鈴木よしお地獄道 (埴輪庭)
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鈴木よしおと呪いの家

なろう日刊ホラー1位です。やりましたよ!


 ◆

 

 S県某所。

 

 ベッドタウンの一角にその一軒家はあった。

 庭付きの一戸建てで、白い外壁がまぶしい全面リフォーム済みの家屋だった。

 

 表札には『中尾』とある。

 

 都心までアクセスが良く、最寄駅まで歩いて10分程度という立地は悪くは無く、一戸建てを建てようとすれば相場では5千万円台後半から8千万円はするだろう。

 

 その家屋は中古だったが、相場の半分を切る値段で販売されていた。

 

 価格破壊といっても過言ではない。

 

 結婚をして数年が経ち、子供の事を考えるとやはりマイホームを…と考えていた中尾洋介は嬉々として購入を決めたが、それが破滅の始まりだった。

 

 ◆

 

「へえ、結構綺麗だね!」

 

 中尾美紀は笑顔で隣に立つ夫に話しかけた。

 夫である洋介も頷き、なにか感慨深そうな様子でマイホームを眺めていた。

 

「曰くつきだって言われてかなり迷ったけどさ、全面リフォーム、そしてお祓いの代金も持ってくれるっていうんだからな」

 

 洋介の言葉に美紀はうんうんと頷いた。

 洋介も美紀も、幽霊なんて欠片も信じていない。

 

 大体、死者が化けて出るのだったら大戦を経験した日本はどうなるのだ。

 そこかしこ幽霊が出ていないとおかしいではないか。

 

 それが洋介の持論であり、美紀も全面的にそれに同意していた。

 

 だからこそ、曰くつき…つまり、事故物件であっても金銭面での優遇を見て購入を決めたのだ。

 とはいえ、体裁のようなものはある。

 事故物件を購入したと後ろ指を差されるのはある程度は仕方ないとはいえ余りいい気はしない。

 

 そこで物件を処分したい不動産屋はあの手この手でサービスをねじ込んできた。

 

 そこまでサービスしてくれるなら、と洋介は物件の購入を決め、美紀も洋介に賛同した。

 

 ・

 ・

 ・

 

 それがこの家の2番目の所有者である中尾家だ。

 中尾洋介、美紀。

 彼等はもうこの世に居ない。

 新居に移って2ヶ月後、洋介は美紀を殺して自分も死んだ。

 

 県警の発表では一家心中だが実際は違う。

 洋介と美紀は眼球を両方くりぬかれ、舌も引き千切られていた。

 一家心中でそんな事があるだろうか?

 

 そればかりか、それ以降にも物件所有者は何人も居たが皆もうこの世には居ない。

 

 その家は県内屈指の呪いの家として今なおS県某所に存在し続けている。

 

 ◆

 

 

【挿絵表示】

 

 顔色を青褪めさせた不動産屋の女性…三枝良子が震える指先で一戸の一軒家を指し示しながら言った。

 

「あそこ、です…」

 

 女性が震えるのも無理はない。

 なぜなら彼女が知る限り、あの家は二桁単位で人を殺している。

 

 一見すれば何の変哲もない一軒家だった。

 だが視る者が視れば、それが断じてただの一軒家ではない事が分かる。

 

 ヒソヒソと。

 屋根が、窓が、家の外壁が、石壁がざわめき、蠢き、“客”をどう取り殺そうか相談しているような…そんな不吉な気配を放射しているではないか。

 

 ――擬態

 

 良子に同行していた男性が眼鏡の奥のはれぼったい瞼を見開き、一軒家を取り巻く不吉な気配を感得する。

 

 ――あの家は息を潜めている。獲物が中に入ってくるのをじっと待っている

 

 中年男性は目つき鋭く一軒家を睨みつけている。

 その外見に似合わぬ異様な迫力がしばし良子の目を釘付けにした。

 

 中年男性の名前は鈴木よしお。

 33歳。

 バツ1独身。

 ビルメンテナンス会社に正社員として勤め、手取りは16万円。

 ボーナスは無い。

 週休2日で、別にブラックという訳では無いが、毎日よしおをいびる上司のせいでよしおは爆発寸前だった。

 

 だがその爆発寸前の怒気が彼の“副業”に非常に役立つ為に、彼は仕事を続けている。

 

 毎日のパワハラで高められた負のエネルギーをスピリチュアルな力へと転換させる事により、ネガティブパワーで除霊を行う祓い師…それが彼の副業であった。

 

 週5でビルメンをし、上司からいびられ、怒りと憎しみのエネルギーをチャージする。

 そして土日のどちらかは副業除霊だ。

 

 除霊にはチャージしたエネルギーと過去のトラウマ想起による負のパワーが役に立つ。

 

 そして残った1日を風俗に行ったり、旨いメシを食べたり、趣味のグランピングを楽しんだり。

 

 これが彼の1週間のサイクルであった。

 

 この日、よしおは馴染みの不動産会社から依頼を受けていた。霊能者界隈というのは結構広く、“その手の組織”というのも探せば案外あるものだ。

 

 しかしよしおは個人の除霊業者として界隈に名を馳せている。

 

 ・

 ・

 ・

 

「三枝さん。これ以上は近寄らない方がいい。見てください…そこの雑草を」

 

 よしおが道端の雑草を指し示した。

 良子が男性の指の先を視線で追うと…

 

「枯れている草と…枯れていない草…?」

 

 家に近い方の雑草が軒並み枯れていたのだ。

 対して、家からの距離が遠くなればなるほど雑草には青みが増している。

 

「ええ。呪われた場所…陰の気に満ちた場所ではこういう事が往々にしてあります。近寄ってはいけません」

 

 よしおの忠告に、良子は何度も頷いた。

 

「後は私に任せてください。今は…うん、13時ですか…では17時までに私が家から出てこなければ死んだ者として処理してください。それでは」

 

 うだつのあがらないよしおから、良子にも分かるほどの精気の様なモノが迸る。

 

 よしおは見た目こそは地味で、顔立ちも典型的な中年男性だと言うのに、良子の目には1秒の100分の1にも満たない刹那の間、この世界の誰よりもかっこよく見えてしまった。

 

 ◆

 

 よしおは玄関のドアノブに手を掛け、そして気付いた。

 覗き穴からの視線…気配に。

 だが構わずドアを開け放つと、玄関から今に通じる廊下…その奥に何かが立っている事に気付く。

 

 ばたん

 

 背後でドアが閉まった。

 念の為にあけようとするも、鍵もしまっていないのにドアが開かない。

 

 ひた、ひた、ひた

 

 廊下を何かが歩いてくる音。

 

 電気はつかない。

 よしおは何かが、呪わしい何かが自身を嘲笑っているのを感じた。

 

 ――嗤っているのか

 

 よしおの表情が歪む。

 恐怖にではない。

 怒りだ。

 

 嘲笑されている事への怒り。

 ニタニタと、社内の先輩が後輩が粘着質な嗤いを投げかけてきたあの時の怒り。

 赫怒がよしおの記憶中枢を刺激する。

 

 気付けば、なにやら不気味な存在がよしおの前に立っていた。人間では無い何か。

 悍ましい何か。

 

 “それ”が口を開く

 

 

【挿絵表示】

 

 お か え え え え り あ な だ ァ

 

 ◆

 

 ――お帰りあなた、だと?

 

 それは言ってはいけない禁句であった。

 世の中には行ってはいけない呪われた場所…例えばこの家…、あるいは言ってはいけない呪われた言葉が存在する。

 

 死霊は言ってはいけない事を言ってしまった。

 

 よしおが拳を握り、霊力を込めた怒りの鉄拳を“それ”にくれてやった。白熱した霊力光が尾を引いて、腹へと吸い込まれる。

 

 よしおは紅い波が押し寄せてくる光景を幻視した。

 それは怒りの波だ。

 烈怒の波濤がよしおの理性を消し去る。

 

「俺に妻はもういなァァァァい!!!貴様ァァア!!!あの男の仲間か!!!俺を嗤いにきたのかァァ!!妻を!!!奪われても奴を憎みきれない!!!!!俺がバカヤロウだと!!そう言ってるんだな!!!!!」

 

 抑えきれぬ激甚爆怒がよしおの全身を震わせた。

 

 ばりん

 ばりん

 ばりん

 

 よしおから放たれた波動が家全体に伝導し、窓という窓を粉砕する。よしお程の霊力は現実の世界へ物理的な干渉を及ぼすことも可能である。

 

 “それ”…55人を呪い殺した死霊は死してなお痛む腹を押さえ、うずくまり、よしおを見上げた。

 

 憤怒で血涙を流す中年男の視線が鋭く死霊を貫き、よしおの手が死霊の喉に伸び、その首を引き千切った。

 

 ◆

 

「ィイイいいいあ゛ァーーーー!!!!あ゛ァァァァ!!!!!」

 

 部屋の中で1人の中年男性が叫んでいる。

 先ほど三枝良子に同行していた中年男性だ。

 彼は先ほどはちょっとかっこよかったのに、今はもう狂ったおっさんと化していた。

 

 目は血走り、広い額からは脂汗が滲み出ている。

 どう言い繕ってもその姿は狂態としか言いようが無かった。

 

 だがその様子はともかくとして、彼が左手で掴んでいるモノはなんだろうか?

 それは人の生首であった。

 女性の生首だ。

 男性は奇声をあげながら生首を振り回し、壁に叩きつけている。

 

 ――部長が

 ――高橋の野郎

 ――なんだ、覇気がないって

 

 男性はブツブツ言いながら、どうみても正常ではない。

 狂しているようにしか見えない。

 

 では彼は狂った殺人犯なのだろうか?

 そうでなくとも、死体を損壊し弄んでいるなど…そういったとんでもない輩なのだろうか?

 

 良く見ればそれは違うと分かるはずだ。

 なぜなら生首の目はギョロギョロと動き回り、首の断面図からは血管のようなものが伸びて男性の腕に巻きつこうとしている。

 死体がこんな挙動をするだろうか?

 

 視る者が視れば分かるはずだ。

 

 女性の生首からは悍ましいまでの妖気が放射されており、その毒気の強さは常人ならばたちまち恐怖で廃人と化すほどである事を。

 

 男性が今いる場所は、この半年で数十人の男女を呪い殺した死霊が巣食う呪いの家である事を。

 

 

 ◆

 

「覇気がない!?覇気ってなんですかァァァ!!!!皆の前で何度も朝の挨拶をやり直させるって何なんですかァァァ!!??マー!!マァァアー!!!」

 

 よしおは生首を振り回して絶叫していた。

 これは彼の勤めるビルメン会社の上司の話だ。

 彼の上司、高橋はよしおのことがきにくわず、なにかといびってくるのである。

 朝なんだか元気がないという理由で、皆の前で挨拶をやり直させる。何度も、何度も。

 そんなパワハラ会社やめてしまえと思うかもしれないが、よしおは敢えてそこで働いている。

 

 それは良質な怒りと憎しみを補充するためだ。

 よしおは自身に宿る力…祓いの力の多寡が感情に左右されると突き止めた。

 

 特に負の感情が効果が大きいと知ったよしおは自ら苦境に赴き、ストレスを蓄積するようにしている。

 たっぷり溜めたストレス、そして後述する彼の過去からくるストレスにより、よしおは人の命を貪る邪悪をミンチにする力を得ているのだ。

 

 呪いの生首は視線を合わせた者を発狂させる邪視を飛ばすが、よしおには通用しない。

 除霊中のよしおは発狂が常であるからだ。

 

 彼は毎回怒りながら暴れ回り、愚痴や不満を垂れつつ悪霊や怨霊、死霊達に八つ当たりをする。

 

 霊体に対しての暴行、暴言がよしおの除霊スタイルだ。死者への敬意、弔意などは欠片もない。

 

 彼の除霊スタイルに同業者は思う所が多分にあるようだが、極めて強力な悪霊の除霊を何件も成功させてきた彼に文句を言えるものは霊能力者界隈では片手で数えるほどしか居ない。

 

 まあ今回はよしおが呪いの家に足を踏み入れた途端、死霊が常人には耐え切れない程の憎悪を飛ばしてきたので暴行に至ったが、通常は怒鳴ったり叫んだりする事で対処する事が多い。

 

 この呪いの家に巣食う死霊に呪い殺されてきた人達の数は40か、あるいは50か…。

 今度は死霊が殺される番が来ただけだ。

 

「あははははは!」

 

 よしおが突然笑い声をあげた。

 前職の事を思い出してしまったのだ。

 よしおは突如として過去のトラウマが蘇って精神が不安定になる事がある。

 

 かつてのよしおはこんな男ではなかった。

 今から5年前、よしおが28歳だった頃…彼は金から金を産む仕事をしていた。

 つまり、証券会社だ。

 

 彼は自分の仕事を誇りに思っていたし、年齢以上の年収は彼の承認欲求をおおいに満たした。

 大学時代の同級生である伊藤礼子と結婚をした。

 

 愛する妻の為に一層奮起した彼は仕事に多くの時間を費やすことになる。

 

 結果として得たのは慰謝料だ。

 よしおの妻はよりにもよってよしおの上司である本田信二と結ばれた。

 

 ◆

 

 礼子と信二の親交は以前よしおが会社の飲み会で酔いつぶれた時、信二がよしおを家に送り届けた日から始まる。

 

 酒に弱い癖に、勧められるままにガブガブ吞んでダウンしたよしおを、2人は苦笑混じりにちょっとした話のダシにして、なんやかんやと2人はLINEを交換したのだ。

 

 だがこの時点では2人にやましい想いはなく、やましい行為も当然無かった。

 礼子の愛情はよしおにあったし、信二もよしおを手が掛かるが可愛い部下だと思っていた。

 

 頼れる上司、愛する妻。

 仕事は充実し、幸せの絶頂といってもいい。

 だが絶頂と言うのは衰退の始まりとも言い換えられる。

 

 程なくしてよしおの幸せの形に罅が入る。

 

 ある日、夫が全く家に帰って来ない事を心配した礼子は、かねてより親交のあった信二に相談をし、鈴木家の崩壊はこの日から始まったのだ…。

 

 ◆

 

 よしおはゲタゲタと笑っている。

 愛を失ったあの日の事がフラッシュバックして来たからだ。

 

 正しく努力すればそれは正しく報われると愚かにも信じ込んでいた過去の自分。

 そんな自身の滑稽さに気付いてしまった今の自分。

 

 よしおはどちらの自分がより不幸なのだろうか、と不毛な比較をして、そんな自分がたまらなくおかしく思えてゲラゲラゲラゲラと笑っていた。

 

 裏切った礼子、信二、そして何よりも愛と信頼が不変のものだと盲信し、それらを磨き上げる事を怠った愚かな自分。それら全てへの憎悪が次々と湧いてくる。

 

 よしおは自身の神経回路を狂怒が真紅のスパークをあげながら焼き焦がしてゆく音と匂いを感じた。正気が焼ける匂いからはどこか上品な甘く心地よい香りがした。

 それは正気を失う事が其れほどまでに甘く魅力的だったのか、あるいは礼子の残り香をいまだ肉体が覚えているのか。

 

 礼子と信二への憎悪や哀切、そしてなによりも自身の憎悪が不可視の刃となり、よしおの正気の糸を断ち切った。

 生来の心霊体質に狂気の波動が乗算され、死霊を打ち据える。

 

「はあ…ふう…」

 

 それまでの狂態は急激に鳴りを潜め、生首姿の死霊をよしおはじっと見つめていた。

 ちなみに死霊は怯えている。

 

 ――目元が、礼子に似ているな

 

 ぎりりりり

 

 薄暗い居間に歯軋りが響き渡った。

 ラップ音ではない。

 よしおの歯軋りだ。

 

「愛はどこですかああああああああああああああああああああ!!??愛は!!!!!!どこですかあああああああああああ!!!!!!!!!!!!???!?!?」

 

 突然よしおは生首に向けて絶叫した。

 彼は頭がおかしいし、精神的にも大分病んでしまっているから、自分が世界で一番不幸だと思ってる。

 

 恐らくは無残な死に方をして死霊と化したであろう彼女よりも、自分の方がずっとずっと不幸で辛くて悲しい人生を歩んできている…と思っているのだ。

 

 これは正しい。

 

 結局、人の幸不幸などというのは数値にして比較できるものではなく、どこまでも主観的なものに過ぎない。

 

 地球の裏側で何十何百何千という欠食児童が餓死する事よりも、ちょっとした風邪を引いてしまう自分のほうが主観的な不幸の度合いが上だ。

 

 勿論死霊の彼女とてむごい死に方をした為に死後精神が変容し、生者へ理不尽な恨みと憎しみをぶつけ取り殺す存在となりはててはいるが、彼女は無計画に恨みをばら撒いているに過ぎない。

 

(※彼女は愛していた夫が実は裏で愛人と繋がっていて、その夫と愛人の2人に殺害され、バラバラにされた挙句に山に埋められたという悲しい過去がある)

 

 そんな事ではよしおには勝てない。

 よしおは計画的に日々のストレスを蓄積し、過去愛を失った日をこまめに思い出して怒りと悲憤、狂気のメンテナンスをしているのだ。

 

 手入れを怠っている刃物とそうでない刃物、どちらの切れ味が良いかは考えるまでもない。

 

「病める時も!!!健やかなる時も!!!!愛し合おうって言いましたよねええええええええ!!!!!」

 

 霊力を帯びた怒声には、怒りの感情以外に胸を裂く程の悲痛が込められているが、件の死霊はよしおと愛を誓い合った事などはない。

 

 しかしよしおの切なる想いは、死霊の精神空間に広がっていた暗雲を白銀の流星群の如く切り裂き、炸裂し、爆裂した。霊力のビッグ・バンである。

 

 その激しい感情の爆発の衝撃で死霊はつかの間の正気を得る。自身に対する恐怖や憎しみではなく、純粋な怒りをぶつけてきたよしおを死霊は穏やかな瞳で見つめた彼女は…

 

 ――ア、リ…ガトウ…

 

 そう言いのこし、光の粒子と化して消滅した。

 除霊は成功したのだ。

 

 ◆

 

 三枝良子は車の中で不安の針に全身を刺し貫かれながら“その時”が来るのを待っていた。

 

 ――15時12分

 

 17時までに戻ってこなかったら、というよしおの言葉が脳裏をリフレインする。

 彼女は今の不動産屋に勤め始めて5年目だが、その間に実10人以上の命が失われている。

 

 ――あの家は、関わる者達すべてを平等に呪い殺す…

 

 よしおの前の祓い屋が言っていたセリフだ。

 本社が雇った凄腕だというその男性は、除霊の翌日、自宅で両の手足と首を全て180度に捻られて死んでいた。

 

 ――16時30分

 ――16時40分

 ――16時50分

 

 もうだめだ、そう良子が思った時、こんこん、と車の窓が叩かれた。

 

 そこに居たのはよしお。

 穏やかな笑顔を浮かべている。

 

 よしおは親指を家に向けた。

 良子がそちらを見てみると…

 

 あれほど感じていた不気味な気配はすっかりきえ、少し古ぼけた一軒家があるのみであった。

 

「僕は徒歩で帰ります。最近は…ほら」

 

 よしおが腹の肉をつまみ、苦笑した。

 

「運動しなければね。報酬はいつもの口座へ振りこむように伝えておいてください。それではこのへんで」

 

 良子が返事をするのを待たず、よしおは軽い足取りで去っていった。

 

 そんなよしおを良子は口を半開きにしたまま見送るのが精一杯だった。

 

 

 

 

 

 




サバサバ冒険者の漫画家さん決まったかもです。


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鈴木よしおとホスト君

 ◆

 

 2022年7月22日、西野 瞳は駅のホームから身を躍らせ、通過しようとする電車に衝突して死亡した。

 遺書も何もない突然の自殺だった。

 下記はここ最近の彼女のSNSの書き込みである。

 

 にしみるひとみる@hi103ooo

 

 2022年2月19日

 少しバイト増やそうかな( ˘⊖˘)

 

 2022年2月22日

 こうきがいいバイト紹介してくれるっていうから話しきいてみたけど(꒪ཀ꒪)うぇー!でも、お店に通えなくなるのは寂しいな。

 

 2022年2月27日

 今のバイトだけだと少しきつい。話だけきいてみよかな

 

 2022年3月6日

 気分悪い

 

 2022月3月7日

 肌荒れ。ストレス。

 

 2022年3月14日

 初めてお店の人呼んじゃった。

 

 2022年3月26日

 中に出された。死にたい

 

 2022年3月27日

 死にたいよ、でももう少しで目標まで溜まる。頑張る。

 

 2022年3月29日

 生誕祭までにぎりぎりでお金作れてよかった!(ꈍ﹃ ꈍ)

 これからお店いく!

 久々に自然にわらえそ(*❛⊰❛)♪♪

 こうきがランカーに入れたら…どうしよう、笑いがとまらんっ

 

 2022年3月30日

 来月も続くんだね。でも頑張るからね。

 

 2022年5月3日

 食欲がない。変な斑点もでてる。コンシーラーで消せばいいのかな

 

 2022年7月1日

 お店にいけなくなっちゃった

 

 2022年7月16日

 よかった、こうきは元気そう

 

 2022年7月22日

 そうなんだね

 

 ◆

 

 西野 瞳は何の変哲もない女子大生だ。

 

 少し垂れ目で、笑うとえくぼの出来る可愛らしい顔立ちをしているが、特筆すべき点はない。

 髪の色は栗色で、いつもポニーテールにしている。

 育ちが良いといっていいのか、良い意味でも悪い意味でも擦れていなかった。

 

 人並みに悩みはあるが、何も深刻なものではなく、バイト先のお局社員とやや関係がよくない事がここ最近の悩みだろうか。

 

 しかし、それを酒田美穂に相談してしまったのが運の尽きであった。

 

 ◆

 

 2022年1月16日

 

「そっかぁ…しんどいよね…あ!そうだ、じゃあさ、気分転換してみない?ホストクラブ行った事ある?え?んーん、全然怖くないよ、昔はそういう事もあったかもしれないけれど、いまは規制?っていうのかな、よくわかんないケド。そういうのが厳しくなったみたいで、むしろお客さんを大事に大事に扱うような店が増えてるんだよー!それにお金も初回は3000円だよ!2時間ね、しかも吞み放題!」

 

 友人の酒田美穂のその言葉に、瞳は心がぐらっと揺らいでしまった。

 

 ――3000円かぁ

 

 かっこいい人がお姫様扱いしてくれて、2時間で3000円というのは…ひょっとして物凄くお得なんじゃないだろうか?

 

 それはひょっとしなくても物凄くお得であるには間違いないのだが、その時の瞳には高いもの、安いものには相応の理由があるのだという事を字面では分かっていても、実感としてはさっぱり理解出来ていなかった。

 

 酒田美穂にした所で、瞳がまさか“あんな事”になるとは思ってもいなかった。

 彼女は友人が少し元気ない事を心配して、少しぱーっとやろうと誘ったに過ぎないのだ。

 

 ホストといえば料金が心配になるが、初回なら話は別だから問題ないだろうと思ったのだ。

 

 ◆

 

 2022年1月20日

 

 高崎 弘毅はT都の某所で一人暮らしをしているホストである。

 

 務めている店は都内でもそれなりに有名店で、弘毅はそこの新入りとして去年の10月頃入店した。

 

 顔立ちは整っている。

 身長も180センチ近くあり、体つきもしなやかな筋肉がついていて均整が取れていた。

 髪の色は赤みを帯びた茶色で、耳にはピアスをつけており、その風貌からしていかにもチャラい男という印象を受ける。

 だが彼はこう見えてもいいところのボンボンだった。

 

 高崎家というのはこういっては何だが所謂成金一家であった。父親は一代にして会社を急成長させたやり手の社長だ。

 

 母親は居ない。

 弘毅は父親がどこぞの顔だけは整っている水商売の女に充分な金を払って産ませたのだが、金で買われた事がやはり弘毅への愛情の欠損に繋がったのであろう、やがて弘毅を虐待しはじめ、それを知った父親から離縁され追い出された。

 

 弘毅は歪んだ。

 当たり前である。

 母親から虐待されて、まっすぐ正常に育つわけがない。

 

 そんな弘毅を父親は不良品と見做し、結果として親としての愛情を注ぐ事を放棄した。

 

 このような家庭に育った弘毅は父の背中を追うようになる。

 なぜなら父親と同じような人間になれば愛情を注いでもらえると思ったからだ

 

 父親のように一人前の、強い、冷酷な男になるのだと。

 成り上がるのだ、と。

 その為には女に多数の男の中から選ばれるような存在にならなければいけない、それが正しいかそうでないかはともかく、弘毅はそう考えた。

 

 そこで選んだ職がホストであった。

 そしてある時出会った女が西野 瞳であった。

 

 ◆

 

「瞳さんっていうんだ?女優みたいな名前だね。でも名前だけじゃないよなぁ、品があるもん。俺なんかでも話してて分かるって相当だよ」

 

「…なんだか今日は疲れてるみたいだね、話を聞くのが俺の仕事…といいたいけど、仕事とは関係なしに何か力になれないかな。力になれなくても愚痴るだけでも大分違うとおもうよ」

 

「ああ。この傷?昔、ちょっとね。母親からつけられたんだ。わ、そんな顔しないでよ。こういう仕事をしてる奴なんて1つや2つ、そういう過去があったりするもんだよ。俺ももう慣れた…けど、たまに辛くなる事もあるんだ。…え?話を聞いてくれる?嬉しいな、お礼に帰りに何かご馳走させてよ、いいからいいから!普段お店にきてくれてるんだからさ」

 

 弘毅は楽しかった。

 自分のうわっつらの言葉で感情をふらふらと揺らし、急速に好意を募らせていく馬鹿な女の反応を見ているのが。

 

 それと同時に大いに自尊心を満たす事も出来た。

 弘毅は両親から“要らないモノ”扱いをされてきた。

 ゆえに、自身を必要としている瞳の反応は彼にとって心地よいものだった。

 

 弘毅は瞳と急速に関係を深め、ものの2ヶ月やそこらで瞳の心を完全に掌握してしまった。

 

 瞳は弘毅の言うがままにボトルを入れるようになり、使う金の額が跳ね上がっていく。

 貯金を使い込み、消費者金融にも手を出し…

 最終的に体を売るようになるまではさほど時間が掛からなかった。

 

 それでも瞳は弘毅に尽くしてきたのだ。

 なぜなら弘毅が言ったからだ。

 ランカーになったら店をやめる、と。

 そしてカタギの仕事をして、瞳の両親に挨拶にしにいきたいと。

 

 瞳は文字通り、全身全霊でそれに応えた。

 体を売り、心を切り売りし、方々から借金をした。

 花の命は短いという。

 しかし瞳は花より遥かに早い速度で消耗していった。

 骨ばって肌の色艶を失った女でも、若ければ抱きたいという男は居る。

 

 しかし女としての“色”を失った瞳を、弘毅は切り捨てた。それでも瞳は店に通い詰め、やがて出禁となった。

 

 ◆

 

 2022年7月1日

 

「8位になれたよ、ありがとう。美紀」

 

 営業終了後、瞳がいつものようにせめて遠くから見ようと待っていたとき、弘毅が瞳ではない女性に甘い言葉を囁いている所を瞳は聞いてしまった。

 

 それはホスト遊びをする女性ならある意味で割り切らなくてはいけないことだったが、瞳には割り切る事ができなかった。

 

 瞳は仲睦まじく腕を組んでホテル街へ去っていく二人の背を黙って見つめていた。

 

 その頬には一筋の透明な液体がつたっていた。

 

 ◆

 

 2022年7月30日

 

 廃ビルの一室。

 度重なる心霊現象に悩まされた高崎 弘毅は実家のツテを利用して、1人の凄腕霊能者を雇った。

 というのも、身辺に異常が発生したからだ。

 その異常というのは、いわゆる心霊現象である。

 

 メイクの為に鏡をみていたら、肩口に痩せこけた女が…瞳が不気味な笑みを浮かべながらこちらを見ていたり。

 

 電車待ちをしていたら、線路のほうに足首を引っ張られたり。

 

 それらの現象は一体どういう意図で起こされているのかをじっくり考えれば、恐怖よりもどちらかといえば憐れみが浮かぶのだが、当然弘毅にはその様な余裕はなかった。

 

 弘毅が雇った霊能者は界隈ではかなりの凄腕で、その男が言うには出来るだけ陰気がたまりやすく、人目が少ない場所がいい…というので、除霊の場所はとある夜、とある廃ビルの一室で行われる事になった。

 

 ちなみに他の霊能者からは軒並み断わられた。

 弘毅に向けて、“そんなものを連れてくるな”と怒鳴りつけた者すらも居た。

 

 依頼を受けてくれたのが件の中年男性だった、という話である。

 

 問題はその中年男性が、廃ビルの一室に入るなり弘毅を拘束し、何か呟いたかと思うと、これまで弘毅をおびえさせてきた“奴”を呼び出した事だ。

 

 ◆

 

 

「な、なんで俺を…」

 

 震えながら口を開く弘毅の前に、スーツ姿の1人の中年男性が立っている。中年男性は静かに見下ろしながら答えた。

 

「大丈夫、大丈夫です。彼女は弘毅君を愛しているだけなんです。愛しているからずっと一緒に居たいんです。死が2人を別つまで、どころの話じゃない。例え死んでも彼女は弘毅君と居たいんだ。確かに僕は弘毅君から除霊を頼まれました。でも、ねえ。僕には愛を妨げる事は出来ませんよ。僕はここにきた途端に彼女が近くにいることを知った。感じた。同時に、彼女に何が起きたのかも。弘毅君は彼女に酷い事をした。その…その…その、愛を…愛を…ッ!」

 

 殺意に濁った中年男性の眼が弘毅を見据える。

 中年男性の手がぶるぶると震えている。

 怒りを押さえつけているのだ。

 突如男性を襲う発狂の波!

 ともすれば、中年男性は弘毅を挽き肉にしたくて仕方が無かった。

 

 だが中年男性が我慢できずに弘毅の首を千切ってしまおうと手を伸ばすと、その腕に黒い靄に覆われた手がそっと置かれた。それはまるでやめてくれと制止しているようで。

 

「すみません、瞳さん。もう落ち着きました。…そう、弘毅君は彼女の愛情を利用した…利用するだけ利用して、そして最後は捨てたんです。瞳さんも弘毅君を妄信してしまったという負い目はあります。親子でも夫婦でも恋人同士でも親友同士でも、人は条件さえ揃えばどれほど想いあっていようが相手を裏切ってしまうものだと言うのに。愚かです。しかし愚か者にしか愛は貫けないのでしょう。…僕は見たいんです。愛の逝く先を。瞳さんは僕に愛の1つの形を見せてくれると約束してくれました。だから僕は弘毅君との依頼を破棄するのです」

 

 よしおが軽く横を向く。

 そこには暗い影が佇んでいた。

 

 ――コウキ、コウキ

 

 ゴボゴボという音、そして悲しみを多分に含んだ囁きがその場に響き渡る。

 

 おいふざけるな、お前は死んだんじゃねえのかよ。お前は勝手に店に通いつめて、それで勝手に俺に惚れて。それで勝手に掛けで吞んで!払えないっていうんでソープを紹介してやったのは俺だぞ、俺のお陰で借金を返せるようになったんだろうが。ソープで働かなくてもいいって言ったよな。なのにお前が勝手に勘違いしたんじゃないのかよ。

 

 そんな想いが弘毅の脳裏を過ぎる。

 

「や、やめろ!!!そいつを、俺に近づけるなァーーッ!!!お、お、おっさん!テメェ!俺にこんな事をしてタダで済むと思ってるのかよ!!」

 

 弘毅が恐怖で喚き散す。

 その時、視線の先に2人の男女が立っている事に気付いた。

 

「おい!あんたら!!誰でもいいけどこいつらを止めろ!!殺される!!!」

 

 弘毅は中年男性を指差して叫んだ。

 

 男性は鋭い眉毛と通った鼻筋が印象的な顔つきをしており、瞳は深い黒色を帯び、意思が強そうな眼差しをしていた。スーツの上からでも筋肉質な体型だと分かる。

 いかにも只者ではない、そんな雰囲気だ。

 

 其れも当然だろう。

 この男性の名前は宍戸琢磨。

 日本の霊能力者界隈でも大組織に分類される一大退魔組織、『巫祓千手』の構成員である。

 組織のベテランであり、新入りの教育も担っている。

 

『巫祓千手』は、日本において古くから伝わる巫術を基に退魔活動を行っている。主に怨霊や悪霊に憑かれた人々を救済することを目的としており、また、それらの霊的存在が人々に害を及ぼすのを防ぐため、活発に除霊活動を行っている。活動は全国規模に渡り、各地に支部を持っている。支部は地域の特性に応じて、独自の退魔方法を編み出しており、時には協力して大規模な除霊作戦を行うこともある。

 

 女性は繊細な顔立ちと薄紅の唇が特徴的で、髪は黒髪でロングヘアーをなびかせている。顔周りの雰囲気は上品で、優雅さを感じさせるが、瞳は鋭い黒色で、何かを探るような視線を放っている。

 手足は華奢で、整ったスタイルと締まったウエストから、柔らかな曲線美が伺える。

 

 彼女の名は烏丸明日香。

 琢磨と同様に『巫祓千手』の構成員で、組織の新入りだ。

 ベテランの琢磨と最近バディを組んでおり、成長いちじるしい。

 

 そんな2人は無表情で弘毅の切羽詰った様子を見つめていた。だがその無表情の裏で2人の思考は目まぐるしく回転していた。2人はたまたま通りかかった廃ビルから、怖気をもよおす妖気…陰気が漂っている事に気付いてこの場にやってきたのだ。

 

『巫祓千手』という組織は市井の霊的守護も組織の理念として掲げている。無報酬というわけではなく、こういった場合では国から報酬がだされるのだ。

 

 やがて男の方が中年男性に向けて声をかけた。

 だがその声色は諦念に満ちており、多分に投げやりなモノが混じっている。

 

「なあ、貴方は鈴木だろう?鈴木よしお。噂は聞いているぜ。落ち着いてくれ。貴方が怒るのも分かる。俺達も“そういう仕事”なんだ。『巫祓千手』は聞いたことあるんじゃないのか?だからそこの悪霊がそいつを呪い殺そうとする理由だってなんと無く分かるよ。感じるんだ…。そいつは殺されて当然な事をしたんだろうな。でも仕事は仕事なんだ。街の者達に害を齎す悪霊を祓うのが俺たちの仕事さ。これを邪魔をするなら俺達も“対処”をしなければいけなくなる」

 

 そう言って男は腰に差した刀に手をかける。

 それを見ていた女の方は無言のまま懐から拳銃を取り出した。どちらも本物であり、銃刀法違反などという法律は存在しない闇の世界の住人なのだ。

 

 鈴木と呼ばれた男性…鈴木よしおは眼前の男女の携える得物を見ても些かも動揺していなかった。

 

「社会的制裁ってあるじゃないですか。社会的制裁を受けたから許されるべきって風潮はさすがにまだありませんが、それが1つの区切りとなっている事は事実です」

 

 突然奇矯な事を言い出したよしおに琢磨は警戒の度合いをあげる。傍らを見る限り、明日香は怪訝そうな表情は浮かべてるものの警戒まではしていない。

 

(馬鹿が!この男を今の状態だけで判断してやがるな。新入りだから仕方ないとはいえ、俺達が今生きるか死ぬかの瀬戸際だと感じないようなら、この女も遅かれ早かれ悪霊に殺されて死ぬだろうな)

 

 ◆

 

 バキバキと、何か硬いモノが砕ける男が聞こえる。

 それはよしおの犬歯が砕ける音であった。

 よしおは先ほどから体を震わせていたが、その震えは語りを進めていく内に激しくなっていく。

 

「…礼子と信二も、その社会的制裁をうけました。年収二千万を超えていたエリート証券マンがいまや四百万を超えるかどうかといったところです。しかしざまぁみろとも思えないのです。僕は、あの2人の首を引き千切りたいほどに憎んでいる」

 

 口調は冷静だ。

 しかしよしおの口の端からは血が滴っていた。

 

「しかし、同時に“あの頃”へ戻りたいと思う気持ちもあるんです。憎しみと思慕が同居しています。全身全霊で憎めたら、或いは何もかも許して仕舞えたらどれほど楽でしょう。中途半端なんです、僕という人間は。思えば礼子は、僕のそんな部分を厭ったのかもしれない。男らしくない、とね」

 

 よしおの眼輪筋…瞼の周辺の筋肉がピクピクと痙攣していた。

 

「ねえ、ちょっと。貴方さっきから何を話してい…」

 

 明日香がよしおの話を遮った。

 琢磨はあわてて明日香を制止しようとしたが、既に遅かった。

 

「俺の話を聞けえええェェェエエエエエッ!!!!」

 

 天ぷら油火災というものがある。

 火の入った天ぷら油に水を注ぐと高温となった油が水と接し、水が気体へと変化し、油を弾き飛ばすのだ。

 弾き飛ばされた油は炎上しながら爆発的に吹き出す。

 決して交じり合わない水と油に熱を加えた結果が水蒸気爆発という悲劇を生み出す。

 

 よしおの精神世界でもまさにそれと同じ事が起こっていた。

 自身を裏切った二人への憎しみと、捨てきれない思慕が無理矢理に混ぜ合わされ、そこに感情の昂ぶりという火を加える事で大爆発を起こす。

 

「さっきから何を話してるって言ったんですか。僕はずっと話してきたのに。話したいと…このままでは良くない事になる。そう思って話をしようと言ってきた。でも礼子は“大丈夫、少し疲れてるだけよ”と。そういった。気付いた時は遅かった。全部遅かった。俺は僕は俺は俺は馬鹿だった…。…必要な事は!!!」

 

 よしおの感情に灯った炎が激しく燃え盛る赤い灼炎から、静かに立ち昇る蒼炎に温度を変じた。

 これは比喩ではない。

 現実に室温がどんどん上がっていっている。

 

 よしおの霊力が部屋中に拡散され、それが彼の感情に引きずられるようにして熱を帯びていっている。

 

 室温は既に30度を超え、32度、34度…38度、40度と上昇を続けていた。

 

 明日香のちょっとした一言が引き金となって、過去のトラウマが想起されてしまったのだ。

 

 夫婦の関係に危機感を感じたから会話の席を持とうとしたのに、それが全く聞き入れられない…明らかに礼子が何かに悩んでいる事は分かっていたのに、“本当に何かしんどいことがあるならあちらから相談してくれるだろう”などと考えた自身への怒りが、無差別の霊的熱殺兵器としてその場の全員を焼き殺そうとしている。

 

 よしおは既に過去と現実の区別がついていない。

 霊的干渉が強い空間内では人は己の負の面が表層に浮かびやすくなるのだが、これがよしおには覿面に作用してしまうのだ。

 

 彼が除霊の際にちょっとした事で発狂してしまうのは、これが大きな原因だった。

 

 明日香が恐慌をきたし、よしおに銃撃を加える。

 彼女にはよしおが同じ人間だとはとても思えなかったのだ。

 琢磨から以前に業界の厄物、鈴木よしおについては説明されてはいたが、話で聞くのと実際に接するのとでは余りにも大きすぎる違いだった。

 

(悪霊退散!!)

 

 明日香は銃使いで銃弾に祝福し、退魔の力を持たせる事が出来る。ゆえに悪霊の類であっても銃は通用する。

 ちなみに当たり前の話だが、悪霊でもなんでもない人に撃ったなら、銃弾は肉体を損傷を与えてしまうだろう。

 その辺は通常の銃と同じだ。

 

 だが…。

 よしおの肉体を引き裂こうとした銃弾はしかし、宙空で消え去ってしまった。

 

 空中で溶解したのだ。

 その時琢磨と明日香は見た。

 

 よしおが無秩序に振りまいていた狂気が、指向性を帯びた敵意に変わり、見る間に害意へと変じていくのを。

 

 よしおの膨大な霊力が周辺へ拡散し、それが彼の精神世界を焼く猛火の温度を可能な限り伝導したとしたら、半径800メートル以内の大気は90度超の高熱に熱されるだろう。

 

 ◆

 

「ひ、必要な事とは何だ!!教えてくれ!!」

 

 琢磨が叫んだ。

 途端に室温の上昇が停止する。

 狂気も敵意も害意も消失した。

 よしおのような精神不安定な者は突如として暴れたり、突如として落ち着いたりする。

 

 丸い、漆黒のビー玉のような瞳でよしおが琢磨を見て、やがて口を開いた。

 

「…必要な事は…寄り添う事だったんです。話の席を持とう…そういうしゃちほこばった事ではなく、もっと傍にいる時間を増やすべきだった…。会話とは、何も言葉で交わすもののみを意味する訳じゃないんです。心と心で、体と体で交わす会話もある。僕はそれに気付かなかったのです…」

 

 だから、とよしおは続けた。

 その視線は瞳の怨霊と弘毅に向けられていた。

 

「僕は彼女を、瞳さんを尊敬しているんです。僕より若いのに、言葉無き愛に気付けた彼女の事を」

 

 琢磨は“俺達を敵に回す事になるぞ”と言おうとしたが、その言葉は喉から出てこなかった。

 なぜならそんな事を言ったとしても無駄である事は明白だったし、琢磨自身としても彼の振る舞いには思う所があったからだ。優れた霊能者は霊的存在と感応し、その身に起きた事を察知したりする事も出来る。

 

 感得した情景によれば悪霊…瞳は随分な目にあってきたようだ、と琢磨はうんざりする気持ちを隠しきれずによしおに聞いた。

 

「彼女は、彼以外には興味がないというんだな?」

 

 琢磨の問いかけによしおは頷いた。

 よしおの反応を吟味し、琢磨は再び口を開いた。

 

「彼女がもし彼以外に手を掛けた場合には…」

 

 ――許せ゛な゛ァ゛ァ゛ァ゛イ゛!!!

 

 瞳の怨霊、弘毅、琢磨、明日香の全員が肩をびくりとさせた。よしおが絶叫したのだ。咆哮にはよしおの霊力が多分に込められおり、耳にした者達は皆、胸をかきむしりたいほどの悲しみと怒りの混合感情に苛まされた。

 弘毅などは目をぐりんとひっくり返し、爪を噛みながら涙を流していた。発狂寸前だ。

 

「そんなのは、そんなのは許せない…愛がない、そんなのは…そんなのは愛じゃないよ…なんでそんな事が思える?口に出せる…?」

 

 よしおはさめざめと泣いていた。

 よしおは期待していたのだ、瞳の決断に。

 

 襤褸切れの雑巾の様な扱いをされてなお弘毅への愛を貫き通すにせよ、復讐の念に駆られて弘毅へ罰を与えるにせよ、その行動は純粋な想いからなる尊い何かの結晶である。

 よしおはそれが見たいし、触れたいのだ。

 そうする事で、常に胸を焼くあの日の残り火が消えてくれるかもしれない。

 

 だというのに、琢磨の発言はその純粋な何かに下痢便をぶちまけるが如きものであった。

 それはよしおを激怒させはしなかったが、かわりに深い悲しみを与えた。

 

 琢磨はこれまで様々な“現場”を経験してきたが、よしおの傍にいるだけで頭がおかしくなってしまいそうだった。

 明日香の様子を窺うと呼吸が荒い。

 過呼吸寸前だった。

 

 潮時だな、と琢磨は思う。

 

「……彼は、俺達が駆けつけた時には既に怨霊にとり殺されていた。件の怨霊は彼を殺す事で満足し、去っていった。どこへ行ったのか、俺達にはわからない。或いは、彼女は彼を殺害する事で満足し、成仏してしまったのかもしれない…そうだな、烏丸」

 

 琢磨が言うと、明日香は頷く。

 

「は、はい…そうです…それでいいです、もう…もうここから出ましょう…」

 

 随分と憔悴しているようだ、と琢磨は明日香を気遣いながらその場から去って行った。

 

(クソ!今日はもうあがるか。ケチがついた。アレは厄物だ)

 

 琢磨はよしおを嫌っている。

 よしおは同業者から見てもいささかタチが悪い。

 

 ◆

 

「さぁ、邪魔者は去りました。瞳さん、弘毅くん。見せてください。愛が何かを。僕に教えてください」

 

 よしおの言葉に瞳はにっこりと微笑んだ。その笑みを目にしただけで常人なら正気を失い、廃人と化すほどの邪悪な微笑みだ。

 

 見る間ににょろにょろと瞳の首と手足が伸び、口から泡を吹き失神している弘毅に巻きついていく。

 

 ――コウキ、コウキ

 

 ――愛してるよ

 

 ――ずっと愛してる、いつまでも、いつまでも

 

 よしおは瞳がコウキの何かを吸い取っていく所をじっと見つめていた。それは命か、寿命か、精気か。

 

(存在だ)

 

 よしおはそう考えた。

 そう、瞳はコウキから何もかもを吸い取っている。

 

 ――コウキ、ずっと、一緒に

 

 ◆

 

 翌朝。

 

 目の前には瞳の姿も弘毅の姿もない。

 ただ、茶色く変色した干乾びた猿の赤ん坊のようなモノが落ちていた。

 

 よしおはそれを革靴で踏みにじり、粉々にしていきながら独りごちた。

 

「…人は人である限り、世間で言われているような愛の在り方を実践なんて出来ません。愛とは無償の奉仕?無理な話です、どれ程に愛していようと所詮は他人でしかないのだから。でも他人で無くなれば?つまり、愛している相手が自身そのものとなってしまえば?それは愛の1つの完成形と言っていいのではないでしょうか…」

 

 よしおは軽く手を合わせ、廃ビルを去っていった。

 報酬はない。

 なぜなら依頼主が居なくなったからだ。

 

 しかしよしおは金よりも遥かに尊いモノを得た…のかもしれない。

 

 



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鈴木よしおと幽霊ビル

 ◆◆◆

 

 縁起が悪い場所…建物、そう言うモノはままある。

 その建物に限って事件、事故が立て続けに起こったり。

 殆どそれは偶然でしかないのだが、塵も積もれば山となるという言葉もある。

 

 偶然にも良くない事が続いてしまって、そして周囲の人々が“あの辺は縁起が悪いよね”だとか“あそこには近寄らないほうがいい”だとか“あそこは呪われている”だとか、そういった無責任な放言を積み重ねていく事で一体何が起きるのか。

 

 大抵は何も起こらない。

 余程運が悪くなければ、だが。

 

 では余程運が悪ければ?

 答えは簡単だ。

 

 屍体の山が出来るのだ。

 

 ◆

 

 ある朝、出勤したよしおは事務所で今日一日の流れを確認していた。

 

 副業の除霊では狂気のままに振舞うよしおではあるが、平日は普通の会社員として一見して世間に適合しているように見えない事もない。

 

 というより、よしおが狂態を見せてしまうのは、霊的異常空間に身を置く事により普段は隠されている心の闇が暴かれてしまうからだ。日常生活でのよしおは何の変哲もない三十路おじさんである。

 

 ◆

 

 ちなみによしおは最近、ビルメンテナンスの業務から清掃へと配置変えされていた。これは上司の高橋の嫌がらせの1つで、しかしそのお陰でよしおはイビりから解放されていた。高橋はメンテナンスの部署の人間だからだ。

 

 実の所はもっと上位の者の思惑があっての事だが、少なくともよしおは高橋のいびりの1つだと、そう考えている。

 

 ともあれ給料は1万円ほど下がり、ただでさえ少ない給料が更に少なくなった。

 

 とはいえ、よしおには余り関係がない。いっそ会社を辞めてしまっても問題ないくらいによしおは“副業”で稼いでいるのだ。

 

 それに、清掃でまわる現場にはいくつか特殊なものがあり、そこの作業に従事する事で“特別手当”を受取る事が出来た。ゆえにトータルで見た場合は元々安い手取りが更に減った所でどうということはないのだ。

 

 ちなみに当のよしおはこれを余り良くない事だと捉えていた。手取りが安くなった事ではない。

 上司からの理不尽なイビリが無くなった事だ。

 

 と言うのも、常の彼は自身の狂気・怒りといった感情を俯瞰的に観察しており、この負の想いこそが“副業”に大きく役立つ事を理解していたからだ。

 

 使えるモノは何でも使い、自身が置かれている状況に機敏に対応するという思考は元証券マンらしいといえるだろう。

 

 とはいえ、だからといって退職というのもよしおには選択しづらかった。副業中は狂気のデストロイヤーの如き振る舞いを見せるよしおといえども、副業外では案外にしがらみを気にする普通のおじさんなのだ。

 

 なお、なぜそもそもビルメン・清掃の会社に勤めているのかといえば、これは数奇な縁によるものだった。

 

 ◆

 

 時は少し遡る。

 

 礼子と別れて意気消沈・自暴自棄となり仕事では失敗の連続、ついには依願退職を勧められ、無職おじさんとなってしまった彼は自殺をしようと、とある雑居ビルの屋上に不法侵入した。

 

 月が綺麗な晩だった。

 

 そして雑居ビルの屋上で、よしおは人ならぬ存在…悪霊と対峙する事になった。

 彼の眦は吊り上がり、大気はよしおの怒気で満ちて震えている。そして悪霊もまた震えていた。

 

 ・

 ・

 ・

 

 固い意志を以って自死するのと、精神的に追い込まれて自死するのとではカレーと大便ほどに違う。

 だのに悪霊が自身の精神に干渉し、よしおの意思を無視して自死させようとした事はよしおの逆鱗に触れる行為であった。

 

 ――望む様に生きられなかった不器用な馬鹿は、望むように死ぬ事も許さないということか?苦しんで生きたなら、苦しんで死ねということか?

 

 そう考えながら怒りのボルテージを高めたよしおは、悪霊から垂れ流されている害意に触れて、“そうではない”と気付く。

 

 執拗に自己アピールしてくる悪霊の本心に気付いたのだ。悪霊はよしおに死んでほしくないのだ。

 

 これはよしおの大きな勘違いである。

 悪霊はよしおに死んでほしくないわけではない。

 

 むしろ精神に干渉し、恐怖させ、正気を失わせ、積極的に自殺させようとしている。その精神への干渉をよしおは“自殺を妨害されている”と感じているだけであった。

 

 

 

 人ならぬ存在の情に触れた…と勘違いしたよしおは、悪霊の本心をより深く知るためにその胸に腕をめり込ませた。

 

 強力な霊力が込められた対霊体貫手が悪霊の霊的中枢を取り返しがつかない程に破壊し、恨みつらみが込められた世にも悍ましい断末魔の絶叫がその場に響きわたる。

 

「やっぱり…」

 

 よしおの声が悪霊の断末魔に重なる。

 彼はなぜ悪霊が“そうなってしまったのか”を感得した。

 

 悪霊は生前、社会人に成り立ての青年であった。

 青年には恋人が居た。

 青年は都内に住んでおり、恋人は福岡だ。

 福岡県に住む恋人に逢う為に、青年は毎月福岡に通っていた。

 

 青年は恋人を愛しており、いずれ結婚をするものだと信じていた。恋人もまた青年の心に寄り添い……しかし、物理的な距離と言うものは時に心理的な距離以上の障害となる場合がある。

 

 ましてや若い時分の遠距離恋愛の末路などというのは…。

 多くの悲しき先例に倣い、2人も当然の様に破局した…事はない。なんと、2人は悲しき先例を乗り越え、同棲という1つのチェックポイントへ到達する事ができた。

 

 青年が恋人との将来を真剣に考えた結果、早い段階で恋人を都内に呼んだほうがいいと発奮した結果だ。

 青年とその恋人は1つ屋根の下に住み、そして愛を育み…普通に破局してしまった。

 遠距離という壁は恋の障害である事には間違いはないのだが、同時に火種でもあったのだ。

 

 人間関係には適切な距離感というものがあり、近すぎても遠すぎてもいけない。

 青年の恋人は、青年と一緒に住んでみて気付いてしまったのだ。

 

 “あ、なんか違うな”

 

 と。仕方のない話だが、むごい話でもある。

 だが青年にとって最悪だったのは、その破局の仕方であった。

 

 青年の恋人は青年との心理的な距離を儚み、インターネットを通じて知り合った若い社会人の男性と深い関係になってしまったのだ。

 その社会人の男性は青年と同じく都内に住んでおり、恋人は青年から受取ったチープなリングを置いて出ていってしまった。

 

 若さゆえの勢いとはいえ、己の命そのものとも言える恋人の愛を失った青年には、もはや生きる気力はなかった。

 青年はそのリングをニッパーペンチで細切れに切刻み、そして金属片を飲み込んで雑居ビルから飛び降りた。

 絶望した人間にしばしば見られる、理不尽かつ無差別な憎悪を抱えたままに。

 

 たかが恋愛でここまでする青年の心の重さ、青年の恋人はそのあたりに嫌気がさしてしまったのかもしれない。

 

 爾来、青年が自殺した雑居ビルの屋上には青年の悪霊が現れるようになる。

 そして面白半分で心霊スポット巡りをしに来た者達を呪い殺してきたのだ。

 

 そんな青年の悪霊の不幸は、理不尽な自身よりもさらに理不尽なよしおに出遭ってしまった事であろう。

 

「愛を失い、悲しんでいたんですね。分かります…分かる…分かるよ、分かるよ…違うよな、1人とさァ!!独りはさァ!!!違うよな!!字面は似ている…でも違う。それを理解出来た時にはもう遅いんだ…そして僕も、俺もそうなんだ…。愛する人と信頼していた上司を…うっすらと、年上の親友とすら思っていた人を同時になくしてしまった。彼等が憎いけれど、やはり寂しいんだ…。お互い似た者同士、という事か…。一緒に行こう。君の苦しみは俺が抱えていこう。せめて、俺の中で一時でも安らかに眠るといい…」

 

 よしおはそんな事を言いながら、大口を開けて悪霊の頭に齧りついて貪ってしまった。

 

 身勝手な絶望に衝き動かされ、何人もの命を奪ってきた悪霊はよしおに喰い殺され、その霊的エネルギーの残滓が彼の肉体に吸収された時、よしおは己の精神世界でジクジクと広がる粘着質な黒い炎のようなモノの火勢が僅かに緩まり、心が少しだけ楽になったような気がした。

 

 これは要するに、悪意の塊のような悪霊の霊的エネルギーがよしおの精神に侵食したところ、その精神が悪意の霊的エネルギーより遥かにドス黒く異常な状態であった為に、負の情念の濃度が薄まり結果としてよしおの狂気的精神がほんの僅かだが寛解に近付いたようなものである。

 

 ともあれ、彼が心霊界隈に本格的に足を踏み入れたのはそれがきっかけであった。

 

 ◆

 

 そういった経緯もありもはや自殺などする気分でもない…ならばどうするかと選んだのが居酒屋での暴飲である。

 

 そして当然の如く飲んだくれて潰れてしまったとき、たまたま隣の席にいた親父…伊藤銀太が会社の社長で、よしおの話を聞いて彼に同情し、給料は安いが仕事を用意してやれる、と親切心を働かせたのだ。

 

「そうかい、兄さんも若いのに大変だねえ」

 

「まあなあ、実は俺もよう、かかあとは一度離婚したんだ。いや、不倫とかそういう事が理由じゃねえぞ。なんていうのかなぁ、かかあが言うんだよ。“私と一緒にいたらアンタが不幸になる”ってよ」

 

「意味わからねえだろ?俺も納得なんかとてもできねえ。でもかかあは強情でよう。まあそこから色々あってな、再婚したんだ。あとから問いただしたらよ、“私は昔から悪いモノを呼び寄せるんだ”ってよ。なんていったかな、霊媒体質?だそうでな」

 

「俺はてんで信じちゃいなかったけどよ、かかあと一緒に暮らしている時、確かに色々妙な事があったんだよ…例えば……」

 

「え?兄さんもそうだって?ちょっと吞みすぎたんじゃないのかい?ほどほどにしなよ…次の日仕事だって…ああ、そうか、兄さんは…あれか、うーん…そうだな、なあ、兄さんは仕事がないんだろ?どうだい、俺の会社にこないか?これも縁だからなあ。まあ腰掛けくらいでいいんだ、兄さんが落ち着くまではな」

 

 これを一種のコネ入社と捉えた彼の上司である高橋は、よしおを執拗にいびるようになるのだが、それはまた別の話だった。

 

 ◆

 

 ところで彼の勤める会社、株式会社アローもそうだが、ビル設備の保守や点検のみならず、ハウスクリーニングや店舗の清掃なども含む清掃なども手がけている企業というのはこの界隈では非常に多い。

 

 ビルメンよしおならぬ清掃員よしおの業務は、アルバイト数名を引き連れて会社が契約しているいくつかの現場を清掃してまわる事。移動には会社所有のハイエースが使用され、清掃に必要な道具などは車に詰め込まれている。

 

 アルバイトは大抵2名~3名といった所で、大きい現場なら複数の班が向かうといった調子だ。

 

 ◆

 

「お早う…御座います」

「うす」

 

 よしおが事務所でバイト達を待っていると、ドアが開いて2人の男女が入室してきた。

 

 女性の方は高野真衣(タカノ マイ)。

 20歳のフリーターで実家は群馬なのだが、色々あって東京に出てきた。やや引っ込み思案な性格で、必要な事以外は話さない。黒髪のボブヘアーで常に周囲を窺うような目をしている。

 

 男性の方は灰田晃(ハイダ アキラ)。

 23歳のフリーターで、バンドマンだ。真っ赤な髪は少し伸び気味で、無造作に束ねられている。長身だが細身の体は華奢にも思えるが、これでいて冷静な顔でポリッシャーと呼ばれる重い清掃器具を車から上げ下げしたりする。

 色気すら感じられる切れ長の目も特徴的で、一見すると近寄りがたい。しかしよしおも真衣も晃が案外気安い男だという事は既に分かっている事だった。

 

 

「おはよう」

 

 よしおが挨拶に短く答えると、晃がよしおの傍に来て手元を覗き込んで言った。

 

「おー、今日は例のコースっすね」

 

 晃が言うとよしおは頷いた。

 

「うん。白河邸のハウスクリーニング、三津険ビル非常階段の洗いとエントランスの定期清掃。いつも通り、お手当ても出るから。それと、改めて言う事でもないけれど…」

 

 よしおが言うと、晃は神妙な表情をして答えた。

 

「三津険ビルの非常階段の洗い中、何かを見ても反応をしない、誰かから声をかけられても答えたりはしない事。おっさんから離れないこと」

 

 晃の言葉によしおはうんと頷く。

 

「余りよくない場所です。社長婦人の花矢子さんが言うには、出入りは多ければ多い程良いとの事ですが、無理はしなくて良いと思う。灰田さんと高野さんが怖ければ来なく手も大丈夫です。あと僕はまだ33歳だよ。おじさんではないと思いますけど」

 

 よしおの言葉に2人は首を振った。

 付いていくという意思、そして33歳はおっさんだという意思、2つの意味で。

 

 2人はわけあって金が欲しかったのだ。

 そして三津険ビルの定期清掃に従事すれば、額にして30万円もの特別報酬が出る事になっている。

 

 当たり前の話だが、一現場の手当てとしては真っ当な額ではない。だが三津険ビルの清掃に関しては充分とも言えない額でもあった。少なくとも30万で命をかけろというのは理不尽な話であろう。

 

 三津険ビルは、ある種の特性を持たない者にとっては非常に危険な場所であるからに。

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 三津険ビルは東京都内の某所にある雑居ビルで、心霊現象が多発すると噂されている。

 

 夜間、使われていないはずの階の電気がついていたり、屋上から人影が飛び降りる姿が散見されたり…このあたりはネットで調べればいくらでも話は出てくるだろう。

 

 ビルの外観は古く、年季が入っている。

 

 外壁は所々罅割れており、建物内はかつては事務所や店舗として使用されていたが、今は空き部屋ばかりだ。

 多発する心霊現象により周辺住民からは避けられており、ビルのオーナーもさすがに業を煮やしたかお祓いを頼んだりしたが、結果は思わしくない。

 

 はりぼてではなくて、ちゃんとしたプロの祓い屋を雇ったにも関わらず、事態は少しも良化しなかったのだ。

 

 悪霊、怨霊…その類がどこにも見当たらない、それでいてビルでは確かに怪異現象…騒霊現象のような軽いものではなく、もっと性質のモノが多発する。

 

 ついには祓い屋も匙を投げ、これは何人雇おうと結果は変わらなかった。なお、この過程で複数人の人命が失われている。

 

 ビルを解体しようとした事もあったが、解体業者の主だった人物が不審死を遂げた。

 

 さすがにこれは、と嘆くオーナーに話を持ちかけてきたのが株式会社アローだった。

 

 ――現時点では祓うことは出来ないが、重篤な事故、事件を起こさないように“メンテナンス”する事は出来る

 

 そんな話にオーナーは飛びつき、結句、今に至るという事だ。

 

 ◆

 

 ちなみに現代日本には確かに怪奇・心霊現象に対応する組織というものは存在するが、なぜ彼等は三津険ビルのような心霊スポットへの対応をしないのかという疑問がある。

 

 これは簡単に言ってしまえば、注ぎ込むリソースやコストが馬鹿にならないからだ。

 

 心霊現象に対応・遭遇した者は精神が霊的な汚染を受ける。

 よくホラー映画か何かで軽々しく心霊スポットに行って発狂したりするが、あれは霊的な汚染が閾値を超えればどうなるかを分かりやすく示してくれていると言えよう。

 

 それは祓いを生業としている者も例外ではない。

 ゆえに、どれほど軽易な現場であっても一度現場に赴けば休養期間を設けなければならない。

 

 その間は変な話、業務ができなくなるわけだからその組織にとっては痛い。

 

 更に、祓い方の問題もある。

 これは罰当たりな例え方だが、一口にゴミといっても処理の方法は多岐にわたると言う事だ。

 

 ビン、缶といった資源ごみを燃えるゴミの日に出してしまっては問題になるだろう。

 ビンなどは砕け散り、場合によっては清掃員が怪我してしまう事もあるかもしれない。

 

 心霊・怪異…ひっくるめて霊異というが、霊異にも色々あり、うらみつらみが募って怨霊と化した者を祓うだとか、その怨霊は無差別なのか、それとも特定のターゲットが存在するのか、もしくは都市伝説のように噂話が実体をもってしまうパターンなのか…カタチが違えば対応も変わってくる。

 

 霊力があるからといって何でもかんでも無差別に対応出来るわけではないのだ。もちろんよしおの様に何でもかんでも力ずくで…と言う事も出来ないわけではないが、一般的にはそういう事が出来る者というのは多くは無い。

 

 適切の人員の配置や、更に事後の手配などするべき事は非常に多い。だからちょっと心霊現象が発生するからといって、無制限に対応する訳にはいかない。

 

 霊異現象に対応する組織が幾つもあるくせに、全国から心霊スポットが消滅しない理由はそれが原因である。

 

 では、そういう心霊スポットへの立ち入りを禁止してしまえばいいではないか、という意見もあるのだが、それは大きな間違いだ。

 

 人の出入りが無くなった家は朽ちる速度が早くなるというが、心霊スポット…霊的特異点も例外ではない。

 建築物の朽ちた度合いと霊異の規模というのは比例する傾向がある。適度に人が訪れる事は霊異を抑えるという意味では有効と言っても過言ではない。

 

 なお、株式会社アローの書類上の社長は伊藤銀太だが、その実質的な舵取りをしているのは伊藤花矢子(イトウ カヤコ)だ。

 

 会社がどこの物件とどういう契約を結ぶのか。その決定は花矢子がしており、三津険ビルの定期清掃の契約も花矢子が決めた。

 

 そして三津険ビルの定期清掃によしお、晃、真衣が選ばれたことには偶然ではない。

 

 ・

 ・

 ・

 

 ◆

 

 三津険ビルは危険な場所だ。

 特級厄地とも呼ばれる霊的特異点。

 そこを祓うというのは困難を極める。

 ビル内部から感じられるのは、業前優れたる霊能者といえども、準備無しでは命を落としてしまうほどの凶悪な呪詛…

 

 それでも外部から活動を抑制する事くらいならば可能だ。

 定期清掃というのも無意味ではない。

 掃除をする、人の手を入れるという行いは、建築物が霊的な意味で朽ちる速度を遅らせる事が出来る。

 

 ビルに渦巻く呪詛が外部へ放射されるのを防ぐ為に、株式会社アローの社長婦人である伊藤花矢子がよしおを使った…かどうかは今の時点では定かではないが、よしおがこの現場に定期清掃をする事になってから三津険ビル絡みでの死者が出ていない事は事実であった。

 

 ◆

 

「じゃあ先ずはいつも通り、最上階から順に始めよう。高野さんは洗剤を撒いてください。その後に灰田さんがブラシで磨いていきます。汚水は僕がバキュームで吸い取り、最後も僕が上から乾モップでふき取っていきます。僕が最後の拭き取りをしている間に2人は掃除用具を洗っておいてください。では作業開始」

 

 よしおが軽く指示を飛ばすと2人は思い思いに返事をした。

 

「はい」

「りょーかいでーす」

 

 ◆

 

 ――また、だ

 

 高野真衣は返事をしつつ、社員の鈴木の目をみた。

 鈴木の目はこちらを見ているようで、見ていない。

 あらぬ所へ茫洋な視線を投げる鈴木からは、どういうわけか人骨の骨粉でつくられた真っ白い砂漠を真衣に連想させた。

 

 ――ああいう目をしている時の鈴木さんは、少し怖い。けれど…傍から離れたらもっと怖い目に遭う気がする

 

 まるで自分達には見えない何かが見えている様だった。

 それは同僚の灰田晃も気付いているようで、しかし2人とも鈴木に何が見えているかを聞けないでいた。

 勘違いだったら恥ずかしいという気持ちもあるが、真衣も晃も知っている。世の中には別に知らないでも良い事があるという事を。

 

 その時、真衣の視界の片隅に何か黒いモノが過ぎった。

 

 上から下。

 何かが落下するような。

 

 反射的にそちらを見てしまいそうになるが、視界一杯に青い作業着の胸ポケットが広がる。

 

 ちらりと見上げてみれば、晃が憮然とした表情で真衣を見下ろしていた。

 

「変だなって思ってもそっちを見ない、だろ?センパイ」

 

「…ごめんなさい」

 

 ――気になるのは俺も同じだけどな

 

 晃はため息混じりにいいつつ、2人は作業に戻った。

 2人はどこか不安そうだ。

 何かに視られている気がしてならない。

 

 カン、カン、という階段を降りる音がしてこないだろうか?ビルの中にはどこの企業も入っていないはずなのに。

 三津険ビルは無人ビルなのに。

 

 ザワ、ザワという人の気配がそこかしこからしてくる。

 

 晃と真衣は“これ”が初めてではないので慣れてきたが、それでも表情は険しい。晃の腕は鳥肌がブワッと広がっていた。だがその鳥肌は、広がった速度と同じ速度で収まっていった。

 

「おっさん…」

 

 晃は安堵の為に思わず呟いてしまう。

 その視線の先には階上を見上げながら眼を見開くよしおの姿があった。

 

 ◆

 

 今日の三津険ビルは少し様子が違った。

 何かにつけ存在を主張してきたのだ。

 よしおが知る限り、それは余り良い兆候ではなかった。

 暴力的、攻撃的な者に対して頭を低くしていると相手が図に乗るように、霊異現象に対しては正しい手段で何らかの抵抗を見せる必要がある。

 さもないと状況はどんどんと悪化してしまう。

 

 

 ――僕の…俺の目をかいくぐって彼等を“喰える”とおもうのなら、やってみるといい

 

 

 後悔させてやるぞ、と言わんばかりの霊的威圧がビルに伝播し、よしおの意思をビルに巣食うナニカに伝える。

 

 そして、つぅ、と鼻から何かが垂れる感覚。

 

「鈴木さん、鼻血、が…。ティッシュです、使ってください」

 

 真衣が手渡してきたティッシュを礼を言って受取り、よしおはビルからの意思を確認する。

 よしおはビルの意思、いや、ビルのどこかに巣食う邪悪なナニカの意思を言葉ではなく、イメージで理解した。

 

 それは腐り落ちた巨大な目玉がこちらを見ているイメージだ。蕩けた巨大な目玉には当然ながら表情筋はない。

 であるのに、よしおはイメージの中でその目玉が微笑んだ事を理解した。

 

 真衣と晃は息を殺してよしおの姿を見つめていた。

 まるでよしおから不可視の気流が奔騰し、2人を包み込んで見えない悪意から護ってくれているような…。

 

 2人はよしおと共に“特殊な現場”をいくつか回ったことがある。そして今と同じようにはっきりと口では説明しづらい庇護を受けているように感じた事が1度や2度ではない。だから真衣と晃はよしおの班を希望して仕事をしているのだ。よしおが居れば危なくないから。そして大金を稼げるから。

 

「作業を続けましょう」

 

 よしおが作業再開を促すと、2人は不安そうに非常階段の清掃を続ける。

 掃除を進めれば進めるほどにビルのそこかしこから漂ってくる気配が薄れていくのを真衣と晃は感じた。

 

 9階から1階へ降りる頃には2人は大分平常心を取り戻したようだった。

 

 よしおはそれを確認し、作業確認書に記入をしていく。

 そして最後に終了時間、総括を記載して清掃を終了させた。

 

『15:26 作業終了。異常ナシ』

 

 そう、異常はない。

 今の所は。

 

 だが、それは“とりあえず”でしかない事をよしおは知っていた。

 

 よしおの霊感が囁く。

 

 ――いつか再び、ここへ訪れる事になる

 ――それも今より違う形で

 



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鈴木よしおとエロ動画おじさん㊤

 ◆

 

 深夜。

 

 カチカチとクリック音が響く。

 よしおは同僚の石黒の自室で、とあるサイトを閲覧していた。それはポルノサイトだった。

 

 画面一杯に綺麗な女性のあられもない姿が映っている。

 

 だが、それを観るよしおの目は酷く冷たい。

 つまらない漫才を見させられている観客の様な目をしている。

 

 これはこれで奇妙な光景だった。

 なぜなら普通、ポルノサイトを観る成人男性の目というのは大なり小なり欲望の光でギラついているものだからだ。

 よしおの瞳はサハラ砂漠よりも更に乾いており、欲望の光は欠片も見えない。

 

 だがそれ以上に奇妙な光景がそこには広がっていた。

 画面には動画のアイコンが沢山並んでおり、視聴者はそのアイコンを見てどういう女性、どんな内容かを雑に知る事が出来るのだが、そのアイコンに映っている女性が皆よしおの方を見ていたのだ。

 

 それを異様といわずに何を異様というのだろうか。

 何十人、何百人もの真っ暗な眼窩の女性達が真っ赤な口内が見えるように大きく口を開けて、よしおを見ている。

 

 だがよしおはそんな異常な状況にも構わずに後ろを振り向いた。そこにはだらんと舌を垂れ、虚ろな瞳のまま座り込んでいる石黒が居た。

 

 ばぎん、と何かが折れた音が響く。

 よしおが右手を握り締めて関節が鳴った音だ。

 

 ◆

 

 石黒 仁(イシグロ ジン)という男は物事を余り深く考えない。

 良い言い方をすれば陽気で、悪い言い方をすればデリカシーがない。

 

 とはいえロクデナシという訳では無く、仁は仁なりに周囲の人間関係を大事にしており、それは周囲の者達にも伝わってはいた。だから彼がしょうもない事を言ったりやったりしても、“まぁ仁だしなぁ”という空気が醸成されている。

 

 こんな仁だがこれでいて妻帯者だ。

 

 大学時代からの友人と結婚したのは最近の話で、その妻も現在は出産の為に里帰りをしている。

 

 そんなわけで仁は奥さんがいないうちに独り遊びを楽しもう、と色々大人向けのサイトを物色していた。そんな彼が“そのサイト”を知ったきっかけは、Flitterと呼ばれるSNSサイトでの書き込みであった。

 

 成人向けコンテンツを紹介するアカウントを沢山フォローした為に、“おすすめのアカウント”として表示されたのだ。

 

 

 幸田@ss1ss20123

 

 20XX年X月XX日

 

 このたび、特殊なルートから集めた画像、動画をアップした超刺激的な新サイトを立ち上げました♪

 あんな女優さんやこんな声優さん、勿論素人さんの●●●も取り揃えております!興味のある人はSelegramにメッセ飛ばしてくださいね。

 

 20XX年X月XX日

 

 大盛況な為、会員数を制限させていただきます!

 会費は月額8000円ですが、支払いの更新をされなかった会員様は会員リストから削除し、削除待ちの会員様を繰り上げて会員とさせていくというカタチにします。

 

 20XX年X月XX日

 

 会員パスを変更しました♪

 会員の皆様にはSelegramから通知を送っています。

 確認して下さいね!

 

 

 ◆

 

「…要するに、流出モノを扱うサイトってことか。それにしても会員数制限したりサイトにパスかけたり、よっぽどえぐい動画がアップされてるのかな。それにしても8000円って高すぎるだろ…」

 

 仁は当初はそのサイトにさほどの興味を示さなかった。

 と言うのも、その手の流出サイトなどというのは探そうと思えば幾らでもあるし、動画自体もどこかに転がっているものだからだ。

 

 だが、そういうありふれたサイトが安くは無い会費を取ったり、会員制限をかけたりというのは聞いた事がない。

 そのあたりが少し気になった仁は『幸田』というアカウントの他の書き込みを見てみたが、よくある業者アカウントといった有様で物珍しさはなかった。

 

 仁も普通ならそんな怪しいアカウントはミュートするかブロックする。…筈なのだが、どうにもその時、仁はそのアカウントが気になって仕方がなかった。

 

(でも、8000円かぁ)

 

 安い額ではない。

 ましてや仁はただでさえ給料が低いのだ。

 

 仁はとあるビルメンテナンス・清掃会社で働いており、手取りは税金だのなんだのを除けば手取り16万程度だ。

 ボーナスは出るし、福利厚生もしっかりしているが、基本給の低さはいかんともしがたかった。

 

(でも、楽なんだよなあ)

 

 そう、仁の勤めている会社、『株式会社アロー』は楽だった。メンテナンス部門は知らないが、清掃部門は楽なのだ。

 

 朝8時に事務所について、9時までには事務所を出る。

 そして遅くとも16時前には仕事が終わり、日報自体も非常に簡略なものを書いて終了だ。

 清掃内容についても大した事はなく、掃き掃除だけで終わる現場もある。

 

 例えばワックスを塗ったりだとか、ワックスを剥がして新しく塗りなおしたりだとか、銀行や大型百貨店などの大きな現場にいくこともない。

 

 給料が安い理由は、仕事が簡単だからである。

 正直いって利益が出ているとも思えないのだが、なぜだか会社は回っている。

 

 ◆

 

 ある日、仁は一念発起して会員になる事をきめた。

 ここ最近自家発電に使う動画にもマンネリがきてしまっており、ここらで新しいフロンティアを開拓したかったのだ。

 

 サイトは会員数が限られているそうだが、見る限りは毎月空きが出来て、その度に募集している。

 仁が見る限りでは月末~月初めに募集する事が多いようだった。

 

 その読みは正しく、幸田なるアカウントはやはりその月の初めに募集をかけていたのであった。

 

(Selegramを使うあたり、結構ヤバめのサイトっぽいよな)

 

 仁は少し不安を覚える。

 と言うのもこのSelegramというのは秘匿性の高さから犯罪者御用達といったイメージがあり、実際に詐欺グループなどはこのアプリを多用している。

 

 だが一度気になってしまったからにはどうにも放置出来ない。仁は自分でもその衝動が不可思議でならなかった。

 よくありそうなポルノサイト…それもどう考えても合法でないサイトに、ここまでの好奇心を抱き、それを捨てられないというのは…。

 

 結局仁は件の幸田と名乗るアカウントに連絡を取ってしまった。

 

 ◆

 

 黒すけ [20XX/03/06 12:39]

 すみません、書き込み拝見しました。会員枠はまだ空きがありますか?

 

 KODA [20XX/03/06 12:43]

 はい、先ほど空きができまして現在1名募集していますよ!入会をご希望されますか?

 

 黒すけ [20XX/03/06 12:47]

 はい、是非入会させて頂きたいです。

 

 KODA [20XX/03/06 12:56]

 かしこまりました。いくつかサンプル動画を送ります。

 サイト内には送ったものより遥かに品質の良いものが沢山あり、当然ですが修正もしていません。支払いは電子マネー限定となりますのでご注意下さいね。それではこの……

 

 何かに吸い寄せられるように。

 

 仁は幸田の言うがままに8000円分のビットキャッシュを購入し、ひらがなIDを伝えて支払いを終えた。

 すると間をおかずにサイトのURLとメンバーID、パスワード、サイト利用に関しての注意点が書かれたテキストファイルが送られてくる。

 

 

 ・当サイトに掲載されている画像は、いかなるツールを用いても抽出は出来ません。このサイトでのみお楽しみ下さい。

 

 ・会費の支払いは毎月末日までに電子マネーのIDを書いてSelegramのアカウントまでお送り下さい。

 

 ・当サイトに対していかなる口コミ、情報の共有を禁じます。

 

 他にも色々あるが、注意点と言うのは概ねこのようなものだった。

 

 仁はふうんとごち、そして特に考える事なく部屋のPCで件のサイトへアクセスをした。

 

 ◆

 

「…マジか…これ、マジか」

 

 サイトにログインした仁はアップされている動画に驚愕した。アイコンで見る限りは他の“その手のサイト”と大して変わりはないのだが、驚くべきはそのタイトルだった。

 

 そんじょそこらの流出動画ではなく、極めて鮮明な画質で、しかもタイトルには芸能界隈には疎い仁でも知っている有名な女優の名前が記されている。そういう動画が1つや2つではなく、もう画面一杯にそんなものがあるのだ。

 

 さすがに本人ではないだろう、と1本の動画をクリックして閲覧すると、少なくとも仁の知る限りでは女優本人があられもない姿を晒して男に組み敷かれているものだった。

 

 芸能人だけではない。

 ●●女子大学、●●学部、●●●●●●、というように名前や素性も銘記された女性の動画や、低年齢のかなり不味いタイプの動画もあった。

 

 仁はあわててサイトからログアウトし、ウイルスバスターが正常に作動しているかを確認。そしてVPNをかませてから再度アクセスした。

 

 物事を深く考えない仁といえども、そのままアクセスするのはまずいと思う、それほどにアングラなサイトだったからだ。

 

 だが退会しようとは思わなかった。

 なぜなら“非常にまずい”動画を見るというシチュエーションそのものに興奮してしまったし、動画内容もそこらの流出のそれとは違って極めて画質がよく、おかずとするには最高の出来だったからだ。

 

 ごくり、と生唾を飲み込み…仁はサイトを開いた。

 

 ◆

 

 “そのサイト”はとんでもない代物だった。

 仁の欲望をこれ以上無いというほど満たしてくれた。

 他者に言えば嫌悪の念を持たれるであろうシチュエーションでもそのサイトにはいくらでも存在した。

 

 所持するだけでも違法な画像も動画も、そのサイトなら観放題だった。

 

 ――これで月8000円は安すぎるな。ともかく絶対このサイトは他人に知られないようにしないと…

 

 この時は仁もまだ理性らしきものが残っていた。

 だがサイトを見る度に、仁は妖艶な囁き声を耳にするようになり、時には生々しい触感を伴って仁に女の幻影が触れる事すらもあった。

 

 いつしか仁はそのサイトを自慰の為に見るのではなく、見るために見るようになっていた。

 美しい女性達の眩い裸体を見るだけで仁の心は酷く安らいでいくような気がするのだ。

 

 ・

 ・

 ・

 

「うっす」

「おはようございます」

 

 ある日の朝、灰田晃と高野真衣が出勤をしてきた。

 2人は同じ電車だそうで、一緒に事務所に来る事が多い。

 

「……うぇ」

 

 出勤してきた晃が露骨に表情を歪めた。

 視線を追った真衣も同じだ。

 恐れと嫌悪が混じった視線をとある社員に向ける。

 

 それは勿論よしおではない。

 そもそもよしおは今日は少し遅れると二人に連絡をしてある。用事があるのだ。

 

 といっても剣呑な用事ではなく、地区の朝の掃除に参加しなければならない、というような酷く健全なものだったが。

 

 2人の視線の先には石黒 仁という30代も半ばの社員が居た。デスクにかぶりつくような異様な姿勢。

 よくよく見れば職場でポルノサイトをみているではないか。

 イヤホンこそつけているが、これは社会人として言語道断な振る舞いだ。

 

 しかし事務所長である緋河 亜希子(ヒカワ アキコ)は月に1回程度しか事務所を訪れないため報告はし辛い。別にサボっているわけではなく、“特別な仕事”をこなしているのだ。ならば他の社員に、という話になるが…。

 

 社員は鈴木と石黒の2名である。

 ちなみに都内には他にもこのような“事務所”が存在しており、地域ごとに清掃エリアをわけている。

 

(鈴木のおっさん気付いてるのかな?最近ずーっとこんなんだぜ)

 

 晃の小声に、真衣も小声で答えた。

 

(気付いてると思うんですけど…)

 

 石黒 仁はここ暫くずっと職場でもポルノサイトを観ている。

 それもかじりつくように、眼もぎょろぎょろさせて、なんというか尋常な様子ではないのだ。

 

 よしおもそれに気付いている。

 気付いてはいるが注意をする事はしなかった。

 それを晃と真衣は不満に思っていた。

 

 やがて事務所のドアが開き、よしおが出勤してきた。

 青い作業着は折り目もしっかりついており、彼の几帳面な一面が垣間見える。

 

 そして石黒の方をちらりと向くと、ビクビク、とよしおの瞼が震えた。

 

(うわ、おっかな…あれおっさんキレてるぜ。でもなんで何も言わないんだろうな)

 

 晃がぶるっと震えてよしおの様子を見てやはり小声で言った。

 

(普段怒ったりしないから余計怖いんですよね…。それにしても一言もないのは変ですよね)

 

 真衣がそれに答え、やはり疑問なのか小首をかしげた。

 真衣がこれまでよしおと接してきた経験上、鈴木よしおという人間は出来ない事に対しては酷く寛容だが、やらないことに関しては酷く冷たく、厳しく接するというイメージがある。

 

(あ、でも今日は…)

 

 真衣が続けて言う。

 

 よしおが石黒の背に回って、仁の肩を掴んだのだ。

 その眉は顰められている。

 

「石黒さん。他のバイトの子には説明しておきました。今日は石黒さんの仕事はありません。そのまま帰宅してください。ただ、少し話したい事があります。ちょっと…悪い虫がついているみたいですから。奥さんから電話があってね。少し様子を見てたんです。最近はご実家へ電話一本しないそうじゃないですか……」

 

 ギチギチ、という音が聞こえてくるほどによしおの手はきつく仁の肩を握り締めている。

 だが仁は少しも痛がる素振りを見せない。

 

 晃と真衣が息を殺して見つめる中、よしおはおもむろに平手を掲げ、背後から仁の耳付近を打ち据えた。

 

 ぱぁん、という音が鳴り、仁の頭がかしぐがそれでも仁はポルノサイトを見続けていた。

 

「大分持っていかれてますね。ちっ、だらしない…それでも夫か…一家の大黒柱ならもっと意思を…」

 

 突然の暴力、そしてその後の2人の反応にさすがに何かおかしいと感じた晃が、仁が見ている画面を覗き込み…嫌悪感、ちょっとした好奇心、そして何かに気付いた表情、最後に表情を少し青褪めさせてよろりと後ろへ下がった。

 

 そんな晃を支えながらどうしたのか聞く真衣に、晃は小声で言った。

 

(あのエロサイト…に出ている女の人なんだけどよ…芸能人とか結構いてさ…でもその人達…全員自殺した人だぜ。そ、それだけじゃないんだ。信じられないとおもうけど、サイトの女が俺と目線を…で、でも無いんだ。目玉が…ない…)

 

 晃は仁が見入るサイトを覗いたその瞬間から、自分もまた誰かに見られているような…そんな視線をあちこちから感じはじめた。晃は胆力があるほうだが、どうにも不気味な怖気、寒気が拭えない。

 

 だがそれも長くは続かなかった。

 晃の肩に手が置かれる。

 よしおだった。

 

「例のビルと同じです。考えない事、見ない事、関わらないこと」

 

 そう言って、よしおは手の甲で軽く晃の頬を叩いた。

 するとあれだけ感じていた不安が霧が晴れるようにきえてなくなったではないか。

 

 晃はぽかんとして、頬を押さえた。

 全然痛くはないが、体…いや、心の中にしみこもうとしていた何かよくないものが吹き飛ばされた事を感得した。

 

 その様子に真衣も気付く。

 晃と真衣は両方ともが強力な霊媒体質というか、いわゆる“そういう素質”がある。

 

 それはどちらかといえば不幸な事なのだが、よしおの下にいる事で彼等は自身に降りかかるはずの悲劇の大部分を振り払うことができていた。

 

「わ、わたしも叩いてください!」

 

 真衣はよしおに懇願し、当のよしおは「高野さんは大丈夫なんですが」といいつつ、複雑な顔をしたままペチッと甲で真衣を叩いた。



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鈴木よしおとエロ動画おじさん㊦

 ◆

 

 結局その日、よしおは2人を帰した。

 その日は特殊な現場をやる予定もなかったし、やる事ができたからだ。

 

 それからよしおは暫く仁の様子を見守っていた。

 仁は先ほどの、帰ってくださいという言葉をきいていたのかわからないが、ややあって荷物をまとめ退勤していく。

 よしおには構う様子もなかった。

 

 よしおは黙って仁の後についていく。

 

 ◆

 

 石黒 仁の家

 

 帰宅した仁は魂が抜けたような面持ちでずっとサイトをみていた。カチカチというクリック音が暗い部屋に響く。

 

 それと同時にコツコツコツコツコツコツという音も響く。

 これはクリック音ではなく、苛々したよしおが指の先で床を叩いている音だ。

 

 その辺に落ちていた座布団の上によしおは座り込み、仁の様子をじっと眺めていた。

 

 この時よしおは迷っていたのだ。

 事に干渉する事は容易い。

 しかしよしおは出来るだけ仁の想い、底力を信じたかった。

 なにせ仁は結婚をしているのだ。

 更に子供まで出来る予定だ。

 

 それはよしおが願っても得られなかった宝。

 よしおは仁が持つ父として、夫としての力を見せてもらいたかった。

 

 だのに、仁の醜態はなんたるザマだろうか。

 どこぞの馬の骨ともわからない女に目どころか心、魂まで奪われかけている。

 そのザマによしおは苛立ちを隠しきれない。

 

 勝手に仁に期待して、勝手に失望して。

 まあ、誠に勝手な話ではある。

 

 ◆

 

 やがて、画面の中からぬうっと女性の顔がはりだすように現れ…よしおの掌底によって強制的に画面の中でたたき返された。

 

 これ以上は仁の生気ももつまいと判断したよしおは、ため息をつきながら、パソコンを奪い取り、仁から離れた場所で再びそのサイトを開いた。

 

 仁は壁際に打ち捨ててある。

 だらんと舌を垂れ、虚ろな瞳のまま座り込んでいる石黒の姿は控えめにみても無様だった。

 

 よしおは憮然とした表情でサイトのあちこちをクリックして動画を検分していった。

 

 勿論画面内では恐ろしい異常が発生していたが、よしおは意に返さない。

 しかし、この手の霊異にありがちな精神への干渉を感じ取ったよしおは盛大に手をバキバキならし、不快感をあらわにした。好意のない相手から擬似的な好意を植え付けられるというのは、公衆便所にこびりついた大便を舌でこそぎ取るが如き気持ちの悪さである…とよしおは考えている。

 

 呆れと苛立ちを滲ませながらよしおが言う。

 

「石黒さん。奥さんが出産で実家に帰っているんですよね。自慰で使うならまだしも、心を奪われるというのは…それは浮気じゃないんですか。男ですから気持ちは分かりますよ、でもね…」

 

 よしおが説教臭い口調になった時、画面から細く、青白い手が伸びてきた。細く青白い手というと不気味な印象はあるが、どこか色気を感じさせる表現だが“それ”は違った。

 

 ガリガリに痩せこけた骨ばった手だ。

 それだけではない、皮膚が破れ、赤黒い何かが見え隠れしている。

 

 そんな不気味な手を、よしおは……

 

「邪魔を、するなァァァァーー!!!!」

 

 怒声と共にバシンと弾き飛ばした。

 限界だったのだ。

 気色の悪い干渉に加え、汚い手で触ってこようというのなら寛容なよしおとて黙ってはいられない。

 

 多分に霊力がこめられたその一撃はこの世のものならぬ腕を千切り飛ばし、腕は赤黒い液体を撒き散らしながら壁に叩きつけられた。

 

 フゥー!フゥー!と息も荒く、よしおは膝に手をついて呼吸を整える。疲労ではなく、精神を安定させようとしているのだ。不埒な悪霊に激昂し、他人の、ましてや同僚の部屋を破壊する様な事があってはならない。

 

 やがて呼吸が落ち着いたよしおは弾き飛ばした腕を拾って、腕を握る手に万力を込める。

 すると腕の表面の傷痕から青白い焔が噴出し、やがて腕はその先端から灰を化していった。

 

 勿論灰が落ちて床を汚すことは無い。

 腕に触れてみれば酷く生々しい触感が伝わってくるが、それはあくまでも幽世のモノだ。

 灰は床に触れる前に空間に溶けるようにして消えてしまった。

 

 よしおは酷く沈痛な面持ちで俯き、つぶやく。

 そこには多分な悲しみがこめられていた。

 

「…浮気は、浮気はダメだ。ダメなんです。しかし、しかし…人である以上、別の相手に目が移る事は……あるっ!ありますよ…。納得は出来ない!!でも…人が人である限り…ありえる事なんです…。ただそれなら筋は通さなければ…。ましてやこんな、こんな…」

 

 よしおの目が凶猛にギラつき、画面をにらみつけた。

 霊的な威圧が画面に叩きつけられ、画面に映っていた女性の顔面が幾つかはじけ飛ぶ。

 

 成人男性一人に対して多数を以って臨まなければならないような惰弱な雑霊では、よしおの敵意に晒されるだけで霊的中枢を木っ端微塵に粉砕されてしまうだろう。

 

 赤黒い血、そして肉。

 

 だがよしおにより強制成仏させられた女性達は、捕らわれた魂を解放され、永劫に続くかと思われていた苦痛から解放された。はじけ飛ぶ寸前に浮かべていた柔らかな微笑がその証だ。

 

 よしおは特に自覚もなく捕らわれた魂を解放し、そして仁の前で膝立ちとなった。

 表情は怒りに歪んではいるが、その怒りは憎悪由来の怒りではない。同僚が間違った道へ進んだことへの怒りだ。

 

 いわば、義憤。

 

「妻帯者だと知りながら、粉かけてくるような非道な連中に心を奪われるなんて…な、なさ、情けないと思わないのか!!どうしてもと言うのなら!筋を!!!筋を通せ!!離婚してから他の女に手を出せといっているんだ!筋を通すという強い心がないからこんなものにまんまと引っ掛かるんだ!俺の言っている事が間違っているか!答えろ石黒ォ!」

 

 よしおがばこんと仁の頬を殴打し、よしおの怒気が満ちた霊力が仁の脳を掻き毟った。

 仁は五体を口内炎に塩を刷り込んだような激痛に襲われ、たまらずに忘我の内から眼を醒ます。

 

 これは実際危ない所であった。

 あと少し人が意識を取り戻すのが遅ければ、仁の魂は画面の中に捕らわれて、その体は生きた屍と化していただろう。

 

「……ッぎゃあ!」

 

 仁は叫び、そして目の前に仁王立ちしているよしおを見上げた。よしおの両眼は怒(ド)に染まっており、握り締めた拳が振り下ろし先を求めてワナワナと震えている。

 

「す、鈴木…お、俺は一体…そ、そうだ、俺はあのサイトを見ているうちに…ぐぇ!」

 

 よしおの足が鈴木の股間を踏みつぶしていた。

 加減はしている様だが、それでも仁は下腹部を刺されるような痛みを感じる。

 

「い、いたい!頼む!やめてくれ…なんでこんな事を…」

 

 仁が言うと、よしおは後ろを振り向き、薄ら寒い妖気を放っているパソコンをわしづかみにして各種ケーブルをぶちぶちを引き抜きながら仁の目の前に持って行った。

 

「は…ァッ…!!や、やめてくれ…女が…女の目が…」

 

 仁は恐怖に震えながら言うが…

 

「女、が…?ん?」

 

 画面が全体的に赤い。

 勿論それはそれで不気味なのだが、あれだけ仁を恐怖させた“死んだ女達”が悶え苦しんでいるではないか。

 

 そう、よしおの烈火の如く燃え盛る激情がパソコンに伝導し、同僚に不倫・浮気といった魔の手を伸ばす者達を懲罰しているのだ。

 

 現代怨霊は電子機器を通してその呪いや怨念を拡散する事が出来る。であるならば、現代霊能者も同じ事が出来るのは当然の理屈であった。

 

 よしおは仁の股間を踏みつけながら静かに言った。

 

「僕も男です。気持ちは分かる。それに、この手のサイトで欲望を満たす事を浮気や不倫と糾弾されては石黒さんも思う所はあるでしょう。しかし、自慰に耽る余りに仕事を疎かにし、勤務中でもサイトを延々閲覧するというのはね、これはサイトの女性に心を奪われているのと同じです」

 

 よしおが仁を諭した。

 

 画面の中は燃え盛る焔が渦巻き、女性達が次々と焼き尽くされていく。よしおの情熱をカタチにしたような悍ましい炎の蛇が女性の全身を這い回り、焼灼(ショウシャク)し、女性の真っ暗な眼窩から焔の舌をちらつかせた。

 

 偶然の産物とはいえ、忌まわしい呪術により魂を捕らわれ、捕囚となっていた女性達の悲鳴、悲痛、絶叫!

 死んだ時の苦しみが延々と繰り返される事で、女性達からは正気が失われてしまったわけだが…それをさらにうわまわる苦痛により正気が取り戻されたのだ。

 

 しかし正気を取り戻した先にあるのは絶望だった。

 

 苦しい生の後に訪れると信じていた死の安息がなぜこのような苦痛に満ちたものになるのか、絶望が女性達を蝕んでいく。

 

 だが、苦痛はすみやかに解放感へと変じていく。

 それは彼女達の魂も、それを縛り付ける呪術も、よしおの情熱と義憤の焔が焼き尽くしているからだ。

 

 ――ああ、ありがとう…

 ――助けてくれてありがとう…

 ――心が楽になりました…

 

 画面からいくつもの声がしたかと思いきや、白く、そして仄かに光る煙が画面から立ち昇り、風に乗るように窓の外へと流れていった。

 

 それをちらりと見たよしおは、反省したのならいいか、と彼女達を見送る。よしおはこのあたり結構ドライだ。赤の他人に対しての感情の薄さは、自身とその周辺人物への執着に比べると対照的に過ぎる。

 

 そしてポカンとした様子の仁に再び説教を開始した。

 

「そんなものはね、不倫や浮気と判断して差し支えないでしょう。勿論、このサイトが普通ではない事は分かります。しかし、正道に立ち戻るチャンスは沢山あったはずですよ。石黒さんは結局、自身の欲望を優先してしまったんです。

 あんなものはね、心に一本、強く硬い芯棒を通していれば早々に引っ掛からないのです」

 

 仁は自身の身に何がおきたかをようやく理解しはじめ、そしてそんな状況から救い出してくれたよしおに深い感謝の意を表した。

 

 そもそも論として、法的にもアウトなアングラサイトを閲覧する事自体が言語道断なのだ。

 妻がいて、そして子供まで出来るというのに。

 

「済まない……深く反省する…。俺は、俺は……!」

 

 仁が俯き涙ながらに謝罪すると、よしおはそれ以上糾弾することができなくなった。

 彼としても仁を責め殺したいわけではない。

 正道に立ち戻ってほしいだけなのだ。

 

 よしおはややあって再び口を開いた。

 

「どうしても性欲が抑えきれないのなら、奥さんに相談…は良くないでしょうね…。出産で不安になっている奥さんにするべき相談ではない…いや、待てよ。あるいは異常性欲なのかもしれません。心療内科へ行きませんか?」

 

 仁はそれを聞き、もっともな話だと思い承諾する。

 

 よしおも仁が本気で更生したいと考えている事を知って安堵した。

 

(一軒落着、か。いや)

 

 よしおの鼻が僅かな腐臭を捉えた。

 それは悪意という名の腐臭だ。

 

 “この件”が自身の預かり知らぬ場所で起こされていたならばよしおとて傍観しただろう。

 よしおは決して正義漢などではない。

 しかし、自身の生活圏内で自身に関わる人間が巻き込まれたとあっては話が別だ。

 

 彼は自分では認めてはいないが、非常に利己的というか、自分至上主義者である。

 基本的に自分の物差しでしかモノを測れない。

 そういう人間は自分の領域を侵される事を極端に嫌う。

 

 よしおの眼輪筋がビクビクと震えた。

 

 ◆◆◆

 

 件のサイトは自殺などの不慮の死を遂げた女性達の流出画像を専門とした、非常に趣味の悪いアングラポルノサイトである。ただ流出動画と銘打ってはいるが、実際は本物そっくりに似せたディープフェイクだが。

 だからこそ異様なまでに鮮明な画質を維持できるというわけだ。

 

 だが、当初は醜い性欲を満たすだけのいかがわしいサイトだったのが、性欲という三大欲求の1つが死者の似姿へと向けられる事により、死者の魂の成仏が阻害されたのだ。

 

 AIにより生成された生前の本人そっくりの画像、動画に視聴者性欲という生に満ちた欲求をぶつける…これは一種の呪術といっても過言ではない。

 極めて悪質で中途半端な反魂の秘術である。

 

 死者に対して死を理解させる事は成仏への第一歩だが、その逆は?

 

 成仏したくても出来ない。

 それどころか、自殺などをした魂は延々とその時の苦痛を味わい続ける。

 

 自身が何処に捕らわれているかも分からない。

 であるならば女達の霊は正気を失うのも当然で、魂の孤独とも言うべき壮絶な寂しさを癒す為に女性達は本能的に生者…視聴者達との交流を求めるようになる。

 

 一般的な生者が死者と交流するならばその身を死に近づけなければならないのだが、女性達の存在に身を近づけようとした生者から生気が失われ、やがて死に至るのは当然の話であった。

 

 結句、当該サイトは厄極まる非常にタチの悪いモノへとなってしまったのだが…よしおがそれを阻止した。

 

 だが問題はこのサイトが誰に、どんな意図をもって製作されたかである。

 

 芸能人のディープフェイク・ポルノであるならば、アンダーグラウンドなサイトであるならありえるかもしれない。

 しかし一般人のモノも用意しているようなサイトが他にあるだろうか?ましてやその“素材”になった女性達は全て例外なく死者であり、更に死因も惨いものばかりであるというのに。

 

 ◆

 

「それにしても、鈴木。いや、鈴木さん…あんた、その…もしかして…霊能者、みたいな感じなのか?」

 

 仁の言葉によしおは肯定も否定もしなかった。

 それは“聞くな”という意味である事に仁も気付く。

 

「わ、わかった。でも必ず恩は返す!俺はこうみえても義理堅いんだ」

 

 義理堅いなど自分で言う馬鹿がいるか、と思いながらもよしおは曖昧に頷いた。

 

 霊的異常空間外において、鈴木よしおという男はどちらかというと控えめで静かな性格をしている。

 これからも同じ職場で働く同僚に対して、たとえ本音であってもチクチク言葉をぶつけるのはどうなのかな、と思いただ黙っていた。

 

 鳥の鳴き声。

 夜が明けようとしていた。

 




Tips①
霊的異常空間では時間の流れがめちゃくちゃになったりする。

Tips②
石黒にはボーナスがあるが、鈴木にはない。
これは鈴木の特別手当の額が結構な額であるため。


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閑話:鈴木よしおと日曜日①

 ◆

 

 日曜日。

 

 本業も副業もオフの日だった。

 よしおは冷蔵庫を開け、アボカドを2つ取り出す。

 

 縦にぐるりと切って、合掌をするようにアボカドを持ち、切れ目にそって半分に割る。

 そして種をこじりとり、手で皮をむいていった。

 

 綺麗に剥かれたアボカドを思い思いにカットし、皿に盛り付ける。

 

 そして別皿を取り出し、ラー油、醤油、酢を混ぜ込む。

 

 よしおの好きなアボカドのつまみの完成だ。

 野良犬でも出来て、しかもそこそこ安くて、まあまあ旨い。

 

 酒はコンビニで買ってきたハイボールだった。

 よしおはハイボールしか飲まないのだ。

 幾ら飲んでも太らないから、というのがよしおの言い分である。

 

 休みの朝から酒とつまみで映画鑑賞というのはいかにもおっさんくさい。服装もトランクスにウニクロのヒートテックという格好だ。

 

 足取り軽く酒とつまみを部屋にもっていき、テレビをつける。

 そしてハイアースティックを操作し、ネットスリックスを起動する。

 

 これは要するに動画配信サイトなどを中継器をつかってテレビで写すことが出来るツールであった。

 テレビ自体がインターネット通信が出来るスマートテレビなどならば不要かもしれないが、よしおのテレビはそうではない。

 

 酒の友として選んだ映画はかなり昔のホラー映画だった。

 よしおはホラー映画が好きなのだ。

 別に映画なんぞみなくてもホラーな展開には事欠かない彼ではあるが、リアルなホラーというのは全く楽しくない。

 

 まあ当然である。

 ホラーな存在というのはやはりそうなるまでの経緯というものがあり、それらは悲痛で悲惨なものばかりだ。

 全く楽しくない。

 

 だがエンターテイメントとして作られたホラーにはそういうものはない。設定として悲惨なものはあったとしても、それはつくりものだ。

 

 だからよしおも楽しんで映画を鑑賞できる。

 今回よしおが選んだホラーは、携帯電話の着信音にまつわる有名ホラーだった。

 

 自分の番号から掛かってくる“その着信”。

 それは死の予告であり、着信を受けた電話の持ち主は怨霊らしき存在により無残に殺害されるというストーリーだった。

 

 随分と迂遠な事をするな、と思いながらもよしおは楽しみつつ映画を鑑賞する。

 明らかに異常が発生していながらもそれを認めようとせず、危地に飛び込んでいく青年が死ぬ様はもはや喜劇であった。

 

 だが、とよしおは考えを改める。

 

(着信を受けるという行為は一種の契約行為なんだろうな)

 

 特定の行動を取った場合に危険度が跳ね上がるタイプの霊異現象というのは珍しくない。

 

 例えるならば海外で強盗にあったとして、銃を向けられて素直に従うか無視するか、という話に似ている。

 タカを括って警告を無視するならば撃たれて死ぬだろう。

 だが素直に従えば金品を奪われるだけですむかもしれない。

 そういう話だ。

 

 明らかな霊異現象に巻き込まれ、異常、異変に直面したときは相手が何を自分に求めているのかを察するというのは非常に大事な事だ。

 

(恐らく、この契約行為を完了させることにより人を死に至らしめるだけの干渉力を生み出しているんだ)

 

 要するに、自分の力では人ひとりを殺傷する事が出来ない為に詐欺紛いの契約を迫り、それをもって呪いを実現させているのだ、とよしおは思う。

 

 目的に向かって試行錯誤し、自身に出来る事に全力で取り組むといった姿勢をよしおは好ましく思っていた。

 

 現実の霊異というのはもっと即物的で、毒物電波のような怨念を直接頭に流し込んで発狂させるみたいな真似をする悪霊も多い。それが善いか悪いかはよしおには興味がなく、工夫がない事に彼は失望を禁じえない。

 

 本当に憎くて殺意に満ち溢れているのなら、もっとなにか工夫をすべきだとよしおは思っている。

 雑に仕掛けて失敗するというのは、目的に対して誠実ではない。

 

 ――誠実さだ

 

 人間は誠実でなければいけない。

 人間じゃないものだって誠実でなければいけない。

 よしおの狂った誠実さの押し付けはその辺の怨霊の理不尽な呪いなどより余程タチが悪かった。

 

 ちなみによしおが映画と同じ状況になった時、死の予告の着信を受けた瞬間に激怒する。

 

 生や死というものは当人にとっては非常に重要な事だ。

 どこの世界に余命宣告をメールで済ませる医者がいるというのか?

 

 死を告げるというのに電話で済ませるというのは、相手に対してのこの上ない侮辱である。

 よしおはこうみえて杓子定規な性質を持つため、筋を通すか通さないかのような事には非常にうるさいのだ。

 

 激怒したよしおの霊力は霊体への猛毒と変じて電話回線に乗り、件の怨霊に逆撃を仕掛けるだろう。

 

 この世ならざる存在の恨みやつらみ、怨念といったものが人を害する事が出来るというのならば、この世の存在の赫怒が、狂気が霊を焼き尽くすことだって可能…そんな滅茶苦茶で、どこか合理的?な意思がよしおの祓いの暴力術を成立させていた。

 

 ◆

 

 アボカドのつまみは既にない。

 職場で高野真衣からもらったみかんを食べながら、よしおはじっとテレビを観ていた。

 予告着信を受けた少女が心霊番組に出演し、ライブで殺されるという悲しいシーンだ。

 

(悪くはなかったけど)

 

 これ以上干渉してくるならただで済まさないぞという臨戦の心構えは除霊には非常に重要である。

 勿論それで霊が激昂して余計酷い目に遭う事も少なくないが、まあ死ぬだけで済む。

 

 恐怖に震え、霊の思うがままに殺されてしまえば最悪その霊に取り込まれてしまう。

 そういった恐怖の感情は甘美であると相場が決まってるからだ。そうなれば苦しみは霊が祓われるまで続くだろう。

 

 いずれにしても耐え難い恐怖に耐え、最後の最期まで抵抗の意志を見せた少女は天晴れだった、とよしおは軽く拍手をした。

 

(僕もああいう生き方ができれば。あすなろの木のようにまっすぐな性根で生きたい)

 

 首が捻り折れ、事切れてしまった死体。

 その眼はカッと見開かれている。

 当然演技なのだろうが、その死に様の演技にはダイナミックに神経に訴えかけてくるような迫力があった。

 

 その時、よしおのスマホからピロン、という通知音が鳴る。

 見れば灰田 晃からのメッセージであった。

 

 翌日のバイトを休みたい、との事だった。

 よしおは特に理由を問いただす事も無く、分かりました、とだけリプライする。

 

 晃は元より出勤は不安定だ。

 よしおにはバンドマンの生態というものは分からないが、これは事前に説明されていたことなので休む理由なども一々聞かないし、基本的には即OKする。

 

 礼と共に、再度のリプライ。

 相談したい事がある、との事だった。

 

 金を貸せとかだったら断わろうとおもい、よしおは先を促した。

 

 ――人を攫う鬼…みたいなお化けっているんスかね?

 

 よしおは小首を傾げ、スマホのディスプレイに鼻をぴったりくっつけ、思い切りを吸い込んだ。

 僅かに香る、血の匂い。

 ピリピリとした感覚が鼻の粘膜を刺激する。

 

 よしおは腕を組み、さてどうするかと思案に暮れた。

 放って置けば余りよい事が起こらない…そんな気がするのだ。

 かといって休みの日に厄介事に手をつける気にもなれない。

 ましてや“副業”ではないのだ。

 

 だがまぁ、話を聞いてみないことには始まるまい、とよしおは事情を聞く事にした。

 幸いにもハイボール(Alc9%)はまだ2缶ある。



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鈴木よしおと隠し鬼①

序盤主人公不在、話長はやや長


 ◆

 

 灰田 晃は幼少の頃から、他人には見えない妖しい胡乱気なモノが見える。

 

 “それ”は色んな姿形をしていた。それは時に人の姿に見えたりもしたし、動物や虫のように見えたりした。

 それが何なのかは分からないが、自分以外の誰にも見えていない事だけは確かだった。

 だから彼はそれを隠して生きてきた。

 

 両親にも友達にも先生にも……誰にも言わなかったのだ。

 

 そんな彼が初めてその事を話したのは、それまでただ見えるだけだった“それ”が、晃に対して話かけてきたからだ。

 

 

 小学校での授業が終わり、晃が帰っている時に通学路の途中に“それ”は居た。

 

 道の真ん中に白い服を着た女性…らしき人物が立っていた。

 

 ――赤ちゃん知りませんかァ

 

 ――私ィの、赤ちゃん、知りませんかァ

 

 

【挿絵表示】

 

 “それ”はシルエットこそ女性…のような姿だったが、生理的嫌悪感をもよおす悍ましいものだった。

 唇がめくれあがって乱杭歯が見えており、眼窩は酷く落ち窪み、奥に眼球が辛うじて見えている。

 白い服からは腐臭がした。

 

 明らかに普通の人間ではなかった。

 

 晃は返事をする事もなくその何かの横を通り過ぎ、わき目も振らずに駆け出した。

 

 怖かったのだ。

 言語化こそできないが、晃には確信があった。

 もしあそこで返事をしたら、どうなっていたか。

 

 ◆

 

「ねえ、母さん。帰り道に怖いのが居たんだ」

 

 晃の母親である灰田 依子(ハイダ ヨリコ)は鏡を見ながら熱心に化粧をしていた。

 

 夜から仕事なのだ。

 依子は酒を売り、体を売り、心を売り、それで生計を立てている。

 

 帰宅後晃が母親にそう言うが、母親は取り合わないどころか、鏡に映る表情を嫌悪に歪めた。

 

 彼女は晃の母親だ。

 晃の父である雄平は顔だけはよかった。

 性格は最低だったが、

 

 その顔だけは良い雄平と、同じく顔は良い依子の子供である晃はやはり容姿に優れた。

 小学校では女子達に囲まれ、男子は嫉妬すらしなかった。

 晃の容姿が自分達と隔絶する事が幼心で理解出来たからだ。

 

 だが晃は全然嬉しくない。

 なぜなら一番構ってほしい人に構ってもらえないからである。

 

「お前さ、そういう事言うなって言ったよね」

 

 依子の刺々しい叱責に晃は首を竦めた。

 晃は知る由もなかったが、依子も晃ほどではなかったが妙なモノを見たり聞いたりする事があった。

 

 だが彼女はその力を忌み嫌っており、自身の力を受け継いだと見られる晃の事も好きにはなれなかった。

 そして自身にその力を受け継がせた依子の母の事も、その母の事も好きにはなれなかった。

 

 依子は自身の血を忌み嫌っていたのである。

 

 依子はため息をつきながら夜着ていくための上着を見繕ろおうとし、その細い二の腕についた手形の痣を見て顔色を青褪めさせた。

 

 ――痣が、濃くなっている

 

 ◆

 

 灰田 依子…旧姓、鬼撫 依子(キブ ヨリコ)はⅠ県のF村で生まれた。

 

 鬼撫という性は珍しいが、それも当然で、遡れば彼女の祖先はかつてこの辺りを支配していた豪族の一族であった。

 いや、支配していた、というのは正しくない。

 

 “鬼”にその身を差し出す…いわば人身御供の一族として存在することで、支配させてもらっていたのだ。

 そして“鬼”は見返りとしてその地域に富を齎す。

 

 鬼を慰撫する一族、故に鬼撫。

 

 明治、大正、昭和、平成を経て、令和の今となっては人身御供の風習をこそ廃れたが、少なくとも大正の一時期までは一族でもっとも優れた力を持つ子を生贄に捧げていたという。

 

 しかし風習こそ廃れたが鬼撫の血に伝わる“力”は時代を経ても受け継がれ続けた。

 

 幼少時、依子は自身に変なモノが見えたり、変なモノが聞こえたりする事に対して酷く怯え、周囲の大人達に相談をするも、“鬼撫さんちの子なら仕方ない”と取り合ってもらえなかった。

 

 ――きぶ、なんて名前だから

 ――わたし、こんな名前はいや

 

 依子がそう考えるようになるのは当然の仕儀と言える。

 やがて成長するに従って変なモノや音は見えたり聞こえたりするだけではすまなくなるようになる。

 

 ある日、依子が友人と遊び、その帰り道。

 田舎道の真ん中に一人の女性…のような影が立っていた。

 女性は腹を膨らませ、孕んでいるように見える。

 日は傾き、紅色を強めている時分である。

 はっきりとは見えない。

 

 いや、“見えてはだめだ”と依子は何の根拠もなく思った。

 依子の耳にその影の呟きの幽けき声が届く。

 

 ――赤……知りませ……かァ

 

 ――私ィの、赤……、知りま……かァァァァァアア

 

 

 依子は恐怖で足が竦み、その場に蹲ってしまった。

 ひたひた、という足音が聞こえる。

 影の女は裸足の様だ。

 

 影はじりじりと近付いてくる。

 やがて依子の前で足を止め、細く青白い指が依子の腕を掴む。

 

 ギチギチと。

 それは凄まじい力で依子の腕を、まるで握り潰そうかとしているかのような。

 

 腕の皮膚が破れ、血が滴るのをみて依子は目を瞑った。

 

 ――もう、ダメ…

 

 依子がそう思った時。

 

 ◆

 

「よりちゃぁん!日が暮れる前には帰ってくるように言ったよねえー!よりちゃあーん!しゃがんで、何をしてるのー」

 

 遠くから大きな声が聞こえてきた。

 母の安江の声だった。

 途端にそれまで腕に感じていた圧は無くなる。

 

 依子ははっと立ち上がり、周囲を見渡す。

 

 ――誰もいない…?

 

 次いで腕を見る。

 

「………」

 

 そこには大きい手の痕がついていた。

 

 ◆

 

 それからと言うもの、依子の周囲では変異、怪異が頻発するようになった。

 

 学校でいきなり教室中の窓がばりんばりんと次々と割れたり、耳元で気味の悪い囁き声が聞こえたり。

 玄関に鳥や犬猫の死体が置かれていたり。

 

 ある日、依子がたまらず“あの女”の事を父母に話すと彼女の両親は顔色をさっと変えた。

 特に母親の狼狽は凄まじいものだった。

 

「嫌よ!!!お母さんが、お母さんが順番だったはずじゃないの!だから私は選ばれなかったのよ!よりちゃんが選ばれるのも早すぎるわ!せめて、せめてよりちゃんの、子供の、子供とか…そのくらいに順番が回ってくるんじゃないの…?」

 

 ――順番…?

 

 順番。

 そんな何の変哲もない単語から、依子は不穏を凝縮したような厭な気配を感じていた。

 

「落ち着け、安江!大丈夫!大丈夫だから…」

 

 依子の父である源二が安江の背中を撫でながら言う。

 しかし安江の恐慌は益々強くなるばかりだった。

 

「落ち着け!?落ち着けるわけないでしょう!お母さんがどんな風に死んだか…」

 

「おい!」

 

 幼い依子といえども“死ぬ”という言葉の意味は分かっている。口を滑らせた安江を源二は叱責し、安江もさすがにそれは不味いとおもったのか口を噤んだ。

 

「…星周さんに相談しよう。あの人は一昨年きたばかりだけど、ド偉い人だって聞いたぞ」

 

 源二の言葉に安江の恐慌は収まる。

 

 逆月星周(サカヅキ セイシュウ)は2年ほど前にF村へやってきた若い神主だ。

 

 F村には東陰神社と呼ばれる一社の神社が存在するが、もう大分前から神主が不在で、神社の管理は村人達がボランティアのような形でやっていた。

 

 神社は巫女神様と呼ばれる一柱の神を祀っているとされるが、現在の村の者達は誰もその神の詳細についてはしらない。ただ、神様は神様だからと自主的に社殿の掃除などをやっている。

 

 ◆

 

 相談を受けた逆月 星周は件の少女…依子を視て息を呑んだ。

 優れた祓いの業を持つ星周には分かる。

 

 少女に憑いているモノが。

 少女を狙っているモノが。

 その禍々しさ。

 その強大な邪気。

 

(これが、恐らく…“本部”の言っていた…)

 

 そもそも“組織”内ではエリートとも言っていい星周が決して豊かとも言えないF村へやって来たのは、本部の星見が“隠し鬼”の影を捕捉したからだ。

 

 星見とは占い師の様なモノだと思って良い。

 

 そして“隠し鬼”とは古くからこの地域に伝わる大邪である。起源は分からない、由来も分からない。

 ただこの地域には昔から子供を攫う…それも特定の家の子供を攫う霊異が存在する。

 

 星周の所属する組織…『巫祓千手』は、古くからそういった霊異と対峙してきた。ちなみに国営の組織である。

 だから組織の構成員は国家公務員といって構わない。

 

 勿論他にも似た様な組織がないわけではないのだが、そういった組織は基本的に極めて高額の報酬を取るため、たとえ極めて危険な霊異が存在したとしても、依頼主の経済状況次第では動く事が無い場合も多い。

 

 これは銭ゲバだから、というわけではなく、先立つものがなければ準備も手落ちとなり、結果として深刻な被害に発展しかねないからだ。

 

 危険な霊異に対峙できる人材というのは畑で取れるわけではない。どこの組織だって被害は少なく済ませたいし、少なく済ませるためには充分な準備は必要だし、であるならば金だって掛かる、という理屈であった。

 

 ◆

 

 ともあれ国営組織『巫祓千手』の構成員である逆月 星周は才に恵まれ、努力を積みあげてきた真のエリートであり、組織内でも上澄みといって良い。

 

 この地域に以外にも霊的危険地帯というのは日本には数多くある。そんな中、星周は短期間、それも単独で多くの霊異を祓ってきた実績がある。そんな彼だからこそF村にただの一人で赴く事を許されたのだった。

 

 というより災害救助などとは違って、霊的危険地帯に業前未熟な者を連れて行くと餌にしかならないという事情もある。星周が出向かなければならない現場に同行できる者というのは限られており、その限られた者達も出払ってしまっている。

 

 単独赴任が許可されたのはそういうお家事情もあるのだ。

 

 その彼をして、一目でこれは手に負えぬと判断した。

 だが同時に残された時間も少ない事も分かってしまった。

 

 星周の眼が依子の腕に残された手の痕を見れば明らかだった。じっと見ていれば分かるだろう、痣が少しずつその色を濃くしていくのが。

 

(目印だ)

 

 そう、それは目印だった。

 恐るべき邪悪からの、贄の目印。




キャライメージ

高野真衣

【挿絵表示】


晃君はガチャ中


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鈴木よしおと隠し鬼②

今日中に1、2回また更新します


 ◆

 

 神社とは本殿・幣殿・拝殿など、基本的にいくつかの社殿を総称した建築物を意味する場合が多い。

 そして神主は大体隣の家に住んでいたりする。

 

 星周も例に漏れず、東陰神社の隣のこぢんまりとした一軒家をあてがわれ、そこにすんでいた。

 物件を管理しているのは彼の所属している組織だ。

 

 その一軒家の、とある一室に依子は連れられて座らされていた。目の前には机があり、お茶の入った湯呑が置かれている。ちなみに依子をここに連れてきた両親は先に帰された。

 

 依子の対面に座る星周だが、彼は先ほどからずっと黙り込んでいた。どうやら何か考え事をしているらしい。

 

 そしておもむろに立ち上がり、方々へ電話を掛けだした。

 依子にはその話の内容は全ては分からないが、聞く限りでは誰かを呼ぼうとしている様だった。

 

 やがて用事が済んだのか、再び座り込む。

 星周の視線は依子の腕に向けられており、その鋭さときたらまるで星の光に照り返される一本の針を彷彿とさせた。

 

「あの…」

 

 依子が声をかけるが星周は返事をしない。

 

「あの…」

 

 もう一度声をかけたところでようやく視線があった。

 目の端に鋭さの残滓は残っていたものの、依子と目を合わせた瞬間に目じりが少し下がって印象が反転する。

 依子に尻軽の気があるわけではないが、彼女は星周の目つき1つで彼への好感度を大幅に高めた。

 

「…ああ、すまないね。依子ちゃんも心配だろう」

 

 星周の言葉に依子は頷く。

 依子とて馬鹿ではない、自身が非常に良くない事に巻き込まれている事を理解している。

 あの時あった、あの“怖いの”から守ってもらうために自分はここに来たのだ、と依子は思っている。

 

「はっきり言うが、君が出会ったであろう怪物はとても…とても危ないものだ。だから追い払わなければいけない。腕をみなさい。段々と色が濃くなってきてるだろう?黒く、黒く。その手形が真っ黒に変わった時、怪物がやってくるだろう」

 

 依子はぶるりと震えた。自分が見たものはやはり現実だったのか、そんな恐怖で震えが止まらない。

 しかし、そんなものを追い払うなんてできるわけがない。だってあれは…

 

 ――とっても、とっても怖いモノ

 

 そう思うと依子の目に涙が滲む。

 それを察してか、星周は優しく語りかけるように続けた。

 

「大丈夫だよ。僕に任せておきなさい。こう見えても僕は凄いんだ」

 

 星周は懐から一枚の札を取り出した。

 そしてそれを依子の腕に近づける。

 “アレ”に掴まれて痕がついた腕に御札が触れると、ぱしん、という乾いた音がして御札が木っ端微塵に砕け散った。

 

 依子は不安気な視線を星周へ向け、星周は苦笑を浮かべる。

 

「そこそこ強い御札なのだけど。あっというまに容量一杯か。まあいいさ。おいで、依子ちゃん」

 

 星周は立ち上がり、依子を別の部屋へ案内する。

 

「今から行く部屋は特別な部屋だ。少し内装が変わっているけれど、驚かないでくれよ」

 

 星周は廊下を進みながらそういい、木扉を開ける。

 

 そこに広がっているのは壁、天井に一面に貼り付けられた御札だらけの部屋だった。

 部屋の中心には座布団が敷かれている。

 そして、その四方には赤いロウソクが四本。

 更に、楕円形の姿見が部屋の奥に鎮座していた。

 

 呆気にとられている依子に、星周はにやりと笑いながら言った。

 

「ウチの流派では闇鍋って言ってる。どういうモノか良く分からない相手の場合、そしてそれを調べる時間がない場合。大体何にでも効くように準備をするのさ。雑だけど、効くといえば効く」

 

 確かに時間はなさそうだ、とよりこは腕を見た。

 “アレ”から握られた腕に鈍痛がはしる。

 痛みは1秒ごとに僅かずつ強まっているかのようだった。

 

「依子ちゃんはこのまま一晩…もしかしたら二晩。この部屋に籠って貰う。悪いのだけど食事もなしだ。水はかまわないよ。辛いかもしれないけれど、ぐっと堪えてね。悪い奴が手を出せない所に籠って、依子ちゃんを狙う悪い奴に諦めてもらうのさ。一先ずは、という所だけど。そして時間を稼いで…そうすればお兄さんの仲間が来てくれるから。そしたら本格的に“アレ”を退治する事ができる」

 

 星周は既に本部へ援軍を要請していた。

 並の祓い師ではなく、星周に並ぶほどの業前の持ち主達を寄越すようにと。

 それにはやはり時間が掛かる。

 

 一人では命を懸けても果たして調伏できるかどうか。

 もう他に取れる手段が無いとくれば腹も括るが、援軍を呼び寄せるという手を取れるなら取らない理由はない。

 星周はこんな所で死ぬつもりはさらさら無い。

 

「あの、私…一人でここに…?」

 

 依子は不安そうに星周へ言うが、星周はかんらと笑って首を振った。

 

「まさか!僕もここにいるよ。大丈夫。依子ちゃんは僕が護るさ。お籠りしている間は色々お話でもしようか」

 

 依子は安堵して頷いた。

 星周の様子はいかにも自信に満ちており、依子にはとても対処出来ない異常な現象にも快刀乱麻を断つが如くに解決してくれそうな様子であった。

 

「視た所、夜までは時間がありそうだ。…うぅん…ああ、いくつかおまじないを教えてあげよう。気休めだけれど、依子ちゃんの体質なら今後役に立つ事もあるかもしれない…」

 

 ◆

 

 その日の夜。

 

「へえ、じゃあ依子ちゃんはこれまでも色んな物を見たりきいたりしてきたんだね」

 

 緊張を見せない様子で星周が依子へ尋ねた。

 依子が頷く。

 

「あの…怖くはないんですか…?」

 

 今度は依子が尋ねる。

 星周はにんまりと浮かべ答えた。

 

「怖いとも。でも人間ってのは不思議でね。こういう恐怖に耐え、打ち勝つことで普段以上の力を出すことが出来るんだよ。特に僕らのような仕事の人間はね。負けて堪るか、と歯を食いしばっていればね、不思議と何とかなったりするものだよ」

 

 そういって星周は柔らかい笑顔を浮かべた。

 その笑みから放たれる言語化しづらい陽性のなにかは、未知の恐怖に冷え込む依子の心の体温を幾分か上昇させてくれた。

 

 依子は10にも満たない少女ではあるが、その内面は既に十代半ば程度には成熟していた。

 子供というのは人間関係に妥協ではなく理想を優先する性であり、子供ゆえに評価が厳しいという事もままある。

 

 その厳しい目線…優男然としていて、どこかナヨっちい星周をこれほどまでに頼りに思うというのは、幼い依子をしてちょっと驚きでもあった。

 

 星周と依子はそれからも話を続けていく。

 依子の頬には淡い朱が浮かんでいた。

 

 ◆

 

 依子は我知らず腕を摩った。

 室温が少し下がった気がしたからだ。

 すると星周は持ち込んでいたどてらのような上着を依子に渡した。

 

 ――ぎい、ぎい

 

 濃紺一色で潔い程に華やかさに欠けるそれはしかし、香のようなものが焚き染められており、その香りは依子の精神を僅かに慰撫する。

 

 ――ぎい、ぎい

 

 いい香りだろう?と星周が言う。

 

 ――ぎい、ぎい

 

「薫衣草…ラベンダーの香でね。出産祝いでよく贈られたりするんだ」

 

 出産?と依子が首をかしげる。

 

「ははは、依子ちゃんのというわけじゃないよ。まあ出産というのは生の象徴のような出来事だろう?そういう観念が込められたモノというのは、幽世…つまり、この世のモノじゃない存在が嫌うんだ」

 

 こんなにいい匂いなのに、と依子は思い、だがそれ以上に気になる事があった。

 瞳に不安を湛えながら、依子は部屋の扉のほうを見た。

 先ほどから聞こえる木が軋むような音は一体なんなのだろうか?

 

 依子が思わず星周を見遣ると、あ、っと声をあげそうになって息を吞んだ。

 先ほどまで朗らかに話をしていた星周が、眦をきりりと吊り上げて木扉のほうを見ている。

 いや、睨みつけている。

 星周の唇が小さく震えていた。

 ともすれば色気すら感じられる桜色は、青紫色に見えるほどに変色している。

 

 木扉にもベタベタと御札が貼り付けてあるのだが、その内の1枚が星周達が見ている前で弾け飛んだ。

 

 紙の破損にはどのような形が多いかといえば、これは圧倒的に“破ける”パターンが殆どなのだが、御札は弾け飛んだ。紙の繊維の一本一本に微小な爆弾が仕掛けられていて、それが起爆すればこのような仕儀になるだろうか?

 

 宙に散った細かい紙片は、その一片一片がポゥっと燃えて灰となってしまった。

 

 その光景は時と場所が違っていたならば、美しいという感想も出たのかもしれないが、依子にとっては恐怖以外の感想は出てこない。

 

 ――わ、だあああしぃの、赤…ぢ、ゃあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ん…

 

 余りにも重苦しい呻吟の声。

 身動き出来ない程に拘束した母親の前で、その子供を寸分斬りにしていければ母親はこのような声を出すのだろうか?

 依子は自身の正気を支える糸を鋸で引かれているような気分だった。

 

 だが問題は気分ではない。

 その声が響くと同時に腕が何かに引っ張られるような気がした。不可視の何かが依子の腕を掴んでいる。

 

 ぐい、っと木扉まで腕が引かれるとおもいきや、ばしん、と乾いた音が響く。

 

 星周が手に持つ大幣で依子の腕を叩いたのだ。

 腕を掴む力が弱まり、ばしん。

 星周は再度依子の腕を叩いた。

 依子は腕が自由になったような気がした。

 腕を掴んでいた何かからの圧力が消えてなくなり…

 

「う、ぐ」

 

 詰まるような声が響いた。

 見れば星周の左腕が、袖の上から何かが大きな手で掴まれているではないか。

 左腕の袖の布が手型に窪んでいる。

 

 星周の顔には脂汗が滲んでおり、依子にも彼が多大な苦痛を受けている事が分かる。

 だが依子も星周を気遣っている余裕などはなかった。

 恐怖は彼女の正気の堤防に楔を何本も打ちつけている。

 

 星周はぎり、と歯を食いしばり、震える唇から何か唄の様なものを吟じた。

 

「斬りり、斬りりとさぶらい曰く。白刃、血に塗れ半ばに果つる、――されど我が身の刃は之に有り」

 

 ――斬

 

 星周は右手の人差し指と中指を立てて、左腕に振り下ろした。

 

 ぎゃあという声。

 ぶちんという音。

 それらが同時に響く。

 

 依子は手で自分の口を押さえた。

 床には2本の指…星周の人差し指と中指が転がっている。

 

 ◆

 

「腕は持って行かれずに済んだ…けれど。良くないね…」

 

 星周の声は暗い。

 扉の向こうからは何の音も、声もしない。

 だが“それ”がまだ居る事が依子にも分かる。

 扉の向こうから濃厚な血の匂いが漂ってきたからだ。

 殺意や敵意という攻撃的な負の情念が、血の香りという形で鼻腔へ漂ってきた。

 

 そして、音が聞こえた。

 木扉周辺の御札が次々に弾け飛ぶ音だ。

 

 ばつんっ

 

 ばちんっ

 

 ばつんっ

 

 ばちんっ

 

 “それ”は明らかに怒っている。

 

 ばんばんばんばんと扉を叩く音、弾ける御札。

 床に転がる人間の指。

 

 依子の正気の堤防はあっという間に決壊し、しょろろと下腹部に生暖かいものが伝う。

 

 ばん、ばんという音が一層激しくなり、そして木扉周辺の御札がすっかりと取り除かれていく。

 

 星周は指の切断痕に唇を当て、自身の血を口いっぱいに含んで霧吹きのように扉へふき掛けて言った。

 

「野の犬等より姫を護らむとする侍従は、はつかなる、かくてこはき毒を飲む。かくて手首引き裂き、振りまきてののしりき。“ここより先へ進まば命無し。さりとて来や?”」

 

 応えはない。

 

 ◆

 

 これで暫くは、と星周は思った。

 

 血には様々な霊的な観念が込められている。

 霊的感応力に優れた血に、拒絶や警告などの意を込めた言葉を吹き込む。

 

 そうする事で幽世の存在に、こちらの意思を何となく理解させるのだ。

 

 星周がやったことは、扉の向こうの何かに“ここは自分の縄張りだから入ってこないでくれ“と宣言したようなものである。ただ、普通はもう少し柔らかい言い回しをするものだが。

 

 宣言するだけじゃ意味ないだろう、と思う人もいるかもしれないが、これが案外に効果があったりする。

 

 霊的な存在と言うのは必ずしも言葉を解するわけではない。

 “それ”は日本語らしきものを操るが、だからといって通じると断じるには早計なのだ。

 

 例えば同じ日本人でも、水中に在る人と水上に在る人の会話が成り立つだろうか?

 

 しかし、言葉自体は通じなくとも立ち居振る舞いなどで相手が何を考えているか、相手がどういう状況におかれているか…というのは何となく推測できる。

 

 この立ち居振る舞い…自身のスタンスを相手に表明する事が除霊の業といっても過言ではない。

 

 この世のモノならぬ存在のすべてが生者に対して危害を及ぼそうとしているわけではない。

 生者に干渉してくるモノ達の、それこそ大部分は深い孤独に耐えかねて、何らかのコミュニケーションを求めているだけに過ぎない。

 

 鏡に映りこんだり、ラップ音を立てたり。

 そういう存在を主張するような現象の殆どに実害はない。

 

 だから、意外にもこちらが明確に拒絶すれば事態が収まる事もないわけではない。

 

 ◆

 

 ――明確な悪意がある存在というのは意外にも少ない。だからここまで拒絶されていると分かれば、運が良ければ退いてくれる

 

 星周がそう思った瞬間、部屋中の“全て”の御札が弾けとんだ。木造りの扉がきいいいいと音を立てて開いていく。

 依子はぱらぱらと舞う紙吹雪の向こうに、腹が妙に膨らみ、目が落ち窪んだ老女の姿を見た。

 

 白く薄汚い衣を纏ってはいるが、腹の部分がはだけている。

 そして、腹には無数の赤子の顔が浮かび…

 

 

 ――わ、たじぃぃのあがちゃん…知りませんかァ…

 

 おぎゃあ

 

 ――おいじぃぃあがちゃん、知りませんガァァ…

 

 おぎゃあ

 

 

 ひぃっと依子は喉の奥から甲高い悲鳴をあげた。

 星周はそんな依子の手を乱暴に握り、彼自分の後ろにひっぱって叫んだ。

 

 ――依子ちゃん!鏡の後ろに小さい扉がある!そこから逃げなさい!

 

 逃げるって何処へ、と依子はぼんやりと思う。

 しかし逃げなきゃダメなのだ、という事も分かった。

 生存本能が大声で逃げろ逃げろ逃げろ逃げろと言っている。

 

 ――早く!急げ!

 

 星周の切羽詰った叫びと共に依子は駆け出した。



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鈴木よしおと隠し鬼③

 ◆

 

 2日後の昼過ぎ、F村へ数名の男女が訪問して来た。

 服装は統一されており、男も女も黒尽くめのスーツだ。

 

 村長が訪問の目的を訊ねると、男女の小集団はどうやら東陰神社の神主、逆月 星周の同僚であるという。

 

 村長は黒スーツの集団の放つ妖しい圧に押され、言われるがままに星周の居宅へ案内をした。

 

 案内道中、星周の家に近付くと一人の黒服女性があ、っと声をあげる。村長が怪訝に思って振り向くと、黒服集団は誰もが沈痛な面持ちをしていた。

 

「あの、何か…その、儂に失礼などが御座いましたでしょうか…?」

 

 不安そうな村長の言葉に声をあげた女性は力なく首を振って言った。

 

「いいえ……でも星周さんはもうどこにも居ません」

 

 それを皮切りに、それまで言葉少なであった黒服集団が思い思いに口を開く。

 

「見立ては確かか?…確かだろうな。疑っちゃいないよ、でもなあ…星周がなぁ…」

 

「遅かったか」

 

「でも、彼もただでは死ななかった様ですね。少なくとも彼を殺ったモノが近くにいれば私達が気付かないわけがない。追い払ったか、それとも相討ったか」

 

 村長には彼等の言っている事がなんだかさっぱり分からなかったが、それでも何かよくない事が星周の身に起きた事は分かった。

 

 ◆

 

 星周の家についた一行が玄関のベルを押しても返事はない。

 ドアを叩き、声を掛け。

 それでも返ってくるのは不穏な静寂だ。

 

 一同の中で頭1つ抜けてる体格の男性がノブを握り、回して言った。

 

「鍵が開いている。田舎だから戸締りを怠っている…わけじゃあないな。星周の奴はこの辺はしっかりしている。鍵を開けっぱなしにして、“モノ”の招来を許すような事はしない」

 

 ため息をつきながら大男はドアを開き、ずかずかと家にはいっていった。

 村長は“不法侵入になるんじゃないか”と思いながらも、大男の行為を制止出来ないでいた。

 

 それは大男に物申す事に怖気づいていたから、というのも少しはあるのだが、なにより村長自身が異変、異様を察知していたからだ。頭の片隅がキリキリと痛む。

 

 やがて家捜しは一室を残すのみとなった。

 意識的に“その部屋”を残したわけではない。

 だがその場の全員が無意識的にその部屋を避けていた。

 

 皆は黙りこみ、大男がそのドアを開く。

 

 ◆

 

「ひいっ、こ、これは!これは一体!星周さんは、どこへ…事故…いや、事件…け、警察っ…!」

 

 村長の声が響く。

 部屋は一面血塗れだった。

 赤い血。それと黒いナニカ。

 

 御札らしき紙の残骸が部屋中に散らばっている。

 床に2本の指が転がっている。

 

 そして、部屋の中央。

 床に敷かれた座布団に、眼球が1つ。

 

「………この黒い液体は…人の血じゃないな。そうか。まあそれくらいはな。意地もあるものな、星周…」

 

 大男が座布団の前でしゃがみこみ、疲れきったような声で呟いた。

 

「火場さん。どうしますか」

 

 集団の一人、妙に神経質そうな眼鏡の青年が大男に訊ねる。

 

「本部に連絡する。連中の見立て違いだ、クソッ!それと、“コレ”に狙われた嬢ちゃんっていうのと会う。話もきかなきゃあならないからな…。まあ暫くは来ないだろうが、いずれまた来るだろう。俺達がそれまでに対処できればいいんだが…」

 

 大男…火場はよっこらせと立ち上がり、懐から取り出したハンカチに座布団に置かれた眼球と床に落ちている2本の指を載せ、丁寧に丁寧に包んだ。

 

「ともあれ、時間は出来たな。星周が稼いでくれた。その間に“これ”が何なのかをもう一度洗う。この地域の伝承は把握している。だが、実際に顕れた事は無かったはずだ。少なくとも近現代では」

 

 火場の言葉に、眼鏡の青年は頷いて答えた。

 

「ですがここ最近は星のまわりがよくない。何かが起こるかもしれない、そこまでの本部の見立ては正しいです。しかしそこからがよくありませんね。仮に何かが起こったとしても、星周さん一人で対応出来る、というのが本部の見立てでした。これは失策です。とはいえ、あの時点ではどうにも出来なかったでしょうが」

 

 黒服集団は皆それなりに“使え”る。

 故に全国でもかなりタチが悪いタイプの霊異現象へ対応していたが、星周の救援要請で仕事を他の者へ引き継ぐ形でやってきたのだ。

 恐らくこの事で相応の被害が出るだろう。

 

 救援を出した星周もその辺はわかっていたが、それでもなお自身を優先する事を求めた

 それは小を捨てて大を生かすという判断による。

 

 依子を自分の目で視て、迫り来る危険の度合いを確認した星周は、現実的且つ最速のタイミングで救援を要請したのだ。

 

 残念ながらその星周は死亡してしまったが。

 

 とはいえ、この時代の日本では屈指の祓い手であった彼は、ただ殺されるだけでは済ませなかった。

 ただの一人で勇戦し、手傷を負わせ、時間を稼ぐ事が出来た。

 

 ・

 ・

 ・

 

 ◆

 

 灰田 依子はテレビを観ながらぼんやりとしていた。

 番組の内容は頭には全く入ってこない。

 昔を思い出していたのだ。

 

 逃げ出してからの記憶は定かではない。

 どこをどう走り、どう逃げ出したのか。

 気付けば家に居たと思う。

 朧気に覚えているのは家に戻り、両親に泣きついた事だ。

 

 父と母は泣きわめく私を抱きしめてくれた。

 父なんて普段は腰が低く、母に頭が上がらないような人なのに、私から話を聞くなり慌てて部屋の隅に立てかけてある防犯用の木刀を取り出して…

 

「安心しなさい。お父さんはこう見えて凄いんだ、依子を必ず護るからね」

 

 そんな風に引き攣った笑みを浮かべる父に、私は星周さんを重ねた。

 

「私が、私がかわりに……ッ」

 

 母はそんな事を言っていた。

 当時の私も、それが“私が身代わりになる”という意味である事は理解できた。

 父も母も私も、三人が抱き合って“それ”が来ないか震えていたとおもう。

 

 どれだけ時間が経ったか。

 呼び鈴が鳴る音がする。

 びくり、と私の体が跳ね上がり、それを母が抱き締めた。

 

 今にもあの呻き声の様な響きが聞こえてくるんじゃないかと慄いていたら、予想は良い方向へ外れた。

 

「すみません、鬼撫さんのご自宅でしょうか?」

 

 ・

 ・

 ・

 

 回想を中断した私は面白くもないテレビを消し、洗面所に向かった。

 鏡に映るのは中年の女だ。

 年齢にしては色艶があるが、全体的に疲れている。

 

 疲れるのも当たり前だろう。

 “アレ”がいつ来るか。

 それに怯えながら暮らしてきたのだ。

 

「…色が濃くなってきている。やっぱり終わってないのね」

 

 誰に言うまでもなく、私は力なく呟いた。

 

 ・

 ・

 ・

 

 あの時家に訪れたのは星周さんの同僚の方だった。

 一際大きい人は、あれは身長が190センチくらいあったんじゃないだろうか?

 インパクトが強くて今でもよく覚えている。

 

「……というわけです」

 

 火場と名乗ったその男性は、神妙そうな様子で事情を教えてくれた。

 といっても、父も母も私も、だからどうすればいいのだという思いで一杯だったと思う。

 

「“アレ”に限らず、強力な怪異の多くは場所に縛られる場合が多い。一先ずこの地を離れてはどうでしょうか?そうですね、例えば東京にでも。というのも我々の本部が東京にあるのでね。生活の面倒は我々がみます。豪勢な生活を、と言うのは無理ですが普通の生活でしたら。通学なども手配しますよ。……ただし、ご両親からは離れて暮らしていただく事になります」

 

 火場の言葉に、当然のように両親は反対した。

 私も反対だった。

 でも、理由を聞いた後、私も両親も項垂れながら離れて暮らすことを了承したのだ。

 

「場所に縛られる事が多い、と先ほどはいいました。ですが、そうでない場合もある。例えば…血に縛られる場合もある。例えば…例えばですが、鬼撫という姓。これに特別な意味があったとしたら。特別な血筋を表す、特別な名前だったとしたら。その血にこそ“アレ”が惹かれているとしたら?」

 

 それをきいた母の顔色がさっと青褪めた。

 その余りに急激な色の変わりようはいまでもまだ覚えている。

 

 それから私は東京に引っ越した。

 火場さんの所属する組織?が用意した家、手配した仕事。

 色々とお世話になり、今でも頭が上がらない。

 

 火場さんが言うには、星周さんのお陰で“時間が稼げた”らしい。

 それがどれだけの時間だったのか分からないけれど、星周さんは命を懸けて私達が準備をする時間を稼いでくれたのだ。

 

「いいかい。依子ちゃん。いつになるか分からない、でももしもその腕の痣が大きく、濃く…様子がかわったら、かならず連絡をくれ。それは兆候だ。“アレ”が来る兆候だ。ほら、これが番号だ。いまは大丈夫だ。大分…薄い。厭な気配も…余りない」

 

 ◆

 

 “アレ”はいつ来るのか。

 

 明日か、明後日か。

 1ヵ月後か、1年後か。

 10年後か、あるいはもう来ないのか。

 

 そんな風に怯えながら凄く生活は酷くストレスだった。

 やがて、5年経ち、10年が経ち。

 

 私が大人になった頃には組織も危険はもう大分薄まった、と判断し、生活の支援が停止した。

 その頃には自分で働けるようになっていた為さほど問題はなかったが、自分なりに深く、能動的に思考が出来るようになった私は組織の判断に疑念を抱くようになっていた。

 

 ――そもそも星周さんが亡くなったのは、組織の判断が甘かったからじゃないの?

 

 そんな組織が危険はない、といわれても信じられるようなものではなかった。

 私はストレスを抱えたまま生活をし、そして雄平とであった。

 

 灰田 雄平。

 顔だけはいい、ホスト崩れだ。

 彼は甲斐性は無かったが、女に欺瞞に満ちた安心感を与える事は上手かった。

 事実私は彼と一緒に居たとき、僅かながら“アレ”を忘れる事が出来た。

 

 やがて子供が、晃が出来、雄平は他の女の元へと行き。

 私の中から“アレ”の影が薄れていき…

 

 つい先日。

 

 ――ねえ、母さん。帰り道に怖いのが居たんだ

 

 私の心臓がどくんと跳ねた。

 

 ◆

 

 現代・喫茶店『染田』

 

「お袋がいつ治るか、退院できるかなんて分からないっす。親戚連中は脳死させてやれなんていう奴もいますけど、俺はそういう奴はひっぱたいてやりました。治る可能性が0なら諦めもつくンすけどね…でも必ずしも0じゃないみたいで。医療費は補助を受けても馬鹿高いし、いつまでも補助金受けられるってわけでもないし…」

 

 晃はぶつくさいいながらアイスコーヒーをストローでかき混ぜながらいった。

 よしおはそれを聞きながら、ピザトーストを齧っている。

 晃から話を聞くため、とりあえず近くの染田という喫茶店に集まったのだ。

 

「お袋はああなっちゃう前、俺にいったンです。“アレはまた来る。今度はあんたを攫いにくる。私よりあんたのほうが力が強いみたいだから。ごめんね、本当にごめんね”…って」

 

 晃はよしおに自身が置かれている境遇を説明した。

 

 植物状態の母親が居るという事。

 

 その医療費で金が必要だという事。

 

 幼い頃に何かを見て、それから母親の様子が変わったという事。

 

 それから間もなく、“何か”が起きて、気付いた時には母親は既に入院していたという事。

 

 母は大怪我を負い、命すら危ぶまれる状態だった事。

 母だけが被害にあったわけじゃなく、何人か死者も出たという事。

 

 何かをみて、そして何が起こったのか…その間の記憶がすっぽり抜けているという事。

 

 晃の母親が植物状態になってしまうまでには間があり、半ば遺言のような形で晃に告げた事が先の一文であった事。

 

 ――そして……原因の分からない、痣

 

「鈴木さんって、“こういうの”詳しいっすよね。俺、わかるンですよ。昔から変なものを見てきましたし。霊感があるっていうのかな。他人にいったらバカにされるンで黙ってますけど。鈴木さんもあるんでしょ?霊感。それもすっごいヤバい感じの」

 

 ◆

 

 晃は肩をはだけ、そこについた手型を見せた。

 

「でかい怪我をしたとかならわかるンすけど、そういうのって普通覚えてません?でも覚えてないンすよ。一切ね」

 

 晃の言を聞きながらよしおは鋭い視線を痣に向けた。

 その色は薄いとも、濃いとも言えない。

 

「ちょっと触れてもいいですか?」

 

 よしおが聞くと、晃は頷いた。

 よしおは立ち上がり、痣に触れる。

 そしておもむろに鼻を近づけ、くんくんと匂いを嗅ぐ。

 

「っちょっ、鈴木さん!?」

 

 晃はやや顔を赤らめ、よしおの顔を手で押しのけた。

 

「失礼。まあ確かに。紐付けというんですかね。うぅん…そう、唾付けのようなもの…かもしれませんね。放っておくと良く無さそうだなっていうのは僕もわかりますよ。大変そうですね」

 

 よしおはまるで他人事のように言った。

 実際他人事だからこれは間違っていない。

 何かタチの悪いモノに憑かれたかも、といって“じゃあ助けるよ!”などと積極的ボランティアをするつもりはよしおには無かった。

 

「実際のトコ…もしやばい事に巻き込まれたら、助けてほしいンすよね。だから教えてほしいンすよ。額を。金掛かるとおもうんですけど、俺、こういうの誰かに頼んだ事ってないから…」

 

 晃の言によしおは少し気が向いた。

 情に訴えかけるんじゃなく、出すものを出すと初めから言うというのはよしおにとっては好感が持てるからだ。

 

 関係性に甘えて無償で何かをしてもらって当然、という思考を今のよしおは酷く嫌う。

 

 なぜならばよしおは過去に、夫婦なんだから愛して、愛されて当然という考えの人間だったからだ。

 

 無償の善意、無償の愛情…そんなものは人を不幸にするまやかし同然である…とよしおは考えている。

 むしろ、そんなものを押し付けてくる者がいたら積極的に抹殺したいとすら考えている。

 証券マン時代、よしおは理知的で合理的だったが、今のよしおはややワイルドでダイナミックな思考をしている。

 

「…でも、こうして話してて、やっぱり鈴木さんに頼むのは筋違いなんじゃないかって考えも出てきて…。当時何人か死んだって…それだけやばいって事っスよね。なのに、第三者の鈴木さんに助けてくれなんていっても…」

 

 晃はため息をつきながら言った。

 

 “でも、俺の勘は鈴木さんに頼れ…っていってるンすよねえ…”

 

 

 

 

 ◆

 

 よしおは首の後ろを揉みながら考えた。

 感じる気配、予感。

 危険な依頼になるだろう。

 晃は金を出すといっているが、これほど佳くない気配の依頼と言うのは控えめにいって1千万や2千万では利かない。

 その金を晃が出せるとは思えない。

 

「何人か死んだ、と言う話でしたか」

 

 なぜ死んだ?

 巻き込まれたのか?

 いや、違うだろう。

 わざわざ“唾付け”をして獲物の捕食権を主張するようなモノだ。

 そういうモノは無差別にやらかす事は余りない。

 

 なら邪魔をして怒りを買ったか?

 であるなら、なぜ邪魔をした…

 

 ここまで考えれば話は簡単だった。

 

「2箇所。一緒に行きましょうか。1つは灰田君のお母さんが入院している場所。もう一つは、その組織がなんという組織かを聞いて、そして直接話を聞きに行きます。その組織も忸怩たる思いなんじゃないでしょうか。だったら怪物の始末をしたいはずです。一応言っておきますが、僕がこの依頼を受けるなら5千万を取ります」

 

 ごっ…と晃が絶句していると、よしおは掌を向けて制止した。

 

「その五千万から灰田君が幾ら支払うのか、そこは灰田君と組織とやらの交渉で決めてください。…まあ、そもそもその組織が僕へ依頼する事を認めるかどうかですが。僕は結構この業界では嫌われてるんです」



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鈴木よしおと隠し鬼④

よしお平常時イメージ①

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晃イメージ①

【挿絵表示】



 ◆

 

「僕もその手の組織はいくつか知っているんですが」

 

 余り良い関係ではなくてね、とよしおはピザトーストを齧りながら言った。

 晃はぼうっとよしおを見つめる。

 見た目は冴えない三十路なんだけどな、と失礼な事を考えつつ、しかしそれが正しくない事を知っている。

 先程痣に触れられた時にも感じたが、鈴木よしおという人間の皮の下は……

 

 晃はぶるっと頭を振り、悪寒を払おうと話しかけた。

 

「こう、なんていうか競合してるからバチバチ…みたいな感じっスか?」

 

 晃が言うと、よしおは首を振って言った。

 

「競ってはいません。僕は先程5千万という額を出しましたが、億でもおかしくないモノだと思います。1億か、2億か。あるいはもっと高額か。でも僕はそこまでの額を一気に稼ごうとは思えなくてね。業界の相場を壊すというのだから、それはまあ嫌われたりはするでしょう」

 

 晃が不思議そうにしていると、よしおは続けて言った。

 

「金を稼ごう、稼ごうと奔走していて失敗をした事があるんです。もう取り返しのつかない失敗…大切なモノを見失ってしまった。だから必要以上に稼ぐ事に抵抗があるんです。それでも五千万という額は大金に思えますが、準備なり治療費なりで吹き飛んでしまうでしょう。この業界、腕が千切れかけるなんていう事も珍しくはないんです。まあ100、200は手元に残ります。僕にはそれで充分なのです。趣味に使う金もほしいので」

 

 腕が千切れかける、ときいて晃は怯んだ。

 それが普通の反応だ。

 というより、祓い手界隈の人間だって腕がちぎれるかもしれない案件というのは厭なものである。

 しかしよしおは違った。

 

 かつての彼は肉体的な損傷を恐れる感情もあったのだが、そのような健全な感情は精神的な損傷と共に消えてなくなってしまった。

 今の彼は後天的なスピリチュアル・バーサーカーである。

 

「う、腕っスか…」

 

 晃の言葉によしおは頷いた。

 よしおは腕、といったがこれはやや表現が柔らかい。

 死亡率という面で見れば、祓い手の死亡率は異常だ。

 

 一般の仕事でもっとも年間の死亡率が高いのは林業…木こりだが、直接危害を加えてくるようなモノ達に対峙する一部の祓い手達の死亡率は木こりの300倍を超える。

 これはどの位かというと、1年の間に10万の木こりが例年の平均である130人死亡するとすれば、祓い手は約4万人が死亡するという計算になる。

 

 夜の闇より更に暗い住民達に人の身で対峙するのならば、それだけの犠牲が出てしまうものなのだ。

 

「しゅ、趣味って!趣味ってどんな…?俺はえっと、知ってると思うんスけど、音楽が趣味で…ロゼッタっていうバンドを組んでるンすよ…」

 

 血腥い会話を転換しようと晃がやや慌てながら聞いた。

 よしおはピザトーストの耳を千切りとって皿の端へ寄せながら答えた。

 彼はパンの耳が嫌いなのだ。

 

「グランピングや映画鑑賞です…映画はハッピーエンドの物しか観ません」

 

 グランピングとは豪華なキャンプのようなものだ。

 

 例えばやたらでかいテントを高層ビルの屋上に張り、高い食事、旨い酒を嗜みつつ星空を見る…など。

 都内では例えば奥多摩の豪華コテージだとか、あとは都心の高層ビルの屋上などで体験が出来、料金は1泊3万円~といった所だ。

 当然電気水道は完備されており、なんだったら現地にいながらにして高級フレンチを楽しむ事も出来る。

 

 それは果たしてキャンプと言えるのか?と思われるかもしれないが、案外とハマる者は多い。

 

 一人と独りは似て非なるものだ。

 前者は何らかの母集団の中で自身の立ち位置を確立している事を意味し、後者は何にも所属せずただ孤立している事を意味する。

 

 例えるならば一人とは親兄弟が健在で、しかし自身は一人暮らしをして自立している事を意味する。

 しかし独りとは親兄弟が全て死に絶え、あるいは連絡先すらも知らない天涯孤独の状態を意味する。

 

 人間は独りになってしまうと加速度的に精神に歪みが広がっていくが、一人の時間が少なければそれはそれで心のどこかに澱のようなものが蓄積していくものだ。

 

 グランピングなんて嗜む者達は本能的にそれを察している。

 

『普段縛られている人間関係のしがらみから解放されて、ちょっとした寂しさをお手軽に、しかし不快感なく味わいたい』

 

 彼等はそんな都合の良い孤独感を味わう為にグランピングに参加するのだ。

 

 健全な孤独感というのもなんだか馬鹿らしいが、一見すれば独りだけど、一皮剥けば一人である…というようなものは健全な孤独感と評して構わないだろう。

 

 そんなグランピングはよしおがまだ証券マン時代からの趣味で、彼がまだ過去を吹っ切れていない証左でもあった。

 いや吹っ切るどころか、鈴木よしおは過去を燃やして今を生きるための燃料にしているのだ。

 

 そんなものは下を向きながら前方に猛進するようなもので、どうにも健全さとはかけ離れた生き方ではあるが、それもまたよしおの人生なのだろう。

 

 ◆

 

 さ、行きましょう、とよしおは伝票を持って立ち上がった。

 

「あ、ここは俺が払いますよ!俺が呼び出しちゃったんスから!」

 

 晃の言葉によしおは珍しくニタリと笑って答えた。

 

「5千万の借金を背負うことになるかもしれないんですから…ここは任せてください。なに、僕には友達が余りいませんが、ツテがないわけじゃありません。無理なく、そして絶対に支払えるように手配します」

 

 それは半ば本気だが半ばはジョークだった。

 よしおの目論見としては晃に背負わせるにしても100、200が精々だろうと考えている。

 “特別な現場”の手当てもあるだろうから晃の収入と言うのは同年代のそれを大きく凌駕しているだろうが…

 

 よしおはちらと晃の上着の襟や裾やらを見た。

 ほつれだ。

 

(金回りは余り良さそうではない)

 

 よしおが見る限りは女に金を遣う様なタイプではない。

 逆に女の方から金を遣いかねない顔の造形は、女のみならず同性からも秋波を送られかねないだろう。

 かといって賭け事なりをするという話も、よしおは聞いた事がなかった。

 

 恐らくは正しく母の治療費とやらに金を遣っているのだろう。

 

 そんなよしおの値踏みも知らず、晃はよしおの脅迫のようなジョークに顔色を青くし、静かに頷いた。

 

 ◆

 

『染田』でのお茶会の翌日、よしおと晃は都心から4、50キロは離れ、はるばると多摩地域まで来ていた。

 ちなみに移動は電車だ。

 よしおは免許こそ持っているが、自家用車は所持していない。どうしても車が必要な時はレンタカーを利用する。

 

 ・

 ・

 ・

 

 植物状態の患者も受け入れてくれる病院というのはそこまで多くはない。

 東京都はA市の某所にその病院はあった。

 

 医療法人社団 月心会 東陰病院。

 ただしこれは表向きの姿に過ぎない。

 実際の所は『巫祓千手』の総合霊障医療施設である。

 こういった霊障を中心とする病院というのは都下を中心にいくつか存在する。

 

 当然よしおも馴染みの病院と言うのが1つ、2つあった。

 彼は確かに祓い手としてのポテンシャルは高いが、腕を飛ばされたり脚を飛ばされたりというような事がないわけではない。

 

 よしおは見た目こそ貧相…とまではいわないが、勇壮魁偉を誇るというような体躯ではない事は確かだ。

 

 しかしその青い作業着を脱ぎ、ワイシャツを脱ぎ、肌着を脱いだその下には、古傷で全身を覆われているといっても過言ではない歴戦の勇士といった鍛え抜かれた肉体を見る事が出来るであろう。

 バキバキに割れたシックスパックからは、銃撃すらも弾き返してしまいそうな迫力を感じる。

 

 例外もあるのだが、自身の肉体を使って祓う者達の肉体は男女例外なく鍛え上げられている。

 トレーニングでつけた筋肉ではなく、実践で自然についた筋肉だ。

 

 霊的特異地点での除霊活動はしばしば時空間に乱れが発生し、内部のモノ達は異空間で数ヶ月にわたって長く活動することもままあり、そういう生活を続けているのならば自然と肉体は鍛え上げられるだろう。

 

 ここで問題となるのは現実空間での時間の流れと、異常空間での時間の流れの差異だ。

 

 時間の流れが極端に歪んだ空間で例えば半年過ごしたとする。この間、現実世界では1、2週間たったとする。

 

 では除霊を追え、現実空間へ戻ってきた時、祓い手にはどれだけの時間の重みが圧し掛かるのであろうか。

 どちらの時間の流れが優先して適用されるのであろうか。

 

 答えは異常空間のそれが適用される。

 だからこそ異常空間内で蓄積された経験が、現実空間に戻って来ても肉体に刻み込まれているのである。

 

 こういった現象は時に深刻な時差ボケのような症状の原因ともなっており、かといってこれは時差ボケほどに呑気なものではなく、場合によっては精神疾患にも繋がりかねない。

 

 また、異常空間には肉体的に、そして精神的に有害な悪意溢れる妖気が満ちている場合が多く、これもまた祓い手の健全な社会活動を阻害する一因となりうる。

 

 そういった祓い手の数々の肉体的、精神的な問題を解決する為に各地には霊障専門の病院というものが存在し、この病院もその1つだった。

 

 晃はこのあたりの事情を知らない。

 ただ、よしおはこの病院の裏の顔を知っていた。

 

 ◆

 

 よしおと晃を一人の女医…工藤 雨子(クドウ アマコ)が依子の病室に案内した。

 

 彼女は霊障を専門とする医者だが、当然医師免許も取得している。依子は霊的な意味での植物状態であるため、通常のそれとは違った対応が必要なのだ。

 

 一般的な意味での植物状態とは大脳が機能不全に陥り、思考と行動が停止し、しかしその他の生命維持活動に必要な機能は活きているという状態を意味する。

 霊的な意味での植物状態とは大脳機能を含め、肉体的に停止する程の損傷を受けているわけではないのにも関わらず、目覚める事がない状態を意味する。

 

 これの原因は様々ある。

 それこそケースバイケースだ。

 よくある理由としては、魂が奪われているというパターンだ。

 

 魂には古今東西色々な解釈があるが、総じて霊的中枢を意味し、では霊的中枢は…というとこれは色々な説明を端折れば幽体を維持する為の心臓…2つ目の心臓といった所だ。

 

 肉体の生命維持活動に心臓が必要ならば、幽体の維持にも対応する心臓が必要であるというのは界隈の通説であった。

 

 乱暴な除霊の最たるは、敵対怨霊の霊的中枢を自身の霊力を持って破砕し、強制的に成仏…消滅させてしまうというものなのだが、これはよしおが最も得意とする所であった。

 

 除霊というか殺霊というようなこの手法は、基本的には推奨されていない。当たり前だ、例えばそれなりに酌量すべき事情がある殺人犯が居たとして、治安の為にこの犯人を殺害したといって褒め称える者がどれ程いるだろうか?

 

 悪性の霊体が悪性に至るには相応の理由があるもので、真の意味で悪である、悪でしかない…そんなモノは早々存在しないのだ。

 

 だからできるだけ対話を持って自主的にお帰りいただく…というような事が推奨されている。

 

 よしおも対話の必要性は理解しており、一応は対話をしようとはするのだが、霊的異常空間で自身の心の闇が露出することでちょっとしたことで発狂してしまうので、結局は除霊ならぬ殺霊という手段に至ってしまうことが多い。

 

 この辺の粗暴さがよしおが界隈からの危険視される所以でもある。

 

 ◆

 

 晃は病床で眠る母、依子を見て、うんともすんとも言わなかった。

 怒りもしなかったし、泣きもしなかった。

 そういった感情は既に抱き尽くしたのだ。

 

 依子はもう二度と目覚めないかもしれないという絶望的な状況に文字通り絶望して、周囲に当り散らして荒れた時期も晃にはある。

 だが荒れようとなにしようと、依子の快方には些かも寄与しない…という事に気付くまではそう時間が掛からなかった。

 

「現代医学では異常はないんです。ただ眠っているだけです」

 

 頬につたう黒髪ごと前髪をかき上げながら、雨子が静かに言った。腰まで伸ばした長髪の一本一本に彼女の霊力が充ちている。

 

 雨子の気だるげな視線がよしおに向けられた。

 その視線にはいくつかの言葉にはし辛い疑問が含有されている。

 

「…ところで…鈴木様。依子さんの事情について、晃君には説明をしましたか?」

 

 雨子の言葉によしおは首を振った。

 否定だ。

 

「晃君も普通の状況ではない事は分かってはいるみたいですが、詳しくは説明していません。僕もついこの間知らされたばかりです。説明するにせよ、視てからでなければ」

 

 よしおの言葉に雨子は頷いた。

 

「ある程度察しがついているのなら、そして鈴木様が事に当たるというのならば私からこの場で伝えましょう。晃君、この世界には科学的には説明が出来ない事が山ほどあります。いえ、今の科学では、といった方がいいのかもしれませんけど。これは冗談でもなんでもなく、世間では作り話、都市伝説のような類として扱われている…霊。そう、悪霊だとか怨霊だとか…そういうモノがいて、呪いもあり、妖怪だとか悪魔だとかも居るの。そしてそういうモノ、異常な状況へ対峙するべく日々研鑽を積んでいる人々もいます」

 

 晃は雨子のその言葉を鼻で笑い飛ばし…はしなかった。

 これはもう彼が“そういう経験”を幼少時からしてきたという事もある。

 

 また、バイトで“特殊な現場”で起こる奇妙奇天烈な事態にも直面して来た事があり、既に受け入れるための下地は出来ていた。

 

 雨子は話を続ける。

 

「貴方のお母さん…依子さんは非常に強力で、そして悪性の存在に襲われました。恐らく、魂か、それに近しい大切なものを奪われてしまっているのです。だから眼が覚めない。肉体的には問題はないはずだから、その何かを取り戻す必要があります。ただ…」

 

 ただ?と晃は先を促した。

 

「依子さんの魂を攫ったモノの正体が掴めません…。モノの発生には理由があります。往々にして、その理由を知る事が調伏…退治の有効な一手となる事も多い。ただ、今回の“それ”については少なくとも私の所属する組織については後手に回っています」

 

 忸怩たる風情で雨子は言った。

 

「少なくとも我々はこれまで“それ”に対しては効果的なアクションをとる事が出来ていません。むしろ、多くの被害を出す始末です…組織の上層部では“それ”…組織では“隠し鬼”と名付けられたバケモノに対しては、被害の拡大を懸念して手を退こうという意見すら散見される始末なんです…」

 

 更に、と雨子は続ける。

 晃はまだあるのか、とギシギシと軋みをあげはじめた自身の心の芯棒の音をきいた。

 

「隠し鬼は、依子さんに毒を与えています。それはいわば呪いの毒。獲物に対しての目印でもあり、同時に獲物を徐々に弱らせる為の…毒。…依子さんは、もう長くはありません。毒を取り除けないかと様々な霊的措置を施していますが、毒は意思を持ち、巧妙に姿を隠しています。目に見えない透明の毒の液体が、血液といった体液に混じって全身を巡り、探ろうとすればそれを察知し依子さんの体中を逃げ回ったり隠れたりしようとしている、と考えてください」

 

 晃はピキキ、という音をきいた。

 それは心の芯棒に明確に罅が入る音だ。

 

 だが雨子の宣告は非情を極めていた。

 

「……晃君も、です。肩の痣を以前見せてもらいましたが…それもまた毒。依子さんが亡くなれば、次は晃君の番です…」

 

 しんどいな、という諦念が晃の心身に浸透していく。

 心が完全に折れれば、その絶望は隠し鬼に力を与えてしまうだろう。

 

 ◆

 

 よしおはといえば、どこか眠そうな目で依子を見つめていた。勿論決して睡魔に襲われているわけではない。

 

 考えているのだ。

 

(様々な話を勘案すれば、依子は息子である晃君の為に身を投げ出し、犠牲となったのだろう)

 

(それはまさしく母の愛だ)

 

(自身の命より優先させる…それが愛でなければ一体なにが愛なのだろうか?そして、親の愛は無償のものなのだろうか?)

 

(いや、そうじゃないだろう。愛を受けるためには、受けるなりの振る舞いをする必要があるだろう)

 

(じゃあ、僕が親の愛を感じる事無く、物心がついた時に施設にぶち込まれたのは…)

 

 ――僕が彼等の子供として愛情を受けるに相応しい行動を取れなかったからか?

 

 懊悩がよしおの腹でぐるぐると渦巻き、回転し、粘り気を帯び、回転により摩擦が熱を産む。

 

 上手くいかない、上手く出来ない、上手く生きる事が出来ない

 

 なるほど、とよしおは思った。

 良き夫になれなかったのも当然だ、と。

 なぜなら良き子にもなれなかったのだから。

 子供は成長し大人となる。

 夫となるには大人でなければならない。

 だが、子供の段階で成長に失敗していたらどうなのだ。

 夫として上手くいかないのも当然ではないのか?

 

 自己承認のデフレ・スパイラルである。

 

 妬ましい、とよしおは思った。

 黒く燃え盛る嫉妬の焔が、大規模な山火事のようによしおの精神世界を延焼させている。

 

 ここで眠る女性は、依子はよしおが知る限り良き親であった。良き親であるなら良き大人であろう…よしおは単純にそう思う。

 

 教えを受ける必要がある、とよしおは考えた。

 “良い人間”になる為には一人の力では無理だ、だから先人から、先輩から教えを受ける事でヒントを得よう、とよしおは考えたのだ。

 

 ――僕は自身の至らなさゆえに失敗した。しかしそれを奇貨として成長し、同じ失敗を繰り返さないことが肝要だ

 

 ――成長だ。僕は成長をする必要がある。幸せになる為に。過去失敗したのは僕が未熟だったからだ。この女を救い、愛を教えて貰い、それを糧とする。一歩進む…いや、二歩も三歩も進むのだ。邪魔するモノはなんだ?僕が彼女から愛を教えて貰う為の…障害、は……

 

 よしおの眼がこれ以上ないほど見開かれ、自身の明るく幸せな未来構築を邪魔しようとするナニカを探り…

 

「お、前ぇぇぇ、かああ」

 

 ぎょろり、とよしおの瞳が依子の体内で蠢くナニカを捉えた。

 

 

 ◆

 

 雨子は、そして晃は異変に気付いた

 自身の腕、首回り、余さず鳥肌が立っている。

 窓の外でギャアギャアと鳥が騒いでいた。

 

 晃も同様だった。

 彼の場合は更に顕著で、膝がガクガクと震え、もはや立っている事すら叶わない様子だ。

 

(何!?何が来たの?まさか、依子さんをこんな状態にした……ッ!?)

 

 雨子は自身の優れた霊眼で、目の前で灼熱の泥沼の大海が荒れ狂い、触れれば焼けて爛れる巨大な津波が自分を襲おうとしている光景を幻視した。

 

 雨子と晃の視線が同時に一点を見る。

 そこには正気を削るような気配を迸らせるよしおがいた。

 

「お、前ぇぇぇ、かああ」

 

 内臓を吐き出すような悍ましい低音でよしおが言う。

 

「ひっ……私じゃない!私じゃないです!」

 

 何が“私じゃない”のか、そもそも何を責められているのかも分からないままに雨子は否定した。

 晃も必死で首を振っている。

 

 よしおはそんな2人に構わず、ボッという大気をブッ貫く音を立てて腕を突き出し、依子の腕を握り締めた。

 

 晃は恐怖に支配されながらも、あわててよしおの体に縋りつく。まるで鉄で出来た人形のような感触に驚きながらも、晃は母への愛情を以てよしおへの恐怖を超越した。

 

「や、やめてくれ!!母さんになにをするんだッ!や、やるなら俺をやれ!」

 

 だがよしおは晃を一顧だにしない。

 よしおは依子の腕を掴むと同時に、自身の霊力を…極めて粘着質で陰湿で偏執的なトリモチのような霊力を依子の全身に流し込み、自分の目的…愛とは何たるかを教授してもらうという目的を妨げる不届きな呪詛を走査(スキャン)した。

 

 そして速やかに異物を察知し、“それ”を絡めとる。

 

 よしおが依子の腕を握っていた時間は数秒にも満たず、その間によしおは依子を蝕んでいた呪いの毒を自身の霊力で捕捉し、捕獲してしまったのだ。

 

 ◆

 

 よしおの掌中に収められた呪いは形を崩し、黒いモヤとなって病室に散った。晃の肩口からも黒いモヤが噴出し、周囲のモヤへと混ざりこむ。

 

 そうしてモヤは病室をクルクルと回り、巡る。

 三人はまるで回転する闇の壁に閉じ込められたかのような感覚を味わっていた。

 

 雨子と晃が周囲を見渡した。

 逃げ場所は、ない。

 

 よしおは自身の掌を見つめている。

 火傷のような痕があった。

 よしおの精神はこの霊的異常空間に於いて既に煮えたぎり、しかしそれを上回る理性が狂態を抑えていたため、正確に事態を把握する。

 その危険度の高さも。

 

「晃君、雨子さん。僕から離れないでください。掌に怪我を負いました。僕の防護を貫くというのは油断なりません」

 

 極めて冷静で、理性的なよしおの口調に2人は僅かな安堵を覚え、雨子も晃もよしおにその体を密着させるほどに体を寄せた。

 

 雨子はもとより、晃も周囲のモヤからは吐き気をもよおす悪意を知覚しており、触れようものならただでは済まないと感じている。そこへきてよしおの頼れる姿は、闇夜の嵐の中、方向を見失った船にとっての灯台に等しい心強さを与えた。

 

 だがよしおはこの時、1つ、2つの死線を越えなければ勝利はない事を感得していた。

 多くの祓いを成功させてきたよしおの戦歴…そこから齎される勘というのはそれなり以上に信用が出来る。

 

 ――相手は、手強い

 

 バンバンバンバン、と周囲の壁が叩かれる音。

 ラップ音である。

 霊異の現出時には奇音、怪音を伴う場合が多い。

 

 やがて黒いモヤは三人の眼前に収束し…人間の頭部…のようなものを形成していった。

 ようなもの、というのは、それを人間の頭部と表現するにはやや憚りがあるからだ。

 

 何せ顔の下半分を占める程に巨大な口はあるものの、目もなければ鼻もない。耳も髪の毛もない。

 かわりに、人の顔が口の部分以外に無数に表出していた。

 

 ゲタゲタゲタ、と気味の悪い嗤い声が響く。

 “それ”の頭部に表出している様々な年代の、様々な性別の人の顔が同時に笑い声を上げている。

 

 だがこの時、その場にはラップ音や不気味な哄笑以外にも音が鳴っていた。

 

 ギギギギ、という音。

 何かと何かを強く擦れ合わせたような音。

 歯軋りの音。

 

 よしおの、歯軋りの音が響いていた。

 

 ◆

 

 雨子は戦慄していた。

 形を成した呪いが放つ妖気の強大さに。

 

『巫祓千手』の歴史上、初めて隠し鬼に接触した時の記録は、組織にその影を未だに落とし続けている。

 なにせ名門逆月家の嫡男が敗死したのだ。

 

 逆月といえば、祓い手界隈では知らない者の無いほどの名門中の名門である。その歴史を遡れば遥か平安に遡り…

 

 とまあ、とにかく歴史のある名家なのだが…

 

(こ、こんな!これほどとは!恐らく…隠し鬼は、自身の力を隠蔽していたのね…必要以上に歴史に姿を見せず、その力の片鱗を実際に見せる時は…対象を殺す時…)

 

 雨子は自身の髪の毛に霊力を通す。

 

 すると髪の毛はよしおと晃を護るように宙にぶわりと広がった。工藤 雨子の霊髪術による護りは主に物理的な強固さで有名だ。ほんの2、3秒ならば現行のサブマシンガンの射撃にも耐えうる。

 

(でも、アレからどれだけ身を護れるかは…。なんとか逃げる時間だけでも稼げないかしら…)

 

 雨子は全身からべたついた脂汗を流した。

 その汗の成分は水分ではなく、恐怖、焦燥といった負の感情だ。

 

 ヒヒヒヒ、ケケケケ、という嗤いが何重にもハウリングし、しかし嗤いには極めて強い悪意と妖気が込められており、迂闊に手を出せば命を失うか、あるいは更に質の悪い事になる…そんな予感を禁じえない。

 

 雨子は彼我の実力差を瞬時に理解し、しかし諦める事はなかった。確死の困難を前に勇を以て臨む、黄金の精神が雨子にはある。巫祓千手の構成員は全員が全員そうだとはいわないが、多くの者は市井の安寧の為に身を差し出す覚悟を持つ。

 

 だがその覚悟は全て無駄なものとなった。

 

『貴゛ィ゛様゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ッ!!!なにがッ!!!!!可笑しい!゛!゛!゛!゛』

 

 大音声(だいおんじょう)の怒声と共に、よしおが右ストレートを異形の頭部に叩き付けたからだ。

 霊的戦車砲とも呼ぶべきよしおの右拳は、侮辱への烈怒という火薬を爆発的推進力として炸裂し、異形の頭部を木っ端微塵に粉砕した。

 

 晃と雨子はぽかんと口を開けて、まるで時がとまったかのように停止していた。

 

 だが、経緯はどうであれ一先ず呪い…依子にこびりついた印は消滅させる事が出来た。

 奪われた魂が戻らない限り依子の意識もまた戻ることはないが、少なくともこれで“毒”により時間経過で依子が死ぬ事はなくなった。

 

 戦端が開かれた際、よしおは確かに死闘を覚悟はしていたが、それはあくまで標準の彼を基準とした戦力評価である。狂した彼を基準として考えるとしたら話は別だ。

 本体ならば兎も角、端末のような存在に不覚を取る事はまずありえない。

 

 ◆

 

 よしおは耐え切れなかったのだ。

 嘲るような哄笑に。

 

 ――真っ当な人間となり、幸せを手にし、明るい未来への階に足をかけるというのはそれほどに可笑しいのか

 

 ――真実の愛がどんなものかを知る、それは幸せになる為の前向きなチャレンジじゃないのか

 

 ――俺のような男はずっと下を向いて生きろと、それが相応しいと、そう馬鹿にするんだな?

 

 勿論、呪いを凝縮した異形の頭部はそんな事は考えていない。よしおの被害妄想である。

 

 これはどちらかというとセキュリティのような存在だ。隠し鬼のマーキングを外そうとした者へカウンターを加える。その際に恐怖を与える事で隠し鬼本体を更に強める…筈なのだが、この機能がよしおに対してはマイナスに働いた。

 

 対象の精神の均衡を崩す呪いの哄笑は、雨子はもちろんよしおの精神の均衡も崩したのだが、よしおは舐められる事に対して病的な拒絶反応を示す質があり、これは暴力という形で表出される。

 

 日常生活では理性がそれを抑えるのだが、霊的異常空間はよしおの心の闇が理性を上塗りしてしまう。

 

 そんな状況で相手の言動がよしおの被害妄想を刺激してしまった時、よしおは理性を失った狂犬と化すのだ。

 あえて欠点を挙げるとすれば、この状態を能動的に切り替える事が出来ないという事であろうか。

 

 あと、会話が通じなくなる事だ。



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鈴木よしおと隠し鬼⑤

 ◆

 

 呪いの端末1つを魂魄悉く粉砕撃滅し、浄化せしめるには充分すぎるほどの膨大な霊力が込められた怒りの鉄拳は、“隠し鬼”の分体にとっては小恒星さながらの熱と光に感じられたであろう。

 

 呪いの中核、霊的中枢に叩き込まれたよしおの霊力は0.013秒…刹那の秒数を費やし、収束、拡散、爆裂した。

 

 もはや怨嗟の声をあげる暇(いとま)もない。

 

 依子と晃に刻み込まれた呪いの印は消えてなくなった。

 だがこれで一件落着…とはいかない事はその場の者達全てがわかっている事だ。

 しかし、一先ず依子と晃の生命がただちに脅かされる事はなくなった。

 

 ◆

 

 突如して狂を、凶を発したよしおに晃と雨子は圧倒された。

 その背に2人は大きな安心感を覚える。

 

 命を以てして時間稼ぎも出来ないだろうと思われた凶悪な呪いに、よしおは己の拳1つで対峙し、祓ってしまった。晃も雨子も、よしおが男ではなく漢であると分からせられてしまった。

 

 よしおの背は汗で濡れ、ワイシャツには染みが滲んでいる。

 そして荒い息遣いに上下する背に隆起する凶悪な…背筋(ヒッティングマッスル)。

 雨子は、それが魅せるためだけのハリボテのそれではなく、敵を殴り滅ぼす為の極めて実戦的なそれだと理解する。

 

「あ、あの…汗を…お拭きしましょう、か…」

 

 雨子は自分でも何を言っているのか分からないまま、その場に全くそぐわぬ妄言を口に出した。

 命懸けの危機に直面し、体を張って護ってくれた者の背というものは年齢性別関係なく魅了する。

 

 ただ雨子の場合は、よしおを労う気持ちが9割。

 残り1割は色欲だ。生命を脅かされた事で性欲が沸きあがった為だ。

 

 この時のよしおの精神状態は平時のそれへと立ち返り、瞳に灯っていた煌々と燃え盛る怒気は鎮火し、いつものどこかボウっとした焦点が合ってるのか合ってないのだかわからないそれへと戻っていた。

 

 雨子の妄言に軽く小首をかしげたよしおが口を開く。

 

「いえ、結構です…。すみません、騒がしくしてしまって。しかしどうやら職員の人が異常に気付いたようで…」

 

 よしおが言うと雨子の耳にも晃の耳にも、多くの足音が聞こえてきた。

 足音からは多分に狼狽と焦燥の気配が混じりこんでいるようにも思える。

 

 ◆

 

 雨子と同じく東陰病院の医師である滑川 啓(ナメリカワ ヒラク)は、その41年の生涯でも三本指に入るほどの危地に在ると感得していた。

 

 それは独善的で怒りと悲痛に満ち、極めて強力な自責な想念…つまりよくわからない霊力だか妖気だかわからないモノがいきなり発生したからだ。言うまでもなく、よしおの霊的激昂が病院中を伝播しただけである。

 

 ――呪いの暴走!?

 

 啓は眼を見開き、脂汗を全身から噴出し、そしてデスクにしまっていた遺書を取り出して懐に忍ばせた。

 

 啓の脳裏を1人の患者が過ぎる。

 

 なにが理由でそんなことになったのかは皆目見当がつかないものの、“アレは外界に出してはならない”という使命感が啓の悴けた(かじけた)心に喝を入れる。

 

「結局彼女の呪いを解く事はできなかった、でも僕は僕の責務を果たさねばならない」

 

 啓はきりりと覚悟を決め、自室を後にした。

 

 ◆

 

 彼は高難度の解呪を専門とする特殊な呪術医である。敢えて中途半端な解呪の儀式を行い、自身に呪いを受け、己の心身を蝕ませ、適応させ、その肉体を患者に食させる。

 

 彼は祝詞を唱えたりだとかする通常の解呪の儀式ではどうしようもない強度の呪いを解く時に駆り出される。

 

 何十何百という呪いを受けてきた故に、彼の容貌は酷く醜い。

 全身は吹き出物に覆われ、髪も所々抜け落ちている。アバラには骨が浮き出ており、病的な痩せ方をしている。瞼も腫れており、指の爪は全て罅割れていた。

 

 しかし、この病院に彼を侮蔑する者は1人も居ない。彼が偉大なドクターである事は周知の事実であったからだ。

 

 しかし、その彼をして依子の治療は上手く行っていなかった。

 と言うのも依子に刻み込まれた呪いは、啓がこれまで対峙してきたそれとは些か毛色が違ったからだ。

 “隠し鬼”は鬼撫の血に惹かれ、鬼撫の血脈のみを付け狙う…ゆえに、啓ではどうあがいても呪いを受ける事が出来ないのだ。

 

 かといって力尽くで…というのはこれはこれで中々難しい。

 よしおは依子の呪いを極めて乱暴に、直接捕らえたがこれは普通ならやらないし、やってはいけない。

 

 なぜ解呪の儀式のようなモノがこれまで伝えられているのか、それは力業で解呪をするというのは極めて危険な行為だからだ。

 

 気が狂った闘犬を捕らえるときに、最初から敵意を露にして踊りかかる間抜けがどこにいるだろうか?

 普通は罠をはったり、網をつかったり、麻酔銃なりを打ち込んだりする。

 

 よしおがやったのは人間の胴体を軽く食いちぎる事が出来るほど巨大なピットブルを相手に、真正面から奇声をあげながら襲いかかることに等しい。

 

 ◆

 

 啓が死を覚悟して依子の病室を訪れた時、既に凶気とも言うべき妖気の波動は消え去り、そこには3人の男女が居た。1人は見知った者だ。

 同じように異変を感じ取った職員達が駆け込んでくる。

 皆いずれも大なり小なり命を懸けてこの異変に臨む猛者達である。

 

「工藤先生…これは一体…?」

 

「はァッ…!あ、私は奴を知っている!よしおだ!…鈴木…よしお…」

 

「何、あれが!?なぜここに!?彼が普段使いしている病院は狛江にあるという話じゃなかったのか」

 

「まさか襲撃か!?2年前の遺恨を忘れていなかったということか!それもこれも上がいたずらに挑発するから…」

 

 啓が代表して雨子に事情を聞いた。

 啓はいざという時は己の肉体を霊的呪術爆弾と化す覚悟を決めてきたのだ。

 これは自身の肉体を餌として、その身を蝕む様々な呪いをまとめて敵対者に叩き付けるという業である。

 

 ちなみに彼がそれを実行していた場合、病院から半径150mは高濃度の放射能に汚染されたような状態になってしまっていただろう。

 それは局所的な霊的原発事故といっても過言ではなく、巫祓千手はその責任を問われて組織解体の憂き目に遭っていた事はほぼ間違いはない。

 

 滑川 啓は誠実な性格で勇気も持ち合わせた好漢ではあるが、厭な意味で覚悟が決まっている点がやや欠点と言える。

 

 ◆

 

 必死の形相で駆けつけてきた職員達に、かくかくしかじかと雨子が事情を説明する。

 

 彼等は一定の納得は見せたものの、それでもなお、職員達はよしおへの警戒を解かなかった。

 

 それも当然である。

 

 巫祓千手には特記戦力とも言うべき3人の“姫巫女”と呼ばれる少女達がいたのだが、よしおは2年前に非公式の会談中、このうちの1人を半殺しにしたからだ。

 

 勿論いきなり暴行に及んだわけではなく、最初は腕比べというか腕試しのような形でよしおの力を組織に披露するという話だった。

 そこである程度の結果を出せれば、よしおは晴れて裏とはいえ国家公務員になれたのだ。

 

 だが試験官を買って出た姫巫女の少女の1人が、必要以上の力の行使、そしてよしおを本気にさせる為に必要以上の挑発をしてしまった。

 

 よしおは少女を殺害する方針に心を切り替え、花のかんばせを鉄拳で叩き潰そうとしたその時、残りの2人の姫巫女、そして彼女らのボディガードに阻まれたのだ。

 

 凶行に至るまでの経緯には情状酌量が大いにあるため、よしおが懸賞金をかけられるような事はなかったものの、巫祓千手の最上層部を殺しかけたという事実は彼が危険人物として認定されてもやむを得ないものであった。

 

 とはいえその事実を組織に属する全ての構成員が知るという事はなく、大部分は“鈴木よしおという男と組織の上層部で結構大きいトラブルがあった”くらいの認識だが。

 

 しかし、それが伝聞されていくうちに妙な厄気を帯びるようになり、よしおが巫祓千手に恨みを抱いているとかそういうモノに捻じ曲がって伝わってしまってる。

 

 よしおほどの祓い手であるにも関わらずスカウトが来ない理由はこういう事情による。

 

 別によしおが悪いわけではないが、相手は一応国の組織であり、そういった者達はメンツをことさら大事にする。

 

 かつてのよしおのクールさがもう少し残っていたならば、よしおはその辺の暗黙の事情…了解も容易くくみ取り、少女を激昂させずに顔を立てて力を示すことくらいは簡単だっただろう。

 

 しかし当時のよしおには無理な相談であった。

 今のよしおにも無理な相談だ。

 未来のよしおにも無理な相談…かもしれない。

 

 ◆

 

「事情はわかりました。信じがたい事ですが…」

 

 啓は依子を視て、その身を蝕む呪いが跡形もなく消え去っている事を理解した。

 そして、深々とよしおに頭を下げる。

 他の職員達も同様だ。

 

「ですが、呪いはあくまでも印に過ぎません。そして、それを解いたとなれば…あるいは次に狙われるのは鈴木さんかもしれません…」

 

 ここまで言った所で啓は詮無き事かと考え直した。

 

 なぜならよしおのどこか覇気のない瞳の奥には、何か名状し難いモノが渦巻いていたからだ。

 

 ぽつりとよしおが呟く。

 

「“隠し鬼”…といいましたか。工藤さんにお伺いしました。貴方方は少なくない犠牲を出しているそうですね。どうですか、僕に仕事を任せませんか。こちらの彼…灰田君の事はご存知ですね、そちらの女性の息子さんです。僕は彼の…そうですね、上司なので。僕にとって関係ない話でもないのです。お安くしておきますよ…その代わりに“場所”を手配して頂いたり、そういうサポートをして頂きたいのです」

 

 どこか虚ろな瞳で微笑みかけるよしおは大層不気味で、だがこれは別に含むところがあるわけではない。

 

 よしおなりの愛想笑いだ。

 

 瞳が虚ろなのは仕方ない。

 彼は四六時中軽度の鬱状態にあるためだ。



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鈴木よしおと隠し鬼⑥

 ◆

 

 よしおと『巫祓千手』との話は思った以上にスムーズに進む。

 最終的にはとりあえず電話である程度骨子を固めて、最終的にはそれなりに立場がある者と対面するという話になった。

 

 巫祓千手にとってよしおは余り関わりたい相手ではない、ただ、遺恨があるかといえばそれはまた違う。

 

 だが“隠し鬼”については話が別だ。

 巫祓千手にとって幾度も苦渋を舐めさせられてきた妖物、遺恨などは掃いて捨てる程にあった。

 

 それをよしおが掃除してくれるというのなら渡りに船だった。

 

 よしおの条件…場所の用意、医療班の準備などの段取りを組む事は問題ないし、報酬の5000万という額も全く問題はない。

 

 むしろ少なすぎるため、なにか裏があるのではないかと疑ったほどだった。

 

「ええ、では直接お会いしてお話を伺うということで。そうですね、分かりました。では病院の方でお待ちしていますよ」

 

 よしおがそういって電話を切った。

 よしおはこの後、巫祓千手の者が病院にやってくるということをその場の者達に伝え、しかし場所を移るということはせずにその場にあった椅子にどっかと座った。

 

 依子からは確かに印は外れたが、それでも血の匂いに惹かれて“隠し鬼”が急襲してくるかもしれない。

 それを警戒してその場に残ろうというのだ。

 

 ◆

 

「本当に有難う御座います…」

 

 晃が改めてよしおに礼を言うと、よしおはどこか気だるげに頷いた。

 疲労がたまっているのだ。

 怒りの後には決まって虚無感に包まれる。

 

 ボウっとしているよしおに雨子が心配そうに話しかけた。

 

「鈴木さん…何か飲まれますか?」

 

 よしおは頷いて珈琲を頼んだ。

 少し待ってて下さいね、とその場を離れる雨子の背を見送り、よしおの視線が啓へ向けられる。

 

 無遠慮な視線が自身の吹き出物だらけの顔に向けられるのを見て、啓は苦笑した。

 

「気味が悪いでしょう?」

 

 よしおは首を横に振った。

 否定だ。

 

「…貸しをつくりたかったんです」

 

 よしおの言葉に啓は小首をかしげた。

 

「貸し…ですか」

 

 ええ、とよしおが続ける。

 

「巫祓千手さんの内部の人に貸しを作って置けば、後から色々と助けて貰えるかもしれないでしょう?それはただの出来物じゃない。呪いの残滓です。貴方だって放置はしておきたくないでしょう。だから手を貸せないものかとおもって少し観察してしまいました。申し訳ない。良くないものがもう全身にくまなく回っていますね。僕ではお力になれない様です」

 

 そういってよしおは頭を下げた。

 無礼で一切の駆け引きもないよしおの言に、啓は苦笑を深めた。そこに咎める雰囲気はない。

 

「中々強かなのですね。…私は、そう、噂もあって…あなたのことをもう少し乱暴な方だとおもっていましたが…」

 

 よしおは口の端に僅かに笑みを浮かべ、啓の言葉を肯定も否定もしなかった。

 

 晃は不思議そうな目でよしおを見ている。

 鈴木よしおという男は非常に物静かで、そして真面目な男だと晃は考えているからだ。

 乱暴、というのはどうにもイメージにそぐわない。

 

 よしおの暗黒面を知らない晃ゆえの疑問と言えるだろう。

 

 ◆

 

 よしおは理解している。

 いつまでもウジウジウジウジ思い悩む事の愚かしさ、情けなさを。

 

 こんな惰弱な精神の男を愛せる女が一体どこにいるというのだろうか?

 男として、いや、人間として成長をしなければいつまでたっても今のままだろう。

 

 そんな事、よしおにだって分かっているのだ。

 だからこそある意味で裸の心と心、魂と魂でぶつかり合う“この仕事”を続けているのだ。

 

 “この仕事”は人の死に様に多く直面する。

 そして死に様とは生き様の帰結であり、生きるという事はすなわち成長を積み重ねていくという意味でもある。

 

 どのような無能であれ低脳であれ、生きている以上は些細にせよ僅かにせよ成長を重ねていっている事には違いない。

 

 であるならば、数多くの死に様に直面する事で、それだけ多くの生き様…成長の軌跡を見る事が出来るではないか。

 

 それがよしおの考えだ。

 よしおは手本を求めている。

 成長する為の手本を。

 

 ……もっとも、霊的異常空間におかれたよしおは非常に不安定なものとなってしまうので、毎回毎回成長もクソもなく暴力で物事を解決してしまうのだが。

 

 ともあれ、よしおとしては自身の不甲斐なさを理解しながらも前へ進んで行きたい、人間として成長していきたいという前向きかつ健全な願いを抱いているのだ。

 

 善良、誠実。

 それが鈴木よしおの代名詞と言えよう。

 

 ◆

 

「鈴木さん、どうぞ。ええと…微糖と無糖、どちらにされます?」

 

 雨子が戻って来てよしおに缶コーヒーを手渡す。

 よしおは礼を言って無糖を選んだ。

 そして啓とよしおの間で何かしらの交流があったことを空気から察知し、さらにそれが決して悪いものではなかったことも感得した。

 

 工藤 雨子は自身の毛髪を通して周辺を感知する

 事が出来る。この感知の範囲、対象というのは非常に幅広く、所謂“空気”を読む事も出来る。

 要するに、『なんだかこの2人空気悪いな、喧嘩しているのかな』みたいな雰囲気の察知を高精度で行う事が出来るのだ。

 

 また硬度を操作し、質量のある霊異現象にも白兵戦で対応する事ができ、応用範囲は広い。

 

「滑川先生は非常に優秀な呪術医さんなんです。それこそ組織でも右に出る者は居ないほどの」

 

 雨子が言うと啓はやや頬を赤らめて俯いた。

 しかし否定はしない。

 啓自身が自分の力量の高さを認めているからだ。

 これは増長ではなく自負である。

 

 よしおはでしょうね、とそれを認める。

 

「仕事に誠実な人だと感じました。僕はそういう人は好きです」

 

 よしおの言葉は短いが、啓も雨子もよしおがおべんちゃらを言うタイプでは無い事は何となく分かっていたため、柔らかい空気がその場に広がる。

 

 そこで雨子のスマートフォンの着信音が鳴った。

 ピヨピヨと言うヒヨコの鳴き声だ。

 雨子はやや頬を赤らめながら、一同に断わりをいれて電話に出る。

 

「はい、はい…え?姫巫女様が…ですか!?ええと…それはどちらの…西の姫巫女様ですか…」

 

 西の姫巫女。

 それは巫祓千手の特記戦力ともいうべき三巫女の1人だ。

 西、東、南、それぞれの方角に対応した巫女が存在しており、北には座主と呼ばれる最上位者が鎮座する。

 

 啓はあちゃあ、と額をおさえた。

 他の者達もやや表情が曇る。

 これまで何度も苦渋を舐めさせられた“隠し鬼”の祓い、それを外部の者に任せるというのはこれはもう組織のメンツに関わることで、そうなれば口止め諸々含めて組織の上位者が出張ってくるのはそう可笑しい事ではない。

 

 それがたとえ姫巫女であっても。

 

 ただ、認識されている問題と認識されていない問題…そしてよしおの意思。

 これら3つの問題がある。

 

 1つは西の姫巫女は三巫女の中でも一番気性が荒いという事。

 

 2つは…かつてよしおが半殺しにした姫巫女というのが当の西の姫巫女であったという事だ。

 

 最後に3つ目。

 

 雨子の感覚器官…髪の毛がその場の異常を察知する。ぎくりとよしおを見てみると、よしおの目が爛々と輝いていた。

 霊力が励起しているのだ。

 

「西の姫巫女様ですか。以前…そう、奇縁で巫祓千手に声を掛けられたとき、僕の力を試すとかでいきなり殺そうとしてきた人ですよね。ただ、あの時彼女は謝罪をしてくれました。僕もそれを受け入れ、激昂した事を彼女に謝罪しました…あの件はお互いに水に流したと僕はおもっていました。……何故僕に会いにくるのですか。良い関係ではない事は巫祓千手さんもご存知の筈です、が…」

 

 よしおの口調は至極冷静だった。

 しかし先程までその場に漂っていた柔らかい空気は何処かへ吹き飛んでいってしまった。

 

 ぎょろぎょろとよしおの目がその場の全員を走査する。

 

 晃

 雨子

 啓

 そして他の者達

 

 それは敵か敵以外か。

 敵となるならその危険度はどれ程か。

 それらを量る目だった。

 

 この世界の誰もが、自分を騙そうとしている、罠にかけようとしている…そんな危険もありうる、と本気で考えている臆病で被害妄想に塗れた狂人の目だ。

 

 よしおはこの時、巫祓千手が晃を使って自身を罠にはめた可能性を真剣に検討としていた。

 よしおを消耗させた上で、そして…という可能性。先ずありえない可能性を考えている。

 

「す、鈴木さん!違います、私達は」

 

 にわかに剣呑な気配を帯びてきた空気を察知した雨子はあわててよしおに話しかける。

 

 

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「動くな」

 

 しかしよしおの眼を見た雨子はそれ以上動く事ができなくなってしまった。

 それは晃も、啓も、他の者達も同様だ。

 

 殺気とまではいかないが、非常に不穏な気配が不可視の鎖となってその場の者達全てを縛鎖した。




工藤雨子イメージ

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鈴木よしおと隠し鬼⑦

 ◆

 

(お、おっさん……)

 

 晃はよしおから敵対的な態度を取られた事で、大きなショックを受けた。だがそれとは関係なく、息苦しく、体が重く…要するに金縛りのような状態になった事に驚きを隠せない。

 

 晃は自分の体を必死で動かそうと試みたが、まるで鉛のように重い体は微動だにしない。

 

「灰田君。潔白ならば動かないでくださいね。僕は君が嫌いではないです。仕事は真面目にやってくれていますし、いざ危険な状況になれば矢面に立つガッツもある。僕は君のバンドの曲を聴いたことがありますが、なんというのか…フォークとロックが融合したような、哀切感溢れるような曲の数々、僕はとても気に入りました。君は招来きっと凄い歌手になるのでしょうね。今でも十分凄いですが」

 

 しかし、とよしおは続けた。

 

「僕を罠に嵌めてここへおびき寄せたのかどうか?僕はそれが気になっています。もし裏切りだったら、僕は酷く傷つく。酷く傷ついた僕は、余り冷静ではいられないかもしれない。裏切りへの怒りの強さは、相手をどれだけ近しく、親しく思っているかに比例すると僕は思います」

 

 晃はよしおの目を見て、その言葉に嘘はないと感じた。

 

(おっさんは本当にそう思ってる。俺達の曲が好きで、俺の仕事態度に好感を持って…でももし俺が裏切り?をしていたら、俺を殺す)

 

 世間ズレして異常なよしおの思考を垣間見た晃は、しかし嫌悪感を持つことはなかった。

 不器用なおっさんだな、と思うだけであった。

 

 その余裕は自身が潔白であるがゆえなのだろうが、これまでも何度かよしおと仕事してきた晃には、よしおが異常な暴力嗜好者ではない事が分かっているというのが理由としては大きい。

 

(おっさんは…殺さない理由を探しているんだろうな)

 

 なんとなく、晃はそんな事を思った。

 

 ◆

 

(巫女様と彼の間に諍いがあった事は知っていた。しかし…表面的には解決したとは言え、まさか諍いを起こした当人がやってくるとは…本部は何を考えているのか…)

 

 啓が内心で歯噛みする。

 勿論表情には出さないが。

 

 そんな事を考えている間に、よしおが話を続けた。

 

「これでも僕はこの病院の皆さんの事を尊敬していますし、灰田君の事も同じ会社で働く仲間だと思っています…」

 

(ほら、殺さない理由探しだ)

 よしおの言葉に、晃は内心で言葉を返す。

 

「だからこそ、裏切りであってほしくないのです。そんな事があったら僕はとても悲しくなってしまう。人間を信じられなくなってしまいます。だから裏切らせないようにしようと考えました。つまり、裏切るだろうと確信した瞬間に殺害しようと思ったんです。行動に出る前に物理的に行動できなくさせてしまえば、それは行動しなかったも同然ですから。内心でどう思っていようと、裏切りという行動にさえ出なければ良いわけです。所謂、予防殺害です。しかし…それでいいのか…僕は悩んでいます」

 

 良いわけないでしょ、と雨子は思った。

 良いわけないだろ、と晃は思った。

 良いわけない、と啓も思った。

 

 ・

 ・

 ・

 

 どういう神経をしていればそういう結論が出るのかは甚だ謎だが、よしおの生来の善性と後天的に植えつけられた猜疑心が酷い化学反応を起こした結果、“こうなってしまった”と言う事だけは言える。

 

 その場の者達をそれなりには尊敬をしている、灰田 晃の事も同僚として好感を抱いている…そんな者達に裏切られるというのは頷ける話だ。

 

 しかし、そういう好感を抱いている者達でも裏切る可能性が0というわけではない、であるならば、裏切ったと判断した時点で殺害してしまえばいい、そうすれば裏切りという行動自体がチャラになる…という乱暴な理屈を納得できるものはそうはいないだろう。なにより、よしお自身がその決断を下すことに抵抗を感じているのだ。

 

 よしおの歪んだ合理が狂った結論を導きだし、よしおの正気がそれを掣肘(せいちゅう)している。

 正気と狂気がよしおの精神世界で危うい綱引きを繰り広げていた。

 

 ただ、よしおは実際に巫祓千手の上層部…具体的には西の巫女から普通ではありえない仕打ちを受けている。

 勿論よしおはそれに対してケジメはつけているが、界隈ではよしおの過剰防衛だという声も少なくは無い。

 

 確かにうら若い少女の顔面に鉄拳をぶち込んで、鼻を圧し折った挙句にトドメをさそうとしたよしおの行動は、事情をよく知らない者からしたら乱暴に見えなくもない。

 

 心得のある者が数名、よしおを実力をもって制止したものの、もし殺害に成功してしまっていたら、よしおは今この場に居なかっただろう。

 

 衆寡敵せず。巫祓千手が組織としてよしおと敵対したのならば、潰されるのはよしおの方である。

 

 ◆

 

 ややあって、病室のドアを控えめにノックする音が聞こえた。

 

 はい、とよしおが律儀に答えると、ゆっくりとドアが開く。

 この時よしおは先手必殺の境地に居た。

 ほんの僅かな敵意でも感じたならば、抵抗を許さず五体をバラバラに引き千切ってしまう積もりだった。

 

 そしてこの時点で感じるものは強い隔意だ。

 それは敵意とは言えないが、手合わせといういわばトレーニングに毛の生えたようなレクリエーションで、殺意が多分に込められた攻撃をされたよしおからしてみれば、決を下すに十分な感情であった。

 

 よしおは右手が拳を形作り、瞳からは見る見る温度が失われていく。

 怒りが敵意に、敵意が殺意に、そして、殺意が破壊力へと変換される。

 

 その場の者達…啓や雨子らは、明らかに殺る気のよしおを止めようにも、肝心の体が動かない。

 よしおの殺意の縛鎖はいまだに病室中の者達の身動きを封じていた。

 

 よしおは彼等の意識ではなく肉体を()()()()()のだ。

 これは殺気を飛ばし慣れている者にとっては常識ではあるが、“動けば殺す“という分かりやすい意思は生存本能に直接作用し、肉体強度がよほど高い者でなければ意思に関わらず身動きを封じられる。

 

 裏社会の喧嘩殺法でよく見るやり口で、余り上品とは言えないがよしおは祓い手として誰かに師事した事はないため、これはもう仕方が無い。

 

 ◆

 

 ドアが開いた瞬間、よしおはチーターの最高速度に並ぶほどの速さで飛びかかった。

 よしおの位置からドアまでは約3.5m。

 この距離を0.09秒で詰め、その勢いのままに右拳を放ち…

 

 そして、少女の眼前で拳を止めた。

 

 正拳突きの風圧が少女の茶色の髪の毛を後方へ吹き流す。

 

 制服を来た少女…高校生、西方を護る姫巫女こと茜崎 陽(アカネザキ ヨウ)は盛大に泣きべそをかきながら呟いた。

 

 

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「な、なんでぇ…?」

 

 陽が隔意を持つのも当然である。

 隔意とは『その人に対し打ち解けない気持ち』であり、たとえ自身に非があったとしても、鼻の骨を殴り潰され、ましてや殺されかけた相手と易々打ち解けることが出来る者などいようか?

 

 さらに、一応その件はよしおとの間でも決着はついたはずだった。であるのに、訪問ののっけから拳で出迎えというのは“なんでぇ”と思うのも無理はない。

 前回はともかく、今回に関しては隔意程度で敵対意思ありとみなしたよしおがおっちょこちょいだったと言える。

 

 陽は巫祓千手の最高指導者、『座主』からよしおとの関係改善を兼ねて、謝罪…ついでに隠し鬼の祓いの協力者として派遣されたのだった。



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鈴木よしおと隠し鬼⑧~雪解け~

 ◆

 

「…何か、誤解がありましたか?」

 

 よしおは殺意を収めて一応たずねた。

 うら若き少女が泣いているから、ではない。

 

 よしおは状況と条件が整っていれば老若男女関係なく挽き肉にしてしまう男だ。

 

 だが、状況と条件が整わなければ基本的に無害な男でもある。

 

 例えば夜道、泥酔した中年男性がいきなりゲロをぶちまけてきたとしても、平時のよしおは怒らずに水くらいは持ってきてやるだろう。

 

 しかし与太者が唾を吐きかけてきたなら、謝罪を要求するだろう。

 その時よしおは必ず与太者に謝罪をさせる筈だ。

 たとえ何をしてでも謝罪をさせる。

 そう、何をしてでも。

 

 陽はうんうんと頷いて、乱れた髪の毛を手櫛で直す。

 

「そ、そう!誤解があるの!私は…前に鈴木さんに酷いことを言ったわ。で、でも!それは…それは…私もキチンと謝罪したし…仲直り…出来た…わよね…?」

 

 敵意でも殺意でもない、隔意を感じただけの相手をいきなり殺害しようとする事が仲直りと言うのならば、陽の知能は非常に低いといわざるを得ない。

 

 だが、決して仲直りしたわけではない、ただあの場での殺し合いを取りやめただけだ、というのは当の陽自身がよくよく理解していた。確認をするような問いかけには、多分に彼女の願望が含まれている。

 

「…………」

 

 よしおは黙り、改めてそれまでの経緯を思い返す。

 

「分からないことがあるんですが。巫祓千手の座主…様は、なぜあなたを派遣したのですか。私達の関係が余り良くない事は分かっているとおもうのですが」

 

 よしおは陽の言には答えず、逆に問い返した。

 それは啓や雨子も同じ思いだった。

 

「そ、それは……」

 

 それは?とよしおが促すと、やがて陽はつらつらと語り始めた。

 

「か、禍根を残すな…と。座主様は時に…その、先の事を見通すような事を仰ったりするんだけど……だから、その…」

 

 陽の口調はたどたどしい。

 だが、何が言いたいかはよしおにも薄っすらと分かった。

 

「予知のような力ですか?話は聞いたことありますが。禍根、ね…。別にあの場は収まったのですし、そこまで気にする必要はないのでは」

 

 よしおが言うと、陽は力なく首を振った。

 

「そういうわけには、いかないの…」

 

 そう言った陽に、よしおは冷たい視線を向けていた。

 その瞳に宿る光は好意の対極にある。

 上に言われたから禍根が残っている相手に会わねばならないというのはお気の毒だが、とよしおは思う。

 

 ――あるいは、生かしておく事自体が禍根を生む、か?

 

 1度ある事は2度あり、2度ある事は3度ある。

 ならば……。

 

 よしおがそんな不穏な考えを抱いていると知ったなら、陽はたちまち逃げ出してしまっただろう。

 

「……まあ、僕からあなた方の本部に連絡を入れてもいいです。“隠し鬼”でしたか。1人では少し大変そうですから、助力していただけるならそれに越したことはない」

 

 よしおがそういうと、そうじゃないの、と陽は続けた。

 

「それはそれとして、やっぱりちゃんと私の意思で謝りたくて…。座主様は日を置いて機会を設けると仰ったのだけれど…私が無理に頼み込んだの。あの時私は、巫女神様に選ばれし者だっていう特別な意識に凝り固まってて…それで、そんな私に、私達に対等に接してくる鈴木さんの事が疎ましくて…だから、その、ごめんなさい…」

 

 よしおはその言葉を聞いて、ぴったり2秒考えた。

 考えるに値する言葉だったからだ。

 誠意を感じる言葉。

 

 そして答えた。

 

「いいですよ、改めて謝罪を受け取ります。許しました。それで話は変わりますが、地の利を得たいですね」

 

 それまでの事はまるで大した話じゃないのように振舞うよしおに、陽は目をぱちぱちとしばたたかせた。

 

 よしおが陽の謝罪を軽く考えているわけではない。

 この態度はよしおのメンタル…というより、元証券マン特有のタフなメンタルと切り替えの速さから来るものだ。

 よしおは2秒で陽の言葉から本音を嗅ぎ取り、そして本当の意味で許した。

 

 よしおは決断の男である。

 何事も瞬時に決定する。

 決断力とはよしおの代名詞であった。

 

 ちなみに、大手証券会社の離職率は非常に高い。

 新卒入社組の70%は入社3年以内に退職する。

 怒声、罵声は当たり前で、ノルマ達成出来ない者は人間扱いすらされない。

 ノルマは週単位、月単位で上司に管理され…そういう環境で磨かれてきたタフなメンタル、そして決断力は瞠目すべきものだった。

 

 なお、よしおはそのタフなメンタルを以てしても礼子…元妻の事を忘れられないでいるが。

 

 ◆

 

「ち、地の…利?」

 

 困惑しながら陽がたずねる。

 だが、ややあって“ああ”と頷いた。

 

「私の…力の事…かしら?」

 

 よしおは頷いた。

 互いに模擬戦で、一度は殺意をもって対峙した事のある関係だ。よしおは陽の巫女としての力をよくよく知っていた。

 

「アレを狭い場所で使うのは自殺行為でしょう。ましてやこちらは2人です。場所は広いほうがいい。なるべく見通しの良い場所が良いでしょうね」

 

 巫祓千手の三人の巫女達は、これは言ってしまえば霊的戦術兵器のような力を持っている。

 

 

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 中でも陽は、三人の巫女でも最も攻撃的だと言っても過言ではない。かつてよしおが陽を殺害しようとした時、言葉で言うほど圧倒的な差があったわけではなかった。

 

 言い換えれば、少女に過ぎない陽を殺さざるを得ないような、そうでもしなければ自身の身が危うくなるような、そんな状況へよしおが追い詰められたから、とも言える。

 

 ◆

 

「屋外、見通しが良く広い場所…うん、廃校かどこかのグラウンドが良さそうです。それでは茜崎さん、廃校のグラウンドを使えるように手配していただけますか。援軍はいらないでしょう、下手な援軍は餌になるだけです。しかし“隠し鬼”を始末できたとしても、無傷でいられるかどうかは疑問です。医療班を出せる準備は整えておいてほしいですね」

 

 テキパキと話を進める様子は、まるで仕事の段取りを組んでいるようだった。

 

 そこに気負いや怯みは見当たらない。

 しかしそんなよしおは、勝利を確信していると言う事でもなかった。

 

 よしおは自身の掌を見る。

 呪いから受けた傷だ。

 その辺の木っ端悪霊がよしおの肉体、精神に傷をつける事は難しい。よしおが傷つけられたと言う事は、相手は木っ端ではないという事だ。

 

「すみません、治療をしていただけませんか。それと先ほどは失礼しました。色々と誤解だとわかりました」

 

 よしおは啓達の目の前まで歩いていき、頭を下げて頼んだ。

 既に殺気による束縛は解いている。

 

 雨子と啓、ついでに晃は目を合わせ、苦笑を浮かべた。

 

「なあ、おっさん…その傷…相当深くない?平然としてるけど…」

 

 順応性が高い晃が覗き込み、表情を顰める。

 よしおの手に刻み込まれた傷は、どう見積もってもただの切り傷で片付けられるようなものではなかった。

 

「凄く痛いです。平然としているのは我慢しているからです」

 

 よしおが苦笑を浮かべながらすなおに答えると、その様子を陽は少し意外そうに眺めていた。

 

 §§§

 

 茜崎 陽

 

 もしかしたら、もしかしたら私はこの人のことを少し誤解していたかもしれない。

 

 最初、彼は暴力的で気難しい人間のように見えた。彼の目は冷たく、顔の筋肉ときたらぴくりとも動かない鉄面皮に見えた。

 

 でも、接し方さえ間違わなければ、案外接しやすい人なのかもしれない。彼についての調べはもう読み込んである。配慮はしなければいけないだろうけれど、それは他の人達についても同じだ。

 

 あの時私は彼に本気を出させる為に酷い挑発をした。

 そればかりではなく、人一人を殺すのに十分な“力”を使った。彼ならそれくらいはへいちゃらだろうと思って。

 模擬戦では明らかにやりすぎだった。

 彼との事前の話でも、あくまで手合わせという話だった。

 約束を先に破ったのは私だ。

 

 それから彼はそれを許してくれるどころか、私の鼻を潰してお腹を蹴り飛ばし……

 

 ・

 ・

 ・

 

 ――そうか。僕…ぼく、俺を殺したいんだなァ

 

 ゴッ、という音。

 

 ――殺される前に殺そう!そうしよう!

 

 ガッ、という音。

 

 鈍い音が何度も響き、血が飛び散る。

 助けて、といおうにも声が出ない。

 喉が潰されているからだ。

 

 ――痛いかい?俺も痛かった。腕を見てくれ、火傷してしまった

 

 バキッという音。

 腕の骨を折られた音だった。

 

 周囲が騒がしい。

 ああ、早く止めて、この人を止めて。

 

 私が、殺されてしまう前に。

 

 ・

 ・

 ・

 

 うううう!

 厭なことを思い出してしまった…。

 

 §§§

 

「あら?巫女様も少し顔色悪いですね…少し休んでおきますか?」

 

 雨子が陽に訊ねた。

 

「いえ、あ、でもお水だけ…」

 

 雨子は頷き、部屋を出て行く。

 啓はよしおの手当てをしていた。

 晃はそれを“うへぇ”という表情を見ながら眺めている。

 

「あの、大丈夫、かしら」

 

 陽はおずおずとよしおに聞く。

 啓は表情を緊張させ、悲劇の種が発芽しない事を祈った。

 だが啓の懸念は杞憂に終わる。

 

「変なモノ…毒や呪いは入り込んでいません。ですが気をつけて。“隠し鬼”本体はきっとこんなものではないでしょう。巫祓千手の人達も何人も犠牲になっていると聞きます。僕は出来るだけ茜崎さんを護るために動きますので、一秒でも早く焼き払って下さい。単純火力では僕は茜崎さんに及ぶ所ではありません」

 

 よしおの言葉はそれまでの確執をまるで感じさせなかった。

 事実、よしおの中では茜崎との確執は既に終わった事だ。

 

 それを聞いた陽は…

 

「…私の力が頼りってこと?」

 

 そんな事をよしおに聞き、よしおは大きく頷く。

 これも媚びているわけではなく、純然たる事実だ。

 平時のよしおより、陽のほうが火力が高い。

 それを聞いた陽は、どこかよしおに認められたような気がして…

 

 

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「…そっ!じゃあ私の事をしっかり護ってね」

 

 ドヤッと笑みを浮かべた。

 



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鈴木よしおと隠し鬼⑨

 ◆

 

 檄したよしおはさながら暴力の化身といった有様だが、平時のよしおはどちらかといえば理性的だ。時には策を巡らせる事もあるし、暴力よりは対話…話が通じるか通じないかは別として、対話を優先する事も珍しくはない。

 だが、それを鑑みてもよしおの祓いは“軽い”のだ。

 

 通常、大きな祓いとなるならば祭壇を作ったりだとか、数日前から身を清めたりだとか、祓いに使う道具にしたって相当に吟味したものを選んだりする。

 

 祓う対象の経歴…根源などの調査にも相応の日数を割くし、周辺地域の住民を避難させるために各種関係機関を連携を取る事も珍しくない。

 

 だがよしおはフッ軽なので必要な道具は己の五体、そして根回しなども滅多にしない。

 

 まあその辺はよしおに他組織のようなコネやツテなどがないからであって、どうにもならない部分はあるのだが…。ともすればこの軽挙にも見える振る舞いは、よしおがある種の割り切りをしてしまっているからである。

 

 ――その場その場でどんなに準備をしようが、駄目になる時は駄目になる

 

 ――その逆も同じだ。どれ程雑であっても上手くいく時は何しても上手く行くものだ

 

 これは粘りを欠いた欠陥思考であり、いずれは破滅へと繋がる危険な考え方ではあるが、よしおはこの考えを捨て去ることが出来ない。

 これをよしおは自身の心の未熟さゆえだと考えている。

 

 そんな自分を変えたくて、よしおは危険な祓い業をやっているのだ。

 

 ◆

 

 ともあれ、フッ軽なよしおがツテが出来たとは言え、準備をしてから祓いに臨もうというのは、今回の標的が相応以上に厄介である事を意味していた。

 

「念の為に、廃校周辺の住民は避難させたほうが良いかも知れません。例えば不発弾の撤去だとか、何でも良いですがそういう理由で避難させる事は出来なくは無いでしょう?」

 

 よしおが聞くと、陽は勢い良く頷いた。

 

 茜崎 陽という少女は俗だ。

 力が好きだ。

 力には色々種類がある。

 

 暴力、経済力、政治力、情報力、社会的地位や権威、知識や技術力、カリスマ性、文化的影響力…

 

 陽はそのどれもが好きだ。

 だが一番好きなのは暴力だった。

 

 なぜならばそれらの“力”の中で一番恐ろしいものが暴力だからだ。一番恐ろしいものを手中に収めてしまえば、怖いものはなくなる。

 

 ――“あの時”、私に力があったなら、大きな大きな力があったなら

 

 ――パパもママも死なずに済んだ

 

 彼女の母、先代の西の巫女は強大な力を持った悪霊に殺されている。父親は母親を護ろうと、やはり殺された。

 当時幼かった彼女は当然力及ばず、だが生き延びた。

 

 死んだ筈の先代西の巫女が輪廻に還る事を拒絶し、現世に残り陽を護ったからだ。

 

 先代西の巫女は強大な悪霊と相克する形で消滅した。

 陽は現世では勿論の事、来世でもそのまた来世でも、彼女の母親とまみえる可能性を永久に失ったのである。

 

 そんな陽の境遇、そして心の有様が彼女の“力”の根源であった。

 

 そしてそんな彼女だからこそ、よしおに対してある種特別な感情を抱かざるを得ないのだ。

 

 迸る感情のままに拳を振るい、自身の敵を蹴散らし、己が意を押し通す彼の自由な振る舞いに憧憬と嫉妬を向けざるを得ない。

 

 そして嫉妬というのはちょっとした異物を加えてやれば、容易に敵意へと化学反応を起こす。

 起こした結果が陽の半殺しという末路だ。

 あの日、あの時、陽とよしおの間では残酷なまでに明確な格付けが済んでしまった。

 

 放置しておけば大炎と化すはずの大きな嫉妬、小さな敵意はよしおの顔面パンチで粉々に粉砕されてしまったのである。

 

 だが、それにより陽がよしおに抱く感情は、ただ憧憬のみが残り…

 

 ◆

 

「他にやることはあるかしら?」

 

 どこかドヤっとした様子で陽がよしおに聞いた。

 よしおは少し考え、ややあって口を開く。

 

「逆に、何か必要だと思った事があればそれは実行してしまってください。僕への許可は要りません。こういう大規模な準備は貴方達のほうが慣れているとおもいます。ただ、どうあれ今日明日で済ませたいとおもっています」

 

 ただの2日で“隠し鬼”を始末するという言葉は、よしおが発したものでなければ大言壮語だと謗られたかもしれない。

 

「きょ、今日明日で決着をつけるというの?これまでに何人もの祓い手を殺してきた厄介な相手よ。…ここだけの話だけどね、昔、巫祓千手でもとても才能に優れた祓い手…未来の座主の座につくだろうと思われていた人がいたそうなの。でもある時、“隠し鬼”と対峙して…」

 

「殺されてしまった、と」

 

 よしおが後を引き取ると、陽は頷いた。

 雨子や啓は組織内での機密をあっさりと口にする陽に穏やかならぬ気持ちを抱くも、事前に危険性を共有するというのは重要なことではあるので、口を挟まないでいた。

 

 ちなみに晃だけはよしおの言葉の真意に何となく気付いた…ような気がしたが、すぐに否定した。

 

(あ、そっか。今日明日は休みだけど、明後日からは仕事だからだ…ってそれはないか、ないよな。いくらおっさんだからって…)

 

 だが、この時の晃の考えがまさに真実を言い当てていた。

 よしおは今日、本来は休みだったのだ。

 しかも三連休真っ只中である。

 

 だがその休みも今日明日で終わってしまう。

 明後日からは仕事だ。

 幸いなのは、明後日からの現場は特殊でもなんでもない普通の現場であるという事か。

 

 ◆

 

 陽の行動は早かった。

 あちらこちらへと電話をかけ、メールを飛ばし、必要ならMoove(オンラインでの会議を実現するクラウド型のビデオチャットサービス)を使用して会議をした。

 

 独楽鼠のような陽の実行力に引きずられるように、巫祓千手に属する面々は様々な準備に取り掛かる。晃のような部外者…とまではいかないが、組織に属さない者は勿論それらには参加しない。晃は母親である依子に寄り添い、不安そうにその顔を眺めていた。

 

 よしおが何気なく晃を見ると、晃もまたよしおを見ていた。

 なんだか、と晃が口を開く。

 

「とんでもない話になっちゃいましたね」

 

 晃の言葉によしおは軽く頷き、依子に視線を移す。

 

 依子には無事で居てもらわねばならない、とよしおは思った。

 なぜなら、彼女からよしおは愛のなんたるかを教授してもらう必要があるからだ。

 自身の命より子…晃の命を優越させた親子の愛。

 

 それほどの愛情の発露には一体如何なる条件が必要なのか、よしおは是非とも知りたいとおもっていた。それは彼自身が余り恵まれた家庭環境ではない事も影響している。

 

「もしこれが…無事に終われば、お袋は目を醒ます…といいんすけど」

 

 依子が快癒するかどうか、よしおには断言は出来ない。

 断言出来ない事ならば沈黙が金…と、以前のよしおならば思っていただろう。

 

 しかし日々自身の価値観をアップデートさせようと努力しているよしおは、例え言葉だけの気休めであっても、その価値が沈黙に勝るシーンが存在しうる…と言う事を知っている。

 

「ええ、醒ますとおもいます。お医者さんの話では、魂が抜かれているという話ですから。僕らが“隠し鬼”とやらを祓えば、きっと灰田くんのお母さんは目を醒ますでしょう」

 

 そこまでいってから、よしおはふと自身の腕を見る。

 腕一面に鳥肌が立っていた。

 

 ――僕らを、いや…

 

 よしおはちらと晃を見る。

 晃の様子に変化はない。

 小首をかしげてよしおを見返していた。

 

 ――僕らを、じゃない。僕をみているのか

 

 好都合だ、とよしおは思った。

 

 ◆

 

 その日の夜。

 

 よしおと陽はA市某所の廃校のグラウンドに居た。

 グラウンドに居るのは二人だが、廃校の周辺には各種対応班が散らばっている。

 

 50メートル四方、その四隅には柱が打たれ、四辺に注連縄が張り巡らせてある。

 

 そして、注連縄には一定の間隔を保って鈴が取り付けられていた。

 

 2人はその中心に立っており、“隠し鬼”がやってくるのを待っている。今日、この時に何故“隠し鬼”がくると断言できるのか?

 

 それは当然の疑問だが、来ない可能性などは存在しない、とまでよしおは思っている。

 

 なぜなら…

 

「手、大丈夫なの?」

 

 陽が気遣わしげに言う。

 その目線はよしおの手に向けられていた。

 

 よしおの手は、その掌の大部分が黒い痣に侵され、肘の直ぐ下辺りまで侵蝕が進んでいた。これは呪いだ。そしてマーキングである。

 

 “隠し鬼”は本来、鬼撫(キブ)の血にしか惹かれない。

 だが、食事を邪魔したよしおは別らしく、“隠し鬼”はよしおを次の獲物と見定めたのだ。それは不幸なことだ。よしおにとってか、“隠し鬼”にとってか、は今の時点では分からないが…。

 

「強力な呪いです。千本の針が突き刺さっているかのように痛い。ずきんずきんと痛み、この痛みが本体がそう遠くない場所にいることを僕に知らせてくれています。僕がよほど憎らしいんでしょう」

 

 しかし、とよしおは続ける。

 

「僕が僕を嫌う気持ちよりは軽いから大したことはありません。僕は、この仕事で成長したいとおもってるんです。そして、成長できると感じている」

 

「ま、前向きだか後ろ向きだかわからないわね!でも、そんな自己嫌悪を抱く必要は無いと思うわよ。欠点のない人間なんて気持ち悪いだけだわ!」

 

 陽が元気に言い、その言葉はよしおの脳神経を甚く刺激した。

 よしおは顎に手をやって考える。

 

 ――欠点のない人間は気持ち悪い…?

 ――じゃあ欠点を残すべきなのか?

 ――だがそれは怠惰なのでは。前に進み、欠点を埋める…その意思が人を成長させるのでは…

 

 とても命掛けの現場で考える事ではないのだが、よしおは学びを忘れない男だ。

 些細な言葉からも知見を得て、隙あらば思索しようとする。

 そんな面倒くさい性格が礼子の不倫を招来したかもしれない、と言う事には思い至りもしない。

 

 ◆

 

 2人はそれからも他愛のない雑談を続ける。

 陽はそれこそ取り留めない話題を間断なく提供し続けた。

 

 好きな食べ物、趣味、よく観る番組、好きな芸人嫌いな芸人、料理はするのかしないのか、本は読むのか、好きな作家は、運動は好きか…

 

 よしおは次から次へ繰り出される陽からの質問に律儀に答え続けた。

 よしおもほどほどに話題を振る。

 彼は個性的な性格だが、コミュニケーション能力自体はまだ崩壊していないのだ。

 よって、現役女子高生とだってそれなりには話せる。

 

 ちなみに遵法精神は完全に崩壊しているが、これはおかしくなってしまう前から大して強固なモノではない。証券マンの遵法精神などは、これは例えば指毛のようなもので、立派で強固であるほどに邪魔になる。全くないか、あるいはチョビチョビとあればそれで良い。

 

 やがて、どちらともなく質問が止み、沈黙がその場を支配する。

 よしおは自身の背を氷柱で撫でられているような悪寒を感じた。

 

 ◆

 

 雲が厚く広がり、もう春先だというのにまるで冬のように気温が低い夜。

 よしおの耳は急激に接近する死の足音を捉えた。

 

「気付いているでしょうけど」

 

 陽が言う。

 その声色はやや硬い。

 無理もないだろう、相手は同胞を何人も無残に殺してきた悪鬼だ。

 

 ・

 ・

 ・

 

 ――りん、りん、りん、りん

 

 四方の鈴がけたたましく鳴っている。



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鈴木よしおと隠し鬼⑩~人それぞれの悲しみ~

 ◆

 

 全ては偶然の産物だった。

 本来、『隠し鬼』などという胡乱な怪異は存在しなかったのだ。

 

 だが昔。

 ある時、ある地域の、ある村が。

 村1つを枯れ果てさせるには十分すぎるほどの深刻な飢饉に見舞われた。

 

 人々は苦しんだ。

 作物は実らず、ただでさえ実りの少ない枯れ山の恵みも食い尽くした。

 たくましかった男衆はやせ衰え、女衆は出ない乳を赤子にしゃぶらせ、赤子たちは干乾びるように死んでいった。

 

 こういう時、人が何をするのか。

 答えは1つ、神頼みである。

 

 人々は居もしない神が怒っていると考え、居もしない神を宥める為に生贄の儀式をとりおこなった。

 

 この生贄の儀式自体には何の意味も無かった。

 痩せこけている半死半生の村人を山に放り込んだからといって、飢饉は解消されないし山だってこれまでと同じように枯れ山のままだ。

 

 しかし、何事も“偶然そうなってしまった”という事もある。たまたま翌年から少しずつ実りが戻ってきたのだ。

 

 これは超常的な現象でもなんでもなく、純然たる偶然であった。

 

 しかしこの偶然が故に、爾来その地域では生贄の儀式が行われてきたのである。

 

 ・

 ・

 ・

 

 信仰とは人々が何らかの超自然的な存在や力を信じ、敬い、信頼する心のあり方だ。そして信仰が生まれる事で神も生まれる。

 

 特定の現象や事象を説明するために、神や超自然的な存在が創造され、それが人々の信仰によって広まり、継承されることで、神は生まれる。

 

 ◆

 

 逆月家の鬼才、逆月 星周の敗死は『巫祓千手』に大きな衝撃を与え、彼を屠ったと見られる憎き霊異に対し復讐の念を抱かせた。

 

 星周はその実力、人格によって巫祓千手の精神的支柱としての立場を確固たるものとしており、故に反動も大きかったのだ。

 

 だが、そういった個人的な感情以外にも、国の意向、メンツといった問題もあった。

 

『巫祓千手』は日本国政府…具体的に言えば総務省消防庁霊的災害対策課に属する組織だ。ちなみに同じような大小の組織…というか、チームが他にもいくつか存在する。

 

 巫祓千手の最高指導者は『座主』ではあるが、そのさらに上位に総務大臣が存在する。総務大臣は霊的災害組織の運営や資源の配分を決定し、他の省庁との連携を取る役割を担う。

 

 こういった背景がある以上、組織の有力人物が殺されたとあっては、“はい、残念でしたね”では済まないのだ。

 

 だから『隠し鬼』についても、総務省はそれなりに大きなリソースを注ぎ込んで調査をした。

 その調査には当然巫祓千手も関わったのだが…

 

 ◆

 

「結局、詳しいことは良く分からなかったのよ。地方の僻地を見舞った不幸から生まれた霊異…以上の何もわからなかった。普通は何らかの逸話が残っていて、そこに調伏……」

 

 陽が硬い声色で話を続けようとするのを、よしおは身振りで制した。四方にたてられた柱がぐらぐらと揺れ、乾いた音を立てて罅が入る。

 

 よしお達の正面、四辺の一辺に張り巡らされた注連縄の中央部が一本一本ぷつん、ぷつんと音をたて引き千切られていく。

 

 “隠し鬼”がやって来たのだ。

 食事を邪魔したよしおを殺しに。

 

 ただ、さすがに巫祓千手もそれなりの質のモノを持ち込んできたようで、柱も注連縄も子供が紙を引き千切るように、とはいかない。

 

 かつて“隠し鬼”は逆月 星周と晃の母親である依子が籠った部屋を護っていた護符を一息に破ってしまったが、注連縄はそうもいかないようだ。

 時間の問題のようだが、それでも抵抗は出来ている。

 

「熱田神宮の大楠の注連縄なんて、その辺の妖物(ようぶつ)は近寄る事も出来ないはずなんだけどね…」

 

 陽は冷汗を流しながらごちた。

 そんな陽だが、横目でちらりとよしおを見て…そして驚愕する。

 

 よしおの様子は緊迫した様子で構える陽とは対照的だった。屈みこみ、そこそこ高級な運動靴、DAIKI Air Zapper(ダイキ・エアザッパー)に付着している砂粒を払うなどしている。

 

 最先端の技術と高品質な素材を使用した高級運動靴で、プロアスリートからアマチュア運動愛好家まで幅広い層に支持されている。値段としてはおおよそ30,000円~40,000円。

 

 ラフでダイナミックな祓いスタイルのよしおは、時に曲芸師染みた動きをする事もある。

 DAIKI Air Zapperはそんなよしおの高速機動戦術の用に十全に応えるパワフルな運動靴だ。

 

「ちょっと!鈴木…さん!」

 

 陽が叫ぶ。

 

「はい」

 

 よしおが短く答えると、陽は視線は前方にやりながらも、ちらちらとよしおを見ながら怒った様に言った。

 

「何してるのよ、ほら!見て!今にも結界が破られそうなのよ!?」

 

 陽がそんな事を言うが、よしおは無感情に答えた。

 

「破られてから考えましょう。お祓いには平常心が肝要です。心が乱れていては簡単な事もミスしてしまう。この現場は命がかかった危険な現場です。だからこそ普段より冷静でなければなりません」

 

 よしおがそういうと、陽は目を見開き、かつて手合わせで自身が敗北を喫した(殺されかけた)のも当然だと感得した。

 

「さすがね、確かにそうね。ごめんなさい。私も修行が足りないわね…」

 

 陽が謝罪をすると、よしおは首を振った。

 

「いえ、良いんです。僕も差し出がましいこといいました。申し訳ない。…さて、そろそろのようですよ」

 

 よしおの言葉に、陽は表情を引き締め前方を睨みつける。

 

 ばつん、と厭な音が鳴り、注連縄が完全に引き千切れる音がした。

 

 ――わたしぃぃぃの、あか、ちゃぁぁぁあ、ん、しぃぃりませ、んか、ぁぁあ

 

 暗がりに呻声(うめきごえ)が響く。

 

 ◆

 

 今は昔、とある地域で人々は居もしない神が怒っていると考え、居もしない神を宥める為に生贄の儀式をとりおこなった。

 

 生贄に捧げるのならば、貴き血を引くものがいいだろうと、その地域を治める豪族は自身の血族から生贄を出した。

 

 しかしこの生贄の儀式自体には何の意味も無かった。

 捧げるべき神自体がいないのだから。

 飢饉は解消されないし山だってこれまでと同じように枯れ山のままだ。

 

 しかし、何事も“偶然そうなってしまった”という事もある。たまたま翌年から少しずつ実りが戻ってきた。

 

 爾来、鬼撫の家は権力を持ちながらも、血族を生贄に差し出し続けた。なぜなら、一度生贄を出してうまくいってしまったから。出さなくなって再び飢饉が訪れたなら、領民は鬼撫の家に不穏な目を向け、不穏な事を考え、不穏な事を実行するだろう。

 

 鬼撫の家には常に無言の圧力が掛けられていた。

 生贄には純粋無垢な子供、できれば赤子…が選ばれ、鬼撫の家の女は血涙を流し、しかし領地の為、一族の為だと我慢を続けてきた。

 

 その恨みの念が、神を狂わせたのだ。

 

 生贄を喰らい、まるで最初からいなかったかのように隠してしまうその鬼は、飢えに苦しむ人々の望みから生み出され、そして子を奪われた母達の恨みの念により狂い、堕ちた神。

 

 それが“隠し鬼”の由来であった。

 

 ◆

 

 ・茜崎 陽・

 

 な、なんて妖気!

 不安と恐怖が胸の奥で渦巻く。

 私は手を握り締めるが、掌は既に汗でビショビショだった。

 

 “お役目”を継いで以来、此れ程の霊異と対峙した事はない。

 

 もしかしたら、パパとママに逢う日が早まっちゃうのかな、なんていう弱きな考えが浮かぶ。

 

 私は横目で鈴木よしおを見た。

 彼は異端だ。

 

 才はあるのかもしれないが、その血に特別なものは何もない…らしい。組織の調べでは。

 

 “力”が血に宿るというのはまさにその通りで、“この世界”の実力者は大多数が名家の出だといってもいい。

 

 でも彼は…。

 

 いや、そんな彼に期待している私がいる。

 こんな強力で凶悪な妖気を放つ存在と対峙して平然と居られるというのは、まさに英雄の気質といっても過言じゃないだろう。

 

 貴種流離譚というものがあるが、組織が見落としただけで、彼もあるいは特別な血を引いているのかもしれない。

 

 ◆

 

 よしおの目が見開かれ、まるで疾風のような速さで陽を横抱きに抱え、弾ける様に地を蹴った。

 

 地面に着地したよしおは陽を下ろし、左腕の上腕部を見る。赤黒いモノが流れている…血だ。

 

(切り傷…じゃない、これは…)

 

「噛み傷…」

 

 よしおの視線の先に、“口”が浮かんでいた。

 数m先の中空、大小様々な“口”がよしお達を取り囲んでいた。

 その数は10や20では利かない。

 さて、1匹ずつ潰すのは骨だぞ、とよしおが考えていると、不意に周辺の気温が数度上昇したような気がした。

 

 ・

 ・

 ・

 

 ――八百万の神に仕ふる巫女どもの、火を侍らす巫女に願ひたてまつる。我にふりかかる危難をきみの怒りに焼き払ひたまへ。我は礼の証に舞を一差し踊らむ

 

 陽の手にはいつの間にか一本の扇子が握られていた。

 そして芸術的感性を恒久的に失調しているよしおでさえ、僅かに見惚れるほどの舞を魅せる。

 

 

【挿絵表示】

 

 陽が扇子を一閃すれば炎の蝶が舞い踊り、二閃すれば炎の蝶からりん粉が吹き乱れ、三閃目でそれは爆裂し、宙に浮かぶ不気味な“口”を木っ端微塵に吹き飛ばしていく。

 

 彼女のいわば誘導機能つき霊的ハンドグレネードは、当然だが霊的存在以外にも危害を及ぼすことが出来る。

 TNT換算にして約300グラム程度の爆発エネルギーは、アメリカ軍や陸上自衛隊が現行採用しているMK3手榴弾とほぼ同等だ。

 

 ◆

 

 宙空に爆発と閃光の花が咲き乱れ、間断なく響く轟音は巻き込まれた者達に確かな破壊と殲滅を齎す事を確信させるものだった。

 

 西の巫女とは、つまるところこう言うものだ。

 特別な血に宿る特別な霊力を以て様々な破壊的奇跡を成す。いまだ未熟な彼女でさえこれだ。

 

 ゆえに使い所が非常に難しいのである。

 なにしろ、常に巻き添えの危険があるのだから。

 よしおが現場を廃校のグラウンドとしたのも、彼女の力を鑑みての事だった。

 

 よしおは“それ”を一度見た事がある為そこまで驚くことはなかったが、自身ではとても真似出来ないその業に内心で賞賛を送った。

 

(まるで超能力者…何と言ったか…パイロマンサーというのか。そういえばホラー映画で『マリー』というものがあったな。発火能力者だ。彼女は力を制御できず、最期は不幸な末路を遂げていたのだったか。茜崎 陽はその点問題はないようだ。だが…)

 

 よしおの視線が鋭く前方に注がれる。

 

 

【挿絵表示】

 

 薄汚い服を着た白服の女。

 その瞳は白い。

 まるで白内障にかかっているかのような。

 口元には笑みが浮かんでいる。

 

 そして、女の周囲には何か白い靄(モヤ)のような、糸のようなものが浮遊していた。

 これは妖気の可視化現象だ。

 

 あんぐり、と。

 女が口をあける。

 大きく、大きくあける。

 顎は間違いなく外れているだろう。

 

 だが不気味な女…“隠し鬼”は構わず口を開いていった。

 

 そして次の瞬間。

 

 よしおが後ろに軽くずれると同時に、ガチンという音と共によしおの目の前で口が閉じた。

 

 陽は頬を怒りで赤く染め、扇子を閉じて距離のある“隠し鬼”に振り下ろす。

 扇子の先から炎の鞭が伸びるがしかし、燃え盛る炎の鞭は隠し鬼の手前で吹き消えてしまった。

 

 いや、喰われた。

 飢えて死んだ赤子達…鬼撫の者らの死後もなお残る飢餓の前では霊力が多分に込められた炎など餌に過ぎない。

 

 愕然とする陽に、“隠し鬼”の目が向く。

 

 にたりと笑うその表情はいかにも不気味で、だがそれ以上に至近での妖気が陽の精神回路に腐敗の毒を混ぜ込んだかのような錯覚を起こさせ、陽は嗚咽を堪えざるを得なかった。だが悪心(おしん)で済んでいるのは陽の巫女としての才故だろう。

 

 もし一般人がこの妖気の放射をマトモに浴びれば、発狂で済めば御の字だ。

 

 ――わ、た、しィィィィィのおおおおおおお、あがぢゃん…か、え、し、てええええええええ

 

 “隠し鬼”が唸り声にも似た絶叫をあげ、陽の顔面を齧りとろうと大きく口を開けた。

 数十mの距離を一瞬でつめるほどの速さで迫られれば文字通り、瞬きの瞬間に陽の頭部は半分になってしまうだろう。

 

 しかし、そうはならなかった。

 

 よしおが“隠し鬼”の襟首を掴んで離さなかったからである。

 

 ◆

 

 よしおは陽に対して攻撃態勢にはいった“隠し鬼”に対して懇々と言った。

 

「あなたが悪いわけじゃない事は分かっているんですが、僕は子供の話はしたくない。僕は子供が出来ない体なんです。…思えば、検査でそれが判明してから、僕と礼子の間に溝が刻まれたような気がする」

 

 よしおは至極冷静であった。

 しかし震えている。

 “隠し鬼”に対しての恐怖ではない。

 

 だがある種の恐怖ではあった。

 それは自身の欠陥を直視する際に発露する恐怖だ。

 多分に自己嫌悪が混じった恐怖は、百戦錬磨のよしおですら震えさせる恐るべきモノであった。

 誰でも自分の欠陥は直視したくないのだ。

 

「私の赤ちゃん知りませんか、ですか。ぼ、僕がそれを知りたいです。僕の赤ちゃんは…ぼ、ぼ、ぼくは永遠に赤ちゃんをこの手に抱く事はできないでしょう…」

 

 よしおの腕の出血はいつのまにか止まっていた。

 自己に対しての恐怖が、それを引き起こした対象…“隠し鬼”への怒りに転換され、ナイアガラの滝のように勢い良く、激しく分泌されたアドレナリンが出血を止めたのである。

 

「…僕は、俺だって努力をした!!!病院にだっていった!不妊治療をッ!!!!うげだァァ!!!出来る事を!!!したんだッ!!!俺が悪いのか!!!答えてください!答えてくださいよォォ!!!」

 

 よしおの絶叫が大気を震わせる。

 



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鈴木よしおと隠し鬼⑪~シーソーゲーム~

0時にもっかい更新します


 ◆

 

(な、何を言ってるの…!?)

 

 陽の疑問は最もな事で、確かによしおの境遇というのは同情に値するものなのかもしれないが、少なくともこの場で嘆くような事ではない。

 よしおとて平時ではこのように心乱れることはないが、“隠し鬼”のように強力な存在にアテられたせいでこうなってしまったのだ。

 

 これはなにもよしおだけがこうなってしまう訳ではない。

 ろくに下調べをせずに心霊スポットに突っ込む者が居り、悪くて死ぬか、良くても発狂して帰ってくる…というような事は聞いたことがないだろうか?

 

 死ぬというのは分かる。

 悪意のある霊異が知能が低い愚者を殺害するのだ。

 

 しかし発狂というのは?

 霊異現象に遭遇すると、人は強い恐怖や不安を感じる。

 強い心理的ストレスが精神的なバランスを崩し、発狂につながるというのは霊異現象関係なく往々にしてあるのだが、霊異現象と言うのはこの影響が顕著だ。

 

 勿論死なないし発狂しない者もいる。

 それは本人がどれだけ精神的タフかにもよるが…少なくともよしおは精神的にはタフではない。というよりボロボロだ。外的要因がよしおの精神をズタズタにしてしまったのだ。しかしよしおは生半可な霊異現象では殺されたりはしない。

 

 霊的存在が彼を殺害するというのは、それなり以上に骨である。よしおは十把一絡げのド平民の血を引くド庶民なのだが、彼の生来の資質が深く斬り過ぎたリストカット痕から沸いてくる血のようにドクドクと霊力を生み出すからだ。

 

 霊力というのは現代科学では解明されていない未知のエネルギーだ。これは気力だとか気合いだとか、そういうモノとよく似ている。

 

 やる気がないとか気力がないだとか、そういう時はなんだか体が重く、動きが鈍重となる。

 逆にやる気が漲っているという様な時は動きはキビキビと素早く機敏だ。

 

 よって霊力が満ちている状態というのは神経システムが活性化され、端的に言えば身体能力全般が向上する。

 

 少なくとも9ミリ弾程度なら表皮で受け止めることは訳もない。

 

 ◆

 

 よしおはなおも“隠し鬼”の襟首を掴み離さない。

 そして“隠し鬼”もまた枯れ木のような肌をした手がよしおの手首を掴む。

 

 両者は一歩も動かなかった。

 “隠し鬼”は力を込め、ギリギリとよしおの手首を握り潰そうとする。

 

 今のよしおの身体能力、及び靱性は全身に漲る悲憤の霊力により飛躍的に向上しており、その皮膚は地球上でもっとも硬いとされるサイのそれを遥かに凌駕する。具体的に言えば、完全に水分を飛ばした餅よりもずっと硬い。

 

 まるでよしおの融通の利かなさ…頑なさを体現するかのような硬さだ。もちろん無傷ではなく、“隠し鬼”の爪が食い込み血が流れている。

 

 だが即座に握りつぶせないならばと”隠し鬼”は大きな口をあんぐりと開けて、襟首をつかむよしおの手首に嚙みつく。

 さらにその一本一本に意思があるかのように、無秩序に蠢く毛髪がよしおに絡みつき、皮膚を破り肉を食い荒らす。

 ただの髪の毛ではない。

 

 よしおが目を細め髪の毛を見ると、その一本一本がよしおの肉を溶かしているのがわかる。

 

「鈴木さん!その髪!焼くわ!」

 

 服代は弁償するからと、陽はよしおの返事を待たずに炎の蝶をよしおにけしかける。

 もちろん爆撃でよしおもろとも焼き尽くすというのも戦術としては有効だが、それは後が怖い。

 

 ゆえに爆炎蝶を至近で炸裂させ、熱波と爆風で髪の毛を焼き払おうという短絡的で暴力的な作戦はしかし、案外に有効に働いた。

 単純強度ではアラミド繊維にも勝る髪の毛が、熱に炙られうねり狂いながら焼け溶けていく。もちろんよしおも無傷ではなく、ワイシャツが焼け焦げて実戦で鍛え抜かれた上半身が露わになってしまった。

 

 陽の炎はただの炎ではない。

 西の巫女たる彼女の炎は重すぎる業が込められている。

 いまでこそ廃れてはいるが、西の巫女とは本来その身を生きたまま焼き、自身の炎を火之迦具土神に捧げてきた一族なのだ。

 伊邪那岐により斬り殺され、恨みに荒ぶる火之迦具土神を一命を以て鎮めてきた。

 

 そんな業、強烈な神聖性が彼女の炎には込められている。

 そこらの木っ端悪霊でも、いや、木っ端ではない悪霊でも彼女の炎を浴びればただではすまない。

 

 だが…

 

 ひゅうっ、と何か吸い込む音。

 “隠し鬼”が大きく息を吸い込んでいる音だ。

 それをみて陽は愕然とした。

 

「わ、私の炎がっ…!」

 

 そう、彼女の炎はその霊的要素の強さゆえに一部の霊異には良い餌となってしまう。

 特にその存在根拠に悪性のものを持たないモノには…。

 

 “隠し鬼”は確かに恐ろしい存在だが、しかし邪悪ではない。

 結局、どれだけ恐ろしくとも、“隠し鬼”には悪意があるわけではないのだ。

 彼女はただただ絶望的なまでに悲しんでいるだけである。

 家族を失った女達の悲哀と、飢えと孤独の中死んでいった子供達、さらには飢餓に苦しむ人々の的外れな祈り、願いのやりきれない集合体…それが“隠し鬼”なのだ。

 

 陽の炎が“隠し鬼”に吸い込まれていく。

 ただ、“隠し鬼”が吸い込んでいるのは炎だけではない。

 

 ビュボゥッという音と共に、、よしおの正拳が炎を裂きながら“隠し鬼”の口元に突き刺さった。

 腕を束縛していた“隠し鬼”の毛髪が焼け溶けたおかげでよしおは攻勢に移ることができた。

 その腕には痛々しい咬み痕が残っているが、膨れ上がる筋肉により止血は完了しているので問題はない。

 

 ◆

 

 がりがり、と耳をふさぎたくなる音が響きわたる。

 その音はよしおの拳が“隠し鬼”の歯を粉砕していく音であり、同時に“隠し鬼”がよしおの拳を、腕を咬み砕こうとしている音でもあった。

 

 非常に硬いものを無理やりかみ砕こうとしている音は、よしおの腕がそれだけ硬質化している証左であった。

 まるで自身の強固な心の壁を腕に纏ったかのように、よしおの腕の強度は飛躍的に高まっている。

 

 よしおは腕を引き抜くどころか、さらに奥に奥に押し込んでいく。

 この時、よしおの心には慈悲に似た何かが芽生えていた。

 

 ──そこまで飢えているなら腕の一本、持っていけ。輪廻に還る前にせめて腹を満たしてから逝くといい

 

 “隠し鬼”の歯牙をその腕に受け、さらには血肉まで食わせてやるほどに接触することで、肉と肉ではなく心と心の、彼我の距離がわずかに縮まった。

 

 ゆえの慈悲!

 

 よしおは知った。

 “隠し鬼”の悲しみ、怒りの奥の根源を。

 その悲劇の衝撃は霊的ハンマーの衝撃力となって、よしおの狂気を打ち砕いたのだ。

 

(彼女は、いや、彼女達は飢えているのだ)

 

 よしおは僅かに戻った正気でそう考える。

 

 飢えているのだ、だから食いたいのだ、と。

 しかし三者三様の想いに雁字搦めにされ、千々に乱れた心ではそれも叶うまい。と。

 

 よしおをして、あまりに哀しい生い立ちだと思わざるを得ない非業の極致。

 

 しかしよしおとて修羅場や死線の十や二十は超えてきている。

 だからわかるのだ。

 事ここに至っては、糾える縄のような“隠し鬼”の業を解き祓い、救ってやることなどはできないと。

 

 狂って当然なほどに重い業をよしおは感得し、僅かに憐れんだ。

 だがそれが良くなかった。

 

 祓いの対象へ情を向けることは祓い手にとって禁忌とされている。

 なぜなら感化されてしまうからだ。

 感化されれば、心の平衡はたちまちに乱れ、最悪の場合取り込まれてしまう。

 

 発狂したよしおの精神は慈悲が為に正気に戻り、そして正気に立ち戻ったよしおは“隠し鬼”の非業を前に感化され、再び狂気の淵へを追いやられた。

 

 正気と狂気のシーソーゲームは完全に狂気へ触れ、よしおの瞋恚が慈悲の供物として差し出した腕を凶器へ変容させる。

 

 ◆

 

 瞋恚(しんい)とは何か。

 

 それは怒り、恨み、憎しみである。

 嫌うこと、いかることだ。

 心にかなわない対象に対する憎悪。自分の心と違うものに対して怒り憎むことだ。

 

 よしおはこの時、“隠し鬼”に触発された狂気と、そしてその場で自裁してしまいたいほどの自己嫌悪に囚われていた。

 なぜなら悲劇の度合を相対的に比較すれば、いくら愛していた女とはいえ、不倫だのなんだのという悲劇は“隠し鬼”が生まれてしまった経緯と比較すればなんてことはないからだ。

 

 100人に聞いて100人ともが“隠し鬼”のほうが哀れだというだろう。よしおもそれは理屈としては理解はしていた。

 

 しかしよしおの主観はあくまでも自身の悲劇のほうが実感としては重く、悲しいことなのだ。

 

 どこまでいっても、どんな悲劇を前にしても自分の自身のことしか考えられぬ己の醜さに、卑しさによしおはやり場の無い悲しさと怒りを覚える。

 

「お、お、俺はァァァァアアァァアアッ!!」

 

 俺は、なんと続けようとしたのか。

 よしおは叫ぶと同時に“隠し鬼”に突っ込んだ手を手刀の形に変え、そのまま刃物を切り上げるかのように、“隠し鬼”の頭部を縦に切り裂いた。

 

 触れるもののすべてを傷つけるような自己嫌悪の刃は、振るえば振るうほどよしお自身の精神を傷つける。

 

 “隠し鬼”の頭部を口中から縦へ真っ二つにしたよしおは、刹那の内に三閃、四閃と手刀を振り回し、“隠し鬼”の口から上をグチャグチャに引き裂いてしまった。

 

 

(う、うわぁ……)

 

 

 陽はそんな惨劇を見て呻きを抑えるのに苦労をした。

 彼女の中で祓いの業とは過酷だが神聖なものだ。

 市井の民を護る為の崇高な行いだ。

 であるのに…

 

(ああ、あの人はたまたま生きているだけで、地縛霊とあまり変わらないんだな…)

 

 そんな失礼なことを考える。

 だが、よしおに対しての認識としては至極正しいものだった。

 



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鈴木よしおと隠し鬼⑫~偶然~

 ◆

 

 “隠し鬼”は常にやり場のない怒りと悲しみ、そして飢餓感を感じていた。元来は救いが為に生み出された存在であるのに、もはやその目的意識は希薄となっている。

 

 それでも鬼撫の血を引くものをつけ狙い、邪魔されない限りは他へ危害を及ぼそうとしないのは、神から鬼へ堕そうともその根源に紐づけられた救いへの希求の念に少しでも応えようとしていたからではないだろうか。よしおのように利己の権化のような存在ではない。利他の存在なのだ。本来は。

 

 尊い生贄を以てその他多数を救う…悲しみを背負いながらも、救いを齎す…このような犠牲を伴う宗教的な信念は昔からあり、この概念は多くの宗教や文化に共通する要素だ。

 

 発生の成り立ちとしては決して邪悪なものではなく、それがゆえに“隠し鬼”は無差別大量殺人を為さないのかもしれない。

 

 だがそれも大分タガが外れてきてしまっていた。

 

 晃の母、依子が昏睡する原因となった事件で、彼女を守ろうとした複数名の巫祓千手の構成員が“隠し鬼”に殺害されている。

 本来在るべき姿から離れた行動を取れば取る程に、“隠し鬼”は歪んでいく。

 

 完全に歪んでしまえば、“隠し鬼”は縛りから解放され、それこそ全国、いや、全世界で惨劇を作りだすだろう。

 

 だが、“隠し鬼”はよしおと出会い、そして殺し合い、よしおの血肉を口にしてしまった。

 他者の為に命を捧げてきた鬼撫の一族とは違い、利己の権化であるよしおは、根源が利他である“隠し鬼”にとっては異物の極致であり、また、不倶戴天といってもいいほどの背反存在だ。

 

 要するに“劇毒”という事である。

 

 ◆

 

 地の底から響いてくるような呻き声。

 頭部はないはずの“隠し鬼”からそれは響いてきていた。

 

 よしおの血と肉と魂が“隠し鬼”の体内で、精神世界で自己主張をしているのだ。

 

 

 ──俺が一番悲惨なのだ、悲劇の主役なのだ、悲しい存在なのだ

 

 ──他者がどんな悲劇に見舞われようとも、それは俺の味わっている苦しみに比べれば何ほどの事もない。

 

 ──なぜお前は俺がここまで悲しいのに、苦しんでいるのに自分の悲しみを主張しているのだ?

 

 ──許せない許せない許せない

 

 

 そんな救いようもない利己の毒が“隠し鬼”の中で暴れまわり、“隠し鬼”は苦痛に喘いだ。

 腹部から赤子の泣き声があがり、頭部が吹き飛びながらも手足をばたつかせ、ドス黒い血が周囲へ散る。

 それは陽の目からみても正視に堪えない惨状だった。

 

 よしおもまた重傷と判じて差支えない程の怪我を負っている。

 “隠し鬼”の口内へ突き込んだ腕からは血がとめどなく流れ、陽がその傷の程度を見ると切り傷だとか刺し傷だとか、そういう範疇を超えた“抉り傷”が刻まれ、傷跡からはぬらぬらと赤い肉がのぞいていた。

 

 よしおのアドレナリンも筋肉硬直による強制止血も、これほどの重傷ともなるともはや意味をなさない。

 

「す、鈴木さん、その傷…早く止血しないと!」

 

 陽が慌てて言うと、よしおは陽の方を向いて傷を負った腕を見せた。

 

「う、ひどい…ちょっとまってて、今止血を…」

 

 

 陽が上着を止血帯にするべく脱ごうとすると、よしおが口を開く。

 

「焼け」

 

 え?という表情で陽はよしおへ聞き返した。

 普段のよしおの口調は比較的丁寧だが、感情が昂った彼がやや雑なものへと変わる。…それは陽もすでにわかっている為、口調の変化は疑問には思わない。

 

 疑問だったのは発言の内容だった。

 

 ──焼け、とは?…もしかして…

 

 陽も阿呆ではないため、答えにすぐさまたどり着く。

 

「私の火で焼いて傷口を塞げ…ってこと?」

 

 陽の問いかけに、よしおはうなずいた。

 出血は勢いを強め、失血死の未来はそう遠くないだろう。

 だが焼き塞ぐというのはそれはそれで問題もある。

 

「わ、私の火は!そういう使い方できないわよ!強く吹き付けることはできるけれど、弱く吹き付けるなんて…いや、できるかもしれないけれど、もし私が失敗したら焼け死ぬわよ本当に!私の火はただの火じゃないの!あ…まって、て、鉄棒とかを熱して、そこに傷口を…」

 

 陽は自分の炎をよしおに浴びせかけるなど御免であった。

 トラウマがあるのだ。

 だからなるべく次善となる案を出そうとはしたが…

 

 ──焼けぇッ!!!!

 

 よしおの怒声が陽に叩きつけられる。

 よしおも別に陽を虐めたいわけではなく、そんな悠長な事をしている時間はないという意味で強く言っただけだ。

 

 しかし、今のよしおの精神状態はやや荒ぶっており、それが言葉に出てしまった。事実として時間は無い。

 流血は勢いを増していき、また“隠し鬼”はいまなお地面で呻いて、蠢いているが、相手が相手だけあっていつ復活するかわからない。相手は人間ではないのだ。

 

「ぴぃっ!?」

 

 小さい叫びとともに陽は人一人を炭化させるに十分すぎる出力で掌から火炎を放射し…炎がよしおと“隠し鬼”を飲み込む。

 

 ゴウゴウと燃え盛る大炎によしおと見られる人影が踊り、明らかに苦しんでいる様子だった。

 

「や、や、やっちゃった…ま、また…」

 

 ◆

 

 それはたまたまだった。

 

 たまたまよしおが“隠し鬼”の前に立っていて、たまたま“隠し鬼”をかばう形で炎を浴びたのだ。

 

 “隠し鬼”にこそ通じなかったものの、本来、彼女の炎はよしおの生命に届く程に強烈なものだ。

 よしおは炎に巻かれ、地面を転がり、火を消し止めようとした。

 

 もちろん陽の炎はそんなことでは消し止めることはできない。

 彼女の霊力が多分に練りこまれた炎は、たとえるならばナパーム弾の性質に近いものを備えている。

 霊力が付着し、それが炎上し、対象を焼き尽くすのだ。

 

 よしおも遅れてそれに気づき、身を包む炎…付着する陽の霊力を、自身の霊力で吹き飛ばそうとした。

 

 だが…

 

(足りないか)

 

 すでに比較的正気が戻ってしまっているよしおでは、陽の炎を吹き飛ばすほどの出力が得られない。

 

 陽もあわてて自身の炎を御そうとするが、一度発生させた炎を自由意志で出したりひっこめたりというのはできない。

 

 上着でバサバサとあおぐが、それは事態を悪化させるだけだった。

 

 そのままなら陽はよしおを焼き殺してしまっただろう。

 だがここで意外な助け船がよせられた。

 

「か、かくし…っ!?」

 

 陽は絶句した。

 “隠し鬼”…とみられる女性が立っていた。

 …不気味な老婆のような姿ではなく、妙齢の女性の姿で。

 

(こ、この妖気!“隠し鬼”に間違いないわ。でも、なぜ…?邪気を感じない…?)

 

 先刻まで交戦していた存在とはがらっと様子が変わった“隠し鬼”は、燃え盛るよしおに近づき、己が燃えるにも構わずその背に手の掌を置いた。

 

 炎が“隠し鬼”に吸われていく。

 喰われているのだ。

 

 やがて炎がすべて“隠し鬼”に吸われ…

 幽けき笑みをよしおへ投げたかと思ったら背を向けて歩み去っていった。その歩みを1歩、また1歩と進める度に、“隠し鬼”の身体が淡く輝き、やがて闇に溶けるように消えてしまった。

 

 赤子の笑い声が、夜のグラウンドに響く。

 

 ◆

 

 それはたまたまだ。

 

 よしおの利己の毒が、狂える“隠し鬼”に注入された毒が“隠し鬼”の根源をばらばらに解体したのだ。

 根源とはすなわち存在理由を意味する。

 

 利他のために生み出された“隠し鬼”は、真逆の利己の塊であるよしおの血肉を取り込むことによりショック反応を起こし、自身の根源を深く深く傷つけることになった。

 

 “隠し鬼”はただでさえアイデンティティーの崩壊すれすれの状態であった事も功を奏したのだろう、“隠し鬼”は根源をバラバラに解体され、それが正気を呼び込むことになった。

 

 元々彼女が狂ったのは三者三様の願いの混ざり方が悪かったからである。これがバラバラに引き裂かれれば、“隠し鬼”はもはやその身を現世に保ち続けることなどはできない。

 

 長年彼女は苦しみ、自身の苦しみゆえに他者を苦しめてきた。

 しかし皮肉にも、彼女の本来の在り方とは真逆のモノにより救われることとなったのである。



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鈴木よしお地獄道、第一部(完)

 ◆

 

 よしおの火傷は、彼を襲った火勢の規模を鑑みれば大した事がなかった。一応これには理由がある。

 

 ともあれ、あれからよしおは力尽き、倒れ伏したのだ。

 しかし事前の手配で周辺には巫祓千手の医療班が待機していたため、一命を取り留めた。

 

 ・

 ・

 ・

 

「おっさん、俺全然医学のこととかわからないんすけど」

 

 病床に横たわるよしおを見下ろしていた晃が言う。

 

「最初運び込まれた時はすごい大怪我だってきいて、めっちゃ心配したんすけど、なんだか物凄い勢いで治っていっているらしいじゃないすか。あ、これ会社の人たちからのお見舞い品っす。SAKANOのフルーツゼリーっす」

 

 晃の疑問は最もで、当初体表の16パーセントに及ぶ範囲の火傷を負ったよしおはどこからどう見ても大重傷人だった。

 しかしそのよしおの怪我は入院生活を1日、1日と過ごしていく内に凄まじい勢いで治癒していった。

 

 これはよしおが常人をはるかに超える再生力を持っているというわけではなく、陽の炎が霊力から成るモノあった事が理由だ。

 霊力により与えられる危害は、霊力により防ぐ事ができる。

 そこに悪意があるかないかで妖気だの邪気だのと区分がされてはいるが、本質的には同じようなものだ。

 

 この辺の特性が祓い手が霊異に対峙できる理由でもある。

 仮にこれがガソリン爆発などによる炎だった場合、よしおは死んでいただろう。

 

 よしおは早速ゼリーを開封し、喉に流し込んだ。

 

「おいしいですね、これ。ありがとうございます。今週末までには退院できそうです」

 

 よしおがそういうと、晃が次のゼリーの蓋を開封し、よしおに手渡した。よしおはそれもまるで飲み物を飲み下すかのように喉に流し込んでしまう。

 

「鈴木さん、いくら美味いからってもうちょっと味わって食べません?」

 

 晃のあきれたような言葉に、ややバツが悪そうな表情を浮かべるよしおはどこからどう見ても普通の中年男性だった。

 

(…でも、普通じゃないんだよなあ)

 

 晃はあの時、よしおが発した殺意の呪縛の、その冷たい感覚を忘れていない。蛇に睨まれた蛙という言葉があるが、たとえ自分が蛙でもあの時の鈴木は蛇より怖かった…と晃は思う。

 

「ああ、そうだ。親御さんの具合はどうなんです?」

 

 よしおが言うと、晃はやや表情をほころばせて答えた。

 

「なんでしたっけ、残滓…?がないか検査しなきゃいけないらしくって、まだ退院はできないみたいで、あとはリハビリっていうのかな、ずっと横になりっぱなしだから足腰も弱ってるみたいで…あ、でもちゃんと目が覚めて、いろいろ記憶のすり合わせとかしてます」

 

「そうですか、まあ良かった」

 

 晃の言葉へのよしおの返答は、やや散文的に過ぎる気がするがもとより彼は他人に対してはこんなものだ。

 

「そういえば鈴木さん、母さんに何か話がある…みたいな事を聞いてましたけど…」

 

 晃がそういうと、よしおは首を振った。

 

「いえ、それはもう良いです。僕には知りたい事があったのですが。しかしそれは僕にとっての答えではない…気がするんです。なぜなら僕はその答えを知りたいから灰田君のお母さんを助けようと考えました。それは打算です。打算では…打算では…」

 

 晃はよしおが何の話をしているのだかわからず、しかしなんとなくよしおが何を言いたいのか気になった。

 

 打算では?と促すと、よしおは首を振って言った。

 

「打算では…たどり着けない気がします。愛の秘密には…」

 

 ・

 ・

 ・

 

 愛!?愛!?

 

 晃はよしおの口から飛び出した言葉に唖然とした。

 

「ま、ま、まさか!鈴木のおっさん!あんた、母さんに……?」

 

 晃が恐る恐る聞くが、よしおは呆れた様に晃を見るだけであった。

 

 

 ◆

 

 

 病室の扉がノックされる音。

 よしおが応じると、晃が扉を開く。

 

 そこには茜崎 陽が立っていた。

 上品なレースがあしらわれた白いブラウスに、ふんわりと広がるフレアスカート…まるでどこぞのお嬢様のような服装だった。

 まあ事実として、彼女がお嬢様であることは間違いないのだが。

 茜崎家は政治家も多く輩出している名門だった。

 

「あら、あなたは…」

 

 陽は晃を、なにか実験動物でも見るような視線で一瞥した。

 

「こ、この度は、お世話になりました」

 

 晃がたどたどしく言うと、陽は無言で頷き、すぐに視線を外す。

 そしてよしおが寝ているベッドまで行くと、何やら目を細めて頭の天辺からつま先まで嘗め回すように視た。

 陽は一見すれば小生意気そうな少女といった風貌だが、晃にはとてもそうは思えない。

 

 晃はこれでいて母を超える霊媒体質だ。

 ゆえに一度は隠し鬼に狙われたのだが、その彼の心眼ともいうべきか、言葉にできない勘のようなものは、陽を大型肉食獣より恐ろしい化け物だと警鐘を鳴らしている。

 

 ちなみに、よしおに対してはさらに恐怖心を抱いてもよさそうなものだが、平時のよしおは人畜無害なおじさんなので晃はこれまで彼の危険性には気づかないでいた。

 だが先の一件で晃はよしおという男の二面性に気づき、よしおが“ちょっと不思議な力を持った静かなオジサン”ではない事を知った。

 

 しかし晃はよしおを避けよう、遠ざけようとは思っていなかった。

 それは全身に火傷を負ってもなお自身の母親を救ってくれた恩人だという点が大きいし、さらに言えばこれまでの特殊な現場で誰が身を張って自分達を守ってくれていたかを晃は知っている。

 

「…もう、大分治癒しているわね。普通は死んじゃうはずなんだけどな。これが鈴木さんと私の今の差っていうことなのかしら?」

 

 陽の口の端は少し口角があがっており、晃の目には何とはなしに機嫌がよさそうに見える。

 

「治療費は報酬から差し引いておいてください」

 

 よしおが色の無い声でいうと、陽は苦笑しながら言った。

 

「…元はと言えば、私たちが不甲斐なかったせいよ。報酬とは別に、治療費は巫祓千手が全額持つわよ。それに、私たちでは“彼女”を祓う事しかできなかったと思うの。あの時、私の炎から彼女を守ったあなたに、きっと彼女は感謝していたはずよ」

 

 陽の言葉に、よしおは何も返さなかった。

 一々弁明するのが面倒だったからだ。

 

 なるほど、確かに“隠し鬼”は哀れな境遇だったかもしれない。

 だが他人である。他人に対しては気の毒以上の感情を持つ事はないし、余裕があれば手助けなりしたかもしれないが、少なくとも身を呈して救おうとなんてしない。

 

 ──すべては幸運な偶然

 

 それがよしおの偽らざる本心なのだが、世の中には誤解させておく方が良い事柄とそうでない事柄がある。

 

 これは前者だと判断したよしおは、感情を感じさせない目で陽を見続けているのであった。

 

 ◆

 

 賢さと要領の良さは似ているが違う。

 

 よしおは子供の頃から1を聞いて10を知るほどではないが、1を聞けば4なり5なりは察することが出来た。

 よしおは賢かったから察しが良かったのだ。

 

 人間関係を上辺だけ取り繕う事もうまかった。

 よしおは分かっていたのだ、人間は“知ってほしい”とは強く思うものの、“知りたい”とはなかなか思わない生き物だという事を。その要点だけおさえてしまえば、良好な人間関係を構築するなんてことは訳もなかった。

 よしおは賢かったから周囲を友好の煙に巻くなんて事は容易かった。

 

 だが聞かされていないこと、上辺だけではどうにもならないことも世の中にはある。

 

 愛であった。

 

 よしおは施設育ちだ。

 両親という愛の見本を知らない。

 これが愛なのだ、ここがゴールなのだ、こういうものを目指すのだ、と誰もよしおに教示してくれなかった。

 

 よしおは賢かったが、要領はあまり良くなかった。

 知らないことを程ほどに察するという事が出来なかった。

 

 愛を知らなかったよしおが礼子と出会ったとき、よしおはこれこそが愛だと感じた。愛の形を知ったつもりになっていたよしおは、その形をより大きくしようと考えた。合理的に。

 目標に向かって着実に歩を進めることは、よしおの得意とする事だ。

 

 よしおは礼子に対しても、“良好な人間関係を構築”していった。

 二人の間にトラブルは起こらなかった。

 当然である、よしおがそのように礼子との人間関係を管理した。

 

 しかしそれで愛が深まるかといえば疑問だ。

 また、当の礼子に限らず、本当に愛されているか愛されていないかなど当人だってある程度は察するものだ。

 

 礼子はよしおとの結婚生活の間、ずっと薄ら寒く感じていただろう。それが心の隙になり、ゆくゆくの家庭崩壊に繋がった…とは安直には言えないかもしれないが、いずれにしてもよしおと礼子の夫婦関係には隙間風がぴゅうぴゅうと吹き込んでいた事は間違いない。

 

 よしおはよしおなりに礼子を愛し、夫婦関係を維持しようとはしていたが、よしおが提示する愛は礼子にとっては愛の形を成していなかったのだ。

 

 だからといって不貞行為が許されるかと言えばそれは否だが、夫婦関係は浮気しなければ後はどうでもよいというものではない。

 

 よしおもそのあたりは理解しており、だから成長したいとおもっている。“正しい愛の形”を知りたいと思っている。

 

 では愛を知るにはどうすればいいのか。

 愛を知るには人を知る事だ。

 人間関係を知る事だ。

 人間の外ッ面だけではない、中身をたくさん知る必要があるとよしおは考えている。

 

 そして人間の中身とはその精神だ。魂だ。

 よしおがこの業界にいる理由は、より多くの精神、魂を知り、ひいては愛を知り、成長し、その姿を礼子に見てもらい、そしてただしい愛の形でやり直す為である。

 

 ドス黒い愛の形だと、そんな道は地獄に繋がる道でしかないと人は言うかもしれないが、よしおにとっては純愛なのだった。

 

 

 鈴木よしお地獄道、第一部(完)

 

 

 

 

 



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国道40号線①

 ◆

 

 よしおの怪我は驚異的な速度で治り、火傷のあとも全く残らなかったため、すぐに職場復帰を果たした。

 

 とはいえ数日間入院したために仕事も休んだのだが、不思議と職場からの追及はなかった。これは巫祓千手の手まわしなのだろうなとよしおは考えている。

 

 ・

 ・

 ・

 今日はよしお、晃、そして高野 真衣の三人でいつも通り現場を回っていた。

 

 午前中に“特殊な現場”が二件。

 休憩を挟んで、“普通の現場”が一件。

 

 この特殊な現場はそれぞれ異なる“清掃ルール”がある。

 例えば必ず下から上へ清掃を進めていかなければいけない現場や、指定の順番でエレベーターで移動しなければいけない現場、帰り際に特定のお供えものをしなければいけない現場などだ。

 また、場所によっては特別な道具が必要な場合もある。そういう場合はあらかじめ指定されたものを用意しておかなければならないのだ。

 

 更に、そういう現場の作業者には一定以上の、いわゆる霊感が無くてはならないとされている

 

 これは言ってしまえばカーペットなどの掃除用具であるコロコロと同じ理屈だった。ある程度の吸着力(霊感)があることで初めて良くないモノを除去できる。

 

 今回は特に変わったところのない一般的なビルだったが、それでも決められた手順通りに進めていく必要がある。

 よしおたちはまず一階から始めていった。

 

 今回の清掃場所はビルの二階なので階段を使う事になる。

 

 そしてビルの二階、エレベーター前の踊り場。

 

 よしおたちを呼び止める声があった。

 それは一人の中年男性の声だった。

 男性は大柄な体躯をしており、スーツを着ていた。年齢は50代後半くらいだろうか? あまり清潔感はなく、髪の毛には白髪が目立つ。

 

 男は笑顔を浮かべながら近づいてくると、丁寧に頭を下げた。

 

 しかしよしお達3人はそれに応じる事なく、無視をした。

 なぜならその声に応じると、憑き纏われるからだ。

 

 ──今日の仕事内容を教えてください

 

 ──私は仕事がしたいんです

 

 ──いくらでも残業をします

 

 ──私はまだまだ働けますよ

 

 男性は3人が無視して作業を続けているにも関わらず、ひたすら声をかけ続けている。

 

 

 

 ぱちん、ぱちん

 

 踊り場の蛍光灯が明滅する。

 

 真衣がちらっとよしおを見ると、よしおは作業の手を止める事なく踊り場に置かれている物…マットだとかを除け始めていた。

 

「高野さん、それじゃあ洗剤を撒いてもらっていいですか」

 

 よしおの声には些かも動揺の色はなく、そのあまりの平静さが晃や真衣を冷静にさせる。

 

 ばち、ばち、ばちんっ

 

 踊り場の蛍光灯はその明滅の激しさを強め、そればかりか何か唸り声のようなものまで聞こえてくる。

 

 晃も真衣も、顔色は良くない。

 だが一言も話す事はなかった。

 なぜなら、何か話してしまえば“認識”されてしまうからである。

 

 それは2人にも分かってはいたが、しかし理解は出来ても心がどんどん落ち込んでいく。

 指の先は冷たくなり、足先は痺れ、呼吸がしづらくなり…

 

 ぱぁん、という柏手(かしわで)の音がそれらを吹き払った。

 

 よしおだ。

 真衣はどことなく不本意しているよしおが、両の掌を合わせているのを見た。

 

 柏手は基本的には神社に住まう神さまとの交信の作法…「二礼二拍手一礼」が有名だが、魔除けの作法でもある。

 

 自身の生気…エネルギーを空間へ放出し、簡単に言えば縄張りの宣言をするのだ。

 

 だが、それなら妖しい場では柏手を打ってればそれでいいのかというと、そういうわけでもない。

 

 縄張りの宣言をするというのは多分に攻撃的な宣言であり、場合によってはその場に巣食う良くないモノを刺激することにもなりかねない。

 更には生気に刺激されてより多くの良くないモノを惹き寄せてしまう事すらある。

 

 ゆえに総務省消防庁霊的災害対策課では、陰を帯びたモノが良くないモノへと変わってしまう前に、それらを吹き払うという目的での使用が推奨されている。

 

 ◆

 

 よしおの放った柏手は隔意と拒絶、不信と利己のオーラに満ちており、その場に蓄積しつつあった陰の気を吹き飛ばし、晃と真衣の精神からも陰を祓い、そしてそれを凌駕する不安感で上塗りした。

 

 晃は、真衣は思う。

 誰しもがいつかは自分を裏切るのではないかと。

 表面的に親しくはできていても、本当に助けを必要としている時には背を向けて去っていくのではないかと。

 

 唐突に彼らの心を陰鬱にさせているのは、よしおのオーラを浴びたからだ。

 よしおは常に軽度の鬱状態にあり、それが生気にも滲んでしまっている。

 

 もちろん柏手を打って一時的に祓わなければ晃と真衣はより深刻な霊的汚染を受け、体調は酷く悪化していただろう。

 

 ともあれ晃と真衣はそんなよしおの色に一時的に染め上げられ、表情を暗くしていた。

 先ほどのように手足が痺れ息苦しくなる状態よりはマシだが、それでも心は重苦しく、どことなく諦念めいたもので心が埋め尽くされていく。

 

「……休憩しましょうか。1時間ほど早いですが。降りましょう」

 

 よしおが声をかけ、二人の腕をつかんでエレベーターへと連れていく。

 

 ・

 ・

 ・

 

 なお、あの場でよしおが根本原因を祓うという選択肢はなかった。

 あのビルが霊的に健全な状態になれば、周辺からより悪性のモノが流れ込むからだ。

 

 何でもかんでも祓えばいいというものではなく、そのあたりはフクザツなのだ。

 

 ◆

 

 昼の休憩はよしおの作業車内で取ることが多い。晃も真衣も自前の弁当を用意している。ちなみによしおは帝城岩井という高級スーパーマーケットで購入した670円のサンドイッチだ。

 

「昼食を済ませたら、残りの作業をやります。…まあ多分、変なものはでないでしょう。そしてその後はNTビルのエントランスの日常清掃で今日は終わりです。知っての通り普通の現場です。30分もかからないとおもうので」

 

 よしおがいうと、車の後部座席で晃と真衣が返事をする。

 

「それにしても車、でかいっすよね。一応マイエースなんですよね?」

 

 晃が言うと、真衣も同意した。

 

「内装も立派だし。高級車なんですか?」

 

 よしおは曖昧に頷いた。

 

 よしおの作業車である『マイエースプラチナムラウンジ』は作業車の利便性と高級車の快適性を金に糸目をつけずに追及しており、最新の運転支援システムや先進の安全装備が搭載され、プレミアムな素材や緻密なデザインがふんだんに使用されている。

 

 その価格は新車で1200万円といった所だ。

 

 この価格帯の車は紛れもなく高級車と言っていいだろう。

 

(鈴木のおっさんはすごい稼ぎがありそうだもんなァ)

 

 そう思う晃だが、これは正しい。

 ただ、なんだったら前職以上に稼いでいるよしおだが、命の危険と天秤にかけても相応かと言われれば疑問ではある。

 

 ◆

 

「灰田君ってミューチューブとか観ます?私最近、気になってるチャンネルがあって」

 

 真衣が晃に話しかけると、晃は頷いた。

 

「観るよ、音楽関係ばっかりだけど。あ、それと暴露系とか。ソレソレが結構好き」

 

 ミューチューブは大手動画配信サイトであり、ソレソレとは暴露系というジャンルで一世を風靡する人気配信者で、チャンネル登録者数は200万人を超える。主に若年層を中心に人気を集めている。

 

「ソレソレさんは私も好きかも。でもメインはオカルト系が多いかな。心霊スポット巡りとか…」

 

 変わってるな、と晃は思った。

 心霊スポットなんてわざわざ動画をみなくても、仕事にいけばいくらでも行けるではないか。

 

「なんでわざわざ、と思うかもしれないんですけど…」

 

 真衣は苦笑しながら続けた。

 

「昔からそういうの、好きだったんですよね。最近はもっと好きになっちゃいました。…でも、本当に危ないオカルトとかは…嫌ですけど…」

 

 ああー、と晃は答える。

 

「ホラーが人気なのって、安心感を味わえるからっていうもんなぁ」

 

 安心感というのは麻薬的な作用を持つ。

 ストレスや不安が軽減され、心が安らかになる。そういう意味で、ホラーは安心感を味わう上ではうってつけだ。

 なんといったって、観客は“自分自身が決して危ない目には遭わない”事が理解できているのだから。

 

「あ、そうそう、気になるチャンネルってなに?」

 

 晃が聞くと、真衣は待ってましたといわんばかりにスマホの画面を見せた。

 

「なになに…PNL?」

 

 ・

 ・

 ・

 

 PNLは心霊専門のMYU TUBEチャンネルで、日本各地の心霊スポットや都市伝説を取材し、視聴者に独自の視点で紹介している。

 

 構成メンバーは以下の通り。

 

 タクヤ(男性):PNLのリーダーであり、心霊現象に精通している。彼は元々テレビ番組の心霊リポーターであり、その経験を活かしてチャンネルを運営している。

 

 ユウキ(男性):テクニカルサポートを担当し、機材のセットアップや映像編集を行っている。彼は映像制作会社で働いていたが、心霊現象に興味を持ちPNLに参加した。

 

 ミサキ(女性):霊感が強く、スピリチュアルな視点から心霊現象を解説する役割を担当している。彼女は幼少期から特殊な能力を持っており、その力を使ってチームに貢献している。

 

 PNLチャンネルでは、彼らの個性やスキルを活かしながら、視聴者に驚きや興味を提供する心霊コンテンツを展開しており、彼らの情熱と探求心が伝わる動画は多くのファンに支持されている。

 

 

 ◆

 

 動画内でタクヤ、ユウキ、ミサキの三人は、次回の動画企画について話し合っていた。彼らは楽しそうに談笑しながら、企画の詳細をブレストしている。その時、タクヤが仲間たちに新しいアイデアを提案した。

 

「次の企画はどうだろう?『謎のメッセージ!国道40号線で何が待っているのか?』っていうテーマで、実際に国道40号線を取材しようよ」

 

 ユウキは興味津々で、彼の眼鏡がキラリと光った。「それ、面白そうだね!ついでに北海道観光もしたい!」

 

 ミサキも笑顔で同意した。「ちょっと怖いけど、視聴者の皆さんにリアルな感想や現場の雰囲気を伝えられる企画だと思うよ。あ、北海道観光も忘れずにね!」

 

 どれだけ観光したいんだよ、とタクヤは呆れ顔を見せるが、タクヤもタクヤでまんざらでもなさそうだ。

 

 三人はさらに話し合いを深め、国道40号線での撮影に向けてアイデアを出し合った。彼らはその場で企画のスケジュールや取材場所を決め、次回の動画がどんなものになるのか、期待に胸を膨らませながら話し合いを続けていた。

 

 ・

 ・

 ・

 

「国道40号線…って?」

 

 晃が真衣に尋ねると、真衣は少し表情を改めて晃に説明をした。

 

 ◆

 

 えっとね、Flitterでね、国土交通省北海道開発局のアカウントが誤投稿したんですよね。

 

 それがこれ…

 

『国道40号ばばばばばえおうぃおい~べべべべべべべべべえべえええべえべべべえ(42.42km)で通行止を実施しています』

 

 これなんですけど…灰田君はパソコンさわったりします?

 普通はローマ字入力じゃないですか、パソコンの文字入力って。

 

 それをかな入力にかえて、この変な文字の羅列を打ちなおすと……

 

 ・

 ・

 ・

 

 ──こちこちこちこちこちいらてにらに こいこいこいこいこいこいこいこいこいいこいいいいこいいこいこいこいい

 

 

「こちらに、こい?」

 

 晃の言葉に、真衣は頷いて答えた。

 

「なんか気味悪いですよね。しかも、この投稿がされた時、現地だと通行止めなんてされてなかったそうです。サーバ更新の際のエラーだってあとから訂正されたけれど、こんな薄気味悪いエラー、なんていうか…」

 

 何かの手が加わったとしか思えない、と晃は思った。

 

「えーと、この…PNLの人たちはいつその国道40号線に取材にいくの?」

 

 晃の質問に、真衣は答えた。

 

「先週です。それ以降、何の更新もありません。三人のフリッター投稿も止まっちゃってます」

 

 行方不明ってこと?と晃が聞くと、真衣は静かに頷いた。

 



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国道40号線②

 ◆

 

 国道40号線は北海道旭川市4条通6丁目3−141を起点とする。

 終点は稚内市中央2丁目1441番の1だ。

 現道は約250kmであり、道中見通しが良く、車窓からは自然を楽しむ事ができる。

 

 道中で温泉に寄り道したり、恩根内では天塩川の美しい川辺を見る事もできたり、道の駅などもあるため、一切なにもない無感動な道中を行く…という事にはならないだろう。

 

「じゃあさ、この起点から稚内までの旅程を配信しようか。旭川市から稚内市までは大体車で4時間で、ほぼ直線距離だから道を間違える心配もほぼないよ。ただ、4時間生配信っていうのは少し長いかなぁ?」

 

 ユウキがそう言うと、ミサキが否定した。

 

「だぁーいじょうぶだって!フイッチとかで20時間くらいゲームの配信してる人もザラだし、4時間くらいの配信なら長いうちにもはいらないよ。でもさぁ、4時間かけて何も起こらなかったらなんかしらけるよね…あ!その時は適当に…ヤっちゃう?なんか、ほら、仕込みとか!」

 

 ミサキがニヤッと笑うと、タクヤが飽きれたような表情を浮かべた。

 

「仕込みって言ってもなぁ。昔はどうか知らないけれど、今の時代はそういうのすぐに検証とかされちゃうからな。まあ何もなかったらなかったでいいじゃないか。その時は北海道グルメ配信とかにでも変更しよう」

 

 タクヤが笑いながら言うと、私ウニ丼たべたーい、などとミサキが言い、三人は美食話で一時盛り上がる。

 

「……じゃあ、次の金曜日の昼に羽田空港で合流しよう。空港で、これから出発するみたいなシーンも撮っておこうか」

 

 タクヤがそうまとめ、その日は解散した。

 

 ◆

 

 金曜日、三人は昼過ぎに羽田空港の2番時計台という待ち合わせの定番スポットで落ち合った。

 

「体調はどう?」

 

 タクヤが尋ねる。

 

「大丈夫だよ!運転するのはタクヤだし!」

 

 ミサキが元気よく言うと、タクヤは眉を八の字にして黙ってユウキを見た。

 ユウキは苦笑しながらタクヤの肩を叩きながら言った

 

「交代で運転しようね」

 

「助かるよユウキ」

 

「あ、ちょっと!私が悪者みたいじゃん!じゃあいいよ、私も運転する!でも覚悟しておいてね。自慢じゃないけどもう交通法規とかあんまり覚えてないから!身分証明書代わりだし!」

 

 え"っとユウキがいい、タクヤとユウキはぶんむくれたミサキをなだめにかかった。

 

 タクヤもユウキも、ミサキの事は仲の良い友達だとおもっているが殺されてもいいとは思っていないのだ。

 

 ◆

 

『と、言う事で先週の配信でお伝えしていた通り!私たちPNLは“こちらにこい”という不気味な投稿の謎を解き明かすべく!はるばると旭川までやってきたのでした~!』

 

『といっても道中は観光案内みたいな感じになりそうですけど、それはそれで楽しいと思うから是非最後まで配信を観てね』

 

『実際、何も起こらずに稚内までついちゃう可能性の方が高いしな!』

 

 ミサキ、ユウキ、タクヤの順で発言をしていく。

 

 ・

 ・

 ・

 

 ゲロポン:観光配信でもええんやで

 

 kumi8:実際ちょっと不気味よね

 

 だーやま:誤投稿にしては都合が良すぎ

 

 爺:都合いいけど仕込みじゃないよね。国の垢乗っ取りでもしないと無理だろうし

 

 幸田:同接も増えてきましたね

 

 

 ◆

 

 車が石狩川に架かる旭橋を渡るとき、タクヤは感心しながら窓の外を見つめていた。ユウキも同様に感嘆の声を漏らし、ミサキも微笑んで風景を楽しんでいた。彼らは、北海道最大の川である石狩川の美しさに目を奪われていた。

 

『みなさーん!あれが!石狩川でーす!…あんまりきれいじゃないね…』

 

『まあいろんな河川から水が来てるんでしょうしね。仕方ないです!』

 

『何かの動画でガンジス河見たことあるけど、こんな感じの色だったよなぁ』

 

 ミサキ、タクヤ、ユウキの順で発言をしていく。

 

 ・

 ・

 ・

 

 リンダモリ:石狩川…調子が悪い時の目黒川より汚い!ww

 

 ゆいちゃん:昔はきれいだったのかな

 

 マサヒコ:観光スポットを回るのも楽しそう。応援してる!

 

 JIKAチュウ:コメ絶やすなよ

 

 幸田:順調な旅路で何よりですね

 

 ◆

 

 市街地を抜け出した後、車の中で三人は活気づいていた。タクヤが運転しながら、旭川の街並みについて語り、ユウキは地元の歴史や風習に興味津々で聞いていた。ミサキは彼らの会話に微笑んで耳を傾け、自分も時折話題に参加していた。

 

『さて、次は旭川市街地を抜け出して、もっと北へ進んでいくね』

 

『この先にはどんな事が待っているんだろうか…ちょっとドキドキするね。』

 

『怖がらずに進んでいこう!みんなも応援してね!』

 

 ミサキ、ユウキ、タクヤの順で発言をしていく。

 

 ・

 ・

 ・

 

 ミミちゃん:市街地から離れると急に雰囲気が変わるよね。急に田舎っぽくなった

 

 ナナリン:夜になったらすごい暗くなりそう。さすがに街灯とかはあるだろうけど

 

 モモちゃん:頑張れ、みんな!

 

 ジロウ:お昼何食べるの?

 

 asjfak:最後の晩餐になるかもなw

 

 幸田:なるでしょうね

 

 ◆

 

 車が比布トンネルの入口に差し掛かると、三人の表情が少し硬くなった。トンネルの暗さが彼らの不安を煽ったのかもしれない。

 

『おお、これが比布トンネルだね!なんだか怖い雰囲気が漂ってる…心霊スポットなんだっけ?』

 

『いえ、それは旧比布トンネルのほうですね。雪崩事故があって、それからいろいろとあったみたいですよ』

 

『いろいろって?』

 

 タクヤがユウキに聞くと、ユウキは眼鏡のズレを直して答えた。

 

『とにかく交通事故が増えたみたいです。でもろくに供養もされずに閉鎖されたみたいで…旭川は心霊スポットが多いんですけど、この旧比布トンネルは特に危ないっていう話です』

 

 ・

 ・

 ・

 

 ひろちゃん:そうそう、旧比布トンネルはやばいよ!今回の配信ではいかないんだよね?あそこはいかないほうがいいよ!

 

 マリコ:入口になんだか血痕みたいなのが散らばってるんだっけ?

 

 ゲロポン:マジやん

 

 爺:GOGOGO

 

 幸田:にぎやかで良い場所だとおもいますけどね

 

 ◆

 

 車が田舎道に入ると、周囲には広がる田んぼや畑が見えるようになる。タクヤは運転に集中していたが、時折自然の美しさに目を奪われていた。ユウキは地元の農業について語り、ミサキも興味深く聞いていた。彼らは、美しい田園風景を楽しみながら旅を続けていた。

 

『さあ、ここは田舎道が続くエリアだね。周りには自然がたくさんあって、ちょっと心が癒される。』

 

『でもこのあたりで怪異現象が起こるとは想像できないね』

 

『それがまた不気味なんだけど…。なんだかホラー映画の導入みたいじゃない?みんなも引き続き付き合ってね!』

 

 タクヤ、ユウキ、ミサキの順で発言をしていく。

 

 ・

 ・

 ・

 

 モモちゃん:なんか画質悪い

 

 爺:ほんとだ、電波の問題?田舎だから?

 

 リンダモリ:田舎だけど今の時代、電波くらいあるでしょ。いや、でも田舎すぎると厳しいのかな

 

 マリコ:わ

 

 ナナリン:え?

 

 モモちゃん:え、今

 

 ジロウ:なんだこれ

 

 asjfak:みた?

 

 ◆

 

 HNももちゃんは余りの驚きで口から紅茶を吹き出してしまった。

 彼女は先ほどまでPNLの配信を見ていたのだが、その配信途中に配信者…タクヤ、ユウキ、ミサキの顔が…

 

 ──くしゃり、と

 

 そう、くしゃりと潰れた、というか歪んだように見えたのだ。

 

 ムンクの叫びという絵画があるが、それに少し似ているかもしれない。

 

「ももも、もしかして…リアルホラー展開…?」

 

 ごくり。

 

 HNももちゃんは生唾を飲み込み、画面に見入った。



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