【リメイク】緋弾のアリア 抜けば玉散る氷の刃 (てんびん座)
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第1弾

大失敗です。
活動報告にも記載しましたが、前作のリメイクを投稿するために今までの話を消していたら、最悪なことに作品そのものを消してしまうというあり得ない失敗を犯しました。
皆様の感想や評価なども一切合財を消してしまい、誠に申し訳ありません。

卒業論文が消えた大学四年生の気分が僅かながらに理解できました……。


 世界には古来より、『男の娘(おとこのこ)』という物語のジャンルが存在している。

 

 日本男児の『男』に愛娘の『娘』と書いて『おとこのこ』と読む。断じて『おとこのむすめ』という読み方ではない。

 これは近年に生み出された造語で、簡単に言えば『女のような顔立ちの男』のことを指す。それも、女性と言われれば違和感を全く感じないレベルものを指すことが多い。また、女装の完成度が異様に高いことで外部からの性別の判断を狂わせる男性もこれに分類されるだろう。

 そして日本の妄想力逞しいオタクたちによって生み出されたこの言葉は、意外なことに歴史は古い。日本最古の歴史書である『古事記』を参考にするのならば、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)による女装を用いた暗殺が有名なものとして挙げられるだろう。

 この暗殺事件の際、彼――もしくは彼のモデルとなった人物――は女装した状態で熊襲武尊の宴会に潜入し、そのまま色仕掛けをしつつ近づいた。そして油断したところを隠し持った武器で襲ったのである。性別という盲点を突いた、見事な暗殺と言えるだろう。誰にでもできるものではない。加えて言えば、帰路ではまるで土産のように他の国も侵略してしまうという武勇伝まで持ち帰った。

 そこに別に痺れも憧れもしないが、日本最古の俺TUEEは伊達ではない。まさに英雄と讃えられるだけの業績である。

 他にも、戦争を回避するために女装して隠れたギリシャの英雄アキレウス、女装させられ針仕事に従事したヘラクレスなど、海外にもその例は尽きないと言える。日本にも、武蔵坊弁慶をやり過ごすために女装した牛若丸という例もある。

 

 このように、女装した美男子というジャンルは古来から存在するのである。

 もちろん、これらが実際に起こったエピソードなのか、それともただの伝説なのかはわからない。

 しかし実在していない出来事だというのならば、それこそその出来事を記した書物が書かれた時代、物語が広められた時代に、『男の娘』という創作のジャンルが存在していたという証拠に他ならないだろう。

 

 これらのことから、男の娘は世界各地に根強く伝わる“文化”なのである。

 時に暗殺、時に隠密、時に脱走と、ここまで来れば“技”と言っても過言ではない。

 人間が他者を判別する時に特徴として記憶するのは、顔、身長、服装、髪型など様々なものがあるが、性別を偽っていると疑ってかかる者はまずいないだろう。

 つまりこれは擬態の一種であり、変装という能力の極みの領域のひとつなのだ。

 しかし、これは誰でもできることではない。異性に化けるということは、背丈や体格、顔立ち、声質、仕草など、あらゆるものを偽装しなければならない。

 ほんの僅かな違和感が他人の意識を引き付け、最悪その化けの皮は一瞬で剥がされる。

 よって異性装にはより中性的な顔立ちや体格など、フィジカルに恵まれていなければならないという前提が存在しているのだ。

 それらを踏まえるならば、異性装とは恐ろしい技術であることがわかるだろう。

 

 

 とはいえ、その才能に振り回される周囲は堪ったものではないだろうが。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 初めて“そいつ”に会った日を、ジャンヌ・ダルク30世は今でも覚えている。

 忘れもしない、初めてイ・ウーの拠点である原子力潜水艦『ボストーク号』に乗船した日だ。その時、イ・ウーの拠点であるボストーク号は、確か地中海を航行していたとジャンヌは記憶している。当初は原子力潜水艦という意外すぎる拠点に愕然とし、そしてリーダーである『教授(プロフェシオン)』が伝説の名探偵シャーロック・ホームズその人だということに開いた口が塞がらなかった。

 今となっては慣れたものだが、当時は意外だとか予測不能だとかいう言葉を超越し、もはや現実と非現実の境が曖昧となったものだ。

 ジャンヌ自身は代々続く歴史ある魔女の一族であり、その長い歴史の中で吸血鬼ブラドなどの化生や他の怪人たちとも渡り合ってきたため、その驚きは幾分かマシであったと言える。しかし何も知らない一般人がこの話を聞けば、あまりの荒唐無稽さに都市伝説と言っても通用しないだろう。

 

 イ・ウーとは、言うなれば世界一アンダーグラウンドな学校である。

 

 そのルーツは第二次世界大戦にまで遡るとされている。当時、枢軸国では異能者や超人などの育成機関が存在していたらしい。戦争において、古くから未来まで淘汰されることなく使われる兵器――つまりは人間の強化を目論んだのである。

 しかしその計画は、大戦の終了に伴って頓挫。機関は解体され、そのまま消滅するはずだった。

 だが、そこで機関が消えなかったからこそ今のイ・ウーがある。恐るべきことに、彼らは所有していた潜水艦を強奪することで国を脱走、文字通り機関そのものを持ち逃げしたのだ。

 その後は、研究の成果やその戦力を狙う国連や様々な裏社会の組織からも逃げ果せ、ついにイ・ウーという独立した組織へと昇華したのだった。

 

 そんな大戦期に発足したこの組織が現代において何をしているのかというと――何もしていない。

 

 この組織には、組織としての目的が存在しないのだ。目的は所属する個人たちが勝手に掲げるものであり、組織全体がひとつの目的を持つことはない。全員がバラバラに動くこの組織は、尋常な組織から見れば烏合の衆と謗られても全く反論できないだろう。

 そんな組織と呼べるかも微妙なこの秘密結社が、何故今まで存続できたのかというと、これはイ・ウーの長である『教授』の力が大きいだろう。長い歴史の中で何代にも亘って継承されてきたその称号は、イ・ウーの中では絶大な重みを持つ。

 その理由として挙げられるものはただひとつ――純粋に強いからである。

 歴代の教授たちは、その圧倒的な強さによってメンバーたちを力尽くで従わせてきた。無論、下剋上上等、不意討ち闇討ち騙し討ち歓迎、多勢に無勢も正当という、まさに勝てば官軍が罷り通る過酷な環境下においてだ。あまねく反乱分子を蹴散らし、粉砕し、従わせることで、初めてイ・ウーの教授の名は継承される。

 要は、教授は超人組織イ・ウーにおける最強の存在なのだ。

 話が逸れたが、ここからがイ・ウーという組織の最大の特徴と言える部分だろう。

 この組織、全体の目的が存在しない代わりに、所属する構成員たちの全てに強いる規則が存在する。

 

 それは、互いに技術を教え合うことで更なる高みを目指すことである。

 

 この規則は大戦期の時代の名残であり、イ・ウー最大の存在意義とも言える。

 イ・ウーにおいて、各々は何をしても良い。私闘、強盗、共謀、暗殺、裏切り、侮辱――全てが許される。

 ただしこの組織に名を連ねる以上は、切磋琢磨を繰り返すことで強くならねばならない。そして強くなった後は、何をしても良い。イ・ウーを乗っ取るも、世界へ羽ばたくも、古巣へ戻るも構わない。来る者拒まず、去る者追わず――それがイ・ウーのスタンスだった。ここで得た技術やコネクションをどうするかは本人次第。あくまで組織は場を提供するだけだ。

 それこそが、ここが構成員たちに“学校”と揶揄される所以でもある。

 

 そんな魔窟でジャンヌが“そいつ”と出会ったのは、入学初日。ボストーク号の内部を知るために、当て所なく船内を見て回っていた時だった。

 

 その光景を、ジャンヌは今でも覚えている。

 そこに居たのは、自分よりも年下であろう小柄な少女だった。

 

 ――腰まで届く黒髪が、所々に混じる鮮やかな桜色の美髪を伴って靡く。

 ――日の光とは縁の遠そうな白い肌が、滴る汗に濡れる。

 ――闇色の澄んだ瞳が、何もない虚空を見据える。

 

 その少女は、自分を見つめるジャンヌになど目もくれず、黙々と刀を振っていた。それは、上段からの振り下ろしをひたすらに繰り返す、ただそれだけの単純な素振り。

 しかしその一連の動作を、ジャンヌは理屈を通り越してただ“綺麗だ”と思った。

 剣と刀、種類は違えど同じ刃を振るう人間として、ジャンヌはその流麗さに見惚れた。ただの素振りだというのに、そこには剣士としての技術が凝縮されている。

 

「同年代でこれほどの技量を持つ人物が、まさか自分の他にいるとはな……」

 

 自然とそんな言葉が口から漏れる。だが、これは決して自惚れや慢心から出たものではない。

 ジャンヌは幼い頃より、一族の後継ぎとなることを定められていた。栄えある『銀氷の魔女』の一族として、幼少より剣術と魔術の修行に耐え抜いてきたのだ。よって、剣術においては一流と言っても過言ではないとジャンヌは自負している。未だ若輩者であることはもちろん認めるところではあるが、並みの武偵や異能者に引けを取ることはないと確信していた。

 そしてそれは、事実ではある。未だ十代のジャンヌではあるが、魔術と剣術の技量はイ・ウーに迎えられるだけあって非常に高い――表社会や、裏社会における末端組織においては。しかし、ジャンヌはひとつだけ勘違いをしていた。ここはイ・ウー、裏社会の奥の奥。世界の闇が凝縮され、圧縮され、その身を食い合う血塗られた場。天才という言葉を嘲笑う怪人、千年単位で歴史を紡ぐ血筋の魔女、人間の理解を越えた怪物が闊歩し、その技術を学び合う。云わばここは、世界最“凶”の学び舎なのだ。

 そのような場所に居る人物が、例え若かろうと“尋常な人間”であるはずがない。入学して日の浅く、また文字通りまだ若輩者であったジャンヌはそこの理解がまだ足りていなかった。

 もし、もしも過去の自分にジャンヌが言葉を伝えられる機会があるとすれば、確実にこの時の自分に宛てたものだろう。

 

 ――そいつに近づくな、関わるな、今すぐに、走って離れろ、むしろボストーク号から出ろ、フランスの実家に帰れ……

 

 考えればキリがない。それほどにジャンヌは、この時の自分の行動を後悔している。

 ここでもしも“そいつ”に話しかけなければ、恐らく自分の人生はガラリと変わっていただろう。しかし過去は変わらない。少なくとも自分は変え方を知らない。

 

 そしてジャンヌは――

 

「失礼、少し良いだろうか?」

 

 確かそんなことを言いながら、そいつ――犬塚(いぬづか)(みやび)へと声をかけたのだった。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

「ぶはっ!?」

 

 ボストーク号の船内の一室、そこで奇妙な声を上げる少女が居た。

 その異様な息苦しさに、眠りの底にあったジャンヌの意識は強制的に覚醒させられる。何か懐かしい夢を見ていた気がするが、そんなものは今起こっている非常事態によって記憶の彼方へと葬られた。

 ジャンヌにとって、この状況は全くわけがわからなかった。突然の息苦しさに目が覚めたかと思えば、まともに息を吸うこともできない。そして必死に目を開けてみれば、何故か視界は暗黒に染まっている。おまけに顔が痛いくらいに冷たい。まるで顔中に細い針が突き刺さっているかのようだ。痺れすら感じるこの痛みに、ジャンヌは思わず涙を流す。

 一体何が起こっているというのか。

 必至に手足をジタバタと動かすと、ゴズンッという音と共に右脛に激痛。どうやら何かの角にぶつかったらしい。死ぬほど痛かった。

 

「ぐっ、このっ!」

 

 体内の酸素が限界レベルに達したジャンヌは、決死の覚悟で顔面にへばりつく“何か”を剥ぎ取った。途端に視界は明るくなり、肺へと正常な空気が送られる。非常に美味い。空気がこんなに美味いものだということを、ジャンヌは生まれて初めて思い知った。深海の底における貴重な酸素を使用して深呼吸を繰り返すことで、ジャンヌは必死に息を整えようとする。

 しかし次の瞬間、消灯していたはずの部屋の明かりが唐突に点灯する。暗闇の世界から光の下へと引き摺りだされたジャンヌは、その眩しさに目を晦ませた。反射的にスイッチへと視線を向けるが、急激な明度の変化に耐えられないジャンヌの目では下手人の影しか捉えられない。即座に光に慣らそうと目を細めるが、そのような時間を下手人が与えてくれるはずもなかった。

 右手に帯状の何かを手にしているその影が、まるで地面を這うように低い姿勢で迫り来る。視界がハッキリしないジャンヌだったが、それが“敵”であるということは瞬時に理解していた。同時に、戦慄もしていた。

 

(施錠された私の部屋に侵入し、あまつさえここまで接近を許すだと!?)

 

 そう、ジャンヌが驚いたのは、ここまで徹底して気配を感じなかったことだ。こうしてジャンヌの目前にまで接近しているこの瞬間さえ、敵は足音の一つすらも立てない。気配が希薄という、まさに暗殺者として最高の難易度の技術を敵は有している。それを加味すれば、むしろまだジャンヌが生きていることが不思議なほどだ。

 夜討ち、朝駆けは襲撃の基本。卑怯だと罵るような真似はしない。しかし、もしも敵が初撃で殺す気だったならば、もしも顔に食らったものが刃や銃弾だったならば、ジャンヌは既にこの世を去っていたのだ。敵が何故わざわざ点灯するという無駄なことをしたのかは定かではないが、こうして生きている内に自分の命を諦めるつもりなどジャンヌにはさらさらなかった。

 となれば、ここは抵抗あるのみだ。

 

「ハッ!」

 

 薙ぐように振るわれた帯状の何かを、ジャンヌは飛び上がって回避した。ベッドのスプリングを利用したその跳躍は、パジャマという動きにくい格好だというのにジャンヌの高い身体能力によって天上付近までその身体を運ぶ。

 そしてジャンヌの手には、鞘に納められた一振りの剣が握られていた。ジャンヌとて馬鹿ではない。このような寝込みを襲う敵が現れた場合の対策として、寝起きの直後に武器を手に取れるよう傍らに忍ばせていたのだ。

 空中で幅広の洋剣(クレイモア)――デュランダルを抜剣したジャンヌは、落下のエネルギーを追い風に敵に反撃する。風を切りながら振り下ろされたその斬撃は、まさに流麗にして無謬の一撃だった。空中という姿勢が安定しない場だというのに、斬撃の軌跡はまるでブレがない。たったこれだけの動作だけでも、ジャンヌの剣術家としての技量が相当に高いということが窺い知れる。尋常な暗殺者ならば、あるいはこの一撃で斬り殺されていたかもしれない。

 

 だが、敵は大凡尋常と言える領域に居るような存在ではなかった。

 

 暖色の帯が撓る。ジャンヌの目には、敵の帯がまるで蛇のように蠢いたように見えた。

 なんと敵は、その手に握る帯状の何かでジャンヌの剣を側面から弾いたのだ。俗にパリィとも呼ばれるこの技術は、武器を扱う者にとってはそう珍しい技術ではない。しかし問題は、振り下ろされる剣をこの柔らかい武器で弾いたということだ。デュランダルよりも遥かに軽量であろうあの武器で、まさかこうまで容易く弾かれるとはジャンヌも想像していなかった。

 そして着地と同時に、ジャンヌは更なる驚愕の事実に気付いた。ようやく視界が元に戻り始めたジャンヌの目が、敵の武器を捉えたのだ。そしてその武器の正体に愕然とする。一見すると、それはただのオレンジ色のタオルにしか見えなかったのだ。水に濡れているのか雫が滴ってこそいるが、たった今デュランダルを弾いた帯状の武器の正体は“何の変哲もないただの布”だった。まさか濡れた布一枚で、敵は自分と戦っていたというのか。だとすれば、もはやそれは敵の技量に感服するほかない。

 だが、感服の念を抱くのも刹那の間で終わる。戦いは、未だ続いているのだ。だが、その刹那が勝敗を分けることとなる

 

「しまったッ」

 

 一瞬の隙だった。その隙の間に、タオルがジャンヌの足を絡め捕る。

 水分によって重みを増したタオルは、まるで鞭のように鋭かった。そして腕を締め付けるその力も、普段の乾き切った状態とは比較にならない。まるで蛇の咢に喰い付かれたかのように、タオルはジャンヌを逃がそうとしなかった。

 

「うぉッ――」

 

 着地によって姿勢が安定していなかったジャンヌは、あっさりと引き倒された。地面に俯せに倒れたジャンヌは、もはや背面ががら空きだ。いかに切れ味の良い剣であろうと、剣士が倒れ伏した状態ではまともに力を発揮できない。

 そして敵は、既にジャンヌの背後を取っていた。馬乗りに跨った敵は、膝でジャンヌの両腕を抑え込んでいる。これでは身動きが取れない。

 

()られたッ……!)

 

 一瞬の不覚に、ジャンヌは死を覚悟した。布状の武器を使うということは、恐らく敵がジャンヌを殺す方法は絞殺だろう。背後から完璧な姿勢で首を絞められれば、呼吸を封じられて文字通り息絶えてしまう。

 迫り来る死への恐怖に、ジャンヌは思わず目を瞑った。

 そして――

 

「不合格!」

「いだだだだだだだだだだッ!?」

 

 首から顎を掴まれたと思った瞬間、ジャンヌは海老反りなっていた。キャメルクラッチだ。腰に激痛が走り、あまりに急激な角度によって背骨が軋む。まるで腰から胴体を真っ二つにされるかのような角度に、ジャンヌは盛大な悲鳴をあげた。それを背後から眺めながら、下手人は嘲笑を浮かべていた。

 

「ジャンヌ、君ね~。ボクが殺す気だったら二回は死んでいたんですけど?」

 

 キャメルクラッチの角度が更に増す。「ぅぉごぉぉぉ!」と呻くことしかできなくなったジャンヌは、必死に腕をタップした。だが無視された。朝から少女があげていい声ではなはなかったが、ジャンヌも好きでそうしているわけではない。

 しかし激しさを増したタップが功を奏したのか、下手人はパッとジャンヌを解放した。海老反りの姿勢から解放されたジャンヌは、荒い息を吐きながら地面に倒れ込む。

 

「寝込みを襲われるなんて、この業界じゃ当たり前だよ? なのに部屋に侵入されても寝こけているなんて、敵に『どうぞ殺してください』って首を差し出しているも同然! 起きられないなら、せめて部屋に罠を仕掛けるとか……ジャンヌ聞いてる? っていうか起きてる? おーい」

 

 声の主は、倒れたまま顔を上げないジャンヌを訝しんだようだった。何度か身体を揺すってみるものの、ジャンヌは一向に起き上がらない。そして、それこそがジャンヌの狙いだった。

 脱力していたジャンヌの身体が、まるでバネ仕掛けのように動き出す。瞬発的なその動きに、油断していた声の主は反応が遅れた。「おおっ!?」と目を見開くその人物に、ジャンヌは勢いよく密着した。そしてその両手を、“そいつ”の顔に突き出す。

 

「貴ッ様ァァァァァァ!」

 

 轟くジャンヌの怒声。

 白魚のように細いジャンヌの指が、下手人ことミヤビの頬を掴み取った。そしてミヤビが抵抗する暇も与えず、全力でそれを左右に引っ張る。頬の肉が、まるでゴムのように伸びた。

 

「ひぎぃぃぃいいいっ、痛い痛い(いひゃいいひゃい)! 放して(はらひて)~っ!」

「絶対に許さん! 絶対にだ!」

 

 状況は逆転した。先程とは打って変わり、今度はミヤビがジャンヌに悲鳴をあげさせられていた。頬を引き千切らんと目をギラギラと輝かせるジャンヌは、横だけでなく縦や前後などの様々な方向に頬を引き回す。その度にミヤビの悲鳴は大きくなり、とうとう薄っすらと瞳に涙を浮かべ始めた。それを見て少しは溜飲を下げたのか、ジャンヌは頬を捩じるようにしながら手を放す。ミヤビは泣きながら地面を転げ回った。その様は、先程までジャンヌに死を覚悟させた“敵”と同一人物だとは思えない。

 そんなミヤビの容姿は、初めて会った頃から全く変わっていない。トレードマークである腰まで伸びた艶やかな黒髪は未だに健在だ。相変わらず身長は低く、恐らく140センチと少ししかない。そして髪と同じ黒い瞳は、まるで地上の光を吸い込む夜空のように黒く輝いている。メッシュのように黒髪に混じる赤毛は、心なしか以前より増えたように感じた。

 服装は相変わらずの子供服で、所々にフリルが飾られているワンピースだ。色彩こそ大人しめだが、スカートの裾や袖口のフリルによって派手すぎない程度の華やかさを感じる。確証はないが、これはジャンヌの同期の少女の趣味だろう。

 しかし何よりも目を引くのは、腰に差された日本刀だ。黒塗りの鞘に納められた一振りの刀が、派手な柄のカービングベルトによって腰に固定されている。ただでさえ目立つそれだが、漂わせている空気も尋常ではない。その辺の美術館などで飾られているような金属の塊と違い、何か得体の知れない気配のようなものを薄く放っていた。

 

「というか、ミヤビ。貴様、どうやって私の部屋に入ってきた。鍵はかけていたはずだぞ」

「いったぁ……えぇ? 普通に玄関から入ったよ?」

 

 頬を手で押さえながら、さも当然のように話すミヤビ。しかし、ジャンヌが聞きたいのはそんなことではない。

 

「だから鍵はどうした、鍵は! ついでにチェーン! 私は寝る前に確かに掛けたぞ!」

「ちょっと頑張ったら開いた」

 

 嫌な予感がした。

 このミヤビという奴が碌でもないことを仕出かすことは、ここしばらく付き合いで既に理解している。そんなやつの“ちょっと”が、常人のちょっとと同等のはずがない。今までの経験に当てはめるのならば、この“ちょっと”をまともに捉えることはできなかった。

 ミヤビの隣を走り抜けたジャンヌは、寝室から転がるように飛び出して玄関へと急ぐ。そしてそこでジャンヌが見たものとは――

 

「……うん?」

 

 至って普通の玄関だった。鍵はジャンヌの記憶通りに施錠され、異常はどこにも見られない。玄関が跡形もなく消し飛ばされているくらいは覚悟していたジャンヌは、些か拍子抜けした。どうやら普通に――常識的に考えれば全く普通ではない――ピッキングを行使したようだ。

 ほっと一安心したジャンヌは、改めてミヤビに怒りをぶつけようと踵を返す。どんな理由であれ、夜襲を仕掛けられたことに対する報復はまだ終わっていない。「こうなれば今日こそ徹底抗戦だ」と息巻いたジャンヌは、しかしそこでようやく大きな違和感に気付く。

 

「いや、待て……」

 

 再び玄関に視線を向ければ、やはりいつも通りの扉があるばかりだ。異常はない……かと思いきや、よく見れば鉄製のチェーンが半ばで切断され、まるで紐のように扉にぶら下がっているではないか。通常、チェーンは扉枠に根本が固定されている。となれば、扉に引っ掛かったままぶら下がるのはおかしい。

 ここに来てようやく異常が判明した玄関に、ジャンヌは恐る恐る歩み寄る。ヒタリヒタリと床に張り付く素足の音が、嫌に耳に響く。緊張に思わずゴクリと生唾を飲み込みながら、ジャンヌは意を決して扉に手を伸ばした。

 そして次の刹那、扉は既にその機能を果たしていないことが判明した。

 軽く擦れただけのジャンヌの手によって押し出された扉は、何の抵抗もなく玄関の外に倒れ込んだのだ。重厚な扉が巨大な音を立てながら外の廊下に叩き付けられ、朦々と埃が舞う。一気に開放的な造形となった玄関にジャンヌは開いた口が塞がらない。

 

「なん……だと……」

 

 そこにあったのは、扉“だった”ものだ。

 防弾性の扉は、その機能を活かすことなく破壊されていた。呆気に取られながらも扉枠に視線を巡らせたジャンヌは、蝶番やデッドボルトは綺麗に切断されていることにようやく気付いた。まるで最初からそう加工されていたかのように、その断面は滑らかだ。何も知らない人間が見れば、誰もこれが刃物を用いた人の手による技の成した結果だとは思わないだろう。

 せめて、せめてピッキングによる開錠だったならばと淡い期待をしていたジャンヌは、想像以上の惨状に思わず膝を突いていた。同時に、今度からは扉以外の部品にも気を使おうと誓った。

 しかし――

 

「……まあ、爆破じゃないだけ被害は軽かったか」

 

 ジャンヌは既に立ち直っていた。膝を突いてから僅か数秒の出来事だった。

 朝っぱらから冷却濡れタオルを食らい、キャメルクラッチをかけられ、挙句にドアまで破壊された。

 しかし悲しいかな、ジャンヌはこの程度のことなら既に慣れてしまっている。むしろ、玄関ごと使い物にならなくなるよりかは、遥かに運が良かっただろうとすら思えていた。これならばドアを交換するだけで済む。最悪の場合、部屋そのものがなくなっていたかもしれないと考えてしまうジャンヌは、もはや毒されてしまっているのだろう。

 

「しかし、ここまで派手にドアを破壊されて私が気付かないとはな」

「だから言ったじゃん、頑張ったって。頑張って静かに斬ったよ」

「さっきのタオルもそうだが、意味もなく高度な技術を披露するのはやめろ」

「殺人濡れタオル『エッケルザックス』は無駄じゃないし~。原作を読んでからアニメを観てまで練習したんだし~」

「わけがわからん上に、濡れタオル如きに大層な名前を付けるな」

「如きとは失礼な。吸水性が良くて伸縮性にも気を遣ったタオルを探すのは大変だったんだよ? 色々な店を方々探し回って、最終的にツァオツァオに特注で作ってもらった一品なんだから。ちなみにお値段二枚セットで日本円に換算して四千円です」

「無駄に高い……!? 余計にいらんわ!」

 

 しかし、口でこそ意味のないといってこそいるが、先程のあのタオル使いの手捌きに対してジャンヌは脅威を感じていた。冷静に考えれば、あれがどれだけ恐ろしい技術なのかもわかる。布きれ一枚であれほどの戦闘能力を発揮することができるという点ももちろんだが、タオルという日用品を武器にすることができるということが恐ろしいのだ。あれならば、銃や刀剣と違い持ち歩いていても不自然に思われることはない。ミネラルウォーターをペットボトルに入れて持ち歩くだけで、ミヤビは武器を一つ携帯できることになるのだ。

 古代より、暗殺者たちによって暗器のような隠し武器は研究され続けていた。持ち歩いても違和感のないものを武器にする技術、武器を日用品に偽装する技術、武器を隠しやすくするために小型化や変形を図る技術など、どれも恐ろしいものばかりだ。先程のミヤビのタオルも、これの一つ目に分類される。濡れタオルという一見して普通の道具が、巧者の手にかかれば人間を殺害し得る武器に変貌する。その恐ろしさを、ジャンヌは身をもって感じていた。

 寝室から出てきたミヤビに、ジャンヌは視線を向ける。ミヤビから見れば、ただただ呆れているようにしか見えないだろう。だが、内心ではミヤビの技術に戦慄と称賛の念を抱いていた。あのような技術は、一朝一夕で身に付くものではない。

 そして、認めざるを得ない。今の“戦い”は、完全に自分の敗北であったと。もしもミヤビが本気でジャンヌを殺すつもりだったならば、今頃自分は物言わぬ肉塊になっていた。

 

「……それで? お前は朝からドアを破壊してまで何をしにきたんだ?」

 

 ジャンヌが時計を見れば、時刻は七時だった。

 そろそろ起きる時間ではあったが、肝心の目覚めは最悪である。気分的にはまたベッドに戻りたいが、目は冷却濡れタオルのせいで完全に覚めてしまった。

 そんなジャンヌに、ミヤビはにっこりと笑いかけた。

 

「実は、味噌汁を作りすぎちゃって。一緒に食べない?」

「そんなことのためにドアを壊すな!」

 

 ジャンヌの怒声がボストーク号に響いた。

 

 

 ◆  ◆  ◆ 

 

 

 非常に癪であったが、ミヤビの味噌汁は美味かった。

 基本的に和食よりもフレンチを好むジャンヌではあるが、イ・ウーに入学してからのここ数年の生活によって和食を口に入れる機会も増えた。それによって、多少はミヤビの国の食事の良し悪しもわかるようになっている。そして何より、味覚がこの料理を美味と判断していた。例え言葉を偽ることができたとしても、自分の味覚が美味と判断したという結果をなくすことはできない。しかし、これがドアと朝の爽快な目覚めを代償にして得たものだと思うと素直に喜ぶことができなかった。

 風通しの良くなった部屋のリビングで、ジャンヌは複雑な心境で味噌汁を啜っている。もちろん、使っている食器は箸だ。ボストーク号に乗船するようになってから、ジャンヌはミヤビや同期の仲間たちに簡単な使い方を教わっている。よって、それなりに様にはなっていた。

 

「チッ、こんな奴の作る食事がどうして美味なんだ。料理は愛情とかいうあの言葉は嘘だな」

「そんなことないと思うよ? 肝心なのはモチベーション、戦争でも士気によって数の差を覆せる。理論はそれと同じだよ」

「……不覚にも納得してしまったのが悔しい」

 

 できれば戦争以外の例えを出してほしかったが。

 しかし、兵士たちの士気によって戦況は変えることができるということには納得せざるを得ない。古くから士気を維持することの重要性は大きいとされているということももちろんだが、ジャンヌの先祖こそがまさに策によってそれを成し得ているからだ。神の意向を笠に着た大芝居によって、実際に初代ジャンヌ・ダルクの率いるフランス軍はイギリス軍を押し返している。

 しかし、ミヤビが愛情を込めて料理をしているかどうかは甚だ疑問であるジャンヌだった。やはり料理は経験と技術だ。

 

「理子と桃子は何と言っていたか……そう、これが『お袋の味』というものなのか?」

「お、お袋……うん、美味しいならいいよ、別に」

 

 口元を盛大に引き攣らせたミヤビ。その表情は明らかに作り笑いで、無理やり笑顔を造っているということは明白だった。

 この常人離れした戦闘能力と思考を持つミヤビにも、少なからず弱点が存在していることをジャンヌは知っている。そのひとつが、“女呼ばわりされること”だった。

 そう、このミヤビという人物。初見ではまずわからないだろうが、正真正銘の『日本男児』である。ワンピースという男性がまず着ることのない衣服を着用し、髪を腰まで伸ばし、もう14歳だというのに声変わりの予兆すらない。身体は全体的に華奢で、手足などはふとした拍子に折れてしまいそうなほどに細い。

 

 

 だが、“男”なのだ。

 

 

 これはミヤビにとって最大のコンプレックスであり、指摘されることを最も嫌うことである。

 しかし自分の顔立ちが女性的であることは認めているため、反論することもできない。本人は「ま、まだ中性的だし……!」と必死に取り繕っているが、それが苦しい言い訳であることを最も理解しているのはミヤビ本人だろう。

 

「ミヤビ、お前が男だということは……ふっ、んんッ、……重々承知している」

「今笑ったよね? それを咳払いで誤魔化そうとしたよね?」

「だが、その服装と髪型は何とかならんのか? その格好で自分は男だと言われても、信じる方が難しいだろう」

「無視しないでほしいんですけど」

 

 素知らぬ顔でジャンヌは味噌汁を啜った。

 対するミヤビは、今にも卓袱台返しならぬテーブル返しをしそうなほど顔を真っ赤にしている。だがそれもすぐに治まり、不機嫌さを隠そうともせずにどっかりと椅子に腰かけた。

 

「これは実家の仕来りなんだよ。曰く、『犬塚本家の男児は、元服を迎えるまでは女児として育てられたし』って。そうしたら、将来は身体が丈夫に育つだろうっていう願掛けから来てるんだって。ご先祖様から数百年も続く、我が家の伝統だね」

 

 古い家柄には、時に奇妙な伝統や規則、あるいは家訓が伝わっている場合がある。特に特殊体質持ちの一族や、裏社会に根深い一族だとそれは顕著だ。

 事実、ジャンヌの一族にもそのような仕来りは存在する。ジャンヌの実家は完全に女系であるため、生まれてきた男は成人後に義絶されることとなるのだ。ジャンヌにも義理ではあるが兄が居り、彼ももうじき成人することとなる。別れの日は、そう遠くない。

 

「……そうか。お前の家にも、忌まわしい仕来りがあったのだな」

「わかってくれて嬉しいよ」

「だが、正直に言って私は趣味だと思っていた」

「殺すぞシラガ頭。……まぁ、そんな事情でねー。昔は元服――つまり成人は15歳だったんだけど、近代化の煽りを受けて18歳に、ここ数十年で20歳に変更されたんだよ」

 

 「あと200年早く生まれていれば!」と歯軋りするミヤビ。それを見て、ジャンヌはドアを切り刻まれたことによる溜飲を少し下げた。

 だが、そのようなことを天気の挨拶のように毎度ぼやきながらも、ミヤビは決して女装の習慣を辞めようとしない。このことがジャンヌには不思議でならなかった。既にミヤビは、その犬塚という家とも絶縁状態だと聞く。それならば、例えミヤビが女装をしなくとも誰も文句は言うまい。

 だがそんなジャンヌの真っ当な質問にもミヤビは困ったように、外見に見合わぬ、ある意味では歳相応の苦笑をするだけだ。

 

「まぁ、現実問題として女装(これ)……というか女児として育てられることは色々と合理的ではあるんだよね。無駄な慣習ではないんだよ。ボクも息子ができたらこの慣習を後世に伝えなくちゃいけない。まぁ、一族の人間以外だとその配偶者にしか理由は教えられない決まりなんだけど」

「女装を後世に? 変わった仕来りだな」

「確かに普通じゃないね。何にせよ、そういうわけだから他人のジャンヌに教えてあげるわけには……ハッ!? つまりジャンヌがボクと結婚すれば問題解決じゃん! どう? ウチ来る?」

「行くか。冗談はその顔だけにしておけ」

「ジャンヌ酷い。凄く傷ついた。顔はやめて、せめてボディに……いや、やっぱりどっちもやめて」

 

 にべもなく切って捨てるジャンヌに、ミヤビは「よよよ」とあからさまな泣き顔を浮かべた。

 そもそも、ジャンヌにとってミヤビに恋愛感情を抱くということがあり得ない。ジャンヌからすれば、ミヤビの容姿はもはや女も同然。むしろ、女子としての平均を遥かに上回っている。そんな外見の男を愛すには、もはや同性愛の気がなければ不可能だろう。万が一その問題をクリアしたとしても、最大の難関であるミヤビの人格という障害がある。この問題児を御するのが自分にとって無理難題であるということは、他ならぬジャンヌ自身が悟っていた。

 

「……まぁ、それにほら。ボクとか男用の服とか着ても似合わないしさ。実際、中国にいた頃にそういう格好したら皆に似合わないって笑われたし」

 

 泣き顔から一転、ミヤビは自虐的に嗤った。

 しかしジャンヌとしては、「あぁ、確かに」と納得することしかできない。ミヤビにその手の服装を似合わせようとすれば、どう修正してもボーイッシュの枠に当てはめられてしまうだろう。無理に男性用の服を着せても、背が低く体格が細いミヤビではどこかに違和感が生じてしまう。というよりも、もはやミヤビに似合う服装は子供服くらいしかないのではないだろうか。

 

「それは……気の毒だったな」

「ううん、もういいんだ。この14年の人生でそれは悟ったよ。でも、この顔にだって使い道はある。これからは女装男子として精々利用するさ」

 

 溜め息交じりに自虐的な笑みを浮かべたミヤビには、流石のジャンヌも同情を感じてしまう。

 そう、ミヤビは好きでこの格好をしているわけではないのだ。年々背が伸びていくジャンヌにはその気持ちが良くわかる。ジャンヌは自分が比較的背の高い女であることを自覚している。しかしジャンヌの理想とする自分は、もっと小柄で愛らしい、所謂『可愛い系』なのだ。しかし自分のような女には、小柄の少女に似合う服装が似合わないということは自覚していた。ミヤビも同じような感覚なのだろう。

 そう思い、思わず慰めの言葉を口にしようとしたジャンヌは――

 

「まぁ、それに? ほら、ボクって他の犬塚男子と違って可愛いし? 何て言えばいいのか……そう、運命ってやつ? 普通の男の人が女装なんてしてもコスプレどころか正直気持ち悪いだけだけどボクってこんな顔だから似合っちゃうし? 本当はもう少しくらいは男らしい顔と体付きになりたかったけど、まぁ仕方ないよ。でも大変なのは、道端で時々誘拐されそうになったり年齢制限のあるコーナーで引っ掛かることかな。電車でも大人用切符を買ったら微笑ましい表情で駅員に見られたこともあるし。でもそれもこの顔が悪いんであって、つまるところボクの容姿が幼い少女として魅力的なのが悪いんだよね。はぁ、ちょっと憂鬱ではあるけれど、これも受け入れるべきアイデンティティの一つとして納得するしかないか。美しいは罪って言うけど、ボクのこの可愛さは前世のツケか何かが回ってきたのかも。というか、この背の低さはどうにかしたいんだけど。同期の中では理子よりも背が低いんですけど。ジャンヌは背が高くていいな~、羨ましい。その背丈を20センチくらいボクにわけてよ。ボクも一応、牛乳飲んだり煮干し食べたりでカルシウムを摂取してるけど、あれで背が伸びるってデマらしいし。ボクもジャンヌみたいに背を伸ばしたいなぁ。ジャンヌはどう思う?」

「………………」

 

 死ねばいいのに――この時、ジャンヌは心の底からそう思った。

 ミヤビは自虐ネタを語っているつもりなのかもしれないが、傍から聞けば完全に自慢話だ。特に可愛さに憧れを持つジャンヌからすれば、もはや挑発としか捉えることができない。真面目に殺意が沸いた。むしろ、これは遠回しにジャンヌのことを馬鹿にしているのではないだろうか。

 だが、ここはグッと堪えるジャンヌ。『銀氷の魔女』は策士なのだ。心は熱く、しかし頭は冷静に。例え烈火のように怒り狂っていようとも、頭脳は常に氷のような冷たさを保っていなければならないのだ。というよりも、そうでなければジャンヌは再びデュランダルを抜くことになっていただろう。

 

「でも、この見た目は敵の油断を誘うのには最適なんだよね。小さいし女だし。本当はこんな格好するのは嫌だけど、使えるものを使わないのは馬鹿のすることだしね。でも問題なのは、周りに女装趣味があると思われることだよ! これはあくまで才能の有効活用であって、決して趣味とか性癖とかじゃないんですよ!」

 

 グッと拳を握ったミヤビは、両目から炎を噴き出さん勢いで熱弁した。

 しかし対面に座るジャンヌは、「ヘースゴイネー」と返しただけで箸を止めない。それどころか視線すらも逸らし、まともに話を聞いている気配はなかった。どうやら心を殺すことで怒りを鎮めたらしい。顔からは表情が消え去り、まさに無我の境地で食事を行っていた。

 だがミヤビがそれに気付くことはなく、ますます熱の入った口調で演説を続ける。

 

「そもそも異性装というのは非常に高度な変装技術であって、趣味や性癖なんかで服装だけ取り換えている“にわか”どもとはレベルが違うんだよ!」

「ヘースゴイネー。サスガハミヤビダー」

 

 噛み合っているようで噛み合っていない。

 延々と異性装の談義を進めていくミヤビに、黙々と食事を進めるジャンヌ。

 傍から見ると異様なこの光景こそが、二人にとっての日常だった。

 

 つまり――今日もイ・ウーは平和である。

 

 

 

 

 

 



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第2弾

 犯罪者たちが大手を振って跋扈し、日々研鑽を続ける魔窟『イ・ウー』。その内部において、ジャンヌ・ダルク30世は『ミヤビ係』と呼ばれる特殊な立ち位置だと認識されていた。これはイ・ウーに入学したばかりという者でなければ誰もが知っている、云わばイ・ウーの常識である。

 では、そのミヤビ係とは何なのか。簡単に言えばミヤビとの仲介役及びミヤビが起こした問題の処理係――つまるところトラブルシューターだ。

 まず前提として、イ・ウーには個性や我が強い者が多く集まる傾向にある。それは強者故の傲りであったり、育ってきた環境によるものだったり、生来の性格であったりと様々な理由があるが、ここは置いておこう。そして我の強い彼ら彼女らは、常人とはかなり違った感性や常識を持つ場合が多い。ましてやイ・ウーは国際色が豊かなため、何かと文化的に違う面もある。そしてこの組織では私闘が禁止されていないことから、イ・ウーではどこで争い事が起きても不思議ではない。

 そんな中、イ・ウーでも特に大きく面倒な問題行動を起こすのがミヤビである。

 我の強いイ・ウーの構成員たちの中でも、ミヤビは特別に“ヤバい”存在として認知されていた。何がヤバいのかと具体的に問われればどれから説明したものかとジャンヌは悩むだろうが、多くの者が最初に言うことは超絶的に自己中心的な性格をしているということだろう。

 以前、イ・ウーの拠点であるボストーク号を個人的な趣味の延長で轟沈させかけたことは、構成員たちの心にトラウマとして刻まれている。あの時、シャーロックが船内にいなければ搭乗員は全員が海の藻屑と化していたに違いない。

 そしてそれ以来、ミヤビはイ・ウーでも要注意の危険人物として認定されるようになった。文字通りの問題児だ。イ・ウーにも問題をよく起こす生徒はミヤビ以外にも存在するが、差し当たって直接的な危険度の高いミヤビには監視役が設置されることとなった。それがミヤビ係であり、つまりはジャンヌだ。

 ちなみに選定方法は他薦である。イ・ウーの最下層に位置する彼女が人身御供となったことは言うまでもないだろう。ジャンヌは犠牲になったのだ。

 さて、そんな無人の野を往くが如く傍若無人なミヤビだったが、彼がこのイ・ウーでもその存在を絶対に無視することのできない人間が一人だけ存在している。

 

 

 イ・ウー最強の人物が相手では、流石のミヤビ無碍にはできない。

 

 

「ミヤビくん。君、学校に興味はないかね?」

 

 その言葉に、ミヤビは眉根を寄せた。腰掛ける革張りのソファがキシリと音を立て、しかしそれ以外の音は部屋にない。ミヤビはもちろん、対面に座る青年も言葉を発しない。そんな静寂が支配する室内で、次に言葉を発したのはミヤビだった。

 

「それはどういう意味でしょうか?」

「深く考える必要はない。君の思ったままの意見を聞かせてほしい。君も本来ならば、日本の義務教育に組み込まれている年齢だ。それならば、多少は平凡な学生生活に興味があるのではないか、という至極単純な質問だよ」

「はぁ……」

 

 気のない返事をしたミヤビは、「学校……学校かぁ……」と小さく呟く。

 ミヤビが学校と呼べる正式な施設に通っていたのは、小学校の数年間だけだ。それ以降は故郷の村を捨てて修行の旅に出てしまい、まともな教育機関に通っていない。ドラマや書籍などでどのような場所なのかは知っていても、実際のところどのような場所なのかということは知らない。知識に経験が伴っていないのだ。

 そういう意味では全くの無関心というわけではない。ないが……

 

「……興味ないですね」

 

 今の生活で満足しているミヤビにとって、意識を裂くだけの価値を感じられない。それがミヤビの解答だった。

 イ・ウーの中には学生として世間に紛れている者も存在するが、ミヤビにとって社会的な評価や地位は無価値に他ならない。となれば、学校などという社会適応のための訓練施設も無価値となる。

 その程度の思考トレースは、朝に弱いミヤビを寝起きの状態で強制的にこの部屋へと引き摺り込み、そのままダッシュで逃げ去っていったジャンヌにもできるだろう。つまり、このような答えが返ってくるのは青年も織り込み済みのはずだ。だというのにこのような質問をしてくるということは、今の質問が彼のミヤビに対する用件に関わっているということだ。

 

「ああ、君ならそう言うと推理していた(・・・・・・)よ。だが、君は僕と違ってまだ若い。未来ある若者には、積極的に様々なことを経験してもらいたいものなのだがね」

「何の用なのかと思えば、わざわざボクに説教をするために呼び出したんですか? 超巨大な上に、金を貰ってもいらないお世話です」

 

 にべもなく青年の言葉を跳ね除けたミヤビは、出された紅茶に口を付ける。

 明らかに反抗的な態度であったが、青年は笑顔を絶やさない。というよりも、まるでミヤビの反応を楽しんでいるかのようだった。もしもこの二人を俯瞰している人物がいれば、まるで生意気な孫を相手にする老人のようだと感じるかもしれない。

 

「いらぬ世話だということは自覚しているがね。僕も老い先短い老人だ。若い世代を見ると、つい説教臭くなってしまう」

「老い先短いって……それはジョークですか? この組織でも五本の指に入るくらい長生きしてるじゃないですか。っていうか、あなた“この”ボクよりも長生きしそうなんですけど」

「そうでもないさ。緋弾の所有者として不完全な僕では、延命にも限界がある。今日明日で寿命を迎えることもないが、永遠ではない」

「あっそ」

「実に残念そうだね。それだけのふてぶてしさがあれば、君の将来も安泰だろう」

 

 表情を崩さないその優雅な様を見たミヤビは、内心で「やりにくい」と苦々しい思いを抱いていた。それと同時に、どうせそう思っていることも推理されている(・・・・・・・)のだろうと不快に思う。この青年の、この全てを見透かしたような目がたまらなく気に入らない。

 そう、ミヤビはこの男――シャーロック・ホームズが嫌いだった。

 “条理予知(コグニス)”などという忌まわしい推理力も然ることながら、この雲のような掴み所のなさも気に食わない。しかし何よりも不快なのは……

 

(チッ、仏像かよこいつは……)

 

 この悟りを開いたような男は、きっと自分の死ぬべき時と状況が推理できているのだろう。きっと口にはしないが、恐らくは自分の知るあらゆる人間の未来も“視えて”いる。

 だからこの男は、恐らく余裕や焦りと言った概念を既に超越しているのだ。何せ、全て知っているのだから。普通の人間ならば正気ではいられないだろうが、その未来を予知することができる能力を十全に使いこなせてしまう彼は、もはや精神が神か仏の領域にでも達しているのかもしれない。

 そんなシャーロックからは、生命特有の揺らぎといったものが感じられない。まるで機械のような男だ。いや、この超然とした雰囲気から連想されるのは、やはり仏像だろう。元はただの木だというのに、一流の仏師の手によってその姿を変えられたそれは、まるで本物の仏が宿ったかのような神々しさを見せる。それと同じように、ただの人間からこの領域にまで辿り着いたシャーロックは、もはや超人的な空気をその身に纏っていた。

 闘争の果てには神や仏すらも斬殺する意志を持つミヤビではあるが、それは無駄な決意だったとイ・ウーに来てから悟った。そのようなものを斬って、一体何の意味があるというのか。例えこの男を斬ることに成功したとしても、それで自分の中に何一つとして悦が齎されるとは思えない。それこそ、無駄な殺生というものだろう。

 

(早く死ねばいいのになぁ、こいつ)

 

 口には出さないが、ミヤビは内心でいつもそんなことを思っている。

 意外かもしれないが、ミヤビが心の底からこのようなことを思っている相手は、今のところシャーロックただ一人である。好意の反対は無関心と言うが、シャーロックという存在はミヤビにとって無関心にするには強大すぎたのだ。だからこそシャーロックはミヤビの“嫌い”という領域でまだ留まっている。

 しかしそんな考えすらも見透かしているのか、シャーロックは悠然と微笑むだけだった。

 

「それで、用がないならもう帰ってもいいですか? 貴重な時間を無駄にしたくないので」

「おや、僕との会話は無駄かな? それは悲しいね」

「こっちはありがたくもない説教を受けるために呼び出されたんです。聞く気もない説教を聞かされるのは間違いなく無駄です。馬耳東風で行かせてもらいます」

 

 ミヤビはおっとりした見た目に反して、結論ありきの会話を求めるというせっかちな性格だった。

 キロッとシャーロックに無機質な視線をやるミヤビは、しかしその実それほど不機嫌ではない。流石のミヤビも、これが話の前置きであることはわかっている。要は「さっさと本題に移れよ」ということだった。若干の苛立ちを感じつつも、即座に席を立つほどではない。

 そんな無言の抗議に答えるように、シャーロックはソーサーにカップを置いた。そして「さて」と表情を真面目なものに変えると、さっそくとばかりに話を切り出す。

 

「それでは本題に入ろう。これから言うのは、イ・ウーの教授としての“命令”だ。よってこの組織で私の下に就く人間として、君には従ってもらいたい」

 

 シャーロックのその言葉に、ミヤビは戸惑うことなく頷いた。

 

「理解しました。それで、その命令とは? 先程の学校と何か関係が?」

「ああ、その通りだ。君には、日本のとある学校に“通って”もらいたい」

「……はぁ?」

 

 一転して、ミヤビは戸惑いの表情を浮かべた。その言葉を聞いて数秒間、ミヤビは己の聴覚を疑ったほどである。

 

「……よりにもよって学生になれと?」

 

 目を瞬かせるミヤビに、シャーロックは悠然と頷いた。

 ミヤビにとっては想定外の発言だった。というよりも、あり得ないと言っても過言ではない。ミヤビは自分が集団行動を強要される学校に通うなど、それは決して耐えられることではないだろうと語るまでもなく理解している。というよりも、ミヤビは戦いに集中するために無法者となったのだ。社会に適応している暇があったら修行しろ、戦えと、そのために村を抜けたのだ。だというのにそれを遅らせることが明らかな学生生活を送るなど、本末転倒もいいところである。

 

「マジですか……」

 

 先程の前置きから本当に薄々と学校関連の命令だと察してはいたミヤビだったが、その中でも特にあり得ないと判断していた可能性をピンポイントで突かれるとは流石に思っていなかった。というよりも、ミヤビの予想としては生徒か教師の暗殺、あるいは拉致の依頼の方が可能性が高いとすら考えていたというのに。

 それがまさか、学生になれとは。

 

「命令ということは、それはイ・ウーとしての任務ということですよね? 任務の詳細説明を希望します」

「なに、そう難しく考えることはない。君は普通に学校に通い、私が良いと言うまでそこで一生徒として生活してくれればいい。それ以外には何も望まない。好きにしたまえ」

「はぐらかさないでください。あなたは、ボクに、何をさせるつもりなんですか? 英国人ならば5W1Hをハッキリさせてください」

 

 ミヤビの疑問は尤もだった。ミヤビは、イ・ウーの戦闘員なのだ。その技術は戦場でこそ活きる。逆に言えば、戦でしか活躍できない武力一辺倒の人間なのだ。それを一般社会に放り込むだけして、後は何もするなとは。全く以って理解しがたい命令だった。何か裏があると考えるのは自然なことだろう。

 しかしシャーロックは何も語ろうとしない。ただ、いつも通りの超然とした雰囲気でそこにいるだけだ。

 

「別に、何も。こればかりは本当だ。僕は昔から口が回るとは言われるが、嘘はそうそう言わない。君は安心して学生生活を送るといい」

「…………」

 

 これ以上は無駄とミヤビは悟った。

 きっとシャーロックの頭蓋に秘められた明晰な頭脳では、ミヤビという“駒”を有効活用するための道筋が出来あがっているのだろう。そしてその道筋を進むためには、ミヤビが詳細を知るべきではないと判断した。だから何も話さないのだ。それを知ることは、シャーロックにとって都合が悪いことなのだろう。

 だが、大まかな予想はできる。シャーロックの命令通りにどこかの学校に通うとして、そこでミヤビがミヤビらしく、あるいは予知にあえて逆らう形でミヤビらしくなく行動することが引き鉄(トリガー)となり、結果的に“何か”が起こる。その“何か”をシャーロックは狙っているのだ。そうでなければ、シャーロックが無駄に人員を外部に配置するはずがない。

 もしくは、ミヤビをボストーク号から遠ざけることが目的なのか……

 

「……それは、事実上の解雇(クビ)と受け取って良いのですか?」

 

 常識的に考えれば、これは組織からの締め出しだ。一般企業にもある、窓際部署に追いやる手口と似ている。そう考えるのならば納得なのだが――というよりも、できればその方が助かる。それならば、後顧の憂いなくこの男の下を去れるのだ。後はフリーランスに戻るも良し、古巣の組織に戻るも良し。そういえば、中国に残してきた友人は今頃どうしているだろうか。重い病気が原因で前線から退くことも考えていると聞いたが、病状はどうなっているのだろうか。

 

「難しく考えることはない、と言っただろう? 一種の長期休暇とでも思って、数年間は外の空気を吸ってくるといい」

 

 ミヤビの思考を遮るように、シャーロックはそう口にした。それに対し、ミヤビは不機嫌そうな表情を隠すこともなく口元をへの字に歪める。どうやら答えるつもりはないらしい。

 いっそのこと本当にイ・ウーを退学してしまおうかと考えるが、シャーロックならばこの原子力潜水艦(ボストーク号)で海の果てまで追いかけてくるだろう。財力も機動力も上回るシャーロックから逃げ果せるのは、流石に難しい。迎え撃つのも、緋弾という切り札を不完全ながらも操ってみせる彼にはとても難しい。――無論、不可能などとは毛頭思っていないが。

 

(ここは従うしかないか)

 

 そうして嫌々ながらも納得しかけたミヤビは、渋々頷こうと思考を切り替える。

 その時だった。シャーロックが思いも寄らぬ話を始めたのは。

 

「ところでミヤビくん。君は“神武不殺”という言葉を知っているかね?」

「……はい?」

 

 全く関係ない話題に、ミヤビは虚を突かれた。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

「というわけで、学校デビューすることになりました」

 

 あからさまに不機嫌な様子で言い放たれたミヤビのその言葉に、その場がシンと静まり返る。

 自室へと戻ってきたミヤビは、イ・ウー同期のメンバーを集めて報告会を行っていた。普段はそれぞれがバラバラに動いている彼女たちであったが、ミヤビがボストーク号から長く離れることは流石に報告せねばなるまい。

 そう思っての招集だったのだが……

 

「ワンちゃん、いつかは来ると思ってたけど、とうとうイ・ウーを退学に……」

「教授に呼び出しを命令された時にもしやとは思ったが、やはりか」

「むしろ遅すぎたと私は思うわ。私が教授の立場なら、そもそもミヤビを組織になんて勧誘しないし。教授もとうとう人選ミスに気付いたということね」

 

 散々な反応だった。

 ミヤビは云わば出向や異動のような感覚で説明したというのに、彼女たちには退学と捉えられたらしい。しかも、どこか納得している節がある。ミヤビはそれが非常に不愉快だった。

 そして今のミヤビは、諸事情によって非常に機嫌が悪い。だが見た目は子供でも頭脳は大人なミヤビは、失礼なことを口走った友人たちをそれぞれ拳骨一発で許せるくらいには大人だった。ちなみに、殴った際に頭蓋骨が妙な音を立てていたが、一発は一発である。

 

「それにしても、あなたがよく学校に通うことに納得したわね。結構ゴネたんじゃないの?」

 

 濃紺のセーラー服を纏う黒髪の少女――夾竹桃は、煙管を片手に静かに疑問を口にした。ちなみに、残った手は殴られた部分を震えながら押さえている。

 愛らしい容姿と甘ったるい美声で擬態してこそいるが、彼女たちが知るミヤビは修行と闘争を人生の生き甲斐にしている変態である。「実戦なくして修行なし、修行なくして実戦なし」と豪語するほど無類の戦闘狂であるミヤビが、生活の八割を拘束されると言われる学生生活にシャーロックの命令とはいえ応じる理由がわからなかった。

 そんな夾竹桃の疑問に答えるように、ミヤビは「ちゅ~も~く」と何かを広げて見せた。そこに記載されていた文字に三人が注目する。

 

「神奈川武偵高付属中学? ……って、武偵!? ワンちゃん武偵になるの!?」

「ワンちゃん言うなし」

 

 癖のある金髪をツーサイドアップにした少女――峰理子・リュパン4世は、驚愕に目を見開いた。だが、それも無理からぬことだろう。無法者の頂点であるシャーロックのチョイスが、まさかの武装探偵養成学校だったのだから。ミヤビが広げたパンフレットには、デカデカと学校の校舎の写真が掲載されている。

 『武装探偵』とは、凶悪化の一途を辿る犯罪に対して警察では対処できないと判断した政府が認めた職業である。俗に『武偵』と呼ばれる彼らは犯罪者を逮捕する権限、及び武器の所持を認められており、報酬金によってあらゆる荒事を行う何でも屋なのだ。欧州や米国では比較的前から存在していた職業ではあったが、戦後になってからは犯罪が凶悪化の一途を辿る日本にも導入されたという。

 そして武偵高とは、その武偵となるための人材を育成するための公共機関なのだ。

 

「よりにもよって武偵とはな。なんだ? 合法的に武装できることに魅力でも感じたのか?」

「それは少しあるけど、本来の目的とは違うよ。……ぼ、ボクはね、ここ、で……て、てて、“手加減の練習”をするっ、こここ、ことが、ことが決まりまっ、ました……」

 

 屈辱に表情を歪めたミヤビは、憎しみだけで人が殺せるのではないかというほど殺気立っていた。表情は怒りのあまり逆に薄く笑みが浮かんでおり、呼吸が儘ならないほどに声が震えている。蟀谷には薄っすらと血管が浮き出ており、憤怒を必死に制していることが察せられる。

 その様子に、一同の表情を不安の雲が陰らせた。このミヤビが不機嫌な場合、大抵は直接的にしろ間接的にしろ周囲に被害を撒き散らすのだ。そして恐らく、この被害を受けるのは神奈川武偵高付属中の人間だろう。顔も見たことがないジャンヌたちだったが、密かに内心で合掌した。ジャンヌたちにできるのは、精々が廃校にならないよう祈ることのみである。

 そんなジャンヌたちの祈りを余所に、ミヤビは怒りのあまり頭痛がし始めたのか、頭を押さえて深呼吸をしている。

 

「……ジャンヌは、“神武不殺”という言葉を知ってる?」

「シンブフサツ……? いや、知らんな。何だそれは」

「はいはーい! 理子りん知ってます! マンガとかでよくあるアレだよね! 『殺さないことが本当の強さだ!』的なアレですよね!」

「……ああ。そんなの聞いたことがあるわね」

 

 勢いよく手を上げた理子が目を輝かせる。

 “神武不殺”の概念は、正確なところでは意味が違う。本来の意味は、『無闇に敵に攻撃を仕掛けず、その武の圧倒的な力によって戦いそのものを起こさせない』という、どこかの学園都市の第一位の目指した境地のことだ。元は易経に記されている君主の理想像を指す言葉なのだが、日本では誤った意味で解釈されていることが多い。

 この場合の理子が言っているのは、恐らく『活人の道こそが最強の武術』的な意味のことだろう。しかし、ミヤビは理子たちが誤用で意味を覚えていることを前提に話すつもりだったので、これは都合が良いと言えるだろう。この手の書籍に詳しいココが聞けば顔を真っ赤にして怒るだろうが、そこは勘弁してほしい。

 ちなみに本来の意味で用いるのならば、神武不殺はミヤビと最も対極に位置する言葉であり、同時にミヤビが最も嫌う言葉である。わざわざ強くなったというのに、それで戦わなくなってしまっては本末転倒だからだ。

 

「武偵は“不殺”が原則――つまり容易に殺しができない環境。逆に言えば、武偵となることでボクは強制的に殺人剣を封じられることとなる」

 

 武偵法9条――武偵は如何なる状況に於いても、その武偵活動中に人を殺害してはならない。

 この法律によって、武偵は殺人を制限されている。国によっては条件付きでそれを解禁されてこそいるが、基本的には不殺を強要されていると言っていい。特に日本はその傾向が強く、条文にあるようにどんな状況であろうとも殺人は許可されない。それはつまり、敵の犯罪者の無力化のために武偵は命をかけなければならないということだ。そしてそれを実行するには、犯罪者たちとは隔絶した戦闘能力を必要されることに他ならない。

 不殺――ミヤビとは明らかに縁遠い言葉だ。無論、ミヤビとて気分によっては敵を殺さないこともある。だが、戦った相手の大半は躊躇なく殺してきたことも事実。そんなミヤビにとって、不殺という究極の手加減は非常に面倒で難解なものだった。というか、敵は殺すものであって、わざわざ積極的に手加減する意味がわからない。

 では、なぜミヤビが不殺などというものに手を伸ばすこととなったのか。それは――

 

 

「お前、戦いしか取り柄ねぇのに不殺もできねぇのな。未熟者m9(^Д^)プギャーwww」

 

 

 というようなことをシャーロックに言われたためである。当然ながらこれにはミヤビの被害妄想が多分に入り混じっているが、大筋では間違っていない。

 これにプライドを刺激されたミヤビは、「不殺くらいいくらでもやってやるしッ!」と脊髄反射の領域で返答してしまったのだ。我に返った時にはもう遅い。世界最強の頭脳には、先程のミヤビの宣言が記憶されてしまっていた。

 無論、これはシャーロックしか知らない。動画が残っているわけでもなければ、レコーダーに録音されたわけでもない。だが、もしもミヤビがこの“不殺の誓い”を破ってしまえば、その時はミヤビのプライドはズタズタだ。一生シャーロックに後ろ指を指されても文句が言えなくなる。それだけは断じて許せなかった。

 

「狸爺がッ! ああやるよ、やってやりますよ! 殺さなきゃいいんでしょうがッ! わざわざ特別に戸籍まで用意して編入を認めてくれてありがとうございますよぉー!」

『お、おう……』

 

 ほいほいと武偵高行きに乗せられてしまっているミヤビ。同期として、これは大丈夫なのだろうかと一同は素直に心配になった。どう考えてもシャーロックの口車に乗せられているようにしか思えなかったが、まぁミヤビ自身がやる気でいるのならばあえて口出しはするまい。

 それに例えシャーロックの策略にまんまと嵌って危機に陥ったとしても、ミヤビならば自力で逃げることができるだろう。いざとなったら、お得意の剣術でバリバリ人を斬って強行突破すれば良い。

 というよりも、ミヤビのことは心配するだけ無駄だ。むしろそのまま厄介事を引き連れて戻ってくることを警戒しなければ。この疫病神は厄介事を引き連れるだけ引き連れて、他人にそれらを擦り付けて逃走するというMPKのような卑劣な手段を平気で取ってくる。用心しなければなるまい。

 

「……それにしても、潜入(スリップ)先が何故この学校なのだ? 武偵高ならば日本各地にあるだろうに。それこそ、日本だけでなく世界中にだ」

「さぁ? あのミラクル頭脳の腐れ名探偵が言うんだから、何か適当に理由でもあるんじゃないんスか? 武偵高には強力な血族の子孫も多く来るって言うし、そういう人たちの勧誘の拠点にでもするつもりなのかもしれねッスよ」

 

 すっかりやさぐれたミヤビは、備え付けのソファでふて寝していた。もはや答えも適当になり、すっかりキャラがぶれている。

 だが、ミヤビのその程度の奇行を気にするような人間は三人の中にはいなかった。

 

「なるほど……一理あるわね」

「青田買い、もとい青田浚いッスか。若い内に将来有望な子を浚って、自分好みに育てる……ハッ!? これ、なんて光源氏計画?」

「……まぁ、場所云々はどうでもいい。荒事が多そうだが、お前ならばうまく適応できるだろう。学力は、まぁ何とかしろ。だが問題なのは、お前の服装だ」

 

 ジャンヌのその言葉に、理子と夾竹桃はハッとした。

 そう、二人は肝心なことを忘れていたのだ

 今のミヤビの服装は、普段から着用している女性用の服装である。しかし――

 

「ミヤビ、お前はどっちの制服で行く気なんだ?」

 

 ミヤビは男なのだ。

 もしもミヤビがこのまま男としていくのならば何も問題ない。いや、行った先の学校で色々と問題になるかもしれないが、

 だが、もしも女として編入することになれば……

 

「……その発想は……なかった」

 

 流石のミヤビもこれには瞠目している。

 神武不殺という目先の出来事に囚われ過ぎて、肝心なことを忘れていたのだろう。もはやふて寝すらできなくなったミヤビは、オロオロと助けを求めるように同期の三人を見回した。さながらそれは弱り切った仔犬のように慈愛を誘う目だったが、理子は気まずげに目を逸らし、ジャンヌは我関せずと視線を合わせず、夾竹桃はそもそも興味がなさそうだった。

 友軍壊滅、我孤立セリ。

 

「ど、どどどどどどどど――」

「童貞ちゃうわっ!」

「ごめん理子、マジでうるさい! というか、本当にどうしよう!? えっ、本当にどうすればいいの!? 戸籍では普通に男性だったのに、ボクはパンフにあった派手なセーラー服で学校に堂々と通わなくちゃいけないの!? そんなのただの変態じゃん! でもブレザーとか絶対に似合わない! というか、そもそもウチの一族の伝統が――でも流石にセーラー服は――でも――いや――しかし――」

「私は似合うと思うわよ? セーラー服」

「それは知ってんだよ! 問題なのはブレザーとズボンが似合わないことなの!」

「ミヤビ、お前何気に凄いことを言っているぞ」

 

 セーラー服が似合ってしまう男子中学生には、先程までの冷静さはもはやない。

 完全にパニックに陥ったミヤビは、その場をグルグルと歩き回りながら「どうしようどうしよう」と呟き続けている。

 

「あら?」

 

 ミヤビのエンドレスな徘徊を遮ったのは、意外にも夾竹桃だった。

 ミヤビたち三人の視線が夾竹桃に向かうと、彼女は床に落ちている一枚の折り畳まれた紙を拾い上げる。

 

「何それ?」

「パンフに挟まっていたわ」

 

 夾竹桃の差し出したそれを受け取ったミヤビは、脳内の危機センサーが警鐘を鳴らし始めたのを感じた。

 このセンサーを感じた時は、大抵の場合碌でもない状況に追い込まれているのだ。狙撃手に背中を狙われていたり、部屋にブービートラップが仕掛けられていたり、身近なところだと靴に画鋲が仕込まれていたりする。となれば心の準備もなしに突撃すると、最悪ショック死するかもしれない。それほどの覚悟をミヤビは今決めているところなのだ。

 

「ワンちゃん、何書いてあるの~?」

「ちょっと待って、心の準備をさせて」

 

 理子の催促に、しかしミヤビは手が震えて上手く紙を開けない。

 それでも無理やり震えを抑えつけたミヤビは、深呼吸した後に思い切って紙を開く。

 

「…………あびゃぁ~」

 

 数秒後、文章を読み終えたミヤビは白目を剥いて失神した。

 

 

 

 

 



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第3弾

『やがて魔劔のアリスベル』のコミックがついに発売!
キリコが凄く可愛くなってて驚きました。ちなみに私が一番好きなキャラは鵺です。


 時は平成、世は太平。

 世界は核の炎に包まれることもなく、概ね平和だった。

 昨今では日本も欧米化の煽りを受けて銃が普及するようになったためか、犯罪が凶悪化する傾向にこそあるものの、一般人にとっては「ニュースで専門家がそんなことを言ってるなぁ」という程度にしか感じないだろう。

 さて、そんな平和な日本の関東地方、その神奈川県に、神奈川武偵高付属中学校という学校がある。

 現在、この学校ではとある事件が起こっていた。

 

「どけッ、どけぇッ!」

 

 ひとりの少年が渡り廊下を駆ける。

 息を切らし、視線を周囲に巡らせ、まるで何かから逃げ出すように表情は恐怖に染まっている。

 右手には愛銃のグロック19、左手には両刃のコンバットナイフが握られていた。

 

「クソッ、あの女どもめ! とうとう“あいつ”を出してきやがったッ!」

 

 恐怖を紛らわすかのように少年は叫ぶ。

 必死の形相で走る彼に道を譲るように他の生徒たちは廊下の端に寄り、しかし誰も少年の異常な行動に関心を持たない。

 否、正確には持とうとしない。

 余計なことに首を突っ込めば、次には自分があの少年のように逃げ惑うこととなる。

 この神奈川武偵高付属中学に通う生徒ならば、それは半ば常識だった。

 触らぬ神に祟りなし――そして、走り続ける少年はその神への生贄のようなものである。彼が大人しく犠牲になれば、再び平和は訪れるのだ。

 それならば、ここは何もせずに静観するのがこの学校で生き抜くための最善である。

 

「あ、ああっ、あああああああ……」

 

 人波を掻き分けて走っていた彼が、唐突に足を止めた。

 少年の眼前に聳え立つのは、まさに絶望的な光景――即ち行き止まり。

 そして少年は、選択を誤ったことに気付いた。右方へと目を向ければ、窓から見える校庭によって自分が居るのが四階だということに気付かされる。

 ワイヤーを使えば壁伝いにリぺリングすることはできるが、そのような時間を迫る追跡者が与えてくれることはないだろう。

 そして左方には特別教室があり、そこは現在施錠されている。無理やりぶち破るという発想は、武偵高の防弾扉の耐久性を考えると実用的ではない。

 まさに八方手詰まり。

 少年に打てる手は、もはや追跡者を一騎打ちにて撃退するしかない。

 そしてそれは、不可能だ――それはこの学校の生徒ならば誰でもわかる。

 だが、残された道がそれしかないならば……

 

「……やってやるよ」

 

 深く息を吸った少年は、背後から迫る足音を確認した。

 足音は一つ――奴だ。

 ならば容赦は必要ない。

 覚悟を決めた少年は、背後の追跡者へと振り向き様に発砲。マズルフラッシュが閃き、亜音速のパラべラム弾が追跡者を迎撃した。

 だが――

 

「……嘘だろ、おい」

 

 完全な不意討ちのはずだった。

 もし自分が今の銃撃を浴びせられたならば、なす術もなく胸元に一発食らっていた。

 そんな攻撃を、追跡者はあろうことか軽々と躱して見せた。

 弾丸は敵の防弾制服に掠ることもなく、廊下の向こうへと消えていく。

 

「無駄だ」

「うるせぇ!」

 

 再び発砲。

 残りの弾丸を全て使い切る心持ちで、少年は銃爪を引き続けた。

 少年の反撃に溜め息を吐いた追跡者は、表情を変えることもなく身を翻す。

 迫り来る弾丸を易々と躱しながら、しかし一歩一歩と確実に少年へと近づいていった。

 

「う、おおおおおおああああああああ!!」

 

 少年の雄叫びが校舎に響く。

 しかしそれも空しく、追跡者は少年を間合いに収めてしまった。

 

「無駄だと言っただろう」

 

 追跡者の前蹴りが、グロックのグリップを蹴り上げる。

 少年の手を離れたグロックが天井に激突し、それと同時に高速の拳が少年の頬を強かに撃ち抜いた。

 脳を揺らす強力な一撃に呻いた少年だったが、追跡者は休む暇も与えずに回し蹴りを胴へと叩き込む。少年の身体は軽々と宙に浮き、そのまま壁へと背中から衝突した。その拍子に、手元からナイフが滑り落ちる。

 三撃――少年を制圧するのに用いたのは、たったこれだけだった。

 しかし、全ての攻撃が尋常な威力ではなく、周囲からは息も吐く間すらない連撃として映った。これでは流石の武偵高の生徒であっても、手も足も出ない。

 

「お前は昨日、3年B組のとある女子に告白をしたそうだな。そして、あろうことかそれを断った彼女に付き纏っているとか。全く、淑女(レディー)の扱いがまるでなっていない」

 

 さらに一撃――廊下に転がる少年の腹に、爪先が突き刺さる。

 呻く少年に、しかし敵はまるで容赦しない。

 さらに一撃、そしてもう一撃。

 周囲の人間が目を逸らすような惨状に、しかし彼は表情ひとつ動かさなかった。

 

「いいか。彼女にこれ以上纏わり付いてみろ。その時は……わかっているだろうな?」

 

 襟を掴み上げた彼は、片手で軽々と少年を持ち上げる。

 そして低い声で少年に囁くと、そのまま廊下の隅へ投げ捨てた。

 そのまま踵を返し、彼は悠々と来た道へと去っていく。後に残されたのは、呻きながら廊下に転がる少年だけ。

 その光景を、他の生徒たちは恐怖の表情と共に見ているしかなかった。

 

「……悪魔め」

 

 誰かがそう呟く。

 そしてそれこそが、その場の――否、この学校の生徒たちの総意だった。

 

 この学校には、最強にして最悪の武偵が存在する。

 

 曰く、彼は並みの生徒では敵わないほどの戦闘能力を持ち、数による打倒も今のところ果たされていない。

 曰く、彼はあらゆる女子の味方で、太腿を軽く見せるだけで何でも従う変態である。

 曰く、彼の戦闘能力はSランク並みという。

 曰く、彼は二年生の頃、既に三年への上勝ちにも成功している。

 曰く、彼は銃弾を目で見切れる。

 

 様々な噂が飛び交う、神奈川武偵高付属中学校(カナチュー)の“正義の味方”。

 彼の名前を、生徒たちは畏怖、憎悪、羨望、恐怖などの様々な感情を込めて呼ぶ。

 

 

 その者の名は――遠山キンジ。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

「死にたい」

 

 今にも死にそうな声で呟いたのは、神奈川武偵高付属中学校の“正義の味方”――遠山キンジである。

 現在彼は、ホームルーム前の教室の自分の机で突っ伏していた。

 

「マジで死にたい」

 

 そう呟く彼の周囲には、遠巻きに彼を眺めるクラスメイトが居る。

 しかし誰一人としてキンジに声をかけてくる者は居らず、それどころかキンジの動きを警戒しているようだった。

 

(やっちまった。俺の馬鹿野郎が)

 

 今朝の自分の所業を思い出したキンジは、思わず拳銃自殺したい衝動に駆られた。

 というのも、今朝、彼はいつものように(・・・・・・・)女子にいいように扱われ、登校直後の――恐らくは冤罪であろう――男子生徒を粛清することとなったのだ。

 彼には本当に悪いことをしたという罪悪感と同時に、抑えきれない女子たちへの嫌悪感に吐き気すら催してくる。

 それもこれも、原因は己の特殊な体質にあった。

 “HSS――ヒステリア・サヴァン・シンドローム”という遺伝性の体質がある。

 これは遠山家に代々伝わる体質で、ある一定の条件を満たすと神経伝達物質を媒介し大脳・小脳・精髄といった中枢神経系の活動が劇的に亢進され、つまりは超人的な身体能力を得ることができるのだ。

 この体質により、キンジはこの学校でも最強クラスの戦闘能力を誇っている。

 だが、その肝心の条件というのがキンジの悩みの種であった。

 

 その条件とは――即ち“性的興奮”である。

 

 これによってβエンドルフィンが一定以上分泌されることで、キンジはHSSを発現させることができる。

 しかしこれは、キンジにとっての最強の武器となると同時に最大の弱点となった。

 詳しい説明は省略するが、HSS――キンジはヒステリアモードと呼んでいる――を発現したキンジは、女性の言うことに逆らえなくなってしまうのだ。

 そして最悪なことに、詳細はわからないまでもキンジのこの体質に気付いた一部の女子たちが出てきたのだ。この女子たちは次第にキンジのこの体質を悪用するようになり、今となっては私的な復讐目的や私刑のために自分の身体を使って発現させるようになった。

 このような経緯があり、キンジは一部の女子にとっての“正義の味方となった。最初こそキンジも女子たちに抵抗していたものの、初心なキンジでは女子たちの誘惑に耐え切ることができなかった。

 そして、その結果が今朝のような事態へと繋がってしまっている。

 

 ――どうしてこうなってしまったのか。

 

 そんな思いでキンジの胸はいっぱいだった。

 普通に武偵を目指しているだけだった。兄のような立派な武偵になりたいと、自分なりに頑張ってきたつもりだった。

 正義のためにこの力を使い、いつか誰かの役に立とうと努力してきた。

 しかし、その結果がこれ(・・)とは。

 一体、自分が何をしたと言うのか。

 

「こんな日々が、これからも続くのか……?」

 

 キンジは既に中学三年。この学校に居るのは残り一年間ではあるが、今はまだ一学期だ。

 この学校を離れるにしても、卒業までまだ一年はある。

 それまでの間、自分はずっとあの女子たちの奴隷として誰かを傷つけ続けることとなるのだろうか。

 

「……転校したいな」

 

 自然とそんな言葉が漏れていた。

 自分のことを誰も知らない新天地に移り、そこで何もかもやり直したかった。

 もちろん、三年のこの時期に他の学校へ移るとなれば人間関係などの構築が難しくなるだろう。しかし、この学校の生徒たちよりは何倍も楽なはずだ。なにせ、現在のキンジはあらゆる生徒から恐れられる“正義の味方”なのだから。

 

「……正義の味方、ねぇ」

 

 あまりの滑稽さに、思わず失笑してしまう。

 一体、今の自分のどこに“義”があるというのだろう。女子に言われるままに他人を痛めつけ、奴隷のように傅く。

 こんな自分の姿を、憧れの兄が見れば何と言うだろうか。

 とりあえず確かなことは、間違いなく一発ぶん殴られるだろうということだ。

 

「…………死にたい」

 

 先程よりも重い溜め息が漏れる。

 その時、教室の前方にある扉が開いた。キンジがのっそりと顔を上げると、担任の男性教師が教室に入ってくるところだった。

 

「おーい、お前ら。席に着けぇ」

 

 軽く教室を見回した彼は、生徒たちが席に着くのを見計らうとホームルームを始めた。

 そんな最中、キンジは何をすることもなく窓の外を眺める。

 何か連絡事項を教師が話していた気がしたが、朝から鬱々真っ盛りのキンジには既にそれを聞く気力はなかった。

 しかし、次に教師の口から出た言葉には流石に視線をやってしまう。

 

「えー、突然だが、ウチのクラスに転校生が来た」

 

 シンと教室が静まり返る。

 そして数秒後、教室の各所でヒソヒソと囁き声。

 

(へぇ、珍しいな)

 

 キンジとしても、転校生の話は驚きだった――事前情報が皆無だったという意味で。

 武偵高では、あらゆる情報の拡散が異常に早い。これは情報共有や情報売買などが命運を左右する職業である武偵の職業病のようなもので、噂や確定情報に関わりなく、あらゆる情報が学校中を飛び交っている。そんな武偵高で、“転校生”などというビッグニュースの噂すら聞こえないのは非常に珍しい。

 友達の全く居ないキンジが知らないならまだしも、周囲の生徒たちの様子から鑑みるに、本当に何の情報もなかったのは明白だ。

 

「お前らが驚くのも無理はない。“彼女”は一週間前に突然転入が決まり、編入の手続きや試験などを最速で消化する形で入ってきたからな。先生も転校生がウチのクラスに来るということを知ったのは一昨日だ」

 

 “彼女”――その言葉に、教室中の男子が沸いた。歓声が上がり、ノリの良い者は口笛をピーピーと吹き鳴らしている。その一方で、キンジは転入生が女子ということにゲンナリとした気分になった。鬱々だった気分が悪化し、感覚的には鬱々々くらいな感じだ。具体的に言うならば、ますます転校したくなった。

 

「それじゃあ、転校生。入りなさい」

「はい」

 

 高い、そして澄んだ声。

 それだけでクラスの男子たちがどよめく。

 そして彼女は防弾扉を開け、ゆっくりとその姿を現した。

 

「一般中から転校してきました。“大塚(おおつか)(みやび)です。宜しく」

 

 黒板に自分の名前を書いた彼女――ミヤビは、軽く頭を下げる。

 その様は、まさに可憐で清楚なお嬢様だった。

 

 そこに居たのは、儚げな美少女。

 

 身長は140センチと少しほどという、小学生のような小柄な体型だった。中学生でギリギリ通用するかというほどの低身長だ。それに比例するように肩幅も小さい。顔立ちは童顔で、大きな瞳もその愛らしさを助長している。腰まで届くであろう長い黒髪は、所々に赤毛が混じるという変わった色彩をしている。だが、手入れが行き届いているのか美しい艶があった。

 制服は成長を見込んで大き目のものを選んだのか、ややサイズが合っていない。袖によって掌は半分ほど隠れており、全体的にだぼっとした雰囲気である。まさに服に着られているといった状態で、普段は武偵高の生徒の身を守る防弾制服がまるでコスプレの衣装のようだ。

 そして目立つのは、腰に下げられたブツ(・・)。派手な柄のカービングベルトをスカートの上から巻き、そしてそこには黒塗りの鞘に納められた日本刀が差されていた。そしてハッキリとはわからないが、その刀からは押し殺されるような重い“ナニカ”を感じる。少女の歩き方も、刀を腰に差しているというのに全く不自然さがない。恐らくは、稀に武偵高に現れる『前からさん』という人種だろう。

 

 だが、彼女の最も特徴的な部分は、刀でも容姿でもない。

 

 クラスの全員がまずその点に気付き、そこから目を逸らすことができなくなった。

 男子たちは歓声をピタリと止め、女子たちは囁き声をすることも忘れてそこ(・・)を注視する。

 かく言うキンジも、周囲の生徒たちと同じようにその特徴に絶句していた。

 

 

 その少女は、なんか目が死んでいた。

 

 

 まるでドブのように濁り、死んだ魚のように生気がなく、亡者のように活力がない。幼くも美しい容姿は完全にその瞳の圧力に屈し、もはや死んでいる目に美少女と刀がくっついているように錯覚するほどだった。

 一体、どのような経験を経ればあのような目になるというのか。

 

「それじゃあ、大塚の席は遠山の隣だ。ほら、あの眼つきが悪いあいつの隣、あそこ」

 

 転校生の姿を観察していたキンジは、自分の名前が呼ばれたことを呼び水に我に返った。教師の言葉を理解すると同時に、グルリと首を隣へと巡らせる。

 窓際二列目の最後方――キンジの隣には、確かに普段は誰も使っていない予備席が鎮座していた。普段は誰かの荷物置き場などに使われるその席は、なるほど転校生のための席としては最適だろう。

 

(マジかよ!? よりにもよってなんでここなんだ!)

 

 窓際一列目最後方のキンジは、自分の隣に女子が来るという事実に呻いた。辛うじて頭こそ抱えなかったものの、人目がなければ絶望に膝を突いていたかもしれない。そしてキンジがそうこうしている内に、ミヤビは隣の席に着いてしまった。

 腰の刀を席に立てかけたミヤビは、鞄から教科書を取り出すと机に仕舞っていく。その光景を口元を引き攣らせて見ていたキンジは、顔を上げたミヤビと視線が合ってしまった。思わず目を逸らそうとしたキンジは、しかしミヤビがジッと自分を見つめてくるのに気付いて目を逸らすことができなくなった。

 

(な、何だこいつは……)

 

 すぐに視線を外そうとしたキンジは、背中に悪寒が走るのを感じて動きを止めた。ミヤビの瞳を見てキンジが感じたのは、大きな不安。何が不安なのかと聞かれれば返事に困るが、あえて言うのならば『何をするのか予測できない』という得体の知れない感覚だろうか。

 その瞳からは負の感情が滲み出ており、それは怒りであり絶望であり、さらには憎悪でもあった。その濁り切った目から視線を逸らしてしまえば、即座に傍らの刀で斬られるのではないかという妄想染みたことまで考えてしまう。

 

「宜しく」

 

 その言葉でキンジは正気に戻った。既にミヤビはキンジから視線を外している。

 背筋をピンと伸ばし、視線は教卓の教師へと固定。足を揃え、手はお膝。その姿からは、どことなく育ちの良さを感じさせた――目以外は。

 

「あ、ああ、これから宜しくな」

 

 キンジにはそう返すので精一杯だった。この奇妙な転校生の圧倒的な存在感に呑まれたキンジは、もはや返事すら覚束ない。

 何はともあれ、キンジはようやくその濁り切った視線から解放されたことに胸を撫で下ろす。どうやら今日は特大の厄日らしい。自然とそう思ったキンジは、盛大な溜め息を吐いた。

 

(女だからって理由もあるが、この明らかに厄介そうな転校生とはできるだけ関わらないようにしよう)

 

 自然とそのような考えに至ったキンジは、なるべく隣の席を視界に入れないように前を向いた。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 『転装生(チェンジ)』という制度がある。

 この制度は、女子が男子のフリ、あるいは逆に男子が女子のフリをして武偵高に通うというもので、武偵高では一学年にだいたい一人か二人は通っているものらしい。これは特殊条件下における犯罪捜査に備えるための制度であり、教務課(マスターズ)に申請した後にいくつかの審査を潜り抜ければ許可される特殊な生徒だ。その審査の内容は、主に面談などによって異性装の完成度を確かめるものが多い。

 ミヤビはこの審査を当然のように合格し、そのまま転装生として武偵高に通うことになってしまった。いくら何でもこれはあんまりだろう。ミヤビのプライドに誓って武偵高への潜入は反故にしない所存ではあるが、流石にこれは酷過ぎる。ここまで過酷な状況は想像すらしていなかった。早くも不登校になってしまいそうだ。

 

「死にたい」

 

 教務課棟から教室へ移動する最中、ミヤビは周囲に聞こえない程度の音量で呟いた。もちろん前方を歩く男性教師はもちろん、時折すれ違う他の学校関係者にもだ。

 

「……死にたい」

 

 自分の服装に目を向ければ、そこには何度見ても臙脂色の襟とスカート。学校の制服にしてはとても派手な色彩だ。聞くところによると、武偵高の制服が派手なのは、周囲に「ここに武偵が居るぞ!」とアピールするためらしい。これによって犯罪者の威嚇と、同時に一般人などに武偵だと一目で見分けてもらうという二つの効果があるのだとか。

 それを聞いたミヤビは、哀れな悪魔に魂の救済をする黒い教団の制服を思い出していた。

 

「…………死にたい」

 

 現実逃避もここが限界だ。

 再び襲い来る自殺衝動を懸命に抑えながら、ミヤビはなるべくゆっくりと歩を進めていった。これからこの格好を見ず知らずの大衆の面前に晒さなければならないかと思うと、キリキリと胃が痛む。

 

「あのクソ探偵、次に会ったら絶対に殺す。五体をバラしてマリアナ海溝の底に沈めてやる」

 

 それもこれも、元々の原因はシャーロックだった。こともあろうに彼は、ミヤビに無断で転装生として武偵中に通う手続きを終えていたのだ。そしてそのことは完全に事後承諾。ミヤビが全ての事情を知った時、既に書類申請は通され残るは編入のための試験だけという状況だった。

 しかも試験日は、ミヤビが事情を知った日の翌日だった。シャーロックに抗議する時間も与えられなかったミヤビは大急ぎで荷物を纏め、飛び込むように改造海水気化魚雷(スーパーキャビテーション)『オルクス』に搭乗。

 太平洋の沖ノ鳥島の近辺を潜航していたボストーク号から発ったミヤビは、数時間かけて東京湾に密航。そのまま知り合いの家に荷物を預け、その足で試験会場の武偵高へと向かったのだ。その後、ミヤビはその知り合いの家に居候する形で滞在している。

 

「おい、大塚」

 

 男性教師の声に顔を上げたミヤビは、とある教室の前で足を止めた。

 この大塚という名前――これはミヤビが武偵高に転入するに当たって用意した偽名だ。由来は単純に“犬”の字から一画を抜いただけというものだが、本名を晒すよりはマシだろう。犬塚という苗字は、武術界ではマイナーなものだ。名前を聞いただけでピンとくる人間は極少数だろうが、用心するに越したことはない。しかし偽名が過ぎるとミヤビ自身の反応が不自然になる恐れがあるため、多少の変更で戸籍を作っていた。

 さて、どうやらここがミヤビの教室となるらしい。ざっと見たところ、どうやら扉は防弾性。嵌め込まれた硝子も防弾性。周囲を見渡せば、木製やプラスチック製の設備などはほぼ見当たらない。

 武偵高では発砲が許可されているとのことなので、どうやら流れ弾の対策をされているようだ。

 

(冷静に考えれば、制服も全部防弾性だし)

 

 転校の際、ネクタイからスカート、タイツに至るまでTNKワイヤーを用いた防弾防刃性のものが支給されている。靴は自由だが、転校前の説明によると制服などと同じく防弾及び防刃性のものが推奨されていた。その他、学校から支給されるものは教科書など以外は全て防弾性だ。鞄まで防弾性と言われた時には、流石のミヤビも恐れ入った。

 

「先に俺が入るから、呼んだら入ってこい」

 

 それだけ言うと、彼はのそのそと教室へ入っていった。それからしばらくして、ミヤビの名前が呼ばれる。

 とうとう恐れていた時間が来てしまったことで、ミヤビはなけなしのプライドを捨てた。これから短くとも一年間、自分は女子生徒として学校に通うこととなる。その間、ミヤビは周囲に本当の性別が発覚しないようにしなければならない。

 そして最悪なのは、恐らくシャーロックは性別がバレても転校や退学を許可してくれないだろうということだ。もしもバレたら最後、女装男子(オンナオトコ)と詰られながらこの学校に通うことになる。別に他人の評価など一顧だにしないミヤビであったが、自身の急所を的確に抉られ続ければ長くは持たないだろう。最悪、ネットに顔写真などがばら撒かれれば裏社会の知り合いにすらも笑い者にされる。それだけは何としても避けなければ。

 

「…………死んでしまいたい」

 

 全身から負の感情を滲ませながら、ミヤビは教室へと一歩を踏み出した。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 大抵の学校では、転校生は多かれ少なかれチヤホヤされるものである。

 それはこの武偵中でも変わらず、転校したばかりの生徒には少なからず人が寄ってくる。ある者は興味本位で、ある者は情報収集を目的に、またある者はお節介でと、下心や親切心が入り乱れた歓迎だ。ましてや三年生の一学期中盤という途轍もなく中途半端な時期の転校であれば、興味が全くないという人間の方が少ないだろう。

 

 普通ならば。

 

 そしてキンジは、稀有であろうその逆パターンを目撃していた。

 HRが終わり、授業までには10分程度の時間がある。その時間、生徒たちは授業の準備をするなり、教室を移動するなりに使うのだろう。今日は特に移動教室はないため、生徒たちは束の間の自由時間を手にしていた。そんな中、転校生のミヤビの下には生徒たちが集まって――

 

「…………」

 

 ――くるようなことはなかった。

 ミヤビの発する不可視のオーラのようなものに気圧され、クラスメイトたちは全く寄ってこない。心の壁が全方位に張り巡らされ、通常兵器では破れそうにない。この壁を中和するには、常人を超える精神力とコミュニケーション能力を必要とするだろうことをクラスの全員が感じていた。

 その証拠にキンジの反対側に座るミヤビの隣の席の生徒は、プレッシャーに負けてトイレへと脱出していった。そして退避が遅れたキンジは、窓を背後にして追い詰められるような形で席に閉じ込められていた。まさに背水の陣である。ここより背後に逃げ道はない。

 

「…………」

「…………」

 

 気まずいというレベルを超越した空気に、キンジの背に冷や汗が伝う。

 ミヤビは席に着いたまま一言も話さず、視線は黒板へと固定されていた。身体は微動だにせず、まるで精巧な人形が鎮座しているようだ。しかしその小さな身体から発せられる異様な圧力が、人形には出せない凄みのようなものを滲み出している。

 以前、強襲科の実習で行った爆弾解体の方がまだ気楽だったとキンジは内心で嘆いた。

 

(早く授業が始まってくれ!)

 

 気が付けばキンジは、普段は怠さしか感じない授業を待ち望んでいた。今ならば抜き打ちテストでも歓迎できる。何なら指名を全て自分にしてしまっても構わない。それほどにキンジの心労は凄まじかった。

 そこでキンジは思い切って机に突っ伏し、視覚情報だけでもシャットダウンする。これによって、「自分は寝てますよー」とアピールして気まずさを緩和しようとしたのだ。

 しかしここで、キンジは大きなミスを犯した。目を使わなくなれば、自ずと他の感覚に意識が向くのは必定。突っ伏したキンジは、周囲の囁き声を拾ってしまった。

 

「見ろよ、キンジの奴。あの圧力の前で寝る余裕があるみたいだぞ」

「流石はカナチュー最強。あの程度なら意に介すこともないようだな」

「私だったら絶対に席を立ってる。あのプレッシャーを前にして睡眠なんて、なかなかできることじゃないよ」

「転校生も可愛そうにね。いきなりキンジに喧嘩売る形になっちゃって」

 

 戦慄と畏怖、そして僅かな称賛を秘めたその言葉に、キンジは伏せながら肩を震わせる。どうやら周囲には、自分はこの圧力をものともしていないように映っているらしい。

 止めようのない勘違いが広まったことに、キンジは小さく舌打ちしていた。

 自分は何もしていないというのに、周囲が勝手に自分の姿を曲解して広めていく。本当ならば声を大にして「それは違うよ!」と弾丸のように論破したいが、日頃の行いから考えてそれも無駄だろう。

 

(強いのは、ヒステリアモードの俺なのに! 俺は普通の中学生なんだ!)

 

 そう叫べたら、どれだけ楽だろう。恐らく、言ったところで信じる者は自分を利用する女子たちだけだろうが。そもそも、性的興奮で強くなる体質など、信じろという方が難しいだろう。もし自分が何も知らなかったならば、そのようなことを言われても到底信じられない。というか、確実にヤバい奴だと思う。通院か救急車をお勧めするだろう。

 

(……ヤバイな、ますます鬱になってきた)

 

 余計なことを考えたからか、キンジはまだ授業が始まってもいないというのにドッと疲れを感じていた。それに加え、傍らから押し寄せるプレッシャー。内と外からのダメージに、キンジの精神は瀕死寸前だった。

 だからだろうか。精神的に追い詰められていたキンジは状況を打開しようと、先程関わらないと誓ったにも関わらず、何でも良いから会話を成立させようとしてしまった。要は、重い空気に耐え切れずに口が滑ってしまったのだ。後になって考えると、完全に魔が差したとしか言い様がない。そのようなことをするくらいならば、自分もトイレに行けばよかった。

 

「お、大塚……で良かったよな?」

 

 教室中から音が消失した。

 シンと静まり返った室内に、キンジの胃が痛くなる。

 

「何ですか?」

 

 そんな無音の教室に、ミヤビの高い声が響く。

 同時に件の死んだ魚のような瞳と重圧的なプレッシャーが、キンジへとまっすぐに向けられた。その目は僅かに迷惑そうな色を含んでおり、言葉にせずとも「なんで話しかけてきたんだよ」というメッセージが伝わってくる。

 話しかけるだけでそこまで迷惑そうにされたことに、流石のキンジも少し不愉快になった。

 

「お前、なんでそんなに不機嫌そうなんだよ。周りの奴らが委縮してるだろ。新しい生活に緊張しているのはわかるが、少しは愛想良くしたらどうだ」

「超巨大なお世話です。ましてや初対面の君に、そのようなことを言われる筋合いはありません」

 

 バッサリと切り捨てられたキンジは、今度はハッキリと不愉快さに表情を歪めた。

 口が滑ったとはいえ、こちらは親切で言ったというのにそう返されては腹も立つだろう。普段のキンジならばここで押し黙っていただろうが、今日のキンジは特別機嫌が悪かった。朝から女子たちに利用されて望んでいない暴力を振るわされ、そして今度は同じく女子にここまで言われる。

 端的に言って、非常に癪に障った。

 

「…………」

「…………」

 

 視線が交錯する。

 状況はまさに一触即発、二人の間に火花が散った。いつの間にか、ミヤビは立て掛けられていた刀を手に取っている。

 教室に緊張が走った。

 武偵高では基本的に喧嘩や私闘、非推奨ではあるが決闘なども普通に行われる。事例は少ないが、男と女の間で行われることもある。よって、ここでキンジとミヤビが戦うことになろうと何もおかしくはない。

 しかしだ。片や神奈川武偵高付属中において最強の男子。片や正体不明とはいえ女子。戦力差が明白なのは歴然としている。なにせキンジは、二年生の時には三年生を相手に上勝ちをしたという噂まであるのだ。その戦闘能力は、同学年とは隔絶したものであることは疑い様がない。

 あわや転校初日に病院送りか、とクラスメイトたちが息を呑む中、沈黙を破ったのはミヤビだった。

 

「…………はぁ」

 

 軽く溜め息を吐いたミヤビは、疲れたように背凭れに寄り掛かる。

 

「やめましょう、不毛です」

 

 険悪な雰囲気を一気に霧散させたミヤビは、首をコキコキと鳴らしながら刀を再び机に立て掛けた。

 それを見たキンジも、相手に戦意がないというのならば矛先を収めざるをを得ない。

 

「すみません。流石に口が悪かったですね。朝から不快な思いをさせてしまいました」

「……いや、俺も機嫌が悪かったからな。つい言いすぎた。すまん」

 

 ミヤビの殊勝な物言いに、キンジは毒気を抜かれた気分だった。

 それは教室のクラスメイトたちも同様だったようで、しかしミヤビの転校早々に荒事にならなかったことに安心した空気が漂う。

 それによって空気が弛緩したのか、教室の各所からも談笑の声が戻ってくる。

 

「……確か……遠山くん、でしたよね? 改めて宜しくお願いします」

「あぁ、遠山キンジだ。遠山でもキンジでも好きに呼べ。それと、同学年なんだから敬語はいらん」

「遠山で……キンジ? まるで遠山の金さんみたい。なるほど、それなら君は差し詰めキンさんか」

「うぐっ……! いや、できればその呼び方は……その、困る」

「……? それじゃあキンジくんで。遠山は別に知り合いが居るから」

 

 砕けた口調になったミヤビ。

 未だに目は死んだままだったが、周囲を威圧するような圧力はだいぶ薄れていた。

 

「それにしてもお前、なんでいきなりあんなに周りを威嚇してたんだよ。あれじゃあ誰も寄り付かないぞ」

「……まぁ、色々あって。ほら、ボクって人間関係とか煩わしく感じる質だから?」

「知るか、そんなこと。というかいきなり馴れ馴れしくなったな」

 

 キンジの言葉に、ミヤビはふっと笑って妙なポーズを取った。

 右手で大きく顔を隠したかと思うと、開いた左手を大きくキンジに突き出す。そして右手の指の間から腐った目を覗かせながら、微妙に低くなった声色で何やら語り出した。

 

「我が身は世界の裏に潜む組織に属する身。それ故に他者との無用な接触は、可能な限り避けねばならぬのだ。クククッ、しかし貴様は我に声をかけるという愚挙を犯してしまった。あるいは、既に組織に目を付けられているかもしれぬぞ?」

「………………」

「………………」

「…………お、おう……」

 

 静寂が場を支配する中、キンジは必死に反応を返した。だが、表情には「何だそれは」という感情が如実に現れている。実際、死んだ瞳で邪悪に嗤ったミヤビにキンジはドン引きだった。

 というか、キャラが濃すぎて付いていけない。ダウナー系で人嫌いで厨二病(?)とか、どれだけ個性的な要素を詰め込めば気が済むのだ。ボクの考えた理想の主人公像か。さぞかし設定ノートが埋まるだろう。

 しかしそんなキンジの反応を特に気にすることもなく、ミヤビは淡々と口を開く。

 

「ちなみに今のは、ご存じだとは思いますが一応説明しますと厨二語の一種です。翻訳すると『友達作るの面倒臭い』という意味ですね」

「わかるかッ!?」

 

 思わず叫んだキンジだったが、ミヤビから返ってきたのは呆れをふんだんに含んだ視線だった。

 そのあまりの呆れ具合に、一瞬だが自分がおかしいかのようにすらキンジは感じてしまう。

 

「現役中学生のくせに厨二語も解さないなんて。君はこの三年間、学校で何を学んできたの?」

「普通に勉強と戦闘訓練だ! というか、厨二語なんてわけのわからんものを一般常識みたいに語るな!」

「え~、ボクの知り合い(ジャンヌ)には普通に通じてたんだけどなぁ……。我に脳髄すらも融かす甘露を捧げよ! とか言ったらちゃんとジュース買ってきてくれたし」

「ジュース!? 今の台詞のどこにジュースが!?」

「クククッ、我は闇に生きる者。故に我は闇に紛れ、月がその役目を終えるまで知識の収集に耽っておったわ。――ちなみに今のは『徹夜でネットサーフィンやってた』って意味ね」

「いや、もう普通にそう言えよ! というかそもそも厨二語って何だ!?」

「特定十代に通じる言語体系だよ。これを習得した人同士が会話すると、日常会話すらも楽しく感じるという素晴らしい言葉なんだ。さぁ、キンジくんもレッツトライ!」

「そんな背筋が痒くなるような日常会話は御免だ」

 

 律儀にツッコミを返すキンジ。

 それに何を思ったのか、ミヤビは微かに笑みを浮かべた。「面白い人材発見」と小さく呟いているが、生憎興奮していたキンジはそれを聞き逃していた。

 

「っていうか、友達付き合いとか本当に面倒なんだよね。これは個人的な意見だけど、無闇に友達を作っちゃう奴の気が知れない。もっとこう、少数精鋭? みたいな関係が好きだな。良く言えば『沢山の友達より一人の親友』みたいな? まぁ、別に友達とかいなくても死にはしないからどうでもいいけど」

「……寂しい人間関係だな、それ。というか、武偵に人間関係は必要不可欠だ。コネや伝手は武偵の仕事に役立つ。顔は広い方がいい」

「……?」

 

 キンジの言葉に首を傾げたミヤビは、視線を教室へと巡らせた。

 そして再びキンジに視線を戻す。

 

「でも、そういうキンジくんこそ友達いなさそうだよね」

 

 会心の一撃だった。

 あまりにストレートなミヤビの発言は、キンジの急所を容赦なく抉る。

 

「休み時間なのに誰も寄ってこないし、キンジくんも話しかけようとしない。席を立つ様子もないから、他のクラスに駄弁りに行くって線も消える。でも本を読むこともなければ授業の予習をする気配もない。つまり、暇してるんでしょ? なのに誰とも話さない。よって、ボクはここに『遠山キンジはボッチ論』を提唱します」

 

 的確な推理にぐうの音も出ない。

 文句なしに正解だった。

 『遠山キンジはボッチ論』、恐るべし。

 

「そ、それはともかくだな!」

 

 痛いところを突かれたキンジは、咄嗟に話題を逸らす。

 ミヤビも流石にこれには気付いた様子だったが、何も言わずに生暖かい目を向けてくれた。

 死んでいるのに生暖かいとは、これ如何に。

 

「お前、所属科はどこだ? その刀から察するに……まさか強襲科(アサルト)か?」

「まさかも何も、普通に強襲科だね。この立派な日本刀が見えないの?」

「冗談だろ。その小学生みたいなちっこいナリで銃弾飛び交う現場で戦えるのか? というか、その刀を使えるかどうかも疑わしいぞ」

「さぁ?」

 

 キンジの言葉に、ミヤビは首を傾げるだけだった。

 ついつい強襲科のきついノリで言ってしまったが、これはキンジの本心でもあった。スポーツの格闘技でもわかる通り、戦いは体格がモノを言う。ボクシングにもフライ級とヘビー級があるように、身体の大小は非常に大きな意味を持つのだ。それを覆すための武器ではあるが、ミヤビの小柄さは武器で補うことができるのか心配になる。

 

「俺も強襲科だから実感として知っているが、ウチは体力がないと辛いぞ。大塚は一般中(パンチュー)から来たと言っていたが……実際はどうなんだ?」

「……クククッ、我に同じことを語らせるつもりか? 世界の裏に身を潜める組織と申したであろう? それとも貴様は、言葉も解せぬ獣か?」

「……ちなみに、今のはどう訳せばいいんだ?」

「自分で考えなさい、って意味」

 

 さらりと質問を躱したミヤビは、それ以上答えない。どうやら、必要以上に自分のことを話すつもりはないようだ。あるいは本当に地下組織のようなものの出身なのか……流石にないか。

 そもそも、武偵は情報の価値が特に重い職種だ。無為に過去の詮索をすることは、あまり宜しいことではない。これ以上踏み込むのはやめておくべきだとキンジは判断した。

 

「えーっと……それじゃあ、どうしてここに転校してきたんだ? 武偵なんて危険な職業、進んでなりたがるものじゃないだろ?」

「なりたがるかどうかは人それぞれだと思うけどね。でも、ボクが転校してきたのはふさ……あー」

 

 急に言葉を止めたミヤビは、唐突に天井を仰いだ。何かを考え込んでいるのか、視線がなかなか降りてこない。

 しかしそれも少しの間で、やがて濁った視線がキンジへと戻ってきた。どうでもいいが、この不気味な目を直視したくないのはキンジだけだろうか? 他人と会話する際は視線を合わせるのが礼儀だとは思うが、この目はもう見るに堪えない。ゴキブリの大群とどちらがいいかと言われれば真剣に悩むレベルだ。

 

「ボクが転校してきた理由は…………ほら、中学くらい出とけって親が煩くて?」

「なんで疑問形なんだよ」

「クククッ、この世に確定された事象や歴史など存在せぬ。故にその問いは無意味であり、それに対する我の言葉もまた無意味。ならばこの問答にそもそも意味などあるまい」

「…………」

 

 どうやら釘を刺された……らしい。厨二語という日本語ベースの未知の言語を習得していないキンジでは、フィーリングでしか言葉がわからない。

 だが、これも聞いてほしくないことなのだろう。どう考えても怪しすぎるが。一般中からの転校という話が嘘なのかどうかはわからないが、これはもう『前からさん』だということはほぼ確定だ。幸運なのは、ミヤビ自身がその事実の隠蔽に積極的ではないということだろう。雰囲気から察するに、そこまで全力で隠している感じではない。隠し事をしていると、キンジにあからさまに気取らせているのがその証拠だ。

 とはいえ、武偵の学校には違法で銃を撃っていた人間や、裏社会に繋がりを持つ家柄の人間が来る場合も多い。今は転校してしまっていなくなったが、以前はヤクザの跡取りという人間もいた。ミヤビもそういう人種なのだろう。

 そしてどうでもいいが、厨二語を発する度にポーズを取るのはやめてもらいたい。会話している自分までもが同類と見られてしまいそうで、キンジは非常に恥ずかしかった。

 

「まぁ。こっちにも色々と事情があるんだよ。詮索しない方がいいと思うな」

「……悪い。確かに初対面の人間に不躾だったな」

「気にしなくていいよ。こっちが勝手に複雑にしてるだけだし。本当のことを言うと、ボク自身はどうでもいいんだけどね。でも、世の中には大人の事情というものがあるわけでして。下手に喋って色々と情報が出回るのは……」

 

 そこまで言いかけたミヤビは、ピタリと言葉を止めた。そして暫し何かを考える素振りをすると、「あぁ」と納得したように嘲笑を浮かべた。

 

「そうだったね。ボッチのキンジくんには関係のない話か。いや~、出回る相手すらいないって悲しいね。きっとキンジくんのケータイにはご家族の連絡先しか登録されていないんだ。可愛そうに……」

「おいコラッ! テメェ、流石に家族以外の連絡先だって登録されとるわ! お前の中の俺は、どれだけ悲しい人間なんだよ!」

 

 目を剥くキンジに、ミヤビは「はいはい、わかっているよ」とキンジの怒りなどどこ吹く風とばかりに欠伸をかます。それを見て「コイツ……!」と若干キレかかるキンジだったが、ここでふと気付いた。

 

 女子を相手に、まともな会話ができている。

 

 度重なる女子たちの悪行と二面性によって会話することにも忌避感を抱いていたキンジだったが、どういうわけかミヤビにはそれを感じない。ミヤビがキンジの秘密を知らないためかもしれないが、キンジは久しぶりに女子とまともな会話のやり取りをしていた。

 いや、正確にはミヤビによって知らぬ間に会話を引き出されていたような感じだ。キンジとしては警戒交じりに言葉を発したというのに、気が付けば警戒心を解かれている。

 改めてミヤビを見れば、そこには間違いなく美少女のミヤビが居る。キンジの想像する大和撫子の模範のような容姿に、それを全て台無しにする死んだ目。威圧的な日本刀。若干大き目の服に小柄な身体。

 これらのどこに、キンジの嫌女センサーをすり抜ける要因があったのだろうか。

 

(やっぱり、死んだ目か?)

 

 自然と注目してしまうその瞳。

 闇色の眼にはキンジの姿が映り込んでいた。

 そんなキンジに対し、ミヤビは身体を両腕で抱くようにして目を細めた。

 

「キンジくん、そんなギトギトした視線を向けないでくれる? キモいよ?」

「言いがかりだッ!」

「じゃあなんで人の顔を見てたわけ? ……あっ、もしかしてガンくれてたの? ごめんね、気付いてあげられなくて」

「勝手に憐れむんじゃねぇ!」

 

 やはり、ミヤビの何がキンジの警戒を抜けたのかはわからない。

 しかしキンジは思った。

 

 ――これは、面倒なのと関わってしまったかもしれない。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 武偵を養成するこの学校では午後の授業――つまり五時間目以降の授業はそれぞれの生徒の専門科目ごとにわかれて実習を行う。強襲科に所属するキンジは、偶然にも同じ科目だったミヤビと連れ立って強襲科棟へと移動していた。

 キンジはいつものように一人でそそくさと移動しようとしていたが、ミヤビがそれをひっ捕らえたのだ。

 曰く、「まだ校内の施設の位置がわからないから、棟まで案内しろ」とのことである。それに仕方なく頷いたキンジは、腰に刀をぶら下げたミヤビを引き連れて教室を出たのだった。

 

「強襲科では、与えられたノルマを熟した後は各人の自由ってことになっている」

「自由? それって帰っちゃってもいいの?」

「構わない。だが、訓練は自分の命にかかわってくるからな。必要な技能は自分で修めなければならん。そのための訓練は自分で考え、そして実践しないといけないんだよ」

「へー、自立を促してるってことかー」

「そうだ。早めにその習慣を付けておかないと、いざ卒業しても何もできませんってことになりかねない」

 

 キンジの説明に、ミヤビは感心したように頷いていた。

 来るまでは無法者予備軍たちの蔓延る偏差値が低いだけの荒れた学校というイメージしかなかったらしく、キチンと武偵の育成機関として機能していることに驚いたのだとか。偏差値が低い荒れた学校であるというところは否定しないが、流石にそれはもう学校の体を成していないだろう。というか、そんな想像をしていたというのに何故ここに転校してきたのだろうか。

 

「ボク、武偵高ってもっと碌でもない場所だと思ってたよ」

「世間では叩かれることの多い職業だからな、武偵は。金さえ積めば基本的に何でもやるし、一般中から来たお前からすると意外に思われても仕方ない」

 

 移動しながらそう語るキンジ。

 まだここに一年と少ししか通っていないキンジではあるが、それでも自分の学校の株が上がって悪い気はしない。

 いつになく饒舌になったキンジは、ミヤビに武偵高のイロハを教えていた。

 

「ほら、着いたぞ」

 

 キンジが立ち止まったのは、一般校の体育館よりも数倍は大きいであろう建物の前だった。

 ここが強襲科棟である。

 射撃練習をする射撃レーン、様々な器具の揃ったトレーニングルーム、徒手格闘の訓練を行う多目的ルームなどが内部にはあり、教師の直接の指導の下で訓練を行えるのだ。特に射撃レーンは他の科の生徒が来ることも多く、そこでは様々な拳銃が日々発砲されている。

 ちなみに、空薬莢を拾うなどの雑用は下級生の義務である。キンジも一年生の頃はここで延々と薬莢を拾っていた。

 

「それで、連れてきたはいいがこれからどうするんだ?」

「えーっと、まずは強襲科の先生に挨拶だね。その後で軽く射撃のスコアとかを測って、それから――」

 

 どうやらミヤビにも予定があるらしい。

 何やら込み入った事情があるとはいえ、ミヤビに必要なことはまずこの学校に慣れることだ。それまでは多少の面倒を見てやることは、キンジとしても吝かではなかった。

 しかし、いくら転校生とはいえ編入試験に合格するだけの技量はあるのだから、まるで付いてこられないということはないだろう。となれば、今日はこれ以上キンジにできることはない。

 

「それじゃあ、ここで解散だな。俺にもノルマはある。終わったら声でもかけてくれれば色々と教えてやるから……なんだよ?」

 

 解散しようとしたキンジは、ミヤビがジッと自分を見つめていることに気付いた。

 気のせいかその目は、先程よりも僅かに活力が戻っているような気もする。そして瞳の奥には、活力の他に何やら奇妙な色の感情が浮かんでいたように感じたが、キンジにはその正体が全くわからなかった。

 

「……キンジくんってさ」

「あん?」

「なんていうか、見た目暗そうだけど、意外と面倒見がいいよね。何だかんだでここまで連れてきてくれたし、色々と教えてくれたし。うん、ツッコミも及第点だ。80点」

「何の点数だそれは」

「とりあえず優秀な成績を収めた君には、『二代目ミヤビ係』の栄誉を与えよう! これから頑張ってくれたまえ!」

「……は?」

 

 機嫌良く肩を叩くミヤビに、キンジは目を点にして固まる。

 何だかわからないが、本当に何がどうなっているのか欠片も理解できないが――自分は今、とんでもない状況に追い込まれてしまったような気がする。キンジの本能が、生存本能のアラートを鳴らしていた。だが、その警報が何に対してのものなのかがキンジにはわからない。

 だが一つだけわかったことがある。キンジとしてはそこまで面倒を見たつもりはなかったのだが、ミヤビは自分に思いのほか好印象を抱いたらしい、ということだ。

 

「何はともあれ、ここまでありがとう。――クククッ、また逢い見えようぞ(それじゃあまたね~)

 

 そう言うとミヤビはクルリと背を向け、強襲科棟の奥へと歩き去っていった。

 その背中を見送って、キンジはふと思う。

 

「……目が死んでないと、意外と可愛いかったな」

 

 本心であると同時に、キンジにできる最大の現実逃避だった。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

(いやぁ、キンジくんマジいい人やわぁ)

 

 内心で独りごちる。

 武偵高での学生生活は、ミヤビの想定以上に好調な滑り出しを見せていた。

 ミヤビの武偵高への潜入における大前提は、自分が転装生であることが知れないようにすることだ。これは何と比較しても優先され、これよりも重要な秘密は存在しない。つまりは最重要機密(トップシークレット)だ。

 そのために、ミヤビは必要以上に人間関係を築かないことを事前に決めていた。

 しかし一人も友人のような存在がいないのは逆に周囲から浮き、注目を集めてしまう。それに武偵高の常識などが全くわからないのも問題のため、誰かにそれを教わる必要もある。よってミヤビは、同じ所属科、同学年、そしてできれば女子の事情に疎そうな男子という条件を満たした少数の人間とだけ交友関係を築こうと画策していたのだ。

 そういう意味では、キンジが隣の席だったのは僥倖だったと言える。

 

(見るからに女性に慣れてなさそうな感じだから性別バレは心配なさそうだし、オマケにかなりのお人好しっぽいし)

 

 加えて、友達が少なさそうというのも好印象だった。これでミヤビの情報が不必要に出回り、性別が特定されてしまう可能性も格段に減る。

 素晴らしい。

 まさにキンジはミヤビにとって理想の“お友達”だった。

 そして、理由は不明だがキンジはそこそこ顔が知られているらしい。これも悪くない。ミヤビはこのままキンジの名前に隠れるように過ごし、目立つような行動を控えるつもりだ。そうすればその内に、ミヤビの印象は『キンジの友達』というもので止まる。

 これによってミヤビは、キンジというネームバリューの陰に意図的に隠れることができるのだ。

 

(友人がいないのに顔が知られているのが少し気になるけど、細かいことはどうでもいいや)

 

 要は目立たなければ良いのだ。それも、曖昧に情報が手に入るレベルで。

 ボッチでもなく、かと言ってリア充でもない。深い関係の人間も居ない。しかし正体不明でもない。まさに最高に“平凡”だ。

 そして人間は、平凡で普通なものにこそ最も視線が向きにくい。

 

(木の葉を隠すなら森の中、人を隠すなら人の中ってね)

 

 そのようなことを考えながらも、ミヤビは強襲科棟を黙々と歩いていく。その際、見慣れないミヤビの顔に複数の視線が突き刺さる。しかしミヤビも流石に慣れたもので、それらを悉く無視して歩みを進めていった。

 どうせこの注目も一過性のものだ。すぐにこれもなくなり、一ヶ月もすれば完全に“あちら側”に混ざることができるだろう。

 

「……ここでは殺しはご法度か」

 

 周囲を見回せば、そこには訓練に明け暮れる武偵の卵たち。

 彼らもあと数年もすれば一武偵として世界に羽ばたき、自分のような無法者を狩る存在になるのだろう。ここで技術を身に着け、経験を積み、人脈を築き、装備を整え――そして、いつか“自分たち”と戦う存在になる。

 しかしそれは未来の話であって、今ではない。

 ここは卵を温める場所であって、同時に羽ばたく準備をする場所だ。自分で飛んですらいない武偵では、まだ“面白くない”。豚は太らせてから喰らい、果実は熟れてから収穫する。短慮に走って後々の楽しみを奪うこともないだろう。

 

「……まぁ、退屈そうではあるけど」

 

 そういう意味では、ある種の危機感を感じる。

 確かに未知の“不殺”という領域には、シャーロックに強要されたということに目を瞑れば全く興味がないということもない。今までは殺す相手でしかなかった武偵という職種の人間が、いかにして凶悪犯罪者を殺さずに取り押さえるのか。そのような技術は、法を守るも破るも自由という無法者の自分には全く縁のないものだった。これを学ぶことは、自分にとっても修行の良い一環となるだろう。

 だが、今まで自分は剣術を極めるためにあらゆる修行をしてきた。殺人剣こそが剣の道と信じ、修行として山のように人を斬ったこともある。その努力が、ここに通うことでふいになってしまうのではないだろうか。そのことが、ミヤビの唯一にして最大の危惧だった。修行の果てが見えないことには喜悦を感じるが、今までの努力が腐ってしまうことだけは許すことができない。

 

(要は両立が大切ってことか)

 

 殺人一辺倒ではなく、かと言って活人だけでも駄目だ。どちらにも一長一短があり、それらの長短の全てを使いこなすことこそが真の武術なのだ。ミヤビはそういう武術家になりたい。というよりも、それが難しいからこそシャーロックの安い挑発に乗ってしまったと言えなくもない。いや、決してできないわけではないが。本当に少し苦手なだけだったが。むしろ手加減する前に相手が死んでしまうのが悪い。

 まぁ何はともあれだ。この武偵を育てる学校で活人の術を学び、自分で納得ができるようになるまではシャーロックの思惑に従うのも吝かではない。

 

「修行が終わったら絶対に殺すけど」

 

 ミヤビの小さな呟きは、強襲科棟の騒ぎに紛れて消えた。

 

 

 

 

 

 



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第4弾

 神奈川武偵高付属中学では、とある一つの噂が広まっていた。

 

 曰く、遠山キンジが女を囲った。

 

 これを聞いた多くの生徒たちが思ったのは、「またか」という冷めたものだった。

 キンジが特定の女子たちの言いなりになっているのは、周知の事実である。そこに新たな女が加わったからといって、どうということもない。

 しかし、それを聞いて心中穏やかではなかったのは、その特定の女子たち(・・・・・・・)であった。それもそうだろう。何せ件の新しい女というのは、自分たちとは全く関わりのない人物だったのだから。彼女たちからすれば、キンジは自分たちの言うことだけを聞いていれば良いのだ。他のグループにでも取り込まれれば、今度は自分たちが被害者になりかねない。

 そしてその女子が自分たちの被害者だったならば、確実に報復されるだろう。そうなったが最後、自分たちはこの学校のヒエラルキーの最下層にまで転落する可能性すらある。

 

「これは、拙い……!」

 

 自然と彼女たちはそう思った。

 そして自分たちの持つ情報網を駆使し、キンジが囲っているという女を探し出す。

 もしもそれがただの噂ならば構わない。しかしそれが事実だった場合、早急に手を打たねばなるまい。

 具体的には、二度とキンジに手を出せないように痛めつけるか、自分たちのグループに取り込むかである。

 しかし外部から新しく人間を組み込むのはあまり歓迎できることではないため、恐らく“潰す”ことになるだろう。

 そのような仄暗い計画が立案される中、ついに件の女が見つかった。

 

 大塚ミヤビ。

 

 それがその女子生徒の名前だった。

 一ヶ月前に一般校からこの学校に転校してきた彼女が、偶然にも同じクラスで隣の席だったキンジと話をしたことが事の始まりらしい。そして偶然は重なり、同じ強襲科だったミヤビはキンジとそのまま仲を深め、今では良好な友人関係を築いているのだとか。

 その情報を聞いた彼女たちは、一先ず安堵の息をついた。転校生ならば、まさかキンジの秘密を知っていることはないだろう。ならば、本当にただの友達同士ということだ。

 しかし、彼女がいつキンジの秘密に気付くかわからない。

 もしも気付いてしまえば、彼女も自分たちと同じように学校を席巻するかもしれない。

 そうなれば、やはり自分たちは終わる。

 

「やっぱり、潰すしかない」

 

 そのような結論がグループ内で出るのは早かった。

 やはり不安の芽は早めに摘み取るに限る。

 転校してからまだ一ヶ月だというのに気の毒だとは思うが、自分たちの敵となるのならば容赦はしない。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 教室が沈黙に包まれる。

 現在、キンジのクラスは午前の一般教科(ノルマーレ)の授業中だった。科目は数学で、キンジだけでなく武偵高の生徒の多くが苦手とする教科である。

 本来ならば、授業中に教室が静かなのは結構なことだろう。

 むしろ、騒いでいれば授業妨害だと非難されかねない。

 だが、この教室の沈黙は、そのような生真面目な理由から来ているものではない。

 

「えぇと、つまりですね。この問題を解くには連立方程式が――」

 

 教壇に立ち、授業を進めていく女性教師。

 彼女はチラチラと教室後方を見ると、居心地悪そうに黒板に向き直る。

 気のせいか、最近になってから教師たちが席へと顔を向ける時間が減っているようにすらキンジは感じていた。

 その原因は、言わずもがな隣の席にやってきた生徒が問題だろう。

 

「…………」

 

 そこには、一体の人形が居た。

 正確に言うならば、人形のように動かないミヤビである。頬杖をついた状態で黒板を見つめるミヤビは、胸元と瞼、そして腐った色の眼球以外はまるで動かない。

 これはミヤビが転校してきてから続く光景であり、キンジもこの一ヶ月で既に見慣れたものだ。

 しかし教師陣は未だに慣れないらしく、この教室に入ってくる時は酷く憂鬱そうにしているのを見かける。

 

「おい、ミヤビ」

「…………」

 

 試しに小声でミヤビに話しかけてみるが、キンジの声にすら反応しない。普通ならば振り返るなり迷惑そうにするなりといった反応があるだろうが、“今の”ミヤビはそれに気付いた様子すらなかった。

 だが、これもいつものことだ。

 ミヤビが言うには、これは極度の集中状態を維持することで、脳の持つ潜在能力を余すことなく使うための技らしい。この状態に一度入り込めれば、記憶力や思考速度などが爆発的に上昇し、授業の内容を全て暗記することができるのだとか。よってミヤビはノートや線引きを一切行わない。ちなみにミヤビはこの技を応用することで、既に中学の範囲のあらゆる教科書や問題集を丸暗記しているという。

 そのためか、ミヤビは授業中に行われる単語問題などを問う小テストで満点以外を取ったことが殆どない。

 ならば真面目に授業を聞く必要などないではないかとキンジは言ったが、「授業を真面目に聞くのは学生の義務でしょ」と至極真っ当なことを言われてしまった。意外にもミヤビは真面目な学生なのである。

 しかし、これをされている教師は堪ったものではない。背中を1秒の漏らしもなく死んだ目に凝視され続けて、気分が良いはずもないだろう。それこそ、まだ人形のほうが硝子玉の眼球の分だけマシというものだ。そんな教師の内心が伝播しているのか、生徒たちも自然と黙って授業を受けるようになった。まぁ、大半の生徒は教師への同情から来ているのだが。

 ちなみにこの集中状態を長時間続けていると、脳の疲労によってブレーカーが落ちたように失神してしまうのだとか。しかも失神した後はしばらく無気力状態の日が続き、廃人のようになってしまうらしい。実際にミヤビが試したところによると、その期間は夢現のような状態で、記憶は殆ど残っていないというが。

 

(それにしても、この時のこいつは本当に不気味だな)

 

 黒板に書かれた内容を必死に写しながら、キンジはチラリと隣を見た。

 そこには、やはり席に鎮座する1/1スケールミヤビ人形。その集中度合いは傍目からでも尋常でなく、もしもキンジが変な気を起こしてスカートを捲ったとしても気付かないのではないだろうか。あるいは無意識の内に反撃してくるのか。どちらにしても試すつもりは毛頭ないが。

 机には申し訳程度にノートと教科書が広げられていた。ちなみにノートはほぼ白紙で、書いてあるのは提出用の問題だけである。

 その時、昼休みを告げる鐘が鳴った。

 

「――ッ! はーい、それじゃあ今日はここまで! 皆さん、お疲れ様でしたー!」

 

 鐘の音に最も顕著に反応したのは、あろうことか教師だった。

 やり切った表情の彼女は、テキパキと教材を纏めると授業の終了を宣言する。

 その後、お決まりの「起立! 礼!」の掛け声が終わり、教室は完全に昼休みに突入した。それを機に生徒たちは各々弁当を広げるなり、食堂へ向かうなりという休憩時間を過ごし始める。

 

「今日も一般教科終わり。さぁ、昼食にしようか」

 

 人形状態から通常状態へ移行したミヤビも、その例外ではない。

 授業の終了に伴って元に戻ったミヤビは、早速とばかりに机に弁当を広げ始めた。

 その隣では、キンジが首をゴキゴキと鳴らしながら背伸びをする。どうにもキンジは、この長時間の着席が苦手だった。勉強ももちろん苦手だが、それとは別種の苦手さを感じる。

 それに比べ、ミヤビは「昼ごは~ん♪」などと自作の昼食の歌を口遊むほどには余裕そうだ。キンジは疲労困憊だというのに、この差は一体何なのだろうか。

 

「……お前、相変わらず切り替えが凄まじいよな。授業中は完全に置物状態なのによ」

「何を言っているの。授業と昼休みは切り替えるものでしょ。そんなことより、お昼にしようお昼! 学校生活で最も楽しい時間帯ですよ!」

 

 そう言うなり、ミヤビの机に凄まじい重量が圧し掛かった。ミヤビの鞄から取り出されたそれは、ここ一ヶ月ほどで見慣れたとはいえ今でもキンジを圧巻させるに足りる。その正体は――九段重ねの弁当箱。さながら重箱のようなその弁当は、しかしその高さと密度においては通常の重箱を完全に凌駕している。

 もはやその質量だけでも撲殺武器のような凶悪さを誇っているそれを、ミヤビは毎日のように学校に持ってきているのだ。これのせいで登校の際に荷物が一つ増えるといつも愚痴を言っているミヤビであるが、それでもこれくらいの量がなければ一日が持たないのだとか。聞いた話では、一食でハンバーガーを50個ほどは普通に平らげられるのだとか。まさに鉄の胃袋だ。

 

「……よくは知らないが、女子ってのはこう……何だ? 必要もなさそうなダイエットのために小食にしているイメージがあったんだが」

 

 「いただきま~す」ともの凄い勢いで弁当の中身を食していくミヤビは、キンジを含めた男子の抱く女子像を容易く破壊する。ギャル曽根もかくやというほどの勢いで食べまくるミヤビは、どう考えてもダイエットなど欠片も意識していない。

 というか、冗談抜きにミヤビの食べるペースが速すぎる。まるでリスのように可愛らしくちょこちょこと食べているが、いつ飲み込んでいるのかというほどに箸が休む時間がない。そしてそうこうしている内に、九段重ねの最上階が空になった。

 

「世間の女性は大変だよね~。自慢じゃないけど、実はボクってどれだけ食べても太らない体質なんだ~」

 

 シン、と教室が静まり返る。ミヤビのその言葉を耳にした年頃の少女たちが放つ殺気によって、クラスの喧噪が静寂に食い尽くされたのだ。それに気付いていないはずはないだろうに、ミヤビは意に介すこともなく箸を動かし続ける。

 肝が据わっているのか、はたまた馬鹿なだけなのか。もしも後者だったとしても、男子生徒たちは女子たちの冷たい空気を無視できるほど馬鹿にはなれない。

 

「……お前は今、クラス中の女を敵に回した」

「仕方ないじゃん。食べた端から運動で消費しちゃうんだから。どんなに食べても夜にはお腹空くし。休日は五食の時もあるよ」

「どれだけ燃費が悪いんだお前は」

「燃費が悪いというか、ガス欠間際まで身体を動かすからね。夜には疲労困憊の状態で就寝して、朝には完全回復するのが日課なんだ」

「それ、歳とったら一気に身体にガタがくるぞ」

「クククッ、我は永遠を生きる者。盟約によって老化を超越した我には、もはや生物に課せられた老いという呪縛は存在しないのだ。わかるか? 不老――始皇帝すらも望んだその御業を、我は既にこの手中に収めているということだッ」

「……お前は何を言っているんだ」

 

 早くも二段目を空にしかけているミヤビが、箸を片手に珍妙なポーズを取った。それに嘆息しながら、キンジは席から立ち上がる。キンジは購買で昼食を買うため、これから食料の調達に向かわなければならないのだ。

 そして、武偵高の昼の購買は学校名に恥じぬほどには尋常ではない。

 同じく昼食を奪い合う敵に対し、この学校では弾が出る。昼食を買いにいき、気が付いたら救護科(アンビュラス)のベッドの上だったということもあるほどだ。キンジの知る限り最も酷かった事例だと、防弾制服の上からとはいえ背後からM500のマグナム弾を四発もぶっ放されて病院送りになったというものだ。

 考えただけで背筋が凍る。

 

「おお、そうだ。キンジくん、ちょっと待ってプリーズ」

 

 そんなキンジに、ポーズと不敵な笑みを解いたミヤビが待ったをかけた。

 何用かとキンジが振り返ると、そこにはミヤビのものより少し小さめの三段弁当がある。

 ミヤビの重箱のように大きなものではないが、一般的な男子の腹を満たす程度には丁度良い大きさの弁当だ。

 

「……何だそれ? お前、また食う量増えたのか?」

「違うから。……クククッ、此度は我に捧げられた供物の一端を貴様に給わしてくれよう。さぁ、我の慈悲に首を垂れるが良い」

「ちょっと待て、今翻訳するから」

 

 この一ヶ月で聞き慣れた厨二語を、キンジは即座に脳内で翻訳する。流石にネイティブの厨二語使いには敵わないが、キンジも感覚でこの言語を理解できるようになっていた。

 その経験と状況から察するに、どうやらこの弁当をキンジにくれるらしい。どういう風の吹き回しなのか。パッと見は大きめの三段弁当であるが……

 

「……毒か? それとも爆発物か? 大穴で食品サンプルか?」

「人の手料理をボロクソに言ってくれるね。惨殺されたいの?」

 

 笑顔の消えたミヤビに、キンジは慌てて席に戻った。

 包みを開け、思い切って蓋を開ける。

 そこにあったのは、至って普通の弁当だった。怪しげな臭いもなければ爆発もせず、渡された割り箸で突いてみればちゃんと柔らかい。

 

「これ、お前が作ったのか?」

「いかにもタコにも。昨日の夕飯の残り物とかを詰めたものだけど、良かったらどうぞ」

「いや、くれると言うなら貰うが……お前、急にどうしたんだ?」

「日頃のお礼とか? 転校してから一ヶ月経ったけど、キンジくんにはお世話になったからね。今日のこれはそのお礼にと思って」

「意外に殊勝な奴だな、お前も」

 

 ミヤビの意外な差し入れに度肝を抜かれたキンジだったが、ただ飯を食えるというのならば遠慮しない。

 ありがたくそれを食べることにした。

 三段弁当は上段と中段におかずが詰められており、下段は米だった。

 まずはおかずから食べることにしたキンジは、とりあえず目に付いたハンバーグを口にする。

 

「おっ、美味いなこれ」

「100%松阪牛だからね」

「…………」

 

 何かとんでもないことを聞いた気がするが、キンジは全力で聞き流した。

 何故だろう、箸を持つ手が震える。

 

「……おお、サラダもあるのか。意外とバランスが整っているな」

「肉と白米だけなのもね。でも殆ど残り物だから、あんまり種類は多くないんだ~。ごめんね」

「いや、充分だろ」

 

 実際、弁当の中身はかなり充実していた。

 肉や野菜はもちろん、スクランブルエッグなどの卵料理も詰めてある。これで残り物だと言うのだから、ミヤビの食卓はさぞ豪勢なのだろう。

 

「そういえば、ここは一般中(パンチュー)とはだいぶ違うと思うが、もう生活には慣れたか?」

「――――」

「ん?」

 

 ミヤビが無言だったことを訝しんだキンジが弁当から顔を上げてみると、そこには黙々と箸を動かし続けるミヤビの姿があった。既に弁当は五段目が半分以上なくなっている。残りはもう最初の半分すらない。

 

「――うん? あ、ごめん。聞いてた聞いてた。もう慣れたよ~」

「言いたいことは色々あるが、弁当食うの速っ!?」

 

 まさに一瞬だった。

 確かに直前まで、ミヤビは上から二段目を食べていたはずなのだ。だというのに、キンジがハンバーグ一つとサラダを少し食んでいる間に弁当が三段分ほどミヤビの胃に吸い込まれていた。

 気になって見てみれば、食べ尽くされた弁当の中には米粒一つすら残っていない。

 

「おい、今の一瞬に何があったんだよ! カービィかお前は!」

 

 口の中に異次元が広がっているとしか思えない速度だった。

 そう思えるほどにミヤビの食事は超高速だったのだ。

 というか、いつ食べる弁当箱を新しいものに持ち替えたのかすらキンジにはわからなかった。

 

「キンジくん。人間に大きな隙ができるタイミングは、一体いつだと思う?」

 

 キンジの質問には答えず、ミヤビは問いを投げた。

 「質問を質問で返すな」と言いたいところではあったが、とりあえずここは大人しく答えるとしよう。

 

「そりゃあ……寝ている時か?」

「正解――半分くらい。正確には、睡眠中、トイレ、入浴中、そして食事中だよ。食器を持つことで必ず片手は塞がれるし、基本的に座って食べるから対応も遅れる」

「なるほど」

 

 ミヤビの言わんとすることを、キンジも察した。

 つまりミヤビは、隙の大きい食事の時間をなるべく減らそうというのだろう。

 思い返せば、かの有名な宮本武蔵も風呂に入りたがらなかったという。風呂嫌いだと世間では騒がれているが、一説によれば入浴中に隙ができることを嫌ったというものもある。

 

(あれ? ということは……)

 

 とあることに思い至ったキンジは、ミヤビを凝視した。

 

「まさかお前、風呂にも入らないのか!?」

「殺すぞ」

 

 刀の鞘で頭を殴られた。

 しかもかなり強く殴ったのか、一瞬だが意識が飛んだ。

 

「そんなわけないでしょうが。君、本当にデリカシーないね」

 

 絶対零度の視線がキンジを貫いた。

 しかも死んだ目から放たれるそれは、まるで生気を感じない。

 まるで冷凍保存されたマグロのようだ。あるいはパック詰めにされたシラスだろうか。

 

「まぁ、キンジくんにデリカシーが微塵もないことは置いておくとして」

 

 さらっとキンジを侮辱したミヤビ。

 しかし事実のため、キンジには反論する術がない。

 

「これらの隙は武人にとっては致命的。特にトイレ。これは生理現象だから、堪えるにも限界がある。食事中にトイレの話はしたくないけど、キンジくんも注意するように」

「ああ、わかった」

 

 転校して一ヶ月経つが、稀にミヤビはこのようなことを言い出す。

 他にも戦闘に関する雑学などを教えてくれることもあるが、主な知識は如何に不意を突かれないようにするかだ。以前は部屋の寝床の位置すらも拘っていると話していた。この弁当にしても毒物混入を警戒しての手作りという話だそうだ。さらには、木の根っこや鳩の肉などの味についての薀蓄も聞かされた。空腹に苦しんだ時はそれで飢えを凌ぐらしい。

 これらの知識から察するに、どうもミヤビは武偵高に来る前にホームレスや夜襲を受ける生活を送っていた節がある。一体、今まで何をしていたのやら。

 

「さて、話も終わったし、早く食べちゃいなよ。この後は専門科だし、さっさと移動しよう」

 

 その言葉で、キンジは我に返る。

 どうやら考え事に熱中していたらしい。

 入学祝いとして祖父に買ってもらった腕時計に目を通せば、既に時間はそう残っていなかった。

 

「ヤベェ! 遅れたら射殺される!」

「……つくづく思うけど、この学校って本当にバイオレンスだよね」

 

 しみじみと呟くミヤビを余所に、キンジは弁当の残りを急いで食べる。

 わざわざ作ってきてくれたミヤビの前で、このように味わうこともなく食べるのは失礼だということはキンジもわかっていた。しかし、命には代えられない。食材と料理人に感謝を込めつつも、今はカロリー摂取と栄養補給に全力を尽くした。

 そのことにミヤビも特に気にしている様子はなかったため、キンジは猛烈な勢いで箸を動かす。そして残るは白米を平らげるだけだという時になり、キンジの携帯電話が着信音を鳴らした。

 

(この忙しい時にッ)

 

 ここは無視してやろうかとも思ったが、せめて連絡相手の名前だけでも見ておこうとキンジは携帯電話の液晶画面に視線を走らせた。

 しかしそこに浮き上がっていた文字に、キンジはピタリと動きを止める。

 同時に、身体中から嫌な汗が噴き上がってきた。

 

「……どうしたの? 電話出ないの?」

「あ、ああ……」

 

 譫言のように答えたキンジは、まさに恐る恐るといった様子で通話ボタンを押した。その気分は、さながら死の河を前にした十字軍の如く。極度の緊張状態が、急激に始まった動悸と噴き出す汗となって現れる。

 この通話は誰にも聞かせられない。咄嗟にそう判断したキンジは、チラリとミヤビを一瞥してそそくさと教室を出た。

 

『――もしもし?』

 

 周囲に聞き耳を立てている人間が居ないことを確認したキンジ。

 そして意を決したように電話に出たキンジは、電話の主の声に耳を傾けさせられた。

 

『もしもし? 聞いてるの?』

「……ああ、聞いてる。何だよ、赤城」

『アッハハ、冷た~い! いつもみたいに、真紀(マキ)って呼んでよ~?』

「……わかったよ、マキ」

 

 電話の主は、赤城真紀――キンジとは別のクラスの女子生徒だ。

 女嫌いのキンジの携帯電話に登録されている女子、そしてキンジのこの恐れようから察せる通り――彼女は、キンジを正義の味方として()()()()者たちの一人だ。

 彼女は今年度に入ってから台頭してきた女子グループのリーダーであり、以前はキンジとの接点など数えるほどしかなかった。

 というのも、前年度は別の女子がキンジを利用していたためだ。

 キンジにとって幸か不幸かその女子は二年に進級してすぐに家庭の事情で退学してしまい、その後釜を掻っ攫ったのがマキなのである。

 

「……で? 俺に何か用かよ。これから強襲科の授業があるんだ。遅れたら俺が殺される」

『フケちゃいなよぉ~。キンジはそんな授業なんか受けなくても最強なんだしぃ~』

「無駄なお喋りが用なら切るぞ。じゃあな」

 

 遅刻などの件を除いたとしても一刻も早く会話を終わらせたかったキンジは、早々に電話を切ろうとした。

 しかし、キンジのその言葉と共にマキの声色が一変する。

 

『――おい、調子乗ってんじゃねぇぞ、キンジ』

 

 電話越しに感じられるマキの怒りに、キンジの肩が跳ね上がった。

 足が竦み、電話を握る手が恐怖に震える。

 

『テメェ、立場わかってんのか? テメェの生殺与奪はこっちが握ってんだよ。今は最強の名前で学校に通っちゃいるけど、もしも本当のことがバレたら……テメェ、終わんぞ?』

「――ッ」

 

 HSSのことを公表する――マキはそう言っているのだ。

 もちろんマキは、遠山家に伝わるHSSについての詳しい情報は知らないだろう。

 しかし、キンジの強さが“限定的”なものであることは知っているのだ。

 もしもそのことが知れ渡れば、それこそキンジは終わりだ。

 体質のことで詰られるならまだしも、間違いなく被害者たちから報復を受ける。最悪、再起不能になるまで甚振られるかもしれない。

 

『立場が理解できたようだねぇ~? いい? キンジは私たちの忠犬でいればいいの。――ご主人様の命令は絶対だろうが、アァ?』

 

 女子らしくない、ドスのきいた声。

 前にキンジを操っていた女子も恐ろしかったが、マキは彼女と別種の恐ろしさがあった。

 彼女は、やると言ったらやる。恐らく本当に学校中へとこの情報を送信し、キンジがこの学校に居られなくなるように仕向けるだろう。

 そうなればキンジは、“諸事情で”学校から去ることになってしまう。

 

『さてと! 躾けが終わったところで、お利口な犬に本日の指令を下しま~す! またビシバシお願いするから、覚悟しといてね~!』

 

 ここのところは回数の減っていた“正義の味方”が、今日をもって復活する。

 マキの言葉は、そのことを如実に語っていた。

 それを思い知ったキンジの思考を、諦観が支配した。

 

『それじゃあ、今日のターゲットを発表します! じゃららららら、じゃじゃん! お隣の席の大塚さんで~す!』

 

 しかしそれを聞いたキンジの脳が、一瞬で沸騰する。

 この時、キンジは自分が追い詰められた状況だということすらも忘れていた。

 

「おい、ふざけるな! あいつが何やったんだよ! あいつはお前らには何もしてねぇだろッ!」

『ん~? キンジったらなんで怒ってんの~? マキちゃん全然わかんな~い!』

「テメェ、いい加減にしろよ! いくらなんでもやりすぎだ!」

『……調子乗んなって言ったの、もう忘れちゃった~? あたし、駄犬は嫌いだな~。殺処分しちゃうぞ?』

「――クソッ」

 

 再び冷え込んだマキの声に、キンジは状況を思い出した。

 キンジは、マキに、逆らえない。

 云わば、完全に首輪をされたも同然なのだ。逆らおうにも、もう身動きが取れない。

 

『っていうか~、大塚とかマジで調子乗ってるじゃ~ん? ぽっと出のくせにキンジを独占しちゃってさ~? マキちゃん嫉妬しちゃう! だから――死刑!』

「ッ!? 死刑って、お前……!」

『アッハハ! ビビんなくても、本当に殺したりしないって~! ただちょっと、ね? わかるでしょ?』

「……俺に、やれってのかよ……!」

『他に誰が居んの~? 頼んだよ、私の正義の味方っ!』

 

 その言葉に、キンジの視界が揺れた。

 正義の味方――頭を強烈に殴られたような衝撃が走る。

 

(そんなの、そんなのアリかよ……ッ!)

 

 携帯電話を握る手に力が入り、危うく握り潰すところだった。

 奥歯は万力で噛み締められ、砕けてしまいそうだ。

 

(こんなのが正義の味方だと? こんな、こんな理不尽な暴力を撒き散らす屑が、正義の味方なのかよッ!)

 

 今すぐに携帯電話を床に叩き付けたかった。

 できることならば、電話口に向けて「ふざけるな!」と反論してやりたかった。

 許されるならば、マキをベレッタで蜂の巣にしてやりたかった。

 

 だが、それはできない。

 

 何故ならば、キンジは諦めてしまったから。

 ここでマキに逆らえばどうなるのか、キンジはよく理解している。

 そして、そうなってしまうだけ自分は力を振るいすぎた。

 ああ、何故自分はもっとHSSを使いこなせるように訓練してこなかったのか。

 大きな力の制御を誤れば、その使い手だけでなく周囲をも巻き込んで厄災を撒き散らす。

 そのことを、キンジはようやく理解した。

 しかし、それはもはや遅すぎる。

 こんなことならば、転校や退学のような逃げの手段でも構わない。自分は何か行動を起こすべきだった。

 

(俺は、大馬鹿野郎だッ)

 

 惰性が自分に返ってくるならばしかたない。自業自得というものだ。

 だが、そのせいでミヤビにまで迷惑をかけてしまう。

 これで正義の味方を目指すなど、身の程知らずにも程がある。

 

「クソッ、ちくしょうッ!」

 

 目に涙を浮かべながら、キンジは膝を突いた。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 転校してから一ヶ月。ミヤビの学校生活(スクールライフ)は至って順調だった。

 最も不安だった勉強においても、中学生用の問題集を各教科ごとに丸暗記することで対処している。これで暗記系や公式などは完璧だ。ちなみに、丸暗記の翌日は脳を酷使しすぎて知恵熱が出た。

 問題は暗記が通用しない国語の現代文などであるが、こちらは逆にミヤビにとって容易い。「感情を考えよ」などという問題は、所詮は『出題者の考える登場人物の感情』を逆算すれば良いだけだ。わざわざ事前の予習などなくとも、その場で充分に対処できる。ライトノベルをこよなく愛するミヤビは、生粋の文系なのだ。

 武偵としての活動も、今のところ問題ない。

 強襲科での実習は非常に多彩で、今まで戦闘一辺倒だったミヤビには新鮮なことばかりだった。強襲などと物騒な名前の専門科なのだから降下訓練や戦闘訓練ばかりなのかと思ったが、意外にも学ばされることは多い。陣形、爆発物の処理、休息方法、他にも移動手段である乗り物の知識など、その範囲は多岐に亘る。

 キンジが言うには、「強襲武偵は戦闘専門だからこそ、戦闘に関係する幅広い知識が必要になる」とのことらしい。やはりミヤビのようななんちゃって武偵と、キンジのような本場の武偵は違う。まさに対犯罪者の専門家(プロフェッショナル)だ。日本政府が欧州を見習って導入したのもわかるというもの。

 さて、そのように全く経験したことのない体験に目を輝かせていたミヤビだったが、性別の隠蔽に関しては細心の注意を払っていた。

 周囲との関わりをなるべく減らし、しかし浮くほどに隔絶しているわけではない。

 加えて、着替えなどには細心も細心、最も神経を使って対処していた。ミヤビの体型は全体的に丸みを帯びており、身体の線も男性というより女性のものに近い。これは母方の祖母の家系から遺伝した特徴であるが、今ほどその家に感謝したことはなかった。通常の犬塚の者ならば、顔立ちが多少は中性的だが身体は男などということも珍しくない。普段は服装などで誤魔化されているが、やはりそこは男だ。

 話が逸れたが、ミヤビはこの体型と顔立ちによって、パッと見は性別を見破られないほどの容姿を持つ。しかしミヤビももちろん男のため、誤魔化しきれない部分はあるのだ。

 だが逆に言えば、ミヤビはそのような部分さえ隠蔽できれば、まず性別を見破られない。そのような試行錯誤によって、何とかこの一ヶ月は凌いだ。

 そして、今日はその一ヶ月の節目の日だったのだが……

 

「……キンジくん、来ないなぁ」

 

 「先に行っていてくれ」というキンジからのメールを受け取ったミヤビは、一人で強襲科の授業を受けていた。

 少し遅れてくるのかと思っていたミヤビだったが、一向にキンジが来る気配がない。

 こっそりとキンジにメールを送ったりはしているのだが、返信すら返ってこない。

 

(うーん、これはサボりか?)

 

 ミヤビは首を傾げた。

 キンジは確かに真面目な生徒とは言えないが、武偵活動にはかなり熱心だったはずだ。

 この前本人に聞いた話では、同じく武偵活動をしている兄に憧れているのだとか。

 いつか自分も追いつこうというその精神は、素直に感心できる。目標があるのは良いことだ。目標に対して高い意識で臨む人間は、往々にして目標以上の成果を出すものである。将来の商売敵として、キンジには期待せざるを得ない。

 だが、そんなキンジが任務(クエスト)でもないのに授業をサボるだろうか。

 

(……まぁ、そんな日もあるか)

 

 何事にも例外というものがある。急に授業が怠くなったり、もしくは親が危篤だったりするのかもしれない。何も言わずにサボられたのは少々思うところがあるが、キンジにとって今日がそういう日だったというだけだろう。ミヤビからすれば特段気にすることではない。

 そしてその後、キンジから連絡が来たのはミヤビが本日のノルマを終えた頃だった。

 規定の射撃訓練と格闘訓練を片付け、強襲科の授業が終わった後のことだ。普段、ミヤビはこれらを終えた後は即行で帰宅してしまう。純粋に下宿先でやることが多いということもあるが、それらの仕事を終えた後で日課の修行を行うためである。別に武偵高でできないこともないが、一応ミヤビの剣術は一子相伝だ。不用意にその技術を晒したくはない。

 とはいえ、本日はキンジが姿を現さなかった。まだ学校にいるのならば一声かけてから帰ろうと思っていたミヤビの携帯電話に、キンジからメールが届いたのだ。

 

「何やってんの、午後の実習も半分は終わったのに」

 

 眉根を寄せながら中折れ式の携帯電話を開いたミヤビは、画面に映っていた文字に目を瞠った。

 思わず何度か読み返してしまったが、何度見ても書いてある文字は変わらない。

 

『今すぐに教室に来てくれ。二人きりで話したいことがある』

 

 件名はなし。添付物もなし。

 本当にこれだけの簡素なメールだった。

 しかし、これはどう見ても……

 

「告白か。告白なのか。月が綺麗で死んでもいいのか」

 

 現在、生徒たちは各々が所属する専門科の棟に籠っている。よって教室からは自然とひと気が失せ、密会などをするには打ってつけだろう。

 そのため、むしろ放課後よりもこの時間帯の方が告白などのために呼び出されることが多いのだとか。そこは夕暮れの教室という絶好のシチュエーション。周囲に視線はなく、そこには思春期の男女が二人。どんな過ちが起こっても不思議ではない。

 聞き耳ではあるが、クラスでそのような話を聞いたことがある。

 確かに学校での告白の場所としては、教室か屋上が鉄板だ。他にも保健室などもアリ。しかし選択肢を間違えた場合、夜の屋上で「中に誰もいませんよ」な状況になるので注意が必要である。

 

(あの奥手そうなキンジくんがねぇ~)

 

 日本のサブカルチャーによって培われた想像力で、キンジがミヤビに告白しようとする光景を思い浮かべてみる。ないとは言い切れないが、上手く想像できない。あのエクストリーム鈍感ならば「付き合って!」と女子が言っても「買い物に付き合うんだろ?」とか平気で言いそうだ。

 いじらしくシチュエーションを考えた末の行動だというのならば面白くはあるが、逆にキンジにしては凝りすぎているような気もした。穿った見方だということはミヤビも承知している。だが、不可解なものは仕方がない。

 何にしても、その恋は絶対に実らないのであるが。ミヤビは非生産的な恋愛には否定的なのだ。

 実際、女性同士の同性愛が大好きなとある同期の友人とはこの件で一度ガチバトルに突入している。結果、ボストーク号の一区画が毒瓦斯と破壊痕によって人間の住めない環境に変貌した。流石は『魔宮の蠍』と恐れられているだけあって、本気になると本当に質が悪い。閉所において彼女の毒は本当に反則だ。そして二次災害も酷い。

 

(しかし、無視するのもアレだし)

 

 悩んだ末、ミヤビはキンジの呼び出しに応じることにした。

 本当に告白と決まったわけではないし、もしかするとのっぴきならない状況に陥ったために救援を求めているのかもしれない。いや、むしろ普段のキンジを基準に考えればそちらの方があり得る。あの唐変木が告白のシチュエーションを練るなど、考えれば考えるほどあり得ない。

 それにキンジとは午前中に共に行動していたが、自分と一緒に居ても全く緊張した様子はなかったではないか。普通、好きになった人間を相手にあそこまで自然体でいられるものなのか。ミヤビは未だに恋愛未経験者なのだが、マンガなどを参考にするとやはりおかしい。

 第一候補が『救援の要請』、第二候補に『罰ゲーム』、第三候補に『果たし合い』、第四候補に『告白』くらいの気持ちで行こう。

 

「はぁ~、面倒だけど助けに行くかぁ~」

 

 全身から怠そうな空気を発しながら、ミヤビは強襲科棟を後にした。目的はキンジの救出だが、もしも本当に告白だった場合はどうやって断ろうか。

 一般的なのは「友達としか見れないから」というものだが、最近は「私は二次元にしか興味ないので」という相手に致命的なダメージを入れる断り方もあるらしい。できればキンジとはまだ友人でいたいため、有力なのは前者だろう。

 だが、最悪なのは逆上して襲い掛かられた場合だ。キンジに限ってあり得ないとは思うが、もしそうなった場合――

 

「友達続けるにはどれくらいの怪我までが限度かな……鼻一個か、耳一枚か……いや、歯なら多少は……どうしようか?」

 

 結論として、腕一本までならOKということになった。

 

 

 

 

 



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第5弾

 何故、こんなことになったのだろうか。

 教室で佇むキンジが思うのは、そんなことばかりである。

 それもこれも、全ては自分を利用する女子たちが悪い――そう言い切ることができればどれほど楽か。

 しかし、キンジはこの事態の半分は己が原因だということを痛いほど理解していた。

 

「……クソッ」

 

 その悪態は、今日になって何度目か。

 しかし、何度言おうとも現状は変わらない。

 

 ――これから自分は、何の罪もない友人に手を掛ける。

 

 そのことを改めて思い浮かべたキンジは、己の浅ましさを嘲笑した。

 友人だから何だと言うのだ。

 今までにも自分は、何の関係もない生徒たちを痛めつけてきたではないか。それを忘れて、今更友人だから悪態とは。

 偽善もここに極まれり。

 結局自分は、見知った人間が傷つくのは許せず、見ず知らずの人間が傷つくことを容認する屑だ。

 こんな奴に正義の味方を目指す資格などありはしない。

 

(ミヤビの奴、きっと俺に失望するだろうな)

 

 今まで偉そうに武偵についてミヤビに語っていた自分が恥ずかしい。

 そして真面目にそれを聞いてくれたミヤビに申し訳ない。

 できることならば、潔く死んでしまいたかった。

 

「――ッ」

 

 その時、HSSによって強化されたキンジの耳が、床と擦れる上履きの音を聴き取った。

 間違いない、ミヤビだ。

 先程のメールで呼び出されたミヤビが、この教室へやってきたのだ。

 距離はそう遠くない。あと一分も残さず、ミヤビはこの教室の扉を開ける。

 そうなったら最後、自分はミヤビをこの手で……

 

「クソがッ」

 

 脳裏に浮かぶのは、マキの歪んだ笑み。

 午後の所属科の授業を強制的に欠席させられたキンジは、人目に付かない空き教室へと呼び出された。

 そこでいつものようにHSSにさせられ、そして今に至る。

 通常ならば、HSSを発現した男性は女性を傷つけることができない。何故なら、HSSは発現者の『子孫を残そう』という本能を刺激するからだ。

 これによって、発現した男性は“あらゆる”女性を虜にしようと、女性に魅力的な男性を演じるようになる。

 そんなHSSが女性を傷つけることなど、システム的に不可能なのだ。

 しかしそんな道理を、マキは容易く覆す。彼女は試行錯誤の末、このHSSの禁忌を破る術を考案してしまったのである。これは彼女の前任者の女子も考え付かなかった――否、悪質すぎて想像すらできなかった手段だ。

 だがその手段によって、マキはHSSの利用において最大の欠点――女性に手を出せないという問題を克服した。

 それにより、彼女はこの学校のヒエラルキーの頂点に立ったのだ。

 もはや欠点のなくなったキンジは、マキの最強の矛と言えた。この学校において、キンジを止められる生徒は存在しない。

 

(俺は……ッ)

 

 キンジが情けなさに拳を握り締めた、その時だった。

 とうとう、教室の扉が開けられる。

 

「呼び出しに応じて馳せ参じてあげたよ。何か用?」

 

 ドロリとしたヘドロ色。

 見慣れてしまった死んだ双眸が、キンジを見据えていた。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

(……あれ?)

 

 ミヤビが教室に入って感じたのは、微かな違和感だった。

 日頃から利用しているはずの教室だというのに、普段は感じないような圧迫感がある。

 肌にピリッとくるような――久しく感じていない殺気に似ている。しかしそれにしては少し不安定で、どこか迷いのようなものを感じた。

 このような殺気を戦場で垂れ流せば、その者は即刻討ち取られるだろう。

 そして、その微妙な殺気を振り撒いていると思われるキンジは、無言で教卓に寄り掛かり佇んでいた。

 

「なんで殺気立ってるの? 不機嫌?」

「……いや、少し事情があってね。不機嫌と言えば不機嫌だけれど、別にミヤビに対してではないさ」

 

 とりあえずミヤビが思ったことは、「何だその口調は」という純粋な疑問。普段のキンジとは違い、その口からは軽薄そうな言葉を紡いでいる。

 そしてそれだけではない。意識してやっているのかどうかは知らないが、仕草の一つ一つから視線の寄越し方までまるで女性を誘うかのような妖艶さが滲んでいる。もしも普段のキンジを知らない女性が今のキンジを見れば、間違いなく女性慣れしたような印象を抱くだろう。

 尤も、ミヤビからすれば不気味以外の何でもないのだが。ミヤビに同性愛の気はない。

 

「ど、どうしたの? 頭でも打った? 病院行く? 救急車呼ぶ?」

「ははは、俺のことを心配してくれるなんて、ミヤビは優しいね……いや、ごめん。謝るから警察だけは勘弁してくれないかな?」

 

 ミヤビの指が携帯電話の110番に伸ばされたのを見たキンジが、表情を強張らせて通報を制止してきた。

 それに渋々と応じたミヤビだが、指は通話ボタンに添えたままである。何かあれば、キンジが行動を起こす前に警察へとコールされるだろう。

 

「キンジくん、ふざけているの? ボク、帰ろうとしていたのをわざわざ中断してまでここに来たんだけど。用がないなら帰るよ?」

「……俺としてはそれでも構わないんだけどね」

 

 歯切れの悪そうにしたキンジは、瞳を揺らしながら顔を逸らす。

 それを見たミヤビは、段々と嫌な予感を感じ始めていた。

 キンジの頭がおかしいのは一向に構わないが、何やら厄介事の臭いがしてきたのだ。

 この感じがする時は、高確率で面倒なことが起こる。虫の報せとも言えるこの現象は、自身の感覚に頼る武術家にとっては案外馬鹿にできない。

 

(『俺としては』――つまり、第三者が関わっている? キンジくんは呼び出し役?)

 

 そう考えるならば、呼び出しを指示した者が存在する。その者こそが、ミヤビの嫌な予感の正体だろう。

 となれば、面倒事には関わらないに限る。

 触らぬ神に祟りなし。孫子だって三十六計逃げるに如かずと言っている。ここは戦略的撤退だ。

 

「特に用がないなら帰るから」

 

 若干急いでキンジに背を向けようとしたミヤビは、しかし一歩遅かった。

 ミヤビが去ろうとする直前、再び教室の扉が開かれたのだ。

 

「帰る? それはならんなぁ~?」

 

 現れたのは、見知らぬ女子生徒。

 勝気そうに笑う彼女は、ミヤビの退路を塞ぐように扉の前に立ち塞がった。

 しかも扉を静かに閉めると、すぐに出られないようにするためか施錠をしてしまう。

 

「どちら様?」

 

 首を傾げたミヤビは、キンジに問いかけた。普通に知らない女子生徒だった。名札がないため、名前もわからない。自信はなかったが、この生徒は恐らくミヤビのクラスの生徒ではない。

 しかしキンジが答える前に、女子の方が勝手に名乗る。

 

「探偵科の赤城真紀で~す! 気軽にマキ様って呼んでね!」

「いきなり様付けですか」

「そ~だよ~? あたしには『様』が相応しいし~?」

 

 ニヤリと笑ったマキは、ホルスターから拳銃を抜く。

 あまり拳銃の種類には詳しくないミヤビだったが、その銃には見覚えがあった。

 グロック26――携帯性に優れた小型の拳銃だ。その小ささは本当に大したもので、サイズが小さすぎるため販売禁止になった地域すらあるらしい。

 この前の強襲科の授業で、教師が小話として語っていた。まさか早速知識が役に立つとは。案外学校も馬鹿にできない。

 

「大塚さんだよね~?」

 

 目元を厭らしく緩めた彼女に、「あっ、こいつはヤベェ」と直感的に判断したミヤビは、反射的に口を開いていた。

 

「人違いです」

 

 平然と嘘が出る。

 流れるように虚言を吐いたミヤビは、自然な動作でそそくさと彼女の脇をすり抜けようとした。

 

「って、違うだろ! 大塚はあんただろ! 逃げんなよ!」

 

 流石にその手は通じなかった。数瞬だけ呆けた様子の彼女だったが、すぐさま正気に戻ると再びミヤビの前に立ち塞がる。

 声を荒らげたマキなる人物は、今にも襲い掛かってきそうなほど気が立っていた。というか、既に銃爪に手をかけている。

 

「おい、聞いてんのか!」

 

 無言のミヤビに痺れを切らしたのか、女子生徒はイラついた様子で怒声を撒き散らす。それを見たミヤビは、これはもう一戦交えるしかなさそうだとゲンナリした。

 せめてとばかりにミヤビは廊下に視線を向けて教師たちの姿を探すが、残念ながら見つけることはできない。

 これは察するに、堂々と教室で“やる”気らしい。

 

「最近の中学生は凄まじいですね。ボクは体育館裏とかに呼び出すものだと思ってました」

一般校(パンコー)と一緒にしないでくれる? それに、学校なんて案外死角だらけのモンだし。ちょっと頭を使えば、校庭のど真ん中でやることもできるよ」

「マジで凄まじいですね」

 

 ラ○フとか目じゃない。

 訓練され、武装を許可された中学生とはかくも恐ろしいというのか。少女漫画などでも虐め描写はエグイと聞くが、火薬臭さと周到さならば武偵高が数段上だろう。

 

「それに、呼び出しは相手に戦闘の準備時間を与えることになる。なら、こっちから討って出るのが最も安全。先手必勝だし」

「これだから武偵高は」

 

 理に適っているだけに、ミヤビは呆れてしまう。

 こんなことだから無法者予備軍などと呼ばれるのだ。

 武偵高から退学する者は少なからず存在するとのことだが、そういう所謂“武偵崩れ”は裏社会に行きやすい。そんな話も、この生徒たちを見れば納得できる。

 

「ほら、教室に戻んな」

 

 グロックをミヤビの額に照準した彼女は、勝ち誇ったように顎で教室を示す。

 それに素直に従ったミヤビは、面倒臭そうに教室へと戻っていった。

 

「さてと、それじゃあ要件を説明するけど」

 

 自分のフィールドを整えたマキは、余裕そうに手近な机に腰掛けた。

 その傍らには、殺気混じりのキンジが佇んでいる。その様は、まるで主人に仕える従順な下僕のようだ。

 状況はさっぱりわからないが、どうやらキンジはあちら側らしい。

 

「あんた、最近になって転校してきたじゃん?」

「一ヶ月前は最近なのでしょうか?」

「最近だし。それでさ、中学で三年生以下の転校生は、全員あたしに挨拶に来るのがルールなんだよ」

「そうなんですか。初耳です」

「あっそ。でもさ、知らなかったにしろルール違反には変わりないのね。それでさ、違反には罰と謝罪が必要じゃないかなぁ、と思わない?」

「思いません」

「あたしは思うんだよ」

「……? ですから、ボクは思わないと言ってるんですが?」

「……テメェ、あたしの話を聞いてたか? あたしが言ってることの意味がわからねぇのか? あ?」

「悪いのは耳ですか? それとも頭ですか? ボクは、思わないと、言ったんですが?」

 

 「何を言っているんだコイツ」とでも言うようなミヤビの視線に、マキは口元を引き攣らせる。同時に、傍らで二人を見ていたキンジは両者の相性の悪さに絶望していた。マキも大概だが、ミヤビはそれを越すレベルの自己中心主義者だと痛感したのだ。もはやKYの域に達している。

 そして二人の自己中心主義者は、どうやらお互いに相手の話を聞くつもりはないらしい。自分の主張こそが絶対だと疑っておらず、相手が自分に従わないことこそが間違っていると確信している。だからこそ対話は成り立たないし、そもそも成り立たせようとしない。これでは会話のキャッチボールどころか、剛速球で相手にデッドボールをしに行っているようなものだ。

 現にミヤビは話の通じないマキに苛立ちを感じ始めており、怒りのボルテージが上がった様子のマキは銃口をミヤビに向けたまま目を細めている。

 

「そ、その反抗的な態度は何なの? ま、マジムカつくんですけどォ? お前、反省する気あんですかァ?」

「はいはい、メンゴメンゴ。それでもう帰っていいですか?」

 

 ミヤビは欠伸交じりに呟いた。それどころか携帯電話を取り出し、「あっ、メルマガ来てる」などとメールチェックまで始める始末。

 一方のマキは怒りのあまり語尾が上ずり、口調は端々が震えている。

 

「……テメェ、調子乗ってんだろ!」

「わっ、すご~い! それ良く言われます! さては君、エスパーですね。ところでもう帰っていいですか?」

 

 あまりに挑発的な態度に、逆にマキが押し黙った。傍らのキンジは信じられないものを見るように瞠目し、マキの顔色が赤から青へと変色する。

 しかしミヤビとしては、今の会話の九割は素で答えている。よって、彼女が何に怒っているのかイマイチ理解できない。だが、『会話をしていたらいつの間にか戦闘になっていた』というのは、ミヤビにはありふれたことであったため、特に気にしていなかった。

 

「……あ、あんた、本当に死にたいの? ここまであたしを、こ、コケにして……た、ただで済むと思ってんの?」

 

 マキの声が震える。それと同時に、銃を持つ手も震えていた。指は既に銃爪に掛けられているため、いつ発砲されてもおかしくない。

 だがミヤビは、それを見ても平気の平左だった。

 仮にもイ・ウーに所属していたミヤビとしては、拳銃を正面から向けられた程度で動じることはない。ボストーク号に居た頃は、気体爆弾やら荷電粒子やら局地的砂嵐などを相手にしてきたのだ。防弾装備に身を包んだ今、大口径のDEやM500でもなければ拳銃など玩具程度にしか感じない。グロック程度、制服越しに腕でも受け止められる。

 むしろ、「早く撃ってこないかな」などと考えていた。友達であるキンジならば手心を加えることも吝かではないが、赤の他人である彼女ならば話は別だ。武偵高に編入するに当たって不殺を誓ったミヤビではあるが、逆に言えば()()()()()()()()()()()のだ。再起不能になろうと植物人間になろうと知ったことではない。そして迎撃ならば、“うっかり”重症にしても言い訳がしやすいだろう。

 そんな嘗めきったミヤビの内心が顔に出ていたのか、マキの目が逆に据わった。どうやら怒髪天を衝いたらしい。

 銃爪へ伸びる指に力が入る。

 狙いは額。

 教室に充満するマキの殺気。

 ミヤビの口元が不気味に弧を描く。

 

「ぶっ殺す」

 

 唸るような声。

 その単純な一言は、ありありと殺意を放っていた。あまりに短慮が過ぎる上に衝動的にもほどがあるが、それでも彼女がミヤビを殺そうとしていることに変わりはない。

 となれば、ミヤビは心置きなく迎撃するのみである。

 

「やめるんだ」

 

 しかしその指を、今まで黙ってみていたキンジが優しく包む。一瞬でマキの手を抑え込んだキンジが、戦いの火蓋が切って落とされるのをその寸前で留めたのだ。

 結果、銃爪を引き終える寸前で指が止まる。あとコンマ1秒でも止めるのが遅ければ、弾丸はミヤビへと撃ち放たれていただろう。

 しかしマキは、キンジの行動に甚くご立腹らしい。怒りの形相で彼の手を振り払うと、そのまま罵詈雑言を叩きつけた。

 

「キンジ、なんで止めた! 奴隷は奴隷らしく、ご主人様に口出ししてんじゃねぇ!」

 

 酷い言い草だった。ミヤビならば間違いなくキレている。

 しかしキンジは、薄っすらと微笑みながらマキの肩を押さえた。

 

「マキ、冷静になって。君は今、彼女を殺そうとしていたね? そんなことをすれば、君は武偵法9条を破ってしまう。俺は、マキがそんなことをするなんて望まない」

「うるせぇ! テメェがあたしに逆らおうってのか!?」

「そんなつもりはないさ。ただ、俺はマキのことが心配なだけだよ。それに、君のような美しい女性が人を手にかけるところなんて、俺は見たくない」

「……じゃあ、それを証明してよ」

 

 そう言うや否やマキは、あろうことかその銃を自分の蟀谷に突きつけた。

 理解不能なその行動を目にし、ミヤビの目が点となる。

 一方でキンジは、苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。まるでその行動を事前に予想していたかのような反応だ。

 

「えぇっと、自殺志願者なの? 勝手に死ぬのなら別に構わないけど、できればボクに関係ないところで一人でやってくれない? それなら拳銃自殺だろうと練炭自殺だろうと入水自殺だろうと好きにしていいからさ」

「バァ~カっ! んなわけないじゃん」

 

 先程までの憤怒の形相から一転して表情を愉悦に染めたマキは、視線をミヤビからキンジへと変える。

 その視線を浴びたキンジは、見るからに怯えた様子だ。まるで蛇に睨まれた蛙、あるいは猫の前の鼠のような状態だった。

 

「キンジ、わかってるよね? ――やれ(・・)

「……マキ、やっぱりこんなことはやめよう。ミヤビは何も悪くない。それに俺は、やっぱり女性に暴力は……」

 

 躊躇うようなキンジに対し、マキは銃爪に指を掛けた。

 それに反応し、キンジは焦ったように言葉を止める。

 状況は全くわからないが、どうやらマキは自分の命を人質にキンジを脅しているらしい。

 

「キンジ、わかってないの? もしもキンジがあたしを裏切ったら――あたしはこの場で自殺する」

「よ、よせっ!」

「よさない。だってキンジが悪いんだから。あたしの邪魔したキンジが悪いんだから。だったら責任取ってキンジが代わりにやってよ」

 

 一言でいうなら、茶番である。

 キンジは真剣な表情であるが、マキに自殺する気がないのは明白だ。

 それなのに、キンジは一体何をそんなに焦っているのか。

 

「あの……ひょっとしてこの三文芝居を見せるためにボクを呼んだの?」

「そうだよ? でも、この演技はキンジのためにやってるんだよね」

 

 またもやわけのわからないことを言い出したマキに、ミヤビは今度こそはっきりと不快さを露わにした。もはやミヤビにとって、このやり取りは時間の無駄だと判断されたのだ。

 目からは温度が失われ、凍りつくような視線がマキへ、続いてキンジへと向けられる。

 しかし、むしろそれを面白そうに眺めたマキは、堪えきれないように唇の端を吊り上げた。

 

「キンジ~、大塚さんも待ちくたびれてるんだけど? そろそろ相手してあげないと可愛そうだよ?」

「ぐっ、だが、俺は……」

「――あっそ、じゃあ仕方ないね。はいはい、自殺自殺。キンジがあたしを守ってくれないから自殺します。でも、ただで死ぬのは悔しいから、キンジの秘密を全部学校裏サイトに載せて、それから自殺します」

 

 そう言うなり、マキは空いた左手で携帯電話を操作する。

 しかも時間を稼ぐように、あえて操作の手順をゆっくりと見せつけていた。

 それを見たキンジは、今度こそ観念したように俯いた。

 そして、手から血が滲むのではないかというほど拳を握りしめ――

 

「すまない、ミヤビ。恨んでくれて、構わない」

 

 ――愛銃のベレッタM92Fを、抜いた。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 マキが注目したこの状態のキンジの最大の特徴は、女性に“平等に”なることである。

 通常時のキンジが普通の少年であることに対し、このキンジは全ての女性への優先度(プライオリティ)が等しくなる。

 つまりこれは、普段は嫌いな女子であろうと普通の関係の女子であろうと、好感度をいきなり最高に引き上げることができるのである。

 よってこの状態のキンジにとっての守る対象は、目に映る女性全てということになるのだ。

 

 しかしもしこの状態のキンジの前で、命の危機に瀕している女性がいればどうだろうか。

 

 その場合、キンジはその女性に対しての優先度を引き上げざるを得ない。

 何故ならば、この状態のキンジは女性が傷つくことを許せなくなるからだ。そんな中で命を落としそうな女性が居れば、無傷の女性と比べて優先度が上がるのは必然だろう。

 例えその命を落としそうな状況が演技だったとしても、命を落とすかもしれない(・・・・・・)というだけでこのキンジは動く――否、動かざるを得ない。通常時のキンジならば一笑に付す状況でも、この状態のキンジは捨て置けない。

 だからマキは、キンジの目の前で銃を自分に押し当てる。

 言うことをきかなければ死ぬ、と。そうやって自身という“女”を人質に取ったのだ。

 

 だが、それでも他の女性を襲わせる理由には、少し弱い。

 

 一人の女性を助けるために他の女性を傷つけたのでは、HSSからすればまさに本末転倒。

 迷うばかりで判断が遅れる。現に、今のキンジがそうだ。

 口ではミヤビに「すまない」などと言っているが、恐らく頭の中ではこの状況を回避しようと最後の足掻きをしているのだろう。

 この期に及んでまだ諦めないその根性は見上げたものだったが、無駄な努力だ。

 キンジは既に、マキの必勝のパターンに持ち込まれている。

 

「――しょうがないなぁ」

 

 ベレッタを抜いたキンジに、マキが制止をかけた。

 その言葉にこれ幸いと動きを止めたキンジは、縋るようにマキを見る。

 その様子から、キンジの精神が相当に追い込まれていることをマキは悟った。

 王手だ。

 

「キンジは、そんなに大塚さんを虐めたくないの~?」

「……当たり前だろう。俺は女性に手を上げられない。それに、何も関係ないミヤビを――」

「はぁ? お為ごかしも大概にしろよ。今更になって関係ないだァ? テメェはもう何人も無関係な奴を甚振ってきたじゃねぇか」

 

 その言葉に、キンジの表情はみるみる歪んでいく。その顔色は、もはや蒼白と言っていいほどだった。

 そんなキンジを嘲笑ったマキは、さらに言葉を進める。

 

「あたしは確かに悪人だがよォ、それにホイホイ従ったテメェも同罪なんだよ。テメェはあたしから逃げることも逆らうこともできた。それをしなかったのは、我が身可愛さにだろォ? それが、今になってできましぇ~ん? 悲劇の主人公は楽しいですかァ?」

 

 キンジが思っているであろうことを、マキは的確に突く。

 これでもマキは探偵科。この程度の心理状況を推理することなど造作もない。

 キンジが武偵活動に熱心で、将来は立派な武偵を目指していることもマキは知っている。

 なるほど、気高い精神だ。だが、無力な人間の精神など、利用するにはこれ以上に便利なものなどない。

 

「でも、キンジの本当の気持ちはわかったよ~。そうか、やっぱりキンジはこんなことしたくないか~」

 

 そう、利用する。

 キンジのその心意気は、たった今完膚なきまでに破壊した。

 ここからは、その心意気を“再構築”する。

 

「そっか、嫌か~。大塚さんに暴力なんて、そんなの嫌か~」

「そ、それじゃあ……」

 

 目を輝かせたキンジに、マキはうんうんと頷いた。

 ただし、銃は下ろさない。

 

 

「じゃあ、捕まえるだけでいいよ」

 

 

 捕まえる、だけ(・・)

 マキはキンジに譲歩した。

 今までのように甚振るのではなく、ミヤビを捕まえるだけで良いと。

 

「キンジが本気を出せば、女の子を一人捕まえるくらい簡単でしょ? 優しく捕まえてあげれば? そしたら、もう帰っていいから」

 

 妥協――これが、キンジを操る最後の一手だ。

 

「だ、だが、捕まえた後、ミヤビは……」

「別にどうもしないって! キンジの心意気に免じて、『もうキンジに関わるな』っていうお説教だけで済ませてあげる! 指一本触らないって約束するよ!」

 

 銃で撃ったりはするかもしれないが。

 ここが最後の詰めだ。

 人間、最悪の状況から僅かにでも状況が好転すれば、それが未だに悪い状況だというのに気分が楽になってしまうものだ。

 今のキンジはまさにそれである。

 

 マキはこう言っているんだ、そもそもマキは命を盾にしているんだ、自分はマキを信じただけだ、いつもよりはマシなんだ、捕まえるだけだ――仕方ない(・・・・)

 

 追い詰められたキンジは、仕方ないと妥協する。

 事実、キンジは捕まえただけなのだ。その後で何かが起こるかもしれない(・・・・・・)が、そこから先に責任はない。

 “未必の故意”――犯罪などの発生が確実だと思っていながら、あえてそれを見逃す行為。

 だが、それが故意かどうかを決めるのは、この状況ではキンジなのだ。

 キンジが「マキを信じただけだ」と思考停止してしまえば、それはキンジにとって故意ではなかったことになる。

 この手段で、マキはキンジの『女性に手を出せない』という問題をクリアしてきた。動きさえ封じてしまえば、後は自分たちでどうにでもなる。

 

 そしてキンジは――

 

「…………なら、仕方ない(・・・・)か」

 

 今日も思考を停止する。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

(ああ、結局こうなるんだな)

 

 仕方ない――そう口にした自分に、キンジの感情は冷め切った。

 失望という枠を通り越し、己の不甲斐ない姿に呆れ果てる。

 いつもそうだった。心の弱い自分は、マキに流されるままに人に暴力を振るってきた。

 逃げることも、逆らうこともせず、最後には「仕方なかった」の一点張り。

 言い訳ばかりを繰り返し、最後の最後まで自分の意志を貫けない。

 そして今日も、自分は見え透いたマキの嘘に流された。

 

「捕まえるだけ、捕まえるだけだ」

 

 自分に言い聞かせるように呟く。

 そんな自分に反吐が出る。

 自分は、ここまで情けない人間だったのか。

 こんな浅ましい言い訳を繰り返しながら、友人を手にかけるのか。

 マキが約束を守らないなどということは明白だ。襤褸雑巾のようになるまで、ミヤビはマキに痛めつけられるだろう。

 今こそマキ一人だが、きっとすぐに同じグループの仲間を集め、寄って集ってミヤビを甚振る。

 そんな現実に目を瞑り、自分は家路につくことになる。

 

 ああ、なんと醜い屑なのか。

 

 それでも身体は止まらない。

 言い訳を用意され、理論武装も済んでしまった。

 

「ミヤビ、大人しくしてくれ。なるべく、痛くはしない」

 

 まずは、軽く気絶させよう。

 動く人間を拘束するのは、意外と難しい。それに、拘束する際に相手に怪我をさせてしまう場合もある。

 その後は、ミヤビの手足に手錠をかける。

 そうすればキンジはお役御免。とりあえず今日は帰れる。

 

「…………」

 

 そんなキンジを、ミヤビは無言で見つめていた。

 その瞳を、キンジは見返すことができない。

 もしも今ミヤビの目をまともに見たら、あるいは罵倒の一言でも受ければ、キンジの精神は間違いなく崩壊する。

 大義もなく悪行を働いたと認識してしまえば、キンジはもう立ち上がれない。

 

「ミヤビ、謝って済むことじゃないのはわかっている。後で俺を好きなだけ罵ってくれて構わない。だから、ここは抵抗をしないでほしい」

 

 抜銃したキンジに対し、ミヤビは何も答えない。恐怖に怯えることもなく、怒りを見せることもなく、ただ普段通りの表情でじっとキンジを見つめていた。その変化のなさは、普段通りすぎて逆に感情が読めない。

 だがキンジは、押し潰されそうなほどの罪悪感によって細かくものを考えることができなかった。要するにミヤビの身を最低限案じつつも、それ以上深く物事を考えることを放棄していたのだ。

 

「……ねぇ、実はずっと前から気になってたんだけど」

 

 だからこそミヤビの言い放った言葉は、限界の寸前だったキンジの思考を完全に停止させるに余りあった。

 

 

「キンジくんって童貞?」

 

 

 空気が凍った。

 ミヤビの突然の奇言に、キンジとマキの思考が一瞬だが完全に停止する。

 普通にわけがわからなかった。無論、言葉の意味は理解できる。だがなぜそれを、今、この状況で聞くのだ。というよりも、童貞という大凡日常で聞くことのない言葉を不意討ち気味に女性から放たれて、瞬時に受け答えができる男性がこの世にどれほどいるか。

 

「……は?」

「どうなの? さくらんぼくんなの? それとももう経験済みなの?」

「いや、その……えぇ……?」

 

 まるでミヤビは、ごく当たり前のことを聞くかのように首を傾げている。その動作そのものは可愛らしいものだったが、口にしているのは完全に下ネタだ。その容姿と言葉の内容の大きすぎるギャップに、キンジの思考は空回りするばかりで全く働かない。このような状況は、いくら万夫不当のHSSでも如何ともし難かった。

 キンジの後ろに控えるマキも、あまりの超展開に呆然としたまま動かない。

 そんな二人の様子など眼中にないかのように、ミヤビはキンジに歩み寄った――あまりにも自然に、ゆっくりと。

 

「へぇ~、キンジくんは中学生なのに大人だねぇ~! えっ、ボク? 流石にまだ全然だよ~! というか相手もいないしね!」

「いや……その……一応、俺もそういう経験はまだなんだが……」

「そうなの? じゃあお互いに未経験なわけだ! 良かった~。最近の若者は進んでいるっていうから、ひょっとしてボクは時代に乗り遅れているのかと思ったよ~」

「……あの、ミヤビ……?」

「というか、やっぱり最近の若者にはモラルってものがないんだよ! もっと節度を持って行動しないと! 日本は慎みの国ですよ! もっと公序良俗を意識するべきだよ! キンジくんもそう思うでしょ!」

「えっと……まぁ、そうだな……?」

「昨今では中学生での性体験が増えているって統計結果が出たって前にニュースで見たけど、そういうのって実は法律違反なんだよ? 高校生以下に許されるのはBまで! Cより先は武偵三倍刑で重罪になるんだから! キンジくんも覚えておいてね!」

「あ、ああ……わかった……」

「間合いだよ」

 

 直後、キンジの腹部から爆音が轟く。衝撃がキンジの胴体を吹き飛ばし、それに遅れて手足が引っ張られていく。そしてなす術もなく背中から防弾扉へと突っ込んだキンジは、盛大な破砕音を撒き散らしながら廊下に叩き出された。前後から襲い掛かる衝撃に、キンジの意識が一瞬飛ぶ。

 予想もできず、反応もできない完璧な不意討ち。だが、キンジを責めることはできない。それは不意討ちと呼ぶにはあまりにも堂々としたものだった。ミヤビの弄した戯言によって場の空気が完全に掌握されていたからこそできた一撃だ。言葉に注目させられたことで、ミヤビの歩みに違和感を感じることができなかった。そしてそこからのあまりにも唐突なタイミングでの攻撃だ。

 むしろキンジからすれば、なぜ自分が攻撃されたのか咄嗟にわからなかったほどだった。自分が戦闘中だという現状すら、キンジは意識の外に追いやられていたのである。

 そして――だからこそ気付かなかった。キンジが戦いの意志を示し、銃を抜いた時点で戦いというものは始まっていたのだと。

 だが、それだけではない。キンジには明確な失態があった。

 

「キンジくん、今ボクのこと侮ってたでしょ? 背の小さい小学生みたいな女が相手だから、簡単に取り押さえられると油断してたでしょ?」

 

 ミヤビの言う通りだ。キンジには油断があった。HSSは無敵という傲り、相手は女子だという油断、常勝無敗だったという経験――その全てがここに来て裏目に出たのだ。

 キンジの思考速度では、HSSで強化されていたというのに何をされたのかすらも理解できなかった。恐らく、傍らで見ていたマキにも何が起こったのかわからなかっただろう。実際、マキでは二人の間に“攻防があった”ということすら感知できなかった。

 正確には――キンジの懐に潜り込んだミヤビが、無防備なその鳩尾に前蹴りを叩き込んだのだ。それをHSSの電光石火とも言える反応速度で無意識に防御に転じたキンジが、咄嗟に銃を持っていなかった左手で受け止めた。だが左手一つだけで撃力を殺すことができず、反射的に背後に飛び退ることで僅かながらも衝撃を減らしにかかった。これが今の攻防の顛末である。

 とはいえ、完全に防御できたというわけではなかった。今の防御は、所詮苦肉の策に過ぎない。その証拠に、ミヤビは確かにキンジの左手を砕いた感触を靴越しに感じ取っている。

 

「というか、相手が誰であれ“敵”が目の前に来たのに呆けてたら駄目だよ。馬鹿じゃないの?」

 

 完璧な不意を突かれたキンジに反し、ミヤビからすればキンジの行動は理解不能の極みだった。

 どんな事情があるにせよ、キンジはミヤビと敵対した(・・・・)のだ。つまりキンジとミヤビは、キンジが銃を抜いたあの瞬間から敵同士。一度敵対し、武器を抜いた瞬間から友達も何も関係ない。その状況ならば親でも殺すのがミヤビの流儀だ。だというのにキンジは、ミヤビの前に隙だらけの姿を晒した。これはもう「殺してください」と言っているも同然だ。ミヤビが武偵でなければ、今頃あの世に旅立っている。

 だが、それと同時に感心もしていた。隙だらけの状態でミヤビの前に姿を晒したのは赤点だが、防御に関しては及第点だ。内臓をギリギリ破裂させない程度の威力で蹴りを叩き込んだミヤビだが、キンジは見事にそれを凌いだ。左手こそ犠牲にしたが、まだまだ戦闘は継続可能だ。戦闘不能とでは天と地ほどの差がある。

 そして、戦える敵を前にして追撃しないほどミヤビは甘くない。だが、全力で相手をして瞬殺してしまうのも気が引けた。せっかくの機会だ。キンジの実力を見てみたい。

 

「さぁ~て、どんなものか」

 

 一方、廊下に転がったキンジは、まず自分がどうなったのか理解できなかった。ミヤビに何かをされたのはわかる。それによって防弾扉に叩き付けられたところまでは記憶がある。だが、それから何がどうなってしまったのかを全く憶えていない。僅かな時間だが、意識を失っていたらしい。それを理解すると同時に、視線の先に天井があることでキンジは初めて自分が廊下に転がっているのだということを知った。

 常勝無敗のHSS――ヒステリアモードが、初めて背中を地面に付けたのだ。その単純な事実を認めるのに、キンジは数秒を要した。兄などとの訓練ならばいざ知らず、実戦では敗北を知らぬというその経験。それがキンジの判断を鈍らせた。

 そして次に捉えたのは、視界の端から現れた黒い影――反射的に身を起こす。

 直後、キンジの頭があった空間に、ミヤビのよって繰り出された踏み蹴り(ストンピング)が炸裂する。空気が唸りをあげるようなその威力に、キンジの下敷きとなっていた防弾扉が鈍い音とともに陥没した。もしも反応が遅れていれば、物理的に顔面整形を施されるところだった。

 

(しゃ、洒落にならねぇ!?)

 

 小柄なミヤビの身体のどこにそんな力があるというのか。今の一撃だけでも明確にわかることは、ミヤビの脚力がHSSを発動したキンジを遥かに上回っているということだ。

 もはや油断できる要素がまるでなかった。体格差や性別の差程度では覆しきれない。先程までの傲りをかなぐり捨て、キンジはベレッタをミヤビに向けていたしていた。

 だがミヤビは、自身に向けられた銃口を見ても平然とした表情を崩さない。それどころかさらに期待したような表情を見せた。その様子が、ますますキンジの焦りを増長させる。

 

「うおおおおッ!」

 

 焦燥を振り払うかのようにキンジは吼えた。

 武偵法9条に従い、キンジはミヤビに致命傷を与えることはできない。そしてHSSの縛りにより、剥き出しの手足を狙うことは躊躇われた。となれば、自然と照準は防弾制服に包まれた胴体ということとなる。瞬時に狙いを定めたキンジは銃口をミヤビの胸の中央に向けた。そして若干の躊躇を抱きつつも銃爪を引く。

 途端、ミヤビは僅かに腰を落とし、添えるように腰の刀に手をかけていた。その構えでキンジは理解する。居合だ――ミヤビはなんと、キンジの銃撃を斬ってみせる(・・・・・・)というのだ。

 銃弾の速度は亜音速。常識的に考えれば、斬ることはもちろん肉眼で捉えることもできない。――常識ならば。

 

 ミヤビの眼前で、バチッという音とともに火花が散る。

 

 刹那、切断された二つの銃弾がミヤビの後方に着弾する。その光景を、キンジは呆然と眺めるしかなかった。

 しかしキンジが驚愕したのは、銃弾斬りという絶技だけではない。真にキンジが括目したのは、その居合における抜刀を捉えられなかった(・・・・・・・・)ということだ。

 間違いなく抜刀はされた。銃弾が射線上で真っ二つになる様も、側面から斬り裂かれた銃弾がミヤビの脇へと弾かれる様も、HSSで強化された目によって全て見届けた。だが肝心の居合は、抜刀の瞬間から斬撃までの過程の影すらも捉えられなかったのだ。否、それだけではない。納刀すらも、刀身の根本が一瞬だけ見えたような気がするという程度にしか捉えられなかった。

 ただ速いだけでなく技術として完成されたそれは、まさに神速の抜刀“術”。

 加えて、その斬撃はあまりにも静かだ。文字通り空気を斬り裂いたというのに音もなく、歪んだ空気は軌跡を埋めるようにピタリと閉じた。ミヤビの斬撃に一部の乱れもない証拠である。

 斬撃という原始的な攻撃が昇華されると、ここまで至るというのか。もはや人間業ではない。

 一閃という言葉すらも生温い。これはまさしく――

 

「『零閃』――この技は閃きすらも見せはしない」

 

 達人技どころの話ではなかった。こんなもの、人間の範疇を超えている。

 “超人”――その言葉がキンジの脳裏に浮かぶ。この時、キンジは生まれて初めて『銃が通用しない敵』と遭遇していた。その超人が、一歩、また一歩とキンジに歩み寄ってくる。ミヤビの刀の間合いに入るまで、あと何歩残っているのか。

 恐怖に表情を引き攣らせたキンジは、反射的に銃爪を引いていた。

 悲鳴のような雄叫びをあげながら銃爪を何度も引き続けるキンジに、もはや余裕は全くない。弾倉(マガジン)が空になるまで、撃って撃って撃ち続ける。

 

「……ねぇ、キンジくん」

 

 だが、ミヤビは飛来する弾などに怯むような人間ではなかった。射手と自分の距離が数メートルしかないなどという程度で動揺を見せる人間でもなかった。むしろより深い笑みを浮かべ、向けられた銃口へとその黒い瞳を向けている。

 ミヤビが取った構えは、またしても抜刀の構えだった。今度はやや右手が下がっているが間違いない。ミヤビは再びあの不可視の抜刀術を披露するつもりだ。咄嗟にそう考えたキンジは、ある意味では間違っていなかった。同じ“視えない”という意味では、零閃もこれ(・・)もそう大きな違いはない。

 

 

「『縮地』って、見たことある?」

 

 

 ミヤビの姿が忽然と消える。

 そして次の瞬間、十数発はある銃弾の軌跡の脇を一陣の風が吹き抜ける。それに追従するように、硬い廊下を踏み砕くかのような跫音が駆け抜けた。それらが去った無人の空間を、亜音速のパラべラム弾がようやく通過していく。

 

「なッ!?」

 

 完全に消えた。だが錯覚でも幻覚でもない。ミヤビは消える直前、僅かに腰を落として爪先に力を込めていた。

 これらの情報から推察されるのは――

 

(拙いッ)

 

 その答えに辿り着いた瞬間、ベレッタが“崩れた”。するりと滑るように落ちたのは、黒く光る銃身。遊底(スライド)から上を真っ二つにされたベレッタが、バラバラと部品を撒き散らしながら廊下に散らばった。そして目の前には、静かに黒い鞘へと納刀するミヤビの姿。

 キンジとミヤビの間にあった距離が、刹那の間にゼロへと変じていたとようやくキンジは理解する。

 まるで時間が飛んだようだった。速いなどという次元ではなく、ミヤビの動作の全てが認識できなかった。まるでアニメーションのコマのいくつかが省略されたような、理解不能な事象。時間という概念に自分が置き去りにされたかのような錯覚。キンジは反応すらできない。

 

「う~ん、やっぱり『瞬天殺』は割と再現できてると思うんだよなぁ……。でも教授には通じなかったし。絶対に視界から外れているはずのに捉えられる。これはもう無感情にでもなって先読みを封じるしかないのか? いや、でもあいつが剣心と同じ方法で対処しているとは限らないし。むむむ……」

 

 何やらブツブツと呟くミヤビを尻目に、キンジは今の現象の凄まじさを改めて思い知る。

 縮地――それは即ち、タネも仕掛けもない単純な“速さ”だ。爆発的な初速(ロケットスタート)によって、一瞬でキンジの視界から消えた、あるいは適切な焦点から外れただけ(・・)という言葉にすれば何ということはない技。だが、だからこそそれは常識離れしている。

 健脚などという次元ではない。まさに神速――神の速さだ。韋駄天走りという言葉すらも霞む。

だが、さらに驚くべきことがある。ベレッタが破壊された後、ミヤビは納刀をしていた。それはつまりミヤビは縮地による超高速の移動と同時に、先程の抜刀術を繰り出せるということだ。今は武器が破壊される“だけ”で済んだ。しかしもしも今の一撃をキンジが急所に食らっていれば、痛みを感じる間もなく即死させられていたかもしれない。

 

「それで、次はどうするの?」

 

 及び腰となったキンジを、ミヤビの濁った瞳がキロリと見据える。

 状況は接近状態。密着というほどではないが、格闘術(ストライキング)を仕掛けられる程度には二人の距離は近い。

 HSSによって高速化されたキンジの思考は、瞬時に近接戦闘(インファイト)に移行した。

 目の前で興味深そうにキンジを見上げる少女に、キンジは目にも止まらぬ速度で足払いを仕掛け――ようとした瞬間、払いを繰り出そうとした足がガクッと地面に縫い止められた。驚愕にキンジが己の足へと視線を向ければ、自身も踏み込んできたミヤビの小さな足によって爪先が踏みつけられている。先程の縮地に納得できるほどの剛力だ。まるで岩に挟まれているかのようにすら感じる。

 

(先手を取られたッ)

 

 次の瞬間、キンジは軸足を入れ替える。踏み止められた左足を軸に、右足が高速のハイキックを放つ。だがそれは、ミヤビが後方に一歩退いたことによって鼻先すら掠らない。

 ならばと再び軸足を入れ替え、後方に下がったミヤビを二撃目のハイキックで追撃する。それをミヤビは、大きく上体を反らせることで躱してみせた。驚くほどの柔軟性と回避能力を見せつけたミヤビだったが、そのような不安定な体勢を今のキンジが見逃すはずがない。

 がら空きとなったミヤビの足。そこにキンジは、すかさず下段回し蹴りを叩き込む。だがそれすらも空を切る。上体が反り返った状態から、ミヤビは空中で背転することでキンジの蹴りを躱したのだ。柔軟性だけではない。まるで猫のような身の軽さだ。

 そのまま軽やかな動作で背転を繰り返したミヤビは、キンジから大きく間合いを開いた状態でようやくその動きを止めた。

 

「おおっ、こっちもなかなか楽しめるかも」

 

 常人が相手ならば三度は打倒することができるはずの攻撃。だというのにミヤビは、全く余裕そうな表情を崩さない。手加減どころの話ではない。状況は完全にキンジに不利だった。

 HSSをもってしても、この場でミヤビを倒せるかと聞かれれば極めて難しいと言わざるを得ない。一体彼女は、この学校に転校する前は何をしていたのだろうか、などというどうでも良いことに思考が向かう。そのような現実逃避をしてしまうほどに、キンジは追い込まれていた。

 

(銃は破壊された。肉弾戦は圧倒的に速さが足りない。一応ナイフはあるが、そんなものがミヤビに通じるのか?)

 

 それは尤もな疑問だった。キンジは肉弾戦を得意としているが、今の攻防でミヤビはそれ以上の使い手だということがわかる。そしてミヤビは、まだ腰の刀をまともに抜いていない。下手に刀剣戦を仕掛けた場合、間合いの広いあちらが有利になるのは自明の理。となれば、下手にナイフを抜くことはできない。

 だが、ここで下手に間を開けておくことの方が危険だ。素手と刀では、僅かな差とはいえナイフよりも間合いが開く。ここはミヤビが次の行動に移る前に先手を制す。

 そう考えた直後、予想外のことが起こる。

 ミヤビの死角――教室から、マキが拳銃を片手に姿を現したのだ。その表情は愉悦が滲んでおり、そんなマキの思考を表すかのように銃口が無情にもミヤビに向けられる。ここでキンジは悟った。彼女は、キンジとの戦闘に集中しているミヤビを背後から撃つつもりなのだ。その卑劣な、ある意味では合理的な戦法にキンジの表情が歪む。

 

「――ッ」

 

 HSSでなくともわかる。マキの拳銃は、確実にミヤビの後頭部を狙っている。明らかに殺傷目的だ。武偵にあるまじき行動だが、恐らくマキは衝動的にそれを行っているのだろう。その動きにまるで躊躇がない。

 「よせ」とキンジは叫ぼうとしたが、間に合わない。既にマキの指は銃爪を引いている。

 

 ――そして、それに先んじてミヤビは動き始めていた。

 

 パンッという乾いた発砲音。それが響いた時には、既にミヤビはマキの眼前にまで踏み込んでいた。そして左手で銃を持つマキの右手の手首を掴み取ると、残った右の掌底が跳ね上がるように放たれた。刹那、骨と腱が砕ける音とともにマキの肘が“逆側に”曲がる。尋常な関節の駆動域ではあり得ない、への字に曲がったその腕。あまりにグロテスクなその光景に、キンジの呼吸が確かに一瞬だけ止まった。

 

「ぅ、ぎィ――」

「うるさい」

 

 腕から昇ってくる激痛。それに耐えかね、マキは悲鳴をあげそうになる。だが、ミヤビはそれすら許さない。逆向きに曲がった腕を掴み上げると同時に身体を半回転。マキの腹に背を押し当てるようにして潜り込むと、逆関節のように曲がった肘を更に折り曲げるかのように巻き込みながら、鋭い背負い投げを繰り出した。結果、肘が逆向きに直角となる。もはや人体の構造を無視した、あまりにも残虐な投げ技。ミシミシという肉や腱が軋む音に、骨が圧し折れる音が重奏した。

 だが、まだミヤビの攻撃は終わらない。

 そのままマキの頭を地面に突き刺すかのように変則的な投げ技を放ったミヤビ。そしてそれを第三者の視点から見ていたキンジは、ミヤビがマキを放すと同時にその細い足が霞むようにぶれたのを捉えた。直後、落下途中だったマキの頭に、ミヤビの前蹴りが炸裂する。

 

「脳天地獄蹴りィ! ――あっ!?」

 

 ナニカが砕けるような、人体が出してはならない音が響く。一瞬、爪先が頭蓋に食い込むと同時に首が胴体にめり込んだようにすら見えた。もしくは、あれは蹴りによって瞬間的に首が縦に縮んだのかもしれない。そんな一撃をまともに食らったマキの身体は、枯葉のようにクルクルと回って廊下に叩き付けられた。もはや身体を小さく痙攣させるばかりで、悲鳴をあげる力も残っていないようだ。

 背後からの銃撃という卑劣な手段に出たマキに、肘を圧し折り頭部を蹴り飛ばすという残虐な返しをしたミヤビ。その恐ろしい光景に、思わずキンジの足が竦みそうになる。

 だがキンジの武偵としての冷静な思考が、これは好機だと訴えていた。マキが固い廊下に叩き付けられているこの瞬間、ミヤビはまさに無防備。これ以上の隙は、もう恐らくミヤビは見せないだろう。だが――

 

「――マキッ!!」

 

 叩き付けられたマキが床にバウンドして跳ね上がった瞬間、キンジはミヤビとマキを分断するかのように二人の間に踏み込んでいた。あまりにも惜しい僅かな好機。それをHSSの「女を守る」という性質が阻んだ。

 無論、キンジもマキが全ての元凶であり、庇い立てする義理など欠片もないことは理解している。だが、それを許さないのがHSSだ。マキという女性との間に“子孫が残せる”という条件さえ成立してしまえば、HSSはその女性を守ることを優先してしまう。

 女性のために強くなる――それはHSSの最大の長所であり、同時に最大の弱点だった。

 

「……やっべ、やっべ。どうしよう」

 

 そして、それが大きな隙を生む。何か焦ったように冷や汗を流していようと、ミヤビはそれを見逃さない。

 強引に二人の間に割って入ったキンジにも、ミヤビは全く容赦しなかった。マキを背に庇うように立ち塞がったキンジの右膝に、ミヤビは躊躇なくローキックを炸裂させた。膝が側方に折れ曲がるかのような蹴りに、キンジは堪らず膝をつく。それを見逃さず、ミヤビは絡み付くように襲い掛かった。その動きは、まるで獲物に食らい付く蛇のようだった。キンジの身体を這うように絡むミヤビは、キンジが抑え込む暇もないほどの速さで背後に組み付く。

 

背後(うしろ)を獲られた……!)

 

だが、もう遅い。

 キンジが迎撃しようと動くよりも速く、ミヤビが二房にわけられたその長い髪と細腕を首に絡ませてきた。そして同時にキンジは気付く。これは――絞め技だ。腕だけでなく髪すらも利用した複雑な裸絞め。そして迎撃しようにも、既に両腕がミヤビの足によって抑え込まれている。壁に背中からミヤビを叩きつけようにも、右足のダメージが大きく立ち上がれない。

 

双蛇刎頸抱(シャンシケイケイパー)……これなら死にはしないでしょ、たぶん」

 

 ギリギリと万力のような強さで絞めるミヤビに、キンジはもはや言葉を発することもできなかった。次第にチカチカと視界が明滅し始め、意識が遠退き始める。やがて手足からも力が抜け、自分が立っているのか転がっているのかという平衡感覚も失われてきた。

 経験上、これではもう……

 

(お、落ちる……!)

 

 そう思ったのを最後に、キンジの意識は真っ暗になった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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