮れると同時にイリスの名を呼ぶことにしている。山々に木霊しないよう抑えた声でも、蝋燭の灯りは必ず姿をみせてくれた。

 

 今日も山の向こうへ日が落ちる。辺りが闇に包まれて、いつものようにヤタカは岩牢の柵にみっちりと顔を押しつける。

 

「イリス、イリスってば。早く出てこいよ」

 

 離れた場所で揺れる灯りに、ヤタカが勝手にしゃべり続けるのが日課になっていた。

 大きな蛍みたいに木々の隙間に灯りが灯る。にこりと笑ったヤタカが、今日は何を話そうかと口を開きかけた時、灯りがゆっくりと近づいて来る様子に、ヤタカは胸が高鳴った。岩牢の柵との間に蝋燭を置いて、目の前にイリスが腰を下ろした。想像していたより、ずっと小さな少年だった。

 

「やっと来てくれた。よろしく、俺はヤタカ」

 

 イリスはこくりとも頷くことなく、真っ直ぐにヤタカを見つめている。柵の隙間から腕を伸ばし、置かれた蝋燭をにぎってイリスの顔に近づけた。体は幾重にも重ねた色とりどりの薄衣で覆われ、手の先足の先までしっかりと布で覆われている。首から頭部にかけては目元を除いてぐるぐると長い布が巻き付けられ、露わになった目元意外、周りの肌は塗られた泥が乾いて灰色にひび割れていた。

 

「夜は太陽が当たらないから、布を外しても大丈夫なんだろ? まあいっか。はじめて顔を合わせるのに、いきなりじゃ照れるよな」

 

 灯りを翳してイリスの顔に目をやったヤタカは、はっと息を呑む。

 体中を流れる血が、イリスに向かって逆流するような感覚に肌が粟立った。

 泥にまみれた灰色の肌の中、真っ直ぐにヤタカを見つめる瞳に心ごと吸い込まれる。大きな目の中でちらちらと灯りを映し出す瞳は、薄暗い中でさえはっきりとわかるほどに濡れたような漆黒。まるで、黒曜石をはめ込んだようだった。

 体の中がざわついて、ヤタカは息を吸うのさえ忘れた。

 

「綺麗な目」

 

 この夜ヤタカが口にしたのはこの一言だけ。あとは過ぎていく時間を、二人はただ向き合って過ごした。

 微動だにしないイリス。

 己の意志では制御できないほどにざわつく体に、ヤタカはひたすら耐えた。この血のうねりが自分の心に起因するものなのか、取り込んでしまった異物がざわついているのか、まだ子供のヤタカに解るはずもない。

 日が昇る直前にイリスは無言で立ち去ると、それを待っていたかのようにヤタカは座ったまま岩の床に倒れ込んだ。

 この日だけは、円大が食事を運んできても、見かねた慈庭が怒鳴りつけても、日が落ちるまでヤタカが目を覚ますことはなかった。

 

 

 

 ひと月、ふた月と時間が経つ内に、イリスは少しずつヤタカとの距離を縮めていった。

 慈庭が更に山深く、獣道さえ見当たらない場所へヤタカを連れ出すようになり、我慢強いヤタカの体も流石に悲鳴を上げはじめていた。

 赤く皮膚が腫れ上がるどころか、接触したことのない植物に擦れた場所は時に爛れ、熱を持って腫れ上がる。

 倍近くに腫れ上がったふくらはぎでは、まともに歩くことさえままならず、山へ入るのは三日に一度、症状がひどい時には七日に一度の頻度となっていた。

 腫れが少しでも退けば、情け容赦なく慈庭はヤタカを山へと連れ出した。山歩きの最中に慈庭に憎まれ口を叩く気力さえ残っていないヤタカが、それでも日々の悪戯を這ってでも止めようとしないのは、寺が寝静まった後止めることのできない呻きを他の者に聞かれないため。その為だけに、岩牢を望んだ。

 

「イリス、小屋に戻って眠りなよ。ここにいてくれても、冗談いってやる元気もないや」

 

 岩牢の中、柵に背を預け膝を抱え、痛みに耐えるヤタカの声は聞こえているのだろうが、今夜もイリスは帰ろうとはしなかった。痛みに耐えられなくなった最初の頃は、こんな情けない姿をイリスに見せたくなかったヤタカだが、今ではすっかり諦めていたし、柵の外でヤタカの背中に寄り添うように背を預けるイリスが、物言わずとも夜明けまで一緒に居てくれることが気持ちの救いになっていた。

 

「ごめんなイリス。明日には痛みも少し引いているさ。そしたらまた面白い話をしてやるからな」

 

 物言わぬイリスが微かにこくりと頷いたのが柵の隙間で触れ合う髪の動きで伝わってくる。イリスがそっと蝋燭の灯りを吹き消し、やせ細った三日月が浮かぶ闇夜の中、冷えた岩の柵越しに背中を合わせたふたりの時間が過ぎていく。

 

 

 年月が過ぎ去っても二人の関係は変わることなく、ヤタカが楽しげにしゃべり、イリスは物言わずにこりともせずに話を聞く。

 ヤタカが十六才になった頃には、岩牢の柵越しでなくともイリスはヤタカの呼びかけに応じるようになっていた。

 すっかり野草の知識を身につけたヤタカは、余程のヘマをしない限り手足を腫らすこともなくなり、イリスが姿を見せてくれるなら無理に岩牢に入る必要もなくなっていた。

 数年前からめっきり悪戯をしなくなったヤタカの成長ぶりに、慈庭意外の寺の僧達は少し残念そうな寂しそうな表情を浮かばせたが、日常の変化が少ない寺で陽気に駆け回るヤタカが、みんなに笑いを振りまいているのは今も変わらない。

 

 相変わらず日に当たれないイリスを尋ねていくのは、寺のみんなが寝静まった夜中と決まっている。小屋を自ら訪ねていってはならないと慈庭にいわれてはいたが、小屋から離れた場所で呼びかけるとイリスが出てきてくれるのだから問題はないだろうというのが、ヤタカの勝手な解釈。事実、慈庭も素堂もヤタカとイリスが頻繁に会っているのは知っていたが、黙認しているのが現状だった。

 

「イリス」

 

 呼びかけると小屋の戸が軋んだ音を立てて、中からイリスが姿を見せた。今では夜にヤタカと会う時、イリスは頭に巻いた布を取っている。それでも顔に塗りたくった泥は決して取ろうとしなかったから、ヤタカはイリスの素顔を見たことはない。

 厚く塗られた泥はひび割れて、必要以上にイリスの顔から表情を奪っていたが、これだけ長い付き合いになると、ヤタカにはイリスの感情の機微が解るようになっていた。

 驚くと左の眉がぴくりと上がり、むくれると小さな唇を僅かに尖らせる。

 おもしろいと感じた時には口を真一文字に結び、小鼻をぴくつかせる。

 見ているだけで面白い子だとヤタカは思っていた。

 理由はわからないが、イリスは故意に人に好かれるのを避けているように思えてならなかった。感情を押し殺し、無表情の面を被るイリスは、本当は感情豊かな子ではないのかと、ヤタカは勝手に思っている。

 イリスがヤタカの隣に腰を下ろす。まるでそこが自分の居場所であるというように、前を向いたまま黙って膝を抱えて座り込む。

 

「今日はね、やっと棚ひとつ分の巻物に目を通し終わったよ。もう目がしょぼしょぼさ。素堂の爺ちゃんの言いつけだからしかたないけれど、倉の中の巻物全てを読むなんて気が遠くなる。しかも内容を頭に叩き込めなんてさ、慈庭は鬼ジジイだ」

 

 膝の上で組まれたイリスの指先がもじもじと動いたのに気付いて、ヤタカはふっと笑う。

 

「ごめんごめん、イリスは慈庭が好きだもんな」

 

 否定したいのか肯定したいのか、もどかしそうに動きを早めたイリス指先を見て、ヤタカは声を上げて笑った。

 

「異種と呼ばれる植物の種が人里に近づくようになって、八十年近く経つんだって。人間が生まれるよりもっと昔から、異種はこの世に存在していたらしいよ。人里離れた深い深い山奥で鳥や虫、獣を苗床として種を繋げてきたのに、どういうわけか人里近くまで種を宿した獣や鳥が下りてくるようになって、人を苗床にするようになったらしい」

 

 夜行性の鳥が羽ばたく音が頭上に響く。

 

「俺も一度だけ見たことがある。隣村で大騒ぎになったからね。五年くらい前から雨が降る日を正確に予測するおじさんがいるって噂になってさ、父さんと一緒に近いうちに長雨はないかと聞きに行ったときだった。そのおじさんは朝、奥さんが庭に出たら家の戸口の前で死んでいたんだ。正確には、まるで人型の苔むした小山があって、そこから見慣れない植物が芽を吹いていた」

 

 いつだって反応のないイリスだが、今夜は体調でも悪いのか陶器の人形みたいに固まっている。あまり聞きたくない話だったのだろうか。

 

「誰だって異種に宿られる可能性はある。でも、俺は異種より毒草のほうが恐いよ。イリスも知っているだろ? 俺には異物憑きだから、異種の種は俺を苗床には選ばない。異物であれ異種であれ、他のモノが宿る個体をあいつらは避けるらしい」

 

 月が傾くまで、ヤタカは色々な話をした。異種の話から話題がそれると、心なしイリスの肩から力が抜けたようだった。いつもはイリスが嫌がる話は避けるのに、胸のもやもやを零すみたいに異種の話をしてしまったことを、ヤタカは少し後悔した。

 

「今日はヤケに喉が渇くな。明日は久しぶりに山に入って植物の分布を調べるから、川の水を飲んで早めに帰るよ。イリスもたまには早く寝な」

 

 軽く手を振ってヤタカは川へと向かった。イリスといると心が落ち着く。それでも時折、イリスが話せたらと思ってしまう。ひと言でもいい、文句でも構わないからイリスが話せたらどれほど楽しかったろうと寂しく思う。

 イリスの側に居ると自分の中で騒ぐ血を、イリスに向かって全てが流れ出しそうな感覚を意識して押さえる術も身に付けた今、尚のこと寂しかった。

 

「はぁ、まだ飲みたいけれど、腹がきつい」

 

 川に突っ込んでいた頭を引き上げ、ヤタカは濡れた黒髪を犬のように振って水を切る。 そのまま石原に仰向けに転がると、片目を隠すほどに長い前髪がぺたりと顔に張り付いた。そよ風が心地よくて目を閉じると、うつらうつらと睡魔に襲われたが、直ぐ近くを流れる水の音と存在に体がざわついて、溜息を吐いて立ち上がる。

 

「相変わらず水の側は落ち着かないな」

 

 川から少し離れた場所で倒木に腰掛け、そよぐ風に髪を乾かす。森の闇夜に溶けそうなほどぼんやりとしていたヤタカは、肩口まで濡れた服に体温を奪われぶるりと身をふるわせた。

 

「久しぶりに部屋で寝るか」

 

 月が細いうちにと言わんばかりに瞬く星を見上げながら、岩牢の前まで戻ったヤタカは倒木を乗り越えようと上げた片足を止め、木々の向こうから響く音に耳を澄ませた。

 

「水の音?」

 

 イリスの小屋の向こう側、山の斜面を下った所に小さな泉がある。こんな夜中に妙だと思った。イリスなら、とっくに水浴びを済ませているはず。泉はイリスの小屋からそれほど離れていない。

 

「素堂の爺ちゃんが朝夕欠かさず読経を続けているから、寺の敷地に妙な者が入り込む隙はないはずだよな」

 

 だが、万一ということもある。泉に近い場所で一人眠るイリスのことを考えると、音の正体を確かめた方がいいだろう。

 ヤタカは足先の向かう方向を変え、泉へと向かった。

 朝夕欠かすことなく山に響き渡る素堂の読経は、寺の敷地へ異種が入ることを防ぎ、寺が許した物意外は異物さえも近寄らせない。外部の者が耳にしても知らない宗派の経にしか聞こえないだろうが、腹の底に響く素堂の読経は異種と異物の自由を妨げる音を孕み、空気を振るわせ言霊を運ぶ。

 人に宿ったモノに、この読経は意味をなさないのだという。獣の耳を介せば何らかの影響を及ぼし、異種を宿した生き物は境内に入って来ることはないというのに。

 ましてや寺の敷地内にある泉で、動植物が繁殖するなど考えられない。

 小屋の横を通り過ぎ、足音を立てないようにゆっくりと山の斜面を下っていく。月明かりが薄い分手探りで進むしかなかったが、泉の周りを囲む岩場はこの地方特有の光り苔に覆われ、青白い光りを放っている。動くモノがあれば、そのシルエットくらいは見てとれるだろう。

 木々の隙間からぼんやりと青白い光りがのぞく。

 

「何かいる……」

 

 ヤタカはぼそりと呟き目を細めると懐に手を入れ、植物の採取用に持ち歩いている小刀を取りだし前方へ刃を向けた。それを胸の前に構えて大きく息を吸う。

 バシャリと泉の水が弾ける音が響く。

 ヤタカは葉を茂らせ視界を遮る細い枝を、音を立てないよう用心しながら押し上げた。  

 闇の中、ヤタカの目が見開かれる。

 大きく吸い込んだ息を吐き出すことさえ忘れ、これ以上吸い込める筈のない空気を求めて肺が藻掻く。

 

「イリス……」

 

 口から押し出された言葉と共に、歯の隙間から息が漏れる。

 膝を着いているのだろう。泉の真ん中で腰から下を水に浸す背中が見えた。光り苔を背景に浮かぶシルエットは、幾重もの薄衣を脱ぎ捨ててはいても、短い髪の形ですぐにイリスだとわかった。

 イリスの背中から無理矢理に視線を引き剥がし、ヤタカは押さえていた枝からそっと手を離す。ゼンマイ仕掛けの人形より劣る足取りで踵を返し、元来た道を戻った。背後から浴びる水の音が追ってきて、ヤタカは唇をくっと噛む。

 気がそぞろで何度も躓いては転んだように思う。気づけば自分の部屋に立っていた。

 気力のみで動いていた足から一気に力が抜け、ヤタカは畳に転がった。暗い天井に泉で見た光景が幻となって蘇る。

 

「嘘だろ……」

 

 幻を遮るように手の平で目を覆う。

 イリスは昔から小さくて、線が細いひょろひょろの少年だった。それを疑ったことさえなかったが、今なら真実が見える。

 光苔に浮かんだ丸みを帯びた細い腰、細い腕と小さな肩は、柔らか曲線を描き折れそうに細い首へと繋がっていた。

 

「イリスは……女の子だ」

 

 他の女性の水浴びを見たことなどあるはずもない。だが本能が、あれは自分とは違う生き物なのだと断言する。

 ヤタカの頭を巫山戯て撫で回す僧達のごつい手と違い、腫れ上がった肌の傷みに呻くヤタカの口を、時折そっと叩くイリスの小さな手は柔らかいなと思っていた。その違いは日々の作業に明け暮れる者の手と、労働をしない者の手の差だと思っていた。無意識にそう信じ込もうとしていたのかもしれない。

 男ばかりの寺でイリスを守るために、女であることを隠して生きるよう策を練った者がいるとしたなら、それは素堂か慈庭だろう。

 ならば今夜目にしたことは、けっして口にしてはならないとヤタカは思った。この寺で生きていく限り、墓場まで知らない振りを押し通すことが、イリスを守ることになる気がした。

 

「まいったな」

 

 静まりかえった寺の中、聞こえる筈もない跳ねる水の音が耳の奥で木霊する。

 何度も吐き出されたヤタカの溜息が漏れるたび、月明かりさえ差し込まない部屋の暗闇が、更に濃い闇へと塗り替えられていくようだった。

 

  

 

 ヤタカが秘密を胸に閉じ込めたまま時は経ち、この出来事から二年ほどして寺は全てを呑み込み消失した。ヤタカとイリスを残して、何もかもが跡形もなく、山間の大地へと呑み込まれた。

 

 

 

 

 




のぞいて下さった方々、ありがとうございます。


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3 水の器は、涙と共に遡り

 

 イリスの足が岩を捕らえるのを確かめながら、手を引くヤタカはゆっくりと緩やかな傾斜をくだっていく。

 

「あれから四季が一回り以上したのか、早いな」

 

 二十歳になったというのに、この一年で更に身長の伸びたヤタカは、相変わらず片目を隠すほど伸びた黒い前髪を掻き上げ、よいしょ、と背負った荷物を担ぎ直した。

 

 二人きりの旅路の中でヤタカは、一生胸に納めておくはずのイリスの秘密を打ち明けたが、真実を少しだけ押し曲げて、女性であることを慈庭から聞かされたことにした。悪意がないとはいえ、水浴びを覗いたとは口が裂けてもいえない。

 二人きりで旅を続ける以上、知らない振りを続ける事は良い結果を生むとも思えない……ヤタカの出した答えだった。そしてそれは今まで以上に、若いヤタカに違う決意と鉄の意志を必要とさせる決断だった。

 焚き火を挟んで打ち明けられたイリスは、大きな目を見開いてぱちくりと何度も瞬きを繰り返し、しまいに指先までぴんと硬直させたから、決意して告白したヤタカでさえその様子にちょと後悔したほどだった。

 

 焚き火の炎が小さくなっていくのを眺めながら、黙ってイリスが頷いてくれるのを待っていたヤタカが「そうだよ」と答えたイリスの澄んだ声を耳にした時の驚きは、言葉にしがたいものだった。

 盆と正月が一度にやってきたような喜びと、口がきけたのだという困惑に黙り込んだヤタカに、イリスは慈庭のいいつけだったから、とだけ説明してくれた。

 話せば声で女性だと解ってしまう。だから慈庭は男女の声にさして違いのない子供の頃から、イリスに話すことを禁じていたのだという。

 日に弱い病ではなく、両目に宿った異種の発芽を押さえるためには、布で目を覆っていなければならなかったのだと。薄衣を幾重にも羽織っていたのは、体型から女性であることが知られないようにとの慈庭の策だったらしい。

 

 そんなやり取りから既に一年が過ぎ、寺のことを話題にすることができるようになったのも、ここ数ヶ月になってから。

 今では昼間こそ布で目元を覆っているが、日が沈むと布を取り素顔を晒すイリスの顔に、かつてのひび割れた泥は塗られていない。

 年頃の女の子など、ヤタカにとっては行動も思考も未知の生物なのだが、イリスだけは少しだけ心に手が届く気がする。

 旅の道連れとして、せめてそう思っていたかった。

 

 

「日暮れにはゴテが山小屋に着くと繋ぎがあったから、俺達も何とか明るい内に辿り着けるといいんだけれどな」

 

「大丈夫。平地に降りたらヤタカより早く歩く」

 

「むっちゃくちゃ~」

 

 ゴテとは、二人にとって幼なじみにも似た存在のゴテ師。焼きゴテが由来といわれるゴテ師は、普段は村を回って病の者に灸を据えたり、あん摩として体をほぐすことを生業としている。村人達はゴテのことを「あん摩のゴテさん」などと呼び、ゴテ師という本来の家業、血筋によって受け継がれる生業を知らない。

 ゴテ師が担う本来の仕事は、異種宿りの発芽を遅らせ、異物憑きが取り込んだ異物の引き起こす奇怪な行動や奇妙な体の変化、精神の変調を押さえるために、気穴(きけつ)を探り当て調合した薬草を、ゴテに塗り押し当て気脈を通す、または塞ぐこと。

 ゴテ師にゴテと安直な名付けをするあたり、親爺さんのいい加減な性格が伺える。だが仕事はきちりとこなす人であったし、それだけの腕も持っていた。三人いた息子の末っ子だというのに、親爺さんに見込まれて徹底的に技術と知識を叩き込まれたゴテは、やはり腕だけは一流だった。

  

「ゴテが食い物も持ってきてくれるって。楽しみだろ?」

 

「シカ肉の燻製だと嬉しい」

 

「あるかもよ? ゴテはいっつもイリスの好物ばかり持ってくるから。俺の要望はなんてどうせ右から左に抜けているさ」

 

 梅干しが食いたいと伝えたことを思いだし、ヤタカはどうせ持って来やしないさと舌を打つ。

 

「手を離してくれない? もう平地だと思う」

 

 あぁ、とヤタカはイリスの手を離す。目を布で覆っていても、自分を取り囲む状況にイリスは敏感だ。手にした杖さえあれば、ヤタカの足音を頼りに一人で横を歩けるのだから、背後から見たなら布で目を塞いでいるなど想像もできないだろう。

 

「昼から歩きっぱなしだ。少し休まなくて大丈夫か? ゴテなら小屋で一時間でも二時間でも待たせたって平気だぞ?」

 

 眉を寄せて首を横に振ると、行く先の地面を杖ですっとなぞるように、イリスはさっさと前を歩き出す。

 

「イリス?」

 

 イリスがぴたりと足を止める。

 

「シカ肉の……燻製」

 

 ひと言残してさっさと先を行くイリスの後を、大きな溜息を吐き出したヤタカが追っていく。ゴテと合流するということは、今夜は騒がしい夜になる。三月に一度ほど繋ぎを取っては、イリスとヤタカにゴテを当てるため、遠い道程をやってきてくれる友に、口に出したことのない感謝を心の中だけで呟いた。

 

「遅いお着きだな。道ばたで昼寝でもしていたのか?」

 

 古びた小屋の戸を開けると蝋燭の灯りに揺れる横顔で眉をつり上げ、ニッと笑うゴテがいた。精悍な顔つきに、五分刈りの頭が妙に似合っている。

 

「ゴテが早く着きすぎなんだよ。まだ日が暮れたばかりじゃないか」

 

 小屋に入るとイリスはもどかしそうな手つきで目を覆う布を解き、ゴテの前に腰をおろすと「久しぶり」といってちょこりと頭を下げ、ゴテに向かってぐいっと膝を寄せた。

 

「なんだよイリス?」

 

「シカ肉の燻製……ある?」

 

「ちぇ、オレより土産目当てかよ」

 

 文句を言いつつも袋の中から紙に包んだシカ肉の燻製を出して見せると、今回の出来は最高だといって、ゴテは得意気にイリスの手へとそれを渡した。

 

「ありがとう、ゴテ」

 

 柔らかいとは言えないシカ肉の燻製の端を千切り、口へと入れたイリスは満足そうに頬を緩める。

 

「イリス、ゴテを当てる前に水浴びをしてくるといい。オレはその間にヤタカにゴテを当てておく。わかっちゃいると思うが、ゴテを当てたら明日の水浴びは厳禁だぞ? 効果が薄れちまう」

 

 こくりとゴテに頷き返し、イリスはヤタカの背負っていた荷物の中から、一着しかない着替えを取りだし立ち上がると、戸口の前で立ち止まった。それからむすっとした顔で見返ると、眇めた目で男二人を見下ろした。

 

「覗いたら殺す。ぶち殺す」

 

 涼やかな澄んだ声で物騒な言葉を放つイリスに、ヤタカは口の片傍を上げて鼻で笑う。

 

「かやぼっこに用はないよ」

 

「かやぼっこじゃないのに……」

 

 不満げな音を立てて戸が閉められ、ヤタカとゴテは笑いを押し殺す。

 旅にでてからずっと、水浴びのたびに繰り返されるお決まりのやり取り。何気ない日常。

 

「どう考えても、つるっとしたぼっこだよな」

 

「それだけはヤタカに同感だ。夏なんて薄衣の上からでも、わかるもんな」

 

 亀裂が入りそうな勢いで、外から蹴られた戸の音に手で口を押さえると、今度こそ二人は目だけで笑いながらイリスが立ち去るまで沈黙を守り通した。

 

 

「なぁ、ヤタカ。ガキの頃一度だけ聞いたことがあるんだが、おまえが唇を噛んで押し黙っちまったあの話、今なら聞かせてくれるか?」

 

 作務衣をはだけて背中を出し、胡座をかいて座るヤタカは、何のことだというように首を捻る。

 

「取り込んじまった時の話だよ。おまえの体に宿る、水の器を」

 

 あぁ、とヤタカは小さく頷いた。

 

「別に構わないさ。ガキの頃は、自分のヘマのせいでこんな体になって親元を離れなければならなくなったことを、口に出すのが悔しかっただけだ。自分がもっとしっかりしていたら普通に暮らせていたのにって、ガキなりの後悔さ」

 

 首の根元に押し当てられたゴテの、じりじりと肌を焼くすり潰した薬草の痛みに僅かに眉を顰め、ヤタカはゆっくりと息を吸った。

 ヤタカは大量に水を飲む。異物憑きであるヤタカは、その身に水の器と呼ばれる異物を宿している。

 

「あの寺へ引き取られたのが八歳の頃だから、水の器を取り込んだのは七歳の終わりごろ。まだ太陽の眩しい季節だった」

 

 

 

 ヤタカの住んでいた村の直ぐ側には、細く幾本もの水を垂らす小さな滝があった。滝壺は子供達の大事な遊び場で、滝壺から続く川には小魚が泳ぎ、取れないと解っていても幼いヤタカは毎日ザルで小魚を追い回し、滝壺に潜っては遊んでいた。

 兄弟はいなくても村の子供達と遊び、小さな村ならではの厳しくも温かい大人達に囲まれて育った。元気すぎるがゆえにたまにげんこつを貰いなら、それでも毎日を楽しく過ごしていた普通の子供だった。

 ただし、一点を除いては。

 野山を自分の庭のように駆け巡るヤタカには、幼い頃から奇妙なモノが見えた。

 めったに目にすることはなかったが、真冬に一輪だけ咲く桜の花や、地面から盛り上がる大木の根がタコの足みたいにもぞもぞと、うねるところなどを視てしまう子供だった。

 目の錯覚、珍しいものと簡単に記憶の隅へと追い遣られていったのは、不思議を恐ろしいと思わない子供特有の感性だったのかもしれない。

 ヤタカ自身は自分が変わっているなど、一度も思ったことはなかった。

 

 

 その日は空雷が鳴っていたが、ヤタカは一人で滝壺で遊んでいた。子供でも足が着く程度の深さしかない滝壺に潜り、水底の石をひっくり返して何か出てこないかと探検家気分でいたときだった。

 誰かが小岩を除けたのか、それとも遊んで水底の砂を掘りでもしたのか。見慣れない穴を見つけてヤタカはぐっと頭を近づけた。お椀ひとつほどの穴の中、透明な水をきらきらと輝かせる日の光が、そこだけ妙な反射をみせる。

 

――何かな?

 

 伸ばした指先には、確かにモノに触れた感触がある。見えるようではっきりとは姿を現さないそれを手探りで握りしめ、限界まで止めていた息を吸いに水面へと浮かび上がる。

 

「はぁー、げほ。なんだこりゃ?」

 

 ヤタカの手の平には、日の光を浴びて輝く透明な器があった。

 小ぶりな湯呑みほどの大きさしかない器は透明で、まるで厚みのあるガラス細工のようだったが、ヤタカは器の表面が揺らいでいることに気づき目を細めた。

 

「まるで水みたいだ。ちゃんと形はあるのに、川の表面みたいに揺れている。それに固くないや。握っても潰れないけど、まるで水に手をつけたみたい。へんなの」

 

 宝物を見つけたヤタカは、そっと器を元の穴に戻してから走って帰ると、家の中にいた母親に自慢げに不思議な器を見つけたことを報告した。

 その時、隣の部屋でヤタカの父親にまたがり肩を揉んでいたのが、ゴテの父だった。障子越しに話を耳にしたゴテの父親は、その器のことはしばらく誰にも内緒にしてくれないかとヤタカにいった。すぐにでも友達に自慢しようと思っていたヤタカは、ふくれっ面で臍を曲げたが、何度も言って聞かせるゴテ師に仕方なしなし頷いた。

 

「後日、知っている僧をこちらへ寄越すから、それまでこの事は内密に」

 

 そう言い残してゴテの父親が帰った十日ほど後、遠い場所にあるという寺から体格の良い僧がひとり尋ねてきた。

 その僧が後にヤタカを引き取る慈庭だったが、この時のヤタカがそのような運命を知るはずもない。

 宝物を奪いにきた盗賊を睨むような目で見上げながら、母親にせっつかれてヤタカは慈庭を滝壺へと連れて行き、穴のなかから器を取りだして岩に腰掛ける慈庭へと持っていった。

 

「ほう、これは珍しい」

 

「きれいだろ?」

 

 自分が見つけた宝物を褒められた気がして、ヤタカはにこりと笑った。

 だが次ぎに慈庭が静かに発した言葉で、ヤタカの笑顔は一気に曇る。

 

「その器、元の場所へ戻しておきなさい。もう二度と、それに触れてはならない」

 

 ぴくりとも笑っていない慈庭の表情は、どうしてそんなことを言われなくてはいけないのかと、反論したいヤタカの口を押さえ込むには十分な威圧感を持っていた。

 

「まるで水そのもので模られたような器であろう? 人の世が名付けるなら水の器。それは、人が手にして良いものではないのだよ」

 

 少しだけ緩んだ慈庭の口調に、かえってヤタカの目尻に涙が浮かぶ。

 

「戻してくる……バカ、 大嫌いだ! 禿げオヤジ!」

 

 思いつく限りの悪口を並べて、ヤタカは滝壺へと走った。慈庭に涙など見られたくなかったから、早く水に浸かって流れかけた涙を隠したかった。その焦りが、悪い足場への注意を怠らせた。

 

「いってぇ……あ、あぁ!」

 

 石に躓いて四つん這いになったヤタカの膝の前で、音もなく水の器が粉々に砕け散る。

 正確にいうなら砕けて水の粒となり、乾いた石の表面を濡らしていた。ぺたりと座り込んで慈庭を振り返るヤタカの目からは涙が溢れ、頬から顎へと伝わり石に落ちて染みていく。

    

「割れちゃった」

 

 慈庭が難しい顔で眉を顰めているのが、涙に歪んだ視界にも見てとれた。

 石原に手をついておんおんと泣き続けるヤタカは、自分の目の前で起きた変化に気づくのに遅れてしまった。本人さえ気づかない変化に、慈庭が駆けつけるのが遅れたのも仕方のないことだった。

 ぽろぽろと零れる涙は、砕け散った水の器の飛散した雫と所々で重なり合い、まるで歩み寄るように一つの雫となって転がりだしていた。ヤタカの指先へ次々と這い上がる雫は、甚平の袖を通り抜け細い首へと這い上がる。そして今だ流れ続けるヤタカの涙を更に吸い取り、頬を逆流して目へと向かった。

 

「うぅ、目が、目が!」

 

 最初の雫が目に呑み込まれ、痛みにヤタカは両手で顔を覆ったが、隙間をすり抜けてなおも雫は目へと向かう。その様はまるで、涙が逆流しているようだった。

 ヤタカの異変に気づいた慈庭が走り寄り、小さな肩を掴んで顔を覗き込んだときには、僅かに残った奇妙な涙の尻尾が、目へと吸い込まれるところだった。

 

「まさか、このようなことが……」

 

 言葉を失う慈庭と、更に泣き声を上げるヤタカ。ヤタカの細い膝元の石を濡らしていた水滴は攫われたように消え去り、乾いた灰色の石原だけが広がっている。

 石原に座り込んだままヤタカは泣き続けたが、その頬を流れる涙はなく、その日以降も目を湿らす以上の涙の雫がヤタカの頬を濡らす日は来なかった。

 あの日以来ヤタカは大量の水を欲しがるようになり、人で在りながら人の暮らす土地に根を下ろすことのできない体となった。

   

  

 ゴテを当て終わり、一通り話を耳に収めたゴテは寝転がって目を閉じる。

 

「異物に馴染みのあるゴテ師から見たら、聞いてしまえば何だそうか程度の話だろう?」

 

 シカ肉の燻製を少し千切って口に入れ、ヤタカもごろりと横になる。その隣でゴテが腕を枕にヤタカの方へと寝返った。

 

「その通り、この程度珍しくもない……といってやりたいところだが、何一つ安心させてやれるようなことは言ってやれそうもない」

 

「普段ヘラヘラしている奴にそういう口調で話されると、意外にぐさりと胃を抉るな」

 

「無駄に心配することもない。異物に関しては、ほとんんど何も解っちゃいないんだ。だから異物によって引き起こされる現象も障りも千差万別ってことさ。曰く付きとされる木を切り出して造られた異物なら見たことがある。モノは違っても、木から生まれる異物は今までも存在したからな。だが水の器は……前例がない。少なくともオレは耳にしたことがない」

 

 心情の揺れを悟られないようヤタカは唇を尖らせ、ふっと吐いた息で前髪を跳ね上げさせた。

 

「イリスに迷惑をかけるようなことにならなければ、それでいいさ。(すべ)を身に付けたとはいっても、俺は今でもイリスの存在そのものに惹きつけられる。あの黒曜石みたいな瞳にじっと見入ってしまうと、我を忘れそうになる」

 

 そうか、といってゴテは寝返りを打ちヤタカに背を向ける。

 

「ゴテは寺に出入りしていた最初の頃から知っていたんだろ? イリスが女の子だって」

 

「あぁ、厳重な口止めの元に慈庭様に聞かされた。ゴテを当てるのに、男女の差は知っていなければならないからな。今思えばガキのオレによくゴテを当てさせたよな。最初はオヤジの指示の下だったが、すぐにオレ一人に任されたもんな」

 

 子供には荷が重かっただろうが、寺が失われることを見越したかのような慈庭の選択は、今になって功をなしている。足腰が今だ丈夫とはいえ、日を決めて定期的に遠出するには年をとった親爺さんだ。この先を生きるヤタカとイリスのことを長い目で見るなら、最初からゴテに任せるのが最良の道だったといえるだろう。

 とはいえ長い目で見るほどの人生が残っているなら、の話だが。

 

「イリスが女の子だから、こんなにも惹かれるんじゃないかって何度もそう思った。でも違うんだ。万が一にも俺の体から水の器が離れる日が来たら、こんなにもイリスに惹かれることはない気がする。俺自身はイリスに惹かれるというより、大切に思っているんだ。友達なんだよ。どう考えても、失いたくない友人だ」

 

 ごろりと上を向き、そうかよ、と呟いたゴテが右の鼻をくいっとほじる。口に出しづらいことを胸に秘めているとき、時には嘘を吐くとき、ゴテはいつも右の鼻をくいっとほじる癖があった。

 

「友人として守り通すと決めたんなら、尚更……きつくないか? 女の子とわかっていながら、イリスと旅を続けるのは」

 

 言葉を濁すゴテの喉元に突っかかっている気遣いを察して、ヤタカは小さく頷いた。

 

「大丈夫さ。たとえ俺が血迷っても、この体に宿るモノがそれを許しはしないだろうから。何となく感じるんだ。それくらい水の器は、イリスに惹かれているよ。多分ね」

 

「あぁ」

 

「それに俺は、ゴテほど色々な面に緩くないんだよ。何しろおまえは、あの親爺さんの血を濃く受け継いでいるからなぁ。未来の嫁さんを泣かすなよ?」

 

「余計なお世話だっての! これでもオレは、どこの村にいってもモテモテなんだぜ?」

 

「それが問題なんだろうが! 馬鹿か? ドアホなのか?」

 

 どちらからともなく笑いがおこる。イリスが小屋の戸口から入ってきた時には、寝転がって丸まったヤタカとゴテは、腹を抱えて笑い声を上げていた。 

 

「お帰りイリス。それじゃあさっそく始めようか」

 

 目尻の笑い涙を拭って起き上がると、ゴテは大小様々な棒ゴテを収めた布袋を巻物をほどくように床に広げた。

 

「うん。背中でいいの?」

 

「あぁ。今日は小ゴテで三カ所ほどだ。乾かしては三度重ねて当てるから、直ぐに衣を羽織るなよ」

 

 ゴテの言葉に頷くと背を向けて、イリスは躊躇なく寝間着代わりの浴衣をするりと腕の中程まで下げると、色白な背中をさらりと晒した。

 イリスの背に指を当て、気穴を探る目つきは腕の立つゴテ師のもので、陽気でへらへらとしたいつものゴテはすっとなりを潜めている。

 ゴテとは対称的に何とも言い難い表情で、イリスの背中から目を背け腕を枕に目を閉じたヤタカは、首筋に残るゴテを当てた跡の、軽い火傷にも似た痛みに意識を集中させた。

 

 

「ヤタカ、終わったよ? ゴテがね、おにぎりを持ってきてくれたんだって」

 

 声に目を開けると浴衣の襟を合わせたイリスが、ヨダレを垂らしそうに頬を緩めてにこりと笑う。

 

「握り飯? ってことはもしかして梅干し入り? 梅干しなのか!」

 

 跳ね上がり期待の眼差しで見つめるヤタカを一瞥して、ふん、と鼻を鳴らしゴテが握り飯の包みを広げる。

 

「ほとんどは鮭だよ。でも一つだけ梅干しが入っているって、お手伝いのチヨちゃんがいっていたな。当たりくじみたいで楽しいでしょ? だとさ」

 

「どれ? 当たりくじはどれなんだ!」

 

「知らねぇよ」

 

 ヤタカが手を伸ばすより早く、イリスの手が握り飯を摘み上げる。

 

「いただきます!」

 

 ぱくりと一口で握り飯の三分の一ほどを口に放り込んだイリスが、満足そうに目を細めた。

 

「おいひい……うめぼひ」

 

「くぅっ!」

 

 もぐもぐと頬を膨らませるイリスを見て、ヤタカの目に微かな殺意が宿る。

その様子をみて口に入れた飯粒を吹き出したゴテに蹴りを入れ、ヤタカは二つ手にした握り飯を、やけくそで交互に口に突っ込んだ。

 

 

 




見に来て下さったみなさん、ありがとうございます!
次ぎも読んでいただけますように……


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4 なごり蛍に泥の川

 ここから歩いて半日ほどの村に用があるといっていたゴテは、まだ日が登り切らず山がうっすらと青白く縁取られたころには、ひとり小屋を出て行った。

 軋みを上げて閉まる戸に目を覚ましたヤタカだったが、声をかけることなく目を閉じて、日が昇るまでの短く浅い眠りを楽しんだ。

 

 日が昇り仕度を調えたヤタカが道に立ち待っていると、着替えを済ませたイリスがきちりと目元に布を巻き、奇妙にねじれた杖を手に、小さな欠伸をしながら姿を見せた。

 

「水が飲みたいから、林の中へ寄り道するよ。十分くらい林の中にはいれば川がある。昨日立ち寄った川の支流だろうな」

 

「うん。わたしも水筒に水を入れたい。相変わらずヤタカは人間探知機だね、水の」

 

 ヤタカはイリスに鼻筋へ皺を寄せて見せると、少し進んだ先で猟師達が踏み潰した草の道を辿り森へと入った。

ヤタカが欲する水は水筒に入るようなものでは済まないから、水場からあまりにも離れることは死活問題となる。人並みの水が飲めたとしても、三日に一度は大量の水を飲まなければ体が我慢の限界を超え、生命維持の限界をも超える。

 死活問題なのはヤタカの体に宿る水の器も変わらぬようで、自ら宿った個体が死なないよう、水の在処を嗅ぎつける嗅覚を与えたのかもしれない。

 無味無臭と言われる水にも個性があり、目に見えなくとも汚染されていれば臭うし、澄んだ水流は流れる途中で含んだ木々や風の匂いを含ませる。

 水の器は己の生き残りを賭けて、ヤタカに水の在処を知らせるのだろう。

 

 辿り着いたのは大股三歩で渡れそうな細い川。水底の石が朝日を受けた水に揺れきらめく。

 

「イリス、水を飲んだらさっきの街道に戻って、先にある村に立ち寄ろう。ここに来るまでの林の中で、この時期にしか取れない薬草を見つけたんだ。量は少ないけれど、次の村で売って食料の足しにしようよ」

 

 こくりと頷くイリスに笑顔を向け、四つん這いになったヤタカは顔から川面に突っ込んだ。溶けた山の雪を含む川はこめかみがキーンと痛くなるほどに冷たくて、喉が洗われるような旨さだった。何度も顔を上げては呼吸して、ヤタカは胃袋から逆流する直前までたらふくの水を飲み込んだ。

 

 大切そうに水筒の口を締めなおすイリスに自分の腰辺りの布を掴ませて、ヤタカは林の中、雪解け直後に枝の根元から芽吹く新芽を探し歩く。

 周りに障害物が多く足場が悪い森や林の中では、ヤタカはいつもイリスに腰の辺りを掴ませる。取り囲む状況に敏感とはいっても、それを上回る危険が山には付きまとう。ヤタカ自身が崖や植物の棘などを大きく避けて通れば、腰にぴったりと張り付いて歩くイリスが怪我をすることもない。

 

「ねぇヤタカ、寺を出てからいつも思っていたけれど、山……変だよね?」

 

「変て、何が? お、あったぞ」

 

 木の枝の根元から顔を出す、ヨモギに似た葉の中央に身を竦める新芽を指先で摘み取る。

 

「わたしは植物に詳しくないけれど、ヤタカが取る植物も、夜に蝋燭の灯りで眺める山の景色も、子供の頃とは違う気がする。ここにあるはずのない植物が生えているよ? 寒い土地と暑い地方に根付く植物は違うでしょう?」

 

 そのことか、と新芽を探す視線を止めることなくヤタカは頷く。

 

「もともとはこの土地にいなかった動物や、鳥や虫が増えているだろ? 昔、世の中がこんな風になる前に飼っていた動物を捨てたのが繁殖したんだろうけれど、気候だよ。気候が目に見て変わっているんだと思う」

 

「どんな植物でも生きれちゃう気候?」

 

「あはは、そんな気候はないさ。でも、短く区切ったなら、生きていけるのだと思う。彼らにとっては短くとも適した気候が必ず巡ってくるってことだろうな。まあ、異種がはびこって以来、植物の分布図は意味をなさなくなっている。どんな理屈か知らないけれど、事実はそうなんだ」

 

 へぇ、納得したようなしないような呟きを背中で聞きながら、ヤタカは新芽を摘んでいった。量の取れる物ではないが、取れる季節が短いだけに買値は張る。

 

「そのうち、どんな人間でも普通に暮らせるときも来るかな? 命懸けの共存じゃなくて、あっちの命もこっちの命も、奪い合わない共存。……無理かぁ~むりだね~!」

 

 自分の思いに深く沈んだ声色を消すように、イリスの巫山戯た口調が尾を引く。

 どこかで合いの手を入れるようにカラスがクワァー、とひと声鳴いた。

 

「良かったな、カラスが返事してくれたぞ?」

 

 ふん、と膨れるイリスの鼻息を感じながらヤタカは口を結ぶ。答えられないし、答えたくもなかった。答えたら、何もかもが現実になってしまいそうで嫌だった。

 

 新芽を五つほど集めると、街道へでた二人は隣村へと足を進めた。

 

「それにしても人が少なくないか? すれ違う人さえほとんどいない」

 

 奇妙なことだった。異種を恐れる人々は、奥深い山間に平地があろうと村をつくることはない。ほとんどの村が街道に沿って点在しているというのに、物流や人の往来の要となるこの道を行き交う人が少ないなど、珍しいことだった。

 

「歩きやすくていい」

 

 杖をつくのではなく、歩く先の地面をするように歩くイリスにとって、人にぶつかる心配がないのは楽なのだろう。

 薄雲がかかっているとはいえ、空はどこまでも晴れている。街道から人を払う嵐がくるとも思えなかった。

 

 太陽がすっかり西に傾いた頃、ようやく目的の村に立ち並ぶ屋根が見えてきた。

 

「もう少しだよイリス。あの村で買い物をしたら、飯屋によって少し休もうか」

 

 飯という言葉に反応したのか、こくりと頷いたイリスの歩みが明らかに早くなる。

 

「太るよ?」

 

「かやぼっことか言うくせに」

 

 口を尖らせるイリスが見えるような拗ねた口調に、ヤタカはふっとひとり笑う。

 

「太ったって、どうせ余計なところに肉が付くだけだっ……イッテ!」

 

 杖を振り回してヤタカの脇腹に一撃を喰らわせたイリスは、腹を押さえるヤタカなど振り返ることもなく、先に待つ飯屋目掛けて歩いて行った。

人の声を耳にして、村の前まで来たことを知ったのだろう。道の真ん中で立ち止まったイリスはゆっくりと首を捻り、不思議そうに地面に顔を向ける。

 

「どうしたんだ、イリス?」

 

 確かめるように土の道を杖の先でなぞり、イリスは眉を顰めた。

 

「土が、ゆるい」

 

「なんだそりゃ?」

 

 意味がわからないまま、ヤタカも片足で土の道を強く踏んでみたが、行き交う人々に長年に渡って踏み固められた道なだけに、心地よい振動を足の裏へと返してくる。

 

「土の結び目が、(ほど)けかけている。だから、土がゆるい」

 

 嫌なモノから大切な物を守るように、イリスは杖をぎゅっと胸に抱え込む。

 

「大丈夫か? 取りあえず薬草を売って金をつくろう。何か甘い物でも食べるか? 少しは落ち着くかも知れない」

 

 きゅっと身を固くしたまま動かないイリスの腕を引っ張って、ヤタカは表に立ち並ぶ店の一つを選んで暖簾をくぐる。

 

「いらっしゃい! 宿への口利きなら任せとくれ、ちょどよく幼なじみが宿をやっているからさ」

 

 店の奥から愛想の良い笑顔で出てきた女将の言葉に面食らいながら、イリスは人好きのする笑顔を浮かべて手を振ってみせた。

 

「いえ、宿じゃないんです。表に薬草の看板がでていたから、これを買い取って貰えないかと思って」

 

 摘んだばかりの新芽を台にのせると、女将は大きな目をくるりと見開く。そしてくたりと目じりを下げて微笑むと、ふくよかな頬にえくぼが浮かんだ。

 

「こりゃ珍しい。ヨモギモドキじゃないの。異種とはいえ新芽なら宿られる心配も無し。そうだ、これは珍しく木に宿るんだったね。野草師お勧めの痛み止めだよねぇ」

 

 人に疎まれる異種ではあっても、中には条件を満たしている限り害がなく、野草師が認めてひろめ、人々に薬の元として受け入れられているものがある。

 百年近い月日の中、幾人もの命を摘み取りながら、蓄えられた知恵と知識。

 

「このくらいでどうだい?」

 

 女将が台に乗せた金は、ヤタカがはじき出した相場より少しばかり高かった。だがそれを口に出すほどヤタカもお人好しではない。ここで浮いた金で、イリスに食わせる甘い菓子がただになるなら、口のひとつや二つ喜んで閉じていられる。

 

「交渉成立だ。ありがとう」

 

 ヤタカがにこりと微笑むと、女将は少しだけ頬を赤らめ奥の籠へとヨモギモドキを放り入れた。

 

「それと日持ちしそうな塩漬けの魚か干物、漬け物もあったら少し買いたいんだけれど、あるかい?」

 

 「うちの店には何だってあるよ! 干し肉だって……え? あんた達、今日中にこの村を立つつもりじゃないだろうね?」

 

 女将の口が、呆けたようにぽかりと開く。

 

「そのつもりだけれど、どうして?」

 

 すると呆れたように胸の前でひょいと手を振った女将は、いやだよぅ、と口をへの字に曲げた。

 

「あんた達、ここへ来る道で人とすれ違ったかい?」

 

「確かに人通りは少なかったね。半日で二、三人てところかな」

 

 だろ? はぁ、と肩で息を吐くと、女将は呆れたように首を振る。

 

「てっきり知っていてこの村に来たとばかり思っていたよ。何も起こらなければここ二、三日はこの村から出ちゃいけないって。本当に何も知らないのかい? 今この辺りを歩いている連中なんて、知ってて来た物好きばかりだからねぇ。とにかく街道沿いの宿はほとんどうまっているんだから」

 

 ヤタカ達は確かに外の世界には疎い。知らないのかと言われても、思い当たることは何もなかった。

 

「今年はさ、この村が『お引き受け』なんだよ」

 

「お引き受け?」

 

 どこかかで聞いた言葉だった。どこだろうかと考えるが、思い出せない。

 

「あ~んもう、はなっから知らない人に説明すんのは難しいやね。とにかく、今夜はあたしの幼なじみの宿にお泊まりよ。悪いことはいわないからさ、お引き受けが済むまで、間違っても先を急ごうなんて思っちゃいけないよ?」

 

 ヤタカの返事も待たずに、女将は暖簾から顔を出すと大声で隣の宿屋の主人を呼んだ。

 女将にそっくりな笑顔で、くたりと目じりを下げる宿屋の主人に引かれるまま、ヤタカとイリスはこの村に泊まることとなった。

 部屋に腰を落ち着けてから、甘い物でも食べに行くかと誘ったが、ぺたりと座り込んだままイリスは小さく首を横に振るだけで、情けないことに好きな食い物を与える意外に元気づける方法を知らないヤタカは、日が沈んでイリスが目の周りの布をほどくまで、ひとり黙りを続けるしかなくなった。 

 

 それでも日が暮れて豪華とまでいかないが、旅暮らしのヤタカ達にはご馳走といえる温かい夕食が盆に乗せて部屋に運ばれると、イリスの表情も和らぎ得体の知れない不安気な影はなりを潜めた。

 

「この煮物美味いな。越冬芋を使っているんだってさ。今夜の飯は美味いけど、美味い分金もかかる。ここを出たらしばらくは、燻製肉も甘いものもなしだな」

 

「しょうがないからいいよ」

 

 芋の味噌汁を啜りながらイリスが答える。

 

「怒ってる?」

 

「怒ってない」

 

 ずずずっ、と汁を啜る音が大きく響く。上目遣いにイリスがちらりとヤタカを見た。

 

「怒ってないってば……ぜんぜん怒ってない」

 

 怒ってるじゃねぇか、ヤタカは喉元まで上がる言葉を唾と一緒にごくりと飲み込んだ。

 危険に晒されたときイリスを置いてヤタカが逃げても、多分イリスは怒らない。いつの日だったか、どんなことを想定したのか知らないが、本人もそう言っていた。

 でも食べ物だけは駄目だ。

 きっと七代先まで祟られる。

 余計なことをいわないようにと窓の縁に腕をついて外を眺めると、『お引き受け』とやらはまだ始まらないのか、宿の軒先で碁を打つ姿が見えた。春に足を踏み入れたとはいえまだ寒いのに、きっと軒先で温かい茶を啜りながら打つのが粋なのだろう。

 前に立ち寄った村は、綿入れを着込む人の姿が多かったが、この村は毛糸を編んだセーターやカーディガンを着ている者が多い。男性はズボンを、女性はくるぶしまである長いスカートを身につけている。

 

「ここの特産は毛糸で、編み物の技術を持つ者が多いってことか」

 

 百年以上前に村へと分散した人々は、自分の持つ技術でその村を支えてきた。技術と知恵は後生に受け継がれ、人の手で作れる物だけが今を生きる人々の生活を支えている。

 大昔のように、機械や科学というものが人の生活を支える時代は終わっていた。

 大きな町と共に、豊かな物質を作り出す巨大な工場も科学薬品といわれる物も、すべて森が呑み込んだ。

 人の手で作れる物を使い着るしかない今、それが洋服であれ着物であれ気にする者など居はしない。

 人のいなくなった町は、放っておけば百年で森に返る。人間が何百年もかけて造りだした人工物など、所詮は地球の鼻くそでしかないのかもしれない。

 

 

「ヤタカ」

 

 いつの間にか隣に来ていたイリスが、ぎゅっとヤタカの腕を握った。

 

「来るよ、土の結び目が完全に解ける」

 

 見下ろすと碁を打っていた親爺達は姿を消し、立ち話をしていた店の女将達も居なくなっている。土が解けるという意味がわからなかったが、おそらくイリスにも説明はできないだろう。イリスは感覚で表現する。宿る異種なのかイリス自身なのか、感じたままを、あやふやなまま言葉にする。

 

 ――この目で見るしかないか。

 

 用心のため全開だった障子を引いて、拳ほどの隙間から土の道を眺めた。

 始まりは些細な変化だった。茶色い土をむき出した広い道を、這うような風が通って土埃を巻き上げた。

 いつの間に灯されたのか、軒先にはうっすらと道を照らす提灯が並べられている。

 作務衣から飛び出たヤタカの腕へと下りたイリスの手は、冷たくじっとりと汗ばみその瞳は表情もなく道を見下ろしていた。

 

「解けた」

 

 イリスの細い声が呼び水となったかのように、土の道が一気にうねる。

 まるで土の中を何匹もの大蛇が通っているようだった。うねうねと盛り上がっては沈む土の道は、乾いた茶色の土から黒い泥へと変貌していた。

 大量の水を含む泥の川。

 ヤタカの中で水の器がカタコトと心臓を高鳴らせる。あれは普通のモノではないと、跳ね上がる脈を通して告げていた。

 

「異物だ。あの泥の川は異物なんだ。人の道を利用して移動を繰り返す異物」

 

「ここにいて大丈夫?」

 

「あぁ、干渉しなければ害はない。逆に泥の川にちょっかいをだせば……」

 

「どうなるの?」

 

「その近辺の村を呑み込んで、姿を消す。思い出したよ。異物を記した寺の巻物に、泥の川のことが書かれていた。記憶が正しければ、見物になるのはこれからだ」

 

 害がないと知って少し安心したのか、腕を握るイリスの力がふっと抜ける。

 

「わたしは異物にはそれほど敏感じゃない。ヤタカに宿る水の器しか気にならない。だったらわたしが感じたのは泥の川だとしても、それだけじゃないってこと」

 

 イリスの推測は正しい。だが実際に見るまではヤタカにも説明のしようがない。

 

「来るよ」

 

 かくれんぼの鬼が来たよ、まるでそう告げたように、こっそりとしたイリスの囁きだった。 

 泥の川が流れを緩めると、その様はまるで月の下で川面を眺めたときそのもの。月明かりの代わりに提灯の橙の薄明かりを反射して、泥の水面がちらちらと光る。

 隣り合わせた部屋から、おおぅ、と感嘆の声が漏れ聞こえた。

 

「まるで、大きな蛍だな」

 

 街道の向こう側に立ち並ぶ木々の間の闇から、ふわりふわりと小指の爪ほどの淡い光りが姿を見せる。青白い光りはひとつ、またひとつと現れて数十の群れとなった。

 

「あれは何? 異種だよね?」

 

「あぁ、火点し草だ。またの名をなごり蛍。桜の狂い咲きよろしく、宿られた虫は少しばかり早く羽化する。あと一月は先にならないと飛び回らない虫達だ」

 

 なごり蛍が泥の川へ吸い込まれる様は、まさに青白い牡丹雪のようだった。

 

「虫の首もとから小さな花を咲かせて種を落とす。ほら、よく見ると泥の川の真上に来たら、ゆっくりと光りを失いながら落ちていくだろう? 光りが消えるのは花が散って種が剥き出しになったということだ。種が剥き出しになった瞬間、虫の命は終わる」

 

「泥の川に落ちていくのは、虫が死んだから?」

 

「そうだよ。異種にしちゃ数が多いだろう? これだけのなごり蛍が飛んでいても、虫に種を宿らせた個体は一つから二つといわれている。泥の川に流されて次の土地に身を顰め時期が来たら土から芽を出す。そこで数十ともいわれる一番種を実らせ、近づいた虫の背に宿り、こうやって二番種を泥の川へ落とす。ほとんどは泥に呑まれて地表に出ることなく腐っていくか、芽吹く前に虫が死ぬか。魚と同じだよ。生き残るモノが少ないから、無数の卵を産む」

 

「泥の川となごり蛍の共生ってとこかな? 珍しいね」

 

 なごり蛍に利はあっても、泥の川にとってなごり蛍を迎え入れることにどんな理由があるのか、巻物には不明としか記されていなかった。

 異種に心があるのかは知らないが、何を思っているかなど人にわかるはずもないのだから。

 

「あれ? なごり蛍だ。屋根の上から降ってきたよ?」

 

 イリスの声に暗い空を見上げると、酔っ払いみたいにふらふらと一匹のなごり蛍が飛んでいた。

 

「群れからはぐれるアホウは、どこの世界にもいるんだな」

 

 よろよろと覚束ない飛び方で辿り着けないのではと思ったが、這うように低い位置を飛んだなごり蛍は、泥の川の端っこで力尽きたようにぽとりと落ちた。

 

「虫にしか宿らない異種。飛べない人にはけっして宿らない。だからみんな、のんびり見物できるんだよね」

 

「異種だって色々さ。泥の川だって、何を目的に人の道を流れ続けているんだか。それがわかったら、イリスがいう平和な共存てのも有り得るかもしれないのになぁ」

 

 次の年、この先の村が『お引き受け』になるとは限らない。お引き受けとなる村の周辺に見られる予兆を、その村に出入りする野草師やゴテ師が見極め、村人におおよその時期を告げることで人々は『お引き受け』に備えるのだろう。

 遅いなごり雪の最後の数粒を眺めるようだった。なごり蛍の最後の一匹が、泥の川へと落ちていく。

 長く柔らかな反物を広げて端を大きく煽った時のように、泥の川面のうねりが道向こうの闇と消えると同時に、ヤタカの胸で波打つ鼓動も引いていく。

 

「終わっちゃったね。異種が呑み込まれたからかな、わかっちゃうんだ。あの泥の川、怒らせたらとっても恐いよ」

 

「そうだな」

 

 異物の含む水気など、この世の物であってこの世の物とはいえない代物だ。

 泥の川が流れ去った後には、乾いた茶色い土の道が何もなかったように横たわる。

 

 

 

 次の朝、小量の食料を買い込んで、宿を紹介してくれた女将に礼をいった。

 

「ここに立ち寄らなければ、泥の川に呑まれていたかもしれません。危ないところでした」

 

 胸の前で手を振りながら、目じりをくたりとさせて女将が笑う。

 くぐって外に出た暖簾の下から、女将の足回りで緑色のスカートがふわりと揺れるのが見えた。

 

 朝も早いというのに、どこから湧いたかと思うほど街道を行き交う人の数が多い。

 見慣れたいつもの風景だった。

 

「幾つか先の村は、去年になって急に異種が数を増やしたって噂だ。とりあえず、行ってみないか?」

 

「うん」

 

 取りあえず手当たり次第に行ってみるしかないのが現状だ。

 寺が消失したあの日、最後の瞬間の一時間にも満たない、僅かな記憶を思い出すことができたなら、もっと別の道の辿り方もあるはずなのにとヤタカは思う。

 旅を続けるヤタカの胸にある思い。ひとつはみんなを呑み込んで寺が消失した訳を探り当てること。

 もう一つは、子供の頃からイリスが望む、ささやかな願いを叶える方法を見つけ出すこと。子供の頃イリスが見た故郷の湖を囲んで一面に咲く花を、イリスはもう一度見たいのだといった。両目に宿る異種を取り出せたなら、イリスはまた日の光の下で景色を見ることができるだろう。

 不可能といわれる異種の取りだしだが、それを成した者が遙か昔にいたという。その時の文献もしくは聞き伝えられたことを知ることができたなら。

 それだけがヤタカが生きる理由であり、足を動かす原動力だった。

 

 横を歩いていたイリスが立ち止まり、羽織った薄衣を摘んで膨らませる。

 

「かわいかったな、スカート」

 

「スカートをはいてみたいのか? 欲しいの?」

 

 するとイリスは激しく首を横に振る。

 

「止めておく」

 

「どうして? 暖かい季節なら街道を歩くくらい平気だろ?」

 

「ぺら」

 

 杖を脇に挟み、イリスは両手でスカートをまくり上げる仕草をすると、それからビシッとヤタカを指差した。

 

「しねぇーよ!」

 

 イリスの澄んだ笑い声が街道に響く。

 黒い大蛇の群れにも似た泥の川が通った後の街道は、朝日に照らされて吹くそよ風に、乾いた薄茶色の土埃をさらさらと転がしていた。

 

 

 




読んで下さったみなさん、ありがとうございます。
ちんまりした進み方ですが、次話もお付き合いいただけますように……。


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5 甘汁に毒汁零すは ゴザ売りの飴細工

 

 まだ春になりきらない薄ら青い空の昼下がり、ヤタカは先を行くイリスの歩調に合わせてのんびりと街道を歩いていた。

 どうやらこの辺りは水場が少ないらしい。しばらく街道脇の村が見当たらないのも、その辺に理由があるのだろう。水場が少ないとはいっても、所々で細々と湧く澄んだ水の匂いは感じられるから、飲むのに時間がかかるのが手間だというだけで、ヤタカにはそれで十分だった。

 

「イリス?」

 

 急に足を速めたイリスに声をかけたが、ヤタカのことなどすっかり意識の圏外に飛ばされたようで振り向こうとさえしなかった。

 

「あぁ、あれか」

 

 ゆるく曲がる道を左に行くと、広い道の端でゴザ売り達が所狭しと店を広げていた。

 呼び名の通りゴザを一枚ぺろりと広げ、その上に品を並べて商っている。

 ゴザ売りの列とは少し離れた場所で、旅人に食い物を売る小さな屋台が幾つか並んでいた。屋台が引かれて店開きしているということは、次の村までそれほど遠くはないのだろう。

 美味そうな匂いを運ぶ風が旅人の鼻をくすぐり、自然に足は店へと向かう。食べ物の香りにまんまと釣り上げられて、我を忘れている連れの背にべっと舌を出し、ヤタカは薄い財布を指先で確かめ口をへの字に曲げた。

 てっきり屋台まで直行だと思っていたのに、イリスの足がぴたりと止まる。

 追いかけていたヤタカの足はそれより先にぱたりと止まり、視線は一人のゴザ売りの男に注がれていた。

 

「すごい汗だけれど、大丈夫ですか?」

 

 目の前を通る客に呼びかけることすらせずに、右手で腹を押さえて額に汗を張り付かせていた男は、姿勢を変えることなく上目使いにヤタカを見て、開きかけた口をむんずと閉じた。

 

「あんた、その足」

 

 胡座をかいて外套からはみ出た足首に、膿んだ傷が丸く腫れ上がっている。

 

「ちょっと待っていてくれ」

 

 男の返事を待たずに、ヤタカは飴を商うのゴザ売りの前にしゃがみ込むイリスを促し、林へと入っていく。

 人なつっこい笑みを浮かべた若い男がイリスに差し出していたのは、先が三つに割れぷつぷつとした盛り上がりが葉の縁を飾る、一枚の葉を模った飴細工だった。

 客に逃げられたゴザ売りは残念そうに眉を下げ、大きな黒子のある耳をポリポリと掻いた。

 

「飴、買っちゃだめ?」

 

 珍しくお伺いを立てるイリスに、ヤタカは口元を綻ばせる。先日の宿代で飛んだ金のことを気にしているのだろう。

 

「飴くらいいいよ。まずは水を汲んで、手持ちの薬をあの男に渡してからな」

 

 ゴザ売りをしている以上、自分の管理を出来ないほどに山の地理や野草に疎い訳もない。

 あの足では山へ入ることができずに、水のない状態で脱水を起こしているのだろう。

 水を飲み、傷に練り薬を貼れば直ぐに回復するだろう。

 歩きながら感じたように川はどこにも見当たらず、微かな匂いを辿って岩の割れ目からちょろちょろと流れる湧き水に辿り着いた。

 ヤタカ自身も腹一杯に水を飲み、それから水筒に水を溜め、荷物からすり潰して乾燥させた薬草を取りだし水を含ませた。

 

「戻る頃には、いい具合に練れているかな」

 

 携帯している小さなすり鉢で薬草を練りながら、腰に捕まるイリスを連れてヤタカは街道へと戻っていった。

 

 

「ほら飲みなよ。湧き水だから腹はこわさないから」

 

 戻ってきたヤタカを見た男は、少し驚いたように目を見開いたが、水筒の中で揺れる水に喉の渇きが勝てるはずもない。ひったくるように水筒を手にすると一気に飲み干し、口の端から零れた水さえおしいように、指先で拭って口へと入れた。

 

「それとこれ、足の傷に貼っておくといいよ。信頼できる野草師から譲り受けたものだから心配せずに使って。膿が引けば治りも早い」

 

 乾燥したままの薬草を一欠片ゴザに置き、水で溶いて明日貼り替えてくれと言い残す。

 

「あの娘……あんたの連れか?」

 

 よく見ると上目遣いでなくとも三白眼の目立つ、貧相な面立ちの男だった。お世辞にも人好きがするとは言えない男が、礼も言わずに発した言葉にヤタカは指先でこめかみを掻く。

 

「あぁ、俺の連れだよ。今日は飴細工にご執心でね。おや、あんたも飴売りだったのか」

 

 ふん、と鼻から息を吐く男の膝元には色とりどりの飴が並び、その他にも日持ちする干菓子が並べられていた。

 

「あの娘をこっちへ呼びな」

 

 急に男の声が小さくなる。故意なのか、イリスがしゃがみ込むゴザ売りの方へは目をくれようとさえしなかった。

 

「でも、あの店で気に入った飴があるみたいんだ」

 

 肩を竦めてヤタカが歩き出すと小さく、けれど鋭い男の声が背を掴む。

 

「いいから呼べっつってんだろうが」

 

 躊躇しなかったと言えば嘘になる。まずい男を助けたかと意識の表層を後悔の念が擦ったが、ヤタカは振り返った先でじっと見つめる男を黙って見返すと、前を向いて肩で息を吐いた。

 

「イリス、ちょっと来いよ」

 

 しゃがんだままイリスは不思議そうに首を傾げたが、ヤタカの声を頼りに土の道に杖を滑らせながらやってきた。

 

「どんな飴があるか、ヤタカに教えて貰おうと思ったのに」

 

 菓子を取り上げられた子供みたいに少し頬を膨らませ、イリスがぷいっと顔を背ける。

 

「飴ならここにも売っているよ。買っておいて、泊まった先の小屋でゆっくり食えばいい」

 

 万が一……を考えての予防線だった。

 自分の売り上げを伸ばしたいだけの礼儀知らずならそれでいい。問題は、この男がただのゴザ売りなのかどうか。

 素朴な暮らしが素朴な思考の人間ばかりを生みだすとは限らない。いつの時代も、この世は損得勘定で簡単に人の命がやり取りされる。

 

「どんなのがあるの?」

 

 少し機嫌の直ったらしいイリスが、しゃがみ込んでいう。

 男が一本の棒飴をすっと差しだした。

 

「葉っぱの形したのはどう? きれいな紅色だよ。葉先が三つに分かれていて、すごく良い造りだし何よりでかい」

 

 説明してやると、少し考えてからイリスが頷いたのを見て、ヤタカは金を差し出し男の手から棒飴を受け取ろうと手を伸ばす。ヤタカの指先が棒に触れた途端、なぜか男はさっと棒飴を引いた。

 

「勧めたくせに、何だよまったく」

 

 ここまでくると文句の一つも言いたくなる。更に口を開こうとするヤタカを、男はすっと手の平で制して紅色をした鳥の飴を差し出すと、戸惑うヤタカを無視してイリスの手に握らせた。

 

「水と薬の礼に、いい唄を教えてやる。ある者達の中では常識、普通に暮らす者にとっては一生知る必要のない唄だ」

 

 ふらりと立ち寄ってゴザを覗き込んだ客を男が三白眼で睨み付けると、客は泳ぐ視線をそらして足早に立ち去った。

 男の声が籠もるように小さくなる。

 

「三つ葉も四つ葉も甘汁零し、棘ある三つ葉は毒汁零す……てな」

 

 無表情だった男の口元がにやりと歪む。

 男が左手に握る飴、最初に差し出した飴は葉の縁に所々、ぷつぷつと盛り上がりが見てとれる。

 

――あれが棘?

 

 はっとしてヤタカは男の三白眼を見返した。向こうのゴザ売りでイリスが勧められていたのは、ぼこぼこと突起のついた葉の形の飴細工だった。

 男がさっさと行けというように、指先を払う。

 

「食べさせてあげたいな、素堂の爺ちゃまにも」

 

 ヤタカに腕を引かれて、立ち上がりながらイリスが呟く。

 

「素堂……」

 

 声に振り返ったヤタカは、伏せる直前に男が大きく目を見開いていたのを見逃さなかった。

 

「素堂のじっちゃんを知っているのかい?」

 

 顔を伏せたまま男が首を横に振る。

 

「知らねぇな。とっとと行けよ」

 

 しばらく黙っていたが、男が顔を上げることはなかった。

 

「行こう」

 

 ヤタカの言葉を受けてイリスがゆっくりと歩き出す。左の手の中で、紅色をした鳥の飴細工がくるくると回っている。

 

「あの人、素堂っていったよ」

 

「あぁ、聞こえたさ」

 

 どのゴザ売りの前も、目さえ向けずに立ち去った。

 あの男の言葉が本当なら、今ごろイリスの手の中で楽し気にくるくると回ってるのは、毒の汁を含んだ三つ割れ葉の飴だったのだから。

 知る者の居ない通りすがりの道で、命を狙われる理由などわからない。わからないが、無愛想なあの男が、どうにも嘘をいっているようには思えなかった。

 

 

 

 日が暮れて最初に見つけた小屋に宿をとることにしたヤタカは、埃っぽい室内にごほごほと噎せ返った。この辺りは行き交う者の数に見合うだけの小屋が多く建ち並ぶせいか、先客はいない。

 

「イリス、さっきの飴だけど」

 

「なに?」

 

 小屋に入って腰を下ろしたばかりだというのに、振り返った先でイリスは既に飴をぺろりと舐めていた。

 

「気分悪くなったり、腹が痛くなったりしていないか?」

 

「今日は元気だよ? この飴とってもおいしい」

 

 満足げな笑みを浮かべるイリスに、ヤタカはほっと肩をなで下ろす。

 自分達を見かけただけで、異物憑きと異種宿りだと気づく人間などほとんどいない。たとえ野草師やゴテ師の類でも、余程の鍛錬を積み素質を持った者でなければ、すれ違ったくらいで見破ることなど不可能だ。

 

――なおのこと、どうして目をつけられた。

 

 思考は堂々巡りで、何の答えも導き出せはしなかった。水筒の水を飲み仰向けにころがると全身を倦怠感が襲う。

 この辺りの水源では、今夜の水浴は無理だろう。水浴びの嫌いなヤタカは、イリスに睨まれないなら一生カラスの行水で済ませたいところだが、水浴びが好きなイリスは残念がるだろうと、そんなことを思いながら目を閉じる。

 

――やっぱり、あの男にからかわれただけかもしれないな。

 

 ギイィィ

 

 歪んだ戸口が擦れる音を立てて開かれた。

 

「一緒にいいかい?」

 

 ぺこりと頭を下げて入ってきたのは、ひょろりとした中年の男と、これまたひょろりとした若い男。若いと思ったのはぐるぐると巻いた防寒の布から見えた目元が、皺ひとつ無かったからに過ぎないのだが。

 

「どうぞ、この時期は日が沈むとまだ冷えますね」

 

 あぁ、そうだねぇ、挨拶代わりに他愛のない言葉を交わし、二人はヤタカ達とは反対側の壁に背を凭れて腰を下ろす。

 

「ヤタカ」

 

 ぺたりと床に座ったイリスが、向かい合ったヤタカの襟首をぎゅっと掴み、真っ直ぐに視線を向ける。

 橙の蝋燭の灯りに照らされて、漆黒の双眼がゆらゆらと揺れた。

 イリスの瞳を直視すると、いつだってヤタカの心臓は不規則に波打つ。

 まるで月明かりが僅かに差し込むだけの、闇を満たす小さな泉みたいだとヤタカは思った。

 

「どうした?」

 

 ふわりと小さな唇が何か言いたげに隙間を広げるが、しばらくの沈黙の後、イリスは小さく首を振って襟首からするりと手を離した。

 

「何でもないや」

 

 何を言おうとしたのか自分でも解らない、とでもいうように小首を傾げるイリスの額を小突いて、ヤタカは乾パンを手に握らせる。

 

「腹が空き過ぎて記憶喪失? それ食ってカラカラおつむに栄養をってな」

 

 ひょっとこの面かと思うほど唇を突き出したイリスが文句を言う前に、軋んだ音を立てて再び戸が開かれた。

 頭からすっぽり外套のフードを被った小柄な男は、ヤタカとの間に背負っていた荷物を置くと、挨拶もなしにそのまま膝を抱えて眠るように下を向く。

 誰もが利用できる小屋だからこそ、誰もが愛想がいいとは限らない。ヤタカは気に留めることなく男に頭を向けてごろりと横になる。

 

「イリス、この辺りは川も泉もないから、今日の水浴びは無理だよ」

 

「うん」

 

 じっと見下ろすイリスの視線に耐えかねて、ヤタカが「何だよ?」と口を曲げた。

 

「ヤタカ……汚い」

 

「俺だけか!」

 

 女の子の文句はいつだって理不尽だ。イリスの視線を避け、壁に向けて寝返りを打ったヤタカは、早く寝るに限ると目を閉じた。

 

「若いのに乾パンだけじゃ足りないだろ?」

 

 声をかけてきたのは、反対側に座る二人組の中年の男だった。

 よっこらせと立ち上がると、握り飯を三つ手に抱えてこっちへとやって来る。

 

「減った腹に任せて買ったはいいが、余っちまったんだ。明日まで置いておくと固くなるから、良かったら食ってくれないかい?」

 

 旅は何があるか解らないから、旅人は互いに助けあう。こんな親切に甘える日があってもいいだろう。

 

「では遠慮なく。ありがとうございます」

 

 ヤタカに二つ握り飯を渡すと、無言のまま俯く男の前にもひとつ、丸い握り飯がそっと置かれた。眠っているとばかり思っていた小柄な男は、声を出すことなく小さく頭を下げた。

 

――なんだ、起きていたのか。無愛想な男だねぇ。

 

 壁に向かってごそごそと水筒を取りだしたイリスは、両手で持った握り飯にさっそく齧り付こうとぱくりと口を開ける。

 

「イリス、いただきますは?」

 

 開けた口を閉じて、イリス丁寧に握り飯にお辞儀をした。

 

「いただきます」

 

 ゴン! 丁寧すぎたお辞儀が祟って、古びた壁板にイリスの頭がごちりとぶつかった。

 ヤタカの視線は、頭を擦るイリスではなく頭の当たった先に注がれる。

 古いとはいえ細々と管理される小屋だというのに、イリスの頭が当たった程度で一枚の壁板が明らかに外へとずれていた。

 迷惑をかけたかと振り返ったが、二人の男はこちらに背を向け横になり、何やら楽しげに笑いながら話し込んでいる。

 

「食ったふりをしろ。だが、口にはするんじゃねぇよ」

 

 痛い痛いと頭を撫でるイリスの声に、掻き消されるほどにぼそぼそとした声は、外套を目深く被った小柄な男のものだった。

 頭を擦りながらも片手で持った握り飯に齧り付こうと、口を開けるイリスが目の端にうつる。

 ヤタカはとっさに手を伸ばし、イリスの口を手の平で覆う。

 

「久しぶりの握り飯は美味いな。イリス、ゆっくり食えよ」

 

 ヤタカが明るい声でいうと、口の付けられていないヤタカの握り飯に、すとんとイリスの視線が落ちる。

 

「うん、わかった」

 

 イリスがそっと握り飯を懐に入れるのを見届けて、ヤタカも自分の分を荷物の中に放り込んだ。

 少し腰をずらして、小柄な男の直ぐ横にごろりと転がった。

 男達の笑い声を隠れ蓑に、小柄な男の声が囁く。

 

「あの娘がでこっぱちをぶつけた辺りで、二人固まって横になっていろ。俺が合図したら、きつく目を閉じろよ。外に出るまで絶対に開けちゃならねぇ」

 

 聞き覚えのある声だった。

 

「どうしてそんなことを? あんた昼間会ったゴザ売りだよね」

 

 男は黙って頷いた。

 

「あの二人はどうする気さ」

 

「こうするのさ」

 

 男は首に提げていた守り袋の中から、もみ殻に似たぱさぱさと軽く細かい物を取り出すと、ふっと強く息を吹きかけ、背を向けて話し込む男達の方へとバラ撒いた。

 カスのように軽いそれは、ふわりゆらりと宙を舞って床に散らばる。

 男が明かりを灯す蝋燭に目配せしたのを受けて、ヤタカはひとつ頷いた。

 

「お二人さん、蝋燭を消させて貰うよ。話はいつまでだってしていて構わないから」

 

 返事を待たずに灯りを吹き消すと、おうよ、と暗がりの向こうから承諾の声が返ってきた。

 そっとイリスに耳打ちして壁際に横たわらせ、体が付かないぎりぎりの所で小さな体を覆うようにヤタカも横たわる。

 男が尻をずらしてこっちへ近づく気配が、外套が床を擦る音で伝わってくる。

 

「全面的にあんたを信用したわけじゃない。こうしなけりゃならない理由も解らないのに、信用しろという方が無理だろう?」

 

 空気に声を乗せるようにヤタカが囁く。

 

「俺なんざ信じなくてけっこうだ。、素堂様が生涯でなしたことを信じろ」

 

 やはりこの男、素堂のことを知っていたのか。

 

「わかった、いいだろう」

 

「寝たふりをしていろ。本当に寝るんじゃねえぞ」

 

 男達は、小声で今だ話を続けている。

 イリスが眠り呆けてしまわないよう時々背中を突きながら、ヤタカは何も見えない闇の中、じっと目を見開いて男の声を待っていた。 

 

――眠ったか。

 

 男達の声が止んで、けっこうな時間が経つ。見えないとわかっていても、思わず振り返ろうとしたその時だった。

 

 シャリリ カシュリ

 

 男がバラ撒いたカスを踏む音が、ヤタカの背筋をぞわりとさせた。

 事情を知らない者には、埃だらけの床のゴミを踏んだくらいにしか聞こえない、その程度の僅かな音。

 忍びきれない足音が一歩また一歩と近づく気配に、ヤタカは手をかけていた荷袋の紐を持つ手に力を込める。

 

「行け!」

 

 ドンと蹴り飛ばす音と同時に張った声が響き、壁の側から冷えた外気が流れ込む。ぐっと目を閉じて、ヤタカはイリスを蹴り飛ばされた壁板の外へと押し出した。

 外へ顔が出る寸前、甘ったるい香りがヤタカの鼻孔をぬるりと撫でた。 

 

 

 




読みに来て下さった皆様、のぞいて下さった皆様、ありがとうございます。


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6 野に放たれた者と草クビリの影

 蹴り外された壁板の隙間から転がり出て、すぐさま立ち上がったヤタカはイリスの手を強引に引いて走った。街道の反対側に立つ木にぶつかって、肩に強い衝撃を受け縺れる足を止めた。。

 口から大きく息を吸い込み吐き出すと、鼻の奥に纏わり付く甘い香りが消えていく。

 不思議なことに、甘ったるかったのだという思いはあっても、どのような香りだったかと問われれば答えられる記憶は一切残っていなかった。

 

 膝を付いてイリスに覆い被さるように腕の中に収め、澄ます耳に小屋の戸が割れんばかりの勢いで開けられる音が響く。

 男達の悲鳴に、暗い闇の森から鳥達がばさりと飛び立った。

 

「目ぇ開けろ。さっきの握り飯を渡してくれや」

 

 二つの握り飯を渡すと、小男は自分の分と合わせて三の握り飯を紙にのせて道の真ん中に置くと、中腰のまま足音もさせずに戻ってくる。

 開いた目でヤタカが見たのは、這々の体で小屋からでてきた二人の男達が、さっきまでの大騒ぎとはうって変わった様子でゆらりくらりとこちらに向かってくる姿だった。

 後退ろうとしたヤタカを、小男の手が止める。

 

「ここまで来れやしねぇよ」

 

 ふんと鼻で笑い、小男は懐から小刀を取りだした。

 まさか刺し殺す気かとびくりとしたが、小男は片膝を立て手の中で小刀を弄ぶだけで、

物騒な動きを見せる気配はない。

 

「あの人だ。やっとぴたっときた」

 

「あの人?」

 

 じっと二人を眺めるイリスは、頷いただけで黙り込む。

 

「おい、あの握り飯、食ったら拙いんじゃないのか?」

 

 糸が切れた人形のように膝を落とした二人の男は、何かをぶつぶつと呟きながら握り飯を手にしていた。

 

「拙いさ。だからあそこに置いたんだ」

 

 真上から差す月明かりに、影絵の様にしか見えなかった光景が一気に色を持つ。

 雑紙を捻ったものに油でも染み込ませてあるのだろう。小男が火をつけて放った明かりが見せたのは、とても現実を見ているとは思えない男達の虚ろな瞳と、少しずつ口へと近づけられる握り飯。

 

「腹が減った……昨日から何も食っていないからな……飯……めし」

 

 それは今までひと言もしゃべらなかった若い男の声だった。

 このままだと、あの男達は間違いなく握り飯を口にする。ヤタカが堪え切れずに立ち上がろうとする肩を、小男が信じられないほどの力で押さえつける。

 

「止めておけ、もうおせぇよ」

 

 噛むことなど忘れて、まるで呑み込むような食べ方だった。

 膝をつき両手をだらりとさせた男達の動きが止まる。

 

 ぐえっふ

 

 でかい蛙に似たゲップを吐き出したかと思うと、男達の上体がばたりと地面に伏した。

 これに似た光景を、ヤタカは幾度も目にしたことがある。

 

「だとしても、早すぎる」

 

 ヤタカが抱く疑問を嘲笑うかのように、肌の見える手足が(まだ)らに苔むしていく。ふらりと立ち上がるヤタカに小男は「近づきすぎるな、まぁ、解っちゃいるだろうが」とぼそりという。

 服の下はすでに苔むし、全身が覆われる頃には、肉体と呼べるものすら残っていない。異種の苗床となった者特有の変化だった。

 ぐるぐると巻いた防寒の布がふわりと男の顔を覆い、隙間から覗くまだ人肌を残す耳には、大きな黒子が一つあった。

 

「飴を売ろうとしたゴザ売りの男か。どうしてここまで追ってきた?」

 

 死人が語るわけもない。昼間に会った時も、小屋で二度目に会った時にも、この男に異種の気配は感じられなかった。小屋の中でもそうだ。だとしたら、僅かな隙に取り込まれた異種はどうして発芽したのかという疑問が残る。発芽の早いモノも確かに在るが、それにしても尋常ではない速さだった。

 

「さて、ここからは俺の仕事だ。下がっていろ」

 

 いつの間にか横に立っていた小男が、小刀の背でヤタカの胸を押し返す。

 イリスの元まで後退りながら、ヤタカは全てを見逃すまいと薄明かりに視線を凝らす。 最早助けられないのなら先へ続くこの世の為に、ありのままを記憶することがせめてもの供養だろうと、ヤタカは目に力を込めて眉根を寄せる。

 柔らかな飄々とした青年の表情はなりを潜め、師ともいえる慈庭にも似た、空気さえをも切り裂きそうな鋭い眼光だけが黒く月明かりに浮いていた。

 

 完全に苔むした人型の、小山のほぼ中央から細い新芽が鎌首をもたげる。男達が身に纏っていた衣服は苔に触れて、腐ったようにぼろぼろと脆くなっていた。

 限界まで持ち上げられた茎はバネの要領で、苗床からまだ開ききらない葉を持ち上げる。

 異種の成長は早い。獣に荒らされたり、人目につき刈られる前に種をつけようとする独自の進化だろうか。人の子が何ヶ月もかけるというのに、獣の子は産まれて直ぐ足で立つ。

 その程度の違いなのかもしれないが。

  

 ヤタカの腕にしがみつきながらも、イリスはひと言も話すことなくただじっと目の前の光景に見入っていた。

 

「どういうことだ?」

 

 イリスが腕にしがみついていなければ、ヤタカは駆け出していただろう。

 徐々に茎を太くして伸びていく異種は葉を付け、大きく膨らんだ蕾はほころび始めていたというのに。

 

「咲く前に……枯れた? あれは何だ?」

 

 小男は動じることなく小山の傍らで片膝をつき、小刀を構えていた。

 水気を吸い取られたように枯れた蕾へと続く、枝分かれした茎の根元から明らかに違う葉が伸び、あっという間に蕾をつけた。

 巻き付けたやわらかな布が風にほどけるに似た開花は一瞬で、紫の大輪が花咲く。   柔らかな花びらが種をつけようと萎みかけた瞬間だった。

 微動だにしなかった小男の小刀が宙を切る。

 僅かに萎みかけた紫色の花が二つ、ぽとりと地面に転がった。

 

「おかげさんで、いい物を採らせてもらった。こいつのは種より、花の方が貴重でな。採るには手間と根気がいるから、めったに出回らん。忘却草は、この世界にいると身を守るためには刃より強い武器になる」

 

 そういうと小男は、拾い上げた花を布に包んで袋の底に収めた。

 

「小屋で感じた甘い香りの正体は?」

 

「あれなら吸っても問題はないさ。目の粘膜につくと、ちと厄介だがな。猛烈な痛みの後、ちょっとした幻覚を見る。本人の意識の表層にある願望の幻を見るといわれている。だからたぶん、あいつらが最後に見えていたのは、握り飯なんかじゃないんだろうよ。腹を空かせていたのは知っていたから、仕掛けるのに誘導する必要さえなかった」

 

 飲み込むように握り飯を食っていた、男達の姿が蘇る。 

 

「説明してくれないか。なぜ異種から別の異種が芽吹いた? この二人は異種宿りではなかったはずだ。誰が種を仕込んだ? まだある。苗床になるのが早すぎる。あんたが持ち帰る、その異種のせいか?」

 

 アメ藤 と屋号の入った提灯に火を入れ、小男はヤタカを流し見るとふっと笑いを落とす。

 

「質問が多いな、その眼……。流石は慈庭様に仕込まれただけのことはあるな。昼間会った時とはまるで別人だ。なぁ、どっちが本物のあんただい?」

 

 小男を一瞬睨み付けたヤタカは、視線を反らして奥歯を噛む。

 

「慈庭との関係を知っているとは意外だな。それを知る寺の関係者はみんな死んだはず」

 

 けけけっ、と小男が笑う。

 

「オレが寺を壊滅させた事態を手引きしたと思ってんなら、そりゃお門違いだ」

 

「手引き?」

 

「まさか、その線を考えたこともないのか? あるだろう? 有り得ると思っていなけりゃ、そんな眼で俺を見やしない」

 

 腕を握るイリスの手に力が入ったのに気付いて、ヤタカはふっと表情を緩め大きく息を吸った。

 

「へへ、器用なやつだぜ。寺を抜けるのが最後になったあんたなら、一部始終を見ていただろうに」

 

 小男の言葉にヤタカは唇を噛む。

 

「覚えていない。岩牢の中からイリスを大声で呼んだのが最後だ。そこからどうやってイリスが岩牢へ入ったのか、どの道を通って森へ抜けたのか記憶がない。イリスにしても同じだ。俺に呼ばれた後の記憶が消えている」

 

 男の目に驚きの色が浮かび、視線を斜めに下げて考え込むように目を細めた。

 

「危なく余計なことまでしゃべっちまうところだったな。記憶がないなら、これ以上話すことはない」

 

「どうしてだよ」

 

「そりゃあ、てめぇの命が惜しいからに決まってらな」

 

 小男はひょいと荷の袋を背負い、ヤタカとイリスを払うように手を振った。

 

「この苗床はオレが片づける。流石に往来のど真ん中じゃ邪魔だからな。最初の質問だが、異種を植え付けたのはオレだ。それも二度。ゴザ売りで客の相手をしていたあいつらの背後から、一つ目の異種を仕込んだ」

 

 そういうと、小男は小さな吹き矢のようなものをちらりと見せた。

 

「一つ目の異種が眠る体内に、神経をちょいとやっちまう毒と一緒に、二つ目の異種を仕込んだのさ。まぁ、毒を握り飯に仕込んだのはあいつらだが。毒によって個体が死ぬことで目覚めるのが、二つ目の異種だ。しかもこいつは珍しい奴でな、自力じゃ発芽できないから別の異種に宿り、そいつを枯らして自分が花をつける。二つ目の異種が個体の死に慌てて、のんびり眠ってる一つ目の異種を無理矢理発芽させたってとこだ」

 

「そんな異種は、寺の記録にはなかった」

 

「無いだろうよ、調べに放たれた者達が知らせなかったんだからな」

 

「そんな筈はない。あそこに出入りしていた人間が、素堂を欺くだなんて」

 

「素堂様を欺こうとしたわけじゃないさ。守ろうとしたんだろうよ。たとえば……寺に話を持ち込めば、本来知られちゃならない者の耳に入っていたとしたら?」

 

 ヤタカの背中から、イリスがそっと顔をだす。

 

「寺に関わる誰かが、悪い人だったの?」

 

「あぁ、寺の末期には、情報がだだ漏れだったのさ」

 

 外部にも寺に通じる者がいたのか? 自分が知る以上にかなり多くの人間があの寺に関わっていたというなら、なぜ慈庭はそれを告げてくれなかったのかとヤタカは記憶を手繰り寄せる。どんなに引き寄せても、記憶の糸は最後の場面でぷつりと切れた。

 

「これで借りは返したからな。お前達をあのときの寺の子だと知らなければ、寺に出入りしていた者でも命を狙うぞ。寺に情報をもたらしていた草クビリとの面識は無いはずだよな? 慈庭が会わせなかったはずだ。寺が崩壊した今、食い扶持を稼ぐには異種と異物を手に入れるのが手っ取り早い」

 

「草クビリ? 他にも命を狙う奴がいるっていうのか?」

 

「いるさ。こいつらは寺とは関係ない、草クビリの真似事とさえいえない素人さ。大した知識もないのに、無駄に異種の匂いを嗅ぎつけてその娘を狙ったんだろうよ。草クビリも色々いる。まともな奴と出会えたら、ゴテ師や野草師より余程多くの情報を持っているだろうな。へたすりゃ、寺の記録よりもだ。」

 

「寺に出入りしていた者だけではないんだろう? 見分ける方法は? 寺に関わっていた者を見分ける方法はないのか?」

 

 小男は口をひん曲げて首を振る。

 

「無いな。ちょろっと異種や異物を感じる力のある奴らでも、草クビリの真似事をする馬鹿は多い。本物は、寺に出入りしていた者とその身内がほとんどだ。よほどのことが無い限り、寺付きの草クビリだなんて名乗りゃしないさ。そろそろ行けよ。夜中とはいえ、道の真ん中で人が集まってりゃ目立つ。夜中に移動しても、あの娘がいる限り獣なんざ気にならんだろう?」

 

 この男、いったいどこまで知っているのか。聞きたいことは山ほどあったが、ヤタカは目を閉じて肩で息を吸い、同時にいつもの柔らかな表情を取り戻す。

 

「イリス、行こう。眠いだろうけど、少し先の小屋まで我慢しろよな」

 

「うん」

 

 背を向けて歩き出すと、イリスが男の方へ振り返った。

 

「おじちゃん、ありがとう」

 

 小さく手を振るイリスに、小男がチッと舌打ちした。

 それから胸の息を大きく吐き出し、呻くような迷うような唸り声を上げる。

 

「これは独り言だ。寺が崩壊したのは、おまえら二人を寺の保護から引き剥がし、野に放つためだ。おまえらを狩るために、寺という檻は壊されたんだ」

 

 はっとしてヤタカは振り向いたが、小男を照らし出していた提灯の灯りは吹き消され、月が流れる雲に隠れた闇の中、小男の姿は無くなっていた。

 

「行こうか、イリス。大丈夫か? あんなの見た後で」

 

「大丈夫でもない……けど大丈夫。初めてじゃないもの。わたしたち、狩られるの?」」

 

「あれは言葉のアヤさ。気にしてもどうにもならないよ」

 

 風に雲が流されて、再び月明かりが道を照らす。

 振り返ることなくヤタカとイリスは歩き続けた。これ以上あの男の口からは何も語られないだろう。

 

「イリス、次の村に立ち寄った後、寺の在ったあの場所へ戻ってみないか? みんなを弔いたい。おそらくは遺骨さえ残っていないだろうし、墓とはいっても石を積むくらいしかできないけれど、戻ってみたいんだ」

 

「わたしも戻りたい。慈庭が寂しがっているかも。でも、お供えするお花がないね」

 

「そうだな、花が咲くにはもう少しかかりそうだ」

 

 イリスがとんとん、とヤタカの肩を叩く。

 

「ヤタカはいつだって、変わらずヤタカだよ」

 

 なぁ、どっちが本物のあんただい?

 

――あぁ、あの男が口にした言葉を気にしているのか。  

 

 月明かりの中、ヤタカは目尻を下げてにこりと笑って見せた。

 

「そうだよ、俺は昔も今も、このまんま」

 

 嬉しそうにイリスが肩を竦める。

 全てを胸に押し込んだヤタカの目元には、いつも柔らかな笑みが戻っていた。

 

 疲れたイリスに無理をさせるとは思ったが、用心して三つ先の小屋に宿を求めた。

 本当にこの辺りは小屋が多い。

 無人の小屋に入り、備え付けの蝋燭に火を点けた。

 ここまで夜が更けた以上、新たに旅人が入って来る心配もないだろう。ヤタカは壁に凭れて下ろした荷物の中から、厚手の布に包まれた丸い石を取りだした。

 

「また磨くの? 飽きないね」

 

 流石に疲れたのだろう。イリスは欠伸をすると、ヤタカの隣で横になると小さく丸まった。

 

「飽きるわけないだろう? 何しろこの丸っこい石の中には水が入っているんだからな」

 

 水どころかまだ灰色の地肌をぶつぶつと晒す丸い石を、手の平にのせてヤスリで丁寧に磨き始める。

 

「寺に出入りしていた干物屋のおっちゃんから買ったんでしょう? ちょびっとのお小遣いぜーんぶ使っちゃって。紛い物、またの名を偽物」

 

「本物かもしれないだろう? 男のロマンなんだよ!」

 

 くすくすとイリスが肩を揺らして寝返りを打つ。

 見上げた黒い瞳が、蝋燭の明かりを映してきらきらと揺れる。

 

「本物なら値がつけられないほど価値があるのよ? ヤタカのお小遣い六回分で買えるなんて、ありえないでしょう?」

 

「うっせーよ! 六回じゃねぇよ! おやつ十回分だっつうの!」

 

 ヤスリで削れた石の粉をふっと吹き飛ばすと、わざとらしくイリスが顔を顰めた。

 

「お腹空かせてまで買った男のロマン……ふふ……ガキ」

 

 今に見ていろと思いながら石を磨く、ジャリジャリという音がイリスの子守歌代わりに小屋の中に響き続けた。

 イリスの寝息と共に、ヤタカの横顔には小男の前で垣間見せた険しい表情が影を落としていった。

 

 

 

 




見に来て下さったみなさん、ありがとうございました!
それではまた……。


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7 鳴る下駄

 からん ころん

 

 朝も早いというのに、小屋の前を下駄がかける音が響く。

 

 からん ころん

 

「勘弁してくれよ」

 

 俯せに耳を塞いで寝ていたヤタカも、とうとう根負けして起き上った。

 少し離れた床には一晩中鳴り響いていた、からんころんを子守歌に口を開けて眠り呆けているイリスが、まだ寒い季節だというのに万歳をしたかっこうで転がっている。

 

「よく寝ていられるな。まったく、夜中から下駄の行進かよ」

 

 正確には下駄が駆けていく音が小屋の前を通り過ぎ、やっと静寂にうとうとしたかと思うと、またからんころんと駆けていく……そんな感じだった。

 

「このまま起きるか。もうすぐ夜が明ける」

 

 闇夜に出歩く者は少ないが文を運ぶ者達などは、たとえ夜中でも街道を駆け回る。植物が嫌う松明の炎を掲げて走る彼らは一人で夜道を走り、場合によっては獣さえ相手にする連中だけに気性が荒い。急ぐ者が下駄など履いて仕事などするわけもなかった。

 

「松明の明かりは見えなかったよな」

 

 からん ころん

 

 小屋の前を駆けていく音に、素早く立ち上がったヤタカは勢いよく小屋の戸を開け放った。

 

 ころん

 

 戸口に手をかけた時には確かに鳴っていた下駄の音が止まる。たとえ下駄を履いたアリでも見逃すものかと左右に目を走らせたが、うっすらと明るくなった街道には人っ子ひとり見当たらない。

 

「百鬼夜行じゃあるまいし……だとしても足音がすくないっての」

 

 つっこんでくれる相方が爆睡中なのを思い出し、ヤタカは一人頭を掻いた。旅人の多い街道には幽霊から物の怪まであらゆる逸話が多く残っている。あからさまに嘘っぽいものから、多くの者が目にしたと噂される話までいろいろだ。

 

「たしかに下駄の走る音だったのになぁ」

 

「ヤタカ、寝ぼけたの? 寝ぼけて戸を開けたの? 寒い」

 

 慌てて戸を閉め振り返ると、ぼんやりと上半身を揺らすイリスが眠そうに目を擦っていた。

 

「ちげぇよ! このクソ寒いのに大の字で寝ていた奴に言われたくないっての」

 

「日が昇るまえに顔を洗ってくる」

 

 目の前をイリスが歩いて行く気配を感じながら、ヤタカはじっと目を閉じる。

 

 ゴン!

 

 小気味よく鳴った音にゆっくりとヤタカは片目を開けた。

 

「痛い……さっきまで開いていたのに」

 

 閉じた戸に激突しておでこを押さえるイリスを、ふんと鼻で笑う。

 

「さっき閉めただろう? それに水源がないから顔は洗えないよ」

 

 水源が乏しい地域をまだ抜けていないことを思いだしたのだろう。寝ぼけたままの顔でイリスはうへぇ、といってちろりと舌す。

 イリスが恐がるかと思い、実害もなかったからと夜中に耳にした下駄の音のことは黙っておくことにした。 

 

「ヤタカが行きたい村までは遠いの?」

 

 身支度を調えながらイリスがいう。

 

「日暮れまでには着くと思うよ。妙だと思わないか? 最近になって異種がやたらはびこっているという噂がたっているのに、街道を行く人々も近隣の村の人々もまるで普通だろう? 緊張感がないっていうか、焦りが感じられないというか。普通はさ、飛び火を恐れて対策を練るだろう? とにかく蜂の巣を突いたような騒ぎになっていてもおかしくないと思うんだ」

 

 同意するように頷いたイリスは、傾げた首をそのままに視線を天上へ向けて考え込む素振りを見せる。

 

「大騒ぎになっていないのは、異種が人にまだ宿っていないから。宿る可能性が低いからとか?」

 

「異種がはびこって、そには村の人が居る。その状況で人に宿らないって、有り得ないだろ?」

 

 そっか、といってイリスは杖を手にすたすたと小屋の外へとでていった。

 

「興味を無くすの早いな、まったく」

 

 イリスのあとを追って戸を潜り街道へ出たヤタカは、二人の間で何度も繰り返した他愛のない会話を思い返す。

 

 

――イリス、食べ物以外で興味のあるものはないの? 何はともあれ食い物なんだから。

 

――食べるのは好きだけれど、一番じゃない。

 

――へぇ、何に興味があるのかいってみろよ。

 

――教えない。

 

――どうしてさ?

 

――謎に包まれた女性を目指しているの、ふふん。

 

――天地がひっくり返っても無理っぽいな。

 

 イリスは好奇心旺盛に見えて、何に対してもこだわりを見せない。

 その時々にくっと見入るような集中はみせても、すっとその対象から興味をそらす。そのこだわりの無さがイリス自身の命さえ軽んじているように思えて、ヤタカは時々不安になる。

 

「とっとと歩いて、さくっと済ませて、さっさと慈庭の眠るお寺跡にいく」

 

「はいはい」

 

 背中に吐きかけられたヤタカの溜息など、気にする様子もなく先を行くイリスに、空げんこつを振るってヤタカもそのあとを追いかけた。

 

 からん ころん

 

 若葉の香りを乗せてそよぐ風に乗って、遠くの方で下駄の音が何度か聞こえた気がした。

 

 夕暮れまでまだ時間がある内に、閑散とした村に辿り着いた。

 街道に並ぶ店の戸は固く閉じられ、裏に立ち並ぶ家もしんと静まりかえっている。数人の男達が村の中を歩き回っているから人は居るのだが、ヤケに風通りが良く感じるのは、この時間なら騒がしく道を行き交うかみさん連中や、棒を持って走り回る子供らの姿が一つも見受けられないせいだろう。

 

「まだ寒いとはいっても、あの男連中は着込みすぎだろう? 足元もまるで真冬の装備だ。昼間なら素足に履き物で十分だろうに」

 

 ヤタカの疑問は村の中を歩く三人の男達が見せる、きょろきょろと怯える様な態度にも向けられた。

 

「まるで当番だから仕方なく見回っているって風だ」

 

「この村だよ。目がちりちりする」

 

 異種を宿すイリスの目も感覚も、近くに存在する異種に対して敏感だ。

 それはヤタカも同じこと。ヤタカの目に宿る水の器は、他の異種が近寄ればそれを知らせるかのようにヤタカの目を血を疼かせる。

 

「どうやら異種だけじゃ無さそうだな」

 

「ただの村なのに? 異種がいっぱいなら考えられなくもないけれど、異物? それじゃなくても滅多に見つけられる物じゃないのに」

 

 イリスの疑問はもっともだった。異物は自然界の中においてはただひたすらそこに存在するに過ぎないが、人里に気まぐれに姿を見せることなどめったにない。

 大抵の場合、そこには持ち運んだ人の手が絡んでいる。

 

「何とも言えないが、取りあえず喉が渇いたよ。村の奥に沢があるみたいだから、先に水を飲んでもいい?」

 

 頷くイリスの手に腰の布を掴ませて、ヤタカは村へと足を踏み入れた。

 ゆったりと歩くヤタカ達の姿を見ると、二人の男はあからさまに避けた態度で家の向こうへと姿を隠した。

 

「嫌われたみたいだな」

 

 水の匂いを頼りに村の奥へ進むと、角を曲がった途端一人の男と出くわした。

 ぎぇっ、と声を上げて驚いた男は、動揺を隠せないまま逃げるタイミングを失ったのだろう。辺りの地面をきょろきょろと見回しては、その合間にヤタカの顔を覗った。

 

「旅の者だが、妙な噂を聞いてね。女性と子供は家の中かな? 外を歩いていた男性にも、声をかける前に逃げられてしまったよ」

 

 ヤタカが問いかけると、男は困ったように喉を呻らせた。

 

「そんな噂がもう出回っているのか? こんな状態になってまだ半月も経っていないのに」

 

 若い男だった。

 

「もしかして、妙な植物が急に芽をだしたとか? 異種と呼ばれる植物の芽だよ」

 

 ぎょっと目を見開いた男は、答えていいのか迷ったのだろう。幾度も唇を前歯で挟み込んで眉を顰めたあと、それでもこくりと頷いた。

 

「あんたら、野草師か?」

 

「いや、野草師でもゴテ師でもない。まあ、その商売で生きている者が身近にいるけれどね」

 

 ヤタカはゴテ師と同じく幼なじみの野草師の顔を思い浮かべる。そういえば二ヶ月ほど会っていない。

 

「異種を呼び寄せ、狩る者ではないよな?」

 

 震える声にヤタカがゆっくりと首を振って否定すると、若い男の表情に安堵の色が浮かんぶ。きょろきょろと辺りを気にする男に、ヤタカは沢には人気もないだろうからそこで話を聞かせてくれないかと申し込む。直ぐには頷かなかった男だが、ヤタカの背後からひょっこり顔を覗かせたイリスがにこりと口元に笑みを浮かべると、少し安心したのか自ら沢への道案内をかってでた。

 

「ここの水は美味いな」

 

 腹一杯に水を飲んだヤタカが顔を上げると、男は呆れ顔で体を仰け反らせる。

 

「よく布でこす前の水なんか飲めるな」

 

 異種の種を水と共に飲み込むことを恐れて、村人は水を布で濾してから飲んでいるのだろう。まさか異物憑きだから異種が宿る心配はないとも言えず、ヤタカは曖昧な笑みで誤魔化した。

 

「事の始まりは何だったんだい? 解っていることだけでいい。詳しく教えてもらえたら対処法も考えられる。必要なら、知り合いの野草師とゴテ師をここへ呼ぶよ」

 

「半月ほど前、日が落ちたばかりの時間に遠出から戻った村の者が、そこら中に見たこともない植物が芽をだしているって、大慌てで村中の戸を叩いてまわったんだ。年寄り連中が、ありゃ異種だといってみんなを家に閉じ込めた。外を歩いている男連中は、交代で外の様子を見回っているんだ」

 

「それであの厚着か。異種に宿られないように」

 

 妙だった。一晩にして複数の異種が芽吹くなど、しかも人が住む村の中だ。地面に生えていたということは、おそらく一番種だろう。

 

「みんなでそれを刈り取ったのかい?」

 

 いいや、と男は首を振る。

 

「最初の一晩はみんな恐がって表にでなかったさ。男達は異種だといった爺さんの家に寄り合って、策を練っていたしな。ところが……」

 

 信じちゃ貰えないよ、と男はヤタカの顔を上目遣いにちらりと見る。

 

「翌朝になって少しだけ窓を開けて表を覗いたら、異種が綺麗さっぱり消えていたのさ。これで終わりかと胸を撫で下ろしたが、やっぱりそう簡単に終わってくれるわけもない。二日と待たずに、また異種は芽を出した。まるでこの村に集まれって呼びかけがあったみたいに、みごとにこの村だけに異種が芽をだすんだ。日も暮れた頃に芽吹くから、街道を行く人がいても目には留まらない」

 

「そして一晩明けると、消えている?」

 

 そうだ、と男は頷いた。

 

「最初の夜、何か変わったことはなかったかい? 地面が揺れるとか家を揺らすほどの風が吹くとか、何でもいい。些細なことで構わない」

 

「夜中を過ぎた頃にさ、からんころんって音が鳴るんだ」

 

「からんころん? 下駄みたいだね」

 

 茶々をいれたイリスの頭を押さえ込み、ヤタカは昨夜の出来事を思い出して鼻に皺を寄せた。

 

「あれは下駄だよ。夜明けまで村中を歩き回っていたらしい。爺さんの家に寄り集まっていた男達はもちろんだが、家に残っていた女子供も耳にしている。まるで下駄の音が異種を一晩で刈り取ったみたいだった」

 

「下駄なら誰かが履いて歩いていたんじゃないのかい? こっそり覗いた者はいなかったの? 大きな手がかりだろうに」

 

 ヤタカの問いに男はぶるぶると首を振る。

 

「異種が活発になるのは夜だってことくらい、ガキだって知っている。それに爺様が開けるなっていったんだ。おびき出す為に、下駄の音を鳴らす異種があっても不思議じゃないっていってさ」

 

 年寄りの知恵と知識は正しいことが多い。下駄の音はどうか知らないが、水が流れる音を葉で真似て、旅人を引き寄せる異種なら確かにある。

 

「それじゃあ下駄を履いて歩く者の姿どころか、下駄さえ誰も確かめてはいないってことか。この村の人間は、まだ異種に宿られてはいないよね?」

 

「たぶんな。でも宿って何年も経たないと発芽しない異種なら、宿られたってわからないだろ?」

 

「でも異種宿りは、今までとは違う五感を持つことが多いらしいよ? まぁ、異種宿りだなんて知られたくないだろうから、言うわけないか」

 

 口を出したイリスの答えに、男は不安そう眉尻を下げた。

 薄暗くなったと思い空を見ると、雨を運ぶ黒い雲が傾いた日を覆い始めていた。この分だと村が闇夜に包まれるのはいつもより早い。男を村へ帰した方がいいとヤタカは思った。

 

「そろそろ村の方へ戻ろう。ところで、俺達意外に最近この村を訪れた者は?」

 

 男は村の表を走る街道を指差した。

 

「異種が蔓延った次の朝、街道脇の大木に背を凭れている男を見つけた。こんな事態だか、さっさとここを立ち去った方がいいって忠告はしたよ。でも男は足が悪いし、ここで待ち人があるから此処いるというんだ。村に迷惑をかけないように、野宿するから構わなくていいとね」

 

「その男、まだ街道にいるのかな? ここへ来る途中では見かけなかったが」

 

「昼間はふっと姿を消すときもある。生きてる以上、水や食べ物だって必要だろ? それにしたって野草師やゴテ師でもないのに野宿だなんて、自殺行為だ」

 

 若い男に礼をいい、ヤタカはイリスを連れて街道向こうの林の中に身を潜めた。

 

「ヤタカ、足が悪い男の人を待つつもり?」

 

「あぁ、待ってみる。今夜その男に動きが無ければ、ゴテ達に連絡を取るさ。俺の手には負えないよ」

 

「野宿?」

 

「うん、ごめんな」

 

 珍しくこくりと素直に頷いた、イリスに目を丸くしたヤタカだったが、野宿にはまだ早い季節だ。夜に動かなくてはならないことを考えても、少しでも暖かい今のうちに睡眠を取っておく方が得策だ。

 

「イリスも少し昼寝しておきな。雨が降るかもしれないから」

 

 もし本当に男が現れたなら、雨が降ろうとヤタカは後を追うつもりでいた。さっき人通りのない村の道ばたで失敬してきたゴザを被れば、雨に触れなくても済むだろう。

 

 日が暮れ始めるにつれて、街道を行く人の数も減ってきた。

 夜になれば獣も異種も動き出す。ヤタカはイリスと旅に出てから、獣を警戒したことはない。どういうわけか、イリスの側に獣は寄ってこようとしない。異種に意思を持った行動なんてものがあるとも思えないが、まるで目に宿る異種に守られているようだった。

 木に背中を預けてうつらうつらと眠るイリスの肩が傾ぐたび、ぐいと手で押し返して街道を眺めていると、村の向こう側の森から初老の男が一人歩いて来るのが見えた。

 

「あの男か」

 

 杖に体重を預けながらゆっくりと歩いてきた男は、街道脇の大きな木に凭れて腰を下ろすと、背負っていた荷物を横に置いた。

 日が沈むまでは動かないつもりだろうか。

 男は目を閉じると胸元をぐっと握り顔を顰めた。あの体では異種を恐れるどころか、獣に出くわしても戦うどころか逃げることさえままならないだろう。

 

「てっきり下駄を履いていると思ったが地下足袋とは。それにしても苦しそうだな。肺でも病んでいるのか」

 

 胸と肩が小刻みに上下して、男の呼吸が浅いことを示していた。

 

「あのおじさん、長くは保たないよ」

 

 うっすらと目を開けたイリスがいう。

 

「イリスがそう感じるってことは、異種宿りなのか? そんな気配はしないけれど」

 

 異種に関しては、イリスの方が遙かにするどい。異種宿りの全てを感じ取れる訳ではないが、何らかの情報がイリスへと流れ込むことはままあった。

 

「異種宿りだよ。ヤタカが感じづらいなら、側に異物があるのかもね」

 

 目を擦りながら話すイリスは、半分寝ぼけた様な調子だったから、どこまで本当の話だか怪しいものだと思ったが話の筋は通っている。

 山間の村では暮れはじめた日が沈むのが早い。すっかり視界の悪くなった薄闇の中、男が提灯に火を灯した。

 

 からん ころん

 

 街道の砂埃がそわそわしたように、通りすがった風に舞い上がる。

 

 からん ころん

 

 ヤタカ達が身を潜める木立から三歩と離れていない場所で、葉を伸ばし始めたばかりの草むらが揺れる。

 

「下駄?」

 

 阿呆みたいなひと言しかでてこなかった。

 揺れた草むらを割って街道に悠然と姿を見せたのは、下駄。

 

 からん ころん

 

 男が灯した明かりに惹かれたかのように、下駄が街道を行く。

 下駄の音に気づいた男が、ゆっくりと視線を向けた。

 

「へぇ、驚く様子も見せないとはね。履く者の居ない下駄が、闊歩してるっていうのに」

 

 おそらくは、異種の木から切り出された板を使って造られた下駄だろう。

 残りの板がどう扱われたのか気になるところだが……今は置いておこう。

 

 男の傍らで下駄がぱたりと歩みを止める。

 勝手知ったる様子の男は膝を抱えて足を引き寄せると、指先に下駄の鼻緒を引っかけ地下足袋を履いたままの足に被せた。

 街道の人通りは完全に途絶え、村人も家に籠もって息を潜めている。

 

 初老の男がすっと立ち上がった。

 足元には来るときに体重を預けていた杖が、枯れ枝のように放られたまま。

 

 からん ころん

 

 村へ入っていく男の下駄の音だけが、山間の闇に響き渡る。

 

「イリス、あの男が村を出るまで話しかけるなよ」

 

 こくりと頷いたイリスと共に、少し離れて男の後を追う。幸いなことにまだ雨は落ちてこない。

 

「さっきまで足を引きずっていたのに」

 

 からん ころん

 

 下駄を履いて歩く男の足取りは軽い。提灯で照らした先に合わせて、右に左にと足を進めていく。

 男の提灯に照らし出される土の道を見て、ヤタカは目を丸くした。昼間には異種どころか春先ということもあって背の低い雑草くらいしか見当たらなかったというのに、村の道は今まさに芽を出したばかりの異種が所狭しと顔を出していた。

 

 からん ころん

 

 下駄の音が、ヤタカの耳の奥で木霊する。

 

「あの下駄は間違いなく異物だ……まさか、下駄で異種を踏み潰しているのか?」

 

 まるで影踏みをして遊ぶ子供のような足取りで、男の下駄は芽を出し、目の前で伸びていく異種を踏み潰す。踏まれた後には茶色く草臥れた茎と葉が横たわり、異種が枯れたことを示していた。

 

「異種がいっぱい」

 

 イリスが呟く。

 

「恐ろしいほどの量だよ。一カ所に、しかも村の道にあんなに様々な異種が芽をだすなんて」

 

 くいっと袖を引くイリスを見ると、暗闇で見えないと思ったのかヤタカの腕に額を擦りつけて首を横に振った。

 

「違うよ、あれを見て。どんどん異種が集まってきている」

 

 自分に害はないとわかっていても、辺りを見回したヤタカは口元を手で覆った。

 淡い光りを放ちながら、小さな綿毛が村の奥へと飛んでいく。小虫が耳元を通る嫌な音が幾度も響く。おそらくは異種の一番種を宿された虫達だろう。

 まるで男の行く先を知っているかのように、様々な種が村へと入っていった。

 男が行く先を選んでぽとりと落ちた虫を、下駄が踏み潰して行く様が目に浮かぶ。

 

「どうしてだ? 異種と異物は互いに干渉を避けるのが普通なのに」

 

「泥の川だって異種を受け入れていたよ?」

 

 確かにそうだが、一般的には有り得ない。その前提があるからこそ、異物憑きと異種宿りは他の者に宿られずに済むのだから。

 

「きっとね、あの下駄が呼び寄せているんだよ? だってわたしでさえ、あの下駄に惹かれるもの」

 

 はっとして、ヤタカはイリスの手をぐっと握った。

 

「大丈夫だよ。確かに惹かれるけれど、お団子とどっちって聞かれたら迷わずお団子」

 

「例えがめちゃくちゃだな」

 

 この分なら大丈夫だろう。少し力を緩めるとイリスの手がするりと抜けた。

 男は村に走る道を隈無く歩くつもりらしい。足の悪い男の歩き方ではなかった。強いて言うなら、下駄が男を歩かせているとしか言いようがない。

 男が通り過ぎた後には枯れた異種が寝転び、風で飛びそうなほどかさかさに乾いている。

 昼間の様子からして、乾ききった葉と茎は粉々に砕けて風にでも飛ばされるのだろう。

 

「あの道で最後だ。先に街道に戻っていよう。あの男は荷物を置いた場所に戻ってくるさ」

 

 家の窓から漏れる薄明かりを頼りに街道まで戻った。背後からは今だにからんころん、と下駄の音が響く。

 

   

 一時間ほど経っただろうか。もしかして戻って来ないのかとヤタカが腰を上げかけた時、村の奥にこちらへ向かってくる提灯の灯りが揺れるのが見えた。

 

 からん ころん

 

 男は最初に腰を下ろしていた木の根元に座ると、両足を前に投げ出しぼんやりと暗い空を仰いだ。

 ヤタカは街道を挟んだ木々から出て、ゆっくりと男に近づいていく。

 

「あんた、村の者か?」

 

 男がぼんやりとした視線を寄越してそういった。

 

「いや、村の者は異種を恐れて夜は出てこないよ。あなたの下駄、異物と呼ばれるものだと思うのだが、覚えはあるかい?」

 

 すとんと足先の下駄に視線を落とした男は、力なく首を横に振る。

 

「オレは異種の種と交換に、この下駄を履いて村を歩くことを引き受けただけだ。この下駄が何かなんて、オレにはどうでもいい」

 

「誰に持ちかけられた話なの?」

 

 不思議そうに眉を顰めてイリスが聞く。

 

「知らない奴だ。履いていたこの下駄を脱いで寄越したと思ったら、どこに行ったんだか顔を上げた時には姿を消していたよ」

 

「なら何の為に、この下駄で異種を踏み潰していたかも知らない?」

 

「言われた通りにしただけだ。村人に害はないといっていた。頼まれた仕事も今日で最後だ。その後は、気にしなくていいといっていたよ」

 

 男は目を瞑ると、外套の胸元を手でぐいと引いて胸をはだけた。

 

「異種が根付いている」

 

 イリスの言葉通り、男の胸に這う黒いミミズ腫れの中心に、こんもりとどす黒い盛り上がりがあった。

 

「どうして自分から異種を求めたりした? 死ぬんだぞ?」

 

「いいんだよ。どうせ放っておいてもあと一月も持たない体だから。死期は早まると聞いたが、一月ぐらいどうってことないさ」

 

「いったいどんな異種を宿したんだい?」

 

「死期の迫った者に宿れば、ほどなく花を咲かせるらしい。種を宿した時点で、オレの体からは身内だけがかぎ取れる臭いが発されるんだとさ」

 

 男が咳き込むと、胸を這う黒いミミズ腫れがぼこりと動く。

 

「オレの女癖のせいで、嫁は三歳の娘を連れて家をでてね。あれから二十年近く経って、古い知り合いから聞いたんだ。娘がこの村を挟んだ村から村へ嫁にいくってね」

 

 男の呼吸が速くなる。ミミズ腫れは肋を覆うほどに広がっていた。

 

「何となく離れがたくて、ここから遠くない村に身を置いていた。もう顔さえ覚えていないが……会いたいじゃないか。死ぬ前に娘にさ」

 

「異種の放つ香りに惹かれて、アンタに興味を示す女性がいたら娘さんてことか」

 

 あぁ 胸を押さえながら男が頷く。

 

「この辺りの娘は、異種になど取り付かれる者ではないと、縁起を担ぐために野草師を雇って夜中に輿入れするのさ。だから、オレはここで街道を眺めている」

 

 胸を押さえていた、男の手がだらりと下がる。

 

「うそつき……」

 

 ヤタカの肩越しに、イリスが呟く。

 大きく咳き込んだ男の視線が、街道の右へと続く闇へ向けられた。

 

「ほら、輿入れの提灯の明かりだ。間に合ったかな」

 

 目元を緩めて眺める視線の先には、道さえ見えない闇が広がっている。ヤタカは眉を顰め、イリスの肩を押して男との距離を取る。

 街道の奥からずっと、見えない何かを追っていた男の視線が目の前で止まった。

 

「輿入れかい? 綺麗なお嫁さんだ」

 

 男の目尻には柔らかな笑みが浮かび、それを嘲笑うかのように口の端から細く血の糸が垂れる。

 

「幸せになるさ、こんなに綺麗な嫁さんだもの。いやいや、旅の途中で輿入れを見られるなんて、幸せを分けて貰ったよ」

 

 答えるかのように、街道の土埃を巻き上げ風が通った。

 何も無い闇に、男は満足げに頷いた。

 

「気をつけてな……きれいだぁ……」

 

 満面の笑みで目を閉じた、男の胸が跳ね上がる。

 男の首がくたりと落ちた。

 胸を這うミミズ腫れの中心から、ユリを思わせる白い花が開いていく。

 嫁入り衣装のように柔らかそうな白い花が大きく咲いた。

 白い花は男の血を吸い上げ、花びらが根元から深紅に染まっていく。

 ぽつりぽつりと降り出した雨に打たれて、紅い花びらが揺れる。

 役目を終えたように、男の両足から下駄がぽとりと落ちた。 

 

「近くの小屋へ移動しよう」

 

 子供が天気を占って放り投げたように、ばらばらに転がる下駄を拾い上げると、ヤタカの手の中で鼻緒が震えた気がした。

 男の胸に咲いた血の花が、茶色く色を変え枯れていく。

 ぽとりと落ちた黒い種を摘み上げると、ヤタカはその種を下駄に押しつけた。

 ぶるりとひとつ震えた下駄に、押しつけた種が呑み込まれていく。

 

「この下駄は嘘を吐いた。でもその表情、アンタにとっては幸せな最後で、それは現実だったのだろうな」

 

 満足げな男の笑みが苔むしていく。

 ヤタカは油を染みこませた布を巻いた棒に火を移し、男の提灯の明かりを吹き消した。

 この程度の雨なら、この棒の明かりで少しは歩けるだろう。

 

「近くの小屋へ行こう。雨は嫌いだ」

 

 この村も妙な下駄の音が聞こえなくなれば、数日のうちに村から異種が消えたことに気づくだろう。村人にとって真相は闇の中だが、世の中には知らなくていいことは多い。

 知る者として、知らせてはならない事柄もある。

 

「さてこの下駄をどうしたものかねぇ」

 

「その下駄、嘘つき。望む幻を、見せる力しか無いくせに」

 

「イリス、怒るなよ。方法は間違っていても、死期の迫ったあの男にとっては、けっして嘘じゃなかったと思うよ。それより、こいつの本来の目的が問題さ」

 

 異物が意思を持ってここまで動くなど聞いたこともない。有り得ない量の異種の種を取り込んでいるであろう、この下駄を持っていると流石に落ち着かない。からといって道ばたに捨てるわけにもいかなかった。

 溜息を吐いて、荷物の中に下駄を放り込み背負い直す。

 

「考えるのは明日だ。ゴテに渡してもいいが、受け取ったところであいつらも荷が重いだろうしな。とりあえず、この村で起きたことを文で伝えて後始末を頼むとするか」

 

 背負った荷物の中で、かたりかたりと音が鳴る。

 鳴る下駄を無視して小雨の中、ヤタカとイリスは小屋へと急いだ。

 




読んで下さった皆様、ありがとうございます。
コピペしてびっくり……こんな文字数になっていたなんて……。
二話に分けるのも中途半端でこのままです。
けっこう削ったのですが、削っていなかったらいったい?!
なるべく文字数にばらつきが、大きくならないようにしたかったのですが。
これに懲りずに、次話も読んでいただけますように。
では!


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8 へべれけ下駄

「うるっさい!」

 

 横になって眠るイリスの足と壁の間に置かれたヤタカの荷物に、イリスの蹴りが入ったのは何回目だろうか。

 

 カタ コト

 

 荷物の中で逃げ道を探すように地団駄を踏む下駄がかち合う音が、一晩中ヤタカの睡眠を妨げていた。

 最初は拳骨で下駄ごと荷物を叩いていたイリスだったが、どうやら拳の痛みと眠気に負けたらしい。下駄が鳴るたび寝言で文句は吐きながら、下駄以外の中身が心配になるほどの蹴りをかましている。

 

 カタ コト

 

 異物にも相性はあるのだろう。切り出された木は乾燥を好むせいか、水気の異物を宿すヤタカの側では、下駄は息を潜めて大人しくなる。

 あるいは異物に感情や思考があるというなら、数多の異種を宿す下駄を明日の朝一に焼き払ってしまうべきか、本気で迷っているヤタカを恐れているだけかもしれなかった。

 

 

 

 ぐっすりと安眠を貪りながら蹴りを繰り返すイリスと、耳障りなカタコトに合いの手を入れるような、壁を揺らす震動に耐えてほとんど眠れなかったヤタカにも、平等に朝は訪れる。

 

「おはよう、いよいよお寺の跡地へ出発だね」

 

「元気でなによりだな。イリス、足は痛くないか?」

 

 何のことだと言わんばかりに首を傾げるイリスにひらひらと手を振って、ヤタカは先に小屋をでた。

 荷物から下駄を取り出し鼻緒を摘むと、紐に吊した玉をぶつけたみたいに下駄がカンカンと跳ね上がる。

 

「燃やすぞ」

 

 ぴたりと下駄の動きが止まる。

 こうまで反応されると意思などないと解っていても、気軽に火を放てなくなるのが人情だ。自分の性格にうんざりしながら、ヤタカは下駄の鼻緒に紐を括り付けた。こうしておけば、勝手に逃亡することもないだろう。

 犬の散歩のように地面に放つと、反抗的に片下駄の頭を持ち上げカン、と鳴らした。

 

「ヤタカ、下駄はどこ?」

 

 目に布を巻き杖を手にしたイリスがでてきたが、手には一枚の紙と小さな竹筒。

 

「紐でくくって地面の上だよ。ゴテ達に話が付くまでは連れて歩くしかないだろう?」

 

「でもね、その姿。たぶん普通の人が見たら、紐を引きずって歩く変な人にしか見えないと思うよ? みょうな若いオッサン」

 

「若いかオッサンかどっちかにしろよ。他にどうしようもないだろう?」

 

 するとイリスがくいっと顎を上げ、ちょっとだけ唇を突き出して見せた。得意な時にする表情は、子供の頃と変わらない。

 

「成長しないなぁ」

 

「へ? なに?」

 

 カタ

 

 往生際悪く鳴った下駄の音を聞きつけ、イリスはさっと駆け寄ると、片手で下駄をむんずと押さえ込む。

 

「本当に効き目があるか、まずは実験ね」

 

 言うが早いか小さな竹筒の栓を抜き、中身の透明な液体を下駄の上にかけ始めた。

 

「おい! 何をやって……」

 

 しーっ、と口元に指を当てるイリスは、布で塞がれて見えないくせにしゃがみ込んで地面の下駄に注目している。

 まるで、ヒック、としゃっくりが聞こえるようだった。

 よしっ、と呟いたイリスがヤタカの忠告を無視して紐を解くと、下駄は今だと言わんばかりに歩き出した……つもりだったのだろう。

 

「まさか、酒をかけたのか?」

 

「うん」

 

 下駄が千鳥足でよろよろと歩いている。どこかへ行こうとしているのだろうが、つっかかっては横倒しになり、地面の代わりに自分の片割れを踏んでは転ける。

 信じがたかったが、イリスがかけた酒に酔ったらしい下駄は、完全に目を回していた。

 

「いったいどこでこんな方法を?」

 

 寺の書物を読みあさったヤタカの中に、酒と異物を結びつける情報はない。ひらひらと一枚の小さな紙を差し出すイリスから、訝しげに紙を取り上げたヤタカは書かれた短い一文に目を剝いた。

 

「いったいこれを何処で?」

 

「ゴザ売りのおじちゃんが、別れ際に手に握らせてくれたの」

 

 ヤタカは頭を抱えて言葉にならない呻きを漏らした。

 

「罠だったらどうするんだよ。簡単に人を信じるな!」

 

 見えていないと知りつつ睨み付けると、けろりとした表情でイリスが見返してくる。

 

「罠を仕掛けるくらいなら、あの小屋で殺されていたと思うよ?」

 

「安心させてから牙を剝くのが、詐欺師の上等手段なんだ」

 

「おじちゃんは詐欺師じゃなくて、草クビリでしょう?」

 

 だからこそ詐欺師よりまずい、という言葉は呑み込んだ。今の段階ではイリスにとって草クビリは、慈庭や素堂へ繋がる人という括りでしかないのだろうから。

 

「他の異物に勝手に酒をふりかけたりするなよ? 約束しろよ」

 

「うん」

 

 意外と素直に頷いたイリスの足元で、下駄は変わらず同じ場所をぐるぐると回っている。 ヤタカは異物憑きだ。だからこそ男は紙をイリスに渡したのだろう。異物へ影響を与える方法を、ヤタカに宿る水の器が好むとは思えない。

 

――異物の内を覗くは酒の力なり

 

 紙に書いてあった短い文。この様子では、酒が異物に影響を与えることがあるのは事実とはいえ、内を覗くという意味がわからない。

 酔っ払いの下駄など、どれだけ眺めても飲んだくれの阿呆の足元を見ているようにしか思えなかった。

 あるいは……とも思う。男の言葉が本当なら、草クビリは寺の書物よりも豊富な知識と経験を持っていることになる。

 異物に人が覗ける真意などあるとすればの話だが、そんな与太話など昔語りにさえ聞いたことがなかった。 

 

「やっぱり邪魔だから荷物に入れていこう。朝一で暖を取る焚き火でも贅沢に燃やして、その中にくべてやろうと思ってたんだがな」

 

「村人に害はないって、この子は言ったんでしょう? 人に異種が宿る前に回収しているだけなら、悪い子じゃないかも」

 

「その言葉さえ、こいつがあの人に見せた幻だという可能性が高いだろう? これを履いていた奴は忽然と姿を消したんだ。幽霊じゃあるまいし」

 

「異物は謎だらけなの。目的も解らないのに火にくべたら駄目でしょう? それにヤタカだって最初みたいに目が疼いたりしないんじゃない? わたしは平気。この下駄にはいっぱい異種が取り込まれているのに不思議だね」

 

 あぁ、と小さく息を漏らし、ヤタカは指先を目に当てた。いつの間にか近くに異物があるとき特有の違和感は消えている。

 

「あんたは何者? 何をしようとしているの? 教えてくれないと焚き火にしちゃうけれど……いい?」

 

 物言わぬ異物に話しかけてどうする。人に火にくべるなといっておいて、同じ手口で脅したら意味がないだろうに。

 まだ日が昇りきっていないからと、薄ら明るい中イリスは目を覆う布を取った。

 

「しゅっぱつするぞ。寺に行くには何日もかかる」

 

 肩で息を吐いて歩き出したヤタカの背中を、待って、と驚いたようなリスの声が押さえつけた。

 

「この子、話せるんだ」

 

「下駄に酒をかける前に自分も飲んだのか? 巫山戯てないで早くいこうって……」

 

 イリスの肩に手をかけようとしたヤタカの手が止まる。

 細く小さなイリスの肩越しに、地面に並ぶ下駄が見えた。

 酒に濡れて濃い飴色になった下駄の木肌に、薄墨を垂らしたごとく文字が浮かぶ。

 

「ほらね、この子が自分の意思を見せた」

 

 呆然と薄墨の文字を目で追った。

 

「冗談だろう、有り得ない」

 

 揺れる文字はまるで湖面に浮かんでいるようだった。

 

 ――たきびはだめ

 

 形を成していた文字が、墨が水に溶けるように消え、次の文が浮かび上がる。

 

――てらへいく

 

 平仮名のみの文字が揺れる。

 

――みちをしっている ちかい

 

 文字が薄れて、散った。

 

「近道を知っているのね?」

 

「罠かもしれない。人前に姿を見せる異物には、必ず人が絡んでいる」

 

 ぷうっと膨れるイリスにも、ヤタカは甘い顔は見せなかった。判断を誤ればイリスの身が危なくなる。

 

「おまえは誰なんだ?」

 

――わからない

 

 文字が浮かんでは消える。

 

――ばばにあう

 

「なんだそりゃ?」

 

――ばばがまっている

 

 下駄は同じ言葉を繰り返す。まるで覚えているのはそれだけだとでもいうように。

 

「何かあったら、わたしが火にくべる。だからわたしが連れて行く」

 

 ゆるく結び直した紐を手に、イリスがまっすぐにヤタカを見る。

 黒曜石に似た瞳が、ヤタカの反論を完全に喉の奥に押し込めた。

 

「わかったよ。取りあえずは寺までだ。案内するのはいいが、イリスに無理のない道なのだろうな? 近道でも危険が伴う道は駄目だ」

 

――あい あい

 

「あい? ばかイリス! なにやってんだよ!」

 

 人が腰に刀を差していたという、昔話にでてくる子供のような返事に首を傾げ、ふっとイリスの手元を見たヤタカは額を叩いて目を瞑った。

 

「お酒が好きみたいだから、ちゃんと答えてくれたご褒美」

 

 残っていた酒の最後の一滴が、小さな竹筒の口からぽとりと落ちた。

 

「喜んで千鳥足なわけじゃないと思うぞ。単に酔っ払った下駄ってだけだ」

 

 再びよろよろと足元の覚束なくなった、下駄の鼻緒に巻いた紐をイリスが緩める。

 

「これで歩きやすいでしょう?」

 

 へげれけに酔った下駄の表に文字は浮かんでこない。

 

「さあ行きましょうね」

 

目元に布をきゅっと巻き直し、杖を擦りながらイリスが行く。

 意気揚々と紐を引くイリスに引きずられ、酔っ払った下駄がよたよたと歩いて行く。

 

 かからん ごろん

 

「威厳の欠片もない下駄の音だな。イリスが先に歩いちゃ意味がないだろう? こりゃ駄目だな」

 

 道案内を買ってでた下駄は口先ばかりとみえる。転がってはとてとてと進み、つんのめってはまた転ぶ。

 

「そいつの酔いが覚めるまで、順当な道を辿って戻るぞ。もう飲ませんなよ!」

 

「あい」

 

 下駄の真似をしてイリスが答える。

 たびの道行きがいっそう不安になった。異種宿りに異物憑き、そこに加わったのは得体の知れない下駄ときた。異物とはもっと神聖なものではなかったのか? 

 

「こんな与太郎下駄じゃ売れもしないな」

 

使い古された飴色の下駄が、紺色の鼻緒を紐でくくられ右へ左へ千鳥足。

 喜々として下駄を先導するイリスの後を、ヤタカは肩を落として歩いて行く。 

 

 

 

 月の半分以上は歩かなければ、寺の跡地に辿り着けないだろうと予測していたヤタカの予想は、得体の知れない下駄によってあっさり覆された。

 あの日ぐでんぐでんに酔って最後は自ら歩くことさえできなくなり、イリスが手にした紐にガラクタのように引きずられて土まみれになっていた下駄は、次の朝にはすっかり酔いをさまし、下駄の表面、鼻緒の下から人の踵が乗る部分にかけて、するすると薄墨の文字を浮かび上がらせた。

 

――かいどうから ぬける

 

 この言葉にはヤタカもイリスも首を傾げた。下駄の言う近道とやらは、てっきり山を越えていくとばかり思っていたからだ。

 

――さきの わきみちへ

 

「街道を離れるには、おまえを信用するに足りるだけの情報がないとな」

 

 少し考えるように、下駄の木肌で消えかけの文字が揺らぐ。

 

――ばばにあう

 

「ばばとやらを、俺は知らない」

 

――あのばしょ まもるもの

 

「寺の縁者か?」

 

――そどうの ち

 

「素堂のじっちゃんに血縁者が?」

 

 あの寺の者にまともな縁者がいるなど聞いたことがない。だが、でてきた素堂の名を無視することもできなかった。

 

「わかった。いってみよう。妙な動きをしたら、火にくべるからな」

 

 紺色の下駄の鼻緒がぴんと立つ。

 

「おっかないオッちゃんですねぇ。大丈夫だよ? ヤタカに火にくべさせたりしないから」

 

 ほっとしたように、下駄の鼻緒がへたりと下がる。

 

「火をつけるのは、わたしのお仕事だもん。ねぇ、下駄のゲン太」

 

 再び跳ね上がった鼻緒を紐でぐいと引かれ、がちゃりがちゃりと下駄がぶつかり引きずられていく。

 

「ゲン太って、安直すぎないか?」

 

 口ではああいっているが、いざという時火を放つのは、どうやらヤタカの仕事になりそうだ。あいつのどこを気に入ったのか知らないが、あだ名までつけた奴に簡単に火を放てるようなイリスではないだろう。

 その時がきたら、イリスの目に付かないところで事を済ませようと、ヤタカはひっそりと心に決めてひとり溜息を吐いた。

 

 脇道を半日ほど進んでゲン太が示したのは、知らなければ目に付くことも無いほど小さな横穴だった。

 荷物を背から下ろして、やっと大人一人が這って通れるほどに小さな横穴だった。

 この場合、イリスを先に見送っても外に残しても同じように危険が懸念される。ゲン太を信用できない以上しかたがない。考えた挙げ句、ヤタカはゲン太を先頭にイリス、そして最後に自分が行くことに決めた。

 

「げふ!」

 

 少しでもイリスから離れないようにと、後を追って近づきすぎたのが悪かった。後方が見えるはずもないイリスの足が、地面を漕ぎ損ねて跳ね上がり、ヤタカの顎を蹴りつけた。

 ヤタカの顔面に散った火花など知るよしもないイリスが、横穴の奥で声を上げた。

 

「すごい、ヤタカすごいよ! 壁が天の川みたいに青白く光ってる!」

 

 横穴から抜けた先で頭をもたげて見上げると、ちらちらと青白い光りを放つ帯が、洞窟の奥へと続いていた。

 

「こりゃなんだ?」

 

「そりゃあ、羽虫の幼虫さ」

 

 不思議な光りに見とれるヤタカとイリスの横からいきなりかけられた声に、ヤタカはイリスの肩を掴んで飛び退いた。

 

「逃げるこたぁないだろ? ここを通るのは初めてらしいな」

 

「誰だ? どうしてこんな所にいる?」

 

 男が手に持つ松明が、辺りをゆらゆらと照らし出す。

 目尻に深く皺が寄る程度には、年を重ねた男だった。まだ冬のように冷える洞窟の中で、綿入れを着込んだ男がにこりと笑う。

 

「ここを通る奴らのためにここにいる。おまえさん達こそ何者だい? 見たことのない顔だが、道に迷って入り込めるほど広い横穴じゃなかったと思うが?」

 

 男の後ろには竹を編んだ大小の籠が並べられていて、男が眠るためのものか、細長い台も置かれている。竹を持ち込み自ら編んでいるのだろう。編みかけの籠が、無造作に転がっている。

 何をどこまで答えていいものかと、口を開けずにいるヤタカの様子に、男はくすりと笑いを漏らす。

 

「目を布で閉じた娘さん、もしや寺にいた子では? 噂には聞いていたが、たしか少年だと記憶していたのだがね」

 

「この子は事情があって男ということになっていました。寺の事を知っているのですか?」

 

「あぁ。あちらこちらへ飛び回り、寺の足となった者達が、順当な道を辿っていたのでは時間がかかりすぎる。こういう道はあちらこちらに点在しているからね。もちろん、寺の最後も大まかにだが聞いている。残念だよ」

 

 寺を知っているなら、ここを通る理由を隠す必要もないか。

 

「寺の跡地へ、みんなを弔いにいこうと思っています。弔うと言っても、石を積む程度しかできませんが」

 

 そうか、と男は僅かに睫を伏せる。

 

「ここへ連れてきたのは、その下駄かい?」

 

 男が指差す先で、ゲン太が鼻緒をぎゅっと窄めた。

 

「すごいな、こいつが見えるんですね。ちょっと理由があって、しばらく連れて歩くことになりました。厄介事を起こした時は、責任をもってこいつを焼き払いますから」

 

 ははは、と楽しげに声を上げて、男は胸の前で手を振った。

 

「詳しく語る必要はないよ。ここを通る者に必要な物を貸し出し、手を貸すのが仕事だから。裏の事情を聞く耳まで持っちゃいないさ」

 

 男は油を染みこませた松明に火をつけ、暖かそうな綿入れと一緒にヤタカに渡す。

 

「出口には別の男がいる。これはそいつに返しておいてくれ。普段なら道を教えてやるところだが、その下駄が一緒なら道案内はいらんだろう。この先の道は寺へ続くだけではないから、細かく枝分かれしているからね」

 

「この下駄を信用するんですか?」

 

「さあね。信用できるかどうかなんて、人間でも究極死ぬまでわからんものさ。さぁ、そろそろ行きなよ。途中には飯を食える宿もある。簡素だがね。この札を見せれば直ぐに泊まらせてくれるよ。入口で揉めた奴ではないという証になるから」

 

 男がくれた赤く長細い木札には、何の文字も書かれてはいなかった。

 

「ありがとう」

 

 礼をいって洞窟の奥へと歩き出す。振り返ると、イリスが男に向けてぺこりとお辞儀をしていた。目尻に皺を寄せて微笑み手を振る男を後に、ヤタカ達は山の下を這う狭い道を進んでいった。 

 

 

 




読んで下さったみなさま、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただけますように……。


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9 泳ぐ漆

 光る羽虫の幼虫が壁を彩っていたのは入口だけで、その奥に続く横穴は大人二人が並んでやっと通れる程度の幅と高さしか無く、真っ暗な闇が何処までも続いていた。

 それでも松明の火が時折さわりと揺れる所をみると、所々に細々とした風穴が通っているのだろう。

 

「ねぇ、横穴の隣に下がっている板の文字はなに? 漢字だけれど意味不明だね」

 

 イリスの指差す先を松明で照らすと、更に横幅が狭くなる入口の横には、十センチ四方の煤けた板が打ち付けられていて<遜>と一文字書かれていた。

 

「さっきの脇道にも同じ札があったよ。そっちには<圭>と書かれていたな。意味は解らないけれど、おそらく道の続く先を指しているんじゃないか?」

 

 うんうんと頷くイリスの肩を押して、ヤタカは先へと進ませる。

 日の光の差さないここでは布を目に巻く必要がないから、松明の僅かな灯りといえど、イリスは歩きやすそうだ。何も無い細い洞窟だというのに、物珍しそうにきょろきょろと忙しく首を巡らせている。

 

「ほら、また脇道だよ。この洞窟から、まるで世界中へ行けそうな気がしちゃう」

 

 見つけた横穴にイリスが立ち止まり、歩調を合わせてヤタカも足を止めかけたその時、右の足首にゴムを弾いたように長引く痺れを伴った痛みが走った。

 

「痛いっての!」

 

 イリスに紐を引かれながら、二人のちょうど間を後ろからついてきていたゲン太が、ヤタカのくるぶしの後にがつりとぶつかった。

 

――くらい みえない

 

 ヤタカの痛みなど何処吹く風、といった文字が浮かび上がる。

 

「だったらどうして俺だけにぶつかるんだよ、こら!」

 

 ぶつかってきたのはこれで五回目だ。おまえが立ち止まったからと言わんばかりに、狙い定めて体当たりしてくる。

 

「松明が消えそうになったら、その鼻緒で明かりを灯そうか? いい案だよなぁ」

 

 ぐいっと松明を近づけると、ゲン太はそそくさとイリスの陰に逃げ込んだ。

 暗くて見えない? 嘘ばっかりだ。イリスの行く先に躓きそうな突起があると、それでなくとも横穴に煩く反響する下駄の音を、カカンカン、と鳴らしてはイリスを足止めしているくせに。

 

「拗ねていないで、行くよ。ほんと、ガキンチョなんだから」

 

「おまえなぁ」

 

 ざまぁみろ、と言わんばかりに鼻緒をそらせて下駄が行く。

 どうして男はこうも女と小さな者に弱いのか――情けなさにがっくり肩を落としてヤタカは、からんころんと響く下駄の音に合わせて土を擦る杖の後をついていった。

 

 日の光を失うと、人の体は途端に時間の間隔が曖昧になる。

 歩き始めてどれくらいたったか、体の疲労具合からみて、外はまだ日暮れ前だと思われた。とはいえ、それは体力のあるヤタカの感覚だから、イリスのことを考えるとそろそろ一休みした方がいいのかもしれない。

 そんなことを思い、イリスに声をかけようとした時だった。

 

 がらん、ががらん がらん

 

 慌てたようにゲン太が高々と跳ね上がり、紐の先を持つイリスを後方へと引っ張った。

 ぴんと張った紐にイリスが振る向くと同時に、ぱらぱらと音を立てて土と岩の混ざった壁から、小石と土の欠片がこぼれ落ちる。

 

「イリス! 下がれ!」

 

 小さな背中を抱え込んでヤタカはざっと後退り、背中にイリスを庇いながら全身の神経を逆立てる。

 地震のように突き上げる振動ではなく、小刻みな縦揺れが足の裏から体を揺らす。

 興奮して跳ね回るゲン太の音を打ち消すほどの地鳴りがしたかと思うと、壁に無数の穴が穿たれた。

 穿たれた大小の穴から伸びたものに、狭い横穴が塞がれていく。

 

「根だ。これは植物の、もしくは木の根だ」

 

 四方から伸びた根が絡まり網のように道を塞ぐ。

 地鳴りが止んだときには、ヤタカ達は完全に進路を塞がれていた。

 

「何してんだ? おまえ死ぬ気か?」

 

 背後からかけられた突然の声に振り向くと、大きすぎる外套ですっぽりと体を覆った少年が立っていた。顎をそらせて片目を細める様は大人びているが、歳の頃はせいぜい十歳くらいだろう。声変わり前の、澄んだ声が生意気さに拍車をかけている。

 

「どこから付いてきた? 子供が一人でくる場所じゃないだろう?」

 

 ヤタカの問いに少年はふん、と鼻を鳴らす。

 

「誰が死に損ないのアホウの後なんか付けるもんか。ぼくはここに住んでいるんだからな。通りすがりのおまえと一緒にすんな」

 

 鼻筋に皺を寄せてチッと舌を鳴らした少年が、びくりとして目を見開いた。

 

「あら、かわいい男の子。こんにちわ、わたしイリスっていうの」

 

 ヤタカの背中からひょっこり顔をだしたイリスが微笑むと、目を見開いて口をぐっと窄めたまま、少年は三歩ほど後退った。

 

「こらシュイ、ちゃんとご挨拶せんか」

 

 嗄れた声と共に姿を見せたのは、イリスより小さな老人だった。白髪と髭が伸びすぎていて、まるで境目がわからない。辛うじて見える目元だけで微笑むと、老人はヤタカ達を手招きした。

 

「巻き込まれなかったのが幸いじゃ。今夜はここに泊まるといい」

 

「あの、いったい何処から来たのですか? 俺にはあなたが、急に姿を現したように見えました」

 

 ヤタカの言葉に、シュイがにやりと冷めた笑いを浮かべる。

 

「だからいっただろう? ここに住んでいるんだってよ」

 

 生意気なシュイの頭をこつりと叩くと、老人は岩壁へと躊躇無く歩き出す。

 

「えっ……消えた」

 

 イリスの言葉にヤタカも頷くことしかできなかった。

 老人は腰の後ろに手を組んだまま、すたすたと岩の中に吸い込まれた。

 

「お姉さん、見ていてあげるから先に入りなよ」

 

 お姉さん? シュイの口元で白い歯が爽やかに笑みを浮かべている。

 

「イリス、待て!」

 

 呼ばれて小走りにシュイの元へ行くイリスに声をかけたが、逆に手招きされて何の抑止力も発揮しない。

 

「大丈夫だよ。そのまま歩いて行けば、中でじっちゃんが待っているから。ゆっくり歩いてね」

 

 シュイが柔らかな言葉をかけながら、イリスの背中をそっと押す。

 

「じゃあお先に!」

 

 いうが早いか、イリスの姿が岩に呑まれて消えた。その後をゲン太が意気揚々と追っていく。

 

「どうなってんだ?」

 

 近くに立って目を懲らしても、イリスの吸い込まれた場所には灰色の岩と隙間を埋める土が見えるだけだった。

 

「あんたも来たけりゃ勝手に来な」

 

 イリスへの気遣いは幻かと思うほど、そっけなく顎をしゃくり上げ、シュイはさっさも姿を消した。

 

「まいったな」

 

 ゲン太が騒がなかったということは、当面イリスに害はないのだろう。入口の男の話から察するに、ゲン太はこの洞窟の横穴をある程度知っているはずだ。

 ただし問題は、誰もヤタカのことを気に留めていないということだろう。言い換えれば、イリスには無害でも、ヤタカに多少の害が祟った所で気にする奴はいないということだ。

 そっと指先を伸ばして岩壁へと近づける。

 確かに岩面に触れている筈なのに、感じるはずの冷たさはなかった。目を閉じていたなら、そこに壁があることにさえ気付かないほど、自然に空気の中を指が潜る感触。

 さらさらと細い縄暖簾に腕を潜らせたような感触と共に、岩肌がぐらりと揺らぐ。

 

「くっそ、万が一子供ができても、シュイとゲン太って名前だけは絶対つけるもんか。ついでにイリスもだ!」

 

 ぐっと目を瞑り、ヤタカは一気に壁の向こう目掛けて駆け込んだ。

 

 ゴ~ン

 

 何かに体当たりした反動で仰向けにひっくり返った。ヤタカの頭と耳に腹を痺れさせるような銅鑼の音が響く。

 

「おっと、鳴らす手間が省けた。ありがとさん。外ではそろそろ日が暮れる刻だから、銅鑼を鳴らさなくちゃと思っていたんだ」

 

 見上げた先で、シュイが声を上げて笑っている。

 

「ゆっくり歩いてねって、シュイがいっていたのに守らないからだよ?」

 

 イリスの声に脱力したヤタカは、両目を腕で覆ってひとり呻いた。 

 

 

 

 気を取り直して眺めた天上は高く、細い白木の板張りに囲まれた空間は、まさに室内と呼ぶに相応しいものだった。

 

「宿屋あな籠もり、へようこそ。大した物はないが歓迎するよ。わしゃ、ここの主人で

シュイは孫みたいなもんだ。生意気じゃが悪い子ではないから、適当に相手をしてやっておくれ」

 

「ご主人、横穴を塞いだ根は、異種のものですよね? あまり驚いている様子ではありませんでしたが、見慣れた光景なのですか?」

 

 壁を掘った竈の中で鍋を掻き回しながら、宿の主人はにこりと頷く。

 外へ抜ける縦穴があるのか、立ちのぼる煙も湯気も真っ直ぐに見えない壁の内側へと昇っていく。

 

「この道を行く者の動きを、良しとしない異種もいる。異種といえど色々だ。人の思想を一括りにできないのと同じことじゃよ」

 

「まるで異種にはっきりとした意思があるかのようなおっしゃり方だが……」

 

「だたの宿屋の爺に、難しことはわからんよ」

 

 柔らかく、しかしはっきりとこれ以上の質問を遮られた気がした。

 ふと横を見ると、イリスを案内しているシュイが壁際に設置されたベットを、一生懸命整えているのが見えた。

 

「ありがとう、シュイ」

 

 イリスの言葉に、少年らしい得意げな笑みを顔一杯に浮かべ、シュイはイリスのベットを簡素な竹細工の置き板で間仕切りする。

 

「じっちゃん、飯はまだ?」

 

「もう少しだ。スープを入れる深皿を用意しておくれ」

 

 壁の所々に見られるへこみは全て収納用なのだろう。少し高めの場所へと背伸びして手を伸ばし、シュイは一枚ずつ深皿を下ろしていく。

 

「お姉さん、布のかかっている椅子に座って。じっちゃんのスープは栄養満点でおいしいから」

 

 にこりとよそ行きの笑顔で微笑みながら、一つだけ布をかけられた、丸太を立てただけの椅子に腰掛けたイリスの横で、飼い犬の特権といわんばかりにゲン太が行儀良く下駄を並べてちんまりと居座った。

 イリスの横に勝手に座ると、目の前で磨いていた深皿を一枚大事そうに抱えたシュイは、主人もとへ行くとたっぷりとスープを入れて貰い戻ってきた。

 

「はいどうぞ。お姉ちゃん、食べ終わったら皿の底をよーく見てね。面白い物があるからさ」

 

「うん」

 

 それぞれの皿にスープが入り、簡単な祈りの言葉とともに食事が始まる。

 

「おいしですね。この食材はどこから調達するのです?」

 

「この洞窟には様々な者がそれぞれの場所で役目を果たしている。それと同じように、外の世界にはわしらを支える役目がある。持ちつ持たれつなのだよ」

 

 あんたらのように、この道を必要とする者がいるということは、外の世界はまだ混迷しているということか――宿の主人は落とすように呟いた。

 

「そうだ入口の男性に、これを見せるようにといわれました」

 

 懐から赤い木札を出して渡すと、宿の主人は何も書いていないその表面を丹念に視線でなぞっていく。

 

「ふぉふぉ、どうりで誰も案内人が付かんはずじゃ。おまえさん達は、あの寺の子供達か。寺は、惜しいことをした」

 

 あの札には、見えない言葉でも書かれているのだろうか。この老人は、やはり寺を知っているの。

 

「その下駄は?」

 

「こいつはある村で異種の種を故意に呼び寄せ、この身に宿しています。害があるかさえ解らず、仕方なく連れ歩いています」

 

 宿の主人は黙って頷いた。

 

「不思議に思われないのですか? 異物が異種を宿すなどありえない。本来異種と異物は、互いに住み分けるように互いを避けて存在していたはずでは? 異種同士、もしくは異物同士にも同じことが当てはまる」

 

 ヤタカの問いに答えたのは、生意気な澄んだ声。

 

「別に珍しかねえよ。見て見ろよ、お姉さんの深皿。おまえだって、見ればこれが何かくらい解んだろ?」

 

 お兄さんだろ、という言葉を呑み込み、ほとんど食べて終えて底の見えたイリスの深皿を覗き込む。

 

「すごいよヤタカ。赤い漆の金魚が泳いでいる――きれい」

 

 イリスに返す言葉が見つないまま、ヤタカは呆けたように口を開けた。。

 木で造られた深皿の内側を、赤い漆で描かれた金魚がひらひらと、尾ビレを揺らして泳いでいる。呆気に取られるヤタカの目の前で、赤い漆塗りの金魚は木の深皿の縁を越え、外側へと泳ぎ出た。裏側へ回った金魚を見ようと、イリスが深皿を持ち上げ覗き込む。

 

「ありえない。寺の書物にはこんなこと……。異物に異物が宿っているなんて」

 

「寺には届けられた情報が、正確に残されていたはずじゃよ。嘘が届けば嘘が残る。もちろん、全てではないがな。宿るというより、共存であろうな」

 

 宿の主人は、困惑するヤタカを見つめたまま長い髭を指で撫でた。

 どこまで話して良いものか――ヤタカは戸惑いに口を噤む。心中を察したかのように、宿の主人がヤタカの肩に手を置いた。

 

「あの頃は、この横道を行き交う者も多かった。宿に泊まる間も無い忙しさだったろうな。知る者達はみな焦っていた。寺から情報が漏れている。その確信が、寺へ嘘の情報を流す事につながったのじゃから」

 

「ぼくでさえ先日耳にしたばかりです。半信半疑だったのに」

 

「寺に探りを入れても、結局裏切り者は見つけることができなかったそうじゃよ。だが確かに裏切り者はいた。その所為でみな、実質的には素堂様を裏切る形になったことをどれほど悔やんでいたか。全員を縄で括ってでも、裏切り者を炙り出すべきだという意見も、決して少数ではなかったらしい」

 

 雁首を揃えて話し合っていたのは、草クビリ達だろうか。縄で括る面子には、もちろん、イリスとヤタカも含まれていたのだろう。

 イリスとシュイは、飽きずにまだ器の表面を泳ぐ金魚を眺めている。

 

「あの子もな、最後の数年あれほどまでに寺が危うい状態でなければ、慈庭様が迎えに来るはずじゃった」

 

 思わずシュイの顔を振り返った。

 

「異種宿り……ということですか?」

 

「さてどうだか。素堂様にも慈庭様にも会わせる前に、わしが引き取ると決めてしまったからのう。シュイには異種を感じる能力があり、異物を見る力がある。そして何より、異物はあの子を好み、あの子の側にいるためなら、深皿のように身を重ねさえする」

 

 ヤタカは目にそっと手の平を当てた。

 

「シュイは、異物憑きなのですか?」

 

「それも解らんよ。あの小さな体に先住するものが居るのかも解らぬが、ここへ身を寄せる異物は、決してあの子に宿ろうとはしない。ただひたすらに、共に在ろうとするだけらしい」

 

 この部屋に入った瞬間、銅鑼にぶつかって脳震とうを起こしかけたから、耳の奥がぐわんぐわんと鳴るのも、周りの景色が揺れるのもその所為だと思っていた。

 今ならわかる。銅鑼のせいだけじゃない。ここに集まる異物に、ヤタカに宿るモノは確かに反応していたのだろう。

 確かに異物に囲まれたぞわりとした感覚が肌を這っている。だが、本来であればヤタカなど、この場にいることさえ耐えられないほどの感覚が襲ってもおかしくないはずだというのに、そそろと肌を這う感覚は、ここに泊まるのを躊躇させるほどのものではなかった。

 

――シュイの存在の影響だろうか。

 

 ヤタカはふとそんなことを考えた。

 

「ご主人、あなたは自身は何者なのでしょう」

 

 この問いに、白髪と髭を撫でながら宿の主人はふぉふぉ、と笑う。

 

「わしゃ、ただの宿屋の主じゃよ。どうして異物が見えるのかなどわからんが、子供の時からそうだった。道ばたに落ちる石ころを見るのと何らかわらない。まぁ、そんな体質だからして、この歳になってもここにいて人の役に立てておる」

 

 外にいたなら、イリスとヤタカには異種宿りと異物憑きを簡単に見極められる。だがここでは、あまりに混在した存在の主張が、ヤタカの感化を麻痺させ、目の前に居る老人の内側に宿るモノがあるのかさえ解らなかった。

 

「ねぇお爺ちゃん、外の道にわっさり出てきた根っこ。明日になったら無くなるの? あれがあるとお寺へ行けなくなっちゃう」

 

 イリスが珍しく心配そうに眉を顰める。

 

「勝手にいなくなってはくれないが、大丈夫。この年寄りの感が外れなければ、寺への道は開けるよ」

 

「よかった」

 

 安心したように息を吐きにこりと微笑むイリスだったが、ヤタカの気持ちは晴れなかった。寺の情報に嘘が混ざっているなら、ヤタカの記憶は当てにならない所か、この先の旅を危うくする。

 

――裏切り者か

 

 寺で過ごした仲間達の顔を一人一人思い浮かべて、ヤタカは肩で息を吐きながら頭を振る。どうしたって、懐かしいあの顔の中に裏切り者がいるとは思えなかったし、思いたくもなかった。

 

「寺が滅んだ時の、最後の記憶がないらしいのう?」

 

「どうしてそのことを?」

 

「この道は情報を運ぶ道じゃよ。こんな老いぼれの耳にも、わりと早く話は届く」

 

 ゴザ売りの男だろうか。違うか、まだ此処まで来るほど足は回復していないだろうに。

 だとしたら誰が?

 

「失った俺の記憶に、何か意味はあるのでしょうか」

 

「記憶は鍵となる。誰として存在が掴めなかった敵の顔が、おまえさんの記憶の底に眠っているのではないかな?」

 

 ヤタカは俯いたまま頷いた。思い出すのが怖いのかもしれない。寺に関わった者達が口にするように、裏切り者が寺の内部にいるとして、記憶の沼から這い上がるその顔を、知るのが辛いのかもしれなかった。

 

「記憶を取り戻す妙薬なんて、ありませんよねぇ」

 

「無いのう」

 

 二人とも口を閉ざすと、シュイとイリスが楽しげに笑う声だけが部屋に響く。

 

「イリス、あんまりはしゃいでいないで、早めに寝ろよ。明日も長い道程になる」

 

「うん、わかった」

 

「ところでシュイ、俺はどこに寝ればいい?」

 

 笑顔でイリスと話していた、シュイの眉間にぎちりと皺が寄る。

 

「空いている場所で勝手に寝なよ」

 

「空いている場所ねぇ」

 

 見回しても、岩が剥き出しの台に掛け布団が一枚あるだけだ。

 

「敷き布団はどこだい?」

 

「そんなもの、お姉ちゃんが二枚敷くにきまってら。一枚じゃ背中が痛くなる」

 

 何を今更という表情のシュイがふん、と鼻から息を吐き出すと、宿の主人が笑いながら薄っぺらい敷物を出してくれた。

 

「たまたま日干しにだしておってのう。これで我慢しておくれ」

 

「はい、十分です」

 

 もういい、掛け布団に丸まって寝るしかないだろう。だがひとこと言わねば気が済まない。

 

「おい、シュイ! おまえ布団どころか、深皿だってイリスの分しか磨かなかっただろう?

商売なのにいいのかよ、そんな贔屓してさ!」

 

「商売以前に人としての問題だろ? 男子としての振るまいの問題だ。おまえより体力のないお姉ちゃんを、岩肌の冷たさが直に感じるほど薄い布団の上で寝させるのか? 細かいささくれがあるかもしれない、剥き出しの丸太の上にすわらせるのか? 埃の被った器で腹をこわしたらどうする? 商売のまえに人で在れ! じっちゃんの教えだ」

 

「はい……すみません」

 

いや、何か変だろう? 器を拭くのに手間などかかるか? 言いくるめられた感がぬぐえずに、それでも言い返せないヤタカは腕を組んでうーんと呻る。

 生意気で小さな紳士が腰に手を当てヤタカを睨む様を、イリスと宿の主人がくすりと笑いながら眺めていた。

 

 

 その夜ヤタカは夢を見た。

 異物に囲まれているせいか、眠る前からヤケに鼓動が早かった。

 夢の中でヤタカの心臓は、血流を押し出す音が聞こえそうに心拍数を上げていた。

 濃い霧の向こうへ手を伸ばし、必死に叫ぼうとするのに声が出ない。

 恐怖と呼べるほどの焦りに支配されているいうのに、視界を遮る霧が入り込んだように、頭の芯はぼんやりとしている。

 

――イリスの名を呼ぼうとしているのか

 

 まるで他人事のように、ぼそりと思った。

 

――逃げろ

 

 声がする。

 

――逃げろ

 

 二人目の声……いったい誰だろう。

 

 霧の向こうでしゅるしゅると、何かが伸びる音がする。

 吸い込んだ濃厚な草の香りに、声帯の呪縛が解ける。

 

「イリス!」

 

 叫んだ途端、霧に閉ざされた視界ががくりと揺れた。

 体が霧に溶けていくように、自分の手足さえ見分けの付かなくなったヤタカは、夢の中で気を失った。

 

 宿屋あな籠もりに四つの寝息が流れる中、一枚の掛け布団に丸まって眠る、ヤタカが体を横たえた平らな岩の表面を、赤い漆の金魚が緩やかに背ビレと尾ビレを揺らして泳いでいく。

 

 ぴしゃり

 

 跳ねるはずのない水音を立てながら、赤い金魚が岩の中を泳いでいく。

 

 

 

 




読んで下さったみなさん、ありがとうございました。


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10 泡の声

 脳天を突くような銅鑼の音に目を見開いたヤタカは、ぺしりと叩かれた額にもう一度目を瞑った。

 

「ヤタカ、おはよう。もうすぐ朝ご飯だよ」

 

 聞き慣れたイリスの声がどこか遠くで響く。

 頭の中を痺れさせる残響は、銅鑼の音だけではないだろう。深海を彷徨うように漂っていた夢の中から一気に浮上させられた意識は、現実に溶け込めずにヤタカの鼓膜の奥へと同じ言葉を響かせる。

 

――逃げろ

 

 誰の声なのか解っていたような気がする。気がするだけで、地の底から沸くように反響する声はどんどん霞の向こうへと小さくなり、ヤタカの中に残る声色への認識を曖昧にした。

 

「食べないなら、わたしがヤタカの分も食べていい?」

 

――あぁ、イリスだ。いつものイリスの声。目の前にいる。

 

 冗談とも本気ともつかないイリスの声が、ヤタカの鼓膜に染みて、ぼやけた感覚を現実へと引き戻す。

 

「食べるよ。二人前も食ったら、太るだろ?」

 

 何とか腕で上半身を持ち上げると、イリスの冷たい指先がぺちりと額を叩くのを追って、ばちん、と鳴り響く衝撃に、拳ひとつ分ほど頭を後ろに吹き飛ばされた。

 

「そんなに寝起きが悪くて、今まで死なずに旅をしてきたのが奇跡だな。護衛係なんだから、お姉さんより早く起きろよな」

 

 平手打ちの犯人はシュイか。

 

「おかげで目が覚めたよ。ちなみに俺は護衛じゃない。旅の道連れだ」

 

「そういうのを、ただの荷物持ちっていうんだぜ?」

 

 おいおい護衛役から荷物持ちに格下げかよ、と小さく舌を鳴らして、丸まっていた掛け布団からもそもそと抜け出した。

 

「朝飯を食べて直ぐに出発したら、夕方くらいには寺跡へ着くだろうよ。そういえば、夜中にうなされていたようじゃが、固い岩の上で夢見が悪かったかのう?」

 

 うなされていたのか。

 心配げに目をしばたたかせる主人に笑顔で首を振り、大丈夫ですと手を振ってみせる。

簡素なテーブルの上には、昨夜と同じように深皿にスープが盛られ、干し肉ではない軟らかそうな肉が一枚ずつ、皿の上で食欲をそそる香を立ちのぼらせていた。

 

「新鮮な肉が手に入るのですね。旅をしていると、飯屋にでも立ち寄らない限りはなかなか」

 

「いつも手に入るわけじゃねぇよ。たまたまあったし、お姉ちゃんに旅の力を蓄えてもらわなくちゃいけないから特別なんだ。おまえは、おまけ!」

 

 ふん、と鼻を鳴らすシュイの声に皿を見渡すと、明らかにイリスの肉だけ厚く切られている。まだぶつぶつと文句を言いながら、水を取りに行ったシュイの背を見送りながら、主人がくすくすと肩を揺らしヤタカにそっと耳打ちする。

 

「許してやってくれんか。外を自由に歩ける者への憧れが、悔しさに変わって憎まれ口を叩いておるだけじゃ。それに、すっかり気に入ってしまったあの娘さん……自分は今度いつ会えるかわからんというのに、共に旅を続けられるあんたが羨ましいだけじゃ。ふふ、おまえさんへの風当たりは、暴風並じゃて。くくっ」

 

 楽しそうに話す主人の横で苦笑いをしたヤタカは、ぷりぷりと肩を怒らせ水を汲むシュイの背を、少しだけ愛しく思った。

 一生狭い場所から出られない覚悟と普通の世界への憧れなら、ヤタカも嫌と言うほど知っている。

 湯呑みにひとつだけ汲まれた水が、イリスの前にとん、と置かれると主人が短い祈りを捧げ、旅をする者には贅沢な朝食が始まった。

 

「うわ、美味しいねこのお肉。シュイが焼いたんでしょう? 塩加減が最高!」

 

 あっという間に厚切りの肉を口に詰め込み、満面の笑みを浮かべるイリスを見て、シュイは誇らしげに鼻を膨らませる。

 

「美味しい? ならこれもお姉さんにあげる。いっぱい食べて!」

 

 切り分けて半分ほど残っていた自分の肉を摘んでイリスの皿にのせ、シュイは頬を少しだけ赤くした。

 

「シュイの分がなくなっちゃうよ? お腹が空くでしょう?」

 

 ぶんぶんとシュイが首を振る。

 

「昨日食べすぎたから、あんま食欲がないんだ。どうせ残しちゃうからさ」

 

 首を傾げながらもイリスはありがとう、と微笑んでぱくりと肉を口へと放り込む。

 赤い顔を隠す様に、そそくさと水瓶の方へ歩いて行くシュイが横を通った時、ヤタカは口の端でにやりと笑った。

 

――嘘つきなマセガキめ

 

 横を通ったシュイの腹が、ぎゅるると密かに鳴ったことは黙っていてやろう。

 押し殺した笑いにヤタカが肩を震わせている――その時だった。

 

 ぴしゃり

 

 まだスープの残るイリスの深皿の中で、何かが跳ねる音がしたかと思うと、湯呑みがかたりと倒れて水が零れ、深皿の縁を濡らしながらテーブルの木目を伝うと細い筋をなして床へと落ちていった。

 

「ゲン太、濡れちゃうよ」

 

 イリスの声に、ゲン太は慌てたように片下駄の尻を持ち上げた。細く流れ落ちる水が、ゲン太の薄い飴色の木目を濡らしていく。

 避けようとしたはずのゲン太が、上げた片下駄をすとんと落とした。

 

「おやおや」

 

 珍しい、と主人が小さく声を上げる。

 

 ぴしゃり

 

 深皿のスープの表面が、僅かな水紋に揺れる。

 赤い漆の金魚が、深皿にかかった水の跡をたどるように、ゆるりゆるりと木の表面を泳いで昇る。

 深皿の外側へと進む、赤い漆の金魚の柔らかく揺れる尾が縁を越えた。

 

 ぴしゃり

 

「うわ、金魚の滝下り」

 

 イリスの言葉に突っ込みを入れるのさえ忘れて、ヤタカは不思議な光景に見入っていた。

 湯呑みから零れた水の跡をなぞるように、赤と白の入り交じった尾がテーブルの木目へ泳ぎ渡ったかと思うと、ちょろちょろと流れ落ちる細い水の流れに乗って、真っ直ぐに床へと下っていく。

 優雅に揺れる尾の動きに合わせるように、身をくねらせながら赤い漆の金魚はゆっくりと、重力を無視して細い滝を下っていく。

 

 ぴしゃり

 

 ゲン太がぶるりと鼻緒を振るわせた。

 

「うそだろ? 有り得ない……有り得ないんだ」

 

 譫言のようにヤタカの口から言葉が漏れる。

 ゲン太の木目を濡らす水が戸口だとでもいうように、赤い漆の金魚が尾を揺らす。

 白と赤の尾が揺れるたび、ゲン太の飴色の木目がさざ波を立てたように見えて、ヤタカは強く頭を振って目頭を揉んだ。

 

「この金魚、わたし達と行くつもりかな?」

 

 悠長に呟くイリスに白目を剝きそうになりながら、ヤタカは大きく肩で息を吐いた。

 

 やっと思うように動けるようになったらしいゲン太は、とまったハエを振り払う勢いでばたりばたりと跳ね回っている。

 知ったことかと、下駄の裏側へ回っていた赤い漆の金魚が、鼻緒の横を泳いで表側へと戻ってきた。

 

「悪いが、こやつも連れて行ってもらえんかの?」

 

「しかしご主人、この下駄には無数の異種が宿っているんです。それだけでも異常なことなのに、その上異物だなんて。もう寺で学んだ事が何だったのかさえ、わからなくなりそうです」

 

 皺だらけの分厚い手がヤタカの肩に乗せられる。

 

「この金魚はの、あんたらが寺に行くよりずっと昔に、この道を行き交う者の手荷物に紛れてここへ来た。その者は寺を訪れて外へ向かう途中に立ち寄ったが、あの様子ではおそらく、異物を抱えてきたことに気づいてはいなかったろうよ」

 

「この金魚、元々は寺に置かれていた異物だと?」

 

「置かれていたのか、そこに居着いていたのかはわからんよ。目的もわからんが、寺へ戻る時が来たのだろうと、わしゃ思う」

 

 ゲン太だけでも手に余るのに、得体の知れない金魚を抱えることにヤタカは躊躇した。 寺から逃げ出したのだとしたら、寺が追う異物ということになる。そのリスクを負ってまで、連れて歩くべきなのかと。

 

「ゲン太ごと、ここで預かっていただくわけにはいきませんか?」

 

 肩に置いた手を放し、主人は悪戯っぽく肩を竦める。

 

「この宿へはみんな勝手に来て、勝手に立ち去っていく。それにその下駄は、残れといっても勝手に歩いて此処を出て行くじゃろう? 異物を封じ込める力など此処にはない、ここは宿屋 あな籠もり、一時身を置くだけのただの宿屋じゃから」

 

 既に興味を失ったらしいイリスは、宿への入口となった岩壁に手を入れては、なにやらシュイに説明を受け、大げさに驚いた声を上げている。

 

「わかりました。最後まで連れて歩くという約束はできませんが、それでもいいですか?」

 

 白い髭を揺らして頷く主人に一礼し、ヤタカは荷物を背負い上げる。

 

「あの宿代は幾らほどに?」

 

「あの金魚を連れていって貰うことで、宿代はおつりがでるほどじゃよ」

 

 お世話になりました、もう一度頭を下げ、ヤタカは騒がしい二人へと向き直る。

 

「イリス、出発しよう」

 

「うん」

 

 シュイの頭をさらりと撫で、イリスがすたすたと岩の外へと出て行った。

 

「待てよ! 横穴には異種が!」

 

 慌てて駆け出したヤタカは、力一杯袖を引かれて危うく転びそうになった。

 

「心配入らない……また来いよ」

 

 大きすぎる外套を羽織ったシュイが、にこりともせずに肩眉を吊り上げて見上げている。

 

「あぁ、世話になったな」

 

 もじもじと視線を泳がせ、いっこうに袖を放そうとしないシュイの頭をこつりとやると、ちっ、と舌を鳴らして小さな手がぱっと放された。

 

「これ、持ってけ」

 

 ざっとしゃがみ込んだシュイが立ち上がって差し出したのは、二本の竹筒だった。

 

「朝早くに、ゲン太が酒ってさぁ。酒って字ばっかり浮かべるんだ。でかい方の竹筒はあんた用の水だ」

 

「俺のために?」

 

 渡した竹筒からばっと手を放し、シュイが嫌そうに顔を顰める。

 

「おまえのためじゃないやい! お姉さんが、水があったらなっていうから……さっさと行けよ!」

 

 踵を返して走ったシュイが、自分用の布団にもぐり込みすっかり頭を隠してしまう。

 目尻に笑いを浮かべたヤタカは、入口の岩に手を滑り込ませた。

 

「ありがとなシュイ! 爺ちゃんを守れよ!」

 

 言い残して岩をくぐり抜ける。さらさらと縄暖簾を潜る感触が全身を覆った。

 

「おまえもな!」

 

 視界から消えた部屋の中から精一杯に響かせた怒鳴り声の先にはきっと、お姉さんを守れよ、という言葉が隠されているのだろう。

 

「はいはい」

 

 呟いて、先にひとり立っているイリスの横へと通り抜けた。

 主人が後から出てくる様子もなく、横穴に張り巡らされた異種の根と睨み合うイリスの横顔を見ながら首筋を掻く。

 

「どうすんだよ、この根をどうしたらいいのか聞くのを忘れた。戻るか?」

 

 視線を根に向けたまま、イリスが首を横に振る。

 

「ゲン太がね、杖で根が切れるって。金魚さんが言っていたって」 

 

「おいおい、漆の金魚だろ? ゲン太だけじゃなく漆で描かれた異物にまで記憶や意思があるっていうのかよ。ゲン太! 嘘じゃないだろうな?」

 

――ぬけさく

 

「なんだと!?」

 

――と きんぎょが

 

 ぴしゃりと赤い漆の金魚の尾がゲン太の木肌を打つ。平面なのだが、確かに打った。

 鼻緒を持ち上げて、ゲン太がびくりと跳ね上がる。

 

「ほら、罪を人に着せるなだってさ」

 

 つま先でゲン太を軽く蹴飛ばした。

 

「いくよ」

 

 こちらの騒ぎなど耳にも入っていない様子のイリスが静かに杖を持ち上げ、その尖端で円を描いて張り巡る根の表面をなぞっていく。

 

「イリス!」

 

 円を描いた途端に目を押さえて蹲ったイリスに駆け寄ったヤタカは、杖の引き起こした目の前の光景に思考が止まる思いだった。

 秋の枯れ葉を握りつぶした時に似た音を立てて、張り巡らされた異種の根が枯れていく。 まるでイリスの操った杖に水分を吸い取られたかのように、枯れ細った根が自らの重みに耐えかねて、ぱらぱらと表皮が剥がれ落ちていく。

 翳した松明の明かりに道の向こうが透けて見えるほどにやせ細った根が、申し合わせたようにどさりと砕け散った。

 

「よし、道ができたよ」

 

 目を押さえた指の隙間から見えるイリスの目が、ヤタカに笑いかける。

 

「よし、じゃないだろ? 痛むのか? どうして根を断ち切れた?」

 

「わかんない。痛かったわけじゃないよ、目がぐるぐる動いた気がして目眩がしただけ」

 

 赤ん坊が母親の膝に手をかけて立つように、ゲン太が下駄の歯の前をイリスの足首にのせて身を揺すっている。

 

「大丈夫だよ、もう大丈夫」

 

 ヤタカの肩に手をかけて立ち上がったイリスにほっとしながらも、ヤタカは胃が焼ける思いだった。唾を飲み込んでも、一気に湧き出た胃酸が逆流してくる感覚に顔を顰める。

 

「いくよ、ヤタカ」

 

「あぁ」

 

 こういう時のイリスには何を言っても無駄だ。自分の痛みに頓着しないイリスは、何を聞いてもはぐらかすだろうから。

 何事もなかったかのように先を行くイリスの背を見つめながら、このまま寺へ行くことが本当に正のかと、ヤタカは自問せずにいられなかった。

 世界を救いたい訳じゃない。寺の過去を知ったとしても、この世が平和になったとしても、そこにイリスがいなければヤタカにとっては何の意味もない。

 イリスに紐を引かれるゲン太の踵辺りで留まった、赤い漆の金魚がひらりと尾を揺らす。

 

 

 三つ叉に別れた道の前まで来ると、イリスを紐で引くようにゲン太が先頭を進み出した。 そこから道は細くなり、脇道も本線も区別がつきづらい。

 道の途中に何カ所か置かれていた松明を、数本使わせて貰っていたが、今手にある棒の先の明かりも心持たないものとなっていた。

 

「ゲン太、早く着かないと暗闇を進むことになるぞ」

 

――すこし

 

 浮かんだ文字は、直ぐに散って消えて行く。赤い漆の金魚は、飽きることなく同じ場所で尾ビレを揺らしている。

 イリスがはたと立ち止まった。

 

「ゲン太のいう通りだね。もうすぐ外にでる。寺を囲む、木々の香りがするもの」

 

 ヤタカには感じられない香だった。余計な異物の側にいて、嫌な気分だけで済んでいるのさえ不思議だったが、やはり異物や異種の近くにいると感覚は鈍ると思い知らされる。

 

「ほら、すぐそこ!」

 

 指差してイリスが駆けだした先には、うっすらと外の明かりが差し込んでいた。

 駆け出すヤタカの鼻先を、吹き込んだ風が撫でる。

 

――森の匂いだ。寺の匂い

 

 飛び出した先で肺一杯に息を吸い込む。

 抜け穴が繋がっていたのは、岩牢があるのとは反対側の山の中腹だった。

 入口は巧みに岩で塞がれ、知らなければ岩の向こうに道があるとは気づけないだろう。

 妙に足に疲れが溜まると思っていたが、緩やかに横道は登りの傾斜となっていたのか。

 張った足を伸ばしながら、ヤタカは人生のほとんどを過ごした山間を見渡した。

 寺の建っていた平地には雑草が生い茂り、そこで生活していた者がたった一年前までいたなど、誰も思いはしないだろう。

 ちくりと胸を締め付ける痛みに咳払いして、日の暮れかかった山道を下りる。

 僅かな日光とはいえ、用心して目元を布で覆ったイリスの手に自分の服を掴ませた。

 ゲン太の踵に留まっていた赤い漆の金魚が、ぴしゃりと音を立て忙しくゲン太の表面を泳ぎ始めた。

 

「行こうか」

 

 むず痒そうに鼻緒を摺り合わせるゲン太を横目に、ヤタカはゆっくりと歩き出す。

 山の中腹とはいっても、大きな山にこぶを付けたような小山の中腹だから、寺の跡地まであっという間に着くだろう。

 季節でもないというのに、重なり合った虫の音がそよ風に乗って流れてきた。

 

「おしゃべりさんだ」

 

 虫の音を喩えたのだろうかと、隣を歩くイリスを眺めながらヤタカはひとり首を傾げた。

 

 かかん

 

 ゲン太が身を打ち鳴らす。

 

「なんだよ?」

 

 松明で照らしたゲン太の木肌に、墨汁を垂らしたようにゆらりと文字が浮かび上がる。

 

――ばばあ いた

 

 そういえばゲン太は最初から、寺に行ってばばあに会うといっていた。

 薄暗い中に目を懲らしても、人影は見当たらない。

 

――ばばあ よんでる

 

「わかったよ、とにかく行ってみよう」

 

 一旦暮れ出すと山間に日が落ちるのは早い。すっかり闇に包まれた木々を抜けて平地に下りると、日の光が無くなった事を感じたイリスが目を覆う布をするりと解いた。

 

「イリス、あぶないって!」

 

 杖を脇に抱えて駆けだしたイリスを慌てて追った。

 心得ていると言わんばかりに、ゲン太もからりころりと早足で駆けていく。

 

「こんなところに泉なんてなかった。でも、見覚えが……」

 

 眉根を寄せるヤタカの前、肩で息を吐くイリスが立ち止まり、泉の脇にぺたりと座り込んだ。

 

「ヤタカ、わたしの泉だよ。それにわたしのおしゃべりさん。ヤタカが寺に来るまでずっと、わたしに色んな事を教えてくれていたの。もちろん、その後も」

 

――ばばあ

 

 イリスとゲン太の言葉が指す者は同じなのだろう。だがヤタカの目には、人っ子一人見えなかった。

 

 チリリ チリチリと虫の音が幾重にも響く。

 小鈴を転がしたようにチリチリと闇に乗る音が、微妙なズレを持って聞き慣れない和音を奏で出す。眉を顰めたヤタカは、はっと目を見開いた。

 

「微かに人の声が」

 

 イリスは口を閉ざしたまま、じっと耳を澄ませている。松明の灯りに浮かぶ泉の周りに目を懲らすと、スズランに似た小さな釣り鐘状の白い小花を付けた植物がわっさりと茂っていた。強い風が吹いている訳でもないというのに、小さな花が頭を揺らす。

 

「鳴っているのは、この花なのか?」

 

 白い小花が一斉に奏でる音に、泉の水面が揺れて中心から外へと水紋が走った。

 

『オカエリ イリス』

 

 湖面の水紋が、人の声を生みだした――ように見えた。

 

「ただいま、おしゃべりさん」

 

 当たり前のように微笑むイリスにかける言葉もなく、ヤタカはどさりと座り込んだ。 

イリスの声に応えるかのように浅い水底が淡く光り、照らされた泉の中を空気の泡が浮かんでは一粒、また一粒と水面で弾ける。

 その泡はもどかしいほどゆっくりと、たったひとつづつ言葉を運んで浮かび上がった。

 

『シンジツニ キヅクモノガ フエル……ゲタ ノヨウニ』

 

「ゲン太はいい子。たぶんね」

 

『オソレハ キリトナル』

 

 へぇ、と頷いたイリスの声さえ夢の中で聞いているようだった。

 

『シンジツハ キリノ ムコウ』

 

 イリスがおしゃべりさん、と呼ぶ者の声が、ヤタカをうっすらと覆っていた保護膜に似た何かを引きちぎった。

 ゲン太や赤い漆の金魚の存在が、ぞわりとした感覚を伴ってヤタカを襲う。周り中に生えている異種がゲン太に宿る異種が、自分は此処にいると急に嫌な臭いを発したようだった。ヤタカは猛烈な吐き気の中、イリスに悟られぬよう必死に口元を押さえ背を丸めた。

 

 




読んで下さったみなさん、ありがとうございます。
すっかり遅くなってしまいました。
既に出来上がったモノを移すくらいはできても、長時間机に向かえなかった……。
<なんちゃってギックリ腰>になっていましたもので。
普通に歩けるのに、上体を前に倒すことだけができないので、なんちゃって、です(笑)
調子よくなったので、次話は早めに投稿できると思います。
次話あたりから少しずつ物語が動き出すと思うので、次話もお付き合いいただけますように……では!


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11 ゲン太と紅と花咲くおばば

 波のように寄せては引く吐き気を奥歯で噛み殺し、ヤタカは泉の周りに目を懲らす。

 白い釣り鐘状の小花がびっしりと生える隙間を縫うように、見覚えのある異種が幾種類も一番種を実らせる直前まで育っていた。それぞれの異種がどのような種類に属するかを知るヤタカにとって静かに葉を広げる姿は、狙う獲物を待ち腰を引き下げる獣にしか見えなかった。

 

「お月様だ。まんまるお月様」

 

 イリスのいうとおり、上空を吹く風に雲が流され丸い月が顔をだした。

 

 かん

 

 ゲン太が身を鳴らす。眠ったように動かなかった赤い漆の金魚が、飴色の木肌の表面を水を得たようにすい――と泳ぎ出した。

 

「イリス、ありゃ何だ?」

 

 突然吹き付けた風は、泉を囲む外側から中心に向けて一気に駆け抜け、白い小花達を茎ごと激しく揺らした。

 

「花粉……かな」

 

 山間を照らす月明かりでさえはっきりと、黄色い微粉が宙に舞ったのがわかる。手にした松明の灯りを、霧のように舞散った粉が反射させる。

 

「ヤタカ、変だよこの花粉。ほら、泉の向こう側を見て。あそこだけ黄色い煙が渦巻いているみたいに見えるでしょう?」

 

 指差すイリスの腕を引き、泉の側から引き離す。

 イリスが手にした紐に必然的に引かれる形となったゲン太が、飛び上がってヤタカの前に着地した。

 

――ばばあ あう

 

「今はそれどころじゃない。異種に囲まれたうえに得体の知れない現象が起きているんだ!」

 

 かん

 

――しんぱいない

 

 浮かんだ文字が揺らいで消える。

 

――あれ ばばあ

 

「あの黄色い煙の固まりみたいなモノが?」

 

 それ以上ゲン太は文字を浮かばせず、まるでばばあの出現を見逃すまいと目を懲らすように、じっと身を固めて黙り込んだ。

 花粉とおぼしき黄色い煙状の固まりは、渦を巻きながら徐々に小さく形を変えていく。

 ヤタカの膝上くらいの大きさまで縮まると、渦巻いていた黄色い煙の動きはぴたりと止まり、月明かりにその姿を露わにした。

 

「あいや、やっとまともにしゃべれるわいな」

 

 泉の縁に背を丸めてちんまりと座る、老婆の姿があった。

 人がそこにいるのかと問われれば、否。黄色い煙の微妙な起伏が月明かりを浴びて、老婆の姿を映し出している――そうとしかいいようがない。

 

「おや、出来損ないの下駄ぼんずじゃないか。おやおや紅まで連れて」

 

 朧な姿と裏腹に、老婆特有の嗄れた声ははっきりとしたものだった。

 手招きする老婆に引き寄せられるように、イリスがゲン太を連れて歩き出す。

 

「わたしの、おしゃべりさん?」

 

 肩を掴もうと伸ばしかけたヤタカは、拳を握って腕を引いた。ここで何が起きようと、止めようもなければ逃げようもない。ならば、成り行きを見守ろうと思った。

 イリスを追い抜いて、ゲン太が跳ねていく。

 膝にぴたりと寄り添ったゲン太の鼻緒を、月明かりに淡く浮かぶ枯れ枝のような指先が撫でる。嬉しそうに身じろいだゲン太の木肌に、ばばあ、と文字が浮く。

 

「おんやまぁ。出来損ないの下駄ぼんずが、一丁前に口を利けるようになっとる。イリス、久しぶりじゃのう。覚えておってくれて、嬉しいよ」

 

 イリスのいうおしゃべりさんと、ゲン太のばばあは同一人物ということか。だがそんな話を、寺でイリスは一度もしたことがなかった。

 首を捻るヤタカの心中を察したように、ばばあがくくっ、と笑う。

 

「あんたはヤタカじゃの。わっちのことを知らなくても、そのことでイリスを責めちゃいかん。わっちのことを知っとったんは、寺でも二人しかおらなんだ」

 

「俺の事も知っているんだね。二人ってことは、イリスともう一人は素堂のじっちゃんか」

 

「いんや、もう一人は慈庭だで」

 

 直ぐには返す言葉が見つからなかった。イリスが自分に秘密にしていたことよりも、あの寺の中で慈庭が素堂に隠し事をしていたなど、俄には信じがたいことだった。

 

「慈庭がね、おしゃべりさんのことは、誰にもいっちゃいけないって。だから言わなかったの。ヤタカに宿っているのが、水の器だから時期が来るまで伏せていなさいって。水の器がね、自分が何者なのか思い出すまでは、きっとおしゃべりさんのことを嫌うだろうからって」

 

 少しだけ申し訳なさそうに、ヤタカの顔を覗き込むイリスの顎をぺちりと弾いて、構わないよ、と頷いてみせる。

 

「おばば、あなたは異種の意思が人を模ったものなのか? こんなことを言いながら、俺は異種に本能意外の意思があるなんて、これっぽっちも信じちゃいないんだが」

 

 おばばは目を閉じ、瞼の裏から記憶を探るように首を傾げた。

 

「わからんの。だがここに留まり、寺跡に集まる者達が持つ記憶の欠片を繋ぎ合わせて、見えてきたこともある。だがそれは継ぎ合わせた記憶じゃからの、憶測に過ぎんともいえる。その憶測に縋って、わっちは此処におるのだがの」

 

「おしゃべりさん、寺にいた頃は一度も人の姿になったことなんてなかったもんね。たった一本の茎に咲いたいっぱいの白い小花が風に揺れて、話してくれるだけだった」

 

「あの時の自分がどうして単独で咲いていたのか、今は群生してここに咲くのか、本当のところはわからん。覚えておらんのじゃよ。ただきっと」

 

 異種と呼ばれるものなのだろうよ――と、ばばあが呟く。

 

「繋ぎ合わせの記憶でも構わない。教えてくれないか? 俺はこの寺が消えた日の最後の記憶だけがない。思い出すきっかけに成るかもしれないから」

 

 ヤタカをちらりと皺の底から覗き見たおばばは、梅干しみたいに口を窄めて頷いた。

 

「ヤタカの失われた記憶の意味はわからんよ。じゃがの、わっちら異種や異物にとって必要な記憶が抜け落ちたのは、イリスとヤタカが原因じゃろな」

 

 イリスが息を呑む音が聞こえた。大きく息を吸い、ヤタカはおばばに話の先を促した。

 

「イリスの目に宿る異種と、ヤタカが身に宿す水の器はの、何らかの理由があって共存していたはずだというのじゃよ。多くの者の記憶の断片が、本能のようにそう告げるらしい。この二つが自然界で引き離されるどころか、二つの体に別れてしまったことこそ、わっちらの記憶の中核が失われた事の始まりだと思うておる」

 

 異種と異物の共存。寺にいた時は考えもしなかった。ヤタカの視線がすとんとゲン太の背に落ちる。行き場を見つけたように、表へ裏へと赤い漆の金魚が泳ぐ。

 寺はいったい自分に何を教え、何を隠そうとしたのだろう。寺へ向けた岩版の様な信頼が、岩場の小石を突いたようにぱらぱらと崩れ落ちるような――あってはならない心の揺らぎがヤタカを襲う。

 

「異種や異物との意思の疎通など、出来るわけがない。百歩譲って、あいつらに意思と呼べえるものがあったとしても……」

 

 おばばに反論したつもりが、揺れるヤタカ自身へ無理矢理言い含めるような口調は尻窄みで、最後まで言い切らずに口の中でもごもごと噛み砕かれる。

 

「ヤタカったら、意地っ張り。おしゃべりさんに反撃するってことは、認めたのと同じだよ? 理屈はわからないけれど、自然には意思を持つ者がいる。それでいいんじゃない? 動いて表情があって、言葉を話せる者意外は何も考えていないなんて、人が勝手に思っていたことでしょう?」

 

 イリスの顔には何の疑念も浮いていない。その純真さと真っ直ぐな心根が、ヤタカには少し羨ましく思える。

 

「そうだな、納得はしていないけれど、否定もしない。否定する材料もないし、肯定する材料もないからな」

 

 小さく頷きながら、おばばはシワシワの手で泉の水を撫でた。撫でられた水面が、筋を造っては凪いでいく。

 物に触れて干渉できることに、ヤタカは素直に驚いた。

 まあいい。おばばを信じるわけではない。おしゃべりさんを信じている、イリスを信じようと思った。

 

「わっちが異種だとして……異種なのだろうな。わっちらの意思の疎通は人とは違うで。時に風が運び、地中を通して語り合う。人にわかるように話せる者がどれほどいるかは知らん。人とはいってものう、お前達のような変わり者相手でなけりゃ無理じゃろうよ。異物とて同じであろう。出来損ないの下駄ぼんずのように、意思を示せるモノもいるが、黙して語らぬモノの方が多かろう。いや、語る口を持たぬ。人と同じ言語を持たぬ。話せるモノ達は、何らかの形で人が関わっているであろうと、わっちは思うとる」

 

 おばばの近くにぺたりとイリスが腰を下ろした。

 

「こんなに異種に囲まれているのに、体がもぞもぞしないの。異種がそこにいるのは感じるよ。でもぞわりとくる感覚じゃないんだよね。実はね、ぞわりって感覚が薄らいできたのは少し前からで、不思議だった」

 

 ヤタカは不思議なものでも見つけたように、口を半開きにイリスに見入る。

イリスだけじゃない。ヤタカもまた、感覚の変化に気づき始めていたのだから。確信を持ったのは生意気な紳士の住む、あの宿屋に泊まった日だが。

 

――泉の側へ寄った時に感じた吐き気も、いつの間にか収まっている

 

「酔っ払ったり、文字を浮かべるゲン太に会って、そのゲン太に金魚が宿って……そんな光景を見ていたら、自分の中でずれていた何かが正しい場所に組み直されたんだと思うの。たとえば思い込みとか、認識とか」

 

「どういうことだ? 聞いている俺にもわかりやすくいってくれよ」

 

 ぺろりと舌をだして、イリスは肩を竦める。イリスはいつだって感覚でものをいう。

 

「だからね、思い込みによって絡まった糸の一本が解けたら、他の糸も抜けやすくなったってこと。異種は異物に宿らない。異物は異物に宿らない。その概念が間違っていたって自分の目で確かめた途端、ああそうかって。異種を宿す者は異種に敏感だけれど、本来はそれだけの事だったんじゃないかなって。訓練されない異種宿りが異種に近付けば、体や心が不快を感じるのは、単にそう教えられてきたからかもって」

 

「そう思いついた途端、異種が周りにあっても感じ方が変わったっていうのか?」

 

「うん」

 

 どうだ、上手く説明できただろう! というようにイリスが得意げにくいっと顎を上げた。苦笑いにも似た表情を浮かべて、ヤタカは呆れたように頭を振る。

 

「俺だけが感じる変化かと思っていた。どうして早くいってくれなかった?」

 

 すると不思議そうにイリスは小首を傾げる。

 

「だって、ヤタカもそうなんだなって思ってたから」

 

 そうか、イリスはぼんやりのびりしているようで、自分の周りはちゃんと見ている子だということを、共に旅する間に失念していた。

 

「話が収まったところで、さぁて。この子らの目的を遂げさせてやらんとのう」

 

 おばばはそういうと、ゲン太を摘み上げ泉の中にそっと沈めた。

 水面から鼻緒だけを浮かばせるゲン太の木肌を、一周くるりと回った赤い漆塗りの金魚が下駄の踵を乗せる方へと泳いでいく。

 もう一周するのかと思った矢先、ぴしゃりと尾ビレが水を弾く音が響く。

 

「うわぁ、きれい」

 

 四角い下駄の端で裏へと平坦に回っていくはずの、赤い漆塗りの口先がゆっくりと水面に躍り出る。木肌も水も変わらないと言わんばかりに、白と赤の入り交じる柔らかそうな尾ビレが水面に揺れる。それを確かめると、おばばはそっとゲン太を泉から引き上げた。 草の上に下ろされたゲン太が、雨上がりの犬のようにぶるりと身を振るわせた。

 

――へっくちん 

 

 浮かんだ文字にイリスが笑う。

 

「くしゃみをしとるところ悪いが、もう一度入っとくれな。終わったら、労いに酒を貰うといいじゃろ」

 

 おばばに見つめらて、ヤタカは荷物に手をやった。シュイが持たせてくれた酒入りの竹筒が指に触れる。

 

「どうして酒のことを?」

 

「臭っとるでよ」

 

 くぇくぇ、とおばばは顔をくしゃりとさせて笑った。

 

「さあ、お役目の時間だでよ。紅が待っとるで」

 

 おばばに鼻緒を摘まれてゲン太が、再び水面に沈められた。小さな泉の中を我が物顔で泳いでいた紅が、ゲン太の周りで円を描いて泳ぎ出す。

 ゲン太が激しく身震いすると、水面に細かく波が立った。

 水底に生える水草が、たった今月明かりに気づいたかのように若草色の光りを放った。

 淡い逆光に照らされて、ゲン太がゆるゆると下駄の尻を振る様が見てとれた。

 

「何だありゃ、まさか異種の種なのか? どうして泉の中で? どうしてだよ!」

 

 思わずヤタカの語気が荒くなる。

 ゲン太が尻を振るたびに、木肌から産み落とされるがごとく、黒い粒が水の中へと撒き散らされる。

 

「あら、紅が種を食べちゃった」

 

 イリスがそう思ったのも無理はない。撒き散らされる黒い粒を口の中に掻き集めるように、紅が忙しく泳ぎ回っている。

 ヤタカが見る限り一粒さえ残すことなく、紅は全ての種を口に収めた。

 

「お疲れじゃったの」

 

 そういって、おばばは水中からゲン太を引き上げた。

 

――ぺっくちょん

 

 さっきより大きな文字で、ゲン太が一発くしゃみをした。

 そんなゲン太を尻目に、泉の表面で悠然と紅の尾ビレが揺れる。泉の中央まで進んだ紅の動きが止まったかと思うと、身を半分に捩るほど紅は大きく尾ビレを曲げた。次の瞬間、水面から浮くはずもない紅の尾ビレが水を打つ。

 

 泉から数本の太い水柱がたち、互いにぶつかり合った反動で花咲くように大輪を描いて泉の外へと水を撒いた。

 体にかかった水の冷たささえ忘れて、ヤタカは紅に見入っていた。

 異種も異物も見慣れたヤタカでさえ、目を奪われる光景。

 

 ぴしゃり

 

 泉の端まで泳いでいった紅が、水際に生える水草の葉の間に紛れ込んだ。身を翻して泉を我が物顔で泳ぐ筈の紅が、ゆらりと尾ビレを揺らして真っ直ぐに進んでいく。

 草の合間から見え隠れする紅の姿に、あの辺りがまだ泉ならずいぶんと変形したものだなど、のんびりとした思いは直ぐにヤタカの頭から吹き飛んだ。

 座り込んだイリスの横に生える、丈の低い草が大ぶりの葉を重ねる中を、紅は悠然と泳いでいく。

 泉の水しぶきに濡れた葉の表面を綱渡りするように、紅の赤い体がゆらりゆらりと泳いでいく。

 

「ほれ、あれが紅の役目さね」

 

 おばばの言葉に目を懲らすと、濡れた葉の表面を器用に泳ぎ渡りながら、紅は口から一粒ずつ黒い種を吐き出していた。まるで田畑に種を植えるように、規則正しく黒い粒が吐き出され、転がり落ちては土へと呑まれる。

 さわさわと葉擦れの音が重なり合い、地面が揺れたようにふわりとした目眩を覚えたヤタカは一瞬目を覆った。

 

「広がった?」

 

 きょとんとしたイリスの声に、泉の周辺を見渡したヤタカは大きく息を吐く。

 泉を囲むように茂っていた植物の範囲が、僅かではあったが明らかに広がっていた。

 

 ぽちゃりと音を立て、紅が泉へと戻っていく。

 おそらくは含んだ種を、全て吐き出したのだろう。 

 

「紅は水で繋がれていれば、何処へでも泳いでいけるでな。どこでどう役目を決めたかは知らんが、出来損ないの下駄坊主が、この世に飛び散った一番種を集め、紅がそれを一所に集めることにしたんじゃろう。誰かに言われたか、自らの考えなんかは、わっしゃわからんな」

 

 宿屋あな籠もりで、紅が深皿に宿った理由がわかった気がした。汁物が注がれれば紅は器を自由に泳げる。動けるなら、これぞと思うときに僅かに零れた水を辿って、宿移りも容易い。

 

――最初から、ここへ来るつもりだったのだろうな

 

 だとしたらゲン太の様な存在が、異種の種を集めていたことも知っていたことになる。 どんな手段を使っても、役目を負ったモノは必ず横穴を通る。

 こいつらはいったいどこから情報を仕入れているのかと、ヤタカは首を傾げずにはいられなかった。

 

「ここに異種を集めて、どうするつもりなんだろう。人里から引き離すことが目的なんだろうか」

 

 独り言に近い言葉に、おばばはゆっくりと首を振る。

 

「記憶や確証があってやっていることではないだろうよ。わっちと変わらん。無い記憶の底で疼く何かにしたがって此処におる」

 

 月が揺れる訳もないというのに、おばばの姿がぐらりと撓む。

 

「ちょっと疲れたの。今宵はここまでじゃて」

 

「明日また話せる?」

 

「昼間は花言葉じゃけ、もどかしいがの」

 

 花言葉か。白い小花が鳴らす人の声。 

目を閉じたおばばを模る黄色い粉が、渦を巻いて夜の空へと散って消えた。

 

「水を被ってすっかり体が冷えたな。小屋はきっとあのままだろうから、今夜はあそこで眠ろう。途中で俺は湧き水を飲んでから行くよ。イリスは先に小屋に入って、着替えておくといい。風邪を引く」

 

「うん、ゲン太と一緒に先にいってる。紅は泉が気に入ったみたいね」

 

 水底から湧き上がる若草色の光りはいつの間にか消えていた。

 おばばの消えた後、月明かりは湖面に自分の姿を写すだけとなり、泉にいるであろう紅の姿は見えなかった。松明で覗こうと思ったヤタカは、水に繋がれていれば何処へでも泳いでいけるといった、おばばの言葉を思い出し慌てて手を引っ込めた。ずぶ濡れの肌を渡り泳ぐ紅を想像してぶるりと身震いする。

 

 山裾で荷物を預けてイリスと分かれ、久しぶりに腹一杯に水を飲んだ。シュイに貰った水は、今夜枕元に置くことにしようと思った。

 月明かりにぼんやりと影を浮かばせる岩牢に立ち寄りたい気持ちを抑え、真っ直ぐに小屋へと向かう。色々なことが一度に押し寄せて、岩牢に行っても何も思い出せそうになかった。

 何気なく振り返った先の光景に、ヤタカは目を見開き息を呑む。

 寺を失い更地と化し、おばばが守る泉が闇に潜むだけの山間に大輪の花が咲いていた。

 大輪というより、もはや花と名付けるべき光景だった。

 泉の辺りを花の中心にたとえるなら、おばばの姿を模った花粉に似た粉が舞った辺りだろう。淡い若草色を中心に、薄い光りの絹をなびかせたように山裾に届くほど大きく、白い花弁を広げて咲く大輪の花。

 現実にそこにあるのかと言われれば、触れられそうもない。淡い光りが生みだす大輪は、流れてきた雲が月を覆い隠すと、月明かりと共に姿を消した。

 

――あれが、おばば本来の姿なのか?

 

 ぶるぶると頭を振って、目にしたばかりの光景を振り払う。

 イリスに話すのは、明日おばばに直接話をしてからでいいだろう。さっきの様子では、おばば自身も自分の在り方に気づいていないのかもしれない。

 頬を叩いて強ばった表情を緩め、イリスの待つ小屋へと足先を向けた。

 

 小屋の窓からイリスが灯した明かりが漏れる。

 懐かしい光景に、昔に戻ったような感傷が胸に押し寄せる。

 だがそんな物思いも戸口を開けるまでだった。

 

「やだ~! はははっ ゲン太ったら上手!」

 

 ひとり騒いでいるイリスの声に、良くも悪くも思い煩う暗い気持ちが散った。

 

「いったい何を騒いでいるのさ……って」

 

 イリスが腹を抱えて笑う目の前で、ゲン太がかたかたと身をくねらせている。

 イリスの横には、酒が入っていたはずの小さな竹筒が口を開けたまま置かれていた。

 

「また勝手に飲ませたな! こら、イリス!」

 

 ごめんごめん、と涙目で振り返るイリスに呆れて、何気なくゲン太に視線を移したヤタカの口から、ぶっ、と不本意な笑いが吹き出した。

 

 かたかたと小刻みに動くゲン太の腹には、水に流したように黒い墨が浮いては消える。

 人の顔に似せた丸や棒のパーツが、妙な配置で描かれては消える様はまるで……。

 

「見てヤタカ! ゲン太の腹踊りだよ!」

 

 下駄の腹踊りなど見たくもないと思いながら、口の端から笑いが漏れるのを止められない。

 

「お調子もんが! これじゃ下手っくそな福笑いだろうが。飲みたけりゃ全部飲みやがれ! へべれけになりやがって、飲んべえ下駄め!」

 

 ヤタカが残りの酒をふりかけると、ゲン太はころりと一回転した。

 

「飲んだ酒の分くらいは、上手に踊ってくれよ!」

 

「いいぞゲン太~!」

 

――あい あい

 

 寺にいるときは、一度も入ったことのないイリスの小屋。

 ここで幼いイリスが何を思って一人過ごしていたのか――いまは余計なことは考えないでおこう。ほんの少し、全てを忘れる時があったっていいだろう。

 ただの若者に戻れたと思い込んで笑う日もなければ、神経も心もいつか千切れる。

 人は弱い――そんな思いを、ヤタカは笑い声と共に腹の底から吐き出した。

 

 酔いどれの下駄が、かかんかん、と拍子を打ちながら千鳥足で夜を踊る。

 竹筒の水を飲みながら、ヤタカは目尻に笑みを浮かべた。

 今を笑うイリスと共に、手を打ってヤタカも笑った。

 小屋の外では、しんしんと山間の夜が更けていく。

 煩いとでもいうように、再び月に照らされた泉の縁で、ぴしゃりと水をはねる音が響いた。

 

 

 




読んで下さったみなさん、ありがとうございます!
このお話、ある意味ゲン太が一番の自由人(笑)


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12 二度目の毒は土産を残す

 

 翌朝、ゲン太を抱きしめたまま眠るイリスを置いて、ヤタカは小屋の外へ出た。

 山のてっぺんに茂る木々の隙間から朝日が差し込んで、寺を失った平地に色を持たせていく。

 シュイが持たせてくれた竹筒を手に水場へ向かう途中、空を見上げた視界の隅に岩牢の柵が目に入った。

 毒草に苦しんでのたうち回った岩牢。

 イリスと出会った懐かしい岩牢。

 そして、記憶が途切れた場所。

 

 ごちゃ混ぜの思いを引きずって足先が岩牢へと向かう中、ヤタカの気持ちはまだ揺れていた。

 慈庭の手荒い修行のおかげで、ヤタカの体は植物の毒に対してかなりの耐性を持っている。毒を見極め避けて通れるようになっただけではない。その毒その物への耐性を得ることが、慈庭が据えた本来の目的ではなかったかと、旅に出てからヤタカは身を持って感じるようになっていた。

 

 同じ山を駆け回っていれば、幾度も同じ植物に触れる。一定の期間を空けて、慈庭は必ず駆け回る山の範囲を変えていた。

 あの頃は同じ場所を走り回って体が腫れ上がらなくなるのは、単に上手く植物を避けられるようになったからだと思っていたが、本当にそうだったのか。場所を変えてはまた腫れ上がった肌。

 理由などわからない。全てを水の器の所為にするのは安易すぎる。

 おそらくだが、ヤタカの体は同じ毒を幾度か受けると――その毒を毒と感じなくなる。

 異物憑きなどと特殊な者でなくとも、異質な生業で生きる者の中には毒慣れするために、自ら毒を少量ずつ口にする者がいると聞いたことがある。

 目的もやり方も異なってはいるが、慈庭はヤタカに似たような状態を故意に引き起こしたのではないだろうか。 

 

「答えが無いものを、考えてもしゃあない」

 

 ふくらはぎに意思を込めて、ヤタカは岩牢へ続く道を登っていった。

 岩の柵が三本だけ膝の高さあたりで砕けて、その残骸は岩牢の外と内に大小の破片となって転がっていた。

 

「イリスはここから入ったんだろうな……たぶん」

 

 記憶にないのは自分に関する最後の部分だけ。遠目とはいえ寺を襲う異常は見えていたのだから記憶がない状態でも、この岩牢から安易に外へ出たとは思えない。

 岩牢の手前側に僅かに盛り上がる枯れ葉と小枝の山を避けて、端の方をひょいと飛び越した。

 途切れた柵をくぐって中へ入ると、あの日円大が差し入れてくれたまんじゅうがのせてあった皿が、土埃に塗れて転がっていた。

 細部まで探したわけではないが、小屋までの道程に骨の一つも落ちてはいなかった。

 慈庭、素堂、円大をはじめとする懐かしいみんなの顔が浮かんでは消える。

 

「あの日俺は、みんなが朝に飲む茶に苦草の粉を入れて怒られたんだ」

 

 額まで真っ赤に茹で上がって怒った慈庭の表情を思い出すと、くすりと笑いが漏れる。

 

「人の来る気配がして慌てたから、慈庭の分だけどっさり苦草の粉が入っちゃったんだよな。慈庭だから良かったようなものの、普通の人間なら気絶して三日間は腹を下している」

 

 懐かしさに口元が自然と緩む。

 数え切れないほど頭の中で辿った道を、視覚を通して追っていく。

 今はイリスの泉が陣取る平地に立っていた寺が、記憶を写して朝日に照らされる。

 笑いを噛み殺す寺の仲間達の間を縫って、慈庭に襟首を掴まれ岩牢まで引きずられた。 明日まで飯抜きだといった慈庭の目を盗んで、円大がこっそりとまんじゅうを乗せた皿を持ってきてくれたとき、辺りにはまだ日が差していた。

 年の一番近かった円大は、いつだってこっそりヤタカに手を差し伸べてくれて、時には悪いこともこっそり教えてくれた。

 風に運ばれた枯れ葉が積もる岩牢の中、ヤタカはそっと冷たい岩の壁を指先でなぞっていく。

 徐々に腰下まで下ろしていった指先が、一つの岩の出っ張りに引っかかる。

 

「懐かしいな、秘密の抜け穴」

 

 岩牢の中は刳り抜いたような岩肌を覆うように、人の手で様々な形の岩が積み重ねられ、その段差が体を横たえる場所となり、座禅を組む場となっている。その中の一つの岩を避けると岩牢の外へ繋がる抜け穴に通じていることを、最初に教えてくれたのも円大だった。人が膝を抱えたくらいはある大きな岩は、見た目にはびくりともせずに岩壁にはまっているように見えるが、大の男が力を込めれば簡単に壁から外れる。

 ヤタカが力を込めると、岩牢の中に転がった岩は外見とは違って薄っぺらい一枚岩。

 しゃがみ込んだヤタカは、抜け穴から吹き込む風が頬を撫でる心地よさに目を閉じた。

 この抜け穴を素堂や慈庭が知らなかった筈はないだろう。だが二人とも、一度も抜け穴のことを口にはしなかった。堅物なりの温情だろうか。

 

「相変わらずきれいだな」

 

 子供の頃ここから見る朝焼け雲が、ヤタカは好きだった。

 寺のみんなはとっくに目覚めていて、山間に素堂の読経が響き渡る中、自由に浮かび自然に染まる雲を眺めながら羨ましさを感じたり、今日最初に訪れるのが鬼面の慈庭ではなく、湯気の立つ飯を笑顔で運んでくれる円大でありますように、とくだらないことまで祈っていた。

 立ち上がって柵を握り隙間から外を見る。

 鮮やかに記憶に残る寺の姿はもうない。毎日繰り返し思い返しているようでいて、無意識に遠回りに眺めていた記憶を、ヤタカは胸の底から引きずり出す。

 記憶に残る最後の寺を、あの日の朝から辿ってみようと思った。

 

「些細なことも、変わらぬ日常も全てだ」

 

 あの日も朝焼けを眺めながら、坂を登ってくるのが円大でありますようにと祈っていた。 急な坂の向こうから、つるりとした頭が見えたときには満面の笑みが浮かんでヤタカは思い切り手を振った。

 人の手が入らなくなり一年、一冬を雪の下で過ごした枯れ葉と小枝が散らばる道の向こうから、人なつっこい円大の幻影が手を振る。

 慈庭の目を盗んでまんじゅうを持ってきた円大は、しっと人差し指を口に当て悪戯っぽく目を細めて、柵の隙間からまんじゅうの乗った小皿を差し入れた。

 飛びついて皿を取ろうとすると、ふざけた円大が皿を手放さないせいでしばしの引き合いとなり、ヤタカが作務衣の袖から伸びる円大の手首を思い切引っ掻いて勝負は付いた。

 右手首に二本のミミズ腫れをつくり、血が浮いてきたと騒ぐ円大を手の平でひらひらと追い返して、ヤタカはひとりまんじゅうを頬ばった。

 昼間はイリスも小屋に閉じこもったままだったから、慈庭が苦り顔で柵を開けてくれに来るのをじりじりとして待っていたというのに、あの日に限って日が暮れかかっても慈庭は姿を現してくれなかった。

 

「ありゃ相当怒っているなって、やばいなって思ったっもんな。今思えば、昼間から予兆はあったのかもしれない。慈庭や素堂の爺ちゃんにしか感じられないほどに、まるで砂山の砂が一粒転げ落ちる程度の変化が」

 

 急な坂を登って早く慈庭の鬼面が姿を見せないかと、背伸びして柵にしがみつくヤタカの顔を夕日が赤く染め、その紅色が藍色へと谷間を染め始めた頃だった。

 地の底を大槌で突き上げたような振動に、ヤタカの体が跳ね上がった。

 突き上げる振動の波が徐々に早くなっていくことに気付いたヤタカは、這いつくばって岩の床に耳を当てた。

 冷たい岩を通して、ごおぉぉ、という地鳴りが響く。

 

――これは地震なんかじゃない。

 

 ヤタカの人としての本能か、それとも水の器が体の内で囁いたのか、瞬時にヤタカは岩を押し退け抜け穴から外へ出ようとした。

 そして、凍り付いた。

 耳を劈く悲鳴と怒号が、距離を無視して耳の奥に響き渡る。

 固まった足を引きずって、柵の隙間に顔をねじ込み寺の方へと視線を向けた。

 群青色の空気に包まれかけた山間で、寺を囲む広い平地の土が無数の強大なミミズを地中に放ったかのように、ところ構わず盛り上がって筋をなしている。

 その盛り上がって筋をつくるものが向かっている先は、みんながいる寺だった。

 

 ヤタカが駆けつけたところで、どうにか出来る状態とは思えなかった。

 抜け穴を通って寺へ行くのは、恐ろしく遠回りになる。抜けた先は山の斜面の反対側。 

――間に合わない

 

 そう思って柵を殴った感触と共に蘇る感情に、ヤタカは早鐘を打ち始めた胸をこぶしで押さえ込んだ。

 遠目にもバリバリと土を割って津波のごとく押し寄せるモノが、異常を察して外へ飛び出した二人の作務衣姿を呑み込んでいく。

 盛り上がった土に押し倒されるのではなく、牙を剥くように押し寄せる土の尖端に地中へと引き摺り込まれる姿を、ヤタカは為す術もなく見つめていた。

 

「イリス!」

 

 小屋に居るはずのイリスを大声で呼んだが、幾度声を上げても小屋の扉が開く気配はない。折ることも砕くことも出来ない岩の柵を、がむしゃらに叩いていたヤタカの手がぴたりと止まる。

 

「じいちゃん……素堂の爺ちゃん!」

 

 止むことなく山間の空気を宥めるように響き続けていた、素堂の読経の声が強く大きく響き渡り、それはヤタカでさえ一度も耳にしたことのない抑揚の言霊へと変わっていた。

 水の器がヤタカの体内で身震いする。。

 その震えを乗せた血流が、ヤタカの聴覚に人以上のモノを与えたのかも知れない。

 地面を押し上げて響く地鳴り中、止むことの無かった読経がぴたりと止んだ。

 

『――我と共に、全てを葬り去らん――』

 

 打ち鳴らされた寺の鐘の中に、頭を突っ込んだときのように素堂の声が全身に響き渡る。

 水の器が身を震わせ、ヤタカの内を駆け巡る血流が波打った。

 

「寺が……寺が呑まれていく」

 

 寺を囲むように渦巻く土の津波に、歴代の僧侶達の汗を、笑いと涙を吸い取ってきたであろう厳かな佇まいの柱が、板張りの廊下が嫌な音を立てて崩れ落ちていく。

 渦潮に呑まれた小舟のように、盛り上がった土の中心に最後に見えたのは、空を仰ぐように傾いだ縁側だった。

 素堂の爺ちゃんが愛した山の木々を眺めるための、古く黒光りした縁側の板張り。

 

「イリス……イリス……イリス!」

 

 叫ぶ視線の先で、波打つ大地が凪いでいく。

 イリスは姿を現さない。

 びくともしない岩の柵に手をかけ、手の平の皮が剥けるほど揺すったその時だった。

 

「―――」

 

 野太い声が、聞こえた気がした。

 声の方へ視線を向けたヤタカの目に入ったのは、寺を呑み込んだ土の盛り上がりから蛍のように湧き出て、空高く四方八方へと散っていく大小の光りの粒。

 どくんと爆ぜた心臓に視界が白く染まる。

 

 視覚を取り戻したときには、すっかり日の昇った現在の山の景色が一面に広がってるだけだった。

 記憶を辿るはずの回想がすっかり記憶に溺れていたのかと、ヤタカは口の端で苦笑いを零しながら頭を振る。

 現場に来たことが記憶を掘り下げてくれたのだろうか。最後に聞いた気がした野太い声のことなど覚えていなかったのに。

 現実に意識が戻った今となっては、野太い男の声というだけの曖昧な印象で、何を言われたのか、誰の声だっがのかさえまったく思い出せはしなかった。

 

「取りあえずは、水だな」

 

 砕けた柵の間から外へでようとしたヤタカは、柵の前にこんもりと吹き溜まった枯れ葉に目をやり、何気なくその表面を手で払った。

 さらさらと払っていた手がぴくりと止まる。退けた枯れ葉の下から灰色に乾ききった蔦が出てきた。更に葉を退けると、こんもりとした固まりの僅かな表面を枯れ葉が覆っていただけで、下には細い蛇がとぐろを巻いたように蔦が幾重にも絡まっていた。

 

「これって本当に蔦なのか? こんなに棘の生えた蔦なんて見たことがない」

 

 枯れているとはいえ、目にしたことのない植物に興味が湧いた。しゃがみ込んだヤタカは蔦の根元付近には棘が無いことに気づいて、そこを掴んで引き寄せようと柵の隙間から腕を伸ばした。

 

「痛い!」

 

 片膝を立てようとしてバランスを崩した手が、乾いた蔦の棘の先を擦った。あまりの激痛にざっくり指先が裂けたかと思ったが、ぷつりと血が滲んでいるだけで大げさな傷など見当たらない。

 

「この蔦、もしかして棘に毒を含んでいるのか?」

 

 すっと引いた痛みの代わりに、指先から腕へと痺れが這い上がる。

 毒を運ぶ血流を止めようとしても手段が無い。止めることで毒が滞り、悪い事態を招くこともある。ほんの一瞬の躊躇を見逃すまいと、あっという間に痺れは首筋を這い上がり、ヤタカの思考と視界は己の手から完全に離れていった。

 二つの景色が、重なり合う。

 

「ヤタカ?」

 

 薄れていく現実の尻尾に聞こえたのは、目を覚ましてヤタカを探すイリスの声だった。

 

 

 自分の体が柵を掴んで揺さぶっている。夢から覚めたばかりのように朦朧としたヤタカ自身にそんな意思はない。もう一人の自分にぼんやりと意識だけが乗っている――そんな感じだった。

 

――これは記憶だ。さっきまで辿っていた記憶の途中。

 

 意思を持ったとしか思えない地面の盛り上がりに、縁側の端が浮かびあっという間に呑まれて消えた。

 イリスを呼ぶ自分の声が、聞き慣れない他人の声みたいでヤタカは目尻を押さえようとしてはっとする。

 今のヤタカの意思で動かせるものなど何も無いのだ。目尻を押さえる指先さえ、過去の物なのだと。

 少しでも気を抜くと視界が霞みに曇っていく。理屈などどうでも良かった。今見ているのは――

 

――俺の持つ過去の記憶だ。

 

 

 思い出そうとする意思に関係なく進んでいく景色に、心がわなわなと震えた。同じ場所で途切れるかも知れない。だがその先があったなら、見たことを後悔するのではないだろうかという思いが不安と共に湧き上がる。

 

「ヤタカ! 無事かヤタカ!」

 

 野太い声が坂の向こうから響く。

 

――記憶が続いていく。

 

 心が震えたのは続いた記憶への驚きだけではなかった。聞こえてきた野太い声は、懐かしい慈庭のものだったから。

 全力で駆けつけたであろう、慈庭の体はボロボロだった。法衣は裂け、覗く肌からは赤い鮮血が流れている。

 勢いのままぶつかるように柵にしがみついた慈庭の膝が折れ、傷の所為か小刻みに震える太い腕で鍵の束を握る。

 

「ヤタカ……逃げろ!」

 

 大きな鉄の錠前に、鍵が届く寸でに慈庭の胸が跳ね上がった。

 

「慈庭!」

 

 過去のヤタカが慈庭へと手を伸ばす。

 

「逃げろ……許せよ……ヤタカ……」

 

「慈庭、駄目だ!」

 

 鍵を握る手がだらりと下がり、慈庭の大きな体が後ろへと引き倒された。

 はだけた法衣の胸からは、背後から突き刺さった三本の蔦が鋭い切っ先を蠢かせ、慈庭の体を引き摺っていく。

 

 ヤタカの絶叫が山間に木霊する。

 

――あの声は、慈庭だったのか。俺を助けようとして、慈庭は死んだ。

 

 感情に反して感覚が研ぎ澄まされていく。全ての音が光景が、一欠片も拾い損ねるなと言わんばかりにヤタカの中へ流れ込む。

 過去の自分が柵から腕を伸ばし、遠ざかる慈庭の体を掴もうと足掻いていた。

 慈庭の命を奪った者への怒りと、イリスの側に得体の知れない危険が迫っている焦りが記憶を追うヤタカの中にも滝のように流れ込む。

 寺を呑み込んだ大地は何事も無かったかのように、静かに山間にのっぺりと広がっていた。慈庭の体が崖の向こうへ姿を消し、膝を着いたヤタカの耳に新たな声が響いた。

 

「ヤタカ! いるかヤタカ!」

 

「円大! 生きていたのか?」

 

 慈庭が引き摺り込まれた崖の、かなり離れた場所から這い上がって来たのは、つるりと丸めた頭から血を流す円大だった。

 

「慈庭が殺された。イリスも姿を見せない!」

 

「落ち着くんだヤタカ。寺はやられたが、何がどうなったのか解らないんだ。とにかく逃げろ、今すぐだ」

 

「柵の鍵は慈庭が持っていた。開けられないんだ。イリスがまだ小屋にいる」

 

 円大は頷くと、作務衣の袂から小さな壺を取りだした。

 

「これは人の体に害はない。ただ、岩に染み入って脆くする。少し離れて」

 

 ヤタカが後退るのを確かめた円大は、壺からねっとりとした黒い液状の物をすくいとり、数本の岩の柵に乱暴に塗りたくった。

 岩には何の変化も見られない。これで本当に砕けるのかとヤタカが不安に眉根を寄せると、円大は頷いて微かに微笑んだ。

 

「イリスを連れて、抜け穴から山を越えて街道に出るんだよ。はっきりしたことが解るまで、目立たないように生きるんだ。いいね?」

 

「円大も一緒にいくだろう?」

 

 その問いに、円大はゆっりと首を横に振る。

 

「ぼくは腐っても寺の僧侶だ。まぁ、似非坊主だけどね。ここで少し調べたいことがあるから。それが寺のみんなの供養になるって、信じているんだ」

 

「どうやってあの場から逃げ出した? あっという間の出来事だったのに」

 

「兄弟子達の言いつけで、寺からは離れた場所で作業をしていたから。一番の役立たずが生き残っちゃったよ」

 

 黒い液体で汚れた手を、尻に回して拭き取る円大の体が跳ね上がる。

 

「円大!」

 

 円大の肩からは、慈庭の胸を貫いたのと同じ蔦が一本突きだしていた。

 反射的に黒く塗られた岩の柵を拳で砕いた。

 

「イリス!」

 

 墨の燃えかすを砕くように、あっけなく岩の柵が砕けて落ちる。

 小屋を飛び出してきたイリスが見えた。

 そこからはあっという間だった。

 片手を後ろに、固まったまま目を見開く円大の体を、どこから湧いたのか蔦が幾重にも絡まっては伸びる。

 蔦の隙間から円大の右手を掴んだ。手首には、昼間ヤタカが引っ掻いたミミズ腫れが赤く盛り上がって残っている。

 

「今助ける! 外へ出るからまってろ!」

 

 走ってきたイリスが、砕けた柵の間から体を滑り込ませヤタカにしがみつく。

 

「外へはでるな、直ぐに逃げるんだ」

 

「嫌だ!」

 

「いいから……行けよ」

 

 円大の手を握るヤタカの手に、イリスの手が添えられた。

 鞭のように一本の蔦の先が二人の手を弾き、焼けるような痛みに僅かに力ら緩む。

 

「行け」

 

 円大の手がするりと抜けて、棘だらけの蔦に囲まれた体が崖の向こうへと転がっていく。 

「イリス、逃げるぞ!」

 

 イリスの手を取って横穴へと潜り込む。

 繋いだイリスとヤタカの手の甲には、点々と棘が刺さった後が血を滲ませていた。

 毒のせいだろうか、意識が朦朧としていた。

 最後に振り返った崖の縁に誰かが立っていて、頭上に伸ばした手に黒い影が吸い込まれていくように見えたが、まるで影絵でも見ている様で、ヤタカの意識はぷつりと途絶えた。  

 

 

「ヤタカ? 起きてよヤタカ」

 

 イリスの声に目を覚ましても、しばらくは深い霧の中にいるようだった。白い霧の中イリスのシルエットがふわりと浮かんでは消えて行く。

 体を起こされて口の中に冷たい水が流し込まれ、心配そうなイリスの表情が目の前にあるのに気付いたヤタカはふっと笑みを零した。

 

「近いよ、イリス」

 

 鼻緒をぺたりとさせたゲン太が、ヤタカの膝の上で不安そうにカタカタと揺れている。

 

「なんだ、ゲン太も一丁前に心配してくれたのか?」

 

 ヤタカの憎まれ口に安心したのか気分を損ねたのか、ゲン太はさっさとイリスの後ろに隠れてしまった。

 

「イリス、柵の前の枯れた蔦には触るなよ。俺は色々と思い出したよ。その棘の毒は、前にも一度刺されている。だから今回は回復が早い。その上、予想外の土産もつけてくれたしな」

 

「歩けるの?」

 

「大丈夫だ。ゲン太は、慈庭や円大のことは知らないよな」

 

 とことことヤタカの横にやってきた、ゲン太の木肌に文字が浮かぶ。

 

――えんだい まじめ

 

「知っているのか? じゃ慈庭のことは?」

 

 文字が揺らいで新たな文字が浮かぶ。

 

――じてい おとなになった

 

「なんだそりゃ?」

 

――じてい つまらない

 

「大人になった慈庭は、つまらかったっていいたいの?」

 

 珍しくイリスの問いを無視して、ゲン太はさっさと歩き出した。

 

「まあいいや、行こう。何を見たかは歩きながら話すよ」

 

 くらくらする頭の芯にふらつきながら、ヤタカは岩牢を出た。

 山を離れるときに、この蔦の残骸は燃やしていこうと思った。

 足で蔦の一部をへし折り、棘が刺さらないように布に包んで懐にしまう。ヤタカでさえ知らないこの蔦の正体は、いずれあの人影へ繋がる手がかりになるだろう。

 立ち上がろうとしたヤタカの視線が一点に吸い寄せられた。

 イリスに気づかれないようさりげなく摘んだそれを、そっと懐に押し入れる。

 雨風にさらされ変色してるが、この切れた鼻緒には見覚えがあった。

 何度この鼻緒がついた下駄に悪戯したかわからない。

 色褪せた紺色の鼻緒は、庭に出るときだけ慈庭が履いていた、愛用の下駄のものだった。

 慈庭の形見だが、この場でイリスに見せるのは、あまりにも記憶が生々し過ぎるだろう。

 イリスが泣くのは、やっぱり嫌だった。

 

「ここを出たら、ゴテと()グソに繋ぎをとる」

 

「野草師の野グソ? うん、もうそろそろ薬草のお届け時期だから、黙っていても来るかもよ?」

 

「あいつら二人揃うと、騒がしくてな」

 

「にぎやかでいいじゃない」

 

――ばばあ まってる

 

 急かすように、ゲン太がかんかんと身を鳴らす。

 

「今の俺には、おまえらだけでも十分煩いよ。あぁ、あったまイテぇ」

 

 ぽつりぽつりと話すヤタカの声に、イリスは黙って聞き入りながらゆっくりと歩いて行く。

 そんな二人の様子に構うことなく岩場を踏みならして先を行く、ゲン太の下駄の歯の音だけが途切れることなく朝の山間に響き渡っていた。

 

 

 




読んで下さったみなさん、ありがとうございます!
すっかり、どっかり遅くなってしまいました。
年によって、秋と春先はだめなのですねぇ……アレルギーのバカヤロー!
次話は通常モードでさくっと仕上げられたらと思います。
次話もお付き合いいただけますように。
もう少しで、野グソ登場ですっ 品がないですね~(笑)


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13 変わらぬ友と 血色に染まらぬ葉脈と

 

 泉に辿り着くと、白く小さな花達が昨夜と変わらぬ姿でヤタカ達を迎えてくれた。

 

「おしゃべりさん、おはよう」

 

 イリスの声に応えて、風もないのに小花が一斉に頭を揺らす。

 

『ドクニ フレタカ』

 

 おばばの花言葉が、澄んだ朝の空気に伝う。

 

「良くわかるね。おそらく記憶を失ったのはこの毒のせいだと思う。岩牢の前に枯れた蔦が残っていて、うっかりその棘に触れてしまったんだ。おかげで忘れていた過去を垣間見ることができた。思い出したよ、慈庭が俺を助けようとして死んだことも」

 

 話の先を促すように花が揺れる。

 ヤタカは見たままを、些細なことまで零すことなくおばばに話して聞かせた。

 聞くのは二度目だというのに、イリスは同じ場所で唇をくっと引き締め目を閉じる。

 慈庭の――命の火が消えたところで。

 

「おばば、ここに来る前に出会った寺付きの草クビリが、俺達は寺の保護から引き離して、狩るために野に放たれたのだといっていけれど、意味がわかるようでぴんとこない」

 

『ソノオモワクハ セイコウシタ』

 

「最後に見た人影が、寺を襲わせたと思う?」

 

『ワカラヌヨ オマエヲ ニガシタモノハ シンダノダナ?』

 

「あぁ。肩口を太い蔦に貫かれて、毒の棘に全身を囲まれて転がっていった。生きていられる筈がない」

 

 全員が口を閉ざす中、泉でぴしゃりと魚の跳ねる水音が響く。

 

「ねぇ、おしゃべりさん。街道なら簡単だけれど、戻る前に早く繋ぎを付けたい人達がいるの。ゴテ師と野草師で、この寺にも出入りしていた。二人にここから繋ぎを取ることはできる?」

 

「そんなに急がなくていいよ。僅かな毒だろうし、二度目だ。俺なら心配ない」

 

「おしゃべりさん、どう?」

 

『カンタンナコト テラガアッタコロモ ココカラ ツナギヲトッタ』

 

 おばばの返事に、イリスがあからさまに胸を撫で下ろす。

 

「よかった、ヤタカには早く良くなってもらわなくっちゃ」

 

――真面目に心配しちゃって、やっぱり女の子だな。 

 

 下を向いたままヤタカがにやりとしていると、隣でゲン太の木肌に敵対心剥き出しの墨の渦が湧いた。

 

「だって元気に歩いて貰わないと、街道までヤタカの荷物を背負うのは重いじゃない?」

 

 そっちか! という突っ込みはぐっと呑み込んだ。

 これ見よがしに足元までとことこと寄ってきたゲン太の木肌に、ゆるゆると文字が浮かぶ。

 

――ぬかよろこび

 

 イリスに見つからないように、左足で草にめり込むほどゲン太を踏んづけた。

 妙な音を立てたゲン太にイリスが振り返った時には、ヤタカは何食わぬ顔で泉の中を泳ぐ紅に見とれた振りをしていた。

 

「ゲン太? どうかしたの?」

 

 顔を伏せたまま片目で睨むと、ゲン太の鼻緒がしゅんと萎む。

 

――なんでもない

 

 不満げに揺れる文字に首を傾げながらも、おばばの泉へ向き直ったイリスにヤタカはしてやったりとニヤリとした。

 

 バシャリ

 

 泉を覗き込むヤタカの顔の真下で、紅が盛大に尾を水面に打ち付けた。

 

「げっ!」

 

 びしゃびしゃに水を浴びた顔を拭いながら、反対岸へさっさと逃げた紅を睨み付ける。

 イリスも紅も何だって馬鹿下駄の味方をするんだと、納得いかないままヤタカはどかりと胡座をかいた。

 

「あれ? もう頭痛くないの? いまドシンって座ったでしょう?」

 

「あぁ、そういえば直っているかな」

 

 芯が揺らぐような思考のぼやけも、視界の揺らぎもなくなっていた。頭痛も綺麗さっぱり治まっている。

 

「礼はいわないぞ。どうせゲン太の代わりに、仕返ししたついでだろ?」

 

 口先だけで呟いて、ヤタカは泉に向けて舌をだす。

 

『コノ イタズラボウズドモガ』

 

 おばばの言葉にヤタカはこっそり首を竦めた。

 

『キイロイハヲ ツンデ コトヅテスルトイイ』

 

 おばばの言葉に泉の周りを見渡し、コスモスに似た薄い花びらを付けた花が、黄色い葉を付けているのを見つけると、イリスは躊躇することなく二枚の葉をぷちりともぎ取った。

 

「これをどうするの?」

 

『ミジカイコトバデ デンゴンヲ」

 

 少し首を捻ったイリスは、一人頷くと大きく息を吸い込んだ。

 

「ゴテ! 肉の燻製、大至急!」

 

 息がかかるほどに叫んで、イリスの指から放たれた一枚の葉は、ひらりと空中で二枚に別れた。

 まるで合わせた和紙をを剥がしたように、ひらひらと舞って葉が飛んで行く様は蝶その物。上空まで優雅に舞い上がった葉は、一瞬動きを止めると、一筋の残像を残して山の向こうへ姿を消した。

 

「野グソ! あんこ餅、急げ!」

 

 すでに慣れた手つきで放たれた葉が、行き先を心得たとばかりに天高く舞い上がる。

 

「イリス、伝言が間違ってるって」

 

「どこが?」

 

 こうなったら打つ手がない。ヤタカは肩を竦めて口を閉じた。あんな伝言でも、二人は風を切るように駆けつけるだろう。何しろガキの頃からの付き合いだ。

 肉だろうがあんこだろうが、イリスが繋ぎを付けるときには言葉と裏腹に、急ぎの用があることを彼らは心得ている。それこそ、身に染みて。

 

「ガキの頃もさ、転んで足を挫いて動けなかったっていうのに、寺にいる俺達に送ってきた伝言は何だった? 覚えているか?」

 

「ううん。覚えてないよ」

 

「たった一言……おやつ欲しい、ダメは絶交!……だっただろ?」

 

 首を傾げるイリスに苦笑いしながら、ヤタカは幼い日、絶交という言葉に大慌てでイリスの小屋まで駆けつけた日のことを思い出していた。

 おやつどころの騒ぎじゃない。小屋の前で転んで捻挫したイリスの足首は、驚くほどに腫れ上がっていたのだから。

 あれ以来バカな男三人は、イリスからの伝言には何を差し置いても駆けつける。

 真面目というか、アホウというか。要するに、阿呆な幼なじみ達は人がいい。惚れた腫れたの話じゃなく、単純に女に甘い。イリスに関しては恋愛感情など無いくせに、あんこに砂糖を振りかけても足りないくらいの甘さを見せる。

 まあ、愛すべきバカどもといったところだろう。

 自分の態度も蜂蜜を煮詰めたように甘いことを棚に上げ、ヤタカはこっそり首を竦めた。

 

「おしゃべりさん、ゴテ達はどれくらいで来ると思う?」

 

 首を傾げて問うイリスに、白い小花が可笑しそうに首を揺らす。

 

『ヒガタカク ノボリキルマデニハ ツクダロウヨ』

 

 彼らもやはり張り巡らされた横穴を通って、それぞれの場所から駆けつけるのだろうか。 それなら昼までには着くだろう。おばばの花言葉が可笑しそうにコロコロと聞こえるのは、息を切らせて駆けつける幼い日の二人の様子を覚えているからだろうか。

 

「あの頃、泉はイリスの小屋の横にあっただろう? おばば、あの日の出来事をみていたんじゃないのか?」

 

 ヤタカの問いに、白い小花達が思案するようにざわめき擦れる。

 

『オボエテイナイ テラガ チニノマレタノハ ダイチヲトオシテ ツタワッテキタ』

 

 だが、とおばばは続ける。

 

『キヅケバ イリスハ スガタヲケシテイタ  アトノコトハ ジョウホウニスギナイ』

 

 ヤタカの意識を奪ったのが毒だとして、泉そのものであったはずのおばばから意識をうばったのはいったい何であったのだろう。

 

「ヤタカ、みんなのお墓をつくろうよ」

 

「そうだな」

 

 当初の目的だ。骨一つ残っていないこの地に石を積んでも、僅かばかりに安らぐのは生きている者だけかも知れない。みんなを想いながら、生き残った自分達の気持ちに区切りを付ける為に石を積む。ただそれだけのことなのだろう。

 あの日に地の底から突き上げるように割られた大地は、深部に沈んでいた大小の石を地表へと浮き上がらせていたが、ヤタカ達は辺りに転がる石を使うことはしなかった。

 流れ落ちる水辺の周りに昔から転がっている石の中から、なるべく平たい物を選んで布に包み持ち帰った。

 地面に置いた布を開いて大きめの石から一つずつ積み上げるたび、隣で手を合わせるイリスが、かつての寺の仲間達の名を呟く。

 ヤタカの手が墓標を積み上げる中、イリスの声が石の一つ一つに魂を入れていく経のように思えて、ヤタカはそっと目を閉じて耳を澄ませた。

 

「できたよ。小さいけれどみんなの魂を少しでも、沈めてくれるものになるといいな」

 

 答えることなく、イリスは自分が抱えてきた布を開くと、大きな丸い石を一つと、楕円形の不揃いないくつかの石を取りだし墓標の前に並べ始めた。

 

「小さな子供が描く、下手くそな花の絵みたいだな」

 

 丸い石を中心に放射線状に置かれた石は、でこぼこに描かれた一輪の花。

 

「うん。これは来年の冬のための花。冬は花が咲かないから。あんな鬼瓦みたいな顔して、こっそりお花が大好きだったの……慈庭」

 

 そうか、慈庭の為に添えた石の花。

 静かに目を閉じて、二人手を合わせた。

 背後でおばばの白い小花が揺れて、ちりりと柔らかな音を奏でる。

 いつもより穏やかな音を立てて、泉でぴしゃりと水が跳ねる音がした。

 木魚の代わりを務めているつもりなのか、小さく下駄の歯が打ち鳴らされる。

 

「おばば、みんなのことを頼む」

 

『トモニ ココニイル』

 

「今日中にはここを立つが、必ずまた来る。どういう気か知らないが、ゲン太が種を食い過ぎて肥満になる前には戻って来るよ」

 

 おばばの嗄れた笑い声と、ころころと涼やかな小花の揺れる音が重なる。さっき踏みつけられたことへの警戒か、ゲン太は不満そうに身を揺らしながらもイリスの足に隠れて文句を言ってはこなかった。

 

「何か食えそうな物を集めてくるよ。この時期だから、煮ても焼いても上手そうな物は採れないと思うけれど、空腹よりはマシだろう?」

 

 泉の側にイリスとゲン太を残し、ヤタカは山へ入っていった。体中を腫らしてかけずり回ったこの山も、今なら難なく駆け回れる。

 爛れて変色した肌のヤタカを表情一つ変えることなく、指先ひとつで再び山へと送り込み続けた慈庭。毎日のように、ヤタカを怒鳴りつけた野太い声。そして、許せ……といった最後の慈庭の声が記憶の中で重なりあう。

 慈庭はいったい自分の何に対して許せ、といったのか。

 喉の奥に引っかかった骨のように、思考の隅に引っかかる声だった。

 

「やっぱりろくな物がないな」

 

 山で食料を探すには季節が早すぎる。だが旨いモノがないだけのこと。たとえ雪山であろうと生き抜けるように、慈庭に徹底的に仕込まれた。

 だが、と腕に抱えた葉を眺めてヤタカは溜息を吐く。食えるというだけであって、これを食べさせたら、顔をしわくちゃにしたイリスに睨まれるのは目に見えている。

 ぶつぶつと独り言を漏らしながら山を下りたヤタカは、視界が開けて見渡せるようになった寺跡を見て呆けたように顎を落とした。

 

「いくらなんでも早すぎだろう? 本物の馬鹿か?」

 

 溜息に首を振りながら泉に近づいたヤタカは、落ちていた顎をぐいっと食いしばり、握った拳を振るわせた。

 

「おまえら、人が山に食い物探しに行っていたっていうのに……」

 

「おかえり、ヤタカ!」

 

「よう、久しぶり」

 

「よう、この間ぶり」

 

 口いっぱいに食べ物を頬ばった三人組が、ヤタカの気持ちなどお構いなくにこやかな笑顔を向けてきた。

 

「ただいま、久しぶりにこの間ぶりだな、コノヤロウー」

 

 積み上げたばかりの墓石には、あんこ餅と竹筒に入った酒が供えられていた。肩で諦めの息を吐き、抱えていた葉の束を墓標の前にそっと置いてヤタカは手を合わせる。

 

「不味さも、懐かしい味だろ?」

 

 輪になって座る三人の前には、イリスが注文した以上の品が並べられていた。相手より品数が少なくならないようにと、馬鹿二人が意地を張り合った結果がこれなのだろう。

 

「俺にも食わせろ!」

 

 ゴテと野グソの間にどかりと座り、冷えた焼き魚にガブリと齧り付く。

 

「食ったら体を見せろよ。イリスに大体のところは聞いた。記憶が一部戻ったらしいな」

 

 ヤタカの顔を見ずにゴテがいう。

 

「もう平気だ。食って寝れば毒も抜けるさ」

 

「一度目は記憶を奪い、二度目は記憶を呼び覚ました毒だ。似たような物は知っているが、ヤタカが見覚えがないならおそらく、俺達も見たことがないものだと思うよ」

 

 淡く微笑みながらヤタカを見るのは、幼い頃に野グソという不名誉なあだ名を付けられた男。呼び名に反して、細身の体にすっきりと整った涼しいほどにできすぎた顔をのせている。ゴテが動なら、野グソは静。面白い奴だが、ゴテに比べれば物腰の柔らかな男と言えた。古くより続く野草師と呼ばれる生業を親爺さんから継いで、幼い日からヤタカとイリスに処方する薬草の全てを請け負っていただけに、野草を薬に昇華させる知識も腕も、知る限り右に出る物など居ない。

 いわゆる寺付きの野草師。

 

「これが採取した欠片だ。本体は岩牢の前にまだあるが、ここを出る前に焼き払うつもりだ」

 

 懐にしまっていた棘の生えた蔦を、包んでいた薄皮ごと渡すと、野グソは触れることなくじっと見入ってから、記憶を探るように細めた瞼の裏で視線を揺らした。

 

「まさかな……」

 

 漏れた言葉に視線が集まる。

 

「いや、気にしないでほしい。これを見るのは間違いなくはじめてだよ。でもね、ぼくが曾爺さんに聞かされたことのある異種に、特徴が似ていてね。乾ききっているから、なんともいえないけれど。それに曾爺さんはいい気分で酔っていたから、ぼくを楽しませるためのお伽噺だと思っていた。今のいままではね」

 

 言葉を選んで噛むように話していた野グソが、大きく肩を上下させた。

 ちらちらと野グソの方へ視線を送りながらも、イリスは澄まし顔で団子を口に運ぶ手を止めずに耳だけを澄ませている。

 

「いったいどんなお伽噺だった? 酔った爺様の与太話が、与太じゃなかったかも知れないなら知っておきたい」

 

 そういって食べる手を止めたゴテは、物もいわずにヤタカの作務衣を肩から引き下げて背中を剥き出しにすると、勝手にしゃべってくれ、とでもいうようにヤタカの体の触診を始めた。

 

「なにが大丈夫だ。何をどうしたかは知らんが、肩こりの頭痛に痛み止めを飲んだようなものだ。痛みは止まっても肩こりは治っちゃいないのさ。所々だが、背中に毒を受けた発疹が浮いているぞ」

 

 ゴテの言葉に肩を竦め、ヤタカは尖らせた口先で野グソに話の先を促した。

 

「豆坊主……曾爺さんは、幼いぼくのことをそう呼んでいた。あの日、顔を真っ赤にした曾爺さんは、こういった」

 

――わしのかわいい豆坊主は、植物は土から生えると思うとるんじゃろ?

 

――虫からも動物からも生えるってしっているよ! 人からもね!

 

「よちよち歩きの頃から親爺に仕込まれていたから、馬鹿にされたと思ってぼくは膨れた。それを見て、曾爺さんは楽しそうに笑っていた」

 

――それは二番種の話じゃな。そうじゃのうて、言葉通りに生えるんじゃ。しゅるしゅると、人の体からまるで生き物のようにな。

 

――うっそだい!

 

――嘘なものか、爺様はこの目玉で確かに見たんじゃよ。

 

「曾爺さんが、何処で見たのか本当に見たのかさえわからない。ただね、その日は酔って何度も同じことをいっていた。棘を持つしなやかな枝には、棘の先に他には見られない特徴があったってね。離れて見ても気づかないが、棘の先は僅かに紫に染まり、棘の先のほんの少し下に針で引っ掻いたように小さな括れがあったって」

 

 ヤタカとゴテは無言のまま視線を交わした。

 俺が考えていることを、おまえも考えてはいないかと、視線で探り合う。

 

「二人とも、もうぼくが言いたいことに察しはついただろう? あくまで推測だし、乾ききっていて尖端の色もわかりゃしないからね」

 

「だが、形状はそう変わっちゃいない」

 

 ゴテが言う。

 持ち帰った蔦の棘には、確かに僅かな括れがあった。

 

「野グソの爺様が、離れた所から見ていたなら、あれをしなやかな枝と思ってもおかしくない。あまりにもしなやかに動くから蔦と言うしかなかったが、たしかに動きを止めれば細い枝だ。異種を宿した人間を見たのか?」

 

 ヤタカの問いに、野グソはゆっくりと首を振る。

 

「異種なら人から生えて命を奪う。聞いた限り、その特殊な枝は人に寄生しているかのように、自由に姿を現すことも潜めることもできたようだからね。特殊な異種だとしても、それ以外の得体の知れない物だとしても、曾爺さんが見た人はとっくにこの世を去っているだろうね。何しろ見たのは若い頃だったそうだし、曾祖父が亡くなったのは九十六歳だったから」

 

「野グソの爺様は、どんな状況でその人物を見たのかな」

 

 ヤタカが呟く目の前で、食べ続けていたイリスがげほりと咳き込んだ。

 

「ここまで聞いても、わたしにはさっぱり何の察しもつかないよ? 今日の野グソの話は難しいよ」

 

 もぐもぐと頬を膨らませるイリスに、野グソはふっと口元を綻ばせる。

 

「いいんだよ、イリスは察しなんてつけなくて。さて、ぼくもヤタカの体を見て、必要な薬草を見極めないとね。イリスは思う存分食べて。ぼくの分の羊羹もあげるから」

 

 嬉しそうに目を見開いたイリスが、さっと野グソの首に抱きついて膝を立てた足をばたつかせると、野グソはちょっと困ったように目を細めて笑った。

 チッ、と舌打ちしたゴテは、すぐに真顔に戻ってヤタカの首筋をごつい指先で丹念に押していく。

 

「首筋の両側にそれぞれ三カ所、筋肉の深い部分に小さなしこりがある。この前には見られなかったから、今回受けた毒の所為だろうな。訳のわからん毒が記憶を呼び起こしたのかもしれないが、俺は解毒するべきだと思うぞ。もしかしたら、今夜にでも記憶を含んだ夢を見るかも知れないとしてもだ。記憶なら自分で思い出せ。記憶へ未練はあるだろうが、諦めろ」

 

 苦笑を浮かべ、ヤタカは黙って頷いた。

 記憶への未練はある。二度目の毒だということへの慢心も。野グソの話がなければ、自分を過信していただろう。だがこの毒を含む植物は、異種に囲まれて育ったヤタカ達にとっても不可解な点が多過ぎる。

 

「ゴテを当てる前に、少しだけ血を採らせて欲しい。今のところ、似た毒性を持つ植物への対処法を取るしかないからね。それでも何もしないよりはマシだよ」

 

 野グソは花の蕾のようにくるりと丸まる一枚の葉を、直に触らないよう布で摘んでヤタカの腕に押し当てた。

 枯れかけた黄色い紅葉に似た色の葉が触れた部分から、ちくりと数カ所に少しばかりの痛みを感じた。この葉は葉脈を通じて血が吸い上げ、黄色い葉の色が変わっていく。吸った血を見せるかのように広がり、やがて紅葉の様に赤く染まる。葉が吸い上げた血を使って野草師は見分けずらい毒を見極め、持てる知識の全てを注いで薬草を処方する。

 この葉を野グソが使うところを幾度も見てきたヤタカは、チクリとした腕の痛みを無視して、よそ見をしたまま葉の変化を気にすることもなく、満腹になったらしいイリスが腹を片手で擦っている姿を眺めていた。

 

 ヤタカを挟む形で野グソと向き合っている、ゴテの手が止まった。ゴテの指が首筋から離れたことでふと我に返ったヤタカが正面に視線を戻すと、葉に被せた布を手に握り込んだ野グソが、ヤタカを通り越して肩越しにゴテを見つめていた。

 

「どうした? 何か気になることでもあったか?」

 

 努めて軽い調子でヤタカがいう。

 野グソの黒い瞳が、真っ直ぐヤタカへと戻された。

 

「痺れさせる、生かす、殺す。種類によっては可能だが、殺す毒を持つ者が意思によって毒の強弱を調節することはできない。どんな異種でもだ。薬も極端にいうなら毒を薄めた物を使う。薬を飲み過ぎれば毒となる。同じ物でも濃度によっては痛みを和らげ、幻覚を起こし、過ぎれば呼吸器を麻痺させ死に至らせる」

 

「それで、結論は?」

 

「有り得ないが、おまえを刺した棘を持つ蔦は、意識的にその調節をしているんだよ。おそらくはね」

 

 いつも柔和な野グソの表情は固く、ヤタカは固唾を呑んで次の言葉を待った。

 

「ヤタカ、今すぐ何かが起こる訳じゃないさ。だが、何が起こるか予想がつかない。心配すんな、おまえ一人助けられないようじゃ、俺も野グソも廃業だ。おまえの幼なじみは、そんなヤワじゃないだろう?」

 

 とん、と叩かれた背中にヤタカが振り向いたときには、ゴテは背中を向けて無言でゴテを当てる準備にかかっていた。

 

「嫌な予感しかしないな」

 

 無理矢理笑おうとしても、口の方傍が攣ったようにひくつくだけだった。

 

「普通はね、吸い上げた血で赤く染まる。変化を見せるのはその数時間後だからね」

 

 野グソが、すっと手元に視線を落とす。

 

「だからぼくも、嫌な予感しかしないんだ」

 

 平静を保とうと決めていた、ヤタカの目が丸く見開く。

 背後では、ゴテが治療用の小刀を研ぐ音が響いている。

 

「軽く傷を付けてからゴテを当てる。けっこう、痛むぞ」

 

 小刀の先が皮膚と僅かな肉を裂いた痛みが走り、その上に押し当てられたゴテから、塗られた薬草が肌を焼く痛みと共にヤタカの体に入り込む。

 ぴくりと眉根を寄せただけで、ヤタカは微動だにしなかった。

 視線はただ、野グソが開いた手の中で布に乗った葉に注がれる。

 紫に変色した葉のなか、葉脈だけが毒々しい赤紫色を滲ませていた。

 

 

 

 




読んでくださった皆さん、ありがとうございます!
少々、投稿が遅れ気味ですみませんm(_ _)m

次話もお付き合いいただけますように……


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14 さざめく森

「なあゴテ、治療前より体調が悪化した気がするんだが?」

 

 皮を剥いた後に塩を塗ったような首筋の痛みに、ヤタカは奥歯を噛みしめていた。

 

「それがおまえの受けた毒が与える本来の痛みだ。ゴテに塗った薬草が染みている訳じゃない。ゴテを当てることで皮膚から染み入った薬効が、しこりに滞っている毒を吸い出しているだけさ」

 

「もっと痛みのない方法はなかったのか? これじゃあ猛烈な頭痛に見舞われるより質が悪い」

 

「そういえばあるかも……な。気付くのが遅れた、すまん。我慢しろ、こっちの方が数段早く効果が出るんだからよ」

 

 ゴテを片付けていた手を止め、すっとぼけた表情でくるりと顔を向けたゴテは、べーっと舌を出して鼻筋に皺を寄せる。

 

「イリスにぎゅーっとされた、野グソへの腹いせを俺に向けんなよ」

 

 耳元で囁くと、ゴテが口の端をニヤリと上げた。

 

「敵の友はオレの敵だ。おかげで憂さが晴れたしな」

 

「訳がわかんねぇつうの」

 

 けけっと笑うゴテの脳天に拳固を張り、ヤタカは再び首筋の痛みに顔を顰めた。

ふと視線を上げた先に、腹を撫でながら未練がましく団子の串を咥えているイリスの姿を見て、はっと息を呑む。首の痛みを押し出すほどの緊張が、足の裏から脳天へ突き抜ける。

 

「イリス! 目隠しはどうした!」

 

 もっと早く気付くべきだった。気付いて当たり前のことなのに、日の光の下で目隠しを外したイリスの顔が、ただの風景のように意識の表層を流れていた。

 

「心配はいらないよ。ぼくがあげた薬の効能がもたらす一時的な副産物だからね」

 

 野グソの答えを聞いてなお、心臓は破裂しそうに波打っている。

 イリスは眼球に異種を宿している。どんな異種なのかは今だ不明だが、異種である以上日の光を浴びれば発芽する。それはイリスの死を意味していた。

 

「これで解っただろう? 自分では普段と変わらないつもりでも、毒の影響を受けている。普段のおまえなら、山の上からでもイリスの異変に気付くはずだ」

 

――自分では感じられない、神経や精神の麻痺なのか

 

「イリスには年に一回、点眼薬を点しているのは知っているだろ? イリスは黙っているけれど、あれはけっこう痛いんだ。眼球というより、目の奥が痛む。それを改善しようと造りだしたのが、今回の薬だ。従来のモノは外部からの僅かな刺激に反応して痛みをもたらした。だから外部の刺激を出来る限り遮断してみた」

 

「おまえに抱きついたっていうことは、イリスは見えているのか?」

 

 ヤタカの問いに、野グソはゆっくりと首を横に振る。

 

「風、光り、細かい塵。それらを遮断するため、眼球に膜を張っているような状態なんだ。だからイリスは日の下でも目隠しを外していられる。心配しなくても、ぼくの目で何度も試したから大丈夫だよ。今日の日暮れには薬の効果が切れる。今のイリスには、周りの景色は薄暗い影絵にしか見えていない。そこに物がある人がいる、という黒い影が判別できるだけ。羊羹のお礼に抱きついてくれたのは、声でどの影がぼくなのか解っていたからに過ぎない」

 

「そうか」

 

 ヤタカの声に落胆の色が浮かぶ。輝く太陽の下、たとえ短い時間でもイリスが光りを目に出来るなら、あれほど見たいと望んでいた泉の周りに咲く一面の花を見せてあげられるのにと。それが叶うなら、イリスの記憶に残る泉を今すぐ探しに旅立ってもいい。

 息さえしていれば明日が巡ってくる生き方ではないからこそ、ヤタカの落胆は大きい

ささやかなイリスの夢。

 自分に何かあったとしても、気の置けない幼なじみの二人にさえ安易に頼める事柄ではなかった。

 彼らは果たせないと知りつつ、ヤタカの想いを引き継ぎ見えない光に手を伸ばそうとするだろう。それは、二人にとって人生の枷となる。

 自分の人生など諦めた者だけが、付き合える夢。

 とうの昔にどうでも良くなった命を明日へ、もう一日だけ明日へと繋げてくれる細い糸。 イリスの願いはヤタカにとって、気を抜くと鼓動を止めたくなる体をこの世に繋ぎ止める糸だった。

 だからこそ思う。この糸にしがみつきすぎて、イリスを壊してしまうことがないようにと目を閉じ自分の内に引き籠もる。

 光りを浴びてイリスが駆け回れたなら、自分の役目は終わる。

 世界のことなどどうでも良くなるときがあった。イリスが自由になれたなら、自分にとっての全てが終わる。

 

――そしたらもう、気の遠くなりそうなゴテを当てる痛みに耐える必要もなくなるか。

 

 久しぶりに意識の表層に浮かび上がった想いを、ヤタカは口に溜まった唾液と一緒に飲み下し、いつものへらりとした表情で顔を上げた。 

 

 

 

 三人が見守る中、岩牢の前で蔦に火を放った。

 固く乾いていたはずのそれは、過去という名の燃え尽きた炭のように脆く砕け、灰色の土を覆う黒く微細な粉となった。

 影絵のようにしか見えていない筈のイリスが、親の敵の亡骸を蹴るようにさっと片足で土を蹴り上げる。

 ヤタカは思わず視線をそらした。

 それは、無意識にイリスが表情を変えたから。

 旅の途中、出かけたヤタカが不意に帰ったとき、イリスはひとり足を投げ出し、壁や木に背を預けているときがある。

 細い首をゆるりと傾げ、腰の横に着いた指先にさえ、いつものイリスは居ない。

 ヤタカは、そんなイリスを見るのが嫌いだ。

 ヤタカの存在に気付けば、イリスはいつもの笑顔を見せてくれる。

 ほんの一瞬前まで、糸の切れた人形のようだったというのに。

 少しだけ伏せた睫の下から床の一点に視線を落とすイリスの顔は、一晩中脳裏に焼き付くほど冷えている。

 何もかも諦めたような冷たく澄んだ目元が、ヤタカの胸を苦しくさせる。

顔を背けたヤタカの視界から消えたイリスは今、その時と同じ顔をしていた。

 

 

「ヤタカ、行くよ!」

 

 現実から逃避していた意識が引き戻されると、耳元で大声を上げたイリスが、いつものいたずらっぽい笑みを浮かべてヤタカの頬を小さな拳骨でぐいと押す。

 

「あぁ、昨夜の寝不足が祟った。立ちながら寝るのは俺の特技だな」

 

 ヤタカが笑って見せると、イリスはうっそだ~、といって先を行く二人を少し小走りで追っていく。

 

――うまく笑えていただろうか。

 

 頭を一つ振りぐっと瞑った目を開いたときには、ヤタカは飄々とした青年の顔に戻っていた。

 平地の色を変えようとしている夕日の中、茜にちらちらと花びらを染めて白い小花が揺れている。

 山間の夕暮れの空は刻一刻と色を変え、山の縁を茜色が細く染めるだけになった頃、おばばがゆらりと姿を現した。

 

「おしゃべりさん、またね」

 

 イリスが手を振ると、おばばは梅干しのように口元を窄めてくくくっと頷く。

 

「出来損ないの下駄ぼんずをよろしくの。紅はここに残るがな。あまり間が空けば寂しがる。うるさそうに尾で水面を叩いてはいたが……本当は離れたくないのじゃろうよ。ゲタぼうずとじゃれ合って、ヤタカに噛みつきイリスを眺める。楽しかったんじゃと思うで」

 

 憤慨したように、草陰の水面でぴしゃりと大きく音が鳴る。

 ゲン太は、少し寂しそうに鼻緒を垂れながらも、平気だというようにゲタの先を泉とは真逆に向けている。

 

「また来るよ。紅と、みんなの墓標を頼むな、おばば」

 

 ヤタカに頷いておばばは、しっしっと払うように皺だらけの手を振った。

 

「いっても無駄じゃろうが、男連中はイリスを甘やかし過ぎだで。たまには年寄りを甘やかすんも、目先が変わって良くないかの?」

 

 けけけっ、と喉を詰まらせて丸まった背を揺らしておばばが笑う。

 

「ないない!」

 

 真顔で首を振る男二人が、慰め合うように肩を抱き合い歩く後ろ姿を見たイリスが、不思議そうに首を傾げる。

 

「じゃあな、おばば」

 

 先を行く三人の後を追おうと踏み出した足元で、激しく小花が頭を揺らした。

 思わず立ち止まったヤタカの耳の中に、姿なきおばばの囁きが木霊する。

 

――人にはどこか良いところがある……そう思っとるじゃろ? 違うで。どんな人間でも、胸の底には黒点がある

 

 おばばの声に、背筋がひりりと痺れた。

 

――腹の裏側に目を凝らさんと、早死にするでよ。人の持つ黒点はの、どろどろの底なし沼だで。うっかり見過ごして片足をつっこめば……囚われる

 

 それに……とおばばは続ける。

 

――イリスを大切に想うなら、己を大切にな。おまえが死ねば、イリスの命も尽きるでよ

 

 ぷつりとおばばの声が消えた。小花達も静かに頭を垂れている。

 もうすぐ夜の闇に輝き出すであろう泉を、ヤタカは振り返らない。

 

「心配すんなよ、おばば。俺は、見た目ほどお人好しじゃない」

 

 存在こそが黒点そのもの……その言葉は呑み込んだ。

 

 

 ゴテと野グソの後を付いて街道まで出る道は、思った通り地下を迷路のように通る通路だったが、来るときに通った道程とは違っていた。慣れた足取りでどんどん先を行く二人の背中を見ながら、幼い日もこうやって小さい足で駆けつけてくれていたのかと想いを馳せる。

 

「必要な薬も渡したから、しばらくは大丈夫だろう。ここで一端別れようか」

 

 笑みを浮かべる野グソの細い顎に、僅かに疲れの影が漂う。

 

「無理させて済まない。この先は今まで以上に世話になると思うが、呼び出したからといって自分の仕事を放り出すな。出来る範囲で構わないんだ」

 

 いった途端、腰の後ろからゴテの蹴りが入って、ヤタカは痛みに本気で呻いた。

 

「ばーか。てめぇの呼び出しなんざ、何年でも放っておくっつうの! まあ、イリスから声がかかれば話は別だがな」

 

 ゴテを睨み付けても腰を折ったままの涙目では、凄みもくそもあったものではない。

 

「野グソよりおまえがモテるのが俺にはわからん! 顔だってあっちの方がいいし、てめぇみたいにがさつでもないだろうによ!」

 

 ヤタカが見上げる先で、ゴテが涼しげに自分の腕を二本指で突いてみせる。

 

「女が見た目で落ちると思ったら大間違いだ。だからヤタカには女の影さえないんだっての。顔と性格だけが良い奴が突っ立ってたって、女は三日で飽きんだよ!」

 

 そんなものだろうか。

 

「失礼だな! わたしは女の子だよ!」

 

 腰に手を当て胸を反らしたイリスが、堂々と場違いな声を上げる。

 

「まな板に用はないの!」

 

 男三人の声が揃ったのが不味かった。

 手を振って別れるときには、イリス以外の男どもはそれぞれに、腕と太ももと尻を押さえながら、ふらふらとした足取りで去って行ったのだから。

 

「イリス、あいつらはある意味人外だからいいけれど、普通の人間を本気拳骨でなぐっちゃ駄目だからな」

 

 まだ怒っているイリスが、唇を尖らせたままくるりと振り向く。

 

「そんなことしないもの。じゃあ聞くけど、あの場にまともな紳士がいたなら教えて?」

 

 月明かりを映すイリスの視線が痛い。

 

「ごめんなさい……」

 

 満足げに大きく頷いたイリスが先を行くのを、苦笑して眺めながらヤタカも後に続く。

唯一の部外者として高見の見物を決め込んでいたゲン太だけが、これ見よがしに高くゲタの先を突き上げながら、悠々とイリスの横を歩いていた。

 

「ヤタカ、今日は歩くのが遅いね。疲れちゃったの? それとも……毒のせい?」

 

 立ち止まって上目遣いにきくイリスの、心配気に下がった眉尻が月明かりに浮かぶ。

 ヤタカはゆっくりと首を振り、大丈夫だといった。

 

「ゴテに吸い出された毒より、イリスのゲンコツの方が痛かった。尻が腫れて歩けないだけだ」

 

「ゲン太、いくよ。ヤタカなんて小屋に着いても構ってあげないからね。毛布からはみ出して寝ていたって、絶対かけ直してあげないんだから」

 

 ぷぅっと膨れたイリスが、家来よろしくゲン太を引き連れどかどかと先を行く。

 

「毎日かけ直してやってるのは俺なんだけど。いっぺんくらい感謝して欲しいもんだ」

 

 イリスに聞こえないように愚痴ったヤタカは、気持ち良さそうに毛布からはみ出て眠るイリスの姿を思い出して苦笑した。

 イリスとゲン太から少し離れて歩きながら、街道を囲む森に目を向ける。

 枝に月明かりを吸い込まれた森は闇に包まれ、風に葉が擦れる音さえない。

 

――この風景、見るのは初めてじゃない気がする。

 

 月明かりさえ届かない闇に満たされた森の中、黄色と紫の淡い光りが点々と広がっている。和紙を通して小さな蝋燭の灯りを見るように、ぼんやりと広がる輪郭は幻想的で、それらは木々の枝先に、地に芽吹いたばかりの草が茂る辺りで光りを放っている。

 

――闇に光りを放つ異種はあるが、これは違う。範囲が広すぎるし、一つの森に異種がこれほどの数蔓延ることなど無いはずだ。

 

 昨夜忘れられた月明かりのように、森を埋め尽くしているのは淡く黄色い光り。

 黄色い光りの水面を漂う浮き草のように、点々とそしてぼんやりと薄紫の淡い光りが浮かぶ。

 害はないように思えた。こんな夜道で事を荒立てイリスを恐がらせる必要もない。

 

――いつ見た? どこで。

 

 懐かしい風景を描いた絵に魅入られた気分だった。

 自然と足が止まる。

 

――こいつら、生きているのか?

 

 静止していると思ったぼんやりとした光りは、視点をずらすと視界の隅でわらわらと動き出す。見定めようと目を懲らすと、それらは何事も無かったかのようにぴたりと動きを止めた。

 妙な光景を目にして持つべき警戒心は、ヤタカの何処にも湧いてこなかった。

 ひどく懐かしくて、心が凪ぐ。

 あの淡い輝きに触れたい……そう思った。

 立ち止まったまま、指先を森へと伸ばす。

 ヤタカの手が、ぴくりと跳ねた。

 

「なんだ……いま何て」

 

「ヤタカ~! お腹空いたよ~!」

 

 すっかり機嫌を直したイリスの叫び声に、現実ではない何処かを彷徨っていたヤタカの心が引き戻される。

 強い力でヤタカを引き寄せていた紐が、イリスの声に焼け切れたような衝撃をもって心は街道へ弾き戻された。

 

「今行くよ」

 

 痺れる指先を擦り、ヤタカは早足でイリスの元へと急いだ。

 さっきまで見えていた光の海は既に姿を消し、月に被った雲に灯りを遮られた森は、静かな黒に染まっている。

 

「最初に見つけた小屋に入ろう。食い物は、今日貰った土産が残っているだろう?」

 

 ぴくりと肩を跳ね上げ、イリスが視線をそらす。右手はしっかりと膨らんだ巾着を握っていた。

 

「ほら、冷えてきたから急ごう。ゲン太、今日は酒はないからな」

 

 不満そうにゲタの歯を鳴らすゲン太と、どうしてわかったのだ、というように何度も小首を傾げるイリスを置いてヤタカは歩き出す。

 

「よしゲン太、急ごうか。内緒だよ? お供えのお酒を分けてあげるからね」

 

 内緒もなにも聞こえているぞと思ったが、ヤタカは聞こえないふりで先をいく。

 上手く笑顔をつくる気力が無かった。

 イリスにかけられた声に現実へと引き戻され、最後まで聞けなかった言葉が頭を渦潮のようにぐるぐる回る。

 男とも女とも言えない、中性的な声だった。

 いや、そもそも本当に声だったのかと疑問に思う。

 体内に残る毒と疲れが見せた、幻影と幻聴と思った方が心が楽だ。

 その声はこういった。

 

   寺が呼んで……

 

     慈庭が……動き出し……

 

 短い言葉が幾度も頭の中を過ぎる。

 意味の解らない半端な言葉に、後ろの方でゲタの歯が鳴る音とイリスの笑い声が被さり、意識の中で現実との境界線が曖昧になる。

 

  許せよ……ヤタカ

 

 慈庭の最後の声が頭の中で響いた気がして、ヤタカは拳を握りしめた。

 

 

 

 

 




 読んで下さったみなさん、ありがとうございました。
 二日ほど遅刻の投稿です。
 いつもよりちょっと短くなりましたが、次話もお付き合いいただけますように……
 やっと書きやすい話の流れになってきました。
 とりあえず、二日遅れに収まって良かったです ε-(´∀`*)ホッ


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15 昇る雨

 珍しく手入れの行き届いていないボロ小屋で一夜を明かし、街道に出た頃には既に日が斜め上まで昇っていた。

 蹴っても叩いても起きなかったというヤタカを心配するイリスに、大丈夫だといって細い肩をとんとんと叩いてやる。

 

「本当に?」

 

「あぁ」

 

 唇をきゅっと結んだまま俯き加減にイリスが歩き出すのを見て、ヤタカは小さく息を吐く。

 今回ばかりは、ゴテと野グソの研ぎ澄まされた職人の感も、ヤタカの中に紛れ込んだ毒を掴みきれなかったらしい。頭痛はすっかり治まったが、幼なじみ達が摘み取ったのはそこまでだった。時間が経つごとに嫌な怠さを増していく体は、幼い頃に眠る事を許されずに一晩中山中を駆け回った時の、鉛を埋め込まれたような疲れに似ている。

 

――今日も早めに休めば、少しは楽になるだろうか。

 

 あの棘の毒に触れてしまったのは、偶然に過ぎないとヤタカは思っている。野グソの手の中で紫に変色した葉の葉脈を更に赤紫に変えていった毒を、一年の時を経てヤタカが再び触れるなど、誰に予測ができるだろう。

 少しでも気を抜くとぼやける視界を振り払うように大きく肩で息をして、ヤタカは杖を擦って器用に歩くイリスの後をついていった。

 昨夜は夜の闇に包まれ、捕らえられない薄紫の幻想的な光りの玉を浮かべていた森も、枝葉の隙間から日の光を吸い込み、そよそよと吹く風に大地の草を揺らしている。

 

「ねぇねぇ、ヤタカ!」

 

 急に立ち止まって向きを変えたイリスにさえ気づいていなかったヤタカは、はっと顔を上げぐっと瞑った目を何度も瞬いた。

 

「日持ちする食料を買っておこうよ。今日のごはんは……まぁ、あるけれど」

 

 ぷっくりと膨れた巾着を隠す様に、腰の後ろへ回しながらイリスがいう。

 

「この先の旅には必要でしょう? 無駄遣いじゃないよね? ね?」

 

 ね、ね、と繰り返すイリスがちらちらと送る視線の先には、荷車を引いてこじんまりと商う者達が集まって、商魂たくましく道行く客を呼び止めている。

 

「買いすぎるなよ」

 

 イリスに金を握らせると、ぴょんと嬉しそうに跳ね上がって人に当たらぬよう慎重に杖で土の道を擦りながら、荷車に商品を山と乗せた店へと向かっていった。

 道の端で腰を下ろし息を整えるヤタカの耳に、商魂逞しい呼び込みの声が響く。

 

「さぁさぁ、今日は春の市だよ! 干し物に越冬野菜、腰痛に効く塗り薬に履き物までなんでも揃うは、街道名物春の市! これまた名物のくじ引きだが、まだ1等も2等も当たりが出ていないときた! くじに外れはないよ! 買わなきゃ損そん、買っていきな!」

 

 顰めていた顔を更に歪めてヤタカが笑う。

 街道名物春の市だって? 夏の市やら雨上がり市だの、年中なんやかんやと名前をつけて商売をしている呼び口上に、まんまとイリスが引っかかったわけだ。

 

「イリスの目的はくじだな……」

 

 何か欲しい景品でもあったのだろうか。そんなことをぼんやり考えていると、呼び子の大声が街道に響き渡り、けたたましく鈴なりの大鈴がしゃりしゃりと鳴らされた。

 

「お~当たりぃ~! お嬢さんついてるねぇ~。なんと1等が当たった! さぁ、まだ2等が残っているよ~買った買った!」

 

 1等の大当たりにつられたのか、街道を行く人々の足がわらわらと店へ向かっていく。

 

 暇だから腰を下ろしていたかのように、怠惰に尻の埃を払って立ち上がったヤタカは、見上げたイリスの表情に目を細める。

 

「どうした? 1等が当たったのに嬉しそうじゃないな?」

 

 ふぐ提灯並に頬を膨らませたイリスが、尖らせた口の下唇をぷりっと前に突きだし、ゴミでも渡すように封筒をヤタカへと差しだした。

 

「すごいじゃないか、宿の宿泊無料券だぞ。なのにどうして浮かない顔なのさ」

 

「欲しかったのはそれじゃないもん」

 

 拗ねた子供のように、イリスがぷいっと顔を背ける。

 

「甘味詰め合わせ袋が欲しかったのに」

 

「それって何等?」

 

「……九等」

 

 くすりと笑ってヤタカは荷物を背負い直す。体がいうことを聞かない日だって、イリスがいれば自分は笑っていられる。そう思ってヤタカは、落とすようにもう一度微笑んだ。

 

「お~当たりぃ~! 九等が出たよぉ~お子さんの手土産にちょうどいいやね!」

 

 呼び子の声にイリスが悔しそうに足を踏みならす。

 

「イリス、この宿屋は素泊まりじゃないから、きっと温かい食事も付いてくる。楽しみじゃないか」

 

 温かい食事という言葉に、イリスの表情が明るさを取り戻す。

 

「くじを当てたのはわたしだから、おかず一つちょうだいね」

 

「はいはい」

 

 なんだか理不尽だと思いながらも、ヤタカはイリスの嬉しそうな顔を見るとつい表情を緩めてしまう。

 日が真上に登る頃には、イリスの歩調に合わせて歩くことさえ辛くなっていた。

 良い天気だから散歩気分でたまにはゆっくり歩こうといったヤタカに、首を傾げながらもイリスは頷き、ひとり元気を持てあましているゲン太だけは、ゆっくり進む旅に身を持てあまし、少し先まで駆けては戻りを忙しなく繰り返していた。

 

「イリス、この辺りで昼飯にしよう」

 

 返事も待たずに道端に座り込んだヤタカに首を傾げ、しゃがみ込んだイリスは布で遮られる視力を補うかのようにヤタカの顔に指を這わせる。

 

「ヤタカ、具合悪いんでしょう? ほっぺたの筋肉が強ばっているもの」

 

 もう隠し切れない。観念してヤタカは頷いた。

 

「風邪だ。ゴテのアホが俺の背中で何度か鼻を啜っていたとき、嫌な予感はしたんだ。あいつの風邪が移ったんだろうな。バカは風邪引かないって、あれ嘘だな」

 

「そうだね、ヤタカが風邪引くなんて」

 

「ちげぇーよ! ゴテのことだろうが!」

 

 巫山戯(ふざけ)た調子で張り上げた声にさえ力が入らない。このまま風邪なのだとイリスが思ってくれればそれでいい。

 土産の残り物をもくもくと頬ばるイリスを眺めるだけで、乾し肉を一欠片口に含んだきり、ヤタカの咀嚼は止まっていた。

 数え切れないほど多くの植物の毒を受けてきたが、そのどれとも違う倦怠感に戸惑い以上の焦りが襲う。

 

「もう少しで宿場に着くはずだから、そこまで行こう。今日は早めに宿に入って休むことにするよ」

 

 頷いて歩き出したイリスの後ろで立ち上がったヤタカの足首に、コツリと当たる者がいた。見下ろすと、鼻緒を下げたゲン太が前のゲタの歯をヤタカの踝に引っかけ、もじもじとゲタを揺らしていた。

 その木肌に、ゆらりと文字が浮かぶ。

 

――どく

 

 ヤタカが頷いてみせると、ゲン太の鼻緒が木肌に着きそうに萎れた。

 

「内緒だ」

 

 小声でいって唇に人差し指を当てると、ぴくりと鼻緒を跳ねさせて承諾の文字を浮かばせることなく、とぼとぼとイリスの足元へと寄っていく。

 

「ゲン太、当たったお宿に泊まれたら、温かいお風呂に入れるかもよ? ゲン太の鼻緒もそろそろ綺麗に洗わないとね」

 

 嬉しそうに左右のゲタを打ち鳴らし、ゲン太が跳ねて回る。

 目隠ししたイリスには見えないその木肌には、自信なさげに細く揺らぐ文字が浮かんでいた。

 

――ないしょ する

 

 明るく跳ね回るゲン太に、ヤタカは心の中で礼をいう。宿に泊まったら、ぬる燗をいっぱいくらい奢ってやろうと思った。

 

 

 日が傾いたとはいえ、夕暮れにはまだ早い。額にうっすらと汗を浮かべて歩くヤタカは、立ち止まると懐に入れていたくじの当たり券を取りだした。

 

「くじ引きで当てた宿ってここじゃないのか? 目印にって書いてある門の絵がそっくりだ。大きな柏の木が二本、まるで門みたいに立っているんだよ」

 

 見えないくせに顔だけ上げて、ふーんというイリスの背を押し、ヤタカは宿の戸を叩いた。

 

「ごめんください。今夜、部屋に空きはありませんか?」

 

 ほどなく出てきたのは小太りの中年女性で、白い前掛けで手を拭きながらどうぞどうぞと宿の中へ通してくれた。

 部屋に入るには早い時間だが、体調が悪いから休みたいというヤタカに快く部屋を一つ空けてくれた。宿場に属することなく街道にぽつりと立つ宿屋の周りは森に囲まれ、時間が早いせいもあってか、他に客はみあたらない。

 

「ごゆっくり、お休み下さいな」

 

 人の良い笑顔をくしゃりと浮かべ、店の女は障子を閉めて出ていった。窓の障子を少しだけ開け、街道を行く人々の姿をぼんやりと眺めていた。畳に腰を下ろしただけで、気怠さを越える睡魔に呑み込まれる。

 洗濯させてもらうといって出ていったままのイリスを心の隅で思い浮かべたものの、ヤタカの体はゆっくりと傾がり、漬け物石のようにどさりと横に転がったまま、ぶつ切れの悪夢を彷徨う浅い眠りへと落ちていった。

 

「ヤタカ、起きて。ご飯だよ」

 

 揺り起こされて目を開けたヤタカは、体の不調とは別の重さに眉を顰めると首を起こして体を見た。

 

「イリスか……ありがたいような、迷惑なような」

 

 部屋の隅に重ねてあった座布団を、ありったけヤタカの体にかけてくれたのだろう。押し入れの中にあるであろう掛け布団を掛ける選択肢はなかったのかと、苦笑しながら体を起こした。

 

「美味しそうな匂いだ」

 

 良い眠りとはいえなかったが、僅かな体力の回復にはなったらしい。食事の湯気が止まった胃を刺激する。

 

「失礼いたします」

 

 廊下から声がかけられ、すっと障子が開かれた。

 

「この店の若女将でございます。お泊まりいただけたお客様へ、ご挨拶させていただきたとうございます」

 

 手を着いて深々と頭を下げたのは、三十路を過ぎたくらいの楚々とした女性だった。薄い水色の着物が、彼女の黒髪を更に美しく見せている。

 若女将の挨拶に持ち上げた箸を止めていたイリスの首が、僅かに傾げられた。

 

「どうかしたのか?」

 

「ううん。きれいな若女将さんだな、って思って」

 

 あら、お上手ですこと。そういって着物の袖で口元を隠して若女将が微笑む。それでも傾いだままのイリスの頭を指で真っ直ぐに押し戻し、寄ってきた若女将が手にした銚子から酒を受ける。

 

「酒ですが、ぬる燗でもう一本つけてもらえますか?」

 

「かしこまりました。ではごゆっくり」

 

 若女将が出ていき、誰ともなしによそ行きだった空気が一気に緩む。

 

「ヤタカは風邪なんだから、あんまり飲んじゃ駄目だよ?」

 

「俺は少ししか飲まないよ。頼んだ一本はゲン太の分だ。こんな良い宿にただで泊まれたんだから、ゲン太だって少しくらい良い思いをさせてやらないとな」

 

 イリスの腰に纏わり付いて戯けて見せたゲン太が、とことことヤタカの背中側を回ってぴたりと膝の下に身を寄せた。木肌にはっきりと、黒い文字が浮かぶ。

 

――いらない

 

「ゲン太が素直に礼をいうとは珍しいな? 雨が降るぞ」

 

――むずむず

 

「俺の分も飲んで良いぞ。遠慮すんな」

 

――きらい

 

「俺を嫌いなのは知ってるよ。今更か?」

 

――ここ

 

 魚の煮付けを摘み上げた、ヤタカの手が一瞬止まった。

 この場所が嫌いだと、ゲン太はいいたいのだろうか。それに酒をいらないといった。

 ゲン太がイリスの方へ戻っていく。食いしん坊なイリスは、ご馳走に迷ってどれから手を付けようかと、うろうろ箸を泳がせている。

 

「行儀悪いぞ、イリス」

 

 口から漏れた溜息の代わりに放り込んだ煮魚を、一口噛んだヤタカの眉根が険しく寄る。

 

「やっぱり最初はお肉かな」

 

 大きく開けた口へ肉を運ぼうとする箸が、イリスの口へ届くことなく弾き飛ばされた。

 

「食べるなイリス!」

 

 口を開けたまま呆然と畳に手を着くイリスに、旅の荷物が投げられた。

 

「ゲン太を連れて直ぐにここを出ろ。絶対に戻って来るなよ。やることを終えたら、俺も直ぐ後を追う。できるだけ遠くに離れるんだ。いいな」

 

 小声で、けれども鋭いヤタカの声が飛ぶ。さっと頷いたイリスは、荷物を抱えるとゲン太を胸に抱いて窓の障子を開け放ち外へと飛び出す。イリスの背中が街道の向こうへと消えたのを確認して、ヤタカはそっと障子を閉めた。

 

「ゲン太の感も、馬鹿にならねぇな」

 

 口に含んだ魚は既に吐き出していた。その後に湧き上がった唾液を、ぺっと畳に吐き出しヤタカは廊下とを仕切る障子を表情なく見つめていた。

 

「失礼いたします。お銚子をお持ちいたしました」

 

 丸い盆に銚子をのせて歩く、薄い水色の着物の裾が床を擦る。

 

「あら、お連れ様はどちらへ?」

 

「さぁ、どちらだろうな」

 

 真っ直ぐに見据えるヤタカの視線を柔らかく受け止めていた、若女将の目元が細められ、赤く塗られた薄い唇がゆるりと笑みを浮かべる。

 

「気づいたのはいつぞえ?」

 

 声はそのままに、口調だけが変わっている。

 

「魚を口に入れたときだ」

 

 くくくっ、と女が小さく笑う。

 

「痺れ毒を仕込んだようだが、生憎と俺の体にあの毒は効かない。だが毒を受けないことと、毒を感じられることは別物でな」

 

「お見事だねえぇ。だがまだ甘い。おまえは味覚が一番ものをいう口の中で判断しただろう? 少量の蜜に大量の辛子を練り込んだとして、舌が感じるのはどっちの味だろうねぇ。本当に口に含んだのは、感じた痺れ毒だけかえ? 毒は体の表面からも吸収されるだろう? 例えば、舌とかねぇ」

 

 驚愕に目を見開いたまま、ヤタカの膝がくりと折れた。

 自然界に存在する毒も、人の手にかかれば混じり溶け合い、個別の反応を起こして時にまったく異質な毒をつくり出す。味覚が感じたのは元々の味であっても、そこに隠された混ざりモノは毒を造り替え、ヤタカの体にとって未知の毒素となり得ることは十分に考えられた。理論上は……である。

 それが卓上の理論ではないのだと、ヤタカの体が如実に示していた。

 目玉は動く。感覚と視覚、聴覚を残した木偶の坊となって、ヤタカは仰向けに畳に転がった。

 畳の柔らかさを背中に感じる。感じるだけで、指一本動かせなかった。

 見上げた先で、女が声なく笑っている。

 

「何にやられたかは知らないが、おまえの体が弱っていることを人づてに聞いてね。街道での噂は、突風より早く駆け抜ける」

 

 見張られていたのか、という疑念がヤタカの胸を過ぎった。

 

「おまえに恨みはないんだよ。だから先に謝っておく。すまないねぇ。あの娘にもこの謝罪が届くといいんだけれどねぇ」

 

 じわりじわりと畳から染み出る冷たさが、背中から脇腹へと這い上がる。

 

――水か?

 

 身動きが取れないまま水に浸かるのは、ヤタカにとって足場のない空中へ放り出されるのと変わらない。まるで湧き水のように水位を上げてくる水は、あっという間にヤタカの肩を浸そうとしていた。

 

「のんびりしたお前達のやり方は待っていられない。正直言って、この世の行く末なんてどうでもいいのさ。自然界が変わって右往左往するのは人だけだよ。他の者は、ただそこで生きていくだけさ。だからね、あたしはどうでもいい。返しておくれ……」

 

――なんのことだ? 俺はこの女から何も奪ってなどいない

 

「わたしに、あの人を返しておくれ」

 

 水を含んで重くなった着物の裾を引いて、女が部屋の中央へと歩いて行く。そして水の中にぺたりと座り込んだ。

 

「他の方法を探すより、おまえが死んでくれるのが一番確実で、一番早い」

 

――まさか、水の器のことをいっているのか?

 

 頬の横まで迫った水に、せめて顎を上げたくとも体が言うことを聞かない。

 死ぬ恐怖よりも、己が水に溶け出すような感覚が嫌だった。死を迎えるまでの苦しみよりも、イリスを一人きり旅路に放り出すことの方が苦しかった。

 

――イリス、逃げろ

 

 唯一自由のきく瞼を静かに閉じる。この女に、水の器を渡さずに済む方法はないかと必死で思考を巡らせる。

 

――おい、何とか言ってくれよ。おまえはあの女の元へ……行きたいのか?

 

 まるで出口を見つけたかのように、水の器が震えている。だがヤタカの死を待っているようにも感じられなかった。

 行きたくても、行ってはならない場所を見つけてしまったような相対する感情がせめぎ合っている。体のほとんどを覆った水が、ヤタカと水の器の境界線を曖昧にしていた。

 端から溶けた体がぼとりと水中に落ちていくような不快感が薄れ、口の端に届くほどかさを増して体を包み込む、水と自分の境目が曖昧になっていく。

不意に、水中を伝って障子が開けられたような音がくぐもって響く。

 

――障子が開いたのか? 誰が

 

 障子が開け放たれても水位が減らないのは、これがこの世の水ではないからだろうか。ヤタカはぼんやりとそんなことを思った。

 

「水の器はいずれあなた様の元へ帰る。でも、それは今ではないはずです。今は、わたくしに返してくださいませ」

 

 丁寧に語られる若い女の声だった。

 

「はて、何と?」

 

「ヤタカを、わたくしに返していただきとう存じます」

 

 ぼやけていた意識に稲妻に似た衝撃が走る。くぐもっていて、声質ははっきりわからない。遠くの声に耳を澄ますようにすると、丁寧な落ち着いた口調が部屋を渡って水に染みてくる。

 

――どうして逃げなかった! イリス!

 

 声のトーンも口調も、イリスとは似ても似つかない。けれどヤタカはイリスだと確信した。

 舞い戻ったイリスの存在が、冷え切って鼓動を止めることを厭わなかった血流に熱を持たせる。

 

――動かない……動け!

 

 自由にならない体を切り落としたい気分で、ヤタカは眼球だけを廊下の方へと向ける。

 逃がした時と同じ恰好のままのイリスが立っていた。冷めたような、哀れむような視線で真っ直ぐに女を見ている。

 

「やっと気付いたかえ? あまりにも不作法な振る舞いゆえ、イリスとはこちらも気付けなかった。おあいこじゃの?」

 

 ヤタカを狙った女が、隣にいる者をイリスと思わないわけがない。女は知っていた。イリスを、かなり前から知っている。ヤタカは心の中で歯軋りした。

 

「悪いがこの男……ここで死んで貰う。この場でこの男が死ねば、自然の摂理に従ってあの人はわたしの中に流れ込んで形を成すであろう?」

 

 楽しむような女の声に、イリスはゆっくりと首を横に振った。

 

「あなた様に、それはできませぬよ」

 

「なぜできぬと?」

 

「それは、わたくしがこうするからでございます」

 

 浴衣の袖に隠れていたイリスの右手がすっと前に挙げられる。

 ひぃ、と女が喉を鳴らして息を呑んだ。

 

「お止め! ならぬ!」

 

 女へ向けられるとばかり思った、イリスの手の中の小刀の切っ先が、さっとイリス本人の顔面へと向けられる。鈍く光る切っ先は、真っ直ぐにイリスの眼球へ向けられていた。

 

「止めておくれ!」

 

 立ち上がったばかりの膝の力が抜けて、女は再び水の中にぼちゃりと座り込んだ。

 

「ヤタカに手は出せても、あなた様はわたくしに手を出すことはできますまい? それはこの世の理ゆえ。わたくしに宿る異種の種をここで抉り出したなら、水に落ちて腐りましょう。異種の種は、水だけでは育ちませぬゆえ……どうなさいます?」

 

 わなわなと女の肩が震えている。

 

「正直、わたくしもこの世の末などどうでも良いのでございます。ヤタカをここで葬るなら、わたくしも己に宿る異種と共に自らを葬りましょう」

 

 イリスの口から発せられているとは思えない、感情も抑揚もない言葉が続く。

 

「時を待たれますか? それとも今ここで、探し求めたあの方の……水の器の怒りをかうことを望まれますか?」

 

 女が嫌々と、幼子のように首を振る。

 憑きものが落ちたように、細い女の肩がすとりと落ちる。

 

「血迷っておったのう……わたしは塵じゃ。水の一部でありながら、水その物ではない。この世の水に紛れ流れる、川面に浮かぶ塵と同じよ……のう」

 

 天上を仰ぎ見て、女が濡れた細い手を翳す。

 バキバキと音を立て、壁と天上の際から無数の枝が室内へと伸び入ってきた。

 

――いったい何が起きている!

 

 動かない顔の上に、ぱらぱらと土壁の欠片が降っては落ちる。

 身動きが取れないヤタカの目前で、砕かれた屋根がゆっくりと侵入した枝に乗って外へと運ばれた。

 夜空に向けて、天上が開けた。

 

――月か

 

 場違いな事を思った。森の夜は暗い。その空に、黄色い満月がまるでこの部屋だけを照らすかのように光り輝いている。

 

「寺が崩壊して一年も、身を潜めておられたというのに、今になってなぜ、このような事をなさるのです?」

 

 小刀を持った手はそのままに、けれど少しだけ和らいだイリスの声が流れる。

 項垂れたまま、女はすっと濡れた右手を頭上に翳す。

 

「流れるままに身を任せ、景色を眺めるだけの日々に飽いたのだよ。泉に戻っても、あの方は居られぬ。この世に在り続ける、理由を見失ってしもうた」

 

「あなた様ほどの御方が、なぜに?」

 

 女はゆっくりと首を横に振る。濡れた髪の先から、雫がぽとりと落ちた。

 

「干渉してみたくなったのだよ。この世の動向に、己の行く先に。操る気など毛頭ない。ただ……人が伺い知ることも叶わぬ、己の知恵と知識を含んだ言葉が、どのような波紋を広げるのか見てみたくなっただけのこと。その波紋が、あの方をわたしの元に返してはくれぬかと……な」

 

 女がくいと顔を上げ、天上が抜けて覗いた月へと向けられた。

 

「満月か。あの泉へ戻るには、少々時間がかかりそうじゃ」

 

 ヤタカの鼻下ぎりぎりまで届いていた水位が引いていく。部屋に満ちていた水の表面に、引いた水の分だけ白い靄が溜まる。

 ぼちゃりと音がして、ゲン太が水に飛び込んだのが視界の隅に見て取れた。

 

――イリスと一緒にいてくれたんだな

 

 少しだけゲン太に感謝しかけたその時だった。動けぬヤタカの視界にはっきり入るほど近くで、ゲン太が水面から跳ね上がりヤタカの左顎を蹴り上げた。そのままの勢いでゲン太はぼちゃりと水に落ち、自らの力では微動だにできないヤタカは水位を下げつつあった水面の下に鼻も口も完全に水没させた。

 

――馬鹿下駄、いったい何を!

 

 最後に息を吸い込む間さえなかった。早々に苦しくなった息は、逃がした筈のイリスを目にしまったヤタカに、生きなければという熱をもたらしていた。

 目の前で、ゲン太が器用に尻を振る。

 

――まるでおばばの泉と同じだ

 

 ゲン太が振った尻から、ぽとりと黒く大きな粒が三つ落ちた。

 

――植物の種か?

 

 水分を含む種は、水の底へと沈むのが道理。

 沈んでいく種を器用にゲタの表面ですくい上げ、ゲン太はヤタカの口先へと戻り半開きのヤタカの口へ、鼻緒を使って器用に種を押し込んだ。

 そしてヤタカの視界からゲン太の姿が消えたかと思うと、腹部に強い衝撃が走りヤタカは息を詰まらせ同時に口の中の種を飲み込んだ。

 腹部への衝撃は反射的にヤタカに大きく息を吸い込ませる。

 

――水を吸い込む

 

 そう思った寸でに、すっと引いた水はヤタカの口元より下がり、ヤタカの視界は白い靄に覆われた。

 

「わたしの願いが叶わぬかもしれぬように、イリス。おまえの願いも叶わぬよ」

 

 棘が抜けたように、やさしい女の声だった。

 

「承知しております。例え叶わぬ夢であっても、守りたいのでございます。届かぬ夢ではあっても、この手を伸ばすくらいは自由でございましょう?」

 

 おぬしは強いな、女はぼそりと呟いた。

 体を浸していた水の感覚が消えると同時に、視界を塞いでいた靄も晴れた。

 目の前の光景に、ヤタカは息を呑む。

 

「雨が、空へと昇っている」

 

 満月に照らし出されるだけの暗い夜空へ、白い靄が姿を変え雨粒となって昇って行く。

 

「そうか、雨音ってのは、降った雨粒が地にあたる音なんだな」

 

 言葉もないまま、静々と雨粒が昇っていく。折り重なる雨粒に、黄色い月が霞む。

 

「許せよ」

 

 はっとして振り向くと、そこに女の姿はなかった。

 

「このままでは、あの方に嫌われてしまうのう。詫びに不文律を破ってみるのもよかろう。のう、ヤタカ、イリスよ。ゴテ師と野草師の存在理由はなんじゃ? 異種宿りと異物憑きを救うこと。それは裏の生業といえど表向きの話よ」

 

 ヤタカの心臓が、勝手に鼓動を早めていく。聞きたくない。だが、耳を塞ぐ手は己の意志を離れている。

 

「これを知る者はおそらく、血で繋がれた継承者と一握りの者のみであろう」

 

 畳が乾いていく。昇る最後の雨粒と一緒に、女の声が遠ざかる。

 

「必要な者を生かし、用済みな者は切り捨てる。それがゴテ師と野草師、本来の生業よ。知る者達は彼らの事を古からこう呼んでいる……姿なき殺し屋。本来の生業など受け継がれずに、忘れ去られた家系も多かろう。だからこそ誰が、とは言わぬよ」

 

 声はそこで途切れた。

 乾いた畳と、夜空へ抜けた天上だけが残された。

 

「ヤタカ、大丈夫?」

 

 ぱたぱたと走り寄ってきたイリスが、ぺたりと膝を着いてヤタカの頬を両手で挟む。

 

「体は大丈夫だよ。ゲン太が、怪しい種を飲ませてくれた。毒が中和されたんだろう」

 

 ほっとした様子でイリスが胸に両手を当てる。

 疼くのは心だ。

 何とか動かせるようになった上半身を起こし、ヤタカは目頭を揉んで息を吐く。

 

「さっきのは、俺の知っているイリスじゃなかった」

 

 微笑みを浮かべていた、イリスの表情が色を失う。

 

「あんな言葉遣い、どこで習った? いつものイリスは本物か? それとも利口で冷静なイリスが……本来の姿なのか?」

 

 イリスと目を合わせることができなかった。下を向いたまま尋ねたヤタカの目に、ゲン太の木肌が映る。

 

――せめる だめ

 

 解っているさ。けれど、このままじゃ居られない。このままじゃイリスを守り切れない。

 

「本当のわたしなんてないよ」

 

 視線を合わすことなくイリスがいう。女に言葉を放っていた時に似た、抑揚のない声だった。

 

「産まれたまんまのわたしは、ずっと昔あの泉に……置いて来ちゃったから」

 

 

 

 




読んで下さってありがとうございました。
そしてこんなに間が空いちゃったのに、のんびり待ってくださって本当にありがとうございます。
今年はがんばれます。がんばります!
元気ッ子復活ですっ 
本当に、ありがとうです。
では(*^_^*)


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16 百度石、左に回るは逆さ廻り

 気付けば部屋を形作っていた壁も燃えかすのように剥がれ落ち、周りには支えもないというのに、絡み合って立ち上がる蔦が残されているだけだった。畳と思っていたのは剥き出しの地面で、夜風に冷やされた土の感触が尻から這い上がって背筋をぶるりと振るわせる。

 返す言葉を見つけられずにいたヤタカを構うことなく、イリスがすくっと立ち上がる。

 

「お宿がなくなっちゃったね。眠れる小屋を探そうよ」

 

 いつものイリスの声だった。

 

「少し歩けば小さな宿場があるはずだ。今日は宿に泊まろう。当たりくじの宿だと思って、ゆっくり休もう」

 

 頷いて歩き出したイリスの後を追いながら、ヤタカは一度だけ宿の建っていた場所を振り返った。

 どうして気付かなかったのか。以前この街道を通った時、この場所に宿などなかった。

 記憶力は決して悪い方ではないと自負してるヤタカにとって、この出来事は体調の悪さに頭が朦朧としていただけでは説明の付かないものだった。

 狐に化かされる……そんな古くさい言葉を思い出す。

 前をいくイリスは、いつものようにゲン太とふざけ合いながら楽しげに歩いている。

 宿での出来事など、まるで森の見せた幻だとでもいうように。

 

 あの女との関係、泉とはどこを差すのか、まるで幼い日からきちりと躾けられたような言葉遣いは何処で身に付けた? 聞きたいことが湧いては泡となって弾けて消える。

 舌が鉛のように重さを増して、何度も開きかけた口からは細い息しか出てこなかった。

 

「安いお宿発見!」

 

 思いにふけって歩く内に、いつの間にか宿場の入口まで来ていた。玄関で灯された提灯に照らされて縄暖簾が揺れている。

 縄暖簾には黒字で『安屋』と書かれていた。

 

「いいよ、ここにしよう。安い宿って意味じゃないと思うけれど、まぁいいや」

 

 ふくよかな頬を揺らして迎えてくれた愛想の良い仲居は、最後の一部屋なので他にお客さんがいらしたら相部屋で、と頭を下げた。

 こぢんまりとした畳の部屋で窓際に腰を下ろし、熱い茶を飲むと体の内側から冷静さが戻って来る気がして、ヤタカは目を閉じ壁に凭れる。

 

「おいしいよ、このおにぎり」

 

 出された夕食は二つの握り飯と汁物、香の物の小皿が一つ。口いっぱいに頬ばるイリスを眺めながら、ヤタカはほっと胸を撫で下ろす。大切なのはイリスが今、自分の隣にいることだと心からそう思った。

 自分の分を平らげたヤタカが横を向くと、囓りかけの握り飯を手にしたまま、こくりこくりとイリスが船を漕いでいた。

 そっと手の中から握り飯を取り上げると、壁に背中を預けたままゆっくりと上半身を傾げ、ヤタカが肩を支えてやると、ぱたりと畳に頬を当てて寝息を立てた。

 目が覚めたら欲しがるだろうと、木の薄皮に残った握り飯を包み直し、イリスの巾着の上にそっと乗せる。

 

 部屋の入口の木戸が叩かれ、襷掛けの仲居がちょこんと頭を下げた。

 

「お客さ~ん、相部屋をお願いいたしますうー」

 

「どうぞ」

 

 眠るイリスに自分の上着を掛けていると、畳を踏む音もないうちに独り言のように小さな男の声がした。

 

「隅っこで寝させて貰うよ。じゃましてわりぃな」

 

ゲン太のゲタの歯が、小さくカンと鳴る。

 荷物がドサリと置かれた音に顔を上げたヤタカと、男の視線がかち合った。

 外套を脱ぎかけた男の手が止まり、眉根を寄せてチッと舌が鳴らされる。

 置いた荷物を乱暴に担ぎ上げ、出ていこうとする男にヤタカは表情なく声をかけた。

 

「逃げることはないだろう? 心配すんなよ。イリスなら爆睡中だ。それに宿での争い事は旅人にとっちゃ御法度だろ? まぁたまにゃ酒くらって殴り合う奴らもいるが、俺達がやり合ったらそのくらいじゃ済みそうもない。だろ? ゴザ売りの旦那」

 

 口をうっすら開け、頬に手を当てて眠るイリスの横顔をちらりと見て、ゴザ売りの男は腐った飯でも含んだかのように唇を歪めると、ヤタカから一番離れた部屋の隅に腰を下ろした。

 

「話したいことがある。口にしたくないことは知らぬ存ぜぬで構わない。独り言だと思ってくれ」

 

「おまえの話なんざ聞く義理はねぇよ」

 

「イリスの為なら聞けるだろう? 俺は嫌いでも、どういうわけかあんたはイリスを嫌っちゃいない……違うか?」

 

「嬢ちゃんはおまえみたいに、憎ったらしい面構えじゃねぇからな」

 

 さっさと話せと言わんばかりに顎をしゃくり、関心なさ気に男は上を向いて目を閉じた。

 

「寺を後にしたときに受けた毒と同じモノを、またこの体に受けた」

 

 二度目の毒のこと、寺で受けた治療のことを事実のままに話していく。蘇った記憶もそのまま言葉にした。紅のこと、おばばの事は黙っていた。彼らの許可無しに口外してはならない気がしたから。

 

「ここへ来る直前に、妙な宿屋に足を踏み入れてね、そこで女に会った。イリスを知っていたし、イリスも女のことを知っていた」

 

 睫さえ振るわせることなく能面を貫いていたゴザ売りが目を見開き、ヤタカを拒絶するかのように胸の前で組んでいた腕が解けて宙に浮く。

 イリスの口調が妙だったことなど、ヤタカはゆっくりと話して聞かせる。

 語り終わってヤタカが口を閉ざした後も、何かを思い出すようにぎょろぎょろと忙しなく動いていたゴザ売りの目玉が、イリスの寝顔にぴたりと止まる。

 

「その嬢ちゃん、寺に貰われる前に百度を踏んだのかも知れねぇな」

 

「百度参りのことか? 寺の書物に仏教用語として書かれていた程度だが、平安後期から今に至るまで密かに残っている、ただの民間信仰じゃないか。それがどうした」

 

「気は持ちよう。己の足で百度を踏み願を掛けることで、神仏に願いを届ける道を得ようとする。無心の行いが、願いを叶えることもあるだろうよ」

 

「だとしても、寺に入る前のイリスは小さな子供だ。そんな幼子が何を願う? 本殿と百度石の間を百回廻るなんて、体力的に考えても無理だ。仮に百度参りをしていたとして、それが何の害になる? 足に豆ができた程度だろうよ」

 

「だといいがな」

 

 イリスの寝顔を見つめたまま、ゴザ売りの寄せられた眉根が緩むことはなかった。

 

「その女、固有の姿を持たぬ者ゆえ、人の形をとったのだろうな。寺が崩壊してから、ある噂が流れた。雨雲の移動と共に場所を移しては、雨降る夜に聞こえてくる声。雨音が泣くっていうんだよ。寂しそうに、恋しそうな声を上げて女の声で泣くんだと。昔からこの手の噂は多いがオレ達の内輪じゃ、女のことを水気の主と呼んでいる。雨に葉が擦れる音を、肝の小さい野郎が聞き違えたとばかり思っていたが、そうとも言えなくなっちまった」

 

 あの人を返しておくれ……女の声がヤタカの耳の中で木霊する。

「オレ達の世界は、嘘も真もひっくるめて噂が飛び交う。当てにならない戯れ言と思って聞くといい。旅人の耳を潤す戯れ言だ」

 

 ヤタカは頷き、足を組み直して正面からゴザ売りに向き直った。

 

「ある村があってな、そこはやたらと女ばかりが産まれる村だった。長男がいればそれで良し。男がいなくとも、長女以外は年頃になれば外の村へと嫁いでく。女腹の村だったんだろうな。ある年、女の子が生まれた。なんてことない普通の出産だったらしい」

 

 ゴザ売りは今気付いたようにばつの悪い表情を浮かべ、イリスの寝顔から視線を剥がすと冷えかけた茶を湯呑みに注ぎ、ごくりと喉に流し込んだ。

 

「産まれた子は、内側から光りを放つような漆黒の瞳を持つ女の子だという。普通の者でさえ惹きつけられる瞳だがこの目ん玉、数十年、百年越しの年月を経てぽつりとその村に女児として産まれていた。頑なに語り継がれても、目にした者が亡くなって世代が変わればただの伝承となる。当の村人達でさえ言い伝えと思い込んだ頃に、必ず産まれるんだとよ」

 

「その瞳を持つ子は、他の子と何が違う? 課せられる役目でもあるのか?」

 

 ヤタカの問いに、ゴザ売りはゆっくりと首を横に振る。

 

「村の古い覚え書きにも、役目については何も書かれていないって話だ。ただな、そういう子が産まれる前の年は、必ず山が騒いだという。山深いところから、異種が集団ではぐれたように姿を見せる。今みたいに異種が人里にでかい顔して降りてくる前にも、山と生活を共にする者には感じられる異変は起きていた。その間隔はまちまちだ。子供がぽつりと産まれるのと同じくらいに」

 

「歴代の女の子と、異種の暴走の因果関係は?」

 

「わからねえ。ただな、漆黒の瞳を持って生まれた子は、十歳を待たずに命を落とすことが多かったらしいぜ。短命なのさ。生き延びたとして、両目の視力を失うのが常だったというから、惨い話じゃねぇか。何の因果かね。子供が死ぬか、視力を失って数ヶ月もすると、山のざわめきはぴたりと止まる。」

 

 山裾へ散らばった異種が、人の気配のない山奥へ戻ったということか? ヤタカは指先で顎を捻って眉根を寄せる。

 

「因果関係も解らない話をなぜ俺に? イリスにも関係ない話だ?」

 

 そう急くな本題はこの後よ、とゴザ売りは考えるように顎を撫でる。

 

「その村の背中を守るように座する小さな山を二つ越えると、山間の平地に寺があった。朽ち寺だという噂だ。漆黒の瞳を持つ子を産んだ母親は、娘の歳が三歳の終わりに近づくと幼子の手を引いて、寺へ出向いて願を掛ける。いわゆる百度参りってやつさ」

 

 ゴザ売りが茶で喉を潤すのを見て、ヤタカも湯呑みから一気に茶を口に含んで飲み込んだ。張りついた喉が、生温い渋さに押し開かれていく。

 

「ただの風習だと思われていたらしいぜ。百度参りへ行くことは定められていても、今まで百度を踏んだ者達がどうしたのか、どうなったのかはいっさい記録に残っていなかったらしい。願いは母親の自由。娘の延命を願う者が多かったんじゃねえか、ってのは噂好きな野郎どもの憶測だ」

 

「命を奪われるくらいなら、両目を失う方を願ったのか。辛い選択だな」

 

「だがな、ある母親はこう願った。『娘の願いが叶いますように』ってな。小さな娘は、自分が特別だなんて思っちゃいない。大きくなったら、お嫁さんになるんだと張り切っていた。生きて幸せを掴んで欲しかった……親心からの願いだろう。だが、その願いがややこしい事を引き起こしちまった。百度を踏んだ母親の願いは、娘の願いを叶えちまったのさ」

 

「結婚できたってことか? ならいいじゃないか」

 

 ゴザ売りが呆れ顔で首を横に振る。

 

「お嫁さんになるって願いが、一番の願いじゃなけりゃどうなる? 幼子だって本心ばかり親に明かすとは限らない。素直で正直な子供なんてのは、大人が産みだした幻想さ。その子には、親には言っていない秘密の願いがあった。願いは受け入れられ、それを叶える方法を母親は娘に話してしまったのさ」

 

「話が見えてこねぇよ」

 

「母親に聞いてその子がやったのは、百度参りじゃねぇ。逆さ廻り、そう呼ばれる参り方だ。あの村と、あの寺だけに言い伝えられてきた、逆さ廻り。間違っても、子供がするようなもんじゃねぇ。村の存亡がかかっている大事に、遠い昔、村の長老が試したって記録が残っているだけだ」

 

 顔の見えない幼女が小さな足でぺたぺたと、本殿で手を合わせては百度石を廻り小枝を積み上げて回った回数を残していく様子を想像して、ヤタカはぶるりと首を振る。

 民間に伝えられる百度参りなら昼間がよいとされてはいるが、人に見られたり知られるのを良しとしない地方もある。そんなときは人目を忍んで夜中に参る。裸足で廻るのが良いともいわれるが、百回廻れば柔らかな足裏の皮も剥がれるだろう。

 一回りしては百度石の脇に小枝や小石を重ね、参った数を数えていく。

 人目を忍ぶ若い娘などは百日の間、毎夜通って百度を踏むこともあったという。

 逆さ廻り……嫌な言葉だとヤタカは奥歯をぎりりと鳴らす。

 

「これは憶測だが、村の山奥にあった寺だけはたったひとつの目的のために在り続けたのだと思う。寺ってのは形だけ。漆黒の瞳を持って生まれた子を持つ母親に、娘の先を決めさせる為じゃねえかな。昔の事だ。盲目の娘として生涯ひとりで生きていく運命を背負わせるか、いっそ親の腕の中で安らかに生を終わらせるか」

 

「だとしたらなぜ、その母親はなぜ娘の願いを叶えようとした? 決まり事を破ったのか?」

 

「言い伝えだと疑っても、娘の万が一を思えば願うことは自ずと決まる。だから、明確な文言なんてものはなかったんだろうよ。嫁に行くなら生きている証。嫁に行ったなら、娘は孤独ではない幸せな人生が得られるかも知れない。そんな思いだったんじゃねぇか?」

 

「だが、寺を司る意思は人の想いの裏など読み取らない。言葉そのモノを叶えた……か」

 

 寺に宿る意思とはいったいどのような者だと、考えたところで何も浮かばない。

 

「願いを聞き入れられたことで、娘の願いを叶えるための方法を母親の口が勝手にしゃべりだした。意思に反して口が動く、言葉がでる。勝手に口から零れる言葉を耳にした母親は、その時初めて娘の本当の願いを知った。自分の言葉が、娘と自分にどのような運命をもたらすかもな。直立不動で逆さ廻りの方法を娘に語りながら、無表情の母親の目からは涙が流れていた。自分の意思では、どうにもならない理の向こう側へ行っちまったのさ」

 

「言われた通りに逆さ廻りをする我が子に、母親は止める言葉さえかけられなかったんだな。止めれば、娘の願いを邪魔することになる」

 

 そうだ、ゴザ売りが頷いて大きく息を吐く。

 

「普通なら何の決まりもない。ただ往復するだけ。だがあの寺は拝殿に参った後右回りに百度石をくるりと廻って参る決まりだった。鈴は最後に一度だけ鳴らす。逆さ廻りは百度石を左に廻る。あらかじめ百本積んでおいた小枝を、廻る事にひとつずつ遠くに投げて捨てていく。積むのではなく捨てる。後戻りできないことの証なんだとよ」

 

「その準備も母親が?」

 

「母親と一緒に数えられもしない数をいいながら、小枝を積んだのは娘だ。逆さ廻りを実行したら、何が得られて何を失うか聞かされたところで、幼い頭で理解できやしない」

 

「その子は、逆さ廻りをやり遂げたんだな」

 

「あぁ。小枝を折って集めた時点で指先からは血が滲んでいた。ちっさい素足で、きっちり百一回廻った。百個の小枝が全てなくなってから更に一回廻り、黒ずんだ賽銭箱に一滴自分の血を入れて鈴を鳴らす。願いは……叶えられた」

 

「いったいどんな願いをかけたんだ?」

 

「それは本人にしかわからない。逆さ廻りは知りたいと願うことを知ることができる。だが、記憶が残るのは百度石に戻るまでの間だけ。答えを得る代わりに、記憶を失うといわれている。ただひとつ、腕に一文字残すことだけが許される。何を知ろうとしたのか、誰の事なのかは覚えてるというが、肝心の内容は記憶に残らない。その答えを、逆さ廻りをした者は腕にしたためる一文字として残す。そして百度石を通り過ぎて、我に返った時には、自分がどこの誰だかわからなくなっている。その日、寺を出て行く幼い子の左腕には、福笑いみたいにミミズが這った字で『空』と書かれていた。女の子は、それをみてにっこり笑った」

 

「まるで寓話だな」

 

「どうだかな。十何年前になるかな……山中の荒れ寺の脇で、獣にやられた女の骨が見つかったぜ」

 

 ぞわりとしたものがヤタカの背を這い上がる。

 

「おまえが山中を歩いても獣の心配をしなくて良いのは、あの嬢ちゃんが異種宿りだからだ。母親も同じこと。獣を払う娘に山中に取り残され、身動きもとれないとなれば生き残る確立は極めて低いだろうよ」

 

 ゴザ売りの言葉に、ヤタカの胸で産まれた曖昧な疑問が、燻された虫のように表層に這い上がる。

 

「まさかその娘、生まれつきの異種宿りだとでも」

 

「おそらくは」

 

 黙り込んだ男二人の隙まで、イリスが顔を顰めて寝返りを打った。

 

「その子が、イリスだっていうのか?」

 

「当てにならん戯れ言といったろう? 旅人の耳を楽しませるために風が運んだ話だ」

 

 ちらりとだけゴザ売りの男を見遣り、ヤタカは組んだ手元に視線を落とす。

 

「その割りには詳しいな? 語っていて気付かなかったのかい? あんた、村での事は聞き語りだったが、寺の話はところどころ綻びが隠せなかった。語りながらあんたは、その目で見た過去を思い返しながら語っていたんじゃないのか?」

 

「勝手に解釈しやがれ。話を振ってきたのはてめぇなんだからな」

 

 荷物を手に立ち上がったゴザ売りは、座り続けて固まった膝を揉むと首をぐるりとまわして戸口へと向かう。

 

「泊まっていくんじゃないのか?」

 

「たまにはゆったり湯にでもつかろうと思っただけだ。これでも一応人なんでね」

 

「ならゆっくりしていけよ」

 

「そんな気分じゃなくなった。この部屋はてめぇの吐く息で空気がわりぃ。風通りのいい小屋ならまだしも、ここで布団を並べるなんざごめんだぜ」

 

 それ以上は引き留めなかった。ヤタカも本音をいえば、男といるのは息が詰まる。

 後ろ手に閉められた木戸が、僅かな隙間を残して動きを止めた。

 

「漆黒の瞳を持って生まれた子供は、水気の主にこよなく愛される。これも、風の残したお伽噺さ」

 

 水色の女の着物が脳裏に浮かぶ。

 

「ところであんた、幼なじみの二人に、毒気が残って体をやられたことは伝えたのか?」

 

「いや、毒が抜けていないことはあいつらも知っている。持ち直したからいいんだ。毒の正体が解らないのに、連絡しても無駄足を踏ませる」

 

 ふん、と馬鹿にしたような荒い鼻息が木戸の向こう側で漏れた。

 

「毒の種類が解らない……ねぇ。本当に、そうだといいが」

 

「いったい何を!」

 

 畳を蹴って立ち上がり、木戸をぶち抜く勢いで開けた向こう側に居たのは、目を丸く見開いて驚く仲居の姿だった。

 

「すみません」

 

 既に消えた男の姿を横目で探しながら、驚かせてしまった仲居に頭を下げる。

 

「いいぇ~」

 

 にこりと会釈して仲居は湯の道具を置き、布団を敷いて出ていった。

 騒ぎに目を覚ましたイリスがゲン太を手に、もぞもぞと這って布団に潜り込む。

 

「なあイリス、本当のわたしなんていないって、ずっと昔あの泉に置いてきたってどういう意味なの?」

 

 天井を向いて目を閉じたままイリスが首を傾げる。

 

「わからないや。浮かんだ思いを口にしただけ」

 

「宿であった女は、知り合いなんだろう?」

 

「うん、でもずっと会っていなかったの。寺の水辺にはおしゃべりさんがいたから、来ることができなかったのかな? ねぇヤタカ、許してあげてね」

 

「何を?」

 

「あの御方は本当はね、とっても優しいの。優しすぎて、いつか壊れてしまいそう」

 

「あの御方か。よほど身分のある者なのか?」

 

 さぁ、とイリスは目を開いて天井をみる。

 

「お宿ではいろんなことをはっきり思い出したつもりだったのに、何を思いだしたのか忘れちゃった。偉い人……なのかな?」

 

 イリスらしいといえばそうなのだが、普通の物忘れとは違う気がした。

 

「ばあさんじゃあるまいし、ちゃんと思い出しなよ」

 

 呆れ調子でヤタカがいうと、イリスはう~んと呻って口を尖らせ、指先で顰めた目頭を揉み出した。

 

「痛いのか?」

 

「思い出そうとすると、目の奥がチクチクするの」

 

 もう寝ろ、そういってヤタカはイリスの顔にどさっと布団を被せて立ち上がった。

 でもね、といってイリスがひょっこりと布団から顔をだす。

 

「ヤタカは大丈夫だよ! それは絶対なの!」

 

「わけわかんないよ? 何が大丈夫なのさ?」

 

 するとイリスは得意げに細い左腕を布団からだし、右の指先でとんとんと手首の下を叩いて見せた。

 

「だってわたしの一番大好きな字だもの。空、だもん!」

 

 おやすみ、小さく言ってイリスは布団を被った。

 がくりと畳に膝をつき、イリスが眠る布団をヤタカは呆然と眺めていた。

 

 

 

 

 




 読んで下さったみなさん、のぞいて下さったみなさんありがとうございます。
 今年は投稿スピードUPでがんばりたいです。
 次話も見に来ていただけますように。
 では!


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17 和紙が透かすは 神という名を持ち

 膝を折り足が痺れるのもそのままに、更けていく夜をぼんやりと過ごした。

 薄っぺらい布団を蹴飛ばして、ひょろひょろと伸びた細い大根みたいに足を投げ出して眠るイリスの寝顔を見て、幼児のようだ――と黒い霧の立ち籠める心の隙間を縫って、薄い笑みが口元へのぼる。

 あのゴザ売りを信用したわけではなかった。

 けれども、無駄話はしない男だと思う。

 端金や己の命を対価に、意に反した言葉を吐く男とも思えない。

 悪意ある真実も、善意の嘘さえ、あの男の口が動いたならそこには必ず意味がある。

 

――空――

 

 堂々巡りの思考は、同じ一点で立ち止まる。

 たった一文字で行き止まる。

 時を空けることなく、不意にイリスがこの一文字を口にしたのは偶然だろうか?

 寺に関わる者は、並の者とは異なる技を持つ。知恵を持つ。

 眠っている間に耳から迷い入る言葉は、受けた者に何をもたらすだろう。

 迷い込んだ言葉が技ある者に操られた言葉なら、確実に眠る者の脳を神経を、意識を突くだろう。

 霧のように漂う言葉は夢へと誘う。

 夢は記憶への地図に過ぎない。

 目覚めたときに残るのは、追憶の彼方に覗いたものの残滓だろうか。

 

――空――

 

 ぽかんと口を開けて眠り呆けるイリスの寝顔に、ヤタカの知らない素顔の影がちらつく。それを認めることは、ヤタカ自身が未だ認識していない過去があると認めることに他ならない。知らない自分が過去に存在したなど、思うだけで恐ろしかった。

 

――俺達が本当に最初に出会ったのは、いったい何時なんだい、イリス

 

 そそくさと逃げるように、薄い月明かりは街道を囲む山向こうへと姿を消し、新しい一日が外の空気を青白く染めていく。

 

「風呂に入らないとイリスが……嫌がるな」

 

 水と同様に湯に浸かることもヤタカは得意としない。桶でザブリと湯船の湯を浴びながら、色濃く流れ出した不安を具現化したように粘つく汗を、淡々と洗い流していった。

 お湯の温かさにどっと滲みだした眠気と戦いながら部屋に戻ると、早々に仕度を調えたイリスが、ゲン太を従え足踏みしながら待っていた。

 

「朝飯は?」

 

「なかなか返ってこないから、先に食べちゃった。ヤタカの分は荷物に入れてあるよ。さぁ、出発しよう~!」

 

 目元に布を巻きながら慣れた足取りで部屋から出ようとするイリスに、ヤタカがぼんやりとした頭で声をかける。

 

「出発って、どこへ?」

 

「……それを決めるのは、ヤタカのお仕事」

 

 ゲン太がカン、と下駄の歯を鳴らして相づちを打つ。

 

「はいはい」

 

 荷物の中の握り飯に手を付ける気にすらならず、イリスの後について街道へと出た。

 春は季節の進みが早い。無造作に若草色の絵の具を撒き散らしたように、昨日より濃く、山は春の色に染まっていた。

 朝もまだ早く、街道の人通りも疎らだ。

 ヤタカの体調を心配してか、やたらと朝飯を食えと勧めるイリスに根負けして、ヤタカは乾いた口の中に握り飯をがぶりと頬ばった。

 

――なんだこりゃ?

 

 ゲン太と巫山戯合いながらイリスが先を行く。ヤタカは口の中に感じる米粒とは異質の固まりを指先で摘みだした。小さく丸められた紙の固まりが、数粒の米にまみれて取り出される。

 

『記憶の深追い無用』

 

 開いた紙に書かれていた文面は簡潔で、的を外さぬ意味を持つ。

 

――ゴザ売りの男か

 

 宿の近くに潜んでいたか、昨夜の内に仲居の女に金と紙を握らせたか。ヤタカは紙を細かく千切り、残りの握り飯と一緒に口の中に放り込んだ。

 

『書き込むなら頭に刻め。他の者の目に触れる形で、残してはならないものもある』

 

 慈庭の言葉を思い出す。口を動かすだけの気力が戻ったら、ヤタカはイリスに問うてみようと思っていたのは事実。それが正しいかなど、考える気持ちの余裕さえなかった。

 あの男は、ヤタカの心の揺らぎを見越していたのだろう。

 

――年の功、今回はあちらさんが一枚上手だったてことか

 

 あの男が敵か味方か、チクリと胸に引っかかる疑念さえ今は意図的に無視しようと、ヤタカは速度を上げてイリスの横に並び、見えないのを承知でにこりと微笑んで見せた。

 大丈夫だ、そう自分へ言い聞かせる為の声なき笑顔だった。 

 

「ねぇヤタカ、どこに向かっているの?」

 

「うん、これだけ山の緑が濃くなれば、薬草が手に入りやすい。この先の伊吹山で少し採取して金を造っておこうかなってね」

 

「そっか」

 

 案内しろというように、イリスの手がヤタカの腕を覆う布を掴む。

 面白くなさそうに、ゲン太が大股で砂埃を上げながらのしのしと先を行く。

 ヤタカはイリスに隠した目的を唾と一緒に胃の底まで呑み込んで、誰にも見咎められることなく苦笑いを漏らす。

 目指す伊吹山は小さな小山が幾つも折り重なる起伏の激しい場所だ。

 あちらこちらに風穴があり、人が足を踏み入れない洞窟が塞がれることなく今も残っている。いや、残っているといっていたのは慈庭だ。

 

「伊吹山って、前に行った? 覚えてないよ?」

 

「行くのは初めてだよ。寺でね、薬草が多く自生している有名な場所だって教えて貰っていただけさ。きっと、寺を離れる事態になるかも知れないと思って、外の世界のことも教えてくれていたんだと思う。鬼瓦の慈庭がね」

 

「慈庭は優しいよ。すっごくやさしい」

 

「そうだな、仏が鬼の面を被っていたのかもしれないな」

 

 満足そうに頷くイリスに、ヤタカもほっと笑みを漏らす。

 無意識であれ故意であれ、秘密を抱えているのはイリスだけじゃない。時には必要な嘘もあるだろう。必要な嘘だってある。自分そ納得させるように、ヤタカは小さく頷いた。

 

 手書きの地図で見せられ想像していた道程を過ぎても、伊吹山には辿り着けないまま日がすっかり傾いでしまった。あと一時間も経たずに、山間の道は夕暮れに閉ざされる。

 

 かんかん

 

 打ち鳴らしたゲン太の木肌に、のんびりとした文字が浮かぶ

 

――あめ くる

 

 見あげた空は、上空の風に流され吹き溜まった雲に覆われ、どんよりと灰色に染まっている。

 

「どうりで体がむずむずするわけだ」

 

 湿気を含む空気がちりちりと皮膚を擦る感触に、ヤタカは首筋をばりばりと掻いた。

 

「お宿はなさそうだね。近くの小屋に泊まろうよ」

 

 見えないイリスが適当に指差す先には、錆びたトタン板を屋根代わりに張っただけの質素な小屋が立っていた。

 

「あるにはあるが、雨の夜を過ごすには心持たないぞ? 少し先に行けばもうちっとはまともな小屋があるんじゃないか?」

 

 雨に降られるより先に、次の小屋を見つけられるか思案していたヤタカの視線が林の入口で止まった。

 

「おいボウズ、早く家に戻らないと雨が降るぞ?」

 

 ヤタカに声をかけられた二人の子供は、はっとして振り向くと、手にしていたものをさっと尻の後ろに隠して、じっとヤタカを見つめたままカニ歩きで大股に横へ横へと進んでいく。

 

「こらこら、怖い人じゃないから逃げるなって。何をしていたの? 林の中に秘密基地でもつくったのかい?」

 

 ひとつのネジで動いたように、男の子の頭が同時にふるふると横に振られた。

 歳の頃は十歳前後だろうか。背の小さな坊主頭の少年が、すいと視線を地面に落とし、まん丸く目を見開いた。

 

「なにそれ、生きているの? すごいや!」

 

 イリスとヤタカは、まさかと言うように顔を見合わせる。

 

「何がすごいんだい?」

 

「ほら、下駄だよ! 下駄が勝手に歩いている!」

 

「すごいな、ゲン太が見えるのか」

 

「あたりまえじゃん。だってそこにいるし」

 

 少しだけ背の高い少年もゲン太に気づいて、口と目をあんぐりとあけた。

 少年達に異物や異種が宿っている気配はない。

 ただ……

 

――この辺りは、ちと臭う

 

 巧妙に林に隠されてはいるが、周囲の林一帯に紛れる特異な臭いは、異種とも異物とも違う得体の知れない何かだった。

 

「おまえゲン太っていうのか、おもしろい奴だな!」

 

 二人の少年に撫で回され鼻緒を突かれ、ゲン太が無い目で白目を剥いている様子が目に浮かぶようだった。

 

「ねぇ、ふたりとも林の中で何を見ていたの? お姉ちゃん今は見ることができないから、言葉で教えて欲しいな。ゲン太はお姉ちゃん達の秘密なんだぞ? だから、二人の秘密も教えてよ。ねっ?」

 

 きょろきょろと泳がせた視線を幾度か交えて、少年二人は頷いた。

 

「これが秘密の道具なんだ」

 

 隠す様に持っていた物を、少年達は自慢げに翳して見せた。

 

「なんだそりゃ? 家の障子を枠ごと切り落としてきたのか?」

 

「ちげーよ!」

 

 少年二人の手の中にひとつずつ大切そうに握られているのは、格子戸を一枠外してきたような四角い木枠に、透けそうに薄い和紙を張ったものだった。

 

「それにしてもすごいね。こんなに薄い和紙は初めて見たよ? 村の特産品なの?」

 

 好奇心に負けて曇り空を良いことに、ちらりとだけ布を捲ったイリスに、二人は得意そうに小鼻を膨らます。

 

「これはね、内緒で秘密の和紙なんだ。オレ達のじっちゃんが和紙職人でさ、もう死んじまったけど、じっちゃんの作業場を片づけた時に見つけてこっそり持ち出したんだ。そしたらさ……なぁ~」

 

 くすくすと目を合わせて少年が笑う。

 

「これを透かすと、いいモンが見えんだぜ」

 

「へぇ、お姉ちゃんも見てみたいな」

 

「その布を巻いていたら見れねぇだろ? それにもう曇ってきちまったから駄目だ。雨が上がって、お日様が顔を出したらばっちり見えるんだけどな」

 

 へへへ、と顔を見合わせて少年が得意そうに口を窄める。

 

「ゲン太を見たんだから、おまえたちも見せてくれよ。明日晴れたら、見られるんだろう? 今夜はそこの小屋に泊まるから明日、いいだろう?」

 

 ヤタカがいうと、ごにょごにょと顔をつきあわせて相談し、二人は世界の大事を決めたように重々しく頷いた。

 

「でも、村のみんなには絶対秘密だぜ?」

 

「おう。ゲン太のことも秘密にしろよ?」

 

 にこりと頷いて、手を振りながら少年達が帰っていく。

 

「こりゃあ明日が楽しみだ」

 

 小屋に入ろうと振り向くと、日が陰ったのをいいことに布を外したイリスが、ゲン太を相手に相づちを打っては何度も首を傾げていた。

 

「ヤタカ、あの子達は見えるっていうだけで、普通の子だって。問題はあの和紙だってゲン太がいうの。さっきね木枠に翠って字が彫ってあったって。その名はね、有名な職人の名で、なのにある時からぷつりと和紙をすくことを止めた人だって」

 

「へぇ、こんな辺鄙な場所にねぇ」

 

「あの和紙がゲン太の知っているものなら、木枠に張られたあの二枚の和紙を手に入れるために、人を殺すことさえ厭わない人間がいるって。あの和紙だけは特別で、翠は破棄しようとしていたらしいけれど、できなかったってゲン太がいってる」

 

「ずいぶん詳しいな。大丈夫なのか? そんな曰く付きのモノをあんなガキが持っていて」

 

 ここらに漂う臭いと関係あるのだろうか。

 

「おっと、雨だ」

 

 ぽつりぽつりと雨粒が土の道に滲みていく。

 濡れない内に小屋に飛び込んだヤタカ達は、トタン屋根に激しく当たる雨音の中、雨漏りのない部屋の端に固まって、蹲り一晩を過ごした。

 ひとり落ち着かない様子のゲン太だけは、雨だれの音に合いの手を入れるかのように、かたり、かたりと一晩中小屋の中を歩き回っていた。

 

 

「起きろよ! ぴっかぴかに晴れてるぞ!」

 

 勝手に小屋に入ってきた少年二人に揺り起こされ、ヤタカは浅い眠りから起こされた。

 しぶしぶ体を起こすと、イリスは目のまわりに布を巻きすっかり準備を整えている。

 早く早くと手を引く二人に急かされて、荷物もそのままに小屋の外へと引き摺りだされたヤタカは、眠い目を擦っていた手を止め、うっすらと開いた目を懲らす。

 外に出て直ぐに、違和感を覚えたヤタカは眉根を寄せた。

 

「どうなってんだ……土が乾いている」

 

 ひと晩止むことなく続いた土砂降りの雨が夢であったかのように、街道の土は灰色に乾ききっていた。そんな外の様子に構うことなく、林を少し入ったところまで強引にヤタカの手を引いて歩いた少年が足を止める。

 

「にいちゃん、この和紙を透かして林の中を見てみろよ」

 

 得意気に渡された木枠を林の奥に向けて翳し、ヤタカは小さく首を振った。

 

「確かに薄い和紙だが、何にも見えないぞ?」

 

「見方が下手なんだってば。和紙と林の間を見るような感じでさ、ぼんやりと見るんだ。それがコツなんだよ」

 

 じれったそうに足踏みする少年に向け大げさに肩を竦め、ヤタカは何処を見るともなく、ぼんやりと焦点をずらして木枠の中の和紙を眺めた。

 

「ほう……」

 

 思わず感嘆の息が漏れる。

 

「ヤタカ、何が見えたの? 面白い物?」

 

 日の下では布を解けないイリスが、好奇心丸出しで尋ねてくる。

 

「水面の反射光が見える。ほら、宿屋の縁側で庭の池の反射が壁や天井にゆらゆらと映り込むことがあるだろう? あれがね、この和紙を通して見えている」

 

「綺麗?」

 

「あぁ、綺麗だ。この世のモノではない美しさだよ」

 

 そう、この世のモノではない水面の揺らぎ。和紙を透かして見えるはずのない光り。

 木枠を掲げていた手をゆっくりと下ろし、現実の林の奥を見回しても、そこには泉どころか昨夜の雨が無数に造りだしている筈の水たまりさえ見当たらなかった。

 

「なぁボウズ、和紙を通して見える水のきらめきは、どこにある? お前達にはそれが見えるのかい?」

 

「見えやしないさ。でもね、木枠を向けてキラキラと光りが見える場所には、見えなくても小さな泉があるんだ。きっと、夜に降った雨をぜんぶ溜め込んでいるのさ」

 

 子供の想像からでた言葉だろうが、ある意味的を射る答えだった。

 地中に平等に染み込み大地を潤すはずの雨水が、目に見えない無数の泉となって大地を乾かしている。ヤタカの中に疑問が浮かぶ。翠は何を目的にこの和紙をすいたのか。それとも偶然の産物なのだろうか。

 

――この和紙を欲しがる者が狙っているのは、和紙その物じゃないってことか

 

 和紙を透かして見える、向こう側にあるものが狙いなのだろう。

 ヤタカの中で血がザワザワと騒ぎ出す。

 和紙を透して目にしたことで、そこに存在する水に気づいたとでもいうように。

 水の器が鼓動する。

 

「ボウズ、大地の乾きはいつまで続く? 大人達は騒いでいないのか?」

 

 二人は顔を見合わせ、ちょっと困ったように首を傾げる。

 

「昔っからなんだって。何年かに一回は、雨が降ったあとに土が乾いていることがあるって。でもね、乾いた後に降る雨が潤してくれるのをみんな知っているから、だれも騒いだりしないよ。泉のことは知らないし」

 

「恵みの雨が降ると、この泉はどうなる?」

 

「次ぎに土が乾くまで、どこかへいっちゃう」

 

「そうか」

 

 もじもじと突き合っていた少年が、でもね、と話を続ける。

 

「今回は、恵みの雨が遅いんだ。いつもなら続けて降る乾いちゃう大雨が二回くらいで、ちゃんと恵みの雨が降ってくれるのに、今回は4回目の……湿らない雨なんだ」

 

 どういうことだ? 何が今までと違うのだろう。泉の正体もわからないのに考えても答えは出るわけもないが、ヤタカは顎に手を当て首を捻る。

 

「和紙を貸してくれないか? もう一度見ていたい」

 

 背の小さい方がすっと差しだした、木枠に張られた和紙を受け取りヤタカが外へ出ようとすると、ゲン太が噛みつかんばかりの勢いでごつりと尻にぶつかってきた。

 

「なんだよ? 遊んでいる暇はないぞ」

 

 不満げに下駄を踏みならしたゲン太の木肌に、丸がひとつ描かれた。

 

「団子?」

 

 ばたばたと地団駄を踏み、丸が揺らいだ木肌に新たな模様が浮かび上がる。

 

「角の生えた芋虫か? 気持ち悪いな」

 

 きぃー! と歯軋りが聞こえそうに三角に鼻緒を立てたゲン太が、おまえでは話にならんとでもいうように、のしのしとイリスの元へ向かっていく。

 ゲン太に突かれて布の隙間から少しだけ目を覗かせたイリスが、しゃがみ込んで頭を捻る。

 

「ゲン太、どれどれこれは……えっと……新種のムカデかな?」

 

 がくりと鼻緒の肩を落としたゲン太が、開いた戸口の隙間からとぼとぼと外へ出て行った。

 

「ばか下駄は放っておいて、俺達もいってみよう」

 

 太った芋虫によれよれの角が二本、足が何本も生えている。あれを絵と呼ぶのは、世の中の絵師達にあまりにも失礼だろう。

 

「なあボウズ。土が乾いている間、水はどうしているんだい?」

 

「井戸も一晩で干上がっちゃうし、この近くに川はないよ。だから隣村の近くの川まで樽を背負って水を汲みに行くんだ。もう慣れっこさ。ほんの数日の我慢だもの」

 

 そうか。ヤタカは登りはじめたばかりの朝日の中、和紙を透かして林の奥を覗いてみた。 昨日と同じように、ところどころにゆらゆらと、水面の反射が光の帯を造りだす。

 和紙から視線を離せば、そこに広がるのは何処にでもある疎らに木の生えた林の景色。

 

「うっわ~! まん丸い苔発見。おじさん、これもう枯れている? 死んじゃってる?」

 

 背の高い方の少年が、手の平にビー玉ほどの大きさしかない緑色の固まりをのせて、ヤタカに差しだし首を傾げる。

 夏の盛りの葉を集めたように深い緑色の固まりは、少年のいうとおり枯れかけているのか、所々に乾いた茶色い色を浮かばせていた。

 

「おじさんじゃない! お兄さんだ!」

 

 軽くこつりと拳固を当ててやると、へへっと笑って少年は首を竦めた。

 少年の手から固まりを指で摘み上げる。もっとかさかさと固い物を想像していたのに、指に伝わってくる感触は柔らかで、人肌に温め丸めた苔を触っているみたいだった。

 

「めちゃくちゃ寒い地方に、これに似た植物が生息する湖があったって聞いたことはあるが、なんていう名だったかな」

 

「マリモ」

 

 見ることができない退屈を紛らわせているのか、子供達に分けた棒飴を自分も舐めながらイリスが答える。

 

「そう、それ。でもな、その植物とはちょっと違う。マリモを実際には見たことはないが、聞いた話と比べると、こいつはマリモより毛足が長い。それにマリモは成長するが、目に見える動きを見せることもない」

 

「じゃあ何だと思うの? その子は生きている動物?」

 

「いいや、そんな単純な分類には当てはまらない連中さ。地方によって呼び名は異なるよ。小手毬さん、そんな呼び方をしていた場所もあったはずだ。俺の推測が外れていなければ、こいつらは集団で移動する。まるで持ち場が決まっているように、決まった場所をてんてんと廻るらしいよ」

 

 話がちんぷんかんぷんなのだろう。頷くイリスの横で、少年二人はぽかりと口を開けてヤタカを見あげている。

 

「場所によっては、こいつらは神と呼ばれる。どんな姿の神かは知らんが、鎮守といって、一定の場所、あるいは地域で起こる災いから民を守る神とされる者の一種だ」

 

「この辺りで、良くないことが起こるの?」

 

 不安そうに眉尻を下げる二人の頭をこづいて、ヤタカはいいや、と首を振る。

 

「起こるはずの災いを転じて福と成す。それがこの手の者さ。正体が解らないから、人はそれを総じて神と呼ぶだけだ。俺の体は毒に敏感でな、ほら見てごらん」

 

 深緑色の丸い固まりをのせていた手の平を少年達に見せると、うわっという声と共に、小さな手が口元を押さえた。

 ヤタカの手の平は、毒に爛れて赤と紫が入り交じり、熱を持って剥がれた皮がよれていた。

 

「心配すんな。すぐに治るよ。イリスも今なら感じるだろう? この辺り一帯の林には腐煙(ふえん)と呼ばれる種の立木と草が溢れている。毎夜咲く月見草のように、冬の初めに夜な夜な毒を含んだ煙状のモノを吐き出し、それは地表に落ちて雪の下で土に滲みていく。雪解けがそれを地中へ溶け込ませ、毒を含んだ水がこの地に薄く広がっていく」

 

「みんな病気にならないの?」

 

 不思議そうにイリスが聞く。

 

「地表に滲みても、水に溶け込み流れるまで粒子を細かくするには時間がかかる。細かくなった頃に、こいつらはそれを集めに姿を見せるのさ」

 

「毒を集めてどうするの? その毒は何処へ行くの? 他所に住む人が困ったりしていやしないだろうか」

 

 自分達が綺麗だと喜んで眺めていたものの存在理由を知って、はしゃぐ気持ちも失せたのだろう。ヤタカの袖を引きながら尋ねる少年の目にはうっすらと涙が溜まっていた。

 

「いいかい、毒っていうのは、薄まれば薬になる。うんちだってさ、山になっていると臭いだけだけれど、畑にまけば肥料になるだろう? それと同じで腐煙のつくり出す毒は、薄めて雨と共に撒けば山を育てる栄養になる。山を疫病から守る薬になる。腐煙が自生する場所から毒を集め、腐煙を持たない山々に雨と共に撒いてやるのがこいつらの仕事さ。誰が決めたわけでもない、自然の摂理だ」

 

 偉そうに言ってはみても、所詮は慈庭の教義の受け売りだ。これに関しては、小さく丸い玉という噂があるだけで、その他のことは謎に包まれていた。どうやって毒を集め、どうやって集団で移動するのか。記録に残る限り、目にした者は数人に過ぎない。異物を宿した者が古に目にした光景が語り継がれた……その程度の情報でしかなかった。

 

「俺の感が外れていなければ、これから面白い物がみられるよ。その和紙を透かせて見たら、影くらいは映るんじゃないか? 直ぐに返してあげるから、ちょっとだけ待ってくれよな」

 

 ヤタカは和紙を透かして光りの揺らぎを見定めると、それがあるであろう方向へゆっくりと歩みを進める。

 

「ここか」

 

 地面にしゃがみ込むと、同意するようにヤタカの中で水の器がドクリと鼓動する。

 

「仲間の元へお帰り」

 

 手の中の小さな玉を、和紙の向こうにあるであろう小さな泉へ転がした。

 

 ぽちゃり

 

 水に落ちた音がして、少年達が息を呑む音が続く。

 

「彼らを驚かさないように、ゆっくり林からで出るんだよ」

 

 和紙を貼った木枠を返してやると、こくりと頷いた少年達はイリスの手を引いてゆっくりと街道へ歩いて行く。

 

「ゲン太、おまえが描いた丸って、こいつらのことだったのか?」

 

 すっかり臍を曲げたらしいゲン太は、ふんと鼻を鳴らすように鼻緒をねじ曲げそっぽを向いた。

 

「見ろゲン太、これがこの林の本当の姿だ。四度雨が降り続けても大地が乾いたままだったのは、無数にいる仲間の一匹がこの不思議な水たまりに戻れずにいたせいだったのさ。全員が揃わないと、こいつらは移動できないらしい」

 

 木立の隙間を埋めるように、所狭しと小さな泉がきらきらと水面を光らせている。

 視界を遮っていた林の騙し絵が、風に流され剥がれたように目の前に広がる幻想的な光景は、無数の水面が反射する朝日が木立の若葉をちらちらと光りの粒子で染め上げ、その揺らぎは水面下から林を見あげているような錯覚を覚えさせた。

 

「ほら、動き出した」

 

 目の前の透明な泉を覗き込むと、底にはビー玉くらいの丸い固まりが折り重なり、細く長い毛先をふわりと泳がせて水面へとひとつ、またひとつと浮かび上がってくるところだった。

 

「ゲン太、俺達も林を出よう。こいつらの邪魔をしないようにな。あ、ちょっと待って」

 

 水嫌いのヤタカだったが、毒に変色した手をそっと泉の水に浸す。

 もしかしたら……と思った。

 ひんやりとした感触は、この季節の水その物だった。ヤタカの手の平から、薄い緑色が水へと流れ出す。水に溶けることなく筋を描いて流れ出るその横を、浮き上がってきた丸い玉が毛を揺らして通り過ぎる。

 

「ほう……」

 

 緑色の筋は枝分かれして、それぞれの玉に吸い込まれていく。吸い込んだ玉はぶるりと一度だけ身を揺らし、何事もなかったかのように再び、ゆるりゆるりと水面を目指す。

 

「ありがとう。よし、行こう」

 

 点在する泉を践まないように、ゆっくりと後退る。ヤタカの手の平には剥がれた皮だけが残され、毒々しい赤と紫の変色は跡形もなく消えていた。

 

――毒を体内に取り入れるっていう話は、どうやら本当らしいな

 

 水面から浮き上がった丸い玉が、ふわりふわりと浮かんでいく。あっという間に数を増やし、林の中の緑が丸い玉のモノなのか、若葉のモノなのか見分けさえつかなくなった。

 街道へでて見上げた空に、林のあちらこちらから湧き出た玉が昇っていく。

 天高く昇るにつれて玉の輪郭は朧となり、人の目ではただの緑色の固まりというしかなくなっていた。

 

 どん

 

 地鳴りと共に、ばしゃりと水がはじけ飛ぶ音が林全体に響き渡る。

 林から濃い霧が立ちのぼる。

 煙のようにうねりながら昇る霧が、上空で緑の渦を巻く固まりにぶつかった。

 林の枝葉をしならせて、風が大地から吹き上がる。

 混ざり合った上空の固まりがぐるりと回って、その全貌を見せる。

 

「龍だ……巨大な緑の龍」

 

 頭からは長く鋭い角を生やし、太く長い蛇身から四本の足が生えている。

 

「すっげぇ……」

 

 少年の声が重なる。二人には肉眼で見る力はないのだろう。和紙を目一杯天に翳し、そこに映り込んだ龍の影絵を、あんぐりと口を開けて眺めている。

 

「この土地に溜まった毒を吸い上げ、浄化した雨を降らせてくれる。そして何処かへ行ってしまう。龍は外の国から伝わった伝説の生き物だが、案外昔の人は、この姿を見て龍と名付けたのかもしれないな。何しろ龍は水神だ。全ての水を司る」

 

 一度大きく喉元を反らせた龍が、尾で宙を叩いて円を描く。

 晴れ渡った朝の空に黒い綿飴みたいな雨雲が広がり、あっという間に顔を出したばかりの太陽を隠した。

 

「なぁボウズ。お前達を、男と見込んで頼みがある」

 

 しゃがみ込んで二人の肩に手をのせたヤタカに、少年は顔を見合わせた。

 

「この和紙は、お前達の爺様にしかつくれない特別なモノだ。この世に存在するのは、おそらくこの二つだけだろう」

 

「うん。だから大事にしているよ?」

 

 そうだな。ヤタカは二人の頭をそっと撫でた。

 

「この和紙を透して見えないモノが見える。それを知って悪用しようとしている悪いやつらがいる。和紙を透してお前達にも見えただろう? とても大きくて立派な龍だ。きらきら光る幻の泉も綺麗だっただろ?」

 

「うん」

 

「あいつらを、守ってやってくれないか? その和紙がある限り、あいつらは狙われる爺様が残した形見の和紙……これから降る綺麗な雨で、土に返してやってくれないか?」

 

 驚いたように見開かれた目から、あっという間に涙がこぼれる。二人同時に鼻をすすり上げる。

 近づいてきたイリスが、背後からそっと二人の涙を指先で拭った。

 

「あいつらの秘密を守り抜いてやろう? それは俺達が住む山々を守ることだ」

 

 空の高いところで、獣の遠吠えに似た声が聞こえた気がした。

 緑の龍が滝を下るように宙を駆け下りる。

 巨大な龍が、ヤタカ達の鼻先を掠め飛ぶ。近くで目にすると龍の全貌は把握できず、小さな緑色の集団が長い毛を風になびかせ、ざっと音を立てて飛んで行っただけだった。

 

――レイヲ イウ

 

 はっとして見あげた先を、緑の龍が天高く駆け上がる。

 はたして聞こえたのか、二人の少年も空を見あげて片耳を手でそろりそろりと撫でていた。

 力を込めて木枠を握っていた小さな手から、すっと力が抜ける。

 

「婆ちゃんは、泉のことも龍のことも知らなかったけれど、山を守る神様が居るっていっていたんだ。のの様って呼んで、いつも山に手を合わせていた。あのでっかいのが、きっと婆ちゃんが拝んでいたのの様だ」

 

 小さな少年の言葉に、鼻を啜りながらもう一人が頷く。

 

「のの様を守るよ。男だもんな」

 

「うん。寂しいけど……うん」

 

 木枠を差し出す少年達の手を、ヤタカはそっと押し留める。

 

「最後は、自分の手で終わらせるんだ。大切な形見だろう? いいね?」

 

「雨だよ」

 

 イリスの声を追うように、ぽつりぽつりと雨の粒が落ちる。

 顔を見合わせ頷きあった少年が、木枠を持った両手を胸の前に真っ直ぐに晒す。

 落ちた雨が、ぽつりと薄い和紙に染みを広げる。

 

「さよなら……龍神と呼ばれたモノよ」

 

 見上げた灰色の空で旋回していた龍が、鎌首をもたげて一気に天へと駆け上る。美しい曲線を描きながら、透明な雨だけを残して灰色の雲の彼方へと姿を消した。

 叩き付けるように雨が降る。

 少年の手の中で、木枠に貼られた薄い和紙は雨に濡れ破かれる。雨を含んで地に落ちた和紙は、更に水を含み雨に叩かれて土へと返るだろう。

 林の奥へ目を向けても、雨に打たれる立木と草が茂るだけで、幻のように美しい泉は姿を消していた。

 透明な雨が降る。

 ヤタカの内に潜む水の器は、なぜかこの雨を嫌がらなかった。

 透明な雨に打たれるまま、ヤタカは静かに目を瞑った。

 

 

 




 読みに来てくださった皆様、のぞいて下さった皆様、ありがとうございます!
 ちょっと長くなりました。
 読んで下さる方が増えてきて、ひとりでかなり嬉しがっています(*^^*)
 懲りずに次話も読んでいただけることを祈りつつ……
 では!


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18 へそ曲げ鼻曲げ ゲン太の家出

 緑の龍が降らせた透明な雨は日暮れいっぱいまで降り続き、乾ききって表面を灰色にひび割れさせていた街道の土を十分に湿らせた。

 

「降ったのはこの辺りだけだと思うが、伊吹山もこの状況なら野草探しは無理だな」

 

「心配ないよ。まだ辿り着いてもいないもの。道案内が道に迷っているから」

 

 イリスの嫌みにけっと喉を鳴らし、顔を背けてもヒシヒシと伝わる冷たい視線の矛先を変えようと、ヤタカはぱしりと手を打った。

 

「それにしても誰かさんの絵はひどかったなぁ。小手毬さんを描けば潰れた丸い餅で、威厳ある龍の姿を描けば太った芋虫によれた角……くくっ。あれで理解しろっていうのが無理だ」

 

 跳ね上がって横っ面を蹴ろうとしたゲン太を、ひょいとかわしてヤタカが笑う。

 幼児に筆を持たせたような絵を思い出したのだろう。口元に手を当てイリスも笑いを堪えている。

 

「ヤタカ、あんまりいっちゃ駄目だよ。ゲン太が可愛そう……ははっ」

 

「イリスだって、新種のムカデって思ったくせに」

 

「だって、足が、糸みたいににょろにょろした足がいっぱい……くふ」

 

 イリスに気を取られていたヤタカの側頭部に、カーンといい音を立ててゲン太が蹴りをかます。

 

「痛っ! アホ下駄、今のは俺じゃないだろ? 蹴るならイリスを蹴れよ!」

 

 イリスは笑いのツボにはいったのだろう。口を押さえていた手で腹を抱えて笑っている。 きーっと鼻緒を三角に立てたゲン太は、床に投げ出されたヤタカの脛に脳天からダイブを決め、ヤタカは上げる声もなく脛を抱えて床を転げ回った。

 

「ゲン太、怒っちゃったの?」

 

 目尻に一粒浮いた涙を拭いながらいうイリスに、べ~!! と鼻緒を突きだし、ゲン太は戸口の隙間を押し開けて外へ出ていった。

 

 すっかり小屋を立つ準備は整ったというのに、日が高く昇っても戻って来ないゲン太を探しに表へ出たヤタカは、はぁ? と呆れた声を上げる。

 

「イリス、アホな下駄画伯はここに置いていこう」

 

「どうして? ゲン太が戻るのを待とうよ」

 

「いや、無理だ。家出するってさ」

 

 湿って柔らかくなった土には、下駄の歯の太さで大きく、『いえで』と書かれていた。

 

 

  

 もう二度と戻るもんかと息巻いて、ゲン太はのしのしと山の斜面を登っていた。お荷物の二人がいなければ、こんな風に鬱蒼と茂った山の斜面だって簡単に行き来できる。

 むしゃくしゃするから、適当に異種の種を集めて寺に戻ろうか。

 必要無い種を集めてもおばばは呆れるだろうが、今は紅でもいいから飽きるまであの二人の文句をいいあって、憂さを晴らしたと思うゲン太だった。

 だいだい親切にモノの正体を知らせてやろうとしただけだというのに、あの言い様はなんだ? 文字には自信がある。気付いたときから、流れるような曲線の平仮名を書けた。 絵を描くには下駄が持つ木肌が狭すぎるのだ。

 それだけの理由であって、けっして絵心がないわけではないというのに。

 

――いたい

 

 折り重なった小枝のてっぺんからでんぐり返って落ちたゲン太は、たまたまそこに立っていた細い木立に跳ね上がって二連チャンの蹴りを入れ、ふんふんと尻を振りながら山道を登り続けた。

 普段であれば十分に注意深いゲン太であるから、どんなに草が茂っていようと先の道を見誤ることなどなかっただろう。

 だが今は、ぷんぷんに臍を曲げていた。

 鼻緒から湯気が立ちのぼらんばかりに頭が沸騰したのは久しぶりだ。こんな時は、ぷんぷん虫が頭に巣くっているのだと……笑いながらいったのは誰だったか。記憶が曖昧だ。

 頭に巣くったぷんぷん虫は、道が途切れた先へゲン太をひょいと踏み出させた。

 下駄の歯に感じるはずの柔らかな土の感触も、ごつごつした小枝の感触もない。

 

――しまった

 

 気付いたときには、ゲン太は山間の谷底へと回りながら落ちていた。

 

――くるくる めがまわる

 

 目がまわるせいで、読むモノもいないというのに心の叫びが、幾重にも重なった文字となって木肌に浮かぶ。

 どこに目があると問われても答えようもないが、空の青と山の緑が渦を巻き、打ち付けられた下駄の背の痛みさえぐるぐると回っている気がした。

 

――おや おや?

 

 一瞬またもや何処かに落ちていくのかと思った。目をまわしたまま、ふわりと下駄が宙に浮き無造作に振り回されて、ない口からげろが出そうになる。

 

――もう だめ

 

 ゲン太は、何者かに掴まれた鼻緒をべろりと伸ばし気を失った。

 

 ヤケに周りが騒がしい。固い物にあちこちを突かれる感覚に、ゲン太は意識を取り戻した。

 

「ぜんぜん動かねえよ」

 

「さっきは動いたんだってば! 間違いねぇって」

 

「ほんじゃ、こいつはお化け下駄か?」

 

 子供の声が幾重にも重なり合う。五、六人はいるだろうか。それぞれが手にした小枝でゲン太の木肌を遠慮なく突き回している。どうしてこの子らに自分が見えているのかと、湧いた疑問を捻り潰す勢いであちらこちらから枝先が責めてくる。

 

――いたい

 

 木肌に文字が浮かびそうになるのを、ゲン太はグッと堪えて黙りを決め込んだ。

 気を失っている間に、もぞりと動いたところでも見られてしまったのだろう。このまま唯の下駄で通すに限る。

 どのくらい突き回されただろう。いい加減木肌がぴりぴり痛んできた。

 

「やっぱ唯の下駄だって。古いしさ」

 

「捨てておくとゴミになるから、小枝と一緒に燃して芋でも焼くか?」

 

 手を叩いて子供らの歓声があがる。

 

――まずい ひはまずい

 

 崖から落ちた時の打ち身とぐるぐるに回った目の気持ち悪さは、ゲン太から予想以上に体力を奪い取っていた。

 

――にげるか

 

 この辺りを知る子供達の手から、すんなり逃げられるとも思えなかった。せめて夜ならなんとかなったのにと、ゲン太はない歯を摺り合わせる。

 と、その時だった。

 

「こら~悪がきども! 何してる!」

 

 ゲン太を突いていた子供達より少し年上の少年が、手にした棒で子供達を追い払った。

 

「何すんだよ。オレ達が見つけたんだぞ!」

 

 文句を言いながらも、ぱっと散った子供らが口を尖らせる。

 

「馬鹿いうな、これはオレの下駄だ! 勝手に燃やすんじゃねぇよ」

 

「うっそだい! こんな所に置き忘れたのかよぉ~」

 

 べろべろと舌を出して反抗する子供を、少年はぎろりと睨み付けた。

 

「置き忘れたんじゃない、置いていったんだ。文句があんならやるか!」

 

 拳を振り上げて少年が一歩踏み出すと、わっと声を上げて散り散りに子供達は逃げていった。

 

――たすかった

 

 この少年の意図はわからないが、今は焚き火から逃れただけで十分だった。

 

「汚れてんな。湧き水で洗ってやるか」

 

 手に持つのが面倒だとでもいうように、自分の履き物を脱ぎ捨て、少年がゲン太の鼻緒に足の指を突っ込んだ。

 ゲン太が、一瞬にして喉を詰まらせる。

 

「なかなか良い履き心地じゃないか」

 

 颯爽と進む足に履かれて、からんころんと下駄が行く。

 

――く くさい 

 

 この日二度目の失態、ゲン太はない白目を剥いて意識を手放すこととなった。

 

 

 ヒンヤリと澄んだ水が木肌を滑る感触に、ゲン太は目を覚ました。

 

――イリス? ヤバカ?

 

 悪い夢を見たと思った。枝で突かれ、焚き火にくべられそうになり、最後はこの世の物とは思えぬ悪臭に襲われた。

 早くイリスの側に行こうと思った。ヤバカはどうでもいい。ヤタカを、心の中ではヤバカと呼んでいるなど終生の秘密だ。知られたら、それこそ火にくべられる。

 

「よしっと。きれいになったぞ」

 

 聞き慣れない少年の声にびくりとした。一気に記憶が蘇る。

 まだ木肌が乾いてもいないというのに、少年の足がゲン太の鼻緒目掛けて迫っていた。

 

――しぬる

 

 唯の下駄の振りをしている余裕などなかった。肥溜めと腐った植物を混ぜたような悪臭が今しがた嗅いだように蘇る。

 全力で地面を蹴り上げ横に飛ぶと、ゲン太を履こうとした足が行き場を失って土を踏んだ。 

 

「おまえ、動けるのか?」

 

 目を丸くした少年が、下ろした足をそのままに呆けた顔でゲン太を見る。

 

――さわるな

 

 こうなったら物は試しだ。木肌に文字を浮かばせてみる。

 

「こりゃすげぇ。話せるる下駄だ」

 

 見えるのか。子供達が全員ゲン太を見ることができたのもが異常だった。たとえゲン太が見えても、木肌に浮かぶ文字を目にできる物は、更に数を減らす。

 胡座をかいてすとんと座った少年が、ゲン太に手招きした。

 

「触らないからこいよ。話でもしようぜ」

 

 用心しながらすり足で近付いた。

 

――つかまえない か

 

「つかまえねぇよ。どっからきたのさ?」

 

 木肌に多くの文字は浮かばせられない。ゲン太は少しずつ、そして少年は先を急かせることなく、ゆっくりと文字を読み進めていく。

 真上にあった日が斜めに傾ぐ頃には、すっかり意気投合した、へんちくりんなコンビが出来上がっていた。

 

「ばっかだなぁ。そんなことで臍曲げてでてきたのかよ。そりゃ責められないぜ? その絵はどう見たって未発見の芋虫だ」

 

 膝を叩いて笑う少年に、ゲン太はむきっと鼻緒を吊り上げる。

 

「でもそうやって笑ってくれるだけいいじゃないか。悪口じゃないぜ? 影でこそこそいったわけじゃないもんな」

 

 そんなことは解っている。ただ、意思を疎通できる唯一の手段である、木肌に浮かべる墨を馬鹿にされた気がしてむくれただけだ。

 

「そいつらと長い付き合いって訳じゃないみたいだし、戻るのが嫌ならオレとここに残るか? 妙だと思うだろう? どうしてこんな山奥に村があるんだってさ」

 

 そうだ、そこが疑問だった。

 

「昔はもっと山奥に村があった。異種が蔓延り始めてからは、少しだけ山の浅い場所へでてきたらしい。ずっと山にいる。理屈は解らないけれど、おまえが見えるのはこの村の風習のせいだよ。山奥で生き延びる為の知恵なんだってさ」

 

――ふうしゅう

 

「産まれた赤ん坊にすぐ、異種の種を宿らせる。獣にも襲われないし、山歩きで厄介な異種に宿られる心配もないって」

 

――ばか

 

「知らないよ。昔っからしていることだもの。宿った人間の寿命と共に芽吹く異種の種を、使うんだって」

 

 そんなことが有り得るだろうか。でもこうして少年はゲン太を見ている。話の筋は通る。

 

「だからさ、大人も最初は驚くだろうけど、すぐ仲良くなるさ。おまえは異物なんだろ?オレ達みたいな異種宿りは、異物を本能的に嫌がるって聞いていたのに平気だぞ?」

 

 それはゲン太が、その身に異種を宿しているからだろう。

 それにしても異物の存在まで知っている。その情報をこの村にもたらしたもは誰だ?

 この辺りは麓よりずっと多くの異種に溢れている。その中でも感覚を澄ませば、少年の中で宿主の命つきる日まで深い眠りについている、異種の存在がはっきりと感じられた。

 

「なあなあ、一緒にここで暮らそうぜ?」

 

 気の良い少年だった。ヤバカのように敵対することもない。地面にめり込むほど踏みつけるなど、この少年はしないだろう。

 だが……。

 

「うおっと、すっげぇ突風だ」

 

 枝をしならせ山を這い上がってきた風が、物思いに耽っていたゲン太のいる谷へと吹き降りる。

 

――なに

 

 はっとしてゲン太は耳を澄ませた。

 葉が擦れる音に混じって、馴染みのある声が聞こえた気がした。

 

「おい、何か聞こえるぞ。誰か大声で叫んでる」

 

耳を前方に向けて少年も耳を澄ませた。

 

  イリス、大丈夫か……布を巻いたまま馬鹿下駄を探そうなんて……しっかりしろ……    血がでてるじゃないか……くそ、布で押さえてろ……イリス!

 

 ゲン太は思わず後ろ歯で立ち上がった。

 どうしよう、どうしよう。

 

「おまえの連れ合いの声か? 怪我をしたのか?」

 

――けがした

 

――おんなのこ

 

 じっと考え込んだ少年は大きく息を吐いて立ち上がる。

 

「でもおまえは戻らないんだろ? あんなやつらどうでもいいから出てきたんだもんな?」

 

 ゲン太の鼻緒がふるふると揺れる。

 イリスが自分を探して怪我をした。イリスの血が止まらない。いったい何処を切ったのだろう。痛いだろうか。想像しただけで下駄の歯がぎゅっと萎む。

 

――ごめん

 

「なんだ?」

 

――たすけ もどる

 

 無表情でゲン太を見下ろしていた、少年の口元から真っ白な歯が覗く。

 

「いうと思ったぜ。どうせあいつらのことが好きなんだろ? ちょっと待ってな」

 

 いうが早いか少年は走り出し、森の中に姿を消した。今すぐにも駆け出したいゲン太には長く感じられたが、少年が姿を消していたのは僅か数分だったろう。

 森から駆けだして来た少年の手に掴まれているのは、人の握り拳ほどの大きさの布袋だった。何かがつめられて、ぱんぱんに膨れている。

 

「これを持っていけ。止血に効く薬草を練ったものと、傷口が腐らないように守ってくれる貼り薬。あとは体力を付けるための煎じ薬だ。連れの女の子に持っていけ。仲直りしたいんだろ?」

 

 少年はゲン太の鼻緒をひとつ摘み上げ、そこに布の口を縛る紐をきっちりと結わえた。

 

「これで外れない。早く行ってやれよ。死んじまったら仲直りもできなくなるそ? このひねくれ下駄め」

 

 ゲン太の木肌を撫でて少年がいう。

 

――ありがとう

 

「おうよ!」

 

 落ちてきた崖を一気に駆け上がる。崖に根を張り天に向けて伸びる木々を足がかりに飛べば、ゲン太の行く先を隔てるような崖ではなかった。

 最後に一度だけ振り向くと、谷底で少年が手を振っていた。

 二度と会うことはないかもしれない。

 だからあの笑顔を忘れない。ゲン太は、まだあどけない少年の笑顔を胸に刻んだ。

 

――イリス がんばれ

 

 自分が拗ねて家出などしなければ、イリスが怪我をすることもなかった。もっとヤバカに八つ当たりして、鬱憤を晴らしていれば良かった。

 後悔だけが、ゲン太の胸に渦巻いていた。

 起伏の激しい山道を走るゲン太の背後で、小さな袋が大きく弾む。

 突風は収まったというのに、そよ風が揺らす葉が今だヤタカの声を森に響かせる。

  

   イリス……ちゃんと押さえろ……血がち……

 

 イリスの命がかかった袋だ。下駄の歯が折れたって届けてみせる。ゲン太はがむしゃらに獣道を走り続けた。

 

 

 かすかだが、確かにイリスの血の臭いがする。血の臭いは昨夜泊まった小屋の辺りから漏れ出ていて、二人の居場所が遠く移動していないことに、ゲン太はほっと胸を撫で下ろす。流血は時間との戦いだ。

 

――がんばる

 

 ゲン太はない歯をぎりりと噛みしめる。イリスの体からどんなに血が流れ出ても、分けてやれる血をゲン太は持たない。失う血が多ければ、ほどなく呼吸が苦しくなる。

 イリスが苦しむ姿をただ眺めているなら、いっそ焚き火にくべられた方がましだった。 

――ついた

 

 ぬかるんだ最後の斜面を転げ落ちるように街道へ出て、ゲン太は小屋の戸口の隙間から体を滑り込ませた。

 

――イリス

 

 イリスが小屋の中に横たわっていた。

 隣に座るヤタカが、顔を上げてゲン太を見た。

 

――くすり

 

 疲れてよれよれの文字が木肌に浮かぶ。

 

「ゲン太、やっと帰ってきたかよ! 薬ってこの袋か?」

 

――ち とめる

 

「ほう、こりゃ珍しい。内臓にさえ届いていなけりゃ、刀傷の出血でも止められる。どこでこれを手に入れた? これを手がける者は少ない。闇で出回っても、恐ろしく高価だ」

 

――はやく

 

――イリス ぬる

 

 夢中でヤタカに薬を説明しようとしていたゲン太は、イリスの傷口を確かめようと振り向いて、驚きのあまり勢い余ってでんぐり返った。

 

「ゲン太おかえり! 心配したんだぞ?」

 

 いつもの笑顔でイリスが笑っている。

 

――けが ち いっぱい

 

 きょとんとした表情で、イリスが白い布を巻いた人差し指を差しだした。

 

「小屋の入口で転んで、棘が刺さったの。痛かったぁ~。この傷がどうかした?」

 

 イリスが無事だったことへの安心と、己のアホさ加減に下駄の歯が抜けそうに唖然としたゲン太の中に、ふつふつと湧き上がったのは怒りだった。

 

――だまされた

 

「誰に? 悪い人にでも会ったの?」

 

 事情を知らないイリスが、心配そうに眉を寄せる。

 

――あいつ わるい

 

「ヤタカが? ヤタカったら、またゲン太を虐めたの?」

 

 既に背を向けて肩を震わせていたヤタカが、耐えきれないように大声を上げ喉を反らせて笑い出す。

 

「ゲン太を早く呼び戻そうと思っただけさ。イリスだってゲン太を探そうとして怪我をしたのは本当だろ?」

 

――おおけが いった

 

 ゲン太の抗議に、ヤタカが惚けた顔で大げさに肩を竦める。

 

「誰がそんなことを? イリス大丈夫か? 血が! 血が! そう言っただけだ。大怪我だなんてひと言もいっていない。大出血だともいってない。棘が刺さってぷっくりと血の珠がでたのは本当だぜ?」

 

 ゲン太の鼻緒がぷるぷると揺れる。

 冷静になれば解ることだった。街道で叫んだ声が、幾ら大声でも山中にまで聞こえるはずがない。ヤタカが森を操ったに決まっている。

 

――こいつ きらい

 

「こらこらゲン太。ゲン太が家出して心配したのは本当だよ? ゲン太が帰ってくるまでここで待ってもいいって、ヤタカもいってくれてたよ?」

 

 ぷいっと鼻緒を背けてゲン太は拗ねた。またもやぷんぷん虫が暴れ出したが、ぎゅっと鼻緒を縮めて我慢する。

 

「ゲン太、ありがとうね」

 

 イリスの白く細い指先がゲン太をそっと抱き上げた。

 

「家出したのに、わたしの事を心配して帰ってきてくれたんでしょう? お薬も持ってきてくれた。こんなに泥だらけになって」

 

――いたい?

 

「うん、もう痛くないよ。ゲン太、もう居なくならないでね」

 

――すこし

 

――あやまる

 

 ゲン太は木肌に文字を浮かばせた。

 昨夜の雨水を溜めた桶の中で、綺麗に泥を落として貰ったゲン太は、ぷんぷん虫もすっかり収まり、いつものようにイリスの膝の辺りでころころとじゃれていた。

 もうすっかり月が昇っている。壁の隙間から見えるこの月を、あの少年も見ているだろうか。ゲン太は小さな出会いに想いを寄せる。

 

「ゲン太、心配してくれたお礼に、これをあげよう!」

 

 とくとくとゲン太の木肌に酒がかけられた。

 

「イリス、おまえどれだけ隠し持っているんだ?」

 

 呆れたようにヤタカの声がする。

 

――ひっく

 

 山を走り回ったせいだろうか。今日はあっという間に酔いが回る。

 そんなゲン太に、イリスは次の酒をふりかける。

 

「そういえば、どうしてゲン太はわたしが怪我したってわかったの?」

 

 森で聞いた、忌々しい声が蘇る。

 

――こえ した

 

「誰の?」

 

――ヤバカ こえ

 

 文字に続いて丸に点が二つ、への字に曲がった棒が一本描かれた。

 

「ふふ、これヤタカ?」

 

早々に千鳥足になったゲン太がふらふらと後退ると、こつりと当たるものがあった。

酒の回った目で見あげると、口元をひん曲げたヤタカが、腰に手をあて見下ろしていた。

 

「へぇ、良いことを知った」

 

 ヤタカの足が一歩前に踏み出され、ゲン太は千鳥足でよろよろと、身を守るように後退る。

 

「おまえ、心の中では俺の事をそんな風に呼んでいたのか? そういえば昨日は雨で水浴びをしていなかったな……」

 

 ヤタカがおもむろに履き物を脱ぎ捨てる。

 

――ぎくり

 

「かわいくびっくりしても、俺には通用しないぞ? ヤバカだと? しかも俺をあんな下手くそに描くとは! このクソ下駄!」

 

 酔っ払いの下駄にまともな逃げ道があるはずもない。

 鼻緒にヤタカの足の指が強引にめりこんだ。

 遠退く意識の中、少年の足の臭いが霞んでいく。

 

――しぬる 

 

「あん? なんだと!」

 

 巫山戯たイリスが、下駄を履いたままのヤタカの足の上にちょろちょろと酒をかけ回す。色んなものの染みいった酒が、ゲン太の木肌に滲みていく。

  

――げろげろ

 

 ミミズの這ったような文字が浮かんだ。

 日に三度も意識を手放したゲン太は、翌朝になっても酔いが覚めることはなかった。

 イリスに紐で括られて街道を引き摺られる音が、からりころりと街道脇の森に響き渡っていた。

 

 

 

 




 読んで下さったみなさん、見に来て下さったみなさんありがとうございます。
 今回は、旅を続けていたらこんな日もあるよね……ていう一日のお話でした。
 章分けしていないので差し込みずらいのですが、またいつかこの手の話をぽんと入れられたらな……とか思っています。
 思うだけならただです(笑)
 では!


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19 御山の欠片

 もう少しで伊吹山だと思ってからすでに三度も日が沈み、四度目の日が高く昇っていた。

 

「伊吹山はまだですかぁ? 迷子ちゃ~ん?」

 

 顔を背けてヤタカはチッと舌を鳴らす。いっこうに辿り着かない伊吹山への道程に飽きてきたのか、イリスは朝からしつこく迷子ちゃん、を繰り返していた。

 二日酔いどころか三日酔いに突入したゲン太は、それでも今朝から鼻緒を垂れつつ一人でよろよろ歩いている。

 

「すみません、すっかりさっぱり分かりません。こっちの方なんですがねぇ。たぶん……慈庭が適当なことをいったんでしょう……きっと」

 

 棒読みで答えたヤタカの後頭部に、イリスの小さなゲンコツが思い切り当てられた。

 

「いってぇ! 何で当たるんだよ! 布に穴でも開けたのか?」

 

 後頭部を擦りながらいうヤタカの後ろで、イリスがふん、と鼻を鳴らす。

 

「おつむがカラカラ鳴る音がしたもんね! 慈庭は嘘なんかいわない! 人を救う為意外に嘘なんか吐かないもん!」

 

 そんなのヤタカだって解っている。ごめんごめん、と軽く受け流し、ヤタカは旅の先へと足を進めた。

 イリスのいうとおり、滅多なことで慈庭は嘘など吐かない。

 

――ましてや

 

 あれだけ頭に叩き込めといって、耳にたこができるほどヤタカに言い聞かせた伊吹山だ。その存在を偽る必要があったとしても、場所を偽る理由がない。ヤタカが辿り着けなければ、嘘も真もないに等しい。

 

『ヤタカ、瞼を閉じる間だけでも、良い夢を……楽しい時をすごせよ』

 

 そう囁いて横を向いて眠るヤタカの頭をそっと撫でる慈庭の手は、大きくて硬くて温かかった。昼間には決して聞くことのない慈庭の優しい声色に、狸寝入りのヤタカが耳を澄ましていたと、慈庭は気付いていただろうか。

 気付きながらも、やさしく頭を撫でてくれていたのだろうか。

 

「誰か! 誰か助けてくれ!」

 

 街道の先から響いた男のだみ声に、自分の内へと沈みかけていたヤタカは一気に現実に引き戻された。

 宿さえ開いていないような小さな村の前に、小山の人だかりができていた。

 

――異種か?

 

 男の声を耳にして不安になったのか、イリスがヤタカの腕を掴み、顔を傾げて耳を澄している。

 とことこと寄ってきたゲン太が、酔いの覚めきらぬくねくねと曲がった文字で、木肌に文字を浮かばせた。

 

――いしゅ ちがう

 

「そうか、異種じゃないなら、役には立てそうもないな」

 

 あれだけ人が集まれば、力仕事も間に合うだろう。病人だとして、ただの病気ならヤタカにはどうにもできないモノの方が多い。ましてや手持ちの薬草が底をついている今、知識があっても、急な手当はしてやれそうになかった。

 イリスの手を引いて人だかりに近づいたが、見えるのは中を覗こうと上下する人々の後頭部だけで、何が起きているのかさっぱり見ることはできない。

 あまり近付いて人の波にイリスが巻き込まれることを警戒したヤタカが、その場を離れそうとしたときだった。

 

「どいて!」

 

 声に振り向くと強引に人垣を分けて中へ入っていく、黒く長い髪が靡いているのが見えた。

 通りがかりの野草師かゴテ師だろうか。そんなことを思いながら、ヤタカはイリスを促して歩き始めた。

 

「水と布を!」

 

 中から女の声が飛ぶ。

 

「おう!」

 

 ざわざわと人々が動き、細く道が出来上がる。若い男が駆けだして来た後、残された道から中の様子が伺えた。まだ若い男だった。

 

「なんかよ、伐採する木の枝を落としていたとき、てっぺんから落ちたんだとよ」

 

「くわばら、くわばら」

 

 荷を背負った旅人が肩を竦めて囁き合う。

 

――ありゃひどいな。枝の切り口にでも刺さったか

 

 俯せにされた男の太ももはざっくりと裂け、どくどくと血が溢れていた。

 

「いこうイリス。ここに居ても何もできない」

 

「ひどい怪我なの?」

 

「ああ。見ない方がいいよ。手持ちの薬草があったとしても、ありゃ無理だ。何らかの医術を持つ者にしか助けられない。心配するな、駆けつけた女性が指示をだしている。心得のある者だろうから」

 

 あの傷を縫ったとして、簡単に血が止まるとは思えない。まして砂埃の舞う路上では、生き残った所で感染症が命を奪う。

 桶に入れた水と布を抱えて戻ってきたのは若い女性だった。取りにいった男が慌てて後を追ってくる。

 

「けんちゃん!」

 

 叫んだ若い女性の腹部は、ゆるい衣服の受けからでも分かるほど膨らんでいた。

 

「身重か……」

 

 腕を掴むイリスの手に力が籠もる。離れようと踏み出していた、ヤタカの足も止まった。

 

「誰か、血止めに効く薬をもっていないの!」

 

 傷口を布で押さえる女の声が張り上げられる。

 

「あるが量が足りねえよ。切り傷三回分っだから、大豆くらいの量しかない」

 

 声は上がったが、旅をする者が余計な薬を持ち運び荷を増やすはずもない。それぞれに持っている量はごく僅か。薬効も手足の切り傷に効く程度だろう。

 

 ついて来ようとしたイリスの肩を押し留め、ヤタカは人垣を分けて倒れた男の脇に立った。男の脇に膝を着き見あげた女の手は、布を染めた血で赤く染まっていた。

 

「あんた、医術の心得があるのかい?」

 

「えぇ、少しは」

 

「なら説明はいらないな。これを使うといい。もらい物だから、気兼ねなく使ってくれ」

 

 袋から出した薬を一式渡すと鼻を近づけて臭いを嗅ぎ、驚いたように女は目を見開いた。 何か言いかけた女に、ヤタカは何もいうなと口を窄めてみせる。

 頷いた女が、素早く動き始めた。布に巻かれた縫合用の道具一式が広げられる。

 

――少し? それにしちゃずいぶんと手際がいいもんだ。

 

 野次馬の視線を受け流し、ヤタカはイリスの手を引いてその場を離れた。

 あの薬を他人に見せる気などなかった。知る者が見たなら、自分達の寝首を掻いてでも奪おうとするだろう。小袋の中にはゲン太が少年から貰ったという薬が、まだ半分残っている。

 

「ゲン太、勝手に使ったけれど、いいよな? 産まれてくる赤ん坊から、父親を奪いたくなかったんだ」

 

――いいよ

 

「ん? でもなんだ?」

 

――きを つける

 

 ゲン太も、薬が余計な者の目に触れたことを危惧しているのだろう。

 

「あぁ。この件は俺の責任だ。しばらくは用心するよ」

 

 赤の他人を助けるために、イリス達を危険な目に合わすわけにはいかない。だから目を瞑って通りすぎようとした。

 

――身籠もっている女性さえ目しなければ、余計なことは……

 

 慈庭ならどうしただろうと思う。寺の皆が危険に晒されるリスクを負ってまで、たった一人を助けるだろうか。それは人として正しいが、人を束ね率いる者としては無責任が過ぎる。慈庭なら……亡くなった者から答えは届かない。ヤタカはわしゃわしゃと頭を掻いた。

 

「慈庭なら、見捨てたと思うよ」

 

 まるで心の声が聞こえていたかのように、ぽつりとイリスがいう。

 

「みんなを守るために誰かを見捨てて、ずっと一人で苦しんだと思う。鬼みたいに厳しい顔はね、慈庭の優しすぎる内面を隠すためのものだから」

 

 すたすたとイリスが先をいく。道を擦る杖には、何の迷いも感じられなかった。

 

「そうか、そうだよな」

 

 でもね、立ち止まってイリスが振り向いた。

 

「ヤタカにはヤタカのやり方がある。ヤタカだけが危険な目に合うんじゃないなら、わたしはいつだって、ヤタカの意見に一票だよ?」

 

 おやつのこと以外はね! そう付け足してにっこり笑い踵を返したイリスの背に、ヤタカは苦笑するしかなかった。

 素知らぬ顔でイリスの横を行くゲン太も、わざとらしくからんころんと大股で歩いている。ゲン太なりに、気にするなといっているのだろう。

 

「はぁ、なるようになるさ。よし、今日は行けるところまで歩くぞ!」

 

「どこへ?」

 

「伊吹山のありそうな方だ!」

 

――いいかげん

 

 勝ち誇ったゲン太の木肌に浮かんだ文字を無視して、ヤタカはのしのしと歩いた。

 妙な気配は感じられない。このまま何事もなく過ぎればと、心から願った。

 

 

 

「イリス、この小屋に泊まろう」

 

 薬を渡した小屋から十分に離れたとは言い難いが、足で追ってくる者がいても見つけづらいだろう。何しろこの辺りは、大小の小屋がやたらと点在している。

 行き交う人々に、怪しい者は見受けられない。

 先客のいない大きな小屋に入り、一息吐いて荷物を下ろす。

 

「ごはんは?」

 

「あ……」

 

 周囲に気を配りすぎるあまり、すっかり夕飯のことを忘れていたヤタカは、手荷物を探りあちゃ、と舌を出す。

 

「イリス、お菓子の隠し財産とか……ない?」

 

「ない!」

 

 日が暮れれば灯りで屋台の場所が分かる。今日に限ってはイリス達だけを残して買い出しに行くわけにもいかず、運良く近くに夜通し客を待つ屋台でもでてやしないかと、ヤタカは小屋から出て街道の先を見渡した。

 

「屋台の灯りどころか、星もでていない」

 

 ヤタカ一人なら食わなくても一晩くらい我慢できる。問題は、腹の虫を盛大にならしていたイリスだ。

 

「まいったな」

 

 腰に手を当て、ヤタカが肩で息を吐くのと同時だった。

 

「居たいた。もう見つけられないかと思ったよ」

 

 背後から女の声がして、叩かれた肩にヤタカは飛び退いた。

 

「あたしだよ? 昼間会っただろう? 礼もいわせずにいなくなったから探したよ」

 

「あんた、あのときの」

 

 男を手当てしていた女が立っていた。声を張り上げていなければ、見た目の若さにそぐわず落ち着いた声色の女だった。

 

「男は助かったかい?」

 

「あぁ、命は繋いだ。若いからね、あの煎じ薬で体力も戻るだろうさ。感染症も、おそらくは心配ない」

 

「だからといって、あんたが礼をいうような筋合いの話でもないだろう?」

 

「まあね。でも、ありがとう。人前に晒したくなかっただろ? あの薬」

 

 やはり薬の価値を知っていたか。ヤタカは腹を据えて女を見た。

 

「薬のことは忘れてくれ。他言無用だ」

 

 頷くでもなく、女はうっすらと笑みを浮かべた。

 

「誰かいるの?」

 

 小屋からひょっこり顔を出したのはイリスだった。

 

「おや、この小屋に泊まるんだね。あたしもご一緒していいかい?」

 

 答えられずにヤタカが黙りを決めていると、静まりかえった街道にぐるる、とイリスの腹の虫の泣き声が響き渡った。

 口元に手を当てると、さっきとは別人のように柔らかく人好きのする笑顔をうかべ、女は腕に下げた大きな巾着をぶらぶらしてみせた。

 

「あたしもお腹が空いたわ。今日のお礼にご馳走するけれど、入ってもいいかしら?」

 

 あっ、と小さく声を上げたヤタカが止める間もなかった。

 

「うわっ、お姉さんいい人ね。美人だし、どうぞどうぞ!」

 

 額を押さえるヤタカを尻目に、くすくすと笑って女は小屋へと入っていった。

 

「来る途中に買い過ぎちゃったのよ。食べて貰えると助かるわ」

 

 握り飯に串焼きの川魚、饅頭に芋の串焼き。小屋で食べるには贅沢な品が並んでいく。

 

「さあ、どうぞ召し上がれ」

 

 おまえの意見など求めていないと言わんばかりに、ちらりとだけヤタカを見た女は、イリスと一緒に饅頭を口に入れ、美味しい、といって笑った。

 

「ヤタカも食べなよ、無くなっちゃうよ?」

 

「いや、俺はいい。腹の調子が悪いんだ」

 

 自分の当たり分が増えたとほくそ笑むイリスが、空の手にすかさず芋の串を握った。

 

「ふふ、毒なんか仕込んじゃいないよ? 明日の朝になれば分かるさ」

 

 心中を見透かした女の言葉に、苦虫を噛んだようにヤタカは顔を顰めた。

 医術を持つ者は薬草の知識を持つ。薬に詳しいということは、毒にも同じだけの知識を持つということ。混ぜ合わせる知識を持つ医術者なら、ある意味ヤタカの上をいく。

 

 寝静まった小屋の中、イリスの脈と呼吸を確認したヤタカは、例の薬が入った巾着を懐に入れ一人夜の街道へ出た。

 

「まただ」

 

 月のない闇夜に包まれた森に、色づいた小さな光りの玉が飛び交っている。

 気のせいか、最初に見た頃より光りの玉が数を増しているように思えた。

 

「おまえら、何なんだよ」

 

 見つめていると意識を手放しそうになる。表層意識から消えた過去から伸びた腕に、引き摺り込まれそうになる。

 見つめていた目を閉じて、ヤタカは大きく頭を振った。

 

「何がどうしたの?」

 

 いつの間にでてきたのだろう。ヤタカは自分の不覚に舌を打つ。

 灯りを入れた提灯を手に、女が横に立っていた。

 

「何がって? あんたがどうして俺達を追ってきたのか考えていたのさ。あの飯だって、多く買いすぎたわけじゃないだろう? 話のきっかけにしたかっただけだ」

 

「ふふ、鋭いのね。生きていると辛いでしょう? 周りが見えすぎるのって」

 

 言葉の示す意味が違うのは解っている。解っているのに、森の光りが見えているのかと、まじまじと女の顔を見てしまった。

 

「あの娘さん、昼間は布で目を覆っていただろう? てっきり目を病んでいるのかと思ったが、違うらしいね。訳は……言いたく無さそうだねぇ」

 

「あんたこそ何者だ? あれだけの手術道具を持ち歩きながら、薬草ひとつ持っちゃいない。行き倒れの医術者の荷物でも漁ったか?」

 

 あたしがそんな女に見えるのかい、といって女はくつくつと笑う。

 

「今の世の中、医術だけじゃ人は救えない。時代が変わったのさ。もう二度と人を看ることなんてないと思っていた」

 

 野草師やゴテ師に、とって替わられたとでも言いたいのか。

 

「なら、なぜあの男を助けた?」

 

「まだ生業が染みついているらしい。考えもなく、駆け寄ってしまった」

 

 女の横顔が灯りに揺れる。橙に染まった黒髪を、ヤタカは美しいと思った。

 

「あんたらを追ったのも衝動さ。あの薬、そう簡単に手に入るものじゃない。今じゃね、何処の誰が手がけているのかもわからない。幻の薬さ。まるで世から絶やさないようにしているみたいにさ、ぽつりぽつりと姿を見せる。誰が最初に持ち込んだのか、どんなに辿っても見えてこないんだ」

 

「医術者のこだわりか?」

 

「医術を捨てようとしたあたしに、こだわりなんてないよ。あの薬はただ一人、父がつくっていたんだ。あたしの父がね」

 

 ヤタカは目を見開いた。幻と呼ばれる薬をつくりだしたのが女の父親なら、相当な腕と人には知り得ない知識を持っていたはずだ。その娘だというなら、あるいは彼女も。

 

「あの薬、どこで手に入れたのか、教えちゃもらえないかねぇ」

 

 迷惑はかけないからさ、そういった女の声は静かなものだった。

 

「悪いがそれだけは俺一人で決められることじゃない。というより、俺に決定権はないんだ」

 

「あの娘さんかい?」

 

 いいや、とヤタカは首を振る。

 

「別の野郎だよ」

 

「そうかい。聞くだけ聞いてみてくれると、ありがたいんだがねぇ」

 

 女が月さえない夜空を見あげる。

 この世のほとんどを、諦めた女の横顔だとヤタカは思った。

 

「そろそろ、中に入ろうか」

 

 ふっと息を吐いたヤタカは、はっとして目をしばたいた。

 提灯の中で揺れる灯りを女が吹き消した後に産まれた闇と、女の影が混ざり合う。

 森からははぐれたように、雪の結晶みたいに小さな光りの粒が、ふわりふわりと女の周りを舞っていた。

 

「なぁ、あんた。本当に、ただの人なのかい?」

 

 思わず口を突いて出た。

 

「変わり者だが、どう見ても人の女だろうに?」

 

 くすくすと女の声が闇夜に響く。その声音に触れたかのように、光りがふらふらと飛び筋を変えていく。

 

「あんたの周りに光りが舞っている。見えないのか?」

 

 えっ? 小さな声の後に沈黙が続いた。

 

「おやおや、余計なことをいうから、目を懲らしちまったじゃないか。待ち人を迎えに来たんだろうさ。伊吹山から漏れ出た、御山の欠片さ」

 

「どうしてそんな事を知っている? もしかして、伊吹山の正確な場所も知っているのか?」

 

「これが見えるってことは、あんたも唯の兄さんじゃなさそうだ。御山が呼んでいるのは、兄さんのことかもしれないねぇ」

 

 ヤタカの中で心臓が跳ね上がる。この女の正体を疑う余裕は、すっかり夜の闇に呑まれてなりを潜めていた。

 

「ここ最近、森の中に無数に光りが浮かぶことがある。それを目にすると、意識が現実から解離しそうになる。正確には、過去へ引き摺られそうになる。記憶にない光りを、懐かしいと感じたんだ」

 

 へぇ、女が息を漏らす。

 

「覚えていなくても、御山にいったことがあるのだと思うよ。もしくは、御山と縁のある者の濃い血縁か……。伊吹山がどんな理由で存在しているか、知っているのだろう?」

 

「あぁ、教え込まれたことが事実なら」

 

 そうかい、ヤタカの言葉を女は一度も疑おうとしなかった。

 地図を頼りに歩いてきたが、いっこうに辿り着けないのだと、ヤタカは女に話して聞かせた。地図を渡した者は、意味もなく嘘を吐くような者ではないのだと。

 

「受け取った地図は嘘ではないだろうよ。ただ、その者にとっての真が、兄さんにとっても真であるとは限らない」

 

「どういうことだ?」

 

「あの御山はあの峰の向こうにもあり、ここにもある。求める者によって、ある場所も在り方も変えるのが伊吹山。だからね……あたしが道案内してやることはできないよ。あたしが辿り着ける伊吹山は、兄さんが求める姿ではないだろうから」

 

 黙り込むしかなかった。何を聞けばよいのかさえ思い浮かばない。

 

「うぅ、冷えてきたねぇ。小屋に戻ろうよ。あの娘、風邪を引きそうに腹をだしてねむっていたよ?」

 

 くすくすと笑って、女が小屋へ戻っていく。ヤタカが小屋へ入ると、細く小さな蝋燭にが灯されて、煤けた小屋の壁をちらちらと照らしていた。

 

「兄さんもどうだい? あたしはちっさな蝋燭の灯が消えるまで、ゆっくり寝酒でも飲ませて貰うよ」

 

 ヤタカがやんわり断ると、用心深いねぇ、そういって女は淡く微笑んだ。

 

「おや、これはまたかわいらしいこと」

 

 偵察するように女の周りを彷徨いてたゲン太が、びくりと鼻緒を跳ね上げた。

 

「あんた、ゲン太が見えるのか?」

 

 竹筒から酒を口に含み、女はゆっくりと首を横に振る。

 

「目を凝らさなけりゃ見えないよ。昼間は気づきもしなかった。酒の力も、あるかもしれないねぇ」

 

 目を閉じて女は静かに酒を呑む。

 

「俺はもう寝る。あんたを信じ切ったわけじゃないが、信じてみようとは思う」

 

 そうかい、目を閉じたまま女の口元に柔らかな笑みが浮かぶ。

 

「あたしが言うのもなんだが、道中人を簡単に信じていたら、命が幾つあっても足りやしないよ?」

 

 本当に、変わり者の女だと思った

 

「好きなだけそうしていて構わないが、ゲン太に酒をやらないでくれよ。その馬鹿下駄、やっと三日酔いから復活したばかりなんだ」

 

 むきっと鼻緒を立てたゲン太を、うっすらと開いた瞼の隙間から見て女がくすりと笑う。

 

「わかったよ、酒はやらない。襲いもしないし、盗みもしない。ゆっくり眠っておくれ」

 

 横になったまま、ヤタカは眠らずに息を潜めていた。

 蝋燭の灯りが早々に消えても、女が凭れた壁から動く気配はなかった。

 

 雲が晴れて、小窓から月明かりが差し込む。

 女が囁くように小さな声で、古くさい童謡を口ずさむ。

 

――あぁ、まただ

 

 聞き覚えのない歌が、ヤタカの内へと染みていく。静かに眠っている記憶の奥底を、女の声がゆっくりと掻き混ぜる感触に、ヤタカはぎちりと目を閉じた。

 

 

 

 




 読んで下さった皆さん、のぞいて下さった皆さん、ありがとうございます!
 
 次話もお付き合いいただけますように(^-^)


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20 震える鼻緒

 目覚めたときヤタカの手の中には、小さく柔らかな感触が残っていた。小さな子供の手だろうか。だがまだ残る温かさを追って握りしめたヤタカの手は、何も無い空を包んだだけだった。

 ついさっきまで夢の中で見ていた景色が思い出せない。

 小さな手がヤタカを引いて走っていた、そんな温もりだけが尾を引く。

 手の持ち主の、空にも届きそうに楽しげな笑い声が耳の奥に残っていた。

 

「娘さんは、日も昇らないというのに水浴びにいったよ」

 

 女の声にヤタカは跳ね起きた。

 

「心配はいらないよ。下駄の坊やがついていったし、この辺りの森は伊吹山の気配が色濃い場所だからね。あの子一人なら、森が守ってくれるさ」

 

「適当だな。あんた以外にも、薬の価値に気付いた者がいたかもしれないっていうのに」

 

 外の様子を見に行こうと立ち上がったヤタカを、戸口の横に腰を下ろしていた女の足がすっと上げられ行く手を塞ぐ。

 折れそうに細い足首に続く白い脹ら脛が、蝋燭の灯りにちらちらと揺れる。

 

「過保護だねぇ。まぁ、水浴びを覗いて半殺しにされたいんなら、止めないけどさ」

 

 何かありゃ下駄の坊やが飛んでくるさ、そういうと女は足を下ろして目を瞑った。

 

「あんた、自分があの娘を守っているつもりだろうが、案外そうではないのかもしれないよ?」

 

「どういうことだ?」

 

「あんたを守っているが、あの娘かもしれないってことさ」

 

 感覚でものをいうところがイリスに似ている。話が飛躍し過ぎて答えようがない。

 

「ひょろひょろのイリスに守られるようになったら、俺も終わりだな。そんなことより、あんた名前は? 俺はヤタカ。あの子はイリス。ゲン太は……どうでもいいや」

 

「あたしの名はわたる。男みたいな名だろう? 名付けは父親だけれど、まるで女心をわかっちゃいない。この名前といい余計なもんばっか押しつけて、自分ひとりさっさと楽になりやがって。自害とはいえ結局は母様もあっちに連れて行ったのだから、今ごろはあの世でゆっくり、二人で夫婦の時間を取り戻しているだろうねぇ」

 

 わたるの言葉の端々には、父親への尊敬の念と恨み言にも似た色が、ない交ぜになって浮かんでいるように思えて、軽口を叩こうとしたヤタカの口は閉じられた。

 

「あんたさ……」

 

「わたるでいいよ」

 

「わたる、父親はどこで医術を施していたんだ? 死ぬまで細々と個人で患者を診ていたわけではないだろう?」

 

「どこに属していたのか、詳しいことは解らない。もしかしたら、あの時燃えた膨大な資料と一緒に灰になったのかもしれないねぇ」

 

「火事でもあったか? まさか火付け?」

 

「帰るはずの父様が帰らなかった。膨大な資料を残して、そのまま逝っちゃってね。母様は何か知っていたのだろう。幼いわたしの手を引いて家を出るとき、父様の資料に火を放った。乾き切った木造の古い建物など、あっという間に炭になる」

 

 眠る子に昔話を聞かせるような、柔らかく落ち着いた声が小屋に流れる。

 

「母親は今どこに?」

 

「ある村にあたしを残して、ひとり自害した。残された文には顔の知れた自分と共に居ては、危険なのだと。幼いおまえなら、大人になれば顔も変わる。それまで息を吸う音さえ立てぬよう、ひっそりと生き抜きなさいと、幼い子供からすれば意味の解らない無責任な文字だけが残されていたよ」

 

 今なら解ってあげられる、母様が恋しいと想うくらいには……そういって、わたるは口元の笑みを隠す様に髪をさらりと指でかきおろす。

 ヤタカはわたるから少し離れた場所に腰を下ろし、正面を少しずらして向かい合った。

 

「その村で育てられたのか? 医術はどこで身に付けた?」

 

「母様は偶然あの村に置いていったわけではないと思う。医術師、ゴテ師、野草師、それも表だって名を売らない者ばかりが住んでいた。あたしはひとりの爺様の孫として育てられた。偏屈者だったが、腕は確かな医術師だった。もともとね、物心ついた頃から医術の知識、基礎は昔話の代わりに教えられていたから。父様には内緒だったのだと思う。母様はあたしの小さな頭に、詰められるだけの知識を、技術を詰め込もうとした」

 

 嫌なことを思い出したように、わたるの口元から笑みが消えて行く。

 

「叩き込まれた基礎を、使えるまで引き上げたのは育ててくれた爺様だった」

 

「腕があるのに、どうして医術を捨てようとする?」

 

 ふふ、とわたるは落とすように笑う

 

「あの娘……イリス、だったね。あの子が巻く布の理由を、ヤタカが語りたがらないのと同じ。あたしにも、言いたくないことはある。言いたくないんじゃない……まだ決めかねているのさ。父様の意思を継ぐか、母様の想いに答えるか、それとも己の道をぼんやりと平和に生きていくか、決められないだけ」

 

「そうか」

 

 それ以上聞こうとは思わなかった。

 聞いたところで、何もしてやれはしない。話したければ自分で話す女だろう。その時には、イリスの飯の礼に話くらいは聞いても良い。

 

「父様が亡くなって十数年経つが、あの薬、そんな昔につくられたものじゃない。乾燥させて日持ちはするが、薬効と共に薬草本来が放つ臭いも目減りする。あれは作られてから一月とたっちゃいないよ」

 

 必死に袋を引き摺って帰ってきた、ゲン太の姿を思い出す。

 

「親爺さんが、まだ生きている可能性は?」

 

「ないねぇ。万が一にも生きていたら、この手で殺してやるよ。妻を自害させ、娘を先の見えない人の世の荒れ地に放り出す嵌めに陥れて、どういうつもりか聞いてやる」

 

 言葉ほどに恨みを感じる声色ではなかった。殺してやるという細々とした声が、ヤタカにはわたるが父様、と縋る声に聞こえた。

 

「ヤタカが伊吹山に行っている間、イリスと下駄の坊やはどうするつもりだい? まさか何日で出てこられるかも解らないなか、山裾に放り出しておく気じゃないだろう?」

 

 そんなことまで考えていなかったヤタカは、しまったというようにあう、と小さく呻く。

 

「あたしが一緒にいてやろうか? 薬の借りがあるから今回だけは、あたしを信じてくれて構わない」

 

「まだ信じたとはいっていないが?」

 

「それでいい。あたし達みたいに業を背負った人間は、人なんて信じていたら、幾つ命があっても足りやしない」

 

「同じ口で信じろといったのか?」

 

「今回だけはね。一度別れて会った時は、同じ出会いは繰り返せないかも知れないだろ? 自分の行く先さえ迷っている女を、信用するなんて馬鹿な真似はしないどくれ」

 

「いわれなくても、な」

 

 落ち着いた話し声に似合わない、ころころと鈴が風に揺れたように涼しげな声でわたるは笑う。

 

「まぁ、娘さんの面倒を見る必要がないと分かったら、早々に退散するさ」

 

「そうしてくれ」

 

 まだ日が昇らない街道で、からんころんと下駄の鳴る音がする。音が止まると同時に戸が開けられ、夜中に冷え切った外の水で頬を赤く染めたイリスが入ってきた。

 

「さっぱりした。お姉さんも浴びてきたら? 助べぇはわたしが見張っておくから心配しないで、ね?」

 

 濡れた髪で微笑むイリスに、わたるも笑顔を返す。

 

「そうさせて貰うよ。あたしのことは、わたると呼んでおくれ。娘さんのことは、イリスでいいかい?」

 

「うん、いいよ。じゃあ、わたる姉って呼ぶ」

 

 その言葉にわたるが気恥ずかしそうに目を細めた顔から、ヤタカはそっと視線を外した。 本来敵か味方なのかはわからない。だが、性根の悪い女ではないのだろう、そう思った。 

 朝日が山の縁に青白く顔を出しはじめた頃、ヤタカは小さな泉に身を浸していた。女性二人に尻を蹴り出され、嫌々ながら水浴びに来ざる得なくなった。イリスだけでも厄介なのにわたるが加わって、脅威を感じる大砲が二台になった。わたるについてはゲン太が騒がない所を見ると、本人の言葉どおり今は信じて良いのだろう。

 

「ヘクション」

 

 いい加減冷え切った体をさすって、泉から上がろうとしたときだった。

 

「あっ」

 

 後ろから軽く蹴られたように、かくりと膝が折れ曲がった。

 さして深い泉ではない。両腕を伸ばせば、指先が地面に触れるほどに小さい。だが膝を完全に折り曲げた正座の状態で入れるほど、浅い泉ではなかった。

 目一杯首を上に向けても、ヤタカの両耳は完全に水に浸っていた。

 

――力が入らない

 

 ヤタカは水が嫌いだ。体内に居座る水の器が、本来の居場所を求めるように共鳴しているのか、水に体を浸すと全身の細胞が疼く。

 だが今回は、そんな理由では言い尽くせない感覚に襲われていた。

 体が粒子となって分解されていく――痛みを伴わない拷問に近い。

 水との逆目の感覚を失いかけた腰回りと肩に、這って巻き付くものがあった。

 

――まずい

 

 咄嗟に大きく息を吸い込み肺を空気で満たす。

 自由を奪われた体に巻き付いた力が、ヤタカの体をゆっくりと回転させながら水中へと引き摺り込む。

 ごぼごぼと水が入る音が、耳の中で低く木霊した。

 

――なんだ、これは

 

 泉の水底で、小さな葉を付けて植物が芽吹いていく。

 人が知る自然の摂理など無視して命を得た小さな植物は、競うように薄緑色の小花を咲かせ、水底の揺れに身を任せてゆらゆらと薄い花びらを泳がせる。

 ヤタカの体にぐるりと巻き付いているのは、水を囲う土と小石の隙間から伸びた細い木の根のようなものだった。その根が、役目を終えたといわんばかりにするすると解け、土と小石の向こうへ帰っていく。

 体の自由が戻らないヤタカは、肺の空気をごぼりとひとつ吐き出した。

 

――どうする、長くは息が持たない

 

 その時だった。登りかけた朝日を雲が隠したのか、水中が薄暗く陰り、水底で揺れる小花がそろって激しく花を振りだした。幼い子らが巫山戯て頭を振っているように無邪気な光景に、ヤタカは一瞬己の肺に残る空気のことさえ忘れかけた。

 

――花粉?

 

 薄緑色の小花の中心から、黄色い粒が薄い煙状になって浮上する。

 水の器が求めたのか、ヤタカが欲したのかはわからない。花粉と思える黄色い物に心惹かれた途端、右腕の自由が戻った。

 感じ始めていた息苦しさも忘れて、ヤタカは真っ直ぐに手を伸ばす。指先が触れると、黄色い花粉は線香花火のように細く細かい光りを散らした。

 体の中でむずがっていた水の器が、ぴたりと動きを止めた。

 母の胸に抱かれて泣き止む赤ん坊みたいに、凪いだ水の器が抱く想いに、ヤタカの心が同調する。

 

 イリスのこともゲン太のことも、何も思い浮かばなかった。

 唯ひたすらに指先で弾ける光りの花火に心惹かれて、無意識に大切な肺の空気がごぼりごぼりと漏れ出て水面へ浮かんでいく。

 

――あぁ、あれに触れたい

 

 花粉を水中で飛ばしていた、花の中心にある柱頭が一斉に伸びて、自ら蠢く水の動きに揺らされながら、ヤタカの方へと伸び集まってくる。

 花粉をほとんど放出し尽くして、てらてらと薄緑に光る柱頭は、ヤタカの指先を通り越し腕に首にぴたりと張りついた。

 目減りした空気の残量を思い出したかのように、急に肺が呼吸しようと息苦しさと共に暴れ出す。

 

――だめだ、行くな

 

 水の器がヤタカという宿主から抜け出そうと、激しく震動した。揺さぶられた肺が、思わず水を吸い込みそうになる。

 自分が守るべき存在が一気に意識の表層に浮かび上がり、ヤタカは歯を食いしばった。

 

――今は駄目だ! 俺が死ねば、イリスを守る者がいなくなる

 

 ヤタカの感情を知ってか知らずか、水の器が一瞬動きを止めた。

 水の器が抜け出たとき、自分は命を落とす。

 何の確証もないが、ヤタカがずっと感じてきたこと。それは異物憑きの本能かもしれない。

 イリスの顔が表情を変えて浮かんでは消える。

 

――動け!

 

 水底で無数に咲き続ける小花からは、絶えることなく柱頭が伸びてきて、次々とヤタカの体に吸い付いていった。

 

――そういうことか

 

 宿主が命を失えば、水の器は自由になるのだろう。この泉を通して接触してきた何者かは、水の器が自由になることを望んでいる。もしくは、欲しがっている。

 だが、ヤタカの体の中で水の器は躊躇していた。

 開きかけた出口の先へ行こうとする衝動と、違う思いが拮抗しているかのように、細かくふるふると震えていた。

 

――ゲン太、イリスを

 

 肺に残った最後の息が、ごぼりと口の端から吐き出される。

 

――限界だな

 

 ヤタカの意思に反して、胸一杯に肺が水を吸い込もうとした寸前、水面を突き破って侵入したものに水柱が上がり、水中には視界を塞ぐほどの空気の泡が湧いた。

 

――枝? 違う蔦だ! 

 

 勢いと共に水中にねじ込まれた空気の泡が数を減らすと、十本以上の細い蔦が水底に突き刺さっているのが見えた。

 ヤタカに張りついていた柱頭が、剥がれ落ちて水の中をくたりと頭を垂れて落ちていく。

 水底では春を誇るように色鮮やかに葉を茂らせていた小花達が、日照りに遭ったように茶色く色褪せばらばらと枯れていく。

 怒ったように大地が揺れて、小さな泉の水が跳ね上がる。

 俯せに丸まって水面に浮かぶヤタカの背後から伸びた手が、乱暴に襟の前を掴んで引き上げた。ちくりと首筋に痛みが走り、視界が一気にぼやけていく。

 頬が空気に触れたのを感じて、一気に肺が呼吸を貪る。

 

「誰だ!」

 

 呑み込んだ水に咽せながら、ぼやけた視界の中ヤタカを見下ろす人影に目を懲らす。

 いつの間にやら朝日が辺りを照らし出していた。森の緑と得体の知れない人影が、水に落とした絵の具のように入り交じる。

 滲んだ黒い影が小さく遠ざかる。

 イリス達がいる小屋とは反対の方角へ消えて行ったことだけが、ヤタカに僅かな安堵をもたらした。

 

「服を脱いだのはどの辺りだ?」

 

 素っ裸で小屋に戻るわけにもいかないだろう。かといってぼやけた視界がいつ戻るか見当もつかなかった。

 

「毒か? 毒だろうな」

 

 視力を奪う毒草の名が、ヤタカの頭を駆け巡る。だが僅かな痛みと視界のぼやけ具合は、どの毒草とも僅かな違いがあって、これだという答えは見つけ出せなかった。

 

 からん ころん

 

 のんびりとした下駄の音が近づいて来る。

 

「ゲン太? ゲン太なのか?」

 

 裸で蹲るヤタカを見つけて、下駄の足音がからからと慌てふためく。

 

「どこぞの誰かに毒を入れられた。下駄を鳴らして、服のある場所を教えてくれないか」

 

 直ぐ近くの右後方で、からこん、からこんと下駄が鳴った。

 

「わるいな」

 

 濡れた体を拭くことなくヤタカは服を着込み、道を誘導するゲン太の足音だけを頼りに森を抜け街道へと戻った。

 

 かんからころん、こっちへ来いと誘導するゲン太に、ヤタカは小さく首を振る。

 

「もう大丈夫だ。少しぼやけてはいるが、小屋のある場所もはっきりわかる」

 

 安心したのか、ぴんと張っていたゲン太の鼻緒が丸く緩んだ。

 

――どく だれやった

 

 ゲン太が木肌に浮かべた文字に、ヤタカは息を吐いて首を振る。

 

「見えた影からして、一人だと思う。俺の体を片手で引き上げるなんて、女の腕じゃ無理だろ? あの人影は男だよ。でも、誰だか分からない。面が割れたくなくて、俺の視界を奪ったんだと思うんだ。気味の悪い話だ」

 

――てき みかた

 

「さあな。あいつが来なければ、俺は溺れ死んでいたと思うよ。でも、善意で助けたとも思えない。イリスには、黙っていてくれ。心配をかけたくない」

 

――わかった

 

 ぶるぶると身を振るって、ゲン太が歩き出す。ゲン太は嘘が苦手だ。何事もなかったように振る舞うには、気構えが必要なのだろう。ゲン太の後ろ姿を見て、ヤタカは薄い笑みと共に肩で息を吐く。

 からんころんと元気な足音をたてて、ゲン太が小屋の前まで辿り着いたとき、ヤタカはふっと呼びかけた。

 

「なぁ、ゲン太。俺さ、水の中で襟首を掴んだあいつの腕だけは見たんだ。毒を打たれる前だったから。泉の底に突き刺さった蔦も見た。気泡のせいではっきりとは見えなかったが、似ていたんだよ」

 

――なにに

 

「寺での最後の日、慈庭を貫いた蔦に。遠い記憶だから、何ともいえんがな」

 

 声を潜めて話すヤタカの声を、ゲン太は黙って聞いていた。

 

「もしもう一度、あの男に会ったら、俺にはわかる」

 

 声を潜めたまま、ヤタカは小屋の戸口に手をかけた。

 

「あの男の右腕には、赤い傷跡があった。指一本分くらいの長さで二本、傷があったんだ」

 

 鋭い視線の先で自分の右腕を指先ですっとなぞり、ゆっくりと目を閉じたヤタカはぱっと目を見開いて柔和な表情をつくると勢いよく戸口を開けた。

 

「よ、待たせたな」

 

 ちらりと横目でゲン太をみたヤタカは、水が冷たかったと文句をいいながら笑っている。

イリスとわたるが口々に、濡れたヤタカの服に非難の声を上げる。

 小屋の中に、いつもの笑いが満ちていく。

 戸口の横でぴたりと動きを止めたゲン太だけは、三角にぴんと立てた鼻緒を、ぷるぷると一人振るわせていた。  

 

 

 




 読みに来て下さったみなさん、覗いてくれたみなさん、ありがとうございます!
 謎の人物? 登場で、次話からは異種と異物を廻る勢力図が少しずつ明らかになってくるかと思います。普通の旅路に織り交ぜてぼちぼちと……ほんとぼちぼちと(笑)
 次話も読んでいただけますように
 では!


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21 花紅虫

 

 この日は朝から森の様子が違っていた。

 からりころりと、いつもより力ない音をたてるゲン太の横を歩きながら、ヤタカは自分が必要以上に口数が多くなっていることに気付き、胸の内で舌を打つ。

 凝視した先に見えるのはいつもの森だというのに、視界の端に光りの粒が流れていく。

 昼間に見えたことなどなかったというのに。

 やつらはまるで木々がつくり出す僅かな陰りを渡るように、ちらりゆらりと飛び交っていた。

 

「もう春も終わりだね。布を厚手のものに変えないと駄目かな」

 

 口を尖らせながら、目元の布をイリスが指先で突く。

 

「色気のない布だよねぇ。どうせ巻かなけりゃいけないなら、年相応にかわいらしくしちゃどうだい? そうだ、こんど花の刺繍でもしてあげようか? こう見えて手先は器用なんだ」

 

 胸の前で嬉しそうに手を組み合わせたイリスがぴょんと跳ね上がる。白い歯を見せて笑ったかと思うと、両腕を広げてわたるの首に抱きついた。

 逃げる間もなく腕を垂らしたまま、目を見開くわたるの肩に頬ずりしたイリスは、ぎゅっと腕に力を込めて肩の上にとん、と頬をのせる。

 

「ありがとう、わたる姉。黄色いお花がいいな。太陽をいっぱい吸い込んだ色でしょう?」

 

 わたるの目元が優しく緩む。細い指先が、イリスの髪をそっと撫でた。

 

「黄色いお花……わたる姉みたいに、太陽の下で咲くことができるお花って素敵」

 

 囁くような独り言にも似たイリスの声に、わたるの睫が伏せられる。

 

「残念ならが、あたしはせいぜい赤を垂れ流す彼岸花だねぇ。艶やかに見えて、寄り添えるのは死体だけ」

 

 顔を離したイリスが、きょとんとして首を傾げる。

 はっとしたように、わたるは口元に笑みを浮かべた。

 

「腐っても、あたしは医者だからって意味さ」

 

 そっか、と頷いてイリスはわたるから体を離した。

 

「ゲン太、どこかで美味しい匂いがしている。桜餅? 行くよ!」

 

 慌てて駆け出すゲン太を目で追いながら、わたるは自分の肩にそっと手を当てた。

 無邪気にのせられた、イリスの頬の感触と体温が残る肩。

 柔らかな筈の温もりに、まるで焼きゴテを当てられたかのようにきつく目を閉じ、わたるは爪の先を己の肩口にぐいと食い込ませた。

 

 

 最後尾を離れて歩くヤタカは、二人のやりとりに気付くことなく、視界の隅で泳ぐ光りの粒に意識を集中していた。

 

――数が増えている

 

 僅かな影を渡り泳ぐ光りの粒。闇に閉ざされたなら、いったいどれほどの数になるのかと思うとぞっとした。

 わたるがいうように御山が呼んでいる、というなら自分が行くべき伊吹山に近付いている印なのだろう。

 伊吹山でヤタカが成すべきことはただひとつ。寺で詰め込まれた知識を、残らず伊吹山に記すること。少なくとも、慈庭にはそう教えられた。

 方法は聞いている。

 

『呼ぶ木あらば、呼ぶ草あらば、それらを使って指先に深く傷をつけるがいい』

 

 慈庭はそういった。

 問題はその方法で何がどうなるのか、ヤタカには教えられていないこと。もしかしたら、慈庭さえ、その先は知らなかったのかもしれない。

 

 大きく頭を一振りして、ヤタカは道の先を大股で歩きだす。

 俯き加減のわたるを追い越し、妙な節をつけて桜餅を連呼するイリスも追い抜いた。イリスの横を歩くゲン太の足音は心なし不揃いで、からん、ころころからんと街道に鳴り響く。酔っ払っているのかと疑ったが、どうもそうではないらしい。

 

「まぁ、クソ下駄なんざどうでもいいさ」

 

 わざと聞こえるようにいったのに、ゲン太は鼻緒をむきっと三角に立てることもせず、心ここにあらずといった様子だった。

 

「ない頭で、何を考え込んでいるんだか」

 

 溜息ひとつ吐いて、ヤタカは大股で街道をいく。イリスの口ずさむ桜餅という言葉の意味が、香となって街道の遠くから風に乗って流れてきた。

 

「桜の香りだ」

 

 桜の盛りはとっくに過ぎた。

 本来ならまだ満開に咲いていてもおかしくないが、咲き誇った桜の花に挑むように吹いた数日前の春の嵐が、桜色の花びらを無残に散らしてしまったのはこの辺りも変わらない。

 その証拠に花見を目当てに遠方から足を運んできた旅人達が、街道のあちらこちらで残念そうに、禿げた桜の木の下で酒を飲む姿が見えた。

 前方の街道にも、見渡せる限りの山々にも桜色の欠片もなかったが、ひとっ所に桜の花びらを集めたみたいに、濃い香が鼻孔をくすぐる。

 その香に酔ったかのように、木陰を飛び交う光りの粒はよろよろと数だけを増し、ちらちらとたなびく薄衣のように折り重なっていく。

 

「ヤタカ、ちょっと待って。石を跳ね上げちゃったのかな? 足首の辺りに小石があるみたい」

 

「ドジだな」

 

 わたるの肩を借りて小石を取り出そうと奮闘するイリスを横目に、ヤタカはゆっくりと歩き出す。離れすぎるわけにはいかないが、どうにもこの香が気になってならない。

 

「おっと、大丈夫ですか?」

 

 辺りを見回しながら歩いていたヤタカがぶつかったのは、杖をつき腰の折れた老人だった。近くに住んでいるのか、巾着ひとつ持っていない。灰色の布を頭に被り、端を顎の下で結んでいる。

 よろけた老人の体を支えようと差しだしたヤタカの手が、腕に触れる前にびくりと止まった。

 どこから湧いて出たのか厚い雲の固まりが日の光を遮り、春に染まった街道が、その色を一気に無くす。

 

「ここから先は、引き返せないぜ」

 

声を発したのは、目の前で足元をよろつかせる老人だった。

 ヤタカは瞬時に記憶の糸を手繰り寄せる。

 低くもなく、高くもない。手が届きそうな範囲の者にしか聞こえない。特殊な声は地声とかけ離れ、訓練された一握りの者にしか使えない。

 寺でこの声を使えたのは、素堂と慈庭のみ。

 二人はもう、この世にいない。

 声色は違っても、老いた姿に隠れる男の素顔をヤタカは悟った。

 

「ゴザ売りの男か。屋号は……忘れたな」

 

 耳をそばだてる者の存在を恐れているなら、この男が日頃持ち歩く提灯に入った屋号さえ、今は口にしてはならないのだろう。よろよろと杖を引き摺って、ゴザ売りの男が右へと歩いて行く。その後には、老人が杖を引き摺ってつけたとは思いないほどくっきりと、地面に一本の線が引かれていた。

 

「止められなかった……」

 

 男の喉がうぐっと呻る。

 

「何のことだ? 新しいアメでもつくれたのかい?」

 

 耳をそばだてる者がいても、届くのはヤタカの声だけだろう。

 他人が聞けば飴売りとの会話でも、ゴザ売りの男に真意が伝われば十分だ。

 

「桜の匂いが濃いだろう? 御山の口が開く証拠だ。オレが狙うなら、お前達が引き離される瞬間を逃しゃしねぇ」

 

 ヤタカは戯けた表情のまま、伏せた瞼の隙間から鋭い眼光を男へ向けた。

 

「それなら、アメを買いに来た道を戻ったらどうだろう」

 

 男は小さく頭を振る。

 

「戻ればおまえの血に潜むモノが、羽化してその身を喰らい尽くす。てめぇの命なんざどうでもいいが、嬢ちゃんをどうするよ……。たとえ正面切って寝返っても、オレじゃあ嬢ちゃんを守り切れねぇ」

 

「赤いアメに仕込まれた飾りって……どんなもんなのさ」

 

 ヤタカには、そんな物騒なものを仕込まれた記憶がない。

 

「最近、野草師に血を採取されたことはあるか? その結果を見たか? 葉は何色に染まっていた? 野草師は、顔を強ばらせちゃいなかったか?」

 

 毒を調べるといって野グソが使った葉の葉脈が、毒々しい赤紫色に染まった日を思い返す。

 あのとき野グソは、蔦が自ら毒を調節している……といっていた。

 

「確かに不味い飴だったが、細工が見事でね。ちょっと砕いてみたのさ。だが、アメに流し込んだ細工の質を調べる為だった。別に細工以外の何かがあるとは……」

 

 野草師とゴテ師の本来の生業を、そして更に闇へ埋もれた正体を思った。聞かされた話が本当なら毒ではなく、最初からヤタカの血に潜むモノを調べていたのか?

 どこまで羽化が近付いているか、調べていた?

 まさか……とヤタカは大きく頭を振る。

 

 線を引き終えた男が、腰を叩いて老いを演じる。

 

「血を流さなくとも、羽化する前兆を御山は感じ取る。保持者の汗からは、普通じゃ解らない独特の匂いがするらしい」

 

 ヤタカが作り笑いを拳で隠したとき、背後からイリスの声がした。

 

「ヤタカ、もうちょっと待ってね。まだ何かあって、ちくちくするの」

 

「ゆっくり取りなよ。待っているから」

 

 振り返ったヤタカがいうと、イリスは嬉しそうに頷いてどかりと道に座り込み、わたるは靴の奥を覗いている。

 

「嬢ちゃんを足止めしたくて、ちょっとイガ草の細い毛を仕込んだ。害はないさ」

 

「そうか」

 

 下を向いたまま懐に手を入れ、男が取りだしたのは三本の棒アメだった。

 

「なんだよ、新作を売ってくれるのかい?」

 

 力なく頷く男が、ぐいとヤタカの胸に棒アメを押しつける。

 

「御山に入ったら、赤いアメを口に入れて噛み砕け。羽化したばかりの奴らが嫌うといわれる薬草を煮詰めた液を仕込んである」

 

「赤いアメの味は?」

 

「丸一日かかる知識の放出を、一時間で終わらせる。御山からどれだけ早く出られるかが、嬢ちゃんの生死を分ける」

 

「そんなことまで知っているのか。それじゃ、次はどれを舐めたらいい?」

 

「黄色のアメを噛み砕け。動かない体も、無理矢理動かせるはずだ」

 

「紫のアメの味は?」

 

 まるで本物の飴売りのように、男が曲げた腰のまま頭を下げて背を向けた。

 

「死にたくなったら、水場で紫のアメを噛み砕け。水の器は体を抜けて水へ逃げ込む。おまえは、どんな方法より楽に死ねる」

 

 棒の先についた丸いアメ玉に視線を落とし、顔を上げた時にはすでに、男の姿は消えていた。

 

「ヤタカ、お待たせ!」

 

 イリスの声に、アメ玉を懐に仕舞い込んで小さく手を振った。

 

「迷子ちゃん、伊吹山への道は見つかった?」

 

 いたずらっぽく首を傾げるイリスの頭を軽く小突くと、ぺろりと舌を出して首を竦めた。

 

「イリス、腹が減ったから、あそこの屋台で何か買ってきてくれないか」

 

「いいよ!」

 

「ゲン太、おまえがお目付役だ。買い過ぎないようにしっかり見張ってくれよ」

 

――わかった

 

 ゲン太の気乗りしない返事に苦笑しながら、手で払ってイリスを屋台へ追い遣った。

 ゲン太が感づいていない訳がない。それはわたるも同じだろう。

 

「わたる」

 

「なんだい? わざわざ二人きりになるなんてさ」

 

「今回だけ、わたるを信じたい。いや、信じるしかないんだ。この線を越えたら引き返せないらしい。かといって、戻れば俺は死ぬ。イリスを一人にするわけにはいかない」

 

 土の道に彫られた線にすとんと視線を落とし、わたるは薄い笑みを浮かべる。

 

「いっておくが、一時預かるだけだからね。一生面倒はみられない。戻って来ると約束してくれんなら、それまであの娘さんの側に居る」

 

「あぁ、約束する。一時間だ。一時間で、伊吹山から必ず戻る」

 

 何かいいたげに開きかけた、わたるの唇が結ばれる。

 無言で向けられた視線が、無理だと語っていた。

 

「いっぱい買ってきたよ!」

 

 腕いっぱいに袋を抱えたイリスが、満面の笑みで戻って来た。

 

「こんなに買ったのか? まったく下駄坊主はお役目放棄かよ」

 

 むきっと三角につり上がったゲン太の鼻緒が、物言わずに萎んでいく。

 

「ゲン太、頼むぞ?」

 

 ゲン太の萎れた鼻緒をひょいと持ち上げ、ヤタカは肩で大きく息を吸う。

 

「行こうか。伊吹山へ」

 

 線の向こうへと足を踏み出す。

 じゃり、と音を立てて街道の土が鳴る。

 桜の香りをのせたそよ風が、さわさわと街道沿いの枝葉を揺らす。

 御山に呑み込まれる瞬間まで二人を見失わないように、ヤタカはイリスとわたるの肩に手をかけ、引き寄せるようにして境界線を乗り越えた。

 

 

 ゴザ売りの男が引いた境界線を越えると、ふいに音が消えた。

 風に木葉が擦れ合う音も、イリスが杖を土に擦る音も、気の張りを感じさせるわたるの息遣いさえぷつりと途絶えた。

 

――あれか

 

 真っ直ぐに見通せた筈の街道の真ん中に、桜の木が立っていた。

 春だというのに若葉もひとつも付けず、ささくれた木肌から春の息吹は感じられない。

 二人の肩を抱いたまま、ゆっくりと木に近付いた。

 街道を抜けてきた風が、この世に溢れる音を再びヤタカの耳へ戻してくれた。

 

「頼む」

 

 ヤタカのひと言に、隣でわたるが静かに頷いた。

 

「イリス、伊吹山についたから、野草を集めてくるよ。その間はわたると一緒にいてくれ」

 

「本当に? うん、気をつけてね。迷子ちゃんなんていったけど、取り消す~」

 

 目元を布で隠したままイリスが微笑む。

 地面に下ろすと、鼻緒を微かに振るわせたゲン太をちらりと見て、ヤタカは枯れたように立つ桜の木肌へ手を伸ばした。

 わたるが、ヤタカからイリスをそっと引き離す。

 背後でからん、と下駄の鳴る音がした。

 見えるはずのないこの木を、街道を行き交う人々は自然と避けて歩いている。もしかしたら無意識に人が避けているのではなく、この木が人間を寄せ付けないのかも知れないな、そんなことをヤタカは思った。

 固くささくれ立つ、乾いた木肌の尖端に人差し指を押しつける。

 切れない刃物で抉られたような痛みと同時に、指先から赤い血がつうっと流れた。 

 

「なに? うわ!」

 

 最後に聞こえたのは、唐突に巻き上がった風に驚いたイリスの声だった。

 滑る土の道に前後に広げた足を踏ん張り、風を避ける腕の隙間から枯れたような木を見あげたヤタカは、目を見開き息を呑んだ。

 これほどの風が吹き荒れているというのに、地面の土埃は微塵も巻き上げられることなく、風はゴザ売りの男が使った声のように、自らが影響を及ぼす範囲を正確に定めているかのようだった。

 木を中心に風が渦巻く。

 乾いて浮き上がっていた、ぼろぼろの木肌が捲れ上がる。その様は太い幹から細い枝先へと広がっていく。

 まるで、ぱらぱらと魚の鱗が剥がされていくような光景だった。

 

――これが、花紅虫(かこうちゅう)か……

 

 破片となって飛ばされる無数の木肌。風が乾いた木の皮をぱらぱらと散らす。

 木の周りで舞い吹く風の中に残されたのは、ほのかな桜色を纏う透明な羽だった。蝶のように二枚の羽が優雅に羽ばたく様とは異なり、一枚の花びらが、風の流れに己の行く先を任せているような動き。  

 寺の書物で見た知識。だがそれは、簡素な絵と花紅虫という名が記されているだけで、寺で収集された情報としてはあまりにも詳細に欠くものだった。

 花びらをぷちりとちぎると抜けてくる、細く白い付け根の部分。

 あの小さな尖端こそが、今舞っている虫の本体。

 存在理由は憶測さえ記されていなかったが、実際に目にしたヤタカは、伊吹山と共に在る虫なのだろうと、張り詰めた神経の末端で感じていた。

 枝の周りに渦巻く風が集まっていく。

 はらはらと、はらはらと、重なり合って色を増す花紅虫は現実から解離した、夢で咲く満開の桜そのものだった。

 

 キリキリキリキリ……キリキリ……

 

 互いの羽を摺り合わせ、花紅虫が一斉に鳴く。

 渦巻いていた風が一瞬にして凪ぎ、景色が止まった。

 木を中心に圧縮されつつあった空間が、一気に爆ぜ飛ぶ。

 

「伏せろ!」

 

 飛び散った花紅虫の群れが、ヤタカとイリス達の間に一筋の帯となって流れ込む。

 桜色の隙間から、目元に布を巻いたまま腕で顔を覆うイリスの肩を引き寄せ抱える、わたるの姿が見えた。

 ほんの一瞬、わたると視線がかち合った。

 その背後に、黒い影が数本走る。

 

「逃げろ!」

 

 悪夢のような光景を見せつけるかのように、花紅虫の太い帯がぶわりと穴を広げた。

 日の陰った街道を駆けて押し寄せてきたのは、森の陰で数を増やした光りの粒。

 桜色の花紅虫の羽に、光りの虹が混ざる。

 手を伸ばす隙もなく閉じられたその穴から、飛び込んできたのは一筋の影だった。

 刀の太刀筋にも似た孤を描いて、その影はヤタカの頭部を突き倒した。

 光りの粒を纏った花紅虫が、傾いでいくヤタカの体に纏わり付く。

 咽せるような桜の香りの中ヤタカの目に映るのは、折り重なる淡い桜色の群れだけだった。

 

 

 

 




 読みに来て下さったみなさん、ありがとうございました。
 書き直して書き直して、こんなに遅くなっちゃいました。
 次話もお付き合いいただけますように!


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22 心に巣くう影と 救う影 

キリキリキリ 

 

 囁きに似た鳴き声に、蹲って横たわるヤタカはうっすらと目を開けた。

 波打つ花紅虫の群れに囲まれた光景は、違う状況であれば幻想的な美しさに見とれるほどのものだった。

 体に異常がないことを確かめ立ち上がったヤタカは、丸く囲む桜色の壁をそっと指先でなぞってみた。柔らかくともその先への侵入を許さない反発が続く中、滑らせる指先でふと緩む場所があることに気付いたヤタカがそっと腕押しすると、道を示すように花紅虫の群れが道を空ける。通路として開けた先にも桜色の壁はあるが、ヤタカの歩調に合わせて先へと進路を広げていく。

 

 どれくらい歩いただろう。

 先へ道を開くことを止めた花紅虫が行く手を阻み、ヤタカは再び桜色した円柱状の壁に囲まれた。

 咽せるような桜の香りが増すと同時に風が巻く。

 

 キリキリキリキリ キリキリ

 

一斉に鋭く鳴く花紅虫。

 花紅虫の織り成す壁が一気に爆ぜた。

 空中に散った花紅虫の、淡い桜色の光が徐々に失われていく。役目を終えて息絶えた花紅虫が床に散らばり、瑞々しく柔らかな桜色の羽が、息をかけただけで砕けそうに乾き切った枯れ葉色に変貌を遂げていく。微かな光原を失い、ヤタカは平衡感覚さえ曖昧にさせる漆黒の闇に包まれた。

 摺り合わせた指先が、ずるりと血にぬめる。

 

 ぽしゃり

 

 静まった暗闇に血が落ちる音が反響して、ヤタカの足元に七色に光る水たまりが姿を現した。よくよく見れば、水とは異質のものだった。森を飛び交っていた光の粒が一所に集まったようだと――ヤタカはそう感じた。

 足を持ち上げると、足先から光の雫が垂れた。落ちたそれは、七色の水面に美しい水紋を広げていく。

 指先の傷から血の珠が、ぽとりぽとりと落ちていく。

 その度に、鈴に似た美しく高い音を立てて広がる水紋はヤタカが左手で零れる血をせき止めても、内から外へ広がる動きを止めることはなかった。

 押さえていた左手を離すと、溜まっていた血がたらりと流れ落ちた。光の水面が震え、堰が外れたように一気に床一面に広がっていく。

 

「ここはいったい」

 

 ヤタカが立っていたのは円柱状の空間。周りを囲む岩壁に人の手で造られた石垣の精巧さはなく、自然に生みだされたままの岩が大小積み重なり、起伏の激しい壁面をつくりだしていた。

 奇跡に近い組み合わせで、一分の隙もなく積み重なる岩。人の叡智のなせる技ではないだろう。

 床に淡く広がった七色の光を、まるで呼吸するかのように岩の壁が吸い上げる。

 吸い上げられて薄く光る白銀に色を変えた光は、薄暗い闇に隠されていた鉱石をちらりちらりと輝かせた。

 止まることなく流れる血を押さえてヤタカは静かに拳を握りしめる。ほんのりと照らし出された空間を見渡すと、今立っているのとは反対側に大人一人が通れる大きさの横穴が、ぽっかりと黒い口を広げているのが見えた。

 

「あそこから入ってきたのか?」

 

 たとえ御山に呼ばれた者であっても、この場所は教えぬ――黒い横穴が無言で語っている気がした。

 淡く白銀を纏った岩肌は、障子を透かして天井に映る庭の池を見ている様に、ゆらりゆらりと光の水面を揺らす。白銀に溶け込んでいた異質な影の筋が、幾本も身をくねらせ一点に集まりはじめた。中心点に寄せる影は幾重にもなり、やがて赤く揺れる丸いひとつの点となる。

 

「血の色だ」

 

 傷口を包み込んで握られた、ヤタカの拳がふっと緩む。

 手の平に溜まっていた血が、たらたらと床に零れ落ちた。

 

「いったい何が起ころうとしている?」

 

 床に落ちたヤタカの血が欲しいと言わんばかりに、白銀に光る岩壁で揺らぐ赤い点がぶわりと身じろぎ、光の水面が怪しく揺れた。

赤い点に呼応して心臓が跳ねあがる。

 

「くそ」

 

 まるで熱を帯びた無数の鉄線が心臓から腰へ肩へと這い進むような、ぞわりとした感覚にヤタカはぶるりと身を震わせた。

 

「羽化した……か」

 

 赤い点の揺らぎが、おいでおいでとヤタカを呼び寄せる。

 一歩、また一歩とヤタカが足を進めるたび、赤い点を中心に水紋が広がり、その輝きをどんどん増していく。森で見た色取りどりの光の粒が、針の穴ほどの小さな身を浮かばせては消えていく。

 熱を帯びてヤタカの体内を進む無数の尖端が、肩口を過ぎて腕へと這い降りる。眉を顰めたヤタカは、ざっと袖を捲り上げた。

細くとも筋肉で固められたヤタカの腕に浮く血管が、まるで内側に赤紫の管を通したように色を変えていく。血液の流れに呑まれることなくゆっくりと這い進むモノは、青みがかった血管を毒々しい赤紫に変えていた。あの日、自分の血が葉脈を染めたと同じ赤紫に、ヤタカは訝しげに眉根を寄せる。

 

「出口を探している……といったところか」

 

 体内を目に見えぬ微細な虫が這い進む気味の悪さと共に訪れた、酸欠に似た目眩にふらりと足元をぐらつかせ、ヤタカは不快感を露わにチッ、と舌を鳴らした。

 深く傷つけた指先から血が滴るたび、それを迎えるように水紋を広げる赤い点が、ヤタカがすべきことを無言の内に伝えてくる。

 役目を背負う者の第六感、あるいは霊感にも似た本能。

 

「そんなに呼ぶなよ。逃げやしない」

 

 ヤタカは血に湿った指先を、白銀の岩肌で揺れる赤い点の中心に押しつけた。

 どくり、と心臓が飛び爆ぜヤタカは一瞬息を詰まらせた。。

 既に手首を過ぎて手の平、手の甲の太い血管を染め上げた赤紫は、毛細血管を支配しヤタカの指先を完全に変色さていた。

 指先から一滴、また一滴と赤紫の血が溢れ出す。微細な虫を含んだ赤紫の血を舐め取るように赤い点がぶわりと揺らぎ、岩壁を覆う光の水面に、森で騒いでいた色取りどりの光の粒が一斉に跳ね上がる。

 赤い点に舐め取られた血は、光の粒が舞う岩壁を蛇行しながら昇っていく。ヤタカの手が届かない高さまでゆっくりと昇っていった赤紫の筋は一度大きくのたうつと、一気に斜め上へと駆け上った。

 

 思案するように動きを止めた赤紫の筋は、するすると下降し、意思を持った文字列となって垂れ下がった。

 光の水面に揺れる文字列を、ヤタカははっきりと覚えてた。寺に出入りする者の集めた情報を、晩年の素堂はヤタカの目の前で巻紙に記することがあった。痺れた足をこっそり擦りながら、達筆な素堂の筆跡を目で追い、一文字も漏らすまいとヤタカが記憶したものだった。

 体内に仕込まれた虫の正体は解らない。この場を訪れたなら、ヤタカの意思には関係なく必要な記憶を性格に抜き取り御山へ収める。おそらくはそれが赤紫に血を染める虫の役目なのだろう。

 花紅虫と同じように、役目を終えたなら誰の目に触れることなく羽化してからの短い命を終えていくのだろうか。

 

「素堂のじっちゃん。これで、これでいいのか?」

 

 答えてくれ、そう胸の中で叫ぶ。

 舐め上げられた赤紫の血が昇り、さらさらと次の文字列が垂れ下がる。それを待っていたのか、最初の文字列は直ぐ近くの岩の合わせ目に呑まれて消えた。文字列を呑み込んだ岩と岩の間からたらりと吐き出されたヤタカの血が、白銀に溶けることなく赤い染みをつくった。

 

「確かにこれじゃ終わらないな。一日あっても足りやしない」

 

 桜色の花紅虫が舞う隙間から見えた、イリスとわたるを掠めた黒い影が、ヤタカの心に不安の暗雲を立ち籠めさせる。。

 焦ってどうなるものでもない。解っていても、こめかみにじわりと冷たい汗が浮く。

 ヤタカは懐に手を入れ、ゴザ売りに渡された棒アメを三本取りだした。

 

『御山に入ったら、赤いアメを口に入れて噛み砕け』

 

 ビー玉みたいなアメをちらりと見て、ヤタカは赤いアメの棒を口の中に突っ込み奥歯で一気に噛み砕いた。

 ヤタカの血に紛れて這いずり回っていた虫が、一瞬動きを止める。

 

「うがっ!!」

 

 肺の空気を一気に吐き出して体を折ったヤタカの口から、白い泡が飛び散った。反射的に痙攣した手に弾かれて、握っていた残りの棒アメがばらけて床に転がる。

 全身の血が一気に指先へと押し寄せる圧迫感に、思わず手首を押さえたヤタカの目の前で、指先だけに留まっていた変色は、あっという間に手首の上まで広がっていく。

 手の甲は細々とひび割れ、その様は干ばつに捲れ上がる大地を見ているようだった。

 胃の奥から再び迫り上がってきた白い泡を吐き出し、腰を折って咽せるヤタカの肩は激しく上下したが、それでも右の人差し指は赤い点にぴたりと張りつき離れない。

 けして、ヤタカが弱いわけではない。

 人の力でどうにかなるものではない……ただそれだけのこと。

 

「体に力がはいらない。くそったれが!」

 

 耐えきれずに膝を折ったヤタカは、赤い点から離れない指先を高々と上げたまま、腰までは落とすまいと震えて噛み合わない歯を食いしばる。

 血走って歪む視界で見上げた光景に、一瞬痛みを忘れて放心したヤタカは、白い泡と共に大きく息を吐き出した。

 もはや文字列の間に、産まれては呑まれるというリズムも間隔もありはしない。

 糸状の滝と化した文字列は、読み取ることもできない速さで産まれては岩間へと呑まれていく。

 

 それほど多量の血を失ったわけではないというのに、体の感覚はあやふやで、首をもたげ続けることさえ難しかった。

 

「黄色いアメが必要な理由はこれか……」

 

 項垂れたヤタカの思考に、なぜ自分はここにいるのか、と言葉にしたことのない疑問が浮かんだ。

 記憶を受け渡すために必要な、羽化する虫が体内に仕込まれていることさえ、ゴザ売りの男に聞くまで知らなかった。目にするまでは、半分疑っていたことも事実。

 だが、経験したことを否定はできない。

 誰が仕込んだのかも解らない。

 長い寺の歴史の中、この役目を受けるのは自分が初めてではないだろう。寺にゆかりのある者から、一定期間ごとに誰かが選ばれ、同じ経験をしてきたのだろうか。

 心の奥底に閉じ込めてきた寺への疑念が、もろい泡となって意識の表層に浮かんで弾け、疑いという名の浅黒い染みを心に残す。

 ゴテ師と野草師さえ、ヤタカが信じてきた姿が紛い物だとするなら……。幼なじみへの拭えない猜疑心を抱えたまま、ゴテと野グソの顔が浮かべた。

 ヤタカの心に反して、思い出したのは幼なじみの見慣れた明るい笑顔だった。

 

「このままじゃ意識が飛ぶ」

 

 余計な思考は知らない内に意識を奪う。酸欠に陥った脳にとって、己の内に沈む思考に溺れるのも、気を失って夢を見るも同じこと。

 

――ゲン太、イリスとわたるを……

 

 膝を着く床と自分の境目さえ曖昧になりかけたとき、ヤタカの体重全てを支えていた指先が、不意に赤い点から解き放たれた。

 どさりと床に仰向けに崩れ落ちたヤタカの目の前で、記憶を記する最後の文字列の尾が、するりと岩の隙間に吸い込まれる。

 岩壁を内から照らす、白銀の光さえ呑み込んで最後の一文字が消えた時、岩に囲まれた空間は真の闇に閉ざされた。

 痺れが体から抜けるのと引き替えに、内臓を竹刀で打たれるに似た重い激痛が体内を駆け巡り、ヤタカは呻いて体を折り曲げる。

 今は痛みだけが、ヤタカの意識を繋ぎ止めていた。

 

 たとえ砂一粒程度の光でも、視覚を通して人の感覚は保たれる。

 それさえない真の暗闇は、人の平行感覚を想像以上に狂わせ、己と空間の境目さえ曖昧にする。

 不意に床に投げ出され、自分の頭がどの方向を向いているのかさえ解らなくなったヤタカにとって、最後の文字が吸い込まれた岩壁がどの辺りだったかなど、断定できる筈もない。ましてや転がって散った棒アメの在処など……。

 

「アメ……アメはどこだ?」

 

 痛みに歯軋りしながら、辺りの床に手を這わせる。

 

『黄色のアメを噛み砕け。動かない体も、無理矢理に動かせるはずだ』

 

 ゴザ売りの男がいった言葉。

 羽化して血液と共に流れ出た微細な虫は、必要の無くなった宿主の体内に歓迎しかねる置き土産を置いていったのではと、推測がヤタカの脳裏を過ぎる。

 痛み以上に厄介なのは、関節から徐々に全身へと広がりはじめた猛烈な痺れだった。

 この場から逃げる間もなく侵食する痺れの中、まだ辛うじて自由の利く左手を動かし、どこにあるかも解らないアメを必死に追い求めた。

 どれほど手を這わせても、肌に感じるのはうっすらと積もる砂のざらつきだけ。

 左手にも痺れが回りはじめ、血が出るほどヤタカが唇を噛んだその時、顔の横でカラリと乾いた音がした。

 息を詰めるヤタカの顔に、周囲に、ぱらりぱらりと岩の欠片が落ちては当たる。

 

――崩壊し始めている

 

 宿り主の肉体が命の危機に晒されているというのに、水の器は身じろぎもしない。辺りに水気がないからなのか、あるいは虫の置き土産が、水の器にまで及んだのか。

 辺りに響く音はどんどん大きくなり、剥がれ落ちる岩の粒が大きくなっていることを

知らせていた。

 

――棒アメを見つけたところで、こう暗くては色の見分けがつかない

 

ゴザ売りの言葉と、アメの効力に嘘がないことは証明された。だとするなら、紫の棒アメを口に含めば、ヤタカの命は確実に失われる。

 それでもいい。せめて半々の確率に賭けるチャンスが欲しかった。

 棒アメを求めて彷徨うヤタカの手に、尖った岩の欠片とは違う感触がことりと落とされた。はっとしてそれを握りしめたヤタカは、痺れる腕を引き摺って手にした物を鼻に引き寄せた。

 ほんのりと薬草の青臭さを纏った、甘い香りが鼻孔をくすぐる。

 誰か居るのかと疑ったか、構っている猶予はない。

 それほど時間をかけずに天井は崩れ落ち、ヤタカは大岩に潰されるだろう。

 

――賭けるしかない

 

 ヤタカは握りしめた棒ごとアメを口の中に押し入れ、躊躇することなく奥歯で一気に噛み砕いた。

 

 ――イリスの好きな、花の色と同じであってくれ

 

 目を閉じて強く願う。

 砕けたアメの中から、どろりとした苦い液体が溢れ出す。

 

「がふっ!」

 

 意志とは関係なく、鷲爪のように指が張る。食道を流れ落ちる液体が胃へ辿り着いた途端、内から炎で焼かれたような痛みと衝撃に、ヤタカの体が跳ね上がった。

 ひゅうひゅうと全身で息を吐くヤタカの頬を、大きさと重さを増した落石が打つ。

 

「くそ、いけるか」

 

 度を過ぎた痛みは諸刃の剣。痺れが薄らぎ体の感覚が戻ると同時に、白い泡を吹いた時に勝る激痛が、ヤタカの意識を押し潰そうと暴れ回る。

 

「出口はどっちだ!」

 

 ぜいぜいと息を荒げながら四つん這いにはなったものの、通路の方向に見当さえつかなかった。壁伝いに探すしかないのかと思った時、雨のように床を打つ落石の音に混じって、異質な音が響いた。

 

 ガラン カン

 

 幻聴でも構わない。ヤタカは希望に目を見開いた。

 

「ゲン太? ゲン太なのか!」

 

 叫んだヤタカの耳に、今度ははっきりと聞き慣れた音が響く。

 

 カカン カラ カラカン

 

 焦り怒ったように、激しく木肌を打ち合わせる音が響く。ヤタカは力の入らない太ももを思い切り拳で殴り、こっちへ来いと呼ぶ下駄の音に向かって一気に駆け出した。

 

「痛みには強えーんだよ! くそったれが!」

 

 毒草に触れて腫れ上がり、爛れた体を抱えて泣いた痛みを忘れてなどいない。

 震える唇を噛みしめ、それでも泣き声を上げなかったのは、イリスに情けない姿を見られたくなかったから。イリスに心配そうな顔をさせたくなかったから。そして、笑っていてほしかっただけ。幼くとも、男の意地がそうさせた。

 

「ゲン太! 走れ!」

 

 声に弾かれて走り出したカラリ、カラ、カラリという音だけを頼りにヤタカは走った。

 拳くらいの岩の欠片があちらこちらに転がっていて、何度も足を取られ手をついては立ち上がる。

  

 カカカカカン

 

 立ち止まって高く打ち鳴らされた下駄の音にはっとしたヤタカは、一か八か音を目掛けて飛び込んだ。

 頭から滑り込んだヤタカは、膝を抱え込んで身を縮める。暗闇の中、激しい振動と共に響き渡った轟音が、駆け抜けてきたばかりの空間を、崩れ落ちた天井の岩が埋めたことを教えてくれた。

 しんと静まりかえった中そっと足を撫で、潰れていないことにほっと息を吐く。

 体を起こして手を伸ばし、通路へ飛び込んだ入口が崩れた岩ですっかり塞がれたことを確認した。

 火事場の馬鹿力を使い終えれば、痛みは当たり前のように蘇る。

 

「おぇ、うぇ、げほ!」

 

 突然込み上げた吐き気に、ヤタカは胃液ごと全て吐き出した。胃液が喉に張りつき、口の中に特有の苦みが広がる。

 暗闇で腰を下ろし背後の壁に凭れて目を瞑る。ヒンヤリとした岩の感触が、限界を越えた体に染みていく。

 胃の内容物を吐き出すと同時に、徐々に激痛が和らぎはじめた。

 

「すげぇな……痛みが引いてきた」

 

 痛みが引くと同時に、立ち上がる体力さえ尽きかけていることに愕然とした。

 

「ゲン太だろう?」

 

 カラン

 

 疲れ切ったヤタカの口元に、微な笑みが浮かぶ。

 

「どうしてついてきた? あいつらを頼むっていったのに」

 

 返事の代わりに、バシリと音を立てて下駄の歯がヤタカの頭を蹴り飛ばす。

 

「痛いって……死に損ないにすることかよ……この……クソ下駄」

 

 くくく、と力なく喉を鳴らしてヤタカが笑う。

 

「ゲン太、道は解るか?」

 

 カラン

 

 下駄の歯をひと鳴りさせて、カラリコロリとゲン太が先を行く。

 左手で膝を押さえ、右手を壁に当てながらゆっくりとヤタカも歩き出した。

 ない体力なら後から利子を付けて払ってやる、と自分の体に言い聞かせる。思い浮かべるイリスとわたるの顔が、ヤタカの足に力を与えた。

 なにより、

 

――クソ下駄の前で、歩けないなんて弱音を吐くくらいなら……死んだ方がまし

 

 胸の内の呟きに、にやりと口の端を上げたのも束の間、すぐに歯を食いしばり少しずつ歩調を早めた。緩慢な動きだが、今はこれが限界だ。

 壁に手を這わせて進む中、脇道が幾つも存在していることに気付いたヤタカは首を傾げる。

 

「ゲン太、本当にこの道で合っているのか?」

 

 カカカーン

 

 黙ってついて来いというのだろう。

 湯気がでそうなほど、鼻緒を三角に立てるゲン太の姿が目に浮かぶ。

 イリスを思って、今すぐにでも駆け出したいのはゲン太も同じ。動けるというのにヤタカの歩調に合わせているゲン太の方が、余程に辛く焦りは増しているのかも知れない。

 

「あの時、飛び込んできた影はおまえか。ありがとな……て、いってぇ!」

 

 わざと蹴り上げられた小石が、ヤタカの額にぱしりと当たる。

 額を撫で苦笑しながら、ヤタカは心の中でイリスとわたるに思いを馳せた。

 

―― 無事でいてくれ

 

 痛みが引けば、削がれた気力も少しは戻る。

 

「ゲン太、もう少し急ごう。俺なら大丈夫だ」

 

 カラン

 

 歩調を早めるヤタカの目には、闇に光る獣に似た鋭さが宿り、閉ざされかけた未来の先を真っ直ぐに見据えていた。

 

  

 




 読みに来て下さったみなさま、ちらりと覗いてくださったみなさま、ありがとうございました!
 固めお話が続いたな……

 では!


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23 ヤブカラシ――甘い香りに死は隠れる

 

「おいゲン太、完全に道を間違っただろう?」

 

 目を細めるヤタカに、ゲン太はぶるぶると鼻緒を振り、間違っていないと主張する。

 いくら違っていないといわれても、人ひとりがやっと這って出られる、横に長く狭い隙間を通って外へでたヤタカが目にしたのは、最後に見た景色と似ても似つかないものだった。

 大きく息を吐きだし、文句を続けようと開けた口を何とか閉じた。

 

「まいったな。これじゃイリス達を見失った街道が、どっちにあるのかわかりゃしない」

 

 地面に傾斜が見られないから、山というより林に近い。山に囲まれた街道なら、山裾に広がる林を両脇に抱える場所もある。イリス達と離れた街道から、あまり遠くないことを祈り、ヤタカは小さく舌を打つ。

 

「傾いだ太陽があそこ。あっちには山が見える。だとしたら、少なくとも街道はこっちの方向か」

 

 まだ軋む体にむち打って歩き出そうとしたヤタカの横で、カンカンと木肌が打ち鳴らされた。

 

―― これ

 

 ゲン太の鼻緒に引っかけられていたのは、紫の棒アメだった。引き摺られて、すっかり土まみれになっている。

 

「これを食わないで済んだのは、ゲン太のおかげか。世話をかけたな」

 

 身を捩り、ゲン太が紫の棒アメを地面に転がした。

 

――これ すてる

 

 目を閉じ思考を巡らせたヤタカは静かに首を振り、転がった土まみれの棒アメを拾い上げる。

 

「これは俺が持っている。イリス達には内緒だ」

 

 取り返そうと下駄の歯で跳ね上がったゲン太の鼻緒は、紫の棒アメには届かない。

 

「心配するな。食う気なんてさらさらない。敵を撃退するのに使えるかも、だろう?」

 

 コトリと前の歯を落とし黙り込んだゲン太を小突いて、ヤタカは歩きだした。

 平気で歩ける体ではない。それでも今は、平気な振りをするしかない。イリスとわたるを救えなければ、味わった苦痛もゲン太の頑張りも、何一つ意味を持たなくなるのだから。

 

『死にたくなったら、水場で紫のアメを噛み砕け。水の器は体を抜けて水へ逃げ込む。おまえは、どんな方法より楽に死ねる』

 

 ゴザ売りの男の声が脳裏を過ぎる。

 あの男、いったいどこまで知っているのか。イリスを守ると決めた以上、これを口にする気など無い。だが、イリスを守るため口にする日が来るのなら、決してゲン太を苦しめない方法で、とヤタカは心に誓う。

 死へと導く紫の棒アメをヤタカへ返してしまったことを、ゲン太が後悔しないように。 生意気なクソ下駄が、気に病まないように。

 馬鹿下駄が、小さな心を痛めないように。

 一人静かに死出へ旅立とう。

 まるで自然に命尽きたように。

 あるいは、不慮の災難に見舞われたように。

 

「そう思うくらいには、おまえのことだって大事に思ってんだぜ?」

 

 小さく呟くヤタカの声は、後ろをとぼとぼ歩くゲン太には届かない。

 それでいい。

 ヤタカが大きく肩で息を吐いたとき、かん、とひと鳴りしてゲン太が駆けだした。

 

「ゲン太、どこへ行く!」

 

 どんなに気力を振り絞っても、駆けていくゲン太に追いつく力は残っていない。

 

「ゲン太!」

 

 先の茂みから、呼ぶように下駄の歯を打ち鳴らす音が響く。時折鳴らされるその音だけを頼りに、ヤタカは歯を食いしばって足を進めた。

 胃の残留物を押し上げて、時折口に溢れる白く苦い泡を吐き出しながら、林を駆け抜けるゲン太が揺らす草の茂みの葉先を追った。

  

 急流の波頭を思わせる草の波が不意に止まる。

 二人を見つけたのかと思ったが、喜びの下駄の音は響かない。さして広くは無さそうだが、林の中にぽかりと開けた空間があるのが見て取れた。ゲン太が足を止めたのはその手前。頭の中に響いた警鐘に、身を沈めてヤタカも足を止めた。

 

――慈庭との山歩きが、こんなところで役に立つとはな

 

 木葉を揺らすそよ風は、ヤタカとゲン太が『何か』の風下に立つことを教えてくれる。 森に籠もるときは、野生を相手に狩りで勝てなければ腹は満たされなかった。

 あの頃の訓練は、痛みと共にヤタカの体に染み込んでいる。

 獲物によっては、しくじれば返り討ちに遭い死を招く。命を繋ぐ食事を取る行為が、本来命懸けのものなのだと知ったのもその頃だった。

 風下であれば臭いで感づかれる心配はない。形を持たない気配もそう。

 ヤタカは更に腰を沈め、音を立てないように足を進めた。

 歩いて行くヤタカの頭、肩、腰の高さは、まるで鋼に固定されているかのように動かない。

 枝や枯れ葉を避け、柔らかくしなる草のみを漕いで滑るように進んでいく。

鍛錬された足はつま先からしなやかに草の隙間に滑り込み、そよ風にさえ揺らぐ柔らかな葉先を、必要以上にしならせることはなかった。

 

――ゲン太

 

 木の根元にぴたりと身を寄せ縮こまるゲン太にヤタカは視線を送り、動くなと手の平で指示をだす。

 ゲン太が足を止めた先には狭いながらも空間が開け、真ん中に一本立つ木の向こう側に二つの影が見えた。

 

――わたる

 

 ゲン太の木肌に文字が浮かぶ。

 そっと覗き見ると、木の陰から僅かにはみ出している着物の裾には、確かに見覚えがあった。

 

――イリス いない

 

 わたるの向こう側には、黒い作務衣の肩が見える。薄茶色の笠の端がある高さからして、おそらく男だろう。

 だらりと下がった手には、小型の刃物が握られていた。指先で摘むように緩く握られた柄が、わたるに対して男の方が上位に立っていることを暗示している。

 木立にすっぽりと身を隠し、ヤタカは必死に思考を巡らせ、目を閉じて脳裏に焼き付けた映像を探っていく。

 二人しかいないように見えた木の周りには、大きく草を押し潰したようにへこみが点在していた。

 

――人が倒れているのか?

 

 紅花虫が造りだす帯の向こうに垣間見えた、幾筋もの黒い影が倒されたとして、やったのはどっちなのか。策を巡らせて罠を張るなら、医術と高い薬草の知識を持つわたるにも、人間を倒す、あるいは殺すことは可能だろう。だが、体技で襲ってきた複数の手練れを相手に打ち勝てるとは思えなかった。黒い作務衣が倒したのなら、なぜ今、刃物を手にわたると向かい合っているのか。

 

――いったい何者だ

 

 イリスの安否を確かめに飛び出したい衝動に駆られたが、拳を握ってヤタカは堪える。 何が起きたのか正確に情報を伝えてくれるのは、わたる以外に考えられない。

 わたるは今、人質に取られているのとかわらない。だからこそ、下手に動けば全てを失うことになる。

 

――どうする、考えろ!

 

 幹の横からそっと様子を覗いに顔をだしたヤタカは、予想していなかった恐怖に目を見開き体を凍らせた。

 

――なぜだ? どこから湧いてきた!

 

 風下に居たというのに、気配さえ感じなかった。

 交差して飛び交う無数の影が、ぴたりと静止して人の形をなす。

 手にはそれぞれ形の違う刃物が握られ、黒い頭巾の隙間からのぞく双眼からはなんの表情も伺えない。

 わたるの袂が、びくりと揺れた。

 総勢八人の黒装束を背にしても、作務衣を纏う男の笠は微動だにしていない。

 

――仲間か……いや、違う

 

 男が両腕を上げ、ゆっくりと離れていく。

 上げた手の肘まで作務衣の袖口が下がり、男の腕が露わになる。勝手にしろと言わんばかりにひらひらと指先を振り、踵を返した男の腕を見たヤタカは、ひゅうっと音を立てて息を呑み込んだ。

 腕に並んで刻まれた二本の傷跡は、無防備なままヤタカを敵の前へ引きずり出すに十分

な衝撃だった。

 衝動のままに踏み出した三歩が草を踏み、落ちた小枝を折る音が響く。

 一斉に黒装束の視線が集まり、その気配に気づいた作務衣の男が笠の前を深く下げて、僅かに振り向きヤタカを見た。

 横顔の鼻から下しか見えない男の口元が嗤ったように見えたのは、ヤタカの思い込みだろうか。

 

「動かないで! ヤタカ、動いてはいけない」

 

 凜としたわたるの声が木々に木霊し、俯いたままのわたるがゆっくりと姿を見せた。

 咄嗟に踏み出したヤタカを止めようとしたゲン太は、勢いのまま蹴り上げられて前方へと飛ばされた。

   

「わたる、大丈夫なのか? そいつらは何者だ! 作務衣の男を知っているのか?」

 

 わたるを責める気などなかった。焦りに荒げられた語気に、わたるは薄く下唇を噛み眉根を寄せて目を閉じた。

 作務衣の男は興味を失ったように、再び背を向け木が茂る林の向こうへと歩き出す。

 

「待て! おまえ、泉で俺を引き上げ、首筋に毒を打ち込んだ奴だろう?」

 

 声を抑えてヤタカが問う。

 男の歩調は緩まない。

 

「聞いてんのか!」

 

「動かないで!」

 

 ザッと踏み出したヤタカを、再びわたるが押し留める。

 

「どうする気だ? なぜ止める? あの男のことだけじゃない。これだけの人数を相手に、俺が加わっても太刀打ちできるかわからないんだぞ!」

 

 目を閉じたまま、わたるがゆっくりと頭を振る。

 

「言っただろう?」

 

 その声は、敵に囲まれたこの場にそぐわない柔らかさを持って草の先を撫でて広がる。

 

「今回だけは、わたしを信じていいって。でもね、いってはみたが、あんな約束しなけりゃ良かったって、とんでもなく後悔しているよ」

 

 作務衣姿が、林の向こうに呑まれて消えた。

 

「せめてもの救いはヤタカが現れたから、あの男に見られなくて済んだことかねぇ。イリスなら心配ない。今は夢の中だから」

 

 わたるを囲む黒装束の間合いが、じりじりと詰められていく。まるで今はヤタカになど興味がないと言わんばかりに、わたるを中心に敵の包囲が狭められる。

 イリスの身が無事だったことを、ゆっくり喜んでいる暇などなかった。

 正体不明の敵に囲まれながらも、イリスの無事を知らせてくれたわたるが危機に直面している。そして敵の包囲網は、目に見えて縮まっていた。

 あの男の正体も、黒装束の目的にさえ構っている余裕はない。

 

「わたる! 逃げろ!」

 

 草地を蹴ってヤタカが飛び出したのと、黒装束の集団が胸の前に刃を構えたのが同時。

 

頓悟(とんご)

 

 全方向に波紋を広げた、柔らかな声の中心にいるのがわたるだと気付いても、ヤタカは自分の耳を幾度も疑った。

 刃を構え前傾姿勢をとり、今にもわたるに向けて突進しようとしていた黒装束達の動きは、黒い切り絵のように止まっている。

 全ての動きを静止させた声色は、聞き慣れたわたるのものではなかった。

 夏の風に揺れる鈴のように、あるは冬の薄氷がひび割れるような、相反する幾つもの声を合わせて耳にした違和感に、ヤタカの三半規管は戸惑い筋肉を司る神経はびくりとも動くことを許さなかった。 

 

 全ての者が動きを止める中、わたるはゆっくりと左のこめかみに手を当て、力を込めて擦り上げる。

 動きを止めた黒装束の視線を集めたまま、いつもは頬にはらりとかかる長い横の髪が、

白く細い指先でかきあげられた。

 

(かい)

 

 前傾姿勢になっていた、黒装束と共に、ヤタカの体も見えない支えを失って膝をつく。

 黒装束達の視線は、髪を掻き上げられたこめかみへと集まり、ヤタカと同様に膝をついたまま驚愕に目を見開いているのが遠目にも見て取れた。

 呆気に取られたヤタカが、体が自由に動くことに気づき立ち上がろうとしたとき、視線を向けることなくわたるの手の平がすいと上げられた。

 

「そこを動かないでおくれ。あまり近付くと、ヤタカまで術に嵌めてしまう」

 

 体は自由だというのに、動けなかった。

 

「今はまだあたしを信じていいよ。だってさ、まだ約束を果たしていないからねぇ。イリスと約束しちまったんだ。色気も素っ気もない布に、刺繍をしてやるってさ」

 

 駆け寄ってきたゲン太が、動くなというようにヤタカの足先に下駄の歯をかける。

 

「その後はどうなる……」

 

「前にもいっただろう? あたしみたいな人間を信じていたら、命が幾つあってもありゃしない。だから、今回だけだよ」

 

 向けられていた手の平がすっと握られたかと思うと、ヤタカへ向けて真っ直ぐに指先が解き放たれた。

 

「いったいなにを……くそっ」

 

 太ももを押さえたタカは、がくりと片膝を着く。

 右の太ももに、吹き矢に似た円錐状の矢が刺さっていた。

 何かしらの薬物が塗られているのだろう。

 

「動け、クソ! があああぁぁぁ!」

 

意識を完全に保ったまま、四肢の自由だけが利かない状態に、ヤタカは腹の底から咆哮した。

 

 動きを押さえられていない黒装束達は、体勢を変えて一様に尻で後退り、まるで化け物を見たかのようにわたるを凝視している。

 

「この世に居るはずのないモノがいた……そういいたいのかい?」

 

 髪を掻き上げた手をそのままに、露わになったこめかみを見せつけるように、わたるはゆっくりと黒装束へ近づいていく。

 

――どういうことだ? 顔見知りなのか? いや、そんな筈は……

 

 わたるがこめかみを見せるまで、黒装束の集団は明らかにわたるを仕留めようとしていた。人を襲う殺すという行為は、この世のどこでも起こりうる。

 だがそれが一般的な人の生活で行われるならいざ知らず、この状況でわたるが狙われる理由がわからなかった。

 どこかで気を失っている異種宿りのイリス、異物憑きのヤタカが二人揃うところに、得体の知れない者達が刃物を手に現れたなら、自ずと的は決まってくる。

 標的にされるべきはイリスとヤタカ。

 不遇な幼少期を抱えているとはいえ、高い医術を除けばわたるはか弱い女性に過ぎない。

 ヤタカはそう感じていた。

 わたるを襲う理由は何だ。どれだけ記憶を手繰っても答えは見つからない。

 ヤタカの場所から見えるわたるのこめかみは、すっと通った眉尻が流れる抜けるような白い肌にしか見えなかった。

 

――あいつらには、何かが見えているのか?

 

 一歩、また一歩とわたるが黒装束の近くへ足を進めていくと、後退っていた腕は震え、ヤタカの場所からでも頭巾を被った頭部が、がくがくと震える様が見て取れた。

  

「結局、見つけられなかった……そうだよねぇ?」

 

 覗き込むように顔を近づけたわたるを恐れながら、視線を外せない恐怖に囚われているのだろう。黒装束の頭部が、わたるの言葉に不必要なほど大きく何度も頷く。

 

「いい子だ」

 

 ヤタカに向けられたままになっていた手の平がだらりと下がり、わたるはすっと姿勢を正した。

 

「直ぐに遠くへお行き。余計なことは……全て忘れておしまい」

 

 ヤタカの体は動かない。太ももに刺さった矢を抜くことさえできずに、ただ成り行きを見守るしかなかった。

 

漸悟(ぜんご)

 

 あぁ、またあの声だ。

 ヤタカは、再び脳がくらりと揺さぶられる感覚に眉根を寄せる。だがそれは、わたるが放った術の余波の端に触れただけのこと。ヤタカの神経に影響を及ぼすことはなかった。

 黒装束がひとり、またひとりと立ち上がり、弾かれたように踵を返して駆けだした。

逃げ出したわけではないだろう。体の震えは止まり、わたるやヤタカのことが見えていない振る舞いを除けば、目的に向けて動く統制の取れた部隊そのもの。

 何より不可解だったのは、ここへ辿り着いたとき最初に見つけた草のへこみから、幽霊のごとく起き上がってきた黒装束を纏う者達も、何事も無かったようにこの場を後にしたことだった。

 

――見えていないのか?

 

 何一つ理解できないまま、静まりかえった林のなかヤタカは放心していた。

 

「下駄の坊や、いるんだろう? ちょっと頼まれておくれよ」

 

 いつものわたるの声だった。

 目の前で起きた光景を見ていただろうに、ゲン太は躊躇することなくわたるのもとへ駆けていく。

 直ぐに戻ってきたゲン太は、棘だらけの葉をさけるように茎を鼻緒に巻き付け戻ってきた。それを見たヤタカは目を丸くする。

 

「おい、止めろ? それは煮て棘を柔らかくしてからすり潰して……おい!」

 

 ヤタカの声を無視して高く跳ね上がったゲン太の鼻緒から、ひらりと葉が解き放たれる。

 

「ばか! 止めろってクソ下駄!」

 

 袖を捲り上げ剥き出しになったヤタカの腕の前まで、はらりと落下した葉を目掛けてゲン太が直角に蹴り込んだ。

 感じているのが無数に刺さった棘の痛みなのか、クソ下駄といわれて必要以上に全力で飛び込んだ、ゲン太の蹴りが与える苦痛なのかさえ解らないまま、ヤタカは腕を抱えて地面に転がった。

 腕には大小の棘が刺さり、棘先に含まれる僅かな毒素が点々と赤い膨らみつくりだす。

 

「一応礼をいうべきか?」

 

 大の字になってヤタカが息を吐く。

 

「体の痺れは取れただろう?」

 

 言葉とともに、木に凭れてわたるが腰を沈めていく。

 

「約束どおり、無事に帰ってきたねぇ。イリスはここで眠っているけれど、自然に目が覚めるまで待った方がいい。この薬は副作用が無い代わり、無理に起こすと頭病みが辛いからさ」

 

「そうか」

 

 駆けていったゲン太が大人しいということは、イリスは本当に眠っているだけなのだろう。腕に刺さった細かい棘を抜きながら、ヤタカは言葉を選ぶ。

 どれほど遠回しでも、どんなに真綿に包んでも、口にする言葉の全てがわたるを突き刺す気がした。

 

「なぁ」

 

「うん?」

 

「本来わたるが居るべき場所は……ここじゃないんだろう?」

 

 俯いたまま答えないわたるに代わって、空の高いところで小鳥が鳴いた。

 

「ほんとうは、親爺さんがやっていたことを、知っているんじゃないのか?」

 

「あぁ」

 

 見上げた空の高い所を、白い雲が形を変えて流れていく。

 

「それぞれの思惑を抱えた者達の助けがなければ、俺は記憶を岩肌に写したあの場所で死んでいた。死ぬはずだった。そしておまえは、そのことを知っていた?」

 

「知っちゃいないさ。それに死なないと思っていた。下駄の坊やがそっち側へ飛び込んだとき、ヤタカは生きて戻ると確信した」

 

 そうか、とヤタカは頷いた。

 林の奥が騒がしい。羽根の音が聞こえるのは、気のせいだろうか。

 

「独り言だと思って、聞き流して構わない。奴らに見せたこめかみには、いったい何がある?」

 

 横目で眺めるわたるは背を丸め、指先で横髪を摘んで静かに垂らす。

 

「あたしが後ろ髪引かれることなく、父様の意思を継げるように。誰とも近しくならないように。誰も寄りつかず、独り生きることを余儀なくするために、父様があたしに残した遺産だよ。負の遺産……かねぇ」

 

 かける言葉を口の中で転がしながら、ヤタカが体を起こしたとき、奥の林から七羽のカラスが大きく羽根の音を響かせ目の前を通り過ぎた。

 灰色の綿毛がふわふわと天高く昇っていく。

 

「ヤブカラシ……か?」

 

 普通の藪枯らしから取られた異名だが、絡まれば藪さえ枯らすといわれる藪枯らしと違い、ヤブカラシは縁起が悪いと忌み嫌われてきた。

 独特の甘く濃い香が立ち籠める。

 カラスの羽根が種となる綿毛を運ぶこと以外は、なんら普通の植物とかわらない。

 迷信にも近い話だというのに、空高く昇ってヤブカラシが見えなくなっても、ヤタカはじっと空を眺めていた。

 

「ヤブカラシが姿を見せたとき……その場に居合わせた誰かが、命を落とす」

 

 ヤタカの呟きに空を見上げたわたるは、見えなくなったヤブカラシに手を伸ばす。

 

「ヤブカラシが現れたから、誰かが死ぬんじゃないさ。誰かが死ぬから、ヤブカラシが姿をみせるんだから、ねぇ」

 

 わたるは目を閉じ微笑む。

 ヤブカラシが残した、濃く甘い香りがヤタカの胸を騒がせた。

 

 

 

 

 




 読みに来て下さったみなさん、ありがとうございました!
 サブタイトルの、もはや天才的なセンスの無さは……ご勘弁を(笑)
 では!


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24 疑惑の水面に揺れるのは

 わたるは俯いて瞼を閉じたまま過ぎる時間を受け流し、ヤタカはヤブカラシが舞い上がった空を眺め、無言のまま日が西へと傾いていった。

 ヤタカの体は癒えることなくあちらこちらの筋肉が軋み、こうやって一度動きを止めるとなおのこと、尻をずらすのさえ億劫だった。

 毒の影響なのか、水の器はすっかり息を潜めている。そもそも宿主が受けた毒が、異物にどれほどの影響を与えるかなど、本当のところは誰にも解らない。

 

「気にし過ぎだよ。ヤブカラシが消えた空を眺めていたって、何もかわりゃしない」

 

 目を閉じたまま、わたるがいう。

 

「そんな風に見えたか? 疲れただけだ。病を持つ者なら、死期が近づけば発する何かがあるだろうが、ただの人の生き死にを、簡単に見通されてたまるもんか」

 

 わたるが胸元にかかる黒髪を、くるりと指に巻き付けてはするりと放つ。

 

「人の死は体だけじゃない。心から先に死んでいくこともあるんだよ。死に囚われた思考に反応して、ヤブカラシが姿を見せたのかもしれないだろう? ここに居合わせた誰かなら、去っていった黒装束の連中の誰かってことも有り得るんだからねぇ」

 

「そうか? そうかもしれないな」

 

 そんなこと、これっぽっちも思っちゃいないだろうに。

 うっすらと瞼を開きぼんやりと空を眺めるわたるの横顔に、ヤタカは呑み込んだ言葉の代わりに苦い息を吐き出した。

 ヤブカラシは、死の何かを嗅ぎつけて姿を現す。死の影を漂わせる者に惹かれて姿を見せる。そして死の影を忍ばせる者もまた、ヤブカラシの気配に惹かれて、必ずその姿を目にする。

 そう伝えられてきた。

 わたるが、それを知らないわけはないだろう。

 眠り続けるイリスの側に付き添って、ゲン太はヤタカなど眼中にないらしい。

 自分に万が一のことがあったとき、ゲン太はイリスを守ろうとしてくれるだろうか。

 ゲン太が自分を助ける理由などわからない。ヤタカに何かあればイリスが悲しむから、そんな思いかもしれない。同じように理由はわからないけれど、ゲン太はたとえその身を焼かれることになろうと、イリスだけは守るだろう。

 たとえ守り切れなくても、命尽きるまで守るだろう。

 

――俺がいなくなっても、大丈夫か

 

 ゲン太という細く脆い糸に全てを託そうとしてる自分に気づいて、ヤタカは苦笑いと共に鼻からふっと息を漏らす。

 

「なあ、そっちにいってもいいか?」

 

「あぁ、かまわないよ」

 

 奥歯を噛みしめ立ち上がったヤタカは、膝を片手で押さえながら、なんとかわたるの横まで辿り着く。

 わたるの手が届くほど近くに、ぽかりと口を半開きにして眠る、穏やかなイリスの寝顔があった。胸の中でほっと息を吐き、ヤタカは草むらに腰を下ろす。

 

「これが、気になっているんだろう?」

 

 視線を合わすことなく、わたるがさらりとした横髪を掻き上げた。

 

「何も、ないな。俺には、何も見えない」

 

「イリスのお嬢ちゃんには内緒にしてくれるってんなら、見せてあげるよ。減るもんじゃないからさ」

 

 ヤタカが訝しげに眉を顰めるのを見て、わたるは可笑しそうにくすくすと笑う。

 

「見たからって死んだりしないさ。これはただの呪い。あたしに刻まれた呪い」

 

 わたるがこめかみに手の平を押し当て、強く力を込めて擦り上げる。

 ゆっくりと擦り上げた手の平が過ぎた後に、薄ら赤く浮かんだ痣を見て、ヤタカは目を見張った。

 

「いったい誰が……こんなことを」

 

 女性に刻まれるべき文様ではなかった。

 わたるの透けるように白い肌が、薄ら赤い痣を異様に際立たせる。

 

「この印は、あたしだけに刻まれたものじゃない。」

 

「え? どういうことだ?」

 

 ヤタカは言葉を失って、ただわたるの横顔を注視する。

 

「あたしが見たのは、母様の肩だった」

 

「どうしてそんな……」

 

「あたしは嫌いじゃなかったよ。あの頃は、それが示す意味も知らなかったしねぇ。あれも含めて、大好きな母様だった。真っ白な母様の肌に赤紫に浮かんでいたのは……細く長い足を持つ蜘蛛だった。あたしのと、何ら変わらない蜘蛛だった」

 

「まぁ、あたしや母様に刻まれた印は……痣じゃないし、彫り物とも違う」

 

「それなら、いったい何だという?」

 

「父様は、御印(ごいん)と呼んでいた。大層な呼び名だよねぇ」

 

 わたるのこめかみで、薄ら赤い蜘蛛の御印が薄れていく。

 薄れ行く蜘蛛の長い足先がもぞりと動いたように思えて、ヤタカは眉尻をぴくりと上げた。

 

「最初の一人が誰かなんて、今更わからない。なにしろ古い家系だからさ」

 

 わたるの指先でそっとなぞられた肌の下、薄ら赤い蜘蛛が今度は確かに、ざわりと身じろいだ。

 

「御印は母から娘へ受け継がれてきた。娘を産めば、本当にただの痣になって残るだけ。生き物の本能なんだろうね。宿り主の中に、更に生命力に溢れた個体が現れたら、こいつらはそっちに宿替えする」

 

「まさか」

 

「御印なんて大層な名で呼ばれようと、こいつの正体は変わらない。異種だよ。あたしは異種宿りの家系に生まれた……ただ、それだけのこと」

 

まぁ、異種とはいってもこいつは相当特殊だが……そういってわたるはそっと睫を伏せる。

 何度となく目にしてきた異種宿りの末路が目に浮かび、ヤタカの背筋をぞわりと怖気が這い上がる。

 

「ただの痣になるってことは、そいつらがおまえを苗床にして花開くことはないんだな?」

 

「聞いたことがないねぇ。老いて宿り主の意味をなさなくなるまえに、大抵女は子をつくる。不思議と一人は女の子に恵まれるらしい」

 

 異物憑きの家系なら耳にしたことがある。その場合、宿り主が亡くなると、その家の一番若い者に異物は宿替えするという。だがこれも伝承に近い。地方を歩き回った者が昔に残した見聞録にしか、その存在は記されていないのだから。

 だが異種が同じ家系で受け継がれていくなど、ヤタカの持つ知識の範疇ではありえなかった。土や木に芽吹き、その後血肉を持つ生き物を苗床とする。そして宿り主の命が尽きるとき、彼らは必ず花開く。

 開花することなく、人の体に宿り続ける意味はなんだろう。本当に、そんなことが有り得るのか。寺が全てを把握していたわけではない。だが世に知られていない数多の現象を把握していた。その文献から漏れているとなれば、よほど稀少で永い年月の間巧妙に隠されてきたことになる。

 

――わたるの父親は、いったい何者だ?

 

 行き着く疑問はそこだった。

 わたるが己の進む道を決めかねているというなら、その先の一本の道には間違いなく父親の遺志を継ぐ、というものが含まれているはずだろう。

 

「そんな顔をしていないで、訊きたけりゃおききよ」

 

 ヤタカへ細く視線を流して、わたるは幼子をあやすように微笑む。

 

「父様は、寺に出入りしていたのさ。けれど、寺はこの御印の存在を父の死ぬ直前まで知らなかった。先代も、その前の古い先代もずっと寺に出入りする医術師だったよ。けれど御印のことが知られたことはない。これは一族の最たる秘密。切り札だからねぇ」

 

 わたるの言葉が、ヤタカの胸に突き刺さる。

 

「それじゃあ、父親を殺したのは、寺の者なのか?」

 

 張りついた喉から、掠れた声を絞り出す。

 

「さあね。母様は知っていただろうけれど、何も教えてくれなかった。けれど母様は、ひと言だけ残してくれた。一族の意思に仕来りに囚われることはない。人として、生きてごらん。そういったのが最後だねぇ」

 

 子供には呪文みたいな言葉だった、そういってわたるは膝先に笑みを落とす。

 

「寺さえ知らなかったなら、あの黒装束達は、なぜわたるを見て怯えていた?」

 

「まるで幽霊をみた気分だったろうさ。父様が亡くなり、寺が崩壊して一族は散り散りになった。身を潜めて、並の医術師として食いつないでいる者もいるだろう。生きる意味を見失い、寺でもなく己の一族でもない一派に、身を投じた者もいると聞いた。さっきのは、そんな連中だ。手にしていた刃の使い方が、一族独特のものだったからさ」

 

「なぜ、わたるを狙う?」

 

「正確にはあたしを狙ったんじゃない。ヤタカが居ない隙を狙って、イリスを連れ去りたかっただけさ。そこに先客がいて、その男が立ち去ったと思ったら、簡単に片付けられる筈の女が、既にこの世にいないと思われていた御印を刻んでいたから、あいつらは震えたんだよ」

 

 この世から消えたと思われていたのなら、わたるは御印を連中に見せたく無かった筈。 なのに御印を晒した。母親が残してくれた、自由への選択肢を失うかもしれないのに。

 

「イリスを守るためか?」

 

「まさか、あたしはそんなにお人好しじゃないよ。さすがに得物を持った連中相手に勝てやしないから、仕方なくさ」

 

 これ以上は訊いても話さないな、ヤタカはそう思った。

 

「なぁ、イリスの布に刺繍をし終わっていないから、まだ信じていいんだよな?」

 

「あぁ」

 

「もう少しの間、イリスの側にいてやってくれ。俺は、会っておきたい奴らがいる。得られるのが最悪の答えでも、知っておかなければ前に進めない」

 

「そうかい。生きて帰ってくるなら、かまやしないよ。今宵は月もでそうだし、イリスがいれば獣の心配もないだろう? 小さく明かりを灯して、刺繍でもしているさ」

 

「御印が本当なら、わたるも獣の心配はないだろう?」

 

ふふふ、とわたるは小さく笑った。

 訊きたいことはまだまだある。先客と称したあの男の正体を、わたるは知っているのだろうか。御印の存在意義は何なのか。

 わたるは、進むべき道を選んだのか……それは本当に、多少なりとも触れたこの袂を分かつものなのだろうか。

 考え出せば切りがない。ヤタカは頭をひとつ振ると、痛む膝を押さえて立ち上がった。

 

「行ってくる」

 

「街道なら、あっちの方だよ」

 

 顔を上げることなく呟くわたるは、暮れたばかりの薄闇の中、指先をじっと見ている。

 ヤタカが歩き出すと、草を掻き分けてついてきたのはゲン太だった。

 

「おまえ、残ってイリスを見ていなくていいのか?」

 

――いく

 

 頑固な下駄に、説得したところで始まらないと判断したヤタカは、ひとつ頷き木の茂る森の中へと入っていった。

 山の縁に、白く丸い月が浮かぶ。

 振り返ったヤタカが目にしたのは、五本の指先を上に向けて持ち上げ息を吹きかけるわたるの姿だった。まるで指先から何かが飛んで行ったとでもいうように、わたるの視線はゆっくりと森の暗がりへと向けられる。

 

「ゲン太、わたるにイリスを預けても、いっていいんだよな?」

 

 ヤタカの呟きに、ゲン太が小さくかん、と木肌を打ち鳴らす。

 見えない何かを手繰り寄せる仕草を繰り返していた、わたるの動きがぴたりと止まる。

 鳥達さえ押し黙る森の闇から、ふわりふわりと漂いでてきたのは、五つの揺れる灯りだった。提灯越しに見える蝋燭の灯りのように淡く揺れながら光を放ち、ゆっくりとわたるを囲んで動きを止めた。

 するりと草藪から腕を引き抜いたわたるの手に握られていたのは、イリスの目を覆う白い布。

 

「本当に刺繍をするつもりか」

 

 妖しく揺れる灯りに照らされ、わたるがゆっくりと指先を動かしてく。

 

「ゲン太、行こう」

 

 街道を目指して真っ直ぐに足を進めた。

 たとえ敵にまわるとしても、それはもう少し先のことだろう。一度口にしたことを違える女ではない。短い付き合いの中とはいえ、ヤタカがそう確信していた。

 そう信じるしかなかった。

 

 

 

 街道へ向けて森の中を歩いていたヤタカに、意外な言伝が届いた。

 どんな言葉で呼び出そうかと、悩んでいたヤタカの元に届いたのは、幼なじみが発した『待っている』のひと言だった。

 

 足元に生える丈の短い草が忙しく揺れては擦れ合い、掠れた声となって待っている、を繰り返す。

 

「情報網は隅々までってことか」

 

 待っている、待っている。繰り返される言葉を聞きながら、ヤタカは足を進める。

 胸に浮かぶのは不穏な色ばかりだというのに、瞼に浮かぶのは、悪戯な笑みを浮かべる幼なじみ二人の表情だった。

 

――ばしょ どこ

 

 ゲン太の木肌に文字が浮かぶ。

 

「場所は街道の外れにある小さな横穴だ。子供の遊びで考えた、緊急連絡さ。大人になって自由になったら……あの頃は、それさえ絵空事だったから、本当に空想上の遊びだった。命に関わるような緊急事態が起きたら、待ってる、とただひと言を草の葉にのせて流そうと」

 

 心配げに前の歯を持ち上げるゲン太を指先で押さえ、ヤタカは笑って見せる。

 

「横穴は、たまたま三人で居るときに見かけたものを、ふざけてここにしようって。寺を出て直ぐのことだ。まさかこんなに早く、使う日が来るなんてな」

 

 街道の小屋でゴテをあて煎じ薬を飲んだ後、三人の言動にむくれたイリスの機嫌が直るまでと、山の方に少し歩いていた時に見つけた横穴だった。昔話に花が咲き、子供のころに空想した緊急連絡を現実のものにしようと盛り上がった。

 動物の巣にされないように、野グソが棘の生えた蔦を入口に張り巡らせ、ゴテは虫除けの香を穴の中で焚いた。

 こんな事さえなければ全てが片付いたとき、イリスに内緒で男三人、酒盛りをしようと話し合った場所だった。

 待ってる……その一言は、心躍る楽しい呼び出しであるはずだった。

 

「些細な楽しみだったってのに」

 

 ひとり溜息を吐き、まだ何か言いたげなゲン太を促し歩き始める。

 

――何もかも終わる日なんてくんのかよ

 

 蓋を開ければ、それが三人の本音だったのだと思う。だからこその約束だった。灯りひとつない道を進むしかないなら、せめて遠い所に、たとえ夢物語でも、手を伸ばしたくなる光が必要だった。

 

「ゲン太、なるべく人目につきたくないから、街道にそって森の中をいくぞ」

 

 力なく下駄の歯が鳴る。そして踝に小さく当たる感覚に、ヤタカは立ち止まった。

 

――あの おとこ

 

 浮かんだ墨が揺らいで消える。

 

――うでのきず

 

 次の文字が浮かぶまで、いつもより時間が空くのは、躊躇するゲン太の心のせいだろうか。

 

――しんじる だめ

 

「え? 最初から十分に敵対視しているぞ?」

 

 ゲン太が、ぶるぶると鼻緒を振る。

 

――ヤタカ なく

 

「は?」

 

――ないても

 

――しんじたい だめ

 

 そこでゲン太はぷいと鼻緒を背け、ずかずかと先へ進んでいった。

 

「意味がわからん。だいたい俺が泣くか?」

 

 呆れて首を振るヤタカを置いて、ゲン太はどんどん先をいく。

 

「おいゲン太、微妙に道がずれてっぞ? そっちじゃねえよ」

 

 鼻緒を萎らせたまま、ばつが悪そうに戻ってきたゲン太を軽く蹴飛ばし、ヤタカは先を急いだ。とはいっても体がいうことを利かない。舌を打ったヤタカは、懐から薬草袋を取りだし、その中から黄土色した丸薬をひとつ取りだし口へと放り込む。

 

「薬も毒も、合わせ飲みは良くないんだが、しかたない」

 

ヤタカの正気と体の痺れを取るためとはいえ、薬というより毒に近いアメを二つも口に入れてから、まだそれほど時間は経っていない。

 奥歯で噛み砕くと、川魚を生で噛んだような臭いが鼻孔へ上がってきた。

 そのあとに広がったのは、強烈な辛み。

 

「おえ」

 

 さすがのヤタカも嘔吐(えず)いたが、込み上げるモノを喉元で胃へと押し返し、ゆっくりと歩きながら薬効が細胞へ行き渡るのを待った。

 喉を焼いた辛さが胃の腑へと落ち、熱を持って全身に広がっていく。

 

「よしゲン太、走るぞ」

 

 全力とはいかなくとも、のろのろ歩いているより効率はあがる。横穴のある場所はここから近いとはいえない。幼なじみの二人と会って、別れるまで体が持てばいい。

 

――奇襲なんざ仕掛けられたら、そこで仕舞いだな。

 

 薬は体を回復させたわけではない。疲れと痛みを、麻痺させているだけのこと。

 

「ゲン太、俺に何かあったら、全力でイリスの元へ帰ってくれ」

 

 後ろを駆けるゲン太が、怒ったようにがんがんと木肌を打ち鳴らす。

 

「その時には、鼻緒が千切れても、全力で走りきってくれよ」

 

 逃げてくれとはいわなかった。ゲン太のなかの自分はヤバカのままでいい、そう思っていた。

 森の闇に浮かぶ光の玉はもうない。

 

 待っている……待っている……

 

 人の言葉を真似て擦れ合う草の葉の音だけが、ヤタカの耳に響いていた。

 

 

 

 

「ご丁寧なことだな。人払いしてやがる」

 

 横穴から少し離れて立つ木の枝に、目立たぬよう小さな香炉が下げられていた。この香は、並の人間には微かな悪臭として感じられ、本能的に足が遠退く。

 逆に知識を持つ者にとっては、ここで人払いすべき何かが行われていると感づくきっかけになるから、諸刃の刃だった。

 覚えたての言葉を繰り返す幼子のように、葉を擦り合わせていた森の草がしんと凪いだ。

 

「入ってこいよ」

 

 横穴の入口を覆う幾重もの枝葉を除けると、蝋燭一本の灯りの中、幼なじみの二人が胡座をかいていた。

 視線は膝へと落とされ、入口から顔を覗かせたヤタカを見ようともしない。

 

「取って喰うわけじゃないよな?」

 

 わざとらしくヤタカが戯けてみせたというのに、二人の首は力なく横に振られるだけだった。

 

「襲わない。殺しもしない。ただ話し合いが必要……だろ?」

 

「あぁ」

 

 入口の枝葉を綺麗に元通りに被せ直し、ヤタカも入口に腰を下ろす。ゲン太は身を潜め、中に入ってこようとはしなかった。

 

――その方がいい

 

 二人に姿を見られなければ、何が起ころうとゲン太は無事に逃げられる。異物であり異種を取り込んでいるにもかかわらず、それらに優れた臭覚を持つ連中にさえ気付かれずづらい、そんなゲン太の特性が、今ここで役に立ちそうだった。

 

「最初から、裏切っていたのか?」

 

 先に口を開いたのはヤタカ。

 野グソの整った顔に影が落ちる。ゴテは眉間に皺を寄せたまま、微動だにしなかった。

 

「俺と付き合ったのは、本来の家業の為か? 目的は……果たせたか?」

 

穏やかなヤタカの声が、横穴に響く。

 苦虫を噛みつぶしたように歪めた口元で、しぶしぶといった風に口を開いたのはゴテ。

 

「本来の家業のことは、幼い頃から知っていた。ただ、おまえが的になる可能性があると知ったのは、かなり後のことだ、それは野グソも変わらない」

 

「ヤタカに情報が漏れたと、最近になって伝達があった。素性がばれたら用済みだ。今は別の誰かが同じ役目を引き継いでいるよ」

 

 言葉を口から押し出すように、野グソがいう。

 解っていたことだというのに二人の口から直に聞かされると、思っていた以上に堪えるものがあった。胃の奥が、嘘という鉛を抱き込んでずしりと沈む。

 

「用済みになって途方に暮れた挙げ句、家業の信頼を取り戻そうとでも思ったか? なら、俺に手を出さないなんて綺麗事、どうやって信じればいい?」

 

 落胆が、ヤタカの語気を荒くする。

 表情を変えることなく、ゴテが真っ直ぐヤタカに向き直る。

 

「オレ達のことは今から話す。全て話す。信じろとはいわねぇよ。オレ達のことを信じられなくてもいい。ただな……ただ」

 

「ただ、なんだ?」

 

 ゴテと野グソの視線がほんの一瞬絡み合う。

 

「あの女だけは信じるな。何があっても、あの女にだけには気を許すな」

 

 鋭いゴテの視線に、思考を巡らせたヤタカの眉根が寄る。

 

「おまえ達に、わたると名乗った女だ」

 

 驚きにヤタカの目が見開いた。吸い込んだ息を吐けないまま、心臓が跳ね上がる。

 

「あの女だけは、信じるな」

 

 大きく吐き出されたヤタカの震える息に、蝋燭の灯りがぶわりと揺れた。

 

 

 

 

 

 




 見に来てくれた皆さん、読んでくださったみなさん、ありがとうございます!
 次話は懐かしの面々が、再度登場。
 訳のわからん植物も、わらわらと(笑)
 そんな予定です。 
 次話もお付き合いいただけますように……
 では!


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25 身代わり草

 一瞬頭が空白になった。

 何を信じるべきか、どう動くべきか決めて生きてこられたのは、ヤタカの中に揺るがぬ核があったからだというのに、その外殻が痛みを伴って脆く剥がれかける。

 この世に己の意志でどうにもならないことなど掃いて捨てるほどあるように見えて、その実は少ない。

 どうにもならないと呟いて、一歩踏み出せない言い訳にしているに過ぎない。

 少なくともヤタカはそう思って生きてきた。

 異物憑きになったこと、親と引き離された寺での暮らし。ヤタカにどうにもできなかったのは、これくらいだと思っている。

 だからこそ頭を真っ白にして無理矢理動き回ることはあっても、頭が空白になって動きを止めたことなどなかったというのに。

 

――真実は、どこにある

 

 わたるの赤い紅が浮かぶ、ゴザ売りのひねた口元、真一文字に閉じられた幼なじみの薄い唇、素堂の口元に寄った深い皺、笑わない慈庭の口。

 それぞれの唇が、異なることを口にする。

 ヤタカはきつく閉じた瞼をゆっくりと開く。

 

「何だっていうんだか」

 

「何がだ?」

 

 かつて友と呼んだ男の呟きに、野グソが訝しげに眉根を寄せ問いかける。

 

「妙なことだ」

 

 ゴテと野グソが腰を下ろす中間地点に突き刺された視線は、ヤタカが手放しかけた思考を取り戻したことを示していた。

 

「はっきりいえ」

 

 痺れを切らせたゴテが、チッと舌を鳴らす。

 

「俺達を襲った奴もいた。命を奪って異種と異物を取り出そうとした者も。自分達の組織の為、理念の為に俺を利用したのは……寺か。産まれ持った家業に従って、俺の側にいたのはお前達」

 

「裏切り者ばかりだな」

 

 野グソが、歯の隙間から声を漏らす。

 

「ふふ、てめぇで認めんな。こっちの立つ瀬がないだろうが。俺の前に面を見せた奴の中に、居ないんだよ。少なくとも、言葉を交わした者のなかに、根っからの悪党がいないんだ」

 

「おまえはお人好しか? それともアホか? そんな甘っちょろい考えを浮かばせてると、思わぬ所で足をすくわれるぞ」

 

 吐き出すようにいって、視線を逸らせたゴテは眉根を寄せる。

 

「すくわれるだろう―――な。だが、すくわれて転んだ後にしか見えないものもある。これだけ糸が絡んでいたんじゃ、先を見越して難を避けて歩くだけじゃ埒があかない。転んだ時に千切れた糸がにょろにょろと、他のどの糸と繋がるかを見極めるしかない」

 

「立ち上がれなくなる転び方だってあるだろう?」

 

 野グソが、ちらりと視線を向ける。

 

「あるだろうな」

 

 こめかみで視線を受け流し、ヤタカは小さく頷いた。

 

「だからこそ、目的をはき違えないことだよ。俺がこの先の道に望むのは、自分が白髪頭になって、呑気に縁側で茶を啜っている姿じゃない。孫を背負って、皺だらけの目尻を下げて歩くことでもない……まぁ、そんなことが叶うんなら、そりゃ幸せかもしれないが」

 

 望めやしないだろう―――

 

 軽口を叩くようなヤタカの口調に、幼なじみは僅かに顔を伏せる。その様子にヤタカはふっと息を吐き出すと、蝋燭の光にちらりと姿を見せる塵が、ふわりと浮いた。

 

「襲わない。殺しもしない……そういったよな?」

 

 ヤタカの言葉に、ゴテは小さく頷いた。

 

「その言葉に嘘がなかったから、俺はここに座っている」

 

「信じる……のか?」

 

 がしりと筋肉のついた足を組み替え、ゴテが問う。

 

「いいや」

 

 ヤタカはゆっくりと首を横に振る。

 

「殺そうと思うなら、俺がここに入った瞬間、意識を奪うことも命を奪うこともできたはずだ。俺は自分を弱いとも思っていないが、ガキの頃から見てきたお前達の力量を読み間違えてもいない」

 

「それは、ありがたい言葉だな」

 

 野グソの薄く整った唇が歪む。

 

「襲わない。殺しもしないといった後に仕掛けるとしたら、そりゃあ相当に意地が悪い。だがそうじゃない。おまえらには、俺が失意のどん底で悶え死ぬのを楽しむ趣味はないだろうし、騙して聞き出すに値する情報を俺は持っていないからな」

 

 だとしたら―――

 

「俺の知るアホな幼なじみ達は、本当に俺と話をしたかっただけということになる。俺から伝える情報はない。お前達の言葉を聞きに来たに過ぎない。俺に伝えたいことがあるなら、さっさと済ませろ。できるだけ、早くここを後にしたいんでな」

 

 顔を見合わせ頷き合ったゴテと野グソは、ヤタカを避けるように背けていた膝小僧を、真っ直ぐに向け直す。

 ゴテが懐へ入れた手に握られていたのは、黄ばんだ古い紙。

 ぐしゃぐしゃになるのも気にかけず、それを一度握り潰したゴテは、鼻紙でも捨てるようにヤタカへと投げてよこした。

 股の間に落ちた紙に手を触れることなく、ヤタカは方眉を上げ片膝を立てる。

 

「なんだこりゃ?」

 

「オレ達はおまえの力にはなれない。手を差し伸べることもできない。家を守るためだ。野グソもそうだが、家には先代から抱えてきた者達がいる。あいつらを、路頭に迷わせるわけにはいかないんだ」

 

「そうだな」

 

「イリスのことは、何よりも大切に思っているよ。全て捨てて、盾になれたらと思う。嘘だと思うだろうが、本気でそう思っている。でもね、それは許されない。青っちょろい考えで衝動的に動けば……自分達がどうなろうと構わないが、身内の者が狙われる。裏切りへの制裁は厳しい。それこそ容赦ないんだ。共に過ごしてきた身内の者を、そんな目に合わせられない。狡いと思うか?……思うよな」

 

 野グソが目を細め、真っ直ぐにヤタカを見据えながら握る拳に筋が立つ。

 

「お前達にとって、自分じゃ変えられないものは生まれ育った家だ。両親であり、家業。その家に生まれていなければ、俺とだって出会っちゃいない。野グソの家のおばば、ゴテを家で待っているチヨちゃん。あいつらを見捨てろというほど、俺は弱くない」

 

 守ってやれよ。守ってやってくれ―――

 

 ヤタカの呟きに口を開き駆けたゴテが、目を細め片膝をつき耳をそばだてた。

 ざっと立ち上がった野グソが、ヤタカが手に取らなかったくしゃりと丸まった紙をひっつかみ、無理矢理ヤタカの懐にねじ込んだ。

 

「ゴテの技術と丸薬がなければ、イリスもおまえも生きづらい。後釜は他の者に頼んであるよ。その子は訳あって中立の立場を貫いている。お前達のことも知っている」

 

「そいつは誰だ?」

 

「素性は明かせない。いや、誰も知らないんだよ。だが今は、唯一信用できる存在だ」

「裏切りを公言する野郎の言葉を、信じろってか?」

 

「イリスの為だ。だがこの先は、絶対に俺達を信じるな。何があろうと、おまえに本当のことは言わない」

 

「まったく、訳がわからんよ」

 

 戸口から遠い所で、下駄の木肌がかん、と鳴った。

 

「その訳なら、直ぐにわかるさ」

 

 更に遠ざかった場所で、下駄の木肌がかかん、と鳴る。

 横穴の入口からそよ風と共に流れ込む草の匂いが、一気に濃くなったことにヤタカは眉根を寄せる。

 

「この場所を教えた」

 

 後悔も感情さえ見せずにゴテがいう。

 

「囲んでいるのは、誰だ?」

 

 音を立てずに草をしならせ忍び寄る足に揺らされて、侵入者の存在を山の草木が知らせていた。ヤタカの為ではない。植物達の命を脅かす何かを、奴らが持っているから、山全体へ危険を知らせているに過ぎない。

 

―――毒か、火か

 

 危険を身内に知らせる、草の濃い香が鼻孔を撫でる。

 閉鎖された横穴に火を投げ込まれたら、やり方によっては逃げる暇さえないだろう。

 空気に溶けて流れる毒でも、この閉鎖空間は敵に味方する。

 ゴテと野グソがじりじりと、横穴の入口へ足を擦らせていく。

 

「素性がばれたからね、家を守るにはこうするしかない。イリスと引き離せて良かった。連れてきたら、どうしようかと思っていたよ」

 

 がしりと鍛えられたゴテの体と、野グソの線の細い影が逆光で影となり立ちはだかる。

 

「おまえに手を出さないと口でいったところで、信用するような連中じゃないんだ。ヤタカを引き渡すことのみが、家とこの身を守る唯一の護符となる」

 

 狭い入口に立たれては、おいそれと逃げることもできない。それでもヤタカは機会を覗った。横穴の周りを完全に塞がれるまで、一寸の時間がある。

 

 だがな―――

 

 ゴテが声を潜める。

 

「俺達を殴り飛ばして、外へ駆け出ることまで止めようとは思わない。そのくらいの失態なら、言いつくろうこともできる。まあ、表へ出てあの連中の手を逃れられるかは、おまえの運次第だ。腕で勝てる相手じゃない」

 

「だったら、痛い思いをするだけむだじゃないのか?」

 

 吐き出したヤタカの言葉に、ゴテが鼻から息を吐き口の端を上げる。

 

「だからいったろう? 運次第だ。砂粒ほどの運でも、無駄にすんじゃねえぞ」

 

 周りを囲んで、気配を消す必要もないと判断したのだろう。

 いくつもの足が草を踏む、しゃらしゃらとした音が微かに聞こえる。

 

――十人じゃ……すまない数だな

 

 たかが一人に、ずいぶんな人数をつぎ込んだものだ。

 さらに遠ざかった下駄の音が、無事に抜け出したことを知らせてかん、と鳴る。

 

――ゲン太、イリスを頼む。

 

 二人が止めないというなら、玉砕覚悟で横穴を飛び出すしかない。たとえ二人を盾に取ったところで、表の連中は二人ごと自分を射貫くだろうと思った。

 自分の何にそれほどの価値がある?

 いや、価値があるのはわかっている。わからないのは、価値がもたらす中身だ。

 

――何とかいえよ、このクソ野郎

 

 物言わぬ水の器に毒づいて、ヤタカは入口に向けて目を眇める。

 片足を引いて、駆け出そうとした。

 

「なっ?」

 

 押し倒すついでに一発づつ拳を喰らわせてやろうと思っていた、幼なじみの体が崩れ落ちた。二人の胸には、毒を仕込む為の細い吹き矢が刺さっていた。

 身構えて振り返ったが、背後にあるのは小石を多く含む乾いた土壁。

 訳がわからず入口に向き直る。

 毒矢を打ち込まれた二人は、入口を塞ぐように折り重なって倒れたまま微動だにしない。

 

――まさか死んだか

 

 何かを失った寒気が背筋を這い上がる。

 一瞬、敵に追い込まれた状態だということを忘れそうになる。

 一歩前に踏み出し、駆け寄ろうとした襟首を引く力に後方へと引き摺られる。

 振り返ろうにも、気道が締め付けられて首が回らない。

 裏切った幼なじみの姿が掠れていく。

 体がずるずると引きずられ、ヤタカはとうとう尻をついた。それでもヤタカを引く力はかわらない。

 

――背後の壁まで、さほど距離は無かった筈なのに

 

 歯を食いしばったヤタカの、首の付け根に重い衝撃が走った。

 自分を襲った者の正体を知ることなく、ヤタカは気を失った。

 

 

 

 鼻の穴に流れ込んだ水が喉元に詰まって、跳ね起きたヤタカはげほげほと噎せ返った。

 どれほど咽せても眼球が湿る程度で、決して涙を流すことのないヤタカの瞳が、注意深く辺りを見回した。

 水をかけた者が近くに居る。それを推測できる程度には、目覚めた意識。今すぐ殺すつもりがないから、水をかけてヤタカを目覚めさせたのだろう。

 重い痛みが残る首筋に手を当てると、いったいどれだけの衝撃を受けたのか、柔らかくぶよりと腫れ上がっていた。

「目が覚めたかよ」

 

 声変わり前の澄んだ声。生意気な口調が、ヤタカの記憶から少年の姿を引きずり出す。

 振り返ると、顎を逸らせて片目を細めた少年が、大きすぎる外套にすっぽりと身を包んで立っていた。片手を腰に当て、もう片方には空のバケツがゆらゆらと揺れている。

 

「シュイ? どうしてここにいる?」

 

「なに寝ぼけたことをいってんだ? 誰のおかげで助かったと思ってるわけ?」

 

「誰のおかげ?」

 

 シュイの片眉が、雷を受けたようにぴりぴりと歪む。

 

「オレ様!」

 

 勢いよく投げられたバケツが、小気味よい音を立ててヤタカの額を打って転がった。

 わかったわかった、といいながら痛む場所の増えたヤタカが口をひん曲げる。

 

「どうして居場所がわかった? それも謎の通路の情報網ってやつか? それよりあの横穴のどこに隠れていたんだい? 身を隠す場所なんて、どこにもなかっただろう?」

 

「宿屋あな籠もりの入口と同じ仕掛けだよ。横穴へ繋がる道は、おまえを引きづり出して直ぐに塞いだ。貴重な出入り口が、一つなくなっちまった」

 

「そうか、すまなかったな」

 

 細い縄暖簾に似た手触りを思い出す。見た目には、周りの岩や土と同化して見える不思議なもの。

 

「じっちゃんが行けっていうから。おまえなんか助けに来るのは、面倒臭くて嫌だっていったんだ。そしたら、お姉ちゃんを助ける為だっていうからさ。仕方ないだろう?」

 

 結局はイリスかよ、と舌を打ちながらヤタカは苦笑いする。

 

「なぁ、横穴でゴテと野グソを倒したのもおまえか?」

 

「うん」

 

「生きている……よな?」

 

「打ったのは眠り薬だ。半日もすりゃ目を覚ますさ」

 

 頷きながら、ヤタカは安堵の息を漏らす。裏切られていたとはいえ、二人を憎みきれない。あいつらには守るべき者がいる。裏切りの理由を堂々と告げてくれたことが、二人の妙な律儀さを示していた。

 

――黙って裏切るなり、白を切ればいいものを

 

 少しだけ思いに耽ったヤタカに、珍しく細く弱気な声がかけられた。

 

「お姉ちゃんは、安全な所にいるんだよな? 元気なんだよな?」

 

 シュイの生意気な眉尻がへなりと下がる。

 

「正直、責任を持っていえることはない。だが、今はまだ安全だと俺は信じている」

 

「頼りにならねぇな」

 

「おまえに言われたくないっての。このクソガキ」

 

「なにを!」

 

 まだ小さな拳を振り上げ、シュイが眉を吊り上げる。

 

「マセガキが」

 

「はあ? 置いていくぞコラ! 唐変木! お姉ちゃんの腰巾着!! 荷物持ち!」

 

「わけわかんないよ。いいのか、そんなこといって。協力してくれないなら、うっかりバラしちまうかもな……俺、口は堅いのに」

 

「な、何をだよ!」

 

 引っかかった。にやりと、ヤタカは口元に意地の悪い笑みを昇らせた。

 

「どこぞのクソ生意気なガキが、イリスのことをだ~い好きだって……本人にいっちゃったらどうしよう。まずいな、最近ぼんやりすることが多くてな」

 

 破裂寸前の鬼灯みたいに頬を染めたシュイが、目を見開いて唇をぐいと噛む。ばさりと慌てて被った外套のフードも、赤らんだ頬を隠しきれていない。

 

「最低だ! クズだ! ぜったいおまえみたいな、腐れ大人にだきゃならないからな!」

 

――ちょろいな、ガキンチョ

 

 肩でくつくつと笑いながら、ヤタカは表情を真顔に戻していく。

 

「イリスの元へ戻りたい。協力してくれ」

 

「あぁ。まずはじっちゃんの所へいくぞ。来るようにいわれているんだ」

 

「わかった。ご主人は元気か?」

 

「元気だけれど……」

 

 シュイが表情を曇らせ長い睫を伏せる。

 

「どうかしたか?」

 

「この間怪我した足の傷が、良くないんだ。今は歩けないから、少し時間はかかっても、ぼく達が宿屋あな籠もりまで行くしかない」

 

 ご主人が怪我をしたのか。ヤタカは懐に手を当てる。

 

「それなら、なおのこと急ぐぞ」

 

「うん」

 

 歩き始めたシュイの後を追うヤタカが、床に転がるモノを見て足を止める。

 

「なあ、横穴で俺を殴ったのもおまえだろう?」

 

「そうだよ」

 

「何を使って殴った? おまえの拳にしちゃ威力がでかすぎた」

 

「それ」

 

 ヤタカの視線の先を、ぴたりとシュイが指差した。

 

「てめぇ……死ぬだろうが!」

 

「生きてるじゃないか?」

 

「あぁ、奇跡だよ! てか石器時代かここは!」

 

 シュイがふんと鼻を鳴らす。

 

「どうやって俺を引き摺り込んだ?」

 

「宿屋あな籠もりに置いてある異物さ。一種のバネだよ。くっついては縮み、またビヨンと伸びては縮む。そうやって地道におまえをここまで運んだ」

 

「ようは引き摺ってきたわけか? どうりで全身土まみれなわけだ。そんな弱っちい腕じゃ、イリスのお姫様抱っこは当分無理だな、もやし小僧め」

 

 シュイの頬が、再び真っ赤に染まる。外套の内側から突きだした手には、十センチほどの金属の筒が握られていた。

 

「最大十メートルくらいは伸びるぜ? じっちゃんは昔、迷い込んできたクマをこれで撃退したってさ。嘘っぽい話だから、試してみようか……一回だけ、ぶっ飛んでみる?」

 

 わざとらしく小首を傾げるシュイに、こいつ、やりかねない……とヤタカは思わず一歩引いた。

 

「黙って歩けよ、荷物持ち! お邪魔虫!」

 

 太い枝の先に無造作に括り付けられた、大人の拳ほどある石を蹴飛ばし、のしのしとヤタカは歩き始める。お邪魔虫は、ただの焼き餅じゃねぇか……笑いを漏らさないよう口の端を引き締めた。

 頬の赤みを引っ込め涼しい顔で踵を返したシュイの、外套の裾がひらりと舞った。

 

 

 シュイと馬鹿なやり取りをしながらも、わたるの側に置いてきたイリスや、横穴の入口で折り重なって倒れた二人のことが頭から離れない。

 二人は結局ヤタカを仲間に差し出せなかった。逃げるのを止めないとはいっていたが、ここまでのしくじりを、仲間があっさり見逃すだろうか。かといって、眠り薬を打ち込んだシュイを責めるわけにもいかない。シュイのおかげで助かったのは事実なのだから。

 

「おい、早く歩けよ。飯を食わないですっとんできたから、腹へってんだよ」

 

 振り返ったシュイが唇を尖らせる。

 

「ちゃんと歩いてるじゃないか。おまえが急ぎすぎなんだ……あっ」

 

 がくりと膝が折れた。

 

――そうか、薬の効果が切れたらしいな。

 

 何とか立ち上がろうとしても、力の抜けた膝から這い上がる寒気に体が震え、腕で体を支えていることさえままならなくなった。

 

――飲み過ぎた薬は、副作用もでかい。くそ

 

「どうした? 大丈夫かよ?」

 

 目を丸くしたシュイが駆け寄り、ヤタカの体を立たせようと、まだ小さな手に力を込める。

 

「シュイ、俺はしばらく動けそうもない。先にご主人の所へ戻ってくれ」

 

 震える手で懐から小袋を取りだした。

 ゲン太がイリスの為に必死に運んだ薬の残りを、半分に分けたもの。

 

「この中の薬を傷に塗って、貼り薬を当てろ。薬も飲ませるんだ。そうすれば、ご主人はすぐに良くなる。大丈夫だ、良い薬だから」

 

 手にした小袋と震えるヤタカを見比べ、シュイはおろおろと腰を浮かせる。

 

「具合が悪いなら、おまえが飲めよ。すごく利く薬なんだろ?」

 

「駄目だ。俺は、薬の飲み過ぎなんだ。どんな良薬も、今口にすれば毒と変わらない。だから遠慮せずに持っていけ。あとで、迎えに来てくれよ」

 

 この地下道の道はわからないからな―――

 

 ぎゅっと拳を握りしめたシュイは、強く頷いて立ち上がった。

 

「宿屋あな籠もりに、何か使えるモノがあるかもしれない。直ぐに戻って来るから、ここから動くなよ」

 

 小さく頷いて、ヤタカはごろりと身を横たえた。

 小さな蝋燭の灯りと、竹筒の水を残してシュイは全力で駆け出した。

 シュイの背中が、地下道を染める闇の向こうへ消えて行く。

 

「来るなら三日後でいいぜ、どうせしばらく動けねぇ」

 

 わたるはヤタカが戻るまで日数がかかっても、約束を守ってくれるだろうか。もともと陽炎みたいに虚ろな約束だというのに、ヤタカは心からわたるに願った。

 天に舞い上がったヤブカラシを思い出す。

 

――あの世に連れていくなら、俺にしてくれ

 

 届かない願いだとしても、今は祈らずにいられない。

 意識が途切れてはぼんやりと瞼を開ける、その繰り返しだった。

 目を開けるたび、シュイが残してくれた蝋燭が短くなっていく。二日酔いの朝に似た喉の渇きに襲われたが、水の入った竹筒に手を伸ばすことさえできなかった。

 

 数えられないほどの出口と繋がっているせいか、この地下道には緩い風が吹き込む。

 横たわったままのヤタカの長い前髪も、さらさらと流されて目元にかかっていた。

 長い前髪が邪魔だと、笑いながらわしゃわしゃと掻き上げてくる、イリスの冷たい指の感覚が蘇る。

 

――イリス

 

 最後に見たのはわたるの側に横たわる寝顔だった。笑った顔を、もう一度見たい。せめて、最後に目にするのは、笑顔がいい。

 体内で混ざり合った毒と薬草の効力など、もやはヤタカにも想像がつかない。

 痺れが増すたび、最悪の結末が頭を過ぎる。

 ヒトデのように蝋を垂らして短くなった蝋燭の灯りが、吹き込んできた空気に消えた。 張り巡る迷路の端に位置するのか、通路を照らす灯りは見えない。

 失われつつある体の感覚が、暗闇と自分の境目を曖昧にする。

 

――水の器がヤケに静かだ。まだ死なないということなのか? それとも

 

 定期的に大量の水を必要とするヤタカにとって、喉の渇きは致命的だ。

 空腹よりも、直接的な死を感じる。

 

――ゲン太は無事にイリスの元へ帰れただろうか

 

 死の匂いが濃くなるにつれて、思い出すのは他人のことばかりだった。

 

――あいつは無茶するからな、枝に引っかけて鼻緒が切れていないといいが

 

 どうでもいいことばかりが頭に浮かぶ。

 必死に山道を駆け下りる、ゲン太の姿を瞼に浮かべた。暗い瞼の裏でゲン太が転ぶ。

 それでも、あいつは諦めたりしないだろう。

 目を閉じたまま吐き出す息も浅くなったとき、うっすらと瞼を通して光が見えた。

 

「シュイ?」

 

 せっかく来てくれても、無駄足だったな……ぼんやり目を開けたヤタカは、大きく見開くことさえできなくなった目に、驚きの色を浮かばせた。

 この場から逃げ出すことは叶わない。

 顔を背けることさえ。

 通路の天井から垂れ下がり、ヤタカの目前で光を放っていたのは。

 

――異種か?

 

 茎も葉も、閉じた蕾さえ白い光を放っている。鼻先まで迫った蕾が二三度震えたかと思うと、ゆっくりと開花し始めた。

 その大きさはヤタカの顔と変わらない。

 サボテンのように実の厚い花弁は、まるでそよ風を受けた柔らかな野花のように揺れている。

 迫る恐怖と同時に、ヤタカはその花を美しいと思った。

 開ききった花びらの、中央に位置する花柱が伸びる。花柱の周りに王冠のようにひしめくやくに付いた花粉が、花が震えるたびぱらぱらとヤタカの顔に舞って落ちる。 

花柱はゆっくりと、ヤタカの顔を探すように身をくねらせ近づいてくる。

 

「かっ!」

 

 花柱が、ヤタカの鼻の中へ押し入った。ぬめる花柱が鼻の奥を過ぎ、喉の奥深くへ侵入していくのを、ヤタカは為す術もなく、ただただ苦しみに耐えるしかなかった。

 貫くかと思うほど体の奥まで侵入しつづけた花柱が、ぴたりと動きを止めた。

 揺れていた花びらも、次の風を待つようにしんと静まりかえる。

 

――花の色が

 

 白い光を放ちながら咲く分厚い花びらが、中央から斑に色を変えていく。

 赤、紫、青、黄色、毒々しいまでに混沌とした色が、花びらの先まで色を変えた。

 花が役目を終えたように、ヤタカの顔から離れていく。

 中央から伸びる花柱は、吸い上げる何かに所々を膨らませ、花びらへと送っていた。

  突然引き抜かれた花柱に、ヤタカは反射的な吐き気に口を押さえ、俯せに転がった。

 

「体が、動く」

 

 手を広げ、指の滑らかな動きを確かめる。

 ざっと尻で後退ると、ヤタカを見つめるように花が動いて顔を向けた。

 

 

「それは!」

 

 いつの間にかすめ取られたのか、白く光る葉の先に、幼なじみに押しつけられたぐしゃぐしゃの紙が、広げられてぶら下がっていた。

 用心しながら近寄ると、そこに書かれていたのは六つの名前。人の名、そうではない名。意味がわからないままヤタカが紙に見入っていると、縦書きの文字の間に黒いシミが広がった。鼻先に、焦げ臭ささが届く。

 

「待て! 燃やすな!」

 

 ヤタカの静止の声が届くことはなく、葉に跳ね上げられた紙は、空中を舞いながら真っ黒な煤と化した。ぱらぱら降り注ぐ燃えかすを手で受け、言葉もなくヤタカは異種の大きな花に咎めるような視線を送る。

 

「なぜ、なぜ助けた?」

 

 この異種に言葉が通じるかはわからない。それでもヤタカは語りかけるのを止めない。

 

「この紙に書かれた名は、どんな意味を持つ?」

 

 花は答えない。ヤタカから吸い上げた毒の色が完全に混ざり合い、花びらは濃い紫色の光を放つ。

 

「おまえは、誰の味方だ? 俺に、どうして欲しい」

 

 大きな花を支えていた、茎の根元が天井から剥がれ落ちる。切られた縄のように撓んだ茎の重みで、花は地面にべしゃりと落ちた。

 美しいとさえ思った光が薄れ、分厚い花びらがばらばらと乾き砕けていく。

 元の長さに縮んだ花柱の先で揺れる、柱頭がぽとりと首を落としたのを最後に、ヤタカは再び暗闇に包まれた。

 

「身代わり草……まさかな。助けられる理由がない。それにこいつは、お伽噺だ」

 

 体の痺れも痛みもない。手探りで探し当てた竹筒から、一気に水を飲み干した。

 燃える寸前に記憶した、六つの名前が頭を廻る。

 体を蝕んだ毒よりも遙かに嫌な後味に、ヤタカの思考はぴりぴりと音を立てそうに痺れていた。

 六列に分けて書かれた名前の列。

 先頭にあったのは見知らぬ名字で、その後に続く三文字がヤタカの不安を駆り立てる。

 

 火隠寺 わたる

 

 まだ残る、紙が燃えた煙の匂いが、誰かを弔う線香の香に思えて、ヤタカは両手で顔を覆った。

 

 

 




 読んで下さった皆さん、のぞいて下さったみなんさん、ありがとうございます。
 今回はちょっと長め……。
 次話もお付き合いくださいませ。
 では!


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26 真名を知る者

 ヤタカを細腕で引いて連れ帰ろうと思ったシュイが、一枚板に大きな引き手を付けただけの荷台をカラカラと引いて駆けつけたとき、ヤタカはぼんやりと座り込んだままで、その前には得体の知れない何かがぼとりと落ちていたものだから、横穴にひぃっ、と尾を引く悲鳴が響き渡った。

 

「シュイ……か?」

 

「な、なんだよそれ! おまえ、う、動けるのか?」

 

「あぁ、大丈夫だ。こいつは死んでいるから心配ない。これのおかげで命拾いしたようなものさ」

 

 転がっていた竹筒を手に、ふらつく足でヤタカがシュイの元へ歩いて行くと、ひくひくと頬を引き攣らせるシュイの額には、玉のような汗が浮いて、顎からは汗がしたたり落ちていた。

 

「これを運んできたのか? 重かっただろうに」

 

 荷台には、たっぷりと水の入った木樽が細縄で括り付けられていた。

 車輪がついているとはいえ、小さな体には相当重い荷物であったろう。

 

「じっちゃんが、水だって。水を持っていって飲ませろっていうから。おまえ、本当に大丈夫なのか? あの変な物に乗り移られたとかじゃないよな?」

 

 真顔でいうシュイに、ヤタカは笑って首を振る。

 

「そんなお伽噺じゃ、今どきオムツした子供でもビビらないぞ? この水、飲んでもいいか?」

 

「おお、全部飲んでいいぞ」

 

 目をまん丸くして、上の空で答えるシュイに苦笑いしながら、ヤタカは樽に顔を突っ込み水を飲む。乾き切った異物憑きの体に、透明な水が染みていく。

 顔が水に届かなくなると、縄を解いて一抱えもある樽を持ち上げ、最後の一滴まで漏らさず飲みきった。

 沈黙を貫いていた水の器が、頭の奥でふるふると身じろぐ。

 今更かよ、とヤタカは心の中で苦く笑った。

 

「ありがとう、生き返ったよ。水が無いのは正直辛い」

 

「おうよ。それより、こっちこそ……」

 

「どうした?」

 

 言いづらそうに、言葉を口にしたくないかのように唇をぱくぱくさせていたシュイが、諦めたように大きく息を吐く。

 

「ありがとうな、あの薬。幻の薬だってじっちゃんがいってた。良かったのか? そんなん貰って」

 

 薬を使った途端、じっちゃんの痛みが薄らいだから、といってシュイは嬉しそうに微笑んだ。

 

「気にするな。どうせ貰い物だから。こんなチビのくせに、ご主人に万が一のことがあったら困るだろう?」

 

 頷きながらも口を尖らせ、チビは余計だとシュイが文句をいう。

 

「早く強くなれ。おまえなりの強さでいいんだ。今度何かあったときには、シュイが爺ちゃんを守るんだぞ」

 

「わかってら」

 

 小さくいって、シュイは下唇をぬっと突きだし鼻筋に皺を寄せる。

 

「よし、急いで帰るぞ。お姉ちゃんが心配だ」

 

 外套のフードをばさりと被り、くるりと向きを変えてシュイが急ぎ足で歩き出す。

 

「おーい、荷台は?」

 

 諦め口調で呼び止めたヤタカを半分だけ振り返り、シュイが無表情に舌をだす。

 

「人間の集合体ってのは、何においても役割分担じゃないのか? 元気になったんだから、帰りはあなたの仕事です。だろ?」

 

 すたすたと先を行くシュイの背に小石を蹴飛ばし、荷台の持ち手に体を滑り込ませて腰に引っかけたヤタカは、けっと口をひん曲げ歩き出す。

 荷台の下でガラガラと、車輪が回る音が横穴に響く。

 

「まったく、敬語の使い方が中途半端なんだよ」

 

「何かいったか?」

 

「何もいってねぇよ!」

 

 シュイに手渡された蝋燭を手に、ヤタカはさっきまでいた場所を一度だけ振り返った。

 蝋燭の弱い灯りが枯れ果てた身代わり草を照らし出すことはなかったが、ヤタカは口のなかで小さく礼をいい、ほの暗い横穴を歩き出した。

 

 

 

 

 宿屋あな籠もりまでは、思っていたより距離があった。

 汗だくだったシュイが、必死にこの道を走り荷台を引いたのかと思うと、先を歩く小さなの背中が少しだけ大きく見える。

 子供の成長は早い。あっというまに青年となり、宿屋あな籠もりと主人を守る強く聡明な大人になるだろうとヤタカは思う。

 

「ドラを鳴らすには時間が早い。前みたいに頭から突っ込むなよ」

 

 いつの間にか見覚えのある場所に着いていた。

 目を懲らしても岩にしか見えない壁へ、すっとシュイが体を滑り込ませる。水面に小石を落としたように、固いはずの岩肌が揺らぐ。荷台を置いて指先を壁に這わせると、さらさらと細い縄暖簾に似た手触りが心地よい。

 

「入るぞ」

 

 ヤタカはまるでそば屋の暖簾を潜るように、ゆっくりと宿屋あな籠もりへと入っていった。

 

「ご無事でなによりじゃ。いやいや、今回はすっかり世話になりましたな」

 

 変わらぬ笑顔で、宿屋あな籠もりの主人が出迎えてくれた。

 

「こちらこそ助かりました。あの水が無ければ、毒が抜けていたとはいえここまで息があったかどうか」

 

 お伽噺として伝えられる身代わり草に助けられたこと。幼なじみとの経緯や、受け取った紙を燃やされてしまったことを掻い摘んで話した。そして伊吹山で何があったのか。宿の主人はひと言も発することなく、幾度となくゆっくりと頷き、時折ヤタカの頭上を通り越して遠くを見るように視線を泳がせた。

 

「ご主人は、どこまで知っておられたのですか? 伊吹山で起こるであろうことや、燃やされた紙に書かれていた六つの名。話すことはできませんか? 話せることだけでいいんです。今は砂粒ほどの情報にも縋りたい」

 

 ヤタカの目を真っ直ぐに見つめ、主人はこくりと頷いた。

 外套を脱いだシュイは、聞き耳こそ立てているのだろうが、口を挟むことなく少し離れた部屋の隅で横になって身を丸めている。

 

「話せば恨まれるじゃろうな。全てを知っていたわけではないが、おまえさんを待ち受ける運命を、過去の記録と情報だけとはいえ、わしは知っておったからの」

 

 そうですか、とヤタカは口元に笑みを浮かべる。

 

「責めないのかの?」

 

「責める理由がありません。俺はあの場へいく必要があった。たとえ何者かの思惑通りだったとしても、俺は先へ進むしかなかったから。ご主人にはご主人の役目があるのでしょう? 俺にもきっと役目がある。だからいいんです」

 

 そうじゃの、宿の主人は真っ白な髭を握っては撫でる。

 

「ところで、娘さんは元気かの?」

 

「はい、多分。できることなら、今すぐにもイリスの元へ戻りたいです。俺を取り巻く状況は、知らない内に変わっていた。もう誰にも、イリスを任せられないくらい、変わってしまった。透明な檻の中、身動きが取れない気分です」

 

「娘さんは今、一人で待っているのかね?」

 

「いいえ、それが……」

 

 言いよどむヤタカの答えを急かすことなく、宿の主人は柔らかな視線を向ける。

 

「ある人物に預けてきたのですが、今ではそれが、導火線に火を放った火薬をイリスに巻き付けてきてしまったような気がして、信じたい思いを押し潰しかけています」

 

 どこまで話して良いのか、ヤタカは言葉を選ぶ。

 

「信用している人なのじゃろ?」

 

「今だけは、信用しても構わない人物だと思っていました。ところが、思わぬ所から、同じ人物を指し示すとしか思えない名がでてきたのです」

 

 ほう、宿の主人は皺だらけの目を細めた。

 

「俺から毒を抜いた、身代わり草の葉にぶら下がっていた紙を見ました。燃えて文字が見えなくなる前に、この頭に叩き込んだ名の先頭にあった名前が、火隠寺わたる。名字に聞き覚えはありません。ですが、イリスを預けてきた女性の名は、わたる。不安にならざる得ないのが現状です」

 

火隠寺(かいんじ)……」

 

 白髭に覆われた顎を撫でながら、宿の主人は遠い記憶を探るように目を閉じる。

 

「わしの得た情報が正しければ、その名を持つ者は、既にこの世には居ないはずじゃ。もし生きているとしたら……」

 

「どうなりますか?」

 

「この戦いの、勢力図が塗り変わるじゃろうな」

 

 ヤタカの肩が、がくりと下がる。

 

「関わってはならない相手だった、ということでしょうか」

 

「いや、おまえさんが生きている限り、顔を合わすことになったであろうよ」

 

 そうですか―――

 

「わからぬよ。本人は二度と、表舞台へ上がるつもりなどなかったのかもしれんしの。だからこそ、まことしやかに死が囁かれ、それが皆の知る真実となった」

 

「何者なのですか?」

 

「この戦いの一角を背負う勢力の、頭の家筋じゃ。しかも噂では、希に見る切れ者で変わり者じゃったとか。まぁ幼い日の話じゃから、時が経ってどうなったかのう」

 

 噂は真実だろうとヤタカは思う。正体の解らない切れ者ほど、達の悪い相手はいない。 だが、とヤタカは眉根を寄せる。

 進むべき道を迷っていたわたるの、枝分かれした道の先が朧気に見えた気がした。

 線の細いわたるの横顔。イリスへ笑いかける目元。怪我人を助けようとしたわたる。

 敵にまわったとして、どこから憎めばいいのかわからなかった。

 どう恨めば良いのか、解らなかった。

 

「その娘には兄弟がいたはずじゃが、その子も幼くして亡くなったとされている。跡目争いなど起こる前に親が死んでおるからの、何があったのか、今では想像さえ難しいのう」

 

「ご主人、残り五つの名に覚えはないでしょうか。音叉院(おんさいん)羽風堂(はふうどう)翠煙(すいえん)狼煙塚(のろしづか)隠し釘(かくしくぎ)。読み方は、仮のものと思ってください」

 

 

 ヤタカは記憶を辿って、一文字も違えることなく五つの名前を宿の主人に伝えた。

 普通ならこう読むであろう、そんな当てずっぽうな読み方しかできないが。

 

 

「それは真名じゃと思う。火隠寺の名を知っておったのは、少しばかりその家の大事に関わったことがあったからで、他の名は解らんの。ただ、火隠寺の名と連なって全てで六つ。おそらくは、人知れず進むこの戦いに関わる家や組織、あるいは個人の名を指すものであろうな」

 

「真名とは?」

 

「六つの大きな動きが関わることは、この大事の深部に関わる者や特殊な任に着く者なら知っておる。全貌は知らずとも、一部は把握しておるはずじゃよ。だが、そこで語られるのは表向きの名であって、本来の物ではない。いわゆる通り名じゃよ。何の必要があってそうなったかは知らんがの、火隠寺の古き当主がいっておったから、そうなのであろうさ」

 

「そうですか。なら、正確な読み方さえ知るのは難しいのでしょうね」

 

 寺という小さな世界で得た知識は、寺という檻から解放された今、一度忘れるべきなのかもしれないとヤタカは思う。

 

「年寄りの想像じゃが、身代わり草がおまえさんから紙を奪い焼いたのは、いらぬ危険から守るためではないのかな。身代わりになると決めた人物が、火種になるものを手にしていたから、頭に刻めと言わんばかりに見せつけて、この世から抹消したのではないかのう」

 

 そこまで考えていなかった。もとより身代わり草に、そこまで己の意志があるのかさえわからないが、何らかの意思をもって、助けてくれたのは確かなのだろう。

 

「それほどに、記された名は歴史に隠れて息づいてきたものということ。知ろうとする者は多いが、不用意に知れれば、大火を招く火種となる。たかが名前、されど真名」

 

 ゴテと野グソが何を思ってあの紙を渡したのか、それすら知る術はない。

 信じるなといった二人が、最後に渡した真実なのだろうか。

 ヤタカは虫を払うように、頭をわしゃわしゃと掻きむしった。

 過去に嘘と真実を求めるより、これから先この目で見るであろうことに真実を求めるほうが、よほど自分を信じられる。そうしないと、前に進もうとする足が止まる。

 

「ねぇご主人。あなたは本当に、この小さな宿屋のご主人なのですか?」

 

 笑みを浮かべたヤタカの片目が、垂れ下がった前髪の下でにやりと細められる。

 

「そうじゃよ。この空洞に生きて、ここで朽ちるただの爺じゃ。ふぉ、ふぉ」

 

「あはは、そういうことにしておきましょう。一々詮索していられません。何しろ最近、俺の周りは嘘の洪水なものでね」

 

 ふぉふぉ、という楽しげな笑い声が、宿屋あな籠もりに響く。それにつられて、ヤタカも笑った。話が終わったことにほっとしたのか、素知らぬ顔で近付いてきたシュイも、口を窄めて目元に笑いを浮かべている。

 

「ところでおまえさん、わしに下さった薬をどこで手に入れたのじゃね?」

 

「あぁ、あれはバカ下駄が家出したとき、誰かから貰ってきた薬です。闇市でさえお目にかかることが滅多にない品で、あったとしても法外な値が付くというのに。薬をくれた人物に会ってみたいものです」

 

 訝しげに首を傾げた店の主人は、言葉を選んでゆっくりと口を開いた。

 

「とういうことは、未だにあの薬は出回っているのかね? 紛い物ではなく、本物が」

 

「おそらくは本物だと思います。時を見計らったように、忘れられた頃にぽつりと闇市に現れるのです。買ったことはありませんがね」

 

「尚更ややこしい話になったのう。耳に入っておるかもしれんがあの薬、火隠寺に受け継がれる秘薬でな。一子相伝であるがゆえに、人が途絶えれば薬もこの世から消える。薬が出回っているということは、引き継いだものが生きているという証じゃ。散り散りになっている者達の耳に入ったなら、火隠寺家は荒れるじゃろうよ」

 

 ヤタカはうむと眉根を寄せ、腕を組む。

 

「ですがそれでは話が通りません。薬を作ることで生存がばれるなら、それが災いを呼ぶなら、少量とはいえどうして闇市に薬を出したりするのです? 自分の首を絞める行為にしか思えない」

 

 主人は何も言わずにただ頷いた。

 

 わたるはこの薬を見て、兄弟の生存を知っただろうか。何もいわなかったが、知ったのだろうと思った。

 わたるにとって兄弟は、どんな存在なのだろうと思いを馳せる。

 直ぐに探そうとした様子はない。

 二人が手を結んだら。

 

――自分達の運命は、今以上に狂うだろうか

 

 頭を振って灰色の未来を振り落とす。

 

「ご主人、もっと話を聞きたいのですが、イリスの元へ帰ります。取り返しのつかない事態になっていないとも限らないので」

 

「いくが良いよ。また会える。今度は二人でゆっくりとおいで。シュイに、外の話でもきかせてやってくれんかの」

 

「はい」

 

 立ち上がって礼をしたヤタカが背を向けるのを、嗄れた声が後を追う。

 

「おまえさんに伝えようと思ったことがあったのじゃが、時期ではないようじゃ。何も知らずに、その目で見極めた道を進みなされ」

 

 振り返ると、柔らかな笑みを浮かべて宿の主人が立っていた。

 

「慌てて走ってきたシュイの話を聞いて、できるだけの毒を抜いてやろうと思うたが、身代わり草に助けられたなら心配ない。わしも見たかったのう、幻の花じゃ。お伽噺じゃよ。ただし、気を付けなされ。娘さんの無事を確認したら、なるべく早くゴテ師と野草師に体を見て貰った方がよいじゃろう。お伽噺が真なら、身代わり草は彼らがおまえさんの為に施した、薬草の効果も奪っているはずじゃからの」

 

「はい、わかりました」

 

 深々と頭を下げ、宿屋あな籠もりを後にする。

 宿の主人は多くのことを知っているだろう。だが伝えようとした内容さえ、教えるのを止めたというなら、これ以上聞き出せることはない。

 ヤタカの周りに溢れる嘘と真実を察したからこそ、宿の主人はその時ではないと判断したのかもしれない。たとえ真実でも、今のヤタカは全てを鵜呑みにできる状況ではないのだから。

 出口まで送りなさいといわれて渋々ついてきたシュイが、つま先で小石を蹴る音が横穴に響く。

 

「なぁ、シュイ。いつかこの横穴の世界から外へ出たいか? どうしたら、シュイは自由になれる?」

 

 シュイがぽつりと立ち止まる。

 

「出られるもんなら出たいさ。でもぼくが外へいったら、表にでちゃいけない異物や異種までついてきちゃうから。解放は今じゃないって、じっちゃんがいっていた。意味はわかんないけれどさ。体質なんだからしょうがないだろ?」

 

――解放……か

 

「異種や異物が人を害さない世界になったら、シュイも外へいけるよな?」

 

「たぶんな……でも、そんな夢みたいな話、あるわけないさ」

 

 最後は投げやりに、諦めたように言い放ったシュイに、それ以上かける言葉が見つからない。一所から動けない苦しみなら、嫌というほど知っている。

 見せかけの自由な世界へ放り出された苦しみも。

 再び小石を蹴りながらシュイが歩き出す。

 幼かった自分の小さな肩と、少し丸められたシュイの背中が重なった。

 

「着いたぞ」

 

 そういうとシュイは、木の薄皮で包まれた物をヤタカに押しつけた。

 

「生は傷むから燻製肉だ。お姉ちゃん、こういうの好きだろ? 俺が燻したんだから、おまえはちょっとしか食べるなよ。味見だけだからな」

 

 生意気な目で見あげるシュイの額を、ヤタカはぺしりと手の甲で叩く。

 

「ありがとうな」

 

「食い過ぎんなよ!」

 

 はいはい、と手をひらひらさせて、ヤタカは横穴の入口を潜ろうと身をかがめた。

 

「シュイ、乾し肉のお礼に一つ教えてやる」

 

「なんだよ」

 

「イリスは、最初からあきらめる奴を男だなんて認めないぜ。あいつは、無駄な努力と知っていても、目標に向かって突進していく奴がお好みだ。だから」

 

 あきらめるな。自分をあきらめるな―――

 

 それだけ言い残して、ヤタカは外へ身を滑らせた。

 冷たい外気が心地良い。

 イリスの居場所へ繋がる道は、歩きながら教えて貰った。

 膨大な地図の知識としてしか知らない道を、淡々と説明してくれるシュイの心を思うと胸が痛んだ。

 いつかここから連れ出せたらと、そう思わずにはいられない。

 

「シュイ、負けるなよ」

 

 横穴の入口へ、ヤタカは願いにも似た言葉を放つ。

 

「ひとつだけ、教えてやらぁ」

 

 横穴の奥から、くぐもったシュイの声。

 

「なんだよ、その急な親切心は?」

 

 どうせくだらないことを大声で喚いて帰っていくのだろう、と思ったヤタカが耳を澄ませても、シュイはなかなか口を開かなかった。

 

「おい、どうしたんだよ?」

 

「はかぜ、って読むんだよ」

 

 力なく、けれどはっきりとしたシュイの声。

 

「なんの話だ?」

 

「はふうどう、じゃない。あれは羽風堂(はかぜどう)って読むんだ!」

 

 紙に記された六つの名のひとつだと気付くのに間があった。

 まさかシュイの口から聞かされるとは思っていなかった為の間だった。

 

「シュイ! どういうことだ? どうしておまえがその名を!」

 

 横穴に戻りかけたヤタカの耳に、ばたばたと遠ざかる足音が届く。

 息を吐き出し、ヤタカは風のそよぐ外へと体を戻した。

 追ったところで、道に迷うのが落ちだろう。横穴はシュイの庭だ。かくれんぼで勝てるわけがない。逃げたということは、暗にじっちゃんには言ってくれるなということだろうか。 

 考えても仕方がない。今やるべきことはひとつ。

 

「よし、いくか」

 

 体の節々はまだ傷むが、ヤタカには十分に無視できる程度の物だ。

 ヤタカは夜が明けたばかりの森を駆け抜けた。

 自分を呼ぶように、遠くで微かに下駄を打ち合わせる音が鳴った。

 

 




 読んで下さったみなさん、覗きに来て下さったみなさん、ありがとうございます!
 ややこしい話が続いた気がします。
 またどこかで、明るめのお話をいれたいです。バカ下駄を………(笑)
 次話もお付き合いいただけますように! 
 では!


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27 それぞれの道へ

 道とはいえない森の中を早足で進むにつれ、下駄を打ち鳴らす音が近くなってきた。

 心配気な音ではあったが、危険を知らせるものではない。

 

――怯えではないな……困惑しているのか?

 

 いつから馬鹿下駄の気持ちまで察するようになったのかと、ヤタカはがしがしと頭を掻いた。そんな自分を忌々しく思いながらも、足取りは心持ち緩んでいく。

 ゲン太が騒がないならイリスの身は安全ということだ。わたるは約束を今だ守っているのだろう。イリスが元気だと思うと余計なことが頭に浮かんで、どんどんと前へ進む足は重くなっていく。知ってしまったことを、わたるに話すべきなのか。問いただすべきなのか。それとも、約束を守ってくれたことへ、礼を述べて終わらせるべきだろうか。

 

――わたるは道を決めかねていた。なら、余計な口を挟むべきではないだろうか

 

 浮かぶ案をへし折るかのように、足元の小枝がぱきぱきと足の下で折れていく。

 わたるなら、あの名簿の子細を知っているのだろうと思う。

 だが――答えないだろう。ヤタカはそう確信していた。ヤタカが戻ったら直ぐに、わたるは姿を消すような気がしていた。イリスはわたるを好いている。別れを知ったら泣くだろうか。共にイリスを宥めてくれる友は、もう呼んでも来ることはない。

 

「泣かれるのだきゃ、嫌だな」

 

 息を大きく吐き出してヤタカは走りだす。

 悩んでも迷っても、結果はおそらく変わらない。舵を握るのは、わたるなのだから。

 

 

「着いたか」

 

 鳴り続けていた下駄の音が、あと少し続く林を残してぴたりと止まった。ヤタカの足音を察したのだろう。一度は固まった思いもどこへやら、意思とは反対に歩幅が小さくなっていく。目前に重なる木の幹の影がどんどん薄くなり、二人を置いて出た、ぽかりと空いた草地に辿り着いた。

 

「おや帰ってきたねぇ」

 

 振り返ったわたるが微笑む。その影からひょこりと顔を出したのはイリスだった。

 

「あれから丸一日たったのか」

 

 森の木立のてっぺんを、茜色の夕日が染めはじめていた。

 まだ残る日の光を避けて目元を布で覆うイリスが、おいでおいでと手招きする。

 

「ただいま」

 

「お帰り! わたしもね、さっき目が覚めたばかりなんだ。何だか眠っちゃう前までの記憶が曖昧なの……まぁいっか。怪我はない?」

 

 わたるが与えた薬の効能だろうか。

 

「あぁ、怪我なんかしていないよ」

 

「よかった!」

 

 ぴょんと跳ね上がったイリスが、わたるの首に腕を巻き付けしがみつく。

 目に巻かれた布には、黄色い小花の刺繍。

 

「待たせたな、わたる。ちょっと手間取ってな」

 

「商談は、まとまったかい?」

 

 幼なじみと話はついたか……そういわなかった、わたるの言葉に安堵の息が漏れた。

 

「売値と買値が折り合わなくてさ。突破口が見つからないから、もう取引はしないことにした」

 

「そうかい」

 

 わたるの伏せた睫が寂しそうに見えたのは、ヤタカの気のせいだろうか。

 

「商売って何? 何か買おうとしたの?」

 

 イリスが、胸の前で手を握りしめて体を乗り出した。

 

「いや、その……あのな。高い値で薬草を買うっていう噂を聞いてさ、行ってみたが嘘だった」

 

「な~んだ。食べ物じゃないの?」

 

 ぷっと膨れたイリスが顎を背けて、お腹が空いたと下唇を突きだす。

 いつものイリスだ。そう思うと自然に、ヤタカの口元もふわりと緩む。

 

「わかったよ。街道にでたら、屋台で何か買おう」

 

「いいの? やったね!」

 

 ほとんど日が暮れたのを良いことに、イリスが布を持ち上げてきらきら光る瞳でヤタカを見つめる。目尻を下げてくたっと笑ったイリスが、嬉しそうにくるりと回った。

 

――あいつらにも見せてやりたかったな、この笑顔。たとえ最後であったとしても

 

 勝手に浮かび上がってきた幼なじみの顔を、ゲンコツで頭を小突いて振り落とし、ヤタカはわたるに視線を向けた。

 

「本当に刺繍ができる腕があったとはな、人は見かけによらない」

 

 袂で口元を隠し、わたるはくすくすと笑う。

 

「八方に器用なだけだよ。おやおや、下駄の坊やがやっとでてきたねぇ。鼻緒がのびそうなくらい待っていたのに、素直じゃないねぇ」

 

 イリスの足に半身を隠して、ゲン太がそろそろと顔を覗かせた。

 

「馬鹿下駄、お疲れさん」

 

――おひとよし は

 

「なんだぁ?」

 

――ばかの いみょう

 

「クソ下駄! てめぇにだけは言われたくねぇって」

 

 握りしめた拳を、イリスのひんやりとした手がぴしゃりと叩く。

 

「喧嘩しない! それにゲン太も間違っているよ? お人好しは馬鹿の異名、じゃなの。ヤタカはね、お人好しで馬鹿なだけなんだから。言葉は正確に、だよ?」

 

 人差し指を立てて、うんうんと一人頷くイリスのとなりで、楽しそうにわたるが肩を振るわせる。

 

「イリス、何気なく馬鹿下駄よりひどいこと言うなよ。マジでへこむぞ?」

 

 いつもなら腹いせにゲン太を蹴り倒している所だが、毒が抜けたとはいえ、今のヤタカにそのこまでの気力はなかった。口にして良い言葉、口にしないと決めた言葉。それを意識的に選りすぐることで、かなりの神経が削がれている。

 

「ヤタカ、約束は守ったからね。あたしはこれで失礼するよ」

 

「えぇ? わたる姉どこかに行っちゃうの?」

 

 ゲン太を相手にはしゃいでいた、イリスの眉尻がへなりと下がる。そんなイリスの頭をゆったりと撫でながら、わたるは柔らかく微笑んだ。

 

「こう見えて、あたしも忙しいんだよ? 二人の幼なじみと同じくらいにね」

 

「それって、ゴテと野グソのこと?」

 

 頷いて、わたるはイリスの肩を抱き寄せる。

 

「イリスが眠っている間に、古い馴染みのゴテ師がここを通ってね、懐かしさに話をしていたら、二人のことが話に出てさぁ」

 

 イリスを抱きしめながら、わたるは細めた目でヤタカを流し見る。

 

「詳しいことは教えて貰えなかったが、遠い地で厄介事があったらしいよ。二人は大勢駆り出されるゴテ師と野草師のひとりとして、そっちに出向くらしい。けっこう年月がかかるかもしれないってさ」

 

「何も言ってくれなかった。連絡もないよ? そんなのひどいよ」

 

 目尻に涙を浮かべるイリスをそっと引き離し、わたるは指先でそっと涙の雫を拭う。

 

「二人が連絡しないなんてこと、あるわけないだろう? できないんだよ。仲間の身の安全を守るためには、居場所を知られないことも大事だからねぇ。それはイリスのためでもあるだろう? 二人はイリスを、今でも守っているんだよ、きっとね」

 

 小さく頷いて、イリスは流れかけた涙をごしごしと拭う。

 

「ヤタカは知っていたの?」

 

 イリスの問いに胸が痛む。

 

「いいや、初耳だ」

 

 ヤタカは唇の奥で歯を食いしばる。そっか、とイリスはしゅんと肩を落とした。

 

「これを渡しておくよ。一時凌ぎにしかならないだろうが、無いよりましだろう?」

 

 わたるが差しだしたのは、小分けされた丸薬を入れた薬袋。

 

「これでも医術者だからねぇ。ヤタカがここに立ってけろりとしているってことは、体内で入り混じっていた薬が、きれいさっぱり無くなったということ以外考えられない。理由は知らないし、聞きたくもないよ? 世話してくれる者が見つかるまで、これで何とかしなさいな」

 

――お見通しか

 

 毒が抜けなければ生きて帰ることは不可能。生きて帰ってきたなら、体内の薬効も同時に消えている。いや、それほど強力な解毒を施さなくては、抜けるような量の毒ではないことを、わたるは知っていたのだろう。

 

「信じていいのか?」

 

 小さな丸薬の入った薬袋を持ち上げ、目元だけで笑ったヤタカが問う。

 

「ここを離れるまではね」

 

 小声で答えたわたるは、悪戯っぽく首を傾げて微笑んだ。ヤタカも微笑んで頷き返す。

 

「街道ですぐに顔を合わすなんざ、絶対にごめんだからね。少し間を置いてから出発しておくれよ」

 

「行くのか?」

 

「あぁ、行くよ」

 

 わたるがゆっくりと背を向ける。

 

「進む道は……定めたのか?」

 

「まだだよ。なにしろ、下駄の坊やの口が固くてねぇ。あの薬をどこで誰に貰ったのか、これっぽっちも教えてくれないんだ」

 

「そうか」

 

 兄弟なんだろう? という言葉を、口に溜まった空気と共にごくりと呑み込む。

 

「お互いに秘密だらけだな、わたる」

 

 くすくすと、背を向けた肩が揺れる。

 

「秘密はね、本来なら知らないままにしておいた方がいい。知れば、刃を向け合うことになる……なんてねぇ」

 

 その刃は既に、わたるの手の中に、そしてヤタカの手の中に握られているのかもしれない。

 

「嵐の前は、本当に凪ぐんだってよ。嵐の前に、会えて良かった」

 

「あたしもだよ」

 

 振り返ることなく、わたるは歩き出す。

 

「わたる姉、またね!」

 

 手を振るイリスに、背を向けたまま小さく手を振り返す。突然走り出したのはイリスだった。小さく振った手を下げかけたわたるの背に、ぎゅっとイリスが抱きついた。

 

「かわいい刺繍、お日様の花。ありがとう。わたる姉……大好きだよ」

 

 振り返ろうとしたわたるの肩が、思い止まったようにするりとイリスの腕を抜ける。

 

「いい子だねぇ、イリス。もう少し違う時代に……会いたかったねぇ」

 

 言い残して、わたるは暗闇の向こうへ姿を消した。

 言葉もなく見送るヤタカとイリスが見守る中、木々の幹に見え隠れしながら、ふわりふわりと灯りが揺れる。

 

「あの灯り、わたる姉を守っているのかな」

 

「そうかもな」

 

「だったらいいな。わたる姉、寂しそうだったから。どうして悲しい顔をするのかな」

 

 五つの灯りが、森の深い闇に霞んでいく。

  

「あいつは多分、終わらせようとしているんだと思う」

 

「何を?」

 

「それはわからないよ」

 

 ヤタカは笑って、くしゃりとイリスの頭を撫でた。さらさらとした髪が、指先に心地よい。

 この争いに本当の意味で終止符が打たれない限り、わたるは一人で生きていくだろう。 家業の仲間の元へ戻る日が来ても根本的な意味で、あいつは一人で戦うだろう。

 子を成すことはないだろうと、ヤタカは思った。

 

――不思議とひとりは女の子に恵まれる

 

 わたるの言葉が脳裏に浮かぶ。核心に触れる言葉は交わさなかった。この先敵になる日もくるかもしれない。けれど、わたるの立ち位置がどれほど変わろうと、わたる自身は変わらないだろう。

 

「あいつは自分の代で、片をつけようとしているだけだ。心配するな」

 

「うん」

 

「この先何があっても、刺繍をしてくれた、あいつのことを覚えていてやれよ?」

 

「うん」

 

 少し不思議そうに、けれどはっきりと頷いたイリスに、ヤタカはにっこりと笑って見せる。

 

「月があの辺まで昇ったら、俺達も街道を目指そうな」

 

「あそこだね!」

 

 ヤタカの指先に添えるように、イリスの細く白い指が重なる。

 それと同時に、静まりかえった夜の森にグウゥ~と腹の虫が鳴く音が響いた。

 

「やっぱりさ、あの辺りでいいんじゃない?」

 

 イリスの指先が僅かに下がり、お願い、というように小首を傾げる。

 

「はいはい、わかったよ。食いしん坊だな。おいゲン太、おまえもいつでも出発できるように、遠くに行くなよ?」

 

 かん かん。返事代わりに下駄の木肌が打ち鳴らされる。

 

「あいつ、何を拗ねているんだ?」

 

「何も教えてくれなかったけど、ご機嫌斜めなの。街道にでたら、ご飯を買うときにお酒も買ってあげようね? ゲン太ったら、何を慌てていたのか知らないけれど、目を覚ましたときには土まみれだったんだよ? きっと一人で、何かがんばっていたんだね!」

 

 そうか、やはり慌てて戻ってくれたのか。ヤタカは小さな相棒に心の中で感謝した。

 

「今夜はどこかの小屋でゆっくりしよう。誰も居ないボロ小屋なら、あいつがへべれけになっても放っておけばいい」

 

「ようし! 飲むぞ!」

 

「イリスはあまり飲めないだろう?」

 

 呆れてヤタカが溜息を吐き出すと、イリスの足がげしり、とヤタカの臑を蹴る。

 

「いたいって!」

 

「ゲン太に飲ませるからいいの! ヤタカは水浴びするまでご飯抜き!」

 

「どうしてだよ!」

 

「臭い!!」

 

 ぐうの音もでない。

 

「すみません」

 

 しばらくの間ゲン太とじゃれていたイリスが、空を指差し立ち上がった。

 

「よし、出発するか。月もあそこまで昇ったしな」

 

「よしゲン太、行くよ。迷子にならないように、ちゃんとついて来るんだよ? お楽しみのお酒とご飯が待ってるからね!」

 

 おまえがはぐれるなよ、と口先まで出かかったが、一難過ぎたばかりの足の脛の痛みが、これ以上の災難はごめんだとヤタカ自身に懇願する。

 すたすたと歩き出したイリスの手で、くるくると杖が回る。

 

「おい、イリス」

 

「なに? ヤタカも早くおいでよ」

 

「進む方向が違う。森の奥に入ってどうするんだよ」

 

 蝋燭で顔を照らし、わざと怖い顔をして見せてもなんのその。ペロリと舌をだして向きを変えたイリスはずんずんと進んでいく。

 ヤタカは半分白目を剥きながら、その後を護衛よろしく追いかけた。  

 

 

 

 

「また薬草を集めに山には入らないとな。金が底をつく」

 

 絶望に背を丸めてとぼとぼと歩くヤタカを尻目に、意気揚々とイリスとゲン太が小屋の中へ入っていく。

 

「色々とお詫びもかねてとは思ったが……買いすぎだろうが、バカヤロウ」

 

 後ろめたい気持ちも手伝い、いつものように止められなかったヤタカの目の前で、イリスの好きな物だけが詰め込まれた袋がどんどん膨らんでいった。ヤタカの歯の隙間からは、シュゥ~と情けない音をたてて空気だけが漏れていた。

 

「ヤタカは水浴びをすませてから!」

 

 着替えを胸に押しつけられ、小屋の入口がぴしゃりと閉じられた。

 

「こんなに疲れ切っている俺に水浴びって、鬼かよ」

 

 水の匂いがする方へとぼとぼと歩いて行くと、岩の隙間からちょろちょろと流れる湧き水を見つけた。泉のように水に全身を浸からなくて良いだけありがたいと、ヤタカは服を脱ぎ布で体を拭っていく。同時に口を付けてたっぷり水を飲むと、頭の隅で水の器がからからと揺らいだ。

 

「今夜くらいは、大人しくしていてくれよ」

 

 濡れた体を拭いて、ついでに汚れた作務衣を洗おうと持ち上げたとき、袂からぽろりと落ちたのは、シュイに渡された乾し肉の包みと、わたるに貰った薬袋。

 拾い上げたヤタカは、袋の表に縫い込まれた布があるのに気付いて指先を入れる。

 

「紙? わたるか?」

 

 小さな紙に書かれた文字に目を通す。

 蝋燭の灯りに揺れる文字の向こうに、わたるの寂しげな笑みが見えた気がした。

 

『騒動は 一時なりを潜める。女の勘だが 長くはない』

 

「そうか」

 

 わたるが姿を見せたこと、死ぬはずのヤタカが生きて戻ったこと、それによってイリスが一人きりになる可能性が薄れたこと。もしかしたら、野グソやゴテの動向も絡んでいるのかもしれない。ヤタカには想像することしかできなかった。

 イリスに怒られない程度にジャバジャバと適当に洗濯をすませ、さっぱりした体で小屋へと戻る。

 小屋の前に立つと、きゃっきゃと騒ぐイリスの声が聞こえた。

 

「戻ったよ」

 

「おがえりヤダガ。ぎれいになっら?」

 

 口いっぱいに飯を詰め込んだイリスが、満面の笑みで振り返る。

 

「おまえらは、人を待つってことを少しは覚えろ。先に食いやがって」

 

 へへへ、と頬を膨らませて笑うイリスを見ていると、そんなことはどうでも良くなる。

 

「ゲン太、おまえも今日は好きなだけ飲んでいいぞ」

 

――あい あい

 

 千鳥足の、下駄の木肌に文字が揺れる。

 

「なんだ、もう酔ってるのかよ」

 

「いいじゃない、今ね、言葉遊びをしてるの。ゲン太、すごく上手だよ?」

 

「そうかよ。ほら、これはシュイが燻した肉だってさ。イリスが好きだろうって持たされた」

 

 座ったまま嬉しそうに飛び上がったイリスは、さっそく燻製肉を取りだし口に放り込む。

 

「おいしい。シュイに会いたいな~」

 

「あいつも会いたがっていたよ」

 

 かんかん かかん 

 

 調子の良い下駄の音が響く。

 

――おもいついた

 

 どうせくだらない芸だろうと、横目で睨みながらヤタカも燻製肉を頬張った。

 おそらくは白樺の皮を使ったのだろう。想像していたより、遙かに上出来な味だった。 

「お、はじまったよ!」

 

 景気づけにといわんばかりに、既に酔いのまわったゲン太の木肌へ、イリスがちょろちょろと酒をかける。

 

 二三歩ふらついて、ぴしりと鼻緒を伸ばしたゲン太の木肌に文字が浮かぶ。

 

――くんせいづくり とかけて

 

「うんうん」

 

――ヤタカ ととく

 

「その心は!?」

 

――どちらも

 

「はいはい?」

 

――けむたがられます

 

「あはははは~! ゲン太上手だねぇ」

 

 震える拳を握ってヤタカが立ち上がると、見上げたゲン太がよろよろと後退った。

 

「ほほぉ、誰がどうしたって?」

 

――ぎくり

 

「だからよ、俺にかわいい振りしても通じねぇって……言ってんだろうがあぁぁぁ~!」

 

 下駄を踏み潰す音と、イリスの笑い声が街道に漏れる。

 

「さあ、飲もう!」

 

 蹴り合いもつれ合う一人とひと下駄をよそに、楽しげなイリスの笑い声だけが一晩中響いていた。

 

 

 

 

 




 読みにきて下さったみなさん、ありがとうございます!
 書いていて頭が痛くなりそうな回を何とか抜けました(笑)
 少しの間、旅の風景に戻れそうです。
 次話もお付き合いいただけますように……
 では!


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28 辻読みの背に舞う金糸蝶

 浮き世を流れる塵にも似た人間どもの苦悩などお構いなく、いつもと変わらない朝日が街道を照らしていた。

 足の前に出した杖を擦りながら、まだ酔いの抜け切らないゲン太と楽しそうに先をいくイリスの背に溜息を吹きかけ、宴気分の抜けたヤタカは悶々とした気持ちを抱えていた。

 イリスに何を話すべきなのか、あるいは何にも耳に入れずにおくべきか。

 ヤタカの口から聞かされても、イリスは苦しむだろう。このまま黙っていて、いつの日か事の真相が知れたとき、あるいはもっと苦しむかもしれない。幼なじみ二人のことは、殊更に。

 

――他のことなら、いくらでも俺一人で背負ってやるが

 

 ゴテと野グソだけは、そうもいかないだろう。ずっと先にイリスの恨みを買うことになるとしても今は、名簿のことより、身代わり草に助けられたことより、ヤタカにとっては口にしたくない話だった。

 

――シュイと、わたるのことも、どうしたものかな

 

 イリスが惚けた振りしてヤタカに秘密を抱えているように、ヤタカにも言えぬ事情が増えていく。

 二人の間に細く流れる秘め事の川が、いつか濁流となってヤタカとイリスを押し流す様が胸に浮かんで、ヤタカはぶるりと身震いした。

 

「ヤタカ、今度はどこを目指すの?」

 

 目元を布で覆ったまま振り返ったイリスが小首を傾げる。

 

「どこ……に行くのかな?」

 

 現実に戻り切れていなかったヤタカの口から出た、何ともあやふやで頼りない言葉に、イリスが盛大な溜息を吐く。

 

「行くのかな? じゃないでしょう? このままじゃ、さすらいの旅人になっちゃう。さすらいの旅人……なんかかっこいい。ね、ゲン太!」

 

 か~ん

 

「ゲン太、もうちょっと気乗りした音で答えてやれよ。それじゃあ俺達がアホみたいじゃないか」

 

 かん かん かん

 

「そこで肯定か!?」

 

「ゲン太、今日はお布団にいれてあげない!」

 

 ぷりぷりと尻を振って大股に歩き始めたイリスに、ゲン太の鼻緒がぴくりと跳ね上がる。

 湧き水のごとく次々と浮かぶ言い訳と謝罪、そしてゴマすりの文字が木肌でくるくると入り混じる。

 

――イリス かわいい

 

――ごめん する

 

――おふとん はいる

 

――おこる だめ

 

「アホウ、目隠ししているイリスに見えるわけがないだろうに」

 

 むきっ、と鼻緒を三角に尖らせ、おまえなんぞに構っていられないと言わんばかりに下駄の後ろの歯でヤタカにざざっと土をかけ、ゲン太はイリスの後を追っていった。

 

「ありゃあれで、なかなかいいコンビかもな」

 

 そういえばゲン太が一緒に来たのは、紅へ渡す種を集める為ではなかったのか? すっかり忘れていた話を思い出し、ヤタカはひとり首を捻った。

 共に居ることに慣れて当たり前のようになっていたが、ゲン太が種を集めているところを最近は目にしていない。そういう機会がなかったからといえばそれまでだが、気付かぬところでこっそり集めているのだろうか。

 

「あいつも、たまに意味ありげな言葉を吐くが、やっぱり言えない秘密を胸に抱えているんだろうかな」

 

 自分に宿る水の器が、ゲン太の半分でも自分の意思や感情を示してくれたならと思う。人に違いがあるように、異物も個体によって性質はかなり違うのだと、ゲン太と過ごして感じずにはいられない。妙な宿屋で会った女将や、逆さ参りのことといい、いずれイリスの過去が何かを動かす気がして背筋が疼く。イリス自身がはっきりと解っていない様子を見せる以上、ヤタカから強く問いただすつもりはなかった。何よりイリスのあんな様子を見るのは気が進まない。

 聞いたこともない口調。

 見たことのない冷えた視線。

 喜怒哀楽をどこかに落としたような、感情のない顔。

 まるで重く鍵かけた扉をこじ開け、そこからもう一人のイリスが表面に現れたような光景が、ヤタカの脳裏に松ヤニのようにべたりと貼り付いている。

 無意識に立ち止まっていたヤタカは頭を一つ振り、先へ行ってしまったイリスとゲン太の後を早足で追い始めた。

 

「進むべき道が解らない時はとにかく進め、だ」

 

 方向としては、寺の跡地から離れていくのだろうが、今はそれも構わない。いずれまたおばばの元へ顔を出す日も来るだろうが、今戻ったところで何一つ報告できることがない。まだその時ではない、ただそれだけのことだとヤタカは思う。

 異種の暴走がどうして起こったのか、時代の流れのなか忘れられた頃に繰り返された異種の里下りが、今回に限ってなぜ暴走といわれるほど収集のつかない事態になってしまったのか。それを廻って暗躍する組織のことさえ、何一つ目的が知れないのだから。

 

「お兄ちゃん、何か買って!」

 

 不意に袖を引かれて顔を下げると、泥だらけの顔に商売用の笑みをぺたりと張り付けた小さな兄弟が見上げていた。首から紐で提げた木箱に、無造作に売り物が詰め込まれている。ずっと先の道に、屋台とゴザ売りが並でいるのが見える。あそこでゴザを広げる親の手伝いでもしているのだろうか。

 

「何がある?」

 

「なんでもあるよ!」

 

 商品とは名ばかりで、年季の入った古道具ばかりが詰まった木箱を、小さな手がごそごそと漁る。子供の声に振り向いたイリスだったが、食い物の匂いがする先の屋台にすっかり気持ちは飛んでいる。風下とはいえ、これほどの距離を物ともせず食い物の匂いを嗅ぎ分ける臭覚は、呆れを通り越して賞賛に値する。

 曇った虫眼鏡や、毛玉だらけの襟巻きをしきりに進める子供達の手元を眺めていたヤタカの視線が、木箱の隅にぴたりと止まった。

 

「これは?」

 

 ヤタカが摘んだのは、取っ手のついた木製のヤスリ。使い込まれて黒光りしているが、ヤスリ部分の細かい突起の先は、日の光にキラキラと輝いている。

 

「これかい? これは職人用のヤスリさ。木じゃなくて石を彫るとき仕上げの二歩くらい手前に使うんだ!……てさ」

 

 語尾が微妙に尻窄みで自信なさげだったが、用途はおおよそ当たっている。。

 

「これは幾らだい?」

 

 買って貰えるのかと目を輝かせた兄弟の口からでた金額は、ヤタカが想像していた百分の一にも満たなかった。

 廃業した石工の空き家から持ってきたか、あるいは異種に呑み込まれ姿を消した者の家屋から盗んできたか。どちらにしても、これの価値を知らずに売っている。

 空き屋の中で持ち主を失った品々は、細々と商いをする者達が持っていく。近所の者にしても、後片付けの手間が省けるから文句もでない。今では当たり前の光景だった。

 

「このヤスリをもらおうかな」

 

 嬉しそうに飛び上がって、兄弟はパンと手を打ち合わせた。

 

「すごく欲しかったから、少し上乗せして払うよ」

 

「ありがとう!」

 

 まだ甲高く幼い声が重なる。

 子供達がいった値段に、菓子が買える程度の小銭を足して渡した。嬉しそうに手を振りながら、次の客を捜して兄弟達が去って行く。

 手の中に残ったヤスリを眺め、ヤタカは満足気に微笑んだ。

 価値のわかるものなら、それこそ百倍以上の値をつけるだろう。子供らは仕上げの二歩手前といっていたが、きらきらと輝く突起の側で荒削り、その裏側の一見平らに見える面で仕上げができる。きらきら輝くのは固い鉱石を粉にしたもの。大抵の石なら、楽に削ることができる。

 

「これだけの品だ。余程腕の立つ職人が使っていたのだろうな」

 

 かん

 

 ゲン太に呼ばれて顔を上げると、イリスが足踏みしながら待っていた。

 

「ヤタカ、何を買ったの?」

 

「ヤスリだよ。俺の石を磨くのにいいと思ってさ」

 

「おやつを我慢してまで買った、あの偽物石?」

 

 イリスがニヤリと笑う。

 

「本物かもしれないだろ!? 磨き上がって中に水が入っていたらどうする? 金魚が泳いでたって、イリスには見せてやらないぞ?」

 

「へぇ、がんばってね」

 

 かん

 

「男の少年心は永遠なんだよ!」

 

「はいはい。それより屋台にいこう。お腹空いた」

 

 かん

 

「昨日食い過ぎたんだから、少しだぞ」

 

 最後の言葉なんか聞いていないイリスが、足取りも軽やかに屋台目掛けて歩いて行く。

 

「なぁゲン太。おまえもこれ、偽物だと思う?」

 

 懐から灰色の丸い石を取りだして見せると、見上げるようにゲン太が後ろの歯で立ち上がり、すとんと尻を下ろす。

 

――そろそろ

 

「そろそろ中が透けてくるか?」

 

――おとな なれ

 

 からんからんと下駄が行く。

 がくりと肩を落として、とぼとぼと歩くヤタカの背中は、これ以上ないほどに丸まっていた。

 

 

 

 夜も更け、街道沿いの小屋で休む二人とひと下駄は、それぞれに旅の隙間の休みを楽しんでいた。昼間に屋台で買った小さなリンゴ飴を口に咥えながら髪を梳くイリス、その隣で追い出されまいと今から布団に齧り付いているゲン太。

 ヤタカはといえば、昼間買ったヤスリで意地になって石を磨いていた。

 しゃりしゃりと絶え間なく響くヤスリの音は、蝋燭の薄明かりの下、虫の音を聞くように心地よい。どんな道具にもいえるが、その物の質は使った時の音に現れる。

 

「今までの安物とは削れる速さが桁違いだ。これなら、爺になるまえに磨き切れるかも」

 

 布団にころころと絡まっていたゲン太が逆さまのままぴたりと止まり、イリスがつつっと冷ややかな視線を向ける。

 

「じじいになる前に?」

 

「う、うん」

 

「そうね、爺になる頃にはきっと、小豆くらいの大きさまで磨けてるね」

 

「ぐぐっ」

 

 言い返す言葉が見つからない。してやったと言わんばかりに、ぷいっと顎を背けるイリスに空息を吐きかけヤタカは立ち上がると、石とヤスリを手に留め具の壊れた入口の戸を蹴り開ける。

 

「ちょっと涼んでくる!」

 

「あ、一緒にいく!」

 

 空気を読めこの馬鹿イリス。心の中だけで叫んで白目を剥きながら表にでたヤタカの後を、ぱたぱたと小さな足音と、からりころりと下駄の音が追ってきた。

 男の心意気や意地なんて、脳天気なイリスの前では塵に等しい。

 街道には心地よい夜風が流れ、ときおり森の葉が擦れ合う音だけが響いている。

 

「気持ちいいな」

 

 雲に覆われて星一つ見えない空は、じっと眺めていると天と地の境を曖昧にさせる。ヤタカはくらりとした軽い目眩に頭を振った。

 

「ヤタカ、誰か来るよ」

 

 イリスの囁きに耳を澄ませると、街道の暗がりの向こうからずずり、ずずりと土の道を擦る音が近付いてきていた。

 見えない闇にイリスが持ってきた蝋燭を翳すと、背を丸めた老婆が姿を現した。

 その異様な姿に、ヤタカは足を引くことも声をかけることも忘れて視線を注ぐ。

 くの字に曲がった背。頭にぐるりと長い布を一巻きして頬の横からだらりと垂らし、灰色のすれた着物の上から、黒地に金糸で蝶の柄をあしらった豪奢な、いやかつては豪奢であったろう打ち掛けを羽織っている。小さな体に羽織ったそれは、身の丈の三分の一ほどだらりと地面に引き摺られ、歩くたびにずずり、ずずりと低い音を立てる。

 引き摺られる布の音に混じり、ゆっくりとした足取りに合わせてぽくり、ぽくりと鳴る音は、老婆が手にした一本ののぼり。のぼりとは言っても、地面に向けて先細りした歪な長い枝に、縦に細長い布の一端を結びつけただけのもの。老婆にとっては杖代わりでもあるのだろう。雨風に晒され、ぎざぎざに端がほつれ煤けた布には、提灯に入れる屋号に似た太い墨字で、『辻読み』と書かれていた。

 まるでさざ波模様のように顔全体に深く刻まれた皺の隙間から、目玉らしき物が細く覗いて、立ち竦むヤタカに顔を向けてぴたりと止まった。

 

「誰かおるのかの?」

 

 尋ねる老婆の表情は変わらない。こっちを向いたとはいえ、顔は微妙にヤタカ達とは違う方向に向けられている。

 

――まさか、見えないのか?

 

「驚かせてすみません。そこの小屋に宿を求めている者です。夜風に当たろうとして、ここに立っていました」

 

 ヤタカの言葉に老婆はあん? といって耳に萎れた手を当てた。声を大きくして繰り返すと、ようやく聞こえたのかしわしわの口元をもぞもぞしながら頷いた。

 

「クマや猪じゃのうて良かったわい」

 

 喉元で咳をするように老婆が笑う。

 

「失礼ですが、目が不自由なのでは? この夜道を歩くのは危険ですよ?」

 

 老婆は提灯どころか燭台さえ手にしていなかった。だから街道の闇に紛れて、近付くまで姿を目にすることはできなかった。

 

「この目は生まれつきじゃて。目の見える者に説明するのは難しいがの、物のある無しは感じるんじゃよ。命ある者が近くに立ってもそれと解る。まぁ、それが人かクマかの区別はつかんがの」

 

 もう鼻も老いとるから、そういって老婆は腰を叩き背を伸ばす。拳ひとつ分ほど持ち上げられた頭は、すぐにすとんと元の位置へ落とされた。

 

――まさか現実に目にするとはな

 

 生まれつき、あるいは幼い時に視力を失った者が、ある程度周囲を把握できるという事例なら聞いたことがある。だが、一人で街道を歩き回るなど、目にした今でも信じがたい。

 誰よりも異質なヤタカが言えたことではないが、人の皮を被った魑魅魍魎が行き交う街道においても、この老婆は異様で異質だった。

 

――体が心を動かすのか、心が体を動かすのか。不思議な生き物だな、人は

 

 そんなヤタカの物思いを遮るように、イリスの明るい声が響く。

 

「おばあちゃん、辻読みってなに?」

 

「古く言えば、辻占いじゃて。わしの大婆様も、そのまた大婆様も辻占いでおまんまを食っちょった」

 

「占い、ですか」

 

 占いなら、目が不自由でも商えるか。

 

「おばあちゃん、どんな占いなの? 当たる?」

 

 花びら占い、木葉占い、女の子はどうしてこうも占いと名が付くものが好きなのか、男のヤタカにはイマイチ理解できない領域だ。

 

「当たるも八卦、当たらぬも八卦というじゃろう? 所詮は占いじゃて。その日風に舞う塵と同じよのう。占いに道具もやり方もないさ。わしは占うというより……読むんじゃよ」

 

「読む?」

 

「そう、目が見えないからこそ、見えない物の向こうに潜む物が見えることもある。見える者は、形に惑い色に惑う。見せかけの姿に、本質を見失う。違うかの?」

 

 そうかもしれない。客の興味を惹く口上だとしても、人の本質をついていると思えるのは、老婆が生きてきた時間の重みに曲がった容姿のせいだろうか。いや、これも惑うということかな、とヤタカはひとり鼻先を擦る。

 

「慣れているとはいえ夜道は危ないですし、よければこの小屋に一緒に泊まっていきませんか?」

 

 ヤタカの言葉に、老婆は可笑しそうに肩を揺する。

 

「何も見えない者が、人通りの多いお天道様の下を歩けば邪魔になるでの。わしは夜の闇に紛れて移動して、ここという場所で昼間は日が沈むまで客を待つ。歳だもんで、ちびっと眠れば済むからのう」

 

「そうですか」

 

「おばあちゃん、気をつけてね」

 

 ありがとさん、小さく頭を下げよいこらしょと老婆はのぼりを持ち直す。

 

「久しぶりに辻読み以外で人様と話せて良かったわい。涼みとはいっても体の芯まで冷やさんよう、御三方も気を付けなされ」

 

「はい」

 

 ずずり、ずずりと老婆の足跡を追って、打ち掛けの裾が土を擦る。

 ふと老婆は立ち止まり、背を向けたまま何かを覗くように顔を傾げた。

 

「あんたさん、あんまり悩まないことじゃよ。色んなものがあんたさんから溢れ出て、すっかり手の中の物が濁っとる。溜まり水じゃのうて、綺麗な川でもあったら浸けてやるとええ。それはどうやら、水のものらしいからの」

 

 何をいっているのか解らなかった。

 あぁ、老婆はひとり頷くと、半身見返って皺だらけの顔に笑みを浮かべた。

 

「あんたさんらじゃったかい。覚えておらんじゃろうが、うちの孫が世話になったことがあっての」

 

「孫、ですか?」

 

 うんうん、と老婆が頷く。

 

「孫が世話になった礼に、また会うことがあったら、辻を読んで差し上げますわ」

 

「辻占いをですか? あのお孫さんのお名前は?」

 

「あれは不憫な子での。人ではない者に愛でられてしもうた。辻読みの方は……今夜はまだ、時が満ちておらんようじゃから」

 

 ずずり、ずずりと老婆が闇の向こうへ去って行く。追いかければすぐにでも追いつけるというのに、竦んだようにヤタカの足は動かなかった。

 ヤタカの脳裏を、生意気で優しい小さな紳士の顔が過ぎる。

 

――あぁ

 

 すでに闇に呑まれた老婆の背に視線を注いでいたヤタカは、見る間に目を見開き手にした蝋燭の灯りを吹き消した。

 老婆が姿を消した黒い闇の中に、儚げに細く舞う金糸が見えた。

 光源もないというのに、ちりちりと輝いて細い金糸が舞い踊る。

 

「ヤタカ、寒くなったから入ろう?」

 

 小屋の入口から顔を出してイリスが呼んでいる。

 

「あぁ」

 

 土を擦る打ち掛けの音がすっかり聞こえなくなって、呪縛から解き放たれたようにヤタカはやっと小屋へと足を向けた。

 

――そうか

 

 感じた違和感が、形になって浮かび上がる。

 

「どうしたのヤタカ? ぼんやりしちゃって」

 

 小屋の壁に背を凭れ、ヤタカはヤスリで石を磨きはじめた。

 

「あの婆さん、目が見えないのは本当だろうな」

 

「うん、だって眼球が白濁していたもの」

 

 そう。イリスがいう通り、うっすらと開いた瞼の隙間から覗いた目は、すっかり白濁していた。

 

「でも婆さんは、確かに何かが見えているんだ」

 

「どういうこと?」

 

 石を磨く手を止めて、ヤタカはイリスに顔を向ける。

 

「あの婆さんには、ある意味俺達が見えていたってことだよ」

 

 訳がわからない様子のイリスが、きょとんと小首を傾げる。

 

「さらりと言ったんだよ、あの婆さん。お三方ってな」

 

 ゲン太の鼻緒がぴくりと立った。

 

「俺にイリス、ゲン太の存在にも気付いていた。だから、御三方。だろ?」

 

「そっか。気付かなかった。辻占いができる人って、特別な力があるのかな?」

 

 どうだろうな、曖昧に答えてヤタカは手元の石に視線を戻す。

 

「婆さんが去った後の闇に、幻みたいに舞っていた」

 

「何が?」

 

 ヤスリにふっと息を吹きかけ粉を飛ばし、しゃりしゃりとヤタカは丸い石を削り続ける。

 

「婆さんの打ち掛けから飛び出したみたいに、金糸の蝶がちらちらと舞っていた」

 

 目を丸くしてから、イリスはにこりと微笑んだ。

 

「ヤタカの蝋燭の灯りを照り返したんでしょう? 金糸はきらきらしているもの。お婆さんの歩きに合わせて打ち掛けが動くから、きっとそんな風に見えたんだね。いいな、見たかったな」

 

「そうだな、きっとそうかもな」

 

 興味をなくしたイリスが、布団からゲン太を追い出そうと意地悪な顔をつくって這っていく。慌てて布団に潜り込んだゲン太の上に、布団ごとイリスが覆い被さった。

 ぐえっ、というゲン太の声が聞こえてきそうに楽しげな光景。

 

「イリス、金糸の蝶はな……」

 

 石に視線を落としたまま、ヤタカは口の中だけで呟いた。

 

「舞い上がったんだよ。金糸に縁取られた蝶がひらひらと、舞い上がったんだ」

 

 イリスとゲン太が笑いながら転がっている。

 開け放った小窓から金糸の蝶を追うように、しゃりしゃり、しゃりしゃりと石を削る音が街道に染み出て闇に溶けた。  

 

 

 

 

 

 




 読みに来て下さったみなさん、ありがとうございました!
 


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29 灯りを纏う者

 街道にでたヤタカは、木々の隙間から差し込んだばかりの朝日に目を細めた。

 白い雲の隙間を縫って差す光は、後光の様に細い線を重ね白く柔らかい。

 数日前、目にした金糸の蝶。

 あの蝶が日の光の下に羽を広げたならと想像する。細く筋を成して広がる朝日は、まるで蝶の片羽を見ている様だと思った。

  

「イリス、わたるに貰った薬、ちゃんと飲んでいる?」

 

「うん」

 

 軽く跳ねるようにゲン太と歩くイリスの背に、ヤタカはほっと息を吐く。

 わたるの女の勘、とやらは当たったらしい。けっこうな騒動が起きた直後だというのに、辻読みの老婆と出会ったあとは静かすぎる日々が続いていた。

 本来なら三日に一度飲めばよい薬だったが、体に変調が見られるときは毎日飲むべきもの。ゴテと野グソも人目を盗んで懐に入れてきたのだろう。三日に一度飲んでも、十日持つかどうかという量しかない。

 ここ数日、ヤタカは自分の分もイリスに飲ませていた。ヤタカが薬を飲んでいないことをイリスは知らない。

 

――元気なんだが、どうもな……

 

 元気なイリスだったが、背中や腹、肩口の辺りをやたらと痒がる。眠っている間も疼くのか、うむぅ、と寝言で小さく呻き声を漏らす。

 だからヤタカは、自分よりイリスに薬を飲ませることを優先した。

 素人の憶測に過ぎないが、きれい好きのイリスが毎夜水浴びをするたびに、症状は悪化している様に思えていた。

 

――まさか衣を下げて、肌を見せろとはいえない。

 

 思い切って一歩踏み込むには中途半端な不調。ましてや衣に隠された肌となると、軽いノリで見せろと言うわけにもいかない。心配だからと実力行使にでて、万が一ただの湿疹程度だったら、イリスにぶち殺される……くらいでは済まない悪夢が待っている。

 

――もう少し様子を見て、駄目ならゴテ師か野草師を探すしかないな。

 

 イリスの痒みがただの湿疹なら、本当の不調を抱えているのはヤタカの方。

 忠告されたように、身代わり草は毒と一緒に必要な薬効も体内から持ち去ったらい。  後頭部に重石をぶら下げたような不快感は、日ごと肩へ腕へと降りてきていた。

 

「ヤタカ、そこに何かある?」

 

 立ち止まったイリスが指差したのは林道の入口。細い道の端に、こんもりと人型に盛り上がり苔むした小山があった。

 

「あったよ。異種だ」

 

 人型の胸辺りから伸びた固い茎が、ずぶりと地中へ潜り込んでいる。

 根のように地中を這い回り、どこかで土から音もなく顔を出し一番種を実らせる。

 ヤタカは懐から採取用の小刀を取りだし、地中に伸びる茎をばさりと切り落とした。

 茎の断面から濃い緑色した粘液質な雫がどろりと垂れて、水気を一気に蒸発させた茎は枯れ葉色となり砕けて落ちた。

 

「行こう、採取して売れるような異種じゃない。今日は何処かで早めに休もう」

 

「もう疲れたの? 年寄りっぽいね」

 

「違うって。遅くまで起きていたから寝不足なだけだよ」

 

 ふうん、といってイリスはすたすた歩き出す。

 ぱりぱり

 杖を持たない手が、爪を立てないように首筋を掻いた。

 

「どこかで、イリスの体を見てくれる奴を探そうな。痒いんだろ?」

 

「大丈夫。小虫が這っているような気持ち悪さで痒いけど、痛くないもの」

 

 心配そうにうろうろするゲン太を視線で促し、ヤタカは平静を装う。

 

「ゴテと野グソ、ちゃんとごはん食べているかな」

 

 イリスは幼なじみとの経緯を知らない。だからこそ、会えない友へ心配の言葉を口にする。

 

「食ってるさ。食い意地じゃあイリスに負けない」

 

 イリスの言葉がちりちりと胸に刺さる。それを吹き飛ばすように、へなりと鼻緒を下げたゲン太を小石のように蹴飛ばして、ヤタカはぺろりと舌をだす。

 

「ねぇヤタカ、行き先は特に決めていないんでしょう?」

 

「ああ。取りあえずは風の向くまま……だな」

 

 視線を上げると少し先の道は二股に分かれていて、一本は真っ直ぐに、そしてもう一本は右手の山を迂回するようにゆったりと曲がっていた。

 

「右の道に行こうよ」

 

 イリスの提案に違和感を覚えたヤタカは顎を捻り、蹴り飛ばされた先からよたよたと戻ってきたゲン太を見たが、ゲン太も不思議そうに木肌に薄墨を雲のように浮かせるだけだった。

 

「ちゃんと布を巻いているんだろうな?」

 

 日の光を避けるために目元に布を巻くイリスが人の足音や気配で察するには、二股に分かれた道はまだ先だ。浮かんだのは当然の疑問。

 

「巻いているよ。この先、最初の分かれ道が来たらっていう意味でしょう?」

 

「なるほど。それなら別にいいよ」

 

 ちらりとゲン太を見ると、うへぇ、と惚けた文字を浮かばせた。

 

「直ぐ先に分かれ道があるから、右に行こうか?」

 

「うん」

 

 道の分かれ目に来て声をかけると、イリスは元気に道を右へと歩いて行った。

 こめかみの辺りに、理由のわからない棘が刺さったあような違和感を拭えないヤタカだったが、このまま直進しても寺跡からどんど遠ざかる。戻らざる得なくなった時のことを考えるとイリスの体力を考慮した場合、この道を選ぶ方が懸命かも知れないと思った。

 

――くそ、体が重い

 

 まるで水の器が体積を増したようだった。野グソとゴテがこの症状を抑えてくれていたのかと思うと、こんな状況になっても感謝の気持ちが湧いてくる。

 天敵がいなくなった水の器が、自由にヤタカの体に染みだそうとしているような倦怠感に、ヤタカは口の中で舌を鳴らす。

 

「イリス、少し早いが今夜はここで休もう」

 

 夕暮れにさえまだ早い。そよ風に前髪をさわりと浮かせイリスは小首を傾げたが、何かを問うことなく頷いて小屋へと入っていった。

 

――つらいのか

 

 ゲン太の木肌に文字が浮かぶ。

 

「大丈夫だ。少し疲れただけさ」

 

 つま先で小突いて、ゲン太を先に小屋へと入れる。どこから湧いてきたのかと思うほど、人通りの多い街道だった。まだ賑やかに商いを続ける露天商を横目に、ヤタカは小屋に入ると後ろ手に引き戸を閉める。

 

「ごはん、食べていい?」

 

「いいけど、もう少し日が暮れてからな。まだ日が高い」

 

「俺は少し寝るよ。水浴びに行くときは、ゲン太を連れていくんだぞ?」

 

 は~い、という気のない返事に背を向け、布団をひくことさえせずにヤタカは固い床にごろりと身を横たえた。

 体が動かなくなる前に、ゴテ師を見つけなくては不味いことになる。この感覚をねじ伏せるには、ゴテを当てた方が薬を飲むより効くだろうだろう。

 

――かといって、腕の立つ奴が転がっている訳もない

 

 ゴテと野グソ以上の腕を持つ者に出会えるなど、イリスが淑女になる可能性より低い。

 思い浮かんだくだらない喩えに苦笑いして、ヤタカはそっと目を瞑った。

 

 いつの間に眠ったのか、イリスが引き戸を開ける音と、その後をゲン太が付いていくからりころりという音に目を覚ました。一本の蝋燭に照らし出されたほの暗い壁が、とっくに日が暮れたことを教えてくれる。

 

「さすがに体が固まった」

 

 ほとんど寝返りも打たずに固い板張りの上で眠っていたヤタカは、痺れた腕を擦りながら体を起こす。

 明かり取りの窓から、薄雲に覆われた月が見える。

 

――あいつら、何しているかな

 

 袂を分かった幼なじみに思いを馳せた。

 イリスが残してくれた饅頭を口に含んだが、どうにも喉を通っていかない。喉が渇いたわけでもないというのに、水の器に水分を舐め取られたように口の中が乾いていた。

 柔らかな饅頭さえ砂を噛んだようにばさついて、眉を顰めながら飲み込んだヤタカはことりと壁に頭を預け、苦し気に目を閉じる。

 どのくらいそうしていただろう。

 

――遅すぎる

 

 イリスが水浴びに出かけたときに窓から見えた月は、すっかり木枠の外へ流れて姿を消した。ゲン太が戻らないから大丈夫なのだろうが、長過ぎる水浴びに不安が過ぎる。

 

「くそ、だらしねぇ」

 

 立ち上がろうと片膝を立てただけでふらついたヤタカは、壁に手を付いて体を支える。

 回る目を閉じて、壁伝いに引き戸まで辿り着く。よろけたヤタカの体に押されて、ガラガラと戸が開いた。

 

「どっちへ行った?」

 

 さすがに日が暮れると人通りは疎らになっていた。この辺りの小屋に宿を求める者達の手にした灯りが、ぼやけて滲む。

 灯りを持って来なかったことに気付いたヤタカだったが、三歩とかからない小屋の入口まで引き返すこともままならない。回る視界に抗う体を支え切れず、手で押さえた両膝ががくがくと震えた。

 思っていたより、切れた薬効が体の自由を奪うのが早い。

 用心深いヤタカだったが、予想外の速さで奪われていく体力。

 

――まずい……

 

 膝を押さえていた右手が、ずるりと滑って上体が傾ぐ。

 このまま倒れると思った体が、枝に引っかかったようにだらりと止まった。

 

「大丈夫か、兄さん? しっかりしろ」

 

 左腕を強い力で支えられ、聞こえてきたのは覚えが無い男の声。

 

「おい、小屋の中に運ぼう」

 

「いや、動かさない方がいいぞ。原因が解らないんだからな」

 

――二人いるのか

 

 力を振り絞り顔を上げたが、霞む目にはぼんやりと滲む蝋燭の灯りしか見えない。

 

「大丈夫だ、オレ達はゴテ師と野草師だ。この男の事はまかせてくれ」

 

 この騒ぎに、通りすがりの人々が足を緩めたのだろう。二人の男達が人を払う声が響く。

 

「まさか野草を食ったら毒草だった、てわけじゃないよな? 駄目か、話す力もなさそうだな」

 

「薬をくれ、ゴテを当てる」

 

 土の道に横たえられたヤタカの横で、がちゃりがちゃりと道具を広げる音がした。

 

――ゴテ師……なのか

 

 少しでも動けたなら、ヤタカは歯を食いしばってでも治療を断っただろう。腕も解らない素性も知れない者にゴテを当てさせるには、ヤタカの体は複雑な事情を抱え過ぎている。 

 

――舌が痺れて、断ることすらできない。

 

 仰向けに転がされ、作務衣の胸が広げられる。熱されたゴテに塗られた薬草の、嗅いだことのない匂いにヤタカは内心眉を顰めた。

 

「少し痛むが我慢しな」

 

 男の声は若い。濃くなる薬草の匂いが、ゴテがヤタカの胸に近づけられていることを示していた。

 

「うぐっ」

 

 舌が痺れたまま、喉の奥でヤタカが呻く。薬草に焼かれる痛みではなく、焼けた肌に薬草が浸みる痛み。

 

「応急処置だ。体が痺れて動けないのだろう? 痛いだろうが、これで視界も少しは晴れる。舌も動く。話せるようになったら、名前くらい教えてくれないか? 名前がわからないと、物を相手にしているようで嫌なんだ」

 

 目元で頷いて、ヤタカは同意の意を示す。

 素性は知れないが、ある程度の腕と経験がある者達なのだろう。霞がかかったていた目から靄が晴れ、揺れる蝋燭の灯りが眩しく映る。

 声の印象より年のいった男達だった。三十路はとうに過ぎているだろう。

 人好きのする柔らかな笑みを浮かべ、二人の男はヤタカの顔を覗き込んでいた。

 

「目の焦点があってきたな」

 

 蝋燭の灯りでヤタカの目を照らし、満足そうにゴテを手にした方の男が微笑んだ。

 

「心配しなくていいよ、ここで会ったのも何かの縁だ。わたしが練り込んだ薬を、この男にゴテに塗って当てて貰えば、直ぐに楽になるからね」

 

 こちらが野草師なのだろう。体格の割りに柔らかな物腰の男だった。

 目は見えるようになり痺れは急速に薄らいでいたが、しゃべることはできなかった。まだ指先一本動かない。

 

――イリス、今は戻って来るなよ

 

 危険な者には見えないが、万が一ということもある。今のヤタカにできるのは、心の中で祈ることだけだった。

 押さえ込まれる危険を感じたのか、水の器がヤタカの内で煩く存在を主張する。

 蝋燭の炎で熱せられたゴテから、薬草の焦げる匂いが漂う。幼なじみのゴテ師の治療では嗅いだことのない、嫌な匂いだった。

 

「そろそ話せるか? 名前は?」

 

 熱されたゴテに、薬草を塗りつけながら男が問う。

 

「名は……ヤタカ」

 

 掠れた声に目を細めた男は、野草師とちらりと目を合わせて頷き合った。

 

「それじゃ、次のゴテを当てるぞ。これで……直ぐ楽になる」

 

 男が手にしたゴテがヤタカの首筋に近づけられ、鼻を突く薬草の激臭にヤタカは僅かに眉を顰めた。

 

「心配ない」

 

 優しげに微笑む男の目。その目が笑っていないことにヤタカが気付いた瞬間、肌に触れる寸前だったゴテが、横から飛んできた下駄に薙ぎ払われた。

 

「何をする! だれ……」

 

 叫びを途中に、男の体が飛んでヤタカの視界から消えた。呆然と目を見開く野草師が、声を上げることなくその場に崩れ落ちる。

 野草師の首筋を打ったのは、大人というには小ぶりな手。

 

「お~危ねぇ。間に合わないかと思った。兄ちゃん大丈夫か?」

 

 蹴り飛ばした下駄を取りに行った少年が、指先に下駄をぶら下げ器用に片足で跳ねて戻って来た。

 

「あちゃ、もうゴテを当てられてたのか」

 

 眉を顰めた少年が、ヤタカの胸に鼻を近づけくんくんと匂いを嗅いだ。

 

「これは普通に薬草だな」

 

 腕を組んで少年が頷く。

 

「おまえ……誰だ?」

 

 ヤタカの問いに、少年は白い歯をにっとさせる。

 

「それは後で教えるよ。とりあえずこの二人、丸二日以上は目を覚まさないから、林の端に転がしてくるわ。ここに置いておくと邪魔だ」

 

「いったい何をした?」

 

 頭二つ以上はでかい大人を腕力で倒すには、少年の腕は細過ぎる。

 

「気絶している間に、皮膚から薬が染みこんでいく。死なない程度とはいえ、強力に筋肉を緩めるから、目覚めても動けやしないよ」

 

 ゴテ師か野草師だとしても若すぎる。だが、とヤタカは思う。

 野グソとゴテも、少年より幼い日からヤタカとイリスの治療をしていた。

 数人の旅人が通りかかったが、遠巻きに道の端を早足で過ぎていく。妙な争い事に巻き込まれたくないのだろう。直ぐそことはいえ、少年の手で引き摺るには大人の男は重い。

 荷を引く馬のように鼻息を荒くして、男を除ける少年をヤタカは用心深く眺めていた。

 

「よしっと。兄ちゃん、ゆっくり動いてごらん。当てられたゴテが、そろそろ全身に効いてくるはずなんだ」

 

 左半身の痺れはまだ強く残っている。だが少年のいうとおり、右半身は辛うじて動く程度に痺れは取れていた。肘を着いて体を起こすヤタカの背に、少年の手が添えられる。

 

「兄ちゃんまで引き摺って、小屋まで行く力は残ってないからな。時間がかかってもいいから、自力で何とかしてくれよ?」

 

 どかりと座り込んだ少年は、少し大きすぎる下駄を履き、膨らんだ風呂敷を肩に斜めにかけている。肌は少年らしく浅黒く日焼けしていた。屈託のない笑みが、ヤタカに諦めの溜息を吐かせる。

 

「倒れた俺を助けようとしていた男達を、どうして気絶させた?」

 

「助ける?」

 

 はははっ、解っているくせに。少年はそういって鼻の下をごしごしと擦った。指先に着いていた土で、鼻の下が黒くなる。

 

「オレが蹴り飛ばしたゴテが肌に当てられていたら、三日後には兄ちゃんの葬式だったぜ? 胸に当てられたゴテは、ちゃんとした薬草を使っているけれど、それだって兄ちゃんの名前を聞き出すためだもの」

 

 薬草の激臭が蘇る。

 

「俺の名を聞き出して、どうするつもりだったと思う?」

 

「確認だよ。間違った相手に、あのゴテを当てて殺したら大変だろ?」

 

「あの匂いは毒草のものだったか」

 

 全身の痺れが取れてきたヤタカは、ぐるりと首を回して肩をほぐした。

 

「もう一度聞く。おまえは何者だ?」

 

 立ち上がった少年は、乱暴に膝小僧を叩いて土を払う。

 

「兄ちゃんの友達に頼まれた」

 

 ゴテと野グソの顔が浮かぶ。

 

「まさか、おまえみたいなガキが?」

 

――後釜は他の者に頼んであるよ……唯一信用できる存在だ……その子は訳あって中立の立場を貫いている――

 

 幼なじみの言ったことを、ヤタカは何度も口の中で繰り返す。

 

「そうか、あの時あいつらは、託した相手をその子と呼んでいた。言葉のあやかと思っていたが、まさか本当に子供とは。驚いたよ」

 

「子供で悪かったな。そんなに元気にしゃべれるようになったんなら、さっさと小屋に入りなよ。夜は冷えるんだからさ」

 

 ヤタカが立ち上がろうとすると、少年が男達を放り込んだ林とは反対側から、からんころんと下駄の音が聞こえてきた。

 

「やっと帰ってきたか」

 

 安堵の溜息が漏れる。

 

「俺の連れに、今のことは話すなよ」

 

 小声で言うと、少年はちょっと小首を傾げたが、下駄の音にちらりと目をやりこくりとひとつ頷いた。

 

「ヤタカ? 道に座り込んでどうしたの? あらかわいい! その男の子は誰?」

 

 目を丸くするイリスにひらひらと手を振り、ヤタカは立ち上がる。

 

「取りあえず中に入ろう。話はそれからだ」

 

 イリス手前、平静を装って小屋向けて歩き出したヤタカは、動こうとしない少年に足を止めた。

 

「おい、早く来いよ。何して……」

 

 くりりとした目を更に大きく広げ、ぽかりと口を開けた少年がイリスの足元をじっと見つめていた。

 

「まさかおまえ……見えるのか?」

 

 ゼンマイ仕掛けの人形みたいに、少年がこくこくと何度も頷く。その後に続けられた言葉は、驚いているヤタカの目を更に見開かせた。

 

「うわぁ、すげぇ。おまえ、あの時のしゃべれる下駄!」

 

 ゲン太を指差して、少年が満面の笑みを浮かべる。ゲン太がぴょんと跳ね上がり、嬉しそうに鼻緒を立てた。

 

――まさか、ゲン太が家出したときに会った少年か?

 

 ヤタカとイリスのことなど、存在さえ忘れたように喜び合う一人とひと下駄。

 

「それじゃあ、おまえは……」

 

 わたるの弟か、という言葉を慌てて喉元で呑み込んだ。 

 

「もう訳がわからんよ。とにかく入ろうぜ」

 

 わしゃわしゃと頭を掻きむしり、ヤタカは全員を小屋の中へと押し込んだ。

 再会を喜ぶ少年とゲン太が、代わる代わるに説明した内容を繋げて、ようやくこの少年とゲン太の繋がりに納得した。

 

「オレの名は和平。おまえゲン太っていうんだな。あの時は話に夢中で、名前聞かないで別れちゃったもんな」

 

――あえた うれしい

 

 ゲン太の木肌に浮かんだ文字を指先で撫で、和平は嬉しそうに目を細める。

 

「兄ちゃん、眠る前にゴテを当てるからね。今夜は応急処置だけど、明日の夜にはきちんとしたゴテを当てる。あとイリスさんもね。イリスさんは、よく診させて貰ってからにするよ。聞いていたのとは、少し体調が変わっているように思えるから」

 

 ゴテと野グソから得た情報と、目の前のイリスに微妙なズレを感じているのだろう。イリスが体を痒がるようになったことと、何か関係があるのだろうか。とにかくあいつらに劣らないほど、和平は腕が立つのだろうとヤタカは思った。

 

「そういえば、おまえの大好きなやつらって、この人達のこと?」

 

 背中を見せるヤタカの肌に指を当てながら、和平がくいっと片眉を上げてみせる。

 

――ちがう 

 

 鼻緒をぴりりと上げるゲン太。

 

「好きだから心配して、大慌てで帰ったんだろ?」

 

――ぜんぜん ちがう

 

 ヤタカの背中に、とんとんと指先を当て気穴を探りながら、ゲン太を見る和平の目が意地悪げに細められる。

 

「でも、嫌いじゃないだろ?」

 

――だいっきらい

 

「へぇ……」

 

 頬を膨らませ、イリスがじろりとゲン太を睨む。

 ゲン太の鼻緒がぴくりと跳ね上がった。

 

――ちがう

 

「なにが?」

 

 今のゲン太にとって、イリスの視線は松明の火で炙られるより痛いだろう。ちらりと見て、ヤタカは口の端でニヤリと笑う。

 

――イリス は すき

 

「うん、それならよろしい!」

 

 イリスに鼻緒を撫でられ、焦りに張り詰めていたゲン太の鼻緒がへなりと下がる。

 そんな様子に、和平がくすくすと笑っている。

 

「俺への謝罪はなしか、アホ下駄?」

 

 和平が手にしたゴテが左肩の真上に当てられて、ちりちりと痛む肌にヤタカは鼻の頭にシワを寄せた。ゲン太の木肌に墨が渦巻いたかと思うと、小さな文字がポンと浮かんだ。

 

――ちっ

 

「はぁ!? おまえ今、チッっつったな? 舌打ちか!」

 

「ほら、動かない!」

 

 反射的にゲン太を蹴ろうとしたヤタカの頭を、ぺしりといい音をたてて和平の手が叩く。 

「馬鹿下駄! 後で覚えてろよ!」

 

 ゴテを当てて動けないヤタカを、ここぞとばかりにゲン太が蹴る。

 

――わへい

 

「なに? ゲン太」

 

――いたいの あるか

 

「めっちゃヒリヒリするのが、ありますぜ……ダンナ」

 

 肩を揺らし、可笑しくて堪らないという風に和平が笑う。

 

――それ つかえ

 

「やっちゃう?」

 

 空いた片手で和平が、見るからに毒々しい練り薬を広げてみせる。

 

「おまえら、冗談じゃないぞ! 俺が何したっていうんだよ!」

 

「和平、やっちゃえ」

 

 イリスの締めのひと言で、小屋の中に笑いが満ちる。

 三対一では、ヤタカに勝ち目などあるはずもなかった。イリスが面白可笑しく、ヤタカの失敗談を話して聞かせる。話が三倍くらいに盛られていたが、抗議する気にもなれなかった。

 

「よし、終わった。イリスさん、ちょっとだけ肩の辺りを見せてくれる?」

 

「うん」

 

 ゴテにそうしていたように、躊躇なくばさりと浴衣の肩を下ろしたイリスに、和平はくっと息を呑んだが、すぐに見極める者の目に戻った。

 手の平を当て、ゆっくりとずらしながら目を閉じ探っていた和平が、イリスから手を離し、そこに何か付いているかのように、空の手をじっと見つめる。

 

「イリスさん。最近、体がむず痒くなったりしない?」

 

「うん。ちょっとね」

 

「そっか」

 

 少し考えた風に首を捻ると、直ぐに笑顔に戻った和平は、風呂敷を結んで肩にかけて立ち上がった。

 

「どこに行くんだ?」

 

 少年が出歩くには夜が更け過ぎている。慌ててヤタカは立ち上がった。

 体の倦怠感は、嘘のように退いている。

 

「明日、イリスさんに使う薬草を取ってくる。夜の方が見つけやすいんだ」

 

「夜道には慣れていそうだが、危険な時間だ。俺も付いていく」

 

「大丈夫。それに兄ちゃんは休んだ方がいい。ついでに水浴びもしてくるから」

 

 澄んだ目元をそのままに、口元だけで和平が微笑む。

 

「イリスさん、水浴びができる場所はどっち?」

 

 裏の林に入ると、近くに岩場の湧き水がある、とイリスは答えた。

 

「和平、おまえさ……」

 

 入口で振り向いた和平が、小さく首を振る。

 

「兄ちゃん、話は明日だ。月が完全に傾かない内に、仕事を済ませたいからさ」

 

 ひらひらと手を振る和平の背中で、引き戸がぱたりと閉められる。

 一度は座ろうとしたヤタカだったが、立ち上がって外へ出た。林も森も、今は獣たちの時間だ。

 

「どっちへ行った?」

 

 行き交う人も途絶えた夜の街道は暗く、森は更に闇を深くしている。呼びかけてみようかと小屋の後ろに回り込んだヤタカは、叫ぶことなく吸い込んだ息を止めた。

 

「わたると同じだ。同じ灯り」

 

 林の奥へ向かっているのだろう。和平の姿は見えないが、五つの淡い灯りがゆらゆらと舞っていた。

 

「明日、話すことが増えたよ和平」

 

 踵を返して、ヤタカは灯りに背を向ける。小屋で眠って、言うべきことと伝えるべきことの整理をつけようと思った。

 わたるがそうであったように、ヤタカなどいなくても五つの灯りが和平を守るだろう。

 

「わたる、見つけたぜ」

 

 呟きは夜風に流れ、耳にする者もなく消えて去った。 

 

 

 

 

 




 読んで下さったみなさん、ありがとうございます。
 完璧に折り返しを過ぎたので、がんばろう。
 パンパンに膨らんだ物語の回収袋も、何とかして減らさねば……お正月のお餅まき並の勢いで減らねば。
 次話もお付き合いいただけますように!
 ありがとうです。


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30 金粉は森を渡り 肌に呑まれて意味を成す

「おいおい、ご老人かよ」

 

 むっくりと起きたヤタカの口から漏れたのは、まだ日も昇らない内に簡単な朝飯の用意を調え、がつがつと食べている和平に向けられた愚痴。

 

「おはよう、兄ちゃん」

 

「お早過ぎるだろ? 俺達も日が昇る前に大抵起きるが、どっちかっていうとまだ夜だろうに。普段からこうなのか?」

 

「うん」

 

 どこで釣ってきたのか、焼かれた小魚と炊きたての米で握られた握り飯が人数分、床にしかれたゴザの上に葉っぱに乗せて置いてある。

 飯を作ってくれたのはありがたいが、睡眠を邪魔されたことを天秤にかけると、ほとんど迷惑に近い。

 

「今日は姉ちゃんにゴテを当てて、姉ちゃん用の薬を調合する。兄ちゃんのは用意した薬で大丈夫だと思うんだ」

 

「そうか、助かるよ。ところでさ、依頼したあいつらとはどういう関係なの?」

 

 和平に依頼したゴテと野グソ。彼らから和平の話を聞いたことがない。

 

「山が嵐に見舞われたとき、三日間一緒にいたことがある。その時、色んな話をしたんだ。いい人達だよ。優しくて腕が立つ」

 

「そうだな」

 

 嵐なら命懸けの中を乗り越えた仲なのかも知れないが、たった三日で和平を信用することにした二人の心が読めなかった。

 

「あいつらは俺の幼なじみだ。俺はともかく、イリスの診させてもいいと判断するには、相当な下調べをした者か、古い馴染みだと思っていた。三日で和平のことを信用するなんて、らしくない」

 

「どうして信用してくれたのかな? でもオレは、あの三日間で信用したよ」

 

「どうして?」

 

「あの薬を使って、あん摩のゴテさんの怪我を手当てした。けど、訊かなかったんだ」

 

「何を?」

 

 最後の握り飯を飲み込んで、つかえた米に胸を叩きながら和平が目を白黒させる。こうやたて眺めていると、本当に普通の少年だった。

 

「薬の原料、配合。何も訊かなかった。それどころか、この薬を無闇に使うなって。人につくれることをいっちゃいけないって」

 

「そうか」

 

 自分の体で効能を確かめたなら、あの薬がもたらす益も、忍び寄る闇も直ぐに察しがついただろう。効能の高い薬なら、その道に携わる誰もが製法を知りたがる。だが、あまりにも秀でたモノに手を出せば、火傷くらいでは済まない。幼なじみ達は、それほど馬鹿ではなかったということだ。

 

「今日はもう一回薬草を集めに行く。手持ちの薬と合わせて渡すから、ちゃんと飲んでね。オレは明日の朝早くに帰るから。何かあったら繋ぎを付けて、薬が切れる前にね」

 

「ずいぶん早く帰るんだな」

 

「オレだって、毎日忙しいんだよ?」

 

 言いたいことも聞きたいこともあるが、眠っているとはいえイリスの耳があると思うと、肝心なことは何一つ聞けなかった。二度寝を諦めたヤタカはむっくりと起き上がり、少し考えてからこういった。

 

「なぁ和平、俺も売れそうな薬草を少し集めたいから、昼間の採取は一緒に行かないか?」

 

「いいよ。でもオレが先に行って戻って来るから、それまでは待っていてよ。朝日が昇る前じゃないと咲かない花を取りにいくから」

 

「そのまま他のも取りに行けばいいだろう?」

 

「あの場所は秘密の穴場なの! 貴重なんだから、教えないよ~!」

 

 そういうことか。腕のいい野草師やゴテ師は、自分だけの穴場を必ず持っている。そこへ勝手に付いていくのは、この世界では御法度だ。

 

「わかった。迎えに戻って来いよ」

 

「うん。じゃあ行ってくる」

 

 風呂敷を肩に提げ、空の小さな麻袋を手に和平は出ていった。

 せっかちな奴だと苦笑しながら、ヤタカはごろりと横になる。香ばしい焼けた魚の匂いにイリスが目を覚まさないなど、いつもなら有り得ない。

 相当疲れているか、あるいは必要な薬が足りていないか。どちらにしても、この先の旅はイリスの体調次第になりそうだと、微かに痛む首筋を撫でてヤタカはごろりと寝返りを打った。

 

「いったい、どこまで話していいものかな……」

 

 連れて行けと言い出したのは自分だったが、わたるを差し置いて自分が口を出して良いものかと、ヤタカはまだ迷っていた。

 先に食べたらイリスが膨れるだろう。外の空気でも吸って目を覚まそうと、薄着のまま外へでた。蝋燭の灯り一本では足元さえ見えないほど暗い。見渡しても揺れる五つの灯りが見えないということは、和平はとっくに山の奥へ入って行ったのだろう。戸の横で壁に凭れようかと足をずらしたヤタカは、休めるために草履を履いた素足に、カサリと触れた物の感触にさっと足を引いた。

 

「何だ?」

 

 屈んで蝋燭を翳すと、くしゃくしゃに丸められた紙包みが置かれていた。

 安易に触ると碌なことにならない。用心深く紙包みを転がすと、これまた拾ったような汚い紙に、達筆な墨跡で屋号が残されていた。

 

「アメ藤……あいつか」

 

 立ち上がったヤタカは、周りの暗闇に耳を澄ませる。風に揺れる葉の音一つ無く、遠くで季節外れの虫が誇らしげに鳴いている。

 

「いるなら出てこいよ。イリスは、まだ眠っている」

 

 ヤタカのすぐ脇で、履き物が土を擦る音がした。

 

「別に会いたかなかったが、薬が切れてるって噂を聞いてな」

 

「まさか、薬を届けにきたのか?」

 

 さも嫌そうに、ちっという舌打ちが暗がりの向こうで響く。

 

「あの嬢ちゃんにはまだ死なれちゃ困る。おまえはどうでもいいが、死ねば嬢ちゃんが守り刀を失う」

 

「まったく、どいつもこいつも。俺の事はどうでもいい奴ばっかりだぜ」

 

 声の方へ蝋燭を向けると、ゴザ売りの男が頬被りしたまま立っていた。今度は足音さえしなかったというのに。

 

「だが必要なさそうだな。どうやら先客があったようだ」

 

「ゴテや野グソとの経緯は、どうせもう耳に入っているんだろ? あいつらが頼んだ後釜だよ。見た目はタダのガキだが腕は立つ」

 

 そうか、といってゴザ売りは屋号を書き記した紙を丸めて懐へ押し込んだ。

 返事もせずに踵を返したゴザ売りを、ヤタカはおい、といって呼び止めた。

 

「この名に覚えはないか?」

 

 どこに耳があるとも限らない。乾いた土をならし、ヤタカは落ちていた枝で1つ名を書いては消し、また一つ書いては消しを繰り返す。ゴテ達から受け取った紙に記されていた名前を、ゴザ売りは無言のまま眺めている。

 

――危険な賭だが

 

 ゴザ売りを信用したわけではないが、危険を回避してばかりでは前に進めない。

 身の回りが紛い物の平和に包まれている分、あらゆる意味で八方塞がりだった。

 

「どうせ言わないだろうから、入手手段は問わんよ。だが厄介なものを掴まされたな。全ては知らない。おれが知るのは、一番目と二番目の名だけだ」

 

 一番目に書た名は火隠寺、二番目は音叉院。音叉院を知る者が初めて現れた。ヤタカは高鳴る心臓を、深く吸い込んだ息で何とか押し留める。

 

「二番目の名の正体を知っているのか?」

 

「あぁ、知っているとも」

 

 あっさりとした答えだった。

 

「表面上のことなら、おまえだって知っている」

 

 ゴザ売りの言葉に、ヤタカは思考を巡らせる。

 鈍いな、と言わんばかりに息を吐いたゴザ売りは、顎を引いてあの特殊な声色で先を語った。近くに潜む者が居ても、男の声は届かない。

 

「音叉院、字のごとく音だよ。音の波長で操る者達と考えてみろ」

 

 はっとヤタカは目を見開く。

 

「まさか」

 

「そのまさかだ。素堂様は読経に使われるお声で、寺に望まぬ者が侵入するのを防ぎ、一度受け入れたモノは外に出さないようにされていた」

 

 それが本当なら、寺はこの戦いの中心を支える枝葉などではなかったことになる。

 

「あの寺の中、どこまでがその名を知っていた?」

 

「おまえと嬢ちゃん以外は知っている。その為に寺にいたのだから。あとは出入りしていた寺付きの者も、その当主なら知っている」

 

「訊いておいてなんだが、俺に話して良かったのか?」

 

「いずれ知れることだ。寺はもうない。だが、寺を支えていた者達は生き残った。それも含めての音叉院だと覚えておけ」

 

 今はこれ以上話すことはない――ゴザ売りの背けた顔が無言で語る。

 

「ガキのことを訊かないってことは、どこの誰だか察しがついているんだろ?」

 

「あぁ。来なきゃ良かったと後悔しているさ。亡霊に会った気分だ」

 

 案外人が良いんだな……というと、ゴザ売りはケッっと唾を吐いた。

 

「あんたが残した言葉だが、「記憶の深追い無用」とはどういう意味だ?」

 

 少しずつヤタカとの距離を離していくゴザ売りの姿は、肩の辺りが蝋燭の灯りに辛うじて照らされるだけで、表情を伺い知ることはできない。

 

「文字通りの意だ。記憶ばかりに頼るな、今、そしてこれから自分で目にすることだけを新たな記憶に刻み、己で判断しろということだ」

 

 己で判断する。情報に振り回されている自分を見事に言い当てている。

 

「この戦いは、いったい誰の為のものなんだ? 何の為に……」

 

「 植物を静植物と動植物……そんな風に分けちゃいないか? 普通の植物はその辺に生えて森を作り、たまにゃ人間様の役に立つ薬草もある……その程度に思ってんなら、おまえは自分に教えられたこと、見知ったことの整理なんかつきやしねえよ。しゃべらないから、何も考えていないか? 役割は、そこに生えているだけか? 異種と呼ばれる植物は、本当に人間の敵なのか? 異種はすべて一個ひとかたまりの玉だとか、思う馬鹿じゃないことを祈るぜ」

 

「まるで謎かけだな」

 

「おまえがもっと利口なら、こんな余計なこともいわずに済んでいるのにな」

 

「そりゃ悪うございますね」

 

 蝋燭の灯りが届く範囲から、すっとゴザ売りに姿が消えた。

 

「なぁ」

 

 遠ざかりかけた、ゴザ売りの気配が止まる。

 

「あんた、どうしてイリスのことをそこまで気にかける?」

 

 闇の奥で僅かに土が擦れる音がする。

 

「前にも言ったはずだ。嬢ちゃんは、てめぇみたいにむさっ苦しい野郎じゃねぇからだ」

 

 砂粒が転がる音さえ立てずに、ぷつりと気配が消えた。まるでしゃぼん玉が弾ける音に耳を澄ましていたような虚しさに、ヤタカは目を閉じ息を吐く。

 

「嘘つきが……大切にしていなけりゃ、誰が何度も危ない橋を渡ったりするもんか」」

 

 蝋燭の灯りを吹き消して、ヤタカは空を見上げる。空を覆う雲は月も星も隠して、溶けてしまいそうに純粋な闇だけがヤタカを包んでいた。

 

 

 

「おい、兄ちゃん、どこで寝呆けてるのさ」

 

 こつりと頭を叩かれて目を開けると、小さな麻袋をいっぱいにした和平が、にこにこ笑みを浮かべて立っていた。空はまだ薄暗い。

 

「眠ったか。おまえが変な時間に起こすからだぞ?」

 

「飯を食ったら出かけよう。日が出たら育っちまう植物も多い」

 

「そうだな」

 

 小屋の中に入ったヤタカは、自分の遠慮がムダだったことに肩を落とした。ヤタカなど眼中になく、黙々と飯を頬ばるイリスがいた。

 

「俺の分はちゃんと取ってあるんだろうな?」

 

「和平がつくってくれたんでしょう? ヤタカが握ると固いんだ、おにぎりが」

 

 背を向けて和平が笑う。

 

「文句があるなら自分でつくれよ!」

 

「や~だ~」

 

 どかりと座り込み、一気に飯を胃袋に詰め込んだ。

 確かにふんわりと握られていて、美味い握り飯だった。

 

「ゲン太、俺は和平と一緒に薬草を取りに行ってくる。その間、この小屋から出ないようにイリスを見張っていてくれな」

 

 自分も行きたそうに鼻緒をもじもじさせたが、イリスのことを思ったのだろう。

 

――わかった

 

 しょんぼりと鼻緒をへたらせて、ゲン太は渋々という感じで了承した。

 

 

 

 山の歩き方を見れば、その人物の熟練度がわかる。和平のあとを付いて歩くヤタカは、その足運びに何度も舌を巻いた。毒草を確実に避ける知識。緩んでいる地面の見極め。目に付かない場所から、薬草を探し当てる嗅覚と経験。

 この若さでモノにしたのは天性の素質だろう。家の血筋がそうさせた、と考えなくては納得がいかないほどの足さばきだ。どう計算しても、どんなに無理をさせたとしても年齢にそぐわない。

 

「帰って薬を調合するから、あまり長居はしないよ。兄ちゃんも、集められる薬草は早めにね」

 

「わかった」

 

 自分の薬草を集めながら、どうしても和平の手元に気を取られる。薬草に通じているヤタカでも、何をつくろうとしているのか首を捻る。次々に和平が袋に収めていく薬草は、どう調合しても、ヤタカが知っている薬には辿り着かないものばかりだった。

 山を照らすくらいには日が昇り、肌を撫でる空気も温かさを増した頃、和平は額の汗を拭って満足げに鼻を膨らませ、引き返そうと笑った。

 登りより経験を必要とする下りも、和平の足運びは淀みない。離れないように後を追いながら、ヤタカは思い切って胸に溜めていた言葉を投げかけた。

 

「和平、おまえの周りに舞っている、五つの灯りはいったいなんだ?」

 

 滑るように動いていた、和平の足が一瞬緩む。

 

「さすがだね。あれが見えるんだ」

 

 だんだんと遅くなった歩みが止まり、少し休もう、そういって和平は木の根に腰を下ろした。

 自分の膝小僧を眺めたまま、和平は何度も上唇を吸い込む仕草を見せたが、ヤタカは静かに彼が口を開くのを待った。

 

「あれはね、本当は一人の人間に十個取り憑くものなんだよ」

 

 わたるが纏う五つの灯りが脳裏を過ぎる。

 

「どうして五つしかないんだい?」

 

「わからない。でもね、残り半分は、姉ちゃんが持っている。姉弟で分け合っちゃった感じ。本来あるべきモノが半分になったのだから、他のモノも目減りする。ううん、これはオレの直感。生き物の本能かな。たぶん、オレの寿命は短いと思う」

 

 背筋が冷えた。

 

「風の噂で、姉ちゃんは死んだと聞いている。でもね、感じるんだ。五つの灯りが、まるで片割れを探すように騒ぐから。姉ちゃんはね……」

 

 生きているよ―――寂しそうに和平が微笑む。

 

「和平、俺は弟を捜している女性を一人知っている」

 

 じっと膝小僧を凝視していた和平が、はっとして顔を上げた。

 

「自分の道を決めかねているといった。本当は日陰を歩くようにひっそりと生きたかったのだと思う。真意はわからないが、彼女は表舞台に姿を見せた」

 

「その人の名前は?」

 

 握りしめた和平の拳が震えている。

 

「頼りないほど儚げな、五つの灯りを纏っていたよ。彼女は、わたると名乗った」

 

「姉ちゃんだ……姉ちゃん」

 

 和平がへへへ、と笑い、袖でごしごしと目元を拭う。

 

「ゲン太が貰ってきた薬を、ひょんなことでわたるに渡した。その後に追ってきて、この薬を渡した者を教えて欲しいといった」

 

「探してくれていたんだ、元気でよかった」

 

「和平の身の安全を思ってだろうが、ゲン太はおまえのことをしゃべらなかったよ」

 

 ゲン太と過ごした時間を思い出したのか。和平の目元が柔らかく緩む。

 

「そっか。いま姉ちゃんはどこにいるの?」

 

「わからない。今度会う時は、自分のことを信じるなといっていたから、敵対するのかもしれないな。おまえは……どうする?」

 

 和平の顔から笑顔が退いた。その横顔を見てヤタカはわたるを思った。同じ表情だ。何かを諦めた、諦めざる得なかった者が見せる表情。

 

「どうもしないさ」

 

「表舞台に立った姉さんは、裏じゃ一躍有名人だ。狙われるんだぞ?」

 

 ぎゅっと下唇を噛み、和平は眉根を寄せる。

 

「姉さんが定めた道、オレが進むべき道。それが交わることはないよ。交わってしまったら、二人に分かれた理由が無くなる。いずれどちらかが表舞台に引きずり出されると思っていた。どこに隠れたって、一所に居続ければ見つかるからね」

 

「和平は、表に出るつもりはなかったんだな?」

 

「このままあの家が途絶えるなら、それで良かった」

 

 意味を考え、ヤタカは黙り込む。

 

「さあ、行こう」

 

 尻をほろって立ち上がった和平の顔には、いつもと変わらない明るい笑顔。

 すたすたと山を下りだした和平の後を、ヤタカも慌てて追いかけた。

 

「他にも理由はあったと思う。でも姉さんは、オレに人生を与えるために表舞台に上がったんだ。オレを生かそうとしてくれた」

 

 わたるの寂しげな、けれど柔らかい笑みを思い返す。

 

「これからどうする?」

 

 和平に遅れまいと足を速めるあまりに、避けきれない枝葉が何度もヤタカの顔を打つ。

 

「姉さんが表舞台にでたなら、オレは裏方に徹する。それ以外に道はないよ。二人が揃って表に出たら、力が倍になるどころか、厄災を招くからね」

 

――厄災か

 

 その後は、山に慣れたヤタカでさえ間を離された。もう何も言わないでくれと言うように、加速をつけて和平は山を下りていった。

 

 

 

 小屋に戻ってからはイリスとにこやかに話しながら、ゲン太を道具置きの台代わりにして薬草を調合していた和平だったが日が落ちると、ゴテを当てる前に水浴びをしてきてね、とイリスにいい、手慣れた動きで手持ちの米を炊き始めた。

 

「それじゃあお先に! ヤタカも後で水浴びしなくちゃだめよ?」

 

「はいはい。ゲン太、イリスを頼むぞ」

 

 かん

 

 ひと鳴りしたゲン太がでていくと、入れ替わりに和平が小屋へ入ってきて後ろ手で静かに引き戸を閉めた。

 

「兄ちゃん、少したったら、姉ちゃんが水浴びしている泉にいくよ」

 

「はぁ? ガキンチョの気持ちは解らんでもないが、イリスに殺されるって。俺は嫌だからな」

 

「いいから……行くよ」

 

 顔を上げたヤタカの目の前で、和平は両手の拳を握りしめていた。唇を引き結び、らしくないほどに眉根を寄せている。

 

「俺に何を見せる気だ?」

 

「兄ちゃんは、疑問を持ったことはないの? オレは本当に小さい頃だけれど、古い書物を読んで、色んなことを盗み聞きして、ある程度のことは知っている」

 

 わたると同じ頭を持っている、ということか。

 

「兄ちゃんの幼なじみから概ね話は聞いた。御山のこと、おそらくそこで、兄ちゃんが死にかけたこと。だから思うんだ。兄ちゃんの役目には、どんな理由が在る? 何の為に寺で得た知識を、御山に渡す必要があったのかな?」

 

「それは」

 

 ヤタカ自身、誰かから答えて欲しい問いだった。

 

「だから、兄ちゃんは見ておくべきだよ。姉ちゃんの体を診て感じたぼくの憶測が外れていなければ、体を痒くさせているモノの正体がわかると思うんだ」

 

「その勘が外れていたら、どうする?」

 

 話しきってほっとしたように、和平は白い歯をにっと見せた。

 

「その時は、一緒に姉ちゃんに殴られようぜ」

 

「俺は嫌だ、ぜってぇ嫌だ」

 

 何があっても、イリスの元へ駆け寄ったり声を上げたりしないこと。何度も言い聞かされて耳にタコができそうだった。ゲン太が気づいたら騒ぐだろうというと、用意周到なことに、ゲン太には事情を話してあるという。

 ああ見えてゲン太は、妙なところでクソ真面目だ。おそらくイリスが水浴びしている間、下駄の誇りにかけてしっかり背を向けているのだろう。

 

――クソ下駄が納得したというなら、今夜の出来事。ゲン太も目にするだろうか

 

 二人の間の会話は途切れ、足音を立てることなく水浴び場へと近付いていく。

 ばしゃり、と手で水をすくい上げる音が、木立の向こうから聞こえてきた。

 蝋燭でも立てているのか、向こうの木立の隙間からぼんやりと薄黄色の灯りが漏れる。 進み続けるヤタカを、和平の手がすっと制した。

 

「もう少しだ、もう少しで始まる」

 

 和平が囁くと、さらさらと木々の葉を撫でて風が走った。ヤタカは目を細めて風に耳を澄まし、肌で風の道を感じ取る。

 

――泉を中心に、風が巻いている

 

 弱い風にさらさらと葉がなびく。泉の方へ、泉の方へとまるで引き寄せられているようだった。この辺りに生息しているのは、目に見える限り普通の植物だ。だというのに、泉の周りを囲む植物の葉が、木立の葉が金粉を撒いたようにちらちらと輝き出した。

 木々の葉から糸のように金糸が垂れる。それが地上の葉に当たると糸は粉となり、きらきらと泉へ向けて葉から葉へ渡っていく。

無意識にヤタカは立ち上がっていた。

 小さな湖面を、金色の砂が泳ぐ。

 その中心に、両手を広げて立つのはイリス。

 こちらに背を向け、腰まで水に浸かっている。

 長い髪が細い背中を隠して、毛先が水面でふわりと広がる。

 

 ぴしゃり

 

 イリスの両手がゆっくりと下げられ、手の平が水面に付けられた。

 

「イリス……そんな」

 

 思わず身を乗り出したヤタカを、和平の手ががしりと掴む。

 見上げた目が、駄目だとヤタカをこの場に張り付けた。

 

 イリスが喉を逸らせ、天を仰ぐ。

 金粉と見紛う輝きが、泉に浸したイリスの指先から白い肌を這い上がる。

 五指から登る輝きは、手首で数本の糸となった。

 身をくねらせて文字を描き出した金色の輝きが、白いイリスの肌を染めていく。腕から背へ、おそらくは胸へ、森から泉に流れ集まった金粉がイリスの体に滲みていく。

 

 

 押さえていた和平の手をゆっくりと引き剥がし、ヤタカはイリスに背を向けた。

 見渡す限り森全体が、微細な金の粉を纏ってちらちらいと輝いている。

 さざ波のように泉へと向かう輝きは、おそらく全てイリスの体に取り込まれるのだろう。

 ヤタカはぎりりと歯を食いしばった。

 ゆっくりと来た道を引き返す。足音など気にしなかった。あの状態のイリスに、外部の音が聞こえているとは思えなかい。

 やはりゆっくりと和平がついてくる足音が、かさりこそりと響く。

 

「和平、俺は目が良いんだ」

 

「そう」

 

「あれは、俺が記憶した寺の記録だ。御山に吸い取られた記憶が、文字を成してイリスの体へ……」

 

 ヤタカが伊吹山へ渡した知識の文字列が、どこをどう廻ったかこの辺りの山へと染み渡、イリスの体を目指している。

 

――右の道に行こうよ――イリスの声が、耳の奥で木霊する。

 

「イリスは、自分の身に起きていることを知っていると思うか?」

 

「わからないよ。でもね、知っていて黙っているなら、訊いてはいけないと思う。それはきっと、姉ちゃんが生きてきた何かを、無駄にすることだと思うから」

 

 小屋に戻っても、双方口を開くことはなかった。

 からり、かそり、と元気のない下駄の音が戸口まで迫っても、寝たふりのまま布団を被り、全てに蓋をするようにヤタカはぎちりと目を閉じ続けた。

 

 

 

 




読んでくれてありがとうです。


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31 山渡る

 日が昇らない内から和平が山菜を刻む音に、ヤタカは渋々身を起こした。

 料理の為に外で火を熾しているのだろう。長年の風雨に腐れ落ちた壁板の隙間から、微かに枝が燃えた煙が漂ってくる。

 

「眠れたか?」

 

「うん。よく寝た」

 

 背を向けて飯をつくる和平の声に濁りはない。一睡もできなかったヤタカは、張りついた喉に竹筒の水を流し込んだ。

 昨夜の光景が瞼に焦げ付いて今はどうにも、この辺りに湧き流れる水を口にする気になれなかった。

 

「大丈夫か?」

 

 和平もまた、姉の生存を知り心が揺れているだろう。

 

「平気だよ。うっすらそうじゃないかなって思っていたしね。それよりこの先に必要となる薬とゴテの方が問題だよ? 治療方針が完全に変わっちゃったから」

 

 金に輝く文字列を体に取り込む、イリスの細い指先と背中が鮮やかに蘇る。

 

「難しいのか?」

 

 振り返って座り直した和平が、ゆっくりと首を横に振る。

 

「難しいというより、未知の領域」

 

 ちらりと横を見た和平は、イリスが深く眠っている様子にふっと息を吐く。

 

「姉ちゃんみたいな役目は、長い歴史の中で繰り返されてきたことかもしれない。だとしても、捨て置かれてきたのだと思う。今までの誰か……はね」

 

 長い歴史の中繰り返されてきたであろう役目。その担い手達。ヤタカは静かに目を閉じ、歴史の泥に名を埋めた者達の顔を思い浮かべてみる。どれも皆、肌色の砂が砂丘を描いたように表情は浮かばない。

 何に縋り何を諦めて生きたのか、人格に色を持たせられない。

 

「彼らを生かそうとか、楽にしてやろうとか、周りで関わる者達にそんな概念はなかったと思うよ。もしあったらな、家にあった膨大な資料の何処かに記されている筈だもの」

 

 家に火が放たれた頃、和平は幼かった筈。寺で膨大な知識を頭に詰め込まれたヤタカと比べても、あまりにも幼い。だというのに読んでいた、理解していた。わたるに和平、想像さえつかない火隠寺家の頭脳に、ヤタカは舌を巻く。

 

「まるで忘れられた存在だな」

 

「見て見ぬ振りをしたのだろうね。負った役目を終えたなら、その後どうなろうと構わない。いや、どうにも手の施しようなど無かったのかもね。知る者もほとんどいなかっただろうから」

 

 ごろりと寝返りを打ったイリスが、ぽんやりと口を開けて顔をこちらに向けた。

 

「イリス、今夜は寝ながら痒がらなかった」

 

「あれは感覚だから。痒みは酷くなると痛みより辛いこともある。薬は置いていくよ。一緒に旅を続けることはできないから、なるべく様子を見に来る」

 

「居場所をどうやって知る?」

 

「兄ちゃんの居場所はわからないな。でも姉ちゃんの居場所は今ならわかる。体に取り込んだ文字が増えたせいかな」

 

 ヤタカは顎を捻り眉根を寄せる。

 

「それとおまえがどう繋がる?」

 

「これだよ、これが姉ちゃんのいる場所を教えてくれる。まるで見えない糸で指し示すようにね」

 

 ゆっくりと背を向けた和平が、胸元をはだけて一気に肩から衣を引き下げる。

 まだ少年の細さを残した背が露わになった。

 ヤタカの目がじわりじわりと見開かれ、見たモノを受け止めきれずに眼球がカタカタと揺れる。

 

「何だよそれ……まるで……」

 

「まるで蜘蛛の巣みたい、だろ?」

 

和平の背中に赤く浮き出た、血管のように張り巡る蜘蛛の巣。ミミズ腫れのごとく浮き上がる赤の痣。

 風に吹かれたかのように、生きているかのように細く脈打ち赤がうねる。

 

「これがあるから、ぼくは特異なんだ。オレは男なのにね。 姉さんのは見た? これで解ったでしょ? 一つであるべきモノが、姉さんとぼくに分かれちゃったんだよ」

 

 わたるのこめかみで蠢いた蜘蛛の痣が、目の前で赤く糸を広げる蜘蛛の巣の赤に重なっり、ヤタカはぶるりと頭を振った。

 

「分かれたって、双子じゃあるまいし」

 

 少し目を伏せ指先を弄びながら、和平は静かに首を振る。

 

「どうしてだろうね。でも分かれたモノはいつか一つになる。そうじゃなけりゃダメでしょう? 何の為にあるのか解らない。だからぼくは動けないでいる」

 

「わたるは、動き出した」

 

「うん。姉さんは強いね。強くて、優し過ぎるから馬鹿を見る。いつだってそうなんだ」

 

 いつの間にか寄ってきたゲン太が、和平の膝に前の歯をかけて鼻緒を萎ませる。

 

「ゲン太も見るかい? イリスの姉ちゃんには内緒だよ? 見たって気持ちの良いものじゃないからさ。気味が悪いだろ?」

 

 和平がにこりと笑う。そっと背中にまわったゲン太は、固まったように動かなかった。 何を思っているのか、得意の墨さえ木肌に浮かばない。

 

「ゲン太、こういうときの減らず口だろ? 黙るなよ」

 

 柔らかな笑みと共に、和平がゲン太の鼻緒を指先で弾く。

 ふるふると身を震わせ、ゲン太がぴしりと鼻緒を立てた。

 

――こわくない

 

 木肌に太く文字が浮かぶ。鼻緒が震えている。ヤタカは安堵にそっと胸を撫で下ろす。 ゲン太の震えは怯えではなく、怒だと感じたから。

 ゲン太はどうやってその思いを和平に伝えるだろう。伝えてやって欲しいとヤタカは願う。

 

「そうか? ゲン太は肝が座ってんな」

 

――もっとこわい のある

 

「おれに? おれ、ゲン太に何かした?」

 

――あし

 

「足がどうした?」

 

 不思議そうに和平が裸足の足先を手でぐいと引き寄せ、しげしげ眺めてからゲン太の前に放りだし、指をむずむずと動かした。飛んで逃げようとしたゲン太を、もう片方の足が器用に押さえ込む。

 

――くさい しぬる

 

「なんだとぉ!」

 

 鼻緒に指を通そうとする和平、本気で逃げようと慌てるゲン太。

 今だ表情が固まったままのヤタカをも巻き込んで、どたりばたりと小競り合いの振動がぼろい小屋の床を軋ませる。

 珍しくヤタカの横に逃げてきたゲン太が、激しく鼻緒を上下させている。人間ならばぜーぜーと息が上がった状態なのだろう。

 

「何をぴったりくっついていやがる! 離れろクソ下駄!」

 

 ヤタカの口元に、微かだが笑みが浮かぶ。

 はだけていた衣を着直して、和平も肩で息を吐く。

 

「おまえは優しいな、ゲン太」

 

 白い歯を見せた和平は、ゲン太を見ながら愛しそうに目を細めた。

 ゲン太の精一杯の思いやり―――とヤタカは思う。背に何を背負っていようが、和平は和平だと、ゲン太は別の言葉で指し示した。 

 

「地震? ごはん?」

 

 騒ぎに目を覚ましたイリスが、寝ぼけたことを口にしながらむくりと起き上がり目を擦る。

 

「おはよう、姉ちゃん。ゲン太と遊んでいたんだ。起こしちゃってごめんね!」

 

 ゲン太に向けて悪戯っぽく片目を瞑って見せた和平は、朝飯の仕上げに戻っていった。

 

「ぐっすり眠れた……お腹すいた」

 

 イリスの頭が前に後ろに揺れている。

 

「お寝ぼけイリス、飯を食ったら和平は帰っちまうんだから、さっさと目を覚ましなよ」

 

 こくん、とイリスが頷く。和平の足の臭いを拭い取りたいのか、イリスにすり寄ったゲン太が浴衣の裾でころころと転がっている。

 

 握り飯と山菜の汁物で体が温まり、一時は冷えた心臓も緩んで落ち着いたヤタカは、和平を手招きして懐から出したものを見せた。。

 

「乾き切っているが、おまえの脳みそにこの蔦の情報はないだろうか」

 

 慈庭を貫いた蔦の残骸。泉でヤタカを引き上げ救った蔦。野グソの曾爺様が見たという蔦を宿す者。持ち得る情報は全て話した。

 

「この蔦かは解らない。けれど、居たらしいよ。成長した異種と同化して生きる者が。一種のお伽噺に近いけれど、兄ちゃんと姉ちゃんが身に宿している物もまた特殊。それだって知らない者からみたら、ただのお伽噺だから」

 

「この地一帯に張り巡る地下道のことは知っているかい?」

 

「うん。あれは便利だよね」

 

「地下道にある宿の主人がいった憶測が当たっているなら、俺の記憶の中に、まだ誰も顔を知らない犯人の姿が眠っているかもしれない」

 

「身を隠していた者、水面下で動いていた者が、表に姿を見せ始めている。記憶の中のその人は、案外に普通の人として、兄ちゃんの中に残っているのかもしれないよ?」

 

 和平の言葉に背筋が冷える。

 大切な記憶まで泥で塗りつぶされるなら、自分には何も残らないのではないだろうか。沈みかけたヤタカの意識を、額目掛けてぺしゃり振り抜いたイリスの手が引き戻す。

 

「寝ぼけてるの? 早く準備しないと日が昇っちゃうよ」

 

「あぁ、そうだな」

 

 目の前にいて、今命を持つ者達を守ろう。

 

――イリスには慈庭がいた。ゲン太がいる。俺がいる。

 

  ヤタカは立ち上がり、履き物の紐を締めなおす。

 

――人知れず花が枯れるような……そんな生き方は絶対にさせない

 

 げしりと蹴られた脛の痛みにヤタカが飛び上がる。眉間によった寄った皺が伸びた。

 

「痛いって、俺が何したのさ」

 

 蹴った足をぴょこりと上げたまま、イリスが下唇を突きだしていた。

 

「難しい顔しちゃって。ゲン太を見習いなよ。一日の始まりは、やっぱりあのくらい元気じゃなくちゃ!」

 

 目元に布を巻きながらイリスが指差す方を見て、ヤタカは呆れて肩を落とした。

 

「イリス、あれは元気じゃなくて、馬鹿なんだよ」

 

 少年と下駄がもみくちゃになって転げ回っている。

 

「でも楽しそうでしょう?」

 

「いや、ゲン太は必死だと思うぞ」

 

 遊びを通り越して鼻緒を三角に立てたゲン太が、ちょうど和平の鼻っぱしに蹴りをかましたところだった。勝負あり……だろうか。

 

「日ごと爺むさくなっていくヤタカよりマシ! 行くよ!」

 

 イリスの号令で、全員が素直に街道にでた。鼻を押さえた和平は楽しそうに白い歯を見せているが、ゲン太の鼻緒は激しく上下している。

 

――爺むさいより、マシか

 

 文句の捌け口を失って、ヤタカはぽりぽりと頭を掻いた。

 和平が早く発つというのに合わせたが、空は暗く夜明けの気配さえない。

 

 

「おれと違ってゲン太は優しい。だってあいつは、守りたい者の為に、自分自身を壊したんだから」

 

優しい表情でゲン太をちらりと見て、和平がいう。

 少し離れた場所に居るイリスに聞かせたくなかったのか、和平の声は小さかった。

 肯定も否定もせず、ヤタカは和平の言葉を何度も胸の中で反芻した。

 

「そうだ、ゲン太! 昨日教えてくれた特技を使って、これを持っていて」

 

 ゲン太を手招いて和平は腰を屈めると、瓢箪型した種を一つゲン太の木肌に呑み込ませた。

 

「これは友達の紅に渡さないで、ちゃんとゲン太が持っているんだぞ?」

 

――ともだち ちがう

 

「素直じゃないねぇ」

 

 楽しげに声を上げて和平が笑う。

 

「それは何の種だ?」

 

 瓢箪型の小さな種は白く、ヤタカが目にしたことのないものだった。

 

「これはね、異種の種を取り込むことでゲン太にかかる負担を和らげてくれる。万が一限界に達したら、ちゃんと効き目を発揮してくれるんだ」

 

「へぇ。種を取り込むのって、以外と大変なんだな」

 

 そういえばこの馬鹿下駄、他人の痛みは気にするくせに、自分の痛みを木肌に浮かばせたことがない。以前わからないと言っていたが、思い返せばゲン太は自分を語らない。わからないことを気に病む様子さえ見せずにいる。

 

「種は小さいけれど、ゲン太だってこの大きさだもの。兄ちゃんだって、重すぎる荷物を持ち続ければ疲れるだろ? それと同じさ」

 

 そういうものか。何となく、取り込んだモノは重さも大きさも関係なく、ゲン太の内側に広がる小宇宙で浮いているような感覚でいただけに、ヤタカには意外な事実だった。

 

「それじゃあ、また。できるだけ、おれ以外の人間にゴテを当てさせないでね。薬も駄目だよ。あぁ、でも兄ちゃんが昨夜手に入れた薬は大丈夫。渡した薬ほどの効き目はないけれど、ちゃんと姉ちゃんの体に合うものだよ」

 

「調べたのか? 俺のどこにそんな隙が……」

 

「人間は眠っていないように思えて、ほんの少し意識を途絶えさせているものだよ。おれは、その僅かな隙を利用しただけ。ごめんね勝なことして。でも、心配だったから」

 

「驚いたな、あいつの気配に気付いていたのか」

 

 ゴザ売りが薬の切れたイリスに薬を渡すためだけに、闇に紛れて姿を見せたのだとしたら……。

 

――あの親爺、本気で危ない橋を渡ってやがる。

 

「じゃあ行くよ。姉ちゃん、無理しないでね。ゲン太、また遊ぼうな!」

 

 手を振るイリスの横でぴしりと構えるゲン太だが、ぴんと張った鼻緒が時折くたりとへたれるのは、内心寂しいからなのだろう。

 

「和平、おまえも気をつけろ。姉さんがいう女の勘とやらではこの平穏、長くは続かないらしい」

 

 和平がくるりと振り向き、提灯の灯りがヤタカを照らす。

 

「そうだね、夜中過ぎから山が騒がしい。姉さんの勘は当たっていると思うよ」

 

「山が?」

 

「うん。表に姿を見せてまで動きはじめたのは、人間だけじゃないってこと。元々は、彼らの問題だから。そこに人間が介入して秩序を乱した。乱された秩序を取り戻そうとしているんだろうね」

 

 彼らとは、異種のことか?

 

「幾つもある小さな防壁、人間の感情や思惑が造りだした防壁が、あちらこちらで決壊し始めている。姉さんが動き出したこと、そしておれがはっきりと姉さんの存在を知り、何の為に動くか見定めようとしはじめたこと。まだ何も動いてはいない。いないけれど、音なき動きを彼らは敏感に嗅ぎ取っている。だから、動き出す」

 

「何が動くっていうんだ? 何に向けて動く?」

 

「それぞれが望む未来を見据える者の元へ。異種も静植物にだって意思はある。自分達が生き抜く為に、望む道がある。彼らも決して、一つの思いで団結している訳じゃないと思うよ。だから今、夜が明ける前に山を渡ろうとしている」

 

「山を渡る?」

 

 和平がくるりと背を向け歩き出す。

 

「人が介入する前の自然な状態に戻そうとする者達と、介入する者を利用して、新たな在り方を探る者。望む力が及ぶ場所へ向けて、彼らは山を渡る。絡め取られて、身動きが取れなくなる前に」

 

 考えを巡らせている間に、和平の背は遠ざかる。

 和平の向こうで揺れる淡い提灯の灯りが不意に消えた。森の木々が、まだ冷えた夜明け前の空気を小刻みに揺らす。はっとしてヤタカは目を閉じ、全ての感覚を耳に集中させた。波が寄せるように遠くで森がさざめいている。

 ぐるりと囲む山の向こうからサワサワと、山を割る街道の道筋に流れ込むように押し寄せてきたモノに、森の葉が揺さぶられ、それが生みだす空振がヤタカの肌を撫で上げた。

 

「イリス、ゲン太! 小屋に入って戸を閉めろ! 絶対に出てくるな!」

 

 戸口でかんかんと下駄の身を打ち鳴らす音に、イリスが身を翻す。

 

「ヤタカは!?」

 

 イリスが、心配気に声を上げる。イリスを急かせて、小屋の中でゲン太が激しく身を鳴らす。

 

「いいから閉めろ!」

 

 木槌を打ち合わせたように鈍い音を立て、小屋の戸が閉められた。

 提灯の灯りを消したのか、それとも消えたのか。和平は気づいていた。夜が明ける前に大きな動きがあることを。

 

――だから、こんなに早く出立するといったのか。

 

 和平は何を見せようというのか、ヤタカは緊張に身を引き締める。

 鬱蒼と茂る山の木々に茂る葉を伝って折り重なる光の粒が、雪崩のように押し寄せる。山のてっぺん辺りでは様々な色を成している彼らは、山裾に近付くにつれ色を変え、怒りにも似た赤が勢力を増していた。

 

――異種なのか?

 

 羽音が聞こえる。何かが葉を伝う音は、無数に重なり不気味に空気を震るわせた。ヤタカはぶるりと跳ね上がった肩を押さえ込むように、右手でぐいと鷲づかみにした。

 勢いを増した赤い光の波が山の中腹を過ぎた途端、視界が晴れたと言わんばかりにヤタカ目掛けて向きを変える。目前の山も遠くで折れ曲がる道の脇を固める山も、表面を流れ落ちる赤い光が一斉に向きを変えて大きくうねる。

 

――まずい

 

 傍観者であるはずが、標的に変わったと気づいたヤタカは身を隠そうとした。足が地面に張りついて動かない。異様な光景に気を取られ、先に迫った危険を見逃した。

 

「くそ! 離れろ!」

 

 地面から突きだし足首を絡めているのは、異種だろう。ヘビがぞろりぞろりと巻き付くように、枝と葉だとわかる感触が太股に這い上がる。

 太い筋を成して下る赤い灯りの固まりは、山裾に近付くにつれ合流し、荒れ狂う太い川となった。

 懐の小刀を出し絡みつく枝に刃を当てたが、切っても切っても下から別の枝が這い上がる。尖端はすでに、ヤタカの左腕を巻き込んで、胸に達しようとしていた。

 

「ここで騒ぐな! 今は騒ぐな!」

 

 見開いたまま眼球ががくがくと揺れる。小刀を放りだし、押さえるようにヤタカはこめかみに右手を当てた。

 目の奥深く水の器が跳ね上がる。まるで自分は此処にいると叫ぶように、己の存在を撒き散らす。

 こめかみを押さえる右手を、細い枝が体にぴたりと縛り付ける。

 ヤタカは広げた指の間から、迫り来る赤い光の川を睨んだ。

 内側から眼球を裂くような痛みに、ヤタカは喉元で思わず呻く。目玉を取り出したくなるほどの痛みだというのに、ヤタカの目は涙を流さない。涙を流す事を許されない目玉は、光のうねりを見続ける。

 

――このままじゃ呑み込まれる

 

 合流を繰り返し幅を広げた赤い川は、時化た波頭の勢いで跳ね上がり、四方からヤタカを呑み込もうと迫り来る。

 

――イリスには気付くなよ

 

 ぐいと瞑ったヤタカの右目から、とろりと零れるものがあった。

 

――まさか、涙

 

 大波が岩場に打ちつける大音が空気を振るわせ、ヤタカははっと目を見開いた。

 指の間から見える光景に、身の危険も忘れてヤタカは見入る。

 山裾で跳ね上がった幾本もの赤い波頭を、横から飛び入った薄緑の大波が打ち砕く。

 赤い波を押して流れを変える薄緑の光の川。光のせめぎ合いはすでに頂上付近から始まり、その様は二色の龍が縺れるようだった。

 弾き飛ばされた赤い波頭が、空気を伝って大地を揺らす。

 

――どうなっている?

 

 弾き飛ばされた赤い波頭が、防波堤にぶち当たったように光の粒を撒き散らす。

 更にそれを呑み込み押し続ける薄緑の光の川は、留まることなく山の頂きを越えて溢れ流れてきていた。

 赤い川が流れを変えた。下ってきた山を這い上がり、薄緑の灯りの群れを避けるように跳ね上がって同じ方向へ流れていく。

 

「異種の群れが、山を渡っていく……」

 

 ゆっくりと向きを変え、薄緑色にちらちらと光を放つ川が、ヤタカの背後にそびえる山へと進路を変えた。幾本もの光の川が街道で混ざり合い、巨大な光の薄衣のように森を埋める枝葉を這い上がる。

 手の自由が利くことに気付いたヤタカは、足元に目を遣った。ヤタカの足元は、肉眼では個体を見分けられないほど微細な虫の群れに囲まれ、薄緑に輝く小さな泉となっていた。

 巻き付いていた枝に付く葉が茶色く枯れ、かさりと乾いた音と共にはらはらと散っていく。枝が表面から灰となって砕けていく。むず痒さにヤタカは右の手の甲に視線を落とした。

 

「まさか……」

 

 水の玉が、手の甲から腕の皮膚を登っていく。肩から首へ、首筋を通り過ぎたそれは、頬を登り、ヤタカの目の下までするりと登った。

 この感覚をヤタカは知っている。遠く幼い日、ヤタカの目に遡った涙。あれ以来、ヤタカの目は涙を流さない。流せない。

 

「水の器」

 

 下瞼を越えて、右目にするりと水の玉が吸い込まれた。

 

「うぅっ」

 

 異物が入り込む痛みに、ヤタカは噛みしめた奥歯の裏で呻いた。

 足元の光の泉が縁から色を失いはじめる。自由になった足を踏み出し、ヤタカは山々を見渡した。申し合わせたかのように同じ方向へ引いて行った赤い川の、最後の尻尾が山の向こうに姿を消した。

 

「和平!」

 

 はっとして暗い街道の向こうへ目を懲らす。

 まるでヤタカが向くのを見計らったかのように、淡い提灯に灯りが灯された。和平の背に隠れて、ゆらりゆらりと灯りが揺れる。

 自分なら心配ない、ちゃんと見た? まるで和平がそういっているように。

 

「望む未来を描く者の元に……か」

 

 提灯の灯りを追って、薄く細く薄緑の光の筋が続く。細く長く山裾のあちらこちらから湧きだして、和平の後を追っていく。

 

「おれを救ったのは、こいつらの意思かそれとも」

 

 和平の意思だろうか。足元に残っていた僅かな光の粒が、線香花火が落ちるようにぷつりと消えた。

 

「いったい、お前達は何を望む?」

 

 光を失い命の絶えた者が眠る足元に、ヤタカはひとり問いかける。

 

 

 

 

 

 




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32 記憶に眠る顔

 イリスが望むままに道を進み、四日ほど経った。

 和平の薬のおかげで痒がらなくなったイリスは、ある朝突然この辺りは飽きたから、ヤタカの好きな方に進んでいいといった。

 山に散らばった、寺の叡智の全てを体内に取り込んだという意味なのか、他に意味があるのかとヤタカは訝しんだが、素知らぬふりで行く先を決めることにした。

 行き先の決め手はゲン太のひとこと。

 

――いっぱい いっぱい

 

 ゲップをもらすように鼻緒がぶはっと伸びて、しゅくしゅくと縮まった。

 和平と分かれた後、ゲン太は相当量の異種を体内の取り込んでいるようだった。

 イリスが水浴びする泉や川の周りに異種が集まっているのか、ついて行けないヤタカに知ることはできない。

 

「一度寺へ戻ろう。紅に渡す異種が溜まったなら、戻る意味もあるだろう? それに俺もおばばに尋ねたいことができた」

 

 紙にあった名のことをおばばに訊くつもりだった。イリスのことも伝えなくてはならないだろう。おばばの記憶も、あの時よりは戻っている可能性だってある。

 

「ゲン太、紅に会えるよ? 良かったね」

 

 イリスの笑顔に、ゲン太がぷいと鼻緒を背ける。

 

――なかよし ちがう

 

 和平にからかわれたことをまだ根に持っているのかと、ヤタカはくすりと笑った。

 

「よし、そうと決まったら出発だ」

 

「地下道を通る?」

 

 少し考えて、ヤタカは首を横に振る。

 

「今回は安全を考えて外を歩こう。遠回りになるが、あの狭い道で何かあったら逃げようがない。寺でおばばと話して、道の安全が確認できたら帰りは地下道を通るよ」

 

 ヤタカが知る名のことも、わたるの動向も幼なじみが離れていったことも知らされていないイリスは不思議そうに小首を傾げたが、いつものようににこりと頷いた。

 イリスが草にかぶれないよう、ヤタカ先を歩いて山道を切り開く。

 人の通る道を半分でも利用した方が歩くのは楽だが、それでは日数がかかりすぎる。

 ヤタカが全力で駆け抜ければ二日とかからない道程も、イリスの体力を考えれば倍以上の時間を要した。

 

「イリス、大丈夫か?」

 

「うん」

 

 息が上がって鼻を膨らませ顔を真っ赤にしながらも、イリスは黙々と足を進めていく。

 背後を守るように、ことりことりと下駄が行く。森のあちらこちらに獣の気配が感じられたが、海の波が避けて道を空けるように、行く手を遮る者はいなかった。

 異種宿りに獣は近寄らない。だが、とヤタカは思う。

 

――山中の獣に気づかれていながら、彼らに恐怖の念が感じられない。道を空けていると言うより、造りだした道筋を守っている気配にすら感じる。

 

 獣がそのようなことをするわけがない、とヤタカは首を振る。

 

「イリス、もう少しだ。日をまたぐ前には寺に着く」

 

「わかったゲン太? もう少しだから頑張るんだよ?」

 

 頑張れはイリスへの言葉だろうと呆れたのか、月明かりに照らされたゲン太の木肌に、もやもやと薄墨が雲のように浮かんでは消えた。

 

 

 

「ほらイリス、寺の後が見えたよ」

 

 山間にぽつりと開けた寺の跡に、真夜中の月明かりを浴びておばばの泉がちらちらと輝いている。味気ない弔いの場を覆うのは、薄衣を広げたようにおばばが咲かす大輪の花。

 

「綺麗」

 

 あれが『おばば』だと、イリスは感覚で知ったのか、それを問うことはなかった。

 斜面を下り平地に足を踏み出すと、通り過ぎてきたばかりの山の奥から、まるで何かを伝え合うかのように獣の遠吠えが響いた。

 振り返っても闇に覆われて彼らの姿は見えなかったが、ヤタカの肌に当たる空気が森の奥へと戻っていく獣達の気配を伝える。

 森の奥から呼ぶ鳴き声にに応える声が山々に反響して、広がる余韻を残しながら月が先導する星空に吸い込まれていった。

 

「おんやまぁ、やっと戻ってきたんかい?」

 

 振り返ると美しい大輪の花は姿を消し、人の形をとったおばばが泉の脇にちんまりと座っていた。おばばの笑顔を照らすように、辺りを埋め尽くす白い小花が淡く光って小刻みに頭を揺らす。

 

「ただいま、おしゃべりさん」

 

 ぺたりと座り込んで微笑んだイリスだが、疲れて眠いのだろう。細めた目をしきりに指で擦っている。

 

「イリス、明日もここに泊まるから今夜は眠りなよ。おばばとのおしゃべりは明日でもいいだろう?」

 

 首を横に振ってがんばるイリスだったが、様子を見るように皆の会話が止まると、こくりこくりと頭がすぐにぐらつきはじめた。

 

「おばば、イリスを小屋に連れて行くから、少し待っていて」

 

「あいよ」

 

 目を閉じてくたりと首を折るイリスを背負い、ヤタカは小屋へと歩いた。

 小屋に置かれたままの誇りっぽい毛布にイリスを包み、帰り道は幼い頃に親しんだ水場で腹一杯に水を飲んだ。視界の隅にちらりと映った岩牢へは目を向けずにおばばの元へ戻ると、どこに隠れていたのか紅がゆったりと尾を揺らして泉の中を泳いでいる。

 

「紅、元気だったか? 大親友のゲン太ちゃんを連れてきたぞ。ここにいる間、この馬鹿下駄をよろしくな」

 

 心得たと言わんばかりに、水面をぴしゃりと尾が打った。憤慨したゲン太が泉に尻を向け、後ろ歯でぺっぺっと土を飛ばす。

 

「これこれ、坊主どもはさっさと仕事をすませてから遊ばんかいな」

 

 おばばのひと言で、ゲン太はむくれながらも泉へ飛び込んだ。水の中で尻を振るゲン太から、集めた異種の種が撒き散らされる。ゆったりと泳ぐ紅が、異種を呑み込みくるくると回る。

 

「おばば。色んなことが一度に起きた。順を追って説明するが、イリスはまだ知らないことも多く含まれている。ゲン太は、ほとんどのことを知っているけれどね」

 

 黙って頷くおばばの姿は、あの日と同じく朧だ。月明かりに浮かぶ姿は、まるで地上に降りた朧月のように儚い。

 最初にここへ戻った時に感じた吐き気もなく、ヤタカは記憶を辿りながら伊吹山、わたる、和平、袂を分かった友人のことを語った。思い返しながらひとつひとつ話すヤタカの言葉に、おばばは口を挟もうとはしなかった。

 小さくなった月が傾いていく。

 目を閉じて表情を変えなかったおばばが、シワの奥で細く目を開けたのは、イリスが体内に受け入れた金色の文字列の話。

 

「おばばは知っていたのかい? イリスが負う役目のことを」

 

 おばばはゆっくりと首を横に振る。

 

「いんや、今は覚えておらんよ。じゃが、知っておったのかものう。くく、異種が騒いでおる。山を渡ったそれぞれの先で、騒いでおる」

 

 おばばが仰ぐ山の向こうには何も見えない。黒い山の影にあの日山を渡っていった異種達の光の川が重なってヤタカの中で蘇る。

 異種が一塊ではないなら、あの日幾筋にも分かれて渡っていった異種達の、どれにおばばは属すのだろう。味方に情報を与えたのか、あるいは敵なのか。おばばを信じるイリスをヤタカは信じたに過ぎない。だが今は、結果を恐れていては何も得られない。

 

「答えに繋がる記憶が戻るとは限らんのじゃが、明日の夜まで待ってくれんかのう? イリスがいない方がいいじゃろて」

 

「あぁ、そうして欲しい」

 

 ヤタカはほっと息を吐く。

 

「ヤタカも小屋に戻って眠るとええで。この子らは、一晩中ここで遊んでおるじゃろ?」

 

 言い残しておばばはすっと姿を消した。泉の底が淡く光を放ち、水の中でじゃれ合う紅とゲン太の影を浮かばせた。

 

「ゲン太、水遊びが過ぎて風邪をひくなよ? 俺は小屋で眠る。紅、おやすみ」

 

 水面がぴしゃりと跳ねた。仲良しじゃないとむくれたくせに、紅を追いかけるのに夢中になっているゲン太は、ヤタカの声など聞いていそうにない。

 

「アホ下駄め、明日には水でふやけてデブ下駄になっても知らんぞ?」

 

 小屋へ続く坂道の途中で、ヤタカは岩に腰掛け目を閉じた。一度座ると湧き水のごとく疲れが溢れ出た。

 

「水浴びしないと怒られるかな……まあいいいや、イリスだって浴びていないし」

 

 岩牢はすぐそこ。ここから眺める夜の景色は、幼い日に痛みに耐えながら岩牢の中で眺めていたものと変わらない。ヤタカはそっと右目に手の平を当てる。

 

「なぁ水の器、俺の役目は何だ?」

 

 水の器は眠ったように動かない。

 

「たとえこの世がひっくり返ろうとイリスを助けられないなら俺は、どれほど重要な役目だとしても、果たす気なんかないんだぜ?」

 

 不思議なものでゲン太がいない夜を、イリスと二人きり小屋で過ごすのは気が引けた。

 以前は当たり前のことだったのに、どことなく気まずさを感じてヤタカは道の途中で座ったまま目を閉じた。

 

 山の遠くで一斉に、咆哮にも似た遠吠えが響く。無数に重なり合い木霊する獣の声に怯えたように、周囲の草がさわさわと揺れた。

 はっとして目を開けたヤタカは、道の反対側の急な坂から迫り上がる影に目を見張る。

 影の形が、ヤタカの記憶の深いところをじくじくと刺した。

 水の器が迫り出したように、目の奥が激しく痛む。

 

「誰だ!」

 

 素早く立ち上がり腰を沈め、ヤタカは全神経を影に集中させた。

 

「くくくっ」

 

 くぐもった笑い声がして、影の右手が頭上に高く掲げられた。

 

「いったい何を!」

 

 伸びた右手首の辺りから、しゅるしゅると細い影が伸びる。無数の突起をつけたそれは三本に枝分かれし、蛇のようにくねくねと得物を探して宙で踊る。

 

「貴様は、あの時の!」

 

 危険を感じて身を翻したヤタカの肩が、鈍い音を立てて背後の岩に叩き付けられた。

 焼けるような痛みに、食いしばった歯の隙間から呻きが漏れる。

 肩を貫いた物が月明かりに照らされた。無数のトゲを生やした蔦が三本絡まって、ヤタカの左肩を貫いていた。

 尖端が岩の隙間に突き刺さっているのだろう。痛みに耐えて引き抜こうとしても、左肩は岩に張り付けられたままビクともしない。

 黒い影がゆっくりとヤタカに一歩近付くたびに、刺さった蔦のトゲがでろりと肉を抉り、ヤタカは溜まらず悲鳴を上げた。

 怯えたように水の器がヤタカの奥へと引いて行く。それと同時に目の痛みも失せた。

 ヤタカは影をじっと睨み付ける。

 

「まったく、どこまでも邪魔な男だよ」

 

 うっすらと月にかかっていた雲が流され、目の前まできた男の姿が照らし出された。

 黒い布で顔を隠し、口元も何かで覆っているのか声はくぐもっている。

 

「誰だ……顔を見せろ」

 

 くくくっ、男の嗤いに被せるように、森の獣が吠える。

 

「楽にしてやろう。水の器は、いただくよ」

 

 前に突きだした男の右手首からは意思を持って蠢く蔦が生え、残る左手がゆっくりとヤタカの右目に伸ばされる。

 ざっと強風が通り抜け、男は足元をふらつかせ空を見上げた。

 上空はどれほどの風が吹いているのか、西の空から天馬が駆ける勢いで厚い雲が押し寄せ星空を覆い隠していく。

 右目に伸ばされた男の手が、何かの気配を察したのかだらりと下がった。

 気を失いそうな痛みに頬を振るわせるヤタカの耳に、森の葉を打つ雨の音が響く。

 雨音はやがて滝のように激しく森の葉を揺らす。

 異常な光景だった。周囲の山々に轟く雨音に反して、ヤタカ達の周囲は雨粒ひとつ落ちていない。

 

――いったい何が集まって来ていやがる。

 

 食いしばった歯ががくがくと震えるなか、小屋に眠るイリスにだけは気づいてくれるなと、激しく響き渡る森を打つ雨がイリスの眠りを揺り覚まさないようにと、祈ることしかできなかった。

 

「邪魔が入ったか」

 

 男の舌打ちと同時に、薄ら青い光に夜の闇が払われた。

 ヤタカに突き刺した蔦をそのままに、男の足が一歩二歩と後退る。地鳴り似たゴォォーという低い轟音が空気を揺らす。

 

――これは水……なのか?

 

 青白い光を放ちながら渦巻く水流が、山の三方向から水柱となってこちらに向かっていた。ヤタカと男の間に凶器と化してなだれ込んだ水柱が、青白く二人を照らし出す。

 照らし出された男の袖が、水柱が生みだす風にぶわりと捲れ上がったのを見たのも束の間、触れれば鼻が引きちぎられそうな勢いで過ぎていく水柱に、ヤタカは顔を背け目を瞑った。

 どん、と地面を揺らして通り過ぎた水柱が地面に落ちた。湖の浅瀬に座ったように、水がさらさらと流れていく。 

 右肩を押さえて呻く男の手首に、しゅるしゅると蔦が吸い込まれていく。ヤタカに刺さった蔦はそのままに、蔦を途中で寸断したのは凶器と化した水柱。

 

「おまえは……」

 

「これはこれは、わたしの大切な者に無礼を働くのはどんな輩かと思い出てきてみれば。その蔦、狼煙塚の者だね?」

 

 口を開いたヤタカの声に被せるように、女の声がした。

 ヤタカの横に立つ女の細い指先がヤタカの肩に触れ、地面を流れる水が放つ光に照らされた横顔が、ヤタカを見て薄らと笑う。

 

「水気の主……どうしてここに」

 

 ヤタカの問いには答えず、水気の主は男に真すぐ向き直り、胸の前まで上げた手でしっしと払うような仕草をした。

 水の器が身を震わせる。水気の主を求めて、姿なき身を震わせる。痛みと緊張に固まる体に、ヤタカの感情ではない恋慕が混じる。同時に湧き起こった異質な感情がぶつかり合い、胸の奥で心がひび割れる感覚にヤタカは嫌そうに眉根を寄せた。

 

「馬鹿が、今更もう遅い。その男が死ねば水の器は宿り続けることはできまい? 今おまえが持ち帰ったところで、何の役にも立たぬ。水の器の目的は果たせぬ」

 

「このくらいの傷で、死なせるものか」

 

 抑揚のない水気の主の声だったが、ヤタカの肩に置かれた指先に僅かに力が込められた。

 

「もうすぐ毒が回る。刺さったままの蔦からは、今も毒が送り続けられている。この男の命が絶える前に、毒を抜ける者がいるといいがな」

 

「外道が!」

 

 声を荒げた水気の主が、堪りかねて一歩前に踏み出した。

 

「止めておけ。わたしを追う間に水の器を見失うぞ? くくっ、まあどうでも良いことだが」

 

 嗤いながら男がゆっくりと後退る。後ろ向きのまま飛び降りて、その影は崖の向こうへと消えた。

 

「しっかりおし! おまえなんざどうでもいいが、今死なれちゃ困るんだよ!」

 

 手に厚く布を巻いて、水気の主が肩に刺さった蔦を引き抜く。刺さった時とは別の肉がトゲに裂かれる激痛に、ヤタカは天を仰ぎ声を上げた。

 抜いた蔦を放りだし、閉じかけたヤタカの目を細い指が押し開ける。

 

「眠るんじゃないよ! もう少し、もう少しだけあの方を宿らせておくれ!」

 

「生き残るのは、厳しいかもしれないな。俺はいい、小屋にイリスが……」

 

 力ない言葉と共に、口の端から一筋の血が垂れた。

 

「あんたはイリスを守るんだろ? 府抜けたこといってんじゃないよ!」

 

 頬を張られてヤタカの頭ががくりと傾いだ。

 

「三度目なんだ……この毒を受けるのは……三度目」

 

 咳と共にげぼりと血が吐き出され、肩を支える水気の主の袖を赤く染めた。体内を廻る毒に視界が霞み、代わりに誰かの記憶を過去から辿る、ぶつ切れの映像がぼんやりと浮かぶ。ヤタカにも見覚えのある景色ばかりが続く。毒の持ち主とヤタカの血が混ざり合い、互いを結びつける記憶が蘇る。

 

「あたしにこの毒は抜けない! しっかりしておくれ! 後生だから!」

 

 遠い所で水気の主が泣いている、ヤタカはぼんやりとそう思った。

 痛みが退いていく。

 体の感覚がまるでない。

 死ぬのだな……そう思った。

 

 岩牢の中、幼いヤタカが赤く顔を腫らして笑っている。

 悪戯をして慈庭に襟首を掴まれ引き摺られるヤタカが、舌をだして小さく手を振る。

 

 自分を見ているという奇妙な現象を、不思議だと思う気力も残っていなかった。流れる映像を、ただぼんやりと眺めていた。

 

 饅頭を取り合って、ヤタカが誰かに爪を立てた。

 岩牢に張りついている慈庭の後ろ姿。

 

 懐かしいな……だが、死に支配されて虚ろだったヤタカの心が、次の場面で跳ねて脈打ち狼狽した。

 

 慈庭の背に伸びた蔦が突き刺さっている。慈庭がこっちへと地を引き摺られ、崖の向こうへ落ちていった。

 数年前のヤタカが叫んでいる。誰かの記憶を辿るヤタカの意識が、記憶の持ち主の体の移動と共に、ヤタカがいる岩牢へと近付いていく。

 ヤタカが必死に訴えている。

 視界がぐらりと動き、周りを蔦に囲まれた。

 転がっていく、崖の下へと転がっていく。

 遠くからヤタカの叫び声が響いている。

 周りを囲んでいた蔦が、するすると引いた。

 下を向いたヤタカの目に、骨張った男の右腕が見えた。

 

――そんな

 

 蔦の先を呑み込んだ手首の少し上には、爪に肌を裂かれた二本のミミズ腫れ。

 バネを弾かれたように、ヤタカの意識が今という時へ引き戻される。

 ついさっき見たばかりの光景が、鮮やかに蘇る。  

ぶわりと捲れ上がるった男の袖。

 そこから覗いたのは、赤い二本の傷跡。

 

「円大!」

 

 叫んだ名は、飛沫となって口から撒き散らされた血に掻き消された。

 

――イリス、ごめん

 

 

 浅くなった呼吸に、ヤタカは完全に意識を手放した。

 

 

 

 険しい表情でヤタカを揺さぶる水気の主が、ぴしゃり、と小さな音に濡れた大地に目を向けた。

 

「おまえは?」

 

 濡れた大地を伝って泳いできたのは紅。その後を駆け上がってきたゲン太が、鼻緒を上下させながら水気の主を見上げた。

 

――やたか たすける

 

「そうかい、手伝ってくれるかい? あたしには、手の施しようがないんだ。せめて、楽にしてやりたい。そうでもしないと……」

 

 イリスに顔向けできないよ、水気の主はそういって閉じられたヤタカの右目にそっとく口づけた。

 

「もう少し、耐えて下さいな。あなた様のために、わたしは存在しているのですから」

 

 寂しそうに微笑んだ水気の主は、立ち上がると高々と片手を上げ、その動きに感応して大地に散った水が細い川となって集まった。

 

「あの泉まで、この男を運んでおくれ」

 

 水がヤタカの体を掬い上げ坂を流れ落ちていく。紅が水の流れに飛び込み、あっという間に見えなくなった。イリスが眠る小屋へ駆け出そうとしたゲン太はふっと足を止め、紅の後を追って川の流れに身を投じた。イリスの無事を確かめようと駆け出した水気の主の足が止まる。

 イリスの小屋の戸が開いて、中から出てくる影があった。音もなく闇に溶け込み、気配はあっという間に消えてしまう。

 

「先客がいたようだねぇ」

 

 イリスの様子を確かめることなく、水気の主は地を濡らす水に身を溶かす。

 ヤタカの体は既に泉の脇に運ばれた。後を追う水はさらさらと、水気の主を含んで泉へと向かっていった。  

 

 

 

 

 




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33 水の玉に浮かぶ者

 おばばが居ない泉の脇に投げ出されたまま、ヤタカは仰向けに転がっていた。

 大人が二指を差し込めるほど大きく開いた傷口からは、心臓が脈打つたびどくりどくりと血が溢れ出す。

 

「血は吹き出ていないから、太い血管は無事だろう。でもこの出血じゃ長くは保たない」

 

 でもね、と水気の主は唇を噛む。

 

「血が流れ出て心の臓を止める前に、ヤタカは死ぬ。蔦から注がれた毒が抜けない限り、助かる道はない」

 

 血を流す肩口に下駄の歯をかけようとしたゲン太を、そっと水気の主が押し留める。

 

「お止めよ。この男の血は今や毒そのもの。触れたら下駄の坊やだってただじゃ済まないよ」

 

 身を引き鼻緒を振るわせるゲン太に脇目も振らず、泉の周りで紅が呑み込んだ異種の種を撒いていた。

 濡れた葉をひらひらと渡り、赤と白の入り混じった尾が柔らかく揺れる。

 ゲン太の脳裏を過ぎったのは和平の顔だった。今すぐ和平を呼び出せたなら、ヤタカは助かるかもしれないと、連絡の手段が弾頭のように頭の中を過ぎていく。

 たとえ和平が駆けつけたとしても、それなりに時間はかかる。毒と出血。時間との争いを考えると、どう足掻いても打ち勝つ方法が見いだせなかった。

 

――どく 

 

 ゲン太の木肌に墨の文字が浮かぶ。

 

――うつせるか

 

「移すって、どこにだい?」

 

――はなおから しみる

 

 ゲン太の木肌に浮かんだ文字を見て、水気の主は寂しそうに優しく眉尻を下げる。

 

「下駄の坊や、それは無理だよ。毒は移せる。だがその方法だと血も同時に抜けて無くなる。ヤタカが命を落とすことに変わりはないんだ」

 

 ゲン太の木肌に、もくもくと墨が渦巻く。

 悔しくて、悔しくて自分の身を焼いてしまいそうな程に。

 小屋で眠るイリスを起こそうとする者は誰もいない。水気の主はイリスに駆ける言葉を見つけられず、ゲン太はイリスが泣くのを見たくなかった。

 方法が見つからないなら、後で恨まれようとイリスには穏やかな眠りについていて欲しかった。

 泉の中で紅と戯れてすっかりふやけた下駄より重く、ゲン太の心は身動き一つ取れずに重く固まっていた。

 ゲン太は思う。

 ヤタカなんて、顔を顰めて毎日痛い目に合えばいいと。清い下駄に臭い足を突っ込んだりする奴なんて、死なない程度にくたばれと願っている。

 イリスとの楽しい時間を邪魔する馬鹿なんて、熱にうなされて一日寝込めばいいと本気で思う。

 でも……こんな状態を望んだことなど無い。

 本当にくたばってくれと思ったことなどない。腐っても生きて、ゲン太と小競り合いをしてくれなくては張り合いがない。

 何より、イリスが泣き叫ぶ姿など見たくなかった。

 ヤタカの身を案じる心の隅で、ゲン太はふっと考える。

 どうして自分はこんなに、イリスを大切に思うのだろうと。

 かわいくて優しくて、明るい女の子だから大好きだ。でもそれだけじゃない。自分でも認識できない記憶の遠い遠い場所が、命に代えてもイリスを守りたいと訴える。

 イリスを泣かせないためなら、ヤタカの為に命を投げ出してもいいと思えるほどに。 

 

――さがって

 

 ゲン太の木肌に浮かんだ墨の文字に、訝しげに眉を顰めながら水気の主が後退る。

 

 からり ころり

 

 ゆっくりと、けれど確かな足取りで肩口から湧き出る血の流れに身を寄せたゲン太は、敵を前に跳躍の構えを取る獣のようにぐっと鼻緒を引いた。

 せめて傷口を押さえようと思った。血が流れるのを止めたかった。

 自分の身など、死にかけてから考えればいい。そう思った。

 ゲン太が後ろの歯で土を蹴り、飛び上がろうとした刹那、泉の水面に水しぶきが立ち上がり、突進しかけたゲン太の鼻先を掠めて横切る影があった。

 掠めただけだというのに、前進しようとした勢いを弾かれて、ゲン太は後方の大地に転がった。

 身を横たえたヤタカから少し離れた場所で、水しぶきに濡れた白い小花の葉の表面を、紅がゆったりと尾を振り泳いでいる。

 風もないというのに泉の水面に波が立った。さして広くない泉の対岸で盛り上がった水面が押し寄せ、勢いをそのままに跳ね上がった波頭が、ヤタカの体を直撃した。

 

 浴びた水に誘われて、傷口から流れる血が勢いを増す。

 堪りかねて駆け出そうとしたゲン太の鼻緒を、水気の主が摘み上げた。

 暴れるゲン太をそっと手で包み、水気の主はゆっくり首を横に振る。

 

「下駄の坊やは、あの子を信じないのかい?」

 

 一枚の葉の上に留まって尾を揺らす紅を見ながら、水気の主が静かに問う。

 

「信じておやりよ。金魚の坊やに何かあったら、その時に助けてやるのがあんたの仕事だろ?」

 

 暴れていたゲン太の体から力が抜けた。

 

――わかった

 

 ひと言だけ木肌に文字を浮かばせ、水気の主の手の平に包まれたまま、ヤタカと紅を交互に見た。紅が何をしようとしているのか、ゲン太の頭では想像すらできない。だからこそ、何が起きるかわからなくても、最悪の結果が待っているとしても、紅を信じてみようと思った。

 

 ぴしゃり

 

 濡れた葉の上で、紅が大きく尾を叩き付けた。葉から葉へ渡り濡れた大地の草を泳いで、紅は気を失ったまま横たわるヤタカの、首の下へ周り姿を消した。

 傷口からとうとうと流れ出す血の川に身を浸していた白い小花が、大きく花弁を広げて震えたかと思うと、闇を吸い取ったように黒く染まり、淡い光を失ってくたりと首を折り枯れていく。水気の主が止めていなければ、近付こうとしたゲン太も同じ道を辿っていただろう。ゲン太は鼻緒を縮め、ぶるりと身を震わせた。

 

「金魚の坊やは勇気がある。だがあれは、さすがに無鉄砲じゃないかねぇ」

 

 鼻緒を跳ね上げることも忘れて、ゲン太は目を懲らす。

 ヤタカの首の下に潜り込んだ紅が、濡れたヤタカの頬を泳いでいた。まるで葉の上を渡り歩くのと変わらないとでも言いたげに、ゆったりと揺れる尾が美しい。

 濡れたヤタカの肌は紅が尾を跳ね上げると、湖面のようにさわさわと水紋を広げる。

 首筋を渡って作務衣の下に入って行った紅は、しばらくすると投げ出された手首をくるくると周り、指の間を通って布の下へ戻っていった。

 奇怪な紅の行動をじっと見つめていたゲン太は、作務衣の裾からでて脛の上をゆるゆると泳ぐ紅の姿に目を見張った。

 

 がくがくと震えながら激しく身を打ち鳴らし、後ろ歯で立ち上がって水気の主を見上げたゲン太は、すとん、と前の歯を大地に戻す。

 

――べに あつめてる

 

「何を……だい?」

 

――どく

 

 ヤタカのふくら脛を周り、足首まで泳ぎ着いた紅の体はすっかり色を変えていた。

 白に鮮やかに混ざる紅色のなごりは、今はどこに見当たらない。

 汚泥を溶かしたように濁った白い鱗に色を差すのは、毒々しく黒ずんだ濃い紫。

 紫に変色した尾をゆらりゆらりと振りながら、紅はヤタカの親指まで泳ぐと、足の甲の裏側に回り姿を消した。

 はっと我に返ってゲン太が駆けつける。濡れた葉に身を潜める力も無くした紅が、苦しげにエラを動かし、ぱくぱくと口だけを動かしていた。

 泉に戻してやろうと、下駄の頭で紅を押すゲン太をひょいと摘み上げ、水気の主が紅に手を翳す。

 大地を湿らせていた水気が引き寄せられ、毬のように大きな水の玉となり紅を包み込む。水の玉に包まれても、その中心で紅は腹を上に向けて力なく浮かんでいるだけだった。

 

「泉に戻せば、吸い込んだ毒が多少なりとも水に溶け出す。そうなったら、この泉の主も毒を受けることになるんだよ。わたしは水を操れる。だがこの毒を抜く術を持たない。水で包んでも、金魚の坊やは自力で回復するのは無理だろう。持って三日……いや、一日かもしれない」

 

 どうしよう、どうしよう。

 紅とヤタカを交互に見て、ゲン太は落ち着こうと鼻緒を何度も膨らませる。

 はっとしてゲン太は跳ねた。毒が抜けたらな、ヤタカに触れられる。

 

――くすり ぬって

 

 水気の主を急かせて、ヤタカの荷物を開けさせた。

 

――ち とまる

 

 和平から貰った薬の残りが、ヤタカの命を救うかもしれない。それに賭けるしかない。

 

「わかった。最初に塗るのはこれだね?」

 

――なるべく おくまで

 

 一度に話せない下駄の身が恨めしい。

 

――くすり ぬる

 

「わかった。やってみるよ」

 

 水気の主はさっと薬を指先に塗りつけ、ヤタカの肩をはだけると蔦に穿たれた穴に指を押し込んだ。

 

「がっ!」

 

 意識を失っていたヤタカがカッと目を見開き、痛みに体を跳ね上げる。表情を変えることなく、水気の主は更に奥へと指を押し込んでいく。

 大きく仰け反ったヤタカは、痛みに再び意識を失った。

 

「たいした薬だねぇ。これだけの傷の血を止めはじめたよ」

 

 傷口を綺麗に拭い貼り薬で覆うと、ゲン太に指示されたとおり薬を飲ませようと、水気の主はヤタカの顎を指で引いた。試しに葉にすくった水を流し込んでみたが、迫り上がった舌に阻まれ口の端から全て漏れてしまう。

 

「しょうがない。下駄の坊や、イリスには内緒だよ?」

 

 水と共に薬を口に含むと、水気の主は迷うことなくヤタカの唇に自分の唇を押しつけ薬を注ぎ込む。水気の主の唇に覆われたヤタカの口から薬が逆流することはなく、喉元が小さくゴクリと動いて和平の薬は飲み込まれた。

 ほっと鼻緒を下げたゲン太は、はっとして下駄の身が跳ね上がるほどに鼻緒を立てる。

 

――べに たすける

 

「何か方法が見つかったのかい?」

 

――たすかる かも

 

――あきらめない

 

「あたしは、ここに居ていいんだね?」

 

――イリス おきないように

 

 イリスには眠っていて欲しかった。その思いは多分、ヤタカも変わらないだろうと思った。

 

「イリスはもうちょっと眠っているように、あたしが細工しておくさ」

 

 ゲン太は持てる力の全てを呼び覚ますように、大きくカン、と身を打ち鳴らす。

 

――いってくる

 

「これでもあたしは、あんたが気に入っているんだ。戻っておいでよ?」

 

 ふいと顔を背け、水気の主が払うように手を振る。

 腹を上に向けてだらりと浮かぶ紅の姿を目に焼き付け、ゲン太は駆け出した。

 早く辿り着く為なら、もう一度あの崖を転がり落ちてやろうと思う。

 ゲン太は、和平の元へ全力で走った。

 

 

 

 和平はイリスの場所ならわかるといっていた。イリスを起こして、呼び出しの言葉を飛ばして貰えば和平は来るだろう。

 だがイリスの気配を頼りに和平が寺跡を目指すより、近道を知っている自分が道案内をして駆けた方が、ぜったい和平を早く寺跡に連れて行けるとゲン太は思った。

 向かえに行く時間が致命的な時の浪費にならないよう、ゲン太は山の急斜面を駆け上がり、川の流れに乗って細い滝を流れ落ち、考えられる最短の道で和平の住み処を目指した。 日はすでに真上に登ろうとしている。

 

――この山の向こうだ

 

 まともな道程なら一日では着かない場所へ、尋常ではない手段をつかって辿り着いたゲン太はぼろぼろだった。なりふり構わず森の中を駆けていたとき、大木の向こうから飛びだしたシカに気付くのが遅れたゲン太は、驚いて跳ね駆け出したシカの後ろ足に蹴り飛ばされた。下駄の底に丁寧にはめ込まれていた後ろの歯が片方、その時の衝撃で外れかけ、いつも文字を浮かべる木肌の台が、いっぽ進むたびにがくりと傾いだ。

 

――あと少し、あとすこし

 

 色を変え無残に浮かぶ紅を思い浮かべ、ゲン太は最後の一滴まで気力を絞る。

 

――駆け下りるのは無理だな

 

 以前見誤って落下した崖の上で、ゲン太は鼻緒を大きく上下させていた。道を回れば一度山を下って迂回するから時間がかかりすぎる。かといって外れかけた下駄の歯で、崖にそそり立つ木々を飛び移りながら降りるのは不可能だった。

 ただ大地に立っているだけで、疲れ切った下駄の身がかくかくと震える。ゲン太は鼻緒を大きく広げ、すとんと落ち着かせ前を向く。

 

――よし、いこう

 

 残った力の全てを込めて、崖から宙へと身を投げた。 

なるべく遠くへと思ったところで、下駄の跳躍などたかが知れている。ぶち当たっては木の枝を折り、幹に当たっては跳ね飛ばされた。せめて鼻緒が枝先に引っかかってしまわないようにゲン太はぎゅっと鼻緒を縮め、青い空と森の緑が入り乱れる色彩の渦に身を任せた。

 

 ふわり

 

 下駄の歯が全て外れるほどの衝撃を覚悟していたゲン太の体が、柔らかく浮いては沈みを繰り返す。ぐるぐると回って天も地もわからなくなっていたゲン太は、まだ定まらない目を懲らして、やっと自分の置かれた状況を知った。

 

――まずい

 

 びっしりと葉を茂らせ重なる枝葉の上に片下駄が乗り、しなる枝に揺られて上下していた。その枝の先に引っかかったもう片下駄は、外れかけた下駄の歯と台の隙間に枝先を食い込ませ、こちらも上に下にと大きく揺れている。

 

――和平、どこにいる? 和平!

 

 叫ぶ声をゲン太は持たない。焦るゲン太の木肌には、心の内を浮かばせたように墨の渦が巻いていた。気力を尽くして下駄の身を揺すっても、柳のようにしなる枝は外れようとも折れようともしない。枝葉の上に乗ってしまった片方も、片割れが枝に囚われ身動きが取れないのではどうにもならない。理屈はゲン太も知らないが、下駄とはそういうものだった。片下駄同士があまりに離れれば、ゲン太は何もできなくなる。片下駄だけ飛び降りて和平を探すなど、無駄死にも同然だった。

 

――いっそ嵐になって、枝ごと吹き飛ばしてくれればいいのに。

 

 地面はすぐそこだ。大人が枝を振るえば届く程度の高さだというのに。

 血の気が抜けたヤタカの姿を思い出す。

 一緒に遊んだばかりの元気な紅の尾を思い出す。悔しさにない歯をぎりりと食いしばる。 走れない下駄などただの板だ! とゲン太は自分を罵り身を捩った。

 

――いたい

 

 枝にぶら下がった下駄を突かれ、身を捩って下を見たゲン太は驚きに息を詰まらせた。

 

「な~にしてんの、おまえ。新し遊びかい?」

 

 長い枝を両手に持って、呑気に見上げている和平がいた。

 

――この枝に棒が届くなら……

 

 枝葉の上に乗っていた片下駄が、ころりと和平の横に落ちた。

 

「おいゲン太、もう片方はどうすんだよ? ねぇ、ゲン太ってば」

 

 転がったきり物言わぬゲン太を、首を捻りながら突いていた和平はぶら下がる下駄を見上げ、再び視線を落としてしゃがみ込む。

 

「まさか、下駄が揃っていないとしゃべれない?」

 

 そうだそうなんだ、と身動きできないゲン太は心の中で叫んだ。こんな少しの距離だというのに、離れてしまえば動くどころか文字を木肌に浮かばせることさえできない。

 

「しょうがねぇなあ」

 

 和平は長い枝を持ち直すと、勢いよく振りかぶってゲン太がぶら下がる枝を折った。

 勢い余ってふっ飛んだ下駄を枝ごと抱えてきた和平は、外れかけた下駄の歯と台の間に挟まった枝をそっと引き抜き、下駄を並べて土に置いた。

 歯の取れかかった片下駄が傾いでころりと横になったが、構わずゲン太は木肌に文字を浮かばせる。

 

――たすけて

 

「どうした?」

 

 こやかだった和平の表情が引き締まり、ただ事ではないと理解する。

 

――ヤタカ、たおれた

 

――べに どくすった

 

「いったい何があったの?」

 

――なかよし しぬ

 

「ゲン太、毒の種類はわかるか? それによって持っていく物が大きく違う」

 

 短い文を木肌に何度も浮かべ、必要なことだけを急いで和平に伝える。黙って文字を読み取っていた和平は、納得いったように頷くと道具を取りに走っていった。

 膨らんだ風呂敷を肩掛けして戻ってきた和平は、ひょいとゲン太を摘み上げ両手に持ってにっと笑う。

 

「最短での道案内を頼むぜ、ゲン太。ただし、崖はなしだかんな!」

 

――わかった あっち

 

 走り出した和平の姿は、あっというまに森の茂みに消えて行った。和平の手の中で途切れ途切れとなる意識を何とか繋ぎ止め、ゲン太は道を教えていく。

 和平の足は速かった。

 このまま進めば夜中までには着けるだろう。和平は紅が助かるとはいっていない。ゲン太も助かる見込みはあるのかと、怖くて訊けない。

 日が落ちても和平は走り続けた。まるで夜目が利く獣かと疑いたくなる速度で、木を避け倒木を避け進んでいく。 

 

――みえた

 

「あそこか……間に合えよ!」

 

 泉におばばの姿は無い。場所を変えずに横たわるヤタカと、傍らに座る水気の主の姿だけが白い小花が放つ淡い光に照らしだされていた。

素早く山を下った和平が駆け寄ると、その手に握られたゲン太を見て、水気の主がほっと安堵の息を漏らす。

 

「大丈夫。金魚の坊やはまだ生きているよ。現世とあの世を繋ぐ細い糸が、辛うじて繋がっている程度だが」

 

 ゲン太を地面に下ろし、まずはヤタカの元へ行き膝を着いた和平は、脈を取り自分がつくった薬が使用されたことを確認して、無言のまま頷いた。

 

「ヤタカ兄ちゃんは、取りあえずこのままに」

 

 水の玉に囲まれた紅の元へ駆け寄り、触れることなく観察する和平の眉根が寄っていく。

 

「この子はたしか、ただの金魚じゃないよな?」

 

 和平の視線を受けて、ゲン太は力なく鼻緒で頷いた。

 

――べには いぶつ

 

――いしゅ のみこむ

 

――いしゅ まく

 

 指先で顎を捻り目を閉じた和平は、よし、といって風呂敷を広げ中を漁りだす。

 

「この子が普通の金魚なら助からない。でも異物なら……賭けてみるか」

 

――なにするつもり

 

「毒を必要とする異種がいる。そのほとんどは宿主から毒を吸い出し、肉体を苗床として花咲かせるが、毛色の変わったやつもいるのさ」

 

 普通の人間なら、どのみち死ぬけどね、と和平は無表情のまま荷物の道具を並べはじめる。

 

「そして異種は異物を嫌う。滅多に手に入らない毒と、嫌いな異物。そこに生まれるせめぎ合いが、吉と出るか凶とでるかはわからない。けれど目論見どうり事が運べば、紅は助かる」

 

 不安げに、ゲン太の鼻緒がくしゅりと垂れた。

 

「助かると断言はできない。でも他に方法はない。それでもいいかい?」

 

 和平に問われて、ゲン太は真っ直ぐに鼻緒をたてた。

 

――うん やって

 

「わかった」

 

 ゲン太は鋭く尖った道具の先に粘り気のある液を塗り、紙に包まれていた黒い粉を残らず付けた。

 

「この先は見ない方がいいよ? ゲン太は、誰かが痛いのは嫌だろ?」

 

 優しく微笑みかける和平に、ゲン太は立てた鼻緒に力を込める。

 

――みとどける

 

「そっか。そうだな。紅とゲン太は仲良しだもんな」

 

 以前は拗ねてむくれた言葉が、今はゲン太の胸を締め付ける。言葉を交わさなくても、側に居るだけで互いを感じられるのが紅だ。人では無い、唯一無二の友だった。

 

「よし、はじめるよ」

 

 水の中に差し込まれた道具が、紅の体を挟みぴたりと固定する。黒い粉を塗った鋭利な尖端が、右手で慎重に水の中に押し込まれた。背びれの付け根にぶすりと刺された尖端から、黒い粉が紅の体内に流れていく。外にはみ出た部分の粉も、まるで引き寄せられるように紅の体内に潜っていく。小さな穴を残して、鋭利な棒が引き抜かれた。

 

「こいつらは、紅の体内にある毒に引き寄せられているのさ。毒の誘惑に、我を忘れている。さて、自分達が潜り込んだのが大嫌いな異物の体内だと、こいつらは何時気づくだろうね」

 

 体を固定していた道具も水の玉から引き出されても、腹を上にしたまま水玉の中心に浮かぶ紅。その体表を覆う薄い鱗を通して、その下で蠢く真っ黒なもの。

 集団で動く性質なのか、オタマジャクシのように尻を細らせ、まるで紅の体内を泳いでいるようだった。

   

――べに がんばれ

 

 無意識に力が籠もった、ゲン太の片下駄がころりと転がった。

 取れかけていた歯がぽろりと外れ、乾いた音を立てて傍らに転がる。

 ゲン太の動きが止まった。

 ぴんと立っていた鼻緒はくたりと下がり、訝しんだ和平が声をかけても、土埃にまみれた木肌には、文字一つ浮かばなかった。

 

 

 

 

 




 読んでくれたみなさん、ありがとうです。
 


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34 夜闇を泳ぐ金魚

「ゲン太?」

 

 和平が呼びかけても指先で押しても、ゲン太はぴくりともしない。

 外れた歯を手にした和平は、顎を捻って暫し考え水気の主に向き直る。

 

「すみません。ゲン太の泥を落として、その辺りで乾かしてやって貰えますか?」

 

「下駄の坊やは、あたしがここに着いたときには既に泉の中でけっこうふやけていたけれど、これ以上水に晒して大丈夫かい? 洗うのは構わないが、ただ気絶しているようには思えないんだがねぇ」

 

 水気の主の言葉に和平はにこりと頷く。

 

「確かにゲン太が元に戻るかはわからない。でも今は、紅の回復が最優先です。あぁ、干すときは、下駄を揃えてやってくださいね。こいつ、どうも離れると駄目みたいだから」

 

「あぁ、わかった。金魚の坊やを頼んだよ」

 

 頷いた和平は厳しい顔つきで水の玉に目を戻した。紅の色は変わらず、薄い鱗の下で黒い固まりが細く尾を引いて忙しく動き回っている。

 

「まだ気づいていないな。欲にかられて我を忘れている」

 

 和平が紅の体内に送り込んだのは、肉眼では黒い粉にしか見えない小さな動植物。その存在は異種の中でも更に特殊。毒を体内に宿す生き物が近付かないとまったく動きを見せない。幾年かかろうと、獲物が近付くのを身を潜めて待つ。

 活発に動き出すのは、毒を持つ者の血肉に触れたとき。獲物を待つ間は土や鳥の羽根、木の皮などに潜み、毒の香が感じられるのをただひたすらに待つ。

 集団で行動し、毒を吸い切って苗床から花を咲かせる様子は美しいと文献に残っている

花と呼ばれるのさえ便宜上のこと。

 その生態は、文献に残っているとはいえ今だ謎多き異種だった。

 和平でさえ、手に入れたのは偶然。毒消しの研究に使えると胸躍らせていたというのに、用途はまったく違ってしまった。

 

「助かってくれよ……。値が付けられないほど貴重な異種なんだからな? この上死んでゲン太を泣かせたら、焼き魚にしてやるから」

 

 ただ1つ疑問があった。紅は異種を取り込み撒くことができる。なら吸い取った毒も吐き出せなかったのかと。

 

「この辺りは毒で汚したくない者ばかり居たか、あるいは毒を吸い始めてから、吐き出す場が無いことに気づいたか。毒を吸いきった後、捨てに行く力が想像以上に削がれていたか……」

 

 どっちにしてもお人好しを通り過ぎて馬鹿ばっかだ、と和平はぽりぽりと頭を掻いた。 

「はじまったな」

 

 一塊で動いていた異種が、紅の中で花火のようにぱっと散り、どす黒い影が尾の先にまで広がった。紅の鱗が、黒と紫に染まっていく。空気中に放り出された魚のように、ぱくぱくと動いていた口元の動きが鈍くなり、エラもほとんど動かなくなったのを見て、和平は心配げに眉根を寄せる。

 

「まだ気づくなよ。こんな上等な毒には二度とあり付けないぞ? 食らい尽くせ。飛び立つのはそれからだ」

 

 動きが鈍くなった紅の命がそれまで持ってくれなければ、毒が消滅したところで何にもならない。ほとんどの毒を吸い尽くす前に、異物の中に居ると気づいて飛び立たれたら、そこで希望は潰える。

 

「がんばれよ、紅。元気になって、しゃべらなくなったゲン太をどうにかしてくれ」

 

 僅かに動いていた口もぽかりと開いたまま、紅のエラの動きがぴたりと止まった。

黒と紫が入り混じっていた鱗が紫一色となり、エラさえ動かせなくなった紅の体は、腹を上に向けたまま胴がゆるりとくねり、まるで泳いでいるかのようにゆったりと尾ビレが揺れる。

 自らの手で作りだした水の玉で起こる変化を察した水気の主が、ゲン太を並べる手を止めて振り返った。

 水の玉を覗き込んでいた和平は、四つん這いのまま後退り身を引いていく。

 和平が開けた小さな穴から、紫の固まりがもぞもぞと競り上がり、引いてはまた盛り上がる。

 

「水を丸めている力を、少し弱めて貰えますか?」

 

「承知した」

 

 和平に頷いて、水気の主は水玉へ向けた手の先で人差し指をぱちりと弾く。

 押し合っていた力の均衡が崩れ、小さく鱗に穿たれた穴から一気に滑り出た紫の尖端が、水の玉の結界を破り弾けさせた。

 ぽとり、と紅が塗れた草の上に落ちた。

 どくどくと、背びれの付け根の穴から全てが抜け出し、全貌を露わにする。

 紅の体表の模様をそのままに、薄紫と濃い紫で彩られた金魚が宙を泳いで空へと登る。 まるで幻影のように淡く発光しながら泳ぐ金魚はどんどん大きさを増し、子供が両腕を広げたほどの大きさになった。

 金魚の姿は朧気で、昼間であったなら向こうの景色を透かせて見せたことだろう。

 

「あれは……」

 

 水気の主が、呆けたように空へと登る紫の金魚を眺めている。

 

「あいつらは、毒を吸って増殖するんです。吸った毒を多くの個体で分け合うことで、自分達に害をなすほどの量は身に含まない。そして宿主と同じ姿となって去っていく。なぜ同じ姿を取るかは謎のままです」

 

 興味深げに頷いていた水気の主は、はっと我に返って紅の元へ駆け寄った。手を翳し大地の水を引き寄せ、清らかな水の玉で再び紅の身を包み込む。

 悠然と尾を揺らし薄紫の光を放ちながら夜空へ登る金魚の姿を、和平は黙って見つめていた。夜の濃い闇に呑み込まれ、優雅にゆるりと揺れる金魚の尾が視界から消えた。

 

「金魚の坊やが呼吸をしていないよ? 毒は抜けたんだろう?」

 

 変わらず腹を上に向けて水でかたち取られた玉の中、中央で浮かぶだけの紅に水気の主は不安げに眉を顰める。

 

「紅色が元に戻っているから、毒は完全に抜けたはずです。後は紅次第。励ましてやるべき仲良しのゲン太は、今は居ないもの」

 

 水気の主が並べて干したゲン太の木肌は、綺麗に水で清められ平らな石の上に並べられていた。濡れた鼻緒は下がり、木肌は水を吸い込んで飴色になっている。

 和平が指先でそっと擦っても、薄墨は湧いてこなかった。

 

「ヤタカの兄ちゃんを、小屋で休ませないと。怪我人に夜の冷え込みはまだきついからね」

 

 さて、どうやって運ぼうかな、そういって和平が腕組みして息を吐く。

 薬の知識は大人以上でも、腕力はただの子供である和平に、脱力しきったヤタカを抱えて坂を登るなど無理だった。

 

「運んでもらうといいさ」

 

 水気の主の言葉に、和平はきょとんと首を傾げる。

 

「そんなところに潜んで居ないで、さっさと出ておいでな。おまえさんの真の目的など知らないが、今ヤタカに死なれちゃ困るだろ? 敵も味方も、利害の一致が全て……違うかい?」

 

 水気の主が視線を送った森の闇で、がさりと枝を分ける音が響き、闇の中を歩く足音が近付いてきた。

 

「どうしてわかった?」

 

 闇から顔を出さずに、男の声だけが響く。

 くくくっと笑って、水気の主が袂で口をそっと押さえた。

 

「小屋で眠るイリスを守りにいっただろう? その後は、辺りの森に潜む輩が居ないか見廻っていた……違うかい?」

 

 ちっと舌を鳴らして、白い小花たちが照らし出す淡い景の中に姿を見せたのは、黒い旅着に身を包んだゴザ売りの男だった。

 

「この気配はもしかして……すごいな、ここまで近付いてくれて初めてわかった。知る人間の気配を感じ取れないなんて初めてだ。あなたはイリス姉ちゃんの薬をヤタカ兄ちゃんへ渡しに来た人でしょう?」

 

 和平の言葉に嫌そうに眉を顰めたゴザ売りは、ふん、と鼻先を背け何も言わずに腕を組む。

 

「てめぇらが居るのが気にくわねぇ……が、取りあえず運ぶぜ」

 

 

 大柄とはいえないゴザ売りの男だったが、軽々とヤタカを肩に担ぎ上げ小屋へ続く道を灯りも持たずにいってしまった。

 

「あの人、味方なの?」

 

 ぼそりと訊いた和平に、水気の主が可笑しそうに首を振る。

 

「あんな物騒な奴、味方にしたら枕を高くして寝られやしない。かといって、敵に回したくはないがねぇ。敵の敵は味方。あの男が命に代えてもイリスを守ろうとしている今は、正面切ってぶつかる必要のない相手さ」

 

「へぇ、要は心底気を許すなってこと?」

 

「ふふ、共通しているのは、イリスを大切に想う気持ちだけ。それを抜かせば、あたしだって、あんたが気を許して良い相手じゃあないんだよ、坊や」

 

 柔らかく微笑んでいた水気の主の眼が、言葉の真意を伝えるようにすっと細められた。

 

「大丈夫、オレは誰も信じちゃいませんよ」

 

 和平は、にかっと白い歯を見せて笑顔を見う。

 

「その笑顔が曲者さねぇ」

 

 流し目で和平を見ながら艶っぽく口元だけで微笑んだ水気の主は、すっと視線を足元に落とす。

 

「できるなら坊やも、敵に回したくないものだよ。あんたが只者じゃないって、イリスやヤタカは気づいているのかねぇ」

 

 水気の主の言葉に幼さを残す表情で和平は苦笑を漏らす。少し寂しそうに、僅かに唇を開いたが声を発することは無かった。

 

「さあ、あの男を追うとしようか。下駄の坊やも連れて行くかい?」

 

「はい。ゲン太ははオレに任せて、紅をお願いします。オレが水の玉のまま運ぶのは心配です」

 

 あいよ、そういって水気の主が手の平を上にさらりと引き上げると、紅を包んだ水の玉がふわりと浮かび、行き先を心得ていると言わんばかりに、小屋がある闇の向こうに消えて行った。

 

「ゲン太、いくぞ」

 

 物言わぬゲン太を両手で大事に包み込み、和平もまた灯りを手にすることなく闇の向こうへと姿を消す。

 

「利口な上に、凡とは言えぬ技を持つ奴ばかり集まったものだねぇ。あの手合いは、敵にするも味方にするも面倒な連中だよ」

 

 さわさわと集まってきた細い水の流れに、水気の主は身を溶け込ませ姿を消した。

 人の腕ほど細く、ゲン太の板より薄い川がさらさらと大地を流れていく。

 人の道から外れ草木を分けて小屋へ続く崖を、水気の主を含んだまま静かに登っていった。

 

 

 

 小屋の中では水気の主の術で今だ眠りにつくイリスから少し離れた場所に、乾いた血にまみれたままのヤタカが横たえられていた。そのすぐ横に、歯がひとつ外れたまま乾き切らないゲン太が布の上に並べて置かれている。

 

「ヤタカだが、回復するのにどれくらいかかる?」

 

 呻くように低く、ゴザ売りの男がいう。

 

「ヤタカの兄ちゃんなら大丈夫。傷は深いけれど、毒が抜けたなら心配いりません。普通の人間なら十日経っても身を起こすことさえきついでしょうが、兄ちゃんは異物憑きだから。残った痛みにさえ耐る覚悟さえあれば、明日にだって歩けます」

 

 和平の答えに安堵するでも心配するでもなく、そうか、とだけ呟いてゴザ売りの男は口を閉ざした。

 

「さて、あたしは先に帰らせて貰うよ」

 

「帰っちゃうの? イリス姉ちゃんに用があったんでしょ? まだ話さえしてないじゃない」

 

 きょとんと目を見開く和平に、水気の主は涼しげな笑みを浮かべ立ち上がる。

 

「イリスは明日の昼くらいに目を覚ますさ。ここに居ても、することがないからねぇ」

 

――なにより

 

「あの子達が大地に滲みすぎると、呼び戻すのが難しくなる。そうなると、帰ることさえ難儀だからさ」

 

 水気の主が闇夜に向けて入口の戸を開くと、まるでそこに川が流れているかのようにせせらぎが小屋の中にまで聞こえてきた。水気の主があの子と称した水達が、主を求めて集まる音。

 

「またどこかで会うだろう。その時、刃を交える……なんてことにならないことを願っているよ」

 

 開け放たれた戸口に水柱が立ち、渦を巻いて水気の主を包み込む。

 バシャリと水が大地に落ちた音が大きく響いたかと思うと、川の流れが遠くなっていった。ゆっくりと立ち上がった和平がちょこりと外を覗き込み、呆れたように肩を竦めて戸口を閉める。

 

「行っちゃった。すっごく綺麗だけれど、解らない人だな」

 

「あの女のことなんざ理解できるもんか。そんな奴が居たら、人間じゃねぇ」

 

 吐き捨てられたゴザ売りの言葉に、こっそり首を竦めてぺろりと舌を出した和平は、ヤタカの傷口に薬を塗り直して綺麗な布を当てた。

 水気の主が姿を消しても、紅を包む水の玉はゆらゆらと形を保ち、床から僅かに浮いて紅を守り続けている。

 ゲン太を摘み上げ、和平は大きく溜息を吐いた。

 

「後はゲン太だな。いつもなら水に濡れたってこんなことにはならないのに。文字を浮かばせられない上に、すっかり水が染みこんでぶよぶよじゃないか」

 

 指先で弾いても、摘まれた鼻緒の下で揺れるだけで、ゲン太はただの下駄だった。

 

「少し乾いたら、明日にでも取れた歯をはめてみようか? 薬が効かない症状なんて、オレにはどうにもできないんだぞ? この太っちょゲン太め」

 

 外を見張る。そう言い残してゴザ売りの男が外へ出て、小屋の中はヤタカとイリスの寝息だけとなった。

 

「あのおじさん、どうせ朝には姿を消しちゃってるんだろうな」

 

 この夜、和平は傷口に何度も薬を塗り直し、滲む血が赤い染みをつくる布を張り替えた。 その合間に火鉢で起こした火で薬草を煮だし、煮詰めて濃くしたものを一滴、紅が体を浮かべる水の玉に落とした時には、山間の小屋にも明かり取りの窓から朝日が差し込んでいた。

 微かな動きだが、紅のエラは生きようと動き始めていた。

 この世に戻って来ようと、足掻きはじめていた。

 大きく欠伸をして目を擦り、細くなった目しょぼしょぼさせながら和平は持ち合わせの米を炊き出す。

 

「目が覚めたとき、食べ物がないとイリスの姉ちゃんがぷっくりふくれっ面になりそうだもんな」

 

 大の大人の面倒を一晩みつづけた和平は、もう一度ごしごしと目を擦り頭を一振りして息を吐く。

 

「ゲン太、紅ぃ。頼むから目を覚ましておくれよぉ。オレひとりじゃ辛いっての。おまえらだけが頼みの綱なんだからさぁ」

 

 情けない声で叫んでも、小さな友はぴくりともしない。

 

「ば~か!」

 

 ぺろりと舌をだし、鼻筋に皺を寄せて和平は再びヤタカの傷の手当てに戻った。

 

「姉さん」

 

 擂り粉木で薬を混ぜるしゃりしゃりという音に混じって、か細く和平の声が響く。

 

「オレさ、姉ちゃんが大好きだよ」

 

 しゃり しゃり

 

「でもこいつらも嫌いになれないんだ」

 

 しゃりしゃりしゃり

 

「駄目かな? こいつらを……」

 

 しゃり しゃり しゃり

 

「守っていたいと思っちゃ……駄目なのかな」

 

 擂り粉木の中に、ぽたりぽたりと雫が落ちる。

 

「初めて、友達になりたいと思ったんだよ……姉さん」

 

――姉さんも、こいつらのこと嫌いじゃないだろ?

 

 だったら……

 

 和平は止めどなく流れる涙をごしごしと擦って唇を噛む。

 誰よりも大切に思う姉に思いを馳せて、また涙が流れた。

 背負った蜘蛛の巣が、中央から外へ向けてどくりと脈打つ。

 

「姉さんは生きて」

 

 和平の目元が柔らかく笑みを模る。

 ばりばりと音を立てそうな程に膨れあがった蜘蛛の巣の痣が、和平に抵抗するかのように痛みをもたらす。

 

「オレを殺していいから」

 

 和平の言葉を聞く者はいない。全てに闇を打ち消すように、朝日が眩しく小屋の中に差し込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 読んで下さってありがとうです。
 今回は、ちょびっと短めなり……


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35 小さな身に宿る者

 朝日を避けるため、和平がそっと目元に被せた布の下でぽかりと口を開け、イリスは静かに寝息を立てている。

 食べる者が居ない簡素な朝食は、壁に凭れ座る和平の前ですっかり冷えてしまった。

 あと二時間も経てば、日の光が真上から寺の跡地を照らすだろう。

 夜通し当て続けたゴテが効き始めたのか、ヤタカから苦悶の表情は消えて、微かに聞こえるのは穏やかな寝息だけ。

 

「まぁ、目覚めたらヤタカの兄ちゃんは悶絶するだろうな」

 

首をぐるりとまわし、目元を擦る和平の口から徹夜疲れに濁った息が漏れた。

 和平の治療は体を癒しても、傷を消し去る魔法ではないのだから、異物憑きとはいえ深い傷の痛みは消えない。

 

「痛み止めの投薬は、しばらく我慢して貰うしかないな。他の薬との兼ね合いを考えても、今使えば傷の治りを妨げるから」

 

 水の玉に包まれて微動だにしない紅と、ひとつ歯をころがしたままことりとも動かないゲン太を見比べて、和平は大きく肩で息を吐く。

 

「イリス姉ちゃんが目を覚ます前に、おまえ達が元気になってくれないと、おれはどうすりゃいいんだ? 目が覚めてヤタカ兄ちゃんがこのままだったら、イリス姉ちゃんの心に付ける薬なんて、持ち合わせてないんだぜ?」

 

 何度かゲン太に歯を嵌めようとした和平だったが、吸い込んだ水気に板が膨らんでいるのか、ぴたりと噛み合うはずのへこみに押し込むことはできなかった。

 

「まいったなぁ……」

 

 冷えた握り飯を一口囓り瞼を閉じると、うっすらと開けた瞼の隙間から見える古びた板壁をただぼんやりと眺め続けた。

 

 

 

 紅の腹が、不意にふくりと呼吸に膨らんだ。

 明かり取りの窓から差し込んだ朝日に呼び戻されたように、腹を上に水の玉に浮かんでいた紅の尾がふわりと揺れる。

 

「紅?」

 

 紅の尾が揺れるのに合わせて微かに揺らぐ水の玉。素早く反応した和平は、目覚めから意思を持った大きな動きへと変わっていく紅の姿を注視する。

 器用にくるりと体勢を変え、まるで何事も無かったかのように背を上に向けて紅が体をくねらせた。

 

「やっと目覚めたか、寝坊助め」

 

 くすくすと笑いながら和平が水の玉をつつくと、透明な表面がゆらりと光を反射した。

 

「水の玉の中は狭いけれど、もう少し我慢してくれよな」

 

 この水の玉、どうやったら割れるのか聞くのを忘れた、と和平はぺろりと舌を出す。

 

「そこから出られなくても、目を覚ましてくれただけで嬉しいよ。ヤタカ兄ちゃんはともかく、ゲン太がしゃべらなくなっちゃってさ。取れた歯も、ふやけてんのか嵌らないんだ」

 

 和平の心配などどこ吹く風で、紅の尾が優雅に揺れる。

 

「いいよ別に。愚痴を聞いてくれるだけで十分だ。一晩中ひとりぼっちだったことを思えば、一気に元気回復って気分」

 

 そろそろ水気の主が施した術も解け、イリスが目を覚ますだろう。何を話し、奥歯で押し潰すべきはどの出来事か思いを巡らせ、和平は薄く開いた目でぼんやりと天井を見上げた。

 

「姉さん……。今ならこいつらを殺せるよ? 姉さんの進む道が楽になる」

 

 自分の耳にしか届かない囁きだった。

 

「でもさ、解っちゃうんだよね」

 

 よいしょ、と立ち上がり、和平はぱしぱしと膝小僧を叩いて大きく背を伸ばす。

 

「たとえ楽になるとしても、姉さんがそれを望んでいないってさ」

 

 だろ? 姉さん―――

 

 最後の言葉は、口の中で噛み砕かれた。

 本当の意味でわたるが何をしようとしているのか、和平にも読み切ることはできない。 確信が持てるのは、死人のようにこの世の影に身を潜めていたわたるが、表舞台に姿を見せたのは自分の為ではないということ。

 自分のことだけを願うなら、とっくに命を絶っていただろう。

 泥のような闇に首まで浸かっても、それが自分だけなら厭わない。

 自分の不幸が愛する者の身に花を咲かせるなら、不幸という名さえ己の光に変える。細い鋼のように強く、しなやかさに欠けた強さゆえに、折れるときは一気にぽきりと音を立てて壊れてしまう危険を孕む。

 和平の知るわたるとは、そんな姉だった。

 

 水玉の中で悠然と尾を振っても、紅は玉の中央から動くことはない。それでも和平はそんな紅の姿を頬を緩めて眺めていた。得体の知れない戦いの糸が無数に頭上に張り巡らされているような状況下、落ち着き振る舞う紅の姿は和平をほっとさせてくれる。

 

「おえぇ……」

 

 低い呻き声に、はっと顔を上げた和平は、肩を押さえて半身を起こそうとしているヤタカに気づいて慌てて駆け寄った。

 

「無理するなって。兄ちゃん深傷を負ったんだよ?」

 

 痛みに皺が寄るほど閉じられた瞼がゆっくりと開き、眼が真っ直ぐに和平を見る。

 

「イリスは? 円大はどうなった……んだ?」

 

「イリス姉ちゃんは眠っている。おれは兄ちゃんを助けるために呼ばれたんだ。来るまでのことは、後でゲン太にでも訊いて。おれはわからない」

 

「クソ下駄、こっちにきて早く聞かせろ」

 

 食いしばった歯の隙間から、血の混ざった唾液が漏れる。

 

「ゲン太は動けない。話しもしなくなっちゃった」

 

 和平が指差す方に目を向けたヤタカは、眉を顰めてがくりと頭を床に落とした。

 

「ヤタカの兄ちゃんを救ったのは紅だよ。兄ちゃんの毒を吸って瀕死に陥った紅を助ける為、むちゃくちゃに山を駆け抜けて、おれを呼びに来てくれたのはゲン太」

 

 悔しそうに、ヤタカの眉根が寄せられる。

 

「紅は回復した。意地っ張りだから平然としてはいても、本調子ではないだろうね。ゲン太は外れた歯が嵌らないし、ただの下駄みたいになっちゃった」

 

「全部、俺のせいだ」

 

 口を閉ざしたヤタカに、和平は眠っていた間のことを話して聞かせた。

 じっと天井を見つめたまま、表情ひとつ変えずに耳を傾けるヤタカの眉尻がぴくりと動いたのは、紅が腹を上に向けて浮かぶ姿と、転がったゲン太が文字さえ浮かばせなくなった時だった。

 

「和平、俺を起こせ。着替えを手伝ってくれ」

 

「今着替えるの?」

 

「イリスが目覚める前に着替えたい。こんな姿、見せられないだろ?」

 

 力の抜けた人間の体は重い。和平は細い腕に目一杯の力を込めてヤタカを起き上がらせた。ぼろぼろに裂けて血に染まった作務衣を脱がせ、血の染みた傷口の布を張り替え綺麗な作務衣に着替えさせる。顔を斑に覆う乾いた茶色い血の跡を拭き取ってやると、見た目には深傷を負っているとは解らない。いや、ヤタカの表情が変わっていた。

 痛みに眉根を寄せることもなく、表情から険しさが抜けた。

 

「円大のこと、俺の傷のことはイリスには秘密だ」

 

「いわなくていいの? その体で普通に過ごすのは無理だ」

 

 やっと和平に視線を向けた、ヤタカの口元がにやりと上がる。

 

「ゲン太と巫山戯ていて山肌を転がり落ちた。その時俺は肩を痛めて、ゲン太は歯が抜けた……それでいいだろ?」

 

「いいけどさ、絶対ばれるって」

 

 ぼんやりしているようでイリスは愚鈍ではない。それを知りながら吐く嘘は、男のくだらない意地だろうに、と和平は小さく肩を竦める。

 

「とにかくゲン太を治してやろう」

 

 ゲン太を寄越せと指先で招くヤタカの手に、歯の取れたゲン太をそっとのせて和平はぴしりと指先で鼻緒を弾く。

 

「もう水気は抜けた筈なのにね。兄ちゃん知ってる? こいつ二足が側にないと文字を浮かべることができないんだ」

 

「へぇ」

 

 そりゃあ煩いときに黙らせるにはいい手だ、と呟きながら、膝にのせて裏返したゲン太に片手で歯を押し込むヤタカだったが、どうにも上手くいかなかった。

 

「なぁ、無理だろう?」

 

「まったく、手間ぁかけさせやがって、クソ下駄め」

 

 ほい、と床に投げ出されたゲン太を慌てて拾い上げた和平は、口を尖らせ紅の浮かぶ水の玉の側にそっと並べて置いてやる。

 

「もうちょっと優しくできないの? ゲン太のおかげで助かったっていうのにさ」

 

「そりゃどうも。文字も浮かばないゲン太なんて、ただの古下駄だ」

 

 心にもないことを、と和平は苦笑しながらそっとゲン太の木肌を撫でた。

 

「お腹……空いた」

 

 ぼんやりとした細い声に、男二人は一斉に振り向いた。その視線の先には、寝ぼけ眼を擦りながら日除けの布を巻くイリスの姿があった。

 

「イリス姉ちゃん! 大丈夫? 頭とか痛くない?」

 

「うん、平気。それより、どうしてここで寝ているの? あれ、寝る前は何をしていたんだったかな?」

 

 首を傾げるイリスは、忘れちゃった、といってにっこりと白い歯を見せる。

 

「おはよう、イリス」

 

「ヤタカ、おはよう……どうしたの? 元気ないね?」

 

 ほらみろ、と和平は口元をへの字に曲げる。どこから見ても自然な笑顔でヤタカはイリスに話しかけた。けれど、イリスはそんなヤタカの変調に気づいている。

 

「ゲン太と喧嘩して、蹴り合っているとき肩を打っちまって。俺よりゲン太が問題でさ、片方の歯が外れちゃって、動かないし文字も浮かばせない」

 

 こっちだと教えるように、水玉の中で跳ねた紅の尾が立てた水音が響き渡る。本来なら聞こえる筈のない音は、不思議な残響を伴って全員の意識をゲン太に向けさせた。

 

「そっちね」

 

 紅が立てた音をたよりに、迷うことなくイリスが歩き出す。音の立った場所さえ正確に聞き分けるのかと、感心する和平と動かないゲン太の前でイリスの足はぴたりと止まった。

 

「ほら、ゲン太だよ」

 

 すとんとしゃがみ込んだイリスの手に、和平がそっとゲン太を乗せる。

 

「ゲン太? 早く目を覚まさないと、今夜の焚き火にしちゃうぞ?」

 

 物騒なことを呟きながらも、ゲン太の木肌を撫でる指先は優しい。

 痛みを堪えて微かに唇を振るわせながら、ヤタカがゆっくりと歩いてきた。腰を下ろした途端、大きく息が吐き出される。

 

――表情で誤魔化しても、脂汗が浮いているぜ、ヤタカの兄ちゃん。

 

 イリスには秘密だというなら、ここで余計な声をかけるわけにもいかない。ここまで回復したなら、日常の動きで傷が大きく開くこともない。意地を張って痛い思いをするだけなら、まあいいか、と和平は黙りを決め込んだ。

 

「紅、どうしたらいいと思う? ゲン太が気絶しちゃったみたい」

 

 ゲン太を乗せたイリスの手が、すっと指し出されて水の玉の真下に入った。

 

 ぴしゃり

 

 紅の尾が再び跳ね、響くはずのない水面を叩く音が余韻を残して小屋を染めていく。

 

 ばしゃり

 

「あぁ、水の玉が割れた!」

 

 目を見開く和平の前で、ゲン太に水が滲みていく。 

 イリスの手の平に一度は溜まった水さえ、ゲン太の木肌に吸われて消えた。

 

「ゲン太をこれ以上ふやけさせてどうするんだよ。せっかく乾きかけて……」

 

 あきれたヤタカも、言葉を途中で呑み込んだ。

 水気の主が造りだした水の玉を吸い込んだ、ゲン太の木肌を紅が泳いでいた。寝込んだ友の背を撫でるように、朝寝坊の幼子を起こす母の手のように。

 目隠しをしたイリスは、一度は手の平に溜まった水が一気に乾いたことを不思議に思ったのか、くいっと首を傾げていたが、ひとつ頷くと右手に外れた歯を持ち、左手で動かぬゲン太を掲げると、えいっとひと声かけて歯を木肌の凹みへ押しつけた。

 

「うっそ?」

 

 呆けて口をあんぐりと開けた和平が、かちりと歯が嵌ったゲン太とイリスを交互に見遣る。

 

「ずれていない? ちゃんと嵌った?」

 

 にこりと問うイリスに、和平は言葉も忘れてこくこくと頷いた。

 

「心配ないよイリス。奇跡的にゲン太は元通りだ」

 

「よかった!」

 

 ヤタカの言葉に、嬉しそうにイリスは頬に片手を当てた。

 不安定になったゲン太が、ころりと手から転がり落ちた。座るイリスの胸の高さからの落下など何の心配もなかったが、異変は起きた。

 

 かたり

 

 床にゲン太の木肌が当たった途端、内から弾き出されたようにゲン太の木肌から水気が飛び散り、辺りの床をしんめりとした茶色に染める。

 

「紅!」

 

 飛び散ったのは水だけではなかった。水と同じようにゲン太の木肌から弾き出された紅は、運悪く乾き切った床の上に放り出され、ぴしゃりぴしゃりと苦しげに尾を跳ね上げていた。

 

「水! 違う、泉! 待ってろよ、紅!」

 

 手の平に紅を乗せ、和平が大慌てで小屋の戸を蹴り開けて出ていった。

 

 

 

「大騒ぎだな」

 

「みんな元気でよろしい! まぁ、嘘つきヤタカ以外はね」

 

 目隠しの下から視線を感じて、思わずヤタカは目線を伏せた。

 

「大丈夫だから心配いらないって。それより、ゲン太は元に戻ったのか?」

 

 イリスに見られないと思うと、僅かに尻をずらすだけで痛みに顔が歪む。

 

「今夜にでも、ゆっくり聞かせて貰いますからね! 意地っ張り」

 

「男気といってくれない?」

 

 ふん、と顔を背けて膨れるイリスをちらりとだけ見て、ヤタカは床に転がるゲン太を手に持ち、鼻緒を上にして二足並べて置いてやった。

 

「こいつ、二足揃っていないと文字を浮かべられないらしいよ」

 

「へぇ。それ、ゲン太が悪のりしている時に使えるね」

 

 考えることは一緒かよ、とヤタカは目覚めて初めての笑みを浮かべる。 

 

「おっと、寝坊助が目覚めたようだ。木肌に墨の渦が浮かんできた」

 

「良かった、で、何ていっているの?」

 

「もう少しだ。ちょっと待ってろよ。えっと……」

 

 並べて置かれたゲン太の木肌に、濃く黒い渦が湧き上がり、それはいつものように文字を模り始める。

 それは短い文字の連なり。

 何ということのない、ただの言葉。

 

――げろ

 

「おぉ、何だクソ下駄。心配かけておいて、ゲロッはないだろ?」

 

――ゆるせよ

  

「まったく、死にかけても謝り方が生意気だな。いいよ、許してやんよ……」

 

――ヤタカ

 

 言葉の先を喉に詰まらたヤタカの唇が、かくかくと小刻みに震える。

 

「どうしたのヤタカ。ゲン太は何ていっているの?」

 

 尋ねるイリスの声が遠退いていく。

 傷口より大きな痛みを伴って、心臓が跳ね上がった。

 短い言葉の羅列が、忘れられない記憶を見せつけるように掘り起こす。

 

「こいつは……ゲン太じゃない」

 

「え?」

 

 拒絶する理性を押し潰し、ヤタカは言葉を繋げて頭の中で組み立てる。

 げろ―――ゲン太が巫山戯たとばかり思っていた。

 歯抜けになった言葉が亡霊となって脳裏に浮かび上がり、ヤタカは痛みも忘れて背筋をぶるりと震わせる。

 

――……げろ……許せよ……ヤタカ

 

「どういうこと? 寝ぼけている?」

 

 ヤタカは力なく首を横に振る。ゲン太の木肌に渦巻く墨はいつもより深く濃い。浮かんだ文字は、綺麗だが幼さの残るゲン太の文字と違い、筆の払いにさえ魂が籠もる成熟した大人の文字だった。

 

「イリス、今この下駄に文字を浮かばせているのは、ゲン太じゃない。墨の濃さが違う。筆跡も違う」

 

 記憶を辿れば、慣れ親しんだ筆跡が蘇る。

 黙って耳を傾けるイリスに目を向けることなく、ヤタカは黒く墨の渦を浮かばせる下駄にすとんと視線を落とす。

 

「この言葉を知る者は、この世に二人だけなんだ。俺と……」

 

「誰なの?」

 

 空気の通りが悪くなった喉に、ヤタカは僅かな唾をごくりと流し込む。

 

「慈庭だよ」

 

 イリスが息を呑む音が、ヤタカの胸を締め付ける

 

「今、墨の文字を介して浮かんでいるのは、慈庭が俺に言った言葉」

 

 息が苦しかった。吸った先から息が毛穴から抜けていくようだった。

 

「慈庭は死んだ」

 

 木肌で墨の渦がぶわりと膨らむ。

 

「ゲン太を返してくれ」

 

 膨らんだ黒い渦がぶるぶると震え、何かと争うように縮んでは渦くを繰り返す。

 

「俺が話したいのは亡霊じゃない」

 

 慈庭ともう一度話せたらと、願わぬ日はなかった。だが、意思を持たない言葉など、ただの残滓に過ぎない。

 生々しい記憶は、今を生きる者を食い潰す。

 

「アホ下駄と話したいんだよ! 亡霊は引っ込んでろ!」

 

 鼻緒を乱暴に握り、腕を振り上げたヤタカはゲン太と呼ばれた下駄を力一杯床に叩き付けた。濃い墨の渦が、衝撃を受けて一気に引いていく。

 

「ヤタカ、どうなったの? ヤタカしっかりして!」

 

 イリスの冷たい指先が、ヤタカの頬にそっと触れる。

 

「ゲン太、戻って来いよ……」

 

 額を両手で覆い、ヤタカはぐったりと背を丸め歯を食いしばった。

 

――逃げろ……許せよ……ヤタカ

 

 慈庭の最後の言葉が、声色もそのままにヤタカの耳の奥で木霊した。 

 

 

 

 

 

 




 前話より、間が空いてしまってすみません……。
 読みに来てくれた方、ありがとうです。
 


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36 もう一度 笑って

「いったいどうしたのさ?」

 

 紅を泉に放して戻ってきた和平が、床で背を丸め蹲るヤタカと、唇を引き結んだイリスの状況が掴めずに目をぱちくりさせた。

 

「ゲン太、元気になったんだろ?」

 

 遠慮がちな和平の問いかけに、ヤタカは閉じた瞼にシワを寄せる。

 

「いつもより濃い墨が浮かんで、大人の達筆な筆字が浮かんだ。歯を嵌めて、戻ってきたのはゲン太じゃなかった」

 

「そんな馬鹿な……」

 

 ヤタカが投げつけて床に散らばった下駄に、恐る恐るといった様子で近付いた和平は、上から横からと患者を診るように眺め回していたが、突いても返答のない下駄にひとつ頷くと、ひょいと鼻緒を指に引っかけ床に並べて下駄を置いた。

 下駄を見下ろして腕組みした和平は、う~ん、と何度も唸りながら顎を捻り、首を傾げを繰り返す。

 

「ゲン太の代わりに出てきたのは誰だったの?」

 

「寺にいた慈庭」

 

 ヤタカの答えに、和平は不思議そうに目を大きく見開いた。

 

「ずいぶんな大物の名がでてきたもんだ。ゲン太も押さえ込まれて出てこられないってことかな? どんな大物だって、死は肉体を奪う。あ……ごめんね、ヤタカの兄ちゃん」

 

「気にすんな」

 

 こくりと頷いて、和平は天気でも占うかのように履いていた下駄をひょいひょいと脱ぎ捨てる。

 

「隅っこで小さくなっているゲン太が、表に出てこられたらいいんだろ? 怖じ気づいているのか力が足りないのかわかんないけれど、どんな奴だって、一瞬だけなら爆発的な力をだせる。火事場の馬鹿力ってやつさ」

 

 和平が膝を曲げ、目一杯に右足を持ち上げた。

 

「さぁ、戻って来いよゲン太! とっておきの気付け薬を嗅がせてやっからよ!」

 

 何をする気かと耳を澄ますイリスと、力の入らない視線を向けるヤタカの前で、和平の右足がどすん、と音を立ててゲン太の鼻緒に押し込まれた。

 

「ぼーっとしてると、大事な木肌の奥にまで臭いが染みついちゃうぞ?」

 

 和平がにやりと笑う視線の先で、並べて置かれた片下駄が、カタカタと横に小さく震えだす。ころりころりと三回転した片下駄は、震える鼻緒をぴんと立てたかと思うと、下駄に足を突っ込む和平の脛目掛けて投石の勢いで飛んで行った。

 

「痛いっての!」

 

 避け損ねた和平が脛を押さえながら、片足で小屋の中を跳ね回る。

 和平を蹴り飛ばした片下駄が片割れの側に戻っていく様は、まるで子供がケンケンをしているようだった。

 

――くさい

 

 木肌に渦巻いた薄墨が文字を成す。

 綺麗だが、どこか幼さが残る筆使いにヤタカが四つん這いのまま駆け寄った。

 

「ゲン太? ゲン太なのか?」

 

――しぬる

 

「よし、間違いなくゲン太だ!」

 

 脛をおさえたまま、満足そうに和平が笑う。目元を隠したイリスも、ほっとしたように引き絞っていた唇を緩め白い歯を覗かせた。

 息を吐いたヤタカは、失望と安堵を織り交ぜた表情を浮かべ、それでもゲン太の鼻緒を指先で弾いてどかりと床に座り直した。

 

――わへい きらい

 

「どうしてだよ?」

 

――くさった においする

 

「せっかく助けてやったのになんだよ! 恩知らずのへなちょこ下駄!」

 

――ともだちに おんうる

 

「だから? なんだよ~?」

 

――さいてい

 

「このやろ~!」

 

 履こうとする臭い足と、履かれまいと逃げる下駄が狭い小屋の中を駆け回る。いつもなら雷を落として止めるヤタカも、少し疲れた笑みを浮かべるだけで、二人の追いかけっこを止めることはしなかった。

 

「紅のことも兄ちゃんのことも聞かないってことは、ずっと見ていたんだろ? 下駄の奥底で意識だけはあったんだろ?」

 

 和平の問いかけに、ゲン太は三角に尖らせた鼻緒をしゅんと下げる。

 

――みてた

 

――はなせない 

 

――やくたたない

 

 ひとこと浮かばせるたび、ゲン太の文字が小さくなるのを見て、和平はあ~んと白目を剥いて腕を組む。

 

「ゲン太が悪いわけじゃないだろ? 人間でいうなら喉腫らして高熱出して寝込んでいたようなもんさ。そんな余計な反省すんなよな……ケンカしづらいっての」

 

――はんせい しない

 

「よし、その意気だ!」

 

――わへい さいてい

 

「やっぱり反省しろ……」

 

 へへへっ、と笑って床に和平が座り込むと、停戦だと言わんばかりにすたすたとゲン太はイリスの元へ向かおうと歩き出した。

 その鼻緒をひょいと摘みあげたのはヤタカ。

 じっと見つめるヤタカの視線に耐えかねたのか、ゲン太はむずむずと下駄の身を揺らしいる。

 

「ヤタカの兄ちゃん、ゲン太に訊きたいことがあるんでしょう? 席を外した方がいいなら、声がかかるまで泉で紅と遊んでくるよ?」

 

 立ち上がりかけた和平を、ヤタカは片手で押し留める。

 

「構わない。この騒動に巻き込まれたついでと思って同席してくれ。ここで耳にした話をどう使うかは、あえて問わない。小屋を出たら忘れてくれると、気が楽なんだがな」

 

「約束は出来ないよ。でも、無駄に話を広めたりしないから」

 

 声をたよりに近付いてきたイリスも、ヤタカの横にすとんと座る。慈庭の名が出てからイリスの口数が減っているのはヤタカも感じている。口にすべきではなかったかと後悔もしていた。イリスもヤタカも、慈庭という名には弱い。

 

「ゲン太の意識があったなら、あの時も下駄の内側から見ていたんだろ? 自分以外の意思が、大切な木肌に文字を浮かべているのを。俺は確信している。あの文字を浮かばせたのは慈庭だ。ゲン太は、どう思う?」

 

――あれは じてい

 

――じてい つまらない

 

「慈庭はつまらないというより、恐いぞ? まあいい、話してくれ」

 

 ゲン太が一度に浮かべられる文字は少ない。少ない言葉を重ねて、物語が綴られていく。

 ゲン太でさえ、少し前まで忘れていた物語り。遠い日に交わされた、少年と下駄の物語は、日が沈み月が顔を出すまで続いた。

 短い言葉を繋ぎあわせ、三人は辛抱強くゲン太の言葉に心を傾けた。

 

 

 

 

 

 遠い昔、ゲン太はただの下駄だった。ただの下駄にその頃の記憶があるわけもなく、木肌に滲みた記憶を掘り起こし思い出したのは、異物と呼ばれる存在になってから。

 木肌に滲みた思い出は、どれも温かいものだった。ゲン太はただの下駄で、一人の少年に履かれていた。少年の足は小さく、大人用の下駄など大き過ぎて重いというのに、なぜかその男の子はゲン太だけを履き続けた。

 ぼさぼさの黒髪でゲン太を履く少年の名はスエ吉。子沢山の夫婦の間に産まれ、ゲン太も兄のお下がりだった。

 

「こわれちゃった……」

 

 ある日の夕方、下駄の片歯が折れて外れたゲン太を胸に抱き、スエ吉はおいおいと泣きながら山道を歩いていた。月も高く昇ったというのに、泣きながら歩いたせいで村がある方向すら解らない。

 それでもスエ吉は、大切な下駄が壊れたことだけを悲しんでいた。深い闇の向こうで獣の遠吠えが聞こえても、茂みが踏まれて近くを何かが通る気配がしても、スエ吉はひたすらゲン太を胸に抱いて泣き続けた。

 

「なんだ? 光ってる」

 

 泣きはらした目を擦って、スエ吉は淡い光を放つ物へ近付いていく。

 それは手の平に持てるほど小さな丸太だった。

 薄緑の光を放っていたかと思うと、いつのまにか光は黄金色に変わり、目を見張っている間に薄紫の光を放つ。

 

「きれいだなぁ。天国の光かなぁ。泣いてたから、知らないまに獣にくい殺されてたんかなぁ。下駄、こわれちゃったし」

 

 スエ吉の目から、再び涙がポロポロと流れ出た。泣きながら丸太を手にすると、小さな丸太は手の中でぶるりと身悶え、七色の光に包まれた。

 

「わぁ……」

 

 ぱちくりさせた瞳から落ちた涙が、七色の光を潜って小さな丸太の木肌に滲みていく。 七色の光が丸太に滲みた涙に引き寄せられるように萎んでいく。

 丸太の表面に七色の膜を張る光が、スエ吉の目前で爆ぜた。

 

「うわ!!」

 

 驚いてでんぐり返ったスエ吉は、それでもゲン太の鼻緒を掴んで放さなかった。そして自分の右手の中で、うっすらと青白い光を放つものにじっと見入った。

 

「丸太が削れて……板になっちまった」

 

 小さな手の中にあったのは、熟練の職人が切り出したように正確な形を保つ小さな板。不思議そうにしげしげと見ていたスエ吉は、あっと声を上げてゲン太を目の高さに持ち上げた。満月が真上から、木々の隙間を縫って少年を照らし出す。

 真剣な目つきで唇を引き締め、ゲン太の歯が取れた凹みに、不思議な板を押し当てる。

 

「やった! はまった!」

 

 本来なら木槌でも使わぬ限り嵌るはずがないというのに、スエ吉は素手で嵌めた歯が引っ張ってもぴくりとも動かないことに何の疑問も感じなかった。大切な下駄が直ったことが、ただただ嬉しかった。

 

「なんだろう……疲れちゃった」

 

 木の根元でことりと横になったスエ吉は、ゲン太を胸に抱いたまま静かな寝息を立てた。

 眠りながら右耳を何度も指先で掻いていた。

 山の四方八方から、無数の遠吠えが響く。遠吠えは山肌に木霊して、夜の空気を振るわせた。獣はまるでスエ吉を避けるように遠巻きに様子を覗い、けっして近付いて来ようとはしなかった。

 

「へっくしょん!」

 

 山の朝は冷える。ずずっと鼻水をすすり上げて目を覚ましたスエ吉は、ゲン太を見て昨夜のことを思い出し、満面の笑みを浮かべて裸足に着いた泥を手で払った。

 どういうわけか不思議と腹は減っていなかった。昨夜はしくしく痛んだ足の裏の小さな傷も、薬を塗ったように痛みが無い。

 

「仏様が助けてくれたんだ、きっとそうだ」

 

 信心深い両親に育てられたスエ吉は、朝日に手を会わせてそっと小さな頭を垂れる。下駄の鼻緒に指を入れようとした瞳が驚きに見開かれた。

 

「下駄が……しゃべった」

 

 ずっとはき続けてきた下駄の木肌に、もくもくと薄墨が渦巻いたかと思うと、短い文字が浮かび上がった。

 

――あし きれいする

 

 まだ名も持たぬゲン太が、初めて文字を浮かべた瞬間だった。

 

「うん、汚い足で履かれるのが嫌なんだね?」

 

 スエ吉は継ぎ接ぎだらけの着物の袖でごしごしと足の裏の汚れを落とす。

 

「ねぇ、どうして急に話せるようになったの? きみは誰?」

 

――しらない

 

「へんなやつ。それじゃ名前を決めような。う~ん……下駄だから……ゲンちゃん!」

 

――いやだ

 

「じゃあ、どんな名前がいいのさ?」

 

――げんのしん

 

「なに古くさい名前いってんの? それって偉い人が昔使った名前だろ?」

 

――げたのじょう

 

「ないない。はい、ゲンちゃんで決定!」

 

 こうしてまだ名を持たないゲン太はゲンちゃんと名付けられ、このことは二人だけの秘密となった。

 

 忙しい畑の手伝いの合間を縫って、スエ吉はゲン太と遊んだ。誰にも見られない山の中で、色んなことを語り合った。スエ吉は不思議に思っていた。山で迷子になったあの日も、ゲンちゃんを履くとどうしてか迷うことなく村に帰れた。今もそう。どんなに山奥に入っても、ゲンちゃんを履けば、迷うことなく村に辿り着くことができる。

 

 スエ吉はいたずらっ子だった。畑で集めたミミズを人の懐に投げ入れたり、人様の草履を紐で結んで、履いた途端にすっ転ぶのを見て喜ぶいたずら小僧。

 腹の虫は鳴いても、毎日が楽しかった。

 

「ゲンちゃんが話してくれると、ほんとに楽しいや。大人になってもずっと一緒居ような、ずっとずっと」

 

 あの日以来、変化が起きたのは下駄だけではなかった。スエ吉にも異変は起き、だれに気づかれることもないまま体と感覚を侵食していた。

 まるでスエ吉に引き寄せられるかの様に、この世に散らばる異物がちらちらと姿を見せる。

 親の寝静まった夜中に森へ入って遊ぶことの多くなったスエ吉は、異物を見つけても不思議そうにするだけで驚くこともなく、持って帰って大人にみせるような真似もしない。

 異物が近寄ると黙り込むゲン太が、スエ吉にあれらは異物と呼ばれる者だと教えた。

 あの日にスエ吉が手にした光る丸太もまた異物。異物がただの下駄にはめ込まれ、自我が生まれたのがゲン太だった。

 何者かと問われても、この時のゲン太に自分と呼べる過去など少ない。存在している意味さえ、わからないままだった。

 あの日、丸太から姿を変えて下駄の一部となった異物は、光を爆ぜさせたときスエ吉にも易々と入り込んでいた。右の耳たぶは、触ると硬い。それは下駄にはめ込まれた異物と同じ木の欠片。

 

「森で見える奴らも、ゲンちゃんみたいに何か話してくれたらいいのに」

 

 スエ吉は一人呟く。

 最初は面白い物が見えると喜んでいたが、人に言ってはならないモノなのだと気づくのも早かった。

 スエ吉は天真爛漫で、腹を空かせながらも希望を失わず、村の誰よりも利口だった。

 異物のことを唯一話せる下駄は、スエ吉にとって大切な友だった。人のかたちをしていないことなど何の問題があるだろう。悪戯しすぎて一緒に木に括られ、ケンカしてもみくちゃになり、夜の森で一緒に笑った。

 だからこそスエ吉は、ゲン太を手放そうと思った。

 ゲン太を逃がしてやろうと思った。

 

 

 夜の森で出くわした見知らぬ僧侶が、ある日突然村にやってきた。

 森で倒木の腐った穴で光る異物に手を伸ばそうとしたところを、うっかり見られてしまった。音もなく気配もなく初老の僧侶は近づいてきて、少年が顔を上げた時には横に立っていた。

 

「そこに何かあるのかい、坊や」

 

 僧侶は嗄れた声でそういった。次の日に家に突然姿を現した僧侶が変わらず嗄れた声で両親と話すのを見て、スエ吉は森に駆け込んだ。

 緊張しているのか鼻緒を固くする下駄に、スエ吉は優しく声をかける。

 

「ゲンちゃん、あの坊さんは、きっとおらを連れていく。おらは、森で出会った異物達を守りたい。あいつら、こっそり森の奥で生きているだけだろ? あの坊さんは、懐に異物を入れていた。仲良しじゃないよ? だって異物は、懐の中で震えていたもの」

 

 僧侶は不思議そうに目を細め、スエ吉の足元を眺めていた。

 仲良しの存在は、もうばれている。そう思った。

 

「ゲンちゃん、森の向こうのずっと遠くまで逃げるんだ。おらは、あの坊さんに育てられて、いつか考えの違う人間になっちゃうかもしれない。逃げたくなるかもしれない。逃げ出して、親に迷惑をかけるのは嫌なんだ」

 

 ゲン太はじっと耳を傾ける。

 

「ゲンちゃんと仲良しのおらは、今日でさよならだ。でも、おらのこと忘れないでくれよ?

おらも、ゲンちゃんのことは忘れない。代わりに、自分の望む世界を捨てるんだ。全てをゲンちゃんに託して……ね」

 

 スエ吉がにこりと笑う。ゲン太はただ、細かく身を震わせていた。

 スエ吉の指先が、右耳の硬い部分をぐい、と摘む。無理矢理に捻られた耳たぶから血が流れ、小豆ほどの木片が取り出された。

 

「ゲンちゃんにはめ込んだ異物と同じ異物。きっとこれのおかげで、読めない文字がよめたんだろうね? ずっと体に宿しておきたかったな……。兄弟の印みたいで、かっこよかったのにさ」

 

 血にまみれた木片を摘んだ指先が、震えるゲン太の歯に押し当てられた。

 まるで帰る家に戻っていくように、血の染みた小さな木片は下駄の木肌に吸い込まれていく。

 

――スエきち

 

 ゲン太の木肌に文字が浮かぶ。

 ゲン太を見下ろすスエ吉の瞳から、子供らしい光が消えていく。

 

――スエきち

 

 ゲン太は鼻緒をしょんぼりと縮ませた。

 

――いかないで

 

 スエ吉は口元だけでうっすらと微笑み、踵を返し村へと向かう。

 

「さよなら、ゲンちゃん」

 

 追いかけようとしたが、ゲン太は動けなかった。吸い込んだスエ吉の血がそうさせているのか、蜘蛛の巣にかかった虫のように一歩も前に進めなかった。

 ゲン太は涙を流せない。

 木肌の内で、心だけが濡れていく。

 その夜は一晩中、森の獣が遠吠えを響かせた。心の一部を失った少年を懐かしむように、止められなかったゲン太を責めるかのように。

 

 月が傾ぐ頃、動けるようになったゲン太は森を駆け抜けた。村へは向かわなかった。スエ吉はもう居ない。遠くへ旅立ってしまったのだと、木肌に取り込んだ血が感じていた。

 ゲン太は時間を追う事に、己の中の記憶がどんどん失われつつあるのを感じていた。おそらく、スエ吉がそう望み、その念は血と共にゲン太の身に宿ってしまった。

 今になってゲン太は実感していた。本当に恐ろしいほどの力を持った子供だったのだと。記憶を失わせてまで自分との関わりを経ち、スエ吉はゲン太を守ろうとしてくれた。

 そんな想いが愛おしく、悔しくて堪らない。

 

 ある日ぼんやり歩いていた山道で、足を滑らせ崖を落ちた。

 誰も居ない街道に転がったゲン太は、全ての記憶を失っていた。自分が誰なのか、何の為に存在しているのか、解らなくて戸惑ったが、何だかどうでもよかった。

 ただ何か、大切なモノを失ったような喪失感だけが、夜霧と共にじっとりとゲン太の木肌を濡らしていた。

 

 虚無感さえいつしか忘れ、ゲン太は名もないまま各地を渡り歩いて過ごした。

 全てを思い出したのは、何十年も経ってからのこと。

 鬼瓦のような厳つい僧侶に出会うまで、何も思い出さなかった。ゲン太と出会った厳つい僧侶は、指先を僅かに切ると流れた血をゲン太に押しつけた。

 ゲン太の中で乾き切った幼い少年の血が、記憶と共に瑞々しく蘇った。

 

――スエきち?

 

「捨てた名だな……。久しぶりだ。ゲンちゃん……とまだ呼ぶことを許してくれるか? わたしの名は、慈庭」

 

――じてい おとななった

 

「そうだな……。もう一度だけ、わたしの頼み事を聞き入れては貰えないだろうか。友として、頼める者をわたしは他に持たぬのだよ」

 

 厳つい顔で目尻を僅かに下げた慈庭は、少しだけ寂しそうだとゲン太は思った。

 

「もし受け入れて貰えたなら、その時が来るまで記憶はなくなるだろう。何を頼まれたか覚えていない。それは、おまえの身を守る為だから、我慢してほしい」

 

 慈庭が口にした願いを、今のゲン太は思い出せない。

 ただひとつだけ、今なら鮮明に思い出せることがあった。

 願いを引き受けると決めたゲン太は、慈庭にこういった。

 

――おねがい きく

 

「ありがとう」

 

――だから いちどだけ

 

「なにかな?」

 

――わらって

 

「わたしが……か?」

 

――スエきちと おなじえがおで

 

「………」

 

――わらって

 

 戸惑いを隠せない慈庭が顔を伏せる。

 ゲン太は昔そうしたように、思い切り慈庭の脛を蹴り上げた。

 

「痛いな! 乱暴だぞ!」

 

 拳を振り上げ、慈庭が笑った。

 白い歯を見せて、厳つい顔の皺を優しく目尻に寄せて、子供のように笑っていた。

 

 今のゲン太に残る慈庭の記憶はこれだけだった。

 語りながら、ゲン太は寂しくなった。

 もう会えない友が、遠くで手を振り去って行くような寂しさに、木肌に浮かぶ文字が滲んでいく。

 

 

 

 

 




 読んでくれて、ありがとうです。


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37 炎の向こう側

 

 全てを語り終えたゲン太はしゅんと鼻緒を萎れさせ、木肌を撫でるイリスの指先に甘える素振りさえ見せなかった。

 

「文字を浮かばせた慈庭に、意思があるわけじゃないよな?」

 

 探るヤタカの言葉に、ゲン太は迷ったように木肌に薄墨をぐるぐると浮かべる。

 

――かこ のいし

 

――のこされた おもい

 

「そうか」

 

 力ないゲン太の文字に、ヤタカは肩を落とす。慈庭と話せたなら……そんな期待が胸のどこかにないと言えば嘘になる。大人になった今でも、ふと夢の中で思い出す。あの大きな手を恋しいと想う幼い頃の自分が、心の隅に蹲っているようだった。

 以前ゲン太がいった言葉。慈庭つまらない、慈庭大人なった、この言葉について尋ねると、ゲン太は自分と混ざり合うスエ吉の過去の思いだといった。

 ゲン太に己の心の一部を託し、望まぬ道へ進んだスエ吉が、去って行く片割れに対して抱いた思いだと。

 

「寺は異物を回収していた。その後どうするつもりだったのだろう。聞かされたこともないし、あまり深く考えたことがなかった」

 

 腕組みして顎を捻るヤタカは、目を細めてゲン太の奥に眠る慈庭の残滓に思いを馳せる。

 

「幼い日の慈庭は、森に散らばる異物を人の手から守ろうとしていた。だとしたら、寺とは違う思いを抱いていたことになる」

 

 己の内面を見せなかった慈庭の、厳つい顔が鮮やかに蘇る。

 

「慈庭は俺に何をさせたかったんだろう。どうして、死に際に謝った? 何を謝った? めんどくせぇ謎だけ残しやがって、クソじじい」

 

 横からイリスの小さな拳が飛んできたのをひょいと避け、ヤタカは言葉のあやだといって苦く笑った。

 寺の内通者に慈庭の名があったとしたらどうだろう、そんな考えにヤタカはぶるりと頭を振った。慈庭が寺以外の組織に属していたとは思えなかった。動いていたとしても、ひとり密かに動いていたような気がしてならない。

 素堂を嫌う素振りなど一度も見せたことがない。

 ヤタカに寺を裏切るように示唆したこともない。

 堂々巡りする思考は、木肌に渦巻くゲン太の薄墨のように行き場もなく、出口を見つけられずに溜息だけが幾度も漏れた。

 

「和平、おまえはどう思う?」

 

 ひと言も口を挟まずに戸口の横で壁に背を預ける和平の声をかけたヤタカは、様子が妙なことに気づいて眉を顰めた。

 

「具合でも悪いのか?」

 

「気にしないで。背中が疼くんだ。こういうときは気力の全てを持っていかれる気になるよ。立ち上がるのさえ辛い。心配しないで、すぐに治まるから」

 

 和平の背中に何が潜んでいるかを知らないイリスは、きゅっと小首を傾げヤタカを見たが、わからない、というように肩を竦めるヤタカを見ると何もいわずに小さく口を尖らせた。

 和平の側へ行こうとヤタカが立ち上がったときだった。

 誰も居るはずのない夜中だというのに、戸口を叩く音が響いた。気配を感じることがなかったヤタカは眉を寄せ、ゆっくりと来訪者との間を隔てる戸口へと向かった。

 

「誰だ?」

 

「辻読みのおばば……とでもいうたら、わかっていただけるかのう?」

 

 嗄れた声に、ヤタカの記憶が蘇る。闇に舞う金糸の蝶が、鮮やかに記憶の中で舞う。

 

「どうされました? というよりなぜここが?」

 

 用心しながら開けた戸口の向こうには、くの字に背を丸めた老婆が歪な枝ののぼりを手にひとりぽつんと立っていた。

 

「物が見えんと、噂だけはよう聞こえるもんでのう。それに、時が満ちたようじゃけ、辻を読んで差し上げようと思いましてのう」

 

 訝しみながらどうぞ、というと辻読みの老婆は皺だらけの顔に更にシワを深く刻んで微笑み、ずずり、ずずりと黒い打ち掛けの裾を引きずりながら入ってきた。

 

「おばあちゃん?」

 

 イリスの声がした方へゆっくり頭を下げると、辻読みの老婆はよっこらしょ、と床に座った。

 

「辻を読むとはいっても、年寄りの戯言と思ってくだされや。今宵は入り乱れた道が幾つにも重なって離れ、老いぼれが読み解くには少々難儀じゃったがの」

 

「誰の辻を読むのです?」

 

 警戒心を解くことなくヤタカは問う。

 

「誰のものでもない、この場の辻ですわ。ここに集う者全てを巻き込む辻を、読み解いた故に、お聞かせいたしましょうぞ」

 

 シワの隙間で見開かれた瞼の奥に、白濁した眼球が覗く。

 なぜかぞわりと寒気を感じたヤタカは、ぶるりと背筋を振るわせた。

 和平は瞼を閉じたままぐったりと壁に背を預け、小屋に入ってきた老婆をちらりとも見ようとはしなかった。

 にこにこと笑顔を浮かべるのはイリスだけ。ゲン太でさえ、萎れていた鼻緒をぴんと立て、呑気に微笑むイリスの脇を守っている。

 

「双子星は離れ離れに。泉を飾る花は摘み取られ、泉は濁って朽ち果てる」

 

 老婆の嗄れた声が、低く小屋の中に響く。

 ぞくりとする声だった。

 読むのではなく、この老婆が口にしたことに現実が寄るのではないかと錯覚させるほどに、ぞっとする声だった。

 

「無学なので、意味がわかりませんが……」

 

 ようやっと絞り出した声でさえ、ヤタカの乾いた喉に引っかかる。

 

「なぁに、すぐにわかりますとも。辻読みとは、辻から読み取れるものとはそういうものじゃけ」

 

 くくくっと痰の絡んだ嗤いと共に立ち上がると、声をかけられずにいるヤタカ達に背を向け、ずずり、ずずりと老婆は戸口へむかった。

 からからと引き開けられた戸の向こうには、この世の闇を集めたような黒い空気が広がっていた。

 しゃたり、と閉められた戸口を呆然と見ていたヤタカは、突然の爆音に顔を伏せた。

 その一瞬が、大切な者を見失う隙を与えるなど思いもしなかった。

 

「イリス!」

 

 振り返った時、イリスの体は既に宙に浮いていた。

 蹴落とされた小屋の屋根には黒い穴がぽかりと開き、垂らされた紐に腰を結わえた黒装束が、人の技とは思えぬ速さでイリスの体を抱えて引き上げられていく。

 

「イリス!」

 

 戸を打ち割る勢いで開け放ったヤタカの動きは、首元にぴたりと当てられた長刀によって阻まれた。勢い余って食い込んだ刃先の当たった首筋から、じんわりと赤い血が滲み出る。

 老婆から少し離れた場所に、ぐったりと気を失ったイリスが男に無造作に片手で支えられていた。

 

「おんや? 天の辻が変わってしもうた」

 

 長刀の向こうには、半分闇に溶けた老婆の姿が合った。

 夜空を見上げ嫌そうに口元を歪ませる老婆の脇で、垂れ下がっていたぼろぼろののぼりがバサリと突風になびいた。

 

「イリス! てめぇら、いったい何を!」

 

 叫ぶヤタカの前で、イリスががくりと膝を着く。片手でイリスの体を支えていた黒装束の男は、姿勢をそのままにばたりと後方へと倒れた。

 ヤタカを留めるべきか、老婆を守りに動くか迷った長刀の持ち主の手元が僅かに揺れた。

 

「動かんでよいよ。もう遅いわ」

 

 老婆の声と同時に、二つの黒い影が闇を過ぎった。

 イリスの体を抱きかかえ、黒い影が後方へと飛んだ。

 喉元へ長刀を当てていた男の体が、芯が抜けたように崩れ落ちた。

「イリスを返せ!」

 

「頓悟」

 

 怒りに駆け出そうとしたヤタカの足がぴたりと止まる。

 

「解」

 

 意思に反して、足はゆっくりと後退り小屋の中へヤタカの体は引き戻されようとしていた。

 

――わたる……なのか?

 

「おんやまぁ、火穏寺の嬢ちゃんじゃないかえ」

 

 けけけっ、と辻読みの老婆が笑う。

 ずずり ずずりと足を引きながら離れていく、老婆の姿が闇に溶けた。

 

「ここは引くしかなさそうじゃ」

 

 闇の中、金糸の蝶がひらひらと舞い踊り去って行く。

 代わりに闇から姿を浮かばせたのは、わたるだった。

 

「言っただろう? 平穏はそう長くはつづかない」

 

 勝手に小屋へ向かう足を切り落としたい思いで、ヤタカはぐっと唇を噛んだ。

 

「そりゃ女の勘もあたるだろうよ。いった本人が、平穏を崩しに動くんだからな」

 

「どう取られようと、あたしのすることは変わらないさ」

 

「イリスをあの婆から守ったわけではなさそうだ。だったら、返して貰おうか」

 

 ヤタカの体は、すでに半分小屋の中に入りかけている。

 

「返せといわれて返すような女はやめた方がいい。そんな女は、惚れたといわれる度にふらふら男についていく」

 

「そりゃ勉強になる。気をつけるさ」

 

 戸口の壁に阻まれて、イリスの姿が視界から消えたことにヤタカは苛ついた。

 

「今は自分の身を案じた方がいいよ? 羽風堂の婆様とあたし以外にも、来客があるようだから」

 

 五人の黒装束がすっと現れ、わたるを守るようにぐるりと囲む。その手には闇さえ反射しそうな刃がそれぞれに握られていた。

 羽風堂と火穏寺が姿を見せた。この上まだ来客があるとするなら……考えを巡らせるヤタカの脳裏に、残る三つの組織の名が浮かぶ。

 

「面倒に巻き込まれる前に、あたしはここを退かせてもらうさ」

 

 完全に小屋の中に入ったヤタカの足はぴたりと動きを止め、釘で床に打たれたようにびくりともしなかった。

 

「さよなら……ヤタカ」

 

 黒装束によって乱暴に閉められた戸の向こうから、わたるの気配が消えた。

 まるで泡が弾けて消えるようだった。

 

「和平! しっかりしろ!」

 

 動かない和平の足を蹴り続けていたらしいゲン太が、意気を荒げたように鼻緒を激しく上下させている。

 

「ゲン太、俺はどうにも動けない。何か打開策はないか? イリスを追わないと……なんだ? ゲン太、けむり臭くないか?」

 

 びくりと跳ね上がったゲン太が、今まで以上に激しく和平を蹴り上げる。

 風化して隙間の空いた板張りの隙間から、白く濁った煙が流れ込んできていた。

 

――まさか、小屋の周囲に火を放ったのか? わたるが……まさか

 

 イリスを連れ去られても、そんな惨い殺し方を選ぶわたるが想像できなかった。

 わたるなら、苦しませずに殺そうとするだろうと思った。

 

――俺が甘いのか

 

 歯軋りしながら動かぬ足を睨み付けていたヤタカは、わたるとは違う気配にはっとして顔を上げた。

 その間にも、小屋の中へ流れ込む煙はどんどん勢いを増している。

 ふいに、戸口が開け放たれた。

 二本の松明が、めらめらと炎を立ちのぼらせている。

 

「お前達……どうして」

 

 表情なく立っていたのは、ゴテと野グソ。

 

「お前達が、小屋に火を放ったのか?」

 

 尋ねたのではなく、確信だった。

 

「逃げられないよ。すぐに仲間が押し寄せる」

 

 この場にそぐわないほど穏やかな野グソの声だった。

 

「イリスが此処にいなくて良かったぜ。さすがに、胸が痛む」

 

 野太いゴテの声に、ヤタカは奥歯を食いしばった。どんなに睨み付けても、二人からは何の感情も返ってこないのが尚更に怒りを燃え上がらせる。二人の表情には憎しみも、使命をまっとうした喜びもない。

 火を放った、ただの木偶の坊。

 

「一度は、友と呼んだ仲だというのに。くだらないな。共に過ごした時間など、時が過ぎれば色褪せた記憶に過ぎない」

 

 炎上する怒りとは真逆に、ヤタカの声が凪いでいく。

 

「言っただろ? 二度と信じるなと。俺達は二度と、おまえに本当のことなどいわないと」

 

「あぁ。覚えている」

 

 野グソが懐から取りだした小瓶に入っていた液体を、戸板の内側にぶちまけた。

 かつての友は大きく一歩後ろへ下がり、ゴテの持つ松明の火が、戸板に寄せられる。

 油の燃える臭いと共に、一気に戸板の上を炎が這う。

 

「生け捕りという甘い路線を唱える者も今ではいない。持ち帰るのは骨で構わないそうだ」

 

 ゴテの冷えた声が、血の昇ったヤタカの頭を急速に冷やした。

 この場を逃れる方法を探し出すことに、意識の全てを集中させた。

 

「浮き世の恨み辛みを、あの世まで持っていく趣味はないよ。いつの日か、あの世で会ったら、また酒を飲もう。俺達もおまえも、どうせ行き着く先は極楽浄土じゃないんだから」

 

 炎の隙間から見えた野グソの口元が、微かな笑みを模ったのを最後に、松明の先で器用に戸板が閉じられていく。

 炎の熱さが邪魔して、ヤタカは二人の気配を感じることは出来なかった。戸板もどうせ外から押さえ棒でも噛ませて開かないように細工されているだろう。

 

「和平、目を覚ませ! ゲン太を連れて逃げるんだ! しっかりしてくれ、俺は動けないんだ」

 

 わたるは火が放たれることを予想して術をかけたのだろうか。

 いや違う。いやそうかも知れない。

 そんなことが頭の中を駆け巡った。

 

――わへい おきない

 

 戸口のすぐ横で気を失っている和平に、容赦なく炎が迫る。ゲン太は炎を避けながら、和平に体当たりを繰り返していた。

 

 万事休すか……ヤタカが目を閉じた刹那、部屋の隅に置かれた大きな水瓶が動いた。

 まるで滑車のついた板に乗せたように、横滑りして動き出した瓶に目を見張るヤタカ。

 その視線の先にひょいと顔を覗かせ、げほりと咳き込む者の姿がヤタカに希望を灯す。

 

「しっ……」

 

 呼びかけようとしたヤタカを、自分の唇に指を当てて制したのは、土埃にまみれたシュイだった。

 

「シュイ、わたるという女に術をかけられて動けないんだ。和平とゲン太を連れて逃げてくれないか」

 

 声を潜めるヤタカに、シュイは片眉をひょいと持ち上げちっ、と舌打ちした。

 よっこいしょ、と小さなかけ声と共に床に空いた穴から這い出てきたシュイは、顔を真っ赤にしながら和平を炎から引き離し、生意気な目つきのままヤタカを見上げて顎をしゃくってみせる。

 

「誰にいってんの? 術なんて、こうすりゃ大抵解けんだよ」

 

 真っ直ぐに伸ばしたシュイの足が、ヤタカの背中を蹴り飛ばす。

 

「ぐえ!」

 

「静かにしろってば! 敵に気づかれたら荷物持ちの所為だからな!」

 

「あ、体が動く」

 

 蹴った程度で解けるような術をわたるが使うとは思えなかったが、そんなことは今はどうでも良かった。

 

「よし、シュイはゲン太を頼む。俺は和平を担いで運ぶ」

 

「助けに来たのはこっちなのに……荷物持ちのくせに」

 

 シュイの指示にしたがって和平を穴に押し込み、その後にヤタカが続いた。床のあちらこちらからメラメラと赤い炎が上がり始めていた。

 ゲン太を抱いたシュイはひょい、と身軽に穴に飛び込むと仕掛けを引いて、瓶を元の場所に戻して蝋燭に灯りを灯した。

 

「ここにちょっとだけ爆薬を仕掛けていくんだ。小屋が燃え尽きたら、必ず捜索の手がはいるだろう? そのとき荷物持ちの骨がないから、怪しまれるだろうけれど、それよりもっとまずいのは、この道が見つかることだからね。爆破でこの穴は完全に塞ぐのさ」

 

 穴は人が四つん這いで進める程度の広さしかなく、シュイはあの伸び縮みする妙な道具を使って器用に和平を運んでくれた。

 暫く進むと、遠くの方でドスンと鈍く爆発音が響いた。

 傷口から血が滲み出て、凪いでいた筈の痛みが猛烈な勢いでぶり返しはじめたヤタカは、奥歯をぎちりと噛みしめる。

 気を失ったイリスの姿が目に焼き付いていた。

 

「今回は助けたけれど、イリス姉ちゃんを助け出すまで、荷物持ちなんか大嫌いだからな!」

 

「一番悔しいのは俺だ」

 

「そんなの……知ってら!」

 

 ぶつぶつと文句を言い続けるシュイの額にも、玉の汗が浮いていた。異物の力を借りているとはいえ、この狭い通路で和平を運ぶのは骨が折れるのだろう。

 

「シュイ、俺達の情報をおまえに知らせたのは誰だ?」

 

 和平を引いていたシュイの手が止まり、それからまた素知らぬ顔で動き出す。

 

「オレ様の能力を全開にしたら、こんなの朝飯前さ! ただのガキだと思うな!」

 

「そうか」

 

 今はいえないのだろうと悟ったヤタカは、それ以上言及しなかった。

 知る必要があれば、そのときシュイは口を開くだろう。

 

「シュイ」

 

「なんだよ!」

 

「たすかった。ありがとう」

 

 苦虫を噛んだように身を震わせ、シュイは手当たり次第の土をヤタカに投げつける。

 

「急に素直にならないでくれる? 気持ち悪いっての!」

 

 ふくれっつらのシュイに、ヤタカはくすりと笑って見せる。

 傷口に心臓があるように痛みは増していく。

 

「姉ちゃん、絶対助けろよな」

 

「あぁ、言われなくてもそうするさ。まったくクソ生意気なガキだな、相変わらず。いったい何様なんだか……」

 

 くるりと振り向いたシュイが、くいっと顎を上げてゲン太を顔の横に並べて見せる。

 

「オレ様!」

 

 生意気なシュイの強がりな声が、今は痛みから気を逸らせてくれる。

 

「オレ様か……マセガキめ」

 

 からり ころり

 

 無理矢理に元気を出しているのは、シュイだけではないらしい。

 無駄に元気な下駄の音が、狭い通路に響き渡る。

 

「まずは和平だ。先を急ごう」

 

 ヤタカの声に大きく頷いたシュイの後を、もくもくとヤタカは追いかけた。

 腕を濡らすのが汗なのか血なのかさえ解らない。

 

――イリス、無事でいてくれ

 

 小屋が燃え尽きる頃には、ヤタカ達は細い道を抜け、山二つ越えた先の地下道をひたすら先へと進んでいた。

 手を伸ばせなかった炎の向こう側に、イリスを置いてきてしまった。

 炎に隔てられた向こう側にいた者全てを、敵と呼ぶべきだろう。

 

――敵なんだ

 

 自分を納得させるように、何度も心の中で繰り返す。

 呪文のように、ヤタカは胸の内で呟き続けた。

 

 

 

 

 

 

 




 読みに来てくれた皆さん、ありがとうです。
 次話以降は、週一で(たまに十日に一)くらいでいけそうです。
 


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38 砂の涙

 

 鼻筋にシワを寄せ、玉の汗を浮かべながら和平を引き摺っていたシュイの足がぴたりと止まった。

 

「シュイ、先を急いでくれ。言いたくはないが、俺もけっこうきつくなって……」

 

「静かに!」

 

 シュイに制され、ヤタカは先の言葉を口の中に閉じ込めた。

 

「聞こえないか? さざ波が押し寄せるみたいな、さわさわとした音。板の上に大量の砂をバラ撒いたみたいな」

 

「あぁ……たしかに」

 

 通路に反響してどちらから聞こえているのかわからない。だがシュイのいうような奇妙な音は、ヤタカ達の方へと近寄ってきていた。

 

「なんだか嫌な感じだ。何だと思う、荷物持ち?」

 

 瞼を閉じて耳を澄ませていたヤタカは、脇を歩いていたゲン太をそっと摘み上げ、懐の奥に押し込んだ。

 

「やばいぜ」

 

「何が? いや、言わなくていい……やっぱりいって!」

 

 逃げ場のない通路の壁にぴたりと背をすり寄せ、シュイはきょろきょろと丸い目玉を泳がせる。押し寄せる気配に、異物憑きの背が粟立った。

 

「異種だ」

 

「異種? 種が歩くか?」

 

「異種の宿った虫が押し寄せてるんだよ! こっちに来い! 和平から離れるんだ!」

 

 近づいてきた音の群れはザワザワと不気味な音を立て、闇の向こうすぐ近くまできている。飛ぶようにヤタカの脇に走ってきたシュイを抱え込み、ヤタカは和平と距離をとって身を屈めた。

 

――こんな場所で偶然に異種の群れと出くわすことなどあるだろうか? ただの偶然なら和平に危害は加えないだろう。何しろ和平はある意味で最高級の異種宿り……

 

 ヤタカの思考が止まった。

 頭上を、足元を、土の壁を伝って群れなす音が一気に通り過ぎていく。

 土壁の砂がぱらぱらと剥がれ落ちる。

 だというのに、音の正体は姿を見せない。

 

――背筋の寒気が止まらない。異物憑きの俺にとって、許容量を超える異種が近くにいるということか? なぜ見えない? 

 

 異物憑きに異種は宿らない。それはこの世の理だ。以前、シュイを育てた宿の主人は、シュイが異物憑きかどうかわからないといっていた。

 

――シュイが異物に好かれるだけの体質なら、まずいことになる

 

 

「シュイ、俺にはおまえを守れないかもしれないぞ。正体が見えない以上、手の打ちようがない。おまえが異物憑きなら問題ないんだがな」

 

 謎に包まれたシュイの何かを引き出せるかも知れない、という期待を込めた問いだった。

 

「これが異種なら大丈夫さ。この子が、オレを守ろうとしてくれているから」

 

 シュイの手の中、伸び縮みする異物がじっと身を固めている。勝ち気な表情を崩さないシュイだったが、ヤタカの背に回した右手がぎゅっと作務衣を握りしめていた。

 

「オレに手を出すなって。ここに異物がいるぞって、存在を放っている」

 

「らしいな」

 

 シュイの手にある異物とは反対に、ヤタカに宿る水の器は微動だにしない。

 まるで通り雨だとでもいうように、感心さえ示していない。

 

「まさか」

 

 ヤタカははっとして顔を上げた。

 

「偶然じゃない! 標的は和平だ!」

 

「もう遅い!」

 

 立ち上がりかけたヤタカの腰に、シュイが必死にしがみついて止めた。

 

「なんなんだ、あれは」

 

 異様な光景だった。

 和平の体を薄緑色した光を放つ砂が取り巻いている。ザワザワと音を立てて集まり続けるそれは、和平の間近に来ると光を放ち始め宙を舞った。

 

「荷物持ち、ダメだよ。近付いちゃダメだ。たとえ異物憑きでも、あれはヤバイ」

 

 ヤタカも本能で解っていた。奴らがしようとしていることに余計な手出しをしなければ、ヤタカ達に危害を及ぼすことはないのだろう。

 だが、邪魔立てしたら状況は変わる。異物憑きとはいえ、数の暴力に勝てるとは限らない。

 ヤタカは懐でかたかたと身を揺らすゲン太を取りだし、必死の眼差しで見上げるシュイに押しつけた。

 

「この馬鹿を連れて、できるだけここから離れるんだ」

 

「馬鹿はおまえだろ、荷物持ち! 近付いちゃ駄目だって!」

 

「馬鹿には馬鹿のやり方がある。和平を見殺しにはできない」

 

 作務衣にしがみつくシュイの手を振り切って立ち上がった。

 まるでヤタカの叫びを聞いたように、舞う砂が宙で動きを止めた。

 ザワザワと土壁を這っていた音もぴたりと止む。

 

「おうぇ」

 

 ヤタカが喉から絞り出した潰れ声に、シュイが後退る。

 和平を囲む淡い光ではなかった。日陰の岩に這う深緑の苔に似た細い光が蛇のように螺旋を描いて這い上がり、ヤタカの腕ごと体を縛り付けていく。

 指先一つ動かなかった。

 

――邪魔をするな、ということか?

 

 無理矢理に光の鎖を振りほどこうとしたヤタカは、もう一度嘔吐いたような音を喉から洩らす。

 

「荷物持ち……どうすればいい? オレ、どうしたら……」

 

 シュイの声を遮ったのは、シャラシャラとした音。

 耳の中に侵入した何かが砂だと気づくのに時間はかからなかった。

 頭蓋骨を通して響く音はヤタカの感覚を狂わせる。耳の奥深くに侵入した砂の列が、三叉神経を冒し、平衡感覚が失われる。

 ばたりと倒れたヤタカは、口で激しく呼吸を繰り返しながら両眼を見開き和平を見た。

 ヤタカが倒れたことに満足したように、薄緑色の光を放つ砂が再び渦巻き和平を囲む。

 砂のうねりが和平の体を転がした。まるでヤタカに見届けろというように、剥き出しにされた和平の背中が目の前に。

 

――アレはなんだ?

 

 蜘蛛の巣を模る背中の痣は赤紫に脈打ち、光を放つ砂の群れはこぞって痣の糸に飛び込んでいく。飛び込んだ砂は蜘蛛の巣の別の場所から吐き出され、光を失った砂となって宙に舞い地面に落ちて動かなくなっていく。

  和平の周りにこんもりとした、拳だいの小山が幾つも出来上がっていた。

 

――まるで、蜘蛛の巣に引っかかって死んでいく虫のようだ

 

 巣を襲われた蜂のようだった。個々の命など意味を持たない。盲目なまでの戦い方。

 

――和平を攻撃しているわけではないのか?

 

 耳の奥で砂がサワサワと呼応する。

 

――いったい何と、何と戦っている?

 

 砂に見える物は恐らく虫。

 異種に宿られ姿を変えたのか、あるいは人知れず地中に潜む者達なのか。離れろといったのに、何か叫びながらシュイがヤタカの横にひざまずいた。目の前にはシュイの手を逃げ出したゲン太がいた。叫ぶシュイの声は聞こえない。耳の奥に響くのはシャラシャラと蠢く砂に似た虫達の音だけ。

 ゲン太の木肌に薄墨が湧き上がり、思案を重ねるようにゆっくりと文字を成す。

 歪む視界を懲らして、ヤタカは目を細めた。

 

――いろ おなじ

 

  何のことだ?

 

――わへいに ついていった

 

  いつの日の話しをしている?

 

――ひかりの つぶ

 

 それだけいうと、ゲン太は黙り込んだ。

 そういうことか、とヤタカは辿った記憶から答えを導き出しす。夜の闇に浮き出て光る異種が山を渡ったあの日、和平についていったのは薄緑色の光の流れ。

 ゲン太はあの色と、砂の光が同じだと言っている。和平の敵ではないのではないかと、そう言いたいのだろう。

 和平の蜘蛛の巣から弾き出され地に積もる光を失った砂は、得体の知れない虫達の死骸の山なのだろう。

 

――命懸けで守る理由はなんだ? 何より、敵の姿が見えないのが気味悪い

 

 耳の奥に侵入した虫を避けるように、水の器は完全に鳴りを潜めている。まるで今起きている出来事に介入したくないとでもいうように、介入すべきではないというように。

異物憑きは異種宿りや異種とは相容れない、拒否反応を起こすと教え込まれて育った。 それを信じて疑わなかったが、しかし。

 

――とっくに感じてはいたが、はたしてそれは真実なのか……

 

 そうである者が多いのだろうが、そうではない者も存在するのではないか。ヤタカは成長する中の経験でそう感じずにはいられなかった。

 普通の異物憑きならば、異種を宿すといわれるイリスと接触することは難しい。

 異種を集めるゲン太と戯れることなどあってはならない。

 だがゲン太はどうだ? 異物を宿した身に異種を宿す異質なる者。

 

――絶対とされた境界線が、薄れてきているのだろうか

 

 だが、とヤタカは思う。人間が勝手に信じ込んでいた物だとしたらどうだろう。あるいは、故意にねじ曲げて伝えられた情報だとしたなら。

 答えの見いだせない問答に見切りを付け、ヤタカは和平の背にじっと見入った。

 

 乱舞する光の粒を通して見える痣が波打つ。

 巨大なミミズ腫れと化した痣が、見えない指先につぶされたように端から平らく萎んでいく。細かに編まれた巣の中央に、ぶつり、と黒い固まりが頭を出した。

 濃い緑色の光はまるで小さな竜巻のように、赤黒い色を所々に混ぜては爆ぜた。和平の周りに溜まっていく砂の小山が増えていく。

 ヤタカの肩を揺するシュイの小さな手の温かさが、まだ残る正常な感覚があると教えてくれる。

 

「俺は和平の敵じゃない」

 

 耳の奥で暴れる砂に言い聞かせる様に呟いた。

 

「あいつを守る為なら、力を貸す」

 

 耳の中に静寂が広がり、大地が揺れている感覚も治まった。揺らいでいた視線が定まり、痣からぶつり、と顔を覗かせては沈む黒い固まりがはっきりと見えた。

 

 しゃらしゃら しゃら

 

 まだ横たわるヤタカの耳から、細い線となって砂達が流れ落ちていく。

 体を縛っていた緑色の光を放つ砂の鎖も解けど、ヤタカの体を離れていった。

 砂達には安全な役目も、前線に出る危険も関係ないのだろう。列成して地面を進んだ砂の列は、躊躇することなく和平の周りで乱舞する光の渦に飛び入った。

 すり寄ってきたゲン太に手を伸ばし、しがみつくシュイの肩を引き寄せ、ヤタカはゆっくりと身を起こし尻を擦って和平から更に距離をとった。

 助けたいと思うなら手を出すな、そんな砂の形を成す異種の意思を感じたからこそ身を引いた。

 

「中に潜む者が、和平の皮を突き破ることはないらしいな。まるで水面から浮き出ては沈むように滑らかだ。黒い奴の正体はなんだ? 砂は奴を閉じ込めようとしているのか、それとも引きずり出そうとしているのか……」

 

 ヤタカの独り言に薄墨を渦巻かせ、ゲン太はわからないというように鼻緒を垂れた。

 

「どっちにしろ、砂の連中が負けたら、まずいことになりそうだ。和平はもちろん、俺達もな」

 

「大丈夫なのか、荷物持ち?」

 

「あぁ、さっきからしがみついている誰かさんよりは、気持を保てているさ」

 ヤタカの衣を握り胴に抱きついていることにはっと気づいたシュイは、チッっと悔しそうに舌打ちして、恥ずかしさを隠す様にさっと離れて腕を後ろにまわした。

 そんなシュイの様子をからかう暇もないほどに、めまぐるしく状況は変化していく。

 ぶつり、と浮いては沈む黒い固まりが全貌の一端を現したのは突然だった。全体の一部であっても、それが何であるのか知るには十分。

 かくりと折れ曲がった長く細い足は、硬そうな短い黒い毛にびっしりと覆われ、巣のあちらこちらでぞりもぞりと蠢いている。

 

「あれは、蜘蛛だ」

 

 前足を追ってぶくりと膨れた胴が這い上がる。

 無数の目が砂の薄緑の光を受けてぬるぬると光っていた。

 

「でかい……でかすぎる」

 

 わたるのこめかみに巣くう蜘蛛の痣とは比較にならない大きさだった。足の関節を折り曲げ和平の背をひたりひたりと進む蜘蛛は、大の男が両手の平を広げたより遙かに大きい。

 ヤタカとゲン太を守るように、握りしめた異物を前に翳しながら気丈に振る舞うシュイの体は、微かに震えながらぴたりとヤタカに寄り添っていた。

 

――わたるは おとこ

 

 ゲン太が鼻緒を振るわせながら薄墨を浮かべた。

 

――あれは おんな

 

「まさか、いや有り得るか」

 

 自然界でもメス蜘蛛がオス蜘蛛の五倍も大きい種は存在する。大抵はメスがオスより大きな体を持ち、生殖後オスはメスに喰われて短い一生を終える。

 渡るのこめかみに潜む痣の蜘蛛がオスで、和平の背に姿を見せた蜘蛛がメスだとするなら。どちらが和平の背に張り巡る巣の本当の主なのか。元々は一緒にあるべきものだったと和平はいっていなかったか? だとしたら目の前の蜘蛛はあの巣に居るべきではないことになるだろう。

 

「一つになろうとしたとき、わたるのこめかみで蠢くオス蜘蛛を喰らうとしたら……それで何が変わる?」

 

 答えの得られない自問自答は、目の前で爆ぜた砂の光に打ち切られた。

 蜘蛛が激しく暴れ、次々と襲いかかる砂の攻撃を跳ね返している。和平は以前として気を失ったまま、指先一つ動かそうとはしない。

 

「こいつらはいったい、地中にどれだけ存在しているんだ?」

 

 蜘蛛に弾かれ光を失った砂の小山はどんどん増えていく。それでも蜘蛛を取り巻く砂の嵐は勢いを取り戻し光の嵐となる。

 少し離れて見守るヤタカ達の周りで通路を成す土の表面を、さらさらち砂が渡っていく。 風もないのに土の表面を砂が行く。

 

――やたか わへいが

 

 膝を激しく突き墨を浮かせた、ゲン太に急かされて目を懲らす。意識を失ったままの和平の肢体が、見えない糸に操られているかのようにバタリバタリと動き出した。

 右腕が持ち上がり、地を擦って左足が曲がっては伸びてを繰り返す。左腕と右足は半円を描いて激しく動かされ、頭部から腰にかけては巫山戯たようにのたうって、蜘蛛を乗せた背中の巣が激しく波打った。

 

「二手に別れた」

 

 目を見張るヤタカの目前で、乱舞するだけだった砂の光が湖面を割るように二つに分かれた。一つは巨体を巣に張り付けた蜘蛛の体表を覆い尽くし、もうひと手は和平の体内に通じる穴という穴から侵入し始めた。

 荒々しい動きで蜘蛛を絡める砂と別に、和平へ向かった砂達の動きは素早いながらも優しさを感じさせる。閉じられた瞼の隙間から、浅く呼吸を繰り返す鼻の穴から、耳たぶを伝って耳の奥へ砂はさらさらと入っていく。

 和平の体を波打たせているのは、蜘蛛に気づかれることなく最初に侵入していた砂達なのだろうとヤタカは思った。

 

――わへい どうなる?

 

 そわそわとゲン太が揺らす身を、ヤタカはそっと手の平で押さえた。

 

「目の前で起きているのが、あれは別次元で起きている出来事だ。俺達に手出しはできない。介入しても、和平を助けることにはならない。少なくとも、今はな」

 

 ヤタカは真一文字に唇を引き絞り、傷口の痛みを忘れるほど目の前の光景に見入っていた。寺の知識が全てではないのだと、目の前で繰り広げられる攻防が教えてくれる。

 寺に教え込まれた、境界線という名の理が壊れていく。

 存在の区分けが、隔てる壁がヤタカの中で音を立てて崩れ始めていた。

 

「あっ、目を覚ましたぞ!」

 

 驚いて目を丸くしたシュイが指差す先には、衣をはだけたまま四つん這いになって身を起こす和平がいた。鼻の穴耳の穴から流れ出た砂は、申し合わせたように和平の右手へ集まり、薄緑の光であっという間に膜を張った。

 

「和平! 大丈夫なのか?」

 

まだ閉じられた瞼の隙間からさらさらと砂が零れ出る。まるで涙のようだとヤタカは思った。

 ヤタカの声に反応はない。ゆっくりと開かれた瞼の奥に在る目は、人の目ではなかった。 黒目も白目もなく、眼球を薄緑色の光が泳ぐ。

 自由を取り戻そうと背で藻掻く蜘蛛のことさえ眼中にないように、右手をじっと見入った和平は、この場に似つかわしくない優しい声を唇から流し出した。

 

「お前達、ぼくの願いをきいてくれるかい?」

 

 和平の声に、砂が光を増して答える。

 

「もう少し、もう少しだけ時間が欲しい……すまないな」

 

 和平の口元が微笑みを浮かべる。

 同時に素のままの左手を膝の脇に落ちている尖った石に押しつけた。

 

「頼んだよ。謝るのは、いつの日か……ね」

 

 石に強く押し当てた手の平が勢いよく引かれ、石の尖端に切り裂かれた傷口からとくとくと血が流れ出る。首の前から回した手がが右肩の後ろへ当てられ、赤い血がたらりと流れ落ち、脈打つ蜘蛛の巣の痣を通って藻掻く蜘蛛へ運ばれる。

 緑の光を激しく放って蜘蛛を覆っていた砂が色を変えた。

 和平が流した血の色と同じ赤に染まる。

 ざざりと音が立つほど大きく足を跳ね上げた蜘蛛の動きがぴたりと止まった。

 赤い光の膜が色を増す。見えない圧力を受けたように、蜘蛛を包んで縮んでいく。

 

「蜘蛛が小さくなっているのか? 和平は助かったのか?」

 

 和平の声は震えていた。

 手の平程に縮んだ蜘蛛は、足一本動かさない。命が無くなったわけではないだう。 ただただ、和平の血を含んだ赤い光に押し潰されていく。

 すっかり小さくなった蜘蛛が、和平の背からぽろりと落ちた。

 

「今は駄目だ。まだ早い」

 

 そういって和平は赤い膜に覆われ蜘蛛を摘んで手の平にのせた。蜘蛛を覆う赤は薄く塗られた漆のように滑らかで、砂がそこにあった名残はない。

 

「時がきたら、好きなだけ喰らわせてやる。その時まで……」

 

 薄緑に染まった和平の目から感情は伺えなかった。

 左手に乗せられた赤い蜘蛛。薄緑の光を放つ砂が纏わり付く右手が翳され、ゆっくりと蜘蛛に近づいていく。抑揚のない、和平の声が地下通路に響き渡る。

 

「今一度、眠れ」

 

 だん、と音を立てて和平の右手が赤い蜘蛛を押し潰した。右手から色を失った砂がぱらぱらと零れて落ちる。

 

「和平!!」

 

 和平が喉を仰け反らせ、芯が抜けたように倒れ込んだのと、瞼からさらさらと砂がこぼれ落ちたのは同時。

 駆け寄ったヤタカは首筋に指を当て、脈があることにほっと胸を撫で下ろした。

 安堵に息を吐き出した肺が呼吸を忘れて喉の奥がヒッ、という音と共に張りついた。

 駆け寄ったシュイも、ぺたりと尻を落として口を押さえる。

 ゲン太は辛さから顔を背けるように鼻緒を萎めた。

 

「和平、何をしたんだ? おまえはいったい……」

 

 蜘蛛が潰された筈の手には何も残っていなかった。

 日に焼けた和平の手首から蜘蛛が腕へと這い上がる。

 力なく気だるそうに足を蠢かせ、小石ほどに小さくなった赤い蜘蛛が、皮膚の下を這い上がる。衣のはだけた和平の肌の下を肩まで進むと、蜘蛛の前足が巣の痣にかかった。

 まるで我が家の戸口を潜ったとでも言わんばかりに、赤い蜘蛛は姿を消した。

 迎え入れた巣の痣は一度だけうねり沈黙した。

 

「まるで、泣いているみたいだ」

 

 色を失った砂が一筋、和平の目尻から流れて頬を伝う。

 死してもなお和平を守るように、砂の死骸が小山となって和平を囲んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 




 よんでくださって、ありがとう……!


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39 情報を運ぶ者

 誰も口をきかなかった。

 シュイが異物を使って和平を引き摺る音だけが、狭い横道に木霊する。

 傷口の痛みは、冷えた汗となってヤタカのこめかみを流れていた。和平が元気なら、ヤタカに新たな薬を与えてくれていただろう。だが今はそれさえ望めない。手足をだらりと開き地面を引き摺られるままの和平。せめて楽に運んでやりたかったが、自分の足を引き摺るのがやっとのヤタカに、その力は残っていない。

 落ちた体力は気力をも奪う。一歩足を進めるごとに、イリスが遠く手の届かない場所へ風のように去って行く気がして、指先の血が熱を失っていく。

 

 かん かんかん

 

 下駄を打ち鳴らされて、ヤタカは立ち止まった。

 

「なにぼっとしてんだよ荷物持ち。着いたぜ?」

 

 気付けば、宿屋あな籠もりの前で立ち止まったシュイを追い越していた。

 

「和平は、生きているか?」

 

「うん、大丈夫。ちゃんと息してる」

 

 そうか……口の中で呟いて、ヤタカの体が崩れ落ちる。

 

「おい、荷物持ち!?」

 

 駆け寄ったシュイが体を揺さぶっている。

 

「おまえが倒れてどうすんだよ、アホ……ゲッ、血ィ!?」

 

 蹴り飛ばさんばかりの勢いでヤタカをどついていたシュイの手が、必死にヤタカの傷口を押さえる温かな動きへ変わった。

 

――根は優しいガキなんだよな

 

 そんな自分の思考をくだらないと思いながら、痛みの果てにある無痛の深淵へと落ちて意識を失った。

 

 

 

 嫌な夢を見ながら目を覚ました。

 崖を転がり落ちて脛と腰骨を大木や突き出た岩に、これでもかというほど打ちつけられる夢だった。

 

「おまえか、クソ下駄」

 

 ぼんやりと開けた瞼の向こうに見えたは、壁に預けて持ち上げられた足の脛に全力で体当たりを繰り返すゲン太の姿。どうりで痛み一色の夢を見るはずだ。

 

「大丈夫? また流血していたから止血しなおした」

 

 穏やかな笑顔で顔を覗き込んできたのは和平だった。

 

「おまえ、平気なのか?」

 

「あぁ、少なくともヤタカの兄ちゃんよりはね」

 

 何事もなかったかのように、いらずらっぽい笑みを浮かべる和平の目をじっと見た。

 くりくりと良く動く黒い眼は人の物。ヤタカはほっと安堵の息を吐く。

 

「ゲン太を責めちゃだめだぜ? 最高に痛く蹴りをいれてくれって、頼んだのはオレだから」

 

「気絶した人間に追い打ちをかけるなよ……」

 

「ヤタカ兄ちゃんさ、一瞬イリス姉ちゃんのことを失念するくらい、心が萎えただろ? だから痛みと疲れで気絶したんだ。心が弱っているときはまずいんだよ」

 

「何がだ?」

 

「戻って来られなくなることがある。沈んだ心のまま気力を削がれている人間は、痛みの向こう側に広がる闇から戻れなくなる。痛みや苦しみから閉ざされた、深淵の闇に取り込まれる。かりそめの安息が招くのは死。だから、ゲン太に頼んだ」

 

「痛さを重ねてどうするんだか」

 

「痛みの質が違う。ゲン太の蹴りの痛みは、ヤタカ兄ちゃんに生きていることを思い出させてくれるだろ……違うかい?」

 

 床で歯を上にして転がり、ぜーぜーと音がしそうなほど鼻緒を上下させているゲン太をちらりと見た。和平にいわれて、必死に蹴り続けていたのだろう。口の端だけで笑いながら、ヤタカはくいっと顎を背けた。

 

「あぁ、十分に思い出したよ。俺はアホに囲まれて生きてたってな」

 

 素直じゃないねぇ、と笑いを含んだ和平の声が静かに響く。

 

「蹴られすぎて馬鹿が移っただけだ」

 

 腹を上にしていたゲン太がころりと体勢を戻し、むっき~! と鼻緒を三角に立てたが反撃もそこまでだった。ヤタカを蹴ろうとした片下駄は、くるりと空回りして再び歯を上にころりと転がった。

 

「なぁ、和平。イリスは無事でいるよな?」

 

「うん。無事だと思う。イリス姉ちゃんに何かあれば、山が騒ぐ。大地の底を流れる水が泣く」

 

 和平が感じるもの全てを実感することは不可能だ。それでもヤタカは床土に耳を当て、声なき囁きに耳を澄ます。

 和平には、意味を持ってこの声が聞こえるのだろうか。

 ヤタカには、ちりちりと遠くで虫の羽が擦れるような音が、微かに耳の奥に届くだけだった。

 

「心配でも、数日は動けないよ。今回で懲りただろう? 今動けば、イリス姉ちゃんを助ける前に命を落とすよ?」

 

「あぁ。そうだな」

 

 襲ってきた連中の影を思い返す。森の闇に殺気が張り詰め、僅かにでも糸を弾いたなら無差別な戦いが起こってもおかしくなかった。

 万全な体調でも互角以下。いまのヤタカに歯が立つような相手ではないことは、言われなくても身に染みて解っている。

 

あの時、そう言いかけてヤタカが口を噤むと、和平はくったくのない笑みを浮かべて肩を竦めた。

 

「姉さんがいたね。イリス姉ちゃんを最後にさらったのは、誰?」

 

「わたるだ」

 

「そう、っか」

 

 それ以上和平は何も訊かなかった。攫ったのがせめて姉であったことに安堵しているのか、畏怖しているのかさえ静かに伏せた睫に隠されて伺えない。

 

 しゃらしゃらと音を立て、岩壁をくぐり抜けてきたのはこの宿の主人。

 

「おぉ、大丈夫かの?」

 

 抱えた籠には薬草が山になっている。

 

「あとはシュイに任せて少し休むがいい」

 

「ありがとうございます」

 

 シュイは和平の巣へ戻っていった蜘蛛のことを、爺ちゃんと慕うこの老人に伝えるのだろうか、そう考えると、どこまで話して良いものか戸惑いが口を噤ませる。まるでヤタカの心を覗き見たかのように、宿の主人は柔らかく微笑み長く伸びた白髭を撫でた。

 

「張り巡る横道は人を運び情報を運ぶもの。シュイが知り得たことは、すでに横道を駆け巡りわしの耳にも入っておるでの」

 

 気にするな、そういって主人は水瓶の方へと歩いていった。 

 話しをしたい思いにかられたが、今は休むべきだろうと瞼を閉じたヤタカの鼻孔を、嗅いだことのない異臭がかすめた。

 

「おい、これを喰ってから寝ろよ」

 

 シュイが差しだした葉っぱの皿には、黒と緑と茶の入り混じった丸い物体が二つ乗っていた。正体不明の毒々しい赤い粒も所々に顔を見せている。

 

「薬草を煮だしてもこんなに臭くないぞ? 人の食うものじゃない」

 

 唇を引き結んだヤタカのこめかみを、小さな手がべしりと張り飛ばす。

 

「痛いって!」

 

「いまのおまえに必要なものが全て入ってんだ。オレ様特製の肉団子に、文句があるとはいわせねえぞ……コラ」

 

 片眉を吊り上げるシュイと負けじとにらみ返すヤタカの間に、くすくすと笑いながら和平が割って入った。

 

「ヤタカの兄ちゃん、素直に食べた方がいいぜ? 材料が手元にあったなら、オレも同じものをつくる。痛みはすぐには消えないけれど、目覚めたら頭はすっきりしているはずだ。体の疲れも芯から癒してくれる。早く治して、イリス姉ちゃんを助けにいくんだろ?」

 

 その一言をいわれるとぐうの音もでない。和平の隣で一緒になってからかおうとしていたゲン太が、イリスの名を聞いてしゅんと鼻緒を萎ませたを見て、ヤタカは溜息と共に天を仰ぐ。

 

「ほんとに体調がすっきりするだろうな?」

 

「保証する」

 

 和平が静かに頷いた。

 

「なら食って……やらないこともない」

 

 恨めしそうに周囲を睨め付け、ヤタカは皿から一気に肉団子を口に放り込んだ。

 一口噛んだヤタカは、あれっと首を捻る。塩気が絶妙で肉の旨みが鼻から抜ける。

 

「以外と旨い……な…な……ウェ!」

 

 吐きかけたヤタカの口を和平が押さえると同時に、シュイの蹴りが背中にはいった。

 

 ごくり

 

 ヤタカは必死に息を止めていた。

 意識が薄らいでいく。

 

「言い忘れた」

 

 のんびりとシュイが耳元で囁いた。

 

「ちょっとでも薬草の繊維を嚙み切ると、激的に臭いんだよね、どの薬草も」

 

 これなら肥溜めに首を突っ込んだ方がマシだ、と心の中で毒づいても、生きている以上肺は酸素を求めて暴れるもの。

 顔を真っ赤にして息を止めていたヤタカの胸が大きく膨らむと同時に、目がかっと見開かれ瞳孔が開いた。どさりと倒れた体を支える者は誰も居ない。

 

「逝ったな」

 

「死んでないって」

 

 シュイが鼻をならし、和平が笑う。半開きのヤタカの口に身を寄せたゲン太は、弾かれたように飛び退り、ぷるぷると鼻緒を痙攣させたかと思うと、ころりと転がり気絶した。

 

「あれ、ゲン太?」

 

 戻ろうとした和平の袖をシュイが引く。

 

「放っておきなよ。二人ともただの馬鹿なんだからさ。それに近寄ると臭いだろ?」

 

「そうだな、やめておくよ」

 

くすくすと和平が笑う。

 それに、といってシュイは顔を少し背けて握った手を差しだした。

 

「これはなんだい?」

 

 和平の手に小さな紙包みを押しつけたシュイは、照れたようにさっと手を後ろ手に隠し、更に顔を背けてつっけんどんに言い放つ。

 

「やるよ。あんたがつくるのよりは、効き目は薄いだろうけれど。弱ってるやつに調剤させるのもどうかと思うし」

 

 紙を開くと、黒い丸薬が三粒入っていた。それを見て嬉しそうに肩を竦めた和平は、さっとシュイの背中から抱きついた。

 

「面白い奴だな! 友達になろうぜ!」

 

 楽しげにシュイの肩を叩いて離れていった和平だったが、石のように体を固めたままのシュイは頬を真っ赤に染めていた。

 

「何が友達だよ!? 人の心配ばっかりしてないで、自分の体を労れっての!」

 

「はい、はい」

 

 拳を握りしめ、杭のように立ちんぼだったシュイの肩から力が抜けていく。

 

「友達なんか、いらねぇや……」

 

 目一杯に吊り上げられた片眉のしたで、口元がほころんでいく。

 緩む口元を無理矢理ぐいっと引き絞り、シュイは手に掴んだ毛布をヤタカの体にばさりとかけてやった。

 つり上がった眉と真一文字の口の間で目が笑う。

 気づけば誰にも見られることなく、白い歯が零れていた。

 

 

 

 骨をも振るわせる銅鑼の音で、ヤタカははっと目を覚ました。

 

「寝坊助起きろよ? 朝飯だ」

 

 シュイに毛布を剥がされしぶしぶ起き上がったヤタカは、垂れ下がった前髪を掻き上げた手を止め、おや? っというように首を傾げる。

 

「体が軽い」

 

 目覚めと同時に傷は痛んだが、傷だけを置き去りにして脳も体もすっきりしている。一欠片の疲れも残さずに回復した体力が、同時に気力を押し上げていた。

 

「はぁ~」

 

 恐る恐る息を吐いてみたが、悶絶するほどの異臭は消えている。

 

「すごいな、あの肉団子」

 

 素で感心するヤタカの尻に、皿を抱えたシュイの足がげしりと食い込む。

 

「なに呆けてんの? 働かざる者食うべからず。朝飯を運べよ」

 

「あぁ、すまない」

 

 素直に皿を受け取り机の上に並べいく。和平は木べらで鍋の中身を掻き回し、味見をすると満足そうに頷いていた。

 

――まともな料理を作れない奴は、雑用係ってか

 

 イリスと訪れた日と変わらない部屋の風景。運ばれる料理を並べ直しながら、剥き出しの丸太に腰を下ろした。新鮮な肉を使ったスープが、湯気と共に良い香りを立ちのぼらせている。

 

――イリスにも食わせたかったな

 

 焦ってもことは好転しない。イリスは大丈夫だという和平の言葉を信じて、いまは策を練り体勢を整える時なのだから。

 シュイも和平も何もいわない。いわずに穏やかな表情を保っている。ヤタカも無駄な心配は口にしない。三者三様に平穏な仮面の下にマグマのような不安と怒りを隠している。

 それを表にしないのは、たとえ仮初めであっても、今は凪いだ感情が必要だから。たとえまやかしでも、朱に交われば人は染まる。落ち着きと思考を取り戻す。

 

 主人の挨拶に続き匙を持ったヤタカは、隣に座る和平の皿の中身に目を見開き、交互に自分の皿と見比べた。折れんばかりに匙を握りしめ、全力の不満を込めて犯人を睨み付ける。

 

「シュイ! 前は女性への気遣いかと思って百歩引いたが、今回はおかしいだろ? どうして俺の肉は三つなのに、和平の皿のスープには肉が折り重なってるんだ!?」

 

 伸びすぎた白髪と髭の隙間から見える目を細め、主人が笑う。

 隣の和平は何食わぬ顔で、さっさと匙を口に運んでいる。

 シュイにいたっては、憎らしいことに表情一つ変えていない。

 

「商売の前に人であれ、だ。それとも何か? 大人の男でしかも治りかけの荷物持ちより、まだ子供の体力しかない、疲れ切った少年を厚遇するのは間違っているとでも? 自分のダメージをさておいて、荷物持ちの治療に当たった和平は疲れるんだよ? 回復していないんだよ?」

 

「まぁ、そういわれると……」

 

 どうしてシュイの講釈に弱いのかと、奥歯を噛みながらヤタカは口を尖らせる。

 

「食事の多さ少なさで、男が文句をいうものではない! じっちゃんの教えだ!」

 

「すみません」

 

 じっちゃんを持ち出されては、謝る以外に道はない。

 楽しそうに声を立てて笑う主人を尻目に、ヤタカも黙って少ない肉に口を付けた。  

 

 

 

 少々の剣を孕みながらも和やかに過ぎた朝食の時を終え、ヤタカは和平と向き合いすわっていた。

 主人とシュイは、背を向けて後片付けをしている。シュイも生意気だが無粋な人間ではない。二人の空気を察してか、手伝えとはいわなかった。

 

「和平、自分の身に起きたことは、記憶にあるのか?」

 

「うん。背中の感覚が、起きていることを伝えてくれた。気絶していたわけじゃない。呼吸以外は何一つ、自分の体が思うようにならなかっただけさ。あいつらが来てくれなかったら、オレは死んでいた」

 

 あいつら、とは光る砂のことだろう。

 

「砂に見えたが、あれは異種だろう? 見たことも聞いたこともない。おそらくこの世の文献には残っていない。極小とはいえ、あれほど大量に存在しているなんて、あいつらは何者だ?」

 

「彼らは異種……なのかな。正直わからない。巣に潜む蜘蛛が暴れたのは初めてじゃないんだ。幼い頃に一度、何が起きているか解らなくて死にそうだったオレを、あの日も助けてくれたのは彼らだった。どこからともなく大地を流れて現れ、ぼくを守って命を失っていく。どうしてかな……」

 

 悲しいとも悔しいとも取れる眉間の皺に、まだ少年の和平がどれほどのものを抱えて生きてきたのか、その苦悩が伺えた。

 

「和平、わたるの持つ蜘蛛と、巣は本来一対であるべきものだろ? なら、あの蜘蛛はなんだ? メスとオスじゃないかと思ったが、まさか仲良く夫婦で暮らすってわけじゃないだろうしな」

 

 メスがオスを喰い殺す、という仮説までは口にできなかった。蜘蛛の話しだというのに、和平がわたるを喰い殺すような錯覚陥って、口に出すのが嫌だった。

 

「想像することはあるけれど、どうなるかなんて正直わからない。分けられた蜘蛛と蜘蛛の巣は一緒になりたがっている。姉さんと近付くと、爆発的な反応を示すんだ。だから多分、オレと姉さんは幼い頃から離された。二度と会うことのないようにね」

 

「だが、目論見は外れた。周りが思う以上に、お前達二人は利口だった。全てを詰め込んでなお余るほどの頭だと知っていたら、親爺さんも子供達が安易に資料や書物を読めるような環境にはしておかなかったろうよ」

 

「そうなのか? とにかく不意打ちを食らう形で姉さんと近付いちまった。構えがなかったから、オレは自分を守れなかった。姉さんは準備していたはずだよ。だからきっと平気だ。大丈夫」

 

「そうか」

 

 イリスや周りを気遣うせいで、大丈夫という言葉が尻窄みになっていく。どうしてこんなに優しい奴らが巻き込まれるのだろう。理不尽だと、ヤタカは思う。

 

「和平、体に宿す蜘蛛、そのまま飼っていても大丈夫なんだな? 気構えさえしていたなら、害は受けないんだな?」

 

 真っ直ぐに見つめるヤタカの目を見返した和平が、微笑むふりをしてすっと視線を外す。

 

「心配ない、大丈夫だぜ?」

 

「この先もか? 接触を避けることは難しいぞ」

 

「たぶん……ね。心配ないって。ガキの頃から飼ってるんだからさ」

 

 和平は視線を合わせないまま、白い歯を見せて笑った。

 

「そうか、ならいい」

 

――嘘がへただな

 

 和平は核心を笑顔で隠した。聞いてもヤタカにはどうしてやることもできないかもしれない。それでも、聞いてやりたかった。

 

――本人が口を開くまで、待つしかないか

 

 笑顔に隠された真実は、光を吸い込むほど暗い予感を運ぶ。何もかも背負い込もうとしている和平の肩に手を伸ばしかけ、ヤタカは静かに腕を下ろした。

 

「さてさて、話しも終わったようじゃし、わしの話しを聞いてもらえますかな?」

 

 前掛けで手を拭きながら、主人がにこやかに近づいてきた。

 

「はい、何かありましたか?」

 

 よっこらせ、と主人は丸太に腰を下ろし、額の汗を手ぬぐいで拭う。

 

「何度もいうがの、ここは情報のたまり場。横道は情報を運ぶ。中立地帯といえば聞こえは良いが、良心的な山賊の交易とでも思っていただけるかな」

 

 言葉と裏腹に、主人の目元は柔らかく笑みを模る。

 

「本来はここにシュイが居るなど御法度。だが、シュイの生い立ちを知る者はこの世に僅か三人じゃ。わしと、シュイの祖母。そして、山賊の交易と知りつつ、いや、その裏にある本質を知ってなお、ここへ情報を運ぶ者が一人」

 

 ずっと疑問に思っていた。寺のように名を馳せた力のある組織ならいざ知らず、こんな小さな宿屋に情報を届ける者がだれなのかと。情報を届ける者は無数にいるのだろう。質もピンからキリまでいるはずだ。問題なのは、そのなかでも一番腕の立つ者。縦横無人に野山を廻り、耳をそばだてる技量と力のある者。

 

――存在するなら、もはや腕利きの情報屋などという話しではない。人格はともあれ、ある意味傑物と称するに相応しい

 

「わしが説明しても、口では伝わるまいて」

 

「会えるのですか?」

 

「会ってみなされ。老いたわしには、今の世はややこしい。直接聞けば、絡まった糸も解けるじゃろう」

 

シュイは背を向けたまま、黙々と皿を洗っている。和平は部屋の角に座り込み、主人が昨日摘んできた薬草をすり潰していた。

 その横でゲン太が物珍しそうに鼻緒を伸ばしている。

 話しは聞こえているのだろうに、まるで透明な壁に遮られているように、知らぬ振りをしている。

 

――何も知らないのは、俺だけということか

 

 しゃらしゃらと、縄暖簾を潜る音が響いた。

 滑る速さで瞬時に来訪者の眼が目前にあった。

 刃を剥き出しにした怒りの眼。

 怒りを押し込めた低い声が抑揚なく耳元を掠める。

 

「嬢ちゃんに何かあってみろ……てめぇをぶっ殺す」

 

「おまえ……だったのか」

 

 ゴザ売りが殺気に満ちた視線でヤタカを射る。

 傷口より鋭い痛みを受け止めながら、ヤタカも真っ直ぐに見返していた。

 

 

 

 

 

 




 次話も読んでもらえますように……!


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40 サザナミとユウモヤ

あんた、ずっと見ていたのか?」

 

「あぁ」

 

「だったらどうしてイリスを助けなかった!」

 

 首がしなるほどに襟首を締め上げたヤタカの手を、乱暴にゴザ売りが薙ぎ払う。

 

「あそこで俺が面を晒したら、その後誰が闇を駆ける! 役割ってもんがあらあ! あの場で嬢ちゃんを助けるなぁ、てめえの仕事だったろうが!!」

 

 声色にさえ策を巡らせるゴザ売りが、初めて感情を露わに声を荒げた。

 薙ぎ払われた手の力より、ゴザ売りの言葉がヤタカを打つ。

 

「そうだな、その通りだ」

 

 あの時和平は己と戦っていた。シュイは駆けつけるために必死に横道を駆けていただろう。ゴザ売りは、自分が成すべきことを踏まえ、己を押さえてじっと身を潜めていた。

 ゲン太でさえ、和平を救おうと迫り来る炎の前で足掻いていたというのに。

 

――何もできなかったのは、俺だけだ

 

「腐っている暇なんざねぇぞ。おまえがちょろちょろしてくれたおかげで、口伝の集団が持つ今の面が見えてきた」

 

「口伝の集団?」

 

「異常なまでの異種の山下りは、永い時を経て繰り返されている。が、今回は桁が違う。異常なんだよ。事が起きる度に歴史の裏に見え隠れしていたのが、名前のみ口伝で伝えられる六つの組織だ。もちろんその名でさえ、全貌を知る者は限られているだろう」

 

 ゴテと野グソに渡され、身代わり草に燃やされた紙に連なる名が瞬時に浮かんだ。

 

「ここの頭目は誰それと、部分的に知る者ならいるが、それはおおよそ口外されやしない。口を割るような者に、もたらされる情報ではないからな。だから俺のように組織の名全てを先代から受け継いでいても、仮面の向こうが見えねぇ。今、誰がどこでそいつらを纏め動かしているのか。どんなに探っても眉毛一本見えてきやしなかった」

 

 ゴザ売りの声を噴火させた怒りはなりを潜め、淡々と事実だけを伝える声色へと変わっている。

 

「それが見えてきたのか?」

 

「おまえが寺を出てから、次々とな。おまえは個々の顔は見えていても、歴史が伝える全体像を掴めちゃいない。この先、どっちへ足を進めるか腹をすえる為には、知っておく必要のあることだ」

 

「そんなこと、俺に教えて良いのか? 俺はあんたの味方でも敵でもない」

 

「それが甘いってんだよ!」

 

 ドスの効いたゴザ売りのひと声に、部屋の隅でゲン太がびくりと鼻緒を跳ねた。

 

「いいか? 全ての者が目指す先は一つだ。異種の暴走を止める。ただ、その為の手段と結果がちげぇんだよ! おまえにとって問題なのは、どの連中が勝とうがおまえらは人身御供でしかねぇってことだ。わかるか? おまえに本当の味方なんざ居やしねぇ!」

 

 かかーん

 

 木肌を打ち鳴らす音と共に、ゴザ売りの頬を蹴り倒したのはゲン太。ゴザ売りの口の端から、切れた口の中の血がちろりと漏れた。

 

「怒んなよ……坊んず。おめぇは誰のもんでもねぇ。どこのもんでもねぇ。ただの下駄……だろうが」

 

 言い聞かせる様に穏やかな声だった。ゲン太をちらりと見遣ったゴザ売りは、まるで眩しい光に当てられたかのように目を細めて視線を外した。

 激しく鼻緒を上下させ、もう一度飛びかかろうとしたゲン太を、シュイが優しく手の平で押さえた。

 

「ゲン太、あっちに行こう? このおっちゃんが怒鳴るから、皿の睡蓮が怯えて花を閉じちゃったんだ。葉を引いてみるからさ、ゲン太の木肌に少しの間移して、宥めてやってくれよ。墨で蝶を飛ばせて、遊んでやって。な?」 

 

 鼻緒をぶるぶると振るわせながら、それでもゲン太はシュイの腕に黙って収まり連れられていく。

 ゴザ売りが、口の端に冷めた笑いを浮かべ指先で唇を拭う。

 

「あいつらの方が、ずっと落ち着いていやがる」

 

「話してくれ、ゴザ売りさんよ。その前に、ちょっと水を飲ませてくれ。薬やら術やらで、すっかり感覚が狂っているが、時期的にもうそろそろ拙いはずだから。妙な話を聞かされる前に、飲めるだけ胃に流し込む」

 

 ゴザ売りの返事を待たずに大きな水瓶へ向かった。

 ちらりと主人をみると、にこやかに頷いてくれたのをみてヤタカは水瓶へ頭を突っ込んだ。水が食道を流れ、胃に辿り着く前に吸収されているかと思うほど早く、体の隅々に水気が行き渡る。

 水の器が身を揺るがせる。

 頭の芯が冬の夜空のごとく冴え渡る。

 

「さぁ、聞こうか」

 

 水瓶の半分ほどを飲んだヤタカは、自己嫌悪も不安も感じさせない所作で、先までとはまるで別人の表情を張り付け、ゴザ売りの前にゆったりと腰を下ろした。

 

「俺がおまえに与えるのはおそらく、希望じゃねえよ。絶望に近い現実だ」

 

「希望か絶望か、決めるのは俺だ。勝手に人の未来を決めるな」

 

 決まってんだよ……小声呟いて、ゴザ売りは口元を歪ませた。

 

「ややこしい話しの前に、互いに見えている事実を整理するか。火隠寺はわたる、音叉院は素堂、羽風堂はミコマと呼ばれる婆、狼煙塚は円大、俺のような輩は代々隠し釘と呼ばれてきた。翠煙は裾野がひろい。おまえが顔を知っている中でいうなら、幼なじみがそうだ」

 

 野グソとゴテが思わぬ形で浮き上がった。汚い仕事をこなすが本来の家業だと言っていたが、だとしたら翠煙の立ち位置はいったいどこにある? ヤタカは目を細めて考えを巡らせる。

 

「ばらばらに物事を考えるな。全体像が掴めなくなるぞ」

 

 ヤタカの心中を見透かしたように、ゴザ売りがいう。

 

「全体像とやらは、どうなっているわけだ?」

 

「色々複雑に絡んじゃいるが、五芒星を頭に浮かべろ。その尖った先にあるのが五つの組織。寺に組みしているように見えて、そのどこにも属さず全体を見渡しているのが俺達隠し釘」

 

 五つの角を持つ星形を一筆で書き上げる五芒星。頭の中で出来上がった図式の、真ん中に浮かび上がる空白が、ヤタカは妙に気にかかった。

 

「ただの図式と言われればそれまでだが、ぽかりと真ん中に位置する空白には何が入る?」

 

 会話の流れに妙な間が空く。

 二人を囲んでいた知らぬ存ぜぬの温い空気が、音を立てて凍ったように思えた。

 

「いっただろう? 先に全体像を掴め。己を知らぬ者に世界は見えない。世界を知らぬ者に、己の存在を見極めることはできん」

 

「まるで謎かけだな」

 

 木肌に睡蓮を宿したゲン太がわざとらしい歩調で、かんかかんと部屋を闊歩する。それに釣られたように、拭いた皿を重ねる音や、薬草をすり潰す音が立ち、宿の部屋は日常を装う音に染められた。

 

「隠し釘に立ち位置などないが、それ以外は得意とする分野を持つ。得意というより、愛でられたがゆえに関わりが深くなったというべきだろう。長い歴史がそうさせた。最初に仕掛けたのは狼煙塚だ。それこそ狼煙を上げたのさ、巧妙にな。それに気づかなかった寺は、知っての通りの末路を辿った。だがな……」

 

 ゴザ売りは羽織っていた外套を脱ぎ隣の丸太にばさりと掛けた。

 

「もっと昔に先手を打って仕掛けたのは寺だ。どこが始まりなのかは今となっちゃわからんが、素堂様の先代、あるいは先々代の時代にはとっくにこの戦いは火ぶたが切られていたんだろうと俺は睨んでいる」

 

「何を廻る戦いだ?」

 

「己の信じる道を貫き通す戦いだ。寺は人を重んじ、異種と異物を掻き集め、この世から排除しようとした。火隠寺は異種に愛でられた一族だ。本来の住み処である山深い地で、彼らが静かに生き延びる道を模索した。羽風堂は異物に愛でられる血筋だからな、異物と心を通わせ異物を人の手から守ろうと戦ってきた。翠煙は、幼なじみの表の家業をみれば解るだろうが、異種や異物と共に生き、その力を僅かに人の為に役立て共存すべきだと信じる者達の集まり。まぁ、その温厚で平和な理念を守るため、血生臭いことに手を染めた歴史を持つがな。狼煙塚は円大が取り仕切っている。永い時を掛けて寺にもぐり込み、屋台骨から寺を崩すことで、全ての異種と異物を解放しようとした。だが同じ共存でも、他の組織が願う共存とは質が違う。狼煙塚はこの大地を自然に帰そうとしていた。人がいなくなれば、大地は太古の森へと返る。異物も異種も自然の理の中実を隠すことなく存在できる世を目指していた」

 

 ちょっと待て、とヤタカは眉根を寄せてゴザ売りの言葉を遮った。

 

「仕掛けたところで、人が居なくなればどうやってその後を生きる? 狼煙塚の者だって人間だ。異物と異種が無秩序に溢れかえる世界で生きてなどいけないだろう」

 

 ヤタカを真っ直ぐに見据えたまま、ゴザ売りはゆっくりと頷いた。

 

「狼煙塚の先々代の伝え語りを耳にしたことがあってな。本来の狼煙塚は、自分達だけ生き残ろうなどと姑息な考えは微塵も持っていなかっただろうよ。人がこの地を駄目にした。人が生き続ける限り、大地は精気を失っていく。土を汚し空を汚し、純粋に生きるだけの者の命を奪うのが人だと。そんな人間から自然を取り戻そうと狂信的に思っていた者達だったと思う。だがそれを、円大が変えた」

 

 じっとゴザ売りから目を話さなかったヤタカの視線が下を向く。自分を貫いた円大の表情は霧の向こうに隠れていた。見下したように下卑た含み笑いも時間の彼方に流れて消えた。

 悪戯が過ぎて素堂に引き摺られるヤタカを、庭を箒で掃きながら見送る柔らかな明るい笑みが蘇る。薬草にかぶれて晴れた肌に、薬を貼ってくれた温もりが肌に残る。友としての思いなど、すでに微塵も残していない。だというのに、ヤタカにも制御できないまま、日溜まりのような思い出だけが胸に浮かぶ。 

 

「寺を消滅させたのは、狼煙塚が首謀だといっていい。だが目的はだれも気づかぬうちに円大によってすり替えられていたのさ。奴が願うのは異種と異物の解放による、自然への返却ではない。解放した異種と異物を我が物とし、人が生きる世を統べる為の私欲。奴が身に宿す蔓は、代々受け継がれる物だ。先代の死によって次代の者へ受け継がれる。だが奴は時を待たず手に入れた」

 

「殺したのか、先代を」

 

 ゴザ売りが頷いた。

 

「円大の行いは、微妙な均衡を保っていた秩序を根底から壊した。互いに敵と味方も区別がつかない。己の義を通すためには、他は排除するしかないように仕向けたのさ」

 

「狼煙塚の他の連中が黙ってはいないだろう。命を投げ出すことを厭わない古の意思を引き継ぐ者達も、円大の野望の火にくべる命はないだろう?」

 

「ないさ、在るはずがない」

 

 肩で大きく息を吐いたゴザ売りは、心底嫌そうに眉根を寄せた。

 

「今や狼煙塚は、円大個人を指すただの名称に成り下がった」

 

「どういう意味だ?」

 

 ゴザ売りの目がぎらりと光る。

 

「狼煙塚の民と呼ばれた者達は、百人はいたと伝えられているが、全員この世の者ではなくなった。策に嵌められ自滅した者、使命と信じて動いた上で命を落とした者、残っていた民は一夜の闇に紛れて命の火を消した」

 

「まさか、円大が……」

 

 頷くゴザ売りの目は、敵味方を通り越した怒りに煮えるような光を宿す。

 

「寺が更地になった一夜の内に、命は闇に葬られた」

 

 寺での最後の一夜が蘇る。声が音が地鳴りが、亡霊となってヤタカの身を襲う。気力で肩を押さえつけ、胃だけを膨らませて大きく息を吸う。揺れることない現実を取り戻そうと、深い呼吸は幾度も繰り返された。

 

「まさか、それを目にしたのか、あんたは」

 

「しかとこの目で見た」

 

 寺を転覆させた騒動を引き起こすためには、大がかりな仕掛けと人の手が必要だったはずだろう。それをどうやって円大一人で葬った? 普通に暮らす村人を襲い仕留めるのとは訳が違う。使命の為なら働き蜂のように命を投げ出し戦う輩を相手に、どうやって一人で立ち回ったというのか。不可能だろう。どれほどの手練れであっても、数の暴力には無力だ。

 ヤタカは被りを振って、有り得ないというように両手の平を持ち上げた。

 

「寺の襲撃の後なら狼煙塚の者が一同に会すことがあったろう。全員を殺そうと思うなら千載一遇の機会ともいえるが、最悪の状況でもある。命を投げ出すことさえ厭わない連中だ。幼い頃から肉体も精神も徹底的に仕込まれている筈だ。そんな、この世を破壊するために存在するような者達を何十人も相手にしたのでは、たとえ円大でも勝てやしない。無理だ。どう考えてもな」

 

 鼻で笑うかと思ったゴザ売りが、表情を変えることなく頷いた。意外な反応にヤタカは目の端をぴくりと持ち上げた。

 

「その通りだ。奴らは徹底的に訓練されている。円大はその性質を利用した。使命の為なら死を恐れぬ狂気に染まりきった真っ新に白い無垢な心だからこそ、円大ひとりで事足りた」

 

 まるで謎かけだ。聞き返す言葉さえ浮かべられなかったヤタカは、じっと耳を傾けゴザ売りの放つ次の言葉を待った。

 

「寺に囚われていた異種と異物の解放を成し遂げて、残るは人の殲滅のみ。それは奴らの手には余ること。後は仕上げの鍵さえ噛み合わせることができたなら、自由になった異種と異物が放っておいても人という種族をこの世から消し去る。まぁ、そういう教えを教え込まれた連中だ。円大は、その教えを巧妙に言い換え手札を切った」

 

「何をした」

 

 想像することさえ拒否しようと、頭の芯が冷えていく。

 

「鍵は揃った……そう告げた」

 

「揃ったのか?」

 

「まさか。見破られればさすがの円大といえ命はない。それこそ数の暴力だ。ところが、一世一代の嘘は、狼煙塚の者達に真実として受け入れられた」

 

 涙を流す者さえいた。そういってゴア売りは溜息と共に嫌悪感に染まる眉根を潜めた。

 

「寺から解放された異物の中に、シズクと呼ばれる異物があった。それを円大はサザナミと言われる鍵穴だと偽った。その鍵穴の中で芽吹く異種、ユウモヤも手に入れたと。もちろん見せたのは誰も目にしたことのない異種だ。遠い昔に寺に囚われ眠っていた異種の一つに過ぎない」

 

「それを信じたのか? 異物に愛でられる一族なら、円大が手にした異物がそうではないとわかっただろうに。異物そのものに問いかければ、嘘などすぐばれる」

 

 いいや、とゴザ売りは首を振る。

 

「下駄の坊主のように自ら話す者でさえ、その言葉を目に出来る者は限られる。普通の異物は意思を持てど、それを人に知らせる言葉を持たない。言葉なき意思をくみ取れるのは、一握りの人間だけだ。狼火塚の奴らは異物を見ることはできる。だが強烈な怯えや喜びといった感情の波くらいしか感じることはできない」

 

「円大が嘘をついたなら、嘘の元に晒された異物は強い感情を放っていただろう? それすら感じられなかったというのか?」

 

「異物は人の言葉を理解する。言葉というより、感情というべきか。円大は、幼少期のおまえを騙し続けた人好きする笑みで、異物にこれからすることの意味を言い含め、安心させていた」

 

「見たのか?」

 

「あぁ。突然起きた寺の崩壊に怯えていた異物は、円大の笑顔と優しい声色に落ち着きを取り戻し、異物達を守り自由に森で在り続けるために自分が役立つのだと信じたようだった。そんな異物から発される気を、狼煙塚の連中は本物の落ち着きとして受け取った」

 

 シズクと呼ばれる異物が哀れだった。親愛を寄せる数少ない人間の頭目に、エゴにまみれた薄っぺらな笑顔に騙された無垢な存在が悲しく愛おしい。

 

「信じた連中を、その後どうやって始末した?」

 

「なにもしないさ」

 

「なにも?」

 

「奴らは言い伝え通り、自らの血をシズクに注いだ。力を与えるとい言うより、人は去るから後は頼む……血を介して異物にこの世の行く末を託すのさ」

 

 馬鹿らしい。死んで何になる? 

 

「最後の一人が地に倒れ、最後に自分も逝くと手首に当てていた小刀を、円大はゆっくり下ろした。シズクを濡らす赤い海に、円大の血が混ざることはなかった。もう一度振り上げた小刀で、円大はシズクを打ち砕いた」

 

 嫌悪感に首筋がゾクリと震えた。シズクは最後の時に何を思っただろう。時代が違ったなら……見ず知らずのシズクとゲン太が戯れる姿を思い浮かべ、ヤタカは奥歯を噛みしめる。

 

「円大は声を出さずに笑っていやがった」

 

 部屋の隅から鼻を啜る音がした。必死に押さえていたであろう嗚咽は次第に唇を押し開き、人目も憚らずにおいおいと鳴く声が壁に木霊する。

 異物達を抱きしめて、シュイが泣いていた。

 呼応するように、慰めるように部屋の異物達がかたかたと身を揺らす。

 木板に巻き付けられていた白い糸がシュルシュルと解けた。糸は小さな竜巻となって舞い上がり、飛び散ったように身を膨らませて、そっとシュイの背を包み込む。

 糸に縁取られた大きな鶴が、いっぱいに広げた翼で守るようにシュイを覆う。

 

「人間様より、あいつらの方がよっぽど心を持っていやがる」

 

 ゴザ売りが呟く。

 

「あんた、どうして予測不可能な現場に居合わせることができる? あんたの持つ力は人外だ」

 

 素直な思いだった。

 

「この目のおかげさ」

 

 にやりと指差した二つの眼をヤタカはマジマジと見つめた。改めて見ると年の割に濁り一つ無い綺麗な目だった。

 

「こいつ異物だ。万能じゃないが、人には見えない者もみえる。少し先の未来を見せてくれることもある」

 

 幾度も出会っていながら、異物の気配を感じなかったことにヤタカは愕然とした。

 

「こいつは気配を消す。宿り主の体に馴染む」

 

「どうやって手に入れた?」

 

「命と引き替えに、オレは宿主になった」

 

 死にかけた者の命を繋ぐ代わりに身に宿る異物。耳にしたことはあるが、半分お伽噺のようなものと思っていた。

 

「こいつは死にかけている者か、視力を失った者に宿る。そういう質なんだろうよ。こいつが離れれば、寿命を待たずに宿り主は死ぬ。本来はこんな血生臭いものを見たがる異物じゃない。オレなんざに宿って、ちっと可愛そうな目に合わしちまっているがな」

 

「おまえが死んだらどうなる?」

 

「すぐに次の宿り主を捜す。体から離れれば、こいつはただの黒曜石だ。河原に転がれば普通の人間には見分けがつかねぇ」

 

「どうして俺に話した? そいつを抜けばおまえは死ぬんだろ? 眠っている間に引っこ抜くかもしれないぜ?」

 

 くくくっとゴザ売りが笑う。

 

「やれるもんならやってみな。おまえにやられるほど落ちぶれちゃいねぇよ。教えたのは事のついでだ。気まぐれさ」

 

 気味が悪いぜ……そう呟いてヤタカは黙る。

 大方話しも終わったかね? そういって主人が熱い茶を運んでくれた。

 シュイは蹲ったまま泣きじゃくっている。あやすようにゲン太が薄墨を浮かべては跳ねている。

 ずずっと音を立てて茶を啜ったゴザ売りは、熱い湯呑みと戦うように握っては放しを繰り返す。視線は泣きじゃっくりを繰り返すシュイに注がれていた。

 

「話に出てきたサザナミとユウモヤとやらを、円大はまだ手に入れていないのだろう?」

 

「今はまだ……な」

 

 燭台の木肌のあちらこちらで、木目をそのままに木肌色の花が咲く。浮いては爆ぜる泡のように、月見草に似た花が咲く。

 

「だが、手に入れる算段はとっくにつけているだろうよ。仲間を葬ったってことは、その頃合いが間近だということよ」

 

 まだ痛む傷口に手を当て、ヤタカは円大を思い浮かべた。見慣れた笑顔が灰色の塵に霞んでいく。思い出の笑顔がまやかしなのだと、瞼に焼き付く笑顔を掻き消していく。

 

「それはどこにある? 俺が円大より先に手に入れる」

 

 ヤタカの言葉に、ゴザ売りの三白眼がちろりと光る。

 

「てめぇは、本気でこの世の平穏を取り戻したいか?」

 

「あぁ。俺は穏やかな日の下で、イリスに故郷の泉をみせてやりたい」

 

 ゴザ売りの目が僅かに泳ぐ。感情とさえ言えないほど微々たる動きだった。

 

「嬢ちゃんを守る為なら、自分を捨てられるか」

 

「全力を尽くす。死んでもイリスを見捨てるような真似はしない。この世がどっちに転がろうと、それは変わらない。それより……どこにある?」

 

 答えずに立ち上がったゴザ売りは、ばさりと外套を羽織り目深に頭巾をかぶり踵を返す。

 

「だったら、まずは嬢ちゃんを助け出せ」

 

 背を向けたまま出口へと歩き出すゴザ売りに釣られて、ヤタカも立ち上がる。

 

「おい、答えになっていないだろ!」

 

 岩壁を掻き分けた手がしゃらしゃらと音を立てて止まる。

 

「ユウモヤは嬢ちゃんに宿っている。今や嬢ちゃんそのもの」

 

「なんだって……」

 

 力の抜けた腕がの置かれた湯呑みを押し倒した。流れ出た茶に驚いて、木肌に乱れ咲く異物の花が慌てて身を潜める。

 

「鍵穴に鍵を差し込むってのは比喩だ。異種と異物をあるべき場所に戻すには、ユウモヤとサザナミが必要とされる。歴史がそれを事実だと語っている。そして……」

 

 背を向けたゴザ売りの肩が僅かに上がり、すとんと落ちた。

 

「異物か異種が取り出され、鍵穴に鍵が差し込まれるとき、どちらかの宿り主は死ぬ。それが定めだ」

 

 イリスの目に宿る異種がユウモヤなのだと、理解に心が追いつかずヤタカの視界が霞んでいく。

 

「サザナミは……」

 

 ヤタカは掠れた声を絞り出した。

 

「サザナミは、おまえが宿す水の器。今はおまえがサザナミそのもの」

 

 しゃらしゃらという音を潜ってゴザ売りは出ていった。

 

――俺がおまえに与えるのはおそらく、希望じゃねえよ。絶望に近い現実だ

 

 ゴザ売りの言葉が嫌な反響を伴って耳の奥で蘇る。

 燭台の上で握りしめたヤタカの手を、恐る恐る近寄ってきた木の花が囲む。ぶるぶると木目の花びらを振るわせ、助けを請うように揺れ続けた。

 

 

 

 

 

 




 読んでくれてありがとうでしたっ
 次話はゴザ売りおっちゃんの回想なり……


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41 鬼の面に子守歌を

宿屋あな籠もりを出た後、横道を早足で進みながらゴザ売りは眉間に深い皺を刻んでいた。

 あのヘタレ野郎にイリスの命を預けているのかと思うと、ヤタカに感じる不甲斐なさやや焦りより、思うように身動きの取れない己への憤りのほうが遙かに勝る。

 

「下駄の坊んずのほうが、よっぽど頼りにならぁ」

 

 自分が今動いて、イリスを助け出すわけにはいかなかった。隠し釘が、その意味を最大限に発揮できるのはおそらく一度きり。意思を掲げて面を晒せば、その後はただの錆び釘でしかなくなる。だからこそ見決めなければならない。

 時を違えて出過ぎれば錆び付く釘も、出損じればただの鉄釘にすぎない。

だからこそ、今は耐えるしかなかった。

 

 立ち止まった足元にけっ、と唾を吐き捨て細めた眼を凝らしたゴザ売りは、土中に蠢く無数の気配に片眉を上げた。

 

「俺の動きが気にいらねぇか……」

 

 伝えたい事の全てを口にするわけにはいかなかった。

 言ってしまえば楽になるであろうことも、今はいう時期ではない。

 そんな相反する思いへの憤りが、周囲への警戒を薄くさせたのは一瞬だというのに、気づけば異種に囲まれていた。

 隠し釘一の能を誇るゴザ売りが、不覚を取るなど有り得ることではなかったが、大動乱の最中に予想より早く実行されたイリスの拉致は、研ぎ澄まされたゴザ売りの勘さえ鈍らせた。

 近道を辿るため、複雑な脇道を幾つも潜っている。この辺りを人が通ることなど、まずめったに有り得ない。

 

「まずいな」

 

 味噌に漬けられた菜が急速に水分を吐き出すように、ゴザ売りの体から力が抜けていく。震えながら耐えた膝がついに折れ、ゴザ売りはがくりと地に這った。

 春先に大地を覆う青々とした若葉の香りが鼻孔をくすぐり、首の根元に痺れが走る。針金が伸びるように上へ登る痺れの筋が、頭の中の一点を突くように刺激した。

 

――セキシュンか

 

 現実と夢の境目で朦朧とする意識の中、ゴザ売りは異種の正体に辿り着く。

 ゴザ売りは反射的に息を止めた。

 過ぎゆく今の春を名残惜しむ〈惜春〉とは意を異にする。セキシュンは、過ぎた時を呼び戻す。忘れられない短い春を呼び戻し、現実と見紛う空間で再体験させ、夢に溺れさせる。

 

――俺が這いずってきた道に、春なんざありゃしねぇ。お門違いだ

 

「馬鹿やろうが……」

 

 細い横道に微細な花粉が立ち籠める。

 土壁の隙間から糸のように花糸を伸ばし、ふるふるとやくを振り花粉を撒く者達が、葉とも花とも見分けがつかない緑色の姿を現した。

 姿を見せたことで更に激しく振られる花糸から舞い上がる花粉が、ゴザ売りの周りを黄砂に似た濁った黄色に染めていく。

 自由を失った意識と引き替えに、ゴザ売りの肺が大きく息を吸い込んだ。

 鍛えられた体内へ忍び込んだ微細な花粉は、乾いたシワを刻むまで生きたゴザ売りの人生に、一度だけ色鮮やかに小花が咲いた春へと誘った。 

 

 

 

 

 

 浅黒く日焼けした肌に赤い鮮血を垂らし、男は山中を駆けていた。

 良心的な貿易に失敗して追っ手に追われていた。良心的な貿易など言葉のあや。手中にある集団の情報をそれぞれに流し、必要な情報を新たに仕入れる。

 今回は予定外の組織がひとつ絡んできたのが失敗の要因だったが、そんな言い訳をしている余裕はない。

 情報を横流しする者の存在は知れた。だから追われている。この上大事なことは……。

 

――この面を拝ませないこと

 

 顔さえ知られなければ、姿形を変えていずれ情報の網に潜り込むことは容易い。

 ただの村人なら百人でも巻いてみせるが、追ってきているのはそんな甘い連中ではない。 確実に近付いている気配に反して、怒声の一つさえ発していない。

 山を駆け抜ける際に出るはずの、枝を折る音一つ聞こえはしなかった。

 

――街道まで出られたら何とかなるが……難しいか

 

 勢いを落とすことない追っ手に引き替え、男は失血による目眩と息苦しさに足を鈍らせていた。

 懐に忍ばせた黒い丸薬に手を伸ばす。

 正体を知られ、隠し釘本来の立ち位置を知られるくらいなら、自ら命を絶つ。それが隠し釘として育てられた者がみな、骨に浸みるほど教え込まれた人生の幕引き。

 

「チッ」

 

 背後で木葉がシャッっと立てた音に反応して、男は真横に転がった。

 葉を貫いて男を仕損じた投げ矢が、男の目前にあった木の幹に突き刺さっている。

 

――これまでか

 

息絶える前に面が外れることのないよう、紐をきちりと結び直した男は、片膝を立て短刀を胸の前に構えた。

 人影の見えない森の茂みにぎらつく視線を送りながら、懐から取りだした小さな紙の袋を素早く歯で引きちぎる。

 丸薬を口に含もうとした瞬間、腹部に向けて飛んできた矢を身を捻り反射的に避けた。

 ザッと引いた左膝に当たる筈の、土の感触がないことにはっとした。

 遅れて遙か遠く下の方で、土塊の固まりが砕ける音が響く。

 支えを失った左足に引かれて体が傾ぎ、抗う間もなく宙に放りだされた。

 細々と流れる川のせせらぎが、男の体から余計な力を抜き取っていく。

 

――水音か……嫌いじゃねぇ

 

 くだらない人生の末路に耳にするのが自由な川の歌でよかった、と男は微かな笑みを口元に浮かべ目を閉じた。

 

 

 

 

 口の中に溜まった少量の水をごくりと飲み込んだ。

 

――年寄りがいってたな。三途の川を渡る前に、古くさい井戸水を柄杓ですくって飲めば、綺麗さっぱり今生の出来事を忘れて生まれ変われる……だったか。

 

 鬼畜道を生きるしかない者達が縋り、語り継ぎそうな話だ。

 全て忘れて生まれ変われるなら、誰にも憎まれず傷つけることもない草花がいいと思った。 鬼畜にも、いや鬼畜だからこそ広い大地に堂々と咲く小花を愛でるの者は多い。くだらない哀愁だ。

 

――まぁ、柄杓で水を掬う前に、鬼に首を切られんだろうさ 

 

 地獄への道がいつ見えてくるのかと、ぼんやり思考を巡らせていた男は、口元にぴしゃりぴしゃりとかかる水の感触に、自分が目を閉じていることに気がついた。

 

「ヒッ!」

 

 男が驚きに喉を詰まらせたのも無理はない。

 目の前に自分がいた。

 自分の被っていた面がじっとこちらを覗き込んでいた。

 

「だれだ! てめぇ!」

 

 腹に力を込めて吐き出した怒声が、脇腹と肩口の痺れるような痛みを呼び起こした。

 刺し殺さんばかりの勢いで怒鳴りかかった男は、追い打ちを掛けようと吸い込んだ息をそのまま呑み込み、呆けたように目を見開く。

 怒声に驚いて豆のようにぴょんと飛び退き、勢い余ってでんぐり返った者の正体は、どう見ても幼子だった。

 大きな葉に掬って抱えていた水が、おかっぱに切りそろえられた髪をきらきらと日に輝かせている。

 

――俺に水を飲ませようとしていたのか?

 

 葉の水を掬い上げ、なんども口に運んでいたのだろう。口に入らずほとんど漏れた水が、男の胸元を盛大に濡らしていた。

 敵ではない。しかも幼子と解って男はすっかり気を抜かれた。

 

「人違いだ、怒鳴ってわるかった」

 

 心底驚いたのだろう。立ち上がろうと土を掻く足は慌てるばかりで、小さな拳はぎゅっと握られ応戦するように、何度も男に向けて繰り出される。

 

「逃げたけりゃ落ち着いてさっさと行けや。行く前に面は置いていってくれよ、それは俺のもんだ」

 

 ぴたりと動きを止めた幼子は、四つん這いになるとそろそろと寄ってきて、俯いたまま外した面を差しだした。俯き過ぎた顔は前髪に隠れて見えなかったが、ここで顔を覚えたところでどうなるものでもない。

 転がり落ちた時に両足を酷く挫いたらしいから、このガキが居なくなれば死ぬだろうと思った。

 

――ガキに死に水取らせるわけにもいかねぇや

 

 へへへ、と心の中で苦笑いした男は、指し出された面を受け取り息を吐く。

 

「最後に聞かせてくれ。おまえが俺を見つけてからどれくらい時間が経った?」

 

 四つん這いで俯いたまま、幼子は指を折る。

 

「二かい、お日様がのぼったよ」

 

 細く幼い声が答える。

 二日以上気を失っていたことに男は驚いた。傷を負いさらに崖から落ちている。運良く致命傷を負わなかったとしても、崖から落ちた時点で男はそうとうな乾きを感じていた。水無しで二日以上を生きたなど到底ありえない。

 

「まさか、おまえがずっと水を口に運んでいたのか?」

 

 責められているのか褒められるのか解らなかったのだろう。肩をぴくりと竦め、俯いたままの頭がこくりこくりと頷いた。

 男は半ば呆れて息を吐き出し、まじまじと小さな体を見つめ直す。

 

「ご苦労なこった……ありがとよ」

 

 ありがとうという言葉が顎を突きあげた……そう思える勢いで小さな頭が上げられた。泥だらけの、けれど花咲くような笑顔だった。

 

「おまえ、女の子……なのか?」

 

 こくりこくりと頷いて、幼子は髪に結んだ花を得意げに指差してみせる。

 ばさりと下がった髪に隠れて見えなかった花は、すっかり枯れて萎れていたが、本人はそんなことなど気にしていないらしい。

 野草に詳しい男は不思議そうに首を傾げる。見たことのない黄色い小花だった。

 萎れて茶色い花はほとんど原型を留めていないに近いのだから、元の形を想像する方が無理というものだろう。

 

「それえにしてもおまえ、頭に巻いた布はなんだ? 目が悪いのか?」

 

 白い布で目元を覆う幼子は、再び顔を伏せて無言のまま首を振る。

 

「おひさまがね、目にわるいって」

 

「そうか」

 

 目に炎症でも患っているのだと、男はひとり合点した。それにしても、目隠しで川の水を運ぶことなどできるだろうか。浮かんだ疑問に男はぶるぶると首を振る。余計なことに首を突っ込まない。それは相手が幼子でも変わらない。

 

「家は近いのか? 日が暮れる前に森から抜けろ。おまえみてぇなガキが生き残れる場所じゃねぇよ、この森の夜は」

 

 四十メートルほど先に流れる川は細い。その向こうには寸分先もみえないほど生い茂った深い森が広がっていた。水が流れる音からして、おそらくは浅瀬が続ている。

 あの森に潜むものなら簡単に、川を過ぎってこちらへ襲ってくるだろう。

 幼子は立ち上がるとくるりと身を返して歩きだした。手には杖代わりの細長い棒が持たれている。そのまま行くのだろうと見送っていた小さな背は、しゃがみ込むと水を汲んだ葉を抱えて、てこてこと戻ってきた。

 

「あい、どうじょ」

 

 まだまともに口も回らないくせに、生意気なガキだ。

 そんなことを思いながらも、男は葉の中の水を飲み干した。どうせ夜中に獣に喰らわれるとしても、乾きがなければそれまで楽に過ごせる。そう思った。

 

「おいちぃ?」

 

「あぁ、うまかった」

 

 男の言葉に幼子は両手で自分の頬を包み込み、嬉しそうにくるりと回った。細い髪が孤を描いて日に透ける。

 

「さあ、いけ。もう戻るんじゃねえぞ。親が心配してんだろうよ」

 

 幼子は不思議そうに首を傾げたが、こくりと頷き歩き出した。

 何度も振り返っては、小さな手を振りぴょんと飛ぶ。

 岩陰に小さな体が隠れて消えるまで、男はじっと見送った。

 二日も面倒をみてくれたなら、すぐ帰れる場所に家があるのだろうと思った。

 追っ手が死体を探しに来ることも十分有り得る。あの子がここにいることは危険過ぎた。

 追っ手と生きたままここで出くわすのが一番拙い。落下したとき、男の手に握られていた丸薬は何処かへいってしまった。

 この季節でも山間の夜は冷える。

 

――ちきしょう、寒いのは嫌いなんだが

 

 寒いのも痛いのも嫌いだ。ただ寒さや痛みに耐える術を教え込まれた。辛さを感じない振りが上手くなった。それと同時に、幸せを感じることもなくなった。

 幸せや喜びを知れば、対極にある理不尽な痛みやくだらない人生を思い知る。

 塞がりきらない傷口から、じわりじわりと命が流れていく。

 うつらうつらとした後に、目を細く開けると山間に夜の色が濃くなっていた。木々に覆われた山の縁が茜色を残している。

 

――寒ぃな

 

 血が流れすぎた。息を吸っても息苦しさだけが残る。夜の帳に冷やされた風が、男の体温を更に奪い、力の残っていない体が反射的にぶるりと震えた。

 次ぎに瞼を開けた時には、月が空高くに昇っていた。

 風は止み、冷え切った森の空気がヒリヒリと肌を刺す。

 

――ちぇ、集まって来やがった

 

 月明かりに誘われて湧きだしたように、濃い獣臭が辺りを漂う。

 抗う気など無かった。抗えば抗うだけ、苦しむ時間が引き延ばされる。多くの命を手にかけてきたが、なぶり殺したことはない。どれほど腐った野郎でも、無駄に苦しまぬよう命を奪ってきた。

 言い訳にもならないが、出来ればひと思いに首筋を噛み砕いて貰いたいと男は願う。

 

――こういうとき、夜目が利くってのはありがたくねぇ

 

 浅い呼吸を繰り返しながら、男は胸の中で苦く笑う。川向こうに森から出てきた獣が彷徨く影が見えた。離れた位置で互いにけん制し合っている。どこで嗅ぎつけたのか、川のこちら側でも左右から寄ってくる気配があった。

 一匹が動けば、瞬時に餌の奪い合いが始まるだろう。急所を狙う前に餌の引き合いとなる。

 

「最悪だぜ……きたか」

 

 川向こうから一気に飛び込んでくる影。糸で繋がれたように無数の影が押し寄せる。目の前で、激しい餌の奪い合いが始まった。

 獣の咆哮が山に木霊する。

 抜け出した一匹を、横殴りに飛びだした別の獣がなぎ倒す。

 男は目を閉じなかった。

 多くの命を奪ってきた者の、それは義務だと思う。

 最後に命を奪う者の影を、己の罪の代償に見届けようと思った。

 

――おまえが、勝利者か

 

 絡み合う影を飛び出し、バネのような跳躍で襲い来る影に、男は最後の時を知った。

 目の前に着地し牙を剥いた頭部が、首をねじ曲げて男の首にかかろうという刹那、濃い獣臭を放つ影がぴたりと動きを止めた。

 すっと首を引き、けれど未練がましく振り返りながらゆっくりと獣が立ち去っていく。

 訝しげに目を細めた男の目に移ったのは、同様に森へと返っていく獣たちの影だった。 獲物が野ざらしだというのに、一匹たりとも向かってくるものはいない。野生には有り得ない異常な行動だった。

 

――天災の前触れなら、奴らはもっと素早く動く。何があった? 何が奴らを遠ざけた?

 

 森の濃い闇に溶けて姿を消した獣の影を訝しげに見送りながら、男は呻きにも似た息を漏らす。瞬時に死ぬか、真綿に首を絞められるようにだらだら死んでいくかの違いでしかなかった。

 

「寒ぃな……」

 

 親にさえ抱かれた記憶がない。こんな凍える夜に思い出す人の温もりなど、男の記憶には欠片もなかった。

 寒さと痛みを飛び越えて閉じかけた目をかっと見開き、男は暗闇に視線を走らせる。

 河原の石を踏み走る小刻みな音が近付いていた。

 それとは別に足音とさえいえない微かな動きが三つ。人と呼べぬほど鍛え上げられた男の聴覚に届いていた。 

 獣の気配はない。それ以外の気配が近付いていることに男の神経を緊張が駆け巡る。

 身動きできないと知って、追っ手が足音さえ消さずに近付いてきた可能性は拭えない。

 

――なめられたもんだ

 

 役に立てそうもない懐の刀に、それでも男は手を伸ばす。

 挫いた足を引き摺って、もたれていた大木の裏へ回り、湧き上がる殺気を内に閉じ込め気配を消した。

 感じ取れる動きは四人。その内三つは包囲網を縮めるように近寄ってきているが、男の気配を感じ取るにはまだ遠い。

 

――だが、一つは近い

 

 影の様に忍び寄る気配とは別に、近寄る者がいた。

 これほどあからさまに近付かれては、男の場所を教えようとしているとしか思えない。

 

――まさかとは思うが、草の根に見られたか……

 

 草の根とは、それぞれの組織が隠密に抱える情報屋のこと。何の技も力もない者達が草の根として使われている。その役は代々受け継がれ、知られる名もなく平凡に暮らしている村人や旅人達だが、そのすそ野は広い。

 石ころのように監視の目が転がっていると思えば、これほど厄介なこともない。

 それが草の根と呼ばれる存在だった。

 

――草の根とあらば……

 

 この世の裏の蠢きなど露程も知らない人々を殺めることなど決してしない。だが、草の根となれば話は別となる。彼らが情報と引き替えに得る金には、自らが侵す危険が摘み取るかも知れない、命の代金も含まれている。

 

――来た

 

 臍の下にあらん限りの力を込め、大木の向こうから回り込んでいた人影を腕に絡め取り地にねじ伏せた。

 

「おまえは」

 

 男の目に驚きと失望の色が濃く宿る。

 

「こんなガキまで使いやがって。おまえ、草の根だな。親に頼まれたか? 奴らにこの場所を教えたんだろ。」

 

 男の筋肉質な腕に肩を押さえ込まれているのは、昼間水を与えてくれた幼子だった。

 

「恨むなら親を恨め。顔を見て声を聞いた以上、生かしてはおけねぇ」

 

 腕を広げた範囲の者にしか聞き取れない特殊な声で、男は低く命の終わりを相手に告げた。

 男が刃を振り上げたとき、距離を縮めて包囲した三人の一人が、「シュイッ」と動物が鼻から息を抜くような音を上げた。

 仲間へ位置を知らせたのだろう。

 

「チッ、見つかったか。クソガキ、せめて苦しまずに死ね」

 

 暗がりで表情の伺えない幼子の、心の臓めがけて一気に刃を振り下ろす。

 

「なっ!?」

 

 肌を切り裂く手前で、ぴたりと刃が動かなくなった。いつの間に絡め取ったのか、男の手首を太い蔦が巻いていた。

 唐突な出来事に、同じ蔦が自分の背から腹へ貫いて穴を開けたと気づくのに一瞬の間が空いた。

 

「どうなって……いやがる」

 

 包囲網が狭まってくる。

 男は細い肩から手を放し、手を絡め取る蔦を切ろう藻掻いた。

 

 ズボリ

 

 嫌な音を立てて、腹に刺さった蔦が引き抜かれた。

 腹のど真ん中に空いた風穴から、どくどくと命が流れ出る。

 ざざりと音を立て、引き抜かれた蔦が男の前に回り込んだ。夜目が利く男の目に、迫る蔦の先がはっきりと映る。

 しゅるりと布が擦れ解ける音がした

 鎌首をもたげた蛇の猛攻を思わせる蔦の勢いが、ぴたりと止まった。

 

「だめ、だめだよ」

 

 いつの間に立ち上がった幼子の、小さな手が蔦を掴んでいた。

 

「おまえ、何者だ? その目はいった」

 

 覆う布を取った幼子の目は、黄緑を織り交ぜた緑色に光っていた。

 まるで緑に輝く水を目に汲み取ったように、白目も白目もなくゆらゆらと輝き揺らいでいる。

 不意を突かれて動けなかった。男の首に両腕をぎゅっと回して抱きつく幼子に抵抗する力さえ残っていない。

 

――地震

 

 男がそう思うのも無理はない。突きあげる震動と共に、周りの地を割り大木の根が迫り上がる。あっという間に絡み合い、まるで最初からそうであったかのように二人を包んで土からせり出た大木の根となった。

 僅かな隙間から外の様子が伺える。暗闇で見えはしないが、男が情報を得るには十分だった。

 

「気配が消えた」

 

「確かにここら辺りだったのだが」

 

「遠くまで行ける体でもないだろうさ」

 

 くぐもった三人の男の声には聞き覚えがあった。

 五体満足だとしても、打ち勝てる保証はない手練れだった。 

 

「散れ」

 

 音もなく、三方向へ散らばっていく男達に安堵する間もなく、男は消えかかった命を浅い呼吸で繋いでいた。

「おまえ、草の根じゃねぇのか……なら……なぜ戻った……ぐえぇ」

 

 胃に流れた血が、口から沸いて吐き出される。

 

「これ、これあげる」

 

 幼子を照らすように、周りを囲む太い根の表面がちらちらと光る。

 幼子の手には、丸く小さな石がふたつのっていた。

 

「これ持って。死なないで、ね?」

 

 眉尻を下げ今にも泣き出しそうな顔で、幼子は必死に男の手に石を握らせようとした。

 

「いらねぇよ」

 

 手に押し当てられた瞬間、男にはそれが異物だとわかった。

 寺なら喉から手が出るほど欲しがるだろうと、薄れる意識の端っこで思う。

 視力を失った者、もしくは命を失いかけた者に宿り、宿る代わりに命を繋ぐ。時代の影に時折姿を見せたとされる伝説の異物は、裏を生きる者達の間でさえ眉唾物とされ幻扱いされてきたというのに、今それが目の前にある。

 

――俺には必要ねぇ。 やっと死ねる

 

 痛みから逃れたくても、これ以上生きていたいとも思わなかった。生きていても、先の道に光など欠片もない。

 石を受け取ろうとしない男に、幼子は緑の瞳から涙を流す。傷口を小さな手で押さえ、石を頬に押しつける。

 石を押しつけても、宿主と成る者に受け入れる意思がなければどうにもならない。それがこの石の持つ理とされていた。

 

「どうして助ける……」

 

 死ぬ前に聞いておきたかった。

 

「おじちゃん、これくれた」

 

 血に濡れた手で幼子が懐から取りだした物を見て、血と一緒に乾いた笑いを吐き出した。

 半年前の記憶が蘇る。

 幼子の手にあるのは、アメを包む紙で折った鶴と、くれてやった腹痛の薬。

 偵察の隠れ蓑に、ゴザを広げて商売していた暑い日だった。

 道の端っこ腹を抱えて蹲る女の子に、気まぐれで薬をくれてやり、戯れに鶴を折って慰めた。

 

「馬鹿か……おめぇは。こんなクズ相手に」

 

 どうして幼い子がひとりでここにいるのか、夜に家を抜け出せたのかなど考える余裕はなかった。この子が自分を助けようとした理由など、実にくだらない。

 それでも―――意識が途切れかけた男の目尻に薄く笑みが浮く。

 

「あたし、いたいの、なおったの。おじちゃん、やさしいでしょ?」

 

 小さくとも人の役にたったのかと、知っただけで死ねると思った。

 しゅるしゅると、根が大地へ戻っていく。まるで幼子を守りきったというように。

 

「これあげる。ね、ね?」

 

 これが自分の物だというのか? まさかという思考さえ風穴から血と共に流れ出る。

 

「奴らが戻るまえに……かえれ」

 

 言葉で幼子の想いを払い、命を手放そうと閉じかけた目がかっと見開かれる。

 男を見つめていた幼子も、何かを感じたのか押しつけていた手を引いて辺りを見回すと、ぴたりと背を男に寄せて小さな手を一杯に広げて立った。

 大きく広げて立つ足が、かくかくと震える振動が男の膝に伝わってくる。

 利害無しに守られたことなどなかった。

 利害なく、守ろうと想う者などいなかった。

 男の中に残る命の燻りが、膝に伝わる幼子の足の震えに再び燃え上がった。生きる意味を見いだした男の手が、少女の手から石を取る。

 

「こいつは、俺がもらうぜ」

 

 すでに気配を消すことさえ止めた足音が、すぐそこまで迫っていた。

 草の根ではないというなら、この子も一緒に殺されるだろう。

 

「体を貸してやらあぁ。だからこの体……今すぐ動かせや!」

 

 咆哮に似た叫びと共に、二つの石を眼球に押しつけた。

 目玉が焼かれたと錯覚する痛みが、稲妻のように走ったのも一瞬、石は男の中に吸い込まれる。

 血は流れ続けているが、今男を生かしているのは血ではない。

 この世の日陰に在り続けた異物が足の痛みを退け、男に紛い物の命を与え体を突き動かす。

 

「隠れていろ!」

 

 いうが早いか、幼子の首に結わえられていた面を素早く奪って顔に括り付けた。

 幼子が慌てて大木の向こうに回り、しゃがみ込んで隠れたのを目の端で確認した男は、

幼子から敵を引き離す為に素早くその場を離れ、近寄る影との間合いを一気に詰める。

 そして、その場に倒れ込んだ。

 一瞬にして囲まれた男は微動だにしない。手にした短刀を握る指はだらりと延び、脇腹に入った蹴りにもぐらりと揺れたきり、俯せて転がったままだった。

 

「何にやられたんだ? こりゃもう虫の息だぜ」

 

 囲む男達の殺気が迷いを見せる。小刀を構え、寸分の隙もなかった体勢に僅な緩みが生じた。

 俯せて息を詰め、空気の流れさえ聞き漏らすまいと神経を研ぎ澄ませていた男の感覚は、その緩みを見逃さない。

 攻撃に移る支点のない体勢から一気に跳ね上がり、虚を突かれ一歩引いた男の懐に入り込む。肘で顎を砕くと同時に相手が手にしていた小刀を奪い取り、躍りかかってきた二人を交わして立て続けに急所へ刃を突き立てた。

 

 喉を潰したような呻き声が上がり、ばたりと黒い影が大地に伏せて重なった。

 顎を砕いた男に歩み寄り、砕けた顎を無理矢理押さえ口を開けさせた。

 森に悲鳴が響き渡る。開いた口に一粒の種をねじ込み、口の中に溜まった血と一緒に飲み込ませる。

 顎を砕かれ話すことさえ出来ず、驚きと恐怖に目を見開く追っ手の顔が、雲間から顔を出した月明かりに照らされた。

 

「今のは双子草の種だ。吐き出そうったって無理だぜ。胃に届く前に、肉の中に潜り込む。そしてこれが、片割れの双子草の種だ」

 

 男は血まみれの紙を懐から取りだし、指先で摘んだ種をゆっくり包んで手の中に握り込む。

 

「こいつを埋め込まれた意味は、わかるよなぁ」

 

 追っ手の男はぜぇぜぇと息を荒げ、血走る目を見開いた。

 

「命は助けてやる。てめぇの仕事は報告だ。仲間は殺された。だが自分が仕留めたというだけでいい。その一言で、俺はこの世から消えた存在になる」

 

 男が首を横に振る。

 

「別にかまわんぜ? おまえが余計なことを話せば、俺に追っ手がかかる。その時はこの種を割るだけだ。そうしたら、おまえの中に根付いた種も爆ぜて、おまえは死ぬ」

 

 追っ手の体内に仕込んだのは異種。この異種本来の使い方ではないが、素人ではない追っ手の者には、この説明だけで十分だと思った。

 命など省みず組織に義を尽くすことも十分にありえる。

 だが家族がいる者なら、自分が死んだ後の報復を恐れるかもしれない。望みは薄いが、賭けてみようと思った。

 

「裏切ったり、勝手に死にやがったら、草の根わけてでもお前に近しい奴の息の根は止めさせて貰う。逃がさないぜ」

 

 追っ手の目が泳いだ。

 人には必ず弱みがある。

 弱みを持たない人間など、この世にいない。

 弱みなどというしがらみをもたないからこそ、男は今までを生き抜けた。

 

「行け」

 

 男の言葉に追っ手は小さく頷き後退ると、月明かりの届かない森の闇へと姿を消した。

 大木の根元へ戻ると、男は芯がぬけたようにドサリと座り込んだ。

 異物といえど神具ではない。腹の風穴が塞がるには時間がかかる。

 

「足を癒し命は繋いでも、痛みはそのままか」

 

 今すぐ死ねたら楽だろうと思う。幾度となく死線をくぐり抜けてきた男でも、経験したことのない痛みだった。腹を中心に全身を焼かれている様にさえ感じられた。痛みにシワを寄せる男の眉根に、ぴたりと冷えた手が当てられた。

 

「いたい?」

 

 幼子が緑の瞳で覗き込む。

 

「大丈夫だ。だから帰れ」

 

 ふるふると首を振って幼子は座り込む。

 帰らないつもりか、と男は肩で息を吐く。

 

「それにしても、寒ぃな」

 

 目を閉じた男はふんわりとした温もりを胸に感じて薄目を開けた。幼子が男の膝に乗って頬を胸にぴたりとつけて抱きついていた。

 寒いといったから温めようとしているのだと気づいて、男の口元がふわりと緩む。

 気まぐれな月が顔を見せ、大木の根元で寄り添う二人を照らし出す。

 夜風から守ろうと小さな体に血まみれの腕を回すと、幼子はくるりと首を回してにこりと歯を見せ、もう一度胸に顔を当てて頬ずりした。

 

「いたいの、いたいの、とんでけ~」

 

 何かのまじないかと男は首を傾げる。なんども同じ言葉を繰り返し、男の体を撫でていた幼子は、そろそろいいかというように顔を上げた。

 

「どう? いたいの飛んでった?」

 

――俺の痛みを取ろうとしていたのか

 

「あぁ、痛みがへった。ありがとよ、少し眠ろう」

 

 嬉しそうに首を竦め頬を預けた幼子に再び腕を回し、その温もりを大切そうに男は抱きしめる。

 異物を持っていた理由を聞くのは明日にしよう。

 たとえこの子が化け物と呼ばれる者であろうと構わない。

 この小さな温もりを守る力になれるなら、生きていたいと思った。

   

「おまえ、名前は?」

 

「イリス! おじちゃんは?」

 

 俺の名か……

 

「おじちゃんは……アメ売りのおじちゃんだ。おやすみ、イリス」

 

「おやすみ、アメ売りのおじちゃん」

 

 聞いたことのない子守歌をイリスが歌う。細くあどけない歌声に、獣も眠り森の木々さえ耳を傾ける静かな夜だった。

 

――弱みができちまったな

 

 日溜まりのような優しい後悔に身を任せ、生まれて初めて自分の為に歌われる子守歌に、男は耳を澄ませて目を閉じた。  

 

 

 

 

 

 




 今回はゴザ売りとイリスの過去話しでした。
 読んでくれたみなさん、ありがとうですっ


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42 女の子は、おにぎりを盾に命を賭ける

 ゴザ売りが横道でぼんやりと目を開けたとき、土壁から伸びていたセキシュンの花糸

は姿を消し、異種の気配はすっかり消えていた。

 

「イリスを助けなかったことに痺れを切らしたのか? 心配すんな。心変わりなんざしちゃいねぇ。惜しむ命もねぇ。動かないんじゃない。動けねぇのさ。嬢ちゃんを守る為に息を潜めるのが、どれだけ辛いかわかるか?」

 

 わかっていても

 

「責めずにはいられねぇよな」

 

 体を起こし立ち上がったゴザ売りは、胸元をぎゅっと握り目を瞑る。

 

「心なんざとっくに捨てたっていうのに、胸があったけぇや」

 

 良い夢見させて貰ったぜ……

 

 宿屋あな籠もりがある方角を振り返ったゴザ売りは、そろそろか、そう呟いて横穴の奥へと姿を消した。

 

 

 

 

 おまえに本当の味方なんざ居やしねぇ。

 ゴザ売りの言葉がヤタカのザワザワと行き来していた。

 

「そんなことは解っている、なんていったら、ゲン太がむくれるんだろうな」

 

 無意識に口から思考が零れた。

 肩にそっと置かれた手に顔を上げると、宿屋あな籠もりの主人が白い毛の隙間から覗く目に笑みを浮かべ、宿の入口へと目を向けた。

 

「どうやら、一人ではないようじゃのう」

 

 主人の言葉に慌てて横道へ飛び出したシュイが、細い手を引いてゆっくりと戻ってきた。 細い腕、シュイの紳士的な態度に、ヤタカは来訪者が女性だと悟る。

 シュイが引く手の先に姿を見せた人物に、ヤタカはあっと声を上げた。

 

「チヨちゃん?」

 

 ヤタカを見るとチヨちゃんは、ほっとしたように微笑みぺこりと頭を下げた。

 ゴテの家にお手伝いとして仕えているチヨちゃんが目の前にいる。あまりにも場違いな光景だった。

 

「ここまで来るのは大変だったでしょ? ここに座って休んでね。いま、温かいお茶を持ってくるから」

 

 慣れた仕草で丸太にさっと布を掛けチヨちゃんを座らせたシュイは、茶をいれに台所へ小走りに向かう。

 

「チヨちゃん、どうしてここへ?」

 

 そうだ、ここは普通に来られる場所ではない。迷い込む人間がいたとしても、この入り組んだ迷路で宿屋あな籠もりに辿り着き、まして知り合いと顔を合わすなど万に一つも有り得ることではなかった。

 

「えへへ」

 

 恥ずかしそうに笑うチヨちゃんに、シュイがお茶を持ってきた。軽く会釈してチヨちゃんが湯気の立つ湯呑みを左手で持ち上げる。

 微かに引っかかる違和感が、ヤタカに記憶のページを捲らせた。

 

「チヨちゃん、たしか右利きだったよね? 怪我でもしたの?」

 

 料理上手のチヨちゃんは器用だが、コップを手にする時やおにぎりを食べるときはいつも右手だった。なのに今、チヨちゃんの右手は寒さ除けの上着の下でだらりと力なくぶら下がっている。

 

「異種に、右腕をあげましたから」

 

 こともなげに言ったチヨちゃんの言葉に、ヤタカは喉を詰まらせた。

 

「馬鹿な、そんなことをしたら……異種が芽吹いたら……」

 

「はい、死ぬそうです」

 

 部屋の向こうでシュイがビクリとこちらを向いた。和平はゲン太を抱いたまま顔を俯け、膝を抱えて背を向ける。

 

――どうしてそんな馬鹿なことを

 

「チヨちゃんは、ゴテ達の仲間なのかい?」

 

 チヨちゃんはくるりと目を見開き、ぶんぶんと首を横に振る。

 

「いいえ、わたしはあのお家に代々つかえるただのお手伝いです。お家の方々は何もおっしゃりませんでした。でも、幼い頃からお側にいましたから……うすうすは」

 

 ゴテが話しを聞かれるようなヘマをしたわけではないだろう。ただ、幼い日から共に時間を過ごした者だけが感じられる日常との違和感。そんな些細な感覚が、チヨちゃんの中で積もっていったのだろう。

 コトリと湯呑みをおいたチヨちゃんが、膝を揃えて真っ直ぐにヤタカを見上げた。真一文字に結ばれた桜色の唇が微かに震えている。

 

「ヤタカさん、ゴテさんを助けて下さい! 野グソさんを助けてください!」

 

 入ってきてすぐに見せた笑顔とは裏腹に、思い詰めた緊張を抱えていたのだろう。チヨちゃんの裏返った細い声に、ヤタカはふっと息を吐く。

 

「チヨちゃん、どこまで知っているかわからないから、口にするべきではないかもしれないけれど、命を狙われているのは俺だよ」

 

「そうです。ヤタカさんは、殺されようとしています」

 

 そして、お二人を助けようとしても、ヤタカさんは死ぬんです……チヨちゃんは消え入りそうな声でそう続けた。

 

「俺が死んでも、ゴテに助かって欲しい?」

 

 零れそうに見開いた目で、チヨちゃんは激しく頭を振りかぶる。

 

「違います! 違うんです! たったひとつ抜け穴があるんです。三人とも助かる可能性があるのは、そのただ一点。その望みに賭けるしかないって」

 

 あの人が……

 

 弱々しい最後の言葉にヤタカは眉尻を上げた。この人物が鍵を握っている。普通の女の子が、何かに感づいたからといって思い通りの異種を腕に宿せるわけがない。ここへ辿り着けるはずがない。誰かがチヨちゃんに知恵と進むべき道を与えた。そう考えるのが妥当だろう。

 

「それは、どんな方法なの?」

 

 いえません

 いっちゃいけないんです

 いったらたぶん……

 

「多分?」

 

 みんな死にます

 

「チヨちゃん、それじゃあ何というか。とるべき方法が見えないよ」

 

 チヨちゃんの目に宿る光を見れば、冗談どころか偽りさえ言っていないことはヤタカにも解る。だから、笑い飛ばすことができなかった。

 無理矢理浮かべかけた苦笑を、ヤタカは唾と一緒に飲み込んだ。

 

「質問をかえようかな。異種を宿すなんて知恵、いったい誰に吹き込まれたの?」

 

「言ったら、さんは怒るとおっしゃっていました」

 

「誰が?」

 

 見知った人物を頭に浮かべた。知恵を持つ者、異種を手にできるものなら、幾人もならべられる。不安定な今の状況なら、誰がどう動いてもおかしくはない。

 ただ幼なじみまで知る者となると、浮かんでいた顔が霧散する。

 膝の上でもじもじと動かしていた左手をきゅっと握りしめ、チヨちゃんは話し出した。

 いわれた言葉を一語一句間違いなく思い出そうとしているのだろう。視線は記憶を覗き込むかのように斜め上に向けられている。

 

「この戦いは、散らばった点を線で繋ぎ、繋がった線を取捨選択して必要な線と点だけを手に絡め取った者の勝ちなのだそうです。今まで隠されていた点は姿を現し、本当の意味で自由に動ける点は失われたとおっしゃっていました」

 

 一気に言葉を吐き出して、チヨちゃんはふぅっと息を吐く。

 

「それで? それが今回チヨちゃんをこんな目に合わせることとどう結びつくの?」

 

「わたしはヤタカさんに会う必要がありました。ここに辿り着く為には、異種を宿す必要があると言われましたから、そうしました。ここへの通行証を手に入れたようなものです」

 

「さっきの内容をチヨちゃんに教えるくらいなら、他に幾らだって方法が……」

 

 いいえ、とチヨちゃんは静かに首を振る。

 

「わたしは自由に動ける透明な点になる必要があるのだそうです。その為には、わたしがしようとしている事を知る人間を増やしてはいけないのです。というか、そういわれました」

 

 受け売りです、とチヨちゃんは恥ずかしそうに笑みを浮かべた。

 

「わたしが信念を曲げない限り、腕に宿る異種に同調して、この世に散らばる異種の一部はわたしを守ろうとしてくれるそうです。ここへの道案内をしてくれたのも、彼らでしたから」

 

 湯呑みを手に取り一口茶を流し込むと、緊張に白んでいたチヨちゃんの頬にほんのりと血の色が戻った。

 

「個々の意思を無視して鎖で繋がれた点と点を断ち切り、各の点が自由になるには、力はなくともわたしのように自由な、空気のような存在が不可欠なのだそうです」

 

「だとしても、チヨちゃんが命を縮める必要なんてない。チヨちゃんに余計な知恵を与えた奴は、やっぱりクソ野郎だ」

 

「そんなことありませんよ!」

 

 思わずバッと立ち上がったチヨちゃんは、勢い余って突きだした首を、亀のようにひゅっと引っ込め上目遣いにヤタカを見る。

 

「わたしはゴテさんと野グソさんを助けたいです。この想いは、ヤタカさんとイリスさんも助けることに繋がるそうです。わたしは、もちろんお二人も助けたいんです」

 

「そういって異種を差しだした奴の言葉を、どうしてチヨちゃんはそんなに簡単に信じたのかな?」

 

「家に戻ってこなくなったゴテさんが、危険なことに巻き込まれているんじゃないかって、気持が追い詰められていたのはわたしです。遠くで大きな仕事があるから……そういって笑ってお出かけになりましたが」

 

 違うと思います、チヨちゃんは悲しそうに眉尻を下げた。

 

「心配で心配で、心が追い詰められていたわたしの勘が、信じていいって言ったんです。正直、藁にも縋りたい思いでした」

 

 そんな気持を利用されただけかもしれないという疑念が、拭いきれずにヤタカのなかで燻った。

 

「それに、こうもおっしゃいました。あんたの想い人を絶対に救える保証はないって。でもこれ以外に道もない。酷な選択を迫っていることは百も承知……と」

 

 絶対なんて安直な言葉を使わない、あの人は信じられます。

 そう言ってチヨちゃんは恥ずかしそうに微笑み頷いた。

 

「チヨちゃん……」

 

 違うだろ、チヨちゃん。チヨちゃんはいつだって人を信じて、嘘を吐かれてもまた信じて、それを繰り返して生きてきたんじゃないか。

 やさしいまま、生きてきたんじゃないか。

 ヤタカの胸に、どうしようもない悔しさが渦を巻く。関係ない者を巻き込んでしまった。自分にもっと力があれば、こんな世界を知らずに済んだ女の子の命を、早すぎる春風に散る桜のように死なせてしまう。

 

「どんな奴だった?」

 

 小首を傾げて、思い出すように目を閉じるチヨちゃんは、唇に左手の薬指を這わせ、はっきり思い出したというように、ぽんと指先で唇を弾いた。

 

「黒い外套で身を包まれていました。お面をつけていたので、顔はわかりませんけど、とても低い声で、何というか不思議な声色で静かに話す方でしたよ?」

 

 まるで闇夜を解かして流したような声でした、とチヨちゃんはいった。

 

「あいつか、ぶっ殺してやる!」

 

 黒い外套に記憶に残る特殊な声色。ゴザ売り以外に考えられなかった。

 

「いけません!」

 

 チヨちゃんの声がピシリと飛ぶ。

 

「あの方のおかげでこうしてヤタカさんと会えたんです。それに彼はヤタカさんのことも気遣っていらっしゃるのだと思います。これを預かりました」

 

 腰に結わえた小袋から取りだしチヨちゃんが差しだしたのは、紙にくるまれた丸薬だった。

 

「いざという時、一時的に痛みをおさえてくれるそうです。えっと……何時ぞやのような副作用はないから安心しろ、とおっしゃっていました」

 

 意味は解りません、といってチヨちゃんは紙の包みをヤタカの手に握らせさっと手を引いた。

 

「チヨちゃん、そいつはね口先と腕だけで生き抜いてきたような男だから……今更だけど」

 

 ゴザ売りが必要と思ったなら、チヨちゃんに白を黒と思い込ませる事など造作ない。

 

「口先だけだなんて、こうやってヤタカさんに会えました」

 

 どういうわけかヤタカに会えたことにチヨちゃんは希望を抱いている。それは目の前の偽りない笑顔が物語っていた。

 

「俺に会うことが、本当にゴテと野グソを助けることに繋がるなんて思えないよ。そんな風に吹き込んだのもあいつだろ?」

 

「はい。大事なのは一点だそうです。ゴテさんとのグソさんが、どんな人だったかを忘れないで下さい。今言えるのはそれだけです」

 

 真剣な眼差しのチヨちゃんを笑い飛ばすことも、まやかしだと希望をへし折ることも出来ずにヤタカは眉を顰めて顎をさすった。

 

「チヨちゃんは、ゴテの事が好きなんだね?」

 

 話しの核心にこれ以上踏み込めなくて、沈黙を払うためにでた言葉だった。

 チヨちゃんの頬が、カッと音を立てたように真っ赤に染まる。

 

「これまでの話しをどう解釈したら、そんなことになるんですか!? わたしはゴテさんのお手伝いです!」

 

 変なヤタカさん、といって膨れたチヨちゃんは耳たぶまで真っ赤に染まっている。

 あんたの想い人を――そういったゴザ売りの言葉をすんなり受け入れたのが動かぬ証拠だろうに。

 

「ゴテさんも前にいっていました。わたしはゴテさんにとって、ゴテさん専用のおにぎり屋さんなのだそうです。一生自分専門のおにぎり屋さんでいるんだぞ? といわれました」

 

 がさつな男が好きだと言えずに口にした言葉がそれとは、さすがのヤタカも呆れるセリフだ。

 

――相思相愛じゃないか

 

 命を縮めてまで守りたいほどに、想っているのだろうに。

 ゴテも家業に縛られなければ、チヨちゃんを置いてなどいきたくはなかっただろう。

 ヤタカはこの日はじめて、本当の微笑みを目元に浮かべた。

 

「ところでチヨちゃん、あのひねくれ者のおっさんは、俺が行くべき場所と日時をいってはいなかったかな?」

 

「はい。もう少し休む時間はあるそうです。四日後の日没までに<境の盆>という谷へ行くようにとおっしゃっていました」

 

「それは何処にあるの?」

 

「わかりません」

 

 申し訳なさそうに頭をちょこりと下げたチヨちゃんに、ヤタカはいいよ、と声をかけた。

 

「わたしはもう帰らなくちゃ。お手伝いの仕事をさぼって来ましたから。今夜は徹夜です。寝ないで仕事です」

 

 腕まくりをして見せて、チヨちゃんがにこりと笑う。

 

「でも、その腕では無理だろう?」

 

「わたしを誰だと思っているんですか? 左手ひとつでも、上手におにぎりが握れるとびっきりのお手伝いですよ?」

 

 すたすたと出口へ向かうチヨちゃんが、壁の間際で立ち止まった。

 

「ゴテさんと、野グソさんを助けて下さい」

 

 ヤタカは返事ができなかった。どう答えても嘘になる。

 

「ヤタカさんとイリスさんも、ちゃんと生き延びなくちゃだめです」

 

 返ってこない返事に、チヨちゃんの声が涙ぐむ。

 

「生きたままゴテさんに会えたら、伝えて貰えますか?」

 

「いいよ。なんて伝えればいい?」

 

 背を向けたままのチヨちゃんの小さな肩が、息を吸い込んで大きく上がる。

 

「チヨは、最高に美味しい肉味噌おにぎりを開発しました。食べたかったら……」

 

 もう一度、チヨちゃんの肩が大きく上がる。

 

「食べたかったら、生きて返ってこい! ばかやろう!……です」

 

 ぺこりと頭を下げ、小さな背が壁の向こうに消えて行った。慌ててシュイが後を追いかけていく。出口まで送り届けるつもりなのだろう。

 

「わかった。ちゃんと伝えるよ、チヨちゃん」

 

 項垂れるヤタカの肩に、宿屋あな籠もりの主人が温かい手を添える。

 部屋の隅で忙しく薬草を練っていた和平と一緒に、チヨちゃんを追ってゲン太も宿を飛び出していった。

 

「いつだってそうさ。優しい奴ばっか、損するんだ」

 

 普通にゴテの帰りを待っているはずのチヨちゃんが、自ら巻き込まれ命を縮めるなど思ってもみなかった。イリス、幼なじみ、チヨちゃん。当たり前に手の内にあったものが、するすると指の隙間を抜けていく。

 

「恨むぜ……ゴザ売りのクソ野郎」

 

 ヤタカの力ない呟きだけが、宿屋あな籠もりを囲む壁に吸い込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 




読んでくれたみなさん、ありがとうです
チヨちゃん……はたして何人の方が覚えていることやら……不安満杯っ
そして反省なり


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43 幻は目の玉を差しだして

驚くほどの速さでヤタカの体は回復していった。

 和平が処方する飲み薬と貼り薬、そして激痛を伴う指圧のおかげだろう。和平曰く、体が治ったと勘違いしているだけで、根本から完治したわけではないのそうだが、痛みがないだけで十分だった。

 

「くそオヤジのよこした薬は飲まずに済みそうだ」

 

 苦々しく吐き捨てると、宿屋あな籠もりの主人は笑いながらヤタカを宥めた。

 

「思いやりは人によって形を違える。身を刺すような鋭利なものもあるが、その痛みが意識を保ってくれることもあろう? それも思いやりじゃよ」

 

 ぶすりと膨れて返事をしないヤタカの脳天に、和平の肘鉄が落ちた。

 

「ガキだな!」

 

「ガキにいわれたかねぇよ!」

 

 ゲンコツを振り上げたヤタカの手がぴたりと止まり、視線が胡座をかいた膝へと落ちる。

 

――はやく いく

 

 いつもなら遊びと言わんばかりに小競り合いに参加して来るゲン太が、前の歯をヤタカの膝にかけ、力なく揺れる墨の文字を木肌に浮かべていた。

 

――イリス たすける

 

 怒鳴ろうと吸い込んでいた息をゆっくり吐き出し、ヤタカは指先でゲン太の鼻緒を弾いた。

 

「ゲン太が元気なくしてどうするんだ?」

 

 薄墨を渦巻かせ鼻緒を垂れたゲン太の前の歯が、ひょいとヤタカの膝から引き離された。

 

「そんなにしょんぼりして、イリス姉ちゃんを助けられんのか? 気合いがたりん!」

 

 迫る人物に気づいて、ゲン太が鼻緒をぴんと立てたときには遅かった。

 

「気合い注入!」

 

 どすん、と音を立てて和平の素足がゲン太の鼻緒に差し込まれた。

 張った鼻緒がぶるぶると震えたかと思うと、寸の間もおかずにだらりと垂れた。黙って眺めていた三人から溜息が漏れる。

 

「むごいのぅ」

 

 惨殺現場を目の当たりにしたように、主人の皺が目を囲む。

 

「慣れることのない臭いって……あるんだね」

 

 身を仰け反らせたシュイが、哀れみに満ちた視線を送る。

 

「逝ったな、クソ下駄め」

 

 ふん、と鼻を鳴らして立ち上がったヤタカは、満面の笑みで足の指をくしゅくしゅと動かす和平の額を指先で弾いた。

 

「いてっ!」

 

「出かける前に気絶させんなって。準備ができ次第出発するから、早く蘇生させてくれ」

 

 ちぇ、と口をへの字にして足を引き抜いた和平は、ころりと横になって動かないゲン太を突き始めた。

 

「出かけるにしても、境の盆がどこにあるのか目処はついたの?」

 

 楽しそうにゲン太を突く表情と裏腹に、声には低く咎めるような少々のトゲが含まれている。

 

「わからないから早く出発したい。和平はここに残った方がいいよ。お前が行くと、ややこしいことになりかねないだろ?」

 

「ヤタカ兄ちゃんと一緒になんて行かないよ? 行き先も知らない一行に混ざってヘタ打って、一網打尽なんて嫌だしね」

 

「ヘタ打つのが前提か? もうちょっとは信用してくれてもいんじゃないの?」

 

「信用しているよ? 心配もしていない。ゲン太が一緒だからね」

 

 自分よりゲン太に信用が置かれていることに、納得いかないヤタカが反論しようと吸い込んだ息は、背中に入ったシュイの蹴りでげふりと無駄に吐き出された。

 

「文句いう暇にさっさと準備しなよ。水も、もう一度飲んでおきな。今度は大量に飲める機会があるかさえわからないんだよ? そんな無計画でイリス姉ちゃんを本当に助けられるわけ?」

「シュイおまえさ、平等を謳っているわりに、男女の扱いが不平等過ぎないか?」

 

 背中を擦るヤタカの手に、追い打ちの蹴りがぼすりと入る。

 

「和平を蹴ったりしないよ? イリス姉ちゃんも、さっきのお姉ちゃんもかわいくて優しいじゃないか。あんたは何処がかわいいのさ。それとも何かい? あんな細腕の女性をあんたと同じように蹴り倒せっていうわけ? 平等の意味をはき違えんなっつうの」

 

「はいはい」

 

「返事は一回! 女性と平等であるべきは精神のみ。力が入り用のとき、男性は女性を守るべきである。じちゃんの教えだ!」

 

「はい、すみません」

 

「だから……だから、イリス姉ちゃんを助けろ! 絶対助けろよ!」

 

 本当にわかってんのかよ、とぶちぶち文句をいいながら部屋の隅に去って行くシュイの背中を優しい目で見つめながら、宿屋あな籠もりの主人が笑う。

 

「生意気を許してやってくれんか。口は悪いが、あれでも心配しておるのじゃ。イリスさんのことだけでなく、あんたの身もな」

 

「はい、わかっています」

 

 苦笑しながらヤタカは静かに頷いた。

 じっちゃんの教えを丸暗記するほど幾度も心で繰り返し生きてきたシュイは、口とは裏腹に優しいのだとヤタカも思う。

 ただ生意気な反論が憎たらしくも面白くもあって、ついついからかいたくなるだけだ。

 

「ご主人、今日中にここを立とうと思います。一応お聞きしますが、境の盆という地名に

聞き覚えはありませんか?」

 

 穏やかな表情のまま主人は首を横に振る。

 

「そうであろうと思う土地は無数にある。その時代、その時に必要とされる者のみに伝わるように、部外者が場所を悟らないように、その度に呼び名が変わる土地じゃ。今回もそのひとつであろうよ」

 

「そうですか」

 

「じゃがの、あの男が残した言葉じゃ。必ず糸口は見つかるはず。わしに場所を告げなかったのは、わしやシュイを巻き込まぬためであろうの」

 

 それに、と主人は少し寂しそうに話しを続けた。

 

「わしは見守る存在じゃ。そのように定められておるのじゃよ」

 

「はい」

 

 ヤタカは宿の礼と、主人が生きた時間の重みに深い感謝を込めて頭を下げた。

 シュイに言われた通り水をたらふく胃に流し込み、主人が分けてくれた乾燥肉や乾パンを背負う袋に押し込んだ。

 眠ったように水の器が黙り込んでいる。この部屋にいる大量の異物はヤタカに居心地の悪さを感じさせなかった。ヤタカの出発を知ってか、まだ未確定な未来を憂いてか部屋のあちらこちらから、カタリコトリと身を震わせる異物達の振動が鼓膜に響いた。 

 

「お、目を覚ましたか」

 

 嬉しそうな和平の声に振り向くと、杖をついた老人の膝みたいに、がたがたと身を震わせながら身を起こしたゲン太が、よたよたと和平の側から逃げるところだった。

 

――げた ごろし

 

「なんだって、ゲン太?」

 

 呑気に問い返す和平によろよろと振り返り、渾身の力で鼻緒を立てたゲン太だったが、反撃もそこまでだった。

 

――う げろ

 

 涙に滲んだ墨の文字みたいに、情けなく薄墨の文字が木肌にでろんと広がった。

 

――うえっぷ おえ

 

「嘔吐くな……鼻緒の間からゲロが出てすっきりするわけでもないだろ?」

 

――なみだめ

 

「かわいくねぇよ! 目玉だってないくせに、アホいってないで出発するぞ」

 

 出口に向かうヤタカの後を付いてきたのはいいが、完全に平衡感覚がいかれたようで、酔っ払いのオヤジよろしくテコテコと横にしか進んでいない。

 

「もうちょっと待ってあげてよ。目がまわっているようなものだから、すぐに直る」

 

 堪えきれない笑いを手で押さえながら、和平がいう。

 

「待ってるほど暇じゃないんだがな」

 

 ぎろりとゲン太を睨み付けると、ぴたりと動きを止めた木肌によたよたと薄墨が湧く。

 

――だっこ

 

「囲炉裏の火にくべてやろうか?」

 

 仕方なく荷物置いて待っていると、しばらくしてゲン太の鼻緒がぴんと立った。

 

「復活したか? なら出発し……ゲン太?」

 

 ヤタカの声など耳に入っていないようすで、ゲン太が猛然と出口から横道へ飛びだしていく。瞬時に戦闘態勢をとり飛び出そうとしたヤタカの肩に手を置き、にこやかな笑顔で和平が止めた。

 

「害をなす者が近付いた気配はないよ」

 

 和平の言葉にさえ完全に警戒を解くことなく、ヤタカが縄暖簾に似た音を立てる入口の壁に手をかけようとした時だった。

 入口の壁がシュっと音を立て、部屋が白く曇る程の靄に満たされた。重力に引かれて部屋の隅々に舞い降りた水気が、部屋にある物全てに薄い水の幕を張る。

 

「何が起きた? ゲン太! 無事なのか!」

 

 かん かんかん

 

 外の横道から、下駄を打ち鳴らす音がした。危険を知らせる音ではない。むしろ、安堵と喜びの色を含む優しい音だった。

 だがそんな下駄の音に胸を撫で下ろしたヤタカは、次の瞬間ぎょっとして身を仰け反らせた。

 しゃらしゃらと音を立て出口からぬっと突き出されたのは、抜けるような白い腕。

 細い指先がぱん、と弾かれ部屋の中に再度靄が湧いた。

 

「水気の主……なのか?」

 

 弾かれた指がゆっくりと握られ、まるでヤタカが見えているかのように向きを変える。

 静かに開かれた手の平にはゆらめく透明な水の玉。滑らかな動きで、それは床に落とされた。

 音も立てずに着地した水の玉は、物理法則を無視してヤタカの元へ転がってきた。

 

「それを使っておくれ。あの子が案内してくれる」

 

 水が爆ぜるように、白い腕が霧散した。

 代わりに入口から意気揚々と入ってきたのはゲン太。

 

「ゲン太おまえ……紅?」

 

 湿ったゲン太の木肌を、ゆらりと尾を揺らしながら紅が泳いでいる。万事承知といわんばかりに棚の前でゲン太が立ち止まると、木肌から床へ泳ぎ出た紅は滝を昇るように棚の上へと向かい、収められた異物たちの表面を渡り歩いていく。

 久しぶりの再会を喜ぶかのように、かたりかたりと異物達が身を揺らした。

 ゆったりと部屋中を泳ぎ回った紅がゲン太の木肌に戻り、満足げに見えない水面をぴしゃりと尾で叩いた。

 

――べに あんないする

 

「まさか境の盆に? どれだけ距離があるか知らないが、その間ゲン太の木肌を湿らせておくだけの水を持って歩くのは難儀だぞ?」

 

――へいき

 

 まるで自分のことのように自慢げに鼻緒を立てたゲン太は、ヤタカの足元で水面を揺らす水の玉までとことことやって来ると、鼻先でこつりと水の玉を突いた。

 紅がぱしゃりと尾を打つと、湿った木肌が水を湛えたように美しく広がる水紋を広げる。

 水の玉に紅が身を移すと、するりと水の玉は転がりだした。

 後に残された濡れた筋にするりと落ちた紅は、転がる水の玉がつくる湿った床をゆったり尾を揺らして泳いでいく。

 

「さっきのは水気の主だろ? ならこの水の玉、目的を果たすまでは枯れないってことだよな?」

 

――たぶん 

 

 頼りないゲン太の返事に嘆息したヤタカだったが、くるりと向き直り主人に向けて一礼した。

 

「お世話になりました」

 

「気をつけてのう」

 

「はい」

 

 壁の際で水の玉が動きを止めた。

 嬉しそうに跳ね上がったゲン太が、シュイの元へ駆け寄り身をすり寄せる。

 

「ゲン太、気をつけていきなよ。いざとなったら、荷物持ちなんか放り出して逃げるんだぞ?」

 

――うん

 

 真顔でいうシュイと、嬉しそうに頷く下駄を眺めていた和平が、自分もとゲン太へ近づいた。

 

「ゲン太、また遊ぼうな!」

 

 べ~っと舌でも出したつもりなのだろう。ひょい、と飛び退いたゲン太は突きだした鼻緒をべろべろと振るわせ、ぷいっと踵を返して戻ってきた。

 

「いいのか? そんな別れ方をして」

 

 呆れたヤタカの言葉など無視して、待っていたように動き出した水の玉についてさっさと外へいってしまった。

 

「それじゃ、いってくる」

 

 二人に軽く手を振り、ヤタカもその後に続いた。しゃらしゃらと音を立てて出口をくぐり横穴へでる。ゲン太を待っていたことを考えると、水の玉は紅の意思によって動いているのだろう。

 先へ転がる水の玉。

 その後を悠然と泳ぐ紅。

 この世の物ではない水の玉と、異物の呼び名を持つ金魚に力を貸すように、闇に閉ざされた横道に灯りが灯る。

 無数の淡い光が土壁の至る所でぽつりと灯っては消え、うっすらと行く先の道を照らし出していた。

 二、三歩進んだところで、ヤタカの横を歩いていたゲン太がぴたりと動きを止めた。

 

「どうした?」

 

 怪訝に思い問いかけたヤタカを無視して、ゲン太はすたすたと宿屋あな籠もりへと戻っていく。

 

「ゲン太、何しに……か」

 

 ヤタカが言い終わるより早く、壁の向こうからごつりと鈍い音が響き、次いで「ぐごっ!」 と言葉にならに和平の悲鳴が響いた。

 

「なんだよ。結局は別れが寂しいんじゃないか」

 

 大股に横道へ戻ってきたゲン太に声をかけたが、立ち止まることなくゲン太は進む。

 

――やられたら

 

「なんだよ」

 

――やりかえす

 

 水の玉が紅とゲン太を従えて先へと進む。

 

「素直じゃないねぇ」

 

 一時笑みを浮かべたヤタカだったが、すぐに表情は引き締められた。

 先の見えない道。

 手を伸ばしても届かないイリス。

 打開策の見えない未来。

 一気に膨れあがる不安を振り払うように、ヤタカは激しく頭を振る。

 

「考えるより、今は進もう」

 

 チヨちゃんの願いを叶えられるとは思えなかった。だが、命を賭けたチヨちゃんの願いを、塵のように捨てることなど出来るはずもない。

 

「イリス、無事でいてくれ」

 

 口の中で呟いてヤタカも歩き出す。思惑は違っても、手を差し伸べてくれる者達がいる。今は疑うことなく、その手を取るべき時だと信じた。

 信じるしかなかった。

 

 

 

 

 横道から抜ける手前、小部屋のように広がった空間で、初めて横道に足を踏み入れたときに出会った男に会った。

 よかった、生きてたかい―――

 男はそう言って微笑んだ。

 聞けば横穴を見守る仕事を続けられなくなったのだという。

 自分の力量では、札を渡しても旅人を目的地に届けることができなくなってきたのだと。

 それほどまでに異種と異物の往来が激しいのだそうだ。

 気配が多すぎて、男の力では止めることも守ることもできないと、悲しそうに微笑んだ。

 

「この役目も、時代に必要とされなくなったのかねぇ」

 

 寂しそうに呟いて、男は横穴の奥へ続く闇に姿を消した。

 横穴の奥深く、男しか知らない場所に異種と異物を寄せ付けぬ鉱石に囲まれた小さな小部屋があるのだという。

 手の届かない動乱が収まるまで、また自分が必要とされる日が来るまで、そこで身を潜めると男はいった。

 

――もどって こない?

 

 鼻緒を垂れるゲン太に、ヤタカは静かに首を振る。

 

「戻ってくるさ。横道を守り往来を仕切る、彼のような男が必要とされない世界が永遠に続くなら、その時は俺達もこの世にいないってことだ」

 

 しょんぼりと鼻緒を下げたゲン太をせっつき先へと進んだ。

 水の玉は葉の上を転がり、小岩を超え、細い小川の水と交わることなく表層を転がりヤタカ達を誘った。

 紅の進む道は街道からすっかり外れ、獣道さえ残らない山道を進むこともあった。

 ヤタカのなかで水の器が身じろぐ。

 その度に鈴を鳴らしたように細く冴えた音が、内側からヤタカの体に残響する。

 

――全てカタがついたら、俺から出ていってくれ。イリスに宿る異種に用があるだろ?

 

 声に出すことなく、ヤタカは水の器に語りかける。

 

――俺の体で再会することは許さない

 

 ぶるりと水の器が震えた気がした。

 

――そんなことをしたら……

 

 イリスが死ぬ。

 

 ゴザ売りの言葉を何度も考えた。和平に薬を塗られながら、シュイと軽口を交わしながら、笑顔の裏で必死に考え続けていた。

 幾通りもの方法を考えても、辿り着く答えはひとつだけ。

 二人とも生き残る道は、何処にもない。

 

――イリスは死なせない。

 

 進む足を速めながら、ヤタカはひとりにやりと笑う。

 

――こんな命、惜しくもないさ。

 

 場にそぐわないヤタカの笑みに気づいたゲン太が、足を止めて不思議そうに見上げていた。

 

「なんだよ? しかめっ面してたって事態は好転しないだろ? 笑ってた方が幸運が寄ってくるんだ。イリスだって良く笑ってただろ?」

 

――わかった

 

 大股で跳ねるようにゲン太がいく。

 木肌に、わはは、と文字が浮かんだ。

 

「単純だな、アホ下駄」

 

 本物の笑みがヤタカの口元をかたどる。

 ゲン太がいるならイリスは笑って生きていける、そう思うと心が凪いだ。

 

 

 日が暮れると水の玉は不思議な光を放ち出した。足元が見て取れる灯りは青白く、転がった後に残る湿った筋も同じ色にうっすらと光を放っている。

 青白い光の川を泳ぐ紅は、ヤタカでさえ見とれるほど美しかった。

 月が高く昇るころ、紅が動きを止め水の玉もぴたりと止まった。薄い灯りに照らされた周囲を見渡すと、木々に囲まれ大輪の花がちらほら咲く僅かな平地。

 

――ここで ねる

 

「先を急がなくていいのか? 俺ならまだ歩ける」

 

――だめ

 

 ゲン太はぴしりと鼻緒を振る。

 

――やすむ だいじ

 

「わかったよ。ここで野宿しよう」

 

 荷をおろして木の根元に腰をおろした。

 

――思ったより体力を削がれているのかもしれないな。

 

 腰を落ち着けた途端、傷口から這い出たように重だるい疲れが全身に溢れた。

 乾し肉を口に入れ竹筒の水を流し込む。

 胃が満たされると、一気に眠気が押し寄せた。眠気ついでに、和平に持たされた薬も水で流し込む。

 

――眠気を誘う薬は、避けてくれっていったのに。

 

 和平の薬が眠気の原因ではないとわかっていても、つい愚痴がでる。傷を癒すことに多く奪われた体力が、久しぶりの山道に対応できるほど残っていなかっただけだ。

 落ちる瞼の隙間から、じゃれ合うゲン太と紅を眺めた。

 水の玉の上でぴしゃりと紅が尾を跳ねると、青白い光を放つ水がゲン太の木肌をしっとりと濡らした。

 ゲン太が身を寄せると、紅が嬉しそうに泳いで木肌に身を移す。

 

――わはは

 

 ヤタカの言葉を信じたのか、ゲン太が同じ文字を浮かばせるのが見えた。

 墨でなぞられた文字の輪をくぐるように、紅が器用に木肌を泳ぐ。

 

――わはは

 

 違う場所に文字を浮かばせ、紅が大きく尾を揺らして文字の輪をくぐり抜ける。

 楽しそうにゲン太が跳ねる。

 光を弱めた水の玉が、一匹とひと下駄を見守るように円を描いて光の筋をつくる。

 その輪の中で楽しそうにじゃれ合うゲン太と紅を、ヤタカはぼんやりと眺めていた。

 

――イリスがいたら、一緒になってふざけて、遊んで……

 

 夢の入口でイリスが手招きする。

 瞼が閉じたことにさえ気づかず、ヤタカは音のない夢に落ちていった。

 

 

 イリスが笑っている。

 

「やめろ、イリス! 駄目だ!」

 

 音のない夢に声は響かない。

 手で顔を覆ったイリスが、握りしめた手を差しだしてにこりと笑う。

 霧に包まれたように、イリスの口元しか見えなかった。

 

「だめだよイリス……止めてくれ」

 

 音のない夢は続く。

 ヤタカの目の前で、細く白い指が開かれた。白い花びらが花咲くようにゆっくりと。

 イリスの口元は、悪戯っぽく微笑んだまま、ヤタカの思いを取り残す。

 

「イリス……どうして」

 

 イリスの手の平に乗るのは目玉。

 異種を宿すとされるイリスの目。

 

 イ キ テ

 

 ゆっくりと言葉をかたどったイリスの口元に再び笑みが浮かぶ。

 

――やめてくれ、お願いだ。

 

 音のない夢の中、ヤタカは泣いていた。

 流れるはずのない涙が、ヤタカの頬を伝う。

 伝った涙は筋となり、得体の知れない力に持ち上げられた腕を伝ってイリスの手へと向かっていく。

 音のない夢の中、ヤタカの意識はぷつりと途切れた。

 最後に残ったのは、頬を伝う涙の生温い感触だけだった。

 

 

  

 

 

 

 




読んでくれたみなさん、ありがとうでした。


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44 空に咲く花

を踏まれる痛みにヤタカは目を覚ました。

 

「ゲン太か」

 

 軋む上半身を起こすと、ゲン太がそわそわと不安そうに木肌に文字を浮かばせる。

 

――うなされてた

 

「そうか」

 

 腕を指先でなぞられる感覚に慌てて袖を捲ると、水の玉が残した光を放つ濡れた筋の上を紅が泳いでいた。

 

「なんだ、これは」

 

 不規則に腕に絡む光の筋は、無数に刺さったトゲの上を通っている。

 意識を後追いして目覚めだした感覚が、刺さったトゲの違和感に気づいたように嫌な痛みを腕にもたらした。

 

――さきよみ

 

 ゲン太の木肌に文字が湧く。

 

「このトゲ、異種なのか?」

 

 鼻緒を上下させて頷くゲン太に、ヤタカは思わず顔を顰める。さきよみ……夢の内容から導かれる意味は不穏で、ヤタカはぶるりと身を震わせた。

 

 先読み―――想像が外れていなければ、この異種のトゲはヤタカにこれから起こりうる未来を見せたことになる。

 

――なにを みた

 

 不安げに鼻緒を寄せるゲン太に、ヤタカは片眉を上げて笑って見せる。

 

「俺がちょっかい出しすぎたんだろよ。ゲン太とシュイと和平に迫られて、ゲテモノを喰わされる夢をみた」

 

――ほんと?

 

「あぁ、最悪だ」

 

 もう用は済んだとばかりに、紅がゲン太の木肌へ戻っていく。

 背を向けたまま、柔らかく揺れる尾がぴしゃりと薄い水面を打った。

 

「あぁ……」

 

 腕に絡んでいた光の筋が一気に盛り上がった。指の太さほどに盛り上がった光の川は、腕の皮を巻き込んで上へ上へと膨れていく。

 楊子の先を折って刺したような黒いトゲが光の川に引き抜かれ、ふわりと浮かんでいる。最後の一本が抜けたときには、皮が剥ぎ取られそうな強い力にヤタカが眉を顰める程だった。

 

「消えた」

 

 漂い浮かんでいた黒いトゲが、水の中でぼこぼこと黒い泡を吐き出し、最後に小さな黒い気泡を吹いて姿を消した。

 無数のトゲが一斉に水に溶けた。

 

――ほんたい にげた

 

 トゲを放った異種は逃げたということか。

 

――けいこく だって

 

 木肌を泳ぐ紅に意識を向けているのだろう。聞き伝える言葉はたどたどしく、ゲン太自身も理解できてはいないようだった。

 

「まぁ、あれか。だらだらしてイリスの救出が遅れると、お前達に酷い目にあわされるってことだろ? 親切なこった」

 

――そうかな

 

 納得いかない様子のゲン太をひょいと摘んで放り投げ、無理矢理黙らせる。

 

「あっ、忘れてた。シュイに持たされたんだ。これを浴びて気合い入れろだってさ」

 

 荷から小さな竹筒を取りだし、ゲン太を手招きする。木肌を泳ぐ紅が気づいて水の玉に逃げようとしたが、ヤタカの手が早かった。

 

 とくとく とく

 

 ゲン太の木肌に酒が注がれる。

 大地に流れることなく木肌に染みこんだ酒は、ゲン太を酔わすに十分な量だった。

 

「俺はもう寝るよ。遊ぶなら、静かにな」

 

――あい あい

 

 千鳥足の下駄が、よたよたと横に歩く。

 その木肌で腹を上にして、だらりだらりと泳ぐ紅。

 酔っ払いの仲良しが、じゃれ合い遊ぶ。

 ゲン太が遠くへ行かないように、水の玉が仲良しを囲んで光の筋を描いている。

 

「お休み」

 

 先読みが刺さっていないなら悪い夢など見ないだろう。

 わかっていても、鮮やかな幻が瞼に浮かぶ。

 異種などなくとも、人は悪い夢を見る。

 眠る事を躊躇したヤタカは、懐から丸い石を取りだし磨き始めた。

 少しづつ磨き続けてきた石は、まだ灰色の表面が透けることなく固い手触りが冷たかった。それでもぶつぶつとした灰色の石肌は、荒いヤスリに磨かれ続けてつるりと滑らかになっている。

 

――もう少し細やかな目のヤスリに変えても良いだろう。

 

 ヤタカは小道具を包んだ布から新しいヤスリを取りだし、力を弱めて細かく手を動かした。

 

 しゃり、しゃり

 

「男のロマンを馬鹿にしやがって」

 

 しゃり しゃり

 

「この中にはぜってぇ、不思議な水が入ってんだ」

 

 石を磨くたびにからかってきたイリスはいない。

 ビー玉みたいに小さくなっても水を抱いた透明な玉にならなければ、イリスは鬼の首を取ったように馬鹿にするだろう。

 万が一にも透明な石に磨き上がったなら、馬鹿にしたことなど忘れて一緒に喜んでくれるだろうと思う。

 どっちでもよかった。

 ただ一緒にいて、イリスの豊かな表情を見ていたかった。

 

――イリス、死ぬなよ

 

 ひとしきり磨いた石を懐に戻し、ヤタカは耐えきれないほど重くなった瞼を閉じた。

 ヤタカの体温を吸い取ったように、懐に入れた石が温かい。

 木肌に紅を泳がせ、ゲン太がからりころりとはしゃいでいる。

 酒の力でも借りなければ、今のゲン太は沈んだままだったろう。シュイの気遣いがありがたかった。

 

――イリス

 

 夢の入口にイリスがいた。

 いつもと変わらぬ笑顔を浮かべている。

 ほっとしたヤタカが一歩踏み出すと、イリスの足が一歩下がった。

 イリスの細い指がゆらゆら揺れる。

 手を振り笑顔のまま背を向けて、イリスが遠ざかる。

 足が根付いたように動かなかった。

 

――夢だ

 

 自分に言い聞かせて、ヤタカは夢の中で固く目を閉じた。  

 

 

 

 

 翌朝は分厚い雲が空一面を覆う曇天だった。

 どういう体の構造になっているやら、酔っ払いのチビ助達の朝は早い。

 一晩中途切れ途切れの夢を浅く渡り続けたヤタカが、顔を顰めて強ばった体を起こしたときには、朝露に濡れた葉の表面を泳ぐ紅の後を、ゲン太が元気に追いかけていた。

 

「紅、期日までに辿り着けるのか?」

 

 ヤタカの問いに紅はぴたりと泳ぎを止め、愚問といわんばかりにびしゃりと派手に尾を打ちつけた。

 

――だいじょうぶ だって

 

「そうか」

 

――でも

 

「なんだよ?」

 

――さわがしい

 

「騒がしい? 山がか?」

 

 ふるふると鼻緒をふって、ゲン太がとことこと近付いてきた。

 

――くうき しけっている

 

 膝に前歯を賭けるゲン太を軽く指先で押して、ヤタカはほっと安堵の息を吐く。

 

「山の朝は湿って当たり前だろうに。朝露どころか、夜明け間際は朝靄で辺りが見えない。気にし過ぎだよ。せっかく酒で緩んだ緊張なんだから、もっと気持を大きく持てよな」

 

 昨夜の様子を見ていても、ずっと一緒に過ごしてきたヤタカには、ゲン太の気持が手に取るように伝わって痛いほどだった。

 ゲン太も紅も楽しく遊んでいるわけではない。楽しそうにしているだけだ。

 自分を奮い立たせるために、まだ行ける、まだ元気だと装っているだけ。

 そんなぎりぎりの精神状態だからこそ、周りの状況にも過敏になっているのだろうと思った。 

 

 水の筋を残しながら少しも大きさを変えることなく、水の玉が山を越えていく。

 紅は決して認めないだろうが、おそくら昨夜の酒が残っているのだろう。悠然と左右に揺れるはずの尾は時々動きを止め、かと思うとイルカが泳ぐように尾を上下に揺らし、ふらふらと葉の上を泳いでいた。

 

「ゲン太、もしかして紅は酒を飲むの、はじめてだったのかな」

 

 酒の中を泳いだことを、飲むと表現して良いのか微妙だが、他に喩えようもない。

 

――たぶん

 

 墨の文字を浮かばせたゲン太は内緒話をするように、つつつっとヤタカの足元に寄ってきた。

 

――べに さけぐせわるい

 

「楽しそうに遊んでたじゃないか」

 

――やたか ねたあと

 

「ん?」

 

――おおさわぎ

 

 世話が焼けるというように鼻緒をねじ曲げてふんぞり返るゲン太だったが、木肌に浮かぶ文字は楽しげだ。

 

「そっか。当分は飲ませないでおこうな」

 

――うん

 

 全てが終わって、みんなで酒を交わせたらと思う。楽しそうな光景が目に浮かぶ。もう何の不安もない。全てを遣り切った安堵と未来への希望。紅を木肌に宿らせゲン太が腹踊りをしている。シュイと和平が笑っている。口いっぱいに肉を頬ばったイリスが、喉を詰まらせ目を白黒させている。

 街道の小屋に笑いが溢れ、異種に怯えなくなった遠くの村から久々に催される祭りの囃子が響く。

 だが……。

 どんなに願っても、夢だけでもと想像の羽根を伸ばしても、そこに自分の姿はない。

 思い浮かべる事ができなかった。

 

――くだらない。目の前に集中しないと。

 

 ひとつ頭を振ってヤタカは歩き出す。

 ゲン太のいうとおり、空気がヤケに湿り気を帯びている。空を覆う雲は、時間を追う事に濃い灰色となり、重みで今にも天から落ちてきそうだった。

 

――それにしても、妙だな。

 

 朝露に覆われた後、日の光を浴びていないというのに山の土が乾き過ぎている。

 葉陰でほどよい湿り気を帯びている筈の土は、灰を混ぜたように色を変え乾き切っていることを示していた。

 ゲン太のいう騒がしさを、ヤタカは感じ取れない。だが踏みしめる土が砂のようにさらさらと進む足を取り始めたとき、違和感は確信に変わった。

 

「なあゲン太。あの水の玉は紅の泳ぐ道を作りつづけても、容量を変えないんだよな」

 

――うん あのまま

 

 ひょいと鼻緒を摘み上げ、ゲン太を胸の前にぶら下げた。

 

「水の玉が朝より小さく見えるのは、俺の気のせいか?」

 

 葉の上から倒木の幹へ実を移した水の玉は、朝より二回りほど小さくなっていた。

 

――おかしい

 

「俺も今気づいた。おまえも上から見下ろせば良くわかるはずだ。水の玉が小さくなって、後につくられる水の筋が細くなってきている。このまま転がって先へ進むほど小さくなるなら、紅はそのうち水の筋を泳げなくなる。なにしろ、自分の身の幅より細い筋になるだろうからな」

 

 目の前を行く紅をじっと見ていたゲン太が、びくりと体を震わせた。

 

「一滴の水もなくなったら、紅はどうなる?」

 

 鼻緒をつままれたままのゲン太が、震えに木肌をかちかちと鳴らす。

 

――べに しぬ

 

「今すぐ水の玉を止めるんだ。紅に伝えろ」

 

 指を離すと、ゲン太は鉄砲玉のように紅の元へ駆けていった。

 無言の会話の後、紅はぴたりと進みを止めた。それに合わせて止まった水の玉がゆらゆらと揺れる。

 

「紅、水の玉に入っていた方がいい。これ以上進めなくても、お前がいなくなる方が困る。ゲン太に方角を教えるとか、方法はあるだろう?」

 

 紅が大人しく水の玉にぽちゃりと入り込む。

 ほっとしたように鼻緒を上下させたゲン太が、蹴られたように跳ね上がった。

 

「どうした?」

 

 ふらふらと振り返ったゲン太が、苦悩の色濃い墨の文字を木肌に浮かばせる。

 

――もう ておくれ

 

「なんだって?」

 

――べに いってる

 

 小さくなった水の玉は、紅を宿すぎりぎりの大きさだった。手遅れという言葉とは裏腹にゆったりと揺れる柔らかな尾の先は、水の外壁を掃く箒のように半分ほど折れ曲がっている。肩の荷を下ろし乱暴に中の物を引っ張り出したヤタカは、水の入った竹筒を取りだし水の玉に身を預ける紅に駆け寄り膝をつく。

 

「紅、その水玉の不思議な力はもう消えた。道案内はもういい。自力で必ず辿り着いてみせるから。早くこの竹筒の水に入ってくれ。蓋をして持ち運んでやる。どこかに湧き水くらいあるさ。そしたら新鮮な水を……」

 

 飛び上がったゲン太が、ヤタカの膝を当て身を喰らわせた。

 

――むり

 

「どうしてだよ! 竹筒の水を紅にかけたって普通の水はすぐ土に浸みちまう」

 

 ぴしゃり

 

 水の玉は更に身を縮め、中に居られなくなった紅が水の表面に無理矢理身を張り付けている。

 

――べには

 

 ゲン太が次々と木肌に文字を浮かばせる。

 焦りと悲しみに泣いているのだろう。文字は滲んで揺れていた。

 ゲン太の途切れ途切れの言葉を繋げると、その内容は絶望的なものだった。

 

 紅はたとえゲン太を通じても、言葉で境の谷がある場所を伝えることはできない。行く先は進むたび僅か先の道が見えるだけで、ここに留まってもわかる訳ではないという。本能のようなものなのだと。

 竹筒の水に宿ることはできないのは、そもそも竹筒の水は蓋を開けた途端なくなるからだという。

 

「そんな馬鹿な。竹筒の水が飲みもしないのに減るものか!」

 

 そういって紅に向かって突きだした竹筒の重みに、ヤタカははっとした。

 荷から出したときより軽くなっている。

 いっぱいに詰め込んだ水が、中に広く空間が空いている事を示すように、揺らすとちゃぽりちゃぽりと音を立てた。

 

――せん ぬくと

 

――みず すぐきえる

 

 すぐにでも紅を入れようと栓を握った指を、ヤタカは慌てて離した。

 

――常識で考えるな。違和感はあっただろう。

 

 朝露で湿っていた山は、カラカラに乾いている。黒々としている筈の山肌は、たん、と足を着くだけで砂埃が舞い上がる。ヤタカの体に乾きはない。山の木々も葉の潤いを失ってはいない。だが、これだけの乾きが土の深部にまで進んだなら、内包する水分を使い果たして木々は枯れるだろう。川や泉も枯れる。いや、水筒の水が失われた事を考えると、野ざらしの川や泉が元の形で水を湛えているとは思えなかった。

 更に厚みを増した鈍色の雲は、低い小山から手が届きそうにどんよりと天から垂れ下がっていた。 

 

「まるで地上の水を全て吸い上げたような、嫌な鈍色だ。ゲン太、雨! この雲行きなら雨が降る可能性があるだろ?」

 

――あめ ふらない

 

 あぁ、とヤタカは力なく返事を返した。雨が降るならヤタカにはすぐ解る。体がそうできているのだから。こんなに空気が湿り気を帯び、空は泣き出しそうな雲に覆われているというのに、水の器を宿すヤタカの体は雨を感じていなかった。

 

「日照りが続いた後のような乾きだ。自然が引き起こす現象じゃない。ゲン太、紅は何かいっていないか?」

 

――むりやり 

 

――したがわされてる

 

「誰がだ」

 

 わからない、とゲン太は鼻緒をしょげさせた。

 

「あれは何だ?」

 

 ヤタカは空一面に広がる雲を指差した。一見なんの変哲もないが、ちらちらと黒く光る筋が無数に雲の隙間を縫っている。絡めて押さえ込むように、鞭でいうことを訊かせるように。

 

「紅!」

 

 ビー玉ほどしかなくなった水の玉に身をすり寄せ、乾いた土の上で苦しげにエラを動かす紅の尾は、土にまみれてべたりと力なく垂れている。

 目の前で見る間に体積を減らしていく水の玉は、息を吸う間もなく乾いた大地のシミとなり、その黒いシミも時間を早送りしたように消えて行った。

 竹筒の蓋を開け、僅かに残った水を一気に紅にふりかけた。

 一度大きく呼吸したように紅の腹が膨らんだのも束の間、焼け石に垂らした水滴のように影もなく蒸発してしまった。

 

――べに べに

 

 水気がなければ紅はゲン太に宿れない。為す術なくゲン太が鼻緒を大きく上下させる。

 

「空気の湿り気が消えて行く」

 

 じっとりとした湿気が急速に失われていくのを、ヤタカは肌を撫でた乾いた風に感じた。

 

「全てあの雲に吸い上げられたんだ。土が含む水も、竹筒の水も」

 

 水気の主が造りだす水の玉が消えたなら、自然界に存在する川や泉など、この辺り一帯からとっくに姿を消しているだろう。

 

――べに くるしい

 

「くそ、どうすりゃいい!」

 

 紅のエラの動きが浅く遅くなっていく。こんな事態だというのに、水の器はぴくりとも動きをみせない。

 

「あの黒い筋、あいつを断ち切れたら雨が降る。吸い上げられた水は大地に戻る」

 

異物憑きの感だった。根拠など何処にもない。

 あれが異種なのか異物なのかヤタカには判断できなかった。少なくとも寺に所蔵されていた物ではない。記録にも残ってはいなかったのだから。

 

――ほうほう ある?

 

「考えている。考えろ、考えるんだ」

 

 自分に言い聞かせるように言い、震える唇を一文字に結んだヤタカは、拳で胸をどんと叩く。

 

 どん

 

「誰でもいい、手を貸してくれ」

 

 どん

 

「紅を助けろ」

 

 どん

 

「このままじゃ、山が死ぬ! 生命の源が断たれたんだぞ!」

 

 思い切り振り上げた拳がびくりと止められた。

 

「熱い!」

 

 乱暴に胸元に突っ込まれた手が握って放り出したのは、石。ヤタカが戯れに磨き続けてきた灰色の石が、ころりと転がって紅の横でぴたりと止まる。

 ヤタカの手で荒削りながらも滑らかになった表面が、小さな穴を無数に開けたように内側からちらちらと輝きを放つ。

 心奪われる輝きだった。

 夏の太陽にきらきらと輝く湖面を、生い茂った葉の隙間から見ている錯覚に陥って、ヤタカははっとして額を押さえた。

 

「熱をもっていない……」

 

 慎重に触れた指先に感じたのは、きりきりと冷え切った冬の泉に似た冷たさ。ずっと懐に入れていたヤタカの体温さえ僅かにも残っていない。紅の側から離れなかったゲン太が、ゆっくりと後退る。困惑を表すかのように、木肌に薄墨が意味を成さずに漂っている。

 

「ゲン太、離れろ……来い!」

 

 ヤタカの怒声に弾かれて、ゲン太が胸に飛び込んだ。身を翻して木の陰に飛び込んだヤタカの耳に、どすん、と地鳴りを伴った雷鳴が響く。

 ゲン太を胸に抱き目の端だけを幹から出したヤタカは、予想を越えた光景に驚悸した。 厚い雲に遮られ、影に覆われた山々を幾筋もの閃光が走る。

 乾いた空気中の全てを集めて放電したように、折れ曲がる閃光が無数に地を這う。

 草木に覆われた地表を走る閃光は強い光を放ち、視界を遮断するもの全てを物ともせず存在を解き放っていた。

 

「石に集まっている」

 

 遠くを起点に駆け抜ける閃光は、どこから始まろうと全ての終点は石だった。ヤタカが戯れに磨き続けた石が、稲妻に打たれたように身を震わせる。閃光を一筋浴びるたびに、ぽろぽろと石の表面が剥がれ落ちて、石は姿を露わにしていった。

 灰色の皮を脱ぎ捨てた石は、気泡を含まない透明で大き過ぎるビー玉のようで、見る者を虜にする美しさだった。透明になった石は集めた閃光で光を放つ。石に押し込められた金色の閃光は外へ出る時を覗うように石の中を縦横無尽に飛び回り、幻想的な小宇宙をつくりだしていた。

 水の器がカタリ、と身じろいだ。

 

「ゲン太、ここから離れるぞ」

 

――べに べに

 

 暴れるゲン太を両手で強く押さえ込み、ヤタカは石から目を離さずに後ず去る。

 大地を這う稲妻は、紅とヤタカの足元を避けて石へと集まっていく。

 広い山の中、まるでヤタカと紅の存在を認知しているように奇怪な動きだった。

 大地を駆ける稲光が消え、突きあげる振動が止まった。天の雲はさっきよりずっと下まで重く垂れ下がっている。

 ヤタカが僅かに力を弱めた隙を突いて、ゲン太が手を振りほどいて地面に降りた。

 

「まて、ゲン太!」

 

 追いかけて手を伸ばしたヤタカの体は、不意の爆風に吹き飛ばされた。

 胸を蹴られたようにくの字になって飛んだヤタカの腹に、更に前方で飛ばされたゲン太がぶつかった。

 

「なんだ……あれは」

 

 紅を助けに行こうとしたゲン太も、我を忘れて見入っている。

 立ち上がる事さえせず、ヤタカも目を見開いた。

 人という種族が立ち入れない領域が目の前にあった。

 人が手を出してはならない世界、いや介入する余地などない偉観。

 

――べに べにが

 

 飛び上がって木肌に浮かべた文字を見せるゲン太を押さえつけ、ヤタカは自分の了見を越えた事象に息を呑む。

 

 息も絶え絶えだった紅を、いつのまにか石が包み込んでいた。既に石とは呼べない黄金色の固まりになったそれは自在に姿を変え、横たわる紅の命を繋いでいた。

 閃光を集めた黄金色の溜まり水の中、何事も無かったかのように紅が悠然と尾を揺らしている。大木の幹ほどに平らに広がる黄金色が、天に向けて一筋の稲光を放った。

 

 ぴしゃり

 

 尾を打ちつける音が聞こえた気がして、ヤタカは紅の姿を探した。

 

「紅?」

 

 再び打ち上げられた稲光が小さな紅の体を突きあげた。稲光の消失と共に落下し始める紅の体を次の稲妻が更に上へと持ち上げる。

 

「紅が大きくなっていく。まるで金色の透かし絵だ」

 

 幾本もの稲妻に上へ上へと運ばれるたび、紅の体は大きく半透明になっていく。

 赤い模様はそのままに、体表を黄金色の光が舞う。

 太い稲光が宙を及ぶ紅を、暗雲の際にまで押し上げた。

 

 ぴしゃり

 

 巨大な紅の尾が、雲目掛けて打ちつけられた。

 

「黒い筋が途切れた……雲を縛る何かを、紅が断ち切っているのか?」

 

 鎖が切れていく様を見るようだった。雲を絡める黒い筋が断ち切られていく。風船のようにゆったりと落下する紅の体を間を置かずに次の稲妻が突きあげ、別の場所へと運んでいく。運ばれた先で紅が尾を打ちつけると、絡まった黒い筋がぼろぼろと砕け散った。

 紅の体がゆっくりと落ちてくる。

 鎖の要が切れたのだろうか。天を覆う雲に絡まる黒い筋が、そちらこちらでばらばらと砕け消えて行く。

 

「紅? 目を覚ませ! そのまま落ちたらただじゃすまないぞ!」

 

 気を失っているのか、風に尾がなびくままに落下してくる紅。あの巨体を受け止めることなど不可能だ。

 元居た場所に戻ると言わんばかりに、目の前に広がる黄金色の水たまりに紅の体が沈み込む。震動の代わりに、顔を背けるほどの風圧に襲われた。

 

 息も吸えない風の中、指の隙間から見る光景にヤタカは手をだらりと下ろした。

 落下した紅を完全に包み込むほど巨大な黄金色の水柱が立ち、上へ上へと昇っていく

 最後の一滴が吸い上げられたとき、それは宙で弾けて形を成した。

 

「龍神……」

 

 思わず口から漏れた言葉。あれの正体などわからない。だが、山の緑を宿したような半透明した緑の肢体は巨大な龍そのもので、金糸の長い髭が悠然と宙を裂き昇っていく。

 今にも垂れ下がりそうな灰色の雲を突き破って、龍神が一筋の穴を開けた。穴からは厚い雲の上で輝く日が絹衣さながらの、光の帯となって暗い大地に降り注ぐ。

 

――しばり とけた

 

 ゲン太のも文字が、木肌に浮き上がる。

 ふと目を遣った先で、元の大きさに戻った紅が苦しそうにエラを広げて横たわっていた。

 

「紅!」

 

 助けに行こうとしたヤタカを、ゲン太が身を鳴らして押し留めた。

 

――いっちゃだめ

 

「どうしてだよ!」

 

――はじまるから

 

 ゲン太が前の歯を上げて空を見上げる。舌を打ちながらヤタカもそれに従った。

 

「どうなっている……」

 

 水の器が嫌そうに身を振るわせた。危険を知らせる震えではないというのに、拗ねた子供のように不機嫌さを露わにしている。

 水の器の震えに同調するように雲が蠢く。

 各所でゆったりと渦を巻いた雲が、古家を支える柱のように下へ伸びていく。伸びる事に先細りしていく雲の尖端からは、雫が垂れるように千切れた雲ぼたり、ぼたりと落ちては山の各所に散っていく。

 

「ゲン太、何が起きている」

 

――はんらん

 

「雲のか?」

 

――そくばくが とけた

 

 木肌の文字が渦巻いて、すぐに次の文字が浮かび上がる。

 

――いしゅの はんらん

 

――いのちを すてて

 

「なんだって?」

 

 地表にある全ての水分を溜め込んだ雲が幾本もの柱を下ろしていく様は、見る者に平衡感覚を失わせた。

 

――いのちが さく

 

 ゲン太に視線を戻した途端ふらついたヤタカは、頬を叩いて再び空を仰ぎ見た。

 降りてきた雲の柱の尖端が一斉に渦巻いた。

 ネジのようにぐるぐると巻いて、太く平たく縮まった雲の柱。

 

 吹き付けた風は天空から。一瞬顔を背けたヤタカの目の前で、とぐろを巻いた雲が一気に解けて弾け飛ぶ。

 

「まるで花火だ」

 

 火花咲かせて散っていく花火と違うのは、天から放たれ、地に向かって大輪の花びらを広げ咲き誇るその姿。

 薄い花びらを幾重に重ねる雲は真っ白で、重力に逆らうようにゆっくりと広がり落ちる。雲と大地の間で、外側から花びらが散っていく。

 ふわりと本体を離れ急速に落下する白い雲の花びらは、大地に着く前に大粒の雨となり山々を濡らしていく。

 痛いほどに大きな雨粒に顔を打たれながら手を翳すと、黒く濡れた地面を紅が泳いでくるのが見えた。

 いつものように、何事もなかったように、優美に紅の尾が揺れる。

 駆け寄るゲン太の尻をほっとして見送りながら、ヤタカは額に翳した手の下で空を眺めた。手の平を、頬を打つ雨粒が痛い。

 上空では次々と雲の花が咲き散っていく。空で咲き、大地に落ちる前に花としての生涯を終える雲の花。

 ゲン太の文字が胸に蘇る。

 

 命を捨てて……

 

 異種の命を内包した雨が降る。

 散った命が、山に命を与える雨となった。

 空に咲いた雲の花。

 誰に名を知られることなく、信念のために散った雲の花だった。

 

 

 

 

 

 




ちょっと長くなりんした……
読んで下さってありがとうです!


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45 守るも死 守らぬも死

 雨に黒く濡れた大地を笑うように、青い空が広がっていた。

 この世に雲など存在しないかのように、草木に平等に降り注ぐ陽光が山々を覆う緑をちらちらと輝かせている。

 濡れた草を渡って、紅が気持ち良さそうに泳いでいる。

 湿ってしまった木肌が気になるのか、ゲン太はぷるぷると盛んに鼻緒を振るっている。

 

「何だったんだ、いったい」

 

 雨粒が滴り落ちる長い前髪を掻き上げ、ヤタカは静まりかえった山々を見渡した。

 天と地の狭間で散った花は、何を思ってその命を散らせせたのだろうと、どんなに思考を編んでも答えは出てきはしなかった。

 

「え?」

 

 足元から呼ばれた気がして見下ろした先に、ヤタカはゆっくりと手を伸ばす。

 神々しいまでの輝きなど幻だと言わんばかりに、灰色を濃くした石が水たまりに半身うずめて転がっていた。

 拾い上げようとした指から、すとんと石が落ちる。

 

「石が重くなっている」

 

 懐に入れて歩くことさえ苦にならない石であったのに、今は指先に力を込めて握り込まなければ持ち上がりすらしなかった。

 

「何者なんだよ、おまえ。せっかく磨いてやったのに、黒い灰でも被ったみたいに汚れちゃってさ」

 

 はっとしたヤタカは、紅を追って駆け回っているゲン太を呼び戻した。

 

「この辺りに澄んだ湧き水があるのを感じる。この石を、綺麗な水に浸してみようと思うんだ。ただの石じゃないだろ? ここまでくすんだこいつを、湧き水に浸けてもさっきの妙な雲や鎖が蘇ったりしないよな?」

 

――だいじょうぶ たぶん

 

「たぶんかよ」

 

 日常でも雨が降れば空気の淀みは流される。だが空気も大地に浸みた水も、比べものにならないほど澄んでいた。清浄な気配の中、更に透明な水の匂いがする。ゲン太を促し、ヤタカは迷うことなく山の中に入っていった。

 

――たるんでる

 

 ゲン太が浮かばせた文字に、ヤタカは重みの増した胸元に手を当てる。

 懐に入れた時より重量を増した石が重力に引かれ、作務衣の襟元はすっかり緩んでしまった。

 

「子供の頃、学問ってやつを真面目にやらなくて良かったよ。石の重さが変わるなんて、まともな脳みそ持ってる奴が目の当たりにしたら泡を吹く」

 

――まなばざるもの

 

「ん?」

 

――くうべからず

 

「働かざる者、だろう? ゲン太のふやけた頭よりはマシだ」

 

 葉の表面をぴしゃりと紅の尾が打った。

 

――べに ひどい

 

 憤慨したように、ゲン太がぷりぷりと鼻緒を膨らませる。

 

――どっちもどっち だって

 

 なぜだろう、紅にいわれると言い返す言葉が見つからない。ヤタカはごしごしと頭を擦り、更に重みを増した石の下に手を添えて先を急いだ。

 

「ここだ」

 

 左に続く崖下へちょろちょろと流れ落ちる水を生みだしているのは、岩の隙間から湧き出す水の湛えた小さな泉。腕を入れても、肘まで浸からないほどの深さしかないが、透明な水は大きな桶くらいの大きさの綺麗な丸い縁を描いてる。

 取りだしかけた石を手にしたまま、ヤタカは泉に顔を突っ込み水を飲んだ。

 石を入れて水が汚れないとも限らない。紅のための水も竹筒に入れ直し石を泉に入れようとしたときには、動かすのに両手を添えなくてはならない程の重さになっていた。

 

――なぜ みずにいれる?

 

「辻読みの婆さんが、言っていたことを思いだしてな」

 

――溜まり水じゃのうて、綺麗な川でもあったら浸けてやるとええ。それはどうやら、水のものらしいからの

 

 イリスを攫おうとした老婆の言葉など、従って堪るものかと思ったが、石を手にした途端蘇った言葉を、手の中の石が望んでいるように思えた。

 石がヤタカを動かしたとさえいえる。

 

「さぁ、どうなるか」

 

 ぼちゃりと音を立て、石が水底に沈んでいく。泉の周りをくるくると回っていた紅が、ひょいとゲン太の木肌に飛び移った。

 

「紅は、あれを避けたのか」

 

 石の表面から墨のような黒いものが吐き出され、小さな泉の透明度は一気に失われた。

 新しく湧き出た水が押し流し、黒い水は地面を伝って崖の下へと落ちていく。

 

「紅が避けたって事は、毒でも含まれているのか?」

 

 ヤタカの問いに、紅は素知らぬ顔でゲン太の木肌を泳いでいる。代わりに答えたのはゲン太だった。

 

――あれは いしゅのざんがい

 

――まけたいしゅの しがい

 

 空の上で雲を縛っていた鎖を思い出す。あれが異種だったとでもいうのだろうか。この石は敗北した異種の死骸を自分の身に取り込み、湧き水にそれを吐き出しているのだろうか。

 

「いつまでかかるんだ? 境の盆に辿り着くための時間が惜しい。こいつ、このまま此処へ残していっても大丈夫じゃないか?」

 

 先を急ぎたがるヤタカを、紅の尾がぴしゃりと止める。

 

――だいじょうぶ

 

――ひ のぼるころ

 

――いし きれい

 

 紅の言葉を伝えているのだろう。ゲン太の木肌に浮かぶ文字はゆっくりで、どこかたどたどしいものだった。

 何より水気の主が造りだした水の玉を失った今、太陽の照りつける中を進むのは無理だという。

 

――やすめ だって

 

「そうだな、境の盆についたら恐らく戦いが始まる。休んでいる暇などないだろう。明日の朝までここに留まる。だが、本当にそれで間に合うんだろうな?」

 

 気分を害したというように、紅の尾が大きく木肌を打ちつけた。

 ゲン太ごと紅を突いてやろうとしたヤタカの手は、素早く鼻緒を握って物言わせる間もなく胸元に引き寄せると、さっと一歩後退った。

 

「何かいる!」

 

 石から放出される異種の死骸に黒く淀んだ泉は、底に間欠泉でも開いたかのように水を吹きだし始めていた。

 吹き上がる黒い水は回を重ねる事に色を薄め、やがて透明な水となった。

 

「石を、拾い上げておあげな」

 

 いつの間に姿を見せたのか、水気の主が薄い水色の着物を纏いゆるりと泉の向こうに立っていた。

 

「現れ方が、唐突過ぎんだよ」

 

 ヤタカの文句に袖の裾で口元を押さえ微笑む水気の主。その表情にいつもの剣はない。

 

「どうしたんだ? 殺気じみた俺への敵対心を何処かに捨ててきたのか? あんたの穏やかな表情なんて気味悪いぜ? ましてやイリスがこんなときに」

 

「さっきの一件で、ばらばらだった異種達が心を決めた。ヤタカの命を奪ってもイリスを生かそうとする勢力が、思いを止めた。他でもない、イリスの願いを受け入れた」

 

 水気の主の表情は変わらず柔らかで、だからこそ一難去ったに過ぎなかった、その一難が思いの外、深い思いが絡まっていたことを思い知る。

 

「それとあんたの心境の変化に、どういう関係が?」

 

「あたしも腹を括ったのさ。異種達の意思は自然の意思そのもの。その思いにあの方が同調なさるなら、わたしも揺らがない。すでに耳に入っているとおり、この戦いの末には、イリスとヤタカどちらかの死は避けられない。だから手はくわえずに見守ることにしただけだ」

 

 自分とイリスどちらかが死ぬ。言葉にされると、胸に嫌な痛みが走る。

 

「安心しろ。何があってもイリスを生かす」

 

 そういうと思ったよ……水気の主は寂しく微笑む。

 

「どんなに願っても、人の生死には時が絡む。今を彩るのは過去の思い。過去の念が、今を生み、過去と現在が絡まった糸が未来を紡ぐ。想念の糸は、おまえが思うより余程に強い。当たり前と思っているお前の願いへ、描く未来へ伸ばす手を絡め取られなければいいのだがねぇ」

 

「俺はそんなにヤワじゃない。心配するな。水の器はイリスに渡して、俺はきっちり死んでやる」

 

「以前イリスにいったことがある。お前の願いは叶わないってね。今はわからない。動くはずのない大岩を、あの子は一念で動かした。異種が心を纏めるなど、奇跡に近い」

 

「イリスの願いは、ふるさとの泉に咲く花をもう一度みることだろ? 俺には叶えてやれそうになくなったが、事が済んだら連れていってやってくれないか?」

 

 水気の主は寂しそうに首を横に振る。

 

「それもイリスの願い。だが、生涯を賭けた願いは他にある」

 

 そんな願い、ヤタカは聞いたことがない。不思議そうに首を傾げたヤタカに、水気の主は言葉を続けた。

 

「それはね、ヤタカ。おまえさんを守ることだ。生かすことさ」

 

 薄々は感じていた。だが、言葉にされると息さえ止まる。ヤタカは胸に拳を当て、きつく目を瞑った。

 

 あたしはイリスが好きだよ、でもねぇ―――

 

「死んで清清すると思えるほど、嫌えなかったのさ、お前を」

 

「俺がいなければ、こんな事にはならなかったんだ。俺こそ、禍々しい黒点そのもの……」

 

 口を閉じたヤタカの膝に、心配そうにゲン太が前の歯をかける。紅は木肌をするりと抜け出し、水に濡れた葉を伝って水気の主の元へと行った。

 

「おやおや、金魚の坊やには新し水玉が必要だねぇ。まだ下駄の坊やと追いかけっこをして遊ぶんだろう? 夜も更けたら新しいのをあげるから、それまで遊んでおいでな」

 

 ぴしゃり

 

 軽快に尾を打ちつけ、心配げに見上げるゲン太を誘う。後ろ髪引かれるようにとぼとぼと、ゲン太は紅のもとへいき、一匹とひと下駄は木陰の向こうに消えて行った。

 

「さて、聞かせておくれよ。どうして、自分を黒点だなどと思うのさ?」

 

「それは……」

 

 一瞬言い淀んだヤタカだったが、ゲン太達の気配が離れたのを確認して口を開いた。

 

「寺にいた頃だ。岩牢の抜け穴を通って裏山の木の上でぼんやり休んでいた。そのとき、まるで寺の力が弱まったかのように、遠くの木々のざわめきが押し寄せて、俺の耳に入った」

 

「そりゃ人が守る結界など、締まりもすれば緩みもするさねぇ」

 

「森の奥から流れてきた声はこういった。寺の少年が運命の渦を乱した。不吉な黒点は寺の少年。イリスの命を奪う、禍事の黒点」

 

 目を細め、水気の主は話しに耳を傾ける。

 

「恐ろしくなった俺は岩牢に逃げ帰って、このことを誰にもいわなかった。俺達二人の運命など知りもしなかったというのに、本能が確信したんだ。流されれば、俺がイリスの命を奪うと。だから俺は、黒点そのものなんだよ」

 

 すっと腰を下ろした水気の主が、細い指で澄んだ水面を撫でる。泉に沈んだままの石が、礼をいうように僅かに身じろいだ。

 

「確かにあんたは黒点だ。あたし達にとっては、災いの象徴。イリスを危険に晒す者」

 

 でもね……

 

「一度は禍事の黒点と称したお前を、異種達は受け入れることにした。その気持ちを汲んでなお、自分をただの災いだというのかえ? 異種だけじゃない。この石が自ら動いたことで、野に散らばる異物達も、イリスの思いを受け入れた。その思い、黒点と称して自らを貶めるだけなら、彼らは思い損の死に損だ。誰が死ぬべきとか考えるのはおよしよ。黒点だから死ななければならないわけじゃないだろ? イリスを助けたい。それだけでいいじゃないか」

 

 散っていった異種達の事を思った。円大に破壊された異物を思った。おばばやゲン太、紅に石、側に居てくれた異種と異物の気持をないがしろにしていたのかも知れないと思った。自分が死ねば済むことだと。

 

「そうだな。結果は同じでも、過程を辿る意思がどうあるべきか。それが力を貸してくれた者達への、礼と弔いになるのかもしれないな」

 

 ヤケに素直だねぇ―――水気の主が笑う。  

 

「おやおや、お客さんのようだよ。あたしは、下駄の坊や達を追いかけて、様子でもみてこようかね」

 

 立ち上がった水気の主が木立の向こうへ姿を消すと、泉の周りに一斉に白い小花が姿を現した。チリリ チリリと小鈴を転がしたような音が響く。白い小花が頭を揺らして造りだす音は微妙なズレをもって和音となり、花言葉を紡ぎ出す。

 

『マタセタノ』

 

「泉のおばばなのか?」

 

 日はまだ高い。日の差す中で姿を現すことのないおばばは、花言葉を重ねていく。

 小さな泉に、美しい水紋が広がった。

 

『テラノ イズミガ ウメラレタ』

 

 寺の泉を埋めた者の目的にヤタカは頭を廻らせる。寺跡には何も無い。誰が狙う物もないはずだというのに。

 

『ヤツラハ ワシノコトナド シルマイ』

 

「泉を失って、おばばは大丈夫なのか?」

 

『スンダミズガアレバ ドコヘデモユケル』

 

 おばばの言葉にヤタカはほっと胸を撫で下ろす。おばばに何かあればイリスが悲しむ。

 イリスが大切に想う者を、これ以上失いたくはなかった。

 

『ヨルマデ ヤスメ』

 

「コヨイ ハナソウ』

 

 小花は頭を振るのを止め、泉の水紋も静まった。

 

「そうだな。花言葉は疲れるといっていたもんな」

 

 木に持たれてヤタカは目を瞑った。おばばが側に居るからか、懐かしい寺の匂いがした。慈庭に守られていた幼少期の安堵感が、ヤタカを暫し眠らせた。

 

 

 

 

「これ、起きんかい」

 

 はっとして目を開けたヤタカは、目の前の光景に笑みを浮かべる。すっかり夜の帳が降りた中、白く光を放つ小花に囲まれて、おばばが揺らいだ残像のような姿でちんまりと泉の縁に座っていた。

 少し離れた場所では、木に凭れて腰を下ろした水気の主が、遊び疲れて眠るゲン太と紅を膝に抱いている。

 

「その姿のほうが落ち着くよ」

 

 そういうと、おばばはくぇくぇ、と顔をおくしゃりとさせて笑った。

 

「寺の泉を石と土で埋めたんは、草クビリの連中じゃ。わしがあそこに居ることなど感じられる者達ではない。ただ、寺跡の痕跡を全て消したかったんじゃろうて」

 

 草クビリの名は、ゴザ売りから聞いている。顔を見たことはない。直接仕掛けられたこともない。いや、気づいていないだけで、既に仕掛けられていたのだろうか。

 ヤタカは顎を捻り、思考を巡らせる。

 

「イリスとヤタカに別れたものが、ひとつになる時がきた。イリスの飛ばした意思が、わっちらにかけられた呪を解き、異種の記憶を取り戻した」

 

「記憶が戻ったのか? 本来一緒にあるはずのものが、俺とイリスに別れたのが原因とかいっていたな?」

 

「あぁ。だがそれはちっとばかし違ったようじゃ。寺が崩壊した日、素堂は読経をもってわっちらに呪をかけた。異種と異物が流出しても、寺で知り得たことを決して話せぬように、読経に術を織り込んだのじゃよ」

 

 それよりも事をややこしくしたのはな…… 

 

「山下りにおいて、いっとき水の器とイリスの目に宿る異種は離れ離れになる。歴史の中で繰り返されてきたことじゃ。だが、今回は水の器が宿り主を違えてしまった」

 

 宿り主を違えた? 自分が水の器を宿してしまったのは事故のようなものだと思っていた。おばばの話しが確かなら、本当の宿し主は他にいたことになる。

 

「慈庭がおまえさんに残した、最後の言葉を覚えておるじゃろ?」

 

「あぁ。忘れられるはずがない。ずっと意味を考えていた。答えが見つからない」

 

 逃げろ 許せよ ヤタカ……

 

 慈庭の声が頭を過ぎらない日はなかった。

 

「その言葉、わっちが訳してみようかの?」

 

 心臓が鼓動を速める。聞きたいとも嫌だとも言えず、ヤタカは地面に視線を落とした。

 

「にげろ。わたしの役であったのに、背負うべき荷を負わせることになってしまった。許せよ、ヤタカ……であろうかの」

 

 唇は動くのに、言葉がでなかった。

 

「慈庭じゃよ。本来水の器を宿す役目を負って生まれたのは、慈庭じゃった」

 

「俺が水の器を割ったせいで、山下りが狂い慈庭は死んだのか?」

 

 おばばは穏やかな表情のまま、いんや、と首を振る。

 

「何の悪気もなく、お前と共に居ることを望んだ者がおった。おまえは異物に愛でられる質をもっておった。他意なく投げ放たれた縄がお前を導き、水の器を宿らせただけのこと」

 

「いったい、誰が……誰が望んだと」

 

 体が震えた。骨が冷えた。

 

「これを伝えるんは、お前さんの仕事じゃの」

 

 おばばに話の先を託されて、水気の主はゆっくりと瞼を開く。

 

「ヤタカと共に過ごしたいと願ってしまったのは、イリスだよ。幼い日の、イリスだ」

 

 あぁ、やはりそうか。

 震える腕を両手で抱きしめ、ヤタカは記憶を辿っていた。

 イリスと本当に最初に会ったのはいつなのだろうと、微かな疑問は抱いていた。イリスの言葉の端々に、もっと以前に出会っていたと思える節があったからだ。

 

「幼い心が欲した友の代償を、今のイリスは知っている。だから、ヤタカを守ろうとしているのさ。おまえが寺に来るよりずっと前から、イリスはお前を守る為に自分の全てを

投げ打って生きていた。異種も異物もお前を疎んだのは、そんなイリスの思いがイリスを殺し、お前を生かすと思ったからだ」

 

「俺は、イリスを死なせない……絶対に死なせない」

 

「だがね、異種も異物も解ってしまったのさ。お前が死んだら、イリスは簡単に命を絶つ。どちらが生きるかは誰にも解らない。でも今は、イリスの意思を汲んで、お前を助けるとみなが決めた」

 

 何度も深い呼吸を繰り返し、ヤタカは真っ直ぐに視線を上げる。

 

「その思いに答えてやる。だから、お前達も約束してくれ。俺に何があろうと、イリスを死なせるような真似はするな。イリスに生きる望みを与えてくれ」

 

「そんな方法あるもんかね……」

 

「俺など守る価値もない男だという事実を突きつければいい。造り上げた嘘も、本気で語れば現実になる」

 

「そんな子供だまし、イリスには通用しないさ」

 

「イリスを死なせないでくれ。俺の……生きた意味が消えてしまう」

 

 異種の見せた夢が白昼夢となって蘇る。

 義眼のような目の玉を差し出すイリス。

 山に木霊するヤタカの絶叫に、眠っていたゲン太と紅が跳ね起き、ころりと転がって泉の中にぽちゃりと落ちた。

 

 

 

 

 

 

 




読んでくれて、ありがとうです……


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46 遠い日の出会い

 

 月が昇り小さな泉が放ち出した淡い光が、内側を彷徨っていたヤタカの意識を引き戻した。

 

「戻ってきたかの? まぁ水の器がそれだけざわつけば、引き籠もってもおれんじゃろ」

 

 おばばのいうとおり、水の器がそわそわと身を揺らしていた。

 水の器の想いが、ヤタカの手を小さな泉の水へと伸ばさせる。

 

「薄緑色の光り、これは……」

 

「気づいたかい? この子達は、あんたを殺そうとしたといっているよ? 泉に引き込んで殺そうとしたのに、腕に二本の傷を持つ男に邪魔をされたそうだ。まぁ、円大はお前を助けた訳じゃない。水の器を宿す入れ物に、あの時点で死なれては都合が悪かっただけのことさ」

 

 水気の主が優しい眼差しで泉を覗き込んでそういった。

 

「あの時の小花か」

 

 水の器がどうしようもなく惹かれた小花達。あの日と同じように、水の底でふるふると頭を振り、黄色い花粉を飛ばしている。

 

「手を入れても引き込まれやしないさ。おまえを介して、あの方に触れたいだけ。泉に手を入れておやりよ」

 

 泉に手を伸ばしたい水の器と、用心するヤタカの心が押し問答しているのを知ってか、水気の主が可笑しそうに笑った。

 逆らうのを止めたヤタカが力を抜くと、冷たい水の感触が指先から腕を這い上がり、あの日と同じように、指先に触れた黄色い花粉は線香花火のように、細く細かい光を散らす。

 

「水の器が、喜んでいる。そんな気がするが……」

 

「懐かしいのさ。この子達は、あたしの泉を彩る小花達だからねぇ。古い友に再会したようなものなんだよ」

 

 指先で弾ける細い光は優しく弾け、ヤタカの体を介して水の器と心を交わす。

 

「その泉に、イリスもいたことが? 俺もそこで出会ったのか?」

 

「いいや、イリスが少しだけ泉を離れて遊んでいたときに、お前達は出会った。イリスの存在を無闇に知られるのは拙い。草の根の子供とも限らない。そう思ったあたしは、幼いあんたを遠ざけようとした」

 

 できなかったよ……水気の主は寂しそうに眉根を寄せる。

 

「漆黒の瞳を持つ者は、村では腫れ物を扱うように遠巻きにされ、近い歳の子と遊ぶことさえ叶わない。ましてや目隠しをした子と遊んでくれるなど」

 

 幼い日のイリスを思った。燦々と日が差す緑の大地にひとりぽつんと座るイリス。

 親が働きにでた家の中、ぺたりと座ってひとりで食事をするイリス。

 寂しくて、悲しくて、愛おしかった。

 

「イリスは正確には生まれつきの異種宿りじゃないよ。漆黒の瞳を持つものは、特別な二粒の種を双眼に宿す宿命を負って生まれる。その子の犠牲によって、異種と異物は山下りを終え、長きにわたる平穏を取り戻す。だからこそ、異種も異物も漆黒の瞳を持つ少女を心から大切に想う」

 

 漆黒の瞳を持つ少女は、視力を失って生きるか、命を落とすかに運命が決められているという。たとえ生きても短命。

 

「女の子が視力を失っても短命なのはなぜだ?」

 

「そりゃ理不尽な理じゃて」

 

 おばばがざらついた咳をひとつした。

 

「死を選んだなら、水の器の宿り主へ種は移行し少女はすぐに死を迎える。視力を失って生きることを選んでも、山下りが数年延びるだけのこと。水の器を受け取り視力を失った少女は、やはり若くして命を失う。数年後の日没に、双眼の異種は一気に芽吹き、女の子の体を苗床として一夜のうちに巨大な木となる。真ん中には天に向けて咲く二輪の花。月が真上に昇る頃、二粒の種が天に飛ばされる」

 

 古の少女達と、イリスの姿が重なった。

 

「種はある村の山向こうへと飛んでいく。ある時は祠であり、荒れ寺であり、地蔵という時代もあったのう。永い時を経て、緩んだ結界から異種と異物が零れでる。山下りの始まりじゃ。それを収めるために生まれた少女が、漆黒の瞳を持って生まれたとき、必然でありながら悲しい運命が繰り返される」

 

 少女達が異種を目に宿す前から布を巻くのは、器となる瞳を守る為だという。

 誰に教えられるわけではない。子も、子を宿した母も、本能的に布が必要だと悟る。

 

「水の器は、どうなる?」

 

「あの方は、木が育ち花を咲かせ、次世代へ続く種をつけるまでがお役目さ。苗床となった少女の……土の小山から地下に抜け出し地中に浸みた水を辿って、わたしのいる泉に戻られる。そして私と共に天と地を廻り結界を張り直される。あたしは結界を張る為の水先案内に過ぎない。人間のおまえにとっては敵にも思えるだろうが、あの方はいつも泣いておられるのだよ。結界を張りながら、自分達の為に命を捧げた少女を思って、泣いておられるのだよ。それは、人を守る為でもあるというのに……優しいお方だから」

 

「そんなこと、今まで口にしなかったじゃないか」

 

 水気の主は、目を閉じてこくりこくりと頷く。

 

「あたしもね、泉のおばば様と同じように、素堂が最後に読経に込めた呪を受けた。

あの場にいた泉のおばば様ほどではないが、イリスを見守るため、人には見えぬ水路を持っていたからね。ただの水ではない以上、素堂の読経は水に染みいる。水路の水はあたしそのもの。だからあたしも、歯が抜けたように思い出せない事実があったのさ」

 

 残っていたのは水気の主を想う気持ちと、イリスを大切に想うという、一番深い情だけだったと、水気の主は俯いた。

 

「異種と異物を山の奥深くに留め置く結界。ここがお前達の居場所なのだと教えてやれる結界。あの方が張られる結界も永遠の力は持たないからねぇ。何十年か経つごとに緩み綻び出す結界から、異種と異物が人の住む里へと迷い出る。それを再び山の奥へと引き戻し、新たな結界で人の手が届かぬ安住に地へ導くのが山下りの終結さ」

 

「どうして女の子が毎回犠牲にならなければいけない?」

 

 さあねぇ、と水気の主はゆっくり首を横に振る。

 

「言い伝えでは、古の神々がそう定めたとか……人の力の命を吸い上げた異種だからこそ、人とそうではない者達の境目を結界として造れるのだと。まぁ、お伽噺さねぇ。あの方の水先案内人であるあたしも、罪は拭えやしないのさ」

 

 結界が張り直されることなく、山下りに終わりがなければ人の里と異種、異物の住み分けは無くなる。数が増えれば認識する者も増えるだろう。苗床となる人間は増え、憎しみを抱いた人間は、異種と異物を完全な敵とみなすだろう。利害の為に、異種と異物が狩られることは止められまい。

 

「あんたは、何も悪くない。慈庭の役目を俺が担うことになったのが、狂いだした事の始まりだ。でも、それをイリスが望んだなら、何の後悔もない。異種にも異物にも迷惑を掛けたようだが、俺は後悔しない。慈庭も、イリスの望みならあの世で笑っていてくれるだろう」

 

 水気の主の横で紅を宿したまま静かにしていたゲン太が、小さくかん、と下駄を鳴らした。

 

「泉の側に横たわって、泉の奥まで腕をいれてごらん。小花達が、おまえとイリスの懐かしい姿を見せてくれるといっている。イリスの為に命を渡そうとしているおまえなら、見ておくべきだと思うがねぇ」

 

 作務衣の袖を肩まで捲り上げ、泉の縁にヤタカは身を横たえた。水の器がふるりと揺れる。小花達を驚かさないよう、ゆっくり腕を泉の底に降ろしていった。伸びた柱頭はあの日のようにてらてらと薄緑に光り、優しくヤタカの腕を絡めていく。花粉が激しく細い光を散らしていた。

 ヤタカは目を閉じ、小花達から流れ込む記憶に意識を落とし込んでいった。

 

 

 

 

 珍しい蝶を追いかけ夢中になっていたヤタカは、いつの間にやら見知らぬ森の中に迷い込んでいた。異種も異物も知らない幼いヤタカは、はたと立ち止まり、森が煩い……と思った。

 風もないのに木々がざわめき、どこからか水の流れる音がした。

 迷子になったのが解って、幼いヤタカの目に涙がにじむ。

 小さな瞳からぽろりと零れた涙を見て、傍観していたヤタカはくすりと笑った。もう十数年、涙を流していない。

 目の前に居るのは、涙を流せる普通の男の子だ。かつては自分であった、ただの人の子。 頭を撫でてやりたい衝動に、実体を持たぬ腕を伸ばしかけたヤタカは、苦笑と共に

拳を握り静かに腕を降ろす。

 追いかけてきた蝶は、鼻をすするヤタカを待っているように、同じところをくるくると回っていた。

 鮮やかな水色に銀粉をふりかけたような大きな羽は、今になって思うと異種だったのだと思う。偶然だったのかもしれない。イリスの寂しさを汲んだ異種が、ヤタカを導いたのかもしれない。

 

――どちらでもいいさ

 

 優雅に飛ぶ美しい蝶に、感謝の念が浮かんでくる。おまえのおかげでイリスに会えた。イリスを守れる場所に立っていられるのだと。

 鼻をずずりと啜り上げ、幼いヤタカは手にした棒を握りなおし再び蝶を追い始めた。どうせ迷子になったなら、せめて蝶を捕まえないと帰り道が大変なだけだ……そんな風に思った気持ちが蘇った。消されていた記憶が目の前に蘇ったことで、忘れていた感情も手に取るように思い出せる。

 

――ガキの時代を楽しめよ、坊主

 

 ヤタカが幼い自分を励ました時だった。

 蝶を追いかけ大木の向こうへ飛びだしたヤタカが、わっと叫んで尻餅をつき、勢い余ってでんぐり返った。

 

「だぁれ?」

 

 大木の向こうからひょっこりと顔を出したのは、おかっぱ頭の小さな女の子。

 

――イリスだ

 

 耳の辺りに黄色い花をちょこんとつけて、人の気配に小首を傾げている。

 

「お、おまえこそ誰だよ!」

 

 驚いてでんぐり返ったのを隠すかのように、ヤタカは声を張り上げた。

 

「わたしイリスっていうの。あなた男の子ね? おなまえは?」

 

「ヤ、ヤャ」

 

「ヤ?」

 

 首を傾げたイリスのおかっぱ頭が、さらりと髪をなびかせた。

 

「ヤタカってんだ」

 

 イリスの口元が笑顔にほころぶ。

 

「ヤタカね! いいおなまえ!」

 

 女の子に負けまいと胸を張って立ち上がったヤタカは、あれ? というように首を傾げて指をさす。

 

「おまえ、どうして目に布をまいてんの?」

 

「おまえ、じゃない! イリスでしょ!」

 

 腰に手をあて、イリスがぷん、と胸を張る。

 

「イ、イリス」

 

「うんうん」

 

 言葉の幼さを除けば、主従関係は今と変わらないな、とヤタカは目を細めた。いつだって細っこくて小っちゃなイリスが大将だった。

 

「おひさまがあるときは、これをしなくちゃだめなの」

 

 小さなイリスが、指先でちょんちょんと布を突いて見せる。

 

「目が悪いのか?」

 

「いたくないし、悪くないよ。でも、おひさまを見るといたくなるんだって」

 

「そっか」

 

 女の子を相手にどうしたらいいのか解らずもじもじしているヤタカに、有無を言わせぬ明るい声が飛ぶ。

 

「ねぇヤタカ、いっしょにあそぼ! ね、ね?」

 

「あぁ、いいよ……うんと……何して遊ぶ?」

 

 イリスに逆らえない習性はこの頃からかと、二人が草を千切ったり、イリスのおままごとに、口を捻りながらも付き合う幼い自分を見てヤタカは肩を竦めた。

 他愛ない子供の遊びだった。女の子の遊びにしかめっ面のヤタカとは対称的に、イリスは楽しそうだ。白い歯を見せ、声を上げて笑っている。

 でも今なら思い出せる。あの仏頂面は格好つけで、本当はヤタカも楽しかった。

 家に帰る方法を見つける前に日が暮れそうなことさえ失念するほど、イリスと過ごした時間が楽しかった。 

 

「ヤタカはかっこいいね! ギョメよりぜったいかっこいい!」

 

 かっこいいといわれて鼻をひくつかせ、得意げだったヤタカの鼻っ柱は直後にへし折られた。

 

「ギョメはお口ばっかり大きくて、かっこいいとはいえないもん」

 

「ギョメって……だれ?」

 

「泉にすんでる大きなお魚さんよ?」

 

 ぶーっと膨れたヤタカは、顔の形を確かめるようにすりすりと頬を撫でていた、イリスの手をぷいっと払った。

 

「魚といっしょにすんな! イリスはおしゃべりすぎ! ぜってぇギョメの口よりイリスの口の方がでっけぇ!」

 

 そこから取っ組み合いのケンカが始まった。女の子相手に無意識に力を抜くヤタカとは対照的に、全力で腕をブン回して向かってくるイリス。イリスの小さな拳が、ぽこぽことヤタカの頭や肩を打つ。

 

「痛いってば!」

 

「ヤタカのスカポンタン!」

 

 トドメといわんばかりに回し蹴られた足をひょいと避けると、勢い余ってイリスが尻餅をついて泣き出した。

 

「ヤタカのばか!」

 

「だって、イリスが乱暴するから……」

 

「おしり、いたい」

 

「ごめんね、ね?」

 

 唇を突き出して怒るイリスに、頭を撫でながら謝るヤタカ。

 微笑ましいケンカに、見ていたヤタカは目尻を下げる。

 これが初めての出会い。別に俺が悪い訳じゃないのにと内心では思いながら、ずっと謝り続けた。

 

――成長してからもそうだ。謝ったって、俺が悪いのはたまにだったろ、イリス? ガキの頃から理不尽なんだよ、おまえは。まな板のくせに……

 

 まな板に用はない、この言葉をいって何度イリスに蹴られただろう。目の前の幼い姿と大人になった自分達が重なっていく。

 もう一度イリスに、まな板に用はないといえたなら。

 

――もういっぺん、怒らせたいな

 

 急に立ち籠めた霧が視界を奪うように、幼いイリスとヤタカが掻き消されていく。

 思わず手を伸ばしたヤタカは、目を開きここが泉の縁なのだと確認すると、現実との意識のズレにくらりとする頭をぶるりと振った。。 

 

「どこまで見えたか知らないが、おまえはイリスと共に木の根元で眠り、朝になって村へと帰っていた。あたしが作りだした水の蝶に誘われてね」

 

 水気の主はずっと見守っていたのだろう。懐かしむように遠い視線に浮かぶ光景を閉じ込めるように、美しい目元が閉じていく。

 

「思い出を目に焼き付けられたよ」

 

 泉の小花達に礼をいう。

 

「イリスはあの日、俺と遊んで楽しかったのかな?」

 

「あぁ。自分が永い時を共に過ごす水の器の宿り主。それがヤタカならと、願ってしまうほどにね。その想いがヤタカを辛い人生に引き込んだのを知ったイリスは、逆さ廻りでおまえを救う方法を求めた。たとえ漆黒の瞳を持つ者でも、逆さ廻りで願いを叶えられる者などそうはいない。あの子には強い力があった。念の力だ」

 

「俺なんか、気に掛けなくてよかった」

 

「空」

 

 水気の主が呟いた。

 

「イリスにとってヤタカは夢にまで見る青空だった。自分には手を伸ばせない日の光の下、自由に跳ね回れる青空の子。だから、逆さ廻りで腕に書かれた一文字は、空」

 

 うっすらと開いた目元を辛そうに歪ませて、水気の主は言葉を繋ぐ。

 

「そんな思いを忘れさせるため、そして万が一にもイリスが生き残れたなら……一人で生きていけるようにと願って、あたしはイリスに礼儀作法を叩き込んだ。幾つもの時代を生きてきたからねぇ。イリスに必要だと思えることは、人ならばこうだろう。これを知れば生きていけるのだろうと。想像しながら知識と技術を与えた」

 

 宿屋で初めて水気の主と会った日、いつもとは違うイリスの話し方、身のこなし方は水気の主が仕込んだものだったのか、とヤタカは独り合点する。どんな知識や技術を教え込まれたのか知らないが、礼儀作法を含めイリスはすっかり忘れたように日常を送っていた。

 何がイリスの記憶を閉じ込めたのか知らないが、ヤタカはいつものイリスが好きだった。

 すぐに笑ってすぐに怒り、礼儀作法など知らないように、両手におにぎりを持って交互に齧り付く、いつものイリスの方がずっと好きだった。

 

「そうか。イリスに変わって礼をいう。ばかだな、イリスは」

 

「その馬鹿を大勢の者が愛しとる。だからこそ、おまえさんは生かされた」

 

 揺らぐ姿で話すおばばの表情は優しい。皺だらけの口がくぇくぇっと笑い声をたてる。

 

「この戦い、是が非でも円大に勝たせるわけにはいかんでの。それは異種、異物を内包する自然の意思じゃて。円大に嘘の情報を流され、絡み合った各組織の糸を解かねば無駄な血が流れるでよ」

 

「イリスの命さえ救えるか危うい俺に、そんなことまでできるだろうか」

 

「やるんだよ!」

 

 語気の荒さと裏腹に、水気の主は微笑んでいた。

 

「頭を崩せば組織は雪崩のように形を無くすさ。出来る出来ないじゃない。そこをやらないと、イリスは死ぬ。それどころか、イリスの手を掴むことすらできやしないよ」

 

 途方もないことだった。

 円大、ミコマ、わたる、ゴテに野グソ。自分の行く先を阻む者の顔がずらりと並ぶ。

 時を違えて出会ったなら、真の友になれたであろう者が含まれることに、ヤタカは眉を顰め歯を食いしばる。

 

「やってやる。だから誓え。俺に何があろうと、イリスを死なせるな。その希望が無くなったら、俺は虫けらにさえ立ち向かえる気がしないんでな」

 

「あぁ、誓ってやるとも」

 

「まかしとくれ」

 

おばばと水気の主がしっかりと頷きながら微笑んでいた。

 言い切ってくれた嘘に、ヤタカは静かに頭を下げる。

 確証など誰も持たない。

 だからこそ自分の気力を繋いでくれるなら、嘘でさえ武器になる。

 それを知っていて、嘘を言い切ってくれた二人の覚悟を思った。

 ありがたかった。

 

「味方がいなくたって上等だ! 負けねえよ」

 

 カキーン

 

 ヤタカの頭が横にぶれる勢いで、体当たりしてきたのはゲン太だった。

 

「痛いっつうの!」

 

――ここにいる

 

「ここににいる? まぁそりゃ馬鹿下駄がいっぴき」

 

 ドスッ

 

 鈍い音をたてて、再度ゲン太が蹴りをかます。

 

――みかた

 

――なかま

 

 木肌に浮かんだ文字を見て、ヤタカはふっと微笑んだ。ゲン太の気持など解っている。からかってみただけのこと。三角に吊り上げられたゲン太の鼻緒が、鼻息荒く揺れている。

 

「わかってるって。ゲン太や紅は、俺の仲間だ。これでも信頼してんだぜ?」

 

 くだらないやり取りを見ていられないというように、ゲン太の木肌から逃げた紅が、泉の水面をぴしゃりと尾で打った。

 

――わかってる

 

「なにを?」

 

――ヤタカ せかいいち

 

「ほほう、今日はやけにに素直だな。世界一好きか!」

 

――の あほ

 

 素早く蹴り飛ばしたヤタカの足に弾かれて、ゲン太がぽちゃりと泉に落ちた。

 

「あぁまったく! 金魚の坊や、下駄の坊やをなんとかしておくれ」

 

 それを見てヤタカは笑った。

 もやもやと胃を重くしていた、自分への不信が霧散していく。

 

「ゲン太、明日に備えて寝るぞ。明日までにふやけた体を乾かしておけよ!」

 

 いつの間にやら本来の姿に戻った泉のおばばが、美しい花びらを広げて泉を覆う。

 おばばの花からは、懐かしいような優しい香がした。

 水気の主と紅が、ゲン太を挟んで揉めているのを子守歌に、ヤタカは眠りについた。

 夢の中で、幼いイリスがヤタカに両腕を振り回していた。遙かに背の大きくなったヤタカは、片手でイリスの頭を優しく押さえ、膨れたイリスを抱き上げ、とんとんと背中を優しく叩いて抱き寄せた。

 頬をつねり上げる、小さなイリスの手の力が緩む。

 ぽやんと口を半開きに、幼いイリスがヤタカの肩に頬を預けた。

 

「異種はね、人の命をとったりしないの」

 

「え?」

 

 目を閉じたまま、イリスの寝言が続く。

 

「死ぬ日まで、体をかりるだけ」

 

 寝言が終わり、耳元の寝息が心地いい。

 ヤタカは夢の中 幼いイリスを腕に抱き続けた。

 

 

 

 

 

 

 




 のぞきにきてくれた皆さん、ありがとうーです!


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 朝の日が昇り出す前に出発したのは、新たに与えられた水の玉が造りだす湿った細い筋の中、優雅に尾を揺らしながら皆を先導する紅と、ヤタカの前を胸張って進むゲン太。  水気の主と泉のおばばは姿を消し、それぞれが思う方へ既に足を伸ばしているようだった。

 

 イリスを攫ったわたるも、独自の情報網にしたがって境の盆に向かっているのだろう。 わたるだけではない。

 おそらくは関わる者全てが、境の盆に向かっている。どのような手段であれ、境の盆の場所さえ割り出せない者に、此度の件に関わる資格さえあるとは思えなかった。

 今のヤタカにとって、この世の行く末を思い煩うのは後のこと。イリスを救い出し、その先も生き続けさせることこそが本願。

 木肌に文字を浮かべることなく、ゲン太はからんころんと進んでいく。

 尾で弾き飛ばした水しぶきでゲン太の木肌を濡らし、木肌に宿って牛車よろしく楽をしようとする紅を、尻をぶるぶると振ってゲン太が追い出した。

 

――紅なりの気遣いか

 

 木肌に文字も浮かばせず、鼻緒を尖らせたまま緊張しきっているゲン太の気を紛らわそうとする、何とも解りずらい優しさが紅らしい。

 

――妙だな

 

 どれほど進んでも山の景色はさほど変わらない。

 その中にヤタカが感じた違和感は、静寂だった。

 自由気ままに呼び合う鳥達の声を一度も耳にしていない。虫の音さえ無い。それだけでも森の中では異常だというのに、姿さえ見当たらなかった。

 囲む山々の合間に見える空は青く、風に流されながら雲が千切れ流れていく。木々の下に生い茂る左右の草むらには、飛び交う小虫さえいなかった。

 

「まるで山が呼吸を止めたようだ」

 

 ヤタカの独り言に、ゲン太がひょこりと振り向いた。

 

「ゲン太、俺から離れるな。山が静かすぎる。不穏を感じて、身動き取れる生き物は全て逃げ出したような、嫌な錯覚に陥りそうだ」

 

――なにかいる?

 

「わからない。それも含めて、気配が何一つ感じられない」

 

 鳥や虫どころか異種と異物も気配を消し、森は住人を失ったように音を無くしていた。

 

「おそらく俺達だけが取り残された。自然に生きる者の勘は鋭い。地震を予知して逃げ出す鼠の群れを思い出さないか? 俺達は、逃げ遅れたんだ」

 

 ゲン太は慌てて走り出し、紅を木肌に宿して戻ってきた。鼻緒がもじもじと小刻みに動いているから、紅に事情を説明してるのだろう。

 了解したというように、紅の尾が木肌をぴしゃりと打つ。

 

――みずのたま かくれる

 

「そのほうがいい。もう一度水気の主を呼び戻すのは難儀だからな」

 

 それに、とヤタカは思う。自分に何かあったなら水の玉は迷わず水気の主に知らせに行ってくれるだろう。

 あとは水気の主が、イリスを救う為に動き出す。そう信じていた。

 

――そら

 

 ゲン太が木肌に浮かべた文字に顔を上げると、青空を食らい尽くす勢いで全方向から鉛色の雲が押し寄せていた。

 鉛色に黒が混ざり下向きに渦巻いては厚みを増していく様子が、地上からでもはっきりと見て取れた。

 針の穴を塞いだように一点の青空も無くなったのを見て、ヤタカは目を閉じ感覚を研ぎ澄ませた。

 

――いる

 

 気配は突如として現れた。

 これを成し得たのが人であるなら、ゴザ売りと同等もしくはそれ以上の腕を持つ。

 

――今まで出会った誰の気配とも違う。

 

 日当たりの良い空間に、突如として一塊の冷気が生まれたように異質な気配。

 冷気の隙間を縫って漏れ出るモノに気付き、ヤタカは表情を変えぬまま心臓を跳ね上げた。

 

――まさか

 

 もはや気配を消そうとさえしない者が潜む右手の茂みには目を向けずに、ヤタカはゆっくりとしゃがみ込んでゲン太を摘み上げる。

 そしてひと言囁いた。

 

「逃げろ……」

 

 ゲン太は抗う間もなく、大きく振り切ったヤタカの手から飛ばさた。紅を宿した下駄が左手の茂みの奥へ落ちていく。

 

「姿を見せろ」

 

 ゆっくりと右手に向き直ったヤタカは、冷え切った視線で茂みの暗がりを射る。

 

「そう凄むな」

 

 聞き覚えのある、いや聞き慣れた野太い声が立ち籠めた霧のように、どこからともなく耳の奥に響いた。

 

「ゴテ……」

 

 だが茂みの奥から姿を現したのは、予想だにしない人物だった。

 強烈な冷気を放っていたのはこの男だろう。黒ずくめの男が、両刃の短刀を女の首に押しつけ姿を現した。

 押しつけられた刃が擦ったのか、白い首筋から一筋の血を流しているにもかかわらず、囚われた女に怯えの影はない。

 

「どうしておまえが……わたる」

 

 わたるは頭の後ろで結ばれた布を口に噛まされ、引き摺られるままにゆらゆらと姿を現した。相手の腕力に支配されているのは体のみだと、ヤタカが確信するのに数秒とかからなかった。わたるの表情はそれほどに凪いでいた。

 恐怖でもない。諦めでもない。ましてや命乞いをする弱さなど、わたるの双眸からは微塵も感じられはしない。

 わたるの視線に吸い込まれるように、一瞬我を忘れたヤタカの耳に再び声が響く。

 霧のように掴み所がないものと違い、現実の声だった。

 

「何を驚いている?」

 

 野太い声でにやりと笑っているのはゴテ。その横で表情無く着流しの袖に腕を入れている野グソがいた。

 

「着物とは、ずいぶん風流なこった。いつから偉くなったんだ?」

 

 ヤタカの挑発に、二人の表情は微動だにしない。内心舌打ちしたヤタカも、それを表情には出すことなくじっと二人の間に視線を向けた。

 ここまでくると、知っている幼なじみとは異質な存在と思うべきだろう。燃やすほどの視線で眼球を射ってやりたかったが、この世は広い。術を持つかも知れぬ者の目を直視するなど、自らの体に油を浴びて火に飛び込むのと変わらない。

 

「イリスは貰ったよ」

 

 いつもと変わらぬ穏やかな野グソのひと言に、ヤタカは骨が一瞬にして凍る思いだった。 肩と胸を押し上げないよう、ゆっくりと深く息を吸い動揺を押し隠してヤタカは微笑む。

 

「お前達がイリスを? 出来るわけがない」

 

「そうかな。草クビリに捕らえられた火穏寺の頭を目にしても、まだ甘い夢をみるのか?だとしたら、おまえは愚かだ。その甘い人情が、大切な者の命が消えるのを手助けするだろうよ」

 

 ゴテが、くくっと喉の奥で嗤った。

 

「お前達にとって、イリスはその程度の存在か? 死んで二度と会えなくなっても、握りつぶした虫けらと同等の価値しかないとでもいうのか!」

 

 平静を装うにも限界があった。

 目の前に居ないイリスへの不安が、ヤタカの声を荒げさる。

 

「だからおまえはガキなんだよ。大儀のためだ。少々の犠牲など、大儀の前に何の意味を持つ?」

 

 

「巫山戯るな!」

 

「落ち着きなよ。今すぐイリスが死ぬ訳じゃないんだから。イリスより、自分の身を案じた方が良いと思うよ?」

 

 のんびりとした野グソの声が、かえってヤタカの神経を逆なでた。

 

「てめぇ!」

 

 ゴテがすっと手の平を翳し、ヤタカを制した。

 

「オレ達の問題は後回しだ。まずは先に片付け問題があるんでね」

 

 すっと伸ばされた指先が、真っ直ぐにわたるを指す。

 

――殺すのか?

 

 僅かな動揺が、ヤタカの胸を痺れさせる。イリスを攫った女を今更庇う気などない。だが……

 

――見捨てられない

 

 宿命に翻弄されて表舞台に出た女を、心の底から恨めなかった。死ねばいいとも思えなかった。和平の笑顔が脳裏を過ぎる。笑顔で慕っていたイリスの微笑みが、ヤタカの心を深く抉った。 

 

「口の布は解くなよ」

 

 愚図つくヤタカの思いを蹴るように、ゴテの鋭い声が飛ぶ。

 

「悪く思うな、火穏寺の頭さんよ。あんたに声を発せられると、さすがに我ら翠煙の暗躍部隊も身動きが取れなくなる。それどころか、せっかく手を組んだ草クビリの面々でさえ、おそらくは手が出ないだろうからな」

 

 ヤタカはかつて黒装束をねじ伏せ従順にさせた上に退散させた、わたるの言霊を思いだす。

 頓悟、解、漸悟

 

 この言葉が及ぼす本当の意味など知るよしもなかったが、あの時黒装束は動けなくなり、わたるの意に添って立ち去った。

 

――ゴテ達が恐れているのは、わたるの言霊か

 

 それよりもヤタカの思考を捕らえたのは、草クビリのひと言だった。翠煙に属するゴテと野グソがなぜ草クビリと手を組んだのか、どれほど考えても解せなかった。事と次第では、寺つきの草クビリでさえヤタカとイリスの命を狙う。寺に属していながら、本来は表だって他組織に組みすることなく、独自に動く精鋭部隊ではなかったのか。

 見えない全貌に、ヤタカは一人歯軋りした。

 

「イリスはどうした」

 

 噛みつぶしたヤタカの問いにさえ、幼なじみの二人が表情を変えることはなかった。

 

「手の者が火穏寺の頭から奪い取り、今はここから遠い場所へと連れ去った」

 

 三人揃ってイリスに怒られ唇を窄ませた幼い日が、姫のように三人でイリスを守り続けた日々が霞んでいく。

 

「火隠寺あの女は邪魔だ。それに関してヤタカも依存あるまい? なにせイリスを攫った女だ」

 

 はっとしてわたるを見たが、視線をヤタカに向けることさえなく、眉は鋼のようにきりりと上がり、己の命を省みることない意思が瞳に妖しい光を宿していた。

 

「殺せ……」

 

 愛してる……そう囁いたかと錯覚するほど柔らかな声色で、ゴテが命じた。

 堪らずヤタカが疾風のごとく駆け出そうとした刹那……

 蝶が舞った。

 わたるを羽交い締めにし、刃を突きつける黒装束の周りを、薄紫の小さな蝶が無数に舞う。

 

――あれは何だ

 

 勢い余ってつんのめるように、ヤタカは足を止めた。

 無数に舞う蝶の小さく薄い羽から、金色の鱗粉が舞う。

 突然の小さな奇襲者を払おうと、頭を振る黒装束の動きがぴたりと止まった。

 

「その汚い手をどかさんかい」

 

 穏やかで嗄れた、けれど有無を言わさぬ声色が山間に響き渡る。

 

「辻読みのおばば?」

 

 打ち掛けをずずり、ずずりと引き摺る音だけが響く。ゴテと野グソも、声を失ったかのように黙り込んだ。

 

 嗄れた声の主は、ミコマと呼ばれる羽風堂の頭。

 驚くことに、たった一人の従者と共に、山と人が交える混戦の中に現れた。

 ミコマの声に操られて、刃を握る黒装束の手がだらりと下がる。

 

「もう十分に、幻蝶の鱗粉を吸い込んだらしいのう」

 

 くぇ、くぇ、と喉の奥で笑ったミコマは曲がった背に腕を回し、しょぼしょぼとシワに埋もれた目を開いてわたるを見遣る。

 木偶の坊と化した黒装束の横で、わたるが口に噛まされた布を外した。

 

「ミコマの婆様、でよろしいのでしょうか?」

 

「あぁ、そうじゃ」

 

 頷くように一度閉じたわたるの瞳が、いっそうの眼光を放った。

 

「おまえ様は強い。わたしの言霊は通じまい」

 

「あぁ、通じんのう。イリスモは貰い受けるぞえ。おまえさんは死んどくれ。この先何かと、邪魔だでの」

 

 ミコマがくしゃりと笑みを浮かべ答える。

 わたるも、穏やかな笑みを浮かべた。

 ヤタカは心臓を射貫かれたような痛みを感じて、わたるの元へ駆け出そうと足に力を込めた。

 びくりとも動かなかった。

 おまえは傍観者であれと、地に足が磔られたように体が動かない。

 

「通じぬなら、違う道を辿るまで」

 

 わたるが妖艶な笑みを浮かべたかと思うと、白く美しい顔に青い亀裂が走った。

 

「わたる!」

 

 思わず叫んだヤタカの声に被って、もう一つの声が山に木霊した。

 

「駄目だ、姉さん!」

 

 わたるとヤタカ、そしてミコマが睨み合う只中に、突如現れたのは和平だった。

 

「これは、わたしの役目だよ」

 

 和平の出現に心が揺らがぬ筈はないというのに、わたるの声は動揺の波を押し殺して凜と響く。

 

「そうだね」

 

 和平がすっと背筋を伸ばし、躊躇無く肩から衣を剥ぎ下ろし上半身を露わにした。

 

「そしてこれはぼくの仕事。姉さんが担ぎきれない重荷は、弟のぼくが担ぐ。それがぼくの役目だ」

 

 衣をはだけた背で、ミミズ腫れのように浮き上がった巣が脈打つ。

 力を込めて背を丸めた和平が、拳を握りふーっと息を吐き切った。

 

「この体から離れる力をやる。時が来たぞ……ぼくを喰らえ!!」

 

「やめて!!」

 

 わたるの悲鳴が耳を突く。

 ぐしゃりと嫌な音をたて、和平の背から節のある細い足が這い出した。

 一本、また一本と蜘蛛の足が背から表へ這い出るごとに、和平は耐えきれずに膝を折り、しまいに両手を着いて地に這いつくばった。

 己の命が危ういときさえ感情の波を見せなかったわたるが、気が違ったように髪を振り乱す。おそらくはヤタカと同じように自由な動きを奪われたのだろう。その場で身を捻り、拳で腿を打ちつける。

 

「止めなさい! こっちへおいで、さあ、わたしを喰らえ!」

 

 より旨い得物を物色するかのように、半身這い出た蜘蛛の足がわさわさと蠢いた。

 

「わへい止めろ! 死ぬぞ、死ぬんだぞ!」

 

 叫ぶヤタカの足も、どんなに力を込ようとビクともしなかった。目を見開くゴテと野グソも同じ状況に追い込まれているのか、刃向かうどころか声ひとつ上げずにいた。

 

「騒がしいのう」

 

 ミコマが、曲がった腰に両手を回しのんびりと声を発した。

 ほとんど直角に曲がった腰を僅かに伸ばし痛そうに顔を顰めた後、シワの隙間から覗く目は笑っていた。

 辺りを囲む、何一つ気配の無い山々の緑を見渡し、暫し目を閉じるとひとり納得したようにうむうむと頷いた。

 和平の背では、蜘蛛が残る二本の足を残して、全身を露わにしている。

 

「やれやれ、ここで火隠寺を潰し、翠煙を砕き、目障りな草クビリの連中の息の根を止めてやろうと思ったというのにのう」

 

「まったく、異種も異物も我を通す連中よのう。宿り主の意思に反して、勝手に他所の者と意思を通じおって」

 

 風もないのに、打ち掛けの裾がふわりと浮いた。

 

「わしの……いや。わしらの願いとは異なっておるが、仕方あるまい。わしら羽風堂は異物を愛でる。異物はわしらを愛で、だからこそ異物の自由を長年に渡って願ってきたんじゃ。それが叶おうかというときに……困った子じゃて」

 

 従者は目を伏したまま、ミコマの言葉に聞き入り肯定も否定もしなかった。

 まるで佇む影であった。

 

「婆ぁ! てめぇ何をする気だ!」

 

 凄むヤタカの気迫さえ、そよ風のように受け流したミコマは、痰の絡んだ咳をひとつして、顔にくしゃりと皺を寄せた。

 

「何もせんよ。異物を意思を羽風堂の意思とするは、古から受け継がれた信念じゃ。良かれと思うは人の我が儘じゃて、異物にとっては迷惑なときもあろう。曲げられんそうじゃ。異物達は、これだけは曲げられんといっておる」

 

 先より強い風に巻き上げられたように、打ち掛けの裾がぶわりと舞い上がった。

 

「まぁ、あれかの。シュイにでも吹き込まれたか? おまえらは、わしよりシュイが好きか。くぇ、くぇくぇ……そうであろうな」

 

 湧いて出たようなシュイの名に、ヤタカは眉を顰めた。

 

「わしゃもう疲れたわ……勝手にせい」

 

ミコマが天に向けて差し出した皺だらけの指先を弾く。

 ミコマの指先から打ち出された風の玉は大きさを増し、、日を遮っていた雲に風穴が抜けた。出口を見つけた日の光が、真っ直ぐにミコマの打ち掛けに白い光の筋となって降り注ぐ。

 ミコマが片手でばさりと打ち掛けの方裾を煽り、ヤタカ達へと背を向けた。

 日の光を浴びた金糸の蝶が、ゆらゆらと布の上で身じろいだかと思うと、布を抜け出し一気に宙へ飛び立った。

 最後に残った足の先を今にも引き抜こうとしていた蜘蛛が、和平の背で動きを止めた。 幾本もの節張った足をもぞりと動かし、闇を塗り込めたような複眼が金糸の蝶を追っている。

 優雅に羽ばたいていた金糸の蝶が、草に止まったかのように背の側に羽をたたみ、和平の上に落下しかける様は、金色の鱗粉が舞い、半透明の砂金の滝を見ているようだった。。

 

 バサリ

 

 無い風を感じるほどの音を立て、金糸の蝶が羽を前方に仰いだ瞬間、金の鱗粉に紛れてその姿が霧散した。

 

「金色の蝶だ」

 

 分身した小さな蝶が無数に舞っている。金糸に縁取られた蝶ではなく、金の羽根を持つ蝶は、和平の背の上で交差すると円形に散らばった。

 和平とわたるの間に、巨大な蜘蛛の巣が張り巡る。

 金の蝶に端を支えられた金糸の蜘蛛の巣。

 我を忘れるほど美しく、この世の物ではありえない存在への畏怖で、その場に居あわせた者全てが言葉を失った。

 

 ずずり、ずずりと打ち掛けの裾を擦りながら、ミコマが去って行く。

 無地となった打ち掛けは、重みを増したようにミコマの背を更に丸めさせていた。

 和平の背から這い出た蜘蛛が、金糸の巣へと足を伸ばす。

 

「あうっ」

 

 小さく悲鳴を上げたわたるのこめかみから、小さな蜘蛛が這い出して大蜘蛛を求めるように宙へ伸ばした足をばたつかせる。

 金糸の巣が端を伸ばし、小さな蜘蛛を手繰り寄せた。

 

 ミコマが足を止め、誰にともなく言葉を投げる。

 

「異種と異物は相容れぬ。だが、それは人が作りだした偽りかもしれん。境界線を持たぬ者が、いつの世も異種と異物の心を繋いできたというが……年寄りの戯れ言と思っていた。違ったか。やはり、年寄りのいうことは聞くもんじゃの」

 

 ずずり、ずずり

 

 ミコマが遠ざかる。

 

「境界線を持たぬ保持者。ヤタカとイリスのことじゃて。だがの、時代はそんな者達の誕生を歓迎しておるらしいわ。歴史上まれにみる数の、境界線を持たぬ保持者が見えるからのう」

 

 ずずり、ずずり

 

「この戦い鍵をにぎるは、その者達者よ」

 

 ずずり、ずずり

 

 ミコマの背が森の影に吞まれて消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




完結まであと何話か残る程度となりました。
最後まで読んでいただけたら、めっちゃ嬉しいですっ
今日も読みに来てくれてありがとうでした!


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48 絶望は血に染まる夕日のように

誰一人身動きできなかった。

 体の自由を奪ったのがなんであれ、仕掛けたのはミコマのお婆であろう。あたり一帯に微細薬を撒いたのか、あるいは元から仕掛けられていたのか。

 昔話に語られる大妖にも似た、得体の知れない気だけを残してミコマは去った。

 大地に立ち籠める朝靄のようにヤタカ達を絡めた妖気と違わぬ気配は静かに、けれど逆らえば喉元を掻き切る鋭さを含んでいた。

 

「和平!」

 

 ヤタカが叫ぶ。

 

 這い出た蜘蛛は足を含めれば、這いつくばる和平より遙かに大きい。わたるから這い出た蜘蛛が金糸の巣に渡ったのを確かめると、大蜘蛛は和平を節くれ立った足にひょいと引っかけ巣の上に引き上げた。

 器用に吐き出される糸がゆっくりと和平を覆っていく。日の光を受けて白銀に細く輝く糸がやがて薄い膜となった。

 ぼんやりと霞がかかったように、けれどまだはっきりと見て取れる和平の横顔はまるで眠っているように静かで、呼吸による微動さえ感じられない。

 

――まるで繭だ

 

 ヤタカは歯軋りしながら、蜘蛛の糸に包まれていく和平を見ていた。

 捕食する為に得物を糸で絡める様は山歩きの中で幾度となく見てきたが、どうも様子が違う。繭の中で、和平は膝を抱えて座っていた。

 逆らうことなく、大蜘蛛のなすがままに。

 和平は自分を喰らえといった。だが和平を囲む蜘蛛の糸は中に広く空間を残して編み上げられ、まるで割れたてっぺんの殻をつけ忘れた卵状の形をしている。

 単純に動きを封じて捕食するには、あまりに不自然だった。

 

――わたるから離れた蜘蛛の目的は何だ?

 

 小さな蜘蛛は金糸の巣を伝って迷うことなく進んでいる。

 大蜘蛛が和平を糸で包んでいる方へ、ゆっくりと。

 小さな蜘蛛が求めているのが大蜘蛛なのか和平なのか。何一つ読み取れないまま、ヤタカのこめかみにすっと一筋の汗が流れた。

 何の理由があって下の方から丁寧に巻き付けたのか、胸から下はまったく様子が伺えない。

 大蜘蛛がわさわさと足を動かし、吐き出した糸を巻いていく。その足を器用に避けて、 小さな蜘蛛は金糸の巣から、和紙のように薄く透けた繭へ身を移し、ゆっくりと這い昇るとぽっかりと口の開いた端まで辿り着いた。

 ぽとり、と蜘蛛が和平の頭に落ちる。

 

――何をする気だ

 

 和平の黒髪と同化して、小さな蜘蛛の動きは解らなかった。目を懲らす先で、重ねられた糸が和平を視界の向こうへと追い遣っていく。

 

――くそ、ミコマの婆は何を目的に蝶を放ち巣を張った? ここにいる者を殺すだけなら、その隙はいくらでもあったはずだ。和平が邪魔だったのか……いや、違う。婆は少なからずシュイの意思を汲んだはず。なら……

 

 金糸の巣が繭を中心に大地に向けて沈みはじめた。ゆっくりと、ゆっくりと、まるで小さな蜘蛛が和平に辿り着くのを待っていたかのように。

 和平を喰い殺させることが目的ではあるまい。いや、そう信じたかった。

 わたるは泣いていた。

 言霊を発しないということは、ミコマの婆と同様に、蜘蛛にもその力は通じないということなのだろう。

 銀糸の繭が、てっぺんに穴をあけたままきらきらと輝いている。恐ろしく巨大な蜘蛛が吐き出した糸だと知らなければ、森にぽつりと現れた美しい造形物だった。

 

――術が解け始めている

 

 ヤタカは微かに動く指先にそう感じた。

 

「和平、止めて! それは姉様の役目、わたしを喰らえ! 骨までくれてやる!」

 

 絶叫にも似たわたるの願いが森に響く。

 言葉を解するかのように、大蜘蛛がぴたりと足の動きを止め、黒く妖しい光を宿す複眼をじとりとわたるに向けた。

 

「やめて……」

 

 囁くような懇願をわさりと動かした足で払い、大蜘蛛は自らが紡いだ白銀の繭に足先をかけた。てっぺんに開いた隙間を押し広げ、いっぽん、また一本と蠢く足が金糸の巣から離れていく。和平を包んでなお余る空間に、大蜘蛛がするりと入り込む。

 すでに地面すれすれまで下がった金糸の巣は大地の模様となり、端を支えていた小さな金色の蝶はいつの間にか姿を消していた。

 黒土に浸みた金糸が、巣の編み目をそのままにチラチラと輝いている。

 握りしめられるようになった拳を突き出す自由はまだ無かった。ヤタカは動かぬ足で地団駄を踏む。

 

――繭のてっぺんが閉じていく

 

 白銀から吹き上がる地獄の黒煙――

 繭を閉じるために蠢く無数の足を見て、ヤタカはそう思った。細い足の先が白銀の繭に吞まれて消えた。

 内包するモノを知らなければ、美しい白銀の繭だった。

 

「和平!」

 

 繭が閉じたのを見計らったように体の自由が戻ったヤタカは、叫ぶと共に駆け出した。

 絡まる足に何度も膝をつきながら、わたるが駆け寄ってくるのが視界の隅に映る。

 繭を破ろうと体当たりしたヤタカは、ひどく打ちつけた肩を押さえながら弾き飛ばされた。

 

「やめろ」

 

 繭に手をかけようとしたわたるの足首を掴み、激しく首を横に振る。

 鉄のように冷たい堅さではなかった。かといって想像していた柔らかさもない。

 勢いを付けたヤタカをはね飛ばすだけの弾力を持つ繭は、試しにと強く立てたヤタカの

爪にさえ糸一本切れることはなかった。

 

「わたる、こいつは破れない。気が済むなら、試しにこれを使ってみろ」

 

 懐から取りだした短刀を渡すと、わたるは両手で振りかざし白銀の固まりに突き立てた。

 

 からん

 

 わたるの手から落ちて短刀が転がった。ヤタカの想像通りなら、わたるは腕が痺れるほどの衝撃を受けただろう。手首を押さえ、美しい眉を潜めてわたるは唇を噛んでいた。

 

「おまえには解っているのか? この後和平がどうなるか」

 

 ヤタカの問いにわたるは静かに頷いた。視線は繭の奥を射るように鋭く冷えている。

 

――やはり、強い女だ

 

 涙は通り雨のように去り、頬にはその跡さえ残していない。もとより泣いて蹲るだけの女ではないだろうが、この先何を決意し何を行おうとしているのかと、冷えたわたるの双眼の輝きがヤタカを不安にさせた。

 

「あの子の身に何が起ころうと、それは口にすべきことではないのだよ」

 

 わたるが凪いだ声でいう。

 

「狼煙塚とはそういうもの。まるで……」

 

 呪われたようにね―――そういったわたるの唇は微かに嗤った。

 

「今は和平を助けるのが先だろう。狼煙塚が飼っていた蜘蛛なら、この糸の切り方くらい解んだろ?」

 

「わかってりゃ短刀を突き刺すようなアホはしないよ」

 

「あぁ、まあな」

 

 繭の向こうでは、同じように束縛の解けたゴテと野グソが険しい表情で立っていた。

 着流しの襟から片手を出し、野グソが目を細めて顎を撫でる。

 

「狼煙塚の頭……わたるさんだったかな? なぜ俺達に言霊をかけない。予想外の展開だったが、お前達の首を取るのに不都合が起きた訳じゃないんだぜ」

 

 わたるは低い声で問うたゴテをすっと流し見て、くだらない、というように指先で二人を払う。

 

「お前達がしようとしていることを、止める気などないさ。ただし、イリスは返して貰う。追っ手なら既に放ってある」

 

 腕なら互角だと思うがねぇ、とわたるは含みのある言葉を吐き捨て、繭の全体を見るように数歩静かに後退った。

 

「舐められたもんだねぇ」

 

 野グソが顎を擦りながら口の片端をにやりと吊り上げる。

 

「うるせぇ。和平を助ける邪魔をしたら、殺すぞ」

 

 先を続けようとした野グソの言葉を、ヤタカの低く抑えた怒声が断ち切った。

 

「カッ」

 

 茂みの向こうで、目を覚まし立ち上がった黒装束が、天を仰いで喉を鳴らした。首のど真ん中に突き刺さる黒い棒が引き抜かれると、血を吹き出して崩れ落ちる。

 しゅるしゅると縄を引くような音が、倒れた黒装束の背後に広がる森から近付いていた。 

「誰だ!」

 

 咄嗟のことに、ヤタカはわたるの手をぐいと引いて自分の後ろへ放り投げる。

 

 しゅる しゅる 

 

 丈の長い草を割って現れた男は笠を目深に被り、目を見開くわたるには一瞥をくれることなく悠然と歩いてきた。

 

「やぁ、何やら騒がしいな」

 

 友を呼び止めるように上げられた手首で、ずり下がった袖の縁から二本の赤い痣が覗く。

 

――円大

 

「狼煙塚の放った追っ手なら、わたしが始末したよ。この手でね」

 

 ヤタカの背後でわたるが舌を打つ。

 盆の境に辿り着いたわけではない。何事も無ければ水の玉も紅も先へ進もうとしていた。

 

――なぜここに 奴がいる?

 

「そんなに険しい表情は似合わないよ、ヤタカ。久しぶりに対面したのだから、もうちょっとは懐かしんでくれてもいいだろう?」

 

 笠の前を指先で持ち上げ、円大が目元だけでにやりとした。

 それには答えず、ヤタカは状況を打開するために頭を廻らせた。繭を挟んでゴテ達と向かい合っている。その間に少し距離を置いて立つ円大。

 

――和平が囚われている以上、逃げの手を考えても駄目だ。

 

 和平を置いて逃げる気など毛頭無かった。これから会うはずの円大に出会って逃げるなど妙な話しだが、事を進めるには準備がいる、心と体の構えが必要だ。それなしに挑むほど、ヤタカは円大を侮ってはいなかった。

 

「それにしても見事だな。捕食の為につくられた器としては、この世の何よりも美しい」

 

 ヤタカの背後でじゃり、音が響く。円大の挑発を耳にした、わたるの怒りが拳に土を握る音だった。

 

「なぜ……慈庭を殺した」

 

 訊かずにはいられなかった。

 

「慈庭? あぁ、あいつは……とっくに俺の正体に気づいていたからな」

 

 くくくっと円大が口の中で笑う。

 

――慈庭が知っていた? ならなぜ放っておいた?

 

 知っていて手を出せなかったのか、あるいは息の根を止める策があったのか。策を講じてそれが失策と終わったのではにかとヤタカは思った。

 あの慈庭を出し抜いたなら……

 

――正面から向かって俺に勝ちはない

 

 ヤタカはびくびくと痙攣する眉を押さえるため、無理矢理に大きく息を吸い込んだ。

 

「仲間を裏切り一族を根絶やしにして、円大。それでおまえに何が残る」

 

 ヤタカの問いに、愚問だ、と円大は口の片端をねちゃりと引き上げる。

 

「仲間など最初から居はしない。探るために取り入るのと、盲信は違う。友であれば相手の行為に恩を感じることもあろうが、道具が何をしようがありがたみなどあるものか。道具とは、持ち主の役に立つために在るものではないのか?」

 

 かくりと首を傾げた円大に、ヤタカは目の縁を振るわせた。

 狂っている、いや狂った己が招き寄せた幻想の中に生きている。そうとしか思えなかった。

 

「寺という同じ場所に居ながら、得たモノはずいぶんと違うようだ。円大はあの場に居ながら、本質が皆と共にあることはなかったのだろう? 幻想の薄紙一枚隔てた場で、己への狂信に酔いしれていただけのことだろうに」

 

 俺は違う

 

 ヤタカの声が低さを増す。

 

「寺の意義は解っている。だが、俺はあの寺に人を見た。人の心を見た。歪みも独りよがりも含めた心だ。その心が、俺を今も生かしている。たとえばそう、慈庭の肉体は朽ちても、あの心は俺の中で息をしている」

 

 くだらぬな。

 

 円大が声を上げた笑う。寺での記憶に残る、明るい笑いなど影もない、引き攣れたような歪な響きだった。

 

「懐かしむなら教えてやろう。俺はおまえが好きだった。だから可愛がりもした。記憶を辿ってみろ。俺は」

 

 優しかっただろう?

 

 饅頭を岩牢に持ってきてくれた円大。慈庭から逃げ回るヤタカを、悪戯な笑みを浮かべながら匿ってくれた円大。寺での円大を思い出すと、笑顔しか浮かばなかった。兄のように優しく頭を撫でた、マメの出来た手の温かさしか思い出せない。

 

「紛い物の愛情だ」

 

「いや違うぞ? 本当に大切にしていたのだよ。何の障壁にもならない小物を敵視する必要がどこにある? 用心する必要がどこにある? 大いなる野望を妨げない人間なら、そいつが良い奴なら大切にしなければバチが当たる」

 

 くくくっと円大は喉を鳴らす。

 

「だっておまえは、俺の大切なモノを預かる器なのだからね」

 

 円大の言葉に強がりも嘘もないのだろう。円大に警戒の念さえ抱かせることさえ出来なかった己の無能に、ヤタカは唇を真一文字に引き絞った。

 水の器を必要なそのときまで安全に保管する箱に過ぎないといわれても、言い返す言葉がない。円大が予想したように、警戒する必要さえない能なしだったと自覚せざるえなかった。

 

――だからイリスを失った

 

 それにね、と円大は続ける。

 

「ヤタカがこんな大事に関わる人間でなければと、本当に何度も思ったのだよ? 悪がきのせくにヤケに素直で、おまえは優しい子だった。人としてのおまえは、本当に愛しかったよ。だが、水の器を宿していたからね。その時点で、俺にとっておまえは人ではなくなった」

 

 円大は口元だけで微笑みながら、胸の前で両手の平をするりと動かし、壺の形をなぞって見せた。 

 手首を隠す袖口から、細い蔦の先が幾本もちょろちょろと顔を覗かせる。

 

「そんなくだらない話しより、境の盆で会うはずではなかったのか? 俺の道案内人は、まだ境の盆に着いたとはいっていなかった。だったらここは境の盆じゃない。奇襲をかけようという腹づもりなら、失敗というところか? どっちにしろ登場の仕方が粋じゃない」

 

「奇襲などかけはしないよ」

 

 笑顔で答える円大へ、次ぎに投げるべき言葉を拾っては捨てる。円大が奇襲をかけるつもりなどないことは百も承知だ。正面切って勝てないなら、出来るだけ隙をつくりたかった。気を緩める為の愚鈍な問いでもいい、円大の神経に根元から熱を与えるような挑発でも良い。どちらが利を生むか、ヤタカは必死で頭を廻らせた。

 

――毒草の耐性ばっか鍛えやがって、少しは脳みそも鍛えてくれりゃ良かったのに。完全に子育ての仕方を間違ってるぜ、慈庭のクソ親父。

 

 心の中で愚痴りながら、ゆっくりとすり足で体を横にずらしていく。動き始めは無意識だった。気づけば、わたるを背に庇うように立っている自分がいた。

 

「お人好しも、度が過ぎるとただの馬鹿だよ」

 

 背後で吐くように呟いたわたるの声に、ヤタカは自嘲する。

 

「おまえさんを庇うわけじゃない。あとで和平に恨まれるのが嫌なだけだよ」

 

 地についた銀糸の繭は、巣という支えを失っても傾ぐことなくそこにある。

 あの中で和平は外の会話を耳にしているだろうか。聞こえているなら、どんな行く末を望んでいるのかと、ヤタカは胸の中で問いかけずにはいられなかった。

 

「ところでヤタカ、風の噂だが……この毒を二度も身に受けたそうだな?」

 

 ちょろちょろと覗く蔦の先に目をやりながら円大がいう。

 

「痛い目にあったが、こうやって無事に生きてるぜ。おまえも知っているだろう? 俺は毒への耐性が人とは違う」

 

「普通の毒草なら……な」

 

 含みのある笑いが、ヤタカの傷を疼かせた。

 

「二度受けた毒、もしも三度目に受けたなら、いったい人はどうなるのだろうね」

 

 まるで小鳥をあやすように、ちょろちょろと蠢く蔦に口づけながら円大は目元だけでニヤリと笑った。

 

「心配するな。こうも距離が離れているなら、槍を飛ばされても俺は避けられる。三度目はない」

 

 ヤタカの不適な笑みに、ほう、と円大が目を細めた。

 受けて立つと言わんばかりに胸を張り、ゆったりと腰の後ろに回した手を払い、ヤタカはわたるに逃げろと伝える。

 慈庭の体からずぼりと先を見せていた蔦の先が、まざまざと蘇る。

 本気を出した円大が、どのように蔦を操るのかなど想像もつかなかった。避けられるなど、これっぽっちも思ってはいない。

 

ズドン

 

 大地が揺れてヤタカ達を突きあげた。

 

ズドン

 

 一度目より強い衝撃に思わず腰を落とし辺りを見渡したヤタカは、円大に視線を戻した瞬間、片足を軸に身を捻り、曲げていた膝と後方に振り上げた足の反動で宙に身を浮かせた。回転の先をいく視線が、片膝をついて大きな目を見開くわたるを捕らえる。

 

「わたる! 飛び退け!」

 

 回転の反動を緩めることなく、わたるの体が後方に飛ぶように弾き飛ばした。

 先までヤタカが立っていた場所に、三本の蔦が飛び出した。

 

「くそ!」

 

 着地した反動を使ってわたるが居た場所から逃れようと、ヤタカは背を反らして大地を蹴った。

 

「遅い……」

 

 円大の声が耳に届くのと、太股に熱した鉄くいを打たれたような衝撃に襲われたのは同時。

 

「くっ!」

 

 咄嗟に顎を引いたヤタカは、太股から突き出た太い蔦を見て取ると頭に腕を回し引き戻される衝撃に備えた。

 

「くそ! がぁあぁぁ!」

 

 地中から突き出た蔦は、ヤタカの動きを止めるに留まらず、更に傷口を広げようとするようにザッと上に伸びた。

 

 びちゃり

 

 大地をヤタカの血が濡らす。水の器が激しく藻掻いていた。

 

――命も危ないということか

 

 水の器の尋常では無い反応に、蔦に受けた傷は致命傷なのだと確信した。

 蔦が一気に引き抜かれ、吹き出した血と共にヤタカはどさりと地に落ちた。

 わたるが帯のヒモを解いて傷口を止血する。

 両手をぶらりと下げた円大の手首に、大地に潜ってヤタカを襲った蔦が戻っていく。

 シュルリシュルリと音を立て、幾本もの蔦が絡まってはぶわりと隙間を広げる。

 まるで意思を持った生き物をみているようだった。

 

「わたる、すぐにここを離れろ。奴の蔦が届かない所まで走るんだ」

 

「逃げたいところだが、医術者の性なのさ」

 

 怪我人を放って逃げられない、わたるは眉根を寄せて憎々しげにそういった。

 

「俺の手当は止血で十分だ。繭が割れない以上、蜘蛛からも守れないが円大に襲われることもない。だから、今は逃げろ」

 

「あんたはどうするのさ」

 

「さあどうするかな。おまえは……イリスを取り戻せ」

 

 怪訝な顔をするわたるに、ヤタカはふんと鼻をならす。

 

「円大の手に落ちるくらいなら、あんたの方が取り返しやすいんでね」

 

「嘘ばっかりいって。いつ気づいたんだい? あたしがイリスを攫った目的に」

 

「この場におまえが囚われて姿を見せた時に疑問に思った。ゴテ達の手に落ちた草クビリなら、本来ここへ連れてきたかったのはイリスだろう。だが、やっと捕まえられたのは火隠寺の頭だった。イリスが捕まらなかったのは、おまえが逃がしたからではないかとな。あの時点では確信などなかった。淡い期待ってやつだ」

 

「まったく余計なことには頭が回る男だね。その話は後でいい。イリスが円大の手に落ちるのも時間の問題だよ。ここを抜け出さない限り、誰一人生きてはいられない」

 

「あぁ」

 

 火隠寺の者達はわたるの行動の真意を知っているのか―――そう聞きかけてヤタカは口を噤んだ。

 聞いたところでどうしてやることもできはしない。一族を率いると決めた者が自らの行動に、取るべき言動を用意していないことはないだろう。   

 

「話し合いは済んだかな?」

 

 円大が欠伸をして、目尻に浮いた涙を指先で拭った。

 

「そして、効いてきたんじゃないのか? 三度目の毒が」

 

 白い歯を見せ円大がにかりと笑う。

 

「効かねぇな。いっただろう? 毒には強いんでね」

 

 ヤタカも白い歯を見せゆったりと微笑んだ。

 怒ったように、作務衣の生地を鷲づかみにしたわたるに向き直り、心配するなと片目を瞑ってみせる。

 全身が熱かった。二度受けた毒と同じとは思えない、まったく違う影響が全身に及んだことに、ヤタカは内心驚いていた。

 首筋が熱い。吐く息にさえ熱を感じた。

 

――このままじゃまずい

 

 二度目に毒を受けたのは偶然だと思っていたが、円大が自らの毒が及ぼす三度目の影響を知っていたとするなら、あのときトゲに触れたことさえ――

 

 奴の計算の内だったとでもいうのか

 

 熱い息を吐きながら、ヤタカは舌を打つ。水の器は水気の性質であるせいか、ヤタカの体が高熱を出すことを昔から嫌がった。毒草に触れて熱にうなされたときも、水の器は出口を求めてヤタカの中で震えていた。

 

「どうした? 辛いか?」

 

 かかかっと咳き込むように声を上げて笑う円大を睨みながら、ヤタカは表情を歪めることなくまっすぐと見据えながらニヤリと笑う。

 

「慈庭のクソ爺にやらされた、山歩きより辛い肉体の試練なんてねぇよ。本当にあのオヤジはクソだ。たぶん禿げツル頭の皮の下には角を隠し、尖った爪を袈裟で隠してた鬼さ」

 

「その鬼に俺は勝った。鬼など所詮は外道よ」

 

 ヤタカの眼差しが無意識にすっと据わる。

 

「一皮剥いだら鬼の面。その下には更に、何かがあったらどうする?」

 

「何があったか興味はあるが、死人に残るのは骨だけだ」

 

「そうだな」

 

 熱をもってぼやける眼球が血走るほど力を込め、ヤタカは怯むことなく円大を視線で射る。

 

「ヤタカは境の盆というものを勘違いしている。どこであれ、境の盆になりうるのだよ。

境の盆とは、時の成り行きを動かす者が集う場のこと。最終的に集うと言われる場を、古から境の盆と称してきた。おまえは寺で何をならったのやら……いや、教えた者が愚かだったのだろうな、おまえに罪はないよヤタカ」

 

 だとしたらまるで、今ここでと円大が選りすぐった場と時が境の盆になり得たということになる。

 

――最悪だ

 

 ヤタカはふらつき始めた足で何とか立ちながら、答えの見えない打開策を模索した。

 

「さて、決着をつけようか」

 

 円大がすっと手を前に伸ばした。

 

「俺を殺しても、水の手に入らないぞ。水気を含まない大地など無い。水気を含まぬ大気もない。水の器は、人の手の届かないところへ身を隠すだろう。二度と人の手の届かない場所へ」

 

 これは真実でもあり嘘でもあった。

 水の器を滞りなく体外に出すには、体を覆う程の水が必要だった。少なくとも、水の器が自由に動き回れる状態で放出するとなれば、大量の水場あるいは大雨が必須。

 例外として水の器がイリスの種を受け入れる時、それが条件とは聞いていない。そのときにどうなるかなど、正直ヤタカにも解らなかった。

 

「体外に出てくれればかまわないよ? よく考えてごらん、血液だって水の気だろうに」

 

 円大は不思議そうに首を傾げた。

 そして水平に伸ばされた腕から伸びた蔦が、ヤタカの腕の肉を切り裂いたのは一瞬の出来事だった。

 

「くそ!」

 

 太股に比べれば浅い傷だった。だが自由に逃げ回れない以上、攻撃は避けられない。この程度の傷でも、数が嵩めば流れる血は無視できないものになるだろう。

 血が枯れたなら、水の器はヤタカから出ざるえない。

 

――みすみす円大に取られるくらいなら……

 

 ヤタカは膝を折り短刀で手の平にさっと傷を付けると、手をどんと大地に押し当てた。

 

――水の器を大地に逃がす

 

 逃げ切れる確率は少なくい。それでもこのまま流血して、外に出るためにヤタカの死骸を這って水の器が逃げ出すよりはリスクが低い。

 

――血の流れに乗って大地に逃げろ! そしてイリスの元へ!

 

 ヤタカの思いに反応した水の器が、手の方へ血流を辿って動き始めるのが感じられた。

 

「それは良い策だ。恐れ入ったよ。自分の命を省みないとは」

 

 さも感心したように円大が目を細める。次の瞬間、細めた眼に鋭く無慈悲な光が走った。

 

「これでも、のんびり水の器を逃がしていられるかな?」

 

 ばっと前方に伸ばされた円大の手首から蔦が走る。

 穿たれる、とヤタカは思った。

 だが次の瞬間、既に捨てたも同然の自分の命など円大は狙ってないいないと思い知る。

 

「和平!」

 

 ヤタカとわたるの絶叫が重なった。

 白銀の繭が、下からゆっくりと色を変えていく。

 赤い血を吸い上げ、徐々に染まっていく。

 沈んだ夕日が逆行したように、血の赤が昇る。

 円大の蔦は、刃さえ通さなかった繭を易々と突き破っていた。

 

「どうするヤタカ。俺を早く倒さないと中にいる子が……死ぬよ」

 

 押しつけられていたヤタカの手が、大地からざっと離れた。

 般若の形相で仁王立ちになったヤタカを嘲笑うように、細い蔦の先が白銀の繭を貫通して先を出し、細い蛇の舌のように蠢いた。

 舌の先からは得物から舐め取った血が、たらりと滴り土の染みとなり消えて行った。   

 

 

 

 

 

 

 




間があいてすみませんでした。
雪が降って、やっと落ち着いた長期アレルギー鼻炎……
読んでくださったみなさん、ありがとうです。


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49 赤い波

 時間だけが流れていく。

 蔦に穿たれた傷から吹き出した血は、わたるの止血と指を押し込んで塗られた止血薬によって勢は弱まっていた。それでも腕の傷と太股の傷、少量とは言え絶えることなく流れ出ていることを考えれば、円大の望みどおり水の器がヤタカの体内から出ざるえなくなるまで半日もかからないだろう。

 

――何を考えている

 

 円大は更に傷を付けようとすることもなく、引き延ばされた時間を会話で埋めることさえしていない。徐々に弱っていくヤタカに、時折細めた視線を向けるだけだった。

 和平を包む白銀の繭は半分以上を赤に染められていたが、それ以上繭が血を吸い上げる事はなく、中で膝を抱える和平の命が全て流れ出たのでは、という悪い予感だけがヤタカの胸をきりきりと締めあげた。

 

「日が暮れるぞ」

 

 長く続いた沈黙を破ったのはゴテだった。

 

「翠煙……か。まったく合理主義の輩はこれだから嫌いだよ。少しは先の未来を想像して楽しむということはできないのかね?」

 

――先の未来を楽しむ……俺が死に、水の器が這い出るまでを楽しむということか

 

 反吐が出そうな思考だったが、ヤタカはそれを表情にのぼらせることなく、円大に声をかけたゴテに目を向けた。

 

「俺達はヤタカを葬るためにここにきた。水の器を手に入れるのが目的だ。だが、あんたを見て、それは無理だと悟ったよ」

 

「賢明な判断だ」

 

 僅かに横を見た円大がゴテ達の足元に視線を落とし、くすりと笑う。

 

「ヤタカを仕留めた旨を、山に散らばる一族に知らせなければ俺達がしくじった、または裏切ったと見なして大勢がここへ集まってくる。翠煙がどういう一族かは知っているだろう? おまえにとっては取るに足らない一族だろうが、それでも薬の扱い異種の扱いは、どの一族にも引けは取らない」

 

 ゴテが言葉を切ると、それを継いで野グソが穏やかな声で先を続けた。

 

「一族はあんたの本当の実力をまだ把握できていない。だから俺達の連絡が無ければ、一斉に向かってくる。一部の連中は少々心が歪んでいてね、あんたに勝てなくとも、今ここにいる全員を殺すだろうさ。襲ってきたアリの群れに気を取られている間に、あんたのお楽しみは終わっているかもしれない。ヤタカの最後を、無念の表情を見たいのだろ?」

 

 円大に向いていた野グソが、くるりと首を回しヤタカを真っ直ぐに見る。

 

「お前達が、ヤタカを手にかけるというのか?」

 

 訝しげに円大が問う。

 

「あんたが出てこなければ、元々俺達が殺すはずだった。一族の命令だからな」

 

「殺す役を譲ったとして、楽しみの時間が減るだけに思えるが?」

 

そういって円大は愉快そうに目を細めた。

 ゴテがにやりと口の片端を引き上げ、円大に向き直る。 

 

「一族の命令に背けば、俺達の身内が報復を受ける。それを避けたいというのが俺達の希望だ。おまえの受ける報酬は水の器。厄介なアリを払う手間を省ける上に、願いどおりヤタカの最後を見届けられる。逆らえるような相手ではないことも一族に知らせる。水の器など、俺個人にはどうでも良い話だ」

 

「ふぅん」

 

 悪くないな、と円大は微笑んだ。

 

「寺に出入りしていたお前達のことは、幼い頃から知っている。かつては友と呼び合った者達が命を奪い合う……か。ヤタカが死ぬまでをただ眺めているより、後に良い余韻が残りそうだ」

 

 円大の言葉を了承と受け取った野グソは、懐から小さな巾着を出し紐を解きながら、ゆっくりとヤタカの方へ歩き出した。

 手負いとはいえヤタカの力を知る野グソは、一足では届かない距離を開けてヤタカの前で立ち止まった。

 

「静かに呑み込むんだよ? 胃の中で溶けて瞬間で心の蔵を止める。心臓が突きあげるような予兆は一瞬感じるだろうが、他のどんな方法より楽に死ねる」

 

「てめぇ」

 

「お互いに妙な宿命や家系を背負って産まれていなければ、今だってきっと友だった。だからせめて、苦しませずに死なてやりたいんだよ」

 

 これもひとつの友情だろ? そういって野グソは少し大きめの黒い丸薬を転がして寄越した。いつの間に後を追ってきたのか、野グソの脇にゴテが立っていた。

 

「翠煙の秘薬だ。死罪といえど、痛めつけて殺すほどではないと思われた一族の者の処刑に使われる薬。飲めば絶対に死ねる。絶対にだ。奴の手にかかって死ぬよりは心穏やかにあの世に行けるぜ」

 

「イリスも、この手で殺すつもりか」

 

 ヤタカの視線を正面から受け止めていたゴテと野グソは、この問いに僅かに視線をそらした。

 

「一族の命令が下れば……そうする。おまえを仕留め損ねれば、イリスにこんな悠長な方法は使わせて貰えなくなる。奴らはイリスが苦しむことなど、何とも思っていない」

 

 ヤタカは怒りに燃える目元をそのままに、口元だけでにやりと笑う。

 

「先に待っているから、地獄に来い。地獄にイリスは居ない。だから、心置きなくぶっ殺してやる」

 

 手にした丸薬を眺める脳裏に、チヨちゃんの伝言が過ぎった。こんな奴のために片手の自由を失ったのかと思うと、チヨちゃんが不憫でならない。

 伝えるという約束を、ヤタカは腹の底に呑み込んだ。

 

――チヨちゃんの想いを受け取る価値など、今のゴテにはない

 

 ごめんな、チヨちゃん。

 ごめんな、イリス。

 

 そして逃がしたゲン太と紅を想った。

 

「円大、おまえの勝ちだ。この丸薬、飲んでやるよ。ただしこちらの条件も吞んで貰う」

 

「なんだ?」

 

 悠然と腕を組む円大の手首で、蔦の先がちょろちょろと舌を出す。

 

「これを飲むのは、わたるを逃がしてからだ。異種に愛でられた一族とはいえ、おまえがほとんどの異種を従えたというなら、いま逃がしても支障はあるまい。それと、イリスを苦しめることは許さない」

 

 考えるように首を傾げた円大は、わかったよ、と笑顔を浮かべる。

 

「大儀の前に無視して良いことなど山とある。丸薬を飲むなら、今は逃がしてやろう。俺の邪魔をしなければ、放っておいてやろう」

 

 指先で円大がわたるに行けという。

 ヤタカの衣を掴んでいたわたるの指を、ヤタカは優しく一本ずつ引き剥がす。

 

「今は何も考えるな。生きてここを抜けることだけ考えろ」

 

「その丸薬、噂に聞いたことがあるよ。胃の中で溶けるのに時間がかかる。だが、溶けたら一瞬にして心の臓を止める」

 

「いっそ楽なことさ。すまない、わたる……」

 

 和平を助けられなかった―――わたるの耳にヤタカの無念が流れ込む。

 土を蹴って走り去るわたるの足音を背後に聞きながら、ヤタカはほっと胸を撫で下ろした。 

 

 ゴテが顎をしゃくって丸薬を飲めと促す。

 

 ゴテと野グソから視線を外すことなく、ヤタカは丸薬を口の放り込みゆっくりと飲み下した。

 

「じゃあな」

 

 踵を返したゴテに、込み上げる怒りを抑えきれなくなったヤタカの口から、伝えぬと決めた言葉が溢れだす。

 善意の伝達ではない。渦巻く感情が、ゴテに己の行動がもたらした取り返しのつかない結果を知らしめ、せめて自責の念を抱かせたくなった。

 

「チヨは、最高に美味しい肉味噌おにぎりを開発しました」

 

 大股に立ち去りかけた、ゴテの背がぴたりと止まる。

 

「食べたかったら、生きて返ってこい! ばかやろう!」

 

 目を見開いて振り返ったゴテに、ヤタカは口の片端を上げ鼻で笑った。

 

「チヨちゃんからの伝言だ。あの子は、おまえみたいなクズの根性無しを助ける為に、右腕の機能を失った。異種を宿らせたんだ」

 

 零れんばかりに見開かれたゴテの目が、動揺に揺れる。

 

「お前達を助けてくれと頼まれた。狙われているのは俺だといって、断ったがな。おまえの為にチヨちゃんは命を賭けたんだ。これ以上泣かせるな」

 

 開きかけたゴテの口は再び真一文字閉じられ、握りしめて血管が太く浮いた拳をそのままに、ヤタカの元を去って行った。その横で野グソが悲しそうに眉尻を下げたが、口を開くことは無かった。

 

「最後の別れも済ませたようだね。薬が効き始めるにはどれくらいかかるのかねぇ。もうじき日が暮れる。日暮れ後は忙しくなるから、そのまえに逝って欲しいんだが?」

 

 円大が待ちくたびれるというように、ひとつ大きな欠伸をした。

 

「こんな山奥で日が暮れたからって何をする? もうおまえの天下は決まったんだ。さっさとねぐらに帰って祝いの準備でもしたらどうだ?」

 

 こんな言葉に円大が乗るなど露程も思っていなかったが、万が一にでもこの場を立ち去ってくれたなら、薬が効く前に和平だけでも助け出せるかもしれないというヤタカの淡い願いだった。

 

「祝宴の準備は整っているさ。日が暮れたら、盛大な宴が始まる。なかなか目に出来ない光景だから、死に際にヤタカにも見せてあげたかったよ」

 

「何をする? 何がはじまるんだ?」

 

 野グソが問う。

 

「俺の力を広大な大地に、広い山々に知らしめる。生態系の頂点に立つのが誰なのかを知れば、生き残るためにこちらに付く者は更に増える。その様子を、夜の闇が見せてくれる」

 

 西の空に山頂を伸ばす山の影に、橙色の夕日が落ちていく。

 沈む夕日を惜しむように、山の縁を茜色が染めていく。

 

――和平

 

 誰よりも守りたかったイリスには手が届かない。ならばせめて、和平だけでも救いたかった。血に染まった繭は一足先に夜に染まり始めた大地の中赤黒く色を変え、上部に残った白銀の繭は明るい夕日色に染まっていた。

 まだ溶け出していないはずの丸薬を呑み込んだ胃に感じる熱は、いつ訪れるか知れない死への恐怖なのだろうとヤタカは思った。

 イリスを生かすために死ぬのだと思って生きていた。イリスの為に訪れる死を恐れたことはない。だが……

 

――無駄死には、何よりも恐ろしい

 

 無意識に腹に当てた手の平を、ヤタカはぐっと握りしめた。

 水の器がカタカタと騒ぐ。

 ゴテと野グソはヤタカからも円大からも距離を置き、周りを囲む森の縁、生い茂る木々の手前に立っていた。

 あの時一瞬見せた後悔にも似た影は、ゴテの表情からすっかり消えていた。

 ヤタカにも円大にも視線を向けることなく、無表情の面を張り付けたまま森の遠くをただ睨み付けていた。

 

「やはりつまらぬな……」

 

 山の縁を筆先で細くなぞったような夕日にの残が、円大の声と共に薄闇に吞まれた。

 円大が袂からちろちろと蠢く蔦を覗かせ、腕を真っ直ぐに上げた。

 その指先が向かう先に気づいて、ヤタカは駆け出した。

 

「円大!」

 

 踏み込んだ太股から血が溢れた。

 もはや痛みなど麻痺したというのに、思うように足が動かない。

 

「やはり、自分の手で殺したい」

 

 和平を包む繭にあと一歩まで近付いたヤタカは、はっとして足を止めた。勢いに逆らった足が、ざりざりと土を擦る。

 身を翻したヤタカの腕に、熱を帯びた痛みが走った。

 地面に転がったヤタカは焼いた錐で刺されたような激痛に腕を見たが、傷は驚くほど浅かった。楊子で指したような小さな傷ができ物のように僅かに数カ所腫れ上がっている。薄闇の中指先で傷を確認したヤタカは、円大の真意に気付き舌を打つ。

 三度目の毒を受けたヤタカなど、放っておいても死ぬだろう。

 野グソが与えた丸薬が溶け出しても同じ。

 

――それさえ待てなかったか

 

 四度目の毒がヤタカに及ぼす即効性など想像するしかなかったが、逃れようの無い一撃に違いはなかった。

 

「毒の味はいかがかな?」

 

 のんびりとした円大の声が響くと同時に、ヤタカはがくりと膝をついた。

 体の震えが止まらない。

 僅かに腕の皮を切り裂き侵入した毒が皮の下を廻って氷の膜を張ったかと思うほどの寒気に襲われた。

 毒による高熱も耐え難いものだったが、全身を氷付けにされたような寒気は、ザルから水が漏れるようにヤタカの命を削っていた。

 

「そんなに震えて可愛そうに。高熱も人の命を奪うが、体温を奪われる方が早く命の火が消える」

 

 毒の効き方などとっくに知っていたのだろう。自分以外の誰で試したのかと浮かんだ嫌悪さえ、気が遠退きそうな寒さに消え飛んだ。

 寒さを取り越して全身が痛い。

 何も考えられなかった。

 四つん這いで体を支える両腕の感覚も麻痺している。

 ヤタカは、闇と同化した地面を凝視しているしか術がなかった。

 

「強情だねぇ。気力でその毒には勝てないよ? 早く逝ってしま……うぅ!」

 

 闇を裂いて閃光が走った。

 下を向いていたヤタカの目を直に射ることはなかったが、一瞬走った閃光が強烈な輝きを放ったことは視界の隅でさえ感じられるものだった。

 閃光の残像かと思っていたが、無理矢理に首を擡げて辺りを見回したヤタカの目に、淡い白光を生む小さな光の玉が見えた。

 

――何だ……これは

 

 正体を見定めようと焦点の定まらない目をしばたいたのと、腹に強烈な衝撃を受けたのは同時。

 

「這いつくばってんじゃぇーよ、ボケ!」

 

 頭に反響する耳鳴りに被って聞こえたのは、聞き覚えのある声。

 

――誰だ……

 

「死ぬならイリス姉ちゃんを助けてからにしろや! この役立たずの荷物持ちが!!」

 

――シュイ?

 

 再度顔を上げようとしたヤタカは、ウエェ、と大きく呻いて大地に転がった。

 カッと胃を燃やし尽くすような熱に、腹を抱えてのたうち回る。

 吐く息さえ舌を焼くように熱く感じた。

 

「光で視界を奪える時間は限られてる。早く持ち直せよ、荷物持ち!」

 

 シュイの声が耳の奥で二重になって反響する。

 急げといわれてどうにかなるものではなかった。度を超えた熱は痛覚だけを刺激する。

 額から流れ落ちた汗が目に入った。いや、目に入った汗にを感じたことにヤタカは驚いていた。

 

――感覚が戻ってきた

 

 痛みに気を取られていたが、耳鳴りは遠ざかり手足が体温を取り戻していた。

 焼くような胃の痛みが引いていく。

 胃で爆発した熱が、毒のもたらす極寒の冷気に打ち勝った……そんな感覚だった。 

 

「ばーか……」

 

 見上げると淡い照らし出されたシュイが、黒い外套を羽織ってにやりと笑っていた。

 

「どうなっている、うぇ」

 

 顔を顰めたシュイに、軽く腹を突きあげられた。

 身を屈めたシュイが、そっとヤタカの耳元に口を寄せる。

 

「荷物持ちの胃にはいま何が入っている? それを寄越したのは誰だ? そいつらを信じろと右腕の力を失ってまで伝えにきてくれたのは……誰だ?」

 

 はっとしたヤタカは、目を見開いてシュイを見た。

 生意気な表情は影を潜め、白い歯を見せにかりと笑うシュイがいた。 

 

「貴様……誰だ」

 

 怒りが滲む円大の声が低く響いた。

 両膝を突いて右手を胸に当てたシュイが、すっと背を伸ばし闇の向こうに見えない円大に目を向けた。

 

「情けない荷物持ちの護衛だけど……なにか?」

 

「挑発するなシュイ……あいつは危険過ぎる」

 

 まだ力の籠もらない声で、ヤタカは必死にシュイを押さえようとした。腕を捕まえようとしたヤタカの手を、シュイの左手がぴしゃりと払う。

 

「いざという時に腰が引ける者など、男と名乗る資格はない! じっちゃんの教えだ!」

 

 寒気が収まり、胃を焼く痛みが潮が引くように収まり始めていたヤタカは、シュイお得意のひと言ににやりと口元を緩めた。

 

「なんだ、ガキだったか」

 

 円大の含み笑いが暗がりの向こうから響く。ヤタカは瞬時に表情を引き締め、シュイを庇うように右腕を伸ばした。

 

「視界などいらん。いや、こいつ等にとっては……だが」

 

 シュっと闇を裂く鋭い音が響いた。シュイを庇って身を投げ出そうとしたヤタカを、黒い外套から飛び出たまだ細い左腕が止める。

 気づいたときには、目の前に蔦が迫っていた。

 刺される、そう思い固まったヤタカは、べろべろと蠢く蔦がヤタカの顔直前で先へ伸びないことに気づいた。

 土から飛び出た黒い固まりが、どろどろと流れ落ちながら、けれど強固に蔦を絡め取っていた。

 

「ケンカを売るなら、最低三つの策を講じよ。これもじっちゃんの教えだ! ニセ坊主め」

 

 円大の舌打ちが響く。蔦が強引に引き抜かれ、円大の手首へと戻っていった。

 ヤタカ達を照らしていた光の玉は散らばって、円大ばかりかゴテと野グソの姿もうっすらと照らし出している。 

 

「策がひとつ散ったな。次はどうでる?」

 

 円大の腕が伸びた先を察したシュイが、外套の内側から小さな毬を勢いよく放り投げた。

 しゅるしゅると蔦が伸びる音と重なって、繭の手前で地面に落ちた毬から金属の擦れる甲高い音が響く。

 

 ぶつかり合う衝撃音と共に足元が揺れた。

 薄明かりに照らされる繭は針金状に伸びた細い糸に覆われていた。細かく繭を覆う糸が色鮮やかに絵柄を浮かび上がらせる。赤と水色が織り成す糸の上で巨大な白い蛇が鎌首を擡げていた。

 役目を果たしたと言わんばかりにするりと糸が編み出す生地に身を潜らせた白い蛇は、ぐるぐると表面を這う内に半分以下の大きさとなり、生地を織り成す糸の色に白い体表を染めていく。

 その口に咥えられていたのは蔦の先。まだ蠢くそれを、白い蛇は不味い虫でも食ったようにぺっと大地に吐き出した。

 

「痛いじゃないか」

 

 不満げな円大の声がしたが、声色から悲痛な痛みなど感じられない。

 

――時が経てば再生するのだろうか

 

 希望の無い想像がヤタカ頭に浮かんでは消えた。

 

「シュイ、あの蛇は異物なのか?」

 

「毬の形をとった異物さ。蛇が本体でもあり、糸が作る地が本体でもある」

 

「蔦の先を折られたことで、円大にどれほどの打撃があったと思う?」

 

「先を折られたなんて、深爪をした程度のことだろうさ。痛くも痒くもないだろうね。ただ……」

 

 シュイの言葉を途中に訝しげに耳を澄ませた。

 

「森が騒いでいる」

 

 ヤタカの皮膚が異常な気配に粟立った。

 風もないというのに辺りを囲む森の向こうまで、草木がザワザワと小刻みに震えていた。小さな音は重なり合い、ヤタカ達が立つ山間に異様な雰囲気をもたらしていた。

 

「山が、赤く染まっていく……」

 

 絶望の吐息がヤタカの口から漏れ落ちる。

 大げさに表情を歪めながら手首を擦っていた円大の唇が、にやりと歪む。

 

「俺に付き従うと決めた者達が、今宵ここへ集まる」

 

 山のあちらこちらに小さな赤い光が湧き、瞬きする度に数を増していた。

 まるで白く粟立つ波頭のように、数を増しては押し寄せる。

 ヤタカの隅で震えていた水の器が、凍ったように動きを止めた。

 

「ここまできたら数の暴力だぜ。シュイ、どうする」

 

「くそ! 思っていたより早い。早すぎる!」

 

 ざっと外套から突き出された両手には、小さな徳利と子供の手に握れるほど小さな玉があった。

 ざっと横に飛び退きながら、右手に握っていた小さな玉をシュイが思い切り投げた。

 気づいた円大がハエでも払うようにさっと腕を払い、丸い玉を弾いた。

 パン

 乾いた音と共に玉が弾け、黄土色の粉煙が散った。

 袂で口を覆った円大が、訝しげに眉を顰め指先についた粉をぺろりと舐めた。

 黄土色の粉煙は意思を持つかのように円大の周りを覆い、ほんの一瞬円大の姿が煙の向こうに消えた。

 それを確認して数歩走ったシュイが、手にしていた徳利の蓋を切り繭の上方に投げつける。クルクルと回りながら徳利から振りまかれた液体が、動かぬ繭に吸い込まれる。

 

「シュイ、何をしている?」

 

「黙ってろ! こっちは忙しいんだ!」

 

 円大を覆おう煙幕が薄くなり始めていた。

 チッと舌を打ってシュイは淡く照らし出された大地に視線を走らせる。

 

「ここか……」

 

 囁くように小さな声だった。

 カリッ、犬歯で手の平を囓ったシュイは、つーっと流れた血を見て大きく息を吸う。

 膝をついたシュイが、唇を引き結んだまま開いた手の平を大地に叩き付けた。

 

「シュイ?」

 

 シュイの手を起点に、大地に閃光が走る。

 瞼に残った残像を見たヤタカは、はっとしてシュイの肩を掴んだ。

 

「何をしようとしている?」

 

「第三の策さ!」

 

 大地に走った閃光は、ミコマのお婆が残した巨大な蜘蛛の巣のかたちを辿っていた。

 肩で息を吐くシュイの目の前で、金糸の巣が命を吹き返していく。

 巣の端を支える蝶もいないというのに、大地の暗闇から金糸の巣が宙へと浮かぶ。

 山の向こうから続々と下ってきた異種の赤い光の粒は、山の裾野まで埋め尽くし、森の置くの草や幹、そして森の表面を覆う木々の葉で蠢いている。

 

「繭が浮かんだ。シュイ、あの中には和平が囚われているんだぞ!」

 

 シュイがごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。

 

「どうなるかなんてわからない。和平を助けたい。完璧じゃないけどこれしか方法はないんだ。和平が望む結果にはしてあげられないかも知れない。でも、これしかないんだ」

 

 徳利から振りまかれた液体がかかった場所から、ジュクジュクと泡を吹くような音が立つ。刃物さえ立たなかった銀糸の繭が、てっぺんから解け始めていた。

 

「余計なことをしてくれるよ……まったく」

 

 薄れた煙の向こうから、円大の険しい顔が覗く。

 

「これで三つの策が終いなら、勝てないよ?」

 

 くつくつと喉を鳴らす円大の笑い語が、溶けていく繭の音と相俟って不気味に夜の森に響いた。

 唇を噛みしめたシュイが、悔しそうに血が滲む拳を太股に打ちつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




完結まであと何話か……どうぞお付き合いくださいませー。


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50 無能の面を外す時

 山間の平地を囲む赤い点は寄り集まり、森の縁を赤い線で染め上げ今だ集まってくる者達も、山全体を埋め尽くすように数を増やしている。木々の枝葉で見え隠れを繰り返す赤い光は、ちらちらと点滅を繰り返し不気味な息吹となって森の闇を揺らしていた。

 

 ジュクジュクと溶けていく繭が、雲を抜けた月に照らされる。

 どろりと固まった繭が、自らの重さに耐えかねてぼとり、ぼとりと地に落ちる。

 

「シュイ、繭が溶ける速さが遅くなっていやしないか?」

 

 膝を抱えて座っているはずの和平の頭さえ見えてはいない。シュイでさえ想像がつかない和平の命の在り方を考えるのは恐ろしかったが、身動きの取れない状態が続いて円大に仕掛けられるのは取り返しのつかない事態を招く。

 

「なんの予測もつかないんだ。こんなこと、初めてだからな」

 

 拗ねたように語尾を上げたシュイだったが、小さく握りしめた手が微かに震えている。

 

「おまえさ、子供らしさをどこに置いてきたんだ?」

 

「じっちゃんに預けてきた」

 

 冗談とも本気ともつかないシュイの答えに、ヤタカの心が落ち着きを取り戻す。

 

「繭の中でどんな事が起きていようと和平を守るぞ」

 

「あぁ」

 

「イリスのことも諦めない。まだ終わっちゃいないからな」

 

「当たり前だ。死ぬ前に諦めたら、本気でぶち殺すからな」

 

「死にかけてるのに?」

 

「死んでたってぶち殺す!」

 

 まるで宿屋あな籠もりで交わされるようなシュイとのやり取りに、ヤタカは冷静な思考が戻って来るのを感じた。

 

 ザリ ザリ

 

 土を擦る音と共に円大がゆっくりと数歩動いた。

 

「まずは、愚かな裏切り者の口を塞がねばならないね」

 

 視線が真っ直ぐに幼なじみの二人へと向けられた。

 

「いったい何を吞ませたんだい? 死ぬどころか元気になったように見えるが」

 

 ゴテと野グソは前を見たまま動こうとさえしなかった。

 

「何やってる! 逃げろ!」

 

 叫んだヤタカの声に、野グソがゆっくりと首を振る。

 

「こうなることは想像がついていたんだよ。ぼく達が助けてあげられるのはここまでだ。

あとはヤタカしだいだよ?」

 

 穏やかな野グソの声だった。

 

「この先に奪われる何十人もの命を無駄にするな。無駄死にさせたら、あの世で百万回はぶん殴る」

 

 愛想の無い表情のままゴテがいう。

 一族を守る為に取った裏切り行為ではなかったのか? チヨちゃんはどうする? 

 ごちゃ混ぜの疑問がヤタカの思考を掻き乱す。

 駆け出そうとしたヤタカの腕を、がしりと掴むものがあった。

 

「シュイ! 離せ!」

 

 身代わり草に助けられ気を失ったときヤタカを宿まで引き摺った異物が、人力を越える強さでヤタカを押し留めていた。

 

「駄目だ! 裏切りが知れた以上、関わった者の死は避けられないんだ。ここで荷物持ちが動いても誰も助けられやしない!」

 

 ヤタカはキッと振り向いてシュイを睨む。

 

「避けられない死なら、尊い無数の命が散る意味を無駄にするなって言ってんだよ!」

 

 脳みそを蹴られた思いだった。

 目の前の事だけに囚われて、どれだけのものを見過ごしてきただろう。

 幾つの思いを無駄にしてきただろう。

 避けられた悲劇を、何一つ回避できなかったのは……

 

――俺のせいだ

 

 ヤタカの腕からだらりと力が抜けた。

 異物が離れ、シュイがまだ小さな手でヤタカの腕をぎゅっと握る。

 

「悪くない……荷物持ちが悪い訳じゃない」

 

 囁いたシュイの言葉が、胸に錐のように突き刺さる。

 

「子供に諭されるなど、そんなことだから全てを仕損じるのだよ?」

 

 小首を傾げて円大が微笑むのと、左手がすっと肩まで持ち上げられたのは同時。

 

「ゴテ! 野グソ!」

 

 一瞬のできごとだった。閃光のごとく伸びた蔦が、二人の首を掠めただけだというのに、どさりと体が崩れ落ちる音が重なった。 

 

「動脈に直接毒を打ち込んだから、苦しんでなどいないさ。残念な殺し方だが、宴の前にこの場を無駄に汚したくないからねぇ」

 

 半分折り重なって倒れているゴテと野グソの姿に血が逆流した。

 爪が食い込むほど握りしめた手を、シュイがぴしゃりと叩く。

 

「熱くなるなよ、荷物持ち」

 

「心配するな。もう……打った後の鉄みたいに冷えちまった」

 

 心配げにヤタカを見たシュイは、寂しそうに顔を伏せるとそっか、と小さく呟いた。 

 

「ヤタカ、生きて目にできることをありがたく思った方がいい。それからそこの、馬鹿を絵に描いたような小僧もな。力も知恵も持たないくせに、大人の世界に首を突っ込むから無駄死にすることになるんだよ?」

 

 だから馬鹿面の子供は嫌いだよ―――と円大は吐き捨てた。 

 

「めったに見られる光景ではないからね。この手で殺す必要もない。耐えきれずに水の器も出てくるだろう。ヤタカ、数の暴力だよ。数こそが、暴力なんだ」

 

 円大は高々と両手を掲げ、仰ぎ見た天へと蔦を伸ばした。

 月明かりに蔦の影が不気味に蠢く。

 

「さぁ、宴の始まりだ!」

 

 叫んだ円大の声を待っていたように、辺りを囲む森の木々の葉が一斉にざわざわと揺れた。風もないというのに、揺れる葉が擦れる音は無数に重なって空気を揺らした。 

 動きを止めていた赤い点が、一斉にぶわりと宙に浮いた。

 まるで身を寄せ合う者達が最初から決められていたように、浮かび上がった赤い光は山のあちらこちらで細長い固まりとなり、更にそれらが絡まって太くうねる赤い束となった。

 

――まるで赤い大蛇だ

 

 数を把握することなどできなかった。木々に身を絡ませ葉の上を滑るように這い、赤い大蛇は山間に立つヤタカ達へと向かってくる。

 

「あれだけの数の異種に宿られたなら、たとえヤタカでも耐えられないだろう? 水の器もね。境界線を持たぬ者……か」

 

 くくくっと円大が歪な笑い声を上げる。

 

「類い希なる力を持ち、この世を守るとされる境界線を持たぬ者とやらの限界を、今宵みせてあげられると思うと」

 

 本当に嬉しいよ―――そういって円大は幼子のように小首を傾げて微笑んだ。

 

 ちっと舌を鳴らし迫り来る赤い大蛇と繭を見比べたヤタカは、目を細めて眉根を寄せた。

 

「赤い光が動き出した途端、繭が急速な勢いで解け始めている。異種に反応したとでもいうのか?」

 

「繭を解かしたのは異物の力だから、多量の異種に反応することは有り得るかもしれない。でも間に合わない。これ以上は待てない」

 

 そういうとシュイは手の平を噛んで血が止まりかけた傷口を広げ、細く流れた血を口に含んだ。

 

「シュイ?」

 

 胸一杯に息を吸い込んだシュイが、体を折り曲げる勢いで声を張り上げた。

 

「おい!」

 

 隣に居たヤタカが思わず耳を塞ぐほどの声だった。ただの大声ではない。耳を劈くような高音が折り重なり、一つの声帯からでたとは信じがたい複雑な音が山々に木霊する。

 

「繭が崩れていく」

 

 薄い卵の殻を割るように、ひび割れた繭が上からぱらぱらと崩れ始めた。

 シュイの声に一瞬動きを止めた赤い大蛇達が、何かに怯えたように一斉に身をハネる。

 

「小僧、何をした?」

 

 低く抑えた声で円大が問い、ゆっくりと後退る。

 

「ミコマの婆様から引き離されて育った理由はこれだ! この力が知れればこの世に亀裂が生まれると婆様はいった。だから要塞ともいえる地下道で、じっちゃんに育てられたんだ」

 

 ぶれない意思に引き締まったシュイの横顔は、幼さを残しながら青年へと移行する前の無垢な強さに充ちていた。

 

「ふふ、喧嘩を売るときの策を三つ用意する……だけではなかったのか?」

 

 まだ余裕の残る円大の声に、赤い大蛇達が身をくねらせる。

 

「友を欺いてはならない。だが友を守ると決めたなら、敵を欺く知略を巡らせることを怠たってはならない」

 

「それで?」

 

「守ると決めた者のためなら、進んで煤けた衣を纏うがいい。愚かな目口を張り付けた無能の面を被ることを、恥じてはならない」

 

 息を継ぐように胸を大きく膨らませ、シュイは口を再び開く。

 

「その面を外すのは、敵が敗北に目を見開いた時のみ。愚か者と罵られて友が守れるなら、罵声に耐えるなど容易いことと心得よ。これが一番最初に聞かされた……じっちゃんの教えだ!」

 

 肘を折り曲げて目一杯に持ち上げた手を、シュイは一気に地に叩き付けた。

 大地が揺らいだ錯覚に、ヤタカは軽い目眩に襲われ思わず足を踏み出した。

 ふらついた足を何とか堪え、辺りを見回したヤタカは声にならない息を吐き出した。

 

「これはあの時の……」

 

 地を叩き付けたシュイの手に押し出されたように、不意に山々が緑の光に溢れた。

 もともと身を潜めていた同胞を追ってきたように、山向こうから波のように緑の光が押し寄せる。

 和平が暗がりの道を去っていった日に、和平へとついていった淡い緑の光。あの日と同じ緑の光の粒が、けれど比較にならないほど無数に数を増やして山間へ流れ込む。

 

「和平、みんなおまえを好いているんだ。はやく目を覚ましてよ。どんな姿になったって……友達やめるなんて……いわないからさ」

 

 零れた声は、年相応の男の子のものだった。

 地下道で育ったシュイにとって、始めて友になろうといってくれたのが和平だった。

 不測の事態に備えてシュイの肩を引き寄せたヤタカだったが、何が起きているのかさえわからなかった。

 数を増した緑色の光は滝のように幾本もの流れに湧かれ、起伏の激しい斜面を流れるようにうねりを増していく。

 跳ね上がった緑の光が飛沫となって届くと、宙に浮いた赤い大蛇は身を焼かれたように激しくのたうち回った。

 

 

「何をやっている! さっさと呑み込め!」

 

 円大が初めて声を荒げ、大地を蹴り散らして怒りをぶつけた。

 心の内を吐露するように、手首から伸びた蔦が無秩序にうねって跳ねる。

 

「赤い光が呑み込まれていく」

 

 太い支流となってあちらこちらで天に駆け上がる緑色の光。波の尖端が巨大な巻き貝のように口を広げ逃げ惑う赤い大蛇を呑み込んでいく。

 呑み込まれた赤い光は、緑色の光の下で僅かに抵抗して完全にその色を失っていく。

 

「半分は脅されたようなものだからね。生き延びる為にニセ坊主に荷担したのに、瞬間にしてつく相手を見誤ったことに気づいたんだ。戦意も喪失するさ」

 

 無表情で真っ直ぐに視線を向けるシュイとは反対に、円大は鬼の形相で喚いていた。

 声にはすでに余裕がなく、己の言葉に興奮した肩が激しく上下している。

 

「これで勝ったと思うのか! まだだ、まだだぞ!」

 

 怒声とともに飛び散った唾液を手の甲で拭い、円大は繭を指差す。

 

「こいつは今や正真正銘の化け物だ。蔦を宿す俺がいうのだから間違いない。クソ爺から聞いていたお伽噺が、まさか現実になるとはな」

 

 荒い息のまま円大が鼻で嗤う。

 

「あの話しが本当なら、この繭から出てくるのは人でも異種でも異物でもない。ただの混ぜモノさ。おぞましい生き物が拝めるだろう」

 

 けけ、と喉を鳴らした円大に、ヤタカは吐き気と共に眉を顰めた。

 

「だがその化け物が俺を救う。意思のない化け物など、強大な力を持つ道具に過ぎない。どんなモノも道具として扱えるのが、俺の得意技でね」

 

 じゅるりと音を立てて涎を拭う円大の悪意が己の口に溜まったような気がして、ヤタカはぺっと口の中の空気を吐き出した。

 

「ほうら、化け物のお目覚めだ」

 

 残っていた繭が砂壁のように一気に崩れ落ちた。繭を浮かせていた金糸の巣の中心に、膝を抱えたまま和平は座っていた。

 

「和平!」

 

 駆け寄ろうとしたヤタカをシュイが首を振って押し留める。

 

「本当に何が起こるかわからないんだ。もし和平が負けていたら、蜘蛛に呑み込まれてしまったなら、ぼくは和平を……」

 

 口を閉ざした先に続くのは、和平に死を与えて償いとする……そんな意味であろうと察したヤタカは、シュイの頭に静かに手を乗せる。

 

「シュイの仕事はここまでだ。ここから先は俺の役目。手だししたら……」

 

「手出ししたら?」

 

「メン玉が飛び出るくらいのゲンコツだ。シュイの心が死んだら、俺がイリスにぶん殴られる……だろ?」

 

 俯いたシュイの髪をわしゃわしゃと掻き回し、ヤタカは和平に目を懲らす。

 円大さえ口を閉じ、少しずつ距離を開けていた。

 金糸の巣がゆっくりと地面すれすれまで降りたかとおもうと、一気に収縮して和平の背に吸い込まれた。

 和平の背に腕に張り巡る巣はその端を腹の方まで伸ばしている。

 以前浮かび上がっていた、赤紫色した巣の痣は何処にも見当たらなかった。

 そんな細部まで見えることが妙だと気づいたヤタカが見上げると、赤い大蛇を食らい尽くした緑の波が、薄い光の帯となってゆらゆらと低空を舞っていた。

 

「いったい優位にたっているのはどっちだ? 蜘蛛か? ガキの方なのか? どっちでもいいがさっさと目を覚まして我に従え! 人であった頃のガキを選んだ、この目障りな異種達を蹴散らせ! それが出来ないなら、ここで死んで貰う」

 

 膝を抱えたまま和平はぴくりとも動かない。背中に蜘蛛の姿は無く、皮膚に光る金糸の巣を除けば、前より普通の少年に見えるほどだった。

 

「大人しく俺の手下になれ。拒めば、姉も殺すぞ?」

 

 不意に和平の腕が横へ振り上げられ、肌を覆う金糸の巣が腕を這い降りて指先から大地へと突き刺さる。

 瞬時に半歩身を引いた円大だったが、届かないぞ? とにやりと口元を歪ませた。 

腕をそのままに目を閉じたまま、和平は動かない。代わりに低空を舞う薄緑色した光の帯が四方八方から和平に巻き付くように舞い降りた。

 

「生きてた、主体は和平だ! 良かった……良かった」

 

 がくりと膝から崩れたシュイが、苦しそうに目を閉じる。

 姉の命に反応したことをから見て、首位に立っているのは蜘蛛ではなく和平なのだとヤタカも思う。ヤタカの口からも、無意識に安堵の息が漏れた。

 

「化け物になってもまだ、姉の命に心動くというのか? まさかとは思ったが」

 

 面白い生き物ができあがった―――円大が目を細めて口の片端をぴくりとあげる。

 

「和平は化け物じゃない! 人間だ!」

 

 耐えかねたようにシュイが叫ぶ。

 

「化け物だよ」

 

 円大とは違う、大人になりかけながらもまだ澄んだ声がした。

 

「和平?」

 

 ゆっくりと和平の両瞼が開いた。

 

「姉さんはオレをこんな体にしたくなかった。だから自分で全てを引き受けようとしていた。でも同じように、オレも姉さんをこんな体にしたくはなかった。姉さんは女の人だからね。綺麗な顔と体のままお嫁にいって、幸せになってもらわなくちゃいけないもの」

 

 ゆっくりと立ち上がるシュイの右手からは、今だ金糸の巣が伸び円大に近い土に刺さっている。

 

「オレは男だから体も顔も気になどしない。まぁ、こんな体を好いてくれる女の子は一生現れやしないだろうけれど、姉さんが普通に生きてくれるなら、かまやしないさ」

 

「孤独に生きる化け物か。悪くないねぇ」

 

 憐憫に充ちた円大の声色がヤタカの神経を逆なでる。だが怒りに駆け出そうとしたシュイの動きが冷静さを取り戻させ、まだ細い腕をぐいと押さえた。

 円大を守るように取り巻く光の帯は、ゆるりと巻き上がる竜巻のように天高く真っ直ぐに昇っている。

 

「おまえが配下に置いた異種は、もう役にたたないよ? そろそろ引いたらどうだい? 幾千年、いやもっとだね。恒久の時の流れの中繰り返され、幾人かの犠牲の上に保たれてきた異種と人間の均衡を、おまえの我欲が崩した。その罪は重いよ? いや違うか。幾人かの犠牲を仕方ないものと眺めていただけの傍観者の罪かも知れない。つまりは、オレ達や先祖の罪でもある」

 

 円大は顔の前でふらふらと手を振り、呆れたように眉を上げる。

 

「歴史は破壊と創世の繰り返しだ。このまま不安定な世が続いて何になる? 定期的に死の不安に怯える人間も、生きる場を縛られた異種も不憫であろう。どちらが生き残っても、この世は安定を取り戻す」

 

 和平は舞い上がる光の帯を見上げるように喉元を伸ばした。

 

「違うだろ? 双方の生死をその手に握り、密売人のように両方から利益を得る。それがおまえの本音だよ。汚泥をすくい取っても濁り続ける泉のようだね。綺麗にした先から濁るのは汚染の速度が上回っているからだろ? まるであんたの性根そのものだ」

 

「褒め言葉として受け取るよ。他人など気にかけたこともないから、何といわれような構わない。良心が痛むと聞いたことはあるが、生憎産まれた時から良心という概念さえ持っていないのでね」

 

 くだらない―――円大は鼻で笑った。

 

「平行線だね。終わりが見えないから、終わらせようか」

 

 異種の光に照らされる和平の眼球が白目を剥いた。

 

――いや違う。ただの白目じゃない。なんだ?

 

 薄明かりと距離に阻まれはっきりとは見てとれないが、表現出来ない違和感があった。

 

「終わらせやしないよ。勝負はまだついてはいないからね。おまえについたこの異種とて、この世に散らばったらどうなるだろうね。生きる為の本能とは恐ろしいほど強いものだよ。異種を回収できる人間など一握りに過ぎない。これだけの数だ……さて、どうする?」

 

 白目を剥いたままの和平が瞬時に円大へと向き直る。

 それと同時に円大の手首から、稲妻が走る勢いで蔦が天へと伸び、薄緑に光る光の帯を切り裂いた。伸びる先で果てしなく枝分かれする蔦は、光を放つ異種をかき混ぜ薙ぎ払う。 円大が大きく腕を回すと上空の蔦が大きく孤を描き、弾き飛ばされた異種が小さな光の粒となって暗闇の遠くへと飛ばされていく。

 

「止めろ!!」

 

 和平の怒声が飛ぶと同時に、円大の足元から音を立てて土が盛り上がった。

 

「ぎぇ!!」

 

 詰まった悲鳴と共に、円大が手首を押さえ背を丸めた。

 空中で暴れていた蔦の動きがぴたりと止まる。

 

「和平を支援していた異種が飛び散ったぞ! この世が無秩序に異種で溢れかえったら止められない!」

 

 思わず叫んだヤタカを、すっと振り返った和平が左手を静かにあげて制した。

 

「心配しないで。たとえ異種で溢れても、被害が無秩序に増える訳じゃないから」

 

 和平は静かにそういった。

 

「どういうことだ?」

 

「荷物持ち! 目を懲らせ! 円大の足元だ、円大の……」

 

 シュイの叫びにはっとして視線を凝らしたヤタカは、ぽっかりと口を開けたまま言葉を失った。

 盛り上がった土から半身を迫り出させているのは和平に取り憑いていたはずの大蜘蛛だった。

 大蜘蛛の鋭い足の先が、円大の左手首を貫いていた。

 蜘蛛が足を蠢かせるたび、和平の手から伸びる金糸の巣が、魚のかかった釣り糸のようにしなっては千切れんばかりに張っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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51 友は互いの手に命を握り

 

「こんなことでどうにか出来ると思ったか。毒で枯れようとこの蔦は再生する。くくっ……所詮は化け物の浅知恵」

 

「そうでもないさ。その蜘蛛はあんたの手首に宿る、いわば蔦の心臓部を突いたんだ。先を折られても再生するだろうが、心臓が止まれば生き返らないのは人と同じだろ?」

 

 はっとしたように手首に視線を落とした円大は、驚愕に見開いた目のままどくどくと血が溢れる手首を忙しなく擦った。

 ちょろちょろと顔をだすはずの蔦に変わって、流れ出た血が円大の足元にあっという間に血溜まりを作る。

 

「体内で精製される毒に対して耐性があったのは、宿した蔦のおかげだ。宿主が死んでは困るからね。だが蔦本体が死を迎えたなら、おまえの体は脆弱な人でしかない。毒を作りだす蔦の心臓部が死を迎えた今、毒を中和する者はいない。腐りかけた毒の精製所は、血液を通して毒を垂れ流すだろうね」

 

「貴様!」

 

 袖を千切って毒の周りを遅めようとした円大の手を、鋭い大蜘蛛の足が突き刺した。

 

「ぐえぇ」

 

 詰まった悲鳴を上げた円大が、怨嗟の目を和平に向ける。

 

「たとえ死んでも、俺の勝ちだ」

 

 円大の叫びに、白目を剥いたままの和平が首を傾げる。

 

「あの家系に生まれたというだけで、長男だというだけで数奇な運命を押しつけられた。

爺さんも親爺もこの手で葬った。一緒に蔦がこの世から失せればいいと願い、それが叶うなら身内の命が消えることさえ厭わなかった」

 

 毒が回りはじめたのか、ぜぇぜぇと息を荒げて円大の肩が大きく上下する。

 

「宿主を殺しても、俺に宿命が回ってくるのが早まっただけだった。呪ったよ。こんなモノを背負い込んだ先祖も、浅はかな自分の愚かさも。だが、そこで思い直した。こんな体では普通に生きられない。若い頃は感情が高ぶるだけで蔦が腕から顔をだした」

 

全てを諦めたさ―――円大は自嘲気味にけけっと笑った。

 

「周りを気遣えば暗いだの感情が薄いだのと仲間の輪から弾かれた。感情を表に出せば、うっかり蔦を目にした者が悲鳴をあげて逃げていく。目撃が与太話となるように、各地を転々とするしかなかった」

 

寺に辿り着くまでは……そういって円大は手首を押さえて膝を折った。

 

「寺に二人のガキが匿われた。訝しく思った俺は、素堂の目を盗み寺の蔵書を読みあさった。水の器、境界線なき者、サザナミトユウモヤ……その言葉を知ったのもあの時だった。俺の人生に光が見えた。呪われた運命を光に転じる機が訪れたと思った」

 

「円大……」

 

 かっと短い息を吐いて、円大は胸を押さえ蹲る。震える顔を上げたが、蜘蛛の頭に隠れて表情は見えなかった。

 

「散らばった異種が人を苗床とするのを、指を咥えて眺めているがいい。一人で死んでいくイリスの屍を、地を這って探すがいい! ヤタカ、おまえのように恵まれた者など、短命であっても呪われた家系とはいわない! 呪われた家系の子とは、手の届く所に人が居ない。視界が届く所に未来が見えない。伸ばした手に触れる温もりがない者のことだ!」

 

 震える首を擡げて怨嗟の視線を送る円大に、ヤタカはゆっくりと首を横に振る。

 

「それは違う。俺は伸ばした手で相手の手を握ろうとした。だからこそ、数は少なくとも握り返す友ができた。円大、おまえは伸ばした手に何を握っていた?」

 

 睨む円大の口から、たらりと赤い血が流れた。

 

「誰かが握り返すには、温もりが必要だ。おまえの手を握っても、感じるのは人肌ではなく、最初から握られた刃の冷たさと受ける傷の痛みだっただろうよ。刃を握った手など、誰が握り返してくれるものか」

 

 嫌いだよ、綺麗事をならべる奴は―――円大は吐血しながら笑っていた。

 もう顔を上げる力も残っていないのだろう。横にした顔を地べたに付けたまま、円大は小刻みな息を繰り返す。

 死期を悟ったのか、大蜘蛛がざばりと音を立てて地中に姿を消した。

 

まるで自分の足が思い通り動くかを確かめるように、和平が一歩、また一歩と円大へ近付いていく。進む和平に引き摺られる網ようにぶら下がっていた金糸の巣が、ぷつりと真ん中で分断し、一方は大地に浸みるように溶けて姿を消し、一方はするすると和平の手に吸い込まれた。

 時折ふらつく足を立て直しては円大の元へ辿り着いた和平は、大地に頬を押しつけたままの円大を無表情に見下ろした。

 

「考えようによっては君の方が、人としてまともな神経を持っていたのかも知れないよ。曰く付きの家系に好きで生まれる者などいない。受け入れるには時間がかかる。人と交わりたいのは人間の本能だからね。その本能に忠実に生きたかった君は、早くに心が折れてしまった」

 

 円大の背の上下が細かく小さくなっていく。もうほとんど息など吸えていないのだろう。

 

「オレや他のみんなは、おそらく早い段階で諦めたんだ。人と関わることも、普通に生きることも。心を保つ代わりに平穏を捨てた。普通であることを捨てた。捨てることで宿命を受け入れた。誰かが背負わなければならないもの」

 

 円大の息が、シュゥー……シュゥーと途切れ途切れとなる。

 毒に蝕まれた命が血となって流れ出て、円大を黄泉に送る穴と言わんばかりに、丸く赤黒い染みとなって広がっていた。

 

「だがやっぱり、君は間違っているよ。察するに、子供の頃のヤタカは君を兄のように慕い懐いていたはずだろ? なぜその時に気づけなかったのかな。 取るべき手がそこにあると、なぜ心の軌道を変えられなかった?」

 

 円大の頬が、僅かに大地を離れぱたりと戻る。

 ぴしゃり、と血の泉が跳ねた。

 

「君に差し伸べられた手は、幾つかあったんだよ? なのに君は、その手を片端から憎しみの刃で切り裂いてしまった。その手とは関わりのない、まったく別の場所で打たれた刃でね」

 

 恐怖で支配しようとした異種でさえ、離れてしまったね―――和平はなぜか辛そうに呟いた。

 ヤタカはよろよろと歩き出していた。今更、円大にかける慈悲など持ち合わせてはいない。

 ばらばらな足取りで足が動いていた。

 円大が奪った物言えぬ魂の代わりに、言葉を叩き付けたかった。 

 

「オレ達と君の行く道を分けたのは、ただひとつのことなんだ」

 

 和平は胸の前で静かに拳を握りしめ、微笑みを口元に寂しげに浮かべた。

 

「普通を捨てて宿命を受け入れる為に必要な者はここにいる」

 

 握りしめた指を開き、和平は己の胸をとんと叩いた。

 森を覆う薄緑の灯灯りが、和平の思いを受けたようにさざ波を立てる。

 

「自分が犠牲になることで大切に思う誰かが救われる。その誰かが笑顔で生きていくことを想像して笑顔になれるなら、その行為に犠牲という呼び名はつかない。自分が望んだことだもの」

 

君の胸の中には―――落とすような和平の声に、夜の闇が耳を澄ます。

 

「居なかったのだろうね。自分が消えても、笑顔でいて欲しいと思える人が。いや違うな。幸せでいて欲しいと気づいていながら、その思いに蓋をした」

 

 ひゅうー ひゅー と間隔をあけて円大が長い息を吐き出した。

 こめかみの小さな傷から溜まった血がとろりと流れ落ちた。

 

「円大、俺は……」

 

 円大の顔を覗き込むように血の泉に這いつくばったヤタカは、後に続く言葉を探して視線を泳がせた。

 和平がそっとヤタカの肩に手を置き、片膝をつく。

 

「おそらくはね、ヤタカが最後の砦だった、いやそうなり得たはずだよ? お爺様も実の父さえ手にかけ、引くに引けなくなった君がたとえ取り返しのつかない時点からであったとしても、身内を殺めた個人としての罪ですませられた時点。その時に現れたヤタカを、彼に兄のように接した自分を素直に受け入れていれば、その後の惨事は起こらなかった。素直に、好きな者を好きだと思う。ただそれだけのことだったのにね」

 

 もはや己の上体すら支えられない円大の指先が、震えながら土を掻く。

 

「おまえなど……ヤタカなど」

 

 げほりと吐き出された咳と共に、闇に染まった赤黒い血が唇を濡らす。

 

「円大、俺は……」

 

 ヤタカの言葉を遮って、土を掻いた円大の指が鉤爪のように折れ曲がる。

 息から命が漏れ出ていた。堪えようと力の込められた指の関節から、静かに力が抜けていく。

 

「ヤタカなど……大嫌いだったさ。殺したい……ほど……に……」

 

 憎かった―――

 

 半開きの瞳から生気が抜けていく。動かなくなった口の端から、言葉の代わりにとろりとろりと血が流れた。

 

「死に際の憎まれ口など、好いていたと」

 

 言ったようなものじゃないか―――

 

 和平が呟いてヤタカの肩から手を離した。

 

「目を、閉じてやっても構わないか?」

 

 ヤタカは周りに立つ者達に許可を求めた。円大のしたことを許せはしない。みんなの心情を思うと、瞼を閉じてやることさえ憚られた。だが、それでもヤタカは円大の笑顔を払いのけられずにいた。

 

「構わないよ。ゴテさんや野グソさんだって、それを止めるほど狭量じゃないさ」

 

 和平の言葉に幼なじみの二人を見遣る。

 険しい表情のまま頷いた二人に軽く頭を下げ、ヤタカは円大の瞼に手を乗せた。

 

「俺もあんたが嫌いだ」

 

 すっと指先を擦らせて、円大の瞼を閉じる。

 手を退けた後の円大は、苦しみも喜びもない能面のような死に顔だった。

 

「でもあんたより、自分の方が遙かに嫌いだ」

 

 寺で見せた円大の笑顔に嘘はなかったのだろう。生まれ持った優しい笑顔を殺さざるえないほど追い詰められていた円大に、自分という存在が拍車をかけた。

 

「円大、あんたを刃に変えて、この世を壊しかけたのは俺だったのかもしれないな」

 

 全てに出来事が走馬燈のように駆け抜けた。

 水の器がヤタカに宿った日、ヤタカが命を捨てていたなら運命は違っただろうか。

 ヤタカの代わりに、本来水の器を受け次ぐ者だった慈庭が宿していたなら、もっと上手く立ち回っていたのではないか。

 円大の追い詰められた心に気づいてやれただろうか、イリスを危険な目に合わせることもなかっただろうか。

 

「ヤタカ、死んだ者に弔いの思いを向けるのは今じゃないよ。ここで立ち止まったら、取り返しのつかないものを失うことになる。今のオレ達には時間がなさ過ぎる」

 

 再びに肩に乗せられた和平の手に釣り上げられたように、ヤタカは落ち込みかけた後悔の沼から浮上した。

 

「これで全てが終わった訳じゃないんだな」

 

 ヤタカの声に、和平は静かに頷いた。

 

「何も終わっていないよ。本来進むべき地図に不用意に現れた岩を退けただけだからね」

 

 和平の言葉に、いつの間にか側に来ていたシュイが続ける。

 

「荷物持ちが何を後悔していようが、過去はかわらねぇよ。そのアホ面で悔いることがあんなら、さっさと気持ちを切り替えろ! 本当に失いたくない人までなくしてから泣き喚いたって知らないぞ? それから和平!」

 

 見上げてぼんやりと耳を傾けていたヤタカの前で、シュイがビシッと和平を指差す。

 

「なに?」

 

 裏返って白目を剥いていた和平の目には、以前と変わらないくるりとした黒目があった。

 

「何? じゃねぇよ! どんだけ心配したと思ってんだよ。もうちょっとでこのアホな荷物持ちを放って助けにいくところだったろうが!」

 

 面食らったように目をぱちくりさせる和平の頭を、シュイがバシリと平手で打つ。

 

「痛い……って」

 

「ほら、痛いだろうが! 和平がいま痛いって感じられるのはオレ様のおかげだからな! 感謝しろっての」

 

 もう一度叩こうとしたシュイの手を、寂しそうな顔で和平が避けた。

 

「逃げんのか!?」

 

 ふるふると首を振って、和平はすっと一歩下がった。

 

「駄目だよ。シュイは自分の道を進まなくちゃ」

 

 かくりと抜けそうになる膝を引き摺って、和平がゆるゆると横に首を振る。

 

「この大事が終われば、シュイは普通に生きていける。人はね、周りにいる人を含めてその人を判断する生き物なんだ」

 

だから―――

 

「オレと関わっちゃ駄目だ」

 

 引き摺る足が限界に達したように、和平が肩を丸めて佇んだ。

 

「意味が解んないんだけど」

 

 俯いていた和平が思い定めたようにくいっと顔を上げ目を閉じる。

 きつく閉じられた瞼がかっと見開かれた。

 

「オレはもう、オレだけじゃないんだ」

 

 見開かれた瞼の底にあったのは白目。

 ただの白目と違ったのは、両目の上の方に二つずつ赤黒い光を放つ蜘蛛の複眼があったこと。そして中央より下に、複眼より一回り大きい赤く丸い蜘蛛の単眼があった。

 

「わかっただろ?」 

 

 表情無く口を噤んでいたシュイが、足を一歩引いたかと思うと、いきなり飛び上がって和平を蹴り倒した。

 

「あぁ解ったよ。理解した。おまえは蜘蛛と同化して、何とか主導権を握っている危うい状態だ。そんでもって、それにビビってる!」

 

 背中から倒れて立ち上がりかけた和平を、再度シュイの足が蹴り倒す。

 背中をしたたかに打ちつけた和平が、ごほりと咽せた。

 

「この騒ぎが終わっても、表の世界にでられるのかはわからない。もしかしたら、一生横穴暮らしかもしれない。じっちゃんの許可がないと、どうにもできない」

 

 少し悔しそうにシュイは唇を窄めて眉根を寄せた。

 

「けどな、それ以外は自由だ。心だけはおまえのものだって、じっちゃんがいってたからな。オレが誰を友達だと思おうが自由だ。おまえにだって文句はいわせない!」

 

 それともなにか? そういってシュイは半歩足を進めて身を乗り出した。

 

「友達になろうぜ、っていったおまえの言葉は口からでまかせだったわけ? 和平がそういったから……オレ様が友達になってやろうかっていってんだよ!」

 

 頬を膨らませたシュイが、恥ずかしそうにぷいっと顔を背ける。

 まるでガキ大将が初めて女の子に告白しているようだとふっと息を吐いたヤタカは、立ち上がって和平の元へ歩み寄った。

 

「和平」

 

 縮こまった肩に手を置き、膝を曲げて視線を合わせた。

 

「シュイの優しさは解りづらいから、オレが訳してあげるよ。シュイはね、この場に来てから本当に和平のこと気にかけていて、本気で助けたくて必死にがんばったんだ。横穴で暮らして同世代の友達もいなかったあいつにとって、和平がいった友達になろうは、見えない横穴の向こうの世界に光の玉が現れたようなものだったと思うよ。同情でも義務でもないさ。シュイはね、単純に和平が好きなんだよ。友達を失いたくないから、照れ隠しに怒鳴ってる」

 

 な? そういって肩を揺らすと、和平の目元に気恥ずかしそうな笑みが宿った。 

 

「シュイ、助けてくれてありがとう」

 

 和平の言葉は静かだった。夜風になびいて前髪がさらさらと揺れる。

 

「別に礼なんか……。じゃあ、友達ってことでいいんだな? いいんだよな!」

 

 言葉とは裏腹に睨み付けるシュイを見て、和平はふわりと笑みを浮かべた。

 

「友達でいたいさ。オレが、蜘蛛に体の自由を奪われたとき、殺してくれるなら」

 

 柔らかな笑顔でいった和平の言葉に、シュイが目を見開いた。

 

「蜘蛛が主位に立ったとき、どうなるのかはオレにもわからない。でも、自分じゃなくなるのは確かだと思う。そのときは、躊躇無く殺して欲しい。オレの尊厳を守る為に」

 

 異種の光に照らされたシュイの肩が震えているのが、離れたヤタカからでも見てとれた。

 

「そんなこと、できるわけないだろ? 殺すなんて」

 

「じゃあ友達は無理だ。最後を任せられるのが友だろ?」

 

 笑顔のまま、和平がいう。

「どうしたらいい……」

 

「え?」

 

 柔らかな笑みをそのままに、和平が小首を傾げる。

 

「和平が蜘蛛に主位を奪われないためには、どうしたらいいのさ」

 

 そんなことか、と和平は小さく頷いた。

 

「オレの意思が、蜘蛛を上回っていることが必須。要は力さ。意志の強さが勝った方が主位に立つ。今はぎりぎりってところかな。この蜘蛛を身に収めるのがオレの役割でもあり、器としての宿命でもあるから」

 

 今はまだ、この騒動を収めて姉さんを守り抜くという思いだけが一歩蜘蛛を勝っているのだという。この騒動が終焉を迎えたとき、自分の心持ちがどうあるかは想像さえつかないと和平はいった。  

 

「動機があればいいんだな?」

 

「え?」

 

 シュイの言葉に、和平が目を幾度かぱちくりとした。

 

「和平が生きなくちゃならないって強く思うだけの、理由がありゃいいんだろ!?」

 

 仁王立ちで和平に向き直ったシュイが、考え込むように寄せていた眉根をふっと緩め、思い定めて吹っ切れたように顎をあげると、腰に手を当て胸を仰け反らせた。

 

「蜘蛛に負けたら、和平を殺してあげるよ」

 

 淡々としたシュイの言葉に、ヤタカは驚いて立ち上がった。およそシュイの言葉とは思えない。生意気で口は達者だが、できもしない口約束をするような性格ではないことをヤタカは知っていた。

 

「おい、シュイ!」

 

 思わず割って入ったヤタカを、シュイは顎をしゃくって邪魔だと退けた。

 安堵したようにこくりと頷いた和平が、力の抜けた穏やかな顔を上げる。

 

「そして和平を殺したら、その手でオレも死ぬ」

 

「シュイ、何をいって……」

 

 和平の言葉は、先に続けられたシュイの怒鳴り声で遮られた。

 

「だから負けるなっつってんだよ! オレを死なせたくなかったら生きろ! 簡単にオレの命を終わらせんな!」

 

 まっすぐに見つめるシュイの目は偽りも張ったりの影さえない。

 

――シュイらしいな

 

 自分だけの命なら、木葉に息を吹きかけて飛ばすように終わらせて構わなかった和平だろうが、軽んじていた己の生き死にがシュイの命を左右するとなれば、これほどの精神的支柱はないだろう。

 

「駄目だよ、シュイは生きなくちゃ。シュイなら上手に普通に紛れて生きられる。未来があるんだ」

 

 和平の声は震えていた。

 

「だから、その明るい未来ってやつを一緒に生きようって……生きようと思って……」

 

 シュイが拗ねたように声を細らせる。

 黙り込んだ少年二人を眺めていたヤタカはふっと笑みを零し、それから大きく息を吸い込んだ。

 

「素直に、生きる努力をしてやりなよ和平。シュイが赤っ恥覚悟でここまでいったんだ。一緒に生きよう―――って、ははっ。和平を嫁にでも貰うのかと思ったぜ」

 

わざと戯けたヤタカだったが、そんな思いやりを解する二人ではないことを失念していた。

 真っ赤になったシュイの蹴りが腹に入った。腹を抱えて体を折ったヤタカの脳天を、和平の平手が打ち下ろす。

 

―――手加減なしかよ!

 

 火花の散った目を押さえてヤタカが舌を打つ。

 

「あぁ死なないよ! シュイになんかに死なれたら、死んでからも後味が悪い。ヤタカじゃないけどね、そういうセリフは好きな子にでもいえよ! オレは求婚の予行練習がわりの案山子じゃないんだぞ!」

 

 怒鳴りながら、和平の平手が容赦なくヤタカの背を数回叩いた。

 

「痛いって!」

 

「ばっかじゃないの? 求婚とか和平は爺かよ! プロポージュっていうんだよ。だいたいオレはもっと洒落たプロポージュするっての!」

 

―――それをいうならプロポーズ……

 

 心の中で吹きだしかけたヤタカは、再度蹴り上げられたシュイの足に胸を突かれグエッと潰れたカエルみたいな声をあげた。 

 

「そこまでだぁ!」

 

 ぜえぜえと息を切らせて立ち上がったヤタカが、二人の頭を分けて押さえ込む。

 その顔には、久しぶりに見せる心からの笑顔が浮かんでいた。

 

「喧嘩の続きはことが終わってからにしろ。和平、シュイは本気だよ? だから意地でも死ぬな」

 

 ヤタカに言われて、和平は恥ずかしそうな笑みを浮かべてこくりと頷いた。

 

「シュイ! おまえも簡単に死ぬな! 爺ちゃんが悲しむだろうが!」

 

 

「死なないさ。和平が負けるわけない」

 

 下唇を突きだしてむくれるシュイの頭をひとなでして、ヤタカはまっぐにい幼なじみの元へと足を向けた。

辺りの山々は薄緑色の光の粒に覆われ、辺り一面をうっすらと照らし出している。

所々で夜空に向けて噴水のように吹き上がる異種の光は、異常時でなければ幻想的な光景だった。

 

「ゴテ、野グソ……」

 

 聞きたいことは山ほどあった。殴りつけたいほどの文句も、すっかり騙された裏切りの皮を被った友情に気づけなかった事への謝罪も。

 二人の前で立ち止まり、最初のひと言を吐き出そうとしたヤタカの口が開いたまま固まった。幼なじみの間から見える背後の森に、信じられない姿を見た。

 

「ヤタカ、お待たせ!」

 

 にこりと微笑むイリスがいた。

 少し下がった場所に闇と同化して佇むのは、ゴザ売りの姿だった。

 イリスに道を案内してきたように、その足元に細く水の流れがあった。

 ちょろちょろと流れる水は、イリスの足元を過ぎると地に染みこみ、己の主の元へと帰っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




今日ものぞてくれて、ありがとうです。


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52 記憶

「イリス、いったいどうやって……おい、おまえも黙っていくなよ!」

 

 用は済んだと言わんばかりにすっと闇に溶けたゴザ売りの姿に、ヤタカは慌てて声をかけた。ヤタカの声に、というより姿を消した辺りの闇を口を尖らせて睨んだイリスの視線に思い止まったのだろう。

 地面に視線を落としたままのゴザ売りが、草を踏む音さえ立てずにすっと姿を浮かばせる。

 

「おじちゃん、一緒にいこう!」

 

 驚いて目を丸くしたゴザ売りの腕を取ったイリスが、ずんずんと草を掻き分けヤタカの前にやってきた。

 

「イリス、無事で良かった。すまない、助けに行けなくて」

 

 眉間に皺を寄せて謝るヤタカの額を、イリスの指がぱちりと音を立てて弾いた。

 

「痛い!」

 

「それは、ヤタカが今謝った分」

 

 言い訳する間もなく次ぎに飛んできたのは、首がかくりと真横に傾ぐほど強烈なゲンコツだった。

 

「これはわたしに嘘をついた分」

 

「嘘ってなに? 痛い!」

 

 怒ったようにイリスがどしどしと足を踏みならす。

 

「ゴテと野グソが姿を消した理由よ! 言い訳できる?」

 

「それは……痛いって」

 

 最後に左の脛に全力で打ち込まれた蹴りに、ヤタカは呻き声さえ喉につかえたままうずくまる。

 横に転がって脛を抱えて丸まるヤタカの尻に、内臓が迫り上がったと勘違いするほどの打撃が刺さった。

 

「逃げろ……ゴテ……野グ……」

 

 細いヤタカの声にぴくりと身を縮ませた二人だったが、イリスに睨まれて逃げられる筈もない。

 すたすたと詰め寄ったイリスに襟首を掴まれ、がくがくと頭を揺さぶられながらコンコンと説教をされ、その合間にゲンコツを喰らい蹴りを入れられ、長ひょろいこんにゃくのように揺れている。

 

「だいたいね、友達を思ってのこととはいえ、嘘ばっかり吐くから話しがややこしくなるんだよ? ゴザ売りのおじちゃんが教えてくれなかったら、いったいいつ教えてくれたの?」

 

 ごつん げしり

 

「ゲン太がいないのも、あんた達のせいじゃないでしょうね?」

 

 ばこん どしり

 

「イリス、もういいだろ、な? そろそろ気絶するって」

 

 痛む体を引き摺って駆け寄ったヤタカに止められ、イリスはふくれっつらのまま振り上げていた手を降ろした。

 そして膨れた頬からぷうっと息を吐くと、少し眉尻を下げて辺りを見渡した。

 

「ほんとうに、ゲン太はどこに行っちゃったの?」

 

 ヤタカはゲン太と紅を逃がした経緯と共に、今しがた起きた事をイリスに聞かせた。

 目を閉じられた円大の遺体に、ゆっくりとイリスが近寄りすとんと腰を落とす。

 

「本当に、円大が?」

 

 イリスの問いに、ヤタカは黙って頷いた。

 そう……

 呟いたイリスは、半開きになった円大の口の端から流れた血を指先で拭った。

 変色し始めた円大の体が人型の土の塊に変わっていく。

 見慣れない新芽が月明かりを目指して一斉に芽吹いていく。

 ゆっくりと後退りながら、イリスは静かに目を閉じた。

 

「イリスねえちゃん?」

 

 顔を上げたイリスは、心配げなシュイを見て花のような笑顔をみせた。

 

「イリスねえちゃん、これ」

 

 恥ずかしそうにシュイが差し出したのは折りたたんだ白い布。

 

「ありがとう」

 

 受け取った布で指先の血を拭い、イリスはくしゃりとシュイの頭を撫でた。撫でながら視線は和平へと向けられた。

 

「わたる姉はね、たしを守ってくれたの。色んな者達の目を欺くために、わたしを攫ってくれた。攫った振りかな。まあ、わたる姉は認めないだろうけれどね」

 

 黙って頷く和平に、イリスはつかつかと近寄ると、腰を曲げてぐいっと顔を和平の顔に近づける。

 びくりとした和平が半歩下がると、イリスも足を踏みだし間合いを詰めた。

 

「和平、死にたくなっても死んじゃだめだよ? 君の身に何かあったら、悲しむ人間が多すぎるもの。それに、ゲン太もビービー泣くだろうし」

 

 そんな奴らの世話はごめんよ? と笑うイリスに、和平もにこやかに白い歯を見せ頷いた。

 

「取りあえず、ゲン太を呼び戻さなくっちゃ」

 

 いち早く耳を塞いだのはゴテと野グソ。シュイと和平に忠告しようとしたヤタカだったが、自分の身の安全を取って耳を塞いだ。

 つられて耳を塞いだシュイをきょとんと眺めていた和平が、イリスが大きく息を吸い込む音にはっとして両手を持ち上げたときには遅かった。

 

「ゲン太~! 早く戻らないと焚き火にくべちゃうぞ! 紅~ 早く来ないと焼き魚にしちゃうからね!!」

 

 重なり合った山々に、絶叫に近いイリスの叫びが木霊する。山の表面を舞っていた薄緑色の光が、ぶわりと跳ね上がって一斉に姿を消した。

 森の木々が、異種宿りの発した大声にびりびりと身を震わせ、その小さなかさかさという葉擦れの音が重なって山の空気を揺らした。

 満足げにふん、と息を漏らしたイリスの横で、和平が尻餅をつきながら笑みを漏らした。

 

 

 

 行き先など決まってはいなかった。

 イリスの見たがっていた泉を探そうにも方向さえわからない。

 ヤタカは迷っていた。

 おそらく時は満ちかけている。いや、既に満ちているのかも知れない。その瞬間を逃せば、水の器をイリスに渡す機を失うどころか、異種と異物を人の世から引き離す手段さえ失うことになりかねなかった。

 脳天気なイリスが取りあえず進もうというので、六人一緒に歩き出した。

 ゴザ売りの姿はいつの間にか消えていたが、この闇のどこかに身を潜ませているのだろう。

 和平はゲン太の安否を気遣っての同行であり、シュイはイリスねえちゃんを守るという大義名分のもとに、仮初めの自由を胸一杯に吸い込んでいた。

 

「ゲ~ン太、ゲン太、紅~」

 

 移動する自分達の場所を知らせるためなのか、イリスは調子っぱずれな節をつけて二匹の名を呼びながら歩いている。

 

「そういえば、ずっと聞きたかったんだ。ゴテさんは解るけど、どうして野グソって呼ばれているの?」

 

 悪気のないシュイの問いかけに、野グソの足がピタリと止まる。

 

「子供らしい良い質問だ。だが、俺の口からはいえないな……いえない」

 

 可笑しくてたまらないというように、口の端を笑いで振るわせてゴテがいう。

 

「イリスねちゃんは知ってる?」

 

 質問の矛先がイリスに向かったことに慌てた野グソが、あわわわとばたつきながら走り寄ってきた。

 

「イリス、まって!」

 

 イリスの手の平が、走り寄る野グソをぴしゃりと制す。

 

「嘘ついて心配させた罰よ!」

 

 額に手を当てあぁ、と息を漏らす野グソの肩を、ヤタカが諦めろ、といって軽く叩いた。

 にこやかな笑みを浮かべたイリスが、腰を屈めてシュイと目線をあわせすっと顔を近づけると、手持ちの薄い灯りに照らされたシュイの顔がぶわっと赤く染まった。

 

「野グソはね、小さい頃からお父さんに薬草を仕込まれていたでしょう? 普通は野山を廻って集めるらしいんだけれど、一般に使われる毒にならない野草は家の近くの小分けに仕切った小さな畑で育てていたらしいの」

 

「うんうん」

 

 顔を真っ赤に固まったシュイの代わりに、ゴテとヤタカが大きく頷く。

 野草の栽培と聞いて、和平も真剣な眼差しで耳を傾けた。

 

「まだ小さかった野グソに、ある日おじさんはこういったの。良い薬草を育てるには、水気、日当たりの案配、風当たり、そして土が大切だ。栽培する以上良い土を作るのは人の責任。だから土に堆肥を撒くのだよ。ウマの糞、牛の糞が土に栄養をもたらし、その土を好むミミズが土に空気を含ませ柔らかくする。だから、堆肥を撒く――――って」

 

「そうそう、野グソは悪くない。親爺さんの説明が小さい子供には難しすぎたんだ」

 

 ふだん野グソを擁護することなどないゴテが、わざと眉間に皺を刻んでしみじみといった。隠しきれない笑いが、顰めた眉を振るわせている。

 

「それで、野グソさんはどうしたの?」

 

 シュイが話しに引き込まれた丸い目をぱちくりさせて訊いた。

 

「野グソはね、ちゃんと毎日お手伝いしたの」

 

「えらいよなぁ~。律儀なガキだよなぁ~」

 

 感心しきりといった風に腕を組んでいったヤタカの頭を、野グソが堪らずパシリと打った。

 

「叩くんなら、俺じゃなくてイリスの方だろ? やれるもんならやってみろよ?」

 

 ヤタカの抗議に、野グソは向ける先を失った手を降ろしてぶすりと膨れた。  

 

「堆肥はね、後かけする場合もあるけれど、植物を植える前の土作りの段階で土に混ぜ込むものなの。おじさんの説明は、ちっちゃな野グソにはわからなかったのね」

 

 だから―――

 

「毎日、ウンチを自分が任された小さな畑にしにいったわけ。ぽろん、ぽろんって」

 

「イリス……かんべんしてくれ」

 

 耳を赤くした野グソが、肩に伸ばした手をイリスが笑顔でぴしゃりと払う。

 その後の顛末は、イリスに代わって意気揚々とゴテが話した。

 

 幼いとはいえ任せた畑だからと、親爺さんは一ヶ月近く様子さえ見に行かなかったらしい。ちゃぶ台をふたつ合わせたくらいの小さな畑に、ぽろんぽろんと畑では見慣れない物体が大量に落ちているのを見つけたのはゴテだった。

 犯人を捕まえようと木の陰からゴテが見張る中、野グソはぺろりと尻をめくって朝の用をたしはじめたのだという。

 大声で飛び出したゴテに驚いたところで、用を足している野グソが逃げられるわけもない。泣き喚く野グソを置いて駆けつけたゴテから一部始終を訊いた親爺さんは、驚いた顔をしたもののウンチだらけの小さな畑の横で大泣きする野グソを見て笑ったそうだ。

 

―――がんばったようだが、やり方が違うな

 

 そういって野グソの頭を撫でたという。

 

「それ以来、こいつの呼び名は野グソってわけ」

 

 真剣に聞いていた和平が腹を抱えて笑いだし、野グソの目の前にいるシュイはさすがに遠慮したのか、迫り上がる笑いの空気を頬に閉じ込め口を窄めたまま、ぴくぴくと小鼻を膨らませていた。

 

「ガキの頃だ。仕方ないだろう? 先に進むよ!」

 

 野グソが珍しく先頭をきって歩き出した。まだ夜が明けない森の谷間に、久しぶりの笑い声が木霊した。

 野グソに従ってみんなが歩き始めたそのとき、背後からかんかん、と聞き覚えのある音が鳴った。

 シュイが灯りを向けると、人が歩くように姿を現したのはゲン太だった。

 

――おもしろいはなしか

 

 木肌に浮かんだ文字の隙間を縫って、紅がゆったりと泳いでいる。

 

「ゲン太、シュイと和平が心配していたよ? どこにいっていたのさ」

 

 慌てて戻って来た野グソが話の腰を折る。

 

――はなし ききたい

 

「ゲン太、世の中にはね、知らない方がいいこともあるんだよ……ね?」

 

 野グソが落ちていた枯れ葉を拾い、シュイが持つ灯りの火種から火を移してしゃがみ込むと、ゲン太は慌てて飛び退った。

 

――げ、げたごろし

 

「これ以上話しが広がると、こっちの心が死んじゃうよ」

 

 こつりとゲン太を指で弾いて、野グソは枯れ葉の火を足元に落として踏み消した。

 

「逃げろっていったのに、その様子だと近くに身を潜めていたのか?」

 

 少し怒ったように睨むヤタカに、ゲン太はつんと鼻緒を持ち上げた。

 

――よわむし ちがう

 

「この馬鹿下駄め」

 

 踏み潰そうとしたヤタカの足より早く、イリスがさっとゲン太を抱き上げた。

 

「ゲン太、紅、会えて良かった。ごめんね、心配かけて」

 

――いりす げんきよかった

 

 へなりと鼻緒を下げたゲン太が、ぴたりとイリスに身を寄せる。紅の柔らかな尾がぴしゃりと木肌を打ってイリスとの再会を喜んだ。

 

 

 当てのないまま一行は山間を進んでいく。

 護衛のようにぴたりとイリスに寄り添い歩くシュイ、一番最後を歩く和平は最初こそ己の変化にゲン太がどう反応するかと不安げに口を噤んでいたが、木肌に浮かんでは消えるゲン太の挑発を受けて立ち、仲良く喧嘩を繰り返していた。

 

「このあとどうするつもりだ? いつまでも一緒に行くわけにはいかないだろう?」

 

 ヤタカの問いに、二人の幼なじみはあぁ、と頷いた。

 

「元の生活に戻るさ。信じてもどるよ。お前達がどんな方法を選びどんな決着を付ける気なのかは知りたくもないし見たくもないからな」

 

 ゴテは気がないようにふんと鼻を鳴らしたが、視線は斜め無効の地面へ落とされ、上手く笑えなかった唇が一文字に結ばれていく。

 幼い頃からヤタカを知っているゴテと野グソは、たとえ方法は教えられていなくとも、選んだ手段を聞かされていなくとも、ヤタカが自分の身を犠牲にするつもりでいることがわかっていた。

 口に出したことはない。

 慰めたことも、止めたこともない。

 自分達にできることはただひとつだとわかっていたから。

 

「まな板のことは心配するな。命に代えてもオレ達が守る」

 

 低く抑えたゴテの言葉に、ヤタカがゆっくりと首を横に振る。

 

「生きながら守ってやってくれ。あれはあれで、自分で選んだ道なんだから、お前達は人生を賭けちゃ駄目だよ。まずは自分のために普通の人生を守るんだ。まな板のことは、その中で見守ってやってくれ」

 

 遺言にも似た言葉と裏腹に、ヤタカは白い歯を見せにこりと笑った。

 

「なになに? 三人でこそこそ話? おもしろいことでも計画してるのなら……」

 

 振り向いたイリスの話しを遮ったタイミングと、三人の重なった言葉が悪かった。

 

「まな板に用はないの!!」

 

 無頼者相手なら拳も繰り出し、胆力の籠もる怒声を吐ける三人の男が、折り重なって乾いた地面に転がった。

 

「せめて、蹴りや拳を止める努力を……」

 

 ヤタカが胃を押さえて噎せ返る。

 

「ガキの頃を思い出すと、恐ろしくてそれもできないよ……オレはむり」

 

 そういうゴテに視線を向けられた野グソが、半分白目を剥いてかくかくと頷く。

 

「子供の頃、怒ったイリスの蹴りを止めたら痛いって涙目になって、当たらないように拳を避けたら、当たらないって三時間も泣かれただろ? イリスに三時間も泣かれるくらいなら、半殺しまでならがまんできる」

 

 野グソの言葉に記憶を探ったヤタカは口を閉じ、大の男三人は目配せし合って大きく溜息を漏らした。

 そんな三人に後ろ足を蹴り上げて砂をかけ、ゲン太が得意満面で追い越していった。

 和平が立ち止まり、呆れたように息を吐く。

 

「人は幼い頃の記憶に縛られる生き物だっていうけれど、本当だね。赤ん坊の時に猫に襲われた虎の子は、大きくなってもその猫を恐がるらしい。三人に会えてよかったよ。女性にどう接するべきなのか、学ばせてもらえるもの」

 

 すたすたと歩き出した和平の背を目で追いながら、誰からともなく笑い出した。

 

「置いていくよ~!」

 

 イリスが叫んでいる。

 

「は~い」

 

 答えて三人は立ち上がった。

 

「ねぇ、お腹すいた! おやつは?」

 

「は~い」

 

 声を合わせて立ち上がった三人は苦笑を浮かべながら、頷き合って山の中へと散っていった。

 山を知り尽くした三人が、春の山で食べ物を探すなど容易いことだった。

 何かあれば、闇に身を潜めたゴザ売りが必ず現れイリスを守るだろうという安心感からくる行動だった。

 

「イリス姉ちゃん、シカの燻製肉と黒砂糖飴があるんだ。食べる?」

 

 得意満面で布袋を差し出すシュイに、イリスが跳ね上がって喜んだ。

 そんなことなど知らない三人は、夜の森を駆けていた。

 イリスの言葉に逆らえず競い合った幼い日々を思い出しながら、最後にもう一度、くだらない少年の意地を掲げて幼なじみと走り回っている、今という瞬間に笑みを浮かべていた。

 

 

 ゴテの提案で途中から道ともいえない山の中を進んでいくと、街道にでた。

 今まで足を運んだことのない場所であったから、かなり遠くまできたのだろう。

 街道に出ることを躊躇った和平に、シュイが自分の外套を被せてやった。村ごとに違う服装、旅人ごとに個性的な身なりが行き交う街道で、外套を目深くかぶる子供に目を止める者はいない。

 街道沿いの小屋に泊まりながら、道なりに進んで幾つもの村を通り過ぎた。

 道の所々に異種の苗床となった人型の土が盛り上がり、びっしりと草に覆われていた。

 

「わたしね、みんなと離れている間に何度も夢を見たの。小さい頃を空から眺めているような夢」

 

 日を避けるために布を巻いたイリスがいう。

 

「その中で色んな事を思い出した。逆さ廻りでお母さんを亡くしたこと。泉で過ごした毎日。そして異種と異物のこと」

 

「異種と異物の何を思い出したの?」

 

 ヤタカの問いに、イリスは静かに微笑んだ。

 

「異種は結界が解けるたび、本来生きる場所を見失って人里におりていたでしょう? 人を苗床にして種を残し、種族として生き延びて。それが人々の恐れを生み、忌み嫌われた」

 

「あぁ。俺達はそれをいま収めようとしているんだろ?」

 

「うん。異種や異物を、居るべき場所に戻してあげないとね。でもね、人が異種を恨むのは少し筋違い」

 

 ゴテと野グソが首を傾げている。

 

「異種はね、山奥にいるときも人里に降りたときも何一つ変わっていないの。虫や動物と同じように、そこに人がいたから宿るだけ」

 

―――命を終えようとしている個体にね

 

 ヤタカはゲン太が現れたときに異種に宿られ、娘の嫁入りの幻想を見ながら死んでいた男のことを思い出した。

 

「異種はね、もう先が長くない者に宿り、発芽に必要な時期までその個体を生きさせる。最後に衰えたように見えても、異種が宿っていなければもっと酷い状態になっていたはずよ? 異種が宿ることによって、数日、あるいは持病で長く苦しむ日々を普通に近い状態で生きられる日々が増えているともいえるわね。そして場合によっては、心に潜む願いを叶える」

 

 前にも似たようなことをいったことがあったかな? とイリスは笑う。最近記憶が曖昧だと、疲れているのかな、とぺろりと舌をだす。その代わり、夢で見るように昔の事は思い出すのだという。

 

「きっと必要なときまで玉手箱みたいに記憶をしまっておいたのね~。わたしって天才!」

 

 笑いかけたヤタカだったが、玉手箱という言葉に笑みが萎む。

 

――イリス、玉手箱は開けたら止まっていた時が動き出すんだぜ

 

 思い浮かべた玉手箱から立ちのぼる煙に、死の匂いがした。

 一瞬の空想だというのに、煙の向こうでイリスが笑っていた。

 自分の命など空気に溶ける煙と変わらないというように、何にも縛られない笑顔が眩しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




遅くなってすみません……
とほほ


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