名探偵 毛利小五郎 (和城山)
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Prologue
0. プロローグ


 こちらは随分後の、「二章 高校生編」の時系列にあたります。


 暗い路地裏に、女性の悲鳴が上がった。同時に、空き缶を蹴飛ばした甲高い音が二連続。

 二十代前半の若い女性が一人、無精ひげの男に追いかけられている。

 そして彼女にとっては不幸なことに、そこは日中人気が少ないことで知られる、米花工業団地の裏路地だった。

 

 小さな肩掛けバッグを必死に振り回しながら、女性は駆ける。

 狭い路地裏の中を、背後で包丁を振りかざす男から必死に逃げていると、やがてその前に曲がり角が現れた。

 もしかしてその先は大通りに繋がっているかもしれない――。刹那にそう感じた女性は、救いを得たかのような気分になってそこを走り抜けた。

 しかし、彼女が曲がったその先に見たのは、冷たい質感で立ちかまえる、苔いる一つの壁で。

 つまりそこは、行き止まりだった。

 

「……ッ!!」

 

 現実のあまりの無情さに一瞬にして思考が白く染まる女性であるが、すぐ後ろで聞こえた足音に気がつくと、急いでその壁へと駆け寄った。

 

「まったく……手間かけさせやがってよォ……」

 

 女性に遅れて、四十後半に見える一人の男がそう言い角から姿を現す。

 彼の手には、一振りの武骨な包丁が握られていた。男はそれをちらつかせながら、じりじりと後退する女性へと近づいていく。

 

「ほんとによォ……てめえの親父が勝手なことしてくれなけりゃあ、俺だってクビになんかされずにすんだんだぜ……」

 

「やめてッ!! それ以上近づかないでッ!!」

 

 女性は男から必死に距離をとろうとするが、しかしすぐにその背は行き止まりの壁へとぶつかる。

 

「なァに……別に何もしなければ、大した怪我はさせねえよ……ただ、ちょォっとオジサンに付いてきてくれるだけでいいんだ……」

 

 さらに男がそう言い終わったとき、彼は女性にすぐ手の届くところまで歩み寄っていた。

 おびえる女性と、男の血走った目が合う。

 瞬間。

 たまらず、女性は叫んだ。

 頭の奥では、きっと無駄だろうとわかっていたが、しかし、それでも。

 それでも。女性はたしかにその瞬間、助けを求めた。

 自分の窮地を救ってくれるような。小説のような。漫画のような。そんな、ヒーローを。

 心から、求めたのだった。

 

 そして。

 

 女性の願いが天へと届いたのか。

 

 救いが、現れる。

 

「そこまでだッ!!」

 

 唐突に、大きな声が男の背後、この行き止まりの入り口から響き渡った。

 驚いた女性と男がそこを見やれば、そこには高校生くらいの少年が一人佇んでいた。よく見れば、走ってきたのか少し息が荒くなっている。

 

「なンだ、テメェ?」

 

 男がイラつきながらそう声をかけた。息を軽く整えた少年は、制服の襟を正しながら、どこか軽い風に答える。

 

「いやあ、なに。女の人の悲鳴が聞こえたもので、ね。あアと、そこの人。大丈夫ですか?」

 

 突然話を振られ、少し戸惑いながらも、女性は小さく頷く。

 そして男は、そんな少年に対して怒り心頭という様子であった。

 

「あァ? なンだ、その口の聞き方は?」

 

 対し、少年は全く余裕を崩さず、きっぱりとした口調で言い放つ。

 

「生憎だが。俺は、犯罪者に対する礼節なんてものは持ち合わせていない」

「このヤロッ…………まあいい、どうせ目撃者だ……」

 

 男はそう呟くと、両手で包丁を構え、

 

「死ねえええええええええええええッ」

 

 少年へと突っ込んでいった。

 それに、思わず女性は悲鳴を上げる。

 包丁が少年へ。最悪の光景を思い浮かべてしまう。

 

 しかし。

 

 次の瞬間。

 

「――ぐえッ!?」

 

 包丁の刃が少年へと突き刺さることはなく。

 代わりに、男が地面へと投げ飛ばされていた。

 

「……え?」

 

 女性は一瞬、自分の目を疑ってしまう。

 しかし、何度見ても、無傷で佇み両手で襟を直しているのが少年で、包丁と共に地面へと転がっているのは男である。

 ちなみに下がコンクリートだったからか、男は目を向いたまま気絶していた。実にあっけない。

 

「大丈夫ですか?」

 

 唖然としている女性に、近寄ってきていた少年が声をかけた。

 

「え、あ、はい……」

 

 そして、そううわの空で答えてから、女性はやっと再起動する。なにをやっているのだ。この少年は、命の恩人ではないか。

 

「あ、あの……」

「はい」

 

 息を吸い、女性は年下の少年へと勢いよく頭を下げる。

 

「あ、ありがとうございました……ッ」

 

 対し少年は、少し照れくさそうに頬を掻きながら、

 

「いやあ、なに。人として、当然のことですよ」

 

 そんな少年に小さく笑みを浮かべると、ふと女性は彼に尋ねた。

 

「ところで、あなたは一体……?」

 

 さっきから、どうも女性は気になっていた。なぜか、初対面であるはずの少年の顔にどこか見覚えがある気がするのである。

 

「俺っすか? そうですね」

 

 少年はそう言うと、一瞬だけ目を伏せた。が、すぐに自信に満ち溢れたような穏やかな笑みで向き直ると、静かに言い放った。

 

「毛利小五郎。探偵です」

 

 その答えを聞いて、女性はすぐに得心した。見覚えがあるはずである。

 それは、最近メディアで話題の高校生探偵、巷で「平成の明智小五郎」と呼ばれる男の名前であった。

 




2017/02/07 まえがき・あとがき編集


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【旧序章】 水晶天使の心臓(カルディアエイドス)
1. 天空の檻


 以前に、「俺のSS用ネタ倉庫」と称して設定を晒していた物の連載版になります。
 水晶天使(すいしょうてんし)心臓(カルディアエイドス)と読みます。

 なお、こちらは未完の旧序章となります。稚拙ながらも新序章が通算9話目にございますので、初見の方はそちらからご覧になることをお勧めします。


「わあ、きれい!」

 

 真鍮色の手すりにつかまり、三方がぐるりとガラス張りになっているエレベータから下界を見下ろして、毛利蘭はそう歓声を上げた。

 どんどんと遠ざかる大地を眺めながら、彼女は傍の少年へ話しかける。

 

「ね、コナン君もそう思うよね?」

 

 同じくガラス越しに町の夜景を眺めていた七歳ほどの少年は、子供らしく頷くと明るい声で、

 

「うんっ! すっごいね。町がきらきらして、すっごく遠くまで見える!」

 

 と、そう言った。そして再び夜景を見下ろしながら、

 

(こういうのを100万ドルの夜景、っていうんだろうな。――まあ、実際のところは光害以外の何物でもねえ気がするけど……)

 

 そんな情緒のへったくれもないことを胸の内で呟いた。

 彼の名は江戸川コナン。見た目こそ幼い少年であるが、その中身はいやに大人染みており、ある種生意気ともいえるそれは、どこか中高生を思い浮かべさせた。

 

 二人の様子を後ろで眺め、長身痩躯の男性――毛利小五郎は、着込んだスーツの首元を直しながら呼びかける。

 

「おいおめえら、これは仕事なんだ。あんまりはしゃぎすぎるなよ?」

 

 それに明るく「はーい」と声を揃える娘と居候に、「こいつらホントにわかってんのか?」と小五郎は内心で呟いた。

 

 そうこうしているうちに、やがてエレベータは静かに停止する。そして目的の階にたどりついたことを告げるメロディを流しながら、ゆっくりと扉が左右に開いた。

 

 小五郎たちがエレベータから降りると、まず、目の前を真っ直ぐに続く赤いカーペットが目に入る。ふかふかする足元の感触に気を取られながらも辺りを見渡せば、エレベータホールの高い天井からシャンデリア型の電灯がぶら下がっていること、エレベータ脇や廊下の所々に警官が佇んでいることなどがわかった。

 

「ほう……」

 

 廊下に飾られている絵画や壺などの、いかにも高級そうな雰囲気を眺めながら小五郎は小さく感嘆の息を漏らす。

 

「こいつあ、すげえな」

 

 そう呟いてから、小五郎は周囲の警官たちに軽く会釈をし、蘭とコナンを連れて歩き出した。

 

 少し経ち、そこでふと、蘭が思い出したように隣を歩く父親へ問いかける。

 

「お父さん、そういえば怪盗キッドの予告って何時だったっけ?」

 

 小五郎はそれに、胸元から一枚の便箋を取り出して確認する。

 

「ああと、午後九時だな。遅刻したとはいえ、まだ七時半過ぎだし、十分に時間はあるぞ」

 

 この場合の「時間があるぞ」とは、食事をしたり酒を飲んだりして、パーティを楽しむ時間があるぞ、という意味である。

 

 それを察した蘭とコナンが若干にジト目となるが、小五郎はそれに気づくもあえて取り合わない。

 微妙な空気の中、ふとコナンが呟く。

 

「でも、依頼人のひとも心配性だよね。こんなに警察が張り込んでるのに、さらにおじさんまで呼び出すなんて。……よっぽど大事なものなのかなあ」

 

 廊下に配備されている警官とすれ違いながらの発言だった。

 それに小五郎が、

 

「そりゃおめえ、この毛利小五郎が名探偵だからに――」

 

 親指で自分を指し、鼻を伸ばしながらそう言おうとするが、そこをさらに蘭の発言が遮った。

 

「そういえばコナンくんは、まだニュース見てないんだよね?」

「うん、そうなんだ」

 

 うなずくコナン。彼はここ数日を阿笠博士や少年探偵団の仲間と共に、長野県へと軽いキャンプに出かけていた。

 

 実はこのときに訪れたキャンプ場で彼は殺人事件へ遭遇したりもしているのだが、これは聞かされていない小五郎や蘭は到底あずかり知らぬ話であるし、また別の物語でもあるのでここでは追及しない。

 

 話を戻せば、この日の昼過ぎに彼がキャンプから戻ってきたとき、小五郎たちはすでに今回の依頼の準備を始めていた。そしてひとりで留守番させることはできないからと、コナンは帰宅して着替えさせられた、そのままその足で現在の会場まで連行させられていたのであった。

 

 そのためコナンは、彼がキャンプをしていたこの数日間に世間を騒がせ、今現在をもってしてライブ中継にてお茶の間を盛り上げているこの状況に、一人ついていけていないのであった。

 

「今回の仕事の依頼が、怪盗キッドから宝石を守ってくれ、っていう話なのは車の中で言ったよね?」

 

 またうなずくコナンに、蘭は話を続ける。

 

「今回の依頼人……八柳忠久(やなぎただひさ)博士、だったかな。考古学の教授でね。コナン君がキャンプ行ってる間には結構なニュースにもなったんだけど、一週間前、ギリシアの遺跡からとある像を発掘したの」

 

「像?」

 

 繰り返すコナン。蘭は頷く。

 

「そう。大きな、人間大の天使像。きらきらと輝く水晶の像なんだって」

 

 ここでコナンはなるほど、と納得した。人間大の水晶で出来た像。しかも遺跡から発掘された天使像ともなれば、おそらく学術的だけでなく、美術的にも相当に価値のあるものなのだろう。

 宝石にまつわる美術品ばかりを狙う怪盗キッドが、新たなる獲物と定めてもおかしくはない。

 

 キッドのヤロー、今度こそ捕まえてやる、とそのようなことへとコナンの思考は流れていく。

 

 そのためか、彼は蘭が次に発したその台詞をあまり気にすることはなかった。へえ、そいつはすごいな、とそう思っただけだった。

 

「それでね、これがすごい不思議な話なんだけど。その天使像は、月の光に照らしたときだけ、心臓の部分が赤く輝くんだって!」

 

 

             ◆

 

 

 入り口に立つ警官へ招待状を見せて、無事パーティホールへと入場した小五郎たちは、立食パーティを楽しむ客ら(どれもどこかの大学の教授や研究者、そして財政界に名だたる企業経営者や、マスコミ関係者)へと混じる前に、まず警察関係者へと挨拶をした。

 

 挨拶をした――というよりも、ホールへと入ってきた小五郎を目ざとく見つけるなり、向こうの方から挨拶にきた。

 

「いやあ、これはこれは! 居眠り! 探偵の毛利さんじゃないですか!」

 

 中森銀三警部は、そう言ってにこやかに右手を差し出した。

 小五郎もそれに手を差し出しながら、にこやかに応対する。

 

「やあ、こいつはどうも! 盗人を十年以上追っていて一度も捕まえられていない、ヘボ! 刑事の中森警部じゃないですか!」

 

 それを聞くなり、中森の額に薄く血管が浮き上がる。彼が握る小五郎の手がみしりと音を立てた。

 

「へ、ヘボ……? や、それより! ず、随分と遅刻をなさったようですなあ! さすがは迷探偵! 車の中でも居眠りとは、いやあ! 御見それしました!」

 

 それを聞き、小五郎のほうも口角がひくつく。そのまま肩を使って中森の手を握り返した。今度はあちらの手からみしりと音が鳴る。

 

「いやあ! それほどでもないですよ! なにしろ私は名! 探偵! 一度相対した犯人は、すべて! 捕まえてきましたからなあ!」

 

 そのまま二人は互いに握った手を離さないまま、こう着状態へと陥る。

 

「「ぐ、ぐぬぬぬ……」」

 

 互いに肩をいからせて相手を握り返しているその光景に、周囲の警官と蘭、コナンは呆れた目を向けることしかできなかった。

 コナンは内心で呟く。

 

(オイオイ。このやりとり、毎回するのかよ)

 

 ちなみに小五郎たちが遅刻した原因は、怪盗キッド出現の予告を聞いてこのビルの下へと集まった、大勢の野次馬やマスコミ関係者たちによって道路が渋滞となっていたからである。

 

「……しかし、中森警、部!」

 

 少しの間続いたこう着状態だったが、小五郎の渾身によってまた崩れた。中森の顔が苦痛にゆがむ。

 

「なんです、かな!」

 

 中森が反撃し、今度は小五郎の額に汗が流れる。

 

「今回はこんなに大勢の一般客がいます、が!」

 

 握り返しながら、小五郎は思った。……これ、いつまで続くんだろうか。

 

 と、そこで小五郎と中森の目が合った。

 

 ――そのまま互いの瞳をのぞきあうこと、しばし。

 やがて、どちらからともなく、二人は握り合っていた手を同時に離した。

 

 ……いいかげんに、どちらの手も赤くしびれて感覚が鈍くなっていた。

 

 右手を振り、襟をただし、ごほん、とわざとらしく咳をして。小五郎は再び中森へと問いかけた。

 

「それで、中森警部」

 

「……なんだね」

 

 右手をもみながら、不機嫌な声色で返す中森。

 

「こんなに一般客がいるんです。もしやとは思いますが、警備のほうは何か問題があったりしませんか?」

 

 辺りを見回しながら、小五郎はそう言った。たしかに毎度のごとく警官の数はやたらと多いが、まさかここまで人が多いのなら、変装が得意とされる怪盗キッドなどは、いともたやすく侵入できるんじゃなかろうか。

 

 ちなみに、キッドが予告上を出した例の水晶像はまだこの場へは現れてはいない。あらかじめ知らされているタイムテーブルでは、もう十分ほどしたら小五郎の今回の依頼人である八柳博士と、そしてそのスポンサーである久間錬三郎(彼は久間財閥の御曹司である)と共に会場入りする予定である。

 

 閑話休題。

 

 小五郎の問いを聞いて、中森はそれを鼻で笑った。

 

「ハンッ。誰に物を言っとるのかね、君は」

 

 そして、

 

「水晶像はその周りを厚さ30ミリの防弾ガラスで囲ってあり、更にその取り外し口には計10個の錠! そしてお披露目の時間まで、現在は厚さ50ミリの鉄板でできた金庫の中にある!

 金庫のそばには7人の警官! 金庫のある部屋は内側から鍵がかかっており、その扉の外にはさらに10人の警官! 金庫のある部屋には人が通れるような通風口などないし、金庫を搬入する前に調べたが、どこにもおかしな仕掛けはなかった!

 こうなるとキッドの奴は、水晶像が金庫から出されるお披露目の時間を狙うしかないはず! しかし! その間、水晶像は――」

 

 凄い剣幕で、これでもかと説明する中森。しかし、そこまで話したところで突然に口を閉じる。

 そして、にんまりと気味の悪い笑みを浮かべて、

 

「――ンン! まあ、ここまででいいだろう。なんにせよ今回、キッドのヤツはなにもできはせん。なにしろ、ネズミ一匹逃さぬカンペキな包囲網だ。

 例えるなら、そうだね。現在、ここはまさに天空の中の檻なのだよ」

 

 中森があまりにも自信満々に言いきるものだから、気圧された小五郎はどこかやる気のそがれたような声で、

 

「あー、そっすか。まあ、それならいいんですよ。ええ」

 

 そう言った。その答えに中森は満足したようにうなずく。

 

「いやあ、本当に残念だがね。今回、きみの出番はないと思うよ」

 

 中森はそう言い残すと、はっはっは、と高笑いをしながら部下と共に去っていった。

 

「……なんだ、あいつ」

 

 呟く小五郎に、

 

「お父さん、元気だしなよ」

 

 蘭が慰めの言葉をかけるが、小五郎はうるせい、とだけ言うと、ワインらしきグラスを配っているボーイのもとへと歩んで行った。

 どうも、やけ酒をあおるつもりらしい。蘭はその様子に、「もうっ! これだから!」と呟くと、急いでその後を追いかける。

 この後に依頼人と顔を合わせるのだから、その前に酔っぱらってもらっては困るのである。

 

 後には、ぽつんとコナン一人が残された。

 

(天空の()、ね……。てことは、キッドが紛れ込むのは簡単でも、そこから脱出することは絶対に不可能だ、と。つまり、そういうことか……?)

 

 小さな顎に片手をあて、コナンはひとり考える。ふと見上げた彼の目に、パーティホールの隅に並ぶ窓ガラスが映った。

 

 なにを考えるでもなく、コナンは吸い寄せられるようにそこへトコトコと近づく。

 

 そばまで近づくと、その窓ガラスがいかに堅牢な物かがよくわかった。

 見るに、厚さは少なくとも30ミリはある。さらに夜景を透かしてみれば、窓ガラスの中には幾本もの針金が網目を作っていた。

 

(窓を割ってパラグライダー……ってのも無理か)

 

 踵を返して会場を眺める。今確かめたように、窓はすべて針金入りの強化ガラス。他に出入りできるような場所は、壁や天井、床を破壊しない限りは、コナンや他の招待客が入ってきた扉と、おそらく水晶像を搬入するためのものだろう、ステージ横の扉。その二つだけだった。

 

 先程自分が入ってきた扉まで近づく。

 

 警備する警官に怪しまれないようにしながら、しばらくその扉を軽く観察し――

 

 そこで、コナンは小さく納得した。

 

「こりゃ、たしかに無理だな……」

 

 なにか廊下の警護班に用事があったのだろう警官が、先程たまたまコナンの目の前でその扉を通った。

 そのとき、彼は扉の側面を目撃することになる。

 

 金属製の扉は少なくとも40ミリほどの厚さがあり、そしてその内部に巨大な閂を3つ内臓しているのだった。

 扉の外部に閂を動かすための仕組みが見られないことから、おそらくは電子的なロックかなにかだと思われる。

 

 どちらにせよ、こんな刑務所張りの重厚な扉は爆弾でも使わない限りは突破することは難しい。

 

 他には内部の閂を動かす電子的仕組みにクラッキングをしかける方法が考えられるが、今まで散々辛酸をなめさせられ続けてきた中森のことである。その程度の対策はなにか考えてあるだろう。

 

 一度入ったら抜け出せない。たしかにここはキッド専用の檻になっている。

 

(これじゃ、たしかにおれの出番はないかもな)

 

 コナンはそう思い、――そこで、蘭が自分の名を呼んでいる事に気がついた。

 どうも、ようやくコナンがそばにいないことに気がついたらしい。

 

「はーい、ここにいるよー」

 

 子供らしい明るい声を意識しながら、彼女のもとへと駆け寄っていく。

 

 どうせ予告の時間までに、まだ一時間以上もある。怪盗キッドについては、ひとまず置いておこう。そう考えて、そこで彼はふと思った。

 

(しかし、あれだな。窓ガラスに、扉に、像を入れるガラスケース……あと金庫もあったっけ。こんだけの準備、中森警部は一体どこからそんな資金を……)

 

 キッドがこんな檻からも抜け出せるのならそれはそれで立派な謎だが、それ以上に中森がどうやってこんな設備を整えたのか。そっちの方が謎かもしれない……、そんなことをコナンはふと感じるのだった。




2017/02/07 まえがき・あとがき編集
2017/02/13 まえがき編集


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2. 水晶像

 警察を除いた客らがパーティを楽しんでいると、ふいに会場の照明が暗くなった。

 ところどころで小さくどよめきが生まれる。料理をせっせと皿によそっていた小五郎も驚き、

 

「なんだぁ!?」

 

 と声を漏らした。

 

 と、そこに会場のある場所が複数のライトで照らしだされた。会場の奥に設置されたステージである。

 

「みなさん、大変長らくお待たせいたしました!」

 

 響き渡った声に見れば、ステージ上にスーツ姿の若い男がマイクを持って立っていた。

 

「それでは。いよいよ、今日の主賓。八柳忠久博士と久間錬三郎(きゅうまれんざぶろう)社長、そして彼らの発掘したクリスタル・エンジェル――『オリュンピアの天使像』の登場です!!」

 

 拍手をもってお迎えください! という司会の言葉に続き、ステージ横の暗闇がライトアップされた。明るくなったそこにはすでに八柳と久間、そして防弾ガラスのケースに安置された天使像が、大勢の警官に囲まれて立っていた。

 

 途端、歓声。会場中から溢れんばかりの拍手が広がった。

 

 笑みをたたえた八柳と久間が二人並んでステージ上へと歩み始め、その後ろを警官隊がキャスターに乗せた天使像を慎重に運んでいく。

 

 水晶で作られた古代の像が、会場のライトでキラキラと透明に輝く様子は防弾ガラス越しでもよく見えた。それに蘭は「わあっ」と小さく歓声をあげ、小五郎はステージそばで立つ中森を見ながらワインをあおり、なにが気に食わないのか「けっ」と漏らす。

 コナンは小五郎の横で背伸びをしながら、いそいでひそかにステージ横の奥の扉を確認する。勿論そこは閉まっており、おそらく内部の閂もすでに施錠されているのだろうとコナンは思った。

 

 これにより、窓が割れない以上唯一の出入り口である二つの扉が双方とも施錠され、中森の用意したキッド専用の檻が、今まさに完成したのである。

 

「えー、みなさん。本日はお集まりいただき、まことにありがとうございます。事前に告知をいたしてきましたとおり、本日はこちらの八柳博士が発掘した、世紀の大発見である水晶像『オリュンピアの天使像』の披露会となっております。……」

 

 会場がまた明るくなり、壇上で司会からマイクを受け取った久間が、そのようにしてスピーチを始めた。コナンはちらりとそのそばの水晶像を確認したが、どこにもおかしな点は見られなかった。

 

「こちらの、このガラスケース内に入っているものが、その『オリュンピアの天使像』です。知ってる方も多くいらっしゃると思いますが、なんと今回あの有名な大泥棒、怪盗キッドも狙っているらしい、それほどの、まあ、まさにその価値は考古学的にも美術的にも計り知れない代物となっています。

 ……それでは、このあたりでこれを発掘した本人である、八柳博士にお話を伺いましょう」

 

「いや、どうも。東都大学大学院で教授をしております、八柳忠久といいます。

 それでこちらの水晶像についてですが。そもそも、水晶を扱った工芸品というものは元来珍しいものではないのですが、……」

 

 久間のスピーチは、そこでもう一本のマイクを持った八柳が混じる。スピーチの内容は最初は『オリュンピアの天使像』自体の特異性や価値、そしてその採掘にまつわる苦労やなんやのエピソードであったが、やがて久間と八柳の出会いの話にまで及んだ。

 かれこれ五年来の友人という二人の息の合ったコンビネーションで時折入れられるジョークは、そのたびに会場のあちこちから忍び笑いがこぼれるほどだった。

 

(……あと四十分を切った)

 

 八時二十分を示す腕時計型麻酔銃を見下ろし、コナンはそう頭の中でこぼした。

 キッドのことであるから、おそらくは毎度のごとく予告上の時間ぴったりに現れるはずである。

 先程の小五郎との会話から鑑みるに、今回は午後九時が予告時間であるらしい。

 あと少しだ。

 しかし、怪しい動きをしている人間は今のところ見当たらないな……。

 そうしてコナンがきょろきょろと辺りを見ていると、それに気づいた蘭が声をかけた。

 

「あれ? どうしたの、コナンくん」

 

「え、えーっと……」

 

 突然名を呼ばれたコナンは慌てる。急いで言い訳を考えようとして、そこでその様子に小五郎も気づく。

 

「あ? なんだ、坊主。トイレか?」

 

「そうなの?」

 

 蘭も気づいたようにして小五郎の言葉に乗る。

 

「い、いや、ちがうよ……?」

 

 そろそろ怪盗キッドが隠れて何かを始めるかもしれないのに、ここでこのホールから出るわけにはいかない。コナンは二人の言葉に否定した。

 

 と、そこで、

 

「しっかし、トイレといえば……なんか俺、行きたくなってきたな」

 

 そばのテーブルへワイングラスを置きながら、そのように小五郎が呟いた。

 原因は、明らかに酒の飲み過ぎである。

 

「もうっ! お父さん!」

 

 憤慨する蘭にどうどうと手をやりながら、「んじゃ、ちょっと行ってくる」と言って小五郎はその場を逃げるように離れて行った。

 

「まったく……」

 

 腰に手を当てて息を吐く蘭の後ろで、コナンは苦笑いを浮かべて小五郎の後姿を眺めていた。

 そして小五郎が扉へ着いたところでコナンの顔から表情が消えさる。

 小五郎と警官がなにやら話を付けると、その警官が無線で誰かと通話した後、ゆっくりと少しだけ扉が開いた。そこから小五郎は外へと出て行き、すぐに元の通りに扉は閉まる。

 その様子を、コナンは真顔でじっくりと見つめていた。

 

 

             ◆

 

 

「ふいー。すっきりしたぜー」

 

 一度ぶるりと体を震わせて、小五郎はそう言うとズボンのファスナーを上げた。

 小便器から離れて洗面所へと向かい、手を洗う。

 そしてポケットから取り出したハンケチで手を拭き、なんとはなしに腕時計を確認した。

 

「……そろそろ、か」

 

 怪盗キッドの予告時刻は午後九時。現在時刻は午後八時半だった。

 

 そのまま視線を上げて、正面に設置された鏡を眺める。

 後ろへ流した髪に、少し骨張った頬、鋭い目つき、整えられた口髭……。最近世間で話題の、名探偵毛利小五郎、その人の顔であった。

 

「…………」

 

 と、小五郎はそこで何を思ったのか、鏡に背を向けて洗面台へと寄りかかる。そして背広から煙草を一本取り出すと、オイルライターで小さく火を点けた。

 

「……フゥ」

 

 吐き出した紫煙が天井の換気扇へと吸い込まれていく。

 幸いトイレには小五郎一人しかいないので、誰に見とがめられるわけでもなかった。

 

 ふと天井を見あげ、そのまま換気扇をぼうっと眺める。

 吸い慣れた苦味に心が落ち着いていくのがよくわかった。

 

 小五郎は先程通ったホール出入り口を思い出す。警官に伝えてから実際に開くまでの短くないプロセス、そして扉から感じた異様な重量感。

 それらは小五郎にある場所を連想させた。

 

 ――刑務所。

 

 刑事だった頃、数度だけ面会に訪れたことがある。面会室にいたるまでの所々の扉は電子オートロック式で、それらは鋼鉄の扉の内部に閂が仕掛けられていた。

 

 ホールのあの扉も、おそらくはその類なのだろう。小五郎はそう察する。

 

 水晶像が持ち込まれると同時に扉に鍵をかけ、あとはのこのこと現れた怪盗キッドを逃がさなければそれでこの事案は解決する。

 

 さっきはまだ予告時間まで時間があったから小五郎も出られたが、あと十数分もすれば一切の出入りが不可能となるのだろう。

 

 ……中森も手馴れている。戻るなら、早く戻らねえとな。

 

 と、そこまで思って小五郎は意識せずため息をついた。

 

(――まあ俺が戻ったところで、どうにもならねえと思うがね)

 

 所詮は形だけの名探偵……。小五郎は続けてそう呟いた。

 

 

 ――『毛利小五郎』は、名探偵である。

 

 それは最近にテレビや新聞のニュースを見ている者なら誰でも知っていることであり、実際の事実である――とされていることである。

 世間のほとんどの人間が、「毛利小五郎は名探偵である」という、それを真実だと信じて疑っていない。

 

 

 ――毛利小五郎、彼自身の、ただ一人を除いて。

 

 

 

 

 

 ――事件解決時の、記憶がない。

 

 最初にそれに気がついたのは、今はもう遠く昔に感じられる一年前、それも「名探偵・眠りの小五郎」が世間に認知されるようになるきっかけとなった事件だった。

 

 その事件以前の小五郎は、事情があったとはいえど妻を拳銃で撃ったという事実からくる自責により刑事をやめて探偵を始めたものの、まるでうだつが上がらず、あげくはその妻が家を出て別居を始めるという体たらくだった。

 

 しかし、その事件からは違った。

 

 捜査の最中に突然首筋に違和感が走ったかと思うと、気がつけば事件が無事に解決されたその後で。

 しかも周囲いわく、それを解決したのは小五郎自身なのだという。

 

 ――まったく、意味がわからなかった。

 

 だが、「お父さん、すごかったよっ」と自分をほめる娘や、「毛利君、君ももう立派な探偵なのだな」と感慨深げに言う刑事時代の上司。彼らのきらきらと輝く瞳を前にして「何をわけのわからないことを言っているんだ」と突き返すのは、小五郎にはどうしても憚られた。

 

 それまで娘には稼ぎの少なさや母親の不在から様々な苦労をさせていたし、上司だった目暮にはたびたび酒に誘うなどして気をかけてもらっていた。

 

 そして小五郎自身、自分に対する今までの周囲の目を気にしていなかったわけではなかった。娘の幼馴染がやれ高校生探偵だ、やれ平成のホームズだと紙面上でその活躍が載るたびに、小五郎は内心でひそかに激しく嫉妬し、羨んだ。

 朝、ゴミを出しに出るたびに、近所の奥様がたから向けられる「同じ町の、同じ探偵なのにねえ……」というような視線を、忘れたわけではなかった。

 

 だから。

 

 そのとき小五郎は、「俺だってな、本気を出せばこんなもんさ」と、そんな虚しい嘘を吐いたのだった――。

 

 

 また当時、どこか心の片隅では「もしかしたら本当に自分が事件を解決していて、しかしどこか記憶に障害が生じているだけなのかもしれない」と、そう思っていたのも事実である。

 

 しかし、その後いくらどんな病院へ通おうとも、小五郎のそれがはっきりこれこれこういう症例だと、そう病気扱いされることはなかった。

 

 

 ――脳に異常は見られない。血液検査結果から覚せい剤などの使用も勿論見られない。

 

 ――記憶を失う直前、首筋に鋭い痛みを感じることがある、と仰いましたが、やはり首にもなんら異常は見られませんでした。

 

 ――本当に、記憶がなくなっているのですか?

 

 ――なら、おそらく精神的な問題でしょう。

 

 ――そうでもなかったら、「どんな検査でも検出されない、特定の記憶のみを封印する効能の毒素」を塗ったなにか毒針かなんかで毎度首筋を刺されているのかもしれませんね。

 

 ――まあ、そんな代物があるわけはないですが。……もしかしたら、多重人格の可能性もあります。推理する時だけ、入れ替わってしまうというような。

 

 ――なにか、幼少期でつらいことを経験したことはありませんでしたか?

 

 

 それなりの期間を、病院で体の検査を受け、診療所でカウンセリングを受けた。そうしている間にも次々と事件は起こり、そのたびに「眠りの小五郎」が、小五郎の意識外で活躍した。

 

 やがて医者たちは、そろって小五郎に入院を勧めるようになった。

 

 この頃になると、小五郎はもう、「これ以上検査したってどうせ原因なんてわかりゃしない」と察し始めていた。

 

 これまでの検査やカウンセリングでさえ家族には黙っていたのである。入院などしたらどうしても家族に知られてしまう。

 

 家族は今、「眠りの小五郎」の度重なる活躍に喜んでいる。このままもしかすれば、別居した妻も戻って来てくれるかもしれない、と淡く夢想してしまう程に。

 だから。

 そんな雰囲気に水を差したくなくて、小五郎はひとり、黙ってこの奇妙な症状と付き合い続けることを選択した。

 

 

 

 

 そうして現在へと至る。

 

 皮肉なことに、今まではたいして役に立ってこなかった、むしろ小五郎自身の推理力の低さにつながっていた生来の調子に乗りやすい性分が、ここにきて逆に幸いし、小五郎は誰にもその胸の内を感づかれることなく、自分自身がよくわからないままという道化である「名探偵・毛利小五郎」として、ここまで過ごし続けることができていた。

 

 吸い過ぎて短くなった煙草を洗面器に残っている水につけて消す。二本目の煙草を取り出して、火を点ける。

 

「……フゥ」

 

 深く煙を吐き出して、小五郎はふともう一度時間を確認した。そこで、そろそろ会場に戻れなくなるなと気づく。

 

 どうせ今回も、記憶が抜けてもう一人の自分が活躍する。そして事件が終わり、残った空っぽの自分が賞賛を浴びる。

 

 ……いや、もしかするとその現象が起きるまでもなく、中森がすべて丸く収めてしまうかもしれない。

 

 ――まあ、どちらにせよ。

 

「戻るか……」

 

 力なく呟き、二本目の煙草も洗面器で揉み消す。

 

 そしてトイレを出ようとして、そこで先程まで眺めていた換気扇が目に入った。

 

(怪盗キッドの野郎は、通風孔とか通るのが得意だって話だったな。そういえば……)

 

 いや、まさか。それでもそうそうない。中森だってすでに確認しているはずだ。……

 

 様々な否定文句が脳内を駆ける。

 

 ――しかし、それでも。

 

 ――記憶を失う前に、「俺自身」がなにかやっておきたい。

 

 そう、思ってしまった。

 

 小五郎はそのまましばし躊躇して、

 

(……一応、確認だけはしておくか)

 

 トイレの出口から、トイレ内へと踵を返した。

 

 

 

 

 

「――異常はねえな……」

 

 トイレ内の天井に設置されている二つの換気扇を下から眺めて、そう呟く。

 

「あとは……」

 

 定石なら、不審物のチェックだろうか。

 

 小五郎は、ひとつひとつの個室のドアを開いていった。

 

「どこも異常なし……」

 

 計八つの個室を見終えて、そこで、さあ、やることはやった、と小五郎は内心に言い聞かせる。

 

 なのに。

 

(なんで、こんなに腑に落ちねえんだ……?)

 

 さっき、変に物思いに耽ってしまったからだろうか。

 どうにも、気分がいつも以上におかしい。

 

 腕時計を確認する。流石にそろそろ、会場に入るのは難しいかもしれない時間だ。

 

「はあ……どうしちまったっていうんだよ、まったく……」

 

 ため息をつき、(かぶり)を振る。

 

 と、そこで。

 

 小五郎の目に、洗面台の下部が目に入った。

 

「……そういえば、ここは見てねえか」

 

 他にやることもなくなってしまった小五郎は、ふらりとそこへ歩み寄り、どうせ何もないだろうという軽い気持ちで戸を開けた。

 

 そして。

 

 

「……は?」

 

 

 排水管の下、カッチカッチと不穏な微音を立てる紙袋を発見するのだった。

 




2017/02/07 まえがき・あとがき編集


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3. 展開

 その日、関係各所やマスコミに向けて水晶像の披露パーティが開催された建物は、つい最近に東京郊外へ建設されたばかりの高級ホテルだった。

 ホテルの最上階には全面ガラス張りの広大なパーティホールが設計されており、当初は一般的なパーティの他にも結婚式なども予想していたのだろうそこは、非常にきらびやかで高級な様相を呈していた。その日、水晶像の披露会が行われたのもその最上階のホールだった。

 

 最上階は、その面積の半分以上を占める楕円形のパーティホールを中心に置き、調理場や倉庫、パーティ出演者のための控室などのいわゆる「裏」の部分と、客用トイレやエレベータホールなどの「表」の部分がそれぞれ分断されるようにして設計されている。

 

 調理場や倉庫、控室などはパーティホールのステージ裏から出入りできるよう、ホールを挟んで最上階の北側へと集められており、また南西側に位置するパーティホールの正門からはエレベータホールまで一本の廊下が伸び、トイレはその最中に設置されていた。

 

 この階では、ホール正門前にある、(ホテルの目玉の一つでもある)ガラス張りエレベータとその横の非常階段、そしてホールを挟んだ北側に設置されている業務用のエレベータと二つ目の非常階段しか移動手段はなかった。

 

 

 ――つまるところ、そんな構造の中で客用トイレに爆発物が仕掛けられているとはどういうことなのか。

 

 

 それは、この最上階において最も大きなエレベータと非常階段、その二つをパーティホールとつないでいる廊下の最中に爆弾が仕掛けられている、ということで。

 

 つまり、爆発したが最後、最上階から脱出するためのすべが半分なくなってしまう、ということである――。

 

 さらにいうのならば、すでに一つある以上、他の場所にも幾つかの爆弾が設置されている可能性は非常に高かった。

 

 

 

 

「――おいおい。こいつァ、……え? まじかよ……」

 

 小五郎はどんな小さな振動も与えないように気を付けながらそっと紙袋の中をのぞき、そしてそれが明らかに爆発物である、ということを確認して、ひきつった顔でそう呟いた。

 

「どこの誰だか知らねえが、……とんでもねえことをしやがる」

 

 一瞬、小五郎の脳裏に怪盗キッドが浮かんだ。が、キッドの今までの犯行(窃盗はするが殺人はしない犯行動向)をそれなりには知っていた彼は、すぐにないな、とその考えを打ち消した。

 

 最も、このとき小五郎は、それよりも、娘たちのいる会場のすぐそばに、いつ爆発するかもしれぬ爆弾があるというその事実で頭がいっぱいになりかけていたから、実際のところは爆弾の仕掛け主のことなどどうでもいいに等しかった。

 

「くそッ! なんだって――いや、とりあえず、早く知らせにゃあな……」

 

 小五郎はそっと洗面台の下の扉を再び閉じると、すっくと立ち上がってトイレ出口へと向かう。

 

 爆発物が出てきたとあっては、怪盗騒ぎ以上の非常事態である。まずはホールに集っている民間人の避難、そして同時に警察へ応援の要請が――具体的には機動隊の爆発物処理班の要請が火急だった。

 

(――まあ、とりあえずのところはなにをおいても避難だ。早く避難を始めにゃあ、大変なことになる)

 

 こういうときこそ、冷静にならなければいけない。過去、刑事時代に散々と教え込まれたことだった。

 

 そうして小五郎はできるだけ冷静になろうと試みつつ、しかしそれでも思い浮かぶ娘の顔に、結局は抑え込められずに慌てながらトイレから飛び出した。

 

 そして、毎度の怪盗騒ぎのごとく、中森の命令でそこらをうようよ巡回している警官たちのうちの誰かを捕まえようと見渡して、

 

 

「――え?」

 

 

 そこで、ようやく小五郎は周囲の異常に気がついた。

 

 ホールやエレベータの出入り口を見張っていた者も含め、廊下のところどころで警備巡回をしていた警官が、皆、一人残らず倒れ伏していた。

 

「ンなッ!?」

 

 まさか――。

 最悪の状況を想定しながらも近くの警官へと急いで駆け寄る。

 

「おいッ! どうした! 大丈夫か!?」

 

 うつぶせになっていた男を抱き起し、その顔を確認して、

 

「息はしている……」

 

 死んではいないようで、とりあえず安心する。他の警官の様子も確認するが、どれもただ寝ているだけのようだった。

 

「一体なにが……?」

 

 と、そこで、辺りを見回す小五郎の目に、廊下の隅に転がっている金筒の缶のような物が映る。

 

 警官をそっと寝かせ、近寄り、ハンカチを被せて拾ってみれば、筒はすでに空で、その上部には霧吹きの様な穴が無数に開いていた。

 

「ンだ、こりゃ。殺虫剤?――いや、」

 

 そこで、眠りこけている警官らを振り返る。

 

「――催眠ガスか」

 

 同時に、小五郎の中である推測が成り立つ。

 

 催眠ガスは、煙幕やパラグライダーと並んで怪盗キッドが好んで使用する小道具である、とは前に聞いたことがある。

 と、いうことは、爆弾とは別に、この階の警官らをまとめて眠らせたのは怪盗キッドである可能性が高い。さしもの怪盗キッドでも、ここまでがっちりと唯一の入り口を固められては強行突破しか手段がなかったのだろう。小五郎が眠らなかったのは、ひとえに廊下とトイレが扉で隔たれていたからか。

 ……すると、怪盗キッドは、すでに警官かなにかに変装して式場へと入り込んでいることになる。もう例の予告時間であるし、おそらくは間違っていないであろう。

 

 つまり、「侵入を拒むのは難しいから、侵入後、出られないように閉じ込めればいい」という今回の中森の計画は、今のところはおおよそうまく運んでいたようだった。

 

 

 ――爆弾さえ現われなければ、という注釈がつくが。

 

 

 いろいろ面倒くさい状況になってやがるな、と小五郎は舌打ちをしたくなった。

 とりあえず、

 

「……おい、すまねえが、借りるぞ」

 

 一言断った後、そばで倒れている警官の腰から無線トランシーバーを拝借する。

 

 そわそわとした様子で、びくともしないホールの出入り口扉の前にくると、そちらの方を睨みながら、発信ボタンを押した。

 ボタンを押したまま、トランシーバーに話しかける。

 

「こちら、毛利。緊急事態が発生した。トイレにて爆発物と思われる不審物を発見。繰り返す。トイレにて爆発物と思われる不審物を発見。中森警部らは、今すぐホールの入り口の鍵を開け、至急民間人たちの避難を行われたし。繰り返す。トイレにて爆発物と思われる不審物を発見。中森警部らは、今すぐ民間人の避難を……」

 

 そのまま、繰り返すに数度。

 

 しかし、それでも一向に何の応答もない。

 さすがの小五郎も段々と焦りやら怒りやらで取り乱し始め、心のどこかで不審を感じるものの、それに気を取られる間もなく、そのままトランシーバーに怒鳴りつけた。

 

「おいッ! どうしたッ!? 聞いているのか!! いいから、さっさと入り口を――ッ」

 

 そこで、耳に届いたとある轟音に、小五郎は言葉を紡ごうとしたまま絶句した。

 

 

 ――扉のむこうから、銃声が響き渡っていた。

 

 

 時刻、午後九時〇〇分のことである。

 

 

 

 

 

             ◆

 

 

 

 

 

 時は少し遡る。

 

 午後八時三十分。

 小五郎がパーティホールから出て行き、そしてトイレで一服をしていた、丁度その頃のことである。

 

 小五郎の一人が抜けた毛利御一行は、パーティホールにてある人物と思わぬ再会を果たしていた。

 

「あれ?…………お母さんっ!?」

 

 テーブルの奥にあったジュースをコナンの代わりに取り、彼に渡そうと少し屈みこんで、そこでコナンの頭越し、人ごみの向こうに見知ったる自分の母親を見つけた蘭は、思わず大きな声をあげてしまった。

 

「え?」

 

 配られたワインを片手に、同行してきた秘書と二人で会話に花を咲かせていた妃英理も、その声に振り向いてそこに自分の娘がいることに気がつき、驚く。

 

(蘭に、コナンくん?……一体、なぜこんなところに……?)

 

 そばの秘書に一言断ると、英理は蘭のもとへと寄っていく。

 

 一方、蘭はといえば、突然大きな声を発したことで恥ずかしそうに周囲へと頭を下げていた。

 

「まったく。いったい何をしているの?」

 

 英理は苦笑しながらそんな蘭のそばまで寄ると、顔を上げた愛娘と向き合う。

 

「ひさしぶりね、蘭」

 

 柔らかに話しかける英理に、蘭もまた笑顔で返す。

 

「うん。一カ月ぶりになるのかな」

 

 そうね、とそれに頷き、そこで英理は蘭の横のコナンにも声をかける。

 

「コナンくんも。ひさしぶりね」

「うん。ひさしぶり、英理おばさん」

 

 コナンの返答にも笑みを浮かべて頷いて、そして蘭へと向き直ると、英理はようやく疑問を問いかけた。

 

「それにしても。なんであなたたちがこんなところにいるのよ」

 

「それはこっちのセリフだよ。お母さんこそ、なんで?」

 

 問いに問いで返す娘に英理は小さく肩をすくめると、ホール前方のステージへ視線を移し、そのまま疑問に答えた。

 

「あの天使像ね。法手続きは、全部うちの事務所でしてるのよ。私と栗山さんはその関係で招待されたってわけ」

 

 英理につられてステージの天使像を見ていた蘭はそこで視線を戻し、すると英理の肩越しに彼女の秘書である栗山緑と目が合ったので、互いに軽く会釈しあう。

 英理もそこで視線を蘭へ戻し、再び問いかけた。

 

「それで、そっちは? ……まあ、大体予想はつくけれど」

 

 本当に予測できている様子の英理に蘭は小さく苦笑いしながら、今度こそそれに答える。

 

「ああ、うん。お父さんに、天使像の護衛の依頼がね」

 

「だと思った。それで? その、肝心のちょび髭探偵はどこにいるの? 姿が見えないようだけれど」

 

 軽く組んでいた腕を入れ替え、さりげなく辺りを見渡しながら問う英理。

 それに、「ああ、えっと……」と蘭は答えずらそうに言葉を濁す。

 

「お父さんは、その……」

「おじさんなら、今はトイレに行ってるよ」

 

 蘭に代わり、仕方がないのでそこでコナンが子供っぽく答えた。

 それに英理はコナンを見下ろすように一瞥すると、

 

「ふうん。ま、どうせ、ただ酒だーとか言って、呑み過ぎたんでしょ。馬鹿なあの人らしいわ」

 

「あははは……」

 

 小五郎に対しては相変わらずの態度をとる英理に、蘭はただ苦笑を浮かべるしかない。その隣でジュースをちびちびと口に含むコナンも、それは同じだった。

 

 そんな二人の様子を横目に、しかし気にすることなく、英理は別の新しい話題を蘭へと振る。

 

「そういえば蘭。この前の――」

 

 それはどうも、出来の悪い夫のことは彼が現れるまで忘れることにして、それまでは久しぶりの娘との再会をとことん楽しむ腹づもりであるようだった。

 

 しかし、それでいて、会話のところどころでさりげなく最近の夫のことについても聞こうとしているあたり、この両親はそろって素直じゃないなあと、英理の会話に付き合いながら蘭は改めて思った。

 

 

 とまあ、そんな案配で、蘭と英理の間に親子水入らずの空間が構築され、そこへ混じれないコナンはその傍でジュースを飲みながら、腕時計とステージ、そして目に映る周囲の人間らをちらちら気にする作業を繰り返すだけの体になった。

 

 その状況はしばらく続く。

 

 状況が展開する変化の兆しが起きたのは、それから約二十分後。怪盗キッドが予告した午後九時までに、残り十分を切ろうとしていたときだった……。

 




2016/02/15 作中時刻を一部修正
2017/02/07 まえがき・あとがき編集


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4. 転回

 午後八時四十八分。

 パーティ会場のステージ横で控えながら、中森は鋭い視線で周囲を見て、急く内心を必死に抑えていた。

 

(予告の九時まであと十何分だ。もうすぐだ、もうすぐ奴が現れる……)

 

 そして左腕の時計を確認する。

 あと、十一分。

 

 ドキドキと高鳴る鼓動に、ふと、まるでデートの待ち合わせみたいだな、と中森の意識がそれた。学生時代、現在の妻と公園で待ち合わせをした光景が脳裏をよぎった。

 あの頃は彼女もまだお淑やかだったのに、なんで今は――

 

(――って、いやいやいや、オレは何を考えてんだ)

 

 頭を振って邪念を追い払う。それをそばの警官が不思議そうな顔で眺めていた。

 

 ゴホンと咳でごまかし、再び時間を確認する。

 午後八時四十九分。

 予告の十分前を切るまで、あと三十秒……

 

 二十秒……

 

 十秒……

 

 そのときだった。

 

 突然、客集団のうちの一部が騒がしくなった。

 

「え、なんで!?」

 

 そんな声が聞こえる。

 中森など警察だけでなく、その周囲の客らもそこに注意を向けた。

 中年の女性が、携帯電話を片手になにやら騒いでいる。

 

「おい」

 

 中森はそばの警官に声をかける。警官は「ハッ」と返事をすると、急ぎ足で女性のもとへと歩んでいった。

 

 中森は周囲を見渡す。

 怪盗キッドの予告時間が近かったこともあり、くだんの女性の周囲だけでなく、会場全体が「なにかあったのか?」という漠然とした緊張感で包まれ始めていた。

 同時に見たところ、不審な動きをしている人影はない。

 

 と、そこで様子を見に行かせた警官が戻ってくる。

 彼はなにやら難しげな顔で呼びかけた。

 

「警部」

 

「おう」

 

 そちらに向き直り、中森はつづける。

 

「で、なんだったんだ?」

 

 若い警官は少し言いよどんでから、

 

「どうも、電波が通じない――ということのようです」

 

 数泊置き、中森がすっとんきょうな声を出す。

 

「はあっ!?」

 

 それにびくりと首を縮めながら、繰り返す警官。

 

「いえ、ですから電話やメールがまったく通じない……圏外になっていると……」

 

「おまえバカかッ そんなことあるわけないだろう!」

 

 中森は怒鳴ると、自分の携帯電話を取り出し、

 

「ほら、よく見て――」

 

 そこで、画面に圏外と表示されていることを確認した。

 

「はあっ!?」

 

 再びすっとんきょうな声。

 

「おい、なんだコレ。どうなってるんだ!?」

 

 中森はそう言って周囲の警官を見渡す。

 彼らも諸々に自身の電話を取り出し、「おい」「マジだ」「なんだこれ」などとささやきあう。

 中森は胸のトランシーバを取り外し、口にあてがった。

 

「聞こえるか?」

 

 発信ボタンを押しながらのその問いに、同じく胸から取り外し耳へと近づけていた警官らが首を振る。

 

「ダメです。ノイズがひどくて聞こえません」

 

 中森は吐き捨てた。

 

「通信妨害かッ……!!」

 

 それに警官の一人が呟く。「怪盗キッドもやるようになったなあ……」

 

「おい、のんきなことを――」

 

 中森がその警官に向かってそこまで怒鳴ったときだった。

 

 

 突然、会場のすべての照明が落ちる。

 

 

 会場のあちこちでどよめきが起きた。

 先ほどにも演出で照明が暗くなったが、今度は完全なる闇である。

 「なんだ!?」「なに!?」「なんなの!?」という老若男女の声が暗闇の会場に響き渡った。

 

 中森はちらりと携帯電話を確認する。

 液晶画面には、20:59の文字。

 

 そして、それが今――

 

 

 21:00に変わった。

 

 

 

 そして。

 

「レディーーーッス、エェーーーーンドッ、ジェントルメンッ!!!」

 

 拡声器で拡大された、そんな(中森にとって)憎たらしい声が会場中に響き渡った。

 

 会場の前方、中森らの真横――ステージ上が、突然のスポットライトで照らし出された。

 

 そこには、純白の衣装に身を包み、天使像の安置されたガラスケースのその上にたたずむ、怪盗キッドの姿があった。

 ケースの上で器用に立ったまま、そこで優雅に一礼してみせるキッド。

 

 それに、中森はたまらず叫んだ。

 

「キッドだっーーー!! 捕まえろっーーーー!!!」

 

 指さす中森の左右を駆けて、数多の警官がステージ上に集合する。

 

 それを、キッドはにやりと笑って眺めていた。

 

 

             ◆

 

 

 会場の照明が暗転し、そして次の瞬間にはステージ上に現れていた怪盗キッド。

 

「わあ、キッドっ」

 

 そんな明るい声を出す蘭の横で、コナンは鋭い視線で壇上のキッドを眺めていた。

 

(現れたな。しかし今回、逃げ場なんて全くないぜ? さあ、どうする……)

 

 そうこうする間に、キッドはすでに多勢の警官に包囲されている。こん棒を構える警官たちはキッドの乗るガラスケースを円形に囲み、じりじりと近づいていく。

 そしてそんな警官たちの後方には、ニヤニヤと口を緩める中森がいる。

 

「よく来たな、キッド。だが、貴様もこれでおしまいだ。大人しく逮捕されろッ!!」

 

 それに、キッドはことさら明るい声で答えた。

 

「お久しぶりです、中森警部。本来ならば、このまま共に再会を喜び合いたいところ……なのですが、残念ながら今宵の私には先約があります」

 

「せ、先約ゥ?」すっとんきょうな声で聞き返した中森に、キッドは声を張り上げた。

 

「ですので」

 

 と、ここで中森は何かに気づく。慌てて負けじと声を張り上げるが、遅い。

 

「しまったッ!! さっさと捕まえろッ!!」

 

 と、中森が叫ぶのと、

 

「今宵はこれにてお開きです。それでは御機嫌よう!!」

 

 キッドがそう言い放ち、白い煙幕を放ったのは同時だった。

 煙幕はたちまちにステージ上に広がり、さらには会場も巻き込んでいく。

 

「え、なにっ!?」

 

 白く染まった会場に蘭が困惑する横で、コナンはメガネのモードを切り替えた。煙幕を透かせないかと暗視モードを使用するが、案の定、見えはしない。

 そして数秒して煙幕が収まり始めたとき、コナンと、そして中森の懸念は的中した形で姿を現す。

 

 ステージ上には、キッドはおろか、天使像の姿もなかった。

 

 

 天使像は、ガラスケースごと持ち去られていた。

 

 

(そうきたかっ!)

 

 コナンが内で得心すると共に、中森はあせらずに叫ぶ。

 

「予定通りだッ! C班は入口の警護! A班、B班は身体調査を開始だッ!! いいか! まずは同僚! 次に客だ! くまなく調べろ! 全員をだ!!」

 

 周囲の警官たちが一斉に返事をし、各々の役割へと散開しようと動き出す。

 

 コナンは思う。出入口は封鎖されている。そのうえ、キッドはケースに入った天使像という大きな荷物を持っている。それを擬態させて会場に隠しておき、後日に回収、という手段も考えられるが、だとしてもなんらかの変装をしている以上、今夜、この場から逃げおおせることはそう易しくはないはずだ。

 

 ――事件が、キッド捕縛というエンディングに向けて早くも収束し始めている。

 

 余裕そうな中森に、冷静な警官たち。会場全体にそのような空気が流れ始めていることを、コナンはその鋭い感覚で敏感に感じ取っていた。

 

(結局今回は、オレやおっちゃんの出番もなさそうだな)

 

 

 そして、そのように気を緩めたときだった。

 

 

 

 ――会場に、一発の発砲音が響き渡る。

 

 

 

 

 

「…………え?」

 

 

 瞬間、すべての人間がその動きを止めた。

 

 つづいて、一発、二発。三発。

 

 計四発の銃声は、不自然なほど静まった会場に、異様に大きく響いていく。

 そして、どさり。と。

 

 誰かが一人、倒れ伏した。

 給仕の格好をした、若い男だった。

 白い制服に鮮血がにじんでいき、床へと血だまりが広がってゆく。

 男は悔しそうに、憎々しげにつぶやいた。

 

「く、……そ……まだ、パンドラを――」

 

 なにかを言いかけ、そのまま意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 会場中の皆がそちらを見ていた。

 動かなくなった男に注目が集まったまま、不気味な静寂が広がっていた。

 

 一秒か、二秒か。それとも十秒か。

 やがて静寂が一転し、そして、

 

 悲鳴。

 怒号。

 

 会場中がパニックになる。

 

 ある女性が泣き叫び、ある男が喚き散らす。出口前や周囲の警官に詰め寄り、封鎖を解けと叫ぶ。

 警官たちは皆緊迫した、あるいは混乱した、青ざめた表情で慌ただしく動き出す。

 

 中森が叫ぶ。

「どこだ!? 誰が撃った!?」

 

 撃たれた男に駆け寄っていた警官が叫ぶ。

「警部! キッドです! 射撃されたのは、キッドです!!」

 

 蘭もまた、混乱し、恐怖の混じった声を漏らした。

「え、あの、今、なにが……?」

 

 慌ただしく転回した周囲の状況に、コナンも、驚きの顔のまま硬直する。

(これはなんだ!? 撃たれたのは、キッドなのか!? なぜ!? いや、そもそも、どこから――)

 

 はたから見て呆然としているように見えたそんな蘭とコナンの腕を、誰かが力強く引っ張った。

 見ると、英理である。

 

「あなたたち、なにしてるの!? 早くこっちにいらっしゃい!!」

 

 鋭く叫び、そのまま会場隅の物陰まで引きずるように連れて行く。

 大きな装飾の影までくると、そこには栗山の姿もあった。

 

「ちょ、ちょっと、お母さん」

 

 蘭が戸惑ったように抗議すると、英理はぴしゃりと言い放つ。

 

「黙りなさい! 人が撃たれているのに、なんでいつまでも広いところに突っ立っているの!? もしあなたが撃たれたりしたらどうするの!?」

「い、いや、えっと……別に無差別だとも限らないんじゃ……」

 

 どもる蘭に、英理は悲しそうな顔で囁いた。

 

「それでも! 流れ弾だって、あるでしょう……?」

 

 母はとにかく心配でたまらないのだ、やっとそう察した蘭もまた、悲しそうな顔で呟く。

 

「ごめんなさい……」

 

 

 

 親子のやりとりをする彼女らの横で、コナンは鋭い目で会場中を見渡し、状況把握に努めていた。

 

(なんだこれは。いったい、なにが起こっているんだ)

 

 周囲はまさに映画でよくみるパニック状態だった。

 人々が口々に騒ぎ、わめき、怒鳴っている。もしや喧々諤々とはこの様子を指すための言葉なのではないのだろうか、などとも思う。

 

 人々の多くは封鎖されている出入口に詰め寄っており、――と、そこでコナンはそのそばに中森の姿を発見した。

 中森はもう一人の警官とともに撃たれた男――意識不明のキッドを担ぎ、周囲の警官らとなにやら騒いでいる。

 

 いったい、なにを騒いで……?

 

 耳を澄ませたコナンのもとに、その怒声はよく響いた。

 

 

「――扉が開かないだとォ!? そんな馬鹿なことがあるか!!」

 

 

 




2017/02/07 まえがき・あとがき編集


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5. 爆発

 

 午後九時〇〇分。怪盗キッドが現れ、そして煙幕にて姿を消してから銃声が轟くまで――その間は、わずか一分にも満たないほどの短時間だった。

 予告通り怪盗キッドが現れたとしても、人々にとってそれは予期していた……そして少なからず期待していたことで、殺気立っていたのは中森ら警察関係者だけだった。

 会場の他の人々は直前に判明した通信障害にこそ驚きはしたものの、キッド自体には有名人を見た、とその程度の明るい反応でしかなかった。

 

 が、〇〇分から〇一分に至るまでの、このわずかな数十秒の時間で、会場の空気は一八〇度の転回を見せていた。

 

 突然の発砲音。それが四発。

 そして血だまりに倒れ伏す若い男。

 

 会場中の人間が恐慌を起こすのもやむを得ない状況だった。

 

 「なんだこれは」「どうなっている」「誰が撃った」「なんなんだ」……口々に問いかけてくるパーティ客をかき分け、中森は急いで撃たれた男のもとへと走り寄る。

 その周囲ではほかの警官らが客らを必死になだめすかしていた。

 

 伏した男へ応急処置を施している警官に中森は詰め寄る。

 

「おい、どういうことだ! こいつがキッドだと!?」

 

 若い警官は慣れない手つきで止血をしながら、軽くどもって答える。

 

「は、はい! その、これが懐に入っていまして……そ、それに、給仕の制服の内側には白いスーツを着こんでいるようです! ま、間違いないかと!」

 

 彼がそう言って差し出したのは、変わった形状の拳銃だった。銀色に輝くそれは、鉛の弾丸ではなく特製の硬質トランプを射出する銃で――怪盗キッドが所有する違法武装の一つである。

 

 中森はそれを受け取ると少し眺めてから、隣に控えていた警官へと「証拠品だ」と言って手渡した。

 それから、

 

「ええい、オレが代わる!」

 

 正面の若い警官から血に染まったタオルを奪い、慣れた所作で倒れている男の止血をしようとして

 

「ちっ。これはやばいな。止血しようにも撃たれた箇所が多すぎるし、貫通していない」

 

 着ていたジャケットを脱ぎ、それを捻って縄状にすると男の胴体に回して縛る。

 腹部から胸部に渡る銃創である。いくら縛ろうと、あくまで一時的な止血にしかならない。キッドの命は、刻一刻と流れ落ちている。

 中森は再度舌打ちをすると叫んだ。

 

「おい、キッドは確保した! 入口の封鎖を解け! 急いで病院へ搬送するぞ!」

 

 そばの若い警官が、ふとこぼす。

 

「しかし、それでは射撃をした何者かも逃げてしまう恐れがありますが……」

 

「馬鹿野郎! 人命が優先だ!」

 

 中森はそう叫ぶと、キッドを担ぎ起こそうとする。と、そこで目に入ったその顔に体を硬直させた。

 

(か、快斗君……!?)

 

 が、それも一瞬で、おなじく担ごうとキッドへと肩を回した警官の不審そうな呼び声に我に返る。

 

「いや、なんでもない。行くぞ! 1! 2の3!」

 

 二人がかりで意識のない少年を担ぎ上げ、急いで入口へと向かう。

 

「重傷人だ! どけ! どけ!」

 

 叫びながら密集する人々をかき分けていき、やがて扉へとたどりつく。

 

「おい、なにをしている! さっさと開けろ!」

 

 なにやらモタモタとしている扉前の警官らにそう怒鳴るも、返ってくるのは曖昧な返事だった。

 

「おい、どうした!」

 

 すると警官のひとりが進み出て、

 

「い、いや、それが……どういうわけなのか。開閉装置が反応せず……扉が、開きません」

 

「はあァ!?」

 

 大声を上げる中森に、警官は再び言う。

 

「……扉が、開きません」

 

 

 

 

             ◆

 

 

 

 

 出入口の扉を重厚な鉄製にし、頑強な鍵をその内部に取り付けることは、中森が今回の作戦を考えたときに最も初めに思いつき、そして最も時間をかけた仕掛けであった。

 しかしそれを電気仕掛けとして、そのうえで外部となんらかのラインで以て繋がっている場合、クラッキングや電力過供給による破壊など、様々なアクシデントが予想される。

 それらを回避するために、扉の内部ロック機能は完全スタンドアローンの独立機構として設計されていた。

 が、そのために今、中森は窮地に立たされていた。

 

 謎の通信妨害によって、扉の開閉用の無線リモコンさえも機能が麻痺してしまったのである。

 

「カーーーーッ ジャミングはさすがに考えていなかった!!」

 

 「クソまたやられたーー!!」と叫ぶ中森を、周囲の警官たちが複雑そうな目で見やる。

 

 そしてその様子を見ていた周囲の客らは、いっそう激しく喚きだす。

 

「おいおい、扉が開かないのかよ……!?」

「うそ!? じゃあ、銃を持った殺人犯と一緒に閉じ込められてしまったの……!?」

「くそッ!? おい! 誰か外部に連絡できないのか!?」

 

 喧騒が喧騒を呼び、人々の混乱は高まってゆく。

 

 そんな状況を遠目に見て、英理は小さくため息を吐いた。

 

「どうも、芳しくない流れのようね……」

 

「お母さん……」

「先生……」

 

 蘭と栗山が英理と共に不安そうな顔をしているそのそばで、コナンは一人冷静さを保とうと勤めながら必死に頭を回転させていた。

 

(まず考えるべきなのは、キッドは誰に撃たれたのか、ではなく、なぜ撃たれたのか、だ)

 

 中森の隣でグッタリとしている意識不明の血みどろの男を遠目に眺めながら、今日のキッドを思い返す。

 すると、なにか「焦り」のようなものがあったようにコナンは感じた。

 

(特にあの言葉。警部に向かって言った「先約がある」という言葉……それに、いつもならもっと長々とパフォーマンスをするはずなのに、やけにあっさりとしすぎていた退散の速さ。思い返せば、キッドにしては不自然だ)

 

 まるで、「先約」とやらを優先させるために急いで行動していたように思える。

 

(問題は、「先約」とはなんなのか……)

 

 コナンは考える。

 思い出せ。今日のキッドを。そして探せ。推理を紡ぎ真実を暴くための一欠片を。

 なにか不自然な点。なにか変った点。なにか増えた点。なにか減った点。なにか……

 

 と、そこで気づいた。

 

 

(――水晶像!!)

 

 

 俯き顎に手を添え考えていたコナンは、バッと擬音がつきそうな所作でキッドの様子を振り返った。

 普段の白い衣装の上にこのホテルの給仕の制服を着ている。その身体は撃たれた傷から漏れる血で真っ赤に染まっており――

 

 

 ――どこにも水晶像など隠し持っていない。

 

 

 そもそも意識を失っているのだから、あんな大きな物、持ち出せるわけはない。

 

 と、するならば、――果たして。今、()()()()()()()()()

 

 水晶像を盗んだキッドは射撃され、そしてキッドは現在水晶像を持っていない。――まさかキッドは、()()()()()()()()

 

 コナンは慌てた様子で改めて周囲を見回した。

 が、案の定と言うべきか、誰もそんな大きな荷物を持っている様子はない。

 

(いや、待て待て。落ち着け。そもそも、キッドの野郎はどうやって持ち出そうとしていたんだ……? このパーティ会場に閉じ込められることまでは知らなくても、水晶像の大きさは知っていたはずだ。それに、すでに水晶像はステージにはな……い……)

 

 一泊置き、再びコナンは顔を上げた。

 

()()()()かッ!!)

 

 

 改めて会場の奥のステージを眺める。

 ステージの高さ。思い返す水晶像の大きさ。考えてみれば簡単だ。

 

(ステージの中にある!)

 

 学校施設の体育館などと同様だ。このパーティ会場は、もともとは結婚式の披露宴なども想定して作られており、その際に使用されるパイプ椅子や机などを普段の未使用時に保管しておく場所として、ステージの中は空洞になっていることが少なくない。

 

 変に技術力を持つ怪盗キッドのことだ。事前にホテルへと忍び込みステージに細工をしておくことだって……いや、そもそも現に今、ホテルの従業員の格好をしているではないか。

 前々から潜入していた可能性――十分にある。

 

 慌ててステージへと確認しに行こうとして、コナンは誰かに肩を掴まれた。ぎょっとして振り向けば、不安そうな顔をした蘭がいる。

 

「コナン君、どうしたの?」

 

「え? いや、あの……」

 

 どうして切り抜こうかとコナンが考えたそのときだった。

 

 事態は、さらに加速と混迷を極めはじめる。

 

 

 

 ――振動と、轟音。

 

 

 

 ホテルのどこか近く――おそらくは最上階のどこかが、爆発した。

 

 パーティ会場の電灯が、三度(みたび)、消え入る。

 辺りは暗闇に閉ざされた。

 

 




2017/02/07 まえがき・あとがき編集


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6. 降下

 なにか強烈な轟音と震動が突然として響き渡り、瞬間、辺りに暗闇が訪れる。

 

 ……十秒にも満たない時間だったと思う。

 

 誰かの叫び声が響き渡ったと思い、近くで誰かの身じろぎの気配や息遣いがやけに敏感に感じ取れたと思ったときには、パッパパッ、というような点滅と共に電灯は復活した。

 

「なんだ、今のは……」

 

 かがみこみ、片腕で自分の頭を守りながら上半身でキッドを覆っていた中森は呟いた。

 

「まさか、爆発ですか?」

 

 キッドを挟んだ向こう側で同じく意識のないキッドを支えている警官が囁いた。

 

「おそらくは……いや、待て」

 

 耳を澄ますと、かすかに……いや、確かにそばの扉の向こうから警笛が――火災報知器の警報がけたたましく鳴り響いているのが漏れ聞こえる。

 確認してから、中森は再び口を開いた。

 

「おそらくは、そうだと考えるのが妥当だな」

 

 中森の背後から、また別の警官が話しかける。

 

「コイツの仕業ですかね」

 

 彼はそう言って目の前のキッドを視線で示す。

 

「いや――」中森はちらりと快斗の青ざめた顔を眺めてから、「確たる証拠があるわけじゃないが、違うだろう。キッドは泥棒だが、人殺しは決してしない」

 

「撃たれてますしね」

 

 肩を貸しているもう一人の警官も同意した。

 

「撃った奴が、怪しいな」

 

 また別の警官もそう呟く。

 

「それの捜査も大事だが、今我々がしなければいけないことは別にあるぞ」

 

 そんな彼らに、中森より年配の警官が言い放つ。

 

「そうですな。――まずは事態を収拾しなければ」

 

 中森はうなずき、辺りを見渡す。

 

 謎の銃撃に、密室、爆音、暗転、という一連により、人々の混乱はピークに達していた。

 

「なんとかして落ち着かせねえと……」

 

 呟いた中森の目に、ふと報道関係者らが目に入った。多かれ少なかれパニックになっている人々の中で、彼らだけは毅然と「報道」を続けている。カメラマンの持つカメラの前で、マイクを握って現状を実況している。――が、おそらくはその「報道」もまた電波妨害によってこの部屋から外には漏れていないのだろう。

 

 と、そこまで考えて中森は思い至った。

 

 たしか今夜はキッドが現れるということで、生中継をしている局があったはずだ。それに、思えばホテルの下にはキッドを一目見ようという野次馬も、そしてそれを統制するために駆り出された警察も多くいる。

 中継が途切れた上で、この爆発だ。

 現場の中森らとも連絡が取れないともなれば、警察はすぐに動く。

 

 助けは、すぐに来る。

 

「おい、こう言って呼びかけろ。助けはすぐに来る、――」

 

 中森はすぐさま周囲の警官にそれを伝えると、彼らに急いでパーティー客への統制へあたらせた。

 その間に、自分は担いでいるキッドの様子を見る。

 血は大分失っているようで、肌は冷たく、息は荒い。

 

「警部、救助がくるまではコイツ、寝かせときましょう」

「あ、ああ、そうだな」

 

 そのまま二人がかりで隅の壁際へと慎重に寝かせた。

 そして中森は立ち上がると、凝り固まった肩をもみながら腕時計で時刻を確認する。

 午後九時半を少し過ぎた頃である。とすると、爆発が起きたのは三十分ごろか。

 

 なにかしらの爆発が起こったことから、おそらく下に待機している警察も機動隊――それも爆発物処理班が到着するまでは迂闊に最上階付近へは踏み入れない。あって、階下のホテルから従業員や客の避難誘導をするくらいしかできないだろう。

 機動隊が到着するのは――ここが郊外であることや、キッドの予告効果による付近の混雑状況などを鑑みても、おそらく――早くても二十分か三十分、それ以上はかかる。

 

「さて……どうするか……」

 

 そう呟いたときだった。

 

 中森らのすぐそばの扉、鍵が作動しなくなってしまった扉が、突如として大音を上げた。

 あまりにも突然のそれに、そばにいた者はびくりと肩を上げる。

 叩くような、蹴るような打撃音が少し続き、すると一層に大きな甲高い音が――まるで機械で金属を切っているか(・・・・・・・・・・・・)のような音が響き出した。

 

 ――いや、違う。

 間違いなく、なにかを切断している音だった。

 

「こ、これは……」

 

 中森の隣の警官が困惑と、そして喜びの入り混じったような声を漏らす。

 中森も似たような心境で、じっと扉を見つめていた。

 いつのまにか騒がしかったホールも静かになっていた。これだけの大音が鳴っていれば、さすがに扉そばにいない者にも聞こえる。ホール中の人間が息を潜め、このとき一どころに注視していた。

 

 そして、金切り音がぴたりと止み、

 

 ――がたり、と。

 

 扉が二枚繋がった、閉じたまま(・・・・・)の状態で揺れ、向こう――廊下の側へと外された。

 と、同時、

 

「皆さん無事ですか!?」

 

 暗い青の制服に同色のヘルメット、黒いプロテクタ。日本警察が機動隊の青年が二人、立て続けにホールへと踏み込んだ。

 瞬間、ホールのかしこから歓声が上がる。

 

「助かりました」

 

 代表して中森が青年に声をかける。

 

「しかし、なぜこんなに早く……?」

 

 機動隊の青年は簡潔に、

 

「通報があったんです。爆弾発見と、異様な局所的通信障害、そして発砲音を聞いたと……。

 そんなことより、今は、避難のほうを」

「あ、ああ」

 

 中森も頷き、部下に避難誘導の指示を出す。

 そうしてふと廊下を見やれば、耐爆の防護服を着た人間が忙しげに行き交う姿が見えた。

 と、そこで 隅に横たえたままのキッドを思い出す。簡易的な止血しかしていない、早く運ばねば――

 そう考えたところで声をかけられる。

 

「警部、誘導始まりました」

 

 見れば、ホール中の客が、我先にと扉から出て行く。警官らが慌てるなと声をかけているが、さすがに立板に水のようだった。

 

「ああ、それじゃあ怪我人も急いで――」

 

 そうして中森が視線を戻したとき、壁際にいたはずの男の姿はどこにもなかった。

 

「ンなぁッ――キ、キッドが!?」

 

 中森に次ぎ声をかけた警官もそれに気付き、二人は慌てて共に周囲を見渡すが、さすがに混雑していて判別など出来ない。

 

「い、いや、もしかすると、もう誰かが運んでいったのかもしれません。ほら、結構な怪我人でしたし……急いでたんじゃ……」

 

 慌てながら誤魔化すようにそう言う警官に、

 

(――いや、違う)

 

 中森は即座にそう思ったが、

 

「そう……かもしれんな」

 

 数瞬の間を置いて頷いた。辺りを見渡すと、機動隊の人間が寄ってきて、

 

「警部たちも早く避難を。まだ残されている爆発物が発見されました。しかも、数が多過ぎます。隔離処理もこの状態では難しいでしょう。一般客と共に先に降りて下さい。我々もすぐに引き上げることになります」

 

 そばの若い警官が、聞くなり顔を真っ青にさせる。

 

「け、警部……」

 

 すがるような声を出すそいつに内心でため息を吐くと、

 

「分かりました。逃げ遅れがいないかも確認しながら、速やかに退去します」

「お願いします」

 

 そう言って去る男を横目に、中森は部下たちに声を張り上げた。

 

「いいか、お前ら、俺たちも――」

 

 

 

             ◆

 

 

 

 ホテル地上17階。奇跡的に無事だった階段で避難を続ける騒々しい人混みのなか、その少女は気付いた。

 

「……あれ? え? コナンくん?」

 

 手を握っていたはずだった。一緒にいたはずだった。それなのに。

 ――彼の姿が、なかった。

 




2016/08/09 慣れぬ端末作業に起因する改行・傍点などのミスを修正。
2017/02/07 まえがき・あとがき編集


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7. 対峙

 時刻はもうすぐ午後十時に差し掛かろうとしている。

 パーティ客のみならず警察や機動隊もすでに退去し、人気などなくなった最上階、会場。

 その場に、ひとつの影がひっそりと入り込んだ。

 彼は入口の陰からあたりをうかがうと、なるべく素早い動作で会場奥のステージを目指す。その片手は腹部を押さえ、顔色は青ざめていたが、その足取りは力なくも、意外としっかりしていた。

 

 ステージまでたどり着くとその上へと上り、中心付近でなにやらゴソゴソと手を動かした。するとその手元の板がカタリ、と動き、ひっくり返る(・・・・・・)。なにもないステージの一部が回転し、代わりに水晶像の安置されたガラスケースが現れた。

 

「よし、あとはこれを……」

 

 そうつぶやき、服の内側から何かを取り出して――

 

「ッ!!」

 

 慌てて真横へと飛ぶ。

 同時、彼の居た場所に銃弾が二発、立て続けに着弾した。

 彼はそのまま水晶像の防弾ガラスケースの裏側へと転がり込む。その背後を同じく銃弾が追いかけ、床板とケースに幾発か着弾する。

 

(あ、あっぶねー)

 

 そんなことを内心つぶやきながら彼――黒羽快斗はケースごしにうしろを確認した。

 いまだ硝煙の立ち上る銃口をこちらへと向け、ツカツカと入口から歩み寄る――黒尽くめのスーツを着た男が二人。

 そのうちの一人、口髭が印象の男が歩みを止めた。

 

「追い詰めたぞ、黒羽盗一」

 

 男――スネイクが言うと共に、もう一人の男が再び数発を快斗へ向けて撃つが、ガラスケースに罅が入るのみで彼には届かない。

 彼はさらに撃とうとするが、スネイクに「それ以上はパンドラへ当たる」と止められた。

 

「その水晶像、おとなしく渡してもらおうか」

 

 言うスネイクに、

 

「……それは無理ですね」

 

 快斗もまた、答える。そうしながら、

 

(今のうちにさっさと破壊してしまおう……)

 

 そんなことを考える。

 快斗――怪盗キッドの、今回の目的は水晶像の窃盗に留まらない。極端な話、最終目的さえ果たせるのならば、窃盗自体は失敗してもよい(・・・・・・・)のである。

 今回の、その究極的な目的――

 

 それは、――水晶像の破壊(・・・・・・)だった。

 

 そのために今回、快斗は協力者である寺井に頼んでとある代物を用意してもらっていた。小型の、低威力爆弾である。

 もしも像の回収が困難な状況になった際には、あらかじめステージの水晶像消失トリックのための仕掛けに共にセットしてあるこの爆弾にて、水晶像――“パンドラ”を破壊する……。そのような手筈になっていた。

 なお、この爆弾の威力や影響範囲は狭く、爆発点から数メートルも離れていれば、風を受けることはあっても、火傷や破片にてけがをする可能性は少ない。そんな局所的な効果であるが、ただし、ゼロ距離から中型の宝石像をひとつ粉砕する程度の威力は十分にある。

 

 しかし、先ほど――数十分前、快斗は人ごみの中に紛れたことにも関わらず、どこかからか腹を撃たれた。のみならず、せめて破壊を……と、遠隔起爆スイッチへと手を伸ばすも、反応がない。そういえば電波ジャミングがどうのと刑事らが直前に騒いでいたことを、その際に思い出した。

 その後少しの間意識を失い、おそらくは警察に素顔が割れてしまったし、トランプ銃もその際に取り上げられている。幸い、小さな起爆スイッチだけは見逃されていたことが、唯一の救いではあるが……。

 

(しかしコイツら、本物のもっとヤバイ爆弾を仕掛けてやがるし……やべえな。いや、……パンドラがある限り、しばらくこのホールは爆発しないだろうけれど……)

 

 さっさと有線で起爆してしまおう。そう決断する。

 ケースごしに注意をしながら、像と半身で陰になっている側の手で足元のステージ仕掛けを素早くいじくる。片目でちらりと確認し、爆弾の有線起爆のためのコードを引っ張り出す。

 

(よし、あとは繋げて……)

 

 そのままコードを起爆スイッチに繋げようとして、そこで、(あれ?)と手を止める。

 

(繋げて、……繋げて、……――繋げるの、どこだ!?)

 

 

 ――起爆スイッチが、手元になかった。

 

 

(え? あれ? え、……――ああッ!!)

 

 冷や汗を掻きながらポケットや服の内を改めていると、彼はその目にスイッチを発見する。ガラスケースを挟んで向こう側、先ほどまで彼が居た場所に、それは転がっていた。

 

(しまったーーッ!! あのときかッ!!)

 

 脳裏に流れるは、つい先ほどの、背後から銃撃され、それを回避する際の行動。あまりに慌てすぎて、普通に投げ出してしまっていた。

 

 ダメじゃん。

 

 自分で自分にツッコミを入れる。

 

(――くそッ! どうする!?)

 

 ……いや、実際、選択肢はない。

 彼の今の手持ちでは、ほかに水晶像を破壊するすべはない。

 ならば、

 

(取るしかない。取るしかないが……)

 

 冷や汗が頬を伝う。

 彼の正面では、ホールの入口を背に、黒ずくめの男らは銃口をこちらへ向けたままゆっくり、しかし確実に距離を詰めてきている。動きを見せれば、即、射撃されるだろう。

 なにか、なにかで彼らの注意を逸らすか、拳銃を手放させなければ、とてもではないが取ることは難しい。

 

(どうする!? どうすれば――ッ)

 

 絶体絶命。その四字が快斗の頭に浮かぶ。あまりにも切迫した状況。事態。いっそのこと、一か八かで――ッ

 そんなことを考える。

 

 

 そのときだった。

 

 

 男らのそのさらに向こう、ホールの入口に、小さな影が飛び込んだ。

 小柄な影は片足を踏み出し、と、そのベルトからなにやらサッカーボールが現れ出でて――

 

(今だッ!!)

 

 その影――コナンをよく知っている快斗は、瞬間、ガラスケースから飛び出した。

 男らがそれに照準を向けるが、それより先に、

 

「ぐわあああッ!?」

 

 背後から飛来した超速度のボールに片方が吹っ飛ばされた。

 

「なッ!?」

 

 そしてもう片方も、突然吹っ飛ばされる隣の相棒に気を取られ、引き金を引くのが遅れる。そしてそのうちに、快斗はスイッチの回収に成功していた。

 

(よしッ!!)

 

 同時、快斗は反転。その勢いのまま、背後の新手に気を取られた、残っているほうの男――スネイクへと突進する。

 

 コナンへと発砲するも入口の陰へと隠れられてしのがれたスネイクは、そこで今度は迫りくる快斗に気付くも、一瞬の差で早くたどり着いた彼によって拳銃を弾き飛ばされた。

 そのまま返る肘で顔を殴打され、スネイクは倒れる。

 彼がのびたことを確認し、すると、

 

「はあ、はあ、……ぐッ!?」

 

 思わず膝をつく。そして巻き付けられたスーツごしに血のにじんだ腹を押さえながら、

 

「はあ、……おい、大丈夫か名探偵」

 

 息も絶え絶えに声をかける。

 すると、すぐそばから声が飛ぶ。

 

「おいおい、おめーのほうが大丈夫かよ」

 

 思ったよりも近かいことに驚いて顔をあげると、倒れるスネイクを挟んですぐ目の前に、あきれるような顔をした少年が立っていた。どうやら、とっくに入口からそばへと寄ってきていたらしい。

 

「はっ、大丈夫さ、これくらい、ッ」

 

 そして立ち上がり、拾った起爆スイッチを片手にステージへと引き返す。コナンも、その後を追いかけようとして、ふと改めて倒れる男らを見て、「……黒ずくめ!?」今更ながらに小さくつぶやいた。

 

「っつうかおい、名探偵よ。なんでおめえ、まだ残ってんだ」

 

 ステージを這い上がり、ガラスケース元の仕掛けへと寄りながら快斗が聞く。

 そうしてケースの元へ腰を落とし、床下の仕掛けから伸びる起爆コードへ接続しようとして、……

 

「いや、おい! おめー、あいつら! 黒の組織だろ!? どういう関係だッ!?」

 

 いつのまにか走り寄ってきていたコナンに腕を引かれた。

 

「は? 黒の組織?」

「おう!」

 

 聞き知らぬ単語に呆けた声を上げるも、コナンは鼻息荒く腕を引く。

 

「おい! どうなんだ!?」

 

(なんだこいつ、この興奮よう……)

 

 あきれたような視線をコナンへと向け、

 

(いや、それよりもこっちを早く――)

 

 と、手元へ視線を戻し、そこで快斗は気が付いた。

 

 

 ――起爆スイッチの一部が、砕けていた。

 

 

「って、えええええええ!?」

 

 驚愕の声を上げ、コナンを振りほどいてよく検分すれば、それはおそらく銃弾によるものだ。まさかの流れ弾が当たっていたパターンである。

 

(え、マジ? マジでなの?)

 

 コードをしっかりと繋いでとりあえずスイッチを押すも、爆弾が作動する気配はない。

 

(え? え? えええええ……)

 

 困惑する快斗を、そして、コナンはいまだに「おい、どういう関係だ!?」と両手で腕をゆする。小さなカオスがそこにあった。

 

 

 

 

 ……が、しかし。そんな空気も、結局は「事件がひと段落した」という二人の誤認からくる緊張の弛緩でしかなく。

 

 また、当然のごとく、事件はいまだ終わってはいない。

 

 

 

 

「――クソッ!! クソッ!! クソがッッ!!」

 

 突然、そんな大声を上げて立ち上がる者がいた。

 

 先ほどコナンのボールによって気絶させられていた者。スネイクの相棒である。

 

「なめやがって……こんなガキが……なめやがって」

 

 血走った目でコナンを、そして快斗をにらみながら、彼はゆっくりと起き上がる。

 

「殺してやる……殺してやるぞ……」

 

 ブツブツとつぶやきながら、足元の拳銃を拾い、隣のスネイクを蹴り起こす。

 

 対する快斗とコナン、小さく話す。

 

「お、おい、なんかヤベーこと口走ってるけど……どうするよ」

「そうゆうおめーこそ、なんかねえのかよ」

「わり、今、パラグライダーくらいしか……」

「つかえねーやつ……」

 

 コナンはひとつ息を吐くと、

 

「しゃあねえ、もう一度……」

 

 そう靴へ手を伸ばそうとして、

 

「やばッ!?」

 

 そう叫んだ快斗によってガラスケースの裏側へと引っ張り込まれた。

 

 同時、彼らへ向かって銃弾の雨が襲いかかる。

 

 ケースの裏側、念のため頭を低くする二人は、そして、とうとう自分らの隠れる防弾ガラスケースが罅を通り越して割れ砕け始めた音を耳にする。

 

(や、やべえ……ッ!!)

 

 が、同時、銃弾の雨もまた止む。ちらりと水晶像ごしに見やれば、男はカチカチと空撃ちしかできぬ拳銃を荒々しく横へ放り捨てるところだった。そのそばでは膝立ちになったスネイクが頭を左右に振っている。

 

(今だッ)

 

 思ったコナンがキック力増強シューズのダイヤルを回し、ボール射出ベルトのスイッチを入れる。が、――

 

 それより早く、男がとあるものを懐から取り出していた。その目は血走り、どこか正気ではない。

 男の握るものが何なのかに気が付いたスネイクが、すぐさま叫ぶ。

 

「おまッ、バカやめ――」

 

 そしてコナンがボールを蹴るよりも早く、男は叫びながらそれ(・・)のボタンを押していた。

 

 

「死ねええええええッ!!」

 

 

 瞬間、彼ら――男やスネイク、そしてコナンや快斗を含める彼らの、その頭上――天井が、爆発をする。

 

 閃光と轟音が空間を支配し、瓦礫がホールへと降り落ちた。

 

 




本日(本話)の言い訳:
 ぼ、僕はね。シリアスのなかにもちょろっと入るギャグ感や、謎の組織のどこか残念感、それがね、まじっく怪斗の魅力のひとつだとね、思うわけなんですよ(偏見&震え声

2017/02/07 まえがき・あとがき編集


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序章 水晶天使の心臓(カルディアエイドス)
01.或る探偵の死


結局、キンクリダイジェスト風になり、まあ、プロローグっぽい長さのプロローグになりました。
力尽きた旧序章自体は、一応これからも残しておきます。無計画なオリジナルほど恐ろしいものはないって、ちゃんと学びました。
大変にお騒がせいたしました。ホントすみません。


 四方を炎が囲い込んでいるので、辺りは明るく、その向こうに見える夜空は、だから余計に遠く感じられた。

 瓦礫のなか、血だらけで寝転がる毛利小五郎は思う。

 

 ――ああ、死ぬな、こりゃ。

 

 どこか近くで、再び、何かの爆発音が響く。小五郎の居る空間を取り巻く炎もまた、一段とその勢いを新たにした。

 彼のいるそこは奇跡的にまだ燃えてはいないが、肌をジリジリと焦がす熱気に、じきに己も燃えるな……と小五郎は悟る。

 

 と、そこで、崩れた天井から夜空を眺めていた彼の目に何かが映りこむ。

 

 白く大きな満月を背後に、ライトをこちらに向けながら、なんとか近づこうとしては強風に、そしてそれに煽られてどんどんと勢いを増していく炎に、依然として近づけないでいる――一機のヘリコプター。

 

 蘭に、英理に、そしてコナン――娘と妻と、クソ生意気な居候坊主。自身の家族が今、乗っているはずのヘリコプターだった。

 

 まだ俺を助けようとしているのか。思い、そして――

 

 

『ダメえッ!! お父さん!! お父さんッ!!』

 

 

 つい先ほどに聞いた娘の悲鳴が、幻聴となって脳裏に響く。

 叫び、こちらへと手を伸ばす娘の顔は涙で濡れていて、その奥でこちらを見ていた妻は、煤で汚れてもなお美しいその顔を悲愴と絶望の色で塗りつぶしていた。

 血のにじむ腹を手当てしていた怪盗キッドの小僧も、たいして関係はない癖に沈痛そうな表情で――せっかくこの身と代えて助けてやったはずの砂利坊主はといえば、妻にも劣らぬ絶望の顔だった。

 

「ああ……」

 

 吐息が漏れる。

 

『このクソ坊主! 助けてやったんだ!! そんな顔をするんじゃあねえ!!』

 

 あのとき。離れ行くヘリコプターには、かろうじてそれだけの言葉を投げることができた。

 突如バランスを大きく崩したヘリコプターから、落ちそうになった――否、ほぼ落ちて滞空していた一人のガキ。咄嗟にそいつの腕を捕まえて、機内へ引きずり込んだはいいものの、代わりにバランスを崩して落っこちた人間が、小五郎だった。

 

 ……わずか五メートルに満たない位置からとはいえ、瓦礫の散乱した堅い床である。小五郎は咄嗟に受け身を取ったが、流石に気休めにしかならなかった。ヘリより落下するその前から、もともと重症の身体だったのだ。もう、動くことすらままならない。そんな痛みに悶える体で、それでも大声を張り上げることができたことは、我ながらよくやったと思っている。強風とそれによって勢いを増す炎から急いで退避をするヘリコプターにも、きっと聞こえていただろう。

 

 が、今となっては、もう少しなんとかならなかったのだろうか……などとも考え始めてしまう。

 

 状況を見る限り、この後ヘリコプターが小五郎の声を拾えるほど近づけることはもうないだろう。ましてや、彼を救出するなんてことも。

 ……それならば、もう少し。

 もう少しだけ、遺言らしい家族への言葉を言っておいたほうがよかったのではないか。

 そんなことを、考える。

 

 考えて……そこで、小五郎は携帯電話があったではないかと気がついた。

 

 痛みに震える手で、スーツのポケットをまさぐり、旧型の折り畳み式携帯電話を取り出す。見ると器体表面に大きな罅が入っていたが、蓋を開けばどうも普通に使用できるようだった。

 

 そしてメールを打とうとして、だが、携帯電話は手から滑り落ち、一度床で跳ねてから、そばまで寄ってきていた炎のなかへと飛び込んだ。

 震える手を見ると、赤い液体でぬめらかに濡れている。

 

 

 ――ああ、俺の血だ。

 

 

 血で、電話が滑ったのか。小五郎は理解した。そして、こんなに傍まで炎が近づいていたことにすら気づかなかった自身の状態が、もうどうしようもなく死の一歩手前なのだということも、理解した。

 

 

 と、ここでまたどこかが爆発した。そしてその拍子なのか、炎に呑まれかけている小五郎のすぐ隣に、なにか大きなものが倒れこみ、そして砕け散った。

 

 

 その音に小五郎が目をやれば、そこには透明な輝きを見せる水晶の欠片の山があった。

 炎に包まれた鉄筋ホテルの最上階ラウンジに、綺麗な水晶。……死と破壊の気配しか感じていなかった小五郎にして、その砕け散った水晶らはとても清らかな美しいものに見えた。

 が、そんな水晶らも、透明だった輝きはやがて炎の灼熱色に染まってゆき、さらには小五郎の垂れ流す紅の池に沈んでゆく。

 

 

 ――こんなところにこんなものがあっただろうか……。

 

 

 少しだけ朦朧とし始めた頭で小五郎は思考し、が、たいして苦労もなく思い出す。

 

 

 ――ああ、なんだ。あの天使像か。

 

 

 天使像。水晶で出来た、天使像。

 数か月前にギリシアのとある遺跡から発掘された、……考古学者いわく学術的にも美術的にも非常に高い価値を秘めているという、水晶で造られた天使の像。

 それは彼の怪盗キッドさえも誘き寄せるほどの宝石で、そしてだからこそ、「像の護衛」のために、発掘者である大学教授によって小五郎は探偵として依頼を受けたのだ。

 像のお披露目である今日、だから小五郎はこの場に居た。

 ……怪盗キッドが予告状を出したことでこのパーティーの注目度はさらに上がり、そして、小五郎の他にも中森警部をはじめとした警察が対キッドのための布石を幾つも施していた。

 だから、小五郎は思っていた。“これは、今日は楽勝だな”――と。

 

 

 ――だが、まさか。

 

 

 まさかそこに更なる乱入者、否、闖入者が現れるとは――重火器で武装した謎のテロリスト集団が現れるとは、小五郎や中森を含め誰も予測できてはいなかった。

 

 ――なんなんだ、あいつらは。

 

 小五郎は思う。

 

 ――なんなんだ、あの、一様に黒服を着込んだ、マフィアともどうも違うらしいあいつらは――いったい、何だったのだ。

 

 

 “奴ら”はまず、このビル全体に爆弾を仕掛け、そして次に、天使像を奪うために現れた怪盗キッドを射撃した。

 血にまみれて倒れ、逮捕するべくして集まっていたはずの警官らに保護されるキッド。発生する電波障害。順々に爆発するビル。

 人々はパニックに陥り、そんな混乱した避難のさなかでコナンや蘭、重傷だったはずのキッドの行方が不明となった。

 小五郎がそれを知ったのは最後の避難者として地上に降りてからで。止める警察らの手を振り切って、彼は単身、燃えるビルへと引き返した。

 そして最上階。爆破により天井が崩れ、夜空が露出したそのホールにて、黒服の男らと天使像をめぐる対決をしていたキッド、コナン、蘭らの元へと間一髪で彼は間に合う。

 小五郎と同様に蘭たちの行方を追って引き返していた英理が、彼女たちをかばって黒服らの構える銃口の前へ立ちふさがった、丁度そのときに、小五郎はなんとか間に合ったのである。彼の飛び出た階段が、黒服たちの背後に位置していた幸運も手伝った。

 彼一流の柔道により、黒服たちは無力化し、拘束。ただその際に、腹を銃で撃たれてしまったが。相手は複数人だったのだ。この点については、仕方がない。家族らには傷一つなかったのだから、それで大金星であった。

 

 その後、あとは再び地上へ脱出するのみ、と若干に弛緩した空気になった途端に、そこで時限により爆破する更なる爆弾。この爆発により、小五郎が使用した業務用の階段も利用できなくなり、炎はいよいよ最上階までやってきていた。

 緊迫した空気が流れたが、そこに颯爽と近寄るヘリが一台。

 キッドの小僧が喜色満面で「ジイ!」と叫んでいたから、おそらくは噂に聞く彼の協力者だろう。「爺」なのか「寺井」なのかはわからなかったが、曲がりなりにも救出の恩ができることになるので、この情報を警察に流すことはやめておこうと思った。

 

 そして迫る火の手に追われるように、拘束した黒服を含めて全員がヘリコプターに乗り込み、さあ、脱出だ――と、そのときだった。

 

 ヘリが、どこからか狙撃されたのだ。

 おそらくは、黒服の仲間か何かが口封じやら何やらの目的で狙ったのではないかと思われた。

 

 幸いにも致命的な箇所に被弾はしなかったものの、驚いたパイロットにより機体は大きくバランスを崩し、そこで未だ開いていた扉からコナンが落ちて――。

 ――前述のようにして、小五郎が代わりに落ちたのだった。

 

 正直な話、突然に機体から転がり落ちたコナンを、重症の身体ながら伸ばした手で掴めたのは奇跡に近かった。

 まあ、それで自分が落ちているのでは、しょうもないことであると思う。

 

 ただ、まあ――。

 

 今となっては、これで良かったのかもしれない。

 

 いつのまにか、今日一日の出来事を回想していた小五郎は、もしかしてこれが走馬灯かと苦く笑う。

 

 どちらにしろ、自身は拳銃で撃たれて重傷だったのだ。それが、将来のある子供と引き換えに出来たのなら……大人として、あのガキの仮とはいえの保護者として、その責任は充分に果たせたのではないだろうか。

 

 じりじりと迫り、肌を焦がす勢いの熱に、小五郎は息苦しくなって咳き込んだ。

 

 そして頭上に視線を戻し、――炎の向こう、去ってゆくヘリコプターを見つける。

 

 ――ああ、行ってしまうのか……。

 

 自然にそう思い、そこで小五郎は自身が生存を諦めていなかったことを知り、自嘲した。あれほど大層な御託を並べておいて……それでもやはり、己は生きたがっていたのか。

 

 

 ――俺ってやつは、最期までかっこよくはできねえな。

 

 

 そんなことを思って、炎の向こう、暗く広がる夜空を眺める。

 去ってゆくヘリコプターを、恨んでいるわけじゃなかった。むしろ、何度か狙撃を受けながらも、しばらくの間、己の救出を試みようとしていた彼らには、感謝をしてもしきれない。それに乗っているのは、彼の愛する家族たちだ。

 さっさと行って、安全なところへ逃げるんだ――。先ほどまではそんなことも思っていたのだ。たしかに。

 ……結局行ってしまったら、落胆する己がいたあたり、本当に、しょうもないのだが。

 

 

「ああ……人生最後にしては、いい空だ……」

 

 

 熱気を放つ周囲の炎は邪魔だったが、その向こう、遥か遠く天に広がっている夜空は、とても綺麗だった。

 今までの38年の人生の中で、最も美しい夜空かもしれない。

 

「ああ、くそ……綺麗だなあ……」

 

 なぜか涙が止めどなく溢れ出て、仰向けに横たわる小五郎の頬を流れ落ちてゆく。

 

 炎の向こう、夜空に輝く満月だけが、彼の最期を見届けようとしていた。

 

 と、そこで、小五郎の視界のすみに赤い輝きが映り込む。

 

「――なんだ、これ……」

 

 横目で見ると、彼の顔のそば、広がる血だまりの中に、夜空の星の輝きに答えるように煌びやかに輝く、朱い拳大の結晶が転がっていた。

 周囲には同じような形状の水晶片がいくつも転がっているので、その結晶もまた例の水晶像の一部なのだろうとはわかった。

 

 ……しかし、あの天使像に赤い部位などあっただろうか……。

 

 思い、と、そのとき小五郎の頭の隅で先日に娘が言っていた言葉が蘇る。

 

 

 ――それでね、これがすごい不思議な話なんだけど。その天使像は、月の光に照らしたときだけ、心臓の部分が赤く輝くんだって!

 

 

 ――ああ、これがその「心臓」か……。

 

 思い出した小五郎は、たしかに神秘的で、綺麗な石だと感嘆した。

 こんなに美しいのなら、怪盗キッドや、あの黒服の男たちがあれほど躍起になって求めていたことも、少しは理解できるかもしれなかった。

 

 ……炎が、とうとう小五郎の周囲の血液にまで迫り、それを燃やし始めた。

 

 

 

 ――とうとう、最期の時が来るか……。

 

 観念したように小五郎は瞳を閉じる。

 目蓋の裏に、彼の今までの人生が駆け巡っていった。

 

 両親。幼少。妻との出会い。学生時代。娘の誕生。刑事時代。探偵時代。……

 

 そしてそんななかで、最後にふと、あることが思い浮かぶ。

 

 

 ――結局俺は、最後まで本当の名探偵にはなれなかったなあ……。

 

 

 ここ一年ほど、小五郎の心に暗い影を落として消えることなどなかった、あるひとつの思い。

 

 ――最後まで、形だけの名探偵だった……。

 

 重く、暗い、小五郎に巣食う一つの闇。

 

 それは、つまり、――『毛利小五郎』は、名探偵である。――という、それだった。

 

 それは最近にテレビや新聞のニュースを見ている者なら誰でも知っていることであり、実際の事実である――とされていることである。

 世間のほとんどの人間が、「毛利小五郎は名探偵である」という、それを真実だと信じて疑っていない。

 ――毛利小五郎、彼自身の、ただ一人を除いて。

 

 事件解決時の、記憶がない。

 

 最初にそれに気がついたのは、今はもう遠く昔に感じられる一年前、それも「名探偵・眠りの小五郎」が世間に認知されるようになるきっかけとなった事件だった。

 

 その事件以前の小五郎は、事情があったとはいえど妻を拳銃で撃ったという事実からくる自責により刑事をやめて探偵を始めたものの、まるでうだつが上がらず、あげくはその妻が家を出て別居を始めるという体たらくだった。

 

 しかし、その事件からは違った。

 

 捜査の最中に突然首筋に違和感が走ったかと思うと、気がつけば事件が無事に解決されたその後で。

 しかも周囲いわく、それを解決したのは小五郎自身なのだという。

 

 ――まったく、意味がわからなかった。

 

 だが、「お父さん、すごかったよっ」と自分をほめる娘や、「毛利君、君ももう立派な探偵なのだな」と感慨深げに言う刑事時代の上司。彼らのきらきらと輝く瞳を前にして「何をわけのわからないことを言っているんだ」と突き返すのは、小五郎にはどうしても憚られた。

 

 それまで娘には稼ぎの少なさや母親の不在から様々な苦労をさせていたし、上司だった目暮にはたびたび酒に誘うなどして気をかけてもらっていた。

 

 そして小五郎自身、自分に対する今までの周囲の目を気にしていなかったわけではなかった。娘の幼馴染がやれ高校生探偵だ、やれ平成のホームズだと紙面上でその活躍が載るたびに、小五郎は内心でひそかに激しく嫉妬し、羨んだ。

 朝、ゴミを出しに出るたびに、近所の奥様がたから向けられる「同じ町の、同じ探偵なのにねえ……」というような視線を、忘れたわけではなかった。

 

 だから。

 

 そのとき小五郎は、「俺だってな、本気を出せばこんなもんさ」と、そんな虚しい嘘を吐いたのだった――。

 

 

 また当時、どこか心の片隅では「もしかしたら本当に自分が事件を解決していて、しかしどこか記憶に障害が生じているだけなのかもしれない」と、そう思っていたのも事実である。

 

 しかし、その後いくらどんな病院へ通おうとも、小五郎のそれがはっきりこれこれこういう症例だと、そう病気扱いされることはなかった。

 

 

 ――脳に異常は見られない。血液検査結果から覚せい剤などの使用も勿論見られない。

 

 ――記憶を失う直前、首筋に鋭い痛みを感じることがある、と仰いましたが、やはり頸部にもなんら異常は見られませんでした。

 

 ――本当に、記憶がなくなっているのですか?

 

 ――なら、おそらく精神的な問題でしょう。

 

 ――そうでもなかったら、「どんな検査でも検出されない、特定の記憶のみを封印する効能の毒素」を塗ったなにか毒針かなんかで毎度首筋を刺されているのかもしれませんね。

 

 ――まあ、そんな代物があるわけはないですが。……もしかしたら、多重人格の可能性もあります。推理する時だけ、入れ替わってしまうというような。

 

 ――なにか、幼少期でつらいことを経験したことはありませんでしたか?

 

 

 それなりの期間を、病院で体の検査を受け、診療所でカウンセリングを受けた。そうしている間にも次々と事件は起こり、そのたびに「眠りの小五郎」が、小五郎の意識外で活躍した。

 

 やがて医者たちは、そろって小五郎に入院を勧めるようになった。

 

 この頃になると、小五郎はもう、「これ以上検査したってどうせ原因なんてわかりゃしない」と察し始めていた。

 

 これまでの検査やカウンセリングでさえ家族には黙っていたのである。入院などしたらどうしても家族に知られてしまう。

 

 家族は今、「眠りの小五郎」の度重なる活躍に喜んでいる。このままもしかすれば、別居した妻も戻って来てくれるかもしれない、と淡く夢想してしまう程に。

 だから。

 そんな雰囲気に水を差したくなくて、小五郎はひとり、黙ってこの奇妙な症状と付き合い続けることを選択した……。

 

 ――そうして現在へと至る。

 皮肉なことに、今まではたいして役に立ってこなかった、むしろ小五郎自身の推理力の低さにつながっていた生来の調子に乗りやすい性分が、ここにきて逆に幸いし、小五郎は誰にもその胸の内を感づかれることなく、自分自身がよくわからないままという道化である「名探偵・毛利小五郎」として、ここまで過ごし続けることができていた。

 

 

 ……だがその苦しみも、これまでだ。

 暑さに朦朧とする意識の中で、小五郎は思った。

 

 

 ――結局、俺は最後まで「本物の名探偵」にはなれなかったけれど。

 

 

 大きさを増す炎の音、熱さを増す熱。段々と薄れ、暗く深い闇の中へと沈んでゆく意識の中で、小五郎は、

 

 

 ――もしも来世があるってんなら、そのときは。

 

 

 ――そのときこそは、「本物」に……なりてえなあ……。

 

 

 最期にそう思って、そして……。

 

 

 

 

 ――こうしてこの日。一人の男が死亡した。

 

 

 そして彼と共に燃える中で、朱い水晶が異様に煌めきを増して輝いていたことを知る者は、誰もいない。

 

 

 To Be Continued…

 

 



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一章 中学生編
02.覚醒


2017/02/08 大幅改稿


 

 

 ――なにか、聞こえる。

 

 ゆらゆらとたゆたう心地よい微睡のなかで、小五郎はただそんなことをぼんやりと思った。

 

 ――なにか、声が……。

 

 

 

「こォら! アンタいつまで寝てんの!」

 

 

 ばさりと布団をはぎ取られ、小五郎の顔に白く輝く朝陽が直撃した。

 

「ぐあっ……!」

 

 あまりの眩しさに両手で顔を覆い、小五郎はさながら地獄の底から這いあがってきた幽鬼であるかのように呻き声を上げた。

 布団を片手に、そんな彼を見下ろすのは彼の母親である。御年43歳。

 彼女はごろごろと畳の上を転がる息子をアホな子を見る目で一瞥すると、

 

「さっさと支度するんだよ! 英理ちゃん、もう待ってるんだからね!」

 

 そう残して、どしどしと階段を下りて行った。

 部屋に残るのは、顔を抑えて呻く小五郎ただ一人。

 

「……ぐうぅ、くそ。なんだぁ……?」

 

 そんなことをつぶやきながら、小五郎はようやく覚醒してきた頭で考える。

 

(俺は――)

 

 途端、蘇る記憶の数々。

 ホテル。天使像。爆破。ヘリ。狙撃。炎。そして――死。

 

「――どぅわぁああっ!!」

 

 叫び、飛び起きる。

 

(そうだ! 俺は、死んだはず!――なのに、これは一体……?)

 

 まさかあの後、救助されて助かった――?

 

 一瞬、そのようなことを考えるが、それにしては何か様子がおかしい。

 きょろきょろと見渡して、そこで初めて、そこがかつての己の部屋――実家の部屋であることに気が付いた。

 

「俺の……部屋?」

 

 訝しげにつぶやいて、首をひねった。

 かつての小五郎の部屋は現在、実家にて物置部屋になっているはずだった。端午の節句に使う兜とか鎧とか、古い新聞だとか雑誌とか空き箱だとか……そういうガラクタで溢れ返っているはずだった。

 それが、なぜ、こんなにも片付いているのだろう。

 

 ――いや、別に綺麗に片付いているわけではない。畳の上には洗濯済みらしき柔道着や、漫画本、雑誌、ボードゲームなんかが散らかっているし、机の上には参考書らしきものが積まれている。

 

 これは、片付けたというよりも、まるで、昔の部屋に戻ったかのようで……。

 

 と、そこで小五郎は思い出した。

 

「そうだ! 母ちゃん……!」

 

 先ほどに己を起こしたのは、母親だった。しかし、現在66歳にしてはいやに若く感じた……というか、あれは昔の記憶に見えるまだ若りし日の母親そのものではないか……?

 

 いや、そもそもである。

 

 小五郎は己の体をまさぐった。どこにも目立つ傷跡はないし、痛みも残っていない。

 脳裏に浮かぶは、最後の記憶。ホテル最上階で炎に包まれた記憶……。

 あの状況から、このような綺麗な体で助かるわけがない。

 あまりにもわけのわからぬ状況に、小五郎の頭の中がぐるぐると渦を巻き始める。

 

 そのときだった。

 

 

「――なにしてんのよ、あんた」

 

 

 すぐそばの入口。母が開けっ放しにしていった襖の向こうで、一人の少女が呆れたような表情で立っていた。

 生まれついての栗毛を頭の後ろで三つ編みのポニーテールに纏め、黒い大きな眼鏡をかけた少女。彼女が着ている青いセーラー服は、見覚えがある。小五郎の通っていた中学校の当時の制服だ……――と、いうか。

 

「うげぇ!? え、英理ィ!? おま、なに、ええ!? 若ッッ!!」

 

 小五郎、盛大に混乱する。

 彼の目の前に立つ少女は、遥かな記憶の中にある、かつての妻の姿、そのものだった。具体的には中学校三年くらい。

 

 そして、自身を指差して素っ頓狂な叫びを上げる幼馴染を前にして、妃英理は盛大にため息を吐いた。

 

「なに意味のわからないこと言ってんの。どうでもいいから、さっさと準備してよね」

 

 そう言い残して、彼の母親と同じように、再び一階へと降りて行った。

 残された小五郎は、ずっと彼女を追いかけていた人差し指を引っ込めて。

 ふと、部屋の隅の姿見を見やった。

 

 

「――――って、俺も若ァあ!?」

 

 

「さっきから何やってんのよ!? 近所迷惑以前に恥ずかしいからやめなさい!!」

 

 そして階段を駆け上がってきた(まだ若い)母親に怒鳴られた。

 

 

 

             ◆

 

 

 

 記憶の中の姿そのままの母親に怒鳴られたのち、急かされるままに部屋にあった学ランを着こんだ小五郎は、一階の居間にて座らされて――そして、固まっていた。

 目の前のテーブルには、湯気の上る朝食が用意されている。

 英理はというと、そばの椅子に座ってブラウン管のテレビでニュースを見ている。

 

 すべてが、かつての記憶のなかの日常、そのものであった。

 

 チラリと、壁の柱に掛けられている月めくりカレンダーを見やる。

 平成元年、つまり1989年の2月1日。

 小五郎の認識での昨日までが2012年であったことを考えると、ここは、おおよそ23年前の世界となる。

 そしてこのころはつまり、小五郎は15歳で中学三年生の時期であった。

 

(しかし……)

 

 これは本当に現実なのだろうか。

 目の前の朝食、白米と味噌汁と昨夜の残り物らしき肉炒め。それらは温かで、そして実際に一口食べてみれば、旨い。味も感じる。

 たしかにそれは、自身を育て上げた母の味だった。

 

 その母も、そして妻も、自身さえも当時の背格好年齢となって、ここにいる。

 

 明らかな現実感を伴って、それらは小五郎の目の前に広がっている。

 だが――。

 

(現実であるわけがない……)

 

 味噌汁の水面をじっと眺めたまま、小五郎は黙考する。

 

(俺は38歳で、けっして15歳なんかじゃねえ。もう立派な大人で、英理とも結婚して、娘も、蘭も生まれて、刑事やめて、……探偵になったんだ)

 

 味噌で着色されたその椀の中では対流効果が確認できた。ぐるぐると蠢くその水流を眺めながら、小五郎の気分はどんどんと落ち込んでゆく。

 

(そんでもって、あの夜、炎に囲まれて、俺は――)

 

 

「あッ! 手が止まってる!!」

 

 振り返った英理がそう指摘して、そこで彼女は小五郎の顔色に気が付いた。

 

「……ちょっと、あんた大丈夫? 顔真っ青よ」

 

 言って近づき、自然に彼の額へと片手を当てる。

 

「熱はないみたい。……でも、今朝からたしかに、なんか様子おかしかったし……」

 

 口を押えて考える英理。そこに小五郎の母親が顔を見せた。

 

「あら、英理ちゃん、どうかしたの?」

 

「それが、おばさん。こいつ、なんか具合悪いみたい」

 

 そばで黙り込む小五郎を指差して、そう伝える英理。

 彼の母親もそんな小五郎をのぞき見て、

 

「あらホント。全然食べてないわね」

 

 そんな二人の様子をただじっと眺める(普段とはかけ離れた)大人しい息子を見て、彼女もなんだか心配になった様子で、

 

「小五郎。あんた今日、学校休むかい?」

 

 そう聞いた。

 小五郎も、まさかこんな状況で学校に行けるわけがないので、うなずく。

 

「じゃあ、あたしは学校に連絡してくるわ。英理ちゃん、本当にごめんなさいなんだけど、今日はひとりで登校してくれる? 小五郎、アンタは部屋で寝てなさい」

 

 そう言って、彼女は居間を出て行った。廊下でダイヤルを回す音が聞こえる。

 残った英理が、

 

「……大丈夫? 階段上れる?」

 

 そう聞いてきた。どうにも今の小五郎は、彼女の目には「今にも倒れそうな」様子で映っているらしい。

 たしかに、中学の頃の小五郎とくれば病気などほとんどかからずに、毎日を騒がしく過ごしていた。それが突然にこうも大人しくなってしまえば、心配にもなるだろう。

 だが、

 

「……大丈夫だ」

 

 そんなことにまで気を回せる余裕など、今の小五郎にはなかった。

 彼はそれだけ言って彼女を突っぱねると、ひとり、のそりと立ち上がって居間を出てゆく。

 

 廊下で、母親が電話口になにか会話しているのが横目に映る。

 

「――そうなんです。ええ、たしかに。あのやんちゃがすっかり大人しいんで、もう、吃驚しちゃって!」

 

 学校の担任とでも話しているようだった。

 

 ギイ、と軋む階段を上がりながら、小五郎は片手で頭を掻きむしる。

 

(なんなんだ、これは……。死の際の夢にしてはおかしいし、だが、現実なわけが……)

 

 まったくもってわけがわからぬ未知の状況に、小五郎は頭がパンクしそうだった。

 

 今はただ、一人になって、静かに考えたかった。

 

 

 




と、いうわけで三年越しの本編第一話です。(マジヤベェ

分量や内容少なかったりするのは、リハビリも兼ねてる感じで……。すみません。
以降はたぶん内容も濃くなりますから!(濃くなるとは言っていない

そして重ね重ね、エター繰り返して本当にすみませんでした。
きっとこれからは大丈夫です(無根拠


【注意】(2017/02/07追記)
 なお、ねつ造設定として、早速に原作の年代を好き勝手にいじりました。すみません。
 どうしても高校生小五郎を「平成の明智小五郎」にしたかったので(昭和だとちょっと……)、彼が高校一年時を平成元年に沿え、いわゆる原作時期を2012年とさせていただきました。
 これに伴い、ほか原作キャラクタたちの生年月日も少し後ろへとずれ込むことになります。(例:沖野ヨーコ 原作はおそらく1976年生まれ → 今作では1991年生まれ)
 どうかご容赦お願いいたします。(世紀末の魔術師とか、これ劇場版はできねえってことだな。)


【追記】(2017/02/08)
 一晩明けて読み直して、「うーん……?」と今更ながらになったので、大幅に改稿いたしました。初版においては青山剛昌先生の短編「プレイ イット アゲイン」を拙くもイメージとしての参考にしていた気が(今となっては)するので、ゆえにおそらく明るい雰囲気になってしまったように思います。
 前話となる序章から地続きにしては少し変な印象ですよね。というわけで、改稿です。
 初版の後半部分に関しましては、完全に気が逸った作者の失策でした。連載当初の初心を思い出し、もう少し丁寧に物語を進行させていこうと思います。(あ、エタるフラグというわけではないので安心してください。)


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03.時間遡行

 思うところありまして、前話を大幅に改稿いたしました。詳しい事情は前話あとがきに追記してあります。
 ご迷惑をおかけいたしますが、一度お読み直しいただけますようお願いいたします。


 

 

 

 昼を過ぎ、時刻は四時に差し掛かっていた。

 畳に敷いた布団から抜け出して、小五郎は窓際に胡坐をかいて寄りかかり、ぼんやりと外を眺めていた。

 

「空、青いなァ……」

 

 なんとはなしにそうつぶやいて、そこに浮かぶ白い雲が流れゆくさまを目で追う。

 

 半日以上が過ぎ去って、小五郎はこの世界が現実であるらしいと、最終的にそう認めるに至っていた。

 

 なんといったって、まず、五感がリアルだ。食事も排泄もするし、痛みだってある。

 これを夢や幻覚だと否定し続けることには、無理があった。

 

 それに死に際の夢や幻だとするならば、今朝に目覚めてからすでに十時間近くが経っている。いったい、いつまで続く夢だというのか。

 小五郎の肉体があのホテルにあったとして、すでに夜は明けているだろうし、その頃になると、もう小五郎の肉体は……考えたくもないことだが炭と化しているだろう。

 

 それに、あの、意識を失う前の感覚――。

 

 炎に巻かれ、熱と激痛に苛まれながら意識を落としたときの、あの冷たい闇に沈みゆくような虚無感……。

 

 

 間違いなく。己はあのとき死んだのだ。

 

 

 不思議な話だが、そのような確固たる自覚、認識が、小五郎にはどこか存在した。

 

 助かったのかもしれない。これは病院で眠る俺が見ている夢なのかもしれない――。

 

 どうしてもそのように考えたくなってしまうのだが、しかし、――

 

(俺は、死んだんだ……)

 

 そんな感覚は、無視しようと思えばできるほどの小ささで、だけれどたしかな存在感をもって、心の中に潜在的な意識としてあった。

 

 だからこそ。

 

 だからこそ、この現状はわけがわからなかった。

 過去の時代。過去の母と妻に、過去の体。

 

 思い当たる節があるかと自問すれば、残る解答はただひとつ。

 

 

「時を駆けた……ってか? ハッ、バカバカしい……」

 

 

 しかし、もう、それしか残ってはいない。

 リアリストを自称する小五郎にはどうにもまったく信じられないことだが、彼は、死んだと共に過去の世界へと時間を遡行したようだった。

 そう考えることが、現状を鑑みる限り、もっとも合理的なことのように、そう思えた。

 

 ……架空の人間だと、紙の上の話だとバカにしてシャーロキアンたちを敵にしてきた小五郎が、しぶしぶとはいえ自らそのようなオカルティックな発想をしている時点で、もうだいぶ、彼がこの未知の状況に困惑しきってまいっていることの証拠でもあった。

 

 

 ――しかし。本当に、そうであるならば。

 

 

 疲れ切った小五郎のなか、心の奥底で、ひとつ、ほのかに灯る光がある。

 

 ――つまり己は、人生をやり直せる……ということなのではないか?

 

 小五郎が気にしていることは、ただひとつだった。

 あの、最期の夜……。

 炎の中で、人生の走馬灯を見た己が、最期に想った幾つかの後悔。

 そして今なお、小五郎の奥底で巣食う、よどんだ闇。

 

 それらが、つまり、今からならば。すべてやり直せるのではないか?

 

 ……そんなことをふと思って。

 

「ハンッ……」

 

 小五郎は鼻で笑って、意識を外の景色へと戻した。

 

「まったく……ばかばかしい……」

 

 ばかげたこの現状も。そしてそのことに気付いたとき、己の中でたしかに湧き上がった、期待と希望の感情が……本当に、まったく、ばかばかしかった。

 

 黄昏るようにして、真昼の空を眺める小五郎。

 

 燃え尽きたかのようなその姿は、あまりの混迷さにくたびれたゆえの状態であったが、しかし、それと知らずに目撃する第三者には、まるで儚く、そのまま消え去ってしまうかのような脆さをもって映った。

 

 なので。

 

 

「――……小五郎?」

 

 

 このときに声をかけた英理のそれが、弱々しく、気遣わしげなものになってしまったのは必然だった。

 突然にかけられた声に目を向けて、そして気の強さにまかせてずけずけと言う普段のそれからかけ離れた英理の様子に、小五郎も少し驚いたような空気を漏らす。

 しかし。

 

「……どうした?」

 

 それだけ言って、また空へと目を戻した。

 疲れ切った今の小五郎は、諦観にも似た心境だった。

 

 そんな彼の様子に戸惑いながら、英理は部屋の中へと入る。学校帰りでそのまま立ち寄ったので制服だし、学生鞄なども持っていた。

 荷物を部屋の隅に置いて、改めて幼馴染の様子を見て、やっぱりおかしいと結論する。

 

「あんたのお見舞いよ。……それより、そっちこそどうかしたの?」

 

「どうもしねェよ……」

 

 ぼそりと答える小五郎に、

 

「うそ」

 

 確信を持った物言いで英理は追いすがった。

 

「具合でも悪化したの? それならちゃんと寝てなさい」

 

 つかつかと近寄って小五郎の腕を取り、敷かれた布団へと引きずる。

 腕を引っ張られて横たわせられ、掛布団を押し付けられた小五郎は、そんな英理の顔をしげしげと眺めた。

 

(……このころからこいつは、綺麗だったよな……)

 

 本人には絶対に言わない言葉を、胸の内でつぶやく。

 

「……なによ、人の顔をじろじろと」

 

「いや……」

 

 指摘されて目を逸らし、だが――と小五郎はふと思う。

 

 彼の感覚では、彼女は自身の妻となり、そしてここ十年程を別居する関係だった。ちょっとしたことで喧嘩したが最初で、そのまま収めどきがつかめずに、ずるずると続いた、そんな。

 会うたびにも喧嘩を繰り返して、復縁(同居)を望む蘭にはずいぶんとやきもきさせたことを覚えている。

 

 ……今思えば、自身も少し大人げなかったかもしれない。

 

 たしかに小さなことでいちいち突っかかってくる妻も妻で大人げないと今でも感じるが、そんなやり取りは、今に始まったことではなかった。それこそ、この現在である中学時代や、その以前より、自分たち二人はそんな関係だった。

 それでも最後にはなんだかんだとおさまって、最終的に、学生結婚まですることになったのだ。

 

 だから、10年も続く別居の件については、……小五郎のほうにも少しばかり原因があったかもしれない。

 

 

 ……そんなことを、枕に頭を乗せながら考えた。

 

 一度死んだことで、小五郎はなにかを悟ったのかもしれない。

 人生の走馬灯を見て、後悔をした経験があるからなのか――小五郎の中でなにかが少しずつ変わろうとしていた。

 

 

「そんなに具合悪いなら、ちゃんと大人しくしてるのよ。……その。……じゃあ、私はそろそろ帰るわ」

 

 途中でなにかを言いかけてつぐみ、英理はそう発言を締めて立ち上がった。

 

 隅に置いておいた鞄を拾い、襖を開け――

 

 

「――ありがとな」

 

 

 その背に、寝返りを打った小五郎がそう投げる。

 

 英理は一度足を止め、

 

「……なら、さっさと寝て体調を治すことね」

 

 そう残して、襖が閉じられた。

 とん、とん――と、階段を下りる音が離れてゆく。

 

 少し静かになった部屋で、小五郎はゆっくりと瞳を閉じた。

 

 これが本当にタイムスリップした過去で、そして現実であるならば、きっと己はまた目を覚ますだろう。

 そうしたら明日は、彼女と共に久しぶりの学校にでも行くとしよう――。

 

 

 昨夜、己の死亡で終わったはずの人生が、今朝から再び、理解のできない現象となって始まった。

 今となってもなにがなにやらまったく分からないのだが、これはおそらく現実で。

 

 昔日の妻は懐かしく、そしてたしかな体温を持っていた。

 

 今日一日でおそろしく頭を悩ませた小五郎の、その意識は次第に闇の中へと沈んでゆくが、それはつい最近に経験したような冷たさを持つものとはかけ離れて、とても暖かい眠りだった。

 

 

 



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04.過去の世界

今話以降、月曜20時更新の週一連載を(できる限り)心がけます。


 

 顔にかかる明るい朝陽に、小五郎は目が覚めた。

 なにごとか呻きながら瞳をこすり、ゆっくりと上体を起こす。

 まだ少し寝ぼけた頭で周囲を見回すが、そこには昨日に意識を手放す前となんら変わらぬ光景が広がっていた。

 散らかっている、自身の部屋。

 穏やかな朝に包まれた、過去の世界。

 

「……いよいよもって、現実か」

 

 つぶやいて、よっこらせ……などと漏らしながら立ち上がる。

 あくびをしつつ、部屋の隅にある姿見の前へと立てば、そこには同じく若りし頃の姿が映しだされた。

 15歳の頃の、まだ少年の体。

 肌に張りがあり、髭も生えてきていない。

 最近まで190近くあった身長も、まだ170と少し程度しかなかった。

 

「うーん……」

 

 片手で頭を掻きつつ、それを眺めて。

 

「……とりあえず、着替えよう」

 

 そう言って、顔を洗うべく部屋を後にした。

 

 

 

             ◆

 

 

 

 昨日にさんざんに悩んだ結果として、小五郎はこの過去の世界を現実であると、とりあえずそのように考えることに決定した。

 そしてその末に、今際の際の後悔やらを思い出したり、人生のやり直しを思ったりだとか、なんだか色々と考え込みもした。

 我ながら似合わずセンチメンタルになっていたなあ……などと今になって自覚する。

 

 だが、それらも一晩明ければ、なんだかんだと落ち着いていた。

 

 小五郎は居間にて座り、味噌汁を啜りながら思う。

 

 

 ――何を思ったって結局のところ、なるようにしかならないのだ。

 

 

 それが人生。それが人間。

 ……なんてことを澄まし顔で考えながら、焼き魚へと箸を進める。

 

 実際のところは、これ以上考えることをやめただけである。いくら考えたってわかりはしないことなのだから、思い悩んだってしょうがない。

 

 一度寝て覚めたことで、そのように割り切った。

 

 割り切った……と、小五郎は頭で考えている。

 本当に実際のところでは心のどこかに未だしこりは残っているのだが、とりあえずは、「割り切った」。そう考えることが大事なのだった。

 

 小五郎自身がもともとの性分として、難しいことにはあまりかまけない主義なのである。

 

 一種お気楽ともいえるそのような性質だからこそ、小五郎はその短い人生の晩年に対峙したあの症状、それを一年間という長い期間にわたって「ひたすらに道化を演じる」という対応でもって隠し続けることができたのだった。もとよりそのような気質だったからこそ、殊更に彼がわざとそのように振舞っていても、だれも不審に思わなかったのである。

 

 

「あら、今日は早いのね」

 

 そう言って入ってくるのは英理だった。小五郎と同じく、中学生だったころの姿である。

 制服に身を包んだ彼女は鞄を椅子に置くと、

 

「おはよう」

 

「……おう」

 

 小五郎も返して、朝食に戻る。

 その様子をどこか注意深げに眺めながら、

 

「よく眠れた? もう具合は大丈夫?」

 

 それらに「ああ、もう平気だ」と言うと、彼女は「ふーん」とつぶやきながら小五郎を依然として見続ける。

 

「……あんだよ」

 

 気の散った小五郎が目をやると、

 

「いや、べつに……」

 

 英理も目を外して、常のごとくテレビを点けた。

 椅子に座ってチャンネルを変える彼女を少しだけ眺めてから、小五郎も食事をつづけた。

 

 

 

             ◆

 

 

 

 小五郎の母親に見送られ、彼と英理は連れ立って家を出た。

 2月の朝の肌寒い道を、黒い学ランと青いセーラー服で身をまとめた二人が歩いてゆく。

 

 なぜか道中、会話がない。

 

 小五郎はといえば、とりあえず割り切ったつもりとはいえ未曾有の事態であることには変わりなく、やはり少しは気が張っていた。そのために自然、言葉数も少なくなる。

 長年を別居していた妻、その過去の少女に対してどのように接したらいいのか、よく考えるとよくわからなくなった、という事情もある。

 

 対して英理はというと、どういうわけなのか、今朝に小五郎と会ってからこちらもやはり口数が少ない。小五郎の記憶では、もう少し会話のある登校風景だったような気がするので、少々おかしかった。

 この英理の様子が少々おかしい、という点も、小五郎がどのように接すればよいのか戸惑う気持ちに拍車をかける。

 

 少しだけ居心地の悪い空気が、二人の間に広がっていた。

 

 と、そのときだった。

 

「おっはよーっ、おふたりさん!」

 

 言って、背後から駆け気味にやってきたその少女は、小五郎と英理の両者の背中をいきおい平手した。

 

「いって!」

 

 思わず声を出し、小五郎は前へよろけるようにたたらを踏む。英理のほうも少しだけよろける。

 

「えっへへー」

 

 そんな二人の間に空いていたスペースに、彼女ははにかみながら入り込んだ。

 長い黒髪を後ろの肩口で結び、分厚い眼鏡をかけた少女。

 

「もうっ、いたいじゃないの瑠璃ちゃん!」

 

 英理が彼女に振り向いてふてくされたように抗議する。

 そんな彼女の左腕に軽く抱き着きながら、少女、土井垣瑠璃は笑いながら謝った。

 

「ごめんごめん、英理ちゃん」

 

 横の二人の様子を見て、一瞬だけ目を瞬かせてから、

 

(ああ、瑠璃っぺか……)

 

 小五郎も彼女が誰だかを理解した。

 同時、瑠璃の口元のほくろを見ながら、大人になった彼女の姿と、そして再会した際に起こった殺人事件を思い出す。あの事件はもの悲しい真相だったが、それとは別に、小五郎にとっては特別な事件でもある。数少ない、彼が意識を飛ばすことなく解決した事件の一つなのだった。

 事件後などは普段の演技以上に浮かれていたことを覚えている。病院の薬が効いたのか……などとも思っていたが、その日も事件前の撮影時には一度症状が現れていたし、結局、その後の事件でも変わらず症状は続いて行った。

 

「あれ? どうかしたの小五郎ちゃん」

 

 黙ったまま己の顔を見やる小五郎に気づいた瑠璃が、不思議そうに尋ねる。

 

「ああ、いや……」

 

 小五郎は少しどもって、

 

「ひ、久しぶりだな。瑠璃っぺ」

 

 対して瑠璃は一瞬だけきょとんとしてから、

 

「もうっ、なに言ってるの小五郎ちゃん。会ってないの、たった一日じゃん!」

 

 言って、明るく笑った。

 

「そ、そうだっけか?」

 

 慌てたように小五郎も笑う。

 

(そうか、一昨日までの俺は学校で毎日会っていたわけだ……)

 

 内心でそう納得し、ふとそのまま視線をずらして、と、そこで今度はぎょっとする。

 

(げぇっ!?)

 

 小五郎と笑う瑠璃の向こう、そこで英理が若干訝しむような視線を彼に送っていた。

 

(――まさか英理のやつ)

 

 小五郎がそう思うと同時、英理は普段の澄まし顔に戻ると瑠璃と会話を再開した。

 しかし、彼女らの隣を歩く小五郎は、今しがたに目撃した英理の一瞬の表情が頭に残って離れない。

 

(まるで、なにか疑っているかのような表情だった……)

 

 もしかすると英理は、小五郎が未来から遡行してきたことに気が付いているのでは……?

 苦手意識からかそんなことまで考えて、いやいやありえない、と自身で打ち消す。

 

 過去にやってきて、登校初日。

 はやくも波乱の予感がしていた。

 

 

 

             ◆

 

 

 

 帝丹中学。

 のちに毛利蘭や工藤新一も卒業することになるその中学校が、小五郎や英理たちの通っている学校である。

 学年は三年。クラスは一組。

 小五郎と英理はどういうわけなのか三年間を通して同じ学級で、瑠璃は一年と三年が同じだった。

 

 本日の時間割は、一限が数学、二限が物理、三限が歴史で、四限が体育だった。

 現在は四限目ののち、つまり昼休みである。

 

「だあーっ、やってらんねー……」

 

 校舎の裏、記憶にある限り普段から人の寄り付かない、一日中が日陰となるその場所で、体育ののちに着替えた小五郎はそのままその足で訪れて、それからの時間をずっと裏口の前の一段上がった床にて寝転がっていた。

 彼のそばには包まれたままの弁当箱が転がっていて、その視線は青空にただよう雲を眺めている。

 背に感じるコンクリートの床が冷たく、時折に吹いてくる風もまた寒い。

 しかしそれらは同時に人が寄り付かないことも意味していて、だから小五郎はこの場にずっと居座っていた。

 

 23年ぶりの学校は、苦痛の連続となった。

 

 まず、数学の公式がわからない。

 次に、物理の公式がわからない。

 さらに、歴史事件の年がわからない。

 卒業して23年、社会人になって16年が経っているのである。ほとんどの知識が薄れて忘れ去っていた。

 

 唯一にまともだったものは最後の体育のみである。

 

 選択実技が柔道だったので、午前三教科のストレスを発散するかのごとくに大立ち回りを演じてしまった。今日の授業内容が試合形式だったこともあり、驚異の五人抜きをして見事に学級内男子最強の座を手に入れた。

 クラスメイトたちは「さすが柔道部」と絶句して、柔道部顧問でもある担当教員は「もともと強かったが、さらに腕を上げたなあ……」と彼を褒めそやした。

 

 結果。

 

 なんの慰めにもなりはしなかった。

 小五郎の認識では、38歳の己が15歳の少年らを相手に大真面目に組手してしまっただけなのである。

 午前授業の鬱憤があったとはいえ、自分はなにをしていたのだろう……と、すべてが終了してから正気に戻った。

 電光石火のごとき早さで着替えを済ませ、教室に戻り、弁当を引っ掴んで、だれに何を言われる前に人気のない場所へと走り去って。

 そして、ここにいた。

 

「あー……やってらんねー……」

 

 空を仰いで呆けたまま、同じ文句を再度つぶやく。

 風は凍てつくように寒く、寝転がるコンクリートは氷のように冷たかった。

 だが、それらは同時に彼に、ここが現実なのだ、という感覚を強烈にもたらす。

 

 お前はたしかにここで、この過去の世界で息をし生きているのだ、という感覚を。

 

(まあ、死んだままよりはマシっちゃマシなんだが……)

 

 忘れてしまった座学の知識を、これから再び勉強しなおさなくてはならないという事実が、小五郎の気分を強制的に落ち込ませてゆく。

 ただ一つ、高校受験がすでに終わっていた点についてだけは、不幸中の幸いというべきところだった。

 もしもひと月でも早い時期に戻っていたら、彼は以前のように帝丹高校には合格できなかっただろう。……スポーツ推薦という手もあるが、小五郎は致命的なまでに「本番」に弱く、これまで公式試合でその真価を発揮できたことは殆どなかった。

 

(……それよりも)

 

 ようやく体育からくる自責が弱まり、少しずつ気分が落ち着いてきた小五郎は、ふとまた別の懸念に意識をそらす。

 本日に湧いた、もう一つの懸念。

 それは英理の態度であった。

 

(あいつのあれは……)

 

 今日の朝から、どうにも英理の様子がおかしい。ふと気が付くと、じっと小五郎を観察するように見ているのである。

 自分に対してだけ口数が少ないし、なにか考え込んでいる様子でもある。

 

(まさか俺の事情に気が付いているだなんてことはないだろうが……)

 

 なにかおかしいとは、感づいているのだろう。

 思えば中学時代の小五郎と言えば、普段からなにかと騒がしいやんちゃ坊主、小学校男子がそのまま成長したかのような振る舞いだった気がした。

 それが唐突におとなしくなった上に、なんだか周囲に対する様子も謎のぎこちなさがある。

 クラスメイトなどは病気明けだからおとなしめなのだろうと考えているようだったが、幼馴染だ、それ以上に根本的なところでおかしい、変わったとわかるのかもしれない。

 もしかすると、午前の授業での「一昨日までは理解できていたはずなのに、現在は授業についていけていない」という問題についても気が付いている可能性もあった。

 

「どうすっかなあ……」

 

 ぼんやりと空を見続ける。

 

(……英理に事情を話すか?)

 

 それは良い手のようにも思えた。

 英理は昔から頭が良く、高校二年のときには東都大学の入試問題を正解したし、司法試験だって一発合格だった。成績もたしか中高とずっと学年一位を保持していた。

 もちろん最初は冗談だとありえない話だと一蹴されるだろうが、小五郎が真面目に説明し続ければ、彼女ならば理解を示してくれるだろうと思う。相談相手としてならば、彼女以上の適任はいない。

 同窓会にも参加したことがないために今や顔・名前が朧げとなってしまったクラスメイトたちのなかで、彼女と瑠璃だけが、現在のところの小五郎にとって安心して相手をできる人間でもある。

 

 だが。

 

(――それはダメだ)

 

 小五郎は、だからこそ、彼女に事情を話すことはしたくなかった。

 

 

(あいつにだけは――知られるわけにはいかない)

 

 

 小五郎の事情とは、すなわち、この時点から対する未来において死亡し、どういうわけなのかこの時代の体へと戻っていた。この特殊な事態による戸惑いやなんや、それが彼の異変の原因である、というものである。

 だがこれは、この「過去の体に戻っていた」というものは小五郎の主観であって、必ずしも第三者からの見解ではない。

 穿って見てしまえば、これは――

 

 

 ――「未来の小五郎」を自称する何者かに、小五郎の体が乗っ取られている。

 

 

 そのように見ることも可能なのである。

 さらに「一昨日までの当時の小五郎」の意識がどのような結末を迎えたのか、現在においてどうなっているのか、それがまったくとして小五郎自身にわからない以上、彼はもしかすると、この当時(げんざい)の英理にとっては――

 

 

 ――幼馴染を殺してその体を奪った人間。

 

 

 あまりにもファンタジーで、SFで、オカルティックで、ぶっ飛んでいるが……そのように考えることも、たしかな事実として可能なのだ。

 

 もしも英理がそのように考えてしまったら――。

 

 そうして、彼女に拒絶されてしまったら……。

 

 ――それは、小五郎にとって考えたくもない事態だった。

 陽気でおちゃらけた気質を持つ小五郎も、生前の最後の一年間は、色々と精神的に()()ものだった。そんな日々で、彼の心を支えた思いがあった。諦観や諦めもあったが、それでもそんな彼の心を守っていたものがあったのだ。

 それは何を隠そう、「このまま有名となれば、もしかすると別居した妻が戻ってくるかもしれない」というそれだったのである。

 いざ実際に顔を合わせば大人げない対応ばかりをとってしまう小五郎だったが、別居して10年、長く離れるほどに彼のなかで妻の存在は、実際のところでは大きくなっていたのだ。……まあ、それでも生前は自分が折れようとは考えもしなかったが。

 

 そんなわけなので、時間を遡行した現在においても、実のところをいうと小五郎にとって英理は大きな意味を持つ存在だった。

 昨日だって若い母親を見ても過去だと実感しなかったが、若い彼女を見た途端に驚愕したし、見舞いに来た彼女を見たことで大荒れしていた彼の気分も落ち着いた。

 彼女との関係も、別居という結末を変えられるのでは……などと夢想した。

 

 まだ二日目であるのに、この過去の世界において小五郎が現在を比較的安定した精神で過ごしていられることも、彼の生来の性質もあるが、その意識していない深層ではそばに英理がいるという事実が大きかったりもした。

 

 だからこそ。

 この事情を、彼女に知られるわけにはいかなかった。

 小五郎は寒空を眺めたまま、再度ぼやく。

 

「どーすっかなあ……」

 

 

 

 ――だが今回は、そのつぶやきに対して返答がやってきた。

 

「なにが?」

 

 驚いた小五郎がそちらに振り向けば、校舎の角から、明るい光に照らされた校庭を背にして少女が歩いてくる姿が目に入る。

 瑠璃だった。

 

「どうしたの、小五郎ちゃん。こんな寒い場所でひとりで……」

 

 彼のそばまで歩み寄ると、彼女は覗き込むようにして小五郎に問いかけた。

 

「ああ、いや……」

 

 咄嗟に言葉が出ずにどもってしまい、視線をそらす。

 瑠璃もまた、現在の小五郎にとっては数少ない「安心して話せる」……きちんと覚えている友人だ。

 幼稚園から英理と親友で、だから彼女を介して小五郎ともそこそこに仲が良い。

 

「英理ちゃん、なんか心配してたよ。まあ、いつも通り認めなかったけど」

 

 彼女は黙り込む小五郎を横目に、彼が寝転がるそばに腰を下ろした。

 そこで彼の弁当箱の様子を見て、

 

「あれ? もしかして小五郎ちゃん、まだお昼食べてないの?」

 

 不思議そうに声を出した。

 

「あー……まあ、な……」

 

 口ごもる小五郎。そんな彼の様子を見て、少しだけ瑠璃も沈黙すると、

 

「……なにか悩みがあるなら、聞くけど?」

 

 ためらいがちにそう切り出した。

 小五郎が呆気にとられたような表情でそちらを見れば、瑠璃は膝の上で組んだ両手の指を少しだけもじもじとさせながら、

 

「ほら、近さゆえに、ってのあるじゃない。英理ちゃんには言いにくいことも、わたしになら話せたりとか……しない?」

 

 小五郎と反対の方向を見てそう言った。

 髪を真ん中できっちりと分け、さながら牛乳瓶の底のような厚さの眼鏡をかけた彼女は、どこから見てもガリ勉とか委員長だとかそういう印象を与えるが、しかしこのときのその様子はとてもかわいらしかった。

 精神年齢38歳の小五郎にとっては15歳の現在の瑠璃は「かわいらしい」止まりだったが、さすがは未来の「癒し系女優ナンバーワン」だと感心する。

 

「……そうだな」

 

 友人の健気な優しさに触れた小五郎は、少しだけためらってから軽く話した。

 突然にちょっとした事情を抱えることになったこと。そしてそれは、英理には絶対に知られたくないということ。だけれど、彼女はなんだか様子がおかしいと感づいているようであること。

 ただそれだけのことを、少しだけぽつりぽつりとこの場で漏らした。

 とくに意味のわからないだろうそれら言葉を、しかし瑠璃は真剣そうに聞いて、しばし考えたのちに口を開く。

 

「――いいんじゃないかな」

 

 寝転がったままの小五郎の瞳に見下ろすようにして目を合わせ、

 

「誰だって、人には話したくない秘密を一つや二つは持っているもの。英理ちゃんだってそうだろうし、わたしもそう。だから小五郎ちゃんも、話したくないなら話さなければいいの」

 

「んなこと言ったって――」

 

 言いかけた小五郎の前に人差し指を立て、

 

「英理ちゃんに聞かれたって、ちゃんと秘密だと言えばいいのよ。……それにわたしにだって、今日の小五郎ちゃんがおかしいって。なんか変わったってことは、わかったんだから」

 

 小五郎の息が止まる。しかしそんな彼の視線を気にもせず、瑠璃は静かに言葉をつづけた。

 

「なにか悩んでいるのは、すぐにわかった。急におとなしくなった原因が、その悩みにあるってことも。でもね。落ち着きができたことは良いことよ。さっきも言った通り、なにか隠していたとしても、それで思い悩むことはなにもないわ。

 だって、小五郎ちゃんは小五郎ちゃん。それには、なにも変わりはないでしょう?」

 

 うっすらと微笑みさえ浮かべてそう言って。

 言い終わったと同時、今更ながらに自分の発言が恥ずかしくなってきたのか、瑠璃は頬を赤くして再び小五郎から反対方向へと顔をそらした。

 

 そんな彼女の様子をしばし呆然と眺めて。

 

「……ふっ」

 

 小五郎の口元が緩んだ。

 

 ――自分が自分であることに変わりはない。

 

 おそらくもなにも、瑠璃は小五郎の問題を「常識的な範囲での悩み事」だと仮定したうえでの発言をしたに過ぎないようだったが、しかし、その言葉は先ほどまで悩んでいた自身をぶん殴るかのごとき威力を持っていた。

 

(……たしかに、俺は俺か。今だろうが昔だろうが、変わりゃしねえ)

 

 それにさしもの英理だって、小五郎からそのような話をさえしなければ、普通は「未来から遡行した」などとは考えつきまい。思うわけがない。

 

(……ま、フツーはそうだよな)

 

 そう結論して息をつく。

 なんだか、随分と心が軽くなったような気分だった。

 

 やがて未来、というよりも小五郎の生前での彼が知らぬところにおいて、彼の娘が「特殊な薬品によって幼児化した幼馴染」に対して(すぐのちに誤魔化されはするものの)一時は自力でそのファンタジックな事情を察することになるなどとは思いもよらない。

 自身の事情で精一杯だったこともあって、彼は江戸川コナンに対してはただの小生意気なガキだとしか思っていなかった。

 

 まあ、とにかく。だいぶ悩みも晴れてきた気分の小五郎は、勢いをつけて体を起こすと、並んで座っている瑠璃に向き直って礼を言った。

 

「ありがとな、瑠璃っぺ。だいぶ助かった」

 

「あ、うん。それならよかった……」

 

 小五郎と瑠璃が微笑みあい、と、そこで遠くから聞きなれた放送が聞こえてくる。

 少し電子的な鐘の音。昼休憩終了十分前を告げるチャイムだった。

 

「げっ、やべっ」

 

 小五郎は慌てたように立ち上がると、結局一口も食べることのなかった弁当を拾う。

 そこで同じように立ち上がる瑠璃を見て、ふと思い出すことがあった。

 

 やがて未来、女優となった彼女の美人ぶり。

 

 それが脳裏に浮かんで、気づいたとき、小五郎は口走っていた。

 

 

「――そういや、瑠璃っぺ。おまえ、眼鏡外してたほうが綺麗だぜ」

 

 

 何気のない一言、というやつだった。特に含むところのない、ただの雑談。そんな。

 

 しかし、声をかけられた少女にとってはそうではなくて。

 

「……え?」

 

 固まる。呆けたように硬直する彼女を見て、小五郎は首を傾げた。

 

「ん、どうしたんだ? さっさと教室戻ろうぜ」

 

「……え? あ、え……うん」

 

 不思議そうに見やる小五郎に我に返り、瑠璃は小さくうなずくと彼の後を追った。

 顔を見られないようにうつむいたまま、小さくつぶやく。

 

「……やっぱり帝丹高校にすればよかったかな……」

 

 思うところあってわざと小五郎や英理と違う高校を受験した瑠璃は、少しだけ過去の選択を後悔した。

 

 

 




注意:この作品のヒロインは英理です。二股やハーレムなどの展開もありません。ヒロインは英理です(大事なことなのでry)。でも修羅場はありますん。
また、同様に新一のヒロインも蘭です(唐突なネタバレ)。でも作者はコナンのヒロインは哀だと思ってます(ん?)。


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05.散策とそして

 

 

 小五郎が過去の世界で目を覚ましてから、はや三日が経った。

 1989年2月4日、土曜日。

 まだこのころは週5日制が施行されていないので、いわゆる半ドンの日である。

 数日前までは自由業が生活サイクルであった小五郎も、今では一中学生としてもれなく土曜午前を学校に費やした。

 

 昼を告げる放送がかかり、退屈な授業が終了する。とたんに教室のそこらかしこから気の抜けたような声と喜悦の声が上がる。

 学校が終わった。ここから先は、休日の時間だ。

 

「じゃあな、毛利」

 

 声をかけるクラスメイトに返事を返して、小五郎は先ほどまで使っていた教科書を鞄へとしまう。

 そうして座ったまま背を伸ばし、息を吐いた。

 中学校に再び通い始めて、今日で三日目となる。

 当初はどうなることかと思った学校生活だが、思っていたほど苦難の連続ばかりというわけでもなかった。

 薄れていた勉学の記憶もだいぶよみがえりはじめているし、周囲との関係もとくにこじれることはなかった。英理と瑠璃のただ二人からは変貌を薄々と察知されてはいるものの、ほかクラスメイト達のなかに小五郎を訝しがる風潮はとくに見られない。

 

 なんだかんだで、今のところはうまくやれている、といってよかった。

 

「小五郎ちゃん、さ、帰ろう」

 

 立ち上がった小五郎のそばに、そう言って瑠璃が寄る。その後ろには英理も追従していた。

 ここのところ――というよりも、記憶のなかの学生時代から、学校帰りはこの三人組となることが多かった。

 英理は小五郎の家と隣同士で生まれたころから知っているし、瑠璃は英理を通して、小学校のころからの付き合いである。自然、家も近い三人は登下校などの際は固まることが多くなる。

 

 小五郎はちらりと英理を見た。

 小五郎が目を覚ました翌日から、彼女の様子は少しだけおとなしい。以前はもっと噛みついてきた印象なのだが、それがなく、ことあるごとに小五郎のほうをうかがうようにのぞき見ている。

 

 ――やはり、彼女には訝しがられている。

 

 そのように感じるも、この点に関してはどうしようもない。

 彼女が感じているだろう何らかの疑問、それの原因と事情は彼女にだけは伝えられない。伝えて、もしも拒絶などされようものならば、小五郎は自身がどうなってしまうか見当もつかなかった。

 なので、小五郎の様子をうかがう英理に対し、小五郎もまた自然と手探りの対応となり、二人はここ三日ほど、互いに少しだけそっけなくなりがちとなっていた。

 

 ……対して、それに反比例するように小五郎へと若干に距離が近づいてきたのが瑠璃である。

 なぜなのかは小五郎にはわからなかったが、今の彼女は記憶でのそれよりも小五郎に話しかけることが多い気がした。

 記憶のなかの「辿った過去」では、中学校も後ろとなると、卒業前の頃から瑠璃は少しずつ小五郎と距離を取り始めていた印象があったのだが……今回はそれが見られない。

 

 英理と同様に小五郎の変化にいち早く気づき、そして悩む彼に「自分は自分」であることに変わりはない、という真理を気づかせた存在。

 英理と並ぶ付き合いの古さであることもあって、大切な友人である。

 以前に距離を取ろうとしたことも、現在に距離を縮めたことも、どちらも一体どのような心境の変化なのかは小五郎には依然としてわからなかったが、しかし友人なのだ、疎遠となるよりはマシだろうとたいして気にはしていなかった。

 

 先日に彼女から貰った助言、それにより、「自分が自分を殺してしまったかもしれぬ」懸念と、「英理に事情を隠すこと」自体に対する罪悪感はそれぞれだいぶ薄れ、小五郎のメンタルは間違いなく改善したのだ。

 その恩義染みた経緯もあって、小五郎自身もまた、瑠璃に対して以前よりも親し気な対応になっていた感触も少なからずあった。

 そんな態度が、英理の不審がる気持ちを助長させていることについては、彼は気づいていない。

 

 とまあ、そんなこんなでこの数日を過ごしている小五郎であったが、今日に限っては別に予定があった。

 

「わりィ、このあとちょっと……」

 

 言って断ると、残念そうな声を上げる瑠璃と片眉を上げる英理、二人の返事を待たずにそのままそそくさと教室を飛び出した。

 廊下を抜け、下駄箱で履き替え、学生鞄を脇に抱えた学ランの恰好のまま、彼は家とは逆の方向へと駆け出した。

 

 

 

             ◆

 

 

 

 小五郎がこの過去の世界で目覚めた日は、2月1日の水曜日である。そこから木曜日に学校へと登校し、金曜日を挟んで、本日が土曜日であった。

 これはつまり、目覚めてからこちら、一日の大半は学校で潰れていたということで、今日が初めての「まとまった自由時間」なのだ。

 この三日間、小五郎は自身の家と学校と、その間の通学路しか見ていない。この過去の世界のほかの場所については、いまだ確かめていなかったのだ。

 

 つまるところ今日の予定、用事とは、過去の世界の見物である。

 

 帝丹中学から離れることしばらく。

 小五郎は、とある建物の前にいた。三階建ての小ビルで、二三階は現在空室、一階は布で覆われ改装工事の途中であった。

 小五郎の親が所有し、そして未来、彼が探偵事務所を開くことになる場所だった。

 

「そうか、ポアロはまだ入っていないのか……」

 

 工事の音が漏れる一階を眺めて、彼はそうこぼす。

 かつて刑事を辞職した際に親から譲られるまで、その存在すら知らなかった建物なので、小五郎が探偵事務所を開く以前に入っていたテナントや、ポアロがいつ頃から開いていたかなどについては、彼はまったくと言っていいほど無知だった。

 過去の世界をめぐるにあたり、ひとまずの足を向けた場所だったが、このように知らなかった事実を知るということは、どことなく楽しい。

 

 英理との関係がぎくしゃくとしていたなか、久しぶりに楽しみを得られた気分だった。

 

「工事終了は来月か……開店したら、来てみよう」

 

 掲示を見て、小さくつぶやいてから歩き出す。

 次に訪れた場所は帝丹高校。かつて卒業した学校で、今年の春からは自身が再び通学することになる場所だ。

 その後も馴染みの場所をめぐってゆくが、それらはやがて居酒屋やバー、パチンコ屋などとアダルティな方面へと偏ってゆく。

 

 ある店の前で、小五郎は足を止めて看板を見つめる。

 その胸中とは。

 

(……ビール飲みてえ)

 

 キンキンに冷えた生を、ジョッキで一杯……。そんな夢想をして喉を鳴らすも、昼間なので店はまだ開いていない。

 どころか、彼は現在は未成年であるし、そのうえで中学校の制服を着ているので入店すら断られるだろう。

 

「はあ……」

 

 ため息を一つこぼして、歩みだす。

 と、今度はそこである自販機が目に入る。

 道路のはし、電柱の横で佇むそれが販売しているものは……煙草。

 白や青や緑、赤。色とりどりの包装が、機械の窓の向こうに飾られている。

 ここでも小五郎は、その喉を鳴らす。

 

(……吸いてえ)

 

 浮かんだ言葉を慌てて追い出す。首を振り振り、自販機の前を通り過ぎた。

 つい数日前までは一日に一箱は軽く吸っていたヘビースモーカーの小五郎であるが、身体自体はニコチンに依存しない健常な少年時代のものであるためか、誘惑は習慣的・精神的なものに留まっていて、我慢できないほどではない。

 

 いわゆる不良やツッパリなどと呼ばれる輩ならば中高生でも吸ってはいるが、先日まで一人の父親であった小五郎としてはあまり親不幸をするつもりもなかった。

 

「さて、次はと」

 

 気を取り直して、散策をつづける。

 時刻は午後三時を過ぎようとしていた。昼食は当初はポアロを目当てにしていたが、店がなかったため、その後で道中にあったコロンボのほうで済ませていた。

 馴染みの飯屋として頭に浮かぶものには、ほかに「死ぬほど美味い ラーメン小倉」(移転後は「マジで死ぬほどヤバイ ラーメン小倉」)があったが、あれは2012年当時でたしか開業後20年だった。

 23年前の現在ではまだ店は出ていない。事実として、杯戸商店街にも立ち寄ってみたが、それらしき店はなかった。

 3年後あたりに開店した際には、是非もう一度あのラーメンを食べてみたいものである。

 

 そんなこんなで昔の景色を楽しみながら歩いていると、やがて小五郎は駅前の大通りへとたどり出た。

 道路は太く四車線で、駅前広場には行き交う人が雑多に溢れ、周囲には様々な店や商ビルが並んでいる。

 歩道脇に続く背高な並木は、クリスマスシーズンになるとイルミネーションとして飾り付けられていた覚えがある。

 

 駅を背に、家路へ向かって大通りを歩いてゆく。

 そのときだった。

 

「あら、小五郎くんじゃない」

 

 横手からかかった声に、驚いて振り向くと、そこにはにこやかに片手を振る女性。

 一瞬だけ記憶を探るも、すぐに思い出す。

 

「妃さん……」

 

 実家の隣の家の奥さん。つまり、英理の母親であった。記憶の中の「辿った過去」においては、小五郎の義理の母親にあたる女性である。

 

「どうしたの、ひとりで」

 

 寄っていく小五郎に、彼女は朗らかに語りかける。

 

「ああ、いえ。少し散歩を……」

 

 片手で頭の後ろをかきながら、あいまいに笑う。ふと視線を下げると、彼女の手にある紙袋が目に入る。

 

「これ? ここのお店のモンブランよ。とても美味しくて評判でね。予約していたのを受け取りに来たの」

 

 言って彼女は背にしていた店を掌で示す。どうもその店から出たところで、目の前を小五郎が通りがかったようである。

 

「へえ、そうなんですか」

 

 うなずいて小五郎も店を見る。黒を基調としたシックな色合いで固めた店で、筆記体の店名が白と黄色で装飾されていた。

 と、ここで妃夫人と小五郎が見やる菓子店、その隣の店先にて自動ドアが開く。

 

「お母さん、お待たせ――」

 

 そう言いかけて、出てきた少女は息をのんだ。

 小五郎もまた現れた姿に硬直する。

 

「英理、お目当ての本は――あら、どうかしたの二人して」

 

 妃夫人が戸惑ったように声を上げる。

 彼女が買い物をした菓子店の隣は大きな書店となっていて。そこから出てきた少女こそ、彼女の娘にして小五郎の幼馴染、妃英理その人だった。

 

「――別に、たいしたことじゃないよ。ほら、お母さんの欲しがってたレシピ本もついでに買っておいたわ」

 

 いち早く再起動した英理が、大型本の入った紙の包みを見せる。そして母親の隣へと視線を移し、

 

「それより、どうしてここにそいつが……」

 

「こら、『そいつ』じゃなくて小五郎くんでしょ」

 

 言う母親に、少しだけ首を縮めると、英理はしぶしぶ言いなおす。

 

「……小五郎がなんでここにいるのよ」

 

「散歩だそうよ」

 

 そして聞くと、

 

「……ふうん、散歩ね」

 

 含みのある言い方でつぶやいた。

 

「ははは……」

 

 薄く笑いながら、小五郎はどうにかしてこの場を去ろうと考える。瑠璃の言葉によって妄想染みた懸念と一方的な罪悪感は薄れたものの、ここ10年ほど喧嘩していた認識の上で、そして疑念を覚えているらしき「過去の英理」に対しては、小五郎はやはり居心地の悪さを感じずにはいられなかった。

 私服に着替え紙袋を抱えた英理と、学ランのままの小五郎と、そして主婦。店先で屯するこの組み合わせも、少しばかり人目につく。

 

 小五郎が、そろそろ離れようと何か言葉を発そうとしたその時だった。

 

 

「きゃああああああああっ!!」

 

 

 突如、悲鳴が響いた。

 つんざくような女の声に、その一瞬の間だけ辺りから音が消える。一転してざわめき。

 

 そして。

 

 気が付いたとき、小五郎は駆け出していた。

 広がってゆくざわめきを背に、悲鳴の聞こえた菓子店のなかへと駆け込み、状況を知る。

 

 驚き浮足立つ店内。客。

 そしてカウンターにて倒れ込むようにして崩れる一人の男。パティシエ。

 

「蒲生さん!? 蒲生さん!?」

 

 若い男女がカウンターの向こうで、倒れ伏す男を両側からゆすっている。

 その周りの他の店員も、客も、皆なにが起こっているのか戸惑うばかりで生産的な行動を取ることができている人間は一人もいなかった。

 

 

「救急車を!!」

 

 

 叫び、小五郎は伏す男のもとへと駆け寄る。

 

「え?」

 

 おうむ返しに問う呆けた店員に、小五郎は再度怒鳴った。

 

「電話だ!! 救急車を! 早く!!」

 

「は、はいぃ!」

 

 大学生ほどだろう店員は、慌てて踵を返すと、カウンター奥にある電話に飛んでゆく。

 それを横目に、小五郎は男に呼びかけながら上体を起こし――

 

 苦痛に染まった死人の表情と、白目を剥いた瞳。口元から漂う独特なアーモンド臭に、その眉をひそめた。

 

 急いで脈を測り、そして爪や唇の状態も見やる。

 

「……警察もだ」

 

 つぶやく。

 

「ちょ、ちょっと君、さっきから何を……」

 

 肩にかけられた大人の手を払い、小五郎は三度(みたび)怒鳴った。

 

「警察も呼ぶんだ!! これは毒殺だ!!」

 

 そして叫んだのちで、ふと我に返る。

 己の周囲には、おののくような表情の人間が並んでいる。そのほとんどが大人で、学生もいるが、中学生以下はおそらく自分一人で。

 

 ――そう、今の自分はただの子供で……。

 

 刑事や探偵として長くあり続けた経験が、小五郎の初動を決定させたが、そんなこと、()()彼には必要のないもののはずだった。

 しかし。

 先ほどまでの小五郎は、なんの躊躇も違和感もなく()()感覚に身を任せていて。

 

(俺は……)

 

 途端に、ずきりと胸の奥底でなにかが痛む。

 

(違うんだ……)

 

 心のなかで一人、誰かに向かって何かを訴える。

 

(俺はもう、探偵じゃねえんだから……だから、違うんだ)

 

 トラウマ染みたかつての痛み、苦しみ。そして闇。

 死んで、過去に戻り、異常な現状を割り切って、英理とのあれそれにかまけて忘れ去ろうと、考えぬようにしようとしていたものが、胸の奥底に封印したつもりであった闇が、鎖を引きちぎって姿を現そうとする。

 

(死んだから、だからもう、俺は解放されたはずなんだ……!!)

 

(もう、眠りの小五郎じゃねえんだ……!!)

 

 なのに。

 なぜ己は今、再び。自ら事件現場へと飛び込んでいるのだろう。

 

 複雑に絡み合い、混沌とした想いが小五郎の脳内を蹂躙した。

 意識の外、遠く向こうで救急車とパトカーのサイレンが聞こえる。

 

 死体を前にして大人たちに囲まれたまま、小五郎は呆然と立ち尽くしてしまった。

 

 

 

 ――ただ、彼は一つだけ、あることを忘れていた。

 生前の彼が、意識の外で知らず活躍する名探偵「眠りの小五郎」に恐怖していたことは事実である。

 だが、炎に巻かれて死んだあの夜。それでも彼はたしかに、最期にあることを願っていたはずだった。

 

 ――今度こそは、本物の名探偵に。

 

 あの夜に、彼は、たしかにそう願っていたはずだった。

 

 彼がその想いを思い出すまで、あと――。

 

 

 




未熟な作者の筆力不足により、ちょっとどころではなくおっちゃんの心理描写の軌跡あたりが稚拙極まりないことは自覚しております。
もっとわかりやすくなるように、のちのちで修正を入れるか、補完的な脚注を活動報告あたりに載せるかさせていただきます。
が、今のところはとりあえず現状を晒させていただきます。ご容赦ください。


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06.被疑者たち

 

 

 

「――っと。ねえ、ちょっと」

 

 肩を強くゆすられて、そこで小五郎は正気を取り戻した。揺すっていた英理が、その細い眉を寄せてこちらをのぞき込んでいる。人によっては不機嫌そうな顔に見えるらしいのだが、長い付き合いである彼にはそれが、なにかこちらを心配げにうかがっている顔だとすぐにわかった。

 

 呆然とした気分のままに見まわすと、小五郎は店のすみの壁際にて立っていた。

 中央を見れば、すでに青い制服の人間が多くたむろしている。担架に乗せられた遺体が、ちょうど運び出されていく。

 鑑識と、刑事。警察だ。

 

 自分でも信じがたいことに、あれから警察が到着してもなお、小五郎は今の今までまったくとして意識を呆けさせてしまっていたらしい。

 

「ねえ、ちょっと。大丈夫なの、あんた」

 

 再度ゆすって、英理がそう問いかけてくる。

 

「あ、ああ……」

 

 若干に上の空のままで返事をしてから、ハッと我に返って問いただす。

 

「……どのくらい経ってるか、わかるか?」

 

 質問に質問で返された英理は一瞬だけむっとしたような雰囲気を漏らすも、

 

「あんたが固まってからなら、だいたい十分と少しってところよ」

 

 軽く息をついて、そう素直に答えた。

 その返事を聞いて、小五郎は少しだけ黙る。そうして、ひとつ、本心からの疑いを恐る恐るこぼしてみた。

 

「……俺は、どうだった?」

 

「はあ?」

 

 わけが分からないとでも言いたげな語調で聞き返した英理に、(普段の小五郎ならば反射反応して彼も荒い口になりそうなところを、)依然として静かな言葉のままで、再び小さく問いかける。

 

「……さっきまで、俺はどんな感じだった?」

 

「だから、なにが聞きたいのか、よくわからないのだけど」

 

 憮然とする英理に、しかし取り合わず、小五郎は先ほどに気が付いたそのときから抱える気がかりな不安を、今度こそ直接に、だが悟られないように気を付けながら問うてみた。

 

「――寝てたり、しなかったよな……?」

 

「はあ?」

 

 英理は今度こそ呆れたような声を出して、

 

「なに、あんた。立ったまま眠るの? 夢遊病?」

 

 その様子に、先の呆然自失は自身が眠っていたわけではないことをようやく確信出来て、小五郎は小さく安堵した。

 

「い、いや、なんでもない」

 

 詮索したそうな英理にそう言い切って、ふと、目を菓子店中央へと戻す。

 そこでは、店内に残っている客を相手に事情聴取をしていたらしい警官が、ちょうど取ったメモを読み上げているところだった。

 

 

 

             ◆

 

 

 

「――では、まとめるとこういうことですね」

 

 三十代手前ほどの若い警官が、ひとつ息を漏らして言った。

 

「亡くなったのは、蒲生浩司(がもうこうじ)さん。四十三歳。この洋菓子店のオーナーであり、チーフパティシエ。死因は……詳しいことは司法解剖の結果を待たなければわかりませんが、おそらくは通報の電話にてありました通り、毒物を摂取したためによるもので間違いはないでしょう。

 そしてここが彼の所有する店舗で、しかも開店時の接客中であったことや、遺書の類が見つからないことなどの点から、現在のところ我々、つまり警察は事件性も十分にあるとみています。

 さて、もう一度確認いたしましょう。事件当時、店舗にいて、かつ被害者のそばにいた方々は……」

 

 警官は、そこで言葉を止めて一人の女性を見た。

 店の白い制服を着た、大学生風の若い女性で、髪は染めて茶色だが、小柄でおとなしそうな顔つきをしている。

 

「まず、受付の高城安奈(たかじょうあんな)さん。十九歳。米花大学経済学部の二回生でアルバイト。この菓子店で働きだしたのは……」

 

「きょ、去年の四月からです」

 

 刑事の言葉を継いで、高城と呼ばれた女性が若干におどおどとした様子で答える。彼もそれにうなずくと、

 

「次に、パティシエの轟木悠一(とどろきゆういち)さん。二十八歳。ここの創業当初からの店員で、たしか被害者とは長いご関係だとか」

 

 それに、同じく轟木と呼ばれた男が答える。

 

「はい。蒲生さんには、修行時代からとてもよくお世話になっていました。一昨年にあの人の念願かなってこのお店が開くことになった際も、再就職に難航していた僕に、わざわざ声をかけてくださって……」

 

 静かな語りで話す男だった。半分うつむき、目を伏せているので、その瞳にどのような色が湛えられているのかは、はた目には推測しかできない。

 

「再就職?」

 

 ふと、軽くうなずきを返していた刑事が反応した。

 

「ああ、いえ、その以前に勤めさせていただいていたお店で少し……刑事さんが話せと仰るのなら話しますが、正直、今回の件にはあまり関係がないことかと……」

 

「いえ、すみません。では、その次は、桂川由衣(かつらがわゆい)さんですね」

 

「はい」

 

 刑事の言葉に答えたのは、恰幅のよい裕福そうな身なりの女性だった。

 

「ええと、五十三歳。近所に住む主婦で……今日は買い物をしにいらしていたと」

 

「ええ」

 

 桂川はそう返すと、オーストリッチの提げ鞄の持ち手を指でもてあそびながら続ける。

 

「ここのお店のモンブランはとても美味しいと評判でしたので……。今日は私の誕生日なので、ちょうど良いと予約して、受け取りに来ましたら目の前で突然に苦しみだして……」

 

「ははあ、誕生日ですか。それはお気の毒に」

 

 じゃあ今日で五十四歳になるのかな、などと若い刑事は小さくつぶやいたが、桂川には聞こえなかったようで、彼女は勢いそのままでしゃべり続ける。

 

「それで私、最初は持病か何かの発作が起きたのかしらと思ったんですが……その後すぐにどうも毒殺らしいということになって……。だから私、警察が到着するまでお店に残ることにしましたの。ほら、ドラマなんかでよくあるでしょう。事件現場から当事者は離れちゃいけないって……私の目の前で倒れたのだし、当事者かなと思いまして……」

 

 と、そこで手帳から刑事が顔を上げる。

 

「そういえば、そうでしたね」

 

 ぱちぱちと両目を瞬いて、若い警官は話していた人間たちの顔を眺める。

 

「通報の電話では、毒殺された、と伝えられたそうなんですよね。……失礼ですが、どなたが通報を?」

 

 見回す彼の前で、高城がおずおずと右手を小さく挙げた。

 

「あの、わ、わたしです……」

 

 反対を見ていた刑事の首がぐるんとそちらに回って、

 

「では、あなたがそのように判断を?」

 

「……ひぃうっ」

 

 その一種異様な動作に、高城はびくんと両肩を上げる。しかし刑事はそれに気づかず、話を続けた。

 

「いえね、別に責めているわけではないのですよ。ただ、素晴らしいご慧眼をお持ちですなあ、というただそれだけの……」

 

「あの、刑事さん」

 

 見かねた轟木が助け舟を出した。

 相変わらず静かな声音で、興奮していた彼を治める。

 

「僕もその場にいましたから、詳しい事情は知っています。その正確な判断を下したのは、高城さんではありませんよ」

 

「なに? それでは、もしかしてあなたが?」

 

 おどけながらいて、しかしどこか鋭さを増してゆく刑事の目を見返しながら、轟木は首を振った。

 

「いえ、僕でもありません。そこの……」

 

 自分に向かい合う刑事の肩口を指さして、

 

「ほら、壁際に立っている……あの少年ですよ。学ランを着ている、短髪の。……ええ、彼です。ああ、彼もどうも落ち着いたようですね。いえ、倒れた蒲生さんを見分して毒殺だと判断したのは彼なんですが、その後僕たちに救急車と警察を呼べと指示したあとで呆然としてしまって……。ええ、おそらく自分が殺人死体を触ったと遅れて理解してしまったことによるショックかなにかだと……」

 

 静かに語る轟木が指さすその先。

 彼の説明を聞きながら、刑事の視線もそちらへと向かう。

 

 英理を横に、刑事たちの事情聴取を完全に他人事の傍観者のごとき気分で眺めていた小五郎は、刑事の通報の話のあたりでいやな予感を感じて、そして轟木の指先が案の定に自身のほうを指したところで、それが最高潮になった。

 

「……ねえ、あの人こっちを指さしてない? あれ、刑事さんがこっちに来る……」

 

 話を聞いたのだろう刑事が向かってきた辺りで、小五郎は過ぎたことは仕方ない……と、苦し紛れに思うことにした。

 

 

 

             ◆

 

 

 

「ははあ、帝丹中学三年生……。学校帰りに寄ったわけか」

 

「はい」

 

 刑事にうなずく小五郎の横では、英理が物凄い目つきで彼を凝視している。視線が物理的な圧迫感を伴っているかのような気分を小五郎は感じていた。

 というのも、英理は「悲鳴を聞いて駆けて行った小五郎が、死体の前で呆然としていた」ことは知っていたが、その彼が「救急車を呼べ!」はともかくとして、まさか「毒殺だから警察も呼べ」などとも叫んでいたとはまったく知らなかったのである。

 

 しかも、だ。

 

「それで、なんで……ええと」

 

「毛利です。毛利小五郎」

 

 固い表情で静かに答える小五郎に、刑事がうなずくと尋ねる。

 

「そう、毛利君。君はなぜ蒲生さんが毒殺だと……?」

 

「駆け寄った遺体の口元から、酸っぱい独特の……アーモンドにも似た臭いが漂ってきたからです。脈もなく、死亡していることは明らかでしたが、喉を掻きむしりながら苦悶した死に顔と、口元から漂うあの独特の臭いから、おそらくは青酸系の毒物が胃液と化合した青酸ガスの臭いで……そしてそれによる窒息死なのではないかと。……そしてまさかこんな場所、こんな状況で自殺する人は滅多にいませんから他殺事件なのではないかと……」

 

「ははあ、なるほどねえ。しかし、よく知ってたね」

 

 感心するような素振りをする刑事に、「以前になにかの本で読んだだけだったんですが、間違った判断ではなかったようで良かったです」と返す小五郎。

 

 そんな彼を見て、英理は思う。誰だこいつ。

 青酸カリウムなぞという毒物とその症状について流暢な説明をする小五郎も、そのようなことについて言及するような本を読んでいる小五郎も、……英理はこれまで一度も見たことがなかった。

 

 数日前の、彼が珍しく体調を崩したあの朝。あの後から、どうにも若干の余所余所しさに近い、妙にこちらをうかがうかのような空気が小五郎から漏れるようになった。

 それでいて、なにか悩んでいるようで、突然に人が変わったようにここのところをおとなしくしている。親友の瑠璃はそんな彼を「思春期なんだし、よくあることじゃないかな」などと言っていたが、しかし英理は思春期なぞという軽い言葉では納得できなかった。そんな常識的な言葉では表せられないような事情があるのではないかと疑っていた。

 

 なによりも、今まで半身に近い距離感にあったと思っていたはずの幼馴染が、突然に自分の関知しないところで変貌して、そして自身に対して余所余所しい空気を持つようになった……ということが、なぜだか無性に気に食わなかった。

 

 腹が立ったので、ここ数日は英理自身も小五郎に倣うようにして彼に対して対応を素っ気なくしてみたが、すると期待に反して彼もまたそれまで以上に素っ気ない対応になり始めた。

 物心がついたころからの付き合いで、その今迄までは、英理が反発すれば決まって小五郎も反発し返してきたし、その反対のほうが多かったが、そのどれも「相手にちょっかいをかける」系統であって、今回のように「他人行儀になる」ことは初めての経験だった。

 

(もしかしてこのまま関係が薄れていって、幼馴染も終わってしまうのでは……)

 

 ここ数日の間にどんどんと別人のようになっていく小五郎が、なんだか手の届かない遠くへ行ってしまうかのように見えて、英理はひとり小さく不安を覚える。

 中学生の終わりという、一部の友人らとの別れの時期が近いこともあり、英理は鋭い表情の下で静かに不安げに揺れていた。

 

 

「――まあ、遺体に触ったわけだし、君も当事者ということになるね。悪いけど指紋も採りたいし、ちょっとこっちについてきてくれるかな」

 

「わかりました」

 

 ふと気づくと、あらかたの事情を話し終わった小五郎が、刑事に連れられて先ほどの事情聴取の輪の中に戻ろうとしていた。

 英理も慌ててそれについてゆく。

 

「さて、思わぬ形で聴取者が増えましたが、続き行きましょうか。お待たせしましたね、ええと次は……」

 

 刑事が言いよどみ、手帳をめくる。と、そこで声を張り上げる者がいた。

 

「次は自分です。部長刑事殿!」

 

 刑事と、そして小五郎と英理もそちらを向く。

 

 先ほどに聴取されていた店員や客と共に、一人の青年が立っていた。がっしりとした体格に、熱意に溢れている表情をしている。

 

目暮十三(めぐれじゅうぞう)です! 杯戸駅前派出所に勤務する巡査で、二十歳です。今日は非番で、自分もモンブランを購入しに訪れていました」

 

 聞き、若い刑事もああ、とうなずく。

 

「そうそう、最後は君だったね。お仲間さんだ……さて、とは言いつつも甘く見はしないよ。なんだって君が購入した順番は桂川さんの前。つまり被害者が倒れる直前に接触した購入者が君ってことだからね」

 

「重々わかっております!」

 

 敬礼をする目暮という青年に、英理は「5歳しか違わないのに、もう働いているのか」と軽く驚いた。20歳といえば、まだ大学生の年齢である。……ということは、彼は高卒で警官になったわけなのか。

 そんなことを思ってふと横を見れば、小五郎も驚いている様子だった。

 

 ……が、なんだか驚き方が尋常ではなかった。

 

 目を見開いて、口が音を発さないまま魚のようにパクパクと開閉している。

 

(もしかして、あの目暮ってお巡りさんと知り合いなのかしら……?)

 

 自分の知らない小五郎が、また一つ現れた。

 そのことに、英理は再び不安を覚える。

 

 

「さあ、事件当時の状況についてもう一度確認してみましょう!」

 

 

 様々な人間の様々な思いが錯綜するなか、そんなことなど知らぬかのような朗らかさで、若い刑事がそう言った。

 

 

 

 



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07.被疑者たち‐2

先週は更新休憩の連絡が遅れまして、大変に申し訳ございませんでした。


 

 

 中規模の店舗の中央で、若い刑事は朗らかに言った。

 

「さあ、事件当時の状況についてもう一度確認してみましょう!」

 

 そうしてカウンターまで行くと、遺体のシルエットに貼られた白線に手をやりながら、

 

「まず、被害者の蒲生さんは予約のケーキを購入するために訪れた客と対応をしていた。これは普段からのことなんですか?」

 

 刑事の問いに、受付担当の高城が答える。

 

「は、はい。そうです。予約販売しているモンブランは、毎日限定五十個の商品で……しかも季節ごとに味付けや装飾も変わるので、とても人気がありました。店長はこの商品にとてもこだわっていて、予約購入してくださるお客様にはいつも一言二言、お礼の言葉をかけていらっしゃいました」

 

 刑事はうなずくが、すぐに思案顔になる。

 

「でも、蒲生さんはパティシエでしょう。そんなに頻繁に調理場を離れることができるんですか?」

 

 これには被疑者と同じくパティシエの轟木が答えた。

 

「蒲生さんはパティシエといっても、チーフなので……昼間に追加する商品は出来具合の確認と、たまに仕上げの手伝いをしてくださる程度で、そのほかは僕たちのような部下が行っておりました。ただ、限定品は毎朝ご自分でつくられておりましたので、だからそれらにはとくに思い入れがあったようです」

 

「なるほど……」

 

 刑事は再度うなずくと、話を続けた。

 

「そうして午後三時二十分過ぎころから、彼は立て続けに二人の予約購入客の対応をしたわけです。それが、目暮君と桂川さんのお二人」

 

 その二人のほうをちらりと見て、

 

「そして二人目、桂川さんとの対応のさなかに、彼は突然に苦しみだし……死亡された。高城さんと轟木さんが慌ててそばに寄り、その後、騒ぎを聞きつけた毛利君がおとずれて、警察に通報と。

 ……ここまでに相違はありませんか?」

 

 刑事が見渡し、関係者らはまばらに首を縦に振った。

 

「さて、ここでもう一つ確認をさせていただきます」

 

 彼は一つ息をして、

 

「現状、これが最も重要なことでもありますが。被害者がなにかを口にしたところを、どなたか目撃をしていらっしゃいませんか?」

 

 ぐるりと見まわしながら、さらに言う。

 

「なんでも構いません。飲み物でも、固形物でも。煙草を口にくわえただけでも……」

 

 と、そこで、

 

「それなら……」

 

 轟木が口を開いた。静かな口調で、滔々と話す。

 

「蒲生さん、受付へ出る前にコーヒーを飲んでいました」

 

 すかさず刑事が食いついた。

 

「それはつまり、目暮君の対応をする直前というわけですか?」

 

「ああ、いえ……それよりも前だったような。調理場の隣の事務所で飲んでいるのが、ガラス窓越しに見えたんですが……たぶん三時前だった気が」

 

 少し思案してそう答えた轟木に、刑事が鑑識へ声をかける。

 鑑識の男性はうなずくと、受付の向こう、店の奥へと消えていった。

 

「しかし、仮にそのコーヒーに毒物が入っていたとしても、それから亡くなるまでに時間が空きすぎていますね。うーん……関係は薄いかなあ」

 

 つぶやく刑事。「他に、どなたか気づいた方は?」とたずねる彼の様子を、小五郎はひとりぼうっと眺めていた。

 

 その心境はというと、困惑と諦観と、そして若干の不安だった。

 

 前者の二つはつまり、最近まであれほど「探偵」に苦しめられてきたはずなのに、反射に近かったとはいえ、自ら殺人事件へ首を突っ込んでしまったこと……それに対する戸惑いと、過ぎ去ったことは仕方がないという諦めである。

 そして不安は、こうして殺人事件を前にして改めて思い浮かぶ懸念。「眠りの小五郎」が、再び出現しやしないかという恐怖に起因するものだった。

 

 死んだと思ったら、過去の世界。数日前に原因不明のこの事態をなんとか受け入れたそのとき、小五郎は意識せず、だが少なからず安堵を覚えていた面があった。つまりそれは、「眠りの小五郎」から解放されたという安堵だった。

 そんなわけなので、意図せず殺人事件に関わってしまった現在、「まさか、いまだ眠りの小五郎の症状があるのでは……?」という不安が持ち上がり、意識の多くを占め始めていたのである。

 

「ねえ」

 

 そんなどこか上の空の小五郎の脇腹を、軽く肘でつつく者がいた。

 隣に立つ少女、英理である。

 

「ねえ、お母さんは大丈夫かしら」

 

 振り向いた小五郎に、彼女はそう囁いた。

 

「……んあ?」

 

 さながら寝起きのような気の抜けた返事に、一瞬だけ眉を顰めるも、英理は続ける。

 

「だって、お母さんもモンブランを購入したのよ。予約して。たぶんあの目暮ってお巡りさんの前だと思うけど……」

 

 そう言う英理の目は相変わらず気丈そうではあるものの、よくよく見るとわずかに不安に揺れていた。

 彼女の母は現在、多くの野次馬とそして警察の規制によって店外へ締め出されている。入り口付近にて、心配そうにこちらを覗き込んでいた。

 

 小五郎は息をはくと、暗い考えばかりがめぐっていた意識を切り替えようと努めることにする。

 ひとり不安がっていてもしょうがないし、今はとりあえずこの幼馴染の不安のほうを取り除いてやるべきだと判断した。

 

「……青酸カリは、わりあい即効性が強い。摂取して、胃液と化合するまでの時間はあるが、それでもほんの数十秒程度。死亡した際に対応していた桂川さんと、その直前まで対応していた目暮……さんはぎりぎり被疑者になるが、そのさらに以前の客は候補としては薄いはずだ。

 それに、目暮さんと桂川さんを並べて『立て続けに二人』とあの刑事が言っていたからには、妃さんと目暮さんの間には少なくない間が空いていたんじゃないか」

 

 小声で滔々と語る。そうしてから横目でうかがうと、英理はなんだか目を見開いて小五郎を見ていた。

 

「……だいいち、動機がないだろう。妃さんも、目暮さんも、桂川さんだって、ただ偶然に買い物に来ていただけの客だ。これが本当に殺人事件だとしても、動機は内部の人間くらいにしかないだろうし、だからおそらく犯人は店員の誰か――」

 

 と、そこで割り込む声があった。

 

「いや、そうとも限らないわよ」

 

 驚いて小五郎と英理が振り返ると、その背後には店の制服を着た女性が立っていた。

 終始して被害者とは離れた場所にいたために、簡単な聴取しか受けていなかった店員だった。高城と同じく、受付の店員である。まだ二十代前半の若々しい人だった。

 

 訝しげにうかがう二人に、店員は小さく笑うと、途端に真面目そうな顔になって彼らへと顔を寄せた。秘密の話をするように口元へ立てた手を添えて、先ほどまでの二人と同様に小声で話す。

 

「妃さん……って方のことは知らないけれど。あの、目暮さんってお巡りさんと、桂川さんっていうおばさん。あの二人になら、動機があるかもしれないわよ」

 

「えっ――」

 

 小五郎は驚愕の声が飛び出そうになった口元を咄嗟に抑えた。代わりにその声は胸の内側ではじける。

 

(目暮警部が――?)

 

 そんな彼の様子を気づいたのか気づかなかったのか、店員は続けた。

 

「まず、お巡りさんは前にね、店長と喧嘩になったことがあるの。といっても、店内でのことじゃなくて、出先……プライベートでのことだったらしいけど」

 

 固まる小五郎を横目に、英理が問う。

 

「どんな理由だったんですか?」

 

「それは……あーっと、ごめんなさいね。そこまでは私もよく知らないの。ただ、ほかの店員が喧嘩を目撃したらしくて。それに今日、店長はあの人に『以前は大変に申し訳ございませんでした』って謝りながら手渡してたから……だから、たぶん喧嘩があったことは事実よ」

 

 ふうん、と英理がつぶやいたところで、小五郎も再起動する。

 

(……なら、喧嘩の原因は蒲生(なにがし)のほうだな!)

 

 目暮が悪いわけがない。元部下として、それなりに信頼は厚かった。

 

「それで――」

 

 言いかけた店員が、そこで口を押さえてそっぽを向く。「っくしゅ!」という小さな音がした。

 

「ごめんなさい、ちょっと花粉症で。今年は花粉、早いみたいね……そういえば薬、飲み忘れてたわ」

 

 彼女は取り出したハンカチを手と口元へ軽く当てると、それをしまってから向き直った。

 

「えと、それで、桂川さんはね。お得意さんなんだけど。……ここだけの話、実は店長、桂川さんと不倫してたって噂があるのよ」

 

「ふっ!?」

 

 思わず、といった様子で声を上げそうになった英理に、店員が慌てて指を立てる。

 

「シィーっ! シィーっ!」

 

 自分の口を押さえた彼女がこくこくとうなずくと、店員は指を下ろして息をついた。

 

「そしてね、店長、桂川さんから散々に貢いでもらった挙句にあの人を捨てた……って」

 

「ひどい人ですね!」

 

 小声で話す店員と、それに同じく小声で憤慨する英理。

 

「しかも別れた理由が、新しく若い相手が出来たかららしいって噂で……」

 

 店員の目が、そこでふと意味ありげにどこかへと流れる。

 英理と小五郎もそちらへと目を移すと、そこには刑事と話す高城の姿。

 

「……まさか」

 

 嫌な予感に英理が声を漏らすと、店員がうなずいて続けた。

 

「……その相手が、あの安奈ちゃんだってもっぱらの噂なのよ」

 

 絶句する英理の隣で、同じく聞いていた小五郎も、もはや苦笑いしか浮かばない。

 

(ドロドロしすぎだろ、この店……)

 

 店員はなおも続ける。

 

「それだけじゃないわ。あそこで澄まし顔をしてる轟木さん、私が思うに、あの人が一番に怪しいわね」

 

 もはや話に聞き入っている様子の英理が黙ったまま続きを促すと、店員は殊更に潜めた声で話す。

 

「轟木さん、さっき刑事さんに、再就職で拾われたって話してたわよね?」

 

 英理がうなずくと、

 

「……あれ、以前のお店をクビになった理由って、当時に店長が根回しをしたからだって噂があるのよ」

 

「そうなんですか!?」

 

 小声で器用に驚く英理の横で、(しかし噂ばかりだな……)と小五郎はひとり思った。

 

「そうなの。なんでも、轟木さんの才能に嫉妬した店長が……」

 

 ノリにノった店員が続きを話そうとしたそこで、再び声が割り込まれる。しかし今度は低く落ち着いた、男性のものだった。

 

 

「――無責任な噂話は、そこまでにして頂けないかな」

 

 

 びくりとして彼らが見上げると、背後にぬっと立つのは丁度話題に上がっていた轟木その人だった。

 

「あ、あはは……」

 

 同僚でもある店員は、気まずそうに微妙な笑みを浮かべると、

 

「そ、それじゃ!」

 

 そう言い捨てて、店のすみにて固まっている他の店員たちのほうへと去っていった。

 

 それを見届けた轟木は、残された小五郎と英理を見下ろす。

 気まずげに佇む彼らを一瞥すると、

 

「……噂は、しょせん噂だよ」

 

 そう言い残してもといたほうへと離れていった。

 

 歩いてゆく彼の背中を見て、ふと、

 

(まるで寂しそうな……)

 

 なぜだかそんな印象が小五郎の脳裏をよぎった。

 

 

 と、そこで。

 

「司法解剖の結果が来ました!」

 

 慌ただしくやってきた警察官が、なにやら鑑識と話していた刑事へと書類を渡した。

 

「ご苦労様です」

 

 受け取った紙を読み、

 

「ああ、やはりシアン化カリウム……」

 

 目線が段々と下へとなぞってゆき、ふと、訝しげにつぶやく。

 

「……ゼラチン?」

 

 そのときだった。

 

 

「あ、あのっ!」

 

 

 突然に張り上げられた声に、皆がそちらへと目を向けた。刑事も、関係者らも、小五郎たちもそちらへと振り向いた。

 

 おどおどとした不審なようにも見える挙動で、高城が両の拳を握って佇んでいた。若干にボクシングのファイティングポーズのようにも見える。

 

「あ、あの! け刑事、さん! じ、実はっ!」

 

 つっかえつっかえそこまで話し、間を溜める。そして、なにか意を決したような顔をすると、

 

「じ、実は! 実は私っ、見てました!」

 

 彼女は高らかに宣言するようにして、言い放つ。

 

「店長、な、亡くなる直前に、食べてました!」

 

 静かにたたずむ同僚へと視線をすべらせて、言い放つ。

 

「と、轟木さんの試作品を、食べてました!」

 

 瞬間、辺りから音が消え――一転、ざわめきで溢れかえる。

 

 ただ一人、轟木だけはなおも静かな佇まいで、そして己を糾弾するかのような声音の高城を見つめていた。

 

 

 

 



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08.探偵

 

 

 

 

「それは本当ですか!?」

 

 若い刑事が、高城へと詰め寄った。

 

「は、はいっ」

 

 高城はうなずくと、轟木のほうを見て再度言う。

 

「ず、ずっと、言おうかどうか迷ってました……違うと……信じたかったんです。でも、轟木さん、待ってても……ずっと言わなくて……だから……」

 

 そこまで言って、彼女は顔を伏せた。

 対する轟木は、依然として静かにたたずむだけ。

 

 いや。

 

「……そうか」

 

 小さく、本当に小さくだけ、そう呟いて黙り込んだ。

 そしてその呟きを、偶然の産物だった。小五郎は聞き取ってしまう。

 

(……今のは)

 

 小五郎は振り向くが、目を伏せる轟木の心中をうかがうことは叶わない。

 しかし、先ほどの呟きに含まれていたものは、おぼろげにだが伝わった。

 

 字面だけを見れば、犯行現場を見られていたのか……という観念の言葉にも見えた。だが、違う。あれは――。

 同時、小五郎の脳裏に先ほどの彼の背中がよみがえって。

 

(――違う)

 

 その瞬間、小五郎の奥底の、心の深いところで誰かが叫んだ。

 

 

(――こいつは、犯人じゃない!)

 

 

 店に飛び込んだ時と同じだった。咄嗟に……ふと頭によぎった確信に近い、何か。

 刑事として、探偵として。長くあり続けた際に磨かれた、勘。予感。

 

 刑事時代に火災犯捜査第一係にいたころ、とある上司がよく言っていたことを思い出す。

 

『ドラマなんかでよくあるだろう。刑事の勘ってやつ。あれ、本当にあるんだぜ。

 そりゃあ、毎度毎度に都合よく出るわけでもねえけどよ。関係者なんかと話したり、目があったり、背中を見たり……とにかく、ふとしたときにな。たまにフッと頭の裏側に走るんだ。予感が。

 こいつは何か知ってる、だとか。こいつは犯人じゃねえ、だとか。間違いないこいつだ、とかさ。

 天啓染みて、これが本当に当たるんだ。だからな、毛利。そういうとき、もしも行き詰っていたならな。その感覚に身を任せちまうってのも、ひとつの手だぜ……』

 

 ……まさか、これがそうなのか?

 

 思わず固まって、目を白黒とさせる小五郎の前で、しかし事態は動く。

 

 静かにたたずみ、反論も何もしない轟木のほうへと刑事が寄っていった。その表情には、訝しんでいる様子が余すことなく現れている。

 

「彼女の言っていることは本当ですか? 轟木さん」

 

 対する轟木は、しばし間をおいてから、

 

「……試作品を置いておいたことは、事実です」

 

 静かに、そう語った。

 

「意見をお聞ききするつもりで、事務所の机に置いておきました。それが今、ないのなら……蒲生さんがお食べになったのでしょう」

 

 聞いた刑事が振り向くと、事務所を調べた鑑識が首を横に振る。

 

「ないそうですよ?」

 

「……そうですか」

 

 うなずく轟木に、刑事がずいと詰め寄る。

 

「ところで轟木さん。なぜ、それを今まで黙っていたんです?」

 

 顔を寄せる刑事の眼光が光った。そして、「それは……」と轟木が若干に口ごもったところで、

 

「刑事殿!」

 

 店の奥から別な警察官が慌てて飛び出してくる。

 

「ロッカールームのその男の持ち物から、こんなものが!」

 

 彼がビニール袋を掲げると、その中に入っていた密閉状態の小瓶が揺れる。

 

「鑑識に回して詳しく調べなければ言い切れませんが、中に付着しているものはおそらく……」

 

 そのそばに寄った年配の鑑識が、軽く検めてから言い継ぐ。

 

「シアン化カリウムですな」

 

 それを聞くや否や、

 

「容疑者確保ォ!」

 

 若い刑事はそう言って轟木の腕を拘束した。

 

「証拠が出てきた以上、もう言い逃れは出来ませんよ!」

 

「い、いや、僕は……」

 

 言いよどむ轟木だが、それが刑事の目には余計に怪しく映るようだった。

 

「精々、言い訳は署のほうで聞かせてもらいましょうか!」

 

「いや、だから……」

 

 片方は興奮した様子で、片方は静かにされどうろたえた様子で言い合う。

 今にも連行されそうなその様を眺めて、小五郎は、

 

(違う! そいつじゃねえ!)

 

 あげそうになった声を抑えた。

 轟木は犯人ではない。そんな予感が小五郎のなかにはあったが、それは他人を説得できる類の根拠では到底ない。

 なにしろ無実の証拠がない。そのうえで疑惑を決定づけるかのような物品がある。

 

 だけれど。

 

(違う……!)

 

 それでも小五郎には、彼が犯人であるとは思えない。これまで培ってきた経験ともいうべきものが、先ほどに垣間見た轟木の様子を思い浮かべるたびに、警報を鳴らしていた。

 

 ……あの若い刑事を筆頭に、警察や関係者たちの間には早くも「事件収束」の空気が流れようとしている。このまま轟木が連行されれば、関係者らは連絡先だけ登録したのちに解散となるだろう。

 

 そして――それはつまり、真犯人に「本当の証拠」を処分する時間を与えるということだ。

 

 轟木の無実と、真犯人の真実を暴くことができるのは、今、このときの、轟木が連行されるまでの僅かな間しか存在しないだろう……そんな考えが瞬間にして小五郎の中を駆け巡る。

 

 だから。

 

(別の証拠を探さなければッ……!)

 

 なにか、真犯人につながるような。あるいは、無実を証明するような。そんな証拠を――。

 

 ……ごく自然に、そんなことを思って。

 

 が、二回目ともなれば、そこから一歩を踏み出そうとしたところでさすがに我に返る。

 再び硬直する体。

 

 

(今、俺は――)

 

 

 ――何をしようとしていた?

 答えのわかりきっている自問が、胸の内に響く。

 

(今、俺は――)

 

 胸の底で、誰かが答える。

 

 ――探偵を、しようと。

 

 瞬間、脳裏に再びよみがえる暗黒。恐怖。――見知らぬ己。「眠りの小五郎」。

 途端に顔が青ざめて、腕や足が震えそうになる。

 

 

 ――だが。

 

 

 同時に、ふと思い返すのは、先ほどに見た、聞いた、轟木の――。

 

 次の瞬間、小五郎は静かに一歩を踏み出していた。

 いつのまにかうつむいた顔を上げて、刑事と言い合っている男を見る。

 その顔を見て、……ああ、やはり、と。小五郎は思う。

 

(――あいつは、犯人じゃねえ)

 

 ならば。

 

(――やるしかねえだろ)

 

 冤罪は、迷宮入りよりもあっちゃならねえんだ……。そう小さくつぶやいて。

 

 未だ血の気の引いたような顔色のままではあったが、小五郎は、ひとり。辺りをうかがいながら踵を返し、そっと歩き始めた。

 周囲の注意が刑事と轟木に集まっていることが手伝って、どうにか彼は、店の奥へと潜り込むことに成功をした。

 

 

 

             ◆

 

 

 

 カウンターそばの扉から入り込んだ先は、どうも事務所のようだった。

 左側を見れば、扉と、そして大きなガラス窓が壁に埋め込まれている。その向こう側には、閑散としている調理場が見えた。

 事務所の奥にも扉があり、上側に「更衣室」と札がかかっていた。

 

 小五郎の頭の中で、店内の位置関係がおおよそ整理される。

 つまり、奥に長い構造をしているこの店は、正面入り口から見て右奥から、更衣室、事務所と続き、それら二部屋の隣に調理場がある。これら三部屋の手前に接客や販売をするエリアがある。

 事務所は更衣室と調理場、接客エリアにつながっており、調理場は事務所と、そして接客エリアのカウンター裏側につながっている。

 

【挿絵表示】

 

 ふと、ガラス窓の向こうの調理場で動く人影が、横目に映った。慌てて物陰に隠れて、そちらを見る。

 青い制服の中年男性……鑑識だ。

 幸いなことに事務所のなかには小五郎のほかに人影は見当たらないが、そういつまでも時間があるわけではなかった。

 物色する小五郎が警察官に見つかることも時間の問題であるし、そもそも表にいる刑事が轟木を連行して解散の流れになるまでについても、あまり時間は残されていない。

 

 ざっと事務所内を見渡す。

 まず目につくものはと言えば、店長用の物だろう執務用のデスクに椅子、小ぶりな二対のソファーに挟まれたテーブル、流し台、段ボール箱に本棚、スーパーのビニール袋……。

 執務デスクの上には電灯、書類の他、ペンケース、薬袋、コーヒーカップが置いてある。

 流し台には急須やコーヒーメイカー。カップや湯飲み、小皿がある。

 本棚には、専門らしき料理書のほか、スイーツ特集などの文字が躍る雑誌が収められていた。

 

「これは……」

 

 小五郎は薬袋を手に取った。白い紙袋で、表面の印刷には眼科の文字。そしてボールペンで花粉症用と書かれている。中身を見れば目薬が二つ入っていた。

 デスクに戻し、そばにあったコーヒーカップも手に取ってみる。内側が濡れていたが、透明な滴なのでコーヒーではなく水道水だろう。

 それももとに戻したところで、ふと流しのそばのビニール袋が目についた。

 

 中を見てみれば、ただの買い物袋のようで、様々なものが入っている。

 茶葉にコーヒー豆、茶請け用だろう煎餅に、スポーツ新聞、スイーツ特集の雑誌……。

 

「……ん?」

 

 そこで小五郎の頭のどこかでなにかが引っかかる。だが、それが何かがわからない。

 

 だけれど、なんだかそれは重要なことのように思えた。

 

 よく纏まらぬ思考に、苛立ちからか片手で髪を掻きむしったところで、彼の目にテーブルの上のメモ帳が留まった。

 ホテルなどでよく見かけるタイプの、メモの台帳とペン立てが一体化した代物だった。

 

 と、そこで気が付く。

 

「あッ!」

 

 慌ててそちらに飛びつき、検分すると、表面のページにはうっすらと筆圧の跡が残っていた。イケそうだ。

 学校帰りで荷物を持っていたことも幸いだった。

 小五郎は学生鞄から筆入れを、そしてそこから鉛筆を取り出すと、慎重にメモ帳の表を塗りつぶす。

 すると……。

 

「やっぱりな」

 

 浮き上がってきたものは、物品の列挙。先ほどに見た覚えのあるものがつらつらと並んでいる。つまり、これは買い物のメモだ。

 書いてあるものは、コーヒー豆、茶葉、茶請け、薬、新聞、雑誌、砂糖……。

 

「――そうか!」

 

 ようやくだった。そこまで来て、小五郎の頭の中で先ほどに感じた違和感がつながる。

 

 急いで買い物袋に飛びつき、やはりコーヒー豆が未開封だったことを確認すると、するやいなや、今度は執務デスク横のトラッシュボックスを検める。

 腕を突っ込んでがさごそとするが、きりがないので、ついにはそれをひっくり返した。

 

 掃除されていたカーペットに、ごみがばらまかれる。 丸められた書き損じの書類やなんやが転がる。

 そしてそのなかに、小五郎の求めていたものが、あった。電灯の光を反射して、白銀色に輝いている。

 

 それをハンカチで慎重に取り上げて、そこで小五郎は、なんだか胸が高鳴っていることを自覚した。

 

「……本当に、あった」

 

 震える声で、小さくつぶやく。

 先ほどまで青ざめていた顔に、色が戻り始めていた。

 

 小五郎は、自問する。

 

 ――俺は、起きていたよな?

 

 胸の奥底で、誰かが答えた。

 

 ――ああ、起きていた。

 

 ならば、これは、つまり。

 

「俺が……解けたのか」

 

 声だけでなく、証拠品をつまんでいる腕まで震え始めるが、しかしそれは恐怖からではなかった。

 言い知れぬ興奮が、彼を支配する。

 

(眠りの小五郎は、出てこなかった……)

 

 小五郎の中で、その事実だけが浸透していった。

 

 

 

 




犯人暴きは次話。
犯人の指名は現時点では厳しいですが、トリック自体のヒントは一応すべて出ました。……たぶん。まあ、トリックといえるような大層な代物でもありませんが。
なお執筆時間的な都合により後半が駆け足気味だった気がするので、のちのちに修正を入れるかもです。

2017/03/20 誤字修正


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09.推理/兆し

 

 

 

 

「轟木さん、そろそろ問答もやめにしましょう。まあ、あとの詳しい話はとりあえず署のほうでお聞きしますから……」

 

 店のエントランスでは、依然として轟木の腕をつかんだ刑事がさすがに連行へと移ろうとしていた。まだ手錠こそかけていないものの、態度を見るに完全な容疑者扱いである。

 

「だから、刑事さん。僕じゃありませんって……」

 

 対する轟木は、くたびれた様子でなおも言いつのっている。さしもの彼も、その声音からはだいぶ落ち着きが失われていた。

 一貫して無実を主張し、任意同行を拒み続ける彼だったが、状況証拠は彼が怪しいと指し示す。

 ロッカーから発見された凶器と同じ毒物に、彼のつくったケーキを被害者が亡くなる直前に食べていたという事実。

 そしてさらには、なぜケーキのことを黙っていたのかと問えば途端に言いよどむ態度。

 

 刑事には、そのすべてが轟木を犯人だと確信させる証拠であると感じられた。

 

 もちろん、刑事だけではない。二人を見守る警察官や、聴取のため店内に残された客などの関係者……。周囲を囲んでいる人たちは、皆が皆、ある空気を感じていた。

 日常のさなかで、殺人という形で突然に展開された非日常。それが、今、事件の終息という形の終わりへと近づいて行っている――という、そんな。

 

 若い刑事は目の前の男が犯人である、と疑っていなかったし――。

 まだ純情な青年警官は、そんな刑事の様子を憧憬の念もこめて見つめていて――。

 実のところ、殺人に足りる動機に富んでいた自覚のあった女性は密かに胸を下ろし――。

 同じく受付店員も、事件が無事に終わりそうなことに安堵を覚え――。

 そして目下疑われている菓子職人は、焦燥と不安と喪失感とに揺れていた。

 

 だがそこで、ある少女が、ふと幼馴染の姿が見えないことに気が付いたとき。

 

 

「――ちょっと、待ったァッ!!」

 

 

 そんな声と共に店の奥の扉が乱暴に開け放たれて。

 

 終わろうとしていた非日常が、今一度だけ、続きだす。

 

 停滞していた空気が、再び流れ出した。

 

 

 

             ◆

 

 

 

「ちょっと、待ったァッ!!」

 

 そう叫びながら事務室を飛び出したとき、小五郎は、自分がおそろしく興奮していることを自覚していた。

 ものすごい熱量の何かが、己の中の深いところで迸り、体を突き動かしている……。

 そんな夢見心地にも似た感覚が、彼を包み込んでいた。

 

 ――いや。

 どちらかといえば、地区マラソンなどで長距離を完走した際に最後の辺りで身に起こるランナーズハイ……体力を最後まで出し切ったのちに訪れる、気力だけで走っているときの、あの浮世離れしているかのような感じ……。

 その感覚のほうが近いのかもしれない。と、小五郎は思う。

 

 なんたって、心臓がバクバクと痛いほどに忙しないのだ。手を当てずとも知覚できるほどに。

 

 今体温を測ったら、きっと平熱よりも数度上がっているだろう……。

 頭の裏のどこか冷静なままの部分で、小五郎はそんなことをふと考えた。

 

「な、なんだい君は! そこは立ち入り禁止だよ!?」

 

 一瞬だけ唖然としたのち、すぐに我に返った警官がそう怒鳴る。

 同じく我に返った数人の警察官が、小五郎のほうへと駆け寄ってくる。

 

 そして小五郎は、同時に周囲から自身へと集まる視線を敏感に感じ取った。

 それらの多くはおよそ好意的な温度ではなく、それらを前にして意識すると、途端、小五郎の中で緊張感が新たに生まれる。

 

 刑事に返答をしようとして、すると、そこで喉が締まり声が震えそうになった。

 咄嗟にやめて息をのむ。一呼吸ほど置いて常の状態へと喉を戻してゆく。

 

 ――自信なさげになっちゃあ、ダメだ。堂々としていなければ……。

 

 そんなことまで自然に考えて、はて、と我がことながら頭の片隅で不思議に思う。

 

 ――なんだか、随分と慣れている?

 

 と、そこまで考えたところで、たいして思考を巡らせずとも解答に思い至った。

 生前の最後の一年間に、もはや習慣となりつつあった、あれ――。

 「眠りの小五郎」その事後に、記者らなんらの他者から聞かれた際におちゃらけて対応していた際の、あの演技――。

 

 あの頃に心がけていたことが、今、巡り巡って小五郎の助けとなっていた。

 

 皮肉めいて、随分と奇妙なめぐりあわせがあるものだ……そんなことを頭の裏側で思いつつ。

 とりあえず声を整えた小五郎は、数秒後に努めて明朗な声で言い放つ。

 

 

「待ってください! 落ち着いてください! 真犯人が、分かりましたッ!」

 

 

 それはそこまで広くはない店内に、よく響き渡って。

 

 瞬間、小五郎を取り押さえようとしていた警察官たちの動きも思わず止まった。

 唖然とした様子の顔が、判を押したように同じ調子でぐるりと並んだ。

 

「……なんですって?」

 

 またも最初に再起動を果たしたのは、若い刑事だった。轟木を押さえていた腕を、いつのまにか放している。

 

「どういうことです?」

 

 訝しむように問う刑事に、小五郎は「子供の話を聞いてくれるのか」と内心では驚きつつも、とりあえずはしめたもんだとそのまま落ち着いた様子で続ける。

 

「いえ、だから言った通りですよ……」

 

 そう言って、一歩、二歩と扉からロビーの中へと進んでゆく。

 

「真犯人が、わかったんです。……そう。轟木さんは、犯人じゃあない!」

 

 そして小五郎は中央にて佇む刑事と轟木、その手前まで来ると歩みを止めて、そう宣言した。

 その物言いはいかにも自信たっぷりで、そして堂に入っていた。

 

 その姿は言葉に表すなら、そう、まるで小説の中の探偵のようで――。

 だから刑事や周囲の人間もまた、小五郎の放つそのこなれた雰囲気にのまれて、いつのまにか話を聞く姿勢に入っていた。

 

 が、とうの小五郎はそれには気づかず、ただ、熱に浮かされたような感覚のまま行動を続ける。

 

 その熱は、興奮は、つまり言うなれば、ここに至って彼が見出そうとしている「希望」――。

 「真に眠りの小五郎から解放されていることが証明されるかもしれない」というそれと、そして未だ思い出さぬ「探偵への――」……。

 

 ……だが、現在の小五郎はそれらには気が付かない。

 落ち着いている様子を必死に取り繕いながら、頭の裏で、先ほどにたどり着いた己の推理に穴がないかどうか、我武者羅になって検めている。

 精一杯で、気づく暇がない。

 

 それでも事態は進む。

 小五郎の口が、真相を暴き始める。

 虚飾の名探偵として終わった男が、やがて真の名探偵へと至るかもしれぬ新たな道。その岐路で、今、一歩が踏み出される。

 

「では、順を追って事件を整理しましょう――」

 

 

 

             ◆

 

 

 

「まず、わかりやすく時間帯を三つに区切って考えてみます。事件前、事件直前、事件直後、の三つです」

 

 一本ずつ指を立てながら、小五郎は静かに見回す。誰もがその挙動の一つ一つに注目していた。

 小五郎は人知れずひとつ息をのんで、続ける。

 時間を区分したことに、とくに意味はない。ただ、そのほうが整理して説明しやすいような気がしただけだった。

 

「では、一つ目“事件前”の時間。先ほどの事情聴取から得られた情報で話してゆきます。

 このとき、被害者は基本的に事務室にいました。たまに意見を求められて調理場へと顔を出すこともあれば、例の限定商品を購入する客に挨拶するために受付へと出ることもありました。そして三時ごろにはコーヒーを飲んでいる姿を轟木さんが見ています。

 パティシエの轟木さんは、調理場にいた。受付の高城さんは、受付に。そして客であるお二人は、目暮さん、桂川さん、の順で来店した。

 ……なにか食い違いはありますか?」

 

 小五郎は見回す途中でさりげなく顔をちらりと見るが、とくに顔色に変化のある者はいない。

 

(……これと指摘されるまでは黙っているつもりか。まあ、いい)

 

 話を続ける。

 

「次に、二つ目“事件直前”の時間。

 被害者は、事務室で轟木さんの試作品を食べたのちに受付へと出て、目暮さんと桂川さんの対応をします。

 轟木さんは、事務室に試作品を届けたほかには、調理室にずっといました。高城さんは、受付に。目暮さんと桂川さんも同様です。

 そして三つ目“事件直後”では、被害者は目暮さんののち、桂川さんとの対応中に突如として苦しみだし、亡くなります。

 目暮さんは出口へ向かってはいたもののまだ店内におり、桂川さんは被害者の正面に。

 高城さんは受付で被害者のすぐ隣におり、轟木さんは調理場にいた。被害者が倒れたあと、高城さんと聞きつけた轟木さんがそのそばへと駆け寄った……」

 

 ひとつ息をつく。

 穏やかともいえる語調で静かに語っているのは、そうすることで、説明をしながら、同時に自分でも間違いがないか再考をするためである。

 かつては思い浮かんだ案をとりあえず口に出していくだけだったが、こうすることで、途中で粗を直せるという直接的なメリットに加え、自分の考えは間違っていないという自信を固くする精神的なメリットが生まれる。

 今までのように、すぐに矛盾を指し示される、ということも少なくなる。

 

 小五郎がこの方策に気が付いたのは、彼が死んだあの日からほんの一週間も前のことだ。

 そして……これらは、実は自分で考えた方策というわけではない。いや、自分と言えば自分なのだが、実を言うと、「眠りの小五郎」が放映されたニュース番組やなんかの録画を、なんともなしに繰り返し眺めていたときに気が付いたことなのである。

 小五郎は半年ほど経ったころから「眠りの小五郎」の症状の改善はほとんど諦めていたが、それでも時たまに、フっと「何か気づかないだろうか」と思い立つことがあった。そういうときは、ひたすらに「眠りの小五郎」の映像を眺めたりなどしたのだった。

 

 小五郎は人知れず拳を握ると、話を続ける。

 

「さて、その後、試作品のことを黙っていた轟木さんに注目が集まったところで彼の持ち物から毒物が現れた。ですから今、彼は疑われている……」

 

 そこで、ようやく刑事が口を開いた。

 

「そうです。ほら、これ以上もないほどのクロじゃないですか。子供のお遊びもそれくらいにして――」

 

 さえぎるように、小五郎が放つ。

 

「――他にも嘘をついている者が、いたとしたら。どうですか?」

 

 えっ、と誰かが声を漏らした。

 

「嘘ォ?」

 

 刑事が怪訝そうな顔をする。たしかに関係者が勢ぞろいしている中で、ここに至るまで嘘をつき続けられることもそうそうないだろう。

 

「嘘、というよりも……轟木さんと同様に、事実を黙っている、に近いでしょう。そしてそれは、客観的に見て事件とはあまり関係がなさそうなことであるために、ほかの店員やお客の皆さんも、それをわざわざ指摘しようとも思わない」

 

 小五郎は背後を振り返って、

 

「では、少し事務室のほうに行きましょう」

 

 彼が歩き出すと、少しだけ逡巡があったのち、皆もその後を追って事務室へと移動する。

 関係者の全員は入りきらないので、主要な者たちだけが中へと入る。

 小五郎は顔ぶれを確認すると、流しのそばの買い物袋を指し示した。

 

「そこに買い物袋があります。そして結果があるということは原因があり、つまり、本日に買い物をしてきた人間がいるわけですが、買い物をしてきたという供述をなされた方はいませんでした。先ほども、どなたも指摘されませんでした。……おそらく、事件が起こるよりもずっと前の時間帯になされたことだったから。といっても、袋のまま一日中置いておかれることもないでしょうし、おそらくは午後のうち」

 

 言うと、しゃがみ、袋の中身を一つずつ床へ並べる。

 

「そして現在にここへ入っている中身は、見てのように、茶葉、コーヒー豆、煎餅に、砂糖、スポーツ新聞、雑誌、……これらだけです」

 

 立ち上がると、テーブルまで行ってメモ帳を取り上げた。一番上の用紙が鉛筆で黒く塗りつぶされ、筆圧の文字が浮かび上がっている。

 

「ですが、こちらのメモ帳。こちらに浮かび上がっている買い物リストは、コーヒー豆、茶葉、茶請け、薬、新聞、雑誌、砂糖……」

 

 あっ、と誰かが声を漏らした。見れば、英理だ。

 小五郎は刑事に視線を戻し、

 

 

「――そう、薬がない。なくなっている」

 

 

 薬といえば、どんな形式だろうと、つまり“飲み込む”ものである。そして毒殺。

 理解した刑事の表情が、スッと鋭くなる。

 

 と、そこで。

 

 

「――す、すみませんっ!」

 

 

 慌てた様子で声を上げた者があった。

 

 ――高城である。

 

「そ、その、お薬は買い忘れちゃって……! だからっ……あの! か、勘違いさせてしまってすみません……!」

 

 一息にそう言って彼女は頭を下げる。

 その様子を見て、再び小五郎へと目を戻した刑事の顔からは険が消えて、代わりになにか呆れのようなものが浮かんでいた。

 が、小五郎の様子に変わりはない。

 

 彼はじっと高城を見やると、

 

「では、あなたが買い物をされたわけですか……」

 

 問うた。高城も一度顔を上げると、

 

「は、はい、そうです。す、すみません、勘違いさせてしまって……!」

 

 再び頭を下げる。

 

 しかし、小五郎は首を振ると、

 

「いえ、謝る必要はありませんよ――」

 

 学ランの胸ポケットへと手をやって、

 

 

「――勘違いでは、ないですから」

 

 

 丁寧に折りたたまれたハンカチを取り出した。

 そしてそれを開くと、中からは小さな銀紙が出てくる。凹んだ立体的なプラスチックが付いているそれは――見ればわかった。錠剤の包装である。

 

 高城は見るや否や、目を見開いて固まった。

 絶句する彼女を横目に、説明を開始する。

 

「これは、そこのトラッシュボックスに入っていたものです。壁に貼られている“当番表”を見る限りでは、この中身は毎晩に空にされている。……つまり、これは本日に出されたゴミだということ。そして一見ではわかりせんが、よくよく注意して見てみると、これが()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()であることがわかります。

 ……これはつまり、薬の中身が入れ替えられていたということ。この包装から被害者の指紋が出れば、毒殺方法がより明確になるはずです」

 

 そう言うと、小五郎はそばに寄ってきた鑑識に包装を渡した。

 

「そして被害者が薬を飲んだときですが、……おそらくは午後三時ころでしょう。カプセル剤の中身を入れ替えたのだとすれば、おおよそ二、三十分ほどかかるものが多いですし、ちょうどその頃に、被害者がコーヒーを飲んでいるところを轟木さんが見ている。

 しかし、被害者の机のコーヒーカップは内側が濡れてはいるが、コーヒーを飲んだ形跡はない。これはつまり、コーヒーカップを使って薬を水で飲んでいたから……に他なりません」

 

 そしてそこで、今まで黙っていた高城が激昂するように身を上げた。

 

「ちょ、ちょっと待ってください! さっきから、まるで! まるで私が犯人みたいな感じで言っていますけど、しょ、証拠は! 証拠はあるんですか!?」

 

 依然としておどおどしたような挙動は継続していたが、彼女のその目は今までにない鋭い光を帯びていた。

 小五郎はその三白眼でそれを見返しながら、しかし告げる。

 

「あります」

 

「なっ――」

 

 言葉を失う高城を見つめ続けながら、小五郎は言い放つ。

 

 

「――あるはずです。あなたの衣服か、持ち物のどこか。あるいはトイレのタンクの中にでも。隠してあるはずですよ。すべての錠剤の中身が青酸カリへと入れ替えられた、花粉アレルギー対策の薬が、箱ごとね」

 

 

 それを聞くや否や、彼女は膝を崩してうなだれた。

 それはまるでもなにも、――明らかに彼女が罪を認めているようで。

 

 途端、爆発するようにざわめく周囲。

 刑事も唐突な展開に白黒とした目で小五郎と高城とを交互に見ている。

 

 明らかに罪を認めるかのような彼女の態度は、知れず小五郎の心にも活力を与える。

 

(――よかった。やはり、当たっていた……)

 

 彼はひとつ息をつくと、締めを話し出す。

 

「くわしい殺害方法は、おそらくこうでしょう。

 被害者の愛用している薬と同じものを購入し、それの中身をすべて青酸カリへと入れ替えておく。これを常に携帯しておき、被害者の薬がなくなった際にでも『おひとついかが?』とでも差し出せばよい。それがたまたま、今日だった。

 今日、おそらく昼過ぎ辺りにでもあなたは休憩ついでに買い出しを頼まれた。その際に薬を頼まれたことで、決行日を確信したんでしょう。

 そして買い物袋に、何食わぬ顔で毒入りの薬を混ぜておいた。

 三時ごろに、トイレに行くとでも言って受付を離れ、被害者に薬を飲んだかの確認をしてから、自分も飲むとでも言って、薬を回収する。

 ……あるいは、第三者が飲むことを恐れ、買い物袋には混ぜなかったのかもしれない。買い忘れた、と被害者には伝えておき、三時ころに『同僚から借りてきた』とでも言って、錠剤をひとつ渡せば、それでもいい。……これなら、毒入りの薬は常に自身の手の中なので安心できますね。こっちのほうが可能性が高いかもしれません。

 トラッシュボックスの使用済み包装については、さすがに不自然なので回収は後回しにせざるをえなかったんでしょう」

 

 と、小五郎が言葉を切ったところで、うずくまったままの高城が答えた。

 

「……そうよ。後ろのほうの方法で、だいたい合ってるわ。毒入りの薬なら、ほら、ここに……。

 ……ふふっ、それにしても、そうね。トイレのタンクの中に入れておけばよかったのかしらね……水で指紋も消えただろうし……」

 

 彼女は小さく笑みさえ浮かべて、懐から薬のパッケージを取り出した。小ぶりな、薄い箱である。

 

 小五郎が何か答えようとして、しかしその前に刑事が答えた。

 これまで呆然としていた彼だったが、ようやく立ち直ったと見えて、彼女の前へと片足を折ってしゃがむ。

 

「……指紋はですね、水につけた程度では落ちませんよ。……それでは、任意同行、願えますね?」

 

 その言葉に高城を一瞬だけ顔を上げると、また下ろして。

 

「……そう。そうなの……。ええ。いいわ。連行されるわよ。あんなクズ男でも、人間は人間だものね……。――母の、仇だったのよ」

 

 ぽつり、ぽつり、と。高城は静かに動機をこぼした。

 ありふれた――と言っては酷いが、物語としてはよく聞かれる類の不幸話だった。

 そうして話し終えた彼女はどこか鬱蒼とした表情のまま、刑事に立たせられ、連行される――そのとき。

 

 思わぬところからそこに異が唱えられた。

 

「違う――違います。それは……違うんです……」

 

 深く、懺悔するかのような声音でそう彼女を呼び止めたのは、轟木だった。

 彼は、彼も、ぽつり、ぽつり、と己の真実を話す。

 驚いたことにそれは、轟木自身の罪の告白でもあり、殺された蒲生の意外なる善良な一面についてでもあり、そして高城の不幸のもう一つの側面の真実についてでもあった。

 

 聞いた高城は、一筋、二筋と涙をこぼすと、

 

「なにそれ……そんな……そんなのって……」

 

 知りたくなかった真実、もっと早くに知っていたかった真実、やり直せないことをしでかしてしまった事実に、再び崩れ落ちた。

 涙を流す彼女を、両隣の警官が慌てて抱き留め、支えながら外へと歩いてゆく……。

 

 

 

             ◆

 

 

 

 ――そんな光景を、最初から最後まで、ただ、小五郎は眺めていた。

 

 人が死に、真実が暴かれ、あとには悲しみが残った。

 やるせない結末であったが、しかし……――。

 

(――()()()()()

 

 小五郎は、胸の底で思う。

 

(――人が死ぬってェのは、それだけで悲しいモンなんだから)

 

 現在、彼の隣では、刑事が滾々と説教をしていた。

 結果的に良かったものの、やれ事件現場を荒らすな、やれ子供が遊びでやっていいことじゃない、やれ――……。

 

 思い返せば、それらはすべて、生前に小五郎自身がコナンなどの「探偵気取り」たちに口を酸っぱくして言い聞かせていたことでもあった。

 今は己がそれを言われる立場なのか、ということに若干のおかしさも感じないではなかったが、それでも刑事の言い分は十二分に理解できるため、ここは重く反省をするべきところである。

 ――今の己は、子供なんだから。

 

(――殺人事件は、悲しいもんなんだ。ゲームでも、パズルでもねえ。悲しい、本当にやるせない、ないほうがいい代物……)

 

 先ほどまであった、胸の高鳴りや、熱は、気がつけば跡形もなく消え去っていた。

 刑事に説教されながら、小五郎は、ただただ反省をする。

 

 ――しかし。

 

 思い返せば、思い出そうとすれば、あの()はすぐにでも小五郎のなかによみがえるだろう。

 種はすでに蒔かれたのだ。新たな岐路へと進み始めたのだ。

 発芽も、そう遠くない。

 

 なぜなら。

 

 今回の事件で、彼は意識的にせよ無意識的にせよ、知ったのだ。

 

 ――「眠りの小五郎」が、もういない、という。それに。

 

 

 

 そしてそんな小五郎を、少しだけ離れたところから眺める英理もまた、ひとつの岐路を前にしようとしていた。

 

 

 

 




いろいろ矛盾とかあったらごめん。今は眠いので、そしたらまたあとで直します。
なお、言葉遣いのせいか文才のなさのせいか、おっちゃんがあまりおっちゃんぽく感じないかもしれないけれど、そこはどうか大目に見てくださいすみません。


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10.一歩

自分のミスにより、予約投稿日時がずれておりました。
先刻にアクセスしまして、ようやく気付きました次第でございます。
楽しみにしてくださっていた方々には、大変なご迷惑をおかけいたしました。本当に申し訳ございません。
とりいそぎ投稿とさせていただきます。


 

 

 

 

 土曜日の放課後に巻き込まれた事件。それから一日が過ぎて、月曜日。

 カーテンから漏れる朝日を浴びて、妃英理は静かな眠りから目を覚ました。

 

「……ん、ふぁ……」

 

 ゆるゆると起き上がり、小さく伸びをする。目じりに小さく涙が溜まった。

 そのまま、少しだけ布団の上でぼうっとする。

 15歳の彼女は、子供から大人への変遷、そのさなかにあって、少女のあどけなさを残しつつも鋭い美貌の前兆が少しずつ現れ出ている。当たりの強い性格もあって普段はそのうち後者の印象が前へと出ている彼女だが、若干に寝ぼけ眼の現在はそれが鳴りを潜め、代わりに年齢相応の幼さがあった。

 

「……うん」

 

 小さくうなずくと、英理は枕元から眼鏡をとってベッドを降り、自室から出て行った。

 洗面所にて顔を洗い、鏡を見る。

 先ほどまでと一転して、そこには普段の鋭そうな瞳があった。

 完全に目が覚めた彼女は、身だしなみを整えたのち一階へと降りてゆく。

 

「おはよう」

 

 朝食を用意していた母親へと声をかけ、食卓へとつく。壁の時計を仰げば、学校へ行くにしても少しと言わずに早い時間であるが、彼女にとってはこれが日常だった。登校する前に寄る場所があるからだ。

 

 ――そう。隣に住む幼馴染のところに。

 

 そこまで考えたところで、母親がハムエッグとトーストを持ってくる。と、そこで彼女の顔を見て、ふと尋ねた。

 

「あら、どうしたの英理。今日ってなにかあったっけ?」

 

 言われて、伸ばした腕が瞬間だけ固まるも、すぐに何でもないかのような顔をして英理はそのまま皿を受け取った。

 

「別になにもなかったと思うけど。どうして?」

 

 言う彼女に、母親は不思議そうに頬へ手を当てながら、つぶやく。

 

「なんだか、いつにもまして気合が入ってるように見えたから……」

 

 対して英理はトーストにマーガリンを塗りながら、

 

「ふうん。そう?」

 

 すげなく返した。それに母親も、「気のせいだったかな……」とこぼしながらキッチンへと戻っていった。

 そしてその背を横目に、英理は内心でさすがは親だと舌を巻く。

 というよりも自分は、そんなにわかりやすかっただろうか。

 マグカップの水面に映る自分を眺めるも、普段と変わらぬように見えるが。

 自身ではわからずとも、人から見ればわかるものなのかもしれない。

 とすれば、これから会う彼も……。

 

 そんなことをつらつらと考えながら、トーストへとかじりつく。常よりも1.5倍ほどに素早い動作で、若干に急いでいるのだろう様子がはた目にはわかる。

 そう。母親の言ったことは当たっていた。

 英理はこの日、普段よりも何割増しかで気を詰めていた。固めた決意が、彼女の雰囲気を更に鋭くさせている。

 

 事件に遭遇した土曜日から一日。昨日をすべて思考の時間へと割き、考えに考え悩んだ結果。

 彼女は、ある決意をしたのだ。

 

 それらの向かう矛先、否、目標は一人しかいない。

 

 隣に住む、近頃に様子のおかしい幼馴染である。

 

 

 

             ◆

 

 

 

「英理ちゃん来てるよ! さっさと起きな!」

 

 母親のそんな言葉により叩き起こされた小五郎は、用意されていた朝食をかきこむと、そのまませかされるようにして家を出た。

 そして道に出てしばらくしたところで、普段よりも時間が早いということに気が付いた。

 制服を着た者もたまに見かけるが、それらは部活動の朝練へと向かう様子であくせくと去ってゆく。小五郎たちのようにゆったりと歩く者は皆無だった。

 

 ふと、隣を歩く少女を横目に見る。

 黒地のセーラー服を纏い、編み込んだポニーテールをうしろへと流している。広い黒縁の眼鏡をかけた、利発そうな顔つきの少女。

 妃英理。

 隣の家に住む幼馴染で、そして小五郎の認識では未来の己の結婚相手であるが。

 

 そんな彼女は、この日、いつにもまして様子がおかしかった。

 

 今朝に邂逅してから極端に言葉数が少ない。というよりも無言である。

 過去の世界にやってきたという認識の小五郎のほうで対応に悩んだこともあり、彼女も小五郎の変化になにか不審を覚えたようで、ここしばらくはどこか気まずげな雰囲気になってしまっていたわけなのだが。

 それでも毎朝毎夕の登下校は一緒であったし、会話も探り探りではあったものの、普通に交わしていた。

 

 それが、しかし今朝はない。

 

 思えば、そもそも現在に彼らが常より早く出立している事態だって彼女の誘導に違いなかった。小五郎の準備を言葉少なくせかしたのは彼女であるし、逆算すれば彼の家にやってきた時間だって普段よりも早いはずだった。

 小五郎の母親は英理を全面的に信頼しているため、彼女が急ぐならばそれは時間が押しているのだろうと盲目的に疑問を持たなかったし、小五郎自身も外に出るまで気づかなかった。

 

(どうしたんだ、こいつ……)

 

 小五郎がそう疑問をもったところで、唐突に英理が立ち止まった。

 分かれ道である。

 つられて止まり、振り向くと、

 

「……ついてきて」

 

 そんな言葉を静かに残して、彼女は右の道へと進んでいった。

 

「え、あ、おいっ……」

 

 思わず手を伸ばすも空を切る。

 中学校へと続く道は左だった。右の道は、また別の方向である。

 

 数瞬だけ左右の道をきょろきょろとしたのち、小五郎もそのあとを追いかけた。

 幸いにして――というよりかは英理の故意なのだろうが、授業の開始まで時間はまだまだ余っていた。

 何を思っての行動かはわからなかったが、彼女と共に道草をする程度の時間は十分にあった。

 

 

 

 

 英理に連れられてきた場所は、河川敷だった。

 比較的に近所の、堤無津川支流の畔である。ここからならば学校までもそこまで遠いわけではなかった。

 まだ朝早いうえに、広いわけでもないそこには現在、全く人気がない。

 向こう岸の土手を、犬を散歩しながらジョギングしている人が一人過ぎてゆくが、それだけである。

 

 英理はあまり高くない土手を登りきると、その向こう側の斜面へと腰を下ろした。

 少し前の分かれ道においてついてこいと言ったあれきり、ずっと黙り込んだままである。

 

 小五郎も少しだけ逡巡したのち、同じようにしてその隣へと座り込む。

 とはいえ二人の間には、人ひとり分ほどの間があった。

 

 そのまましばらく、沈黙が続いた。

 道中と同じで英理に口を開く気配はない。

 その顔を横目で見ても、小五郎には彼女が何を考えているのかまったくわからなかった。

 

(なんだって、こんなところに……)

 

 困惑するばかりの小五郎がそんなことを思ったところで、ぽつり、とようやく英理が言葉をこぼした。

 

「……失敗したわ」

 

 彼がそちらを向けば、彼女はいたって真面目そうな顔で小さく続ける。

 

「朝露でスカートが濡れちゃった……」

 

 小五郎は反応に困った。

 そのまま黙っていると、英理は間をおいて今度こそ話を始めた。

 小五郎は彼女を横目で眺めていたが、彼女は終始してずっと川面かなにかを見つめたまま目をそらさなかった。

 

「……ねえ、覚えてる? 子供のころ、ここで遊んだこと」

 

 唐突な問いかけに、困惑しっぱなしの小五郎も小さくうなずく。

 

「あ、ああ……」

 

 彼の視線も、斜面の下の河川敷へと流れる。大人が一人寝そべることができる程度の幅のそこは、けして広い場所ではない。が、それでも体の小さな子供にとっては不自由なく遊べる程度には広かったことを覚えている。

 

「……落としたボールを追いかけて、あんたが川に落ちたこともあったわね……」

 

 そんなことも、あっただろうか。考えると同時にふと思い浮かび、ああ、あったな……と小五郎もうなずいた。

 その反応を待つかのように少しだけ間をおいてから、英理は、

 

「ねえ、……」

 

 静かに本題を切り込んだ。

 

 

「――あんた、最近変わったわよね」

 

 

 ……どきり、と小五郎の体が固まった。

 ここまで考えなかったわけではなかった。いや、考えないようにしていた。……やはり、今日のこれはそれについての話なのか――。

 知らず知らずに彼の息は止まっていた。思考がまとまらない。

 

「なにか、悩んでるでしょ。それで――」

 

 ふと視線を感じて思わず横を向けば、英理が彼の顔を凝視していた。

 二人の視線がかち合う。

 

「それで、なんでか私を避けてる」

 

 ざあ、と二人の間を微かな風が通り過ぎた。堤防の草がさあさあと揺れ、どこからか鳥の鳴き声が聞こえたが、しかし二人は固まったように微動だにしなかった。

 揺れる小五郎の瞳と、強い意志の籠った英理の瞳が、合わさったまま動かない。

 ……動かせなかった。

 

「そ、れは……」

 

 震えるようにして、小五郎の喉奥から声が漏れる。

 が、そこから先は続かない。

 つい先日に、同じような状況で友人(瑠璃)は言った。

 

 自分が自分であることに変わりはない。

 

 ……その言葉は、たしかに悩み続けていた小五郎の心を救った。

 しかし、当の本人に面と向かって詰め寄られてもなお、心を揺らさずにいられるかといえば、その限りではなかった。

 

 小五郎の脳裏に、すでに克服したと思っていた妄想染みた懸念が再び浮かび上がる。

 過去の、この時代の当時の己はどうなったのか。それをもしも彼女に知られた場合はどうなってしまうのか。

 

 ――やはり、すべてが過去のこの世界において、自分は異物でしかないのか。

 

 そんな様々な思いや考えが混沌となって頭の中を駆け巡る。

 あまりの動揺からか、いつの間にか息は浅く多く繰り返していて、視界は揺れ始めた。

 それでも外せない視線の向こう、確固とした意志で外さない少女の瞳が、まるで己を糾弾するものであるかのようにさえ思え始めてくる。

 

「……それ、は……」

 

 震える声。揺れる視界。乾いた喉。少女の瞳。

 吐き気さえ覚えて、視界が、思考のすべてが、黒く塗りつぶされようかというそのとき――

 

 

「――……てよ」

 

 

 少女が小さくつぶやいた。

 そしてその言葉が耳に入って、理解して、そして……小五郎もまた声を漏らす。

 

「……ぇ?」

 

 気づけば目の前の少女の目じりには小さな涙が溜まっていて。

 彼女は再び繰り返した。

 

 

「――相談してよっ!!」

 

 

 先ほどよりも大きな声だった。感情の発露された、そんな声。

 さっきまで抑圧した淡々とした静かな語りであったために、それだけその言葉に込められた思いがよく伝わった。

 

 心配。不安。寂寥。

 それらの思いが、耳を、目を、すべてを通して小五郎の心へとダイレクトに伝わった。

 

「幼馴染でしょ!? 相談しなさいよっ!! そんな、辛そうに、なんで溜め込むの!? なんで! なんで私を避けてるの……」

 

 そう言って、彼女は――少女は――英理は、強い瞳で小五郎をにらみつける。

 口を固く閉ざし、目元に溜まる涙は今にも決壊しそうで。

 

 そして。

 気づいたとき、小五郎の震えは止まっていた。薄暗いなにかで覆われそうになっていた視界が、思考が、綺麗にまっさらな状態へ回復していた。

 先ほどに彼女の呟きを聞いてからずっと、唖然としたような顔で固まっている。

 

 同時に。

 

(――……ああ、そうか)

 

 ようやく、理解した。

 なぜ、自分がこの少女にずっと居心地の悪さを覚えていたのか。

 なぜ、手探り染みた対応しかできていなかったのか。

 

 ――つまりは、己のほうだったのだ。

 

 この過去の世界に来て以降(まだ数日しか経っていないが、とりあえずのここしばらく)、状況を受容しようとしながらも己が感じていた違和、そのすべて。

 小五郎は、自身(の精神)以外のすべてが過去に囲まれたこの世界を前にして、自分が異物であると思われている……そのような感覚を覚えていた。

 

 しかし、逆だったのだ。

 

 異物だと思っていたのは自分のほうで、小五郎は、己を包むこの世界のほうをこそ異物を見る目だったのである。

 

 その最たる例が妃英理といってよかった。

 

 生前において最も彼の心の根幹に関わっていた女性。その、過去の姿。

 それを前にして、身近で重要な存在だったからこそ、彼は、小五郎は無意識に差別化して捉えてしまっていたのだ。

 自分にとっての英理、つまるところの「未来の英理」と、目の前にしている「少女時代の英理」とを。

 ……もちろん、思考する意識的な理性のうえでは両者を同一人物だと思っていたし、そう扱っていた。が、しかし、無意識的な深層の部分では、両者を別けて扱っていたのである。

 

 先ほどの、己の心中を吐露する英理。

 強い瞳でにらみつけながら涙をためる彼女のその姿に、目の前にする少女の姿と慣れ親しんだ大人の姿とが小五郎の中で()()重なり、そこで初めてこの事実に気が付いた。

 同時、ようやく彼のなかで両者が完全に同一存在の認識と化したことを自覚する。

 

 だから。

 

 

「……わりィ」

 

 

 目の前の少女の、愛する人の濡れた瞳を、今度こそ確りと定まった瞳で見つめて、そう謝った。

 

(――まったく。バカだな、俺……本当に……)

 

 胸の内で小さく自嘲する。

 思わず手を伸ばし、彼女の涙を拭おうと頬に触れるも、すぐ様に払いのけられた。

 

「な、なに、すんのよっ……」

 

 英理はそう言って、ようやく小五郎から目をそらした。そっぽを向き、顔を袖で拭う。

 

 その様子を見て、と、そこで唐突に目に入ったまぶしさに小五郎は瞳を細めた。

 見れば、陽光が川面に反射してチカチカと輝いている。――さあ、と吹き上がった風が、辺りから青草の香りを漂わせた。

 

 小五郎はふと思う。

 

(……ああ、()()()()

 

 もちろん、数日前に目覚めてからのこちら、なおも死んでいると思っていたわけではない。なぜか生き返っている、過去にいる、とそう思っていた。

 

 しかし、自分のほうこそが周囲を異物だと思っていた、ということに気づき。そして世界を真に受け入れた現在。

 

 これまで、どこか遠く()()()感じられていた世界のすべてが。急激に色づいて輝いて見えて。

 

 ()()()()

 己は今、()()()()()生きている。

 

 そんな実感が、ようやくにして湧き始めたのだった。

 

「――ねえ」

 

 不機嫌そうな声に振り向けば、ぶすっとした表情の英理がこちらをにらんでいた。目元の涙はきれいさっぱりと消えている。

 

「それで、相談はしてくれないの?」

 

 その瞳は、不機嫌そうながらも、どこかすっきりとした色を湛えていた。

 それは溜め込んでいた不安を吐き出すことが出来たからか、それとも小五郎の表情が何かを溜め込んでいる辛そうなものから、同じく荷を下ろしたかのようなすっきりとしたものへと変化していることに気づいたからか。

 

 どちらにしても。彼女はここ数日の不安ばかりの関係から、ようやく以前の関係に戻ることができると、そう直感しているようだった。

 

 そしてそれは小五郎も同じで。

 

「――ホントわりぃな。もう、解決した」

 

 そう言って笑った。

 

 

 

             ◆

 

 

 

 その後になんやかんやとぽつりぽつりと言い合ってから。

 普段よりも遅い時間に、二人は学校へとたどり着いた。

 遅い登校とはいえど、それは普段と比べて、という意味であって、べつに遅刻というわけではない。

 

 学校の廊下。隣を歩く英理をちらりと横目に見て、ふと、これから先に自分さえ気を付けていけば、生前のような喧嘩をこじらせ別居などという結末を避けられるのではないか、などと小五郎は思いつく。

 最近の英理との関係の気まずいあれそれの問題が、結局のところ自分の側にしか原因がなかったことがそのような思考をたたき出したのかもしれなかった。

 そして、それらがつい先ほどに解消されたという開放感からか、ならば折角であるし、できるだけ気を付けていこう……などとさえ素直に思うのだった。

 

 そんなこんなで自分たちの教室へとたどり着いたところで、小五郎はその中がいやに騒がしいことに気が付いた。

 英理と、互いに顔を見合わせる。

 

「なんだこれ」

「さあ?」

 

 すっかり元通りの――記憶の中の「このころの自分たち」の関係へと戻っていた二人は、そんなやり取りを短くした後、ガラガラと扉を開けた。

 

 そこで目に入ったものは、一人の女生徒に群がるクラスメイト達、という光景だった。

 男女関係なく、一人を囲んでぎゃあぎゃあ、わあわあ、と騒いでいる。

 いじめだとかそういう嫌な雰囲気、というわけではない。

 どちらかといえば、人気者を囲んでのお祭り騒ぎ――そんな系統のものだった。

 

 再び顔を合わせたのち、小五郎と英理は口々に挨拶しながら教室へと踏み入った。朝のHRまで時間もなかったし、入らないわけにはいかなかった。

 とりあえず自分の席へと荷物を置いた小五郎は、そこらのクラスメイトへと事情を尋ねようかと考える。

 

 と、そこで。

 

 

「――あ、小五郎ちゃんに英理ちゃん!」

 

 

 よく聞きなれた声が響いたかと思うと、教室に生まれていた人垣が割れた。

 

 そしてその中央から歩み寄ってくるのは、一人の少女。

 うしろでひとつにまとめた黒髪を揺らし、片手をぶんぶんと振りながら来るのは、見間違いようがなかった。

 瑠璃だった。

 土井垣瑠璃。小五郎と英理の友人で、牛乳瓶の底のような厚さの眼鏡をかけていた少女。

 

 しかし現在、彼女の顔にはそんな眼鏡はなくて。

 

「えっへへー! どう!? 昨日、コンタクトレンズを買ってきたの!」

 

 小五郎の記憶のなかでは近い将来に「癒し系女優ナンバーワン」と称されることになる女優・雨城瑠璃の美貌、その片鱗がそこには晒されていた。

 

「え、瑠璃ちゃん!?」

 

 そばの席から慌ててやってきた英理が、彼女を見るなり、「きゃあ! すごい綺麗!」だの「ありがとー!」だのと二人して盛り上がり出す。

 

 その様子を見て、小五郎が「あれ? 瑠璃っぺって中学のときにコンタクトなんてしてたか……?」と内心で首を傾げていると。

 

「どうどう!? 小五郎ちゃん!」

 

 英理とひとしきり騒ぎ終わった瑠璃が、ずいっと彼のほうへと顔を寄せていた。

 

「あ、ああ……やっぱり眼鏡ないほうが綺麗だな」

 

 びくりと驚きながらもそうこぼせば。

 

「ありがとー!!」

 

 そう叫んだ瑠璃によってそのまま勢いで抱擁された。

 

「うおっ!?」

 

 途端、彼の体に密着する何かの感触。

 思わずそれに意識を取られ口元が緩み――、と、そこで唐突に背筋に寒気が走る。

 

 見れば、そんな小五郎に非常に冷たい視線を送る人間が一人。

 

「――ふん」

 

 そう言って、自分の席へと踵を返すのは妃英理。

 

「……あ」

 

 喧嘩しないと決心したしょっぱなから、小五郎は何かを思い切り間違った気がした。

 

 

 

 



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11.駘蕩

先週は結局更新できないままで、本当にすみませんでした。
完結まで頑張るので、どうか許してください。(土下座
それから最近はまた忙しくなってきたので、もしやすればこれからもたまに休むかもしれませんが、どうか気長にお付き合いいただけましたら幸いです。


 

 

 

 

 黒っぽい制服を着た少年少女が、うじゃうじゃと集まり、騒めいていた。校舎から校門へとつづく広めの空間が、今やそれらで溢れ返らんばかりである。

 そんな喧騒から一歩引いたところで、小五郎はひとりヌボーっと突っ立っていた。

 昇降口から少しだけ離れた、道の端。花壇の横で、少年たちの騒めきを眺める。

 ザア――と風が吹き、視界一杯に桜色の花弁が舞った。

 

 春だった。

 

 何の因果か小五郎が過去にやってきてから、一か月と少しが経つ。3月になった。

 1989年3月14日。

 辺りに広がる光景を形成する子らと同じく、学ランを着た小五郎の胸には造花の飾りが付けられている。

 この日、小五郎を含めた彼らは中学校を卒業した。

 

 ぼうっとした顔つきのまま、小五郎は周囲を眺め続ける。

 目に入る同級生たちは、その多くがはしゃいでいた。なかには涙を流す子もいる。

 皆が皆、なにかしらその心を震わせていた。

 

 ――しかしその一方で、まったくとして感慨を得られない自分のような者がいる。

 

 当たり前と言えば、当たり前ではあった。

 この過去の世界にやってきて、小五郎はまだ一か月ほどしか過ごしていないのである。なにか感動をしろ……というほうが少しばかり無茶であった。

 けれども、周囲はそんなことを知りえない。だからそんななかにあって、ひとりだけ何も思わない自分が多少と言わずに場違いなような、申し訳ないような、そんな座りの悪い心地になることは当然で――。

 

 クラスメイトや柔道部の部員たち(ほとんどうろ覚えだった)と挨拶なんかを済ませた後、小五郎はさっさとひとり、隅の木陰へと退避した。

 とっとと帰宅をしないのは偏に待ち人がいるからである。

 今もどこかで周囲と同様に挨拶回りをしているだろう、幼馴染の少女。小五郎の認識のなかでは過去(ここでは未来)に結婚をした相手であり、はっきりとした態度には出さないものの今なお胸の内で愛している女性である。

 

 互いの親は式が終了し存分に息子と娘の写真を撮影すると、遅くならないようにとだけ言い残して、連れ立って帰ってしまった。その際に親から言いつけられたこともあり、また習慣でもあったため、小五郎は英理と共に帰らねばならないのである。

 

 少年たちから視線を上げて、小五郎は空を仰いだ。

 蒼穹が、どこまでも高く続いている。

 理性的に考えれば不思議でもなんでもないことなのだが、この空が、23年後の物とまったくとして変わらないことが、なんだかとても奇妙に思えて、同時に自身が最近まで過ごしていた23年後と繋がりがあるとでも感じるのか、懐かしさのようなものさえ覚えて。小五郎は、なんだか空を眺めることが多くなっていた。

 

 再び、風。小五郎の頭上で枝葉がしなり、桜が花を散らす。

 強風と桜吹雪に、そこらで少女の嬌声とも悲鳴ともつかぬきゃあ、という声が上がった。

 

 スカートでも捲れたかな、と頭のすみでぼんやりと思う。小五郎は我関せずと、不細工な鳥に見えぬこともない雲を眺め続けた。大学生くらいならいざ知れず、中学生程度では色気を感じたりはしなかった。

 ……ただしかし、そんななかにあっても一人だけ例外が存在してはいるのだが、小五郎はまだそれを自覚していない。

 

 と、まあ、そのようにして呆けていると、やがて、ようやく待ち人が現れた。

 彼女たちは息を殺して背後に寄ると、唐突にその背を勢い押した。

 

「――どわぁっ!?」

 

 短く悲鳴を上げてたたらを踏む。

 小五郎が振り向けば、悪戯気な微笑を湛えた二人の少女。

 

「なあに一人で突っ立てるのよ」

 

 呆れたように息をつくも、口の端は笑んでいる英理に、

 

「えへへー、ドッキリ成功!」

 

 快活に満面で笑う瑠璃。

 待ち人と、友人だった。

 

 過去へやってきたばかりの当初はどこかすれ違ってしまっていた英理も、あの河川敷で話した朝から少しずつもとの記憶と変わらぬ関係へと戻っていった。つい最近まで接していた認識の「大人の英理」と、この時代の「少女の英理」とが同一人物だと小五郎のなかで気持ちに整理がついたことが大きかった。

 今では共にいても以前のような居心地の悪さは感じない。

 

 一方、同じくその朝から眼鏡をはずしコンタクトレンズにデビューした瑠璃はというと、やたらともてはやされることが多くなったようである。小五郎としては未来の女優としての姿を知っていたこともあり、眼鏡があってもなくても美人だという感想には変わりがなかったが、やはり初見である周囲には相当な変化に映ったのだろうか。

 そしてそんな彼女は、どういうわけだかその朝を起点として、より一層にスキンシップが激しくなったような気がする。

 

 幼稚園から親友である英理と異なってまともに話すようになったのは小学校からであるとはいえ、一応は小五郎も瑠璃の幼馴染の範疇である。

 高校は互いに違うわけで、事実として前回の人生では中学校を卒業してからあのドラマ撮影で再会するまで、小五郎は瑠璃とは全く接点を持つことがなかった。ので、友人と別れるのはやはり寂しいのだろうか、などと思う傍らで、なぜかそのたびに英理が冷たい視線を向けてくるためやめて貰えないかなあ、とも思っている。

 ……まあ、それでも少女とはいえ異性に触れられて悪い気はしないため、実際に口には出していない。それが余計に英理に見とがめられている点については、彼は気づいていなかった。

 

「ったく、んだよ。いてェなあ……」

 

 実際はたいして痛くはなかったが、ポーズとして背中をさすりながら小五郎は向き直る。

 ぼやく彼に、彼女たちは楽しそうに笑って返した。

 

「ところで小五郎ちゃん」

 

 女同士ひとしきり笑い合ったのち、どこか改まった様子で瑠璃がそう切り出した。

 

「あン?」

 

 ガラの悪い返答をした小五郎に、彼女は「ん」と言って片手を突き出した。

 掌を上にして、まるでなにかをねだるかのような格好である。

 

「なんだよ?」

 

 本気で意味がわからず、首をかしげる小五郎。視線を英理に向けるも、彼女もまたこの友人の突然の行動に理解が追い付いていない様子だった。

 数秒置いて、瑠璃へと問う。

 

「……金なんて借りてたっけか?」

 

 語尾が自信なさげになってしまったのは、中学時代のことなどほとんど覚えていないからであった。もしかしたら、先月以前の自分が借りっぱなしにしていた可能性もある。

 

「ちがうよっ!」

 

 聞いた瑠璃は可愛らしい声音で否定すると、

 

「ホワイトデー! お返し!」

 

 と、続けた。

 そこまで聞いて、彼女の隣の英理もようやく得心したかのような顔をする。そして、「私も貰ってない……」とつぶやいた。

 

「ホワイトデーだぁ?」

 

 対して、未知の言葉を聞いたかのような反応は小五郎である。

 しかし、なんだそれは――と続けようとしたところで、頭のすみでそういえばそんなのがあったっけなあ……とうっすら思い出した。

 

 思い返すのは先月の2月14日。

 登校した小五郎に、瑠璃が「はい」と言って小さな包みを手渡した。

 

『なんだこれ?』

 

 と問うた小五郎に、彼女は

 

『バレンタインデーのチョコ! 今までは渡してなかったけど、今年は最後だし、せっかくだから! お返し、期待してるからね!』

 

 そう朗らかに言い切ると、自分の席へと戻っていった。その一部始終を小五郎の隣で驚愕の顔で見ていた英理もまた、放課後の夕方に唐突に部屋を訪ねてきたかと思えば、

 

『これあげるわ。お返しも期待してるから』

 

 とだけ言って同じような包みを置いていった。

 瑠璃から渡された包みの中身はチョコトリュフで、手作りのようだった。

 英理から渡されたほうの中身はチョコクッキーで、同じく手作りのようだった。

 瑠璃のほうは嬉々として、英理のほうは戦々恐々としながら食したことを覚えている。前者は普通に美味く、後者は幸いとして焦げ臭いだけであった。

 

 思えばこのとき、両者ともにしっかりと「お返し」について言及していた。

 そして夕飯時に、そういえば母親が「ホワイトデー用意しなさいよ」とも言っていたことを思い出した。

 

 背中に冷や汗が浮き出る。……完全に失念していた。

 用意など何もしていない。

 

「……あ、あーっと……」

 

 頬を掻きながら視線を明後日の方向へと向けた。誤魔化すように空笑いする。

 その様子をジト目で眺めるは瑠璃と英理。

 手を突き出していた少女は、はあっとこれ見よがしに息を吐いた。

 

「まったく、しょうがないなあ」

 

 そう言いながら、ちらりと隣の親友を見やる。同じように呆れた顔をしていた英理は、それに「ん?」と不思議そうにするも、彼女が問うよりも先に瑠璃は視線を戻す。

 そして、

 

「じゃあ、代わりにこれを貰うね!」

 

 そう言うや否や、やけに俊敏な動作で小五郎の胸元に掴みかかった。

 

「お、おい!?」

 

 小五郎は驚き慌てるが、彼が引き離すよりも先に彼女はすぐに飛び離れる。そうして、満面の笑みで何かを掲げた。

 鈍く金色に輝くそれ。

 丸く、小さなそれは小五郎の制服のボタンであった。

 慌てて見やれば、彼の学ランは上から二番目のボタンだけが無くなっている。「あっ……」と小さく英理が零した。

 

「お返し、ありがとう! 違う高校だけど、これからもヨロシク! 英理ちゃんも、またね!」

 

 溢れんばかりに笑んでそう言い放つと、瑠璃は校門の方向へと踵を返して駆け出し――卒業生で溢れる雑踏のなかへとあっという間に紛れ込んで見えなくなった。

 

「……なんだったんだ、ありゃ」

 

 小さくぼやきながらそれを見送って、振り返ったところで小五郎は思わずぎょっとした。

 

「…………」

 

 無言だが明らかに不機嫌そうな英理が、後には残されていたのである。

 

 

 

             ◆

 

 

 

「なあ、オマエ何を怒ってんだよ」

 

「…………」

 

「いい加減、機嫌直せって」

 

「…………」

 

 帰り道。小五郎と英理は二人連れ立って帰路についていたが、しかしあの後から英理は一向に喋ろうとしなかった。ツンとした固い表情のまま、隣の男に目もくれずひたすら前だけを見て歩き続けている。

 ハア、と息をつき、小五郎も前へと視線を戻した。なにがなんだか、わけがわからない。

 

(……ったく、ホントなんだってんだよ)

 

 胸の内で愚痴をこぼす。すると突然、横から声が。

 

「――ねえ」

 

 あまりのタイミングに瞬間びくっとして、それから取り繕ったように聞き返す。

 

「な、なんだ?」

 

 ようやく口を開いた少女は、しかしすぐには続けずに小さく口を開け閉めする。そうしてから、どこかかすれた声で、

 

「……あんた、瑠璃ちゃんになんかした?」

 

 そう問うた。

 だがそれに小五郎は「はあ?」と素っ頓狂な声を上げる。

 

「なんもしてねえよ」

 

「……ほんと?」

 

「ホント、ホント」

 

 疑り深げに聞き返す英理に、再度否定する小五郎。そんな彼の様子を注意深く横目で見てから、彼女は小さく息を吐いた。

 眉を寄せ、物憂げな顔でつぶやく。

 

「……どうなってるのかしら」

 

「そりゃこっちのセリフだ……」

 

 疲れたように肩を落とす小五郎。しかし何はともあれ、幼馴染の不機嫌が少しずつやわらぎ始めたことに安堵する。

 とはいえ未だ快調には遠いわけだが……。と、そう考えたところである店が彼の目の端に留まった。

 

(あれは――)

 

 瞬間、小五郎は半分うつむいたままでブツブツと何やら言っている隣に、

 

「ちょっと待ってろ!」

 

 そう叫んで、駆け出した。

 

「え、なにっ……」

 

 背後で英理の戸惑った声が残った。

 

 

 

 

 用事を終えて戻れば、そこには先にも増して不機嫌そうな様子の英理がいた。

 

「なんなのよ、いったい――」

 

 そう憤る少女の鼻先に、「ほら」と小五郎は包みを差し出した。

 

「……なにこれ?」

 

 キョトンとして紙袋を見やる彼女に、小五郎は話す。

 

「買ってきた。お返しだ……。――今日はホワイトデー、なんだろ?」

 

 若干に視線をそらしての発言である。

 小五郎としては、これで少しでも機嫌が直れば……という心づもりであったが。

 

「……え? あ、うん……」

 

 いやに静かになった英理は、数秒ののちにそっと包みを受け取って。

 

「……見てもいい?」

 

「勝手にしろ」

 

 開封したと途端に「わあっ」と小さく歓声を上げた。

 

「これ、ジゴバのチョコレートじゃない!?」

 

 興奮する彼女に、何の気もなく「好きだったろ」と返すと。

 

「え、なんで知ってるの!?」

 

 声が一段高くなった。逸らしていた視線を戻せば、少女はきらきらと輝く瞳で包みの中をのぞき込んでいる。

 

(やれやれ、やっとか)

 

 自然、小さく息をつく。小五郎は首の裏を掻くと、

 

「ああ……、ま、とりあえず帰ろうぜ」

 

 そう促して、そのまま歩き出した。

 その背を、紙袋から顔を上げた英理が眺める。

 そして再びうつむいて、

 

 

「――……そっか。知ってるんだ」

 

 

 小さく、ぽつりとつぶやいた。その口元は穏やかに笑んでいて。

 

「……待ちなさいよ!」

 

 三度(みたび)顔を上げたときには、声は明るく弾んでいた。

 

 なんだか遠く感じ始めていた、しかし自分のことをきちんと知っていた幼馴染を追いかけて、少女は軽やかに路を駆け抜ける。

 アスファルトの裂け目から顔を出していた蒲公英が、春風のなか小さく揺れていた。

 

 

 

 




ところで新刊買いました。(本誌読まない派
ちっちゃな真純ちゃん可愛いなあって思っていたら、それ以上にショタ新一が可愛かった件。
……ん? ショタ新一って、それつまりコナ(ry


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12.Call Of Fatal

2017/04/24 20:17
後ろに少しだけ書き足しました。


 

 

 

 

 3月も後ろとなり、27日の月曜日。卒業式から一週間と少しが経った。

 春休みであることをいいことに、小五郎は昼間から自室でだらけていた。二つ折りにした座布団を枕に、寝転がる彼が両手で広げるものは漫画雑誌。そのそばに平積みされているものもまた、漫画本ばかりであった。

 どれもが、自身が過去に集めていたものである。小五郎の感覚ではそれらを読まなくなって久しいため、随分と懐かしい気分に浸っていた。

 

「……ふあぁっ」

 

 あくびをしながら、ページを捲った。

 

 ――長期休暇に昼間から寝転がり、ひたすらだらけて過ごす。これぞ学生というものだ。素晴らしきかな、学生時代。

 

 そんなことをふと思う。日の高いうちからだらけていても過ごして行ける……文句も言われない……というものは、久しぶりに経験してみるとなんとも言い表せぬ幸福であった。

 学生……というより、子供であることの特権である。

 

 ただ辛いかな、ゆえに酒と煙草は出来ない。それだけが心残りではあるが、それでも漫画をダラダラ眺めながら寝転がって過ごす。これだけでも随分と贅沢な休日である。

 生前においても仕事依頼のない日などは飲酒してだらけて過ごしていたものだが、現在の状況はあの頃とは異なり、ストレスや悩みもなければ、自身の肩に生活もかかっていない。

 これほど気楽なことはなかった。

 

 また当初は気を張り詰めていたところのあった小五郎も、だいぶこの過去の世界に馴染み始めていた。なにしろ一か月以上も経っている。

 おとなしくなっただの、大人っぽくなっただのと周囲に噂された小五郎だったが、このようにだらけ始めてからは実は「あ、やっぱり変わってねえ」と思われていたりする。

 

「……しっかし、さすがに飽きてきたなあ」

 

 ぼそりとつぶやく。そうして起き上がり、漫画雑誌を脇に置いた。

 伸びをすれば、ボキボキと背中が鳴った。

 

「んー、どうすっか……」

 

 首の後ろを揉みながら一人ごちる。せめて競馬やパチンコでも出来れば気がまぎれるのだが、あいにくとそれらにつぎ込めるほど手持ちに金がない。そのうえで、時折に忘れかけるが現在の自分はまだ15歳なのである。

 まず入店を拒否されるだろう。

 

 こうしてなってみると、自分は存外に無趣味……いや、ろくな趣味がなかったのだと気が付かされる。

 生前は成人していたので、酒や煙草やギャンブルが趣味と言えば趣味だった。……しかしそこからいざ未成年に戻ってみると、もしかしなくても暇を持て余す。

 実際にこの年頃のときは、いったい何をして過ごしていたのだっけ……と頭をひねるが、どうにもこうにもよく思い出せない。学校があった時期には部活三昧だったことは覚えているも、なにもない休日のときはどうしていたか。

 まさか、現状と同じようにひたすら暇だ暇だとだらけていたわけではあるまいが……。

 

 そうして小五郎が一人腕を組んでいると、部屋の外、廊下の向こうの階段がキシキシと小さく鳴っていることに気が付いた。その誰かは二階へと昇りきると、そこから数歩も歩かない位置にある小五郎の部屋の襖を、唐突に勢い開けた。

 そして、

 

「出かけるわよ」

 

 そう言い放つのは、生まれついての柔らかな栗毛を短めのポニーテールにした、幼さの残る少女だった。黒縁の大きな眼鏡の向こうで勝気な瞳が輝いている。

 てっきり母親あたりだろうと思っていた小五郎は、その突然の来訪者に目をぱちくりとさせながら呆けてしまう。

 

「……は?」

 

 かろうじて出したそれに、少女――英理は、腰に手を当てて話し始めた。

 

「ほら、入学式までもうあと二週間もないでしょ。文房具とか、色々と入用なものを買いに行くわよ」

 

 そして、「さっ、早く準備するっ」と急かし始める。

 小五郎は再度「……は?」と声を上げそうになるが、なんとか寸前で踏みとどまった。改めて幼馴染の様子を見るも、すでに彼女は出かける準備が万端なようで。

 

(……ま、暇だったしな)

 

 知れず息をひとつ吐いて。

 

「わあったよ……」

 

 そう返しながら、のっそりと立ち上がった。

 

 

 

 

 

「……で? どこ向かってんだ」

 

 毛利家から連れ立って出立し、十数分ののち。住宅地の道路を並んで歩きながら、ふと今更のごとく小五郎はそう問いかけた。

 隣を歩む少女はそれに瞬間だけ呆れたような顔をするも、間をおかず丁寧に返答する。

 

「杯戸モールに行くつもり。あそこなら、大抵のものは揃うでしょ? 遅くなったら、ついでに夕飯も食べていけるし」

 

 ちなみ、現在は昼下がり。時刻はおおよそ午後三時過ぎくらいだろうか。

 なお杯戸モールというのは、隣の杯戸町に最近になって出来たという大型のショッピングモールである。様々な種類のテナントが数多く入っているという。

 

「ほおん」

 

 気のなさそうな相槌を打ち、と、そこで目の端に揺れるポニーテールがふと映る。

 ここに至って、そういえば髪型が変わっているな……と気が付いた。

 つい先日まではポニーテールはポニーテールでも、三つ編みに編み込んでいたそれが、現在はふわふわと柔らかげに垂れている。

 

(そういりゃあ、高校からまた髪型変えたんだっけか……?)

 

 歩きながら、ぼんやりとそんなことを思い出す。

 この現在の髪型は、やがて結婚して別居する頃まで続いていたはずだ。ちなみ、中学に上がった際にも英理は髪型を変えている。小学校時代はたしか短めのツインテールだった。

 

 じっと見ていたからか、気づけば彼女がこちらを胡乱げに見返していた。

 

「なによ」

 

 言う彼女に、

 

「いや……」と咄嗟に目をそらしながら言葉を濁して、と、そこでふと思いなおす。目を明後日に向けたまま、続けて言い直した。

 

「まあ、その髪型も、似合ってると思ってな」

 

 言って、数秒してから、反応が返ってこないことに不審に思って目を戻せば、英理もまたなぜか反対の方向を向いていた。

 

「……どうした?」

 

「……いえ。なんでもないわ。その、……ありがとう」

 

 彼女がそうぽそりとつぶやいたところで、二人は大通りそばのバス停へとたどり着いた。

 そのままなんとなく二人とも無言のまま、待つ人の列へとつく。小五郎はぽりぽりと指で頬を掻きながら、うーむ、と小さくうなり。

 

(……あ、そうだ。運転免許はなるべく早めに取らなきゃな)

 

 どこか上ずった思考で、なぜだか逃避気味にそんなことを唐突に思った。

 

 

 

             ◆

 

 

 

 三十数分ほど揺られて、バスを降りた。近辺に杯戸駅もある杯戸町の中心街なだけはあって、随分と人が多かった。

 

「ん、んぅ……」

 

 声を漏らしながら、小五郎はぽきぽきと背中をそらす。

 その様子を隣で見て、英理は小さく眉を寄せながら、

 

「……なんだか親父臭いわね」

 

 つぶやいた。それに一瞬ぎくりとしながらも、小五郎は努めて素知らぬ顔で辺りを見渡す。この近辺もまた、懐かしい光景である。

 前回に杯戸町まで来た際には、こんな中心までは訪れなかった。手前の駅前通りで事件に遭遇したということもある。

 

「さ、行きましょ」

 

 先頭を切った英理に続いて、小五郎もバス停から歩き出す。大通りに沿ってしばらくも行かないうちに、目の前に大型のショッピングモールが姿を現した。

 その威容はこの時代にあって最先端を行こうとする気概が感じられ、モールの前には巨大駐車場が整備されている。2000年代以降はけして珍しいわけでもない形式の店舗であるが、この時代においては非常に新しい形である。

 ただ、同時に古くから続く個人経営店や中小規模の商店街が煽りを受けてシャッター商店街となる問題などが、これから先に次第に現れてくるのだろう……と、小五郎は胸の内だけでつぶやいた。

 

 生前に見かけるショッピングモールなどは広大な駐車場の真ん中にモールがある、という形があったが、まだ新しい形式だからなのか、ここの店はモールの前に大通りに面した形で駐車場が広がるのみで、モールの裏には古くからある雑居ビルなどがのぞいている。

 おそらくは主要な出入り口も通りに面した場所だけにあるようであった。

 

「私、ここに来るの初めてなんだよね」

 

 広い駐車場の中の歩道を進みながら、そう英理が言った。

 小五郎も数瞬だけ「どうだったろう……」と頭を巡らせたが、結局は生前のことなので、とりあえず、

 

「俺もだ」

 

 と、簡潔に返した。

 二人は花壇のそばを通って、自動ドアをくぐる。すると目に飛び込んでくるのは、小五郎にしてみれば見慣れたモールの光景だった。

 

「すごい、百貨店みたい」

 

 そうつぶやく英理を横目に、

 

(……逆になんか違うのか?)

 

 と少しだけ考えるも、彼女に腕を引っ張られたことですぐに気を取り戻す。

 

「なに突っ立ってるのよ! さっ、行くわよ!」

 

 きらきらと輝く瞳でそう振り返る英理に、

 

「お、おう……」

 

 思わずしどろもどろになりながら、小五郎はモールの中を引っ張られていった。

 

 

 まず訪れたのは、文房具屋である。

 

「ねえ、見て。このシャープペンシル、頭が猫よ!」

 

 すごい、可愛い……とつぶやく英理を眺めながら、そばに平積みされていた無難なノートブックを買う。

 そうしていながら、

 

(なんか、こいつ……)

 

 ふと思い浮かんだ感想を、小五郎は慌てて胸の奥へと押し戻した。

 

 

 次に訪れたのは、書店である。

 

「あれ、新作が出てる」

 

 そう言って「探偵左文字」の小説を手に取った英理の横で、小五郎はふと目に入った本を眺める。平積みされていたそのタイトルは、「はじめての料理」。

 少しだけ間を置いたのち、頭に浮かんだ未来の娘の顔に思わずそれを手に取っていた。

 

「おめえはこっちも買うべきだ」

 

 なんやかんやとあったのち、結局英理は両方を買った。

 

 

 その後も、服屋やアクセサリー店、スポーツショップなど、様々な店を冷やかして。

 気が付けば時間は意外と過ぎていた。

 午後六時半。

 

「……うん。やっぱりこっちで食べることにしたから。……うん。わかってるって」

 

 モール内に設置されていた公衆電話で家に連絡を入れる英理を横に、小五郎はふと近くの壁に公衆トイレの案内が描かれていることに気が付いた。

 途端、ぶるりとどこかから震える。

 隣を見るが、すぐには電話はやみそうになかった。

 

「ちょっと便所行ってくらぁ」

 

 行き先を指し示しつつ言えば、少女は「ああ、うん」とうなずく。

 それを確認したのち、少しばかり早歩きで小五郎は案内が示す通路の裏のほうへと進んでいった。

 

 このショッピングモールは、植木鉢やベンチが間隔を開けて設置されている通路を真ん中に、テナントの入っている区画がその両側に続く……という形である。そんな似たような景観が四階分重なっていて、現在にいる場所は三階だった。

 そしてとあるテナントとテナントの間にさらに裏のほうへと続く通路があって、どうもその先にトイレがあるようである。

 にぎやかな大通路から狭い通路へと進んでゆくと、少しだけ喧騒が遠くなる。

 それに若干の寂しさ染みたものを感じながら行くと、すぐにL字型の曲がり角へとたどり着く。――が。

 

「ありゃ、掃除中……」

 

 残念そうな声が漏れた。L字の角を曲がると、その向こうに男女のマークが描かれた扉が二つ並んでいたわけだったが、そちらへと進む手前、角を曲がったすぐのところに「清掃中につき立ち入り禁止」「たいへん申し訳ございません」と書かれた立札が置かれていた。

 

「……別のところ探すか」

 

 知らずつぶやいて、元来たほうへと引き返してゆく。

 大通路へと戻ってきたところで、待っていた英理と合流した。

 

「早かったわね」

 

 言う彼女に「清掃中だった」と返せば。

 

「それなら、もうフードコートに行きましょ。たしかそっちにもあったはずだから」

 

 それに同意して、連れ立って歩き始める。

 と、そこで。

 

「おい、もうテレビ局来てるってよ!」

「まじか! 見に行こうぜ!」

 

 そう会話する高校生くらいの若者が二人、彼らの横を過ぎていった。

 

「……テレビ局?」

 

 怪訝そうにつぶやく小五郎に、英理が答えた。

 

「私もさっきお母さんに聞いて知ったんだけど。どうも今日、この近くで生放送の収録があるみたいよ」

 

 へえ、と驚く小五郎に、彼女は続ける。

 

「たしか『ザ・ランナウェイスペシャル』っていう企画番組。たまに七時からやってるじゃない? あれの舞台が今回は杯戸市街なんですって」

 

「ほぉう」

 

 気のない返事を返して、すると肘で突っつかれた。

 

「あなたが聞いたんでしょ」

 

「わりぃわりぃ」

 

 軽く謝って、と、そこでフードコートの入り口が目に入る。

 

「お、早く行こうぜ」

 

 そう言って早歩きになる小五郎に、少女は小さく嘆息してから後を追った。

 和気藹々と歩んでゆく。

 

 こののちに遭遇することになる事態を、彼らはまったくとして予感することはなかった。

 

 毛利小五郎は、ひたひたと忍び寄る宿命の、その足音にまだ気づかない。

 

 現在時刻は、[PM 06:40]

 

 そして――。

 

 

 

             ◆

 

 

 

 ――――[PM 07:25]

 

 このショッピングモールで、一人の男が死体で発見されるのである。

 

 

 

 




Next Kogoro's Hint!

「生放送」

「あ! イズミちゃん? オレだよオレ、コゴローちゃん♡ 今夜ひさしぶりにお店に行ってもいいかなー♡」


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13.間

遅れてしまい、毎度毎度、本当に申し訳ございません。


 

 

 

[PM 07:00]ショッピングモール3F フードコート

 

 

 所要を済ませたのち、小五郎は英理と共に夕食を取っていた。

 様々な店が壁際に並び、それらに囲まれて机や席が並んでいるフードコート内の一角にて向き直って座っている。小五郎はラーメンを、英理はパスタを食べていた。

 

「それでね、瑠璃ちゃんが言うには――」

 

 英理が話すことに時折に適当な相槌を打ちながら、小五郎はラーメンを啜る。意外と美味い。当たりだな。そんなことを思っていると、向かいの席から疑念の声がかかってくる。

 

「ちょっと、聞いてる?」

 

「ああ、おう。勿論」

 

 取り繕いながらも、彼の思考は再び別の方向へとそれる。――こうして二人で向かい合って食事をする……最後にそれをしたのはいつだったろうか。そんなことを考える。

 目の前で楽しそうに話す、少女時代の英理。そして真新しい記憶のなかの、もっと成長して大人となった彼女を想う。つまりは生前のことだった。

 様々なすれ違いや意地の張り合いにより、結局10年にわたる別居はついぞ解消されることがなかった。

 

 それが、今や――再び、こうして二人で食事が出来ている。

 少しだけそのことが、不思議に感じるのだった。

 

 不思議といえば、死んだのちに訪れたこの不可思議な出来事。未来から過去の世界にやってきたのか、それとも時間が巻き戻ったのか、いくら考えてもわかることではない。……だが、いずれにせよ死んだ命が再び鼓動を刻んでいるのだ。

 降って湧いた幸運、奇跡……。そんな風に思っておくことが精神衛生上においても良いのだろう。

 最近はそのように結論していた。

 

 そのときである。小五郎の耳に、ふと何かの声が飛び込んだ。

 何気なく見渡せば、そばの天井から下がっている設置テレビから流れる番組のものだった。……薄型のテレビが慣れ親しまれていた2010年代からタイムスリップした形であるので、分厚いブラウン管テレビが天井からつりさげられている光景に、改めて時代を感じる小五郎である。

 

『はいはーい、今夜もやってきましたー! 日売テレビの月曜7時から一時間生放送! あの娘を探せ! ザ・ランナウェイスペシャルゥー!!』

 

 茶髪の軽薄そうな司会のセリフ。それに続いて、背後に並ぶ出演者たちからイエーイ! と歓声が飛び交う。

 

『今夜は東京、杯戸町! そして米花町! 杯戸駅前から広がる、この繁華街が舞台だー!』

 

 司会が言って、カメラが変わる。繁華街を背に、物珍しそうに彼らを眺める一般人たちの姿が映った。

 

『ルールは簡単! 彼ら三人の挑戦者が、一時間生放送の時間中に、逃げる彼女たち六人を全員捕まえることができたら……なんと! 賞金100万円をゲットだー!』

 

 カメラが戻り、視界の顔のアップの後に挑戦者、ランナウェイガール、と順に映してゆく。

 それぞれの胸元に名前と肩書のテロップが現れ、どうもそれを見るに挑戦者は皆が芸能人であるようだった。……ただ28年も昔の芸能人など、小五郎はまったく覚えていないのでどれも見ない顔である。

 生前に彼が慕っていたアイドル・沖野ヨーコなど、この時代はまだ生まれてさえいない。

 ……そんなことを考えると、なんだか悲しくなってくる。改めて過去の世界なのだと思い至った。

 

「なに見て……ああ、あれね。さっき言ってた、ここの近所で収録している番組って」

 

 小五郎の視線をたどった英理も、同じようにしてテレビを見上げる。

 

「ほら今、一瞬だけここのモールが映ったわ」

 

「おう、マジだな」

 

 なんとなくぼうっとテレビを見上げる少年少女が二人。そんな彼らをよそに、テレビの中では司会が挑戦者の一人ひとりにマイクを手渡して抱負を尋ねていた。

 

『気概をどうぞ!』

『たしかこの番組、今まで勝ち取った挑戦者はいないんですよね?』

『ええ、そうですとも!……とはいっても、まだ開催三回目ですけどね!』

『はは、それじゃあ、僕がその最初の一人になる!……とでも宣誓しておきましょうか』

『おお! では100万円が手に入ったら、どうしますか!』

『ええと、……実は最近、娘が入院しまして。その見舞い品でも買おうかと思います』

『ああ、それは、ご案じいたします……お見舞い、いいですねー。なににするのかはもう決められているんですか?』

『彼女の好きだった、花を。束で贈ろうかと』

『おお、それはいい! 娘さんもきっと喜んでくださいますよ!』

 

 司会の若者と、挑戦者の中年の芸能人が会話している。快活に笑う司会に対して、一方の男はというと、どこか曖昧な笑みを浮かべて流していることが少しだけ印象的だった。

 

 挑戦者の自己紹介が終わると、カウントダウンが始まり、司会の男の「0!」という叫びと共にランナウェイガールと呼ばれる役の少女たちが町の中を方々へと走り出す。

 そしてテレビ画面の左下に、分割された小さなコマが現れ、町の地図とそこを駆ける六つの光点が映し出された。

 

『ランナウェイガールと挑戦者たちには発信機が付いております。これで常時ぼくらが監視していますから、挑戦者の皆さん! 反則してエリア外には出ないでくださいねー? わざとじゃなくても、悪質でしたら失格にしますから!』

 

 そしてそのセリフののちに司会が冗談を言い、挑戦者らが笑ったところで、今度は彼らが出発した。

 そしてそこで、顔を戻した英理に話しかけられる。

 

「それで、話に戻ってもいい?」

 

「ん? おう、いいぞ」

 

 ありふれた単純な企画もので、まあ、たいして興味も湧かない内容であったため、小五郎も割合すぐに顔を戻す。

 

「……で、なんの話だったか」

 

「やっぱり聞いてないじゃない……」

 

 呆れたように英理がにらみ、自然、小五郎はそれから目をそらすのだった。いまだ幼いとはいえ、さすが将来は怒涛の成果を上げる敏腕の弁護士である。眼力がすごい、と彼はひそかに思った。

 

 そのまま少しだけぐちぐちと言われて、小五郎が悪かったと謝ったところで話は次の話題へと変わってゆく。

 英理が話し、小五郎が口をはさみ、そして二人して小さく笑った。

 

 ――穏やかな時間だった。

 

 生前は刑事の辞職だったり、妻と別居して10年だったり、唐突に始まった謎の症状だったり、行くところ行くところで出くわす殺人事件だったりに苦悩した。

 死亡したのちも、生き返ったり、過去だったり、また殺人事件に出くわしたりと、当初はさまざまなことがあったが、しかしそれからこれまでの一か月間は、このような時間が続いていた。

 小さく、されど暖かな幸福である。

 

 ああ、もしかしたら俺はこのために生き返ったのかもしれない、過去へやってきたのかもしれない……とさえ、小五郎は無意識に思う。生前に苦しんだ己に、どこかの神様が寄越してくれた褒美なのではと。

 この暖かな時間こそが、奇跡なのではと思ったのだ。

 

 

 ……しかし。されども、それは真実ではない。

 

 そして真実は宿命と共にあり、彼はそれから逃れることはできないのである。なぜならば、それが――……。

 

 ……――ほら。宿命の呼び声が、聞こえてくる。

 

 

 

             ◆

 

 

 

[PM 07:28]同所

 

 

「……あれ、なんだか騒がしくない?」

 

 歓談していたところで、ふと気づいた英理が、そう言いながら周囲を見渡した。

 つられて小五郎も見渡し、たしかに……とつぶやく。

 

「なんかあったのか?」

 

 どういうわけか、通路の奥のほうから幾人かの人が走ってきたリ、逆に向こうへと走って行ったりしていた。

 耳を澄ませば、途切れ途切れに彼らの言葉が入ってくる。

 

「おい! 警察と……救急車に連絡は!」

「公衆電話どこだっけ!?」

「店舗の奴に言えばいいだろ!」

 

「ねえ、なんかあったみたいじゃん」

「お、まじで?」

「もしかして殺人? 行ってみようぜ」

 

 とりあえずわかることはというと、なにか()()よくないことが起こったらしいということである。ただならぬ様子であった。

 

「……オイオイ、勘弁してくれよ」

 

 この一か月、すっかりと穏やかな時間に浸かっていた小五郎は、再びの展開に眉間を押さえて軽くうなだれる。

 生前の最後の一年間はひどく濃密に事件に巻き込まれ、周囲から冗談交じりに死神扱いを受けた小五郎であるが、一度死んでからこちらは一か月もの長きにわたって何も起こらなかったため、例の眠りの症状と共にとっくに解消されたものだと思い込んでいた。いや、思い込みたかっただけなのかもしれない。

 

 ……が、数秒したのちにスッと頭を上げて気分を切り替えた。

 

(よし。とりあえず、帰るか)

 

 また巻き込まれてはたまらなかった。

 生前の苦悩もあり、現在の小五郎は少しと言わず()()()()()()に関わることを忌避する気持ちがあった。

 トラウマともいう。

 

 成り行き上で仕方なく介入した一か月前の事件でも、最後に刑事からしっかりと怒られたし、小五郎もまた、子供が現場を荒らすものではない、大人に任せるべき仕事である、とそう考えていた。

 

 ただ、このまま現場そばにいたのでは、生前を含めたこれまでの経験則から、なんだかんだと巻き込まれてゆくような嫌な予感がしなくもない。

 だから、帰ろう。

 そういう結論に至った。

 

 ――……一か月前に事件を解決した際、胸の奥で湧き上がった感情について、このときの小五郎はまだ、すっかりと忘れ去っていた。

 

 

「……大丈夫?」

 

 気づけば、英理が心配げにこちらの顔をうかがっていた。

 

「なんか、顔色悪いけど……」

 

 言う彼女を制し、小五郎はひとつ息を吐いてから、どこか切実な声でつぶやいた。

 

「もう、帰ろう」

 

 

 

 

 

[PM 07:30]ショッピングモール3F 廊下

 

 

 了承した彼女と共に、小五郎は帰途へ着くべく、出口へと向けて歩いていた。

 しかしここでひとつだけ面倒なことに、帰り際になって英理が落とし物をしたことに気が付いたのである。

 それも、おそらくは先ほどに母親と電話をしたときだという。

 

 そしてその方向は――騒ぎのあるらしき場所と同じだった。

 だからまずはその落とし物を拾ってから帰るのだが、必然的に騒ぎのあるほうへと向かってゆくことになる。

 

「ごめんなさいね。でも、あれは思い入れのあるものだったから……」

 

 いつのまにか難しい顔をしていたのか、こちらをうかがいながら英理がそうつぶやいた。

 それに慌てて表情を整えながら、小五郎は気にすることはないと告げる。

 

(そばを通り過ぎるだけなら、まあ関係ないだろう……)

 

 そう考えながらもどこか安心できていない自分に、我ながら考えすぎじゃないか、と小五郎は思う。

 だけれど、不安はそれでも拭えない。

 

 やがて彼らは奥へと進んでいき、階段まであと少しというところで例の公衆電話が目に入った。

 

「ちょっと見てくるわね」

 

 そう言ってそちらへと向かう英理をよそに、小五郎の目は別のほうへと向いている。

 そのすぐそばだった。

 野次馬が、がやがやと集まっている場所がある。

 

 あそこは……。

 気づくと、まるで先ほどまでの思考が嘘であるかのように小五郎はそちらへと少しずつ寄っていた。

 もちろん、野次馬に混ざるつもりもなければ、介入するつもりもない。さっさと帰ることは決定事項である。

 ……それでいて、ひとつだけ確かめなければいけないことがあった。

 人混みに近づいて、やはり、と思うことがある。

 

「なあ、おい。何があったんだ?」

 

 野次馬の一人を捕まえて、軽く聞くと。

 

「ああ、なんでもトイレで男が殺されてたらしいぜ。メッタ刺しだってよ……おっかねえよなあ」

 

 礼を言って、すぐにそこから離れる。公衆電話のところにいる英理のもとへと向かいながら、頭の中で軽く考えた。

 いつ刺されたのか知っているかと小五郎が聞くと、野次馬の男は警察がまだ来てないのでわからないと答えた。そして死んでいるのは確かなのかと聞けば、発見された時にはすでにこと切れていたそうだという。

 そして、何よりも大事なことなのだが……トイレの前には、()()()()()()()()()()()()らしい。

 

「……今更だけど俺、お祓いとかしたほうがよくねえか」

 

 元気なくそう呟いて、ハアとため息をついた。

 

 つまりである。今回、人が死んでいた場所は、つい先刻に小五郎が使用しようとしていたトイレだった。

 そしてその時と現場があまり変わっていないということは、あのとき――小五郎がトイレの前に立っていたそのときにはすでに中には死体があった。……そういうことも十分に考えられるのである。

 

 我ながら、なんという間の悪さであろうか。

 生前も通院するかたわらで常々思っていたことではあったが、もしかしなくても何か悪いものでも憑いているのでは……と不安になってきてしまう。

 

(……いや、今回に限ってはギリギリで躱せたと考えるか。ここで帰れば、もう俺は関係ねえはずだし)

 

 微妙そうな顔をしながら戻ってきた小五郎に、英理が不思議そうに尋ねる。

 

「どうかした?」

 

 小五郎はいや……と答えてから、聞く。

 

「そっちこそ、どうだ。見つかったか」

 

「うん。ほら、これ」

 

 言って掲げるものは小さなキーホルダーだった。財布に付けていたものが、留め具が外れて落ちていたらしい。

 

「じゃ、帰るか」

 

 さっさと離れたい一心でそう急かし、二人は揃って階段のほうへと向かい始める。

 

 と、そこでその階段のほうからドタドタと騒がしく駆け上ってくる者たちがいた。

 

「すみません、退いてください、退いてください。すみません」

 

 そう言いながら客たちを押しのけてやってきた彼らは、廊下のほうの野次馬を見るなり一直線にそちら……つまりこちらへと向かってくる。

 

 青い制服。中年の男が二人に、若い男が一人。

 警察官だった。

 

 おそらくは通報を受けて、刑事たちが来るよりも先に現場保全のために近所の交番からやってきたのだろう。

 

(あの汗を見るに、自転車かな……)

 

 警視庁から連絡を受けてから、交番からせっせと自転車を漕いでやってきたのだろう。元刑事として、小五郎は内心でひそかに彼らを労った。

 警察学校を卒業したのち、刑事になるまでは小五郎もまた巡査としていわゆるお巡りさんの経験があるわけなので、その仕事もよく知っているのだった。

 

 そしてそんな風に他人ごとの顔をして、そのまま帰ろうとする小五郎であるが。

 

 ……そこに、唐突に声をかける者があった。

 

 

「あ! 君は毛利君じゃないか!」

 

 

「へ?」

 

 思わず顔を上げた小五郎の前には、若干に息の上がっている青年警官がいた。がっしりとした体格は、未来のふくよかさを未だ暗示しておらず、記憶の中でトレードマークと化していた帽子もこのころはまだかぶっていない。そも、私服警官である刑事になっていないのだから、まだ彼は警官制服である。

 息が上がっているのは、息せき切って現場に急行したからなのだろうな、と思い、仕事熱心で感心だ、と思い。

 そこまで考えてから、再び間の抜けたような声を出した。

 

「え、あ、あなたは、けぃ……目暮、巡査?」

 

 しかしそんな小五郎の様子を気にせず、目暮は快活に笑いながら彼の肩を叩いた。

 

「おお! 覚えていてくれたのか! いやしかし、さすがは毛利君だな!」

 

 そうバンバンと叩きながら笑う彼だが、小五郎は自分に何が起こっているのかまるでわからない。

 

(……な、なんで警部はこんなにも親しげなんだ?)

 

 頭の中が疑問で一杯である。生前において小五郎と目暮の最初の接点は刑事時代であったし、今回においても一か月前の事件で共に現場に居合わせた程度の関係でしかないはずだった。会話をした覚えもない。

 

 そしてここに至って、なぜだか猛烈に嫌な予感がしていた。脳裏で警鐘が鳴りまくっている。

 

 

「いやあ、さすがは()()()だな! 今回も現場に居合わせるとは! 調査したいんだろ? いいとも! ほら、私が取り持とうじゃないか!」

 

 

「……え?」

 

 あまりの事態に、小五郎は、再び間の抜けた声を出すしかなかった。

 

 

 

 




思ったよりも話が進まなかったため、前話におけるネクストヒントがネクストヒントにならなかった件。
うーん、前話あとがきを消すべきか。いや、ここはすみませんが前回のネクストヒントは次話のヒントということでひとつ。

次話「分岐点」


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