東方外来禄 -往年幻想物語- (くりすてぃあーね2世)
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第一章
始まりは彼方へ


私の事を知っている方も知らない方も、どうかお手柔らかにお願いします。
私はプロの小説化では御座いませんので誤字や脱字、文章の欠落など目に余る点が多々あるかと思いますが、よろしくお願いいたします。
それでは冒頭部、プロローグに当たる部分を投稿させて頂きます。


───某日、某所。

落ち着いた色合いの羽織袴を纏った男性が、一人作業をしていた。

姿容は身形と同じく落ち着いた、もの柔らかな雰囲気の男性である。

 

男が作業を行っている場所は、人間の住む里から一里ほど離れている場所にあった。

正確に計測すれば一里にも満たないであろうが、大よその距離でも"里外れ"と表現する場所に相応しい。

因みにこの場合の一里は凡そ五百メートル。日本での一里で考えてしまうと、途方もない数字に至ってしまう。

 

人間の住む里が見える方角から、反対側に視点を当ててみる。

其方の方角は先程とは一転し、何もない。

何もない、というのは人工的な建物が一つもない、という事である。目を向けてみれば、妖しく佇んだ森林やら深い竹林などがあるのが分かる。

 

そして男が作業している場所。

その場所にはお世辞にも立派とは言えず、かと言って粗末な造りにも見えない建屋が存在していた。

周囲には立派な木々が、その建屋を囲うようにして自生していた。建屋の付近には仕切る目的からか、垣根などが所々に造られていた。

 

 

「ふぅ」

男が小さく吐息する。

頬の辺りから静かに汗がしたたり落ち、太陽光が男の額を照らし付ける。

腰に手を当てると、男が何処か満足気な表情を浮かべた。

 

「……こんなものかな」

誰に言うでもなく、男が呟く。

一仕事を終えたのか、男はその建屋の中へと歩んでいった。

奇妙な場所に建てられたこの建物は一体何なのか、後に分かる。

 

 

 

*

 

 

 

 

男が建屋に入る。

和風な造りをした入り口に入ると、男は土足のままだ。靴は脱がない。

玄関と思しき場所を通ると右手側に扉があるが、男は通り過ぎた。

更に奥へと進むと、今度は広い部屋に到着した。

 

その部屋は一般住宅とは異なっており、テレビやらソファー等の近代的な物は設置されていない。

代わりに、大きなバーカウンターに近しいものが設置されている。

反対側にはまだ何も置かれていない巨大な棚も設けられており、隅の方には棚と似たデザインの扉もある。

バーカウンターの正面側には、木作りのテーブルが幾つも置かれており、同じく木作りの椅子も用意されている。

 

察するにこの建屋は、酒飲みのできる施設といった処であろう。

それもまだ建てられたばかりであり、"居酒屋"と名乗るには少々気早すぎるものがある。

そしてこの男は恐らく、この建屋の"オーナー"といった処だろう。

男はバーカウンターに設けられた椅子に静かに座る。

 

 

「……面取りも良し、この椅子も……決して座り心地は良くないが、ガタ等もない」

 

濁りのないテノールの声色で、男が呟いた。

男は隣りにあった椅子を軽く叩いたり、揺すったりと何かを試すように衝撃を与えていた。

 

「厨房も見てみよう」

 

男は立ち上がり、バーカウンターの中にある扉を開けて奥に入っていった。

男の言う厨房を見てみると、良くも悪くも名前の通り厨房である。

 

厨房には、何処にでも置いてありそうなシンクや、作業台が置かれている。

他にも電気で稼動するコンロや、縦型の冷蔵庫なども用意されている。

 

「良い感じに置いてあるね。電気はまだ使えないから、暫くはガラクタになるけど」

 

男が厨房を後にする。

先程のバーカウンターのある部屋に戻ると、そのまま建屋の外へと出た。

時刻は既に昼を回っており、強い日差しが男を照り付ける。

男は外に出るや否や、大きく伸びをし欠伸をした。

 

「うーん、……はぁ。思ってたよりも本格的な造りになってたな」

 

「───そうでしょうとも、抜かりはありませんわ」

 

不意に男以外の声がした。

男は僅かに驚くが、直ぐに平然を取り戻し声の主に言葉をかける。

 

「そろそろ普通に登場してくれないか、八雲紫」

 

彼がそう声の主に言い放つと、何もない空間から突如として若い風貌の女性が飛び出してきた。

金髪で中華風の服を身に纏っており、フリルの付いた変な形の帽子を被っている。正面には赤いリボンのような布切れが結び付けられていた。

 

「あら、普通じゃなかったかしら」

 

「普通の人は、空間から飛び出してきたりはしないよ」

 

「私は妖怪ですもの」

 

そこまで会話をすると、男はそうですか、と会話をする事を止めた。

 

「それで、貴方の言っていた話の事だけれど」

 

八雲紫と呼ばれた女性がそう言葉を切った。

男はそれだけで話の筋を理解したのか、口を開く。

 

「ああ、ありがとう……十分だよ。 僕が思っていたよりも、ずっと立派だったもんで驚いた」

 

「当然よ、私が絡んでいる案件だもの」

 

「此れで安心して居を構える事ができるというもんだよ」

 

「疑問に思っていたのだけど、この建屋は酒屋とは違うのかしら」

 

「うーん、そっちの方面は趣味でやっていこうと思ってるからね。 当面の間は二階に用意した私室で寝泊りするだけになるかね」

 

「あら、そうだったの」

 

男が二階に目を向けて、そう伝える。

 

「ま、こんな辺鄙な地にある酒屋を訊ねる人なんて、余程の物好きしかいないだろうけどね」

 

男が卑屈そうに呟く。

八雲紫はその呟きに、それもそうね。と肯定した。

 

「なら、私が栄えある"お客様一号"にでもなってみようかしら」

 

冗談ぽく八雲紫が、男に向けて言葉を放った。

 

「それも良さそうだね。 でも残念だけど、酒の類なんて一滴もないからお引取り願えるかな」

 

「お酒なら……ほら、あるわよ」

 

八雲紫が、裂けた空間の"すき間"に手を突っ込むと、突っ込んだ手が酒瓶を持って帰ってきた。

何やら酒瓶には"千歳鳩"なんて表記しており、男は心の中で深い溜息を吐いた。

 

「それは君の酒であって、この店のものじゃあないだろう。 それで持て成したところで、君をお客さんと呼ぶ訳には……」

 

「確かにそうね。だったら、貴方が用意すれば良いじゃない」

 

八雲紫がそう告げると、男は肩を少し震わせた。

彼女の言葉に反応したのだろう。しかしその表情は焦っているでも、怯えているわけでもなく至って平然であった。

 

「貴方の能力を使えばそんな事、造作もないと思うのだけれど」

 

八雲紫がそこまで言うと、男は小さく吐息した。

そして男はおもむろに懐の中に手を突っ込む。すると其処からは、先程八雲紫がやって見せたように酒瓶が出てきたのであった。

 

「別に能力を使ってまで持て成す気はなかったんだが」

 

男はそう言い放ち、懐から取り出した酒瓶を八雲紫に向かって投げ渡した。

受け取る際に小さく声を漏らした八雲紫であったが、酒の銘柄を確認した途端、憤慨した。

曰く、此れではない、と。

 

「普通の酒じゃないのか」

 

「違うわよ、間抜けね。前に飲んだもっと甘い奴が飲みたいの」

 

男が再び懐の中に手を突っ込み、酒を取り出した。

酒の銘柄を見てみると、名称の他に果物の絵柄が表記されているのが分かる。

 

「甘いのってコレか」

 

「そうそう、それよそれ。真昼間から酔う気にもならないし、此れぐらいが丁度良いの」

 

ラベルには"アルコール分3%"と表記されていた。

果物で割った若者向けの、所謂"チューハイ"というやつだ。

 

「前に、それは"幼子の飲み物だ"とかいって馬鹿にしていたのを忘れたのか」

 

「馬鹿にはしていないわよ。ただ宴会の席で、こんなちゃっちぃのを飲むのはどうなのかしら、と思っただけ」

 

彼は八雲紫に対して抗議していたが、彼女はいつもの通りに道化るだけであった。

呆れるでもなく、憤慨するでもなく彼が溜息を吐くと、八雲紫の表情が少しばかり堅くなった。

 

「これで暫くは外の世界に行きたい、なんて言う事もなくなったかしら?」

 

小さく透き通るような声色で、八雲紫が男に訊ねた。

その問いに対し男は、少しおどけるようにして答えた。

 

「……さ、どうだろうね。まぁま、飲み物が温くならないうちに飲んでしまおうじゃないか」

 

それだけ伝えると、男は踵を返し建屋の中───もとい、家屋の中へと入っていった。

自らの問いをはぐらかされた八雲紫は、表情を少しだけ歪ませた。しかしそれも一瞬、直ぐに男の後を追うようにして家屋の中へと姿を消した。

 

────第百十八季、月と秋と木の年。

幻想郷を様々な異変が襲う少し前、初夏の記録である。

 

 




ストーリーや設定などに関してましては、後付によるものも出てくる可能性が御座います。
一章部が執筆し終わりましたので、ハーメルン様の方へ初投稿させて頂く形となりました。
慣れない操作で投稿ミスがあるかもしれませんが、今後ともよろしくお願いいたします。


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巻ノ一  里外れの

プロローグの前書きで書き忘れたのでここに記載させてもらいます。
執筆主は食材や料理など、食学の知識は全くないです。当小説に出てきます料理等に関しましては、作中の雰囲気を出す為の演出に過ぎませんので、読者様の中に博識の方がいらっしゃった場合に、料理等に関して作り方が違う、等と指摘された場合、此方としては対応が難しいのが現実です。

要はあれですね、料理とかは雰囲気重視の描写なので、細かい事は気にしないでねテヘペロという事になります。
それでは、早めですが第一話の方を投稿させて頂きます。


いつの間にか、里外れに建物が建築されていた。

誰の所業かは不明だが、事実そこに建築されているのだから、幻惑等ではない。

ならば誰が建築したのであろうか。

里の人間ではない事は明確である。里の外れで建築作業を行おうものならば、妖怪の類に悪戯をされ仕事にならない。

そう考えるのならば、妖怪達が建築したと思考するのが妥当である。

しかし何の為か。里の人間達では到底、理解に至らない。ただただ、里の人間達に疑問が付いて回るのであった。

 

里の人間達がそんな事を考えているなど露知らず、建屋の主である男は今日も汗を流していた。

 

男は建屋の周囲を見渡し、特に目が付く事がないのを確認すると建屋の中へと入っていった。

建屋の中に入ると、今度はテーブルや椅子に埃が付着していないか、一つ一つ指をなぞらせて確認していた。

その作業が終われば、今度は厨房の中へと入っていく。

建物が建設された当時とは異なり、厨房の中は若干の熱気と湿気に包まれていた。

縦型の冷蔵庫を開けると、多少の食材や飲料水が詰められている。

厨房を後にし、今度はバーカウンターの内部を凝視する。

これまた建設当時は何も置いていなかった棚に、お酒の類の瓶がいくつも置かれている。

バーカウンターの内側……つまり、客からは見えない箇所。そこには板場があり、簡易的な水道も設置されている。

水が流れ出てくるかは不明だが、バーカウンターの内側でも調理作業が出来る事を示していた。

 

男が建屋に設置されている全ての機能を確認し、異常や不具合がない事を確認した。

何も問題がない事が分かると、男は笑みを零した。

そして建屋の入り口まで戻り扉の前へと移動すると、扉に掛けられていた表示板を引っ繰り返す。

その表示板には、"開店"と表示されているのであった。

 

 

*

 

 

「よし、今日から開店だ」

 

扉の前に掛けられていた表示板を返し、"開店"と表示させた。

今日が記念すべき開店日となるのだが、店の周囲は静寂で包まれている。

普通は店の開店日ともなれば、物珍しさ等で繁盛するはずなのだが……生憎と、僕の店は閑古鳥が鳴くレベルなのである。

 

「こりゃあ、暫くは人が来そうもないね」

 

時間帯は早朝と言うには遅く、昼過ぎと言うには早い時間帯。

たとえ開店前に行列が出来ずとも、一日は始まったばかりなのである。

 

「気長に待つとしよう。 軽くお通しでも作っておくか……酒も冷やしておこう」

 

玄関口で待っていたところで、客が来るわけでもない。

ならば今のうちに仕込んでおこうと、店内に戻る。

余談であるが、加熱し温度を上げた酒の事を燗酒と言う。お湯を加えて温度を上げた場合は、お湯割りなどと呼ばれたりする。

日本酒や中国酒などで行われる事が多く、ワイン等で行われる事は少ないらしい。

また日本酒で行われた場合は、飲用温度ごとに名称が付いていたりする。

例えば55度前後のものは飛び切り燗、常温のものは冷や、5度前後のものは雪冷え、等々。

 

「今は暑い時期だから、温めちゃあ飲めないだろうから……冷やすのが良いな」

 

里では普及していない冷蔵庫を使用し、酒を冷やす事にした。

因みに僕は酒には詳しくないので、店でお勧めする事は少ないだろう。

此れといって珍しい酒もない。が、他店では出し得ないだろうキンキンに冷えた飲料は提供する事ができる。

 

色々あってお店を開く事にしたのだが、あくまで趣味の範囲でやっていこうと思っている。

僕はそもそも、此処"幻想郷"ではなく、"外の世界"に行きたいのだ。

"外の世界"と"幻想郷"とが繋がっている結界を管理している八雲紫に抗議した結果、この店が建てられた。

いや、そもそもは店ではなく、只の家となる手筈であった。

しかしそれでは面白くないと、僕と八雲紫とで話し合った結果、居酒屋に近い何かを展開する店となった。

僕は"食事処"と表現するつもりだが、八雲紫の中では"居酒屋"となっているらしい。

 

まぁ、別にそれについて言及する気はない。

特にお品書き等も作製しておらず、幻想郷では酒を嗜む人妖が多いから。

そんなに豪華な食事を出さずとも、高級な酒を出さずとも、適当な料理に適当な酒を合わせれば、この事業は成立する。

ただし、人並み以上に食事をする輩も存在すると八雲紫に忠告されたので、それに対応できるように食材は用意したつもりだ。

 

「……しかし、まぁ」

 

待てども待てども、店の暖簾をくぐる者は訪れなかった。

東から昇った太陽は、やがて西へと沈んでいった。それでも此処を訪れるものは一人として現れない。

 

「何となく予想はしていたけど、実際に現実になると……結構辛いね」

 

そりゃそうとも、始めから期待などはしていなかった。

こんな里外れに開店したところで、初日から繁盛するわけがない。

だからこそ仕込みも最低限に止め、無駄な消費なども抑えているのだ。

 

「八雲紫が来なかったのは意外だった。冷やかしに訪ねて来ると思っていたんだけど」

 

ま、良いかと一人ごちる。

 

「さてと、日も落ちた事だし閉めるとするか。 こんな夜中に訊ねてくる人がいるとは思えないし」

 

日が落ちて里の外に出る人間など、余程の物好きしかいないだろう。

そんな物好きがこの店を訪ねるとは……いや、有り得ないとは言い切れない。

しかし、そんなのを当てにする気はないので、早々に戸締りをする事にした。

 

このお店の良いところは、店内に住居のスペースがある事だ。

と言っても寝室が二階にある上に、ひどく簡素な造りになっている。此方の方は改善の余地があるのだろうが、そこまで手は回っていない。

 

入り口の表示板を"開店"から"閉店"に引っ繰り返し、再び店内に戻る。

今日は誰も来なかったが、明日もあるので店内を片付けなければならない。埃や塵を払うだけで済むので、直ぐに終わるとは思うが。

そう思って店内に戻ったつもりであったが、その考えは大きく覆させられた。

 

 

「あ、お邪魔してるわよ」

 

僕は足元で躓き、椅子の角に頭をぶつけた。

その様子を見ていた声の主が、口元を抑えながらのたまう。

 

「ごめんなさい、驚かすつもりじゃあなかったのだけれど」

 

「嘘をつけ、この不法侵入妖怪が。 いつの間に中に……」

 

僕はいつの間にやら店内に侵入していた八雲紫を視認し、言葉を聞いた途端に辟易した。

だがそれも隣りに座っている見知らぬ人物を目にすると、露となって消えた。

 

「あら、紫の言っていた若大将さんね?」

隣に座る若い女性がそう言った。

綺麗な桃色の髪をしており、死に装束の一つである三角頭巾のようなものが帽子の更に上から付いている。

薄い青を基調とした装束をしており、物腰柔らかな雰囲気を放っている。

 

「おや、君は」

 

「そういえばまだ、互いに紹介はしていなかったわね」

 

僕がそこまで言葉を発すると、八雲紫が言葉を挟んできた。

 

「紹介するわね。 西行寺幽々子、私の古くからの友人」

 

「よろしくね~、若大将さん?」

 

八雲紫が桃色の髪の女性……西行寺幽々子さんと言うそうだが、紹介をしてくれた。

 

「西行寺幽々子さん、か。 僕は───」

 

そこで呼吸一つ分置いた。

久しく自己紹介というものをしていなかった故、舌が発音の仕方を忘れでもしたのか。

 

「僕は、天道(てんどう)と言う者です。 以後、お見知りおきを」

 

「そ。 天道さんね、紫とは随分仲がよろしいみたいで」

 

「中々の食わせ者ですが芯の強い方なので、いつも世話になっておりますよ」

 

「……それは褒めてるのかしら」

 

八雲紫にそう問われたが、表情だけで返答した。

しかしながらこの西行寺幽々子という女性、八雲紫の友人だという。

仮にも"妖怪の賢者"と呼ばれている彼女の友人とあらば、同じくこの西行寺幽々子という女性も只者ではないだろう事は推測がつく。

 

「ところでこのお店は、お客様に対してお冷の一つも出さないのかしら」

八雲紫が言う。

 

「申し訳ない、少し待っていてくれ」

 

僕は板場に向かい、直ぐにお冷の用意をした。

用意と言っても何て事のない、ものの数十秒で済む事だ。

板場に置いてあるグラスに、製氷室から取り出した氷を投げ込み、中にミネラルウォーターっぽいものを注ぐ。

 

「おまちどうさま、何か持ってくるよ」

 

「ありがとう」

 

そう礼を言ったのは西行寺幽々子さん。

お冷だけでは締まらないので、何か作り置きしていたものを持ってこよう。

 

「ちょっと、違うんじゃない?」

 

再び板場に戻ろうとしたところ、八雲紫が呼び止めた。

僕はそれに対して多少なりとも辟易しながら、応対を試みた。

どうやらお冷に文句があるようで、何だか身振り手振りで僕に抗議していた。

人差し指をグラスに向け、左手を横に振るう。 恐らく、『コレじゃない』という意味だろうか。

次に右手を少しだけ丸め、口元にあてがい身体を少し反らした。そして左手を水平にし、高い位置に持ってくる。

僕は全く意味がわからなかったので、その場を後にして板場へと向かった。

 

 

「はい、おまちどうさま」

 

板場から戻った僕は、適当に作り置きしていたおつまみになりそうなものをいくつか持ってきた。

漬物や枝豆など、後は小さく切った鶏の肉を辛く味付けしたものを用意した。

 

「口に合うか分からないけど、召し上がってください」

 

言いつつも、冷やしたお酒をテーブルの上に並べる。

夏場といえど夜も暑い、冷やしたお酒が丁度良い具合に合うかもしれない。

何を言っているか分からなかった八雲紫には、アルコール分の強い酒を持ってきてやった。

 

「見た事のないお酒ね、美味しいのかしら」

 

「さぁ、僕はお酒には詳しくないから。 とりあえず飲んでみれば良いじゃないか」

 

栓抜きで蓋を開けると、アルコールの香りが鼻を突いた。冷えているのもあり、周囲を冷気が包んでいるのが見て取れる。

氷の入ったグラスに注ぐと、氷の表面温度が上昇し"パキッ"と割れる気持ちの良い音がした。グラス八分目程に注ぎ、八雲紫にグラスを渡す。隣の幽々子さんにも同様の事をした。

 

「ん……、良くも悪くも普通」

 

「そうかい、……そうだろうなあ」

 

不味い、なんて評価ではなく安心した。

僕はお酒の銘柄には詳しくないので、何が高級で何が美味なのか……全くの無知なのである。

 

「ありがと、このお通しも美味しいわよ」

 

「ありがとうございます、西行寺さん。作り置きした甲斐があるってもんです」

 

昼頃に作り置きしておいたお通しを提供したのだが、これが意外にも好評であった。

もっとも、開店中に来店したお客様に提供する予定だったのだが……、複雑である。

 

「天道さん」

西行寺さんが僕を呼びかけた。

 

「貴方、随分と長生きしてらっしゃるのね」

西行寺さんがそう言葉を紡ぐと、お通しの漬物を口に運んだ。

 

「いえ、まあ。年の功と呼べるものは持ってはいませんよ。 それよりも、何故そうだと思ったんですかね」

 

「雰囲気、かしらね。まだお若いのに泰然とした風格を感じる……うちの妖夢にも見習ってほしいところね」

 

「偶に言われますが、泰然自若とは縁遠いですよ」

 

泰然自若とはつまり、常に落ち着いており物事に対して動じないさま、といった感じの意味だ。

見た目の雰囲気からそう言われる事もあるが、内心は穏やかではない。僕を泰然自若と評するのは間違いである。

 

「あら、貴方は今でこそ落ち着いているけれど、昔は破天荒な事をして周っていたじゃないの」

 

「またそんな、噂話に尾ひれが付いただけだってば」

 

僕と八雲紫は昔から顔見知りであり、こうして偶に昔話を引っ張り出してきたりするので、その度に僕は辟易する。

そのやり取りを見ていた西行寺さんが、僕達の関係の事を訊ねてきたので答える。

 

「ええ、もう忘れましたが……気付いた時には喋っている仲だったと思います」

 

「私は憶えてるけど。前から思っていたのだけれど、貴方って少し記憶力が弱いんじゃあないかしら」

 

「……申し訳ない」

 

あまり関心がなかったので忘れてしまっていた。

態々そんな事を口にすれば面倒臭いことになるので、素直に謝罪する事にした。

 

「へぇ、凄く長生きなのね。なら面白い昔話の一つや二つないのかしら」

 

「すみません、僕は旅人じゃあないので話のほうは。そういうのは僕よりも、紫の奴に聞いてもらったほうが良いですよ」

 

為になる話など無いので、僕は西行寺さんの期待には応えられない。下手な沈黙が出来ても落ち着かないので、僕は一つ質問をした。

 

「西行寺さんは普段、何をしてらっしゃるんですか」

 

物腰柔らかな雰囲気を放っており、推測するには何処かの貴族のお嬢様、といったところか。

 

「幽々子はね、冥界で幽霊を管理しているのよ」

 

「うふふ、そんなとこね。どうかしら、貴方も一度冥界に訪れてみては」

 

「……遠慮しておきます」

 

予想はしていたが、やはり大物であった。

冥界には管理人がいるとは噂で聞いた事があるが、目の前にいる女性がその人物であった。

 

「蜉蝣の一期……人の一生なんてあっと言う間ですからね。僕もそのうち、お世話になるかもしれません」

 

「人並み以上に長生きしているのに、よく言うわね。不老不死の類かと思っていたのだけれど」

 

「そんなまさか。斬られれば痛いですし、酸素がなくなってしまったらあっと言う間です」

 

不死の人間かと思われていたようだ。生憎と、僕は不死ではない。

そんなものに憧れはしないが、修羅場を通るたびに不死身だったらどんなに楽かと考えたものだ。

 

 

かれこれと、長い時間彼女達は店に居座り続けた。

特に一日仕事に追われていたというわけでもなく、対して疲労もしていないので良しとした。

食事よりも酒盛りが目的だったようで、食材を激しく消費する事はなかった。

曰く、食事は既に終えてきた後のようであったらしい。その点に関しては八雲紫が、"配慮してやったから感謝しろ"、とのたまっていた。

何の事だか知らなかったので、僕は愛想笑いだけを返事とした。

今日飲んだ酒代を幾許か頂戴し、彼女達はそれぞれの帰路へと着いた。とは言うものの、八雲紫の能力で空間に消えただけであったが。

 

初日は閑古鳥が鳴いてしまったが、冥界の管理人をしている女性が来店したのには驚いた。

店の売り上げ云々は大して気にしていないが、幻想郷の中でも大物の部類に位置する人達とは、率先してコンタクトを取っていきたい。

 

「今度、人里に行ってみるか」

 

少量の酒が零れたテーブルを雑巾で拭いながら、僕はそう呟いた。

 

 





主的には小料理屋をモチーフにしておりますが、バーのようなシックな雰囲気も取り入れたいと思ってしまっており、滅茶苦茶になっておりますね。
今後もよく分からない料理名などが出てきますが、寛容にお願い致します。
それではここまで読んで頂き、ありがとうございました。 次話投稿は未定です。


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巻ノ二 杯中の蛇影

サブタイトルと本文は必ずしも関係するとは限らない!
という事で短いですが、第二話です。


冥界の管理人、西行寺幽々子さんが来店してから数日が経過した。

あれ以来も客足が見える事は無く、閑古鳥は鳴くどころか大合唱を始めている。

流石にこれでは拙いと考え、僕は人里に足を運ぶ次第と至った。

 

幻想郷にある人間の里は、妖怪の賢者である八雲紫が保護している。

大昔に起きた騒動以来、里の中は平和で満ち溢れている。今では里の中に妖怪向けの店もあり、有名な妖怪なども足を運んでいたりする。

また里には守護者がおり、里の人間を襲おう者ならばその守護者が黙ってはいないのだ。

河童が作ったという龍神の石像が置いてあり、その眼の色を見れば天気が分かるというのだが……

 

「あれ、おっかしいなぁ」

 

人里に入り、少し歩いたところで人だかりが出来ていた。

興味が湧いたのでその人だかりの中心近くまで歩み寄り、原因となっている物に目を向けた。

 

「ちぇ、今日も天気が分からないのかよ」

 

「おっさん、しっかりしろよな」

 

集まっていた野次馬達が口々に呟きつつ、その場を後にし始めた。

中心にいたのは初老の男性と、河童が作ったという龍神の石像であった。

何があったのか知りたかった僕は、その初老の男性に声をかけ質問をした。すると初老の男性は若干項垂れた様相で答えた。

 

「はあ。季節が夏に移ってからというものの、天気の予知が出来なくなってしまっていて」

 

「原因が分からないのか」

 

「いえ、原因と思われるものは目星が付いているのですが……」

 

そう言って初老の男性は、天に向けて指を刺した。

 

「見えますか、あの紅いのが」

 

指の指し示した先を見ると、何やら紅い霧のようなものが森の奥深く頭上を覆っていた。

 

「あの紅い霧が発生してからというものの、予知の的中率が激減してしまい、今に至っては予知すらできない状態となっているんです」

 

「なるほど」

 

「それに今年の夏は少し、暑さに欠けるとは思いませんか?」

 

初老の男性がそう問いかけてきた。

確かに夏場とはいえ、まだ羽織物をしている者も見える。

 

「確かに、そうかもしれないね。六月頃の気候から変わっていないと思う」

 

「その通りです。今はもう七月も終わり、既に八月です。こんな馬鹿げた事があると思いますか?」

 

初老の男性は少し憤慨を見せると、若干乱れた羽織物を整えて踵を返す。

彼はこの後何処に行くのか気になったので、僕は何処に行くのか質問をした。

 

「これから里の者たちと共に、あの紅い霧を対処するべく話し合いをしてきます」

 

「そうですか、頑張ってください」

 

それだけ言うと、初老の男性はその場を去っていった。

龍神の石像の前にいるのは僕だけとなってしまったので、僕もその場を後にする事にした。

 

 

 

*

 

 

 

そもそも、僕が人間の里を訪れた目的は何なのか。

考えるまでも無い、僕のお店を宣伝するためである。

しかし大々的にやるのも柄ではないので、所謂"張り紙"を貼って宣伝とするのが目的である。

何処に貼るのが最も効果的なのか、無論人が多く通る場所である。

では人が多く通る場所は何処か。

僕はそれを知らないので、人間の里をぶらぶらと歩き回っている次第である。

 

見るに、繁華街と思わしき地帯に辿り着いた。

人通りが多く若い者も多い、並ぶ店も飲食店や装飾品店が多い。

しかし、そのお店のどれが人気店で繁盛しているのか分からないので、通りすがりの人に聞いてみた。

 

「すみません」

 

通りすがりの年配の男性に声をかけた。

 

「此れからどちらへ行かれるんですか」

 

「仕事だよ、仕事!ほら、どいてくれ!」

 

言うや否や、急ぎ足で立ち去っていってしまった。

しようがないと、次の人に声をかけた。年配の女性だった。

 

「すみません、この辺に」

 

「しょうがないねぇ、とっときな」

 

これまた言うや否や、僕に向けて小銭を渡して立ち去っていった。

確かにみすぼらしい格好をしているかもしれないが、僕は乞食などではない。

受け取ってしまった銭をどうしようかと思ったが、捨てるのも勿体無いので懐に入れておくことにした。

めげずに次の人に声をかけた。

 

「すみません、少し良いですか」

 

僕がそう声をかけると、立ち止まってくれた。

返事などは無かったので、そのまま用件にはいる事にした。

 

「この辺りで一番人を集めているお店は何処か、ご存知無いですか」

 

そう質問すると顎に指を当てて少しの間思考し、間もなく口を開いた。

 

「この道の突き当たりに茶店があるでしょう。今の時間帯なら、人で溢れてるはずだけれど」

 

「そうですか、ありがとうございます」

 

そう説明だけすると、直ぐに去っていった。

此処より反対側の道の突き当たりに人気の茶店があるらしいので、そこに赴くとしよう。

それにしてもさっきの人は少々特殊な人であった。人里にはメイド喫茶など無かったはずだが。

あまり深くは考えず、僕は人気の茶店に赴くことにした。

 

 

*

 

 

───茶店

休憩所の一つであり、注文に応じて茶や和菓子を提供する店舗である。

茶屋と表現される事もあり、他にも待合茶屋、料理茶屋など様々な種類がある。

料理茶屋などは現代でも料亭として営業している店もあるとか。

 

兎にも角にも、繁華街にある休憩所は盛況を極めていた。

確かにこの辺りは大分歩くうえに、既にお昼時である。此処で昼食を取るものも少なからずいるのであろう。

当の茶店には列が出来ていたので、僕はその最後尾に並んだ。

 

「な、知ってるか。あの紅い霧の原因が判明したってよ」

 

「本当か。どうせ山の妖怪どもの仕業だろうとは思うが」

 

僕の三つほど前に並んでいる男達がそう会話をしていたので、傍聴する事にした。

 

「いや、それが違うらしい。里外れに奇妙な建物が建った噂があるだろう、妖怪が一枚噛んでるって噂の」

 

「ああそれ知ってる。だけど、そんなもんが紅い霧と何の関係が」

 

「関係あるかどうか分からないからこそ、調べるんじゃあないか。近辺に怪しい物がないってわけだし、あそこに調査が入るのも時間の問題だろうな」

 

「へぇ、そんなもんか。あ、おい前詰めろよ、前」

 

完全に僕の家の事を指している会話内容であった。

此処で"違う"なんて反論をしたところで、混乱を極める一方なので黙っている事にした。

調査調査と言えども、僕は何もしちゃあいないので悪くされる事はないだろう。

 

十数分ほど列に並んでいると、ようやく僕の番が訪れた。

中に入ってみると、ノスタルジーに浸れそうな和風な造りをしていた。

江戸時代のような簡素な造りではなく、もっと木材を駆使した立派な造りなので驚いた。

席に着き注文を聞かれたので、みたらし団子と茶を注文した。

この時代の金銭価値というものは実に複雑であり、僕自身でさえ良く分かっていない。

先程注文したものは2銭2厘と、比較的良心価格なのではないだろうか。1円が遠い未来では、数万円ほどの価値となっているので驚きだ。

 

程なくして注文した物が届いたので、直ぐに頂いた。

みたらしの甘さと餅の柔らかい食感が口いっぱいに広がり、お茶の渋さも相成って直ぐに完食した。

完食して直ぐに茶店の主人の下を訪ねてみた。

 

「すみません、ご主人とお見受けしますが」

 

「らっしゃい、追加かい?」

 

「いえ、少しお願いがありまして」

 

お願いがある事を伝えると、茶店の主人は表情を歪ませた。

 

「実は僕、小さいですがお店を経営しておりまして。最近開業したばかりなのですが、何分客足が遠くて」

 

「おや、そうなのかい」

 

「貴方のお店はとても繁盛していますね。そこで一つお願いなのですが、この張り紙を店内に張っては頂けないだろうか」

 

用意した張り紙を主人に見せる。程好く色付けした、老若男女問わず興味を持って見てもらえる内容にはしてあるはずだが。

まずは宣伝の一歩として、張り紙を里内に展開しようという考えだ。

そこで繁盛している店を利用しようとしているわけである。

怪訝な表情で張り紙を見ていた主人だが、やがて口を開いた。

 

「うーん、悪いけど他を当たってもらえないかな」

 

「そこを何とか」

 

「うちも他店と鎬を削ってるからねぇ。既存の顧客を取られちゃあ、敵わないよ」

 

確かに茶店は里中にあちこちに展開している。

その中でも大手規模のこの茶店を選んだのは間違いだったであろうか。

いや、他の店を訪ねたところで結果は同じなのは、このやり取りを見てれば分かる。

そこで一つ、条件をだしてみた。

 

「確かに、おっしゃる事はよく分かりました。しかし僕も、是非ともご主人のお店にお願いしたいと思っております。そこで一つ提案なのですが」

 

「提案?」

 

「ええ。張り紙を掲示する場所を提供して頂ける対価、広告費をお支払い致します」

 

再び怪訝な表情をする主人であるが、その場で広告費とするお金を手渡すと、驚いたような表情を浮かべた。

 

「げっ! こ、こんなに……受け取れませんよ」

 

「良いんです、受け取ってください。何でしたら、話題の一つとして宣伝して頂ければ」

 

「そ、そうですか……それでは」

 

主人に張り紙を手渡し、掲示してもらう事を約束した。

手渡したお金は、お札の貨幣を数枚といったところ。特にお金に困る生活はしていなかったので、貯蓄はある。

今は客で溢れ返っているので、営業時間が終了した後に張り紙を掲示すると、主人から伝えられた。

 

とりあえず今日は一件だけで、帰路に着くとする。

直ぐに効果は出ないだろうが、数週間もすれば徐々に客足が見えてくれば幸いである。

 

 

 





感想の方でご指摘して頂いた方、ありがとうございました。
まさかタグの処理を間違えているとは夢にも思っておりませんでした。取扱説明書は熟読するべきでした。
修正の方を行いましたので、あらためてよろしくお願いいたします。


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巻ノ三 森と茸と宵闇と

里で宣伝活動を僅かながら行ったが、客足は見えてこない。

あれから数日経った今日も、僕は誰もいない店内で読書に耽っていた。

此のままじゃあ生産性がない、そう考えると辟易とする。近くの森にでも出てみようと、僕は準備を進めた。

 

 

───魔法の森

幻想郷で森と言えば、魔法の森の事を示している。

この森は瘴気で満ちており、普通の人間ならば長時間居座ると忽ち体調を崩してしまう。

無論それは妖怪にも言える事なので人間は勿論の事、妖怪すらもあまり立ち寄らない場所なのだ。

 

僕が魔法の森に訪れた理由は至極簡単である。

森の中で誰にも刈り取られず健やかに成長した野草や木の実、茸などを収集するためだ。

僕は瘴気に対して耐性があるので、あまり気にする事無く魔法の森へと侵入した。

 

「お、キノコが生えてる」

 

大きな木の根際に、茶褐色の小さなキノコが生えていた。

僕はそれを引っこ抜き、齧ってみる。

 

「……苦いな、食べれたもんじゃない」

 

齧った部分を吐き出し、キノコは元の場所に戻しておいた。

今のは恐らくニガクリタケという、強い苦味のあるキノコだろう。詳しくは無いが。

 

「こっちには木の実があるじゃあないか」

 

上を見上げると、小さな粒粒の木の実が沢山実っていた。

一つ毟り取り齧ってみると、僅かな甘みと酸味が舌を刺激した。

 

「うん、磨り潰してジャムにできるかも」

 

木の実を何個か毟り取り、持ってきた小さな鞄の中にしまった。

流石に人の手が入っていない森なので、瘴気に満ちていようとも自然は豊かである。

 

「さてさて……おや、これは」

 

少しばかり歩くと、瘴気がより一層強くなった気がした。

ふと下を見下ろすと、怪しげなキノコが生えている。

 

「これはベニテングダケのようなキノコが……」

 

赤い傘に、白っぽい棘棘のようなのが無数に生えている。

気持ち悪い、見てるだけで嫌悪感が増してくる。だが、物は試しと毟り取ってみた。

 

「ふむ……意外と瘴気と中和されて、美味しく頂けたりするのかも」

 

引っこ抜いた毒キノコを舐め回すように見ていると、不意に近くの茂みが大きく揺れた。

何か潜んでいるのかと目を向けると、茂みの中から何かが出てきた。

 

 

「おや、こんな場所に女の子が」

 

茂みから出てきたのは、小さな女の子であった。

金髪に赤いリボンを付けており、赤いネクタイに真っ黒なスカートと随分な色合いである。

 

「此処で何してるの」

 

金髪の少女が、そう僕に問いかけてきた。

それは此方の台詞であるのだが、僕は言葉を返す。

 

「食べられそうな野草とか、木の実とかを収集してるんだよ」

 

「へぇ、そう」

 

とても詰まらなそうな声色で返答する少女が、僕の容姿を上から下まで凝視し始める。

 

「ところで貴方は、食べられる人間?」

 

突然訳の分からない事を言い出す始末なので、僕は凄く吃驚した。

推測するに、この少女は人喰い妖怪なのかもしれない。だとするなら刺激するのは極めて危険である。

 

「僕は食べられないよ。こっちは食べられるかもしれないけど」

 

「なにそれ」

 

「さっき此処で拾ったキノコだよ」

 

「ふーん。美味しいの?」

 

「食べてみるかい」

 

僕の持っているキノコ、もといベニテングダケに興味を示した少女。

何やらお腹が空いてそうだったので、当のキノコを渡した。

キノコを受け取った少女は、まず臭い嗅ぎ、次に傘の部分を一口だけ齧った。

僕は毒キノコを食べる少女の図を見てはいられなかったので、目を瞑っていた。

 

「───ぺっ! なにこれっ、不味ぅ……」

 

目尻を潤わせ、口に含んだキノコを吐き出していた。

当然と言えば当然かもしれないが、やはり妖怪でも毒キノコは食べられないようだ。

 

「……口直ししなくっちゃ」

 

そう少女が唾を吐きながら言うと、周囲が暗くなりだした。

どうやら戦闘態勢に入ったのか、少女の雰囲気が危険なものに切り替わっている。

このままでは拙いと、僕は少女を宥めようと言葉をかける。

 

「まぁ、待ちなさい」

 

「何よ、命乞いなら後にして」

 

死んだ後に命乞いは出来ないと一言入れてやりたいが、我慢する。

 

「口直しするのなら、僕よりも良いものがあるよ」

 

「今度は何よ」

 

鞄の中に入れておいた食べ物を用意する。

お腹の空いている様子なので、食べ物を持って制する事にした。

 

「僕の作った握り飯だけど、食べるかい」

 

「いらない。どーせ美味しくないよ」

 

「そんな事はない。僕が作ったんだから」

 

簡易な包装を解き、握り飯を露にする。

とはいうものの、警戒して食べようとしない。仕方ないので自分で食べることにした。

 

「美味い、美味いなあ。塩気が効いてて食が進む」

 

「……」

 

「うん、胡麻がよく絡んでて米に合う。全部食べちゃおっと」

 

「……一個ちょーだい」

 

僕が少女の前で握り飯を頬張っていると、物欲しそうに"一つくれ"とのたまう次第である。

元々食べさせる目的だったので、はいどうぞと少女に握り飯を差し出した。

 

「うん、美味しい」

 

「そうだろうとも」

 

「もう一個ちょーだい」

 

お腹が空いていたのか、直ぐに一つ目を完食した。

更にもう一つ欲しいと言うので、今度は違う味付けの奴を与えた。

やがて三個目となる握り飯を食べ終えると、少女は満足そうな表情になった。

これで僕を喰らおうとする意志もなくなっただろうと思ったので、僕はその場を後にする。

 

「さてと、食後のデザートを」

 

その場を後にしようとしたが、周囲は闇に包まれたままであった。

更には背後からそんな声が聞こえてくる始末なので、辟易とした。

 

「待て待て、普通はここで満足する感じだったろう」

 

「それはそれ、これはこれ。デザートは別腹だもん」

 

少女の体躯であれだけ食べておきながら、人間は別腹とのたまうので辟易する。

 

「僕は里の外れで飲食店を経営している。この握り飯よりも、もっと美味しい物を知ってる」

 

「あっそう」

 

「僕を食べたら、美味しい物が食べられなくなるよ」

 

「私、あんたの店なんか知らないし」

 

「教えてあげるよ、地図を描いてあげよう」

 

「お金なんか持ってないし」

 

文句が多い少女であるが、もう一押しで見逃してもらえそうだ。

僕はお金の代わりになる物を提示する。流石に無銭飲食では仕事にならない。

 

「森の中に実ってる食べられそうな物で良いよ。キノコとか、木の実とか、そういうもので構わない」

 

「ふーん、さっきのキノコでも構わないの?」

 

「あれはダメだ」

 

根に持っているのか、そう言いながら僕を睨み付けてくる。

暫しの沈黙の後、周囲に視線を向けると闇が薄くなっているのが分かる。

 

「ま、それで良いわ。あんた弱そうだったから食べてやろうと思ったけど、興醒めしちゃった」

 

「そいつはどうも」

 

渋々、と妖怪の少女は同意してくれた。

見逃してくれるのならば、いつまでも此処にいる道理は無い。

僕は地面に地図を描いてやり、店の大まかな位置を教えてやった。

 

「僕の名前は天道、他の妖怪達にも僕の店の事を宣伝しといてくれよ」

 

「あっそ、天道ね。私はルーミア、気が向いたらあんたの所に行ってみるわよ」

 

名前を交わし、僕は魔法の森を後にした。

思わぬ事態に遭遇してしまったが、何とか切り抜ける事が出来て助かった。

厄介な客が一人増えてしまった事を考えると辟易するが、それはそれで面白いかもしれないのでよしとする。

 

 

 

*

 

 

 

人喰い妖怪のルーミアから解放され、自宅へ戻ってみると何だか集団が出来ていた。

今日は既に出かける為に休業としたのに、何の集団だと言うのだ。

遠くから傍観するのも時間の無駄なので、人間の集団を無視して自宅へ戻ろうとするが声をかけられてしまった。

 

「此処の主人は君かい?」

 

集団の中から出てきた年配の男性が、そう問いかけてきた。

 

「はあ、そうですが。何か御用ですか」

 

「実は最近になって発生してる、紅い霧についてなんだが」

 

そういえば前に耳にした記憶がある。

紅い霧の原因が僕の店にあるという、出鱈目話を。

どう考えてもあの紅い霧は、森の更に奥の場所から発生しているのに、如何して僕に原因があるのか。

 

「すみませんけど、僕は知りませんよ。原因を知りたいのなら、森の奥地に行った方が早いんじゃあないですかね」

 

「いや、そういう話ではないんだ」

 

「じゃあ、何ですか。食事でしたら、また明日にしてほしいんですが」

 

 

僕がそこまで言うと、男性は黙り込んだ。

騒いでいた集団は既に静まっており、目の前の男性が代表として僕と対話している。

少しの沈黙の後、男性は再び口を開いた。

 

「紅い霧についてなんですが、原因は私達にもわからないのです。博麗の巫女に解決を依頼したのですが、依然と動かないままでして」

 

「それで僕に何の関係が」

 

「今日偶然にも妖怪の賢者様の式神様が訪れまして、我々が解決を依頼しましたところ……その、外れにある建屋の主人に依頼しろと仰せつかりまして」

 

僕は酷く辟易した。

 

「その式神が、直接言ったんですか」

 

「いえ、式神様が賢者様に話しをあげ、結果として貴方に依頼しろと……」

 

「……そうですか」

 

僕の知らないうちに、話が動いていたようだ。

今日は訳の分からない事態に遭遇したので、酷く疲労しているというのに。

 

「わかりました、善処しますので今日は皆さん帰ってください。夜になるとこの辺りも危なっかしいので」

 

「ありがとうございます、報酬の方は別途用意致しますんで……」

 

それだけ伝えると、集団は帰路に着き、僕は自宅の中へと入った。

とりあえず休養するとして、後で如何するか決めないとならない。

僕は勝手に話しを進めた八雲一家を、呪う次第であった。

 




この話を執筆したのは、今から数ヶ月ほど前になります。
平日になると執筆速度が激減してしまい、思うように執筆できないのが辛いですね。


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巻ノ四 妖精のごっこ遊び

翌日、疲労も大分回復したところで例の面倒事を片付けるべく動いた。

例の面倒事とは、至極単純明快な事柄である。

昨日里の人間達が僕の家宅の前で騒いでおり、知らぬふりをして帰宅しようとしたところ捕まってしまった。

話を聞くと、どうやら紅い霧の件で話があるという事だった。

どうせ僕に責任を押し付けようとしているのだな、と予想していたので辟易としていた。

しかし詳しい事情を聞くに、転嫁話ではなく紅霧が発生してる事態を解決して欲しい、との依頼話しであった。

更に追求してみると、八雲紫が一枚噛んでいたらしい。そうともあれば動かないわけにはいかないので、重い腰を上げる次第となった。

 

外に出てみると、僕は驚愕した。

時間帯的に太陽が昇っている頃合だというに、太陽の光は紅い霧によって妨げられ曇天である。

紅い霧のせいで気分まで陰鬱になる。手早く解決して日常に戻ろう。

先ずは昨日僕に話を入れてきた人達に、紅い霧の原因と思われる事象の確認に向かおう。

 

 

*

 

 

視界に飛び込んでくる紅い霧に辟易としつつ、人里に到着した。

そこで更に驚愕したのだが、里外に止まらず里内も紅い霧に覆われていたのだ。

日中は人で溢れていた人里も、紅い霧に覆われた今では見る影も無い。

 

里で商売をしている人は恐らく、商売あがったりだと憤慨している事だろう。

繁華街にも人の気配はなく、住民達は家屋へと閉じ篭もっていると予想される。

この紅い霧の原因が僕にあると、最近まで里の者達に勘繰られていたのだ。

先日になって他に原因がある事を里の上層部は知ったらしいのだが、恐らく里に住む一般の者達はその事を知らない。

どころか、未だに里外れにある奇妙な建物の主人が異変の原因だ、と憤慨しているかもしれないのだ。

となると僕の店に客足が来るどころか、怖いお兄さん達が一挙して押し寄せてくるかもしれない、という可能性まである始末だ。

そう考えると何だか腹が立ってきたので、早急にこの異変を解決しようと勇み足に変わる。

 

里の住民達は家屋に閉じ篭もって出てこようとしないので、情報の収集を期待できないと思った僕は里外に出た。

直接昨日話した人に会おうとも模索したが、そもそも彼の居宅を知らないので諦めた。

このまま時の流れに従うのも無粋なので、仕方ないので自力で紅い霧の原因を調べる事にした。

 

まずは空を飛び、紅い霧の発生地点を調べてみよう。

僕は空を飛ぶのはあまり得意ではなく、歩くより疲れるので日常的には使用していない。

翼や魔法具を代替として飛行している者ならそういった事に苛まれないのだろうが、僕は自力で飛行しているので負荷が大きく疲労するのだ。

心の中で悪態をついたりしながら大きく飛翔すると、幻想郷が視界の下に広がった。

 

「なんだ、最初から飛んでいれば良かったじゃあないか」

 

飛翔し上から幻想郷を見下ろしてみると、紅い霧の発生地点と推測できる場所が判明した。

どうやら幻想郷にある湖……霧の湖を中心として、紅い霧は展開されていた。

 

「兎にも角にも、先ずは霧の湖に行ってみよう。何か分かるかもしれないし」

 

善は急げと言うし、僕は急いで霧の湖へと向かう事にした。

 

 

 

*

 

 

 

───霧の湖

幻想郷にある水源地帯であり、昼間になると霧に包まれる不思議な湖。

一見すると広大な湖に見えるが、単なる霧による視界不良で広大に見えるだけであり、実際は一周するのに一時間とかからない大きさである。

釣りスポットとして有名であるが、魚が棲んでいるのかは不明である。

 

道中で変なのに遭遇すると面倒臭いので、飛行して霧の湖まで移動した。

途中でルーミアっぽい何かを見つけたが、やはり絡まれると面倒臭いので無視して進んだ。

拍子抜けするほど容易く霧の湖まで到着すると、紅い霧の発生地点だけあって視界が悪い。

数メートル先が見えなくなるほどまで紅い霧に覆われており、もしかして原因は自然現象なのではないかと思うほどである。

仮に自然現象であった場合、僕には如何することも出来ないので諦めて帰還するしかない。

けれどもこれが人為的に行われたものならば、やはり僕が何とかしないといけない。どちらにしても、面倒臭いことこの上ない。

 

霧の湖に何かあるんじゃあないかと、周囲を歩いていると何だか肌寒くなってきた。

初夏も過ぎて夏真っ盛りだと言うのに、尋常ではない気候に変化していくのが肌で感じ取れる。

それでも構う事無く歩き、やがて鳥肌が立ってきた頃に事は動いた。

 

「ふふ、寒いでしょ」

 

緩慢とした動きで空中に浮いている少女がいた。

青髪に白いシャツの上から青いワンピースを着ている。見た目は十にも満たない子供であり、背には氷の結晶に似た羽があった。

 

「なんだ君は」

 

明らかに異常な光景だったので、思わずそう問いかけてみた。

目の前の少女は腰に手をやり、偉そうに言葉を吐いた。

 

「あんた、寒くないの」

 

「凄く寒い。君が温度を下げているのか」

 

「そうよ。寒いほうが脅かしやすいと思って」

 

確かに暖かい気候よりは、ひんやりとした気候の方が心理的には吃驚しやすいだろう。

しかしこの女の子、一見して分かったが……

 

「君は妖精か。それも寒さを操れるようだね」

 

「その通り。あたいはチルノ、最強の氷精チルノよ!」

 

此方に指を差し向け、そう高々と名乗るチルノという氷の妖精。

見たところ周囲の気候の変化には関係あるらしいが、紅い霧とは関係なさそうである。

 

「あっそ。じゃあ僕は行くから」

 

「待ちなさい、あんたこのまま先に進めると思っているの?」

 

「急いでいるから、ごめんね」

 

紅い霧と関係ないなら、相手にするのも時間の無駄なので先に進む事にした。

しかし僕がチルノ君を振り切ろうとすると、何だかチルノ君から穏やかじゃない雰囲気が伝わってきた。

ひょっとすると怒っているのかもしれない、形は女の子でも妖精である。普通の人間より余程凶悪であるのは間違いない。脳足りんなのも間違いないが。

 

「もしかして怒ってるのかい」

 

「とーぜん! あんたぶっ飛ばしてやるんだから!」

 

「ごめんよ、ごめん。怒らないでよ、ほら一緒に遊んであげるから」

 

振り返ってみると怒りに打ち震えており、ひどい形相を浮かべていたので謝罪した。

こんな寒いところで争い事になるなんて、御免被る。紅い霧とも関係ないのに。

謝ったところで許してくれる気配を見せないので、誠意を見せる事にする。

 

「ほら、何して遊ぶチルノ君。お馬さんごっこなんてどうだ、僕が下になるから」

 

「あんた、あたいの事バカにしてるでしょ! そんな子供の遊びなんてイヤよ!」

 

「じゃあ、おままごとなんてどうだ。僕がお兄ちゃんで、君が妹役」

 

「二人しかいないじゃない! あんたもしかして、バカなの?」

 

「なら、何して遊ぶんだよ」

 

「あんたが決めなさいよ、言いだしっぺ!」

 

妖精と言うものはつくづく、始末に終えない存在である。

 

「やめだ、やめ。帰ろうっと」

 

「あ、ちょっと! 待ちなさいよ、だったら弾幕ごっこするわよ!」

 

「弾幕ごっこだって?」

 

チルノ君がそう提案したところで、寒さで少しだけ身震いした。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

───弾幕ごっこ

主に妖怪と人間との実力の差を埋める為に用いられた、スペルカードルールの俗称である。

殺し合いとは違い、一種のスポーツ感覚として楽しむ事が出来る決闘方法である。

攻撃には霊弾やら飛び道具など、人により様々である。

 

僕は弾幕ごっこという呼び名を聞くのは初めてであったが、何となく理解はしている。

つまりは"ごっこ遊び"である。

弾幕ごっこは、女の子同士が真剣に闘う一つの競技であり、決闘である。所謂、スペルカードルール。

チルノ君が"弾幕ごっこ"がやりたい、というのなら僕はそれに同意せざるをえない。

 

「よし、じゃあやろっか、チルノ君」

 

「ふふん、あたいに挑んだ事を後悔させてやるんだから!」

 

挑んだのは僕ではなくチルノ君であるが、この際事の発端などどうでも良い。

僕はチルノ君の前に立ち、攻撃を促す。

 

「ほら、良いよ。何処からでも」

 

「ちょっと、もっと離れなさいよ!」

 

僕とチルノ君の距離は、およそ手の届く距離である。

僕としては距離など何処でも構わないんだが、チルノ君が距離に関して猛抗議を仕掛けてくる。

 

「離れなさいってば! 離れろー!」

 

「わわっ」

 

目の前で氷の結晶が破裂し、一種のねこだましみたいになり吃驚した。

その隙にチルノ君は天高く飛翔し、僕を見下ろす形となった。

 

「ふふふ、いくよ!」

 

言葉と同時に、チルノ君が何かを宣言した。

 

「氷符『アイシクルフォール』ッ!」

 

チルノ君の周囲を氷が纏ったかと思うと、ツララ状の結晶が僕を襲った。

風を斬るようにして飛来してくる結晶は、周囲の地面に突き刺さったり、樹木の枝を圧し折ったりとやりたい放題である。

その中の一つが僕目掛けて飛来し……命中した。他にも硬い何かがぶつかったりして、勢いに負けて倒れこんだ。

 

「うわあ、いたたた……」

 

「どんなもんよ!」

 

「うん、強いなあチルノ君は。痛い痛い」

 

「これであたいの実力がわかったでしょ!」

 

「そうだね。痛くて立ち上がれないからもう降参」

 

「……」

 

僕の一連のやり取りを見ていたチルノは、最初こそ喜んでいたが、やがて眼を細めて僕を睨んでいた。

 

「……あんた、やっぱしあたいの事バカにしてるでしょ」

 

「そんな事は無い。いたたた、ほら血が出てるし」

 

「かすり傷じゃん」

 

「かすり傷でも放置してると炎症を起こすからな。ほら、腕なんか真っ赤になっちゃって」

 

「あ、本当だ」

 

袖をまくり、チルノ君に赤くなった腕を見せ付けた。

単に冷えて赤くなってしまっただけなのだが。

 

「おや、真っ赤といえば」

 

僕は当初の目的を思い出し、立ち上がった。

 

「そういえばチルノ君、この辺りの紅い霧って」

 

「紅い霧?」

 

この辺りに棲んでいるだろう妖精ならば、この紅い霧の事を何か知っているかもしれない。

自分で探すよりも人に聞いたほうが早いので、僕は素直にそれに従う。

 

「僕は紅い霧について原因を探りにきたんだけど。何か知らないか」

 

「うーん、知らない。気付いた時には紅かったし」

 

従ったところで、相手が無知だったら効果が無い。

妖精といえども、この辺りを縄張りにしているのだから何かしら知っているとは思うのだが。

 

「何でも構わないよ。知ってる事があったら教えて欲しい」

 

「そぉーねぇ……あ! 湖の畔に変ちくりんな建物があるよ」

 

「おや」

 

「そんで、ちっこいのが威張り散らしてた」

 

良い事を聞いた気がするので、僕は素直にチルノ君にお礼を言った。

湖の畔にある建物で、小さいのが威張り散らしているらしい。

意味不明だが、とりあえずその建物とやらに向かうのが懸命だろう。

となれば時間が惜しいので、直ぐに向かう事にした。チルノ君の相手をしていると辟易とするから。

 

「待ちなさい、あんた名前はなんていうの?」

 

「僕は天道だよ。じゃあねチルノ君、さようなら」

 

「待てってば! もう一勝負するんだから!」

 

名前を訪ねるや否や、否応無しに弾幕勝負を吹っかけてくるチルノ君。

流石にこれ以上時間を取られるのも嫌なので、何とかして切り抜けなければならない。

ともあれば、興味を僕以外のものに向けなければ……

 

「あ、見てみろよチルノ君! 蛙だ、ほらそこに!」

 

「えっ」

 

僕がチルノ君の背後を指差し、そう大きな声で言い放った。

嘘ではなく本当に蛙がいたので、興味が移り変わるか試しに言ってみた次第である。

 

「ほんとだ! きゃー! 氷付けにしちゃうんだからっ!」

 

まるで欲しかった物を買ってもらった女の子のように、黄色い声をあげて喜ぶチルノ君。

あちこちに冷凍光線を浴びせながら、かの蛙を氷付けにしようと勇むチルノ君であった。

 

僕はその光景を別に名残惜しむでもなく見届けると、静かに手を振ってはしゃぐチルノ君に挨拶を交わした。

目指すは湖の畔にある、変ちくりんな建物である。

 

 









以上、第四話でした。
当小説には戦闘描写や主人公の素姓についての伏線などが描写されておりますが、本編中に過去話を混ぜて都度ご紹介させて頂こうかと思っております。


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巻ノ五 紅い館と魔法使い

霧の湖にある建物とやらに向かう。

道中で出くわしたチルノという氷の妖精から、赤い霧に関する情報を質問したところ、この建物が出てきたのだ。

他に原因が考えられないので、とりあえずその建物に向かう事にしたのだ。

たとえその建物が原因ではなかったとしても、今度はそこの住人に聞けば良い話だから。

 

言われたとおりに霧の湖を歩いていると、やがて当の建物が見えてきた。

紅い霧のせいでよく見えないが、近づいて見てみると紅い霧と同様に真っ赤な建物……洋館であった。

何処から如何見ても、紅い霧を出しています、と言っているようなものである。が、決め付けるのは良くないのでまずはその洋館を訪れてみる事にした。

正門に近づいてみると、何やら女性が立っていた。門番の方なのだろう、声をかけてみる。

 

「すみません」

 

聞こえたかは知らないが、此方の方を見ていたので聞こえているだろう。

 

「はい、何でしょうか」

 

「この建物に住んでいる方にお会いしたいのですが」

 

高貴な人なのだろう、門番まで雇って派手な紅色の館を擁しているのだから。

チャイナ服を着た女性が門番をしているので、もしかしたらそういう趣味のある御仁なのかもしれない。

 

「お嬢様にですか?」

 

「ええ。何か問題でもあるんですか」

 

「いえ。うーん、大丈夫なのかなぁ」

 

どうやら此処の館の主人は女性らしい。

門番の方が唸っているのは放って置いて、とりあえずは謁見だ。

 

「心配なら僕の他に誰か、監視をつけてもらっても構いません」

 

「と言われましても。参ったなぁ、持ち場を離れるわけにもいかないし」

 

余程警戒されているのか、或いは判断しかねているだけなのか。

どちらにしても急を要するので、可能な限り迅速な判断をしてもらいたいのだが。駄目なら駄目で、また別の方法を考えれば良いのだし。

僕が門番の方の回答を待っている時であった。

何気ない出会いと言ってしまえばそれまでだが、僕の中ではやけに印象的な出会いの一つだったのかもしれない。

 

「───っと、やっぱり何かあったわね」

 

そう呟きながら現れたのは、紅と白の巫女装束を纏った少女であった。

何故だか腋を露出しており、巫女装束の割には露出度の高い服装であるのが窺えた。

 

「む、貴女は?」

 

最初に動いたのは門番の方であった。

当然と言えば当然か。突然空中から巫女が現れたのだから、不審者の登場である。

 

「私は博麗霊夢よ。因みに、あんたは?」

 

「因みにって何ですか。私は紅美鈴、紅魔館の門番をしています」

 

お互いに自己紹介を交わしていた。

紅白の巫女装束が博麗霊夢で、チャイナ服の門番が紅美鈴と言うらしい。

そしてこの紅い洋館は紅魔館。一度に情報を得る事が出来たので、僕としては嬉しい出来事である。

とか何とか考えていると、紅白の巫女が僕に向けて視線をやっていた。何だかよろしくない視線だったので、少しだけお辞儀をし『どうも』とだけ言っておいた。

 

「で、通してもらえないかしら」

 

紅白の巫女が単刀直入に聞いた。

 

「駄目よ、通さない」

 

「なんでよ」

 

「貴女からは危険な香りがしますので、此処を通すわけにはいきません」

 

「そ。じゃあコレでさっさと決めましょ」

 

紅白の巫女がお札を取り出す。何だろうか、噂のスペルカードルールで決闘でも行うつもりか。

対して門番である美鈴さんも、臨戦態勢に入っていた。

これは間違いなく決闘するという雰囲気である。

僕は決闘に参加するつもりはない。だからと言って傍観するのも時間の無駄なので、先に進んでしまおうか。

 

「霊符『封魔陣』」

 

「彩符『彩光風鈴』!」

 

互いのスペルカードが発動したらしく、何だか穏やかではない。

いつの間にか両者共に空中に浮いており、綺麗な弾幕を放っていた。

僕が声をかけても反応する事はなく、決闘に夢中になっていた。決闘中に声をかけるのも無粋だとは思ったが。

決闘が終わるのを待つのも時間が勿体無いので、僕は紅魔館の中へと入る事に決めた。

後で何か言われたら、門番の人がいなかったとでも言っておけば良いだろう。

 

 

 

 

*

 

 

 

博霊の巫女が紅魔館の門番と対峙している隙に、僕は紅魔館の中へと進入した。

少々語弊が生じてしまった。

紅魔館の門番の方が忙しそうだったので、時間も無かったので紅魔館の中へお邪魔させてもらったのだ。

正門から中に入ってみると、外部から見るよりも複雑な造りをしているのが見て取れる。

一番目に付いたのが、内部の装飾や作り物の全てが紅い色をしていた事だ。

正直なところ気色悪いし、ずっと見ていると気分が悪くなりそうである。

 

中に入ったのは良いものの、何処に向かって良いのかわからない。

近くに誰かいる訳でもないので、適当に道なり歩いてみよう。

階段があったら降りてみて、扉があったら開けてみよう。そのうち従者の一人や二人に出くわすだろうし。

 

という事で、道なりに適当に進んだ。

何だか途中でホテルの客室を連想させる廊下が現れたり、地下深くに繋がっている階段など色々あった。

地下室に館の主人がいるとは思えないので、降りの階段は極力避けて通った。馬鹿と何とかは高い所が好き、なはず。

 

しかし僕の思惑とは裏腹に、いつの間にやら地下の方へと歩んでしまっていたようである。

何となくであるが、空気が冷えてきているような感覚がし、更に空気も悪くなっている気がする。

兎にも角にも目の前に現れた、誰の趣味で造られたかは知らないが立派な扉があったので、開けてみる。

 

「……おや、此処は図書館かな」

 

後ろ手に扉を閉めると、木造りの扉が閉まる音が木霊する。

洋館の中に図書館があるとは、此処の主人は本が好きなのか。それにしても長い年月をかけて収集したのだろう、視界には収まりきれない程の蔵書の数だ。

扉の前で立ち尽くしていてもしようがないので、この大きな図書館の中を散策してみよう。

 

「難しい本ばっかりだ。どれ、ひとつ」

 

歩けど歩けど本棚は何処までも続くので、試しにと目の付いた本を一冊取ってみた。

開いてみると、小さい文字が隅から隅まで敷き詰められている。

 

「ふむ、分からない。コレはどうだ」

 

難しいことばかり書いており、意味が分からないので元の場所に戻した。

次に取り出した本も、先の本と似たような小難しい本であり、つまらなかったので戻した。

魔術書の類や、聖書の類なのであろうか。此処には魔法使いでも住んでいるのかもしれない。

そう思考しながら歩いていると、魔術書や聖書とは違った類の本を見かけたので取ってみた。

 

「ん、どれどれ……"バカでも分かる歴史書"」

 

他の本とは比較的読みやすく、綺麗な日本語が並んでいる。恐らくは機械的な技術で印刷されたものだろう。

 

「こっちは"サルでも分かる魔術入門書"」

 

此方の方は、蛞蝓が這った様な字体なので人の手によるものか。これを読めば、僕も今日から魔法使いの仲間入りになれるかもしれない。

なんてバカみたいな事を考えながら、本を元あった場所に戻した。

 

「もしかして此処の主人は、バカなのか」

 

この後にもバカでも分かるシリーズが続き、サルに続いて猫にも分かるシリーズの本も並んでいた。

此処の図書館は変な本ばかりが並んでおり、本のカテゴリーもバラバラである。

一通り周ってみても何も無かった……というよりは、広すぎて周りきれなかった。

図書館に入出した扉とは別の扉を見つけたので、そこから先に進めるだろうと思い扉に手を掛ける。

 

「痛っ」

 

扉に手を掛けた瞬間、軽く火花が散った。炎による火花ではなく、結界に触れた事により発生した火花だ。

誰がこんないけ好かない事をしているのだろうと思いつつも、何処か別の扉を探そうと思って振り返るとそこには一つの人影が。

 

「あなた、何してるの」

 

薄紫と濃い紫の縞模様の、ローブのようなワンピースのような、どちらともつかない服装をしている。

女性の服装に興味の無い僕には、そう判断せざるを得なかった。

脇に本を抱えており、読み途中の本を持って歩いてしまうほど読書が好きなのかな、と思った。

 

「こんにちは」

 

何してるのと聞かれたのに黙っていては、相手に失礼なのでとりあえず挨拶で返した。

 

「ええ。けど、もう日は落ちているわよ」

 

「あ、そう」

 

紅い霧の解決に出て、大分時間が経過していたようだ。

これは早急に解決しないと、今夜ぐっすり眠る事はできない。

 

「で、貴方は誰?」

 

「僕は天道。君は誰?」

 

「私はパチュリー。パチュリー・ノーレッジ」

 

「そっか。よろしく、ノーレッジ」

 

本を抱えた少女の名前は、パチュリーというらしい。

見た目や雰囲気から察するに、この娘は魔女の類に間違いないだろう。

 

「ところでノーレッジ君」

 

「パチュリーで良いわ。そっちのほうが呼ばれ慣れてるし」

 

「じゃ、パチュリー君。君が此処の主人なのかな」

 

僕はそうパチュリー君に訊ねた。

この気色の悪い館の主人が魔女であろうと、今更驚嘆に値しない。

 

「いいえ。私はこの図書館で本を読んでいただけよ」

 

「こんな暗がりで読んでたら、目が悪くなるよ。もっと太陽の光を浴びた方が良い」

 

「嫌よ。髪が痛むし、何より図書館の本が劣化するの」

 

この娘は引き篭もり体質のようだ。そうですか、と適当に返事をして会話を切り上げた。

けれども太陽光を嫌う辺り、紅い霧を発生させた元凶とも考えられる。

 

「紅い霧を発生させてるのは君か」

 

仮にこの娘が元凶なら、わざわざ館の主人を探す手間が省ける。

何とかして紅い霧を止めてもらえば、全て丸く収まるはず。

 

「紅い霧? ……ああ、レミィの言ってた」

 

「レミィとは」

 

「貴方の探してる、紅魔館の主よ。 紅い霧の事もレミィに聞けば分かると思うけど」

 

因みにレミィとは、レミリアという名前の略称らしい。この会話の直ぐ後に、彼女がそう補足した。

 

「そのレミリアという人は何処に」

 

「結界の張ってある扉があるでしょう。その先を適当に進めば、レミィの私室があるわ」

 

「適当にって」

 

頭の良さそうな外面の割りに、説明は適当である。

外から見るよりもずっと広いこの紅魔館であるが故に、内装を把握しきれないのも仕方ないのか。

そもそもこの娘は此処に引き篭もってそうなので、そういう知識には乏しいのかもしれない。

 

「ま、特に危険はなさそうだし、通っても構わないけど」

 

「それはどうも」

 

「この先で迷っても咲夜がいるし、館の中で餓死する事はないわよ」

 

「君は案内をしてくれないのか」

 

僕がそう訊ねると、パチュリー君は辟易したかのような表情を浮かべた。

 

「私は……野卑な侵入者の相手をしなくちゃ」

 

彼女はそれだけ言うと、僕から顔を背けた。

その瞬間、図書館の何処かから誰かの叫び声が聞こえてきた。

叫び声というよりは、戦意むき出しの雄叫びのような、兎に角好戦的な輩の声色である。

それにしては甲高い声質なので、もしかしなくても声の主は女性であろう。

 

「知り合いでも訊ねてきたのかね」

 

「私の知り合いに、あんな教養の無いのはいないわ」

 

知り合いでも何でも無い人の声という事なので、彼女の思惑通り侵入者なのだろう。

僕達が声を交えているのも束の間、それをぶち壊すかのように侵入者が現れた。周囲の本棚を蹴散らしながら。

 

「おぉ、勢い余って本棚まで壊しちゃったぜ」

 

壁ごとぶち破ってきたのか、跨っていた箒から飛び降りた少女はそう呟いていた。

黒い魔女が身につけるような帽子を被っているところを見ると、この少女も魔法使いのようだ。

黒系の服に白いエプロンを着用しており、片方だけおさげを垂らしているのが特徴的である。

 

「勿体無いなー。後で持って帰ろうと思ったのに」

 

心底勿体無さそうにしているが、この少女は盗人の素養でもあるのだろうか。

 

「勝手に持っていかないで。本棚まで壊しておいて他人の物を盗ろうだなんて、盗人猛々しいにも程があるわよ」

 

「まだ何もしていないぜ」

 

パチュリー君は侵入者に対し、大層憤慨を感じているようだ。

僕については読書愛好家という訳でもないし、義理堅いわけでもないので何も感じていない。

とりあえず先に進んでも良いと図書館の主様に言われたので、その通りにしようと思う。

 

「では僕は先に行くから」

 

「ええ。あまりレミィをからかわないであげてね」

 

「はあ」

 

僕はそのレミリアという人物を知らないので、からかうもへったくれもない。

想像するに堅い人物と見受けられたのだが、案外幼稚な人物なのかもしれないな、と想像した。

軽い挨拶も済ませた事なので、結界の張ってあった扉から先に進む事にした。

 

「あれ、お前はそいつの仲間じゃないのか」

 

去り際に白黒の魔法使いにそんな事を訊ねられた。

 

「違うよ。じゃあね、白黒の魔法使いさん」

 

「おう、また会うと思うけどな」

 

そんな言葉を返されたが、この白黒の魔法使いも館の主人に用事があるのだろうか。

もしかしたら紅い霧の解決に取り組んでいる最中なのかもしれない。

仮にそうだとしたら、紅白の巫女といい白黒の魔法使いといい、僕の仲間という事になる。

けれども彼女達のやり方はとても乱暴である。はっきり言って、この館の主人に喧嘩を売っている事に変わりないのだ。

彼女達は別に構わないのかもしれないが、僕としてはそうはいかない。

もしも僕より先に、彼女達が館の主の下へと辿り着いてしまったら……恐らく交戦状態に突入するだろう。

僕はそんな事態に巻き込まれたくはない。

少しばかり、急ぎ足で館の主下へ向かうとしよう。

 

 








以上、第五話でした。
紅魔郷の異変について東方SSで執筆するのは、今作で三度目です。
人鷹禄のように進行しようかとも考えましたが、少し捻りました。足痛いです。


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巻ノ六 瀟洒なメイドとじゃじゃ馬吸血鬼

ところで僕は、何故このような趣味の悪い館を訪れたのだろう。

確か開店早々閑古鳥状態だった僕のお店を、宣伝しようと人里を訪れたんだ。

その後に紅い霧が人里の周辺を覆うようになり始め、紅い霧の発生原因が僕にあるという根も葉もない噂が人里で話題になった。

僕がそれを知り、何か対策を講じようとしたところ、人里から逞しい集団が僕のお店を訪れた。

遂に殴り込みに来たのかと思ったのだが、僕の推測からは大きく外れていた。

どうやら八雲紫が一枚噛んでいたようで、人里の人たちは僕のお店を"なんでも屋"か何かと勘違いしたのか、僕に紅い霧の異変を解決するよう依頼してきたのだ。

何故僕が異変を解決しなくちゃあならないんだ、と当時は思ったが、放って置いても良くないし後々僕のお店の宣伝にも繋がるのでは、と考えた末に依頼を許諾した。

そして魔法の森を抜け、霧の湖で間抜けの相手をした後に、この気色の悪い館に辿り着く次第となった。

 

道中で遭遇した紅白の巫女と、白黒の魔法使い。

もしかしたら彼女達も異変解決に一役買っているのかもしれない。

けれどもやり方は乱暴で、館の住人達を蹴散らしながら進んでいるようである。

しかも"弾幕ごっこ"という決闘方式を採用しているらしく、暴れ方はとても派手なのだ。

僕はごっこ遊びに興じるつもりはない。そもそも女の子同士の遊びに、大の大人である僕が混ざる道理も無い。

この紅い霧の異変の解決は、なるべく穏便に済ませたい。そう考えているのは、僕だけなのかもしれないが───

 

 

「おや」

 

思考を巡らせながら、館の廊下を進んでいると何者かに遭遇した。

歩けど歩けど終着点の見えない廊下に、長い廊下だなあと辟易していたが、それもどうやらここまでのようだ。

目の前に気配を感じて思わず言葉を漏らしたが、その気配の主も僕を視認して言葉を吐露した。

 

「あら」

 

僕と似たような感じで、対して興味もなさそうな口調である。

それにしても何処かで見た事ある人だなあ、と思っていたが、それは相手も同じだったらしく顎に指を添えていた。

少しして僕の方は思い出したので、声をかけてみた。

 

「どうも、人里では少しお世話になりました」

 

僕がそう言うと、目の前の人物は僕の事を思い出したらしく、納得したような表情を浮かべた。

 

「ああ、思い出した。私に建物の事を尋ねてきた人ね」

 

「ええ、その節はお世話になりました。おかげ様で良い店に巡り合う事ができた」

 

とりあえずお礼の言葉を言う事にした。

目の前の人物とは、僕が以前人里を訪れたときに人気のある建物の事を尋ねた人だ。

人里では非常に浮いている、メイド服を身に纏った銀髪の綺麗な人である。僕より年下であろうが、可愛い系よりは美人系の部類である。

 

「そう、それは良かったわね。それで、この館に何か用かしら。今日は来客の予定はないはずだけど」

 

この人は風貌からして、この館の従者であろう。

風格や態度からして、従者の中でも地位は高いと見た。

 

「すみません、予約制でしたか」

 

「そういうわけじゃあないけど」

 

「では、この館の主人と話をしたいのですが」

 

僕が館の主と話しをしたい旨を伝えると、メイドは表情を堅くした。

 

「お嬢様と? 悪いけど、素性の知れない人を通すわけにはいかないわ」

 

メイドはそう言い放つと、スカートを少しだけたくし上げ、何やら物騒なものを取り出した。

切れ味の鋭そうな銀製のナイフを二本、僕に向けて立ちはだかっている。

このままの流れだと、僕は確実にメイドに刺殺されてしまう。何とかして流れを変えなくてはならない。

 

「素性が知れてれば通してくれるのですか」

 

「そうねぇ、私が納得いったら考えてあげる」

 

「そうですか。では」

 

尚も銀製のナイフを僕に差し向け、緊張を解こうとしないメイド。

そんな事など気にせず、僕は言葉を紡いだ。

 

「……僕の名前は天道、人里の外れで小さいが店を構えている。店を建てたのは最近だが、手入れをするのが楽しく掃除を欠かした事はまだない。

本当は里の中に建てようと思ったのだが、土地の権利者がうるさいから里の外に建てる事にした。納税するのも面倒臭いからね。

特に趣味という趣味はないが、機会があったら外の世界に出てみようと思っている。因みに結婚はしていない。

寝る前には必ず歯を磨くようにしてるし、汗臭いのは嫌いだから自宅には浴槽付きの入浴設備も設置してある。

……どうですか、こんなもので。よければ僕のお店を訪れてくれると嬉しいのですが」

 

メイドは呆気にとられたような顔をしているが、直ぐに冷静になり口を開いた。

 

「よく理解したわ。あなた、侵入者というより変質者ね」

 

「えっ」

 

「兎も角、通すわけにはいかないわ。ここで倒れてもらうわよ!」

 

そう言葉を放つや否や、メイドは僕に向けて銀製のナイフを投擲してきた。

寸分の狂いもなく僕を目掛けて飛んでくるナイフだが、辛くもそれを避けた。

 

「ちょ、当たったら死んじゃうじゃあないですか」

 

「当たらなければ問題ないのじゃないかしら。で、あなたは構えないのかしら」

 

「結構です。良ければ先に通してほしいのですが」

 

「駄目」

 

続けて二本、三本と銀製のナイフが投擲される。

僕は何とか避け続けていたが、運が悪く三本目が肩に刺さってしまった。

 

「痛っ、痛い!肩に刺さった!」

 

「見た目に反して、すっとろいのね」

 

───メイドこと、十六夜咲夜は考える。

紅魔館の主、レミリアの従者たる咲夜は、侵入者に対応すべく行動していた。

そこで遭遇したのが、大図書館を抜けてきた彼、天道である。

咲夜は当初聞いていた侵入者とは違っている事に驚きこそしたが、

此処までやって来たという事は侵入者に変わりないだろうと判断し、対応している。

しかし侵入者である彼に対して攻撃しているうちに、咲夜は次第に自らが悪者になっていると錯覚し始めていたのだ。

 

「痛たた……本当にもう、勘弁して下さいよ」

 

咲夜は命中したナイフを見て、然も当然と言わんばかりの態度をしていた。

一方で彼は肩に命中したナイフに気付くと、周囲にはお構い無しに喚き散らした。

しかし此れでは終わらないと、咲夜は更にナイフを投擲する。

二本目、三本目が彼の肉体を貫いた。紅い血が吹き出し、服などお構い無しに紅に染めていった。

 

 

だが、尚も彼は立ち上がる。身体にナイフが刺さった状態で、血を撒き散らしながら。

いい加減、もう静かにさせようと思った咲夜が、ナイフを構える。急所に当てて止めを刺すつもりで。

しかし咲夜が照準を合わせている最中、彼は立ち上がりはしたものの、自らの血で足を滑らせてすっ転んだ。

鼻を強く打ったのか、「ぶッ」と小さく呻いた。

 

「……はあ」

 

十六夜咲夜は辟易した。

何故私がこんな間抜けな奴の相手をしなくてはならないのか、と。

思考に思考を重ね、気勢を削がれた咲夜は照準を合わせていたナイフを懐にしまい、大きく溜息した。

そうして、心底辟易したかのような声色で言葉を放つ。

 

「命までは取らないから、さっさと出て行きなさい」

 

「嫌です」

 

「……何ですって?」

 

生きて帰してやろうと思い、慈悲の気持ちでそう言葉を並べたのだが、彼は拒否した。

まさか拒否してくる等とは思っていなかった咲夜だが、眉間に皺を寄せて機嫌の悪そうな表情に変わっていた。

 

「館の主人に会わせて頂きたいのです」

 

「通さない、と言ったばかりでしょう。そもそも、お嬢様に会ってどうするつもりなの?」

 

「紅い霧を鎮めてもらいます」

 

彼が"紅い霧"と言うと、咲夜は顔を顰めた。

 

「人里は紅い霧で覆われており、里の人達は霧によって体調を崩しています。この紅い霧が長い間続けば、里の中から死者も出る事でしょう」

 

「……あら、外ではもうそんな事になっていたの」

 

「妖怪の賢者が動き出せば、面倒な事になると思いますが」

 

「お嬢様に言ってよ。お嬢様、日光が嫌いだから霧で太陽を覆っているのよ」

 

妖怪の賢者、という言葉に咲夜は少し反応するものの、特に気に止めることはなかった。

そして咲夜は考えた。

このままこの男を相手にしたほうが良いのだろうが、面倒臭いし何より掃除の仕事が増える。

闘ってみた感じだと強さは人並み程度なので、何か問題を起こす事などできはしないだろう。

 

 

「……ま、そうね。そういう事ならあなたが直接言ってくれば良いわ。特に危険は無さそうだし、案内してあげなくもないけど」

 

「それは助かります」

 

むくり、と彼は立ち上がった。

血まみれになりつつも、痛む素振りも見せない。

 

「っ、あなた、大分怪我していたんじゃ」

 

「ああ、そう怪我してるんだった。痛っ、痛たた……」

 

肩を押さえ心底しんどそうに歩き出した彼。

咲夜は先程の言葉を撤回しようと思ったが、考えるのも面倒なのでやせ我慢の一つだろう、という事にしていた。

 

「痛いなあ……絆創膏は持ってないんですか」

 

「無いわよ。包帯ならあるけど、自分で巻きなさいな」

 

「ありがとう。ところでこれ、転売しても良いのかな」

 

「2円で売ってあげる」

 

「いらないよ、ぼったくり」

 

咲夜がナイフを彼の喉下に突きつけた。彼はすぐさま謝罪の言葉を述べると、ナイフは元の位置へと戻された。

再び二人が並んで歩くが、咲夜はある事に気付いた。

 

「ところで貴方、もう大丈夫なの?」

 

「なにがですか」

 

「傷よ。さっき物凄く喚いていたじゃない」

 

「大丈夫ですよ。人間って結構丈夫ですから」

 

「……あっそう」

 

咲夜は溜息を漏らし、辟易した。

こんな奇妙な奴をお嬢様の下へ連れて行っても良かったのだろうか、と後になって思い悩み始めたのであった。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

今日はなんて運が悪い日なんだろうか。

気色の悪い館で刺殺されそうになるなんて、僕という生物は実に運が悪い。

幸いにも傷の方は大した事ないので、僕の能力で完治してある。

僕の能力についてだが、自ら説明する気にはならない。誰かが教えてくれと言うか、或いは教えるべき時が来るまで口は閉じているつもりだ。

あんな見っとも無い真似までして先に進んだのだ、この機会を逃すわけにはいかない。

 

暫くメイドと共に廊下を歩いていると、やがて立派な扉が遠くから視界に入り込んできた。

他の客間のような部屋の扉とは違い、紅い装飾が施されており扉の端々に燭台も設置されている。

漸く館の主人と謁見が出来るのかと思いつつも、この館の内部の広さに驚いた。

支離滅裂になってしまったが、この館は僕が外から見た時よりも大きくなっている気がする。

つまり、外見に比べて中が広い、という事だ。

そして僕は考えたのだが、こんなに内部が広い割りに消防設備が何も無いのだ。万が一燭台の火が燃え移ったりした場合、どうするつもりなのだろう。

 

「この先にお嬢様がいらっしゃるわ」

 

色々と思考を巡らせているうちに、僕とメイドは立派な扉の前に到着した。

想像通り扉の先には館の主人がいるようで、メイドがその旨を伝えてきた。僕は言葉は返さず、相槌で返した。

 

立派な扉は外見の割りに軽いようで、メイドが片手で開いていたので驚いた。

失礼致します、とメイドが一礼して中に入った。僕もそれに倣い、一礼して入室した。

 

 

「──あら、咲夜。私は侵入者を案内しろ、と命じた覚えはないのだけれど」

 

入室してみると、部屋の中央には椅子に踏ん反り返っている少女がいた。

推測するにメイドの主人なのだろう。僕が入室して直ぐに険悪な雰囲気になった。従者を叱責するのは後回しにしてほしい。

 

「いいえ、お嬢様。確かにこの者は侵入者ですが、話しを聞くところによりますと、是非ともお嬢様にお会いしたいという事でして」

 

「……ほう?」

 

「是非ご挨拶をしたい、と嘆願されまして。無碍にするのもお嬢様の名を汚してしまうかと思いまして、案内致しました」

 

「それは大儀ね。けれど、それにしては随分と粗雑に扱っているように見えるんだけど」

 

少女は僕に向けて指を差し、そう指摘してきた。

メイドはそれに対しては特に動揺せず、淡々とした口調で言葉を返す。

 

「彼の腕を試したのです。万が一お嬢様に対して害意を持っていたとしても、彼にはそれに相応する実力は持ち合わせていませんわ」

 

「へぇ、そう」

 

「ご安心下さい」

 

にっこりと微笑み、再びメイドが一礼する。

そしてメイドは僕に歩くよう目配せしてきたので、それに従う。

メイドの言うお嬢様と対面する形で、僕は着座した。

 

僕が着座したところで、少女の偉そうな態度に変わりは見えなかった。

足を組み肘掛を十分に利用し、更には頬杖までついている始末である。

青みがかった銀髪に真紅の瞳をしており、容姿は人間でいうと十歳にも満たない程度である。

背中には大きな、まるで蝙蝠を模したような翼が生えており、薄いピンク色のナイトキャップを被っている。

 

「お初にお目にかかります、天道と申します」

 

軽く会釈をし、それを挨拶とする。

 

「そ。私の事は知っているのかしら」

 

「ええ、存じております」

 

嘘だ。僕は目の前の高慢な少女の事など、欠片も知らない。

恐らくはパチュリー君の言っていた、レミリアという少女であるとは思うのだが。

若干の静寂の後、館の主は口を開く。

 

「何処で私の事を知ったのか興味はあるけれど、今はいいわ。私はレミリア・スカーレット。で、これは咲夜」

 

「十六夜咲夜と申します」

 

改めて名乗られたような不思議な気持ちがした。

 

「これはご丁寧に、よろしくお願い致します」

 

相手方が名乗ってくるとは思わなかったので、とりあえず適当に言葉を返す。

余談ではあるが、自分の事を偉いと思っている奴と話すのはとても楽である。

適当に謙っていれば、勝手に話が進むのだから。目の前の少女もそれに近い節があるので、上手く丸め込めれば素晴らしい。

 

互いに挨拶を終えたところで、館の主であるレミリアがテーブルの上を軽く突いた。

人差し指で軽く突き音を鳴らすと、従者である咲夜は静かに一礼し姿を消した。

突然の出来事に何が起こったのか分からずにいると、レミリアが言葉を投げかけてきた。

 

「で、たかが挨拶程度でこの館に足を運んだわけじゃあないんでしょ」

 

「……おや」

 

流石にお見通しのようである。

当然と言えば当然か。このような気色の悪い館を好き好んで訊ねる輩など、僕意外には物好きしかいなさそうだし。

相手から用件を聞きにきたので、これを好機として件の話を伝える事にする。

 

「単刀直入に言います。里を覆っている紅い霧を鎮めてください」

 

「へぇ、もう私が異変の元凶だって調べたのね」

 

意外にも憤慨する事はなかった。

しかし件に関して興味を持っておらず、僕の言葉に対して返事をしようとはしない。

ただ静寂だけが辺りを支配している。……が、それも間もなく解消される。

 

「お待たせ致しました」

 

言葉と同時に不意に姿を現す咲夜。まるで瞬間移動でもしたのかと錯覚してしまう程である。

彼女が手に持っているのは、トレンチである。その上にはティーポットとティーカップが乗せてあった。

それらをテーブルの上に並べると、それぞれのティーカップに咲夜が紅茶を注いだ。

僕は彼女に「ありがとうございます」と礼を言ったが、レミリアは黙したままであった。

とりあえず紅茶を頂いたので、一口飲んでみる事にする。

この期に及んで毒が盛られているわけはないだろうし、気兼ねする事無く飲む。

 

「美味しいですね、これ」

 

「……咲夜?」

 

レミリアが従者の名前を呼んだ。

何か文句でもあったのだろうか、叱責でも始めるつもりなのだろうかと思って見ていたが、杞憂に終わる。

レミリアに何かを促された咲夜は、一瞬にしてその場から消えた。

あ、消えたな。そう思った次の瞬間には、再び目の前に一瞬にして姿を現したので、ひどく驚いた。

 

「失礼致しました、お茶菓子をどうぞ」

 

どうやらお茶菓子を持ってくる為に、わざわざ瞬間移動したらしい。

ご丁寧に僕の分まであるようで、咲夜が持ってきたお茶菓子は世間一般で言うカステラであった。

 

「どう、凄いでしょう」

 

「ええ、驚きました」

 

従者の一連の行動を見てレミリアがそう訊ねてきた。

特に否定する必要もないし、本当に凄いと思ったので適当に肯定しておいた。

それではお茶菓子を頂こうかな、と思った時、咲夜が口を開く。

 

「お嬢様」

 

「どうかしたの、咲夜」

 

「どうやら新しいお客様が訪ねて来たようです。それもお二人ほど」

 

「ふぅん、そう。私のほうは良いから、貴女は掃除の方を済ませてきなさい」

 

「畏まりました」

 

再び咲夜が消えた。扉の方から僅かに気配がする辺り、扉の向こう側に瞬間移動でもしたのだろう。

彼女の言っているお客様が二人とは、恐らく紅白の巫女と白黒の魔法使いの事であろう。

如何やら二人とも大図書館を突破し、此方の方へと向かってきていると見た。

 

「大丈夫なんですか、十六夜さんは」

 

「問題ないわ。咲夜は優秀だもの」

 

「そうですか」

 

このレミリアという少女は、人並み以上の自信家とみた。

いくら優秀と言えど、二対一では二人側に分があるのは明確である。

まぁ、良いだろう。彼女達が争っている間に、此方は此方で話を進めれば良いだけの事だし。

 

 








タイトルの方にサブタイトルの方を設定しました。
私事になってしまいますが、東方二次小説において簡潔なタイトル名が多い、つまり類似するタイトルが多いなと感じた為、区別化するという意味で設定させて頂きました。
上記の理由もありますが、前に執筆していた人鷹禄という小説とたったの二文字違いなのもどうなのかなと筆者が思い、前作との差別化という意味もございます。完全に私見ですが。
当小説は基本的に原作を基準に進んでおりますが、筆者自身が未熟者という事もありまして、オリジナル展開というタグを設定させて頂いております。
また、本編進行中に主人公の過去描写を混ぜて紹介していく、という形で進行していきます。
活動報告の方に僅かばかりですが記載いたしますので、興味のある方がいらっしゃれば是非目を通してみてください。
それでは、此処まで呼んでいただきありがとうございました。


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巻ノ七 力試しは不意をつけ

僕は今、紅魔館にいる。

今までは気色の悪い館と表現していたが、そういえば紅魔館という名称だったのを思い出した。

そして僕の目の前には、紅魔館の主人であるレミリア・スカーレットが偉そうに座している。

僕の方も対面する形で座しており、テーブルには紅茶と茶菓子が並べられている。

雰囲気から察するに、特に険悪なものでもない。これを維持していけば、争い事になる可能性は低いだろう。

 

「それで、レミリアさん」

 

咲夜さんが侵入者の始末に向かった後、僕は直ぐに口を開いた。

 

「紅い霧、止めてもらえませんかね」

 

「ん……そうねぇ。私、病弱っ子だから日が昇っていると体調が崩れちゃうの」

 

「はあ」

 

声色からして、レミリアは確実にふざけている。話を逸らそうとでもしているのか。

少なくとも病弱っ子は、偉そうに踏ん反り返って紅茶を飲んだりはしない。

相手のペースに合わせるのも癪なので、何とかならないかお願いしてみる事にした。

 

「何とかならないんですか。皆困ってますよ」

 

「あら、そうなの。私は、あの偉そうな太陽が顔を出しているだけで困るんだけどね」

 

この態度を見る限り、適当に謙っているだけでは突破は出来そうにない。

先ずは……そうだ、ご機嫌取りだ。

ご機嫌取りまでは行かずとも、何か本題とは別の話題を提供し、ある程度気持ちを切り替えてから再び話を切り出したほうが良さそうだ。

しかし、他に話題という話題はない。僕はレミリア・スカーレットの事など何も知らない。

彼女みたいな、自分の事を偉いと思っている人物は、無知を嫌う傾向にあると思うのだ。

例えば教えを乞うような質問などは、彼女は嫌うだろう。其れよりかは相手に同調したり、話しを合わせたりした方が気に入られると思うのだ。

つまり相手に気に入られつつも、当たり障りの無い話題を提供すれば良い。例えばこの紅茶とか。

 

 

「そういえば、この紅茶。美味しいですね、とても素晴らしい」

 

「当然でしょ、咲夜が淹れたのだもの。こんなもの、私は飲み慣れているけどね」

 

流石に館の主人だけあって、こういった紅茶の類は毎日のように飲んでいるのだろう。

僕なんかは紅茶よりも、珈琲のほうが好きなのだが。

 

「これは……ダージリンですか。少々渋みはありますが、華やかな香りで素晴らしいですね。

これぐらいの渋みの方が、茶菓子と合いますよね。夏摘みですかね、マスカテルフレーバーとは違うみたいですが」

 

「……そ、そうね。そんなとこ」

 

レミリアが僕の言葉を聞き、若干引いたような顔をしている。

少し話しすぎてしまったのだろうか、それにしても毎日飲んでいると言っていたのだから、彼女も余程紅茶には詳しいと見たのだが。

 

「紅魔館には、これ以外にも種類はあるので」

 

「そうね、ある……と思うけど」

 

「私は紅茶にはあまり詳しくないので、無知を晒してしまうかもしれません。

ですが、一度はマスカテルフレーバーと呼ばれるものを飲んでみたいと思っていますね。とても興味があります」

 

「そ、そう。それは良いんじゃあないかしら」

 

何だか言葉が引き攣っているようにも聞こえる。

あまり紅茶の話しを長引かせると、機嫌を損なわせてしまうかもしれない。別の話題に切り替えよう。

 

「このカステラも、紅茶とよく合って美味しいです」

 

「そうでしょう、私は食べ慣れているから別に美味しいとは思わないけど」

 

フォークを丁寧に扱い、提供されたカステラを口に運ぶ。

生地の柔らかな食感が口内を包み込み、程好い甘さが口いっぱいに広がった。

 

「おや、これは……素晴らしい、レミリアさん」

 

「な、何よ急に」

 

「これ、普通のカステラよりも美味しいですよ。見た目は変わらないのに、甘みは全然違う」

 

「それは良かったわね、黙って食べると良いわ」

 

「底面にさり気無く敷かれているザラメがアクセントになってて、飽きが来ませんね。……おや、レミリアさん。もしかしてこのカステラ、蜂蜜が入ってやしませんか」

 

「は、蜂蜜?……あ、あぁ。そう、だったかも」

 

「いえ、推測ですが。そういえば最近では、カステラに蜂蜜を入れるのが主流だった気がします。蜂蜜が入っていた方が、コクがあって美味しいですよね」

 

「……」

 

僕は菓子の類はそんなに詳しくない。

軽くレミリアと会話してみると、何となくであるが彼女の性格というのも見えてくるものだ。

あの時にパチュリー君が、あまりからかうな、と言っていた理由が何となく分かった。

他にも軽く会話を交え、茶菓子であるカステラを完食するに至った。

 

「ごちそうさまでした、とても美味しかったです」

 

「そ」

 

僕の礼の言葉にも、レミリアは軽い返事で応対するだけである。

まだ話を再開するのには早いと思ったので、もう一つ程話を挟む事にした。

 

「ところで、レミリアさん」

 

「何よ」

 

「実は私、人里の外れで飲食店を営んでいるのですが。良ければ食べに来てみませんか」

 

せっかくなので、軽く宣伝してみた。どうせ他に話題など持ち合わせていなかったので、丁度良かった。

僕が軽く誘ってみると、レミリアは少し思考する素振りを見せた。

 

「ん、そうね。興味が湧いたら行ってみようかしらね」

 

「その際はご贔屓にさせて頂きますよ」

 

決まり文句であるその言葉を発すると、彼女は「当たり前じゃない」等とのたまう。

宣伝はこれだけで終了してしまい、両者共に沈黙してしまった。

大分気まずいのだが、そういう時こそ目上の人物が状況を打開すべきである。僕は手元にあった紅茶に口を付けた。

 

───と考えたところで、状況が変わるわけではない。

僕も彼女も、テーブルに置かれた紅茶を消費し続ける。

今頃、咲夜さんが侵入者を相手に奮闘している頃であろう。二対一なので、恐らくは此処まで突破してくるのではないだろうか、と予想する事が出来る。

そう考えるのなら、優雅に紅茶を堪能している場合ではない。いつまでも口を閉じているわけにはいかない。

 

「で、レミリアさん。紅い霧の件なんですが」

 

「嫌よ」

 

僕が言葉を言い終える前に、即座に拒否されてしまった。

ほんの僅かであるが、僕が積み上げてきたプロセスというものが無駄に終わってしまったようだ。

しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。

 

「紅い霧を鎮めてくれたら、僕のお店の無料優待券を差し上げます」

 

「いらないわよ」

 

そんなもの作成すらしていないが、断られてしまった。小さな虚脱感を覚えた。

 

「では、こうしましょう。時間帯によって紅い霧を鎮めるというのは」

 

何も紅い霧を鎮める事に拘らなければ良いんだ。そう考え、レミリアに一つの提案をしてみた。

提案というのは、時間帯ごとに紅い霧を操作するということだ。

どうかひとつ、昼間の時間帯に紅い霧を発生させるのは避けて頂きたい。発生させるのなら夜間から深夜の間までにしてください。

そう彼女にお願いしてみたのだが

 

「何なの、それ。忌まわしい太陽を覆うのが目的なのに、それじゃあ何の意味も無いじゃない」

 

「なら紅い霧で太陽を覆うのは昼間の間で、夜間は鎮めるというのは」

 

「それも嫌」

 

どれもこれも、あっさりと断られてしまった。

声色も低く、不機嫌な様子が窺える。

下手に出ても状況は変わりそうにないので、ここは少し強気に出てみよう。

 

「別に良いじゃあないですか。おたく、どーせ外に出ないんでしょう。ピクニックが趣味という風にも見えませんし、肌も青白い」

 

「……私の事を馬鹿にしているのか?」

 

芳しくない状況が、一瞬にして悪化してしまった。

彼女が憤慨を感じているようだったので一言、申し訳ない、と詫びを入れた。

手に持っていた紅茶のカップをテーブルに置くと、レミリアが口を開いた。

 

「そんなに霧を止めてほしいのなら、力尽くで止めてみる?」

 

彼女は静かな声色で、若干の覇気を込めてそう僕に告げた。

見た目は華奢な少女が、"力尽くで"なんて言葉を使うのだから、僕は驚いた。

 

「貴方、今」

 

僕が彼女に対してギャップを感じていた時、不意に声をかけられた。

顔を少しだけ上げて彼女の方を見てみると、此方の方へ人差し指を向けており、威勢良く口を開く。

 

「"自分が負ける筈がない"……と、そう思ったでしょう?」

 

「あ、はあ……そうですね、まあ。僕は大人ですし」

 

突然の読心術に驚いたものの、適当に言葉を濁しておいた。

冷静に考えてみても、大人の僕が少女のレミリアに力で劣るわけが無い。

けれどもこれは、あくまで双方を人間と仮定した時の話である。

例えば彼女が鬼だったりした場合は、また話が変わってくる。たとえ容姿が幼かろうが、鬼ならば力は人間のそれを遥かに上回るのだから。

 

「ふふん、そう。じゃ、握力で勝負しましょ?」

 

「ええ、構いませんが」

 

握力での勝負を提案してきたレミリアは、僕に向けて右手を差し出した。

互いに手を握り合い、握手の形で力比べをしよう、という事であろう。

とりあえず辞退するわけにはいけないので、レミリアの手を握り握手をした。

 

「いくわよ」

 

「どうぞ」

 

言葉を合図とし、お互い手に力を込めた。

まずは様子見をしようと、僕は軽く手に力を込めたが、レミリアは表情一つ崩さない。

そして口角を少しだけ上げて微笑すると、彼女の手にも力が込められた。

 

「───痛でででッ!」

 

あまりの痛さに、思わず手を振り払ってしまった。

彼女に握られた手は赤くなり、骨に皹が入ってしまったんじゃあないか、と心配してしまう程のものになっていた。

 

「ふふ、男の癖に情けないわねぇ」

 

レミリアはそんな事を言って、ニタリと笑っていた。

やはりというか、なんというか。

背中に蝙蝠の羽があるあたり、何となく予想はついていた。

だがもしかしたら、ただの"蝙蝠の妖怪"かもしれない、とその線は外していた。

しかしこうして力比べをしてみる事で確信がついた。

 

「痛たた……君、吸血鬼か」

 

「よく分かったわね。もしかして私の事、ただの人間だとでも思ったの?」

 

背中に羽を生やしておきながら、それはないんじゃあなかろうか。

けれど、よく考えてみると彼女が吸血鬼であっても違和感は無い。

この紅い館の館主が、ただの蝙蝠の妖怪、というのもおかしな話である。"吸血鬼の館"と考えるのなら、辻褄が合う。

 

僕を力比べで負かしたレミリアが、ドヤ顔で此方を見据えている。

僕の方はといえば、彼女に握り潰されそうになった手を労わっている最中である。

 

「うーん、そうねぇ」

 

レミリアが悩ましげに、口を開いた。

 

「力比べで私に勝ったら、霧を止めてあげる」

 

そう言い放つや否や、レミリアは紅茶を一口だけ口に含んだ。

僕は彼女に対して思ったのだが、このレミリアという少女は碌な育ち方をしていないに違いない。

先程僕を負かしたばかりなのに、その勝負はフェアじゃあない。

 

「力比べって、つまりどういう事です」

 

「簡単なことよ。そうね、力比べの方式は貴方に決めさせてあげる」

 

ハンデよ、とレミリアがのたまう。

力は彼女に軍配が上がるが、"勝負に勝つ"だけならば、まだ僕にも余地は残されている。

状況を判断するに、レミリアは完全に慢心している。こういった油断や隙は、確実に敗因に繋がってくる。

 

 

「……良いでしょう。では、"腕ずもう"なんてどうです?」

 

「腕ずもう?」

 

腕ずもう、という遊びを知らなかったレミリアは、きょとんとした表情をしていた。

腕ずもうとは誰もが知っている、庶民的な遊びである。

簡単に説明するならば、平らな場所に互いに肘を置き、互いに手を握り合う。

肘を置いたまま腕に力を込め、どちらかの手の甲が地に着いたら負け、というシンプルなものだ。

僕の説明を理解したのかまでは分からないが、説明を聞いたレミリアが納得の言った声をあげた。

 

「良いのかしら、こんなので」

 

「良いんです。さ、始めましょう」

 

まさに力が物を言う勝負なので、単純に力の弱い方が負けてしまう遊びでもある。

だが、僕は負けない。

僕は、僕を守る為に自分の"能力"を磨き続けてきたのだから。

 

「……いくわよ」

 

レミリアが静かにそう呟き、腕ずもうの勝負が開始された。

互いに肘が地から離れないように力を込め、相手の腕を巻き込み倒そうとする。

 

「───なっ」

 

レミリアが異変に気付き、驚きの声をあげた。

 

「手に力が……───あっ!」

 

その隙を逃さず、僕は一気に腕に力を込め、レミリアの腕を倒した。

本当に一瞬で勝負は終わってしまい、非常に呆気ないものとなってしまった。

 

「僕の勝ちです」

 

ぷるぷると腕を振るわせるレミリアを余所に、僕は自らの勝利を誇示する。

しかしレミリアは納得がいっていないのか、怒り混じりの声色で僕に抗議を始めた。

 

「……お前、私に何をした」

 

「別に、大したことでは」

 

「恍けるなッ! 妖術の類か、それとも能力か? どっちでも良いわ、今の勝負は無しよ!」

 

ガダン、と椅子を蹴倒し立ち上がるレミリアが、そう僕に食って掛かった。

しかしながら僕としては、納得がいく筈もない。

 

「レミリアさん、そりゃあないでしょう。僕も先程、貴女と力比べをして負けましたよ。

けどもそれは、僕が貴方の力量をはかり損ねたからであって、負けたからといって駄々を言った覚えはありませんが」

 

「ぐぐ……けれど、私は"力比べ"の勝負と言ったのよ。能力だとかを使うのは卑怯よ!」

 

確かに当初はお互いの力の比べ合いが目的であった。

だが僕が提案したルールは、腕ずもう。手の甲が台に付いた方が負けなのであり、能力を使用してはいけない、というルールは存在しない。

勿論、能力を使った上で肘が台から離れたりすれば、その瞬間に負けは確定であるが。

 

「何も卑怯なんかじゃあありませんよ。能力を使用しちゃあいけませんと、僕は言いませんでしたし」

 

「た、確かにそうだけれど……!」

 

「やれやれ、いい加減認めてくださいよ。館の主人がこんなんじゃあ、部下に示しがつきませんよ」

 

悔しそうに表情を歪めるレミリアだが、僕も引く気はない。

正直僕としても無茶苦茶な論理だとは思うが、結果として上手く言い包められればどうだって構わない。

蹴倒した椅子を戻し、再び着座する。少しは落ち着いたのか、着座して直ぐに気だるそうに頬杖をついた。

そして深い溜息をついた後、これまた気だるそうに口を開く。

 

「はあ……分かったわよ。納得いかないけど、納得した事にしてあげる。そのかわり…」

 

紅茶を一口だけ飲む。まだ中身が残っていたのかと思いつつも、僕も同様に紅茶を飲んだ。紅茶はすっかり冷めていた。

 

「貴方の能力の詳細、事細かに教えなさい。霧を鎮めてほしいっていうのなら、先ずはそこからよ」

 

「教えなさい、ってレミリアさん。勝負に勝ったら霧を鎮めるという約束だったんじゃあ」

 

「あら、そーだったかしら」

 

知ーらない。とそっぽを向いたレミリアは、前髪を指に絡ませて素知らぬふりを貫いていた。

 

「約束を破るのは構いませんが。もしも僕が、能力を使って貴女に襲い掛かったら……霧を鎮めてもらえます?」

 

「それはとても面白そうね。でも、貴方はそんな事はしないでしょうね」

 

柔らかな口調でそう言い切るレミリアに僕は、何故ですか、と言葉を返した。

 

「貴方、面倒な事は嫌いな性質でしょ」

 

「おやまぁ」

 

「後は……そうね、格好付けて言うのならば……そういう"運命だから"、かしら」

 

彼女が"運命"という言葉を用いた。

人の意志に左右されない身の上に巡ってくる吉凶禍福。

運命とは決定されている未来である。しかし全てが決定されている訳ではなく、物事の結果のみが決定されている。

生死に関する運命を覆す事は非常に困難だが、結果へ到達するまでの過程はある程度覆す事は可能であると考えられる。

彼女が僕に対して、運命という言葉を用いた事に関して興味がある。

その事を、そこはかとなく訊ねてみると、レミリアは自慢げな表情で口を開いた。

 

「"運命を操る程度の能力"……私はそう呼んでいるわ。貴方の運命だって、手に取るように分かるのよ」

 

「へぇ、運命が分かる……ねぇ。僕の今後の運命とかも分かるのかい?」

 

「勿論。貴方は私の館から出た後、家に帰るでしょう」

 

当たり前だ。

紅い霧の異変を解決した後、家に帰ってふかふかの布団で眠りたい。

こんな周囲が紅く湿気臭い場所にいつまでも滞在するなど、考えられない。

 

「帰宅できるって事はつまり、僕は君と争わないから、かな」

 

「そういう事でしょうね」

 

「ふーん。ま、端から君と争う気は無かったのは本当ですがね」

 

きっと物凄い能力なんだろうが、僕にはいまいちそれが分からなかった。

とりあえずレミリアと争う気は無いので、そこは素直に同意しておいた。

 

「それで、貴方の能力は教えてくれないのかしら」

 

私は教えたのに、と呟きながら、レミリアは自らの毛先で遊んでいた。

自分の能力を説明する事で、僕にも能力の説明をさせようというのか。

……まあ別に隠している訳じゃあないし、どうせこの吸血鬼とは今日限りの付き合いだろうし、教えても構わないか。

 

「貴女の能力を教えて頂いてまで隠す気はないので、お教えしますよ。

僕の能力は……そうですね、貴女の能力と同じ表し方をするのなら、繋───」

 

自分の能力を明かせば霧を鎮めてもらえるのだ。こんなに簡単な話が他に何処にあろうか。

そう思って僕が能力の名称となるものを告げようとした、その瞬間であった。

 

部屋の扉の奥から、何やら気配を感じた。

不意の出来事であったので、思わず言葉を途中で止めてしまったが、彼女も僕と同様に気付いたので気に止める事は無かった。

扉の奥───つまり、僕が咲夜さんに連れられた時にくぐった、この部屋へと通じる扉である。

 

「……レミリアさんの知り合いですか」

 

「さあ。咲夜が戻ってきたんじゃ────」

 

レミリアが言葉を紡いでる途中、その刹那。

扉の奥から感じていた気配はやがて轟音に変わり、瞬きをした次の瞬間には、目の前にあったテーブルの半分が消し飛んでいた。

残った部分の繋ぎ目も黒く焦げ付き、煙を吐いている。まるで"極太のレーザー光線"でも通過したのではないか、と目を疑った。

テーブルの向かい側に座っていたレミリアは、なんと僕の前から姿を消していた。

 

「あちゃぁ、ちと威力が強すぎたか」

 

「全く……館の主に怒られても、私は関係ないからね」

 

「知るかよ。私はさっさと異変を解決して帰りたいんだからな」

 

テーブルと同様に粉々に消し飛んだ扉の奥から、二人の少女が歩み出てきた。

一人は白黒の魔法使い、もう一人は紅白の巫女。どちらも多少衣服が擦れており、此処に辿り着くまでに一悶着あった事が窺える。

そんな少女のうちの一人、白黒の魔法使いが私に指を差し向けて口を開いた。

 

「お。お前は」

 

「どうも」

 

「やっぱりお前が異変の黒幕だったんだな」

 

白黒の魔法使いが小さな八卦炉を構えて、ひどく落ち着いた声色でそう言い放ってきた。

 

「ひどい冗談だな。少し前に会ったばかりじゃあないか」

 

「それもそうだったな」

 

何だかからかわれたような気がする。

 

「あらその人、魔理沙の知り合いなの?」

 

「いや、知らん」

 

紅白の巫女が白黒の魔法使いに向けて問うたが、白黒の魔法使いはそれを否定した。

そうして視線を僕の方へと向ける二人の少女。

黙って見つめられるのも気恥ずかしいし、とても居心地が悪いので適当に言葉を返す。

 

「僕は天道というものです。僕は君たちの事は知らないし、会話をした事もない」

 

正確に言えば、紅白の巫女の名前は知っている。偶然、会話を聞く形となってしまったから。

しかしこの活発な、金髪の白黒魔法使いの事は全く知らない。

 

「そ。私は霊夢。一応、博麗の巫女よ」

 

「よろしくな、天道。私は霧雨魔理沙だぜ」

 

無愛想なのが紅白の巫女で、眩しい笑顔を見せているのが白黒の魔法使い。

とりあえず互いに自己紹介……なのだろうか、とりあえず互いの名前を知る事が出来たし、よしとする。

 

「で、お前を倒せば異変は解決って事になるのか?」

 

「そんなわけがあるか。僕も霧を鎮めに来たんだ」

 

再び小さな八卦炉を向けておっかな危ない事を言う魔理沙だが、「冗談だぜ」と言って八卦炉をしまう。

やはりあの極太のレーザー光線のような攻撃は、あの八卦炉から繰り出されたのだろうか。

そう推測すると、あの八卦炉を無闇に人に向けるのは大変危険な行為ではないのだろうか。

 

「ところで、この部屋は?」

博麗の巫女、霊夢がそう質問してきた。

 

「此処は館の主人の部屋だよ」

 

「ふぅん。じゃ、なんであんたしかいないわけ」

 

「そこの白黒に聞いてみてくれ」

 

指を差して魔理沙を指名する。

 

「私が知るわけないだろ」

 

「魔理沙は知らないって言ってるけど」

 

本当に知りません、という風な顔をしていた。

僕はひどく辟易した。異変解決まで後一歩というところで、こんな漫才をしている場合ではないのだ。

さっさと異変を解決して家に帰りたい。それはきっと、この場にいる三人全員が思っている事であろう。

 

「そっか。じゃあ、説明するから座りなよ」

 

「そうさせてもらうぜ。ずぅっと戦いっぱなしで、流石に疲れてきたからな」

 

半分消し飛んだテーブルに集まる霊夢と魔理沙。

僕は目の前に置かれ辛うじて無傷の紅茶のカップを手に取り、一口だけ口に含んだ。

 

「と思ったけど、椅子がないじゃない」

 

そう霊夢が抗議してきた。

消し飛んだテーブルと共に、周りに置かれていた椅子も消し飛び、脚が折れ背凭れが破損し。

とてもじゃあないが、まともに使えそうな椅子は残っていなかった。

 

「……そこの白黒に言ってくれ」

 

「おいおい、何でもかんでも他人のせいにするのは良くないぜ」

 

まるで悪気の無い魔理沙である。

まあ、良いだろう。僕が後から来た客に対して配慮する必要はない。そういうのは館の関係者がやってしかるべきである。

 

「ま、適当に寛いでれば良いんじゃあないか。足が痛いならカーペットの上にでも座ればいい」

 

「遠慮しておくぜ。それよりも、館の主様は何処に行ったんだ」

 

自分の胸に聞いてみろ、と言葉を返したくなったが、ややこしくなるので黙っておくことにした。

それにしても、吹き飛ばされたレミリアは何処に行ったのだろうか。

まさか本当にテーブルごと消し飛んだ……なんて事はないだろう。あれでも吸血鬼だし、生命力は人間のそれを遥かに上回っている。

そう考えていた時、霊夢が何かに気付いたかのようにして、行動し始めた。

 

「……魔理沙、あれ」

 

「ん───っとッ!?」

 

レミリアが吹き飛ばされた事により発生した壁の穴から、紅色のレーザーが突如として射出された。

恐らくこれらの攻撃は"弾幕ごっこ"に該当するものだろうと推測して、僕は飛んでいったレーザーの事を"弾幕"と表現する事にした。

 

「……っとと、危ないな」

 

紅色の弾幕攻撃により、残ったテーブルも完全に炭と化した。

目の前にあった紅茶カップを辛うじて手に取り、頭上へと掲げて巻き添えとなるのを防いだ。

僕の目の前を通過した紅色の弾幕攻撃は、恐らく魔理沙と霊夢を狙ってのものだったのだろう、彼女達の居た場所に寸分も狂わず命中していた。

 

「ふぅ、あっぶないなぁ。誰だぜ、こんな真似する奴は」

 

「他人が寛いでる最中に攻撃を仕掛けてくる無礼者は誰かしら?」

 

壁の穴から舞い戻ってきたレミリアだが、衣服がボロボロになり髪の毛が少しばかり燻っていた。

表情は完全に憤怒しており、今にもそれが爆発しそうな勢いである。

 

「あんたかしら、紅い霧を撒き散らしてる害悪は」

 

「そうだけど、何か文句ある?」

 

「迷惑なのよね、あれ。さっさと止めてもらいたいんだけど」

 

一番最初に噛み付いてきたのは、意外にも冷静な霊夢であった。

しかし、これは拙い。こんな挑発するような言い方では、レミリアは確実に怒りが爆発するであろう。

そうなってしまえば、僕が積み重ねてきたプロセスというものが無駄に終わってしまう。

そうなってしまう前に、何とかしないと。

 

「嫌よ。大体、何故貴様程度の人間にそんな指図を受けないとならないの?」

 

「あの、レミリアさん」

 

「指図じゃないわよ。皆が迷惑してるから止めろって言ってんの」

 

僕が会話に加わろうとするのを防ぐかのようにして、霊夢が口を挟む。

 

「迷惑してるのは人間でしょ。私には関係ないもの」

 

「あのぉ、レミリアさん」

 

「それは独りよがりの傲慢っていう奴だぜ。そんな事ばっかり言ってると、いつか痛い目みるぜ?」

 

火に油を注ごうとする魔理沙。

 

「ふん、だったら見せてもらおうじゃないの。貴様らにそれが、出来たらの話だがな」

 

「もしもし、レミリアさん」

 

「この状況でよく言うわね。傲慢な上に自信家なのね、あんた」

 

いよいよ対決しようというのか。これまで僕の言葉が通ることなど、一度もなかったぞ。

けれども僕は諦めない。この声が通るまで、何度だって声をかけてやる所存だ。

 

「人間風情が、よく吠えるな。人間と吸血鬼との格の違いを教え「レミリアさーん」だあああぁッ!! うっさいわね、後にしなさい後にッ!」

 

「僕の能力を教えれば霧を止める約束じゃ」

 

「そんなの知らないわよッ!」

 

レミリアが憤怒し、辺りに喚き散らす。遂に怒りが爆発してしまったみたいだ。

火に油どころか、ガソリンをぶちまけてしまったのか、僕は。

 

「本当にこいつが異変の首謀者なのか? 何だか想像していたのよりもずっと幼稚だぜ」

 

後頭部で腕を組んで魔理沙がそう呟いた。嘲り笑っているようにも、僕には見えた。

この場は一先ず、レミリアを落ち着かせる事が先決だと思っていたが、彼女の方から何かがキレる音が聞こえてきたのでこれは拙いなと思った。

僕はその場から数歩下がり、彼女達から距離を置いた。

 

 

「おい来たぜ、霊夢!」

 

「本当にもう、面倒臭い事してくれたわね……ッ」

 

 

紅い光弾が物凄い速さで駆け抜けると、彼女達が立っていた場所が爆ぜた。

同時に霊夢は真横に避け、魔理沙はその反対側に避けると同時に外へと飛び出していった。

 

「ふふっ……良いわ、外で決着を着けよう。こんなにも月が紅いのだからなッ!!」

 

危険な笑みを浮かべ、レミリアも外へと飛び出していった。

魔理沙を標的にしたのだろうか、飛び出したと同時にその衝撃で壁が粉微塵になった。

こりゃあ館の修繕費が途方も無い数字になるだろうなあ、と一人要らない心配をしていたところ、霊夢が僕に話しかけてきた。

 

「あんたは行かないの」

 

「君こそ。彼女は友達じゃあないのか」

 

仮にも友人が吸血鬼に狙われているのだ。冷静に判断するのなら、とても危険な状態であるはず。

 

「少し休んでからね。道中の敵、ほとんど私が始末したんだから疲れちゃったわ」

 

「そうか」

 

その場に座り込む霊夢。外ではけたたましい音と共に、弾幕が展開される独特な音が聞こえてくる。

僕としては、こうなってしまった以上どうする事もできない。

いつまでもこんな物騒な場所に居たくもないし、さっさと帰ることに決めた。

 

「あら、霧の異変を解決しに来たんじゃあないの?」

 

「君こそね。僕は話し合いで解決しに来たんだ。おままごとで解決する気はないよ」

 

「なにそれ、皮肉のつもり?」

 

皮肉も何もない。弾幕ごっこは女の子同士の真剣勝負、男の僕が好んで介入する程でもない。

止むを得ず参加する事もあるかもしれないが、女の子相手に真剣になってもしようがない。

その事を、それとなく霊夢に口頭で伝えた。

 

「ふぅん……あっそ。ま、あんた弱そうだし」

 

「そーいう事だ。紅茶でも飲むかい」

 

「いらない。あんたの飲みかけじゃないの、それ」

 

中身の入っていない紅茶のカップを霊夢に差し出したが、あっけなく断られた。

他人の物を持って帰るわけにもいかないので、テーブルもない事だし地べたに置いておこう。

そうしてさっさと帰ろう。異変はこの少女達に任せておけば良いし。

 

「じゃ、僕はお暇させてもらう。異変の解決は任せたよ」

 

「任されたわけじゃあないけど、任せなさい」

 

きっと僕に頼まれたから解決するのではなく、自分達の為に解決するんだからね、勘違いしないでよね、という奴なのだろう。

難しい年頃なのだろう、僕に対するつんけんとした態度が、さっきから気になる。

 

「あ、そうそう。里の外れに僕のお店があるから、良かったら寄ってみてね」

 

「憶えてたら行ってやるわよ」

 

それを別れの言葉とし、僕はレミリアのあけた壁の穴から紅魔館の外へと出た。

 

 

*

 

 

外は相変わらずの紅い霧であり、最早昼なのか夜なのか分からない程である。

霊夢は本当に休憩するつもりなのだろう、僕の後に続く気配はない。

魔理沙は……少し遠くのほうで、弾幕を繰り出しているのが分かる。レミリアも以下同文。

見た感じだと実力は拮抗しており、スペルカードルールのメリットが最大限に活かされているのだなと見て理解できる。

さて、と。

僕はこれ以上、争いの中に首を突っ込みたくはない。

さっさと家に帰って冷たい麦茶でも飲んで一息つきたいところである。

そうして深い深い紅い霧の中、少し迷いながらも僕は帰路へと着くのであった。

 

 









以上、第七話でした。
異変の方はスムーズに解決しました。
筆者は紅茶が飲めませんので、優雅なティータイムと言われても華やかさを想像する事が出来ません。
紅魔異変の方はほぼ終局へと向かい、次話から少しずつ展開が変わっていく、と思われます。
評価してくださった方、ありがとうございます。執筆の活力とさせていただきますので、今後ともよろしくお願いいたします。
それでは、此処まで読んでいただきましてありがとうございました。
次話でお会いしましょう。


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巻ノ八 小さな客人

───異変から数日後

 

本日は、晴天なり。

カーテンの隙間から太陽の光が漏れ出ており、憎らしいほど眩しい光が大地を照らしていると推測できる。

あの紅い霧の異変から数日が経過したのだ。

僕が家に帰宅して、その翌日。あの人里を覆っていた紅い霧が、まるで夢だったかのように引いていたのだ。

それを夢と錯覚させないのが、この太陽光と真夏の気温である。

気温は推定、30度の後半を上回っているであろう、里では熱中症患者が後を絶たないはずである。

 

はてさて、異変が解決された事により、僕の功績が認められる……はずもない。

結局のところ異変を解決したのは"巫女"であり、里人の感謝の気持ちは僕へではなく、博霊神社の巫女に向けられているのだ。

宣伝の効果、きっと無かったのだろう。僕のお店に足を踏み入れる者はいない。

妖精が悪戯で投げつけてきたドングリがいくつか転がっているだけで、人間が踏み入った気配は一切ない。

 

ま、別にそれは構わない。

売り上げや利益を追求しているわけではないし、あくまで趣味のひとつである。

実のところ、僕のお店は"固定費"というものが限りなく低い推移にあるのだ。

その理由として一番を占めているのが、やはり僕の"能力"である。

人を殺めたり、危険に犯したりするだけの能力は、総じて愚者にのみ与えられると僕は思っている。

僕の能力もそれに当て嵌まってしまう可能性も無きにしも在らずだが、生活環境を改善する事にも使用できるので、万能といえば万能なのである。

因みに僕の能力に名前を冠するのなら、繋い───

 

 

「た、たのもーう」

 

不意に、店の扉が開く音が聞こえてきた。

不法侵入者か、と思ったが、考えてみると此処は僕のお店だ。侵入者ではなく、お客様である。

 

「はい、いらっしゃい」

 

声色は高く、恐らくは子供の女と推測できる。

僕は椅子から立ち上がり、直ぐに扉まで向かった。

 

「あ」

 

「……おや、君は」

 

僕の顔を見るなり口を開いたまま黙り込んでしまった。

その容姿を見る限りこの子……いや、この子達は。

 

「ルーミア君に、チルノ君だったかな」

 

「へぇー、思ったより本格的な造りなのね」

 

まだ玄関口しか見ていないのに、この口ぶりはどこぞの専門家様だ。

そう偉そうに言い放ったのはルーミアであり、彼女の後からチルノが歩んできていた。

 

「やあ、いらっしゃい」

 

「あたいが来てやったわよ!」

 

ずびし、と人差し指を此方へと向けて、これまた偉そうに言い放ったチルノ。

 

「そうですか。ささ、入って、どうぞ」

 

「言われなくとも」

 

「ふーん、これが人間の店かあ」

 

そういえば二人とも妖怪と妖精だ。知り合い同士だったのだろうか。

 

「君達、知り合いだったのか」

 

「いや、知らないんだけど」

 

「あたいも」

 

何を当たり前な事を聞いてんの、と言った風な表情で此方を見ている二人。なんだ、僕が悪いのか。

 

「じゃあ何故、二人で仲良く僕の店に」

 

「うーん……私は暇だったからあんたの店を探してたの」

 

「あたいは蛙を凍らせてた!」

 

「……頭が痛くなってきた。まあ、いいや。人の出会いも運命だ、気にするほうがおかしいのかも」

 

「因みに私は妖怪ね」

 

「あたいは妖精!」

 

頭痛が酷くなってきたので今日は休業しようか、と考えたが、お客様を目の前にそうも言ってられない。

痛む額を押さえつつも二人の人外を店内へと招き入れた。

 

 

 

*

 

 

 

短い廊下を抜けた先は、飲食物を提供する空間が広がっている。

今回の場合、バーカウンターのみを使用する形になるだろう。

数人規模で周りのテーブルに座られても面倒だし、それならばバーカウンターで寛いでもらった方が此方としても楽である。

 

「外よりずっと涼しい感じね」

 

ルーミアが両手を広げて、そう呟いた。

 

「空調管理してるからね。僕は暑いのが苦手なんだ」

 

「そーなのか。お、この回転してるのは何」

 

ルーミアが興味を持っているのは、どうやら店内の隅に置いておいた扇風機。

これは暑い夏を乗り切る為の必需品であり、冷気を効率良く循環させる為にも常時稼動しているのだ。

 

「それは扇風機だよ。風を送る機械」

 

「へー。どうやって動いてるの?」

 

「電気で」

 

「なにそれ。能力みたいなもん?」

 

電気が広く普及しているわけではないので、妖怪であるルーミアが知らないのも無理はない。

僕は電気の専門知識は持ち合わせていないので、説明する事ができない。

とりあえず能力的なものだよ、と適当に答えておいた。結局のところ、僕の能力で動かしているようなものなので強ち間違いでもない。

そうこうしている間に。チルノはとてとてと歩き出し、自分の席を確保していた。

 

「あたい、ココね!」

 

「そうか。じゃ、ルーミア君は隣りの席ね」

 

「えー」

 

幸いにもチルノが選んだ席がバーカウンター席だったので、言葉を合わせてルーミアを隣に座らせた。

何だか渋っていたが、気にしない事にする。

 

「さ、どうぞご注文を」

 

僕もカウンター席の反対側に立ち、板場を前に注文を伺った。

二人の少女は少し考える素振りを見せた後、直ぐに口を開く。先に注文したのは、チルノであった。

 

「あたい、蛙がいい!」

 

「ございません」

 

次にルーミアが注文する。

 

「そぉねぇ、人肉とか」

 

「ございません」

 

食べ物として注文しているのか不明な注文であったが、どれも僕の店には置いていない。

二人の少女はケチをつけるような視線で、今にも口から抗議の言葉が漏れそうな雰囲気である。

 

「すみません、こちらお品書きです。こちらに添って注文していただく仕組みになっております」

 

「そーなのか。……うーん、どれも聞いた事ないものばっかり」

 

「あたいも、人間の食べ物なんて知らないから」

 

妖怪に妖精は、人間の文化というものをあまり知らないのか。

近年、人里には妖怪も多く交流しているという事だが……そういえばこの娘達は、いわゆる野生のそれに分類されるのだろうか。

まあそれならそれで構わない。僕が適当に見繕って世話をすれば良い。実際にそういう注文もあるから。

 

「そうでしたか。では、お口に合うものを適当にご用意致しましょうか」

 

「そーね。それでお願い」

 

「あたいはすんごい冷たいのを!」

 

「畏まりました。因みにお二人とも、お酒のほうは」

 

僕がそう質問すると、二人は顔を見合わせた。

酒は飲めるのか飲めないのか、単純な質問である。けれど、その答えは返ってこなかった。

あまり飲んだ事ないのか、それとも酒という言葉に馴染みが無いのか。

ま、それこそどっちでも良い。この世界には法律というものは存在しないし、お子様が酒を飲んでいようが騒ぐ者はいない。

 

「ではお酒と一緒に、軽い食事も用意致しましょう」

 

僕はそう彼女達に言い残し、厨房へと姿を隠した。

 

 

*

 

 

時間にして十分程度か、思ったよりも短い間に仕度を済ます事が出来た。

と言っても、その作業は至極簡単なものである。

元々冷やしていたお酒を冷蔵庫から取り出し、冷やしていたグラスに注ぐ。

夏場という事もあり、アイスペールに氷を積んで一緒に持っていく事にした。

因みにアイスペールとは、氷を入れるグラスの事だ。

軽い食事も用意しようと思ったが、これがまた難しい。頭を捻ってしまった。

考えた末に出した結論は、お昼時という事もあり麺類を採用し、ルーミア君とチルノ君で分ける事にした。

どちからかと言うと、人間っぽいのはルーミア君のほうなので、彼女には定番の冷やし中華を半人前だけ用意する。

チルノ君は、味覚が人間のものとは変わっていそうなので、冷凍庫に置いてあったバニラアイスを持って行く事にした。

 

「お待たせいたしました」

 

「遅いよ」

 

人外はせっかちな性格である。そんな事に辟易しながらも、各々の前に目的の物を並べる。

 

「はい、お二人には同じお酒です。ルーミア君には冷やし中華をどうぞ」

 

「ひやしちゅーか?」

 

「チルノ君には、バニラアイス」

 

「なにそれ」

 

どれも聞いた事なかったのだろうか。まあ四の五の言わずに食べてほしいと思うのは、僕の本心である。

彼女達に振舞ったお酒は、無難に日本酒を選んだ。これが飲めれば大抵のアルコールはいけるのではなかろうか。

因みに僕は、美味しいとは思わなかった。

 

「ふーん、これが人間のお酒ね。……苦い」

 

酒を一口飲んだルーミアが、苦情を入れた。

語弊があるので説明するが、これは人間で造ったお酒では決してない。人間が造ったお酒である。

チルノも同様の感想なのか、舌を出してしかめっ面をしていた。まあ、妥当な反応ではある。

 

「君達にお酒は少し早かったかな。もう少し甘い飲み物を用意しましょうか」

 

「別にいいわよ、飲めなくはないし」

 

僕が別の飲み物を勧めると、さらりと断りを入れられた。

それが強がりなのかは不明だが、構わないと言うのだからそれに従う。

 

「こっちの食べ物は美味しいわ、ちょっと味が濃いけど」

 

「この、ばにらあいすってのも甘くておいしい!」

 

飲み物は不評であったが、食べ物のほうは割りと好評であった。

ルーミアがチルノからアイスを一口だけもらったり、その逆もあったりした。

少女らの賛辞の声に僕は相槌で返し、再び厨房へ向かった。

去り際にルーミア君がチルノ君の食べ物のを少し寄越せとのたまってたが、あっさりと断られていた。

 

 

*

*

 

 

「ふー、食った食った」

 

お酒を渋顔になりながら飲み干し、バニラアイスを食べ終えたチルノが親父臭くそう呟いた。

流石に妖精は体躯が小さく、食べられる量も少ないのか。とてもエコロジーな身体だなあ、と思った。

 

「人間の食事は味が濃いのね。舌が馬鹿にならないの?」

 

「僕は美味しいと思ってる。けど人里の食事はあまり好きじゃあない。味付けが薄すぎるからね」

 

「ふーん。人間よりも、人間が作る食事が美味しいって感じるのは、何だか妖怪としては変な感じ」

 

「確かに、可笑しな話だ。君が人間を食べる事で、里の郷土料理が一つ失われてるかもしれないって言うのに」

 

「どーいうこと」

 

「君が今まで食べた人間の中に料理人がいたら、その人の料理は二度と食べられなくなるからね」

 

食器類を片付けながら、ルーミアと世間話をしていた。

チルノは会話内容に興味がないのか、店内をあちこち観察していた。

 

「その心配はないんじゃない」

 

「なんで」

 

「ここ最近、お肉は食べてないから。あの騒動があってからかなあ、人間を襲い難くなったの」

 

ルーミアがそう言い放ち、溜息を吐いた。

彼女にとっては残念な事なのだろうが、僕やその他の人間達にとっては良い事に違いない。

そして"あの騒動"とは、"大結界騒動"の事である。詳しい説明はそのうちあるかもしれない。

 

「まあ、妖怪として成立できてるのだから、良いんじゃないか。無理に人間を食べようとせずに、人間の食事に慣れたほうが良いと思う」

 

「それも悪くないかも。でも、それじゃあダメなのよ」

 

僕はルーミア君にそれは何故か、と質問する。

 

「人間の食事に慣れちゃって、その味を美味しいと思うのは良い事だと思うのよ。でも、いつの日かその味を忘れられなくなっちゃって、

人間を食べる事が出来なくなっちゃう自分を想像すると、それはとても恐ろしい事だと思うの」

 

彼女はそのまま続ける。

 

「里では、人間と仲良くしている妖怪が沢山いると聞いてるわ。誰かが私に言ったんだけど、人間と妖怪の共存……だったかな。

傍から見れば、今の状況は共存しているように見えるわね。けど私に言わせてみれば、それは違うと思うのよ」

 

「どーいう事だ」

 

「現状は、妖怪が人間に謙っているようにしか見えないわ。そりゃあ山に住んでる天狗とか、里に興味の無い妖怪は違うと思うけど。

でも実際は、巫女と妖怪の賢者って奴が取り仕切ってて、妖怪が妖怪として生きる事を否定されている気がしてならない」

 

聞いた事がある。

幻想郷は外の世界から隔離されている為に、妖怪達が気軽に里の人間を襲えなくなったという事。

無論、それを無視して人間を襲おうものなら、妖怪の賢者以下取巻き達が容赦なく制裁に向かうだろう。

だが人間を襲えなくなるのは、妖怪としては非常に面白くない。

という事で行われたのが、食料係りによる食べ物の供給。それが人間なのか穀物なのかは、妖怪ではない僕の知るところではない。

が、こうして問題なく妖怪達がやってこれてるという事は、それなりの質の物を供給されているという事なのだろう。

 

「だから私は、里で人間に謙っている妖怪を、妖怪とは呼ばないわ」

 

「なんでだ」

 

「妖怪は人間を襲うもの。仲良しこよしで一つ屋根の下で生活するなんて、とんでもない。

私みたいに、妖怪としての誇りをもってねえ……」

 

酒の入ったグラスを、若干強めにバーカウンターに置くルーミア。

ひょっとしてこの娘、酔いが回っているのではなかろうか。

 

「君、ひょっとして酔っ払ってるのか」

 

「酔ってないわよ、酔ってない……」

 

性質の悪い酔っ払いは皆、そう言うものだ。

と言う事はなんだ、僕は今まで酔っ払いの戯言につき合わされていただけ、という事になるのか。

そう思うと真面目に聞いていて損した気分になる。酔っ払いに、妖怪も人間もあったもんじゃあないな。酔っ払いは酔っ払いである。

 

「はい、お冷」

 

「ありがと」

 

「それ飲んで帰りたまえ」

 

下手に居座り続けられて、難癖を付けられても迷惑だ。

既にチルノは店内で行方不明になっていた。あいつは一体、何をしているんだ。

 

「おいチルノ君、何処へ消えた」

 

「はっはー!あたいが何処に隠れてるか分からないでしょ!」

 

……と声が聞こえてきたので、声のするほうに視線を向けてみる。

するとバーカウンターの死角となる場所に隠れているチルノが発見された。

 

「分からない、分からないから余ったアイスはルーミア君にあげよっと」

 

「えっ」

 

「お土産にどうぞ、ルーミア君」

 

「ありがと、これ甘くて美味しかったからまた食べたかったのよね」

 

さっきまで妖怪云々、食事云々と難癖を付けてきたのを忘れたのか。

ま、たとえ難癖であろうとそういう言葉が漏れるという事は、少なからず本心でそう思っているという事だ。

初めて出会った時は、間抜けな妖怪だと思っていたが、実は色々と考えていたりするものなのだな。

 

「ダメー!あたいの分は!?」

 

チルノがバーカウンターの下から飛び出してきた。

 

「ルーミア君にあげた」

 

「なにあんた二個も持ってんのよ!」

 

言うや否や、欲張り!と言いながらルーミア君からアイスを分捕ったチルノ。

二個中一個を分捕られたルーミアだが、文句をつける事はなかった。酔うとクールになるのかしら。

 

「さ、落ち着いたら帰りなさい。お代はいいよ、どーせ金持ってないんだろ」

 

端からお代の事など気にしていない。どうせ妖精やら妖怪が金を持っているはずもないし。

 

「あれ、あんたが食べ物が欲しいって言うから持ってきたんだけど」

 

ルーミアが懐から、森で採れたのだろうか、木の実やら茸やらをいくつか見せてきた。

そういえば出会った時に、それら自然の幸と交換でも構わない、とか言った覚えがある。

 

「あ、それ本気にしてたんだ」

 

「なにそれ、あんた嘘ついたの?」

 

「いいや。じゃあ、貰っておこう。ありがとう、また来た時は歓迎するよ」

 

ただしチルノ、君はダメだ。とは口が裂けても言えない。先程気付いたんだが、店内に置いておいた花瓶がいつの間にか割られていた。

 

「そ。じゃあね、えーと……天道だっけ」

 

「ああ、またね。そこの妖精も連れて帰ってくれないか」

 

「はいはい、行くよー氷精」

 

「じゃーな、てんどー!」

 

ほろ酔い気味でクールなルーミアに、去り際が妙にワイルドなチルノが帰っていった。

二人だけでも割と騒がしかったので、一人になると物寂しいものがある。

お代が森の幸という事もあり、自分で言い出したものの中々複雑なものがある。

まあ、良いか。まだ営業はしているんだし、直ぐに片付けていつ誰が来ても良い状態にしなくては。

そう考え、僕は急いで片付けを進めるのであった。

 

余談だが、ルーミア君がくれた森の茸の中に、食べられない毒茸が混ざっていた。

 

 








評価をして下さった方、ありがとうございます。執筆のモチベーション向上に繋がります!
と思って執筆はしてるのですが、年末が近いという事もあり中々時間が割けれない状態となっております。
書き貯め分はまだございますが、放っておけばあっと言う間に無くなってしまいます。
今後も執筆に励む所存です。
それでは最新話でした。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


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巻ノ九 往年の話 天狗社会

僕は昔から揉め事や、騒動に巻き込まれやすい性質だ。

その度に辟易したり、死にかけたりもした事がある。

今からずっと昔、幻想郷が出来る頃よりもずっと昔、僕は随分と酷い性格をしていた。

所謂"黒歴史"といわれるものだろうか。

自分の能力を過信し何処までも、彼方までも自分の存在を誇示しようとしていたのを、まだ憶えている。

 

僕のような酷い過去を持っている人間でも、酔ってしまえば只の人間だ。

嫌な事も、うんざりするような事も、酔ってしまえば全て忘れる事が出来る。

僕はお酒があまり好きではない。

けれど酒は百薬の長、酒は天の美禄ともいう。お酒を飲んだ時の酔い心地は、とても素晴らしい。

そんな心地の良い空間を、素晴らしい酔い心地を、僕の店に訪れた人達に伝えたい。

 

 

と、こんなに向上心のある事を考えたところで、お客さんが来るわけもない。

ルーミアとチルノが訪れた後、その日も閑古鳥が鳴く。翌日、翌々日と経過しても、店の戸が叩かれる事は無い。

そこでひとつ、昔話でもしようと思う。

幻想郷が出来るよりも昔の話、目的も無く大陸という大陸を渡り歩いていた日々の話。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

天狗と呼ばれる種族の妖怪がいるのを知っているだろうか。

妖怪にしては仲間意識が強く、独自の社会を築いているという賢しい妖怪だ。

あてもなく大陸を渡り歩いていると、様々な騒動に巻き込まれるのであるが、そのうちの一つがこの天狗と密接に関わっている。

 

この頃には僕も落ち着きを見せ始めていたと思う、無闇に生き物を襲うという事もなかった筈だ。

けれどもある時、確か山を散策している時である。その時に運悪く、天狗と遭遇してしまったのだ。

どうやら僕は散策していた山は、"妖怪の山"と呼ばれていたらしく、天狗達の縄張りだったらしい。

古くから妖怪の山を縄張りとしていた天狗は、部外者である僕が無断で立ち入って来た事を面白く思わなかった。

まず始めに、白狼天狗という種類の天狗に威嚇された。毛並みが白かったので、白狼天狗との推測だ。

 

 

「そこの貴様」

 

言葉の切り出しは、こんな感じ。初対面にしては酷く失礼な言葉遣いであったのを憶えている。

僕はそんな態度を見せる、およそ僕と同い年くらいの天狗に対して苛立ちを覚えた。

 

「これ以上先に足を踏み入れるというのなら、容赦はしないぞ」

 

盾を構え剣を此方に向ける白狼天狗。

僕としては先に通して欲しい、今晩の食事を確保する為に、自然の実りが豊かなこの山を散策しているのだから。

 

「通してくれないか、僕は腹ペコなんだ。それとも君が僕の食事を用意してくれるのか」

 

「ふざけるなよ、人間風情が。おれは侵入者を殺してはいけない、とは命令を受けていないんだからな。あまり舐めた口聞いてんじゃあねえぞ!」

 

この白狼天狗は男だった。男なら対応しやすいので、僕としては嬉しい。

 

「話にならないな、君こそ帰れ。下っ端の天狗と話している暇はないんだよ」

 

「ふん、それは此方の台詞だ。言葉で分からないのなら、実力行使だ!」

 

白狼天狗が、剣を振り回して突っ込んできた。

とても物騒である、斬られたら凄く痛いだろう。

 

「あーあー、やめてくれ。乱暴な事はしないでくれ」

 

「やかましい! 後悔するなら死んでからにしろッ!」

 

剣が僕に向けて振るわれ、空気を裂いた。

妖怪らしい強靭な腕力で振るわれた斬撃により、物凄い風圧が僕の髪の毛を揺らした。

しかし振るわれた剣は、鍔から先の刃に当たる部分が無かった。

 

「……おや、ところで君の剣、刃がないんだけども」

 

「は?」

 

白狼天狗の振り回していた剣、青龍刀のようなものだが、なんと鍔から上の部分……刃にあたる部分が綺麗サッパリなくなっていた。

振り回していた気付かなかったのだろうか、刃のない剣など振り回したところで、斬られるはずもない。

僕の指摘に慌てふためき、無くなってしまった刃を探す白狼天狗。

けれど、見つからない。当然だ、その刃の部分は僕が持っているんだから。

白狼天狗が剣を振るった瞬間、刃が僕の身体を捉える寸でのところで能力を発動し、鍔と刃を切り離してやったのだ。

 

「あ、もしかしてコレかな」

 

はい、と白狼天狗に刃を渡した。

 

「き、貴様ぁ……おれを侮辱しているなッ!」

 

僕から刃を掴み取り、それを投げつけてきた。

軽い動作でそれを避けると、今度は白狼天狗自ら殴りかかってくる。

右腕を振り回し、左腕で腹部を殴ろうとしてくるが、どれも避ける避ける。

 

「なんだ、僕と喧嘩する気か」

 

「ううるさい! 人間の癖に天狗を侮辱した罪ッ! 思い知らせてやるからなッ!」

 

「あっそ、面倒臭いから眠っていてくれ」

 

あまりにも稚拙な攻撃に嫌気が差してきたので、速攻で終わらせた。

白狼天狗の大振りの攻撃の隙を突き、顎を狙って右フックで決めてやった。白狼天狗は卒倒した。

 

能力を使って白狼天狗の武器の刃部分を奪い、混乱させたのが功を奏したのだろう。

やはり、僕の能力は万能だ。

邪魔者も気絶してしまって何も言ってこないので、先に進む事にする。

 

 

*

 

 

暫く歩いて先に進むと、先程と似たような天狗どもが次々と現れ、僕の行く手を塞いだ。

その度に気絶させたり、脅しつけたりして対処していったが、どうやらそれも限界のようだ。

目の前に広がる光景がそれを思わせていた。

天狗の家並みというのか、というよりかは何かの施設のようにも窺える。兎に角、これより先は天狗が沢山住んでいる、というわけだ。

そんなところに、歓迎されていない僕が進めばどうなるか。結果は説明するまでもない、襲われるに決まっている。

 

「めんどくさいなあ、遠回りして散策しよっと」

 

そういえばここら一帯は天狗に手入れされており、自然の幸があまりない。

と言う事はつまり食料も得られないので、とんだ歩き損である。これなら最初から、こんな山なんかに入らねば良かったとさえ思えてくる。

さっさと遠回りして山を抜けよう、そう思った時であった。

ふと振り向くと、天狗の少女が、木の影から僕の事を見ていた。そして僕が振り向いた事もあり、視線が合ってしまった。

 

「あっ、にんげ───」

 

天狗の少女が言葉を発する前に、僕は動いた。

即座に天狗の少女の前まで移動し、その口を塞いだ。

天狗の住処の手前、こんなところで大きな声を出されでもしたら、数多の天狗が僕の事を襲うであろう。

それだけは何としてでも避けたい。

僕が口を塞いだ天狗の少女は、暫くの間暴れまわったが、やがて抵抗も弱くなってきた。

 

「……お前、いつからそこに居たんだ。どこから見ていた」

 

「………!!」

 

口を押さえられているので、質問には一切答えられない。

 

「僕は君たちにとって部外者だ。出来れば穏便にこの山から降りたいと思っている。

そこで君に山を降りる安全な道を教えてほしいと思ったんだけど……君達の種族はとても狡猾な種族だと知識として知っている。

単純に教えてもらっちゃあ、どうにも信用できない」

 

「……」

 

「手を離した瞬間に大きな声を出されたら堪らないからね。僕としても騒動になるのは避けたい」

 

押さえつけている手とは反対の手で、近くの木の枝を折って天狗の少女の首もとに向ける。

 

「そこでひとつ、僅かでも安心できる方法をとろうと思う。僕は今から君の口を押さえている手を離そうと思う。

そうしたら君は可能な限り小さな声で僕の質問に答えてほしい。なに、乱暴な事はしないよ」

 

「……」

 

「でもね、もしも大きな声を出そうとしたら、とても痛い目をみる事になる。この木の枝が、君の首を貫いてしまう。

頚動脈って知ってるかい。天狗にもあるかは知らないけど、そこを切断すると血が沢山出るらしい。確か、ここ……喉仏の横側」

 

「……!!」

 

そう軽く脅しつけると、天狗の少女の瞳が潤いだす。

身体を震わせ、目から涙を零している。抵抗する力もなくなり、完全に恐怖に包み込まれていた。

 

「じゃあ、今から3秒間。その間だけ手を離してあげるから、僕の質問に答えて。

下手に時間をかけたくないから手短にね。質問以外の事を喋ったら殺しちゃうから。あと、余計な事を喋っても殺すからね」

 

「………」

 

「じゃ、教えて。天狗の監視が少なくて、一番早く山を降れる道を教えてくれ」

 

そう少女に質問し、口元を押さえている手を離した。

 

「………うぅ…」

 

すると少女は緊張の糸が切れたのか、或いは我慢の限界を超してしまったのか、大きな声で泣き出してしまう。

これは拙いと思い、僕は直ぐに行動に移る。

 

「あーあーあ、これはダメだな。始めからこうしてれば良かった」

 

大声で喚き始めた天狗の少女の口元を再び押さえつけ、首もとに突きつけていた木の枝を───

 

「怖かったよね、許しておくれ」

 

木の枝を捨て、天狗の少女の頭を軽く小突いた。

たったのそれだけで、天狗の少女は糸が切れた人形のように崩れ落ち、意識を失った。

軽く妖術を込めたので、痛みとかは無かったと思うのだが。始末してしまおうとも考えたが、何だか興が醒めてしまったので止めにした。子供は苦手である。

気絶した少女を地面に軽く寝かせ、さっさと立ち去ろうと思った時であった。

 

「いたぞ、あそこだッ!!」

 

「取り押さえろッ! 囲め、囲めーッ!」

 

どうやら見つかってしまったらしい、後方は既に天狗が数十人、前方は天狗の住処。

上を見上げれば、数匹の天狗が僕を見下ろしているのが分かる。飛んで逃げても、直ぐに捕まりそう。

全力で抗えば逃げられなくも無さそうであるが、あまりリスクのある行為はしたくない。

そもそも不法侵入と軽い傷害を与えた程度なので、捕まって殺されるという事はないと思うので、この場は素直に取り押さえられる事にした。

 

 

 

 

*

 

 

 

両手を縛られ、腕と胴体を縄で厳重に結び付けられながら、僕は天狗のお偉いさんの場所まで引っ立てられた。

道中で一般の下っ端天狗が、僕の事をジロジロと見ていたのが気になった。

何だか見世物にされたような気分になり、辟易とした。

 

「その方が我らの縄張りを侵した者か」

 

裁判所のような施設に通され、中でも一番偉そうな服を着た天狗がそう言葉を発した。

 

「左様で御座います、大天狗様」

 

僕を引っ立てた若い天狗が、そう言葉を返した。

 

「ふむ。罪状は……侵犯及び哨戒天狗への傷害行為、か」

 

「道に迷っただけです。あと、正当防衛」

 

「やかましい、貴様は黙っていろ」

 

僕が意見を述べると、僕を引っ立てた若い天狗にそう言われた。

 

「反省の色は無し、傷害行為に対する罪の意識も低いと見える」

 

大天狗と呼ばれた天狗が、そう呟く。

何だか思っていたよりも適当に処理されそう、面倒臭いから死刑にします、なんて言われたらどうしようか。

 

「あい分かった。この件は上層部と話し合いの上、処罰を決定する。その間は投獄しておけい」

 

「御意!」

 

「痛たたた、急に引っ張らないでくれ」

 

投獄が決まったらしい。すぐさま僕を縛り付けている縄が引っ張られたので、凄い痛みを感じた。

山に散策に来たはずが、どうして天狗達の手によって投獄されなければならないのか。

考えど考えど辟易するので、一人になるまで僕は考える事をやめた。

 

 

*

 

 

粗末な造りの、牢屋らしき場所に連れられ、その中へ叩き込まれた。

なんと縄を繋いだまま投獄された。これでは身動きが取れないじゃあないか、と抗議を入れたが無視された。

僕を投獄した天狗が去り、漸く一人となった。これで落ち着いて思考する事が出来る。

 

「やれやれ、とんだ災難だ」

 

僕は繋がれた縄を能力で切断し、壁に背を預けて楽な姿勢をとった。

冷静に考えると、この程度の粗末な造りの牢屋など、少し手を込めれば簡単に壊せそうだ。

しかしそんな真似をすれば、罪状に脱獄まで加わってしまう。とりあえず今は落ち着いて、仮眠でも取る事にしよう。

なに、きっと悪いようにはされないさ。

 

 

 

ふと目が覚める。仮眠を取っていたのだが、周囲は既に日没を終えていた。

どれぐらい眠っていたのだろうか、恐らく数時間程度の筈なのだが。

軽く欠伸をし周りを観察してみると、牢屋の鉄格子の前に盆が置いてあった。

 

「食事のつもりか」

 

恐らくは囚人向けの食事なのだろう、錆びれた盆の上に置かれたのは、欠けたお皿に乗せられたかび臭いパンのような物体。

それに付け合せのつもりか、埃まみれの徳利が添えられている。

 

「中身はただの水だな。……この食べ物のような物体は、乾燥してて堅くて不味い」

 

素直な感想は、これだ。

表面はカチカチ、中身はパサパサで味も何もしない。徳利に入っている水も、何だか少し鉄臭い。

囚人らしい食事といえばその通りなのだろうが、余りにもお粗末な食事だなと僕は一人で不貞腐れた。

 

与えられた食事を何とか食べ終えたが、口の中が嫌な感じがする。砂を齧ったような、泥を舐めたような、なんともいえない不快感。

皿を元の位置に戻して、再び楽な姿勢をとる。これから暫くこんな生活が続くと思うと、溜息しかでない。

 

「おい新入り、起きてるか?」

 

寝転がって暇を持て余していると、不意に隣りの部屋から僕を呼ぶ声がしてきた。

部屋、というよりは牢屋か。恐らく僕以外の囚人も収容されているのだろう。

 

「起きてるよ」

 

「はっはは、そうか。お前さんは何だ、何を仕出かしたんだよ」

 

「さあ。不法侵入と傷害の罪とか何とか」

 

僕自身、何で此処にいるのかさえ分からない。

ただの妖怪の山に入っただけなのに、そこで築かれている社会の法律の網に引っかかってしまったのだ。

 

「ほう。そん程度なら十年もありゃあ、出してもらえるんじゃねえか」

 

「十年だって? とんでもない、僕は明日にでも帰るつもりだよ」

 

「言うねえ。お前さん、天狗の強さを知らないな?」

 

知るわけがないので、そこは素直に肯定した。

きっと上層部の天狗は、警備を担当している天狗よりもずっと強いのだろう。

 

「ま、死にたくなけりゃあ大人しくしてろってこった。素直に従って愛想振りまいてりゃ、早めに出してもらえるだろうよ」

 

「そんなものか」

 

真面目な囚人は、規定の年数よりも早めに牢屋から出してもらえるのか。

にしても推定十年の収容は、とても辛い。こんなかび臭い食べ物を毎日食べるなんて、僕には無理だ。

 

「ところで君、ひとつ質問してもいいか」

 

「ああ、何でも聞いてくれ」

 

「この収容所に収容されている囚人は、何人ぐらいいるのかな」

 

素朴な疑問である。まさか僕達二人だけなんて話があるわけがないし。

 

「さぁな。詳しい数は知らねえが、別棟を含めたら百以上はいるんじゃあねえか」

 

「へえ、凄い数だね」

 

「そりゃあそうさ、お上の意見に背いたら、反逆罪で牢獄行きだかんな」

 

「因みに、君の罪は」

 

「仕事で頭に来たから、大天狗の野郎をぶん殴ったんだよ」

 

何ともまあ潔い話である。天狗による縦社会が構築されている反面、こういった者達が後を絶たないのだろう。

まあ、部外者の僕には関係の無い話である。明日になっても状況が変わらなかったら、さっさと山を降りることに決めた。

とりあえずやる事が無いので、再びお呼ばれするまで仮眠を取る事にしよう。

 

 

 

*

 

 

 

仮眠というよりは、熟睡してしまったようだ。

目が覚めると既に太陽が昇っており、周囲は明るい。僕はといえば、堅いところで眠っていたので腰が痛い。

天狗社会の囚人達は、特に仕事のような事をしたりしないのだろうか。何もしないというのも、ひどく苦痛な事だと思うのだが。

ともあれ、とりあえずは食事にありつく事にする。

いつの間にやら食事が置かれているので、放置はされていないようだ。

今度は黄土色の液体が盛られた皿に、動物の排泄物のような形をした固形状の物体。

これが食べ物なのか、僕には分からない。けれどもこれ以外に食べるものもないので、口にする。

 

「……不味っ」

 

黄土色の液体……スープだと思われるそれを飲んだのだが、砂利水が口の中に流れたのかと一瞬錯覚してしまった。

次に固形状の物体を口にしてみたのだが、これがまた酷い。

パサパサなのに、非常に粘度が高い。もちゃもちゃ、ねちゃねちゃ。擬音で表すのなら、そんな感じ。

とてもじゃあないが、食べられたものではないので吐き出した。

 

「絶対に許さん、牢屋を出たら口直ししてから山を降りるぞ」

 

僕は憤慨した。囚人とはいえ扱いが粗末すぎる。拾ってきた犬猫じゃああるまいし、いや、まだそちらの扱いの方が上である。

兎に角、僕は溝鼠じゃあない。もう少しまともな食にありつきたい。

そう一人で憤慨していると、看守のような天狗が僕に声をかけてきた。

 

「お、貴様起きているな」

 

槍を片手に、僕に向けてそう言葉を放った。

 

「どうして縛っていた縄が切断されているのか気になるが、まあいい。食事は済んだのか」

 

「これは食べ物なのか。天狗は随分と下品なものを食べるんだな。もう少しまともな食事はないのか」

 

「人間風情に与える食事など、これで十分だ」

 

天狗らしい台詞だなと思いつつ、これ以上抗議することを諦めた。

お腹も空いているし、何だか物事に対して億劫なのだ。

 

「まあいい、出ろ、貴様の処遇が決定された」

 

「おや、本当か」

 

がらり、と牢屋の扉が開いた。

縄で縛られていない俺は、今は自由である。この天狗を此処で始末する事も出来るのだが……

 

「なんだ、随分と無用心じゃあないか。僕が暴れるとか思わないわけ」

 

「ふん、やれるものならやってみろ。おれは白狼天狗の中でも、かなり力には自信があるからな」

 

「あっそう」

 

自分に自信があるから、やれるものならやってみろ、と。

しかし此処で騒動を起こしても、後で面倒臭い事になるのは火を見るよりも明らかである。

とりあえず今は、この白狼天狗に従う事にしよう。そう思い、白狼天狗の後を着いて行く事にした。

 

 

「───間抜けが、慢心する相手を間違えたね」

 

「……なッ」

 

……と、着いて行くわけがない。

奴が僕に背を向けた瞬間、即座に攻撃を仕掛ける。攻撃と言っても至極簡単なもの、手刀である。

軽く気を込めて叩きつけると、白狼天狗は小さい呻き声を漏らして気絶した。

 

「ふふふ、頭悪いな。さて、妖術を仕掛けておこう」

 

あまり得意ではないが、妖術を行使することにした。

僕は妖術と表現するが、本当に妖術かどうかは僕にも分からない。

もしかしたら魔術かもしれないし、法術かもしれない。まあ、人外の力という事に間違いは無い。

気絶させた白狼天狗に妖術を施し、軽い細工をしてから僕の処遇の話を聞きに向かおう。恐らく先日の大天狗様とやらの場所に向かうのだろうが。

 

 

 

*

 

 

 

正午過ぎ頃、先日と同じ場所で判決が降されるという事で、再び足を運ぶ。

道中では天狗達から奇異の眼差しで見られ、それは侮蔑した視線とも捉える事ができた。

やはり天狗の社会はどこか排他的であり、部外者に対する扱いも雑である。

それは僕に対しても例外ではない。主に食事の部分に対して、僕はとても憤慨している。

山を降りたら早急に口直しの食事をしたい……そんな食の妄想を繰り広げている合間に、大天狗の座している建物に到着した。

 

 

「さて、人間。貴様の罪状に対する処罰が決定した。己が行為を認め、贖罪に励めよ」

 

大天狗らしき、偉そうな風貌の天狗がそう言い放った。

大天狗は他の天狗と比べ、体格が一回り程大きいので一目で分かる。

更に天狗社会の頂点に君臨しているという、天魔という天狗はもっと巨大なのだろうか。

 

「我らの縄張りへの侵犯行為、哨戒天狗に対する傷害行為。そして……」

 

そこで大天狗が言葉を切り、手元の資料に目を通した。

 

「もう一つ。幼年の天狗に対しての恫喝行為、及び殺傷未遂、拘束具破損による脱獄未遂。これら全てが貴様の罪状だ」

 

大天狗がそう言いきった。

縄張りへの侵犯行為だけかと思っていたのだが、余罪のバーゲンセールとはこの事だ。

こじ付けがましい事ばかりであるし、脱獄未遂なんて覚えすらないぞ。いや、確かに縄は切断したが。

 

「拘束具破損による脱獄未遂は、昨夜行われたそうだが……間違いないか?」

 

大天狗が看守を務めていた白狼天狗に対して、そう質問した。

 

「え、ええ。間違いありません、私が監視しておりましたので」

 

白狼天狗は若干威圧され気味に、そう恐る恐る答えた。

回答に対して大天狗が少し吐息すると、再び手元の資料に目を通した。

 

「恫喝行為と殺傷行為に関しては、既に報告が上がっている。これら全ての罪状に対する処罰は────懲役八十二年、加えて三十八年間の社会奉仕活動だ」

 

大天狗は判決を下し、卓上に置かれていた槌を何度か鳴らした。

その瞬間所内の天狗達がざわめき出し、何やら騒々しい雰囲気となりだした。

懲役とは主に隔離、抑止、矯正の目的で行われる自由刑だったと思う。

長期間の自由を奪い、犯罪行為を割りに合わないものだと思わせる目的があるという事だが……八十二年とはこれ如何に。

社会奉仕活動とやらの三十八年間を加えると、合わせて百二十年間も妖怪の山に隔離、奉仕させられるという事になる。

こんなふざけた判決が存在して良いのか。いや、良いはずがない。

 

「誰か、異論を唱える者は」

 

誰かがそう言葉を発した。けれど、僕は異論を唱える気はない。

天狗の裁判長らしき大天狗がそう決定したのだ、僕は反論した程度で覆るわけもないし。

暫くの静寂の後、再び槌が叩かれた。

 

「では、これにて解散とする。各自、持ち場に戻り職務に当たれ」

 

大天狗がそう言い放つと、周囲の天狗達……傍聴者も含めて全ての天狗が所内を後にした。

 

「この者は再び牢に繋いでおけ。おいお前、頼んだぞ」

 

「はい、了解しました」

 

大天狗が白狼天狗に向け、そう命令した。

白狼天狗も素直にそれに従い、縛り付けてある縄の端を手に掴んで所内を去る。

が、去り際にて再び大天狗に声をかけられた。

 

「待て。お前……あまり見ない顔だな。所属は何処だ」

 

「は。私は看守にてこやつの監視をしておりました。西の出身であります」

 

「……む、そうか。では頼むぞ」

 

「御意」

 

それだけのやり取りをした後、縄を掴み所内を去っていった。

 

 

 

*

 

 

 

判決が下され、再びあの臭い牢屋の中に戻ってきた。

牢屋の敷地に入ると囚人達の話し声や、不快な悪臭などが漂ってくるので、嫌悪した。

こんな場所に八十二年間も収容されるとは、とんでもなく不幸な話である。

僕なら絶対に耐えられない。そう、僕なら……

 

 

「入れよ。ほら、昼食だ。食べられるか分からないけど、ここに置いておくよ」

 

僕は牢屋の中に、"僕"を叩きいれた。

牢屋の中に収容されたのは、見た目は僕にそっくりな男。けれど、中身は全くの別人である。

そして当の僕はといえば、見た目は白狼天狗に変化し、看守という立ち位置に回っている。

 

「ふふふ、僕の変わりに刑期を全うしてくれよ」

 

虚ろな視線で牢獄の中で座り込む僕、もとい白狼天狗。

自分で自分を見据えるというのは、何だかとても複雑な気分に陥る。早急にこの場を脱したい。

牢屋の敷地内を出て外へと向かおう。

 

しかしながらこの変化の術、まだまだ未熟である。

一般の天狗どもは上手く騙す事が出来たが、大天狗に感付かれそうになった。

恐らく顔が看守の白狼天狗になりきれていなかったのだろう。

まあ、その場は凌ぐ事ができたので良しとしよう。どうせこの変化の術、数時間しかもたないし。

あまり落ち着いていると術が解けてしまい、再び騒ぎになってしまう。その前に山を降りよう。

 

 

 

*

 

 

 

僕は今、白狼天狗の姿のまま天狗の縄張りを闊歩している。

道中で色々な種類の天狗と遭遇するが、特に警戒される事も無く通り過ぎる事ができた。

やはり変化の術はとても便利である。もしも人間の姿のまま天狗の縄張りを闊歩しようものなら、たちまち天狗達に取り押さえられた事だろう。

 

「流石に縄張りにする事だけはあるな……自然が豊富だ」

 

天狗の縄張りには、自然の木の実やら野草などが沢山生い茂っている。

昔の人間達は、川沿いに集落を作ったという。それは説明するまでもなく、水場が近くにあると便利だからである。

天狗達も自分達の縄張りに、自然の豊かなこの場所を選んだのだろう。

 

ま、僕には関係ない。どうせ二度とこんな場所には近づかないだろうし。

自然の食べ物には興味があるが、牢屋で食べた食事が脳裏を過ぎり食べる気が起きない。

さっさと降りよう、未練の欠片もないし。そう思っていた時、不意に声をかけられた。

 

「おいお前、そこで何をしている!」

 

「……」

 

「待て待て待て、お前だお前!職務中に何処へ行く気だ!」

 

「……僕、ですか」

 

声をかけられて振り向くと、目の前には僕よりも背の高い天狗が僕を見下ろしていた。

二メートル近くはあるのだろうが、恐らくこいつも白狼天狗だ。

僕の事がバレたのではなく、きっと僕が今化けている白狼天狗の先輩、といったところだろうか。

 

「すみません、少し用足しに」

 

「はあ? そんなもの、休憩中に済ませておけといつも言っていただろうが」

 

「すみません」

 

「すみませんで済むか、馬鹿者が。さっさと仕事に戻れよ」

 

背の高い白狼天狗はそれだけ言うと、何処かへ歩き去っていった。

周囲から嘲り笑う声が聞こえてくる。ひょっとすると僕は、叱責を受けたのか。

まあ良いか、僕の風評が悪くなったわけじゃあないし。ひとつ我慢すれば済む話だ。

そうして先輩天狗の指示に従うわけでもなく、僕は縄張りの外へと向かって歩き出した。

時間にしておよそ半刻ほど歩いた程度か。僅かに水流の音がしてくるあたり、付近に川の通っている場所に辿り着いたらしい。

随分と山を降っていたので、もう天狗と遭遇する事もない。僕は変化の術を解き、本来の素顔に戻した。

 

「……はあ、変化の術は便利だけど、窮屈なんだよ。水場で少し休憩しよっと」

 

少し精神的に辛かったので、水場で水分補給をしてから山を降る事に決めた。

どーせ天狗とはもう会わないだろうし、万が一出遭ったとしても縄張りの外だ。襲われたら始末してしまえば良い。

 

「川に河童でも居ないかな。居たらきゅうりをお裾分けしてもらおう」

 

妖怪の山の水場という事もあり、もしかしたら河童がいるかもしれない。

河童という種族は何故か、女性比率が高い。僕としては目の保養になるので嬉しい限りであるが、種族繁殖に関しては如何なのだろうか。

川に辿り着いて直ぐに周囲を見回してみるが、生物の気配は感じられない。

生息しているのは川魚だけであり、河童という種族は確認できない。

仕方ない、水分補給をして休憩した後、山を降りるか。流石に火は焚けないので、魚を調理する事は出来ない……食事は山を降りてからだ。

 

「ん、冷たいな。しかし、地上より綺麗な水だなぁ……うん?」

 

手の平で水を掬い水分を補給していると、何者かの気配を感じた。

一瞬、河童が現れたのかと思ったが……翼の擦れる音が聞こえる辺り、天狗の追っ手だろうか。

カコン、と木が石に当たる音が聞こえ、現れた相手を確信した。

ほぼ確実に天狗だだ。しかし此方から突っ掛かる事もない、知らぬふりをしよう。

 

「……」

 

僕は一言も言葉を発する事無く、水を口に含み続ける。

少しの間それを繰り返し喉の渇きが潤ったところで、立ち上がり山を降りるべく水の流れる方向へと視線を向ける。

僕の背後に現れた人物も、特に声をかけてくる気配はないのでそのまま帰ろうとしたが…

 

「待って」

 

呼び止められた。声質から声の主は女性のもの、それもまだ成人には達していないと推測できる。

声の主が何者かを確かめる為、僕は振り向いた。

視線に飛び込んできたのは天狗の少女であり、それも見覚えのある者である。

目と目が合うが、互いに沈黙してしまったので、僕から声をかける。

 

「何か用か」

 

「貴方、捕まったんじゃあ……」

 

天狗の少女が口元に手を当て、そう問うてきた。

 

「取るに足らない事を聞く。僕を捕縛できたと思っていたのは、君達だけじゃあないのか」

 

「……」

 

「言いたい事はそれだけか。それなら僕はもう行くが」

 

口を開こうとしない天狗の少女に痺れを切らし、いい加減山を下ろうと天狗の少女に背を向けた。

そうして歩き出した時、天狗の少女が言葉を発す。

 

「……どうやってあそこから出たの。見張りの天狗がいたはず……縄張りから出るまでに見つからないわけが」

 

天狗の少女が此方に近付き、積極的に言葉を投げかけてきた。

対して僕は背を向けたまま、天狗の少女に向けて口を開く。

 

「教えるわけないだろう。言葉遣いもなってない小娘が、家に帰って水浴びでもして寝ていろ」

 

「……ぐぐ。……教えて下さいよ、どうせ減るもんじゃありませんよね」

 

敬語に直せば教えてもらえるとでも思ったのか、天狗の少女が口調を改めた。

不審者に対し、こんな密接に関わるなんて有り得ない事だ。仮に僕ではなく強力な妖怪だとしたら、惨殺されてもおかしい話ではない。

天狗の少女のこの、減らず口に対して若干腹立ちを覚えるが、僕は彼女に対して手を上げない。

この天狗の少女は恐らく、実力者だろう。或いはそれに近い、能力所有者か。

あくまで推測の域である。しかし、この僕に対してこの不躾な態度……余程の自信がなければ、こんな真似はできないだろう。

暴力を振るわれても、それを覆せる"何か"を少女は持っているに違いない。

それを試してみるのも面白いかもしれない。が、そんな事をすれば再び天狗の集団が駆けつけてくるだろう。天狗殺しは間違いなく、極刑だ。

 

少し冷静になり思考する。

答えは深く考えずとも、簡単に出る。

 

「僕の居た牢屋に行ってみなよ。そこにいる奴と話してみれば分かるんじゃあないかな」

 

「……そうですか」

 

答えは、必要な情報を提示しさっさとこの場を離れる、だ。

だんまりを決め込んで、後でこの少女に密告でもされたら面倒な事になる。

そうならないように、それっぽい情報を少女に教えてしまえば良いのだ。

 

会話が続かぬようさっさと帰ろう。

と思ったが、最後に一つ……ふと、疑問に思った事があってので、少女に訪ねてみた。

振り向いて少女の方を見てみると、何やら紙っぽいものに何かを書き込んでいたが、気に止めない事にした。

 

「なんで僕をつけてたんだ。そんな事をしても得は無いだろうに」

 

書き物に夢中な天狗の少女は、その手を止めずに質問に答える。

 

「新鮮な情報は、鮮度が大事なんです。それに……」

 

天狗の少女は書き物を止め、此方へと視線を向けた。そうして少し間を伸ばした後、言葉を紡ぐ。

 

「そんな事をしても得は無い、だなんて。そう考えているのは貴方だけですよ」

 

「……あっ、そ」

 

小生意気な口を効く天狗の少女。不思議と苛立ちは覚えなかった。

それよりも早く、この場を離れようという気持ちの方が強かったのかもしれない。

僕は軽く天狗の少女をあしらい、早足で下山するのであった。腹の虫は、今朝から鳴りっ放しであった。

 

 








どうも、くりすてぃあーねです。
主人公の過去話というものを本編中にはさみました。
過去話という事もありまして、内容は30円で食べられる豚カツのように薄く、また進行も駆け足で進んでおります。
正直執筆していて、少しテンポが早いかなと思いましたが、15000文字近かったのでまあ大丈夫かなと思いつつ投稿しました。
本編進行中にどかっと過去話を投入したいと思っておりますので、もしも次回過去話があるとすれば、長編になる可能性がございます。
軽く読み返してみましたが、主人公がチートですね。あうあうあ^q^

それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました。



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巻ノ十 往事渺茫として全て夢に似たり

────意識が覚醒した。

知らぬうちに眠ってしまっていたらしい。目脂が鬱陶しい。

目が覚めてから店内を見回し、客が来た形跡が無い事を確認し、安堵ともとれぬ溜息を吐いた。

窓の外を見てみると、昇っていた太陽も沈みかけており、夕暮れ時の真っ只中であった。

 

「……何だか昔の夢を見ていた気がする。そーいえば昔の事を考えてたっけ」

 

おぼろげな過去の記憶の事を思考しているうちに眠ってしまい、眠っている間にその過去の出来事に近い夢を見ていたような気がする。

曖昧だ、とても。それは当然だ、夢だったのだから。

自問自答を脳内で繰り広げ、その末に無意味な行為だと判断した僕は、店内に明かりを灯した。間もなく日も暮れるだろうから。

 

───カチリ、と照明の電源を入れる。

その瞬間に眩い光が店内を包み込む。やはり電気エネルギーは素晴らしい。こんな素晴らしいものが、幻想郷ではまだ広く普及していないのだ。

一部妖怪の山では使用されているらしいが、真意の程は定かではない。

眠っているうちに喉も渇いたし、冷たい物でも飲もうか……と、思った時。

コン、と扉を叩く音が二回聞こえてきた。

 

「どうぞ、開いてますよ」

 

ほぼ反射的に、僕はその言葉を紡いだ。

店主としての形が出来てきたのかなと思ったが、まだ数人ほどしか客の相手をしていないので、それは無いなと一人断定した。

 

僕の言葉が聞こえたのか、扉が静かに開かれた。

僕の店に来るお客さんにしては珍しい、何も言わずにあがってきた。それはそれで有り難いのでよしとする。

バーカウンターの前に並べられた椅子に座っている僕は、来店してきた客が此方にやってくるのを、ただ座って待っていた。

そして間もなく来店してきた客はやってくる。

 

「……」

 

廊下を抜け出てきたお客様が、そこで立ち止まる。

店内を見渡していたのだろう、座っていた僕と目が合ったところで漸く我に返ったように見えた。

僕の事を静かに見据える瞳は、客人から感じるそれとはまた違って見える。

 

「いらっしゃい、好きなところへどうぞ」

 

口を開こうとしない客人に対し、僕が導いてあげなくては、という使命感から着座を促す。

僕の言葉を聞いた客人は、素直に従い僕の二つ隣の席へと着いた。

 

「ご注文をどうぞ。こちら、お品書きです。今、冷たいものを持ってきますから」

 

僕の言葉などそっちのけで、店内をきょろり、きょろりと見回す客人。

若干それを不審に思いつつも、僕は厨房から冷たい水と氷をグラス一杯に注いで用意した。

およそ一分も経過しないうちに用意したのであるが、客人は先と変わらず店内を観察していた。

 

「お冷をどうぞ。ご注文が決まりましたら、呼んでください」

 

丁寧に丁寧を重ね接客をしたところで、店内を観察していた客人が不意に僕に視線を向けた。

こちらは会話を切ったところなので、少し違和感を感じつつも視線は逸らさない。

 

「あの!」

 

そして声をかけてきたのは、客人からである。

見た目通り……因みに見た目は、華奢な女の子。翼が生えているのは、この際気にしていない。

 

「此処のお店を取材したいのですが、よろしいですかね!」

 

「ああ……別に、構わないですが」

 

「ありがとうございます! では、まず始めに」

 

「ちょっと待ってください。僕からそちらに質問があるのですが」

 

いつの間にか紙とペンを取り出した客人に対し、素直な疑問をぶつける。

 

「取材とは何ですか。貴女は里の出版に携わっている方なのですか」

 

「いいえ、私は文々。新聞を発行している者です。知りませんか、文々。新聞。読んだ事ありませんか?」

 

「存じません。新聞、という事は天狗の者ですか」

 

「その通りです!」

 

どうやらこの客人、天狗という種族らしい。

天狗とは過去にもめた経験がある為、あまり良い印象はない。賢しく、悪知恵の働くという印象。

 

「いやはや、読んだ事がないとは残念です」

 

「そうですか」

 

「食品関係の記事を載せようと考えてまして。是非とも店主殿の───……何ですか?」

 

客人が言葉を切り、僕に問いかける。

 

「いえ、何でもないです。すみませんが、何処かでお会いした事ありませんか」

 

「……ありませんよ」

 

「そうですか。僕の思い違いのようでした」

 

客人がそう問いかける事になった原因は、僕が客人からずっと視線を逸らさなかったからか。

はて、意識していたわけではないのだが。もしかしたら気分を損ねたのかもしれない。話題を戻したほうが良いな。

 

「ところでその、文々新聞というのは」

 

「文々。です。どうですか、興味ありませんか。今なら定期購読者限定で特別な品を……」

 

「そうですね、面白い新聞でしたら購読するのは悪くはないかもしれません。ですが今は、取材を終えてしまいましょう」

 

「あはは、そうでしたね」

 

僕がそう言うと、客人は筆の端をカチリ、と押した。すると反対側の先端から鋭いものが飛び出してきた。

……あれは筆ではない、ボールペンだ。どうして現代の品を彼女が持っているのか……興味はあるが、恐らく拾ったりなんだりしたのだろう。

取材に取り掛かろうと思ったが、最後に大事な事を質問し忘れていたのに気付き、客人に問う。

 

「では質問します」

 

「待ってください」

 

「あやや、どうかしましたか」

 

「冷やかしは関心できませんね。こちら、お品書きになりますが」

 

「……あはは、そうですね。失敬、失敬」

 

僕に対し一言詫びをいれ、客人はお品書きに目を通した。

僕は板場で手を洗い、注文に備えるのみである。

 

 

 

 

*

 

 

 

「こちら、トマトとモッツァレラチーズのサラダでございます。それと、オールデイカクテルにございます」

 

客人の前に食事と酒を置き、一息つく。

前者は円形の大き目のお皿に、薄くスライスしたチーズとトマトを並べたもの。

バジル等を混ぜた特製のソースをかけ、出来上がり。

適当に均等に切り、お皿に並べるだけで洒落た料理の出来上がりだ。女性比率の高い幻想郷で受けるんじゃあないかと思って作ってみた。ただ、チーズの在庫が少ない。

後者のカクテルは、その名の通りオールデイ……つまり、一日のどの時間帯に飲んでも美味しいカクテルだ。

普通の店舗ならば、各種味ごとに分けられているのだろう。しかし僕のお店では、こうして一括りにしていたりする。

適度な甘味に調整してあるので、飲み易いと思う。

 

「どうぞ、遠慮せずに」

 

「では遠慮なく。………あら、美味しい」

 

「ありがとうございます」

 

「お酒は……うん、悪くないですけど、もっと強い方が私は好みですね」

 

食事に関しては好評であったが、お酒に関してはダメ出しをもらってしまった。

見た目少女の割りに、酒に滅法強いようだ。流石に天狗の名は伊達ではない、という事か。

 

「飲み易いように気を遣ったんですがね。では、食べながら先のお話の続きでも」

 

「ん……そですね。では、この料理の食材は何処から調達しているので?」

 

もっと深い事や答え辛い事を聞いてくるのかと思っていたので、拍子抜けした。

しかしこの質問、些細な質問に見えるが僕にとっては答え辛いものである。

 

「申し訳ない、それは答えられません」

 

「……そうですか。珍しい食べ物だったので、気になるところですが」

 

「お気に召してもらえたようで、何よりです」

 

フォークで薄くスライスされたトマトを突き刺し、口に運ぶ客人。

食事しながら対話するという行為は、この天道……結構好きな性質である。

 

「では次の質問に。実は私、風の噂でこのお店の事を知ったのですが、お店の一押しの品は何ですか?」

 

「これというものはないですね。僕のお勧めは、全部です」

 

「ふむふむ。あ、料理の写真撮ってもいいですか」

 

そう質問し、僕がどうぞと答える前に客人は首にかけてあったカメラを構えていた。

そういえば、この客人は先程から珍しいものばかり持っている。カメラを持っている天狗なんて、初めて見たぞ。

別に拒否する気もなかったので、僕が構いませんよ、と言うと同時にシャッターが連続して切られた。

 

「ありがとうございます。しかしこれ、本当に美味しいですね……味の秘訣は」

 

「教えませんよ」

 

「あやや……そうですか、それは残念」

 

残念そうに表情を歪め、カメラを下ろす客人。

言葉端にそう質問を混ぜられ続けられると、ぽろりと秘密を漏らしてしまいそうなので適当に言葉を選んで口にする。

 

「居心地の良い空間を提供できれば、それで良いかなと思っております。腹を満たすだけなら、里にも良店は並んでいますからね」

 

「ふむふむ」

 

「過去に居酒屋と比喩された事もありますが、あながち間違えでもないので訂正する気はありません。

たとえ妖怪が来店しようとも、人間と差別したりはしませんね。お客様は等しく公平に対応しております」

 

勿論、僕も公平ですがね、と付け加えた。

お客様は神様ではあるが、敬う対象ではない。侮蔑するような真似をされたら、僕も穏やかじゃあないという事だ。

とまあ、こんな事を記者に向かって発言しても大人気ないので、黙っておく。

 

「ほうほう、なるほど分かりました。店主さんは変わり者ですね」

 

「何故ですか」

 

「私個人の感想になりますが……普通、お店を経営している方は、利益を確保する為に躍起になるといいますか。

店主さんのお店で例えるのなら、常連のお客様を作ろうと必死になるのが普通なのではないのかな、と思いまして」

 

客人はお酒を一口だけ口に含み、続ける。

 

「店主さんはその意欲が薄いのかな、と私は見受けられました。そーですねぇ、例えば先程の料理。

繁盛しているお店ならまだしも、失礼ですが閑散としているこのお店で、あのような手の込んだ料理が出てくるとは思いませんでした」

 

手を込めたつもりはないが、チーズなどは美味しく食べられる期限が短い為に保存には気を遣っている。

 

「何が言いたいのですか」

 

「素朴な疑問になるのですが、お店として経営は成り立っているんですか。あのような新鮮な食材、来るかも分からないお客様の為に毎日用意できるのですかね」

 

「……お店としては成り立っているつもりなのでしたが」

 

客人が何を言いたいのか分からないが、つまりお店をきちんと運営できているのか、という事か。

確かに先程の食材は、今の今までお店で保管していたものではない。

あれらは全て、僕が能力を使用して調達した品々である。高級な乳製品などは、美味しく食べられる期限など精々数日が良いところだ。

まあ、固定費などはほとんど費用としてかからないので、赤字ではない。

 

「そうですね、答えは成り立っている、になります。お店を運営していく点に関しましては、費用はあまりかかりませんし。

例えば固定費などは、僕自身が切磋琢磨し最小限に抑えております。人件費などに関しましても、僕一人しかおりませんので負担はありません」

 

「おお、なるほど」

 

「里の中にお店を建てなかったのも、土地代やら税金などの費用を抑える目的からです。

お客様はほとんど来ませんが、自分のペースで仕事が出来るので満足しておりますね」

 

里の中に建てていれば、多少はお客さんで賑わっていたのかもしれない。

けどもそれよりも何よりも、自分のペースで仕事ができるのが一番なので、今は満足している。

初めにお店の宣伝もしているので、そのうちお客は来るんじゃあないのかなと、その程度の心持でやっている。

 

僕の言葉を聞いた客人はそれを紙に書き込むと、よし、と何か決意めいた声をあげて席を立った。

 

「取材はこの辺にしておきましょうか。ご協力ありがとうございました。どうですか、私の新聞の定期購読でも」

 

「いえ、遠慮しておきます」

 

僕が断りを入れると、客人は残念そうに背の翼を二、三度小さく羽ばたかせた。

その際に羽根が一本抜け落ちたが、客人は気付いていなかった。烏のような、黒い羽根であった。

 

「客人殿」

 

「はい、何ですか」

 

「僕は天狗という種族はあまり好きではありません」

 

そう言葉を聞いた客人は、ふと遠い目をして窓の外に視線をやった。

僕はそれには構わず、言葉を続ける。

 

「遠い昔の話です。僕は天狗と遭遇し、罪を潤色されて酷い目に遭わされた過去があります」

 

「……そうですか」

 

「その時に、小さな天狗の女の子と出会った時の事は、今でも少し憶えています」

 

本当に少しだけであるが、憶えている。

小さな天狗の女の子、会話は少ししかしていないが、ツンケンしており棘のある女の子。

客人は僕の話を聞いている合間も、窓の外をずっと眺めていた。

 

「当時の僕は、その天狗の女の子の事を殺そうとしました。哨戒天狗の仕打ちに腹が立ち、その憂さ晴らしに。ただの八つ当たりですがね」

 

「……それで、殺したんですか」

 

「いいえ、殺してません。正確には寸でのところで邪魔が入り、興醒めしたからです」

 

若干の静寂が入るが、僕は言葉を続ける。

 

「何故僕が今になってこんな事を言うのか、僕自身でもよく分かりません。ですが、僕は昔の僕の行いを、決して良いものだとは思いません。

これらは今から何百年も前の話なので、恐らくその天狗の女の子はもう生きてはいないと思います」

 

「……」

 

「天狗の寿命は僕には分かりません。ですが万が一、その女の子が生きていたのなら……」

 

そう言葉を止めたところで、客人は此方に顔を向けた。

 

「生きていたのなら、僕の謝罪の意を伝えてほしい」

 

「何故、そんな事を私が」

 

「身勝手な願いだと僕でも思います。ですが、先にも言ったように僕は過去の僕を良しとはしません。

僕の中での天狗という種族に対し、過去の清算をと思いまして」

 

近くにあった椅子に座る。僕は言葉を続けた。

 

「本当はこんな事、自分でもおかしい話だと思っています。僕自身でさえ、水に流して無かった事にしたいとさえ考えていました。

けれど今日、客人である貴女を見て思ったのです。僕は天狗という種族に対し、偏見を持っていたのはないかと」

 

「……ふむ」

 

「僕自ら、進んで天狗達に関わる事は今までありませんでしたので。今日、こうして天狗である貴女と出会えたのも、きっと何かの運命と思ってお願いしました」

 

「そういう事ですか」

 

「過去の清算なんて言いましたけど、本当は頭の片隅で気になっていたので解消してしまいたかっただけですが」

 

ふふ、と客人が少し笑みを零した。

可笑しな話である、きっと支離滅裂である。

きっかけは恐らく、今日見た夢だろう。おぼろげな記憶の、継接ぎだらけの夢だった。

 

僕は天狗の客人である少女に、もしも彼女がまだ生きていたのなら謝罪の意を伝えてくれ、と願った。

僕の話を聞いた客人は溜息ともつかぬ息を吐き、帰路に着こうと僕に背を向けた。

 

「……そうですね、話の筋は概ね理解しました。もしも貴女の言う少女が生きていたのなら、私からそう伝えておきますよ」

 

「ええ、頼みました。私は天道と申します、以後お見知りおきを」

 

「あやや、そうきましたか。私は射命丸、文と申します」

 

背を向けていた客人だがこちらに振り返り、互いにお辞儀をする形となった。

きっと僕の謝罪が彼女に届いたところで、なんの損得もないのだろう。

ただの自己満足である、完全に。そう思うと、何だか笑えてくる。

 

「……? 何がおかしいんですか」

 

不意に笑い出した僕に対し、射命丸が指摘した。

 

「いえね、何だか可笑しな話だなと思いまして。こんな真似をして、生死さえ不明の彼女に僕の言葉が届いたところで、一体何の得があるのかと」

 

「……」

 

「自分で言うのも何ですが、そんな事をしてもお互いに得なんてしないだろうに。これも一つの偽善なのかなと思うと、おかしくなってきました」

 

僕が少々笑みを零しながらそう射命丸に伝えると、彼女は「そうですか」とだけ言い残し、扉に通づる廊下の前に立った。

もう帰路に着くのだろう、短い間ではあったが、中々楽しい時間であったと思うのは僕の本心である。

こちらに振り返り再び会釈する射命丸に対し、僕もそれに習った。

 

「では、私は此れにて。戻って記事の編集せねばなりませんので」

 

「ええ、今日はありがとうございました。縁があったらまた会いましょう」

 

「此方からも是非。文々。新聞をよろしくお願いします───ああ、それと天道さん、最後にもう一つだけ」

 

廊下を歩き出そうとした射命丸はそう言いだし、僕に向かって言葉を紡いだ。

 

「これは私的な言葉になりますが……そんな事をしてもお互いに得がない、だなんて……少なくとも、私はそうは思いませんよ」

 

消え入りそうな、けれども明確にそれが伝わる声量で僕に向けてそう言葉を紡いだ射命丸。

そして彼女は人差し指と中指を揃え、それを額の前に出し僕に向けて斜めに降ろした。

「それでは、また」とだけ言い残し、彼女は短い廊下を駆けていった。間もなく、扉の開閉する音だけが僕を襲った。

 

 

僕は思考した。

遥か昔に出会った天狗の少女と、先程の客人───射命丸文。

何となく雰囲気が似ている気がしたのだ。言動や性格などは恐らく正反対なのかもしれないが。

遥か昔の出来事なので、記憶の程は定かではない。ただ僕が今心の中で思っている事はひとつ。

 

「……代金」

 

時既に遅し、雰囲気に呑まれている間に客人は帰路に着いてしまった。

これでは頂戴するものも頂戴できるはずがなく、諦めざるをえない状況である。

まあ、構わないだろう。次に会った時に頂戴すれば良い。今回は面白い話が出来たし、目を瞑る事にする。

僕はそう心に決め、食器類の片付けに精を出すのであった。

 

 

───第百十八季、月と秋と木の年。

紅い妖霧の異変が解決され幻想郷に一時の平穏が戻ってきた、処暑の記録であった。

 

 

 









以上で紅霧編は終了となります。
次回からは春雪異変の章に突入してまいります。
小説を執筆させて頂く様になりましてから、今作でおよそ4作目となりますが、やはり読み返す毎にプロットの作り方といいますか、構成作りの難しさに気付かされます。
過去編は難しいですね。よく読んでみると私自身でもよくわからない事に……

評価してくださっている方々、本当にありがとうございます。
それでは東方外来禄、第十話でした。次話もよろしくお願いいたします。


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巻ノ十一 小さな天堂

幻想郷を覆った紅い妖霧の異変が解決され、幻想郷にひと時の平穏が訪れた。

人里に住む人間達も体調が回復し、一月後には異変など無かったかのように里は賑わっていた。

異変の後には当然、様々なゴシップが里中で広まった。

それらゴシップを台頭させている一番の要因は、やはり新聞にあると言えた。

天狗が発行している各新聞にて、異変の話題は大きく取り上げられていた。

中には"号外"として扱う新聞も存在しており、無料で配布されるそれは里人にとって大きな情報源となっていた。

そうして生まれるのは、紳士淑女達による噂話の波及だ。

結果としては"博霊神社の巫女が解決した"という事になっておるが、中には自然消滅説や、里郊外に店を構えている店主の仕業など、噂には様々な色をつけられていた。

しかしながら、人の噂も七十五日……数ヵ月後には話題にすら取り上げられなくなった紅い妖霧の異変は、人々の心から徐々に忘れ去られていった。

 

それらが明け、立春。凡そ二月の上旬頃の話である。

里の郊外───約一里程離れた場所に建てられた、小さなお店。

店舗の入り口と思しき箇所には赤い提灯が飾られており、そこが"一杯飲屋"である事を主張していた。

中を覗いてみると小奇麗な短い廊下が続いており、その先にはバーカウンターに似た設備が設けられていた。

外観から察するに赤提灯が飾られている事から"一杯飲屋"を想像させつつも、店内を覗いてみるとそれは"小料理屋"を連想させるものがあった。

一杯飲屋とは、安い酒を飲める大衆向けの店の事。小料理屋とはその名の通り、小規模な料理店の事だ。

カウンター席のみで営業している事が多く、凝った料理に飲料は酒を提供する……大雑把であるが、説明とする。

そんな独特な雰囲気を醸し出すお店の中に、一人の男の姿が窺えた。

 

「…………よし、これで良いな」

 

男は額の汗を拭うと、満足気にそう呟いた。

数ヶ月前の店内と見て比べると、内装は程好く変更されている事に気付いた。

まずカウンターテーブル席以外の小さなテーブルは、全て端に避けられるか、或いは片付けられるかして排除されていた。

 

「どーせ大人数の宴会なんて無いだろうし、必要なかったな」

 

彼自身、開店当初は千客万来と心の中では意気込んでいたらしいが、結果は散々たるものに終わった。

夏を終えて秋を越え、そうして真冬となった昨今。彼は現在、店内を改装しているのだ。

改装と表現したが、行為自体はささやかなものである。言葉にするのなら、店内スペースの小規模化、といったところだろう。

数人の客の相手が限界なのに、大人数の客が来店した日には対応しきれないだろうと、彼が判断したからだ。

 

「ひぃ、ふぅ、みぃ…………五人か、六人くらいが良いところか」

 

カウンターテーブル席に座れるのは、凡そそれだけの人数に絞られる。

万が一大人数の客が来店した場合は、先程片付けたテーブルを用意すれば事足りるであろう。

 

「うん、改装終わり。お店の名前も決めたし、これで良いだろう」

 

どかっ、と彼は近くの椅子に座った。

テーブルに置かれていたグラスに注がれた水を口に含み、一息つく。

彼が一息ついている間、カウンターの下部から得体の知れない物体が飛び出してきた。

リラックスしていた彼は、突如起こったその出来事に対して驚き、憤慨した。

「なんだ、君は」と、得体の知れない物体に対して問いかける。

するとその得体の知れない物体から、人の形をしたものが飛び出してくるではないか。彼は大層驚いた。

 

「はぁい、天道。私だけれど」

 

得体の物体から飛び出してきたのは、金髪少女の八雲紫であった。

謎の物体から見知った人物が飛び出してきた事で、彼はひどく落胆した。期待はずれも甚だしいと。

 

「紫。君はいつも僕を退屈させないね」

 

「うふふ、そ。褒めていると受け取って良いのかしら」

 

「好きにして」

 

八雲紫はテーブルに置いてあったグラスを取り、水を口に含んだ。先程彼が使用したものと同じものだ。

彼はその事に対しては指摘せず、口を開く。

 

「ところでどうだい、良い感じに改装したんだけど」

彼が八雲紫に問う。

 

「ん、そうなの。大して変わってないと……ああ、そういえば表の赤提灯。貴方にしては美的感覚がないわね」

 

「僕なりに赤提灯はお酒を連想させると思ってね。幻想郷は酒好きが多いと言ってたのは、君じゃあなかったっけ」

 

八雲紫は「そうだったかしら」と恍け、微笑を浮かべる。

 

「で、いい加減お店の名前は決まったの」

八雲紫が問う。

 

「決まったよ。表に看板を出したはずだけど」

 

彼がそう説明すると八雲紫は思考する仕草を見せた。

そうして少しした後、思い出すようにして言葉を紡ぐ。

 

「……貴方は天道という名前よね」

 

「ああ」

 

「お店の名前は……天堂?」

 

「そうだよ」

 

八雲紫の問いに、彼が軽く肯定した。

彼女は若干引き攣った笑みを浮かべると、搾り出すようにして言葉を吐く。

 

「……貴方って結構気障なのね」

 

八雲紫はそう言うが、彼はそれを激しく否定した。

抗議の言葉を並べるが八雲紫はそれら全てを微笑で返す為、彼は抗議する事を諦め板場に回りこんだ。

 

「それで、何か用でもあるのか」

 

「あら、此処は確か小料理屋だったと思うのだけれど」

 

彼女は「確か、天堂とかいう」と付け加え彼をからかうが、彼は相手にしない。

板場にて流水で手を洗った後、手拭いで水気を拭き取り八雲紫に向けて言葉を放つ。

 

「うん、此処は小料理屋"天堂"だ。君はお客さんかい。それとも、また野暮ったい話をしに来たのかい」

 

彼は屈託のない笑みを浮かべ、八雲紫に対してそう問うた。

窓から見えるは一面の銀世界。積雪しており、木々に降り積もった雪がとても綺麗な風景を描いている。

この季節ばかりは動物達も活動を控え、ひと時の休息を取っている季節である。

 

 

────第百十九季、星と冬と金の年。

冠雪は止まる事を知らず、春も過ぎ去りし異変が訪れる少し前の記録である。

 

 

 









導入部なので短めに締めております。
今回から春雪異変の章へと突入していきますので、よろしくお願いいたします。


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巻ノ十二 雪時々吹雪

 

もうすぐ春が訪れる頃合だろうか、だが外の景色と言えば銀の世界が幻想郷中に広がっている次第である。

一面の銀世界。その言葉はとても美しく、神秘的な表現でさえあるのにも関わらず、生物達にとって脅威であると共にその生命活動を自粛せざるをえなくなる。

それらは昆虫、植物、動物……そして人間から妖怪に至るまで、全ての生命体に向けて猛威を振るっていた。

 

また生命活動だけではなく人間達にとっては商売の妨げにもなる、まさに自然の災害ともいえるものである。

猛威を振るう吹雪に加え、大量の積雪が原因で各商店街は件並み全滅状態に陥っている。

除雪活動も虚しく、積雪が緩和される事はなかった。

たとえ昼間であろうとも降雪はやまず、太陽がその姿を見せる事はなかった。

このような状態に陥ったにも関わらず、誰も根本的な解決策を打ち出そうとする者は存在しなかった。

 

それは当然かもしれない。

"冬だから雪は降って当然"。これが人間達の解釈である。

春が訪れるまでの辛抱だ。人々は皆、そのような類の言葉を口にしつつ、本日も除雪に精を出すのであった。

 

さて、その一方で彼の小料理屋はといえば。

彼の店も当然の如く豪雪による被害は受けている。

それは少なかった客足が、更に少なくなった事である。ここ数週間、彼の店には客人が一人たりとも訪れてはいないのだ。

秋頃までは妖怪の知り合いや妖精の知り合いなどが訪れていたのだが、冬が到来してからは誰も訪れなくなったのである。

 

冬の初頭に彼の妖精の知り合い、チルノという名前の氷の妖精が訪れたらしい。

けれどもその氷の妖精は彼の店に来店するなり、「暑い」と眉間に皺を寄せ額に汗を滲ませながらそう呟き、以来彼の店を訪れる事がなくなったそうだ。

 

それは彼の店では、いや人間達の住む建物全般で言えるだろう。

厳寒を凌ぐための"建物を暖める装置"を使用している為、彼の店は外気温よりもずっと温度が高くなっているのだ。

その為彼は寒さに眉を顰める事は無くなったが、寒いのが好きなチルノにとっては、眉を顰める環境となってしまったというわけである。

 

そのような事もあり、彼の店では閑古鳥の大演奏会が開演されている最中なのである。

彼はその事に対し、「どうという事はない、春が訪れるまでの辛抱だ」と苦言を呈したのを、知人の妖怪が語っていた。

しかし彼の悩みも、とある来訪者の前に露となって消えるのであった。

 

 

 

*

 

 

 

彼の店、小料理屋"天堂"。

看板が設置されており、外観からして食べ物を提供するお店だという事が見て取れる。

今でこそ降雪が原因で看板の文字が見え隠れしておるが、とある来訪者にそのお店が"彼の店だ"、という事を理解させた。

そうしたうえで来訪者───否、来訪者達は、彼の店の扉を叩いた。

 

───店内で暖を取っていた彼は、扉の叩かれる音に僅かに出遅れたが、間もなく客人という事を理解して扉に駆け寄っていった。

こんな時間帯に誰だろう、もうすぐ日も沈む頃なんだけどな。と彼は思考した。

昇ったところで雲に遮られて見えない太陽だが、それでも毎日昇り沈みを繰り返すのだから律儀なものだ。

 

今日こそは、今日こそはと雲のない日を太陽も願っているのだろうか。

そんなくだらない事を思考しながら、彼は扉を開いた。

 

 

*

 

 

扉を開くと、内気温と外気温の温度差を肌に感じた。

外はとても寒い、ここにいつまでもいたら凍えてしまいそうだ。けれども視界に広がる美しい銀世界は、いつまでも眺めていたい。

そんな矛盾を感じつつ、僕は目の前の客人達を視界に入れた。

 

客人は一人ではなかった。小さな女の子が二人と、二人と比べたら背の高い少女が一人の三人である。

そのうちの二人には見覚えがあり、残りの一人は見覚えのない女の子であった。

僕はそんな客人達に対し、言葉を投げた。

 

「やあ、いらっしゃい。珍しいお客さんですね」

 

僕の言葉に対し、客人のうち背の小さな青っぽい髪の女の子が答えた。

 

「でしょうね。この私がわざわざ時間を作って来てやったんだから、感謝すらしてほしいんだけど」

 

異様に態度のでかい女の子に、僕は見覚えがある。

かつての紅い妖霧の異変の首謀者、レミリア・スカーレットである。

そして比較的背の高い女の子は、それの従者、十六夜咲夜。

この二人に会うのは異変以来、つまり半年ほど前になる。

 

「いらっしゃい、レミリアさん。それと十六夜さんも」

 

「ええ、お久しぶり。貴方と話すのはあの時以来になるのかしら」

 

「そうですね。異変が解決して以来、僕はお店の方に力を注いでおりましたので」

 

「ふぅん。そういえば宴会にも来てなかったわね」

 

僕はレミリアの呟きに対して、疑問を投げた。すると彼女は嫌な顔を一つせず、答えてくれた。

 

「博霊神社の宴会よ。私達と神社の関係者とで宴会をしたの」

 

「へえ、そうですか」

 

神社の関係者と言って脳裏に浮かぶのが、あの二人の女の子だ。

恐らく異変の首謀者という事で、その異変が解決されたので今後仲良くしましょうね、という意図でもあったのだろう。

 

「異変の当事者という事で、天道さんも呼ばれるはずだったんだけど……その時は此処が天道さんのお店だという事が分からなかったらしくて」

と十六夜さんが言った。

 

「その時は看板など設置してなかったので、致し方ないかもしれませんね」

 

「ま、そうよね。設置しない方が悪いね。で、さっさと中に入りたいんだけど」

 

レミリアがそう急かすので、僕は手招きをして客人達を店内に招いた。

彼女が先頭、次いで十六夜さんが続いて……

 

「……」

 

最後尾に後からついて来た金髪の女の子が、それに続いた。僕は彼女を知らない。

そうして全員が店内に入ったという事で、厳しい寒さを見せる外との空間を繋ぐ扉を、静かに閉めた。

 

 

 

*

 

 

 

「あら、凄く暖かい」

店に入るなり、レミリアがそう呟く。

店内は常に空調管理されており、外気温よりもずっと高い水準を保っているのだ。

 

「思っていたよりも小奇麗なお店ですね」

 

「ええ、そうね。もっと雑なものだとばかり思っていたけれど」

 

二人の主従がそう会話する。後ろの女の子は会話に加わることはなく、黙っているばかりだ。

そんなお三方に僕は席の誘導をした。

 

「どうぞ、座ってください。席は自由に選んで構いませんからね」

 

とは言うものの、カウンター席しか用意されていないので、自動的にカウンターと対面する形になる。

三人の客人がカウンター席に座り、対面に立っている僕を凝視した。

こういったシステムのお店は幻想郷には無かったので、物珍しさも含まれているのかもしれない。

 

「お品書きです。好きな物を……」

僕がそこまで言葉を紡ぐと、レミリアが静止の声を上げた。

何だ何だと思い、僕は彼女に視線をやる。

 

「貴方にはまだ紹介していなかったわよね」

彼女はそう言葉を紡ぐと、隣りに座っている金髪の女の子の肩に触れた。

 

「私の妹のフランドールよ。精神的にまだ未熟なところがあるけれど、大分落ち着いてきたからね。

外の世界を体験させてあげてる最中なのよ。今までは館の中だけで生活していたからね……さ、フラン、ご挨拶は」

 

「……」

 

レミリアはそう言い放ち挨拶を促すが、フランドールという名の少女は口を開こうとはしない。

聡明な彼女とは違い、妹さんのほうは大人しい性格なのだろうか。

彼女の生い立ちや、どういう生活をしてきたのかを知らないので、彼女がどういう性格なのかまるで想像がつかない。

一向に口を開こうとしないので、僕から言葉をかけてみる。

 

「やあ、フランドールちゃん。緊張しているのかな、僕は天道っていうんだ。君のお姉ちゃんとは半年ばかり前に知り合ってね。

良ければ君とお友達になりたいんだけど……」

 

「ちょっと天道」

 

問いかけるような口調でフランドールに向けて言葉を紡いでいたが、その途中でレミリアに止められた。

彼女は呆れたような表情で僕に向けて言葉を吐く。

 

「私たちはこう見えても数百年以上生きている、誇り高き吸血鬼なのよ。そんな幼子をあやす様な言葉遣いをするのは止しなさい」

 

「そうですか。それは失礼しました」

 

そう言ってぶりぶりと怒るレミリアは置いておき、僕は再び口を開く。

 

「すまなかったね、フランドールちゃん。そうだ、僕も君の事をフランって呼んで良いかな」

 

「……別に、良いけど」

搾り出すような声で、フランドールは肯定した。

 

「そっか。じゃあフランちゃん、此処は食べ物を提供するお店だ。何か食べたいものはあるかい」

 

僕はそう彼女に告げ、お品書きを手渡した。

受け取ったフランはそれに目を通し、暫く思考する素振りを見せた。

隣りに座しているレミリアもお品書きに目を通し、従者や妹と会話しながら注文する品を決めていった。

フランはあまり喋らない性格なのだろうか。それとも人間の事をあまり良く知らない為に、人見知りをしているだけなのか。

今まで館の中だけで生活していた、とレミリアは言っていた。もしかしたら、人間と会うのは初めてなのかもしれない。

 

「決めたわ」

 

お品書きを若干強めにテーブルに叩きつけ、レミリアがそう僕に告げる。

僕は彼女に、「何になさいますか」と問うと、彼女は偉そうな表情のまま口を開く。

 

「"この店で一番美味しいもの"と"この店で一番美味しいお酒"を頂戴」

 

どこか誇らしげに、そして然も当然と言わんばかりにレミリアはそう言い放った。

因みにお品書きには、そんなメニューは存在しない。これらは全て、言葉通りの意味なのだろう。

そんな高慢な態度を見せるレミリアを横目に、十六夜は口を開く。

 

「ごめんなさいね、そういう事だから」

 

彼女は微笑みつつ、軽い謝罪を述べてそう言い放つ。

何がそういう事なのか、全く理解できないがとりあえずその言葉に従わざるをえない。

 

「分かりました。フランちゃんは、決まりましたか」

 

僕がフランにそう問うと、「お姉様と同じもの」と答えた。どうやら血の通った姉妹というのは、本当らしい。

 

「十六夜さんは如何なさいますか」

 

「私はいらないわ。職務の最中だからね」

 

「分かりました。暫くお待ち下さい」

 

仕事に対して真剣な十六夜は、職務中という事もあって注文はいらないとのたまう。

大まかな注文内容が決まったので、僕は厨房へと足を運んだ。姉妹達は店内の装飾品に気が入ったのか、周囲を観察していた。

 

 

 

*

 

 

 

厨房に入ると、店内よりも若干冷気に包まれているのが分かる。

流石に厨房までは空調管理されておらず、客人を相手にする店内と比べると温度差が生じてしまう。

注文も大まかに決まっているので、早速調理に取り掛かることにした。

まず冷蔵庫を開けてみると、中には色々な食材が詰まっているのが見て取れる。

その中の材料を吟味し、彼女言った"一番美味しいもの"を作れるか思考してみるが、料理というのはその時々で味付けが微妙に変わってくるので、

彼女の言う"一番美味しいもの"は作れないと判断を下した。

ならばどうしようかと考えたところ、彼女が吸血鬼なのを思い出してある食材を使用してみる事にした。

 

「真っ赤なトマトがあるな。こいつは今晩僕が食べようと思ってたけど、仕方ない」

 

保管してあった真っ赤なトマトを用いる事にした。

それで作る料理を模索し、足りないものは定型メニューの食材を少し使用する事にして対応した。

 

「おっと、まず始めに飲み物を提供しないとな」

 

作る料理もそうだが、それを待つ間に舌が乾いてしまわないように飲み物を出さなければ。

今度は"一番美味しいお酒"とあるが、これも中々思いつくものではない。

それに僕はお酒に詳しくはないので、どのお酒が美味しくて、どのお酒が癖のあるものなのか、よく知らない。

 

「そうだ、吸血鬼だからワインとか好きそうだな」

 

うん、そうだ。それにしよう。

それも赤ワイン、血の色っぽい赤ワインを提供する事に決めた。

けれども僕のお店では、ワインは取り扱っていない。さてどうしようかと考えたが、答えはすぐに見つかる。

おもむろに冷蔵庫を開き、中の奥深くに手を突っ込み、暫くそのままの状態で待機した。

すると少しして手に冷たい何かを掴む感触がしたので、それを引っ張り出した。

 

「コート……ド………とか書いてあるな。これはお酒なのかしら」

 

"能力"を用いて手にしたお酒らしき、ボトル。試しに栓を抜いて匂いを嗅いでみると、濃厚なアルコールの臭いを感じたのでお酒と判断した。

この赤ワインっぽいお酒をグラスに注ぎ、提供する事にした。

冷やして飲むものなのか、温めて飲むものなのか分からないので、そのままの形で提供しよう。

 

その前に、料理を作る下準備をしてから出そう。その方が効率が良い。

トマトは湯むきにして小さめに切るとして、バジリコと……あとにんにくも必要だ。

アンチョビバターも作らないといけないし、後はパンだ。それも固いやつ。

ごちゃごちゃと用意をし、それらが終了した後にお酒を提供する事にしよう。僕は再び、冷蔵庫の空間へと手を突っ込むのであった。

 

 

 

*

 

 

 

あれから数十分後、吸血鬼の姉妹は提供された赤ワインを嗜みつつ、談笑していた。

赤ワインは律儀にも、専用のワイングラスに注がれて提供されていた。

 

「フラン、グラスの持ち方が変」

 

レミリアがフランを叱責する。原因はワイングラスの持ち方にあるらしい。

フランはワイングラスを初めて持つのか、グラス本体のボールの部分を持っていた。

 

「いいじゃない、別に。お姉様はまた私に意地悪をするの」

 

「そうじゃないの。私は貴女にスカーレット家としての教養を……」

 

そう言いながらフランに説教をするレミリアを、咲夜は愛しい視線で眺めていた。

一見すると危ない変質者に見えるが、幸いにもメイド服を嗜んでいるのでそう捉えられる事はないのだろう。

レミリアはフランに向けて言葉を続ける。

 

「グラスはね、ここを持つのよ。貴女の持ち方は見っとも無くて、はしたないの」

 

レミリアはグラスの本体直ぐ下……ステムの部分を手にしている。

ワイングラスの細い脚となる部分の事だ。彼女は指を揃えてそれを持っており、赤ワインを嗜んでいた。

叱責されたフランは仕方無しに、そして面倒臭そうに彼女の仕草を真似た。

 

「めんどうくさいなぁ……あ、お姉様。ほら見て、あの人もうすぐ戻ってくるんじゃないの」

 

フランはそう指を刺し、厨房に向けて指を刺した。ほんのりと、料理の匂いが漂ってくるのだ。

 

「お姉様、中の様子を見に行きましょうよ」

 

「ダメよ、はしたない。料理が完成されるまで待つのも、一つの楽しみ方よ」

香りを嗜みなさい、とレミリアはフランに告げた。

 

「ちぇ、でも良いのかしら。何か得体の知れないものが入ってるかも」

 

「何故そう思うのかしら」

 

「だってお姉様、あの人とは異変の時に衝突したんでしょ。だったらその時の恨みとか、あるんじゃないの」

 

フランがそう言うと、レミリアは少し考える素振りを見せた。

これは押せる、そう考えたフランは言葉を続けた。

 

「嫌だなぁ、私。何か変な物でも食べてお腹を壊したらどうしましょ」

誰に向かって言うでもなく、フランはそう呟いた。

実は妹想いのレミリアが、不安がっている妹を無視するはずもなく、彼女は少し思考した後に意を決したように言葉を放った。

 

「そんなに不安になるのなら、見に行ってみましょうか。フラン、後に続きなさい」

 

「うふふ、流石はお姉様ね」

 

カウンターに回り込み、彼女は厨房の方へと向かっていった。

当のフランはと言えば彼女よりも大分遅れて後に続き、そのまま厨房へ───は向かわず、咲夜に視線を合わせた。

咲夜は急に視線を合わされ、何かあるのかと疑問に思ったが、それが言葉に出される事はなかった。

厨房へと消えたレミリアを余所に、フランは板場に置いてあった"あるもの"に手を差し伸べ、蓋を開いた。

 

「妹様……」

 

咲夜は額に汗を滲ませ、そう呟いた。

フランが手にしている容器には、"Tabasco"と真っ赤な文字で表記されていた。

おもむろにその蓋を開けたフランは、レミリアの飲みかけの赤ワインの中に、それをぶちまけた。

その凄惨な光景を目の当たりにした咲夜は言葉を失い、当のフランはケラケラと笑っていた。

 

「煩いお姉様にはお仕置きが必要よね」

 

仕上げにフランが指をグラスに宛がうと、調味料の濃厚な匂いが徐々に和らいでいった。

そうして容器を元に戻したフランは、何事も無かったかのようにレミリアの後に続こうとした。

けれどもその瞬間、厨房の入り口からレミリアが押し戻されてきたので、フランは吃驚した。

 

 

 

*

 

 

 

まず結果から言うと、料理が完成し提供しようと思った矢先に、レミリアがずかずかと厨房に上がりこんできた。

なので僕は彼女を一旦厨房の外へ無理矢理押し戻し、料理を提供した。

 

「ちょっと、レミリアさん。勝手に厨房に上がり込むのはどうなんですかね」

 

「少しぐらい良いじゃないのよ。どうせ減るものじゃあないでしょ」

 

減るものではないが、雑菌などが入り込む可能性があるだろう。

まあ、そんな細かい事を言ったところでしょうもない、さっさと提供しよう。

 

「お待たせしました……おや、フランちゃん。どうかしたのかい」

 

「い、いや! 何でもないわよ、何でも」

 

気付けば彼女もカウンターの内側へと回り込んできていた。

どうせレミリアに唆されたのだろうと、僕は気にしない事にした。

吸血鬼の姉妹二人がカウンター席に戻ったのを見計らい、僕は料理の説明をした。

 

「では、お待たせしました。こちら、ブルスケッタとアンチョビバタートーストになります」

 

横文字ばかりの聞き慣れない料理に、二人とも疑問な表情を浮かべていた。

適度な大きさにスライスしたフランスパンに、アンチョビバターを塗って焼き、その上にブルスケッタをのせた物だ。

 

「ブルスケッタは、とある国での軽食の一つです。こちらのパンは、アンチョビバターを塗って程好くトーストしたものです」

 

どうぞ、と言ってレミリアの前に皿を置いた。

 

「想像していたのよりも、洒落たものが出てきたわね」

どうやって食べるの、とレミリアが問いかけてきた。

 

「どうぞ、お好きなように。特に決まった食べ方というものは御座いません」

 

「そ。じゃあ、頂くとしましょうか」

 

「ねえ、私のはないの」

 

レミリアが料理を食べ始めた頃に、フランがそう問いかけてきた。

当然、フランの分も作ってある。

 

「育ち盛りのフランちゃんには、こちらを。仔牛肉のピッカティーナで御座います」

 

柔らかい仔牛肉をスライスしたものに、生ハムやイタリアンパセリなどを加えて仕上げたものだ。

付け合せの野菜としてズッキーニやピーマンなどが加えられている。

勿論、量などは彼女に合わせて作ったので、少なめである。腹を満たす目的で作ったものではない。

 

「へぇ、お肉ね。お姉様はパンで、私はお肉」

 

「申し訳ない。もしかして、お肉は好物ではありませんでしたか」

 

「ううん、そうじゃないの。ただ私の方が高価なものだったから、ちょっとね」

 

フランがそう呟くと、レミリアから嫌な視線を感じた。

なんだ、もしかしてこの姉妹は仲が悪いのか。否、その視線は僕に向けられている気がする。

 

「すみません、別に他意はなかったのですが」

 

気まずい雰囲気に変化する前に、とりあえず侘びを入れておく事にした。

その間にもフランは「いただきます」と言って、料理に手を付けた。

吸血鬼の姉妹が料理を嗜み始めた頃、僕はもう一つの品を十六夜さんに提供すべく運んだ。

 

「どうぞ、十六夜さんも」

 

「あら、良いのかしら」

 

「構いませんよ。僕の淹れたもので良ければ」

 

いくら何も注文しなかったとはいえ、僕の方が心苦しいので何かしら用意する事にしたのだ。

十六夜さんに提供したのは、ただの紅茶。銘柄も何のものか分からない。確か、人里の商店街で購入したものだ。

僕の淹れた紅茶を受け取った十六夜さんは、それを口に含んだ。

 

「大丈夫よ。普通に飲めますわ」

 

「そうですか、それは良かった」

 

「お気遣い感謝致しますわ。ところで、天道さん。あの時の怪我は大丈夫なのかしら」

 

紅茶のカップを置いた十六夜さんは、僕にそう問いかけた。

僕は少し思考した後、いつの傷なのかを思い出した。

 

「ああ。ええ、大丈夫です。後遺症なんかは残っていませんし、痛みもありません」

 

「そ、無事で何よりね。あの時は私も気が立っていたから、悪いことをしたわね」

 

「あはは、そうでしたか。僕は気にしておりませんので、十六夜さんも気にしないで下さい」

 

あの異変の時に、ナイフを何本か刺されたのを思い出した。重要な傷になったという訳ではないので、僕は何も気にしていない。

当の十六夜さんも、さらっとした顔で紅茶を嗜んでいたので、彼女自身も大して気にしてはいなかったのではなかろうか。

そんな事を考えていると、レミリアが僕に話しかけてきた。

 

「結構美味しいし、見た目も洒落てて悪くないわね。お酒のほうはいまいちだったけれど」

 

「ありがとうございます」

 

「他にも興味あるけど、お腹も膨れてきた事だし今日は遠慮しておくわ」

 

レミリアは小食のようだ。見た目も小さな女の子なので、致し方ない事なのだろうが。

しかし小食な割には態度はでかいし、プライドも大きい。隣で自分よりも高級なものを食べているフランに目を向け、次に僕に視線を向けて睨み付けてきた。

食事よりも姉としての威厳の方が大切なのだろうか、僕はその視線を辛くも逸らした。

 

「どうですか、フランちゃん」

 

「美味しいよ、十分」

 

「お酒のほうは」

 

「飲めるよ。私はもっと甘いほうが好きだけど」

 

僕にあまり興味がないのか、素っ気無い返事ばかり返って来る。

そして相変わらずお酒のほうは人気が低い。まあ、適当に選んだものなのでしようがないのだが。

一通り食事を終えた二人を見計らい、僕はもう一品彼女達に提供した。

 

「では最後にどうぞ、ホットケーキで御座います」

 

最後はお馴染みのホットケーキ、それも蜂蜜をたっぷりとかけたものである。

洋館住まいの3人はきっと食べ慣れているのだろうが、逆に食べ慣れているほうが親しみもあって良いだろうと思い提供した。

 

「わぁ、甘いもの!」

フランは言葉尻が上がり、嬉々とした表情でそう喜んだ。

 

「あら、気が効くわね」

レミリアも予想していなかった為か、少し驚いたようにそう呟く。

 

「どうぞ、十六夜さんの分も作ってありますから」

 

「悪いわね、気を遣わせてしまったかしら」

 

「とんでもない」

 

3人分のホットケーキに、ナイフとフォークをセットでカウンターに置いた。

少女ら3人はそれぞれ食器を手に取り、食後のデザートに勤しんだ。

 

 

食事をしている3人を余所に、僕は窓の外へと視線を移した。

外は相変わらずの豪雪で、とどまる事を知らずにいた。僕はふと、彼女達に向けて口を開いた。

 

「この降雪は、いつまで続くのでしょうかね」

 

「さぁね。春が来れば自ずと止むと思うけど」

レミリアがそう返した。

 

「そうだと良いですが。もう直ぐ春だというのに、この吹雪は少々おかしいと僕は思いますよ」

 

もうすぐ三月も終わる頃なのに、未だに吹雪が続いているのだ。

三月といえば既に初春、寒い地域なら雪が降っていてもおかしくはないが、幻想郷で雪が続くのは少しばかり珍しい。

周囲は「四月になれば止む」と思っているらしいが、外の様子を窺うに止むとは到底思えなかった。

色々と思考していた僕に向けて、レミリアが口を開いた。

 

「なら聞くけど、春になっても雪が止まなかったらどうするつもりなのよ」

 

「それは……どうする事もできないと思いますね。自然の問題ですから、自然に解決するのを待つしかないかと」

 

「そういう事よ。今足掻いたところで状況は何も変わらない。ならば季節が巡るまで待つべきだと思うのだけれど」

 

四月過ぎまで待ってみろ、という事か。もしかしたら僕の考えは杞憂に終わるのかもしれないし。

流石にこんな豪雪が続いたのでは、商売あがったりである。客足も完全に途絶えていたのだ、今日の今日まで。

 

「それにしてもこのお店、暖かいね。館よりもずっと暖かいよ」

フランがそう呟いた。

 

「僕のお店では空調管理をしておりますので、居心地の良い空間を提供するよう心がけております」

 

「へぇ。暖炉とかじゃあないのね、不思議ねぇ」

 

「仕組みは教えませんよ。ま、フランちゃんさえ良ければ、ずっと此処にいても構わないけど」

 

「うふふ、貴方面白い人間ね」

 

僕の冗談の言葉を受けると、フランはお淑やかな笑みを浮かべた。

隣に座しているレミリアは穏やかではなく、更にその隣りの十六夜さんも宜しくない雰囲気を醸し出していたので、僕は自重する事にした。

その後、若干の沈黙が続いたが、レミリアがその状況を打破した。

 

 

「……ま、もしも雪が降り止まないのなら、それは間違いなく異変でしょうね」

 

顎に手をあて、レミリアはそう呟いた。

 

「そうですね。僕としてはとても迷惑なので、今すぐにでも解決してほしい異変ですが」

 

「けれど今、異変と断定するには些か早いわね。そう……五月頃まで降雪が続いたのなら、完全に異変で間違いないわね」

 

「ええ。せめて吹雪がおさまれば良いのですが」

 

暫くの間、降雪の事や紅魔館の事など色々な話をした。

そして一刻ほどが過ぎた後、会話の折り目を見て十六夜さんが言葉を挟みこんできた。

 

「お嬢様、そろそろ」

 

その言葉だけで状況を理解したのか、レミリアは立ち上がった。フランは立ち上がらなかったが、レミリアに促されて渋々立ち上がった。

 

「それじゃあ、そろそろ館に戻るとするわね」

 

「分かりました。すみません、お酒の方はお口に合いませんでしたか」

 

グラスに半分ほど残されたお酒に目が行き、僕はレミリアに向けてそう言葉を吐いた。

飲み残しが多いという事は、口に合わなかったという事なのだろうし。

僕が残念そうに言葉を告げた後、フランが口を開いた。

 

「そんな事ないよ。私はもう少し甘ければ美味しいと思ったけど」

 

フランはそう言いつつ、自分のグラスに残った赤ワインを口に運び、グラスを空にした。

やはり提供した料理やお酒が完食されるのを見ると、気持ちが良いものだ。

フランの行為を見ていたレミリアも、流石に半分も飲み残すのは悪いと思ったのか、グラスを手に持った。

 

「そうね、私の口に合わなかっただけかもね。質自体は悪くなかったから、きっと他の人には────ッぶ」

 

グラスを手に持ち赤ワインを口に含んだ瞬間、物凄い勢いで口に含んだ赤ワインを吐き出した。

その珍妙な光景に呆気にとられていた僕なのであるが、フランは腹を抱えて笑っていた。

当初は仲の悪い姉妹なのかと思っていたが、やっぱりその言葉は撤回しよう。本当は仲の良い姉妹なのだな、と僕は理解した。

 

 

 

 

*

 

 

 

帰路に着く旨を僕に伝えたレミリア達は、帰り仕度を終えた。

お会計の方は従者である十六夜さんが済ませた。久々の収入に、僕は心躍らせた。

 

「思っていたよりも安いのね。こんなので経営できているのかしら」

 

「問題ありませんよ」

 

通常よりも安目に値段を設定しているので、そう思われる事も良くある。

支払いを終えたレミリア達が扉の前へと移動したので、僕もそれに続き見送りをする。

 

「気が向いたらまた来るわよ」

と、レミリアが言い放ち扉を開けて外へ出た。

 

「じゃあね、天道。また今度」

と、フラン。頭にはコブが出来ており、先程の悪戯でレミリアにぶん殴られたのが原因だ。

あの高貴なレミリアが激怒して妹を引っ叩いていたので、流石の僕も少し引いたのは余談である。

 

「では、また今度。今日はお嬢様の話し相手になってもらってありがとうね」

十六夜さんがそう言って一礼した。

僕は「とんでもない」と言って、礼を返した。結構キツイ性格をしている少女であるが、礼儀正しい一面も持っている。

 

 

3人の客人が帰路に着き、店内に残されたのは僕一人となった。

カウンターに残された食器類を盆にのせ、手際よく片づけを開始する。

このような吹雪の中、僕のお店に来る物好きはやはり人外の類ばかりである。

春になればきっと、この降雪も収まるのだろう───そう信じて、僕は次の客が訪れるのを静かに待った。

 

 








筆者は、ワインは甘口しか飲めません。カクテル美味しいです。

本編は春雪異変の章に突入しましたが、執筆活動の方は筆者の精神状況を判断し、本編を途中にして現在は過去編を執筆していたりします。
過去編の方はある程度執筆していたのですが、正直本編との温度差が大きくて自分でも引きました。
なるべく作品がズレないように執筆はしておりますが、オリジナル展開なので簡単なオリキャラなども登場してしまいます。
戦闘描写なども多く執筆したいと思っておりますが、難しいところですよね。

以上、十二話になります。次話もよろしくお願いいたします。感想等、お待ちしております。


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巻ノ十三 評論家と半霊と

 

 

月日が経過し、やがて四月が訪れた。

三月の頃に見せていた吹雪は嘘であったかのように収まり、積雪は続くものの降雪はぴたり、と止んだ。

陰湿な雲も何処かへと消え去り、太陽が自らの存在を幻想郷中に誇示していた。

 

店内の窓から外の景色を眺めてみると、相変わらずの銀世界ではあるものの、積雪した雪が太陽の光を反射し幻想的とさえ思えた。

そんな頃、店の扉を開く音が聞こえてきた。

またもや人外の客人なのかな、と想像しつつ出迎えてみたが、予想は大きく外れてしまった。

 

訪れてきたのは普通の一般人、それも中年の男性であった。

僕が「何処から来たのですか」と質問すると、男は「里からだ」と淡白に答えた。

 

普通の一般里民を相手にするのは初めてなので、どう対応して良いか迷ったが普段通りに接する事に決めた。

いつも通りに店内に招き入れ、カウンター席に男が座るのを見計らいお冷を提供した。

男は僕が提示せずともお品書きに目を通し、これまた淡白な声色で「炒飯をくれ」と要求してきた。

 

そうして要求通りに炒飯を提供すると、男は黙々と食事にありついた。

飲み物もお冷だけで構わないのか、それ以上の注文をしてくる事はなかった。

里の人間にしてはあまりにもつまらないな、と僕は心の中で思った。人外ならば面白可笑しそうにお店の事を質問したり、食事について質問してきたりする。

いや、もしかしたらそれが"非・常識的"だったのかもしれない。思えばただの人間の客人は初めてなので、僕自身の常識がおかしくなっていただけなのかも。

 

そう思考しているうちに男は食事を終え、「美味しかったよ、ありがとう」と僕に向けて言葉を発した。

その言葉に対して適切な回答をしたのだが、男は間髪入れずに「お代だ」と言って金銭を手渡してきた。

あまりにも機械的な、ひとつのルーティン化された行動に対して僕は呆気にとられつつも、男が去る前に質問を試みた。

 

 

「ありがとうございました。ところで御仁、一つ質問をしても良いですか」

僕は男に向けてそう訪ねた。

男は、構わない、と言って此方に振り替えたので、僕は言葉を続けた。

 

「里には様々な食事処があります。何故、わざわざ僕のお店を訪ねてきたのですか」

 

僕の質問を聞いた男は、然も可笑しな質問だ、と言わんばかりの表情に変え、淡白な口調で答えた。

 

「おかしな事を聞く。此処は料理店なのだから、私のような客が訪れても何も不思議な話ではない」

 

「ええ、確かに。仰るとおりですが」

 

「私は食について少し煩くてね。貴殿の店の味は変わっている。里のどの店にも再現できない味であった。

だが少し文句を言わせてもらうのなら、濃い味付けは人の舌を狂わせる。程ほどにしておきたまえ」

 

男は早口にそう言葉を紡ぎ、「機会があればまた来る」とだけ言い残し、お代の小銭を僕に手渡すと、店内の扉を開けて出て行った。

僕はぽかん、と口を開いたまま、その場から動く事を忘れた。

 

 

 

*

 

 

 

変わった客人の相手を終え、食器類の片付けなども終えたので、今日は人里に向かう事にした。

 

先程の客人が僕に伝えた、"濃い味付け"。僕のお店の料理のほとんどは、里には置いていない調味料を使用している。

男が"再現できない味"と言っていたのは、恐らくその事なのかもしれない。

……と推測すると、先程の客人は食の批評家の方なのだろう。恐らく里の店の料理は食べ尽くしている為、僕のお店の味付けに物珍しさを感じたのか。

けれども、客人に指摘されたところで方向性を変えようとは思わない。

と言って何も行動しないのも良くないので、少しばかし里で販売されている食材や調味料などを見てこようか、そう結論に至った。

 

お店の扉の"開店"の表示板をひっくり返して"閉店"にした。

鬱陶しい積雪でとても歩き難いが、防寒着を着込みいざ人里へ。

 

 

*

 

 

店から人里までは徒歩で数十分も歩けば到着する距離であるが、積雪のため里に着くまでに普段の倍ほどの時間がかかってしまった。

僕のお店から人里までの経路に足跡がいくつか見られたが、恐らく先程の客人のものだろうと推測した。

人里に到着する頃にはそんな推測も頭から消え去り、目的のみに集中した。

 

里の内部は外とは違い、ある程度の除雪が施されていた。

人が通る道は薄い氷の膜が張っている程度であり、水分を多分に含んだ雪が溶け始めているのが窺える。

しかし店舗や民家の屋根に積雪されたものは手付かずな為、それらが解消されるには長い時間を要するだろう事も窺えた。来月頃には、元通りの日常に戻るのだろう。

 

人里に訪れて始めに、里の料理店を伺う事にした。

今日は起床して以来、軽い食事しかしておらず腹の虫が喚き始める頃合だった為、その前に鎮めようという魂胆だ。

里には大小様々な料理店が展開されているが、中でも一般的な普通の料理店で食事を済ませる事にした。

 

注文した料理は先程の奇妙な客人と同様に、炒飯とお冷。

里の炒飯は僕のお店のものと比べると味付けが薄く、具も簡易なものしか混ぜられていなかった。

火力も足りているのか疑問に思う。米飯の食感もあまり良くはない。けれどもこの店は、僕のお店よりもずっと繁盛していた。

 

一体何故なのだろうか。

こういっては失礼に値するが、食材の品質は分かったものではないし、調味料の味付けもひどく薄い。

店員の対応だってあまり褒められたものではない。悪く言えば粗暴で、良く言えば気さくで人情味の溢れる……恐らく、それが受けているのかもしれないが。

なのにだ、外ではこの店で食事を済ませようとする客が、表の椅子に座って待っている。

 

店員はそれらの対応に追われ、早々に食事を終えた僕に対し「お代の方は」と急かしを入れてくる。

結局、僕がこのお店で食事以外に口を開く事は一度もなかった。

 

 

 

*

 

 

 

青天を拝みながら里の繁華街を歩く。

周囲の人間は各々の目的に向かって、今日も一日精を出している。

 

僕は思った。

やはりお客様に信頼されているからこそ、お店が繁盛するのだろう。

 

僕の経営しているような得体の知れないお店を訪れるのは、物好きな人間か妖怪くらいだ。

それにあの時の奇妙な客人が言っていた通り、僕のお店の料理は味付けが濃かった。

これはきっと里人には受けないだろう、奇妙な客人はそれが言いたかったのかもしれない。

 

例えばパエリアやピラフなどの、里には無いような小洒落た料理を出したところで、

人々は最初こそ物珍しさで食事をするかもしれないが、恐らく二度目はない。

 

結局のところ、安心で信頼できる食べ慣れた物を人々のニーズに合わせて提供できるお店が、里の料理店を制覇していくのだろう。

僕のお店には、それらに対する向上心というものがまるでない。

これらは全て僕の曖昧な予想に過ぎず、他の人から見れば的外れな考えかもしれない。

けれども実際に人間の客が訪れないという事は、つまりはそういう事であり、里人にとって信用に足らない店だと判断されているというわけである。

 

ならば、と僕は歩きながら思考した。

何も人間に対して媚びて商売する必要もない。あくまで趣味の範疇として経営していくのならば、オーナーの好きな方針で推し進めるべきではないか。

それで利益が出るか出ないかはまた別の問題であるが、商売をひとつの趣味として進めていくのならば、そういう考え方も理解できる。

 

例えお客さんが一騒動を起こした吸血鬼だったり、奇妙奇天烈な妖怪だったとしても、その種種に対して満足してもらえるような形で料理を提供できるのならば、それで良いではないか。

そう考えを固めると、何だか心の腫れ物が取れたような清清しい気分になってきた。

里に赴き営業をするのも、何だか馬鹿馬鹿しくなってくる。

今日はもう帰宅し、度数の低いお酒と塩茹でした枝豆でも堪能しようか。……と、考えながら里を歩いていると。

 

「……おや」

 

里に植えられている木々の近くで、一人の女の子が何かをしていた。

只のそれだけなら、普通に立ち去るだけだったであろう、少女の近くで桜の花びらのようなものが舞ったのもあり、僕はそれに目を奪われた。

こんな積雪している時期に桜の花びらなど、到底ありえないので僕は少女のもとに歩み寄り声をかけてみた。

 

「そこの君」

 

声をかけられる事を予期していなかったのか、少女は肩を少し震わせて此方へ振り返った。

銀色の髪に黒いリボンを付けており、白いシャツの上から青緑色のベスト、そして同色のスカートといった容姿。

腰に一本の刀を差しており、更に背中にも一本の刀を背負っているので、とても物騒だなと思った。

少女は此方に振り返るなり、「何ですか」と返したので、僕は質問を投げた。

 

「いや……特に意味は無いんだけど、僕の勘違いとかだったら答えてくれなくても構わない。

ほんの一瞬、ちらりとだけ桜の花びらのようなものが見えたんだ。君の手品か何かかい」

 

「手品じゃあないですよ。見間違いでもないかと」

 

僕が知りたいのは、まだ開花の兆しすら見せていない桜の木から、桜の花びらが舞ったのか。

そもそもその木は桜の木なのか、それすらも分からない。

少女は続けて答えた。

 

「"春度"を集めているんですよ。そろそろ頃合かと思いまして」

 

「春度……か。よく分からないけど、そんなものを集めて何になるんだ」

 

「さあ」

 

少女は然も知らぬと言った風に答えた。

 

「見たところ君、只の人間じゃあないね」

 

「そうですね。私は半人半霊、半分は只の人間ですけど」

 

「半分は只の幽霊か」

 

珍しい種族の女の子だったらしく、よく見ると彼女の背後には真っ白い幽霊のようなものが揺らいでいた。

 

「しかし春度とやらが無くなってしまうと、僕の推測だけども春という季節が訪れなくなるのでは」

 

僕の素朴な疑問に、少女は答えた。

 

「ええ、そうなりますかと。きっと冬が長引いて、桜も開花するのを忘れてしまうでしょうね」

 

「……程ほどにしておいてくれよ」

 

「あら、止めないんですか」

 

「止める気はない。でも、僕のお店の周りの春度には目を瞑ってくれないだろうか」

 

僕の言葉に、少女は少し思考するような仕草を見せた。

そして僕のお店の所在を訊ねられたので、詳細を少女に教えた。

所在を知った少女は、「分かりました、善処します」と答えたので、僕は「善処だけでは困る」と返した。

そうして少女が僅かに頬を緩めると、僕に向けて口を開いた。

 

「私は魂魄妖夢と申します。もしも機会があったら、貴方のお店を伺ってみますよ」

 

「僕は天道と言う。ところで、魂魄さん」

 

「妖夢で構いませんよ」

 

「そうか。では、妖夢さん」

 

僕は過去の記憶を掘り起こし、彼女について一つの質問を投げかけた。

 

「僕は君の名前に聞き覚えがある。君の主人は、もしかして冥界の管理人とやらか」

 

そう質問をすると、妖夢は驚いたかのような表情をし、声を少し震わせながら口を開く。

 

「どうして、その事を知っているんですか」

 

「大分前に、僕のお店を君の主人が訪ねて来たんだ。名前は確か、西行寺さん」

 

友人の方と一緒にね、と最後に付け加えた。

僕がそう告げると、妖夢は頭を抱えた。少しの間唸り思考していたが、次第に口を開いた。

 

「すみません、幽々子様は食の太い方なので、恐らく食べ散らかしてしまったかと思うのですが……」

 

「いや、そんな事はなかった。とてもお淑やかな方だったよ」

 

「えっ」

 

またしても妖夢は驚愕し、言葉を詰まらせてしまった。

これらはお世辞ではなく、僕の本心の言葉である。食が太かった記憶は無い。

 

「そ、そうでしたか。なら良かったです。どうですか天道さん、幽々子様のお知り合いとあらば、白玉楼に御案内しますが」

 

白玉楼という単語に疑問が浮かんだが、恐らく西行寺さんの住んでる土地の名前だろうと推測した。

けれども僕は帰宅し一息つきたかったところなので、その件については丁重に断りを入れた。

 

「そうですか……残念です」

 

「申し訳ない、また機会があれば案内してくれ」

 

「はい、その時は必ず」

 

「では僕は帰るよ。僕のお店の周りの春度とやらには、手を出さないでくれよ」

 

始めこそ無愛想だった妖夢であったが、最後はにこやかに挨拶をして別れた。

今思えば春度というものが、春という季節が訪れる為のきっかけを作っているのではないかと思った。

 

まあ、少しばかり春が遅れると考えればどうという事はない。もう四月なのだし、今更一月や二月春が遅れた程度で、騒ぐ事も無いか。

幸いにも暖房の燃料が尽きる事はないので、冬が長引いたとしても僕のお店に支障が出るわけでもないし。

そう考えながら、明日の予定を立てつつ僕は人里を後にした。

 

 

 

 









以上となります。
感想、評価などお待ちしておりますので、今後ともよろしくお願いいたします。
それでは次話でお会いしましょう。


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巻ノ十四 紅魔館流

 

半人半霊の少女、妖夢と出会ってから幾日か過ぎた。正確には幾週間か。

激しい降雪が収まったのも束の間、大雪は直ぐに里を襲った。

春が到来するとばかり思っていた里人は、この異常気象に驚きつつも特に異変だと決めつける事もなく、普段通りの日常を過ごした。

 

僕はと言えば、大雪が再び降り始めたのを認識した直後に、脳裏に"春度"を集めていた少女の姿が過ぎった。

推測が確信に変わる瞬間である。やはり彼女が"春度"を回収した事により、春が遠のき冬の季節が延長されるという事になったのか。

その事に関して一時、これを異変だと判断し行動しようかとも考えた。

けれどもよく考えてみると、月日は既に五月。後一ヶ月もすれば忘れ去られた春を飛び越して、灼熱の孟夏が訪れる……どうせこの異変は自然と終息するだろうと、楽観的な考えから異変を解決しようという考えは消え失せた。

 

尤も、僕が動かずともあの紅白の巫女が行動を開始するだろう。巫女は異変を解決するのが職務であり、義務でもあると天狗の記者から聞いた覚えがある。

ともあれば僕がするのは、普段通りの日常……つまり、お店にどっしりと構え、来客を待つだけである。

今日も今日とて、店内で身辺の整理をしていると、とあるものに目が行った。

 

「……ん、これは」

 

店舗の入り口付近を整理していた最中、扉の隙間に紙のようなものが挟み込まれていた。

恐らく誰かが意図的に仕組んだものであろうそれは、手紙のようにも見える風貌であった。

それを手に取り、封を切って中身を出してみると、予想通り中身は誰かが執筆した手紙に間違いなかった。

 

「誰からだろうか。読んでみよう……拝啓、天道様」

 

手紙に綴られていた内容を要訳すると、こうなる。

 

"特別に客人として紅魔館に招待し歓迎してあげるから顔を出せ。後、お土産を忘れるな"

 

長々と文字が綴られているが、手紙が僕に伝えたい事は、つまりはそういう事であった。

一体いつの間に、音も立てずに手紙を扉に挟んだのか、こんな降雪のなかでも紅魔館に行かなくてはならないのか。

様々な疑問が脳裏を過ぎり、遂には手紙を見かけなかった事にして処分してしまおうかとも考えた。

しかしそんな事をすれば当然、紅魔館の連中との関係が拗れてしまい、幻想郷での生活が過ごし難くなってしまう。

そうなってしまうのは僕としても宜しくはないので、この場は素直に従い軽い身支度を整える事にした。

 

お店から紅魔館までは大分距離がある。移動中に風邪を引いてしまわぬよう、防寒具に余念はない。

黒っぽい外套にマフラーを巻き、手袋をしっかりと手首まで伸ばして装着した。

向かう先は吸血鬼の住む紅い館。僕は窓から外の景色を窺い、辟易としつつも店の戸締りをした。

 

 

 

*

 

 

 

頭上を暗雲が覆った降雪の中、頭に被った笠に雪が積もり重みを感じつつも紅魔館の門前へと到着した。

富士笠のような形状の笠ではあるが、雪の前ではその傾斜部も役に立たず、雪は積もり放題であった。

 

紅魔館の門前には、前回の異変の時と変わりなく門番である、紅美鈴が佇んでいた。

こんな降雪の中、彼女の服装は半袖姿であり、身に染みる寒さを体験している最中であった。

腰まで伸ばした赤い長髪なのだが、今では赤髪なのか白髪なのか判断がつかない状態になっていた。

そんな中であるが、僕の存在に気がついた紅美鈴は手を振り、出迎えてくれた。

 

「あ、天道さんですね。お嬢様から聞いております、こんな豪雪の中、ご苦労様です!」

 

「どうも。えーと、確か紅美鈴さんですよね」

 

「私の事を知っていたのですか」

 

「巫女との会話を立ち聞きしていたもので」

 

彼女の名を知ったのは、かつての異変の際に博麗の巫女である博麗霊夢と彼女が会話しているのを僕が傍観しており、

その際に彼女の名を知った程度である。勿論、彼女の名前以外には何も知らない。

 

「紅さんも、お勤めご苦労様です。こんな寒い中で立ち仕事は大変ですよね」

 

「ヘーキですよ、鍛えてますし。ささ、どうぞ中へ。咲夜さんの所まで案内しますよ」

 

そう彼女は言い放ち、紅魔館の中へと進んでいった。手招きをし僕の事を待っていたので、彼女の後に続いた。

 

 

 

*

 

 

 

紅魔館の内部は相変わらず、紅の装飾で埋め尽くされていた。

紅以外の色が見当たらない程、壁紙から床面、扉から窓のフレームまで全て紅に染められている。

僕は紅魔館の内部事情などに関しては全くの無知なので、紅美鈴に連れられるがままとなった。

道中で様々な扉が見受けられたが、客室なのか応接間なのかは分からなかった。恐らく、多くの従者がいるのだろう。

静寂のまま案内をされていたが、やがて紅美鈴が口を開いた。

 

「天道さんは、人間の方ですか」

此方へは振り向かず、前方に視線を据えたまま訊ねてきた。

 

「ええ、妖怪ではありません」

 

「そうなんですか。お嬢様の気に入られたお方だったので、人外かと思っておりましたが」

 

「長生きだけは無駄にしているので、よく言われます。長生きなど、するもんじゃあないですよ」

 

道中、紅美鈴と世間話をしながら紅魔館の中を案内してもらった。

会話の内容は彼女の主人の事、図書館の魔女の話など、紅魔館の住人達の事を色々と教えてもらった。

どうやら紅魔館の内部は、瀟洒なメイド長が能力を使用しているおかげで、外観よりも内装は広々としているとのことだ。

 

 

「そういえば、幻想郷には大結界が張られていますよね。僕もいつか外の世界に出たいと思っているので、何とかならんのかなと思っております」

 

世間話をするのも久方振りだったので、思わず本音というものが飛び出した。

紅美鈴は僕の言を聞くと、何かを思い出すかのような遠い目をし、口を開いた。

 

「天道さんは知らないんですか?」

 

「何がですか」

彼女の言っている事はわからない事だったので、問い返した。

 

「外来人の事ですよ。稀に、外の世界から幻想郷に迷い込んでくる人がいるんですよ」

 

「……そうなんですか」

 

「はい。どういった原理で結界を抜けてくるのかは分かりませんが、最近も何人かの外来人が迷い込んでいると聞き及んでいますね」

 

「何故、そういった人がいると分かるんですか」

 

「迷い込んで来た人たちは皆、人里に居ますからね。実際に私、その人たちと話してみたんですが、全員の方が気付いたら幻想郷にいた、と。そう言っていましたね」

 

口を揃えてそう言った、と紅美鈴は言った。

外の世界から知らぬうちに幻想郷に迷い込んでくる人間の事を、ここでも外来人と表現するようだ。。

実際にそうなった人間は、自然と人里に集まるというらしい。僕はそんな外来人達は、今まで見たことがない。

気になったので、彼女に質問をしてみた。

 

「外来人の方達は里に居るんですよね。何処にいるんですか」

 

「具体的には分かりませんね。お店で働いてる人もいれば、農業をしている人もいますし、独立してお店を開いてる人もいますよ……っと」

 

彼女はそこまで言うと、歩みを止めて立ち止まった。そうして此方へと振り返り、口を開く。

 

「着きましたよ、少し待っていて下さいね。咲夜さんを呼んできます」

 

紅美鈴はそう言うと、少々立派な装飾の施された扉を開き、中へと入っていった。

誰かの私室とは思えない、推測するに何か特別な作業をする大広間の扉、といったところか。

待っていろと指示をされたので、僕は壁に腰をかけて彼女の帰りを待つ事にした。

 

しかし、外来人という外の世界からやってきた人間が幻想郷にもいるとは、意外である。

僕自身としては、外の世界へと行きたいと考えている。けれどもそれは、大結界により阻害され叶わぬものとなっている。

知人の妖怪を説いてみたが、頑なに拒まれているのが現実だ。

だが外来人……外の世界からやってきた人から話を聞けば、もしかしたら外の世界に関する事を知る事が出来るかもしれない。

 

外の世界へと行く為の手掛かりとなるものを知る事が出来たと同時に、あの広大な人里の中から、数十人程度の外来人を捜索するという現実を考えた途端、辟易とした。

見つかりっこない。仮に出会えたとしても、外の世界への出入りに関する情報を得られるとは思えないし。

そう思考を巡らせているうちに、頭痛がし始めたので一旦考える事を止めた。

 

「……うん?」

 

壁に手をかけ寄りかかっていたが、何やら壁面に刻み込まれているのに気付いた。

僕はそれを注視してみる。

 

「なんだ、これは」

 

壁面に刻み込まれていたのは、爪で引っかいたような跡であり、文字であった。

紅色の壁面から、薄っすらと滲む血色の文字で落書きが施されている。

 

壁面には様々な文字らしきものが刻まれていたが、粗雑過ぎて読む事は出来なかった。

あまりにも異常な光景に、僕は自身の目を疑い、何度か目を擦った後に再度壁面を注視して見てみた。

よく見ると刻まれた壁面に接している床面は、注視して見ないと気付かない程の、薄っすらとした濃い赤色に染められていた。

 

 

「すみません、天道さん。もう少し待って……あれ、どうかしましたか」

 

扉を開き出てきた紅美鈴が、壁面を注視している僕に気付き声をかけてきた。

僕は素直に疑問に思った事を、彼女に向けて問うてみた。すると彼女は、真面目な表情に切り替わり口を開く。

 

「……ああ、その壁の事ですか。簡潔に言いますと、そこで人間が死んだんですよ」

 

「人間が……」

 

「そうです。先程も言いましたよね、外来人の話。そこで死んだ人間の人も、外の世界から幻想入りした人です」

 

彼女はそう言いきり、言葉を続けた。

 

「うーん、聞かれるまでは黙っているつもりだったんですが。天道さんも知っていると思いますが、大結界騒動で妖怪は人間を襲い難くなりましたよね」

 

「ええ。妖怪同士で争った騒動でしたね」

 

「本来、妖怪は人間を襲うものです。妖怪が人間を襲えなくなったのに、今までそれが問題にならなかったのは、何故だと思いますか?」

彼女がそう質問してきた。僕はそれに答える。

 

「それは確か、食料係を勤めている妖怪が、妖怪達に食料を配布しているからじゃあないのですか」

 

「ええ、その通りです。では、その食料とは」

 

「……ああ、そうですか」

 

彼女の言いたいことが、理解できた。

つまり幻想郷には、"食料"として幻想入りする人間がいるという事。

 

「では、この壁面の文字も」

 

「天道さんの思っている通りですね。紅魔館にも昔、"食用の人間"が配布されていた時がありました。けれどもお嬢様達は吸血鬼なので、人間を食べるという事はなかったのですが」

 

「血を吸うわけですね」

 

「その通りです。食用の人間の多くは、外の世界で生きる事を望んでいないような方達でしたね。始めから意識を失っていたり、或いは精神的に狂っているような人たちばかりでした」

 

推測すると主に自殺願望者や、長くは生きられず精神的に衰弱しているような人間が、食用として幻想入りさせられているようだ。

紅美鈴は表情を崩さず、言葉を続ける。

 

「しかし、紅魔館に配布された食用の人間の中で、一人だけ正常な人間が混じっていました。彼女は肉体的にも、精神的にも健康体そのものでした」

 

「彼女?」

 

「はい、若い女の子でした。彼女も食用として紅魔館に供給されたのですが、正常な人間が殺されるのをゆっくり待つ筈もありませんでした。

彼女は妖精メイド達の目を掻い潜り、紅魔館からの脱出を試みたのです。でも、只の人間が一人で紅魔館を出る事なんて、とてもとても」

 

彼女は先程言っていた。メイド長が能力で内部空間を弄り、操作していると。

確かに僕でも、紅美鈴がいなければ直ぐに迷ってしまうような内部構造だ。

 

「丁度その時、お嬢様が私用で外出しようとしていたんですよ。それで彼女は逃げる最中、お嬢様と遭遇してしまって……」

 

「それで、殺されたと」

 

話の締めかと思い、彼女に向けてそう言い放ったが、彼女は言葉を続ける。

 

「いえ、違います。彼女はお嬢様に威圧されて腰を抜かしてしまったのですが、意を決して自分が外来人であるという事を告白しました。

そして話を聞いたお嬢様は彼女を、紅魔館から逃がしてやる、と約束しました」

 

「良い主人じゃあないですか」

 

「さあ。それを判断するのは貴方ですよ。……けど、その約束には一つの条件がありました。

それは、"妹と遊び満足させられれば"というものでした。実はその時、妹様も地下室から出ておられまして」

 

彼女の主人、レミリアには妹のフランドールがいる。

事情があって妹の方は地下室で生活していたらしいのだが、最近になって頻繁に館内を歩き、生活をするようになっていると聞いている。

紅美鈴の話は過去の話だ。恐らく当時のフランドールは、気性が荒く地下室に閉じ篭もっていたという時期。

その時期に彼女が地下室を出ているという事は、余程の事態だという事が推測できた。

僕が推測しているところ、紅美鈴は話の続きを始める。

 

「お嬢様は彼女に命じました。妹は館の何処かにいるから、先ずは探して連れて来い、と。

当然彼女はそれに従い、約束を果たせば外に逃げられるものだと考え館中を探し回りました」

 

「ところで、君がその話を知っているのは、当事者だからですか」

 

「半分正解、といったところです。その後お嬢様は、私と咲夜さん、一部の妖精メイド達を緊急召集しました。

召集の内容は、当時は通常通りの"妹様を地下室に連れ戻せ"といった内容でした」

 

紅美鈴は言葉を続ける。

 

「私達が妹様を探し行動を開始して、およそ一時間もしないうちに事態は終息しました。それはもう、簡単に妹様の場所を特定することができましたからね。

現場から人間が発するとは到底思えないような悽惨な悲鳴が聞こえれば、耳の遠い老体でも気付くというものです」

 

「……彼女は餌だった、という事か」

 

「私が現場に到着した頃には、妹様は昏倒され事態は解決した後でした。現場は凄惨な状況でしたね。

後から妖精メイド達から聞いた話なのですが、館の修繕よりも現場の清掃の方が大変だった、と」

 

「では此処は、その当時の現場という事ですか」

 

「そうなりますね」

 

手違いで食用として供給されてしまった正常な人間が、吸血鬼に弄ばれて殺害されたという話であった。

彼女の話を聞く限り、幻想郷における外来人の扱いというものは、非常に雑なものだと感じた。

外の世界に関して知識のある僕に関しては、非常に腹立たしい話になるのも事実である。

少々気分を害してしまったが、ここで彼女に当たるのも稚拙な者がする行為なので、僕は押し黙り平然を装う。

 

 

「……ま、致し方ない事ですね。人間が妖怪に害されるのは、今も昔も変わらないという事です」

 

「そうですね、外来人とはいえ人間ですものね」

 

「何も変わっていないのですよ、何にも。僕がどうする事もないのですがね、貴重なお話をありがとうございました」

 

「あはは、丁度良い時間つぶしになりましたし、此方こそ、お粗末さまでした」

 

屈託のない笑みでそう言い放つ紅美鈴、僕もそれに答え、悪意のない表情をした。

その後も数分ほど二人で世間話をしていると、再び扉の開かれる音が聞こえてきた。

出てきたのは予想通り、紅魔館の瀟洒なメイド長、十六夜咲夜であった。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

案内を終えた紅美鈴は職務に戻ります、と一言告げた後、十六夜咲夜に案内を任せて来た道を戻っていった。

案内役が紅美鈴から十六夜咲夜に変わり、場を包む雰囲気が変貌した。

穏やかな雰囲気から、殺伐としたような、気まずいような。口を開き難い雰囲気に変貌した事により、僕達は只管に足を動かすだけである。

十六夜咲夜は交替した当初に簡単な挨拶をしただけで、以降は世間話の類はなかった。

真面目なのか単に僕と会話をするのを嫌っているのか、真意は分からぬが、それも主人の下へ到着するまでの辛抱であると思い気に止めぬ事にした。

 

少し歩いたところで十六夜咲夜は立ち止まり、到着した旨を告げる。

扉は立派な装飾が施されており、誰がどう見ても館主の私室を想定させる造りになっていたので、そこがレミリアの私室だと僕は推測した。

失礼します、と彼女が扉を開き中へ入る。僕もその後に続いた。

 

「遅かったわね、咲夜。それと貴方も」

 

「どうも、レミリアさん。お世話になってます」

 

軽い挨拶を交わし、十六夜咲夜に誘導され椅子に着席した。

室内の内装はとても豪華に飾られており、僕の着席している椅子は勿論の事、眼前のテーブルも豪華な造りとなっているのが分かる。

更にテーブルの上には何も置かれていない、これから何かを用意するのだろうか。

そう考えていると、十六夜咲夜が主人に向けて紅茶を淹れて参ります、と一言告げ、部屋を後にした。

室内には僕とレミリアの二人だけになり、何となく気まずい雰囲気になっている。対面に座っている彼女はテーブルに肘を付き、指を絡ませそこに顎を乗せるという何とも偉そうな姿勢を作っていた。

無言のままで居るのも悪いと考え、軽い世間話を仕掛けてみる事にした。

 

「外は相変わらずの天候ですね。それに対してこの部屋はとても暑い」

 

「でしょうね。寒いのは苦手だもの、温度管理は徹底してるの」

 

紅魔館の廊下は冷えていたが、この室内はとても暑い。暖房器具が何処かに設置されているのだろうか、比較的高めの室内温度を維持されている。

視線を四方八方に巡らし室内を観察していると、レミリアが口を開いて話しかけてきた。

 

「ねぇ見て、外の景色」

 

レミリアがそう言ったので、室内の窓に視線をやってみた。

けども窓ガラスは霜で覆われており、とても外の景色を見れる状態ではなかった。

見えないじゃないですか、とレミリアに言うと、彼女は表情を変えぬまま口を開く。

 

「五月だと言うのに、雪は収まるどころかその勢いを増している始末。では何故雪は収まらないのかしら」

 

「分かりません。僕は気象に関しては詳しくないので」

 

「館の燃料も直に底がついてしまう。流石にこんなにも冬が続くと思わなかったからね、館中の燃料を掻き集めても、精々十日分しか残ってないわ」

 

「はあ、それはお気の毒です」

 

暖房を焚く為の燃料が少ないというのに、この室内はこんなにも暑いのは、少々おかしいのではないかと思ったが、口にはしない。

レミリアの言っている事は僕も同意できる事だ。

季節は既に春も終盤、なのに未だに降雪が続いており桜の木は開花の兆しすら見せない。

 

「前に言っていた事が現実になりましたね。事態は既に異変の域に達している」

 

「そういう事。それで今日貴方を館に招いたのは、ひとつお話がしたいと思って」

 

「お話、ですか」

 

「ええ。今直ぐに話しても構わないのだけれど、先に食事の方を済ませましょうか」

 

彼女がそう言うと、タイミングよく十六夜咲夜が戻ってきた。

どうやら僕とレミリアの分の紅茶を淹れて来てくれたのだろう、紅茶のカップをソーサーの上に乗せて用意してくれた。

彼女はそれらをテーブルの上に並べると、再び扉を開き場を後にした。

軽い食事を用意させるわね、とレミリアが僕に言ったので、再びそれを待つ事になった。名目上は僕を館に招待しているので、僕の立場所謂お客さんに等しいのだと思うが。

 

「今日は私が貴方を館に招待しようと思ってね、この紅茶は私からの親愛の印」

 

レミリアは満面の笑みで、僕に向けてそう言った。

彼女は先に紅茶のカップを口に付けた。そして言葉を続ける。

 

「前に馳走になったから、今回は私から貴方に馳走しようと思って。そのティーカップは希品でね、滅多な事じゃあ使わない事にしてるの」

 

笑みを浮かべたまま彼女はそう言い放つ。

彼女は遠慮せず飲めと僕に言い、そこまで気持ちを込められているとは思わなかった僕は、軽く動揺したものの紅茶のカップを手に持った。

そうして頂きます、と一言添えた上で紅茶を飲もうとした。

 

「では、頂きます………ッ」

 

紅茶のカップを口元に運び、先ずは香りを楽しもうかと思った矢先である。

紅茶とは程遠い香りが鼻を突き、異変に気付いた僕は思わず唸り声をあげた。

 

「どうしたの? 貴方は"頂きます"と言ったのよね。そう私に向けて言ったのなら、飲まないというのは失礼なのではないかしら」

 

希品のティーカップに注がれていたのは、紅茶ではなく真っ赤な液体であり、フレーバーな香りなど一切しない。

そういう種類の紅茶かとも思ったが、香りが普通ではないので、その推測は直ぐに否定された。

 

ティーカップの中身は、紛れもない"血液"であった。

異常事態に対し、僕はレミリアに視線を向けたが、彼女は相変わらず満面の笑みを浮かべている。

否、満面の笑みは何時しか憫笑に変わっており、僕の行動の一つ一つを彼女は観察しているようにも窺えた。

 

僕は思考した。

彼女は僕の事を歓迎し、持て成すと言った。

だがそれは紅魔館流なのか、或いは単純に弄んでいるのか。紅茶と言いつつ生の血液をカップに注ぎ、提供するなど通常では在り得ない。

 

ならばどうするか。

"こんなもの、飲めるか"と憤怒し、館から出て行くのは簡単である。

しかしそれは彼女の歓迎の意を否定する事になり、今後の紅魔館との付き合いも悪化の一途を辿るに違いない。

ならば、僕が取るべき行動はひとつ────

 

 

「頂戴します」

 

そう一言添え、ティーカップを斜めに傾け口の中に注いだ。

ティーカップに注がれていた血液の量は凡そ160cc程度。たかがその程度であるが、中身は血液である。

血液を直接口で飲んだ事はないが、恐らく普通の人間ならば忽ち嘔吐感が鬩ぎあがってくるであろう。

その所業を見ていたレミリアが憫笑を止め、圧倒されたかのような表情に変え驚愕の声をあげた。

 

「ッ……飲んだのか? いや、飲んでいないな。どこかに隠したのかしら」

 

訝しげな表情で、先と変わらぬ穏やかな声色でそう問いかけてきた。

飲んでいないと指摘されたのは、恐らく僕の喉仏が動かなかったのを観察していたからだろう。

 

「さあ。飲んだつもりだったのですが。満足してもらえましたか」

 

「いや、全然。嗜めるつもりだったのだけれど、貴方、私に隠し事が多いんじゃないの」

 

「隠しているつもりではないんですがね。教えろと言うのなら教えますが」

 

「じゃあ教えて」

 

レミリアはそう言い放ち、紅茶を一口飲んだ。僕はそのまま言葉を続ける。

 

「飲む寸前にティーカップの中身が無くなれば、飲むフリができますよね。例えば、唇に触れる直前とか」

 

「ええ、そうね」

 

「つまり、そういう事です」

 

「……はぁ?」

 

僕の言に対し彼女が苛立ちを見せ始めた。気分を害させるつもりはなかったので、素直に言葉を選んで発言する事にした。

 

「僕の能力の事が知りたいんですよね」

 

「そうよ。回りくどいのは必要ないから、早くして」

 

「分かりました。特に名前といったものは無いのですが、強いて言うのならば────」

 

自身の能力の呼称を告げる途中で、再び室内の扉が開かれた。僕は扉の方へと視線を向けたが、彼女は僕を睨んでいる気がする。

扉から続々と現れたのは、十六夜咲夜さんと妖精メイドの従者部隊である。

それぞれが料理を運び、配膳をしてテーブルを飾っていった。中身の無いティーカップは下げられた。

レミリアは頭を抱え、間が悪いと小さく呟いた。従者達は小首を傾げたが、それだけである。配膳は速やかに終了し、テーブルは様々な料理で豪華に飾られた。

 

 

 

*

 

 

 

テーブルを飾る料理は多種であり、主に西洋系の料理が多く目立っている。

リゾットやポタージュスープ、ミートローフなど視界に移り込むものだけでも、涎が滴りそうになる。

西洋料理のマナーというのは中々煩いものなのであるが、幸いにも紅魔館では煩く指摘される、という事はなさそうである。

ナプキンで手を拭いている最中、気になった事があったので十六夜に訊ねてみた。

 

「このお皿に盛られている料理は、何というものですか」

 

手近に置かれている西洋料理のうち、カラフルな野菜で装飾されたお皿の中心に、調理された鶏肉が盛られている。

十六夜は僕の問いに対し、答える。

 

「鶏肉を赤ワインで煮たものです。そちらのラザニアは、シーザサラダと一緒にどうぞ」

 

「これは凄い。僕よりもずっとレシピが豊富だ」

 

紅魔館で出された食事は、僕が知っているレシピもあるが、知らないレシピも多く存在していた。

レミリアは何処か誇らしげに、遠慮せず食べなさいと僕に言ったが、それどころではない。

食事を進める最中、僕は十六夜に問う。

 

「紅魔館の食事は、全て君が作っているのかい」

 

「基本的にはそうですわね。簡単なものや大雑把な工程は、妖精メイド達にやらせていますけど。野菜を切ったり何かは、全てメイド達の仕事ですわね」

 

十六夜がそう言った。

どうやら簡単な工程は全て妖精メイドとやらが処理し、野菜を切ったりする程度のルーチンワークも妖精メイドが担当しているらしい。

 

「それはとても素晴らしい。お宅の妖精メイドを一人分けてもらえないだろうか」

 

「ダメですわ」

 

お店にお手伝いさんの一人でもいれば楽になるだろうと思い、そんな事を提案してみるが、呆気なく断られた。

その後も黙々と食事を続けた。黙々としていたのは僕だけで、レミリアと十六夜は談笑をしており、会話の合間合間に僕に意見を求めてきたりしたので、それに答えていた。

どう、美味しいでしょう、とレミリアが再び誇らしげに訊ねてきたので、とても美味しいですよ、と十六夜に向けて言った。

半刻も過ぎれば食事も終わり、食器を片付けに妖精メイド達が再びやってきた。

 

「ちょっと君」

 

「は、はひっ!」

 

片付けをしている妖精メイドに声をかけてみた。妖精メイドも声をかけられると思っていなかったのか、驚き声をあげた。

 

「君はメイドに就いて長いのか」

 

「あ、あの、私まだ、そんなに」

 

「仕事は大変か」

 

「あ、は、はい。大変です、とても……」

 

「そうか。どうだ、僕の店で働いてみないか」

 

「えっ……」

 

店内スタッフの勧誘を試みた。僕の言葉を聞いた妖精メイドは、しどろもどろし言葉を詰まらせた。

 

「ちょっと、勝手にうちのメイドを引き抜くのはやめて頂戴」

レミリアが僕にそう指摘する。

 

「良いじゃあないですか、僕の店は少々人手不足でしてね」

 

「だからと言って私の許可なしに勧誘するのは頂けないわね。間抜け揃いの妖精から、知性のある妖精を引き抜くのは大変なんだからね」

 

「そうですか、それは残念です。では十六夜さんはどうですか。優遇しますよ」

 

妖精メイドを勝手に引き抜くなと叱責されたので、十六夜の方を勧誘してみる。

彼女は僕の言を聞き、若干驚いたような表情をした。その後に僕の顔とレミリアの顔を交互に見比べた。

レミリアは何を馬鹿な、と従者の忠誠心を確信していた。そんな表情の主人を見た十六夜は、頬を緩ませ口を開く。

 

「そうですわね、それも面白いかもしれませんわ」

 

「でしょう。衣食住完備、福利厚生も充実してますよ。勿論、完全週休二日制です」

 

「まあ、素敵」

 

「明日からでもどうですか、歓迎しますよ」

 

レミリアの表情が崩れ始め、顔を顰めた。

 

「ちょ、ちょっと咲夜まで」

 

「うふふ、ジョークですわ、お嬢様」

 

瀟洒なメイドジョークだと十六夜はレミリアに言い放ち、彼女は安堵とも取れる表情になっていた。

流石にメイド長の彼女ともなれば、主人に対する忠誠心は底知れぬものとなっており、簡単に心情は傾かないという事が窺えた。

 

「ま、分かってたけどねっ」

どの顔がそう言うのか、レミリアがそう僕に向けて言い放つ。気のせいか、十六夜は苦笑しているようにも見えた。

 

 

 









以上となります。
感想、評価などお待ちしておりますので、よろしくお願いいたします。
週休二日制(大嘘)


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巻ノ十五 冬の人形師

紅魔館に招待され、西洋風の持て成しを受けた後、レミリアは冒頭にも告げた話を再び繰り出してきた。

内容は至極単純なもので、春が訪れず冬が延長されている事に関してである。

長引く冬は次第に生活にも大きな支障を来たすようになり、紅魔館に関して言えば、暖気を確保する為の燃料が底を尽きそうになっているという。

此のままの状況を維持するのは紅魔館にとっても、幻想郷にとっても憂慮すべき事態な為、何かしらの手段を用いて当異変を解決しよう、という話になった。

 

「異変を解決しようと言うけども、解決する手立てはあるのかい」

そうレミリアに質問する。

 

「さぁ。先ずはその手立てを探す事から始めないとね。貴方は何か心当たりとかないのかしら」

レミリアがそう問いかけてくる。

 

僕は記憶を掘り起こし、この数ヶ月の間に何があったかを思考してみた。

冬の合間は兎に角、客足が薄かった。厳寒で嬉々としていたチルノが一度だけ訪れたが、空調管理している僕の店は暑苦しいと、以来来店する事はなかった。

 

次に訪れたのが名も知らぬ客人、人里から訪れてきた珍しい客人であった。

恐らく食の評論家の方なのか、色々と指摘されたのを憶えている。その後に食の調査でもしてみようと、人里に足を運んだ。

特に収穫という収穫は無かったが、半人半霊という珍しい種族の人物と出会った。

名前は確か、妖夢という少女。腰に一本、背中に一本の刀を背負っており、物騒な印象が残っている。

彼女は人里で"春度"というものを集めていた、何が目的かは知らないが。

 

 

「春度を集めている少女がいたね」

 

「春度? なに、それは」

 

「知らない。積雪されていた苗木から桜の花びらのようなものが舞っていたが、少女がそれを"春度"と呼んでいた」

 

「ふぅん。奇妙な話ね、それ。確かめてみる余地はあるんじゃあないかしら」

 

レミリアはそう言い、紅茶を嗜んだ。そして再び口を開く。

 

「どうかしら、貴方が異変の解決に乗り出すというのなら、うちの咲夜を貸すけど」

 

「おや」

 

「端から咲夜に動いてもらおうかと思っていた事だし、二人で行動した方が効率的と思ってね」

レミリアがそう言って、十六夜に視線を送った。

 

紅魔館側は始めから異変解決に乗り出す気でいたらしく、僕が異変を解決する為に動くというのなら、十六夜も同行させてみてはどうか、という話だ。

 

「咲夜がいれば何かと役に立つ筈よ。腕も立つし、貴方一人じゃあ何か起きた時に大変でしょ」

 

うちの咲夜は優秀だからね、とレミリアが言う。

確かに一人で異変を調査するよりは、二人のほうが効率的に事が運ぶのは間違いない。

僕も長い冬にうんざりしていたので、丁度良い機会か。

 

「そうだね。二人で調査した方が効率的だし、それが良いかもしれない」

 

「そういう事。咲夜、天道と二人で異変の調査に向かいなさい」

 

レミリアの指示に、十六夜は了承の意を込めて小さくお辞儀をした。

十六夜は支度を始める為か、レミリアに一言入れて室内を後にした。

レミリアは僕に、直ぐに支度をしなさいな、と言うので、僕は彼女に君は調査に参加しないのか、と訊ねると

 

「私は行かないわよ」

 

「何故」

 

「寒いのは嫌だから」

 

彼女はそれだけ言うと、まだ暖かい紅茶を一口だけ飲んだ。

主人がこれでは従者は大変だろう、と僕は考え十六夜以下妖精メイド従者部隊に軽く同情した。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

暫くして支度を整え終わった十六夜が、僕を紅魔館の館の外まで案内してくれた。

道中で壁面に文字が刻まれた箇所を通過し、複雑な気持ちになったが今は考えない事にした。

そうして外まで出ると、紅美鈴と再び出くわした。彼女は事の成り行きを知らない為、お出かけですか、と質問してくる。

それに対して十六夜が仕事に集中しなさい、と彼女を叱責していた。上下関係とは理不尽なものが多いのだな、と紅美鈴に同情した。

 

「さ、それじゃあ行きましょうか、天道さん」

 

メイド服に防寒具は赤いマフラーだけの十六夜。寒くはないのかと訊ねると、寒いわよ、と返ってきた。

女性というのは何かと大変なのだな、と防寒機能の優れた外套を羽織る僕は思った。

 

大地は全域に渡り積雪しており、とても歩き難い状況となっていた。

何処に向かう、という事も決まっていない為、闇雲に手がかりを探している状態である。そんな状況で探し続けるのは拙いので、ひとつ提案する。

 

「十六夜さん。このまま闇雲に歩くのは効率が悪い。ここはひとつ二手に別れないか」

 

僕の言に対し口元までマフラーで覆っていたマフラーを退かし、十六夜が口を開いた。

 

「そうね、寒さで体力の消耗も激しいし、それが得策かも。貴方、空は飛べるのかしら」

 

「飛べますよ。あまり得意じゃあありませんが、人並みには飛べます」

 

「ふぅん、なら私が上から探すから、貴方は地上から探す、これでどうかしら」

 

十六夜の提案に、僕はそれで構いませんよと肯定した。

しかし現在も降雪は続いており、気温も氷点下に近い中で飛行するのは困難を極めるものである。

流石に彼女は吸血鬼ではなく、生身の人間らしいのであまり無茶な行動をすると凍傷による被害が出てきてしまう可能性もある。

そんな事になれば僕はレミリアに叱責どころか、殺害されてしまうこと必至である。

 

「十六夜さん、やはり僕が上から探しますよ」

 

心配になってきたのでそう提案すると、私に任せろと断られた。

彼女曰く、興奮状態の野生の妖精達はとても攻撃的であり、僕が空中から行ったら五分も持たない、らしい。

しかしこのまま何も配慮しないのは悪い気がするので、せめてもと言を発す。

 

「ではコレを持って行って下さい」

 

「これは……貴方の付けていた手袋じゃない」

十六夜が少し吃驚してそう言葉を返した。僕は言葉を続ける。

 

「寒さで体力を奪われては大変だ。僕は大丈夫だから、君が着けるといい」

 

「大丈夫よ、そんなに柔じゃあないから」

 

「人からの厚意は受けるべきだ。君はまだ若いし、霜に手をうたれては今後の仕事が大変だろう」

 

そこまで言って僕は手袋を彼女に突きつける。革製の、内側は手触りの良い羽毛で作られている為、保温性にも優れている。

彼女はぎこちない手付きでそれを受け取ると、穏やかな動作でそれを着用した。

 

「……そ。そこまで言うなら借りる事にしますわ。……ありがと」

 

「礼には及ばない。お互い助け合っていこう」

 

「そうね、頑張りましょ」

 

手袋を両の手に装着した十六夜は、手を合わせて暖かさやその手触りを実感した。

健闘を祈る、と言って僕は地上から異変の調査に向かおうとしたが、十六夜に背を向けた時に彼女が僕を呼び止めた。

僕は、何ですか、と彼女に言った後に振り向いた。

 

「私の事、咲夜でいいわよ」

 

「……そうか。では咲夜さん、健闘を祈る」

 

「変に畏まらなくてもいいわ」

 

「……あっそう。お互い頑張ろうか、咲夜」

 

彼女は微笑み、軽く手を振った後に空中に向けて飛翔した。上を見上げる事はしなかった。

手袋の礼のつもりなのか、彼女の少女らしい一面を垣間見た気がする。僕としては人の呼称などに拘りはないのだが、彼女が畏まるなと言うのなら、それに従うだけである。

僕は降雪に辟易しつつも、地上からの道を選び魔法の森の中を調査に向かった。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

空中から調査を始めた咲夜に対し、僕は地上から異変の調査へと向かった。

向かう先は"魔法の森"。普段は瘴気が覆っており、まともな人間は近付かない場所だ。

魔法の森は深い木々に覆われており、その枝葉に大地が守られている為に、平原と比べると積雪の度合いは随分と低い。

その中を歩いていると、魔法の森という事もあり雪に覆われた茸が目に飛び込んでくる。

 

「これは雪見茸かな。雪に覆われている茸だから、雪見茸」

 

名称も分からぬ茸を引っこ抜き、勝手に命名した。食べられるかどうかは不明なので、元の位置に戻しておいた。

魔法の森を歩いていると、かつての紅霧異変を思い出す。今回はかつての異変の元凶の地より出立した為、若干複雑な気持ちではある。

景色は前と比べれば正反対であり、白銀に染められた草木が美しい世界を創り上げ、僕を魅了した。

 

「自然の生き物達はどうしているのか。冬が長いから住処で餓死してるのかも」

 

冬場に冬眠している動物達などは、住処で餓死していても不思議ではない。

通常の四季の巡りでさえ、冬眠の途中で死亡する動物もいるのだから。そう考えると今回の異変は、多くの生命を脅かしていると予想ができる。

 

暫く思考しながら歩いていると、森の彼方から轟音が響き渡ってきた。当然それは森を歩いていた僕の耳にも飛び込んで来たので、何事かと思い音のする方向へと急いだ。

数分の移動を経て辿り着いた先には、戦闘が行われたと予想されるクレーター跡と、燻った木々である。

そして二人の人間と思われる少女が何やら会話をしていたので、樹木の陰から除き見るようにして立ち聞きする。

 

「冬場はいつも、こんなに騒がしかったのか?」

白黒の衣装の魔法使いが、帽子のズレを直しながらそう言い放ち、言葉を続ける。

 

「毎年豪雪だからな、普通の人間は外に出ないと思うんだが」

 

白黒の衣装の魔法使いは、遠目から見ても霧雨魔理沙という人物だと、僕でも理解できた。

対して積雪された地に、今にも倒れそうな状態の金髪の少女が、口を開く。

 

「私を普通の人間と一緒にしないでよ」

 

「ほう、なら異常な人間か」

 

「普通の人間以外よっ!」

 

そこまで言った後、魔理沙は満足気な笑い声をあげ、箒に跨り彼方へと行ってしまった。

流れ星のようにあっと言う間な出来事だった為、僕はただただ傍観に徹するのみであった。

金髪の女の子……恐らく魔理沙にやられたのだろう、彼女の衣服は酷く劣化しており、その場にへたり込んでしまった。

外気温がとても低い場所でいつまでも止まっていると危険なので、僕は声をかけた。

 

「そこの君」

 

「っ!」

 

彼女の頭に雪が降り積もりつつある状況下、僕が声をかけると彼女は警戒するような表情で此方を見据えてきた。

 

「大丈夫か。ひどく打ちのめされたようだけど」

 

「問題ないわ、この程度。……いたた」

 

「虚勢を張るのはやめたまえ。この場に止まっていては体温が下がる一方だ。君の家は此処の近くなのかい」

 

強がる金髪の少女に対し、場を移動する事を提案する。流石に積雪地帯に動けない少女を放置していくのは、心無い僕でも心が痛む。

彼女の家が此処から近いのなら、手を貸す事にした。

 

「……別に、貴方には関係ないでしょ。あれとは単なる弾幕ごっこをしていただけ。貴方は巻き添えを喰らって怪我したわけじゃあないんでしょ」

 

「まあ、そうだけど」

 

介抱する事を拒絶する少女だが、僕は彼女に近付いた。

 

「ちょっと! 私は向こうへ行けと言ってるのよ。家に帰る程度、何も問題はないわ」

 

彼女はそう強く言い放ち、足に力を込めて立ち上がった。

そうして立ち上がった少女は、危なげな足取りながらも少しずつ雪道を進んでいった。

途中途中で木に手をかけたり、もたれ掛かったりしながらも、着実に歩みを進めていた。

けれどそれも怪我が原因か、やはり途中で膝をついてしまった。降雪で彼女の身体に雪が若干積もり始めており、哀れに思ったので声をかける。

 

「やはり肩を貸そう。此処で出会ったのも何かの縁だ、肩を貸す程度、安いものさ」

 

彼女の傍まで駆け寄り、半ば強引に彼女の肩を引いた。彼女は若干驚いたような表情になったが、それよりも傷が痛むのか顔を顰めた。

僕は彼女に、家は此処から近いのかと再び問うと、彼女は少々声を震わせながら答えた。

 

「そうね、此処から少し歩けば……東の方よ」

 

「分かった。立てるかい、歩けないのなら背負おう」

 

「……大丈夫よ、肩を貸してもらえれば」

 

彼女がそう言うので、僕は彼女の歩行の補助をし、目的地を目指した。

 

 

 

*

 

 

 

彼女の言葉通り、東の方へ少し歩くと小さな家が目に飛び込んできた。

あれが君の自宅なのかい、と質問すると、彼女は小さく頷いた。そうして辿り着いた家は、近づいてみると遠目で見るよりも大きな家であった。

積雪のせいで外観の雰囲気はよく分からないが、屋根の淵は青っぽい色をしていた。

僕は彼女に促されるまま彼女の家……邸内へ通ずる扉を開き、中へと入った。

 

邸内に入ると、室内は明かりが灯されておらず暗に包まれていた。

当然だ、家の主人が怪我を負ってるのだから、明かりを灯したくても灯せない。

とりあえず彼女を近くのソファーへと移動し、楽な姿勢をとらせた。彼女は小さな声で、僕に礼を告げた。

室内は随分と冷え切っており、暖を取らなければ外と変わらぬ室温となっていた為、僕は彼女に断りを居れず暖を取った。

 

「すまない、勝手に火を灯させてもらうよ」

 

暖炉のような物が設置されており、薪もくべられていたので僕はそれに火をつけた。

簡単な点火術を用い、指の先から炎を灯す手段を僕は知っている。日々の生活において火はとても重要なもので、

我々の生活に欠かせない存在になっているそれは、常備できればこれ程心強いものはないというものだ。

 

「ひどい怪我だね、一体どうしたんだ」

 

「私が知りたいわよ。変な魔法使いが春がどうの、雪がどうのと言って嗾けてきたの。いい迷惑よ、本当に」

 

愚痴を零すように彼女はそう言うが、傷を労わり言葉の端々は弱々しいものとなっていた。

 

「春がどうの、とは一体。あの魔法使いに僕は見覚えがある。良ければ詳細を教えてくれないか」

 

「さぁね、私も一体何の事だか。ただ"春度"を集めてる奴がいる、って事くらいしか知らないわ」

 

「その"春度"を集めてる奴は、何処に」

僕は彼女に向けてそう問うた。

 

「……詳細は私にも分からないわ。けれど、地上より上空のほうが暖かい、って不思議じゃない?」

 

「不思議だね」

 

「仮に"春度"がひとつの場所に集まったら、きっとそこは地上に存在する如何なる場所よりも暖かくなると思うのよね」

 

少女はそれだけ言うと、会話を止めて横になった。

確かに彼女のいう事は僕にも分かる、"春度"とは恐らく春の季節には欠かせない存在のものであり、地上の"春度"が無くなってしまった為に、地上に春が訪れない。

その代わりに"春度"が集められた場所は、春真っ盛り。恐らく桜も必要以上に開花しているのだろう。

そして彼女は地上よりも、上空の方が暖かいというのだ……これは決定的な手掛かりである。

 

「ありがとう、目的への手掛かりが掴めたよ」

 

「そ。お役に立てて何より」

 

「お礼と言っては何だけど、治癒の手助けをしよう」

 

「治癒の……?」

 

横になっている少女に近付き、僕は彼女に向けて手を翳した。

その行為だけで彼女は警戒を強めるのだが、僕は彼女を害するつもりはないので、その事に関しては何も思わない。

僕の中の霊力の一部を、彼女の中へと移すのだ。

転移術は滅多に使わない、そもそも術自体を使用するのは久しぶりであるが、彼女の怪我の治癒力を高める為には必要不可欠なのだ。

このまま黙って去る事も出来るが、流石にそれでは悪いので僕は彼女に霊力の一部を分け与えた。人助けなど自己満足に過ぎないが、情報料と考えれば十分。

 

「ッ! ……何をしたの」

 

「僕の霊力を少し分けた。怪我の治りも早くなると思う。ではお大事に」

 

「霊力を……? あ、ちょっと!」

 

この娘は気位が高いのだろう、当初より迷惑がられていたので、早々に家を出ようと思ったが、呼び止められた。

 

「貴方、名前は何ていうの」

 

「天道というものだ。そうだね、此処から東の方に行った所、里の近くに店を構えている。良かったら来たまえ」

 

「天道、ね。私はアリス。アリス・マーガトロイド。暇が出来たら、訪ねてみるわね」

 

自己紹介を交わした後、僕は彼女の家を出た。

外は相変わらずの積雪で、周囲の木々のせいか辺りは暗目である。

アリスという少女から手掛かりを入手した事もあり、目的の場所は地上から上空へと変わった。

僕は苦手な飛行術を駆使し、地上から遥か上空を目指し、先に立っていった咲夜の後を追うようにして調査を再開した。

 

 

 

 

 






以上となります。
着々とお気に入り件数が増えてるのを見ると、執筆の意欲も湧いてくるというものですね。
それでは、次話でお会いしましょう。


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巻ノ十六 騒霊と半人前の庭師 

 

上空に昇るに連れ、大気中の温度は低下していく。それは大地という加熱源から離れて行っている事が原因らしいが、詳細は知らない。

しかし地上から離れるに連れ、周囲の温度が上昇していっているのが分かる。

普通ならば気温は低い筈なのに、飛翔すればするほど気温が上がる。既に思考せずとも、春の陽気が近いという事が窺えた。

 

「むむ」

 

高度を上げて飛翔を続けているうちに、煙を燻らせながら落下していく小さな少女が何人か。

人間よりも小さい少女達、察するに凶暴化した妖精達なのだろう、戦闘中に撃墜されていった哀れな妖精である。

高度をぐんぐんと上げる。同時に増えていく妖精達。その多くは何処かの誰かに打ち落とされ、再起不能となっている妖精なのだ。

恐らく咲夜の所業か、先程の魔理沙が勢いに乗じて猛進しているかのどちらかだろう。

 

そのまま更に高度を上げ、やがて真っ白な雲が視界に飛び込んできた。

因みに雲とは、大気中に固まって浮かんでいる水滴、または氷晶のことである。

我々の住む地球上において、基本的に雲は水から成ると考えて良いだろう。

大空に広がる雲を綿飴と見立て、口いっぱいに頬張りたいと考えた人達は、恐らく少なくないだろう。

下層雲、中層雲を越えて更に上層雲近くまで飛翔すると、地上よりも随分と温暖な事を肌で感じた。

そして段々と呼吸をするのが辛くなってきたのを感じてきたので、後少し進んで何も無かったら帰ろうかなと思っていた矢先、多くの人影が雲先から見えてきた。

 

雲先から現れた人影の正体は、咲夜と魔理沙、それと紅白の巫女であった。

それらと対峙してるのは、見た事も無い三人の少女であり、傍から見ると三対三で対峙しているようにも見受けられる。

僕は風下側にて退治している咲夜に接近し、声をかけた。

 

「やあ、どうしたの」

僕が背後から咲夜に声をかけると、彼女は言葉に気付いて振り向き、遅かったわねと言った。

 

「見ての通り、行く手を遮られてるの。あいつらの背後に結界が張られているのよ。どう見ても……くさいわね」

 

「ん、お前は天道じゃないか。どした、花見でもしに来たのか?」

 

魔理沙は僕に向けてそんな事を言うが、違うよと一言否定の言葉を入れた。

 

「あら、お天道様だっけ」

 

「天道だ。そういう紅白の君は、霊夢君だったね」

 

「憶えているとは光栄ね。それで、こんな所まで何しに来たの」

 

「花を摘みに行こうと思って。どうにも、この先が怪しい気がするんだ」

 

「そ。同感ね」

 

紅白の巫女こと、博麗霊夢とそう言葉を交じわす。

どうやら彼女達も、今回の冬が長引く異変の調査に赴いていたようで、道中で咲夜と合流し現在に至るようだ。

対して目の前にいた見知らぬ少女三人組が、僕達に向けて口を開いた。

 

「またよく分からないのが来たね」

 

金髪のショートボブに、円錐状で返しの付いている黒い帽子を被った少女。

白いシャツの上に黒いベストを着用しており、三人の少女の中で最も大人びた風格をしている。

彼女の周囲には、ヴァイオリンが浮かんでいた。

 

「君達は誰だ」

 

僕がそう質問すると、白のシャツに赤いベストのようなものを着用した、亜麻色のくせっ毛の少女が口を開く。

 

「私達? 私達は騒霊演奏隊。お呼ばれしたから来たのよ」

 

「あっそう。演奏隊ということは何かね、楽器の扱いが得意なのか」

 

「そうそう! 私はキーボードが得意なの」

 

「私はトランペットよ」

 

明るい水色にウェーブのかかったセミロングの少女はそう答える。

アシンメトリーのように左右非対称になっており、瞳の色は純蒼であった。

彼女は他の二人の少女と違い、薄いピンクのシャツに薄いピンクのベストのようなものを着用していた。

 

「君達は姉妹なのか」

 

「そうよ、プリズムリバー三姉妹とは私達のことね。あ、私は次女のメルラン」

 

「私は三女のリリカよ。……ほら、姉さんも」

 

「……私はルナサ」

 

明るいの子がメルラン、赤い容姿の子がリリカ、暗めの無口な子がルナサ、というらしい。

プリズムリバー三姉妹と名乗っていたので、それぞれの名の後にプリズムリバーと付くのだろう。

 

「そうか。僕は天道という者だ。里の近くで小料理屋を営んでいるから、よければ来たまえ」

 

「あ、それ私知ってるよ。人里の外れにある場所よね」

 

「そうだ」

 

「前にソロライブに行く途中で見かけたからねー。廃屋かと思ってたけど、人が住んでたんだ」

 

失礼な、と僕はメルランに向けて言い放った。

三姉妹の中でも最も明るい性格のしているメルランが、この騒霊演奏隊という楽団のリーダーなのかと思い、質問してみた。

君がリーダーなのかい、と訊ねると、リーダーはルナサよ、と彼女に向けて指を刺した。意外だなと思いつつも、彼女に向けて口を開く。

 

「失礼した、君がリーダーか。今度僕の店にでも演奏しに来たまえ。はい、これ名刺」

 

「む、あっそう。頂こうか。私達の指名料は高いよ」

 

「参考までに、聞いておこうか」

 

「そうね~。一回の公演につき、金の延べ棒三本でどう?」

 

「二束三文じゃあ商売にならないからねー」

 

「ちょっとリリカ! 勝手なこと言っちゃあダメでしょ!」

 

僕がちょっと値段の事を聞くと、三姉妹はぎゃあぎゃあ、と騒ぎ出した。

その辺りは騒霊らしく、大人しいと言われたルナサという子も妹達を叱責したりと、騒がしい。

 

「分かった、落ち着きたまえ君達」

 

「おい天道、なに勝手に仲良くしようとしてるんだよ」

 

「あいつらを始末しなくちゃあ先に進めないんだから、とっとと片付けましょ」

 

僕の背後では血気盛んな三人の少女達が、腕を鳴らし肩を鳴らしている。とても暴力的だ。

対してプリズムリバー三姉妹は、未だに騒々しく口喧嘩をしているので、僕は魔理沙達にこのまま先に進もう、と提案するが、

結界の解き方が分からないと言い、奴らの口を割らせてやるわ、と咲夜が力強く言い放った。

此れでは話し合いもあったものではない、と僕は彼女達の背後へと移動し、争い事に巻き込まれぬよう距離を取った。

 

「天道さんは下がってなさい、怪我するわよ」

 

「此処は私達に任せとけ!」

 

「そういうことだから、貴方は少し休憩してなさいな」

 

三人の活発な少女は、口々にそう言うのでお言葉に甘えさせてもらう事にした。

口論していた三姉妹も、彼女達の闘気を感じたのか我に帰り、戦闘態勢に入った。

戦闘方法は知っての通り、スペルカードルールによる弾幕ごっこであり、彼女達はそれぞれに弾幕の撃ち合いを開始した。

 

女の子達が物騒な決闘をしている最中、僕は一人で休憩する事にした。

といっても空中に浮かんでいる状態なので、徐々に霊力を消耗する事は必然な為、休憩にならない。

それなら少しばかし探索してみようと、彼女達から離れ、結界とやらの近くにまで移動してみた。

 

「ほう、これが結界か。もっと壮大なものだと思ってたけど、存外に陳腐なものだ」

 

目の前に広がる結界は、その名の通り結界なのだが、僕が想像していたものとは異なっていた。

近付いたら何か神的な超常現象により拒絶されるのかと思っていたが、薄い鏡張りのようになっているだけであり、叩けば割れそうなものであった。

しかしながら結界は結界なので、軽く殴った程度じゃあ全くと言って良いほどビクともしない。

いや、全力で叩いたところで結果は同じだろう。

 

そういえばプリズムリバー三姉妹は、お呼ばれしたと言っていた。という事はつまり、何処かに入り口があるのだろう。

三匹の幽霊の為に、わざわざ結界を解くわけもないし。何処かしらに、結界を通る抜け道があるに違いない。

彼女達はまだ戦っているだろうし、自分だけで探そうかなと考えていた時、不意に声がかけられた。

 

「あら、何やってるの天道さん」

 

声の主は咲夜であった。弾幕ごっこは如何したのだ、と質問すると、彼女は得意気な顔で答える。

 

「もう終わったわよ。思っていたより大したことのない連中だったわね」

 

「いくら何でも早すぎではないか」

 

「知らないわよ、そんなこと。文句なら弱っちい騒霊に言いなさいな」

 

咲夜がそう言っている間に、後から魔理沙と霊夢が続いてきた。

 

「大きい結界ねえ。さて、如何しましょうか」

 

「やっぱり弾幕ごっこは燃えるな。おい、天道」

 

「なんだ」

 

「次はお前と弾幕ごっこをやってみたいぜ」

 

魔理沙は弾幕ごっこが好きなのか、戦闘後だというのに元気が有り余っている様子である。

僕は彼女のお誘いを丁重にお断りし、結界の処理を思考している霊夢に、あの三姉妹に結界を通る手段を聞かなかったのか、と質問した。

 

「質問する前に終わっちゃったのよ。というか、闘いながら公演料がどうのとか、ずっと喧嘩してたわよ」

 

「そうか。仕事熱心なんだろう」

 

「ん、そういえば確か三姉妹の中の赤い奴が、上を飛び越えて入るー……とか言ってたぜ」

 

僕を含め、三人が魔理沙へと視線を向けた。

上を飛び越えて入る、とはこれ以下に。予想外も甚だしいが、有益な情報に変わりはない。

他に情報がないのだから、と霊夢は先に飛翔し、結界を飛び越えようと先に進んでしまった。僕達も、その後に続いた。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

プリズムリバーから聞いた情報通り、結界を飛び越えようと上に向かって飛翔すると、間もなく結界の行き届いていない箇所を発見した。

それを見逃す筈も無く、僕を含め三人の少女達が結界を通り抜けた。

 

結界を通り抜けると、一瞬にして視界がホワイトアウトした。

そうして直ぐに視界が正常に戻ったが、周囲はまるで異世界に迷い込んでしまったかのように、別の風景に変わっていた。

月明かりだけが照らす、墓場のようなジメジメとした湿地帯。事実墓石のようなものが幾つも建っており、人魂がふよふよと浮かんでいた。

 

「不気味なところだなー。此処はあの世か何処かか?」

 

「と言うことは、僕達は気付かぬ間に死んでしまったということか」

 

「馬鹿なことを言うのはよしなさい」

 

魔理沙が冗談っぽくそう言うと、咲夜が冷めた口調でそう言葉を挟みいれてきた。

けれども実際に彼女の言うとおり、まるで冥界にでも迷い込んでしまったのかと錯覚してしまうような場所であり、穏やかな雰囲気ではない。

とりあえず立ち尽くしていてもしようがないので、先へ進もうと提案すると、彼女達も同意見だったようで先へ進む事にした。

 

歩きながら周囲を観察していると、人魂やら青い炎など、この世のものとは思えない事象ばかり発生しており、思いの他賑やかだなあ、と感じた。

それらの怪奇現象を楽しみながら騒がしく歩いていると、やがて眼前に頂上の見えぬ階段が見えてきた。

長く、とても険しそうな階段であり、登るには一苦労しそうな長さである。

 

「誰かいるわね」

 

刹那、霊夢がそう呟き歩を止める。

目を凝らして集中してみると、階段下には一人の少女が立ちはだかっている。僕はその少女に、見覚えがあった。

 

「待ちなさい。貴女達、人間ね」

 

声の主は、いつしか人里で出会った魂魄妖夢であった。

彼女が此処にいるという事は、やはり異変の元凶という事なのか。何にせよ、異変に関与している事に変わりない。

 

「生きた人間が此処に来るとは……道理で、皆が騒がしいと思った」

 

「不吉な場所に、得体の知れない奴が出てきたな」

魔理沙がそう言った。

 

「あまり喜ばしくない場所ね。此処は何処なのかしら」

 

「此処は白玉楼。昔生きていた者達が集まる場所よ。因みに、貴女はまだお呼びじゃない」

 

「漸く黒幕が隠れてそうな場所まで辿り着いたというのに、また厄介な死人が出てきたわね」

咲夜がそう言った。

 

「生きた人間の常識で物を考えると痛い目に遭う。貴女も一度死んでみますか?」

 

「死人に口無し。私は結構ですわ」

 

非常に好戦的な少女達を、傍から見ていると冷や冷やとする。

少女達はそれぞれに獲物を手にすると、現場は一触即発の状態へと進展した。両者の言葉も穏やかではなく、誰かが攻撃を仕掛けたら戦闘が始まってしまいそうな雰囲気だ。

妖夢と顔見知りの僕は、争い事に発展する前に言葉をかける。

 

「妖夢君」

 

「おや、貴方は天道さん」

 

抜刀していた妖夢に声をかけた。彼女は警戒の糸を解く事は無く、刃先は此方を捉えたままだ。

 

「君が此処に居るということは、君が異変の関係者で間違いないのかな」

 

「……そうですね。私は幽々子様から、侵入者の排除を命じられていますので」

 

「そうか。僕は幽々子さんと顔見知りだ、出来れば此処を通してもらいたいのだが」

 

「申し訳ありません。西行妖が満開になるまでは、たとえ幽々子様のご友人であらせようとも、通すわけには参りません」

 

妖夢はそう言い、此処は絶対に通さないという意思を示した。

抜刀された刃先は相変わらず此方へと向いており、それが揺らぐ気配は見えなかった。

魔理沙達が僕に耳打ちする。これ以上の話し合いは無駄だから、実力行使だ、と。確かにそれが一番手っ取り早い。

 

「天道、これ以上あいつと話しても無駄だぜ」

 

「そうよ、死人に口は無いんだから」

 

「失礼な。私は半分生きている!」

 

霊夢と魔理沙は相変わらず好戦的で、妖夢を挑発して楽しんでいた。

そんな様を見ていた僕に、咲夜が耳打ちをしてきた。

 

「ねえ、何故あの子は貴方に対して敬語なの」

 

「さあ。皆目見当もつかない。まあ、根は真面目なんだろう。僕は君達と違って友好的だから」

 

咲夜の疑問は僕にとってはどうでも良い疑問である。

単純に攻撃的な連中に対して言葉が鋭いだけなのではないか、と思うのだが。

 

「あと少し、ほんの僅かの春が集まれば、西行妖が満開になる。貴女達の集めたなけなしの春が、西行妖を満開にする後押しとなる!」

 

妖夢がそう言い放つとその場から大きく跳躍し、魔理沙に向かって神速の一撃を叩き込んだ。

魔理沙はそれを小さな掛け声をあげて避けると、小さな八卦炉を取り出し戦闘態勢となる。

それに反応し霊夢も、咲夜も警戒を強め、僕もそれに習った。

 

「……妖怪の鍛えたこの楼観剣に、斬れぬものなど、殆ど無いッ!」

 

二本目の刀を抜刀し、妖夢が再び飛び掛ってきた。半人半霊と、幻想郷の住人達の戦闘の始まりである。

 

 

 









以上となります。
感想、評価などお待ちしておりますので、今後ともよろしくお願いします。


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巻ノ十七 死合い、そして

 

神速の太刀筋で襲い掛かってくる魂魄妖夢に対し、三人の少女達が迎撃を試みる。

霊夢の御札を長刀、楼観剣で振り払い、魔理沙のレーザー攻撃を寸でのところで避け、咲夜のナイフを短刀、白楼剣で捌く。

三対一の状況下にも関わらず、妖夢は善戦を繰り広げていた。

 

この三竦みの中に彼が飛び込めば、状況は大きく変わるのだろうと予想できる。しかし彼はその輪の中に飛び込もうとはせず、彼女らの戦闘を傍観していた。

魂魄妖夢には、彼女の化身ともいえる半霊が憑いている。

妖夢が攻撃を捌けば半霊が迎撃し、妖夢が攻撃を仕掛ければ半霊が本体を守護する。

およそ半人前と評価されていた彼女であるが、逆境下に置かれた状況を我が物にし、自らを奮起させ闘争心は常人のそれを越えていた。

 

やがて少女達の乱舞が収まると、互いに距離を取り吐息する。

 

「くっそ、なんつー剣捌きだ。弾幕が全然通らないぜ」

魔理沙が額に汗を滲ませながら、そう呟いた。

 

「見た目よりも腕が立つみたいね。メイドの能力でどうにかなんないの」

 

「もうやってるわよ。けどスペルカードルールにおいて、絶対に避けられない攻撃はしちゃあいけないんでしょ、確か」

 

霊夢と咲夜がそう会話する。

スペルカードルールのひとつの条件として、絶対に避ける事の出来ない攻撃をするのは、ルール違反に相当するのだ。

 

その為、三対一の状況下であろうとも、妖夢には何処かしらに逃げ道が用意されているので、袋叩きにされるという事が無いのだ。

妖夢は気兼ねする事無く攻撃が出来るが、彼女達は味方に被弾しないよう気を遣わなければならない。更にカードの宣言回数も、三人で一纏めにされているようだ。

 

「魂魄の名にかけても、此処で負けるわけにはいかないッ!」

 

地を蹴り、一直線に向かって猛進する。その先に居たのは彼、天道である。

彼女の一直線に向かって飛び掛る斬撃速度は、並みの天狗では目で捉える事すら困難な速度であり、魔理沙も霊夢も、咲夜ですら能力を使用する事ができず妖夢の進撃を許した。

 

魔理沙の金髪が風を受け揺らぐ。一瞬何が起こったのか理解する事が出来ず、目の前にいた妖夢の姿が消えていた事に気付くと、視線を四方にやり索敵した。

そうして魔理沙は自身の背後へ視線をやると、霊夢と咲夜の背中が見えた。更にその奥には、楼観剣を縦に一閃した妖夢の背が飛び込んできた。

妖夢の前方にいたのは、天道であった。胴体を斬られたのかと一瞬思った魔理沙が声をあげるが、妖夢の手が震えている事に気付き凝視した。

 

「……危ない。少しでも反応が遅れてたら、今頃胴体が半分になっていた」

 

彼は楼観剣を白羽取りし、妖夢の攻撃を受け止めていた。

彼の想定外の反応速度に妖夢は驚愕し、楼観剣を動かせずにいる。否、彼に刀を白羽取りされており、刀を引き抜く事が困難な状況になっていたのだ。

 

彼は楼観剣を受け止めたまま、周囲の少女達に向けて言葉を放つ。

 

 

「この場はは僕に任せたまえ。君達は、その階段の先を目指すといい」

 

「先を目指せって、この半死女が黒幕じゃあないのかよ」

 

「この娘は黒幕ではないと思う。恐らく、この娘の主人が黒幕だろうね。以前、彼女の主人を見かけた事があるから」

 

「……で、その主人はこの階段の先にいる、と。そう言いたいのね」

 

「その通り」

 

霊夢が彼の言葉を代弁し、異変の元凶が階段を登った先にいるだろう、という予測を立てた。

白羽取りで妖夢が思うように行動が出来ないうちに、魔理沙と霊夢、咲夜がそれぞれに階段の方へと向かう。

途中で半霊に行く手を阻害されるものの、三人の少女らに半霊だけでは役者不足であり、呆気なく振り払われた。

 

「油断しちゃあダメよ、天道さん。そいつ、そこそこ強いっぽいから」

 

「格好付けるのは結構だけど、無理をして死ぬ、というのだけは勘弁してね。私がお嬢様に怒られちゃう」

 

霊夢と咲夜がそう言い、長く険しい階段を登っていく。

 

「こんな所でくたばるなよ、天道!」

 

後に魔理沙もそう口にすると、先に進んで行った霊夢と咲夜の後を追っていく。

そうして階段下の広場に取り残されたのは、天道と妖夢の二人だけになった。

 

 

 

*

 

 

 

冥界にて魂魄の血を引く少女と、幻想郷から訪れた男が対峙していた。

少女は額に汗を滲ませており、対峙する男からある程度の距離を取っていた。

一方で男は額に汗一つ浮かべておらず、余裕すら窺える表情をしていた。

 

「天道さん……大人しく此処を去れば、手荒な事はしません。幽々子様のご友人に手を上げるのは、私としても心が痛みます」

 

妖夢はそう言うと、白楼剣だけを鞘に戻し一刀流の構えを取る。

 

「妖夢君。それは違うんじゃあないか」

天道は彼女に向けて、そう諭すように言葉を放ち、続ける。

 

「君は主人から侵入者を排除しろ、と命令されたのではないか。私情で侵入者を逃がすような真似をするのは良くないと思うが」

 

「……厚意で言ったんです。幽々子様のご友人は数少ない……私が貴方をこの場で斬り捨てるのは簡単です。

しかし、幽々子様のご友人である貴方を斬り捨ててしまっては、きっと幽々子様は悲しまれます」

 

妖夢はそう呟くように言い放つと、楼観剣を頭上へと掲げ、構える。そして言葉を続けた。

 

「しかし、貴方の言葉にも一理あります。私は幽々子様の付き人であり、幽々子様の為に剣を振るうと心に誓いました。

貴方が私と対峙すると言うのなら、最早容赦はしません」

 

上段の構えを取り、妖夢がそう力強く言い放った。

今にも斬りかかって来そうな雰囲気の妖夢に対し、天道は泰然とした表情で口を開いた。

 

「迷いや躊躇といったものは、隙を生じさせるものだ。君はこれから僕と戦うんだから、心に余裕を持っていた方が良い」

 

「……随分と余裕ですね。敵に塩を送るほど腕に自信があると見えますが」

 

構えを取ったまま微動だにしない妖夢に、彼が質問に答える。

 

「僕は能力で、何でも分離させたり結合させたりする事が出来る」

 

「……それがどうかしましたか」

 

「ただ、少し訳有りでね。能力に制限がある状態なんだ。遠く離れてたら能力は届かないし、効果も弱くなる。

でもね、こんなにも近い距離で対峙しているんだ……僕が直接手を下さずとも、君の頭部と胴体を切り離す事だって出来るんだよ」

 

彼が自身の能力をそう説明した。天道の能力の詳細を初めて知った妖夢は、滲んでいた額の汗が頬を伝うのを肌で感じ、恐怖すら覚えた。

しかし同時に"何故わざわざ自身の能力を明かすのか"という疑問を抱き、不気味さすらも感じた。その事を知ってか知らずか、彼は言葉を続ける。

 

「けど、そんな事はしない」

 

「……どうしてですか」

 

「相手を殺めるというのは、単なる手段の一つに過ぎない。どうしても暴力的手段によって解決しなければならない時は、使用する事もやむをえないと思っているがね」

 

彼はそう言い放つと、懐から何かを取り出した。妖夢は咄嗟に警戒するが、彼が取り出した物に疑問を抱くと同時に、緊張状態が若干であるが緩和した。

天道が取り出したものは、およそ"果物ナイフ"と思われる小さなナイフ。刃渡り数十センチ程度の、細く華奢なナイフであった。

鞘からそれを抜き取ると、果物ナイフは右手に、鞘は懐に戻した。その事を確認した上で、妖夢が訝しげに口を開く。

 

「何のつもりですか」

妖夢がそう言うと、彼は果物ナイフ……小刀を目線の高さまで掲げる。

 

「獰猛な肉食獣は、兎を狩るのにも全力を出すというが……僕はそんな間抜けな獣とは違う」

 

「……私程度、その小刀で十分、という事ですか。……舐められたものですね」

 

「闘う雀、人を恐れずともいう。窮屈な弾幕ごっこよりも、刃で語る方が君も好きだろう」

 

彼はただそれだけを言うと、小刀を真っ直ぐに構え、妖夢を迎え撃つ構えを見せた。

上段から楼観剣を構える妖夢は、機を窺いただひたすら好機を待った。

 

 

 

*

 

 

 

妖夢と天道が睨み合い、互いに攻勢を窺い始めてから数分が経過した。

幾多の死線を潜り抜けてきたのだろう、と妖夢は彼の事を推測し、迂闊な行動は死に直結すると思考し警戒を強めていた。

 

────隙が見えない

 

妖夢は刀を構えつつも、そう思考した。

脳裏で彼に攻勢を仕掛けるイメージをするが、どこから攻撃を仕掛けても、妖夢のイメージは良い方向に転じない。

 

何故かあの小刀で、長刀の楼観剣を弾かれてしまう、と。

しかし、此処で弱気になってしまえば相手の思う壺だ、と。妖夢はそう強く思考する。

相手は刃渡り数十センチ程度の小刀、ろくに鍛えられていないだろう果物ナイフに等しい刃物だ。

その程度の小刀如きに、妖怪の鍛えた楼観剣が打ち負ける筈がない────妖夢はそう考え自身を鼓舞すると、一気に攻勢に出た。

 

 

「────ッ!」

 

小さな掛け声と同時に、妖夢が天道に向けて斬りかかる。

先程も見せた神速の一撃であり、普通の人間ならば反応すらできない一撃である。

 

金属音が衝突する激しい音が響き渡り、彼の小刀が妖夢の楼観剣を斜めに受け流す。

けれど受け流されつつも妖夢は楼観剣を巧みに使い、再び彼に向けて斬撃を繰り出した。

一太刀、二太刀と繰り出すものの、その斬撃が彼の身体を切り裂く事はなく、全て受け流されていく。

 

「……ッ、このッ!」

 

楼観剣を両の手で確実に握り、彼に向けて袈裟斬りではなく、刃先を一直線に突き出す刺突を繰り出す。

しかし、その刺突は難なく弾かれてしまう。乾いた金属音だけが周囲に木霊すると、刀身を大きく弾かれた妖夢に隙を生じさせてしまう。

 

「精巧な太刀筋だ。流石は魂魄家の御息女……一つ一つの攻撃に迷いがない」

 

「何を……ッ」

 

天道はそれだけ言うと、小刀を翻し攻勢に転じた。

彼の小刀は楼観剣を捉える事はなく、妖夢の身体に向けて一筋一筋、丁寧な刺突を繰り返した。

 

彼女はたかが小刀と油断していたのだろうか、刺突の速さに翻弄され防御に徹していた。

得物が軽い分威力は著しく劣るが、得物を振るう速度は大幅に上昇している。

一方で彼女の楼観剣は刃渡りが長く、その分だけ重量も重くなっており、武器を振るうには少々手間のかかる代物だ。

 

「っ、半霊!」

 

太刀だけでは避け切れぬと判断したのか、妖夢がそう叫ぶと彼女の化身である半霊が彼に襲い掛かった。

彼は軽い掛け声だけでそれを避けると、再び互いに距離を取る形となった。

 

「動揺しているな、妖夢君。自分がこんな小刀に翻弄される筈がない、と」

 

「……そんな事、ありませんッ!」

 

妖夢は楼観剣を背負っている鞘の中に戻し、今度は腰に差している白楼剣を抜刀する。

白楼剣は刀身が短い為、斬撃速度の向上が見込めるので、妖夢はそれを選んだのだろう。

 

「この白楼剣は、迷いを断ち切る事が出来ます。幽霊ではない貴方を斬ればどうなるか、私には分かりません」

妖夢は獲物を構え、言葉を続ける。

 

「けど、私は貴方を此処で始末しなくてはならない。たとえ私に斬られて地獄に堕ちたとしても、怨まないで下さいねッ!」

 

彼女は懐から一枚のカードを取り出す。白楼剣を構え、逆手に持つスペルカードを天高くかざした。

 

「天神剣」

 

妖夢が符名を宣言すると、スペルカードが霞となって消失した。

左手に白楼剣を構え逆手で再び楼観剣を抜刀し、妖夢は地を蹴る。白楼と楼観が妖しい輝きを放ち、敵の命を絶たんと美しい剣の舞を始める。

 

「───三魂七魄ッ!!」

 

刹那、周囲の時間が遅延する。

時が遅延しているのか、或いは彼女の剣舞が光のそれを越えたのか。

白楼と楼観の神速の一太刀が、彼の心の臓を両断せんと襲い掛かってくる。

 

「……むッ」

 

彼女の斬撃は彼の予測の遥か上を超えており、彼が小刀で防御の姿勢を取る前に、白楼の一撃が彼を通過した。

寸前で上体を反らす事により深手を負う事は避けられたが、これが刀身の長い楼観であれば既に決着が着いたであろう。

二太刀、三太刀と彼に攻勢を転じさせまいと、妖夢は二振りの名刀で剣舞を舞う。

 

「それがスペルカードか。なるほど、先程とは桁違いの疾さだ……その剣筋、まるで時空を両断しているかのような」

 

「お喋りをする余裕があるのも、今のうちですッ!」

 

時には二刀同時に振りかざし熾烈な一撃を叩き込むと、彼の小刀もそれは受け切れない、と身を翻して回避行動を取る。

妖夢はその隙を見逃さず、刀を地に突立てそれを軸にし、彼の胴を目掛け蹴りを繰り出した。

避け切れぬと踏んだ彼は、その攻撃を甘んじて受け入れた。

 

衝撃で僅かに後方へと後退りながらも、彼はその場で体勢を整え妖夢を迎撃せんと顔を上げる。

だが眼前に対峙していた妖夢の姿を視界に捉えると、状況の変化に驚愕し口を開く。

 

「……これは分身の術か」

 

僅かの間に妖夢は術技を駆使し、半霊を自らの分身に変化させていた。

魂魄家の秘術、幽明求聞持聡明の法である。彼に対峙するは、半人前の剣豪が二人。死闘の行方は益々見えなくなっていた。

 

 

再び斬り合う金属音が鳴り散らされる。

斬り結ばれる回数は先よりも多く、けれども彼の身体を楼観剣が通り抜ける事は無かった。

 

────持久戦に持ち込めば負ける

 

何合も切り結ぶ間に、妖夢はそう思考した。彼女の行使した術技には時間的制約が存在し、継続時間が短いのだ。

妖夢は半歩、半歩と斬り結びながらも、彼へと肉薄した。

 

「────抜けるッ!」

 

妖夢がそう確信した瞬間、彼の小刀が妖夢の身体を貫いた。

 

だが、それは本体ではなく、半霊が創り出した分身であり、刺突を受けた分身体は幻影のように霞、消えていった。

そして天道が分身を刺突した時の決定的な隙を、半人前ではあるものの剣豪たる妖夢が見逃す筈も無く────

 

「これで終いです! 生死流転斬ッ!!」

 

下段から上段にかけ、弧を描くような斬撃が彼の胴を駆け抜けた。

楼観剣が肉を裂き、鮮血が返り血となり彼女の頬へと付着した。

彼女の攻撃は彼の胴を深く抉り、腹部から肩部にかけて躊躇無く通り抜けていった。

 

「ッ……」

 

叫び声すら上げず、彼は静かに息を漏らした。

妖夢は自身の勝利を確信しながらも、止めとなる一撃を彼に向けて放った。

血液を撒き散らし周囲を血で染めているのにも関わらず、絶命させる一撃を放つのは、ある種の慈悲の意が込められているのかもしれない。

 

「素晴らしい死合いでした。貴方が再び、此処へ訪れるのを待っています」

 

頬を伝う汗を拭おうともせず、妖夢はただそれだけ呟くと、上段から一気に楼観剣を振り下ろした。

絶命させる一撃、避けられようのない一撃であるその攻撃。

しかしそれが彼に命中する事はなかった。

 

 

「───ッ、なっ……そんな筈はッ」

 

楼観剣を振り下ろす最中、不意に手首を誰かに掴み取られる感触を妖夢は感じた。

胴体を真紅に染めた男が、楼観剣を持つ手を掴み上げ自身へと及ぶ攻撃を止めたのであった。

 

予想の範疇を超えた行動に妖夢は驚愕の色を隠そうともせず、動揺した。

しかしそれも束の間。彼女は、自身の意識が吹き飛んでしまうかのような錯覚に陥る。

否、錯覚ではなかった。彼女は直ぐに、そう理解した。

 

「手応えはあったのに、どう……して……ッ」

 

彼は攻撃を防いだだけに終わらず、同時に妖夢へ強烈な一撃を見舞っており、彼の拳は妖夢の鳩尾を深く抉っていた。

───完全に油断していた、と妖夢は崩れ堕ちる意識の中、静かに思考した。

 

致命傷と断定出来る深いダメージを与えたのにも関わらず、天道は攻撃を受け止め、更に反撃まで行ったのだ。

隙を生じさせる策略にしては些か大胆すぎる上に、妖夢の彼に対する攻撃は完全に、常人ならば即死しているであろう一撃であった。

自身の鮮血で大地を染める彼は、その表情を濁さず無表情で、足元に崩れ落ちた少女を眼下に置く。彼らを取り巻く周囲の墓石は、真紅に染まっていた。

 

 

 

 

 

 



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巻ノ十八 異変終幕

 

 

果ての見えぬ石造りの階段を一歩、また一歩と登る。

周囲は相変わらずの辛気臭い雰囲気のままであり、人魂のようなものがふよふよと浮いている。

気温こそ下界と比べれば暖かいものの、それでも薄ら寒さを感じずにはいられない。

 

階段下の広場で対峙した、妖夢という少女。二振りの名刀を所持しており、その腕前も相当なものであった。

風貌から大した事の無い奴と判断してしまったが故に、油断し胴を斬られてしまった。

気に入っていた一張羅が血染めでダメになってしまった。この紅は、洗濯をしても落ちないだろう。

 

僕としては自身の怪我よりも、衣服がボロになってしまった事のほうが精神的に辛いものがある。

九牛の一毛程度の怪我ならば、後でどうにでもなる。けれども肉体以外の備品や衣服に関しては、いくら能力を行使しようとも元通りの姿に戻る事はないのだ。

 

これもそれも、全ては僕が油断した事により招いた結果に過ぎない。

どうにも僕は、戦闘事に関して油断しがちな面があるようだ。ある人の戦闘美学とやらを真に受けた結果なのだろうか。……否、単なる性格から起因する事だろう。

 

そして僕の思考回路は支離滅裂になりがちであり、時には自分自身でさえ何を考えているのか分からなくなる。所謂、考え過ぎというやつだ。

まあ、致し方ない。時に古い記憶が混同してしまう事もあり、フラッシュバックのような状態になる時もある。

今は目先の事に集中し、行動するべきだ。先ずはこの階段を登り切ろう。

 

 

*

 

 

白玉楼に存在する長い階段の遥か先、妖しい光の放つ頂上へと遂に到達した。

登り切った末に視界に広がる光景は、この場が死者の集う場を想像させぬ程、美しい光景が広がっていた。

まるで貴族の庭園かと思わせるその光景、熟練の庭師による手入れが入念に施された結果が、此処に集約しているのだろう。

 

大気を裂くような轟音、虹色の輝きに染まる上空を見上げた。

どうやら少女達がそれぞれに弾幕を発し合い、決闘をしている最中のようであった。

魔理沙の放つレーザー、霊夢の陰陽玉、咲夜の銀製のナイフ。それら全てが一つの対象物目掛け、飛来していた。

その対象物は人の形を呈しており、見紛う事無き西行寺幽々子その人である事が窺えた。

 

西行寺の背後には扇状の弾幕が展開されており、それそのものに攻撃性があるかは不明であるものの、それを起点として彼女らを迎撃している様だ。

弾幕攻撃が分厚いのか、三対一という状況にも関わらず戦況は拮抗していた。

 

「……よいしょっと」

 

決闘が終わるまで、近くの木陰に座り休憩する事に決めた。

傷口は塞がっているものの、初撃に受けた斬撃で大量に出血してしまった気がする。恐らく軽い貧血気味なのか、頭がくらっとする。

まあ、別に構わない。異変は既に終局を間近に控えているのだ、今更僕がしゃしゃり出る事も無い。

そう思考をしながら春の陽気を楽しんでいると、ふと眼前に一匹の蝶が舞い込んできた。

 

「おや」

 

紫色の光を照らすその蝶に対し、とても妖艶なものであるなと思いつつ、思わず独り言を呟く。

 

「君も仲間外れなのかい」

 

ふわり、と周囲を漂う蝶は、僕の言葉の意味を理解しているのか、定かではない。いや、言葉など端から通じていない。

次第に紫色の蝶は僕の胸元へと近付き、到達すると同時に紫色の儚い光を放ち、霧散した。

一瞬体内へと侵入されたような感覚がしたのだが、別段体調には何とも無いので、気に止めなかった。

 

ふと、上空を見上げた。西行寺と視線が交じわった。

彼女は此方へと手を差し向けており、僕に対して何かを行った形跡が見て取れた。

けれども僕は彼女に攻撃をされた覚えは無い。そもそも彼女は決闘の真っ只中であり、僕の相手をしている暇など無い筈なのだ。

そう思考していると、間もなく轟音が周囲に響いた。

 

極太のレーザー砲が西行寺幽々子の居た場所を貫き、周囲を金色の輝きで照らした。

その後に霊夢の陰陽玉と思われる幾多もの弾幕攻撃が続き、凄惨な光景へと移り変わった。

これはひどいなと呟きながらも、漸く決闘が終了したのかと思うと、鬱蒼とした気分も晴れるというものである。

三人の少女と一人の異変の首謀者が地に降り立ち、上空は冥界を連想させぬ程に晴れやかなものとなっていた。

 

 

 

*

 

 

 

「お、天道。遅かったじゃないか、悪いがもう終わ……」

 

魔理沙が僕を見つけ声をかけてきたが、途中で言葉を切り驚いたような表情を浮かべていた。

続いて霊夢、咲夜と訪れたが、同様な反応を見せた為に、僕はそれらを疑問に思い口を開く。

 

「どうした」

そう口にし、木陰から重い腰を上げて立ち上がった。。

 

「いやいや、どうした。じゃねえだろ! それはこっちの台詞だぜ……なんで血塗れなんだよ」

 

「あのちっこいのにやられたの?」

 

魔理沙と咲夜がそう質問してきた。

少し考えた後に、ま、そんなところだねと返すと、再び言葉が返ってくる。

 

「止血してあるのか? 幾らなんでも、放っておくのはヤバイだろ」

 

「血はもう止まってるから問題はないよ」

 

「ごめんなさい、お嬢様から護衛を任せれていたのに……」

 

「君が気落ちする必要はないよ。ほら見たまえ、見た目よりも身体はずっと元気だ」

 

自らの胴を小突き、身体に異常はない事を示した。血液が薄っすらと小突いた手に付着したが、隠した。

何故だか罰の悪そうな顔をする周囲に、話題を変えなければならぬという使命感に襲われ、口を開く。

 

「それよりも異変はどうしたんだ」

そう質問する。

 

「ま、もう終わりじゃないの。妖怪桜とかいうのを満開にしようとして、幻想郷から春を集めていたらしいのよ」

霊夢がそう言った。

気だるそうに後頭部にて腕を組みつつ、あさっての方向に目を向けていた。

 

「迷惑な奴だったぜ。一本の桜の木を満開にする為に、私たちは花見が出来なかったんだからな」

 

「此処で花見をさせてもらえば良いんじゃない?」

 

「お、そりゃあ名案」

 

少女達の談笑を傍聴し、それとなく事の成り行きを理解した。

西行寺が妖怪桜を満開にさせる為に、幻想郷から春度を集めていた。その為に幻想郷の春が遅延し、代わりに冥界に春が蔓延していたのだ。

幻想郷から春度を集めてもなお満開にならないという事は、余程の曲者の妖怪桜なのか。まあ、恐らく彼女たちに途中で阻止されたのが主な原因なのだろうが。

 

暫くその場で会話をしていると、少し離れた場所で何者かの気配を感じた。

その人物は少々衣服を着崩しており、また状態も決して良好とは思えなく、煤を纏っているような状態であった。

一度だけ軽い咳払いをすると、僕たちに向けて言葉を放つ。

 

「あら、天道さんじゃあないの。貴方も春を取り返しに来たのかしら」

 

声の主は西行寺幽々子であった。先程の特大の弾幕攻撃に襲われ、撃墜したのにも関わらず、彼女の口調は実に朗らかなものであった。

彼女の衣服の擦れ具合等を見ると、想像よりも決闘は長期に渡って行われたのだなと推測できた。

 

「そのつもりでしたが、どうやら僕の出る幕は無いようですね」

 

再起するには少々難のある異変の首謀者、そして白玉楼から桜の花びらが放出され、大量に上空を舞っている。

恐らく今まで幻想郷から収集してきた春度が西行寺幽々子の再起不能に伴い、一気に下界へと向けて放出されたのだろう。

 

「終幕、ですかね。このまま放っておいても、幻想郷に春が訪れるのは時間の問題かと」

 

「うふふ、何故そう言い切れるのかしら」

 

「確証はありませんけどね。妖怪桜とやらを満開にさせる為に集めた春度を、貴女がわざわざ放出させるとは思えませんし。それに」

 

言葉を切り、周囲の少女たちに視線を向けてみた。

各自多種多様な得物を構え、容赦の無い冷徹な視線を西行寺幽々子に向けていた。

戦闘を続けるのなら容赦はしない、といった一つの警告に近いそれは、対象者の抵抗心を削ぐには十分過ぎるものであった。

まともな思考をする者ならば、この状況で抵抗するなど在り得ないし、一度放出した春度を集めるのには相当骨が折れるだろう。……という事を考えた結果、僕はそう推測したのだ。

 

僕の言葉を聞いた西行寺幽々子は、穏やかに微笑むと口を開く。

 

「……ふふ、そうね。西行妖を満開にさせるのは、暫く止めておく事にするわ」

 

余程手酷くやられたのか、頬に手を当てて艶やかな笑みを零しつつ、彼女はそう言い放った。

 

「暫くじゃあなくて、永遠にやめてもらいたいけどね」

霊夢はそう言った。

 

「そーだな。でもま、偶になら良い運動になるから、今度は涼しい季節の時に頼むぜ」

 

「こら魔理沙、面倒臭くなるからそういう事は言わない」

 

霊夢と魔理沙がそう会話している。今後、異変ごとになれば必ずと言って良い程、この二人が絡んできそうだ。

咲夜はレミリアの命令で異変の解決に来た為、これが春だとか秋だとかの季節で起きたとしたのなら、紅魔館からの援助は無さそうだ。

 

「それで、これからどうするんだ」

僕がそう訊ねると、少女達がそれぞれに顔を見合わせた。

 

「私は神社に戻るわよ。帰ってお夕飯の支度をするから」

 

「もう少し此処を探検するぜ。何かお宝とかがあるかもしれないからな」

 

仮にお宝があったとして、それをどうするつもりなのだろう。そう思考しながらも、咲夜はどうするのか、と訊ねた。

 

「そうねぇ。お嬢様が心配だから館に戻りますわ。一日分のお掃除が溜まってしまったからね」

 

「そうか」

 

毎度の事であるが、このメイドは中々に毒舌だなと、ふとした瞬間に思わせる。

お前はどうするんだ、と魔理沙に問われたので、言葉を返す。

 

「冥界で花見というのも乙なものかと思ったが、僕は店に戻るよ」

 

「此処は幻想郷と違って桜が満開だからな。後で皆を集めて花見をするのも良いんじゃないか」

 

自分で述べておきながら、「これは名案だ」と魔理沙が手の平を叩いた。

けれども魔理沙以外の二人は、直ぐにでも帰路に着きたいと考えている為に、その提案は却下された。

 

「じゃ、私は帰るから。あまり世話を焼かせないでね、亡霊」

 

「私も戻りますわ。また近いうちに紅魔館に遊びに来なさいな。歓迎するわよ」

 

霊夢と咲夜がそう告げ、階段の方へと飛び去っていった。

 

「酷い言われようでしたね、西行寺さん」

 

「仕方ないわよ。悪戯を暴かれたのだから、相応の報いは受けて然るべきなの」

 

何だか異変の首謀者とは思えない口調である。目的を阻止されても尚、挫けた様子が見えない。

むしろ清清しささえ感じさせる表情は、本当に彼女が異変の首謀者なのか、と疑問を持ってしまう程であった。

 

「なんだなんだ、お前ら知り合いなのかよ」

魔理沙がそう言い、人差し指を此方へと差し向けてきた。

 

「前に一度、僕の店を訪ねて来たのさ」

 

「ふーん、そっか。そういやお前んち、料理屋なんだっけな。よし、時間があったら今度行ってやるぜ」

 

屈託の無い笑みを浮かべ、そう魔理沙が言った。前にもこんな事を言われた気がするが、気に止めない事にした。

来るのなら歓迎する、と告げ、僕もそろそろ店に戻ろうかなと考えた。魔理沙は何処行く風か、既に場から居なくなっており、彼方へと移動していた。

 

「では、僕もそろそろ帰ります」

 

「あら、もう帰るのね」

 

「ええ、今日は疲れましたからね。帰宅して一息つこうかと」

 

「そう。その怪我、妖夢から受けたものね。ごめんなさいね、あの子はまだ加減も知らない未熟者だから」

 

西行寺はそう言って、一言詫びを入れてきた。僕としては決闘上、致し方のないものだと考えていたので、気にしないで下さいと返した。

そうした上で踵を返すと、再び声をかけられた。

 

「天道さん」

曇りの無い笑みを浮かべる西行寺。僕が「何ですか」と問い返すと、彼女は言葉を続ける。

 

「……少し、胸を貸して下さるかしら」

 

「……?」

 

西行寺は淡々とした口調でそれだけ告げると、機敏な足取りで僕へ向けて急接近し…………彼女の華奢な手の平が、僕の胸部へ当てられた。

そして穏やかな動作で胸部から手の平が離れると、彼女の手には一羽の蝶が。

 

「……死色が強かったのかしら。この子はもうダメね」

 

そう呟く西行寺の手の平には、酷く弱った様子の紫色の蝶が、その生涯に幕を閉じようとしていた。

力なく優美な紫色の羽を上下させ、やがてそれも動かなくなると、霧が晴れるかのようにして、姿を消した。

紫色の蝶の最期を見届けた西行寺は、一度その瞳を閉じた後に、今までのような朗らかな雰囲気を醸し出しつつ、僕に向けて笑顔で口を開いた。

 

「うふふ、やっぱり何でもないわ」

 

屈託のない微笑みで軽快に言い放たれ、彼女に状況の説明を要求する事は、僕には出来なかった。

 

 

冥界に存在する白玉楼。

亡霊姫が起こした春に雪が降る異変───春雪異変は、終幕を迎えた。

 

結果として幻想郷には春が訪れ、季節通りの温暖な気候へと変化していた。

積もりに積もった大雪も次第に溶け出してくると、春を告げる妖精が幻想郷中を駆け回り、春到来の旨を呼び掛けていた。

そんな中、博麗神社ではかつての異変の首謀者の吸血鬼達や、亡霊の姫が巫女に無許可で花見を行っていたそうな。

やがて月日は経過し水無月となると、幻想郷を白銀の世界へと変えていた積雪も完全に消え去り、幻想郷は今まで通りの平和な日常へ戻っていった。

 








以上となります。

急激にUAやらお気に入り登録件数が増えており、驚きました。
一体何が起こったのやら、筆者には皆目見当もつきません。
現在は過去編を執筆しておりますが、文字数が膨大になってしまっており、削減しようか迷っております。
評価、感想を投稿して下さった方々、ありがとうございました。
それでは次話まで、よろしくお願いいたします。


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巻ノ十九 宴会

今回はかなり長くなりました。


 

 

───今日も幻想郷は平和である。

唐突にそんな事を連想してしまう程に、幻想郷は晴天に恵まれており、温暖な気候となりつつあった。

春に雪が降るという春雪異変以降、幻想郷は少しずつであるが暖かい気候に移り変わり、六月頃には積雪など嘘だったかのように、大地は緑に覆われていた。

あの異変が訪れて以来、夏も近いというのに暖をとる為の燃料がバカ売れしたそうな。里の人間たちは単なる異常気象だと思っており、来年の冬に備えてもう準備を進めているという噂である。

 

一方で僕はと言えば、相変わらずの平常運転である。

お店も相変わらず閑古鳥が鳴いているが、今回に限っては里民達の銭が燃料や保存食の方へと注ぎ込まれた事により、僕の店だけではなく、里中の飲食店が悲鳴をあげているらしい。

確かに大雪が長引いていたので、店舗側としても食材等の供給が芳しくなかった。その為経営難に見舞われていたのだが、冬が去ってからもこの事態である。

 

けれども僕のお店に関していえば、大した打撃は受けていないのが事実。

やはり能力で食材や燃料などを供給している点は大きく、固定費や変動費の削減に大いに貢献しているといって過言ではない。

無論、里で調達している食材に関しては、暫くは供給が見込めないのも事実であるが。

 

たとえ異変が起きた後であり、里中が燃料危機に脅かされているとしても、僕の店は平常運行。

実は今日は、珍しいお客さんが来店している。

僕のお店には変わった客人しか来ないなと思いつつ、その客人の相手を続ける。

 

「なんかさー」

 

その客人はフォークとナイフを用いて手遊びをしながら、文句を垂れ始める。

 

「こーいう洒落た飯も、偶には良いかなって思うよ。うん、凄くいい。……でもさ、よく考えてみろよ」

 

金髪を片側だけおさげにした、リボンの付いた三角帽を被っている客人。

黒系の服に白いエプロンを着用しており、魔法使いらしい装束を身に纏っている。

彼女の名前は、霧雨魔理沙。どういった経緯か、僕のお店を訪ねてきたらしい。暇だったのかもしれない。

 

魔理沙は僕の提供した西洋系の軽食に対して、ぷりぷりと文句を言っていた。

 

「これ、味しないじゃん。私はもっとこう、がっつり! ……って感じの料理を期待してたんだが」

 

テーブルをフォークで小突き、魔理沙がそう抗議してきた。

どうやら料理が薄味でかつ、量が少ない事に対して文句があったらしい。

 

「そうですか。では、どういうのが好みなんですか」

パセリをフォークで突く魔理沙にそう訊ねた。

 

「ん、そだな。お酒も置いてるのか」

 

「ええ、ありますよ」

 

「んじゃ、お酒とそれに合うもの!」

 

迷いの無い笑みでそう言い放つ魔理沙。このような少女が口達者にお酒をくれ、というのだから、思わず鼻で笑ってしまった。

けど僕も人の事は決して笑えない。この天道、酒の方は大して強くない。

酒豪が好むような度数で飲めば、アルコールに煽られ卒倒してしまうかもしれない。

そんな事を考えながらも、魔理沙が注文した内容を理解し、少々お待ち下さいと一言添え、厨房に移動した。

 

 

どうやら魔理沙は西洋系の見た目の癖に、食事は和を好むらしい。

そして可憐な見た目の癖に、まるで男のような食事の選り好みっぷり。

女の子なのでお洒落な食事の方が良いかと思って用意したのだが、その辺りはあまり気にしなくて良かったらしい。

 

「なら、適当に焼き鳥でも」

 

お酒とそれに合うもの、と注文を受けたので、適当に合いそうなものをチョイスしていこう。

冷蔵庫から能力を駆使し、皮や軟骨と言った食材を取り出す。元々この店は、僕の能力が付与されているようなものだ。代償に僕の力が若干制限されてしまうのだが。

 

下味にガーリックパウダーを付けて、もも肉を串に刺し連ねる。間々にネギを刺してネギマにしたり、他にもひな肉やささみ、つくね等も作った。

熱した網に串を並べ、強めの火であぶる。タレをつけてがっつりと、塩や好みでレモンなどもかけたりしてさっぱりと、好みで食べられるように分けておいた。

勿論、レモンは別の容器に移して用意した。直接かけて提供したら、彼女が"通"でなくとも、憤怒されてしまうかもしれないからだ。

 

次に用意するのはお酒だ。お酒に関しては本当によく分からないので、里の人達に聞いたりして少しずつ勉強するしかなかった。

この前は弱めのお酒を提供して良い反応を得られなかったので、今回は焼酎を用意してみようと思う。

焼酎には麦焼酎、芋焼酎、蕎麦焼酎に米焼酎と、多岐に渡って種類があり、豊富であるらしい。

今回使用するのは恐らく麦焼酎という部類のものであり、口当たりに癖の無い比較的飲み易いもの、らしい。

そのままストレートで提供するか、或いはソーダなどを用意してカクテルにするか、迷うところであるが、一先ずストレートで提供する事にした。

 

後は適当に枝豆や、お通しに近い食べ物を用意すれば良いか。後から出したらそれはお通しではなくなるのだろうが、気にしない。酒のつまみとなれば、酔っ払いは何でも構わないのだから。

暫く火にあぶっていた焼き鳥が良い具合になってきたのを見計らい、僕はお酒を提供する事にした。

 

 

 

*

 

 

 

「お待たせしました」

 

僕がそう言ってテーブルに戻ると、魔理沙が待ち草臥れたような表情で遅いぜ、と言った。先程出した料理は文句を言いつつも、しっかりと完食していた。

軽く謝罪をした後にお酒のほうをテーブルへ並べる。

 

「こちら、焼酎です。ストレートで飲んでも構いませんが、カクテルとして楽しめますように、こちらもどうぞ」

 

25度前後と思われる麦焼酎に、割って飲めるようにソーダやミネラルウォーターなどを置いておいた。独特な提供の形だと思うが、自由性が高いのも魅力の一つになるだろう。

焼酎にはソーダ割りや水割り、他にも緑茶割りなど様々なものがあるというので、兎に角混ぜればそれがカクテルとなる、創造性の溢れるお酒だと思う。いや、自身で飲んだ事はないのだが。

 

「へぇ、じゃあ先ずはそのまんまで頂こうかな」

 

魔理沙がそう言ってグラスを持ち、口に運ぶ。それを見計らい、僕は再び厨房へと足を運んだ。

 

 

焼き鳥の焼き加減も丁度良い頃合になり、仕上げにタレを何度か肉に塗りつけて、完成である。

漆塗りの高級感の漂う大皿に盛り付け、他にも調味料を幾つか付属させてテーブルに持っていく。

流石に焼き物という事もあり、香ばしい香りは空気の層を染めていき、香り付けられた空気は店内中に広がった。

臭いに気付いた魔理沙は顔を上げて此方を見据え、大皿をテーブルに並べる頃には、彼女の目は釘付けとなっていた。

 

「お待たせしました。こちらは焼き鳥の盛り合わせでございます。タレと塩で味付けしておりますが……」

 

タレと塩で味付けしてある事を教え、調味料を好きに付けて食べてください、と説明した。

 

「おお、本格的だな。里でもこんなのは出てこないぜ」

 

「里での焼き鳥の販売は、主が屋台ですからね。酒を嗜みながらゆっくりと焼き鳥を食べるのも一興かと思いまして」

 

「ほう、そりゃあ気が効くな、店主」

 

「それほどでも」

 

魔理沙は機嫌が良いのか、冗談めいた口調でそう言ってきた。しかし視線は目の前の焼き鳥に釘付けであり、まさに一本の串を手に取っている最中であった。

軟骨を選んだ魔理沙がそれを手に取り、口に頬張った。

 

「んまいッ! こりこりしてて、味付けも丁度良い加減だ! お、こっちは皮か?」

 

軟骨に続き、皮の刺さった串を手に取りむしゃぶりつく。

柔らかくて美味しい、と絶賛してもらい、作った側としては非常に嬉しいものである。

空いた串は此方にどうぞ、と長方形の小皿を用意し、処理に至るまで丁寧に対応した。

 

「どうですか、レモンなどをかけてみては」

 

「おっと、勝手にかけちゃあダメだぜ」

 

レモン汁が入っている容器を差し出しただけなのに、魔理沙は過剰に反応する。レモンに嫌な思い出でもあるのだろうか。

 

「酒も中々美味いしなー。この、ソーダって水は酒に入れて飲むものなのか」

 

「ええ、そうです。試しに割ってみては如何ですか」

 

一升瓶と新たにグラスを用意し、先ずはお試し用という事で、麦焼酎をグラスに注いだ。

一般的には焼酎1、ソーダ水4と焼酎を薄めるのが飲み易いらしい。しかし彼女はストレートで飲んで美味いという酒豪なので、もっと濃い目でも大丈夫なのだろう。

濃い目の焼酎のソーダ割りを作り、どうぞ、と勧める。

沸々と水分が泡立つ様を見て魔理沙が面食らった表情をする。幻想郷に炭酸水は無かったのか、或いは彼女が単に炭酸水を知らなかっただけなのか。

少し凝視をした後、恐る恐るグラスに口を付けた。

 

「お、おお……刺激的な喉ごしになった」

 

ちびちびと飲む辺り、炭酸の刺激に慣れていないのだろう。確かに強い炭酸水は、僕でも一気に飲む事は難儀する。

もう少し経験すれば直ぐに慣れるだろうと思い、もう一つばかり勧める。

 

「果汁を加えれば、もう少し飲み易くなりますよ」

 

厨房からボウルに入れたフルーツ類と、フルーツジューサーを用意した。

ジューサーとは果実を絞る道具であり、中心の突起部に果肉をぐにぐにと押し当てて絞ると、果汁がじゅるじゅると溢れ出る、それはそれは素晴らしい道具である。

失礼、と一言だけ添え、ボウルからグレープフルーツを取り出し、能力を用いてグレープフルーツを真っ二つに切断した。

ごろん、と転がったグレープフルーツを手に取り、ジューサーの突起部に押し当てて果汁を絞る。

ぐじゅりぐじゅり、と気色の悪い音を立てるが、突起の下部に取り付けられている容器に果汁が見る見るうちに溜まっていく。

 

「おー、お前の店は何でも揃ってるな」

 

「それ程でもないですよ。さあ、どうぞ。お好みで好きに使ってください」

 

大量に果汁を混ぜてしまうとジュースの味になってしまうので、割合は彼女に任せる事にした。

流石にどれ程の量を混ぜれば一番美味しいのかは、その人の舌に左右されるからである。

容器は傾けられ、容器の口から果汁がグラスへと注ぎ込まれる。少し混ぜた時点で注ぐのを止め、再び酒を飲む。

 

「……ふーん、こんな感じになるんだ。面白いな、一つの酒で色んな味が楽しめるのか」

 

「そうですね。ストレートに飽きたら、こうして割ってみるのも良いかと思います」

 

「その果汁を絞る道具、私にも出来るのか」

 

そう質問されたので、簡単に出来ますよ、と答えた。

魔理沙は私にもやらせてくれと言うので、片割れのグレープフルーツを用いて練習の材料にした。

 

「先ずは果肉に小さく穴を開けます。で、皮の方を持ってください」

 

「こうか?」

 

「そうです。で、果肉の部分を突起に押し当てて、搾り取ってください。あまり強く押し当てると、皮を突き破って怪我しますので注意してください」

 

そう説明して指導すると、やけに大雑把な説明だなと、抗議された。

けども実際にやってみると、これが意外に簡単にできるのだ。いや、綺麗にやろうとすれば難しいのだが、単純に果汁を絞るだけならば、簡単にできるのである。

 

「へー、面白いなこれ。私にも一つくれ」

 

「ダメです」

 

あげたところで使い道がないだろうに、くれと要求する始末である。

しかしこれも大事な料理道具の一つなので、譲ることはできない。

拒否すると魔理沙はちぇっ、と言い、端から断られる覚悟で聞いたと言わんばかりな態度をしていた。

 

その後も魔理沙は店に居座り、世間話や噂話などを延々と喋り続けていた。酔いが回っているのか、その口は止まる事を知らない。

やれ霊夢がどうの、図書館がどうの。果てには森で採取した茸を食べたらお腹を壊した、などと脈絡の無い話を吹っかけられ、難儀した。

そして日も落ちてくると、お腹が膨れてきたのか彼女は眠気に襲われる────という事もなかった。

 

 

「そいやお前んち、お風呂あんだろ」

 

「ありますが、何故それを知ってるのです」

 

「メイドから聞いたよ。でっかいんだってなー、ちょっと貸してくれよ」

 

お喋りなメイドだな、と思いつつも返答する。

 

「ダメですよ。自分の家にもあるでしょうに。大体、お湯なんて沸かしてませんし」

 

「うるっさいなあ、私は今入りたいんだよっ! つーことで、捜索開始ーっ」

 

酔っ払った魔理沙はそう言うと椅子から立ち上がり、若干の千鳥足で歩き出した。

しかし歩き出して間もなく、隣りの"椅子の足"に足を引っ掛け、転倒した。暫く起き上がらず、凄い音がして顔から倒れていたので、心配して声をかけた。

 

「ほらもう、言わんこっちゃない。起きてください、そんなところで寝てたら風邪を引きますよ」

 

「やだ。入れてくれないなら、此処で寝るぜ」

 

彼女はそう言うと間もなく寝息を立て始めた。

とんでもない輩である、この小娘。しかし僕も大人気ない対応をしても致し方ない。風呂の一度や二度、どうせ減るもんじゃあないし。

 

「はいはい、分かりましたよ。湯を張ってくるから待っててください」

 

と言うが、返事はない。寝たふりでもしてるのか、どちらにしろこうなった酔っ払いは床にこびり付いたガムよりもしつこく、頑固だ。

早々に湯を張って、さっさとお暇してもらうことにしよう。

 

 

*

 

 

廊下を途中で曲がった場所に、脱衣所と浴室が設置されているのだ。

僕が一人で暮らす前提で建てたものなので、脱衣所は広くは無い。

だが浴室に関しては少々広めに設計されて造られており、一人や二人程度なら余裕を持って入浴できる程である。

建設当時は、水場も遠いのに風呂を造ってどうするの、と問われたが、その点に関しては問題ない。

自身の能力を駆使し、浴室に設置した混合水栓と何処かの水場を"繋げている"。

勿論ガスなども能力を応用し、発生場から繋げているので通っている。なので湯を沸かす事も容易い。温度の微調整は難しいのだが。

混合水栓のハンドルを捻り、浴槽に湯を放出する。数分もあれば浴槽はお湯で満たされるだろうし、魔理沙の元へ戻る事にした。

 

 

 

店内空間に戻ると、魔理沙は寝息を立てていた。本当に眠ってしまったのか、踏ん付けてやろうかと思いつつも、介抱する。

 

「ほら、起きたまえ。外に放り出されたいのか」

 

こうなってしまっては接客対応をする必要もないので、喋りやすい口調に戻した。

横になった魔理沙に言葉をかけても、ぐうぐう、としか返って来ないので、仰向けにして頬を抓ってやった。

それでも起きてこないので、鼻の穴を塞いでみる。暫くすると、反応があった。

 

「───ぶっ! な、何すんだよっ」

 

「目は醒めたか」

 

「あ、ああ……、そういや此処、何処だあ……」

 

目は醒めたが、酔いは醒めてはいないようだ。

 

「君が風呂に入りたいというから、準備をしてきたんだが」

 

「あ、そうだった。えへへ、気が効くじゃあないかあ」

 

別に気を効かせた訳ではない。厄介な駄々っ子を鎮める為に致し方なく行ったに過ぎない。

……と酔っ払いに言ったところで何にもならないので、さっさと浴室にまで連れて行く事にした。

えへへ、歩けない~、とか言って立ち上がろうとしなかったので、耳を引っ張って無理矢理立たせたら、凄い勢いで立ち上がった。

 

何はともあれ無事に浴室にまで誘導は出来たので、僕はさっさと後片付けに取り掛かろう。

 

「脱いだ服はこっち、浴室はあっち。ハンドルを捻ればお湯が出る。分かったか」

 

「こーいう時は、任せろって言うんだぜー」

 

「そう言うのは君の方だろ。しっかりしたまえ、浴槽で溺れ死ぬのだけはやめてくれよ」

 

会話にならない、ひたすらに。服を脱ぐのを手伝えとか言われても辟易とするだけなので、早急に脱衣所から出る事にした。

なんだかずっと呆けたような表情だったので、足を滑らせたりして怪我を負って帰ってくるかもしれない。

……まあ、いいか。その時はその時だ。さっさと食器を片付けよう。

 

 

 

*

 

 

油分や調味料の残りが付着したお皿や、フォークを纏めて厨房まで持って行きシンクの中へ静かに置く。

ハンドルを捻り水を放出し、汚れた食器を一気に洗浄する。

油汚れなどは頑固であるが、執拗に擦ればいずれは落ちる。洗剤を少しだけスポンジに塗布して擦れば、あっと言う間だ。

そうして食器を片付け終わり、食べ溢しやグラスから結露した水分が溜まっているテーブルも、台拭きを使って拭き取る。

客人が食事を終えた後は毎回この作業を行っているので、今では手慣れたものである。

掃除中ではあるが、お店のほうはまだ営業中である。台拭きでテーブルを拭いている最中、不意に店の扉を開く音が聞こえてきた。

 

「どうぞ」

短くそれだけ口にし、視線はテーブルに戻す。

どたどた、と廊下を歩く音が聞こえてから直ぐに、店内空間に繋がる戸は開け放たれた。

 

「こんばんは、天道さん」

 

「お邪魔するわね」

 

来店してきたのは、紅白の巫女服を纏っている博麗霊夢。そして

 

「いらっしゃいませ。おや、アリスさんじゃあないですか」

 

「あら、知り合いだったの」

 

「前の異変の時に少しね」

 

どうも、と軽い挨拶をするアリス。霊夢とは何度か顔を交えているが、アリスに関しては今回で二度目である。

それ程知り合いという訳でもない。単なる顔見知り、といったところである。

 

「君達も知り合い同士だったのか」

 

「いや、今日初めて会ったわよ」

 

僕がそう訊ねると、霊夢があっさりとそう返事した。

 

「偶然お店の前で鉢合わせたの。目的が合致してたのだから、一緒に入ったのよ」

アリスがそう言った。

偶然お店の前で出会った程度の仲なので、旧知の仲という訳ではないそうだ。

彼女達程度の年頃の少女ならば、初対面の人相手になると普通ならば余所余所しくなるものなのだが、実に堂々としており怖気を微塵も感じない。

客人を立たせていてはしようがないので、座って下さいと促す。丁度魔理沙が座っていた席が空いたので、使用する事にした。

 

「適当に好きなものを注文して下さい」

 

それだけ伝え、お品書きを提示する。日替わり、というわけでもないが、気分によっては内容を変える時もある。

霊夢とアリスは提示されたお品書きに目を通すと、口を開く。

 

「へぇ、色々あるのね。お味噌汁単品なんてあるんだ」

 

「そうですね。好みの方がいらっしゃるかもしれないので」

 

「このフリーオーダーってのは何なのかしら」

 

提示されたお品書きに指を差し、そう訊ねてきた。

お品書きの最後の方に書いておいたフリーオーダーという注文ではあるが、実はこれが大人気。

 

「フリーオーダーは、その名の通り自由に注文していただくシステムとなっております。料理を直接指名するのも構いませんし、ざっくばらんに感覚だけで伝えてもらえれば、それに近いものを作ります」

 

「ふぅん。例えばどんな感じで注文されてたのよ」

霊夢がそう訊ねる。

 

「前回注文された方は……そうですね、"がっつり"、"お酒に合うもの"と注文されました」

 

「で、何を出したの」

今度はアリスが短くそう問いかけてくる。

 

「焼き鳥の盛り合わせと、枝豆です」

 

僕が事実の通りそう答えると、霊夢とアリスは口を揃えて「まぁ、無難だわね」、と言い放ってきた。

自由性に富んでいるあまり、お客さんのニーズに応えられない事が多いのである。その辺りは事前に了解してもらう形になるので、問題にはならないと思うが。

 

「それでは注文は何になさいますか」、と訊ねる。

彼女らはお品書きを見合わせ、ぼそぼそと呟きながら思考していた。やがて口から飛び出した答えは……

 

「じゃあ、安くて美味しいもの」

 

「甘い物が欲しいわ。私が食べた事の無いもので」

 

そう口から飛び出してきた。前者は霊夢で、後者はアリスの注文である。

しかしながらアリスの注文には少々難儀した点があったので、質問する。

 

「失礼ですがアリスさん。貴女が食べた事のない甘い物を、僕は知らないのですが」

 

「私も知らないわよ。食べた事の無いものなんだから。そーねぇ、無難なものは嫌、って事で」

 

つまりアリスが食べた事のありそうなもの……ホットケーキだとか、それに類する洋菓子は、ダメだという事か。

これは中々に難儀する注文であった。しかし反対に霊夢の注文ときたら、真に彼女らしいなと僕は何故かそう思った。

 

「畏まりました。では霊夢さんが安くて美味しいもので、アリスさんが食べた事の無い甘い物ですね」

 

僕がオーダーを繰り返すと、彼女らはそれを肯定した。

早速準備に取り掛かろうかと思い動き出した時、再び誰かが来店する音が聞こえてきた。

 

日没は既に終えており、このような夜中にも客足が途絶えぬのは、初めてだ。

閑古鳥は何処かへと出張でもしているのだろうか。そうであるのなら、もう暫く戻ってこないで頂きたい。

再びどうぞ、と言葉を発し、客人を言葉で迎える。

 

「……あ、あんた」

 

第一声を放ったのは、カウンター席に座っていた霊夢であり、その言葉は新たに訪れた客人に向けてのものであった。

 

「あら、霊夢じゃないの。奇遇ね、こんな場所で会うなんて」

 

来店したのは、紅魔館の主人であるレミリアであった。

続くようにして現れるのは、お馴染みの十六夜咲夜であり、今宵も付き人として付き添っているのだろう。

 

「いらっしゃいませ。珍しいですね、こんな夜中に」

 

「夜中だからこそ訪れたのよ。昼間に行って他の客がいたりでもしたら、鬱陶しいじゃないの」

 

「お嬢様、もとより彼の店は開店休業状態ですが」

 

「おっと、これは失言だったね」

 

レミリアと咲夜が交互にそう口にし、冷めた笑みを浮かべていた。

悔しいけれども、開店休業状態とはまさに僕の店の事である。日中に来店する客はほとんど居らず、今日なんて本当に珍しく店内が賑わっている。

面子を見渡してみる限りでも、物好きな輩ばかり集められたような、そんな状態ではあるが。

 

「そうですね、それならば是非とも売り上げに貢献して頂きたいのですが」

 

レミリア達を席へと促す。彼女らが来店した事により、カウンター席は四つ埋まっており、板場越しから見渡すと意外と繁盛している様に見えるのだ。

既に霊夢とアリスからは注文を受け取っているので、レミリア達からも早急に注文を受け取らねばならない。

 

「では早速ですが、ご注文の方を」

 

「そうね、今日は軽めにしようかしら」

レミリアがそう言った。

常連風に気取っている様を見て、思わず吹き出しそうになったが堪えた。

否、二度目の来店ならば僕の店としては十分に常連なのかもしれない。事実、二度目を訪れた客は少ない。里から訪れる者は、ほぼ一度きりである。

 

「私は紅茶を頂きましょうか」

 

「畏まりました。レミリアさんが軽めのもので、咲夜さんが紅茶でよろしいですね」

 

レミリアと咲夜が肯定する。客人が多く訪れている時は、注文が混同しないようにメモに書き留めておかねばならない。

一対一の接客ならば、スムーズに行えるのであるが。嬉しい悲鳴というやつである。

僕がそう考えメモを取っていると、アリスが言葉を紡いだ。

 

「このお店、従業員は貴方しかいないのかしら」

 

「ええ、一人で調理からウェイターまで行っております。ですので、暫くお時間を頂戴いたしますが」

 

「構わないわよ」

 

アリス、レミリア及び咲夜がそう言ってくれたが、霊夢は早くしてねーと、注文を催促してきた。

料理を待つ間の時間というものは、個々の性格が顕著になる瞬間でもある。この巫女は存外に、せっかちなのだろう。

僕は急ぎ足で厨房へと向かい、早急に調理へと取り掛かった。なるべく待たせぬよう、サクッと作ってしまおう。

 

 

 

*

 

 

 

────という事で、迅速に取り掛かった結果、予想よりも早めに調理は終了した。

今日ほど働いた日は無いだろう、そう錯覚してしまう程に今日は料理を作ったと思う。

一品ばかり適当なものが混ざってはいるものの、フリーオーダーならではのものである。

出来上がった品々を席で待っている客人達に持っていく。

 

「遅いわよー、天道さん」

 

厨房から戻りなり霊夢にそう文句を言われたので、僕は申し訳ありませんと一言詫びを入れた。

少女たちは仲良く談笑でもしていたのか、和やかな雰囲気に包まれていた。アリスは恐らく知り合い等居なかったろうが、既に皆と打ち解けていた。

先ずはカウンターに頬杖を付き、ぐでーんとしている霊夢へ注文したものを出す。

 

「お待たせしました。こちら、カレーライスになります」

 

お皿に盛り付けたカレーライスを霊夢に提供する。

幻想郷には恐らく存在しない食べ物だと思うので、彼女がカレーをどう評価するのかが気になるところだ。

 

「うっ、なにこれ……ひっどい色ね」

 

霊夢はカレーを見た途端、顔を顰めながらそう呟いた。

僕は霊夢に、一先ず食べてみてください、と告げる。

 

カレーライスに対して彼女のような嫌悪感を抱く人は少なくはない。実際のところ色合いが気に食わず、見ただけで食欲を失くす人もいる。

元々は遠い大陸から伝わってきた料理であり、此方の大陸にまで伝わってきたのは最近の事である。安価で美味しい素晴らしい料理だと思うのだが。

物は試しだと彼女に言い聞かせつつも、次の注文が詰まっているので行動する。

 

「どうぞアリスさん、こちらはイチゴのムースです」

 

「あら、可愛らしい食べ物ね」

 

アリスさんに提供したのは、イチゴのムース。ムースとは生クリームを泡立てて作る洋菓子の事である。

ゼラチン等を使用し生地を作りホイップクリームで飾り、最後に切り分けたイチゴを乗せて完成と、作ってみれば割と簡単に出来るものだ。

 

「すみません、少々難しい注文でしたので。お気に召してもらえれば」

 

「ううん、素敵じゃないの。里でもあまり見ないデザートね」

 

割と好評だったようで、作った甲斐があるというものだ。

こうしたスイーツ系の場合は、味も勿論の事だが外見も非常に重要になってくるのだ。

例えば只の真っ白いお皿を使用するよりも、柄物を使用した方が良いケースもあり、職人にもなればホイップソースやカラメル等を用いてお皿に飾り付けをする事もある。

またこれらの"ウケ"も人それぞれであり、霊夢のような人物よりかは、アリスのような高貴な者にウケが良いと思うのだ。

 

先程からちらり、ちらりと僕に視線を向けてくる吸血鬼がいる為、直ぐに注文した物を提供する。

 

「レミリアさんは此方です。彩り野菜とバーニャカウダ、です」

 

カップにオリーブ油やガーリック等で作ったソースが注がれており、そこに野菜をつけて食べる料理だ。

レミリアならば赤ワインを出せば間違いないだろう、と僕の中で決定していたので赤ワインも添えて提供した。

彼女はバーニャカウダを見た途端、何だか苦い表情をした。

 

「どうかしましたか、レミリアさん。まさか野菜が食べられないというわけでは」

 

「ば、馬鹿な。そんな子供みたいな事があるわけがないでしょっ」

 

「そうですか。因みにバーニャカウダですが、此方のスープにお野菜をつけて食べて頂くと、美味しく召し上がれます」

 

レミリアにそう説明をした。野菜は、かぶやチコリ、パプリカにグリーンアスパラガスと彩りを重視して提供している。

生野菜なのでとても新鮮であり、生の食感を純粋に楽しむ事ができる素晴らしい料理だ。ワインのつまみとして作られる事も多々ある。

さあ、最後に咲夜に出そうと思い動こうと思ったが、何故か歯痒そうな表情をしているレミリア。何かあるのかと声をかけてみる。

 

「どうかしたのですか」

 

「い、いやね。私はあっちの方が良いなと思ってね」

 

レミリアがそう言い放ち指差した先には、アリスへと提供したイチゴのムース。

 

「……すみません、フリーオーダーはキャンセル致しかねますので」

 

「え」

 

「自由に注文を出来る代償としまして、一度提供された料理をお客様自身のご都合でキャンセルするという行為は、此方としても認める事はできません。

全て食べて頂くか……或いは、食べ切ろうとする誠意を見せてもらわなくては、お皿を下げる事は出来かねます」

 

レミリアが呆然とした表情をしている。自由形注文、フリーオーダーは僕としてもとても気を遣う上に、場合によっては料理を創作しなくてはならない時もある。

悪戯に注文ばかりされては、此方としては精神的にも肉体的にも疲弊してしまうのだ。

所謂、食べ放題やバイキングなどにある、"食べ残しは料金が倍になります"、という制度に似ている節がある。

つまり、たとえ野菜が食べられなかったとしても、此方としては手付かずの料理を下げるという事はしたくないのだ。

 

「是非ともご賞味下さい」

 

頬を緩めつつ、そうレミリアに告げた。

先のはあくまで憶測であり、何もレミリアが野菜嫌いというのを肯定しているわけではない。

もしかしたらガーリックが食べられないという可能性もあるが、あくまで可能性のひとつなので、心に止めておく。

バーニャカウダと睨めっこしているレミリアを余所目に、咲夜に注文した物を提供する。

 

「どうぞ、咲夜さん。紅茶になります」

 

「ん、ありがと」

 

「それと此方はサービスです」

 

前にも同じような事があったのだが、今回も似たれり。周りが食事をしている中、飲み物だけというのも何なので、サービスとしてデザートを提供した。

そのデザートというのが先程アリスに提供したイチゴのムースであり、クリーム等が余ったのでそれの残りで作ったのだ。

それを咲夜に提供すると、若干驚いたような表情で応対した。

 

「あら、良いのかしら。私は紅茶だけで良かったのに」

 

「構いませんよ。余った材料で作ったので少々形が悪いのですが、それでよろしければ」

 

「そ。なら頂こうかしら。ちょっと食べてみたかったのよね」

 

そうやり取りをし、咲夜にイチゴのムースを提供する。

しかしその様子を見たレミリアが、突然文句を言い出した。

 

「ちょっと! なんで咲夜ばっかりに良い顔するのよ!?」

 

「別に、そういうつもりは……」

 

「いいや、してるね。前にも貴方、似たような事してたじゃないの!」

 

ぶんぶんと腕を振り、指を差してそう猛抗議を仕掛けてきた。バーニャカウダは、一口も食べた様子は見られない。

まさにこれがクレームなのだろうと、僕がクレーム対応をしている最中、咲夜が僕にしか聞こえないだろう声量で呟いてきた。

 

「ごめんなさい、お嬢様、ガーリックがダメなのよ」

 

「ああ、やはりそうでしたか」

 

「ええ。悪いけど、貴方の方で取り計らってもらえないかしら」

 

咲夜がそう言った。

やはり吸血鬼という事もあり、ニンニクはダメであったか。

実際のところ料理を作るまでそんな事は微塵も考えておらず、こうした種族の壁というものにぶつかったというのは初めてだ。

彼女は誇り高い吸血鬼の一族であり、恐らく己の弱点を曝け出すような真似はしたくなかったのかも知れない。憶測ではあるが。

流石に食べられない物を食べろ、なんて事は言えないので、素直に対応する事にした。

 

「……すみません、レミリアさん。僕としては咲夜さんを贔屓しているつもりはありませんでした。もしもそう思わせてしまったのなら、謝罪いたします。

それとお詫びと言っては何ですが、そのスープを別の物に取り替えましょう。ポン酢なんてどうですか」

 

「いや、全部取り替えて」

 

「ちょっと待ってよ、そんな事するくらいなら私が貰うわ」

 

レミリアとそうやり取りをしていると、口の周りをカレーのルーで汚した霊夢がそう言い放ってきた。

カレーライスを既に半分ほど平らげており、食欲はまだまだ盛んといった感じだ。

 

「勿論、お代はそこの吸血鬼持ちで」

 

「ちょっと霊夢、そんな勝手な事を言わないで頂戴!」

 

レミリアと霊夢が何やら口論を始めたが、待っていてもしようがないので、「スープだけ取り替えますね」と伝えてカップを手に持った。

けどもその瞬間腕を捉まれ、「全部取り替えろ」と抗議された。しかしその刹那、カレーの匂いの漂う方向から「私にくれ」と声が飛んでくる。

事態が混乱しだして来た頃に、観念したようにレミリアが口を開いた。

 

「あーもう、分かったよ。これ、そこの霊夢にあげてやって頂戴。私からの奢りでね」

 

「畏まりました。どうぞ、霊夢さん」

 

「やった!」

 

前から常々思っていたのだが、普通巫女とは神聖な立場の者だとばかり思っていた。けれども彼女を見ていると、巫女とは生活臭の溢れる普通の女なんだなと思ってしまう。

バーニャカウダを美味しそうに食べ始める霊夢。やはり作った物を食べてもらえるというのは、相手が誰であっても嬉しいものだ。

 

「で、注文し直したいんだけど」

 

「はい、どうぞ」

 

「私もあれがいい。ムース!」

 

レミリアがそう注文する。軽めの物が食べたいと言いつつも、焦点はデザートに向いてしまっている。

けどもまあ、本人が食べたいと言っているのだから、それで良いのだろう。

 

「畏まりました。少しお時間を頂戴致しますが」

 

「構わないわ!」

 

テーブルを叩くと同時にレミリアは立ち上がり、そう強く言い放った。

余程食べたかったのだろう、周囲は食事を進めているというのに、自分だけまだ何も口にしていないのだ。やはりそこは思うところがあるのだろう。

「暫くお待ち下さい」とだけ告げ、厨房の方へと歩き出すが、その瞬間に店内の隅のほうから大きな音が響き渡ってきた。

一体何事だと思い、僕も含めた全員が店の隅へと視線をやった。するとそこには……

 

 

「きゃっ! ちょっと幽々子様、押さないで下さいっ」

 

「ほら早く行って、妖夢。後ろが詰まってるのよ」

 

店内の隅から突如として現れたのは、先の異変の黒幕たる西行寺幽々子と、その従者たる魂魄妖夢の二人であった。

何故突然現れたのかを皆が疑問に感じたが、次の瞬間にはその理由を理解する事が出来た。

 

「今晩は天道、ご機嫌如何かしら」

 

店内の隅に創られた"スキマ"から彼女たちに続き、八雲紫が飛び出してきた。

そうして次々とスキマから人の形をした者達が飛び出してくる。

 

「……っと。やあ、天道。久しぶりだな。なんだ、結構お店らしくなってるじゃないか」

 

八雲紫の後に続いてきたのは、彼女の式である八雲藍であった。

金髪のショートボブに、角のように二本の尖りがある帽子を被っているのが特徴であり、彼女は九尾の妖怪の為九つの尻尾が生えている。

 

僕は彼女に対して久しぶりだね、と言葉を返した。事実、顔を合わせるのは今年初めてだからだ。

そんな八雲藍であるが、スキマ空間に向けて「おいで」と声をかけていた。するとスキマから少々拙い足取りで恐る恐る少女が出てきた。

 

「あ、お、お久しぶりです、天道さん」

緑色の帽子を被り、赤っぽいワンピースのような服を着た少女。

 

「やあ橙君。久しぶりだね、藍に連れてこられたのかい」

 

「ふふ、そんなところだ。橙だけ置いていくというのも酷な話だからな」

藍が両手を袖にしまったまま、そう笑顔で答えた。

 

「あらあら、前と比べると随分と繁盛してるみたいねぇ」

幽々子がそう言い、驚いたように口に手の平を当てる。

現状を見ると繁盛しているように見えるが、これは今日だけの事なので、明日になったらまた閑古鳥が鳴くでしょうと、幽々子に向けて言い放つ。

 

「ちょっと、いつまでお客を立たせるつもりなの」

紫がそう言い、文句をつけてくる。

 

「ああ、ごめんね。カウンターの方は空いてないから適当に座りたまえ」

 

「何故貴方は、私に対してだけ敬語を使わないのかしらね……」

 

「人を見てんのよ、紫。あんた胡散臭すぎ」

霊夢が紫に向けてそう言った。

 

「ひどいわねぇ、こんないたいけな少女を捕まえて胡散臭いだなんて……」

紫が一人嘆いていたが、気持ちを汲み取ろうとする者はいなかった。皆周囲の者達と会話しており、彼女の式たる藍も、橙の相手をしている。

 

確かに紫の言う事は一理あったので、僕は早急にテーブルを用意しに動いた。

まさか今宵にこんなに客人が訪れるとは微塵も思っていなかったので、隅に寄せられていたテーブルは若干埃を被っていた。

試行錯誤しながらもテーブルを用意し、背凭れの付いている椅子を並べる。

 

「ささ、どうぞ。西行寺さんも藍も、好きなところに座って下さい」

 

僕がそう周囲に告げると、次々と席に着き始める。

隣りを知人同士で固めるのは人も妖怪も同じなようで、八雲の一派と冥界の御仁達がそれぞれに固まる。

 

「……どうかしたの、妖夢?」

 

席に着いた妖夢に、幽々子が声をかけていた。妖夢の表情は何とも曇り空を表しており、とてもではないが雰囲気を楽しんでいるようには見えなかった。

むしろ何かを遠慮しているかのような、或いは気を遣っているような、そういう表情をしていたのだ。

もしかして無理矢理連れて来られた口なのだろうか、気分が乗らないのだろう。

僕がそう思考をしていると、幽々子が妖夢に向けて言葉を紡ぐ。

 

「あ、もしかして。天道さんを斬り捨てた事を気にしてるんでしょ」

 

「ゆ、幽々子様! 決して斬って捨てたというわけではっ……」

 

主従の会話を傍聴していた僕であるが、妖夢の表情が暗かった事に対して理由が大まかに推測でいた。

恐らく、春雪異変の際に僕を斬った事に対して何か思う事があるのだろう、まさか斬った相手の料理店に足を運ぶだなんて彼女は思っていなかっただろうから。

 

「なんだ、そんな事でしたか。別に気にしておりませんよ」

 

「で、ですが、怪我を負わせてしまった事は確かなので……知らぬ顔で挨拶なんて出来ませんよ……」

 

「そうよ天道さん、もっと妖夢の事を叱ってやってちょうだいよ」

 

幽々子が茶々を入れてくる。妖夢が鋭い目つきで幽々子を睨み付け何かを呟いた途端に、幽々子はしおらしげな表情になった。

妖夢を叱るも何も、始めから怨みなど感じていないので怒る必要がない。

 

「妖夢さん、本当に気にしないで下さい。僕としては貴女がお店を訪れて来てくれただけで、本当に嬉しいと思っている。

だから過去の煩雑な事は、今宵の酒で全て流し切ってしまってくれないだろうか」

 

僕は妖夢に向けてそう言い放ち、過去の面倒事は気にしないでくれ、と伝えた。

そうしてカウンターに置いてあったワインボトルを手に取り、空いていたグラスに注ぎ妖夢に渡した。

 

「此れは僕からのサービスです。是非とも飲んでみて下さい」

 

「これは……お酒、ですか?」

 

「ええ。ワインというブドウの果汁を発酵させて作ったお酒です。葡萄酒ですね、甘口の」

 

グラスのステムの部分を持ち上げ、妖夢がワインを飲む。

周囲から何やら野次を飛ばされていたが、気に止めない……訳にもいかなかった。

 

「ちょっとお! そのお酒私が注文した奴なんだけどっ!」

 

レミリアが憤怒しそう言い放った。流石にボトルを一本丸ごと提供する訳が無く、彼女に提供したのはグラス一杯分である。

その旨を冷静に彼女に説明すると、今度は顔を真っ赤にしながら怒声を浴びせてきた。

 

「じゃあ、もう一杯寄越しなさいっ。そもそも私は、さっき注文したムースを待ってるんだけどねっ!」

 

空になったワイングラスを掲げてレミリアがそう文句を言ってくる。ひょっとしたら酔いが回り始めているのか、それにしては早い。

少々お待ち下さいと一言添えて、先に紫達の注文を伺う事にした。

 

「一人でお店を回すのも大変ねえ」

 

「ああ、多くても三人が限界だ。……それでは、ご注文の方をお伺いいたします」

 

「あ、それもしかして私に言ってるの?」

 

「いや、幽々子さん達に向けて」

 

紫が項垂れた。人数が多いと注文の品が増え、それに伴い調理時間が増えると同時に、客を待たせる時間も増えてしまう。

なので注文の方を迅速に伺い、一つ一つの時間を短縮していかねばならない。

 

幽々子さんがお品書きに目を通して、そぉねぇ、と呟いた。

妖夢が何にしますかと訊ねれば、隣の席では藍が橙に向けて好きなものを選びなさい、と告げていた。

 

こんなにも人数が多いのは初めての経験であり、僕自身がしっかりしなければならない時である──のだが、事態は芳しくなかった。

霊夢たちが食事を進める中、紫達が注文を決めている時に、またしても異音が響いてきた。

君の仕業か、と紫を訊ねたが、彼女は首を横に振って否定した。次第に異音は大きくなり、一頻り音が大きくなった時に、事は動いた。

 

突然店内の窓ガラスが割れ、ガラスの破片が周囲に飛び散る。

皆が一様に何事かと思い音の方向へと目を向けると、そこには……

 

 

「痛たた……もう、あれ程入り口から入ろうって言ったのにっ」

 

窓ガラスを突き破って突っ込んできたのは、春雪異変の際に出会ったプリズムリバー三姉妹の長女、ルナサであった。

彼女がいると言う事はつまり、彼女の妹達もいるということで

 

「あはは、姉さんってば慌てんぼさんね」

続いて窓から飛び込んできたのは、メルランである。

 

「入り口から入るよりも、こっちから入った方が"いんぱくと"があるじゃない」

 

更に出てきたのが、リリカであった。

この三姉妹達はなんと、扉からではなく窓ガラスをぶち破って入店してきたのだ。

 

「そもそも、姉さんがじゃんけんで負けたから先鋒に決まったんじゃないの!」

 

「そうそう。姉さん性格暗いからね~、良い経験だよー」

 

「あのなぁ、お前達」

 

三姉妹達は僕達を置いてけぼりに、そう会話をしていた。

 

「ちょっとあんた達、なに勝手な事してんのよ。人が落ち着いて食事をしている時に」

 

「貴女達、プリズムリバー三姉妹ね。廃館で姿を見ないと思ったら、こんな事ばかりしてるのかしら」

 

アリスがムースを食べながら、そう言い放つ。

対してプリズムリバー三姉妹は、「ちょっとぉ、それ誤解なんだけどぉ」と、まるで悪びれる様子も無くそう弁論した。

しかしこの場にプリズムリバー三姉妹の味方は一人たりともおらず、女達の騒々しい口論の火蓋が切って落とされた。

 

お店の中で喧嘩をしてほしくないと思った僕は、直ぐに仲裁の言葉を選び、発する。

 

「皆、落ち着いてください。プリズムリバー君も、せっかく来たのだから席に着くと良い」

 

「はーい」

 

「ちょっとぉ、今のは私に言ったんであって、リリカの事じゃないよ」

 

「お前達なあ。……ごめんなさい、妹達が勝手な事をして」

 

ルナサは確か、プリズムリバー三姉妹の長女である。

控えめな性格で物腰落ち着いており、姉妹達の中でも比較的大人な対応を出来る人物だと、僕は思っている。

けれどもやはり姉妹という事もあり、同じ血液が体内を駆け巡っているのだ。窓ガラスの件も然り、この三姉妹は恐らくグルに違いない。

 

しかしこの場で件の事を追求しても、雰囲気が悪くなり食事が不味くなる一方である。

一度事態をリセットする必要があり、その為にも僕は憮然とし、注文の方を催促する。

 

そうして八雲達、幽々子達に加えてプリズムリバー三姉妹。揃ってお店の方に足を運んで来たという事もあり、店内は盛況の極みを経ている。

こうした日は今までにも無かったので、対応に追われるばかりであったが、やはり彼女達のような者達の相手は楽しいな、と実感する事が出来た。

 

 

 

 

*

 

 

 

数時間ほどの時が経ち、漸く彼女達のお腹が膨れてきた頃。

店内は混沌と化しており、酔っ払いたちがぎゃあぎゃあ、と騒いでいた。

 

「ちょっと、もうお酒ないわよ」

 

「はーやーく、はーやーくっ!」

 

霊夢が酒を催促して騒ぎ出すと、メルランが好機だと言わんばかりに騒ぎ始める。

酒を寄越せと酔っ払いたちが喚き散らし、提供した一升瓶はものの数分で只の空き瓶と化してしまうのだ。

恐らく数十本以上は空き瓶にさせられたであろう、恐ろしい。華奢な少女達ばかりであるが、どいつもこいつも酒豪揃いで頭が上がらない。

 

「早くしてってばあ、おつまみも!」

 

「今度はさっぱりとしたのが良いわねぇ」

 

便乗して幽々子がそう言う。最早お品書きはその意味を成しておらず、現場は料理屋というよりかは、"宴会場"と化していた。

僕は急いで厨房に向かい、無難なおつまみやらお酒やらを選別してカウンターまで持っていく。

そうして板場まで持っていくと、そこにはアリスと咲夜さん、それに妖夢がいた。

 

「すみません、手伝ってもらって」

 

「別に構わないわよ。まさかこんな事になるとはね、最初は静かに過ごせると思っていたけど」

 

「此方こそすみません。幽々子様、食が太くって……」

 

「お嬢様も、まさかあんなにも酔ってしまわれるとは」

 

頭を抱える従者二人組み。自身の主人が狂気になっていく様を見て、半ば呆れつつも謝罪をしてきた。

酔っ払いの主人とは裏腹にしっかりとした従者を持って、レミリアも幽々子も幸せものだな、と思った。

 

カウンターに目を向けてみると、席を奪わんとばかりにメルランとリリカが争っていた。

最早店内の会話が多すぎて、誰が誰と、どのような会話をしているのか全く分からない。ただの騒音と化している。

 

「ではこれ、ウイスキーはレミリアさんに」

 

「了解よ」

 

「これは幽々子さんに。揚げ物の盛り合わせと、もつ鍋」

 

「はい。よいしょ……っと」

 

中でも幽々子さんの食事量は凄まじかった。既に3人前以上は平らげているのに、更に鍋物やら揚げ物を注文するのだ。

 

「枝豆と、こっちはおつまみクラッカー。適当に配ってください。それと、桃のヨーグルト添えも」

 

「分かったわ。へぇ、こんなに熟れた桃が幻想郷にもあるのね」

 

「……ええ、まあ。そのままでも美味しいですが、ヨーグルトと一緒に食べるとより一層フルーティーになるからね」

 

「ふぅん、美味しそうね。今度お裾分けしてよ」

 

「機会があればね。さ、店のテーブルを齧られる前に運んでおくれ」

 

アリスに渡したおつまみクラッカーは、クラッカーを下地に様々な食材を乗せたおつまみだ。

チーズは勿論の事、肉系やピザ風味にしたり、野菜などを添えてあっさりと召し上がれるようにもしてある。

味もさることながら、見た目の彩りも様々なので、ついつい一個選んで食べてみたくなるというのが人の性と言うやつである。

 

店内で空いたお皿やグラスを片付けている最中、何やら霊夢達の座っているテーブルが騒がしいのに気付いた。

 

「そーいえば」

 

焼酎を飲みながら、霊夢が誰に言うでもなく言葉を放つ。

 

「こういう場に魔理沙がいないってのも、何だか不思議よねぇ」

 

「そういえばそうね。この巫女にしてあの魔法使いあり、って感じだもの。あ、盗人の間違いね」

咲夜が皮肉っぽくそう言った。

 

「なら呼べば良いじゃないの」

 

「嫌よ、面倒臭い。どーせ森でキノコでも採って、怪しげな実験でもしてるんじゃないの」

 

「あ、やってそう」

 

少女達がそう噂し、けらけらと笑っていた。

……拙い。そういえば魔理沙の事を忘れていた。確か風呂に入ると言って、それっきりで……

 

「天道、すまない。毛布か何か余ってないか」

 

「藍か。毛布なんて何に使うんだ」

 

「橙が眠ってしまってね。風邪を引いてしまうから、何か掛けてやらないと」

 

藍は橙の事を非常に気に入っており、娘のように大切にしている。昔からずぅっとだ。

そんなもの、君の尻尾で代用したまえ。……なんて事は言えないので、素直に毛布を取って来る事にした。

 

そう思って居間の方へと向かおうとした時であった。

不意に廊下へと通じる扉が開かれ、そこからとある人物が出てきた。

 

 

「────ふーっ。良い汗かいたぜ、おかげで酔いも醒めた醒めた」

 

全身から湯気を放ちながら、いつもの魔法服よりも比較的軽装で魔理沙が風呂から上がってきた。

手をパタパタと振って自身に風を送りつつも、飲みなおすかー、と言って笑っていたが

 

「あれ。皆どーして此処にいるんだ」

 

きょとん、とした表情で魔理沙がそう言った。

それは周囲の者達も同じであり、口をあけて魔理沙の方へと視線をやっていた。

咲夜なんかは固まっており、ワインを注いでいる途中だったのか、グラスからワインが零れていた。

 

「どーしたんだ、皆。お、クラッカーじゃん。一枚貰うぜーっ」

 

テーブルに置いてあったクラッカーを一枚手に取り、口へ放り込んだ。

かっかっか、と笑いつつ空いていた席に座り、誰が飲んだのかも分からない飲み途中の酒を飲み始める。

 

静寂に包まれたのも一瞬であり、魔理沙が着座し酒を飲み始めた次の瞬間には、再び元の騒音が復活した。

 

「な、なんで魔理沙があんたの家の風呂に入ってんのよっ」

 

「ふ、不潔だわ。さては貴方、彼女が酔った事にかこつけて……」

 

「貴方ねえ。お子様には興味がないって言っておきながら」

 

霊夢やら紫やら、咲夜が一様にいちゃもんをつけてきた。

 

「難癖をつけるのはやめたまえ。彼女が風呂に入りたいと言ったから提供しただけであり、下心などないよ」

 

終いには変態、と言われてしまったので、そう反論した。

そうした上で霊夢たちが来る前までの経緯を説明し、魔理沙が酒に酔い、湯を浴びたいと言うまでの事をきっちり説明した。

すると納得したような表情で、かつ詰まらなそうに霊夢が言う。

 

「なーんだ、そんな事か。つまんないわね、酒の肴にもなりゃあしないわ……お酒はもうないの?」

 

「さっき出したばかりだろう。もう少し大事に飲みなさい」

 

こんな難癖をつけられた上で、酔っ払いに対して敬語も何もないだろうと、普段通りの口調で話す。

周囲は相変わらず騒いでいたが、プリズムリバー達が会話を聞きつけたようで、何やら騒がしい。

 

「じゃあ、私も入ろーっと!」

 

「あ、待ってよ姉さん、私もー」

 

メルランとリリカがそう言ってはしゃぎ、廊下の方へと駆け出して行った。

 

「良いの、天道さん。彼女達なら本当に入りかねないけど」

霊夢がそう言う。

当然良いわけがないので、長女であるルナサに向けて言葉を放つ。

 

「良いわけがあるか。ルナサ君、君が姉として何か言っ」

 

そう言いながらルナサのいる方へと振り向いてみたが、なんと彼女は眠っていた。

ぐうぐうと寝息をかいており、とても心地良さそうにしていた。

メルランやリリカが楽しそうに騒いでいたのは、普段彼女達を抑制しているルナサが眠ってしまっていて、機能していなかったからか。

 

「おーい、つまみは無いのかー?」

魔理沙がそう言い始める。

少し待っていろ、という言葉を発しようとしたが、直ぐに他の声に遮られた。

 

「す、すみません天道さん。幽々子様が……」

妖夢がそう声をかけてきたので、何だ何だと聞いてみると、どうやらお酒も尽きたらしい。さっき持って行った鍋も半分ほど平らげており、彼女の食欲は止まるところを知らない。

 

「天道、毛布なんだが」

 

「あああーっ! 咲夜ー、お酒こぼしたぁーっ」

 

「忙しいところごめんなさい、台拭きはないのかしら。お嬢様がお酒をこぼしちゃって……」

 

次から次へと僕に声をかけてくる。

止めにレミリアがウイスキーをテーブルに溢してしまい、それを処理しなければならなくなった頃には、僕は完全に辟易とした。

酔っ払いの少女達が集うと、こんなにも厄介なのかと、今日実感し今後の教訓とすることにした。

 

お店が繁盛するととても嬉しいのだが、その反面で人手が足りなくなったり、処理が仕切れなくなるといったデメリットがある事を改めて実感した。

今後はこういう事が起きないように、何かしらの対策を打っておかねばならないなと、風呂場で騒ぐメルランとリリカの声を聞いて、そう強く思った。

最早彼女らの事など知った事かと、僕は風呂ではしゃぐプリズムリバー姉妹を放っておく事にした。夜はまだまだ続く。これからの持久戦に備え、僕は一つ一つ着実に物事を解決していくのであった、

 

 

 

 




以上となります。

過去編の導入が近い……過去編はオリジナルキャラクターや独自展開の巣窟でございますので、もしかしたら受け付けない方も多いかもしれません。

こうした日常編の執筆は流れに乗れれば楽なのですが、最近は今年も終わりが近いということで、思うような執筆ができていないのが現状です。

ですが、少しずつ執筆を続けていく所存ですので、今後ともよろしくお願いいたします。


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巻ノ二十 開いた口に戸は……

昨日の大騒ぎは明け方近くまで続き、僕が片付けを終える頃には太陽が頂点に達していた。

次から次へとお酒だの料理だの、果ては飲み物を溢したり、汗をかいた者らが風呂に入ったりと、店内では人が入り乱れていた。

 

結局あの後、メルランとリリカが風呂に入り、その後にも霊夢やアリスなど泥酔していない者達が風呂に入って身体の疲労を湯に流した。

テーブルを片付け飲み残しや食べ残しを拭き取り、更に汚れた食器やグラスも流し場のシンクに入れ、洗浄する。

風呂場はかなりの頻度で使用されていたので、キチンと掃除をして水垢が出来ぬよう水分も拭き取った。

これら一連の作業をするだけでもおよそ数時間は経過してしまった。兎にも角にも、食器類の量が尋常ではないのだ。

先日の朝から一睡もしていなかった為、今日一日は休業しようと考えて表の表示板を閉店にひっくり返し、今日は一日休むことにした。

 

 

*

 

 

数日後、僕は人里を訪れた。

お店の方は休業日にしており、たとえお客さんが来たとしても料理を出す事はできない。

大分前までは休業日と営業日の境界が曖昧だったものの、数日前のどんちゃん騒ぎ以降は魔理沙や霊夢達、その他の面子も顔を出してくれるようになったのだ。

その他の面子とはプリズムリバーとか、八雲紫とかだ。

 

お店の方に顔を出してくれるようになった一番の理由としては、値段が安い事であったらしい。

人里で経営している飲食店と比べると、随分と安いらしく、事実価格設定は低めに抑えており、人里の飲食店と比較はした事がないが、安さには自信がある。

少々遠い事を除けば意外と良店だ、と彼女らは評価してくれた。まあ、普通の店ならば彼女達はブラックリスト入りしそうな変人ばかりだが。

 

 

そうして訪れた人里は、先の異変の後遺症は既に見られず、普段通りの日常を送っていた。

繁華街は人で溢れており、通りの商店は客寄せに必死である。旗を振り店の存在を示したり、店員が通り過ぎる人に声をかけたりと、その手法は様々。

その繁華街を僕も歩いていたのだが、特に声をかけられるという事は無かった。

声をかけられない、という事に関しては少々物寂しい気持ちもあるものの、行動を阻害されないという点で考えると、非常に都合が良かったなとも思えた。

 

そもそも僕の格好に問題があるのかもしれないが、他人の服装を一々凝視して判断する事も無いか、と気にしない事にしている。

僕の服装は以前とは変わっている。

理由としては、春雪異変の際に普段着用している服が斬られてしまい、まともに着用する事が困難になってしまったから。

流石に生地が切れている上に血塗れている服を日常的に着るなど、僕には出来なかったので、当の衣服は破棄した次第である。

 

代用の衣服として採用したのは、僕が過去に着用していた衣服だ。

生地がよれていたり筋にボロが出始めたりしており着用していなかったのだが、着る物が他に無いのだから着ざるをえない。

 

僕が今まで着ていた服は幻想郷の風景に溶け込みやすく、周囲の人間達や妖怪達にも比較的馴染まれ易いデザインだったので、割と使い勝手が良かったのだが。

対照に過去の衣服はデザインが少々幻想郷の風景からは逸脱しており、あまり類を見ない服装となっている。

恐らく幻想郷に住む人間や妖怪に言っても通じないかもしれないが、"ジャケット"だとか"カットソー"といった類の服であり、タイトな作りのものが多い。

まあ、その辺りは致し方ないと考えている。裸で外をうろつく訳にもいかないので、少々周りから浮いてしまう程度、どうという事はないのだ。

 

 

人で賑わう繁華街を抜けると、今度は比較的人通りの少ない商店街に移り変わった。

繁華街は娯楽や道楽の店が集中している節があるが、此方の店には甘味処や茶屋、八百屋などと生活に関わってくる店舗が比較的多く並んでいる。

 

僕はその中から米屋を訪ねる為に、今回人里を訪れたのだ。

そう思って歩いていると、前方から何処かで見たような風貌をした少女が現れる。

僕が少女に視線をやると、彼女の方から声をかけてきた。

 

「あ、天道さん。この前はお世話になりました」

 

通りがかる彼女の名前は、魂魄妖夢であった。

妖夢は僕に会うなり、前回の件に関してお礼と共に謝罪の言葉を述べてきたので、僕は「気にしないで良い」と伝えた。

すると彼女は「そういう訳にもいきません」、と語調を強めてそう述べてきた。

 

「もしかして、その服も私のせいで……」

 

妖夢は僕の服装が以前とは大きく異なっている事に気付き、訊ねてきた。

お店の中では今とは違う服装だったので気付かなかったのだろうが、外に出れば私服となる為に露呈するのは必然であった。

 

「君が気にする事はないよ。丁度衣替えの季節だったからね、着替えたのは自分の意思だ」

 

妖夢は僕を斬った際に、服が着用できない状態になってしまったのではないか、と心配したのかもしれない。

確かに着用できなくなった原因は彼女にあるが、僕はそのような事は気にしていない。

なので彼女には気にしないでくれ、という旨を伝えた。すると彼女は申し訳無さそうに、「すみません」と再び謝罪の言葉を述べていた。

素直な子なのだなと思い、別れの言葉を告げて目的の場所へ行こうとした時、声をかけられた。

 

「天道さんはこの後どちらに」

 

妖夢がそう訊ねてきた。

 

「お米を買いに来たんだ。そろそろ切らしてしまうからね」

 

「へぇ、そうだったんですか。実は私も幽々子様の使いで……」

 

そう言いながら彼女は鞄の中から菓子類を取り出し、見せ付ける。

 

「お使いか。幽々子さんは食の太い人だったね、確か」

 

「あれでも抑えていた方ですよ。普段はもっと食べるお方ですから」

 

「幽霊なのに腹が減るのも可笑しな話だ」

 

「あ、それ偏見ですよ」

 

妖夢は苦笑しながら、そう指摘してきた。

彼女曰く、白玉楼の月の食費だけで里の借家を一月の間借りられるらしい。

借家の程度にもよるだろうが、それでも一ヶ月の家賃は馬鹿にはならない。僕のお店の利益では、到底支払えない額である。

商店街のど真ん中で妖夢と世間話をし、そろそろ本来の目的の為に行動をしようかと思い立ったところ

 

「立ち話も何ですし、茶屋にでも行きましょう!」

 

と提案され、断る理由が特に無かったので誘いに乗る事にした。

妖夢の背を追いつつ、ふよふよと浮かぶ彼女の半霊に目を泳がせながら茶屋へと入るのであった。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

お店で初めて妖夢と言葉を交わした当初は、お淑やかな性格の娘なのかな、と思っていた。

しかしそれは主人ありきであり、幽々子が居ない現在は何処か垢の抜けたような、そんな性格であった。

紅魔館のメイドといい白玉楼の従者といい、自分を押し殺している面があるのだなと思うと、とても苦労しているのだなとも思えた。

 

妖夢は茶屋でお品書きを見ると、「あれなんてどうですか」、「これなんて美味しそうですよ」、と言葉を振ってくる。

僕自身としてはあまりお腹が空いていないので、特に食べたい物は無かったのだが、せっかく彼女と茶屋に来たのだから何かしら頼まないのも失礼に値するだろうと、みたらし団子を注文した。

彼女はあんこを注文し、主人へのお土産と言って"すあま"を六つも注文していた。

 

 

「六つも食べるのか」

 

「いえ、その気になれば十個でも二十個でも。あればあるだけ食べてしまわれるお方なので」

 

緑茶を飲みながらそう言う妖夢。

 

「天道さんもどうですか、すあま」

 

「僕は遠慮しておくよ。食感が苦手でね、幽々子さんに食べてもらった方が良い」

 

お裾分けと言わんばかりにすあまを一個渡してくれるが、丁重にお断りした。

すあまとは餅菓子の一種であり、祝い事の席などで配られる事もあるお菓子である。

すあまを、知らぬ者が見ればカマボコかと勘違いし、麺類と共に茹でてしまうかもしれないので注意が必要である。

 

僕達は縁側の席に座っており、通り行く人々の姿を見る事が出来る。

風通しが良くて涼しく、すだれが掛かっているのも侘寂があって素晴らしい。店舗自体は小さいが客足が途絶える事がなく、今も新しい客が訪れ丁稚の子が応対していた。

 

「この店は有名なんだね。客足がいつまでも途絶えない」

 

「そうなんですよ。このお店、ずっと昔から営業してるので、里に住む者ならば誰もが知っているお店ですよ」

 

「ふーん、そうなのか。昔から有名だったのか」

 

「いえ、数年程前からですかね。昔は品揃えが悪かったとかで、あまり繁盛はしていなかったとか」

 

僕はみたらし団子を食べながら、妖夢はあんこ団子を食べながらそう口にする。

 

「あ、ほら見てください。お団子の中に更に餡が詰まってますっ」

 

団子を美味しそうに頬張りながら、嬉しそうにそう告げてきた。

あんこ団子は通常、団子の上に餡をのせるのが主流なのだが、この店舗のは団子の中にも餡を詰めているのだ。

 

「ほんの数年前までは、こういったお団子はとてもシンプルなものばかりだったのですが、最近になって面白いお団子が増えているんですよ」

 

「店の主人がアイデアを思いついて作っただけなんじゃあないのか」

 

「この店の主人は御婆ちゃんですよ。元々は旦那さんと夫婦で営んでいたそうなんですが、数年前に旦那さんが病で亡くなってしまって」

 

それからは御婆ちゃんだけで店を回しているんです、と妖夢は続けた。

 

「でも可笑しいと思いませんか」

 

妖夢はそう言い、食べかけの団子を視線と同じ高さまで掲げ、続ける。

 

「数年前に旦那さんが亡くなったって事は、お団子を作れる人が居なくなってしまったという事になりますよね。

でもお店が繁盛し出したのも数年前……、普通ならお店を閉めざるをえない状況だと言うのに、それどころかお店は同業他店を抜いて今では誰もが知るお店の一つになっています」

 

「その御婆ちゃんが、実は職人だったのでは」

 

「そんなまさか。御婆ちゃんはお団子作りには深く関わっていなかったんですよ」

 

彼女はそう言ってお茶を飲む。

確かに何となくではあるが、不思議な話である。数年前に職人が亡くなり、普通ならその場で店を畳まなければならない状況であるのに、畳むどころかお店は大繁盛してしまった、という事だ。

では何故繁盛したのか、というと……

 

「旦那さんよりも、腕の良い職人が居たんじゃあないのか」

 

僕がそう言うと、妖夢は人差し指を差し向けて言葉を吐く。

 

「そう、そういう事なんですよ!」

 

食べ終えた団子の串をお皿に戻し、妖夢は言葉を続ける。

 

「老夫婦に子供は居なかったのですが、弟子の人がいたみたいなんです。旦那さんは厳格な人だったようで、弟子にはとても厳しかったそうなんですよ」

 

「それで旦那さんが亡くなった後、弟子が団子を作っている、というわけか」

 

「そーいう事ですね」

 

二本目の串を手に取り、頬張る。

洗練されたみたらしが太陽光に反射し輝きを放っており、整った形の餅玉は純白を呈していた。

妖夢からお店の事情の話を聞いて、一つ思った事があったので質問してみる。

 

「じゃあ何か、旦那さんよりも弟子の方が優れていた、という事か」

 

僕がそう質問すると、妖夢は頭を捻り少々小難しそうに口を開く。

 

「うーん……そうとも言い切れないんですよね。お団子の質なんかは昔の方が良かったそうですし、今のお団子は一本一本にムラが多いとか」

 

「それはやはり、旦那さんの方が優れていたからか」

 

「質に関してはそうなんじゃあないでしょうか。ただお弟子さんの方が創造性に富んでいたからこそ、こうした面白いお団子が作れたのではないんでしょうかね」

 

その結果としてお店が繁盛したんでしょう、と妖夢が言った。

確かにあんこ団子やみたらし団子以外にも、磯部に花見団子など、中には爪楊枝を刺して食べる草団子なんかも置いてある。

しかしこうして考えると疑問の種というのは尽きぬものであり、またしても新たな疑問が浮かぶ。

 

「ならどうして旦那さんは弟子に団子を作らせなかったんだ。いや作らせずとも、そのアイデアを採用すれば質の良い種類豊富な団子を提供できたろうに」

 

「恐らく、周囲はそう思ってたんじゃないでしょうかね。けど旦那さんが弟子に団子を作らせなかったのは、恐らくお弟子さんが外来人だったから、かもしれません」

 

「……外来人」

 

「はい。外の世界から来た人間の知恵を借りてまで、お店を繁盛させたいと思わなかったのかと。

里には極々少数ですが、外来人の方がお店に携わっているという事があるんですよ。繁盛している店の大部分は、もしかしたら外来人の方が経営しているのかもしれません」

 

団子を食べ終えたお皿を、丁稚の子が下げにきた。

僕も妖夢も食べ終えておりお茶だけが残っていたので、丁稚の子にはお皿だけ戻してくれ、と告げて下げてもらった。

畏まりました、と告げて丁稚の子が下がったのを見計らい、妖夢は口を開く。

 

「ここだけの話ですが、里は外来人に対してあまり友好的ではないんですよ」

 

「それはどうして」

 

「あ、友好的ではないと言ったのは、あくまで"ただの外来人"ですね。外来人の中でも稀に能力を持っている人がいるので、そういった人たちはまた別です」

 

それは何故だ、と再び返す。

 

「さあ、詳しくは分かりませんが。けど外来人が里を訪れる事自体、極稀にしかないのであまり気にしていても仕方ないですよ」

 

「ふーん、そうか。偶々この店の弟子が能力持ちの外来人だった、という事だね」

 

「そうですね」

 

妖夢はお茶を飲み干して立ち上がると、大きく伸びをした。

僕は横に座ったまま、その様を眺めている。

 

 

「どうしてそんな話を僕にしたんだ」

 

何気なく思った事であったが、気になったので妖夢に質問してみた。

彼女は伸びを終えた後に再び席に着くと、此方に顔を向けて言葉を返す。

 

「どうしてって……特に理由はないですよ。強いて言うなら、面白かったですか?」

 

「面白い、というよりは裏の話を聞けたようで、何だかとてもタメになった」

 

「ふふ、なら良かったです。実は私、男の人と二人でこうして過ごすのが初めてで、何を話していいか分からなくって」

 

顔を俯けてそう言う妖夢に対して、「そうか」とだけ返した。ただの世間話に過ぎない。

男女の件は兎も角、人里の裏の話を聞けたので、僕としては有意義な時間となった。

同時にこの店の弟子、現在の主人に当たるという男に、僕は会ってみたいなとも思った。

 

 

「では、僕はそろそろ行こうかな」

 

団子を食べ終えてお茶も飲み終えたので、本来の目的のために行動しよう思い立ち上がる。

本来の目的と言っても内容は大した事はなく、単純に里で販売しているお米を買いにきた程度である。

 

「あ、はい。分かりました。あの、良ければこれどうぞ」

 

「ん、ありがとう。今度またお店に来た時は、それなりに歓迎させてもらうよ」

 

妖夢から何かを貰ったが、中身を確認する前に別れの言葉を告げる。

あまり詮索していてはいつまでたっても行動する事が出来ず、時を無為に過ごしてしまうからだ。

何も毒物や劇物が入った包みを渡されたわけじゃああるまいし、一々訊ねていてもしようがない。

 

また今度、と言って別れる。妖夢は今度白玉楼に遊びに来て下さいと言っていたが、冥界に遊びに行くというのも縁起の悪い話である。

里の商店街の路地へと出ると、太陽は天高く昇っており、憎らしいほどの日差しが僕の肌を焼き付けるのであった。

 

 

 

 

*

 

 

 

その後は店へと戻り、通常通りの営業を行った。

日中は人里の方へと赴いていたので営業はしていなかったが、帰宅して一息ついた後に営業を再開したので、およそ夕方頃からの開店である。

妖夢から別れ際に貰ったのは、おはぎであった。それも二つもあったので、後で食べようと冷蔵庫の中に入れた。

昼間はあまり人は訪れないが、最近は夜になると個性的な面々が姿を現すのだ。

 

魔理沙や霊夢を筆頭にルーミアや、時間があれば紅魔館の面々なども訪れてくる。

どうして僕の店を訪れるのだ、と店主には有るまじき質問をした事もあるが、回答は皆が口を揃えて「何となく」であった。

そうして本日も魔理沙が訪れており、夜遅くまで彼女の相手をしていた。

彼女の相手は非常に気楽に出来るので、少しばかし手を抜いた程度で嫌な顔をされたりはしない。けども彼女の悪い癖を一つ上げるとするのならば……

 

 

「……君は何を食べているのだ」

 

魔理沙は注文した料理を食べ終えた後、こそこそと何かを頬張っていたので声をかけた。

すると彼女は屈託の無い、悪意を欠片も感じさせない表情で堂々と口を開いた。

 

「ん、これか。そこに置いてあったから食べちゃった」

 

彼女の指差した先には、店内の隅に置いておいた妖夢から頂いたおはぎであった。

確実に箱詰めされており、中身が菓子類だと思わせないような梱包だったのにも関わらず、魔理沙はそれを嗅ぎ付けなんと勝手に食べていた。

 

「置いてあったんじゃない、保存していたんだ。それと、何でもかんでも勝手に食べるのはよしなさい」

 

「失礼な。私をあの亡霊のような大食いと一緒にしないでくれ」

 

「君はその亡霊よりも性質が悪いよ。……まあ、別にいいけど。二つあったから、一つくらいくれてやるさ」

 

「……悪い、その二個目だ」

 

漸く申し訳なさそうな表情になった魔理沙は、食べかけのおはぎを僕に差し出した。

「食べかけで良ければ返すぜ」、等とのたまうので、今度は「残さず食べなさい」と叱った。甘い物は別腹とよく言われるが、まさにその言葉通りの出来事が起きた。

僕は甘い物はそんなに好きではないので気持ちは分からないが、彼女は一日の標準摂取カロリーを優に越える量の食事を摂っている。

恐ろしや。更には食後に一杯と言ってお酒を注文するので、彼女の身体の構造を疑ってしまう。

 

けどもまあ、お店側からすれば彼女は格好のカモである。

今日も色々と注文してくれたので、少しだけではあるものの利益が出るだろう。

……と思いつつ接客をし、丑三つ時になった頃に魔理沙は漸く帰宅するに至ったのだが、「"こーりんどう"に付けておいてくれ」と訳の分からない事をのたまい、千鳥足で出て行ってしまった。

呼び止めるのもどうせ無駄であろうと、今日の処は帰してやった。

結局、お金が支払われなかったので利益は出ておらず、赤字経営である。今度、当の"こーりんどう"から徴収してやろうと思う。

 

 

 

 

 








以上となります。
お気に入り登録件数がぐんぐん伸びており、本当に嬉しいです。
評価をして下さる方々にも感謝しております。
過去編は好き嫌いが分かれる内容なので、もしかしたら離れてしまう方もいるかもしれませんが、今後ともよろしくお願いいたします。
すあま美味しいです。


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巻ノ二十一 心の中の

 

 

「おーい、天道。勝手に入るぞー」

 

突如、店の外から声が聞こえてきた。

声の主は言いたい事だけを吐き出し、次の瞬間にはノックもせずにずかずかと店内へと侵入してきた。

 

僕は今、カウンターや厨房などが設けられている店内空間とは別の、居住空間にて一息ついているところである。

この店の唯一の従業員たる僕が何故寛いでいるのかと問われれば、言うまでもない。本日はお店を閉めているからである。

今日は誰がなんと言おうと、絶対に料理を作るつもりはない。……と考えリビングで読書に耽っていると、思わぬ輩が訊ねてきたので、辟易した。

 

その思わぬ輩は短い廊下を一気に駆け抜け、居住空間へと通ずる扉を通り抜けて更に奥へある店内空間へと突っ走っていった。

 

「あれ、いないのか。どこだー、出て来いよ天道ぉーっ」

 

終いには僕の名前を叫びだしたので、致し方なく彼女の応対をする事にした。

読み途中の本にしおりを挟み、店内空間にいる魔理沙の下へと向かう。

 

「……何してるんだ、魔理沙」

 

「お、やっぱりいるじゃん。良かった良かった……そいじゃ、酒でも飲みながら話をだな」

 

「酒などないよ。帰りたまえ、今日は休業日だからね」

 

「えー、いいじゃん。どーせ暇なんだろー?」

 

しれっとした態度で、悪意など微塵も感じさせぬ表情で、彼女はそう言い放ってきた。

失礼にも程がある発言は流しておき、僕は魔理沙に対して言葉を吐く。

 

「話は聞くよ。けれど注文を聞くことはできないね。ま、立ち話もなんだから座りたまえよ」

 

カウンターの席をひとつ、くるりと回転させて着座を促す。

魔理沙は何か言いたげな表情をしており、渋々と席に座った。

 

「それで、話とはなんだい。世間話なら店の営業時間にしてくれよ」

 

「ちぇ、連れないなあ。天道んとこの店は休みが多くないか?」

 

「僕が一人でやりくりしているからね。小腹が空いたのなら良い店を紹介してあげようか」

 

僕がそう提案すると、魔理沙は「いい」、と短く断った。

注文は取らないと言ったものの、お冷程度は出してやろうと思いグラスの中に水を注いで用意してやった。

さんきゅ、と言って魔理沙は水を受けると、一気に半分ほど飲み干してしまった。余程喉が渇いていたのだろうか。

そして本題だと言わんばかりに彼女は僕の目を見据え、口を開く。

 

「今夜、博麗神社で宴会を催すんだけど、お前も来るか?」

 

にかり、と笑い魔理沙はそう話を出してきた。

 

────博麗神社

幻想郷の最東端に位置している神社。

神社からは幻想郷を一望することでき、最も桜の美しい場所として有名であるらしい。

幻想郷を一望できる事から、幻想郷と外の世界を隔てる"博麗大結界"を見張る役割があるらしく、代々博麗の巫女が結界の管理を担当しているようだ。

 

全て話に聞いた事であり、事実との相違はあるかもしれない。

胡散臭い八雲紫から聞いた眉唾ものの話もあったりする。

ただ現在の博麗神社は参拝客が少なく、人間よりも妖怪の方が神社を訪れるらしい。

そして宴会などを開いたりして仲良く接しているという事。流石にそんな話は信じられないと、当時話を聞いた僕はそう思ったのを憶えている。

 

様々な噂の蔓延る博麗神社という場所。

そのような場所で行われる宴会など、想像する余地など無かった。

無論、参加すれば命の保障など誰もしてくれない。妖怪等といざこざを起こすのは御免被るし、ストレスを抱えたいとも思わない。

 

色々と思考をしていると、魔理沙が先程とは小さな声で言葉を放ってきた。

 

「大丈夫だぜ、みんな気さくで良い奴らだからさ」

 

「……そーいう問題じゃあないんだけどね」

 

「まあ、気が向いたら来いよ、日没頃に始めるから。みんな待ってるからな!」

 

魔理沙はそう言うとグラスを勢いよく傾け、残った水を全て飲みきった。

 

まだまだ太陽は高く昇っており、日没までは随分と時間がある。

魔理沙はこのまま僕の店にてたむろすのだろうかと危惧していたが、それは杞憂に終わる。

 

「んじゃあな、また来るぜ」

 

彼女はそれだけ言うと、さっさと店内から出て行った。

短い廊下を慌しく走り抜ける…………途中で足音が止まり、僕はその事を不思議に思った。

何か忘れ物でもして取りに戻ってくるのか、そう思考していると、魔理沙の声が扉越しから聞こえてきた。

 

「おお、凄いな。此処が天道の部屋かっ」

 

まるで面白い遊び道具を見つけた子供のような、そんな声で彼女は言葉を放っていた。

そういえば部屋から出てくる際に扉を閉めていなかったと思い、廊下から僕の部屋が丸見えな状態になっている事に気付いた。

 

「こらこら、勝手に僕の部屋に入るな」

 

多少急ぎ足で魔理沙の下へ向かった。勝手に部屋のものを荒らされるなど、たまったものじゃない。

彼女の性格からして目ぼしいものを見つけたら、適当な理由を付けて持ち帰ってしまう可能性がある。

 

「へぇ、意外と整然としてるんだな。私の家とは大違いだぜ」

 

「そいつは結構だね。さ、早く出て行きたまえ」

 

「お、なんだこれ」

 

魔理沙は戸棚の上に置いてあった小瓶を見つけ、それをひょいと持ち上げた。

 

「なになに……化粧水?」

 

「勝手に物をいじるな」

 

「なんだ、結構可愛い事してるじゃん。肌のお手入れかー、まるで女の子みたいだな。そいやお前、男にしては髪の毛も長めだし、女装したらそれっぽく映えるかもな」

 

変な笑みを浮かべてそうのたまうと、魔理沙は僕に視線を向けた。

確かに僕は人里にいる男連中と比べれば髪の毛は長いし、美容にも幾許か心がけている。

しかし、それを根源として根も葉もない事を言われるのは耐え難く、許されざれない行為。

 

気付くと僕は彼女へ向けて、普段とは違った感情で言葉を放っていた。

 

「……この僕が女の子みたいだと? ふざけた事を言うのも大概にしろ。気心の知れた仲にでもなったつもりか……お前の価値観を僕に押し付けるんじゃあ」

 

「お、おお……?」

 

魔理沙が驚いたような、吃驚とした表情をしていた。

その瞬間、僕は我に返った。とても気まずい空気が場を包んでいる。

恐らく先の僕は、ほんの一瞬であるがとても不機嫌になってしまっていたようだ。

彼女は既に手に取っていた小瓶を元の位置に戻しており、何か奇妙な物を見るような目で僕を見据えている。

 

気に入らない視線。とても居心地の悪くなる視線だ。

僕は他人から女の子呼ばわりされると、とても不愉快になる。

それは至極当然のことだと思うのだが、賛同は得られない。男性を女性呼ばわりするのは、およそ失礼に値する行為だと思うのだが。

 

……過去の因果に一々目くじらを立てていてもしようがない。

彼女に悪気はないのだから、一方的に叱責してしまっては、関係を崩すだけである。感情を抑制できなかった僕が悪いんだ。

僕は然も平然を装いつつ、魔理沙へ向けて言葉を紡ぐ。

 

 

「……悪かったよ。僕は乾燥肌でね……定期的に手入れをしないと、直ぐにボロボロになってしまうんだ」

 

「そ、そうか。はは、驚いたなあ、急に怒るんだもん」

 

「怒ってないよ。それよりも宴会……今晩やるんだろう。 気が向いたら行くから、期待しないで待っていたまえ」

 

「おう。期待して待ってるからな!」

 

魔理沙はそう言い放つと、直ぐにお店から外へ飛び出た。僕からしたら、一目散に去っていったというべきか。その後姿をいつまでも見ていた。

 

何だか悪い事をした後のような、言い知れぬ罪悪感が僕を支配していた。

まあ、いいか。長い人生なのだ、この程度の事で思い悩んでいては精神がもたない。

日没までにはまだまだ掛かるし、もう少しゆっくりとした時間を過ごそう。今日は休業日なのだからね。

 

そう考えて、僕は再び読書に耽るのであった。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

地上を照らす太陽はやがて沈み、漆黒の時が訪れる。

日中は気温が高く過ごし難い日々が続いているが、夜になると心地良い風が吹き過ごしやすい気温に変化する。

 

昼間、魔理沙に宴会へ誘われた為それらの身支度を行っていたのだが、支度が粗方済んだ頃に大事な事を思い出した。

それは"博麗神社がどの辺りに建てられているのか"という、至極単純な事であった。

そこに霊夢が住んでいるという事だが、生憎と僕は霊夢とはあまり仲良しではないので、彼女の神社に頻繁に遊びに行く輩とは違い神社までの経路を知らない。

その事を魔理沙に伝え忘れていた為に、僕は自宅で頭を捻っていた。

 

さて、どうしようか。

天高くまで飛翔して幻想郷全体を一望すれば一瞬で分かるだろう、当初はそう思っていたが、幻想郷は既に日没を終えており視界は非常に悪い。

そんな事をしても周囲は暗闇なので、神社どころか派手な色合いの紅魔館ですら見つける事はできない。

どうしよう、行くのをやめようか。行けたら行くと話は入れてあるので、僕が参加せずとも大した問題にはならない。

……という考えを浮かべこそしたが、後々気まずくなるのは御免だし、何よりも博麗神社での宴会という経験をするのも面白いかもしれない、と僕は逆の考えに至った。

 

あーでもない、こーでもない、と思考を繰り広げていると、不意に妖怪の気配を感じた。

振り向いてみると、予想通りと言うべきか。八雲紫が空間を裂いて出てきた。

 

 

「何か用」

 

僕は短くそう訊ねる。

 

「今夜の博麗神社での宴会……貴方も参加するのでしょう」

 

彼女は扇子を開くとそれを口元にあて、艶やかな笑みを浮かべてそう此方に問いかけてきた。

 

「誘われてしまったからね」

 

「もう宴会は始まっているのだけれど、大遅刻して行くつもり?」

 

「それはおかしな話だ。宴会は日が沈んでから始めると聞いたんだけど」

 

「素敵な料理や美酒を前にして、あの子達が我慢できるとでも」

 

紫にそう問われ、僕はとても我慢のできる奴らではないなと解釈した。

という事はつまり宴会は既に開始されており、いつまで経っても来ない僕の事を彼女が迎えに来たのだろうか。

そう思考していると、紫が口を開く。

 

「準備が整っているのなら、一瞬で送ってあげてもいいけど」

 

彼女はそう言い、人差し指を立てる。

すると目の前の空間が裂かれ、大人一人がやっと通れる程度のスキマが開いた。奇妙な眼が此方を凝視しており、気持ち悪い。

 

「なんだ、送っていってくれるのか」

 

「そのつもりよ。一通で良ければ」

 

「構わない。帰りは一人で帰るから」

 

「あら、お持ち帰りはしないの」

 

「気持ちの悪い事を言うな」

 

僕は彼女から顔を背け、準備を整える。

紫は時々こうして道化る事もあるが、本質は妖怪と変わらず何を考えているか僕にも分からない。

つまり煮ても焼いても食えない奴であり、魚の臓器みたいな奴。そう、胡散臭い奴なのだ。

 

「あなた今、とても失礼な事を考えていなかったかしら」

 

「別に何も。お言葉に甘えて送ってもらうとするよ。着替えをするから出て行け」

 

「そのだぼだぼのままでも良いと思うけど」

 

「これは部屋着。外に出るときは違う服を着る主義なの」

 

僕はそう言ってのけ、紫を部屋からたたき出した。

 

昔に着ていた男ものの和服の時はそんな事は気にせず着用していたのだが、それが無くなって以来は部屋着と外着を分けて着用している。

癖なのである。動きやすいか動きやすくないかの違いと、肌触りの違い程度であるが。

 

そうして着替え終わった僕は、部屋から出て紫に博麗神社まで送ってもらった。

気持ち悪い眼が無数に存在する空間に飛び込むと、視界が一瞬ブラックアウトした後、直ぐに目の前の光景が変貌した。

 

 

 

*

 

 

 

眼前に多くの人間や人外らしき生物が、一つの長テーブルを囲んでいた。

よく見知った者もいれば、初めてみるような妖怪も座している。

どうやら博麗神社は大賑わいのようで、たかが僕一人いようがいまいが大盛況の極みを呈している。

 

長テーブルはいくつかに分かれており、どうやらグループで分かたれていると推測できた。

僕はその中から見知った者達が座している長テーブルを探し、移動した。

 

「あら、天道さん。漸くの登場ね」

 

「よう、天道。こっち座れよ」

 

霊夢と魔理沙が僕にそう声をかけてきた。

霊夢は神社の当主という事もあり、上座に座っている。僕は彼女から向かって右側の席へと着座しようと思い、移動した。

 

「天道。こっち座りなさい」

 

魔理沙の二つほど隣りから、レミリアが声をかけてきた。

どうやら紅魔館の連中も宴会に参加しているようで、レミリアに加えて咲夜、フランドールとパチュリーまで座していた。

この様子から見ると美鈴は留守番を強いられているのか。なんとも哀れな、つくづく損な立ち回りを要求される美鈴に、僕は同情した。

 

二箇所から声をかけられてしまい、さて何処に座ろうかと思考していると、また声をかけられる。

 

「貴方、此処で良いじゃない」

 

突然腕を引っ張られ、僕は移動させられた。一番端の角の席が良かったのに。

声の主は八雲紫であり、彼女は僕の手を引きながらレミリア達から見て向かい側の席へと移動する事になった。

 

曰く、此処なら全員の顔が見れるという事であるが、別に何処に座ろうが全員の顔色は窺えると脳内で意見した。

霊夢達のいる長テーブルは身内で構成されており、顔見知りばかり座している。

紅魔勢や白玉楼、アリスに八雲藍や橙、お決まりの魔理沙に霊夢といった面子だ。

 

 

「天道さんって、意外と着痩せするんですね」

 

「まあね。普段は大き目の服を着ているから」

 

「ふーん。もっと筋肉で覆われているかと思ってたけど、案外細身なのね」

 

「レミリア君、僕の事を何だと思っていたんだ」

 

「ちょっと、どうして君付けなのよ!」

 

妖夢やレミリアがそう言ってきたので、煩わしいなと思いつつも反論した。

幻想郷の人里に住む男の人たちは、多くが和服を好んで着ているので、僕みたいな服装の人は極めて稀である。

 

「お店と外じゃあ、態度が違うのよね」

 

手に持っていた杯を傾け、八雲紫が補足するようにしてそう言葉を紡いだ。

 

「へえ。ま、下手な敬語を話されるよりは、普通の方が良いと思うけどね。でも君付けは気に入らない」

 

「ではレミリアちゃん」

 

「ちょっと、馬鹿にしてるの? 私は500年以上生きている吸血鬼だってのに、どーいう料簡で物言ってんのよ!」

 

憤怒したのか、レミリアが立ち上がってそう僕に言い放ってきた。

僕はどうしようかと考えて紫に視線を合わせてみたが、彼女は相変わらず胡散臭い笑みを浮かべたまま此方を見ていた。

しようがないので、思った事を言う事にする。どうせ既に酒が入っているのだろう、真面目に相手をするのも癪だ。

 

「それは君が幼児体系だからだよ。ちゃん付けなら可愛いと思う。ね、フランちゃん」

 

「うん。お姉様いっつも背伸びしてるから、もう少し肩の力を抜いた方がいいと思うよ」

 

「暴れるなら外で暴れて頂戴ね、レミリアちゃん」

 

フランドールと霊夢がそうレミリアに言い放った。

レミリアは表情を歪めて渋々着座し、手元にあった酒を一気に煽った。

 

「ぐぬぬ……霊夢まで……。ふ、ふん。貴方だってお酒もまともに飲めないお子様の癖に」

 

「酒は飲んでも飲まれるな、と言うだろう。そもそも僕は酒はあまり好きじゃあないからね、飲めなくて結構」

 

「ふーん。男がお酒を飲めないなんて、まるで女の子みたいね。天道ちゃん?」

 

レミリアがそう言って僕を煽ってくる。

女の子みたい、と言われ、僕は少しばかし頭に来るものがあるが、此の場に於いては程度の低い挑発に過ぎない事は重々理解している。

このような席で癇癪を起こしても致し方ないし、酔っ払いの戯言に耳を傾けてもしようがない。

僕は軽くレミリアを一睨みし、料理を突くことにする。

 

 

「あら、否定しないって事は、今度から貴方の呼び名にも"ちゃん"を付けても良いってことね」

 

「君は少し煩いな。咲夜、見っともない君の主人を黙らせてもらえないか」

 

「偶の酒の席ですもの。少しくらい大目に見てよ」

 

咲夜に講義するが、主人を敬愛する者にそう言っても無駄な事であった。

しようがないので完全に相手をする事をやめ、深く溜息を吐き料理に手を出す。

 

目の前には何かの魚の開きが皿に盛られていたので、身をほじくりだして食べる。

どうやら身が大きいこの魚、恐らくほっけだろうか、肉厚で油がしっかりとのっている。少なくともアジやサバの開きではない事は分かる。

僕は一つ疑問に思ったので、誰に言うでもなく口を開く。

 

「幻想郷にも魚は流通しているんだね」

 

僕がそう言葉を放つと、魔理沙が口を開く。

 

「何言ってんだ。普通に店に置いてあるぜ」

 

「君こそ何を言ってる。幻想郷には海がないのに、何故魚がいる」

 

「さあ。川にいたのをとっ捕まえてるんだろ」

 

「馬鹿を言え。淡水に海水魚がいるものか」

 

僕が魔理沙とそう論議を醸していると、霊夢が言葉を放った。

 

「それ、紫が外の世界から調達してんのよ」

 

霊夢が酒を飲みながらそう言ってきたので、僕は彼女の方へと視線を動かした。

 

「その通りですわ。人間達の食事が偏ってしまっては大変だもの。こうした対応も必要なのよ」

 

「紫様は幻想郷の管理者だからな。必要とあらば、こうした対処もするのさ」

 

紫に続き八雲藍がそう補足してきた。

つまるところ、遥か東に存在する幻想郷には海がない。

と言う事は海産物等から取れる栄養素が、幻想郷に住む人達は摂取する事が出来なくなってしまう為、食生活が不安定になってしまう。

その為、紫は外の世界から海の幸を幻想郷に提供することで、そういった不具合を解消していっていると。そういう事になる。

あくまで僕の推測だが、現時点ではこの解釈が最も納得できる事なのでそう解釈した。

 

「大変だね、管理人というのも」

 

「言葉以上に大変よ。どう、やってみる?」

 

「丁重にお断りさせてもらうよ」

 

おどけた表情でそう言う紫だが、管理の仕事に携わる気はないのでお断りした。

僕は趣味で店を営んでいる方が性に合う。あくまで趣味の延長線上だが、それが一番楽しい。

初めてお客さんに提供した料理は、確か桃の切り身にヨーグルトソースをかけた、少々洒落た料理だったと思う。

あの時、あの瞬間こそが、もしかしたら我が人生の岐路だったのかもしれないな。

 

 

その後も宴会は大盛り上がりであった。

特に幻想郷で力を持つ女達が囲うテーブルでは、スペルカードルール下による決闘も行われたりした。

何故そうなったかと言えば、言うまでもない。酔っ払い同士による戯れだ。

僕も執拗に誘われたが、どれもお断りした。

この時ばかりは妖夢も酔っ払っており、危ない手付きで剣舞を披露していた。誰かが斬り付けられるという事はなかったが、酔っ払いに刃物は持たせるべきではないと思うのだ。

 

僕はお酒があまり好きではないので、軽めのものばかり好んで飲んでいた為、酔っ払いはしなかった。

なので泥酔したグループ、弾幕ごっこを楽しむグループ、静かに酒を嗜むグループの三つに分かれており、僕はその中でも後者に当たる静かに酒を嗜むグループに属していた。

 

宴会も、もう一刻ほど経過すれば静かになるだろうかと考えていたが、そんな事はなかった。

女達の声は収まる事を知らず、引っ切り無しに会話が続く。支離滅裂な会話を仕掛けられた時には、流石に辟易とした。

それらも全て、静かに酒を飲む者達が集う場所に移動したおかげで、限りなくゼロに近付いた。

パチュリーやアリス、咲夜といった面々は常に落ち着いており、酒に飲まれるという事もなかったので、僕も腰を落ち着かせる事が出来た。

 

しかしながら不意に、パチュリーにこんな事を訊ねられた。

 

「貴方、こういう場の時ぐらい魔法を解いたら?」

 

飽きずに魚を突いているところ、そんな事を訊ねられた僕は箸を止めてしまう。

箸を置いて彼女の方へ視線を動かすと、彼女は此方を凝視していた。

 

「初めて会った時から気になってたのだけれど、貴方も魔法使いの類なのかしら」

 

「……どうしてそう思ったんだい」

 

「そりゃあ思いもするわよ。常に魔力を放出しているのだもの。しかもそれを看破されないように、二重に魔術を重ねているし」

 

パチュリーはそんな事を言って、料理を突く。恐らくであるが、彼女も多少は酔っ払っており、弁舌になっている可能性もある。

彼女は生粋の魔法使いであるらしい。個人的に魔法図書館を有しているくらいだ、研究心にも厚いのだろう。

 

「僕は魔法使いじゃあない。使える魔術は少しだけだし、今使っている魔法は神経系を強化する魔法で、アルコールを分解する役割を担っている」

 

適当に言葉を並べる。現時点で彼女が僕に対し、事の真意を見定めるのは極めて難しいため、僕の言葉が本物であるかどうかを確かめる事は出来ないはず。

彼女は此方に視線すら向けず、呟くようにして言葉を放つ。

 

「ふぅん、そうなの。いや聞いてみただけよ、別に何か疑ってるわけじゃあないわ。魔法使いとして、一辺の人間である貴方が魔法を使っているのが気になっただけ」

 

パチュリーはそう言って酒を煽る。

 

「稀にいるのよ、魔術を悪用する輩がね。そういった品位の無い輩に魔術を使われると、魔法使いの印象が悪くなっちゃうからね」

 

「魔法使いとやらも大変だね。僕は魔術にはあまり詳しくないから、そうした心配は無用さ」

 

「よく言うわ。多重に魔術を行使するのは高度な技術が必要なのに、貴方は平然とそれをやってのける」

 

私なら何重にもかけられるけどね、とパチュリーは自慢するようにそう呟いた。

 

確かに僕は酔っ払わないように、過剰なアルコール分を分解するように魔術を行使している。

恐らくだが、こうした身体に害のある事象に対して防衛する魔術は、多くの魔法使いが使用しているのではないかと思われる。

中には何も口にしなくても生きられるようになる魔法もあるくらいだ。魔法というものは奥が深い。

 

 

「ま、貴方が何の魔法を使っていようとも、私には関係ないけど」

 

パチュリーはそこで一度切り、酒を一口だけ飲んだ。

 

「貴方と魔法について論議するのも面白いかもね。どう、今度図書館で話でも────ッ」

 

言葉の途中、突然パチュリーが吹っ飛んでいった。地面に付くより先に、壁にめり込む形となっていたので、何だか滑稽だった。

一体何事だと思って周囲を見てみると、あれだけ居た女達が半分ほど居なくなっており、外を見ると大乱戦の模様を呈していた。

状況が分からずにいた僕に、近くにいた咲夜が説明してくれた。

 

「外で弾幕ごっこしてる連中が遊び足りないらしいですわ。どうやら遊び相手が欲しいみたいで」

 

そう説明してくれる咲夜も、表情は穏やかではない。頬には醤油と焼き魚の油分が混ざっていそうな色の液体が付着していた。

彼女の容姿を見てみると、引っくり返った料理やお酒が彼女の服を汚しており、隣りで寝ているフランドールの身を守るようにして立っていた。表情こそ笑みを浮かべているが、眉間には皺が寄っている。

 

「妹様に危害が及んでしまうと大変な事になってしまいますからね。悪いんだけど、妹様を看ていてもらえないかしら」

 

「わかったよ。気の済むまで遊んでくるといい」

 

「わ、私も……そうさせてもらうわ。あの泥棒魔法使い……ッ」

 

ナイフを持って飛翔していく咲夜に続き、先程吹っ飛ばされたパチュリーも分厚い本を持って外へ飛んでいった。

どうやら外で弾幕ごっこで遊んでいる連中が、神社内で飲んでいる人達に対してまで攻撃を行ってきたらしい。

景気付けだ、という事で大目に見ている者もいれば、流石に堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりに、弾幕ごっこに参加していく者もいた。

またそれを観戦する者もいる。幽々子や紫はその中の一人であり、フランドールのように眠っている者は放置されていた。

 

「見ていなさい、うちの藍が勝つから」

 

「あら、うちの妖夢も中々だけど」

 

特にこの二人は、大乱戦の模様となった弾幕ごっこを楽しんでみていた。

 

「天道、貴方も参加すれば」

 

「僕はやらない。女子供の遊びに興じるつもりはない」

 

「うちの妖夢とはやり合ったみたいじゃないの」

 

「あれは仕合だよ。単なる決闘だ……というか。君のところの妖夢君は大丈夫なのか」

 

「どーして」

 

きょとん、とした表情で幽々子がこちらを見た。

しかしながら傍から見ている身分として、どうしたもこうしたも無い。

皆がそれぞれに弾幕ごっこで弾幕を飛ばしている最中、妖夢だけ夢中で刀を振り回しているのだ。それも物凄い勢いで。

 

「死人が出ても僕は知らないぞ」

 

「大丈夫よ。柔な連中じゃあないでしょ」

 

「そういう問題なのか」

 

「そーいう問題なの。あ、ほら見て、妖夢がもう負けたわ」

 

幽々子が指を差した先は、妖夢が藍の弾幕に巻き込まれ、更に魔理沙の極太の弾幕攻撃に包まれて見えなくなったところであった。

何を悠長な事を言っているのだ、と幽々子に言うと、あれで死ぬほど柔な子じゃないわ、と彼女が返した。

どうにも僕の周りには屈強な女の子が揃っているらしい。

 

「ダメねぇ、貴女のとこの庭師」

 

「全く、まだまだ半人前ね。でも私としては妖夢よりも、あれの方がダメだと思うのだけど……天道さんはどう思う」

 

「あれとは何だ」

 

僕がそう問い返すと、幽々子は黙って指を差す。

その先には何と、咲夜が主人であるレミリアに攻撃を仕掛けている様であった。

しかもナイフなどの攻撃ではなく、普通の弾幕攻撃によるもので、あろう事か自分以外の他人が撃った様に見せかけて撃つ、という高度な偽装工作までしていた。

 

「あれは……褒められたものではないと思う」

 

「そうね、従者としてどうかと思うわ」

 

「しかも時間を止めて確実に被弾させているとはね。余程主人に対してストレスでも抱えているのかしら」

 

「そう考えると貴女の妖夢は中々の従者だと思えるわね」

 

「そうでしょ?」

 

紫と幽々子がそう会話しており、僕も成る程、それは確かに。と頷ける納得の内容であった。

 

「でも貴女のとこの藍も、褒められたものじゃあないわよ。確か一昨年の冬に、私達に愚痴をこぼしていたし」

 

「……本当?」

 

「本当よ、本当。偏食がどうのとか、一々話が長いとか、脱いだものを自分で片付けないだとか……」

 

今まで外の弾幕ごっこに夢中だった二人も、身内話に没頭し始めた。

女性とは何とも気分の移り変わりの早い生き物だなと思いつつも、僕は人の少なくなったテーブルの隅に移動した。

 

 

「────貴方は不思議だとは思わない?」

 

「む、何だ」

 

隅で大人しくしていると、不意に声をかけられた。

声の主はアリスだったようであり、綺麗な金髪が僕の鼻先を擽ろうとする位置まで顔を近づけてきていた。

耳元近くで言われたので、声の大きさにも若干驚いた。

 

「最近、宴会が多い気がするのよね。ここんとこずーっと」

 

「別に良いんじゃあないのか。飲んで食べて好きなだけ騒げるのは、長い生涯の間のほんの少しの時間だけだからね」

 

「そういう事を言ってるんじゃあないの。何というかこう……不穏な気というかね。そういうのが宴会の度に大きくなっている気がするのよ」

 

アリスが酒も飲まずに、そう言い放つ。

 

「つまりね、誰かが能力を使って無意識に宴会を開かさせているのよ」

 

「……宴会を開く能力って事か」

 

そんな阿呆みたいな能力、今まで聞いた事がない。

 

「馬鹿馬鹿しい話だけどね。けれど、宴会の度に不穏な気が蓄積されているのは間違いないのよ。霊夢に言っても『まだ問題は起きていないから』って放置しているみたいだし」

 

「霊夢も何となく察している、という事か」

 

「そういう事」

 

あまりにも宴会の数が多く、その度に不穏な気が満ちていく、といった事らしい。

アリスは更に言葉を続けると、最終的に『これは異変よ』と断言した。周りが誰も動かないから、先んじて動こうといった魂胆らしい。

そしてこれが異変だとして、僕の意見を聞きたいとアリスが問うてきたので、言葉を返す。

 

「これが異変だとするなら、先ずはこの宴会を楽しめば良いじゃあないか」

 

「どうしてよ」

 

「異変の首謀者も宴会を開いて楽しんでいるかもしれないだろう。先ずは動くよりも観察をしたらどうだ、という話」

 

既に霊夢達はそうしているのだろう、と付け加えると、アリスが悩むような表情をした。

 

「そうね……言われてみればそうかも。事が起こってからでは遅いけれど、何か大きな事が起こる前には前触れがあるものね」

 

「そうだね。ま、先ずは落ち着いてリラックスしたまえよ。これ、僕の飲んでるお酒」

 

そう言って僕は、自分が飲んでいるワインをアリスに提供した。我が能力は真に便利である。

アリスは若干驚きながらも、その瓶を受け取ってくれた。

 

「赤ワインだよ、甘口のね。君達が飲んでるようなものと比べると随分弱い種類だけど」

 

「へぇ、そうなんだ。せっかくだし、頂くわね。どうもありがとう」

 

アリスはそう言って、赤ワインを人形に預けた。

彼女の人形にはそれぞれ名前が付いているらしく、今のは上海人形というらしい。

従者的な立ち位置なのか、彼女の言う事には従順である。

 

 

 

その後、宴会では様々な事が起きたが、割愛させてもらう。

確実に言える事は、僕は途中退室したという事と、宴会は翌朝まで続いたという事だけである。

 

 

 

 

 

 

 









以上となります。
ご評価してくださった方、ありがとうございました。
もう数話程で過去編に突入致します。作風ががらりと変わってしまいます。
それまでお付き合いいただけますよう、今後ともよろしくお願い致します。


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巻ノ二十二 小さな大異変

 

 

博麗神社での宴会は、幾度となく開催されていた。

その後の二次会として稀に僕の店に訪れる者もおり、相乗効果のようなものもあった。

 

しかし気になる事もあった。

宴会が開かれる度に不穏な気が高まっている、というアリスの言葉である。

あれ以来アリスは異変について調査を進めているらしく、たまに僕の店に訪れては調査の結果を話していたりもする。

 

そして数日が経過していたが、異変の調査について、結果は芳しくなかった。

その事でアリスが愚痴を溢したりもしていた。

 

霊夢は調査に協力しないし、魔理沙には情報が何もいって無いらしく、異変だとすら気付いていないようだ。

咲夜に聞き込み調査にいけば、レミリアの相手で忙しいらしく相手にされない。

 

それで今度は僕に何か知らないかと訊ねてきたのだが、答えという答えを持っていなかったので答えられなかった。

 

 

更に数日、経過した。

今度は漸く異変を察知したのか、魔理沙が"異変の調査だ"と言って、ずかずかと上がり込んできた。

曰く、アリスに聞こうと思って問い質してみたらしく、何も教えてくれなかったという事で、弾幕ごっこで倒してきたと。酷い話である。

それで僕に、異変について何か知っているのではないかと、訊ねに来たらしい。

僕が、霊夢が何か調査を始めているんじゃあないのか、と言うと、魔理沙は軽く礼だけ言って箒に跨り何処かへ飛び去っていった。

 

 

一時間程遅れて、今度は咲夜が店に訪れてきた。

「レミリアは一緒じゃないのか」と訊ねると、惰眠を貪っているとか。従者らしからぬ口調であったのが記憶に残っている。

何の用か訊ねると、これまた異変について動いているとか。

そういえばと思い出し、魔理沙が霊夢のところへ向かっていったよ、と咲夜に告げる。

すると咲夜はお礼に加えて、今度紅魔館に遊びに来いという旨を告げて神社へ向かっていった。

 

 

 

漸く静かになったなと思い数刻が経過する。

やがて今度は、霊夢がお店の窓を割って来訪してきた。

何事だと霊夢に訊ねると、彼女はぷりぷりと怒っていた。

曰く、「魔理沙とメイドをけしかけて来たんだから覚悟は出来ているんでしょうね」、との事。

 

けしかけたとは心外だったので、僕は霊夢を諭した。

彼女は思いのほか短気のようで、始めこそ襲い掛からんばかりに激怒していたが、謝罪の言葉を述べているうちに冷静さを取り戻したのか、表情から憤怒の色が消えていた。

今度無料でサービスするよと僕が言うと、仕方ないわね、と霊夢は引き下がってくれた。正直、疲れた。

 

 

で、夜中になると今度は八雲紫がスキマから訪れてきた。

流石にこの時ばかりは、僕も辟易とした。何の用だと溜息混じりに訊ねると、紫はおどけた表情で答える。

 

 

「皆からお酒を頂いてきたから、此処で飲もうかと思って」

 

そういう彼女の手には、様々なお酒があった。

ブランデーやらワインやら、焼酎に加えて大吟醸。これ程のお酒を、一体誰が飲むのか。

 

「勝手に飲み物を持ち込むのはやめてくれ。飲みたい酒があるなら外で飲みたまえ」

 

「つれないわねぇ。せっかく私の旧友も来るのだから、盛大にやりたいのよ」

 

「それにしても、飲食店に個人的な飲食物を持ち込むのは非常識ではないか」

 

「では、このお酒を貴方にお売りしますわ」

 

紫はそう言うと、カウンターに続々と並べていった。よく見るとどぶろくまで置いてあった。

僕はそういう訳にもいかないというと、紫は『言い値でも構わないわ』と言うので、そこまで言うのならと僕は口を開く。

 

「しようがない、好きにしなよ。その代わり後片付けだとかそーいうのは、手伝いなよ」

 

「うふふ、善処致しますわ」

 

紫は艶やかな表情でそう答えた。

あまりにも胡散臭い奴なのでどうせ嘘だろうと思ったが、その時は藍に手伝ってもらう事に決めた。

 

 

 

*

 

 

 

慌しい一日が明け、再び朝日が訪れた。

今日は昨日と大きく異なり、平和な日常そのものであり、乱暴な来訪者など一人も現れなかった。

だが、今夜に限っては一件だけ、宴会の予約が入っていた。

 

先日の事だが「後日、日が落ちた頃に皆集まるわ」、と紫はそれだけ言い残して姿を消したのだ

という事は宴会は今夜を予定している事になり、時間的に今はもう夕方頃。まさに間もなく日没が始まる頃である。

ゆっくりしている場合ではないと思った僕は、直ぐに行動を起こした。

 

普段は営業しているので店内は整然としているが、宴会があるというのならばテーブル等を用意しなければならない。

カウンター席だけでは事足りないので、長テーブルや椅子などを用意しなければ。

食材等に関しては、まあ普段通りにしていれば問題はないだろう。

 

そして太陽が沈み宵闇が訪れると、直ぐに店の扉が開かれた。

僕がどうぞと言う前に、店の扉を叩いた者は中に入ってくる。

 

「あら、まだ誰も来てないんだ」

 

訪れたのは博麗霊夢であった。

 

「いらっしゃい。宴会の予約が一件入っているけど、君も参加者か」

 

「そういう事になるのかしら。あー、疲れた。椅子借りるわよ」

 

霊夢はそう言うや否や、近くに置いてあった椅子に乱暴に座った。

何か労働の類でもしていたのか、疲労しているようにも窺える。

 

「巫女の仕事ってのも楽じゃあないわねー。あ、お水ちょうだい」

 

神聖な巫女が椅子に踏ん反り返りそんな事を言うのだから、信仰もへったくれもない。

少なくとも僕の中にある巫女のイメージは確実に悪くなっているのは確かだ。

 

水を要求する霊夢にお冷を提供し、僕も椅子に落ち着く。

 

「皆が来るまで待つのか」

 

「そうね。魔理沙辺りがもう直ぐ来るんじゃない」

 

霊夢と二人きりになるのは思ったよりも気まずい。彼女は結構、淡白な性格をしているので、会話が続かない。

 

さて、皆が集まるまでどう時間を潰そうか。そう考えていたのだが、それは杞憂に終わる。

店の扉を二度ほど叩く音が聞こえ、再び来客。

どたどたと短い廊下を複数の足が駆け抜けると、僕達のいる部屋の扉が開かれた。

 

 

「よう、早いな霊夢」

 

訪れたのは魔理沙であった。霊夢は彼女の言葉に対し、「あんたが遅いの」と返した。

そして魔理沙の後から続くようにしてアリスも訪れていた。

 

「あれ、アリスも一緒なんだ」

 

「ええ。道行く途中で出会っちゃってね」

 

「なんだそれ、人を幽霊みたいに」

 

どうやら魔理沙とアリスは道中で偶然出会ったようで、目的が合致している事から同行する事になったのか。

どうぞいらっしゃい、と二人を店に招き入れると、なんと更に続くようにして扉をくぐる者がいた。

 

「彼女達も一緒に来たのか」

 

「一緒で悪かったわね」

 

僕は誰に言うでもなく、そう呟いた。

魔理沙、アリスと続いて訪れたのは、紅魔館の主であるレミリアに、その従者たる十六夜咲夜、そして本の虫パチュリー。

レミリアと咲夜は割りと訪れることも多いが、パチュリーが僕の店を訪れるのは恐らく始めてである。

僕はパチュリーに向けて言葉を放つ。

 

「いらっしゃい。君が来るとは珍しいね」

 

「珍しいとは何よ。貴方、一体私を何だと思っていたの」

 

小脇に本を抱える彼女がそう言い返してくるものの、個人的な図書館を所有している彼女に対するイメージは、引き篭もりに近い愛読書家である。

しかしそんな事を直接言ってしまえば反感を買うのは目に見えている為、言葉を選んで慎重に発言する。

 

「図書館で仕事をしているとばかり思っていたよ。君は多忙なイメージがあるから」

 

「……あっそう。そういう事にしておくわ」

 

パチュリーはつまらなそうにそう言った後、とことこと席の方へと移動し着座した。

 

女性が同じ場所に数人も集えば、流石に騒然とし始める。

特に人外が何人も居るので、その度合いも人間の比ではない事は明確であり、早速吸血鬼と巫女が口争いを始めていた。……巫女は人間であるが。

 

人数分のお冷でも用意しようかと思い板場へ回ると、突如として空間が裂けた。

最早お馴染みと化した、胡散臭い妖怪によるスキマによるもので、中から続々と人外が出てきた。

 

 

「勢揃いのようで」

 

そうのたまい先頭を優雅に飛び出てきたのは八雲紫であり、式である藍も後を追うようにして出てくる。

次に白玉楼の魂魄妖夢、西行寺幽々子が登場した。

 

「こんばんは、天道さん。今夜はお世話になります」

 

妖夢が主人に代わりそう挨拶を交わしてきたので、今日はゆっくりしていきたまえ、と返した。

すると僕達のやり取りを傍観していた魔理沙が茶々を入れてきた。

 

「何だかお前が言うとやらしいな」

 

「ちょ、それはどういう意味よ、魔理沙っ!」

 

「そのままの意味だぜ。なんというか、こう……普段とのギャップが」

 

「あ、それ分かるかも。普段は物静かなのに、こういう時だけ大胆なんだから。もしかして無意識なのかしら」

 

「生娘の癖にねぇ。今度、藍に房中術を教えてもらってはどうかしら」

 

幽々子が魔理沙の言葉に肩入れし、更に紫が茶々を入れた。

やんややんやと騒がしくなるのだが、多くは弄られキャラと化した妖夢に対する言葉であった。

それらに対して妖夢は物言いたげな表情をしているが、特に何を言い返すという事はせずに彼女は刀の鞘を手にした。

 

「…………斬る」

 

「うわっ、ちょ待て! 何で私にだけ斬りかかるんだよっ!」

 

空かさず抜刀した妖夢は、茶々を入れる幽々子と紫の間を抜け、その先にいる魔理沙に斬りかかった。

寸でのところで斬撃を回避する魔理沙だったが……店内で暴れるのはやめてもらいたい。

 

馴染みの者達が勢揃いした事により店内はより一層騒然とし始め、そろそろ飲み物を用意しようかと思っていた頃合、未だに開かれていたスキマから小さな影が飛び出してきた。

僕を含めそれに気付いた者がそこに視線をやると、今まで騒然としていた店内が瞬時に静寂に変わった。

そうして始めに静寂を破ったのは、その原因を作った小さな少女であった。

 

 

「あっはは! どーしたのさ皆、鬼の前じゃあ二の句も継げないのかい?」

 

薄い茶色の長髪に、頭部の左右から身長と不釣り合いの長くねじれた角が二本生えている、幼い少女の姿が僕の目に飛び込んできた。

白のノースリーブに紫のロングスカート、そして手にはこれまた紫色の瓢箪を紐から吊るし持っていた。

 

店内に居た全員が口をあける事もなく、突如来訪した自身を鬼と呼称した幼女に対し、冷めたような視線を送っていた。

実に気まずい……誰か何かしらの対応をしないか、そう思考していた時に紫が言葉を放った。

 

「そういえば貴方はまだ知らない筈よね。紹介するわ……伊吹萃香、私の古くからの友人よ」

 

閉じた扇子を伊吹萃香と紹介した幼女へ向け、そう言い放った。

当の伊吹萃香はといえば、何を考えているのか分からないような微笑を続けていた。否、若干酔っている風にも見える。

 

紹介されて押し黙るのは失礼だろうと考えた僕は、伊吹萃香へ向けて名前を名乗る事にした。

 

「僕は天道。君が今いるお店の店主をしている者だよ。よろしく、どうぞ」

 

「へぇ、あんたが紫がいつも言っている男かあ。ふーん……はーん」

 

まるで品定めをするかのようにして、伊吹萃香は僕の事をじろじろと見ていた。

あまり居心地は良くないので今すぐにでも止めてほしいと思ったが、そこは彼女が満足するまで黙っている事にした。

 

「なるほど、あんた只者じゃあないね」

 

「そんな直ぐにわかるのか」

 

「わかるよ。あんたを取り巻く雰囲気でね……ははーん、そっか。紫も遂に花を咲かせたってことね!」

 

「あんた、どーいう意味よそれ」

 

紫が伊吹萃香の言葉を聞きつけ、彼女へじりじりとにじり寄る。

 

「そのまんまの意味じゃんか。紫の知り合い、女ばっかり」

 

「それは関係ないでしょうが。そういう萃香こそ、浮いた話の一つも聞いたことないのだけど」

 

「私はいーのよ。くぅ、良いねぇ。男女の艶かしい関係ってのは! 紫はパトロンって感じだったけど、しょーがない! ここは鬼である私が人肌脱いでパトロンを────あ痛っ」

 

刹那、紫の扇子が萃香の頬を小突いた。

そして愉快そうに伊吹萃香は高らかに言い放つと、紫の直ぐ隣りを抜けて僕に近付き、耳打ちしてきた。

 

「あんたさ、紫とはもうしたの?」

 

艶やかな表情でそう耳打ちしてくる伊吹萃香は、若干酒臭かった。

僕は質問意味を何となく理解しつつも言葉を濁していると、伊吹萃香は更に言葉を続けた。

 

「だーかーらー、媾合したのかってこと! 付き合い長いんだろー、何せこっちは、数百年くらい前からあんたの話聞いてるんだからなー」

 

今度は僕の衣服を掴み、口を割らせるかのように強くそう言い放ってきた。

僕は少々難儀した末に、紫に助け舟を求める。

 

「……すまない、君の友人は既に酔っ払っているのかしら」

 

「そーかそーか、鬼には言えないような事をしてるんだね、あんたらは!」

 

果てには下卑た笑みを浮かべ、そう低めの声で言い締める。

なんだこの鬼は、酔っ払った中年親父のような言動ばかり。

紫もなんだか穏やかな表情ではなく、扇子を開き伊吹萃香の直ぐ背後にスキマを開いており、紫は伊吹萃香に肉薄した。

 

「あーもう、煩いわねあんたはっ! 少々ご退場願えるかしらっ」

 

そして伊吹萃香の頭を紫が扇子で小突いた。

 

僕としては、静寂していた場が思いのほか直ぐに騒然としだしてホッとしたのだが、それに伴うストレスも並大抵のものではなかった。

紫がスキマで伊吹萃香を連れて来たのにも関わらず、再びスキマの中へ押し戻そうとしていたのが何だか滑稽であった。……完全に他人事であるが、むしろ他人事だ。

 

「……んもう、貴女が宴会をしたいって言うから皆を集めたっていうのに。これじゃいつまでたっても始められないでしょうが」

 

遂に伊吹萃香がスキマの中へと消えていった。

 

……と思っていたのも束の間、次の瞬間には再びスキマが開かれ、少し離れた場所から吐き出されるようにして飛び出てきた。

 

鬼との小競り合いを終えた紫は若干息を切らしており、周囲も活気を取り戻していた中、式神である八雲藍が主人へ声をかけた。

僕はその光景を傍観している。

 

「紫様、落ち着いて下さい。皆、もう席に着いているんですが……」

 

「私は落ち着いているわよ。それはもう、自分でも驚く程にね。さ、私の事は気にしないで、藍も天道も座って座って」

 

既に着席している藍に諌められながらそう言い放った紫に対し、僕は注文表を持ち歩きつつも言葉を放った。

 

「君が座りたまえよ」

 

客人から気にせず座れと言われたものの、普通は逆である。僕は紫にそう告げ、注文表を客人たちへ手渡した。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

どうやら皆、執拗に繰り返される宴会に疑念を抱き、各々で異変の調査を行っていたらしい。

その調査の結果、八雲紫の旧友"伊吹萃香"が異変の黒幕だと判明したようだ。

最初に気付いたのがアリスであり、討伐に向かったものの返り討ちに遭い、その後に魔理沙が続き、これまた返り討ち。

順々にそんな事を繰り返すうちに時間は経過し、やがて霊夢が伊吹萃香と対峙し、苦戦の末に伊吹萃香に「参った」と言わせたらしい。

 

そして幻想郷の異変では定番となっているらしい、異変後の宴会……そこには何故か、異変の黒幕も参加しており、ある種の"仲直り"といった意味が込められているのではないか、と僕は思う。

紅い霧の異変の時も博麗神社で宴会が行われ、春雪異変の際にも博麗神社で花見ついでの宴会が行われた。稀に僕のお店に全員で顔を見せた事もあり、異変特需とでも言うべきか。

 

毎回お馴染みとなっている面子に加え、今回は鬼である伊吹萃香が参加している。

通常の面子でさえも湯水の如く飲食を行うというのに、鬼である伊吹萃香は……紫曰く『一升程度じゃあ半刻ともたない』との事だ。

 

ともあれば今回の方針はただの一つ。

"質より量"である。今までは女性向けに洒落た料理などを拵えていたが、今回のような宴会ではそんなもの必要ないだろう。

適当に揚げ物や味の濃い物、程度の良いお酒を提供していれば良い……のだが、それが一番骨が折れるのもまた事実。全て僕一人で行わなければならないのだから。

 

 

宴会を開始して半刻ほどは、ずっと厨房にいた。

テーブルにお酒をあらん限り提供した後、今度は黙々と料理の製作に取り掛かる。

幸いにも藍と妖夢が応援に駆けつけてくれたおかげもあり、ウェイターの仕事は全て彼女達に任せ、僕は料理作りに専念した。

 

料理は手間の掛かるものから掛からないものまで、様々なものがあるが、簡単なものは藍と妖夢に任せ、僕は手間のかかるものを作った。

 

 

「すまない、天道。これはどーやって作るものなのか教えてくれ」

 

藍がとてとてと僕の横に歩み寄り、パックに入った食材を提示しそう質問してきた。

 

「そこのレンジがあるだろう。袋をあけて、お皿に乗せて中にいれたまえ。設定は6分でいい」

 

「ふむ……珍妙な仕掛けだな。こんな機械で料理が作れるのか」

 

「わあ、これの小さい奴なら里で見かけた事ありますよ! すごいなぁ、こんなにおっきいのまであるんですね」

 

「最近になり里にも便利な機具が普及されているからな、ちょっとやってみせてくれないか」

 

何やら藍が妖夢にレンジで解凍をする作業を代行させているやり取りが、僕の耳に飛び込んできた。

 

「やってみますね。…………えーと、これを……こうかな……────っ!?」

 

「な、なんだ壊れたのかっ」

 

刹那、電子レンジが甲高い機械音をあげて、操作を間違えた妖夢に対して抗議の音を鳴らし始めた。

戸惑う妖夢に釣られて焦る藍……しようがないと、僕は仕事を変わる事にした。

 

「やっぱり君達が料理を作ってくれたまえ。僕が変わろう」

 

「すみません……私が至らないばかりに」

 

「気にしないでくれ。君達の方が僕よりも料理上手だろうし」

 

申し訳なさそうに苦笑いを浮かべる藍と妖夢の横を通り過ぎ、僕は未解凍のパックを手にした。

レンジに入れて僅か数分で美味しい肉料理が出来るという、実に優れた冷凍料理である。

 

ふと破り捨てられたパックに目がいった。

袋の隅には三日月のマークが印刷されており、僕はそれをいつまでも眺めていた。

何となく昔の記憶が掘り起こされ、ノスタルジーな気分に浸ってしまいそうになった時、我に返った。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

「ちょっと天道、こっち! こっち座って!」

 

おつまみをのせたお盆を持ち、テーブルへ戻るとレミリアにそう言葉を投げかけられた。

見ると頬は赤らんでおり、隣りに座っていた咲夜が申し訳なさそうな表情で僕を見ていた。

 

放っておいては機嫌を損ねられてしまうだろうと思い、僕は素直に言葉に従った。

 

「どうかしましたか、レミリアさん」

 

「どうしたもヘチマもないわよ。これ、これ見て!」

 

袖を物凄い力で引っ張られテーブルの上を見ろ、と示唆されたので、視線を向ける。

 

「これは……普通のオムライスでは」

 

テーブルの上には極普通のオムライスが置かれており、まだ手は付けられていなかった。

特に変わったところのないオムライスであるが……よく見ると、ケチャップがオムライスの中心に、まるで太陽を象るかのようにして塗布されている。

 

「もしかして、このケチャップが気に入らないのですか」

 

「そうよ! 憎き太陽を調味料で象るなんて……よりにもよって、誇り高き吸血鬼である私に向かってっ!」

 

レミリアは憤怒していた。

オムライスの味付けでもなく、卵の焼き加減でもなく、その怒りの矛先は調味料であるケチャップに向かって。

 

やり場のない怒りを僕にぶつけているのだろうか、では僕はその事に対し、どう返事をすれば良いのか。そう悩んでいると、誰かが口を開いた。

 

「んじゃ、あんたはいらないって事ね。私が食べちゃおっと」

 

「べ、別に食べないとは言ってないよっ」

 

「どーせ少ししか食べないんだろ、レミリア。残りは私がもらってやるから、安心して食べ残せよ」

 

「そうねぇ、せっかく天道さんが作ってくれたって言うのに。人が心を込めて作った料理を残したら、作った人に悪いものね」

 

霊夢と魔理沙がそうレミリアに向けて言葉を放った。

レミリアは何かを言いたそうに唸ってはいたが、反論はしないのかただ押し黙っているのみであった。

 

よく見るとレミリアの周囲には溢したお酒と、食べかけの料理がいくつも置いてあった。

否、宴会のため誰が何を食べようと構わないのだろうが……何故か単品のものばかり、それも一口二口程度しか食べてないものがいくつもある。

ひどい物に至ると、一本の串に四つの食材が刺さっている焼き鳥が、三つ残しで無造作に置き去られている事だ。

 

「レミィ……流石に私も弁論は出来ないわ」

 

「お嬢様……」

 

「す、少しだけ味を確かめただけなんだけど! 私はグルメなのよ、グルメ! ……あー、美味しいわねぇ、このリゾットは」

 

「それはピラフですが」

 

リゾット美味しい、とのたまうレミリアだったが、よく見るとそれは冷凍物のピラフだった為、その通り指摘してあげた。

僕が指摘すると、レミリアはピラフをスプーンで掬った体勢のまま硬直していた。

くすくす、と笑う声が違う席から聞こえてくる。霊夢と魔理沙がニヤニヤと笑っており、地味にアリスも意地の悪そうな笑みを浮かべていた。

 

「グルメが聞いて呆れるぜ」

 

魔理沙が呆れ混じり、笑い混じりにそう言い放つと、レミリアがテーブルを少し強めに叩き、立ち上がった。

 

「ええい、煩いっ! こうなったら勝負よ、勝負!」

 

「やらねーよ!」

 

弾幕ごっこを嗾けるレミリアであるが、流石に弾幕ごっこが好きな魔理沙でも、その誘いは断った。

その後に咲夜が諌めに入り、事が大きくなることはなかったが……此方の面子はいつも通りの調子であった。

 

 

一方で大人びた雰囲気を醸し出すテーブルがあり、去り際にそのテーブルへ視線をやると、焼酎を嗜んでいた紫と目が合った。

紫意外にも幽々子、伊吹萃香と強者揃いのこのテーブルは、申し訳ないがあまり近寄りたくない。

と考えていると、伊吹萃香が紫へ耳打ちをしており、何か企んでいるのかしらと推測していたのだが、次の瞬間には紫が伊吹萃香の額を小突いた。

そしてちょいちょい、と幽々子が僕の事を手招きしているのに気付き、覚悟を決めてかのテーブルへと接近した。

 

「おつまみ、なくなっちゃった」

 

「なるほど。もう少々お待ち下さい、今作って参りますので」

 

幽々子の周囲には料理を食べ終えたお皿がいくつも並んでおり、窮屈そうにしてグラスが置かれていた。

おつまみを要求する幽々子に対し、少し待てという旨を告げた僕は、早々に厨房へと移動する……筈だったのだが。

 

「ちょっと、店員さん。食べ終えたお皿を片付けてもらえないかしら。後、この小煩い鬼で素敵な料理を作ってもらえると嬉しいのだけど

 

そう口にしたのは紫であり、見るとべたべたと伊吹萃香に粘着されており、鬱陶しそうに鬼の頬をぐいぐいと押し返していた。

最後に「そーねぇ、鬼の兜焼きとか食べてみたいわね」と言い付け加えると、伊吹萃香の長い捩れた二本角が萎縮している様を見る事が出来た。

 

「ひどいなー、もう。良いじゃん、教えろよー、どーせ減るもんじゃあないわけだし」

 

「人に話すような事でもないわよ。長生きしていれば出会いの一つや二つ、貴女にもあったでしょうに」

 

「そりゃあそうだけどさ。私の出会ったのは皆が皆、普通の人間か三下妖怪だけ」

 

ぐてぐて、と会話をする二人に対し、何の話をしているのか、と訊ねた。

すると伊吹萃香が此方へ振り向き、嬉々とした表情で口にした。

 

「あんたと紫の出会った時の事さ! あの紫と親しい異性がいるって事を知った時は、私の自慢の角も折れるかと思ったよ。

ささ、聞かせておくれよ、一体どういった経緯で出会ったのかを!」

 

瓢箪から酒を飲みつつも、伊吹萃香がそう質問してきた。

僕は質問に難儀し、紫に視線を送ると此方の方など見てすらいなかったので、仕方無しにと言葉を返す。

 

「伊吹さん。あまり人の過去を詮索するのはよくない。それに、話すような事でもないだろうし」

 

「別に萃香でいいよ。あんたまでそーいうって事は、やはり何か……曰く付き?」

 

「僕がそういうのは、出会った当初の事をよく憶えていないだけ」

 

酔っ払った鬼の相手は凄く疲れるという事を、今夜知った。

あまりまともに相手をしても疲労するだけという事は紫も承知済みのようで、宴会という事で更に酒が加速しているのも原因か、萃香という幼鬼はひどく酔っていた。

親しくない僕でも分かる。それはもう、呂律が回っているのが不思議なくらいだ。

 

「あまり彼を困らせないであげて。彼、こう見えても結構、繊細な性格をしているんだからね」

 

紫が僕へ手を差し向け、そう説明した。

 

「ふーん、性格まで知り尽くしてるんだ。まるで夫婦みたいな関係だよね、二人とも。これが遠距離……なんたらってやつか」

 

「紫、この酔っ払いは何とかならないのかい」

 

高笑いする萃香を尻目に、僕は紫にそう耳打ちする。否、普通の声でそう訊ねた。どうせ萃香に聞こえたところで、酔っているのだしどうだって構わない。

紫は少し考える仕草をした後に、彼女は僕の耳元に口を近付け、耳打ちした。

 

「何とでも言わせてあげればいいわよ。別に私達が夫婦って噂されたところで、何か支障を来すわけじゃないしね」

 

「それは困る。僕達はただの知人だから」

 

楽観的な考えの紫に対し、僕はそう言い放った。

紫は何だか表情を凍りつかせていたような感じであったが、変な噂を流されたくない僕としてはそれで妥協は出来ない。

君も分かっているのなら何とか萃香の勘違いを振り払ってくれ、と紫にお願いした。

 

「あら紫、もしかしてフラれちゃった」

 

「そういうのじゃないって!」

 

幽々子の茶々に、紫が即座に否定を入れた。

 

勘違いしないように心がけているが、紫は別に僕の事を好いていない。

単純に利益があるから僕の事を気にかけているだけで、それ以上の理由はないだろう。

胡散臭くも、少女の姿の癖に妖怪の賢者と呼称されるくらいだ、何かしらの思いがあって行動をしているのは間違いない。

 

僕はそう考え辟易としてきたので、早々に厨房へと移動した。

騒然としていた場から離れると、若干であるが少女達の声も小さくなり、それが厨房に着いた事を示していた。

 

 

「……天道」

 

厨房にて作業を続行しようとしていた時、一呼吸置いて八雲紫も厨房へ進入してきた。

僕は作業をしながら後ろから声をかけてきた紫に対し、応対する。

 

「何か用」

 

「……まだ気にしているの?」

 

紫はそんな事を言い放ってくる。

何の脈絡もなく突然疑問系で訊ねられたものだから、僕はひどく辟易とした。

 

「何のこと」

 

思考するのも面倒臭い。紫は一体何についてそう質問してきたのか、その意図を聞く為に短く言葉を返した。

すると紫は様々な事柄についての言葉を放ってきた。

先程の宴会の席で、彼女なりに何か思った事があったのか。聞いているだけでもうんざりとする話ばかり、彼女は振ってきた。

 

ずっと口を閉じて沈黙を貫いているのも釈然としない。紫の言葉の切りの良い部分で、僕は言葉を挟んだ。

 

「過去の事を詮索されて良い思いをしなかったのは分かるわ。ごめんなさい、私の配慮が足りなかった……」

 

「ひとつだけいいか」

 

「……ええ、何でも言って」

 

嬉々としているわけでも、悲愴感に包まれているわけでもない、そんな中途半端な表情の紫が僕を見据えていた。

一瞬。ほんの呼吸二つ分ほどの間合いをあけ、言葉を紡ぐ。

 

「僕は君のことが嫌いだ。長い年月を経たところで、その気持ちに変わりはない」

 

「…………ええ」

 

「でも勘違いはしないでほしい」

 

そこで一度言葉を切り、続ける。

 

「君には恩義を感じているし、一人の妖怪として尊敬すらしている。君が困っていたら力を貸すし、食べたい料理があれば直ぐに作ってやれる。

過去の葛藤なら僕の中で既に決着はついているからね。許す、許さないの問題じゃあないのさ」

 

言いたいことだけを述べ、紫に下手な言葉を言うのは止めろ、と釘を刺した。

何やら昔の事を掘り返した事により、僕の機嫌を損ねさせてしまったと思っていたのだろうか。そんな事はない。

 

「……そうね。貴方がそう言うのなら、そういう事にしておきましょう」

 

「そういうこと。何か食べるか」

 

「刺激が欲しいわね。とにかく、凄く辛いのを頂戴」

 

扇子を開いた紫がそう注文をすると、僕に背を向けて厨房から出て行った。彼女の背には若干だが、哀愁が漂っていた。

辛いものを食べたいというのだから、適当に唐辛子やしし唐などを選別し、まな板の上へと並べた。

 

……もっとも、過去に囚われているのは僕の方かもしれない。

 

 

*

 

 

 

 

やがて夜は深まると、丑三つの刻が訪れた。

有限の世界を生きる少女達であるが、昼間も夜も関係ない。喩え宵闇の世界に変わろうとも、宴会の熱が下がる事は無かった。

 

けれども流石に人間ともあれば、腹に限界は訪れる。

別腹という概念が存在するとはいえ、人間の食べる量には限界があり、比較的体格の小さな少女達は皆、主食に手を付ける事はなくなっていた。

ともあれば重要になってくるのがお酒と、それに合ったおつまみ。

 

おつまみ程度ならば僕一人でも作れる為、今までお手伝いをしてくれていた藍と妖夢にお礼を告げ、宴会に参加しておいでと伝えた。

 

料理をカウンターに運ぶ度に声をかけられるので、中々仕事が捗らない。

多くは追加のオーダーを要求する声なのだが、中にはとんだ世間話をふっかけてくる者や、僕の意見を要求する声など種々あった。

 

それら全ての攻撃を掻い潜る間に、注文は少なくなっていった。

丑三つ時ともなればお酒につまみに、くだらない世間話に華を咲かせるので精一杯、注文は激減していた。

漸く一息つけるなと思った僕は、適当に空いた椅子を選別し、その上に座り空いた時間寛いだ。

 

「なぁなぁ、天道。こんなに沢山の料理を作れる程の食材が、こんな小さいお店の何処にあったのさ」

 

不意に萃香がそう質問してきた。

別段隠すような事でもないので、素直に「厨房に保管してある」と答えておいた。

 

「鬼に嘘ついたら後が怖いよ。さっき見に行ったんだけどねぇ、何処にも置いてなかったぞー」

 

「勝手に入ったのか。それは宜しくないね。お酒が欲しかったのなら、冷蔵庫の中に保管してある」

 

「お、勝手に持っていっていいのか?」

 

「いいわけないだろう」

 

しれっとした表情で魔理沙がそう言ったきた。この娘は泥棒の素質がある。

 

「ま、詳細は教えない。好きに推測したまえ」

 

「うわっ、またそれね。いい加減、仕組み程度教えてくれてもいいじゃないの」

 

紫がそんな事を言ってくるので、僕は言葉を返す。

 

「君の能力と似たような仕組みだよ。境界という程、高度な事象ではないけど」

 

「ふーん。紫の能力って確か、境界を操れるとか何とか」

 

「胡散臭い能力ねぇ。私の崇高な能力と比べたら随分」

 

鼻高々といった感じで、レミリアがそう呟いた。

因みにレミリアの能力は運命を操る程度の能力であり、紫の能力は境界を操る程度の能力だ。

今更ながら思考すると、この場にいる全ての者が能力を有している。

話の中で耳にしただけで詳細は不明ではあるものの、どの娘も実力者であると同時に、幻想郷の種族間の力関係を維持していく為には必要不可欠な存在である。

 

 

「天道さん、葡萄酒持ってきてー」

 

「私は焼酎な。アリスがマッコリで、えーとパチュリーが……」

 

華奢な容姿に中身も只の人間と変わらない少女達であり、宴会の時にはここぞとばかりに、大いに騒ぐ。

けれども異変の際には、これほど頼りになる者は他には存在しないだろうと思えてしまう程、彼女達は強く、逞しい存在である。

 

そして今日もまた、僕の知らないところで一つの異変が、少女達によって解決されたのだ。

幻想郷に住まう少女達は異変事を、僕は僕にしか出来ない事を────今はそれだけでいい。

僕はこうした何気ない日常のひと時を、大切にすることにしている。

 

 

────第百十九季、星と冬と金の年。

春と共に訪れた小さな百鬼夜行は、次第に幻想の郷に馴染んでいった。

新たな仲間を歓迎するかのようにして開かれた小さな宴会は、小鳥達が囀りを始める頃合まで続いたという。

 

彼は当の出来事を小さな帳面にまとめ、記録として残していった。

誰の目に触れるでもなく、記録をまとめた帳面は机の引き出しの中におさめられ、彼はその部屋を後にした。

 

 

 

 

 









以上となります。
次話で一度、幻想郷編の話は止まり、過去編の導入部へ突入します。
つきましては筆者が考えている事がありますので、まとまり次第にてお知らせ致します。
それでは第二十二話、小さな大異変でした。
次回もよろしくお願いいたします。


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巻ノ二十三 永夜の夢

────それは美しい月。

 

秋を迎えた幻想郷は、様々な生物達が冬の備えを開始し、また幻想郷にある壮大な山は紅葉で埋め尽くされた。

食欲の秋、芸術の秋とも言われる季節であるが、果たして幻想郷は何の秋に該当するのだろうか。

宴会の秋か、弾幕ごっこの秋か。それとも、異変往来の秋か。

 

夜空に浮かぶ玲瓏たる満月だけが、その答えを知っている。

 

 

満月は古来より、妖怪の潜在的な力を湧かせる効力があり、それは今も昔も変わらぬ効力を持っている。

地上を隈なく照らす満月の光は、巨大な妖怪種から小さな端虫に至るまで、生命の活力を与えていた。

 

生きとし生けるもの全てに特別な力を与える満月であるが、その満月から負の影響を受ける者がいた。

 

それは、彼である。

 

普段は夜中まで営業を続けていた彼であるが、今日だけは店の扉を硬く閉ざしていた。

扉の前に掛けられた表示板は返されていないものの、誰も入店出来ぬように簡易的な結界術まで施されていた。

 

彼は店の中に造られた私室へ閉じ篭もっており、椅子に座った状態のまま小さな唸り声をあげる。まるで何かを我慢するかのような、苦痛に満ちた表情をしている。

やがて彼は静かに立ち上がると、拙い足取りで机の前まで移動し、グラスの中に注がれた水を口にした。

 

過酷な状態の中、彼は眠る事も忘れて延々とうなされていた。

────直に夜が明ける、それまでの辛抱だ

そう心の中の自分へ強く言い聞かせると、彼は再び椅子に座り、表情を歪めた。

 

 

事情を知らぬ一人の妖怪が、彼の店を訪れた。

何かの間違いで客が訪れぬよう周到に結界まで張っていた彼は、まさか店に客人が訪れるとは夢にも思っていなかった。

しかし、その客人は正門である扉からではなく、空間の裂け目からひょい、と身を乗り出してきて入店してきたのだ。

 

八雲紫である。

 

彼女は、彼には特殊な事情がある事など露知らず、普段通りの艶やかな表情のまま、彼の下へと移動した。

店内に木霊する彼を呼ぶ声は、勿論彼の耳まで辿り着いた。が、しかし、今の彼に彼女の言葉を聞き取る程の余裕はなく、言葉が返ってくる事はなかった。

間もなく、紫は天道の下へと辿り着く。カウンターにいないのなら、私室にいるのだろう。そう推測した紫が、静かに彼の私室の扉を開けた。

 

「ちょっと、聞こえてるのなら返事くらいしなさい。どうしたの、蹲っちゃって。具合でも悪いのかしら」

 

「な、何だ……君か。……何の用」

 

表情を苦痛に歪めた天道は、鋭い視線を紫に送った。

彼女はその事に若干驚きつつも、普段と変わらぬ口調で用件を述べる。

 

「あの夜空に浮かぶ満月、何処か奇妙だと思わない?」

 

「満月……だと」

 

「ええ。本当に微々たる事だけれど、あれは古から幻想郷を照らす満月とは違う……言わば、偽者の満月」

 

紫は彼の状態など関係無しにと、口早に言葉を続ける。

 

「真実の満月じゃあないって事よ。妖怪は満月の影響を強く受ける者もいる……あれが偽者の満月ならば、幻想郷に住まう妖怪達に予期せぬ事態が起こるかもしれないの」

 

「…………それと、これと……僕に何の関係があるんだ」

 

「これが異変だというならば、早急に解決しなければならないわ。その為にも私の後ろを任せられるような、心強い味方が必要になる……後は分かるわね」

 

そこまで言葉を述べ、紫は彼へ向けて手を差し伸べた。

恐らくこの手を取れば、それで契約が成立するのだろう、その事を知ってか知らずか……彼はその手を、振り払った。

 

 

「……天道?」

 

唖然とした表情で紫は彼を見据えると、彼は苦しそうな表情で紫を睨み付けた。

 

「……帰れ、僕に構うな。……さっさと出て行けよ」

 

「ちょ、ちょっと、何よその態度。私はただ、貴方の力を借りようと思っただけで」

 

「なら他を当たれよ……僕は今、凄く体調が悪いんだ………ッ…君の力にはなれない」

 

彼は辛そうにそこまで言葉を紡ぐと、再び顔を俯かせた。

まるでもう"お前の事は相手にしない"と言わんばかりに、紫から目を背けた彼に対し、紫は彼の体調を気遣うかのようにして、彼の下へと歩み寄った。

 

「体調が悪いの? やはりあの偽の満月が原因かしら……ちょっと見せてみて」

 

紫がそう言いながら彼に近付き、手を伸ばせば互いに触れ合う事が出来る距離まで近付いた瞬間、彼が激昂した。

仇敵を睨むような視線で彼は、紫に対し手を振るった。

 

「僕に近寄るなっ! 早く出て行けと言ってるだろッ!」

 

「ッ……?」

 

彼の振るった手は、歩み寄ってきた紫を強く押し退けた。

予想外の事態に紫は困惑し、言葉を放つ事も忘れ、ただ呆然と立ち尽くしている事しか出来なかった。

彼は弱々しく言葉を続ける。

 

「異変を解決したいのなら他を当たれ……代わりになるのはいくらでもいるだろう。……いつまでも僕に付き纏わないでくれ」

 

そう呟いた彼は視線を落とし、俯いた。誰とも関わりたくないと意思表示をしているかのような姿勢は、紫をひどく困惑させた。

彼女は彼の豹変する様を見て、恐らく偽者の満月が原因だと推測すると、この場で追及するような言葉は避け、普段通りの落ち着いた口調で言葉を紡いだ。

 

「……そ、そう。ごめんなさい、もうこんな事は言わないわ。……その、お大事にね」

 

彼を気遣うような言葉を並べるも、彼からの返事が返ってくることはなかった。

 

事態が更に深刻なレベルになる前に異変を解決しなければ。そう思った紫は彼の店をスキマで離脱すると、次なる行き先へと向かった。

博麗の巫女が住まう、博麗神社だ。

この後紫は霊夢と二人で異変解決に臨み、明ける事のない夜を訪れさせる事を、彼は知らなかった。

 

 

 

八雲紫が彼の店を去った後、彼は寝室へ移動すると寝具の上へ横になり、静かに瞳を閉じた。

まるで苦痛を耐えているかのような表情は、先程よりは穏やかになったものの、彼の何かを我慢するかのような状態は治まることはなかった。

気付くと彼の周囲は濃厚な魔力で溢れており、それは彼を原点として発生していた。

 

魔力で無理矢理何かを押さえ込んでいるのか────果たしてそれは、偽者の満月に当てられた事によるものなのか。

 

ある妖怪種には、満月の効力により変身をする種族も存在する。

童話等で有名な"狼男"も、ただの人間が満月に当てられる事により、狼化してしまうのだ。

所謂"獣人"と分類される種の多くが、普段は人間の呈をしながらも満月を視界におさめることにより、獣の血が強く出てしまうことによるものである。

 

しかしながら、彼……天道は獣人などではない。獣の血が混ざったという混血種でもなければ、純粋の獣でもない。

ならば何故天道は、満月を前にして喘ぎ苦しみ、果てには長い付き合いにある紫に対し、豹変した態度をとってしまったのか。

 

それは彼だけが知る、心の奥深くに"思い出"として閉じ込めた悠久の記憶の中に、答えは潜んでいる。

 

果たして天道という男は何者なのか。

何故彼は幻想郷に降り立ち、幻想の少女達と戯れるのか。

そもそも彼は"人間"なのだろうか。或いは妖怪の血筋や、神々の系統という事もあるかもしれない。

 

けれども彼は、自身の生い立ちを露呈させるようなことは決してしなかった。

何が起きても泰然としたその態度は、確実に先天的なものではない。

 

彼は一体、どのような過去を歩み、幻想郷にまで到達したのか。

 

一人の男は静かに瞳を閉じると、やがて意識を失う。

往年の記憶を夢に描くは吉夢か、或いは悪夢か────彼は永い夜の訪れの前に、永い夢を見る。

 







以上となります。
この話と次話が過去編の導入部となります。
過去編に関しましては、滞りなく投稿をしたいと思っておりますので、執筆に一区切りがつき次第投稿させて頂きます。
現在では十話以上は仕上がっておりますので、もう暫くお待ち下さいませ。
それでは、今後ともよろしくお願いいたします。


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第二章 彼の過去
巻ノ二十四 不遇の生


このお話から過去編に突入致します。
過去編をお読みいただくにあたり、いくつか注意事項がございますので記載させていただきます。

中々の長編となります。
オリジナルキャラクターが登場しますが、物語の重要位置には極力配置しない予定です。
原作キャラクターの登場人数が少なくなります。具体的には数話以降になるまで、登場しません。
某姉妹が登場する予定ですので、それらに関するキャラクターが登場します。
また最も際立つと予想されるのが、過去編にて明かされる主人公の秘密についてです。
こちらの方は好みが大きく分かれると思いますので、タグにて記載しておきます。
あくまで主人公の過去編ですので、現行編に復帰した際のスパイスが散りばめられております。

そして、物語に緩急がついているかと思われます。
思うように執筆が出来ていない状況ですので、基本的に進行は早めを意識しております。

最後に、中々ダークな内容も一部含まれてますので、嫌悪感を抱く方もいらっしゃるかもしれません。
以上の点を踏まえてお読み頂ければ、幸いです。
それでは第二章、主人公の過去編の開始となります。







────それは忘失されし記憶

 

幾年もの月日を過ごした、思い出の地

 

懐旧する事は罪を背負う事 それは慙愧の至り

 

深い罪悪感に苛まれて生へと執着するか、それとも自らの醜行を恥じ死を選ぶか

 

それを選ぶは一人の人間、行動するは一人の男

 

────死は或は泰山よりも重く、或は鴻毛より軽し

 

男は絶望し、死への羨望感で心を満たした────

 

 

 

 

 

 

    -忘却せし物語-

 

 

 

 

 

 

時は現代まで遡る。

二十一世紀も大局を迎えるだろうと世間は大いに騒ぎ、世の人々は心浮かせていた。

庶民の誰もが考えていた事がある。

 

世界が二十二世紀を迎えた時、果たしてこの地球上で"何が起こるのか?"

 

誰もが予想しえない想像上の論理、机上の空論。

世界中のジャーナリズムが注目し、一つのテーマとなっているそれは、様々な理論が展開され会議の題材となっていた。

時には世間を騒がせるような醜悪なゴシップであったり、或いは信憑性に欠けた眉唾ものの学説だったり。

 

近未来の世界を生きる人間達の中に、一体どれ程の"一般人"が存在するのだろうか。

世界の動向について様々な意見交換をし、定説や理念を唱える者もいれば、普通に学校に通い普通に成人し、普通の家庭を持って普通に老いてゆく────そのような一般人も多く存在している。

 

これから始まるのは、ある"一般人"の男に焦点を当てた、その男の終端までのお話。

世界という枠組みの中から考えれば、取るに足らぬちっぽけな男の物語。

 

 

*

 

 

────かつて黄金の国と称された某国。

その国の首都に当たる土地で生活するは、齢二十にも満たない青年であった。

 

青年は首都で最も大きな学校に所属しており、選択した学部もまた青年の"趣味"に関係するものを選んだ。

彼の趣味は何の変哲も無い、ただの"料理作り"であった。それも創作や甘味物、菓子ばかり。

自身の趣味を公にするのが恥ずかしいのか、彼は友達や学部の先輩にもその趣味を隠していた。

 

また彼はアパートで一人暮らしをしており、生活費を稼ぐ為にアルバイトをしていた。

アルバイト先も彼は自身の技術が活かせる場所をと考え、近所に新しく開店した居酒屋に従事した。

 

初めてのアルバイトでは指導係に『声が小さい』と叱責をされたのをよく憶えており、自身の不手際で客に迷惑をかけてしまった事も深く記憶していた。

苦労に苦労を重ねて社会に出て初めての給料を受け取った彼は、毎月仕送りをしてくれる両親に感謝の意を込めてお酒を贈った。

両親は離れた地で生活しており、彼の生活している首都から凡そ数百キロメートルは離れているので、普段顔を合わせる事は無い。盆や正月には毎年帰省しようと思っていた。

 

 

そんな平凡な、極普通の生活を送る青年。

彼の日常は巡り巡る"運命"という歯車に巻き込まれ、誰が望んだのかその日常は無残にも崩れ落ちる事となった。

 

 

青年は今日も居酒屋でアルバイトをしており、普段通りの日常を送っていた。

客から注文を取り、電子機に内容を打ち込む。要望があれば各テーブルに馳せ参じ、時にはお冷の水をかけられる事もあった。

仕事の時は途端に真面目になる彼は、周囲の同僚から陰口の類を囁かれる事は一切無かった。しかしある日、こんな事を囁く客がいた。

 

 

「ねぇ見て、あの店員の人……凄く格好良くない?」

 

一つのテーブルを三人で囲うは全て女性であり、その中の一人の女性がそう友人に向けて呟いた。

 

「えー、うっそぉ。ナイナイ、どこが良いってんのよォ」

 

「なんか真面目クンて感じィ。あーいうのって、見た目とは裏腹に腹黒だったりすんのよねェ」

 

「それが良いの。知的でクールっぽくてさー」

 

凡そ十代後半と思われる女性三人のグループは、それぞれに会話をしていた。

店員の一人の青年を賞賛する友人を、他の二人の女性が茶々を入れて楽しんでいた。

女性達は、酒の力も相成って一頻り会話が弾んだところで、席を立つ。

 

それぞれが自分の鞄を手に持ち、会計を済ませようと財布を取り出す。

居酒屋が非常に混雑する時間帯の為に通りにも人がおり、レジカウンターまで移動しようとしたところで、通りで人とぶつかってしまう。

 

「……ッてェーッなァオイッ!」

 

ぶつかった女性の一人が謝罪をしようと言葉を口にするが、相手は完全な酔っ払いであり、まともに応対する事ができなかった。

酔っ払いの腕には派手な刺青が彫っており、その怖面が見せる怒りの形相だけで、女性達を心の底から震え上げさせるのは十分過ぎた。

 

「す、すみません。余所見しちゃってて……」

 

「あァ? 知るかンな事。謝って済むんならケーサツはいらねェっつゥーだろうがよォーッ!」

 

「きゃあっ!?」

 

酔っ払った中年の男が、女性のうちの一人に掴みかかった。

彼女の友人の女性は『依子!』と不安を顕にした表情でそう叫んだ。

周囲の客や店員は突然の出来事に呆気に取られており、誰もいさかいを止めようとする者はいなかった。

 

当然だ。気持ちよく酒を飲んでいる時に、こんな争い事に巻き込まれたいと思う者など存在しない。

どころかこの騒動を酒の肴にする者がいる始末であり、酔っ払いに茶々を入れる客もいた。

茶々を入れられた酔っ払いは強気になったのか、下卑た表情で掴み上げた女性に言葉を吐きつける。

 

「へッへェ……つゥー事だからよ、外でるぞ。オメーにド突かれた礼をしなくっちゃなァ」

 

「い、嫌っ、やめてよッ!」

 

「るせェッ! テメーが悪いんだろうがよォアガッ!?」

 

嫌がる女性を無理矢理外に連れ出そうとする酔っ払いだが、不意に頭部を殴られた事により言葉を詰まらせてしまう。

鈍い音が居酒屋に響き渡り、何かの破片が周囲に飛び散ったところで、それまで茶々を入れていた客が口を閉じて黙り込んだ。

頭部を何か堅い物で殴られた酔っ払いは地に伏せり、失神していた。その酔っ払いの直ぐ背後には、一人の青年が立っていた。

 

青年は"瓶だったもの"を手に持っており、顔を青ざめている。

"依子"と呼ばれて助けられた女性は、目の前の出来事に唖然としながらも、自身が青年に助けられたのだと自覚すると同時にお礼の言葉を述べようとするが……

 

 

「……や、ヤッバイ…………店長に怒られるぞ……ど、どうしようッ」

 

青年は顔を青くし、そう呟いた。

言葉を遮られた依子は、それでもお礼を言いたいと思い再び言葉を口にしようとする。

しかし、その言葉はまたしても遮られてしまう結果となる。

厨房の奥から、レジのカウンターから、続々と居酒屋の従業員達が駆けつける音により。

そうして居酒屋の店長と思わしき男が現場に到着すると、声を裏返して言葉を吐く。

 

「あ、お、お、お客様……っ」

 

「誰かぁ、担架持ってこい担架ぁ!」

 

「て、店長、救急車も呼びますかっ?」

 

「こらァ天野ッ! お前何してんだァッ!」

 

殺伐とした現場の中、青年を叱責する声だけが店内に響き渡っていた。

その後酔っ払いは病院に搬送され、殺伐としていた店内であったが、一時間後には元通りの空間に戻っていた。

後日この出来事は新聞の片隅に掲載され、知る人ぞ知る珍事件となっていた。

 

 

 

────青年の名は、天野義道。

日本という島国に住む、どこにでもいるようなごく普通の、ただの学生である。

彼はどこまでも純粋な心を持っており、そして他のどの人間よりも強い正義感に溢れていた。

 

 

 

 

 

事件の起きた日の夜、青年……天野はアルバイトをクビにされた。女性達の証言もあり学校を退学にならなかっただけでも、彼は良しとした。

ちょっとした正義心に駆られ酔っ払いに絡まれた女性を助けたつもりであったが、その代償は大きかった。

居酒屋の裏口から叩き出された天野を待っていたのは、夜の繁華街の喧騒と、切れかけの電柱の明かりだけであった。

途方に暮れていた天野は一人項垂れると、居酒屋を後にして帰路へと着こうとしたが、視界に人の影が移り込んだのに気付き顔を上げた。

天野が顔を上げると、そこには先程助けた女性が立っていた。

 

 

「あ……」

 

女性はそれだけ言葉を漏らすと、恥ずかしそうに口を閉じた。

天野はその事を不審にさえ思ったが、彼女がさっき助けた女性だと気付き、合点がいった顔をする。

 

「あ、あの……あの時は助けてくれて、ありがとうございました」

 

女性はやっとの事で声を絞り出すと、それだけ言って頭を深く下げた。

 

「え、ああ。気にしないで。俺が好きでやったことだからさ」

 

「も、もしかして私のせいで、お店をクビに……?」

 

女性はその事を危惧すると、不安そうに表情を変える。

青年は『本当に気にしないで』とだけ女性に伝えると、それでも女性は納得のいかぬ表情をし、口を開く。

 

「本当にすみませんでした……。もし良ければですけど、私の知り合いのお店を紹介させてください」

 

女性は深々と頭を下げ、そう天野に向けて言った。

彼は女性の意外な一言に驚き、次のアルバイト先を考えていた事もあり、彼はその提案を嬉しく思った。

 

「それは本当かい?」

 

「はい。是非紹介させてください!」

 

「……そっか。ありがとう、助かるよ。これ、俺の連絡先……また会えると嬉しいな」

 

天野は電話番号の書かれた紙を彼女に渡すと、優しそうな表情でそう訊ねる。

女性は紙を受け取ると頬を赤らめ、口を開く。

 

「は、はい! 私、綿貫依子って言います」

 

「俺は天野。天野義道。よろしくね、えーと……依子ちゃん?」

 

「あ、はい。よろしくお願いします、天野さん」

 

 

──巡り巡る"運命"という歯車は噛み合わされ、平凡な人間達に奇妙な出会いを与えた。

天野と依子という女性はこの日、奇妙な巡り合わせにより出会う事となったのだ。

 

 

 

彼らを包む雰囲気は月日が経過するに連れ、男女の関係をより深めていった。

依子は天野よりも二つ年下の女の子であり、彼女が通う学園もまた全国区で頂点に立つ学園であった。

彼女は才女であったのだ。

才能に恵まれ、両親にも恵まれ、学力も学園の中では一桁に入るほど頭の良い女の子。

 

平凡な学生生活を送っていた天野と依子は、周囲からは『釣り合わない』と評価されてすらいたが、彼女達を取巻く関係に皹が入る事は無かった。

やがて月日が経過し年が明けると、一部の学生達に進路の選択を迫られる時期が訪れた。

依子もその中の一人であった。

 

彼女の通う学校は進学校である。

中でも随一頭の良い依子は、全国で最難関と評されている大学に進学する予定であったのだが、彼女を取巻く関係がそれを変化させた。

依子は彼と同じ大学に通いたいと思うようになり始め、その事を母親に打ち明けたりもした。

 

 

「──お母さん、どうしよう……私、学校の成績が下がっちゃった。彼氏が出来たの。とても良い人! 優しくて、格好良くて……凄く心が通じてる気がするの」

 

まるで春が訪れたかのような告白を聞いた彼女の母は、我が事のように喜んだ。

次に依子は進路を変更したいという事も母に告げ、彼女の母は『おまえの好きなようにしなさい』と優しく諭した。

 

しかし、それを快く思わなかった人物がいた。

彼女の父親である。

彼女の父は全国でも屈指の大手企業に勤めており、支社で役員を務めている立場であった。体裁こそ普通のサラリーマンであったが、内に秘めている誇りは他の誰よりも突き抜けていた。

 

父親が依子の告白を聞いた時、感情を露わにしなかったものの、心の中で激昂していた。

それは他の誰でもない、娘を誑かす"天野"という男に対してである。

 

娘を溺愛していた父親の取った行動は、"娘を男から守る"であった。

──娘が傷付けられる事だけは避けなくてはならない。

──娘が致命的な心の傷を負う事だけは避けなくてはならない。

ただ、それだけであった。

 

 

彼女の父親は貧民街に佇む小さな事務所を訪れた。

事務所の看板には大きな字で"私立探偵事務所"と表記されており、錆びた鉄くずやボロボロになった木片などが周囲に散乱している。

 

 

「…………良いのかい。あんたみたいな立場の人が、こんな事を」

 

髪を薄く髭を生やした中年の男が、父親に対してそう質問した。

父親は黙って封筒に入った札束を男に見せつけ、静かに言葉を返す。

 

「……私があんたらに依頼するのは二つ。『何も質問しない事』、『娘を男から別れさせる事』……ただのそれだけです」

 

うまくいったらこの倍は払う、と父親が言うと男の目の色が変わり、依頼は快諾された。

 

 

父親は考えていた。

この貧民街に住むゴロツキ共に依頼し娘を男から別れさせれば、娘が致命的な心の傷を負う事は無い。

娘が味わうのは"失恋の傷"だけ。世の中の誰もが経験する心の傷、ただのそれだけ。

 

 

しかし、彼女の父親はこの"私立探偵"の事を何も知らなかった。

貧民街に位置するという意味を、ゴロツキ達の古くからの仕来りとなっている"仕事のやり方"を。

 

私立探偵の事務所に居た男は直ぐに動いた。

 

先ずは娘に近付くという男の身元を調査し、その後に娘についても調査をした。

その結果分かった事があり、男は怒りに打ち震えた。

 

「────この男ッ! あの時おれに絡んできた男じゃねェか……ッ!」

 

男は激昂し、近くにあった花瓶を叩き割った。

そう。私立探偵の男は前に居酒屋で依子に絡み、店員の天野に頭を叩かれ気絶させられた中年の男と同一人物なのであった。

男は当時の事を思い出すと込み上げる怒りを抑えきれずに、鉄クズを持ち出して外へと飛び出した。

そして直ぐに男は"仲間達"を召集し、目的の男女に対して接近し、待ち伏せを行った。

 

 

真夜中、私立探偵の男は天野の住むアパートの付近で待ち伏せを行っていた事もあり、直ぐに天野と依子を見つけた。

そうして彼女の父親の依頼が決行されるその時、依子は天野に口付けをした。

首の後ろに手を回しこそしたが、控えめの"おやすみなさい"のキス。

 

その時、待ち伏せしていた男達は動き出した。

 

黒服に身を包み、マスクや帽子を目深に被り顔が分からぬように変装した男達が数十人。

一斉に天野達に飛び掛ると、私立探偵の男は持ってきていた鉄クズを天野に向けて思い切り殴りつけた。

 

鈍く骨が砕けるような音がし、血液を撒き散らしながら天野が倒れこむ。

その隙に男達は依子を羽交い絞めにし、拘束する。天野は地べたに這いながらも彼女の名前を叫んでいた。

私立探偵の男は鉄クズを投げ捨て、持ってきていた酒を煽る。

 

「なっ、なんなのよ、やめてッ!」

 

依子が羽交い絞めにする男に向けて喉が張り裂けんばかりに叫んだが、その手が解かれる事はない。

 

「うるせェッ、罰を与える相手はオメェーじゃねェんだよッ! そこの倒れてる糞ガキだよォオッ!」

 

「やめて離してよッ、この酔っ払いッ!」

 

依子は男の頬に向けて平手打ちをした。

綺麗に炸裂した平手打ちは男の表情を歪めさせたが、ただのそれだけに終わった。

男が酒を一気に煽り、酒臭い吐息を依子に向けて吐きつける。

 

「けどよォ、オメェに"罰"を与える前に酔っ払っておくと、やりやすいんだぜェ」

 

男が仕返しとばかりに、依子の顔に向けて拳を突き出した。

依子は顔面を殴られ、次に腹部を蹴り上げられる。その度に血を吐き出すが、男達は下卑た笑みを浮かべて依子に集う。

 

「お嬢ちゃんよォ、おれにもチューしてくれよォ」

 

「へッ、清楚なツラしてこの売女がッ!たっぷり可愛がってやるからよォ!」

 

「オメーが誰を好きになって誰とキスしようが俺達は構わねーけどよォ、こっちの小便臭せー糞ガキがアホ面引っ下げてのうのうと生きてんのは許されねェーんだよッ!」

 

倒れ伏す天野に向けて男が唾を吐きかけると、他の黒尽くめの男が足蹴にした。

依子はその様を黙ってみている事が出来ずに、私立探偵の男に向けて握り拳を作り、残った力を振り絞って殴りかかった。

 

が、その拳は呆気なく止められる。

男は見下すような冷ややかな視線で、涙を流す依子に向けて言葉を吐きつける。

 

「これはおまえの"父親"からの依頼だよ。おまえら二人に罰を与えろってな……そこの糞ガキの両親もぶち殺してやる予定だぜ」

 

男の言葉を聞いた依子は、これ以上開かんばかりに目を見開いた。

その表情は驚愕とも、悲壮とも取れない。ただただ、打ち捨てられた人形のような表情をしている。

 

そして遂に、今まで倒れ伏していた天野が力を振り絞って立ち上がる。

これ以上ないくらいの雄叫びをあげ、私立探偵の男に向けて突貫する。血液を撒き散らしながら、凶器を持つ男達に向かって────

 

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

 

────誰が悪いのか。

巡り巡った歯車はやがて奇妙な出会いを引き起こした。

人が人と出会い、自然に恋をする。たったのそれだけ。誰の差し金でもない、自然な生命の形。

しかしそれらが引き起こした出会いは、最悪の事態を招いてしまった。

 

 

その後、天野は病院のベッドの上で目覚めた。

全身が酷い激痛を放ち、身動きすらまともに取る事が出来なかった。

両の手の平からだけは不思議と痛みを伴う事がなかったが、数日後に担当医から神経が麻痺していると伝えられた。同時に、二度と趣味である料理を作る事は出来ないとも。

 

まともに手を動かす事が出来ず、経過が良好になり動かせるようになったとしても、以前のような状態にまで回復するのは厳しいとまで告げられた。

彼はこの事に対して深く絶望した。

これでは大好きな趣味を続ける事も出来ない、と彼の心を暗雲が覆う。

 

しかし、彼を絶望させたのはこれだけに止まらない。

 

治療が功を奏し退院するにまで至った時、彼の下に悲報が届く。

 

彼が心から愛する女性が、自ら命を絶ったという報せであった。

彼女は今まで"行方不明"となっており所在が判明する事がなく、今の今まで捜索が続いていた。

けれども彼女は遺体で発見された。

場所は遠く離れた地域であり、何故そこで発見されたのか、どうして自ら命を絶ったのか、誰もが疑問を持った。

 

そして彼の下に一通の手紙が届いた。

愛する者が亡くなり悲しみに暮れていた時に舞い込んだ、一通の手紙。

 

彼は届いた手紙を読むと、力なく腰を降ろした。

手紙には、彼の両親が亡くなった旨が綴られていたのだ。

死因は"焼死"と断定され、実家が謎の火災に襲われた事を知った彼は、ひどく落胆した。

暫くは"誤報だ"と考え込み、何度も何度も実家へ向けて電話をかけたが、それが通じる事はなかった。

母へ向けてメールを送ったりもしたが、返信は一度もない。あの事件の日以来、一度も。

 

 

悲しみに暮れていた天野は、遂に学校へ行かなくなった。

元々治療のため長期入院しており進級出来なくなったのもあり、彼は学校に行く気力を完全に失くしてしまった。

大好きだった趣味をする事もできなくなり、ただただ無気力な一日を過ごしていた。

 

 

だが彼は一つだけ、たったの一つだけ。心の奥底から燃え上がるような意志を秘めている物事があった。

それは────"復讐"であった。

 

彼はあの男達に、あの私立探偵の男に対して"絶対に許さない"という強い意志を持ち続けていた。それだけは忘れないように生きていた。

 

 

 

そしてある日、愛する女性の葬儀に立ち会った日。

彼は、彼女の"父親"と顔を合わせた。

彼女の父親は、彼以上に悲しみに暮れた表情をしており、更に彼の顔を見るなり、表情を酷く顰めて搾り出すような声で言葉を放つ。

 

 

「────お前のせいだッ……お前さえいなければ……お前さえ娘と出会っていなければッ……こんな事にはならなかったッ」

 

彼女の父親は絞るようにして言葉を綴る。彼はただ黙ってそれを聞く事しか出来なかった。

 

「全てお前が悪いんだッ! お前さえこの世にいなければッ! 娘が不幸になる事もなかったのだッ!」

 

父親は怒鳴り、彼の胸倉を掴みそう言い放つ。

そして湧き上がった怒りが一瞬収まったところで、父親は彼から手を離し、呟くようにして言い放つ。

 

 

「ここから出て行け。お前が私の娘の葬儀に立ち会う必要などない……」

 

「し、しかし……お、俺は……」

 

彼はやっとの事で声を振り絞ったが、発しようとしたのは言い訳の言葉。

けれど彼の心は謝罪の意や無念の気持ちで満たされており、彼女の父親から罵倒されるとは思っておらず、ひどく心を痛めていた。

何とか、何とかして葬儀だけには立ち会いたい。彼はそう思っていたが、運命がそれを許す事はなかった。

 

 

「出て行け、この呪われた人間がッ! お前が死ねば良かったんだッ……何故私の娘が死ななければならないんだっ……どうして私の娘ではなく、この男が生きているんだ……ッ」

 

遂には彼女の父親は感情が抑えきれず、怒声を上げると同時に涙を流し始める。

そしてその口から言葉が綴られる。

 

"お前が死ねば良かった"

 

父親は何度となく繰り返した。

お前が死ねば、お前が死ねば、お前が死ねば良かった────

 

まるで呪文のように繰り返されるその言葉に、彼は耐え切れずに外へと飛び出した。

 

そして無我夢中で走り出した。

誰から逃げる訳でもなく、誰かに追われているわけでもなく、兎に角我武者羅に、何も考えずにただ無心で走り出した。

 

やがて足を止めて彼は地べたに倒れこんだ。

口から吐息し、瞳から涙を流しながら、彼は強く思考していた。

 

"誰が悪い 俺が悪いのか どうして彼女が死んだ あの男は誰だ 何故、出会ってしまった"

 

考えても、考えても答えは出てこない。

数時間もの間地に伏せり、彼は涙を流し続けた。そして終点へと至った答えが、一つだけ見つかった。

それは今まで思い続けてきた事の究極形であり、それを具現する行為でもあった。

 

 

 

────殺してやる

 

 

 

彼は静かに、けれど強く。

漆黒の殺意を心に込めて、足に力を込めて立ち上がった。

彼は強く、そして何処までも深く考えていた。

 

殺してやる、殺してやる。絶対に許さない────と。

 

そして彼が手にしたのは、溢れんばかりの"強い意志"と今まで趣味で使用していた、"出刃包丁"。

 

そして標的は、あの男。私立探偵事務所の男であった。

 

 

 

彼は今まで通っていた大学を退学すると、これまで住んでいたアパートの契約も解約した。

未だに返信のない携帯電話から母親に最後のメールを送ると、彼は携帯電話をアパートの自室だった場所に残していった。

 

そして貧民街へと向けて移動をする。

僅かな情報だけを頼りに、"私立探偵事務所"を探して歩き続ける。

何日も何日も経過し、彼の"漆黒の殺意"は収まるどころか、更に強い意志となって成長していた。

 

やがて私立探偵事務所に到着すると、時刻は既に深夜となっていた。

近くに街灯の類はなく、月明かりだけが周囲を照らしていた。

しかしその月明かりも暗雲により妨げられ、ふと夜空を見上げると、小さな水の粒が頬に振り落ちた。

 

謀る様にして振り出した大雨すら、彼は自身を鼓舞する激励だと思い込み、鞄の中に隠していた出刃包丁に手をかける。

狙いはあの時の男、髪の薄い髭面の中年の男。派手な刺青のある男。

彼はじっと耐えて待ち伏せた。

あの事件以来、何もかもを失った彼が恐れるものは何もなかった。無論、彼を止めるような事象すら何もない。

 

そして事は動き出す。

物語の歯車が静かに合致するのと同時に、彼自身の足も強く、何よりも疾く動き出した。

 

事務所の扉から出てきたのが、あの中年の男であった。

彼は男の顔を見た瞬間、怒りを通り越した"何か"を感じ、無我夢中で飛び出した。その手には確実に、出刃包丁が握られていた。

 

 

「────ッ、なんだてめッ…………ッ!!」

 

彼の出刃包丁が男の肉体を突き抜けた。

男は激痛に顔を歪め、一歩、二歩と後方へ後ずさった。

 

「てめェ……あの時バラしてやったのにッ……何で生きてやがるッ!!」

 

彼は何も言わず、男へと突貫した。

男は抵抗を試みるものの、彼の執念、溢れる若さの力には対抗する事が出来ず、身体を引き裂かれた。

 

事は呆気なく終了する。

出刃包丁は男の肉を切り裂き、臓器を突き刺して機能的障害を与えた。

 

彼が出刃包丁を抜くと、男の身体から血液が噴出し、あえぐような悲鳴をあげた。

そして彼は攻勢を止める事無く、次々と刃で応酬する。

──二つ、三つと何度も何度も、男の身体を貫く。

 

やがて五つ程出刃包丁で身体を突き刺したとき、男は動かなくなった。

四肢は僅かに動いていたが、立ち上がろうとする素振りは見せず、潰れた蛙のように呼吸をするのみであった。

しかし彼はその動きすら鬱陶しく感じたのか、攻勢を緩めなかった。

 

 

 

そして数十分ほど経過した。

周囲は血だまりが出来ており、人間の肉塊が転がっていた。

その場に落ちていたのは、血塗れになった出刃包丁だけであった。

 

彼は逃げだした。

ふとした瞬間に我に返った彼は、自らの行いを激しく悔いた。

目の前に転がった"人間の肉塊"を見た瞬間、耐え切れずに嘔吐すらした。

そして自身が"ただの犯罪者"に成り下がった事に気付いた時、彼は激しい後悔の念に苛まれる事となった。

 

 

────今まで自分のしてきた事は何だったのだろうか。

何故自分は彼女と出会ってしまったのか、どうして人を殺してしまったのか。

考えても考えても、その先の答えに行き着く事はなかった。

 

あまり動かない手や、返り血で血塗れになった衣服のまま、彼は街に出た。

幸いにも深夜の為に人はあまりおらず、遠くからでは返り血を浴びている事すら察知されなかった。

そしてそのまま彼は歩いていると、やがて一つの"踏み切り"の前に到達した。

 

踏み切りは既に鳴り出しており、赤い警報機が点灯し、サイレンが鳴っていた。

都会に生きていた彼は、ふと思った。

 

この電車に飛び込めば、どれ程楽になるだろうか。

 

いっその事、死んでしまいたい。

 

このまま罪を背負って生きるくらいならば、いっその事────

 

 

刹那、彼は設置されている遮断機の"内側へ"と侵入していた。

そして迫り来る電車に向けて身体を向ける。その表情はまるで壊れた人形のような、感情を失っている様であった。

彼を諌める通行人は何人も居た。

けれど、彼の耳にその言葉が入る事はなかった。

 

彼は静かに夜空を見上げた。

暗雲だらけで、ひどい天気であった。

今思えば、これまで何一つ不自由なく生きてきていた。

しかし、ある一つの事件により、その全てが台無しになってしまった。

 

電車が間近に迫った時、彼の心は恐怖に染まるどころか、その心にそよ風が吹いていた。

 

──嗚呼、漸く終わりの時を迎える

愛する人を失い、何もかもを失った

そして復讐に目が眩み、自ら犯罪者に成り下がってしまった

俺は、俺自身を怨んでいる。

そして何よりも、生まれてきたこの世界を怨み続ける────

 

彼の心には、まるで春が訪れたかのようなそよ風が吹いていた。

そして怨むらくは人ではなく、この世界であると。彼はそう心に刻み、静かに瞳を閉じた。

 

 

 

この物語は決して終焉ではない。

新たなる物語の序曲に過ぎない。

前奏は終わり、間もなく本編が開始する。

そう。

往年の歴史が始まる。

死への狂想曲は、静かに奏でられる────

 

 

 

 









以上となります。
泰然としてる主人公も、元はただの青年というだけのお話。
一部私の好きなネタも入っていたりします。
恐らく、今後もかなり好き嫌いが分かれる内容となります。
それでは、東方外来禄を今年もよろしくお願いいたします。


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巻ノ二十五 古の妖怪

 

 

 

 

無限に広がる荒廃した大地に、一人の人間が倒れている。

その者は打ち捨てられたかのように、けれど露出する肌は真珠のような煌きをも放っていた。

その人間が名前を名乗るという事はないのだろうが、程なくして意識を覚醒させたのか、人間は静かに立ち上がる素振りを見せた。

まるで生後間もない小鹿のような頼りない両脚に力を込めるも、疲労感に苛まれたのか満足に立ち上がる事も出来ない。人間は再び、地に腰をつけた。

 

人間は特別負傷をしている風ではなかったが、着用している衣服は土埃に塗れひどく劣化していた。

半刻ほど目覚めた場所で腰を落ち着かせていると、その人間は何かを思い出したのか。頭を抱え顔を俯かせる。

 

そして更に半刻が経過したところで、漸く人間は立ち上がった。

脚をふらつかせながらも確実に大地を踏み締めるが、その表情はひどいものであった。

 

瞳は濁っており、生気の宿りを欠片も見せない。

人間は一体何処へ向かうのか。拙い足取りで少しずつであったが、一歩ずつ着実に前へと進む。

 

 

────彼の名は天野義道。

とある世界から不遇な扱いを受け、心身共に疲弊し切っていた彼を待っていたのは、不透明な異世界。

奇妙な輪廻に翻弄されながらも、彼は前へと進む事を決意する。その先に何が待ち受けているかも知らずに。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

彼は怒りに満ちていた。

 

何故あんな事になってしまったのか。どうして自分は生きているのか。そして何故、知らぬ土地で目覚めたのか。

これを"運命"と括ったところで、彼がそれに納得する筈もない。

人間は罪の重さに耐え切れなくなると、"死んだ方がマシだ"と思考するようになるらしい。

まさに今の彼は、そんな状態になっていた。

 

彼が異世界で目覚めて一番最初に行った行為は、"自傷"であった。

生き続ける事が既に苦痛となっていた彼は、このような異世界で存命する気など更々ない。

砂埃が爪垢となり、薄汚くなった爪で手首を、喉を引っ掻いた。血が滲むまで引っ掻き回し、切り裂いた。

けれど、それが直接死に繋がるという事はなかった。

出血は直ぐに固まり瘡蓋となると、彼は激痛に表情を歪めた。

 

次に彼が辿り着いたのは、小さな湖であった。

荒廃した地に存在する湖は、とても綺麗とはいえない程、混濁している。

黄土に塗れ、死魚のような生物があちこちに浮かんでおり、岸の方には肉の塊のようなものが腐食し、一つの場所に散り積もっていた。

 

彼はその湖の中に身を投げた。

死を渇望する彼に、それを躊躇する理由は根底より無い。

 

だが湖に飛び込んでも、彼が死ぬ事はなかった。

彼が湖に飛び込む時に限って強い突風が吹き、大きな波が発生して沿岸に押し戻されてしまったのだ。

 

 

 

彼は死ぬ事を求め、彷徨い歩き続けた。

湖に飛び込み、自らの頸を絞め、手首を切ったりと自傷行為も頑なに続けた。

時には高い崖から飛び降りた事もあったが、突風が吹き壁に打ち付けられて打撲程度に終わっていた。

 

だからこそ、彼は怒りに満ちていた。

 

理不尽な生を強制され、死ぬ事も許されない。

食べる物も飲む物も、話し相手どころか自分以外の生命体すら見受けられない、荒廃した大地。

 

死ぬ事が出来なかった彼は、次に生きる事を考えた。

何も口にしないでいれば自然に死ぬだろうと考えた事もあったが、実際にそうする事は出来ない。

 

人間の本能というものなのだろうか。

彼は極度の空腹感に苛まれると、草を齧り木の根や幹を食べて飢えを凌いだ。他に食べる物もない、無様な生への足掻き。

喉が渇いたら雨が降るのを待ち、それでも降らなかったら地面に溜まっていた泥水を啜り喉の渇きを潤した。

 

 

────このまま生き続ける事は無理だ

 

次第に彼は、そう思考するようになった。

口内は泥混じり、砂交じりの嫌悪感を呈す感触に、喉は常に清水を欲して渇き続けていた。

だが、それでも彼は動物的本能に従い、這いずり回るようにして生き続けていた。

 

そして一月程経過した時、遂に彼はその場から動く事が出来なくなった。

立ち上がる事はおろか、地面に脚を付ける事も叶わない。

幸いにも空は常に曇天を維持しており、太陽が顔を出した事は一度もなかった為、日照りに苛まれる事はなかった。

 

 

この時、彼に岐路が訪れた。

 

地に倒れ伏した彼の目の前に、突如として彼以外の生命体が現れたのだ。

その生命体はまるで"動物のような"姿をしていた。それは或いは、原初の妖怪だったのかもしれない。

喉を鳴らし低く冷え切った唸り声をあげ、彼に少しずつ肉薄する。

 

今にも飛び掛かりそうな態勢の妖怪に気付いた彼は、悲鳴をあげたり表情を変化させたりはしない。

無限に広がる曇天を見上げ、彼は静かに思考した。

 

────ああ、漸く終わるのか

 

待ち侘びた終焉の時。適者生存の世界の中、彼は自らが捕食されるだろうという事を容易に想像できた。

きっと、この世の物とは思えない苦痛が待ち受けているだろう。

しかし彼は、その事さえも考える余地は無かった。

静かに、迫り来る妖怪を受け入れようとする彼は、限りなく広がる大空を見上げたまま。

 

 

 

────だが、しかし。

彼の望んだような結末は訪れなかった。

 

捕食者と化した妖怪が彼に飛び掛ったのだが、その鋭利な牙が彼の肉を引き裂く前に、妖怪は絶命していた。

それは刹那の出来事。四肢が、壊れた人形のように離散し、荒廃した地に黄土色の血液を撒き散らした。

 

胴体だけとなった妖怪は、動く事もなく彼の傍に転がった。

 

一体何が起きたのかと彼はおもむろに起き上がった。不思議とこの時ばかりは、自身の身体が羽毛のような軽さだと自覚した。

そして彼が見据える先には、肉塊となった妖怪。

 

何故、彼が死を間近にした時に限り、予期せぬ出来事が起こるのか。

以前の事も含め、今回の事は異常である。

どうして捕食しようとした妖怪が、何の前触れも無く絶命したのだ。

彼は何度も思考を重ねたが、その解が導き出される事はない。

 

やがて考える事を諦めた彼は、ふとある物に視線がいった。

 

それは四肢が離散し胴体だけとなった、妖怪の肉塊である。

彼はその肉塊に視線が釘付けとなり、涎すら垂れ流した。

 

"食べられるのだろうか"

 

そう思考しながらも、彼は妖怪の死体に近付いた。

黄土色の血液を撒き散らし、悪臭が漂っていながらも、彼はその肉を手に取る。

 

美味しいのだろうか。これは、食べられるのだろうか。果たして"食べてしまったらどうなるのだろうか"。

様々な葛藤が彼に起こったが、生まれ持つ本能というものに逆らう事は出来ず、彼は妖怪の肉を口にした。

食べてしまった。

 

彼は妖怪の肉を口にして咀嚼する。二度、三度だけ咀嚼して無理矢理喉に流し込む。

妖怪の体毛が口の中に残り不快感すら感じた彼は、直ぐに嘔吐した。

 

先程食べた肉や、黄土色の液体。そして胃液を口の中から吐き出した。

激しく咳き込み胸を押さえる彼は、やがてそれも落ち着くと空を仰いだ。そして彼は、一つの感想を導き出した。

 

 

"なんて美味しいのだろうか"、と。

 

 

彼はそう思考すると、地に落ちていた妖怪の肉を引き裂き、再び口にした。

根を齧り土を食べ、泥水を啜っていた彼にとって、妖怪の血肉ですら美味に感じてしまう。

何度も咀嚼を繰り返し、喉に流し込む。が、またしても彼は嘔吐してしまった。

 

そんな矛盾を何度も、何度も繰り返した。

やがて妖怪は表皮と骨だけになり、周囲は彼の吐き出した嘔吐物に塗れており、彼はそれら全てを眼下に置いた。

不思議な事に彼は幸福に満ちたような表情をしており、疲弊し切っていた心身が若干ながら回復しているようにも見受けられた。

 

彼は凄惨な状況になっていた場を離れると、静かに、強く思考した。

 

 

────俺には不思議な能力がある

 

 

妖怪を解体し肉を抉り取っている最中、彼はある一つの発見をしたのだ。

それは"能力"について。

 

硬く堅牢な妖怪の胴体を、いとも容易く解体する事が出来た事をきっかけに、彼はある想像をした。

"この箇所を切りたい。骨が邪魔だ。毛皮が鬱陶しい"

彼がそう思考をすると、思ったように事が運んだのだ。

背骨の周りにこびり付いた肉が綺麗に削げ落ち、妖怪の臓器部分に当たる部分も、肉と綺麗に分離された。

 

ある種の潜在意識なのかもしれない。

潜在意識とは、強い願望に影響を受け、やがて一つの能力として具現する。

彼が今まで趣味などで行ってきた"結合"、"切断"という行為が積み重ねられ、先程の捕食の際にそれらが潜在意識として具現化した。

ただの"思い込み"と言ってしまえば、その通りだろう。

しかし"思い込み"ほど恐ろしいものはないとも言える。

 

繋いだり、切り離したりする事ができる能力。

 

彼の前世での調理活動に於いて、それらの行為が頻繁に繰り返された。

そして異世界に於いて、それらが"能力"として具現化されたのだ。

 

その事を推測した彼は、砂埃に塗れた表情をひどく歪め、腹の底から不気味な笑い声をあげた。

それは妖怪の肉を捕食した行為によるものか、或は自身の能力の開花によるものか。それは誰にも分からない。

原初の妖怪の血肉を体内に取り込み、肉体的にも人間を遥か逸脱した彼に、畏怖する対象は存在しない。

 

荒廃した大地を、彼は再び歩き始めた。

薄く濁った瞳は何を見据えているのか、その先に視えるものは何なのか。

 

やがて、月日が経過する。

 

 

 

彼は始めこそ能力の使い方というものを理解しきれず、本能に頼るがままに地に潜む妖怪を探し周り、見つけては拙いながらも能力を行使して捕食を繰り返した。

荒廃した大地に潜む妖怪は、どれもが人の形をしておらず、狼のような動物型から、蜘蛛や蟷螂のような昆虫型の妖怪と様々な種類がいた。

 

妖怪の肉を食する度に、彼は充足感に満たされた。

次第に人間のそれとは思えない不思議な力を彼は身につけ始め、恐らく妖怪の血肉を体内に取り込んだ行為によるものだと思われるそれは、彼の心をも腐食させた。

 

────喰らいたい

 

妖怪を捕食する度に充足感を得る事が出来たが、徐々に一度や二度の捕食では充足感を得られずにいた。

もっと食べたい、まだ喰らい足りない。

呪文のように繰り返されるその言葉は、いつまでも彼の心の中で繰り返された。

 

一方で、野に生息する妖怪達も阿呆ではない。

強大な捕食者が現れた事により食物連鎖の均衡が崩され、やがて妖怪達の生息数も減少傾向に陥った頃、知恵ある妖怪達は行動に移る。

 

本来天敵である妖怪達が徒党を組み、ある一つの大敵を始末する為に同種、異種を問わずに妖怪達が結集したのだ。

まだ歴史書の編纂者も存在しない、歴史に名前すら残らない小さな抗争。

 

総勢で数百を下らぬ勢力と化した知恵ある妖怪達は、野を流離う彼を捕捉し、襲撃した。

獰猛な動物種の妖怪から、無数の脚を持ち胸部を持たない節足動物、更には七色に光る羽を持つ昆虫妖怪までが勢揃いし、一人の人間を襲う。

襲撃を察知した彼は、嬉々とも恐怖ともとれぬ表情をし、迎撃した。

 

 

────凄惨。

 

戦場と化した黄土色の砂埃に塗れた土地は、様々な種族の体液で穢された。

頭部を失い翡翠色の体液に塗れた残骸、千切れた羽が方々に飛散し、その上を肉の塊が転がり落ちていた。

 

凄惨な状態となった大地に、一人の人間と一匹の妖怪が向かい合っていた。

人間は種々の体液を全身に浴び、妖怪は酷い外傷を負っており、生体組織もほぼ崩れかけている。

妖怪は振り絞るような、酷く濁った声で人間に向けて語りかけた。

 

────何故禍乱を起こす。我々は自然の営みを持していたというに

 

人間が妖怪の息の根を止めようと動いたが、寸でのところでそれは止まった。

何を考えているのか、歓喜しているのか恐怖しているのか、或は後悔をしているのか。そのどれとも取れぬ表情のまま、人間は妖怪の戯言に耳を傾けていた。

 

────摂理を乱す者……災厄の根源たる者。限りある生命を淘汰し、破滅の先に何を望む

 

彼は何かを弁明するという事はなく、ただ口を堅く閉じて言葉に耳を傾けるのみであった。

妖怪は瀕死の状態ではあるものの、彼に語りかける事をやめない。

 

何故摂理を乱すのか。何故生命の境界を壊そうとするのか。果てに目的があるのか。

妖怪の紡ぐ言葉はどれも、今の彼には到底理解し得ない言葉であり、彼はただただ黙を貫いた。

無数の眼を持つ限りなく人型に近いその妖怪は、八つの雲の刺繍が施された衣服を着用しており、全体が紫色と不吉な象徴として存在していた。

 

衣服が存在するという事は文化がそこにあるという事になり、彼の知らない何処かで妖怪の文明が存在していたのかもしれない。

しかしながら今の彼には、妖怪の戯言に耳を傾ける事が精一杯であり、推測する余地などない。

 

やがて妖怪は、最期となる言葉を紡ぐ。

今までの泰然とした口調ではなく、感情的な言葉として。それは妖怪の口から紡がれた。

 

────貴様さえ存在しなければ。貴様さえ此の世に生を受けていなければ、我々は恒久的な繁栄を────

 

 

妖怪が言葉を紡ぎ終わる前に、彼は妖怪を絶命させた。

頭部を切断し、二度と戯言が吐けぬ様に、と。

彼の周囲に広がる凄惨な光景は何処までも、地平線の彼方まで続いた。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

彼が妖怪の襲撃を受けた日以来、彼は再び塞ぎ込んでしまった。

妖怪の戯言に、最早懐旧とも表現出来る過去の事を思い出し、偲ぶどころか嫌悪すらした。

 

彼の心中には様々な葛藤が起きていた。

生きる為に妖怪を捕食していたが、気付くとそれは快楽に変貌しており、今まで喰らう為に殺めていたのが、いつの間にか愉悦する為に殺めていた。

彼の中に僅かに残っていた人間としての理性が、愉悦する為に殺めるという行為を、酷く糾弾した。

 

喩え妖怪の知識者から蟻の子一匹に至るまで、全て生を全うしているのだ。

それら全ては悪戯に異種を殺める事は無く、生きる糧を得る為に狩りをしている。

今の自分は、自然界に於ける食物連鎖の枠組みにすら入らない。ただの人格破綻者である。

次第に彼はそう思考するようになり、塞ぎ込んだ。

 

そして何よりも、"貴様さえ存在しなければ"という言葉に、彼は酷く心を痛めた。

自分が人間だった頃の事を思い出し、嫌悪し、自虐した。もうあの頃の生活には戻れない。

帰る場所など存在しない。自分は誰にも必要とされていない……そう思考すると、涙さえ溢れてくる。

 

 

彼はあの時から妖怪を殺める事も極端に少なくなり、目的も無く荒廃した土地を彷徨い歩いていた。

度々吹き荒れる突風が、彼の心身を凍えさせた。

 

もう歩くのも億劫になってしまった時、彼は巨大な樹木の下に座り込んだまま、動かなくなった。

何も考えずに妖怪を喰らっていた時の方が余程マシだ、と思ってしまう程、今の彼は自暴自棄になっていたのだ。

腰を持ち上げるのも、瞼を持ち上げるのも辛い────やがて彼は、静かにその瞳を閉じた。

 

紫色の蝶がそよ風に乗って彼の下に接近すると、それは露となって消えた。

太古より月に移住せし民族の知識の結晶体に、彼は気付く事もなく、深い深い眠りの底についたのであった。

 

 

 









以上となります。
鬱展開、ダークな内容となってる序盤は、直ぐに片付けたいと思っていたので連投。
正直に申しますと、筆者的には鬱展開は執筆し易いです。ですがやはり、執筆していて気分の良いものではないので、難儀する箇所も多々見受けられるかと思われます。

今話で過去編のおよそ冒頭部と言い換えられる話は終わります。
次話からは物語の舞台にあがり、彼を中心とした話に変わり、内容も鬱展開からは離れていきます。
過去編に関しましては、基本的に三人称で進行する予定ですが……恐らく、序盤は一人称で進行していきますので、よろしくお願いいたします。


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巻ノ二十六 偽りの性

 

 

────海で生まれた生命は、生き残りを賭け長い間闘争を繰り広げた。

やがて海は穢れ、生き残った勝者だけが地上に進出した。

 

陸上では更に生き残りを賭けた壮絶な闘いが繰り広げられ、その中で進化を遂げた者、子孫を繁栄させた者、諦めて海へ戻っていった者もいた。

闘いの勝者はほんの一握りであり、多くの生命種は戦いに敗れ絶滅した。

 

生命の歴史とは戦いの歴史である。

 

血塗られた世界には多くの"穢れ"が存在し、全ての生き物へ平等な死を与えた。

本来ならば永く存命出来る種も、穢れに犯され寿命を迎える。

 

しかし、穢れが与える生死の影響に気付いた賢者がいた。

賢者は満月が海面に映るのを見て、穢れた地上を離れる決意を固めた。

海から地上へ、地上から空へと移住するように、賢者は地上から月へと移り住んだ。

 

後に"月夜見"と呼ばれ多くの月人に慕われ、月の都の開祖、夜と月の都の王と呼ばれる偉人となる者であった。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

荒廃した大地の樹木の下で眠っていた彼は、眼を覚まして驚愕した。

今まで砂塵が舞い、妖怪以外の全ての生物が死滅した世界から、緑の豊かな美しい草原に移り変わっていたのだから。

 

眼を覚ました彼は、ふと自分の近くに転がり落ちていた蝶の死骸に目がいった。

その紫色の蝶は、始めこそ何の変哲もない死骸と思っていたが、手にとって調べてみると、それは機械仕掛けによるものだと理解できた。

一体何処の誰がこんな物を置いていったのか。いや、何故自分がこんな場所に居るのか。彼の脳は混乱した。

 

夢だと思って立ち上がってみると、自分の容姿は砂埃塗れ。妖怪の体液が衣服や肌に付着し、その上を黄土色の砂が飾っていた。

 

"夢などではない"

 

彼はそう静かに思考した。

この場に広がる美しい自然は夢ではなく、先程まで存在していた荒廃した土地に居た事も、夢ではなかった。そう彼は判断した。

 

緑豊かな草原を彼は歩き出した。

こんなに綺麗な大地なのだから、人が住んでいても不思議ではないと思いつつ、彼は歩く。

けれど彼は、人と会うことに恐ろしく恐怖していた。。

今まで誰とも会話をしない、言葉すら発さない。そんな異常な生活を続けていたのだ。

まともな応対など出来るはずがない。もしかしたら喉が潰れていて、喋る事ができないかもしれない。

 

様々な思考を続けるうちに、やがて彼は足を止めて座り込んだ。

そして考えを巡らせる。

自分はもう壊れている。人を探し歩いて何になるんだ。また酷い事を言われるかもしれない。もしかしたら怪物扱いされて襲われることだって。

 

草原の中、埋もれるようにして座り込む彼は、その場から動こうとしなかった。

やがて昇っていた"太陽のようなもの"が沈みかけると、周囲は綺麗な夕暮れ模様を呈した。

そよ風の心地良さに、このまま一生誰とも会わずに此処にいたい、と。そう思考した。

故に、彼は自らの背後に忍び寄る気配に気付く事はできなかった。

 

気配の主は彼に近付くと、言葉を投げかけた。

 

「────君、此処で何をしている」

 

不意に言葉をかけられた彼は驚き、その場から飛び起きた。

声のする方へと瞬時に身体を向けるが、不意の出来事や疲労の為に、後方へ倒れ尻餅をついてしまった。

 

「落ち着きたまえ。僕は敵ではないよ」

 

気配の主は、若い男であった。

綺麗な白いスーツを纏っており、機能的とも取れるそれは、まるで制服と軍服を混ぜたようなアクティビティさえ。

反対に、彼はどうだ。ボロボロで色扱け、砂埃で染まった衣服であり、とてもではないが褒められる状態ではない。

若い男……青年は彼に近付くと、そっと手を差し伸べた。

 

「一緒に来たまえ」

 

青年はそれだけ言うと、黙って手を差し伸ばしたまま。

彼は訝しげに思ったのだろうが、それを言葉にする事は無くただ、俯いていた。

しかし、青年の一言によりその均衡は破れる。

 

「どうせ行く当てはないのだろう」

 

その言葉により、彼は青年と一緒に行く事を決意した。

否、決意というよりかは流された。行く当てもなく、身寄りなど端から存在しない彼に、頼るべき導となる者が存在しなかったのだから。

 

 

 

────此処から先は、彼の物語である。

彼が月の都で織り成す出来事は、彼だけの物語。それは彼だけの思い出。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

────此処は何処だ。

まるで酷い夢を見た後のような不快感が、頭の中に長く残っている。

酷く荒んだ地で生活を余儀なくされていたのに、今度は見た事も無いような"都市"が僕の視界一杯に広がる。

 

口内も酷い味。

肉の粕や砂利が混ざった感触がひどく不快である。

 

俺を連れて行くこの若い男は、一体誰なんだろうか。

その気になれば不思議な力で殺す事も出来る。

ひどく短絡的な思考に嫌気が差す。あまり考えたくはない。

身体も異常に軽く感じる。まるで重力が働いていないかのような、不思議な感覚。

 

暫くの間、男に連れられるがまま、車のような乗り物で移動をした。

何故か俺には真っ黒なコートを頭の上から被らされたが、恐らく他人の目に触れないようにしたのだろう。

最早成るようにしか成らないという事は明確であるし、俺がどうこうした事で事態が好転する事はない。

 

 

 

間もなく青年の自宅らしき場所に到着したのか、高速で動いていた乗り物が停止した。

到着して俺は直ぐに降ろされ、建物の中に案内された。

建物の様式は俺が知っているような現代日本調のものではなく、近未来的なシャープな造りをしており、それに伴い周囲の装飾なども施されていた。

青年の着ている衣服も近未来的なものだし、恐らく此処は地球の何処とも知れぬ異世界なんだろう。

 

 

室内に案内されてまず最初に、分厚いタオルを投げ渡された。

青年は俺に向けて「汚れを落としてきなさい」と言われ、浴室まで案内された。

一体どういう思惑なのだろうか、俺には到底理解できない。家無き子を助けて偽善者ぶるつもりなのか。

 

言われるがままに浴室で汚れを落とした。

機能的なシャワーが設置されていて、使い方が分からなくて冷水のままシャワーを浴びた。

シャンプー何かも色々置いてあったが、使わなかった。

身体に付着した水分を先程の分厚いタオルで拭き取り、俺が今まで服が脱衣所に置いてなく、仕方なく変わりに置いてあった服を着用した。

肌触りの良い白いネックシャツに、黒いハーフパンツ。どれも現代で使われている素材に酷似しており、ストレッチが効いていてとても着心地が良かった。

 

とりあえず、青年の居るリビングらしき場所に戻る。

俺が戻ってくると、青年は何かを見ていた。

恐らく日本でいうテレビと呼ばれるものなのだろうが、この世界のテレビは映像が完全に立体化しており、まるで直ぐ傍で演じられているようなリアリティー、躍動感があった。

 

「やあ、終わったのかい」

 

青年がそんな事を言って、グラスを渡してきた。

何が入っているのか分からなかったので、俺はずっと持ったままにして飲む事はしなかった。

 

「毒なんて入ってないよ。ま、座りたまえよ」

 

青年がそう言い促してきたので、ソファーの上へ座った。

ふかふかで座り心地がよく、中に暖房器具が入っているのか、暖かさすら感じられた。

とりあえず手渡されたグラスの中に注がれた液体を飲んでみる事にした。

中身はただの水であった。

 

「……ありがとうございます」

 

掠れるような声でそうお礼だけ言った。恐らく助けてもらったのだろう、何も言わないのは失礼な気がしたのでお礼を述べたが、掠れて自分でも何を言っているのかわからなかった。

 

「声が出せないのか。無理もない、あんな状態だったのだからね。少し待っていたまえ」

 

青年はそう言うと、リビングから何処かへ移動した。

暫くして戻ってくると、青年は飲み薬のようなカプセルを幾つか僕に手渡してきた。赤色と青色の、奇妙なカプセルだ。

「飲みたまえ」と青年が言ったので、俺はそれを飲み込んだ。

 

飲み込んで暫くすると、喉が焼けるように痛み出した。

腹部も物凄く熱を感じ、喉の奥から胃液が逆流してくるような、激痛が走る。

余りにも酷い激痛だった為、気付くと不思議な力が反応して暴走していた。

 

何もかも切断したり、分解したり出来る不思議な力。

この力のおかげで、僕は今まで生き残る事が出来た。今回もきっと、この力が頼りになる。

能力が青年を殺めようとしていた時、慌てたような声で青年が言葉を放ってきた。

 

「待て待て、落ち着けよ。それは薬の副作用みたいなものだ。痛いのは始めだけだよ」

 

「な、何を……ッ」

 

青年が諌めたおかげで、リビングに置いてあったテーブルや、花瓶がバラバラになっただけで済んだ。

酷い激痛がする中で声を振り絞ると、なんと声を出す事が出来た。

今まで長い間、声など出しはしなかったのに。

今ならオペラ歌手のように、自在に声を出せるかもしれない。口の中の嫌悪感も、綺麗サッパリ消えていた。

 

俺は何という勘違いをしてしまったのか。

助けて貰ったのに暴れてしまったとは。俺は申し訳なくなり、青年に向けて謝罪をした。

 

「……すみません、悪い事をしてしまいました。ごめんなさい」

 

失くしかけていた言葉を選び、謝罪する。

自分でも驚くような声を出す事が出来る。とても綺麗な高い声である。喉にも痛みは感じない。

 

俺が謝罪をすると、青年は驚いたような表情で僕に向けて言葉を放った。

 

 

「おや。君は女の子なのかい」

 

静寂の中、立体テレビショーの音声だけが、リビングに響き渡っていた。

 

 

 

*

 

 

 

本当は気付いていた。異世界に生み落とされた、その時点で。

自分が"女性"になっていた事に。

ただ、その事実だけは受け入れまいと、今まで目を背けていただけ。

 

今まで他人事だと思っていた性転換の病気なども、いざ自分の身に降りかかると大変な事だと気付いた。

尤も、それ以上に凄惨な現実が待ち受けていた事により、それどころではなかった……事実から目を背けられてきた。

 

だが、こうして他人に保護される事により、露呈される事実もあるのだ。

俺は男である。しかし、現実は女としての身体で生きる事を余儀なくされている。

 

 

「あらためて、何か飲むかい? 僕は頂くが」

 

青年はそう言い、キッチンのある方へと向かっていった。

俺は何も言葉にする事が出来ず、ただただ俯いていた。

 

青年はマグカップに入れた珈琲と、グラスに注いだ麦茶の二つを持って戻り、グラスの方を俺の方へと渡した。

 

先ずは事情を話さないと。変な勘違いをされたくはない。

そう思った俺は、珈琲を飲み始めた青年に向けて経緯を説明した。

日本という国に居た事、気付いたら荒廃した土地にいた事、そして女性の身体になっていた事、ありのまま全てを。

 

珈琲を半分ほど飲んだ青年がそれを卓に置き、少し間を空けた後に言葉を紡いだ。

 

 

「ふむ。ざっと事情は把握したよ。推測するに、君は"外来人"だね」

 

「……外来、……?」

 

青年は"外来人"という言葉を紡ぎ、意味が分からない俺は言葉を繰り返した。

 

「外来人とはその名の通り、外から来る者の事だよ。君のような境遇の人を総じて外来人と、そう僕は呼称している」

 

「……そうなんですか」

 

「君は日本の何処から来たんだい? "トーキョー"かい?」

 

青年はそう質問してきたが、一つの違和感を覚えた。

微妙なアクセントの違いと、何故青年が日本の事を馴染み深そうに質問するのか。

俺はその事を青年に質問した。

 

「……ま、僕の事は良いじゃあないか。それよりも、君の事を教えてくれよ」

 

青年はそう言い、質問の回答を促す。

特に隠すことでも無かったので、質問に答えていった。

逆に俺の方からも知りたい事が山のようにあったので、それも合わせて質問をしていると、いつの間にやら時刻は夜深くなっていた。

 

 

青年は俺の事を持て成してくれた。

熱い手作りの料理を振舞ってもらい、更に寝床まで提供してくれた。

久しぶりに食べる人間が作った料理は、感動する程美味しく、涙が溢れた。

ベッドもふかふかだし、羽毛の優しい感触に、いつまでも寝ていたいと思えるほどだ。

 

 

何故赤の他人である青年が俺の事を保護してくれたのか、そこまでは分からなかった。

けれど、此処が何処なのかは青年が教えてくれた。

どうやら此処は"月"に作られた都市であり、その中でも俺が居る場所は地方に位置しているらしい。

 

俺が生活していた現代では、月に都市を作るどころか、月面に着陸する事が精一杯だったと記憶している。

更に俺のイメージとして、月は灰色……つまり、岩盤しか存在しない世界だとばかり思っていたが、青年が説明するにそこは"表側"に過ぎず、

裏側では太古から人間が移住し、都市を建てて繁栄したのだ、とそう説明をしてくれた。

 

青年は、暫く回復するまで居候しても構わない、と俺を保護してくれる旨も告げてくれた。

俺はお言葉に甘える事にし、暫くの間世話になる事になった。本当に助かる。

 

 

*

 

 

そうして数ヶ月程の月日が経過した。

 

身体の面ではすこぶる回復したのだが、心の傷が癒える事はない。

過去の出来事や女の身体として生活する事は、いつまで経っても受け入れられない事実であった。

 

青年と自己紹介をした事もあり、互いに名前は知り合っている。

俺の名前は天野義道。有り触れた名前であり、自身としてはあまり気に入っていない。

青年の名前は"羨道"というらしく、不吉な名前だなと思った。

けれど実は、それは本来の名前ではないらしく、本当の名前は昔に捨てたらしい。

 

此処は月の都から少し離れた地方都市だという事もあり、人口も少ない。

青年……羨道が住む家の周囲には、人の住む家は少ない。

その為買い出しに出る時は月の都まで赴く必要があり、数ヶ月に一度月の都に行っている。

 

しかしながら俺が一緒に生活しているせいで、買出しの頻度が増えており、出費も比例して大きくなっているようだ。

あまり長くは居る事が出来ないと考えた俺は、羨道に向けて話をする。

 

 

「羨道さん」

 

「なんだい、天野君」

 

女の身体という事もあり、声質が男性よりも高くなっており、あまり喋りたくはない。

けれども無言で生活する事は不可能な為、喋る時はキチンと喋る。なるべく低い声を意識して。

数ヶ月も共に生活しているという事もあり、互いに若干ではあるものの打ち解けてはいた。向こうがどう思ってるか知らないが、少なくとも俺はそう。

 

「そろそろ、だけど。あまり長く世話になってしまっては申し訳ない。そこで一人で暮らそうと思うんだけど、何かアドバイスを貰えないだろうか」

 

話とは一人暮らしの事であり、月の都がどういう世界なのかを知らない俺は、知識人に訊ねる他なかった。

羨道は僕の質問を聞くと、少し驚いたような表情をした後に、面白そうに表情を崩して質問に答えた。

 

「それが君の選択なら、僕は止めないよ。そうだね……都なら、物件が余っているかもしれない。都市部だから割高になってしまうけどね」

 

「そっか……。あ、仕事とかも。お金を稼がなくちゃあ、生活が出来ないし」

 

「仕事か。悪いけど、僕の仕事は少し特殊だから紹介はできないな。そうだね……都市部になら仕事は沢山あると思うけど」

 

羨道はそう言ってリビングの隅っこの方へ避けられていた雑誌を手に取ると、ページを捲った。

数十ページ程捲った後、俺のほうへ雑誌を寄越して見せてくれる。

 

「見てごらん、このページ。職種ごとに求人情報を掲載しているんだよ。興味があったら目を通すのも悪くないと思う」

 

「おお、ありがとう羨道さん。…………へぇ、コックとかも募集してるんだね」

 

開いたページには、未経験者歓迎でコックの求人内容が掲載されていた。

過去に調理経験のある俺にとって、興味心を擽られる内容であった。

その求人内容を羨道に見せると、少し悩んだような表情で僕に言葉をかける。

 

「へえ、調理師か。とても素晴らしい職業だと思うけど、もう少し読んでみたまえ」

 

何か言い辛そうに羨道がそう言うので、僕は掲載されている求人内容の下方まで目を通した。

するとそこには小さめの文字で、"選考対象は成人男性のみ"と表記されていた。

一瞬羨道が何を言いたかったのか分からず、怪訝な表情をしたが、よく考えてみれば俺の身体は女である。

たとえ心が男でも、身体が女性では選考の対象外になってしまうのだろう。俺は静かにページを閉じた。

 

 

「…………酷い話だね」

 

これが俗にいう男女差別というやつなのだろうか。今更ながら、納得がいかない。

 

「落ち込む事はないさ、次を探せばいい。ほら、この仕事はどうだい?」

 

羨道が雑誌を捲り指差した先にある記事は、警備の仕事であった。

掲載されている内容は豪華に仕立てられており、職務内容や待遇など事細かに掲載されている。

 

「綿月家専属の警備隊の仕事。由緒正しき綿月家の下で働けるのだからね、応募者も山のようにいるだろうけど」

 

「そうなのか。こういった仕事はあまり好まないんだけどなぁ……」

 

「それなら他を探せばいいさ。天野君にとって好条件だと思ったのだけどね、寮が付いていて待遇も良いし。何よりもあの綿月家だ、悪いようにはされないだろう」

 

「……どうしてそんなに勧めるの」

 

自分なりに低い声色で、羨道に向けてそう質問した。

 

「綿月家の直轄する研究所に、僕の知り合いがいてね。天野君が綿月家に取り入れば、僕としても仕事がし易いと思って」

 

「たかだか警備員ごときに取り入ったところで、利益はないと思うんだけど」

 

「そうだね。でも天野君が一介の警備員から、綿月姉妹の親衛隊になれば話は変わってくる」

 

「……俺がそんな出世、出来ると思っているの」

 

羨道は言葉を続ける。

 

「さあね。そりゃあ君の腕次第さ。けれど悪い話ではないと思うんだけどね。僕は研究所で仕事をしている……薬の調合を主としていてね。

簡易な魔法と優れた薬があれば、君を男にする事も可能かもしれない」

 

「……ごめん、もう一度言って」

 

「魔法の話だよ、性転換のね。薬を使って性転換をする事は月の法律で禁止されているが……、魔法で性転換をする事は禁止されていない」

 

突然、羨道がよく分からない話を始めた。

僕が唖然として聞いていると、羨道は言葉を続ける。

 

「魔法によるものならば、それは一時的なものだからね。後は優れた薬を作る方法だが……それには綿月家の所有する研究所から、調合に必要な材料を手に入れなければならない」

 

調合に必要な材料と言った後に、ヤゴコロがどうの、等と言いのたまっていた。

何の事か分からないし、今はそれよりも気になる事がある。

 

「……もしかして、俺がそれを盗んで来ないといけないのか」

 

「そんな事をする必要はない。天野君がそれを貰ってくれば良い、合意を得てね。その為には相応しき地位と、名誉を手に入れなければならないよね」

 

「……たかだか一介の警備員が」

 

「綿月家は実力至上主義なんだよ。実力のある者は、出身を問わずに出世する事が出来ると有名でね。他の名家には無い事だね」

 

何となくだが、合点がいった。

俺が綿月家の警備員として取り入り、名をあげて出世した後に、研究所から薬に必要な素材を入手すれば良い。

そうすれば羨道が性転換に必要な薬を作る事ができ、後は簡易な魔法があれば……

 

 

「……魔法ってのはどうすればいいの」

 

僕がそう質問をすると、羨道はおどけた表情で答える。

 

「それは天野君が自分で考えたまえ」

 

羨道の言葉を皮切りに、リビングは静寂に包まれた。

立体テレビショーの音声だけが部屋中に木霊し、俺はグラスに注がれていた麦茶を飲み干した。









新成人の皆様、ご成人おめでとうございます。
私も可能ならばもう一度成人式に参加したいですね、良い思い出です。

外来禄に関しましては、現行編の主人公の秘密となる部分が露呈しました。
過去編を執筆する際に、いくつかテーマを決めて執筆しております。
現代風、そしてギャップですね。
あくまで過去編のテーマなので、作風に大きく影響される事はないかと思われますが、よろしくお願いいたします。


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巻ノ二十七 栄光の能力

 

 

 

 

────月には"穢れ"と呼称される一種の有害物質が存在していた。

存在していたと表現するが、月の民が大いに嫌うその有害物質は、最終的に生物を死に追いやるといわれ恐れられていた。

 

穢れについていくつか説明され、何となくであったが理解するに至った。

一つは穢れにより寿命が発生する事。

月で地上と呼称されている惑星には、太古の争いにより穢れが発生し、穢土と呼ばれる程になっていた。

生きる事が死を招く穢れた世界なのだ、と俺は一冊の歴史書から読み知った。

 

もう一つは"穢れ"を大いに嫌う月の民は、法律によって穢れた者を地上に落とす事が許可されているという事。

つまり特定の機関や国家から"穢れている"と判断された場合、直ちに拘留され隔離されると、特別な事情が無い限り地上へと追放されてしまうらしい。

 

その事を羨道から知らされた俺は大いに身震いし、一瞬ではあるものの月の都に行くのは止めようかと考えてしまうくらいであった。

そして"穢れ"というものは誰にでも存在するものであり、通常の月人は人間の感覚では察知できない程度の穢れは持っているらしい。

当の俺はといえば、数値化すると三桁は優に超えてしまう程の穢れを有していた。

 

このまま月の都へ行くのは危険だと判断され、暫くの間投薬などをされて穢れを除去する事になった。

綿月家の警備隊登用試験は数ヶ月も先の話であり、その間に穢れを浄化できるのならば都合の良い話であった。

 

 

「穢れは……そうだね、君にも分かりやすく説明するなら、"放射線"のようなものかな。似て非なるものだけどね」

 

羨道は俺にそう説明した事もあった。

視界に映る事もなく、微量ならば直ちに人体に影響する事もなく、かつ一般の民衆にとって路上に転がり落ちた石ころほども気にかけないそれは、適語でもあった。

無論、気にする人は気にする。それはどちらかといえば一般人よりも、専門家や科学者の傾向が高いだけであり、平凡な生活をしている主婦やサラリーマンは、身近に微量の穢れが存在したところで、気が付く筈もないらしい。

 

 

当面の俺の目標は決まった。

先ずは綿月家の警備隊登用試験に合格し、うまく綿月家に取り入る事。

そうした上で綿月家の管理する研究所から、羨道が欲しているという薬品を入手する。

薬品と交換条件で、羨道が性転換をする事の出来る薬を製薬してくれるという事だ。

 

性転換する事の出来る薬というよりかは、魔法による性転換の術を助長する程度の効能があるだけである。俺自身の願望を叶える為には、簡易的でも構わないので魔法を身につける事。

急に魔術を憶えろと言われたところで、俺としては行動のしようがなく、途方に暮れていると羨道が助言をしてくれた。

 

「かつて魔術に関する研究が盛んだった頃もあるからね。基礎的な内容に関しては魔術書として公にされていると思うけど」

 

その言葉により、微かであるが希望が見えてきた。

魔術が行使できる確率はゼロではない、という事だ。

羨道は続けてこんな事も言っていた。

 

"できるできないはその人の才能次第だ"

 

多くの研究者や研究学生が魔術に関する研究に没頭したというが、実際に魔法を使えるようになったのは一握りしかいないらしい。

それもかなり簡易的なもので、小さな火花を散らしたり、そよ風を発生させたりと、その程度の事。

やがて魔術の研究に取り入る研究者は数を減らし、今では熱心に研究する者が居るかどうか。

 

俺に魔術が行使できるのか──本当のところは自信など欠片もない。

その旨を羨道に告げると、彼はしれっとこんな事を言ってきた。

 

「何を言っているのだ。君は仮にも能力者だろう。少なくともそこいらにいるボンクラと比べれば、君の方が遥かに才能があると思うが」

 

俺が不思議な力と呼んでいたそれは、実は月の民にも力を保持している者がいるらしく、俺だけが特別というわけでもなかった。

 

そして数日ほど月日が経過する。

俺は今、羨道により"綿月家警備隊登用試験"の対策を講じられていた。

 

 

 

 

*

 

 

 

「天野君。今の状態で試験に臨んだら、確実に落ちるよ」

 

突然、こんな事を言われた。

俺は羨道が何を言っているのか理解できず、目下の新聞から目を逸らした。

 

「何言ってるんだよ。どうして俺が試験に落ちると、そう断言できるの」

 

「それだよ、その言葉遣い」

 

今度は指摘を交えてそう言葉を放ってきた。

 

「綿月家は由緒正しき名家……試験に重きを置くのは、人の成りや品行の良さだ。天野君がどんなに試験で立派な成績を残したところで、人間性が失われてしまっていては、受かるものも受からない」

 

羨道はそう説明した。

俺も自分なりに月の歴史に関してや、綿月家周辺についても調べてはいる。

 

綿月家は代々警備の業務を生業としている、いわば一つの組織ともいえる集団だ。

月の都に存在する警備隊は綿月家以外にも存在しており、中でも綿月家は名を取っても実を取っても、群を抜いている。

近いうちに月の都全域を担当するのではないか、と世間では噂されており、人員の強化なども毎年行われているらしい。……全て情報誌に掲載されていた情報であるが。

 

さておき、俺は羨道の発言に対し抗議した。

 

「品行の良さ……か。あまり月の民とは接した事はないけど、敬語くらいは俺にもできる」

 

「敬語なんて、出来て当然。先ずはその"俺"という一人称から改善したほうが良い。例えば"私"とかね」

 

「…………私?」

 

「おお、似合う似合う。女の子っぽく聞こえる」

 

羨道はからかうようにしてそう言葉を紡いだ。

 

確かに羨道の言う事には一理あり、俺にも理解できる。

けれど一人称を"私"にする事だけは、断固として嫌だ。それではまるで、自分が女と認めているみたいではないか。

俺はその事を羨道に向けて言い放つ。

 

「悪いけど、それだけはお断りだよ。俺は男だ……女の子じゃあないんだから。たとえこんな世界だろうとも、俺は男として生きていたい」

 

俺が今まで生きていた世界での常識が通用しない、月の裏側に作られた都市。その中でも俺は俺の生き方を貫きたい。

 

羨道は俺の発言を聞くと、少し悩むような表情で言葉を返す。

 

「うーん……そうは言うけど、少しは現実に目を向けないとね。ま、直面してから知る事もあるだろうから、言及はしないけど」

 

「ごめん、羨道さん。そこだけは譲れないんだよ」

 

「そっか。けど、最低限その一人称だけは直しておきたまえ。試験官に向けて"俺"なんて言ってみろ、僕ならその場で不合格にするよ」

 

「……じゃあ、"僕"とかは」

 

羨道自身の一人称が"僕"だったのに気付き、俺も自分の事を"僕"と呼んでみた。

すると羨道は再び悩ましげな表情をした後に、少々小さめの声で答える。

 

「うーん……ま、及第点かな」

 

及第点を頂いた。

とはいうものの、一人称を変えて直ぐに適用できるかと言えば、答えは否だ。

この先、俺は何度も何度も一人称を間違える事になるのは余談である。……僕は。

 

 

 

*

 

 

 

羨道に保護されてから、既に数ヶ月ほどは経過している。

自立する手続きや、仕事を探す手伝いに加え、悩みの種になっている性転換についての解決方法まで提案してくれた。

僕がすべき事といえば、至極単純である。羨道が敷いてくれたレールの上を、脱線しないように着実に渡り抜く事。

 

兎にも角にも、綿月家警備隊登用試験についての対策を講じなければならない。不合格となってしまっては、お話にすらならないから。

 

警備隊登用試験に関しては、一般常識問題に加えて論理的思考能力に関しての問題も出題されるとの情報だ。

僕は勉学が苦手ではないが、月の世界の一般常識など、触れた事もなければ聞いた事もない。

なので羨道に常識問題や時事問題を片っ端から叩き込まれ、更に空いた時間は同じく試験科目にある"武術"についても、日々練習を続けていた。

 

 

僕の日課は、先ず穢れを浄化する薬を飲む事から始まる。

口にする料理も全てそうだ。今まで「俺が作るよ」と羨道に持ちかけた事もあったが、穢れを抑える料理を作れるのかと返され、頭を抱えた。

彼の作る料理は僕の事を考慮して、穢れを抑える効能がある料理……という事であるが、実体は定かではない。所謂、精進料理のようなものであるため、あまり美味しいとは思わなかった。

得体の知れない瓶に詰められた薬を入れてるのを目撃した事もあり、その日は本当に食欲が湧かなかった。

 

それで、日中は試験対策勉強。

月の一般常識について纏めたテキストに加え、マークシート形式の練習問題をひたすら解いた。

時には僕には到底理解できないような事柄も、月では一般常識となっていたのにひどく驚いた事もある。

推論などについても、羨道に教えを請うた。

内容は馴染み深いリンゴ……ではなく、月では"桃"を問題の例として用いるのが一般的らしく、桃が何個あれば……白桃が三個ある時の李の数は……といった感じである。

正直この手の内容はあまり得意ではなく、何度も頭を唸らせた。自身の頭の硬さを痛感した時でもあった。

 

 

そして最後は、"武術"に関しての試験対策。

 

どうやら綿月家警備隊は素行の良さは勿論の事、武術力に関しても合格に大きく関係してくるとの事だ。

時には模擬仕合を行う事もあるらしく、勝利した者は選考に有利になるとか、ならないとか。

 

月の学力に追い付けない僕にとって、それは大いにありがたい事でもあった。

実のところ力には自身がある。思い出すだけで反吐が出るような酷い生活の中、培った能力もあるのだ。

試験対策の一環として"能力の鍛練"を重視して行い、一人で黙々と練習をしていると、羨道に声をかけられた。

 

 

「天野君。君は一体、机に向かって何をしているのだ」

 

「ん、能力の練習。今まで大雑把な事しか出来なかったけど……こうして精密動作性も磨いているの」

 

自分でも発言する度に驚く高めの声で羨道に説明する。

僕の能力は簡単に表現すると、"切り離したり繋げたりする"事が出来る能力であり、例えば大根一本を取っても銀杏短冊賽の目……と、様々な種類の切断が出来る。

勿論それらを軽くこなせるようになる為にも、能力の鍛練を続けている。

 

「ふーん、そっか。能力の練習に勤しむのは結構だ……けど、それが綿月家のお眼鏡に適うかどうかは能力の使い方次第」

 

「どーいう事だ」

 

「前にも言ったろう、能力者は然程珍しくはないとね。あの綿月家の御息女だって能力を持っているのだから。詳細は公表されていないけどね。ま、重要なのは能力だけじゃあなくて、能力を使ってどう自分をアピールできるか、だよね」

 

羨道はそう言いつつも視線は雑誌からは外さず、テーブルに置かれていたマグカップを手に取る。

 

なるほど、と僕は思った。

単純に"能力が凄い"だけでは話にならない……つまり、その能力を使ってどう"自分をアピール"するか、だ。

 

と言っても僕は自分の能力をまだ完全に把握し切れておらず、何が出来て何が出来ないのか……それすらも分からない。

物を切断したり、くっ付けたりする事が出来るのは既に実証済みであり、いともたやすく行う事ができる。

 

試しにと、僕は本棚に置いてあった本を一冊手に取る。

ページを開いた時に羨道と目があったが、僕は気にせず行動した。

 

開いたページを思い切り捲くり、破り捨てる。

ビリビリと音を立てて破れていく紙は一枚だけに止まらず二枚、三枚と続け、表紙部分に至るまでずっと続けた。

 

「ちょ、ちょっと天野君! 急に何をし出すんだ君はっ」

 

羨道が僕の腕を掴み静止の声を放ってきたが、僕は羨道へと視線を合わせて能力を発動した。

僕の意志で発動する能力により、破り捨てられた紙は再び元の場所へと舞い戻り、接着した。

 

元通りに綺麗に接着された雑誌のページは、破った際のしわだけを残して元の状態に戻った。

 

「これが僕の能力の一部。破り捨てたページを元通りに繋げました。"繋げる"って間接的な役割だけじゃあなくて、使いようによっては物を"修復"させたりもできるみたい」

 

「……ふむ、繋げる能力ねぇ。能力は鍛練と才能次第で大きく開花すると研究により判明されているが、君のはまだその余地が残されていそうな感じがする」

 

「たとえば"切断"したりもできます。こーやって……」

 

僕は実証せんとばかりに、先程の雑誌を真っ二つに裂いた。

そしてその後、何事も無かったかのように裂かれた雑誌を元通りにくっ付ける。

 

「おお。なるほど、便利な能力だね。僕のよりも便利かもしれない」

 

「羨道さんにも能力があるんだ」

 

「あるともさ。ただ、大して便利な能力ではないけどね」

 

「ふーん。教えてよ」

 

「"教えて下さい"、だろう。普段から素行を良くする癖をつけなくちゃあね」

 

突然スイッチが切り替わったかのように、羨道が嫌味な表情でそう言葉を吐いた。

僕は渋々とした表情で、「教えて下さいよ」と悪ガキのような口調で言葉を返す。

すると羨道は苦笑いした後に、口を開いた。

 

「僕の能力は"ものをつくる程度の能力"だ」

 

「なにそれ。凄く便利そうな能力じゃないか」

 

「そうかね。天野君が思っているのとは全然違うと思うが……そうだね、珈琲を作るには何が必要か知ってるかい」

 

羨道は突如そんな質問をしてきたので、言葉を返す。

 

「さあ……焙煎した珈琲豆と、熱いお湯があれば出来るんじゃあ」

 

「そーだね、その通り。でも僕の能力でそれを作るには、基本の作り方と同様に焙煎した珈琲豆と水が必要なんだよ」

 

「あらまあ」

 

僕は驚いたように声をあげた。

想像していたよりも随分と不便な能力だなと、そう感想を抱いた。

てっきり無から有を……つまり、何も無い状態から様々な物を作れるのかとばかり思っていたから。

 

「不便だろう。けどまあ、珈琲豆を熱湯で抽出するという工程はすっ飛ばせるから、その点は便利かもね。例えば即席麵とかあるだろう? あんなもの、僕にかかればお湯を入れて二秒で食べられるようにできる」

 

「は、はあ。それは便利……」

 

自慢気にそう誇られ、回答に困った僕は苦笑いで返した。

 

その後も能力の練習を続け、段階的ではあるものの自身の能力の精度が向上しつつある。

来たるべき綿月家の警備隊登用試験までの合間に、緻密な動きも出来るように能力を成長させねばならない。

学や常識力が著しく劣る僕にとって、能力を行使する事が合格への糸口となるのだ。

 

 

そして月日は巡る────









以上となります。
展開に緩急がありますが、お目汚しを。
中盤はかなり具体的になってて進行が遅くなっているかもしれません。去年執筆した内容なので、あまり憶えていなかったりしますが……。
恐らくこのまま過去編を執筆すると、二十万文字を越えそうです。別に投稿した方が良いのかと悩んでおります。
それでは、次話もよろしくお願いします。


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巻ノ二十八 絶好の試験日和 ①

 

 

 

 

 来たるべきは、綿月家警備隊登用試験。

月の都に存在する家々の中でも、選りすぐりの名家である綿月家の警備隊は、練度の高い精鋭部隊で構成されている。

中でも綿月家の姉妹は、将来有望とされる天才姉妹であり、近いうちに警備隊を統括する役職に任命されるのではないかと予想されていた。

 

 そして綿月家は今まさに、警備隊の規模を拡大せんとばかりに、大規模な人員補強を行っている最中であった。

人員補強自体は毎年実施されているようであるが、その規模は微々たるものであり採用されるのは極僅かに限られ、場合によっては未採用という事も珍しくはなかったという。

 

 ある一人の女性が、機能的な汚れ一つない純白のベッドに仰向けになり、一冊の情報誌に目を通していた。

かの者は綺麗な黒髪を生やしており、濁りのない透き通った瞳をしている。

耳が隠れる程度のショートヘアーは、毛先に至るまで淀みがなく見る者に洗練された印象を与えた。

 

 "敢えて"男っぽく容姿を整えたその女性は、その容姿とは裏腹のだぼったいカーディガンを着崩しながらも、目を通していた情報誌のページを捲くった。

そして捲くったページを見ることもなく本を閉じると、アンティークな造りのテーブルの上へ乱雑に放り投げ、寝返りをうつ。

 

 

 ────僕は遂に、月の都へ辿り着いた。

羨道から幾許かの資金を借り、彼と同伴の上で月の都まで移動し、巨大なホテルの一室を借りるに至ったのだ。

来たるべき試験の為に、試験会場に近いホテルと短期契約をしたとのことだが……羨道という男は、本当に何者なのだろうか。

 

 月の都は完成された都市であった。

公共的な施設から公園の公衆便所に至るまで、全てが機能的であり一定水準の清潔感が維持されており、どこを歩いていても清々しい気持ちになれた。

道行く人々は僕の予想とは相反し、どの顔を見ても普通の人間ばかり。想像していた"未来人"とは掛け離れている。

というのは、僕の中にあるイメージの問題だ。

近未来的な服装に、最新鋭の乗り物で都市間を移動している────という安易な想像をしていたが、実際のところは決して派手ではない、シンプルかつカジュアルな服装が多数を占めていた。

 

 それで当の僕はといえば、羨道が契約したホテルの一室で寛いでいた。

試験までの間、一度初心に返り試験についておさらいをしようと思い、先程とは違う別の情報誌を手に取り、警備隊登用試験に関しての募集要項に目を通していたのだ。

 

「身分、警備隊幹部候補生……各種手当て有り、……綿月家保有の寮施設有り、休日……訓練日程に従うものとする」

 

 様々な事項が掲載されていたのだが、高待遇なのに変わりはない……けれども、よく見ると休日の日数が不安である。

今更そんな事で駄々を捏ねてもしようがないし、むしろ休日が少ないという点で訝しげに思えたところ、やはり根っ子の自分は変わらないのだなと思った。

たとえ容姿は女性に変貌していても、精神は昔の自分と何ら変わりはないのだと、再認識する事ができた。

 

 僕は情報誌を乱雑に投げた。

試験内容の欄を目に通したところで、不安要素に支配されるのがオチだと思ったからだ。

 

 情報誌によると、警備隊登用試験は日別に、三日に渡って執り行われる予定だ。

一日目は学力的な試験と、体力試験が夕方過ぎまで実施される。

学力は言葉通りの論理的思考テストや、適性検査に常識問題に至るまで多岐に渡る。

体力試験も各種項目を漠然と執り行うもので、警備隊試験なのだから優先されるのは学力よりも、むしろ体力試験なのではないか、と予想できる。

 

二日目は、合格者の中から健康診断を実施し、警備隊に不適格な者を選別するといった内容。

健康診断だけに関わらず、性格検査から精神面でも不安定なものを選別し落第させるといった篩いにかけるものとなっている。

 

そして三日目。

恐らく、これが尤も大規模と予想される試験科目であり、また月の都のマスメディアなども大きく注目しているという噂だ。

一日目、二日目の中から大きく絞られた試験参加者の中で、トーナメント……"他流試合"を執り行う。

 

 武具や流派等に制限のない、完全なる武力による勝ち抜き戦である。

週刊誌のマスメディアは勿論の事、テレビショーのプロディーサーや各界の大物も注目しているといわれ、最早登用試験におさまらず都規模の催し事に近いレベルである。

それには様々な理由があるとされ、一つは名家である綿月家が大規模な人員補強を行うといい、注目の逸材が現れないかの動向確認に、もう一つは"綿月家の次女"が他流試合に参加されるのではないか、という噂である。

 

 曰く、綿月家の次女は生来武術に恵まれており、天才とも謳われた程であるらしく、現在は特に目立った役職に就任していないが、試験後には何かしらの重要職に就任されるのではないかと推測されている。

それが今回の大規模な登用試験に大きく関与してくるのでは、と情報誌は大きく取り上げていた。

 

 つまるところ試験に合格するには、全三日に渡る試験を全て合格しなければならないのだ。

三日目のトーナメント形式の他流試合では、戦績は選考に大きく左右されないと記載されているが、根拠はない。

要約すると、負けても不合格に直結しないが、勝利した者と比べたら不利になるぞ、といった意味だと僕は思っている。

 

 あまり深く考えても致し方ない。

こうして資金援助までしてもらい月の都まで訪れたのだ。後は万全の態勢を整えて試験に臨むのみである。

 

 そう強く心に刻み込み、僕は様々な書類の入ったブリーフケースを持ってホテルを出た。

目指すは綿月家登用試験が実施される試験会場、ただ一つである。

 

 

*

 

 

 一時間程かけて試験会場に到着した僕は、その待ち時間の間に一息ついた。

会場には正装で訪れた若い男女で溢れており、僕が訪れた会場は第四会場と分類されているようだ。

因みに僕の格好は、全身が黒の所謂スーツのような服装を着ており、当然の如く男物。

女性の応募者も多数居るらしく、清楚な若い女性も沢山いた。

 

 羨道からは女性として試験を受けた方が良いと言われたが、僕はそれを拒んだ。

仮に女性として試験に合格したら、待っているのは女性としての待遇である。僕はそれを望まない。

男として試験を受けることに意義があるのだ。

 

 一日目の学力試験は滞りなく行われ、僕は今まで勉強してきた事を満遍なく試験にぶつけた。

正直なところ学力に関しては自身がなく、勝負に出るのは午後から執り行われる体力試験だ。

あまり自信のなかった学力テストを終え、昼食を食べた後に体力試験へと臨む。

 

 

そうして訪れた午後からの体力試験で、僕は存分に力を発揮した。

 

「はい、それでは名前を呼ばれた順からボールを投げてもらいます」

 

 試験官の兎の耳が生えた女の子がそう言い、試験者が列を作る。

試験の内容を簡単に説明された後、男女混合の下、各種目ごとに人員が振り分けられ、試験が実施された。

 

 指名順に次々と抛られていくボールであるが、恐らくこれは現実世界による"ハンドボール投げ"と同じ類の種目なのだろうか。

手に収まらない程度のボールを前方へと抛り投げ、どこまで飛ぶかを測定する試験だ。

僕の二つ前の者が二十八メートル、一つ前の者が四十メートルと、凄い数値を叩き出しており、平均で表せば30メートルは最低でも飛ばさないと、選考に不利になってしまうかもしれない。

そう思った僕は若干焦ったものの、自身の名が呼ばれたので直ぐに立ち位置へ移動した。

 

「天野義道さんですね。それでは此方のボールを、あちらへ向けて投げてください。助走しても構いませんが、白線の外側に少しでも足が出てしまったら失格となりますので、注意してください」

 

「わかりました」

 

 簡易的な説明を受け、僕は低めの声を意識して了承の意志を告げた。

試験官からボールを受け取り、白線の外側へ足が出ないよう細心の注意を払う。ボールは僕が思っていたよりも、ずっと軽い。まるで羽毛や綿毛のように。

そんな生産性のない思考を重ねつつも、僕は手に持っていたボールを思い切り投げ────射出した。

 

「────えっ!?」

 

「……よし、良い感じだけど」

 

 自分でも驚いた。思わず"射出"という表現をしてしまう程に。

僕が投げたボールは勢いよく飛んで行き、僕の足も白線の内側にあったので失格にはならなかった。

ボールは二十メートル、三十メートルと飛んだところ、やがて視界から消えた。

流石に想像よりも遥かに飛び過ぎてしまい、僕は呆然とする事しか出来ず、試験官からの指示があるまで待機していた。

 

「え、えーと……しょ、少々お待ちをっ!」

 

 試験官である兎の耳の生えた女の子が脱兎の如く……否、慌てふためき飛んでいったボールの方向へ駆けて行った。

そういえば登用試験の試験官は、どれも兎の耳が生えた女の子が担当している。どれもこれも背丈の低い女の子ばかり。

月の都では"玉兎"と呼ばれる者達であるらしく、いわゆる労働階級の種族であるらしい。

綿月家では様々な部門で玉兎達を広く採用しているらしく、今回のような試験の監督なども任せているとのこと……どれも情報誌から得た知識だ。

 

 暫くして試験官が戻ってきた。息を切らしながらも、僕に言葉をかけてくる。

 

「す、すいませんっ、また投げてください……」

 

申し訳なさそうに試験官がそう言葉を紡ぎ、僕に手渡されたのは先程とは違うボールであった。

 

 

 

 その後も、様々な種目が実施された。

持久走から上体起こし、反復横飛び等々。何だか学校の体力テストのような気分であり、緊張感とは程遠い心境。

最新の機器を用いて握力計測も実施され、僕もその握力計を握ったのだが……測定値を見た試験官は頑なに「計測器の故障だ」と言って聞かなかった。

 結果として球体投げは着地点を考慮して百二十八メートル、握力は測定不能という結果に終わった。握る部分が破損してしまい、結果が出てこなかっただけなのだが。

その他の種目も異常値が出ているとのことで、何だか上層部のほうで問題が起きているらしく、途中で試験が中断された。

まだ各項目の測定を終了していない試験者は、後日執り行うということで本日は終了した。

推測するに、僕の後から測定を行った者達が対象だろう。計器類を使用した体力測定に関しては、計器類の調整後に再度測定が行われるらしい。

 

幸いにも僕は全項目を終了しており二度手間になるということはなく、数日後の二日目の試験を控えるのみとなった。何だか悪者になった気分で申し訳が立たない。

 

 一日目の試験終了後、合格発表は直ぐに行われ、僕は無事に合格するに至った。

学力的な結果はあまり芳しくなかったと思われるのだが、どうやら体力試験の結果が功を奏したと見える。

歴代の都のお偉いさんの名前など、知るわけがない。時事問題はたぶん、全滅だったに違いない。

 

 余談ではあるが、月の重力は地球よりも軽く、およそ六分の一程度しかない。

その影響を強く受けているのもあり、僕は月で生まれ育った者達よりも遥かに肉体が強かった。

これは羨道が指摘した事でもあり、だからこそ体力的要素が選考対象となる警備隊の仕事を勧めてきたのだという。

僕は通常の人間よりも、月の重力を考慮せずとも身体能力が高く、原因は恐らく体内に異質な力となる物を取り込んだから……と、羨道が話していた。

 

 まあ、身体が優れていて損はない。

こうして試験に大いに健闘する事が出来たし、また能力を活かす事もできるのだから。

僕は来たるべき二日目の試験を控え、惰眠を貪ることにした。

 

 

 

*

 

 

 

 そして二日目の試験が実施された。

実施内容は一日目の合格者による適正試験と性格検査、そして健康診断。

 

 適性検査や性格検査などは対策のしようがないので、基本的には素直に回答した。

けれども嘘の回答だと判断されない程度に、自身の事を盛ったりもしたのは、恐らく僕以外の試験者も同じだろう。

 

 二日目も特に滞りもなく終了するだろうと、僕は昼食を食べながら思考していると、やがて健康診断実施の時間となった。

しかしながらそこで、ある一つの問題が発生したのだ。

 

 僕は身体は女性のものであるが、精神は男である。

だが書類上は男という事で試験を受験している。これが何を意味するのか────

 

 

「はーい、それでは男性の方はこちらのお部屋に移動してくださーい! 女性の方は別室で行いますので、私について来てくださーい!」

 

 声を張り玉兎の試験官がそう言い放つと、男性の試験者が一同に集まり部屋へと移動した。

女性の試験者も試験官について移動し、この場は完全に男性の試験者だけとなった。

 

 ……ヤバイ、どうしよう。

健康診断の事などすっかりと忘れていた。いや、憶えてはいたのだが、まさかこんなに本格的だとは想像にもしていなかった。

僕が想像していたのは視力検査や身長体重の測定、採血程度だと思っていたのだが……心電図やX線の検査というのも実施するらしく、そうスケジュール表には記載されていた。

 

 このまま僕が男性用の健康診断を受ければ、性別が露呈してしまう可能性は否めない。いや、可能性で表せばかなり高いだろう。それだけは何としてでも避けなければ。

いくら"さらし"を巻いているとはいえ、胸の膨らみは男性よりも大きく、乳房も男性のものより肥大化している。

心音を確認する為に服をたくし上げれば間違いなくバレる──いや、そもそも診断の為に肌を大きく露出させねばならぬ。その時点で既に危うい。危ない橋を渡るのは下策だ。

 

「すいません、どうかされましたか?」

 

「あ、いえ……すみません、直ぐに移動します」

 

 行動の行方を思考していると、試験官に早く移動するよう急かされ、思考を中断させられた。

このまま男性用に移動してしまえば、ほぼ確実にバレる。ならば、考えている暇などない。

どんな手段を講じてでも、女性用の検診を受けなければ────

 

「あの、すみません」

 

試験官が去る前に、僕は声を掛ける。

 

「女性用の健康診断の会場は、あちらですよね」

 

「……え? あの……貴方、男の人ですよね。男の人は直ぐ隣りの部屋ですが」

 

「いえ、実は事情がありまして、今日は兄の服を借りて参加していたのです。この格好では女性用の会場に入り辛いので、良ければ女性物の服も貸して頂ければ……」

 

 普段は低めの声を出すよう心がけているが、今回はこれでもかと言わんばかりに、高めの声でそう試験官に説明した。

けれども試験官は訝しげに僕の事を観察すると、言葉を投げかけてくる。当然か、男性用の黒のスーツを着用して試験の場に参加する女など、聞いた事もない。

 

「そうなんですか。うーん、でもなあ……」

 

 試験官は踏切りがつかぬといった様子で、僕を女性用の会場へ移動させることを良しとしない。

男の格好をした人を、女性が健康診断を行う会場へ移動させ、万が一その者が"狂った性癖の変態男"だった場合、大問題に発展してしまいかねないからか。

今回はマスメディアも注目しているという試験……万が一でも不審者の侵入を許してしまったら、綿月家の信用も失墜する。恐らく玉兎の試験官は、それを恐れているのだろう。

ならば、と。僕は根拠となる行為を試験官に行った。

 

 

「──っ、なにをするんで……ひゃあっ!?」

 

試験官の腕を掴み上げ、その手を僕の下半身に無理矢理当てさせた。

 

「見てください、僕……私は本当に女です。"ついてない"でしょう」

 

 僕よりも背丈の低い玉兎の試験官を見下ろしつつ、互いの吐息のかかる間合いでそう冷淡に言い放ってやった。

 

「しっ、知りませんっ! じ、事情は分かりましたから、さっさと移動してくださいっ!」

 

頬を染め怒ったような口調で試験管はそう言い放ち、僕はしてやったり、と事がうまく運んだのを喜んだ。

 

 

 試験官から女性物の服を借り、着替えてから女性用の健康診断の会場へと移動した。

今回ばかりは流石に焦ったが、何とか切り抜けられそうである。健康診断が終了したら、再び男性として試験を受ければ良い。

そう安易な考えをしていた僕は、再び焦燥感に心を満たしてしまうのであった。

 

「はい、次の方」

 

 医者風の格好をした玉兎が担当する健康診断は、滞りなく行われていた。

健康診断の女性会場に入った時は、何だか言い表しようのない罪悪感に駆られたものの、僕の順番が回ってきた時にはすっぱり忘れる事ができた。

 

「えと、天野……義道さん? 何だか男の人っぽい名前ですね……あ、失礼しました」

 

「いえ、構いません」

 

 担当医の玉兎は僕に向けてそう言うと、緊張を緩和させるような口調でそう言い放ったりしていた。

やがて僕の事が記載されている書類に目を通すと、その表情を怪訝そうに歪めた。

 

「……あれ? 天野義道さん、ですよね」

 

「はい、そうですが」

 

「おかしいなあ。書類上では貴女は……男性になっているのですが……」

 

「え?」

 

担当医は僕にそう言うと、一枚の書面を見せてきた。

 

「ほらここです。男性の箇所に丸印がついていますよね」

 

「……」

 

 確かに、書面には"男性、或いは女性"という欄があるのだが、書類には"男性"の部分に丸印が付けられている。

たかが丸印一つではないか、とも思う。"単なるミスだ"と僕が言い放てば、それで済むのではないかとも思った。

しかしそれも、担当医の一つの行動で打ち崩される。

 

「……あ、もしもし。私です。今、試験者の一人の診断をしている最中でしてね。それでちょっと、書類に不備があったもので」

 

 この兎、あろう事か耳に手を当て、誰かと連絡をとっているのであった。

"書類に不備"があるというからには、彼女よりも偉い人物と話しているのだろうか。この場で言い包めてやろうと思っていた僕の考えは、台無しだ。

恐らく根っこの部分から"本当に単なる書類上のミスなのか"を調べる気だ。そんな状況で僕が"書き間違えました"と発言するのは容易い。……が、最悪嘘がバレた場合、大問題になってしまう。

それどころか、そんな詐称紛いの問題を起こせば、今後一切綿月家との干渉が取れなくなってしまう可能性だってある。非常に宜しくない事態である。

 

「あーもしもし、聞こえてますか? …………あれ? ……ああ、繋がりました」

 

 ほんの一瞬だけ、能力で彼女の通信を強制的に切断させた。

思っていたよりも簡単に通信を切断する事ができたし、永続的に切断してやろうかとも思ったが……相手方には既に"書類に不備がある"という意思が伝わってしまっているので、そんな事をしても無駄であった。

 

 最早為す術なしか、と思われた時。僕はふと書面に目を落とし、ある事を思いついた。

 

「すみませんー、通信が切れちゃったみたいで。えーと、ですからね、書類に不備があったんですよ。私は女性の検診を担当していまして、今試験者の一人の書類に目を通したんですがね」

 

担当医の玉兎は通信をしながらも、僕が持っていた書面をひょい、と取り上げ、再び言葉を続けた。

 

「ええ、ええ。そうです。えと、……はい、そうですね。性別の欄のところなんですがね、書類は精密機器で選別されていたのにも関わらず、男性の方の書類が紛れてたんですよ。ほら、性別の欄に女性って…………あれ?」

 

 担当医は僕の事が記載された書面を読みながら通信をしていたが、直ぐに言葉をつまらせ困惑した。

そしてひどく困惑した状況のまま、たどたどしく通信を続ける。

 

「れれ……、おかしいなあ……あ、え、"女性の検診なんだから女性で当然"? ……あ、はい……そうでした、すみません……はい、はい……」

 

ぺこり、ぺこりと虚空に向かって頭を下げながら、玉兎は通信を続けていた。

そして一段と深い溜息を吐くと、がっくりと項垂れて通信を切り、再び僕と対面する。

 

「あれぇ、おっかしいなぁ……なんでよぉ……確かに、見間違いなわけないのに」

 

「どうかしたのですか?」

 

「さっきも言ったじゃあないですかぁ。男性のとこにチェックがって……」

 

「いえ、ぼ……私は見ておりませんが。しかし見ての通り私は女ですし、間違えて性別を記入する筈も」

 

 僕がそう言葉を述べると、担当医は再びがっくりと項垂れた。今にも泣き出してしまいそうな表情から察するに、先程の通信で上司に叱責されたのだろうか。

 

 僕自身、確かに書類上では"男"として提出していたので、担当医の言っている事で間違いはない。

けれども僕は、書面を渡された際に能力を用いて、"紙面から文字を切り離した"。

手書きで記入されている書面は、インクが紙に染み渡り文字の形を取っているだけなので、僕の能力を用いてインクを紙から分離させ、直ぐ隣りの箇所の女性の部分にインクと紙を結合させた。

要約すると、"男性"の箇所につけられていた丸印を、能力を用いて"女性"の箇所に移動させた程度の事である。微妙に滲んで紙にしわが入っているが、不審に思われることもなく救われた。

 

 

 自分でも卑怯だなと思考してしまうが、致し方ない。競争率の高い試験を突破するには、こうするしか手段がないのだから。

一日目の試験を突破し、今回の健康診断にまで到達したのは、およそ一日目の半分以下にまで減っていた。

それでも試験者は1000人以上は存在する規模の為、まだまだ油断はできない。書類選考の時点では、何万と存在したに違いない。

恐らく今回の検診含め適性検査により、多くの試験者が落第するのは火を見るよりも明らかである。

 

 健康診断までを終えた僕は、悠々と帰路に着いた。

合格発表は後日行われるという事であり、発表までの間物凄い不安に襲われる。

何百人と落とされる規模になるであろう今回の試験は、僕とて落第の危機がある。

 

不安で夜も眠れなかったが、明日にはその不安も解消されるであろうと心に言い聞かせ、今宵は深い眠りについた。さらしは思いの他、窮屈であった。

 

 

 

 




以上となります。
ここからテンポが上がりオリキャラなども出てまいることかと思われます。
それでは、次話もよろしくお願い致します。


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巻ノ二十九 絶好の試験日和 ②

 二日目の試験が終了した後、およそ数日後に結果通知が封筒でホテルに届いていた。

電子技術が発展している月の都とはいえ紙媒体による需要は続いており、また古来の味や雰囲気を求めるマニア層達が存在するおかげで、こうした封筒や切手といった手段による連絡は、未だ健在の至りとなっていた。

 

 僕は結果通知の封筒が届くや否や、即座に封を開封した。

結果はどうだったのか。気になる、落ちてなければ良いが……負の予想が脳裏を過ぎりつつも封筒の中に入っていた紙面に目を通すと、怪訝な表情をせざるを得なかった。

 

 

「……テレビ中継の関係により、最終試験の日程を変更して実施致します……?」

 

 紙面にはそう書かれており、僕は思わず文章を読み上げてしまった。

元々最終試験に行われるトーナメント形式の他流試合は、テレビ中継が行われる事は知っていた。けれども紙面には改めてその旨が告げられており、更に続きが記載されている。

 

 どうやら試験の日程変更により、トーナメント形式の他流試合だけで数日間も試験が延長されるという事らしい。

曰く、試験者の人数などを考慮したうえで、厳正なる審査を執り行う為の処置であり……と、長々とその旨も記載されている。

中でも僕が気になったのは、その理由が綴られている文章であった。

 

「……優勝者は綿月依姫とのエキシビジョンマッチを行う予定です、と」

 

 綿月依姫という言葉を目にし、僕は過去の記憶を思い出すに至った。

たかが字面程度であるが、僕の昔の知人に酷似しており、紙面に目を通した瞬間に渋い表情をしてしまった。

 

 気を取り直して紙面の内容を凝視し、意味を理解してゆく。

つまるところ合格者が多いため、トーナメント形式の他流試合を数日に渡って実施する必要性が出てきた為、延長したと。

そして最後に控えるエキシビジョンマッチこそが、マスメディアが注目している大きな要因となっていると推測できた。まるでお祭り事である。

 

 綿月依姫とは確か、綿月姉妹の次女の方だったと記憶している。

相当の実力者らしく、今回のエキシビジョンマッチでも更なる健闘が見られる、と世間を賑わせている。

正直なところここまでの間、合格する事ばかり考えて行動をしていたので、綿月家の姉妹がどのような人物で、どういう人相なのかすら知らない。

知っているのは彼女達は姉妹で、次女の方は相当武術に長けているという情報のみ。有名人ではあるらしいものの、今まで調べる余裕がなかった為、調べていなかったのだ。

 

 まさか今回の試験で、本当に綿月姉妹が登場するとは思っていなかった。単なる世間の話題を狙ったものだと思っていた。。

幸いにもトーナメント形式の他流試合を制したものが、エキシビジョンマッチで対戦するという事なので、合否に大きく関与してこないとは思うのだが……。

そもそも僕が優勝できるかすら不明である。参加者は未だに数百人という規模であり、その全貌はまだまだ明らかとなっていないのだから、もしかしたら相当腕の立つ者も存在するかもしれない。

 

 予定よりも延期された最終試験の日にちはおよそ一週間後に控えており、僅かではあるものの猶予は残されていた。

それならば僕がするべきなのは、ただ一つ……いや、二つか。

他流試合で好成績を修められるように修練を重ねるのと、後は合格している事を祈るのみ……あれ。

 

「そういえば合否も一緒に記載されている筈なんだけど……」

 

 てっきり合否の通知が送られてきたとばかり考えていた。紙面には試験の日程変更の旨しか記載されておらず、合否に関しては音沙汰なしである。

最終試験についての手紙が送られてきたという事はつまり、合格していると捉えても良いのだろうか……そう思いながら紙面の隅から隅まで目を通していると、一つの文面を見つけた。

 

「……なお、この手紙は二次試験通過者にのみ通知されております。……ということはつまり、合格しているということか」

 

 なんだか拍子抜けであった。

月が満月に変わるのと同じように、合格していたという事実に対して激しい喜びというものはなく、恐らく今の僕は憮然とした表情をしている。

 

 けれども喜ばしいことに変わりはないので、密かに喜んでいたのもまた事実。

一週間後に控える最終試験に備え、ひと時の時間を過ごすことにした。

 

 

*

 

 ────そして試験当日。

最終試験では各会場毎で他流試合を行い、その中でも好成績を修めた者達だけが本選へと出場できるという仕組みになっている。

要するに、複数に分けられている会場の中から代表者を数名だけに絞り、数十名程度でテレビ中継の行われる本選を執り行う、というわけである。

僕が参加している会場だけでも、二次試験通過者は数百名以上は残っている。会場は数十に分けられているとの事で、一つの会場当たりで考えると倍率は物凄く高いのが現実である。

 

 あまり考えすぎると気分が滅入ってしまうので、深く考えないことにした。

試験当日は若干遅れ気味に到着しつつも、試験が開始されているというわけでもなかったので、注目を浴びるという事はなかった。

 

 僕のいる場所は、今まで試験が執り行われていた第四試験会場に相当する。

そこから少し外に出ると、グラウンドのような広大な土地が設けられており、その場所はまるで体育祭が行われるかのような雰囲気で、白線やら赤いコーンが置かれていた。

試験者は"動きやすい格好"を指定されていたので、各自ラフな格好の者から、真面目な者はスーツで参加している者もいた。そのスーツで闘う気なのか、と問いたくなる。

 

 

「はい、皆さん集合して下さい」

 

 試験官である玉兎が拡声器でそう叫ぶと、試験者は一同に集結した。

集結した試験者の群れの前には拡声器を持った玉兎と、それから巨大なホワイトボードが設置されており、ボードには様々な説明が記載されているのが見て取れた。

 

「只今より、最終試験の日程を説明致しますね。えーと、まずは試験通過者を対象に通知したお手紙があるかと思いますが、そちらの方をご覧下さい」

 

玉兎がそう言うと、一同が若干ざわつき始めた。僕はその手紙とやらをホテルに忘れてしまった。当然、知り合いなんか一人もいないので大人しく黙っていた。

 

「大まかな説明はお手紙の通りです。今からそれに基づいた詳細を説明していきますので、皆さんよく聞いていてくださいねー!」

 

 可愛らしく玉兎がそう言ったのは良いが、全く分からない。

ところで僕の隣りに少々小太りの眼鏡を掛けた男がいたのだが、何だか鼻息が荒く額に脂汗をかいていた。少々、異形である。

そのような男は放っておき、僕は眼前の巨大なボードを凝視した。なにやら様々な事柄が記載されている中、トーナメント図も書き込まれている。

 

「各会場毎に、上位三名までが本選会場に出場する事ができます。あ、負けちゃっても不合格って事ではないので、その点はご安心下さい」

 

 玉兎はそう拡声器を通して告げると、言葉を続ける。

 

「そしてトーナメントでの各自の対戦相手についてですが、こちらは私達試験管理者の方で独自に決めさせていただきました。

えと、特に不公平になるような選出や設定はしていないので、問題はないと思いますが……もし何か質問のある方がいましたら、手を上げてください!」

 

 試験官がそう言うや否や、僕の周囲は騒然とし始めた。

理由としてはボードに記載されているトーナメント表についてなのだが、それがどうにもおかしい。いや、明らかにおかしい。

何故だか妙に長い線が一本だけ引かれている。つまるところの"シード枠"という奴なのだろうが、それにしても極端過ぎやしないだろうか。

 

その事に関して、一人の肉付きのよい男が手を上げて質問をした。

 

「はい、一つ良いですか」

 

「どうぞ!」

 

「トーナメント表についてなのですが……シードが極端過ぎなのでは」

 

名も知れぬ男の質問に対して試験官は、想定通りといった表情で質問に答える。

 

「ああ、やはりそう思いますよね。このトーナメント表は、試験者の方達を実力順で振り分けているのです。

二次試験で執り行った体力試験を参考にし、決めさせて頂きました。……此方のシード枠は、その体力試験の成績が著しく好評価だった方が配置されます」

 

「けれど、それでは余りにも不公平では」

 

「うーん、私達もよく考えたのですがねぇ。やはり実力が拮抗した者同士の試合でなければ、選考するのも難しいですし」

 

 試験官が悩ましげにそう言うと、質問をした男は諦めたのか「わかりました」、と言って引き下がった。

 

 数百人規模で催されるトーナメントに用意された、ひとつのシード枠。

これがまあ物凄く極端で、トーナメントが開始されたら数時間は出番が回ってこないだろうと予測できる程、出番を飛ばしているのだ。

試験官の言い分としては、"選手を厳正に審査する為に実力が拮抗した者同士の試合を実施したい"との事で、圧倒的な展開の試合ではそれが難しいという事なのだろう。

体力試験の結果に基づいて選手を配置したという事であるが……ひょっとするとそのシード枠、僕ではないのだろうか。

 

「はい、質問がなければトーナメントに関しては以上です。次は対戦形式についてなのですが────」

 

 試験官が説明を続けた。

他流試合での対戦形式は、今回の場合はいわゆる予選に相当するのだろうが、基本的にルールは存在しないとのこと。

禁止行為は"殺害"であり、他にも穢れの発生に繋がるような行為は禁止されていた。

武器等は各自自由であり、近代的な物でなければ使用可能であるという事。……そういえば武器なんて、僕は持っていない。

 

「えーと、武具を持参していない方につきましては、此方の方で手配を致しますので、事前に申請してください」

 

……という事なので、どうやら大丈夫らしい。そもそも無手という人もいると思われるので、敢えて持参してきていないという人もいる筈。

 

「それでは説明は以上となります。ルール等の詳細については、試合直前に各試験官から説明がありますので、聞き漏らしのないようにお願いします! 

えーと……はい、予選開幕はおよそ三十分分後になりますので、それまでの間に各自準備、受付の方をお願いいたします。あ、言い忘れてましたが、遅刻者は即失格となりますので、行動は迅速にお願いします!」

 

 試験官は何故か、憫笑混じりの表情でそう大衆に向けて告げた。

一通りの説明を終えた後この場は解散となり、玉兎の試験官達は別室へと移動していった。

この試験会場だけで数百人はいると言うのに、予選は一日で行われるとの事なので、恐らく一つ一つの試合は極僅かな時間なのだろう。

 

 そう思ったのは僕だけではなく、その他の試験者達も同様の事を思考していたのか、解散が告げられた後に我先にとホワイトボードの前に試験者が集った。

遠目からでは詳細が分からなかったトーナメント表に見る為であり、更に自分がどこのブロックに所属しているのかを確認するためである。

 

 トーナメント表を確認していた群集が騒然とし始めた。

この場に試験官がいない為か、わあわあと試験者達が騒ぎ立てる。

その光景を遠目に見ていた僕は、一体何事かと思い聞き耳を立てると、トーナメント表について疑問の声をあげているのが多数であった。

一体全体、どういう内容となっているのか。僕もボードの前へ移動し、内容を確認してみた。

 

「……あー、僕の名前は何処だ」

 

 

 太い黒線で描かれているトーナメント表を凝視し、僕の名前が何処にあるか探してみる。

改めて確認してみると、各試験者の名前が記載されているわけではなく、試験番号……いわゆる受験番号ごとに記載されているのが分かった。

 

「僕の試験番号は……0147番か。ええと、恐らく僕はシードだと思うんだけど」

 

 少々騒ぎ立てられたシード枠の方へと視線を傾けてみると、そこには"0147"と記載されており、僕の試験番号と合致している事がわかった。

なるほど、やはり色々とおかしい。

このシード、決勝戦と直結しているじゃあないか。つまり僕は、たったの一勝をすれば優勝できる、という事になるのか。

体力試験による考査がどうの、とか説明があったが、他者からすればまるで僕が賄賂を送ったかのような、そう思われてしまう可能性もあるな。

 

「しかし、一体何を騒ぎ立てているのだろうか」

 

 周りの試験者達は依然、騒然としたままである。

僕の試験番号はシード枠のため、ボードの上の方に記載されている為、近付くだけで目に留まるのだが……他の試験者達の番号は分からない。

ボードの下方に記載されているので、ボードよりも前にいる試験者達の後頭部しか見えないからだ。

まあ、恐らく何かしらあるんだろうな。そう思って自己完結しようと思った時、不意に誰かの声が耳に飛び込んできた。

 

「すいませーん、説明し忘れました。試合は複数人形式で行いますので、時間内にチーム毎に受付を済ませて下さいね」

 

 突然、閉まっていた扉を開け放ち試験官が出てきた。

出てくるや否や、とても大事な事を告げるだけ告げ、そのまま何事もなかったかのように出て行ってしまった。

 "複数人形式"という試験官の言葉に対し、周りの空気が変貌した。

そして騒然としていた場がより一層騒然とし始め、僕は思わず後ろに二歩ほど退いた。

 

「おぉい、0528番と0896番の奴、何処にいるんだあ!」

 

「0122番、手をあげてくれっ!」

 

 誰かが、そう叫んだ。

すると騒然としていた試験者達は一瞬にして静まり返り、一呼吸、二呼吸後に再び誰かが叫ぶ。

 

「俺だ、俺が0122番だよ!」

 

「0756番、後ろのベンチシートに来てくれ!」

 

「おぉーいッ、俺とペアの奴どこだよォーッ!」

 

「急げ、三十分分しかねえんだッ! 0418番、どこだぁ!」

 

 静寂としていた空気は、試験者達による怒声混じりの叫びにより、掻き消された。

そして何故か、各々が他者の受験番号を狂ったように叫び、集うように呼びかけていた。

 

「何だ何だ、一体どうし…………痛っ」

 

「あ、悪ぃ。お前、0665番か?」

 

「いや、僕は違うけど……」

 

「あっそ、じゃあ悪かったな。0665番と1247番、0968番は此処にいるぞォ!」

 

 身体付きの良い禿げ頭の男と肩がぶつかるが、軽い謝罪だけで男は急ぎ足で立ち去った。

皆が狂ったように行動する光景に、僕は若干だが恐怖した。あまりにも異様な光景過ぎる。

そのおかげもあってか、ホワイトボードの前に居た試験者達は散り始めボード前が空いてきたので、トーナメント表の全体図を見てみようと思い移動した。すると其処には……

 

「何だこれ。複数人形式って、つまりチーム戦って事なのか」

 

 他の試験者達が配置されている箇所には、一本の黒線に対して複数の受験番号が記載されていたのだ。

つまり、一対一の形式ではないという事。

少ないところでペア、多いところでは五人規模のチームも存在していた。

 

 なるほど、道理で試験者達が騒ぎ立てるわけだ。

三十分分という短い時間制限の中、互いに顔を見合わせるのは初めてという状況の中、共闘しなければならないのだ。

作戦会議等が重要になってくるのだろう。互いの癖や、弱点を補いあって……

 

 

「あれ、そういえば僕は一人……」

 

 眼前に迫る巨大ボードの前、僕は自身の番号が記載されている枠に視線を移した。

そこには僕の番号しか記載されておらず、仲間など存在していない。

 

 一方で下方に記載されている試験者達の番号に視線を移すと、平均で3人程のチームが勢揃い。

後ろを振り返ってみてみると、何だか屈強な男達が勢揃いである。武器を持参してきた者もいるようで、長槍を構えているような輩も見受けられた。

 

 

「よう。おたく、受験番号いくつよ?」

 

「……あ、え。ぼ、僕は……0147番だけど……」

 

「0147番? ……あー、おたくが例のシードの人かい。……まあ、その。お互い頑張ろうぜ、一人の方が何かと気楽って言うからよ」

 

 突然話しかけてきた男はそんな事を言うと、そそくさと立ち去っていった。

この状況下、いくら身体能力高しと言えども、集団相手に闘う事がどれほど困難な事なのか、僕は理解している。

他の試験者達もボードを見て理解したのか、懸念されていたシードに対する批判は今のところなかった。

 

 

 十五分程経過すると、騒然としていた会場もそれなりに落ち着いてきた。

会場を見渡してみると、それぞれがパートナーと集まり、何やら話し合いを行っている。

ふと気付いたのだが、やはりその中でも僕は一人ぼっちであり、腕を組んで壁に腰掛ける事しか出来なかった。

 

「お、0147番。はっは、羨ましいな、一勝すれば本選進出だもんな」

 

「良いなぁ、俺もシードになりたかったよ。勝てば予選トーナメント優勝、負けても準優勝だろ?」

 

「はは、待機時間が長いからって、寝過ごして決勝に遅れんなよ!」

 

「……」

 

 試合が行われる武道会に移動する一組のチームが、去り際に僕にそう言葉を放ってきた。

若い男連中のチームであり、どれもこれも場慣れしたような表情をしており、緊張の糸は纏ってはいないように見えた。

 

「君があのシードの人か?」

 

「……何ですか」

 

 またしても声をかけられた。正直鬱陶しいので、早々に切り上げてほしい。

 

「互いに頑張ろうぜ。あーいう連中は腐るほどいるからよ、気にしてたらきりがねーよ」

 

「……ああ、ありがとう」

 

 想像していたのとは違い、遠回しに誹謗中傷するような内容ではなく安心した。

何百人といる試験者の中、良心的な者もいれば他人に対して心の無い言葉をかける者まで、幅広く存在している。

 

「…………行こっと」

 

 少々気分が落ち込んでしまったが、気を取り直して試験会場に行く事にした。

僕が移動しようと動くと、周囲から嫌な視線を感じた。やはり特別な者扱いされている僕は、他者から奇異の眼差しで見られてしまう。

この上なく鬱陶しいが、シード枠という特権を手にした代償だと思い、この場は我慢しよう。

 

 

 無機質で機能的な自動扉を潜ると、そこは直ぐに外の会場に繋がっていた。

武道会が見えてくると、更にそこに通じている通路には玉兎の試験官達がテーブル越しに座っており、テントの中で寛いでいた。

テーブルの上には様々な物が置かれており、物騒な物から布切れまで勢揃い。僕がそこの通路を通ろうとした時、声をかけられる。

 

「ちょっと待って下さいね。えーと、お名前と試験番号を教えて下さい」

 

「……天野義道です。番号は0147番です」

 

「はい、天野義道さん……0147、はい確かに。それでは此方のビブスを着用してください。それと、武器の方をお持ちでないようですが」

 

「武器ですか。うーん、何があるんですかね」

 

 試験官から手渡されたビブスには"0147"と表記されており、恐らく各試験者達を管理する目的があるのだろうと推測できた。

そして武器の方を提案されたのだが、これがまた悩みどころである。

僕は武器に関しては取り扱う事が出来ない……刀など握った事すらない。

なのでなるべく小さくて邪魔にならない物にしようと考え、試験官に武器の提示をお願いした。

 

「そうですね、此方の方から自由にお選び下さい。重火器類の使用は原則認められておりませんので、原始的な物になりますが」

 

 提示された武器は、どれもこれも原始的なものばかりではあるものの、豊富な種類の模造刀がずらりと並んでいた。

刀から西洋剣、アックスに槍から薙刀まで、まさに武器という武器が沢山並んでいるのだ。

けれども僕は、そんな豪勢な物を所持していても扱えないので、なるべく小さめのものを選ぶことにした。

 

「えと、じゃあこれにします」

 

「はい、ダガーナイフですね。此方の武器は全て模造品ですので、殺傷性はないので安心して使用してください」

 

「わかりました」

 

 目に留まった鞘付きの小さなナイフがあったので、それに決めた。

やはり模造刀のようであり、刃は丸く処理されており、先端部分もゴムが取り付けられていたので、殺傷性は極めて低いものとなっているのが見て理解できた。

 

よし、ビブスも武器も貰ったことだし、いざ行かん。他流試合へ。

 

 

「……あー! 待って下さい、記名して下さい、記名ー!」

 

心中意気込み、自身に激を飛ばしたところで、背後から玉兎の呼び声が響き渡ってきた。

何だか気勢が酷く削がれてしまった。何やら証明書と武器の借用書にサインをしてくれ、との事であった。

 

……こんな調子で大丈夫なのだろうか。



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巻ノ三十  絶好の試験日和 ③

──綿月家警備隊登用試験、他流試合予選。

 

 僕のいる第四会場の敷地内に設けられている武道会場に、各試験者達が一同に集結した。

各々がそれぞれのパートナー達と共に行動しており、武道会場に登ってきた試験官に対して全員が一斉に注目していた。

試験官は橙色の拡声器を口元に当てると、大きな声で言葉を放つ。

 

「はーい、皆さん集まりましたね。それでは只今より、綿月家管下による他流試合試験の予選を開催致します!」

 

試験官がそう言葉を述べると、今度は違う試験官が低めの声で言葉を放つ。

 

「では予定が詰まっておりますので、早速ですが試合を開始いたします。選手の方は武道会場へと上がってきてください」

 

 辺りが騒然とし始める。

流石に規模が大きいため、全員が全員の順番を把握してるわけがなく、誰が一発目の対戦者かと周囲に目を泳がせていた。

当然僕も他の参加者の番号など記憶していないので、何処の誰が初戦を飾るのか周囲に目を配った。

 

「対象選手の方以外は、控え室で待機の方をお願いします。対象選手は、5122番……2585番……」

 

 試験官が名前を読み上げ始めると、対象選手以外の人達は騒然としつつも、控え室の方へと踵を返した。

僕の試合は最後の方。対象外なのは明らかであるので、控え室の方へと移動した。

照りつける太陽がやけに眩しかった。

 

 

*

 

 

 控え室は外とは違い、空調管理が徹底されておりとても快適だった。

清涼飲料水などが無償で提供されており、試験とは思えない待遇だ。油断すると、そのこと事態忘れてしまいかねなかった。

 

「よう、隣りいいか?」

 

 誰も座っていないベンチに腰掛け、外の様子を映し出してるモニターを眺めていると、不意に声をかけられた。

声の主は若い男であり、僕と似たような耳まで隠れる黒毛が特徴的だ。

隣りに座っていいか、と訪ねられたが、特に断る理由も見つからなかったのでそれを肯定した。

 

「いいよ、座って」

 

「悪いな。お前さん、例のシードの人だろう?」

 

 ビブスに試験番号が記載されている為、口にせずとも僕がシードに選ばれた者だという事が知られてしまっている。

 

「そうだよ。それが何か」

 

「別に、からかいに来たわけじゃないさ。ちょっと興味があってよ、どうしてあんな極端なシード枠に、あんたが選ばれたのかってさ」

 

「さぁね、試験官に聞いてみてよ。体力試験に基づいて決めたって言ってたんだから、そういう事じゃないの」

 

「ふーん……にしてもお前さん、大して筋肉とかないだろうよ。なんつーか、華奢だよな、おたく」

 

 男は僕に対してそんな事を言うが、よく見てみると男も僕と対して変わらないではないか。

いや実際は筋肉で覆われているのかもしれないが、外見からはそうは思えないし。細マッチョという俗語を思い出すほどだ。

 

「ちょいと試させてくれないか」

 

「……試すって、何を」

 

「手、握ってみろよ。握力勝負しようぜ」

 

男はそう言うと、右手を差し出してきた。

 

「こう見えても俺、握力は88kgあるからな。どうだ、自信があるなら手をとりな」

 

 自信に満ちた表情で男はそう言い放ち、ぐいっ、と手を差し伸ばしてくる。

88kgといえば普通に強いレベルだ。平均以上……いや、かなり強い部類だ。ひょっとしたら林檎とかも握り潰せるかも。

でも僕の握力は確か、結局のところ測定不能で通過してしまったので、数値的に表現する事はできない。実はこの目の前にいる男よりも弱い、というオチも有り得るかもしれない。

ならば実際に試してみようと思い、僕は男の手をとった。

 

「ん、何だお前、女みたいな手してんのな」

 

「余計なお世話だよ」

 

「ふーん、指も細いし滑々してるし、毛一本生えてない……お前さん、もしかしてこっち系か?」

 

 男は左手を反らし、口元に添えた。

ジェスチャーの意味は、"オカマか"という意味であり、僕にとっては不愉快極まりない表現だった為、男の手を思い切り握ってやる。

 

「……ッ痛でででッ! 分かったオーケー、離せよッ!」

 

 握り締めた手をぐいぐいと振り回し振り解こうとしてきたので、その手を離してやった。

男は右手首を握り右手にふーふー、と吐息を掛けていた。

 

「痛っつぅ……お前さん、見た目とは裏腹に相当力持ちなんだな。あれか、薬やってんのか?」

 

「……薬?」

 

「ドーピングだよ、ドーピング。ほら、予選試験じゃあドーピング検査まではやんねェだろ」

 

「僕はそんな不正はしてないよ。……ちょっと待って、もしかして本選はドーピング検査とかやるのか」

 

「いや、やらないと思うけどな。そこまでして勝ち上がって登用されたところでよ、リスクが高すぎるってもんだぜ。……ま、そーいう事する奴は二次試験の時点で落とされてるだろーが」

 

 後頭部で腕を組みつつ、モニターを眺めながら男がそう呟いた。

それを聞いて僕はとても安心した。

僕の知っているドーピング検査とは、尿の成分で不正がないかどうかを判断する検査なのだが、その尿が本人のものである事を証明する為に、検査員の前で尿を採取しなければならないものだ。

月の都でもそういった方式の検査かどうかは知らないが、もしも検査が行われるとしたのなら、性別詐称が公になってしまうリスクがある。

しかし検査は行われないだろうという事なので、それで僕は安堵した。

 その後、この男と取り留めのない話をしたりしていると、ふと他のベンチから歓声が上がった。わあわあ、と少しうるさい。

 

「試合が終わったみたいだな。なーんか多勢に無勢の試合だったなぁ、結局は仲間が多い方が勝率高いってことだよな」

 

「4人組みの圧勝だったね」

 

「畜生、俺んとこはペアだからな……あ、お前さんはソロだったな」

 

「……うん」

 

 モニター越しに行われていた試合は、四対二の試合だった。

結果的に言えば、四人組のチームが二人組のチームを数で制圧し、圧倒した事により決着はあっさりと着いてしまった。

 

 チームの数が多ければ多いほど、個人の体力試験の成績は低い、という事が推測できる。

事実この目の前にいる男は身体能力が高いらしく、チームメイトは一人……つまり、ペアでの戦闘を余儀なくされているというわけだ。

けれどまあ、選考は結果だけではなくてその過程も評価されるわけで。

 

「別に負けてもいいんじゃないか」

 

「は?」

 

「だってさ、仲間が少ない方が自分をアピールできるじゃあないか。むしろチームメイトの数が多いと、試験官に自分をアピールできないし」

 

「……なるほどな。別に予選で優勝したところで、本選進出が確定するってわけじゃあないからな」

 

「そう考えると僕は一人だから有利……と思ったけど、一試合しかないから他の参加者と比べると凄く不利なのかも」

 

「そりゃあ、お気の毒だな。……ま、お前さんの腕前なら無様な負け方はしないと思うがよ」

 

 トーナメントといえども、根底は登用試験なのである。チーム成績もさることながら、個人での活躍も採用の判断材料になるのは僕でも理解できる。

それだけ言うと男は清涼飲料水のキャップをきっちりと締め、よいしょと立ち上がる。

 

「じゃ、そろそろ戻るわ。俺、薬師寺っていうんだ。お前さん、名前はなんつーのよ」

 

「僕は天野。じゃあね、薬師寺さん」

 

「おう、またな天野。決勝で会おうぜ」

 

 男は薬師寺と名乗ると、飲みかけの清涼飲料水のボトルをベンチに置きっぱなしのまま、何処かへと歩いて行ってしまった。

 

 間もなく控え室の扉が開かれる。試合を行っていた選手達が額に汗を滲ませながらも、勝者は嬉々とした、敗者は鬱蒼とした表情で戻ってきた。

同時に試験官も控え室へと入室すると、拡声器越しに高い声で叫ぶ。

 

「はーい、それでは次の試合に移ります。えー……2155番、0463番……」

 

 淡々と試験番号を読み上げると、該当する試験者達がベンチから立ち上がり、外の武道会場へと移動していく。

……こんな調子で予選トーナメントは進行していたのだが、結局午前中の間に僕の出番は回ってこなかった。……当然か。

 

 

*

 

 

 午後も予選トーナメントは滞りなく進行し、次々と試合が行われていった。

 

「はい、試合に負けた方は本日の試験日程が終了しましたので、そのまま帰宅していただいて結構です。合否は来月中に行われますので、それまでお待ち下さい」

 

 試合に負けた連中が試験官達と何やら話しており、帰るよう指示を受けた試験者は、若干の悪態と共に試験会場を後にしていった。

敗者は容赦なく切り捨てられると同時に、本選出場の切符すら手にする事はできないのだ。

当然と言えば当然なのだろうか。

本選はテレビ中継が予定されている為、長々とレベルの低い試合など見せられない。

つまり必然的に本選は各会場の好成績者……実力者が勢揃いとなる事が予想されており、予選で落ちてしまう程度の実力では到底勝ちあがれないという事になる。

 

 予選の時点ではテレビ中継はないものの、試験会場の外には取材のカメラが出回っているらしく、既に話題作りの為の動きが組織的に行われているらしい。

けれども僕は会場に缶詰状態。取材を要求されるということはないのだが。

 

 それにしても待ち時間が長い。

今まで数百人はいた控え室も既に百名以下となっており、予選開始前の騒然さなど嘘だったかのように、場は静寂を維持している。

 

「すみません、試験官」

 

 あまりにも退屈だったので、近くにいた試験官に声をかけてみた。

試験官は唐突に声をかけられたことに若干驚きつつも、此方の方へと顔を向けて「どうかしましたか」と言葉を返した。

 

「予選トーナメントが終了するのは、何時ごろになるんですか」

 

「はい。そうですね、このまま順調に進行すれば22時頃には終われるかと」

 

 試験は既に夜間にまで到達しており、現刻は二十時程である。

という事は僕の出番が回ってくるのに、およそ一時間以上はかかるというわけで、まだまだ出番が周ってこない事に辟易とした。

 

「貴方はシードの方ですね。すみませんが、もう暫く出番は周ってこないかと思われますが」

 

 試験官からそう告げられると、僕は再び項垂れた。暇だ、暇すぎる。

他の試験者達は幾多の試合を終えており、身体は既に温まっているというに、僕に関しては昼食を終えて以降、ずっとベンチに座ったままである。

こういった面で考えても、試合がほとんどない僕に関しては不利な状況が生まれてくる。やはり少しくらいは、身体を温めたほうがいいな。

 

「よう、天野」

 

「……薬師寺さん」

 

 身体を動かしてこようかと考えていた時、ふと声をかけられたので振り向いてみると、声の主は薬師寺であった。

 

「なんだ、勝ち上がってたんだ」

 

「何だそりゃ、もしかして負けて家に帰ったとでも思ってたのかよ」

 

「うん、まあ」

 

 暫くの間見ていなかったので、予選敗退したのかと思っていた。

けれどもそんな事はなかったようで、どうやら順当に勝利を積み重ねていたようだ。ほのかに香る汗臭さがそれを物語っていた。

 

「けどよぉー、次の対戦相手がかなり厄介なんだわ」

 

ふと、薬師寺がそんな事を言い、僕の隣りに座った。

 

「次の奴ら、三人組の癖にやたら強いんだよ」

 

「どーしてそんな事がわかるんだ」

 

「試合中継見てりゃあ分かるだろ。ほれ、丁度今やりあってる連中だよ」

 

 薬師寺はモニターに指を差してそう言葉を言い放った。

確かに三人組のチームが、相手方の同じく三人組のチームを圧倒しているのが見て分かった。

 

「……両方とも三人組だけど、どっち」

 

「馬鹿、勝ってる方に決まってんだろ」

 

 ……と薬師寺が言うので、勝っている方のチームに注目して見てみた。

そのチームにいる男達は、どいつも筋肉質の男ばかり。長い槍を持っている者と、片手剣に盾を持つ者、そして鎖付きの小さい斧を持っている者で構成されていた。

 

「盾持ってる奴が突っ込んで、槍持ってる奴が迎撃して、飛び道具持ってる奴が援護してるってわけよ。ひでぇ話だろ」

 

「そうだね、うまく考えてると思うよ」

 

「あいつら、"この日の為に武術の鍛練を行ってきました"って感じの連中っぽいよな。ったく、俺なんて働きながら試験受けてんのによ」

 

「へぇ、そうなんだ。でも薬師寺さん、仮に本選に出たとしてさ、職場の人に転職活動してる事がバレちゃったら拙いんじゃないの」

 

僕がそう言葉を告げると、薬師寺は表情一つ曇らせずに軽快に答えた。

 

「いいんだよ、別に。そーいうのは後で考えればよ。別に本選に出なくちゃあ合格できない、って話でもないしな」

 

「ふーん。今やってる仕事ってのは」

 

「ん……ま、詳しくは言えねぇけど。地方の研究所で働いてたのさ。回りくどい作業ばっかでうんざりしちまってさ。……でもよ、どっちかっつーと俺、肉体派じゃん?」

 

 薬師寺は親指を自身へと向け、どこか誇らしそうにそう言い放ってきた。そんなの、僕が知るか。

なんて事は言ってもしょうがないので、なるほどそうですか、とだけ言葉を返した。

 

「さて、と。この試合が終わったら俺の番だわ」

 

「頑張って」

 

「おう。でもよ、この試合に勝ったら、次の試合はあいつらと当たるんだよな。嫌だなぁ、決勝で当たりたかったぜ」

 

 あの三人組のチームは優勝候補なのだろうか、それほどまでに薬師寺は警戒しているようであった。

 

少しして薬師寺が試合の為に控え室を出た後、入れ替わりで三人組のチームが控え室の中に戻ってきた。

なるほど、風貌を見る限りそこそこの筋肉質で、かつ武器の扱いにも長けているようにも窺える。なんというか、こう……そういう雰囲気が見えるのだ。

 

 その三人組は僕の目の前を通過しようとするが、何故か途中で僕のところで止まった。

僕はずうっとモニターを眺めていたので、彼らに視線を向けたりはしなかったのだが……

 

「お前まだいたの?」

 

 突如声をかけられた。皮肉気にそう言い放ってきたのは、先程の三人組のチームの奴の一人であった。

はなから喧嘩腰の態度だったので、僕はまともに相手をするのは良くないと思い、口を閉じていた。

 

「びびって帰っちまったのかと思ってたけど」

 

「しゃーねーよ、コレ使ってシード枠手に入れたんだからよ」

 

 僕に見えるように、指で輪を作りそう煽ってくる。

どうせ金の力でものをいわせて、と言いたいのだろう、僕は視線を背けた。

 

「おいテメェ、人が話しかけてやってんのに何だんまり決め込んでんだよ」

 

「待ち時間長すぎて頭ボケちまったか?」

 

「…………うるさいな」

 

「……はぁ?」

 

 三人組が僕を取り囲み、絡んできた。あまりにも鬱陶しく苛立ちすら覚えたので、うるさい、と一蹴してみた。

この男達は、丁度試験官が控え室に居ない事を良いことに、決勝で当たる可能性があるだろう僕を脅しにきたのか。それとも、事前に挑発して何か試そうとでもしているのか。

どっちでもいいか、面倒事は嫌いだけど、馬鹿にされるのも嫌いだし……。

 

「うるさいって言ったんだよ。同じことを二度も言わせないでくれ」

 

「何だとテメェ……自分の立場が分かって言ってんのか?」

 

 三人組の中でも最も筋肉質な男が僕の胸倉を掴み上げ、脅し口調でそう言い放ってきた。けれども、それは直ぐに収まる。

 

「おい待てよ、此処で手ぇ出しちまったら終いだろ。止めとけって」

 

「そうだよ。試験官が戻ってくる前に、さっさと次の試合の準備しようぜ」

 

「……ッ、分ぁったよ」

 

 男は乱暴に手を振り解くと、仲間に連れられて控え室の奥へと移動していった。

試合に勝ち上がっていく連中は、皆ああいった感じなのだろうか。試験では素行の良さも選考の対象になっている筈なので、表向きにあんな事をすれば即失格になるのは間違いないが。

うまいところ試験官に見えないように脅しかけてくる辺り、世渡りの上手い連中なのかもしれない。

 

 ……ま、いいか。

少し怖かったけど、何の問題もなく収まったんだ。胸倉をつかまれた時はビックリしたけど、厚着をしてきてよかった。

もしも決勝で当たる事があれば、借りはその時に返せば良いだけの話。

 

 時刻は既に二十一時を回っており、そろそろ僕の出番も近くなってきた頃。

今のうちにトイレを済ませておき、試合に備えよう。



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巻ノ三十一 絶好の試験日和 ④

 日没を終えてからも試合は淡々と続けられ、気がついた時には会場に残った試験者は数える程度にまで減っていた。

試合に敗北した者達は簡易的な書類の入った封筒を試験官から手渡された後、無気力状態のまま岐路に着く者がほとんどであった。

 

 昼食を控え室で済ませ、夕食も控え室でとる事になってしまい、質素な弁当を二度も食べる破目になった。

僕は料理の勉強を学んだ経験があるので、質素な食事はあまり好きではない。贅沢と言われてしまえば、はいそうですね、としか言葉を返すことができない。

けれどもまぁ、悪い食生活を続ければ体調は悪化の一途を辿るだけであり、良い食事を取ることに越したことはないのだ。つまり、キャビアだのフォアグラだの、フカひれなどという高価な食事だろうと、それでキチンと栄養が摂れているのなら、他人がとやかく言う必要はないのだ。

 

 そう文句を言ってしまうのも、きっと控え室の空気が悪いせい。

美味しくない弁当に加えて、僕の事を親の仇のようだと言わんばかりに冷めた視線を送ってくる連中……当の三人組である。

決勝戦が間近だと言うのにも関わらず、しぶとく生き残っている。

 流石に優勝候補と陰口を言われていただけはある。例え四人組みが相手だろうと、五人組みだろうともそれを物ともせずに、相手を圧倒していた。

奴らの素行さえ悪くなければ僕も素直に「凄いな」と褒め言葉を並べることができたろうに、あいにくと彼らの素行は物の底辺間近を彷徨うレベル。配給されたスポーツドリンクを飲み散らかす始末だ。

 

 今行われている試合が終了した後、漸く僕の出番が回ってくる。

勝ち残ったチームは三人組の男と、控え室で知り合った薬師寺という男のチーム。

控え室に在しているのは僕だけであり、一人寂しくモニター越しから試合中継を眺めていた。

 

「……眠い」

 

 時刻は既に二十一時を過ぎており、間もなく二十二時を回るところだ。通常ならばそろそろ寝ようかなと思って行動している時間帯なので、物凄い睡魔に襲われている。

今から試合だというのに、緊張感よりも睡魔の方が増しているとは末恐ろしい。

ベンチの上でうとうと、としていると、控え室の扉が開け放たれた。

 

「試験番号0147番、天野さーん。そろそろ試合が終了しますので、準備の方を整えて下さいね」

 

「ん……あ、はい。わかりました」

 

「あ、もしかして天野さん、寝てました?」

 

「いえ、そんな事は……ただお腹がいっぱいになってしまったので、目を閉じていただけです」

 

 図星を突かれかけたが、通用するかも分からない言い訳をした。

僕の言葉を聞いた試験官は笑みを絶やさずにいたので、悪い印象ではなかった……と思う。

 

「あはは、そですか。あと五分ほどで終わるかと思いますので、その後十分程度の休憩を挟んだ後に、決勝戦を執り行いますので」

 

「わかりました。お疲れ様です」

 

 試験官はそれだけ言うと、控え室を後にした。

 

 幾多の連戦を終えた後の者と戦闘するのは、何だか申し訳ない気分になってしまう。

恐らく疲労しているだろうと思うのに、怪我一つ負っておらず元気いっぱいの僕と戦闘をするのだから、不公平な感じもする。

試合を終えた選手は、メディカルルームと呼ばれる専用室で休息を取れる権限があるとか何とか言ってたが、どんなものだか分からない僕にとって推測の余地はない。

それで体力が全回復するのなら、僕は月の技術力に対して敬意を表せるというもの。

 

「……もっかいトイレいこっと」

 

 モニターから目を背け、僕は静かに立ち上がる。

何だか女性の身体になって以来、尿意を催し易くなった気がする。気のせいだろうか……気のせいだろうな。

 

 

*

 

 

 遂に控え室のモニターの電源が落とされた。

意図的な行為によるそれは、最後の試合が終了した合図ともとれ、モニターの電子音だけが響いていた控え室から、音という音が消えた。

その控え室に唯一響き渡った音は、扉が開け放たれる音と、重圧な男の声であった。

 

「はっは! いよう、天野! 負けちまったぜ!」

 

 悔しさを微塵も感じさせぬ笑い声をあげる男は、薬師寺であった。

 

「こっ酷いやられようだね」

 

「まあな! 野郎、これでもかって程袋叩きにしてきやがんの! あったま来たから試合終わった後にぶん殴ってやろうかと思ったぜ」

 

「ぶん殴ったの?」

 

「まさか、本当にやるわけねぇだろう」

 

「だよね」

 

 そんな事すれば即時、失格に相当する。

傷だらけの薬師寺であるが、早く手当てしてもらった方が良いんじゃないのかと訊ねると軽快な口調で、

 

「帰ろうかって思ったけどよー、次で決勝だろ? 見て行くのも悪くはねーと思って」

 

「そっか。別に大した試合にならないと思うけど」

 

「お前さん、気持ち悪いほど冷静だな。少しぐらいビビッても笑ったりしねーぞ!」

 

 ガハハ、と男笑いでそう言い放つと、僕の背中をバシバシと叩く。衝撃で肩が前後に揺れるが、別に痛みを感じるほどではなかった。

 

「それによう、観戦するって残ってる奴は、割りといるぜ。せっかくの催しだからな、自分を負かした奴が何処で負けるか、見てから帰りてーんだとよ。趣味悪いよなあ」

 

「……まぁ、僕の場合は誰かに恨みを買われてるわけじゃあないし」

 

「そうだな。あの糞ったれの小便ちびりの三人組に恨みがある奴は、少なくはなさそうだが」

 

 然も恨めしそうにそう言う薬師寺だが、それも試験官の言葉が控え室に響き渡ると、冷静さを取り戻した。

左手にバインダーを提げた試験官が淡々と、

 

「0147番さん、会場までお越し下さい」

 

「はい。……薬師寺さんは来ちゃダメだよ」

 

「馬鹿、俺は外から観戦するよ。……おい、お前さんそれで戦うのか?」

 

 控え室から会場に移動する途中、薬師寺にそう言葉をかけられ、立ち止まった。

彼が言っているのは僕の選んだ武器の事であり、腰からちょこん、とだけ頭を見せてるそれに対してだろう。

 

「だって僕、刀とか槍とか握ったこともないし、使い方が分からないよ」

 

「あぁ?」

 

「包丁なら握ったことあるよ。これ、何となくそれっぽいじゃん」

 

「……あっそ。こりゃあ負けだろ……掲示板に書き込んでおくか……」

 

 力なく薬師寺がそう言い、ケイタイ電話のような物体を腰から取り出して、ぴこぴこと弄繰り回していた。

掲示板とか何とかいってケイタイの文字盤を叩いているが、何のつもりなのだろうか。……まあいいか。あまり深く関与しないほうが良さそうだ。

 

「じゃあね、薬師寺さん」

 

 僕はそれだけ言って控え室を後にすると、後ろから気力の抜けたような声色で、「頑張れよ」とだけ返ってきた。

そんなにダガーナイフは弱いのだろうか。

武器の扱い方全般を知らない僕にとって、刀だとか槍だとかを選んだ方が余程弱くなってしまうと思うのに。

そう思いつつも、僕は武道会場へと上がっていった。

 

 

*

 

 

 外は既に宵闇に包まれており、人工的に作られた高明度の明かりによって会場は照らされていた。

武道会場も幾多の試合が行われた結果なのか、劣化や損傷の箇所が一瞬で見て取れた。

 玉兎の試験官が近付いてくる。眼鏡をかけていて、おっとりとした雰囲気の娘だ。

 

「えと、0147番さん。試合の方は初めてですよね」

 

「ええ、そうです」

 

「ルールをご説明を致しますので、よく聞いててくださいね」

 

 眼鏡をかけた垂れ耳の試験官は、バインダーに挟まれた何枚もの書類に目を通しながら説明を始めた。

 

「まず勝利条件ですが、先に相手を気絶させるか、或いは"降参"と選手の口から言わせるか、このどちらかになります。試合には円滑に進行するようにタイムキーパーの方がいますので、決着が一向に着かない場合は、タイムキーパーから試合終了の合図が出されますので、従ってください」

 

「つまり、時間制限があるってことですか」

 

「そうですね。厳密に時間を決めているわけではありませんが、試合終了の合図は我々の判断基準によるものですので、悪しからず」

 

 試験官は書類を一枚捲る。

 

「次に禁止事項についてご説明します。主だった禁止事項は以下の通りになります。まず、相手を殺害しない事。それに伴いまして"穢れ"が発生するような行為を意図的に行った場合も、処分の対象となりますので注意してください」

 

 たどたどしく指で書類を撫でつつ、少し間を空けて、

 

「えと……重火器の使用に関しても、使用は禁止されています。この点については大丈夫ですね」

 

 僕が腰に差しているダガーナイフに目をやると、試験官はそう呟き具体的な説明を省いた。

他にも様々な説明があり、試合に関係することや関係しないことなど……改めて様々な説明を施された後、試験官はこの場を締めるかのようにして、

 

「以上になりますね。では、最後に何か質問はありますか?」

 

「一つ、いいですか」

 

「どうぞ!」

 

 諸処の説明を受け、疑問に思ったわけではないが、気になった事があったので質問をする。

 

「最長で何分ほど試合が続いたんですか」

 

「うーん、それは……確か、第三十四試合目の、十六分四十二秒が最長だったかと」

 

「何故、そんなに長引いてしまったのですか」

 

「無気力試合といいますかね。始めは拮抗していたのですが、最終的に互いに満身創痍の状態になってしまって膠着状態に陥ってしまいましたので、最終的には我々の判断によって強制的に試合を終了させましたが」

 

 なるほど、どちらも諦めが悪かったという事か。時間制限に関しては、本当に長いみたいだ。

 

「その場合は、どちらが勝者に選ばれるのです」

 

「それも我々の判断によりますね。この場合は戦闘等の評価により、独自の基準に則って判定します」

 

「つまり、劣勢の場合も評価によっては勝者になり得ると」

 

「その通りです!」

 

 判定によっては、どんでん返しも有り得るということだな。

僕が今から闘う連中は、戦闘に関しては素晴らしいフォーメーションで臨むとのことで、戦闘に対する試験官の評価は高そうだ。

ならば時間制限に持ち込んだ場合、僕が負ける可能性のほうが高いということになるのか。

なるべく、短期に試合を終わらせないと。あ、でもなるべく試験官にアピールした方が良いのだろうか。

 

「分かりました、ありがとうございました」

 

「いえ、それでは。……あ、相手の選手の方が見えられたので、0147番さんも位置に着いてくださいっ」

 

 口早にそう告げると、説明を終えた試験官は脱兎の如く……否、そそくさと会場から降りていった。

 

 

 

 そうして目の前に現れたのは、不敵な笑みを浮かべた三人の男。

衣服はところどころ擦れているものの、疲弊しているような状態ではなく、連戦に勝利してきた勢いもあってか血気盛んな風体を見せている。

その中でも一番体格の良い男が僕の前に歩み寄り、

 

「よお、わざわざぶっ飛ばされに来たのか」

 

「てっきり、不正でもして不戦敗になるかと思ってたよ。はは、安心した」

 

 嫌味ったらしく言葉を並べていく男達。だが、どうしてそんなに僕の事を毛嫌いするのだろうか。思い切って聞いてみることにした。

 

「ねぇ、どうして僕の事を悪く言ったりするんだ。僕が君達に何かしたのか?」

 

 武道会場に堂々と立ったまま、僕は正面のリーダー格と思われる男に対し、そう訊ねた。

 

「決まってんだろうが。周りがルールに則って切磋琢磨してるって言うのに、お前だけルールの外から出張って来やがって……恥ずかしくねぇのかよ」

 

「……そんな、僕はただ言われるがままにしていただけで」

 

「やかましいッ! お前は"知らなかった"で済むかもしれねーけどよォ、俺達がそれで済むと思ってんのか? お前がシードの権利を得た時点で、周りはお前のことを蔑んでいたよ」

 

 リーダー格の男は語調を荒げ、言葉を続ける。背後にいる二人の男からも、どこか蔑んだような冷めた視線を感じる。

 

「ルール違反なんだよ。いくら規定やルールで確立されてるからといっても、そいつは言い訳に過ぎねぇ。正々堂々と真っ向から試験に臨んでる俺らからすれば、お前は不正で勝ち上がってきたに過ぎねぇんだよ!」

 

 槍の尾尻で武道会場の石段を強く叩き、男は仲間達を鼓舞するかのようにして言葉を放つ。

 

「そんな奴に俺達は負けねぇ……おい、お前らも油断はするなよ」

 

「分かってまさぁ! こんなおこぼれ野郎に負ける筈がねえ!」

 

「ふん、ズルで勝ち上がってきた癖に、恥を知れよ」

 

 三人組の男達が蔑んだ目で僕に対してそう言い放つと、それぞれに武器を構えた。僕もそれに合わせる。

リーダー格の男が槍、言葉の汚い筋肉質の男が片手剣に盾を持ち、根暗そうな男が鎖付きの斧を持っていた。

 

 僕はただ、言われるがままに試験を受けていただけなのに、酷い言われようであった。

確かに周りからみれば、試験官は僕のことを優遇しているようにも見えるが……別に賄賂を寄越したりしたわけではない。

それでもそう見えてしまうのは事実であり、僕に対して負の感情を抱く者が、恐らくこの男達だけに限らないのだろう。

 

 ……止めだ、止めよう。

考えていても気分が落ち込んでしまうだけ。そう思われてしまうのなら、思われないように努力すべきであり、力を注ぐべきである。

僕は真っ向から立ち向かってくる男達を睨み付け、若干腰を低く構えた。玉兎の試験官が僕に視線を向けてくる。そして直ぐに男達に視線を移すと、

 

「あ、あのう……そろそろ良いですか?」

 

「おう、始めてくれッ!」

 

 試験官が試合開始の合図の確認をを促すと、僕よりも先にリーダー格の男が声を荒げて返事した。

 

「そ、それではっ、予選トーナメントの決勝戦を始めますっ」

 

 わたわた、と試験官は慌てつつも、ゴングの役割をしている月の楽器具と思われる物を思い切り叩き、周囲に甲高い音が響き渡った。

木霊するその音が鳴り止む前に、それを合図として試合は開始された。

 

 

「おおおッ! 一撃で仕留めてやるぜぇッ!」

 

 片手剣を持った男が一直線に突貫してくると、綺麗な刺突を放ってきた。

僕はそれをあらかじめ距離を取っていたおかげもあってか、何とか避ける。

けれどもその隙をついてきたのは長槍であり、片手剣の斬撃を避ける度に槍による援護攻撃が襲ってくる。

幸いにも槍の先端には分厚いゴムが取り付けられているので、刺されて死ぬ……という事は万が一にもない。

 

「へっ、逃げてばっかりかよ。おい鎖、一人だからサクッと狙い投げてくれや!」

 

 男がそう合図すると、最も背後に位置していた根暗そうな男が、鎖付きの斧を投擲してくる。

けれども斧の部分は僕の遥か真横に飛んでいってしまい、致命傷を負うことはなかった。棒立ちしていては鎖の部分がもろに命中してしまうので、左腕で鎖の部分を振り払う。

 

「はん、間抜けが」

 

「……あ」

 

 しかし、振り払おうとした鎖は思うように振り払われず、僕の左腕にぐるぐると巻きつけられていった。

男は遠心力を利用して鎖を投擲したようで、それを振り払おうとした僕の腕を軸にして鎖が掃除機のコードを巻き取るようにして絡み付いた。

ズシリとした重みを感じ、思わず腕が重力に従った。

 

「よし、終わりだな」

 

「っしゃァッ!」

 

 隙をつき、熾烈な勢いで片手剣が振り下ろされる。

動きを封じられてしまい、咄嗟に攻撃を防御しようと両腕で攻撃を防ごうとしたのだが……

左腕に若干の重みを感じたところで、左腕に絡まっていた鎖ごと一人の男が吹っ飛んでいったのが目に映った。

 

「……あ?」

 

 片手剣が僕の腕に振り下ろされたものの、大した衝撃はない。男達は面食らったような表情をしていた。

同時に鎖付きの斧を持っていた根暗の男が、武道会場外へと落下していく光景が僕の目に映る。あまりにも唐突な出来事で、反応が遅れてしまった。

 

「じょ、場外ー! 残るは二名でーすっ」

 

 場外に落ちた男は、潰れた蛙のような声を出して咳き込み、地に伏したままだ。

 

「おお、思ってた通り……!」

 

 拳を握り、自身の身体が正常である事を確かめた。先程受けた片手剣のダメージも、ほぼゼロに近い。

月の重力やその他の事象を考慮し、僕が通常の月人よりも遥かに力が強いという事が、今此処で証明された。

一体何故、こんなにも力を有してしまったのか。

あの汚らしい生物の肉を食べたのが原因か、或いは異世界に飛ばされた瞬間から、そうなっていたのか。

まぁ、今はどっちでも良い。

この目の前の男達を始末し、僕は本選への切符を手にするのだ。その為に、この月の都までやってきたのだからな。

 

「落ち着け、まだ二対一だろうがッ。普段通りに、お前が前に出て──」

 

 リーダー格の男が指示を出している合間に、既に僕に接近していた片手剣を所持している男に向かって拳を振るう。

 

「ぬわぁッ……は、はァ……?」

 

 咄嗟に盾で防いできたのだが、お構いなしにとそのまま拳で殴りつけてやった。

すると男の持っていた木製の盾は、呆気なく粉砕してしまい、周囲を木片やら木屑やらで散らかした。

 

「ヤバ……まさか壊れるとは。……ま、気にせず二人目っ」

 

「ちょいタンマ────うあァッ!?」

 

 盾を粉砕され呆気に取られていた男に肉薄し、両肩を掴み上げて思い切りぶん投げてやった。

男は一体どこまで飛んでいくのかと思ったが、幸いにも第四試験会場の屋根の上に落っこちたらしく、死にはしないだろうと勝手に判断した。

 

「さてと、後はあんた一人だね」

 

「……来いよ、相手してやるぜ。ガキに負けるほど落ちぶれちゃあいねぇ」

 

「そっか」

 

 ひどく冷静な態度で槍を構えるのは、最後に残ったリーダー格の男。

どうしてこんなにも泰然としていられるのだろうか、僕の圧倒的な力を見て、恐怖したりはしなかったのだろうか。

兎にも角にも、さっさと終わらせてしまおうと考えた僕は、腰に刺していたダガーナイフを取り、男に向けて投擲した。

 

「──ッと」

 

「……ッ!!」

 

 ぐるぐる、と回転していきながらも、ダガーナイフは男の耳元を掠めて飛んでゆき、最終的に施設の壁を破壊する事で動きは止まった。

今ので一瞬、男の表情が歪んだ。やはり単なる痩せ我慢のつもりか。

 

「あ、あわわ……試験会場が…………綿月様に怒られるよう……」

 

 武道会場の直ぐ近くで試験官がそんな事を言っていたが、心中で謝罪するだけにしておき、僕は男を倒す為に地を蹴る。

右拳に力を込めて、肉薄する。

 

「ふんッ」

 

「……おぉッと!」

 

 拳による攻撃は辛くも避けられてしまい、男は槍の柄で僕に向けて迎撃してきた。

柄が顔面に当たり衝撃で顔が少し歪んだ。ちょっぴり痛かったが、その程度。出血はしないし痣も出来ない、視界が霞んだだけ。

しかし、突如男が僕の視界から消えた。正確には咄嗟に足を曲げてしゃがんだのだが、それに気付くのに一瞬だけ遅れてしまい、

 

「へッへへ……おいガキ、悪く思うなよ」

 

「何が────うっ!?」

 

 刹那、股間から嫌な感触がした。思わず自分でも聞いたことのない声をあげた。

ぞくぞく、とするような、痺れるような、そんな感覚。言葉にし難くも、背筋が凍りついて鳥肌が立つ。

 

「此処を潰されちゃあ、声も出ねぇだろォッ…………あ?」

 

 僕の股間を握る男が何かに気付いたのか、さわさわと指を動かし始めた。

あまりにも予想外な行動に心臓は飛び跳ね、額から嫌な汗が滲み出し、ぞくぞくとした感覚が収まらず、思わず大声を出して、

 

「くっ、この間抜けがッ! くたばれッ!」

 

「ぐあッ……な、なん……だと……ッ!!」

 

 不審そうに股間を弄る男の頭部を、思い切り叩き付けた。

男は喉を潰したようなうめき声をあげ、武道会場に自身の顔の型を作った。

 

「しょ、勝者、0147番の天野さんですッ!」

 

 試験官が勝利の合図を送り、試合は正式に終了を迎えた。

けれどもまだ不愉快な気持ちが収まらない。思わず地に倒れ伏した男の身体を蹴っ飛ばし、場外にまで吹き飛ばしてやった。

 

「ちょっと天野さんっ、もう試合は終了してますよ!」

 

「……すみません、怒りが収まらず、つい」

 

「ま、まぁ最後のは少々非人道的でしたが……大丈夫なんですか? あ、いえすみません、無理しないで回復するまで座っていただいても結構ですよ」

 

「いえ、もう大丈夫です。少し吃驚しただけですので」

 

「そうでしたか。お強いんですね、天野さん」

 

 何に対してそう言っているのかは置いておき、頬を若干紅潮させた試験官は、僕を再び控え室にまで誘導してくれた。

男達は皆気絶しているそうなので、回復し次第試験終了証明書を手渡すとの事らしい。どうでも良い。

 

 僕に関してはシード枠だったとしても、予選トーナメント優勝扱いになるという事なので、合格通知が来るのを待っていてくれ、という事だ。

物は試しと試験官に、優勝したら本選に出れるんですかと訊ねてみると、残念ですが選考の結果次第です、と返ってきた。

やはり優勝が合格に直結しないのだなと思いつつも、僕は試験終了証明書を受け取り試験会場を後にした。

 

 トーナメントが終了した時、もっと細かい手続きなどが沢山あるのかと思っていたのだが、思ったよりも簡易的な書類の記入程度しかなかった。

おかげで早く帰宅できるというものだが、早期に敗北した人は相当悔やまれるだろう。

"もう用済みですよ"と言わんばかりに早々に帰されたのだから、恐らく家に帰った後は不合格という言葉に苛まれていること間違いない。

 

 試験が終了した開放感を感じ悦に入っていた僕は、夜の街灯に照らされた道を歩いて帰路に着いた。

僕は自宅というものを所持していない為、契約しているホテルに寝泊りしているので、そこに帰宅した。

余談ではあるが、ホテルの食事はやはり素晴らしかった。

女性の身体ということを忘れ、ついつい食べ過ぎてしまう……太ってしまうか知ら。

 

 

 




以上となります。

試験日和の話はまだ続きますが、筆者としては一気に抜け出したいという面持ちです。
こっそりあらすじを更新しました。完結されたSSではないので、あくまで大まかな流れとしての予定になってしまいますが。

それでは次話もよろしくお願い致します。


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巻ノ三十二 絶好の試験日和 ⑤

 月の都に試験を受けに来訪し、一週間ほどが経過していた。

 

 ホテルに滞在している合間、非常に機能的かつ便利な機器類に恵まれていたおかげもあり、不具合一つない。

けれども日中はホテル内部の清掃の為、外に追いやられてしまうので、その点は不便である。

試験がある日以外は、公園や出店などで時間を潰しているので、周辺の地形程度ならば何となく憶えてきている。

 

 果てさて、そんな日常も終わりが近い。

というのも、綿月家警備隊登用試験の最終試験が近いという事もあり、更には最終試験である本選トーナメントに参加できる権利を得たからだ。

つまるところ、僕は予選トーナメント終了後、翌日には合否の連絡が僕宛に届いた、ということである。

結果的に言えば"合格"。本選トーナメントに進出する権利を得た程度なので、まだ試験そのものに合格をしたわけではない。

 

 僕は綿月家登用試験の幹部候補生の枠組みで試験を受けている為、トーナメント形式の他流試合が終了した後も、最終面接に臨まなければならない。

 

 明日開催される本選トーナメントは、テレビ中継が行われる予定だ。

曰く、寿命の飛んだ月という世界では、こういった行事や催し事に関しては、まるで我が事のように月の民が挙って楽しむ……らしい。

綿月家は警備隊だけの職務だけに捉われず、登用試験によるトーナメントを全月規模で催すことにより、話題性を手にすると共に各所に名前を売り込もうとしているのか。

規模が規模なだけに、月の経済市場までも動かしかねない本選トーナメントは、前日であるにも関わらずテレビショー等で話題に取り上げられていた。

 

 僕がホテルの自室でベッドに横になりながらテレビを観賞していると、どのチャンネルを回しても綿月家、綿月家、綿月家……と、その言葉を聞かない日がない程。ワイドショーの合間に放送されるCMですら"綿月家"だ。

 

「……何々、綿月家の特集がやってる」

 

 手元の珈琲を一口啜り、ベッドから上体を起こしてテレビに注目した。

放送内容は綿月家に関しての特集……つまるところの、此れまでの変遷などを取り上げている番組であった。

 

 月の歴史は、地球出身の僕からすると気の遠くなる程昔から始まっており、綿月家に関しても数百年以上も前から歴史が続いているようだ。

何だか深夜に放送されている教育番組を見ているようで、次第に睡魔に襲われ、うとうととし始めた。

 

 見ていても大して面白くなかったので、テレビを消そうかと思ったその時、画面に興味深い写真が映った。

それは二人の少女の写真……画面の端には、"綿月家の姉妹に迫る"、等と表記されており、彼女らの名前までもが表示されていた。これは珍しいなと思い、注視する。

 

「綿月豊姫……綿月依姫。ふぅん、初めて見たけど……普通の女の子じゃんか」

 

 綿月姉妹に関して微々たるものであるが、放送されていたので後学のためと思い閲覧。

綿月豊姫が長女、金髪の娘。綿月依姫が次女、薄紫色の髪をした娘。

どちらも類稀なる能力を有しているということだが、詳細は不明ということだ。

 

 中でも多く取り上げられていたのは、長女の豊姫ではなく、次女の依姫のほうであった。

恐らく本選トーナメントに登場することに起因していると思われるが、つらつらと彼女についての経歴が放送されていた。

 

「……月之宮武道大会、初登場にして優勝。その後八連覇の記録を達成するが、前回大会は不出場の為、大記録は夢に終わる。

他にも世間を大いに賑わせたとしてホライゾン新聞社賞、月令都庁賞、武道大会最優秀賞記念トロフィーの贈呈に加え、大会のスポンサーからフルーツ品種改良社特別賞などなど、様々な賞を獲得。

終いには綿月家屈指の精鋭を集めた模擬戦闘訓練にて、僅か数分で圧倒し勝利するという偉業を成し遂げ、名立たる剣豪も彼女の前では平伏し道を譲る……と」

 

 なんだ、これは。バラエティ番組と見間違えてしまったか。

 流石にテレビ放送ということなので噂話に色を塗るということは十分に有り得るだろうが、これは行き過ぎているだろう。

いや、事実だとすればこれ程恐ろしいことはないのだが……何だか視聴している身としては、盛大な大ホラ吹き話にしか見えず、素直に信じる気にはなれなかった。

 

 どうせ事実を脚色した程度のものだろうな、と思って放送を見ていると、今度はこれが証拠だと言わんばかりに、VTRが流れ始めた。

映像には刀を上段に構えた和服の男と、綿月依姫と思われる少女が刀を中段に構え、対峙していた。

実況と共に映像は再生されると、まさに試合の決着は一瞬で着いていた。

一合、二合と刀を交じわすと、三合目には男の刀が宙を舞い、綿月依姫の刀は男の首筋を捉えていた。

 

「……こりゃ凄い」

 

 テレビから観客の大歓声が響き渡る中、僕は思わずそう呟いた。

決勝試合のVTRにも関わらず、本当に数分……否、数秒で決着は着いており、映像から見ても綿月依姫は呼吸一つ乱していなかった。

 

「まぁ、エキシビジョンマッチだから選考の対象にはならないだろうし、そんなに気にしなくてもいいか」

 

 そもそも勝ち上がれるかも分からない試験なのだから……とは思った。

けれども今の僕は、富士の山頂よりも高く昇る、自信に満ち溢れる感情は収まり切らず、今の自分ならば"誰にも負けないだろう"という、密かな気持ちがあった。

まるで自分が"スーパーマン"になったかのような、実に爽快感に溢れた清々しい気分である。

正直な話、月の軍隊だろうが綿月依姫だろうが、あまり負ける気はしないのだ。

 

「……こんなにも異能な力に富んでいるんだ。刀の達人如きに、負ける筈がないね」

 

 今この場に誰もいないからこそ呟ける、ただの独り言。

だって僕は、身体能力も反射神経も普通の人間を逸脱してるし、特殊な能力だってある。

"繋いだり切断したりする能力"……そんな感じの能力。

予選トーナメントでは使用こそしなかったものの、まだ僕には隠し手があるんだ……負ける気がしないよ。

 

 予選で自分の実力にちょっぴり気付いた時以来、少々天狗になりつつある気がする。

危ない、危ない。油断や慢心は一瞬で負けに繋がるだろう。古来からそう言われてるのだから、間違いない。

僕も漫画とかを読んでいた性質だが、強い悪者が登場する作品に限って、最後は油断や慢心などで敗北を喫する描写が多かった。

そうならないように、気をつけよう。

明日の本選トーナメントに備えて、今日はゆっくりと睡眠を取ることにした。

 

 

*

 

 

 ────本選トーナメント試験当日。

試験には何故か大多数の観客が訪れるとの事らしく、会場を移しての開催である。

綿月家はエンターテイメント性にも富んでいるのだろう、月の都で最も大きな施設を貸切とし、大多数の観客を収容すると同時に、マスコミやテレビ局の介入などに対応していた。

 

 テレビ放送で何日も前から本選トーナメントの予告を放映しており、チケットやグッズの販売の宣伝なども行っていた。……美味しい商売だ。

勿論、月に住む人達が試験の行方などを気にしているわけがなく。目的は綿月家の御息女による、公開演技。もとい、模範試合であると同時に、綿月家側は世に名前を売る売名行為に近い。

 チャンネルを切り替えども切り替えども、放送内容は本選トーナメントに関しての内容ばかり。

辟易として週刊誌に目を通してみると、そこにも本選トーナメントに関しての記事が羅列されていた。

曰く、警備隊への隊長就任が噂されているらしく、その為に改めて世間に実力を誇示し、綿月家の警備隊の精強さをアピールしようとしている──等など。

 

 このような記事ばかりを見ている間に、気付けば既に試験当日となっていた。

試験会場の場所は合格通知書には明記されておらず、各自滞在している施設にて待機するようにという旨だけが記載されていた。

ではその通りにしていようとホテルで時間を潰していると、突如支配人からお呼びがかかった。

何だ何だと言われるがままに着いて行くと、ホテルの前には見た事もない高級な乗り物が僕の登場を待っていたようで、全身を黒い正装に包んだ男が僕を手招きしていた。

 

 ……というような事があり、本選トーナメントの試験会場まで送迎してもらったのだ。

移動中に運転手に色々と質問したのだが、曰く"選手達に問題が起きぬよう、綿月家側の配慮"だそうだ。

なるほど、あんなにも大規模な試合模様を匂わせていたのだ。直前になって試験者達がドタキャンせぬように、表向きは送迎……悪く言い表すのならば、強制送還だろうか。

 

 

 そして今、僕は試合が行われる会場の控え室に在している。

控え室には試験者達……此処では最早、"選手"と表現した方が良いのだろう。

選手達が挙って試合の準備をしており、控え室の雰囲気はお世辞にも良いとは言えないものであった。

 

「よう、天野。何してんだよ」

 

「……あ、薬師寺さん」

 

 一つ予想外だったのは、薬師寺という男が本選トーナメントに出場しているという事だ。

まぁ、チーム単位の選考ではなく、個人単位での選考のため、状況的に不利ではなかったのだから、別段有り得ない話でもなかった。

薬師寺は頻りに周囲に視線を巡らせると、僕に対して耳打ちしてきた。

 

「周り見てみろよ。第四会場から勝ち上がってきたの、俺らだけじゃねぇか」

 

「そうだね。それがどーしたの」

 

「馬鹿、よく考えてみろよ。同じ会場出身の奴が二人しかいなかったっつぅーことはよ、その会場のレベルが低かったっつぅーことだろうがよ」

 

 確かに、薬師寺の言うとおりである。

僕が試験を受けた第四試験会場の出身者は、僕と薬師寺の二人だけ……他の会場からは恐らくそれ以上に選手を輩出しているのだろう。

 

「あいつ、知ってるか?」

 

 不意に薬師寺が人差し指を伸ばし、控え室にいる選手のうちの一人を指で示した。

その問いに対して僕は「知らない」と答えると、薬師寺は少し溜息を吐いた後に、語りかけるような口調で説明を始めた。

 

「あいつぁ、元軍人だよ。どうして軍人が試験を受けてるのか知らねぇけどよう……いや、"元"だから受けてるんだろうが」

 

「ふぅん。別に大したことなさそうだけど」

 

「……ま、確かにな。仕事で訓練をしていたというのは厄介だが、試合は近接武器が主体だからな」

 

「軍人だから近接戦闘の訓練とかもしてたんじゃあないのか」

 

「知らねぇ、あいつに聞けよ。けどよ、毎日毎日動かない的に鉄砲を撃つのが仕事の奴らだぜ? ぶっちゃけ、軍よりも警備隊の方が余程実戦経験がありそーな話」

 

 薬師寺はそう言うと、どかっと僕の隣りに腰掛けた。

彼の武器であろう背中に背負われている片手剣が、若干の金属音を奏でた。

 

「何でわざわざ僕にそんなこと言うのさ。まさか軍人に手を上げたら軍法に引っかかるとでも言いたいのか」

 

「んなわけあるか。俺が言いたいのは、本選には実力者が勢揃いしてるっつぅことよ。家でテレビ見ながら惰眠を貪ってるような奴は、こん中には一人もいないってことさ」

 

……恐らく僕はそれに該当してしまうのだろうが、黙っておくことにした。前日はずぅっとテレビを見ていたり、週刊誌を読んでいたりしていたな。

 

「本選には三十二人も通過してるんだ。予選みたいな無粋なシード枠もなけりゃあ、頼れる仲間もいない。完全に個人の実力が試される試験だからな」

 

 薬師寺はそう言うと、何やらごそごそと鞄を弄りだした。

 

 本選トーナメントに出場したのは、全会場を含めて三十二名にまで昇っていた。

綺麗なトーナメント図を描くことのできるその人数は、試合を円滑に進行するための要素の一つとも捉えられた。

A、B、C、Dブロックにそれぞれ選手達が分けられ、各ブロック八名による試合展開となる。

僕はその中でもAブロックに配置されており、選手の配置方法などは試験官によるくじ引きで行われたそうな。

 

 控え室の外では多数の観客と共に、マスコミやテレビカメラが沢山出回っており、下手な行動をしてしまえば即、世間に痴態を晒す破目になる。

会場内の騒々しさが控え室の中にも届く程の観客は、恐らく今か今かと試合が始まるのを待っているのだろう。あと数十分もすれば試合は開始されるので、そう考えると緊張の糸が張るというもの。

それは鞄を漁っていた薬師寺も同様なのか、鞄の中から何かを取り出し、僕に見せ付けてきた。

 

「なぁ、天野。アドレス交換しようぜ」

 

「……?」

 

 突如、薬師寺がそんな事を言い出したので、僕は表情を疑問に歪めた。

 

「アドレスだよ、知らねーの? 此処で会ったのも何かの縁、連絡先交換しようぜってことだよ」

 

 然も当然と言ったような表情でそんな事を言うので、僕はますますわけが分からなくなってきた。

推測するにケイタイ電話のようなものなのだろうか、この月の都にもそれがあるのか……。

 

「いや、ごめん。僕そういうの詳しくないから、分からない」

 

「……嘘だろ?」

 

 今度は薬師寺が疑問に表情を歪めており、僕の事をまるで可哀想な動物を見るような目で見つめてきた。

しかしながらそんな事を言われても、僕はそういった連絡先を交換できるような媒体を持っていない為、彼の要望には応えられなかった。

本当に知らないよ、と告げようとした瞬間、控え室の扉が開かれた。

 

「選手の皆様、お待たせしました。間もなく試験開始となりますので、場外控え室まで移動をお願いします」

 

 正装を纏った試験官……玉兎ではない普通の人間の試験官が、控え室に溜まっていた選手達を招集した。

一気に控え室が緊張感に満たされると、誰もが震える足を押さえつけながら重い腰をあげたのだろう、僕もその一人。

 

「会場は多くの観客で溢れており、衛星中継がされておりますので、くれぐれも品に欠けた行為はせぬよう、重々ご承知下さい」

 

 試験官はそれだけ言うと、"ついてこい"と言わんばかりに踵を返し、控え室から穏やかな歩調で退室した。

残された僕ら選手達は重い腰をあげ、鋼の塊となった足を動かし、場外控え室にまで移動する事となった。

 

 

*

 

 

 会場の熱気は僕の予想を遥かに越えており、控え室から一歩外に出た瞬間、耳を裂かんばかりの大歓声に包まれた。

会場全域に轟くであろう大歓声も然ることながら、それらを物ともしない透き通った声の実況が僕達を迎え入れた。

 

「"──選手達が控え室から姿を現しましたッ! 予選トーナメント試験参加者総数3452名の中から選び抜かれた精鋭達がッ! 今ッ! その雄姿を我々の前に現しましたッ!"」

 

 轟々、と桁違いの大歓声に包まれながら、僕達選手一同が試験会場の舞台を横断する。

向かい側に存在する場外控え室に移動するだけの行為なのだが、試験開催者は恐らく会場を盛り上げる為に敢えて場外控え室を反対側に設置したのだろう。この上なく、厭らしい考えだ。

 

「……歩き辛い」

 

「……ああ。動物園で糞を投げ合ってる猿どもも、俺らと似たような気分なのかもな」

 

 大歓声、そして耳を劈くような実況、更に頭上には昼間にも関わらず、幾多もの巨大な花火が打ち上げられており、今回の本選トーナメントの規模の大きさを彷彿とさせた。

選手たちは二列に整列して歩いているのだが、とても綺麗なものではないし、訓練された兵隊でもないので、次第にその列は乱れていく。

けれども感情が湧き上がっている観客達はそんな事を気にも留めず、わあわあと大盛り上がりを見せていた。大量のフラッシュが僕の視線にも飛び込んでくる。

 

「"優勝候補の選手達が最前列を歩いていますッ! あれは元軍人の西院堂郡司選手だッ! 武術大会の優勝経験者、法華津蓮選手もいるぞッ!"」

 

 実況が名前を読み上げる度、観客が大歓声をあげる。

最前列にいるのは、どうやら世間が"優勝候補"として注目している選手達のようで、他の会場出身の奴らのようだ。僕は後列なので、顔は見えない。

 

「……ん、あいつ女か」

 

 どういった奴らなのだろうかと、気になったので列から少し外れて前方を注視してみると、軍人の男は先程控え室で噂していた男のようである。

けれどももう片方の奴は、容姿を見る限りは女性選手のようであり、それがどうして優勝候補として注目されているのだろうか、疑問に思った。

僕の隣りを歩いている薬師寺が淡々と歩きつつ、

 

「あいつぁ、血縁があるかは知らんが、法華津家の血筋の奴じゃあないのか」

 

「法華津家?」

 

「ずっと昔に転落した名家だよ。もう見なくなって長いこと経つが、武術に力を入れていたんかな」

 

「ふぅん。けど、仮にそうだとして……どうして名家の落ちこぼれが、同じく名家の綿月家の試験を受けてるんだろ」

 

「さぁな。名声を取り戻す為に、綿月家に取り入ろうって魂胆じゃあねーの。幹部の枠でも狙ってるんじゃね」

 

 歓声に包まれながら行進しつつも、緊張を解す為に他にも話題を探し、口にする。

 

「でも、何で僕が優勝候補じゃないのさ」

 

「……知らねーよぉ、んなこと。俺らんとこの会場に訪れた記者なんざ、数えるほどしかいなかったからな、良い経歴の奴がいなかったんだろうよ。他の会場じゃあ試合後の取材が頻繁だったとか聞くしな」

 

「僕たちのところに、有名人がいなかったってことか」

 

「他の会場じゃあ、優勝者に取材とかザラだったみたいだが。あの法華津の女も、予選で優勝して通過した口っつぅからな」

 

「ふーん」

 

 間もなく場外控え室に到着するだろうな、という時、既に最前列を歩いていた選手たちは控え室の中に入場していた。

遅れて後方を歩いていた僕達も場外控え室に入場すると、先に着座していた選手達と目が合った。

 

 氷のような蒼色の鋭い瞳に、漆黒の長髪を後ろに纏めたポニーテールをしているのは、先程注目した法華津蓮という女選手。

彼女と視線が合ったのは僅かな時間であったが、思わず身震いしてしまう程の冷徹な視線であった。あまり深く関わりたくない。

 

「"選りすぐられた精鋭達の熱き闘いが今ッ! 間もなくッ! 此処、月之武道会場で始まりますッ! トーナメントを勝ち上がり、最強と謳われる綿月依姫と相対するのは誰になるのかッ!"」

 

 背筋を凍らせた僕の耳に飛び込んできたのは、実況者の突き抜ける声のみであった。

間もなく、綿月家警備隊試験の、最終試験が開始される。

大地を焼き焦がす太陽の光が、今の僕にはとても暖かく感じられた。

 

 

*

 

 

 特設された武道会場に設置された巨大電光掲示板に、本選トーナメントの図が堂々と掲示されていた。

僕はAブロックの第四試合目に出場を予定している為、開幕早々物凄い緊張感に包まれていた。

第一試合に出場した選手達は、僕とは比にならない程緊張していたのだろうが、試合模様は思っていたよりも早く終了した。

その後第二試合、第三試合と立て続けに行われたのだが……如何せん、合間合間の時間が長い為、緊張感に押し潰されそうになる。

恐らくテレビ取材関係者達による都合を考慮してなのだろうが、長くもなく短くもない休憩時間とも取れるその時間は、とても窮屈であった。

 

 そしていよいよ、僕の出番が回ってくる。

場外控え室から震える足を押さえつつ、会場中央の武道会場に移動するときに、薬師寺から「頑張れよ」と声援をもらった。

ありがたい声援なのだが、今は緊張感を助長させてしまうだけなので、申し訳ないと思いつつ心中で悪態をついた。

 

 

「"本選Aブロックトーナメント第四試合、間もなく開始となりますッ! 控え室から選手達が姿を現したぞッ!"」

 

 耳を劈くような実況を聞きながら、中央の武道会場の階段を登り、対戦位置に着く。

反対側からも僕の対戦者となる男が姿を現し、同じように配置に着いた。

 

 ルールは予選と似たようなもので、殺害したりしなければ基本的には何でも有りとなっている。

勝利条件は相手に"降参"と言わせるか、気絶させるまで試合が続行され、制限時間等は設けられていない。

 

「"西に登場するは第八会場出身、武具の扱いに長けた元傭兵ッ! 試験番号8556番、氏原好実選手ですッ!"」

 

 実況がそう大袈裟に人物紹介をすると、一斉に歓声があがった。名前を読み上げられるが、どれも難しい名前ばかりなので直ぐに忘れてしまう。

 

 "動きやすい服"指定だったので、各自試験者達は自分で動きやすい、と思う服装で参加している。

僕と対戦する男は、何だか鎖帷子のようなものを装着しており、外見は動きの鈍そうな格好をしていた。

わざわざ遠回りして西側に移動しての登場なのだし、意外とこの試験、キッチリ管理されているようで、ところどころ手を抜かれていたりする。

 

「"試験官が今最も注目している男が東から現れたぞッ! 試験番号0147番、天野義道選手だァッ!"」

 

 ……と、紹介をされたのだが、実況のボイスは会場に木霊した後に、申し訳程度の歓声があがり、誰かの指笛が聞こえてきた。

指笛が聞こえてきてしまうほど、周囲は僕のことなどどうでも良いと思っているのかしら。若干、落ち込んだ。

 

「"さぁ、間もなく試合開始の合図だッ! 試合の行方を見逃すなァッ!"」

 

 実況者がそう高々に宣言すると同時に、会場の何処からか重厚な、法螺貝を吹いたかのような音が鳴り響き、銅鑼が鳴る。

瞬間、観客が大歓声をあげる。それが試合開始の合図となった。

目の前に相対していた男が、じゃらじゃらと鎖のようなものが擦れる音を鳴らしながら、猛進してくる。

 

 

「へへッ、初戦の相手があんたで良かったぜ。見た目弱っちそうだもんなぁァッ!」

 

 不敵な笑みを浮かべながら突っ込んできた男は、僕に向けて鉄の塊を抛ってきた。

鎖の先端に装着されていた分銅のようなそれは、寸分の狂いなく僕の胴体目掛けて飛来してくる。

 

「お間抜けさんがッ、この試合はもらったぜ……ッ!!?」

 

「じゃあ僕は、君の鎖を貰うことにしよっと」

 

 胴体に向かって飛んできた鎖付きの分銅を、投げ渡されたゴムボールを掴むような要領でキャッチした。

男は驚愕の表情を浮かべていたが、構う事無く鎖と分銅を引き千切り、分銅を男に向けて投げた。

 

「ほら、返すよ。受け取れっ!」

 

「えっ────ひ、ひィぁッ!?」

 

 射出された弾丸のように直線の軌道で投擲された分銅は、男の顔の真横を通り抜け、広告等が掲載されている会場の壁を破壊した。

それはもう、凄い勢いで。壁は分銅が激突したことにより、有り得ない状態に変形していた。

 

「あちゃあ……外れたか。よし、こっちも返すよっ」

 

「ま、まま待った! 降参、降参だッ……お、俺の負けでいいッ!」

 

「……え?」

 

 今度は鎖をぶん投げようと思い、空中でぐるぐる回して投げる準備をしていたのだが……男から、降参の言葉が告げられた。興醒めである。

だが試験官が試合終了の合図をしない。まだ試合は継続しているのかもしれない。それなら僕がこの男を煮ようが焼こうが、何の問題もないというわけ。

一方で男は、各自に配られた降参した事を試験官に伝える為のスイッチを連打しており、その表情は熾烈を極めていた。何と戦っているんだ、彼は。

 

「おい、試験官! 何してんだよォ、降参するって言ってんだろうがッ! なんで試合を止めねェんだっ!」

 

 大空に手を振り仰ぎ、ジェスチャーで降参の旨を伝えていた男だが、ようやっとして実況伝いで降参が公式的に認められた。

 

「"……こ、降参ッ! 降参ですッ! 氏原好実選手、悔し涙を飲むぅぅッ!"」

 

 少し遅れて実況が、そして数秒遅れて会場から大歓声があがると、試合終了の合図と同時に花火が打ち上げられた。

わあわあ、と歓声に包まれつつ僕は場外控え室へと踵を返した。

前の試合が数十分ほど要したのにも関わらず、僕の試合は一分もかからなかった。あまりにも呆気なさ過ぎて、小恥ずかしい気持ちになる。

 

 いつまでも鳴り止まぬ歓声の中を歩くのは恥ずかしかったが、そもそもまだ初戦なので、試合はまだまだ続く予定だ。

これでは観客の方が選手よりも先に疲労してしまうのではないだろうか。そんなくだらない事を考えつつも、僕は場外控え室に到着した。

 

「お、おう。おつかれ、天野」

 

「やあ、ありがとう、薬師寺さん」

 

 自嘲気味に労いの言葉を告げてきた薬師寺であり、控え室にいた選手達の面々に至っては、物憂鬱気な表情を浮かべていた。

僕が控え室の中を歩くと、近くにいた選手の一人がささ、と道を譲ってきた。

 

「……何ですか」

 

「い、いえ何もっ。……あー、次は俺の試合かよ。緊張するなあぁ……」

 

 選手の一人はそう誤魔化すように言い逃れると、僕の脇を抜けて歩いて行った。

 

「なあ、次の試合は便所で行われるのか?」

 

「……さぁ。彼に聞いてみてよ」

 

 彼が歩いて行った方角には便所しかなく、選手達の笑いを誘った。

このような調子で試合は行われていき、試合の展開は回が増すごとに熾烈を極めていった。

頂点に昇った太陽は、晴れの舞台を満遍なく照らし上げた。





以上となります。
試験の回は、投稿頻度と相成ってマンネリ化しつつあり、それが数値として徐々に現れ始めているのに気づきました。
ですので、原作キャラクターの台詞が登場する回まで、早足で投稿する事に決めました。
と言いましても、後数話で登場する予定ですので、今週中には投稿し切る予定でございます。
それでは次話も、よろしくお願いいたします。


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巻ノ三十三 終幕、依然進捗中

 月の都市に住む多くの人々が、今日という日だけは仕事を休み、家業を休んで試合を観戦しようと会場まで足を運んだ。

遠方で来れぬ者は生中継の放送を固唾を呑んで見守り、休暇を取れなかった者は最新の録画機で生放送を録画していた。

 まさかただの登用試験が、ここまで大規模なものだとは、一体誰が想像しただろうか。

いや、想像しなかったのは彼だけだったのかもしれない。外来人である彼に、月という世界の常識を網羅するには、少々時間が足りなさ過ぎただけの事。

 

 

 

 続々と試合が展開され、気が付けば午前は過ぎ去り、快晴のまま午後を迎えていた。

昼食の為の休憩などは行われず、試合は延々と続けられた。客席の販売員達は、さぞ大忙しだったに違いない。

 

 試合に敗北した者は帰宅する事が許されず、最後まで試合の展開を見守らなければならなかった。

Aブロックの試合が終わり、やがてDブロックの試合まで終わると、再びAブロックの第二戦が行われた。

 

 第二戦で僕と試合する事になっていた男がいたのだが、試合開始直前まで闘いたくない、と周囲に言い漏らしていたのを僕は目撃してしまった。

けれども現実問題、不戦勝などが許される筈もなく。問答無用で開始された第二戦目の試合で、僕は対戦相手を余裕で撃破。

最後は壁に向けてぶん投げ、場外に。人間が壁に激突し、崩壊する様を見て申し訳ない気持ちに駆られた。

 

 そして第二戦目の順繰りが全て終了すると、今度は第三戦、第四戦と続き、遂には五戦目に突入した。

様々な試合模様が展開されるに連れ、観客も勝ち上がった選手達も最高潮の盛り上がりを見せる。その最中、僕は控え室の中で出番を待っていると、

 

「いよいよ次でブロックの決勝戦かぁ。……ま、俺を負かしたんだからよ、優勝しろよな」

 

「なあ、天野君。スゲーよなお前、一体どういう修行すればそうなるんだよ!」

 

「天野君、今度うちの野球チームに助っ人に来てくれよ!」

 

 順当に勝ち上がり、四戦目で薬師寺を倒しA、Bブロック決勝戦の開始を待っていると、周囲からそんな声をかけられる。

薬師寺以外の選手達は、意外にも気さくな奴らが多い。口が悪い奴もいるのだが、根は良い人が多かった。野球の誘いは断った。

 けれども僕に話しかけてくるような奴らは皆、途中で敗北しているものばかり。勝利した者達は精神集中の為か、あまり不用意に動いたり騒いだりはせず、殻に閉じこもるばかり。。

あの法華津という女も、西院堂とかいう男も、目を瞑り自身の出番を待っている。

 

 周囲の気さくな言葉に応対していると、今度は僕に触れてくる者まで現れた。

 

「なあなあ、ちょっと筋肉触らせてくれよ!」

 

「えっ」

 

「あんなとんでもパワー持ってるんだから、相当カチカチなんだろ? 後学の為にさ、良いだろ?」

 

「ダメだよ、ダメ。あまり僕に…………ちょ」

 

 拒否の言葉を入れる前に、男達は僕の腕を弄り始めた。

指先でつん、と押したり、ゆでたまごに触れるように優しく二の腕を握ったりと。気持ち悪い。

 

「うおッ、なんだこれ。めっちゃ柔らかい」

 

「これの何処にあんな力があんだ……?」

 

「知るか。やめてくれよ、鬱陶しいな」

 

 腕を振るって群がる群集を退けさせる。

確かに自分でも不思議に思うが、怪力の割りに僕の腕には筋肉があまりない。女性的な細さすら感じる始末。

ぷにぷに、なのだ。他者からすれば、思い切り不自然の類に入るのだろう。自分自身でさえそう思うのだから、そうに違いない。

 

「へぇー、天野君って何だか女っぽいよね」

 

「……煩いな、放っといてくれ」

 

 その言葉が身に染みる、心に染みる。悪い意味で。

何故かといえば、答えは簡単だ。身長が昔よりも縮んでいるのだ。試験の健康診断で分かった事なのだが、元々の身長よりも少しだけ縮んでいる。少なくとも、百七十は切っていた。

周りの試験者達がちょっぴり大きく見えるのを意識すると、頭を抱えたくなる。

 

 性別だけが女性になっただけではなく、体つきも女性になっているのは前から知っていた。

けども身長の退行を知った時に、他部分でも変化が訪れてるのではないかと不安になり、確認した事もある。

 幸いにも大きな異常は見られなかったが……万が一にでも胸が巨大化してしまえば、いよいよ世間の目を逃れる事は出来なくなってしまうので、変化しないよう神に願わなければならない。

そう思考しながらも選手達の相手をしていると、不意に体内から酸素が放出した。うっ、と声を漏らした。

 

「痩せてんなぁ、お前。スタイルが良いっつぅか、どうみても武道に精通してるとは思えないわ。腹筋だってほら、柔らかい

 

 恐る恐る原因と思われる下腹部に視線を傾けてみると、僕の目の前でしゃがみ込み、腹筋の辺りをつんつん、と突いている者がいた。第一試合で撃破した、氏原という若男だった。

 

「余計なお世話だよ……もういいだろ、やめてくれ」

 

「ん、そうだな。しっかし不思議だよなぁ、女みてーな体つきしてんのに、俺よりも腕力があるってのが腑に落ちん……っと」

 

「……っ!」

 

 氏原の手が腹筋から、胸にまで伸びてきた。

その仕草に気付いたものの、一瞬反応が遅れてしまい、氏原の手が僕の胸をソフトタッチし、ぞくりとした感覚。

いくらサラシを巻いて胸元にゆとりのある衣服を着ているとはいえ、触れられてしまえば一発で性別がバレる──そこまでの思考を一瞬で組み立て、僕は即座に拳の応酬をした。

 

 拳で氏原を突くと、鈍い音と共に彼は後方へ吹っ飛んだ。

周囲の選手達も驚いたのか、僕に視線を向けていた。言い訳をしなければ、言い訳……

 

「……よし、アップはこんなもんかな。さて、善戦してくるよ」

 

「はは、なんだおい、妙にやる気だな」

 

「まぁ。薬師寺さんの分まで頑張るよ」

 

 即座に思いついた言い訳がこれだった。中々見苦しいものがあったかもしれない。

吹っ飛んだ氏原は腹部を押さえて、ぐぬぬと唸り声をあげて悶絶していた。滑稽であった。

 もうすぐ僕の試合が近いというのに、とんだ騒ぎだ。……騒ぎだと思っているのは、僕だけかもしれないが。

 

 

* * *

 

 

 A、Bブロックの決勝戦が行われ、僕は名も知らぬ選手を撃破した。

実況の中で名前を説明していたりもしていたが、試合終了後の今となってはよく憶えていない。

流石にBブロックを勝ち進んできただけの事はあり、筋力や瞬発力など、他の者達よりも身体能力が高くて驚いた。

 

 もはや怒号とも言い換えられる程の巨大な歓声は、ブロックの決勝戦が終了した事により更に規模を大きくした。

続いて行われるC、Dブロックの決勝戦を控えているというのに、未だその歓声は衰えをみせない。

 

 時刻は既に午後を回っており、夕暮れが近かった。

僕はブロックの決勝に勝利したので、次の試合は事実上の本選トーナメントの決勝戦を残すのみとなる。

C、Dブロックの決勝戦に勝利した者と対峙する事となる為、他ブロックの試合といえど注目せざるをえなかった。

 

「おうおう、あっちのブロックもスゲー試合になってんじゃねえか」

 

 場外控え室からブロック決勝戦の試合模様を観戦していると、僕の背後にいた誰かがそう呟いた。

試合をしているのは、優勝候補と謳われていた西院堂という男と、法華津という女の両者であり、その試合は熾烈を極めていた。

 

「西院堂ってのも凄いが、あの女の方も力負けはしていないな」

 

「けどよぅ、西洋剣相手に無手っつぅのも、無謀な話だぜ」

 

 西院堂という男は、なんと武器を所持せずに決勝まで勝ち上がってきたという。凄い精神力だ。

月の軍事施設で学んだと思われる特殊な戦闘術は、得物を持った相手を前にしても見劣りはしなかった。

 対する法華津も、西洋剣を凄い速さで振り回し、相手の接近を許さなかった。

こちらも女とはいえ、西洋剣を振り回す程度の筋力は持っているようで、それは男である西院堂を相手にも勝るとも劣らぬ、凄まじい戦闘力であった。

 

「こりゃあ、お前さんも流石にヤバイんじゃねーか?」

 

「……うーん、何とかなるんじゃあ」

 

 自分でも驚くほどに楽観視してしまうのは、天狗になっている証拠だろうか。

どういうわけか、あまり負ける気がしない。

きっとアメリカン・スーパーヒーローも同じような気持ちだったのではなかろうか。と、くだらない事を考えつつ、試合の行方を注視した。

 

 ブロック決勝試合は五分、十分と続いた後、十五分もした頃には行く末が見えてきた。

法華津の西洋剣による斬撃を刹那に見切り、西院堂がそれを白羽取りにする。

誰もが"西院堂の勝ちだ"と思ったその時、彼は不自然に吹き飛ばされ、場外へと吹き飛んだ。……立ち上がる素振りすら見せず、やがて試合終了の銅鑼が鳴らされた。

 

「……何じゃ今の、見たかよ」

 

「うん。絶対に男が勝つと思ったんだけどね。何というか、まあ……不思議だった」

 

 ぽかん、と控え室にいた面々が、表情を疑問色に染めて口々に呟いた。

実況の解説や観客の怒号など耳には届かず、ただただ今起こった事態に関しての推測ばかりしていた。

 

 若干の静寂の後、我に返ると、いつまでも鳴り止まぬ歓声や拍手が会場に降り注ぐ中、淡々と控え室に戻って来る者に気付いた。

一同が彼女に対して様々な意図が含まれた視線を向けるが、彼女はそれに目もくれず、乱れた呼吸を隠すかのようにして控え室の奥へと消えた。

本選トーナメントの決勝戦を前に、幾許かの休憩時間が用意されていた為、戦闘に疲労した彼女は回復を図ろうと、専用の施設に向かっていったのだろうか。そんな事を考えていると、誰かが呟いた。

 

「……ふぅ、おっかねぇな。あの女、嫁に貰ったら絶対尻に敷かれるぜ」

 

「残念な美人って感じだよな。もっと気さくな奴なら、話しかけられるんだがな」

 

 控え室にいる男達が、そう色の付いた会話をし始めた。因みに現状だと、僕とあの法華津という女以外、全て敗者組となる。

これから行われる試合に対して憎しみだとか、嫉妬だとかという感情は一切なく、皆が試合を応援してくれた。

無論、僕が勝つようにではなく、健闘するように、と。口は汚いが、月に住む人達は存外に良い人達が多い。

 

「おい、天野」

 

 決勝を控え、様々な事柄について思考をし緊張を解していると、不意に薬師寺が声をかけてきた。

彼の表情は何というべきか、普段通りの厳つい表情をしているものの、何処か優しさも垣間見える表情で、

 

「此処まで来たんだ、負けんなよ」

 

 同時に、背中に軽い衝撃が走り、背を叩かれたと認識した。

彼なりに僕の事を激励してくれているのだろうか。彼はそれだけ言うと控え室の一番前のシートに座り、腕を組んで会場を一望した。

 

 決勝戦開始のアナウンスが流れれば、直ぐに試合が始まる。

決して長くはない待機時間は、今の僕にとっては無限にも感じられる時間であり、思い耽る余暇さえも与えてはくれない。

 いざ往かん、決勝へ。

 

 

* * *

 

 

 大歓声に包まれる会場は、最新鋭の設備によるバックライトにより、美しく照らされていた。

見上げれば思わず目を瞑ってしまう程の眩い光。下手をすると、日中よりも明るいのではないかとさえ思ってしまう。

 

「"皆様、長らくお待たせしましたッ! 只今より本選トーナメント、決勝戦が開始されますッ! 幾多の闘いを制してきた選手達がッ! 今、武舞台に上がってまいりますッ!"」

 

 怒号にも似た実況。会場内のボルテージは既に最高潮に達しており、会場内はフラッシュ撮影が禁止されているにも関わらず、観客席からの激しい光が武舞台を飾った。

大歓声に湧き上がる会場の中、僕は武舞台の小さな階段を上がり、頑強な武舞台を見据えて対戦相手を待った。

 前方に視線を向けるのが気恥ずかしく、若干俯いた。

 

「"今大会のダークホース、試験番号0147番、天野義道選手が東側から登場ですッ!"」

 

 いつの間にやら僕の解説が変わっており、気付いたらダークホースなどと称されていた。恥ずかしい。

湧き上がる歓声も初戦の時とは段違いであり、轟々と会場が震えているのが肌身に感じられた。

 

 次第に歓声が小さくなる。

完全に歓声が収まると、眼前から対戦相手である法華津という女が、落ち着いた表情で淡々と入場してきた。

 

「"武術大会優勝の肩書きは伊達ではない、天馬空を行くとは彼女の事ッ! 試験番号0009番、法華津蓮選手が西側からの登場ですッ!"」

 

 実況と同時に、怒号の如き大歓声に会場が震えた。

何やら遠くの観客席からは大旗が振られており、謎の応援部隊まで登場している始末であり、僕よりも有力候補なのは間違いない。

 大歓声の中、沈黙でいるのも気恥ずかしかったので、目の前の法華津に向けて、

 

「……よろしく、法華津さん」

 

 騒がしい実況が行われる中、僕は相対する彼女に向けて軽く手を上げて挨拶をしてみた。

割りと距離があるので聞こえているかどうかは分からなかったが、彼女は此方に対して何も行動を起こさなかった。

 

「"熱き闘いの火蓋が間もなく切って降ろされますッ! 決勝の行方はッ! そして優勝旗を掲げるのはどちらになるのかッ!"」

 

 元を辿ればただの試験なのに、優勝旗とか存在するのか。

まぁ、名目上は登用試験だが、組織的な狙いは試験による人員補強と、大規模な他流試合による経済効果に、世間に対する売名行為に違いない。

あくまで僕の推測に過ぎないが、規模が余りにも大きすぎるため、それしか考えられなかった。

 

 

 ──そして試合開始の合図が鳴らされる。

重厚な法螺貝に近いそれは歓声よりも強く、大きく。明確に僕の耳にまで飛び込んできた。

 

 対峙するのは、僕の背丈よりも若干低い女性試験者、法華津蓮。彼女は静かに西洋剣を抜刀し、下段に構えたままゆっくりとした動作で接近してくる。不気味な迄に、堂々とした姿。

 

「いいね、凄く……それっぽい」

 

 額から嫌な汗が流れる。

今まで相手にしたどの対戦者よりも泰然としており、不気味なほど冷静な彼女を視界に入れると、恐怖さえ覚える。

負けじと僕も似たような動作で彼女に向けて足を動かし、一歩一歩確実に距離を詰める。

 

「……来い」

 

 互いに攻撃が届く位置まで接近した。彼女が言葉と共に、精巧な造りの西洋剣を振り上げた。

初めて聞いた彼女の肉声は、女性のものと比べると低いが、確かに女性の声質である。

 

 後退し、神速の斬撃を避ける。懐からダガーナイフを抜き取り、刺突の応酬。

得物が小さい分、速度的な有利はこちらにある。相手に攻撃をさせる暇を与えない。

 暫くの間、西洋剣で僕の攻撃を弾いていた彼女であったが、二歩、三歩と後退した後に、左足を軸にして緩やかな動作で旋回すると、大きく振り被った西洋剣を真上から振り落としてきた。

 

 亀よりも緩慢な攻撃だったと察知した僕は、刃が振り落とされる直前にそれを回避して迎撃をしようと思い、身構える。……だが、それは愚考であった。

 

 

「──えッ」

 

 刹那、法華津の得物である西洋剣が異常な加速力で振り落とされた。

間一髪それを避ける事は出来たものの、西洋剣は武舞台の地面を破壊し、深い穴を作った。

 

 何という威力だ。遠目から観戦したのではまるで想像がつかぬ、強力な一撃。

まるで断頭台が執行の為に振り落とされたのかのような、そんな恐怖さえ覚える。

 法華津は振り落とした西洋剣を再び構えると、僕の前に対峙して、

 

「……衝撃波を使う能力。決勝戦を前に出し惜しみをしていたが、漸く使うことができる」

 

 刃先を此方に向け、そう口上に述べる。不気味な笑みを浮かべていた。

 どうやらこの女、ただの試験者ではなかったようだ。

何故わざわざ僕に能力を明示するのかは不明であるが、恐らくは戦闘に対する余裕さから来るものと推測できる。

 恐ろしく低い声で、法華津は言い放つ。

 

「貴様も能力者だろう。圧倒的な試合を見せてもらったからな、常人ではあるまい」

 

「……へぇ。能ある鷹は爪を隠すって言うけど、君も不思議な力を使える人なんだ」

 

 先程の強力な一撃も、恐らく"衝撃波を使う"という能力の片鱗なのだろうか。

ならばあの剣撃を受ける前に、此方の攻撃を与えて気絶させてしまえば、何の問題もないじゃあないか。

 

 そう思考し、ダガーナイフを片手に攻勢に転じる。

得物が小さい分だけ接近すればするほど、格闘術による攻撃方法も可能なので、僕が有利。

常軌を逸した程の反射神経を有した僕に、見切れない攻撃などない。

 

「ふっ、近接戦闘か。……面白い」

 

 ニヤリ、と口角をあげる法華津。

ダガーナイフによる極小の斬撃を受け流されつつも、法華津はそう言い放ち鼻で笑った。

 接近の斬り合いに持ち込めば僕の方が有利だったのだ。あの衝撃波だとかいうものも、剣に宿して扱うには何らかの条件がいるに違いない。力で圧倒される事もない。

いや、むしろ得物こそ小さいが、腕力ならば僕の方が上だ。

ダガーナイフと西洋剣が激しい金属音を奏でると、必ず僕の得物が彼女の得物を押し退けるのだから。

 

 ──いける。このまま押し続ければ、必ず致命的な隙を相手に生じさせる事が出来る。

 そう思いつつダガーナイフによる刺突を繰り返していると、、突然彼女の西洋剣の動きが止まる。

 彼女の空いた手の平が僕に接近する。とても遅く、不器用な掌底だったのだが、

 

「──ッ、わっ!?」

 

 ぽん、と軽く吹き飛ばされた。驚くほど簡単に、地上から足が離れた。

痛みや裂傷などは全くなかったのだが、ゴムボールが飛んでいくような感じで僕は吹き飛ばされた。

 けれども難なく着地し、左手を地面に添えて体勢を整え、

 

「……ふぅ。でたらめな力押しだな。それが貴様の能力か」

 

 法華津が言った。

僕は額に滲んだ僅かな汗を拭って、

 

「……さぁーね。別に隠しているわけじゃあないけど。隠すより現るって言うからね」

 

 秘め事というものは、隠そうとすればするほどボロが出やすいので、敢えて隠さない方が良い時もある。

 

 僅かな斬り合いだったが、法華津は額に玉のような汗を浮かべており、若干ではあるものの息を切らしている様子であった。

その辺りは流石に女性だったというわけだ。……実は僕も、少し疲れてきている感は否めないが。

 あまり長期戦になるのは互いに良しとはしていないだろう。僕とて、そろそろ終わらせてしまいたいと考えているのだから。

 

 法華津は自ら攻勢に転じるという事はなく、額に溜まった汗を拭うように前髪をかき上げると、西洋剣を真上に構えた。

満月を描くかのように、ゆっくりと西洋剣で弧を描く。刃先を零時の方向へと直立させ、構えた。

 

「何のつもり」

 

 思わず僕はそう問いかけた。

 

「次で終いにしようと思ってな。貴様を屠る必殺の一撃……」

 

 それだけ述べると、法華津は瞳を閉じ、西洋剣を天高く構えたまま静止。

まるで何かの構えと言わんばかりに。──そう、刀技でいうところの"居合い"に近い感じの。

 得物や構えはまるで違うが、天高く掲げられた西洋剣は、恐らく先程の強烈な衝撃波と共に振り落とされてくるのだろう。

迂闊に近づけば、確実に衝撃波に押し潰されてしまう。

ならば、どうすれば──と、模索したが、途中で止めた。

 

 何故ならば、僕にも明かしていなかった能力があるから。あの女の能力にも決して見劣りしない、修練に修練を重ねた能力が。

 

「……ひとつだけ言っておくよ」

 

 直立不動のまま構えを解かぬ法華津に対し、僕は独り言に近い弁論を述べる。

 

「君は寡黙そうに見えて、実は物凄くお喋りな奴だね。天機洩らすべからず……僕の知ってることわざ」

 

 それだけ彼女に向けて言い放つ。ダガーナイフを強く握り、彼女に肉薄。

 

 法華津は射程範囲内に獲物が飛び込んだその瞬間、天高く掲げられた西洋剣を、一気に振り落としてきた。

地獄の断頭台が執行されるかのような、強力かつ無慈悲なる一撃。衝撃波を纏い、僕の胴体を引き裂かんとする。

 だがその一撃は、幻のように露と消えた。

 

「──なッ!?」

 

 尚も西洋剣を振り落とす動作の法華津は、事態の異変に気付き表情を歪めた。

僕はそれが面白くて、思わず口角をあげた。しかし、攻撃はやめない。意味を為さぬ彼女の攻撃など、避けるまでもない。

 

「何も衝撃波をまともに受ける必要はない……騎士道精神に達観した"おりこーさん"じゃあないんだからね」

 

 邪魔なのなら、分離してしまえ。

衝撃波を纏った刃はとても危険だったので、鍔と刃の部分を僕の能力を用いて"分離"させた。

刃は振り落とした際の力であらぬ方向へ吹っ飛び、柄と鍔の部分だけが僕の目の前で空を切った。

 

 そして生じたのは、絶望的なまでの致命的な隙。

当然の如く、僕がそれを見落とす筈もなく。彼女の鳩尾に目掛け、拳を放った。衣服越しからでも伝わる、肉を抉る感覚。

 

「……がッ……く……っそぉ……ッ」

 

 最後は悔しそうに、蒼い瞳を一層鋭くさせて僕を睨み付けながら、彼女は膝を折り曲げ崩れ落ちた。

 

 足元で震えていた身体がやがて動かなくなると、審判員の人が武舞台に上がり、彼女の意識が失われた事を公式に宣言した。

すると少しの間の後に、試合終了の合図を意味する重厚な銅鑼が鳴る。一斉に会場全体が湧き上がり、天地を震えさせた。

 

 

「"──決着ゥゥッ!! 総参加試験人数、数千を超えるトーナメント試験の優勝者はッ!!"」

 

 盛大な花火が打ち上げられた。続々とファンファーレまでもが鳴り出し、

 

「"試験番号0147番ッ!! 天野義道で完結だぁァァッ!! "」

 

 轟々、と大歓声に会場は包まれる。

もう何度も何度も聞いている歓声であるが、今回のは少し違った。

 誰かの名前を観客達が叫んでいる。まるで何かを支持しているかのような歓声にも近い。

たぶん、この大会の主催者か、或いは──

 

 

「"天野選手には優勝の栄誉を称え、綿月家からの勲章が贈呈されます! 更に副賞として大会の各スポンサーから記念品の贈呈です!"」

 

 威風変わった旗があちこちに掲げられており、真っ赤な布地に大きな月のような物体が美しく描かれていた。

月の都版の"星条旗"といったところであろうか。その星条旗があちらこちらで振るわれており、会場全体は大いに盛り上がっていた。

 

 正直、こんな大袈裟なものになるとは思ってもいなかったので、僕の頭の中は真っ白となっていた。気恥ずかしさなど、疾うの昔に消え去っている。

 武舞台でただ立ち尽くしていると、誘導員に手を引かれ何処かへ案内される。

会場から降ろされ、見知らぬ部屋へと通された。会場全体を包む大歓声も、徐々に露と消え始めて。

 

 

 会場側から扉一つ隔てた程度の部屋なのだが、無機質で何もない……けれどもその部屋にいるだけで、何だか癒されるような特殊な感覚に癒される。

みるみるうちに疲労が回復していくような、そんな感覚。

 

 少しすると、今度は試験官の玉兎が部屋に訪れてきた。少し息を切らしていた。

あくまで僕は試験者側の立場で、本来ならば試験官が目上の筈なのだが、今回ばかりは相手が謙っていた。

 

「お疲れ様です、天野選手。どうぞ、飲んで下さい」

 

「……ありがとうございます」

 

 容器に入った透明な液体を口にすると、喉の渇きが一気に潤わされ、身体を包んでいた気だるさも一気に拭われた。

味も甘くて美味しかったので、喉を鳴らして飲み干す。直ぐに全部飲むのは気恥ずかしかったから、半分だけ残した。

 

「三十分程お時間を頂戴させて頂きますが、何か欲しいものとかありますか?」

 

突然、試験管がそんな事を言い出した。僕は慌てて、

 

「ちょ、ちょっと待って下さい。試合はもう終わったのでは」

 

「あ、もしかして忘れてるんですか。エキシビジョンマッチですよ、依姫様との。観客達は試合の行方よりも、むしろそちらの方が見たくて集結したと言っても良い程ですのに」

 

 暢気な微笑みを見せる玉兎の試験官にそう言われ、僕はようやっと思いだした。

 そうだ、そういえば最後の最後にエキシビジョンマッチとやらがあったんだった。

綿月依姫との……すっかり忘れていた。本音を言えば、もう満足だ。再びあの舞台に上がりたいとは思わない。

 

 そんな事を考えつつ茫然自失としていると、試験官はにこにことした表情で、

 

「では、試合の調整がありますので、私はこれで。何かありましたら、此方のボタンでお知らせ下さいね」

 

 それだけ言い残すと、自動扉の奥へと消えていってしまった。

嗚呼、漸く終わったと思っていたのに……と、僕は再びあの舞台に上がらなければならない事に、辟易とした。

 

 

* * *

 

 

 ──武道会場を一望できる、とある一室にて。

後世に語り継がれるのではないかと思えてしまう規模の、今大会の模様を窺っているようにして。

 登用試験至上初でもある大規模トーナメント形式の行方は、およそ大成功で完結した。

けれどもまだ、綿月家側には一つの思惑が残されていた。

 

「まさか、こんなにも規模が大きいものになるとはね」

 

 青と白を基調とした服を纏った、銀髪の女がそう呟いた。

 

「ええ……これでは少し、闘い辛いです」

 

「そぉ? 素敵だと思うけど。このような晴れ舞台、月の裏側まで探したとしても、此処以外に存在しないでしょ」

 

 薄紫色の長髪を黄色のリボンで結ったポニーテールに、白く半袖の裾の広いシャツ。

更にその上に右肩だけ肩紐のある、赤いサロペットスカートのようなものを着用した少女。

彼女の名は、綿月依姫。今大会の目玉であり、各種記者も注目している者である。

 

 彼女の事を元気付けようと背中を撫でているのは、腰ほどまでもある金髪に、黄金の瞳をした少女。

似たようなシャツに加え、彼女の場合は左肩だけ肩紐のある、青いサロペットスカートのようなものを着用していた。

彼女は綿月豊姫。今大会である綿月依姫の姉であり、彼女らは姉妹である。

 

 

 物腰重く達観した瞳で会場を一望し、淡々と感想を述べる女性がもう一人いたが、彼女は静かに口を開き言葉を並べる。

 

「貴女が再び台頭するのに相応しい舞台だと思うけれど。規則や規定に捉われない試合なのだから、貴女の能力の良い練習舞台になるんじゃあないかしら」

 

「……そうですね。今までは試合で迂闊に神霊を使役する事は出来ませんでしたが、許可が降りるのでしたら」

 

「良いんじゃない。エキシビジョン……模範試合なんだから、依姫の好きなようにやって」

 

 豊姫がそう愉快そうに告げると、依姫は楽観的な姉に対して頭を抱えた。

名も知らぬ銀髪の女性は、然も泰然とした表情で未だ歓声に包まれる会場を眺めるだけで、彼女達に対して特に言葉を差し入れるという事はなかった。

 

 決勝戦が終了した直後の出来事、武道会場の何処とも知れぬ部屋で行われた、極々小さなやり取りである。

 






以上となります。
初の10評価を頂く事ができ、とても嬉しい限りです。
今話にて、漸く月の御三家が登場です。


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巻ノ三十四 神霊の依り処

 無機質な部屋に通され、試験官の言葉に従い数十分程待機した。メディカルルームなのだろうか、気になっていた疲労感も消えている。

待機中は他の選手達との干渉を控えるように指示されており、部屋から出る事は許されなかった。

次第に決勝で熱った身体も冷めてくると、精神的にも若干であるが余裕が出てきた。

 

 改めて室内の中を見渡してみる。が、特に何にも設置されていない。装飾用の花瓶は勿論のこと、真っ白な壁ばかりが視界におさまる。

椅子に机と、その上に置かれた分厚いグラスの中には、透明な水が半分ほど残った状態で置かれている。

そういえば、試験官の前で直ぐに飲み切るのが恥ずかしかったから、適度に残したんだった。ところで、トイレは何処にあるんだろう。

 

 そんな事を考えていると、会場側の扉が開け放たれた。空気の入れ替わりを感じる。

 

「天野さん、お待たせしました。もう少しでエキシビジョンマッチが行われますので、こちらをどうぞ」

 

「なんですか、これは」

 

 試験官が手渡してきたのは、何の変哲もない薄紙。それに目を通してみると、びっしりと文字が詰められていた。視界に入れて直ぐに辟易としたので、目を背けた。

 

「エキシビジョンマッチでのルールです。トーナメントとは微妙に異なる箇所がありますので、よく読んでおいてください」

 

 にこり、と表情は崩さずそれだけ告げてきた。

その後、試験官はいそいそと扉を開けて出て行こうとするので、

 

「あの、試験官さん」

 

 声をかけた。試験官は振り向いて僕に視線を合わせてから、

 

「どうかされましたか?」

 

「大したことではありません。ひょっとしたら僕の見間違いかもしれませんが、もしかして一次試験の時からずっと貴女が試験官を」

 

「ええ、そうですが。本戦出場選手を担当しているのは私含めて三人しかいないので、天野さんの顔はもう憶えましたよ」

 

 決勝を制した事からか、或いは元々の口癖なのか。試験官の玉兎は僕に対して敬語をやめない。たぶん、癖だろう。

それがどうかしましたか、と訊ねられたので、言葉を返す。

 

「いえ、少し気になっただけなので。お仕事、ご苦労様です」

 

「天野さんも、頑張ってください。貴方はきっと、綿月家でも高位に上れますよ」

 

 試験官はそう言い残し、扉を開けて外に出て行った。

無機質な待機部屋に残された僕は、特にするべき事もなく手渡された薄紙の書類を凝視するばかり。

来るべきエキシビジョンマッチを控え、精神的にも肉体的にも緊張すると同時に、武者震いで心を震わした。……ところで、トイレは何処にあるんだろう。

 

 

 

* * *

 

 

 

 ──エキシビジョンマッチ。

 登用試験を大規模に行う事で、綿月家の名声を高めると同時に経済効果を狙う目的があるそれには、もう一つの狙いが隠されていた。

恐らく、それを知る者は僅か一握りしか存在しないだろう。淡々と、かの目的は達成へと向けて着実に動きをみせていた。

 その目的とは、なんて事はない。単なる一人の少女の、晴れの舞台に過ぎない。

将来的に綿月家を──月の世界を守護する存在になるであろう、英雄の大舞台。

その圧倒的な力を前に、全ての月人は彼女達一族を畏れ、敬う事となる──筈であった。

 

 

 ここでは"彼女"の天野も、敢えて"彼"となる。

肉体は女性であるものの、心は男。そんな"彼"は、エキシビジョンマッチの開幕と同時に、特別控え室から姿を現した。拙いながら、迷いを知らぬ勇み足。

 

「"エキシビジョンマッチッ! 皆様、大変長らくお待たせ致しましたッ! 間もなくッ、月の歴史に残るであろう世紀の対決が始まりますッ!"」

 

 実況の声が木霊する。不気味な程に静まり返った武道会場。

先程まで行われていた本選トーナメントでは、鼓膜に異常を来してしまうと錯覚してしまう程の歓声に包まれていたのに。

 

「"先刻、トーナメントを制覇した天野選手が今! その勇姿を我々の前に現しましたッ!"」

 

 彼が武道会場で紹介され、若干の歓声。申し訳程度のそれは、直ぐにおさまった。

しかし、間もなく。武道会場は大歓声に包まれる。轟々、と爆音にも劣らぬそれは、振動音だけで会場を震わせた。

 月の民達が待ちに待ち焦がれた、綿月の息女が現れる。悠然と、軽やかに。

 

 訳の分からない実況が何か口上を述べたが、大歓声の前に露と消えた。それを聞き取ろうとする者も、誰もいなかった。

 

 武道会場に姿を現したのは、薄紫色のポニーテールの少女──綿月依姫。彼女が登場した瞬間、会場は大歓声に包まれた。

ファンファーレが彼女の為だけに演奏を開始すると、巨大な花火が何本も打ち上げられた。遠くからは彼女を崇拝する者達が、声を大にして叫んだ。特徴的な色の大旗が、乱暴に振り回される。

 大歓声に掻き消される実況は、掠れ掠れに、

 

「"綿月依姫選手が今ッ! 武舞台に入場しましたッ! 彼女が武舞台に登ったのは、幾年ぶりでしょうかッ!"」

 

 怒声にも近い声調で、それだけ言い切った。しかし、大歓声より再び掻き消された。

 

 彼の前に姿を現した少女の名は、綿月依姫。

様々な実績を有し、その圧倒的な力を都中に知らしめ、最強の二の字を欲しいがままにしている彼女。

世間の彼女に対する注目度は非常に高く、この一戦で経済が動くのではないかとも推測されている程。

 

 彼は依姫の顔を視界に入れて、直ぐに視線を逸らした。目を瞑る。

己の知り得る面影を、彼は眼前の綿月依姫から感じ取ってしまったのだ。思わず生唾を飲み込み、じわりと額に汗をにじませる。口の中が乾き始めた。 

 

 会場を湧かせる大袈裟な実況、爆声にも劣らぬ大歓声の中、依姫は彼に向けて言葉を発した。淡々と、落ち着いた声で、

 

「本選の優勝、おめでとう。私が綿月家の次女、綿月依姫です」

 

「ありがとうございます、綿月さん。お会いできて光栄です」

 

 視線は合わせず、彼が一礼。微笑む依姫は、頭を下げない。ただ表情だけは崩さずに、

 

「今は互いに武を競う者同士。窮屈な言葉はやめにして、互いに全力を尽くしましょう」

 

 依姫はそう言い放ち、何もないところから突然、刀を出現させた。

彼はその事に驚愕し、冷や汗を流した。彼女も能力者か、と。

 

「……そうですね。噂に高い綿月さんと闘えるのですから、今はそれだけに集中します」

 

「ふふ、そう。今宵、模範試合の時分……ここは一つ、演戯が必要よね」

 

 愉快に表情を崩す依姫に対し、彼は表情を疑問に染めた。

そうした上でどういう意味ですかと、淡々とした言葉で問いかける。依姫は出現させた得物の刃先を指でなぞりつつ、

 

「パフォーマンスの話よ。せっかくの大舞台だもの、瞬きの間に終わらせてしまっては、観衆達の興も削がれるというもの」

 

「……」

 

「私は"神霊の依代となれる能力"を持っている。聞いたことあるでしょう、"八百万の神"……ってね」

 

 依姫は言葉を続ける。

 

「誤って殺めてしまっては、取り返しのつかない事になるから。あらかじめ手の内を知ってれば、避けることもできるでしょ?」

 

 淡々とそう述べる依姫の表情は、不気味な笑みを浮かべていた。さも余裕だと言わんばかりの態度さえ感じられる。

 

 戦闘の行方、勝敗よりも"パフォーマンス"を重視している彼女に、彼は苛立ちを覚え、憤慨した。

自分が"舐められている"と察した彼は、ならば目の前のこの女に"あっ"と言わせてやろうと強く思った。猛る思いを抑え、懐旧する暇さえ忘れた。言葉など発さず、ただ試合開始の合図を待つ。

 やがて会場を包んでいた歓声が薄れ始めると、実況がスピーカーの音を割らせながら、

 

「"全月民が注目するこのエキシビジョンマッチッ! 今大会、最大の目玉ッ! 闘いの火蓋が今、切って落とされますッ!"」

 

 同時、試合開始の重厚な合図と共に、煌びやかなファンファーレが鳴り、それが試合開始の合図となった。

 恐らく全ての月に住む国民達は、闘いの行方などどうでも良いと考えているに違いない。

それは最強と噂されている綿月依姫が、ぱっと出の"警備隊試験の試験者風情"に負ける筈がない。そう確信しているからである。

闘いの行方よりも、彼女が魅せる数々の技や武術などに興味があり、試合の行方など端から"綿月依姫の勝利"で完結している事柄なのだから。

 

 

「──さて、始めましょうか。手加減してあげるから、全力でかかって来なさい」

 

 依姫がそう言い放ち、ダガーナイフを引っ下げて肉薄してくる彼を見据えた。予想よりも少し早い彼の動きに、依姫は眉間を狭めた。

 

「ッ!」

 

「……あら」

 

 静かな掛け声と共に、ダガーナイフが依姫の刀を猛襲した。双方の得物が、金属音を奏でる。

彼の予想外の腕力に驚いた依姫は、思わず刀を大きく反らしてしまった。彼はその隙を見逃さず、猛攻に出る。

 次々と繰り出されるナイフの刺突を、依姫は上体を左右に逸らし、二、三歩程後退しながら避け続ける。

決して遅くはないその一撃は、僅かであるが依姫の予想の斜め上をいくものとなっていた。

彼女は狭めた眉間を元に戻し、淡々と、

 

「貴方、相当の腕前ね。どうして今まで武術大会に参加しなかったのかしら」

 

「……さぁ。僕にも分かりません」

 

 彼は何も答えず、口を噤んだ。再び攻撃に集中し、得物を振り回す。

小さいながらも神速の一撃を放つダガーナイフは、近接戦闘に運んだ彼に大きな有利をもたらした。

 

 けれども依姫は焦燥感を見せなかった。

右に、左に。攻撃を避けた瞬間、得物である刀の柄を両手で握ると、精密な動作で確実に、彼に向けて迎撃を開始した。

 

「ふっ、武器の選定を間違えたわね。私に勝負を挑んで来る者に、そんな可愛らしい得物を持った人はいなかったわ」

 

「何……ッ!」

 

 依姫の刀が大胆な軌道を描き、疾風の如く襲来。

互いの得物同士が激突する瞬間、依姫の刀が器用に翻される。彼の所持していた得物の刃先が、綺麗に破損した。

 

「あらら、ちょっとやり過ぎちゃったか」

 

 依姫が申し訳なさそうにそう呟いた。

彼の得物であるダガーナイフの刃が損傷し、武道会場の何処かへと吹き飛び、消えた。

残されたのは、ナイフの柄の部分と、損傷した刃を繋ぐ極僅かな金属部のみとなった。

 

「祇園様の剣はあまり使わないのだけれど、今後は控えないと駄目そうね」

 

 やれやれ、といった風に依姫が再び呟く。

完全に彼に対して慢心している素振りを見せるが、事実彼女の腕前は常人を遥かに逸脱しているので、それも当然である。

 

「さて、そろそろパフォーマンスの時間を……っ」

 

 手の平を空中でひらひらとさせ、そう呟いた依姫であったが、刹那その表情が歪んだ。視線を鋭くし、眼前へと意識を集中させた。

 

「──破ッ!!」

 

 地を砕き、短距離を瞬時に詰める。彼は依姫に肉薄し、拳を突き出した。

初撃こそ間一髪のところで避けられてしまったが、接近したのを良い事に二発、三発と繰り出し、終いの回し蹴りが彼女の胴体部を捉えた。

依姫は鈍い痛みを意識し、重い吐息を漏らしてから、

 

「……ッ、と。そう、パフォーマンス。良いわね、ちょっとだけ吃驚──っ」

 

 然も余裕、といった風にそう言い放った依姫だが、次の瞬間には余裕に満ちた表情を大きく崩した。

彼女が慢心している隙にと、彼は依姫に飛び掛り、地面に向けて投げ倒す。

脚部に僅かな痛みを覚えた彼女は、自分が足技をかけられた事を理解し、思わず眉間に皺を寄せた。

 

 仰向けで武舞台に倒れた依姫の上に、彼が覆いかぶさる。華奢な両腕を押さえつけた。

彼女の右腕を彼が左手で押さえ、左腕は右膝をグッと押し付け、動けぬよう固定した。彼の空いた右腕が、依姫の頸を締め上げる。

 

「ぐっ……く、ふふ……へぇ、やるわね」

 

「煩い、さっきからパフォーマンスの事ばかり気にして、油断していた君の負けだ」

 

「ふふ、私の負けだと言うけど、果たして本当にそッ……ぐッ」

 

 依姫の言葉の途中、それ遮るかのようにして彼は彼女の頸を締め上げ、鼻頭を殴打した。

苛立ちを覚えていた彼にとって、依姫の言葉は己の神経を刺激する言葉に他ならない。四の五の言わせまいとした。

 

 流石に、押し倒すという体勢でマウントを取っていては、会場も穏やかではなく、騒然とし始める。

あの綿月依姫が、ぽっと出の試験者に押さえつけられ、無様な姿を晒しているのだから。

この状況には観客は勿論の事、実況者にも熱が入り、大袈裟な実況が会場中に響き渡る。

 

 頸を締め上げられ、鼻頭を殴打された依姫。つぅ、と一筋の赤い線が彼女の鼻先を通過した。

鼻出血。鼻頭を腫らし、彼女には似付かわしくない無様な姿。けれど、依姫の瞳は依然、彼の眼を捉えていた。

 彼女の瞳が猛禽類の如く変化した。深紅の瞳が彼を睨み据え、鼻先を伝う赤い線が拭われる。

 

「……火之迦具土神よ。神の劫火を御身に宿し、不倶戴天の敵から我を守り給え」

 

 呪文のように、虚空へと向けて放たれた言葉。依姫の意味不明な言葉に彼は表情を疑問に歪めたが、間もなく──

 

「──ッ!?」

 

 刹那、須臾にも近い瞬刻の内。

依姫の四肢が炎を放ち、彼の身を焼滅させんと、生命体の如く蠢いた。

彼は瞬時に飛び退き、間一髪それを避ける事に成功したのだが、衣服の端が少し焦げつかせ、肌を少し焼いた。

 淡々と、深紅の瞳で彼を見据えたまま、依姫が答える。

 

「全てを焼き尽くす神の火。愛宕様の火の力はどう?」

 

 着崩れた衣装を直しながら依姫が立ち上がり、両腕に劫火を纏いつつ彼に訊ねた。不思議と、彼女の衣服は燃える素振りすら見せない。

 

「私は八百万の神をこの身に憑依させ、力を行使することが出来るのよ」

 

「……神の力?」

 

「そ。こんなにも熱い火、今までに感じた事ないでしょう。神人の劫火……日天子にも見劣りはしない」

 

 炎を纏った拳を静かに突き出し、依姫が言い放った。

額から嫌な汗を滲ませた彼は身じろぐ事なく、目の前の依姫に対してどう対抗してやろうかと模索していた。

 

 八百万の神を身に宿して、行使する事ができる。

つまり、他にも様々な不思議な能力を使うことができる相手に、どうやって闘えばいいのだろうか。

剣術の腕前も相当のものであり、迂闊に切り結べば……いや、彼には既にまともに使える武器は残っていない。

 今までとはまるで違う対戦相手に、彼は酷く困惑した。神の力を操る、月で最強と謳われる女性を相手に。

そして今まで"誰にも負けない"と思っていた彼の自信を、依姫はあっと言う間に崩壊させてしまったのだ。

 

 瞬間、依姫が地を蹴った。。

会場全体を大いに湧かせる神の力を行使し、彼に襲い掛かる。思考する暇をも、彼女は与えない。

 

「──大御神はお隠れになった。夜の支配する世界は決して浄土になりえない。"天宇受売命"よ、我が身に降り立ち、夜の侵食を食い止める舞を見せよ」

 

 彼女が右手を大きく掲げると、全身から神々しい光を放ち、包まれた。

会場を照らす電光ライトなど物ともせずに、更にそれすらも覆ってしまう程の強い光を放ちながら、彼女はゆっくりと動き出した。

 

「……何のつもりだ」

 

「さぁ? 知りたければ、試してごらんなさい」

 

 挑発的な表情で煽り言葉をかける依姫に、彼が攻勢を仕掛ける。

 武器を破壊されてしまい、頼れるは己の四肢のみとなった彼は、依姫に近接攻撃で臨む。

拳に力を込め、鳩尾を目掛けて殴打。地を蹴り、脚部を撓らせての斬蹴──が、それらの攻撃が彼女に届く事はなかった。

依姫は美しい舞を踊るような動作で、それら全てを避けてみせた。彼が胴体に拳を突き出せば上体を逸らし、足払いを仕掛ければ丁寧な無駄のない跳躍をし、丁寧に避ける。

 

「貴方の攻撃は私には通らない。それでも攻撃を続けるというのなら」

 

 幾度となく体術を駆使して攻撃を仕掛ける彼に、依姫は舞うような動作で迎撃。

彼の僅かな隙を突いて放たれた依姫の拳は、彼の腹部を容易に捉え、膝を曲げさせた。

 

「……ッこの」

 

「無駄よ。天宇受売命の力を使役した私に、貴方の攻撃は通らない」

 

 ──アメノウズメノミコト。依姫が使役した神霊により、彼の攻撃は宙を舞い飛ぶ蝿を仕留めるよりも困難になっていた。

更に二手、三手と拳撃を仕掛けるものの、全て避けられる。そうして見舞われる迎撃。彼女はとても涼し気な表情で、眼下に彼を置く。

 

「ぐッ……これがお前の能力……」

 

「ふふ、圧倒的過ぎたかしら。これではまるで、私が悪者みたいね」

 

 片膝をついて苦言を洩らす彼に、依姫は然も"悪い事をしたな"という表情で、使役していた能力を解いた。

そして再び刀を出現させ、片手で握り締める。祇園様の剣を確実に握り、空いた方の手で再び伝い始めた赤い線を拭うと、

 

「けど、もう少し痛めつける必要がありそうね。……次はちょっと規模が大きいかな」

 

 誰に言うでもなく、依姫はそう呟いた。

彼を再起不能にする目的は勿論の事、会場に訪れた大衆達に、世間へ誇張された情報を流すメディア達に対して、能力を披露する為に。

 

「"火雷神"よ。七柱の兄弟を従え、我に仇名す者を焼き払え」

 

 依姫がとある神を使役した。

火雷神とは、雷が起こす現象を示す神の一つであり、他にも七つの神が存在する。

彼女が呼び起こした火雷神、七つの神々は、会場全体に雷雨を引き起こした。

 

 天井のない会場は大雨により騒ぎとなり、精密機器を持ち込んでいたマスコミ関係者は、大慌てで水濡れ対策を始めた。

更に歓声とは一風変わった騒々しさに変わった観客席には、綿月家のスタッフ達が雨避けの道具を提供するなどして対応していた。

 

「さぁ、今度はしっかり避けないと、本当に死ぬよ」

 

「……っ」

 

 彼の目の前に現れたのは、巨大な竜の形をした炎の塊。竜王を象徴としたような豪炎。まるで意思を有しているかのように、彼を睨む。

大雨の中、雷鳴が鳴り響く。それらは彼の周囲に次々と落雷し、動きを著しく制限させた。

 

 ──こんなもの、まともに受ければ間違いなく死ぬ。

そう危惧した彼は、直ぐに行動する。避雷しないよう注意しつつ、襲い掛かる豪炎を辛うじて避ける。

 

 そして彼は、逃げながら考えた。

一体どうすれば、神々の力を行使する奴に勝てるというのか。

あんな巨大な炎の渦を発生させ、自然の力である雷でさえも軽々と操ってしまう。接近しても不思議な神の力で攻撃は通らず、下手に奴に触れようとすれば、地獄の劫火に阻まれる。

僕が扱える能力は、せいぜい"分離させたり結合させたり"と、そういった類のもの程度。

八百万の力を使役する能力の綿月に、勝てるわけなど……

 

「……神を、使役する……?」

 

 思わず呟いた言葉。だが瞬間、彼の付近に落雷し、無様に吹っ飛ばされた。

大雨により濡れた武舞台の上を滑り転がり、全身がびしょ濡れとなる。その惨めで滑稽な姿に、依姫は憫笑を零した。

 しかし彼は、何かを閃いたと言わんばかりの表情をしていた。

決して絶望はしていない。やがてそれは、確かな勝機に満ち溢れた表情に変わる。沸々と、静かに顔を上げる。折り曲げた膝を真っ直ぐにし、ゆっくりと立ち上がる。

 

「……どうして今まで気付かなかったんだろう。こんなに逃げ回る必要なんて……最初からなかったのにっ」

 

 彼は閃いたと同時に、悔しそうに表情を浮かべ苛立ちを露わにした。

遠目からそれを見ていた依姫は、その状態を疑問に思ったが、それだけ。特に闘いに支障はないだろうと、警戒する事はなかった。

 

 雷鳴が鳴り響き、豪雨に見舞われる武舞台の上。彼は真っ直ぐに依姫へと視線を向け、一直線に駆け出した。

刃が欠けてしまい使い物にならなくなったナイフは懐に隠し、無手で依姫へ攻勢を仕掛ける。

 

「ほう、まだ仕掛けてくるんだ。実力の差というものが、理解出来ていないみたいね」

 

 攻勢に出る彼を、依姫は冷静に迎え撃つ。

祇園様の剣を片手に提げ、無手で迫る彼を一振りで後退させてみせた。が、尚も諦めぬと、彼は依姫に向かって拳を突き出す。

 剣が振るわれる度に彼は後退し、その隙を縫って再び依姫の懐へ猛襲を仕掛けた。

彼が近付けば近付くほど、小回りの効かぬ剣での立ち回りは不利になっていった。

 

「……っ、まだこんなに動けるのね」

 

 依姫が表情を顰め、そう呟く。

やがてどちらかが手を伸ばせば触れられる距離にまで肉薄すると、依姫は祇園様の剣を片手に、神を使役した。

小煩い蝿を打ち払うが如く、灼熱の権化を。

 

「火之迦具土神よ。神の劫火を御身に宿し、不倶戴天の敵から我を守り給え」

 

 再び愛宕様を使役し、依姫の両腕が灼熱の劫火に包まれた。

しかし、それでも彼の拳撃は止まらない。

 

「ふっ、馬鹿ね。自滅する気?」

 

 形振り構わず仕掛けてくる攻撃に、依姫は両腕を置き添えて防ごうとするが──

 

「──っな」

 

「馬鹿なのは君の方だ。綿月依姫っ!」

 

 劫火に包まれていた両腕が、端から何もなかったかのように元に戻った。

愛宕様の火もなければ、祇園様の剣も消失し、先程まで騒がしかった雷雨も嘘だったかのようにピタリ、と止んでいた。当然、彼女の腕にも愛宕様の恩恵はなく。

 

 そうして彼は、慢心に包まれていた彼女を思い切りぶん殴った。

愛宕様の劫火を用いて防御する手筈だった彼女に、それを避けられる余裕もなければ、耐えようと筋肉を締める余裕もなく。

 

 

「…………ッ、うぁッ……かっ」

 

 顔面を思い切り拳で叩かれた依姫は、後方に転がり倒れた。

何とか立ち上がる素振りを見せるも、敢え無く片膝をついてしまう。苦悶の表情を浮かべ、呼吸を荒くした。

頬にはうっすら紫色の痣が出来ており、唇の端から血液を流していた。

 

「神をその身に宿して使役するのなら、それを"分離"させてやればよかった……何故、今まで気付かなかったんだろう」

 

「な、……何ですって……」

 

 疲労に身を包んだ彼であったが、悠々とそう呟き言い放った。

彼の能力である、"分離させたり結合させたりする能力"により、彼女がその身に宿した神霊を、分離させた。

一か八かの賭けによる行動であったが、彼の予想が彼女の能力を上回ったのだ。

攻撃する直前に神霊を分離させる事により、完全に依姫の虚を突き、強烈な一撃を見舞うことに成功した。

 

 

「よくも私に一撃を……痛っつぅ、かなり効いたわよ」

 

 頬をすりすり、と撫でながら、依姫はそう口にした。

 

「……嘘」

 

「貴方も能力持ち……って事ね。私の神霊が看破されるだなんて、予想外」

 

 未だに健在そうな依姫に対し、彼が頭を抱えた。

依姫は口端から流れる血液を拭い、再び戦闘態勢に入る。が、また血が流れる。

健在な素振りこそ見せるが、決して傷は浅くはない。それはただの強がりに過ぎず、彼女は言葉を紡ぐ。悠然と孤高に、

 

「久しぶりに燃えてきたわ。貴方のような人がまだ存在していただなんて。世界はまだまだ広いってことね」

 

「僕の方こそ、月がこんな世界だったなんて、夢にも思ってなかった。君のような強い人がいるってこともね」

 

「……ちょっと待って、月がこんな世界って、どういうこと?」

 

「……う。今のなし、聞かなかったことにして」

 

 失言にも近い彼の戯言に対し、依姫は疑問の声をあげるが、彼は答える素振りを見せない。

ならば致し方なしと、探究心の強い彼女は、彼に向けて再び祇園様の剣を出現させ、構えた。

 

「ふーん。いいわ、別に。無理矢理口を開かせるのも乙なものだし」

 

「……おお、怖い。さて、と。そろそろ決着をつけようか。……大どんでん返しは近いな」

 

 彼は依姫にそう言い、静かに手をかざした。彼自身の能力を行使し、依姫の能力を制限させる為に。

間もなく、依姫の持っていた祇園様の剣が消失した。神霊に関する事象も全て分離し、今後一切の使用を制限させると言わぬばかりに。

 

「ふふ、そう。無手で来い、ってことかしら」

 

 面白可笑しそうに、だが額から汗をにじませながら、依姫が言った。

 

「そうだよ。最後に頼れるのは己の肉体のみ、って言うだろう」

 

 依姫と彼が得物も持たずに、武舞台にて対峙。

武舞台は戦闘が行われる前と比べると、あちこち損傷しており、雷雨に打たれ炎に焼かれ、落命により大穴まで築いている始末である。

 

 

 

「──破ッ!!」

 

 最初に動いたのは、依姫。

姿勢を低くし、地を蹴る。強靭な脚力にて一瞬で彼との距離を詰める。

 

「……ッ」

 

 まさに神速といった速度で肉薄してきた依姫に、彼は身動き一つ取るのを忘れ、

 

「遅いッ!」

 

 迎撃の体勢の彼ではあるものの、一瞬にして懐に飛び込んだ依姫が、彼を抱え上げて一気に投げた。

柔道でいうところの背負い投げを受けた彼は、綺麗な弧を描いて武舞台に叩きつけられる。

ぐぅ、と体内の酸素を一気に吐き出して苦痛に表情を歪めるが、依姫の攻撃は終わらない。追撃と言わんばかりに彼に馬乗りになり、顔面を目掛けて拳を叩きつける。

 

「これで動けない……砕けろッ!」

 

 拳を天高く振り上げ、彼に向けて直に振り下ろす。

鋭利な風切り音と共に振り下ろされた拳は、彼の頭部を破砕せんと容赦なく叩き付けられた。鈍い音が何度も繰り返された。

彼女の拳が彼を襲う度、武舞台の会場が衝撃により壊れ、彼の後頭部から赤黒い血液が流れ始めていた。

 

 依姫に顔面を何度も打ち抜かれ表情を歪める彼だが、単調に行われるその攻撃を見切り、彼女の拳を受け止めてがっちりと握った。

 

「ッ、喰らえ」

 

「……なッ!」

 

 そうして彼は能力を行使する。すると依姫の拳が一瞬にして裂傷し、鮮血を周囲に撒き散らした。

 

「ぐぁッ……!」

 

 予想外の攻撃に苦痛の表情を浮かべる。だが、彼の攻撃はそれだけに終わらない。

馬乗りの体勢になっていた依姫を、全身に力を加え力ずくで吹き飛ばした。

 吹き飛ばされた依姫は直ぐに立ち上がり、再び彼に向けて攻勢に出る。月で最強と謳われる彼女は、近接戦闘術にも長けている事を証明する為に。

 

 純粋な拳と拳のぶつかり合いにも関わらず、依姫と彼の実力は拮抗していた。

彼女が彼を叩きつければ、今度は彼が拳の応酬をする。

一発、二発、三発と何度も何度も繰り広げられ、会場の熱は次第に高まっていた。

 

 

「"──す、凄いッ、凄いぞッ!! 依姫選手も天野選手も、互いに一歩も引けを取らぬ接戦を繰り広げているゥゥッ!! 一体誰が、このような試合展開を想像していたのでしょうかッ!!"」

 

 最早実況の声など、彼らには届かない。

地面に倒れ伏した彼に、思い切り拳を突き立てる依姫だが、間一髪で彼がそれを避ける。空を切った依姫の拳が、武舞台を破壊した。

 更に今度は彼が依姫を押し倒すと、同じように拳で殴打する。

既に決闘ではなく、喧嘩や取っ組み合いと表現した方が相応しかった。

 

 

「…………っ、はぁッ」

 

 数分もの間続けられた殴り合いは、やがて終着点を見せ始める。

両者とも息を切らし、裂傷や打撲傷に表情を歪めながら、相対する。

 

「……はぁッ、こんなにも……ッ、苦戦するなんて……私らしくないッ」

 

「……いい加減に、倒れろよッ……」

 

 肩で息をする両者は、苦言を呈したり皮肉を洩らしたりと、段々と正常な思考能力すらも低下させていた。

衣服はボロボロ、雨に濡れて湿っており、裂傷で血液が付着し、更に幾度となく拳を叩きつけられたせいで、くたくたになっている。

 

 決着が着くのは時間の問題であろう。

観衆達の誰もがそう思っていた時、彼が懐からある物を取り出した。

 

 

「……それは」

 

「君が壊してくれたナイフの柄……ずぅっと、懐にいれてた……」

 

呼吸を乱しながらそう説明を始める彼であり、その表情は不敵な笑みを浮かべていた。

 

「僕の能力は……"結合させたり分離させたり"する能力だ」

 

「それが、どうしたのよ……っ」

 

「鍔から先が無くなったこのナイフだが……僕は今からこれを"結合"させるッ!」

 

 彼はナイフの柄を腰の辺りの位置で固定させ、刃先を彼女に向けた。

そうして能力を行使し、ナイフを結合させると言いのたまう。依姫は疲労し思考するのもままならず、ただ呼吸を乱していた。

 

 ──壊れたナイフを結合させる。

それはつまり彼の持っている柄の部分に向けて、"会場の何処かへ落ちた刃が飛来して戻ってくる"という事であり、刃が依姫を貫くという事──

 

「喰らえッ、綿月依姫ッ!!」

 

 事は一瞬で終わる。刃が柄の部分へ向けて飛来し、突き抜ける。

 

「──うッぁ……!」

 

 肺から、枯れた喉から、体内中の酸素を排出すると同時に、苦痛を意味する低く短い悲鳴をあげた。

刃が依姫の身体を貫く、その瞬間に彼は能力を止めた。完全に貫いてしまえば、致命傷になってしまうから。

けれども刃は依姫の肉を深く抉っており、背中部分であろうが大きなダメージには変わりなく、その場でよろめいた。

 

 だが、それでも。

最強と謳われた彼女は、攻勢を仕掛けてくる。此処で引いてしまっては、最強の名が薄らいでしまうから。

大きく負傷した身に鞭を打ち、彼に向けて拙い足取りで距離を詰め、普段と変わらぬ──いや、今までよりも力を込めて、拳を放った。

 

「……破ッ!!」

 

「……此れで終いだッ!」

 

 彼も最後の一撃だと言わんばかりに、拳にありったけの力を込めて、放った。

 

 会場中の全ての人達が試合の行方を注視している最中、彼らの攻撃は一瞬で終了した。

彼の拳が、依姫の鳩尾深くを抉っており、依姫は拳を放った体勢のまま、ぴくりとも動かなかった。

対して依姫の拳は、彼の顎を綺麗に打ち抜いていた。彼もまた、攻勢のまま動かない。

ほぼ同時に急所へと拳を打ち込まれた両者は、拳を放った姿勢のまま動くのを止めると、やがて重力に従いその場に崩れ落ちた。

 

 

 ────気絶。

依姫は、鳩尾に強力な一撃を打ち込まれ、気絶していた。

そして彼も顎を殴られ、強烈な痛みで意識を失いかけ、その場にぶっ倒れた。刹那、盛大な実況が会場を支配する。

 

 

「"決着ゥゥッ!! 綿月依姫選手、立ち上がりませんッ!! 天野義道選手も同じく、動く素振りを見せないッ!! これは──"」

 

 彼は失いゆく意識の中、ひたすら思った。

此処で立ち上がれば、僕の勝利で全て完結する、と。

そうして必死で立ち上がろうと四肢に力を込めるが、全くと言って良い程動かない。悔しさよりも、痛覚により表情は歪む。

顎を打ち抜かれたせいで意識が遠く。言葉を口にする事すらできず、口の中が鉄の味で満たされていた。

 

「"引き分けですッ!! 熾烈な決闘の行方は──"引き分け"で完結ですッ!!"」

 

 やがて引き分けという形でこの場が収まってくると、彼は考えるのを止めた。それ以上、何も考えられなかったから。

既に戦闘は終了し、今更立ち上がったところで、どうにもならないのだな、と悟ったのだ。

そうして彼は、薄れゆく意識の中に精神を溶け込ませた

 

 

* * *

 

 

 ──綿月家警備隊登用試験、トーナメント試験が終了した。

本選トーナメントの優勝者は天野義道となり、準優勝に法華津蓮、三位に西院堂郡司が入賞した。

 トーナメント試験終了後に催される筈だった面接試験に、彼だけ姿を見せる事はなかった。

エキシビジョンマッチによる負傷により意識を失っていたとして、面接試験を受ける事が出来なかった彼は、その点を考慮した上で公平な選考をすると説明がされた。

恐らく彼が目覚める頃には合格発表が届けられるとの事であったが、その事実を彼は知る由もない。

 

 各メディア達が集い、盛大に取り上げられた大規模な大会により、その経済効果は数百億にまで上っていると発表され、各方面で話題となった。

また数々の試験者に対する厚遇や大会の調整、会場の修復作業等々により、費やした費用も相当な額となったようだ。

 

 そしてエキシビジョンマッチの勝敗の行方は、数多の審査員の厳正な審査により、"綿月依姫の判定勝ち"に至り、その不動の伝説を更に固める結果となった。

それでも彼の活躍は各方面で取り上げられ、今度の行方が注視されており、綿月家に採用されるのはほぼ確実だろうと噂されている。しかし、綿月家側は外部に合否を洩らさず、詳細は不明だ。

 

 このような結果となった登用試験であったが、彼は未だに目を覚まさない。

彼を担当している試験官が看病している事も、ボロボロとなった衣服を脱がして処置をしている事も、何も知らない。









以上となります。
ようやく原作キャラクターが登場となります。
以降から基本的には原作キャラクターが主軸となり、物語が進行します。


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巻ノ三十五 行方知らず

 ──知らない天井だ。

 不意に意識が覚醒する。眼前に広がったのは、何処までも真っ白い天井であった。

 左右に頭を動かして、状況を確認してみる。どうやら僕は、ベッドの上で寝かされているようだ。

点滴などは置かれていないし、白いカーテンで仕切られているわけでもない。、室内に置いてあるのは、僕が横になっているベッドと、簡易な机、質素な椅子しか置いてない。

重症を負い、治療を受けている最中というわけでもなさそうだ。、単純にあの試合の後、意識を失って搬送されただけなのだろうか。前後の記憶が薄い。

 

 特に身体に痛む箇所はない。顎に分厚いガーゼが貼られている程度だ。これなら動けそうだと確信し、上半身を起こして周囲を確認してみた。

 

「……あ、あれ」

 

 室内は何の変哲もない無機質な部屋だったが、ふと自身の衣服が普段のものとは違う事に気付いた。極僅かな違和感を感じた。

普段着ているようなゆとりのある服ではなく、患者着のような衣服がいつの間にか着用させられていた。

元々着ていた衣服は衣服は何処にあるのかと、室内を見渡してみた。それは直ぐに見つかる。

机の上に丁寧に畳まれて置かれていたので、一先ずは安心。履いていた靴も薄っすらと輝きを放っており、磨かれている事が窺えた。そして、小さな疑問。

 

「どうして僕の服がそこにあるんだ。一体誰が着替えさせたんだ……何故気付かなかったんだ」

 

 急いでベッドから起き上がり、畳まれていた衣服を手の内へと確保。床に揃えられていたスリッパを無意識の内に蹴飛ばしてしまい、片方のスリッパだけが床を滑った。

 僕は即座に患者着を脱ぎ捨て、普段着ていた私服に袖を通した。……患者着は薄手の水色をした衣類だった。一枚脱いだ途端、素肌が露出された。性別がバレた可能性が高い。

どこの誰にバレたかまでは分からないが、まさか男がサラシを巻いているなんて思わないだろう、そいつが女装癖のある変態ならば話は別であるが。

 

 着替えはものの数十秒で終了した。

患者着のアウター部分を脱ぎ捨て、ボトムもひょいと脱いで私服のズボンを穿いた。

 

 さて、この後どうしようか。若干身体に痛みを感じるが、落ち着いてもいられない。

迂闊に外に出て、騒ぎになるのは困る。面倒なことを起こすのは良くない。

 性別を詐称している事が、誰かに知られてしまっているかもしれない。そう考えると、やはり落ち着いてはいられない。

何かしらの手を打ちたいが、今の僕にはどうする事も出来ない……運を天に任せるしかない。今のうちに、言い訳の一つでも考えておこうか。

 

 様々な不安要素を思考し、辟易としている最中。ふと部屋の扉が開いた。気落ちして眉間に皺を寄せた表情だったが、構わずにそこへ視線を向ける。

 

 

「あ、天野さん。目を覚まされたんですね」

 

 扉を開けた主は、試験官である玉兎だった。普段からニコニコしてるその顔も、今の僕には憫笑にしか見えない。

玉兎は救急箱のような物を持ってきており、僕が目を覚ましていたのが然も意外だったかのような表情をしていた。

 

「お体の方は大丈夫ですか? どこか痛む箇所があったりは……」

 

「いえ、問題ありませんが……一つ、お聞きしたい事が」

 

 近くにあったテーブルに救急箱を置くと、きょとんとした表情で玉兎は顔を向けてきた。

僕が聞きたい事は、とてもシンプルな事柄である。

 

「目が覚めたら、この患者着を着させられていたのですが。誰かが着替えさせた……ということですか」

 

「……えーと、一応私が担当してたんですが、何か問題ありましたか?」

 

「貴女がですか?」

 

「ええ。天野さんって、女性みたいな体付きしてますよね。どうしてサラシなんて巻いてるんです?」

 

 さらっとした表情で、玉兎がそう訊ねてきた。

 

 どうやら、目の前のこの兎が僕の事を着替えさせたに間違いない。本人がそう言うのだから、確定だ。

しかし、それは不幸中の幸いにも等しい。

男がサラシを巻き、女性のような肉付きをしているにも関わらず、尚も女だと疑わない辺りどこか抜けているのか。

或いは僕の事を試しているだけなのか。玉兎は月の民と微妙に思考が違うらしいので、よく分からない。頭の良い馬鹿、という奴なのだろうか。

 玉兎の質問に対して少しばかし思考し、いくら玉兎が馬鹿正直者であろうとも、言い訳の一つもなしでは流石に拙いと思い、

 

「えーと、これは……そう。プロテクターの一種です。急所を守る為にあらかじめ仕込んでいたもので……ほら、詰め物だって」

 

「ああ、なるほど!」

 

 やはり頭足らずなのか、馬鹿正直なのか。僕の言葉を疑うこともせずに、素直に受け入れる。不幸の中の幸い。

あまりこの手の話題を続けて、再び突っ込まれたりしたら堪ったものではない。話題を変える事にした。

 

「そういえば、此処はどこなんですか」

 

「綿月家保有の小病院です。担当の看護婦として、私が手当てをしていたんですよ」

 

「……そうなんですか。あれ、でも君は試験官としてずっと活動していたじゃあないですか」

 

「試験官としての仕事は臨時で派遣されたものなんですよ。私の本職は看護婦なので。ああでも、試験官としての仕事はまだ残ってるんですけどね」

 

 驚いた。試験中に何度も顔を見たなと思ったが、同一人物だったらしい。

 ごそごそ、と玉兎は懐から何やら取り出した。大きめの封筒に、立派な文字と大きく真っ赤な押印がされている。

 

「どうぞ、連絡便です。実は天野さんが意識を失っている間に、面接試験が実施されていたんですよ」

 

「……え」

 

「試合での健闘による辞退ですので、ある程度の考慮はされていると思いますが。あ、当然ですが中身は開けていませんので、私にも分かりません!」

 

 えへん、と胸を張ってそう言い放った玉兎だが、普通他人宛ての手紙を真っ先に読む者はいないだろう。

 

 本選トーナメントの後に、面接試験が行われていたらしい。

 僕は綿月依姫との試合により意識を失っていたので、その試験に参加する事ができなかった。採用者側の都合により、再実施も行われないとの事。

 

 けれども面接をしていなからといって、まだ不合格になったというわけではない。

その点を考慮した上での選考がされるという事なので、綿月依姫と非公式ではあるが、試合をし善戦した上での辞退……悪いようにはされないと願いたい。

 

「あれ、そういえば僕は、どれぐらい意識を失っていたんですか」

 

 ふとした疑問を覚えたので、玉兎に訊ねてみた。

 

「えと、カルテによりますと……約三日間ですね。脳に異常が及んでいる可能性があるという事でしたので、念の為ですが精密検査も行いましたよ」

 

「……精密検査?」

 

「はい。八意様が直々に視て下さったので、後遺症などの心配はありませんよ!」

 

 軽快にそう言い放つ玉兎だが、僕としては言葉に引っかかる。

それは精密検査を行っているという事。そんな勝手なこと、しないでもらいたい。

恐らく玉兎の口ぶりからして、検査を担当していたのは"八意様"という人物に間違いないだろう。

 

 このまま放ってくのも一つの手である。"八意様"という人物と僕は、面識すらないのだから。

けれども、そいつに変な噂を流されでもしたら堪ったものではない。

八意様という人物がどのような奴なのか、現時点では計り知れない……が、一見する価値はある。あわよくば、口を封じる事さえできれば。

 

「そうですか。では、その八意様って、一体誰なんですか」

 

「えっ、八意様を知らないんですか? あの綿月様達が"お師匠様"と仰いでいらっしゃる、あの八意様ですよ」

 

「……おや、まあ」

 

 予想の斜め上をいっており、驚いた。

そこらにいる医者のご老体を想像していたのだが、訊ねてみればそいつはあの綿月姉妹の師、という事らしい。どうやら放っておいたとしても、関わらざるをえないだろう。

一応だが、その人が何処にいるのかも聞いてみる事にした。

 

「その八意さんって人、普段は何処にいる人なんですか」

 

「うーん、八意様は多忙なお方なので、普段は研究所にいたり綿月様達とお話されていたり」

 

 一度お会いしてみては如何ですか、と玉兎が僕に提案してきた。

綿月家に深く関与している人物らしいので、僕のもう一つの目的の為にも、八意という人物とコンタクトを取る必要がある。

 だが推測するに、かなり高位な人物という事も見受けられる。

あまり不用意に近付き無礼な行為を振舞ってしまえば、反感を買う事は間違いない……わざわざ会いに行くという事は、今はしなくて良いかも。

 

 

 その後も玉兎と世間話を嗜んだ後、彼女は荷物や資料をまとめ、

 

「それでは、私はこれにて。天野さんはこの後、どちらに」

 

 そんな事を問われたので、少し思考してから、

 

「どちらにと言われましても。試験は終わってるみたいですし、帰宅しても良いのですか」

 

「ええ、勿論です。選考通知は既に行われていますので、結果を見てみるのも良いのではないでしょうか」

 

「本当ですか。てっきり、口頭で告げられるものだとばかり」

 

「そんなまさか。通知形式は私には分かりませんが、便箋やら電話やら……何分試験者が多いものでして、円滑に進む手法で行われているかと」

 

 

 既に合格発表は行われているらしい。玉兎は駆け足で、選考通知について簡単な説明をしてくれた。その後、急ぎ足で退出した。

 

 どうやら帰宅しても構わないとの事なので、僕は早々に身支度を開始した。

色々と手続きが必要なのではないかと考えていたのだが、それは杞憂に終わる。割りと淡白なものだな、と道すがら思った。

もしかしたらこの小病院は、それなりにアウトローな施設だったり……と、そんなわけないか。

 

 登用試験の全日程が終了したので、契約期限の迫っているホテルに帰還する事にした。

この地より遥か数時間先にあり、帰りの乗り物の中で惰眠を貪った。車より早く、快適だった。

 

 

* * *

 

 

 ホテルに帰還した後、普段通りに部屋に戻ったのだが、本選トーナメントの影響もあってかちょっぴりだけ僕の知名度が上がっていた。

支配人らしき男に「おかえりなさいませ」等と言われ、深く頭を下げられたので、対応に困った。真似をして深く頭を下げておいたが、あれで良かったのか知ら。

 

 部屋に戻り、僕は直ぐにベッドの上に飛び込んだ。

綺麗に整えられたシーツが僕の体重によりくしゃくしゃになると、低反発仕様のマットが深く沈みこむ。

 

「ああ……もう夕暮れか。今日、何もしてないな」

 

 仰向けの体勢のまま、机に添え付けられた時計を見てみる。時刻は既に十七時を回っており、窓の外は黄昏模様を呈していた。

 

 意識が回復し玉兎と軽い世間話をした後、直ぐにホテルに帰宅したので、今日という日は本当に何もしていない。

そういえばお腹が空いた。まだ何も口にしていない気がする。あ、水だけは飲んだ。

お腹も空いているけど、身体もムズ痒い。気絶していた間、風呂にも入っていなかったので、髪の毛もちょっと嫌な感じがする。

 

 そうだ、先ずは風呂に入ろう。

食事が提供される時間はまだ先なので、惰眠を貪っていてもしようがない。

僕は即時、部屋にある小さな風呂場に移動し、衣服を脱ぎ捨て湯を浴びる事にした。ホテル内にある銭湯は利用しない。

 

 

 ユニットバスの簡易的な風呂場で湯を浴びた後、身体の表面に付着した水分を拭き取り、動きやすい服に着替えて部屋に戻った。

いわゆるジャージのような服なので、風通しも妙に良く、過ごしやすい。心地よさを肌で感じる。

 

 たかがシャワーを浴びた程度なので、直ぐに身体も冷えてくる。体温を保持する為、ベッドに飛び込み部屋に添え付けられているテレビの電源を入れた。

 

「……どれもトーナメントに関しての内容ばっかり」

 

 どの放送局も、試験で行われたトーナメントに関しての内容ばかり。ドキュメンタリーやドラマの類などは一切放送していなかった。

各試験者……選手達にスポットを当てたインタビューやら、選手達の経歴の説明……そしてピックアップされた試合のシーン等々。

何となく漠然と視聴していると、五輪大会の放送を見ているような感覚に近く、ぼーっと見ているだけで随分と時間が過ぎていたのに驚いた。

 

「本質は警備隊登用試験なのに。どーしてこんなに盛り上がっているのか」

 

 僕としては、ただそれだけが疑問であった。

 僕の生きてきた世界と、この月の都の文化の違いに過ぎぬのだが、生活する環境が違えば人間の価値観そのものすらも変えてしまうという事なのか。

月人は小さな催し事に対しても、積極的に参加する節があるのだろうか。恐らく今回も、それに基づいていたという事か。

 

「落ちた人は目も当てられないな……」

 

 思わず、そう呟いた。

これだけ大規模に行われた試合展開、取材などで大言を叩いていた者が不合格になったら……考えただけでも、惨め過ぎる。

本選トーナメントには三十二名の選手が参加しており、予選に関しては三千人以上が参加していたというらしい。

その中から綿月家の警備隊に採用される者が、およそ数十名程度。狭き門とはこの事である。

 

「あ、僕の試合が流れてる」

 

 ぼーっとテレビを見ていたのだが、放送内容はやがてエキシビジョンマッチに関しての内容となり、"綿月依姫"と大々的なテロップが表示されていた。

僕もトーナメント優勝者としてピックアップされていたのだが、それよりも綿月依姫に関しての記事が多かった。自分の映像が映ると、小恥ずかしい気持ちになる。

淡々とそれを見ていたのだが……

 

 

「なん、だと……」

 

 『エキシビジョンマッチの勝者は、綿月依姫で完結』

大々的なテロップに加え、僕がボコボコに殴られているシーンや、綿月依姫が神霊を行使している部分ばかり。

最終的には両者とも意識を失い、判定は審査員達に託されたところ、観衆達を魅了する技の数々や、手数の多さが判断材料となり、綿月依姫の勝利という結果に。

 

「そんな、僕が判定負け……せっかく善戦したのに。納得がいかないぞ」

 

 引き分けで終わっていたと思っていたのにも関わらず、世間は綿月依姫を勝者として選んだ。

ナプキンの法則というものがあるが、最初に勝者に選ばれた綿月依姫こそが、至高にして最強という事になる……少しぐらい、僕の善戦が評価されても良いと思うのだが。

 

「はあ……ま、いいか。エキシビジョンマッチは選考に影響しないって言ってたし、トーナメント自体は優勝したんだ。少しぐらい、知名度は上がってるか」

 

 前向きに考えよう。

ホテルの支配人も僕に対して敬意のようなものを表していたし、そもそもトーナメントには優勝しているのだから。

合格通知が楽しみだ。……そういえば、既に通知は行われているとの事だが、僕宛にはいつ頃届くのだろうか。

 

「よし、食事にしよっと」

 

 明日辺りには届くだろう、玉兎に日にちまで確実に聞いとけば良かった。

 流石にお腹が空いてから大分時間が経過していたので、腹の虫が僕に猛抗議を仕掛けていた。

それらを制した後、ベッドから乱暴に立ち上がりホテルの食堂に向かおうとした時、ふと床に何かが落ちたのに気付き、目を向けた。

 

「……まだ開けてなかったね、これ」

 

 落ちたのは、玉兎から手渡されていた連絡便とやら。

およそB4サイズの大きさの封筒だったので、部屋に着いた後も乱雑に机の上に置き散らかし、そのままであった。

食事に行く前に目を通してみよう。もしかしたら通知に関しての説明も記載されているかもしれないし。

 

 封筒の口部分を結ってある紐を外し、中身を取り出す。

中に入っていたのは同じくB4に近いサイズの綺麗な紙であり、そこにはびっしりと文字が敷き詰められていた。読むのも億劫になってくる。

 

「……何々、今後の日程について」

 

 封筒の中にあった紙には、今後の試験の日程について記載されており、内容に関しては既に終わった事である。日にちも、既に過ぎていた。

トーナメント試験終了後に面接試験を実施する、という旨が書き連ねられているだけ。読んでも仕方ない。

 けれども最後の方まで目を通してみると、そこには僕の名前が記載されている。追記のような形で、面接試験中止の旨が記載されていた。

 

 丁寧にこのような事まで封筒に入れて送りつけてくる辺り、綿月家の人事関係者は糞真面目な連中なのだろうか。いや、これが普通と考えるべきか。

 

「お、もう一枚入ってる」

 

 読み終えた紙を封筒に戻したのだが、封筒の中にもう一枚、更に小さい封筒が入っているのに気付き、取り出してみた。

今度の封筒は先程よりもずっと小さいもので、真っ白な厚紙で作られた封筒。

 

 そのままにしておいてもしようがないし、中身も気になるので直ぐに開封した。

封筒の口を開けた瞬間、ふわりと何かが浮き上がり……空中に"1"と表示された。間もなく、霞んで消えた。

画期的な未知の技術だなぁと思いつつ、小さな封筒からこれまた小さな紙を取り出し、目を通す。

今度は合格通知に関しての事なのだろうか。やけに綺麗で分厚い紙なので、恐らく記載されている内容は重要事項だと思うのだが……

 

 

「えーと、何々……各試験者を対象に慎重に選考を重ねました結果、まことに残念ながら今回はご期待に添えない結果に──」

 

 一瞬、何が書いてあるのか理解できなかった。

何度も強く目を擦った後、再び紙面に目を通す。

 

「……選考結果のご通知。……ご期待に添えない」

 

 書いてある内容がよく分からない。紙面をひっくり返して裏面を見てみたが、何も書かれてない。

表面に書かれている内容は、機械的な精巧な文字で、"ご期待に添えない"とだけ書かれてる。

 

「……そんな、まさか。不合格? この僕が?」

 

 ありえない。ありえないだろう。だって僕は、本選トーナメントで優勝したんだぞ。

あの綿月依姫にだって一矢報いたのに、どうしてこの僕が不合格になるんだ。分からない。分からなかったから、通知書を投げ捨てた。

 

 けど、躍起になっても仕方ない。意地になり通知書を拾い上げ、もう一度読んでみたが、内容は変わらなかった。

既に通知はされていた。あの玉兎が渡した封筒の中に、それが入っていた。ただそれだけの事。

僕は今まで、不合格だったのにも関わらず、既に"合格した気"で行動していた……のか。いや、大会の時から既に、その気だったに違いない。

 

 喉の奥から何かが込み上げてくる。途端に吐き気や眩暈に襲われ、立っているだけなのに辛くなってきた。はぁ、と深く溜息が出た。

耐えられなくなって再びベッドの上に倒れこみ、いつの間にかくしゃくしゃになっていた通知書を広げて、また丸めた。空腹感など、既になくなっていた。

 

 何故、どうして。あんなに活躍したのに、落ちたんだ。

一体何を基準にして選考が……いや、なんで僕が落ちた。

自己中心的な思考回路に陥り始め、考えるのも億劫になる。もはや食事どころではない。ベッドから起き上がる気すら起きない。

負の思考に脳内が満たされた途端、僕は思考する事をやめた。

 

 

* * *

 

 

 所変わり、綿月家では少々問題が起きていた。

 

 エキシビジョンマッチが終了し大規模な大会が閉幕を迎えてから数日後、綿月依姫は意識を回復させた。

彼よりも若干回復は遅れたものの、肉体的ダメージに比べると回復は早い方であった。

 

 そして目覚めた依姫は看病に訪れていた姉、綿月豊姫、師である八意永琳に対してこんな事を口にしていた。

 

「……お姉様。私はもしかして、負けてしまった……」

 

頬にガーゼを貼り、普段着姿のままベッドに寝かされていた依姫は、その体勢のまま言葉を呟いた。

 

 大観衆の前で意識を失ってしまう程の決闘になるとは、依姫は勿論の事、豊姫も永琳すらも予想にしていなかった為、彼女らは酷く困惑していた。

それも審査員達により"判定勝ち"という結果に至った事により、冷静さを取り戻したのだが……その事を知らぬ依姫は、未だ思考の整理がつかずにいる。

 

「いえ、結果は貴女の判定勝ち。世間では貴女と彼の試合に関しての話題で持ち切りよ」

 

「判定勝ち……私が……──痛ッ」

 

 ベッドから半身を起こした依姫が唇を噛み、小さな悲鳴をあげた。

 

「ああ、まだ起き上がったらダメよ、依姫。また傷口が開いてしまうわ」

 

 豊姫が労わるようにし、依姫に向けてそう告げた。

彼の攻撃により背中を大きく負傷しており、依姫自身が思っているよりも、その傷は深かったのだ。

 

「あの男に対しての疑問は積もるほどあるけれど、どうして最後まで能力を行使して戦わなかったの?」

 

 豊姫がそう依姫に訊ねた。

 

「……恐らく、相手の能力によるものだと思います。使役していた神霊が全て遮断されて、行使することが出来なかった」

 

「……相手の能力?」

 

「ええ。祇園様の剣も消えてしまって。正直、混乱しました」

 

 ふぅ、と当時の状況を思い出し、小さく吐息する依姫。

 

 静寂が療養室を襲う。

豊姫は見舞いで用意した桃の切り身を、こっそりと摘んでいた。依姫の為にと用意した筈なのだが、気付いたら手を付けているのは彼女だけだった。

カルテのような物に目を通し、何かを書き込んでいる永琳は、黙々と作業をしているだけ。

誰も何も口にしない状況が幾許か続いたのだが、始めにその状況を打破したのは、依姫であった。

 

「……八意様」

 

「ん、何かしら」

 

 依姫に名を呼ばれるも、作業の手を止めぬ永琳は、言葉だけで応対する。

言い辛そうに表情を変える依姫だが、呟くようにして言葉を続ける。

 

「その……あの者に関してなのですが、警備隊に採用されたら是非、私の下に」

 

「あ、もしかして依姫、もう彼の事が気に入っちゃったの?」

 

「違いますよ。素質もあるし、能力だって持ってるんですもの。他の隊にやるのは惜しいって思っただけです」

 

 からかうようにして豊姫にそう言われるも、口早に否定の言葉を並べる。

 

「じゃあ、入隊式の時にでも直接指名してやればいいんじゃない?」

 

「指名、ですか?」

 

「そ。『天野、前に出て来ーい!』……とか言ってみたりしてさ」

 

 豊姫の言葉に依姫は、言いませんよと、溜息混じりに否定した。

穏やかな表情で桃の切り身を口に含みつつ、豊姫は依姫を茶化したりと、会話の絶えぬ仲の良い姉妹達であった。

 

 

「ね、構いませんよね、八意様!」

 

 迷いのない笑みで依姫は永琳にそう訊ねた。

 対して永琳は小さく溜息を吐きながら、手元のカルテのようなものを近くのテーブルへ置き、依姫に向き直り口を開いた。

 

「妄言もそこまで。彼は不採用よ」

 

 さらっと、何事もなかったかのように、言葉を紡いだ永琳。

先程まで表情を笑みに染めていた綿月姉妹は一転し、その表情は疑念に包まれた。困惑すら覚えた。

 さぞ疑問に感じたのだろう、依姫が「は?」と小さく呟き、師である永琳の言葉を待った。

 

「不合格。言葉の通り、合格基準に満たなかった。彼が入隊式に訪れることはないし、貴女と再び仕合うこともないでしょうね」

 

「……不合格? ど、どうして……彼が」

 

 テーブルの上に置かれていたカルテのようなものから紙の束を摘み、選別するようにして指で紙を捲る。

やがて目的である一枚の紙を手にした永琳は、それを依姫達に見えるように提示した。

 

「"学力試験における選考基準外"……上層部での結論が、これね」

 

「ちょ、ちょっと待って下さい。何ですか、それは。それなら何故、最初の試験で不合格にならなかったのですか」

 

 依姫ではなく、豊姫が永琳に対し、疑問をぶつけた。

永琳は面倒臭そうに、何度目かの溜息を混じえつつ、

 

「採用試験に関しては、全て現場の判断で行われていたの。学力試験の採点も、体力試験の結果も、全て現場の玉兎達の判断ね」

 

 彼女は言葉を続ける。

 

「本選トーナメントが開催される直後になって、選考に関して一つのミスが生じたのよ。それが、彼の存在」

 

「選考のミス……?」

 

「そう。本来ならば学力試験で"不合格"となっていた筈の者が一人、何らかの原因によって"合格"として試験を潜り抜けていた」

 

 馬鹿らしい、本当に。そんな表情で、淡々と言葉を述べる。

発言するのも、説明を続けるのも馬鹿らしくなってきたなと感じた永琳は、呆れ混じりに言葉を続ける。

 

「ヒューマン……いや、ラビットエラーとでも言えば良いのかしら。後になって、上層部で試験の不手際が露呈してね。

既に開催を控えた本選トーナメントの参加人数を、開催主側の不手際で調整できるものかと、本選トーナメントは滞りなく進行しちゃったわけ。後で適当に理由を付けて、不合格にすれば済む話ですからね」

 

「そ、そんな……あのような逸材を、見す見す逃すなんてことが」

 

「当時は名も知れぬ"一参加者"に過ぎなかったのだからね、まさか貴女と刃を交え、あまつさえ相討ちという結果に持ち込むだなんて、誰も想像できなかったでしょう」

 

 淡々と説明を続ける永琳に、綿月姉妹の表情は暗に落ち始めた。

 

「文武両道、質実剛健。綿月家の求める人材に、彼の実力が満たなかった。ただ、それだけの話」

 

「……私から直接、異議を申し立てれば」

 

 搾り出すような声量でそう言い放った依姫だが、永琳の口から即座に否定の言葉が吐き出された。

 

「やめておきなさい。迷子のペット探しの依頼じゃあるまいし、貴女の言葉で簡単に覆る問題ではないのよ」

 

「ですが私は、来季から警備隊の隊長に就任する事が決まっています。頭の悪い部下の一人や二人……」

 

 依姫はそこまで言葉を紡ぎ、口を閉じた。

自らも感じたのだろう、己の発言の一知半解を。なんと浅はかで、思慮の足らぬ発言であったかを。

永琳も物言いたげな表情を崩さず頭を抱え、これまた呆れ混じりに、

 

「あのねぇ、警備隊は仲良しクラブじゃないの。貴女が一番よく知ってるでしょ。仮にも隊長に就任する身なのだから、思慮の浅い発言は控えなさい」

 

「は、はい……申し訳ありませんでした」

 

 遂には師である永琳に叱責された依姫は、ひどく表情を歪めながら、俯いた。

姉である豊姫もこの場は何も発言する事はせず、周囲の空気に馴染むのみ。

 

 やがて静寂が室内を支配する。何やら作業を続ける永琳の作業音のみが木霊し、誰一人口を開こうとはしない。

依姫はまだ何か模索するかのように俯くのみで、豊姫に至っては目を瞑るのみである。桃の切り身は、既にお皿から姿を消していた。

 

 

「────思いついた!」

 

「ッ、……どうしたのよ、豊姫」

 

 肩を一瞬震わせ心底驚いたような、そんな表情で永琳は豊姫を見据えた。

大声で何かを思いついたと発言した豊姫は、普段通りの穏やかな表情に笑みを交えながら、堂々と言葉を紡ぐ。

 

「ペットよ、ペット。百年河清を俟つよりも、貴女が直接彼を勧誘してしまえばいいんじゃない?」

 

 口を大にしてそう言い放つ豊姫。

つまり、いつまで経っても実現しない事を期待するよりも、自ら行動して実現を目指せ、という事だ。

姉の言葉を聞いた依姫は、顎に指を当てて思考した。

 

「……妙案かも。野に放つのは惜しいし、仕合の決着もつけたいし……」

 

「そうそう。依姫が直接、彼を雇用しちゃえばいいのよ。役職は……護衛とか、執事さんとか」

 

 豊姫は人差し指を差し向けて、「バトラーとか!」と嬉々とした表情で話した。

彼を使用人として綿月家という組織を経由せず、綿月依姫が個人的に彼を雇用してしまえ、というのが豊姫の提案であった。

恐らく永琳の"ペット"という発言を経て、その考えに至ったという事は容易に想像できた。

 

「けど、彼にも家族や身内がいるでしょ。私個人の思想で、彼の人生を大きく変えてしまうのは……」

 

「んもう、依姫はちょっと消極的過ぎ」

 

 豊姫から目を背けて否定の言葉を並べる依姫に、豊姫がベッドに身を乗り出して言葉を放つ。

 

「よく聞いて、依姫。強者は弱者を支配しなければならないの。いえ、そういう使命があると言ってもいいわ。たとえ判定勝ちという結果に終わったとしても、実力は貴女の方がずっと上……貴女は、彼を従える運命にあるのよ!」

 

「ね、姉様?」

 

「それにっ! お医者様でも月の温泉でも惚れた病は治せぬ……ってね──あ痛っ」

 

 刹那、豊姫の頭部に依姫の拳が襲った。

即時否定の言葉をつらつらと連ねる依姫に、豊姫は苦笑しつつも言葉を続けた。

 

「ま、そういう形での邂逅も良いと思うけど。一つの手段として、選択肢として頭に入れておくと良いわよ」

 

「……ありがとう、姉様」

 

 姉妹での会話が一通り済んだ後、傍聴していた永琳が依姫に「それで、どうするの」と訊ねた。

依姫は若干思考し、決意めいた表情で顔をあげると、純白のシーツの上に手を付いてベッドから降りて立ち上がり、言葉を紡いだ。

 

「探しましょう、あの男を。もう一度会って話がしてみたい……今はそれだけ」

 

「そ。貴女がそう決断するのなら、好きにしなさい。職務に支障をきたさない程度に」

 

「当然です」

 

 着崩れた衣服を治しつつ、痛む身体に鞭を打ちながら依姫は歩み出す。痛覚を刺激されたのか、表情を若干歪めた。

豊姫に"傷が癒えていない"と諌められたものの、彼女はそれでも迷わず室内の扉を開き、行動を起こした。

 

 不合格という結果に終わり、憔悴しきっていた彼を探し、綿月姉妹が広大な月の都にて捜索を開始するのは、間もなくの事。







以上となります。
この辺りから綿月姉妹達が登場し、物語に絡んでくる頃ですね。
修正作業をしながら投稿しておりますので、諸処に至らない点が出てくるかもしれません。ご了承くださいませ。
オリキャラや独自の細かい設定は極力無くしたいと考えておりますが、それが中々に難しく難儀している次第であります。
筆者もオリキャラを描写するのは苦手なので、原作キャラが登場するまでは非常に筆が重く感じられました。
それでは、次話もよろしくお願いいたします。


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巻ノ三十六 彼の名前は

 ──月の都の何処とも知れぬ場所に、彼はいた。

試験不合格という結果、現実を受け止めた彼は鬱蒼とした表情で、延々と続く道をただ歩くばかり。

 

 試験の為にと、用意した幾許かの資金は既に底が見えていた。羨道という男の下にすら、帰る事は許されない。

彼は羨道に対してだけ、簡単な連絡だけ済ませていた。

 

 試験に落ちたという旨だけを告げた彼は、羨道の言葉を放心しきった状態で聞いていた為、今後の行動について全くの無関心。

漸く落ち着いてきた頃になると、時既に遅し。資金が底を尽きかけ、帰りの運賃すら間々ならぬ事態に陥っていた。

 完全に僕の落ち度だ、と試験に不合格した時とは違う感情で憔悴していた彼は、延々と彷徨い歩き続けるだけ。道草すら食えない。

 

──夢も希望もあったもんじゃない。

 

 誰が言った言葉か彼は心中、悪態をついた。

このような悪態をつきながら彷徨っていたのが、今からおよそ数日前の事。

 

 

 現在は、何度かの野宿を経験しながらも、彼は何とか身銭程度は稼げる状態にはなっていた。

その稼ぎ場というのが──とても小さく、古ぼけた菓子店。

今時、瓦屋根の店舗というのも、この店ぐらいだろうなと、彼は心の中で感想を述べた。

 

 無論、小さく知名度も低いこの店に、常連の客など数える程度しかいない。古着に身を包んだ老人ばかり、皺くちゃの顔を拝む毎日。

それなのにも関わらず店舗側が彼を雇ったのには、いくつかの理由があった。

 

 それは至極明快単純、主に菓子作りを担当している職人が病に倒れ、復帰に数週間ほどかかるとの事で、その代理で短期間の──いわば、アルバイトに過ぎなかった。

けども、そんな事は構わない。最低賃金間近の時給だとしても、彼は厭わなかった。

お金を稼がなければ、構築された月社会の中を生きる事は出来ない。それは彼が生活し続けていた現代社会でも同様の事実だったので、彼は甘んじてその境遇を受け入れた。

 

 

 ぽてっとした藍色の作業帽子に、これまた藍色の古びた作業着姿の彼。作業装束に身を包んだ彼は、古臭い厨房にて菓子作りに勤しんでいた。

菓子作りは、料理を作るよりも難しい作業である。僅かな分量ミスでさえ、菓子の甘さは大きく変わってしまうからだ。料理人を目指す人は、まず菓子作りから始めると云われる程である。

そして今日で二週間目となるであろうその作業の中、そろそろ復帰するであろう職人に怯えつつも、身銭を稼ぐ日々は続いていた。

 

「天野くん、そろそろ休憩にしていいよ」

 

 そんな声が彼方から響き渡り、彼はキリの良いところで仕事を中断し、店の居間部分に移動。その表情は、何だか不貞腐れたかのような、仏頂面だった。

 

 ──どうしてこんな生活に陥ってしまったんだろう。

もう少し頑張ってれば、あの時こうしていれば……そんな負の思考ばかり、彼の脳内を駆け巡る。

それでも目の前の仕事は片付けなければ、一日の食事すら間々ならない。生々しい現実が叩きつけられ、彼は心底辟易とした。

 

 休憩中に賄いの菓子を頬張り、一息ついていると、またしても彼方から店主の声が響く。彼は頭を動かさず、聴覚だけでそれを聞き取る。

 

「あ、ああ、天野くぅん!」

 

「……どしたんですか、店長」

 

 すっかりやさぐれてしまった彼を尻目に、店主は慌てふためきながら言葉を続ける。

 

「この店で一番、甘くて美味しい物を作ってくれッ!」

 

「……は?」

 

「だから、甘くて美味しい物だ! 天野くん、君作れないか?」

 

「……そんな不明瞭なもの、作れませんよ。そもそもこのお店、和菓子店でしょう。スイーツが食べたいなら、他所へ行ってくださいって言えばいいじゃないですか」

 

「言えるわけがないだろうっ……相手を見てから言えッ!」

 

「じゃあ、僕が言ってきますよ」

 

 そうして彼が客人を相手にするテーブルへ向かおうとすると、後ろ襟首を捕まれて引き戻された。

一瞬にして怖っ面に変貌した店主に、"余計な事はするな"と睨みを効かされる。はいはい、と面倒臭そうに、反抗心を向き出しにして彼は言葉を返した。

 

 

 厨房に強制的に戻された彼は、古びたシンクの前で熟考した。

客人は恐らく何処かの貴族か何かの、お偉いさんだと推測した彼は、普段通りの和菓子を提供したら大目玉を喰らうんだろうなと思い、少し手の込んだものを作ろうと考えた。

けれどもこの古ぼけた店に、そんなものを作れる道具がなければ、材料もない。厨房の隅を駆ける、黒漆の昆虫もどきを出してやろうかと考えたが、やめた。

 

 ならば、どうするかと考える。

暫く考えたが、答えは出てこない。

数分程考えても答えが見えず、やはり黒漆の昆虫もどきを調理しようかと考え始める。しかし、そんな時に限って奴は現れない。

 

 いい加減手を付けずにいたら拙いだろうなと彼は思考した。なので、とりあえずそこら辺にある物で適当に作る事に決定し、

 

「味でダメなら見た目で勝負しよう」

 

 お世辞にもこのお店は良店ではないので、味の方は保障できない。

それならば"創作"し、彩りを行ってから提供すれば良いじゃないか。

 

 彼はそう思考し、切れ味の悪い包丁を棚から取り出し、握った。刃先を洗って、水分を拭き取った。

先ず始めに、近くのカゴの中にごろんと転がっていた桃を手に取ると、それを包丁で綺麗に切り分ける。

桃饅頭を作る為に置いてあった桃だろうが、構う事はないだろうと、ザクザクと切る。皮を向いて、それをつまみ食いした。

 

「大き目のお皿に切り分けた桃をのせて、中心にヨーグルトをかけて……」

 

 桃の切り身の上にミントの葉を添えて、真っ赤なクコの実で均等に飾って……

……と、独り言をぶつぶつと呟きながら、彼は創作を続けた。

 

 創作料理という言葉があるが、創作料理にはろくな物がない。

やはり完成された基本の料理が最も美味しく、料理の伝統や文化を無視して作った物は、ハズレが多いのが現実である。

 そうして彼が現在作っているのは見紛うことなく、創作物に違いない。

 

 純白のお皿の中心に桃の切り身、更に中心に穢れに染まっていない、とろとろのヨーグルトをかけた。

その上にクコの実という実を使用し、真っ赤な飾り付けを施す。中心にミントの葉をのせ、視線が中心に集まるように細工する。

極めつけだと言わんばかりに、カラメルソースをお皿にかけ、全体的な飾り付けをして終了とした。

 

「……こんなんで良いだろう。これが限界だ」

 

 最後の最後に、白銀の粉……なめるととても甘い粉を上からまぶし、雪に染まった世界を表現する。

本当にこれが限界だ、と呟き、彼は厨房から軽い足取りで客人の下へと向かった。

 

 

「おお、完成したのか天野くん」

 

「あ、ええ。完成ですね。正直、僕にはこれが限界でした」

 

 店主は彼が作った料理を目にし、驚いた。

 

「凄いな、よくこんなものが作れたな」

 

「別に、普通じゃないでしょうか。創作は少しだけ勉強した程度なので、これが限界です」

 

「創作?」

 

「あー……つまり、これです」

 

店主が興味深々に訊ねてくるが、鬱陶しく感じた彼が実際に作った料理を店主の目元まで掲げ、面倒臭そうに説明を切り上げたが、

お皿にカラメルソースをかけたら食べ難いんじゃないか、と店主に問われ、彼は辟易とした。

只の飾り付けなのでそんな無粋な食べ方はしませんよ、と返してから口早に、

 

「では、行ってきます」

 

「くれぐれも、失礼のないようになっ!」

 

両の手を握り、拝むかのようにして彼にそう告げた店主の顔は、ひどく歪んでいた。

 

 

* * *

 

 

 彼は客人が誰かも知らぬまま応対を試みる。

どうせ店の得意先の、お偉い様程度だろう、と彼の推測はそこで終了していた。

迷いのない足取りで客人の下まで料理を運ぼうと、店の厨房と、テーブル席のある部屋を隔てる扉に手をかけ、静かに開けた。

 

 

「…………」

 

 彼は丸いお盆……トレイを左手に持ちながら、眼前で自身を見据えている女を凝視した。

金髪で、へんてこりんな帽子を被っている、貴族風のお嬢様。……彼の、彼女に対する第一印象は、そんな感じであった。

 歩き出そうと足を踏み出すその前に、彼は客人である金髪の少女を見下ろしながら、挨拶。

 

「いらっしゃいませ」

 

 泰然とした態度で言葉を切ると同時に、女性から視線も外す。早々にテーブルの上へ料理を置いた。

対してその女性は一瞬たりとも彼から視線を外す事はなく、彼がテーブルの向かい側に回る最中も、視線を逸らす事なく見据えていた。

 

「……どうぞ、ごゆっくり」

 

 食器とテーブルが接触する際の音を極力出さぬよう、細心の注意を払いつつ料理を置いた。

適当に言葉を述べて、彼は客人の前から姿を消そうとするが、

 

「ちょっと待ちなさい」

 

 不意に呼び止められた彼は、若干驚いたように表情を変えて振り返った。心の中で驚きつつも、面倒臭さがそれを上回る。

客人である金髪の少女は手に持っていた扇子を開き、口元へあてがう。そのまま、彼に疑問をぶつけた。

 

「こちらの料理は」

 

 淡々と、それだけ。瞬間、静寂が訪れた。

一拍、二拍。彼は何度か呼吸を繰り返してから、間の抜けた声で、

 

「……はい?」

 

 聞き返した。

金髪の少女は彼を一瞥してから、再び問う。その言には苛立ちは見えず、

 

「だから、何という料理なの。とても典雅で独創的……まるで一つの芸術作品みたいね。食べ方とか、あるのでしょうか」

 

 少女はちょいちょい、と彼に向けて手招きをし、此方へ戻ってくるよう合図を出した。

予想外の事態に困惑を隠せない彼であるが、客人である者の言葉に逆らうわけにもいかず、素直に従った。

 

「教えてくださらないかしら」

 

 穏やかでとても大らかな微笑みを向け、少女は彼にそう言葉を紡ぎ、願う。

対して彼は口を開き悩み、精一杯の敬服心を持ってして、

 

「……こちらの料理に、名前はございません」

 

「あら」

 

「僕があり合わせの材料で作りました。即席の品でございます」

 

「……まあ。じゃあこのカラメルソースの流形線も、中心から微妙にずれているミントの葉も、全て貴方の手作りなの?」

 

「その通りです。お気に召しませんでしたか」

 

 仏頂面で、とても接客を心から楽しんでいる風体には見えぬ彼は、淡々と言葉を重ねた。

一方で少女の方はそんな事など気にも止めず、世間話を楽しむ風に口を開く。

 

「いいえ、桃は私の好物だもの。早速だけど、頂きますわ」

 

 本当に楽しそうに、嬉々としてフォークを手に取り、中心の桃の切り身を串刺した。

桃から垂れ落ちるヨーグルトがお皿の上に落ちるも、桃に満遍なくかけられたヨーグルトが、桃の表面から消え去る事はなかった。

 

 彼女は一口だけ桃の切り身を口に含み、頬に手を添えた。悩ましげな、黄色く高い声で感想を述べた後に、

 

「とても美味しいわ。名前がないのがとても残念ね……次回注文する時は、なんと訪ねれば」

 

 唇の端をヨーグルトの純白で染めた少女は、無垢な瞳を彼に向けてそう訊ねた。

彼女の言葉を聞いた彼は、視線を落とした。よくもつまらない事を聞いたな、と言わんばかりの表情で、

 

「次はありませんよ」

 

「……あら、どうして」

 

「近いうちに、仕事を辞めますから。これが最初で最後の、僕の手作り料理です。普段はあんこを練ってますから」

 

「……ふぅーん、そうなの。残念。今時菓子を創作する人も珍しいし、勿体無い」

 

 元々量の少なかった料理だが、それを食べ終えた少女は言葉を続ける。

 

「どう、私の下で働かない?」

 

「……はい?」

 

「どうせ今の仕事は辞めてしまうのでしょ。それならば私の下で、その腕を振るってみないかって。パティシエとか?」

 

 自ら言っておきつつも、疑問をぶつけてくる少女に彼は辟易としつつ、更に大きな疑問に包まれた。

 どうやら少女は彼の手作り料理を気に入り、どうせ仕事を辞めて放浪するのなら、自らの懐で暖め育てようという魂胆に違いなかった。

甘い物、特に桃が好物の少女にとって彼の手作り料理が、彼女を虜にするのはいともたやすい事であった。

 

 

 何の気もない、ただのスカウトだ。

別に彼が"天野義道だから"と言った理由でもない。そもそも彼女は、彼が"天野義道"だとすら気付いていないのだから。

大会当時とは大きく違い若干やつれた顔、ふるぼけた作業着姿のこの華奢な男が、まさかあの天野義道だとは、彼女ですら想像しなかった。中身が女性という事も、当然気付かない。

 

 彼女の名は"綿月豊姫"。

天野義道という人物を、妹の依姫と共に捜索の最中、途中で飽きたのか古びた菓子店で小腹を満たしに来ただけ。

 

 彼に向けて真っ直ぐに視線を交わし、微笑む豊姫。やがて追撃の言葉を放たれる……が、それは慌しい来訪者により、遮られた。

どたどた、と大袈裟な足音が次第に大きくなると、古びた扉が乱暴に開け放たれた。冷たい風の流れる方へ、それぞれが視線をやると、

 

 

「やっと見つけましたよ……何をしてるんですか、こんなところでっ!」

 

 低い鈴の音色が、扉が開いた事を知らせる。開かれた扉はあまりの力強さに、反動で再び閉まってしまった。

 来訪者は、垂れた兎の耳が付いている帽子を被っており、ひどく呼吸を乱しながらも豊姫に向けて言葉を放つ。

 

「突然行方不明にならないで下さいっ! 危うく捜索願をもう一枚、作成しそうになったんですからね……」

 

「あらま」

 

「あらま、じゃないですよ! さ、早く戻りましょう。あのお方にお仕置きされるのは嫌ですからね」

 

「うふふ、あの子も仕事熱心ね。私も早く見つけなきゃね、彼を……あ、ちょっと待って!」

 

 豊姫と玉兎のやり取りを傍観していた彼だが、長引きそうに感じたのか早々に部屋を後にしようと踵を返した。

"待って"と豊姫が声をかけるも、彼は知らぬ顔で扉に手をかけた。あくまで、聞こえぬふりを貫き通すという姿勢である。

 しかし彼が扉を開くよりも先に、それは開け放たれた。厨房側から、店主である男が先に扉を開けたのだ。吃驚する彼を尻目に、男は恐る恐るといった風に言葉をかける。

 

「ど、どうだい天野君、調子の方は」

 

 声をかけられた彼は、返事すら返さないまま視線を背けた。前からも後ろからも板挟みにされ、辟易とした表情をしていた。

 豊姫の耳にも店主の言葉が届いたのか、普段の穏やかな表情が一瞬にして崩れ去り、背中を見せる若男を凝視。まぶたを半分だけ落として、目付きを鋭くさせた。

 

 ──天野?

 彼女の脳裏に、店主の言葉が木霊のように繰り返された。

 

 一方で彼はと言えば、店主に対して"あー"だとか"いー"だとかのたまい、言葉を濁していた。

此方の方を見向きもしない彼に、再び言葉を放つ豊姫。だがそれは言葉として彼が認識するよりも先に、玉兎の言葉により上書きされ、掻き消された。

 

 

「んもうっ! 今日という日だけは従ってもらいますからね、豊姫様っ! 依姫様だって、いつまでも気が長い訳じゃあないんですからっ」

 

 ぷりぷりと怒る玉兎は、そう高々に叫びながら豊姫の腕を引っ張り、店外へと連れ出そうとしていた。

そして彼はといえば、店主に対して言葉を紡いでる最中に聞こえてきた、"豊姫"、"依姫"という言葉に反応し、漸く後ろへと振り返った。

 

 彼と豊姫の視線が交差する。極僅かな一時の間、彼らは見つめ合った。

お互いに何を考えているのか推測すら出来ぬ状況で、天野義道と綿月豊姫は今日、邂逅した。

 

 

「……名前に反応しましたわね」

 

「きゃっ!?」

 

 腕を引っ張っていた玉兎を夢中で振り払い、豊姫は彼を見据えたまま腰を上げた。

木造りの床が軋み、尻餅をついた玉兎は痛そうにお尻を擦っていた。スカートが捲れたが、背後に誰もいなかったので隠そうともしなかった。

 

 視線を交差させる彼と、豊姫。だがそれも、暫くすると彼のほうから視線を逸らし、厨房に繋がる扉に手をかけた。然も興味がないと言わんばかりに。

 

「お待ちになって。先日は、我が妹がお世話になりました。実は私、かねてから貴方のことを探していましたの」

 

 ぺこりと彼に向けて深く頭を下げ、豊姫が丁寧に挨拶をした。

彼はそれに反応し、再び振り返る。訝しげに、まぶたを落として豊姫に視線を傾ける。

 ──何故、依姫の姉である豊姫が自分の事を探していたのか。

いくつもの疑問の中で、最も推測のつかなかった事柄がそれであり、間もなく言葉として紡がれた。

 

「……あの、どうしてわざわざ僕の事を」

 

「愚問です」

 

 疑問を投げかけた彼であるが、即座に言葉を返される。言葉を詰まらせ、上唇と下唇が強く結ばれる。

 豊姫は目を瞑り、論者を諭すようにして言葉を紡ぐ。

 

「無能な選考委員会に変わり、私達が貴殿を迎え入れようと思っただけのこと」

 

「迎え入れる……って」

 

 意味がわからない、と。彼はそれを言葉にしようとしたが、遮られる。

 

「言葉の通りです。警備隊の枠組ではなく、直接私達の管轄下に……っと」

 

 そこで言葉を切り「ちょっと待って」と呟き、彼女は懐から何かを取り出し、それを見つめた。

取りだしたのは、難しい文字が書き連ねられている書類。若干目を通したかと思えば、再び懐に戻してしまった。

 豊姫は指を天高く掲げ、迷いなく口を開く。

 

「では、先ずは参りましょう」

 

「参りますって……っ!」

 

 指鳴らしと同時、彼の眼前の光景が一瞬だけ暗転する。瞬き程の時間で、周囲の光景ががらりと変貌していた。

まるで一瞬にしてテレポート……"瞬間移動"をしたと錯覚してしまう程に、それは一瞬の出来事であった。周囲にはあの玉兎も、鬱陶しい店主もいない。

 驚いた彼は両足で二歩、三歩と小さく地を踏み締める。足の裏から伝わってくる感覚で、"これは夢ではない"と理解し、豊姫に視線を向けた。

 

 

「……何をしたんですか」

 

「うふふ、少々戯れをね。安心して、危害を加える気はないから」

 

 瞬時に移転した場所は、先程の古びた菓子店とは大きく変わり、小奇麗で広々とした空間。

まるで何処かの"貴族の屋敷"のような、そんな高貴な風格さえも見せるその部屋の中央で、豊姫は再び彼に向けて、頭を下げた。

 

「先ずは、自己紹介が必要ね。初めまして、私は綿月豊姫と申します。此処は我が屋敷の一室……さ、安心して腰を落ち着けても構わないわよ」

 

「……僕は天野義道です。では、失礼して」

 

 

 彼は緊張の糸を張らしつつも、ある一つの思いを内に秘めていた。

 ──千載一遇。

そう、まさに千載一遇のチャンスではないのだろうか、と。

警備隊登用試験に不合格になり、帰りの身銭もなくなり不貞腐れて日雇いで収入を得る日々。お世辞でも、生産性のある日常の過ごし方とは言えない。

そんな時に、あの綿月姉妹の長女、綿月豊姫と出会った。

 

 そしてあろう事か、綿月豊姫から"勧誘"される次第となり、彼女らの思惑は分からないものの、好機には変わりないと彼は強く思った。

 

 彼は近くにあった洒落た椅子を選び、そこに腰を落ち着けた。

眼前に広がるは、アジアンテイストな刺繍のテーブルクロス。小さなテーブルを、それが覆い飾っていた。

 彼と対面する形で豊姫は座っており、彼女は懐から再び書類を取り出すと、それを彼にも見えるようテーブルの中央へと提示した。

 

「それで、勧誘の話だけど」

 

 朗らかな表情で豊姫は話を進める。彼は「はい」とだけ返事をし、書類に目を向ける。

 

「豊姫……さん。一つ良いですか」

 

「ええ、何でも」

 

「どうして僕なんかを綿月家に……その、僕は試験にも落ちましたし、適正だって分かったものじゃあ」

 

 彼が引き気味に豊姫に向けてそう告げると、彼女は言葉を繋ぐようにして「あー」と呟き、少し思考した後に口を開く。

 

「色々あるけど、一番は気に入ったから……かしら」

 

「……僕をですか?」

 

「そ。事の発端は私ではないのだけれど。けれど、こうして互いに顔を合わせて言葉を交わしてみれば、色々と見えてくるものもあるわね」

 

 相変わらず朗らかな微笑みで言葉を紡ぐ豊姫は、フィーリングも大事よね、とにこやかに呟いた。

 

 書類に目を通している彼に、豊姫は続けざまに言葉を放つ。

手に持っているのは筆の類であり、何やら書類に書かれている内容の一部に対し、横線を引いて修正を行っていた。

 

「よしよし。さ、天野君、読んで!」

 

「はい。えーと……」

 

 書類に記載されていたのは、綿月姉妹と仕事上での契約を結ぶことに関しての説明だった。

規約と表現するほど堅いものではなく、かといって約束事というほど軽いものでもなく、職務内容や待遇に関しての説明も含め、簡潔にまとめられていた。

最終的には主に対しての忠誠を誓う云々という事項にサインしなければならないのだが、彼は一つ疑問を抱いた。

 

「あの、この修正してる箇所って」

 

「あ、それは気にしなくていいのよ」

 

「でも……」

 

「気にしないで。さ、依姫が戻ってくる前に早くサインっ!」

 

 豊姫は席から立ち上がり、彼の背後に回って肩を押した。

サインの催促、"さっさと書け"という意思表示のつもりなのだろう。

 

 彼が疑問に感じたのは、最後の一文に対してだ。

何故か"綿月依姫"という文字に横線が二本引かれており、その横に堂々と"綿月豊姫"と書き加えられていた。

 

「これはつまり、主人が依姫さんではなくて、豊姫さんになるって事ですか」

 

「ん、そうね」

 

 悪意を欠片も見せずに、豊姫は肯定した。

依姫が作った書類なのよね、と小さく呟いていたのが、彼の耳にも届いた。若干、眉間を狭めた。

 彼は幾ばくか思考し、今後の行く末を考えてみたが──別に、姉妹のどちらが主人であろうとも、大した差はないだろうと結論立てた。淀みのない動きで、筆を走らせた。

 

「できました」

 

「はい!」

 

 豊姫は子供のように嬉々として、彼から書類をひったくった。

上部から下部へかけて、隅々まで目で文字を追いかけ、書類に不備が無い事を確認した豊姫は満足そうに頬を緩ませ、

 

「うん、問題なし。後は押印して契約完了ね」

 

 豊姫が書類に押印をすれば、彼と綿月姉妹の主従関係が成立する。

主人を綿月豊姫と定めた契約書はテーブルに広げられており、近くの引き出しから判子のようなものを取り出した豊姫が、朱肉に先端を擦り付ける。

ぐにぐに、とこれでもかという程に押し付けられた判子の先端は、真っ赤に染まった。

 

 さて押印するぞという刹那、彼はふと違和感を感じ、身を縮めた。

どこか神聖な、神々しさも含められたその違和感は、室内に設けられた扉の向こう側を発生源としており、彼は恐る恐る口を開く。

 

「豊姫さん。扉の外から何かが」

 

「……ッ、もう戻ってきたのね」

 

 舌打ち。一瞬、ほんの一瞬だけ表情を鋭くさせた豊姫は、ドンと判子を書類に押し付けた。

そしてテーブルに広げられた契約書を手に取り、綺麗に折りたたみ──

 

「あっ……」

 

「えっ」

 

 彼と豊姫が同時に驚愕の声を洩らすと同時に、眼前から契約書が消滅した。

粉が舞い上がるようにして霧散した契約書は、最早元の形を取り戻すことは不可能となった。

 

 驚愕の表情を浮かべる彼、悔しそうに唇を噛み、朗らかとは真逆の表情をする豊姫。

完全に契約書が消滅した後、扉の向こう側から感じていた神々しい気配が消え去り、静かに扉が開け放たれる。

 

 

「勝手に私の作った契約書を持ち出して、何をするつもりだったんですか、姉様」

 

「……あら、依姫。修練は終わったの?」

 

「とっくに終わっていますよ。午後からは私と姉様で、捜索報告書を処理する予定でしたのに」

 

「それならもう問題ないわ。現にこうして、彼は目の前にいるじゃない?」

 

 左手の平を彼へと向けて言葉を放つ豊姫だが、「見れば分かります」と依姫は冷たく言葉を返した。

扉から現れたのは薄紫色のポニーテールの少女、綿月依姫であった。

その表情は少々苛立ちを覚えているのか、決して穏やかなものではない事だけは直感で分かる。少なくとも彼は、圧倒された。

 

「姉様の捜索報告を聞いて、玉兎達に指示を出していた私の時間は、ただの徒労に終わりましたね」

 

「良いじゃないの、偶には風を追いかけて外に出ても」

 

「勝手に遠くに行かれては困ります。捜索する身にもなってください……屋敷から数時間もかかる隣接都市に行かれてたなんて」

 

「兎達の良い訓練になったと思えばいいじゃない。そういえば私のところまで来たわ、あの子。将来有望ね」

 

 にこにこと微笑みながら、妹である依姫を嗜める豊姫。

依姫は何か言いたそうに眉間に皺を寄せていたが、次第に無駄な行為だと悟り、深く溜息を吐いた。それから、ゆっくりと彼に視線を向けた。

 

 姉とは違う鋭い視線にたじろぐ彼。武舞台の時とはまた違った威圧感に、どう対処すれば良いか分からなかったようだ。

試合とは違う。プライベートな関係では、力を行使しての会話はできないし、普通はしない。見た目は凡そ同年代くらいの女性相手に、彼は困惑した。

 

「……どうも、お久しぶりです」

 

 探しに探した言葉がその言葉。まぶたを落とし、依姫から視線を逸らした。

頭を深く下げて依姫に言葉を紡いだ彼に、彼女は少し吃驚して表情を歪めたが、直ぐに平然を取り戻して言葉を紡ぐ。

 

「ええ、お久しぶり。ようこそ、我らが屋敷へ。さっきの契約書は忘れて頂戴……改めてお話ししましょう」

 

 腕を組みながら、早口でそう言葉を紡ぐ依姫。相変わらず、眉間には深い皺が刻まれていた。

どうやら神霊の力を行使して裏で色々と動いていたらしく、豊姫の行動は彼女に筒抜けであったようだ。

説教じみた、依姫の話が始まった。

 

 

 

* * *

 

 

 

「……まさか一週間ほどで見つかるとはね」

 

 洒落たアジアンテイストな造りの椅子に腰掛け、足を組んだ依姫がそう呟いた。

テーブルの向かい側には彼が座っており、依姫の隣りには豊姫が座っていた。

広げられた契約書は新たに作成されたものであり、契約主の名前には依姫の名が刻まれていた。隣りでは豊姫が不貞腐れた表情をしている。

 

「それにしても姉様、何故彼を気に入ってしまったのですか」

 

「決まってるじゃない。彼、とても美味しい桃のデザートを作れるのだもの。庭で元気に育っている桃の木があるのだから、彼がいれば食後は毎日デザートのフルコースを……」

 

 自信満々に言い紡ぐ豊姫だったが、依姫の冷たい視線に晒されているのに気がつくと、語尾を弱めてしまった。

 

「ま、何はともあれ、これで契約は成立ね。今後は私達の下で……」

 

 依姫が言葉を紡ぎながら彼に目を向けると、彼はぼーっと依姫の顔を凝視しており、疑問に感じた依姫は言葉を止め、彼に質問した。

 

「どうしたの、ジッと見て。私の顔に何かついてるの?」

 

「あ、いえ。依姫さんの顔が、僕の古い友人に似ていたもので」

 

「……そう」

 

 まぶたを半分だけ落として表情を曇らした彼を、依姫は深く言及しようとはしなかった。

恐らく過去に何かしらの葛藤があったのだろうと推測した依姫は、話題を変えるようにして言葉を放つ。

 

「ふぅん、間近で見てみると貴方、端整な顔立ちをしてるわね。失礼かもしれないけど、男っぽくない」

 

 不意に出された外見の話題。依姫に悪意めいたものはなく、思い浮かんだ事柄を率直に述べたまで。

けれど彼はそれを不服に思ったのか、皮肉気味に言葉を返す。

 

「はあ……。依姫さんは、割りと僕の想像通りの人ですが」

 

 彼と依姫が視線を交差させ、互いに見つめ合った。

表情の隅々までを凝視する依姫に対し、彼も負けじと彼女の顔を凝視する。

 

 彼の顔立ちは凡そ中性的というか、どちらかというと女性寄りの顔立ちであり、そもそも肉体が女性なので当然の事なのであるが、肩幅も男性と比べると小さい。

髪の毛は漆黒を呈す黒であり、およそ耳が隠れる程度のショートヘアーだ。最近はえりあし部分も伸びているので、ウルフヘアのようにも見える。

 

 互いに見つめ合っていた両者であったが、先に依姫が視線を外した。視線を外し、溜息にも似た何かを吐き出した。赤らけた頬が何を示すのかは不明だが、そのまま口を開く。

 

 

「そうだ、彼の呼び名を決めましょうか」

 

「呼び名?」

 

 彼と豊姫がほぼ同時に疑問の声をあげ、依姫に視線を向けた。豊姫は直ぐに合点がいったのか、成る程と呟く。

 彼女は何処からか筆と一枚の白紙を取り出し、テーブルの上に広げた。用意した筆を彼に手渡し、墨がない事に気付いた。

取って来ようと行動する依姫を豊姫が制し、手の平からパッと墨の入った受け皿を用意してみせた。

その一連の流れに驚く彼を尻目に、姉妹らが穏やかな笑みで表情を染めた。そのまま、依姫が彼に向けて言葉を放つ。

 

「この紙に、貴方の名前を書いてちょうだい」

 

「はい。……天野、義道……っと。どうぞ」

 

 さらり、と白紙に彼の名前が書かれた。墨があちらこちらに飛び散り、自らの下手さ加減に彼は辟易した。

 

 天野義道、とまるで習字のように書かれた紙を依姫達側に向け、彼女ら二人は何か思案するような仕草を始めた。

恐らく彼の呼び名を定めるつもりであり、そのヒントを彼の本名から得ようとしているのだろうか。依姫は瞳を閉じて、豊姫は悶々と思考していた。

 

 綿月姉妹達は、よく玉兎を"ペット"と称し、勝手に命名して配下に置いたりする事がある。

命名や呼び名等は全て彼女達のさじ加減。見た目に相応のものもあれば、不相応なものもある。女の子なのに、男らしい気高い名前を授けた事もあるそうだ。

それらは言わば癖なのだ。後輩にあだ名をつけるのと何も変わらない、気軽に呼びやすい呼び名というものは、互いの信頼関係を助長する効果があるのだから。

 

 数分程思考をした姉妹は、互いに呟きあってヒントを出し合った。

依姫が「天津麻羅」と呟いた。即座に、豊姫が一蹴。彼女は続けて「天ちゃん」と呟き、今度は依姫がそれを一蹴した。

 神々しくも仰々しい呼び名を授けようとする依姫に対するは、可愛らしくも身た目不相応な名前を授けようとする豊姫。

「義道だから"よっちゃん"」と豊姫が言い出した時には、傍観していた彼も流石に抗議の言葉を放った。勿論、依姫も意義を申し立てていた。

 

 試行錯誤、紆余曲折し漸く決定したのか、依姫が筆先に墨をつける。

筆が流暢に動き、純白の紙に命名を書き連ねる。当然、墨は飛び散らずに。

 

 

「できました。貴方の名は『天道』──天の道を往く者。以後、そう名乗りなさい」

 

 彼が執筆した天野義道という名前の、"天"と"道"の部分に丸印が施されており、依姫が彼にそう告げた。

若干不服そうな豊姫が、納得の行かぬ表情で呟く。

 

「"天道"という文字は、様々な史記や学書で用いられたりするけど、名前負けしていないかしら?」

 

「そうですね。ですが名前に負けぬよう、向上心を持って臨んでほしいと思っていますからね。そういった意味では、今は名前負けしていようとも全然」

 

「ふぅん、そう。負けたといえば、彼との模擬仕合を思い出すわね」

 

「……あ、あれは私の勝ちですが」

 

 名前負けしている事を突っ込まれた依姫だが、何故か突然模擬仕合の事まで突っ込また。命名を不服に思っていた豊姫の、児戯にも似た抵抗に違いなかった。

しかし豊姫の言うことにも一理あり、壮大な意味を込めて名を付けてしまえば、必ずリスクが付き纏って来るというもの。

 けれども彼に限って、いつまでも名前に負けているようではないだろうと、依姫は思っていた。いずれ名前に体がついてくると言い張り、言葉を曲げなかった。

 

"天道人を殺さず"、"天道是か非か"

 

 などと、天道という文字に関した様々なことわざがある。

この世の秩序や道理は、果たして本当に正しいのか。そんな意味を表していることわざだ。

天野義道というたった一人の、ちっぽけな人間にそのような名前など、不相応であると彼は自身でも感じていた。

この先の永い永い生活において、果たして彼は名前負けをせぬような風格を得ることができるのだろうか。委細不明である。

 

 尽きぬ疑問は多々あるが、彼は豊姫達の言葉を聞き入れると、そっと口を開く。

 

「……分かりました。今後ともよろしくお願いします、依姫さん、豊姫さん」

 

「此方こそよろしく、天道」

 

「歓迎するわ、天道。さぁ、先ずは厨房の場所と、美味しい桃の実がなる樹の場所を教えるから、頭に入れておくのよ?」

 

「姉様、それは後にして下さい」

 

 ……先行きを不安に感じる彼であるが、先の長い将来の事を考えると、それも露と消えた。

 

 満月が満ち欠けるような速さで過ぎていく月の生活は、最早永遠とも取れる感覚に近い。それはまるで、生き地獄。

しかしそれでも、彼は月の生活を謳歌する。

綿月姉妹達により、彼の本当の名前──天野義道は消失し、伏せられた。

 新たな名前、天道となった彼は、綿月姉妹達と共に、長くとも短い月の生活を営んでいくのであった──外来人として、謙虚に慎ましく。そして時には、冷酷さも兼ね備えて。

 

 

 







以上となります。
ここから綿月姉妹達を中心とした話になり、三人称視点になります。
いざ読み返してみると違和感が多いですね。
修正しつつ投稿をしておりますので、次話はもう少々お待ち下さいませ。
ここまで執筆し続けて気付いた事があるのですが、やはりダークな話の方が執筆しやすいですね。
それでは次話も、よろしくお願いいたします。


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巻ノ三十七 秘密の約束

 ──綿月家にて、綿月姉妹の直属の配下となった人物がいた。

正式には綿月姉妹の護衛人、兼付き人。及び専属の料理人……と、彼の知らぬところで、様々な呼び名が定着しつつあった。

曰く、綿月依姫との行動の際は護衛人として従事し、また訓練や修練などを共に行い、身を粉にしているらしい。

 そして彼女の姉である綿月豊姫と行動する際は、護衛人としての勤めは勿論の事、彼女の"好みの料理"を調理し、提供するという職務も一貫して行なっていた。

 

 そもそも彼を綿月家に取り入れる要因となったのが、登用試験に落第した有能な人物を野に放っているのは惜しい、という提案によるもの。発案者は、豊姫によるものだ。

それを肯定し実行に移ったのが依姫であり、結果としては豊姫、依姫の両人物からの要求、依頼、命令に忠実に行動をしなければならない彼は、ある意味幸せ者というべきか、それとも運が悪かったと言うべきか。

 

 実は彼にも、とても他人には言えない秘密がある。

身体は女性、精神は男性という、一種の障害のようなものを抱えている事だ。障害、と表現してしまえば語弊が生じる。

 が、それは決して生まれつきというわけではない。

彼の生まれは地球という惑星であり、彼の地で様々な事象、偶然が重なった結果。この最新鋭の技術、叡智が結集した月の都市に"外来"したのだ。

 

 彼自身、自らを女性と認めるという事はないし、周囲にそれを悟られぬように行動する事も心がけている。

普段はゆとりのある服を着ているし、言葉にも気をつけている。

そのおかげもあってか、まだ誰にも彼が女性である事は悟られていない──一部の人間を除いては。

 

 

 晴天の模様を呈した月の大地を踏み締める者が、二人程。

一人は綿月依姫、もう一人は彼、"天道"であった。

 

「今日はお師匠様に、ご挨拶に行くわよ」

 

 歩きながら、さも当たり前のように依姫がそう言った。

 

「お師匠様?」

 

 彼が綿月家に取り入ってから幾日か経過しているが、それでも内部事情全てを把握するには至っていない。

依姫に案内されるがままに、彼は色々な施設などを巡り、様々な人物と出会い、自らを認知してもらう作業に日々勤しんでいた。

そんな折、依姫は「お師匠様に挨拶に行く」と言って彼を連れ出し、寒暖の起伏の穏やかな頃合い、動きやすい服装で屋敷を飛び出した。

 

 

 綿月の屋敷から出て間もなく、純白の塗装が施された大きな施設に到着した。

一見すると何かの研究施設とも推測できるそれは、依姫の言うお師匠様のいる施設に違いなく、彼はその研究所の大きさに感嘆した。

自動開閉する扉を軽い足取りで通り抜け、自動で動く足場……平行移動式のスライドエスカレーターで、お師匠様の居る場所へと向かった。

 

 そうして暫くすると、何処にでもありそうな何の装飾も施されていない、極普通の扉の前で依姫は立ち止まる。一度彼に振り向いてから、静かに二回ほどノックした。扉を開ける。

 

「……失礼します」

 

 若干の緊張が彼女の声を震わせた。扉の開閉する音がそれを紛らわせると、間もなく依姫が深く頭を下げる。

 

「あら、依姫。こんな時間に珍しいわね。何か用?」

 

 それに対して、興味無さそうな声色で言葉が戻ってくる。

扉の先には、左右で配色の異なる服を着た女性が椅子に腰掛けていた。壁際の机には、書類が山積みにされていた。

 

 上の服は右が赤で左が青、スカートはその左右逆となる配色で、とても変わった衣服を着用している女性。

彼女は同じくツートンカラーのナース帽を被っており、その前面中央部には堂々と赤十字マークが刻まれていた。

 依姫がお師匠様と仰ぐこの人物の名は、八意永琳。依姫は自らの師へ向けて、再び口を開いた。

 

「はい。実はお師匠様に会わせたい者がおりまして」

 

「……私に?」

 

 永琳は怪訝な表情のまま、依姫の言葉を待った。

 

「ええ。天道、入りなさい」

 

 まるで母親に褒められた幼児のような表情のまま、依姫が扉越しに向けて言い放った。程なくして、穏やかな足取りで彼が室内へと足を踏み入れる。

普段は冷静でクールな永琳も、彼を目の前にした途端、若干ではあるものの表情を崩し驚きに表情を染めた。

 

 彼は会話のやり取りを傍聴しており、目の前にいる者が八意永琳だと理解していた。また、自分の秘密に気付いている可能性が高い人物である事を理解すると同時、警戒色を強めた。

だからこそなのか。ムスッとした、可愛げのないひねくれた表情のまま、

 

「お初にお目にかかります。僕は天道と申します。依姫さんの下で付き人として雇われましたので、今後ともよろしくお願いします」

 

 流れるような動作で、滞りなく挨拶をする彼。言葉は紡いだものの頭は下げずに、目の前の椅子に座っている永琳を鋭く睨んでおり、とてもではないが目上の者に対する態度ではない事は、傍から見ても明らかであった。

挨拶をされた側の永琳もまた、言葉を返すわけでもなく彼の事を睨む……というよりかは、何か疑念を抱いているかのような感じで凝視していた。

 

 そんな反抗的な態度を取る彼。けれど突然、彼の上半身が折り曲げられた。

隣りに並ぶようにして立っていた依姫が彼の後頭部を鷲掴みにし、慌てて頭を下げさせたのだ。

 

「す、すみませんっ。彼、まだ礼儀が身に付いていなくって」

 

「別に、気にしていないわよ」

 

 頭を下げさせられた彼は、視線を足元に集中せざるをえなくなり、ぐりぐりと後頭部を掻き回される痛みに耐えていた。

少しして漸く頭を上げる事ができた彼だが、不意に耳を引っ張られる。貴方には座学も必要みたいね、とひどく冷めた声色で告げられ、彼は背筋を凍らせた。

 

 壊れた人形を手の平で転がすようにして、依姫と彼のやり取りを傍観していた永琳が口を開く。

 

「ふぅん、思っていたよりも早く事が済んだのね」

 

「はい、お姉様が偶然、彼が菓子店にいるところを連れてきていたみたいで」

 

「ところで貴女、さっき彼の事を……テンドウ、とか呼んでいたけど、天野という名前は偽名だったの?」

 

「いえ、彼の姓名は天野義道で間違いありません。ですが、我々の付き人となる身なのですから、相応の名を与えてやったのです」

 

 呼び難いですしね、と付け加える。淡々と言葉を述べる依姫とは反対に、彼はげんなりとした表情を浮かべていた。

自分の扱いがまるでペットそのものであり、自分は犬や猫などではないという葛藤と共に、明日から行われる座学に辟易としていた。足元に空き缶が落ちていようものならば、直ぐに蹴飛ばしているところだ。

 けれど彼の様子など気にも留められず、彼女らは会話を続ける。談笑、というよりは上司に対する報告にも近いそれは。

 

「彼は今後、天道と名乗らせることにしました。その方が、私達にもなじみ易いので」

 

「へぇ、そうなの。命名したのは貴女?」

 

「私と姉様で考えたので、姉妹分でしょうか。実は姉様、彼の事を気に入ってしまったみたいで。駄目だと言っているのですが、職務中であっても彼にデザートを作らせたりして……」

 

「あら貴方、そんな事もできるの?」

 

 向けられた突然の質問に対し、彼は反応を遅らせつつも、何とか言葉にして吐き出した。

 

「ええ、まあ……人並みにはできます。デザートくらいなら」

 

「なるほどね。なら、豊姫が躍起になるのも理解できるわね。料理も出来て、武術の腕もあるんじゃあ依姫、貴女も形無しじゃない」

 

 微笑み混じりに永琳がそう言い放つと、依姫は苦虫を噛み潰したような表情になる。あうあう、と言葉にならぬ呟きを言い洩らしてから、

 

「ですから、あの試合は私の勝利でして……」

 

「あら、私は彼と貴女、両方の治療を担当したのだけれど、どう見ても彼の方が傷が浅く、治りも早かったわよ」

 

 永琳の言葉を聞き、再び表情を歪めた依姫。永琳はあくまで、客観的な意見の一つとしてそう述べたに過ぎない。

しかし、表情を歪めたのは依姫だけではなく、彼も同じであった。

"治療を担当した"という言葉を耳にし、一瞬で我に返った彼は、永琳に視線を向ける。親の仇を見るように、元々黒い瞳を更に真っ黒にさせていた。

 

 すると永琳の方も、何か含んだような視線を返しており、彼の額から一筋の汗が滲んだ。

 ──こいつ、気付いている。

彼は強くそう思った。思ったのだが……隣りには依姫がいるので、迂闊な行動をする事はできない。下手な真似をすれば、鉄拳制裁が彼を待っているだけだ。

どうしよう。近いうちに、何かしらの対応をしなければならない。そう思っていた彼であるが、永琳は彼から視線を逸らしてから直ぐに口を開く。

 

「じゃあ、彼と少し話しがしたいから、貴女は先に戻っていなさいな」

 

「……は、彼とですか?」

 

「そ。何か問題でもあるの」

 

 最後は冷めたような口調で。抗う事は許さない、という威圧にも捉えることができるそれは、依姫を困惑させるには十分過ぎるものであった。

 蛇に睨まれた蛙、鷹の前の雀。少々たじろぎつつも、依姫は言葉を続ける。

 

「えっと、この後は彼と鍛練の時間があるのですが……」

 

 しどろもどろ、口を震わせながらそう言った。

 

「何の鍛練?」

 

「剣術と、近接術の鍛練です。その後には御夕食の準備を共にする予定で……」

 

「ふぅん。明日じゃ駄目なの」

 

「明日は通常の鍛練の後、私の警邏の任務に動向してもらう予定なので、厳しいですね」

 

「あら、なら問題ないじゃない。明日の鍛練を倍にして、夜中に自主鍛錬をしてもらえば埋め合わせはききそうね」

 

「えッ」

 

 微笑みながらそう言い放つ永琳に対し、依姫ではなく彼が驚きの声をあげた。狂人か玄人を見るような目付きで、彼は永琳に視線を向けるばかり。

ただでさえ辛い鍛練なのに、それの量を二倍されたら死んでしまう、と彼はそう思った。

月で超級の強さを誇る依姫の鍛練は尋常ではない。彼の鍛練自体は普通の内容なのだが、依姫の鍛練の付き合いともなれば、そうは言ってられない。

神霊術を行使した大規模な模擬仕合は、度々命の危険に晒されてしまうので、初めて鍛練に付き合った日以来、彼は二度と依姫の鍛練には関わりたくないとさえ思っていた。

 

 反発の声をあげたいが、あげられない。隣にいる依姫が憤怒されるのは勿論の事、彼自身も永琳と二人で話してみたいと思っていたから。

事の成り行きを名も知らぬ神に任せた彼は、ただ黙って成り行きを傍観した。

 

「……そうですね、分かりました。お師匠様がそこまでおっしゃるのなら、今日一日だけ彼をお願いします」

 

「ええ、任せて」

 

 深く礼をした依姫は、彼の肩に軽く肩を添えて何かを告げた後、早々に退室した。彼はげんなりとした表情のまま、視線を足元に落とした。

部屋に残されたのは彼、天道と永琳のみとなり、静寂だけが辺りを包んでいた。虫の音ひとつ、聞こえなかった。

 

 

* * *

 

 

 二人だけとなった室内で、何を話すという事もなく静寂だけが包んでいたが、永琳が「遠慮せずに座って」と言ったので、彼は適当な椅子を選び、そこに着座した。

古ぼけた絵画が壁にかけられており、それを注視した。見れば額縁はやたらと豪華で、内容とのギャップを感じた。

大空に広がるちぎれ雲の行き先がどうでも良いように、彼にとってそんな事はどうでも良かった。そんな生産性のない事を考えていると、不意に永琳は立ち上がり口を開いた。

 

「珈琲でも淹れるわね。貴方、珈琲は飲める?」

 

「はい、飲めます」

 

「私は苦めで頂くのが好きなのだけれど、貴方は?」

 

 何てことのない普通の質問にも、彼は疑念を抱けずにはいられなかった。

珈琲に入れる砂糖の量を思案するには、些か長すぎる時間が経過した後に、

 

「苦いのは嫌いじゃないですが、甘めでお願いします」

 

「そ。なら砂糖を沢山入れておくわね」

 

 永琳はそれだけ言って席を立つと、部屋の直ぐ裏手へと姿を消した。

 彼女が席を立ってから直ぐに、彼は室内を見回し周囲の観察を始めた。

部屋には機能的な、比較的大き目の机が置いてある。恐らく永琳の作業場なのだろう、様々な書類などが置かれていた。

隅には観葉植物が置いてあり、窓際には何やら怪しげな薬品や試験官など、色々な道具が置かれており、少々不気味であった。思わず、生唾を飲み込んだ。

 

 数分も経過すると、永琳はカップを持って戻ってきた。

湯気が立ち上がっている純白の珈琲カップの一つを彼に手渡し、もう一つは自身の机へ。置く前に、一口だけ飲んだ。

 

「どうぞ、遠慮せず」

 

「はい。頂きます」

 

 ずず、と彼は一口だけ珈琲を飲み、予想以上の甘ったるさに驚いた。飲めなくはないので、もう一口だけ飲んで近くの机の上へ置いた。振動で、ミルクの波紋が広がった。

その様を見ていた永琳は、途端に微笑みだして彼に向けて言葉を放つ。

 

「どう、依姫は。生真面目な子だから、習い事に関しては煩いでしょう」

 

 不自然な笑顔でそう訪ねられると、彼も眉間を狭めたまま、

 

「ええ、中々厳しい人です。姉の豊姫さんとは比べ物にならないくらい」

 

 きっと本心でそう思っているのだろう、彼は頭を掻きつつ永琳にそう告げた。

すると永琳は自身の机から数枚の書類を選別し始め、それを彼に向けて提示して見せた。

 

「ところでこれを見てもらいたいのだけれど、貴方の問診表」

 

「……これは」

 

 永琳が取り出して見せたのは、彼が試験の最中に受けた、健康診断のいわば結果であった。

体重や身長は勿論の事、その他諸々の内容が明記されており、彼は困惑した。

そしてもう何枚かの書類も手渡され、そこには……

 

「……僕の治療に関しての事、ですか」

 

「そ。依姫との試合で負傷した貴方を治療させてもらったのだけれど、少々疑問に思う節があってね」

 

 

 ──来る。

 彼は、そう思った。この永琳という女性は、僕が女性の身体をしていると感付いている、と。

 けれども彼は、それらに対しての対策は万全を期しており、胸には硬めの薄い素材まで入れて、触られてもバレぬよう誤魔化している。

来るなら来いと、彼は思った。言い訳なら用意してあるし、何なら力尽くという手段もある。自らが不利な状況に立たされるのならば、是が非でも口を封じなければならない、と。静かに永琳の視線を見据え──

 

 

「ねぇ、あなた。何故自分を男と偽って試験に参加していたの?」

 

 永琳の瞳が彼を突き刺した。けれど、その視線を逸らす事は許されない。

核心を付いたその言葉に、彼は薄ら笑いを浮かべて反論の言葉をあげようとした。

今まで一度たりともバレる事はなかったのだ。今回もそうだ。うまく言い繕えば、決して言い逃れられない状況ではない。彼はそう強い自信を持っており、悠々と口を開いて言葉を紡いだ。

 

 

「はは、何を言ってるんですか八意さん。僕が"男"なわけないじゃないですか──うん?」

 

 即座に彼は、自分の口元を押さえた。何か妙な事を口走ったなと、頬を震わせた。

今、自分は何を言ったのだ。咄嗟の出来事だったので完全に理解する事ができなかった彼は、深く口を閉じるが。

 

「ああ、やはりね。どうみても貴女、女だものね。私が間違えていたわけじゃなかった」

 

「だから、……そうですよ、僕は女なんですから……うッ」

 

 再び自分の口を押さえた。

何故だか、"自分が思っている事とは違う発言"をしてしまう。彼はそう確信し、何故そうなったのかを推測し始めた。

そう思って直ぐに思い浮かび上がってきたのが、永琳が提供したひどく甘ったるい珈琲だった。彼はそれを手に取り、中身を凝視した。ミルクの波紋が、カップの端にまで到達していた。

 

「これか……何か、盛りましたね」

 

「うふふ、貴女、面白い反応するわね。私の作った新薬の味はどうだったかしら……"嘘が吐けなくなる薬"は」

 

「……とても不味い、不自然なまでに甘いし」

 

「あら、失礼な子ね」

 

 永琳はそう短く呟くと、懐から小さなカプセルを取り出し、それを彼に投げた。

消しゴムを投げ渡されたかのように、手の平を受け皿にしてそれを受け取る。彼はそれを、人差し指と親指の先でつまんだ。

 

「それを飲めば効能が緩和されるわ。警戒して口を閉じられてしまっては、本末転倒だからね」

 

「……ふん」

 

 人を小ばかにしたような対応に彼は憤慨を覚えつつも、与えられたカプセルを一気に飲んだ。

これが綿月姉妹が師匠と仰ぐ人物なのかと、彼は疑問に思うと同時に、恐ろしい人物だと認知した。

 

 薬を飲んで暫くし、効能が効いてきた頃に永琳は再び口を開いた。

 

「さて、私の事は依姫から聞いて知っていると思うけど、一応名乗っておきましょう。私は八意永琳……知っての通り、依姫と豊姫の教育指導を担当していたの」

 

「はあ、そうなんですか。担当していたって言う事は、今はもう教えていないという事ですか」

 

「まだ指導役から身を引いたわけではないけれどね。あの子達ももう一人前だから、いつまでも気にかけていては成長を妨げてしまうもの」

 

 そこまで言葉を紡いだ永琳は、「私のことはいいから」と矢継ぎ早に紡ぐと、彼に向けて質問をした。

 

「それよりも貴方の事を聞かせて頂戴。その身体のこと──そして、能力の秘密」

 

 質問を投げかけた永琳の瞳は、まるで獲物を捉えんとする鷹のような鋭い眼光で、彼を射抜いていた。

とても言葉を濁して掻い潜れる状況でもない、先程の薬を服用させられてしまえばどの道、嘘をついたところでバレてしまう。そう考えた彼は、永琳にだけ秘密を吐露する事を決意した。

 

 

* * *

 

 

 彼が永琳と共に部屋に残り、話の場を設けてから数刻ほど経過した。

提供された珈琲はすっかり冷めており、彼の分の珈琲は並々注がれたままで、大して飲まれた形跡がなかった。

室内に設けられているブラインドカーテンの隙間から、夕暮れの紅い光線が室内に差し込んでおり、時刻は既に夕暮れを迎えている事を示していた。

 そんな折、何度目かの椅子の座り直しを行い、腰の負担を和らげていた彼は永琳に向けて疲れたような、気力の抜けた声調で言葉を放った。

 

「──という事です。ですので、僕は身体は女性ですけど、精神は男のまま。……あの、記録に残さないでもらえますか」

 

 永琳は彼の発言で気になった部分を、紙に書き写して記録を残していた。

あまり他言されたくない内容なので、彼としては即刻止めて貰いたい事なのだが、この女にそんな事を言っても無駄な事は既に理解しているのか、大した言及まではしなかった。

勿論記録を残す事を止めなかった永琳は、やがて区切りがついたのか筆を置くと、彼に視線を向けて言葉を紡ぐ。

 

 

「……ふぅん。それで、あの子達に取り入ったのね。それも薬目当てで」

 

「ええ、言い辛いですが。けれど僕にはとても大事な問題です。男なのに、性別を隠して生きなくてはならないのは……耐え難い」

 

 彼は月に訪れてから初めて、他人に本心を吐露した。

強制的に荒廃した大地に生かされ、荒んだ精神状態は変化する事もなく生かされたのに、身体だけは全く違うものに変化していた。

そんな理不尽な事象に巻き込まれつつも、今の今まで生きてきたのだから、その精神的なストレスは相当なものに昇っている。

 

 彼は何とかして、羨道という男に頼まれた薬を永琳に作ってもらえないかとお願いした。薬と引き換えに目的を成し遂げる、等価交換の為に。

「何とかお願いします。薬を作ってもらえないでしょうか」と、深く頭を下げて、永琳にお願いした。

彼女は暫く考える素振りを見せた後に、組んでいた足を一度解き、再び組みなおしてから彼に向けて言葉を放った。

 

 

「別に構わないけれど、幾つか質問するから答えて」

 

 あっさりと述べられたその言葉に、彼は思わず息を呑んだ。無言で頷き肯定すると、永琳は言葉を続ける。

 

「貴方が言ってる薬品と性転換に、何の関係が?」

 

「確か話によりますと、魔術を行使する際に補助的な……いわゆる助長する作用があるとか、なんとか」

 

 彼の質問の答えに、永琳は怪訝そうに表情を歪めた。思案するように顎に指を当てて、

 

「……ただの引火性の強い薬品なのに、調合したところでそんな効果が得られるとは到底思えないんだけどね」

 

 永琳はそう言葉を述べ、彼の言っている薬品について説明を始めた。

 彼が羨道という男に頼まれていた薬品は、永琳の見解によるとただの燃料に過ぎないというらしく、魔術に作用する液体とは程遠いものであった。

その昔、ロケット等の巨大な物質を動かす為に用いられていたという燃料らしく、現在ではほとんど使用されていないという。

 

 彼女の説明を聞いた彼は困惑し、何も言葉にする事ができないでいた。知識人の考える事は分からない、と次第に瞳を閉じて思案する事をやめる。

しかしそんな彼の状態を考慮することもなく、永琳は再び彼に向けて言葉を放つ。

 

「ま、そんな事はどうでもいいわ。貴方の望む薬程度、私なら簡単に製薬できるから」

 

「本当ですか?」

 

「けれど倫理的に考えて、貴方の望む薬は決して作ってはならない物。貴方がさっき言ったとおりの、あくまで魔術を助長させたり、増幅させたりする薬なら、何の問題もないけどね」

 

 永琳はそう言葉を放ち、説明した。

 いくら彼女が天才だからと言って、何でもかんでも薬を作っては良いわけではないのだ。

極端な例をあげるのならば、"不死の薬"というのも永琳ならば作る事は出来るだろう。……が、万が一それを服用した者が存在したのなら、"倫理に反している"とされ、地上へ堕とされる流刑……最悪は死刑という事も在り得る話なのだ。

なので永琳は彼に対し、倫理に反しているであろう"性転換"させる薬を直接作る事はしなかった。それは彼が嘆願したところで、変わらぬ事実でもある。

 

 代案として彼女が提案したのは、魔術を助長、増幅させる程度の薬。

性転換をするのはあくまで彼の力で行い、足りぬ部分を薬で補うというだけの話であった。

あくまで彼の力……"魔術"で性転換を行うのであれば、一時的なものなので確実に倫理に反していると断言することは、第三者には出来ない。

月の法律のグレーゾーンを行く行動に違いないのだが、それでも彼は実行に移すのだろう……窮屈な生活から脱却するために。問題は、その魔術をどうするか。

 

 

「分かりました。それで是非、お願いします」

 

「そ。魔術の方は私には力になれないから、自分で何とかしなさいな。ほら、受け取りなさい」

 

「……っとと、これは」

 

 永琳がポイッ、と彼に向けて投げ渡したのは、小さな小瓶であった。

厳重に封が施されており、中身は透明だがとても濃厚に感じる液体が注がれており、外見からしても穏やかな液体ではない事は一瞬で理解できた。

 

「貴方がさっき言ってた薬よ。必要としてる人がいるんでしょ。どの道この研究所に置いといても使い道がないからね、腐らせておくのも何だし」

 

「……ああ、ありがとうございます」

 

「強い衝撃を与えたら爆発する恐れがあるから、慎重に取り扱いなさいよ」

 

 彼女の言葉に背筋を凍らせた彼は、ポケットにしまっていたそれを再び取り出し、持っていたハンカチに包んでから懐にしまった。

永琳がそう言うという事はつまり、これは火薬類なのだろう。そう推測した彼は、羨道は実は裏で何かを考えているのではないかと思ってしまったが、今は考えぬ事にした。

 

 

 大分長く話し込んでしまい、そろそろ帰路に着かねば拙いなと思った頃合、彼は自らの口から「そろそろ帰ります」と発言しようとしたのだが、それは永琳によって遮られた。

実はまだ彼女の話は終了していなかったようで、話にはまだ続きがあるようだ。怪訝そうに眉を歪めて、言葉を待つ。

 

「最後にひとつだけ。これは質問というよりは、条件なのだけど」

 

 ──条件。

 きっと彼の望む薬を作ってやる代わりに、彼女の要望に応えねばならぬという、そういった類のものだろう。少なくとも、彼はそう予測した。

此処までやってきた彼は、今更陳腐な要望の一つや二つ、何でもこなしてやろうという意気込みでいた。

しかしながらその意気込みは、永琳の言葉を聞くと、直ぐに空気の抜けた風船のように萎んでいってしまった。

 

「──貴方が地上から訪れた人間だという事、絶対に他言しない事」

 

 それは条件というよりは、忠告。命令というよりは、お願いでもあった。

彼は永琳にだけ、自らが女性の肉体であるという事実と同時に、自分が地球から来た……つまり、"外来した人間"であるという事実も、一緒にして伝えたのだ。

その事実を聞いた永琳は、表情には浮かべなかったものの、大いに驚愕した。

 彼はまだ、月では"外来人"が忌み嫌われるという事を、理解していなかった。

 

 永琳の言葉を聞いた彼は一瞬きょとんとしたが、直ぐに平然を取り戻して、

 

「それは、どうしてですか。確かに不可思議な話ではありますけど、事実僕は他の世界から来た人間ですし」

 

「郷に入っては郷に従えと言うでしょう。貴方のような"外来人"は皆、月人と比べると考え方も違うし、価値観だって違う。それに穢れだって……」

 

 そこまで言葉を紡いだ永琳であったが、「そういえば貴方は穢れていないのね」と呟くと、思案するようにして顎に指を添えた。興味深そうに眉を動かして、

 

「……一度精密検査を実施してみたいけど、今日は時間ないし」

 

「……丁重にお断りさせていただきます」

 

 永琳は不思議に思っていた。

何故外来人である彼が穢れを有していないのか、と。

しかしその答えを本日中に得ることは出来ず、永琳の彼に対する興味は、当初出会った時よりも更に増しており、今後も彼の動向に注目せざるを得ない。

 

 彼らの話が一段落したのか、静寂が室内を包み込んだ。

帰りたそうな雰囲気を醸し出す彼を尻目に、永琳は相変わらず何かを考えているのか、遠くを眺めるような視線をしていた。

視線の先で子供達が無邪気に遊んでいるわけでもないのに、彼女の視線は何かに釘付けだった。

 そうして突然、彼に表情すら向けず、言葉を放つ。

 

「そうだ。今度、輝夜に会ってごらんなさいな」

 

「はあ。輝夜、ですか」

 

 知らぬ人物の名に疑念を抱いた彼であったが、それも間もなく晴れる。

 

 ──蓬莱山輝夜

 古からの月の民の一族であり、また月の姫として高貴な位に就いている人物。

綿月姉妹然り、蓬莱山輝夜も八意永琳から師事を受けており、月の姫という立場ながらも、永琳とは教師と教え子という仲でもあるようだ。

 

 彼女は彼の奇妙な境遇に興味を抱いており、そして内なる不思議な力、綿月姉妹達に気に入られるという内向性を評価していた。

その上で月の姫である蓬莱山輝夜と邂逅させ、彼女らが彼とどういった事象を生み出すのか……興味の対象となっていた。

何て事はない、ただの挨拶。無論、彼もそう思っており、永琳の提案については快諾するに至った。

 彼が永琳の提案について快く承諾した事に関して、彼女は微笑み混じりに言葉を放つ。

 

「そ。なら明日にでも……ああ、駄目か。流石にあの娘も許してくれないわよね」

 

 早速日程を調整しようと目論んだ永琳であったが、ふと浮かぶ姉妹の顔に、これ以上の融通は効かないだろうなと判断し、面白おかしそうに呟いた。反面、彼は複雑な表情で。

 

「また時間がある時にお願いします。明日は依姫さんと警邏がありますので」

 

「そうね。あの娘は生真面目な性格だから、依姫との警邏は大変でしょ。虫の子一匹逃さない娘だから」

 

「ええ、まあ。……けど、実際問題彼女は腕も立つ人なので、性格も相成って適職なんじゃあないかなと思いますけどね」

 

 真面目な性格な依姫に対し、彼もまた正義感は強い方の性格なので、彼女との警邏が苦手と思っていたりはしない。

むしろ地獄のような訓練から開放されているその瞬間こそ、彼にとっては幸せな時間の訪れといっても過言ではない。言ってしまえば、歩くだけなのだから。

 彼もまた面白おかしく言葉を返し、永琳は頬を緩ませ微笑んだ。

 

 綿月姉妹の下で従事し、その後に八意永琳とも邂逅し、当初からの目的である薬品の確保に成功した。

思いの他迅速に事が運んだ事に驚きつつも、彼は自身の幸運さに感謝の感情を抱いた。勿論、感謝の先は八意永琳。

 と言っても、彼が男性の肉体を得るのはまだ先である……次なる目標は、簡易的な性転換術の魔法を会得する事であり、焦点は定まっているものの、会得方法などを考えると漠然とした内容に、途方に暮れてしまう。

それでも"不可能な話"ではない事は確実なので、彼は今後も綿月姉妹の下で従事しつつ、今後の目標に向けて着実に行動をするのみであった。

 

 

 




以上となります。

次話から地の文が増えて参ります。
さくっと進めていきたいと考えておりますので、よろしくお願いいたします。


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巻ノ三十八 偉人と悲人

 目的の薬品を入手した彼は、それを羨道の下へ送り届けようと考えていた。

結局のところその薬品は彼の望む効能を引き出す物ではなく、ならば何故そんな薬品を入手してこいと指示してきたのか疑問に思うところであったが、深くは詮索しない事に決めていた。

 

 彼が必要としているからこそ、入手してこいと指示をしてきたのだろう。

彼は命の恩人でもあるし、その願いを聞き入れぬわけにもいかない。寧ろ薬品は既に入手しているのだ、面倒臭いからといってそれを放棄するなんて事は出来ない。

 

 天道はそう思考し、当の薬品を厳重に梱包した。月の都の中で最も規模の大きい運送会社に依頼し、彼の下まで届くよう手配した。

驚くべきことに、手続きはあっさりと済んだ。まるで駄菓子屋で甘菓子を購入するかのような、その程度。

 

 連絡もなしに荷物だけ一方的に送りつけるのは失礼だろうと、彼は羨道へ向けて電話をした。

遠く離れた者同士の音声を繋げる機器は、彼も使用した事があるので何も問題はなかった。

 

 

 結論から言えば、羨道は彼を大いに祝福した。

テレビ中継でトーナメントの模様を観戦していたのだろう、あれ程の活躍をすれば絶対に合格できると確信していたからこその、賞賛であった。

 それは彼が"不合格だった"と告げるまで続き、事実が伝えられた途端、羨道は我が事のように落ち込み、彼を慰めた。

しかしそれは無用な事であり、結果的に"綿月姉妹の下で従事している"という旨を告げると、再び嵐のような賞賛が彼を包んだ。

 

 そして目標である薬品が思いの他早く入手できたので、それを羨道宛てへ発送した事を告げた。

誰にでも言い辛い事の一つや二つはある、彼もまたそういった事の一つや二つは有しているので、羨道に対して探りをいれるという行為はしなかった。

寧ろ快く薬品を受け取ってもらいたいとさえ考えていたので、羨道が製薬するといった"魔力を増長させる薬"は不要だという旨まで、確実に告げた。これ以上迷惑もかけられまい、と。

 

 羨道はその事を疑問に思ったのか色々と訊ねられたが、彼が"八意永琳"の名前を出すと、その質疑もピタリと止んだ。

『彼女は天才だから、安心して君を任せられる』

含むようにして告げられたその言葉は、羨道と永琳は知り合いなのだろうか、と彼に推測の余地を与えた。

それとなくその事を訊ねてみると、どうやら研究者の間では八意永琳とは"神的存在"であり、世間一般市民でさえも彼女の名は知らぬ程有名だったらしく、彼は大いに驚嘆した。

失礼な話であるが、彼は永琳に薬を盛られ、まんまと秘密を暴露させられてしまった相手だ。永琳に対しては、あまり良い感情は持っていなかった。

 

 その他、様々な世間話を終え、彼は羨道との通話を切断した。

『また会う時もあるだろう』と、最後に告げられた言葉はそれだけだった。

彼が疑問に思う事は多々あるが、羨道に薬品を渡すことが出来たので、今は良しとした。

永琳曰く"燃料"に近いその薬品は、重機等を稼動させる為に使われるのではないかと、彼女は推測していた。

 

 さて、今日も彼は職務だ。今日は豊姫の下で事務的な仕事や、調理などで奉仕をしなければならない。

彼は大急ぎで身支度を整え、すぐさま行動に移った。窓からほろほろとこぼれる春の陽射しが、彼の心を優しく包み込んだ。

 

 

 

* * *

 

 

 

 彼の一日は多忙の極みを呈していた。

綿月家警備隊とは比べ物にならない程、彼一人に対する仕事量は膨大であった。

 

 まずは依姫との早朝鍛錬から彼の一日は始まり、その後に依姫と豊姫、二人分の朝食を作らなければならない。

早朝訓練がなければ朝食作りが先行されるのだが、それでも一日の開始は早かった。

 

 朝食を作ったら休憩かと問われれば、そんな事はない。

綿月姉妹達によって管理されているスケジュール表に則り、昼過ぎまで職務を行わなければならないのだ。

ある時は依姫と再び稽古を重ね、ある時は依姫と都の警邏を行い、またある時は豊姫の雑務処理の手伝いをする。これらは全て、主に午前中に行われる日程だ。

 

 昼食も勿論の事、彼が調理しなければならない。朝は控えめで作らないと豊姫が煩く、昼食に至っては午後の動力源だといって、精のつくものに拘らなければならない。無論、朝食は一日の活動源であるが。

兎にも角にも食事関係は全て彼が担当しており、姉妹達の要求を呑みつつ調理しなければならない為、かなり骨が折れる仕事だった。

この点に関しては致し方ないと、彼も受け入れているのが幸いか。常人ならばあまりの激務により、夜逃げしていたかもしれない。

綿月姉妹達の住む屋敷の一室を借り、日々そこで生活をしているのだから、寝床を無償で提供して頂いている代償だと半ば諦めているらしい。

 

 そして午後にもなると、身体もかなり解れてきている時間帯。

午前中と似たような日程をこなしつつも、時間を消化する毎日。

 実は彼は、綿月姉妹達"二人"の付き人として行動しているので、午前中と午後で付く側が変わるのだ。

つまり午前中は主に依姫に、午後は主に豊姫に、といった感じで従事しているのだ。彼としては天真爛漫かつ、朗らかな豊姫に就いていた方が気が楽だと感想を述べていたようだが。

勿論であるが、突発的な用事や急な呼び出し事に関しては、その限りではない。突然午後に依姫に呼び出されたかと思えば、突然厳しい鍛錬が始まったり。心の休みどころがなかった。

 

 そうして嵐のような日中を終え漆黒の夜が訪れると、今度は夕食の準備である。

夜に関してはがっつりと、豪勢なもので一日を締めくくるのだ。幸いにも材料や設備、調味料に関しては何も問題はないので、心置きなく作ることが出来る。

その点は流石に綿月家だなと、彼は納得の声をあげた。錆びたガスコンロの上にヤカンを載せて湯を沸かす生活も、過去の事だ。

 

 流石に夜になったら訓練は行われない……時の方が多い。稀に依姫が訓練を継続する事があるので、彼は夜になっても日々肩を震わせていた。

それでも最近は豊姫が『デザートが食べたい』と強引に彼を連れ出してしまうので、訓練が行われる事は本当に稀なのである。その点に関して、彼は豊姫に深く感謝をしていた。

 

 晩餐も終わって風呂も終わり、綿月姉妹達と幾許かの会話を楽しんだ後、漸く彼の一日が終わりを迎える。

無論、油汚れや食べ粕の付着した食器類を全て洗い終わった後、だが。

何だかんだで姉妹達よりも床に就く時間が遅く、仮に"残業代"という概念が存在するのであれば、それだけで彼の懐は大いに暖かくなること間違いなかった。

 

 

 本当に多忙で、仕事に追われながらも精一杯生きている彼であるが、不思議と後悔の念は一切なかった。

むしろ月に訪れてから最も充実している日々を送っている、とさえ思う程である。

生真面目な依姫と天真爛漫な姉の下で従事していると、予測不可能な事が度々起こり、彼は退屈せぬ毎日を送っていた。先月も、先週も、昨日でさえも。

 そうして本日も、彼は依姫と共に行動していた。付き人としては珍しく、隣りに並んで歩いていた。

 

 

「平和ですね、依姫さん」

 

 彼が隣りを歩く依姫に対し、何の気なく呟くように言葉を吐露した。

互いに帯刀して警邏に勤めているのだが、この月の都市で不埒を働く者は僅かしかおらず、日々の警邏は最早ただの散歩と化していた。

今日は午後に警邏の予定が入っていた為、一日中依姫に付いて職務を遂行していた。無論、散歩化しているとはいえ立派な警邏。手を抜くような事は決して有り得ない。

 隣を歩いていた彼がふと呟いた言葉に、依姫は視線を向けず正面を向いたまま、

 

「平和で何よりよ。貴方もそろそろ、警邏には慣れてきた?」

 

「はい。僕の一日の中で、唯一の安穏とした時間ですので」

 

「……どういう意味」

 

 依姫の返しに、彼は失言したと言わんばかりに顔を顰めた。ジト目の依姫に、顔向け出来ない。

激しい訓練や修練の時間とは大きく異なり、警邏の時間はとても穏やかな時間であると同時に、自然や人々の営みなどに身近に接する事ができるため、とても有意義な時間なのだ。

有意義といえば聞こえは良いが……彼にとって、心休まる休息の時間と言い換えても語弊はなくて。

 場の空気を少々濁してしまったと思った彼は、話題を変えようと言い繕うようにして、

 

「そ、そういえば。依姫さんは来季から、警備隊の隊長に昇進されるのですよね」

 

「ええ。それがどうかしたの?」

 

「ならそれなりの指導術だとか、そういうのは勉強しなくても」

 

「まさか。個人的に学んでいるわよ。けれども、今までは玉兎達に指導していた経験もあるから、然程気にしてないけど」

 

 やれやれ、といった風に両の手を遊ばせ、依姫がそう言い放った。

彼女は以前、素行の悪い玉兎達相手に指導を行っていた身であり、そして今度からは人間達相手にも指導を行う身となるのだ。

大規模な警備隊には幾つもの隊が存在し、素行の悪い玉兎達によって構成されている部隊から、選りすぐられた人間達によって構成されている部隊と、大小様々ある。

いつまでも依姫を玉兎隊の隊長格に留めておくのは勿体無いと、試験での活躍も相成り来季から昇格、といった形になっていると、彼は聞き及んでいた。

 

「昇進するのは構わないんだけどね。あの娘達相手に指導できる教官が、他にいるのか心配よ」

 

「……玉兎隊の事ですか」

 

「そ。上っ調子で自主鍛練もまともに行わないんだから、あの娘達」

 

 拳を握り締め、何だか悔しそうな表情でそう呟く依姫を見て、彼は不思議に思った。

あの依姫が指導に苦しむとは、玉兎隊とは余程捻くれた連中なのだろうか、と。自分の場合は抵抗すれば、即座に鉄拳制裁が待っているのに、とさえ思っていた。

 

「後任の教官に引継ぎもしないといけないんだけど、まだ候補となる人がいないのよ」

 

「自ら玉兎隊の指導をしたいって人がいないんですね」

 

「ええ。誰でも出来るってわけじゃない上に、候補となる資格のある人は皆、今の立場から降格になる人ばかりでね」

 

 素行の悪い玉兎隊の隊長など、所詮は底辺の管理職に過ぎぬという事だ。激務薄給……その上組織的な地位も低い。

そんな割の合わぬ職務を引き受けるお人好しなど存在せず、今の今まで依姫が担当して指導に当たっていたのだ。

仮にこのまま後任が現れなかった場合は、依姫が兼任して指導を続行するか、最悪は玉兎隊は解散という結果になるだろうという事は、彼にも予測が出来た。

 

「はぁ……誰か立候補してくれないかしら」

 

「……」

 

 依姫の呟きに彼は、ただただ黙を貫く事しかできなかった。

 この日も平和な月の都の警邏を済ませ、日没前には他の警邏班と交替し、別の職務に当たった。依姫の表情は明るくも、どこか憂鬱としたものに包まれていた。

 

 翌日も、その翌日も彼は淡々と与えられた職務をこなしていった。

月の都での生活は、彼が想像に描いていたよりも幾許か……否、かなり平々凡々かつ、十年一日の如き生活であった。

始めこそは環境に適応するのに精一杯でありながらも、初めての経験や体験などばかりで新鮮さに満ち溢れていた。

しかしそれも数ヶ月もすれば、何の事もない。満月が満ち欠けるように、何気ない生活へと成り下がっていたのだ。

 

 依姫や豊姫の相手は相変わらず、波乱万丈の極みを呈しているが、それでも身体がその刺激に慣れ始めていた。

天真爛漫な豊姫に振り回され、生真面目な依姫に扱かれて。しかしながらそんな生活も、もう少しで変わってしまう。

来季には依姫も警備隊隊長として就任する為、彼に費やす時間が減ってしまうからだ。扱きの日々は辛かったと思う彼もその事実に、もの寂しさを覚えずにはいられなかった。

 就任するにあたり、依姫は様々な問題や悩み事を抱えていた。その中の一つである"玉兎隊の隊長"の後任が存在しない件について、彼も思い悩んでいた。

 

 自分が立候補してしまおうか──そう考えていたのだ。

しかし彼はあくまで"綿月姉妹の付き人"に過ぎず、"玉兎隊の隊長"という役職を与え任命するには、些か難儀する問題でもあった。

理由としては、警備隊はあくまで綿月家という組織の管轄下に置かれている為、彼自身に与えられた"綿月姉妹の付き人"というのは、綿月豊姫、依姫両名による個人的な役職……つまり、言ってしまえばペットに過ぎないのだから。

無論彼は人間なので、ペット扱いを受けることはないのだが、そんな一介の人間がいきなり隊長格に上がるなど、到底考えられぬ話でもあった。

 

 

 そんな折、彼の下へひとつの連絡が入ってきた。

 

「天道ー、いるー?」

 

 何処からか、不意に自分を呼ぶ声が聞こえてくる。

そう思った彼は周囲に視線を配り、それがひとつ壁を隔てた先から聞こえてくるものだと理解し、近くの扉を開いた。

 

「はいはい、此処にいますよ」

 

 彼が扉を開いて間もなく、一人の少女と対面した。ふわりとした金髪が、空気圧で揺れる。

扉の前に居たのは、綿月豊姫であった。彼は扉を開けてすぐに、彼女の胸のあたりに視線を向けた。見ると彼女は洒落た網籠を両手で抱えており、その中には沢山の桃で埋め尽くされているのが分かる。

 

「今日は直ぐに出迎えてくれたわね。良い子、良い子」

 

「……はあ」

 

 器用に片手と片膝を使って網籠を支え、空いた方の手で彼の頭を撫でて褒める豊姫。

嬉しいとも悲しいとも取れぬ言葉を吐露した彼は、網籠からいくつか転がっていった桃に目を向けるばかりであった。

ごろん、と積まれていた桃が網籠から落ちて、床の上をころころと転がり彼のつま先にぶつかる。彼はそれを拾い上げ、豊姫に向けて言葉を吐く。

 

「またこんなに摘んで。依姫さんに怒られますよ」

 

「大丈夫、見つかる前に食べてしまえばいいのだから。さぁ、早速何か作って」

 

 どん、と近くの机の上に網籠を置く豊姫。衝撃でまたひとつ桃が転がり落ちそうになったが、豊姫がそれを支えた。

外見から察するだけでも十個以上はある桃に対して、彼は難儀した。桃で埋め尽くされた網籠と豊姫を交互に見てから、

 

「と言いましても、こんなに沢山用意されたところで、使うのは精々一個、二個程度ですよ。残りはどうするんです」

 

「一人で食べるよりも、二人で食べた方が美味しく感じるからね。一緒に食べましょうよ」

 

 彼女がそう微笑んで伝えると、共犯者は多い方が良いからねと、呟くようにして最後に付け加えた。

彼はさぞ辟易したであろうが、元より断るつもりなどなかったので、素直に網籠を抱え厨房へと消えていった。ふぅ、と密かに吐いた溜息もなるべく小さくして。

 

 

 暫くして厨房から戻ってきた彼を待っていたのは、豊姫の急かしの言葉であった。

「遅い」と冷たく言い放たれた彼は、その理不尽さに顔を顰めるも、淡々とデザートを豊姫へと提供した。

 

「お待たせしました。といっても、どれも似たり寄ったりですが」

 

「わあ」

 

 ぽん、と両の手の平を合わせて豊姫は歓喜の言葉を洩らした。

彼女の目の前には様々な、桃をふんだんに用いた料理が並べられていた。

 

「桃のパフェに、こっちは焼いた桃です。それでこっちがピーチパイで、これは杏仁豆腐に桃を混ぜたもの。で、これはお酒に漬けた桃です」

 

「へぇ、素晴らしい品揃えね。よくもまぁ、こんなに思いつきますわね」

 

 これは褒め言葉だろうと思った彼は、素直に受け止め喜んだ。

そもそも月の書店に置いてある料理本から得た程度のレシピなので、本当に美味しいかどうかは食べてみないと分からないのだが。勿論そんな事は伝えず、淡々と言葉を並べる。

 

「これは桃で作ったジュースです。果肉たっぷり、歯ごたえもバッチリです」

 

「美味しそうね。さ、天道も座って、一緒に食べましょ!」

 

 早く早くと豊姫に急かされながら、身につけた小さなエプロンも外さずに彼は着席し、豊姫と対面した。

彼女はにこにこと微笑んでおり、彼は心中思った事を素直に吐露する。

 

「いいんですか、豊姫さん」

 

「どうしたの?」

 

「こんなに甘い物ばかり……太りますよ」

 

「……う」

 

 彼の言葉を耳にした豊姫は、一瞬にして笑顔に皹が入り、罰が悪そうに彼へ視線を向けた。

 

「だ、大丈夫よ。最近は運動もしてるから、身体が甘い物を欲しているの。ほら、私甘党だから」

 

「……はぁ」

 

 それは関係ないのではないかと彼は思ったが、口にはせず心の中で留めておいた。

けれども実際問題、豊姫に関しては依姫よりも身体能力は高くなく、鍛練も毎日欠かさずに行っているというわけでもない。運動はしない日の方が多い始末だ。

 だがそれでも、彼女の身体能力は一般の月人と比べると、遥かに強いという事は、彼も存じているところである。

というのも全ては彼の推測に過ぎないが、この前豊姫が屋敷の二階から飛び降りるところを彼が目撃し、慌てて中庭に駆けつけてみたところ、平然とした表情で桃を摘んでいる豊姫を見て、実は自分で思っているよりもずっと屈強な人なのではないか、と彼はそう思っていた。

なので間食の一度や二度で太るという事はないだろうと考えた彼は、無粋な言葉をかけるのは止めて豊姫と共に桃料理を食する事にした。

 

「あまり食べ過ぎると、今晩の食事が食べられなくなりますよ」

 

「大丈夫だってば。ほら、依姫に見つかる前に食べましょ!」

 

 フォークを勧める豊姫に釣られ、彼も同様に食事を進めた。小さなデザート用のフォークを手に取る。

彼女は仕事場だとしっかりしているのだが、プライベートな事になると途端、口調や態度が見た目相応な女の子っぽくなり、彼的には依姫よりも関わりやすいと思っているようだ。

依姫は普段から生真面目なため、たとえプライベートであっても、公的な状況と変わらぬ態度で接しないといけないので、疲れる。……と、彼は食事をしながら、豊姫にそう愚痴をこぼした。

 

「へぇ、そうなの。あの娘の生真面目っぷりは生まれつきだから、一々気にしていてもしょうがない事よ」

 

「そうなんですがね。でもやはり、豊姫さんと比べてしまうと、一層際立つといいますか……」

 

 彼は依姫と豊姫、交互に付いて回っている為、依姫の厳しさに中てられた反面、豊姫の優しさや包容力を受けると、その差を肌身で実感してしまうのだ。

勿論依姫にも彼女なりの良いところや優しさなどを知っているので、彼女の事を批判しているという事は一切ない。むしろ、一人の武人として敬意さえ抱いているといっても過言ではないのだから。

 

彼の愚痴を淡々と聞いていた豊姫は、やがてけたけたと笑い出すと、パフェの一角を専用のスプーンで切り崩し、それを口元に運んだ後に言葉を放った。

 

「あはは、警邏中に市民と話してただけで仕置きをされたの?」

 

「ええ……何の前触れもなく、突然」

 

「ふぅん、そう……もしかしたら、貴方との距離関係がまだ掴めていないのかもね」

 

「距離関係、ですか」

 

「そ。昔っから武道に精通してたもんだから、異性との交流をほとんど経験した事がないの。それでいきなり、自分と対等の実力を持つ異性が現れたものだから、困惑しているのかも」

 

 依姫に関してそう推測する豊姫だったが、それは彼女自身にも言える事であった。

同性ばかりの環境で育ってきたのもあり、普通なら身体能力は男性の方が上なのにも関わらず、女性である依姫に敵う男性は一人としていなかった。

それどころか、彼女の足元にすら届かぬものばかり。そんな環境下で育ってきたものだから、"男とは弱い生物"と考えてしまっているのかもしれない。

 そんな折に、彼が現れた。

神霊を行使する依姫を相手に、喉笛を噛み千切らん勢いで善戦し、彼女を苦戦させたのだ。

彼の内情はさて置き、突然現れた異性の実力者に対して依姫はどう接していいのか……それどころか、拮抗した実力の男性に対してどう接すれば良いのか──そこから始まっていた。

職務中ならば男女分け隔てなく接する事の出来る彼女も、プライベートな関係になると、途端に距離関係を保つ事が出来ずに、困惑してしまうのだろう。

 

「そうね……依姫は真面目な娘だから、今まで通りで良いんじゃない?」

 

 豊姫はそう言いながらも、目の前にあるパフェをいつの間にか平らげており、ピーチヨーグルトにまで手を出していた。

 

「下手に言葉を並べても、訝しげに思われるだけでしょうし。気詰まりな関係も時間が解決してくれるでしょう。それこそ、依姫が自然と心を開くまで、ね」

 

「……そうですね。僕は一介の従者に過ぎませんし、余計なお節介は──」

 

 彼が言葉を紡ぐ途中、豊姫はフォークの先端を彼に突きつけた。鋭く、研ぎ澄まされた刃物のように言葉を返す。

 

「それもいけないわね。貴方は、ただの従者じゃあないのだから」

 

 豊姫はまるで語り手に成りきったかのように言葉を紡ぎ、更に続ける。

 

「仮にも貴方は、依姫の膝を崩した唯一の相手。にも関わらず自らを蔑むような言動を行うのは、依姫に対する侮辱行為にも等しい」

 

「……すいません」

 

「天道……よく聞いて。私達は一度たりとも、貴方を端くれ者として卑しめた事はないわ。私は勿論のこと、依姫も貴方とは対等の立場になりたいと考えている筈よ」

 

 豊姫がそう言葉を放ち彼を諭すと、周囲は静寂に満たされた。

自分と実力が近い──或いは上の実力の者が、次の日には従者となり謙った態度を取る。そんな事、誰とて応対に困る事は必然である。

何よりも綿月姉妹は、彼を対等の立場と考えており、形式的には付き人であるものの、心情では彼に対して敬意にも似た感情も抱いているのだ。

依姫と対等の実力を持ちながら、料理に精通しており、環境の適応力にも優れている。そんな何気ない事であるが、実際に全てこなしている様を見ていれば、綿月姉妹でなくとも驚嘆に値する程だ。

 豊姫に諭された彼は、ふぅ、と吐息した。俯き気味だった表情を少しだけ上げ、豊姫の鼻頭に視線を向けて、

 

「でも依姫さんは、屋敷でも僕に対する当たりが強いんですよ」

 

「……そうなの?」

 

「仕事以外の話なんて、ほとんどした事ないですよ。接する時間が長いので、何とかして仲良くなりたいんですが……」

 

 勿論、建前上では付き人として彼を雇用している為、職務中は上下関係を明確にするのは極当たり前の事である。

彼と綿月姉妹は同じ屋敷で共同生活をしているので、職務が終わった際も屋敷では仲良く従者間の交流をしている。

 けれどもそれは、豊姫だけだった。

依姫に関しては、屋敷で生活をしている時も彼につんけんした態度を取っており、彼はその事に関して思い悩んでいたのだ。

 

 そして同時に彼は、ある事を考えていた。考えていたというより、既に意思を固めていた。

それは依姫が日中の警邏の際に、洩らしていた言葉に関して。口元に指を当てて思案する豊姫に向けて、彼が言葉を続ける。

 

「実は玉兎隊の後任が決まらないとかで、依姫さんが思い悩んでいまして。僕で良ければ、何とか力になれればなと」

 

「そういえば、そんな事も言ってたわね。後任が現れなかったら、私が引き受けようと考えていたのだけれど……」

 

「そうなんでしたか」

 

「ええ。そうね……その事に関して力になりたいって言うのなら」

 

 豊姫は食事の手を止めた。彼の表情を見据えて、にやりとほくそ笑むようにして言葉を放つ。

 

「天道、貴方がやってみては」

 

「……良いんですか?」

 

「ええ、勿論。決定権があるのは私じゃないけど、依姫の鍛練についていけてるのなら、玉兎隊の指導なんて簡単、簡単。お茶の子菜々よ」

 

 軽い口調でそう言い放つ豊姫は、再び食事の手を動かし始め、近くのデザートに手を出した。

フォークの先端が桃の切り身を貫き、果汁がしたたり落ちる。それを口元に運び、ほおばる前に、

 

「貴方さえ構わなければ、話を上げておくけれど」

 

 豊姫が、そう言った。彼の答えを待つまでもなく、桃の切り身は彼女の口の中へ運び込まれた。

彼女の提案に対して彼は、思考するまでもなく軽快な口調で答える。その口調はまるで、近くの店までの買い出しを了承するが如く、

 

「よろしくお願いします」

 

 とだけ。小さく頭を下げ、豊姫に言葉を返した。

彼女はにこりと微笑む。それを了承した旨を彼に告げた後、再びデザートを食べる。

 

 その後も大量に作られた桃のスイーツ類を二人で食べながら、彼らは世間話に浸っていた。

半刻ほども経過すると調理されたデザートも徐々に姿を消してゆき、多くは豊姫の腹の中へと綺麗におさまっていた。

彼は豊姫の食べた量の半分も食べると、「もう食べられない」と限界に達し、後の時間は豊姫の食事風景を眺めるだけであった。

 

「あ、そだ」

 

 不意に豊姫が何かを思い出したのか、短く呟く。

それには彼も少し驚いたのか、どうしたんですかと言葉を返した。

 

「お師匠様から言伝を預かっていたの、忘れてたわ」

 

「お師匠様……ああ、八意さんですね」

 

「ええ。"今晩、話があるから研究所まで来い"とね」

 

 最後となる桃の白ワイン漬けを食べていた豊姫が、さらっとそんな事を言ってのける。

それを聞いた彼は、ふと窓の外へと視線を向けてみる。……言うまでもない、とっくの昔に外は暗がりに包まれているのだ。

 

「あの、豊姫さん」

 

「ん、なに?」

 

「今晩って、今がその今晩では」

 

「そうね。あー、美味しかった。また作ってちょうだいね」

 

「……もしかして僕、既に遅刻してるのでは」

 

 恐る恐る訊ねる彼に、豊姫は悪びれる素振りすら見せずに、急がないと大変な目に遭うわねと、他人事のように述べた。うふふ、と苛めっ子の微笑みで、彼に優しい視線を向けていた。

 

 彼女の言葉を聞いた彼は、すぐさま部屋から飛び出す。脱兎の如く、小走りで永琳のいる研究所まで向かっていった。

片付けるべき食器も片付けず飛び出た様は、豊姫の頬笑を誘った。

 

 

 

* * *

 

 

 

 月の裏側に存在する世界にも、漆黒の宵闇は訪れる。

それは自然の事象によるものなのか、或いは人工的に造りだされた幻想によるものか、彼には分からない。

彼は無我夢中で永琳の活動している研究所へと駆け、約束の時刻が当に過ぎているのも理解している為、誠意を見せて詫びを入れる魂胆で、ひたすら駆ける。

 

 そうして到着した研究所は、不気味なほど純白な明かりに包まれており、周囲の宵闇を照らしていた。

体内の酸素を口から吐き出し、拙い足取りで所内を移動し、やっとの事で辿り着く。永琳の研究室へ通ずる扉の取っ手を、恐る恐る引こうとする。

──否、引こうとした瞬間、扉は自動的に開いた。彼は心の中で吃驚しつつも、その内部へ視線をやった。

 

「…………」

 

 研究室の中に、永琳の姿はなかった。

彼女の叱責を恐れていた彼は、若干安堵したような表情に切り替わる……が、それは直ぐに疑念のものへと変わった。

 

「誰よ、あんた」

 

 唐突にかけられた、その言葉。誰もいないと思っていた部屋の中に、一人の女性がいたのだ。

そしてその女性の吐いた、あまりにも失礼な言動に対し彼は辟易とした。

名前も知らぬ、顔を見るのも初めて。にも関わらず自分に対する不躾な応対に対し、こいつは誰だと不信感を露わにする。そうして彼のとった行動は、

 

「……」

 

 黙を貫く事であった。

きょろきょろ、と視線を部屋中に渡し、本当に永琳がいない事を確認した後に、近くにあった椅子に乱暴に座った。キィ、と背もたれが悲鳴をあげた。

腕を組み彼を睨み付ける女性に対し、彼も似たような態度で応対した。背もたれに深く腰をかけ、彼も腕を組んだ。極めつけに、足も組んでやった。

 

「ちょっと、私が話しかけてやってるのに、その態度は何?」

 

「……はぁ、それは申し訳ない」

 

 面倒臭そうに言葉を返す彼の態度に、女性は憤怒を一瞬だけ露わにしたが、直ぐに平然と取り繕い言葉を紡ぐ。

 

「知ってるわよ、あんたの事。豊姫と依姫のペットでしょ」

 

「……」

 

「永琳から聞いているもの。依姫に手痛く指導されている、ってね」

 

「あっそう」

 

 女性の言動に対し、彼は本当に興味がなさそうに言葉を返した。まるで児戯の戯言を相手にするかのように、彼の言葉は心底どうでも良さそうな感情すらこもっていた。

それが女性の神経に触ったのか、女性は少々語気を強めて言葉を放つ。

 

「こんな不躾な態度を取られたの、生まれてこの方初めてよ。しかも、こーんな貧相な奴に」

 

「……あっそう。見ず知らずの人に、そんな事を言われる筋合いはないけどね」

 

 この時点で彼は、女性が何者なのなのかを理解しておらず、その辺にいる小洒落た一般市民程度に思っていたようで、ただただ面倒臭そうに素っ気無い態度を取るばかりであった。

無論、女性の言動が他人の神経に障るものばかりなのも問題であるが、この女性に関してはそれが許されていた。

しかしながら現在の彼にその事は到底理解出来ず、敬意の欠片も見せぬ発言で応対していた。

 

「お前が何処の誰だか知らないけど、お前の人生の為にもその失礼な態度はやめた方がいい」

 

 警告を含めて、彼がそう言った。女性は眉を狭め、声を高くして言葉を返す。

 

「はぁ? どうして私があんたにそんなこと言われないといけないわけ」

 

「……ところで、八意さんはまだ来ないのか」

 

「さあ。そのうち戻ってくるんじゃない」

 

「八意さんが戻ってきたら、頭の中を診てもらえよ。常人並の思考が出来るようにな」

 

 そう彼が煽るようにして言葉を放つと、女性は憤怒し一層態度を悪くした。

取り留めのない言葉を放つ女性に彼は辟易とし、「こんな稚拙な女は初めてだ」と心の中で悪態をついた。

更に日頃のストレスのせいか、彼の悪態は心中に留まらず、言葉として吐露される。

 

「大体、なんでお前は僕に対して絡んでくるんだよ。僕はお前の名前も知らないし、好きな食べ物だって知らない」

 

「別に、ただの暇つぶし。永琳ったら、人を呼び付けておいて自分が遅刻するんだもの、このやり場のない苛立ちを晴らそうと思って」

 

 さらり、とそんな事を言ってのける女性は、悪びれる素振りすら見せず、その表情は清々しい程までの憫笑を浮かべていた。

彼は更に辟易とし、相手をする事を諦めて女性が居る方とは別の方向に視線をやり、深い溜息を吐いた。

 

暫 くの間、女性が執拗に彼に話しかけ、玩具の様にして言葉遊びを繰り広げていたが、黙秘権を行使した彼の口から言葉が放たれる事はなかった。

次第に女性も飽きてきたのか、言葉を発する事を止めようとした時、室内の扉は静かに開け放たれた。

 

 

「……ごめんなさいね、少し遅れちゃったみたい」

 

 声の主は扉を開けて直ぐに、つま先を二度ほど軽く地に叩きつける。八意永琳だ。

 

「遅いわ、永琳」

 

「天道も、待たせて悪かったわね。輝夜の相手は大変だったでしょう」

 

 永琳は彼に対し、そう質問した。

 そう、彼が今まで粗言を放っていた相手は、月の姫たる蓬莱山輝夜その人であった。

腰よりも長く伸ばした漆黒の長髪に、眉を覆う程度の長さに前髪は切り揃えている。

ピンク色の服に加え、赤い生地に月、桜、竹、紅葉、梅──と、様々な模様が描かれているスカートを穿いており、醸し出す雰囲気はどこぞの名家や貴族のお嬢様、といった風であった。

 

 そんな彼女に対して語気を強めた発言を繰り返した彼は、永琳の言葉を聞いて

 

「……この人が蓬莱山輝夜ですか?」

 

 呟くように、永琳に問う彼。心底信じられない──そういった想いも込められていた。

対して彼女は表情を微笑に変え、語るようにして言葉を放つ。

 

「そ。漸く二人の都合が合う時がきてね。これを機に紹介できるかと思ったのだけれど」

 

「自分の都合が合わなかったと」

 

 彼の突っ込みに、永琳が苦笑を浮かべた。

前々から両者を引き合わせようとしていた永琳だが、今日に至り漸くその時間を取る事が出来た。

けれども両者の出会いは最悪の模様を呈しており、お世辞にも第一印象は良好とは言えないものであった。

 

「僕の予想していた人とは全然違った」

 

「ふーん、そんなこと言うんだ」

 

「八意さんが姫と呼ぶ人だから、もっと高貴な人かと思っていたけど……ただのじゃじゃ馬でしたね」

 

 皮肉を言う彼に、輝夜は苛立ちを包み隠さず露わにした。

余程酷い事を言われでもしたのか、輝夜の性格を熟知している永琳は、彼を叱責する事も真意を質そうとする事もせず、可笑しな笑みを浮かべるばかりであった。

 

 そもそも永琳は、二人に自己紹介をさせるだけの為に引き合わせたわけではない。

彼の"望むもの"を輝夜が有している為、それを上手く手にさせる事が出来れば────という、単なる老婆心によるもの。

しかしながら現在の状況を観察するに、邂逅してまだ間もないというのに、互いに皮肉を言い合い罵り合うという犬も食わぬ険悪な雰囲気。このままでは彼の望むものどころか、言葉すら交わさぬ関係になりえない。

そう思った永琳は、場の空気を切り替えるかのようにし、透き通った声色で言葉を放つ。ぎゃあぎゃあと喚き散らす輝夜に気を遣おうともせずに、

 

「輝夜。貴女そういえば、月の魔術が得意だったわよね」

 

「うっさいこの貧弱庶みッ──ん。……何、永琳。月の魔術がどうかしたの?」

 

 不意に言葉をかけられた輝夜は罵声も言葉の途中、永琳へと振り向き問い返した。

彼はと言えば、大して口も強くないくせに女性と口論をし、豊富な言葉の数々に翻弄され、苦虫を噛み潰した表情をしていた。

そんな彼も表情はそのまま、永琳の方へ視線を向けた。

 

「彼に指導してやってほしいのよ」

 

「……は?」

 

「だから、彼に月の魔法を指導してやってほしいの。彼はあの娘達の従者でもあるし、素質はともかく実力は貴女の想像よりも遥かに上をいってる筈よ」

 

「嫌よ。だって、こんな礼儀も知らない馬の骨に、高潔な月の魔術を指導するなんて……無理無理、ぜーったい無理!」

 

 頑なに拒む輝夜に、永琳は深い溜息を吐いた。

 

「どうしても?」

 

「どーしても。だってこいつ、生意気なんだもの。頭を地に埋めて土下座するのなら、考えてあげなくもないけど」

 

 ぷりぷりと怒った輝夜は、人差し指を彼へ向けて真っ直ぐ差し向け、そう言い放った。

再び吐息した永琳は椅子を座りなおし、輝夜に対して声色を変えて言葉を紡ぐ。

 

「聞いて、輝夜。古来より伝承されてきた月の魔法術に関して、貴女の右に出る者はいないわ。貴女を指導した私が言うのだから、むしろ誇っても良い事よ」

 

「……急にどうしたの、永琳」

 

 輝夜の両頬に優しく触れ、視線を真っ直ぐに見据えて言葉を続ける。

 

「貴女は一族の中でも最も優れている月の姫。貴女は何を遣らせても優秀だったわね……学術も作法も、勿論月の魔術に関しても」

 

「えへへ……そう?」

 

「そうよ。貴女は私の自慢の教え子。可愛い輝夜……私のお願い、無碍にしないで聞いてもらえないかしら」

 

 語りかけるように優しく、羽毛のような柔らかさで言葉を紡ぐ永琳に、輝夜は大いに頭を悩ませた。

永琳から師事を受けていた身として、また師匠でもある永琳からの願いに、箱入り我が侭娘は思考に思考を重ね、致し方なしとばかりに言葉を放つ。

 

「……仕方ないわね、永琳がそこまで言うのなら、教えてやっても良いわよ。月の魔術をね」

 

「っそ。ありがと、輝夜」

 

 柔和な微笑みに満たされた表情をそのまま輝夜に向けた永琳は、短く礼を告げると表情を元に戻し、彼へ視線を戻した。その表情は、しってやったり、と。そう静かに語っていた。

一瞬の出来事に彼は、実はこの蓬莱山輝夜、八意永琳に洗脳でもされているんじゃあないのか、と不信感を露わにしたものの、その思考は永琳からの視線を感じた瞬間、霧散した。

 

「貴方の悩みについて、少し考えていてね。面白そうだから、薬以外にも協力できないか考えていたのだけれど」

 

「……それが月の魔術ですか」

 

「ええ、察しがいいわね。扱えるかは試してみないと分からないけど、依姫と肩を並べられるくらいなら、少なからずの希望はあると思うのよ」

 

 彼と永琳がそう会話をするが、状況を理解できぬ輝夜は口を尖らせて言葉を挟みいれる。

 

「ちょっと、二人とも何の話?」

 

「輝夜はまだ知らないのよね。彼の事なんだけれど──っ」

 

 事情の端末を輝夜へ説明しようとする永琳へ向けて、漆黒に包まれた視線を向ける彼の表情は、およそ悪意に満ちていた。

"次の言葉を発したら僕も穏やかではない"と言わんばかりの彼は、ジッと永琳を睨み付け、無言の圧力をかける。

 

「……あー」

 

 それに気付いた永琳は、不意の出来事に思わず言葉を濁しつつも、何とかこの場を穏便に済ませようと、善処した。

師である永琳を凝視する輝夜に対し、天才によって創り出された言葉は、上流から下る清水のようにして紡がれる。

 

「天道は持病を持っているの……それも先天的な、不治の病を。私も出来る限りの診察をして、薬も処方したのだけれど、結果は芳しくなかった」

 

「……ふーん、そうだったんだ」

 

「そして私は彼に提案したの。完治は不可能でも、それらを緩和する手段がある、と。月の一族の英知を結集して生み出された秘中の秘、月の魔術がね」

 

 迫真の演技で言葉を創り出す永琳に、彼は思わず背筋を震わせた。自分も或いは、こんな風にして虚言を吹き込まれていたのだろうか、と。

 

 けれども永琳の言っている内容は、強ち間違いではなく、彼としては病気とカテゴライズしても良いという程に、性転換については思い悩んでいた。

それが"月の魔術"で治せるというのだから、彼は内心では嬉々としており、今すぐにでも月の魔術を学びたいと考えていた。

 

 その後も彼女の架空の話は続き、輝夜はそれをただひたすら黙って聞いていた。時には何やら考えるような仕草をしたりと、熱心に聞いていた。

そうして永琳の言葉を全て耳に入れた輝夜は、再び思考するような仕草を見せた後、穏やかに口を開いた。

 

「……そう。そんな事情があったんだ、あんた」

 

「あ、ああ。魔術で少しでも病を緩和できるんなら、その力にすがりたい。蓬莱山、是非協力してほしい」

 

 飾り気の無い簡素な言葉と共に、彼はこの日初めて、輝夜に向けて頭を下げた。

今の今まで畏敬の念を込められたお辞儀や、畏怖や敬意を払って伏し拝まれた事しかない輝夜は、彼の純粋な願いの込められたお辞儀に対し、心を震わせた。

初めての経験に、どう応対すれば良いのか、その問いに対する答えは明白にならず、彼女は頬を指で優しく掻きながら呟く。

 

「……ん、別に構わないって言ってるでしょ。同じことを何度も言わせないでちょうだい」

 

 普段通りの、棘のある言葉ばかりを選び、それを形にして言葉を紡いだ。

腕を組んで泰然とした表情を作る輝夜に、彼は若干であるが頬を緩ませて言葉を述べる。

 

「ありがとう、蓬莱山。本当に」

 

「ふん、謝意を述べるなら月の魔術を会得してからにしなさい。それと、その呼び方やめて。蓬莱山なんて呼び方、政府の連中くらいよ」

 

「……そっか。よろしく頼むよ、輝夜」

 

 そう優しく言葉を紡ぐ彼の心中に、敬意など微塵もなかった。それは傍観していた永琳には察しがついていたようであるが、言葉をかけられている本人である輝夜は、それに気付いていない模様。

どころか『敬い嘆願している』とすら思っており、彼女の中での天道は『持病持ちの可哀想な奴』と確定してしまっていた。

 

 輝夜と彼の奇妙な出会いは、"月の魔術"という不思議な引力によって引き合わされた。

彼を取り囲む"月人の輪"は次第に大きくなり、彼という存在は彼女らにとって、欠かす事の出来ぬ存在と変貌する。

 しかし、それはもう少し先の話である。

彼が月で成長を遂げる物語は、まだ続く。



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巻ノ三十九 痴話喧嘩は犬も食わぬが兎も好まない

 月の裏側に築かれた文明は、非常に高度な技術レベルを誇っていた。

例えば一年の合間に巡る四季の変化に関しても、全て人工的に操作されているものである。

自然による事象の変化だけでは、人間が健康的に営みを続けられる環境を構築する事が出来ず、そのため作為的に四季の変化、環境の変化を行っていた。

それは即ち虚構の四季であり、自然の季節の移り変わりを肌身で感じる事など、月に住む人間達には未来永劫あり得ない事でもある。

 

 勿論、虚構の四季にも利点は存在する。

灼熱の太陽の影響を受ける事もなく、荒れた吹雪に見舞われる厳寒期すら訪れる事はない。精々、今日は寒いなと感じる程度だろう。

年間を通して過ごし易い季節が文明人達により構築されており、全ての月人達はそれを受け入れていた。

 

 東から昇った太陽が、やがて西へと沈む。

月の裏側に築かれた文明都市にも同じ事がいえるのか、彼には分からない。

綿月姉妹の従者となり、月の賢者たる八意永琳と出会い、月の一族の姫である蓬莱山輝夜と邂逅した彼に、一つの転機が訪れた。

 

 

「──だから、違うって言ってるでしょ。力をもっと収斂させて」

 

 幾月経過後、現刻。感情のまるで篭っていない、ひどく冷めた声が彼を襲う。

 宵闇も世界を包んだ頃合、蓬莱山輝夜が天道という男と共に一室に篭もり、月の魔術の鍛練を行っていたのだ。

教官は言わずもがな、輝夜である。彼は生徒として鍛練に励みつつ、輝夜の鋭い小言を真摯に受けていた。その様はまるで、嫌味な教師が憎たらしい生徒を諭すかのようにして。

 

「あんたの内にある"神力"とは似て非なる力が、魔術を行使するには最適だっていうのに……肝心の本人がそれを扱えないだなんて」

 

「……うるさいなあ」

 

 その手の方面に知識がある輝夜は、彼が体内に、そして精神の内に秘めている"不思議な力"を直ぐに察知し、それを"神力とは似て非なる力"と表した。

曰く、神々しさも含まれたそれは、ある種の"妖力"とも取れる力であり、月の魔術を行使する上で役に立つと思われたのだが……彼自身、それを扱った事が経験が皆無なのである。

昨日の今日まで遣ったことのない力を、今すぐに遣ってみろと示唆されたところで、満足に扱う事が出来る筈もなく。

輝夜の嫌味たらしい小言に苛立ちを覚えた彼が、何の気なしに呟く。

 

「うるさくて集中できない。少し黙っててよ」

 

「んなっ……」

 

 苛立ちを露わにした彼は、輝夜が月の姫だろうとお構いなしに、敬意の欠片も見せぬ言動を放った。彼女が人間だったからまだしも、これが犬や猫の動物だったら、シッシと手で払われていた事だろう。

輝夜は彼の言葉に一瞬だけたじろいだが、直ぐに普段通りの態度を取り戻す。けれど口端はググと歪んでおり、眉間のしわを更に深くさせて、

 

「あんたの為に教えてやってんのに、何なのよその態度っ!」

 

「高い声を出すなよ……女の金切り声は嫌いなんだ。自分の声、聞いたことあるかい?」

 

 包み隠さず苛立ちを言葉にして吐き出す彼に、輝夜は悔しそうに表情を歪める。

ぎゃあぎゃあ、と叱責混じり、小言交じりの叫び声を吐き付ける輝夜に、それを真摯に受け止めつつ、毒を吐く彼。

一見すると月の姫に対して、ひどく不届き千万な光景である。普通ならば、極刑に処せられてもおかしくないだろう。

けれども輝夜は身分の違いや格差、彼の言葉遣いを責めたりはしなかった。また、彼女自身それを"嫌だ"とも思ってはおらず。

 

 彼女の中では既に、彼は"庶民"の枠を脱していたのだ。それは見紛う事なく"友人"という関係に等しく、近しいものであった。

無論出会った当初の時点で、一度だけ言葉遣いについて指摘した事もあったが、彼は『何故お前に対して敬意を払わなくちゃならないんだ』と猛毒を吐き付け、輝夜をひどく難儀させた事もあった。

以来、輝夜が彼に対して言葉遣いを注意する事もなく、彼女がふと気付いた時には"友達のような関係"が出来上がっていた。これらはあくまで、輝夜の一方的な思考に過ぎぬが。

 

 今まで貴族として最高位の待遇を維持してきた彼女は、他者からの荒言がとても新鮮に感じ、『まぁ、いっか』とも考えていた。

それでも面と顔を合わせて毒を吐かれては、流石の彼女も穏やかではない。装っていた平然は完全に解除され、人差し指をこれでもかと"つんのめ"させて

 

「あんただって、男の癖に声が高いじゃない! 前々から思ってたけど、あんたって男らしくないのよねぇ。線も細いし、男のくせに髪の毛だって伸ばしちゃって」

 

 あー、やだやだ。と輝夜は手を遊ばせ、煽るようにして言葉を吐いた。

 流石の彼も激昂して抵抗するかと思われたが、我慢していた。輝夜の挑発的な表情から視線を背け、視界を閉じて精神を集中させた。

そして自分の髪の毛に指を触れさせた。襟足に触れてみて、そんなに長くないだろう、と一人ごちた。

 

 けれど彼が押し黙った事が気に食わなかったのか、輝夜は何かを思いついた素振りを見せ一度部屋を出た。

 漸く静かになって鍛錬に集中できるなと思考していた彼であるが、間もなくその希望の光は暗黒に包まれる。

含んだ微笑を浮かべながら再び部屋に舞い戻ってきた輝夜は、視界を閉じて集中する彼の目の前に、重箱のような立派な箱を置いた。それは立派な漆塗りのもので、

 

「ごめんね、天道。これは私からのお詫びの印」

 

 とん、と彼の目の前に置いた。軽めの音に、中身は重量物ではない事が窺えた。

 

「なに、これは」

 

「いいから、受け取ってよ」

 

「……くれると言うんなら、貰っておくよ」

 

 彼が眼を開き、目の前に置かれた立派な箱を手元まで寄せると、その蓋を一気に開いた。

中に入っていたものを彼が確認すると、深遠にまで届き入りそうな溜息を吐いた。はぁァ、といつまでも続きそうな溜息の後に、箱の中に入ったものを乱暴に掴んで、

 

「僕を馬鹿にしてんのかっ!」

 

「うふふ、あんたにぴったりだと思って。その着物は私からの贈り物よ」

 

 輝夜が彼に宛てて用意したのは、"女性ものの着物"であった。赤と白を貴重とした、真雅な着物であったが。

流石にその挑発に対しては、我慢仕切れなかった彼が激昂する。これでもかと言わんばかりに眉尻を上げていた。

彼を挑発する為に用意された着物は、彼の手に渡るや否や、折り畳まれた状態のまま輝夜へ向けて投げた。輝夜の顔にぶつかった時に、くしゃくしゃになり皺にまみれる。

 

「ちょっと! これ私のなんだから、乱暴に扱わないでよ!」

 

「知るか。こんな乳臭い服なんていらないよ」

 

「何ですって……私の服が乳臭い!?」

 

「ああ、そうさ。前から思ってたが、お前は少し香水臭いんだよ。貴族の嗜みって奴は理解できないね、いや全く」

 

 どしゃり、と彼はその場に胡坐をかいて座った。

これ以上相手にしていられるか、という彼なりの意思表示でもあり、しかし輝夜はその態度が気に食わなかったのか、或いは彼の言動が気に入らなかったのか、言葉を荒げる。

 

「くぅ……あんた最近、生意気になってきたわね。魔術の基礎も構築できてないくせに、口だけは達者なんだから」

 

「ふん、驕慢なお前に言われたくない。僕よりも脆弱なくせに師匠面をするな」

 

 売り言葉に買い言葉、故意に彼を挑発する輝夜に対して、彼が失礼極まりない言葉を悠然と放ち、状況は一変する。

今の今まで彼の無礼な言葉には目を瞑り、彼女なりに真摯に接していた輝夜も、遂には堪忍袋の緒が切れる。

 

「……あんた、覚悟は出来てるんでしょうね」

 

「うん?」

 

 威圧的な声色で脅しかけるように言葉を吐露する輝夜の表情は、酷く冷めていた。

普段通りのやり取りのつもりだった彼は、輝夜を凝視する。けれどもその瞬間、彼の頬を鋭い何かが通り抜けた。

頬を伝う水分の感触に彼は驚き、思わず指で拭うとそれは赤く染まった。ふと振り向けば、その軌道上にあった花瓶が割れていて、中の水が零れ落ちていた。

再び輝夜に視線を向けてみると、変わらず威圧的な冷めた表情をしており、触れれば切れてしまうナイフに近くて。

 

「私とあんた、どっちが上なのか……その貧相な身体に教えてやるわよッ!」

 

「……っ!」

 

 諸所に立派な装飾が施されている部屋であるが、そんな事などお構いなしにと輝夜は"光弾"を発射した。

霊力にも神力にも近い輝夜の光弾は彼の左右を付き抜け、背後にあったモダンな造りの大棚を破壊した。

飾り付けてあった花瓶や皿が落下して割れ、破片を飛散させた。

始めこそ輝夜の豹変振りに驚いた彼であるが、そもそも事の発端は彼であり、輝夜以上に苛立ちを露わにしていた彼は、輝夜の誘いに乗った。

 

「面白い。お前が姫だろうと僕には関係ない。一度お前に"あっ"と言わせてやりたかったんだ……絶対に泣かしてやる」

 

「あっはは! 泣き顔を見せるのはあんたの方よ、天道っ!」

 

 胡坐をかいて踏ん反り返っていた彼は立ち上がり、瞬時に脚力に万力の力を込め爆ぜるようにして輝夜へ肉薄する。

予想外の俊敏さに、輝夜は視界から彼を逃してしまう。右へ左へと視線を泳がせるが、その一瞬の隙が仇となる。

気が付けば彼がは夜の二の腕部分を掴み上げ、上半身の動きを封じた。同時に輝夜の両腕は彼により、"万歳"の形で押さえつけられ、そのまま壁越しに追いやられる。

 輝夜も彼と喧嘩するのは、一度や二度のことではない。犬猿の仲と表現しても良い程に口上での喧嘩はしていたが、彼と拳を用いての喧嘩は初めてであった。

むしろ人と取っ組み合った経験など、無いと言っても過言ではない。

 

 身体の動きを封じられれば、人間という生物は本能で危険を察知する。輝夜は思考回路をフル稼働させ、現状で最も効果的な打開策を瞬時に描き出す。

指先だけを器用に動かし、彼を目掛けて再び光弾を射出。けれどそれは命中しなかった。彼はほんの一瞬だけ輝夜から手を離し、光弾だけを避けてみせたのだ。光弾はそのまま、壁の向こう側へと溶けて消えた。

 

 そうして再び彼は輝夜に接近、今度は腕ではなく手首を掴み上げ、輝夜を床の上へ押し倒した。薄い絨毯の生地が皺くちゃになるのも厭わず、そのまま体重をかける。

未紛うことなく、輝夜の上に彼が圧し掛かるという構図が完成した。傍から見れば勘違いを起こされてしまいそうな光景であるが、彼はそんな事など、冬の窓ガラスに浮かぶ結露ほども気にせず、

 

「これで理解できたか。僕の方が強いんだよ」

 

「……ふん、少し油断しただけよ。思い上がりも程々にしたら?」

 

「よく言うよ。その格好で……知ってるかい? 犬を屈服させる時の格好……今の君にそっくりだ。仰向けに倒れ、相手に腹を見せるんだ……抵抗する意思がない事を伝えるためにね」

 

 輝夜の上に馬乗りになった彼が、淡々と言葉を述べる。対して仰向けに倒れた輝夜は、悔しそうに──顔を熟れたトマトのように真っ赤にさせ、歯ぎしりをしていた。

時折、懸命に腕を動かそうとしていたが、腕力で彼を下回っている輝夜に、拘束を解くすべはなく──淡々と、抵抗する輝夜を尻目に彼が言葉を続ける。

 

「話の続きだけど……犬ってのは稀に、妙にプライドの高い奴がいるんだよ。飼い主に噛み付いてやろうって考えてる奴だって少なくはない。そーいう時はどうするか……ただ指を咥えてみているだけと思うか?」

 

 そこで言葉を切り、呼吸ひとつ分の間合いを空ける。そして違うね、と大きな声で言い放つと、輝夜の顎にそっと手を当てて、

 

「下顎を持ち上げて口を開けなくしてやるのさ! 無駄な抵抗ができないようにな……くだらない自尊心すら保たせない。相手を確実に屈服させるためにっ!」

 

 グイッ、と輝夜の頬を押し潰す。……と表現したものの、彼も本気ではない。ぷに、と頬の肉が唇の周りに集約させられる程度の圧力で、輝夜の表情を間抜け面に変貌させていく。

絶妙な力加減で強弱を加え、輝夜の頬をつまんだり、つねったり。更には両頬をつまみ、引っ張り上げるという悪行にまで走っていた。

 

 やがて輝夜遊びにも飽きたのか、彼女の鼻の頭を指で軽くはじき、彼は満足そうに一度吐息した。

そして彼の下で、輝夜は悔しそうに表情を歪め──ていなかった。あれ程までに顔面を弄られ、頬も少し腫れ気味だというのに、輝夜の表情は憤怒とは正反対の表情に。

彼女の表情はまるで、宝クジで前後賞を当てたかの如く、嬉々としたものに変貌しており、

 

「くく……ふふ……あははっ!」

 

 声高らかに、笑い出した。そんな輝夜を彼は訝しげな表情で、

 

「……何がおかしい」

 

「ふふ……あんたの間抜け面を見て、ついね。だって今のあんた、凄く間抜けなんだもの」

 

 声を大にして笑う輝夜を彼は疑視するが、輝夜の言葉の意味までは理解できない。

何故笑っているのか、何故自分が間抜け面をしているのか、その全てが。

やがて輝夜の笑い声も収まってくると、語るように──そして冷静に、輝夜は口を開く。

 

「私が攻撃したのは天道、あんたに対してじゃない」

 

 馬乗りにされている輝夜の表情は、恐怖とは程遠い表情をしていた。むしろ、新しい玩具を買ってもらった子供のような含み笑いを込めた表情で、

 

「彩光弾って知ってる? 今は使われる事もなくなったけど、昔は夜間の信号や警報用に使われてたんだって。地上からの侵略活動を警戒してね……勿論、今の地上に侵略活動が出来る程の文明はないけれど」

 

「……? お前は何を言ってるんだ」

 

 彼に馬乗りにされた状態のまま、輝夜が淡々とそう言った。まるで時間稼ぎでもするかのように、言葉の一つ一つを綺麗に飾りつけて。

始めこそ彼はそれが何を意味しているのか、全く理解する余地もなく──ただ思考するだけだった。

輝夜もそれだけ言うと、口を固く閉じた。眉を下げ、瞳を閉じて黙を貫き、周囲は静寂に包まれる。やがて何処かから、木を軋ませるようなリズミカルな音が鳴り始めた。

 

 体感にしておよそ数十秒程経過した後、彼は何かに気付いたのか。額からじんわりと汗を垂れ流す。唇を震わせて、表情を歪ませた。

とたん、とたん、という木を軋ませるような音が、次第に早く、重くなってくる。それに比例するかの如く、彼の表情も暗雲に染まっていて。

彼は両脚に力を込めて、我が下にいる輝夜から離れようと行動をするが──それは今一歩及ばず、彼と輝夜だけが存在する空間の扉が、開かれた。

 粛々と、けれど強引に開かれた扉の先には──ひとりの女性。綿月依姫が、何の感情もない表情で突っ立っていた。──が、その表情は部屋の光景を目の当たりにして、烈火の如く変貌し──

 

 

「な、な、何をしてるのよお前はッ!」

 

 雷が落ちたのではないかと思ってしまう程の勢いで、依姫が怒鳴る。そして神聖な光の塊を、片方の腕に集約させる。

 そしてこれを好機と捉えたのか、依姫の怒鳴り声に続けるようにして、輝夜が黄色い声を上げる。程々に育った胸を手で押さえながら、まるで感情の篭っていない声で、

 

「きゃあ、助けて依姫ー、天道に襲われるー」

 

 ──拙い。輝夜の言葉に、彼はそう思考せずにはいられなく。しかし、そんな考えも直ぐに消えて。

 彼に言い訳をさせる暇さえ与えずに、依姫が神速の一撃を放った。まるでレールガンを射出したかのような勢いに、部屋の装飾具が吹き飛ぶ。少なくとも林檎三個分よりも軽いものは、全て吹き飛んだ。

その強力な一撃は、彼の眉間と胴体部を見事に打ち抜き、彼は輝夜の上から手鞠球のようにして吹っ飛んでいった。

そして間髪入れずに依姫が輝夜に対して謝罪の言葉を述べるが、輝夜はそれを気にも留めず、無慈悲な一撃を放った依姫を褒め、手毬球のようにして吹っ飛んでいった彼を蔑み、一笑。

 

「あっはっは! 愉快、愉快。あんたの大好きなご主人様に可愛がってもらうことね……私は間もなく所用があるから、これで失礼するけど」

 

「申し訳ありませんでした、姫様。……私の管理不足です」

 

 高笑いを浮かべて去り際にそんな事を言う輝夜に、依姫は何度も繰り返し丁寧に頭を下げ、謝罪の言葉を述べる。

その際に彼に対して鋭く睨みを効かせたりと、心中穏やかではない。彼は身震いし、自分の運命を呪った。

 

「じゃあね、天道。今度会う時までには、犬並みの忠誠心を身につけておくことね。……ああ、そうそう。犬の中にも甘い声で鳴いて、飼い主を欺こうとするのがいるから覚えておくと良いわ」

 

「……この猫被りめ……」

 

 輝夜が退出するまで、依姫は頭を下げ続けた。そして輝夜が部屋から姿を消した時点で、彼は報復が行われるだろうと覚悟を決めた。

雑用などの庶務が課される程度ならばまだ良い……これが"祇園様の剣"で屠られるという話にでもなった日には、明日の朝日を拝むのは諦めざるを得ない。

輝夜が退出しても尚、輝夜の高笑いが室内にまで届いてくる。腹の底からおかしいのか、延々と続かれたそれも次第に遠のいてくると、依姫は今までよりも一段と深く吐息し、彼へ向き直る。

『ヤバイ』と脳裏に過ぎった時には既に、彼女の瞳は眼前へと迫っており、遂には彼も覚悟を決めた。……が、事態は予想の斜め上を行く。

依姫は九割九分九厘、怒りの様相を呈していると思っていた彼は、憤怒とは程遠い、彼女の心底呆れたかのような表情を見て、思わず冷や汗を垂らした。

 

「……はぁ。顔を上げて、天道」

 

「……お、怒らないんですか」

 

「どうしてよ」

 

 予想外の事態に、彼はやぶ蛇を突くような言動を吐くが、それでも依姫は怒ろうとはせず、普段通りの口調で言葉を紡ぐ。

 

「姫様の性格は知っているし、天道がどういう人格なのかも知っているわ。それを踏まえた上で考えてみると、私が貴方を個人的に叱責する理由は見つからないもの」

 

「でも僕は、輝夜の奴を攻撃した……髪の毛だって引っ張ったんですよ」

 

「単なるじゃれ合いでしょ。私が介入する余地はないし、姫様にも偶には良い刺激になるでしょうしね」

 

 しれっとそんな事を言ってのける依姫。その表情はまるで、児戯の世話をする母親のようであった。

彼が言いたい事はつまり、彼女の立場上、月の姫に無礼を働いた男を叱責しないのか、という点である。

けれども依姫は何食わぬ顔で『しないけど』と答え、彼を驚かせた。輝夜の性格は知っているから、彼女が目の前では"叱責しているフリ"で通した、との事。

これには彼も心の底から安堵し、依姫に対する株価が急上昇を果たした。そんな彼をからかうかのように依姫が、

 

「なに、貴方。私に怒られたいの?」

 

「いえ、とんでもありません。依姫さんの懐の大きさに、僕は敬服しました」

 

 調子の良い発言をする彼であるが、依姫は頬を緩ませた。その上で一発、流動的に拳を彼の頭部に打ち付けた。

『痛い』と抗議する彼を無視し、用件の済んだ依姫は早々に部屋から退出しようとする。

 

「姫様の行動には私も驚かされるばかりだしね、貴方が気にやんで行動する必要はないわよ。……じゃ、私は部屋に戻るから」

 

「分かりました。お疲れ様です」

 

「……っと、最後に。明日行う指導術の時に、あの娘達に貴方を紹介するわ。紹介というよりは、新隊長の挨拶……と言うべきかしら」

 

 振り返り腕を組む依姫は、さらりと彼にそう伝えた。

 

 依姫の言うあの娘達。それは間違いなく、玉兎と呼ばれる月の兎の事であった。

玉兎とは月の都では労働層といわれる、下級層の種族である。事務仕事から単純なルーチンワークまで、その多くを玉兎達が担当しており、月の都に於いての原動力とも言い表せる。

綿月家での新たな試みとして以前行われたのは、穏やかで暢気な性格の玉兎達の中から、素行の悪い者のみを召集させ、品行方正も含めて"警備兵"として訓練する事で、"玉兎隊"を結成するという試み。

始めこそ上手く事が運ばなかったそれも、依姫の入念な指導により成果を着々と見せ始め、遂には人間並みの働きを見せるまでに至っていた。

 

 そんな折、依姫の昇格に伴い、玉兎隊の新たな"隊長"が必要となったのだ。

けれども、"落ちこぼれ集団の警備隊"の隊長を自ら引き受けるお人好しなど、綿月家に従事する者には存在せず、依姫が兼任して引き続き指導するという話で進んでいた。

依姫に仕事が集中してしまえば、昇格した先での新たな職務に支障を来たしてしまい、また長期間労働による疲労も軽視できない。

 

 後任が存在しない事で少々問題になっていたのを彼が知り、拙いながらも『僕がやる』と名乗りをあげたのだ。

綿月姉妹の個人的な付き人に過ぎぬ彼が、下層とはいえ綿月家警備隊の隊長という役職を得るには、少々……否、大いに満たさなければならぬ条件を落としていた。

だが現実問題、後任が存在せず問題になっている事も事実。しかしながら、安易に役職を与えるというのも些か問題である。

 些細な問題にいくつもの塵が積もり、最終的に降された判決が、

 

「玉兎隊とはいえ、立派な綿月の警備隊。それも私が育成したエリート揃いのね。"隊長代理"だとはいえ、然るべき挨拶はしないと……ちょっと、聞いてるの?」

 

「あ、聞いてますよ、勿論」

 

 玉兎隊の隊長"代理"であった。

あくまで綿月姉妹の私的な付き人である彼に、隊長の職務に従事させ責任を背負わせるというのには、些か難儀する事実。

ならばと、彼に玉兎隊の指導、教育を業務を担当させ、依姫にその業務を監督……つまり、責任者として従事させると、そう決断が降されたのだ。

 

 思いもよらぬ彼の介入に玉兎隊の後任問題は解消され、引き続き依姫が兼任する事にはなるが、その大部分を彼が担当する。

彼も綿月姉妹の付き人の職務と同時に、玉兎隊の業務を担当する……言葉で言い表すのは簡単だが、その仕事量は決して少なくはない。

付き人になってから凡そ幾ヶ月程度しか経過していないというのに、彼の目覚しい成長振りに依姫も嬉々としており、改めて言葉を紡いだ。

 

「貴方が玉兎隊の隊長を引き受けてくれると聞いて、本当に嬉しかったわ……成長してくれているようで、本当に嬉しい」

 

 眼を細める依姫の表情は慈愛に満ちており、彼女の言葉に嘘偽りが無い事は明白であった。

 

 主の言葉を受け止め、決して驕る素振りなどは見せずに、静かに頭を下げて彼は応対する。

『ありがとうございます』とだけ小さく、短く呟き、その言葉を礼として依姫へ進呈した。

 

 斯くして行われたやり取りは終了し、洒落た造りの扉の前で佇む依姫と、部屋の中央で立ち尽くす彼の間に静寂を与えた。

おかしな空気、変な間。よもやそうとも解釈できる不自然な空気は、互いに言葉を発せさせる機会を与えず、依姫は唇をふるふると震わせた。

そして試行錯誤の後、発せられた言葉が

 

「そ、それじゃあ、もう戻るから。ふふっ……おやすみ、天道」

 

「は、はい。おやすみなさい、依姫さん」

 

 何かを取り繕うかのようにして早口で紡がれた言葉、それと同時に扉は開かれ依姫は退出していった。

依姫と彼は、あくまで"主従関係"に過ぎない。

明日行われる隊長挨拶に若干の緊張をしつつも、彼も休息を取る事にした。

 

 

* * *

 

 

 翌日、朝光が月の都を照らすよりも先に、彼は起床した。

彼の主である依姫は常に彼よりも早く起床しており、只の一度たりとも寝過ごすという痴態は見せない。

 

 姉妹の付き人となり幾ヶ月も経過している為、彼も姉妹の行動習癖、屋敷内の規則、警邏等の一連の職務に関して、人並み以上の成果を見せていた。

然るに至り、今回の玉兎隊の隊長代理の職務に関しては、彼自身では一種のステップアップと考えており、また主である依姫の仕事量の緩和にも繋がるとあり、意欲は万全。まるで春先の新入社員のように、やる気に満ちていた。

隊長代理就任の当日となった今日に至り、眠い目を擦りつつも意欲の低減は有り得なかった。

 

 やがて、朝光が大地を照らし始める。種々鳥綱達が、火輪の訪れを奉迎のさえずりにて歓待してる時節、警備隊の訓練施設に集うは人の群れ。

綿月姉妹の次女、綿月依姫に加え、彼女の付き人として幾ヶ月前に登用された男……否、肉体的に表現するならば、女性と分類される者。彼こと、天道である。

両者は群れる玉兎達の目の前に堂々と立っており、傍から見ると群を統率する主導者とも取れる雰囲気を醸しだしていた。

 

「はーい、皆集まって」

 

 一つ、二つと手を叩く拍子の音。"群を統率する主導者"という表現に対して、ひどく拍子抜けする声色。

上半身を若干前屈みに、稚児を諭すかのような声色で、雑然と佇む玉兎達に集合の意を告げる依姫。

わあわあ、と依姫の言葉に従い玉兎達が集うと、月の軍事兵器を一様に天へと掲げ、整列。

そして物珍しそうに、依姫の隣りに立っている彼を疑視した。

隣の玉兎同士で小さく陰で言葉を交わし合い、目の前に立つ男の出で立ちの推測を醸していた。

 

「静かにしなさい。そこ、私語は謹んで」

 

 依姫が鞘に納められた刀身を用い、その刃先を一人の玉兎に向け叱責する。

指摘された玉兎は驚き肩を竦め、申し訳なさそうに謝意を告げ俯いた。

その光景を傍観していた彼は、玉兎達は依姫を畏怖しているのか。或いは一種の恐怖政治状態なのだろうか、と言葉には現さずとも、心の中でそう思っていた。

 

 依姫は再度手を叩き、隣りに位置する人物……彼を紹介しようと言葉を紡ぐ。

 

「今度から貴女達の新しい隊長となる人よ。普段は私の……そうね、護衛として従事してる人よ」

 

 流れるように言葉を紡ぐ依姫の隣り、彼は立ち尽くし玉兎達の顔に視線を泳がした。

数十名程の玉兎隊の多くは──否、全員が少女であり、どれもこれも彼の事を不思議そうに凝視していた。

 

そんな思考をしていたのが仇となり、隣りで説明を終えた依姫に肘で腰を突かれる。

『ほら、早く』と小声で促された挙句、彼は我に帰り言葉を吐く。

 

「あー、君達の隊長となります、てんど……」

 

 彼は言葉の途中、痛覚を刺激され言葉を中断した。

刺激のする方向へ目を向けてみると、依姫が彼に鋭い視線を向けており、"違うでしょ"といった風な表情をしていた。

 ──玉兎達の前では威風を見せつけ、堂々としていろ

彼は踏まれた足先の痛みを感じつつも、過去に依姫が自身に向けて放った言葉を思い出し、思考した。

一癖も二癖もある玉兎達を甘えさせれば、瞬く間の内にそれに漬け込まれ、怠慢を働かせてしまうだろうと。

彼女の言葉を思い出した彼は、直ぐに喉を鳴らして言葉を訂正する。声調を強めて、再び言葉を放つ。

 

「……今日からお前達の隊長になる天道だ。お前達のことは……あー、……依姫から聞いている」

 

 自己紹介の途中、迷いに迷った挙句彼は依姫を呼び捨てにした。

ほんの些細な事かもしれないが、天下の綿月姉妹……ましてや我らが隊長閣下に対して、"名を呼び捨てにした"という事実は、少なくとも眼前の玉兎達には効果があった。

動転としたような、愕然としたような表情をする玉兎達の空気は、もはや凍り付いたと表現しても差支えがなく、隣りにいる依姫でさえも若干驚いたような表情をしていた。

そんな事など露知らず、彼は玉兎達を威圧するように最大限の努力をしつつ、言葉を並べる。

 

「お前達の腑抜けた態度を是正する為に、玉兎隊を根から改革させる。俊秀揃いの玉兎達に児戯は存在しないと思うが、等しく指導していく所存だ」

 

 一通り言葉を終えた彼は、誰にも聞こえぬ声量で『以上です』とだけ呟き、視線を前方の遠くの景色へやった。緑色の葉に包まれた、桃の木がいくつも並んでいた。

 

 彼が紹介をし終えた直後、玉兎達は新隊長に不安と恐怖を覚えたのか、"うげぇ"だとか"うわぁ"だとか、それぞれ言葉を洩らしていた。

そんな玉兎達の心中を察した依姫が、場を和ませるようにして言葉を紡ぐ。

 

「彼はこう見えても優しい人だから、心配はしなくていいのよ」

 

「えぇ……でも、依姫様ぁ」

 

 彼女の言葉に最前列にいた玉兎が垂れた耳を更に垂らし、不安気に満ちた声をあげる。それに呼応されたのか、他の兎達もぎゃあぎゃあと文句を言い始めた。中には彼氏ですか、という言葉も上がったが、運良く風と葉っぱの擦れる音に掻き消された。

しかしそれも、彼の鋭い視線に気付いた途端、兎達が口を閉じた。視線も逸らし、ただただ整備された地を見つめる。

 

 一律した一つの集団の中には、奥手の者から半端に口達者な者、そして周囲の感情など構い無しとばかりに言葉を並べる肝の据わっている者と、多岐に渡る。

この玉兎隊の中にも、そんな肝の据わっている玉兎は存在しており、整然とした列の後方から言葉が飛んでくる。

 

「あ、あの。天道……様は、強いんですか?」

 

「……何?」

 

「ひぇっ……その、何でもないですっ」

 

 単純に聞き返しただけの彼であったが、精一杯の勇気で言葉を発した玉兎は恐縮し縮み込んでしまった。肝などどこかにすっ飛んでしまったようで、依姫が優しくフォローするかのようにして、

 

「貴女達、彼のことを知らないの?」

 

「知りませーん」

 

「そういえば、前に大会に出てた人だよね?」

 

「知らなーい。だって私達、その時も自主訓練してたしー」

 

 依姫が言葉をかけた途端、整然としていた列が崩れ辺りは騒然としだす。

群れた玉兎達は一同に依姫の下に集い、抗議の声をあげる。

 

「納得いきませんよ、依姫様!」

 

「そーですよ! 私、まだ依姫様に教えてもらいたいこと沢山あります!」

 

「あの人嫌い。男の癖にひ弱そうだし、なのに偉そうにっ」

 

「そうそう、私達と変わらないじゃない。華奢だし、全然男っぽくないし」

 

 ここぞとばかりに抗議の声をあげ、言葉を荒げる玉兎達。

彼は甘んじてその言葉を受け入れていたが、玉兎の内の一人が洩らした言葉に対し、声を荒げた。

 

「……何だと。ふざけた事を言うな、僕はこう見えても立派な男だ……外見だけで人を判断するんじゃあない」

 

「きゃっ!? よ、依姫様ぁ」

 

「ちょっと落ち着いてよ、天道。どうしたのよ、急に」

 

 神経に触れた発言をした玉兎に手を伸ばし、憤怒の意を露わにした彼であるが、その手が玉兎に届く前に依姫に諌められる。

余程癇に障ったのか、或いは秘密を探られ酷く動揺したのか、詳細は分からぬが依姫に諌められた彼は、直ぐに平然を取り戻し依姫に軽く謝罪した。

 

「……すみません、動揺してしまったようで」

 

「気にしないで。あの娘達も、まさかこんなに反発してくるとは思ってなくて。事前に伝えておいたんだけどなぁ」

 

 然もおかしいなと言わんばかりの依姫は、腕を組み悩ましげに表情を歪めた。

 

「でも、まずったわね……うーん」

 

「依姫さん?」

 

「……そうだ。こういう時こそ、武で誇示すればいいのよ」

 

 依姫の背後で怯える玉兎達を尻目に、彼はその言葉に疑問を抱いた。

 

「どういう事ですか。この娘達は僕に怯えている……なのに力を誇示したところで、結果は火を見るより明らかですよ」

 

「何を言ってるのよ。貴方はこの娘達の隊長になる身よ。問題なのは彼女達が貴方に恐怖している事じゃあない……弱者として侮蔑されている事が問題なの」

 

 力強くそう言い放つ依姫に、彼は思わず唇に力を込め、口を閉じた。

 

「貴方はこの娘達に、畏怖されないといけないの。それが隊長としての勤め……決して馴れ合う関係ではない。時には圧倒的な暴力を用いなければならない場面もあるのよ」

 

 説明を続ける依姫に、一匹の玉兎が、 

 

「依姫様ぁ、ずっと私達の隊長でいてくださいよぅ」

 

「……ふふ、ごめんね、もう少し待っていて」

 

 寄り添い、悲愴に包まれた表情で言葉を紡ぐ玉兎に対し、柔和な微笑みで応対する依姫。

畏怖の対象じゃないのか、と疑問を抱いた彼であったが、その事は口にはしなかった。

 

「少なくとも私と貴方、この娘達の前では"同格"でいなければならないわね。そうした上で実力を誇示すれば、この娘達も納得してくれる筈」

 

「……言いたい事は分かります。でも実際行動に結びつけるのは」

 

「僅かでいいの、貴方の力の根底を見せ付ければ、それで良い。……そうだわ、この前教えた特技を披露しましょ」

 

 依姫のいう"特技"。

その言葉だけで彼は何の事なのかを理解し、直ぐに実行しようと思い立つ。

当の依姫は、自身の背後に群れていた玉兎達に指示を飛ばす。

 

「はい、皆注目して。天道の実力は、私も隊長格に推挙できる程のものなの。けど、貴女達はそれを知らない……だから、今から彼の力を間近に見てもらいます」

 

 まるで教員が生徒を指導するかのように、優しく依姫は語り掛ける。

温もり溢れる依姫の言葉に玉兎達は、渋々といった表情で彼に視線を向けた。

一通り視線を集めた頃合を計り、依姫は彼に向けて適当に合図を出し、行動するよう促した。

 

「……では、今から指弾を見せよう。あちらに、巨木があるのが分かると思うが」

 

 彼が指を差す方角には、巨大な樹木が熟れた桃をいくつも実らせており、およそ何百年もの歳月を経て成長したものだと推測できた。

この施設で日々訓練を行っている玉兎達には、そんなもの説明されるまでもない。誰もが知っている事であり、時たま訓練の合間に桃を盗み食いしてる玉兎達には、周知の事実。

 

「あれがどうしたんですか?」

 

「わあ、見て、凄く熟れてるよ。美味しそー」

 

「ねぇ、あとで皆で食べようよ」

 

「いいね。熟れてるし、とても美味しそう」

 

 軽やかな口調で、そう質問する玉兎達。畏怖はすれども、己の感情には素直なのだろうか。

玉兎隊ならば馴染み深いその巨大な桃の木、口々に"後で食べよう"などと会話しており、誰も彼に関心がなかった。

彼もそれは理解していたようで、自分の事などそっちのけで会話している玉兎隊を見て、小さく吐息。致し方ないと、彼は右腕の人差し指を伸ばし、親指を立てた。

手でピストルの形を作った彼は、人差し指の先端を巨大な桃の木を目掛けて差し伸ばし──

 

「ちょ、ちょっと待って天道──っ」

 

 何だか依姫の声が聞こえたな、と彼は思った。けど、攻撃の手は止まず。轟音が施設全域に響き渡り、巨大な桃の木は呆気なく倒木した。

熟れた桃の今後の行く末で論議を醸していた玉兎達は、その見事なまでの破壊ぶりに顔を青ざめさせ、近くで清々しい表情をしている彼に視線を戻す。

相も変わらず泰然としている彼。その指先からは、玉兎達にも理解できる。溢れんばかりの"気"で満ちており、近付けば思わず意識が飛んでしまいそうな程、濃厚な気に溢れていた。

 

「……あちゃあ、やり過ぎたかな。でもこれで、十分誇示できましたよね、依姫さ」

 

 事を終えた彼は、どこか誇らしげに依姫にそう告げるが──返って来たのは、手刀であった。

額を小突かれた彼は痛そうに、額を押さえながら依姫を恨めしそうに見つめた。対する依姫も、どこか焦燥としており口を開く。そこで彼は気付いた。小突かれたのではなく、ど突かれたのだと。

 

「ちょっとっ! 何もあそこまでする必要ないでしょうがっ!」

 

「えっ、でも依姫さんがやれと……」

 

「やり過ぎよ、馬鹿っ! ああ、姉様に怒られるじゃないのよ……もう!」

 

 力を誇示せよ、との依姫に命令に対し忠実に行った結果、彼は依姫に叱責されてしまった。

大事な桃の木が一生実を成らす事のなくなった材木と化し、桃を好物とする豊姫がこの事実を知れば、酷く憤怒する事は間違いない。

普段は天真爛漫としており穏やかな豊姫も、怒らせれば並の神霊程度ならば裸足で逃げ出してしまう程の力を持っているのだろう。

 予期せぬ出来事に動揺した依姫は、嫌味を交えて彼を叱責した。あそこまでする必要は無かった、と。

 

「んもう……貴方ねえ。何でもかんでも、言われた通りにやればいいってもんじゃないでしょう。限度というものがあるでしょ、限度が」

 

「……ええ、そうですね。でも効果は十分にあったじゃないですか」

 

「それ以上の損害もありますけどねっ!」

 

 再び依姫が彼の額を小突いた。否、ど突いた。

"馬鹿"だの"要領が悪い"だの、多種様々な言葉を用いて叱責する依姫。だが、天道という男。決して堪忍袋の緒が切れぬ天人ではない。

まだまだ"青い"のだ。彼も人間、それも若者と分類されるそれ。

依姫の厳しい叱責に対し、忠実に目的を果たしたじゃないかと確固たる意思のある彼は、遂に限界を超えた。限界まで膨らませた風船が割れるかのようにして、彼の堪忍袋も限界を超えた。

 

「……依姫さん、それはあんまりじゃないですか」

 

「何がよ。お姉様に詫びを入れるのは私なのよ? ……部下の失態の責任を追うのは上司の役目。覚えておきなさい、今後恥をかかないようにね」

 

「そういう事じゃない……貴女は僕に"力を誇示しろ"としか告げてないんだ。手段や方法などの指定はなかったんだ、僕の判断に任せたんだろ」

 

 姉妹の付き人となり幾ヶ月。恐らく、今日初めて主である依姫に逆らった。

これは決して反逆ではない。裏切り等では決してない……単なる相違による反論に過ぎず、譲れない意思が彼にもあったという事に過ぎない。

短絡的な物の考え方と捉えるか、それとも日々の"ストレス"の爆発と捉えるべきか──彼はここぞとばかりに、主人である依姫に言葉を吐き散らした。

 

「それに貴女は、僕にこう言ったじゃないか……隊長となる身なのだから堂々と、居丈高としていろと」

 

「ええ、言ったわね。けれどそれは、主人に反抗しろという意味ではないんだけど。出過ぎた真似は止めて頂戴。不始末を処理するのは私なんだから」

 

 ぷつん、と彼の中で何かが切れた。

いくら主人である依姫であろうとも、納得のいかぬ事など山ほどある。

今の今までそれに我慢し耐える事は出来たが……遂に堪忍袋の緒が切れた。その切れた緒が更に、ネギのように微塵切りになる程、彼は憤怒した。

 

 

「……煩いな」

 

「何ですって?」

 

「煩いって言ったんだよ。確かに僕にも非があるのは認めるよ。だけどお前に口煩く嫌味を言われて黙っていられるほど、僕も穏やかじゃない」

 

「なっ……お、お前ですって!?」

 

 ぐい、と依姫に近付いた彼は、人差し指をこれでもかと伸ばし、依姫の首もとに近付け強く抗議した。

"何か文句でもあるのか"とでも言いたげな表情を向ける彼に、依姫も黙っていない。ましてや主人に敬意の欠片も無い言葉遣い、苛立ちを見せていた依姫も憤怒する。

 

「な、何なのよその態度……私が誰だか忘れたのかしら。上下関係のケジメもつけられない、無礼なペットにはきついお灸を据えてやらないといけないのかしら」

 

「面白い、来いよ依姫。戦いの続き……此処で決着を着けようか?」

 

 刹那、依姫は能力を行使し、祇園様の剣を出現させ、即座に抜刀した。

対する彼の戦闘スタイルは"無手"。武器を持たぬ手法であり、依姫が相手だろうとそれは変わらない。

 

「……素手を相手に得物が必要とはね。今まで敬意を払ってたのが馬鹿らしいよ。いや全く」

 

「う……好き放題言って……本当に許さないんだから。いいわ、無手でやってやろうじゃないの。骨折の一つや二つじゃ済まさない……!」

 

 彼の挑発に乗った依姫は、具現化させた祇園様の剣を消失させ、無手で構える。

まさに"怒り心頭"といった様子で、顔も仄かに赤く染まっていた。無論、それは怒りによるものである。

 

 事態が険悪になったのを皮切りに、それまで傍観していた玉兎隊達も依姫を諌めようと言葉をかける。

 

「よ、依姫様ぁ。落ち着いて下さい、こんなところで闘ったら只では済みませんよっ」

 

「黙ってて。これは主従の問題なの……貴女達が口を出す問題ではない」

 

 冷たく言い放たれたその言葉に、玉兎は心中凍りつく。今までにない依姫の怒れる雰囲気に、これ以上かける言葉が見つからず、往生する他なかった。

完全に怒りを露わにした依姫は、彼に対して闘争心を向き出しにし、戦闘態勢を整える。

 

「最後にもう一度だけ聞いておくわ。頭を地につけて許しを乞うのなら、さっきのは全て聞かなかった事にしてあげる。桃樹の件も、私が持ってあげる」

 

 依姫は、自らの非を認め敬服心を持ってして謝罪をしたのなら、全て不問とする──そう彼に告げたが、

 

「戯言も大概にしろ。むしろ謝るべきはお前の方だろう。もう食事なんて、絶対に作らないからな……シーツの皺だって直さないぞ」

 

 彼は依姫の言葉を一蹴し、闘争心を剥き出しにする。

これ以上の舌戦は時間の無駄であると判断した依姫は、一段と深い溜息を吐いた。

そして内に秘めたる気力を全面的に解放──大地をも揺るがしかねぬ程の膨大な力を身体に満ち溢れさせ、戦闘態勢に入った。

 

「来なさい、天道っ! どちらが上なのか再認識させてやるッ!」

 

「ふん、絶対に泣かしてやるからなっ!」

 

 互いに武器も持たず、かつての他流試合の続きと言わぬばかりに戦闘は開始される。

頭に血が上り正常な思考を保てなくなった両上役に対し、玉兎達は為す術もない。ただ、戦闘の行く末を傍観するしかなかった。

 

 



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巻ノ四十〇 丸くとも一角あれば人心

 綿月家保有の訓練施設の敷地内で、かつての闘劇が再び繰り返されていた。

整然と舗装された訓練場の芝は荒れ果て、地中深くの新鮮な土を抉り出しており、とても人工的に整備された施設とは思えぬ状態に変わっていた。

依姫が拳を突き出せば周囲の空気が振動し、彼が蹴りを放てば竜巻が起こる──誇張も過ぎるが、傍観している玉兎達にとってはまさに、次元の違う戦闘に見えていたのである。

 

 突如として行われた綿月依姫と、天道の模擬試合……否、ただの喧嘩に過ぎないが。

半刻程の時間が経過したにも関わらず、未だに両者の喧嘩に決着は着いておらず、激闘は続けられていた。気付けばグラウンドはあちこち隆起しており、いくつものクレーターが出来上がっていた。

手数は確実に依姫の方が多く攻撃を与えており、丁寧な一撃を綺麗に炸裂させ続け彼にダメージを蓄積させていく。だが──

 

「──喰らえッ」

 

 型式に囚われた依姫の近接戦闘術は、それに囚われぬ彼の野生的な近接戦闘術を相手に苦戦を強いられていた。

彼と共に行ってきた鍛練の多くは、武器を取り扱った経験のない彼の為に、様々な近接武器や月の軍事兵器……小銃から大口径の長銃と様々なものばかりだった。近接戦闘における格闘術の鍛練は、ほとんど指導していなかったのだ。

今一度、拳を交えて初めて理解できる──彼の野生的な型式囚われぬ攻撃は、不確定要素が強く非常に厄介であると。依姫は確かに、そう理解した。

 

 拳が胴体を打ち付ける鈍い音と共に、依姫が体内の空気を吐き出した。

直ぐに態勢を整え、三度、四度と彼に連続で攻撃を叩き込むが、致命傷には及ばず。

逆にカウンターの如く熾烈な一撃を胴に喰らってしまい、依姫は思わず逆手で腹部を押さえた。口端を歪ませ、何か苦いものでも食べさせられたかのような表情で、

 

「くッ……神霊──っ」

 

 己が能力を行使し武神を顕現させれば、この程度の闘劇など一瞬で終結する。

だがそれら全て、神霊の類は彼の能力により看破されてしまう。今一度使用を試みる依姫であったが、即座に彼が自らの能力を覆い被せて阻害してくる。

 ──切断したり結合したりする能力。

依姫は彼の能力をそう認識していた。時折、視界に紛れ込んでくる前髪を鬱陶しく感じて、かき上げた。

 

「……ッ、流石にやるわね。その身体の、一体何処からあれ程の強靭な力が出せるのか、いつ見ても不思議に思うくらい」

 

「お互い様だ。……恐ろしい、付け入れられる隙を作ったら、あっという間にやられそうだ」

 

 傍観している玉兎達は誰もが"依姫が優勢である"と認識していた。わあわあ、といつの間にか玉兎達は、彼と依姫の戦闘を愉快そうに観戦していた。

 そしてその上で、"依姫様が勝利するだろう"──と。しかし、決して一概には言えない。

一撃を丁寧に決める依姫であるが、どうにも致命傷とは至らぬ軽打ばかり。転じて彼の攻撃は、決して手数は多くはないものの、決まれば見た目以上に重く、深い一撃。

小手先の技術、能力の質、気の扱い方。それら全て依姫が完全に上回っている──が、直接的な腕力に関しては彼が上回っており、"無手で闘う"という挑発に乗ってしまった依姫は、内面的に苦戦を強いられていた。

 

 なれば、と。彼女は一策を講じる。

大きく後方に跳躍すると、依姫は手の平を大きく開き、彼へと向けて、

 

「余裕を持って相手を制する。これが私の流儀……だが、言ってる場合でもない、か」

 

 土埃を被り薄汚れてしまった衣装、そんな事など微塵も気にする様子を見せずに依姫は攻勢に転じた。

近接戦で劣るのなら、距離を保てば良い。彼女の内に秘めたる膨大な霊力が、大地に脈打ち鼓動を開始する。彼へと差し向けた手の平に霊力を集中させ、解放。

 

「さぁ、避けなさい。粉微塵になりたくなかったらね」

 

 言葉と同時に放たれるは霊力による気弾──否、"波動"とも表現できるそれは、攻撃の軌跡すら見せずに彼の足元の大地を爆ぜさせた。

予備動作すら認識させぬ一撃、音も無く放たれるその一撃。

正攻法で防ぐのは確実にヤバイ──そう思考し理解した彼は、蛇に見つかった蛙のようにして後方へ飛び退いた。

 

 次々と高速で射出される霊弾を慎重に見極めつつ右に左に、軽やかなステップで避け続ける。その度に気弾が着弾した大地が爆ぜ、土埃が舞う。クレーターの中に、新たなクレーターが出来上がっていた。

 

「……っ損害が酷くなってるぞ。僕は知らないからな」

 

「ふん、知らないわよそんなの。修繕費は全て、貴方の給金から引いときますからねッ!」

 

「なんだと……ッ」

 

彼が動揺した隙を依姫は見逃さない。

次々と霊弾を放ち、彼の周囲を破壊し尽くしていく。土埃が上がり、相応の熱量に包まれた現場は、傍観している玉兎でさえ恐怖し身を縮めて怯えていた。

 

「あっはは! 油断したわね、天道。安心しなさい、治療費は私が負担してあげるから……──ッ」

 

 彼を追い詰め、愉快そうに高笑いする依姫。しかしその言葉の途中、依姫の頬間近を何かが通り抜けた。

音も無く過ぎったそれは物理的な得物ではなく、彼が放った一撃でもない。先程、依姫が飛ばした霊弾であった。

ふわり、と依姫の薄紫色の髪が風に煽られたその時、彼女の背後にあった施設の一角が大破した。

轟々と音を立てて、施設の屋根が崩れ去る。室内にいる者達の安否の事など考える暇もなく、依姫は眼前で舞い上がる砂煙に視線を釘付けにした。

 

 ──あの砂煙の向こう側で何が起こっているのか。

視界不良により索敵が困難な彼女。乾いた喉が更にカラカラになるのを感じつつ、砂煙が収まるのを待つ。

やがて視界を遮っていた砂煙が晴れてくると、そこから人型のシルエットが浮き出てくる。その人型のシルエットは、中腰の状態から立ち上がる姿勢のまま、

 

「──弾き返せるぞ。僕だって霊力の使い方を学んでいたんだ……依姫、お前の攻撃は僕に通じない」

 

 尚も砂煙が舞う中、姿を見せた彼は人差し指を依姫へと差し向け、攻撃の態勢を整えていた。

彼が霊力を指先に集中させ解放させれば、即時強力な霊弾の応酬が依姫を待ち受けているのは、火を見るよりも明らかであった。

 

 彼女は歯軋りをした。

遠目から見ている彼にもそれを認識できる。上半身を僅かに屈ませ臨機応変に行動が出来るよう、また我が攻撃に合わせて行動を開始してくるだろうという事、その全ては彼の予測の範疇。

"どのような方法で始末してやるか"

それだけを考える。

初撃の霊弾は避けられる可能性が高い……否、確実に避けられる。なれば、その先を予知して行動をすれば良い。

 

「"一番初めに右の足を狙う"……例外はない。僕がそうすると言ったのなら、絶対にそうする」

 

「……ほう」

 

それは宣言にも近い、攻撃の予告。

 

依姫は知っていた。

彼に霊力の指導を実践的に行っていたのは、ほかでもない彼女である……彼の他人とは違った霊力の質、そして膨大な容量。

実際に初見で彼の指弾を見た時は、ひどく驚いた。

電光石火の如く射出される指弾は、依姫が視認する前に目標地点に着弾し、規模の小さな爆発を起こすのだ。

 

それが我が脚部に命中したらどうなるのか?

 

答えは模索する必要すらない。肉は炸裂し骨は粉々。二度と足を地につけて歩行する事は出来なくなる。

これは単なる"喧嘩"に過ぎない。彼は本当に全力の指弾を射出してくるのだろうか……一つ間違えれば、取り返しのつかない事態になるのは間違いない。

 

だが、今の彼は頭に血が昇っており、冷静な思考が取れない状況である。

そしてまた、依姫でさえも若干であるが冷静ではなく、何とかして彼に"お仕置き"を与えてやろうと模索し、それだけを考えていた。

 

 

何て事はない。"一番初めに右足を狙って撃ってくる"と予告しているのだから、それを加味して行動すれば良いだけの話。

右方へ跳躍してもいい。左方に避けても構わないし、後方へ飛び退いたっていい。

依姫が彼に対して取った行動は、至ってシンプルなものであった。両の足の裏を大地につけたまま。

 

「何のつもりだ」

 

 彼は、依姫に訊ねた。

彼女は天高く右の腕を突き上げるが、それだけ。

依姫の行動を疑問に思った彼は、その思惑、真意を確かめようと言葉を吐くが、正答は返ってこない。

 

「私はこのままでいい。神に誓って"絶対に避けない"……さぁ、撃ってきなさい」

 

「……本気で言っているのか?」

 

 凛とした瞳で、芯を通したと言わんばかりに言葉を貫く依姫。

ただそれだけの事なのに、彼はひどく動揺した。まるでジャンケンで最初に出す手の形を予告されたかのように、次の一手に迷いを生じさせる。

 

 己の指弾の威力は十二分に理解しているつもりだ。それが人間の身体に着弾すれば、ジャンク人形のようにバラバラに弾け飛び、爆ぜるのは間違いない。

果たして依姫は本当に"避けない"つもりなのだろうか──もしも本当に避けずに、まともに被弾すれば取り返しがつかない。

 

 行動を予告して依姫を動揺させる手筈が、看破され逆に動揺させられてしまっている。

これはただの喧嘩に過ぎない。依姫に大怪我を負わせてしまうのは、彼としても本望ではない。

 ──葛藤。

 今になって、互いに疲弊して漸く、煮えたぎっていた頭が冷え、冷静さを取り戻す。

"撃ってはならない"という感情が沸々と湧き出すと同時に、"今更引き下がれない"という意地にも似た感情が彼を包んでいた。

 そんな彼の葛藤も知らず、依姫は悠然とした表情で、

 

「私もひとつ、予告しましょう」

 

「……何だと」

 

「貴方は間もなく、地に倒れ伏す。主人に逆らう頑愚な部下には相応の仕置きを──神の御裁きが降るでしょう」

 

 不気味なまでに低く、けれども透き通った声色でそう宣言する依姫。

右腕は天高く掲げられ、両脚は確実に地についており、微動だにしない。

 

 心中葛藤し、見誤った行動を理解していた彼であるが──ここまで言われてしまったら、もう後には引き下がれない。否、引く事などありえない。

額から滲む汗が土埃と混じり塊になるが、気に留めぬ。迷いなく、真っ直ぐに差し伸ばした人差し指に霊力を集中させて──

 

 

「……僕の心と行動に迷いはない。尊敬している主人が道を見誤っているのなら、それを正すのも従者の仕事」

 

 それは虚言か、真か。それとも彼女を唆す甘言か。

泰然とした口調で並べられるその言葉を最後に、彼の指から霊力の塊が射出された。青くぼやけた、光の輝き。

 

 今は敵対しているとはいえ、普段は優秀な部下から"尊敬している"という言葉が飛び交い、先程の言葉を撤回しそうになった依姫であるが……甘い。

全て甘い。甘い攻撃、浅はかな稚策。その程度でこの綿月依姫を降せるものか、と。力強い意志と同時、依姫は行動する。

 

 依姫の考えは、本当に単純でシンプルなもの。

天道が有する"切断と結合をする能力"には、ひとつの欠点があるという事。

鍛練で頻繁に仕合うからこそ、今の依姫には理解できる。彼の能力には"射程距離"があることに。

彼の行動を常に注意深く観察していた依姫だからこそ、その欠点に気付く事が出来たのだ。

 

 そして今、依姫と彼の距離は大きく空いていた。手を伸ばしたとしても、届きようのない距離だ。

様々な葛藤や思考に追われていた彼は、無論それに気付かず、素直に指弾による一撃を放つ。

 

 彼の放った一撃は、本来ならば依姫が"神霊"を行使して防ぐ手筈であったが、どうやらその必要はなかったようだ。

何故か彼の霊弾は依姫には命中せず"外れた"。彼女の足元の大地を軽く爆ぜさせる程度、空気銃ほどの威力でしかなく。

 

 "敢えて外した"──彼はわざと指を逸らし、霊弾が依姫に命中しないように仕向けたのだ。

それに気付いた依姫は若干驚きつつも、決して攻撃の手は止めない。既に神霊を行使し、それを具現化させていた。

 

「御身を宿し我が大敵を駆逐せよ──"建御雷之男神"」

 

「神霊は使役させないよ。僕の能力で切断してしまえば……っ!」

 

 神霊と依姫の関係を切断してしまおうと、能力を使用した時、彼は気付いた。

まるでバットが空を切ったかのような、見事なまでの空振りに。自身の能力が依姫まで届いていない──"離れすぎている"という事実に。

 

「そんな、まさか……気を遣っていた筈なのに……いつの間に射程範囲外に──」

 

「一手も二手も遅い。貴方は既に、私の手の平で踊る道化人形に過ぎない……"建御雷之男神"、かの者に鉄槌の裁きを!」

 

「は──」

 

 依姫が呼び出した神霊、建御雷之男神を行使した。

彼が何か言葉を上げようとするが、その暇すら与えない。巨大な幻影の拳が彼の頭上遥かに出現すると、一瞬の内にそれは振り落とされた。

 

 大地を揺るがす轟音が響き渡り、幻影の拳が完全に大地と密着し、それを基に大地に皹が入った。同時に、巨大なクレーターをも作り出す。

ほんの一瞬、僅かであるが巨大な地震が発生し、傍観していた玉兎達はきゃあきゃあ叫びながら、尻餅をついた。スカートの中身が見えそうになるのを、隠そうともしない。

 

「──私の勝ちね、完全に。まさか攻撃を躊躇するとは思わなかった……天道がその気だったら、もう少し苦戦していたのかも」

 

 誰に言うでもなく独り言を呟いた依姫は、額に汗を浮かべつつも、とても気分が良さそうに指を鳴らす。

 

「さて、あまり長時間使役していては消耗するだけだし、彼も十分懲りてるだろうし……そろそろ潮時ね」

 

 パチン、パチン、と。リズミカルに二回指を鳴らし、幻影の鉄槌が振り落とされた場所まで歩み寄る。なおも建御雷之男神の巨大な拳は振り落とされたままであり、依姫が自らの意志で解除するまでは継続されるようだ。

彼も懲りたであろうし、解除しようと思った時──幻影の鉄槌が、僅かに震え始めた。

 

「……ッ、まさか……」

 

 突如震え出した、彼を押し潰していた幻影の鉄槌。

間もなくその震えは振動に変わると、大地と密着していた拳が徐々に上へと上がり始め──彼が神の拳を持ち上げ、大地から這いずり上がってきた。

 

「ぐぅ……ッ、痛い……凄く痛い。くそッ……どうして僕が、こんな目に……ッ」

 

「あっ」

 

 神の拳を持ち上げ彼が現れた瞬間、使役していた建御雷之男神が消え去る。

彼が最後の最後に能力を行使し、依姫と神霊との関係を途絶えさせ、消滅させた。しかし、僅かその程度の行為では状況の好転には繋がらず。

建御雷之男神に打ちのめされ、心身ともに限界に近付いていた彼を前に、同じく疲弊している依姫が相対する。

 彼が土に塗れ血赤に染めた拳を、静かに上げる。

 

「まだ終わってない。諦めないぞ……僕には正しいと信じる意志があるんだから」

 

「……ふふ。良い覚悟だ。貴方、そんな表情もできるんだ」

 

 疲弊してもなお、闘争心を剥き出す彼。依姫もそれに便乗し、面白いと言わんばかりに戦闘態勢に入る。

依姫も武神を顕現させた事もあり、体力的にも、精神的にも大きく消耗しており、深手を負っている彼と大した差はなかった。

 

 ……何だか、周りの玉兎達が騒がしい。依姫は拳を構えながら、そんな事を思った。小賢しい、黄色い声が徐々に大きくなっているのを、彼女は感じた。

だがしかし、そんなのは目の前から溢れ満ちている闘争心の前では、全て杞憂となる。

 力強く、依姫は彼へと向けて宣言する。背後から近付く、新たな敵にも気付かず──

 

 

「──いいわ、天道。納得のいくまで、何度でも屈服させてやる。来いッ! 今度は二度と這い上がれないように────ッ痛ぁッ!?」

 

 依姫の言葉の途中、鋭利な風切り音。そして痛烈な勢いで彼女の頭部に一撃が入り、依姫はこれまでにない悲鳴をあげ、痛みを露わにした。

目尻に涙を溜め、後頭部を押さえながら振り向いてみると、そこには──

 

「なにしてるの、依姫」

 

「……あ。ね、姉様?」

 

 威圧的な視線を依姫達へと送るのは、彼女の姉である綿月豊姫その人であった。

彼女は自らの能力……"海と山を繋ぐ程度の能力"を行使し、私的な理由で闘争を繰り広げていた依姫達の下へと瞬時に移動してきたのだ。

豊姫の背後には、一人の玉兎が罰の悪そうな顔をして隠れており、その玉兎が豊姫を呼んできたのであろう事は直ぐに推測できた。

 

「玉兎達が慌てて私の下まで来たから、何事かと思っていたけれど……蓋を開けてみれば、取るに足らぬ浅薄なことで天道と揉めてると聞いてね」

 

「う……」

 

「貴女という娘が、何をそんなに取り乱しているのかしら」

 

「そ、それは天道の奴がっ」

 

 豊姫が事の経緯を説明するよう促すと、依姫は若干早口で経緯を説明し始める。

彼が反抗する玉兎達に力を誇示しようとしてやり過ぎた事、何よりも主である自身に無礼を働いたという事。

それら全てのけじめをつけるという意味で、今回の闘争に至ったというわけだが──訓練施設の現場は見るも無残。あちこちが損壊しており、その補修費用は計り知れないだろう。

 組んでいた腕を解き、懐から小さな扇子を取り出した豊姫は、

 

「天道、こっち来て。正座」

 

「え……で、ですが、僕はただ」

 

「うるっさい、詭弁なんて聞きたくないわ。さっさと座りなさい……従僕のようにね」

 

「……はい」

 

 閉じた扇子の先端をちょい、と動かしながら彼を招く。彼は眉尻を下げてとても嫌そうな顔をしたが、従わざるをえないと項垂れる。

疲弊もありふらふらとした足取りで豊姫の下まで向かうと、既に正座していた依姫の隣りに並び、それに習った。

 

 その後、豊姫の説教は延々と続いた。

何故喧嘩にまで至ったのか、そもそも職務中に私的な理由で問題を起こすな、と。

たとえ血の繋がっている妹であろうと、右腕として活躍している従者であろうとも、平等に叱責をする。

第三者の介入により止められた喧嘩。彼は勿論の事、依姫も返す言葉がないと、ただ豊姫の言葉を聞き入れ、反省した。

 

 やがて豊姫の叱責も落ち着きをみせた頃、太陽は既に天高く昇っており、月の大地を彼方まで照らしつけていた。

言葉による言及も一段落したのか、豊姫は腰に手を当てて深く溜息を吐き、口を開く。

 

「依姫もそうだけど、天道も。依姫は貴方の上司なのだから、しっかり立ててあげないといけないでしょ?」

 

「……ですが、依姫の奴が責任転嫁してきたんですよ。僕はそれが許せなかっただけです。ほら見て下さい、あの」

 

「ち、ちょっと天道っ! 余計な事は言わないでっ……」

 

「余計な事じゃあない。そもそも君が力を誇示しろだなんて事を言うから、ここまで発展したんじゃないか。それとも何か、兎達の前で手を抜けとでも」

 

「んなっ……それは貴方が力の加減を間違えたからでしょうがっ! もっと要領の良いやり方は出来なかったわけ? 物を壊すだけなら猿にでもできる事だけど?」

 

「……何だと、まだやるつもりか? 先に言っておくが、僕は引き下がる気はないからな」

 

「ふん、あくまで非を認めないようね。やはり仕置きが足りないのかしら……」

 

 互いに正座をしたまま睨み合い、目の前に豊姫がいようと構いなく闘争心をむき出し、ぶつけ合う。

まさに視線で火花が散る勢いで睨み合う両者であるが、豊姫はそれを叱責するでもなく、不思議そうな表情で依姫へ向けて質問する。

 

「あら……二人とも、そんな仲良かったっけ?」

 

 きょとん、とした表情で豊姫がそう問いかける。

睨み合っていた双方もその言葉に反応すると、ほぼ同じ動作で豊姫の方へと振り向き、

 

「……姉様。一体どこをどう見たら、その考えに至るのですか」

 

「だって、ねえ。二人とも以前のような堅苦しさがないじゃない。彼もどこか伸び伸びとしているし」

 

「伸び伸び? これが伸び伸びに見えますか? 私には、飼い主に噛み付こうとする駄犬の如き振る舞いにしか見えませんが」

 

 豊姫はそう述べ、彼が依姫に対して敬語を用いず、まるで友人と話すかのようにして言葉を放っている事に驚きつつも、それに触れた。

これはあくまで、喧嘩している勢いでタメ口で話しているに過ぎない。別に仲の良い友達だから、という理由ではない事は明白なのだが……豊姫はそれを面白おかしく指摘する。

 

「素敵じゃない、そういうの。仲が睦まじくて大変良し」

 

「ですから、違います。これは私を愚弄しているだけ……部下が上司に友達口調だなんて、言語道断ですっ!」

 

「あら、おかしいわね。貴女、前に"天道と仲良くなりたい"って、私に相談してたじゃない?」

 

 人差し指を唇にあて、悪気もなく豊姫がそう言った。

そんな陰話、本人の目の前でするものではない。依姫は頬を赤らめ、汗を滲ませ豊姫に向けて抗議した。

そんな事言ってません、何を言ってるのですか姉様、と抗議する依姫を、彼は呆気に取られたように口をあけ、傍観した。

 妹の反応を見て、十分に愉悦した豊姫。今度はその矛先が彼へと向けられて、

 

「天道も。"依姫さんと仲良くするには、どうすればいいですか"って、私に相談してきたわよね。なに、あなた達……私に寸劇でも見せてくれるというの?」

 

 これまた面白おかしく、クスクスと笑いながら台詞に感情を込めて言い放つ。

呆気にとられて口をあんぐりとあけていた彼は、"は"と意味のない言葉を洩らし、豊姫に顔を向けた。

頬を染めた依姫は拙いながらも言葉を紡ぎ、不器用ながらも彼に真意を訊ねようとする。

 

「そ、そうなの、天道?」

 

「い、いや……言ってなくもないけど……豊姫さん、何もこの場で言わなくても」

 

「えー、私はてっきり、二人はもう仲良しなのかと思ってたのだけれど……違うの?」

 

 今度ばかりは真顔でそう質問する豊姫に、彼は難儀した。

それは依姫も同様のようで、二人は睨み合いから見つめ合いに変更すると、少し考えた後に彼が口を開く。

 

「……まあ、決して仲良しというわけでは」

 

「煮え切らないわねぇ。依姫、彼が口調を変えたのは貴女と"仲良くなりたい"からなのよ。目くじらを立てないで、優しく接してあげなさいよ」

 

「……べ、別に最初から怒ってませんし。天道が仲良くしたいって言うんなら、……そうね、考えておきます」

 

 豊姫にはそう言葉を放つ依姫であるが、豊姫に至ってはにやにや、と意地悪く頬を緩ませて妹を見据えていた。

強がりなのか、照れ隠しなのか。それは依姫自身にしか分からぬ事であり、豊姫は妹を嗜め、彼は何と言葉を発していいのか分からず、口篭っていた。

 

 彼にはその昔、恋人が存在していた。だからこそであるが、異性を相手にしても物怖じはしない。

だが代償として、それを失った悲愴感を心の底から味わっており、その記憶は今でも忘却しきる事は出来ないのか、自分から飛び込んでまで依姫と仲良く接する、という事が出来ずにいた。

常に"主人と従者"という関係を意識しながら、依姫と接していたのだ。

敬語で話すのは当然、立場上依姫を引き立てつつも、自分は後方でそれを支えるのみ……形式として組み固められたその関係は、今日の喧嘩がなければ、未来永劫変わる事はなかったのであろう。

 

 依姫に至っては、恋人など存在した事がない。

異性に対してどう接していいのか……また、周囲には常に"自分より弱い"異性しか存在せず、根底から男性に対しての意識が低かった。

だからこそである。いざ男性と仲良くなろうと考えても、どのように行動すれば良いか分からない。結局、依姫と対等になれる異性など、今の今まで存在しなかったのだ。

そうして漸く邂逅した彼に至っては、信頼のおける姉に相談し、何となく要領というものを掴みつつあったものの……それを発揮する前に、喧嘩に発展してしまった。

 

 

 ──結論を述べる。

豊姫の揶揄に惑わされた依姫、天道の両名は、豊姫の眼下にて暫し見つめ合った。

羞恥心による気疎い空気に包まれる……言葉が見つからない。第一声、何と言葉をかければ良いのか、分からない。

彼も依姫も言葉を発しようとせず、ただ悪戯に時間だけが過ぎていくばかり。

妙な空気の二人に、やれ仕方なしにと豊姫が救いの手を差し伸べた。

 

「ふふ、二人とも初心ね。このままもう少し見ていたいところだけれど、有限の刻の中ではそれも叶わない。また後日、日を改めて話を聞かせて。その時は、素敵なピーチビュッフェのサービスでもあれば、尚良し」

 

 小さな扇子を閉じて、開いて。また閉じた。朗らかな笑みでそう言葉を紡ぐ豊姫は、とても機嫌が良さそうである。

二人は心なしか"助かった"というような表情をし、頬を赤く染めたまま視線を逸らした。

 

 そして豊姫が「仕事の続きがあるから」と此の場を離れようとした時、彼は何かを思い出したのか、立ち上がる。

依姫は彼に視線を向けたまま、立ち上がる彼を不審に思いつつも紡がれる言葉に耳を澄ました。

 

「豊姫さん、最後にひとつだけ……」

 

「ん、なぁに天道?」

 

 既に彼に背を向けていた豊姫は、再び彼に向き直った。

一見すると只の少女である豊姫……だが内に秘めたる力、権力に関しては、月に住む人間の誰よりも高位に位置しており、一般人に至っては彼女と謁見する事すら叶わないだろう。

そんな豊姫に対しても、彼は物怖じする事なく堂々と口を開く。

 

「その、ピーチのデザートは作れるのですが……樹齢長寿の桃の木がですね、倒壊してしまいまして」

 

 このタイミングなら言える、桃をこよなく愛する豊姫に。綿月家管轄の桃園の中、で最も大きな桃の木が再起不能になってしまったという事。

それを伝えた。たった今、確実に。

豊姫はさっきまで機嫌が良かったし、このタイミングなら叱責されないだろう。そう考えた彼は、あははと笑いながら、自らが働いた悪事を告白した。

ピーチビュッフェのサービスは提供できない、という旨も同時に伝える。当然だ、桃の実だって無限に熟れているわけではない。

ビュッフェとは、言わば食べ放題の形で提供するサービスである。ピーチビュッフェ……つまり、桃の食べ放題という造語。

 

 樹齢長寿の桃の木が倒壊した事実を知った豊姫は、瞳を陰に染めた。

"お前は何を言ってるの"というような表情に切り替える豊姫……決して機嫌が良いと表現は出来なくて。

そして実際に彼が指を差し伸ばし、倒木した事を豊姫自身に視認させた事により、彼女の感情は爆発した。

 

「全く、お前は……そういう大事な事はもっと早く言いなさいよ」

 

「い、言おうと思ったんですが、依姫に止められてしまって……」

 

「人のせいにするなっ! 貴方がやったんでしょっ!? はぁ……もう、仕事がひとつ増えたわね。ものの数分程度で終わるでしょうけれど」

 

「ちょ、姉様落ち着いてっ!」

 

 刹那、豊姫の扇子が空を切った。

彼女の扇子は風だけでなく、線上にある全ての物体を切り裂き、粉々に消し去った。

辛うじてそれを避けた彼であるが、服の一部が消失し、背筋を凍りつかせた。

 豊姫の持っている扇子は、月の軍事兵器のひとつであり、試作型の携行式武器の一種でもある。

何とか、本当に危機一髪、それを避ける事が出来たのは依姫のおかげかもしれない……彼女が出張り、豊姫の振るった扇子の軌道を僅かに逸らしたのが、功を奏したのだから。

 

 その後、依姫が"私も悪いのです"と謝意を述べると、頭に血が昇った豊姫も少しずつ落ち着きを見せ始め、何とか大事には至らなかった。

一番初めは"彼が悪い"と括り言い切っていた依姫も、様々な事象の結果を経て、そういう結論に至ったのだ。

 

 人間とは、真に狡賢い生き物である。

それがまた人間の良いところでもあり、悪い部分でもある。

今回の依姫と彼の喧嘩は収束を見せ、その後に起きた豊姫の暴走も何とか収まると、一部を除き再び元通りの日常へと戻った。

 

 依姫と彼の喧嘩は、決して無駄ではなかった。

当初は彼を完全に舐め切り、適当な行動ばかりしていた玉兎達が、彼の言葉一つ一つに忠実となったのだ。

最強の名を我が物としていた依姫と善戦したのだ。並大抵の実力ではない事は傍観していた者ならば即座に理解できる、彼が超一流の実力を持っている事に。

 

 無事玉兎隊の隊長として就任する事ができた彼。

今後どのような試練が彼を待ち受けているのか、それは誰にも分からない。

遥か彼方、月の都を見下ろす碧く巨大な惑星が存在し続ける限り、彼の試練は終わらない。

 

 




以上となります。
戦闘シーンの合間での投稿は、なるべく時間を置きたくないと思っております。
ですが見直し作業や本編執筆が思うように進んでいない状況ですので、折り合いをつけつつ投稿をしている次第であります。
なるべく定期的な投稿を目標としておりますので、これからも当作品をよろしくお願いいたします。


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巻ノ四十一 日常と密かな決意

 ──彼が玉兎隊の隊長代理に就任してから、幾年もの月日が経過した。

月の裏側に築かれた文明は、かつて地上で暮らしていた経験のある彼でさえ驚嘆する程、何も起こらない。

 そう、何も起こらないのだ。

人々が武器を持ち、血肉を撒き散らして争うこともなければ、経済的、政治的な抗争を起こすこともない。

誰もが望んでいた真の平和──心の平穏というものが月の都市では確保されており、月に住む人類の心は非常に豊かなのである。

 

 

 彼と依姫の関係について話そう。

あの騒動以来、息詰まる微妙な関係に変貌した彼らの距離は、悠久の年月が経過していく間に元の形へと戻っていた。

互いに"仲良くなりたい"という真意を聞いてしまったが故に、どう接したらいいのか──それが分からぬ両者を救ったのは、時間である。

 

 昇進した依姫は職務を遂行しながらも、玉兎隊の隊長代理となった彼と度々顔を合わせていた。

以前のような"主従の関係"とは程遠く、彼も「僕も玉兎隊の隊長だから」と主張し、依姫に対する口調は決して、敬意の込められているものではなかった。

タメ口──いわゆる"友達口調"で依姫に接する彼に、依姫自身でさえも"ま、いいか"と気にする素振りを見せなかった。。

むしろ、その方が二人の仲が縮まりやすいと判断した上で、豊姫が推奨したに過ぎぬのだが。

 

 

 一方で彼、天道の生活は順調であった。本人でさえ、心からそう自覚するほどに。

玉兎達からは、依姫と拮抗する実力を見せつけたが故に武力的な畏怖を与えてしまい、敬服とは程遠い環境になってしまっていた。

 しかし彼自身は、恐怖政治で玉兎達を支配する気など毛頭ない。

もう少し"フレンドリー"に接したいと考えていた彼は、そうなるようにひたすら行動した。

玉兎達が気兼ねなく自分と接せられるように──それはさながら、"生徒に慕われる教師"という風に。

 やがて結果も追い付き、玉兎達──全て少女により構成された部隊──は、彼の器の大きさに敬服し、忠を尽くすまでに至った。

依姫には"隊長としての威厳が足りない"と小言を言われる事もあるが、彼はそれを厭わない。むしろ、それで良いとさえ思っていた。

 

 

 蓬莱山輝夜と密かに行っている"月の魔術"に関する鍛練も、至極順調に成果を見せていた。

当初は霊力の使い方が理解出来ず、鍛練の成果も芳しくなかったのであるが、霊力の使い方を理解してきた頃に付随するようにして"月の魔術"の成果も上がってきたのだ。

月のエネルギーを利用した魔術は、環境や刻時により効力が左右されてしまうものばかりなのであるが、不安定ながらも彼は"月の魔術"を利用、行使する事ができる程に成長していた。

そうしてそれらを体内に循環させ、ホルモンバランスの関係を半強制的に調整し、更に永琳の製薬した薬を利用し、"性転換"を成し遂げる──それが彼の最終目的だ。

言わば"それだけの為に"月の魔術の鍛練をしているに過ぎない。だがそれは、彼にとってはとても重要な問題であり、また悲願でもあった。

 

 彼の有する能力……"切断したり結合したりする能力"。定着した呼称は存在しないが、彼はざっくばらんにそう表現している。

その能力は、始めこそ制御が効かず荒々しい行為しか出来なかったが、鍛練に鍛練を重ねた末に、今では自由自在に自身の四肢のように行使する事ができる。

 

 一方で綿月豊姫の能力、"海と山を繋ぐ程度の能力"がある。

ある日、豊姫が興味本位で「私の能力と似ている節がある」と彼に告げたところ、当初はその意味を理解できなかった彼であったが、結果としてそれは彼の能力の成長に大きく携わった。

というのも、彼の能力でできる行為のひとつに、"繋げる"という行為がある。

また豊姫の能力も、"海と山を繋ぐ"──つまり大雑把に表現するのならば、"空間ごと瞬間移動ができる"という、空間同士を繋げる能力なのだ。

これらの"共通点"がある事を豊姫は彼に説明すると、「だったら僕にも出来るのではないか」と思い立ち、行動に至った。勿論、豊姫もそれの後押しをした。

 

 結論から説明しよう。

彼自身の能力だけで、空間を繋ぐ事は可能であった。

しかしそれは極小の……腕を二本通す程度が限界の"隙間"に過ぎず、とてもではないが人が通過できる大きさではなかった。ましてや、生き物が通過しても大丈夫なのかすら分からなかった。

 豊姫の能力が周囲の空間ごと移転させる事ができるだけに、彼の応用の成果は芳しくない。

だがそれでも、決して無駄な時間ではなかった事だけは確か。

例えば遠く離れた場所にある物体も、それらを応用する事により移動させる事ができるし、繋げる能力を更に併用して電気などで充電することも可能だ。

 コンセントの繋がれていない電気ケトルだろうと、彼が能力を応用させればコンセントがなくとも、直接電力を供給させられるのだ。

実際問題、文明が発展している月の都ではその機会は皆無に等しいため、出番がないのもまた事実。

それでも、例えば……料理中に使用したい調味料が戸棚の奥にあった時、"空間を繋げる"事により、さっと用意できるので、決して無用な能力ではない。

"能力の無駄遣い"と依姫に指摘された事もあったが、その応用のおかげで調理時間が数十秒程度短縮されている事実を告げると、顔をやや顰めつつも押し黙ってくれたという。

 

 

 そんな事もありつつ、巡り巡り時は過ぎ去っていった。

幾年も幾年も、変化を嫌う月の都での生活は続き、気がつくと彼の下で指導を受けた玉兎達の数は、膨大な人数になっていた。

数年毎に、任期を終了した玉兎達は世に放たれていった。まるで春を迎え、卒業する学生達の如く。

 月の都での"労働層"となっていた玉兎達は、年々その数を増やしつつも彼の教育を受けた……つまり、名門である綿月警備隊出身の玉兎達は、世間でも優遇された。

いわば"エリート玉兎"と呼称され、人間達に代わり様々な職務に従事していた。

彼が幾年にも及び玉兎達を指導すれば、経済市場を動かす種々様々な企業が名乗りをあげ、その玉兎達を雇用していったのだ。

玉兎を起用すれば、通常の人間を雇用するよりも人件費を抑えられる──名門、綿月警備隊の下で厳しい職務に従事していた玉兎ならば、何処の馬の骨とも知れない素人の人間よりも"使える"のだ。

 

 ──そうして発生した、ひとつの問題。

 

 洗練され、徹底的に教育された玉兎達が世間に排出され、社会貢献をする。それは実に素晴らしく、社会的に善なる行為。

しかし排出され、人間に取って代わり職務に従事すればどうなるのだろうか。

今までの玉兎は、簡単なルーチンワークしか遂行できぬ程度。率先して玉兎を雇用する理由など、今まではなかったのだ。

 

 それが今ではどうか。

仕事レベルを上げても、綿月警備隊出身の玉兎ならば何も問題を起こさずに遂行してしまうのだ。今まで軽視していた玉兎達が、社会的にも戦力となる。

そうなってしまえば、高い金を払ってまでも"人間を雇用する"必要はない……固定費、人件費を安く抑えるには、彼の教育を受けた玉兎を雇用すべきなのだ。

 

 つまり、玉兎が人間の仕事を奪っているのである。

"仕事が生き甲斐"という人間は、たとえ文明の発展した月の都でも少なくはない。仕事だって、心を豊かにする材料のひとつなのだから。

そして、生き甲斐を奪われた人間はどうなるのか──簡単だ。次の生き甲斐となる行為を探すか、そのまま腐っていくかの二者択一。

一見すれば人間の労働量が減り、人々の心は豊かになると思われていたが、結果は真逆だった。

一部の人々の心は廃れ、ひどい者に至れば玉兎達に嫉妬し、危害を加える者まで現れる始末。結果、都の治安は荒れる傾向に陥り、綿月警備隊の仕事は増えるばかりであった。

 

 

 ──そんな時節、日常の一片。

玉兎隊の警備隊長、及び数名の玉兎に加え、綿月警備隊の総隊長が共に月の都の警邏に当たっていた。

ぶらぶらと、警邏と表現するよりは、散歩に近い雰囲気を醸し出すその集団。学生の仲良しグループと表現しても差し支えないそれは、月の都を塊となりて闊歩する。

 

「隊長、もう疲れましたよぉ。休憩にしませんか、休憩」

 

「そーですよぅ。あ、ほらあそこにカフェが! この前、雑誌で紹介されてたお店ですよ!」

 

 きゃあきゃあ、と喚き散らす玉兎達。黄色い声が、前を歩く玉兎隊の警備隊長である天道、そして綿月警備隊の総隊長である依姫に対してそう提案する。

このような戯言を吐くなど、昔では到底有り得ぬ事であったが、彼が就任して以来は厳格な指導体制も緩和の傾向にあるのだ。

けれども、仕事は仕事。彼、天道は淡々とした表情のまま、

 

「警邏中だ。そういうのは仕事が終わってからにしなさい」

 

「えー。だって天道隊長、休日はいつも予定で埋まってるじゃないですか。こーいう時じゃないと、一緒にお茶も飲めないじゃないですか」

 

「そうそう。隊長も、是非ご一緒に……あ。……もちろん、依姫様もご一緒に」

 

 彼の背後を歩く二人の玉兎が、彼の左右の手を取りそんな事を言いのたまっていたが……依姫の鋭い眼光に当てられると、瞬時に萎縮し言葉を失ってしまった。ぱっ、と手を離す。

"職務中だ"と、表情と雰囲気だけで叱責の言葉を理解出来てしまう程、依姫から滲み出るそれは尋常ではなく。

その雰囲気を感じ取った彼は、若干身じろぎつつも、

 

「……まぁ、また今度。今は警邏に集中しなさい。依姫も、あまり怒らないほうが」

 

「別に怒ってないけど。貴方は少し……いや、かなりこの娘達を甘やかしすぎでは」

 

「そんな事はない。飴と鞭をそれなりに使い分けて、メリハリをつけて行動させているからね。支配する事が教育ではないのさ」

 

「ふぅん、そうなの」

 

 泰然とした態度で隣りを歩く依姫は「今は仕事中だけどね」と皮肉を洩らした。彼はそれに苦笑しつつも、前方への視線は逸らさない。

依姫も普段ならば別の職務に従事している手筈なのだが、生憎と本日は非番らしく、彼と共に警邏に出てきているようだ。

非番といっても、休日とは違う。有事の際には常に、臨機応変に行動できるように月の都内に在中していなければならないのである。

特にこれという理由はないのであるが、とりあえず彼と共に警邏をしている……らしい。真意は不明。

 

「最近、玉兎達が増えているわね」

 

 誰に言うでもなく、依姫がそう言葉を呟いた。隣を歩く彼も、

 

「そうだね。どこを見ても兎ばかり……そこの飲食店の娘も、あそこの服飾店の娘も」

 

「玉兎達が社会に進出し始めているのね。一昔前では考えられない事だったけれど、今となっては割りと普通かも」

 

「通りを歩くのは人間ばかり。玉兎達は皆、販売員やら受付人……あ、向かいの店の娘、昔僕が指導した娘だよ」

 

 ふと、彼に向けて手を振る兎が見えた。彼はそれに応えて手を振り返すと、隣の依姫に足を踏ん付けられた。気を逸らす事さえ許されないのかと、彼は辟易した。

けれども、普段の彼の警邏とは大体このような感じである。今日はたまたま依姫が共にしているだけで、彼女の前で無様さを露呈してしまう度、嫌味たらしい一撃を被ってしまうのだ。

彼はそれを理解していながらも、ついつい意識を彼方へと飛ばしてしまう。一体、何度踏んづけられたのかも分からなくなった足を彼は労りつつ、

 

「痛たた……それにしても、いずれこの娘達も任期が終了したら、あのようにそれぞれの仕事に就くのかな」

 

「そうでしょうね。希望する娘は警備隊に続役すると思うけれど、都の仕事の方が体力的には余裕があるからね」

 

「僕一人で玉兎隊を纏めるのも、そろそろ限界だし。数が増えすぎだよ」

 

「年間の入隊数はそれ程ではないんだけど……問題なのは、続役する玉兎が多いって事だけで」

 

 両者は言葉の後に、似たような溜息を吐いた。

玉兎隊のひとつの問題として、隊員数の過多というものがあるのだ。

通常では数年の任期を終了した玉兎は退役するのが決まりなのであるが、本人が希望すればそのまま続役する事もできるらしい。

けれども続役する玉兎の数がとても多く、毎年玉兎は入隊してくるので、隊員数が以前の数十名では効かなくなってしまっている。

なので稀に、一定年数を経過した玉兎に関しては、半強制的に退役させたりもしているようなのだが……それでも隊員数が多い事には変わりなく、既に複数部隊にまで分かれているのが事実。

 

 そのような愚痴を依姫にも溢しつつ、彼らの警邏は続く。

彼、依姫、玉兎二人による通常の警邏は、昼過ぎから夕刻まで続き、本日も異常なしで終わると思われたその時、

 

 

「……っあ、すいません」

 

 後方を歩く二人の玉兎のうち、一人が小さく悲鳴の声と同時に、謝意の言葉を洩らしていた。

それに気付いた前方を歩く二人……彼は、直ぐに振り返り状況を確認する。

見ると、後方を歩いていた玉兎達であるが、どうやら通行人と肩をぶつけてしまったようで、それが理由で謝罪をしたらしい。通行人は、少々小柄の男だった。

 

「……なぁに、良いってことよ」

 

「あはは、すみませんでした。気をつけます」

 

 黒いニット帽を目深に被り、薄っすらと顎鬚を生やした見た目四十台手前と思われる男。

ただ肩をぶつけただけなのだから、彼が介入する事もない。事静かに再び前方へ視線を戻し、歩き続けようとするが──それは玉兎達の声によりはばかれる。

 

「なぁ、あんたら警備隊?」

 

「はあ……そうですけど」

 

「へぇー。俺も前はよ、警備隊に所属してたんだよ。ハハッ、今はもう辞めちまったんだが」

 

 目を真ん丸くし、親しげにそう言葉を交わす男であるが、玉兎達は一歩引いての応対をしていた。

しかしその男は不意に、玉兎達の携行している武器に着目し、言葉を放つ。

 

「これ、新型の武器かい? 凄いねぇ、ちょっと触らせてくれよ」

 

「あ、ちょ! 駄目ですよっ」

 

 男が玉兎が腰に携行している短銃に触れようとした瞬間、玉兎はそれを拒み間一髪のところで男の手を振り払った。

ぱしん、と高めの肌を弾く音が聞こえると、男は嫌らしそうに表情を歪めて自身の手を擦る。

 

「何だよ。真面目ちゃんかよォ……おい。ちっとぐらい触らしてくれたって良いじゃあねーかよ」

 

 うぷっ、と男が息を漏らした。男の体内から吐き出された空気から酒の香りを感じ取ると、玉兎は眉をひそめた。

真昼間から酒を煽っているのか、と玉兎は推測しつつも、鼻呼吸を止め口から酸素を供給しつつ、

 

「だ、駄目なものは駄目ですっ。人に向けたら危ないものなんですから!」

 

「はぁ、そうかよ。あーあ、兎なんかに都の警備を任せちまって良いのかよ……どうにかしちまってるぜ、月のお偉いさん達はよ」

 

「……っ」

 

 男は後頭部にて腕を組み、誰に言うでもなく大きな声で悪態をつき、そのまま去ろうとする。

酷い言われ様に、悲しげな表情をする玉兎。けれど能力的に人間に劣る部分も有している事から、男の言葉に間違いはなく。

職務に私情を挟んではならない事は、たとえ一等兵の玉兎であろうとも、根底から理解している事だ。

しかし、悪態をついて何事もなかったかのように去ろうとする男に、綿月依姫は黙っていなかった。

 

「待ちなさい、そこのお前」

 

「……あー? 何か用かよ」

 

 凛とした表情で男を引き止める依姫。

一体何が始まるのか、何故依姫は男を引き止めたのか。疑問に感じた彼は、素直に依姫に耳打ちする。

 

「……何故奴を止めたんだ。僕達が引き下がれば、事は大きくならずに済むのに」

 

「確かに、そうかもね。でも違うのよ……ま、そこで見てて」

 

 小声で彼にそう告げた後、依姫が男に向けて足を動かす。迷いなく、早歩き並みの速度で。

玉兎達の真横を通り抜け、男が依姫の接近に気付いた時には、時既に遅し。

依姫は男の腕を掴み上げると、万力の力を込めてそれを上方へと掲げる。グァン、とこれでもかと引っ張りあげられた腕は、ジャケットが破れてしまうのではないかと思わせてしまう程で、

 

「ッ、てめぇ何すんだッ!」

 

「手癖が悪いわね。それとも、それに気付かないこの娘の神経が鈍りすぎなのかしら」

 

「……ッ!」

 

 ぶちり、と男のジャケットの一部を無理矢理引き千切ると、そこからは……綿月家警備隊で使用している携行式の私物入れが出てきた。

言うなれば、小さな小さな鞄である。小学生がランドセルを背負っているように、警備隊員も指定の荷具を所持しているのだ。恐らく男が玉兎から"盗った"ものであろう。

依姫がそれを取り返し、玉兎へ向けて投げ渡した時点で、漸く兎達は"窃盗にあった"という事実に気付き、困惑した。

 

「くそッ、綿月だか何だか知らねーが、ふざけんじゃねェッ!!」

 

 男が依姫に向けて拳を振るう。けれどそれは知っている者からすれば、蟻が恐竜に挑み手を挙げるようなもので、

 

「──っと」

 

「あがッ……!」

 

 蟻如きでは、恐竜には勝てない。あっと言う間に攻撃は捌かれ、瞬時に男の額に手刀を放ち、悶絶させる。

たったの一撃、手を抜いた程度の攻撃に過ぎないが、男には金槌で殴られたかのような衝撃が襲う。鼻を熟れたトマトのように真っ赤に染めていた。

 

「貴女達」

 

 短く、依姫が二人の兎を呼びつける。

兎らは背筋を凍らせ、何か恐ろしい幽霊に脅かされたかのように全身を軽く震わせた。

口元も震えていて、"は、はひ"と奥歯を噛みながら依姫に対して返事を返し、体ごと振り向いた。

 依姫はそんな素振りの兎など気にもせず、淡々と頭の中で辞書を引くようにして言葉を放つ。

 

「この盗人を連行してちょうだい。暴行……窃盗の現行犯ね。……それと貴女、レイセンだっけ? 貴女はもう少し、落ち着きを持ちなさい」

 

「す、すみません……」

 

 依姫は窃盗の被害にあった兎を軽く叱責した後、男の身柄を玉兎二名に手渡した。

男は悶絶こそしているが、意識は失っていない。だが、両腕を玉兎達により拘束されており、再び逃げ出すという事はありえなかった。

 事の決着が済んだ後、依姫は小さく溜息を吐いた後、彼の下へ戻る。悠然とした態度で、誇らしげかつ皮肉げに、

 

「本当は、貴方が私の代わりにするものなのだけどね?」

 

「……ああ。よく気付いたね、僕は気付かなかったよ」

 

「意味もなしに絡んでくるとは思えなかったから。注意深く観察した結果が実っただけよ。もっとも、町娘ばかりに気を取られている貴方には分からないでしょうけど」

 

「……面目ない」

 

 ぎゃあぎゃあ、と男は喚き散らし、それを必死に取り押さえようとする玉兎二名。その様を見ていた彼は、依姫の皮肉も相成って何ともムツカシイ顔をした。

玉兎達では幾分荷が重いかなと彼は思ったが、ここで彼が手助けをすれば、"その必要はないでしょ"と依姫から小言を言われてしまう。そう、彼女はスパルタなのだ。

 

「まぁ、後処理はあの娘達に任せて、私達は警邏の続きに入りましょ」

 

「ああ。近頃、治安が悪くなっている気がするんだ。それも、玉兎達に対する風の当たりも強くなっている気がする」

 

「玉兎に仕事を取られた、という話も頻繁に聞くわね。それに関連しているとは言い切れないけど、全く原因ではないとも言い切れないし」

 

 労働層である玉兎が様々な仕事に進出し、仕事を取られた人間は決して少なくはない。

仕事を取られてしまった人間は、結果として玉兎に対して恨み心を抱く者も少なからずは存在する。

"今まで通り底辺の仕事だけしていればいいのに"──そう言葉を荒げ、心を病ませる人間だって居る始末だ。

あの男も、或いはそういった類の者なのではないかと彼は推測し、依姫に取り留めのない世間話として告げる。

 

 彼女に至っては「仕事を取られる程度の無能だからしょうがないでしょ」等と述べ、不機嫌さを露わにしていた。

やはり仲間である玉兎の事を馬鹿にされ、心中穏やかではないのは彼も、依姫も同じであったようで。

 まだ後方で騒がしい玉兎達の健闘を祈りつつも、彼と依姫は再び警邏の続きをしようとするが──

 

 

「くそがッ! 終わっちゃいねぇぞッ! この落とし前は絶対につけてやるからなッ!」

 

 ふと、そんな罵声が飛んできた。

男は玉兎に羽交い絞めにされてもなお、口撃は緩めない。腕を羽交い締めにされながらも身を乗り出して、

 

「聞いてんのかコラァッ! テメェら警備兵如きがいい気になりやがってッ! この俺をッ、殺れるもんなら殺ってみやがれッ!」

 

「こら、静かにしなさい! 大人しく私達に連行されるんですっ!」

 

 右肩を前に、左肩を前に。少しずつ、僅かでも依姫達に近付こうと男は努力するが、それは玉兎達の拘束により叶わない。

罵声を浴びせる男など、依姫は自分が相手にするまでもないと、後ろすら振り返らない。

けれども彼は少しだけ様子が気になったのか、後方へと振り返って様子を確認してみると──

 

 

「あっ、駄目っ」

 

「どけオラァッ! はい死んだああァッ!」

 

 男は右隣にいた玉兎を力任せに振り切り、更にその隙を突いて玉兎の腰から"短銃"を奪うと──銃口を真っ直ぐに依姫へと向けた。

拳銃にも似ているそれは、決して人間に向けて良いものではない。撃ちどころが悪ければ、人の命すら狩り取れる代物で──それが今、彼女の後頭部へと勢い良く向けられていて。

 

 ──だが、しかし。短銃の引き金が引かれる事はなかった。

玉兎が阻止したわけでも、彼が手を降したわけでもない。或いは依姫が気付いて迎撃したわけでもなければ、彼女は依然、男に背を向けたままだ。

 それは、単なる男の自尊心の確保に過ぎなかった。引き金は引かれずに終わり、短銃はもう反対側に居た玉兎により弾き飛ばされ、男は再び羽交い絞めにされていた。男が、下卑た笑みを浮かべながら、

 

「……ケッ、命拾いしたな女ッ! 俺がその気だったらなァ……ケケッ、死んでたぜ、テメェ!」

 

「取り押さえましたっ! こら、動くんじゃない!」

 

 抵抗した男は、今度こそ地べたに叩き落とされ、完全に取り押さえられた。

顎を土で汚しながらも、依姫に対する罵声は止まらない。まるで仇敵を目の前にしているかのような鋭い眼光で、

 

「綿月だが何だか知らねぇが、糞ったれの兎どもを世間に放ちやがってッ! こっちはいい迷惑なんだよコラァッ!」

 

「喋るのをやめなさいっ! 大人しく連行されるのよ!」

 

 グッ、と馬乗りにされ、両肩を押さえられる。男は苦痛に表情を歪めながらも、唇の端を釣り上げた。そうして不気味な笑みを浮かべて、

 

「決めたッ! テメェのイカれた力には敵わねぇけどよォ……ケケッ、困らせてやるッ! 先ずはテメェの周りからだッ!

 兎どもを皆殺しにしてやる……その後は警備隊の施設にに火を放ってやるからなッ! ケケッ、今から楽しみだぜッ……」

 

玉兎二人に上から圧し掛かられている為、抵抗という抵抗はできない。が、男は依姫に罵声を浴びせ、果てには反攻するという予告まで叫んでいた。

"玉兎を皆殺しに"、"屋敷に火を放つ"──それら全ての言葉を聞いたところで、依姫が振り返る事はない。

 

「もう"おさまらねぇ"……俺に恥をかかせやがってッ! 俺はとことんテメーらを困らせてやる事に決めたぜッ……ケケッ」

 

 男のあまりにも稚拙な発言の数々に、依姫は怒りを通り越し、既に呆れ果てていた。

自分が対応するまでもない──そう思い、男の相手などするものかと心に決めた依姫であったが、

 

「──言いたい事はそれだけか」

 

「……あァ?」

 

 彼の言葉に、此の場にいた誰もが疑念を抱いた。突如紡がれたその言葉に、一体どのような意味が含まれているのか、と。

男を取り押さえている玉兎達に向け、彼は冷静に言葉を放つ。正面ばかり向いていた依姫も、今度こそ振り向いて。

 

「言い終えたのなら……その男を放してやれ」

 

「……」

 

 静かに、僅かに威圧的にも取れる声色でそう告げる彼。

今まで悪態をついていた男は勿論、男を取り押さえていた玉兎でさえ押し黙り、依姫も彼に注目した。額に、僅かな汗をにじませて。

 

 彼は玉兎達に近付くと、再び男の拘束を解くように指示した。そして玉兎の持っていた短銃を一丁、軽やかに抜き取り手にした。

一体、彼は何を考えているのか。気でも違ってしまったのか。兎達でさえそう勘ぐってしまうその行動──彼は短銃を、男の前に投げ捨てた。

ガシャン、と音を立てて落ちた短銃に男は視線をやり、次に彼に視線を移し変える。彼の表情は至って平然としており、けれども堂々たる威圧感すら放っていた。

 

「僕達を困らせると言うのなら……それを拾ってみろ。ただし、拾ったのならそれが合図になる」

 

 静かに、けれど悠然と。

彼は眼前に跪く男に向け、そう言葉を放った。

玉兎達が男の拘束を解き、一歩、二歩と男の傍から離れる……が、男は上半身こそ起こしたものの、立ち上がろうとはしない。

 男は目の前に忽然と落ちている短銃に視線を向けるが、額から汗を滲ませて唇を震わせる。顔をあげれば、悪鬼のような彼の表情が。

男は振り絞るようにして、そしておどけた声調で言葉を放つ。口端を上げ、下卑た笑みを浮かべながら、

 

「……イ、イェーイ。何だよ、ただの冗談だぜ……マジになるなよなァ……」

 

 男の言葉に、彼はぴくりとも動かず、言葉すら発さない。視線は相変わらず、男の瞳を貫いていた。

 

「怒んないでよ! さっき言った事は全部冗談…………俺ぁただのチンピラだよぉ……へへ」

 

跪き、両の手のひらを前に出して、戯けたように男は言葉を吐く。彼を諌めるように、手の平を震わせる素振りは、怯えているようにも見えた。

 

 玉兎達はその光景を固唾をのんで見守り、周囲に集り始める野次馬達を退けつつも、自らの隊長から目を離さんとしていた。

そして依姫は──普段と雰囲気の違う彼の姿に心配し、割れ物に触れるようにして言葉をかける。

 

「……ねぇ天道、どうしたのよ。貴方らしくもない……少し落ち着いて、冷静に物事を」

 

「落ち着いているさ。自分でも驚く程に」

 

 依姫の言葉に対しても、泰然とした態度で言葉を紡ぐのみ。

彼は「落ち着いている」とだけ言葉を口にするが、傍から見る依姫には、とてもそうには思えない。

他になんと言葉をかけて良いか見当もつかない依姫は、思考に思考を重ね、言葉を紡ぐ。

 

「あの娘達が侮辱された事に怒っているのなら、今は事を荒げないで。此の場であれを始末するのは簡単……けど、それは単なる武力制裁に過ぎない」

 

「違うよ。僕は君が侮辱された事に怒っているんだ」

 

「……は?」

 

 きょとん、と呆気にとられた表情をする依姫。彼は言葉を続ける。

 

「敬愛する主人を馬鹿にされて、平然としていられるものか。十分に落ち着いているさ……だが、あの男は許されないよ」

 

「天道……」

 

「僕は綿月依姫の従者だ。君を守るのは僕の務めで──」

 

 彼が言葉を紡いでいた、ほんの一瞬、僅かに。視線を男から逸らし、依姫に向けたその瞬間に、事態は動く。

 

 跪いていた男が、目の前に落ちている短銃を一目散に拾い上げ、迷いなく引き金に指をかけた。

誰よりも先にその事実に気付かなければならないのは、他でもない彼だ。しかし彼は依姫と言葉を交わしており、ほんの一瞬、僅かに反応を遅らせてしまっていた。

依姫が彼の名前を叫んだ時、漸くそれに気付いたのだが──遅かった。男は、引き金にかけた指に力を入れた。

 

 

「ヒャハッ、くたばりやがれぇェッ!!」

 

 今度こそ、銃口は向けられた。彼の心の臓を完璧に捉えていた。

漆黒の殺意に包まれた感情は、男に引き金を引かせる事すら躊躇させない。

周囲の空気を裂き、迷いなく引き金が引かれ────絶命の一撃、光の塊が射出される。

 

 ──しかし、射出された光弾は一つではなかった。

銃口から射出される光弾、そして──瞬時に意識を集中させて、彼が指先から放った光弾、もとい霊弾。

指先から放たれたそれは、威力こそ決して高くはない。が、精度、速度共に人工的に作られた短銃よりも疾く、美しくて。

 

「────うがッ」

 

 彼の放った真っ白い霊弾が、男の肩を撃ち抜いた。

しかし同時に、男の発砲した光弾が彼の肩に命中しており、衝撃が彼を襲った。

痛覚を刺激され呻き声をあげるが、往生してる暇はない。間髪入れずに彼は二発目の霊弾を射出した。それは余裕とも取れる笑みで、

 

「……ふん、それは殺傷力のない警備隊専用の護身銃だよ。お前さんの言った通り、この娘達に実銃を持たせるのは危なっかしくてさ」

 

「な……ッ!」

 

 彼の放った二発目の霊弾が、男の額を打ちつけた。男の額にあったニキビは潰れ、頭蓋骨を大きく揺らした。ぐしゃん、と地面に倒れる鈍い音が響いた。

幸いにも意図的に威力の調整された霊弾は、男の命を狩り取るまでには至らない。いわゆるゴム弾程度の威力に過ぎず、致命傷にすら届かない。

男はやや後方に吹き飛びつつも、意識だけは確実に落ちて。次、男が目を覚ますのは、罪人用の医療施設である事は間違いない。

 

 

「天道、大丈夫っ!?」

 

「たた、隊長ーっ!」

 

 事が終了し、痛そうに肩をさする彼の周りに依姫らが集った。まるで生き別れの両親に再会したと言わんばかりの勢いに、周囲の野次馬たちの輪も乱れた。

男が発砲したのは、警備隊用の護身銃……いわゆる、空気銃に近いそれに過ぎない。なので、撃たれて死ぬという事は極めて稀である。

しかしながら、文明の発達した月の都の護身銃だ。それも綿月家管理の護身銃は、決してただの空気銃程度の威力では済まない。

"暴漢程度ならば一撃で仕留められる威力"を有しているのだ。そんなものを肩に喰らい、平然としていられる筈がない。事実、彼は少々痛そうに表情を歪めていた。

 

「痛たた……大丈夫だよ、問題なし。見ろ、血は出てないし骨だって折れてない」

 

衣服をぺたん、と地肌に密着させ、出血していない事をアピールする。くしくし、と擦る度にうなじが見え隠れしていた。

服の上から滲み出ないから出血していない。そんなもので素直に頷けるか、と依姫は彼に詰め寄り、言葉を放つ。ぐおん、と彼に顔を近づけて、

 

「馬鹿っ、内出血してるかもしれないでしょ! それに骨にヒビだって入っているかも……痣になってるんじゃないの? ほら、ちょっと見せてみて」

 

「……何?」

 

 グイ、と依姫が彼の衣服に手をかけた。何てことはない、ただの触診前の行動に過ぎない。

けれどもそれは──フルコースにおいて主賓よりも先にナプキンを広げてはいけないのと同じくらい、彼に対してやってはいけない行為であり。

自らの衣服に手をかけてくる依姫の手を、若干の抵抗を込めて払いのける。

 

「……いいよ、大丈夫だって」

 

「大丈夫ってことはないでしょう。骨に異常があったら、後々痛い目を見るのは貴方なのよ? 肩をはだけさせる程度でいいから、ほら早く」

 

 それは依姫なりに心配し、選択した行動だ。

決しておかしな行動ではない。極普通の、怪我の具合を判断する行為。

"脱がないと見れない"という言葉に、彼は思わず背筋を凍りつかせ、額に汗を滲ませた。

 

 ──『脱げる筈がない』

 

 彼はそう思考し、躊躇する。無理──そう、無理なのだ。真夏にこたつでミカンを食べるのと同じくらい、無理なことのだ。

何故ならば……もはや説明するまでもない。

依姫は彼が"肉体的に女性である"という事実は知らないのだ。綿月家に関する者で知っている者は、八意永琳ただ一人。

此の場で衣服を脱げば、瞬時にバレてしまう。肩をはだけさせる程度だろうとも、あの膨らみは隠せない。サラシで潰していようとも、主張する時は主張する。

 

 ──どうすればいい、どうすれば。

 

 答えが見出せぬ彼は、苦し紛れに誤魔化しの言葉を述べる。手を差し伸ばす依姫の手を再び二、三度ほど振り払い、

 

「き、今日は少し肌寒い。だから服は脱がない」

 

「……は?」

 

 突然何を言い出すのかと、依姫が彼に奇異の視線を向ける。けれど彼は依姫に視線を逸らして、

 

「それに怪我なんてしてないし。見ろ、すこぶる快調だ」

 

 どん、と自らの肩を叩いた彼は、敏感になった痛覚を刺激される結果となり、悶絶した。

「だから言ってるでしょう」と依姫は呆れ混じりに呟き、彼に手を差し伸べる。肩に触れた。

 

「ほら、駄々っ子じゃないんだから。怪我の具合が分からなくちゃ、お師匠様にも診てもらえないでしょう」

 

「いや、いいって。僕に構わないでくれ。怪我なんてしちゃあいないよ」

 

「んもう! どうしてこういう時だけ頑固なのよ。怪我している時ぐらい、素直になりなさい! このっ……無理にでも……!」

 

 彼の両肩を掴み、無理矢理服を脱がしにかかる依姫。

万事休すかと思考した彼であるが、そこに一つの逃げ道を見出した。

周囲に集う野次馬達……その野次馬達が、今の自分達の光景を目にしたらどう想像するのだろうか?

女が男の服を脱がそうとする……説明する必要すらない。異様な光景だ。これが性別の立場が逆だったのならば、確実に法的措置を取らされる状況だ。

 

「依姫、落ち着いて。周り、見て」

 

「何よっ……周りがどうしたの」

 

 瞬間、我に帰る。

ぽけーっとしている野次馬から、小型の射影機を用いて撮影をする若者まで。幅広く存在する野次馬達は、依姫の羞恥心を煽るには十分過ぎた。

お盛んね、と口々に噂する老夫婦もいる始末。玉兎達ですら言葉を失い、指で目を塞いで事が落ち着くのを待っていた。少なくとも、異性同士が野外で行う行為ではなくて。

 

「──っ」

 

「後で八意さんに診てもらうから……落ち着けよ、依姫」

 

 周囲の野次馬達の視線にさらされながらも、平然さを取り戻した依姫は彼から手を離した。

鋭い視線で野次馬達を一蹴し、何事もなかったかのように警邏を再開しようと玉兎達に目配せをする。

そうして乱れた衣服を正し、赤く染まった頬を隠そうともせずに、依姫は言葉を放つ。それは、然も何事もなかったかのように、取って付けた付け焼刃のような声で、

 

「あ、貴方に言われなくても落ち着いてるわよ。それはもう、自分でも驚く程に」

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 夜半の刻。

日中に一騒動が起こったものの、後の処理は滞りなく行われ大事に至る事はなかった。

 

 幾年もの月日が経過し、玉兎隊の隊長に正式に就任したとしても、彼の本来の職務が失われる事はない。

綿月姉妹の付き人として身の回りの世話、そして食事作りは今もなお、継続して行われている。

朝食と夕食は彼が用意し、特に食後のデザート……豊姫の所望するそれは、首尾よく確実に行っているという。

 

 日中の騒動もあり、普段よりやや早めに職務を終えた彼らは、寄り道せずに直ぐに帰路についた。

そして彼は早めの夕食の支度を開始し、それが提供される少し前の頃。

豊姫と依姫が卓にて向かい合い、談笑を楽しんでいた。

 

「それでね、天道が私の事……敬愛してるって。うふふ、普段はそんな事を言う奴じゃないのに……ちょっぴり見直しました」

 

「……ふぅーん、あっそう」

 

 嬉々として言葉を紡ぐ依姫に対し、豊姫はつまらなそうに、卓に飾られている置物を弄っていた。

返す言葉もどこか上の空。あらかじめ用意している言葉を返すだけで、その視線も依姫は捉えていない。

"彼が"とか"天道が"だとか……紡がれる言葉、彼女の題する話題の多くが、彼に関するものばかり。

もう聞き飽きた。何度同じ話をするのだ。豊姫は飾られていた置物を元の位置に戻し、依姫の言葉の途中であろうが関係ない。淡々とした口調で横槍を挟みいれる。

 

「彼ね、玉兎達にも好かれているみたいで。この前なんか、玉兎達が手作りのお菓子を彼に贈ったらしくって」

 

「……それで?」

 

「……はい?」

 

 突如、言葉を挟み入れられた依姫は驚き、我に帰って説明をする。

 

「それで、って……そうですね……そういう微笑ましい事があって、彼も幸せ者だなと……」

 

 依姫の回答に、豊姫は然もつまらなそうに溜息を吐く。

深遠にも及びそうな吐息の後、間抜けなペットを躾けるように、淡々と言葉を放つ。

 

「それで、と言ったのは貴女の事。依姫、貴女はさっきから天道の話ばかり……話の全貌が全く分からない。一体私に、何を伝えたいの?」

 

「……そ、そうでしたか? ……すみません」

 

 姉に指摘され漸く気付いたのか、依姫は俯き恥ずかしそうに頬を染めた。

若干の苛立ちも含められた言葉を放つ豊姫だが、それを僅かに抑えつつも、

 

「そんなに彼が気になるの?」

 

「べ、別にそんな事はありませんっ。彼は私達の良き従者……気の迷いなど、ありませんよ」

 

「ふぅん、そっ。別に追求するつもりはないけれどね」

 

 言い知れぬ、険悪な雰囲気。

豊姫も依姫も互いに憤怒している訳ではないが、依姫は思う。妙に居心地が悪いな、と。

ふと気付けば自分は彼の話ばかり。甘んじてそれを聞いていた豊姫であったが、脈絡のない話を延々と聞かされれば、肉親だろうと良くは思わないだろう。

 

 奇妙な静寂が続いたが、ものの数分で状況は変貌する。姉妹だけしかいない部屋の扉を、誰かが叩く。

それから間もなくして、扉が開かれた。彼が両手を器用に駆使し、料理の盛られたお皿を持ったまま開けたのだ。

何だか険悪そうな雰囲気を意にも介さず、彼が卓の上に料理を並べ始めて、

 

「お待たせしました。何の話をしていたのですか」

 

「うふふ、教えてほしい?」

 

 淡々と料理を並べる彼に、面白おかしそうに豊姫が彼に言葉を放った。

豊姫に対しては依然、敬語で会話する彼に、彼女は若干ながら壁を感じていた。

妹の依姫には友達口調なのに、何故自分には敬語でしか話してくれないのだろう。そんな疑問が彼女の脳裏を駆け巡った事もあった。

 

 畏まった口調で話す彼も、豊姫が何の話をしていたのか気になる反面、依姫から刺さるような視線を感じ、難儀した。

 

「……いえ、また機会がある時にでも」

 

「そ、残念ね。……わあ、今晩も美味しそうね。依姫もそう思うでしょ?」

 

「え、ええ、とても美味しそうですわ」

 

「早く食べましょ! さ、天道も座って座って」

 

卓と厨房を数回ほど往復した後、豊姫が彼に座るよう急かす。

普段ならば、アジアンテイストの長方形のテーブルを囲うようにして座るのだが……今日は違う。

 

「あれ、僕の席がないのですが」

 

先程まではあった椅子が、何故か綺麗サッパリ消え去っていた。

彼が厨房に赴いている間、恐らく"誰かが"意図的に空間ごと移転させてしまったのだろうが……それを見た者は、依姫しかいない。

 

「普段と同じ席というのも詰まらないでしょう。天道、今日は依姫の隣りに座れば?」

 

「……姉様?」

 

 豊姫が指を鳴らすと、消失していた椅子が瞬時に現れた。それも、依姫の隣りの席へと。

先程の依姫の話を聞き、精神的に嫌悪感を催していた豊姫は、一風変わった手法で妹をからかおうと、そういう魂胆であった。

"依姫の隣に座れ"と再び急かす豊姫に、彼は疑問を抱きつつも素直に従う。

 

「どうしたの」

 

「……や、別に。さぁ、頂きましょ」

 

 隣りに着座した途端、何だか落ち着かない様子の依姫に、彼は不思議そうに表情を顰め……豊姫はくすくすと笑っていた。

依姫と彼が隣同士に座り、その正面に豊姫が座っている。普段とは違う席位置を彼は不審に思ったが、目の前の料理に全てを忘れた。

 

 

 

「わあ、美味しいわね。特にこのスープ! 名前とかあるのかしら?」

 

何だか白々しい質問を投げかけてくる豊姫に、彼は更なる不審感を露わにしながらも説明する。

 

「それはクラムチャウダーです。殻付きの貝をいれてるので、注意して食べてください」

 

「ふぅん、とても濃厚で美味しい。……あら、どうしたの、依姫?」

 

「いえ、何でも。……うん、美味しい」

 

 なおも妙な空気が包む二人。

翡翠色のグリーンピースで飾られたシュウマイを一つ頬張り、依姫は比較的小さめな声量でそう呟いた。

そんな妹の姿を見た豊姫は、何が面白いのか頬を緩ませ目を細めた。

そして「美味しい?」と依姫に問いながら、豊姫もシュウマイを箸でつまむと、それを彼へ向けて差し伸ばした。

 

「……何ですか、豊姫さん」

 

「食べさせてあげようと思って。はい、あーん」

 

「じ、自分で食べれますから」

 

「ダーメ。……あ、こら! 渡し箸はマナー違反よ!」

 

豊姫の差し出したシュウマイを、彼が自分の箸で掴み取ろうとしたが……あえなく不発に終わった。

今宵は妙に落ち着かない豊姫と、妙に落ち着いた依姫。

何だか今日は変だなと思いつつも、ぷりぷりと怒った豊姫には逆らえずに素直に食べさせてもらう彼。

もしゃもしゃ、とシュウマイを食べる彼は「まあまあです」と感想を述べた。ここで料理を褒めるほど、彼は自愛者ではなかった。

 

 

「……姉様。少し彼に構い過ぎでは」

 

「んー、そう? 従者を可愛がるのも主の務めだと思うけどね……はい、これも食べる?」

 

「む……」

 

更にもうひとつ、シュウマイをつまむとそれを彼の口元へ差し向ける。

食べさせようとする姉も姉だが、それを甘んじて受ける彼も彼だ!と、依姫は心中、怒りを露わにした。

間もなく不機嫌な表情に変貌する依姫に、彼は怯える。豊姫はくつくつと笑いつつも、少々からかい過ぎたと己を反省した。

 

「うふふ、ごめんね、依姫。怒らないで……貴女も彼に食べさせてあげればいいじゃない」

 

「……何故、私が」

 

「っそ。じゃ、天道ー。主人の食事の手伝いをしてあげなさい」

 

「え、何で僕が」

 

「早く。これは命令よ、依姫の姉である私からのね」

 

ここぞとばかりに捲くし立てる豊姫。

"姉"の部分を強調し、然も自分が依姫よりも偉い立場にあるぞと言わんばかりに。

彼は致し方なしと思い、若干背筋を凍らせつつも、大皿に盛られたシュウマイを箸で分断し、食べやすい大きさにしてから依姫に向け……

 

「……ほら」

 

「な、何よ」

 

互いに上半身を逸らし、距離を取る。彼と依姫の視線が交じり合う。

 

「……食べないと終わりそうにないよ」

 

「う、うん……い、頂くわ」

 

 頬にかかる髪の毛を指でそっとかき上げ、彼の箸から送り渡されるシュウマイを食べた。

恥じらいを包み隠さず、瞳だけは瞑り食べる仕草に、彼は不覚にも愛おしさすらをも感じ──カシャン、と機械音が響いた。

食卓から聞こえる聞き慣れない音に彼は音のする方向を凝視し、依姫も彼の箸を咥えたまま音のする方角に視線を向けた。

 

「………うん、二人とも良い表情。こうして見てみると、まるで仲睦まじい夫婦みたいね」

 

 最新鋭の技術を駆使して製作された射影機を片手に、撮影した映像を確認し満足気にそう呟く豊姫。

二人が俗にいう"あ~ん"をしている光景を、豊姫は隠し持っていた射影機を駆使し、見事に画像に収める事に成功したのだ。

彼女自身は妹を嗜めるついで、二人の仲を応援する"キューピット"の心算で行った行為なのだが──依姫はそうは受け取らない。

即座に彼の箸からシュウマイを強奪し、咀嚼する事も忘れ怒りに打ち震える。頬をシュウマイで大きく膨らませながら、

 

「ね、姉様……ッ、何をしてるんですかっ。それを此方に寄越してください、それをッ!」

 

「あ、ちょっと! そんな乱暴に扱ったら壊れちゃうでしょっ」

 

 ガダン、と卓に衝撃を与え依姫は立ち上がり、振動に遊ばれスープを微量ながら零しつつも、気に止めない。

豊姫から射影機を奪取せんと体躯を満遍なく駆使し、依姫は行動した。

 

 今日は本当に色々と起こる日だなと思いつつも、彼は姉妹の戯れをただ傍観するのみ。

依姫の気持ちに薄々勘付きつつあるのか、それは分からない。

 ──ただ一つ、確実に言える事がある。

近日、間もなく。

彼の"性転換"を行う為の土台は全て揃い、月の魔術も十分に行使できる事。

誰にも悟られず、誰にも語られる必要もない。彼の決意は、そう静かに固められていた。







以上となります。
私事ですが、やらなければならない事が立て続けに出てきている状況なので、次話は遅れる可能性が高いです。
読んで頂いている方には申し訳ありませんが、よろしくお願い致します。


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