統制機構諜報部のハザマさん (作者さん)
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すてーじ1

移転しました。改定や文の追加など、いろいろやってるので初めから見ていただければ光栄です。ただ、一度に全部にじファンで出していた章まで出せないことはご容赦ください。


 また、か。

 もう何度目になるか分からないその言葉を男は呟いた。

 その場所では肉体も何も存在しないためか、空しさを込められたその声だけが辺りに響き渡る。

 降りてしまえば過去のことは全て忘却の彼方に置き去りになる。何度既視感を味わったとしても、望んだ結果にはたどり着くことは無い。

 自分の行動が悉く無駄になることほど、疲れるものは無い。精神だけの存在にいいようにパシリにされて苛立つことが無ければ、それはとんだマゾヒストに他ならないだろう。

 そして思考を進めるまでもなく、新しい感覚がその場所に訪れていた。

 その存在を観測することによって形を与えられ、自分という存在が世界へと現れる。そのとき自分は此処でのことは忘れて、同じ試行を繰り返すのか。

 

 冗談じゃねえぞ、クソ。

 

 言葉を吐き捨てると同時に、どこか違和感を感じていた。

 肉体が無くとも自分は世界に降りることはできる。しかし、降りる直前に感じたのは、どこか懐かしい感覚だった。

 

 成程な。

 

 にやりと、男は笑った。

 

 

―――――――――――――――――――

 

「…………はい?」

 

 こんにちは、初めまして、おはようございます、統制機構諜報部のハザマです。私が目覚めたとき、頭の中をよぎったのはそんな説明口調の文脈でした。

 がばっと毛布から体を起こして見渡すと、白い壁で囲まれた小さな個室、悪く言えば生活しているような雰囲気はあるのにさびしい空間であったと言えますね。

 

 …………なるほど、訳が分かりません。

 

 説明は受けました、私は統制機構諜報部のハザマなのでしょう。とはいえ、なんだってこんな自分の名前を客観的に見ているのか、それは私が統制機構……面倒くさいですね、ハザマさんじゃないからなのでしょうか?そう思ったけれども、私はハザマです。何故かその確信があります。

 

 ……あれですね、私、いわゆる記憶喪失というやつなのでしょう。

 

 なぜなら、私には此処に目覚めたとき以降の記憶が全く存在しません。いや、こうして考察する余裕はあるのですから、エピソード記憶をごっそり持ってかれてしまったのでしょう。

 こうなるまで仕事をさせた統制機構……なんて鬼畜な場所なのでしょうか? まあ知り合いも何もない現在、この仕事にしがみつかなければあっという間にスラムの住人になってしまうことは目に見えて分かります。

 諜報部、つまり情報収集専門であって、戦闘なんてものはありません。つまり、物騒なことはあまりない!

 ……希望が見えてきました。軍医の顔も部屋も覚えてませんが、なんとなく肉体が覚えているような気がします。すべきことの手順は頭から勝手に浮かんでくるので、とりあえず行動してみましょう。

 記憶喪失ではありますが、そんなことだけ覚えてます。問題ありません。

 とりあえず軍医辺りに行ってきましょう。しばらく休暇をもらってじっくり記憶を思い出せばいいのです。

 

 そう思っていた時期が私にもありました。

 

―――――――――――――――

 

 黒き獣、人類史上最大の悪夢が百年ぐらい前にありました。最初に島国一つを潰し、世界の半分の人間を滅ぼしたその存在に対抗するために、術式、技術的な魔法が開発され、六英雄によって黒き獣は滅ぼされました。

 成程、歴史書であるにもかかわらずどこかの物語のようです。もっとも、この出来事のせいでほとんどの物語が、ファンタジーではなくドキュメンタリーとなってしまったのは面白い話です。

そんなことを考えながら私は本を閉じ、辺りを見渡しました。

 さて、前回もよく働きましたね。と、地図を見ながら草原の上に立つハザマです。苗字はありません。結局わかりませんでした。

 目が覚めてから三か月以上経って、相変わらずの記憶喪失であるのですが、仕事はどんどん舞い込んできます。休み? なんですかそれ。なぜか上の方からの命令で休暇は蒸発したようです。統制機構ホントに鬼畜ですね。

 

 さて、現在少尉の私ですけど、現場を右へ左へ送られてます。記憶喪失の人に容赦ありません。なんというブラック…いえグレー企業。

 まあ良くも悪くも軍なんてこんなもんですから。仕方ないと言えば仕方ないんですよね。

 世界虚空情報統制機構諜報部、と言う長っ苦しい名前ですが、立場は結構重視されますし危険も多いです。

 充実してると言えば充実してますか。楽しいとか思いたくはありませんけど。

 

「あとは体質が治れば完璧なんですけどねぇ……まあ人生そこまで上手く行くわけないですか」

 

 給料も良い、待遇は……まあ良い、友人関係は……壊滅的。諜報部って独特のネットワークは有りますけど、友人かどうかと聞かれると……。

 あれ? なんか泣きたくなってきた。なんでせっかく多分成人過ぎた大人が夜は一人寂しく酒盛りしているんでしょう。

 私、中尉になったら部下と一緒に酒盛りに行くんだ……

 とりあえず無駄話はさておき、

 

「にしてもまーた面倒な任務ですねぇ……と言うかいつこの命令受け取ったんでしょう?」

 

 そう、最初に言いましたが、私は任務のために都市から少し離れた田舎っぽい場所へと来ていました。

 任務内容は、この付近の教会に預けられた術式適正のある子供の確保。とりあえず戦力または統制機構にとって有害物質になりえる子供をさっさとこっちに取り入れろ、と。そういうわけです。

 まあ教会の責任者に事情説明をしてから、すぐに引き渡してくれたら一番楽なんですけどね。

 

「楽じゃないから仕事って言うんですよ」

 

 事情説明すればやれ統制機構は権力を持ちすぎだとか、それ人さらいだとか、味噌糞言われ過ぎなんですよ。なんという公職アンチ。

 公職のはずなのに気分は会社の営業マンです。

 嗚呼、早く出世したい。中尉ぐらいになって人を顎で使いたい。現場に向かうのもめんどくさい。

 気が進まないながらもようやく教会が見えてきたので、少し歩くペースを上げます。

 

 と、そうして少し歩くと私の視界にまだ思春期入る前ぐらいの、金髪の男の子が入りました。

 あー、あれが件の子供ですか。とりあえず外堀から攻略しましょう。

 と言うわけで私はぼんやりしているその子に近づいて……

 

………………………

 あーヤバい、出てくる。

 任務中は勘弁して欲しいんですけど。と、言っても発作のようなものだから仕方ないですね。

 

 あーお願いしますから私の今後の衛士生命が続くような行動をお願いしまーす。

 

 で、そう思ってから私は意識を失いました。

 

 

 

 こんにちは、地図を見ながら草原の上に立つハザマです。苗字はありません。

 気を失って一日が終わっていると思ったらいつの間にか休暇になっていた。分かり易く言えば、仕事風景が私の頭の中からカットされてました。

 まあいきなりですよね。

 そうです、私の最大の悩みで有るのは、時々気を失う事なんです。

 所謂二重人格? どうやら周りでも私の態度は変ってないようなんですけど、意識がばっさりと無くなって、そのあと勝手に身体は動いているそうなんですよ。

 色々な医者にかかってみましたが記憶喪失の方も、この二重人格っぽいのもよくわかりませんでした。

 ようやくまともな医師が居て、まあちょっと昔快楽殺人犯だった医師に尋ねてみると、怨霊みたいなのが身体に居るそうなんですね。なんでも前例が居るらしいですし。

 これが友人作れない理由なんでしょうか。記憶喪失を治すために友人らしき名前を探してみましたが、見事に真っ白です。プライベート用らしき通信端末のアドレス帳は、悲しいぐらい真っ白でした。

 『一般的な幸せと呼べる』結婚ぐらいは望んでますけど部署と体質が重なって難しくなりました。

 

 と、ここで話は戻ります。

 

 そう、今回この草原に来たのは二回目なんですよ。約一か月ぶりです。

 こうして任務中に意識を失った後は大抵報告した後のせいで、私が現状把握していないのです。

 だから休日を使って現場に戻る事も少なくない、というか当たり前の事になってます。とは言え任務では無いのでちょっとした旅行みたいなものでしょうか。

 多分趣味と聞かれたら、旅行と迷い無く言いますね。もしかすると失った記憶とかの手掛かりになるかも知れませんから。

 と、やっと建築物が見えてきました。

 なにしろ教会ですからね。日差しを浴びてより黒く見えますよ!

 

 

 

 

 

 …………………………うん?

 

 

 

 

 

 地図を確認。

 周りには建造物はありません。

 地図を確認。

 見えてきた建造物の場所である事は間違いありません。

 地図を確認……………

 

 

「きょ、教会が焼却されてるーっ!!?」

 

 

 え、何やってんの? え、何やってんの? え、何やっちゃってくれてるんですもう一人の私ーっ!

 

 どどどどういうことなんですかれれれ冷静になれ私に炎の術式適正なんて有りませんし気分はピーターパンのワイヤーアクションしかできませんし武器なんてワイヤーと特注品のダガーナイフしか持ってってませんしーっ!!?

 なんということでしょう。私の眼前に見えるのは骨組み以外が炭となった教会だったんです!

 いや確かに似たようなことは有りますよ? とある弱小組織の情報収集中に何故か構成員の首を撥ねてあったり、経費で料理代を賄って私が怒られたりと、不利益行為は確かに有りましたよ!?

 いや、これは無い。何考えているんですかもう一人の私。

 いや確かに統制機構に入らない術式適正の高い人物は、凶悪な犯罪者になる可能性が高いのでほとんど士官学校入りを強制していますけど…。

 笑い事で済まないでしょうこれは。

 とりあえず教会に近づいて見ます。いやコレ教会じゃないですよ。ただの炭ですよ常識的に考えて。

 で、教会付近にある物を見つけました。

 それは教会の一番上にあっただろう十字架で、今は少し土が盛り上がった場所に突き刺さっています。

 

 ……ええ、見れば分かりますよ。お墓ですね。

 

 流石に罪悪感のようなものが湧きます。

 統制機構は軍みたいなものですし、こう見えても人は何人か殺していますし、情報収集はストーカーみたいなこともさせられてまし。

 が、こうした事に慣れるのもきついものだと思います。『すんなり受け入れられたのが少し信じられない』ぐらいです。

 とりあえずお祈り程度はしておきましょう。

 十字架って事は確かキリスト教でしたっけ?  十字に切ればいいんでしょうか?

 

「そこで何をしている」

 

 と、そこでお祈りしようとして、心臓が飛び出そうになりました。

 落ち着け、落ち着け、冷静になれ。今日の私の姿は制服じゃありません。帽子はかぶってますけれどちょっと改造した武装スーツです。

 ……どう見ても不審者ですね。

 いや、流石にいきなり何かされるということも無いでしょう。いつもの0円スマイルを顔に張って振り向きながら、

 

「いえいえ、少しここの墓にお祈りをしていたんですy」

 

 ええ、その瞬間警告が頭の中に響き渡って懐からダガーナイフ二丁を取り出したのは間違いじゃ有りません。

 何しろ眼前に見えたのはよーく斬れそうな刀が二振り、ダガーナイフに遮られて首の皮一枚の所で止まってましたから。

 

「あぁっ!? 何しやがんだよこの糞猫がっ!?」

 

 すぐにその物体をヤクザキックで引きはがし、少し見えた三角の出っ張りの出てるフードのネコミミから、ついそんな言葉が出ていましたね。

 いや、私こんな言葉を使おうと思いませんでした。しかし勝手に漏れたところを見ると、もともと私はこんな口調だったのでしょうか。いやすぎます。

 

「テルミ! 貴様セリカの墓に何をする気だった!? いや、貴様今度はいったい何を企んでいるっ!?」

 

 テルミって誰ーっ!?

 つーかなんで怒ってるのこの獣人はーっ!? お祈りの仕方が間違っていたんですか!? お祈りで 怒るってどんだけ宗教家なんですかーっ!?

 目の前に居たのは器用に二足歩行している三毛猫……じゃなくて白と焦げ茶の二毛猫。

 フードを被り、二振りの剣を持ち、片目は傷がついて潰れている…………

 んー? なんか文献で見たことがあるような外見ですよね?だれだったかなー? その文献は六英雄の伝記だったようなー? 六英雄?

 

 ……うん? 獣兵衛さん? まさか無いですよね?

 

「ハッ、見て分かんねぇのかよ獣兵衛ちゃんよう! お祈りだよ、お・い・の・り! まあーどんな顔だったかなんざ覚えちゃいねーんだけどな」

 

 とりあえず、こちらは強気で行きます。……いやなんで私こんなことしてしまったんでしょう? 脊髄反射がこんな言葉ってどういう事ですか。

 資料に顔写真はあった気はしますがホントに覚えてないんですよ。

 後は鎌かけですね。相手が獣兵衛という言葉になんらかの反応を示すでしょうから。

 

「テルミ……貴様」

 

 ……あ……まさかの本人ご登場してたんですか。殺気はさらに濃厚になってます。

 いやこれでも諜報部ですから人は結構見てるので、嘘かどうかぐらいは分かるんですよね。

 で、どうやら本人らしいですよ。いやー、六英雄の本物なんて始めてです。サインとか欲しいなー。

 

 ……うん、一言言わせて下さい。

 

 なにやっちゃってんのテルミちゃんよおおおおおおおお(なお名前は初耳)!

 なんで六英雄の知人殺してんのおおおおおおおお!?

 え、セリカって誰? 此処のシスター? もしかして殺したのって獣兵衛様(既に敬称)の身内だったりするんですかーっ!(だいたい合ってる)

 

 

「ま、こんだけ立派な墓がありゃあきちんと天国いけたんじゃねえの? あ、いやもう魂も再利用されちゃってるかもしんねぇな!」

 

 

 ま、まあ流石に教会の象徴の十字架をあしらえたお墓なら、次は良い人生送れるでしょう。

 あーいや、キリスト教だと普通に神様のところでしたっけ?魂の廻る輪廻転生の考え方はたしか仏教でしたね。これは失敗。

 

 

 「貴様、セリカの魂を……いや、そうだった。貴様はそうやってナインを殺した事を伝えた時もそうして笑っていたな。あのとき、抑えきれなかった俺のミスだ。貴様はここで斬る」

 

 

 だからなにやっちゃってんですかテルミィィィィィィィ!!!!

 今度の殺気ヤバイですって。魂がなんたらかんたらなんて獣兵衛様そんな宗教に染まり切っていたんですか!?

 いやそもそもナインってだれですかひょっとして獣兵衛様の恋人殺したりしてんじゃないですよね!?

 おい早く出てきてくださいよもう一人の私改めテルミさぁぁん!? こんな時だけ寝てないで弁解してください後生ですから!? もう一人の人格の名前を知れた対価が私の命ってどういう事ですか!?

 ……反応無し!笑えません!

 ……落ち着け、考えるんです。

 どうやらテルミさんはだいぶ大物のようです。私が記憶を失う前、ちょうど二年以上前に色々やっていたのでしょう。

 相手は地上最強の生物、そしてどうやらテルミさんに知人を殺されたらしいです。ならば……

 

 

「ああ、別に俺は構わねーけど? だがな、俺に構ってて良いのかなぁ? また一人、お前の大事な小犬ちゃんが居なくなるぜ?」

 

 

 はい終わった! 私の人生終わりました!

 ハッタリかますなら小犬じゃなくて小猫でしょう!? 相手猫なんですから! 居るとしたら子供だって猫に決まってます! そんな異種間同士の愛情がそう簡単に作れるわけないですよね。

 い、言い直さなければ……

 

 

「いや小犬じゃな「ラグナの……いや。残念だったなテルミ、今はレイチェルに任せている以上、貴様がどんな駒を使おうが手出しはできん」

 

 

 該当した!首の皮一枚繋がった!良かったまだ言葉は該当したようです。

 レイチェル……ラグナ……今度は誰ですかいったい。六英雄の知り合いですから、吸血鬼とか死神とか言われてももう驚きませんよ。(ドンピシャ)

 ……ハッタリの基本はより相手の行動が無意味だと思わせ、さらに背後を塞ぐこと。

 つまり、背後に敵が居ると思わせれば良いのです。つまり架空の人質を、架空の援軍を作ること。

 行動方針が決まって落ち着いてきました。

 

「ふむ、まあ良いでしょう。私と今此処でやり合えば貴方には勝てませんから。が、例えば『アレ』を復活させてラグナちゃんの所に向かわせたとしたら、貴方はどう行動するのが最善だと思います?」

 

「『アレ』? ……!? まさか『彼女』、か?」

 

 ヒャッハー!! 来たぁあああっ! 完っ壁に術中にハマった!

 『彼女』が誰かは知りませんけど、流石に英雄!強敵に何人も会ってますから復活という単語を聞かせれば完璧ですね! 倒してきた強敵の数もうなぎ上りですから!

 

「ええ。早い所行くのが賢明ですよ。私はもう此処には何の用も有りませんし。ああ、花程度なら供えるべきでしょうか?」

 

 わざとらしく余裕を見せて帽子を直します。見れば隙だらけ、でも何かが有るように思えてくるという疑心暗鬼。

 揺れたなら、私の勝ちです。

 

「テルミ……くっ」

 

 と、それが最後の言葉で獣兵衛は風になったようにすっ飛んで行きました。

 あっという間に見えなくなる獣兵衛様。マッハの速度が出てるんじゃないかと思えるほどの速さで消えていきました。

 

「た、助かりました……?」

 

 一気にプレッシャーから開放されたせいでしょう、すとん、とその場に腰を下ろし、足腰が立たなくなりましたね。

 が、相手は六英雄、こっちは一般ピープル、強気でいられただけ私スゲエエエエと思いますよ。

 

「に、逃げますか、ええ」

 

 と、がくがく震える足を持ってきた糸で固定して、腕の力で足を動かしながら都市にへと戻りました。

 時々、後ろから見えなくなったときと同じ速度で獣兵衛様が追いかけてくると考えると、震えが倍増しましたが、なんとか船着場まで到着して無事帰還。

 で、知らない内に下の方を大洪水していたのを気が付いた時、感じた事は、生きてて良かったぁ、でしたね。

 

 

 今日もなんとか仕事よりきつい一日が終わりました。

 できることなら、明日は楽な仕事が来ますように、と。

 

 

 ん? そういえば何で獣兵衛様にはあれだけハッタリが上手くいったのでしょうか?

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

 それは、獣兵衛にとって後悔の記憶の一部でもあった。

 自分が戦友と呼んだ白き英雄を犠牲にテルミを封印したとき、自分は詰めを誤った。どこか心の中に油断があったのだろう。

 残されていたのは『腕のような何か』だった。それは統制機構によって回収されているのだろう。

 たったそれだけのこと、意味が分からない行動であったことは間違いない。だが心の中のしこりは、それ以降取れることが無かった。

 

「無事かっ!? ラグナ、レイチェル!?」

 

「ん、どーしたんだよ師匠。今日は休みでどっか行くんじゃなかったのか?」

 

 獣兵衛がラグナの元へとたどり着いたとき、何も無かったかのように二人は過ごしていた。

 ラグナは久々に(無理やり)与えたトレーニングの休暇で、おそらくレイチェルにでも誘われたのだろう。石の上に座りカップを湯呑の様に持ちながら紅茶を飲んでいる。

 レイチェルは実に優雅な姿勢を崩さない。勢いよく訪れた獣兵衛にも驚きは無いようにも見える。

 

「どうしたのかしら獣兵衛さん? あなたがそんなに息を切らして迫るなんて、らしくなくてよ」

 

 そんなのどかな昼下がりのティータイムを、その光景には襲撃の後は欠片も見えはしない。

 その事実に大きく息を吐いた獣兵衛は安堵の息を吐いた。

 

「……嵌められた、か。いやそうでもないな」

 

「おーい師匠?」

 

 苦々しい様子の獣兵衛に鍛錬の手を休めラグナは首を傾げた。

 

「ああいや、なんでもない。無事であったならそれでいい」

 

 ラグナは、変な師匠だ、と呟きまた石を椅子代わりにして座った。

 が、逆にレイチェルは興味深そうにこちらを見ていることに気が付き、歩みを寄せた。

 

「(セリカの魂の回収? …いや、微かな残滓程度しか残っていない状態で奴から見れば利用価値は少ない。何が目的だ?)」

 

 どの道あった事をレイチェルに全て話す事になるのだろう。いずれは話さなければならないが、シスターの事を今のラグナに話すわけにはいかない。

 早くしろ、と催促する視線が強くなり、獣兵衛は一つため息をつく。

 どちらにしても今はどう考えようとも仮定でしかない。そして、『今回の憑代』についても調べなければならない。そう割り切り自ら動こうとはしない吸血鬼の元へと向かった。

 

 



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すてーじ2

 六英雄に狙われるという失態を犯してから3年、いつも通り諜報活動や身体を乗っ取られ仕事が完了しているハザマです。

 なんと、今回は喜ぶべきことがありました。

 な、なんと! 苦労した甲斐があって中尉まで昇進したんです! 記憶喪失? そんなもの忘れました。

 これで部下も付けられて対人コミュニケーションも取れ、現場の仕事からおさらばできますよヒャッハー! 

 ……そう思っていた時期が私にもありました。

 なんというか……昇進して権利やらなんやらが重くなった分、自分で書類を作れるようになってしまったんですね。

 そう、今まで大して作らなかった書類の量が増加、現場の仕事はそのまま。もともとグレー企業だったのが完璧にブラック企業になった瞬間でした。

 部下? 大尉になってからですって。笑わせないでくださいよ。他の人たち普通に居るじゃないですか。なぜ私だけ……。

 それに稀に任務に同伴する少尉さんとかから、中尉がいるから指示に従えば大丈夫だろう、と期待の目で見られるのが辛いのですけど。そしてその油断した少尉Aは任務に失敗しましたしね。見事にリンチ受けてましたって言わせないでください恥ずかしい。十字切って祈っておきました。階級イコール強さって、そんなゲームじゃないんですから……。

 

「と言うか、たまに乗っ取られる方が任務達成が早いって勘弁してくださいよ……」

 

「……ハザマ、飲みすぎだ。その身体はそんなアルコールに耐え切れるようにはできていない」

 

 はい大佐ぁ、と使い慣れない敬礼をする私。

 そんな私を見て金髪のオッサンはやれやれといった様子でため息をつきました。

 あーやべ、オッサンとかいったら大佐に怒られちゃいますねぇ、あっはははははははh

 

「安心しろ、聞こえている」

 

 ぶふぁあ! 

 

 いや、思いっきり吐きました。もう目の前でお酒を出してくれる店のおじさんに吹きかける勢いで。

 ここここ声に出てたってここことですか?

 

「しししし失礼しましたクローバー中佐」

 

「かしこまるな。お前に敬語を使われるのははっきり言えば気持ちが悪い」

 

「おおおおおう、すみませんねぇ」

 

 よかった、中佐が寛大な人でよかった。酔いが回っていたのが一気に吹っ飛びましたかからね。

 この人、レリウス・クローバー大佐ですが、技術開発部の責任者のような人らしい、というか人です。

 勿論、私とは階級がひどく離れてますが、なんとか統制機構の中でまともに顔を合わせられる交友?関係がある人物です。どうやら私が色々できるように便宜を図っていただいた人ですし。

 こうして私がお酒に誘えるぐらいの人なんて他にはいませんよ! ……あ、泣きたくなってきた。どうして成人通り越した若者がオッサン誘って酒盛りしているんでしょう。

 しかも普通のオッサンならまだ良かったんですよ別に。隣にいるオッサンは遙かに階級が離れた上司でマントを纏い仮面を付けた変人ですよ? 蝶人とか言って外で露出してませんよね? 身内が泣きますよ。私は大爆笑しますけど。

 

「ハザマ、聞こえているぞ」

 

「!? うおえっっほぅ!? ゲホッ…ゲホッ…すみません。自重します」

 

「安心しろ、今度雑務を送ってやる」

 

 はい消えた私の次の休日今消えた! 

 大体技術者を誘うのは間違っていると思うんですよね、アルコールとか手がぶれるようになりますし。誘っておいてなんですけど。

 良い年していると思われる外見ですから、こうして私に付き添うより家族の下へ行った方がいいんじゃないでしょうか?

 

「家族、か」

 

「ええ。あー私も早く結婚したいんですよね。何かと苗字なしっていうのは面倒なんですよ」

 

 名前を書くたびに苗字は?って聞かれるのも結構きますね。そんな心臓に毛が生えるようなごつい心臓してませんから。ざくざくナイフを心臓に突き刺されている気分です。

 ふむ、と、意味深長そうにレリウスさんは呟くと、普段はあまり飲まないはずのお酒にゆっくり手を付けました。

 大きな手には少し小さいぐらいの東大陸系のコップに少しづつ注ぎ、一気に喉に入れてました。

 

「あークローバー大佐は家族のご様子なんかはどうです?」

 

 何と言うか、こちらから話題を振らないと反応してくれないんですよね。

 黙々と進める酒盛りなんてぼっちの時だけで十分です。

 

「……先日息子が士官学校へと入学した。」

 

 へぇ~レリウス大佐って子供が居たんですね。

 良いですよねぇ子供と言うものは。対人関係が壊滅状態の私にとっては、家族なんて素晴らしいものじゃありませんか。

 

「それはそれは。おめでとうございます。あ、因みにどこの学校なんですか?」

 

「ああ……」

 

 ボソりと口から出た言葉はやはり有名な士官学校のところでした。丸々都市が学校になっているところですね。私行った記憶ありませんけど。

 士官学校ですから、術式に関していえばエリートだらけでしょう。

 やはりクローバー大佐も大佐という地位に着けるぐらい有能な人ですから、息子さんも凄いのかもしれませんね。

 そういえば私の出身って何なんでしょう。謎ですね。自分の事ですけど。

 どこであろうと電話一つ来ないということは、過去の私の学生時代の友達は、一人も居なかったんでしょうか?……電話に出んわ。……精神的に心臓に来ますね。

 

「あー、良いですよねぇ家族。私も家族とは行かなくても恋人……いえそこまで高望みせずに、せめて友人…いや仕事仲間ぐらいの関係にはなりたいものです」

 

「果てしなく低い繋がりになっているが?」

 

 いやそれさえも不足しているこの身でして……

 友人というか同僚は基本的顔を合わせませんし、情報の管理はしっかりしないといけないので友人とか作れませんし。あ、お酒が眼にしみる……。

 いっそ脱統制機構しますか? ……あー引き継ぎとかしてもらえる人が居ません。うん、私泣いて良いでしょうか?

 一応恩もありますし、私が諜報員であることによって犯罪を減らすことができるので、統制機構も悪くは無いんですよ。…人間関係以外は。一つにして最大のネックですけどね!

 レリウスさんも友人が多い方ではないですけど、部下は結構居ます。

 

「それに比べて私は……この前なんてテルミが勝手に経費で買った飲食代に私が怒られましたし……なんですか究極のゆで卵一個1000pdて、高すぎなんですけど。しかも店の全部買い占めないでくださいよ、ついでに言うなら一個ぐらい取っておいてくれても良いじゃないですか。なんで気が付いたらダストボックスの中身が卵の殻だらけで、その後上司に怒られるのは私なんですか」

 

 ……うん? 諜報員生命は途絶えていませんが、結構問題起こしてますよね。揚句の果てには六英雄から狙われてますし。……あー酒盛り中には考えないようにしてたのに。

 六英雄に狙われるって黒き獣ぐらいじゃないんですか? そりゃあ恋人殺されたら英雄だってキレますよ。

 えーとナイ…ナイ…ナイフさん……でしたっけ? はい現実逃避。ナインさんですよね。なんだって今や老婆であろう昔の大魔導師を殺すようなことをしたんでしょうか。

 というかこれで統制機構から抜けるなんて考えはオシャカになりました。組織の後ろ盾に今日だけは感謝します。

 とはいえそれも『私』ではありますから。受け入れるしか無いんですよねぇ…………

 

 あぁ~何だか眠くなってきました。

 願うなら、目覚めた瞬間獣兵衛様のどアップに対面するような状況になって居ませんように。

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

 

 レリウスは自分の帽子をアイマスクにして眠るハザマを見て、……特に何もしなかった。

 ただ思った事は、不思議な存在だ、とただ一言考えただけだ。

 魂という存在が何処に有るのか。

 一つの説として精神的な魂、肉体の魂と、一つの人間には二つの魂が存在するという考え。観測されている魂自体に種類は無い。抗体という存在もあるが、あれは魂という括りには除外されるだろう。 抗体が魂の形態をとっていたというのが正しい。

 肉体を失っても精神的な魂は暫く漂い続けて消滅には時間がかかる。

だ が……例えば精神的な魂を消滅させたとしても、肉体さえあれば魂はまた再生するのではないか。

 まだレリウスは知る余地ないが、恐らく未来で死神が出会う悪魔は正にその一例。

 そしてそれがほんの細胞の一片だったとしても、有機質の集合体だった身体は意思を見せた。

 だから例え作り物の身体であったとしても、魂を自ら作り出す事は可能ではないか。

 

「実に興味深いな」

 

 いざとなればまた新しい器に移し替えれば問題はない。目の前にいる男の魂が本当に『生み出されたもの』だとするのなら。

 テルミの計画には多少の誤差が出るにしても、その辺りに関与するつもりも無い。所詮は自分本位の計画だ、どちらに転んだとしても自分は眺めているだけだろう。

 だからハザマと言う男を今暫く観察する。何を意識して創った訳でも無い。

 だが一つの器に中身は二つ、それをして尚両者の魂は溢れず混ざらない。いや、混ざろうとしていないだけか。

 成功品でもあり、失敗作でもある。完全ではなく不完全である物は、予想できぬ何らかの結果を残す。それは、見ていて面白い物には違いない。

 レリウスはカウンターから立ち上がり、チップの意を込めて多めに支払うとそのまま出口へと向かった。

 

 ……爆睡するハザマを放置して。

 



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すてーじ3

 こんにちは、統制機構以下略のハザマです。今回は任務のためにイカルガへやって来ました。

 イカルガでの戦争は終わりかけていて、来るまでには捕虜の兵士も大分疲労しています。相手連邦の代表者は降伏しようとしてるらしいのですが、統制機構は『え、なにそれ聞こえない』と言って戦争を続行してます。

 あー、いわゆる新しい術式の実験台ですね。戦闘で実際に術式を使えるのなら、それほど有意義な実験は無いでしょう。兵士は溜まった物ではありませんが。

 まあそれはさておき。な、なんとですよ? 今回任務成功の暁に大尉へと昇格させて貰えるんですよ!

 大尉、それは私有権限の上昇。大尉、それは新任部下の配置。大尉、それは私がレッツ書類ワーキングと友人作りの大一歩!

 つ・ま・り、来た! 私の時代来ました! これで部下が貰える! 仕事仲間が増える!……そう思っていた時期が私にもありました。あれ? なんでしょうこのデジャヴュ。

 命令 テンジョウの身柄の確保。

 いやいやいやいや、ああ久しぶりにテルミさん抜きに言いたいことが有ります。せーの、上の方々馬っっ鹿じゃないですかぁああああ!?

 諜報員一人で戦争の主犯扱いの人を捕まえられるなら戦争なんて起こりませんから!瀕死体のイカルガなんてどうせ、諜報員何人か飛ばしとけば確保できるんじゃねーの? とか上の人達絶対そんなノリですよ! いつの時代のカミカゼですかもう!というか帝もこんな命令にサインしないで下さい!

 『この辺の書類にサインしておいてくださいねー』『ん』みたいなノリで書かれませんよねこれ。忍者(本職)の里の城に簡単に入れたらこちらと苦労しませんから!

 と、内面では興奮していた私ですが、なんでも新しいタイプの隠密の術式が含まれた魔導具が完成したらしく、私はその適性があったらしいのですね。

 つまりその隠密の魔導具を使うことで、簡単に侵入する事が可能になった、というわけです。

おお、素晴らしい。意外と下の人に対しての考えがあったんですか。

 

「いや、ない…ですね。あったな、ら人にこんなこ、と、やらせません」

 

 こんなこと、……現在私、ナイフとワイヤーだけで城壁ロッククライミングに挑戦中です。

 私の武器は基本ナイフの投合とワイヤーを使った暗殺なんかの戦い方がメインなんです。ちょっとワイヤーに術式をかけて、これまたナイフに術式をかけて壁に投合し、ワイヤーの伸縮を使って高速移動したり高いところに登れたりするんですよ。

 気分はピーター・パン、実態はターザンのそれは、実に便利なんですよね。

 ……今回のように術式を使いすぎれば隠密効果が無くなって、射られた矢で針ネズミにされるような状況じゃなければ。

 

「いい、加減……笑えないん……ですけど」

 

 ええ、この魔導具、マントの形状をしているのですが、やけに重いんです。多分30キロぐらいですか。某猫耳ロボットの透明マントを想像していただければわかります。あんなふわふわしていませんが。何の材質なのでしょうかこのマント。首が攣りそうです。

 おまけに命令で、試作品だから壊すなって貴方……

 水の張った外堀でマジで溺死しかけたのは良い思い出です……というか大部分の体力はそれで削られました。だというのにあと登る城壁は60メートルもあるのですが。憂鬱になります。

 テルミさーん交替してくださいよー。私知ってるんですよ? 貴方が移動とか面倒くさいから私にいつもこうやって任せてるの。変な命令なんかだと私に書類を処理させてるんですし、少しぐらいは面倒なこともしてくださいよー。

 …………反応有りません。しまいには泣きますよマジで。

 周りからの話ですと、テルミさん私と物腰変わらないらしいですけど…絶対性格悪いですね。

 で、命綱は無しのために安全第一で登ること数十分。

 途中罠があって壁を押した際に矢が飛んできたり、水が吹き出たりしたのはビビりました。

 落ちたら死にはしませんが術式が解けて『くせ者ォーっ!』の叫び声と共に針ネズミにされてたかもしれません。

 

「……………」

 

 すみません、何も言う気になれない程疲労が溜まりました。何とか足場が有る場所まで来れた時、四つん這いになって呼吸を整えてました。

 外堀では体力を、ロッククライミングでは筋肉を酷使したせいで、正直動きたくありません。

 魔導具のおかげで隣を走る忍者等には全く気がつかれてませんけど、生きた心地はしませんし……というかこれなら正門から堂々と入ればよかったです。

 罠と格闘する方がよっぽど楽ですよ。先程からこの魔導具を脱ぎたい衝動が溢れています。

 

「……さて、いつまでもこうしてる訳には行きませんか」

 

 呼吸を整え辺りを見渡して私は立ち上がりました。

 ここの領主テンジョウさんは武道の達人らしい、つまり私が敵うかどうかと聞かれれば難しいです。

 それなら降伏をはっきりとさせて油断した瞬間を狙う。もしくは他の人がここまで攻めてきたのを諜報部だと言って確保する。

 ……よし、さっそく行動しましょ……

 

 ………あーあーあーちょっとー。テルミさーん? 今はまずいですってば! というかロッククライミング中に起きてたなら交代してくれればいいじゃないですか……いやそれはいいんですけど…やめて! 貴方命令書読んであるんですか!? 魔導具イカレますから術式やたらめったら使わないでくださいよーっ!

 

…………………

 

 クッ、お勤めご苦労さん。

 こんなクソ重てぇ魔導具背負うとか馬鹿やってんなぁーアイツもよぉ。まあ、穏便にって考えなら間違いじゃねぇから問題ナシなんだが。

 さーてそろそろキサラギ少佐がお出でになる頃だ。そん時の為に保険をかけに行くとしますかねぇ。

 

『!! くせm』ザクッ

 

「ピーピーうっせぇなぁイカルガの連中は」

 

 お、ナイフ喉に当たった50点。

 

『者d』ザクッ『何m』ザクッ『出t』ザクッ

 

 目、額、心臓と突き刺さって合計は450点となりまぁーす。

 っとまあ遊んでばかりいられねぇよなぁ。ほっといたらゴキブリのように湧くコイツらを片付けるだけの力は今は無ぇしな。

 

「んじゃまっ、行かせてもらうぜ」

 

 物質強化、伸縮の術式っと……ナイフを投げて、即席ウロボロスってか?

 

 さーて、領主サマに会いに行きますか!

 

ーーーーーーーーーーーーー

 

 太陽がさんさんと降り注ぐその場所に私は居ました。

 喉がカラカラになりながら、砂に足を搦め捕られ歩いています。

 そこは砂漠で暑い日差しが身体を焼き、私は苦しそうにしていました。

 ……と、そこで気がつきました。

 これはれっきとした夢、ただの夢です。

 そうと分かれば起きることは容易く、私は意識を無理矢理押し上げるように目を開けると……

 

「へ、部屋が燃えてるーっ!?」

 

 前回は燃え尽きた後で、今回は現在進行形で火が辺りを燃やしています。

 ……って、命令は!? テンジョウさんは!? 新型試作の魔導具は!? 前も教会燃やしてましたしどんだけ火災が好きなんですかテルミさんは!?

 魔導具については術式を使うとイカれるので、使わないように言って有りますけど今は装着していないようです。

 私は少し辺りを見渡して…

 

「って、魔導具が炭になってるーっ!?」

 

 ちょっとぉおおおおおおおお!? 魔導具壊すなって命令で言われてたじゃないですか! だから命令書を確認しろと言った(思った)んですけど!?

 素材が布じゃないマント型の魔導具ですから火は大丈夫かと思いきや、プテラノトンの手の化石のように外殻だけになって燃え尽きていました。

 …ん? ちょっと待って下さい。今気がついたのですけど、ここは敵陣のど真ん中であって、今まで私が隠れていたのは魔導具のお蔭様だったのですが……

 

ガラッ『居たぞォー!此処だァー!!』

 

 ……ええまあ、反射的に私は足を踏み出して部屋から飛び出てました。

 ダッシュで駆け抜ける私、大地で大量の動物が駆け抜けたように廊下へ響く足音。

 それと同調して響く怒声と私の悲鳴。

 

『アイツだっ! 絶対に逃がすな!』

 

『アイツに仲間はやられたんだ!』

 

『バング様の仇ーっ!』

 

 テルミさぁああああああんんんっ!? だからアンタは何してくれてるんですかもう!?諜報員が率先して人殺してどうするんですか!? 私非戦闘員、非戦闘員ですからー!!

 映画のスパイじゃないんですから、戦いなんて前線の衛士に任せておいてくださいよ! ってそれだけ殺したって事は絶対に術式使いましたよね!?

 減っている昨日磨いたお気に入りのナイフ、何故かこちらに飛んで来る釘、上から落ちて来る釣り天井、おまけに言うなら消える床という名の落とし穴。

 予想外でした。罠に引っ掛かりたく無いからロッククライミングした筈なのに、どうして罠と格闘しながら忍者とレースしているんでしょうか? どうしてこうなった。

 向こう側に見える壁にワイヤー付きナイフを投げ、伸縮の術式で一気に距離を稼ぎワイヤーを切るの繰り返し、なのに忍者はそれの速度について来ます。速く駆け抜けてくるその光景は、獣兵衛様の姿を思い出して薄ら寒いモノがありました。

 ようやく見えた窓から外へと脱出、……出てきたのは地上40m上空。近くに高い松の木が無かったら、もう一度城内へナイフを投げてリターンしなければいけませんでした。いや、よかった。

 帰りの便では下が大洪水しかけている事に気が付きましたが、トイレの中で思ったことは、生きてて良かった、でした。

 ああ、それだけ苦労したのに報告書には失敗の二文字を書かなければいけないと考えると憂鬱といわざるを得ません。

 

 それでも生きているだけマシですね、と。私は帰りがけに自分へのお土産を買って帰りました。

 



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すてーじ4

 イカルガ内戦も終わり、適当な命令を受けながら過ごしている私ハザマです。

 イカルガ内戦はイカルガの方々をボロボロにして国が崩壊し、残った人達はどうやら第十三階層都市カグツチへと行ったようです。と、そうなればそこがイカルガのお店や文化が広がり、むしろその都市は豊かになるかもしれません。戦争の利益の一つですね。人が多く死んだのは笑えませんが。

 さて、その時の新聞の一面と言えば、なんと言っても英雄ジン=キサラギ少佐。どうやらテンジョウさんはこの人にやられたようで、民衆ではなく統制機構に英雄と奉られています。なんという自作自演。まあ情報操作に諜報部も一役買わされましたが。

 英雄扱いのついでに少佐になったジン少佐は、師団長にまで出世しました。因みに少佐には秘書官まで付くらしいですね。キサラギ少佐マジもげろこの若造が。七年程下請やって大尉まで行けた私への当てつけですか?

 テンジョウさんは戦争の責任として死んだ姿を出されてませんから捕まっただけかもしれません。そしてその氏族の人もどうなったかは知りません。

 とにかく私の任務は失敗、憂鬱な気分で技術開発部に行きますと、『データは送信されてるので問題ありませんよ』ですって。どや顔で言われましたよ。殴りたくなりました。

 と、まあ一応任務は成功のため評価も上がりましてですね……なななななんと! 私大尉に昇格しました!

 卒業者を取るため少し遅れますが、部下が入ってくるんですよ!これでようやく書類仕事メインの楽な仕事になれそうです。

 部下を何人も地方の現場に派遣して、私は書類を作って部下のサポート。現地だと命懸けでしたけど私はのんびり部屋で仕事の合間を縫ってプライベートなことに回せそうです。いやーもう楽しみで仕方ありません! 長年の夢がようやく叶いますよ!

 ……そう思っていた時が私にもありました。あれ、なにこのデジャv(略

 人数一名。

 ま、まあー思ったより少ないですけど、部下ができるだけ有りがたいですよ?ええ、それだけならまだしも命令が来たんですよ。

 『新任衛士のサポートのため、任務で現場へと派遣するさい上官一名を付けるように』。……ええ、完璧にイジメですよね。上官も何も私しか居ないじゃないですか。人数が少ない理由はそれですか。

 イカルガとの戦争でだいぶ衛士が少なくなったので、新任衛士を大切に育てませしょうと、今年からの導入になったそうです。

 要するに私は階級アップで書類仕事が増えて、その上に現場まで行って働いてこいと。責任者出てきて下さい。……いや責任者は帝でした。やっぱりいいです。

 いかんいかん、と私は首を振り、制服の乱れを直して資料に目を通しました。

 そう、何も悪いことばかりではありません。なんと今日は初めての部下が来る日ですから!

 もう何度も資料に目を通しました。ワクワクして気分は高揚、どんな風に接しようか考え中です。

 フレンドリー? それとも厳格に? やっぱり私らしくひょうひょうとした感じでしょうか?

 と、そこまで考えた時にドアを叩く音が聞こえました。

 

『ハザマ大尉。き、今日からハザマ大尉の指揮下に配属されました、マコト=ナナヤ少尉です。ご、ご入室しても構いませんか?』

 

 と、それと同時に聞こえてきたのは聞き覚えの無い女性の声。だいぶ声が上擦いているのは、おそらく緊張しているからでしょう。

 ……ふむ、ならその緊張を解くのも上司の役目でしょうか。あ、なんか良い響きですね。

 ふむ……『入室どうぞ→ガチャ→あれ居ない?→後ろからこんにちは→ひゃう!』完璧ですね。

 取り出したるはお決まりのナイフとワイヤー。鋭く強化したナイフにワイヤーをくくりつけて、と。その後ドアの上に位置する天井付近の壁へ投げる!

 

「あーはい、構いませんよー」

 

 一言答えてから術式でワイヤーを縮小すれば、私の身体はドアの上に位置する天井へと移動します。あらま部屋には一見だれも居ませんね。

 

ガチャ「失礼しまー……あれ?」

 

 そしてドアノブを回し入ってくるナナヤ少尉。ですが当然そこに私の姿は無く、首を傾げていますね。

 普通部屋に誰か居たら気配で分かるでしょう。だがしかし、私の諜報員として培った年数は伊達ではありません。

 新任ほやほやの少尉に対して見つかるほど、気配の消方は下手じゃないんですよ!

 

「ハザマ大尉ぃー、何処にいるんですかー? ……おっかしいなぁ、確かにさっき返事したと思ったんだけど……」

 

 くくくく、悩んでますねぇ。

 そして私はと言うと、帽子を押さえつつ逆さ向きに成りながら吊る下がっています。なんというスパイダー男。

 部屋の中央近くまで足を踏み入れるナナヤ少尉、それを見て私はゆっくり逆さ向きのままワイヤーを伸ばし下降しました。

 さあぁーて、どんな反応するでしょうかねぇ! ゆっくり、ゆっくり、ワイヤーを伸ばして行って…………

 

「……ハッ! くせ者ォーーっ!!」

 

 飛んできたのは悲鳴でなくて拳。

 腹部へと到達したそれによって私はサンドバックのごとく打ち込まれドアへと叩きつけられました。

 勿論、その記憶を最後に私の視界はブラックアウトしました。

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

「本っっ当に、申し訳ありませんでしたっ!!」

 

「あーいえほら、確かに危害を加えたのはナナヤ少尉ですけど、脅かそうとしたのは私ですから」

 

 目の前で腰を九十度に曲げて礼をするナナヤ少尉。正直被害は私ですけど原因も私ですから、自業自得なんですけどね。

 そして机を挟んで対面するようにして座る私。術式でも適性があれば骨のヒビ程度なら治せるので、ブラックアウトしてから数分たって気がついてからすぐ治しました。なぜか『治療の術式は効きやすいんですよね、私の身体。再生能力に優れているようです。』

 ドアは直せてませんけど。視界の奥には未だに変な形に凹んだドアが見えます。

と、私の視線に気がついたのでしょう。ナナヤ少尉はふと後ろを向くと、頑張らなければ開けられなくなったドア一つ。あちゃー、と呟き頭を押さえるナナヤ少尉。心中を察するなら新任の薄い給料でドアの修理は痛いのでしょう。

 

「まあ新任だと色々物入りも有りますから、修理費はいいですよ。あと敬語も」

 

「ホントですかハザマ大尉!? いやーよかったぁ、実地訓練とか勿論したんですけど、やっぱ固い敬語だけはくすぐったかったんですよねー」

 

「え、そっちですか?」

 

 やば、言葉間違えたかもしれません。

 一応私が上司とあって半分丁寧語は混ざってますけど、意外というか見かけ通り明朗な人ですね。

 しかしまあ今回は仕方ないとして、何回も私がこうしてサポートしてくれると思わせてはいけません。きちんと対価として何か負担をさせなければ……

 ふむ……ではどうしましょう。

 相手は女性で許したあとですから体罰なんてナンセンス、それに私のキャラじゃありません。

 だとしたらどこかに出かけるのは?

 私はぼっちで行けない場所に行きたいと言う願望もありますが、年頃の女性が男と一緒に居て妙な噂を立てられたら大変です。

 そうだ、居酒屋はどうでしょう?

 私はスーツで行けば仕事帰りの上司と部下にしか見えませんし、なにより私がしたかった事の一つじゃありませんか。

 私は多分ニヤリッと口元を歪めていました。と、それを見たナナヤ少尉はビクッと身体を震わせていました。

 あーちょっと見すぎましたか。

 

「そうですねぇ……その変わりと言っては何ですけど、今夜は一晩(酒盛りに)付き合ってくれませんか?」

 

「え……!!? えぇっ!?」

 

 え、そこは驚く所なんですか?

遠慮することは有りませんよ。いかがわしい店に行くわけでも無いですから。まあ人が二人集まって夜にすることなんて、決まってるじゃないですか。

 

「い、あ、で、でも私、そういうのはちょっとその……。ほら、初めてですしムードとかの問題もありますから。って、言わせないでください! セクハラですよ!」

 

「なんと」

 

 

 あー成る程、確かに初めてのお酒は怖いですよね。

 一応立場上私は上官ですから、悪酔いして迷惑をかけるかもしれないのは、確かにいただけません。

 ですが今回は私が誘いましたし、それぐらいで怒るほど私は短気じゃないですから。

 

「初めてでしたか。なら尚更行くべきですよ。大丈夫です。始めは馴れませんけど後から良くなってきますから。こういうモノは回数ですよ」

 

「うう……」

 

 んーやっぱり遠慮しているんでしょうか?

 ドアを壊したりしていますから、これ以上醜態を見せると評価が下がるのではないか、そう考えているに違いありません。

 簡単に敬語がくすぐったいと言うような性格ですから、すぐ乗ってくるかと思ったんですが……。

 仕方ありません、最終兵器を出しましょう。

 

「じゃあ……上官命令です。今夜は(酒盛りに)付き合ってください」

 

 ふ……決まりました。私が大尉になった理由の一つを今達成できましたよ。

 上官命令、なんて良い響きでしょうか?いつも命令を書かれた紙切れ一枚でやらされていましたが、この響きは素晴らしい。

 これでナナヤ少尉……面倒臭いのでナナヤさんも遠慮は無いでしょう。

 

「あううぅ」ジワッ

 

 

ゑ!?

 

 

「うぇええん……」

 

 

 あ、有りのままに今起こっている事を話しますと、ナナヤさんが大きな目にいっぱいの涙を溜めて泣いてしまいました。

 真珠のような大きな涙が頬を伝って零れ、床に……ってポエムやってり暇はありません!?

 現状把握しますと……………ええぇぇ!?

 え、ど、どうして?どうして? どうしてこうなったどうしてこうなったどうしてこうなったぁ!!?

 そこまで酒盛りが嫌だったんですか!?いや私は『今夜どーよ』『いいっすね』みたいなノリを期待していたのに、どうしてこうなっちゃったんですか!?

 く……短い間の行動を思い浮かべてみても、セクハラに当たることなんてしてません。はっ!?まさかまた貴方ですかテルミぃ!?(今回は勘違い)

 

ガチャ「おいハザマこのドアはなん…………」

 

 そして空気を読まない蝶人上司、クローバー大佐が部屋にログインしました。

 さて、現状では私の目の前には号泣しているナナヤさん。そして運悪くドアの方を向いてしまったため、クローバー大佐はナナヤさんのその表情はバッチリ見えているでしょう。

 ……空気を読んで状況を見てください、別に私が何かしたわけじゃないですよ?

 

「……フッ……すまんな、日を改めよう」

 

 クローバー大佐がログアウトしました。

 ってクローバー大佐ーっ!? 何ですかその合間のフッて!? 勘違いですって!?ああもうナナヤさんも泣き止んでくださいよ!

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

「なーんだ、付き合うってただの酒盛りだったんだぁ」

 

「なんだと思っ……いえ、まあ確かにそう聞こえなくもなかったですし」

 

 所は変わり、現在私とナナヤさんは居酒屋へと来ています。

 どうやらナナヤさんは思春期の人専有のピンクな妄想をしてしまっていたらしく、誤解を解くことで一日の大半を費やしてしまいましたね。もう貴方二十歳ぐらいじゃありませんでしたっけ?

 とはいえ誤解は解けたので、お酒を飲むのは大丈夫だと教えてくれました。

 

「そうですよ! もう心は蛇に睨まれたリス! 任官早々失敗してしまった小リスは鬼畜な蛇の上官に弱みを握られ……ああなんと言うことだろう、小リスの身も心も鬼畜な蛇に丸呑みにされてしまうなんて……って、マジな話そんな気分でした」

 

「これは酷い」

 

 成る程、私の対話を思い出してみれば、確かに上官から命令で『やらないか?』と言われたら怖いですね。

 

「うう、でも怖かったんですよ!? 任官早々貞操の危機だなんて……頭から尻尾の先まで丸呑みされるかと思いましたよー、うん」

 

「一種のトラウマですね……あーでも尻尾は確かにいいですね。冬は暖かそうですし」

 

「!? ほーうハザマ大尉もお目が高い! なんとこの尻尾、寝るときは天然の抱きまくらに早変わりするのだ!」

 

「な、なんと!?」

 

「勿論毛並みは最高、生きてる私の尻尾ですから保温は完璧! 至高の抱き心地を味わえるのですよ! どうですかぁ、触りたくなりましたか?」

 

「く……腕が、勝手に……」

 

「だが残念! 私のこの尻尾に触れて良いのは私の大親友であるノエるんとツバキだけなのだァー!!」

 

「なんですって!? なら私は……私はこの持ち上げた腕を何処に置けばいいんでしょうか!?」

 

「触りたい? 触りたい? なら一触り5000pdで」

 

「あ、じゃあ払います」

 

「えーハザマ大尉セクハラですよ。慰謝料として10000pdお願いします」

 

「なんでですかっ!?」

 

 あー何と言う馬鹿な会話でしょうか。

 ですが私が求めていたのはこのグダグダな空気なのです!

 たわいの無い会話で盛り上がる事ができる、それはぼっちの時と蝶人上司と一緒の時には不可能な事ですから。なるほど、『案外楽しいものですね』。

 大尉になり部下と共にコミュニケーションをとる……現場仕事を全て部下に任せてサボることはできませんでしたが、人生の目標の半分はクリアできましたよ。

 ゴール? 勿論普通に結婚して普通の家庭を築ければまあ最高ですよね。『たぶんそれが幸せですし』。まあ、こんな仕事就いといてアレですけど。

 

「へー、ハザマ大尉もそんな風に笑うんですね」

 

 と、そんな良いこと尽くしの大尉に成れたから、どうやら私は笑っていたようです。

 

「おかしいですねぇ、始めから笑顔を崩した記憶はあんまり無いのですが」

 

「でも全然違うよ? 初対面の時は『頭から食ってやんよ小リスちゃんよぅ!ニヤリッ』っていうのだけど、今は『頭から食べさせてもらいますね小リスさん?ニコッ』っていう感じ」

 

「リスさんの運命がどちらにしても変わっていませんよ!?」

 

 というか前者の笑い方は私じゃなくてテルミさんの方ですから。そしてお酒も入って少しテンションが上がっているのは確かなようです。

 

「まあー……こんな仕事ですからねぇ。仲良くお酒を飲める人もいませんから、つい嬉しくて」

 

 私は多分笑っていたでしょう。

 諜報員としての仕事は現場も上も殺伐とし過ぎて息が詰まります。

 愉悦、快楽、戦慄、恐怖、慟哭、憎悪。なんだってあふれるこの場所は、自分の感覚が訳が分からなくなりそうでした。

 テルミさんを理由にして現場だった場所へともう一度戻るのも、ストレスを発散するのが理由ですから。

 ふと視線をお酒を入れたコップから前へと移しますと、そこにはポカンとした表情のナナヤさんが居ます。

 ふむ、少し辛気臭い話でしたね。ですがナナヤさんはどんな言葉をかけてくれるのかと思い、

 

「へー、ハザマさんって友達居ないんですねー」

 

「ハイ!マコトさん貴女は言ってはいけないことを口にしたあぁぁ!」

 

 予想外でした。

 思った以上に『空気?なにそれ美味しいの?』というエアーブレイカーの持ち主だったようです。

 

「ふふふふふ、でも私には大親友のノエるんとツバキが居る! 士官学校の友人達も! 勝った! ぼっちのハザマさんに勝ったよ二人とも!」

 

「人の地雷をタップダンスするように踏みまくらないでください!」

 

 そしてマコトさんによる更なる地雷の踏破により私のダメージは加速しました。

 く……なんで彼女に敬語無しを許したんだ数時間前の私……。いや、でも寧ろ気を使われる方が私としては辛い。

 良しとするしか無いのでしょうか……。

 

「と、まあー私も親友と呼べるのはその二人ぐらいだしねー。あ、勿論友人は要るけれど、あんまりハザマさんの事言えないかな?」

 

「へ? そうなんですか?」

 

 それは意外だと思いました。マコトさんは明朗な人物ですし、私がこうして話しても面白い人です。

多分教室ではムードメーカーに成りうる人物ではないでしょうか。学校の事私覚えてませんけど。

 

「意外……かなぁ? ほら、私ってこんなナリでしょ? やっぱり視線とか悪口とか……まあ色々有って」

 

 こんなナリ……まじまじとマコトさんの身体を見ます。

 新任であるためスーツ姿のマコトさん。頬杖をつきながらチビチビとお酒を飲んでいますが、それより先に見えるのは身体を乗り出しているため、テーブルの上に乗る身体の双山。形が服の上でもはっきりわかるぐらいの大きさで、成る程学生が持てるようなモノではありません。

 ……つまり、学生にはあまりにも大きすぎるそれは女子生徒の恨みを買い、それが広がってしまった、と。

 

「ハザマさーん? それ以上はセクハラになりますけど?」

 

 と、そんなことを考えていると、鋭い視線がこっちに来ていました。

 

「……あー何と言うか凄いモノをお持ちで……触ってもいいですか?」

 

「やってみてください。その瞬間、私の弾丸のような拳があなたの顔面を潰す、それでも良いのなら!」

 

「く……ですが私には顔面など潰しても良い理由(ロマン)がある!」

 

「……と、冗談はさておいて」

 

「ですね」

 

 ついお酒が入ったせいで悪乗りしましたが、本当は何となく見当は付きます。

 後ろにある大きな尻尾と頭に有る耳、オマケに人より少し大きめの瞳。普通の人、というには些か語弊があるその特徴を表しているのは、マコトさんが亜人で有ることを示しているようです。

 亜人……と、すらすらと説明できたら格好良いのですが、興味が無いのであまり知りません。

 精々差別の対象になるんじゃないか、と。その程度は予想できますが。私諜報員ですし。

 

「だって酷いんだよねー、人のこと指差して獣臭いだなんだって……私の匂いは草原の香りの高級石鹸だっつーの!!」

 

「成る程……まあ学生ですからよくある悪口ですか」

 

「だけどそんな私の尻尾をプリティとさえ言ってのけたのが我が親友ノエるんで、そして私になんの隔てもなく接してくれたのがツバキ。うーんやっぱり二人が居なかったらつまんなかっただろうなー」

 

「そうですか……それは良い友人を持ったんですね。ちなみになぜその話を私に?」

 

「ぼっちのハザマさんへの当てつけです!」

 

「はははははは、いい加減ににしないと本当に頭からガブリと行きますよ小リスさん?」

 

 親指を立てて素晴らしい笑顔を見せるマコトさんに、思わず青筋が浮かばずにはいられませんでした。

 私としては友人の自慢をされて胸やけしそうなのですが。

 

「ふ…殆どは冗談ですから! それにもうハザマさんはぼっちじゃないから大丈夫!」

 

 ですよね。

 私がぼっちなのは変わらない事実であることは確かですけど。

 というかお酒のせいで妙なテンションになっているので仕方ない。顔にうっすらと朱を注しているのですから、そこそこ出来上がっているようです。

 ん? だけど現在進行形でぼっちの私ですがぼっちじゃない?

 

 

「と、言うワケで、仕事オフの時に限りこの私、マコト=ナナヤがハザマさんの一番目の友達になりましょう!!」

 

 

「…………へ?」

 

 

 ああ確かにこの時の私は呆けた顔をしていたのでしょう。

 

 そんな様子の私に、むっと目を据えるマコトさん。視線だけで『何か問題ありますか?』という声が聞こえてきそうです。

 私はといえば、ただ驚いていました。

 友人、友達、フレンド。聞きなれない言葉であってついどう言えば良いのか分らなくなっていたのでしょう。

 

「えーとですねぇ……あーえー、よ、宜しくお願いします?」

 

 だから疑問系になりながらもそう答えました。

 マコトさんはそれを聞いてニカッと笑みを浮かべると、チビチビと飲んでいたお酒を一気に呑みました。

 

「それなら今からは無礼講です! よーしママ名酒獣五朗とおつまみ頼んじゃうぞ!」

 

「やめて! おつまみは良いですけど給料が吹き飛ぶようなお酒を頼まないでくださ……って空けるの早っ!?」

 

 先程のしんみりした状況はあっという間に吹き飛び、再度馬鹿な空間が辺りに蔓延しだしました。

 名酒をいっき飲みさせられたり、マコトさんの友人の話しで盛り上がったりと、普段私が感じないような感情が立ち込めて来たような気がします。

 

 そうだ。これが『楽しい』、ですね。

 

 外へ出ての気晴らしとはまた違ったベクトルの楽しさ。

 それが今この空間に有ることが本当に嬉しいと、これまたリアルに感じる感情が溢れています。

 

 ……それで余談とするなら、完全に二人とも酔い潰れてしまい、店のテーブルから顔を上げた時には小鳥のさえずりが聞こえる時刻になっていたことでしょう。

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 思うなら、この日の出会いこそが『ハザマ』という存在が観測され、世界の一部へと変貌した日だったのかもしれません。

 

 だからこそ私/『俺』は『俺』/私ではなく私/『俺』自身である。

 

 そう、私は考えます。

 



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すてーじ5

 こんにちは、統制以下略のハザマです。

 マコトさんを部下へと迎えてから早一ヶ月、聞き込みや書類整理などノンアクティブな仕事を片付けていました。

 お蔭様でテルミさんが出てくることも有りませんし、たまに友人としてマコトさんと酒盛りに。最近私も充実してきたと言えるでしょう。リア充、素晴らしい言葉ですね。

 今のところ危険も無く落ち着いた状態である、と言えます。

 さて、今回の私の現場へ戻っての確認、というか旅行はイカルガ篭城戦が行われていた都市です。……に行こうと思っていたのですが、戦争跡地とあってごたついてるらしいので、その人民が流された第十三階層都市カグツチへとやって来ました!

 ふふん、と浮かれ気分で鼻唄を歌いながら、私はのんびりと町を歩いています。理由は二つ、一つ目は秋のこの時期ですとイカルガの文化ではお祭りをするのです。

 勿論、今日はその祭の日で私の視界にはあちらこちらでお店が、屋台が立てられているのが目に入ります。別に狙って来た訳ではありませんけど、タイミングが良いと言うのはこのことを言うのでしょう。

 そして二つ目は……

 

「おーいハザマさーん。はーやーくー」

 

「ん?……あ、ええ、今行きますよ」

 

 と、自分より少し先から聞こえる黄色い声に私はぼんやりとした空想から抜け出し、歩幅を上げて近づきました。

 その視線の奥にはイカルガ風の服を、所謂ユカタと呼ばれる着物を着たマコトさんが入っています。

 オレンジ色の布の上に赤い花のような刺繍がされたその着物を、ミニスカートのように着こなす姿は、やはり活発である彼女のイメージにピッタリで少し乾いた笑が漏れましたね。

 数時間前、私が任務(苦笑)と言う名前の旅行に行こうとした時、非番だったマコトさんが任務に連れていって欲しいと頼みました。

 カグツチへ流れた人たちの動向を探ってほしいといと、任務を言い渡されたのですが、正直遊びながら探ろうと思っていたんですよね。

 ですが……スーツをビシッ、バシッと着込んだマコト少尉がそこに。

 勿論任務だと考えていたでしょうマコトさん。ですが対するはその辺の観光をするだけの私。実際任務とか殆ど気にしないで観光ムードでしたし。

 私の任務(と言う名前の休日)に気が付いた瞬間、『こんなもん着てられっかー!』と言う叫び声と共に服屋さんに駆け込んだマコトさんは、数分たってユカタ姿で戻ってきましたね。あ、でも寒くないんでしょうか?

 

「分ってないねハザマさん! 祭りとは戦場、一瞬の油断さえも許されぬその時間においてぼんやり過ごすなど愚の骨頂!」

 

「戦場……成る程、確かにそれならはぼんやりしてる暇はありませんね」

 

 マコトさんの突き出してきた拳の間にあるのは、フランクフルトとホットドックに林檎飴、もう片方の腕にはビニール袋の中にタコ焼きイカ焼きお好み焼きが積まれています。

 遠慮とかどこかにすっ飛んだのでしょう? 私ヒモにされていませんよね? まあお金の使い道なんてナイフやシルバーアクセサリを買うぐらいしかありませんけど。

 

「というか……まぁ奢るのはやぶさかではありませんし、食べるのも良いですけど……太りますよ? 」

 

 女性はほら、カロリーとか色々気にするものだと思うのですが。このまえ読んだ雑誌に書いてありました。屋台の商品は沢山食べれますがカロリーも多い。少しは気にしなければどんどん脂肪が…

 

「ふ…だから分かってないと言うのだハザマさん! カロリーが恐くて祭が楽しめるかーっ!?」

 

 そう言いフランクフルトを三口で食べると、指に残った串をゴミ箱に投げ入れました。そしてかぶりつくのはホットドック……は私が視線を手に向ける前にいつの間にか消え失せていますね。残ったのは串だけです。

 なんというか、容姿は女性なのに着物の裾が少ないから太もも大きく露出してたり、食べ方なんかが清々しいほど漢らしいんですけど。

 悲しい事にマコトさん以外の女性の知人は居ませんが、マコトさんはずいぶんダイナミックであることは想像出来ます。

 無防備に顔にケチャップつけたりと、少しはしゃぎ過ぎじゃないでしょうか?

 

「ほらマコトさん。流石に女性がそんなにはしたなくしちゃだめでしょう? ほら、頬にもケチャップがついていますし」

 

「へ? どの辺?」

 

「右上の……ああもう、取りますから少し動かないで下さい」

 

「ふひまへん」

 

「そう言う側から苺飴を頬に含まない。リスですか貴方は……って、リスでしたね」

 

 とりあえず顔をこちらに向かせウエットティッシュで顔を拭き取りました。

それにしてもマコトさんの頬って柔らかいんですね。リスの亜人ですから頬袋の遺伝の名残でしょうか。おも むろに摘んで引っ張ってみました。

むにむにむにむに

伸びますね。柔らかめのグミのようです。

むにむにむにむに

 

「ハザマさーん? そろそろやめないと5秒後に私の私の拳が鳩尾に飛ぶけど。いーち」

 

 なら後4秒は大丈夫ですね。ああ、いい触感です。

むにむにむにむに

 

「にさんよんごそぉい!!」

 

「ぎょえへっ!?」

 

ーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「良かったですねマコトさん。ここが本部でしたら一発で独房行きでしたよ?」

 

「良かったねハザマさん。私がセクハラで訴えていたら一発で牢屋行きだよ?」

 

「申し訳ありませんでした」

 

 日も暮れて空が暗くなった頃、お腹は空だったのが幸いして危うく中身がリバースするところを、大きな惨状にはなりませんでした。

 それにしてもちょっと悪乗りしましたね。少し前にもホワイトチョコバナナを食べているときに『……すばらしいですね』と意味ありげに言ったらハイキック喰らいました。下着見えました。……いえ、少し自重しなければ。

 欲情もしていたんでしょうか。質が悪い。『訳の分からない感情は面倒なものです』。初めての友人とあって無知な所もありますが、少々踏み込み過ぎたようです。反省。

 

「まったく、これが私じゃなかったらとんでもない事になってたね、うん」

 

「鳩尾にえぐるようなブロー以上ですか…」

 

「勿論! 例えばノエるんだったら大号泣。乙女の涙を流させた罪でハザマさんは牢屋行き。ツバキだったら……あーご愁傷様」

 

「どれだけツバキさん凄いんですか!?」

 

 ……いえ確か聞いた話しだとツバキさんの名字はヤヨイ、が頭に付きます。

 ヤヨイ家、帝を守る十二宗家の本締めの家。権力とか物凄いですよ。上流貴族のものすごく上の方の方々だと考えていただければわかりやすいですね。

 で、かくいう私は……家名がないので貴族ですらありません。ただの一般諜報員の首とかあっという間に飛びますね。

 おかしいな、私大尉になれるほどのエリートですよね? 待遇はアレですけど。

ですがヤヨイ、ですか。

 

 ……諜報員としては収集のために充分利用できる名前です。諜報員としてだけではなく、後ろ盾、という意味ではどのようにも使えるでしょう。。

 

 チラッとマコトさんへと視線を向けました。が、相変わらず頬にいっぱい食べ物の含ませていました。

 なんというか、シリアスな思考に切替ようとした所を撃ち落とされた気分です。

 と、そうして見ている内に視線に気が付いたのか、マコトさんと視線が重なりました。最後のパックのタコ焼き、それを食べようとして口に運ぶ最中、身体が硬直しています。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………あげないよ?」

 

「いりません」

 

 見ているだけで胸やけします。

 思わず大きくため息が漏れました。少なくとも休暇中に考える必要はありません、後で考えればいいのです。何と言うダメ人間思考。

 

「んー、おいしかった」

 

 ぱく、と私がどうでもいい思考をしている最中、いつの間にか最後の一つになったタコ焼きをほお張り満足そうなマコトさん。

 見ているこちらも微笑ましくなります。

 

「マコトさんでも流石にもう満腹ですか」

 

「まだ八分目ぐらいだからそうでもないケド。でもハザマさんの帰り賃が無くなっちゃうし」

 

 まだ食べれたんですか貴女は。

 奢りなんて言葉、簡単に使うべきじゃないですね。財布に冬が訪れました。

 

 やれやれと軽く息をつきつつ帽子を直すと、私の視界に既に暗くなった空が入りました。もう夜の八時も回った程でしょうか。流石にもう本部へと帰った方が良いかもしれません。

 

「あっと、そうだハザマさん!」

 

「は、はい」

 

 財布の中身を確認しようとした私に、マコトさんは腰に手を当て、急にずいっと顔を私に近づけました。

 急に近づかれた事と覗き込まれた事にびっくりしたためか、私は一歩後ずさりましたけど、マコトさんは尻尾をゆらゆらさせながらこちらを見てきています。

 それはどこかふて腐れているというか、怒っているというか、何とも言えない表情です。

 

「休日中、急に真剣な雰囲気を出されると困るよ。びっくりするじゃん」

 

 と、そこにかけられた言葉に私は返答することができませんでした。

 

「……なぜそうお思いに?」

 

「なんとなく? なんか雰囲気が微妙に変わったからそうかなって。今みたいにさ。ほら、私獣人だから気配とかの変化が分かり易くてさー」

 

 なんとなく、つまりは勘ですか。いえ、確信もあったのでしょう。諜報員に関わらず衛士なら生き残るために勘、危機察知能力は重要になります。

 諜報という任務には罠の仕掛けて有る場所へと踏み入れること……踏み入れさせられることも暫しありま  す。私みたいに。やっぱりあれは諜報員の仕事じゃありませんよ。勘の良し悪しは以外に役に立つものです。

マコトさんのは野性の勘というやつですね。亜人という半分野性の血が入っている事は、戦士としてはメリットであるのでしょう。

 だからこそ惜しい、これで友人を利用できる程の冷酷さが有れば、その後ろ盾や戦闘技能と合わさり諜報員としては良い地位へと行けるでしょうから。

 どっちもできない私は三流ですが。

 

「残念ですね。その勘も、人脈も、利用できたのなら諜報員としては大成したでしょう」

 

「……それは私にツバキを利用しろって言いたいのですか? ハザマさん、いくら私でも怒りますよ」

 

「失礼、失言でした」

 

 私はそう言葉を続け、身構えるマコトさんへと小さく笑いかけました。その言葉には悪意を含めたわけではないのですが、やはり聞き方によっては失礼に当たりますね。

 すみませんでした、とひとつ頭を下げた私を見て、マコトさんは小さくため息をつきました。

 

「……うん。ツバキは士官学校で私を『マコト・ナナヤ』と見てくれた。なのに私がツバキを『ヤヨイ』として見るなんて、そんな裏切るようなことはできないよ」

 

 はっきりと私に答えたマコトさんにやはり私の口から苦笑が漏れました。

 

 やはり、彼女は諜報員には向いていない。

 諜報員はその大切な友人にさえも、裏から探らなければならないこともあります。一枚岩ではいかないのが組織であり、軍というあり方でもあるのですから。情は確かに戦いに於いて大きな力を発揮するものですが、任務、それも諜報という活動では邪魔になるものです。

 

「ええ、マコトさんはそのままである方が好ましいですよ」

 

 でも私はなぜか『その邪魔になるものをマコトさんには持ってほしい』と思いました。

 おかしいですね。私の部下である人に心構えをしっかり教えた方が、私の生存率は上がるというのに。その発言はよほど可笑しかったのでしょう、マコトさんはぽかんと口をあけてこちらを驚いたように見てきていました。

 

「……って、マコトさん?」

 

「あっと、すみませんハザマさん。なんか……ちょっと意外だったので。情報の網を作り出すのに誰かを利用するってことは、士官学校時代もさんざん言われてたことだったから」

 

 うわぁまたなんか間違ったこと言っちゃったんですかうわぁ。く……記憶喪失で私に士官学校時代の記憶が無いなんて言ったらどうなるでしょう。

 『えっ……そうだったんだ。ごめんハザマさん…』みたいな空気になってしまうではないですか!(ただの被害妄想)

 相手に気を使わせるという行為も面白いものじゃありませんよね。回避してみせます。

そこで私は苦笑してから空気を軽くするために一息つき、体の力を弛緩させました。ようするに発言についてごまかそうと思ったのですね。

 とりあえず辺りをぐるりと見回し、話のネタになりそうなものを探します。

……ない。さすがにもう屋台の食べ物ネタは尽きています。財布の中身も尽きてますよ。

 なにか、なにかないでしょうk『皆の衆、今日二十時より打ち上げ花火の始まりでござる! 楽しみに待つでござるよ!』

 

 こ・れ・だ!

 

 

「は!? 任務ですマコトさん!」

 

「へ? あ、えっと?」

 

「イカルガの残党が花火に見せかけた爆弾を使ってテロを企てているかもしれません! さあ早く見やすいスポットに移動しますよ!」

 

「ちょ、ちょっとハザマさんってば!」

 

 

 素晴らしいタイミングでの花火打ち上げの通知でした。

とりあえずその場から駆け足気味で離脱すると、マコトさんが追いかけてきたのがわかります。ふ、いったん場が壊れたことによってもう一度口をきく時は空気が弛緩しています!

 何が好きで休日まで真面目にしなきゃならないんですか。最初に思考を持ってかれたのは私ですけど。

 しかしマコトさんに言ったようにあまり諜報員としてそれだけになって欲しくないのは本心なんですよね。

 

 どこまではしてもいい、だけどその先はしてはいけないという線引きは重要なものですから。

 

 まあとりあえず……花火を見てからいろいろ考えます。疲れたので。私は足を少し早めると、綺麗に見えるだろう広場へと進みました。

 

 

 

 

 

 

 

『言うじゃねえか。お前に線引き(そんなもん)は存在しないってのに』

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 私の上司は、ぶっちゃけ変な人だった。

 

 初対面で驚かせようとしてぶっとんだり、(これは私が悪いけど)セクハラまがいなことをしたり、気安いというか上司っぽくなかった。親しみやすいというのは確かなんだけれど。

 それになんだか距離感がつかめない。近かったり遠かったりさまざまで、話してて飽きない。仕事に関しても、諜報部ってもっと殺伐としたところだと思っていた分、予想以上にフレンドリーだった。たぶんハザマさんの性格のせいでもある。

 木の上から自分の上司を見下ろす。やっぱり登るのは躊躇しているみたいだった。

 

「ハザマさんこっちだってば! ハリー!ハリー!ハリー!ハリー!」

 

「いや確かに見晴らしは良いかもしれませんけど、木をスーツで登るのは無謀ですって!」

 

「大丈夫、私は一向に構わん!」

 

「構ってくださいよ!」

 

 あと数分で花火は始まるのにハザマさんは登ってこない。

 仕方ないから肩で担いで一気に跳躍したけど、なんだか、ひょえっ!?、とか言って驚いてた。ちょっと面白いかもしれない。

 

「確かに此処なら視界も悪くはありませんね。なぜこの場所を?」

 

 片手に持ったビニール袋を置き、その中からお酒入り缶を取り出しつつハザマさんは聞いてくる。私も缶のプルタブを開けつつ答えた。

 

「その辺に忍者の人がいっぱい居るよね、その人達から聞いたんだけど……ハザマさん?」

 

 忍者、という単語になぜか硬直したハザマさん。『忍者……釘…落とし穴…』とぶつぶつ言い始めたのを見て、やっぱり変な人だと再確認する。

 そうこう言っている間にも、二十時に時計の針は差し掛かっているのに、いまだに何かをぶつぶつ言ってるハザマさんには正直笑わせてもらった。私が話しかけないとそのままだったかもしれない。

 

『皆の衆、準備は良いでござるかっ!? 拙者は準備万端のバリバリでござる! 今、この時より復興祭最後の打ち上げ花火の始まりでござるよ~~!!』

 

 とそう思ったけれど、やっぱむさ苦しいこの声に結局は気が付いていたと思う。拡音の術式を使わないでこの声は正直すごいよね。

 それと同時に気が抜けるような音と共に花火が発射された。

 最初の花火は赤色。大きく空に咲いた光の花は花火という文化を教えてくれた親友の姿を思い出させた。

 

(ん~ツバキは元気でやってるのかな?)

 

 ちょっとした連絡を取ることはあっても、どの場所に任官したかは分からなかったから、心配なところもあった。けどどちらかというと自分よりもそつなくこなせるツバキなら、すぐに部隊の人となじめると思う。そもそも心配する方が失礼かもしれない。

 

 次の花火は黄色と青。連続で打ち出されていくそれはおっちょこちょいの親友の姿が思い浮かぶ。

 

(ノエるんは……キサラギ先輩と上手くいけてるのかなぁ?)

 

 ノエルは卒業間際でキサラギ少佐の秘書官として引き抜かれた。

 なんで彼女が引き抜かれたかは分からない。知り合いという線だったらツバキの方が邪険にならないはずだけど。案外調査が甘かったのかもしれない。

 

 そして今度は青から緑へと花火は変わっていった。

 

(私は……それなりかな。上司の人も結構面白いし)

 

 思い浮かんだのは隣で花火を見るハザマさんだった。

 ぽかんと空を見上げるさまは、目を輝かせショーウインドから離れない子供のようにも見えて、思わず口元が緩んだ。

 

「凄いですねぇ。あれってどんな術式を使っているんでしょうか? 爆破術式の応用……? いえ、空間転移と爆破術式を簡単に両立できるわけがありませんし……」

 

「あはははは……、べつにあれは術式を使ってるわけじゃないよ。たしか一つ一つ手作りで作ってるんだって」

 

「えぇ!? 一発ずつ全部をですか!?」

 

「そそ、一つの玉の中にたくさん光る玉を入れて、それをどーん!って打ち出す……ってツバキが言ってた」

 

「はーなるほど……それにしてもこれが……綺麗、綺麗ということですか……いや……なるほど」

 

 

 私の説明に何度もうなづくハザマさんは、やっぱり視線だけは花火に釘付けだった。新しいおもちゃに目を輝かす子供みたいにみえてやっぱり可笑しい。

 思ってみればハザマさんには年齢よりも幼い印象を持った。

 たしか年齢は二十代半ばだと聞いたけれど、自分と波長が合うあたり、やっぱり子供っぽいのかもしれない。私も子供っぽいところが少しあるから。

 警戒したのも短い期間であって、最近は友人として過ごすことも少なくない。男性の知り合いとしては紳士的な部類にも入って心象はすごぶる良かった。

 

 だから、信じられないこともある。

 

 空に上がったのは深い緑色の花火。

その時に視線を横にずらしてハザマさんの表情を覗った。そうだ、やはり優しそうな表情はそのままで、私の中の印象と一致する。

 

 なら時折見せる、蛇のような雰囲気はなんだったのだろう。

 

 初めて見たとき、本能が感じた。目の前の人物は『蛇』だと。それこそ油断したら頭から丸のみにされてしまうような、そんな危険な雰囲気を。

 自分の勘はよく当たる。本能的な部分のものは亜人である自分はよく感じ取れた。

 それがハザマさんの本質なら、私の隣で花火を見るハザマさんは偽物なのか。でもそれに私は否だと答えたい。

 

 最後の花火が打ち終わり、静かな星宿が辺りに流れる。

 

「さて、と。じゃあ帰りましょうか。明日も任務ですし」

 

「……もー、お祭り中に仕事の話をしないでってばー。お祭りは帰るまでがお祭りなのだ!」

 

「あらら、それは失礼しました」

 

 広げたおつまみや缶を片付けビニール袋にまとめるハザマさん。それはどこにでもいるような男性にしか見えない。

 

「じゃ、帰りましょうか」

 

 さっと木から飛び降りるハザマさんを追って私も飛び降りた。空港までの道を談笑しながら思う。

 

 

 この胸騒ぎは違和感に違いない、と。

 

 

 私はそう思った。少し違う、そう、思いたかった。

 



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すてーじ6

 第十三素体の運搬は完了、あとはラグナ=ザ=ブラッドエッジが来るのを待つだけ、ねぇ。またこの結果か、つまんねえの。

 ノエル・ヴァーミリオンの生存確率は上がったが、あの人形が蒼に目覚めるわけもない。……まあ出来が悪いと言っていた素体に期待するのは馬鹿らしい。

 荒々しい足取りで一応自分の執務室へとなっている場所へ向かう。軍用の携帯食料はとても食えたものじゃないが、腹に溜まった以上、何か追加で食いたくはない。

 おそらく昼の休憩が終わったのだろう、統制機構本部の中で、移動する足音も多い。どいつもこいつも腹一杯で幸せそうな顔をしていて、思わず吐き気がした。イラツク。

 

「……チッ、クソが。だが今の俺にできる事が無ぇ」

 

 元々あった力の残りカス程度しかない現状、やれる事は舞台作りをするだけだ。だが……気に食わねぇ。『タカマガハラ』の連中の犬のようになって、わんわん吠えるだけってのは。

 らしくない。

 『滅日』を進める、これに対して意義も何も無い、大賛成をくれてやるだろう。だが観測されていない以上、こうした頼代が無ければ、世界に自分を確立させることさえできない。

 観測自体、上位存在や蒼への覚醒者の存在が必要だ。知っている上位存在と言えば糞吸血鬼と化け猫だけだ。たとえ自分の利になったとしても、そいつらには唾を吐いて断るか、騙して憎しみの目を受けるように動かすだろう。

 面倒だ、と一人ごちる。いつになるか分からない可能性を探すのか…………いや、

 一応居る。観測者に比べれば月と肥溜に群れる蝿以上の差が有るが、と自分という存在を確立させられる者/物が。

 

「あ、……大尉!」

 

 廊下を歩いている最中、自分に向けられる気軽い声が聞こえた。

 それはスーツをきっちりと着込んだマコトだった。そこには何時もの明るい笑みは無く、片手には書類が持たれていた。

 

「……おやマコト少尉、もう昼ですが、おはようございます。どうかしたのですか?」

 

「……ハッ、大尉に依頼されていました、書類の整理が完了しましたので、報告に参りました」

 

 真剣な表情の彼女に対し考えた事は、面倒だ、の一言だった。

 自分の事に対して何をしようが、どうでも良かった。ただ獣臭い目の前のゴミが居ることが気に食わないだけだ。

 最初、自分に対する態度としては妙だと考えたが、仕事のオンオフの切替と考えれば疑問も片付く。ついでに言うなら、舞台に上がることすら無かった獣一匹、正体を知られたところでなんの問題も有りはしない

 

「分かりました、とはいえ私は今少し忙しい身です。少し経ったら執務室へ運んでください」

 

「……ハッ、了解しました!」

 

 素直に引き下がるマコトに内心で評価を少し上げた。

 こういう命令をしっかり聞いてくれる存在が、一番面倒でなくていい。 操るのにも一番やりやすい存在でもある。

 向かう先は執務室。それで俺がやることはもう殆ど無ぇ。

 

 

ーーーーーーーーーーーー

 

 こんにちは、今日はなぜか執務室で目を覚ましたハザマです。

 あーなんでしょうこの朝目覚めたばかりの怠慢感は。書類を書いている最中に寝てしまったというわけではありません。ですが数センチの束になった書類の束が増えているあたり、おそらくテルミさんと入れ替わっていたのでしょう。

 最近はあまりなかったのですこし驚きましたが、まだ時刻は昼を少し過ぎたぐらい。しっかり食事の楽しみもとられ満腹感があり、選択肢は書類仕事の一択になったあたり作為を覚えます。というか書類仕事してくださいよテルミさん。

 とりあえず私は書類の束を読み始めました。

 ……ふむふむ。どうやら午前中にテルミさんは仕事を済ませていたようです。なんでも『素体』という代物を諜報部でカグツチまで届けるだけの簡単な仕事だったそうですね。

 次の書類は……あらら、諜報任務の命令書でしたか。

 内容はとある違法研究所の調査をしてこいと、ようするにちょっと目につく研究所があるから様子見してこいってことですね。

 この程度の仕事ならわざわざ私が行く必要もありません。少尉にも普通に任される仕事ですし、私が直接現場に行く必要もありません。……そういえば上官つけろって命令来てました。だから上官は私しかいませんってば。舌打ちしたくなりますね。

 緊急の、というわけではありませんが、さっさと行ってさっさと誰かに中継させましょう。私は書類仕事をしたいんです。旅行以外で現場に行きたくありません。

 

「出発は明日、準備はさっさと済ませておけってことですね」

 

 たしかマコトさんは書類仕事を任せていましたし、今日はたぶん出会うこともなかったでしょう。

 そんな大量の書類でもありませんから、今日中に終わると思われ…

 

『失礼しますハザマ大尉。書類の作成が終わりましたので報告に参りました。ご入室しても構いませんか?』

 

 と、よいタイミングで来たようですね。

 

「ええ、構いませんよ」

 

「では、失礼します」

 

 相変わらずオンとオフの切り替えが凄いですね、と私はきびきびと動くマコトさんに尊敬の念を送りました。

 

「……ハザマ大尉、ですよね?」

 

「? そうですけど、どうかしました?」

 

「いえ、なんでもありません。これが今回の報告書です」

 

「ご苦労様ですマコト少尉。あー次の任務が入ってきてるので、そこのソファーにでも座りながら確認してください」

 

 少しマコトさんがよりいっそう真面目な顔つきをしていたので、思わず首をかしげました。

 とはいえ仕事中でもあり、私は机の上にあった書類の束の一部を渡し、報告書へと目を通し始めました。

 前回の任務(旅行)での報告は、私としては異常なしの一言で送りたいのですが、それができないのが仕事人というものです。

 正直面倒だったのでマコトさんへと丸投げしたのですが、快く承諾してくれました。すばらしいですね部下って。ただ罪悪感も半分あります。やはり自分で出したほうが心臓に有情ですし。

 辺りには書類をめくる音だけが響きわたりました。私もマコトさんも仕事であるときは真面目なんです。たぶん。

 一通り見終わったところで私は軽く息を吐き、手元にあるコーヒーを一口飲みました。なぜか紅茶を飲もうとすると拒絶反応が起こるんですよね。テルミさんが嫌いなんでしょうか?

 さておき誤字訂正する場所もなく、私はパサリと書類を机に置いて書類を読んでいるであろうマコトさんへと目を向けました。

 

「読み終わりました?」

 

「はい。翌日1800時現場到着、各自偵察行動を行い研究所の見取り図を参考に、証拠、研究資料等を奪取後に各自の判断で撤退。2200時に合流後帰還。……相違はありませんか?」

 

「パーフェクトです。準備もありますから今日の仕事はおしまいです。肩の力を抜いてもいいですよ」

 

「わかりました。では失礼して……あーつっかれたぁ。書類仕事なんてだいっ嫌いだぁ~」

 

 と、仕事ではなくなったとたんにだれるマコトさん。

 ソファーに申し訳ないように浅く腰掛けながら書類を読んでいたのもつかの間、両手を広げ深く真ん中に寄りかかり、おもいっきりくつろいでいます。

 いや、まあ、確かにオンオフの切り替えがすごいとは思いましたけど。人が来られたら大変ですよね。クローバー大佐ぐらいしかここ来ませんけど。任務の伝達全部メールですし。

 まあ友人らしく接してくれるのは楽でいいですけどね。

 

「いえいえ現場の方が面倒くさくないですか? 危険ですし疲れますし」

 

「だってー、体を動かす疲れはまだ健康的だけど、書類の疲れは悪い疲れだから嫌い。……というより頭を使いたくないじゃん?」

 

「ぶっちゃけましたねー、諜報部大尉の目の前で」

 

「いや、ハザマさんの目の前でしょ?」

 

 なるほど、今はオフですからこれは一本取られました。しかし諜報活動とは基本的に頭を使うものです。調査し、資料をまとめ、情報を作り出す。正直頭を使ってばかりの仕事ですよ。

 まあ多分何年か仕事を重ねれば慣れることですから、急いで教えることもありません。

 

「うれしいことを言ってくれますね。とはいえメリハリは大切ですから。おっとそうでした、お茶でも飲みますか?」

 

「あ、じゃあ私煎れて来るよ。食器借りるね」

 

「そうですか、ではお願いします」

 

 緑茶と呼ばれるそれは前の旅行…じゃなくて任務でお土産で買ってきたものです。小さなユノミというカップに緑のお茶はとても綺麗に映えるものでした。

 

「んじゃ、どーぞハザマさん」

 

「ありがとうごさいます」

 

 とは言え、そればかりに視線を送るわけにも行きません。

 少し視線を逸らせば書類の束がまだ残っているのですから。今日中に明日の現場での準備を終わらせなければならないので、少し急ぐ必要があります。

 とりあえずユノミを脇に置いた私は、書き込む事が中心の書類を片付け始めました。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「あー支援物資これだけですか……相変わらず諜報員を鉄砲弾と勘違いしてるんですか…もう」

 

 書類読んで頭を悩ませるハザマさんを、私はソファーに座ってお茶を飲みながら横目で見ていた。

 やれやれといった様子でため息を吐き、端末を弄りながら時折お茶を飲む……言うならいつもよく見ているハザマさんの姿だった。

 それはまるで仕事に忙殺される中間管理職の姿。とてもじゃないけど頭の中で導きだされた姿に当てはまらない。

 

 いや、目の前に居るのはハザマさんだ。だったらさっきの『ハザマさんに似た人物』は?

 

 気配が違う。多分よくハザマさんと共に居る私だからかもしれない、その微妙な、されど大きすぎる違和感に気がついたのは。

 あれば『やばいかもしれない』。そう直感が告げていた。

 書類に眼を下ろす。

 諜報、潜入任務。何時もの任務。自分が大きな事件に巻き込まれている様子も無い。だから、ハザマさん聞くのは危険かもしれない。

だけど、

 

「ハザマさん」

 

 私は声をかける。

 

「せめて危険手当の増額を……ん? どうかしましたかマコトさん?」

 

 ハザマさんはやはり、何時ものように応答する。

 

「その、聞きたい事があるんですけど……」

 

「聞きたいこと、ですか?」

 

 きょとんと首を傾げるハザマに、私は言葉を続けた。

 

 

「はい……ハザマさんって何者ですか?」

 

 

 その率直な問いかけをした瞬間、微笑みを浮かべていたハザマさんの表情が固まった。

 

 

「私が何者、ですか」

 

 

 ゆっくりと確かめるように呟きハザマさんは暫し思考していた。ひょっとしたら、本当に聞いてはまずい事だったのかもしれない。

 眼を瞑り黙っていたハザマさんは、ゆっくりといつも浮かべていた細目の笑みを浮かべず、真剣な表情だった。

 

「何者、と言われましても、私も上手く説明することはできませんね。それは聞かなければならない事ですか?」

 

「……はい」

 

「ん~諜報部としては自分で調べて欲しいところですが……まあいいでしょう。私、ハザマと言う名前ですが、苗字は有りません。正しく言うなら知らないのです」

 

 知らない?

 首を傾げる私に、補足するように話しを続けた。

 

「私は衛士になる以前、正確には今から七年半より以前の記憶が無いのです。勿論、諜報活動の合間に自身の事を調べましたが、統制機構諜報部のハザマ、ということ以外は調べられませんでしたから」

 

 姓が無い理由をあっさりと言った事に私は驚いた。

 別に貴族では無いからといって、姓も無いなんてことは無い。だけど姓は自分の家族をつなぐ物でもある。

 だから、ハザマさんに家族が居ない、そして自身を繋ぐことのできる存在が居ない、という事が分かってしまい、私は口の中が苦く感じた。それは、口にさせてしまってはいけないものだったのに。

 

「できれば、そんな表情はしてくれないと嬉しいですね。一応、あんまりこの空気が好きじゃないから言わなかったことですから」

 

「……あ、その……すみません」

 

「いえいえ、こちらこそ気を使わせてすみません。とは言え、私が話せるのはそれくらいです。貴女の目の前に居るのは統制機構諜報部大尉のハザマ、それ以上の事は必要ですか?」

 

「……いえ、大丈夫です」

 

「なら安心ですね。明日は出発まで時間がだいぶありますけど、準備だけはしっかりしてください」

 ハザマさんはそう言って再度書類を相手に仕事を開始していた。

 私はただ、座ったまま書類に目を落とす。内容は何も入ってこない、気落ちした気分はなんとなくその場所の空気をも重くしたような気がした。

 そこで話は途絶え、私は書類をハザマさんに帰した後、すぐにその部屋から離れるように立ち去った。

 聞いてはいけないことを聞いてしまったことの罪悪感もあった。 だから、肝心なことを聞くことができなかった。

 

 この先、私はハザマさんの隣ではなく、反対側に立って対峙しなきゃならなくなる。

 もしこの時に聞くことができたなら、運命はどんなふうに動いていたのだろう。

 それは私にも、ハザマさんにも、ひょっとしたら神様にも分かんないことかもしれなかった。



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すてーじ7

投稿します。自己解釈が多く含まれているので注意してください。


 今晩は。色々略のハザマです。

 今日私は任務があります。勿論街の噂を調整するとかそういう任務ではなく、施設に侵入する偵察任務です。ちょっと違法研究やってるから、証拠見つけてきてねーっと、そんな内容でした。

 明らかに衛士に突入させて強制捜査した方が楽でしょう。上の方々は現場を知らないから困ります。

 抗議文でも送りつけようかと思っていました私でしたが、自身で調べてみると、どうやらその研究所にはお偉いさんの致命的な失態の証拠があるとのこと。

 そこで諜報部の出番です。秘密裏にその資料を回収して処分してこいと、そういう理由が裏に有りました。自分の失態は自分で何とかしてほしいところですけど……これだから使い走りは泣けてきます。

 それにそういう仕事(処理)は第零師団辺りに任せたいんですが……。

しかし、マコトさんにはただの諜報潜入任務だと伝えてあります。できればそういった裏については知らないで欲しいですね。

 ……さて、あまり気乗りはしませんけど、任務ならばそれに対して全力を尽くすべきなのです……が、

 

「ハザマ大尉、間もなく到着します。準備をお願いします」

 

「あ、ありがとうございます。あーっと、ナナヤ少尉?」

 

「……? どうかしましたかハザマ大尉?」

 

「あ……いえ、なんでもありません」

 

 いつものやり取りに見えますが、今回のそれは違っています。

 そう、何が違うかと言いますと、マコトさんの表情が……とくに浮かべるものも無く、無表情なんです。

 さて、この状況が私の今の悩みとなっていますね。

 今日はマコトさんに出会った瞬間から、任務への心構えができているかのように、言葉も最小限でわかりやすい言動で応えてくれます。

 仕事モードの中でもマジが付きそうなほど真剣…なんでしょうか? 真意は定かではありませんでした。

 無表情を読み取れというのは、諜報員大尉の私にとっても難しいんですよ。それが同じ諜報部となるともう……隠すことも仮面の重ね付けをしているぐらい表情が分かりません。マコトさんも最近習得してきたみたいなんです。

 なんでしょうかこのギスギスした空間? 

 ちょっとー、引き継ぎの諜報員さーん? 空気を読んで帰ってきてくださーい? 間が持たないんですよ。

 いつもなら任務だったとしても緊張ほぐしで、軽口ぐらいは叩くのですが、今回の会話の少なさと言ったらもう、過去最高と言えるでしょう。

 なにが原因? 私の記憶ないんです宣言にきまってるじゃないですか。絶対気を使わせてしまいましたよね、ええ。だから言いたくなかったんです。

 そうですか、と一言言って外を見続けるマコトさん。そこで終了する会話。

 重くなる空気。思わず私は呻いてしまいました。会話ができて、更に会話のネタがあるというのに話せないのは久方ぶり、というか初めての出来事のため、どうすれば良いか考え物なのです。

 視線を移すとそこには外を見てたたずむマコトさんの姿……と、心なしか落ち込んでいるように見える尻尾があります。

 ゆらゆらと揺れるそれですが、いつもよりも振れ幅が小さく、古時計のように左右に振れていました。

 

「………………尻尾」

 

 それは、まるで魅了の魔法のように見えます。

 同じ空間に居るなら、いつも話しているはずなのに話せないその状態は、私に余程のストレスを与えていたのでしょう。一種の欠乏症でしょうか?

 いつもマコトさん自身がふもふされてる尻尾に、なぜか今の私には猫じゃらしを前にした猫のような気分になりました。

 友人のみ、よく会話に出てくるツバキさんやノエルさんのみが触れる、至高の毛。そして、私は真面目な顔で決意しました。

 すっ、と頭を切り替えます。

 まず、気配をその場に残しました。そういった力は魔素の利用で何とかなりますが……これがまた難しい。ですが私はやり遂げます。

 気配を残しつつも接近したことに気がつかせない、無駄に高等テクニックを行う。

 そして私は諜報員として培ってきた気配の消去。そしてあとはゆっくりマコトさんに近づきました。

 三歩、二歩、一歩と近づいて……

 

 

 

 もふ

 

 

 

 

 

 任務へと向かう輸送機の中で、私はハザマさんについて考えていた。

 ハザマさんの正体、本人に聞いて返ってきたのは、何者であるか分からないという答えだった。

 考えてみれば無神経な言葉だ。一番不安だと言うのはハザマさん自身の筈だったのに。

 小さくため息をついて外を見た。雲の上に立っているような感覚は、統制機構の諜報員となって初めて感じる。

 

「(……らしくないな)」

 

  本当にそう思う。いつもの天真爛漫な私はどうした。こんなキャラは私に似合うようには思えない。

これではツバキやノエルに出会う前の私よりらしくない。前の私は周囲に反発してたけど、まだ前を向いていた。

 なんでこうなったか考えてみる。

 私のやってしまったことと言えば、ハザマさんに失言しただけだ。友人を傷つけるような事を言ってしまった事の自己嫌悪しているのだろう。

 

「(……ん?)」

 

 考えてみると私がブルーになっている理由が、最初からおかしい。

 上官とは言っても、友人としてはもうハザマさんには謝った。だったら私はもう何時もの通りになっているはずだ。事実、私も学生時代はジン・キサラギ先輩という男の友人ともいえる人も居た。

 以前家族のことを尋ねたとき、ハザマさんのときと同じように地雷を踏んだのを覚えている。だけどそのはすぐに切り替えることができた。だけどそれが無いのは……

 

「(……寂しい、のかな? そういう友達としてのやり取りが、ノエるんたちと出来ないのが)」

 

 だからハザマさんとやり取りをしているとき、そう感じてしまった。

 任官してまだ一年目。ノエルといいツバキといい、部隊に馴れるのに精一杯で、直に会うことはまだできないと考えた。

 今はまだ忙しい二人に迷惑をかけるわけにはいかない、多分私はそんなことを考えていたのではないかと思う。

 ……うわ、ますます私らしくない。

 メールもあるし電話もあるし無線さえもある諜報部、連絡する手段はいくらでもあるだろう。

 だったら連絡すればいい。そう考えてみると、ブルーな空気を出してハザマさんに迷惑をかけているのが、申し訳なく感じてきた。

 諜報員になったのだから、顔に今の感情を表すのを改めた方が良いだろう。

 ふっ、と息をついて私は顔を上げた。とりあえずハザマさんに迷惑をかけたのは後で謝るとして、今やるべきは任務への集中だ。

 意識を切り替える。普段の私から、任務を行うための自分へ。

 

 …………よし!!

 

 

 

 

 もふ

 

 

 

 

 

 

 …………出鼻をくじかれた、というのはこういうことを言うのか。

 集中し、思考をシリアスに変えようとした次の瞬間、尻尾からの感触にその集中は四散した。

 ハザマさんは動いていないはず、部屋からの気配が動いていないないからそう思っていたのに、いつの間にかその気配は私のすぐ後にある。

 どうやらハザマさんは動いていない、という気配を気で維持したまま気配を隠して私に近づいたようだ。諜報能力の無駄使いだと思うのは、私だけなんだろうか?

 もふもふ

 ……というか、ハザマさんは私をなんだと思っているんだろう。

 尻尾と言うからには、尾の逆で一番先にあるのは私のお尻だし、一応これでも私の性別は女なんだけど。

 もふもふもふ

 遠慮なんてなかったかのようにもふもふするハザマさん。手つきがいやらしいとか全くなくて、完全に愛護動物を愛でる手つきだ。

 私は叫ぶべきなのだろうか? いや、ハザマさんは友人だし、友人に尻尾を触られるぐらいで怒鳴るほど私も狭量じゃない。

 でもなんだろう、初めての男性の抱擁が尻尾にもふもふというのはいかがなものか。

 もふもふもふもふ

 

「…………」(#^ω^)ビキビキビキビキ

 

「ふんっ!」ボフン!

 

「ぎょえへ!?」

 

 とりあえず尻尾に力を込めてハザマさんを吹き飛ばす。そこにはガツン、と見事に後頭部が壁へとぶつかるハザマさんがいた。勿論私は上官相手だけど後悔はなかった。

 

---------------------------------

 

 気分は……そう、剥かれたてのゆで卵。艶やかな白い身体を見せ付けるように、私の表情も艶やかで素晴らしい笑みを浮かべているのでしょう。

 ……こぶができた頭以外は。

 

「……聞いてるんですかハザマさん? もう到着したんですから支度して下さい」

 

「ええ、大丈夫。もう準備万端ですよマコトさん?」

 

 そうして笑う私にジト目で返すマコトさん。どうやら私が無断で尻尾に触った事に対して怒っているようです。

 でも仕方ないじゃないですか。会話したくてもできないフラストレーションの蓄積状態で、あんな魅力的な尻尾を振るのが悪い。ええ、そうに決まっています!

 と、どうやら私の強攻策が上手くいったのか、マコトさんの表情もほぐれたため、結果オーライとしましょ う。ある程度の緊張感は必要ですが、必要以上に固いままでは上手く動けませんから。

 まあ、慰謝料に高級料理店奢りという代償が出ましたが、大したことでも在りませんし。

 

 ……? そういえば私はどうしてそこまでマコトさんに気をかけているんでしょうか?

 そもそも私がやったことってパワハラですか? 嫌がる女性に対してお尻(尾)を触る私……やばいですね。気をつけなければ。

 どうも、マコトさん相手だとスキンシップが行き過ぎてしまうようですね。なんででしょう?

 

 そう考えたのもつかの間、多分私が『楽しい』からだと考え直しました。

 

………………

…………

……

 さて、と。任務です。おふざけはこの辺りまでにしておきましょう。

 とある階層都市の下部に位置するその場所に、諜報先の研究施設はありました。

 軽口を叩きながらも此処まで来ましたが、マコトさんも任務に入るための表情へと変わっています。研究所入口が見える森の中から、マコトさんと最後の打ち合わせをしました。

 

「私はバックアップである事と、別任務が有るため指示は出しません。どうしても判断不能の場合のみ、渡した通信機で連絡してください」

 

「はい」

 

「ナナヤ少尉、任務の成功を祈っています」

 

「はっ」

 

 別任務、とは此処に関与している上層部(お偉いさん)の証拠を消せ、という奴ですね。流石にそれをマコトさんにやらせるわけにはいきませんから。

 マコトさんは研究所を潰すための証拠を取ってこいと。あと事前情報ではそこまで危険な場所でも無いので、見つからなければ楽に行けるでしょう。

 さて、そこで私はマコトさんと別れると、すぐに研究所へと侵入しました。簡単に侵入した、とは言いますが、事実侵入するのは簡単です。以前私がイカルガ戦の敵本陣に突っ込まされた件の隠密術式の魔導具が、一応の完成を見せたのですから。

 ローブのような、防寒着のような黒い衣装ですが、隠密性は抜群。師団長クラスの実力者でなければ、同じ部屋に居ても認識できないというスグレモノですよ? 赤外線は自力で避けましたが、侵入は余裕でした。

 ……装備した人が術式を使うと隠密性がぶっ壊れるのは変わりませんけど。これ欠陥品ですよね明らかに。

 つまり、何もしない限りは見つかる可能性も無いのです。

 

「(しかし……変な場所ですね)」

 

 研究所、と言う名称には偽り無く、白を基調とした空間には独特の薬剤の香りがします。

 扉から研究員が出てきたため、入れ替わるように部屋へと入りました。

 

 そこには、窯がありました。

 

 部屋の中心に位置する床には円状の穴があり、その少し周りを分厚いガラスが他界を区切るように存在していました。

 穴を直接見ることはありませんが、そこになんとなく存在すると言うことだけが身体で感じることができます。ガラスで阻まれているはずなのに、窯から洩れる熱のようなものが私の身体を吹き抜けていくような気がしました。

 

 

「(……なんですか、ここ)」

 

 

 妙な場所であることは確かです。そしてこの床に存在した穴を迷いなく『窯』だと私は断言しました。

 記憶に関わりがあるのか、とも思いましたが、それ以上に今は任務を達成しなければなりません。ひとまず意識をあたりの風景の観察へと配りました。

 数台の情報端末に、重ねられるように置かれた多数の書類があります。

 実は、重要な案件については、媒体が紙であることが多いのです。電子端末の方は、レリウス博士特製ウイルスに任せておきましょう。

 私は何枚か書類を手に取って目を通しました。

 ……ふむふむ、外的要因による術式敵性の増加、薬に於ける魔素運用法、魔素抗体細胞の開発……。

 おお! 素晴らしいですね! 魔素の利用についての考察は統制機構でも行われていますが、それを利用した魔獣の精製などには手をつけていません。ですから、この研究成果を統制機構に送れば、かなりの待遇が期待できるでしょう!

 ……無論それが違法でなければ、ですけどね。

 被験者の待遇、……まあこれは言うまでもないですね。

 実験を行った被験者は一応、生きてるといったとこですか?で、その被験者と言えば、浚ってきたか貧困層から買ってきたか。

 まあー調達先が階層都市の最下層からなら不思議でもありませんけど。

 で、実験の内容は……

 

「……あらら。これ、マコトさんが見たら怒るでしょうねぇ」

 

 実験内容は……一般的に残酷非道と呼ばれるものですか?

 魔素中毒汚染を軍事利用へ移せるか。獣が魔素に汚染されたのなら魔獣になる。ならば人を汚染した場合の『魔人』へ進化させる事は可能か、といった仮定を、実際に実験していますね。

 で、使えなくなった被験者は魔獣に食わせるか、焼却するか。まったく、大したリサイクルです。環境に悪くないだけ幸いですか?

 送られてきた情報には、危険性とかぐらいしか書いていなかったため、こういった存在があるのは予想外でした。

 

「ん~、流石に参りますねぇ。情報に差異が有ると困るのはこちらなんですから……」

 

 きちんと纏めて、注意点ぐらいは書いといてくださいよ。私は 情報を纏めた下士官を想像して、軽くため息を吐きました。

 相手はこちらを機械か何かと勘違いしているのでしょうか?  行動するのは私たち、肉体がある人間なのですから、紙に書いてあるよう動けるとは限りません。

 と、どうやらクローバー大佐のウイルスが処理が完了したようです。

 機械的な音が辺りに響き、窯を隔てるガラスが開かれました。それと同時にコンピュータのモニターには、ざくざくと言わんばかりの情報が表示されています。

 ……? 変ですね。お偉いさんの失態の証拠は無いように見えますが。あることと言えばここの機密だけです。

 どうやらこの場所にも『窯』と呼ばれるものが存在してますし、研究を続けているようです。

 

 そして……最終目標としては、人は神へと至れるか。『蒼』へと辿りつく事ができるのか、それを調べる実験………………

 

 

 

 

 

 

 蒼?

 

 

 

 

 

 

「……あ……お?」

 

 

 

 その言葉は、まるで私の中に最初から存在するかのように、すとんと頭の中に染み渡りました。

 勝手に体は窯へと向けられ、その中を確認しようとしています。そして、いつの間にか私は窯の淵に立ち、覗き見ていました。

 全ての感情が単調に感じて、そしてただ『蒼』という言葉のみに頭の思考性が向けられる。

 まるで私の感情という感情が、全てが嘘であり、私の全ては蒼のためにあったかのように……

 

 私に、本当に、感情が、有る?

 

 私がこの情報を、被験者となった人達の情報を見て、私は何を感じた?

 被験者に対する悲しみ? 無い。実験者に対する憎しみ? 無い。

 違う、興味が無いだけです。例えば今現在進行形でどこかで傷ついてる人が居ても、私は何も感じません。

 それが、この研究所で行われているとしても。

 諜報部に居る私にとっては当然でしょう。私が『私』ならば人が死ぬことに何か思うのは……

 

「……あ…れ? お、おかしいですね?」

 

 ぐらりと視界がぶれて、私は思わず眼をつぶりました。

 死に対しての嫌悪感。それは確かに私にも存在するのに、それが頭の中では嘘であると回答します。

 嘘? 嘘なのだろうか? 私の、私の、……

 

 ほんの数秒、私は眼をつぶっただけです。

 

 だと言うのに……

 

『なにが可笑しいんだ? ハザマちゃんよ』

 

 『彼』が、私が普段見ているはずの顔と同じ人が、私の視界へ入り込んでいました。

 

 

---------------------------

 

 

 そこは、私には、擬似的な地獄でも作り上げたかのようにも見えた。

 潜入に成功し、違法研究の証拠となる物は集めたから、任務もほぼ成功した。その時に感じていたのは歓喜と安堵だった。

 もちろん油断はしていない。渡された隠密の術式を装着させた魔導具があるとはいえ、使い慣れていないものに頼るほど未熟でもなかった。

だけど、次に感じたのは憤怒。

 この研究所で行われていた研究の残虐性、物理的外圧耐性の調査、新薬投薬、獣人が保持する魔素汚染による耐性調査、新型細胞の移植……

 それは明らかに非人道的な研究であり、このような扱いをする研究者たちには嫌悪感しか浮かばなかった。

そして、三つ目に感じたのは……

 

「(……うっ……おええ)」

 

 その光景に対する、はっきりとした拒絶。

 空調ダストの合間からその光景を見たとき、私はたまらずその場に胃の中身を吐き出した。

 元より胃に入っているものなんてない。それがけが不幸中の幸いで、暗闇でも胃液ばかりの吐瀉物がやけにリアルに感じた。

 再度、その光景を視界に入れる。情報を得ること、それこそが諜報員の本質であり、やらなければならないこと。

 だけど、それは私は見たくはなかった。

 

『蒼、アオ! 蒼!蒼!蒼蒼蒼蒼蒼蒼蒼キィシシシシシシィ!』

 

『体が消 る早く オを 求め けれ 、いや 食う? 消える? 食う、食う、食う! 食う! 食う!』

 

 人の形だったはずの者が、黒い液体状の物質へと変わる。左右の目が別の方向を向き、口から涎を流し呻く者がいる。

 隣に居た者の姿を見て、舌を噛みちぎり絶命している者がいる。

 降ろされたガラスのシャッターのみに遮られ、次の死を待つ被験者がいる。

 それを見ても何の感慨もなく資料片手に書き込みをする研究者がいる。

 その現象を私は知らない。魔素中毒の結果がこれではないはずなのに、私は人間から黒い魔素の塊になった存在に気持ち悪いと考えた。

 違う、本当に気持ちが悪かったのは、この研究所全体から流れる空気だ。淀み濁り、それを良しとして汚染を続けるこの場所の空気。まるで正常であることこそが異常であると言わんばかりの光景。

 最初から感じていた。潜入任務としても、二人という少人数での行動は私は初めてだった。だからこの淀んだ空気に深刻には思わなかった。

 全部、"正常"なのだ。人が喰われることも、死へと向かうことも、それを肯定さえすることも。この場所、この空間では。

 

「(……どう、しよう)」

 

 腕で口を拭い、私は停止していた頭を動かし始めた。目の前の光景に対して思い描いたことは一つだ。

 この研究を壊し、被験者たちを助ける。自分には今成せるだけの力があり、すでにそのための気力は問題ない。意気は消沈している。だけど、目の前に広がる光景にいる者たちが敵だとするならば。

 装備した十字のトンファーを握りしめ、小さく息を吐いた。

 本来諜報員に戦闘技能はそこまで重要ではない。だけど私がここにいるのは、世界を知りたかったから、それも勿論あるけれど、友と呼べる二人の力になりたかったから。

 共に衛士になると思っていたノエルはキサラギ先輩の秘書官として引き抜かれ、ツバキは始めから私達とは違う部隊に行くと決めていたようだ。

 私が彼女達と共に立つ事は無い。だから私は諜報員となった。諜報員という立場なら、二人が本当に困ったとき、力になれると思ったから。そんな単純な理由もある。

 私が此処に居るのはそんな因果だ。諜報員としても、衛士としても私は今十分戦える。

 だけど、

 

「(……越権、いや逸脱行為、かな)」

 

 諜報員が情報を集め、衛士は武力をもって摘発する。

 早く事件を解決するために、一番始めに情報を集めるという立場。私のしようとしていることは、ここから大きく外れていた。

 小さく息を吐いて、通信機の術式コードを入力する。砂嵐の音が聞こえたのも束の間、糸がちぎれたような音が聞こえて向こう側と繋がった。

 

「……TGMJDAJ」

 

『AGTGPMDG。はい、何が起こりましたかマコトさん?』

 

 規定の暗号文を伝え返ってきたのは、いつもの飄々としたハザマさんの声だった。

 だけど、心なしかその声は暗い。

 

「ハザマ大尉、実験内容と資金源のデータを回収しました」

 

『ご苦労様です。では、今から撤退しますので準備を……』

「そして今実験を行っている場所へと立ち合いました」

『----。』

 

 ハザマさんが小さく息をのんだのが聞こえる。その反応に私は分かった。

 

『そうですか。ですが今は撤退しますよ』

 

『ハザマ大尉は実験がどのような内容なのか分かっているのですよね?』

 

『……ええ。資料に書いてない場所の事は予想外でしたけど』

 

 目の前の、人を人として見ない光景を、ハザマさんは知っていると言った。だけど、私には退けと言った。

 当然だ。諜報員としてそれは模範解答だ。私の行動はそれから真っ先に反発するものだから。

 

『……データは私の端末から本部へと送りました。私は少し用事ができましたが、合流時刻までには帰還します』

 

『マコトさん? 貴女は何を考えているんですか!?』

 

「……」

 

 私はハザマさんのその言葉を最後に通信を切った。

 やらないといけない事がある。

 目の前の光景をぶっ潰して、皆助け出して帰還すること。口の中でゴメン、と小さくハザマさんに謝った。だけど、それでも私は納得ができないから。目の前の人だけでも救いたいから。そのための力を振るうために、私はゆっくり拳を振りかぶった。

 



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すてーじ8

自己解釈が多く含まれます。


 一方的に切られた通信に、私は思わず奥歯で歯軋りしていました。

 勝手な行動をとられた事に面倒だと思うことと、無関心であることがいっぺんに溢れ出し、また違和感に対して目眩が起きたからです。

 

「おーおーおー、ヤベーなおい。独断行動なんて面倒なことよくやるもんだな、お前の部下は」

 

「…………あなた…は?」

 

 額を押さえて窯を背に立つ目の前の存在を睨みます。

 ダークグレーのスーツに緑の髪を隠す帽子。そしてその表情には三日月のような笑みが張り付いていました。

 『彼』が何か。 頭の中では理解してはいたのでしょう。もしも私が普通の状態だったとしたなら、気楽に話し掛けていたのではないでしょうか?

 ですが今はそれができない。『私』という感性が不明確なものとなって認識できない今の私は、不安定な状態であるのでしょう。

 

「あん? なんだよハザマちゃん。七年間もずっといたのにそいつは悲しいじゃねぇか」

 

 ……成る程亡霊、ですか。言い得て妙ですね。今までともにいたかもしれない存在、名前だけは知っているかもしれないその存在へと尋ねました。

 

「貴方が『テルミ』ですか?」

 

「ああ」

 

 かつて、私の身体に亡霊が居るという医者の話は的中していたようです。

 目の前の存在には気配がありません。魔導具を使用しているようにも見えず、私は目の前の存在が『存在していない』と認識しました。

 ……性格が悪いとは思ってはいましたが、話さなくても目の前の笑顔の形だけでもその事は納得できますね。

 頭痛を伴いながらも、机に寄り掛かっていた身体を起こしました。

 ……妙ですね。私、という存在は目の前の人物に何も思いません。そもそも何かに対して何かを思うことができません。

 

 何が喜びで、何が哀しみで、何が楽しみで、何が…………

 

 

「そういう俺の『人形』は、いつまでそうして遊んでいる気なんだ?」

 

 

 そろそろ操り糸を直す気にはなったのか?

 そう続いた言葉よりも、私の中に残ったのは文の中の単語だった。

 

 『人形』と。

 『彼』は私へ楽しげに嘲笑(わら)いかけた。

 

「人…形?」

 

「そう、人形だよ。お前っていう存在は元々俺がこの世界へと存在するための器だ。……だっていうのにお前は俺の器を満たして突然に現れた。まあーこいつはレリウスのミスだ。あのオッサン、適当に機能やら実験やらやったから、お前っていう魂ができたんだろ。お前を責めるつもりはねぇよ」

 

 ぐしゃりと、影が身体を飲み込むかのように、『彼』の言葉が私を侵食していく。

これが感情で表すならば『哀』なのだろうか? 誰もが探していたはずの存在理由は、目の前の存在のためだったのか?

 声が、がらんどうに響く声が、『私』という存在を崩していく。

 

「『窯』の上に建てられたこの場所なら、一時的とはいえお前が『蒼』に覚醒することもできる。現に干渉術式を展開しなくても、俺はお前の前に存在してんだろ? いやー苦労したわ、俺がいろいろやっても大丈夫な場所探すのは。ぶっちゃけ役立たずの窯なんてそうあるもんじゃねぇから。今じゃなかったら俺からお前に伝える意味もない」

 

「……貴方は……『何』ですか?」

 

「何者、じゃなくて何と来たか。へ~、知りたいのか?」

 

 正直、ここで実行に移すための苦労話は、耳の中に入ってこない。

 ただ、ここにいる私はやらなければならない。

 気が付いてしまった。今の私には足場がない。

 私、という存在を確立させるための足場がない。何者かも分からず、身体的の感覚はあるのに世界という存在に刺激が無い。

 

 『私』という魂が体から抜けたように感じた。

 だから取り戻さなければならなかった。感情を、そこから抜け落ちたものを。

 

 

「『はぁ? 『取り戻す』? お前本気でそれ言っちゃってんの?」

 

 

 私の考えた言葉に『彼』は本気で呆れたように答えた。

 なぜ、とは聞けなかった。それよりも『彼』が私に答えを返す方が早かったからだ。

 

「あ、今なんでって思った? 分かって当然だろ? 『俺はお前』だ。俺のことを俺が分かんねぇ理屈があるけ無ぇだろうが! そ・も・そ・も、別に俺は何も奪っちゃいない。お前が俺を見て感情ってやつを模倣していただけだ」

 

 私の感情が、模倣?

 私の意思を無視して彼の言葉は続く。

 

「ぎゃっははははははははは!! そうだその通りだ! 今の今まで気が付かなかったのかよチョーウケる! お前はただ染まったと思い込んでいただけだ。俺という存在が唾棄した感情。それをお前の魂が得てその色を模倣した。一般論理を基調にした偽りの色。こうであるだろう、という外界からの刺激を俺の捨てた感情にフィルターを通して見ただけの世界、それがお前の持つ全てだ。お前が作り出した線引きなんてものは全て偽物なんだよ。

お前、ここまで言ってなにも分からないのか? 何色でもなく何色にも染まっていない無色。そうだ、お前にはもともと感情自体存在していない。奪う、とお前は言うが俺は返してもらっただけだ。

なあ、そろそろいいだろ? お前の『嘘』の世界を見るのはもうやめだ。そろそろ返してもらう」

 

 ニヤリ、そう『彼』は三日月のような笑みを見せる。伸ばされた手は私の頭をつかみ、私の視界は掌によって塞がれた。

 その瞬間、帰ってくる。無色だったはずの景色に色が付きました。

 『彼』の言葉に対して持った絶望、哀と呼ばれる感情、それが溢れだしていたのです。だから、理解してしまいました。

 

 今の私、というのは嘘、嘘でしかない。

 

 この身体もそう、この世界を見ることも、この世界に寄せる感情も、それは私ではなく本能的に『彼』を通した世界でしかないのです。

 

 私は、自身が『無色(わたし)』であることを知ってしまった。

 

 記憶喪失だと考えていたのは、無意識のうちにそのことを頭の片隅に置いていたからでしょう。

 ですが、レリウス大佐によって造られたこの身体にはもともと記憶はなく、ただ技能だけがそこにありました。

 魂に色が無く何も感じない。それは足元が無であり、どこまでも落ちていくような恐怖がありました。だから、『彼』の差し出された手は甘美に見えたのです。

 

「次元干渉虚数方陣展開」

 

 『彼』が呟いたその瞬間、私という存在に新たな色が混ざりました。

 自身の作り出した『蒼の魔導書』。境界へと触れ蒼の力を取り出す様に、『私』という存在のあるべき姿が、そう

 

 『彼』が、世界に蓄積された彼の智が境界から流れ込んでくる。

 

 私の周りの空間へと魔方陣が展開されていました。

 なんと、綺麗な世界なのでしょうか。その世界には『嘘』が無い。私という存在が、私が、『無色』であるはずの私が見る世界が、嘘ではない。

 当然でした。この世界を見ているのは『彼』です。『彼』が見ているからこそこの世界は本物へと変わっていきました。

 喜び。『彼』の見る世界は『彼』の喜びで満ち溢れています。

 私が、『彼』となっていくのが感じました。でも、それが私はとても素晴らしいものだと思ったのです。

 

 そこに感情と言う名の色があるのですから。

 こんな、偽物ではなく、本物の世界を見ることができるなら、偽物である私は…………

 

 『彼』の手によって塞がれた掌の中で、私はゆっくりまどろむように眼をつぶりました。

 ひどく眠いのです。暖かい意識の中に私が溶けていくことは『本当』であったから、それがとても心地よいものであったから、

 私は、このまま、『彼』に………

 

「やれやれ、あと少し、といったところか」

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 魔素の黒い塊が最後に残り、被験者達が黒い塊の餌になろうとしている。

 今回の実験は強い魔素中毒者に肉体を与えること、そしてどこまで生物兵器として利用できるかの実験らしい。

 生物兵器とされるのは、今回被験者達を喰らい人ぐらいの大きさとなった黒い塊だろう。

 半液体状の身体を纏めるように頭の部分には白い骸骨の仮面があり、その姿は見方によっては布にも煙にもスライムにも見える。

 次にその黒い塊が眼を付けたのは、その被験者達と言う名の食料だろう。

 それを思い返す前に、私はダストの入口を拳で突き破り、部屋へと飛び降りた。瞬間、被験者と黒い塊を遮っていた強化ガラスが左右へと開いた。

 突如現れた私という存在に誰もが眼を白黒している。それを無視して動く存在は二つだった。一つは私、もう一つが食欲のみで動く黒い塊だ。

 強化ガラスで遮られていた被験者達へと、黒い塊はぐちゃりと音を立てて飛び込んだ。黒い塊の腹に当たる場所が開く。そこには獣の口のように無数の歯が存在していた。

 その様子を見た被験者は恐らく恐怖があったに違いない。だが、その歯が到着する前に、私の拳が顔に当たる部分へと突き刺さっていた。

 

「ーーー!!?!?」

 

 壁に投げつけた泥団子のように黒い塊は壁へと激突する。 手に付着した液体の臭いに私は思わず顔をしかめた。獣を素手で殺したように、手に着いていたのは黒く変色した獣の血だった。

 白い骸骨の面がこちらへと向く。体勢を整えるのに使われたのは人間の足の骨だ。ゴミ袋から鋭利な廃材が突き出るように、その身体からは無数の長い骨が見えている。

 

「お前 ぜ、 たしの邪 を る?」

 

 ノイズまみれのラジオみたいに聞き取りにくいその声に、私はふんと鼻をならした。

 目配せしたのは後ろにいる被験者たち。数は3人で全員少年少女と呼べる年代の子供だった。眼には光が無く、虚ろだった。

 次に目配せしたのは、上から見上げてくる研究者たち。殆どの人が白衣を着て、私と言う存在を対処するために、慌ただしく動いている。やがて耳障りな警告音とともに、赤いランプが辺りを囃し立てた。

 続々と集まってくる気配と、目の前の私へと標的を変えた黒い塊に私は小さく舌打ちをした。

 この研究所で雇っていた傭兵か、それとも警備員か。駆けつけてくるかもしれない。

 どちらにしても関係ない。ハザマさんには悪いけれども、もう行動は起こしてしまった。あとは生き残るだけだ。

 

「あなた……だれ?」

 

 被験者の一人である黒髪の少女がそう私に訊ねた。

 

「統制機構です。あなたたちの保護、救助に来ました」

 

 私は小さく微笑みそう返した。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 実験室へと現れた一人の侵入者を、その老人はモニター越しでその様子を見ていた。頭は全て白髪へと変わり、よれよれになった白衣とその身体に刻まれた皺は生きてきた年代を想像させる。

 その男はこの研究所の所長だった。けたましく鳴る警報の音にも、視界を阻害するような赤いランプの警告表示も、興味を持った様子はない。

 ただ実験が止まってしまったことに対して、残念だと思う程度が今の男の現状だった。

 

「所長! なにを悠長にしているのですか! ガサ入れが入ったんですよ?! ……くそ、役に立たない傭兵どもめ、なにをしていたんだ!」

 

 そんなことは言われなくてもわかっている。

 生粋の研究者しかいないこの場所では、あの侵入者を処理すればどうにでもなるということに気が付かないのだろう。改めて自身の研究気質と周りの無知さにため息が出る。

 だが、男も内心ではもう潮時とも考えていた。施設の周りには非合法ではあるが守るだけの戦力は揃えている。だが、中への干渉はまた別の話だ。

 この施設は統制機構の法に照らし合わせるならば、非合法であるわけではない。なぜならこの施設は今なお、統制機構の管理下の場所なのだから。無論、実験が合法であるわけではないのだが。

 本来この施設は窯の調査と、魔素に関する研究を行う場所だった。だが窯の存在とその叡智、『蒼』へと惹かれてしまった男が居た。それが、この研究所の所長だ。

 研究者としての探究心、そして蒼の引力によって魅せられた。そこから実験はエスカレートしていったと考えてもいいだろう。

 

「……所長!聞いているのですか!」

 

「聞いておる。少し黙るといい」

 

 ほかの連中はとっくに地下の避難所へと行っているのだろう。傭兵たちもそこへと行ってしまった、もしくは逃げたかもしれない。どちらにしても無駄なことだと考えた。統制機構の汚物は統制機構が処理をする。

 今更逃げる程度であの師団から逃げられるとは到底考えることなどできようもない。帝の近衛となるための衛士が経験する場所、その師団の戦力は他の物とは比べ物にならないのだから。

 

「ふむ……今宵も蒼へと到着することは叶わんか」

 

 境界を除いた結果知りえたことはどれも同じだった。ただこの世界がいつまでも繰り返し、いつどの場面でも自分という存在はこの場所で朽ちていく。変えようのない事実。そこまで気が付いただけでも、この所長は世界の真実に近づいていたともいえる。

 ただ、今回侵入者がひそかに入り込んでいたのは想定外ではあったが。あの師団ならば隠密なんてものは関係ない。処理のために時には殺害さえも辞さないだろう。本来そういった部隊なのだから。

 となりで何か話しかけてくる研究員の声が無くなった。見れば、その喉からは鋭利な刃の切っ先が顔を見せている。

 その数秒もたたないうちに、それを取ろうともがく研究員の頭に新たなナイフが突き刺さった。

 

「こーんにーちわー。ちっとゴミ処理に来たんだけど、まだ生きてっかジジイ?」

 

 横にスライドするタイプのドアをわざわざ蹴破り、入ってくる声が一つ。

 毒々しい緑の頭は帽子で覆われており、身体はダークグレーのスーツで着こまれている。

 印象に残ったのは男の顔に張り付いている三日月の笑みだ。相変わらずだ、と男はごちると、椅子を回してゆっくりと対面した。

 

「ふむ……今回は些か早かろう。前回よりも十八分二十五秒も速い。私用でもあったかな?」

 

「今回も、ってことはジジイも相変わらず辿り着いたわけだな。ま、ベタな言葉で言うなら、これから死ぬのに能書きもなにも必要ねぇってことだ」

 

「カカッ、それもそうだ。テルミ、悪党らしいセリフは貴様が言うとやけに様になる」

 

 男は理解していた。

 自分はこの世界を微塵とも動かすことはできず、ただ蒼に魅せられた愚か者が居た、という記憶だけがこの世界に残ると。

 蒼に惹かれ流れ込む知識に意識も体も崩壊した者を今回の実験に用いた。殆どの者は既に汚染はC、もしくはDまで進んでいる。もとに戻る術は存在しないだろう。

 

「テルミ知ってるか? この研究所は魔素を使った人間の進化実験を主としていた」

 

 片手で椅子の横にある情報端末を操作する。

 

「だがそれは、他の実験動物で成功例が出たからこそ、進化できるという仮定は存在する」

 

 辺りに紫色の警告灯が視界を埋め尽くした。

 瞬間、壁だと思われていた場所が上下に開き、そこに空洞ができる。

 そこから見えたのは無数の光る眼、生きたものの存在がそこから溢れテルミの周りへと姿を現した。

 

「……魔獣、ねぇ。俺様が獣クセェのは嫌いだってわかってやってんのか?」

 

 そこには、黒く汚染されたオオカミ達がいた。

 大戦期、黒き獣の存在によって汚染された獣たちの末路。現在は魔素に対して抵抗のある動物も増えたが、それを無視して人工的に魔獣をつくっていた。

 呆れが全部で埋め尽くされたテルミは、大きくため息を吐いた。スーツのクリーニングだってただではない。汚したくはないというのが本音である。

 

「ああ。この世界に不要な、どこにも棄てられない廃棄物たちだ。貴様も暇だろう。これらの処分は貴様に任せるとしようか」

 

「ケッ、まあジジイがここで死ぬことは変わり無ぇんだけどな。さっさと死んどけクソジジイ」

 

 なんの殺意も無くテルミの手から放たれたナイフは、吸い込まれるように男の頭へと突き刺さる。

 自分にナイフが刺さった、と気が付いたのは死ぬ直前にテルミがため息をついているのを見た時だ。

 この体も、魂も、蒼へと回帰する。なれば今度こそ蒼へとたどり着けるかもしれない。

 男が思考を動かすより先に、体のすべての身体機能が止まるほうが早かった。

 

「さてと、窯の情報も研究員も全部殺った。あとは……ゴミ処理部隊に任せるとするか」

 

 テルミは周りの魔獣たちを一目見て、大きく溜息をついた。

 



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ざうぇーるふぇいといずたーにんぐ

独自設定があります。


 風景が高速で周りを流れていく。だというのにその光景全てが私の頭へと流れ、そして理解していきました。

 『私』という存在が、『彼』という存在へと、変わっている、いえ、溶けている、という言葉が正しいのでしょう。

 同時に流れてくる『彼』という存在の情報。ただ押し責める急流のように頭の中へと駆け巡りました。

 

「お前は偽物だが本物だ。お前であると同時に俺でもある。だからこそわかるだろう?」

 

 『それは境界を通して見た、一人の青年の姿でした。

 甘い、綺麗なだけの世界に訪れた世界の汚点。それがその青年へと笑いかけました。

 その結果、無垢の、黒き獣の瘴気すら浄化するその少女を、『彼』は騙した。それが始まり』

 その時の感情が、その時の世界が、私も『彼』であったときのように歓喜という感情を見せました。

 綺麗なだけの、嘘だらけの世界。

 なんて気持ちの悪い世界なのだろう。そこに居ることの意味さえ知らず、誰もが自分の足元も分からず過ごしている。

 だというのに、顔に笑顔を張り付かせ生きている。隣の不幸も知らず、本当の幸福さえ知らない。

なんて、つまらない世界なのでしょう。

 

 だから、壊す。

 

 この嘘が満ちた世界を、限りある本当でリアルへと変えていく。そして世界には本当だけを残す。甘い、気持ち悪い、そんな世界を良しとしない。そのための力。そのための、『彼』……『テルミ』という存在の復活。

 私は、『彼』が見る世界に惹かれていくのが……いえ、『彼』へとなっていくのが感じます。

 周りに映る世界が何もない、無色へと変わりました。それは境界を通して見た、本来の私という存在の姿でした。

 この躰は、人形師レリウス・クローバーが本当の持ち主が宿すために作り出した。つまり、私という存在はもともとの持ち主へ躰を戻すために存在していたのです。

 だれもが生きる目的を持っている。今までそれを知らずにいた嘘の『私』はすでにここには存在せず、本当である私がここに居ます。

 それなら私は、ここで溶けていくことが本当になるための唯一でしょう。

 だけど、それも悪くはない。だって、私という存在がこの世界を『真実』へと導くための礎となるのなら。

 今だって情報の奔流は続いています。だが『私/俺』それでいい――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

『ハザマさん』

 

 

 

 

 

 

 

 だというのにその声が、聞こえたのです。

 

 風景は変わりました。

 いつか見た木の上、缶入りのお酒を飲みながら『マコト・ナナヤ』と酒盛りをする光景。

 記憶の焼き増しであることは、その光景を少し離れた場所で客観的に見ている『俺』がいるからだろう。くだらないことを話し、くだらないことで笑い、くだらない時間を過ごしている嘘の『私』という存在。

 なんて滑稽だったんだ、と一人ごちました。

 その姿は、人形がまるで自分のことを『本当』だと思い込みながら、真実さえも知らない『嘘』と笑い合っている。

 思わずその姿に嫌悪した。『俺』が獣臭いもの自体が嫌いだということもある。

 頭の中でイメージとともに、蛇のような鎖をその場で出現させた。アークエネミー、戦い方、殺し方。『俺』のすべてが躰へと情報となって巡ってくる。

 この空間に対してなぜか激しい嫌悪感を抱く。気に入らない。この光景が存在している自体、『俺』にとっては気に入らなかった。

 この空間が『私』の見る光景なら、終わらせる。こんな世界を『俺』は望んでいない。そのために……壊す。

 術式を発動する。アークエネミー・ウロボロス。自分の最たる力を今ここに発動させた。

 

 

 

 

 \さあ、始めよう。『俺』が望み『俺』が叶えられる世界に戻るために\

   \さあ、始めよう。『私』が望み『私』が愛しんだ世界へと戻るために \

 

 

 

 

 

「………………あ?」

 

 

 

 

 

 

 

 その声を出したのは『彼』でした。

 『私』が見ていた光景、マコトさんと私が談笑する姿へ向かって伸ばしていた『彼』の腕を、私は掴みました。

 瞬間、すれ違う二振りのダガーナイフ。首元へと向かう『彼』のそれをダガーナイフで弾き、術式による跳躍で互いに距離を取りました。

 

 

「「ウロボロス!!」」

 

 互いに向かう緑の蛇を模した鎖が宙の空間を掴む。鎖を収縮させつつ大きく円を描くように跳躍した『彼』は、懐の投合用ナイフをこちらへと投げ、そのまま構え、それを私はウロボロスを振るい全て叩き落としました。

 着地しだらりとした構えを見せる『彼』は、片手にダガーナイフ、片手の指に統合用ナイフを掴み、忌々しくこちらを見ています。

 風景が変わりました。

 そこは大きな円状の部屋。照明が存在しないにも関わらずぼんやりと視界が分かるその場所の名称が、境界から流れ込んできます。

 イシャナ、聖堂の最深部、ある『彼』が『真実』へと変わった場所。私にとってこの研究所が『真実』への入り口なら、『彼』にとってはそこが入り口だと言えるのでしょう。

 

「……なんでお前が此処にいやがる。ああ!? ハザマちゃんよ!?」

 

「なぜと言われましても……どうやらここ私の精神世界ですし。あ、ウロボロス使い方わかりましたよ。こんなに便利なら初めから教えてくれればよかったのに」

 

 ナイフだって馬鹿にできない値段するんですから……

 帽子を直しながらため息をつく姿を睨みつけてきます。ひょうひょうとした姿からは自分の気配も感じるというのに、完璧に『ハザマ()』へと戻っていました。

 

 私はダガーナイフを構えつつ、『彼』へと視線を配ります。相変わらず流れ込んでくる情報が邪魔だと思いつつも、『彼』の戦闘に関する知識は大したものです。

 ……というか、アークエネミーというトンデモ兵器を説明書無しってどんだけ危ないんですか。めちゃくちゃ重い隠密術式の魔導具だって説明書ぐらいありましたよ。

 くそ、今回の任務も結局魔導具壊れましたよぜったい。請求書とか来たらどうするんですかもう!

 それよりなにより……私に取りついていた悪霊とやらが面倒な人だった件について。どうしたらいいんでしょう。

 いや獣兵衛さんとなにやら陰険な仲でしたからなんとなくは分かりましたけど……とりあえず『テルミさんはマジ鬼畜』です。私? いやノーマルです。

 

「……境界からの知識はお前という存在をぶっ壊すほどのもんだ。馬鹿な科学者がゴミに成り下がったようにな。だから俺の魂と統合しようとした。俺ならそれをどうにかできる。……だってのに、どうしてお前が存在してんのにこの躰は汚染されない?」

 

「うーん……それなんですけど……、ほら、境界から主に流れるのは貴方の記憶なんですよね。なんか制限しているみたいですし、ちょっと世界の前後についての情報程度は入ってきましたけど」

 

 ただ頭がパーンになるほどの知識はありませんでしたね。流れてくる知識はほとんど貴方とかについての知識ですよ?

 それにゴミって、たしか今絶賛指名手配中のアラクネさんですよね? 下手したら私もああなってたんでしょうか?

 

「んー、いろいろ知りすぎてちょっと混乱しましたけど、貴方にとっては少し時期が遅れてしまったようですね」

 

「時期……だ?」

 

 おそらく彼の目論見だと、境界へと接触させ私が『無』であると理解させ、その間に魂を統合しちゃいましょうと、そういう考えがあったのでしょう。

 だからそのために私という魂の色が染まりきってはいけない。現に、イシャナでの青年は染まりきっていませんでしたから。

 『私は私であると同時に彼でもあった』

 それは私という魂が『彼』の魂に染まりきろうとしたから、そう錯覚しました。

 

「ただ、私は知ってたんですよね。貴方ではなく、私の中にある『真実』というものの形を」

 

 確かに私は喜び、悲しみという意味を貴方というフィルターを通して知りました。それから生きていった六年間、私は本当の私の感情へと出会うことが無かったのですから。

 死に対しては仮初の嫌悪感を抱き、酒を飲むという行為に嘘の喜びを知る。

 だから違和感がありました。思い入れることができなかった。なぜならそれらは全て偽物だったのですから。

 

「でも、私が『彼女』と話した時の感情は、『本当(しんじつ)』なんですよ」

 

 共にふざけあうことに対して、私は確かに『楽しい』という感情を見つけました。

 さっきの光景、木の上で空に描かれた花火を見たとき『綺麗』だと私は思いました。

 此処への移動中、居心地の悪い空気で話せない事が『寂しく』なり、『悩み』ました。

 私はとっくの昔に『彼女』のおかげで、『私』という存在を観測(み)ていたんです。ただ、それが今の今まで分からなかった。だから『彼』の魂に染まりそうになったということでしょうか?

 イシャナで自分の魂を染められ切ってしまった青年と私、立場はほとんど一緒だったと言えるでしょう。

 ですが私には『彼女』が居た。『私』という存在を友と呼び、共に笑いあうことのできる存在が。

 綺麗ではない、汚く暗い、戦慄も恐怖も慟哭も憎悪も満ち溢れている、諜報部という存在なのに『彼女』がいました。

 私も『彼』に染まっていないと言われればそれは嘘になります。行動を全て抜いて考えれば、確かに『真実』を重んじるその姿は私も嫌いではありません。『真実』が大切であるということも理解できます。

だからこそ、

 

「ですが今、貴方によって私の『真実』が壊されようとしている」

 

 ああ、なるほど、理解しました。

 これが憤怒。身体を熱くさせ、視界がわずかに狭くなる。胸から込み上げてくる破壊の衝動。そしてそれを抑える痛み。

 全て、消させるわけにはいかない。

 

「私は『統制機構諜報部のハザマさん』ですよ。決して『私は貴方ではない』。だからこそ『私』はこうして存在している。『貴方とは違うんです』」

 

 構えていたナイフの切っ先を『彼』へと向け、明確な敵対表示をしました。

 まったく、なにが破壊して真実を露わにしよう、ですか。私の生涯目標は、安定した仕事について結婚して適当に幸福になることでしょう。地味? 生涯目標が世界を滅ぼすとかより何倍もマシですよ。

 なんという黒歴史化。おそらく私の立場じゃなかった大爆笑してやりましたよ。……目の前のお方はその黒歴史の真っ最中でした。自重します。

 

「……ク」

 

 と、ナイフの切っ先を向けていた私でしたが、何やら彼の様子がおかしい。

 顔に手を当てているさまは、泣いているようにも見えます。

 

 

「ッくっくっく……ぎゃっはははははははははははははは!!! おいおいマジかよハザマちゃんそんなこと言っちゃうか普通。どんなギャグなんだよそれチョーウケるんだけどォ!?」

 

 心の底からおかしいと言った様子で、彼は腹を抱えて笑いました。大爆笑です。

 泣いているのかと一瞬でも思った私を殴ってやりたくなりました。

 

「うーん、そんなにおかしいことを言ったつもりはないんですけどね」

 

「おいおいおいおい素でそれかよおい! やっべツボに入った。っくっく、よくもそこまであの獣臭ぇ女に入れ込めたもんだな。まあー所詮『人形』ごときには人間の女は不相応ってことか!」

 

「いやーその『人形』の躰を盗人のように横取りしなければ存在できない『亡霊』様は言う事が違いますね。貴方充実できたことあるんですか? あ、申しわけありません。分かっているのに質問は失礼でしたね」

 

「おいおい本当かどうかも分からない感情に一喜一憂していた『人形』が充実を語んのか。そこまでいい女なのかよあの畜生はよ。今度穴貸せよ」

 

「御冗談を。自身が私の中でニートやってる引き籠りが女性の事を語れるほど経験があるんですか? おっと忘れてました、だから盗人になって私の躰を盗もうとしていたんでしたっけ」

 

「くくっ、よくもまあ人形ごときがそこまで舌が回るもんだ。知識を得てちょっと頭が良くなった気になっちまったのか?」

 

「貴方の知識のボキャブラリーは素晴らしいですね。こうして言われたいだなんて、ひょっとしなくても貴方マゾですね」

 

「くく、くっくっくっくっくっくっく」

 

「あはははははははははは」

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………殺しますね」

 

「そんなに死にてぇならぶっ殺してやるよハザマちゃんよォ!!!!!!」

 

 ああ、頭にきた。私の事ならいい。だけど『彼女』を侮辱するなら話は別です。

 召喚された互いのウロボロスが空中でぶつかり合いました。

 彼もそれを承知でいたのでしょう。ひしゃげたウロボロスの鎖を収縮させ跳躍し、再度体を弾くようにこちらに飛来したようです。

 対して私は鉄鎖術を用いウロボロスを振るう。それをよけるために空中で再度撥ねた『彼』は懐のナイフを投合しました。

 高速で動くそれらに私の体は勝手に動き、さらに自分のイメージ通りに動かすことができる。

 この場所が私の精神世界であることもあるのでしょう。異物である『彼』の動きは、素の私でも見切れるほど陳腐なものでした。

 無論、そう思わせる行動だと私も理解していますけど。

 十数合打ち合った後、彼が投合し地面へと突き刺さったナイフを、つけられていた糸が収縮することによって再度私の死角から飛来する。

 実戦経験の差とも言えるでしょう。その行動によって体制を崩された私は、大きく地面を踏みしめ後方へと跳躍しました。

 そして、追撃するようにこちらへ向かうウロボロス。錬金によって強化されたダガーナイフで私はそれを止めようとしました。

 が、ウロボロスは私に到達する直前で止まっています。

 

「……は?」

 

「なに呆けてんだハザマちゃんよ!」

 

 ウロボロスの鎖を収縮することによる高速移動。一気に密着してきた彼のナイフが私の体へと向かい、それを私は弾いて……

 

「牙砕衝!」

 

 そう考えていた私の腕が、彼の弾くことを目的とした斬撃によって弾かれていました。

 こじ開けられるように構えていたはずの腕を遊ばせ、胸への防御をおろそかにする状態になったと気が付きましたが、身体はそうは動きません。

 何故、と考えてしまったのはほんのわずかな隙。

腕が先に動いたのは『彼』。今度こそ斬撃目的として動く彼の手を見て、私は瞬時に術式障壁を張ったつもりでした。

 

「んだそのチンケな術式障壁は!遊んでんじゃねーぞおい!」

 

 同じく解除の術式を斬撃に付加し、『彼』はその障壁を破らんと腕を振るいます。そして現れたのは魔素によって造られた三体の蛇。

 何度も解除を目的とした斬撃に障壁はほとんど破られ、その様子を見て『彼』は笑いました。

 

「ハッ、死ねオラァ!」

 

 猛獣を指示する獣使いの様に、手を前へと突き出しました。それと同時に蛇は衝撃はとなって私に直撃し、この体を吹き飛ばしました。

 息ができず聖堂最深部の壁へと直撃して、私は息とともに衝撃で傷ついた内臓の血を吐きだし、思わずうめき声が喉から洩れます。

 

「……あれ、やっぱり駄目でした?」

 

 まぁやっぱりこうなりますよね。『テルミ』さんの戦闘能力と私の能力なんて、比べることすら烏滸がましいですし。

 そのまま地面へと崩れ、それでも私は前を見ます。

 ゆっくりとこちらへと向かう『彼』の表情は、思うようにいかずイライラしている子供のようにも見えます。

 私はその姿を見て小さく笑ってしまいました。初めてそんな姿を見れたことが、ようやく『彼』の『真実』の一部を見えたような気がしたからです。

 

「何笑ってんだお前?」

 

 倒れる私を、踏みつけるように蹴り飛ばしました。

 

「なあハザマちゃん? 俺はお前が少しでも存在できるように尊重してやってんだ」

 

 再度、私の体を蹴る。そこそこ痛いです。

 

「何しろハザマっていう魂が存在したのは今回が初めてだ。そして、お前が居れば何かが変わる。この繰り返すくだらねぇ世界の輪廻が壊れるかもしれねぇだろ?」

 

 言いながらも、蹴られ続け、私は再度血を吐きだした。

 呼吸をしようとしても蹴られるたびにそれが肺から放出され、抜けていくようにも感じます。

 

「だってんのに何でお前は飄々としてやがる? 珍しく俺が尊重してんだぜ? その態度は気に入らねぇんだよ!」

 

 胸倉をつかまれ、私は無理やりに彼の顔と対面しました。髪は逆立ち、血管が浮き出るほど、『彼』は頭にきているようです。

 その状態に私は、深く考えることはありませんでした。すでに『彼』の頭は戦闘から拷問へと切り替えられ、私についてはボロ雑巾程度にしか考えていないでしょう?

 

「……ここ、私の精神世界だって覚えてます?」

 

「あぁ!!?」

 

 私の発言に怒鳴り返されました。キレやすいのは直したほうがいいんじゃないですか? 牛乳でも飲んで。

 

「だから私は大抵のことは再現できるんですよね」

 

「それでこの様か。『人形』様は言う事が違うなおい」

 

 む、先ほどの私の言葉の趣返しでしたか。いわれると結構悔しいです。

 ふむふむ、……境界には相変わらず接続され続けているようですね……。術式が正常に発動していることに私は心の中で安堵の息を吐きました。

 境界へと接続されているのなら十分です。足りない出力を持ってくることができますから。

 

「ですから、知識さえあればどんなことでも再現できるんです」

 

「……続けろ」

 

 ええ、夢の中で自由に空を飛べることを夢想する人もいるでしょう。ですが、その状態に至るまでの手順を理解しているとするなら、どうでしょうか?

 自転車の乗り方がわかれば、夢の中だって自転車に乗れます。料理の手順が分かれば、夢の中だって料理ができます。

そして……

 

「その再現には例外はあまり無いと私は思うんですよ。それに、この距離なら丁度いいでしょう」

 

 次元干渉虚数方陣は既に展開されている。『彼』が私を覚醒させるために展開したのだから、彼も覚えているだろう。

 

「例外はないというのは……たとえばそれが…………貴方の知っている『最強の魔導書』であったとしても、です」

 

「!!!! オイまさか」

 

 その為の知識は、既に境界を通して『彼』から私へと組み立てるための公式は流れ込んでいますから。あとは私ができると思い込むだけで術式は完成する。

 それは、少し前から現れた『死神』と呼ばれるようになった男の存在。

 そして『死神』が武器として振るう、その『最強の』魔導書。その製作者である『彼』からは、その手順と術式の方程式さえも私の中に入り込んでいました。

 そして蒼とその力を行使するために媒介にする中間地点は、私(ここ)に存在する。

 この躰はレリウス=クローバーによって作られた魔導書でもありまるのですから、公式を造ることは容易いことです。

 

「ッチィ!!」

 

「遅いですよ。もう構築は終わりましたから」

 

 拘束機関も存在しない。おそらく私が展開できる術式は『模造品の模造品』に過ぎないかもしれません。ですが、その力を今だけ、使うことができるとするなら、私は使いましょう。

 

 

「術式構成完了。蒼の魔導書(ブレイブルー)、起動!!」

 

 

 触媒となる魔導書はこの体。この体を中継地点として境界に存在する『蒼』を動力へと変え、私の目の前へと存在させました。

 急いで離れようとした『彼』の体を拘束したのは、紅い腕。

 私の肩から先に出現した、闇と魔素の塊で構成された腕は、鷲掴みにして『彼』という存在を吸収し始めました。

 『ソウルイーター』

 本来蒼の魔導書が持つべきはずだった窯としての機能ではなく、付加効果として存在する機能。完全に武器として蒼の力を使うための術式でした。

 私のコレは元々も何も無く、蒼を使い黒き獣のように魂を喰らうだけの術式です。

 あたりに赤黒い魔素が充満していきます。それでもぼんやりと見えていたはずの部屋の光景は既に存在せず、辺りには赤黒い魔素と蒼だけが存在していました。

 

「あ、がが……ぎぎ……」

 

「く……そが。俺の魂を喰らい尽くす気か!」

 

 蒼の存在とともにあふれ出てくる知識に、私の意識はオーバーヒートしそうになりました。

 薄暗いはずだった視界は既に紅に染まり、体は今にも崩れそうなほどの魔素が体内へと入り込んでいます。喰らう魂の恩恵で私の体はだんだんと傷が回復していきます。

 ですが完治してもなお喰らい尽くせないほど、『彼』の魂は強靭でした。

 

「ハッ、ひょっとしてテメェ馬鹿か!? たかが『人形』ごときに食い尽くされるほど、俺の魂は脆弱じゃねぇんだよ!!」

 

 それは知っている。

 『彼』は私とは違う。長く生きれば生きるほど、その存在が持つ魂は強靭で大きくなる。『彼』の魂はたかが七年程度しか生きていない私と比べるまでも無い。

 さあ、ここからは賭けです。

 『人形』が、その存在を『真実』へと変える為の最後の賭け。抑えきれなかったら私という存在は吹き飛ぶでしょう。

 術式を組み立てる。訳の分からない式に頭は許容重量を超えた椅子の様に軋みました。

 

「次元干渉虚数方陣術式解除ォ!!!!」

 

 私は自ら、蒼を行使するために必要な境界との接続を切りました。

 徐々に元に戻っていく私の腕、それを見て『彼』は口元を吊り上げると、動作を起すために、体へと力を入れたようです。蒼の行使するためには、私は境界への接続が無ければ話になりません。情報を直接境界から持ってきているため、私自身の力だけで起動しようとすれば発動は難しく、今まさに強制終了されました。

 ただ、そこに私の狙いはありません。むしろ、もう発動させ続ける必要が無いのですから。

 たとえば、子供の貯金箱を見ましょう。

 入っている額も少なく、一度部屋へと侵入してしまえば誰でも取ることができます。ですがもしもその貯金箱に大金が入っていたとしたら?

 簡単に手が伸びるようなところには置いておきません。頑丈な金庫の中に突っ込んどくのが正解です。

 これは全てに共通して言えます。そして…………

 

「第666拘束封印術式発動境界接続切断!!」

 

 放置すれば全ての魂を食らう最強の魔導書、それを『拘束』するための封印術式なら。

 それは本来暴走する蒼の力を封じ込めるための術式。本人には解きやすく、他人から解除するのは難しい。そうでなければ、魔導書の暴走をされてしまいます。故に、彼にとってこの拘束封印術式はシンプルでありながらも解除するのは難しいものです。

 そして、蒼の魔導書の力で削ぎ落とされた今の『彼』の魂ならば。その魂を封印することの難易度は遥かに低くなるでしょう。

 再び私の腕を中心に魔方陣が広がりました。展開と同時に召喚されたのは無数の鎖でした。私の体、特に『彼』を拘束する腕を中心に蛇を模した鎖が絡みついています。『かつて彼が受けた術式とまったくと言っていいほど同じ』。しかしそれでも十分です。

 同時に私の意識も削られていくように感じました。

 本来私が知り得ることができないはずの術式、適性があるかどうかも理解せず、私はただ目的のためにこの術式を発動しました。当然、その対価として私の意識は削られ、拘束しきれるかもわかりません。

 そこまで考えて私は口元で小さく笑いました。

 今まで知らない分からないの連続で、突如『彼』のせいで『彼』の全てを知ってしまった。一つぐらい分からないものがあったっていいじゃないですか。

 

「ハァァァァザァァァァァマァァァァ!!!!!!」

 

 彼が吼えた。

 その体は徐々に崩れ、私の腕へと溶け込まれていきます。精神世界だからでしょう、光の欠片が宙へとこぼれ、私の腕へと模様を描きました。

 蒼と魔素で作られた紅い腕の一部が砕け、『彼』の自由になった右手のナイフが、私の喉元へと向かっています。

し かしそのナイフが私の喉へと届くことはなく、指も手も光の粒子となったその腕からナイフだけが、カランと音を立てて地面に落ちました。

 その紋様がイメージさせるのは鎖。突如描かれたそれは、鈍く赤い光を放ち、『彼』を吸い込んでいるようにも見えました。

 紅い腕は砕け、残った私の腕は『彼』の喉元を掴んでいます。成す術は存在せず、粒子となって腕の文様へと吸収されていく『彼』は、最後に私を見て口元を吊り上げました。

 

「はははははははははははははははは!!!!いいぜ、今回は拘束されてやる! だがな、俺は消えたわけじゃねえ。『次』に、俺は必ずお前の躰を使わせてもらう!」

 

「まったく、悪役のテンプレのようなセリフを吐かないでください。まあ、……ご遠慮しておきたいところですよね?」

 

 あーだめですね、これ意識とんだかもしれません。

 彼の姿が消え、静粛だけが残った聖堂に、私は再び倒れこみました。精神世界ですから、肉体には特に負荷は無いと思いたいんですが……あーそういえば私諜報任務の最中じゃないですか。それにマコトさんが………

 その思考を最後に、今度こそ私の意識は完璧に落ちてしまいました。

 

 

 

 



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すてーじふぁいなる

 『一杯のコップには二杯の水は入りません。たとえ入れたとしても、満杯になったコップからは溢れ出し、残りは床へと零れるだけです。

 ですが絶対に一杯のコップへ二杯の水を入れなければならないならば、その水を零しながらも入れ続ける必要があります。

 そして零れた水は何処へと行くのでしょうか。恐らく雑巾で拭かれて、太源へと戻るのが関の山ではないでしょうか?

 では、水を零さずにそのまま保つにはどうすればいいのでしょうか。

 簡単です。コップを、もしくはその代用品を用意すればいい』。

 と、『彼』はそんなふうにしてここに存在しています。私にとってどうでもいい話です……と言えたらどんなに楽だったのでしょう。

 しかし、これも運命というなら、受け入れなければならないのかもしれませんね。なんて、カッコイイ事を言ってシリアスに始めようとするハザマです。

 

「だってそんなことでも考えてないと気がぶれてどっか吹っ飛んじゃうじゃないですかもー!!!!!!」

 

『ぎゃははははははは! ほら走れ走れさっさと走れ! 早く逃げねぇと魔獣の餌になんぞ!』

 

 騒がしい右手からの声を睨みつけると、私は担いでいない首の左側から後ろを確認しました。

 追ってくる魔獣、魔獣、魔獣、魔獣、×2占めて8匹。魔素によって黒く染まった毛並をなびかせる姿はカッコいいとも思えますが、尋常じゃない量の涎を垂らしながら走る様はちょっとしたホラーです。

 ナイフを投合、壁に突き刺し錬金によって頑丈にした糸を収縮の繰り返し。相変わらずの疑似ウロボロスは便利すぎます。そして競争する相手が忍者に続いて魔獣というのがいやすぎます。

 ウロボロス? いや私が仕えたのは精神世界の中の話ですから。使えなくもないですが、体力とかがごっそり持ってかれます。

 それに、私を含めた『二人』を運ぶのに体力がなくなったら多分追いつかれると思いますから。

 

 

「…………」

 

 

 私の右肩に俵のように担がれているのは、気絶したマコトさんです。

 応急手当てをしたとは言っても所詮は応急ですね。さっさと見せないと肌に傷が残るかもしれません。

 と、そんな状況に陥ってしまったのは自業自得ですけどね。私も上司ですから。部下の尻拭いも仕事の内ですよ。……部下でもなんでもない『彼』の尻拭いは完全にボランティアですけどね……。

 

「ああああああああ!! 久々の任務は久々にクソッタレですよもう!」

 

 月明かりが微妙に見えるスライド式の扉に向かって、私はナイフを投げつけ糸を収縮しました。

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

 

 『彼』を拘束し沈んでいった意識は、失った瞬間に元の世界へと浮上しました。

 ゆっくり眼を開き見えたのは、喉を切り裂かれ絶命している異形の狼たちです。私の片手には魔素で汚染された血が大量に付着しているあたり、私、もとい『彼』がやった惨状であることは簡単に理解できます。

 研究所の廊下、位置は……実験場近く? 一発やってきたばかりということですか?

 

「……なんでしょうこのデジャヴュ」

 

 具体的に言いますとイカルガでお城の中に潜入した時。敵陣で気を失って数分経ったあと、大量の忍者さんたちと追いかけっこが始まっていました。

 彼が好き勝手やった後の尻拭いは殆ど私がやっています。……え? 今回も?

 

「いやいやいやいや、大丈夫ですよ今回は。ほら、魔獣も打ち止めじゃないですか」

 

 考えたことを否定するように頭を振っていると、視界にクリーニングに出さなければならないほど汚れた私のスーツが視界に入ります。

 とりあえず身体に纏わり付いた『黒い血』を軽く払い落とし、油でギトギトになったナイフをハンカチで拭いました。

 ……気持ち悪いです。タールでも頭から被ったような感触に、気持ち悪い以外の言葉が有ったら教えてください。

 『彼』がこの惨状を作り出しました。外の世界では魔獣を狩りつつ、精神世界で私と対峙していたことを考えると、やはり『彼』の実力は確かなもののようです。

 まあこの私の状態も『彼』のせいですか。どれだけ私を虐めたら気が済むんですか。

 

『そいつは悪かったな』

 

「ひょえっ!?」

 

 頭の中へと急に響く声。音質の悪い器材で録音したかのような私の声が、私の右側から聞こえました。

 

「あーなんと言いますか……夢じゃないんですよねぇ……なにやってるんです貴方?」

 

『お前がそいつを言うのかハザマちゃんよ?』

 

 私が声が聞こえた方向、右腕を見ますと、手の甲には頭に口が付き蛇を模した鎖、ウロボロスの入れ墨あり、その紋様は手の甲から肩へ向かって鎖が何かを縛っているようにも見えます。

 夢と言うにはリアル過ぎる精神世界で封印しました『彼』の声が、右腕から聞こえていということは、つまりそういうことなんでしょう。

 

「……封印しきれませんでしたか」

 

『糞が、成功してんだろうが。でなかったら俺がこんな状態に甘んじてると思ってんのか?』

 

 思えませんよ、そう答えて私はめくっていた右腕を戻し、黒い血だらけの壁へと寄り掛かりました。

 精神世界での出来事であったのに、身体が鉛でも付けられたかのような重さが圧し掛かっていました。身体に纏わりつく『黒い血』が生暖かく、落ち着くには聊か不便です。

 無事に『私』が世界(ここ)に居る。消えずに存在することができる。これが分かっただけでも有り難かったんです。

 ゆっくりと手の甲を仰ぎ見て、紋様を見ました。

 『彼』は『私』を消そうとした。そう考えるには些か誤謬があり、『私』と『彼』が一つに成ることは、決して消えるわけではありません。

 『私』は『彼』として生き続け、『彼』が『彼』として生きるだけ。そうなっても問題ないとは思ってはいました。

 ただ『彼』が私の『真実』を消そうとしたから、『私』は『彼』を否定したのでしょう。

 

――!?

 

『ああ、なんだよ。まだお前が此処でのんびりしてんのは、諦めたからだと思ってたんだがな』

 

 頭の声が響くよりも先に私は立ち上がり、私は足を研究所の実験場へと向けました。

 精神世界から帰ってきて、混乱していたことから私は失念していたのです。この場所は何処で、何を目的として訪れ、現在どのような状況なのか。

 

『さっさとしろよ? でないと……お前が守りたかったはずの『真実』がぶっ壊れちまうかもしんねぇな! ぎゃっははははははははは!!!』

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

「ウコキャッ!!!」

 

 液体状になった、黒い獣たちの集合体の顔面へと拳で殴りつける。顔部分に装着された髑髏の仮面が割れる音が聞こえ、私は拳についた『黒い血』を振り払った。

 私の数メートル後ろには、被験者であった私が助けるべき人たちがいる。

 魔素で汚染されたのだろうか、三人とも髪の色は黒く、私の事を尋ねた一人以外は眼が虚ろで焦点が合っていない。

 早く助け出して治療を受けなければ危ういのは間違いない。幸いなことにここの警備はザルにもほどがある。いくら三人連れ出すといっても、片手さえ空いていれば助け出せるほどだと、自分の実力と摺合せそう判断できた。

 

「もう、早く助け出さなきゃならないのに、嫌になっちゃうよ」

 

 乾いた口の端を舌で舐め、再生された仮面からこちらを覗く目の前の黒い獣に小さくため息をつく。

 その黒いスライム状の獣は、命の集合体と言っても差し控えが無いようにも感じる。

 最初は人間からあの黒い獣へと変わったはずだが、その躰からは多数の魔獣の爪や牙、他にも槍のように鋭利な骨など、以前食った生物達の命の欠片を攻撃手段としているのだろう。

 その体積は私が攻撃するたびに減っていき、それは命の燃料を零しているようにも見える。

 一分と少し経ったけど、目の前の黒い獣を倒すにはあと十数秒かかるだろう。肩を軽く回して私は起き上がろうとしている黒い獣へ向かって駆けた。

 

『世界の智が満ちることなんて無い』

 

 小さな声が辺りに響く。後ろの女の子の声だと認識したから、戦闘には関係ないとそれを無視する。

 私を補足した黒い獣は無数の牙と爪を飛び道具として放ってきた。しかし速度も銃弾より遅く、威力さえも高くないそれらを、私は最低限トンファーで弾き、さらに黒い獣へと肉薄した。

 

『躰に蓄積されるのは叡智だけじゃない。存在っていうのはすべてが智だった』

 

 身体の中で気を練り、右の拳へと集中させる。

 柔らかい体に点で殴ったとしても、殆ど効果が無い。衝撃が加わりやすい固い場所を見つける必要がある。

だけど、そんなことは関係ない。それなら面で殴りつけるけだ。にぃ、と。口元だけでその黒い獣に向かって私は笑った

 

『だから――なきゃならない。『蒼』へとたどり着かなきゃいけない。だから…………』

 

 着地し、とびかかる黒い獣を完全にとらえた。

 腹が開き見えた、人体の背骨と胸骨で造られた口へと向かって、弓の弦を弾くかのように拳を後ろへと下げた。

 こいつを、この黒い獣を倒せばあの被験者たちは助かる。

 

「燃え上がれ! 私の魂(ソウル)!!」

 

 限界まで引き下げた拳を、踏み込みと当時に気を全て乗せて前に振りかぶった。

 

「これが、青春の一撃だァーッ!」

 

 放出された体中の気は拳の形となって黒い獣へと襲い掛かった。

 背骨と胸骨で作られた口はまず砕け、それでも止まらない勢いのまま、実験所の壁へと衝突する。

 気は衝突してもまだ止まらなかった。鋼鉄でできた壁を突き破ると、もともとあったらしき壁の奥の空間へと吸い込まれる。

 ただ、割れてその場に落ちた髑髏の仮面、穴が開いた壁を中心に試算した黒い血が、黒い獣は完全に擦り潰したことを現していた。

 それでも私は拳を下すことができなかった。理由は、私が砕いた壁の奥に居たそれが問題だった。

 

「……魔獣? そっか、そういえばさっきの黒い奴が食ったのはこいつらだったんだ」

 

 この研究所はもとより人工的な魔獣の製作といった、魔素に関する研究機関だったはずだ。だったら、私の眼前に見える黒く魔素に染まった魔獣の存在も頷ける。

 私が確認できたのは、暗闇の奥にぎらぎらと光る眼。それほど多い数ではなく、多くて五匹程度だと私は軽く息をついた。

 魔素に染められた黒い獣たちは、こちらを威嚇するように喉を鳴らしている。

 数はほんの数匹だ。多少魔素に汚染されている存在とはいえ、自分が勝てない道理は全くない。

 それよりも心配だったのは被験者たちが、恐慌状態に陥ってしまう事。だけど息の音さえも少なく、それほど静かならその心配も無―――――

 

「え?」

 

 私の、良すぎた耳が、たった『一人』ぶんの呼吸音しか聞こえない事を聞き分けた。

 だから、私は後ろを向いてしまった。

 

 

 

 

『だから食う、食う、食う!! 智のために! 蒼のために! わた のか だを治 ために! くけけけけけけけけけけけけけけけけけ!!!!』

 

 

 

 

 そしてその姿を視界に入れた。

 どこか音が遠くに聞こえ、カラーだったはずの世界がモノクロに変わった。

 被験者で、私が助けるはずだった子供達は三人とも居なかった。

 千切れた片足が遠くに見える。狂ったように叫んだその黒い人型のナニカは、よく見れば背格好が少し前に見ていた被験者に似ている。

 人間が身体の半分だけ酸で溶かされたように私は思え、顔の部分はどろどろの黒い液状となって滴を造り、頭部の骨を滴っている。

 魔素で真っ黒に染まった髪のようなものが地面へと流れ、人型の口を位置する場所からは、さっき見た被験者の顔が半分だけこちらに見えていて、やがて咀嚼されていた。

 

「あ……あぁ……!」

 

 その光景が意味するものを私は理解しようとはしなかった。いや、したくなかったのだと思う。

 助けられると思った、助けたいと思った。そのはずの被験者達は既にこの研究所の狂気の手に掛けられていて、助けることなんて不可能だった。

 自分に酔っていたのか。本当に私は助けられるとでも思っていたのか? ヒーローへの願望でも持っていたのではないか?

 えぐるような声が、私の中から聞こえてきた。先ほど黒い獣に食われた子供の目が、まるで私を責めているような声を思い浮かべさせた。

 混乱状態だった私は、威嚇するように喉を鳴らしていた魔獣たちの存在も忘れ、その黒い人型を見ていた。

 そしてそれを見計らったように飛び込んできた魔獣が、私の腹部へと突進して、私はその衝撃をうけきることさえもしていなかった。

 

「――がッッ!?」

 

 まともに受けた腹部への衝撃を殺し切れず、私は数メートルも吹き飛んで頭を強打していた。

 天井に見えるガラスと、警告音を鳴らす周りの赤いランプが火の玉のように見え、やがて起き上がろうとした視界に魔獣と黒い人型が入り込んだ。

 

「なっ!?」

 

 力が、入らない。

 立ち上がろうとして力を入れた手が動かず、がくんと体が沈んだ。

 いくら術式が作られたといっても、特定量の衝撃を食らえば脳震盪も起きるのだろう。

 脳震盪の特徴である意識喪失。ほんの数秒であるはずの混乱によって立ち上がる、という手段を失った私は、状況の整理を頭の中で完結することができず、ただ小さい悲鳴を上げることしかできなかった。

 

 視界に入りこんできたのは一匹の魔獣だった。

 文字通り、餓えた獣が私に覆い被さるように接近し、私の喉元へと食らいついた。

 噛みつかれる寸でのところで右腕を前にだし、トンファーが獣の牙が私の腕を引き千切ることだけは防げた。それでも無意識的な行動に術式で強化する暇もなく、下顎の牙が私の腕に突き刺さっている痛みはリアルに感じていた。

 

(……死…ぬ?)

 

 どこかその事実が遠いところのように聞こえる。

 腕に食らいつく獣の牙が深く突き刺さり、さらに痛みは現実となり此処にある。

 次に感じたのは足の焼けるような痛みだった。視界にはもはや人の形を失いどろどろの黒い塊が足に覆い被さり、足を溶かしているようだった。

 どうしてだろう。死ぬ、という事実はここまで景色をスローに見せるものなのだろうか。

 死ぬ前に見せる走馬灯とは、脳が生き残るための手段を過去の中から探すために起こる現象らしい。

 だけど私に見せた景色は、今/現実ではなく、とても明るいものだった。

 学生時代、ノエルやツバキと一緒に生徒会室で談笑していたシーン、私への侮蔑を向けていた生徒に対して凛とした態度で答えたツバキの姿、私の尻尾に向かってキラキラとした瞳を寄せるノエル、そんな私たちを見て苦笑するキサラギ先輩とカルルくん。

 そして最後に見えたのが…………

 

 

「ウロボロス!」

 

 

 ダークグレーのスーツに『真っ白』な髪を帽子で隠した、ハザマさんの姿だった。

 

-----------------------------

 

 駆け出し、マコトさんが飛び込んでしまったであろう部屋へとたどり着いたとき、それはすぐに私の視界に入っていました。

 魔獣に襲われるマコトさんと、さらにとびかかろうとしている半分スライムな人間の姿、確認したのはそれだけですが、私が動くには十分な理由でした。

 術式を構成し、アークエネミー・ウロボロスを起動させ……その瞬間意識が飛ぶかと思いました。

 それはおそらく一度に大量の魔素を体の中に蓄積したことから起きた魔素中毒の一種だったのでしょう。もしくは不安定な状態で使ったことが原因かもしれません。

黒いスライムへとウロボロスが突き刺さり吹き飛んだのを確認した私は、すぐに鎖を縮小させゴムに引っ張られたボールのごとく接近しました。

 そのさい張った障壁と合いあまって、魔獣数匹とぶつかり吹き飛んだのが分かりました。

 接近したのはかなりの速度です。弾丸のごとく飛んで行った私の突進はかなりの衝撃になったのでしょう。

 

「……まずい、ですね」

 

 辺りに群れる魔獣を散らし、マコトさんの状態を見た私の言葉がそれでした。足などにある火傷……まるで酸で溶かされたかのような肌は、皮膚が爛れかなり出血もしていました。

 私はポケットの中から緊急用の薬を取り出し、香水でも吹きかけるようにその薬を振りかけました。

 緊急用の止血作用と再生増強効果が含まれたそれに治療の術式を合わせて傷を治していきます。

 イカルガ戦役の最前線で使われた薬、使用後の気を失うほどの激痛を伴うことを抜けば万能であるその薬と術式ならば、十分なほどの応急処置です。

 数分あれば、傷痕一つ残らず復帰できるでしょう。

 そう、数分必要です。

 辺りには十匹弱程度の魔獣たちと、人型に形をとどめている黒いスライム。治療する時間も無ければ、そんな暇もない。薬だけでは、応急処置が十分とは言い難いです。

 正直に言えば、打つ手が在りません。

 私が精神世界に居た頃のように自由に力を使いこなせれば話は別ですが、今の私はウロボロス一発出すだけでもかなりの疲労となります。

 残る手段は……強行突破。

 

「(よう、苦労してんな。手を貸そうかハザマちゃん?)」

 

「…………」

 

「(お前の術式構成はクソだ。蒼から流れ込んでいた知識をバックにしねぇとウロボロス一発だって撃てやしねぇ。俺なら、こんな犬ッコロども苦労さえしねぇよ)」

 

「……対価は」

 

「(封印の解除、っつうのは虫が良するし、お前がやんねぇだろ? 封印を一部解除しろ、それだけでお前を助けてやんよ。大量出血大サービスじゃねぇか)」

 

「……」

 

 『彼』の言葉の意味を考えました。

彼 を拘束した封印術式は、1つの綿密な術式ではなく、幾重もの封印が成されている術式です。よって一部を解除することは難しくありません。

 ですが……『彼』の封印を解くということはどうでしょうか?

 『彼』という存在について私は蒼からもたらされた知識によって『理解』しています。そして危険性についても……

 思考したのは数秒、対峙していた魔獣を再度確認して、私は封印の一部を解除しました。

 瞬間、流れ込んでくる思考。『私』という思考の横に『彼』という思考が出現し、両方が頭の中に存在しているように感じました。

 同時に腕のウロボロスの刺青が鈍く翠色に輝き、鎖の一部が消滅したようです。

 

「へえ、物分かりがいいな。ちっとだけ評価をあげてやんよハザマちゃん?」

 

「……はぁ、私は治療に専念します。逃げ切れますか?」

 

「動けるのは五分、ってところか? そんだけあんなら全員ぶち殺すこともできる。お前は思考の一部を提供すりゃあいいんだよ」

 

 はたからみれば奇妙な光景でしょう。一人の人間が全く違う口調で一人で話しているのですから。

 脇にマコトさんを担ぎ、私は治療の術式を展開していきます。それを最後に私は体のコントロールを失いました。

 治療の術式は頭の中で展開し続けています。ですが、身体を動かす、という機能については『彼』が全てを持ったようでした。

 

「さぁて、来いよクソ犬ども。俺がちょびっとだけ遊んでやんよ!」

 

――――――――――

 

「なんて格好つけてたのはどこのどいつです!!? 何が全員ぶち殺すですか!? なんで私がまた魔獣と徒競走しなきゃなんないんですか!?」

 

「(あぁ!? お前が治療如きに思考を割り削ぎすぎなんだよヘタクソがッ! ハードがクソであそこまで戦えたことに感謝しろや!)」

 

 なんやかんやで、冒頭数分前に戻りました。かっこつけて私の体を動かす『彼』ここで重大なことが発覚。

 『蒼』の力が 使 え ま せ ん。

 本来彼の知識では蒼からもたらす大量の力を使って相手を倒すというのが戦闘方法。ですが一部だけ封印を解除されていない彼が、蒼にアクセスすることすらできません。頼みの蒼の魔導書の後ろには(笑)とついてもいいでしょう。

 あと治療中の私の残った思考回路では、ウロボロスすら展開できません。というか、したら情報の速さと量で頭の血管が吹き飛びます。魂の状態もまだ不安定ですから。

 幸い私の術式適正は素晴らしいです。体を強化して戦うには限界もあり、さらに見えたのはまだまだ沸いてくる魔獣の影。なるほど、これはもう逃げるしかありません。

 幸い、マコトさんの治療は終了しました。本格的な治療をすれば、すぐ前線復帰もできるでしょう。いまだに私に担がれたままですけど!

 私の移動手段であるナイフと糸の伸縮による移動、新しく手にしたウロボロスとかなんの役にも立ちません。

 

「はぁ……あなたがこんなにも使えない人だとは思いませんでした」

 

「(そいつはお前にそっくりそのまま返してやんよハザマちゃん)」

 

 どうやら『彼』という存在を封じ込めることはできるようです。それが確認できただけでも一安心といったところですか?

 そしてここまでやってきた追いかけっこもようやく振り切れそうです。壁につけられた赤く光るランプを見つけた瞬間、その下にあるスイッチを叩き壊しました。

 そして私が通った瞬間、鋼鉄の壁が背後に落ち、魔獣たちが激突する音が聞こえました。

 侵入者、災害、魔獣の脱走などの緊急用シャッターでしょう、回り道をすれば私のいるところに来れなくもありませんが、一息つけたところです。

 それに、……私の目の前にはさんさんと輝く月の光が!

 どうやら外へと続く扉へと戻ったようです。時計を見ればまだ集合時刻には余裕があります。

 偵察任務も完了……というか、失敗ですけど、本来『彼』の体を定着させるという意味で見ても失敗です。なんか良いところが皆無な任務でした。

 とはいえ、生き残れたには生き残れました。気分はマジヒャッハーです。私もはやく帰ろうと足を外へと向け……

 

「止まりなさい」

 

 突きつけられたのは刀でした、あれ?コレドッキリですか? 本当にそう思ってしまったのも仕方ありません。

 辺りに見えるのは数人単位の人々、どうやらここから逃げ出そうとした科学者もいたのかもしれません、ですがそんな白衣をきた方々は、気絶して簀巻きになって見張りをしている方の足元に転がっていました。

 どうやら一小隊がこの場所に派遣され、待機状態であるということでしょうか?

 

「統制機構の者です。研究場関係者の拘束、拿捕を命じられています。抵抗は交戦意志があると見なし、強制拘束に移らせていただきます」

 

「ちょ、ちょちょちょっと待ってください!」

 

 いやまあ確かに出てきた私は不審者ですよ? 黒いコートは魔獣の血でさらに真っ黒になって、肩には血だらけ埃だらけの女性が居て、外から見える右手には刺青まみれですし……。

 しかし、この衛士は本当に統制機構の者ですか?

 クリーム色に近い白に、顔も姿を見せないフードとコート。顔には白く眼の文様がつけられたお面があり、表情は見えませんが硬い女性の声であることは分かります。

 もしも私がふざけたら実力行使で拘束されそうなのは眼に見えていますね。そしてそんな状態が普通の制服な統制機構の部署といえば……

 

「……『審判の羽根』、統制機構第零師団の方でしたか」

 

「ご存知でしたか。では、その役目も知っているでしょう、ただちに……え?」

 

 奇妙なところで言葉を切った零師団の衛士さんは、私の肩を見て少しだけ感情を出したように疑問符が言葉に表れました。

 

 というか、えってなんですか? こっちが驚きたいですよもう。

 

「……マコ…ト?」

 

「ひょえ?」

 

 そのマスクの下からも風景、見えるんですね、と。私のどうでもいい疑問が吹き飛ぶほど、その仮面の下から漏れた単語は以外でした。

 

 



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すてーじえくすとら

 それは、被験者で在った者のなれの果てだった。

 その少女が居た研究所では、疑似的に作り出された『窯』によってもたらす人体への影響、知識のサルページを目的として研究を続けられた場所だった。

 一部の部屋を覗きそこは『窯』の影響を少なからず受けることをコンセプトに建てられた、ハザマが知識を行き過ぎた研究者が知識を求めるために行く場所だった。

 その研究所の実験場、ほんの数分前にハザマたちが居たその場所に一人の被験者がいる。

 黒くタール状になった体は、その身体に歩合不相応な知識を身体に宿したことによる肉体の崩壊を常に続けている。

 だがそれでも他者の肉を食らえば生き続けることができるだろう。少女ともよべる年齢の顔面は、黒いタール状の液体となって床に斑点を作り出していた。

 

「…………」

 

「……B地区実験場で要救助者を発見、応援を要請します」

 

 クリーム色の服を纏い、白い仮面をつけた女の声。それが聞こえたと同時に、その被験者は顔に人間の顔を作り出した。

 擬態と捕食、後姿しか見えぬその衛士にとっては、無数にある魔獣の死体の真ん中に居る、という事実以外は、ただの少女にしか見えなかっただろう。

 数歩、衛士はその少女へと歩みを寄せる。それはその被験者にとっては、蜜におびき寄せられた虫と同じ。自身の糧でしかない。

 少女との距離が数メートルといったところで、その被験者はぐちょりと音を立てて黒いタール状の物質へと変体した。

 在り得ない角度に体をひねり、座った状態のまま衛士に向かって跳躍する。

 人を溶かす酸、その被験者は蒼からあふれ出した知識でその物質を体に構成し、それを使い捕食してきた。

 だから少なからず思っただろう、新しい肉が手に入る、しばらく生きることができる、と。

 

「おそらく貴女もなんの罪もない、むしろ擁護されるべき者なのでしょう」

 

 斬、と、その被験者にとって最も近く限りなく遠くにその音は聞こえていた。

 

「貴女は私の親友(とも)を傷つけた。私の剣に恨みや怒りがあることは否定はしません」

 

 鎮、と、脇差と呼ばれる短い刀が収められた音が背後から聞こえた。

 

「ですが……そうなってしまった者の先は在りません、命を喰らい散らせたその罪、私が引き受けましょう」

 

 背後へと移動した標的に向かって、被験者は再度とびかかる、

 と、同時に視界がズレた。

 左から先が下へとズレはじめ、右の風景が横へと倒れる。

 それは被験者の頭が下から切り上げられた脇差によって切り捨てられた結果だった。

 落ちて消えゆく視界に、衛士の仮面が外れる。そこに存在した表情は苦々しく、また小さく息を吐いたところだった。

 

「……断罪完了」

 

 小さく呟きその衛士は辺りの風景を見渡した。

 辺り一面に広がるのはピクリとも動かない、魔獣たちの血まみれとなった死体。その実験場を研究員が見下ろせるはずだった上に位置する強化ガラスは、真新しい赤い血によって染められていた。

 第零師団の他の団員がすでに行った結果だろうか、どちらにしてもその処理を行った者は体中が『真っ赤』な血に染まっているに違いはない。

 

「ハザマ大尉、ね」

 

 先ほどすれ違った親友の上官を思い出す。

 今回の任務では第零師団の制服へと、魔素への抗体素材を取り入れられている。『窯』の上に建てられたこの場所への対策である、最も、衛士たちは魔素が濃いとだけしか伝えられてはいなかったが。

 そして、その多少とはいえ濃い魔素の中で活動していたその人物は……

 

「……悪い人でなければいいのだけど」

 

 考えても詮無きことである。

 衛士はそう考えを纏めつつも警戒を続け、任務のための徘徊へと戻った。

 

―――――――――――――――

 

 

「はあ……鬱です」

 

 こんにちは、統制機構諜報部のハザマさんです。

 現在は統制機構技術開発部へと向かう通路を歩いている最中です。その私の視線は通路ではなく、身だしなみ用の手鏡へと向けられていました。

 

「……ストレスですね。ええ、特にこの呪われてる右腕のせいでしょうか」

 

「(今回は何の関知もしたつもりはねぇぞ?)」

 

 直接的には、ですけどね。

 辺りにはもちろん人がいるため、小声で彼へと答え、再度手鏡へと視線を下しました。

 

 鏡に映っているのははい、真っ白な私の髪。びっくりです。

ハ ゲていないだけまだマシでしょう。統制機構でも多くの中間管理職のプライドを打ち破ってきた脱毛という現象は、どうやらこの体には発生しなかったようです。

 その結果は真っ白な髪、いや、まあいいんですよ。イメージチェンジにも心の切り替えにもなります。

 ただ……マコトさんには大爆笑されてしまうのではないでしょうか? しばらくその心配もありませんけど。

 

 任務帰還から二日、私のお仕事は大量の報告書の山でした。マコトさんの命令違反、というか失敗はどうやらキッチリ上に伝わっていたらしく、書いても書いても終わらない始末書には久々に泣きたくなりますね。

 マコトさんは未だ意識不明の軽傷。頭を打った可能性があるため、しばらく様子見をしながら復帰すると第三師団の方から連絡がありました。余裕ができたらお見舞いにでも行きましょう。

 

「そしてレリウス大佐からの追い討ちですか……何を言われるのでしょうか」

 

 そして時間が取れたのを見計らったようにレリウスさんから呼び出しを食らいました。

 ため息をつきつつも足はレリウスさんの研究室へと向かい、中間管理職という私の頭の低い立場では、身だしなみの鏡をしまって扉をノックしたのも必然です。

 部屋に近づくたびに彼の言葉数は少なくなりました。まあ……自分ともあろう者が私に封印されたことを馬鹿にされるのがいやだったのでしょう。

 

「失礼します、レリウス・クローバー大佐、諜報部諜報官大尉ハザ「入れ」……了解です」

 

 ノックして言葉をかける最中許可されたことに少し驚きつつも、部屋へと入りました。

 部屋の内装は……とにかくメカメカしいです。右も左も天井まで機械だらけという、さすが技術開発部の大佐といったところでしょう。

 筒状のケースの中に入れられた人形を機械端末で操作しながら、その顔がこちらへと向けられました

 ……まだその仮面舞踏会でも居そうなマスクしてたんですね、というごく私的な言葉を飲み込み、私はレリウスさんの言葉を待ちました。

 

「……成程な、消えずにお前の方へとその躰は渡ったか、ハザマ」

 

 ……なんか一目見て『私』であることを見抜きました。あれ、レリウスさんってエスパーか何かですか?

 

「本来ならその頭髪の色に変わりはなかった筈だが……、成程、肉体から生まれた魂がそのまま意識となって定着するとはな。相変わらずお前という存在は興味を引く」

 

「あの、もしもーし?」

 

「完璧では至らんか。ならば第十三素体が目覚めぬのも道理、か。不安定因子を導入……だが水準が低い、覚醒まで至るスペックが無ければならないのも事実……」

 

 どうしましょう、なんかレリウスさんがトリップしてる。

 若い女性ならともかく、そのへんに居る怪しいおっさんがそれをやっても気持ちが悪いだけです。

 ……撤回しましょう、妄想癖なんてだれがやっても気持ち悪いです。社会人としてそれはどうなんですかレリウス大佐。

 

「……なんだ、まだ居たのかハザマ」

 

「いやいやいやいや」

 

 いやほんと社会人としてそれはどうなんですか!? 生まれて七歳半の私にそう思われるって何事ですか!

 顔の目の前で手を振るう私、『窯』から入れられた知識はこの人についても主観混じりですが知ってます。

 研究以外の事象は物として扱うような人だと私の知識のなかではあります。

 ……成程、お酒に誘っていつも私を放置して帰っていたのも納得です。支払いは任せろ、なんて言葉聞いたことありませんし。

 

「もう構わん、お前の姿を確認したかっただけだ」

 

 なら貴方がが私のところに訪れてくださいよ!

 機材端末へと視線を向けるレリウスさんの背中に、小さく毒を吐く……じゃなくて思いました。

 毒を吐く? 階級がかなり離れている人にそれは無理です。一つ違うだけで諜報部以外ではものすごく扱いが違うんですから。

 

「正直、お前という存在が残るとは思わなかったのだがな」

 

「へ?」

 

「言葉の通りだ……奴に躰を奪われると、私はそう踏んでいた。だが、結果お前はその躰に存在する」

 

 言葉を続けながらもレリウス大佐の手は止まっていません。まあさすがの人形師といったところですね。

 レリウスさんの言葉については……思うところが無いわけではないですね。私の存在の有無に関わってますし。

 ただ……どうでもいいと言うのですか? ある程度絶望と呼べるのは『蒼』に触れたことで知識として入ってきてますし、そんなの一つの現実/真実には勝りませんし。

 今更感が漂ってるんですよね、うん。

 

「……『彼』の事は聞かないのですか?」

 

「……奴がお前に『蒼』へと接触するように仕組んだ。その結果お前がそこに居るのならば、奴という存在については理解しているのだろう」

 

 一応聞いておきますが、レリウスさんはそこまで興味を示していないようです。

 

「『テルミは』協力者だが、私はどうなろうと……興味はない」

 

 ぞくり、と、私は初めてレリウス大佐が怖いと思いました。

 私はテルミさんは恐いです、蒼に触れ知識を得てさらに怖く感じています。獣兵衛さんとどっちが怖いと聞かれたらどっちも怖いと言うぐらい恐いです。

 あの六英雄と同じくらい怖い……テルミさんって六英雄でしたっけ。信じられないほどの鬼畜外道ですけど。

 まあそこまで怖いテルミさんをも道具のように言ってのけるレリウスさんに畏怖を感じたというのでしょうか。

 その言葉を最後に今度こそ何も話さなくなったレリウスさん、私は一礼すると、なるべく音を立てぬようにその場を去りました。

 あとで確認したらなぜかレリウス大佐の仕事の書類が私のデスクの上に運ばれていました。

 ええ、私が『私』のままなのをいいことにパシらせる気満々でした。『彼』は大爆笑してましたが私は泣きたくなりました。

 さーて、書類との格闘を始めましょうか。

 

 

 

 




第一部投稿完了しました。


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ステージ1

この話から二部へと入ります。


 右、左、前、後ろ、上も下も真っ暗闇な空間。私はまるで月の無い夜のような場所に立っていた。

 地に足が付いているのに、思考はふわふわと安定せず、ぼんやりとした頭は、なんとなくこの空間が夢の世界なのではないかと想像させる。

 しばらくその暗闇を眺めると、徐々に風景が見えてきたのが分かった。

 

 

『(…………?)』

 

 

 見えてきたのは古めかしい木でできた扉、その細部には自分では理解できないような高度な術式をかけられている事が分かる。その扉をまるで空気のようにすり抜け、その部屋の中へと入り込んだ。

 敢えて言うならば古城の牢屋……に似ている。

 大きく切られた長方形の石を、レンガのように積み重ねた周囲の壁が見え、さらに木でできた檻がその世界を隔てる結界のようだった。

 その部屋の一番奥には、壁を瀬にして座る人影があった。

 壁へ吊り下げられるように両手は固定され、その上からは古い木材でできた杭を手の平へ打たれている。そこからはまるで打ったばかりと言うように血は流れ続けていた。

 上半身は右半分の服が切り裂かれているためか、肌が大きく露出されている。そして見えたのは右腕に広がる『鎖の入れ墨』だった。腕に巻き付くように入れられた毒々しい緑の入れ墨は、手の甲まで入れられていた。

 

『…………ぁ?』

 

 俯いていた顔が上げられ、その表情を見た。

 逆立てられた緑の髪に、消えることの無い憎悪を宿した眼。顔は死人のように青白く、だというのに死ぬ気配は微塵も感じさせなかった。

 そして、その姿には全く見覚えは無いというのに、その体つきや顔の造形からはどこか蛇のような印象を与える。

 確かに似ている。『彼』の兄弟か何かだと言われれば信じてしまうほど似ていた。

 それでも、間違える事など出来そうもない。その人物をそのとき『初めて』見たとき、身体全体で恐怖を感じたような気がした。

 

『……んだテメェ。見てんじゃねぇよ、ぶち殺すぞ』

 

 

 濁った眼は確かにこちらを捕え、そして……

 

 それはいつかの夢。誰の記憶にも残らないような、既に消え去った情報に過ぎなかった。

 

−−−−−−−−−−−−−−−

 

 こんにちは、仕事疲れ残りますハザマさんです。

 現在は病院の病室で、椅子に座りながら林檎の皮を向いていました。

 今だに目を覚まさないマコトさんのところにお見舞いに来たのですか、よくよく考えれば目が覚めてないのだからすることがありません。切っては食べての林檎は四個目になります。お腹も膨れてきました。

 

「……まあー流石にそう上手く目を覚ますわけがありませんよね」

 

 小さくため息をつきつつ、持ってきた書類に目を通します。一部はマコトさんへ、もう何部かは私へと送られた書類です。

 その中にはマコトさんの体調についての記録簿がありました。見れば、悪いところは何もなく、もうすぐ目覚めてもおかしくは無いようです。

 

「ですけどまぁ……魔素中毒ですか」

 

 再度ため息。

 こうなった原因の研究所、『彼』の持っていた知識によりますと、人工的に造られた『窯』をさらに発展や応用を目的とされていた場所で、空間そのものが境界に極めて近い場所だったようなのです。

 あの場所では『知』という毒が魔素に含まれ、術式を使い身体に取り入れ過ぎれば取り返しの着かない状態になったかもしれません。

 幸いマコトさんは魔素に頼る事が少ないので、この程度ですが『審判の羽根』の方々は大丈夫でしょうか。

 ……まぁ大丈夫ですね。一応エリート部隊ですし、『テルミさん』が情報を送っていたから『大丈夫』でしょう。現に書類上では被害なしですが……果てしなく不安です。

 

「早く起きてください、マコトさん?」

 

 そんな情報を伝える訳にはいけませんけど、言わなければならない事は多数あります。それ以外でも『会話をしたい』という欲求がありますから。

 『私』という存在には繋がりが有りません。有ると言ったらマコトさんと『彼』ぐらいなものです。寂しい人生にも程が有ります。

 依存しているのか、と言われても分かりませんが。普通にしているだけですし。

 とは言え、マコトさんがもしもあの研究所で死んだら、と考えたとき、内臓を刺すような鈍い痛みが心臓にあったことは事実ですが。

 私は軽く頭をふって思考を戻しました。

 現実的な話ではありませんね。とりあえず後で『彼』と話でもしましょう。

 マコトさんもさっきからうねりを上げている私のせいか、尻尾の保温で寝苦しそうですし、寝汗でも拭いてあげましょう。

 近くの水道でタオルを濡らし、さあ拭こうとして……手が止まりました。

 

 空調や自身の熱からか少しだけ赤くなった頬に、小さな玉になった汗は前髪を少しだけ濡らしています。

 見方を少しだけ変えてしまえば、それは直前にシャワーを浴びたようにも見えなくありません。

 それを見てつい一言、何気なく私は呟きました。

 

「……美味しそうですね」

 

 そう、まるで剥いたばかりのゆで卵! ほんのりと感じる蒸気にモチモチの肌! あの美しさと一致します!

 いやはや素晴らしいですね。まさかマコトさんがゆで卵の素質があったなんて!

 思わずガッツポーズです。『彼』がゆで卵を美しいと見る理由が分かりますね、ええ。

 

「……ハザマ……さん?」

 

「ひょえっ!?」

 

 と、そんな馬鹿な事を考えていたからかもしれません。

 ガッツポーズから出戻り椅子に急いで座り直した私は、目を擦りながら身体を起こするマコトさんと対面しました。

 何度か目を擦り、意識を覚醒させようとしているのでしょう。あちこちを見渡し最後に私の一部分を見て、一言呟きました。

 

「……白?」

 

「そこには触れないで下さいお願いします」

 

 完全に油断していました。そう、何を隠そう今の私はレリウスさんの陰謀による白髪ヘアー。

 急な意にも寄らないイメチェンに私は思わず頭を抱えたくなりました。心なしかマコトさんも若干引いているような気もしてきました。(被害妄想)

 

「……もしかしてイメチェン? うーん、ハザマさんは元が良いから似合わなくもないけど、スーツは変えた方が良くない? 赤とか」

 

「どこぞのブラッドエッジと同じセンスなんて嫌です! いいから、頭には触れないで下さい!」

 

 本の少しの静粛はマコトさんの言葉に破られ、私はいそいそと髪を帽子の中に隠しました。

 そんな私の動作がおかしかったのでしょう。くすっとマコトさんに小さく笑われてしまい、思わず顔に血が昇ってしまったようです。

 ほら、カッコイイ上司で居たいんですよ、部下の前では。(完全に手遅れ)。なんか悔しいです。

 

「笑わないでくださいよ。全く、せっかく寝汗を拭こうと思っていたのに、そんな気も無くなりました」

 

「寝汗を拭く……? はっ!? なんてことだぁ! ハザマさん私の身体に手を出すつもりだったんですね!?」

 

「寝汗を拭くの表現がおかしいですって! 100%の善意です!」

 

「いいや、ハザマさん。前回私のお尻を揉むという変態的行動にでたよね? 明らかに私の身体に興味があった事は確実でしょう!?」

 

「スゴイです、尾という言葉が足りないだけであっという間に私が変態に!? 」

 

「不潔だハザマさん! 私の尻尾には絶対に近づかないでよ!」

 

「まさかのモフり拒否だなんて……私はどうやってマコトさんの友情を確認すればいいのですか」

 

「男女の間に友情なんて成立しない……それでも進むと言うなら、それは修羅の道だよハザマ中尉!」

 

「大尉です! そんな道理、私の無理でこじ開ける! 今の私は阿修羅すらも凌駕する存在であることをここに証明してみせましょう!!」

 

「……………」

 

「……………」

 

 そう言って私は両手で宙を揉むように構え、マコトさんは尻尾を隠す。

 

「くくっ」

 

「あはっ」

 

 

 ……ええ、やはりこれですね。こんな下らない会話がどうしようもなく楽しく感じます。

 思わず手を挙げ二人でハイタッチ。寝起きのテンションですることではありませんが、マコトさんも勝手に剥いた林檎を摘む程度には回復したので良しとします。マコトさんのお見舞い品ですし。

 

「んぐっ…ん……ふぅ、おはようハザマさん」

 

「第一声か二声で言うべきですけどね、というかもう三時ですが。ついでに言うなら頬に林檎を詰め込まないで下さい。ツッコミ所満載ですけど、おはようございますマコトさん」

 

 お互いに言ってる事が下らないと思ってはいますが、それをやめられません。

 ああ、やっぱりこの空気は心地よい、そう思い私は口元で笑みを作りました。

 

 

――――――――――

 

 本当にくだらない、ですが楽しいと感じている私ですから、本来するべき話を放置してマコトさんとの談笑は続きました。

 勿論いつまでも高いテンションでいるわけでは有りません。

 たわいのない話を続けては居ましたが、私としてもその時間が“楽しい”と思っているのは事実です。ずっとこの時間が続いてほしいと思った程ですし。

 だからこそ、“その”話題から避け、私から切り出すことはできませんでした。

 

「ん〜流石はツバキ。いつ来てくれたか分からないケド、お見舞い品は一級ものだね!」

 

「現金ですねぇ……まあー確かに心配していたようですから、あとで連絡するといいですよ」

 

 数日間とはいえ何も食べずに居たからでしょう。私が切り身を食べるの繰り返しをしながら話していましたが、不意にその手が止まりました。

 

「……あれ? ハザマさんってツバキと面識あったの?」

 

「あー……はい。研究所の私達の後任が彼女の部隊でした」

 

 研究所、という単語を言った瞬間、しんと当たりの空気が冷えたような気がしました。

 一応、私としてもその話題は避けていたつもりでしたが……ええ、NGワードを踏んだようですね。

 その時間は数秒だったでしょう。小さく息を吐いたマコトさんは、服装と姿勢を軽く直し、改めて私へと身体を対面させました。

 

 ……さて、私としても何時までもふざけているわけにもいきませんね。

 

「話、あるんですよね、ハザマ大尉」

 

「……ええ。命令通達と貴女自身の処分について少し」

 

 処分、という単語にマコトさんは少しだけ顔を強張らせました。

 自身が何をして、そこにはどのような責任があるのかは多少の理解は有るのでしょう。

 私は鞄の中から封筒をを取り出し、中の書類をマコトさんへ手渡しました。

 

「結果から言えば任務は失敗です。ですが本来行われる筈だった後続の部隊によって施設は押さえられました。人的被害はありません」

 

 誰が指示したか調べたところ、な ぜ か! 審判の羽根を動かしたのは私ということになっていました。

 勝手に名前を使われるとか物凄い迷惑ですよね。私の名前が独り立ちしたりしませんよね……。

 

「まあ任務の失敗という点は私の責任です。故に考慮しません。ですが命令違反という点においては、流石の私も無かったことにするわけにはいきませんね」

 

「……はい」

 

「ナナヤ少尉には二週間の謹慎を、私には山のような始末書が渡されました。今回の件で理解したことも多いでしょう。その体験をまとめ私に反省文でも出してください。他に聞きたいことは?」

 

 淡々とした口調で話しては居ますが、心配だったことも事実です。被験者達は……同情はしますがマコトさんが無事だったことを喜ぶのが先ですし。

 ですが何が失敗の原因だったのか、それさえ理解してくれれば私としては謹慎期間は無くても良いぐらいなんですが。まあー一応内外に見せるけじめは必要ですから。

 マコトさんはしばらく押し黙り、じっと何かを思案しているように見えます。

 

「……得に質問はありません。今回は私の力不足で手数かけてしまい、申し訳ありませんでした」

 

 ――――どこか、その言葉が引っ掛かり、息が詰まりました。

 

 

「いえいえ、マコトさんの力量は十分なものです。ですが今回は行動が悪かっただけですから。次回に生かしてください」

 

 そういった私の言葉には返答がありません。

 表情にも出しているように、慰めようという気持ちが大半を占めているはずです。

 ですがどこかに、違和感を感じました。

 ギュッと握り締められた毛布へと、俯かれた視線は私と重なることはなく、どこか私の中で引っ掛かり続けています。

 

「ハザマさん、私、間違ってたのかなぁ?」

 

 表情は窺えません。うつむく姿を見た私は、心のどこかで締め付けられるような気がしました。

 

「目の前でさ、殺されそうになってたらやっぱり助けるよね? それって悪いことだったのかなぁ?」

 

「……人間としては間違っていないでしょう。ですが、諜報員としては間違っていたのでしょうね」

 

 根拠のない感情による特攻、どうやって考えても命を投棄しているようにしか思えません。

 他の人を巻き込んだらさらに最悪でしょう。被害は増えていくばかりです。そんな最悪をやってしまって被害なし、良い経験ができたと考えるべきでしょう。

 

「あの場面で貴女は、被験者がどのような実験を受け、どのような状態になっているかを記録し報告するべきでした」

 

 任務だけを考えるのならそれが一番です。任務達成が明らかでついでに助ける程度なら私も何も言いませんね。

 しかしそのせいで命の危機にさらされるのなら、私はそう言うしかありません。

 

「……そう、ですよね。あーあ、……くやしいなぁ」

 

 ぼすん、と背を倒しベッドへと倒れこむと、マコトさんは片手で目を抑えながらそうつぶやきました。

 力不足であの結果が出たわけではありません。現に私があの立場に立たされたとしたら、記録だけしてさっさと帰還します。

 それに他人である被験者よりも、私は部下であるマコトさんの身を心配します。一言声をかけようとして、喉から洩れかけた言葉は出す前につぶれました。

 表情は見えずとも眼尻から洩れる涙は頬を伝りました。

 たったそれだけのことの筈なのに、まるで心臓は杭でも打たれたかのように痛み、私は思わず帽子を押さえて視線を隠しました。

 何かを言うべきなのでしょう。ですが、上司という立場である私は、安易な言葉をかけるわけにもいきません。

 口を開く、何かを言わなければならない。そうして私の口から言葉はこぼれました。

 

「……言うべきことは全て言いました。私はこれで失礼しておきます、ナナヤ少尉」

 

 嘘です。

 言わなければならないことはまだ有るはずです。

 ですが、一秒でも早く、私は彼女の姿を見ていたくありませんでしたから。

 それは嫌悪から発生したことではなく、もしかしたら私にとって初めての恐怖心だったのかもしれません。

 怖い、誰かとの繋がりが消えることが。もしかしたら彼女は死んでいたかもしれない、そんな純粋な恐怖に私は震えていました。

 だから私は逃げました。

 『彼』というフィルターを挟んでいたとはいえ、『私』の価値観は、その行為をすることを否定していたとしても。

 

――――――――――――――

 

「……あー、思ったよりもきっついなぁ……」

 

 ハザマさんが部屋を出てから数分後、起こしていた体をベッドに倒した私は、袖を目元に当ててそう呟いた。

 微妙に声は掠れ、目に当てた袖は濡れていた。思ったよりも私という奴は泣き虫だったのかもしれない。

 静かに怒られたこと、それ以上に信頼を失うこと、理解しているつもりだったのに、精神的な負担は大きかったみたいだ。

 研究所での命令違反……これを後悔したかと聞かれれば、今の状況を考えても後悔するのは必然だし、逆に犠牲者は成す術なく死んでもよかったのか、と聞かれても、私は否定するだろう。

 どっちつかずな状態で、答えは見えないままだった。

 分かっていたはず。自分がどういう行動を取り、その結果がどうなるか、ということを。

 何も語らず部屋を出たハザマさんはどう思っていたのだろう。もしかしたら失望したのかもしれない。

 私の勝手な行動で迷惑をかけたのは私だ。私は何の文句も言えず、むしろ言わなかったハザマさんが甘すぎるのではないか。

 それでも、友人として見ていたはずの人からの信頼を失う、それは今の私にとってはひどく辛いものに感じた。

 

「やっぱりきっついなぁ……」

 

 小さくもう一度呟いた言葉は宙に消え、私は自分自身に対して溜息を吐いていた。

 

―――――――――――――――

 

 うぜぇ。

 

「死にたいですね、うん」

 

 本当にうぜぇマジうぜぇ。

 

「ああ、もうちょっとやり方があったじゃないですかもう! やってしまいました……死にたいです」

 

 本当にうぜぇ。俺にどうしろってんだ。

 机に突っ伏したまま呪詛のように愚痴を言い続けるハザマに、俺は遠慮することなく舌打ちをする。

 先ほど病院から戻り自分の執務室に戻った瞬間、急に溜息を吐いたハザマは、俺の言葉を無視して愚痴を続ける。いや、イラつく発言ばかりを繰り返してやがる。

 本来、俺もハザマも、自分の思考を全て共有しているわけじゃない。

 ハザマが俺の知識を手にしたのは、『俺』と『ハザマ』が曖昧であり、一人の精神世界に二つの魂があったからこそ起きた現象だ。あそこでハザマは、世界から俺を観測()て『俺という存在の知識』を得た。使いこなせるかどうかは別だが。

 冷静になって考えれば、『俺が蒼の魔導書を使えることを前提に入れた躰だ。“蒼”の知識を伴う浸食を防げてもおかしくはない』。

 だから今現在、俺とハザマは全くの別物へと変わった。故に行おうと思わなければ知識、思考を共有することもない。

 ……が、だ。

 

「うう……また病室に行くのも気まずいですよねぇ……せっかく仲直りできたと思ったのに、これじゃ私のストレスが溜まりっぱなしじゃないですか……どうしたらいいんでしょうか……」

 

『だぁぁああああああああ!! うるっっせぇんだよハザマちゃんよォ!!! ぶち殺されてぇか、ああ!?』

 

 独り言もいい、落ち込むなら勝手にやってろ、だがハザマはわざわざ俺に思考を共有してくる。俺に話しかけるように、だ。

 正直うざい、面倒くさい、耳障りにも程がある。やることはないがわざわざ封印してくれた相手に誰が好き好んで話しかけるか。

 そんな俺の思考を無視して話しかけるこいつに、聞こえもしない舌打ちをした。

 

「殺されたくはないんですけど……正直今のところ殺されるよりもショックですよね」

 

『テメェのヘタレ具合をテメェで失望してちゃ世話ねぇな。獣の人形相手によくやるもんだ。』

 

 人形、というのは黒き獣への戦力として、獣の遺伝子を受け身体強化された者たちの揶揄だ。俺の知識を得たこいつなら知っているだろう。

 どうでもいいが、俺が使うことになるだろう躰があの獣の人形とともに居ることすら、苛立って仕方ない。

 いや、苛立つどころの話じゃない。ハザマとあの女と笑っている光景、『なぜか俺ははっきりとあの光景に嫌悪を抱いている』。

 

『なんだったら俺がお前を殺して躰を貰ってやるが? 悩みは消えて綺麗さっぱりだろうが』

 

「いえそれ綺麗さっぱり私が消えてますから! いいですよねぇ……貴方は悩みがなさそうで」

 

 書類仕事も全くしていませんでしたし……そ、そう続けるハザマを鼻で笑う。やる必要がなかっただけだ。『面倒を無くすために』作ったこの躰と(ハザマ)に任せない理由が存在しない。

 そもそもハザマの今抱いている悩みすら、俺じゃなくても笑い種のものだった。

 

『お前がバカなだけなんだよ。何時まで苦虫噛み潰したような面してやがる』

 

「いやそうなんですけど、ですが……」

 

『ですがも糞もあるか。俺がお前の立場だったらあの女なんざ疾うの昔に切り捨てている。魔獣にでも公開レイプされてんのがお似合いだろうよ』

 

 どうせこの世界でもループ前にはイカルガへと出張させている。

 獣の末裔であることに一応警戒はしてるが、カグツチ、舞台に上がることすらない人形だ。俺としては死んだとしてもなんの問題もない。

 むしろここまで俺を苛つかせることを考えれば、進んで死んでくれるとありがたい。

 

「……そう、ですか?」

 

『そうに決まってんだろ。そもそもお前が何を間違えた? わざわざミスをカバーするために負傷してそのことについて注意して。そんでなんでお前が悩む。悩むのはあの女の役目だろうが」

 

 だから苛立つ。鬱陶しい。反吐が出るほどあの女にとって善人的な行動をとっておきながらこれだ。

 

『俺から見れば無駄だらけだが、なにも間違いをしてるわけじゃねぇだろ、お前は。んなどうでもいいことを俺に愚痴るんじゃねぇ』

 

「――――――」

 

 その言葉を言ったとき、なぜかハザマは言葉を止めた。

 言葉はなかったが思考をダイレクトにぶつけていたこいつからは、なんとなくだが驚きを読み取ることができた。

 

『……んだよ』

 

「あーいえ、貴方がそう言って擁護してくれるとは思わなかったので……少し驚きまして。ありがとうございます」

 

 聞いて内心舌打ちする。なに助言するようなことを俺は言っているのだと。明らかに『俺』らしくない。

 その言葉を区切りに、俺は言葉を返すことをやめた。

 「ふふふ、そうですね、私からは立場的にほめれませんけど他の人なら……」となにやらハザマは呟き、 その表情から自分の悩みに対して終着点を見つけたことを理解する。

 意味が無いことだ。どうせループする世界。すぐ先に終わりが見えているというのなら、たかが一回程度の足止めは許容できる。

 今の俺という存在に睡眠は必要としない。意識を落とすことが睡眠と呼べるのなら、今から俺がやろうとしていることがそうなのだろう。

 ただ、ハザマという存在が居るこの世界、その異常がこの世界のループを止めたとしたら?

 それでもかまわない。数分程度なら、俺の意思で俺という存在がこの躰を動かすことができる。真の蒼が現れた場合、観測()られるのに、数分は長すぎる。

 俺がやることは大きくは変わらない。

 それを確認したのち、相変わらず自身の悩みの解決策を考えているハザマに小さく舌打ちし、俺は意識を落とした。

 

 



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ステージ2

 

 『甘い匂いは好きではない。その存在があること自体にイラツクこともある。

 求めていたのは怒り、恐怖、悲しみ、慟哭、悦び。決して生暖かいそれではなく、常にその感情に餓え渇いていた。

 その倒れ伏せる人影を冷めた視線で見る。浮かんでいた感情はなんだったのか、その情報は既に残されてはいない。

 ただ悲しみと言ったその人物を憂うものではない。馬鹿が一人どうなろうが知ったことではなく、興味は既に別のモノへと移っている。

 

 あなたは救いようのない馬鹿だ。

 

 夢は此処で終わる。まるでこの先のデータを削除されたように、その先を知ることは無かった』。

 

―――――――――――

 

 魔素中毒の検査と強く打った頭部の検査だけで、既に一日は使ってしまった。

 ハザマさんがお見舞いに来て次の日の午前、手荷物もあまり無いから退院の準備は手早く終わり、午後には外に出ることもできるだろう。

 後は着替えて部屋を出ていくだけ、ただその状態で私はベッドの上に座りながら、自身のことについて考えていた。

 失敗は認める、いや、認めるなんて言うことすらおこがましい。だけど、それは失敗だったとしても本当に間違いであったのだろうか。

 そう考えただけなのに体が震えた。ハザマさんの昨日の言葉を思い出す。信頼を失った、それが何故か恐ろしいことに感じてしまっていた。

 

「……切り替えないと、ね」

 

 そう呟いても自分の心が沈んでいることだけが強く感じ、自分に対して舌打ちをしたくなった。

 私は一体何を求めて居たんだろう。

 今でも研究所での出来事を思い出し、吐き気もした。だけどそんな事は馴れだ。軍隊のような集団に居るのなら、いつかは直面しなければならない事だろう。

 だったら何を? 自分のやったことを子供のように褒めて貰いたかった? ……だとしたら、自分で間違いだと思っていただけ、余計に滑稽に感じた。

 目の前に有るのは真っ白な反省文の下書き。書く言葉が見つからず、筆は最初の行で止まったままだ。

 自分がなんで沈んだままなのか、どうしてこんなにも悩んでいるのか、何を求めているのか。

 目をつぶりゆっくり呼吸しながら思案した。

 コンコンと、小さなノックの音が聞こえる。

 多分看護師か医師が様子に見に来たのだろう。返答は特にせず、その扉が開くのを黙って見ていた。

 

「……へ?」

 

 見えたのは統制機構衛士の帽子。青いベレー帽はふっくらと膨らんでいて、その下で金色の髪が顔を覗かせている。

 指定の青いポンチョに身に纏ったその人物は、遠慮気味な表情をしながら恐る恐る扉を開けていた。

 

「し、失礼しまーす……」

 

「……ノエるん?」

 

 私は呆気にとられて呟いた。

 

ーーーーーーーーーーー

 

「ふふふふふふ、我が策は成りました! どうやら情報も無事送られたようで何よりです!」

 

『…………』

 

「公的な立場で彼女を褒めることはでぎません、かと言って私的な立場で行くことなんて無理です。ならば! ワンクッション置けばいいのです!」

 

『…………』

 

「まあー、彼が本当に動いてくれるとは思いませんでしたが、“ユキアネサ”……いえ、“抗体”様々といったところでしょうか?」

 

『…………うぜぇ』

 

 12月の上旬、ハザマはまるで独り言を呟きながら歩いていた。

 勿論それが独り言というわけではなく、俺へと話し掛けているのだろう。一回で数分間しか身体を乗っ取れない以上、俺がその話を聞かないようにする術は無い。

 周りの人間から不審な目で見られているのも無視して、ハザマは足取り軽く統制機構外の繁華街へと向かっていた。

 

『……んで、ワクワクドキドキのハザマちゃんは、俺にそれを言って何をしたいわけ?』

 

「正直不安で内心ドキドキなので、話してないと心臓とかもげそうなんです」

 

『わざわざ抗体を利用してまで行動したお前が言う言葉とは思えねぇな』

 

「仕方ないじゃないですか! 名案だ!って思ってヤバイことに気が付いたのはメールを送った後なんですから! ……いえ、たぶん大丈夫です。私、ハザマですから黒き獣とかと何の関係もありませんし」

 

『その関係者である俺を封じておいて関係ないとは、随分面の皮が厚いもんだ」

 

「あーーっもう分かってますよ! お願いですから意地悪して話し中に出てこないで下さいよ! 私が襲われます!」

 

 視線はまっすぐ前の道を見ているはずだが、なぜかこちらへと向けられたように感じて舌打ちした。

出てくるな、だと? 出てこられないの間違いだ。

 意識を落として、この世界の終わりまで寝ているのも悪くはない。だが、泣き寝入りすることが本当に『俺』だと言えるか、と問われれば否だと答えるだろう。

 本気で困ったように此方へ話しかけてくるハザマ。馬鹿正直に口に出して会話をしているわけじゃないが、百面相するハザマに不審な目を向けられるのは不自然じゃなかった。

 そんなことも気が付かず表情を変えるハザマ、本当に諜報部の人間なのか疑問にさえ思えてくる。

 

「(……いや、生まれてきた所が諜報部なだけ、か。コイツの本質はなんだ?)」

 

 決まっている。どこにでもいる凡庸な人間だ。悪、善、正義、そんな言葉に無縁な、ただ流れるように生きる人間。ただ切り捨てる、目的のためにリスクを計算し、場合によっては躊躇わない。根幹のどこかは自分と似ている。

 偶然生まれたこの『魂』。世界が終わり起点までまた戻ったとしたら、『俺』とは違いあっけなく消滅していくだろう。この男を『観測』しているのは……いや、どうでもいい。

 そしてもちろん、俺の知識を観測()たハザマなら、ループし続けるこの世界の結末を知っている。

 ならば一般の感性を持っていたとしたらどうするか。”方法がある”のならあがくのが人間だ。

 だからハザマはもがくはずだ。偶然生まれ、そして二度と生まれぬであろう、『ハザマ』という真実(ほんとう))を守るために。ループを止めるために動くだろう。

 

 なら、『俺』はどうするか。

 

「(もがき、抗った最後の一歩で、その足場を無くす)」

 

 成程、そのときのハザマの表情は甘美なものだろう。

 希望から裏付けられた絶望を感じ、失意の中で消えていくその存在を見ることは、なるほど確かに胸が躍る。この上なく悪くない案だろう。

 だが、だ。

 思考は否を示していた。そしてその理由も俺の中では当の昔に理解していた。

 

「そろそろ待ち合わせの場所につくので、しばらく『落させて』いただきますね」

 

『勝手にしろ』

 

 ハザマが施した封印術式の影響か、右腕の入れ墨に吸い込まれていくエネルギーを止めた途端、ハザマの頭の中で響いていた声はなくなっていた。

 強制的に意識を止めるための術であり、『彼』が一日に数分間、ハザマの意思に関係なしに出てこられるように、ハザマも閉じ込める術を持っている。

 その術式を施したハザマの足は、とある喫茶店の前で止まっていた。

 昼ごろだからだろう、店内は賑わいを見せており、数人のウエイトレスは辺りを忙しなく動き、談笑の声は店内から外の道まで聞こえてきている。

 注文を取った後のウエイトレスを捕まえたハザマは、予約名簿に書かれているであろう、自分ともう一人の名前を見つけさせ、その指定した席へと向かった。

 店の一番奥に設けられた四人用の席は、外からも中からも死角となり、来るのはせいぜい注文を取るウエイトレスぐらいだろう。

 そんな賑やかとは全く逆のその席には、ハザマの前に一人の青年が座っていた。

 金の髪に黒いスーツを着こなすその青年は、先に頼んだのか紅茶を口にしており、自身の隣には子どもの身の丈以上の刀が立てかけられている。

 近づいてきたハザマの存在に気が付いていたのだろう。見れば空いた片手には既にその刀は握られており、「お待たせしました」と小さく一礼したハザマに対して口を開いた。

 

「……来たか。上官を呼び出し、その上時間に遅れるのは諜報部の礼儀なのか? 大尉」

 

「それは申し訳ありません。ですが、プライベートなことなのですから、多少は譲歩していただくと助かりますね、キサラギ少佐」

 

――――――――――

 

 一礼してから目の前の青年こと、ジン=キサラギ少佐の対面へと座りました。

 こうして見て見ますと、世界の破壊者と対である秩序の力の持ち主とは思えませんね。いやまあ『彼』には完璧に意識を落として寝ててもらっているからですけど。出てこられたら私すぐに三枚おろしにされますから。

 無意識のうちにユキアネサ握っているあたり、ユキアネサ自体は私のことを分かっているのかもしれません。私関係ないと高らかに宣言したくもなりますね。

 

「此方の義理は果たした。其方で掴んだ情報とやらを聞きたいのだが? ハザマ大尉」

 

「ああ、ではヴァーミリオン少尉は向かってくれたのですか。ありがとうございます」

 

 ところでここにキサラギ少佐を呼んだ理由なのですが、ちょっと調べたところマコトさんの学生時代の友人、ヴァーミリオン少尉がキサラギ少佐の元で秘書官をやっているとのこと。調べなくても知っていますが、一応、です。

 ちょっと私は慰めに行くのはおかしいですし、だったら友人呼べばいいじゃない、という発想に至ったわけです。

 ……正直その友人の上司が、“抗体”だったことをすっかり忘れてましたけど。

 だからこそ私が知っている情報、ラグナ=ザ=ブラッドエッジについての情報をキサラギ少佐に売ることもできると考えました。対価は……とりあえずマコトさんの元気ってことで一つ。いえ、私にとっては死活問題ですし。

 私自身は一般諜報員Aみたいなものです。デンジャラスな方々と何かしら関わりが少ないので、私の中にいる『彼』が沈黙しているだけで問題は少ない、と思います。

 

「情報、と言うには少々微妙なものかもしれませんが。死神、ラグナ=ザ=ブラッドエッジについての報告は既に……」

 

「入ってきている。そして、なぜ貴様がその情報が僕にとって有益であると知っている?」

 

「そこはほら、私は諜報部ですから」

 

 諜報部という言葉がこれほど便利だと思ったことはありません。

 本当は『彼』とか境界からの知識といった反則が原因ですが、諜報部という言葉は相手に納得させる力がありますね。

 ここで出てきたラグナ=ザ=ブラッドエッジですが、最近では第九階層都市アキツで支部の建物を破壊したとのことです。

 統制機構に恨みを持つのは仕方ないといえば仕方ありませんね。原因の半分は『彼』のせいですから。『育ての親の魂まで本当に回収して再利用しようとしている』みたいですし。今頃レリウス大佐の研究対象にでもされているんじゃないでしょうか?

 ……なんででしょう、私の周りには鬼畜しかいません。マコトさんだけが私の清涼剤です。キサラギ少佐に来ていただいて助かりました。ヴァーミリオン少尉だけ来てくれればもっと良かったんですけど。

 

「対価が同僚への見舞のみ、というのもおかしな話ですけどね」

 

「ほぼ無条件に近いのだから、貴様にも何かしらの目的があっての行動なのだろう?」

 

「ああ、そうですね。ほら、ナナヤ少尉が居ないと私ダメなんですよ? 結構好きですし」

 

 勿論friendlyな友人的な意味ですけどね。そんな言葉を私の発言の中に込めながらキサラギ少佐に返します。

 ですがなぜでしょうか、キサラギ少佐の表情が何とも言えない微妙な感じになってます。

 言うなら凄くおいしいと思っていた食材がゲテモノだった、そんなときの表情に類似するのではないでしょうか?

 

「……まあいい。それで情報とは」

 

「こちらになります。既に挙げられた情報も記されていますが、全て諜報部で裏付けをとったものです」

 

 私が取り出したのは、昨日まとめた報告書の束。現在指名手配中のラグナさんの行動分析結果です。他には多用されている迷彩術式のコード、外見情報、次の『カグツチでの出現日時』などを示したものをレポートにまとめました。

 裏付けは『彼』と境界からの知識。諜報部でも行動分析は行っていますが、そんなチャチなものではなく究極の裏付けですね。もうアクセスすることも『絶対にない』ですけど。

 どうせいろいろな要因を呼び寄せるために、ばら撒くであろう情報の一部です。問題ありません。

 渡された資料を眺めるキサラギ少佐、待っている間私はランチセットをひとつ頼んでおきました。

 選んだのはもちろんCランチ。ゆで卵が付いたそれは『彼』も大好きなものです。ゆで卵が。今は出てこられませんが。

 メニューを見つつキサラギ少佐を窺いました。

 口元でものすごく笑っています。私がいなかったら高笑いさえしていそうです。手に持つユキアネサも笑うようにカタカタと揺れていました。

 抗体としての反応と、黒き獣の関係者に対して無差別破壊をするユキアネサ、両方を持つキサラギ少佐に人間としての意思が残っているのは、奇跡みたいなものです。

 ですが私の視線に気が付いたのか、すぐに顔を無表情へ戻すと、資料をテーブルに置いて深く椅子へ座りなおしました。

 

「私が知る限りの情報はこれで全てです。この後はどうしますか? 私、昼食がまだなので済ませていくつもりなのですが。一緒にどうです?」

 

「いや、いい。僕はなぜか貴様は気に入らない。共に食事をしようとは思わないな」

 

「あらら、嫌われちゃいました?」

 

 ユキアネサの影響もありますから、私を嫌うのはむしろ当然なのでしょうけど。

 しかし私が嫌われようとたぶん『この先合う事も無い』でしょうから、私としてはどうでもいいのですが。

 キサラギ少佐が席を立ち、私の後ろを通り過ぎていくのがわかりました。

 これでようやく『彼』とも話せるようになりましたから、術式を解こうとして……

 

「一つだけ、聞きたいことがあった」

 

「…………………………はい、なんですか?」

 

 後ろから声をかけられました。もちろん声の主はキサラギ少佐です。

 心臓が跳ねるという思いをしたのは初めてで……いえ、わりと多いですね。獣兵衛様とか忍者、黒い獣の群れとか。

 思わず首だけ向けて返事を返します。ほんとは不敬なんですけど、そんなことに頭はまわりませんでした。

 何しろ相手は英雄で抗体でユキアネサなキサラギ少佐。『彼』を出していたら『もしかすると』私ごと切り殺されてしまうかもしれません。

 

「数日前、第四師団へ向けられた命令が出発直前に撤回された。とある研究所を強制捜査する命令が僕の師団へと送られていたものだ」

 

「それがなにか?」

 

「もっとも、それを不審に思い調べさせたが……さて。師団を動かせるほどの命令を変更できる人物が、わざわざ直接会いに来てさらにそこでは大尉を名乗っている。この話にどこか聞き覚えはないか?」

 

「…………さあ?」

 

「一つだけ聞く。貴様、『何だ?』」

 

 …………一つだけ言わせてください。違います、人違いです。

 直訳。テメェ、大尉じゃねえだろ! 何を企んでやがるこの糞ヤロウが! なぜかラグナさんの声で再生されました。

 それ私じゃないです、人違いです。いや人物的には似たようなものなのかもしれませんけど、私じゃないです。

 よーしやってくれましたね『テルミさん』。私の名前を使って発信された命令だってばれていますよ。なんで私の名前使っといて足をつっかかっているんですか。いや、今呼べませんけど。

 というよりキサラギさん真正面から聞かないでください。内心で冷や汗の滝が止まりません。

 

「何、と言われましても。ただのハザマですよ。統制機構諜報部のハザマさんです。それ以上の答えが必要ですか?」

 

「……ふん、確かにそうだ。よくよく考えてみれば、僕には何の関係もない話だ。が、……やはり貴様は気にくわない」

 

 と、そこで体を翻したキサラギ少佐は、振り返ることなく店を去っていきました。

 元々答えなど求めてはいなかったのでしょう。もしくは、ユキアネサ自身が私へと警告を放ったのか、私にはわかりませんけれども。

 

「勘弁してくださいよ……ホントに」

 

 どうしてこんなにも面倒な環境に私は生まれてきてしまったんでしょうか、と。思わずため息を吐きました。

 ぼやいていても現状は変わりませんし、行動しているのは確かなのですが、分が悪いことこの上ないです。

 視線を下し、手の中にあるつややかなゆで卵と対面しました。

 とりあえず『彼』が起きるまでにゆで卵はいただいておきましょう。思考をいったん休めると、私は久しぶりのゆで卵へとかぶりつきました。

 

―――――――――――

 

 久しぶりに見た旧友の顔は、士官学校に居たころとあまり変わりないように思えた。ところどころに見える抜けた様子や、頼りないけどどこか心に響く言葉もそのままだ。

 最初の言葉もそこそこに、しばらくすれば昔と同じように会話も弾み、私は知らないうちに笑みを見せていた。

 

「それで急にキサラギ少佐に『出るぞ、五分で支度しろ』なんて言われたから、マコトにお見舞いの品を作ってあげられなくて……。せっかく新しい料理を覚えたのに」

 

「アーソレハザンネンダッタナー。(ありがとうございますキサラギ先輩! GJ!)」

 

 ノエルの言葉に私は思わず乾いた返事を返した。

 ノエルの料理の腕は壊滅的なものにさらに追い打ちをかけたようなもので、なぜそれで新料理ができるのか理解できない。

 

「キサラギ少佐も食べてくれたものだから、自身があったんだけどなぁ。ごめんねマコト」

 

「い、いいよべつに。急ぎの用事だったならしかたないからさ」

 

 私はキサラギ先輩の勇気ある行動に敬意を示す! そういえば士官学校時代、先輩はノエルの料理を食べたことなかったんだった。食べてたら二度目は全力で回避しようとする代物だし。

 私やツバキがやんわりと断ってしまうのは、ノエルの料理好きに拍車をかけてしまう原因なんだろう。

 本人に悪意ゼロで悪意の塊を作り出すのはどんな状況でも辛いものがある。というか、自分で試食してよノエるん。

 そこまで考えて不意に首をかしげてしまった。

 キサラギ先輩との任務だというのに、こうしてノエルは私のところにお見舞いに来ている。こんなことをしていていいのだろうか?

 

「そういえばノエるん。キサラギ先輩と一緒に来たって言ってたけど、任務とかは大丈夫なの?」

 

「うん。キサラギ少佐が『ナナヤ少尉が負傷したと報告があった。僕は用事がある。少尉は病院へと向かっていろ』キリッ って言ってたから」

 

「ぶふっ、ちょっとノエるんキサラギ先輩の声マネやめてよ。……あれ? じゃあノエるんの任務って何?」

 

「えっと……あははは……」

 

「って、知らされてないのかい!?」

 

「あぅぅ……」

 

 笑ってごまかそうとするノエルに思わずチョップ。

 というかキサラギ先輩の「五分で支度しろ」の時点で、ノエルを荷物持ちなどの雑務をさせるつもりだったことは目に見えている。意外に黒いよ先輩。

 相変わらずだなぁ、と私は思わずつぶやいてしまった。

 キサラギ先輩がノエルを避ける。何とか仲良くなろうとノエルが気を利かせたりしようとする。失敗する。キサラギ先輩溜息。以後ループ。そんな光景が目に見えてきそうだ。

 

「で、でも極秘任務だったりしするかもしれないから聞けないよ。いつも出かける時とは違って私服っぽいスーツ姿だったし、疲労が溜まらないようにずっと荷物を持たされたりしてたし、少佐、ずっと飛行機の中でもピリピリしてたし……」

 

 ノエるん、それ極秘任務違う、ただのお出かけ。たぶんピリピリしてたのは苦手なノエルが近くに居たからで、明らかに荷物持ちに利用されているよ。

 でも言わない。なんかそんなノエるんがやっぱりいい。

 ……もしかしてこれがキサラギ先輩なりの愛情表現なのだろうか? 正直、ノエルへ普通に優しく接しているキサラギ先輩の姿が想像できない。

 

「マコト?」

 

「ん? ん~、やっぱり二人とも相変わらずだなぁ」

 

「そ、それって絶対良い意味じゃないよね!?」

 

「ん、そだね」

 

「マ~コ~ト~? うう……ひどい。半年ぶりに合ったのにマコトからもやっぱりそんな風に見られるんだ……」

 

むぅ~、と子供のように頬をふくらますノエル。思わずその頬をつついてしまった。うりうり。

 

「もう。そういうマコトはどうなの? 諜報部に配属されたって聞いたけど、うまくいってる?」

 

 

 

 

「あー、うん。そこそこかな」

 

 ノエルの言葉に思わず目をそらしてしまう。

 うまくいっているかどうか、と聞かれれば間違いなくうまくいっていると答えられる。ただの任務の失敗、それだけなのにいつまでも固執して、馬鹿みたいだ。

 ずきんと、思い出したように胸が痛む。

 切り替えようとしていたはずなのに、思い出しただけなのに、私はその痛みがとても大きく感じていた。

 

「マコト」

 

はっとして現実に戻ってくると、そこには近づいて顔を向い合せるノエルがいた。

じっとこちらを見るノエルの表情は固く、また真剣なものだと分かった。

 

「なにか嫌なこと、あった? さっきのマコトの顔、すごく辛そうな顔してたよ?」

 

「いやーなんていうかさ……やっぱり分かる?」

 

 私の返答に対してこくんと頷くノエル。

 知らぬうちに大きく溜息を吐いてしまった。半年程度とはいえ、諜報部やってるのにここまで分かりやすいというのは、正直自信がなくなる。

 私は本当に諜報部としてやっていけるのだろうか。口から零れそうになった弱気を、無理やり喉の奥に押し込んだ。

せっかくお見舞いに来てくれた友人に心配をかけたくはない。ノエルの次の言葉を待って私は口を閉じた。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………で?」

 

「え? なになにマコト?」

 

「いや、なにじゃなくてさ、ノエルが次の言葉を言ってくれなきゃ、なんとも私返せないんだけど。さすがの私も女の子とお見合いする気はないかな~?」

 

「ええっ!? そんなこと言われても……てっきり私はマコトが『あの上司セクハラが酷いんだよ~』とか、マコトが相談してくれるのを待ってたのに!? えぇっと、えぇっと……し、心配事があるならバッチリ聞くよ!?」

 

「……ぷっ」

 

 真剣に私を見つめていたのが一気に崩れて、わたわたと慌てるノエル。それを見て、私は小さく笑った。

 私のお見舞いに来たという時点で心配をかけていることは明確で、相談に乗る準備も万端だったノエルがおかしかったからだ。これでは相談するしかないじゃないか。

 その友人の姿を見て、少しだけ楽なったような気がする。

 私とノエルは友達だ。そういってしまっては少しズルい気がするけれども、少しだけ愚痴に付き合ってもらおう。

 

「う~、笑わないでよマコト」

 

「笑ってないってば。うん、じゃあちょっとだけ愚痴に付き合ってもらおっかな。どこにでもあるような失敗話だけどね」

 



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ステージ3

 意識を落とした状態で、魂の揺さぶりが見せた記憶は、夢と言う事に相応しい。

 当時何を思い、何を感じ、何を考えていたのか。『   』ではない。『■』ではない。ならばそれ以前『□』はどう結論付けたのか。

 奇妙だと感じていた筈だ。その世界が偽りであり、本当(しんじつ)なんて存在しない。

 

 もしも自身の思いが偽り(ウソ)で世界が真実(ホントウ)だったとしたら、それはどんなに素晴らしい世界だったのだろうか。

 

だが『□』は切り捨てた。

夢の中の『□』も今の『■』も笑っていただろう。夢は今を元に見せた妄想に過ぎない。だが自身の今からその想いを想像することは容易い。

だから自身が、偽りに誘う存在を…………騙した。

 

故に。『■』は、居る。

 

そんな存在を、誰かが三日月の笑みを浮かべて嗤っていた。

 

――――――――

 

「マコトさん成分が足りない」

 

『いきなり何言ってんだお前』

 

 書類、書類、書類、根回し書類書類根回し情報の横流し。流れ作業より幾分ましとしか言えないほどつまらない仕事に、私は思わず妙な言葉を口走っていました。

 カタカタと端末と一緒に情報をいじくり、いろいろな役者をカグツチへと集める作業は、なかなか面倒なものです。

 少し街に出れば赤緑白の華やかな飾りが外され、どこかの聖人の日が過ぎたことが分かりました。

 微妙な距離ができてから一週間以上たったというのに、マコトさんとはあんまり会話はできてません。仲直りしましたけど。

 

「いえ……仲直り、いえギスギスとしたような空間はなくなりました。普通に話すこともあります」

 

『……で、なにがご不満なんですかー?ハザマちゃんは』

 

「マコトさんと話せないことですよ……当然。“私”がいたころから立場が固定されてましたから、友人居ませんし」

 

 気が付いたら諜報部でした。仕事を行っていくうえでの同僚はもちろんいましたけど、友人はいません。たくさん居たら居たらで自分の立ち位置的に問題がありますけど。

 私にもストレスは溜まります。あと少しで私が消えるか消えないかの時期がやってくるのですから。ハラハラし続ければ当然疲れます。

 

「まあ……やれるだけやったつもりなんですけどね。全部終わってからのんびり話すとしましょう」

 

『そう言う奴に限って話せないんじゃねえの? どこぞのブラッドエッジちゃんみたいによ』

 

「やめてくださいよ、縁起悪い。まあ……死神には頑張ってもらわないといけませんしねぇ……」

 

 黒き獣が発生して過去へと言ってしまえば、また世界はまき戻ってしまうことになります。

 一応レリウスさん特製のこの躰なら、境界に触れる程度はできますけど、通り抜けることはまず無理です。

 ではどうすればいいんでしょうか。→ラグナさん抹殺すればよくないですか?

 そのあとにはタケミカヅチがカグツチを崩壊させますけど、私は逃げましょう。よし、完璧じゃないですか。

 

『それで終われば良いよなぁハザマちゃん? 俺にも目的がある。それをさせるつもりはねぇんだけど?』

 

「……そうなんですよねぇ」

 

 第十二素体の真なる蒼(カラミティトリガー)への覚醒。さらに自己の観測によって存在定着させること。

 まずはこれを成してさらに私が生き残ること。それが必要になります。

 ただ……それによって躰の優先権が無くなるかもしれないのが怖いんですよねぇ。

 だからといって妨害するわけにもいきません。此方が『彼』を妨害すればあちらも妨害します。足の引っ張り合いをしていたらお話になりもしません。

 ダメ元でレリウス大佐に相談してみましょう。普通の肉体の一つや二つ、つくってくれるかもしれません。

 つまり私がやらなければいけないことは、①第十二素体を覚醒させること、②ラグナさんもしくは第十三素体を抹殺すること、③帰るための足を用意すること。

 ……確実にできるのが③しかありません。ラグナさんの情報はいろんなところにリークして、カグツチにいろんな人を集めてますが、正直難しいです。なんですか蒼の魔導書って。第十三素体はもっと無理ですし。①は運がすごくからみますし。

 

『まあ、気張れやハザマちゃん。過去でもお前のことはほんの少しだけなら覚えてらんねぇよ』

 

「慰めているようで全く逆のベクトルになってますって! ……明日の便でノエルさんと任務に行くようになっていますから、準備だけでもやっておきましょうか」

 

 明日は移動中にノエルさんと合流して……ラグナさんを咎追いの誰かが捕まえてくれればいいのですけど。

 キサラギ少佐がやってしまえば結構。ハクメンさんがやってしまえば大変結構。とりあえず事象干渉の妨害だけでもやっておきましょう。

 それでもだめだったら……第十三素体と戦って倒れたラグナさんを回収、よし、それでいきましょう。

 やることを頭の中で繰り返し、私は端末をいじっていた手を止めました。まともな方面からの命令だったのでスルーすることにします。

 これから始まる準備と言う名の憂鬱な実態に私は溜息を吐きました。

 

「レリウス大佐と対面ですか……やっぱり嫌ですねぇ……」

 

 

―――――――――――――――――――

 

 久しぶりに入ったレリウス大佐の研究所は相変わらず意味不明でした。

 宙に浮かぶ立体映像のキーボードで何かを入力しているその視線の先には、人間を模した機械人形があり、それが波動兵器(デトネーター)と呼ばれるものなのでしょう。

 勿論ノックを済ませて部屋へと入った私ですが、こちらも相変わらず振り向きもせず作業を続けるレリウス大佐には、ある種の尊敬の念が生まれそうです。

 入ってきているのが私だとわかっているのでしょう。そのままでその辺りにおいていた椅子へと腰かけると、レリウス大佐のほうから問いかけられました。

 

「……何の用だ、『ハザマ』。第十三素体の資料は、既に送ったはずだが」

 

「いえいえその件では感謝してます。おかげで私ではどうしようもないことは分かりました。明日此処を発つので挨拶にと」

 

「私も向かう場所だ。それは不要だが? 見ての通り……私は忙しい。速く用事を話せ」

 

 そういえばレリウス大佐も、私たちとは日程をずらして来ることを忘れていました。

 以前、こっそり第十三素体を壊せないか考えたのですけど、私では無理です。

 世界によって存在を固定されている者を壊せると思う方がおかしいですよ。スペックはレリウス大佐特製ですし。破壊者か秩序の力に任せます。

 それよりも本題に入りたいと思います。

 

「えーとですね、この躰にもう一人住人が住んでるじゃないですか? できればもう一つ体を用意していただけないでしょうか……なんて」

 

「……ふむ」

 

 作業していた手を止め、虚空に思いを寄せるようにレリウス大佐は宙を眺めていました。

 反面私は、緊張で思わず貧乏ゆすりをしそうになった足を抑え、答えを待ちます。

 

「『もしもハザマ、お前の躰の中でテルミが存在定着したとしたら、間違いなくお前の体の優先権はなくなるだろう』 ふっ、良かったなハザマ。お前が気に入らなかった白髪がなくなるだろう」

 

「わざわざ専門家からとどめの一言を言わないでくださいって! 白髪がなくなるのはありがたいですけど!」

 

「だが、それも構わないのではないか? 『もともとお前はテルミの補助のために造られた。自分の役割を全うできるなら本望だろう?』」

 

「勘弁してくださいよ……まったくもう」

 

 余りにも真っ黒なジョークに私も思わず頭を抱えて溜息をついてしまいました。

 びっくりすることにこれがレリウス大佐のジョークらしいです。私の常識値がどんどん減少していく気がしました。

 が、出発するのも明日。躰についての注文もしなくてはいけません。私が視線を再度向けると、ゆっくりと此方を振り向いた大佐の視線とぶつかりました。

 

「躰は用意しよう。その対価として、だ。一度聞こうと考えていたことがあった。」

 

「本当ですか! やった!……いえ、失礼しましたそれで、質問とは?」

 

「蒼から、お前の中に存在する者から、どこまで識(し)った?」

 

レリウス大佐の言葉に私は思わず言葉を失いました。

 

「…………………」

 

「境界を通した全てだとするなら、お前の躰は疾うの昔に崩壊しているだろう。おそらく奴が抵抗となって情報の氾濫を防いだのだろうが……さて」

 

「この躰、境界に触れても大丈夫じゃなかったんですか?」

 

「無理だな。一部素体を基幹とした部分もあるが……。不完全とはいえ蒼に目覚めるとは想定していなかった。想定外なことに、お前の魂自体が確立したものだった。肉体の崩壊が遅れた要因はそれと……無意識とはいえ、情報の選別をしただろう『奴』に感謝することだな」

 

「…………」

 

「質問しているのは私のはずだったが?」

 

 決してその問い詰める口調は責める様ではありません。しかしそのプレッシャーに対応する様に、私は肩を竦め口を開きました。

 

「嫌ですねぇ、レリウス大佐。そこまで知っているなら全部知ってるじゃないですかもう。とりあえず、『彼』と『彼』の知っていることについては大よそ入ってきていますよ。勿論、もうアクセスできませんから他の人が今何を考えているのか、なんてことは知る余地もありませんけど」

 

「……成程。……もう一度試してみるか?」

 

「やめてくださいよ! 今度こそいろんなモノを境界に持ってかれますってば!」

 

「……冗談だ。本気にするな」

 

「冗談ていう目してませんでしたけど……。とりあえず、『知識については殆ど正しいですけど』、絶対であるわけではないので、彼とか世界について何か問われても私は安易に答えられませんよ?」

 

「いや、ただの確認だ。知識は必要無い。素体でなくともマスターユニットへの到達を考えたが……魂の強度、か。私もまだ未熟という事か」

 

「それなら私としてはなによりです。それで……躰は造ってもらえるのですか?」

 

「……ああ。『テルミのための躰が在ればいいのだろう? それなら問題ない』」

 

「ちょ、そっちじゃな…………」

 

…………

 

「で、造るならさっさとしろや。もう『俺』は移れんのか?」

 

 ハザマの話をいったん切り、レリウスへと問いかける。

 ハザマが頭の中で何か言っているが、その意識を落とすことで黙らせる。ほんの数分で復帰するが、耳障りな声を聞いているよりは余程マシだった。

それに話さなければならないこともある。この躰を好き放題動かせるのは数分、下手したら数十秒が限度だった。

 クサナギの錬成のために造る窯を用意するための時間はない。できたとしても第十二素体が万一蒼に目覚めたとき、観測されるために表面上に出てこれなければ何の意味もない。

 

「……貴様か。用意はできていない。貴様が観測されてから出直すのだな」

 

「はっ、随分とハザマちゃんに熱心だなおい。そんなにアイツが気に入ったのか?」

 

「いや……、奴は面白い。優先順位的には最下位にあるが……奴の魂に価値はない。どこにでもあるものだ。だが、まだ存在している」

 

「で? だからなんだってんだ」

 

 にやり、と。口元で笑ったレリウスは、確かに目も笑い、玩具に無邪気なガキのようにも見える。

 実際その通りだろう。ハザマを生かして観察するのが面白いのであって、奴に親切心があるはずがない。

 

「面白いとは思わんか。貴様という抵抗があったとはいえ、『ただの存在が境界に触れて無事だった』。補助があればただの人間でも境界に触れられ形状を維持できる。これに特化することができれば……」

 

「境界を通ってマスターユニットにたどりつけますよーってか? そいつはまぁ、馬鹿な仮説だなおい。素体を使ったほうが何倍も速いだろうが」

 

「ああ、だから優先順位としては最下位だ」

 

「あ、オイ」

 

 話を切り上げレリウスは再度波動兵器の調整を始めた。一発ぶち込もうとしたところを理性が繋ぎ止め、先の言葉を促す。

 

「窯の錬成については、任せていいのか? レリウス大佐殿?」

 

「……ああ。『問題はない』」

 

 その言葉だけ聞ければ俺としても問題ない。

 多少とはいえ支障は出るが、『窯を錬成するのは俺でなくとも問題はない』。失敗すればどうなるかは分からないが、俺には関係はないのだから。

 



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ステージ4

 楽しい夢を見る。

 

 自分と同じ金色の髪の男の子。手を引かれ一緒に歩いているのだろうか?

 とても暖かくて、優しい夢。

 

 でも、自分自身が知らない夢。どこで見たのか、それとも聞いたのか。

 

 形さえも無い空ろのような夢。

 

 少年が振り向く。その少年は―――――――

 

 

 

 【ジン=キサラギの捜索、および確保せよ】。目が覚めてから何度見直してもそう書かれている命令書を見直す。

 仮眠室でベッドに腰掛けたらそのまま寝てしまったのだろう。まだぼんやりとした意識を戻すため、自分のポーチから書類を再度取り出した。

 青い帽子とポンチョを着込んだ少女……ノエル=ヴァーミリオンは、誰にも聞こえないよう、小さく溜息をついた。

 数日前、「少し出てくる」という言葉と共に部屋を出た自分の上司の最後を思い出し、ノエルは思わずため息を吐いていた。まさかそのまま失踪するとはだれが考えるだろうか。

 仮眠室のベッドから体を起こし、ぼんやりと手に取った報告書を眺めながら考える。

 マコトのお見舞い以来から、ジンはどこか落ち着きのない様子だった。尋ねるとすぐに「なんでもない」と言って睨むので、ノエルは踏み込んでいけなかったということもある。

 

 次の報告書に目を通すが、あまり頭の中に入ってこない。仮眠室、とはいってもノエルは自室のようにぐっすり寝てしまっていた。頭が働かないのも仕方ないだろう。

 そこには用紙の半分ほど使って、指名手配犯の似顔絵が描かれていた。余りにも似ていない。凶悪犯であるということを印象付けるために、わざと描かれているのだとノエルは思う。

 小さい子供たちの落書き帳にされそう、と。意識は外れ名前へと移った。

 

「……ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」

 

 何故かはわからない。だけど自分の意識はこの名前に惹かれていくように感じる。

 何かをしてほしい、ということが本能で言っているように感じるのに、それがなんなのかが分からない。

 ノエルはじっとそれがなんなのか探ろうとする。ゆっくり目を閉じて集中しようとして……くぅ、と小さくとも確かにお腹が鳴った。

 

「そういえば……お腹減ったな」

 

 起きてみれば前の食事から十時間は経っていただろう。それじゃあ食事をとりに行こうかな、とノエルの思考は指名手配犯の名前から食事へと移っていた。

 寝ていただけ、と言ってもお腹は減るし、ぼんやりとした頭を戻すには食事は必須。

 そう自分を納得させて思わずうなずく。決して出される食事がおいしいからとかそんなことはない。

 朝なのにデザートも出されるから逃すわけにはいかないとか、そういう理由じゃない。朝食は一日のエネルギー源。そうノエルは思い、何度も頷く。

 外に出る前に水道の鏡を再度見て軽く寝癖を直し、ナチュラルメイクだけ済ます。

 今日のデザートはなんだろなー、と。小さな期待を胸に、ノエルは部屋を後にした。

 

…………

………………

……………………

 

「いやあ素晴らしいですねゆで卵! この艶この色この感触! お風呂上がりの子供のような暖かさ柔らかさだ・ん・りょ・く! さてまずは一口……? あれ、ヴァーミリオン少尉じゃないですか。おはようございます」

 

「お、おはようございます……」

 

 すごく、近寄りたくない。黒いスーツに白い髪、今回の任務での上司を見て、ノエルは思わずそう思った。

 食堂で選んだフレンチトーストを置いて、自分が前に座ったのも構わず、熱狂的にゆで卵について一人語りを始めた大尉に対して、何も思わないというわけがない。マイナスイメージを。

 自分が前に来たから語り始めたのではなくて、独り言だったらしい。それを考えるともっと怖い。悪い人ではないのだけれど。そう思うノエルのハザマに対するイメージが段々と変わってきた。

 大胆にむかれている最後のゆで卵を、ほくほくした顔で食べているのを見ると、よほどゆで卵が好きなのだろう。隣の器に大量の殻が積まれていた。

 

「……すごい量の殻ですね。確かに卵は栄養がたくさんありますけど、少々偏って食べ過ぎではありませんか?」

 

「む、良いんです私が好きなんですから。そういうヴァーミリオン少尉も……フレンチトースト二枚にカフェオレ、それにアイスですか。太りますよ? 勿論胸ではなくお腹が。意外とカロリー高いですし」

 

「い、いいんです! 朝なんですから! 沢山栄養とるべきなんですから! 胸もお腹も関係ありません!」

 

「どちらかというとブランチのような気もしますけど……殆ど冗談ですよ。そんな恨めしそうな目で見ないでください。傷つきます」

 

 どうやら自分は恨めしそうな目をしていたらしい。というか殆ど冗談ならどれが冗談ではなかったのだろう。場合によってはセクハラで訴えたくなっていた。

 

 マコトからは確かに聞いていた。自然にセクハラをしていくような人だと。マコトは慣れているようだったけど、上司には一方的に嫌われていたから、慣れそうにもない。慣れる必要はないけれども。

 曰く、初対面でよ、夜の相手(勿論お酒的な意味です)を頼んだり、勝手にお尻(尾)を揉んだり……。

 だけど話しているマコトはむしろ楽しそうだった。本人も大尉のことはす、好きだと言っていたからかもしれない。

 そこまで思い、マコトって趣味悪いな、という言葉で締める。どちらもフレンドリー的な意味ではあったが、趣味悪いのは事実であるため、本人が聞けば笑ってその通りだと言うだろう。

 

「それにしてもよかった。衛士の人たちってお堅い人が多いですから。ヴァーミリオン少尉が諜報部の軽い風紀を理解してくれて助かります」

 

「いったい誰のせいですかもう!」

 

 軽く笑うハザマを放置して、朝食のフレンチトーストに舌鼓をうつ。せっかく出された朝食。カロリーなどという雑念は放置して、楽しもうと意識を集中させた。

 確かに初めからお互い堅くなるのはなし、ということを先に言われたのだ。

 ノエルとしてはリラックスできるといえばできなくもない。秘書官としてジンの補助をしていた時よりは気持ちが楽なこともある。もちろん任務のことを含めてはいないけれども。

 フレンチトーストを咀嚼しながら思う。そうした思考に捕らわれてしまったのだろう。咀嚼するのが不十分にもかかわらず、フレンチトーストは喉へと行ってしまった。

 

「ああそうでした。カグツチに着くまでに任務について少し話して……大丈夫ですか? はいカフェオレ」

 

「けほっけほ……あ、ありがとうございます」

 

 少しだけむせってしまい、ハザマから渡されたカフェオレに手をつけた。そしてそのままカフェオレで喉の奥まで流し込む。

 かすかに感じられるカフェオレの苦みと、全体的に感じる濃い苦みと、甘さが隠れるどころかかき消された苦みが口の中で感じられた。

 

「~~~~~!?!?!?」

 

「あ、これ私のブラックコーヒーでした。すみません間違えまし……だからそんなに恨めしそうに見ないでくださいってば」

 

 たとえるなら真正面から来たボールを受け止めようとしたら、空間転移で真横から飛んできたような気分だった。

 甘みを待ち構えていた舌の上でコーヒーが躍り、苦みを口全体に拡散させたのは言うまでもない。

 私でからかってるのかな……。そんな言葉が頭をよぎり、ノエルは恨めしそうにハザマを見た。

 ノエルの頭の上では、相手は上官だよ~。そんなことしちゃだめだよ~、と、頭の中で天使にデフォルメされたノエルが警告している。しかし数秒後にはなんなくベルヴェルグに撃ち落されていた。

 ノエルからの恨めしそうな視線を感じ、居心地が悪そうにしたハザマは、わざとらしく咳払いをしてから食器を避けて座り直る。

 真剣な表情に戻したハザマを見て、思わずノエルも座り直し、トーストを切り分けたナイフを一旦置いた。

 

「任務の話をしましょう。あ、食べながらで結構ですよ」

 

「あ、はい」

 

 そう言われフォークでそのままトーストを口に運んだ。味をじっくり楽しみながら食べられないのは、少しだけ残念だ。

 

 話したことはそこまで重要なことではなかった。

 失踪間際のジンの様子や、ラグナ=ザ=ブラッドエッジがかかわっている可能性など、簡略的に説明したものだのだろう。

 

「もともとラグナ=ザ=ブラッドエッジの調査については、ヴァーミリオン少尉に降るはずの命令だったはずなんですけどねぇ」

 

「え、そうなのですか?」

 

「そうなのですかって貴女……。そこからキサラギ少佐の向かった場所を読み取れたって……報告書に書いて置いたはずですけど?」

 

「うっ…………目は通しました。どうやら見逃してたみたいです」

 

 ラグナ=ザ=ブラッドエッジはどこの階層都市でも、支部を破壊して行動している。

 キサラギ少佐はラグナ=ザ=ブラッドエッジに強い興味を引いている。それが報告書に書かれていたことだった。

 つまり、支部に居れば両者とも遭遇できる。そう考えて問題ない。ノエルもハザマに実際聞いてみたところ、その想定であっているようだった。

 

「えっと、カグツチへの到着が1100時ですよね? それまでずっと支部で待機ですか?」

 

「いえいえ、きっちりラグナ=ザ=ブラッドエッジについての調査も行いますよ。1800時に支部で合流しましょう」

 

「……え? べ、別々に調査するのですか?」

 

「いや、そんな捨てられた猫みたいな目で見ないでください。士官学校でもアンケートみたいなことをしたでしょう。似たようなものですよ」

 

「その……そういったことは殆どマコトやツバキ……友人に任せっきりだったというか、なんといいますか、必修の単位ではなかったので……」

 

「くそ、なんて時代ですか! 衛士と諜報員との間でこんなにも訓練内容の差があるとは思いませんでした!」

 

 わざとらしく頭を抱えるハザマ大尉と対照的に、ノエルは小さくなって顔を赤くすることしかできなかった。どうしてあのとき頑張っておかなかったのだろう、と。

 後悔することになるのなら、マコトの付き合いで取った授業とはいえ、真面目にやるべきだった。思い直しても後の祭りである。

 書類の整理や情報を纏めることはあっても、現地での聞き込みという任務は実質初めてであるといってもいい。初めてのことであるのだから、多少なりとも緊張や不安は存在する。

 大きく溜息を吐かれ、ノエルはさらに体が小さくなったように感じていた。どう考えても呆れられているのだろう。

 

「……いえ、文句は言えませんね。衛士にまで調査を任せたのは諜報部の人材不足が原因ですし。イカルガに特攻なんて馬鹿させるから……」

 

「ハザマ大尉?」

 

「ああいえ、何でもありません。経験が無いのなら仕方ないですね。私もついていきましょう。現地で覚えてください」

 

「は、はい! 了解しました!」

 

 意外にも小さく笑ったハザマを見て、ほっと一息ついた。

 かすかにあった不安や緊張が取れていたような気がする。何より、話しにくいということもなさそうだ。セクハラはあるけれども。

 この調子なら任務もうまくいくかもしれない。キサラギ少佐を探して、戻ってくるように言うだけの簡単な任務だろう。不安になることは……あんまりない。

 想像しているよりも、ノエルはハザマの態度にリラックスできたと言えるだろう。それが現地でよかったのかどうかは別の話ではあったが。

 

―――――――――――――

 

『ガキの御守りは大変だなぁハザマちゃんよぉ』

 

 

 ヴァーミリオン少尉が立ち去ってから数分、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲む私に、彼に話しかけられました。

 

「そうは言っても暇ですから。窯の錬成とか私じゃできませんから。任せますね」

 

『ああ、そこは問題ない。……だがお前も案外薄情だな。このままだと支部の衛士はみーんな窯の錬成に使われることになるんだぜ?』

 

「その辺りはもう慣れました。こう見えても諜報員ですから」

 

 これから多くの人間の魂を生贄にされることを知っている。

 そうだとしても私はただ知っているだけです。物語を動かすことのできる英雄でもなければ、その流れを壊す破壊者にもなり得ない。言うなら一般人A。序盤に食い殺される役目がお似合いの人間です。

 全部の人間を救えるようなこともできませんし、自分本位にしか動けないただの人間です。

 

 

『だが、お前はこの運命(ながれ)をぶち壊せるバグだろう?』

 

「ええ。躰的にはそういう存在ですから。だけど私は先を知ってしまいましたから。未来を求めたいんですよ」

 

『そのための必要な犠牲ってかぁ? 酔狂な奴だ。俺の望みを聞かなければ、大量の犠牲はなかった可能性もあったんだが? こんな状態だ。制する方法が思いつかなかったとも思えないんだがなぁ?』

 

 

 自嘲する様に話す彼に、私も小さく笑いました。

 そんなことをすればおそらく肝心なところで足を引っ張られてしまうでしょう。この躰のことを、気にする事も無く。

 繰り返す世界。知ってるものが見れば、それは世界の終焉のようにしか感じません。そんなものに向かっていく一般人はいないでしょう。

 今更ですね。彼と共に居る時点で、私は一般人であることはありえない。

 

 

「ああ、意外ですけど私、貴方のことそんなに嫌いじゃないですから」

 

 

『……はっ』

 

 

 吐き捨てるように意識から消えていくのを感じて、私も思わず笑いました。

 牢の中で枷をはめている相手に対して、そう考えてしまうのは平等なことであると考えることは不可能です。おそらく一方的な考えでしょう。

 それでも、と。私は思う。悪態をつき、私はため息交じりにそれを答え、くだらない日常から解放されるために好き勝手して、私はそれを追いかける。どんな形であれ、両方笑っていることができました。

 

 もしも私も彼も、別々の躰に居て普通の人間であったとしたなら。

 

 友、と。そう呼ぶこともできたかもしれません。

 




次回からCT入ります。


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ステージ5

 白い一粒の絵の具と大海のような大量の黒の絵の具を混ぜたとき、完成する色は何色になるでしょうか。

 正解は灰色です。正確に言うなら限りなく黒に近い灰色とでも言うべきでしょう。

 では、その灰色で染めきった布を黒にするにはどうすればいいのでしょうか。

 答えは単純です。白で足らしめるもの全てを一つに纏め、抽出すればいい。そうでなければ、黒であるということはできません。

 

 

『では、残った白は、いったいどこに行ったのでしょうか』

 

 

 

 

 

 

 ポーン、ナイト、そして前に前に出ているのはクイーンとでも言うべきでしょうか。プレイヤーでもあり、キングでもあるその少年は駒であり自身の武器でもあるそれらを使いこなし、迫っていました。

 攻められている少女も、ただその猛攻を浴びているだけではありません。迫り来る人形の槍を弾き、ブリキの歯車を躱し、傷一つさえも追ってはいない。

 それでも両者は平等ではありませんでした。少女の手には銃があるというのに、一発さえもそれを放っていないのですから、当然と言えば当然です。

 

「うーん……やっぱりこれも躱されてしまいますね。それじゃあ、もう少し強くいきますよ、先輩」

 

「ッ……カルル君……」

 

 そんな光景をもちろん、私は隠れながら観察してました。

 距離を取って離れ、気配は諜報部で鍛えた全てを使って隠密してます。双眼鏡片手に建物の上からうつ伏せになって眺めているさまは、だれかに見つかったとしたら通報ものだったでしょう。

 

『ヘタレが』

 

(勇気と無謀は違うんです。こんなところで私も体力使いたくありません)

 

『で、どうすんだ。第十二素体は攻撃しているようには見えねぇんだが?』

 

(…………どうしましょう)

 

『知るか』

 

 たった三文字で意思を伝える素晴らしい言葉とともに、私は溜息を吐きました。

 

――――――――――――――

 

 軽く仮眠をとったのち、カグツチへと到着したのは十二時を少し過ぎたぐらいでした。ナイフや糸といった武器を再度確認してから仕舞直し外へ出ると、ヴァーミリオン少尉が大きく伸びをしているのが見えます。

 それを見て私は一気に加速しました。音を立てず、風を起こさず、気配を消して背後まで近づきました。

 

「ん~~っ、ん! ふぅ……」

 

「いい天気だなぁ~、とでも言うつもりですか? ヴァーミリオン少尉?」

 

「ひゃい!?」

 

 分かりやすくビクッと反応してくれるヴァーミリオン少尉。なにげに面白い反応をしてくれますね。

 からかっているのを悟らせないために、そのままの表情で隣に立ちました。

 

「もう任務としてこの場所に立っているのですから、油断は控えてくださいね。諜報部ではよく話すことなんですけど……」

 

「そうなんですか!? 諜報部って凄いんですね……マコト凄いな。私も見習わなきゃ」

 

 冗談で言ったら物凄くキラキラした目で見られました。罪悪感が酷いです。というか、マコトさんと何か話したなら、私の性格も知られていそうなんですけど……。

 任務、と言っておきながら私のやることは何一つありません。

 窯の錬成についてはレリウス大佐に任せたようですし、ラグナ=ザ=ブラッドエッジについては知らないところを見つけるほうが難しいです。

 私自ら死神に向かって殴り込みは死にへと行くようなものです。ヴァーミリオン少尉を覚醒させるためにも、途中で死なせるわけにも来ませんから……何も起こさないが一番でしょうか。

 真面目にやるふりをして時間をつぶしましょう。今のところ消費しないのが一番です。

 

「さて、少尉。情報を集めるのに最適な場所が二か所あります。どこでしょう?」

 

「えーと、一つは支部で情報を得ることですよね? もう一つは……街、ですか?」

 

 顎に手を当てて考える少尉に、私は正解と答えて話を続けました。

 

「前二件の襲撃から考えて、死神が動くのも夜です。キサラギ少佐が動くのも同時期でしょう。昼は街で情報を集めて、夕方に襲撃に備えることにします。何か質問はありますか?」

 

「はい。もしも、街中でラグナ=ザ=ブラッドエッジが見つかった場合は……その、確保すべきでしょうか……」

 

 どこか不安そうに少尉に聞かれ、思わず私は絶句したくなりました。

 術式適正値は過去最大である十二素体ですけど、死神に勝てるとは思えません、というか、戦われたら困ります。死ぬようなことはないとは思いますけど。シスコンですし。

 

「いやいやいや。最大の賞金首相手に戦おうと思っちゃいけませんって。全力で逃げてください。俵のように担いで帰還するのも、結構大変なんですから」

 

「あ……わかりました……俵のように担いで帰還したことがあるんですね」

 

 あります。魔獣化したオオカミと徒競走付きで。ゴールテープは突きつけられた刀でした。二度と体験したくありません。

 さて、以前旅行ついでにお祭りを楽しんできたため、カグツチ、それも下層のオリエントタウンや浪人街での地理は多少なりともわかります。

 

「とりあえずオリエントタウンへ向かいましょう。情報収集をするとするならそこが一番集まるでしょうから」

 

 

 

 と、いうわけで情報を集めて、露店で品物を見て、情報を集めていると、丁度お昼を少し回ったという時間帯になりました。

 ……この任務は私にとっては未来を賭けたもののはずですが、どう考えても諜報部の新人研修にしか感じられないことに、思わずため息をつきました。緊張感ってなんですか?

 本当にやることが無いので、仕方がないと言えば仕方ないのですが。

 遠くにはぺこぺこと頭を下げて情報提供を行ってもらっているヴァーミリオン少尉の姿があります。どう見ても小動物です本当にありがとうございます。衛士として大丈夫なんでしょうか?……いえ、ベルヴェルグの精神操作がありましたっけ。

 

『気分は子犬の散歩ってやつ? 首輪も付けとかねえなんてろくな趣味してねぇな』

 

「ろくな趣味じゃないのはあなたの発言ですよ、どう考えても」

 

 人に首輪をつける趣味はありません。彼には枷をつけていますけど仕方ないですね。

 

『はっ、そういうお前は俺に……

 

 

「あの、すこしよろしいですか?」

 

 ぶつんと、脳内で会話していたはずの彼の意識が落ちました。

 声をかけられたから、なんてことはないでしょう。私はその声の主を見たことはありませんけど、知っていました。

 

「はい、なんですか?」

 

「不躾に話しかけて申し訳ありません。貴方は……統制機構の人でよろしいでしょうか?」

 

 大きなシルクハットと金の髪。その大きい丸メガネの下には、人懐っこそうな笑みを浮かべた少年の姿がありました。

 もちろん、その後ろには人間というには機械的すぎる女性を模した人形が、少年に寄り添うように立っています。

 

「あ、はい。統制機構のハザマです。えっと、貴方は……」

 

「申し遅れました。僕はカルル=クローバーといいます」

 

「カルル=クローバー……ああ、たしか咎追いの名前にそんな人がいたような……貴方がそうですか?」

 

「はい。統制機構の人に少し、聞きたいことがあるので呼びかけたのですけど、幾つかお尋ねしても構いませんか?」

 

 凄く良い笑顔で、私に話しかけるカルル君は、正直人一人ぐらい殺しそうな笑顔をしていました。

 後ろの人形……アークエネミー・ニルヴァーナ自体が精神を軽くぶっ壊すものですから。不自然な表情ぐらいはするでしょう。

 そして質問は……構うにきまってるじゃないですか! 嫌ですよ私、ニルヴァーナにまで目をつけられるの。

私の中の『彼』に反応するにきまってます。

 

「え、なになに姉さん? ……うん……うん。……そうかな? まだそこまで悪い人には見えないと思うよ? まあ……これから分かるよきっと」

 

 なんかいってるうううううううううう? 何ですかあれ、何にも言わなかったら嫌な人だ、みたいな思考。非常識の塊である私に常識語らせてどうする気ですか!?

 凄く返答したくありません。でも返答しなくても勝手に爆発します。なにこれすごく帰りたいです。帰ったら未来が無くなるので帰りませんけど。

 

「えーとですねぇ、凄腕の咎追いの質問と言ったら、多分この場所にいるでしょう死神のことだと思うのですが……」

 

「わぁ、凄いです。僕が聞こうとしたことを先に話されてしまいましたね。それじゃあ……死神について、少しお聞きしてもかまいませんか?」

 

 再度言いましょう。凄く良い笑顔で話しかけるカルル君は私を軽く捻れそうです。あ、なんかニルヴァーナが私を凄く睨んでいるような気がする。

 アイツなんか違うけど似てるような……そんな感じで見てますよあれ。

 ……とはいえ、わざわざ情報を集めましたけど、漏らしても別にいいんですよね。何の役にも立ちませんか ら。とりあえず使っている術椎の種類とかでいいでしょう。キサラギ少佐にも漏らしましたし。

 さわらぬ神に祟りなし、触ってしまってもそれなりの誠意は祟りが来ることも防ぐこともできます。

 

「そうですね……私たちは今から統制機構の支部へと向か「ハザマ大尉、聞き込みしてきました。どうやらこのあたりでラグナ=ザ=ブラッドエッジを見たという情報が……ってあれ? もしかしてカルルくん?」

 

 おっとここでヴァーミリオン少尉のインターセプト。気にせず話を進めようと思いましたが、カルル君の視線もノエルさんに行ってしまったようです。

 ……妙な違和感というか悪寒というか、つまり嫌な予感を感じたのはこの時点でした。どうして止まらなかったのでしょう。

 

「あ、お久しぶりですノエル先輩。先輩は……相変わらずですね」

 

「あははは……それってほめ言葉なのかな?」

 

「ええ。話の途中を遮るのは良いこととは言えまえんよ、先輩。あ、そうだ。先輩はラグナ=ザ=ブラッドエッジ、死神の情報を持っていますよね? 少し教えてもらえませんか?」

 

 何故か断定で尋ねるカルル君。その言葉に思わず目をぱちくりさせるノエルさん。

 まあ、驚くでしょう。昔の学校での顔なじみがいきなり任務内容のど真ん中について聞いてきたのですから。

 普通の衛士だったら答えることはできません。機密ですから、友人にさえ話せないことも多々あります。

 ですが一応私の意見を聞こうと思ったのでしょう。アイコンタクトを投げかけるノエルさんに、教えてもOKという意味を込めて頷きました。

 

「えっと、ごめんねカルル君。いくらカルル君でも任務の内容については教えられないかな」

 

 …………うん? なにか私の想像しているものと違いますよ? 私のGOサインがなにかおかしいものに変わっているような気がします。

 

「へえ、そうですか」

 

 そして返答をするカルル君。一気に周りの気温が下がったようにも感じられました。

 分かりやすく言えば殺気。それも、一般の人には感じられないような、細く、研ぎ澄まされたもので、条件反射によってナイフを手にしていた私は、思わず自分の行動に舌打ちをしてしまいました。

 

「あれ? 支部には向かわないんですね、ハザマさん?」

 

「え、今から支部に行く予定だったんですか? あ、だったら丁度いいですね。カルル君に資料が行くように手続きができますから……」

 

 ちょ、ほんと空気を読んでくださいノエルさん。安心したような笑顔浮かべないでください。殺気を向けられたのはあなたも同じはずですよね? ひょっとして何かの作戦ですか? 私を油断させる作戦ですか?

 というか、私の言いかけた言葉だけでそこまで読み取れましたか。

 

「ああ、やっぱり嘘だったんですね。……うん、……大丈夫だよ姉さん。大人の人がそういう事をするのは知ってるから」

 

 一度両手に持ったシルクハットを再度かぶり直し、ゆっくりと私に向かって視線を向けて……

 

 私はブリキの槍をナイフで弾き、身体強化、障壁の術式を展開しました。

 

「ハザマ大尉!? ……ッ! カルル君何を!?」

 

「確かその黒い制服は……諜報部の制服でしたっけ? ああ、丁度いいです。死神の情報以外にも聞きたいことはありますから」

 

 にっこり笑ったその笑顔は、最初に浮かべた人懐っこい笑顔と何ら変わりの無い者でした。

 糸を括り付けたナイフを高台に投げて固定し、逃げる支度をします。

 

「!! 逃げてくださいハザマ大尉!」

 

「言われなくても逃げさせていただきますよっと!」

 

 伸縮の術式をかけられていた糸を収縮させ、建物の屋根から屋根へと飛び移る私。

 後ろを気にせず逃げる私は、非戦闘要員であると言わざるを得ません。……いえ、この躰のスペックがしょぼかったら、蒼の魔導書無しでは、ニルヴァーナ付きのカルル君を倒せる気がしません。あっても私ではギリギリ勝てる程度です。

 時々後ろを確認しましたが、追ってくる様子はなさそうです。百メートルほど離れた場所の建物の屋上にうつ伏せになり、双眼鏡でバッチリ眺めます。

 そんな感じで、最初の光景へと移ります。

 

 

―――――――――――――――――

 

 本来人形遣いには多くの思考を要求される。

 人形を動かし、動かすための術式を展開し、自身の身を守るために自分で動く必要も出てくる。カルル=クローバーはまだ少年であり、術式適正は高いとしても、最高位とされるノエルには及ばない。

 それでも攻め続けているのは、アークエネミーと呼ばれる人形と、その扱いからもたらされたものだろう。

 

「ッツ! ハァッ!」

 

 迫ってきたニルヴァーナの爪を払い、同時に銃口をカルルに向けてはいたものの、その先で発生した術式の爆発は、難なく避けられ銃先から逃れられる。

 同時に同じようにノエルも地面を蹴り飛ばし、後退する。地面から生えたのはブリキの人形、そしてその槍は、自分がいた場所を貫いていた。

 

「カルル君……いったいどうして!?」

 

「申し訳ありません、先輩。どうしても情報は必要なものですから……多少荒っぽいやり方でやらせていただきます」

 

 帽子のつばを直し、ブリキの人形を戻したカルルは、同時にニルヴァーナを自身の傍らに戻した。同時にノエルは銃をカルルの足元へと向け、術式を発動させる。

 魔銃ベルヴェルグ、空間を通り越して術式を発動させるそれは、近距離にも、遠距離にも、自身が目視できる以上は術式を発動することができるものだ。

 

「では、少しリズムを上げましょう。ヴォランテ!」

 

 ノエルが気が付いた時には、カルルは既に術式発動地点を通り越していた。風の術式による自身を加速さえたその手は、人形遣いが行うのは悪手と言わざるを得ない。

 自身を守る人形を前に出さないその方法が、ノエルに一瞬の隙を与えていた。

 だが、ノエル自身も戦闘訓練を受けた衛士である。さらにガンカタと呼ばれる二丁拳銃の戦闘術は、近接格闘術とも呼べるものだ。

 格闘の専門でない人形遣いに不意を突かれたところで、持ち直せない理由はなかった。近距離で槍を走らせるブリキの騎士を銃で弾き、銃口を向けた。

 

「甘いよ、カルルくん。それだけじゃあ……」

 

「ええ、とっても」

 

 そう呟いたカルルの笑顔に違和感を感じたときは、もう遅かった。 次の瞬間にはカルルはノエルを飛び越えるように跳躍していた。

 嘘、と。またもノエルは虚を突かれたことになる。宙に進んで行くのは悪手だ。宙を飛ぶのはそれこそ道具が必要で、戦闘中に何度も方向を変えられるほど、簡単な術式じゃない。

 その疑問も次の瞬間には解消される。

 まるで人が投げたような速度で、バレーボール大の魔力弾は自身の目の前に迫っていたのだ。

 自身をおとりにして、遠隔操作によって人形に放たせた魔力弾は、カルルを追いかけるように飛んでいき、ノエルにその存在を気が付かせることなく、左右どちらかに回避するという選択肢を出していた。

 しかし自身の真上には騎士の駒を模した人形を構えたカルル、魔力弾を回避しようとするなら、それこそカルルは宙で術式を使い、自分の避けた方向に槍を構えて向かってくるだろう。

 障壁を張ったとしても致命傷を受けるかもしれない。ノエルは右に回避すると、宙に浮かぶカルルに対面する様にベルヴェルグを構えた。たとえ向かってこられても槍を払えるよう、術式の強度を高めてた。

 

「そっちなら当たりです。まあ、これも一種の戯れです」

 

 まるで悪戯が成功した子供のようにカルルは笑う。その表情を見てぽかんとした瞬間、自身が急に地面に持ち上げられたのを感じていた。

 実際のところ、カルルに空中で移動するための術式を展開する余裕はなかった。

その代りといって仕掛けられたのは、カルルがカンタービレと呼んだ人形。ただ、宙に跳ね飛ばすだけの人形だった。

 

(!? いけない!!)

 

 戦闘中にバナナの皮を踏んで転ぶようなもので、見かけは無様でも戦闘中では致命的である。無防備で宙に簡単に浮く、狙ってくれと言っているようなものだ。

その思考のままノエルが見たのは、カルルの操作したニルヴァーナが自分に向かって飛び込んできているところだった。

 自身とニルヴァーナの間にベルヴェルグの術式を発動させる。その爆発をまるで無視するかのように、ニルヴァーナは宙を移動した。

 その巨大な右手が、掴みかかるようにノエルを押さえつけ、ノエルはそのまま地面へと叩きつけられていた。

 

「ガッ……ッツ……カルル…くん……」

 

「ああよかった。やっと捕まえましたよ先輩」

 

 ニルヴァーナの爪は地面へ突き刺さり、そのままノエルの首と左手を固定していた。

術式を展開したとしても、機械人形の握力と競うことができるかどうかは難しい。笑みを浮かべるカルルに、ノエルは悲痛そうな表情を向けていた。

 

「さてと、こんな状況にしておいて申し訳ありません。でも、僕は死神の情報が欲しいだけなので」

 

「でもカルル君! こんなことしたらカルル自身が……イタッ!」

 

 ノエルの言葉とは逆に、ニルヴァーナの詰めはさらに地面へと食い込んだ。

 同時に、ノエルの首と腕に傷跡ができる。さらにニルヴァーナが腕を動かせば、両方とも切り落とされていただろう。

 

「煩いなぁ……質問をしているのは僕ですよ? 先輩。……ああなるほど、そういえばまだ抵抗できないと言えなくもありませんでしたね」

 

「!!? ダメッ!それだけは……」

 

 カルルの視線の先にあったのはノエルの武器、魔銃ベルヴェルグだった。カルルのナイトの人形がノエルの手にある武器を弾き、自身の手元へと寄せる。

 同時にもう片方の銃もニルヴァーナの左手によってはじかれた。今度は少し距離の離れた場所に弾かる後で取ればいいか、と。

 そう考えたカルルは、情報を吐き出させようと、そのままノエルに再度視線を向けた。

 

「さあ、これで先輩に抵抗する手段は何もありませんよ? できればおとなしく、知っていることを……」

 

 カルルはそこまで言葉を続け、ノエルの様子を見てそれは停止していた。

 かちかちかちかちという小さな音が辺りへ響き渡る。

 どこかで聞いたことのある音だった。それは、寒さで体を震わせたとき、歯を鳴らす音によく似ていた。

 

「あ……あ……やだ…やだ、のえる、のえるのだいじなもの……やだ……」

 

 小刻みに震える体はかちかちと歯を鳴らし、涙腺へと涙を貯めていた。おかしい。あまりにも自分の知っている先輩とかけ離れている。

 そう感じたカルルが視線を向けたのが、自分の取り上げた銃だった。ただの兵装だと考えていたそれがなんなのか、分かった時にはノエルの涙腺はとっくに決壊を迎えていた。

 

「のえるの、のえるのだいじなものなの! なんで? どうしていじわるするの? やだぁ! やだやだやだやだぁ!」

 

「……うわぁ」

 

 カルルがまず最初に行ったのは、術式でニルヴァーナの手の爪を歯止めをすることだった。そうでなければ、暴れるノエルの首や腕には、ずたずたの傷跡が付いてしまっていただろう。

 続いて子供のように泣きじゃくるノエルを見た。子供っぽい先輩だと思ってはいても、此処まで子供っぽいとは思えない。

 自分の手にある兵装、アークエネミー。それが精神を補っていた。だからこそ、戦闘中に冷静であれたのだろう。

 

「かえして! かえしてのえるのだいじなもの! うわぁあああああああああああああん!!」

 

「えっと……どうしよっか、姉さん?」

 

 カルルは思わず苦笑いを自分の姉へと向けた。周りから見れば無表情に見えたが、その時ばかりは少しだけ困っているように見えただろう。

 だがそんな様子を一瞬でかき消して、ニルヴァーナは動いていた。

 ノエルは無視し、抱きかかえるようにしてカルルを自分に寄せる。そこには自分の意思で動かしたわけではない、カルルの大きく見開いた目があった。

 

「姉さん! いったいどうし……」

 

 カルルが見たのは、自分の居たはずの場所に固定された、鎖のような蛇。

 さらに伸縮されたその鎖の先にいた男が自分の目の前に現れたのが一秒後。

 

「牙昇脚……ってやつですか?」

 

 先ほど逃げたはずの白髪の諜報員が、自分の姉を宙に浮かせるほど勢いよく蹴り飛ばしたのが、その数秒後だった。

 

―――――――――――――――

 

「(あっぶねぇぇぇぇぇぇぇぇ! ギリッギリですよ私! というよりよく連続でウロボロウできましたね私! とにかく素晴らしいです私! そしてついでに貴方も!)」

 

『……なんで捕まってんだあの糞素体が。面倒くせぇ。おら、もう補助しねぇぞ。自分でやれ』

 

 ノエルさんが捕まった瞬間、彼の補助を少し借りてウロボロスで空中移動していました私は、なんとかノエルさんの奪還に成功しました。

 えぐえぐとすするような音とともに湿っていく私のスーツ。こんな状況でなくても涙を流したいのは私です。

 

「あれ? 帰ってきたんですかハザマさん?」

 

「あー不本意ながらそういうことになってしまいますか?」

 

 私はカルル君の手の中のものを見て、思わず頭を抱えたくなりました。なんであそこにあるんですかアークエネミー銃組は……。

 とりあえずノエルさんは地面におろし、私も帽子をかぶり直しました。

 

「というか、もともと私は死神の資料については渡すつもりだったんですけどね」

 

「……え? そうだったんですか?」

 

「そうだったんです。まったくノエルさんが勝手なこと言うから……。情報料ついでに、その兵装も返していただけますか?」

 

 私はキサラギ少佐に渡した情報と、同じ情報を詰めた書類の束を投げつけていました。一般や衛士にはあまり公開されていない、重要そうに見えるけど重要でない情報の束です。

 私が投げた譲歩を見始めたカルル君は、時々驚いたような顔をしてはいましたが、やがて自分のバックの中にその書類を詰め込みました。

 

「少し残念です。肝心な蒼の魔導書については、そこまで記録されていないのですね」

 

「あー、あれはたしかS級機密でしたし。私たちのような一般諜報員じゃ公開されないもんですし。私も名前しか知りません」

 

「へぇ……それにしても、あっさり情報を渡したのですね」

 

「いえ、私死にたくありませんし。貴方が内緒にしてくれれば、何の問題もありませんから」

 

 嘘は何も言ってません。問題ないのも確かですし、蒼の魔導書は一般諜報員じゃ詳しく教えてもらえるわけでもありませんし。……まぁ、調べたものは別ですけど。

 読み終わった書類とともに、何かが投げられたのがわかりました。それはおそらく、というかノエルさんの銃です。片方だけ。

 

「……あれ? もう片方は?」

 

「ああ、僕もう一つ聞きたいことがあったんです」

 

 ……なぜか最近聞かれることが多いような気がする。まあ名前から聞かれることはだいたい想像することはできました。

 

「僕の父……レリウス=クローバーについて、諜報員であるあなたなら何か知ってはいませんか?」

 

「……あー、知ってますけど……いやちゃっかり人形を起動させないでください」

 

「あ、ばれちゃいましたか。勿論、嫌なら進んで言っていただく必要はありませんよ?」

 

 言わなきゃ実力行使しますから大丈夫ですよ、そう言葉に意味を込められて言われ、思わず私も頭を抱えたくなりました

 

 ふむ……もしかしてこの子供、使えるかもしれませんね。

 

「ではこうしましょう。もしも死神の確保に成功した場合、身柄とお金ははこちらが拘束しますが、クローバー大佐に対面させられると約束しましょう」

 

「……へぇ。だけどそれは少し困ります。僕もまた、蒼の魔導書が必要ですから」

 

『あーんな欠陥品求めて何をしたいんだか。まぁ、最強の魔導書であることは認めるが』

 

 ちょ、近くにニルヴァーナが居るんですら出てこないでくださいって。

 ほら、こっち見ましたよあれ。怖っ。

 

「構いませんよ。なんでしたら、腕だけ切り落としていただければ」

 

「……なるほど。分かりました。ですがそれを確約するための手段がありませんね」

 

「そうですねぇ……じゃあ前金代わりに一つ情報を。近いうちにカグツチに訪れるそうですよ、大佐」

 

「!!!!」

 

 私の情報に分かりやすく表情を崩したカルル君。……この様子だったら釣れますかね。

 対、ラグナ=ザ=ブラッドエッジの戦力、力を削る役割としては、多少は役立ってくれるでしょう。

 正直蒼の魔導書を試してもらっても構いません。どうせニルヴァーナが止めるか勝手に死ぬでしょうし。そのうち対面するでしょう。レリウス大佐も来るでしょうから。

 ふと視線を宙に向けると、放物線を描いて私に向かって飛んでくるものが見えました。

 

「あてっ」

 

「ありがとうございます、ハザマさん。じゃあ、僕はこのあたりで失礼させていただきますね。行こう、姉さん」

 

 どうやらそれが魔銃ベルヴェルグだと分かった時には、ニルヴァーナに抱えられたカルル君の姿は小さくなっていました。

 小雨のようにやってきて嵐のように荒らしていきました。疲労しないと考えていたのはどうやら甘かったようです。

 私の手の中にある魔銃ベルヴェルグ、対して女の子すわりで泣きじゃくるノエルさん。それを見比べて私は嫌な予感がしていました。

 

「あーはいはいはい。ほーらヴァーミリオン少尉。銃ですよ~」

 

「ふぇ……あっ!」

 

 まるで猫じゃらしを見つけた猫のように飛び込んでくるノエルさん。

 そのまま強奪された銃二つは無い胸にぎゅっと抱きとめられ、誰にも奪われないように警戒しているようにも見えます。

 

そして……戻ってくる精神制御。ずっと流れていた涙はとまり、ぽかんとして私の顔を覗き込みました。

 

 

「……あ………」

 

「……えーとですね……なんといいますか……」

 

 思わず私も言葉を失います。

 あんな状態を見られておいて普通でいられるほど、ノエルさんも異常な性格はしていないでしょう。

 その予想は正しかったのか、まるで林檎の熟れていく過程を早送りにしたように、その羞恥心が顔に現れていました。

 

「あ、……あああああああああああああ!!!? ち、違うんですさっきまでの私は私だったというわけではなくてですねちょっとびっくりして気が動転していただけと言いますか申し訳あなりませんハザマ大尉ちょっと引き続きラグにゃの調査をするので失礼します!!!!!」

 

 まるで林檎のように真っ赤になって走り去るノエルさんを見て、私としても同じようにぽかんとすることしかできませんでした。

 いや……年頃の女性があそこまで子供のように泣いてしまったら、恥ずかしいとは言えるでしょうけども。

 残される私。肩のあたりに涙やら鼻水やらで湿ったスーツ。ウロボロス使って疲労が溜まった体。……なぜか脱力してしまいました。

 

「……今任務中のはずですよね? 追いかけるべきでしょうか?」

 

『勝手にしろ。ただ、今の状態で他にあの素体を狙う奴も居ねぇ』

 

「つまりは放置しろということですね、分かります。……夕食を兼ねた食事にでも行きましょうか」

 

 もう一度正気になったら戻ってくるでしょう。

 書置きを残して後で支部で合流すれば大丈夫です。まずは私の栄養源をとることにします。

 丁度良い感じの中華料理屋があったはずです。そこで一服するとしましょう。

 

 



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ステージ6

 過去の記憶。その光景をラグナはそう判断した。

 そこは地表から高い場所ではなかったにもかかわらず、魔素が少なく澄んだ空気が流れている場所だった。

 本当の意味で自然が溢れたその場所は、辺鄙な教会以外建物という建物さえもなく、それでも静かなその場所が、記憶の中で絵画のように残っている。

 ラグナは木でできた桶を片手に、川へと水を汲んだ帰り道を歩いていた。

 妹が熱を出し、大量の冷たい水が必要になった。教会のシスターは動き回るには難しい年齢だったのだから、ラグナが行くのは当然だといえただろう。

 

「早くいかねーと、ジンのやつがまーたふて腐れるからな……」

 

 桶いっぱいに水を汲み、零れないよう両手で持って立ち上がる。

 川から教会までは森ともいえない、木々の間を通らなければならない。そこから先は平原の中に教会がよく見えるため、何かなければそのまま水を持っていくことができただろう。

 木漏れ日が溢れる木々の間を抜けて森の入り口まで戻り、いつもの平原が眼前に現れる。

 青一色で草原の緑と空の青で世界を分けたその光景。ただ、今日はその光景が絵の具を零したように黒に潰されていた。

 

「……は?」

 

 手に持っていた桶が倒れ、辺りに水がばら撒かれる。

 何分もかけて持ってきたはずのその水のことを気にすることもできず、その光景に唖然とすることしかできなかった。

 火事だった。教会が、燃えている。

 気が付いたらラグナの足は教会へと向かって駆け出していた。

 殆ど零れ軽くなった桶を掴み、何ができるかを考えるまでもなく身体は突き動かされた。

 

「サヤ! ジン! シスター!!!」

 

 喉が枯れるほど教会に居るだろう人たちの呼び名を口にしていた。

 そうしなければ不安で押しつぶされそうで、平原を駆け教会の様子が鮮明に見えてくればくるほど、それは大きくなっていた。

 

「シスター! シスター! 無事なのか!?返事をしてくれ!」

 

 どんなに呼びかけても聞こえてくるのは火の音と、燃えていく木々の悲鳴だけだった。

 教会に到着しても、その光景でのラグナは所詮子供でしかない。できることなどありはしない。

 見たのは手に持っていた桶。多少なりとも水の入ったそれをかぶろうとして、火の音意外の物音に、不意に視線を向けられていた。

 扉を叩く音だった。出ようとしているのか、だれか生き残ってくれたのかと、声を絞り出す。

 やがて扉は蹴り破られ、声をかけようとして、その声は出てくるまでもなく口の中で消滅してた。

 

 

「あーあー糞が、あのクソババァ余計な手間をかけさせんじゃねぇよ。おかげでスーツをクリーニング出す羽目になるじゃねぇか」

 

 

 ただその姿を見て、絶句してた。

 黒一色のスーツに着られた様に見えるその男は、年齢はさほどいっていないはずだが、ラグナにとっては子供の頃だったからか大人のように見えた。

 緑の髪には返り血にもみえる赤い液体が付着して、胸元に見えるワイシャツは吹きかけたように赤く塗られていた。

 そしてその手にあったのは……まるで干し草でも掴むように持たれた『いつも見ていたシスターの髪の毛』だった。

 無意識に体は突き動かされた。幼いながらも分かっていたのだから。

 この男が、元凶だ。

 体当たりでもなんでもいい。何かしようと走り出した体は、数秒後には宙へと浮いていた。

 地面に落ち、腹の痛みと同時にこみ上げる吐き気に逆らいきれず、胃の中身を逆流させられた。それと同時に自分が蹴られたことを理解する。

 

「……あー、面倒クセェ。『魂が表面化されてなくてもやっぱりこの程度になるか』。あとハザマちゃんやっぱり貧弱だなおい。全力で蹴ってもこの程度とか、ギャグかっての」

 

 近づいてきた男が、蹲っていたラグナの顔面を蹴り飛ばした。二転、三転と転がり、それでも無理やりに体を起こす。

 “ハザマ”、それがこの出来事に絡んでいる一員なのか。

 痛みとともに消えかける意識を保たせ、がくがくと震える膝を抑え立ち上がろうとした。

 身体は思い道理には動かず、結局踏ん張りきれない足は、地面に膝をつけていた。

 それでも目を見開き、男を見ようとする。だが意識とは逆に視界へと入ってきたのは、裸足のままそこに立っていたジンだった。

 気が付き叫ぶ、早く逃げろと。前髪に遮られジンの表情は見えない、だが小さく何かを呟いたようだった。

 

「……え……」

 

 ざしゅ、と。聞いた事も無い音が耳に響いた。

 ごと、と。自分のすぐ足元で者何かが落ちた振動がとどく。

 ぷしゃあ、と。何かが噴水のように噴き出した。

 

「……兄さんが、兄さんが悪いんだ。アイツにばかり構って、僕のことを無視するから」

 

 ぼそりと呟いたジンの手の中には、自分よりも長い刀が握られていた。

 思考が思いつかず、だらしなく開けた口からは悲鳴さえも現れない。自分が斬られたという事実を、足元を転がった肉塊を見るまで気が付きもしなかった。

 

「あ、…………あああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

「ぎゃっはははははははははははははは! なぁ痛いか!?痛いかラグナちゃん? 右手かなぁ? 安心しろよ痛い右手なんてとっくに切り落とされてますからねー。なぁー、居場所も親も全部消えて、兄弟妹ぜーんぶ連れ去られちゃってどんな気分だ? なぁどんな気分なんだよおい?」

 

 反射的に肩の付け根を抑え、叫んでいた。

 破壊されたポンプの様に溢れ出す血は、自分の握力程度では止めることはできはしない。男が目の前に居るというのに、飛び掛かることさえもできない。

 靴の裏が視界いっぱいに広がり、踏みつけられるように蹴り飛ばされて転がっていても、起き上がることさえもできなかった。

 

「じゃーなー、ラーグナちゃん! 次合ったときは感想聞かせてくれよ。何にもできない仔犬ちゃんの戯言をなぁ! ぎゃはははははははははははは!!」

 

 嘲笑が耳に届き、ラグナはぎり、と。歯が砕けそうなほど食いしばる。

 うめき声だけしか出ない喉を震わせ、腕を抑えていた手を地面にたたきつけ、その体を起こした。

 自分たちの全てを荒らし、壊した存在を見る。原因となった者の名を脳に刻み付けるために喉からその名を絞り出した。

 

「は……ざま……」

 

 その声は誰にも届かない。だが、確かに自分の脳には刻まれていた。

 

 雨が降る。

 燃える煙が、積もっていくような灰色の空だった。

 酷く強い雨に感じるというのに、炎は教会に纏わりつくように存在し消える様子はなかった。

 お前の満たしていた全てのものを、消し去ってやろうと言わんばかりに、教会は、燃え、続、け

 

 

「ちくしょう……」

 

 

 絞り出した言葉は叫び声にすらならず、ラグナはその意識を失った。

 

 

 

 最悪の目覚めだった。

 自分で作った料理が失敗し腹を壊した以上に最悪の目覚めに、ラグナは周りを気にすることなく舌打ちする。

 どうせ周りにはカカ族の者達が居るかいないかといった程度だろう。首を動かさず眼だけで見渡してみても、誰もいないのだからその想定は正しかった。

 ここは第十三階層都市カグツチ、カカ族の村。

 迷彩の術式を使用し、地上からカグツチへとたどり着いたラグナは下水道を通りオリエントタウンへとたどり着いていた。

 だがその時点で日は完璧に上っており、そのまま襲撃、と行動するには都合の悪い時間帯だった。

 そんなところで行き倒れのカカ族、タオカカを拾い昼食を食い逃げした後、そのままカカ族の村に招かれ、仮眠を取ったところだった。

 

「……ハザマ、か」

 

 夢に出てきたその名前を口に出す。

 

「やっぱり気になるのか? ラグナ」

 

「……なんであんたがここにいる、師匠。つか、気配消すんじゃねぇ、何の嫌がらせだ」

 

 後ろから駆けられた声に一瞬硬直するも、ラグナはそのまま普通に口を開いていた。

 跳躍して前に出てきたその存在の姿が見える。

 人間よりもずっと低い背に、尻に見える尻尾2本がゆらゆらと揺れている。振り向いたその顔は猫そのもので、フードに着いた猫耳がカカ族のものと似通っていた。

 

「なぁに、お前があんまりにも気持ちよさそうに寝ていたからな。起こすのが忍びなかったのさ」

 

「どー考えても俺は快眠してたとは思えねぇんだけど? で、此処に居る理由は?」

 

「そいつは俺の野暮用だ。少し、この村に用があってな」

 

 獣人であり、六英雄の一人として数えられたその存在、獣兵衛は、柔和そうな笑顔をつけてそう答えた。

 枕にしてた藁の束から起き上がり、獣兵衛と顔の高さを合わせる。正直なところここでは休憩を取っていただけだ。獣兵衛がここに居るからと言って時間を取るつもりもなかった。

 

「そーですか、じゃあ俺は行くぞ」

 

「まぁそう言うなラグナ。少しぐらい師匠の助言を聞いて行っても、罰はあたらないんじゃないか?」

 

「……はぁ、で、今度はなんなんだ師匠? 師匠の言う“奴”にはまだ会ってねぇぞ?」

 

 ラグナがカグツチに到着するとき、獣兵衛は一度姿を見せていた。

 その時は少しの助言とともに、“奴”に遭遇したということを、獣兵衛によって警告されていた。

 だが、自分が出会ったのは境界に突っ込んで堕ちた愚か者と、それを追いかける女だけだった。まさかタオカカがその“奴”とやらではないだろう。結局その警告は今のところ役に立っては居なかった。

 

「そうだな……お前が先ほど呟いた奴のことだ、と言ったらどうする?」

 

「…………」

 

「勿論俺じゃないぞ?」

 

「んなこと分かってるっつーの! マジになりかけたのに茶化すんじゃねぇよ!!」

 

 ははっ悪い悪いと、そう笑う獣兵衛に脱力し、思わず起こした身体を藁の上に倒していた。

 実際のところあの事件については聞いた。統制機構のこと、自分自身のこと、自分の兄弟のこと。そして、”ハザマ“のこと。そして、その後ろに居る者のこと。

 それを思うと、倒した体をすぐに起こしあげることに躊躇いは無く、腕を使わず腹筋だけで起き上がった。

 

「奴を憎むな、というのは難しかもしれん。俺も見誤ったんだ、お前が間違えないとも思わなくてな」

 

「関係ねぇよ」

 

 立ち上がったラグナは獣兵衛の横を通り過ぎ、外に出るため出口へと向かう。

 カカ族の者に統制機構の支部に向かうための抜け道は聞いた。カカ族の村では空を見ることは叶わないが、体内時計を頼りにすれば、そろそろ日も傾く時刻だった。

 途中でオリエントタウンに寄っても良いかもしれない。先ほど食い逃げした店より遠くのところに。

 

「助言をくれる師匠には悪いが、そいつは俺の全てを壊した男だ。何を言われようと関係ねぇ」

 

「……そこに操っていた者がいた、としてもか?」

 

「言っただろ師匠。関係ねぇよ。全部ぶっ壊す、それだけだ」

 

 そう言うとラグナはその部屋を出て、そのまま外へと向かっていた。

 自分の蒼の魔導書へと目を下し、小さく舌打ちする。

 全てを壊すと決めた。自分に復讐を誓った。だから、今更やることなど変わりはしない。

 

「…………まあ、まずは飯だな」

 

 憂鬱になっていた頭を切り替える。

 軽食でも食ってから向かうとしよう。そう思い軽く頭をかいたラグナは、ちびカカたちの対応もそこそこに、上層へと向かっていった。

 

 

 

 

 

「やれやれ……やはり聞かんか」

 

 獣兵衛は部屋を出て行ったラグナの背中を見ながらそう呟いた。

 ハザマについては自分も調べた。しがない諜報員であれるはずの男であった。そこに取り付いて居る者さえいなかったら。その背後に何もなかったとしたら。

 獣兵衛はテルミを封印した時のことを思い出す。

 ハクメンがその身を推して封印したが、結局はこの現世へと現れている。

 もしもあの時『テルミが切り落とした手を統制機構が回収しなかったのなら』、ラグナもハザマも別の運命を歩んでいたのだろうか。

 全てを知ったように物言う吸血鬼のことを思い出し、それはないかと思い直していた。それではどちらにしてもハザマは消えている。

 

「『可能性を見せられてしまった』からな……。同情はする、だが……」

 

 『奪ったことは変わらない。ラグナの言った全ても、自分の肉親も』。それを思い直して獣兵衛は苦笑する。

 私怨だけで剣を振るうには自分は年を取りすぎた。自分の思うように動くラグナを少しだけ、羨ましくもある。

 だからこそ、自分は介入すべきではないのだろう。ラグナとハザマ、そして……

 

「……難儀なものだとは思わんか、セリカ、ナイン。それに……」

 

 獣兵衛は人の名を呟き、歩みをラグナと同じように外へと向けた。

 

 



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ステージ7

 それは腕だった。

 鎖のような文様が何重にも入れ墨の様に刻まれたそれは、本来あるはずの二の腕から先が無い。

 防腐作用も含めた液体に漬けられているその腕には、周りの機械からいくつものチューブが突き刺さっている。

 

「そもそも魔法、いや魔法技術と言うべきか。それは時空に書き込まれた情報体に過ぎない。魂もそこに例外は無く、しかし触媒が無ければ生まれることすらままならない」

 

 呟いたのは仮面をつけ、白い研究服を羽織の様に来たレリウス=クローバーの姿だった。

 情報端末に情報を打ち込みながら、独り言のように呟く。

 

「境界の中の様に魂の情報化の再現は不可能、魂の宿らない物質すら不可であるのなら、行うことが間違っていたか? ……無から有を生み出すことは難しいものだ。貴様が事故さえ起こさなければ、暗黒大戦以前の古びた技術に頼ることもなかったのだが」

 

 境界では全てのモノを形ではなく情報として記憶している。それは世界という存在が情報でできていることを表しているともいえる。

 情報であるがゆえに、人間によって表すことも可能となる。そしてその羅列を理解すれば、全ての者を再現できるとも考えられた。

 円盤型記憶媒体、刻まれた溝は記憶媒体となり情報を蓄積することができる。レリウスが読み取っているのも似たようなものだった。『腕に刻まれた文様は情報記憶媒体』としてその場所に存在していた。

 もっとも、その中身の情報は全て移された後であったが。

 

「だが、興味深くもある。魂によって精錬された術式兵器として加工できるほどの技術ならば、魂の変質さえもできると言う事か。……ナイン、か。この技術を再現するとは、流石は稀代の魔女と言ったところか」

 

 宙を見たレリウスの先の言葉は消え、手が止まる。

 

「窯の行うのは魂の情報化と再錬成、逆に『魂は情報化できる』。……劣化しているとはいえ抗体に限りなく近い魂、魂の器、『髪辺りだけでも手に入れば』悪くないサンプルだ」

 

――――――――――――――――

 

 

 こんにちは、統制以下略のハザマです。

 今回私ハザマは、カグツチのオリエントタウンからお送りしたいと思います。

 私が今歩いているのは道は広いですが浮浪者が多く、人が少ない場所を歩いています。

 本来私としてもこんな場所に用はありません。オリエントタウンの大通りでのんびり露店を見るなりなんなりで、時間をつぶしてしまえばいいのです。

 ラグナさんの襲撃はどうせ夜でしょう。まだ数時間はある状態で支部に向かうのも難しいです。と言うか、『精錬中に鉢合わせになったりしたくありません』。巻き込まれたら笑い話にもなりませんし。

 さて、そんなことを考えていたはずだった私、ばれないように視線だけで隣を歩く方を確認しました。

 白い銀の髪に赤いロングコート。背中には真っ白に磨かれた大剣を背負ったその人は、緑と赤のオッドアイで真っ直ぐ前を歩いています。

 一度見たら忘れにくい人ではあります。人相も悪く犯罪を犯しそうな顔をしていますが、手配書に似た人もいないので犯罪者じゃないでしょう。

 

「…………」

 

 ……さて、現実逃避は終了しましょう。

 私の隣を歩く人こそ、噂の御仁、ラグナ=ザ=ブラッドエッジさんです。

 ……どうしてこうなったのでしょう。私はごく普通に昼食の兼ねた早めの晩食をとっていただけなのに。

 中華料理屋に天玉うどんという、一見ミスチョイスなものがメニューにあったからですか?

 それを頼んでしまったので、両方同時に反応してしまったからですか? そして暴れそうになったラグナさんと私は普通に店員に殴られたのですが。

 なんですか気の流れで何かすること分かったって。文句をつけようとしたラグナさんに「お代わり要るアルカ? 私の拳をネ」ってすがすがしい笑顔を見せてくれたんですけど。というか普通に私ラグナさんの分まで払ってたんですけど。どうしてこうなった。

 

「……さてと、この辺りでいいか」

 

 ラグナさんが腰の大剣に手をかけたのを見て、私は思わず後ろに飛びのいていました。

 一瞬で踏み込むには遠い距離まで離れ再度その姿を見ますと、手をかけられた大剣はそのまま地面に刺して、ラグナさんが此方を睨んできているのが分かります。視線で蟲どころか人を殺せそうな勢いでした。

 

「……えーとですねぇ、私、どうしてここまで連れてこられたんでしょう?」

 

 とぼけたように言う私に、その視線がますます険しい物になったような気がします。

 いや着いてきた私も私ですよ? ですがいかにも殺る気マンマンの姿を見て、逃げ切れると思えるほど私も楽天家ではありません。

 ですが、ラグナさんに街中で暴れられても困ります。今、支部の衛士は魂肉体全部、窯の錬成のために使われているのですから、衛士が居ないことで騒ぎになっては面倒です。

 時刻は……もう十八時を過ぎました。ノエルさん先に行ってますね、これ。

 

「テメェがハザマ、で間違ってねぇな?」

 

「あーはい。統制機構諜報部、諜報員のハザマです。ちなみに非戦闘員です」

 

 貴方と戦闘なんて無理です、という事をアピールしつつ、私は帽子を外して頭を下げました。

 そうか、よし死ね、なんて短絡的な行動はとらないでしょう。どこぞのテルミさんじゃないんですから。

 私の想像した通り、剣を振るうよりも先に行われたのは問いかけでした。

 

「……奴を出せ。どんな事情があるかなんざ知ったこっちゃねぇが、こっちには用があんだよ」

 

「奴、ですか?」

 

「テメェの中に居る奴の事だ。それとも元々表面に出ていて、惚けてるって言うならそれでもいい。今ここで潰す」

 

 剣に手をかけて此方を睨むラグナさん。さっさと出せ、出なければ殺すという脅し文句でしたが、私にはどうしようもありません。

 『彼』に対する制約を解くことはできますけれども、あっという間に乗っ取られたら話になりません。それに出てくるかどうかは『彼』次第。私にはどうしようもありません。

 無表情でいますけど内心汗が凄いことになってます。とにかく『彼』に話しかけました。

 

(すみませーん、すみませーん!! ちょっとー!! ちょ、私じゃなくて指名来ましたよ何時までこの状況でスルーするつもりなんです「あのなぁ、ちったぁ年上に対する言葉遣いってやつを保護者から学ばなかったのか、ラグナくん?」 か……あれ?)

 

「テメェ……」

 

「あ、悪いねーラグナくんの保護者殺したの俺だったわ。クソ吸血鬼が保護者だったら口が悪くなんのも無理ねぇよな」

 

 その言葉が口から零れ終わった瞬間、視界がぶれました。

身体の主導権はいつの間にか奪われ、私は意識は存在しますけど私自身の意思では体が動かせない状態になっています。

 がきん、という音と共に視界が白いもので隠されたかと思えば、それは強化したダガーナイフと大剣が私の目の前でぶつかり合ったようでした。

 その大剣の主のラグナさんと目が合います。正しくは私の身体と、ですけど。そしてその目には憤怒が映っています。

 

「その汚ねぇ口を閉じやがれ、この糞ヤロウが!」

 

「いいねぇ、いい憎しみだなラグナちゃんよ。どうせなら俺がしっかり覚醒してから向けてくんねぇか? オラッ」

 

 ラグナさんを弾き飛ばしそのまま跳躍して建物の上に着地すると、剣を構えるラグナさんへと見下ろしました。

 戦うのでしょうか。身体は動かせませんけど緊張で喉を鳴らした私は、気を引き締めるように手を握りしめました。

 

 うん? 何かがおかしいですね。

 闘技場の観客席に座っていたと思ったら、空間転移でファイターの目の前に送られたような違和感を感じるのですが。

 具体的には相手の殺気を感じるぐらいに。

 

「(ちょ、なんで私に体を戻してるんですか!? 挑発だけのために出てくるなら最後までやってくださいよ!!)」

 

「(あー? 無理無理、俺が長い時間この躰を動かせないことはお前の方が知ってんだろ? 何なら封印解除すりゃいいんじゃねーの? ま、できんならな)」

 

 無理です。できません。

 この躰の優先権は私にあると言うだけで、『私と彼という存在の定義が今だ曖昧なままです。』混ざりかけていた二つの液体に無理やり板を突っ込んで区切り、容器に移し替えただけです。

 つまり板が封印、容器が私の腕への刻印という訳です。それを全部取っ払えばまた私という存在は『彼』によって浸食されます。『彼』の事は嫌いではありませんが、私まで消えてしまうのは御免です。

 が、私はそう思っていても相手は同じことを思ってくれないのは、明らかに立場が対等であるとは言えないからでしょう。

 私が真の蒼への覚醒を求めるのは、それも理由の一つです。液体状だから混ざるのです。だからアークエネミーや蒼の魔導書も発動できなかったりするのは術式のコードが曖昧なせいで負担が大きいのです。近くに境界があって情報の補足があれば別ですけど。

 それなら、固体にすればいいんです。そのために真の蒼による観測は完全にこの世界に定着させ、魂が混ざり合う事もありえないでしょう。

 そんな先の事よりもまずは目の前の問題です。

 目の前を走る大剣を体を後ろへ逸らすことで回避し、追撃に獣の顔を模された波動をこれまた大地を蹴って跳躍することで回避し、同じく跳躍し拳を構えるラグナさんの一撃は、見事に腹へと吸い込まれていきました。

 叫び声をあげるまでもなく吹き飛ばされた私は、空き家の壁へと衝突し、そのまま中へと入ってしまったようです。

 蒼の魔導書によって魂を削られ、焼けるような痛みを我慢しながら、私は辺りを見渡しました。いや本当にヤバイです。世界に存在するための重要な物へと鑢で削られていくような痛みです。

 古びた家のその場所はどうやら台所であったようで、錆びてボロボロになったナイフやらフォークが私の手元に散乱していました。

 まさに瞬殺。本職の衛士の群れを簡単に突き進める人外と諜報員を並べれば当然こうなりますね。

 

「立て」

 

 言葉を発したのはラグナさんでした。

 私が直撃して破壊した壁の大穴から、私を見下ろし腕を前に構えています。

 ……本当にやばいです。ラグナさんの反対側にガラスでできた窓があり、そこを逃げ道にできないかと考えましたが、実力差を考えればそれも難しいです。

 あっけなく私吹き飛ばされましたけど、しっかり体を強化して障壁まで張ったのにこの状態です。

 腐ってもS級犯罪者である死神です。勝てるわけがありません。生きるための手段を考えるために頭が思考を始めても、良い答えは出てきません。

 実際の時間にしてほんの数秒、ですが答えが出ないという現実を導き出した私に、語りかける声がありました。

 

「(情けねぇな)」

 

 いや、殆どあなたのせいです。

 なんとか穏便に済ませようとしていたのにこの結果です。

 

「(だろうな。俺としてはこのままハザマちゃんが逝っても面白いんだが……、何時までも調子に乗らせんのも気にくわねぇ)」

 

「あれ……私……は?」

 

 呆けたように呟く私の近くにいつの間にか寄ったのか、ラグナさんの大剣が倒れる私の首のすぐ近くへと突き刺さっていました。

 妙なことに私を見る視線に何も表情がありませんでした。蒼の魔導書である右腕で大剣を握り締めている手には力が入り、油断を見せているようではなさそうです。

 流石にこの状況で楽観的なれません。

 さらには生き残るための策は私にはありません。つまり、どんなものであろうと『彼』の助言を受け入れなければならないようです。

 

「テメェには用は無い。さっさと奴を出せ」

 

―――――――――――――――――

 

 ラグナが右手で握りしめた剣は喉元近くに突き刺され、何か抵抗をしようものなら直ぐに動かせる、そんな姿勢をとっているつもりだった。

 見下ろす統制機構の諜報員は、数年前に見た姿と大きく変わりはない。寧ろ自分が昔小さかったことも相まって今の姿は小さく見える。

 ハザマ、その存在を知ったのはブラッドエッジの名を使い始める少し前の事だった。

 自分の意思ではなく、上位の存在によってその体を操られ動く人形。だがその人形には意思があり、その人格を攻めることはできない。

 自分の世界を壊したのはその上位存在であって、ハザマの罪ではない。師匠である獣兵衛にそういわれたとき、感じたことは怒りだった。

 だからどうした、何も知らない、自分の意思じゃない、それが俺の全てを奪う免罪符になるわけがない。

 獣兵衛の重苦しい表情と、レイチェルの沈黙をその身に受けながらも、そう言わないわけにはいかなかった。

 世界を壊すと決めたときから、犠牲者が出ることは当然で、そしてその重荷を背負っていくことも覚悟していた。だが、その犠牲者を出すことが目的ではない。

 自分が殺したいのはこの男ではない。人形の糸の先に居る主こそ、自分にとっての敵に他ならない。

 だから、待った。目の前に転がるハザマがその存在を引きずり落とすことを。

 

「……どうして殺さないのでしょうか? S級の犯罪者となれば、私なんて床の埃と同じ、吹けば吹き飛ぶような存在ですよね?」

 

 首だけ傾け此方を見上たその表情は、嘲笑の色が見て取れる。

 無言で腹を蹴り飛ばすが、少しむせた以外ににやにやと笑うことは変わらず、無意識に剣を強く握っていた。

 

「テメェには用はない。生きたかったらテルミを出せ。何度も言わせんなこの馬鹿が」

 

「あー、用があるのはテルミさんでしたか。いやはや、私も出せたら直ぐに出してはいるんですけどねぇ……生憎と『面識がない』ものですから」

 

 その言葉は嘘であることは明確だった。『少なくともラグナにはそう思えた』。

 圧倒的に不利な状態にあるにもかかわらず、にやけた顔で此方を見下し、挑発してきている。

 文字通り、人形か。糸を操るもののために生きる、そういう存在になっているということだろうか。

 

「それに"生きたかったら"ですか。なんとも死神様は優しいお方ですねぇ。支部を一つ壊滅させたついでに何人の人が死んだのでしょうか。私だけ特別扱いなんて、嬉しくて涙が出ますよ」

 

「……何が言いたい」

 

「だからその優しさに便乗して逃げさせてもらうって言ってんだよ、。魔素抗体術式、解放」

 

 ぞわり、という嫌な予感。そしてどこか懐かしいような違和感が身体に走り、言葉を全て聞く前に右腕を動かし、その首を刎ねようとした。

 操り人形であるのなら、こいつはテルミの駒の一部であることは間違いない。なら、情報を引き出せないと分かったのなら殺しておくのが正解だ。

 ハザマの目の前に術式が発動したことを表す白い紋章が現れ消えた。ハザマが身体を起こすと共に散乱したナイフを掴み、投げるまで数秒、対してラグナは右腕を動かすだけで事は終わる。

 『蒼の魔導書』である右腕を動かせば、この予感についても杞憂に終わるはずだった。

 

「なっ」

 

 動かない。

 きつく握りしめられた右腕、『蒼の魔導書』は肉体ではなく、まるで本物の精巧な義手の様で、自分の意思では動かなかった。

 当然、大剣を動かすこともかなわない。その合間にもハザマの行動は完了している。

顔面に一本、心臓へ一本投げられたナイフは、本来の用途を成すものではなく、果実を切るための果物ナイフだ。

 だが、魔導書がハザマの術式によって停止した今では、それさえもラグナに致命的な傷を負わせる道具となり得る。

 左足で地面を蹴り飛ばし、倒れこむように回避して体勢を立て直したのもつかの間、身体をバネのように飛び上がらせたハザマは、倒れこんだラグナに目もくれずに窓へと走る。

 

「っちぃ! テメェ、待ちやがれ!」

 

 叫んだ言葉は無視され、身体の前で腕を交差させたハザマは、ガラスを破りながら窓へと飛び込み、外へと着地した。それを確認しラグナも追いかけるようにして窓へと走り、外へ出る。

 だが、まだ夕方の時刻とは言え冬のこの季節では辺りは影につつまれるため、視界も悪い。なによりも走るのに何も動かない右腕は邪魔でしかなかった。

 全力で走るハザマとそれを追いかけるラグナ。追いかけているのは十全の諜報員であり、逃げに徹された時点で追いつけないことは確定している。

 数回曲がり角を曲がり、再度開けた区域へと差し掛かる。その時点でラグナの視界にダークグレーの諜報員の姿は見えなくなっていた。

 見失った、その事実を実感し、言いようのない悔しさが胸にこみ上げ吐き出された。

 

「……クソッ!!」

 

 拳が作られた右腕を壁へと叩きつける。

 廃墟ばかりが広がるその区域ではそれを咎める者もおらず、壁を殴る音だけが空しくあたりに響き渡る。

 ふと、ラグナが疑問を感じたのはそのときだった。

 右腕が動く。先ほどまで欠片も動こうとしなかった魔導書は、まるで自分の右腕の様によくなじんでそこに存在している。

 

「無様ね、ラグナ」

 

 そしてその声を聴き、うんざりする様に顔をしかめる。

 何時からそこに居たのだろうか、開けた道の外灯の上には人影があり、冷めた視線でラグナを見下ろしてた。

 黒いドレスに髪を二つに分けたリボンは、ウサギの耳の様にピンと立っている。雨も降っておらず、ましてや日差しもないこの時刻に黒い傘をさした少女、レイチェル=アルカードは、先ほどハザマが見せていた笑みとはまた別の、嘲笑の笑みを見せている。

 

「おいウサギ! テメェ。見てたならなんで止めなかった!」

 

「あら、私が貴方の言葉に従う義理は無いのだけれど。それに下僕としての言葉遣いがなっていないのではなくて?」

 

 透かした顔で、今からお茶でもするかのような涼しげな表情に、ラグナは思わず歯の奥を噛みしめた。

 そうっス、なってないっスよ、と便乗するお供1の声がさらにその苛立ちを加速させた。

 

「誰がテメェの下僕だ! じゃあなんだ、わざわざ俺を笑うためだけにここに来たってか? はっ、暇つぶしなら自分達(テメェら)だけで茶会でもやってろ!」

 

「下僕が随分な口をきけるようになったのね。仕付けするのは主人の仕事だけど、今回は本当にあなたには用はなかったもの」

 

 その言葉にラグナはどこか違和感を覚えていた。

 行く先行く先でちょっかいを出してくるレイチェルだったが、基本的に意味が無いことの方が多い。意味があったとしてもそれをありげに話すため、本当に意味があるかどうかもう分からないのが普通だった。 

 それが用がある、だと? その対象が自分ではないことも驚きだが、それをラグナ自身に話されることも違和感の一部だった。

 

「……あっそーですか! 用が無ぇなら俺はもう行くぞ」

 

 軽く手を挙げてレイチェルに背を向ける。

 やるべきことが今ある現状で、何も話さないのなら興味を向ける必要もない。それよりも考えるべきこともあった。

 先ほどのハザマの術式。白い紋章と共に現れたその効果は一見何も起こらないように見えたが、自分の右腕のみ、その効果ははっきりと表れていた。

 腕が、正しく言うならば蒼の魔導書が全く起動しない状態。

 

「そういえば、腕はきちんと動くのかしら、ラグナ?」

 

「……どういうことだウサギ、テメェ何を知っている?」

 

 先ほどの出来事を示唆するような言葉の呟きが届き、出しかけた足を止めラグナはレイチェルを睨む。それでもどこ吹く風で涼しげな表情に笑みを作っただけだった。

 

「とても懐かしい雰囲気を感じたからまさかとは思ったけれど、そう。やはりミツヨシの言っていた通りだったのね」

 

「おい、自分だけ納得してんじゃねぇよ。ウサギ、アレはなんだ?」

 

 アレ、ハザマの術式は考えてみれば違和感しかない。

 蒼の魔導書の働きを阻害する術式、そもそもそんなものを統制機構が発明できるのか。できたとしても、自分が感じた『違和感』はいったいなんだったのか。

 術式が発動していたのはほんの短い時間であり、追いかけているときには無意識ではあったが、すでに蒼の魔導書が動かなくなった、ということは無かったはずだ。

 そして、違和感。遠い昔に感じた感覚ではあるが、なぜそれがあの術式を発動した瞬間に現れたのか。

 

「……呆れた、ミツヨシは貴方になにも話していなかったようね。いえ、それが正解かしら。だってあの術式には……」

 

――――――――――――――――――――

 

 

「おぼろろろろろろろろろおうぇぇぇぇぇぇぇえ。きもちわるいきもちわるいきもちらうし」

 

「(ハザマちゃんあんまり無様なところ見せてくれんなよ、笑うだけで腹筋が割れちまうじゃねぇか!)」

 

 時刻は既に18時は回っています。ノエルさんからの電話がひっきりなしになっていますけど出る気になりません、というより出たら通信機に色々なものがかかります。

 現在は路地裏で、まるで飲みすぎて許容量を超えてしまった中年の様に、身体の中身をリバースしている最中です。

 風邪と車酔い酒酔い船酔いがいっぺんに体へと押しかけたような気持ち悪さに、私自身が限界だったのか、路地裏の陰で四つん這いになって吐いてしまいました。

 

「なんですかなんですかなんなんですかぁ!? あのマスクオヤジとあなた何考えて私にあんなの仕込んだんですか? 馬鹿ですかそうですか死んでください」

 

「(おいおい、なんとかラグナちゃんから逃げ切れたんだぜ? どこに文句言う筋があるってんだ」

 

「納得いかないのはどうして貴方はピンピンしているんですか!? あんな術式発動してヤバイのは貴方のはずでしょう!」

 

「(べっつにー、あのクソババア本人だったらやべぇけど、アレ疑似的な魂だぜ? 苦しむのは肉体だけってな」

 

「~~~~~~~!!!?!?!」

 

 なんとか気持ちの悪い波も収まり、支部へ向かおうと考えたときには、もう30分も過ぎていました。

 ラグナさんへと発動した術式、それは魂自体を触媒の一部とし、作り上げられた術式でした。

 効果は単純で、黒き獣関係の術式の発動を阻害するというもの。これがあればたとえ相手が蒼の魔導書でも問題ありません。という説明を『彼』から教えられました。

 さて、此処で問題。この躰は純粋な肉体ですか。いいえ違います。レリウスさん特製、体中が『蒼の魔導書のようなもの』という素晴らしいボディ。

 発動する気はありません、というかしたら私が滅ぶと思いましたが、そこで彼が 強 制 発 動 !

 死ぬかと思いました。吐くもの全部吐いて胃まで出てくるかと思えるほど気持ち悪かったです。毒だって吐きたくなります。

 

 ノエルさんのメールを確認しつつ、私は支部に向かいます。なんでも要約すると、”キサラギ少佐がぼろ雑巾の姿で見つかり、少し補修したけどどうしたらいいですか?”というものでした。

 ラグナさん、行動速くないですか? そしてキサラギさん……。とりあえずラグナさんは地下に居るだろうあの人に任せるとして、ノエルさんはどうするべきでしょうか。

私が境界に接続したのももう一か月も前になります。細かいところまで覚えていませんけど、そのままだとノエルさんが死亡することは覚えています。

 

「”先にラグナ=ザ=ブラッドエッジを追ってください。衛士用のエレベーターがあるので直ぐに追いつけます”……と。こんなもんですね」

 

「(へぇ、行かせんのかよ、素体の所に)」

 

「……勝手にそうなるよう、世界は修正を加えるでしょう? なんとかこの場所からなら追いつけるでしょうし、万一死にそうになったら回収しましょう。覚醒する前に死なれても困りますから」

 

「(で、ラグナちゃんはあの英雄様にってか? おいおい、そんな事象が何度あったと思っている?)」

 

「……なんとかなれば幸いなんですけどね。こればっかりは運です」

 

 そう、覚醒するもしないもノエルさん自身の問題ですし、全部上手くいくことを目指しても、ダメなこともあるでしょう。

 では私は布団の中でガタガタ震えるのか、といわれれば否と答えます。やれるところまでやってみましょう。それでもダメなら窯の中にでも飛び込むつもりです。この身体はレリウスさん特製、なんとかなるかもしれません。

 

「(楽しみだなぁおい、全部終わるか、それとも首の皮一枚繋がるのか、こんな任務、スリルがあって楽しいだろう)」

 

 

 笑う彼の言葉に私は頭を抱えたくなりましたが、そんなことをしている時間も惜しいです。

 統制機構支部、私のこれからの運命もそこで決まるとなると、少しばかりですが緊張してきました。

 ですがこの緊張さえも私が生きている証です。それを情報という名の文字の羅列へと変えられるのは御免です。

 

 そんなふうに支部へと向かう私のポケットの中で、通信機がだれかからの着信を受け取りました。

 

 

 



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ステージ8

最新話になります。四話ほどまとめて投稿したので、初めての方は読み直すことをお勧めします。


 ぺたんと地面にそのまま座り、ノエルは心臓の音を確かめるように胸へと手を当てていた。

 稼働するエレベーターの音は単調であり、その小さな箱の中の乗客であるノエルにはもう一つ音が聞こえている。

 とくん、とくんと自分の心臓は何かを求めるようにその音を鳴らす。いつもよりも早く動く心臓と少し火照った顔が、自分を今何かを楽しみにしているという事実をはっきりとさせていた。

 

「……ラグナ」

 

 胸中にある言葉を口から零し、ますます心臓の鼓動が速くなってしまうことに思わず慌ててしまっていた。

 こんなことじゃいけない、任務中だと頭の中では切り替えようとしているのに、そう思えば思うほど鼓動は早くなっていくような気がしてた。

 

 合流時間になっても影も形も表さないハザマに対して、時間ピッタリに支部へと戻ったノエルに移った光景は、ボロボロになった自分の上司の姿だった。

慌てて声をかけるも反応は無く、心臓と脈の音だけがジン=キサラギが生きていることを表している。

応急手当程度は済ませたものの、すぐさま医療施設に運ぶべきだろう、そう判断しハザマへと連絡を求めると、帰ってきたのは意外な言葉だった。

 

『キサラギ少佐は私が回収します。とりあえずヴァーミリオン少尉は奥へと進んでください。そこに死神が向かいました』

 

 その言葉だけでノエルはなんの疑いもなく統制機構支部の地下へと向かっていた。寧ろそれを望んでいたと言ってもいい。

 本来ならばノエルは自分の上司が瀕死の重傷で放置することに意義を唱えるべきだったのだろう。だが、その思いは自分の欲求に敗北し、死神、ラグナ=ザ=ブラッドエッジを追っている。

 

「らぐな、ざ、ぶらっどえっじ」

 

 その言葉を呟くだけで顔が火照るのが分かった。そんな状態の自分は、自分の身体とも思えなかった。

 どうして話したことも会ったことさえない人に対して、自分はこんなにも思いを寄せているのか。訳の分から ない熱が勝手に沸き、自分を沸騰させているようだ。

 

 エレベーターを出て薄暗い鍾乳洞のような統制機構の地下へと足を踏み入れる。ノエルはハザマから渡されたデータをもとに足を進め、地下の奥へと向かっていた。

 ラグナ=ザ=ブラッドエッジは統制機構の支部を壊滅させた後、地下で何かを破壊しているとの報告が入っている。それが何か、については機密という事で情報は入ってきていない。自分の知る必要のないことだ、ノエルはそう判断した。

 ハザマに、そんな機密がある場所へ自分が行っても良いのかと尋ねると、許可は貰っているので問題は無いという言葉を返された。しかし臆病風に吹かれたのか、段々と不安になっていたのが分かる。

 一応もう一度確認しよう。足を進めながら自分の携帯端末に手を伸ばすと、ハザマ大尉の返信を確認しようと電源を入れた。

 

「……あ、充電きれてる」

 

 むう、と呟き真っ黒な画面のまま起動しようとしない携帯端末を睨みつけ、小さく溜息をつく。

 進まない、という選択肢は無い。自分は『ラグナ=ザ=ブラッドエッジに会わなければいけない』

 

 数分ほど歩いたころだろう、自分が周りの景色とは違う場所に着いたのは、地面の地質が変わった辺りだった。

 今までは岩に近い地質だったが、その場所だけ鉄のような材質の地面へと舗装されている。

 その舗装された地面の中心に”それ”は存在していた。すり鉢状で地面のプレートが不自然に重なったようなその場所は、”たった今開こうとしている”。

 

「……なに、ここ」

 

 それは”窯”だ。自分はこれを知っている。どこかでここを見たことがある。

 それは原初の記憶、イカルガで自分が見た光景、破壊された紅色の景色に自分が佇んでいた時の、その時と同じ既視感を感じている。

 その記憶がなんの前触れもなく蘇えり、足元を失ったかのように視界を揺らしていた。

 

「あれ……? 私、わたし、 わた し は ? 」

 

 違和感が体の中を走る。違う、そうノエルは思い直す。自分という存在の意識が違和感であり、私という記憶が偽りであり、私という存在が間違い。その結論にたどり着いていた。

 開き切った窯に剣が現れる。空からゆっくりと訪れた“それ”は余りにも人間に似た形をとっていた。

 鋼のような銀色の髪に片眼は眼帯で隠され、身体に丁度合わせたような薄水色のインナーの上に、ひらひらとした白い羽織を肩へと纏っている。

 妖精のような少女、と言うには聊かその少女は無機質すぎた。まるで剣みたいだ。そう呟いたのも無理はなかった。

 背後の巨大な剣が消え、少女の身体に纏われる。身体の周りには六つの剣が身体を守るように浮かび、足は機械のような剣で鎧の様に装着されていた。

 

 

「起動、起動、起動、起動、起動、認識」

 

 

 その視線が此方へと向けられたような気がした。バイザーのようなもので目を覆われていたので、あくまでも自分の想像だった。

 

「対象、照合、同一体と認識」

 

 恐怖を感じていた。獣に襲われた時とは違う、声も出せず身動きもとれないこれは別質の何かを感じる。

 目の前の存在が言葉を発していることさえもどこか遠い場所の出来事にも思え、言葉を失っていた。

 

「貴方、なに?」

 

 私という存在、決まっている。世界虚空情報統制機構第四師団、ノエル=ヴァーミリオン少尉。言おうとした言葉は宙に消え、代わりに”わたし”が口を開く。

 

「私は、次元境界接触用素体、No,12、μ。対象を対三輝神コアユニットと認識。検索、対象なし。後期生産型素体であると推定。情報開示を求む」

 

「次元境界接触用素体、No,13、ν。不正同一体の稼働を認識、現在対象の存在は不適切。速やかに自壊を勧告する」

 

「拒否、自身の生存を優先する。対象の敵対行動を認識、魔銃ベルヴェルグ召喚。戦闘形体へと移行する」

 

 なにを、いっているの?

 

 ノエルはそう思わずにはいられなかった。

 自分の物であるはずの自分の身体は意志と全く関係のない行動をし、全く関係のない言葉を発している。

 目の前にいる現実とは思えない存在にしてもそう、訳の分からない言葉を言う”わたし”という存在もそう、ノエルの理解の範疇には収まり切らない。

もしかして、という思いはノエルにもある。アークエネミー、ベルヴェルグ、精神制御されていることも分かる。これも、そのせいだと言うのならば。

砂が解けるように意識が分からなくなっていく。この自分の意思が私自身であるのか、それとも”わたし”であるのか、それさえも分からなかった。

 

「敵対固体、アークエネミーベルヴェルグの装備を確認、検索、不正同一体の敵性反応を認識、存在の排除を適正と容認する」

 

 

「「対象の殲滅を開始します」」

 

 

 ただ、その遠い出来事である光景を見ていることしかできなかった。

 

―――――――――――――

 

 白と紅の影が交差する。

 大量の赤黒い術式をその白い影は斬り伏せ、まるで何も存在していなかったように対象へと突っ込んだ。

 大剣と太刀が鍔迫り合いをはじめ、ラグナは目の前の存在が行動したことの確認もそこそこに、小さくそこから飛び上がっていた。

 蓮華、とその存在が呟いたかと思ったのもつかの間、半歩下がった次の瞬間にはラグナの足元を地面を抉られた。地面はその白い存在が蹴り飛ばした結果だと分かり、身体を回し放たれた二撃目の脚撃を自身の大剣で受け止め、流す。

 体勢が崩れた今を狙い、振り回すように大剣をその存在に向かって切りつける。ぞわり、という悪寒と共にいつの間にか術式陣を目の前に展開され、相手は腕で守るように構えていたことを見た。しかし反応するより先に自分の身体はすでに地面へと叩きつけられていた。

 見切られ、斬りつけたはずの自分が投げられて地面を寝転がる羽目になった。無論、そのまま転がっているわけにもいかない。自分の頭を踏み砕こうとしている姿を見れば、無様な回避な仕方であろうと、無理やり飛んで距離を置くしかなかった。

 

「糞っ、訳わっかんねぇし意味分かんねぇ、反則だろそれ!」

 

「………」

 

「おいおいだんまりかよハクメンさんよ。訳分かんねぇまんま切りつけて来やがって、そんでもってそいつは余裕のつもりか?」

 

 目の前の存在、白い肌とも鎧ともいえるモノを纏い、背中には大太刀の鞘が添えられている。

 何よりも目立つのはその名を指すとも言える、白い面だった。体中から見られている、という感覚はあるのだから、視覚自体は存在しているのだろう。

 それよりも驚いたのは、ハクメン、という名だった。

 ほんの百数年前に実際に存在していた本物の英雄という存在だ。自分の師匠もその英雄の一人ではあったが、それが自分の敵に回っているという時点で、面倒なことこの上なかった。

 力ではない、全ての攻撃するタイミングを見切られ、攻撃され続けていることを当然のようにこなすものを見れば、反則だと言わざるを得なかった。

 

「(師匠が入っていた“奴”っていうのはコイツの事か)。……クソ、どいつもこいつも肝心なことだけ伏せやがって!」

 

 この白い姿に感じた本能的な恐怖、足が震え逃げ出したいと思う気持ちを潰し対峙したときには、こいつが師匠の言っていた人物であったとも理解した。

 自分がここに来る前のレイチェルについてもそうだった。

 ハザマの使った術式について口に出そうとしたものの、結局は口を紡ぎ話してはくれなった。

聞いてどうなる物でもない、理解はしているが納得するとは別の話だ。事実、目の前のハクメンにしたってそうだ。何を問おうとしても「剣を交えればわかる」と一蹴した。訳が分かるわけがない。

 

「…ラグナ=ザ=ブラッドエッジ、何故貴様は本気を出さん」

 

「あん? ……コレのことを言ってんのか? さーな、少なくとも切り札を使うタイミングぐらい俺に選ばせろ」

 

 視線を自分の右腕にある蒼の魔導書に目を向ける。解放するつもりはあったが、その隙が無いだけだ。解放させるつもりもないくせによく言う、とラグナは舌打ちする。

 

「油断はいかんな」

 

 それが終わるよりも先に前傾姿勢で走り、一瞬で目の前に現れたハクメンに目を見開いていた。鬼蹴、力を凝縮し地面を蹴った。真正面に居るのにもかかわらずラグナにはその姿を捉えられず、ラグナは剣を盾にするように構えた。

 火蛍、その言葉と共に低い姿勢のまま、打ち上げるようにラグナのガードを抜き、顎へと直撃させていた。脳が揺れ視界がぶれる。

 しかしハクメンが腰に刀を構え横薙ぎに一閃しようとしているのを見て、ラグナは術式を爆発させることを選んだ。

 

「うぉおおおおおおお!!」

 

「ぬぅ!?」

 

 障壁破棄、戦闘中に纏う障壁を外向きに爆発させ、相手を吹き飛ばす方法の一つだった。

 しかしこれは諸刃の剣でもある。術式障壁を組み直すには時間がかかる、その上解いた状態では旧時代の銃弾一発でも致命傷になる。

 だがこの時点ではラグナの判断は正しかった。術式ごと斬られ絶命するぐらいなら、保険の一つを解くことに戸惑いは無い。

 ラグナは剣を構え立て直すと、脳内で術式障壁の張り直しを試みる。目の前のハクメンがそんな時間を与えるかどうかも分からない、ただ途中であっても何もないよりマシ程度にはなる。

 

「呆れるな……この程度か、黒き者よ」

 

「……ちっ」

 

 剣を地面へと向け、失望したようにハクメンは首を振った。

 無論戦闘中であるはずだが、ハクメンが目の前で構えを解いていたことに思わず呆けていた。しかしそれもつかの間、その行為が自分を馬鹿にしているという事に気が付き、思わず頭に血が上る。

 しかし冷静ではあった。仕掛けてこないのならば好都合であり、術式障壁のコードを造り続けた。

 

「貴様は、何を成す。ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」

 

「なに?」

 

 片手に持ち、地面を指していた刀をラグナへと向け、ハクメンは尋ねた。

 油断させるための行動か? と考えたが、それも違う。そもそも目の前の存在が六英雄であるハクメンであるのなら、蒼の魔導書を起動すれば勝てるかもしれないが、起動する前に斬り伏せている。

 目的は何かと察知する前に、その仮面の下で声は響き渡っていた。

 

 

「世界は繰り返す。貴様がどう足掻こうと此処で世界は終焉する。真の英雄であるブラッドエッジは終焉を避けるために、人として強大な存在と戦った。答えよ、その名を継いだ黒き者よ、貴様はいったい何のために、何を成す」

 

 

 かつて人々に六英雄と呼ばれた存在の他に、英雄と呼ぶに値する者が存在していた。その身は人であるにもかかわらず、たった一人で絶望へと挑んだ存在。ブラッドエッジ、その英雄のことを話したのは、ラグナの師匠である獣兵衛とレイチェルだけだった。

 だからラグナには言っている意味は分かる。六英雄と呼ばれた存在とは別の、自分の師である獣兵衛や目の前のハクメンが英雄として認めた存在。

 ブラッドエッジ、この赤い外套と剣を渡されたときに師匠が話した、英雄。自分が今名乗って居るものだった。

 

「私は貴様という存在を斬る。剣を合わせて確信した。この世界の真理も運命も無力な貴様では変えられず、貴様は堕ちた世界の破壊者以外に成りえない」

 

「……」

 

 どういうことだ、と内心で呟く。

 ブラッドエッジが何を成し遂げたのかは知らない。自分が取っている行動がブラッドエッジを語るのに相応しくないから、目の前にいるハクメンは俺自身を殺そうとしている?

 なら破壊者、運命という意味は? 自分が統制機構の支部を襲い、世界を混乱させている張本人だからこそか? その行動もその運命とやらの示した通りだったという事か?

 多くの過程がラグナの頭を駆け巡る。がりがりと頭を掻き毟り、混乱している頭を取り戻そうとする。恐らくハクメンは誰よりも多くの真実を語っているのだろう。だが自分自身が理解できないのだから、語る意味が無いとレイチェルなどから言われることも理解できる。

 だがもう限界だった。いくらレイチェルに愚鈍扱いされようが、許容範囲外の話にはついてはいけなかった。

 

「だーーーーーーっっ!!! 俺がそんなこと知るか!」

 

「……む?」

 

 敵陣で敵が目の前に居るのに、頭を抱え思わず大声で叫ぶ。

 術式障壁を張り直せたことや、声を出したということもある。幾らか頭もすっきりして改めて問いを返すことができた。思考を止めたとも言うが。

 

「世界の破壊にも真理とやらにも興味はねぇよ、俺はただ……」

 

 兄弟とシスターがいた自分たちのあの世界を壊し、生かすことも殺すことも他人に決められた。そして未だに自分の妹は弄ばれ続けている。

 どこにでも転がっているような世界の悲劇であり、それを行った者達が世界自身であると言うのなら、成程自分の目的は世界の破壊という事になる。

 だが本当の意味で世界を破壊したいわけではない。統制機構は憎い、だがそれも兵士末端全てに至るわけでもない。

 

「納得ができないだけだ。俺達の世界を壊した連中が、のうのうとまだ存在し続けていることが」

 

 その言葉を出したとき、すっとハクメンの殺気が辺りへと溢れ出す。

 引くように太刀を構えたハクメンを見て舌打ちするも、右腕を前に突き出しとある術式を解放するためのコードを入力した。

 

「愚かな、復讐のためにその力を振るうと言うのか。……餓鬼に堕ちたな、黒き者よ。貴様の末路は世界を喰らい破壊する化け物でしかない」

 

「堕ちてねーよ。人のことを勝手に判断するんじゃねぇぞ、このお面野郎が。いったい何様のつもりだテメェ」

 

 ガキ、確かにその通りだ。何百年も生きている英雄や吸血鬼に比べれば、自分などという存在は子供のようなものだろう。

 だが、もう子供でいられるわけでもなく、そのつもりもない。

 決心する。誰に言われたわけでもなく、それは確かにラグナ自身がこの場所で決めたことだった。

 

 

「俺が破壊者って言うんなら、その運命とやらを破壊してやるよ。化け物にも堕ちるつもりはねぇ、『最後まで人間として戦ってやる』」

 

 

 その言葉に、ハクメンの殺気が緩む。その変化に思わず自分もコードを唱えることを一旦止めていた。

 表情は見えることは無かったがどこか唖然としているようにも感じる。自分の言ったことがそんなにもおかしかったのかと思うが、その後のハクメンの行動にさらに首を傾げる羽目になった。

 太刀を体の前に構え柄に手を添えた。何処か神秘的にも見えるその姿に驚くも、自分も魔導書のためのコードを唱えること進めた。

 

「……成程、それは貴様の正義か、黒き者よ」

 

「はぁ? ……なんかよく分かんねーけどそうなんじゃねーのか」

 

「ならば堕ちてはくれるなよ、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ。でなければ貴様はまた、『蒼の少女を喰らい尽くすだろう』」

 

 また意味が分からない言葉を言っていることに頭が痛くなる。

 どうやら目の前の存在も言葉に納得はしてくれたらしいが、此方と拳を引く理由もない。ならばすることはあと一つ、術式構成も終わった、何時もと変わらない力技で進むだけだろう。

 すっと腕を前に構え、蒼の魔導書の起動コードを唱えだす。

 

 

 瞬間、視界がブレて足元からの振動に思わず発動を止めていた。

 

 

「っ、なんだ!?」

 

「……早い。もう出てくるか」

 

 出てくるか、という言葉にラグナはある可能性に気が付いた。そもそもラグナがこの場所に訪れたのは、ハクメンの遮る場所の先にある窯、正しくはそこにある素体が目的だった。

 精錬されまだ目覚めていない状態であればそれでよかった。だがもしも先ほどの振動が、窯が開いたという事を示すものだとしたら。窯が開いたというは既に精錬は始まっている。蒼の魔導書を発動し、ハクメンを速攻で倒したとしても間に合うかどうかは難しい。

 そもそも使わなければ本当に倒せるかどうかも怪しいのだ。起動コードは唱えてあるので、あとは術式として発動させるだけでよかった。

 

「止めておけ」

 

「……なんだと?」

 

 その光景にラグナは思わず蒼の魔導書の起動を止めていた。

 構えていたはずの刀を軽く振り、鞘へと納めたハクメンは、くるりと後ろを向いてその場を離れようとしていたのだから。

 ラグナは完全に解放しようとしていた蒼の魔導書の起動を無理やり止め、その反動で震える腕を抑えるようにしてハクメンへと視線を移した。

 ハクメンは完全にラグナの方へと向いてはいなかった。遠くを見据え、なにかを探ろうとしているのか。ただラグナは最早眼中にないという事実だけが、ラグナの頭を沸騰させた。

 

「テメェ、どういうつもりだ」

 

「今の貴様と剣を交え続ける意味が無い。ソレをここで使う必要も無い、それだけの話だ」

 

 そう切って捨てるハクメンは確かに戦闘する意思が無いように見えた。

 油断をするな、とハクメン自身がラグナへと言ってはいたが、刀も既に鞘へと仕舞い自然体でいる姿は、目の前に居るのが敵だと認識させまいとしているにも思える。

 ハクメンと戦う必要はない、それを理解しただけでラグナの本能や理性は安心したと静めていた。しかし、感情は全く別物だった。

 

「ふざけんじゃねぇぞこのお面野郎が! 構えろ! 勝手に仕掛けておいて勝手に終わるだ? 人を嘗めんのも大概にしやがれ」

 

 剣を向けるラグナをハクメンは一瞥すると、深く重い息、ラグナにも聞こえる程度に溜息を吐きだした。

 まるで人を馬鹿にするような、鼻で笑う音が聞こえたということもあり、ラグナの感情が収まることは無さそうだった。

 

「何度も言わせるな、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ。今此処で貴様を滅する意味は無い。私にどこまで手加減しろと言うつもりだ?」

 

「……上等。今ここでテメェは潰す」

 

 自分の本能が馬鹿止めろと叫び続けるのを無視して、自分の右腕を前に突き出し、今度こそ蒼の魔導書を発動しようとコードを再構築し直す。

 流石にそれを解放されて構えも無く居られるはずもない。ハクメンが刀に手をかけ、ラグナが蒼の魔導書を起動しようとした時だった。

 

 ふわりと、薔薇の香りがした。

 

 ラグナは自分の右腕に目を下す。ラグナの右腕に添えるように置かれた小さな白い手は、まるで蒼の魔導書を発動させるのを止めているようにも見える。またしてもラグナは発動を止めてしまっていた。

 ほんの少し視線を移せば、そこには見下ろす形で少女の赤いリボンが見えた。ウサギの様に立てられたリボンの下では、紅い瞳がラグナをじっと見つめていた。

 

 

「やめなさい、ラグナ」

 

 

 転移魔法を使った後の赤い魔方陣が、役目を終えて足元から消えた。

 静かではあったがその声色には冷たさは無い。見つめる視線も無表情ではあったが、ラグナが普段知っているような見下すものではない。

 少女……レイチェルがくるりと後ろを向き、ハクメンと対面するのをラグナは呆気にとられたように見ていた。

 

「見たかったものは見れた? 『えいゆうさん』?」

 

 頭の中が真っ白だった、というのがラグナに最も当てはまる。表情を見せずにいる二人の姿に、自分だけがこの空間で浮いているような違和感を覚えていた。

 何故レイチェルがここにいるのか、何故ハクメンとの戦いを止めろと言ったのか。

 

「……貴様には関係のない話だ」

 

「そうね。それでも、貴方という存在を捻じ曲げるほどの強い思いが在ったことに、少し驚いただけかもしれない」

 

 微かに笑ったレイチェルはハクメンとの話をいったん切ると、再度ラグナへと向き直る。

 思わず一歩後ずさっていた。未知に対する微かな恐怖だったのだろうか。一歩二歩とラグナに近づき、見上げる形でラグナへそっと優しく頬に触れた。思わず悪寒にも似た感触が体を走り、思わず口を開いた。

 

「う、ウサギ……? なんたってこんなところに……てか気持ち悪いぞ、んだよその面」

 

 憎まれ口にも反応せず、レイチェルはじっとラグナの目を覗き見ていた。

 数秒、何かを言おうとしてはレイチェルは口をつぐむ。やがて小さく溜息を吐き、手を放した。

 なにか自分に対して思う事でもあったのだろうか、普段見ない態度からそうラグナは判断したものの、なんと声をかければいいのか分からない。

 

「……羨ましいわ。他の誰にでもない、私自身にそう思うなんて。私が貴方に言えることなんてもう何もないのに」

 

 自嘲する様に呟いた言葉の意味は、予想通り訳の分からないものだった。

 ぐしゃぐしゃとラグナは自分の頭をかき、その意味を考えようとしても分かるはずがない。それは自分の頭が悪いのではなく、説明もろくにしない相手が悪いのではないのか。

 

「なんだか知らねーけど、ウサギテメェ馬鹿か? 一人で納得してんじゃねーよ。こっちにもわかるように言いやがれ」

 

「困ったわね。愚か者に合わせられるだけの言語を私は持ち合わせていないわ」

 

「うっせ! ……説明する気が無ぇならさっさと失せろ。今忙しいことぐらい見りゃ分かんだろうが」

 

 先ほどの表情はなんだったのか、いつの間にかラグナを小馬鹿にするレイチェルは、クスリと笑っていた。

 レイチェルが何時もの状態になったことに、思わずラグナの頭は冷えていた。ハクメンと戦うことは危険だ、だから止めた。そう考えることは楽だろう。事実幾らか捻れば筋が通らないわけでもない。

 ラグナとしてはそれは面白くない。お前では勝てない、そう言われて何も思わないほどラグナは無感情でもなかった。

 

「……早く行け、黒き者よ『我』がまだ殺さずにいる内にだ」

 

 不意に、ハクメンから声がかかる。レイチェルとの会話を見ていただろうその姿は、どこか呆れたような雰囲気をも感じさせている。

 元々ハクメンはこれ以上ラグナと戦うつもりは無く、ラグナもレイチェルの介入によってどこか気が削ぎれていた。

 目の前のお面野郎は気に入らない、だが優先順位ぐらいはわかる。どのみち先のことを考えてしまえば、ハクメンを相手取るには危険だった。冷えた頭はそう判断している。

 レイチェルの横を通り過ぎ、ハクメンの横へと差し掛かる。そこで一旦足を止めると、その場でハクメンに聞こえるように呟く。

 

「テメェは後で潰す」

 

「貴様は『我』が殺す」

 

 ぞわりという悪寒が体中を走る。それを隠すようにハクメンの返答に対して舌打ちすると、ラグナは今度こそ窯へと向かって歩き出した。精錬が始まってしまい、今から行ったとしても面倒は避けられないだろう。

 先ほどのレイチェルとハクメンのこと、面倒くせぇ、と未だ分からない関係に、苛立ったように頭を掻きながら呟く。それでも今すぐ考えるべきことでもなく、ラグナの頭の中では既に切り替え始めていた。

 

 

――――――――――――――――――

 

「あらーマコトさんじゃないですか。任務中に電話はダメですよ。もしもこれが潜入捜査中だったら私、いやーんあはーんなことされてしまいますよ?」

 

「“それ、任務中に電源切らないハザマさんが悪いんじゃないですか? 私としては繋がるとは思っていなかったんだけど”」

 

「いえいえ、任務中とはいえ情報集めがメインですから、別に電話ぐらいなら問題ありませんでしたし」

 

「“そっか、残念だな。ハザマさんいやーんあはーんなことされてなかったんだ”」

 

「それっていったい誰が得をするのでしょう」

 

「“もちろん私かな。ハザマさんって外見は悪くないし、体型もいいし。ほら!”」

 

「え、ほらって言われても私なんて反応すればいいんですか? ドン引きしとけばいいんですか?」

 

 統制機構の支部に向かう際中、かかってきた電話はマコトさんからでした。

 何時ものようなくだらない雑談をしながらも歩みを止めることはやめず、それでいて楽しいと思える気分になれるのは案外悪くありません。

 

「まったく……死神に男色の趣味があるとは思いたくありませんね。大変なことになってました」

 

「“え? 死神って……ハザマさんあのラグナなんとかかんとかと会ったの?”」

 

「ええ、まったく危ない所でしたよ」

 

 これは別に機密という訳ではありませんから、話してしまっても問題ないでしょう。

 下手したら殺されてしまっていたでしょう。一般人ならともかく、ラグナさんが統制機構の衛士に対して手加減する理由がありませんよね。

 

「そちらの任務はどうでしたか? ああ、守秘義務があるので話せないのなら話さなくても大丈夫です」

 

「“……まあ、いろいろ大変だったよ、こっちも”」

 

 しみじみとした声が届き、私は任務中に何か掴んだのかとも考えましたが、考えても詮無きことです。

 統制機構支部の入り口が見えてきたことで、そろそろ電話を切ろうと口を開きました。

 

「ではそろそろ任務に戻りますので切りますよ」

 

「“あ、ちょっと待ってくれるかなハザマさん”」

 

 何かを思い出したように話すマコトさんの声に、切ろうとしていた指を止めました。

 正しい意味でこれがマコトさんと最後の会話になる可能性もあります。名残惜しいという気分もあり、私はマコトさんの声に耳を傾けました。

 

「“ハザマさんさ、私に何か言っておくこと、ない?”」

 

「―――そうですね。任務が終わったらまた飲み会でもしましょうか?」

 

「んー、そういうことじゃないんだけどなー。ま、いっか。それじゃあまたね、ハザマさん」

 

「ええ、それではまた」

 

 そのまま電源を切って端末をスーツのポケットへと入れると、私は止めていた足を動かしました。

 言っておくべきこと、というのはもしかしたら全てなかったことになってしまうかもしれないので、さようならとでも言っておけばよかったのでしょうか? どうもまだ人の付き合いというのは慣れかねるようですね。

 

『おいおい、最期かもしれないっていうのに残酷なことを言うねぇ』

 

 歩み始めて数分経った頃でしょう、『彼』が出した発言はどこか苛立ちがこめられていたものでした。

 統制機構の支部までたどり着き、扉を開ける最中、私はその言葉について考えました。成程、と知った知識から思い浮かべた理由がありましたが、それは口に出さず溜息を洩らしました。

 

「さあ? ですが『最期に傷つけていくよりは良い』とは思いますけどね』

 

 支部の開けた場所までたどり着き、私は人一人いないその場所で血まみれになっている人間がいることに気が付きました。

 どこか見覚えのあったはずの顔は頭からの血で汚れ、ボロボロになった衣装の下にはどうにか応急手当てを済ませた後の包帯がチラつきます。

 そんなボロ雑巾のような姿でしたが右手に握られた刀は離さず、私にとってはまるで呪いの様にその場へと居続けています。

 

「あーらまぁ随分とボロボロにされてしまいましたね、キサラギ少佐。おっと流石にこの怪我では気も失っていますか」

 

 足のつま先で小突くように頭を蹴っても反応は無く、呼吸音はあっても呻くことすらしていません。

 利用したようで悪い、とは思いませんでした。私には私なりの目的があってキサラギ少佐を動かしたのであって、私にとって既にどうでもいい人間となったキサラギ少佐に、何の感慨も浮かびませんでした。

 それどころか抗体という存在は利用出来なければ、私にとっては癌以外の何物でもありません。そしてそんな存在が無防備に転がっているのを観察し続けるほど、私も悪趣味になった記憶はありません。

 

『殺るのか』

 

「ええ」

 

 取り出したのは一本のダガーナイフ、戦闘用に造られたそれは武器であり、その武器が頭に直撃して死んでいるという事は稀でしょう。英雄と呼ばれようが、人間である以上、脳を破壊されて生きているほど化け物であるとは思えません。

 正直に言えば会話したことのある仲の存在を殺すことに多少の躊躇いはありますが、リスクと比べた結果なら仕方ない。そんな思考をすること自体、どこか人から離れていると自覚し苦笑しました。

 

「ではさようなら、キサラギ少佐。次は無いのでこれでお別れとなるでしょう」

 

 

 

 

「いや、案外そうとは言えんかもしれないな」

 

 ふと、その声が聞こえたのは私がナイフを振り下ろしたと同時でした。

 疾風の様にその身体は駆け抜けたかと思えば、キン、という小さな音を立てて私のナイフが地面へと転がっています。

 ふと前を見れば視野いっぱいに広がる足の裏。踏みつけられたと感じるのはその衝撃で地面へと押し倒された後で、直ぐに体勢を立て直してみれば、そこに居るのは小さい生き物に担がれたキサラギ少佐の姿でした。

ぐるり、とキサラギ少佐の頭が此方を向いたかと思えば、身体で隠れていた存在が姿を見せ……。

 

「あ、あわわわわじじじじじ獣兵衛様でしたかかかかkk」

 

「おいおい、俺はお前に様と呼ばれるような人物じゃないつもりなんだが?」

 

 トラウマスイッチオンでした。苦笑するような笑みを見せているその猫は、まぎれもなく六英雄の1人の獣兵衛さんでした。

 7年ほど前に教会だった炭の前で会ったきり、ようやく忘れかけていたはずのその人、その獣、その獣兵衛様は何故か私の目の前に居ます。

 

「いいいいえ、別に気のせいではありませんか多分。いやー、奇遇ですね、こんなところで六英雄に会えるだなんて。サインもらえますか? 私の部下がファンでして……」

 

「……ふむ、確か俺は統制機構に昔に指名手配されていたはずなんだが……いいのか?」

 

 良くないです。確かにそんな情報が在ったような気もしますが、何十年前の話かも知りません。そのころの話は私良く知りませんし。所詮は『彼』の知識ぐらいしか私は知ってません。

 それとここ最近の世界の情勢についてとか。そんな全部窯から取り出していたらあっという間に許容範囲がパーンでした

 

「お前とは友好を深めあう仲でもないだろう。それで、だ。コイツは此方が預かる。手は出させんぞ」

 

「あー、えー、そ、そうですか」

 

 良くはありませんが、事実目の前の存在が本気を出されたら、私にはどうしようもありません。蒼の魔導書? 窯の近くなら使えるかもしれませんね。

 そんな私の答えが意外だったのか、わずかに目を見開いた獣兵衛さんは此方を何か確かめるように見つめました。照れるとかそんな次元じゃありません、背中には冷や汗がいっぱいでした。 『彼』? 出てこないように強制的に奥の方へ行ってもらっています。『会話は聞こえるかもしれませんが、出てきませんよ』。

 

「なんというか意外ではあるな。お前には『奴等』とは別に、悍ましいもんは感じない。まぁ、それが擬態だったとするなら大したもんだがな」

 

「あ、ありがとうございますですか? いや結構私自己中心的ですよ?」

 

『彼』とは違い、私は自己中心的なだけです。『彼』は他人が悲しみに陥ってしまうのを笑いますが、私は興味がないだけです。見捨てますし利用します。病原菌みたいな『彼等』とは別に、触れない方が良いのは変わりないとは思います。

 

「さてな、そこまでは知らんさ。…………ただな、『偽りのスサノヲ』。お前がこいつらの未来を閉ざす存在なら、俺は迷いなく切り捨てる」

 

 朗らかな表情を一転させ、感じさせたのは辺りへとまき散らされた濃厚な殺気でした。

 身体が思わずすくみ上がり、無様な姿を見せたことに意識の奥から『彼』が怒鳴ります。どうもかなり頭に来ていたようでした。ただその中には『困惑のようなものも感じられましたが』。

 

 キサラギ少佐を抱え、一瞬で移動した獣兵衛さんは、軽業師の様に屋根を走りあっという間に見えなくなってしまいました。

 ここまで来てようやく、私は本当に糞ったれな神様に祈る程度しかできないことを悟りました。

 

 

 

 

 

 

 

 



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ステージ9

ストック切れてしまいました……。年内ラストだと思います。


「結局のところ私がやるべきことは一つなんだよね。何が正しいなんてことは決まっているんだからさ」

 

 それは少しだけ前の記憶。

 天井を見ながら自嘲する様に話すマコトの話を、ノエルはじっと聞いていた。

 任務の失敗、目の前で死にかけていた人物を助けようとして独断で行動してしまった、という行為は戦闘集団としては最悪だ。ミスが此方の死に繋がることだってあり得る。

 それでも割り切れず悔しかったのだろう。マコトの手元は固く握られていた。

 

「まっ、いい勉強になったってことだと思うよ。ちょっとばかし私も頭に血が上ってたみたいでさ。

 ……だからノエるんがそんな表情しなくてもいいよ。もう心配かけるつもりもないからね」

 

 困ったようにこちらを見てマコトは笑った。ノエル自身は自分がどんな顔をしていたのか分からない。ただ、自分の親友の体験したことに思う事があるのかもしれない。

 自分もキサラギ少佐の秘書官という肩書はあるが、左官の秘書であり暗殺者という肩書も同時に存在する。自分自身人を殺すと言う行為に嫌悪が無いわけではない。それでも、自分の家を建て直すと言う目標がある以 上、避けられぬことだった。

 

「はい! これでじめじめした話題は終わり! せっかくノエるんがお見舞いに来てくれたんだからさ、もっと違うこと話さない?」

 

 わざとらしく明るく言うマコトは、いつもの調子のようにも見える。本心がどうなのかは知らないが、学生時代の様に笑うさまはこちらもつられて笑ってしまいそうだ。

 だがそれだけだ。自分はマコトに対してなんの言葉も返していない。自分は、マコトに対してなにができたのだろう。

 

「まあ今回こんなことあったけど、私は諜報部に入ったことは後悔してないんだよ。いろんな世界を見ることもできたし、上司がそこそこ面白いから好きだしね。ノエるんはどうなの?」

 

 尋ねられた言葉にも、思わず詰まってしまった。目標はあった。それでも、自分の今に発破をかけられるようなものではない。時間経過とともに達成し、実績を造らなければならないものだ。むしろそれは自分に重圧を作り上げているような気さえもする。

 顔をあげてマコトの顔をまじまじと見た。 なんだろう、というように首をかしげるマコトの頭の上にクエッションマークが幻視されて思わず笑ってしまった。

 マコトは、大事な親友だ。今回の様に危険なことをしてほしくない。それでも、立場という物がそれを許さない。

 ならば、とふと思う。諜報員と衛士という立場の違い。片方が頑張れば片方の負担が減少する。そんな関係だ。

 だったら自分が頑張ればいい。マコトが調べていた場所の任務は第四師団へと討伐命令が下されるはずだったらしい。キサラギ少佐が直前でその任務がなくなったことに顔をしかめていたが。

 そんな風に、いつ縁があるのか分からないのだ。心がけが、無駄になるはずがない。

 

「私は、あんまりかな。だけど頑張るよ」

 

 そういってマコトに笑いかける。

 

「マコトが、信頼して衛士(こっち)に仕事を回せるように」

 

 

 そんな衛士になれたなら、マコトは此方に何の憂いも無く仕事を回してくれるはずだ。独断先行なんてする必要が無いぐらいに。

 きょとんとしたマコトの表情が印象的だった。それが、満面の笑みに変わるのは数秒経ってからだった。

 

―――――――

 

 それは現実と言うには聊か無機質すぎる戦いでもあった。動く人影二つには無駄が無く、教科書に書かれた理想的な行動であると言われても語弊は無いと言えるだろう。

 半透明な赤錆色の剣がどこからともなくノエルへと飛来し、頬を僅かに切るもその手に持つ銃口はνへと向けられていた。

 瞬間ニューの居た空間が歪んだかと思えば、その地点で小爆発を起こした。だがνは既に後退しその場所を離れ、斜め上の宙へと視線を向ける。そして入ってきたのは宙で二丁の拳銃をνへと向けているノエルの姿で、すでに術式は完成し発射されていた。

 術式の弾丸の暴雨、それがνへと届くことは無い。発生させていた重力制御のフィールドによって弾丸の方向は変えられた。代わりに出されるのは無防備なノエルへと迫る、無数の刃。十数本もあるそれがたった一人に向かっていく。

 

「対象補足」

 

「無駄」

 

 互いに口調は機械的で、無機質だった。どちらが言ったのかさえ分からないほどそれは似通っている。

ノエルは宙で舞うように体を回転させると、赤錆色の剣の群れへと向かって弾丸を放ち撃ち落した。最低限に狙いを定めて術式で方向性を決め、νへと直進しつつ弾丸を放つ。

 νが取った行動は迎撃。飛行術式の構築は専門の魔導書が無ければ簡単に使いこなすことはできない。それ故νの周りに浮かぶ剣は八本全て迫るノエルを串刺しにしようと構えられていた。

 ノエルは数発はなった後にはベルヴェルクの術式は発動させずに、構えていただけの銃口を他に向け、何もない足元の宙を蹴るように方向転換していた。飛んだのではなく術式によって飛ばされただけだが、それは飛行の術式に比べれば難易度は低い。

 νの裏をかく形で背後を捉えたノエルはその後頭部へと銃口を向け、放つ。確かな感触だった。ゼロ距離で放たれたそれはνの頭を容赦なく辺りへ砕き散らせていた。

 倒れるν、赤黒く辺りをまき散らせたそれへと、地面へ着地したノエルは再度そのνの肉体のある地面へと向かって術式を放つ。

 

「コマンド入力境界接続、肉体再構築開始、術式発動、再起動、データ機能共に問題無し。構築終了。無駄」

 

「フェンリル!」

 

 そしてそれはまるでビデオの巻き戻しを見ているような光景だった。傷だったものは再生され、元の形状へと戻っていく。

 ノエルの選んだ行動はさらなる追撃だった。形状を機関銃に変化させたベルヴェルクによって放たれた銃弾は、ひとつ残らずνの身体へと吸い込まれていく。

 壁へとぶつかりその周りに罅を出させるほど強い衝撃があったにもかかわらず、νはなんの障害も無かったように立ち上がり、取れたバイザーの下の、無機質な目でノエルを見た。

 当たった筈の弾丸はいつの間に排出されたのか、νの足元へと転がっている。もうその機能を見たのは『8回目』の出来事だった。

 

「(なんなの、これ?)」

 

 脳に勝手に表れる指令が、ノエルの身体を意思を無視して動かした。呆けたような声は実際に外へと洩れず、息を整えることを最優先とした身体は、無駄な呼吸一つもしていない。

 唖然としながらも早く終わってほしいという弱気な自分が居て、どこまでも無機質な自分が居て。前者の意思であるノエルは目の前の行為は最初から他人ごとにしか見えない。

 νの術式が発動する。いつの間にかノエルの後方へと造られた術式陣に反応し、半身だけ向けたノエルはその術式へとベルヴェルクを放ち、術式を発動させる前に破壊した。

 

「……あ」

 

 気が付けば、突然ノエルの意識は肉体へと戻ってきていた。片手に握られていたはずの銃が無い。飛来した剣によって弾かれたと、頭の中の冷静な部分が判断する。

 ダメ。脳内に浮かんだのはその言葉。アレが無ければ自分はダメだ。すぐにころされてしまう。はやく、つかまないと。

 たった数歩先にベルヴェルクは落ちた。ほんの数秒あればそこに届く。しかしその数秒さえも、ノエルには残されてはいなかった。

 前に出そうとした足を剣が裂く。地面から生えるように召喚された赤錆色の剣は、ノエルの戦闘訓練を受けた衛士としての勘がその体を捻らせ、胸へと刺さらずにいた。

 しかしその代償にノエルは転倒し、ベルヴェルグに手が届くことは無かった。ベルヴェルクによって構築されていた思考回路は半壊し、他人事でしかなかった現実が目の前に突き付けられる。

 

「なっ……」

 

 小さな声が口から洩れ、頭に残る微かな思考回路が無駄な行動をするなと指示を出す。

 ノエル自身優秀な衛士だ。術式適正は士官学校歴代一位で、アークエネミーを使いこなせることも相まって本当に直面した死は、遠い原初の記憶だけだった。

 そして目の前には化け物。何度傷を与えても世界がそれを認めぬように元の状態へと戻るそれを、人間と呼ぶことはできなかった。

 

「っつ!」

 

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

 それでも動かねば自分は間違いなく殺される。今取るべきは落とした武器の回収か、迎撃か、それとも攻撃か。

 νが手を前に掲げ、言霊も含め術式を作り出している。ノエルが取った行動は迎撃ではなく、攻撃。オプティックバレル、νの身体の中心で術式を発動させ、空間転移した銃撃によって生み出された小爆発は、詠唱中だったνの身体を吹き飛ばした。

 ノエルはそこで追撃するのを止め、もう片方のベルヴェルグを回収するために駆けた。

 まだ、戦える。自分の未熟な判断では間違いなく自分は死んでしまう。無我夢中、藁をも掴む思いでノエルは愛銃であるベルヴェルグへと手を伸ばした。

 

 身体が、重い。

 

 がくっと、力を抜いた覚えは無いにも関わらず、膝は地面へとついていた。まるで急に重石を体全体につけられた様に鈍い。

 νが発動させていたのは重力発生フィールドだった。無駄。そうνは呟き剣を召喚する。動きが鈍ったノエルには、当然の様にνの無数の剣が向かっていた。

 庇うように自分の目の前で手を交差させ、直撃を避ける。その思惑とは裏腹に、νが狙っていたのはノエルの持つ銃だった。

 

「ベルヴェルグっ!?」

 

 障壁を張り、防げたかと思えば自分の手には武器が無い。弾かれたのだ。

 その状況でνの存在を認識したとき、言いようのない恐怖がノエルの中から溢れてくるのが分かった。

 恐ろしい怪物に出会った人間の様に、それが恐怖の対象であると理解してしまうだけの知能があるが故に、恐怖が震えとなって溢れ出してくる。

 しかしそう思ったノエルの思考は、無機質でなくとも落ち着いてはいた。

 身体が重い。どれだけこの躰を酷使していたのだろうか。避けられる。まだ戦える。でも、気を張らなければずっとしゃがみこんでしまいたいほど、重い。もう、動きたくない。

 自身の真上の宙へと大きめの術式陣が浮かんだ。大きな剣で、まるで断頭台みたい。どこか他人ごとにノエルはそう思う。

 

「(疲れた、な)」

 

 諦める。それでも脳は勝手に生存本能を発揮し、ノエルへと走馬灯を見せていた。

 思い出されるのは親友であるツバキの笑顔だった。彼女が笑いかけるジンはノエルは苦手だったけれども、その二人の光景は嫌いじゃなくて好きだった。

 どこかしょげていたはずのマコトは、ノエルと交わした本の少しの言葉で立ち直っていた。

 それがノエルはマコト自身の力だと考えていたが、本当はマコトにとってノエルの言葉はそれほどに嬉しかった。

 

「(なんだったっけ。うまく思い出せないや、最近のことなのに)」

 

 脳はそれが無駄な光景だと捉え、次へと行ってしまった。その後もとりとめのない情景が続き、最後に目の前の現実へと訪れる。

 最期なのだ。自分が何か考えることのできる時間は。そう思うノエルに浮かんだのは、一つの情景だった。

 

 幼い自分は誰かに手を引かれている。所々が固い、男の子の手。

 その姿は小さい。だけどその背中がとても暖かいものに見えていて、ただその男の子の手を握っているだけで心が躍る。

 

「(……いや……)」

 

 此処にその温もりは無い。ただ一人、自分は此処で消えていく。それがどうしようもなく、怖い。

 

 

「死にたく、ない」

 

 

 何の補助もなしに術式を構成し、障壁を作り出そうとする。しかし脳は理解していた。もう間に合わない。

 ただ堪えるように目を瞑る。只の逃避だとわかっていても、そうする以外にできることはないとわかっていたから、ただその瞬間が過ぎるのを待った。

 

 

 

「うぉおおおおおおおおおらぁあああ!!」

 

 

 

 金具がぶつかり合う音、そしてガラスが砕ける音が辺りへと響き渡った。そしてノエルに届いたのはそれだけではない。

 男の声。それは怒気の混じった叫び声だ。聞いた事も無い男の声にもかかわらず、ノエルはその声がすんと心に染み渡り、波紋のように広がった。

 自分の目の前に誰かが居る。目を閉じた奥で陰になったのが分かり、それは先ほどの化け物ではない。

 ゆっくりと目を見開いた。自分の身体の様子も見ずに、ただ唖然とした声がかろうじで言葉となって零れていた。

 

「どう……して?」

 

 それは何に対しての言葉だったのだろう。

 どうして死ぬはずだった自分は生きているのか、どうして指名手配されているはずのこの男が目の前に居るのか、どうして……。

 小さな滴が身体を起こしたノエルの頬を伝り自分の手の甲へと落ちる。そうして漸く、自分は泣いていることに気が付いた。

 どうして泣いているのだろう。死ぬのが怖かったから? 緊張が解けてしまったから? 身体の傷が痛いから?

 それは違うとノエル自身分かっている。自分の流している涙が、歓喜から来ているものだとわかってしまったから。

 どこかで見た暖かい背中、それが自分の目の前にあることが嬉しくて、そうして涙となって零れたのだ。

 

「あー糞っ、あのお面野郎が、何が手加減しただふざけんな! ウサギもだ! アイツ等は後でぜってー潰す! そして泣かす! おいそこの青いあんた、死にたくなかったらさっさ……とぉ……?」

 

 そんな自分の感動とは置き去りにして間延びした男の声に、ノエルはなぜか可笑しいと思えた。

 

――――――――――

 

 ラグナが窯へと向かっている最中、急にすっ飛んできた何かを反射的に掴んでいた。銀色のそれは銃の形をしているが、魔素が少量であるが通った跡があり、魔導書であることは確かである。首を傾げつつ向かうとそこには、無数の剣は青い人影を突き刺そうとしているところだった。

 全力疾走で割り込んだ。その人影が何かも確認せず、先ほどのハクメンとレイチェルに対しての苛立ちも振り払うように、向かってきた剣を一振りで払う。

 そうして守ったその人物に既視感が在った。此方を見ている顔つきはどこか妹であるサヤを思い出させる。ぺたんと腰を抜かしたようにしゃがみ込み、涙をこぼしながら此方を見上げている。そして纏っている服を見て、ラグナは思わず顔をしかめていた。

 青、統制機構の衛士たちのシンボルとなるカラーであり、自分が何度も打倒してきた者達の服装だった。

 舌打ちして自分の手に持った銃をその女に向かって放り投げる。十中八九この人物の持ち物だろう。精錬させた素体へと体はむけつつも、後ろの人物に話しかけた。

 

「……おいそこの青いの。邪魔だからどっか行ってろ。若しくはじっとしてろ、死ぬぞ」

 

 びくりと身体を震わせる姿に、ラグナは思わず面倒くせぇとため息をついた。

 精錬は既に終了している。素体と共に存在するムラクモユニット、それと戦闘を行って普通の衛士が恐怖を抱かないはずがない。衛士に対して同情するがどうでもいいと言うのが実情で……

 

「……本当に面倒くせぇな」

 

 なぜあんなにもあの人物は妹に似ているのか。素体であるわけでもなく、他人のそら似であったとしてもやりづらい。さっさと逃げてしまえばいいものの、なぜかこちらを見ているような雰囲気を感じていた。

 νの視線はラグナへと向けられる。ノエルへの無力化よりも先に、新しい脅威に対しての検索を開始した。

 

「対象に対する障害が発生、対象、認識……あ~、ラグナだぁ~。久しぶりだね!」

 

 身体を目の前の素体……νに向け警戒しつつもその言葉を受け、ラグナは思わず顔をしかめていた。

 無機質な機械音声かと思った口調は急に甘ったるい物へと変わり、氷の様に固まっていた表情に喜色という変化が訪れる。それは一般的に言えば好意と呼ばれるそれさえも、ラグナにとって不愉快なものに過ぎない。

 

「今度はラグナと話せる、触れられる、抱きしめられる躰だよ。ふふ、嬉しいなぁ。前なんて何にもできないで終わっちゃったから。今度はなんだってラグナにしてあげられるよ!」

 

 自分の頬を両手で押さえる様は、嬉しくて嬉しくてたまらず、火照ってしまった顔を冷ましているようにも見えた。

 

「黙れ」

 

 ぎり、と奥歯を噛み締めて、ラグナは呪詛でも吐き出すかのように素体、νへと答えた。

 どうしてお前がその声で、その顔で、今このときを生きている。

 その答えという事実が自分が無力であったころの自責の念と、世界への私怨を思い出させ、一秒でも見たくはなく、一秒でも早く耳を抑えて塞ぎたかった。

 ラグナの言葉に対して、わざとらしくいかにも自分は傷つきました、というような表情を見せるνに対して思うことは、ただその存在を認めないという怒りだけしか沸いてこない。

 

「俺はテメェを壊しに来た。それ以外にすることは何も無ぇよ」

 

 だからこそ壊す。νという存在が自分の妹を思い出させ、そう思い出してしまうことが自分が忌々しい。

 話すことさえも必要ない、ただ剣を握り構える。術式障壁も既に展開され、戦う準備はもう完成されている。

 対するνは悲しげな表情をしていたのもつかの間、その顔から感情が消えて呟くようにラグナに尋ねた。

 

「どうしてそんなことを言うの? せっかくラグナと一緒になれる身体になったのに。どうしてそれをニューに言うの? 

 

ラグナの見ている人はもういないのに」

 

 

 続くはずだった言葉は大剣とがνの纏う複数の剣を弾き飛ばすことで消えていた。地面を蹴りあげ大剣をνへと振り下ろしたラグナは、蒼の魔導書を限定的に解放すると、剣を振り払うと同時に濁流のような蒼の波動を放っていた。

 

「黙りやがれ、クソが……」

 

 吹き飛ばされたνは宙でくるんと回転すると、軽やかに地面へと着地する。腕に装着された剣を砕かれたにもかかわらず、そこにあったのは、笑み。無邪気な子供のような、壊れてしまった人形のような、その表情にラグナは嫌悪感を隠すことはできなかった。

 

「あは、ラグナようやくνのこと見てくれた。でもさラグナ、本当は楽しかったんでしょう? 嬉しかったんでしょう? その力で、ラグナの重ねて見てる人みたいなνを、壊して、殺して、犯すのが。だって、あんなに笑っていたんだから」

 

「黙れって言ってんだよ! その声で、その顔で、胸糞悪い言葉を吐くんじゃねぇ!」

 

 飛来する術式の剣を己の大剣で砕き、吼えるようにラグナは叫んだ。距離を取られ大剣を肩に担ぎ直しνを睨む。そこに暖かい感情は一つもないと言うのに、νはその表情を向けられてもうれしそうに笑っていた。

 

「でももういいよ、ラグナがνを見てくれたから。この傷も、この痛みも、みーんなみーんな、νがラグナにもらったものなんだから。ねぇラグナ、一緒になろう? 一緒に溶け合うの。そうすればラグナの目も体も世界も、ぜーんぶνのものだよね?」

 

「テメェ……」

 

「おいでよラグナ、抱きしめてあげるから」

 

νの言葉を区切りに、両者の姿は交わった。。

 

 




ハザマさんがいない?主人公ってラグナじゃなかったかな(棒)


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ステージ10

 手元に戻ってきた二丁の拳銃、ベルヴェルグに視線を向けて、ノエルはぼんやりとした頭を動かした。半壊していた思考は再構築され、戦闘が可能になるようにと、精神が安定を図ろうとしているのが分かった。

 目の前では先ほど自分が戦っていた得体のしれない存在であるνと、指名手配されている犯罪者、ラグナ=ザ=ブラッドエッジが戦っている。危ないから逃げろと、そのようなニュアンスの言葉を言われたような気がする。なのに自分の身体は動く様子は無かった。

 足が震えて動かないのではない。酸素を取り入れ息を整え術式で傷を癒し、戦闘を続行するために頭の中で勝手にその行動を起こしていたのだ。目の前にはラグナ=ザ=ブラッドエッジがいる。彼に戦闘を任せ自分は態勢を整える。その思考は自分の行っていることの様に感じることは無かった。

 かちり、かちりと頭の中の思考が組み立てられていく。その過程でノエルはなぜ、と自分自身に問いかけていた。

 どうして私は彼、ラグナに対して、心を動かしていたのだろう。

 それはアークエネミーであるベルヴェルグが勝手に起こした感情なのだろうか。その問いに自分自身で違うと回答を出した。ラグナ=ザ=ブラッドエッジのことを考えた。それだけで顔に熱が上り、心臓は鼓動を激しくしていた。思考はぼんやりとして、恥ずかしさのようなものも感じていた。

 変だった。自分がまるで恋でもしたかのような感情をラグナへと向けている。

 

「なにしてるんだろう、私」

 

 その言葉をノエルは自分の意思で口から零してた。

 本来ならそんなことを考える事も無く、ただノエルはその光景を見ているだけであった。しかしその手にはベルヴェルグが存在し、整理されていく精神はノエル自身の自我を持つ余裕があるほどには回復していた。

 ノエルは心が沈みながらも高揚しているという、不思議な状態だった。ラグナに対して惹かれているということは事実であり、それを怖いと感じている自分もいる。ラグナの身体を飛来した剣が傷を作るたびに、心が痛んでいるのを感じ、それは確かにノエルにとっては本心であった。それでもと感じているのは、いったい誰なのだろうか。

 私はいったいなんなのか。

 哲学的な話をしたいわけでもなく、ただ純粋にノエルはそう思った。戦闘のための精神構築をしている自分と、ラグナに対して惹かれている自分と、それに違和感を覚える自分。どれも自分であるはずなのにそれがすべて同じと言うには無理がある。

 

「私は、」

 

 ぎゅっとベルヴェルグのグリップを握りしめて、見下ろしていた顔を上げた。ラグナ=ザ=ブラッドエッジとνはまだ戦っている。時折隙を見つけてラグナは斬りかかりに走るが、無数の剣にそれを遮られ、攻めあぐねているようだった。そこにはノエルへと攻撃を向かわせないように配慮していて、余裕は見えなかった。そんな状態であってもνは余裕げな表情を崩さず、ラグナの肌を飛来した剣が撫でて傷をつけている。

 そんな様子に、ラグナが傷つく様子に心を痛めているという自覚があった。それでもノエルは見ているだけだった。

 怖いのだ。傷つくことに。子供のような思考であると自分自身で理解しているはずなのに、自分の身体は動いてくれない。戦闘を行うための思考は、ラグナに任せることを是としている。どちらが勝ったとしても消耗させるべきだと判断している。だから動かない。自分の意見はすでに固まっていた。

 

 

 本当は、私はどうしたいのだろう。

 

 自分で自分が情けなくなってくる。なりたいと思って衛士になったわけではない。戦いたいなどと思った事も無い。ただ自分の両親のため、そう思った時の自分は確かに自分で決めたはずなのに、どうして今、自分は子供の様に泣きじゃくっているのだろう。自分のせいでラグナは傷ついている。どうして自分はラグナのお荷物になっているのだろう。

 悔しいとノエルが思ったのは久しぶりだった。少し前に、ノエルの親友であるマコトの見舞に行ったとき、そのマコトの諦めたような表情に思わず手を握りしめていたのをノエルは覚えていた。そして今も、自分の無力に手を握りしめるしかなかった。

 

「だって、しかたないじゃないですか。私にはどうしようもないんだから」

 

 本当に?

 

 今の私は、ただ震えているだけの子供なの?

 

 大切かもしれないものが、目の前で壊されているのに、わたしはなにもできないの?

 

 生きてきた意味なんて分かるわけがない、自分がそんなことを理解できるほど経験を積んできたわけでもない。それでも、自分が今此処に居る理由が、恐怖に潰されて、指名手配犯に自分の代わりに戦わせて、ただ震えていることだけなのか。

 自分の親友の一人に言った。衛士に信頼して仕事を任せられるような、そんな風に頑張ると、自分は確かにマコトへと言ったはずだった。

 自分の親友は常に正義足らんと、美しい信念を抱いていた。そんなツバキのことを、今の自分は親友と呼べるのだろうか。

 

 すっと、無言でノエルは身体を起こしていた。

 術式を発動、治癒は既に完了し、障壁の構築を開始する。カタカタと震える腕を抑え、自分がマコトに言った言葉を思い出していた。

 最悪だ、と思わず自嘲する。自分は友人との約束を理由にしなければ、自分から動くことだってできない。約束を都合のいい理由にするよりも、ラグナが今傷ついていくことの方が嫌だったのだ。心の中でマコトに謝り、抑えていた腕を放した。今度は、震えは出なかった。

 本当は幼い自分の出した判断にも関わらず、戦闘のために構築された精神、ベルヴェルクはこの行為を止めようとはしない。

 声を出した。それは、とても小さいものだった。

 

 

―――――――――

「……っざってぇんだよ!」

 

 正面から飛来する剣を避け、後ろからの剣は自身の大剣を振り回すようにして弾きつつ、ラグナはνを睨んで叫んだ。ラグナに遠距離から攻撃する手段は無く、前に出ようと試みれば的確に剣はその道を遮った。νの笑顔は苦々しい表情をするラグナを笑っているようにも見え、癇に障っていた。

 鉄でできた地面を蹴り飛ばし、蒼の魔導書を限定的に解放する。蒼の力は右腕へ小手の様に纏われ、それは赤黒い巨大な獣の爪の様にも見える。顔面に飛来した剣は頭を下げることで躱し、避けきれない物は右腕で払い逸らした。若干ではあるがνの表情に驚きが見えた。νの周りに浮かぶ剣が迎撃に走るが、ラグナは大剣を縦に一閃し纏めて叩き伏せる。そしてそのまま切り上げる形でνへと剣を走らせた。

 

「コイツで――!?」

 

 肉を切り裂く手ごたえを感じ、間を置かずにνの切り裂かれた胸部から血が溢れる。だがそれでも傷は浅い。身体に付けられた傷を無視して、ラグナへとνは手を伸ばした。手の甲のブレードが浅くラグナの頬を裂いて、そのまま身体を掴もうとするνの腹を、ラグナは足の裏で蹴り飛ばして転がるように距離を取る。

 

「……ふふ、あはははははははは。無駄だよラグナ。ラグナじゃνは殺せない、この破滅への物語は誰にも変えることはできないんだよ?」

 

 ブレードに付着したラグナの血を舐め、歪んだ表情でνは笑う。過去の思いでさえも塗り潰してしまいそうなその笑顔向かって、ラグナは力の限り大剣を叩き込んだ。

 

「いちいちウルセェんだよ、どいつもこいつも! テメェが俺のことを勝手に決めてんじゃねぇよ!」

 

 変えられない。ラグナが子供だったころ、目の前で自分の世界が壊されていくことを止められなかったように、ハクメンがラグナへと言ったように、ラグナの力では何も変えることができない。イラついた。自分が無力であると言われて何も思わないほどラグナは気が長くは無かった。

 ラグナの大剣をνは、両腕に装着されたブレードで交差する様に構えて受け止める。ラグナの顔と数十センチの場所で視線が重なり合い、νは嬉しそうに語りかけた。

 

「ねぇラグナ。ずっとこうしていたいな。ラグナがνのことを見て、νがラグナのことを見て、そしてずっとずっと一緒に居るの。それってとても素敵なことだよね?」

 

「ウルセェって言ってんだろうが!」

 

 新しく付ける傷よりも早く、ラグナの目の前でνの身体は再生を始めていた。ラグナの知っている吸血鬼であるレイチェルですら、傷がそんなにも早く再生するところを見たことは無い。ラグナにはそれが、まるでνがその姿で世界に居なければならないと、世界から強制されているようにも思えた。

 弾かれまた距離を取られ、埒が明かないと忌々しそうに舌打ちし、νの牽制を捌きつつ考える。

 νの発動しているムラクモユニット、ソードサモナーという術式は、一度に大量に発生させられるものではなく、一定時間経てば消えてしまう。そもそも魔素の物質化自体が個人レベルではほぼ不可能であると言えるだろう。形状を変化させるのと生み出すのとでは必要なエネルギーや式の量が違う。

 νの再生能力は元々の素体にあるはずのものではない、でなければ自分が他の支部で他の素体を破壊することなどできるはずがないのだ。精錬された結果だと言ってしまえばそれまでであるが、現に対峙している以上破壊する方法を考えなければならない。

 術式であるのならばその術式を壊す、もしくは発動させている本人自身を破壊、つまり殺すことだ。

 

「うざってぇな……」

 

 どんなに考えようとやるべきことは変わらないのだ。考える頭が無ければ術式は発動できず、身体を動かすのなら心臓を潰すのが一番だと決まっている。結果的に目の前の存在を殺すことは変わらない。

 

「楽しくないの? νはすごく楽しいよ? ラグナとこうしてずっと躍っていられるなんて、思ってなかったもん」

 

 νが手をかざし術式で宙に剣を作り出すと、ラグナに向かってそれは飛んでいった。ラグナがそれらに対し、切り上げるように剣を動かせば、それらの剣を蒼の力で作り出された獣の顔が全て喰らい尽くす。一振りで全て落とされたことに、驚いたようにνの表情が、笑顔から機械的な無表情へと変化する。

 ここだ、とラグナは内心で叫ぶ。術式で剣を生み出せば、少なからずラグが出る。νの言葉を無視し迫るラグナに対して、新たに術式で迎撃する手段は無く、迎撃にはνの周りに浮かぶ剣を使う。

 使うと言う選択だけしか取らないことをラグナは戦闘中に理解し、迎撃に走る剣へ向かって叩きつけるつもりだった。

 

「フィールド発生」

 

 走るラグナへと押し付けられるような負荷が現れたのは、νがその言葉を呟いてからだった。グラビティシードと呼ばれるその術式は、局地的に重力を発生させ対象の動きを捉えていた。

 

「っ!?」

 

 思わず膝を着くほどの圧力にラグナは足を取られ、一瞬ではあったがラグナはνから目を離してしまっていた。だがその一瞬にνが、第666拘束機関解放、と呟いたことだけは理解し視線はすぐに戻された。

 辺りの空気が淀み出したのは、大量の魔素を使った大型の術式の前兆だった。並みの魔導書であればオーバーフローするほどの式であり、境界に接続し出力を上げたものだろう。ほんの数秒も置かずに作られた巨大な剣は、今にも射出されようとしている。

 

「我が魂に帰する場所にて根源より生まれ出でし剣よ」

 

 たった一人を狩るためには大きすぎるその術式を前に、ラグナは逆に好機であると判断して、地面を蹴り飛ばす。

 

「全てを無に帰する刃を我が前に示せ」

 

 グラビティシードで足を取られたが、どのような状態であるかを理解してしまえば、抜け出せないほどの負荷ではなかった。またその範囲も数メートルという程度であり、抜け出すことは可能である。

 もしも自分が防ごうと複雑な術式障壁を作り出していたのなら、それごと砕いてミンチにするだろうその一撃も、自身に当たらなければ何の意味もない。

 

「(……? なんだ?)」

 

 グラビティシールドを抜け出したラグナの視界に入ったのは、機械的な剣が外された、水色のインナーの姿のνだった。

 

「(なんでか知らねーが、戦闘状態を解除している? ……あの術式の発動のためのギミックの一つか? どっちにしても、好都合だ!)」

 

 大型の術式を発動するために、他の術式を発動する余裕がなくなったのか。何であれ、νに纏われていた剣が目をそらした一瞬で消えており、目覚めたばかりのインナーの姿でνは立っている。術式を発動した数秒後、装備を装着し直す時間もなく、νを守る剣も無いとなれば無防備であることは間違いない。

 殺す。剣を構えνの心臓を捉えたラグナは、真っ直ぐに大剣をその心臓へと突き立てた。

 

 

「あは、ラグナつかまえた―」

 

 

 確かに心臓を突き立てたはずだった。皮膚よりも固い臓器を破る感触は確かにあり、血も確かに流れている。

ふと、νの瞳と目があった。

 

「!? っぁああああ!!!」

 

 突如現れた自身の存在を脅かすような恐怖に、ラグナは言葉にならない叫びをあげ、νから離れようと自身の大剣を引き抜いた。

 νの手がラグナの赤いコートを掴む。νの後ろに見えたのは、飛来する大剣だった。νの身体に装着されていた八本の剣は今や一つの大剣となり、ラグナの前から、νの背後から迫ってくる。大型の術式はラグナを近づかせて捕まえるための罠だったのだ。

 そしてそれらが、恐怖の根源だった。ν自身にも迫っていると言うのに、νにそれを気にした様子は無い。あの大剣をνと共に受けてしまうのは“まずい”。戦闘をしているうちに身に着いたラグナの直感だったが、理解していてもνに掴まれその場を離れるには時間が足りない。

 

「いっしょになろう、ラグナ?」

 

 それは二人が黒き獣となるための生贄であり、儀式でもある。

 νがラグナに微笑みかける。機械のような、女神のような、恥じらう乙女のような表情を見せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「オブティックバレル!」

 

 

 

 

 瞬間、空間が歪み小爆発が起こった。

 偶然か否か、νから離れようとしたラグナには被害が無く、大剣をνから引き抜き後方に飛ばされるも、姿勢は崩さず目の前の現状を把握した。

 術式による小爆発はνに直撃し、二人の間にνの剣は突き刺さる。その確認もそこそこにラグナは術式を発動。蒼の力を部分的に解放してνへと迫り、大剣へと蒼の力を纏わせ振り下ろした。

 

「ラグ……ナ?」

 

「仕舞だッ!」

 

 ざん、という音と共にνへと刃が走る。身体に対して斜めに走った剣筋はνの喉と心臓を無視して突き進んだ。

 ふらりと身体を揺らしたのはνだった。糸を切った操り人形の様に、あっけなく地面に倒れる。そこまでたってラグナは大きく息を吐き出した。

 

 

―――――――――

 

「(……終わり、か?)」

 

 数秒経ってもνの身体が再生する様子は無い。呼吸音も聞こえず、身体を皮一枚ほどつながる程度には、切り伏せた感触が手に残っている。あれで生きていると考えるほうが難しい。

 νにとって心臓へ突き立てた時点で致命傷であったとラグナは判断した。その時の状態がなんであろうと、νとラグナがムラクモユニットと共に大剣で貫かれれば、それで事は済んでいたのだから。

 

「っ……ぁ……はぁ……はぁ……っ」

 

 後ろを振り向けばそこには、子供の様に震えていたはずの存在が居た。涙目で、肩で息を吐いてはいても、決してしゃがみ込んではいない。目の前に恐怖があり、ソレに抗っているのは明白で、毒気を抜かれたようにラグナは頭を掻いた。どーすっか、と呟き目の前の統制機構の衛士でもあるその存在について考える。

 一目見たときに思ってはいたが、小さくなっている姿を見てもラグナの妹であるサヤを思い出す。他人の空似とはいえ、同一視してしまった自分に嫌悪感が溢れてくる。

 戦闘するのか。こんなふうに子ウサギみたいに震えているやつを?

 面倒だ、とため息を吐き出した。どうして自分が統制機構の衛士相手にこんなに悩まなければならないのか。

 

「せ、戦闘を止めてください!」

 

「……はぁ?」

 

 そう考えていたラグナはノエルの言葉を待っていたが、どんな言葉が飛び出したかと思えば、どこか気が抜けるような言葉だった。

 戦闘、νと戦っていたことだろうか。それならもう終了している。まさか死ぬのが怖いから戦わないでくれとでも言うつもりか。ラグナはそんな意味での言葉であったのではないかと考える。

 

「こ、こちらは統制機構第四師団所属少尉、ノエル=ヴァーミリオンです! ここは統制機構支部の立ち入り禁止地区となっています! これ以上の戦闘行為は貴方の立場を悪くするだけですよ!? 両者ともに投降するのなら裁判を受ける権利は確立させて見せます! 命に従えないのなら、拘束し……って、そうじゃなくて!」

 

「……いや、青いのお前馬鹿か? 頭大丈夫か?」

 

 両者、と言ったようにどうやら前者だったらしい。涙目で状況が見えていないのか、時々ごしごしと手で目を擦る様を見ても、戦闘に紛れ込んで、ごっこ遊びをしている子供にしか見えなかった。そもそも裁判など受けても、死に方が変わるだけだろう。

 焦って顔を赤くするノエルに、ラグナは思わず気を抜いてしまっていた。ラグナが今まで接してきた衛士という人種の中でも、このような反応をするのは初めてだった。

 

「ななっ、人に対して馬鹿だとか青いのだとか、失礼ですよ!? ラグナ=ザ=ブラッドエッジ!」

 

「違います、人違いです」

 

「嘘つかないでください! 白い髪に赤いコート、それに白い大剣、どう見ても指名手配所に書かれた特徴とピッタリじゃないですか!」

 

「おーすげぇな、俺のそっくりさんが指名手配犯だったなんて、びっくりだー、ろくでもねーな」

 

「ごまかさないでください! ひょっとしなくてもからかってますよね!?」

 

 ラグナ自身、衛士と言葉を交わすつもりではなかったはずだが、なぜかノエルに対して強く出ていないことに気が付く。

 一方ノエルはラグナへと話しかけてから、体の震えも止まり、ノエルの心の熱は落ち着いたものになってきていた。それはνという脅威がなくなったことからの余裕だろう。

 一度大きく息を吐いてラグナへと視線を向けた。それをラグナは戦闘の意思があると見たのだろう。腰の大剣に手をかけると、ノエルに向かって睨む。

 

 

「……で、やるなら相手になる。それが嫌ならさっさと帰れ」

 

「違います! そうじゃなくてえっと……」

 

 ラグナの言葉にノエルは思わず強い口調で返していた。

 自分はいったいどうしたかったのか。ベルヴェルグで術式を放った時は無我夢中だった。ただラグナが傷ついていくことが嫌だ、という理由で放った術式は結果的にラグナを助けることとなった。

 それでも自分は衛士で、目の前に居るのは指名手配者で、衛士なら拘束するために言葉をかけて、いやもう言ったんだった。だから戦わなくちゃならなくて。

 なにを言えば良いのか分からなくなり、ノエルは黙ってしまった。話したい、一緒に居たい、そんな欲求は自分の中にあった筈なのに、言葉になって出てこない。ただ一言、当たり障りのない言葉を呟いた

 

「……私は、その、お礼を言いたくて」

 

「……あー」

 

 ノエルが言ったのは、最初にラグナがνの攻撃に対して割って入ったことだろう。

 対して困ってしまったのはラグナの方だ。お礼を言われたことなどあまり経験もなく、それが敵対している統制機構の衛士となればなおさらだった。一度もない。

 

「あーっと、なんだ? どういたしまして、のついでに帰らせてくんね?」

 

「ダメですラグナ=ザ=ブラッドエッジ! おとなしくお縄につきなさい!」

 

 やっぱり仕方ないか、とため息を吐いてラグナは剣を構える。どうも目の前の衛士を殺す気にはならない。さっさと気絶させて、さっさと支部を破壊してその辺の病院に捨てとけばいいか、と頭を掻きながら考えた。

 

「はー、なんなんだよこの馬鹿が。面倒くせぇから馬鹿やってねぇでさっさとこい」

 

「バカバカ言わないでください! バカって言った方がバカなんです!」

 

 ノエルもはっと顔を起こして銃を構える。茶化すような物言いに、ノエルの調子も戻ってきていた。戦闘中でも話せる、考えられる。自分がどうしたいのか、拘束してから考えても遅くは無い。頭の中が混乱したノエルの結論は、とりあえず殴ってから考える、だった。

 

 牽制のための術式を構築する、ラグナは着弾点から回避しようと駆け出す。

 

 二人が空気の違和感を感じたのは、ほぼ同時だった。

 

 

 

 

「データ再構築、問題なし、術式構成完了、再起動」

 

 

 

 

 

「ラグナさん!?」

 

「っ!?」

 

 両者とも術式の構成を中断し、その場を散開する。両者とも立っていた地点に降り注いだのは、術式で作られた赤銅色の大剣だった。

 銃を、大剣を構え見つめる先には、ムラクモユニットを装着したνが、無傷の姿でその場所に立っている。

 

「…………」

 

 バイザーによってνの瞳は見えず、それでも押し黙る姿から、そこに存在するのは何も映していない瞳であろうことは想像できる。

 

 

「ねぇ、ラグナ。そんなにνの事が嫌い?」

 

 

 なんの感情も籠っていない、冷たい声にノエルは背筋が寒くなるのを感じていた。目の前に居るのは人の形をしていると言うのに、あれではまるで機械音声を当て嵌めただけの人形だ。そう思わずにはいられなかった。

 だが、と。ノエルは考える。

 

「はっ、あれ位じゃ壊れねぇってか」

 

 下唇を舐めて、ラグナは蒼の魔導書を解放しようとして、思わず目を見開いた。

 νが再起動して、とっくに逃げていると思った統制機構の衛士、ノエルが銃を構え、νから庇うようにラグナの前に立っていたのだ。

 

「下がってください」

 

「ああ? 何言ってやがるこの馬鹿が! あれが拘束できるような相手だと思ってんのか!?」

 

 後ろも見ずに言ったノエルに、ラグナはすぐに聞き返していた。ノエルにνを殺そうと言う意思が見られない。だが、拘束させられるほどの相手でもない。

 それ以前に、ノエルはνと戦って、そのあとは戦意喪失して震えていただけの衛士、それがラグナの印象だった。そんな状態の人間を戦わせようとは思わない。第一、

 

「それに、そいつを片づけるのは俺の役目だ」

 

 

「ダメです、貴方には戦わせられません」

 

 そっけなく返すノエルの言葉に思わず頭に血があがった。

 そこまで拒絶されれば、ラグナであったとしてもノエルが何か意図があるのではないかと勘繰るのも無理はなかった。秘密裏に素体を処分するための衛士か、ラグナの頭に浮かんだのはその存在だった。νを壊すのは自分の役目だ、それを譲るわけにはいかない。

 

「ふざけんな! なんの意図があって言うかは知らねぇが、図書館の衛士が言ってることを信用できるか!」

 

「だから、そうじゃなくて! 衛士がどうとかじゃなくてですね!」

 

 横目でノエルはラグナを見て、そこで視線が改めて重なり合った。

 ノエルが立ち上がる理由にしたのは、確かに衛士であるという都合のいい言葉だった。だがそれ以上に、心の中で燻っていたものがある。

 

 

「貴方の事が心配なんです! 言わせないでください!」

 

 

 吐き出すように言った瞬間、戦闘になると言うのに微かに顔に血が上ったことがノエルには分かった。ラグナ唖然としたような表情が一瞬見えてそれは加速しかけるが、戦闘のための思考に流されていく。

 νはまだ動かない。防壁術式の構築は終了し、いつでも戦うことができる。

 だがその前にノエルの隣に誰かが並んだ。大剣の柄に手をかけて、もう片方の手で面倒くさそうに頭を掻いている。驚きはしたものの、なんとなくという程度ではあったが心が落ち着いていくのが分かった。

 

「……アレは生体兵器だ。人間と思って戦うな。テメェが生き残れなくなるぞ」

 

 ぶっきらぼうに言ってはいたが、ラグナの言葉にはどこかノエルを気遣うものがあった。聞いている方が恥ずかしくなるような発言に、ラグナも思うところはあったのだろう。

 

「俺が前に出る。テメェが援護しろ、ノエル」

 

「! ……分かりました。貴方も無茶はしないでください、ラグナさん」

 

 二人は単純に考えれば衛士と指名手配犯という関係であり、また決してこの時間で交わることとはなかった。だが、今は仮とは言えどもνに対して戦う意思を見せた。

 

 だから二人は気が付かない。無表情だったνの顔に、僅かではあったが不快の色が浮かんでいた。

 

 



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ザ・ウェールフェイトイズターニング

見直し完了。特に何も考えずに投稿。
ただ、ハクメンとか黒き獣とか、その他もろもろの情報のある小説版を、フェイズシフト2までは読んでおくと、もっと楽しめるかもしれません。


 上から地面を見下ろせば、赤と青の影は互いを補うように動き、剣の群れを躱し、落としていく。

 ぴたりと息の合った、とまでは行かずとも、互いの背中には安心がある。片方は自分が確かに此処に居るという実感を、片方は自分が一時的とはいえ背中を預けているという事実を踏みしめる。

 見たことが無い事象だった。未熟な精神はいつまでも成長することは無く、斬り殺され、喰われ、消えていくことが常であるはずだった。先を見ることができず、繰り返しを始めてしまうのが当たり前だった。

 だが、その事実は此処にはない。少女はぎゅっと自分の掌を握りしめた。その行為にどんな感情が在るのか、自分にも分かってはいない。ただ、意識を先に向けることだけは忘れてはいなかった。

 

「……急ぎなさい、『えいゆうさん』。何時までも赤鬼と遊んでいる暇はなくてよ」

 

ラグナが去ったすぐ後に、第七機関の赤鬼と対峙したハクメンへと、少女、レイチェルは、普段道理の口調に少しだけ焦りを見せて呟いた。

 

 

 

ーーーーーーーー

 

 大剣を横へと薙ぎ払うように振り回せば、νは姿勢も変えずに後退し、術式を発動した。しかしそれをノエルの銃撃は見逃さなかった。

 爆発、ベルヴェルグの直撃をくらったνは宙に舞い、その合間にラグナとノエルを見下ろした。爆発によってつけられた傷は既に治癒され、手をかざすように前に出した。

 

「おいノエル! 庇えねぇから自分で避けろ!」

 

「言われなくても!」

 

 一度足を止め、ラグナはノエルに向かって叫ぶ。ノエルが飛来する剣を撃ち落し、回避することを見ずに、ラグナはνに向かって走る。

 背後からベルヴェルグによって銃撃が放たれるのが分かったが、その軌道を恐れることもせず、ラグナは大剣を肩に構える。

 

「よっと!」

 

 ラグナに向かう剣はノエルに撃ち落され、防御を考えずにラグナは大剣を上段から振り下ろした。νはそれを右腕で止める。ミシリ、という音と共に腕に付けられたνの剣が砕け、地面へと落ちていった。

 考えている以上に威力が出ずに、ラグナは舌打ちする。ラグナの迎撃を行うはずだった、νの周りに剣が浮かぶ剣が存在していないことを確認すると、蹴り上げるために体の重心をずらした。

 

「ラグナさん、後ろ!」

 

 ノエルの声に蹴り上げようとしていた足を止め、すぐにその場を飛び退いた。見れば自分の背後から剣を召喚され、自分が居た場所に突き刺さっている。そしてνの周りには鶴翼の形で八本の剣が浮かんでいた。

 追撃は無い。ノエルが術式を潰し、ベルヴェルグによって弾幕を張っている。空間を抜けて飛び出す銃撃をνは術式ごと破壊するが、ラグナに追撃する余裕はなく、避けるので精一杯だった。

 

「………………」

 

 ただ、異質ではあった。ラグナと戦っていた時はまるで恋する乙女のような口調でラグナへと話しかけていた。ノエルと戦っていた時も、自分を確かめるように機械的な口調であるとはいえ、無言ではなかった。

だが、今はそのどちらでもなく、一言さえも口を開こうとはしなかった。

 

 

「……ったく、化け物かよ。どうすりゃいいんだこいつは」

 

 砕けた剣が何の術式も発動した様子が無く、再生していくのを見て、ラグナは口の端を舌で舐めて呟いた。

 斬って、蹴って、打ち付けてもνの再生は止まる様子は無い。精錬されたムラクモユニットはこうまでも面倒な物なのか。冷や汗を流す暇もなく、牽制するように飛来する剣をその場を飛び退くことで回避する。

 その一瞬で、νは移動していた。執着しているように攻撃していたラグナに背を向けて、飛行術式での低空移動によってノエルに接近した。

 

「やべぇ、おいノエル!」

 

「っ! ベルヴェルグ!」

 

 

 ノエルはラグナの言葉よりも早く、小規模の術式をνの進行方向へと幾つも作り出す。通過に反応するその術式は、即席とはいえ機雷のような性質を持つ。

 しかしνはその術式を無視して突っ切った。爆発が繰り返し、νの肌を焦し装着された剣を砕く。巻き起こる硝煙の中からνが現れ、反射的に銃撃を放った。

 ギン、という音と共にνの額へ弾丸は直撃する。後ろに引っ張られるように顔を反らしたνは、数秒もせずにノエルへと向き直った。

 

「対象補足」

 

 そこには、ノエルの姿を映すνの瞳が在った。

 

「……え?」

 

 無表情ではなかった。ノエルの銃撃によって破壊されたνのバイザーは直る様子は無い。その下からノエルが見たのは、決して機械のような無表情ではなかった。

 確かに表情は硬く、人形のような顔に見えなくもない。だが、ノエルを見る眼に見覚えがあった。

 ジン=キサラギ、彼がノエルに向ける視線と、ほぼ全くと言っていいほど似ていた。違いは些細なものだ。顔の筋肉が動くかどうか、その程度しか違いは無い。だから、その眼の意味をノエルは知っていた。

 あれは、嫌悪だ。

 

「ノエル!」

 

「っ!?」

 

 ラグナの声に余計なことを考えた思考を元に戻す。ほんの数秒の隙は、ベルヴェルグによって構築された思考が身体を動かした事でなくなった。

 貫手による一撃がノエルの頬を掠め、髪を斬る。向けるのは銃口、至近距離での発砲と同時に、νはその銃を打ち付けることで銃口を逸らす。それさえも想定内というように、ノエルは少し後ろに下げた足を回す様にνを蹴り飛ばした。

 

「対象、捕縛」

 

 しかし、νはそれを掌で止め、残った片方の手でノエルの腕を掴んでいた。骨にひびが入る鈍い痛みが走り、ノエルは顔を歪ませる。振り払うよりも早く、νは術式を作り出す。

 シックルストーム、地面から剣を召喚する術式はノエルの真下に造られた。

 

「邪魔だ!」

 

 それを、ラグナが遮った。

 ノエルを掴むνの腕を狙い、跳躍したラグナは真っ直ぐに大剣を振り下ろす。術式を砕き、振り下ろした刀をνに向かって斜めに振り上げる。纏わりつく虫を払うように剣を振り回し、νの身体を裂く。

 νは後退しつつも術式を発動することを止めようとはしなかった。ソードサモナーによって生み出された剣は、ラグナを無視してノエルへと向けられている。

 それをラグナが前に出て、庇うように全て落としていた。後ろに通すことは無く、νにはノエルの銃口と、ラグナの剣先が向けられている。

 

「おいおい、テメェの相手は俺だろ。いつまでも無視してんじゃねぇよ」

 

「……」

 

 ラグナの軽口はνに向けられたものだ。しかし、それに反応は無かった。何も映していない視線が、ラグナへと向けられている。

 そこには何の感情も無かった。ラグナから見れば分からなかったと表すのが正しい。妙だと考えたのも束の間だった。今まで牽制のために放っていた筈の術式を、νは発動していない。

 機械的な思考では攻撃を止めることがあり得ない。νがそこで初めてラグナに向けて口を開く。

 

 

「ねぇラグナ、そんなにその女が大事なの?」

 

「……えっ?」

 

 

 呆けた声を上げたのはノエルだ。確かにラグナはノエルを気遣うように戦っているようにも思えるが、あくまで後衛を気にする前衛程度の反応だ。事実、攻撃は通るためノエルは迎撃し、躱す必要もある。

 

「……」

 

 ラグナは無言でνの言葉を聞き入れる。

 ノエルを気遣っているのは事実だ。それは傷つかないように、という意味ではない。命を奪わないように、という意味だった。

 ラグナの持つ蒼の魔導書は、本人へと魔力と再生力を供給する。その供給の元となるエネルギーは、魔素ではない。人の魂、つまり生命力そのものだった。

 適切な連携が在れば、戦力は掛け算の様に上がっていく。しかしそれはラグナには当てはまらない。蒼の魔導書が吸収する生命力は対象を選ばない、共に戦っている者の生命力まで奪ってしまうのだ。

 

「はっ、だからどうした。それがテメェに何の関係がある」

 

 ノエルの生命力を奪わないように、発動は最低限であり、せいぜいラグナ自身の身体能力を強化する程度だ。しかし、戦える。  それに、全力で発動したところですぐさま死滅するわけでもない。そして発動するとき真っ先に生命力を奪われるのは、その力を向けられているν以外に他ならない。

 

 戦えている、という事実をノエルは実感していた。まだ光明を見出すことは無い。しかし、共に戦っている者の背中は暖かかった。

 まだいける、自分は戦うことができる。思考は落ち着き、身体は十二分に動く。

 そう自分を自身付けたノエルは、会話を止め駆けだすラグナの後ろから、術式を発動する。前に出る者に被弾させることはありえない。術式の発動する隙を潰し、剣を振るうラグナの邪魔にならないよう、合間を縫って術式を発動した。

 巻き上がる爆発、そこでνが自分の身体に衝撃が来るのにも関わらず、無理やり術式を発動した所がノエルの視線に入った。

 

「空間状況を把握、以後対複数への攻撃へと変更する」

 

 νから離れた場所にソードサモナーの術式は発動される。ラグナへ向かう剣を躱せば、その剣はそのままノエルへと向かって行った。

 両者とも躱し、その隙にνは術式を作り出す。その剣の向けられる先は、全てノエルだ。一斉に発射された剣の群れは、弾幕となってノエルへと向かっている。

 撃ち落した。ある物は躱し、銃で払いながら。そして全ての攻撃がノエルに向けられれば、ラグナは自由に動くことができる。

 

「だから、俺を無視してんじゃねぇぞ!」

 

 ラグナは蒼の魔導書を部分的にさえ発動させず、剣を身体の強化のみでνへと振るった。

 その一撃を、νは無視した。

 

「!?」

 

 防御を捨て、術式を発動。ラグナの斬撃と共にνの剣が現れる。ラグナのすぐ上から現れたそれは、ラグナがνの腕を切り落としたと同時に、ラグナの剣を握る左腕へと沿う形で突き刺さった。

 νの左腕が宙に舞う。残った右腕に付けられたブレードを、痛みでひるむラグナへと向けた。

 

「ラグナさん!」

 

 その一撃をノエルが止めた。νへと放たれた銃弾がその攻撃を中断し、後退させる。移動しながらの正確な銃撃は、ノエルの得意とするものだ。

 負傷するラグナを庇うように前に出る。ノエルは前衛も後衛もできる、負傷を治療する程度の時間は稼ぐことはできると判断した。

 

「……余計な世話だ、俺はまだやれる」

 

「無茶しないでください。大丈夫、時間稼ぎ程度なら問題ありません」

 

 ノエルは対峙するνの姿を改めて見直した。そこには左腕がなくなっていた。二の腕から下は無く、そこから血が地面へと流れている。

 

 ラグナは相変わらずνの表情を窺う事ができない。勝手に再生していく左腕は、ノエルの生命力を若干であるが吸い取っている結果だろう。

 ラグナの表情が苦々しいものに変わった。対象を選んで発動することができないことに、苛立ちもあったのだろう。その様子は十分にノエルを気遣っているものとして見て取れた。

 

 

 

 

 

 

「ずるい」

 

 

 

 

 

 

 その声は静かであったが辺りに響き渡った。

 その声を発したのが誰であったのか、ラグナは最初分からなかった。しかしそれが、自分の前に立つノエルでなく、νのものだと気が付いた。

 

 

 

「ずるい、ずるいよ」

 

 

 

 ぞわり、と背中に冷たい物をノエルは感じていた。その原因が、目の前に居る存在が出した憎悪であることに、一瞬であるが身体を震わせた。

 きっ、と前を向いて睨む。その程度で自分はひるまない、その意思を見せる。

 

 

 

「どうして貴女がそこに居るの? どうしてラグナはその女を守るの?」

 

 

 

 静かにνは語る。本当はその問いの意味を求めているわけではないのかもしれない。向けられるのは憎悪。

 本当に?

 よく見れば、それはジン=キサラギが自分に向けていた者と違う、そうノエルは考えた。

 νは口を開く。そこに込められていたのは、嫉妬。

 

 

 

 

「貴女も、νと同じなくせに」

 

 

 

 

 視界が動く。νの言葉を区切りに、何もかもが遅れてきたかのように景色が動き、視界いっぱいにνを捉えていた。どうしてこんなに早く景色が動くのだろう、そうノエルは考えすぐに気が付いた。動いたのは自分だ。

 自分の目の前で爆発が起こる。巻き起こる硝煙の中に飛び込み、νへと銃口を向け引き金を引いていた。

 放たれる銃弾は防御術式によって阻まれる。構わない。そうノエルは判断し、銃を鈍器として扱い、そのままνへと振り下ろした。ごっ、という頭へ直撃する音が響くも、νは倒れない。

 

 だめだ、はやくたおさないと。はやく、めのまえの、そんざいを、せんめつしろ。

 

 それは命令だった。ノエルの頭の中で作られたその命令は、ベルヴェルグが出したものではない。他の誰でもなく、ノエル自身が自分に命じた物だった。

 

 

「黒き獣となるために造られた、ほんの少しだけ、事象が変われば、此処に居るのは貴女なのに」

 

「っあああああぁぁぁぁあああああああ!!!!」

 

 

 言われている単語の意味は分からないはずだった。それでも、ノエルは自分の中から溢れ出す焦燥から身体を突き動かされる。

 

 黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい。口を開くな、声を出すな、その言葉を、(ラグナ)へと聞かせるな。

 

 零銃フェンリル、機関銃の様に打ち出される弾丸を、νの8つの剣が防御方陣を作り上げ防ぐ。打ち尽くした弾丸は一つもνに届くことは無かった。

 それを見届けることすらせず、すぐさま破棄して両手に銃を召喚し、前傾姿勢でνへと突っ込んだ。滑り込むように姿勢を低くして飛んできた剣を躱し、足元へと術式による弾丸を撃ち込んだ。

 成果を確認する暇は無い。術式を発動、νの周りに浮かぶ剣が迎撃に向かうも、どれがどう動いたかの空間は既に把握していた 。

 

 

「ねぇラグナ、νが嫌いならこの女も嫌いでしょう? だってこの女は」

 

「黙れぇぇええええええええ!!!!」

 

 

 向かう剣を避けつつ横を取り、脇腹へと銃口をνへと押し当てる。ブルームトリガー、銃口付近で爆発した術式により、νの身体は吹き飛んだ。

 肩で息を吐く。ペースも何も考えない、体術と術式による連撃は、本来あるはずのペースを乱し、体中に酸素を求めさせる結果となった。

 硝煙の中に消えたνの姿は見えない。倒れたのだろうか、そう判断するノエルの視界に入ったのは、防御術式を張るνの姿だった。

 νは倒れない、黙らない。ラグナに知らしめるように、νは口元を歪ませた。

 

 

 

「次元境界接触用素体No12、μ。νと一緒の存在なんだから」

 

 

 

 

「……あ……」

 

 

 

 言ってしまった。聞かれてしまった。私という存在が、どういうものなのか、(ラグナ)が知ってしまった。

 

 

 ラグナはνの言葉に思わず目を見開いた。まさか、と思っていたことであった。しかし、本当にノエルが素体という存在であることに確信は無かったのだ。

 νが言葉を発し始めたとき、ノエルの変化に対応する暇もなかった。ラグナの腕は勝手に治療されるものの、その行為はノエルの生命力を勝手にとってしまう事でもあった。

 息が上がるのが早い、それでもラグナにノエルを援護する術はない。ラグナが前衛を務めていたのは、自身が単独での戦闘行為しかできないことを知っているからだ。

 

「ノエル、お前早く……」

 

 下がれ、そう言おうとしたラグナは、ノエルの目を見て固まった。

 

 

「ぃ……ぁ……、違う、私……は」

 

 声は震え、ラグナを見る目が先ほどまでと全く違っていた。恐ろしい物を見るような眼、と似ているが違う。

 それは、親に怒られる子供の眼に似ていた。知られたくなかったことを知られ、追及されることを恐れる目。ラグナにその眼は見覚えが無い。ただ、戦闘中に向けられるものではないことは分かっている。

 

「っちぃ、この馬鹿! 動けねぇんだったらさっさと下がれ!」

 

 素体がどうだとか、そんなことを今気にしている暇無い。ノエルに目を取られたが、νは今どうなっている。

 ラグナがそう思い辺りを見渡せば、νは既にノエルへと接近している。治療中は蒼の魔導書が発動しているだとか、連携はできないだとか、そんなことはどうでもいい。ラグナは地面を蹴り飛ばすと二人の間へと駆けた。

 しかしνとノエルの接近は間に合わない。νの周りに浮かぶ8つの剣がノエルの周りに広がると、それらは一斉にノエルを中心として集まった。

 ラグナの声ではっと自分を取り戻したノエルに、それら全てを迎撃する術は無い。殆どは弾いても、一本がノエルの足へと突き刺さる。さらに独りでに抜けたその剣の痛みを歯で食いしばることで耐え、νへと視線を合わせた。

 

「違わないよ、何も。μもνも、ラグナが言ってた通りの化け物だよ」

 

「違う、違う、違う! いやっ、聞きたくない!」

 

 何も心配いらない、と。そうノエルに伝えるように。動揺するノエルを嘲笑うように、νは顔に笑みを張り付ける。

 怖かった。νへ対して憎悪を向けるラグナに。戦っているのはただの化け物、だから何も考える必要はなかったのに。

 その憎悪が、自分へと向けられたら。νと同じ存在である自分は、その憎悪を受ける理由がある。もしもあの人が、自分に向けて殺すつもりで剣を向けたら。

 元の場所に戻った剣が再度ノエルに降りかかる。耳を塞ぎ、目を塞げばνの言葉から逃れられると、勝手に判断してしまった体は、今迫る脅威という現実から目を逸らした。

 

「ぅおおぉらぁああ!!!」

 

 瞬間、身体が放り出された。それは二人の間へと走ったラグナが、ノエルの腕をつかみ、無理やり投げ飛ばして起きたことだ。

 到着したラグナは大剣を振り回すことでνの剣を纏めて弾き飛ばした。そしてそのまま大剣をνに向かって構える。視界に入ったνは、既にラグナを見ていなかった。

 

 

 

「だから、貴女は消えちゃえ、全部」

 

 

 

 ノエルへと向かってνは手をかざす。空間が歪み、現れたのは大量の術式方陣だった。レガシーエッジ、ラグナを無視して向けられた剣は全てがノエルを殺すために造られたものだ。

 今ならνを切り伏せられる。蒼の魔導書を起動、全ての魔力をνを消すために使えば、ムラクモユニットを破壊することは可能ではないか。

 蒼の魔導書にコードを打ち込んだ。解放するために集中したはずだが、ラグナの視線はνの向ける剣の先にあった。

 

 

「……あ」

 

 

 呆けた声が聞こえる。統制機構の、ラグナ自身の全てを奪われ、壊され、憎悪する。そして、自身が壊したいと望むこの世界の秩序である場所の、一番壊したい場所に存在する衛士の声だった。

 背後にあるのは窯だ。逃げることはできない。どだい、その足は負傷してさらにラグナに生命力を取られている。ペースを考えずにいたその体には既に、酸素も足りていない。

 無視しろ。

 自分が望んだ展開だろう。壊したい者達がお互いにその身を砕いている。自分が手を下すまでもなく、その命は散るだろう。

 視線が合う。どこかその表情が、ラグナの記憶の中の人物を掠めた。

 

 

 

「馬鹿が!!」

 

 

 

 誰に言ったのでもなく、ラグナは叫んだ。蒼の魔導書の発動を抑える。腰の大剣を逆手で持ち、機械でできた地面を壊す勢いで踏み出す。

防御に使う魔力も、攻撃に使う魔力も全部自分自身の強化に使った。ほんの少しでも早く、”そこ”にたどり着くために。

 背に何かを庇うように立つ。何度もその衛士が自分の前に立ったように、ラグナは視界いっぱいに広がる剣の前に立った。

 

 

 ノエルの眼に入ってきたのは、ほんの数分前の焼き増しだった。

 自分を守る背中。どこか暖かさを感じ、隣に立った時は安心をもたらしたそ人の背中。ただ時間の経過を表すのなら、その服についたものだろう。

 

 

「ラグナ、さん?」

 

「……っち。無事か、ノエル?」

 

 

 ラグナの身体に、剣が突き刺さっていない場所は無かった。突き刺さった剣がラグナの背中から生えている。身体を掠めた剣は傷跡を残し、皮膚から血を噴出させている。ラグナの経つ場所の地面には、本の数秒も立っていないと言うのに、赤い血だまりができていた。

 ぷしゃ、と。ノエルに赤い雨がかかり、視界を真っ赤に染めた。それと同時に、ラグナの背中からどこか見覚えのある剣の刃が生えた。

 

 

「やっぱり、庇うんだ。優しいね、ラグナは」

 

 

 白い影がラグナの前から見えた。何処かで見たことのある人影だ。身体には既に剣は無く、インナー姿でそこに居る。ぎゅっと、愛おしそうにνはラグナを抱きしめる。

 

 

「早く、逃げろ」

 

 

 後ろを流し見るラグナは、肺に辛うじて残った息を吐き出すように、ノエルに呟く。そして、ノエルの横を剣によって貫かれた二つの影が、窯へと向かっていく。その光景をノエルはどこか遠い物に感じていた。

 ぐちゃり、という音と共にラグナの身体が黒い何かに変わった。νに浸食されていくように、その黒は二人を包み込む。まるで、ラグナという存在がこの場所からなくなってしまうような気がした。

 正しくは、変質している。ラグナが、ラグナだったものへと変わっていく。固体の物が液体になって名称を変えるように、世界にとってラグナという存在が曖昧になっていく。

 

 

「いや……」

 

 

 身体が動く。頭の中に勝手に何かの情報が入ってくる。ラグナが別の何かに変わってしまう事を、自分は知っている。

 逃げろと言われた。逃げる理由ができた。だったら。

 

 

「いやっ!」

 

 

 子供の様にノエルは声を上げた。

 何が何だか分からなかった。それでも、いまここで座っていたら、逃げ出したら、何もかも正常に全て終わってしまう。当たり前の事象として、全て終わってしまう。

 二人だったものが、窯へと堕ちていく。窯は、大量の魔素の渦巻く場所。人が入れば、その情報によって、その形を失ってしまうだろう。

 躊躇は無い。影を追いかけるように、ノエルは窯へと飛び降りた。

 

 

――――――――

 

 事象は此処で終わる。そう確定している。

 

 ある者は盛大な舌打ちをする。何かが変わると考えた事象に、なんの意味もなかったことに。人形遊びも、中途半端に終了することに。

 

 ある者は無言で帽子を押さえた。本当を見つけた自分は此処で消える。消えたくないのならば、同じように窯へと向かい賭けるしかない。

 

 その存在は刀を仕舞ながら駆けた。対峙していた人物を無視し、僅かな確率があるのなら、と。その刀を振るうため、ある存在を定着させるために。

 

 

 そして、その少女は空を見上げた。

 すべてを終わらせる雷、それがすぐ此処に降り注ごうとしている。冬の吹き付ける様な冷たい風を無視し、原初のアークエネミーを仰ぎ見た。

 

 

―――――――――

 

 

 

 ”ラグナ、もういいよ。”

 

 ラグナの中に暖かい声が聞こえてくる。初めて聞いたときは嫌悪しか抱かなかったその声に、ラグナは安らぎすら感じていた。母体に包まれる感覚とは、こんなにも気持ちの良い物なのだろうか。

 

 ”ラグナの壊したかった世界は、もうなくなるから。”

 

 世界が、何もかもが自分を責める様な。楽しさも、安らぎも、暖かさも、全て世界によって壊され、自分はただ、世界を恨んでいた。

 統制機構だけではない。その悲劇を知らず、なんの思いも抱かずにのうのうと生きている者達が。そんな嘘の世界で生きている存在が。ただ、憎悪した。それで自分が楽になるはずもないのに、憎悪する以外の選択肢は存在しなかった。

 

 ”世界を壊そう? 憎い、憎いこの世界を。ラグナを傷つけるこの世界を、一緒に壊そう?”

 

 その提案は魅力的だった。自分はただ、この声に従い、この暖かさに包まれればいい。ただ自分という存在を溶かしていくだけでいい。

 この声の主も、自分も、世界が憎かった。苦しみを与え、そうする自分たちを嘲笑い、その運命通りに夢見るこの世界が。

 黒い世界だ。薄眼を開けて見た世界は、何も見えず真っ暗で、それでも自分にはもう一人、この声の主が居る。

 

 

 それは正しいのだ。正しい形で世界は回っている。だから、このまま…………

 

 

 

 

 

 

『貴様はまた、蒼の少女を喰らい尽くすだろう』

 

 

 

 

 

 

 男の声が、頭の中に響いた。

 はっと瞼を開き辺りを見渡した。

 視界は固定され、自分の意識があるのにもかかわらず自分の身体を動かすことができない。まるで自分が誰かに乗り移り、その視点を奪い取っているようだった。

 視界にはまた、どこか見覚えのある少女が現れる。青い帽子の下には金の髪が見え、背中には布が無く、動きやすそうな姿のその少女は、誰かを突き飛ばしてラグナの前に出る。

 その少女が迫る。そうラグナは錯覚し、違うと呟く。ラグナ自身が迫っているのだ、その少女へと秒も置かずに近づいて……

 

 ぐちゃ、という音と共に、少女の右半身を喰らい尽くした。

 

 

 味は感じることは無い。食っているという感覚もない。ただ自分が目の前の少女を食い殺したという事だけが事実だった。

 右腕も右足も無くなり、倒れた少女に誰かが駆け寄った。何を言っているのかは聞こえない。ただ、その誰かが顔を上げたとき、深い憎悪を溢れさせていた。

 

 それは、ラグナの知らない事象の話。

 誰かが■■■と呼んだ、その少女が喰われるその事象。窯は全ての世界とつながっている。その情報の波が見せた、ほんの一部分だった。

 その情報をもたらしたのはある男の言葉だった。『その世界の住人だった者が』言ったその言葉が、ほんの少しまで隣に立っていた少女の声が、縁となってラグナにその情報を窯の中で引き寄せる。

 だからラグナは理解した。自分がこのまま流されれば、どうなるのかを。その結果がどうであったのかを。

 世界を破壊することになる、結果を簡単に表わすとこの言葉だった。だが、それでもいい。この世界を壊すことに、戸惑いは無い。

 

 ただ、浮かんだのは一人の少女の顔。

 

 

 

 

 

「そこから先に、行っちゃダメ! ラグナさん!」

 

 

 

 

 うるせーよ。

 

 

――――――――

 

「ここは捨てられた事象、世界のひずみ、確率事象によって起きた、既に変質した事象に他ならない」

 

 少女は口元に笑みを浮かべて、誰に言うのでもなく呟く。

 

「私は既に信じると決めたわ。人として戦う、その言葉を」

 

 魔方陣を展開される。それは、都市一つを覆い隠すほど大きなものだった。三輝神ユニットの一つ、ツクヨミの名を持つその方陣を作り上げ、少女は空の監視者を見上げながら呟く。

 

「だから早く目覚めなさい、ラグナ。貴方を縛り付ける世界は、もう貴方に何も強要していないのだから」

 

 

――――――――

 

 

「第666拘束機関解放……、次元干渉虚数方陣展開!」

 

 

 

 それは、ただの意地だったのかもしれない。

 自分が嫌悪した世界を、結果的に守ることになってしまったとしても、それ以上に自分の気に入らない奴が言った言葉通りになってしまうことが苛立った。

 化け物になって戦うのではない、世界と戦うのは人間としてであると、そう大口を叩いたその言葉を。気にくわない男に言ってしまった正義とやらを、何時も見下して此方を見る少女が信じた自分を、簡単に裏切る自分にむかついた。

 

 黒く変質したものが形を作り上げる。一つだった影は二つとなり、ラグナは剣に貫かれたまま目の前で目を見開くνを見下ろした。

 今ここで、ラグナは観測された。変質していく身体は既に元に戻り、上位の観測者によって世界は塗り替えられた。

 

 何よりも、自分の前に出て、どう考えても敵対すべき相手だと言うのに、そんな自分の前に立った少女を、自分自身で殺すことに嫌悪した。

 

 

 

蒼の魔導書(ブレイブルー)、起動!」

 

 

 

 作り上げられた身体の一部分、右腕が直ぐに変質する。大きさは人の手と同じぐらいで、黒い魔素によって固められた形状はそのままだった。

 νが作り出した表情は驚愕だった。信じられない物を見たようなその表情へと向かって、ラグナはその右腕を押し付けた。

 

 

「うおおおおおおおおおおおおお!!!」

 

「いゃぁあああああああああ!!!!」

 

 

 叫ぶ、喉が枯れることも無視して、ただ目の前の存在を消そうと、全てを飲み込もうと。自分の持つ魔導書はそれができると信じ、ただ魔力を注ぎ込む。

 腕を押し付けた先でνがもがくのを感じていた。蒼の魔導書によって魂を、その存在を削られていく苦しみから逃れようと、ラグナの腕を放そうとラグナの手を掴み、叫ぶ。親指と人差し指の間からはνの右目が、涙をこぼしながらラグナを見上げている。

 

 

「いやだ、いやだよラグナ! どうして拒絶するの!? なんで分かってくれないの!? とても、素敵なことなのに」

 

「ふざけるな……っ。俺の未来をテメェに、テメェ等に決められる筋合いなんざ無ぇんだよ!!」

 

 

 生きることも死ぬことも全て世界によって決められ、その運命によって最期の時も同じように終わる。

 そんなもの家畜と同じだ。本当の明日も見えず、ただ箱庭の中で笑って、そして、その運命に流されて最期を迎える。その最後の後さえも利用される。

 それが世界の選択なら、そんな世界、破壊する。

 ぐちゃり、ぐちゃりと、境界から入り込む情報が、νという存在から吸収した魂がラグナの体を崩壊させる。とある研究者が境界に触れ、魔素の怪物に成り下がったようにその体は崩壊を続ける。

 しかしそれと同じ速度で身体が定着される。蒼の継承者、その観測者によって観測されるラグナの身体は形を取り戻している。

 

 

「いやだよ……離れたくないよ、ラグナぁ」

 

 

 νは顔を涙でぐしょぐしょにして、ラグナを見上げる。ラグナの右腕を掴む手に、力がなくなった。それはただの懇願だった。大好きな人と離れたくないと、泣きじゃくる子供の様にνはラグナに声を上げる。

 ラグナは息をのんだ。しかし、蒼の魔導書を止めようとはしない。理解していた。今から自分が何をしようとしているのかを。

 壊すのではなく殺すのだ。自分と同じように、世界を憎み、何の温かみも無く、ただ、自分にすがることだけが存在理由だったその少女を。その、人間を。

 

 

「悪い、ニュー」

 

 

 ラグナは呟くように口を開く。その口調は悔いる様な、謝るような、ラグナ自身を責める様な、静かなものだった。

 

 

「テメェの憎しみも、何もかも全部持っていく。だからすまん、先に逝け」

 

 

 

「……あ」

 

 

 その言葉を最後に、νの眼には光が失われていた。

 ラグナはぞぶり、と自分の腹の剣が抜ける音を聞いていた。痛みは感じない。自分よりも早く剣と共に落ちていくνを、ラグナは見下ろしていた。

 どうして自分は見下ろしている? そう思い直して窯の入り口へと見上げた。

 ノエルが手を伸ばしていた。声が聞こえず、ノエルが何かを叫んでいるのを見て、ただラグナは手を伸ばす。

 

 掴まれた腕が、離されることは無かった。

 

 

――――――

 

 

 懐かしい夢を見る。まだ自分の周りが平和で、穏やかながらも幸せな日々が続いていた時の夢だ。

 木からの木漏れ日がラグナの肌を撫で、その気持ちよさに思わずごろりと草原へと寝転んだ。

 自分を誰かが見下ろしている。ラグナの視界に入ったのは自分の妹であるサヤだった。柔らかな金の髪が風に揺れ、その口には笑みを浮かべて微笑んでいる。

 今日は身体の調子は良かったのだろうか。声が出ず、ラグナはぼんやりとそんなことを考える。

 自分の頭が何か温かい物に乗せられた。枕の様に頭が落ち着き、暖かい。同じように心が安らぎ暖かくなっていくのを感じていた。

 そのまま眠ってしまおうかと眼をゆっくりと瞑る。意識が落ちていくその直前に、ラグナは自分の顔に降り注ぐものを感じていた。

 

「雨……?」

 

ぽつん、ぽつんと自分の頬を濡らしている。

 おかしなもんだ、と内心で呟いた。暖かい日差しがさしたその場所は、当分雨なんて振りそうもないのに。

 何かを思い出す様に、ゆっくりと目を開く。何なのかを、確かめるために。

 

 

 

「目は、覚めましたか?」

 

 

 そこには、目の下に涙を貯めて見下ろす、ノエルの姿が在った。体はぼろぼろで、帽子はいつの間にかどこかに吹き飛び、纏めていた髪は下されている。

 どこか自分の妹と似たその姿に、思わず息を呑んでいた。

 頭に暖かいものを感じている。地面に寝かされた自分の状況を思い出し、その柔らかい感触がなんなのかを思い出す。

 ノエルはラグナの頭を自分の膝に乗せていた。ラグナの近くに居れば蒼の魔導書が、勝手にその生命力を奪ってしまうと言うのに。その現状を思い出したラグナは思わず口を開く。

 

「おい馬鹿! お前俺の近くに……」

 

「ばか」

 

 ラグナの言葉を遮って、ノエルはラグナに向かって呟いた。

 

「ばか、ばか、ばか、ばか」

 

「ノエ……ル?」

 

ぽつ、ぽつと涙がノエルの頬を伝って流れ落ちる。眉を寄せ、俯いて目を瞑るノエルは、誰に言うのでもなく呟く。それは、自分自身であり、ラグナに向けていた。

ノエルとラグナの視線が合った。ラグナにはノエルが、どうして、と。そう尋ねている様な気がした。

 

「無茶しないでください、って。言ったじゃないですか」

 

 ラグナは、自分の今の状態を思い出して、小さく呆れたような息を吐いた。

 ノエルが自分の隣に立った時、言った言葉だった。自分の無力を嘆く意味と、ラグナを責める様な、そんな風にノエルは尋ねる。

 ああくそ、と。ラグナは体中の力を抜いて身を任せた。自分の頭を撫でる手がどこか心地よい。心配そうに見下ろすノエルに、視線を合わせると口元に笑みを浮かべて答えた。

 

「ばーか、無茶しないわけにはいかねぇだろうが、この馬鹿が」

 

「……バカバカ言わないでください」

 

 つられたようにノエルも小さく笑った。その笑みを見て、ラグナはただ安堵した。

 自分が窯の中で見た別の可能性、そこではこの少女は壊される。他の誰でもない、ただその身を任せて、逃げ出した別の可能性の自分によって。

 だから、思わず安心した。この世界で自分は、人としてこの少女と同じ場所に居ることを。

 ノエルが小さく笑った。ラグナも、それにつられて口元に笑みを作った。

 

辺りは戦闘の跡が見え、破壊されている。しかし、二人の間には穏やかな空間が流れていた。

 

 

 

 

―――――― 

 

 

 

 

 

「くくっ、くっく。ぎゃぁっはははははははははははははは! とんだ茶番も見せられたもんだなぁ、そうだろうハザマ!?」

 

笑う、その存在は二人の前に現れる。

ノエルがその存在を観測することを止める者はいない。

ラグナが声に反応するも、身体を起こして剣を握り、それだけで観測を妨害するには至らない。

その体の中で誰かが叫ぶ。何を言っているのか、何を言おうと関係ない。ただ、その存在はなすべきことをするだけだ。

笑う。何もかもがおかしいと言うように、ハザマの身体にいたその存在は笑った。

 

 

「さあ、俺を観測()ろ、ノエル=ヴァーミリオン!!」

 

 

誰かが、口元に三日月の笑みを浮かべて嗤った

 




次話はさっさと出したいと思います。


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ステージファイナル

 この話を読む前に一言。
 第二章の『』とその周りをじっくり読んでみると、幸せになれるかもしれない。


「どういう、こと、だ?」

 

 

 思わず呟く。戦闘が終了し、何もかも過ぎ去ったと思われたその空間に、目の前の存在は現れた。

 ノエル=ヴァーミリオンがその存在を観測する。真の蒼に目覚めた彼女は、その存在をこの世界に定着させた。だからこそ、

おぼろげだったはずのその姿が完全に世界に復活する。

 その存在はダークグレーのスーツに、毒々しい色の緑の髪は逆立っている。そしてその顔に作り出す三日月の笑みは、まるで何かがこらえきれないように笑っていた。

 体中で本能的な何かが感じていた。こいつが、目の前異にる男がテルミだと。

 呆気にとられたように呆ける自分を、テルミはニヤリと笑って手元に何か作り出した。鎖に蛇の形のナイフをつけられており、どこかハクメンの持つ刀のような威圧感がある。その名はアークエネミー、ウロボロス。

 その鎖の付けられたナイフが自分へと向けられる。投合体勢に入り、誰かが自分の耳元で叫んだような気がする。それでも、この身体は動かない。まるで、蛇に睨まれたカエルの様に。

 

 

「ウロボロス、斬り刻め」

 

 

 世界がまるでスローモーションになって動く。今まさに自分はあの鎖に貫かれようとしている。その結末は分かっているはず

だが、自分の身体は動かない。

 その存在だけがまるで、世界に許可されたように、その空間で動いている。

 

 

 

 ウロボロスの刃が此方に向かう。ぼんやりとそれを眺め、やがて届く。

 

 

 

 

 そう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ハザマ/■■■』の身体にウロボロスが突き刺さり、身体の骨を砕いて吹き飛ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヒャッーハハハハハハハハハハハハハ! お勤めご苦労さんラグナちゃん、■■■くぅん!」

 

 

 ぞわりと、ラグナの中で何かが吹き荒れた。

 体を起こす。剣を握る。その声が、どこかで聞いた誰かに似ている。全ての元凶となった存在、『テルミ』と。

 全ての元凶、ラグナの世界を破壊して、何もかも奪った張本人に他ならない。それを頭の中で理解した時、ラグナは自分の身体の状態を頭の奥に置き去りにして叫んだ。

 

 

「テルミィィイイイイイイイイイイイイ!!!」

 

 

 身体が軋むのを無理して、剣を掴み走る。

 にやにやとしているその顔が、神経を逆なでしてくるのを感じていた。今まで貯めこんできた憎しみ全てを一度にぶつける勢いで、ラグナは大剣を振り下ろした。

 対してテルミは半歩身体を逸らしただけでそれを避ける。取り出したアーミーナイフで振り回すラグナの大剣を難なく弾いて笑った。どう足掻いてもラグナは、自分に勝てることはできないのだから。そこには余裕と侮りがあった。

 そして、その笑いにはもう一つ意味が込められている。

 

「おいおいラグナちゃん? “今回俺様はなにもしてねぇんだけど?” 勝手にそこに転がってる人形が、勝手に行動起こしただけなんだけどなー」

 

 テルミが視線だけでラグナの横を指す。少し離れた場所で、ハザマの身体は倒れていた。目の前の男と全く同じ姿で、ただ違うのは髪の色だけだ。その帽子の下には“ラグナと同じような白い髪”が見えた。

 視線を戻せば、ニヤリと嗤うテルミに恐怖を覚えた。いつの間にか魔素によって作られた緑の大蛇が、テルミの後ろからラグナを睨みつけている。

 テルミが自分の手を前にかざすと同時に、その蛇はラグナへと降りかかった。濃密な魔素はまるで固体で、剣で防御したラグナの上から、その衝撃は訪れる。あっけなく吹き飛ばされたラグナは、地面に膝を着けると胸からこみあげた血を吐き出した。

 

「ラグナさん! まだ、傷が……」

 

 ノエルが慌てて駆け寄り治療の術式を発動する。

 いくら蒼の魔導書に持ち主を治癒する力が在ったとしても、ほんの数秒で体の中まで回復することはできない。

 駆け寄るノエルを無視し、役に立たない四肢の代わりにラグナはテルミを睨みつける。せめて、逃げ腰だけでも目の前の男に見せないようにと。

 

「煩せぇ、テメェが、テメェが全部の元凶だろうが!」

 

「ん~実に心地よい殺気じゃねぇの。だが不十分か。ったく、どーしてよりにもよってこの事象で目覚めるんだか。俺様には遊び心すら持たせられないってか?」

 

 やれやれ、とテルミは肩をすくめる。当然ラグナの強がりはテルミには分かっている。傍によるノエルにさえ分かることが、テルミに分からないはずがなかった。

 身体を倒しそうになるのをノエルが支えていた。しかし、ラグナの視線はテルミに向けられたままだった。

 

「なに、まだやんの? 止めとけ止めとけ。テメェじゃ俺様は役不足なんだよラグナちゃん。あれ、役不足って意味違ったか?」

 

 テルミはラグナを茶化すように笑った。それは圧倒的な強者が見せる、弱者へと嘲笑だ。ぎり、とラグナは歯を食いしばる。だからどうした、と。

 立ち上がろうと膝に力を入れていたが、気力だけで傷だらけになった身体は動かない。終わらせようとしたのか、テルミはアーミーナイフの刃を見せると、ゆっくりとラグナへと近づいた。

 

 

「ああ、私には貴様は役不足だ」

 

 

 ラグナでもない、テルミでもないその声に、どちらもその声の主の方へと視線を向けていた。

 瞬間、テルミには白い影の太刀の斬撃が、その身に降りかかる。別の世界では椿祈と呼ばれたその無名の太刀筋はテルミを捉え、地面へと叩き伏せた。

 

「ちぃ、ハクメンテメェ!?」

 

 思わぬ乱入者にテルミは一瞬動揺すると、ラグナの事を無視してハクメンから距離を取る。呆気にとられたラグナたちの間に、ふわりと薔薇の香りが漂い何かが姿を現した。

 

「えいゆうさん、この場を任せるわ。時間を稼ぎなさい」

 

 突如現れた白い影、ハクメンはテルミに向かって構え、太刀を滑らせる。 打ち合う金属音の音と共に、ラグナには聞きなれた、ノエルにとってはどこかで聞いたことのあるような声が届いた。

 視線を向ければ、そこには少女が居た。周りを浮かぶお供は焦りで顔を真っ青にして、その主であるレイチェルは涼しげに見える表情で口を開く。

 その足元には高度に練られた魔法方陣がある。転移魔法、その難易度から使い手は歴史上で数人と呼ばれるそれを、1人分ではなく数人は入れるよう、レイチェルは拡大する。

 

「……」

 

 レイチェルの言葉に対して返答は無く、ハクメンは押し黙る。それでも身体を止めることは無く、テルミのナイフを斬りおろし、レイチェルたちに向かわぬようにテルミを攻めた。

 流れる様な、それでいて力強い太刀筋だった。テルミにとって目の前の存在は、全盛期の五分の一程度しか力を持っていない。だが、衰える様子の見えない太刀筋に、少しでも乱そうと舌打ちと共に挑発する。

 

「はっ、いつからハクメンちゃんはクソ吸血鬼のわんちゃんに成り下がったんでしゅかー? あの狗のオッサンも遂に引退か!」

 

「タカマガハラの狗が、良く吼える。さっさと行け、道化よ」

 

 テルミの蹴りを腕で抑えながら、ハクメンはレイチェルに向かって言った。

 対してレイチェルは魔法のための言霊を唱え終わると、ラグナ達へと向き直った。

 

「二人とも、此方よ」

 

「おい、いったいどういう事だウサギ!」

 

 訳の分からないまま自体が進み、ラグナは思わずレイチェルに向かって叫んでいた。なにより、テルミに対して背中を見せて逃げ出すことに異を唱えるようにレイチェルを睨む。

 対してレイチェルは涼しげな表情、に見えた。しかしそこには何時も共に居る使い魔たちや執事にしか分からない程度に、焦りの色が見えている。

 

「事象が変わったのよ。今の貴方ではテルミには勝てない。そこの貴女、早くラグナを運びなさい」

 

「へ……え? 私?」

 

「早くなさい、遊んでいる暇はなくてよ」

 

 反射的にノエルはラグナに肩を貸すと、レイチェルの元へと向かった。

 ラグナの叫び声を無視して、レイチェルは転移魔法を発動した。薔薇の香りと共に風が吹いたかと思えば、三人の姿はその場から消え去っていた。

 ちっ、という舌打ちの音が辺りに響き渡った。幾らテルミであろうと、転移魔法を、それもハクメンが目の前にいるにもかかわらず使うことはできない。

 

「なぁハクメンちゃん、手前の主様が行っちまったぜ? 俺様からどうやって逃げるんだろうなぁ」

 

「その必要はない。貴様はここで……む」

 

 ぎん、という音と共にテルミを弾き飛ばし、ハクメンは膝を着いた。そして、すぐさまその姿にノイズが走るように、姿がぶれる。

 テルミにはその現象に見覚えがあった。そしてハクメンに至っては、その現象を抑えようとする様子もない。ハクメンの無表情がこの時ばかりにテルミの癇に障っていた。

 

「事象干渉、だと。あの糞猫が、面倒くせぇ真似しやがる」

 

 この場所に来るより前に、ハクメンは自身をサルページした人物、ココノエが所属する組織の兵士であるテイガーと戦闘を行っていた。

 よってすぐに事象干渉されることは知っていた。今の自分がテルミに敵うと言う確証もない。戦えと言われれば戦えるが、再度観測されようと考えていたことも事実だった。

 

 テルミとしては最低だった。自分の気に入らない人物二人に、自分の玩具を持って行かれたのだ。つまらなくない理由が無い。

 いや、と。テルミは口元を歪ませて笑った。まだメインディッシュが残っている。何年間も漬けたものを、まだ自分は喰らっていない。

 

 テルミは地面に視線を戻す。そこには、膝を立て、立ち上がろうとしている男の姿が在った。

 

 

 

―――――――

 

 どういうことだ。そう■■■は思考する。

 俺という存在は間違いなく、『テルミ』であるはずだ。他の誰でもない、俺自身がその事を知っている。そう信じている。全てを知っているはずだ。だからこそ、俺は此処に立っている。

 だと言うのに、ノエル=ヴァーミリオンに観測されたとき、出された自分の思考は全く別物だった。観測され、自分がこの世界に定着し、全ての情報が体の中に戻ってくる。自分が■■■であるということの。

 混乱を極めていた。頭の中でぐるぐると思考が絡まっていく。違和感を無くすために整理する頭を、無理やり掘り起こして思考を作り出す。

 

「なぁ、今どんな気持ちなんだ?」

 

 かつんかつんと革靴が地面をたたく音が近づいてくる。そこにいたのは、自分と全く同じ姿、全く同じ顔をした男だった。髪を逆立て、三日月の笑みを顔に張り付けたその男は、確かに俺は知っている。俺が一番知っている。

 

「あんなに人形、人形って言いながらはしゃいでた本人が、実は俺様の操る人形でしたーっていう事実が分かって。なぁ今どんな気分なんだって聞いてんだよ」

 

「……人形?」

 

 呆けた声が思わず出てしまったというのに、何も考えられず目の前の男の話をただ聞いていた。

 

「そう、人形! そもそも、『俺様(テルミ)を補助するために造られた躰に』俺様(テルミ)が入るわけねぇだろうが!」

 

 ああ、知っている。この躰はテルミの補助をするために造られた。ハザマが栗鼠と会った後、レリウス=クローバーからそう聞いていたはずだった。

 その補助するための躰に俺自身が入ってどうする? どうして俺はこの躰を奪おうとした? 決まっている、俺がテルミだからだ。

 

その思考こそが、そもそも矛盾なのだ。

 

 ■■■の頭の中で様々な情報が駆け巡る。まるで、もともと頭の中で規制され、その情報を思い出せないようにされていたように。

 

 俺はどうしてここでの精錬をレリウスでも問題ないと思って任せた? 何時もならば自分以外が行う事などあり得ないだろう。そもそもレリウスはまだカグツチにはいない。どうしてこの支部の衛士は精錬されている?

 獣兵衛は言った。この躰の事を『偽りのスサノヲ』だと。レリウスは言った。テルミ『は』協力者であると。ハザマは……

 

 

 

 待て。

 

 

 

 そもそもハザマは俺を通して境界に接続してから、一度だって俺の事を『テルミ』と呼んだか?

 ラグナ=ザ=ブラッドエッジに問われたとき、ハザマは何と答えた?

 

 

 

 

『あー、用があるのはテルミさんでしたか。生憎と“面識がない”ものですから』

 

 

 

 

「バックアップだよ、テメェは。昔みたいに俺様の入る身体の頭が記憶喪失なんてしたら、また蒼を探らせなきゃならねぇだろうが」

 

 そう、この俺という記憶は、ただの情報だった。ハザマが俺という魂を腕に封印という形で腕に刻んだように。

 それは百年近く前の話だった。テルミの憑代になるはずだった身体が、とある事故で記憶を失った。数年間を何も知らない愚か者たちのいる島、イシャナでその人格は過ごした。

 黒き獣が現れ世界には慟哭で溢れていると言うのに、綺麗で無知なお利口さんたちのいる島で、地獄のような日常をそこで過ごした。テルミがようやく見つけたと言うのに、その人格は記憶を綺麗に失っていたのだ。

 だからこそ、テルミが考えたのは記憶のバックアップだった。この時代での憑代が万が一、記憶を失った場合に備えての。その情報だったのだ。

 もしも記憶を失っても、その情報を頭の中に打ち込ませるだけで問題なくテルミはその憑代へと入ることができる。

 

「だってのに、特に心配なく俺様はこの躰に定着しちまった。腕を切り落としてまで残した記憶を、放置すんのも勿体なかっただろ?」

 

 無には何も保たせることができない。だからこそ、テルミは自分自身の腕に封印術式、情報を刻んだ。■■■という名の記憶を。テルミと思い込んだその魂を。

 そしてハクメンとともに封印される直前、自らその情報を刻んだ腕を切り落とした。回収され、それはもう一度この時代に来たとき、手を加えられるようになるという手筈だった。

 

「俺様も飽きんのよ。仔犬ちゃんを小突いて鳴かせんのも、屑を目の前で散らせて英雄どのの怒りを買うのも。いっつも同じ反応だ。つまんねぇの」

 

 肩をすくめてテルミは溜息をついた。それはずっと使ってきた玩具に、もう飽きたと投げ出す子供のようにも見える。

 しかしその表情はすぐに、玩具を手に入れた子供のような笑みに変わった。口元を吊り上げ、目の前の道化(ピエロ)がおかしくてたまらないと言うように、笑う。

 

「そ、こ、で! 俺様は考え付きました! 一度だって俺様は“俺自身”から憎しみを受けたことが無い。その形を知らねぇんだよ」

 

 その代わりに、テルミはこの事象で何もしなかった。どうせ今回も同じことだ。ならば、今回はいかに楽をして楽しめるか。初めからこの事象はどうでもいいものとしていたのだ。

 ゆっくりと■■■に寄り、覗き込むように顔を近づけた。

 

 

 

「なぁ、どんな気持ちなんだよ今。今まさにこの世界に定着したと思ったら、実は自分はテルミ様じゃありませんでしたってな! 人形人形とはしゃいでた自分が、実は俺様の人形だったって知ってどんな気分なんだよ、なぁ俺様が聞いてんだろう!? なぁ!?」

 

 

 

 

 

「カズマ=クヴァルくん?」

 

 

 

 それは百年近くの過去に、テルミの憑代となるために存在していた躰につけられた名称だった。

 すとんと、その言葉が、その名前が体の中に染みわたり、記憶の枷が取れていくような気がしていた。ばち、という音が頭の中に響き渡る。それは術式が解除される音だった。

 強制拘束、精神を縛りその対象を操り人形へと変化させる魔法だった。思考を操作され、考えることを禁止されていたことが、思い出すことができなかったことが頭の中に流れてくる。

 それは近くに境界が在ったから、という理由と、自身が元々持っていた記憶が頭の中に再生されていったからである。

 消されていた記憶だった。思い出すことのできない記憶だった。カズマという存在が初めて誰かを騙した時の記憶。ハザマは既に境界を通して見たその記憶と、自分がカズマ=クヴァルという存在から決別するために、切り捨てた■■■■■という存在。

 

「はっ」

 

 息が漏れる。腹や肺がやがて痙攣する様に震えだし、思わず息を吐き出した。

 

 

「は、ははは、ぎゃははははははははははははははははははははは!!!」

 

 

 笑いがこみ上げてくる。ハザマを自分の操り人形と笑い、侮辱していたのがそのまま帰ってくる。

 

 そうか、と思わず声を上げて納得してしまった。

 『ハザマ』という人格のことを。それが『俺』が切り捨てた『僕』という存在が元となっていることを思い出したのだ。

 だからこそ、ハザマがマコト=ナナヤと共にいて、笑いあう光景に強烈な嫌悪を覚えたのだ。昔の自分の屈辱的な姿を見て、本能がそれを拒絶したのだ。

 

ああそうだ、思い出した。『俺』は――――

 

 

 

「黙れ」

 

 

 

 腰のダガーナイフを取り出し一閃する。 飛び退くテルミにその男はナイフを統合し、腕を前に出して構える。

 

 

 

「第666拘束機関解放、次元干渉虚数方陣展開!」

 

 

 

 思い出せ、この躰を。この躰は『蒼の魔導書』を完全に使いこなすために調整された身体だろう。俺が作り出した『蒼の魔導書』を完全に発動できる。ウロボロスもこの手に存在する!

 そうだ、この記憶は間違いだ。だれがこの魔導書を作り上げた? 誰がここまで仕組んだ? 『(テルミ)』だ。それが間違いな訳無いだろうが。

 その男は完璧に頭の中に再現されていくその術式を発動する。ラグナ=ザ=ブラッドエッジの持つ欠陥品ではない。完全な形で制御できるその代物を。

 

 

「コードS.O.L! 蒼の魔導書(ブレイブルー)起動!」

 

 

 その男を中心にして、赤黒い魔力が辺りを包み込んだ。境界から魔素が渦巻き、通常の人間であれば、たとえ人獣であろうと魔素中毒になってしまうその中で、男はなんの苦も無く魔素を纏めた。

 それは、ハザマが境界に接続した研究所での最終目標の姿だった。人が魔素という存在を取り込み、魔人へと昇華させたその存在。蒼の魔導書によって境界からのエネルギーを完璧に制御して魔力へと変換、そしてそれを取り込み続けることで事実上高エネルギー体の存在が生まれる。自身以外の周囲から無造作に、魂を、生命力を奪いながらその魔導書は発動した。

 その姿は人によっては纏わりつく鎧のようにも見えただろう。模したのはスサノヲユニットと呼ばれる存在だった。体中を包み込んだ魔素が鎧となり、男の身体へと装着されている。魔素に覆われた顔の眼の部分は赤く光り、赤い筋が体中に走っていた。

 それは暗黒大戦からの生き残りが居れば、まるで黒き獣のようだと答えただろう。

 しかしそれをハクメンの持つスサノヲユニットと比べるのも烏滸がましかった。粘着質でぐちゃりと体に纏わりつくそれらは、境界に触れてその情報に耐えられなくなった存在なった、魔素の怪物と酷似していたのだから。

 

 

「嗚呼ああああああああああああああああ!」

 

 

 テルミに向かって男のウロボロスが発射される。真っ直ぐに向かうそれをテルミは難なく避けながら帽子を押さえる。

 次に男が起こした行動は、その発射されたウロボロスを掴んだところだった。数十メートルに延びたそれを大きく振るうと、 波の様に鎖が動いた。それはテルミから見れば正しく蛇のように見え、思わず口笛を吹いていた。

 その鎖の先についたウロボロスのナイフが地面を、壁を傷つける。男が振るう鎖は不規則に動いていた。それもただ動くだけではない、自在に伸縮するそれは恰も獲物へと首を伸ばす蛇の様だった。

 

「おーう、面白い使い方するじゃねぇか。そりゃ俺様の筋力じゃ無理だろうな」

 

 蒼の魔導書によって強化された肉体が振るうその鎖は、一たび受ければ骨が砕ける程度では済まないだろう。

 だと言うのに、その蛇の身体の中でテルミはまるでダンスでも躍るように避け続けた。向かってくるものをアーミーナイフで弾きつつも、その余裕の表情は崩れない。

 男にとってそれは屈辱的なことだった。その笑う顔を潰そうと、鎖を握る手を大きく振り上げた。

 

「おいおい、どんだけテメェは俺のピエロになってくれるんだよ、カズマくんよ」

 

 テルミは笑った。ほんの少し失敗すればあっという間に体を死へと持ってかれるその鎖の中で、それがなんの脅威にもならないと言うように。

 

「蒼の魔導書? 何時まで欠陥品振り回して遊んでんだ。ククッ、俺の身体を笑い殺す気か?」

 

 先ほどの焼き増しの様に、テルミは男と同じように腕を前に出して構える。

 瞬間、男が感じたのは言いようのない恐怖だった。それを出させてはいけない。そう判断した頭が、ウロボロスを収縮させて手元に戻し、再度テルミに向けて発射した。

 しかし、それよりも早くウロボロスが男の腕を貫いた。ウロボロスは発射される空間を選ばない。男の中にはそんな情報は存在せず、『レリウスの作成した模倣事象兵器』に、そんな機能は存在していない。視界をテルミに戻せば男の放ったウロボロスは難なくテルミに弾かれる。

 しかし、その直前でウロボロスは止まった。空間を掴み、男の掴んでいる鎖を収縮する。そして鍵爪のように手を構え、テルミに向かって収縮する勢いのまま突っ込んだ。

 

 

「見せてやるよ、本当の蒼って奴をなぁ!」

 

 

 テルミの視線が男と合わさった瞬間、恐怖が背中を走り抜けた。すでに自分の身体は止まらない。止めようがない。

 

 

 

 

「コードS.O.L、碧の魔導書(ブレイブルー)、起動!」

 

 

 

 瞬間、かしゃんという、陶器が砕け散るような音が辺りに響き渡った。

 

 テルミの発動した碧の魔導書は、テルミの周りを円になって魔方陣を生成している。その縁の中に入った瞬間、男が聞いた音だった。

 魔素によって濁った視界が一瞬で色を取り戻し、毒々しい緑に自分の身体が纏われ疲れていることを理解した。自分の発動していたはずの蒼の魔導書、そこからの反応が無い。境界からの供給源を絶たれたその魔導書の起こした現象は、まるで黒い煙となって男の身体から消え去っていた。

 

「蛇翼崩天刃」

 

 テルミの身体が反転する。股関節が無いように動き開かれた足が、無防備になった男の腹を蹴り上げた。

 小枝を何本も砕いたような音が辺りに響き渡った。もう一人の精神、ハザマがとっさに張った術式障壁をあっけなく蹴り破り、その脚は男の身体へと打ち込まれた。

 その勢いは、迫ってきた男を上へと吹き飛ばすほどだ。肺の中から空気と共に血が吐き出され、脳が痛みを発するよりも先に、新たな刺激が男へと突き刺さる。

 

「おいおいどこに行くんだよ、蹴り上げた程度でまさかダウンするつもりか?」

 

 それはテルミのウロボロスが男の身体ごと空間を掴み、収縮されているところだった。収縮するその勢いのまま男は壁へとぶつかった。身体全体で激突し、壁はその衝撃で罅が入っている。

 呼吸する暇もない、とはこのことだった。血を吐き出し息を吸い込むどころではない。特に胸からくる痛みが、脳内での思考さえ忘れさせていた。

 顔を上げる。無様な姿を見せたくない、などという思考を考える暇は無い。そうしなければ自分は死ぬ、その反射がその行動を起こした。

 とっさに飛来する何かを防ごうと、腕を前に出した。その正体は鎖であり、腕へと絡みついたウロボロスはすぐに収縮し、男は地面に擦られながら引きずられる感触を味わった。

 

「なーに寝てんだテメェ。まだ始まったばっかりじゃねぇか!」

 

身体を起こして何とか防御する、暇は無い。テルミの持つナイフが辺りを走り、男の身体を切り刻んだ。背後には魔力によって作り出された3体の大蛇が居る。テルミが手を翳す様に前に出せば、男へとその大蛇は襲いかかった。

かすれたような悲鳴が男から洩れる。吹き飛ばされたにも関わらず、男の右腕に絡まったウロボロスは解けていない。そのままウロボロスを収縮したテルミは、男の髪を掴んでその顔を拝んだ。

 

「はーい、ご対面~。うっわ汚ぇ面。俺様はほんのちっとばかり小突いただけだろ?」

 

「……殺……す」

 

 無様なものだった。スーツに傷が無い所は無く、引きずられた身体は埃まみれ。口から出した血が体を汚し、頭からは今もなお血が流れ続けている。

 この上なく無様な姿だった。少なくとも自分をテルミだと思い込んだ男にとっては。

 

 

「殺す……テメェは……必ず……」

 

「く、っくく……ヒャーッハハハハハハハハハハハハハ!!! そうだ、その顔だ! 俺様が求めていたのはその憎しみだ! おいおいなんだよ、超ウケるんだけど!? なんで俺様はこんな最高に面白い面を見なかったんだ!?」

 

 

 テルミは心の底から歓喜し、男からの憎しみを浴びて笑った。

 自分で自分を睨み、ソレによって快楽を得る。それはまるで自慰行為だ。一度やってしまえば詰まらないと迷わず言えるそれも、今のテルミにとっては面白い。

 本来この世界でラグナが憎み、テルミを存在定着させていたはずだった。だが、今の男はそれ以上の憎しみをテルミへと向けていた。

 家族を壊された、そんなものではない。完膚なきまで世界を壊されたのだ。男にとっての自分という存在を、目の前で壊され、怪我され、犯された。自尊心も、誇りも、なにも男には存在していない。ただ、目の前の存在をどう殺すか、その憎しみで埋め尽くされていた。

 

 男の顔をテルミは靴の底で押し付けるように蹴り上げた。既に腕に鎖は無く、軽く男は地面を舐める羽目になった。それは、自分が昔ラグナへとやったことの再現の様だった。

 殺す。

 ただその単語が頭の中を埋め尽くす。そのために体を動かす。痛覚で馬鹿になりそうな思考を取り戻し、男は地面へと腕を立てた。

 ゆっくりと立ち上がろうとしている男を見ながら、テルミはニヤリと笑う。まだ楽しめるのか、そう考えた。

 

だが、それは両者の思う通りにはならなかった。

 

 ぺたん、と。男の顔が再度地面をキスすることとなった。体中の力が抜け、頬に地面をつけながら男は口を開いた。

 

 

 

「……やれやれ、酷いじゃないですかテルミさん。謙虚で真面目な諜報員にこんなことするなんて」

 

 

 それはその場の空気を紛らわせるような、のんびりとした口調だった。

 時折血を混じらせてせき込みながら、男は懐から取り出した小瓶のふたを開けると、口に突っ込んでその中身を飲み干した。

 それはイカルガ戦役で使用された特効薬だった。術式によって強力な効果を施すそれは傷の治りを急激に早めるものだ。代償に、副作用として一定時間ごとに人が耐え切れないほどの痛覚を発するものだった。

 

「あーん? ……ああ、その体の本体の方か」

 

「ええ」

 

 未だに地面に頬をつけながらハザマはテルミを見上げていた。ゆっくりとテルミはハザマへと近づき見下ろした。

 そして、なんの躊躇もなくその脚でハザマの頭を踏みにじる。

 

「おいおい、人に頼むってんならそれ相応の態度っていうのがあるんじゃねぇのか? ハザマ君?」

 

「土下座の様に頭を擦りつけてるのに……私どこまで頭を下げればいいんでしょうか」

 

 ハザマの残念そうな声にテルミは思わず吹き出していた。

 滑稽だった。先ほどまであんなにも殺意を向けていた存在が、情けなく頭を踏まれていると言うのに、飄々とした態度は変わらなかった。

 ハザマの頭を蹴り上げ、無理やり身体を仰向けに起こす。ごん、と地面に頭をぶつけたハザマは、あいたっ、と情けない悲鳴を上げていた。

 

「もーう、この頭の中には貴方があんなに笑ってた人がいるんですよ? もっと大事にしてくださいよ」

 

「いるのはその右腕だろ? それに、テメェは俺様に向かってこねぇのか?」

 

 にやにやと笑うテルミに、とんでもないと言うようにハザマは肩をすくめた。実際は身体は動かないので、そのように見えただけだったが。

 

「いやー無事に私もこの世界に定着しましたし、今はとにかく死にたくないんです。見逃してくれませんか?」

 

 へらへらと媚びるようにハザマは笑った。実際ハザマにはテルミと敵対する理由も存在しなかったのだ。

 自分の周りで誰かが巻き込まれているわけでもない。自分の命を何よりも優先しているというのは、変わりようがない。

 それは正しい在り方だった。強者に対して頭を下げ、這いつくばってでも生きたいという生物としての正しい姿だ。

 だからこそ、テルミは笑った。どこまでもこの男はつまらない。きっと殺すのもつまらないのだ。それならこの男の中に入っているもう一人の自分に恨まれ続けるほうが面白い。

 自分が憎悪している存在に対してへこへこと頭を下げる男の中に居る、それが男にとってどれだけの屈辱になるのか、自分だからわかる分、想像するだけでも面白かった。

 

「ああいいぜ、幸せに生きろよハザマくん? その中の人形もそうした方が楽しく映えるだろうからな。ヒャーッハハハハハハハハハハ」

 

 

笑いながら地面に倒れるハザマの横を通り過ぎると、テルミは影の中へと消えていった。

そう、やるべきことはいくらでもあるのだ。レリウスを呼び、ゴミ中尉に命令を与え、抗体も始末するべきだろうか。

 

ほんの数分後、子供が玩具に飽きて忘れるように、テルミの頭の中からハザマの事は消え去っていた。

 

 

――――――

 

「あー、まったくボロボロですよ」

 

ただ一人、閉じた窯の前でハザマは呟いた。

 

「うん? ……はぁ、うるさいです。あーするしかなかったじゃないですか」

 

 体はナメクジの様にゆっくりであるが、歩ける程度には回復した。

 

「とりあえず……疲れました」

 

 暢気そうにそう呟き、その男の影はテルミと同じように、闇の中へと消えていった。

 

 

 

 

 




第二章、終了です。
そういえばこれは勘違いものだった。


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stage0 prologue

お久しぶりです。


 少女が目を覚ましたとき、目に入ったのは既視感のある透明な壁だった。周りも透明な液体で満たされた水槽の中で、少女は自分が膝を曲げて抱く様にして眠っていたのだと理解する。

 そう、理解はした。しかしそこに感情は一切存在していなかった。

 薄く眼を開けて辺りを、水槽の外を見渡した。そこには一人の女性が居る。金色の瞳の下には薄く隈を作り、その間の眉間にしわを寄せている。鮮やかな薄紅色の髪と同じ色の二つの尻尾は、ゆらゆらと忙しなく揺れていた。くたびれた白衣のポケットに手を突っ込みながら、いかにも面倒くさそうにその女性は通信機へと向かって聞き返す。

 

 

「もう一度報告を繰り返せ、いったい何があった」

 

《だだだ、地下に封印さえれていたは、ハクメンが、脱、走ししました!!》

 

「…………なんだと?」

 

 震えながら答えた男の声に、椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がったその女性は、慌ててコンピュータを操作し画面を変えていた。そこは薄暗い地下であるものの、術式ではない、科学的な方法で様々な封印術をハクメンへ施されていたはずだった。

 だがその場所を移しているはずのカメラは、既に砂嵐以外を映し出してはいない。盛大な舌打ちする音が辺りへと響き渡る。

 

「レイチェル……アイツ。手を出すなとは言っていなかったが……、アイツに気遣いを求めること自体が間違いだったか」

 

《ココノエ博士! 障壁を!緊急用の障壁を動かす許可をください!》

 

 ココノエは自分より遥かに落ち着きのない部下の声に、煮えたぎりそうな感情を抑えた。 

 ココノエの施した封印、多重拘束陣は一秒間隔で解除プロテクトが変わる、人外を含めて常人ならば解除不能のものである。しかし、それを解除するレイチェルは、やはり常人の理からは外れた存在だと言えるだろう。

 ココノエは自分の施した拘束陣程に、第七機関の防護システムは期待していない。ハクメンが自由になった時点で、頭の中では止められないという回答を出していた。

 

「ああ、いい。止めておけ。そんなもので止められるほどアレは力を落としていない。切り落とされるのが関の山だからな。経費の無駄だ」

 

 回答を出した以上、どうすることが最善手であるのかを考えれば、何も壊させずに素通りさせることが一番益が在ると言えるだろう。

 ハクメンと対抗できる可能性のあるテイガーが手元に居れば、選択肢としてはまだあった。だが現実にはカグツチへと再度向かっている最中であり、ラムダはまだ調整が済んでいない。結局、此処に留まることが一番正しいのだ。

 しかし通信機の先に居る職員にとってはそんなことよりも、脅威が今まさに近づいていることが問題であった。

 

《し、しかしもう私の所をすぐに通りかかります!? こ、殺され……ぁあ!?――――――聞こえるか、化け猫よ》

 

 がすっ、と拳で人体を撃った音が通信機から聞こえたかと思えば、そこから出されたのは低い男の声であった。くぐもったようにも聞こえるその声の主をココノエは知っており、忌々しそうに応える。

 

「キサマが暴れたが、機器が壊れていない分まぁ感度は良好だ。それでなんだ? 拘束していたことの嫌味の一つでも言いたかったか?」

 

《……私を止めるつもりは無いのか?》

 

「止める? 貴様を? 馬鹿を言うな。テイガーもいない今、この機関に貴様を止められる奴がどこに居る。行くならさっさと行け……ああ、無駄に壊していくなよ、経費で落とすのも面倒だからな」

 

 気怠い表情でいかにも興味が無いような声で、ココノエはハクメンへと返した。ココノエとしては恨み言の一つでもレイチェルに零しそうではあった。ハクメンはあくまでも手段の内の一つでしかない。が、大きな切り札の一つとして数えていたのも事実である。

 上質な札の一つでもあるテイガーを動かして、ココノエはハクメンの回収を考えてはいるが、ハクメンが素直に戻ってくることはありえない。少なからずその手間は負担になるに違いなかった。

 そんな内心を表すことのないすまし顔で、ココノエは通信機を握る。下手をすれば苛立ちで握り締めそうだったが、わざわざハクメンに対して付け入るような態度をするつもりもなかった。

 

 

《……化け猫、なぜ貴様が来ない》

 

 

 しかし握りしめられていた通信機の軋む音はハクメンに伝わっていたのか、通信機からの問いかけは、ほんの一瞬だけ思考を硬直させた。そんなココノエの様子を無視してハクメンは語る。

 

《貴様には、最強の血と最高の血が流れている。私を相手取るならば、訳無い程度の力は備わっているはずだ》

 

「黙れよ、ハクメン」

 

 ただ一言、拒絶の意志を見せて呟く。静かであったがその言葉からは怒りが漏れていることがココノエにも分かった。

 それがハクメンにとって挑発ではなく、純粋な疑問であることは間違いが無い。ココノエの産みの親は最高の魔法使いであり、そしてその遺伝子を分けたのは世界最強の生物である。その子であるココノエは、確かにハクメンと対峙できる力は持っている。

 だが、喧嘩を売る言葉に対して大きな反応を見せるつもりもなかった。今突き動かされるままに行動すれば、自分の信念すら見失いかねないと理解していたからだ。

 それを無視するように、ハクメンは口を閉じることはしなかった。

 

《化け猫、貴様の信念に異を唱えるつもりは無い。だがそれが貴様に歪んだ行動を引き起こさせるのなら、それは悪だ。故に私はそれを否定する》

 

「歪んだ行動? キサマ自体がその歪んだ行動の結果だろうが! ラグナ=ザ=ブラッドエッジも、ツバキ=ヤヨイも、キサマが殺した。だからこそキサマはそこに立っているのだろう? 少なくとも、キサマにその言葉を言われる筋合いはない」

 

 観測者として世界の一部を|観測(み)ることはココノエにもできる。ハクメンが引き起こしたことも、ハクメンを観測したことで知ることはできた。だからこそ、その言葉はココノエから出されていた。

世界の意志と己の欲望を穿き違え二度自らを兄と呼んだ者を殺した。そして最愛の者の死をただ眺めていただけの男が言う、身勝手な言葉をココノエは受け入れるつもりは無かった。

 結末をハクメンのようにするつもりは無い。自分なら上手くやれる、その自身がココノエにはあった。尤も、ハクメンはココノエがそう思っていてその上で言ったのだが。

 

《……?》

 

 ココノエの言葉に暫く返信は返ってはこなかった。 怒りを抑え肩で息をするココノエであったが、その通信機の奥でハクメンがどこか戸惑っていることが分かった。

 ハクメンは暫く何かを考えるように黙ると、ココノエに伝えるわけでもなく、独り言のように呟いた。

 

 

《ヤヨイ……? ……ツバキ、とは『誰』だ?》

 

「なに?」

 

 

 観測され、サルページされる過程で忘れたのなら、ココノエは見下し鼻で笑っていただろう。だが、その言葉は本当に何も覚えておらず、むしろヤヨイという単語に覚えがあるようだった。

 ハクメンにとって根幹にしていたはずの人物の事を、忘れるはずがない。観測してその人物についてココノエは見た。だからこそ返答に戸惑った。

 

《……その名を知らぬこともまた、私の内の罪の一つなのだろう。化け猫よ、貴様が辿ろうとしているのは私と言う存在の道と同じだ》

 

 それはハクメンに成る前の者にとって大事な人の名前だったのかもしれなかったが、既にハクメンには思い出せない。ココノエのたどり着いてしまう場所も、こんな存在であるかもしれないと、嘲笑するわけでもなく、忠告を送っていた。

 

「黙れ。私は、……キサマとは違う。上手くやる」

 

《……》

 

 その忠告はココノエには届かない。聞き入れるつもりは初めからなかったのだから、当然であると言えるだろう。

 互いに無言が続き、ココノエはそれを打ち切るように舌打ちする。ハクメンとしても何かに引っかかっていたのだろう。そして何かを問いかけられる前に、ココノエは通信機を切っていた。

 これ以上、あの堅物から出てくる説教を聞くつもりもない。ココノエは椅子に深く凭れかかるように座り、ふと部屋の奥に位置する培養器へと目を移した。

 国を一つ滅ぼした兵器を手にした。人間の産み出した罪の結晶であるムラクモを、そして誰のとも知らぬ肉体を、魂を利用した。

 

「本当に、今さらだ」

 

 額に手を当てて電灯の光を遮る。ハクメンの言葉を思い出し、小さく一つ舌打ちをした。

 

 

 それを少女は、ただ無感情に見ていた。少女へとインストールされていたデータにその名前が挙げられた。R-0009テイガー、第七機関所属の戦士、模倣事象兵器を保持した生体兵器。ハクメン、三輝神ユニットの保持者。六英雄。ココノエ、自分への指令の発信者。ラグナ………………。

 

「(……ラグナ)」

 

 それらは全てデータでしかない。それらを情報として理解するのなら、少女自身が考えほんの少しでも有効利用するからこそ情報たり得るのだ。だが、少女にはそれが無かった。

 だが一つだけ、少女はその単語に引っかかる。

 蒼の魔導書の所持者、それ以外の姿や声音などのデータは頭の中に張っている。だが何故か少女はその単語に惹かれていると『客観的』に意識した。無論、惹かれている、という状態すら知らない少女には、それはバグとしか感じることは無かったのだが。

 少女は思考を行わない。其処に在るだけだ。だがそれは思考の仕方を知らないだけだった。

 不完全な魂が一つ。この確率事象によって初めてこの時間軸に少女は世界を確立した。

 

 

――――――――――

 

 どうして私はこんな状況になっているのだろう。ノエルは品の良い椅子に座り、甘い焼き菓子と薔薇の香りに包まれながら、ぽかんとどこまでも広がる薔薇の庭園を見つめながらそう思った。

 丸いテーブルの斜め向かいには、ヴァルケンハインが紅茶を用意している。手つきは手早く、素人目のノエルから見ても無駄のない手つきだと思えた。

 そうして注がれた紅茶であるが、どう手を付ければいいのか分からない。テーブルマナーは最低限知っていても、お茶会は友人と行くのが殆どだったノエルにとって、上品なこの場ではどこか萎縮してしまっていた。

 

「そんなに肩に力を入れなくとも心配はありませぬよ」

 

 ヴァルケンハインのしわがれた穏やかな声に背中を押され、おずおずとノエルは紅茶へと手を伸ばす。口へと運ぶ際中、ふわりと紅茶の香りが鼻をくすぐった。

 

「……あ、美味しい」

 

「お褒めのお言葉、ありがとうございます」

 

 初めて飲む味の紅茶は、もしかしたらノエルが知っていた葉を使っているのかもしれない。少なくとも今まで自分が知っている、喫茶店などで出されている茶葉の紅茶とは思えなかった。

 ツバキみたいにこの手の知識についても知っていたら、話ももっと盛り上がったのかな、と。ノエルはそう思いつつも、ヴァルケンハインに促されるまま焼き菓子にも手を伸ばす。

老執事と少女、二人でのお茶会という光景に、ノエルはまるで自分がお姫様にでもなったような気分になった。もちろん浮かれているという意味ではなかったが、どこか落ち着かないのは確かだ。

 

「あの、ヴァルケンハインさん?」

 

「おや、何か不備でも御座いましたか?」

 

「あ、いえ不備だなんてそんな。お茶もお菓子もとっても美味しいです!」

 

 思わず立ち上がって答えてしまったノエルは、それはよかったと、微笑ましそうに言葉を返すヴァルケンハインを見て、緊張している自分が恥ずかしく感じ静かに座り直す。そうして赤い紅茶の水面に映し出される自分の顔を見た。

 髪を下した姿は普段自室で見慣れているはずだったが、どこかその姿が自分を不安に駆りたてる。

 理由は分かっていた。いつもの休日であればその姿でも可笑しくは無い。だが今は任務を行っているはずの期間で、さらにこの場所に運ばれてから数日が立っている。だが、任務の事だけを考えるのには複雑な出来事が多すぎた。

 ジン=キサラギは血だらけで倒れ、ラグナ=ザ=ブラッドエッジと協力し、自分にそっくりな兵器と対峙して。そして、ハザマという存在。そして、μという……

 そこまで思考を進めたとき、紅茶の水面が揺れてノエルの表情は見えなくなっていた。ノエルにはそこに映っていたのは暗い表情であることは予想ができていたため、考えを逸らす様にカップを傾ける。

 

「……どうしたらいいんだろう」

 

 なにをすればいいのか分からない。ノエル自身、衛士という立場にすがることが、逃げであるという事が分かっている以上その行動をとるわけにもいかず、時間が流れるのを待っていただけだった。

 無意識に出たそれは独り言のように見えて、近くに控えるヴァルケンハインへの問いかけであったのだろう。自然にノエルは傍にいるヴァルケンハインへと視線を移していた。

 ヴァルケンハインはその視線を受けつつも、静かに紅茶を淹れ直す。空になったカップへと紅茶を注ぎ込み、答える。

 

「貴女が歩む道を定めるのは私ではなく、貴女自身以外に有りえません。私が定めてしまえばそれは、どのような結末であろうと間違いなのでしょう」

 

 やんわりと断られたその言葉に、ノエルは内心で納得さえあった。

 ヴァルケンハインの主であるレイチェルという少女について、ノエルはあまり知らない。ラグナの知り合いであり、この城の主、そして人ではないという程度だ。それでも、理から外れた存在であることは実感できていた。そしてその存在が定めた道が、同じように外れていないものだと考えることはできない。

 それはその従者であるヴァルケンハインも同じなのかもしれない。それでも、ノエルは力のない口調でヴァルケンハインに尋ねる。

 

「……それでも頭の中がぐちゃぐちゃで、何をどうすればいいのか分からないんです」

 

「そうですか。では、貴女は何を成されたいのですかな?」

 

 

 え、と。ノエルはヴァルケンハインの言葉に呆けた声を上げた。

 自分が今何をどうしたいのか。やらなければならないことではなく、やりたいこと。望ましいこと。

 

「……分かりません」

 

「なら、それを探しなさい。立ち向かう事も、逃げることも、その他の道も、全てそれが起点に成るのですから」

 

 そう言ってノエルへとヴァルケンハインは微笑み、紅茶を淹れ終えて一歩下がる。これ以上の助言はするつもりは無いと、そう言っているようにノエルは感じた。

 再度、カップへと注がれた紅茶へと目を向ける。其処に移るのは自分の顔、ほんの数日前に対峙した、νの姿を思い出させる。無意識のうちに自分の表情が強張ったことが分かった。ν、μ、そしてノエルという名を持つ自分の事。それを知ることは、きっと後戻りできないところに行ってしまうだろう。

 しかし、それは自分にとって本当に重要なことなのだろうか。答えは出ず、紅茶の水面に映る自分は情けない顔をしていた。

 

 突然、その水面が大きく揺れる。遠慮なく庭園に響き渡るのは、此方へと走ってくる男のものだろうと分かりノエルは思わず顔を上げた。

 

「ちぃ、此処にも居やがらねぇ、おいオッサン! ウサギの野郎は何処に居る」

 

「……少しは静かにせんか小僧。怪我が治ったと思えばすぐに騒ぎおって……」

 

 端然とたたずむヴァルケンハインとは対照的に、此処へと訪れた男……ラグナは息を切らしてヴァルケンハインを睨む。数日前まで体に巻いていたはずの包帯は既に無く、赤いジャケットは既に修繕されたのか、剣が貫いた場所の穴は既に無くなっていた。

 思い怪我もない様子で、思わず安堵の息が漏れる。此処に運ばれたときは体中が血まみれで、今にも死んでしまいそうな様子だった。心配していたことも事実であり、こうして元気な姿を見られたのは喜ばしくも思った。

 と、そこまでノエルは考えて首を振る。ラグナは統制機構への反逆者で、賞金首にもなっている。衛士として、未だそんな犯罪者が健在なことに喜んでいいはずがない。

 

「……って、ノエル? なんだってテメェまだ此処にいやがる」

 

「ま、まだってなんですか!? 私だって心配していたのに……」

 

 余程ノエルが此処に居ることが意外だったのと、優雅にも見えるお茶会の最中とあってラグナは目を丸くして驚く。ノエルとしては此処にまだ居る理由の一つに、ラグナが心配であったという事もあり、ラグナの言い方に少しだけ頭にくる。思わず眉を寄せ半目で何かを言いたそうにラグナを睨んでいた。

 

「俺、犯罪者。テメェ、衛士。んな間柄ならそりゃあ訝しむだろ」

 

「うっ……、そうですけど……」

 

 一方ラグナとしては何不機嫌になってんだコイツ、としか思わなかった。

 勿論衛士だから即殺すとまでは行くわけでもなく、個人的に殺したくないとも考えている。とは言え少なくとも自分は心配されるような人間でもなく、衛士からしたら目の敵にされるべき存在だろう。

 意外ではあったが、過去に自分を心配するような人物は、子供時代を除けば獣兵衛しか居なかったため、どことなくくすぐったくもある。ラグナは意識していなかったが、照れ隠しも交じっていた。

 

「……むぅ」

 

 しかしノエルとしては面白くない。此方だけが一方的に心配して、それでは馬鹿みたいではないか。当然ラグナの言っていることも分かる。自分が考えていることはおかしいと、自分で否定したばかりだ。それでも感情はそれとは相反しているため、余計に頭がこんがらがった。

 そうすればますます面白くない。相手は自分の事を碌に考えていないのに、どうして自分ばかり相手の事を考えなければならないのか。実際のところラグナも様々なことを考えてはいるのだが、そんなことは伝わるはずが無かった。

 

「むむ……むぅ、卑怯ですよ!ラグナ=ザ=ブラッドエッジ! どうして私ばかりこんなに考えなければならないんですか!?」

 

「あぁ? 何言ってやがる。テメェ馬鹿か?」

 

 ノエルはやきもきとした思いにむくれながら、力強くラグナへと人差し指を向けた。自分でも何を言っているのか、とは思っていても、言ってしまった言葉は止まらなかった。

 何を子供のようなことを言っている、と。自分の頭の中では叫んでいる。それでも何故かラグナを前にすると、その警告が無かったかのように言葉が飛び出ていった。

 

「バカって言わないでください! バカって言ったラグナさんがバカなんです!」

 

「んだとテメェ……どいつもこいつも人を単細胞扱いしやがって。それならテメェも馬鹿じゃねえかバーカ!」

 

「バカバカ言わないでください!」

 

 ヴァルケンハインは突然始まった子供のような口喧嘩に、小さく溜息をついてお茶会の片づけを始めていた。その数分後、レイチェルが二人の姿を見て不機嫌そうな顔になるまで、その口喧嘩は収まらなかった。

 

 

――――――――――

 

 

 頭の中で何時までも何かが騒いでいる。男はその事実に苛立ちつつもその足を止めることは無かった。

 辺りはまだ太陽が射しこんでいないため、暗闇の中で街の外灯だけが辺りを照らしている。階層都市の統制機構本部のある上層部で、男は身体を引きずるように歩いていた。ぎらぎらとした目は焦点が在っておらず、ぶつぶつと何か独り言をつぶやきながらどこかに向かっていた。

 頭の中から声が聞こえる。その声は男にとって最も嫌悪した男の声と同じであり、単語の一つ聞くことすら苛立ちが増す要因になっている。手に無意識のうちに造られた拳は、八つ当たりをする子供のように壁を打ち付けた。

 痛みが手に走る。頭の中ではまだ何か喚いているが、男にとってはどうでもいいことだった。

 

「(ダメですよ! もう身体がボロボロだって分かってるじゃないですか!)」

 

「黙れ。お前が俺に指図するんじゃねぇよ、ハザマ」

 

 焦ったようなハザマの声は寧ろ男にとって不愉快であり、その忠告を聞こうと言う意志さえも無くしていた。

 男の躰はボロボロで、身体を殴打された跡が服にまで残っている。上層部の端とは言え、そんな姿で街中を歩いていれば通報されることは間違いないだろう。そうなることも考えずに男はただ歩いていた。

 魔操船までたどり着けばとりあえずは治療を受けられる。今この躰が『テルミ』でないと理解した以上、最低限の治療をしなければ面倒なことに……

 そこまで考えて男は自分の手に造られた拳を、上層部の端に位置する防護柵に叩きつけた。何を考えている、俺はテルミだ、そうでないはずがない。本当は分かっていることに反発する様に、男は歯ぎしりをして拳を叩きつける。

 

「……糞がっ!」

 

 防護柵を叩きつけた音が辺りに響き渡るも、それで誰かが訪れる事も無かった。

 ただ無言で、ハザマは別意識の中でそれを眺めていた。真実を認めようともせず、ただ偽りの事実にすがって生きようとしている。それを無様と呼ばずになんと呼ぶのだろう。それを一番嫌悪していたのは、テルミと男自身ではなかったのか。

 ハザマ自身もそう思う事も無かった。ただ流されるようにして生きていた中で、本当に重要な物は見つけて、それを無くさないように生きていただけだ。ただ生き延びたかっただけだ。

 

「……殺す、殺す、殺してやる。必ず、あのクソ野郎を……」

 

『……どうするつもりですか?』

 

 ハザマは男へと問いかける。今この時点で自分の身体の制御を取り戻すことは可能だ。蒼の継承者によって観測された今、男とハザマははっきりと独自の存在を確立していた。そのため融和は起こることは無く、また身体の支配権は半分は取られたものの、まだ自分の方が優先権がある。余程精神が乱れていない限り、無理やり男を眠らせることもできるかもしれない。

 今男が勝手に動かすことができているのは、ハザマが許可しているからに他ならない。その気に成れば、男の魂ごと封印することだって可能なのだ。

 

「殺すんだよ、決まってんだろうが! 俺がこの手で尊厳もなにもかもぶち壊した状態でなぁ!」

 

 そんなことできるはずがない。狂ったように喚く男を見ながらハザマは冷静にそう判断しつつも、言葉を返すことはしなかった。そうすれば逆上することは目に見えて分かったからだ。

 ハザマ自信も分からないのだ。自分にはテルミを敵にする理由もない。それでも男を放置しているのはなぜか。

 

『(……情、ですか? 嗚呼まったく、くだらない物を知ってしまったものですね)』

 

 もしも自分に体のコントロールが在ったのなら、額に手を置いて溜息を吐いていただろう。基本的に敵意と毒ばかり吐いていたような相手だったと言うのに、嫌いには成れないのは元々の気質が同じだからだろうか。

 それでも自分の命が惜しくなったら逃げ出すだろうことは自分でもわかっているため、只の価値のない同情であるという事は理解している。男がそれを知れば怒り狂う事も簡単に想定できた。

 テルミと敵対する理由は無い。だからこそそうなろうとすれば、ハザマは身体の支配権を奪って逃げだすだろう。ならば……

 

 そこまで考えて、視界の端で何か蠢くモノが見えて思考を止めていた。

 黒い塊は、昔研究施設で見た、魔素に汚染された生物によく似ている。辺りは暗くその中に浮かびだされた白いお面のような顔が、お化けのように恐怖感を募らせる。それに気が付いたのか、男もその蠢く影に向かって視線を向けていた。

 

「……グ…ギ見 け 。蒼……知 の りと新 る 叡智  晶が ク ギギギギギィィィ!!」

 

 人の声とは呼ぶことはできないが、確かに人語のような何かを言うそれは、普段は下水道に居るはずの魔素の怪物だった。街の住民からはアラクネと呼ばれたその怪物は、上層部へと繋がっていた下水道から顔をだし、濃厚な蒼の匂いに誘われてそこまで訪れていたのだ。

 身体を蠢かせて男へと飛び掛かったアラクネを、男は無言のまま蹴り飛ばす。硬化し無数の針のように身体を変えていたはずのアラクネは、まるでサッカーボールのように地面を汚しながら転がって壁へとぶつかった。

 鋭い痛みが脛辺りに感じられたが、そんな痛みを無視して男は飛び掛かってきたアラクネを忌々しそうに睨みつける。

 

「ギギ……」

 

「ああ? ……く、は、ハハハハハハハハ! 煩せぇ、ウゼェ、黙ってろこのゴミ蟲がよぉ!」

 

 硬質化したアラクネの針が蹴った時に刺さったのか、足元には血が流れている。そんな自分の状態も無視して男は笑った。

 俺はテルミだ、間違いない。世界に誇示しろ、俺が俺であるという証を。

 蒼が辺りへと満ちる。それは男が蒼の魔導書を発動させようとしている前兆であり、それに反応する様にアラクネは顔を起こした。

 

「第666拘束機関解放、次元干渉虚数方陣展開ィ! ククッ、ぎゃははははははははははははは!! そうだ、俺がテルミだ! 俺が俺が俺が俺がぁ!!」

 

 

 男は狂ったように魔導書を発動させる。蒼が渦巻き身体に装着されていくのを、ハザマは何か声をかけるわけでもなく、ただ黙って見ていることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 無限に回り続けていた輪はすでに崩れ、此処から先は確率事象の世界に入る。

 

 男たちは幻影を追い続け、置き去りにした過去と対面し、選択した。

 蒼の少女と破壊者は運命へと向かっていく。壊すべきものは、なんだったのか。

 えいゆうと英雄は、互いに互いの存在を否定した。

 

 そこから先に決められた運命など無い。今、確率事象は始まった。

 



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stage1A

CSのプロットですが、複雑すぎて妙なことになっているため、とりあえずハザマルートを直進します。


 そこに居るのは、何処にでも居そうな一人の少年だった。教室の窓に一番近い端の席で、頬杖をついて外を見る少年は、つまらなそうな目をして景色を眺めている。緑の前髪で目元を隠しているためその目元は見えない。意識をしなければ消えてしまうのではないかと思えるほど静かで、悪い意味で世界に馴染んでいる。

 そんな少年へと一人の少女が近づいた。少女の周りに居た友達が所用で席を外したため、少年の姿が目に入ったのだ。少女のふわふわとしたプラチナブロンドの髪はまるでその少女の気質の様であり、大きな丸メガネがそんな気質の中に知的な面を見せているようだった。

 流石に少年も少女が近づいてきていることには気が付いたのだろう。窓から視線を戻すと、おや、と小さく意外そうに呟いた。

 

「こんにちは、カズマさん。今日も外はいい天気ですか?」

 

「ええと、トリニティ=グラスフィールさん? ……はいこんにちは。良い天気すぎて思わず寝てしまいそうでしたよ」

 

 繕った笑顔ではあったが少年、カズマ=クヴァルにとってそれはいつもの事であり少女、トリニティも、そんなカズマの笑顔がそのまま思いを表していると思っていた。

 トリニティはカズマの言葉に意外そうに目を丸くする。カズマとは多く話すわけではなかったが、物静かなところなどから、授業をしっかり聞いていそうな真面目な人だと思っていたからだ。

 

「驚きましたぁ。授業をしっかりと聞いていらしたのかと思っていたのですが、カズマさんもやっぱりお日様の下では眠くなってしまうのですね」

 

「それはそうですよ。でもトリニティさんもそうでしょう? 前の授業中に、はなちょうちんができていましたし?」

 

「え? えぇ!? えっと? 私ったら……」

 

 あたふたと恥ずかしそうに顔を赤らめるトリニティに、カズマ軽く握った拳を口元に置いて小さく笑い声をこぼした。自分の言葉に慌てる姿を見せるトリニティの姿がおかしかったからだ。

 両手を頬に置いて恥ずかしがっていたトリニティだったが、カズマの姿に言っていることが冗談だったと分かり、困ったように目尻を下げる。

 

「もう、カズマさん? 嘘をつくなんて酷いです。それに私は授業の最中に寝てなんていませんよぉ」

 

「軽い冗談ですって。そんなに真に受けてしまうと、いつか酷い勘違いをしてしまいますよ?」

 

 肩をすくめるカズマにトリニティは頬を膨らませる。ただ、そんな些細なやり取りではあったが、トリニティはカズマと過ごすその時間が嫌いではなかった。

 だがその相手はどうだったのだろう。どんな空間に居ても、トリニティの目の前に居る少年は何も感じないように見えて、なのにいつも笑っているから分からないのだ。カズマについて知っていることは、記憶を失っている、という事だけで、本当はなにを思っているのか、などという事はトリニティにも分からなかった。

 だが只のクラスメートであるトリニティはそこまで深入りするつもりもなく、大きな問題が急に発生したわけでもなかった。だからこそ、のどかな二人の会話は続いて行く。

 カズマは知らない。誰かが感情を動かす場面で、感情を動かす方法を知らない。

 そしてトリニティは、そのことに気が付く事も無かった。

 

 

 ゆりかごの様に揺れる地面は、少女は意識を夢から現実世界へと引き戻した。クリーム色なフードの下の眼はまだ眠いのか、何度か手で擦って少し赤くなっている。

 身体を預けて寝ていたところから身体を起こし、そこにそのままバランスを取りながらぼんやりと風景を眺める。魔素の濃度が高い地表ではあったが、術式によってそれを防いでいるため、ある程度寝る余裕などもあった。そのためか翠色の瞳は何度も閉じる開けるを、少女がうつらうつらと船を漕ぐのに合わせて繰り返している。

 

「ルナ~、もうそろそろ起きなきゃだめだよ~」

 

「……うっさいぞセナ。ルナは寝てなんて……むにゃ」

 

 それは傍から見れば奇妙な光景だった。一人の人間が自分に向かって自分を起こし、もう一人はそんな自分の言葉を聞いて返している。

 彼女の名はプラチナ=ザ=トリニティ。一つの身体に二つの意識がある少女であり、今はそんな二人の内一人が、夢の中へと言ってしまった。

 布に巻かれた少女よりも大きな杖を背負い、小さな寝息を立てるプラチナ。そんなプラチナの様子を居心地が悪そうにしていたのは、彼女が寝ていた床だった。

 

 

「……む」

 

「……申し訳ないニャス、もうすぐ村まで着くから、それまで辛抱してほしいニャス」

 

 

 そこに居たのは大きな赤い巨漢の男と、黒いフードにゆらゆらと尻尾を揺らしているカカ族の女だった。第七機関のサイボーグである男、アイアン=テイガーの身体は大きく、肩に居る少女が落ちぬように時折バランスを取りながら歩く様は、統制機構や第七機関に居る者が想像する赤鬼の姿と結びつけ難いだろう。

 時折軽く飛んでプラチナの後ろを支えるのは黒いフード姿のトラカカだった。深い眠りについていたためか、なかなか起きぬプラチナに呆れていたところに、カグツチへと向かう際中のテイガーと遭遇した。

 トラカカとしては争うつもりもなく、獣避けとしても第七機関の赤鬼とも呼ばれるテイガーは心強い。幸い向かう場所も同じで、カカ族の抜け道という交換条件も整っている。テイガーとしても女子供を魔獣も居る森へと、そのまま放置するようなことはしたくは無かった。

 

「ああいや、不満や苦などがあるわけではないぞ」

 

 テイガーの苦い表情に対するトラカカの申し訳なさそうな声に、テイガーは肩のプラチナの姿勢を器用に直しながら答える。

 だがそこに居るのはトラカカだけではなく、夢の世界に旅立っているプラチナも居る。初めはトラカカが背負っていたのだが、テイガーが肩に乗せて運ぶと提案した。元々敵対するような立場にあるわけでもなく、テイガーのそれは彼自身のトラカカへの気遣いだろう。風貌は厳つく声質も低い男であったが、立ち振る舞い自体は紳士的な人物である。

 

「ニャス? それなら何か懸念でもあるニャスか?」

 

「……ふむ、これは話してもかまわんか。現在カグツチは図書館にLv.D警戒警報が出されている。そのことは?」

 

「ああ、他機関介入不可のアレニャスね」

 

 テイガーは少し考え任務の支障にならぬよう言葉を選ぶ。

 Lv.D警戒警報、なにか重大な事件が起きたとき統制機構によって出される都市への他機関の進入を禁止する警報である。テイガーも第七機関所属の戦士であるため引っかかるのだが、敵対している組織の言う事を聞く必要もなかった。

 トラカカにもテイガーが何を言いたいのかなんとなく察しはついた。ふとテイガーの肩で眠りこけるプラチナに視線を向ける。

 

「……今のカグツチは十分危険な場所だろう。少なくとも、観光するには不向きな場所だ」

 

 現在カグツチはある意味無法地帯でもあった。テロで混乱していることもあるが、S級賞金首に始まり、六英雄、第七機関にアークエネミーの所有者たち。おまけに在る程度の統制を取っているはずの支部の衛士が人っ子一人すら居ないとくれば、どれだけ危険な場所になっているのか想像できなくもない。

 

「無論戦う事を主にするわけではないのだろう、しかし危険なことには変わりない」

 

「その子を心配してくれるニャスか?」

 

「……戦士として最低限すら無いのなら、近づくべきではないとは思うが」

 

 テイガーは肩をすくめようとするが、プラチナが肩で寝ていることを思いだして、何もせずに歩みを進めた。

 テイガー自身と関係はないが、眠りこけているプラチナが気がかりであるという事はある。今はトラカカが、そしてテイガーが居るため安心しきっているのだろう。だがカグツチに着いてからは一人だ。無論、トラカカが世話をするのならその限りではないが、テイガーの視点からそれを想像することはしなかった。

 

「心配してくれてありがとうニャス。だけどこの子は大丈夫ニャスよ」

 

「ほう?」

 

 トラカカの断言する言葉に、テイガーは意外だと言うように相槌を打った。その根拠がこの少女の背にあるものなら鼻で笑うが、そんな愚かなことを言うようにも見えなかった。

 

「この子は獣兵衛さまに、しっかりと鍛えられているニャスから」

 

「獣兵衛? というと、あの六英雄の?」

 

 タオカカから出された人物の名前に、思わずテイガーも驚いていた。

 獣兵衛、暗黒対戦の中主力として戦った人類に最も知られた英雄の一人。その人物から直々に鍛えられたと聞き、テイガーはプラチナへと視線を移す。

 相変わらず眠りこけている。獣兵衛さまぁ、と顔をにやけさせて寝言を言う姿からは、とても六英雄の一人に直々に鍛えられたところを想像できない。

 

「まぁ、獣兵衛さまもプラチナを本当の娘のように可愛がっているニャスから、少し甘いことは否定しないニャスよ」

 

 肩をすくめるトラカカは、それ以上語ろうとはしなかった。テイガーとしてもこの辺りが切り時であると考えているため、何か尋ねる事も無かった。

 暫く無言でカグツチへと歩き続け、風の音とプラチナの寝息が二人の耳によく届いていた。だからだろう、テイガーに備え付けられた通信機から低い声が漏れ、それは二人によく届いていた。

 

 

 

『……本当の娘のように、ねぇ』

 

 

 

 低い声だった。

 本当に忌々しげに言うようなその声は、テイガーの上司のものだった。恐らくこの場にその上司が居たのなら、思春期の女子が父親の成人向け雑誌を見つけたような目つきをしているだろう。おまけにその日はハクメンが脱走した直後であり、その上司の機嫌は悪くなる一方だった。

 通信機から洩れたたった一言の上司の呟きに、テイガーは思わずため息をつく。今日はいつもにも増して無茶ぶりが来るかもしれない。哀愁が漂い始めたテイガーの背中に、トラカカは思わず同情の視線を送っていた。

 

 

―――――

 

 

 第13階層都市「カグツチ」、2200年の幕も開けるその場所はもうすぐ日も登り、起き始めた者達は新年を迎えて祝い事の一つでも行われていたはずだった。しかし市内にはまだ日も登っても居ないにもかかわらず人は外に出て、祝賀の雰囲気とはかけ離れた空気が流れている。統制機構の支部でテロがあった。ラグナ=ザ=ブラッドエッジが爆破テロを行った、など、あながち間違いでもないからこそ、住民たちは外に出て噂話が広がっている。

 階層都市上層部も同じようなものであったにもかかわらず、その場所は極めて静かだった。なぜならそこが統制機構が公にすることのできない任務の際に利用する、5番ポートへの道のりでもあったためだ。時間が時間でもあり、はずれに位置するその場所には、わざわざ街の市民は近寄らない場所であるという理由もある。

 だからこそそこで戦闘を行われていると言うのに、誰も気が付かないという事態に陥っているのだろう。

 黒い塊から砲弾のように吐き出された、黒い粘着質の物体は男の身体を捉え、その勢いのまま壁まで激突した。思わず肺から空気を吐き出して、腕を振って付着した粘着質の物体を振り落しつつも、その視線は奇妙な姿勢で立つアラクネへと向けられていた。

 

「(……んだ、これは)」

 

 空中に浮いて姿勢、形を変えたアラクネは、巨大な槍の様な形状になって飛翔する。当然その行先は男の方向であり、転がるように避けた男は深々と突き刺さりやがて元のヘドロ状になったアラクネの姿が視界に入る。その男が体勢を立て直すよりも早く、何かが男へと飛来した。

 

「蟲だと、ちっ……」

 

 男がナイフで宙を切り、地面に落ちていったのは虫だった。口だけが肥大化したもの、地面にぶつかりその衝撃で潰れているにもかかわらず、次から次へと弾丸の様な速度で男へと向かうものなど、火へと吸い込まれる蛾の如く男へと集まってくる。

 それを男はナイフで切り刻み、時には避けていなしていく。その様子を観察しているアラクネは、自らも蟲を操り男へと寄せていた。

 

「っざってぇんだよクソムシがぁ!! 後ろに下がって指揮官気取りか、あぁ!?」

 

 足元に飛んできた蟲を足で蹴り飛ばし、ナイフで切り落としながら男は召喚術式を発動した。

 初めに現れたのは蛇の頭を模した鎖の先であり、銃弾のように発射されたそれは後ろで蟲を操るアラクネへと向けられていた。

 当然アラクネもそれを回避するために宙へと避ける。それに合わせて男は鎖を掴むと、大きく振って鎖に波を造りだした。カエルを潰したような声が響き渡る。波に合わせて蛇のように動いたそれは、宙へと逃げようとしていたアラクネを確実にとらえて直撃させていた。

 

「ギャ、グギャ!」

 

 だがそれはアラクネにとって致命傷にすらならない。地面へと墜落したアラクネだったが、散らばった魔素はそのまま本体へと蠢いて戻り、元の形を作っていた。

 手元に戻した鎖を見て男は舌打ちする。ウロボロス、だがそれはアークエネミーではない。正式名、模倣事象兵器ウロボロス。レリウスとテルミが作り上げたそれは、本来求められている黒き獣を相手するための力、魂自体に傷をつけることができぬ欠陥品だった。ウロボロスによく似たそれをテルミが作り上げたのは、男の道化ぶりを楽しむためだろう。それを理解できるからこそ、その鎖を見て奥歯で男は歯ぎしりしていた。

 

「 れ」

 

 そうして怒りの感情を抱き隙が在ったところを、アラクネは見逃していなかった。

 そのほんの小さな隙をついて、戦いの余波でひび割れた地面へと潜り込み、男の足元へと移動する。形状を剣山のように変化させ身体を硬質化させたそれが、男の足元に現れた。

 

「! ……っく」

 

 その気配を察知して寸でのところで地面を蹴り飛ばすことで回避し、そのまま地面から姿を現すアラクネを忌々しく睨みつける。そうしながらも徐々に視線は自分の右腕まで持っていく。ラグナ=ザ=ブラッドエッジが蒼の魔導書を付けている場所。思わず男は舌打ちをしていた。

 

「(……蒼の魔導書が発動できねぇ、糞っ……)」

 

 蒼の魔導書は使えない。正確にはウロボロスと同じく蒼の魔導書の模造品は、ムラクモユニットと同じく境界から力を引き出す性質がある。

 そして、そんなものをただの人間であった(カズマ)に使えるはずがない。ハザマの補助があったからこそ、テルミと対峙した時には使用できたが、本来ならば人間の思考能力で発動のできるものではない。よしんば使用できても、身体を一歩動かすことすらできないだろう。

 だから自分のみの力でアラクネを撃退しなければならない。こんなこともできないのか、と。自分のプライドが男の背中を蹴り飛ばし、舌打ちを一つついた時だった。

 

 かふ、と咳き込み、男の口から血が零れた。

 

「っ!? ガァッ!? グ、なん、だ」

 

「(まずっ!)」

 

 男の急に現れた吐き気と共に、身体に火鉢を体に突っ込んでかきまぜたような痛みが、身体中を走って暴れた。頭の中でハザマの焦ったような声も、意識に持っていくことができない。それほどの痛みに、無意識のうちに男の膝は地面についていた。

 それはテルミと交戦した後に使用した、再生の術式を抱擁した薬の副作用だった。かつてイカルガ内戦の最前線で使われていたそれは、痛みを緩和するために薬を使わなければならないほどの副作用を持っている。ハザマの躰は既にボロボロであり、無理やり再生の術式によって傷を癒した。だが、それに伴う痛みは取れてはいなかった。

 

「(こんな時に痛み止めが切れますか? ……まずい、アラクネさんは……)」

 

 ハザマ自信にも情報が入らない。視界自体は男と共有しており、今男が蹲って地面しか見ていない以上、視野に入れることなどできるはずが無かった。

 そして先ほどに比べ大きすぎる隙は、隠れたアラクネを見失うには十分すぎる時間だった。戦闘中であり、敵を見失うなど殺してくれと言っているようなものだ。

 男の頭の中が真っ白になり、次の行動が浮かばない。テルミならばここを何の苦も無く、たとえ術式を発動するための魔素すら無くても切り抜けられるだろう。だが、今の男にそれができない。

 

 当然だった。遥か昔の話であったが、ほんの数匹の半獣人相手に逃げることしかできなかった男が、幾人もの咎追いを喰らっているバケモノを相手取ることなど、できるはずが無かった。

 

 

「蒼、蒼だ! ク キキキキ キキィ! あぁ う食べ しまいた! いただ ます!」

 

 

 男の視界が真っ黒な何かで塞がれる。男の身体全体を包み込みこまれたとき、とっさに動いたのはハザマだった。術式を計算し、身体の表面に術式障壁を造りだすと、酸をこぼしたようにスーツを穴あきにするアラクネの体液を防いだ。

 今の躰の使用者は男であって、思考の一つに過ぎないハザマであったが、独自で術式を打ち込み発動することはできる。身体の使用権を奪い返してから行動していれば、アラクネの腹の中でスーツの一部と同じように溶かされていただろう。

 

「クソ!クソッ!クソがァ! どうして俺が、俺はテルミだろう!? こんなゴミ屑相手に、何をやってんだ!?」

 

 薬の副作用の痛みで身体はろくに動かすこともできず、皮膚が溶ける痛みは拷問のようであり、口からは泣き言の様な言葉が漏れるだけだった。

 男自体に何かができたわけでもない。せいぜい純粋な少女を言葉巧みにだます程度の事だけだ。ただテルミがその身体を動かしていたからこそ、六英雄として存在できていたのであり、自身がそのテルミでないという現実に気が付いた以上、身体を動かしていた幻影、イメージが存在しない。迷いなく動いていたはずの躰は、カズマという少年の判断で動かすしかなく、ぎこちない動きだけしかできなかったのだ。

 ハザマは冷静に状況を見据え、身体の使用権を自分に映そうとした。今の男が満足に動けるはずもなく、この薬の副作用にはある程度慣れもある自分ならば、抜け出して逃げる程度の事は出来るだろう。そうして行動しようとした時だった。

 

 

「ッ、ガァッ!?」

 

 

 黒一色だった視界が一瞬で無くなって、身体へと衝撃が訪れる。アラクネの粘液によって溶かされたスーツはボロボロで、衝撃に流されるまま男は地面を転がった。

 声も出ず上下左右も分からなかった男の頭が、自分がアラクネによって吐き出されたのだと理解する。もしも周りに人が居てその様子を言うのならば、味のなくなったガムを吐き出すようだった、と答えるだろう。

 

「キ マ蒼 ゃない。いらな 」

 

「……テ、メェ」

 

 男が激痛の中投げ出された四肢に力を込め、緩慢な動きで顔を起こす。

 アラクネの白い面からは表情はうかがえない。ふい、と後ろを向いて元来た下水道の入口へと向かっている姿を見れば、男に対して興味を失ったと言っていることと同じだった。

 それを男は眺めていることしかできない。下水道にアラクネが入る直前、白い面が確かに男の方を向いて言葉を出した。

 

「キサマ サマキ マ知って か? 少女 黒しか選ばな 。偽物のキサ など、振り向く価 すら い欠陥品だ。キキキキキキ!」

 

 アラクネの言葉には確かに嘲笑があった。無様な姿を晒しているその存在が、いかにもおかしいと言うように仮面が揺れてその言葉は出されていた。

 

「待ち、やがれ、テメェ」

 

 アラクネの言っていた言葉は所々が切れていて聞き取りにくい。だが、その嘲笑は男にも伝わっていた。

 体の中を暴れる痛みの中で身体を動かそうとしても、僅かに震えることが精一杯だった。消えていく影をただ眺めることしかできず、男は力を入れることすら諦め、地面に倒れ伏す。

 

「俺を……偽物と呼ぶんじゃ、ねぇ」

 

 

 すでに身体も男の精神も限界を超えている。そんな言葉を残して、男は意識を失った。

 

 

―――――

 

 

 光が差し始める明け方、男が倒れた場所に近づく影が在った。とある事情で統制機構の支部へと朝早く訪れたその影は、そこに倒れた男の事に気が付いて慌てて駆け寄った。

 大きな男だった。顔には斜めに交差した傷跡が残り、首元には赤いマフラーのような布で巻かれている。引き締まった体はその男が戦士であることを物語っていた。

 

「やや! ……これはむごい有様でござるな……と、いかぬ!? おいおぬし、息は有るでござるか!?」

 

 

 

 

「……生きていますけど、死にそうなので助けてくれません?」

 

 へら、と倒れた男、ハザマは軽い笑みを見せた。




アラクネのボイス集は何気に面白いです。
いまさらですが、ハザマさんはゲームにおける2Pの同キャラという位置づけです。


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satge2A

バングなし小説。物語はまだ進みません。


 雷が響きレイチェルの周りへと飛来する。ソードアイギスと呼ばれたその魔法は彼女が仕掛けていた避雷針へと被雷し、辺りへ雷撃を拡散させていた。それを受けたのはユキアネサを杖の様にして身体を支えたジンだった。

 ジンの身体から反射の様に漏れた苦悶の声はレイチェルにとって耳障りな物だ。遂に体も支えきれなくなり、地面へと倒れ伏すジンへとレイチェルは近寄り見下ろした。

 

「……無様ね。与えられた言葉は聞かず、こうして時を経てもお兄さんに頼って泣いてばかり。自分で見ることも考えることもできない、何時になったら貴方は子供ではなくなるのかしら?」

 

「……きさ、ま」

 

「何その目は? 不躾に私を眺めれば、貴方が大人になってくれるのかしら? 小さな小さな『英雄さん』?」

 

 レイチェルにとってジンと言う存在は見苦しい、ただその一言に尽きた。世界から求められている役目が在る、それを全うしろなどと言うつもりは無い。だがラグナに縋り付いて足を引っ張るだけの存在に、思う事など無い。

 一度世界を滅ぼさなければ目を覚ますことすらしない、だからこそレイチェルはジン=キサラギに興味は無い。だがそれも言っていられなくなった。傍観者に徹していられなくなった、ただそれだけのこと。

 

 身体起こそうとしたが何もできず意識を落としたジンを見て、レイチェルは自分の背後にある気配に声をかける。何時からそこに居たのか、老執事の影がそこには合った。

 

「……ヴァルケンハイン、彼の手当てを」

 

「承知いたしました。レイチェル様、お茶の支度が整っておりますが、どうなさいますか?」

 

「遠慮するわ。少し、外を見たい気分だから」

 

――――――

 

 

 オリエントタウンはいつもの通りの賑わいを見せていた。統制機構支部がラグナ=ザ=ブラッドエッジによってテロ行為を行われた、という情報が飛び交ったものの、一部の場所以外に大きな被害も無く、さらに下層特有のコミュニティもある。未だ混乱が続いている場所も確かにあるが、喧噪が絶えないのはいつもの事である。逆に上層部が大混乱でいい気味だと思っている者も少なくは無いだろう。

 そんなオリエントタウンの一角に一人の少女の影が在った。階層都市の端から空を見上げる少女――レイチェルは、無表情の中にわずかながらの苛立ちを含ませながら佇んでいた。

この場所に来る少し前、ジンと対面し少し躾けたからだ。どの事象でも自分の兄の背中を追いかけるだけの子供、周りから持ち上げられただけの英雄の変わらない姿に苛立たないはずがなかった。

 何時までも自分で立とうともしない者に興味は無い。それが例え抗体と呼ばれ秩序の力であったとしても。そんな子供に躾けなければならない程、苛立つことは無い。子供――ジン=キサラギと躾けのついでに一戦交えて這いつくばせたが、そんなことはなんの気晴らしにすらなりはしなかった。

 

「よう、何か面白いものでも見えたのか?」

 

 そんな苛立ちを交えた雰囲気を出すレイチェルに話しかける人物がいた。

柔和な笑みを見せて軽く手を挙げた猫、正しくは猫人である獣兵衛は、軽くレイチェルへと尋ねる。

 目を細め冷ややかな視線を向けてレイチェルは面倒くさそうに応えた。

 

「……本当にそう見えるのなら、貴方のもう一つの眼も抉り落した方が良いのではないかしら? 片方だけでは不便でしょう?」

 

「ははは、両方無くなってバランスが良くなっちまうから止めてくれ」

 

 予想通りの辛辣な言葉を獣兵衛は軽く流して笑う。

 レイチェルとの面識はそれなりにある。ざっと100年近く知っているのだから、そんな反応が返ってくることは予想ができたのだ。

 

「悪くは無かったはずなんだがな。ラグナに変化が其処に在って、前に歩き出したんだからな」

 

「……はぁ。ラグナにえいゆうさんに彼、子供の相手をしている暇は無いのだけれど」

 

 何時から私は保育所の保母になったのかしら、と。冗談交じりに言うレイチェルに対して獣兵衛は思う。人類にとってはそういうモノではないか、と。監視と言ってしまえばいい方は悪いが、行く末を見守ってくれているという点では似たようなものではないかと思う。しかしそれを言葉にはしない。獣兵衛は空気の読める男だった。

 

 

「ん? じゃあジンはお前さんの所に行っていたのか。……やりすぎてはいない、よな?」

 

「散々ラグナに無茶していた貴方がそれを言うのかしら? 英雄さんのあまりにも幼稚な姿を見せられるのは、なかなか苛立たせてくれるものがあったわね」

 

 レイチェルの悪びれる様子もない姿に、額に手を当てて溜息を吐く。彼にしてみれば、せっかく治療した人物をまたボロボロにされたのだから、ため息の一つでも付きたくもなるだろう。

 

「成長を望まないわけじゃないんだがなぁ」

 

 しみじみと言う彼の中には、ラグナと一緒に連れてきたその人物への親心に似たものがあった。そんな獣兵衛の意志を知ってか、レイチェルは呆れるように答える。

 

「寧ろ貴方が過保護すぎるのではなくて? 前にも……いえ、これは貴方には関係のないことだったわね」

 

 レイチェルの不自然に切った言葉に内心で獣兵衛は首を傾げ、何か言いたげな視線を向ける。

 レイチェルが思い出していたのは幾つか前の事象での獣兵衛だった。ハクメンと対峙して、斬られかけたラグナとハクメンとの間に割り込んだのだ。尤も、その後でラグナはカカ族の娘と食い逃げをしているがそこは割愛する。そんな事象もあり、レイチェルとしては獣兵衛の行動に幾つか甘いと思える点が無いわけでもない。

 咳払いを一つして獣兵衛の視線を遮る。声をかけたのは実際のところ獣兵衛が先であり、空気を戻すことで本題を促す。

 

「それで、こんな話をする以外にも何か用が在るのでしょう?」

 

 昨晩第七機関で拘束されていたハクメンを解放し、オリエントタウンで合流するつもりだった。その合間に『抗体』であるジンへと顔を合わせ、自分と交戦して倒れ伏すその不甲斐なさに苛立って離れた数分後に獣兵衛と出会ったのだ。

 獣兵衛としても苛立ちが目に見えていたレイチェルへと話しかけたくは無かったが、用事がある以上話しかけるしかない。まずは、という事で簡単な世間話から入った。

幾らか気が紛れたのかいつもの表情のレイチェルを見た獣兵衛は、それに従い柔和な表情を引き締め静かな口調で答えた。

 

「『彼女』が向こう側に居る」

 

「……それは確かなの?」

 

「ああ、ジンを送り出してから襲撃されて、な。よくもまぁ逃げ切れたもんだと、俺自身も感心しているよ。家から『コレ』を持ち出さなければ、万が一が在っただろうな」

 

 獣兵衛が見せたもの、それはかつて暗黒大戦で使われた、短刀の形をしている兵器だった。

 短い言葉の中の意味を読み取り、レイチェルはわずかに目を見開いて問い返す。

 向こう側、すなわち彼女たちが敵対する側であるが、獣兵衛の言う『彼女』という言葉に特別な意味が在った。その意味を理解しているレイチェルだからこそ、訝しむ様に眉をひそめる。なぜならその『彼女』と呼ばれた存在は百年も前に命を落とした人物だったのだから。

 

「……無論、お前さんが動くことは無いだろうが……、万一に成りかねる相手があちらに居るという事は把握してほしい」

 

 獣兵衛がレイチェルにそのことを伝えたのは、警戒を促すためだった。『彼女』の使う魔法という技術は、場合によってはレイチェルの身を脅かす手段にも成り得る。

 

「……それは忠告? それとも心配していただけるのかしら?」

 

「はは、もちろん忠告の意味もあるが、大半が昔馴染みへの心配に決まっているだろう?」

 

 朗らかに笑う獣兵衛に裏は無く、おどけたようにウィンクする。暗黒大戦から長い時を経て、獣兵衛がミツヨシと名乗っていた頃と比べ大分柔らかい雰囲気を出している。そんな邪気のない笑みにレイチェルもつられたように小さく笑いを零した。

 

―――――――

 

 薄暗い空間はぼんやりと薄く発光していて、どこか機械の出す刺激的な強さが有りませんでした。驚くほど高い天井に照明器具やら電線を引っ張ってくるのも面倒ですし、そもそも一般人が入り込めない場所に電線を通す技師が来るはずがありません。

 それもそのはず、私が立っているのは世界でも正しい意味で十本の指に入る魔法使いしか入ることのできない部屋ですから。さすがに魔法使いで配線技術の持ったハイブリットな人は居ないでしょう。

 

「と、それでもココノエ博士が居れば何とかしてくれそうですよねぇ……いや、もしかしたらナインさんも…?」

 

 何時もの様に帽子を押さえ、しゃがみ込んだ身体を立たせる私こと、ハザマです。苗字は有りません。しいて言うならテルミとかクヴァルですけど、どっち使っても私がズタズタになる未来が見えるので、この際なくてもいいんじゃないかと思っています。

 そんな私が立っているのは夢の中でした。よく夢の中に居てどうすれば目を覚ますかふと考えてしまう明晰夢という現象がありますが、それをずっと継続している様な状態です。具体的に言えば、仮想空間で好き勝手に動けるような状態ですね。

 そんな仮想空間の舞台になっているのは、彼の過去でした。彼がまだテルミでなかったころの世界で、完全に変わった場所であるイシャナの最奥に私はいました。

 イシャナ――暗黒対戦時代には世界一安全な島と呼ばれた魔導協会の総本山です。

 

「こんな所に来たって、いったい私はどうすればいいんでしょう……ってうへぇ、初めから死体ですか」

 

 外に出ようと歩みを進めた私の足が蹴ったのは、人の半分ほどの体長の死体でした。血溜まりのなかに沈む身体は、本来あった薄い青と縞の毛並みを染め上げています。ただその身体は地面に固定、と言うより世界に固定されたように動きません。

 名前は確か……トモノリと言った獣人で、獣兵衛様の弟でいらしたような気がします。……凄いですね、彼。よく考えたら獣兵衛様に殺される理由がまた一つ増えたのですが。私キサラギ少佐を殺してしまったらさらに理由が増えたんでしょうか。今度少佐に会ったら真っ先に逃げましょう。抗体やユキアネサにロックオンされたらシャレに成りません。

 とにかく私はトモノリという人物について興味もありません。さっさと窯のあるイシャナ最奥の部屋から出ると、うんざりするほど高い階段を見上げて溜息を吐きました。

 

 聖堂の外は幾らか涼しくありますが、春らしい陽気な光が体に注がれるため肌寒い塔ことは無いようです。確かこの時期も春だった、と。私は彼の記憶を思い出しながら歩みを進めました。

 この世界には人っ子一人すらいません。ゴーストタウンに一人紛れ込んだような状態であるにもかかわらず、生活感だけは溢れる世界に違和感だけしかありませんね。そんな私ですが、とにかく人でも探そうと興味本位で足を校舎へと向けました。

 

「とはいえ、これが彼が見ていた世界ですか」

 

 この世界は彼の記憶です。だからこそ人は誰もいないのでしょう。何も感じることが無く、ただ生きていただけの時間に意味を見出すこともありません。他者にすら興味のなかった彼にとって、誰が居ようが居なかろうが世界は同じなのでしょう。

 

「トモノリさんが居たのは、まぁそういうことですね」

 

 蒼によって自分を確立し、完全にテルミさんと混ざり合うほんのわずかな時間。そのとき初めて周りに居る誰かに意味を感じ、世界に居ることの実感を得たからこそ、トモノリさんはあそこに倒れてオプジェになっていたようです。

 ではそれ以前に彼はどうだったのでしょう。何も感じることなく生かされていることなど、どこぞの素体と似たようなものです。だからこそ彼は自分を肯定する様に、人形と言う言葉をよく使っていたのでしょうか。

 まあ無感情な素体でもラグナという存在が居ましたし、彼にも彼女が居たので、何らかの感情は在ったのでしょう。でなければ、私自身が存在していません。

 私と言う存在自体が、彼の過去にテルミさんに影響を受ける前の記憶から造られたようなものです。今がいくらアレでも昔は何が悪くて良いのか、実感はなくとも知識と言う面では知っていましたから、私にもそれは受け継がれています。

 まあ、生活していたところが学生と諜報部、未成年と大人という大きな違いはありますけど。私も無気力で過ごし、マコトさんとも出会わなかったらあんなヒャッハーな感じになっていたのでしょうか。

 

「……いやーないですね。あんな前衛的な髪形は」

 

 あんなワックスで塗り固めたような髪型はちょっと……。「どうしたんですかハザマ大尉! もしかして剣山リスペクトですか!?」 と、マコトさんにもからかわれそうです。

 まあ、彼との最大の違いは、どうでもいい空間に対して意味を感じてしまったことでしょう。ごくごく当たり前に過ぎていく空間に対して、私はプラスの感情を得た。彼は何も持たなかった。それだけの違いだと思います。

 

「……ん?」

 

 旅行が趣味の一環でもある私ですので、ぶらつくことは苦でもありません。特にイシャナなんて場所は二度と来られる場所ではないので、のんびり見ていこうと学園にまで足を運びました。

 疑問の声を上げてしまったのは、人一人すらいない、合ったのは獣人の死体という世界の中に、倒れている影が在ったからです。階段近くの壁には罅が在り、そこに背中を預けるように崩れ落ちていたのは、フード姿の女性でした。イシャナで指定されている制服を着ているので学生でしょう。軽く柔らかなプラチナブロンドの髪がフードの下から見えています。

 その姿の持ち主を彼の記憶から引っ張り出し、やはりと思って軽く息を吐きました。

 

「あー、ええ、まあそうでしょうね。彼が『彼』であったころに印象が残っていた人物は、彼女ぐらいでしたか」

 

 トリニティ=グラスフィール。白金の錬金術師と呼ばれ、六英雄の一人でもあるその人物は、彼が唯一興味を示した人間であると言えるでしょう。その人物が、誰もいないはずの仮想世界で姿をつくり、倒れていました。

 どうやらどこぞのシスターは彼の中では人外なので除外されているようです。というか私にとってもあのシスターは不味いです。……いやまぁ『その魂』が私の術式の一つに使われているとから何とも言えないんですが。レリウス大佐マジ鬼畜。流石奥さんを人形に詰め込むだけ有りますね。

 さておき、私自身は彼女に思う事一つすらありません。お人好しな人物で話せば好感情を得るとは思いますが、何しろ会話の一つすらないですから。上司の奥さんを紹介されたって別に何も思わないでしょう、それと同じです。…………そういえば私の上司の奥さん人形になっているんですが……。考えるのは止めましょう。あれはただの鬼畜メガネです。

 彫像のように動かない彼女の顔に合わせるためにしゃがみますと、その表情がうかがえました。大きなメガネの下の眼は伏せられていますが、その端からは一筋の涙が滴っています。

 

「信じたいと思わせて最後の最後でドン! ……嫌ですねぇ、どうして私の周りは鬼畜しか居ないのでしょうか?」

 

 信じていた者に裏切られる、私も私が普通の人であるという思いを裏切られたわけですから、ショックであることは想像できます。帽子を指で回しながら溜息を吐くと、私はカグツチの支部に行く前に言った言葉を思い出して呟きました。

 

「だから私は言ったんですよ、最後に泣かせていくよりもマシだと」

 

 楽しい、だから笑う。嘘と偽りで塗り固められた世界でどうして、馬鹿みたいにへらへらとしていられるのか、そう彼は笑うでしょう。

 所詮は始点の違いです。私はただそうやって笑う事が楽しいと理解した、彼はそれを嫌悪した。テルミさんは……まぁどうでもいいですね。私にはもう関係のない人ですし。

 

「さて、そろそろ行きましょうか。どうせ居る場所は分かっているのですから」

 

 埃を叩いて立ち上がると、帽子を頭にかぶり直して踵を返しました。

 どうせ学園なんて大体どこも同じでしょう。ここにグラスフィールさんが居ると、なんとなく思ったから見に来ただけです。

 いい加減殺風景には飽きました。会話らしい会話が無いと人間は野獣に戻ってしまうそうですから、有意義な対話でもしに行きましょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 私とテルミさんはもう既に答えは出ています。

 

 では『彼』は何を思うのでしょうか。

 

 




次回『彼』の精神世界編はラスト。その次から話が動きます。
なお最初の方に見せたのはCルートの一部。


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stage3A

前回のあらすじ!
ジン「ウボァー!」
獣兵衛「お疲れさん、『彼女』が居るみたいだから気を付けたほうがいいぞ」
レイチェル「忠告受け取っておくわ」
ハザマ「うーん、気絶して『彼』の精神世界に来たのはいいですけど、さっさと出たいですね。早く『彼を探しますか』」

大体あってる。本編入ります


 人の感情には途方もない力が在る。ラグナ=ザ=ブラッドエッジが復讐のために世界を敵に回すことができたように、怒りという感情は原動力になる一番の感情だと言えるだろう。

 ならばこの男の持つ怒りと言う感情が何を産めるのか。壁へと背を預け、斜め下の地面を何の感情も無く眺めることしかできないその男は、一見すれば穏やかにも見えているだろう。しかしその心情は異常とも言えた。自己を構成し芯と成る思考を奪われ、行動を起こすこともできない。見下ろしてしか居なかったはずの誰かに踏みにじられ、何もできない様を晒し、男はただ無感情にそこに在ることしかできなかった。

 男の耳にドアを叩く音が届く。それに男は反応することは無い。

 

「もしもーし? すみませんここ鍵がかかってるんで空けてくれませんかー?」

 

 それは気の抜ける様な自分の声だった。自分、というのは正しくは無い。正確には同じ肉体を共有していたハザマの声であり、分離している今この場所が現実ではない事を表している。

 何の反応も無かったからか、ドアノブを何回も回す音が聞こえてくる。やがてそれも聞こえなくなり、一つ溜息を吐いた音が聞こえたかと思えば、部屋を隔てていたはずのドアを蹴りつける音が聞こえた。ハザマが管理室から鍵を取ってくるのが面倒になったのだろう。

 そしてドアが蹴り破られるまでそう時間はかからなかった。ドアが倒れて騒音を出すことも、金具が壊れ転がる音が部屋中に響き渡る。自分の視界に入ってきた影に、男は少しだけ顔を上げてそれを見た。

 ハザマの姿はそのままだ。白い髪を帽子で隠し、ダークグレーのスーツを身に纏い飄々とした足取りでそこまでやって来た。

 

「居た居た。やっぱり此処に居ましたか。勘弁してくださいよ自分の精神世界に籠るとか」

 

 部屋の椅子を引っ張り男の前に置くと、入ってきたハザマは背もたれの上に顎を置いて、馬にまたがるように椅子へと座った。

 

「あ、そう言えばトリニティさんが学内で倒れていましたよ。なんやかんやで『カズマ』さんとしては思うところでも―――」

 

 ハザマがそのキーワードを言った瞬間だった。

 部屋の床を殴り飛ばし突然立ち上がった男は、そのまま拳を呆気にとられた表情のハザマの頬へと殴りつけた。ぎょえっ、と情けない悲鳴を上げて姿勢を崩したハザマを負い打つように男は近寄り、その胸倉を上げて怒鳴った。

 

「テメェは……! 知っていたのか!」

 

 握られた拳は再びハザマへと振り下ろされる。

 自分がテルミではなく、カズマという操り人形であったことを。自分が人形に対していった言葉は全て自分にとって皮肉になっていたことに。それを知ってもなお、ハザマはただそれを眺めているだけだったのか。

 ハザマの表情はずれ落ちた帽子で少しだけ見えなくなっていた。顔面に痣がつき、口内を切ったのか口から血が零れる。そして男が見たハザマは、やれやれと言った様子で溜息を吐いた。

 迷わずそのニヤケ面に拳を叩き込もうと振り下ろすが、それはハザマの額で受け止められた。手に響いた衝撃に男は揺さぶられると、そのままハザマによって足裏で蹴り飛ばされ壁まで弾かれる。

 

「――ええ、知っていましたよ。貴方が私の前に現れて、知識が此方に流入してきたときから」

 

 それはハザマが男によって自我と体の優先権を得たときの話だ。『彼』というフィルターを通して流れ込んできた境界からの知識は、多くの世界の結末や自分の正体に蒼の魔導書、そして『彼』やテルミの存在を教えた。『彼』と同化することを否定し、自我を確立した後に、『彼』の正体がテルミではなく、カズマという少年の魂であることを知ったのだ。

 

「――っ! ハザマぁ!」

 

 男は血が滲み出そうなほどに握りしめられた拳をハザマに打とうと、部屋の床を蹴り飛ばしてハザマへと迫る。その瞳には憎しみが宿り、殺そうとさえ男は考えていた。

 ゆっくりと立ち上がったハザマは向かってくる男に対して構えようともしない。ポケットの中に手を入れてゆらりと立つと、

 

 迫ってくる男に対して足の裏でその腹を蹴り飛ばした。

 

 かふ、と肺から無理やり息を吐き出され、痛みと同時に男の身体は床へと投げ出される。受け身を取ることすらできず、痛みの苦悶の声が小さく上がるだけだった。

 ハザマは軽く自分の帽子を押さえると、誰に言う訳でもなく小さなため息を吐き出した。

 

「(……やっぱりですか)」

 

 その溜息は自分の予感が的中したことによるものだった。男はテルミの知識と経験を持たされていたが、所詮それは自分をテルミと思わせる一因に過ぎない。テルミからしてみれば男の存在は既にどうでもよく、自分に憎しみを持っている存在に反撃の芽を与える程間抜けではなかった。

 男はテルミの知識は持っている、だが既に『テルミではなくなった』以上、その経験が使えることは無かった。彼はただ少し丈夫な肉体と高度な術式、そして強力な魔導書を持っただけのただの一般人に過ぎない。元々誰かを騙し、見下す程度しかできなかったカズマという少年に、曲りなりとも戦闘経験のあるハザマに何かをすることなどできるはずがなかったのだ。

 ハザマが真実を知って尚男になにも言わなかったのは、一言でいえば保身のためだった。それを知って何をしでかすか分からない、だからこそ、自身を観測し確実に確立できるまで待ったのだ。

 

「く、そが」

 

 身体を起こした男はただハザマを睨みつける。ただそれしかできないと、そう理解していたからだ。

 自分が見下していたはずのハザマさえどうにもできず、プライドや虚栄心ばかり持ったその存在が、今の『彼』という存在だった。

 

 対するハザマはそんな彼の姿を無様と思う事もなく――怒らせてしまって嫌だなぁと思う程度だった。

 

「(どうしますかねぇ……そもそも私にどうしろと言うのでしょうか?)」

 

 軽いような思いに見えるがハザマにとってはそうではない。ノエルにハザマという存在を観測され、世界に確立される前までは男とハザマは対等に近い物であったはずだ。だからこそもしも身体が別物だったとしたなら、気兼ねなくハザマは男の事を友人だと言っただろう。……相手がどう思うかはともかく。

 だがハザマは世界で生きると言う意味では既に確立された。だからこそ男の手助けをしようと考えることができる。しかし今のハザマはそれを知らず――

 

「――ああ、そういうことでしたか」

 

 ハザマは有る確信にたどり着き、男へと近づき不良の様に腰を下ろす。

 

「そもそも――」

 

 ―――――――

 

 獣兵衛とレイチェルが対話していた少し前、オリエントタウンには一人の少女――プラチナの姿が在った。布で覆われた等身大の杖を背に、身体全体を包むようなローブを着た彼女だが、どこか少年的な雰囲気も感じられただろう。

 しかし普段の治安も良いとは言えないオリエントタウン、顔や姿を隠して行動する者も少なくは無く、訳アリも決して少なくない。そんな場所だからこそ顔を隠すほど深くかぶったフードを気にする人は誰もおらず風景に溶け込んでいた。

 

「~♪ ~♪ ~~♪」

 

 鼻歌交じりに歩くプラチナの用事はお使いだが、高揚しているという意味では気分は遠足だった。上手く行けば獣兵衛様に褒めてもらえるかも、そんな思いで歩いていたプラチナだったが、雑多な道の真ん中で急に立ち止まる。

 

「~~♪ っと、よし!」

 

「? どうしたのルナ?」

 

 自分で自分に語りかける、はた目から見れば奇妙な光景に見えたはずだ。しかしこの町はオリエントタウン、寄ってる浮浪者や狂人手前の咎追いだっている街に、フードの小さいのがぶつぶつ言ってようがどうでもいい話だった。

 

「ふふふ。セナ、こうやって歩いているうちに、ルナは凄いことを分かったみたいだぞ! 聞きたいか?」

 

「……うん。一応聞くけれど、なに?」

 

 プラチナの男性人格であるセナは、女性人格であるルナの言葉に嫌な予感を感じていた。

 歩いている最中時折会話をすることはあっても、何処に向かっているのかはセナはノータッチだった。獣兵衛のお使い先がゴールであることは知っているが、どう行けばいいのか自分は知らない。恐らくルナが起きている時に獣兵衛から聞いていたのだろうと考えていた。

 だがいろいろ歩いてルナが立ち止ったのは雑多なオリエントタウンである。嫌な予感は大きくなっている。

 

「どうやらルナたち、迷ったみたいだぞ!」

 

「知ってるよぉ! だからカカのお姉さんについて行こうって言ったのにぃ……」

 

 嫌な予感とは当たる者である。

 カグツチまで共に来たとき、赤鬼のテイガーは用事があるためそこで別れたが、トラカカは案内しようかと提案してきていたのだ。カグツチはそれなりに広く、カカ族特有の抜け道などもトラカカは知っている。効率などを考えればついて行くのが正解だっただろう。

 が、そこはまだプラチナが子供だった。どうせお使いを済ませるなら自分ひとりの力でやった方がいい。既に来る前に力を借りているのはご愛嬌だが、一人でもできる、と獣兵衛に豪語してしまったのだ。また獣兵衛様が褒めてくれるかも、という可愛らしい思いからの行動だった。

 

「う、うるさいセナ! セナだって一人で行くことを止めなかったじゃんか! 同罪だぞ!同罪!」

 

「だってルナが自信満々だったから……うぅ、獣兵衛さまに怒られちゃうかもしれません」

 

 だが裏目に出る時は出るのである。セナが言葉にすればセナの思い違いは無かったし、ルナが言葉にしなければ意地を張る事も無かった。両方重なった不運な結果だ。

 

「う……別にルナは悪くないぞ! たまたまシシガミってやつが居なかったから悪いんだ! 迷子になんてなってない! シシガミっていうオッサンぽいのが迷子になったんだ!」

 

 それを認める程ルナは年を取っておらず、セナだけでなくお使い先のシシガミにまで当たってしまう。シシガミと言う名前からしてルナにとってはオッサンである。その下のバンクなんてもっとオッサンである。ぶつぶつとあのおっさん禿げろ、と見た事も無いのにルナから要らぬ中傷を受けるバングはその場に居たら泣いてしまうだろう。

 

「迷ってる子供だから迷子って言うんじゃ……うん、うん、ルナは大人だったよね」

 

 セナの余計なひと言がルナから鋭い視線となって向けられたような気がした。とは言え身体が一つしかないため、彼女たちの間の特別な感覚であるのだが。

 

 しかし迷子だからと言って何時までもこうしているわけにはいかない。子供なら迷ったら何もできないが、幸い獣兵衛の教育もあり、こういった場合どうすればいいのかプラチナは理解している。

 

「いっぱい人がいるし、誰かからシシガミさんについて聞いてみれば、いいんじゃないかなぁ?」

 

 無難な提案であるセナの言葉にルナも同意する。

 だがそこでタダでは納得しないルナ。良いことを思いついたと言わんばかりに手槌を打った。

 

「よーし、じゃあ目を瞑って、ルナ様が指差していた相手に聞いてみよう!」

 

「(相手がロリの人だったりしたら、ルナはどうするんだろう……)」

 

 と、此処で少し遊びが入ってしまうのは時間に若干の余裕があるからだろうか。正直セナはロリコンと呼ばれる人種に当たった時の懸念はある。ラグナとかいう獣兵衛の弟子は幼い子供(レイチェル)に罵倒されて興奮するほどの変態らしい。惑うことなきロリの人だ。流石にルナもそれぐらいの判断はできるよね、とセナは思う。

 プラチナが手にした棒は丁度反対側に倒れる。そして視界に入った人物に思わず目を丸くした。

 

「……うん、あの人だ! ……あっ!?」

 

「あれ? 獣兵衛様?」

 

 本当に偶然入ってきたのは、愛くるしい体つきの獣人、プラチナの愛しの人の獣兵衛だった。勿論獣兵衛はプラチナに対してそのような感情を抱いてはいないが、恋する乙女の思いは一方的だった。ルナはこんなところで出会えるとは思っていなかったため、思わず興奮してセナに話しかける。

 

「そら見ろセナ! 迷子になった甲斐があったじゃないか!」

 

「ついには迷子って認めちゃったね……」

 

 セナの言葉など耳に入ってないと言わんばかりの態度で、ルナは獣兵衛へと駆け寄ろうとする。本当ならダイブで抱きつきたいぐらいだった。愛くるしい外見とは裏腹の強靭な体は、容易くプラチナの身体を受け止めるだろう。プラチナが手を振って獣兵衛に声を掛けようとした時だった。

 

「獣兵衛さまっ……む?」

 

「あれ? 誰かと話してる?」

 

 思わぬ出来事にとっさにプラチナは身体を店の陰に隠し、顔だけ出して獣兵衛を覗き見る。

 彼氏彼女の浮気現場を見てしまったようなリアクションだが、真意はともかく心情はそんな感じだ。

 

「(あー! アイツっていつもロリコン野郎と一緒に居るっていう意地悪女じゃないか!)」

 

 獣兵衛が話していたのは日傘を差し黒いドレスを着た少女――レイチェルだった。

 ルナ自身はレイチェルがあまり好きではない。獣兵衛とよく難しい話をしているのは知っているが、自分が理解できないからか内緒話の様にも聞こえるからだ。そして意中の人物が異性と親しく話していると言うのは、プラチナにとっては危機感を持たされる。

 

「(どちらかと言うと、あの人が付き纏っているから、ルナがロリコン扱いしてると思うんだけど……もしかして獣兵衛様もロリな人なのかなぁ?)」

 

「(獣兵衛さまがそんな変態なわけないだろ!いい加減にしろ! ……あ、でもそれならルナも……えへへへ)」

 

 セナの言葉に勝手な妄想をし始めたルナは、いやんいやんと頬に手を当てて悶える。

 勿論獣兵衛にそんな趣味は無い。プラチナのしっかり視線は獣兵衛へと向けられていたため、セナにはその様子が見えていた。

 

「(……なんか割といい雰囲気かも?)」

 

「(…………)」

 

 獣兵衛は朗らかにレイチェルに語りかけている。獣兵衛の可愛らしい外見と穏やかな口調はプラチナは好きだが、それが自分以外の誰かに向けられるのは複雑だった。

 

「(獣兵衛様も笑顔だし……あ、レイチェルさん笑ってる)」

 

「(…………うー)」

 

 ルナが頬を膨らませ唸る。セナとしても獣兵衛様は好きであり、ルナが恋仲になって自分にも影響が出るかもしれないが、まぁいいかと思える様な人物だ。何より育ての親の様な敬意もあった。

 そんな獣兵衛が笑顔であるのは嬉しいことでもある。ルナにとっては複雑なことかもしれないが。

 

「(ちょっと意外かもです。獣兵衛様とはあんまりお話してない印象が在ったけど、満更でもない――って、ルナ?)」

 

「(ううううう)うあぁあああああああ! 獣兵衛さまぁあああああ!!」

 

「(ちょ、ルナぁ!!?)」

 

 前述したとおりルナにとって自分の憧れの人物が女性と楽しげに話していると言うのは複雑なことであるし、その複雑な心情を溜めておけるほど彼女は大人ではなかった。

 

 

 ―――――

 

 

「ところで気が付いている?」

 

「……ああ。たしか浪人街に行くように言ってあったはずなんだがなぁ……どうしてこっちに来たのやら」

 

 さてプラチナが覗いていた二人だったが、互いにプラチナが見ていたことに気が付いていた。情報交換はあらかた済ませ、ラグナの事を話したり渦中のカグツチとは言え穏やかな空間が流れていた。

 とはいえプラチナには聞かせたい話ではなかった。重要な話や『彼女』があちら側についていると言う現実、ラグナの話題だってプラチナは彼を邪険にしているため良い話題ではないだろう。

 

「まぁ、聴かせたい話じゃない。執着する理由も……」

 

 獣兵衛さまぁあああああああ!!

 

 そろそろ会話を切り上げようとした時だった。まるで漫画の如く両目から涙を流しながらプラチナが走ってきていた。そして勢いよく跳躍すると、頭からダイブする形で獣兵衛に抱き着いた。

 そこは衰えたとはいえ六英雄の一人、勢いを殺すため身体を一度回す様にして抱き留めると困ったようにプラチナに尋ねる。

 

「おおお、どうしたんだそんなにはしゃいで。迷子にでもなったのか?」

 

「なってない…じゃなくて! 獣兵衛さまなんでその意地悪女と一緒にいるのさ!?」

 

 獣兵衛の影にすぐさま隠れ、レイチェルに指差しながらセナは尋ねる。

 また何か誤解しているな、と獣兵衛は困り顔に成り、レイチェルとしても勝手に自分が獣兵衛が好きだという事にされているため何とも言えなかった。

 

「随分と可愛らしい姿になったものね……ミツヨシ、もう少し早く舞台に立たせてもよかったのではなくて?」

 

「親心、というやつで勘弁してくれ」

 

 肩を竦め獣兵衛は答える。レイチェルにとってはプラチナはカグツチと言う舞台に一度も立ったことのない役者でもある。どのように舞台が動くのか、またどう動かせるのかレイチェルにも未知数だった。

 

「……そう。それならもう一人のあの子にも声をかけてあげたらどうかしら?」

 

「やれやれ、耳が痛い事を言ってくれるな。連絡が取れない事を知っていて言っているだろう」

 

「……うー」

 

 プラチナはレイチェルを睨みつけて恨めしそうに唸る。はっきりと娘扱いされて恋人としては眼中にないと言われてしまったのもあるが、自分の分からない事を分かったように言うレイチェルも苦手だった。

 

「さて、そろそろからかうのは止めるわ。せっかくなのだから、彼女と話してあげたらいかが? 彼女もそれを望んでいるようですし」

 

「なんでお前にそんなこと言われなきゃならないんだよーだ! 余計なお世話だ!」

 

 レイチェルの態度が上から目線で譲ってあげると言わんばかりに見えたためか、半ばムキになってセナから言葉が漏れる。

 

「まぁそう言うなプラチナ。……帰る前に一つ、聞き忘れていたことがあってな、それを尋ねてからでもいいか?」

 

 穏やかにプラチナをなだめつつも、雑談を切り上げようと獣兵衛はレイチェルへと確認する。先ほどレイチェルと獣兵衛が二人でしていた会話はあまりプラチナへと聞かせたくは無いものだった。しかしプラチナの三つ目の人格にとってはある意味関係する話でもある。

 視線で先を促すレイチェルに、朗らかだった表情を切り替え尋ねた。

 

 

「……あの男――ハザマのことは、お前さんはどう見てる」

 

「……別に、どうとも」

 

 レイチェルの言葉に獣兵衛は少しだけ目を細める。

 獣兵衛が初めて見たときはテルミの様だと思った。二度目はあくまでも人間に見えたが、腕に封印された何かはテルミであるのではないかと錯覚させるほどだった。

 そうした背景を持つ人物に獣兵衛は心当たりがあった。暗黒大戦のあった時代、六英雄の一人であるトリニティを裏切りナインを殺した男。

 カズマ=クヴァル。自身の義妹のセリカの同級でイシャナの学生だった男と、今諜報員としているハザマは同じ環境に居るようにも見える。

 故に獣兵衛はハザマという男よりもその中に居る人物に警戒を置いていた。それはレイチェルも同じと考えていたために、彼女の答えは意外な物であると感じている。

 

「……ハザマ?」

 

 プラチナはなんとなくその言葉を呟き、心に引っ掛かるものを感じていた。聞き覚えもなく今初めて聞いた人名である。それでも何かがそれだけではないと訴えている気がした。

 

「……どうともってそれだけか? アレは第二のテルミに成り得る存在だろう?」

 

「……ああ、そういうこと」

 

 レイチェルとしても獣兵衛がどうしてそこまでハザマに対して警戒を置いているのか分からなかった。ハザマとその後ろに居る男について、レイチェルは視界にも入っていないような存在だったからだ。

 故にレイチェルは獣兵衛に尋ねる。

 

「そもそも――」

 

 

 ―――――――

 

 

 

「貴方はいったい誰ですか?」

「アレはいったい誰なのかしら?」

 

 

 

 ―――――――

 

 ハザマは男を見下ろし尋ねる。ハザマにとって目の前の男が何なのか、それを定義する方が先であったのだ。

 故に彼は言う。ハザマが『ハザマ』として生きてきた中で得た物を、フィルターを通さず見た世界で見つけた物を。

 

「カズマ=クヴァルならテルミさんが喜んで万々歳ではありませんか。そのために貴方(カズマ)はテルミさんに従ってきたのでしょう?」

 

 何を言っているのか、男はハザマが言っている言葉に理解が追いついていなかった。

 

「違うと言うのなら、別にあんなトラブルメーカーに拘る必要ないですよ。酒、薬、賭博、女。快楽を得るための物なんてそこら中に満ちてます。そっちに行った方がまだマシじゃないですか」

 

 ―――――――

 

「貴方はハザマという男とかつての子供を同一視しているようだけれど、あの子供にも確かに分岐点はあったのよ。ただの人間として世界に足跡を残すような存在にもなれた」

 

 少なくともレイチェルが見てきた世界では存在していない。しかしレイチェルの父である、クラウス=アルカードはカズマがまだ人間として歩めると、そう信じていた。

 その受け入りだから、という思考はレイチェルにはない。クラウスの想像以上にテルミという悪意は浸透していた。数多の世界の始まりと終焉を見てきたレイチェルが、一度もその結末にたどり着かない程度には。

 

「でも元来アレには意志は無い。英雄にもなれず、壁が有ればすぐに逃げだしてただ流れのままに全てを預けてしまうような、そんな脆弱な人間が彼よ」

 

 

 ―――――――

 

 

 無論ハザマが破滅的な思考を持っているわけではない。安易に快楽を得るための方法として出したのがそれらだった。だが、それでもテルミに関わるよりはマシだ。そう思える程度にハザマは人間やっていたのだ。

 男はカズマだった。テルミでもあった。だが世界からはその両方を否定されてそこに居る。蒼の継承者によって観測された男は男自身が自分の事を見失っているのだ。

 

「執着なんていくらでも変わる物なんですよ。少なくとも、私はそうでしたし……あ、テルミさんにとっては違うみたいですけど」

 

 あっけからんとふざけたようにハザマは言う。

 くだらない物に意味を見出せばそれは価値に変わる。価値が無いと思えるからテルミと言う存在はああした行動がとれるのだろう。

 それを至近距離から見て居なければ、人はごく普通に現実へと帰還する。それを、男はしないのだ。

 

 

 ――――――――

 

 言ってしまえば簡単だ。『カズマ』という少年はテルミと言う悪意が無ければ何も名を残す事も無く、暗黒大戦の被害者の一人として数えられるような、ちっぽけな存在であることをレイチェルは理解していたのだ。

 テルミにはそんな弱者を使って自身が舞台に上がることのできる存在だった。知恵や意志が彼に会ったからこそ、出来損ないの道具である少年を使って世界に混乱を齎すことができたのだ。

 

「テルミが彼の背後にあって簡単に操れる立場にあるのなら、警戒はすべきでしょうね。だけど既に離れた以上、出来損ないな道具は出来損ないなままでしょう?」

 

 故にレイチェルは知っている。ハザマの後ろに居る男が何も動かすことのできない、舞台に入ることすらできない非客人であると。

 

 ―――――――

 

担い手(テルミ)として観測されることもできない」

 

 ―――――――

 

道具(カズマ)として使われることにも成り切れない」

 

 ―――――――

 

「今の貴方はいったい何者なんですか?」

「今のアレはいったい何者なのかしら?」

 

 ―――――――

 

「話はもう終わり? なければ私はもう行かせてもらうのだけれど」

 

「あ、ああ。引き留めて悪かったな」

 

 レイチェルが断言した言葉の説得力に、獣兵衛は思わず納得していた。

 かつて獣兵衛の弟であるトモノリはカズマ、その背後に居るテルミという存在の排除にかかろうとしていた。結果として弟は殺されたが、カズマにそれができたのはテルミ在ってのことだ。

 かつてカズマの背後には悪意(テルミ)が居た。だが今の(カズマ)の背後に居るのはどう良く見繕ってもろくでなし(ハザマ)である。それだけでもユウキ=テルミにはならないと言う確信ができた。

 風が吹いて獣兵衛が思わず目を瞑ると、既にレイチェルの姿はそこにはなかった。代わりに獣兵衛の隣には、騒いでいたはずが今は大人しいプラチナが居た。

 

「……ハザマ、カズマ」

 

 反芻するように呟くプラチナに、獣兵衛は思わずポンと頭に手を置いて撫でる。

 かつての二の舞にはならない、少なくともその要因がつぶれただけ良しと獣兵衛は考える。

 しかしそんな獣兵衛の内心をプラチナは知らず、あわあわと手を振り顔を赤くした。

 

「じゅ、獣兵衛さま? 急にどうしたのさ。勿論ルナを撫でてくれて嬉しいけど……えへへ」

 

「……たっく」

 

 撫でていた手を下し獣兵衛はそのままプラチナの額を軽く小突く。きゃん、と可愛らしい悲鳴を上げてプラチナは思わず額を押さえていた。

 

「ほれ、俺のお使いはまだ済んでいないんだろう? 速くしないと日が暮れるぞ?」

 

「えぇ~……だってだって、せっかく獣兵衛さまに会えたのに……」

 

「駄目だよルナぁ、獣兵衛様も用事があるんだからぁ」

 

 セナもルナをなだめるように言うが、その手は獣兵衛の服の裾を掴んだままだった。確かにお使いは大事だけれど獣兵衛さまと離れちゃう、と。様々な葛藤を抱えているプラチナを見かねた獣兵衛は、やれやれと軽く息を吐いて呟く。

 過去の話をしたことで獣兵衛自身も多少なりともナーバスになってはいる。しかし自分の子のような存在であるプラチナを見て、若干なりともそれが緩和されたように感じた。

 少し何かを考えたように口元に手を当てると、獣兵衛は自分の服のポケットからある物を取り出した。

 

「? 獣兵衛様?」

 

「お守り代わりだ。それをもって後は俺のお使いを頼んだぞ、プラチナ」

 

 獣兵衛がプラチナに握らせたのは果物ナイフのような小さい刃の短刀だった。冷やりとした鞘の材質にプラチナは目を丸くするも、押し込む様に獣兵衛にそれを持たせられる。

 お守りにしては武骨すぎるそれであるが、ルナにとっては獣兵衛様から贈り物をいただいたという事実の方が嬉しかった。

 

「…よーし、ルナ様頑張るぞ! ありがとう獣兵衛さま! ルナしっかりお使いを済ませてくるから!」

 

 思わず花のような笑顔を見せたプラチナは、そのお守りを両手に大事そうに持つ。そのままスキップでもしそうな勢いで駆け出せば、獣兵衛の視界からはあっという間に居なくなってしまった。

 

「おーい、変な人について行くんじゃないぞーって、聞こえんか」

 

 あの調子なら大丈夫だろう、万が一があったとしても、プラチナに預けた短刀は特別な物である。少し早くに立つだろうと獣兵衛は考えていた。

 

「……分岐点はあった、か」

 

 獣兵衛は思う。100年も前に自分は弟であるトモノリを失った。その要因となった少年にも、確かにテルミと成る以外の道はあったのだと、レイチェルは言う。ならば初めにそれを教えていれば、レイチェルが手を貸してくれれば、そう考えるのは自分の弱さであるとは知っているため、獣兵衛は軽く首を振って思考を四散させる。

 ハザマと言う男にも分岐点が有り、だからこそロクデナシであろうとも人間に留まってはいるのだ。だからこそ、分岐した道が再び交わってくれるな、とも獣兵衛は思った。

 

 

 そんな風に獣兵衛が思っていた人は今……

 

 

「……あれ、ここ何処でしょって…あいたたったたたたたたっ!ちょっと待っこれシャレになら」

 

 運ばれたのはいいものの、テルミにやられた後に使った薬の引き起こした、無理な再生術式という副作用でもう一度気絶していた。

 




次はバング回


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