月姫転生 【完結】 (HAJI)
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第一話 「転生」

――――ふと、目を覚ました。

 

 

だが目を覚ましたのかどうかすら分からない。ただその光景に、世界に飲み込まれる。

 

無。何もない、漆黒の底。どこまでも深く、底など無いかのように深い闇。

 

自らのカタチも見えない。どうしてこんなところにいて、どうしてこんなにも落ち着いていられるのか。

 

それはきっと知っていたから。ここが何なのか。当然だ。数えきれないほどこの道をたどってきたのだから。慣れ親しんだ道。今更驚くことも、嘆くこともないない。なのに、それなのにただ怖かった。

 

例え幾万回繰り返そうとも、この世界に慣れることなどあり得ない。あってはならない。

 

何故ならここは人にとっての禁忌。人ならざる者であっても耐えられない、生きているのなら避けることができないもの。

 

『死』という絶対的な恐怖。

 

体を動かすことも、声を上げることもできないまま、ただ待ち続ける。この無限地獄にも似た螺旋から抜け出すこと。そんな叶うことのないユメを――――

 

 

 

 

「…………え?」

 

 

知らず声が漏れてしまう。無意識な行動。だがそれを責めることができる者などいないだろう。ただ声の主は呆然とした様子で辺りを見渡している。まるで今まさに生まれた赤子のような有様。だが今の彼にとってはまさにその言葉が相応しかった。

 

 

(ここは……どこだ……? 俺は……?)

 

 

ただ彼は混乱することしかできない。全く自分の状況が理解できない。目覚めたばかりの体のだるさと朦朧とする意識の中でも、今の自分が異常な状況に直面していることは明らか。混濁する意識を何とか振り切りながら彼はただ辺りを見渡す。

 

白い壁と白いベッド。無機質を思わせるどこか冷たさを感じさせる部屋。どこかの病室なのだろうと、そう容易に判断できる一室。そのベッドの上に彼は横になっていた。何故こんなところに。そんな疑問すら吹き飛んでしまうほどの異常が彼の視界に現れていた。

 

 

「――――っ!?」

 

 

ただ彼は息を飲む。声を上げることも、その場から逃げ出すこともできない程の恐怖だけが身体を支配する。

 

それは『線』だった。まるで子供の落書きのような無造作な、意味を持たない黒い線。ひび割れのように無数の線が彼の視界に溢れている。そこに例外はなかった。

 

白い壁にも、天井にも、ベッドにも。ありとあらゆる場所に線は奔っている。ただ彼は混乱しながら視線を泳がせる。ただその線が描かれていない場所を探すために。

 

だがどこにもそんな場所はない。線からは逃れられないのだと告げるかのように。視界には、世界には黒い線が満ちている。

 

 

「っ!! 誰か、誰かいないのか!? 誰か――――」

 

 

悪夢の中にいるような悪寒に襲われながら救いを求めるようにただ叫ぶ。誰でもいいから助けてくれ。ここから連れ出してくれ。黒い線が何なのか分からない。だが本能で悟っていた。知識として知らぬ間に識っていた。ソレがよくないものであることを。そこから逃れるために手を伸ばそうとした瞬間に、目に入る。

 

 

まるで蛇が這うかのように自らの手に黒い線が纏わりついている光景が。

 

 

世界だけでなく、自分にも逃げ場ないのだと証明するもの。手だけでなく、体中全てに線が見える。その感覚に、現実に嘔吐してしまいそうな吐き気を必死に抑えながらようやく彼は気づく。本当なら何よりも早く気づかなければならなかった異常。今見える線よりも遥かに恐ろしい、信じられない事態。

 

 

「何だ……これ……?」

 

 

自分の物ではない、知らない子供の体。自分が自分ではなくなってしまっている。悪夢ですらない、お伽噺。それが彼が生まれた瞬間だった――――

 

 

 

「……君。……き君。聞こえているかい?」

 

 

眼鏡をし、白衣を身に纏った医師がどこか怪訝そうに少年に向かって話しかける。だが少年はまるで医師の声が聞こえていないかのように反応をみせない。声を発することすらない。ただどこか虚ろな目でここではないどこかを見ているかのように呆然としている。そんな姿を目の当たりにし、溜息を吐きそうになりながらも医師は普段通りを装いつつ話しかける。

 

 

「遠野志貴君、体の調子はどうかな? 痛いところはもうないかい?」

 

 

『遠野志貴』

 

 

それが目の前のベッドに座っている少年の名前。一週間前に交通事故によって大怪我を負い、入院してきた患者であり今のこの病院における問題児、頭痛の種だった。命を落としていてもおかしくない大怪我からの回復。だが奇跡的に命を取り留め意識を取り戻したまではよかったがそれからが問題だった。

 

『記憶喪失』

 

自分は遠野志貴ではない。それが意識を取り戻し、初めて少年が口にした言葉だった。

 

それまで混乱しながらも、医師達の言葉に聞き入っていた少年は遠野志貴という自らの名前を呼ばれた瞬間、まるでこの世の終わりのように青ざめ、言葉を失ってしまった。その後は取り乱したように興奮し、暴れる少年を取り押さえることに医師達は悪戦苦闘する羽目になった。事故による一時的な記憶喪失、もしくは心的外傷。幼い子供であればそうなっても仕方がないと、周りの大人たちは結論付けた。目に見えるという黒い線の話も誰も信じることはない。事故による障害、後遺症だとするのは当然の流れ。

 

 

「…………」

 

 

だがある時から、少年、遠野志貴は全く言葉を発することがなくなった。それまで必死に、鬼気迫った様子で妄言を叫んでいたにもかかわらず。まるで言葉を忘れてしまったかのよう。今はただ意志がない人形のように部屋に閉じこもり、虚ろな目と表情で日々を過ごしているだけ。カウンセラーも対応しているが結果は同じ。暴れまわっていた当初の様子がまるで嘘だったかのように、遠野志貴は自らの世界に閉じこもってしまっている。医師は隣にいた看護師に目配せするも、看護師もまたお手上げたとばかりに首を振るだけ。医師は根負けしたように一言二言残しながら病室を後にする。

 

彼らには知る由もない。少年が一体何に囚われているのか。その眼に映るものと内にある苦悩が何なのかを。

 

 

 

「…………ふぅ」

 

 

何度目か分からない溜息を吐きながら、自分以外誰もいない病室で彼はただ自分の物とは思えない小さな子供の手を見つめ続ける。間違いなく自分の意志で動く、自分の体の一部。にもかかわらずまるで現実感が湧かない。分かるのはこの手が、足が、体が、全てが自分の物ではないということだけ。

 

 

(やっぱり……夢、じゃないんだな……)

 

 

眼を閉じ、手で顔を覆いながらただその事実に苦悩する。涙すら出ない。そんな物はとうに枯れ果てた。初めて目を覚ましたあの日からただ泣き続けていたのだから。

 

目が覚めたら別人になっていた。そんな笑い話にもならないような事態。もしそれが笑い話であってくれたならどんなに救われたか。夢であってくれたらよかったか。

 

記憶喪失という病院の判断。それは間違いであり、正解でもある。事実、自分には記憶がない。

 

自分の名前も、過去も、記憶も、全てが思い出せない。まるで全てが初めからなかったかのように空っぽな伽藍の洞。分かるのは今の自分の体が本来の自分の物ではない、という確信だけ。

 

転生、憑依。そういった言葉でしか表せないような人智を超えた事象。だが初めからそんなことを認められるほど自分は耄碌してはいなかった。病院が言うように自分が遠野志貴であることを忘れてしまっているだけというのが最も自然なもの。しかし自分は明らかに子供とは思えない思考回路を持っていた。およそ小学生ができるようなものではない物の考え方が、対応が自分にはできる。事実、その一部を見た医師達も驚いていた。本来の遠野志貴ではあり得ない行動。加えてもう一つのあり得ない事象がそれを決定づけていた。

 

『未来知識』

 

正確には未来に起こるであろう遠野志貴に関連した事象が、自分にはあった。医師から遠野志貴の名を聞いた瞬間、まるで洪水のように頭の中にあり得ない知識が、記憶が溢れだして来た。その痛みによって悶絶することによって数日は動けなくなってしまうほどの異常事態。その最中に自分が知るはずのない情報が叩き込まれていく。

 

 

『アルクェイド・ブリュンスタッド』 『シエル』 『遠野秋葉』 『翡翠』 『琥珀』

 

 

遠野志貴がこれから出会うであろう女性達。同時に大きな運命を共にするであろう者達。もし遠野秋葉、翡翠、琥珀の三人だけであったならまだ自分が遠野志貴である可能性を捨てることはできなかっただろう。だがアルクェイド・ブリュンスタッドとシエルは明らかに違う。今の子供の遠野志貴が出会うことも、知ることもないはずの存在なのだから。

 

まるで神の視点を与えられたかのような記憶が、知識が自分に生まれて行く。あり得る、あり得たかもしれない未来の情報。自分ではない、この体の本当の持ち主である遠野志貴が歩んでいたであろう可能性。

 

 

『真祖』 『死徒』 『吸血鬼』 『混血』 『退魔』 『教会』 『魔術』 『超能力』

 

 

常人なら知り得ない世界の裏側。日常ではない非日常。常識を外れた未知。その全てが自分の内に刻まれていく。まるで異世界に紛れこんでしまったような錯覚。同時に恐怖が全てを支配する。

 

もしこれらが全て真実ならば、『遠野志貴』になってしまった自分もまたこれらと向きあわなくてはならないのか、と。

 

あり得ない。できるわけがない。知識か、経験か、記憶か、未来予知か。自分には与り知らないことだが本当にこの知識が真実ならば遠野志貴は死地に向かっているようなものだ。

 

様々な因縁が、因果が遠野志貴には絡みついている。文字通り、毒蛇に体中を縛られているような状況。事実、知識の中の遠野志貴ですら何度も死ぬ姿がある。理不尽に、容赦なく、救いなく命を奪われてしまう可能性。幸福な結末に至るために乗り越えなくてはならない壁は遥かに高い。本物の遠野志貴ですらそうなのだ。偽物の、どこの誰かも分からない、自分の名前すらも思い出せない自分がなにかできるはずもない。もし至れたとしても、遠野志貴の体は永くはない。人並みの時間を生きることができる可能性は皆無だった。

 

その現実に、ただ絶望し、怒り狂い暴れまわった。幸い小さな子供の体であったおかげで大事には至らなかったが自暴自棄にならざるを得なかった。まるで知らない世界に一人放り込まれてしまった孤独感。何故自分がこんな目に合わなければならないのか。何故自分なのか。理不尽な状況への行き場のない怒り。本当のことを伝えようとしても誰一人信じてくれない現実。その全てを呪いながら、それでも世界が変わることはなく自分はただあきらめるしかなかった。

 

後はただ病室に閉じこもる日々。布団にもぐりこみ、ただ固く目を閉じ眠りを求めた。

 

目が覚めればきっと元の自分に、元のあるべき場所に戻っているはず。そう、これはただの夢。悪夢なのだと。そう自分に言い聞かせた。

 

だがいつまでたっても目覚めはこなかった。世界が変わることも、記憶が戻ることもなかった。

 

ただ目を覚まし、世界に満ちた『死の線』と向きあうことで逃れようのない現実を突きつけられるだけ。知識を得た自分にはこの目に映る線が死であることが理解できていた。

 

 

『直死の魔眼』

 

 

モノの死が見えてしまう眼。どんな物にも生まれた瞬間に存在する死を捉える異能。世界に二つとないであろう忌むべき力。二度死に直面し、浄眼と呼ばれる特別な眼を元々持っていた遠野志貴だからこそ持ち得たものによってただ自分は苦しめられていた。

 

モノの死を見るということがどういうことか、身を以って知ることによって。

 

 

「……っ! くそ……!」

 

 

収まらない頭痛に顔を歪め、頭を抱えるしかない。どんなに眼を逸らしても、死の線を避けることはできない。人間はもちろん、建物、衣服、自分の体に至るまで全てに死が見える。その気配に、空気によって吐き気がする。見ているだけで頭がおかしくなりそうな不吉さが満ちている。何故本物の遠野志貴はこれに耐えることができたのか。死に触れていた分、耐性があったのか。それとも自分に耐性がなさすぎるだけなのか。知識と照らし合わせても明らかに自分は直死の魔眼に耐性がなさすぎる。体が同じでも、やはり自分は遠野志貴ではない、という確かな証明であると同時にこのままでは正気を失ってしまいかねないことを意味していた。

 

その結果が今の有様。固く眼を閉じ、布団から出ないことで己が身を守るという矛盾。端から見れば逃避以外の何者でもない自己保存。だがそれ以外に手段はなかった。そのまま眼を開け続けていれば遠からず自分は壊れてしまう。かといって眼を閉じたまま病院を動きまわることなどできはしない。

 

未来の心配どころではない。今どう生き残るか、それこそが今の自分にとっての死活問題。自分が誰であるかも、何故遠野志貴の体になってしまったかもそれに比べれば些細な事象。今はただこの眼をどうするか――――

 

 

「…………あ」

 

 

まるで希望が生まれたかのように声を漏らし、眼を見開く。何故今までそんなことにきづかなかったのか、自分を罵倒したい程、今の彼は呆然としていた。

 

突然の出来事の連続。混乱。信じられない出来事と体の不調。度重なる苦難によって彼はあまりにも単純な解決策を取れずにいた。遠野志貴にとっては当たり前であるが故に、知識を得ていてもすぐに思い浮かぶことができなかった始まりの出来事。

 

 

『蒼崎青子』

 

 

世界に五人しかいない魔法使いの一人であり、遠野志貴にとっては一生を決めるほどに重要な影響を与えた女性。志貴にとっては先生と呼ぶほどの恩人であり師。だがもう一つ、志貴にとって大きな出来事が彼女によってもたらされていた。

 

 

(そうだ……! 本当に俺が遠野志貴になったのなら、あの人に会えば『魔眼殺し』をもらえるかもしれない……!)

 

 

『魔眼殺し』

 

 

その名の通り、魔眼を抑えることができる眼鏡。それを遠野志貴は蒼崎青子から譲られていた。正確には魔眼殺しを持っていたのは青子の姉である蒼崎橙子の持ち物であったのだが無理やり奪って行ったという曰くつきの代物。だがそんなことは今はどうでもよかった。ただ重要なこと。それは魔眼殺しがあれば死の線を見ずに済むということ。今の彼にとって何よりも優先しなければならない問題だった。

 

 

まるで思考に応えるように青子と魔眼殺しの知識を引き出した後、少年は弾けるように動き出した。病院であることも、今の自分が病人であることも、子供の体であることも少年の頭にはなかった。

 

頭痛に耐え、眼を細めながらただ走る。がむしゃらに、途中看護師の制止の声や、通行人にぶつかったが全て無視した。ただ足元にある死の線に触れないように、それでも全速力で。

 

 

「ハアッ……ハアッ……!!」

 

 

息が上がる。体が悲鳴を上げる。目覚めてからほとんどまともに動かしていなかったツケがここで祟ってくる。それでも今の少年には確かな意志があった。瞳には光がある。絶望と死しか映していなかった眼には確かな希望が垣間見える。

 

知識を頼りに、ようやくそこに辿り着く。全てを見張らせるような大きな丘。どこまでも続くような草原と、自由な風に包まれた遠野志貴にとっての始まりの場所。

 

 

「ここで……いいんだよな……?」

 

 

荒れる呼吸を整える暇もなく、少年はそのままその場に倒れ込むように横になる。体は鉛のように重くしばらくは動きそうにない。何とか息が元に戻ってきたのを確かめながら少年はただ仰向けになりながら空を見上げる。

 

 

雲ひとつない、どこまでも済んだ蒼。

 

 

目が覚めてから、初めて普通の景色を目にした。そう少年は感じていた。今までの死に満ちた世界の裏側ではない。真っ青な世界。今なら分かる。遠野志貴がこの空に希望を見い出した理由が。もしこの空にまで線が見えれば、もう生きてはいけないだろうと。

 

 

少年はただ空を見上げながら魔法使いを待ち続ける。この空と同じように、青の名を冠した女性の訪れを。

 

 

ただ時間が流れて行く。知らず空はもう赤さを超え、漆黒に染まりつつある。太陽は沈み、代わりにあるのは月だけ。その美しさに目を奪われながらも少年は仕方なくその場を後にする。

 

 

いくら知識があるとしても、今日青子が来るかは分からない。明日か、その次か。だが希望はなくなってはいない。また明日もここに来ればいい。今の自分にはいくらでも時間があるのだから。

 

 

少年は待ち続ける。始まりの丘の上で。遠野志貴にとって救いである魔法使いの到来を。だが少年は気づいていなかった。魔法使いは遠野志貴にとっての救いであるということを。ならば自分にとってはどうなのか。

 

 

――――次の日も、少年はただ待ち続ける。

 

 

少年は知らない。考えようとはしなかった。自分が錯乱していた、病室に籠っていた間に魔法使いがこの丘を訪れていた可能性を。

 

 

――――その次の日も、少年はただ待ち続ける。

 

 

自分が『遠野志貴』ではない、という本当の意味を。

 

無情に時間は、日々は過ぎて行く。魔法使いはこの物語には現れない。何故ならこれは『遠野志貴』の物語ではないのだから。

 

 

――――少年は知る。これが『遠野志貴』ではなく、自分の物語であることを。

 

 

『月姫』ではない、紛い物の物語の幕が今上がろうとしていた――――

 

 

 

 



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第二話 「因果」

どこか心地良い揺れを感じながら、深く目を閉じたまま身を任せる。いつも通りの、慣れ親しんだ感覚。差しこんでくる日差しの暖かさも相まって知らずそのまま眠りに落ちてしまそうな程。ゆりかごにも似た安堵感と共に意識が消えそうになりながらも

 

 

『次は―――番地。―――番地前。お降りの方はバスが止まるまで席を立たずにお待ちください』

 

 

機械的なアナウンスによって容赦なく現実に引き戻される。そのことに若干不満を覚えながらも大きく欠伸をし、体に新たな空気を取り入れ意識を切り替える。そんなことをしている間にバスは目的地へと到着し、足を止める。ゆっくりとはしていられない。このまま降り損ねれば、戻ってくるのは面倒なことになる。

 

 

「さて……と」

 

 

独り言をつぶやきながらゆっくりと席を立ち、バスの前方にあるドアから停留所に向かう。勝手知ったる、といった所。そこには全く無駄がない。何十、何百回と繰り返して来た反復の為せる技。無事に降り立つことができたことに息を吐くと同時に

 

 

「気をつけてな、志貴君」

 

 

そんな自分を気遣う、慣れ親しんだ声がバスの中から掛けられる。初老を感じさせる男性の運転手。もし自分に父がいれば同じぐらいの年齢かもしれない。もしかしたら、同じように運転手も自分のことを子供と同じ年ごろだと感じているのだろうか。

 

乗客が少ないローカル線であることを差し引いても、自分はこの辺りではちょっとした有名人でもある。決して喜べる話ではないが、それが結果的に自分が生活する中では大きな助けになっている。

 

 

「ありがとうございます。また明日も宜しく」

 

 

このやりとりもそんな一環の一つ。自分を案じてくれる言葉に出来る限りの笑みを浮かべながら返事をする。少しの間の後、バスのドアが閉まる音と排気音とともに自分を運んでくれたバスは去っていく。

 

しっかりとバスが走り去っていくのを聞き届け、まだ眠気が若干抜け切っていない頭を振りかぶりながらしっかりと地面を足で踏みしめる。肩には学生鞄、手には杖。そのままいざ帰路へ、と踵を返さんとした瞬間

 

 

「お兄ちゃーん!」

 

 

眠気など一気に吹き飛ばしてしまう程の大声が響き渡る。元気の塊と言ってもいい小さな女の子の声。バタバタと擬音が聞こえてきそうなほど慌てた様子の足音。同じように背中にしょっているであろうランドセルも弾むような音を立てている。もはや振り返るまでもないがあえて顔を向けながら突然の小さな乱入者を迎え入れることにする。

 

 

「都古……? どうしたんだ、また学校を抜け出してきたんじゃないだろうな」

 

 

半分の驚きと、半分の呆れを含みながら自分の正面、やや斜め下にいるであろう珍客に声をかける。もっとも珍客と言うのは正しくはないかもしれない。

 

 

「ち、ちがうよ! 今日はがっこうはお昼までだったの! それに、もうしないもん。お父さんとお母さんにも怒られちゃったし……おこづかいも減らされちゃったんだから……」

「そうか。それは災難だったな。じゃあ俺はこのまま帰るから。お前も寄り道せずに帰ってこいよ」

「うん! がっこうでも最近はぶっそうな事件が多いから気をつけるように言われてるんだよ。でもしばらく学校はお昼までだからみんな喜んで……」

 

 

呟きながら恐らくは学校での先生の話を思い返しているのだろう。どこか真剣さを感じさせる雰囲気で必死に反芻している都古の邪魔をしては悪いとそのまま歩き始める。だが気になるのは物騒な事件という話。十中八九、ほぼ間違いなく自分はそれについて思い当たる節がある。とうとう、いやようやくやってきたと言った方がいいのかもしれない。問題は――

 

「ちょ、ちょっと待ってよお兄ちゃん!? 何であたしを置いて先に行っちゃうの!?」

 

 

そんな思考を断ち切るかのように慌てながら、脱兎のごとく少女、都古は再び目の前に飛び出してくる。本気で焦っているのか先程以上に余裕がない。もっとも落ち着きがないのはいつものことなのだがそれは言わぬが華だろう。

 

 

「いや、考え事の邪魔しちゃ悪いと思って。それよりもいきなり前に出てくるなっていつも言ってるだろ。ぶつかったらどうするんだ」

「ご、ごめんなさい……じゃなくて! 何で一人で行っちゃうの!? せっかく迎えに来たのに!」

「いや、俺、一人でも帰れるし」

「そ、そうだけど……でも……もう! なんでそんないじわるばっかりするの!?」

 

 

ついに堪忍袋の緒が切れたのか都古は地団駄を踏み始める。きっと頬を膨らませ、涙目になっているのだろう。困ったり、混乱した時はさらに「むうー」という唸り声と共に頭突きをかましてくるのだがそこまでには至ってないらしい。もっとも家の中ならいざ知らず、往来でそんなことをされてはたまったものではないのでそろそろ挨拶と言う名の悪ふざけはおしまいにするとしよう。

 

 

「悪い悪い……迎えに来てくれたんだろ? ありがとな、都古」

 

 

悪びれた様子もなく、ただその手を都古に向かって差し出す。本当なら自分にとってのもう一つの目であり、手足でもある右手に握っている杖を使わなければ歩くことはできないのだが、今はその代わりをしてくれる小さな家族がいる。

 

 

「……うん! 任せて! お兄ちゃんを守るのがあたしのしごとなんだから!」

 

 

慌てながらも、慣れた手つきで都古は自分の手を取り、そのまま歩き出す。嬉しそうに、それでも自分の歩幅に合わせられた優しい導き。

 

それが妹である『有間都古』と遠野志貴である自分の関係。

 

目が見えない自分にとって何よりも大切な、日常の象徴である道標だった――――

 

 

 

「~♪」

 

 

先程までの不機嫌さはどこにやら。上機嫌に都古は自分の手を引きながら歩いている。その姿が鮮明に目に浮かぶかのよう。今にもスキップをして走りだしそうな雰囲気を感じさせながらも都古は必死にそれを抑えるかのように踏みとどまっている。目が見えない自分に合わせるために。もっともそれができるようになったのはつい最近。今は小学六年生だがそれ以前は好奇心の塊のような少女。勢いそのままに自分を引っ張ったり、自分に気を取られ過ぎてあやうく事故にあいそうになったりと気が気ではなかったのだが今は何とか落ち着きつつあるようだ。ちゃんと自分の歩幅とリズムに合わせながら帰路へと誘ってくれている。確かな成長、時間の流れを感じさせる変化だった。

 

 

(そうか……もう、八年になるんだな……)

 

 

八年という長かったのか、短かったのか分からない月日。自分が目覚め、遠野志貴になってしまった日。そのまま遠野の分家であり、血の薄い有間へと預けられた日。思い返せばただその日その日を乗り越えることに必死だった。他のことを考える余裕などありはしない。だが最近はようやくそんな生活も落ち着きつつある。悩むこと、考えなければならないことは変わらず山積みだが少ずつ今の生活にも慣れてきたのだろう。

 

 

「ちょっと待って、お兄ちゃん。そのままそこで待っててね!」

 

 

そんな感慨も霧散してしまうような大きな声とともに都古は足を止めてしまう。どうやら交差点に辿り着いたようだ。そこまで大げさにすることもないだろうに、と思いながらも口に出すのはあきらめた。今の都古はさながらお姫様を守る騎士。主に敵は車。時々通行人。自分にとって一番の不安要素は都古という騎士自身なのだが眼をつむるしかない。

 

『有間都古』

 

自分が預けられた有間家の長女であり、妹。今年小学六年生になった少女。小さい頃から面倒を見てきた自分にとっては妹と言うよりは娘に近い。もっとも今はもっぱらその立場は逆転しつつあるのだがそれは割愛。そして自分は出会う前から彼女のことを知識として識っていた。だがそれはあまり役には立たなかった。むしろそれ以上に驚かされた程。経験は知識を凌駕する、と言うがまさにその通り。有間都古という少女を前にして知識など何の意味も持たない。同時に自分が成り変わってしまう以前の、本物の遠野志貴と面識がないということが大きかった。今の関係は、本物の遠野志貴の物ではなく、間違いなく自分の築き上げた物なのだから。

 

 

「右良し! 左良し! もう一度右も良し! いいよ、お兄ちゃん!」

 

 

まるで小学生のように左右の安全確認をしている都古にどこか呆れてしまう。よくよく考えれば小学生なのだから間違ってはいないのだが、六年生にもなってそれはどうなのか。そもそも本当に来年からこいつは中学生になれるのだろうか。不安は尽きない。

 

 

「何言ってるんだ都古。まだ上と下が終わってないぞ」

「え? 上と下? そんなところまで見ないといけないの?」

「当たり前だろ。もし上からロケットが落ちてきたらどうするんだ。マンホールの下から人が出てくるかもしれない。そうだろ?」

「わ、分かった! もう一度確認するから……えーと右、左、上、下、また右……どうしようお兄ちゃん!? 全部見てるうちに時間が経っちゃうよ!?」

「本気にするなよ……ほら、さっさと行くぞ。車の音もないしな」

「お、お兄ちゃん! またあたしをからかったの!?」

 

 

純粋と言うには度が過ぎる親愛なる我が妹を逆に引っ張りながら再び歩き始める。しばらく不機嫌そうにしていたものの、都古は気を取り直したように再び自分より少し前に出ながら先導し始める。まだまだ幼さはあるが頼りになる妹の姿を思い浮かべる。こうして都古と触れあうことは自分にとっては何よりも代え難いことなのだから。

 

 

――――ただ何もない、暗闇。

 

 

それが今の自分の視界。八年前から変わらない自分の世界。目が見えない、という世界の裏側。

 

だが正確には目が見えないわけではない。目を開けることができない、と言った方が正しいだろう。事実、両目は視力を失っているわけではない。その証拠に太陽や光は感じ取ることができる。今も眼を開けば間違いなく世界を見ることができるだろう。

 

 

死の線に満ちた、崩壊しかけた世界の真実を。

 

 

八年前のあの日。ただ自分は待ち続けた。蒼崎青子という魔法使いを。彼女から手に入れることができるかもしれない、魔眼殺しという眼鏡を。だがいくら待っても彼女は現れなかった。医師達の目を盗み、朝から晩まで。時には日の出までただ待ち続けた。しかし、結果は変わらなかった。自分の前に、魔法使いは現れることはなかった。

 

それが何故なのか、自分には分からない。時間が違っていたのか。それとも自分が識っている知識が間違っていたのか。本物の遠野志貴ではないからなのか。

 

その答えを得る間もなく、自分は退院することになった。本当なら退院したくなどなかった。だが小さな子供である自分に選択肢などあるわけもなく、ただ従う他なかった。しかしこのままでは自分は遠からず、壊れてしまう。直死の魔眼を持ったままで生きて行くことができるはずもない。本物の遠野志貴が元の生活に戻れたのは魔眼殺しがあったから。それがない以上、自分に取れる選択肢は一つしかなかった。

 

 

眼を開けないこと。単純であるが故にこれ以上ない方法。

 

 

ただ目を閉じ、死の線を見ないようにすることだけが自分にできる唯一の抵抗だった。幸いにも自分は事故のショックで記憶喪失になり、心的外傷、トラウマを負っていると診断されていたため医師達を誤魔化すことは難しくはなかった。黒い線が見えるという眼の異常もそのことに一役買ってくれた。だがそれは容易なことではない。視力は失ってはいないものの、それは全盲になることと大差はなかったのだから。

 

それでもそれに後悔はなかった。あのまま死の線を見続けるくらいなら、脳が壊れてしまうぐらいなら目が見えなくなっても構わない。それほどの負荷が、絶望があの世界にはある。

 

本当ならもう一つ、選択肢はあった。両目を潰すという選択肢。目を閉じることよりも早く思いついた最善策。だが実行することはできなかった。両目を抉る、という恐怖。確かにそれもあった。だがそれ以上に怖かったのはある恐怖があったから。

 

 

もし眼を潰しても、死の線が見えたらどうなるのか――――

 

 

掛け値なしの絶望。その深さが自分の手を止めた。だがすぐに考えるのはやめた。逃避。目を潰しても、目を閉じていても、瞼の裏からでも死の線が見えるようになること。それは自分の死と同義。

 

だからこそ自分はほとんど眼を開けることなくこの八年間を過ごして来た。反射的に目を開くことがないように、普段はアイマスクをつけるのを徹底することで。ある意味未来にあり得た本物の遠野志貴の姿。殺人貴と呼ばれるようになった頃のよう。違うのは本物の志貴は包帯であったということだけ。一般人の生活をしている自分にはこの街で包帯を眼に巻いたまま生活できるほどの度胸は残念ながらなかった、という笑えない笑い話。

 

 

そして今は学校の帰り。もちろん普通の学校ではない、目に障害を持つ人々が通う場所。視力自体を失っていない自分は本当なら通うことができないのだがそこは色々と誤魔化した。遠野家の力か、はたまたあの藪医者の仕業か。とにもかくにも何とか自分は死の線と向かい合わずに生きて行く道を歩いている。逃げているだけ、と言ってもいいのだが。

 

死の線からだけではない。全てのことから自分は逃げている。目を閉じ、耳を塞ぎ、ただ先送りにするだけ。だがそうする以外に、今の自分にできることは何もない。自分は遠野志貴ではない。

 

 

誰かが言った。聖人になる必要はない。ただ自分が正しいと思う大人になればいい、と。

 

 

だがその自分がなければどうすればいいのか。何が正しくて間違っているのか。それすら分からない自分はどうすればいい。

 

 

何もしないこと。それが今の自分の選択。選ばないという選択の果て。月触において青の魔法使いが言っていた。何もしないという選択肢も許されたのだと。特別な眼を持ったとしても、特別に生きる必要はないのだと。なら――――

 

 

「――――お兄ちゃん?」

 

 

いつまでそうしていたのか、知らず立ち止まったまま考え事をしてしまっていた自分の意識を、どこか不安げな都古の声が現実に引き戻してくれる。つい考え事をしてしまう、自分の悪い癖だった。

 

 

「悪い、ちょっと考え事をしてた。早く家に帰ろうか」

 

 

気を取り直し、出来るだけ自然にそう促す。今の自分がどんな顔をしているのか、都古がどんな顔をしているのかは分からない。だが今度は都古が動こうとしない。その小さな手で自分の手を掴んだまま。知らず、都古の手にはいつも以上の力が込められている。

 

 

「都古……?」

「お兄ちゃんは……本当に遠野の家には帰らないの……?」

 

 

意を決したように、それまでの天真爛漫さは欠片もない不安げな声で都古は自分へと問いかけてくる。そこでようやく気づく。何故今日、都古が自分を迎えに来たのか。その本当の理由。

 

 

遠野志貴が遠野家に戻ること。

 

 

それが都古が気にしていることであり、先日、自分宛てに伝えられた電報だった。きっかけは先日の訃報。遠野家の当主である遠野槙久が亡くなったという知らせだった。表向きは病死ということになっているがそれが偽りであることを自分は知っていた。だがそれ自体はどうでもいい。自分にとって、遠野槙久はどうでもいい人間だ。体面上は遠野志貴の父であることになっているがそれすらもただの偽り。加えて自分は彼とは一度しか会ったことはない。病院から退院し、一度遠野家に戻った時。すぐに有間の家に戻されるまでの一度のみ。故にただの他人も同じ。その死に対して何の感情も湧くことはない。

 

知識として識っている通りの人物だったのか。それともそれ以外の顔があったのか。今はもう知る術はなく、知る気もない。ただ分かることは一つだけ。決して悪人ではなかった加害者はそれに相応しい報いと結末を迎えたということだけだった。

 

そして自分にとって重要なのはその先。遠野槙久が亡くなることによって、新たな当主が誕生し、自分を呼び戻そうとするということ。

 

だがそれに応じる必要も、義務も自分にはない。

 

 

「――――ああ、俺はあっちに戻る気はない。こっちの方が気楽だからな」

 

 

何故なら自分は遠野志貴ではないのだから。

 

 

呼び戻そうとしている彼女もまた同じ。彼女が戻ってきてほしいと願っているのは自分ではなく、本物の遠野志貴。加えて、遠野の家に戻ることは日常ではない、非日常に身をゆだねることと同義。例え直死の眼を持ち、遠野志貴の体を持っていようとも自分は自分。そんな世界で生き残ることができる術など持ち合わせてはいないのだから。さらに加えるなら

 

 

「それに、都古の面倒もみないといけないからな。来年には中学生なんだからもっとしっかりしてくれよ」

 

 

自分は今の生活を気に入っている。目を開けることができず、目が見えない生活を強いられてはいるものの、何とか生きていけている。血は繋がってはいないが、自分のことを気に掛けてくれる人達がいる。ならこの日常こそが自分がいるべき場所なのだから。

 

 

「っ!? ほ、ほんと……!? や、やった……じゃなかった、今のどういうこと!? あたしがお兄ちゃんの面倒を見てるんだから! 間違えないでよ!」

 

 

思わずガッツポーズを取りそうになりながらも都古は慌てて誤魔化し、食ってかかって行く。志貴には見えていないのでバレなかったと安堵するも、目が見えていない志貴でもバレバレな有様。だが胸のつかえが取れたかのように都古は安堵と満足気な表情を浮かべながら志貴の手を取り歩きだす。溜息を吐きながら、志貴もまた満更でもなさげな笑みを浮かべながら付いて行く。それが志貴と都古のいつも踊りの、賑やかな日常だった――――

 

 

 

「ただいまー! お兄ちゃんも一緒に帰って来たよー!」

「ただいま」

 

 

ドーンという登場音が聞こえてきそうなノリで都古は自宅の玄関のドアを開け開く。どうやら先程のやりとり、もとい自分が有間の家から出て行かないと分かったからいつもよりハイテンションになっているらしい。自分の声も完全にかき消されてしまっている。

 

 

「早くお兄ちゃん! 今日はあたしと一緒に出かけてくれる約束でしょ?」

「分かってるさ……だからそんなに焦るなって。せめて着替えさせてくれ。流石に学生服で店に行くのは勘弁だ」

 

 

頭を掻き、杖で位置を確認しながら志貴は玄関で靴を脱ぎ、段差を登らんとする。だがふと、手を止めてしまう。それは違和感。杖から伝わってきた自分の物ではない靴を触れてしまった感覚。自分だけでなく、都古の父でも、母の物でもないであろう感覚。それが何であるか都古に確認する前に

 

 

「おかえりなさい、志貴、都古。志貴、突然だけれど、お客様がお見えになっているわ……」

 

 

都古の母である有間啓子が二人を出迎えながら、志貴の疑問に答える。だがその声はいつもとは明らかに違う。どこか言いようのない感情を含んだ物。例えるなら自分に対する後ろめたさ、申し訳なさ、そんなものが滲んでいる。それが何を意味するか問うまでもなく

 

 

「――――お邪魔しています。お久しぶりです、兄さん」

 

 

聞いたことがないはずの、聞き慣れた声が自分に向けられる。もはや眼を開く必要もない。それほどまでに印象的な、彼女の在り方を形にしたような凛とした音色。

 

 

『遠野秋葉』

 

 

今、八年の時を超え、逃れることができない『遠野志貴』の因果が巡ってこようとしていた――――

 

 

 



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第三話 「再会」

カリスマ、というものがある。

 

存在感と言い換えてもいい。ただいるだけで、声を発するだけでその場を支配してしまうほどの異質な才能。持つ者の生まれ持った才覚か、生まれてから身につけた努力か。どちらにせよ、常人では持ち得ない稀有な雰囲気、感覚を覚えずにはいられない。

 

 

「――――お邪魔しています。お久しぶりです、兄さん」

 

 

それが目の前にいるであろう『遠野秋葉』

 

知識のみ、実際会ったことがない自分でもすぐさま理解できるほどのカリスマを持つ令嬢。新たな遠野家の当主足るに相応しい存在だった。

 

 

「…………」

 

 

知らず、息を飲んでいた。表情には現れないように装いながらも、あまりにも突然の来訪者に言葉を失いかける。だがそれでも取り乱すに済んだのはただ単純な時間の差。いつか来るであろうと、避けられないと分かっていたからこそ自分はまだ自分を保っていられる。こうなることは分かり切っていたことなのだから。

 

しかし、ここまで動きが早いとは。まさか事前に連絡もないままに有間の家に直接乗り込んでくるとまでは予想できなかった。これが知識だけを持っている自分の限界。例え、その人物の人となりを識っていたとしても実際に触れあうことでしか理解できないものがある。だがそこにこそ目の前にいるであろう少女の『遠野志貴』に対する想いの深さが現れている。

 

だからこそ自分は会いたくはなかった。もしあと数日後であれば、こうして出会うこともないまま済んだだろうに。本当にこの世界は自分にはとことん辛辣であるらしい。全くの他人に生まれ変わらせ、死の世界を突きつけながらもまだ足りない。遠野志貴の持つ因縁までも背負え、と。

 

 

「遠野……秋葉、か?」

 

 

いつまで待ってもそれ以上言葉を発しようとはしない彼女に向かって初めて口を開く。ただ名前を確認するだけの行為。だが決して遠野志貴では口にしない呼び方で。本当なら名前だけで、かつてのように妹に対する言葉を投げかけるべき場面。だがあえて自分はそれを選ばなかった。もしこの瞬間にそれをすれば、この八年間を全て否定することになると恐れていたから。

 

 

「――――兄さん、その眼、は」

 

 

本当に、という言葉を飲みこんだのだろう。息を飲んでいたのは秋葉も同じ。違うのは自分はすぐさま平静さを取り戻したのに比べ、彼女はずっと言葉を失っていたということ。挨拶をした瞬間にはまだ自分の姿をしっかりと捉えてはいなかったのだろう。

 

秋葉はただそれ以上言葉を紡ぐことができない。遠野秋葉、という他人行儀な呼び方をされたことなどもはや彼女の中には残ってはいない。八年ぶりの再会。互いにあの頃とは成長し、子供から大人へと姿を変えている。ならばこうして名前を問うてくるのも分かる。だが秋葉はようやくその本当の理由を知る。

 

今の遠野志貴は、自分の姿を見ることができていないのだということ。それを示すように目は黒いアイマスクによって覆われ、手には杖が握られている。その意味を悟りながらもただ立ち尽くすことだけしかできない。秋葉だけではない。志貴もまたそれは同じ。次にどんな言葉をかければいいのか。そんな二人の空気にその場にいた都古も、その母である啓子も同じように待つことしかできない。それがいつまでも続くかと思われた刹那

 

 

「……秋葉様、お気を確かに。志貴様もお困りになっていますよ」

 

 

新たな第三者の声によってその場の空気が変わる。どこか聞く者の心を穏やかにしてくれる声色。同時に秋葉に対する慈しみを感じさせる所作。

 

それを耳にして驚いているのはこの場では自分だけ。よくよく考えればあり得た可能性であり、むしろ何故今まで気づかなかったのかと思うほど。それほどまでに遠野秋葉の空気に飲まれていたのか。それとも、そうあってほしくないと心のどこかで願っていたのか―――

 

 

「……分かっているわ、琥珀。下がっていなさい」

 

 

『琥珀』

 

それが遠野秋葉と同じように、そして何よりも自分にとって最も避けたかった少女との再会が現実となってしまった瞬間だった――――

 

 

 

「ありがとう、おばさん。後は俺が。都古のことも宜しく」

「ええ、何か用があれば呼びなさい。秋葉様、失礼します」

 

 

あのまま立ち話はできない、ということで今自分達は応接間へと場所を移すことになった。この場にはもう自分と秋葉、琥珀の三人だけが残されている。おばさんはそのままこの場に同席してくれる気だったようだがこちらからあえて席を外してもらうようお願いした。有間は遠野の分家であり、秋葉は遠野の当主。自分でもその辺りの難しさは何となく察することはできる。そしてこれは自分自身、遠野志貴である自分の問題。ならば己れで向き合わなくては。もっとも本当の理由はそのまま都古を放っておくと部屋に乱入してきかねない、という切実な理由なのだが。今頃唸りながら頭突きの相手を探しているであろう都古の姿に頭を痛めながらもそのまま改めて、対面する。

 

 

「……悪いな。悪い娘じゃないんだが」

「構いません。ですが随分と慕われているようですね、兄さん」

 

 

正面のソファに腰掛けている秋葉に向かって会話のきっかけの意味も兼ねて話題を振るも、秋葉は全く淀みなく返してくる。そこにそこはかとなく棘があるような気がするのは自分の考えすぎなのだろうか。知らず体が寒くなってきた気すらする。とにもかくにもこのまま何の益にもならない会話をしていても意味はない。秋葉とてそれは同じだろう。

 

 

「……一応聞かせてくれ。何の用でここまで来たんだ?」

 

 

一度深呼吸した後、意を決し単刀直入に切りこんでいく。もはや問うまでもない問い。だがあえて言葉にすることで自分の意志を伝える必要がある。

 

 

「決まっています。兄さんに直接聞きたかったからです。私からも聞かせていただきます。何故遠野の家に戻ってきてくださらないのですか? 確かに報せは届いているはずですが」

 

 

出会った時に見せた狼狽さはもはや微塵も残ってはいない。間違いなく、遠野家当主としての遠野秋葉の姿がそこにはある。その見えない重圧に気押されまいとしながら、ただ自分の言葉で応えるしかない。

 

 

「ああ。確かに聞いた。遠野槙久が亡くなって、君が新しい当主になったことも。俺に遠野の家に戻るように話があったことも」

「……! そうですか……ですが、兄さん。その呼び方はやめて頂けませんか。当主になっても私が兄さんの妹であることは変わりません」

 

 

自分の答えよりも、目の前の少女、秋葉にとってはその事の方が気に障ったらしい。自分にとってはある種の戒め。遠野志貴にとっての秋葉への呼び方を自分が口にすることは避けたかったのだが、流石にそこまではやりすぎてしまっていたらしい。秋葉は当主になってしまったこと、八年ぶりの再会ということで遠慮していると勘違いしてくれたようだが。

 

 

「……分かった。でも俺も伝えたはずだ。俺は遠野家には戻らないって」

「っ! 本当に、兄さんの答えだったんですね……有間の家ではなく……」

「ああ。おばさんも、都古も関係ない。俺が決めたことだ」

 

知らず、秋葉の声に感情がこもって行く。どうやら秋葉は自分の返答が、有間の家からの物だと思い込んでいたらしい。いや、きっとそう思いたかったのだろう。

 

八年間、ずっと思い続けた、待ち続けた遠野志貴からそんな答えが返ってくるはずがない、と。

 

だからこそ心が痛む。それをしてしまった自分自身に吐き気がする。遠野志貴になってしまった赤の他人の自分が目の前の少女を傷つけてしまっている事実に。そして、これからそれを続けなければならないことに。

 

 

――――遠野志貴を演じればいい。

 

 

そんな選択肢もあった。幸いにも自分には知識があり、それは難しくないだろう。違和感はあるかもしれないが、八年ぶりの再会。誤魔化すことはできたかもしれない。だがそれはできなかった。きっと仮初の虚構など、すぐに崩壊してしまう。何よりもそれは本物の遠野志貴への、彼女たちへの侮辱に他ならない。

 

 

「……何故ですか? 確かに父が兄さんに対して行ったことは許してもらえないかもしれません……ですが、もう父はいません。屋敷にはもう私と、琥珀、それと翡翠という使用人だけです。兄さんを煙たがる人間はもういないんです」

 

 

一体今、目の前の少女がどんな表情をしているのかは見えない。ただ声だけで伝わってくる物がある。彼女が、遠野秋葉がどれだけ遠野志貴を想っているか。その言葉の本当の意味も自分には分かる。

 

本物の遠野志貴なら、この時点なら秋葉が父である遠野槙久が志貴を勘当同然の扱いをしたことに対して後ろめたさを感じていると思うだろう。だが本当は違う。七夜志貴から文字通り全てを奪い、それだけでは飽き足らずさらに利用しようとしていた遠野。それに対する懺悔。その深さは遠野家に住んでいた他の全ての人間を追い出す、という行動にも現れている。その意味が分かるのは自分ともう一人、秋葉の後ろに控えているであろう琥珀と言う少女だけ。

 

 

「…………」

 

 

だが琥珀は何も口に出すことはない。付き人として、主人の前に出ることはないという矜持か。それとも。秋葉とは対照的な、気配すら感じさせないような感覚。八年間、目が見えない生活を送ってきたことで他人の気配を感じること、感情の機敏を感じ取るには長けていると思っていたが認識を改めなくてはならないかもしれない。

 

だがそろそろ終わりにしよう。このまま続けていても得るものはなにもない。ただ悪戯に目の前の二人を傷つけることになるだけなのだから。

 

 

「……そうじゃない。俺は遠野に戻らないんじゃない。戻れないんだ」

「戻れない……ですか? それは……」

「俺の返事の内容は知ってるんだろう? なら分かったはずだ。大方、遠野槙久……親父から聞かされてはなかったんだろうけど……」

「じゃあ……記憶喪失というのは、やっぱり本当なんですか……?」

 

 

あえて、言葉にすることで自分の現状を告げる。同時にやはり、という思いもあった。自分が記憶喪失、正確にはそれを装っていることを遠野槙久は秋葉には伝えていなかったのだと。ある意味、知識通りの人間だったということなのだろう。本物の遠野志貴にも暗示をかけ有間の家に送り、時期が来れば遠野四季の身代わりにしようと考えていた程だ。ある意味当然と言えば当然。もっとも自分はその類の暗示を受けてはいない。記憶喪失と思われていたこと、目の異常、心的外傷を装い眼を開けることを避けていたことから暗示をかける必要がないと判断されたのだろう。

 

 

「ああ、だからもう俺は、秋葉達が知っている『遠野志貴』じゃないんだ」

 

 

記憶喪失は偽り。だが本当の遠野志貴ではない、と言う意味では正しい。ただ真実を告げる。言葉通り、自分はもう彼女達が知っている存在ではない。仮初の存在。だからこそ遠野家には戻れないと。

 

 

「で、ですが……それなら尚のことこちらに戻るべきです! 遠野の家で生活すれば昔の記憶が戻るかもしれません! そうすれば……」

 

 

遠野志貴が自分達のことを忘れてしまっている。記憶喪失というあまりにもショックな現実に翻弄されながらも秋葉は何とか遠野志貴が戻ってきてくれることを願っていた。それだけを支えにこれまで生きてきた。ならここで秋葉は引き下がることはできない。引き下がりたくなかった。だが既に理解していた。先の遠野志貴からの電報。記憶喪失ではないもう一つの戻れない理由。記憶喪失以上に、明確な答え。それは

 

 

「……できない。今の俺は、目を開けることができないんだ」

 

 

遠野志貴が、世界を見ることができないから。

 

 

「兄さん……それは……」

「見ての通りだ。事故の後遺症で、ほとんど眼を開けることができないんだ。視力はあるんだが、どうしても治らなかった。今は何とか慣れて、有間の家では生活できているけどそれでもおばさんや都古には助けられてる。遠野の屋敷じゃ、とてもじゃないけど生活できない」

 

 

真実ではない真実を自分は告げる。本当は記憶喪失ではなく、別人であるからこそ自分は遠野の家に戻れない、戻るべきではない。日常ではない非日常に渡る勇気が、力が自分にはない。自分の体は遠野志貴の物。まだ感じたことはないが、もしかしたら殺人衝動が起こるかもしれない。そうなれば、最初に感じるのは間違いなく一緒に生活している秋葉となる。そうなればどうなるか分からない。彼女を、誰であっても殺すことなどしたくはない。

 

そんな自分自身の思惑を抜きにしてもどうしようもない理由。それが盲目である自分の限界。視力は持ちながらも直死の魔眼を持っている以上避けられない現実だった。

 

 

そのままゆっくりと、その手を自らの両目を覆っているアイマスクにかける。本当ならすべきことではないのかもしれない。だがどうしてもしなければならない、と思った。

 

そのまま何年かぶりに両目を開く。瞬間、世界が広がる。この世界に目覚めてから変わることのない、死の世界。もしかしたら死が見えなくなっているのでは、そんな淡い期待を吹き飛ばしてしまう、非情な現実。

 

久しぶりだからなのか、頭痛が起こり、目を細めそうになるも何とか耐えながらただ瞳に捉える。初めてみる、知っているのに、知らない少女の姿。長く黒い髪に、凛とした瞳。彼女の強さが見える姿。にもかかわらずその表情は悲しみに染まっている。そう自分がさせてしまっている。

 

この時ほど、遠野志貴が恨めしいと思ったことはないだろう。何故自分は遠野志貴ではないのか。何故自分はここにいるのか。

 

 

――――夜、目を閉じるたびに願っていた。目が覚めれば、本物の遠野志貴が戻ってくることを。

 

 

――――朝、目覚めるたびに安堵していた。自分が消えていないことに。

 

 

遠野志貴が戻ってくることを願いながら、自分が存在することに安堵する矛盾。

 

 

それから逃れるために、一度だけ遠野秋葉の姿を目に焼き付けた後、視線を逸らす。いや、そのまま視線はその背後へと吸い込まれた。

 

秋葉の後ろに控え、立ったままこちらを見つめている着物姿の少女。そのままその瞳に引き込まれる。目を奪われる。体に奔る死の線も、体を穿つ死の点も意識にはなかった。あるのは後悔だけ。

 

あの時の選択が正しかったのか、間違っていたのか。今に至るまで出ることはない、出ないであろう答え。

 

 

「……?」

 

 

時間にしてどれくらいだったのか。ほんの刹那だったのか。琥珀がどこか不思議そうな表情を見せながらこちらを見つめていることに気づき、それから逃れるように眼を逸らしながら再び眼を閉じ、殻に閉じこもる。そのまま深く目を閉じながら先の続きを始める。

 

 

「遠野の屋敷にはもう一人の使用人しかいないんだろう? なら尚のこと無理だ。段差もだけど、遠野の屋敷は広すぎる。情けない話だけど、だれか付き人がいないと俺は生活できない。どうしても仕方ない時には今みたいに眼を開けることもできるけど、それにも限界がある。貧血で動けなくなることもあるんだ……分かってくれ」

 

 

矢継ぎ早にあらかじめ用意していた答えを告げる。ある意味、秋葉の言葉の先を取ったものであり、未来知識と言う、知り得ないはずのものを識っている自分だからこそできるもの。

 

『翡翠』

 

琥珀の双子の妹である、遠野志貴の付き人になるはずの少女。だが彼女は自分の付き人にはなり得ない。目が見えない、開けることができない自分にはどうしても誰かの助けがいる。慣れた有間の家や、道、建物ならいざ知らず大きな屋敷である遠野の屋敷では杖だけでは歩くこともままならない。慣れるまでも相応の時間が要る。何よりも、翡翠は自分に触れることができない。何故なら翡翠は極度の男性恐怖症なのだから。盲目の自分を誘導することも、貧血になり動けなくなった自分を支えることも彼女にはできない。決して彼女が悪いわけではないのだが覆しようのない事実。ただ卑怯なのは、それを識っていながらそれを言い訳にしている自分自身。

 

 

「それは……! ですが……!」

 

 

同じことに気づいたのだろう。秋葉は明らかに焦り、言葉を震わせている。本当なら自分が世話をすると口にしたい。だが秋葉は遠野家の当主であり学生の身分でもある。自分に付きっきりになるわけにはいかない。かといって翡翠では志貴の付き人にはなり得ない。加えて専門的知識がない秋葉でも目が見えない人間にとって環境を変えることがどれほど大きな負担になるか、弊害を生むかは容易に想像できる。

 

それでも秋葉あきらめることはない。あきらめようとはしない。その程度であきらめるようなら、ここまで彼女はやってこないだろう。もしかしたら自分に新しい使用人をあてがおうとするかもしれない。自分に合わせて屋敷を変えようとするかもしれない。何度でも、有間の家を訪ねてくるかもしれない。

 

本当ならこの場で全てを打ち明けたかった。自分は遠野志貴ではない、と。だがそれがいかに無意味なことかを自分は思い知っている。そんなことを、一体誰が信じると言うのか。八年前と同じように、記憶喪失だとされるのが当然。しかも彼女たちにとっては八年越しの再会。もし八年前であったならまだ信じてくれたかもしれない。しかしそれはとうに過ぎ去った。

 

彼は覚悟を決め、口にする。本当なら決して口にすまいと、口にすることがないことを願っていた一言を。罪悪感、後ろめたさ、自己嫌悪。言葉では言い表せない程の感情を押し殺しながら彼は口にする。

 

 

「俺は……もう、死にたくないんだ……」

 

 

遠野志貴であれば決して口にしないであろう言葉。同時に遠野秋葉にとってはこれ以上にない意味を持つ、拒絶の言葉。

 

 

「――――」

 

 

瞬間、時間が止まる。秋葉が言葉を失い、息を飲んでいるのが分かる。もうこれ以上言葉は必要ない。全ての事情を知った上で、自分の本当の事情を伝えられない中で選んだ最も残酷な宣告。静寂が全てを支配する。それがいつまで続いたのか

 

 

「――――ごめんなさい、兄さん……失礼します。一目会えて、嬉しかったです」

 

 

感情を押し殺した声でそう残したまま、遠野秋葉は席を立ち去っていく。ごめんなさい、その言葉にどれだけの意味が込められているのか。それに対して答える言葉を彼は持たない。持てるはずもない。できるのはただ顔を下げ、俯くことだけ。

 

 

彼は生まれて初めてこの眼に感謝した。

 

 

眼を閉じていることで、遠野秋葉がどんな表情をしているかを見ずに済んだのだから。

 

 

だがそれ故に彼は気づくことはなかった。

 

 

もう一人の、琥珀色の瞳を持った少女が、自分をただ見つめていたことを――――



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第四話 「追憶」

――――黒い海を漂っている。それが一番近い表現だろう。

 

 

だが分からない。どうして自分がこんなところにいるのか。いつもの死の世界とは違う。あの恐怖が、孤独がここにはない。数えきれないほど潜ってきたあの感覚を間違えるはずはない。例え摩耗し、自分が誰であるか分からなくなっても、きっとそれだけは忘れない。忘れることは許されない。だからなおのこと不可解だった。

 

自分のカタチが分からない。どこからが自分で、どこからが世界なのか。境界線が消え去ってしまったかのよう。ないものを動かすことはできない。無から有を生み出すことはできない。そんなことができるのは、きっとカミサマだけだろう。

 

だがそんな宙に浮いた疑問も氷解する。否、全てを理解させられる。頭ではなく体で。思考ではなく、反射で。

 

ここは全ての始まりであり、終わり。全てがあり、だからこそ何もない空の境界。

 

無から有を生み出すのではない。ここには初めから全てがある。故に何も生まれることはない。ただそこにあるだけの、無価値なもの。

 

そんなものに、数えきれないほどの魔術師(オロカモノ)達が挑み、求め、挫折していった。自分では至れぬと絶望すればいいものを、ならば次の世代ならと淡い期待を抱きながら。次がダメならその次。年月を積み重ねれば、いつかは頂きに辿り着けるのだと。もはや呪いにも似た呪縛。目的と手段を履き違えている愚かな者達。彼らは気づかない。少し考えれば分かる、単純な真理。

 

どんなに学ぼうと、血を重ねようと意味はない。ここに至れるのは、初めからそう決まっている者達だけなのだと。

 

至れることができたとしても意味はない。ここに至ればその瞬間、自分は消え去る。無限に、無尽蔵に広がる記録と記憶の檻。ちっぽけな人格など圧殺され、何も残りはしない。ここに至り、戻って行ったのはたった五人。きっと彼らは人間ではない。だからこそ魔法使い、という言葉が相応しい。

 

なら、今ここにいる自分は何なのか。六人目の魔法使いなのか。いや、あり得ない。確信。六人目はあり得ない。そもそも自分は彼らとは根本が違う。至る必要など最初からない。何故なら―――――

 

 

 

 

――――世界が変わる。テレビのチャンネルが切り替わるように、違う世界が広がって行く。

 

 

大きな洋館。どこか厳かさを感じさせる、見る者を威圧する負の雰囲気を持っている屋敷。その門の前で立ちすくんでいる小さな子供。それが遠野志貴という殻を被った自分だと気づくのに、時間はかからなかった。

 

まるで記録映像を見るように、自分の姿を捉える。これが自分の記憶だと悟る必要すらない。だがその光景は酷く虚ろだった。色は褪せ、世界にはノイズが満ちている。所々は飛び飛びになってしまう。そう、まるで古いビデオテープ。繰り返し、繰り返し見続けたことで摩耗し、消耗してしまった記録。

 

だが世界が暗く、色褪せているのはきっとそのせいだけではない。この時の、自分の心象が原因に他ならない。思い出すことができない、思い出したくない程、この時の自分は絶望し、死に魅入られていたのだから。

 

 

「…………」

 

 

観客の自分と、舞台の上の自分の意識が、視点が重なる。ただ感情もなく、呆然と屋敷を見上げているだけ。表情を変えることも、言葉を発することもない。生気のない幽鬼のよう。いや、そんなものではない。人形と言った方がいい。自分の意志も、目的もなく、ただ舞台装置にしかなれない傀儡。

 

傍には何人かの大人達がおり、何かをしゃべっている。どうやら自分のことを話しあっているらしい。七夜、記憶喪失、目の異常、失語症。今の自分を指しているであろう単語が耳に入るが興味はなかった。その全てが他人事のようにしか感じられない。意味を感じられない。

 

ただ、全てがどうでもよかった。あの日、目を覚ましてから自分には生きている実感がない。他人の体に他人の知識。手足を動かすことはできる。言葉を話し、呼吸することもできる。だがそれだけ。それが自分の物だという実感も、感覚も持てない。

 

あるのは視界に広がる黒い線と点だけ。直死の魔眼という呪いによる死の実感のみ。ただそれから逃れたい。唯一の自分の願いはそれだけだった。

 

だがそれは叶わなかった。魔法使いは自分の元には現れず、刻限は過ぎてしまった。自分が遠野志貴ではないという証明であると同時に死刑宣告。それを受け入れざるをえなかった自分はそのままここまで連れてこられた。

 

 

「――――付いてきなさい」

 

 

大人たちの中でも存在感を発していた男の声。それが自分に向けての物だったことに気づくことにしばらく時間がかかったのは仕方のないことだ。何故ならその男、遠野槙久が自分に話しかけてきたのはそれが初めてだったのだから。

 

およそ感情が感じ取れない命令に近い言葉にその時の自分は何も感じなかった。この男が何を考えて、何を求めて動いているのか。知識を持っている自分にはおおよその見当はつく。だがそれは自分にとってはどうでもいいことだ。自分にとってどうにかできることではない。

 

本当なら退院した子供に向かってのものとは思えないもの。しかしそれは槙久以外の大人も同じだった。それどころかまともに自分の、遠野志貴の姿を見ることもない。まるでモノをみるように、厄介者を扱うように。

 

 

――――ああ、そうか。

 

 

少し、納得した。今の自分は七夜。混血の彼らにとっては忌むべきもの。子供であれそれは変わらない。なるほど、七夜志貴が絶望し、閉じこもるのも納得できる。文字通り子供である彼ではこの世界ではそうするしかなかったのだろう。だが同情はなかった。ただ単に、そういうことがあったんだな、と確認できたという意識だけ。そこに人間らしい感情は含まれない。そもそも自分は人間ですらない。

 

自分の名も、過去もない。体すらない。存在しているのかすらあやふやな蜃気楼。

 

そのままふらふらと、おぼつかない足取りで彼らの後を追って行く。ただ死に触れないように、出来るだけ眼を細め死を見ないように。ひたすら頭痛と疲労に耐えながら。今はそれだけが自分が生きているという証明だった――――

 

 

 

――――景色が途切れる。ノイズが混じり、フィルムが欠けている映画のように場面が切り替わる。

 

 

 

次に目にしたのはどこかの一室だった。子供の視点からはとても大きな部屋に感じられる。そこにある豪華な机や椅子、およそ読むことができないであろう蔵書で溢れている書斎。そこが遠野槙久の部屋であることに気づくのに時間はかからなかった。

 

そこには自分一人しかいない。遠野槙久も、他の親族たちも場所を移動したのだろう。ぼんやりと彼らの会話の内容が頭に残っている。その中に有間という単語があった。どうやら自分はやはり、そこに預けられることになるらしい。今ここに連れてこられたのもその道中に、自分の服などを持って行くためのようだ。

 

そのことに何の感情も湧かない。自分のことのはずなのに、他人事にしか思えない。

 

ただ呆然とその場に立ち尽くしているだけ。本当に人形のようだ。逃げ出そう、という気すら起きない。今、この部屋は鍵がかけられている。どうやら槙久の持つ鍵でなければ外からも内からも開けることができない仕組みらしい。ここは自分を逃がさないための檻。

 

だがそんなことをする意味もない。魔眼を使えばこの部屋を脱出することは容易い。文字通りバターのように鍵どころか扉ごと切り裂くことができるだろう。しかしそれだけ。そこから先は何もない。一体どこに逃げるというのか。小さな子供の自分がどこへ。まともに歩くことすらままならないこの体でどこへ。誰が助けてくれるというのか。子供である自分の話を信じてくれるはずもない。どうしようもない袋小路。鍵などかける必要すらない。自分は生まれた時から檻に閉じ込められているのだから。

 

 

『遠野志貴』という逃れられない殻の中に――――

 

 

瞬間、かたんという音がした。何とはなしにその方向へ顔を向ける。そこには一人の少女がいた。年は恐らく十歳ほど。洋装をした女の子。どうやら最初からこの部屋にいたらしい。それに気づかない程自分は摩耗していたのか、それとも気配を消すことに少女が長けていたのか。おそらくはその両方。

 

 

「…………」

「…………」

 

 

そのまま互いに無言のまま見つめ合う。驚きも何もない。ただそこにいるから見ているだけ。きっと少女も同じだったのだろう。

 

 

目覚めてから初めてまともに人間を視界に収めた、と気づいた。直死の魔眼を持つ自分にとって人間を直視することがもっとも辛いこと。線だけでなく、点まで見えてしまうのだから。線だけでも頭痛がするのに、点まで直視すればその限りではない。故にこれまで誰一人、完全に視界に入れることはなかった。だが今、自分は少女と向かい合っている。体に奔る線も、体を穿つ点も意識にはなかった。ただその琥珀色の瞳に目を奪われていた。

 

そこには何も映ってはいなかった。生気を感じさせない、虚ろな眼。本当に自分を見ているのかどうかすら疑わしい瞳。ただ思った。

 

 

――――まるで、人形のようだ、と

 

 

そのままどれくらいの時間が経ったのか。少女は一言も発することはなく、自分もまた同じように言葉をかけることなく視線がずれる。正確には自分が視線を逸らした。何もしゃべる必要性がなかった。そんな単純な理由。

 

『琥珀』

 

それが目の前の少女の名であることを自分は識っていた。正しくは、彼女の姿、この状況からそうなのだろうと判断した。知識は所詮知識。記憶でも、経験でもない。故に初対面でそうと確信することは難しい。だがもはや確認するまでもないほどに彼女の姿はそれと一致していた。

 

『巫浄』 『感応能力』

 

琥珀という人物に関連した知識が勝手に自分の中に流れ込んできては刻まれていく。何故少女がここにいるのか。生気のない目をしているのか。知りたくもないことを、無理やり自分は知らされる。これが自分のもう一つの呪い。初めて会う人であっても。遠野志貴に関連した人物であれば否応なく知識を与えられてしまう。

 

もし、それがなければまだ自分は自分だと開き直れたかもしれない。だがそれは許されない。どんなに抗っても呪いは消えることはない。一体何故こんなことに。そんな既に擦り切れるほど続けてきた自問を繰り返さんとした時

 

 

「……あなたが、志貴?」

 

 

それまで微動だにせず、人形のように黙っていた少女、琥珀が話しかけてくる。抑揚のない、独り言のような問い。まるで言葉を忘れてしまっているのを思い出しながら絞り出したような言葉。だが

 

 

「――――違う」

 

 

何の抑揚もなく、独り言のように自分の口から否定の言葉が出た。知らず、自分が一番驚いていた。病院で閉じこもってから、一カ月以上言葉を発することはなかった。そのせいで失語症だと誤解されるほど。しゃべる意味すら失いかけていたにも関わらず驚くほど、あっさりとその言葉は口にできた。

 

 

「俺は――――志貴じゃない」

 

 

明確な否定。自分の名も、記憶も、体もなくとも。例え人形であってもそれだけは認めない。自分の中に残っている、最後の意地。

 

 

「…………」

 

 

そんな予想していなかった返事に何を思ったのか、琥珀はまたそのまま口を閉ざしてしまう。当たり前だ。彼女からすれば意味が分からない言葉。ただ直接会ったことがなく、窓からしか見たことがなかった遠野志貴であるかを確認するための行為だったのだろうから。

 

こんな少女相手に何を口走っているのか。それともこんな少女だからこそ、本音が漏れたのか。そのまま琥珀を無視したまま部屋にある窓に向かって近づいて行く。琥珀だけでなく、この部屋にいるだけで気が滅入る。何か言いようのない重さのような物が、この部屋にはある。それから逃れたい一心で窓から外を眺める。だがそこにすら逃げ場はなかった。

 

眼下には大きな広場がある。子供であれば走り回ってしまうような大きな庭。しかし、初めて見るはずなのに、知っている場所。

 

 

七夜志貴が殺され、遠野志貴になるはずだった場所。

 

 

なのに遠野志貴ではなく、自分が生まれてしまった場所。

 

 

瞬間、凄まじい頭痛と吐き気が襲いかかってくる。死を見ている反動だけではない。まるで違う、異質な痛み。自分が自分ではないような、消え去ってしまうような痛み。思わずその場に蹲り、同時に自らの体を直視してしまう。張り巡された死の線と、浮かび上がっている死の点。

 

そうだ。自分には逃げ場はない。出会う人々も、世界も、その全てが遠野志貴に縛られている。自分は、どこにもいない。

 

 

遠野志貴遠野志貴遠野志貴遠野志貴遠野志貴遠野志貴遠野志貴遠野志貴遠野志貴トオノシキトオノシキトオノシキトオノシキトオノシキ――――

 

 

意味を持たない言葉の羅列が思考を支配する。これまで何とか保ってきたものが、最後の一線が崩壊を始めんとする。死と知識が自分を蝕んでいく。終わりの見えない絶望が全てを包みこんでいく。

 

魔眼を抑えるためにはもう目を閉じて生きて行くしかない。普通の人のように、生きてはいけない。この体は、爆弾のような物だ。いつ炸裂するかも分からない時限爆弾。決して導火線の火を消すことはできない。例えそう生活しても、先には避けれない因縁が付きまとう。それを乗り切ってもこの体は長くは保たない。なら――――

 

 

無意識にその手が動く。視線の先には黒い点。逃れることができない死の根源。今まで考えようとはしなかった、気づかないふりをしていた解決策。生きる意志も死ぬ意志も持てないからこそ先送りにしていた答え。きっと人間であれば、生きようとするはずだという知識から選ばなかった終着点。

 

 

まるで俯瞰風景に魅入られるように、ゆっくりと、自然に、導かれるようにその手が突き入れらんとした時

 

 

「……イタイ、の?」

 

 

先程とは違う、どこか感情のような物が混じった問いが背中からかけられる。同時に手は止まっていた。もしあと数秒遅ければ間に合わなかっただろう。いや、もしかすれば機会を失ってしまったのかもしれないが。

 

そのままゆっくりと振り返る。そこには先程変わらないまま虚ろな瞳をし、立ちつくしている琥珀の姿がある。違うのはその視線が自分の胸に向けられていることだけ。きっと彼女からは自分が胸が痛くて苦しんでいるように見えたのだろう。だが先の言葉のおかげが、既に頭痛と吐き気は収まっていた。それを見て取ったのか、琥珀はそのまま思い返すように、自分に続ける。

 

 

「……わたしも、イタイの」

 

 

イタイ、と。その言葉にどれだけの意味があるのか、分からない。分かるはずもない。それが分かるのはきっと、世界で彼女だけだろう。だが一片の同情もなく、自分は聞き続ける。そんなものは、何の意味もないのだから。

 

 

「だから……自分が人形だと思うの。そうすれば、イタくなくなるから」

 

 

琥珀はただ独白する。自分の体が自分の物ではないと思えばいいと。そうすれば、人形であればイタくない、と。例え殴られようと、血を流そうと、心を壊されようと、自分ではなければイタくない。

 

自己防衛。代償行為。逃避。そういった類の答え。そう思わなければ、彼女は壊れてしまったのだろう。そう考えなければ、生きてはいけなかったのだろう。十歳の少女が、一体どれだけの境遇にあえばそこに至れるのか。

 

だが琥珀はそれすら気づいていない。ただ人形であることで生きることができる。痛みを失くせる。そう思っている。

 

今の言葉も、独白でありながら自分への助言。琥珀自身が知っている方法を、同じように痛がっているように見えた自分に教えようとしてくれたもの。だが彼女は気づいていない。それこそが矛盾であることを。本当に人形になりきっているのなら、そんなことはしないだろうということを。

 

 

「――――」

 

 

そんな琥珀の姿と言葉にただ言葉を失う。先程までの頭痛も、吐き気も頭にはなかった。あるのは嫌悪感だけ。目の前の少女に対する、純粋な苛立ち。

 

まっとうな人間なら彼女に同情するのだろう。彼女の境遇に憤怒し、彼女を救いだそうとするのだろう。頭でそれは分かっている。そうするのが正しい。人間として当たり前の感情。だが今、自分を支配しているのはそれとは真逆の感情だった。

 

 

だってそうだ。自分は人形だ。どうやっても人形なのに、人間になりたいと、自分が欲しいと足掻いている。必死に人間の振りをしようとしている。

 

 

なのに目の前の少女は生きるために、痛みに耐えるために人形になろうとしている。決してなることができないはずの人形に。人間である彼女には、決してできないことに気づかずに。

 

 

笑い話だ。互いに決してなれないものになろうとして、自分を誤魔化している。道化でしかない。いや、道化は自分だけ。人形である自分は道化にしかなり得ない。

 

 

少女は持っている。『自分』という、自分がどんなに求めても手に入らないものを。なのにそれを無為にして、人形になろうとしている。それが許せない。納得できない――――

 

 

 

――――彼は気づかない。それが嫌悪でないことに。人形では持ち得ない、人間である者だけが持ち得る『嫉妬』という感情であることを。

 

 

 

そのまま、自分は何かを少女に告げた。それが何だったのか、聞こえない。思い出せない。そこだけがノイズがかかったように、消え去っている。ただそれが、否定の意味を含んだものだったことは何となく覚えている。

 

少女は何も答えることはなかった。その表情も、見えない。きっと元々彼女の姿を見てはいなかったのだろう。そのまま最初と同じように、無音の世界が全てを支配する。互いの存在を知りながら、あえて気づかないふりをするように。

 

それを破るように、誰かの足音が部屋に近づいてくる。きっと大人達がやってくるのだろう。結局自分は何もすることなく、何もできないままこの屋敷を去っていく。行く先はどこか。この目と同じく、先は何も見えない。そんな中

 

 

「――――これ」

 

 

いつからそこにいたのか、少女は自分の前にやってきて、何かを差し出してくる。それが何なのか、一瞬戸惑うも明らかだった。

 

 

真っ白な、長いリボン。先程まで自らが身に着けていた装飾。

 

 

それを少女は目の前に差し出す。その意味が理解できず、同時にその意味を識っているからこそ自分はただその場に立ち尽くすことしかできない。

 

 

「もし、――――たら」

 

 

少女が何かを自分に告げた。先の自分の言葉に対する答え。摩耗して、思い出せなくなってしまうほどに、それほどに自分にとっては特別な約束。

 

 

それが遠野志貴へのものだと分かっていても、そう感じる何かがあった。

 

 

 

そこで記録は途切れる。観賞会はここまで。もう飽きるほど見てきた光景。にもかかわらず、決して変わらない記憶。

 

 

未だ果たせぬ約束。それができる日が来るのか。それとも。

 

 

人間の振りをしている人形と人形の振りをしている人間。

 

 

――――その出会いの意味と答えを探しながら、また一つ螺旋が紡がれ、再会の時が訪れる。

 

 

 



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第五話 「再開」

――――夢を見る。

 

 

過去の記憶を、記録を確かめるように。もう飽きるほどに見てきたはずなのに、繰り返し繰り返し。中には身に覚えのない内容もままある。忘れてしまっているものなのか、それとも勝手に空想し作り上げた虚構か。

 

だが意味はない。目が覚めれば全て覚えていないのだから。いや、覚えてなどいられないだろう。これほどの記録を、螺旋を全て認識すれば自我など保ってはいられない。

 

 

もし、その時が来たのならそれは――――

 

 

 

 

「――――お兄ちゃん!」

 

 

聞き慣れた声が虚ろだった意識を目覚めさせてくれる。ある意味いつも通り。何も変わっていないはずなのに何故か涙が出そうになる。あくびは出てはいないが、きっと眠りを妨げられたためだろう。

 

 

「朝だよお兄ちゃん! 早くしないとがっこうに遅れちゃうよ!」

 

 

そんな目覚めてからまだ覚醒しきっていない頭に活を入れてくれようとしてくれているのかは定かではないが、都古はまるで自分が遅刻してしまうかのような慌てっぷりを見せている。きっと目の前には頬を膨らませた都古の姿があるのだろう。誠に残念だがそれを拝むことはできない。

 

 

「……おはよう、都古。今日も元気だな」

「おはよう、じゃないよお兄ちゃん! どうしていつもすぐに起きてくれないの!?」

「いつも言ってるだろ……朝は弱いんだ。このまま世界がなくなってもいいくらいに。そういうわけだから先に行ってくれ、都古」

「よ、よく分からないけどダメだよ! お兄ちゃんを送って行くのがあたしの仕事なんだから!」

 

 

目を覚ましたにも関わらず目を開けることなく、アイマスクをしたまま都古へと挨拶する。寝ている間に着ける、という意味では今の方がアイマスク本来の用途。もっとも自分の場合は昼夜問わず、寝ていようが起きていようが関係ない。唯一の例外が入浴時だけ。相変わらず自分の視界は暗闇。もう慣れ親しんでいるとはいえ、やはり目覚めの瞬間は気が滅入る。

 

 

「……? お兄ちゃん、どうかしたの?」

「いや、何でもない。とりあえず準備するから居間で待っててくれ。それとも着替えも手伝ってくれるのか?」

「っ!? わ、わかった……早くしてね……!」

 

 

どこかオタオタしながら都古は脱兎のごとく部屋から逃げ出していく。理由は言うまでもなく自分が着替えの準備を始めたから。どうやらあれでもやはり思春期であることは間違いないらしい。少し前までは着替えも手伝ってくれていたのだが。別に悲しくはないが少しだけ思春期に嫌われる父親の気分を味わっているかのよう。

 

 

「……ふう。今日はいまいちだな……」

 

 

ベッドから上体を起こし、端座位になりながら自らの体である物の調子を確かめる。貧血で倒れるほどではないが、血の巡りはよくない。感覚も鈍い。朝であることを差し引いても不調である、というのは間違いない。どこか機械の点検のように自らの状態を見極める。自分のことでありながらどこか他人事のようにすら思える作業。しかし、そうせざるを得ない理由がこの体にはある。

 

慢性的な貧血。もしくは眩暈。直死の魔眼を抜きにしてもなくなることはない遠野志貴の体の現状。目を閉じ、全盲に近い生活を送りながらもまだ自分は人並みの生活を送ることは許されることはない。もっとも今の有様は身体だけでなく、自分自身の精神状態のせいでもあるので自業自得と言えるかもしれないが。

 

 

(あれから三日……とりあえずは、ってところか……)

 

 

先日の遠野秋葉の訪問とその顛末から三日が過ぎ去っている。幸か不幸か、あれ以来彼女が有間の家を訪ねてくることはない。ある意味当然。それだけの拒絶の言葉を自分は口にしたのだから。だが罪悪感はあれど、後悔はしていない。あの時の選択は、きっと間違っていない。もし本当に知識通りなら、自分はそのまま死地に向かいかねなかったのだから。

 

生き延びること。

 

それが今の自分の行動理念。何も持てない、何も持っていない自分がこの八年間で必死に見つけ出した在り方。きっと誰であれ、変わることはない原初の願い、欲求。それが自分にもあるはず。現に自分は死を嫌悪している。ならそれはきっと生きたいということに他ならないのだから。

 

だがそれだけで逃れることができるほど遠野志貴の因果は甘くはない。例え遠野の家に戻らなくとも、常に死の危険が付きまとう。皮肉な話だ。死を見る眼があるのに、死から逃げられないなんて。もしかしたら、見えることで逆に死を呼び寄せているのかもしれない。

 

しかし嘆いていても仕方ない。これは八年前から分かり切っていたこと。とりあえず準備はしてきた。なら後は運を天に任せるだけ、足掻くだけ足掻いて、その果てに終わりが来たのならあきらめるしかない。ただその瞬間までは、みっともなく這い続ける。きっと、そうするべきなんだから。

 

自分に言い聞かせながら、大きな溜息とともに背伸びをし、意識を切り替える。とにもかくにも今は学校へ行く準備をしなければ。今では都古が今か今かと待っているはず。早くしなければ頭突きを食らいかねない。三日前に食らったばかりなのに、朝から食らおうものなら本当に倒れかねない。今はどこから影響されたのか、中国拳法の真似ごとまでしているらしい。頭突きが拳になるのか、と空恐ろしいことを危惧しながら慣れた手つきで準備を整える。おおよそ必要な物は手の届く範囲に配置している。

 

もし誰かがこの部屋を見れば、物の少なさに驚くだろう。遠野志貴も部屋にはあまり私物がなかったらしいが、自分は根本的に理由が異なる。ただ単純に動線上で邪魔となる物がないよう、必要最低限の物しか置いていないだけ。ベッドに机。着替えが入った小さな三段ボックスに学生鞄。ラジオ兼ラジカセにイヤホン。せいぜいそんなところ。これが自分の世界であり、全て。小さな、狭い世界だが、慣れればそれほど悪くない。死の見える世界に比べれば、きっとどんな世界でもマシだろう。

 

だがそんな自分の世界にも、一つだけ自分の物ではない物がある。偶然か必然か。ふと、それに触れてしまう。触れないように机の奥にしまっておいたはずなのに、いつ以来か分からないにも関わらず手触りだけでそれが何なのか分かってしまう。

 

 

「…………」

 

 

白く長いリボン。今は見えないが、きっとあの時と変わらない形をしているのだろう。同時にあの日の彼女の姿が蘇る。

 

八年前に見た少女と、三日前に目にした着物姿の女性。

 

共に死の線と点に満ちていたにも関わらず、直視した存在。まるで別人のように変わっていた彼女。ただその内までは分からない。なら自分はどうなのか。八年前と、何か変わったのだろうか。変われたのだろうか。

 

あの時、これを受け取ってしまったこと。それが正しかったのか、間違っていたのか。ただ分かるのは、きっとこのリボンが元の持ち主の手に戻ることはないだろうということだけ。

 

 

「――っ!?」

 

 

瞬間、頭痛が起こりその場に蹲ってしまう。直死の魔眼による負荷の頭痛ではない、八年前からある頭痛。医者に見せても原因不明であるもの。それが最近、頻度を増している。頭が割れるような痛みと、何かが刻まれているような嘔吐感。もしかしたら、別人になってしまった拒絶反応かもしれない。本当に、この体は自分を楽にしてくれる気が毛頭ないらしい。そんな痛みが何とか収まった後、ふと気づく。

 

 

何かと理由をつけて、遠野の家に戻りたくないと抗っていた自分。その根源。何のことはない。

 

 

――――琥珀と会いたくなかったから。

 

 

そんな子供じみた理由が根本であったことに今更気づき、自嘲気味な笑みを浮かべながら呼吸を整え、自分を待っているであろう都古と共に、家を後にするのだった――――

 

 

 

 

 

――――そこは一種の異界だった。

 

 

薄暗く、陽の光が届いているのか定かではない講堂。ステンドグラスから差しこんでくる細い光だけがかろうじて道を指し示している幻想的な光景。救いを求める者に、平等にそれを与えんとするはずの教会は、致命的な程人を寄せ付けぬ空気に満ちている。排他的、と言ってもいい。だが彼らが拒んでいるには人ではない。かつてヒトであり、ヒトではなくなったもの。人でない霊長を決して認めない者達の意志がカタチになったもの。

 

『埋葬機関』

 

聖堂教会の中においても異端狩りに特化した代行集団。悪魔払いではなく、悪魔殺しの代行者達。彼らがその中でも怨敵としているのが吸血鬼。その名の通り血を吸う鬼であり、人にとっての天敵。元々吸血鬼であったモノも、人から吸血鬼であったモノも関係ない。ただ吸血鬼であるというだけで彼らにとってそれは決して許されない。ここは彼らの本拠地であり、同時に墓場でもある。見えない何かに縛られているように、彼らもまた人間でありながら人間でなくなってしまった存在。

 

 

「…………」

 

 

そんな一般人が踏み入れば空気だけで体がすくんでしまうほどに浄化され、毒にすらなりかねない空気に満ちた空間を一人の女性が歩いている。カソックと呼ばれる法衣に身を包んだ殉教者。だがそこに、救いを説く姿はない。ただ単調に、規律が取れた軍隊を思わせる歩法を見せながら彼女は進んでいく。足が地につく度に甲高い反響音が行動に響き渡る。法衣には不釣り合いなブーツの奏でる音は、聞く者に戦慄を与えかねない。だがそんな彼女を前にして

 

 

「――――へえ、これは珍しい。ここで君に会うなんて何年振りかな? てっきりここが嫌いなんだとばかり思ってたんだけど」

 

 

まるで初めからそこにいたかのような自然さで、同時にあり得ない程の不自然さを纏った少年が姿を見せる。薄暗く、光がほとんど差してこない中であってもその存在感は圧倒的だった。

 

天使。彼を初めて見る人間ならまずそう連想するだろう。それほどまでにその在り方は神秘的で、幻想的だった。白い法衣を身に纏い、指にはいくつもの指輪。子供のような容姿。その全てが、天使という言葉に相応しい。

 

だが視る者が視れば気づくだろう。その正体がまさにそれとは真逆であることを。そう、彼は悪魔。自らの手足ですら悪魔にしてしまう、空想を描く夢の住人。

 

 

「……それはわたしの台詞です。貴方こそ、こんなところにいていいのですかメレム」

 

 

それまで一定の規律を守っていた足音を留めながら、彼女、シエルは真っ直ぐに少年を見据える。そこには親愛はない。まるで敵に出会ったかのような、言いようのない空気がある。蒼い双眼に射抜かれながらも、少年メレムはまるで意に介することはない。むしろ楽しげですらある。

 

 

「ああ、ここの空気のこと? 確かに少し気にはなるけど、我慢できないってほどじゃない。心配しないでいいよ。たまには慣れておかないと、いざって時に困るからね」

「勘違いしているようですね。わたしが言っているのは、今わたしの前にいて自分の身の心配をしなくていいのか、ということです」

「なるほど、そう取ることもできるか。でもわざわざ口にするまでもない。君がお節介焼きだってことをここで知らない奴はいないし」

 

 

ある種の敵対心をシエルが見せているものの、メレムは動じるどころかからかうだけ。会社の上司と部下、先輩と後輩のように。先のシエルの言葉の半分以上が自分の身を案じている物であることを知っていながら遊んでいるだけ。

 

『メレム・ソロモン』

 

死徒二十七祖の一人であり、同時に埋葬機関の五位でもある吸血鬼。吸血鬼でありながら吸血鬼を狩る埋葬機関に属している変わり者、矛盾した存在。

 

 

「……そうですか。で、貴方は何故ここに? 局長からの呼び出しですか?」

 

 

これ以上気を張っていても無駄だと判断したのか、一度目を閉じ幾分か殺気を収めながらシエルは問う。先のメレムの言葉に納得したわけではないが、ここは一種の異界。特に吸血鬼にとっては立っているだけでもやっとになる程の浄化された場所。そこにいながらも平然としているのが彼が祖たる所以なのだろうが、それでも好んでやってくることは考えにくい。その真意を問うもの。もっともメレムが正直にそれを明かすなどとは思っていない。これはただの通過儀礼。世間話のようなもの。だが

 

 

「いや、違うよ。ナルバレックに用があるのは確かだけど。ちょっと金の換金をお願いしようと思って」

 

 

あっさりと、まるで気にする風もなくメレムは己の目的を明かす。あまりにも自然すぎて、嘘だという疑問すら抱けない程にその答えは真実だった。

 

 

「換金、ですか? 意外ですね。貴方は人間社会には興味がないとばかり思っていましたが」

「ん? ああ、使うのはボクじゃないんだけどね。ちょっと君と同じようにお節介をしておこうと思って」

 

 

どこか楽しげにメレムは笑う。屈託のない笑み。普段の彼からは想像できない、純粋な顔。その理由に興味はあるものの、シエルは切り捨てる。きっと答えはしないことは分かり切っているのだから。

 

 

「そうですか……ですがわざわざ局長に頼む必要があるとは思えません。換金ぐらい、あなたでもできるでしょう」

「そうだね。左腕ならできなくもないんだけど、それだとちょっと時間と手間がかかっちゃうんだよ。急用だから今回は癪だけど、借りを作っておこうってわけ。本当に人間社会ってのは面倒だね」

「時間と手間、ですか。四桁を生きているあなたが言っても説得力がありませんね。そもそもあなたに人間社会が理解できているとは思えませんが」

「確かに。ボクはヴァンほど世俗にはまみれてないからね。そういえば、今度豪華客船でパーティをするとか言ってたっけ。吸血鬼が海の上で舞踏会なんて、あいつぐらいなんじゃないかな」

 

 

それが面白い、とメレムは笑う。そんなメレムに辟易としながらも、これ以上ここで時間は割けれないとばかりにシエルはその場を後にせんとする。だが

 

 

「でも急いでいるのは君も同じじゃないかな。ソレを持ち出すってことは、そういうことなんだろう?」

 

 

先程までの悪戯好きな子供のような顔ではなく、囁く悪魔のような笑みを見せながらメレムは告げる。その視線の先にはシエルではなく、彼女が肩に担いでいる巨大な黒い物体。端から見れば棺桶のようなもの。異質なのはそれが法衣によって拘束されているということだけ。

 

 

「ええ。局長の許可は出ています。御心配なく」

「ちょっと待ちなよ。まったく、何で君はそんなにボクを邪見にするのさ」

「わたし、貴方が嫌いですから」

「きっついなー。ま、そこが君らしいんだけど。でもそうか、今度で十七回目だっけ? あの蛇もあきらめが悪い。だからこそ君もまだ、こうしていられるわけだけど」

「…………」

「おや、失言だったかな。でもお節介は本当だよ。どうせまた脱皮するんだから今回にこだわらなくてもいいんじゃない?」

「……残念ですがわたしは貴方ほど気が長くないので。これ以上は時間の無駄でしょう。では。局長の愚痴にでも付き合ってやってください」

「えー。あいつの愚痴は長くて退屈なんだよなー。思わず食べたくなっちゃうぐらいに」

 

 

冗談か本気変わらない軽口を流しながら、今度こそシエルはメレムの横を通り過ぎ、講堂を後にする。見据えるのは出口だけ。この地獄にも似た牢獄の先。それを潜ろうとした刹那

 

 

「じゃあ、本当に最後――――君は人間に戻って、生きたいのかな? それとも人間に戻って、死にたいのかな?」

 

 

文字通り、司祭のような厳かさと子供のような無垢さを内包した矛盾した問い。その問い自体もまた、シエルにとって避けて通ることができない命題。それを最後の置き土産にしながら少年は姿を消す。絵本の中にしかいない、ピーターパンのように。

 

 

振り返ることなく、彼女は発つ。自らの因縁と運命に決着をつけるために。その先の答えを未だ持たぬまま。その答えを得ることができるかは分からない。それでも、自分を取り戻すために――――

 

 

 

 

誰もいない、誰も知らない山奥に。大きな大きな城がある。まるで世界から隔絶されたような、幻想的な心象世界。城でありながら、城でない場所。

 

何故ならそこには一人しかいない。豪華な食堂も、階段も、装飾も必要ない。どこか無機質な岩にも似た冷たさを感じさせる牢獄。

 

中心には城の主が眠っていた。椅子に腰かけ、目を閉じ眠っている女性。この無機質な世界において、彼女だけが異質だった。

 

美しい金髪に、完璧な造形を持つ美貌と肉体。身に纏う白のドレスに着飾られたそれは、男であれば魅了されない者はいないだろう。同時に決して触れることはない。触れることはできない、究極の一。

 

そんな彼女を縛りつけている物。文字通り、無数の鎖が天井から彼女の体を絡め取っている。決して目覚めることがないように。だがこれは誰かが彼女を縛っているのではない。

 

彼女自身が彼女を縛っている証。眠る、というこれまでずっと繰り返して来た行為。それがいつからだったのか、誰に言われて始めたのかは分からない。ただ彼女はそれを繰り返して来た。機械のように、何の疑問も持たぬまま。

 

 

――――その時が訪れる。

 

 

まるで決まっていたように全ての鎖が解かれ、砕け散って行く。同時に彼女はゆっくりとその瞳を開く。血のように染まった深紅。その眼で自らの体を見下ろし、同時にゆっくりと立ち上がる。

 

一瞬、掌を握りしめ、感覚を確かめる。同時に、内に宿る衝動を抑え込む。その表情に感情はない。無機質な城と同じように、彼女もまた同じ。今しているのは自らの体の確認。兵器が自身の異常を確認するように、性能を確認するように彼女は理解する。今の自分の能力と現状を。

 

そのまま無意識に髪を掻き上げる動作を行うも、空を切る。自らの後ろ髪は肩までもない。にもかかわらず梳いてしまったのはただの習慣。知識を、記憶を洗い流されていたため、知らず昔の動作が出てしまっただけ。そのことに何の感慨もない。髪が長かったのは自分がそう言う風に造られたから。そこに愛着はない。司祭は嘆いていたが彼女にとっては邪魔な物が消えた程度の些事でしかない。

 

 

――――目を閉じ、世界と同化する。

 

 

この時代の、この先に必要である知識を星から手に入れる。取捨選択。必要でないものは排除する。無駄な物は必要ない。ただ己が役割を果たすために。

 

同化が終わる。この先の自分のすべきことと、その先を理解する。設計図のように、そこには何のズレも、歪みもない。そんなものはあり得ない。

 

瞬間、深紅の瞳が金へと変わる。それを合図に城は消え去っていく。まるで蜃気楼のように無に環っていく。残ったのは何もない山と、その中に一人取り残されている吸血姫だけ。

 

 

ふと、空を見上げる。

 

 

満月。

 

 

その光を見つめながらも、彼女はすぐさま歩きだす。ただ機械のように。与えられた役割を果たすためだけに。

 

 

誰かが言った。

 

 

――――君の人生は、目が覚めているだけで楽しいのだ、と。

 

 

その意味を解することなく、白い吸血姫は舞台に上がる。その先に、何があるのかを知る由もなく――――

 

 

 

 

 

 

朝、一日で一番人々が行きかう時間帯。その歩道に一人の女性の姿がある。着物、という時代錯誤な服装のせいで通り過ぎて行く通行人からは奇異の目を向けられているが、それは着物のせいだけではない。

 

和服美人、と言ってもいい程、彼女の着物姿が絵になっていたから。同時に視線にさらされているにも関わらず、変わらず柔らかい笑みを浮かべていることも大きな理由だろう。

 

通行人達は気にはしながらも、話しかける程の時間も理由もないため、一瞥しながらも去っていく。白いガードレールに沿うように、人々は流れて行く。そんな中で、逆行するように女性はその場で立ち尽くしている。まるで誰かを待っているかのように。

 

もし自分が着物でなければ、あのガードレールに腰掛けて待っていてもよかったかもしれない、とふと考えながらも彼女はそのままただ待ち続ける。

 

時間にすれば短かったのだろう。しかし、それが長く感じられたのはいつ以来だろう。きっと自分が演じているものが、そう感じさせるのだろう。

 

もう何台目かわからない、朝の通勤バス。それが停留所に止まり、中から人々が足早に下りてくる。きっとそれぞれに急いでいくべき場所があるのだろう。

 

だがそんな中、一歩遅れて一人の少年がゆっくりとバスから降りてくる。目にアイマスクをし、手には杖を持った明らかに異質な姿。そのせいか、彼が進まんとしている場所には知らず人が避けて行く。きっと道を開けてくれているのだろうが、遠目から見ると皆が彼を避けているかのように見える。

 

それに気づいているのか、それとも気づかないふりをしているのか。少年はバスの中の運転手に向かって小さく笑みを見せながら何かしゃべったあと、ゆっくりとこちらへと向かってくる。

 

 

それを目にしながら、知らず彼女は手で自らの顔に触れていた。まるで今、自分はどんな表情をしているかを確かめるように。だがすぐそれが無意味であることに気づく。

 

 

そう、そんなことをしても意味はない。彼に自分の表情は見えないのだから。

 

 

それでも、自分が今笑っているのが分かる。口元は確かに笑っている。なら大丈夫。これまでと変わらない。ただわたしは演じればいい。

 

 

 

「――――おはようございます、志貴様」

 

 

 

自分の目の前にまでやってきた少年に向かって彼女は告げる。少年は何かに気づいたようにその場で歩みを止めてしまう。ただゆっくりと見えないはずの視線を上げるだけ。

 

 

それが彼と彼女の再会であり、再開。

 

 

今、役者は全て舞台に上がった。違うのは主演が代役であるということだけ。それが何をもたらすのか誰も知らないまま、物語はようやく開幕するのだった――――

 

 

 



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第六話 「選択」

「――――おはようございます、志貴様」

 

 

朝の通勤、通学ラッシュ。誰もかれもが早足に、どこか急かされるように歩いている。それは自分にとっても例外ではない。ただ違うのは自分は彼らのように急いで歩くことはできないということだけ。一定の速度を超えた速さで歩けば、それだけで危険が跳ね上がる。自分だけならいいが、他の人を巻き込んでしまうかもしれないのが一番あってはならないこと。

 

 

「……志貴様? 聞こえてらっしゃいますか?」

 

 

そんな一日の中で一番神経を使うであろう登校中に、いつもなら聞くことのないはずの声が耳に入る。雑然としている歩道の中であることもあって聞き取りにくいこともあり、一度足を止めるもそのまますぐに歩き始める。何しろ今は登校中。自分の後ろからも多くの人々が続いている。ここで立ち止まってしまえば邪魔になってしまう。加えて始業まで時間もあまりない。そのまま無駄のない、スムーズな動きで障害をすり抜けんとするも

 

 

「ま、待って下さい志貴様! どうして無視なされるんですか!?」

 

 

それは慌てた女性の声とともに防がれてしまう。正確には声ではなく、進行方向に先回りされることで。目が見えない自分にとっては最も効果的な、同時にどうすることもできない状況。妹である都古がよく使ってくる手であり、いつも前に出てくるなと注意するのだが全く聞き入れてくれないという切実な問題があるのだがそこは割愛。どうやらそのまま流そうとしたが、流石に許してはもらえないらしい。

 

 

「……いきなり前に出てくると危ないですよ。ぶつかったらどうするんですか」

「それはこっちの台詞です! 話しかけているのにそのまま行かれようとされるなんて……もしかして、耳も悪いんですか?」

「いや、全然。ただ幻聴かと思って……」

「……要するに無視されていたわけですね。ひどいです。色々と台無しになっちゃった気分です」

 

 

寸分たがわずこちらの意図を察してくれたのか、それとも本気で呆れているのか、恐らくはその両方。声色からは明らかに不機嫌さが伺える。もっとも本気ではなく、少し拗ねていると言った方が近いだろうか。直接会話をするのは八年前のあの時以来。その時とは比べ物にならない程、人間味にあふれた所作。

 

 

「……とりあえず、おはようでいいのかな。琥珀さん」

「はい、おはようございます志貴様。わたしの名前、覚えてくださったんですね」

 

 

先程までの拗ねっぷりはどこへいったのか。琥珀は花が咲いたように声を弾ませている。変わらず、自分の進行方向に陣取ったままで。どうやら自分をここで行かせてくれる気は毛頭ないらしい。強行突破することもできなくはないが、すぐに追いつかれてしまうだろう。そのまま校内にまで着いてこられれば違う意味でも厄介になる。アイマスクを外して逃げる手もあるが体の負担を考えれば避けるべき。そもそも目が見えないということになっている自分が盲学校で全力疾走など笑い話にもならない。先の琥珀の言葉ではないが、色々と台無しになりかねない。要するに自分は目の前で微笑んでいるであろう女性からは逃げることはできないということ。十七に分割したはずの白い吸血姫が通学路で待ち伏せしているのに比べれば、まだマシなのかもしれないが。

 

 

「三日前に会ったばかりですから。それに、俺のことを様付けで呼ぶのは君だけだし」

「そうでしたね。でも覚えてくださっていたのは嬉しいです。あの時は秋葉様とおしゃべりになっていましたから、てっきりわたしのことは気にされていないのかと」

 

 

本当に嬉しいのだろうか、表情を伺えない自分には分からないが少なくとも機嫌がいいのは間違いないだろう。ただ本当のところは彼女が思っているのとは違う。自分はただあの時、あえて琥珀を無視していたのだから。気にしている、と言う点ではその通りだが、向かっているベクトルは真逆の物。

 

 

「それで……今度は一体何の用ですか? 遠野秋葉は一緒じゃないみたいですけど」

「はい、秋葉様は今は学校に登校されているはずです。でもわたしが今日志貴様にお会いしに行くことは御存知ですよ」

「遠野秋葉も知ってるってことですか……?」

「はい! でも提案したのはわたしなんですけどね。内緒で志貴様にお会いした、なんて言ったら秋葉様にどんなお仕置きをされるか分かりませんから」

 

 

クスクスと楽しそうに笑いながら、琥珀は種明かしをする。その意味が計り切れず、自分はただその場に立ち尽くすしかない。きっと周りから見れば奇妙な光景だったのだろう。アイマスクをし、手に杖を持った学生服の自分と着物姿の琥珀が歩道のど真ん中で向かい合っているのだから。今更そんなことに気づき、どうしたものかと思案するのを待っていたかのように

 

 

「――――志貴様。ちょっとわたしとお茶しませんか?」

 

 

そんな男なら断ることなどないはずの誘いを口にする。もし、自分が何も知らなければきっと喜んで返事をしただろう。だが、そんな甘い話にはならない。そう、自分は知っている。識ってしまっている。目の前の女性が『琥珀』という人間であることを――――

 

 

 

 

「――――ふぅ」

 

 

溜息を吐きながら、手にある受話器を公衆電話に戻す。同時にお釣りの硬貨を手にしながらも憂鬱さは変わらない。今、自分は学校から少し離れた公園にいる。言うまでもなく、琥珀からのお茶のお誘いを受けたため。正確には受けざるを得なかったと言った方が正しいかもしれない。あのまま往来の中で立ち往生していては学校どころではない。もし有間の家であれば居留守や面会を断ることもできたかもしれないが登校中、しかも学校のすぐそばではそれも叶わない。きっとそれも計算に入れたうえで自分をあそこで待ち伏せしていたのだろう。

 

とにもかくにも今はこれからのことを考えるしかない。学校には欠席することを伝え終えた。元々目に加え、貧血や眩暈もあり学校を休むこと自体は珍しいことではないので問題ない。まさか学校に行きたい、と思うことがあるなど想像したこともなかったのだが。そんな中

 

 

「……大丈夫ですか、志貴さん? 顔色が優れないようですけど」

「っ!? 琥珀さん……気配を消して後ろに立たないでくれ」

「いえ、中々戻ってこられないものですから。もしかして道に迷われたのかと」

「……大丈夫だ。この辺はよく来るから迷うこともない。誰かさんのせいで、今日は朝から来る羽目になったけど」

「そうなんですか? その割には電話するのは手慣れていたように見えましたけど……志貴さんひょっとしてよく学校をサボられてるんじゃありません?」

「…………」

 

 

一本取ったと言わんばかりに微笑んでいるであろう琥珀の言葉に返す言葉もない。確かに学校をサボること自体は珍しいことではないのだから。だが気配を消して背後に立つのだけは勘弁してほしい。三日前もそうだが、琥珀の気配は感じ取りにくい。無意識なのか、意識的なのかは分からないが目が見えない分、そういった気配に敏感な自分ですらきづけないのだから相当なものだろう。

 

 

「そもそも何で着いてきてるんだ? ベンチで待っててくれって言ったはずだろ」

「はい。でも少し心配になりまして。もしかしたら志貴さんがそのまま帰ってしまわれるんじゃないかと」

「…………」

「あ、やっぱりそうだったんですね。ダメですよ、志貴さん。女性の誘いを受けておいて帰っちゃうなんて」

「待ち伏せして、今も見張ってる人が言えることじゃないと思うんだが……」

「志貴さんをお誘いしたのはわたしですから。ちゃんとエスコートしないといけないじゃないですか。これでもわたし、志貴さんより一つ年上なんですよ?」

 

 

お姉さんですね、と付け加えながら自然に琥珀は自分の手を取り、ベンチまで誘導してくれる。勝手知ったる場所ではあっても、やはり誰かに誘導してもらえるのは助かること。だが今の自分はそのことよりも手から伝わってくる温かさと感触に気を取られていた。思えば自分と同じ年頃の女性に触れたのはいつ以来だろうか。そんな浮ついた思考が自分でもできることに内心驚いたのも一瞬。すぐに気づく。琥珀の誘導の仕方が普通ではないことに。手を繋いで引っ張るのではなく、自らの肘を持ってもらう形で誘導する、という視覚に障害を持つ人を誘導する基本。未だ都古ですらできない(正確には都古は背が低いため)方法で琥珀は危なげなく、自分をベンチまで誘ってくれる。

 

 

「そういえば……はい、どうぞ志貴さん。お茶でよかったんですよね?」

「……ああ、ありがとう。悪いな、どこか喫茶店でも案内できればよかったんだが」

「いえいえ、わたしが無理やりお誘いしたんですからお気になさらずに。それにこの時間から学生服の志貴さんがお店に入るのはちょっと問題がありますし」

「それもそうか……ところで、そのさん付けはどうにかならないのか? 年上なら呼び捨てでいいのに」

「流石に志貴さんを呼び捨てになんてしたらわたし、秋葉様に殺されちゃいます。もし志貴さんがわたしのことを呼び捨てにしてくれるなら、二人きりの時ならお呼びしてもいいですよ?」

 

 

きゃー、というどこかわざとらしい恥じらいを見せながら琥珀はゆっくりと自分の隣に腰掛ける。あえてそこに突っ込みを入れることもせず、渡されたペットボトルのお茶を口にする。知らず、喉が渇いていたことを認識する。どうやら思った以上に自分は緊張していたらしい。それほどに意識していたということだろうか。対照的に彼女は出会ってから全く変わっていない。きっと柔らかい笑みを浮かべているのだろう。これまでのやり取りと敬語をやめることで幾分か慣れたが、それでも根本は変わらない。八年前と同じように、もしかしたらそれ以上に自分は彼女に対して、言いようのない感情を抱いている。できるのはできるだけそれを表に出さないこと、そしてこの時間を早く終わらせることだけ。

 

 

「それで……何の用で俺に会いに来たんだ? 本当にお茶をしにきたってわけじゃないんだろ」

 

 

お茶を飲み下し、一度目を閉じた後、まるで独り言をつぶやくように口にする。事実、それは独り言のように見えるだろう。自分の視線はベンチに座って正面を向いたまま、琥珀には向いていない。目が見えない自分にとって、向いたとしても意味がない。ただそれ以上にこれから先の話に対して否定的であることを示すだけの意味を込めた行為。

 

 

「志貴さんとお茶がしたかったのは本当なんですけど……でもそうですね。じゃあ単刀直入にお話させてもらいます」

 

 

そんな自分を無視するかのような態度を見せているにも関わらず、全く気にした素振りを見せることなく琥珀は自分へと向き直る。視線を感じるという経験をここまではっきりと経験したことは生まれて初めてだった。

 

 

「志貴さん、どうしても遠野の家に戻っていただくことはできませんか?」

 

 

それまでと変わらない、にもかかわらずどこか違う空気を感じさせながら琥珀は問う。三日前、遠野秋葉が自分に問うてきたもの。だが驚きはない。彼女と出会ってから分かり切っていたものだから。違うのは、彼女が求めているものが遠野秋葉とは違うであろうということ。その本当の理由を、目的を自分は識っている。

 

 

「あれから秋葉様も落ち込まれています。本当なら御自分で来られたいのに、わたしに任されたのもそうです。それに翡翠ちゃん……わたしの妹も志貴さんが戻ってこられるのをずっと楽しみにしてるんですよ?」

 

 

そんな自分の胸中を知る由もなく、琥珀は告げる。遠野秋葉と翡翠。二人の女性が遠野志貴の帰りを待ち望んでいると。八年間、叶えられなかった再会と再開を望んでいると。知らず、手に力が入る。もう分かり切っていること。それが叶わないことを自分は知っている。彼らが待っているのは遠野志貴であって自分ではない。なら、その願いに答えるべきではない。

 

 

「――――その話ならもう、三日前にしただろう。俺は、遠野の家には戻れない。目が見えない俺じゃあ遠野の屋敷では生活できないって」

 

 

それを口にできない代わりに、三日前と同じようにもっともな理由を口にする。全ての理由を度外視しても、覆すことができない根本的な問題。目が見えない、目を開けることができない自分の限界。遠野秋葉ですら反論できなかった理論武装。だが

 

 

「ふふっ、甘いですね志貴さん。わたしが何の用意もなくここまでやってきたと思ってますね。でも残念、ちゃーんと解決策を用意しているんですよ」

 

 

琥珀は全くひるむことなく、どころかむしろ待ってましたとばかりに応える。そんな予想外の反応に思わず自分も顔を向けてしまう。姿は見えないが、きっと得意げに指でも立てている琥珀の姿が容易に想像できる。まるで子供に誕生日プレゼントを渡す前の親のように

 

 

 

「――――簡単です。わたしが、志貴さんの付き人になればいいんです」

 

 

 

心底楽しげに、割烹着の悪魔はそんなヨクワカラナイことを口にした。

 

 

「――――は?」

 

 

ようやく口にできたのは、そんな言葉だけだった。時間が止まる、という言葉はこういう時に使うのだろう。間違いなく数秒、自分の思考は止まっていたのだから。それほどに虚を突かれた、予想すらしていなかった回答。

 

 

「ですから、わたしが志貴さんの付き人になればいいんです。そうすれば、志貴さんも遠野のお屋敷でも生活できます」

「そ、それは……でも、確か君は遠野秋葉の付き人だったはずだろう? なら……」

「はい。本当ならそうなんですが、秋葉様には納得していただきました。代わりに翡翠ちゃんが秋葉様の付き人になります。もっとも、どうしても翡翠ちゃんでも難しい場合にはわたしが仕事をする場合もあるかもしれませんが、安心してください。その時には翡翠ちゃんが付いてくれますから」

 

 

まるで悪戯が成功した子供のように、琥珀は既に準備している答えを提示する。その内容に呆然とするしかない。確かに可能性としてはあり得たもの。しかしまさかそんな手を打ってくるとは想像していなかった自分の浅はかさ。知識として識っていた情報から、翡翠では自分の面倒は見れないと踏んでいたものの、琥珀が代わりに付き人になるなど考えてもいなかった。そもそもそんなことをあの遠野秋葉が許すなど。琥珀の真意を何となくでは察している彼女であれば避けたい選択肢。だがそれを取らざるを得ない程自分が彼女を追い詰めてしまった、ということだろう。

 

 

「でも……そんなことになったら琥珀さんも困るんじゃないか? いきなり目が見えない人の世話なんて……」

「心配ありませんよ? わたし、何年か前に目が見えない人の介助の方法を勉強したことがあるんです。ですから歩行から食事、お風呂まで大丈夫。あ、でも付き人だからってえっちなことはしたらいけませんよ?」

 

 

めっ、と指を自分の顔に向かって突きつけながら楽しそうに琥珀は口にする。そんな冗談か本気かも分からない言葉を聞きながらもそれに反応する余裕も何もあったものではない。ただ分かるのはここに至るまでの全てが彼女の掌の上だったということ。

 

先のベンチまでの誘導もその一つ。実際のその手際を見せられた今、それに反論する余地はない。さらに加えるなら何年か前に介助の方法を勉強したことがある、という告白。だがそれも正しくは違うのだろう。

 

何年か前に、ではなく。何年も前から、が正しい。いつからなのか、どこから知ったのかは分からないが、自分が目が見えなくなっていることを彼女は知っていたのだろう。だからこそこの時のために準備をしていた。さらにそれをあえて遠野秋葉には伝えていなかったという事実。考えすぎかもしれないが、彼女であればと思ってしまう。

 

 

「それとわたし、薬剤師の資格も持ってるんです。本物のお医者さんとまでは行きませんけど、志貴さんの体を看ることもできますから、心配いりません」

 

 

知らず、背筋が寒くなる。逃げ道がなくなって行く感覚。姦計に引っかかってしまったかのような悪寒。

 

 

「……確かに、それなら生活できるかもしれない。それでも、やっぱり戻れない。俺は―――」

「記憶喪失、だからですか? 確かに辛いことですけど、でも志貴さんが戻ってきてくださることには変わりません。思い出すことができなくても、また新しい関係を作って行く、と思っていただければいいと思います。秋葉様も、翡翠ちゃんもちゃんと分かってくれますから」

 

 

まるでこちらの反論を先読みしたように、淀みなく琥珀は続ける。目が見えない、という理由ともう一つの記憶喪失という理由すら問題ではないと。彼女が今、何を考えてどんな表情をしているのか。声色は全く変わらない。聞く者を癒してくれるような、優しい音色。そのまま身を委ねたくなるような魅力がある。

 

 

「――――」

 

 

だがからこそ、恐ろしいと自分は感じた。いや、違う。その在り方に激しく嫌悪した。

 

 

光がない世界。目が見えない、ということは視界から得ることができる多くの情報が手に入らないことと同義。曰く『人は見た目が九割』という言葉があるように視覚は人間の感覚の大部分を占める。だからこそ、それがない自分はそれ以外の部分で人と接し、人を理解するしかなかった。

 

 

その最たるものが声。音、という視界と対極に位置する情報。同時に視界からでは得られない情報を得ることができる手段。

 

 

声のトーン、高さ、大きさ。間の置き方、呼吸のタイミング。気配。それが話し手の感情や心理を示してくれる。

 

 

もちろん声だけでその全てが分かる程うぬぼれてはいない。だがそれを差し引いても、目の前にいる彼女の感情も心理も伺うことができない。全く淀みなく、一定のリズムで、声の質や大きさを変えながらも、致命的に何かが欠けている。そう感じてしまうのは自分が彼女のことを『識っている』からなのだろうか。それとも――――

 

 

「ずっと遠野の家に戻っていただく、というのも大変でしょうから。試しに宿泊していただくというのはどうでしょう? ちょうど志貴さんももうすぐ一カ月ほど旅行の予定がおありのようですから、その代わりとまではいきませんけど」

 

 

瞬間、心臓が飛び跳ねた。何気ない琥珀の言葉の中に、明らかに異質な物が、あり得ない物が混ざっていたから。すぐ平静を装うも、彼女相手に誤魔化せたかどうかは怪しい。だが仕方ない。

 

 

「何で、旅行のことを……?」

「はい。先日有間の家にお邪魔した時に偶然耳にしたものですから。随分長い間旅行されるんですね。どなたか付添いの方も一緒なんですか?」

「……ああ。そんなところだ」

 

 

そう返すのが精一杯だった。旅行。言うまでもなくそれは、自分がこの街から一時的に離れるための口実。そのためにこれまでずっと準備を重ねてきた。もうすぐこの街ではじまるであろう蛇を巡った戦い。それから逃れるために。そのタイミングをずっと自分は伺って来た。正確な時期までは分からないものの、大きな目安があったからこそ。

 

遠野槙久の死。

 

それが蛇の戦いの狼煙。それが起こり、遠野志貴が屋敷に戻ることから始まる一連の事件。だからこそ、そのタイミングで街を離れることが重要だった。もし早すぎれば、槙久によって捕えられてしまうかもしれない。目が見えないと言っても自分が七夜であることは変わらないのだから。もし遅すぎても間に合わない。故に数日後に出発する予定だった。無論一人で。魔眼を晒すことになっても、離れた街のホテルに行きつくまでなら問題ない。後は閉じこもり、できるだけ目を開けない生活をすればいい。一カ月もあれば、蛇を巡る騒動も集結するはずなのだから。

 

だが恐るべきは琥珀の発した言葉。旅行のことを知っているのはあり得る。実際有間の家族には伝えているのだから。しかしその先があり得ない。

 

一カ月、という言葉。その期間を自分は誰にも告げていない。家族には三日ほど知り合いの付き添いで旅行に行くとしか伝えていない。考えられるのは一つ。自分の対して送られる遠野家からの養育費。その中から気づかれないように少しずつ三年以上をかけて自分はこの時のために貯蓄をしてきた。ホテルで一カ月生活するのを想定した上で。有間の家族ですら気づいていないだろう。にも関わらず彼女はそれを言い当てた。甘く見ていたのだろう。今の彼女は遠野家の財産管理も任されている。自分の考えなど、全て見透かされてしまっているような感覚。

 

 

「すいません、出過ぎた話でしたね。でも志貴さんにはぜひ考え直して欲しかったんです。遠野の家に戻ることに不安があるみたいですけど、大丈夫ですよ。秋葉様や翡翠ちゃんもいますから。きっと八年前みたいな事故は起こりません」

 

 

黙りこんでしまっている自分に向かって、琥珀は慈しむような声で告げる。全ての心配はいらないと。この時程、自分がアイマスクをしていることに感謝することはなかっただろう。知らず、こちらの表情を誤魔化すことができるのだから。彼女はこんな物がなくとも、表情を変える必要すらないのだろう。八年の間にそれができなくなった自分が異常なのか、それができる彼女が異常なのか。それを知ることもなく

 

 

「それに有間の家にいれば安全、とは限りませんから――――」

 

 

そんな無意識にこぼれたような琥珀の言葉によって、自分は崩壊した――――

 

 

 

 

雑音が聞こえる。暴風の中に、自分がいる。数えきれない、自分が、ここにはいる。

 

 

あんなにも求めた自分が、みっともなく、だらしなく、ただ踊っている。

 

 

いつか見た、夢のように、記録が流される。いつ始まったのか。いつ終わるのか分からない無限地獄。

 

 

――――ただ涙を流す。

 

 

この時の自分はまだ、そんな物を流すことができたらしい。そんなことができるほど、まだ―――だったのか。

 

 

『オニイ――――チャン』

 

 

そんな妹であった物の声。もう声なんて、あげることができない有様なのに。

 

 

それが悲しかった。憎かった。ただ怒りが全てを支配する。この頃はまだ、そんな熱が自分には残っていた。

 

 

 

 

『――――なるほど、さしずめお前はワタシの息子と言ったところか』

 

 

蛇が嗤う。永遠を求めた偽物がセセラワラウ。

 

 

巫山戯てる。このセカイも。自分の正体も。イミも。

 

 

こんなモノのために、―――は生きていたのか。――――のために。

 

なんて、無様――――

 

 

 

 

 

刹那、赤いセカイが見える。もう誰もいない。場所で。ソレは。立って。いる。

 

 

イタイ、と。

 

 

人形のような顔に。赤い鮮血を浴びたまま――――

 

 

 

 

 

 

「―――貴さん? 大丈夫ですか志貴さん?」

「――――っ!?」

 

 

瞬間、世界に戻ってくる。ただ急いで息をする。体面も何も関係ない。ただ今は酸素が欲しかった。みっともなく肩で息をしながら体の中の空気を入れ替える。

 

 

(今、のは――――夢? いつの?いや、あれは――――)

 

 

顔を手で覆いながら、ただ頭痛に耐える。いつもの、頭が割れるような痛みと吐き気。だがそれが今は愛おしい。間違いなく、自分が生きているという証。例え借り物の、偽物の体であっても構わない。ただここに在るだけで。そう思えるほどに先程見た幻は鮮烈だった。

 

 

否、本当に幻だったのかすら分からない。まるでそう、本当に何度もソレを体験してきたのような――――

 

 

まるで許容できない膨大な情報を受け取ってしまったかのよう。まだ自分はそれを受け入れることができない。それが何なのか。分からない。ただ分かること。それは自分が先程、選びかけた選択肢の先にある物だという直感だけ。

 

 

「本当に大丈夫ですか、志貴さん!? 顔色も、それに汗が……ベンチですけど一度横になった方が……」

「いや、いい……それよりも一つ、聞かせてほしいんだ……」

「え? 聞きたいこと、ですか……?」

 

 

何とか頭痛と吐き気も収まり、改めて琥珀に向き合う。初めのように無視する形ではなく、ただ正面から。頭には何もない。先程の夢も、頭痛も、これからのことも。考え出せばきりがないほどに自分は全てに縛られている。

 

 

「どうして君は……そんなに遠野志貴に戻ってきてほしいんだ……?」

 

 

ただ純粋な疑問。同時に自分にとっては一生付きまとって来るであろう呪い。彼女がその本当の理由を答えることがなくとも、それだけは聞いておきたかった問い。

 

 

「――――決まってます。わたしもあなたに帰ってきてほしいからです」

 

 

一片の迷いもなく、琥珀は告げる。八年前から変わらない答え。向日葵のような笑みと共に。

 

 

どんなに取りつくろっても、偽っても、残るであろうもの。それを前にしてもはや言葉は必要なかった。

 

 

言い訳はいくらでもできる。きっと遠野志貴の殻を被っている限り、自分は遠野志貴以上には動けない。世界は変わらない。

 

 

それが自分の生まれて初めての選択。

 

 

選ばないという選択肢を選んできた自分達が初めて選んだ選択肢。それが正しいのか、間違っているのかは分からない。

 

 

ただ、決して後悔はしないだろうと。

 

 

それが彼と彼女の再会。そして彼がようやく舞台に上がった瞬間だった――――

 

 

 



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第零話 『  』

「すいません、出過ぎた話でしたね。でも志貴さんにはぜひ考え直して欲しかったんです。遠野の家に戻ることに不安があるみたいですけど、大丈夫ですよ。秋葉様や翡翠ちゃんもいますから。きっと八年前みたいな事故は起こりません」

 

 

黙りこんでしまっている自分に向かって、琥珀は慈しむような声で告げる。全ての心配はいらないと。この時程、自分がアイマスクをしていることに感謝することはなかっただろう。知らず、こちらの表情を誤魔化すことができるのだから。彼女はこんな物がなくとも、表情を変える必要すらないのだろう。八年の間にそれができなくなった自分が異常なのか、それができる彼女が異常なのか。それを知ることもなく

 

 

「それに有間の家にいれば安全、とは限りませんから――――」

 

 

そんな無意識にこぼれたような琥珀の言葉によって、まるで心臓を鷲掴みにされたような悪寒を覚えた。もう、逃げ場はないと。自分にそうする以外の選択肢はないと宣告されたに等しい。だが逆にそれが自分の思考をクリアにする。

 

――――反転する。そう、何故自分はこんなにも困惑しているのか、翻弄されているのか。

 

決まっている。自分がないからだ。確固たる自分がないから、こんなにも無様に為すがままにされている。中途半端に遠野志貴の殻を被っているから。中途半端に知識を持っているから。中途半端に、遠野志貴と関係がある彼女達を気遣っているから。

 

だからそんな物は必要ない。罪悪感も、後ろめたさも感じる必要もない。そもそもそんな物は自分にありはしない。ただ『普通の人間ならそう思うだろう』と知っているからそうしているだけ。

 

 

「――――できない。俺は、遠野の家には戻らない」

 

 

自分でも驚くほど、抑揚のない言葉が口から漏れた。戻れない、のではなく、戻らない。何かを理由にした物ではなく、間違いなく自らが選んだ選択だった。

 

 

「――――」

 

 

瞬間、初めて彼女の呼吸に変化が生じた。今まで決まったリズムで淀みなく流れていた流れが止まる。秒にも満たない差だったのかもしれないが、はっきりと自分にはそれが感じ取れた。

 

 

「志貴さん、それは」

「何度も言わせないでくれ。俺は遠野の家には戻らない。目のことも、記憶喪失のことも関係ない。俺が帰りたくないから、帰らない。それだけだ」

 

 

先程までとは逆に、琥珀に反論の間を与えることなく先を取る。論理も、理由づけも必要ない。これまでの理論武装という名の言い訳とは真逆の感情論によって彼女の誘いを断る。

 

有間の家が安全とは限らない。琥珀が先程口にした内容。そこに不安がなかったと言えば嘘になる。確かに、有間の家にいれば安全とは限らない。それでも、遠野の家に戻ることに比べれば雲泥の差がある。自分がいることで都古達に危険が及ぶ可能性など百も承知。そもそもそれは本物の遠野志貴であっても変わらない。だからこそ旅行という名の逃走を考えた。もし狙われたとしても、自分だけで済むように。

 

だから、許せなかったのはその一言。まるで、都古達を人質にとったかのようにも取れる彼女の言葉。もしかしたら、そんな意図で言った言葉ではなかったのかもしれない。もしかしたら、彼女にとっては何でもない、当たり前の言葉だったのかもしれない。それが許せなかった。そう、彼女が知識通り、八年前から――――

 

 

「――――そうですか。なら、仕方がありませんね」

 

 

そんな自分の思考を断ち切るようにぽつりと、拍子抜けするほどあっさりとした言葉を琥珀は口にする。思わずこちらが呆然としてしまうほど。もし鏡があれば、口を開けたままになった自分の姿があるだろう。

 

だが姿が見えないのは彼女も同じ。目を閉じた自分からは彼女がどんな表情をしているのかは見えない。声も先程までとなんら変わらない。しかし、だからこそ恐ろしい。恐らくは自分の思惑が外れ、予想外の流れになっているにもかかわらず何の動揺も見せない。それともこうなることも彼女の筋書きなのでは、と勘繰ってしまう。

 

 

「申し訳ありませんでした、志貴さん。無理を言ってしまって……ちょっと、間違えちゃったみたいです」

「間違えた……?」

「いえ、こちらの話です。でも、困りました。これじゃわたし、秋葉様に何を言われるか分かりません。志貴さんを必ずお連れすると約束しちゃったんですよ?」

「……それは、俺のせいじゃないだろ。できもしない約束をした琥珀さんの自己責任だ」

「それはそうなんですが……うぅ、志貴さんって思ったよりもヒドい人だったんですね」

 

 

よよよ、とその場に泣き崩れてしまうような哀愁を漂わせている琥珀にただ苦い顔をするしかない。知らず、ため息を吐く。先程までの言いようのない感情も、緊張感もどこかに行ってしまった。もしかしたら全てが考えすぎだったのでは、と思ってしまう。だが逆にそれが違和感だった。

 

彼女がこんなにもあっさりとあきらめるわけがない、と。

 

 

「はぁ……仕方ありません。このまま志貴さんを拉致、監禁する方法も考えたんですがやっぱり無理そうですね。そんなことしたら秋葉様に何をされるか……あ、もしかしたら秋葉様も賛成してくださるかもしれませんね。どうですか、志貴さん?」

「……無茶苦茶言わないでくれ。そんなのは御免だ」

「そ、そんなに怯えないでください! 冗談に決まってるじゃないですか」

 

 

予想以上に自分がドン引きしているのを見て焦ったのか、慌てて弁明するもこっちにとっては笑い話では済まされない。事実、遠野の家には人間を監禁できる場所があるのだから。先程までは違う意味での冷や汗を流しながらも何とか落ち着きを取り戻すことができた。

 

 

「とにかく、話はこれでいいだろ? 遠野秋葉のことは気の毒だけど、半分以上は自己責任だ。悪いけど、翡翠って妹さんにも伝えておいてくれ」

 

 

ペットボトルのお茶を一気に飲み干し、学生鞄にしまいながらベンチから立ち上がる。正確な時間は分からないが、もう充分話には付き合った。遠野秋葉以上に、琥珀と接することは自分にとっては辛いことだったらしい。この空間から解放されることが、こんなにも待ち遠しかったのだから。酷な対応だったかもしれないが、これがお互いのため。どうやっても、自分は遠野志貴の代わりにはなれないのだから。だが

 

 

「―――いいえ、志貴さん。まだ約束が済んでませんよ?」

 

 

そんな自分を解放することを、まだ彼女は許してはくれなかった。

 

 

「約束……? もう約束なら果たしただろう。お茶には付き合ったわけだし……」

 

 

半ばその場から立ち去ろうとしていたところに声をかけられせいか、若干ぶっきらぼうになってしまったがそう答える。もっとも、男女のお茶と言えるほど甘いものではなく、いわば狐と狸の化かし合いと言った方が正しいかもしれない。どちらが狐でどちらが狸かは言うまでもないが。しかし

 

 

「…………」

 

 

琥珀はそのままただじっと何かを待ち続けている。それまでの彼女の動作からは明らかに異質な空気がある。それが何故なのか、何なのか。

 

だが瞬間、思い出す。知識として、想い出す。

 

――――そうか。でも、それは

 

白いリボン。彼女が遠野志貴と約束した、再会の約束。琥珀がその時を待っていることを。

 

知らず、唇をかむ。自分ではその約束を果たすことができないことに。今、リボンを持っていないからではない。自分が本物の遠野志貴ではない以上、永久に果たされることはないであろう約束。できるのはただ、沈黙を貫き通すことだけ。

 

 

「そうですね。でも、さっきまでのは秋葉様に頼まれたお仕事です。もう少し、わたしとのおしゃべりに付き合って下さいませんか?」

「それは……」

「もう志貴さんに戻ってきてほしいとは言いませんから。あと少しだけ、お付き合いください」

 

 

そんな言い訳にもなってないような言葉と共に再び自分は手を引かれ、ベンチへと戻されてしまう。力づくで振るほどくこともできたかもしれないが、流石にそこまでは気が引ける。しかし、疑問は尽きない。

 

 

「それで、一体何の話があるんだ? 遠野の家のこと以外で俺と話すことなんてないだろう?」

「そんなことありませんよ。わたし、あなたと話したいことがたくさんあったんですから」

 

 

くすくすと笑いながら、年相応の少女のように琥珀は楽しそうにしている。その姿をそのままに受け入れることができないのは何故なのか。識っているからなのか。それとも―――

 

 

「でもそうですね。時間もあまりないですし、気になったことをお聞きしてもいいですか?」

「気になったこと……?」

「はい。三日前に秋葉様としゃべられていた内容です。最後に志貴さん、仰りましたよね。自分はもう死にたくないんだって。だから遠野の家に戻りたくない、と」

「…………」

 

 

ただ口を紡ぐしかない。琥珀が何を言おうとしているのか分からない。ただその言葉の先には、きっと自分にとって望ましくないものがあることは容易に想像できる。

 

そこには先程までの少女の姿はない。ただゼンマイの巻かれた人形のように、役割を果たさんとしているモノの姿。まるでテストの答え合わせ、間違い探しの答えをするような機械的な空気がある。

 

 

「でもそれっておかしくないですか。あなたは、八年前の事故から記憶喪失になってるんですよね」

「……そうだ。でもそれのどこがおかしいって言うんだ」

 

 

ただ否定の言葉を口にする。みっともない悪あがき。もう琥珀が何を言わんとしているかを半ば理解しているにも関わらず。

 

 

「おかしいですよ。もう死にたくないってことは、遠野の家に戻ればもう一度死ぬような目に会うことを知っているみたいじゃないですか」

 

 

琥珀はただ淡々と告げる。その言葉に反論することはできない。確かに言い訳はできる。事故に会ったことを知っていたから、戻りたくなかった。矛盾はない答え。だが琥珀が言っているのは別のこと。遠野秋葉相手であれば、疑問を抱かすことなく言いくるめることができた。それは遠野秋葉があの事件の当事者だったから。だからこそ、罪悪感もあり自分が口にした言葉の違和感に気づくこともなかった。それを計算に入れて自分はあの言葉を選んだ。誤算はたった一つ。

 

 

「――――あなたは本当は、記憶喪失ではないんじゃないですか?」

 

 

あの場に、目の前の彼女がいたということ。俯瞰風景を見るように、極めて客観的な物の見方ができる琥珀だからこそ至れる答え。

 

 

「……何を言ってるんだ。俺は記憶喪失だ。そもそもそんな嘘をつく必要がないだろう」

「そうでしょうか。あなたにとってはその方が都合が良いことがあったとか」

「…………」

「でもそうですね……記憶喪失が嘘でも、あなたが本物の志貴さんではなくなってしまっているのは本当かもしれませんね。その方が、色々と辻褄が合いますし」

「そんな、馬鹿な話があるわけないだろ……!」

 

 

そう返すのが精一杯だった。笑い話だ。その馬鹿な話が、今の自分の現状なのだから。そのままずばりを言い当てられているにもかかわらず、ただ乾いた笑みしか浮かんでこない。

 

 

「あり得ないお話ではないと思いますよ? 二重人格と言うものもありますし。そもそもあなたが言っていたじゃないですか。自分は志貴ではない―――と」

「――――っ!?」

 

 

瞬間、今度こそ本当に息を飲んだ。それほどまでに今、何気なく彼女が口にした言葉は自分にとって全ての前提が壊れてしまう程の意味を持っていたのだから。

 

 

「あれ、おかしいですね。どうしてそんなに驚かれているんですか。事故の後のことですから、覚えてらっしゃると思ったんですけど。もしかして忘れちゃってます? わたし、八年前、遠野の家であなたと会ったことがあるんですよ?」

 

 

手をポンと合わせ、嬉しそうに琥珀は明かす。今まであえて触れることのなかった八年前の邂逅を。様々な理由で、知らないふりをしていた方がいいだろうと判断したもの。それを今ここで明かした理由を、彼は知らない。気づかない。

 

 

「……覚えてる。でも驚いてるのはそこじゃない。君は俺が遠野志貴じゃないってことを、本気で信じてるのか……?」

 

 

自分が今、驚いているのはその一点。八年前の邂逅は覚えていてもおかしくない。でもまさか、本当に自分が遠野志貴ではないことを信じているわけがない。今まで誰一人、信じることのなかったお伽噺。自分自身でさえ、信じることができないような悪夢。それを

 

 

「……? はい。それがどうかしたんですか?」

 

 

目の前の彼女は本当に、何でもないように受け入れていた。

 

 

「……どうかした、じゃないだろう。俺が、遠野志貴じゃないって認めてるってことだろう」

「はい」

「じゃあお前は、俺が志貴じゃないって知りながらここにいるのか!?」

「はい」

「分かってるのか!? 俺は、お前が窓から見ていた遠野志貴じゃない! 本物の遠野志貴が……もういないってことなんだぞ!?」

「はい。あ、でもわたしが窓から見ていたことは知ってたんですね。やっぱり記憶喪失じゃないんじゃないですか」

 

 

やっぱり自分が思った通りだと、彼女がそんなどうでもいいことに反応し、笑みを浮かべているのだろう。

 

それが、心底おぞましかった。気味が悪かった。だってそうだ。目の前の少女、琥珀は本当に自分が遠野志貴ではないと思っている。もはや疑いようがない。なのにそのことに対する感情が何も見えない。もしそれがバレれば自分がどうなるか、どんな反応をされるか。考えなかった日はない。

 

憎悪されるのか。哀れみを向けられるのか。嘲笑されるのか。

 

遠野秋葉にとってはどうなのか。愛した自分の兄が、見ず知らずの他人になっていたと知った時の感情。行動。泣き叫ぶのか。怒りのまま紛い物である自分を消そうとするのか。

 

翡翠にとってはどうなのか。恋した少年がいなくなってしまったことを知れば。涙を流すのだろう。ただ言葉はなくとも、自分に対して拒絶の、侮蔑の視線を向けてくるのだろう。

 

なのに琥珀にはそのどれも当てはまらない。ただ笑みを浮かべ、当然のようにそれを受け入れている。あり得ない。彼女の言うことが真実なら、八年前から彼女は自分のことを知っていたはず。彼女にとっての遠野志貴は遠野秋葉や翡翠と同じように、もしかしたらそれ以上に特別な存在だったはず。なのにどうしてそんな態度が取れるのか。喜怒哀楽の喜しかない仮面をかぶり続けることができるのか。

 

 

「君は……何を考えてるんだ?」

 

 

ただ絞り出すように、八年前に出会った時から抱いていた問いを投げかける。もはや問いではなく、今の自分の感情の吐露。

 

 

「何を考えているか……ですか?」

「そうだ。俺が遠野志貴じゃないってことを知っていながら、俺に何をさせようとしてるんだ。復讐のためか?」

「フクシュウ……?」

「そうだ。遠野家に復讐するためか? それとも遠野志貴の復讐か?」

「フクシュウ……そう、ソレです。わたし、それをするために動いてるんでした。でも本当に何でも知ってるんですね。流石にわたしもそこまで知ってるとは思ってませんでした」

 

 

本来なら知っているはずのない、知識から得た琥珀の行動理念を口にしながらも琥珀はやはり変わらない。その態度も、まるで他人事。自らの復讐のために遠野家を皆殺しするべく画策しているにも関わらず、全く感情というものが感じられない。

 

まるでそう、それ以外にやることがないから。それ以外に生き方を見つけることができない、哀れな人形。

 

 

「……人も増えてきましたね。そろそろ時間でしょうか。これ以上騒いでいるとあなたにも迷惑をかけちゃいますね」

 

 

そんな場違いな琥珀の言葉によってやっと我に帰る。どうやら思ったよりも時間が経ち、公園にも人が集まりつつあるらしい。少し落ち着きを取り戻しつつある自分を見越していたのだろう。

 

 

「志貴さん、これで本当に最後です。一つ、お願いしてもいいですか?」

「お願い……?」

 

 

琥珀はそう自分に言葉をかける。まだ心の整理がつかない。一体何を思って彼女が動いているのか。自分に何を求めているのか。

 

 

「はい。もう一度、その眼でわたしを見ていただけますか。あの時のように目を逸らさずに」

 

 

それは自分の中でも全く予想し得ないお願い。目を開き、自分を見て欲しい。三日前のように目を逸らすのではなく、真っ直ぐに。

 

本当なら断っても良かった。短い時間とはいえ魔眼を晒すことは避けなければならない。負荷と疲労からは逃れられない。しかしそれでも、この時の琥珀の願いを無為にすることはできなかった。それがどんな理由で、どんな感情からくるのかは自分にも分からぬまま。ゆっくりと両の目で彼女を捉える。

 

変わらぬ死の線と点の世界の中で、彼女は笑っていた。あの時とは比べ物にならない程成長し、着物姿をした美しい少女。

 

 

「――――志貴さん、わたし、あの時と変わってますか?」

 

 

微笑みながら少女は問う。八年前の、洋装した少女の姿が脳裏に浮かぶ。生気のない、虚ろな目をした儚げな姿。だが今は違う。目には光が、笑みには見る者を癒すような温かさがある。もし八年越しの再会なら、双子の別人だと思ってしまうほどに彼女は変わっている。だが

 

 

「――――変わってない。君は、八年前と全く変わってない」

 

 

全く間をおかず、思慮することなく。ただ単純に、心からの本音を自分は吐露した。

それはきっと彼女だけでなく、自分にも向けた言葉。

 

 

「――――そうですか。でも酷いです。八年越しに会った女の子に変わってないなんて、いくらわたしでも傷ついちゃいます。もしかして志貴さん、わたしのこと嫌いですか?」

 

 

一度目を閉じた後、まるで姉になったかのような親しみをもって琥珀は頬を膨らませている。だがそんな愛くるしい姿よりも、自分にとっては琥珀の口にした最後の言葉にはっとさせられていた。目から鱗といったところ。何故こんなことにすぐ気付かなかったのか。八年前から抱いていた、琥珀という少女に対する得も知れない感情の正体。

 

 

「そうだ。俺は、君が嫌いだ」

 

 

たった一つの、これ以上にない分かりやすい答え。

 

 

「――――あ、そうだったんですね。わたしも今、やっと気づきました。わたしもあなたのことが嫌いだったみたいです。もしかしたらわたし達、似た者同士なのかもしれませんね」

 

 

本当に先程の自分と同じように、今ようやく気づいたよう目をぱちくりさせながら琥珀も答える。そこには互いに辛辣さも、嫌味もない。あるのはやっとずっと喉に引っかかっていた物が取れたような感覚だけ。

 

 

「じゃあこれ以上あなたに嫌われない内にお暇させてもらいますね。ごめんなさい、学校サボらせちゃいました」

「いいさ。どうせ今日はサボろうと思ってたところだったし」

「あ、ダメですよ志貴さん。ちゃんと学校に行かないと都古ちゃんに言いつけますよ」

「なんでそこで都古が出てくるんだ……」

 

 

互いに長年の謎が氷解したからなのか、自分は最初に出会った時のようなノリで琥珀と接することができている。もしかしたらそうできるよう、彼女がふるまっているだけなのかもしれないが。分かるのは唯一つ。先の会話によって、自分達はもう二度と再会することはないだろうということだけ。

 

 

「それでは。さようなら、志貴さん。お話できて嬉しかったです」

 

 

出会った時と変わらない、変わったはずの笑みを見せた後、彼女は去っていく。その姿はもう見えない。自分の目はもう閉じられている。きっと目を開けていても変わらない。自分には、最後まで彼女の仮面の内を覗くことはできなかったのだから。

 

その刹那

 

 

――――志貴さん、まだ答えは見つけられなかったんですね。

 

 

そんな、どこかで聞いた言葉が聞こえた気がした――――

 

 

 

 

暗転する。場面が切り替わる。カメラが変わるように、強引に世界が変わっていく。そこには自分がいた。遠野志貴の殻を被った自分が。その意識が自分と重なる。もう何度目になるか分からない、自分が重なり、同時に削れていく感覚。

 

 

「――――ふぅ」

 

 

一体何度目になるかわからない溜息を吐く。ベッドに横になった自分に体力の疲労はない。あるのは精神的疲労だけ。それがもう、二週間近くになろうとしている。

 

 

(街を出てからもうすぐ二週間か……そろそろ終わってもいい頃だな……)

 

 

意味もなく寝返りを打ちながら、真新しいシーツの感触に身を委ねる。使い慣れていないために感じる不自由さも今は少しずつ慣れてきている。

 

ここはビジネスホテルの一室。ここがどこかなどどうでもいい。重要なのはただ、自分がいる場所が三咲町ではないということだけ。今は言うなれば逃亡中の期間。その理由も誰に話しても本気にしてもらえないようなお伽噺。

 

蛇と揶揄される吸血鬼をめぐる闘争。それに巻き込まれないために自分は今、三咲町から遥かに離れた場所にいる。八年越し計画。遠野志貴の因果から逃れるための策。魔眼と七夜の体を持っていようとも、戦うことができないという根本は変わらない。今は、武器である短刀もない。否、あったとしても変わらない。

 

体はある。武器はある。知識はある。それでも、経験がない。

 

理論だけでは現実は覆せない。理論に裏打ちされた経験がなければ、何もなし得ない。遠野志貴が戦えたのは、幼少期の訓練があったから。体が覚えていただけ。

 

だがそんな都合のいい物は自分にはない。だからこそ、今自分はここにいる。みっともなく足掻いている。

 

 

(都古の奴……きっと怒ってるんだろうな……)

 

 

ルームサービスで頼んだ料理を機械的に口に運び終えた後、手でベッドの位置を確認し腰を下ろす。今もまだ、目は閉じられたまま。ホテルを選んだのもこのため。多少高くはつくが、自分が動かずに食事やその他もろもろをお願いできるのは大きい。おかげで魔眼を晒すことなく生活をすることできている。

 

ふと思い出したのは有間の家の都古のこと。三日の旅行に行くというだけでも不機嫌だったのに、今はそれを破り二週間。きっと鬼のように怒っているのだろう。もしかしたら逆に泣いているのかもしれない。どっちにしろ心配をかけ、戻った暁には特大の頭突きが待っていることだけは間違いない。だがそれでも構わない。それはつまり、自分が望んでやまなかった日常に帰還することを意味しているのだから。

 

手がバックに触れる。自分が持ってきた、数少ない私物。バックといっても中に入っている物はたかが知れている。部屋に置いている物となんら変わらない自分の世界。変わっているのは、部屋にはあった白いリボンだけ。手にはしながらも、結局自分はそれをここには持ってこなかった。

 

あの日の邂逅があったからだろうか。

 

知らずあの時の選択を思い返す。もし、あの時自分が彼女の言う通り遠野の家に戻っていればどうなっていたのか。今よりも、何か希望があったのだろうか。

 

いや、そんな感傷に意味はない。過ぎ去ったことに意味はない。彼女が何を求めていたのか自分には分からなかった。もしかしたら、求めているものなど何もないのかもしれない。ただ人形のように、役割を果たしていただけなのかもしれない。

 

でも、そんな彼女に自分はあの時――――

 

 

「っ!?」

 

 

瞬間、頭痛が起こる。今までの魔眼の負荷による頭痛ではない。これはそう、八年前にあの広場を見た時に感じた頭痛と吐き気。これまで一度もなかったその痛みが自分を襲う。それが何なのか分からないまま、ようやく意識を取り戻した自分が耳にしたのは明らかに異常な音だった。

 

 

「何だ……?」

 

 

それはテレビからの音声だった。だがそこから聞こえてくる音が普通ではない。人々の悲鳴。何かが倒壊するような音。鳴り響くサイレン。まるでそう、パニック映画のようだ。先程までニュースをしていたはずなのに、いつのまにかチャンネルを切り替えてしまったのだろうか。

 

 

だが違う。明らかに違う。音からだけでも、それが普通ではないのが分かる。作りものではない、真に迫る何かが伝わってくる。

 

 

もはやそれは反射だった。目のことも、体のことも、全てを度外視してアイマスクをはぎ取り、魔眼を開いた。

 

 

「何だ――――これ?」

 

 

それは死都だった。テレビのブラウン管の中は異界だった。ただ赤い、赤しかない、街だったモノ。照らしているのは月明かりだけなのに、だからこそ街は血に染まっていた。

 

 

生きている者は誰ひとりいない、死の世界。直死の魔眼を持っている自分ですら、言葉を失うほどの死の都。

 

 

叫びを上げるリポーターの声も、テロップも、その全てが意味を為していない。ただ自分には分かっていた。分かってしまった。それが何であるか。

 

 

それが、二週間前までいた、自分の世界であることを――――

 

 

 

瞬間、部屋を飛び出していた。頭の中を何かが駆け巡っている。こんな状況なのに、こんな状況だからなのか、知識を照らし合わせるように自分は何かを計算している。

 

死都。死者。秘匿。無視。蛇。混沌。真祖。代行者。理解不能。

 

分からない。何故あんなことになっているのか。蛇の仕業なのか。だがあり得ない。あんなことを許すまで、代行者達が何もしないなど。今代のロアの性能は決して高くない。初代とは比べるまでもなく、先代ともその差は歴然。ここまで侵攻を許すなど。そもそもあの街にはシエルに加え、アルクェイドもいる。遠野志貴に殺されていない彼女が。十全の力を発揮できる彼女がいながらこんなことになるなんてあり得ない。じゃあ一体どうして。分からない。分からない分からナイ。ワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイ――――!!

 

 

「ハアッ……ハアッ……ハアッ…………!!」

 

 

ただがむしゃらには走る。今自分が何をしているのか、どこに向かおうとしているのか分からない。もしかしたら、逃げているのかもしれない。受け入れられない現実から。まるで八年前目覚めたあの時のように。全てに目を閉じ、耳を塞いで。本当は人形のくせに、人間の振りをするように。そんなどこか冷めた目で、どこか遠くから自分を見つめている自分が、いる。

 

 

「――――え?」

 

 

気づけば、床に倒れていた。いつからは分からないが、きっと転んでしまったのだろう。なら立たないと。立たないと、どこにも行けない。それなのに体は全く動いてはくれなかった。

 

 

「――――は、ハハ」

 

 

知らず声が漏れた。笑ってしまう。だってそうだ。今自分は何もできない。立つことも、起き上がることも。手を動かすことも、足を動かすことも。指を動かすことも、体を震わすことも。もしかしたら、もうとっくに息もしていないのかもしれない。

 

 

ようやく気づいた。目が、見えていない。瞼を閉じていないのに、何も見えない。死の線すら、見えない。体はクラゲのよう。ただあるだけで、用を為さない無用の体。

 

 

「何だ――――俺」

 

 

死んでいる、と。そんな当たり前のことにようやく気づいてつい笑ってしまう。

 

 

体が死んでいる。借り物の肉体が、壊れてしまった。糸が切れた人形のように、ゼンマイが切れたロボットのように。みっともなく、床に転がっている。それを他人事のように見ている、自分。そういえば、と思いだす。

 

 

そういえば、本物の遠野志貴も、命を分け与えられた人形だったっけ―――

 

 

これは当然の帰結。操り主が、力の源泉がなくなれば動かなくなってしまう。人形に相応しい、結末。

 

 

――――なんて、無様。

 

 

かつて誰かがよく口にした言葉を思い浮かべながら、紛い物は退場する。舞台にすら上がらない役者は必要ないと告げるように。あっさりと、呆気なく終わりは訪れた。

 

 

彼は思った。死にたくない、と。生きたい、と。

 

 

だが同時にこのまま消えれば、全てから解放される。そんな矛盾した思考。

 

 

しかし、彼は知る。そんな結末すら自分には許されないのだということを。

 

 

死に触れる。初めてのはずなのに、慣れ親しんだ感覚。その先にある、空の境界。

 

 

これが最初の螺旋。もう摩耗し切り、思い出せない程に劣化した原初の記憶。

 

 

蛇の永遠に巻き込まれながら、『 』の意志に押し流されながらただ回り続ける。

 

 

 

螺旋のように。ただ終わりがあることを願いながら――――

 

 

 



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第七話 「代価」

―――いつからだろう。目を開けなくなったのは。

 

 

――――いつからだろう。耳を塞いだのは。

 

 

――――いつからだろう。言葉を発さなくなったのは。

 

 

 

まるでそう、いつか目覚めたばかりの頃のよう。全てに絶望し、死に触れることで生きることすら痛かった。

 

 

ただ痛かった。体が、心が。繰り返して行くうちに、自分が無くなっていく。削れていく。摩耗し、擦り切れて行く。何のためにここにいて、何のために生きているのか。どうして、死ぬことができないのか。

 

 

自分に、自分が殺されていく。もう、自分がどれであったのかも分からない。ただそれでも――――

 

 

 

『……イタイ、の?』

 

 

それだけは、覚えている。もう名前すら思い出せない、誰かの言葉。忘れてはいけない、大切な名前だったはずなのに。

 

 

『……わたしも、イタイの』

 

 

彼女の痛み。それと比べることはできない。でも、やっとその言葉の意味が、理解できた気がした。

 

 

『だから、自分が人形だと思うの。そうすれば、イタくなくなるから』

 

 

今なら、あの時の言葉の意味が、分かる。そうだ。そうしなければ、耐えられない。人間のままでは、耐えられない。生き延びられない。なら、人形になるしかない。

 

 

認めた瞬間、痛みが無くなって行く。消え去っていく。

 

 

体は脈打つのを止め。

 

血管は一本ずつチューブになって。

 

血液は蒸気のように消え去って。

 

心臓もなにもかも、形だけの細工に、なる。

 

人間の振りをしていた自分が、元に戻って行く。

 

意味を持たない、空の容れ物。

 

 

 

――――ああ、そうか。

 

 

結局、あの時、間違えていたのは自分で、正しかったのは彼女だったのか。

 

 

理解しながらも、何故か悲しかった。彼女の言葉を認めることは、彼女との約束を破ることなのだから。

 

 

でも、構わない。彼女を――――できるなら、構わない。

 

 

さあ、始めよう。ただ糸に操られる人形の、最後の舞台を――――

 

 

 

 

 

「ん……」

 

 

ゆっくりと意識が戻ってくる。もう飽きるほど繰り返した目覚めの瞬間。だが珍しく都古の声は聞こえてこない。酷い時には実力行使をしてくるのだが、どうやら今日は襲撃がある前に自分で目覚めることができたようだ。

 

 

「ふぅ……」

 

 

溜息を吐きながら、すぐに起き上がることなくそのまま顔に手を当てたまま天井を見上げる。正確には天井があるであろう場所を。アイマスクをしている自分には暗闇しか見えないのだから。そのまま体に血が巡って行くのを確かめながら、思い出す。何か夢を見ていたような気がするのに、それが何だったのか思い出せない。ここのところ、夢を見る頻度が増えている気がする。同時にあの原因不明の頭痛。どちらかと言えば頭痛の方が問題だ。あまりにひどくなれば生活に支障が出かねない。目が見えないだけでも十分すぎるにも関わらず、これ以上厄介事は御免だと辟易しながらも起き上がろうとした瞬間、

 

 

「……?」

 

 

違和感があった。手から伝わってくる感触が、自分が横になっていたはずのベッドの感触が異なる。それだけではない。部屋の空気も違う。明らかに室温も、臭いも、その全てが自分の部屋ではない。まだ自分はもしかして夢の中にいるのではと疑うもそれはドアをノックする音によってかき消される。返事をする間もなく

 

 

「失礼しますよ……あ、ようやく起きられたんですね。おはようございます、志貴さん」

 

 

そんなあり得ないはずの割烹着の少女の楽しげな声によって、ようやく自分が遠野の家に戻ってきていたことを思い出すのだった――――

 

 

 

 

「……琥珀さん、どうして俺の部屋に当然のように入ってきてるんですか」

「決まってるじゃないですか。わたし、志貴さんの付き人なんですから。主人を起こすのは召使の仕事なんですよ?」

「いつの時代の話だ。それに昨日も言っただろう。起きるのも着替えるのも自分でやるって。琥珀さんに手伝ってもらうのは移動だけで充分だ」

「はい。それは伺っていましたが、流石に遅いなあって思ったものですから。お部屋に伺うのもこれで三回目なんですよ? いくら声をかけても起きて下さらないので、てっきり寝たふりをされているのかと……」

「…………」

 

 

どこまで本気で言っているのか分からない琥珀の言動にげんなりしながらも、ようやく起き上がり辺りを見渡す。そこにはきっと、見たことのない遠野の屋敷の部屋があるのだろう。見えなくとも、座っているベッドの感触と部屋の空気がそれを物語っている。明らかに自分にとっては異質な、異物感を覚えるしかない空間だった。

 

 

(本当に……来ちまったんだな……)

 

 

ようやく実感が湧くと同時に、知らず息を飲む。遠野の屋敷という遠野志貴にとっての、いや自分にとっての鬼門にやってきてしまったのだと。絶対にやってくることはないだろうと心に決めていたにもかかわらず自分がここにいることに、自分自身が一番驚いている。もっともその原因は目の前で微笑んでいるであろう琥珀との再会なのだが。自分がここで生活できない理由を全て潰され、逃げ場がなくなってしまったこと。さらに有間の家にいれば安全とは限らない、家族に危険が及ぶ可能性もその一つ。

 

だが未だに分からない。自分はその全てを度外視しても旅行と言う脱出方法を用意していた。いくら琥珀に看破されようとそれを防ぐことはできない。なら強引にそうすれば良かった。だが自分はそうしなかった。それは

 

 

(あの時のあれは……一体何だったんだ……?)

 

 

自分をあの時襲った頭痛と、幻。形容しがたい内容と断片的な幻。意味が理解できないもの。しかし、それに後押しされるように自分は遠野の家に戻る選択をしてしまった。まるで見えない力が働いたかのように、一種の強迫観念といってもいい理解できない感覚。その証拠に今の自分は戸惑いはあれど後悔はない。何故なら――――

 

 

「……志貴さん、どうかされましたか? 体調が優れないとか?」

「っ!? い、いや……何でもない。ちょっとここが自分の部屋じゃないことに驚いてただけだ」

「そうですか。でも仕方がありませんね。まだ来られてから二日目ですし。これから慣れてこられると思いますよ」

「……そうだな」

 

 

それが良いことなのか、悪いことなのかは分からないが。きっと慣れて行くのだろう。もっともずっとこの屋敷に留まる気は毛頭ない。期間は一カ月。本当なら旅行と言う名の逃亡期間にあてるはずだった時間。それを超えれば、再び有間の家に戻ることになっている。あくまでも、この一カ月を乗り越えることができれば、の話だが。

 

 

「あ、もしかして志貴さん、ホームシックにかかってるんですか。都古ちゃんに起こしに来てもらえないのが寂しい、とか」

「そんな訳ないだろう……俺が幾つだと思ってるんだ」

 

 

くすくすと笑いながら、こちらをからかってくる割烹着の悪魔にどうしたらいいのか頭を痛めるしかない。同時に都古のことを思い出す。それだけで鳩尾が痛くなる。もうしばらくは頭突きは御免だった。駄々をこねる都古を半ば強引に振り切りながらここまでやって来たのだから。もっとも遠野には戻らないと言っておきながらのこの流れだったので、自業自得と言われればそれまでだが。だがそれでもこれで都古達、有間の人々が危険にあうことはなくなったはず。それだけで十分だった。

 

 

「ふふっ、そういうことにしておきますね。でも今度はもう一人の妹さんに苦労することになるかもしれませんね」

「もう一人……?」

「ええ。志貴さん、実はもう八時を回っているんです。秋葉様はもう学校に行かれてしまいましたよ。夕食が楽しみですね」

「……そうだな。本当に楽しみだよ、まったく……」

 

 

琥珀が何を言わんとしているかを理解し、今度はある意味都古以上に厄介な妹のことを思い出す。遠野志貴にとっての妹であり、自分にとってはそうではないが、今はそんなことは関係ない。昨日会っただけでも胃が痛かったにもかかわらず、これから毎日顔を合わせなければならないだから。加えて一カ月の滞在を許してもらう代わりに、毎朝朝食を一緒にするという約束を初日から破ってしまった。琥珀がどこか悪戯に成功した子供のように楽しそうにしているのはそれが理由なのだろう。

 

 

そう、でも結局すべては茶番でしかない。本物の遠野志貴ではない紛い物は、ただ演じるしかない。無様に、みっともなく、這いながら。彼女達を欺きながらただ自分が生き延びるために。

 

 

「では志貴さん、遅くなりましたけどそろそろ朝ごはんにしましょうか。何かお手伝いしましょうか?」

 

 

流石にからかいすぎたと思ったのか、茶目っ気を感じさせることなく琥珀がゆっくりと近づいてくる。それによって今までは意識することができなかった彼女の匂い、体温、息使いが伝わってくる。これまで感じることがなかった、女性の感覚。

 

 

「――っ!? い、いいから早く出て行ってくれ! 着替えぐらいは自分でできるって言っただろう!」

 

 

反射的に蹲りながら、ただそう抵抗するしかない。都古ならいざ知らず、自分と同年代の女性に着替えを手伝ってもらうなど拷問以外の何でもない。そもそも今の自分は、人様の前に出れる状況ではない。朝であるなら避けることができないもの。それを悟られまいと必死に誤魔化すも

 

 

「……分かりました。じゃあドアの前で待ってますね」

 

 

しばらく不思議そうに黙りこんでいた琥珀はそのまま部屋から出て行こうとする。同時に安堵しかけるも

 

 

志貴さんもやっぱり男の子なんですね、とさらっとこちらの努力を木っ端微塵、台無しにする台詞を残しながら嬉しそうに悪魔は去っていく。

 

 

「――――」

 

 

もはや言葉はない。ただ分かるのは、自分にとっての天敵は都古でも遠野秋葉でもなく、やはり彼女なのだという今更の事実だけだった――――

 

 

 

 

「――――ごちそうさまでした」

 

 

手を合わせながら、何とか朝食を終わらせる。だが思ったよりも時間がかかってしまった。やはり、慣れていない環境ではいつも通りに食事をすることは難しそうだ。見えないが、この食堂もその一つ。こんな大人数で食事ができそうな場所で一人きりでもくもくと食事をするということ自体が既に普通ではない。もっとも遠野秋葉と対面しながら二人きりで食事をするのに比べればまだマシなのかもしれないが。

 

 

「お粗末さまでした。でも驚きました。本当に見えていらっしゃらないのにこんなに早く召し上がられるんですね」

「これでも遅かった方なんだけどな。まあパンだったし。それよりもずっと琥珀さんに見られてる方がよっぽど迷惑だったよ」

「あ、気づかれてたんですか? そんなにうるさくしてたつもりはなかったんですけど」

「何となく分かる。気配を消して後ろに立つのが趣味の人でもね」

 

 

朝の仕返しとばかりに自分の食事姿をじっと見ていたであろう琥珀に釘を指す。明確に分かったわけではないが、どうやら反応からして当たりだったらしい。同時に琥珀から見て、今のでも食事時間は早く感じたようだ。目が見えない、というのがどういうことか分かっていないからだろう。見えなくなってから日が浅ければ時間はかかるかもしれないが、自分は八年以上この生活をしている。食事にせよ、歩行にせよ健常者が思うよりずっと早く、安全に行うことができるのだから。

 

 

「あはは……あ、でも驚いたと言えばここまで来る時もです。初めての場所なのに、あんなに早く歩かれるんですね。途中からわたし、ほとんどいらなかったもしれませんね」

「……そんなことはないけど、手すりがあったからな」

 

 

話題を変える意味もあったのか、琥珀は先程までの移動について振ってくる。今、自分は一階の部屋にいる。遠野志貴、正確には遠野四季の部屋は一階ではないのだが動線の関係、つまるところ食堂に行く上で階段を下りる必要があるため自分の部屋は一階ということになった。だがそれだけに留まらないのが遠野秋葉が遠野秋葉である所以。

 

 

「そうですね。でもわたしも驚きました。まさか一日で一階全てに手すりをつけてしまうなんて。秋葉様らしいと言えば秋葉様らしい豪快ぶりです。手すりだけじゃなくて、段差もなくしてるんですよ」

 

 

ばりあふりーって言うらしいですね、と感心するように琥珀は言葉を漏らしている。だが感想は自分も同じ。自分がこちらに来ると伝えたその日の内に屋敷を改装してしまうのだから。ありがたいが、同時に申し訳なさもある。たった一カ月しかいない自分のために、遠野志貴ではない自分のせいでそんなことをさせてしまっているのだから。知らず、黙りこんでしま自分に何かを感じ取ったのか

 

 

「でもちゃんとわたしにもお手伝いさせてくださいね。二日目でお役御免、失業するなんていくらなんでも酷すぎます。志貴さんの付き人にしてもらうのに、わたしが秋葉様をどれだけ説得したか分かります?」

「分からない。というか知りたくもない。だれもそんなこと頼んでないだろう……」

「うぅ……やっぱり志貴さん、わたしのこと嫌いなんですね。もしかして翡翠ちゃんの方が良かったですか?」

「そんな、ことは……」

 

 

どこから突っ込んだらいいのか分からず、言葉を詰まらせるも、同時に言葉にできない感覚を覚える。先の琥珀の言葉。それに何か、引っ掛かりを感じる。気のせいかもしれない程の、それでも素通りできない違和感。それは

 

 

「――――おはようございます。志貴さま」

 

 

新たな来客によって霧散してしまう。控えめなドアの開閉の音とともに、静かな足音をたてながら自分に向かって声の主は挨拶をしてくる。きっとその場でお辞儀をしているのだろうと分かる程、彼女の動きには淀みがなかった。

 

 

「――――ああ。おはよう、翡翠さん」

 

 

『翡翠』

 

 

それが今、自分の前にいる少女の名前。琥珀の双子の妹であり、今は秋葉の付き人である存在。それを証明するように、その声は琥珀と全く同じ。違うのは瞳の色と、しゃべり方だけ。明るさを感じさせる琥珀と対照的に、彼女のしゃべり方はどこか機械的だ。感情を表に出さないようにしていると言った方が正しいのかもしれない。その理由も自分は識っているが、わざわざ口に出すことはない。

 

きっと姿も琥珀と瓜二つなのだろう。違うのは服装だろうか。メイド服という割烹着に負けず劣らずの時代錯誤の恰好をしているはずだが見えない自分には分からない。だがそうなのだろう、と信じてしまうような雰囲気が彼女にはあった。

 

 

「…………」

 

 

だが挨拶を返したにもかかわらず、翡翠からはどこか不機嫌な気配が漂っている。ほんのわずかなものだが、確かにそんな雰囲気がある。その理由を考えるも

 

 

「おはよう翡翠ちゃん。秋葉様はちゃんとお送りした?」

「はい。姉さんはやっと志貴さまをお連れしたんですね。秋葉様がお怒りになられていました」

「そ、それはわたしのせいじゃありません。ね、そうですよね志貴さん?」

「さあ、どうだろうな。それよりも翡翠さん、何かあったのか。機嫌が悪そうだけど……」

 

 

あえて琥珀を無視しながら翡翠に問いかける。まだ会って二日目のはずだが、何か気に障ることをしたのだろうか。それとも、もう自分が本物の志貴ではないと見抜かれたのか。知らず緊張で息を飲むも

 

 

「くすくす……志貴さん、翡翠ちゃんはですね、志貴さんにさん付けで呼ばれるのが嫌なんですよ。ね、翡翠ちゃん?」

「……姉さん、それは」

 

 

琥珀に看破されたからなのか、翡翠はそのまま黙りこんでしまう。そういえば、と思い出す。琥珀と違って、翡翠はその服装通り、付き人であることに固執している節がある。だから呼び捨てではなく、さん付けで呼ばれることに納得していないのだろう。

 

 

「そうか……でも悪いな。琥珀さんにだけさん付けで、翡翠さんだけ呼び捨てにするのも変だし。君は秋葉の付き人なんだから気にすることないさ」

 

 

苦しいかと思いながらもそう言い訳する。呼び捨てにすることはやはり抵抗がある。何よりも翡翠を呼び捨てにするならきっと琥珀も呼び捨てにしないといけなくなる。間違いない。もはや想像する必要すらない。何となくそれは嫌だった。理由はないが、子供の意地のようなもの。

 

 

「―――分かりました。志貴さまがそう仰られるなら従います」

 

 

だが全く納得していないのが丸わかりな返事を翡翠は口にする。思わず一歩引いてしまいそうなほど。もしかしたら、思っていた以上にこの少女は感情が読み取りやすいのかもしれない。

 

 

「ふふっ、残念でしたね翡翠ちゃん。志貴さんは頑固なところがありますから。さあ、そろそろ参りましょうか志貴さん。早くしないと学校に遅れてしまいますよ?」

 

 

自分と翡翠のやりとりが面白かったのか、名残惜しそうにしながらも琥珀はそのまま自分の手を取ろうとするも、呆気にとられるしかない。何故なら

 

 

「――――何言ってるんだ? 俺、学校になんて行く気はないぞ」

 

 

自分はこれっぽっちも学校に行く気など無いのだから。

 

 

「――――え?」

 

 

それは琥珀だけではなく、翡翠の声も重なっていた。きっと二人とも目をぱちくりさせながら顔を見合わせているのだろうと分かる程、二人は言葉を失っていた。だが驚いているのは自分も同じ。もしかしたら二人よりも自分の方が驚いているかもしれない。

 

 

「え? 何でそんなに驚いてるんだ? 俺、言っただろう。学校は一カ月休学するようになってるって」

「そ、そんなこと一言も聞いてません! 今初めて聞きました! ね、翡翠ちゃん?」

「はい。わたしも初めてお聞きしました」

「そ、そうだったっけ……? おかしいな、確かに言った気がするんだが……」

 

 

慌てた琥珀と対照的に冷静さを見せている、装っている翡翠の言葉によってどうやら自分が本当にそれを伝えていなかったのだと知るも未だに腑に落ちない。確かに伝えた筈なのだが、誰かと間違えたのだろうか。とにもかくにも

 

 

「まあ、いいさ。琥珀さんも言ってただろ。元々俺、一カ月ほど旅行する予定でさ。それで学校も休学する手はずになってたんだ」

 

 

それが自分が学校に行かない表向きの理由。旅行をする間に学校を休学する計画。それは遠野家に戻るならば、余計に実行しなければならない策だった。

 

 

「それは確かに言いましたけど……でも休学することはないんじゃないですか? せっかくちゃんとここから学校までの送り迎えができるように計画してたのに全部台無しじゃないですか!」

「……どんな計画だったのかはあえて聞かないけど、残念だったな。もう休学届は出しているから無駄だぞ」

「そんな……ひどいです……」

 

 

本当に落ち込んでいるのか、琥珀はそのまま黙りこんでしまう。どうやら本当に学校までの送り迎えをする気だったららしい。きっと彼女のことだ。実際に何度も往復し、シュミレートしたのだろう。その全てが無となり、割烹着の悪魔は初めて自分に敗北したショックから立ち直れていない。もっとも、知ったことではないのだが。想像するだにぞっとする。校門で着物姿の少女が自分を待っている光景。あまつさえその少女に付き添われながら帰宅する。あり得ない。違う意味で学校に通えなくなりそうだ。

 

 

「志貴さま、本当に宜しいのですか。学業に支障が出てしまわれるのでは……」

「……? ああ、そのことなら心配ない。もうこの先一カ月分の勉強は済ませてるんだ。元々そうする気だったし」

 

 

琥珀とは違い、本当に自分の身を案じてくれる翡翠に感謝しながらもっともらしい答えを告げる。しかし、学校に行きたくないのは大きく二つの理由があったから。

 

一つが学校に行けば、恐らくある人物と出会うことになってしまうから。学校は違えど、何らかの形で彼女は自分と接触しようとしてくるはず。こちらとしてはご遠慮願いたいもの。疾しいことがあるわけではないが、巻き込まれれば厄介なことになる。自分が持っている知識など、力になれることもあるかもしれないがそもそも自分の持っている知識が全て正しいとは限らない。逆にそのせいで余計な結果を招いてしまうこともあり得る。何よりもそのせいで、自分が疑われては元も子もない。

 

 

しかし、これは大した危険はない。確かに厄介ではあるが、彼女であれば自分は直接危険にあることはないだろう。故に一番の理由はもう一つの方。それは――――

 

 

「……志貴さん、そのことは秋葉様も知らないんですよね?」

 

 

そんな思考を断ち切るように先程までその場に伏していたはずの琥珀が割って入ってくる。知らず、気圧される。嫌な予感が、する。何かよくないことを企んでいる狸が目の前にいる。

 

 

「あ、ああ……それがどうかしたのか?」

「いえいえ、大したことではありません。ただ、もし秋葉様がこのことを知ったらどうされるかな、と思っただけです」

「…………それは」

「これはただの想像なんですが。そうですね、きっと秋葉様は志貴さんに家庭教師をつけるかもしれません、いえ、もしかしたらその間、秋葉様がご自分で志貴さんに勉強を教えてくださるかもしれませんね」

「――――」

 

 

瞬間、言葉を失う。琥珀の言葉に驚いたからではない。その内容が、あまりにも現実味を帯びている予言だったからこそ。いや、間違いなくそうなるであろう未来。それを変えるためには

 

 

「――――何が、望みだ?」

 

 

目の前の割烹着の狸を、口止めしなければならないということ。

 

 

「え? 何を仰ってるんですか。それじゃあまるでわたしが志貴さんを脅しているみたいじゃないですか」

「まるで、じゃなくてまさに、だろう。いいからさっさとしろ。俺に何をさせたいんだ」

「いえいえ、簡単なことです。明日から、志貴さんにわたしの買い物に付き合ってほしいんです」

 

 

デートですね、なんてどこか楽しげな様子を見せている琥珀に怪訝な視線を向けるしかない。本当にどこまでが演技で、どこからが本音なのか。未だに掴めない。もしかしたら、彼女自身、どちらがどちらなのか分かっていないのかもしれないが。

 

 

「買い物……? 何でそんなこと……」

「志貴さんが来られたことで、ちょっと色々と買い物をしないといけないんです。ですからそれにお付き合いしてほしいな、と。ちょうどよかったです。学校があれば、中々お誘いできなかったかもしれませんから。どうでしょうか? 代価としては釣り合いが取れていると思うんですけど」

 

 

手を会わせながら、琥珀は笑みを浮かべながらお願いと言う名の脅迫をする。答えなど、考えるまでもない。

 

 

「……分かった、その代わり」

「はい。休学のことは秋葉様にも内緒です。良かったですね、志貴さん?」

 

 

ここに契約は完了した。ただどうしてももう一つ、こちらにも条件があった。それは

 

 

「ただ、一つ条件がある」

「条件、ですか?」

「ああ。もし、外で金髪の外国人、女性を見たら教えてほしい。できるだけ、静かに」

「金髪の女性、ですか……? 知り合いの方ですか?」

「いや……以前、道でぶつかって怒らせちゃったことがある人なんだ。だから、会わないようにしたくて……」

「はあ……ちゃんと謝った方が良いと思いますけど、志貴さんがそう仰るなら」

 

 

事情が理解できない琥珀は首をかしげているものの、了承してくれる。これが自分が学校に行きたくない、正確には外出をしたくない二つ目の理由。だが誰にも話すことができるはずもない。

 

 

もし出会えば、その女性を殺してしまうかもしれないから、と。

 

 

いや、そうではない。もし出会って殺人衝動が起きれば、殺すよりも先に自分が十八に分割されてしまうから、の方が正しいだろう。何にせよ、彼女と接触することは絶対に避けなければならないことには変わらない。

 

 

「――――姉さん、あまり志貴さまを困らせるようなことは」

 

 

そこで今まで自分と琥珀のやり取りを黙って見ていた翡翠が口を開く。流石にこれ以上は付き人としてどうなのか、という常識人である彼女の援護射撃。もしかしたらこの屋敷の中で、一番の味方は翡翠かもしれない。そんな風に思うも

 

 

「じゃあ今度は翡翠ちゃんの番ですね。さっきのことを黙っている代わりに、志貴さんが一つ、お願いを聞いてくださるみたいですよ?」

 

 

まるでそれすらも計算していたように琥珀はその場を後にしながら翡翠に囁き、そのまま食器を慣れた手つきで厨房へと運んでいく。

 

 

「…………」

「…………」

 

 

後には自分と翡翠が残された。ただ互いに無言で向かい合う。見えないが、きっと無表情で自分を見つめているのは間違いない。ただ居心地が悪いのは自分だけ。何かを口にしなければ、と思うもののその先が出てこない。

 

 

何故なら今の自分は、彼女達の主人でありながら、弱みを握られている存在なのだから。

 

 

当主がいない遠野家での、自分の初めての朝はそこで終わりを告げる。

 

 

ただその少し後から、自分は翡翠のことを呼び捨てにするようになったのだった――――

 

 

 



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第八話 「刻限」

「…………ふぅ」

 

 

ようやく一人になれたことに安堵し、そのまま無造作にベッドへと倒れ込む。日差し匂いがする真新しいベッド。なのに今は古いかつての自分のベッドが恋しいのは贅沢なのだろうか。

 

 

(これからこれが、ずっと続くのか……)

 

 

顔に手を当てながら溜息を吐くしかない。今は昼食が終わり、ようやく部屋へと戻ってきたところ。既に自分を送ってくれた琥珀の姿はない。正確には追い出したところ。まだ自分が戻ってきてから日が浅いからなのか、それとも基本的に献身的なところがあるのか。琥珀は事あるごとに自分の世話を焼いてくれる。付き人だから、と言われればそれまでだが流石に度が過ぎているような気がする。自分が識っている琥珀も遠野志貴には世話を焼いていたがここまでではなかった。もしかしたら、本物の志貴よりも自分の反応が彼女にとっては面白いからなのかもしれない。

 

 

(琥珀さんは置いておいて……後の二人は、まあ……仕方ない、か)

 

 

自分の付き人である琥珀と接触する機会が多くなるのはもはや避けようがない。事実、彼女の助けがなければいかに手すりや段差がないとはいえ、生活することはできないのだから。故に後は残る二人。遠野秋葉と翡翠。今のところは特に問題はない。彼女達には自分は最低限の接触しかしない、と決めてある。不用意に接触すれば、自分のことを悟られてしまうかもしれない。何よりも自分自身が彼女達とは関わりたくないと思っている。

 

もう一度、新しい関係を作る。

 

それは、あの時公園で琥珀が自分に告げた言葉。例え記憶が戻らなくても、新しく関係を作ってくれればいいと。だがそれはできない。そこまで自分は開き直ることはできない。そもそも自分は記憶喪失でもなければ、遠野志貴でもない。

 

そう、遠野志貴という殻を被っている限り、自分が彼女達と本当の意味で触れあうことができる日など永遠に訪れることはないのだから。

 

そのまま、何をするでもなく時間の流れに身を委ねる。カチカチと、聞き慣れない時計の針が刻む音が部屋に響いて行く。一定の感覚で、変わることのない繰り返し。

 

視界は変わらなくとも、新しい環境で生活することはやはり思った以上にストレスらしい。眠気と、倦怠感が身体をゆっくりと蝕んでいく。今思えば、そういう意味では休学したのは失敗だったかもしれない。学校に行けば、確実に半日以上この屋敷に留まることなく済むのだから。

 

ふと、気づく。もう思い出すことすら難しい、八年前の記憶。初めて、この屋敷を見た時は子供だったからなのか屋敷がとても大きく見えた。同時に、逃れることができない大きな監獄のように。そこから逃れることが、その時の自分にはできなかった。だが今の自分にはそれができる。囚われる以外の選択肢が、ある。

 

 

――――逃げ出せばいい。

 

 

誰かがそう囁く。それは正しい。遠野志貴の体であったとしても、直死の魔眼を持っていようと、特別に生きる必要はない。逃げ出すことを、誰が責めることができる。そんな権利は、きっと誰にもない。自分以外にそんなことを言える者などいない。

 

なのに、自分はここにいる。自分で選んでここにいる。そのはずなのに、どうしてこんなに不安なのか。怖いのか。何が怖いのか。決まってる。死ぬことが怖い。それ以上の理由が、あるわけ、ない。なのに。どうし、て――――

 

深淵に堕ちていく最中、そういえばと思い出す。

 

 

そういえば、遠野志貴は夢を見ないはず。なら、自分が見ている物は何なのか、と――――

 

 

 

 

――――ユメを見る。

 

ここではない、誰かのユメを。

 

全てから逃げ出した自分。その結末を。

 

全てが血に染まった朱のセカイ。

 

それを画面から見ながら、みっともなく倒れ伏している、人形。

 

ここでユメが終わる。終わってくれれば、まだ自分には救いがあったのに、なのに。

 

――――なんて、無様。

 

 

 

 

「――――っ!?」

 

 

瞬間、覚醒する。もはや反射だった。何も考える間もなく、体が動く、跳ね起きる。秒にも満たない間に、無数の思考が巡って行く。その全てを振り切りながら、ただ手で口を押さ耐える。しかし、無駄なことだった。

 

 

「うっ……!! うあ……あぁ……!!」

 

 

蹲り、ただ息を吐くように全てを吐きだす。胃にある全てを吐きだしながらもまだ足りないと。止まることのない嘔吐感。内蔵すらも必要ない、と言わんばかりにただ全てを吐き出す。呼吸もできない。する必要もない。今はただ、吐き出したかった。

 

目からは涙が、鼻からは鼻水が、口からは唾液が。その全てで顔はぐちゃぐちゃだった。まるでイヌのよう。できるのはただえづきながら、この嘔吐感がなくなる時を待つことだけだった――――

 

 

「ハアッ……!! ハアッ……!!」

 

 

肩で息をし、口と胸を手で押さえながらようやく呼吸する。一体どれだけの時間、そうしていたのか分からない。ただ分かるのは、自分が生きているということだけ。だがそれが何よりも嬉しかった。苦しみよりも、ただそのことが愛おしい。何故なら自分はさっき――――

 

 

「―――っ!!」

 

 

呼吸することも忘れ、手を伸ばす。そこには自分の視界を守るマスクがある。本当なら外してはいけない戒めを何のためらいもなく破る。まるで邪魔な物を投げ捨てるように。そう、邪魔だった。コレがあれば目を開くことができない。世界を、知ることができない。何よりも今は、目を開けなければ――――

 

 

魔眼によって世界を視る。死の線に満ちた変わらない世界。この世の真実。本当なら、それを直死することは避けなければならない。だが今は、そんなことはどうでもよかった。それすらどうでもよくなるほどの、あり得ない光景がそこにはあったのだから。

 

 

(ここは……俺の、部屋……?)

 

 

そこは自分の部屋だった。殺風景な、まるで引っ越して来たばかりのような部屋。間違いなく、八年間自分が慣れ親しんできた自室。何も驚くことはない、当たり前の風景。なのにそれが今は何よりも異常だった。何故なら

 

 

(何で……? 俺は、確か……ホテルの部屋に……)

 

 

自分はホテルの部屋にいたはず。三咲町から離れたビジネスホテルの一室に。間違いない。覚えている。なのにどうしてこんなところにいるのか。もしかしてまだ、夢を見ているのだろうか。

 

いや、夢ではない。嘔吐感も、苦しみも、呼吸をする感覚もある。痛みは、ある。夢ではあり得ない。今、間違いなく自分はここにいる。

 

だって覚えている。そうだ。覚えてる。その感覚を。手足が動かなくなり、呼吸もできなくなり、目も見えなくなる、死の感覚を。だからこそ、今自分が生きていることが分かる。

 

だがその瞬間、ようやく気づく。思い出す。真っ先に気づかなければならないのに、気づかないふりをしていた、現実を。

 

 

――――そうだ。俺は、あの時、確かに

 

 

死んだはず。そんなあり得ない、当然の現実を目の当たりにしたと同時に

 

 

「おはよう、お兄ちゃん朝だよ! 今日こそすぐに起きてもらうんだから!」

 

 

そんな場違いな騒がしい声が思考をクリアにする。ドンという解放音とともにドアを開けながら元気よく少女がやってくる。いつも変わらない、騒がしさ。見ているだけでこちらまで元気を分けてもらえるような、そんな少女。聞き慣れた感覚。

 

 

「…………都、古?」

 

 

有間都古。自分にとっての家族であり、妹。その姿も声も覚えている。間違いなく、彼女は都古だ。なのにそのことが信じられない。どうして都古がここにいるのか。いや、違う。どうして自分がここにいるのか。

 

 

「……お兄ちゃん?」

 

 

呆然と自分が見つめていたからなのか、それとも珍しく自分が起こすよりも早く目覚めていたからなのか。都古は狐につままれたように目をぱちくりさせながらこちらを見つめている。そんな都古を前にして自分も固まったまま。何を口にすればいいのか分からない。だが

 

 

「……っ!? どうしたの、お兄ちゃん! 具合が悪いの!?」

 

 

目を見開き、驚愕しながら都古は悲鳴のような声を上げる。そこでようやく自分の姿に気づく。衣服は乱れ、ベッドには嘔吐物。加えて顔は涙や唾液でぐちゃぐちゃ。とても普通ではない。加えて自分は元々貧血と頭痛、眩暈持ちでもある。都古もそれを誰よりも知っているからこそすぐさま自分の身を案じ、駆け寄ってくる。

 

どこか他人事のようにそんな都古の姿を視界に収める。久しぶりに見た、妹の姿。日々成長している。変わらないのは、その死の線と点、だ、け――――

 

 

「――――触るなっ!!」

「きゃっ!?」

 

 

電光石火のような速さと激しさ。間一髪のところで目を閉じ、そのまま力任せに自分に触れようとした都古を突き飛ばす。そこに容赦も遠慮もない。ただ無造作に男性の力を振るわれた都古は悲鳴とともに床に転んでしまう。しかし今の自分にあるのは安堵感だけだった。

 

 

(あ、危なかった……!! もし、あのまま気づくのが遅かったら……!!)

 

 

背筋が凍る。息が止まる。今の自分は、目を開けている。そのことに気づくのが一瞬遅れた。もしあのまま都古が自分に触れてくればどうなるか。いや、自分が都古に触れてしまえばどうなるか。死の線と点。それに触れてしまえば、人間はひとたまりもない。例外なく線によって体が崩れ、点によって体は死滅する。それが自分が目を閉じているもう一つの理由。自分が死ぬことでなく、触れた相手を壊してしまうこと。目を閉じなければ自分は他人と触れあうことすらできない。長く目を閉じていたせいで、そんな当たり前のことを忘れかけてしまっていた。

 

 

「……っ! み、都古!? だ、大丈夫か……!?」

 

 

一瞬の思考停止の後、目をしっかりと閉じながら都古へと手を伸ばす。だがその手が届いているのかすら分からない。あるのは罪悪感だけ。自分の身を案じた都古を力づくで払ってしまったのだから。

 

 

「ご、ごめんなさい……お兄ちゃん……あたし……」

 

 

きっと何が起こったのか分かっていないのだろう。都古は怯えた様子で、涙声で震えている。涙を流し、悲しんでいる。見えなくても、見えないからこそ、それが分かる。まるで自分が悪いことをして怒られてしまったように都古はその場に座りこんでしまっている。

 

 

「……違う、悪いのは俺だ。今朝は、体の調子が悪いんだ。それで、八つ当たりしちまった……ごめんな、都古」

 

 

できるだけ優しく、呼吸を整えながら都古に話しかける。吐き気も、頭痛も、理解できない現状も今はどうでもいい。ただ今は目の前の妹を泣かせたくなかった。

 

 

「ほんと……? もう、怒ってない……?」

「ああ。ほんとだ。だからちょっと、おばさんを呼んできてくれないか……? ベッド、汚しちゃったから」

「……うん。呼んでくる。お兄ちゃんは動かないで待っててね!」

 

 

涙をぬぐいながら、それでも自分を案じる言葉を残し都古は走りながら去っていく。そのことに心を痛めながらも、同時に安堵する。

 

 

後には自分だけが残される。今はただ、ここに戻ってこれたことを感謝することしかできなかった――――

 

 

 

 

――――それからは、何もなかった。吐き気も、頭痛も。見るはずのない夢も。

 

 

変わらない日常。都古に起こされ、学校に行き、家に戻り、眠りに就く。そんな当たり前の、だからこそ尊い日々。まるで、あの日が嘘だったかのように。いつも通り。

 

あるのは既視感だけ。どこかで見たような、体験したような、そんな錯覚。

 

だがそんな全てを自分は無視した。気づかない、振りをした。

 

日付が戻っていることも、教師の授業が同じことも、食事の内容が同じことも。

 

そうだ。偶然に決まっている。だってそうだ。こんなこと、あるわけない。

 

知識としては識っている。未来視と呼ばれる能力があることを。でもおかしい。遠野志貴が持っているのは直死の魔眼。未来視の眼など、持ってはいない。

 

いや、そうだとしてもおかしい。それは未来を視るもの。なら、視ることができるだけ。

 

だが自分は覚えている。あの感覚を。鼓動がなくなるのを。息ができなくなるあの苦しみを。みっともなく、糸が切れた人形のように倒れ伏している自分の姿を――――

 

 

「っ!?」

 

 

まるであの時のように飛び起きる。違うのは、吐き気も頭痛もないことだけ。すぐさま感触を確かめる。間違いない、ここは自分の部屋。ホテルの部屋ではない。当たり前だ。自分はホテルになんて行っていないんだから。たまたま、そういう夢を見ただけ。

 

 

(俺も、よっぽどだな……起きるたびに怯えてるなんて……)

 

 

自分の浅はかさに笑ってしまう。一体何を怖がっているというのか。ただの夢に。これでは、都古のことを笑えない。そうだ。きっとこれから自分が逃亡することに不安を感じているに違いない。だから、あんな夢まで見たのだろう。

 

だから、心配することはない。用意はしてきた。時期は来た。後は、上手く一カ月やり過ごせば自分は――――

 

 

瞬間、コンコンとドアをノックする音が響く。都古ではない。都古であればノックすることなく部屋へと入ってくるはず。いくら言い聞かせても変わらない癖。ならばもはや答えは一つしかない。

 

 

「……志貴、ちょっといいかしら」

「おばさん……? 何か用ですか?」

 

 

すぐさま起き上がり、そのままドアを開ける。見えないが、そこには都古の母である啓子がいた。だが要領を得ない。夕食してはまだ時間は早いはず。買い物などは自分ではなく、都古に頼むはず。一体何の用で。加えてどこか啓子の様子はおかしい。その声はいつもとは明らかに違う。どこか言いようのない感情を含んだ物。例えるなら自分に対する後ろめたさ、申し訳なさ、そんなものが滲んでいる。

 

 

同時に得も知れない感覚に囚われる。知っている。自分はこの感覚を知っている。この、展開を、自分は、知って、いる。

 

 

「志貴、突然だけれど、お客様がお見えになっているわ……」

 

 

その言葉によって、間違いないのだと悟る。突きつけられる。喉元にナイフを突きつけられるように、息ができない。

 

 

「――――お邪魔しています。お久しぶりです、兄さん」

 

 

聞いたことがないはずの、聞き慣れた声が自分に向けられる。もはや眼を開く必要もない。それほどまでに印象的な、彼女の在り方を形にしたような凛とした音色。

 

 

「――――」

 

 

だがその全てが、自分の耳には届いてはいなかった。あるのは相反する、矛盾する感情だけ。あり得ないと驚愕する自分と、当然だと悟っている自分。

 

 

「――――兄さん、その眼、は」

 

 

その全てが混ざり合い、なくなっていく。同時に恐怖が生まれてくる。逃れる事ができない死の恐怖が。あの感覚が。

 

 

――――逃げられない。

 

 

誰かが囁く。お前は逃げられない。何度でも、何度でも追ってくる。運命からは、逃げられない。

 

 

幻視する。生きている者が誰もいない、死の世界。血のように赤いセカイ。それは決まっていることなのだと。

 

 

「…………兄さん?」

 

 

誰かが自分を呼んでいる。自分ではない、自分を呼んでいる。遠野志貴という、死の呪いを。まるでこれから先も同じだと宣告するように。

 

 

「…………帰ってくれ」

「……え?」

 

 

知らず言葉が出た。何も考えていない、心からの本音。人を気遣うことのない、拒絶の言葉。今はそれすらも煩わしい。おぞましい。

 

 

「――――いいから帰ってくれ、俺は帰る気はない!! 出て行ってくれ!!」

 

 

ただ感情に任せ、拒絶する。振り払う。全てを知っていながら。目の前の少女がどんな想いでここにきたのか知っているにもかかわらず。

 

ただ違う。振り払おうとしているのは彼女ではない。この出会いから始まるであろう、この先の未来を否定するために。それを認めたくない一心で。

 

息を飲む声が聞こえる。彼女だけではない。都古も、啓子も、見たことのないほど激情している自分の姿に言葉を失っている。唯一の例外は一人だけ。

 

 

「志貴様……それは」

「俺は、遠野志貴じゃない!! これ以上巻き込まないでくれ……俺は人形じゃない! 俺は、俺なんだ……!!」

 

 

ただ、子供のように叫ぶ。今まで抑えていた何かが決壊する。八年間、抑え込んでいた物が溢れだす。誰にも理解してもらえない、理解することができない痛み。もうそれに触れないでくれと。自分を解放してくれと。

 

 

「俺はもう、死にたくないんだ――――!!」

 

 

それが全て。こんな体にされて、全てを奪われて。名前も、記憶もない。自分が誰かも分からない。そんな自分が望んだたった一つ望み。生きること。それすらも奪わないでくれと。奇しくも、前にも口にしたことがある拒絶の言葉。だがその意味は全く違う。

 

知識から得た言葉ではなく、自分自身の言葉。

 

 

それだけで十分だった。遠野秋葉はそのまま去り、琥珀もまたそれから自分の前に姿を現すことはなかった。

 

後はまたいつも変わらぬ日々。知らない日々。学校を休学し、有間の家で生活する日常。外に出ることなく、ただ嵐が去ることを願うだけ。

 

自らの方舟であるビジネスホテルへの脱出を行うことはなかった。否、行うことはできなかった。きっと、心のどこかで分かっていたから。そこへ行けば、同じ結末が待っていると。

 

しかし、それはただの逃避でしかない。あの時と違う行動をしても、周りが、世界が変わるわけではない。

 

なら、至る結末は同じであるということ。

 

 

 

 

――――それは死都だった。ただ赤い、赤しかない、街だったモノ。照らしているのは月明かりだけなのに、だからこそ街は血に染まっていた。

 

生きている者は誰ひとりいない、死の世界。直死の魔眼を持っている自分ですら、言葉を失うほどの死の都。

 

どこかで見た、光景。あの時と違うのは、自分が傍観者ではなく、当事者であったことだけ。

 

 

「何、で………」

 

 

ぽつりと、そう漏らすも誰も答えることはない。何でこんなことになっているのか。何で自分はここにいるのか。何で自分はこれを知っているのか。

 

 

だが誰も応えてはくれない。生きている者は誰もいない。街からは火が上がり、建物は崩れ落ち、黒煙が覆い尽くしている。まるで終焉に向かう砂時計のよう。静かに、それでも確実に世界は終わりへと向かっている。

 

 

それでも、自分は何かを探している。ふらふらと、みっともなく。魔眼を晒しながら。だって眼を閉じていては探せない。目を閉じていても仕方ない。どうせ――のだから関係ない。夢遊病者のように、それでも必死に何かを探している。そんな自分を遠くから見ているもう一人の自分が、いる。

 

 

「ほう……驚きだ。もしやとは思ったが、本当にその躯か」

 

 

誰かが自分に声をかけてくる。この地獄で、それでもその存在感は異常だった。

 

 

そもそもそれは生きてすらいなかった。人間ではない、存在。その名の通り、死に従う者。

 

 

「確かに八年前に殺したはずだが……まさか、な」

 

 

アカシャの蛇。ミハイル・ロア・バルダムヨォン。この地獄の創始者にして支配者。だがそれを前にしても何も感情は浮かばない。もう、そんな物は残っていない。そんな物は既に、摩耗してしまっている。

 

だからあるのは単なる疑問。ロアの姿。それが、違っていた。自分は識っている。会ったことはなくとも、ロアの姿を。その二つの可能性。しかし、そのどれとも似つかない。

 

髪を束ね、眼鏡をかけている。どこか理知さを感じさせる容姿。法衣のような物を纏った在り方。まるで神官のような厳かさと同時に人間味を感じさせない冷たさ。

 

 

「―――――」

「ふむ、姫君と抜け殻のことを知っているのか。何故君がそんなことを知っているのかは知らぬが、まあいい。抜け殻なら……そうだな、今頃どこかで死に続けているのだろう」

 

 

どうやら自分が何かを蛇に問うたらしい。蛇は何かを思案しながらも律義にこちらの問いに応えてくる。そこには感情は見えない。まるで何かを計算する研究者のように。根源を目指す魔術師(オロカモノ)のように。

 

 

「――――姫君ならばここにいる。ようやく私は、『永遠』を手に入れたのだ」

 

 

蛇は嗤う。永遠を求めた偽物がセセラワラウ。蛇はようやく脱皮を終える。十七回も繰り返しながら、ようやく到達した。

 

 

だが気づかない。蛇は気づけない。それが己が求めた永遠ではないことを。永遠を手に入れることが、自分の本当の望みではないことを。それが、虚構であることを。彼は知らない。目的と手段。卵と鶏。果たしてそのどちらが先だったのか。

 

 

だがその全てがどうでもよかった。そこで、ようやく、見つける。見つけてしまった。探して、探していたものを。きっとそうなっているんだろうと、分かっていたのに。なのに――――

 

 

――――ただ涙を流す。

 

 

この時の自分はまだ、そんな物を流すことができたらしい。そんなことができるほど、まだ―――だったのか。

 

 

『オニイ――――チャン』

 

 

そんな都古であった物の声。もう声なんて、あげることができない有様なのに。

 

 

それが悲しかった。憎かった。ただ怒りが全てを支配する。この頃はまだ、そんな熱が自分には残っていた。

 

 

「ああああああああああああ――――――!!」

 

 

咆哮し、駆ける。死への恐怖も、絶望もなかった。あるのは怒りだけ。目の前の蛇への。何よりも何もできない自分への。

 

あるのはこの眼だけ。その全ての力を以って蛇の死を視る。確かな線と点。ウロボロスを断ち切るためにただ走る。手には何もない。自分は遠野志貴ではない。だから、ソレは手にしていない。手に入れることができなかった。だが充分だ。この手だけでいい。この手で、指で点を突けば全てが終わる。

 

身体が熱い。眼が熱い。七夜の身体が、血が、目の前の人でない者を殺せと命令してくる。だが関係はない。ただ自分の意志で、こいつを――――

 

 

「――――醜いな」

 

 

侮蔑の言葉と共に、何かが宙を舞う。まるで壊れた人形の手のように。痛みもない。血も流れない。当然だ。そんなもの、自分には残っていない。

 

死の線ではなく、生の線を切られた。いつ切られたのか、それとももう既に切られていたのか。右肘から先が、ない。

 

そこに驚きはない。当たり前だ。例え遠野志貴の身体を持っていようとも、直死の魔眼を持っていようとも使いこなせければ意味はない。故にこれはただの自殺。殺されながらも、自ら望んだ死。それでもまだあきらめはない。右腕がなければ左腕で、腕がなければ両の足で。ただ蛇の胸に視える点を突くことができれば――――

 

 

「――――ようやく気づいたかね。もう、君は死んでいる」

 

 

言われて気づいた。左手を伸ばしているのに、それ以上動かない。まるで糸が切れてしまった人形のよう。もう見ることもできないが、点を突かれてしまったらしい。死の点ではない、紛い物の点。相反する、決して交わらないもう一つの魔眼。偽物の直死の魔眼。だがそれで十分だった。自分には、その偽物の眼にすら、敵わない。本物の眼を持っていても、敵わない。

 

 

「これは……」

 

 

蛇が何かを言っている。だがどうでもいい。あと少し、あと少しで指が届くのに、足りない。ほんの少し、この手に何かがあれば、届くかもしれないのに。ナイフが、あれば。あれが、あれば、もしかしたら――――

 

 

「――――なるほど、さしずめお前はワタシの息子と言ったところか」

 

 

でも、ない。自分は持っていない。持とうとは、しなかった。だって仕方ない。もし持っていても、自分では、使いこなせない。

 

 

知識はある。身体はある。武器はある。だが経験が、ない。

 

 

ならどうすればいい。決まってる。考えるまでもない。自分にはそれが、できる。でも、できない。それは、それだけはできない。そんなことをすれば、『自分』が死んでしまう―――

 

 

「感謝する。君は私が永遠に辿り着いた証でもある。またいずれ、再会する日を楽しみしているよ。もっとも、その時にはもう君はいないだろうがね」

 

 

理解できない言葉と共に死の海に沈んでいく。もう何度目になるか分からない。それでも決して慣れることはない、死の感覚。

 

 

だが同じではない。確かに進んでいる。この道は円ではなく、螺旋。少しずつではあるが進んでいる。その先が希望が絶望かは分からない。ただ分かること。その先に、自分が求めた答えが、ある。

 

 

刻限は迫ってくる。針の秒針が進むように、砂時計の砂が落ちるように。

 

 

目覚めの刻は、もう目の前に――――

 

 

 



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第九話 「姉妹」

――――暗闇。

 

 

何も見えない、黒の世界。昼なのか、夜なのか。起きているのか、寝ているのかも分からない。

 

だがようやく気づく。これが夢だと。何故なら、感覚がない。自分の意志で身体が動かない。まるでカメラで誰かの視点を視ているようだ。誰か、ではない。自分の姿を、自分で視ている。人形を操るように、他人事のように視ている、自分。

 

人形の自分の意識が、伝わってくる。ここがどこなのか。一度だけ踏み入れたことがある場所であり、彼女と初めて出会った場所。

 

自分と彼女は今、そこに閉じ込められている。いや、閉じこもっている。それ以外に、自分達に選択肢はなかった。だが希望はどこにもない。そんなことは、自分が誰よりも分かってる。知っている。だからこれはいつものこと。変わることのない、死の螺旋。

 

もう、全てがどうでもよかった。探し求めていた自分が、ようやく見つかった。

 

自分の正体が、ただの代替であり、帳尻合わせでしかないという、笑い話。何の意味もない、ただの無意味な空の容れ物。

 

だからもう、いい。いいはずなのに、彼女はいつもと変わらぬ声で話しかけてくる。目の前に死が迫っているのに、いつもと変わらぬ姿で。

 

 

 

「――――わたし、あなたにフクシュウするために八年間、生きてきたんです」

 

 

 

彼女は独白する。告白する。何の感情も感じられない声色で。彼女は自分への呪いを口にする。

 

 

まるで犯人が自供するように、聞いてもいないのに、彼女は全てを明かす。

 

 

壊れかけている人形の、哀れな末路。どっちが人形で、どっちが人間だったのか。そもそも、始まりは何だったのか。

 

 

分かるのはただ一つだけ。自分はきっと、この時の光景を忘れはしない。摩耗し、自分が誰か分からなくなっても。

 

 

地獄に落ちようとも、鮮明に思い出すことができるだろう――――

 

 

 

 

 

「…………ん」

 

 

ゆっくりと、意識が戻ってくる。血が巡り、身体が覚醒する。だが身体とは対照的に、まだ頭ははっきりしない。いつも通りのことだが、ふと気づく。そういえば、ここのところは毎日夢を見ているはずなのに、その夢が何であったのか覚えていない。夢なんて、そんな物なのかもしれないが。

 

 

(……何だ、俺、泣いてるのか……?)

 

 

ゆっくり身体を起こしながら、自分が泣いていることに気づく。もっとも涙は頬を伝うことなく、マスクを濡らしているだけ。知らず、あくびでもしてしまったのだろうか。何にせよ、早く起きなければ。今日も遅れてしまえば遠野秋葉に、正確には琥珀に何を言われるか――――

 

 

「――――おはようございます、志貴さま」

 

 

考える前に、自分の思考は止まってしまった。

 

 

「え?」

 

 

ただ呆然とするしかない。その声は間違いなく琥珀の物だ。しかし、決定的に何かが違う。当たり前だ。理由は分からないが、間違いなく今、自分の目の前にいるのは琥珀ではない。

 

 

「翡翠……?」

「はい。お目覚めですか、志貴さま?」

 

 

翡翠だった。間違いなく、翡翠だった。だからこそ意味が分からない。何でこんなところに翡翠がいるのか。もしかしてまだ自分は夢の中にいるのか。

 

 

「……いや、まだ寝ぼけてるみたいだ。なんでちょっと顔をつねってくれるか。それで眼が覚めるかもしれない」

「……お断りします。そういったことは姉さんに頼めば、喜んでしてくださるかと」

 

 

目覚めて一発目、渾身のギャグも翡翠には全く通じない。琥珀なら間違いなく悪ノリしてくれるのだが翡翠には高度すぎたかもしれない。いや、低いのは自分と琥珀の方なのかもしれないが。

 

 

「ごほんっ! 悪い……とりあえずおはよう、翡翠」

「はい。おはようございます、志貴さま」

 

 

気を取り直して挨拶すると変わらず律義に翡翠は返してくれる。まさにメイドの鑑のような姿。同じ双子とは思えないほど琥珀とは対照的な対応に顔を引きつらせるしかない。

 

 

「えっと……うん。色々聞きたいことがあるんだけど、そうだな……まず、何で翡翠はここにいるんだ?」

「志貴さまを起こすためです。もう朝食はできていますので」

「そうじゃなくて……そういえば琥珀さんは? 俺を起こすのは琥珀さんの仕事だったはずだろ」

「そうなのですが……秋葉様のご命令でして。私が、志貴さまを起こすようにと」

「秋葉が? どうして……」

 

 

至極当然の疑問を口にするも翡翠はどこか歯切れが悪そうに吐露する。冷静な翡翠にしては珍しい反応。一体何があったのか。琥珀がここに来れないような事情があるのか。そんな中、ふと思い出す。

 

 

「そうか。昨日、琥珀さん掃除で調度品を壊しまくったからな。その罰ってことか?」

 

 

昨日の琥珀の迷惑行為を。それは朝食後のこと。琥珀がどこか楽しげに自分の部屋にやってきた時から始まった。

 

 

『さあ、志貴さん。お部屋を掃除しますから少し外でお待ちいただけますか?』

 

 

そんな宣言と共に琥珀は目を輝かせながら(恐らく)掃除道具らしきものを手に動きだした。自分は呆気に取られながらも一応止めようとした。何故なら琥珀が掃除が苦手であることを識っていたから。しかし、琥珀は全く聞く耳を持たない。曰く、主人の部屋を掃除するのは付き人の役目だと。本当にそう思っているのか、単に掃除がしたかったのかは分からないが自分はそれを止めることはできなかった。自分の部屋にはほとんど物がない。いくら掃除が苦手と言っても問題はないだろうと……思ってしまった。

 

 

――――端的に言うと、それは破壊行為だった。断じて、掃除などではない。

 

 

何故ベッド以外に大したものがないはずの部屋から破壊音が響いているのか。何故部屋の掃除をしているはずなのに、廊下から何かが割れる音がするのか。目が見えない自分はそのままその場に立ち尽くすしかない。

 

結局その破壊行為は翡翠が異常を聞きつけてやってくるまで続くこととなった。こんなにも、目が見えないことが怖かったのは久しぶりだった。

 

 

「……いえ、そういうわけではないのですが。ただ志貴さま、その話は姉さんの前ではしないで頂けると助かります。あれでも、かなり落ち込んでいましたから」

「そうか……分かった」

 

 

本当に琥珀のことを心配しているのか、それとも掃除の手間を増やされたことを根に持っているのか。恐らく後者だろうと勝手に解釈しながら昨日の出来事はタブーとなった。もっとも、自分にとってはからかうネタが一つ増えただけなのだが。

 

 

「志貴さま、こちらがお着替えです」

「……ありがとな。じゃあ着替えてから、食堂まで行くから先に行っててくれ」

 

 

翡翠から着替えを受け取りながら、結局自分は洗濯一つ一人ではできないことに改めて気づき、情けなくなる。同時にいつもそれをしてくれていた有間の家族に対しても。今頃、どうしているのだろうか。都古は、ちゃんと学校に行っているだろうか。怒っているだろうか。それとも泣いているのだろうか。

 

 

「…………志貴さま」

「……? どうしたんだ? 着替えるから出て行ってほしいんだけど。それとも琥珀さんみたいに手伝ってくれる気なのか?」

「っ!? いえ、失礼します……!」

 

 

それまでの冷静沈着さからは想像できない程狼狽しながら、必死にそれを誤魔化しながら翡翠はそのまま部屋を後にする。その姿にからかいすぎたかと思いながらも、かつての都古の姿が重なり知らず笑ってしまう。そんな自分の姿に何か思う所があったのか

 

 

「……それでは、お部屋の外でお待ちしています」

 

 

と、若干不機嫌そうな言葉を残しながら翡翠は去っていく。一人で行ける、と反論する間もない早業。

 

 

「…………やっぱり姉妹、なんだな」

 

 

この頑なさ、もとい頑固さはやはり姉妹なのだなと再認識しながらもできるだけ速やかに着替えにいそしむのだった――――

 

 

 

 

「おはようございます、兄さん。今日は早く起きれたようですね」

 

 

翡翠に食堂に案内され、ドアを開けた瞬間、そんな容赦のない洗礼が待っていた。もはや語るまでもない。その声色と視えなくとも感じる存在感。遠野秋葉がテーブルから挨拶と言う名の嫌味を口にする。完全に自業自得なので反論できないが、そこまで怒ることはないのではないかと思ってしまう。もしかしたら、彼女なりの遠野志貴への愛情表現なのかもしれないが。

 

 

「……おはよう、秋葉。今日も早いんだな」

「兄さんが遅いだけです。ですが、どうやら今日の様子を見る限りやはり考え直した方がいいかもしれないわね、琥珀」

「……? 何の話だ」

 

 

秋葉の小言に関しては既にあきらめているため甘んじて受けるとしても何故そこで琥珀の名前が出てくるのか。隣にいる翡翠も黙りこんだまま。仕方なく事情を秋葉に尋ねようとするも

 

 

「志貴さん! どうしてそんなに早く起きてこられたんですか!?」

「……は?」

 

 

そんな訳の分からない琥珀の怒りでかき消されてしまった。だが意味が分からない。何で早く起きて怒られなければならないのか。しかし琥珀は本当に怒っているようだ。いや、怒っているというよりは悔しがっていると言った方が正しいのかもしれない。

 

 

 

「何で早く起きてきたのに怒られなきゃいけないんだ。何か問題でもあるのか?」

「大ありです! 何でよりにもよって翡翠ちゃんが起こしに行った途端起きるんですか!? わたしが何度起こしに行ったと思ってるんです!?」

 

 

必死さと涙目になっているのが分かる程に琥珀は狼狽している。そこでようやく事情を察する。どうやら今日翡翠が自分を起こしに来たのは、琥珀が自分を起こすのに時間がかかるからであったらしいことに。しかし翡翠がそんなことを自分から言い出すことは考えにくい。なら答えは一つ。

 

 

「賭けは私の勝ちね、琥珀。兄さんが起きてこないのはやはりあなたの起こし方が悪いからだと」

「そ、そんなことはありません! 秋葉様は志貴さんの寝起きの悪さを知らないからそんなことを仰るんです。耳を引っ張っても、頬を叩いても全然反応してくださらないんですから! ひ、翡翠ちゃん……どうやって志貴さんを起こしたんですか!?」

「特に何もしてはいません。普通に起きて頂いただけです」

 

 

そんな自分の寝起きの悪さをおもちゃにされている事態に辟易とするしかない。元をただせば自分のせいでもあるが、ここまでされては呆れもする。触らぬ神に祟りなし。そのまま静かに着席しようとするも

 

 

「これではやはり、翡翠を兄さんの付き人にした方がいいかもしれないわね」

「そ、そんなことはありません。た、確かに起こすのは翡翠ちゃんの方が上手いかもしれませんけど……それ以外のことならわたしの方が上手くできます! ね、志貴さん?」

「どうかな。少なくとも掃除は翡翠の方が上手いと思うけど」

「っ! そ、それは……うぅ……翡翠ちゃん……」

「……姉さん、落ち着いて。秋葉さまと志貴さまも本気で仰っているわけではありません」

「あら、私は本気よ。あなたが昨日壊した調度品がいくらするか、知らないわけではないでしょう、琥珀?」

 

 

止めとも言える秋葉の言葉によって割烹着の悪魔は敗北する。ここまであの琥珀が手玉に取られるとは、恐るべきは遠野家当主と言ったところ。もっとも付き人云々の話は冗談なのだろうが。珍しいものが見れたと思う反面、安堵していた。これで自分の寝起きの話は有耶無耶にできると。だが

 

 

「では兄さん。これからはきちんと起きてくださる、ということでいいですね」

 

 

甘くはなかった。自分と琥珀。主従揃って、朝から秋葉に言いくるめられることで今日の朝は始まったのだった――――

 

 

 

「ではお先に失礼します、兄さん」

 

 

こちらが朝食を終えると同時に秋葉は飲んでいた紅茶のカップを置きながら立ち上がる。どうやら学校に行く時間らしい。同時に自分にとっては息が詰まる時間から解放される瞬間。見えないとはいえ、ずっと自分が食事する様子を見られているのは健康に宜しくない。加えて相手が目の前の少女であればなおのこと。色々な意味で、自分は遠野秋葉とは正面から向き合えない。

 

 

「……いってらっしゃい。気をつけてな」

「はい。兄さんもせっかく早起きしたのですから学校に遅れないようにしてくださいね」

「……ああ」

「……? 翡翠、出るわ。車の準備を」

「分かりました、秋葉様」

 

 

学校という言葉に一瞬、息を飲むも何とか誤魔化す。秋葉もそんな自分の姿を疑問に思いながらも足早に去っていく。既に準備していたのか、当然のように翡翠もその後に続く。静けさが食堂を支配する。後には溜息を吐く自分と

 

 

「大丈夫ですよ、志貴さん。休学のことは秋葉様にはバレていませんから♪」

 

 

嬉しそうに自分に耳打ちしてくる割烹着の悪魔だけ。既に先程までの落ち込んでいた様子は微塵も残っていない。自らの天敵がいなくなったことで調子を取り戻してしまったらしい。ずっとあのままでよかったというのに。

 

 

「そうか。安心したよ。約束した次の日にバラされてたらどうしようかと思ったところだ」

「そんなことしませんよ。わたし、約束はちゃんと守りますから。ですから志貴さんも約束を守ってくださいね」

「約束?」

「はい。今日、お買い物に付き合っていただく約束です。もしかしてもう忘れてしまっていたんですか?」

「いや、そんなことはないんだが……俺が付いて行っても邪魔になるだけだろ」

 

 

とりあえず休学が遠野秋葉にバレていないことに安堵するのも束の間。琥珀の言葉に首をかしげてしまう。昨日の約束。その意味が計れない。自分と買い物に行くことに何の意味があると言うのか。自分の付き添いをしながら買い物をするのははっきり言えば面倒にしかならないというのに。

 

 

「いえいえ、そんなことはありませんよ。一人よりも二人の方が楽しいですし。翡翠ちゃんはお屋敷から出れないので、志貴さんと一緒に行きたいとずっと思ってたんですよ」

 

 

そんな自分の疑念も何のその。いつかの公園でのやり取りのように淀みなく返されてしまう。抗う術はない。そもそも断る理由もない。休学で時間はあるのだから。唯一の懸念が吸血姫との接触だがそう都合よく出会うはずもない。昼である以上吸血鬼や死者も出てこない。何よりも、約束なのだから守るのは当然。

 

 

「分かった……じゃあ、付き合うよ」

「はい。それじゃあわたしは片付けと準備があるので、お部屋で待ってて下さいな。少ししたらお迎えにいきますね」

 

 

ポンと、両手を合わせ喜びを表現した後、慣れた手つきで自分を食堂から廊下の手すりまで誘導してくれる。後は手すりがあるため部屋までは自力で辿り着ける。勝手知ったるといったところ。

 

 

だがふと、気づく。そういえば、自分は生き延びるために動いていたはず。なのに何故、こんなにも落ち着いているのか。こんなにも、違和感がないのか。

 

 

(色々考えすぎて、感覚がマヒしてきたのかもな……)

 

 

言葉にできない感覚を覚えながらも、ゆっくりと今の自分の部屋へと歩みを進めるのだった――――

 

 

 

 

「ま、こんなもんか……」

 

 

着替えを済まし、靴を履き直し、とりあえず出かける準備を整える。もっとも、準備する程のことでもないのだが、一応琥珀という付き添いがいる以上だらしない恰好はできない。目が見えない自分と一緒にいればその分周囲からの視線の晒されるのだから。最低限、見えないからこそ自分の身なりには気を配るのが自分の習慣だった。

 

持って行くのは小さな鞄だけ。財布に身分証、緊急時の連絡先が示されたメモ。目以外にも自分には眩暈や貧血といった問題がある。外出する際には最悪、その場で倒れてしまう場合もあるので必需品だ。後は自分にとってのもう一つの手足である杖を手にするだけ。しかし、少し考えた後手を伸ばすのを留まった。一人で出かけるなら必須だが、今回は琥珀と一緒だ。なら、杖は必要ない。逆に持っている方が邪魔かもしれない。

 

ふと、気づく。そういえばこの屋敷に来てから杖を使うことがほとんどなくなっていることに。いや、違う。彼女が、琥珀が近くにいることが当たり前になっている。そのことに、違和感を覚えなくなっている自分がいる。そのことに、危機感を覚えている自分がいる。

 

 

そう、まるで――――

 

 

「――――失礼します、志貴様。宜しいでしょうか」

「っ! ひ、翡翠か……?」

「はい。昨日の洗濯ものをお持ちしました。お邪魔してもよろしいでしょうか」

「ああ、どうぞ」

 

 

控えめなノックと、静かな声にも関わらず知らず声が上ずってしまった。とりあえず、別に疾しいことはしていないと自分に言い聞かせながら翡翠を招き入れる。

 

 

「悪いな、秋葉の付き人なのに俺の世話までさせちまって……」

「いえ、お気になさらないでください。志貴様もわたしの主人であることは変わりませんので」

 

 

淀みない流れで、洗濯ものをしまっているである翡翠にお礼を口にするも翡翠は全く気にした風はない。そう、気にしているのは自分の方かもしれない。計ったことではないとはいえ、結果的に彼女を騙していることには変わらないのだから。彼女の主人は遠野志貴。自分はただその恩恵を掠め取っているだけ。

 

 

「……志貴様? どうかされましたか?」

「いや、何でもない……ちょっとぼーっとしてただけだ」

 

 

どうやら思ったよりも考え込んでいたらしい。自分の悪い癖。考え事をすると周りの声が聞こえなくなる。アイマスクをしているせいで、余計にその姿は奇妙に映るらしい。

 

 

「そういえば……ちょっとこれから琥珀さんと出かけてくる。だからいなくなっても心配しないでくれ」

 

 

空気を変える意味でそう翡翠に告げる。以前、自分が一人で屋敷を歩いていたせいで彼女に心配をかけてしまったことがあったから。だがいつまでたっても翡翠から返事がない。

 

 

「翡翠……? どうかしたのか……?」

「……志貴様、少し、お聞きしてもよろしいでしょうか……?」

 

 

意を決したように翡翠は自分に向かって話しかけてくる。どこか言いづらそうな、遠慮気味な雰囲気がある。そういえば彼女の方から話題を振ってくるのは初めてかもしれない。いつもは琥珀と一緒であるため、二人きりになることも珍しいのだが。

 

しかし、何となく察する。彼女が何を聞きたがっているのか。それは

 

 

「志貴様は……いつから、目が悪くなられたのでしょうか?」

 

 

ここにくるまでの、自分のこと。正確には八年前から遠野志貴が、どう変わったのかということ。遠野秋葉や琥珀は断片的ではあるが有間の家での訪問で自分の事情を知っているが、翡翠はまだ知らない。もしかしたら、又聞きで知っているかもしれないが自分で聞いてみたかったのだろう。秋葉の送迎をしたにもかかわらず、こんなに急いでやってきたことも琥珀がいない間に二人きりで話してみたかったからなのかもしれない。

 

 

「目は……事故から目が覚めてからかな。でも目が見えないってわけじゃない。ただ、長い間、目を開けることができないんだ」

「そう、ですか……」

 

 

言葉を選びながら、いつかした説明を繰り返す。嘘は言っていない。ただ、魔眼のことは隠しながら。言ったところでどうにかなる問題ではなく、信じてもらえる類の話でもない。目が悪いと言うのは確かなのだから。ただ本当に視力が悪い方がどんなによかったか。死の線もぼやけて見えた方がどれだけ救われただろう。だが視力は常人よりも優れている程。はっきりと、死が見えてしまう。

 

 

「志貴様……一つ、お願いしても宜しいですか? もし、難しければ構いませんので……」

「お願い……?」

 

 

先程以上に恐縮しているであろう翡翠の態度に疑問を抱きながらも、今自分を支配しているのは全く別の感覚だった。でもそれが何なのか分からない。でも、自分はこれを知っている。これと、似たことを、自分はいつか言われたことがある。あれは、何だったか―――

 

 

「はい。わたしを、その眼で見て頂けませんか……? 一瞬でも構いませんので……」

 

『はい。もう一度、その眼でわたしを見ていただけますか。あの時のように目を逸らさずに』

 

 

翡翠の言葉に、誰かの言葉が重なって聞こえた気がした。

 

 

「――――」

 

 

言葉が出ない。もし、アイマスクをしていなければ間違いなく自分は目を見開いたまま固まっているのだろう。幻聴なのかもしれない。でも、どこかで似た言葉を、お願いをされたことがある。それが誰で、いつだったのかが、思い出せない。分からない。何で―――

 

 

「……すいません、志貴様。御無理を言ってしまい……」

「……いや、大丈夫だ。一瞬なら、開けても問題ない」

 

 

固まっている自分の姿に断られてしまったと思ったのか翡翠は意気消沈している。何とか気を取り直しながら、気を引き締めながらマスクを取る。翡翠の気持ちは察せる。八年前から成長した自分を、遠野志貴に見てほしいという願い。それを断る理由はない。遠野秋葉と琥珀を見ていながら、彼女だけ見ないなど。ただの詭弁だが、これで少しでも、彼女が納得してくれるなら。

 

 

目を開け、翡翠を視界に収める。他の全ては意識から外す。死の線も、点も、できるだけ無視する。

 

 

そこには識っている通りの彼女の姿があった。メイド服という時代錯誤な恰好をしているにも関わらず、全く違和感がない存在。同時にどこか感情を感じさせない無表情な、人形のような顔立ち。知らず、それが少し不安そうに見えるのは気のせいだろうか。

 

 

だがその姿に自分はいつかの彼女の姿を思い浮かべていた。もうはっきりとは思いだせない。八年前のはずなのに、何故かそこだけがノイズがかかっているかのよう。

 

 

生気のない瞳。ただそこにいるだけの洋装をした、人形のような姿。もし彼女があのまま成長すれば、こうなっていたのでは。そう思えるような姿を、翡翠はしていた。

 

 

「……志貴様?」

「悪い、ちょっと久しぶりに目を開けたからびっくりしただけだ……」

 

 

どこか人形のようにこちらを見つめていた翡翠に気づき、そのまま誤魔化すように目を閉じる。気の利いた台詞も思い浮かばない。そもそも、自分は初めて彼女の姿を見たのだから。大きくなった、成長した、綺麗になった。そんな当たり前の言葉も、口にはできない。

 

 

「志貴様は……本当に八年前の事故から前のことは覚えてらっしゃらないですか?」

「……ああ。すまない。だから、昔のことは何も話すことができない。多分、これからも……」

 

 

自分が黙りこんでしまった理由を察したのだろう。翡翠は記憶喪失のことを尋ねてくる。翡翠にとっては目よりもこちらの方が辛いだろう。彼女が閉じこもっていた遠野志貴を救ったことも、共に遊んだことも自分は識っている。でも、だからこそ自分にはそれを口にする資格はない。その時はきっと、永遠にない。

 

 

「……でしたら志貴様。わたしと八年前、事故の後に屋敷でお会いしたことも覚えてらっしゃいませんか?」

 

 

そんな自分の思考を知ってか知らずか、翡翠はよく分からない質問をしてくる。八年前の事故の後に、自分と会ったことを覚えているか、と。

 

 

「……いや、覚えてない、な。琥珀さんとなら会ったことがあるんだけど……」

 

 

記憶を探りながらも、やはり翡翠と会った記憶はない。八年前、一度だけ屋敷帰った時に会ったのは琥珀だけ。遠野秋葉にも、翡翠にもあったことはないはず。だが確証は持てない。その頃の記憶は酷く曖昧だ。もしかしたら、どこかですれ違ったのかもしれない。こちらが気づいていないだけで、翡翠からは見えていたのかもしれない。

 

 

ただ、やはりおかしい。自分は確かに物覚えが良い方ではないが、何故八年前の記憶だけがこんなにも曖昧なのか。まるでそこだけに霧がかかっているかのよう。そう、思い出すことができない程に、そこには何か自分にとって大切な何かが――――

 

 

「―――いえ、構いません。志貴様。我儘を聞いて下さってありがとうございました」

 

 

困惑している自分を見かねたのか、翡翠は目が見えなくても分かる程丁寧にお辞儀をしながら礼を述べてくる。思わず引いてしまうほど。やはり身体のことを抜きしても、自分は翡翠のことは苦手であるらしい。やはり、琥珀と姉妹であることは確からしい。もっとも、琥珀よりはまだ違う意味で接しやすいかもしれないが。

 

 

「こっちこそありがとな。これからも世話になる。一カ月ほどになるけど、宜しくな、翡翠」

 

 

気を取り直しながら、偽りない本心で告げる。どんな理由が、事情があるにせよ彼女にはお世話になるのだから。願わくば、何事もなく一カ月後に同じようにお礼が言えることを。

 

 

「はい。それでは失礼したします、志貴様。お気をつけて」

 

 

外出に配慮した言葉を残しながら翡翠は静かに去っていく。同時にこれからの琥珀との買い物のことを思い出し、溜息を吐くしかないのだった――――

 

 

 

 

 

コツコツと、淀みないリズムで靴音を立てながら翡翠は屋敷の廊下を歩いている。秋葉の付き人である彼女の仕事は学校の送迎が主となる。それが終わった今、後は屋敷の管理へと移行する。今までは屋敷の清掃などを担当していたが、それに加え遠野家の事務方の仕事も担当となっている。これまでは琥珀が行っていた物だが、その一部を翡翠も請け負うことになっている。琥珀が志貴の付き人になるため。慣れない仕事ではあるが、翡翠は全くそれを感じさせることなく行っている。志貴の付き人になれない自分ができる、唯一のこと。そんな中

 

 

「あ、翡翠ちゃん! いいところで会いました。秋葉様のお送りは終わった?」

「はい。姉さんはもう厨房の片づけは終わったの?」

「もちろん! それはそうと、これからわたしは志貴さんとお出かけするのでお屋敷のこと宜しくね」

「志貴さまと……昨日の約束ね。姉さん、あまり志貴さまを困らせるようなことは」

「分かってます。心配いりませんよ翡翠ちゃん」

 

 

クスクスと笑いながら、琥珀は上機嫌なのを隠し切れていない。端から見れば、いつも楽しそうにしている琥珀ではあるがそのことが翡翠には分かる。琥珀が、自らの姉がどこか浮足立っていることを。確かに昨日からそれはあった。だが、今はそれを遥かに超えている。あれから何かあったのか。気にはなるが、翡翠はそれを口にすることはない。琥珀が楽しそうにしている姿は彼女にとっては何よりも望んでいるものなのだから。

 

 

だがすれ違う際に、ふと気づく。それは琥珀の容姿。服装はいつもと変わらない着物姿。だがその顔が、雰囲気が違う。翡翠でなくとも、秋葉でもあっても気づくであろう、女性としての違い。

 

 

化粧。わずかではあるが、姉が化粧をしている。いつもはすることのないものを。それを、綺麗だと感じた。容姿では自分と姉は全く同じ。双子であるが故のこと。しかし、それでも今の琥珀はいつもよりも綺麗に見えた。

 

 

「――――姉さん」

 

 

知らず、呼んでいた。それは単純な指摘。どうして化粧をしているのか。そんなことをしても、彼には見てもらえないのに。彼には、見ることができないのに。どうして――――

 

 

「……? どうしたの、翡翠ちゃん? 何かお仕事で分からないことがあった?」

「ううん。姉さんも気をつけて。志貴さまのことも」

「もう、心配症ですね翡翠ちゃん。お姉さんに任せなさい。お留守番、少しの間お願いね」

 

 

言葉を飲みこみながら、翡翠はそのまま琥珀を送り出す。それは察したから。

 

 

彼に見えないから化粧をしない、のではない。彼に見えないからこそ、だからこそ、姉は無意識にそんな行動を取っている。その理由が、自分には分かる。

 

 

琥珀が演じているのは、八年前の『翡翠』なのだから。

 

 

翡翠はただ願う。

 

 

願わくば、自らの姉が、演じることない『自分』を取り戻してくれることを――――

 

 

 



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第十話 「開眼」

平日の昼下がり。だというのに往来には人が賑わっている。老夫婦に親子連れ。働き盛りの人々はきっと必死に働いているだろうに、それ以外の人々は呑気にこの青空の下で各々に楽しんでいる。

 

青空、というのもただの憶測。瞼の裏からでも何となく晴れていることは分かる。身体に降り注ぐ日の温かさと空気からも、きっと間違いない。絶好の行楽日和。そういったことにあまり興味がない自分でも浮足立ってしまうような状況で、今の自分の心はその通りにはいかなかった。何故なら

 

 

「……? どうかしました、志貴さん?」

 

 

自分の隣には、いつもと変わらず楽しそうにしている琥珀色の瞳をした少女がいるのだから。

 

 

「……いや、ただ何で俺、こんなところにいるんだろうなって思っただけだ」

「はあ、何ででしょうね。もしかしたら、陽気に当てられてしまってるんじゃありません? お屋敷に来られてからはずっとお部屋におられましたから」

「誰のせいでそのお屋敷に戻ることになったと思ってるんだ?」

「え? わたしはただ、志貴さんに戻ってきてほしいなと思っただけですよ?」

 

 

こちらの嫌味も何のその。むしろ楽しげに琥珀はくすくすと笑いながら受け流す。もはやあきらめるしかない。口で彼女を負かすことは自分にはできないだろう。恐らく遠野秋葉もそれは同じ。故に自分はそのままどこへ向かっているのか分からずも手を引かれ続けるしかない。まるでおもちゃのようだ、と思ってしまうのも仕方ない。

 

 

「……琥珀さん、だからそんなに引っ張らないでくれ。あと近い。暑苦しい」

「くすくす……いいじゃないですか。この方がお連れしやすいんですから。もしかして志貴さん、恥ずかしいんですか?」

 

 

こちらの本心を見抜かれてしまったのか、それともわざとしているのか。琥珀はますます自分の腕を抱え込み、歩いて行く。彼女からすれば自分を誘導してくれているだけなのだが、やはり自分としてはそうも言っていられない。元々必要以上に援助の際には接触してくるきらいがあったが、今回は特にそれが顕著だ。外出だからなのか、それともそれ以外に何かあるのか。どちらにせよ、自分にとっては変わらない。

 

 

「……ああ、恥ずかしい。着物姿の女の子に付き添われながら往来を歩いてるんだからな。恥ずかしくもなる」

「あ、酷いです志貴さん! 着物姿のどこがいけないんですか?」

「どこがいいのか教えてくれ。割烹着なんて古臭い物を着てるのは琥珀さんの趣味なんだろう? おかげで周りからは注目されっぱなしじゃないか」

「う……志貴さん、どうしてそんなことが分かるんですか」

「当たり前だ。ただでさえ俺一人でも目立つのに、そこに割烹着の誰かさんが加わればちょっとした見物だし」

 

 

目を開けていない自分には気づかれていないと思っていたのか、琥珀は少しばつが悪そうな態度を見せている。目が見えない自分と、それを誘導する着物姿の琥珀。端から見れば珍しいことこの上ない組み合わせだろう。きっと自分が逆の立場なら思わず振り返ってしまうほど。これが自分が彼女と外出したくなかった理由。目が見えない自分は視線にさらされることはないが、彼女は避けられない。だが

 

 

「いえいえ、構いませんよ。むしろ見せつけてもいいくらいです。志貴さん、周りの人たちからはわたし達はどんな関係に見えると思います?」

「さあ……怪しい割烹着の女の子に連れ去られるアイマスクをした男か?」

「ち、違います! 何でわたしだけ怪しいって言葉がつくんですか!? カップルですカップル。ほら、腕を組んで歩いている男女なんですから当然でしょう?」

「冗談は着物だけにしてくれ。目が見えない彼氏に大荷物を持たせて、半日連れ回す彼女なんて御免だ」

 

 

楽しげに腕に力を込めようとしてくる琥珀に冷めた視線を向けながら、改めて反対側の手に持っている荷物を持ち直す。そこには半日の強制連行という名の買い物の成果がある。特別腕力に自信があるわけではないが、この買い物袋の量には参るしかない。気を抜くとそのまま身体が傾いてしまいかねない。

 

 

「あ、もしかして先程から機嫌が悪いのはそのせいですか。ダメですよ志貴さん。男の子なんですからちゃんと荷物はお持ちいただかないと」

「……確か、誰かさんは俺の付き人だったと思うんだが気のせいか。荷物を持ってもらうことはあったけど、持たされるのは初めてだよ」

「ふふっ、志貴さん甘やかされていたんですね。でも残念でした。わたしは志貴さんをご案内する役目がありますから。翡翠ちゃんなら持ってくれるかもしれませんよ」

「翡翠にそんなことさせるわけないだろ。持たせるのは琥珀さんだけだ」

「ど、どういうことですか? 朝も思いましたけど、志貴さん翡翠ちゃんに優しくないですか。というよりわたしにだけ厳しいです。やっぱり志貴さん、わたしのことが嫌いなんですね……」

 

 

どこか芝居がかったノリで悲しんでいる琥珀を無視してそのまま進みたいところだがあいにく腕は組まれたまま。そもそも杖を持ってきていない自分は一人では動けない。やはり杖を持って来た方が良かったのではと後悔するもどうしようもない。

 

 

「それで……この後はどうするんだ。こうなったらとことん付き合うさ」

 

 

一度大きく深呼吸をした後、隣にいる自らの付き人に告げる。これではどちらが付き人なのか分かったものではない。だが約束は約束。半分以上脅しだったような気もするがもはやどうでもいい。約束は、守らなければ。

 

 

「ありがとうございます、志貴さん。でももうお買い物は済んでしまいましたし……そうですね、ちょっと休憩しましょうか。近くに公園があるんです」

 

 

その言葉を待っていましたとばかりに、花が咲くような声で琥珀は自分を誘う。どうやら、琥珀は最初からその気だったらしい。休憩という言葉から自分を気遣ったものであることも分かる。表に出さないようにしていたつもりだが、疲労しているのに気付かれてしまったようだ。目が見えない自分にとって見知らぬ場所を長時間移動するのは思ったよりも体力を使うこと。加えて隣に琥珀がいること。認めたくはないが、まるで恋人のように寄り添ってくる彼女の動作と熱に知らず精神的も堪えてしまっていたのかもしれない。

 

だが決してそれを口に出すことなく、琥珀に導かれながら自分はいつかと同じように公園へと足を踏み入れるのだった――――

 

 

 

 

「お待たせしました、志貴さん。お茶でよかったんですよね?」

「ああ、ありがとう。助かる」

 

 

ひとまずベンチに腰を落ちつけた後、琥珀が買ってきてくれたお茶に口をつける。その冷たさで身体が潤って行くのを感じるほど自分は疲れていたらしい。そんな中、ふと手に先程まで運んでいた買い物袋が触れる。

 

 

「そういえば……結局これは何なんだ? 食料品みたいだけど」

 

 

もう何度目になるか分からない問いを琥珀に向ける。大きなスーパーの袋が三つ分はあるだろうか。手触りや重さから食料品であることは察しがつくのだが、どうしてこんなに買い込んでいるのか分からない。しかも何度聞いても琥珀は教えてはくれない。まるでプレゼントを隠している親のよう。

 

 

「そうですね……じゃあちょっと早いけどバラしちゃいます。これは今日の夜、歓迎会の料理に使う食材なんです」

 

 

少し迷うような気配を見せながらも一瞬。それともこれまで琥珀も言いたくて仕方なかったのか、我慢できないように明かす。きっと手を合わせながら微笑んでいるのだろうと分かる程、琥珀は上機嫌だった。

 

 

「歓迎会……?」

「はい。志貴さんの歓迎会です。まだきちんとできていませんでしたし。あ、安心してください。秋葉様の許可はもうもらっているので」

 

 

そんな聞いてもいないことを琥珀は得意げに口にする。どうやら琥珀的には悪巧みに当たるものらしい。もっとも彼女の行動で悪巧みでないものがあるのかどうか、はなはだ疑問だが。ただ分かることは

 

 

「そうか……じゃあ俺は自分の歓迎会の材料を自分で運んでたってわけか」

「あはは……そういうことになりますねー。お疲れさまでした、志貴さん」

 

 

自分は自分の歓迎会のために動かされていたということ。呆れてものも言えない。道化以外の何物でもない。しかもその首謀者は全く悪びれていない。むしろ楽しげですらある。

 

本当に根はいらずらっ子らしい。もしそれだけならどんなによかったか。救われるか。自分のためではない、遠野志貴のための歓迎会。分かっていても、やはり堪える。もう八年も前から、分かっていたことなのに。

 

 

「……でも、ならなおさら俺が付いてくることなかったんじゃないか? 余計な手間だったろ」

「そんなことありませんよ。荷物を持っていただきたかったのは本当ですし、それにわたし、あなたとお話したいことがたくさんあったんですから」

 

 

知らず、否定的な言葉を口にしてしまうも琥珀は全く動じることはない。淀みなく、心地いい響きを返してくれる。だが不思議な違和感がある。前にも一度、同じようなやりとりをどこかでしたことがあるような、そんな感覚。だが思い出せない。それがいつだったのか。そもそもそんなことが本当にあったのか――――

 

 

「――――志貴さん、」

 

 

だがそんな思考を絶ち切るように琥珀が自分へと話しかけてくる。しかし、その雰囲気は先程までとは違う。こちらをからかうような、いつもの空気がない。その理由を聞くよりも早く

 

 

「向こうに、金髪の女性が――――」

 

 

自分の体は反射に近い反応でその場から飛びのいていた。

 

 

「――――っ!?」

 

 

声も出ない。否、出すことができない。そんな余分なことをする余裕など今の自分には残されてはいない。ただあるのはいかにこの場を離脱するか。その一点のみ。

 

 

しかし、思考が定まらない。まさか本当に、そんなことが。何故よりもよって今日、ここで。だが考えている暇はない。どうする。逃げ出すか。どっちに。どうやって。このままでは走ることもできない。そもそも彼女かどうかも分からない。アイマスクを取って確認。あり得ない。彼女を視界に入れればその瞬間に、この体は反応してしまうかもしれない。なら逃げ出すしか、だがこのままではあまりにも不自然。彼女に不信を持たれてしまうかもしれない。ならこのままやり過ごすべきか。だがそれは賭けだ。視界に収めなくとも、気配に反応してしまう可能性はゼロではない。そもそもここには琥珀がいる、なら、何とかして彼女だけでもこの場から――――

 

 

恐らくこの身体に目覚めてから、一番頭を回転させ、思考した瞬間。だがそれは

 

 

「…………ふふっ」

 

 

そんな、聞きなれた割烹着の悪魔の笑いによって無意味となった。

 

 

「――――おい」

「いえ、すいません。あまりに志貴さんが反応してくださらないものですからちょっとイタズラしたつもりだったんですけど……」

「――――」

「でもびっくりしました。志貴さん、いきなり立ち上がったと思ったらそのまま動かなくなっちゃうんですから。そんなにその金髪の女性が怖いんですか?」

 

 

本当にびっくりしているのか、それとも自分の反応が面白かったのか。全く悪びれることなく悪魔は笑いを隠し切れていない。対して自分はまるで馬鹿のようにその場に立ち尽くしたまま。もはや言葉はない。怒ってしかるべきところだがもうそれすらもどうでもいい。間違いなく寿命が縮んだ瞬間。走馬灯という貴重な体験をまさかこんな茶番ですることになるなど。

 

 

「……いや、怖いのは君だ。まだアルクェイドの方がマシかもしれない」

「え? 何ですか志貴さん?」

「何でもない。ただもう一度同じことをしたらクビだ。秋葉に頼んで翡翠を付き人にしてもらう。いいな」

「わ、分かりました……もうしませんよ」

 

 

冗談でなく、本気で自分が言ってることを悟ったのか琥珀は苦笑いをしている。少し言いすぎたかもしれないが、いい薬になるだろう。とにもかくにも何事もなく済んだことに安堵するしかない。同時に理解する。やはり、自分は外出するべきではないと。万が一でも、憂いはなくしておかなければ。後悔しても、遅いのだから。

 

 

「ごほんっ、では志貴さん。聞かせていただけますか? さっきのお話です」

「話……? 何のことだ?」

「はあ……本当に聞こえていらっしゃらなかったんですか。有間の家で、事故から八年間どんな生活をされていたかです」

「ああ……そのことか。悪い、考え事してて全く聞いてなかった」

「もう……志貴さん。その癖直した方が良いですよ。マスクをしているせいで、志貴さんが聞いてくださっているかどうか分かりにくいんですから」

 

 

まるで姉のように琥珀は自分を叱ってくる。どうやら自分は知らない間に何かを考え込んでいたらしい。だがその間の意識がない。ここのところ、そんなことが増えてきた気がする。気づけば時間が経っているような感覚。なにはともあれ、琥珀の質問に答えることにする。事故に会う前ではなく、後のことなら答えることはできるのだから。

 

 

「別に……特に変わったことはないな。今と同じように、迷惑かけながら生きてきただけだけど……」

「そうなんですか? でもとても仲が良いように見えましたけど……特に都古ちゃんには懐かれていたじゃないですか」

「それは……まあ、そうか。でも最初からそうじゃなかったんだ。俺が、初めて有間の家に行ったときは、確か……」

 

 

口にしながら、言葉にしながら自分で次第に思い出す。もう当たり前すぎて、慣れ親しんだ有間での生活。家族との関係。でもそれは、初めからそうではなかったのだと。

 

 

――――端的に言って、八年前に有間の家に訪れた自分は異常な子供だった。

 

 

もう今となってはあやふやだが、話によると自分は全く喋らない子供だったらしい。喋らないだけではない。全く表情を変えない。感情を見せることのない存在。

 

きっと、遠野の家から勘当されたからだろうとおばさん達は思っていたようだがそれは違う。遠野の家など自分にとってはどうでもよかった。むしろあそこから出られて感謝している程。だから喋らないのは、笑わないのは、泣かないのは、怒らないのはただそうする理由がなかっただけ。

 

だってそうだ。喋っても意味はない。誰も、自分の言葉を聞いてはくれない。信じてくれない。自分自身ですら信じられない言葉を、誰かが信じてくれるはずもない。

 

喜怒哀楽も同じ。そんな無駄なことをする意味が、分からなかった。きっとその全てを、自分はあの病院に置いてきてしまったのだろう。それとも、目に映る死の世界が、何かを麻痺させたのか。

 

唯一の例外が、屋敷で会った洋装の少女だけ。何故、あの時自分が喋ったのか。感情を見せたのかは分からない。何にせよ自分は有間の家に引き取られてから、半年以上喋らなかったらしい。

 

どこか他人事のようにそれを覚えている自分がいる。人形である自分を見つめている、もう一人の自分。

 

起きて、食べて、また寝る。そんな生活の繰り返し。自分の部屋をもらったものの、そこから出ることはない。自らの殻に閉じこもる日々。唯一自分の意志で行っていたのが目を閉じ続けること。生きている実感が持てない自分でも、目を開けていることは嫌だったらしい。それとも、目を開けていることすら面倒だったのか。

 

それでも有間の両親は自分を親身に心配してくれた。声をかけ、手を差し伸べてくれた。でも分からなかった。どうして自分にそんなことをするのか。頭では分かっていた。識っていた。でも理解できない。そんなことに何の意味があるのか。だって無意味だ。無駄だ。そんな無駄なことをする意味が分からない。自分の子供ではないのに、そんなことをする意味が分からない。

 

単純な話。自分がない自分には、意味がなかった。人形である自分には、理由がなければ生きていけない。ゼンマイがなければ、人形は動けない。人間の振りも、できない。

 

だから、きっとゼンマイが切れてすぐに自分は動かなくなるんだな、と思っていた。

 

 

ただそんな中で、一つだけ、意味が分からないものがあった。

 

 

有間都古。

 

 

有間家の長女であり、遠野志貴のもう一人の妹。八年前はまだ小学生にもなっていない、小さな子供。

 

都古は突然家にやってきた自分を怖がることもなく、近寄って来た。たどたどしい言葉で、まだ自身の足取りすらおぼつかない姿で。そんな少女を、自分はただ物を見るように見つめていた。言葉を交わすことも、触れあうこともない。ただ同じ空間にいるから。それだけの理由。

 

そんな必要はない。自分は識っている。ならわざわざ接する必要もない。自分は全てを理解している。これから出会う人々のことを。知識として識っている。ならそんな無駄なことをすることもない。

 

今となっては、理解できない思考。何故自分がそんなことを考えていたのか。そもそもそれが自分だったのかすらあやふやだが、当時の自分は本気そんなことを考えていたらしい。いや、考えてすらない。計算式のように、ただ単純作業でそうしていただけ。

 

それからも自分は都古と接することはなかった。にもかかわらず、都古は変わらず自分へと話しかけてくる。部屋へとやってくる。自分に無視されている、相手にされていないことを気づいていないのか。それとも、ただ自分の部屋で遊びたいだけなのか。毎日毎日、飽きもせず自分へと接してくる。子供だからなのか、それとも他に理由があったのか。自分には都古の行動の理由が分からなかった。知識で識っているのに、分からない。知らない誰か。思えば、この頃から自分は壊れてしまったのかもしれない。一度壊れた機械を直した時に、何かが変わってしまったように。

 

 

きっかけは何だったのか。それは、確か泣き声だった。自分の部屋の外から聞こえてくる誰かの泣き声。何もしない。それが自分の在り方。だってそれは無駄なこと。余分なこと。なのに、その時の自分は違っていた。

 

 

理由も意味も分からない。なのに勝手に身体が動いていた。ゼンマイを巻かれた人形のように、人間の振りをするように。それでも自分は自らの手で扉を開けた。

 

 

それが自分が妹と初めて接した瞬間。そして今の自分を形作るものだった――――

 

 

 

 

 

「……悪いな。あんまり面白い話もなさそうだ。せいぜい都古に振り回されてたって事ぐらいしか」

 

 

思い返しながらも、とても誰かに言えるような真っ当な話ではないため切り捨てる。こんな話をしても琥珀には理解できないだろう。他でもない自分自身ですら理解できていないんだから。かといって琥珀に聞き返すこともできない。彼女がこの八年間どうしていたかなど聞くまでもない。いや、聞きたくなかったのかもしれない。だが

 

 

「――――あなたは、笑えるようになったんですね」

 

 

琥珀はどこか驚いているような、呆然とした雰囲気でそんな言葉を口にした。

 

 

そんな琥珀の言葉でようやく気づく。どうやら知らず、自分は笑っていたらしい。もしかしたら昔の自分を思い出して情けなくなったのかもしれない。

 

 

「笑えるようにって……俺、結構顔に出やすいと思うんだけど」

「いいえ、あなたは遠野の家に来てから、一度も笑っていません。わたしは一度も、あなたが笑っているのを見たことがありませんでした」

 

 

どこか大げさな琥珀の言葉に頭を捻るしかない。そういえば、確かに自分は遠野の家に行ってから笑っていなかったかもしれない。笑っていても、顔に出ていなかったのかもしれない。唯一思い出せるのが、翡翠をからかった時だがあの時は都古を思い出して笑っていたのだから違うかもしれない。

 

そもそも自分が笑っているかどうかなんて分からない。そんな意味がないこと、意識するまでもないのだから。だからこそ

 

 

「それを言うなら、俺も君が笑ってるのを――――」

 

 

見たことがない、と。出かけた言葉を寸でのところで飲み込む。何故そうしたのか分からない。そもそも自分が目を開けていないからなのか。それとも、彼女の感情が読み取れないからなのか。

 

 

「…………志貴さん?」

「いや、何でもない。そろそろ行こうか。あまり遅くなると学校をサボってるのが秋葉にばれるかもしれないし……」

 

 

これ以上この話題を続けたくない一心で、強引に立ち上がる。もしかしたら、それは嫉妬だったのかもしれない。八年前から、少女達に思ってもらえる遠野志貴への。白いリボンを贈ってもらえた、彼への。

 

 

「それに歓迎会のごちそう、期待してもいいんだろ? これだけ働いたんだからな」

 

 

ただ今は忘れよう。きっとそれが正しい。これまでと変わらないように、自分は自分なりに彼女達と接するしかないのだから。だがきっと少しだが、前に進んでいる。

 

 

何故なら自分は手を差し出していた。これまで、彼女に引かれるだけだったその手を。無意識に。だがはっきりと。まるで、八年前、扉を開けた時のように。

 

 

「――――はい。腕によりをかけて作りますね」

 

 

琥珀もまた、一瞬呆気に取られながらもその手を取る。わずかだが、いつもよりその手を強く握りながら――――

 

 

 

 

「ふぅ……」

 

 

大きく息を吐きながらベッドに横になったまま天井を見上げる。何も見えないのは変わらないが、こうしているのが一番楽だった。今は屋敷につき、自分の部屋で休憩しているところ。琥珀の姿はない。きっと厨房で料理しているのだろう。あの量から考えるにきっと食べきれない料理ができるに違いない。

 

 

(自分の部屋……か。少しは、慣れてきたってことか……)

 

 

全く知らない部屋だったにも関わらず、わずかだが愛着ができたのか。それとも慣れてきたのか。今はもう最初ほど違和感を覚えない。自分の順能力の高さを誇るべきか、自分の鈍感さに呆れるべきか。とにもかくにもここでの生活にも慣れてきた。後は、ただ嵐が過ぎ去ってくれるのを願うだけ。

 

 

そう、あの赤いセカイを、死をどう乗り越えるか――――

 

 

「――――え?」

 

 

知らず、そんな声が出た。自分の思考に、自分が驚いている。そもそも、今自分は何を考えていたのか。それを意識するよりも早く

 

 

頭が割れるような、頭痛が襲いかかってきた――――

 

 

「――――っ!?」

 

 

瞬間、声にならない叫びを上げる。もはや反射だった。何も考える間もなく、体が動く、跳ね起きる。秒にも満たない間に、無数の思考が巡って行く。その全てを振り切りながら、ただ手で口を押さ耐える。しかし、無駄なことだった。

 

 

「うっ……!! うあ……あぁ……!!」

 

 

蹲り、ただ息を吐くように全てを吐きだす。胃にある全てを吐きだしながらもまだ足りないと。止まることのない嘔吐感。内蔵すらも必要ない、と言わんばかりにただ全てを吐き出す。呼吸もできない。する必要もない。今はただ、吐き出したかった。

 

 

目からは涙が、鼻からは鼻水が、口からは唾液が。その全てで顔はぐちゃぐちゃだった。まるでイヌのよう。できるのはただえづきながら、この頭痛と嘔吐感がなくなる時を待つことだけ。

 

 

「ハアッ……!! ハアッ……!!」

 

 

肩で息をし、口と胸を手で押さえながらようやく呼吸する。一体どれだけの時間、そうしていたのか分からない。ただ分かるのは、自分が生きているということだけ。だがそれが何よりも嬉しかった。苦しみよりも、ただそのことが愛おしい。だって自分はさっき――――

 

 

「―――っ!!」

 

 

呼吸することも忘れ、手を伸ばす。そこには自分の両目がある。ただ違うのは、そこにあり得ない熱があったこと。

 

 

「がっ……ああ……!!」

 

 

うめき声を上げながら、ただ目を覆う。アイマスクの上からでも目がつぶれてしまうのではないかと程の力で目を覆う。ただ熱かった。まるで、目が焼けているかのように熱い。このままでは、眼球が溶けてしまうのではないかと思う程に、目が痛い。先程の頭痛と嘔吐感すら可愛く思えるほどに。ただ痛みすら、どうでもよくなる。もしかしたら気のせいだったのかもしれない。気が触れてしまったのかもしれない。何故なら

 

 

目を閉じているはずなのに、瞼の裏から死の線が見えた気がしたから――――

 

 

「ひっ……!?」

 

 

悲鳴とともにマスクを投げ捨て、目を開く。もはやそこに思考はなかった。さっき見えたものを否定したくて、目を開く。そこには変わらない、八年前と同じ死の世界がある。そうであったなら、どんなによかったか。

 

 

「何だ……これ……?」

 

 

それは線と点だった。見慣れた、そして逃げ続けてきた死の証。だがその数が、おかしい。その太さがおかしい。まるで世界が終焉に向かっているかのように、その数が増えている。その深さが増している。

 

天井に、壁に、床に線ではない物が、見える。点が、ぼやけているが点が見える。あり得ない。点が見えるのは人間だけ。生きている者だけ。物の死を、自分は理解できないはず。なのに、どうして点が見える。魔眼が強まっているのか。だがあり得ない。

 

自分はずっと目を閉じていた。魔眼が強くなる道理がない。そもそも昨日、翡翠を見た時にはこんなことはなかった。たった一日で、こんなことになるなんて有るわけがない。なのに――――

 

 

「志貴さん、お待たせしました。歓迎会の準備ができましたよ」

 

 

そんな中、いつものように心地いい、気に障る声と共に琥珀がやってくる。その姿を、自分は視界に収めてしまった。有間の家で見た時よりも多くの、深い死が彼女の体に纏わりついている光景。しかし、それだけではない。頭痛と共に、あり得ない物が頭に浮かぶ。

 

 

 

 

『――――志貴さん、わたし、あの時と変わってますか?』

 

 

微笑みながら少女は問う。八年前の、洋装した少女の姿が脳裏に浮かぶ。生気のない、虚ろな目をした儚げな姿。だが今は違う。目には光が、笑みには見る者を癒すような温かさがある。もし八年越しの再会なら、双子の別人だと思ってしまうほどに彼女は変わっている。だが

 

 

『――――変わってない。君は、八年前と全く変わってない』

 

 

全く間をおかず、思慮することなく。ただ単純に、心からの本音を自分は吐露した。

それはきっと彼女だけでなく、自分にも向けた言葉。

 

 

 

 

『嬉しいです……実は、ちょっと翡翠ちゃんが、羨ましかったんです。だから……』

 

彼女はその眼に涙を流しながら笑う。いつもと同じように、それでも救われたと。涙の色は透明ではなく、深紅。人形ではない、人間である証。そんな当たり前のことに気づきながら、それでも彼女は変わらない。いや、違う。変わらないのは――――

 

 

 

 

「……っ!? 志貴さん、どうかされたんですか!?」

 

 

目を見開き、驚愕しながら琥珀は悲鳴のような声を上げる。そこでようやく自分の姿に気づく。衣服は乱れ、ベッドには嘔吐物。加えて顔は涙や唾液でぐちゃぐちゃ。とても普通ではない。加えて外出によって自分が疲労したことを知っているからこそすぐさま自分の身を案じ、駆け寄ってくる。

 

 

どこか他人事のようにそんな琥珀の姿を視界に収める。先程思い出した記憶が何なのか。そして、自分はどこかで同じような光景を目にしている。ベッドに嘔吐した自分と自分に近づいてくる誰か。変わらないのは、その死の線と、点、だ、け――――

 

 

「――――触るなっ!!」

「きゃっ!?」

 

 

電光石火のような速さと激しさ。間一髪のところで目を閉じ、そのまま力任せに自分に触れようとした琥珀を突き飛ばす。そこに容赦も遠慮もない。ただ無造作に男性の力を振るわれた琥珀は悲鳴とともに床に転んでしまう。しかし今の自分にあるのは安堵感だけだった。

 

 

(あ、危なかった……!! もし、あのまま気づくのが遅かったら……!!)

 

 

背筋が凍る。息が止まる。今の自分は、目を開けている。そのことに気づくのが一瞬遅れた。もしあのまま琥珀が自分に触れてくればどうなるか。いや、自分が琥珀に触れてしまえばどうなるか。死の線と点。それに触れてしまえば、人間はひとたまりもない。例外なく線によって体が崩れ、点によって体は死滅する。それが自分が目を閉じているもう一つの理由。自分が死ぬことでなく、触れた相手を壊してしまうこと。目を閉じなければ自分は他人と触れあうことすらできない。長く目を閉じていたせいで、そんな当たり前のことを忘れかけてしまっていた。

 

 

いや、違う。自分は思い出しただけ。あの時も、同じように都古を――――

 

 

「……っ! こ、琥珀さん? だ、大丈夫か……!?」

 

 

一瞬の思考停止の後、目をしっかりと閉じながら琥珀へと手を伸ばす。だがその手が届いているのかすら分からない。あるのは罪悪感だけ。自分の身を案じた琥珀を力づくで払ってしまったのだから。

 

 

「いいえ、大丈夫ですよ志貴さん。志貴さんこそお身体は大丈夫ですか?」

 

 

だが琥珀は全く動じることなく、いつもと同じように答えを返してくる。それが、異常だった。つい先ほど、理不尽な暴力を振るわれたと言うのにそこには全く怒りも悲しみもない。普段通りの彼女がいるだけ。自分を案じてくれる言葉は真実なのだろう。だがそれ以上に彼女自身の反応がただ、怖かった。

 

 

ただ思った。まるで、人形のようだ、と――――

 

 

そのままただ、琥珀と見つめ合う。分からない。一体何が起こっているのか。自分は気が触れてしまったのだろうか。自分が、何なのか、分からない。そんな中

 

 

「――――志貴さん、その眼、は」

 

 

琥珀は何かに魅入られるように言葉を漏らす。だが一体何を言っているのか。確かに自分が目を開けていることは珍しい。でも、そんなに驚く理由がどこに――――

 

 

そのまま、吸い込まれるように部屋にある鏡へと視線を向ける。目を開けようとはしない自分には無用であった調度品。だがそれが、今の自分の姿をはっきりと映し出す。

 

 

何年振りか分からない自分の姿。自分の死の線と点。だが、何よりも違うこと。それは

 

 

 

自らの両眼が、蒼く光っていることだけ。

 

 

 

 

ここに日常は終わりを告げる。代わりに新たな刻が刻まれる。

 

 

人間の振りをしている人形と、人形の振りをしている人間。

 

 

そのどちらが正しいのか、間違っているのか。

 

 

その答えが出る時が今、ようやく訪れようとしていた――――

 

 

 



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第十一話 「清算」

繰り返す。ただ繰り返す。変わることなく、同じ結末を。死と言う絶対の因果。世界の滅亡。霊長の絶滅。星の終焉。

 

これまで、幾多の人々が挑み、そして絶望していった変わることない結末。星の死は避けられない。自分達はただ、自滅へと生き急いでいる。生きようとしながら死へと向かっている。矛盾した存在。だが自分はまだ知らなかった。

 

本当に恐ろしいのは死ではない。もっとも恐ろしいこと。それは、『死ぬことができない』ことなのだと――――

 

 

 

 

「―――っ!」

 

 

飛び起きたのは反射だった。自分が覚醒したのだと気づいたのはベッドで身体を起こした後だった。ただ自分が今どこにいるのか確かめる。手の感触、空気、光の具合。視界以外から得られる全てを動員し必死にそれを探る。

 

 

(ここは……遠野の、家か……?)

 

 

当たり前の結論を得ながらも、何故か安堵する自分がいる。一体何を怖がっていると言うのか。今の自分が遠野の家以外で目覚めるはずがないのに。そのはずなのに、違和感を覚えるのは何なのか。

 

ふと気づく。それは騒音だった。風が吹いているような、そんな音。それが自分のすぐ傍から聞こえてくる。もしかしたら窓が開いていたのだろうか。なら、閉めないと。いくら朝だといってもそのままでは風邪を引いてしまうかもしれない。

 

 

「……あれ?」

 

 

そこでようやく気づく。自分の体が、動かない。身体が、鉛のように重い。感覚がマヒしているかのよう。まるで身体がゼリーになってしまったよう。海月にでもなってしまったのだろうか。まるで、現実感が、ない。

 

 

「どうなってるん、だ……これ……?」

 

 

そう口に出すのすら精一杯だった。言葉を発しようとするたびに息があがる。肩で息をしている。ヒューヒューと、隙間風が吹くようなみっともない音が聞こえる。何のことはない。騒音は自分が発していたのだろう。そこでようやく自分の身体が汗にまみれていることに気づく。まるで病人そのもの。そう言えば、昨日、確か自分は――――

 

 

「――――おはようございます、志貴さん。お目覚めになられたんですね」

 

 

そんな思考を断ち切るように、聞き慣れた少女の声が響き渡る。いつもと変わらない、心地いい、人形のような声。

 

 

「……琥珀、さん?」

「はい。お身体の調子はどうですか? ちょっとお熱を計らせて下さいね」

 

 

自分が朦朧としているのに気づいているのか、それとも気づかないふりをしているのか。琥珀はテキパキと自分の体の状態を確かめて行く。本当なら寝起きに加えて、彼女に身体を触られるのは恥ずかしさで断りたいのだが有無を言わせない勢いに抵抗できない。そもそも今の自分は身体を満足に動かすことができない。腕を上げることも、足を上げることも。体力もほとんどない。起きた瞬間身体を起こしただけでこの有様。一体何でこんなことになっているのか。

 

 

「うーん、やっぱり熱がありますね。それに疲れもあるみたいですし、今日は安静にしててくださいな」

 

 

自分の容態を確認したのか、琥珀はまるで子供をあやしつけるような慈悲を見せながらしゃべりかけてくる。病人であれば、癒されるような振る舞い。だが今の自分にとっては不信感の方が勝っていた。そもそも彼女は――――

 

 

「……琥珀さん、どうして俺、こんなことになってるんだ……?」

「……? 志貴さん、覚えてらっしゃらないんですか? 昨日、お買い物から戻られてから体調を崩されたんですよ」

「買い物……?」

 

 

琥珀の不思議そうな言葉によって、ようやく思い出す。思い出してしまった。

 

 

頭が割れるような頭痛と吐き気。そして

 

 

自らの蒼い両目と、それに映し出される深い死の世界を――――

 

 

 

「っ!!」

 

 

咄嗟にマスクを外し、目を見開く。動かない身体を酷使し、反動も度外視して。それによってさらに息があがり、眩暈が起こるもどうでもよかった。ただ、確かめたかっただけ。結果は、最悪に近い物だった。

 

 

(夢じゃ……なかったのか……)

 

 

死の線と点に満ちた、深い死の世界。以前よりもはるかにはっきりと見える世界の裏側。間違いなく直死の魔眼が強まっている。いや、これはそんな生易しい物ではない。遠野志貴の魔眼は意識を集中して死を見ることによって蒼く光る浄眼でもある。だが、今自分はただ意識することなく眼を開けている。にもかかわらず眼が蒼くなっている。明らかに普通ではない。どうしてたった一日でこんなことに。変わったことなど、何一つない、のに――――

 

 

いや、違う。今まさに起こっている。頭痛と吐き気。加えて身体を動かすことすらままならない原因不明の体調不良。問題はこれが魔眼が強くなってしまったせいなのか。それとも、この体調不良のせいで魔眼が強くなってしまっているのか。だがどちらにせよ自分に出来ることはたった一つ。今までと変わらない。魔眼を晒すことなく閉じていることだけ。

 

 

「志貴さん、目を開けられて大丈夫なんですか? 昨日も眼が……」

「いや、大丈夫だ。ちょっと確かめたかっただけだから……それよりも悪かったな、せっかく歓迎会を準備してくれたのに台無しにしちまった……」

 

 

再び眼を閉じながら、話題を変える意味でそう謝罪する。ようやく思い出して来た。昨日自分は琥珀と買い物に行っていた。加えて自分の、いや遠野志貴の歓迎会の準備を彼女がしていたことを。わざとではないとはいえ、それを無駄にしてしまったのは申し訳なかった。

 

 

「いえ、お気になさらないでください。志貴さんを連れ回してしまったのはわたしですから。そのせいで無理をさせてしまったようです……ごめんなさい」

 

 

申し訳なさそうに琥珀はそう謝罪してくる。どうやら自分が買い物に連れて行ったせいでこんなことになってしまったと思っているらしい。

 

 

「琥珀さんが気に病むことじゃない。貧血で倒れるなんて、珍しくもないし……調子が戻ったら、もう一度歓迎会をしてくれ。荷物持ちでもなんでもするさ」

 

 

何とか今の自分の辛さを隠しながら、いつものように告げる。息が荒くなっているのは誤魔化せていないかもしれないが、仕方ない。

 

 

「――――はい。約束です。じゃあ今は志貴さんの身体が早く良くなるように看病させてもらいますね」

 

 

こちらの意図が伝わったのか琥珀はいつもの明るさを取り戻したように笑いながら応えてくれる。本当に彼女が笑っているのかどうかは分からないが、それでもこっちの方が自分は話しやすい。ただ問題はどうやら必要以上に彼女が違う意味で張りきってしまっているらしいこと。

 

 

「……看、病?」

「はい。前にも言いましたけど、わたし薬剤師の資格も持ってるんです。それにわたしは志貴さんの付き人ですから。任せてください」

 

 

知らず、声が震えているこちらの反応を楽しんでいるのか割烹着の悪魔は楽しげに宣告する。看病と言う名の違う何かが行われようとしているのではないか。知らず、冷や汗が背中に伝うも今の自分には抗う術はない。

 

 

「ではまず朝ご飯からですね。おかゆを作って来たんです」

 

 

お待たせしましたとばかりに琥珀はいつのまに持ってきていたのかおかゆを取り出してくる。その匂いだけでそうなのだと分かる程。昨日の夜から何も口にしていなかったからなのか、知らず唾を飲み込んでしまう。病人である自分にはこの上ない振る舞い。ただ問題は

 

 

「はい、志貴さん。ではお口を開けてくださいね」

 

 

あーん、などとこちらの期待を裏切らない彼女の優しさだけ。もしかしたら、楽しんでいるだけなのかもしれない。しかし、今の自分には他に選択肢がない。目を開けられず、手も満足に動かせない以上、彼女に手伝ってもらうしかない。

 

 

仕方なく、それでもこれ以上なく顔が紅潮しているであろうことを意識しながら自分は口を開け――――

 

 

 

 

「――――え?」

 

 

思わず、そんな声を漏らしてしまった。今、自分は口を開けようとしていたはず。なのに。

 

 

「…………琥珀さん?」

 

 

目の前にいた筈の琥珀の姿がない。気配が、感じられない。もしかして自分を驚かせるために隠れてしまったのだろうか。

 

でもおかしい。あんなに近くにいたのに、自分に気づかれずに隠れられるはずがない。そういえば先程まで部屋に満ちていたおかゆの匂いもない。まるでそんなことがなかったかのように、何も残っていない。

 

分からない。何が分からないのか分からない。そんな思考の矛盾。とにもかくにもまだ自分の体は変わらず。どうしたものかと考えるのも束の間

 

 

「失礼します、志貴さん。お邪魔しますよ」

 

 

ノックと共に先程と変わらないように彼女が部屋にやってくる。何も変わらない、いつもどおりの彼女。だがそれが何よりも不自然だった。

 

 

「琥珀さん……一体どこに行ってたんだ。あんな恥ずかしいことさせて隠れるなんて、人が悪いにも程があるぞ」

 

 

ぶっきらぼうに愚痴るが当然だ。あんな羞恥を晒したにも関わらず、食事をさせてくれなかったのだから。しかもそのまま何の断りもなくいきなりいなくなるなど。いくら自分でも悪態の一つもつきたくなるというもの。だが

 

 

「……? なんのことですか、志貴さん? わたし、隠れてなんかいませんよ?」

 

 

琥珀はまるで自分が何を言っているか分からないかのようにポカンとした様子を見せていいるだけだった。

 

 

「何言ってるんだ? 他人にあーんなんてさせておいて、結局朝ご飯をお預けなんて酷過ぎるだろ」

「朝ご飯ですか? 今お持ちしたのはお昼ご飯なんですけど……」

「お昼……ご飯……?」

「ええ、そうですよ。もしかして熱で寝ぼけてらっしゃいます? 朝ご飯ならきちんと全部召しあがられましたよ」

 

 

くすくすと笑いながら琥珀は淀みなく昼食の準備を始める。その間に朝の自分の醜態を逐一話題に上げながら。ぼうっとしながら自分はそんな琥珀の話を聞くしかない。どうやら自分は本当に朝ご飯を食べたようだ。

 

なのに、実感がない。時間の感覚がない。まるでフィルムが切れたように、朝から今までの記憶が、ない。意識をなくしてしまっていたように。知らぬ間に寝ていたのだろうか。そもそも、今自分は起きているのだろうか。何も、かもが、あやふやで――――

 

 

「それでは志貴さん、おまちかねのお食事ですよ。朝は味が薄いと仰っていたので濃い味付けにしてみました」

 

 

どこか得意げにしながら、琥珀は自分に寄り添い、スプーンに乗ったおかゆを差し出してくる。気恥かしさと同時に、言葉にできない違和感を覚えながらもそれを口にした瞬間

 

 

口一杯に、苦い、血の味が広がった――――

 

 

「うっ……!?」

 

 

悶絶しながら、毒を口にしてしまったかのように口にある物を吐きだす。それだけではない。身体に残っている、胃の中にあるものも同様。まるで身体が受け付けないように異物を吐き出し続ける。

 

 

「志貴さんっ!? しっかりしてください! 志貴さんっ!?」

 

 

誰かが自分を呼んでいる。だがそんなことはどうでもよかった。今はただ、口に広がる血をどうにかしたかった。鉄の味。間違うことない死の味。

 

 

そう、今まで何十、何百と繰り返して来た死の証を――――

 

 

 

「あ、ああ…………っ!!」

 

 

頭痛が、起こる。頭が割れる。身体が、割れる。もしかしたら、もう身体なんてないのかもしれない。

 

視界が点滅する、白と赤の螺旋。光と闇。視界が歪む。頭が、イタイ。ただ、イタイ。痛みを通り越して、痛みを感じなくなる程の。意識を失う程の痛み。なのに、痛みによって意識を取り戻す無限地獄。

 

そんな中、夢を見る。思い、出す。

 

そこには自分がいた。数えきれないほどの自分。自分ではない自分。同じはずなのに、少しずつ違っている自分。万華鏡のように、映し出された映像が、見える。

 

それは記憶であり、記録だった。自分がここに至るまでに辿ってきた道程。それが、今まで自分が見てきた夢の正体だと気づくのに、時間はかからなかった。

 

 

「――――――――あ」

 

 

無数に連なる自分。その記憶が、感情が、感覚が。押しよせてくる。暴風のような暴力。触れれば粉微塵にされるような力。それに自分は、一人で晒されている。

 

立っていることができない。ただ流される。その全てが、自分の内に飲みこまれていく。犯されていく。

 

 

『遠野君、あなたは何者ですか』 『あなたが……兄さんを』 『志貴さん、この箱、お父様の遺産みたいですよ』 『あなたは……誰ですか?』 『お兄ちゃんは、あたしのお兄ちゃんだもん』 『――――邪魔よ』 

 

 

 

聞いたことのある、聞いたことのない声。意味が理解できない、言葉の羅列。これまでの螺旋の中で経験した、体験したものが、書き込まれていく。

 

 

「ハアッ……ハアッ……!!」

 

 

目を覚ます。胸を抑える。頭を押さえる。涙が流れる。嗚咽が漏れる。身体が震える。なのに、なのに終わらない。

 

 

「――志貴さん! ――――貴さん!」

 

 

誰かの声が聞こえる。でも聞こえない。そんな物は聞こえない。分からない。今自分がどこにいるのか。

 

寝ているのか、起きているのか。昼なのか、夜なのか。上なのか、下なのか。生きているのか、死んでいるのか。

 

 

「―――――――あ、あ」

 

 

みっともなく、声を上げる。あるのは痛みだけ。自分が、自分に削られていく痛み。一人分しか入れないのに、そこに数えきれない自分が入りこんでくる。膨らまし過ぎた風船のように、後は破裂するしかない。でも、そう、ならない。

 

見える。視える。みっともなく這いつくばっている自分が。殻を被った自分の姿が。出口を探して迷路をさまよっている迷い人。そもそも出口があるのかも分からないのに。それに気づかないように。気づかないふりをしながら。

 

死んでいく。自分が死んでいく。呆気なく、無残に。糸が切れた人形のように。十八に分割されながら。熱を奪われながら。命を切られながら。精気を吸われながら。獣に食われながら。

 

だが終わらない。どんな死に方をしても、生き方をしても。終わりが、訪れない。

 

 

痛い。痛、い。いたい。いた、い。イタい。イタイ。イタイイタイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ―――――――!!

 

 

どうして。どうしてこんなにイタイのか。どうしてこんなにイタイのに終わらないのか。死にたくない。死にたくない。生きたい。死にたくない。生きたい。

 

ただ生きたかった。死にたくなかった。そのために必死に足掻いてきた。必死に逃げ続けた。何もかも振り切って。目を閉じ、耳と塞ぎ、口をつぐんだまま。

 

なのに終わらない。映像は途切れない。まるでビデオテープのようだ。同じ長さしか録画できないのに、終わりが来れば巻き戻してまたダビングする。上書きする。自分に自分を上書きする。自分で自分を殺していく。そんなことをすればテープは劣化する。摩耗していく。途切れて行く。

 

 

最初の自分がどれで、今の自分がどれか、ワカラナイ。

 

 

そもそも、ジブンなんて物が、あったのかすら、ワカラナイ。

 

 

 

「―――――――――あ、ああ」

 

 

だから、考えるのを止めた。考えることが、できなくなった。

 

 

いつからだろう。何も感じなくなったのは。

 

 

いつからだろう。自分の周りの全てが、人形に見えてきたのは。

 

 

何度も、何度も聞いていく内に何も感じなくなる。――が何を言っても。――が何をしても。もう知っている。何も、感じない。自分が死んでも、誰かが死んでも。何も感じなくなっていく自分が、いる。

 

 

それが嫌だった。怖かった。自分が死ぬのは怖い。でも、心が死ぬのが怖かった。何も感じなくなる自分が怖かった。人形になる自分が怖かった。

 

 

反転する。生きたいと思っていた心が、いつの間にか、逆になる。どう生きるか、ではなく、どう死ぬかを考えるようになった。

 

 

そう、死にたかった。永遠なんていらない。一度きりだから耐えられる。死は、一度だからこそ価値がある。命は、一つだから価値がある。だからこんなものはいらない。こんなもの、望んではいなかった。だって、こんなにイタかったら、もう――――

 

 

 

 

『……イタイ、の?』

 

 

もう名前すら思い出せない、誰かの言葉。忘れてはいけない、大切な名前だったはずなのに。

 

 

『……わたしも、イタイの』

 

 

彼女の痛み。それと比べることはできない。でも、やっとその言葉の意味が、理解できた気がした。

 

 

『だから、自分が人形だと思うの。そうすれば、イタくなくなるから』

 

 

今なら、あの時の言葉の意味が、分かる。そうだ。そうしなければ、耐えられない。人間のままでは、耐えられない。生き延びられない。なら、人形になるしかない。それでも

 

 

「――――違うっ!」

 

 

否定した。それだけは認められない。自分は、人形じゃない。人間で、イタイ。

 

 

手に力を込める。先の指を向ける。自らの胸にある黒い点に。これまで繰り返しながらも一度も試すことのなかった死。生きるために足掻いてきた自分を否定する行為。八年前、誰かのおかげで助かった命。それでも

 

 

「俺は、人形じゃない――――!!」

 

 

このまま人形になるくらいなら。人間として死にたい。相反する願い。生と死。自分が持つ、たった一つの願いは

 

 

 

――――決して、叶えられることはなかった。

 

 

 

「―――――え?」

 

 

――――黒い海を漂っている。それが一番近い表現だろう。

 

 

だが分からない。どうして自分がこんなところにいるのか。いつもの死の世界とは違う。あの恐怖が、孤独がここにはない。数えきれないほど潜ってきたあの感覚を間違えるはずはない。例え摩耗し、自分が誰であるか分からなくなっても、きっとそれだけは忘れない。忘れることは許されない。だからなおのこと不可解だった。

 

自分のカタチが分からない。どこからが自分で、どこからが世界なのか。境界線が消え去ってしまったかのよう。ないものを動かすことはできない。無から有を生み出すことはできない。そんなことができるのは、きっとカミサマだけだろう。

 

だがそんな宙に浮いた疑問も氷解する。否、全てを理解させられる。頭ではなく体で。思考ではなく、反射で。

 

ここは全ての始まりであり、終わり。全てがあり、だからこそ何もない空の境界。

 

無から有を生み出すのではない。ここには初めから全てがある。故に何も生まれることはない。ただそこにあるだけの、無価値なもの。

 

そんなものに、数えきれないほどの魔術師達が挑み、求め、挫折していった。自分では至れぬと絶望すればいいものを、ならば次の世代ならと淡い期待を抱きながら。次がダメならその次。年月を積み重ねれば、いつかは頂きに辿り着けるのだと。もはや呪いにも似た呪縛。目的と手段を履き違えている愚かな者達。彼らは気づかない。少し考えれば分かる、単純な真理。

 

どんなに学ぼうと、血を重ねようと意味はない。ここに至れるのは、初めからそう決まっている者達だけなのだと。

 

至れることができたとしても意味はない。ここに至ればその瞬間、自分は消え去る。無限に、無尽蔵に広がる記録と記憶の檻。ちっぽけな人格など圧殺され、何も残りはしない。ここに至り、戻って行ったのはたった五人。きっと彼らは人間ではない。だからこそ魔法使い、という言葉が相応しい。

 

なら、今ここにいる自分は何なのか。六人目の魔法使いなのか。いや、あり得ない。確信。六人目はあり得ない。そもそも自分は彼らとは根本が違う。至る必要など最初からない。何故なら―――――

 

 

自分は、『 』そのものなのだから。

 

 

「――――――」

 

 

全てを理解する。思い出す。何故自分が生まれたのか。何故自分は死ぬことができないのか。何故自分は遠野志貴の殻を被っているのか。

 

始まりは些細なこと。本来生きるはずの遠野志貴が、死んでしまったこと。

 

だが世界はそれを良しとはしなかった。修正しようとした。しなければ、ならなかった。

 

遠野志貴が為すべきこと。為すはずだったことをなかったことにはできなかった。

 

蛇の死。遠野志貴でなければ為し得ない絶対死。

 

でなければ、世界は滅びる。<ruby><rb>原初の一</rb><rp>《</rp><rt>アルテミット・ワン</rt><rp>》</rp></ruby>と同義となった蛇には誰も敵わない。

 

その全てを識ってしまう。

 

抑止力。ガイアとアラヤ。根源の渦。霊長の存続。意識されないはずの守護者。魂の知性。形を得てしまった自分。偶然と必然。余分と無駄。永遠。転生。

 

 

「――――は」

 

 

嗤ってしまう。だってそうだ。あんなに求めていた答えが、自分が見つかった。こんなにもあっさりと。呆気なく。だから、嗤うしかない。

 

 

「―――――は、ハハ」

 

 

あんなにも生きたいと思っていたのに、もう思い出せない。分かるのは、自分がシヌコトガデキナイということだけ。死の点を突いてもなお、自分は廻り続ける。

 

 

『蛇を殺す』という、どうでもいい目的を果たすまでは。

 

 

自分はただそれだけのための人形。付属品。装置。なんのことはない。抗っていたのは自分だけ。振りをするまでもない。ただ――――

 

 

自分は最初から、人形で、人間ですらなかったという笑い話。

 

 

「ハハハ、ハハハハハハ―――――!!」

 

 

嗤う。そもそも何で嗤っているのか。そんな余分、自分にはなかったはずなのに。何の意志もない『 』だったはずなのに、殻を被ったせいで余分を手に入れてしまった。そのせいで、こんな目に会っている。

 

 

壊れている。自分は壊れてしまっている。いつから壊れてしまったのか。

 

 

そうだ、きっとあの時だ。

 

 

彼女と出会った時。あの時、自分はおかしくなった。あれがなければ、自分はただ―――でいられたのに。なのに。

 

 

そしてもう一つ。あの出会いがなければ――――

 

 

 

「―――――」

 

 

瞬間、意識が戻る。自分が、世界に戻ってくる。変わらず頭痛は続いている。だがその痛みが自分が生きている証。生きている罰。周りには誰もいない。変わらない、遠野の家だけ。もう見るまでもなく、身体に染みついている感覚。

 

他人事のように思い出す。あれから何日たったのか。それとも何時間しか経っていないのか。彼女の姿はない。服が変わっている。着替えさせてくれたのか。それとも自分で着替えたのか。どちらでも構わない。そのままようやく少しは動くようになった手でマスクを取り、目を見開く。

 

直死の魔眼。死を潜るたびに力を増す呪い。根源と繋がる、自分が螺旋を潜ってきた証明。だがどうやらまだ全てを思い出したわけではないらしい。まだ空白がある。それを埋めるべく、頭痛と共に自分が削られていく。

 

だがどうでもいい。死ぬことはできない。だがこれは輪廻ではない。円ではなく螺旋。終わりがある。生きながら死に続ける終末。後はその時を待ち続けるだけ。

 

 

「ハアッ……ハアッ……! 志貴さん……大変です!」

 

 

白痴のように全く反応せず自分はただ目を開けたまま天井を見上げている。声は聞こえているのだろうが、認識できない。どうやら彼女が自分の部屋にやって来たらしい。そういえば、今自分はどういう状況だったのか。遠野の家にいることは分かるが、それ以外が分からない。全ての自分が混ざり合って、判別がつかない。

 

 

ただカーテンが閉まっていること、日が差していないことから夜らしい。今、何日目だろうか。次に死ぬのはいつだろうか。終わるのは、いつだろうか。機械のように、人形のようにただ待ち続ける。しかし

 

 

「都古ちゃんが……夜になるのにまだご自宅に戻っていないそうなんです! 志貴さん、何か知りませんか!?」

 

 

瞬間、何も映していないはずの瞳が見開かれる。同時に全てを理解する。思い出す。この展開を。結末を。

 

 

自分を人間たらしめていたもう一つのもの。それを清算する瞬間がやってきたのだと。

 

 

 

――――サァ、約束ノ刻限ダ――――

 

 

そんな、誰かの声が聞こえた気がした――――

 

 

 



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第十二話 「琥珀」

―――いつからだろう。目を開けなくなったのは。

 

 

――――いつからだろう。耳を塞いだのは。

 

 

――――いつからだろう。言葉を発さなくなったのは。

 

 

 

 

ただイタかった。体が、心が。でも、我慢するしかなかった。だってわたしは、お姉さんだから。だから、妹を守らないといけない。翡翠ちゃんを守れるのは、わたしだけなんだから。

 

怒ることも、泣くこともできない。そんなことをすれば、もっとイタくなる。もっとイタイことを、される。何もしないで、いるしかない。

 

でもイタイ。イタイのは、なくならない。初めは逃げようと考えていた。このお化け屋敷みたいな牢獄から。大きな怪物から。でもそんなことできなかった。できるのは、ただ文字を書くことだけ。

 

タスケテ。

 

それだけ。四文字の、それでもわたしの心。誰かが、きっとタスケテくれる。そんなことを信じて、ただノートに書き続ける。もう、自分が何を考えているのか分からなくなるほどに。機械のように、人形のように。

 

でも何も変わらなかった。何度目が覚めても、世界は変わらない。イタイのも、なくならない。なら、人形になるしかない。

 

 

認めた瞬間、痛みが無くなって行く。消え去っていく。

 

 

体は脈打つのを止め。

 

血管は一本ずつチューブになって。

 

血液は蒸気のように消え去って。

 

心臓もなにもかも、形だけの細工に、なる。

 

 

これで、イタくない。もう、我慢しなくていい。だって人形なんだから。どんなにぶたれても、酷いことをされても。わたしじゃないんだからイタくない。

 

外で遊んでいる翡翠ちゃんも、秋葉様も、志貴様も。それを見る自分も。

 

なのに、忘れられない。どうしても、思い出してしまう。あの時の彼の姿と、言葉を。

 

自分以上に何もなくて、今にも壊れてしまいそうな人形。

 

彼なのに、彼ではない誰か。

 

ただ待ち続ける。あの時の約束の答えを。彼が正しかったのか。それともわたしが正しかったのか。

 

 

八年間、ただずっと――――そのどちらの答えを、自分が望んでいるのか分からぬまま。

 

 

 

 

 

フクシュウ。

 

 

それが、今のわたしの行動理念。理由は、特にない。ただ、人間だったらそうするだろうな、と思っただけ。あんなに酷いことをされたんだから、きっとそうするはず。それに、わたしにはゼンマイが必要だった。

 

だってそうだ。わたしは人形なんだから、ゼンマイがないと動けない。生きていけない。だからそれをゼンマイにしよう。別に、わたしは誰かを恨んではいない。槙久様も、四季様も。それを選んだのは、ただそれ以外になかったから。

 

ただ一つだけ、意味が分からないものがあった。いつも、広場からわたしを見上げてくる男の子。でもそれも、なくなった。なら、もうそれしかない。

 

そもそもわたしには、誰かを恨む、ということが分からない。それがどんなことなのかも。

 

 

 

 

彼が誰であるかは、わたしには分からなかった。彼自身、それが分かっていないかもしれないのだから当たり前だ。ただ一つ分かるのは、彼が遠野志貴ではないということだけ。

 

八年前のあの時、小さかったわたしでもそれだけは分かった。彼が自分でそう口にしたからではない。人形のわたしから見ても、彼は人間ではなく、人形だったから。きっとそうなんだろうと。

 

そんな彼が今、八年ぶりに遠野の屋敷へと戻ってきていた。付き人であるわたしは、彼を起こすために部屋へと向かっている。もう目を閉じていても歩ける程に慣れてしまった廊下を歩きながら。なのに、その歩幅が違うのは何故だろう。速さが違うのは何故だろう。人形の自分が、ズレることなんてないはずなのに。

 

 

そう、自分はただ動いてきた。機械のように、人形のように。ただ目的を果たすために。

 

 

四季様を懐柔し、槙久様を殺させ、秋葉様に血を与え、準備を重ねてきた。こんなただの少女の言葉に、みんな簡単に踊らされている。わたしが何となくこうなったらいいな、と思う方向に全てが流れていく。わたしはただ笑っているだけ。それ以外に自分がどんな顔をすればいいのか分からない。知らない。ただ笑っているのだから、わたしはきっと嬉しいんだろう。

 

ただ一つ、問題があった。本当なら、このまま四季様と秋葉様を殺し合せて、生き残った方を志貴様に処理してもらう手筈だった。でもそれはできない。志貴様はもういないのだから。彼にはきっと、それはできない。だから、彼に戻ってきてもらう必要はなかった。無駄な、意味がないこと。なのに自分は彼を説得して、屋敷へと連れ出した。

 

初めて、自分が何をしているのか分からなかった。彼は、わたしのゼンマイの役には立たない。確かに志貴様の身体は持っているかもしれない。でも、彼は志貴様ではない。秋葉様も、翡翠ちゃんもそのことは知らない。わたしだけが知っている。

 

 

思えば、その瞬間から、わたしは壊れてしまっていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

「おはようございます、志貴さん。起きてらっしゃいますか?」

 

 

ノックをしながら中にいるである彼に挨拶する。付き人としての初めての仕事。朝、主人の起床を手伝うこと。もっとも彼はそんなことはしなくていいと言ったのだけれど、無理にさせてもらっている。その方が何となく楽しそうだったから――――では、ない。そう、違う。わたしは『翡翠』なんだから。志貴様を慕うのは当たり前で

 

 

「……? 志貴さん、まだ寝てらっしゃるんですか?」

 

 

いつまでたっても返事がないことに気づき、先程よりも大きなノックと声で挑むも返事はない。もしかしたら中には誰もいないのではないかと思うほどに、静寂だけが残る。その後、何度も挑戦するも結果は同じ。このままでは埒が明かない。初日から彼を起こせなかったとなれば秋葉様に何を言われるか分からない。何よりも、このまま引き下がるのは嫌だった。

 

 

「志貴さん……失礼しますよ……?」

 

 

まるで盗みに入るように、何故か小声で挨拶しながら部屋へと入る。幸いにも鍵はかかっていないので問題なく侵入できた。そこには、ベッドと最低限の調度品しかない殺風景な光景が広がっていた。新しい主が住んでいるはずなのに、驚いてしまうほど彼の私物は少なかった。曰く、生活する上で邪魔だかららしいのだがそれにしても度が過ぎるのではと思ってしまうほど。知らず、息を殺し、足音を消しながらゆっくりとベッドへと近づく。

 

 

「…………志貴さん?」

 

 

そこには彼がいた。遠野志貴の姿をした、知らない誰か。自分だけが知っている、誰か。ただ何の反応も見せず、この部屋の主は寝息を立てている。微動だにしない。微かに、胸が上下しているだけ。もしそれなければ、本当に生きているのかを疑ってしまうほどに彼の眠りは深かった。

 

どうやら自分の声も、気配も全く意に介していないらしいことに知らず溜息を吐く。一体何のためにここまで気を遣っていたのか、と呆れてしまう。だが同時にある名案を、悪巧みを思いつく。

 

 

「志貴さん……起きられないなら、無理やり起こしちゃいますよ?」

 

 

眠っている彼を無理やり起すという悪戯。知らずクスクスと笑ってしまう。それによって起こる結末と彼の反応。きっと見物に違いない。でも自業自得だろう。これだけ起こそうとしても起きないのだから、後は実力行使しかない。

 

まるで鬼ごっこをするように、わたしはこそこそと彼へと近づいて行く。鬼ごっこなんてしたことはなかったけれど、きっとこんな感じなんだろうと思いながら。そのままベッドへと乗り出し、彼を正面から見据える。誰かが見れば、きっとわたしが彼に覆いかぶさっているように見えるかもしれない。

 

だが、それでも彼は目覚めない。こんなに目と鼻の先にいるのに、自分に気づかない。

 

 

「…………む」

 

 

知らず、唸ってしまう。何だろう。何故か、腹がたった。腹がたったような気がした。よく分からない感情。彼は変わらず寝息をたてている。アイマスクをしながら寝ているのでもしかしたら寝ているふりをしているのかと疑ったが間違いない。彼は間違いなく眠っている。自分がこんなにも四苦八苦しているのに。

 

なら後はどうやって驚かす、ではなく起こすか。手を動かしながらさらに近づいて行く。くすぐってやろうか。それとも耳を引っ張ってやろうか。それとも鼻をつまんでやろうか。でもそんな考えは

 

 

彼の安らかな寝顔を見つめているうちにいつの間にかなくなってしまった。

 

 

「――――」

 

 

ただその顔に魅入られる。もしかしたらこのまま目覚めないのではと思ってしまうほどに静かな、深い眠り。息を吹きかければ、消えてしまうのではないかと思うほどに、儚い何か。蜃気楼のような存在。

 

 

知らず、自分の顔が彼の顔に近づいていることに気づく。少しずつ、距離を詰めるように。目と鼻の先に、互いの顔がある。視線が、彼の唇へと注がれる。何でそんなことをしているのか、分からない。もしかしたら、昔どこかで読んだ童話の真似をしているかもしれない。もし、それをして彼が起きたらどうなるだろう。起きなければ、どうなるだろう。自分は、どっちを望んでいるのだろう。

 

 

定まらない、熱に浮かされるように衝動に身を任せようとした瞬間

 

 

「ん…………」

 

 

彼が目覚めようとしていることで、自分の動きは止まった。

 

 

「っ!?」

 

 

そこで声を漏らさなかったのは奇跡に近かった。唇が触れる寸前であったこともあり、慌てながら、それでも音を立てることなくベッドから離れる。幸いにも彼はまだ完全に目覚めていない。そのまま気配を消したまま部屋を後にする。

 

 

「…………ふぅ」

 

 

ドアにもたれかかりながら息を吐く。そこでようやく、わざわざ部屋の外にまで逃げる必要がなかったことに気づく。自分が何をしているのか、よく分からない。だが知らず、指で自分の唇に触れる。触れてはいないが、彼の熱がそこにあるかのように。

 

 

だがいつまでもそのままではいられない。わたしは演じなければ。わたしは、人形なのだから。

 

 

「失礼しますよ……あ、ようやく起きられたんですね。おはようございます、志貴さん」

 

 

いつもと変わらない、わたしはワタシの声で挨拶しながら彼の部屋に入る。付き人として主人を起こすために。何食わぬ顔で。まるで初めてこの部屋に入るように。

 

 

それでも、身体に残る熱っぽさは、しばらく消えることはなかった――――

 

 

 

 

 

次の日の朝も、わたしは彼の部屋にいた。変わらず、彼は静かに眠り続けている。自分はただ、そんな彼の姿を少し離れた所から見つめている。

 

昨日と違うのは、ノックも挨拶もせずに部屋に入ったこと。きっと、それをしても彼が起きないのは分かり切っていたから。でももしかしたら、わたしは彼を起こしたくなかったのかもしれない。

 

そのまま何をするでもなく、ただ時間が流れる。ゆっくりと、どこか心地いい時間。知らず、そのまま自分も眠りに就いてしまうような穏やかさ。

 

昨日のように、彼に近づこうとしないのは何故なのか。わたしには分からない。ただ、今の関係を壊したくないと、わたしは思って―――そんなはずはない、と気づく。

 

 

だって、わたしは彼に――するために――――

 

 

気づきかけた答えに蓋をしながら、部屋を去る。ただ逃げ出すように。それに気づいてはいけない。そうなったら、きっとわたしは、人形でいられなくなるから――――

 

 

 

 

 

厨房で作業しながら、ちらりと食堂の様子を盗み見る。そこには彼と、対面するように座りながら食事している秋葉様の姿がある。秋葉様はいつも変わらないようにしているが、やはりどこか浮足立っている。対して彼は、それに気づいているのだろうか。ただ、居心地が悪そうにしている。

 

その理由が、わたしには分かる。彼がきっと、罪悪感に苛まれているのだろうと。秋葉様を、翡翠ちゃんを騙していることに。もしかしたら、わたしもそこに含まれているのかもしれない。でも、それは口にはできない。それを知っていながらわたしは、彼をここへ連れて来たのだから。ただ、その理由だけがまだ――――

 

 

「――――姉さん、何か手伝うことはある?」

「翡翠ちゃん? もう仕事はいいの?」

「ええ。秋葉様の送迎の準備はもうできたわ」

 

 

いつの間にか翡翠ちゃんが傍までやってきていた。自分の代わりに秋葉様の付き人をさせてしまっているがもうすっかり板についている。本当なら、志貴様の付き人になりたいだろうに全くそんな素振りを見せることはない。もっとも、どちらがいいのかは分からない。志貴様はもう、いないのだから。

 

 

「流石翡翠ちゃんですね。でも大丈夫。もうこっちも終わりましたから」

 

 

昼食の準備を終えたまま改めて翡翠ちゃんと向かい合う。双子なため、わたし達は容姿も同じ。なのに、決定的に何かが違う。いつからそうだったのかは分からない。もしかしたら、昔とは何も変わっていないのかもしれない。

 

 

「そういえば、朝、志貴さんはどうでした? 中々起きてくださらなかったでしょう?」

 

 

自分の意味のない思考を断ち切るように翡翠ちゃんへと話しかける。話題は朝と同じ。翡翠ちゃんが彼を起こした時のこと。秋葉様の命令で今朝は途中から翡翠ちゃんが起こしに行くことになった。もっとも彼を起こそうとしなかったわたしのせいではあるのだが、やはり翡翠ちゃんが起こしに行ってすぐに起きたのは悔しい。そんなからかい半分の嫌味。

 

 

「ええ。でも起きられてからはすぐだったわ。ただ……」

 

 

でも翡翠ちゃんはどこか不機嫌そうにしている。その理由が分からない。

 

 

「何かあったの……?」

「ううん。ただ笑われてしまったのが、少し恥ずかしかっただけ……」

 

 

翡翠ちゃんは思い出したのか、少し顔を赤くしている。どうやら自分が狼狽したところを彼に見られたため恥ずかしがっているらしい。付き人として完璧な自分を見せたかったからなのだろう。でも今はそんな翡翠ちゃんの姿すら、目には映っていなかった。あるのは

 

 

「志貴さんが……笑っていたんですか?」

 

 

彼が笑っていた。その一点だけ。

 

 

「……? そうだけど、どうかしたの、姉さん?」

 

 

不思議そうに翡翠ちゃんが話しかけてくる。でも、不思議なのは、驚いているのはわたしの方。

 

彼が笑っているのを一度も、わたしは見たことがなかった。八年前とは、別人のように変わっていた彼。でも、有間の家で再会してから一度も笑っているところだけは見たことがなかった。まるで、自分はここでは笑ってはいけないのだと決めているかのように。

 

わたしは笑っている。でも彼は笑っていない。内と外で、違っているのかもしれない。自分は笑顔を作ることができるけど、自分が笑っているのかは分からない。彼はどうなのだろうか。

 

でも、何故か胸がざわついた。わたしはまだ見たことがないのに、翡翠ちゃんは見ている。翡翠ちゃんには見せてくれるのに、わたしには見せてくれていない。なら――――

 

 

「……ううん、何でも。さあ、翡翠ちゃんそろそろ動きましょうか。秋葉様達もお食事が済まれたようですし」

 

 

急かすように二人で厨房を離れ、それぞれの主人の元に向かう。自分と彼はこれから買い物に出かけ、翡翠ちゃんは秋葉様の送迎がある。なら、できる。

 

彼が部屋に戻り、翡翠ちゃんが秋葉様をお送りしているのを確認した後、すぐさま自室に戻り着物を脱ぎ捨てる。代わりに、袖を通すことのないはずの物に手を伸ばす。

 

メイド服。妹が身につけているものであり、同時に自分と妹を見分けるためのもの。一瞬の間の後、それを身につける。身も心も、翡翠に為り切る。

 

着物ではなくメイド服を。カラーコンタクトによって琥珀の瞳ではなく、翡翠の瞳に。髪にリボンではなくカチューシャを。

 

姿見の鏡の前には、見間違うことなく『翡翠』がいた。秋葉様ですら、気づかないであろう。その姿で彼の元へと向かう。本当なら、姿を偽る必要はなかった。彼は目を開けないのだから。なら声を変えるだけでいい。でも、そうする必要があった。

 

翡翠ちゃんには笑顔を見せてくれた。なら、わたしも翡翠ちゃんの振りをすれば見せてくれるかもしれない。そんな子供みたいな理由。

 

本当は確かめたいこともあったけど、その時のわたしはそのことしか頭にはなかった。迷っている暇はない。早くしなければ翡翠ちゃんが戻ってきてしまう。その前に――――

 

 

 

「――――失礼します、志貴様。宜しいでしょうか」

 

 

わたしは、『翡翠』を演じながら彼の前に出た。

 

 

知らず、緊張していた。彼は、目ではなく耳で生活している。視るのではなく聴くことで。だから声だけで気づかれてしまうのではないかと。

 

だから細心の注意を払いながら演じた。一部のブレもない、完璧な『翡翠』

 

本物なのに、偽物である矛盾。演じているうちに、わたしが琥珀だったのか、翡翠だったのか分からなくなりそう。

 

その甲斐(せい)もあり、彼はわたしが琥珀であることに気づかなかった。気づいて、くれなかった。

 

何を思っているんだろう。気づいてほしくなかったはずなのに、どうして。どうして悲しんでいるわたしがいるのか。

 

当たり障りのない会話をしながらも、本題に入ることにする。いつまでもこのままでは、翡翠ちゃんに見つかってしまう。いつまでも、このままで、いたくない。

 

 

「志貴様……一つ、お願いしても宜しいですか? もし、難しければ構いませんので……」

「お願い……?」

 

 

呆気に取られている彼を見ながらも、その先を口にする。自分が確かめたいことの前に、彼にそれをしてほしい。

 

 

「はい。わたしを、その眼で見て頂けませんか……? 一瞬でも構いませんので……」

 

 

『翡翠』の姿をしている自分を見てほしい、という願い。

 

 

本当なら、琥珀のわたしを見てほしかった。見てほしいと言いたかった。でも、わたしは有間の家で見られた時に、目を逸らされてしまった。それが、悲しかった。悲しいなんて、思うはずないのに、そんな気がした。

 

 

彼は戸惑いながらも、翡翠を見てくれた。彼はわたしを見ていない。でも、何故か嬉しかった。悲しかった。声で気づかないのに、見て気づくはずがないのに。ココロのどこかで、期待していたわたしがいた。

 

 

「志貴様は……本当に八年前の事故から前のことは覚えてらっしゃらないですか?」

 

 

だから、機械のように用意していた質問を口にする。確認作業。それをするために、わたしはここに来た。もうお膳立てはできている。本当は、彼の笑顔が見てみたかったが、そんな時間はない。なら、一番知りたいことを。

 

 

「……でしたら志貴様。わたしと八年前、事故の後に屋敷でお会いしたことも覚えてらっしゃいませんか?」

 

 

八年前、わたしと会ったことを彼が覚えているかどうか。ただそれだけ。あの日の約束を、覚えているのかどうか。いや、それはまだいい。それでも自分と会ったことを覚えていてほしいと。

 

でも同時に、気づいてほしくはなかった。今のわたしは『翡翠』の姿をしている。わざわざその姿を見せてもいる。もし、八年ぶりの再会なら『翡翠』があの時会った洋装の少女だと、誰しもが思うだろう。なのに、そんなズルをわたしはしている。きっと、気づいてほしかったのだろう。ならない、と分かっていながらも。

 

 

「……いや、覚えてない、な」

 

 

一体どれだけの時間が経ったのか分からない静寂の後、彼は口にする。覚えていないと。一番あり得る、当たり前の答え。八年前のことなんて、きっと覚えている方がおかしい。小さな子供であればなおさら。おかしいのは、そんなことをみっともなく覚えている、わたし。

 

 

勝手に期待して、勝手に失望する。まるで人間のような――――

 

 

 

「――――琥珀さんとなら会ったことがあるんだけど」

 

 

瞬間、息を飲んだ。身体が勝手に動くのを、生まれて初めて体験した。今、彼が何と言ったのか分からない。理解できない。言葉にできない感情が胸を支配する。ただ分かること、それは

 

 

彼が、八年前のことを覚えていると言うことだけ。

 

 

いや、それだけではない。彼は、気づいてくれた。『翡翠』の自分をさっき見ながらも、八年前の少女が琥珀であると。入れ替わっても誰も気づかないくらい、見た目も、性格も変わった自分が、『琥珀』であると、彼は知っていてくれた。

 

 

「――――」

 

 

知らず、温かい物が頬を伝う。わたしはそれが涙なのだと気づいたのは、部屋を後にしてからだった。

 

 

ただ自分が笑っていることだけは分かった。いつかと同じように、手で触れて分かる。わたしは今、笑っている。でもやめないと。今のわたしは『翡翠』なのだから。笑ってはいけない。なのに、できない。わたしが、わたしではないみたいに。

 

 

必死に、自分を抑えながら彼の前から離れる。気づかれただろうか。変ではなかっただろうか。でも今は、ただ胸が高鳴るのを抑えられない。分からない。どうして、こんなに―――のか。

 

 

もう、自分が『翡翠』を演じていることも忘れたまま、わたしは自分の部屋へと戻って行く。その足取りが、身体が軽かったのは、きっと着物よりも翡翠の服が軽かったからなのだろう――――

 

 

 

 

 

それから、買い物という名目で彼を外に連れ出した。荷物を持ってほしいと言うのも嘘ではないが、一緒に外出してみたかった。『翡翠』は『遠野志貴』と恋がしたかった。だからわたしもそうしているだけ。

 

 

でも、おかしい。どうして、こんなに楽しいのか。嬉しいのか。

 

 

わたしは知っている。彼が『遠野志貴』ではないのだと。なのに、どうしてこんなことをしているのか。

 

 

その答えを遠ざけながら、わたしは彼の笑顔を初めて目にする。これまでの八年間を思い出しているうちに、彼は自然に笑みを浮かべていた。きっと、そうできるほどに彼の八年間は意味があったのだろう。

 

 

「――――あなたは、笑えるようになったんですね」

 

 

ただそう、言葉が漏れた。心からの本音。

 

 

『あなた』

 

 

遠野志貴ではない彼を、呼ぶ時のわたしの呼び方。彼の本当の名前は分からない。本当ならわたしがそのことを知っていることを口にしたかった。でもできなかった。

 

それをすれば壊れてしまう。彼は、遠野志貴を演じているからわたし達と繋がっている。もしそれがなければ、彼はきっといなくなる。だから、わたしは知らないふりをしている。演じている。人形になっている。

 

 

「それを言うなら、俺も君が笑ってるのを――――」

 

 

彼が何かを口にしかけて止めてしまう。きっと、止めたのはわたしと同じ理由。先の言葉を口にすれば、何かが壊れてしまうから。

 

 

そんなことをしなくて、いずれ壊れてしまうのは変わらないのに――――

 

 

「それに歓迎会のごちそう、期待してもいいんだろ? これだけ働いたんだからな」

 

 

それなのに彼は手を差し出してくる。どこか照れくさそうに。わたしは呆気に取られてしまう。だってそれは初めてだったから。

 

 

彼の方から、わたしに触れようとしてくれたのは。

 

 

「――――はい。腕によりをかけて作りますね」

 

 

いつもと同じように笑いながらわたしはその手を握る。少しだけ、いつもより強く力を込めながら。

 

 

 

思えば、彼と触れあったのはこれが最後だったかもしれない。

 

 

こんな日常が続くはずがないと思っていたのに。それでも思わずにはいられなかった。

 

 

蒼い双眼。

 

彼がその眼を晒してから、全てが壊れていった。彼は部屋から出ることができなくなり、少しずつ変わっていった。

 

頭痛と吐き気によって苦しむ彼。それをどこか他人事のように見つめているわたしがいる。だってそうだ。わたしは、そのために、これまで生きて来たのだから。

 

彼は、壊れて行く。違う。戻って行く。

 

いつかの姿が思い浮かぶ。八年前、会った男の子。その瞳。

 

そこには何も映ってはいなかった。生気を感じさせない、虚ろな眼。本当に自分を見ているのかどうかすら疑わしい瞳。ただ思った。

 

 

――――まるで、人形のようだ、と。

 

 

そんな彼の姿に目を奪われながらも、わたしは伝える。演じながら、有間の家からの電報を。有間都古がいなくなってしまったことを。

 

 

瞬間、何も映していなかった彼に瞳に光が灯る。わずかな、それでも確かな意志。まだ彼の中に、人間が残っているのだと。

 

 

同時に彼女は予感した。確信に似た直感であり、未来。

 

 

きっと、もうすぐ『彼』がいなくなるだろうという、結末を――――

 

 

 



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第十三話 『遠野志貴』

ただ、その蒼い瞳に魅入られる。まるで見えない何かを見据えているような眼。同時に得もしれない悪寒が走る。わたしはただ、彼を前にして何もできなかった――――

 

 

 

それはもはや反射だった。わたしが都古ちゃんのことを伝えた瞬間、彼はベッドから跳ね起きた。静から動。スイッチが入ったロボットのように突然動き出す。

 

 

「志貴さんっ!? どうされたんですか!?」

 

 

そんな彼の様子に驚きながら近づこうとするも叶わない。いや、近づくことができない。彼は何も言葉を発していない。なのに、その全てが物語っていた。今、彼にはわたしが見えていない。気づいていない。何か、違うものを見ているのだと。

 

 

「――――」

 

 

無言のまま、それでもどこか鬼気迫る表情で彼は何かを探している。普段、決して晒すことのない眼を晒しながら。そんな彼をただ見ていることしかできない。理解できない奇行。一体何を探しているというのか。それが都古ちゃんのことと何の関係があるというのか。そもそも彼の部屋には探すほど物はない。私物はほとんどない。

 

 

「志貴さん……何を」

 

 

探しているんですか、と口にする間もなく彼は無造作に自らの学生鞄を手に取る。同時にその中をあさり始める。まるで盗みをするかのように。自分の物なのに、全くそこには愛着がない。ただ邪魔な物、いらない物を判別するように中にある物が投げ捨てられていく。

 

筆箱が、ノートが、教科書が。学生である彼が使っていたであろう私物。その全てを破棄していく。それでも彼は止まらない。まだ、見つからないと。彼が探しているものが見つからない、と。

 

だがふと、彼の動きが止まってしまう。今まで機械的に、無造作に動いていた彼の動きが、ぴたりと止まる。同時にわたしもそんな彼につられるように視線を向けてしまう。彼の手の中。そこには

 

 

いつかの、白いリボンがあった――――

 

 

瞬間、思わず息を飲む。言葉が、見つからない。でも、間違いない。忘れるわけが、ない。だってそれはわたしがあの時、彼に渡した約束なのだから。

 

得もしれない感情が全てを支配する。今、自分がどんな顔をしているのか分からない。ただきっと、笑みを浮かべていないことだけは確かだった。本当なら嬉しいはず。彼がそれをまだ持っていてくれたことが。例え覚えていなくても、彼がそれを持っていてくれたことだけなのに、それが例えようもなく嬉しい。なのに、何故こんなにも――――

 

 

思考を止めていたのはどのくらいだったのか。だがふと、気づく。わたしと同様に、いやそれ以上にリボンに見入っている彼の姿。でもそこには何の感情もなかった。瞳は確かにリボンを捉えている。なのに、彼はそれを見ていない。ここではないどこかに、想いを馳せるかのように。

 

 

「――――志貴さん?」

 

 

ようやくできたのは彼の名を呼ぶことだけ。本当の彼の名前ではないであろう記号。それが合図になったのか。

 

 

「――――違う」

 

 

ぽつりと、聞きとれないような声とともに彼は掌からリボンを落とした。

 

 

「……え?」

 

 

そんな声を上げるしかなかった。わたしは、目の前で何が起こっているのか分からない。ただ分かるのはリボンが彼の探していた物ではなかったということだけ。ただそれだけ。なのに、それだけではない意味が、彼の行動にはある気がした。決定的な何かが、壊れようとしている。その淵に、彼がいる。例えようのない不安。

 

 

リボンが鞄の中にあった最後の物だったのか、彼はそのまま動きを止めてしまう。だがそれは一瞬だった。

 

 

「――――そうか。まだ」

 

 

まるで何かを思い出したかのように、彼は立ち上がり部屋を出て行く。散らかった物をそのままに。まるでもうここには用はない告げるかのように。白いリボンも、床に落としたまま。

 

 

「し、志貴さん……どこに行かれるんですか!?」

 

 

一瞬、リボンに視線を向けながらもわたしは彼の後を追う。追うしか、なかった。だが彼は止まらない。どんなに声をかけても。姿を見せても。最初から聞こえていない、見えていないのではないかと思ってしまうほどに。わたしは彼には見えていない。

 

そんなわたしを振り切るように、彼はただ真っ直ぐに歩いて行く。今、彼は目を閉じていない。裸眼を晒している。だからこんなに早く屋敷を移動できるのはおかしくない。でも、それが異常であることに気づく。何故なら

 

 

(ここは……階段? でも、志貴さんはここに来たことは……)

 

 

彼が、行ったことがないはずの階段までたどり着き、そのまま二階へと上がって行ってしまったから。

 

あり得ない。彼の部屋は一階にある。二階に上がる機会など無かった。そもそも目を開けれない彼がそんなことをするわけがない。なのに一部の迷いもなく、導かれるように彼は進んでいく。その先に、自分が探している物があるのだと知っているかのように。

 

息を切らせながら彼の後を追う。それほどに彼の足は速い。一部に無駄もなく、目的地へと向かって行く機械のよう。だがようやく終着へと近づいて行く。進むごとに、わたしもまた気づく。彼がどこに向かおうとしているのか。

 

秋葉様でも、翡翠ちゃんでも、わたしの部屋でもない。彼が進んでいく先には、もう使われている部屋はない。あるのは、ただ一つ。

 

かつてのこの屋敷の主である、遠野槙久の部屋だけだった。

 

だがそんなところに行ってどうしようというのか。彼が何を考えているのか分からない。そもそも部屋には鍵がかかっている。どうやっても彼は部屋に入ることすらできないはずなのに――――

 

 

「え……?」

 

 

それはわたしの声だった。ようやく彼に追いついたと思った瞬間、彼はまるで何事もなかったかのようにそのまま部屋のドアを開け、中に入って行ってしまう。鍵を使った様子もない。ただ手でドアに触れただけ。理解できない光景に呆気にとられるもわたしは彼に続くようにその場所に足を踏み入れる。

 

知らず、息を飲む。ここは、かつての自分にとっての牢獄。今はその主はいないが、それでも事実は変わらない。

 

何よりも、ここは自分にとっては特別な場所。八年前、彼と初めて出会った約束の場所。

 

だが、その相手は共に部屋に入ってきた自分に気づくこともなく、部屋のある一画で足を止める。

 

そこは遠野槙久が使っていた机の前。それには、多くの引き出しがある。彼は目を向けながら、立ち尽くしている。いや、違う。何かを思い出しているように。

 

 

「志貴さん……?」

 

 

何度目か分からない問いかけにも無反応。だが、再び彼が動き出す。一切の無駄のない動きで彼は一つの引き出しに手を伸ばす。本当なら先のドア同様、遠野槙久の引き出しには鍵がかかっている。しかし、彼が蒼の双眼で見ながら手を触れることによって、引き出しの鍵は呆気なく、まるで最初からそうであったかのように壊れてしまった。

 

驚きの声を上げる間もなく、わたしは彼が手にしている物に目を奪われる。

 

小さな木箱。どこか年代を感じさせるもの。だがその中身を知っているからこそ、驚きを隠せない。

 

 

「――――」

 

 

無言のまま、彼は無造作にその封を切る。中には、一本の無骨な鉄の棒のようなものがあるだけ。しかしそれはただの鉄の棒ではない。

 

『七夜』

 

刻まれているその名。かの一族の得物であるナイフこそがその正体。

 

 

「志貴さん、どうして、それを……」

 

 

知っていたのか。探していたのか。わたしはその先を口にできない。

 

七夜の短刀。その存在を知っているのは自分だけのはず。遠野槙久が何故これを処分せずに持っていたのかは分からない。自らの戒めのためか、それともわずかでも罪悪感があったのか。知る術はもうない。

 

同時にそれは彼にとっては無用の物であり、意味がない物。遠野、七夜志貴ではない彼にとってはなおのこと。ただ自分はこれを彼に渡す気だった。ただ単純にこれを彼に見せて、反応を確認するために。彼が、遠野志貴に関する記憶があるのなら何か反応を示してくれるだろうという目論見で。しかしそれは彼が体調を崩したために先送りにしていた。

 

彼はただ目の前にいるあるナイフを見つめたまま微動だにしない。まるで先のリボンを前にした時のように、彼は止まってしまっている。

 

時間が止まる。わたしは何もできない。今の彼には、触れてはいけない、犯してはいけない何かがある。そう思ってしまうほど、その光景が神秘的で、危うかった。

 

だがそれは呆気なく終わりを告げる。何かを終わらせたかのように、彼は手を伸ばし、それを手に取る。しっかりと、まるで初めからそうであったかのように。

 

彼女は知らない。その選択の意味を。そこに、どれだけの想いがあるかを。知ることができない。そんなことは誰にもできない。分かるのはただ彼だけ。

 

 

リボンではなく、ナイフを。日常ではなく、非日常を。幻ではなく、現実を。

 

 

彼女は手を伸ばすも届かない。その手が触れるよりも早く、彼は部屋を後にする。彼女の元から去っていく。一度も振り返ることなく、ただその手にナイフを持ちながら。

 

 

「志貴、さん…………」

 

 

後には琥珀だけが残された。八年前と同じように、籠の中の鳥のように。違うのは、彼がリボンをもう持っていないということ。わずかな、それでも決して変えようのない程の違い。彼女は悟る。もう『彼』は帰ってこないのだと。これが、約束の答えなのだということを――――

 

 

 

 

夜の闇によって、薄暗さに包まれた路地裏を小さな少女が歩いていた。だがその足取りはおぼつかない。まるで迷路に迷い込んでしまったアリスのように、少女は出口を求めてさまよっている。

 

 

(どうしよう……道が分かんない……それに、暗くなっちゃった……)

 

 

唇を噛み、何とか流れそうになる涙をこらえながら少女、有間都古は身体を震わせるしかない。

 

辺りは見覚えのない光のない路地道。人気もまったくない。まるでお化け屋敷に来てしまったように感じるほど。普通なら、こんな時間に外に出るなんてしてはいけないこと。お母さんにも、お父さんにもきっと怒られてしまう。でも、それでもあたしはしなくちゃいけないことがあった。

 

 

「お兄ちゃん……」

 

 

お兄ちゃんを取り戻すこと。それが今のあたしのしなくちゃいけないこと。お兄ちゃんが、いなくなってしまった。遠野家に戻ってしまったことは分かっていた。でも、どうしても悲しかった。

 

お兄ちゃんは意地悪だった。いつもあたしをからかってくる。あたしを子供扱いしてくる。

 

でも、ちゃんとあたしを待っててくれた。いつも、手を引きながら。

 

目が開けれないのに、あたしの勉強も見てくれる。遊んでくれる。それが、当たり前なんだと思ってた。ずっと、それが続くんだと思ってた。でも違った。

 

お兄ちゃんはいなくなってしまった。帰らないって言ってたのに。あたしが、中学生になっても面倒を見てくれるって約束したのに。

 

うそつきだ。もうお兄ちゃんなんて知らない。きっと、わたしがいないから苦労してるにきまってる。そう思って、最初の内は知らないふりをしてた。きっと、すぐに戻ってくる。いつもみたいに、意地悪な声で、あたしを待ってくれてる。

 

でもそうはならなかった。学校の帰りにいつものバス停に行っても。家に帰っても、部屋に遊びに行っても。お兄ちゃんは、どこにもいなかった。

 

ようやくその時、あたしはお兄ちゃんがいなくなってしまったんだと気づいた。涙が流れた。泣きじゃくるしかなかった。でも、どんなに泣いてもお兄ちゃんは来てくれない。あたしが泣いていたら、必ず部屋から出てきてくれるのに。

 

きっと、お兄ちゃんは帰ってこれないんだ。無理やり、遠野の悪い魔女に連れていかれたんだとあたしは気づいた。だってそうだ。お兄ちゃんはあっちに帰りたいなんていってなかったんだから。ならあたしが助けに行かないと。いつもみたいに。お兄ちゃんを助けるのがあたしの仕事なんだから。

 

 

「ぐすっ……お兄、ちゃん……」

 

 

涙を拭きながら前を見る。でも前は知らない暗い道だけ。ここがどこかも分からない。ちゃんと地図も持ってきたのに、暗くなって、世界が変わったみたいに何も見えなくなった。

 

周りには誰もいない。夜が、こんなに怖いなんて知らなかった。夜中二階の階段を登るみたいに、怖くて足がすくんでしまう。手を伸ばしても、お兄ちゃんはいない。どうすればいいのか分からない。

 

でも、あきらめない。きっと頑張ればお兄ちゃんを取り戻せる。家に帰ってきてくれる。だから――――

 

 

瞬間、暗闇から人が現れた。スーツを着た男の人。同時にあたしは喜んだ。一人きりの世界で、ようやく誰かに会えた。恥ずかしいけど、道を教えてもらおう。そうすれば遠野の家にもきっといける。やっと迷路の出口を見つけた。

 

 

「あの……」

 

 

喜んで男の人に近づこうとした時、何故かあたしは固まってしまった。それは気づいたから。この暗闇より、あの男の人の方がずっと、ずっと怖いのだと。

 

何かが変だった。立っているのに、立っていない。あたしを見ているはずなのに、見てない。まるでお人形があたしを見ているみたい。どうしてか分からない。でも怖かった。

 

一歩一歩。男の人があたしに近づいてくる。でも、あたしは動けない。足が震えて動けない。

 

分かるのは、きっとこれがあたしの罰なんだということ。夜の街に、勝手に出てしまったから。きっと、そのお仕置き。あたしが、約束を破ったから。お兄ちゃんは言った。また帰ってくるって。なのにそれまで待てなかったあたしのせい。

 

男の手の人があたしに伸びてくる。きっと、あたしは食べられてしまうんだ。絵本みたいに悪い怪物に。でも、その前にもう一度――――

 

 

 

「――――都古!!」

 

 

そんな、いつものお兄ちゃんの声が聞こえた。

 

 

何が起こったのか分からない。ただ力任せに突き飛ばされたんだと気づいたのは、自分が地面に座り込んでいたから。転んだからなのか身体が痛く、膝は擦り剥いてしまっている。本当なら泣いてしまうほど痛かった。でも、泣かなかった。泣く暇なんてなかった。だって

 

 

「……お兄、ちゃん?」

 

 

目の前には、ずっと探していたお兄ちゃんの姿があったから。

 

でもいつもと何かが違う。いつもしているアイマスクをしていない。あれをしていないといけないはずなのに。どうして。どうしてここにいるのか。来てくれたのか。

 

堪えていた感情が溢れだす。涙があふれる。会いたかったお兄ちゃんが目の前にいる。また迷惑をかけてしまった。怒られてしまうかもしれない。からかわれてしまうかもしれない。でもそんなことはどうでもよかった。ただ嬉しかった。

 

 

「ごめんなさい、お兄ちゃん……あたし……」

 

 

お兄ちゃんに話しかける。でもお兄ちゃんはこっちを振り向いてくれない。背中を見せたまま、さっきの怖い男の人と向かい合っている。

 

そうだ。このままじゃ、お兄ちゃんも危ない。だから

 

 

「…………ここから離れろ、都古」

「…………え?」

 

 

一緒に逃げようと口にしようとした瞬間、お兄ちゃんはそうあたしに告げた。あたしは呆気にとられるしかない。お兄ちゃんが何を言っているのか分からない。だってあの怖い男の人は怪物だから。逃げないと食べられてしまう。きっとお兄ちゃんも。だから逃げないと。

 

なのにお兄ちゃんはそこから動こうとしない。まるであたしを守るように。手にはナイフを持ったまま。それが危ない物だってことは分かる。でも、それ以上に怖かった。このまま離れたら、お兄ちゃんがいなくなってしまう。せっかくまた会えたのに、また――――

 

 

 

「早くしろ、都古――――!!」

 

 

今まで聞いたことのないようなお兄ちゃんの声によって、あたしは言われたとおりにそこから走って離れていく。もう、何も考えている暇はなかった。あんなに怒っているお兄ちゃんを初めて見たから。だから、お兄ちゃんの言うことを聞いて、必死に走った。どこに向かっているかは分からない。でも遠くへ。だってお兄ちゃんは嘘は言わない。からかっても、本当に大事な時は決して嘘はつかない。だからきっと大丈夫。だから――――

 

 

都古はただ走る。振り返らずに。それが正しいと信じて。自らの兄を信じて――――

 

 

 

 

 

「ハアッ……ハアッ……!」

 

 

ただ息をする。身体に酸素を送り込む。身体が熱い。今にも倒れてしまいそうだ。今倒れたら、どんなに楽だろう。でも、できない。今はまだ、できない。

 

ただ身体に鞭打ち、右手にあるナイフに力を込める。汗が滲み、手は震えている。みっともなく、身体が震えている。

 

 

(これが……死者……)

 

 

目の前にいる人間であったモノ。それと相対することで身体が震える。知識で識っていることと、実際に目の当たりにすることは天と地の差がある。瞳に映るのは間違いなく死の塊。人間の形をしている肉の塊。魂は既になく、自らの意志もない。ただ操り主の元に生贄を捧げる愚かな操り人形。

 

 

「ぐっ……うぅ……!」

 

 

その姿と、自分が重なり、頭痛と吐き気によって震えるもその全てを力づくで押し殺す

 

自分が今、何をしているのか分からない。記憶が所々欠けている。遠野の屋敷からここまでどうやってここに来たのか。どうしてここに来たのか。どうして手に、ナイフを持っているのか。

 

まるでいきなり自分がここで目覚めたかのように、何もかもがあやふやだった。高熱に浮かされているように足元もおぼつかない。いつ倒れてもおかしくない。どうして立っていられるのか。この体は疲労困憊。動くことすら本来はできない程に疲労している。機械的に自らの身体の現状を理解する。

 

変わらず頭痛が自分を削って行く。一秒単位で、大切な何かが無くなっていく。

 

その中で、ようやく理解する。自分がここにいる理由。自分の背後で駆けていく、少女。彼女を助けるために、俺は、ここに来た。

 

だって知っていたから。あのままでは■■が死んでしまうことを。今まで、何度もそれを見て来た。自分を探すために、そんなことのために少女が命を落としてしまうところを。

 

一緒には逃げれない。逃げ切れない。共に逃げようとすれば、殺されてしまう。だから、これしかない。このまま自分が囮になって、死ぬしかない。もしかしたら、自分が死んだ後に、■■も死んでしまっているのかもしれない。それでも、やるしかない。自分が死ぬのはいい。でも、■■が死ぬところをこれ以上見るのは耐えられない。

 

 

「――――」

 

 

でも、怖い。どんなに取り繕っても、言い訳しても、死ぬことが、怖い。

 

あれだけ何度も死んだのに、死ぬのが怖い。どうしても、忘れられない。あの感覚を、恐怖を、孤独を。

 

みっとなく身体を震わせて、息を乱して、使えもしないナイフを握りながら死と向き合う。

 

もはや死など視るまでもない。点と線の区別ができない程、死者には死が満ちている。当たり前だ。死者は、死その物なのだから。

 

逃げ出せばいい。どうして自ら死に行く。そんなことをする理由がどこにある。死ぬ理由がどこにある。生きる理由がどこにある。もう自分が死んでいるのか生きているのかすら分からない程繰り返したのに、まだ足りないのか。

 

 

「――――っ!?」

 

 

頭痛と、一瞬の思考の隙を突くように、死者が襲いかかってくる。それはまさに肉食獣だった。とても人間とは思えない速度と迫力。同時に、避けることができない死の具現。

 

 

「あああああ――――!!」

 

 

ただ叫びながら、無造作にナイフを振り下ろす。狙いも何もない、純粋な抵抗。自分は捕食される者。相手は獣。だが自分にはある。相手の死を見る魔眼が。遠野志貴の体が。知識が。武器が。なのに届かない。無数にあるはずの死の線と点に、触れることが、できない。

 

 

「あっ……があっ!!」

 

 

そのまま二本の腕によって首を掴まれ、持ちあげられる。無造作に、まるで物を扱うかのように。その力は万力だった。同じヒトの形をしているのに、あり得ない暴力。もはや現実は通用しない。死者はヒトの形をしているだけ。決して、人間では敵わない。化け物なのだとようやく理解する。思い出す。当たり前だ。もう、同じように何度も死んできたのだから。何度繰り返しても、結果は同じだった。あきらめれば楽になれる。なのに、自分の体からは力が抜けない。必死に、生きようとしている。

 

 

「俺……は…………ま、だ………」

 

 

息を吐くように、言葉が漏れる。もはや呼吸ができない。首には死者の指が食い込み、血が流れる。このまま呼吸ができずに死ぬか、それとも首をへし折られて死ぬか。どちらが早くとも結果は同じ。

 

 

ナイフを持つ手に、力が失われていく。どうしてこんな物を持ってきたのか。分からない。

 

 

視界が暗転していく。死の世界が、暗闇に染まっていく。忘れることのない、死の感覚。一秒先に、自分は死ぬ。死に、そしてまた死に続ける。これまでの幾多の自分がそれを証明している。なら、今の自分も同じ。

 

 

それでも、何故か自らの左手に力を込める。持ち上げることもできず、できるのは拳を作ることだけ。でも、ない。確かにあったはずなのに。なくしてはいけない物が、あったはずなのに。

 

 

あれは、何だったのか――――

 

 

 

 

 

 

記憶と記録が蘇る。今まで繰り返して来た数えきれないほどの自分。摩耗し、擦り切れ、もうあやふやで形のない記憶の中で一つだけ。色褪せることなく、残っているモノがあった。

 

自分が生まれ、同時に殺されてしまった記憶。今まで、思い出すことができなかった原初の記憶が、ようやく始まる。

 

 

「志貴さん! こちらです……急いで!!」

 

 

上映が始まる。場所は遠野の家。主演は自分。観客も自分。道化のように、自分はただそれを見続ける。

 

何も見えない。きっと、自分が目を閉じているからだろう。聞こえてくるのは彼女の声。だがそこには全く余裕がない。鬼気迫った様はまるで今にも死に瀕しているかのよう。

 

そこでようやく思い出す。主演の自分と観客の自分が同期する。今、自分は琥珀に手を引かれながら走っている。ただ逃げるために。息を切らしながら。

 

だが賢明なのは彼女だけ。自分はまるで生気がない人形のように手を引かれているだけ。為すがまま、されるがまま。自分の意志というものが、自分には残ってはいなかった。

 

 

『蛇を殺すこと』

 

 

それが自分の存在意義であり存在理由。永遠の螺旋。死の点ですら、自分が死ぬことができないと知った時、全てがどうでもよくなった。

 

初めはそれに抗おうとした。逃げ出し、生き延びようとあがき続けた。自分がどうやっても死ぬ運命にあると悟ったのは、もう何度繰り返したか数えるのを止めた頃。自分だけではない。世界その物が、蛇によって滅ぼされてしまう。逃げ場など、どこにもなかった。

 

自分以外の誰かを期待した。代行者に事情を明かしたことも、真祖に接触しようとしたこともある。だがその全てが無駄だった。分かったのは、どうやってもこの世界は終焉へと向かうということだけ。すなわち、自分は永遠にこの螺旋を繰り返すことになる。

 

だがその永遠すら仮初だった。気づいたのは何度目だったか。繰り返すごとに、強まっていくものと、伸びていくものがあった。

 

前者は直死の魔眼。死を繰り返すと言うことは死を理解すると言うこと。『 』である自分であることもあってか、その力が増していった。見えないはずの点まで見えてくる。きっといつかは瞼を閉じていても死が見えるようになるのだろう。そうなれば、もうどうしようもない。何かによって殺されるまえに、魔眼によって自分は自我を失い死んでしまう。

 

後者が記憶の引き継ぎ。初めは遠野槙久が死んだ日に記憶が戻っていたはずなのに、だんだんとそれが遅くなって来た。何かの副作用なのか、それとも記憶の量が増えてきたからなのか、自分が繰り返している記憶を思い出すことができなくなってきている。頭痛と吐き気もそれに連動しているらしい。もし、記憶を引き継ぐ前に死んでしまえばもう自分を認識する間もなく消滅する。ただ気づかぬまま、死ぬ続ける無限地獄に落ちることになる。

 

いわば両者とも、螺旋の終着であり、同時に自分の救済。人形である自分が壊れてしまう末路。それを、受け入れるしかなかった。

 

 

 

「ハアッ……ハアッ……!! 志貴さん、ここです!! 先に入ってください……!!」

 

 

ようやく目的地についたのか。琥珀は鍵の音をさせながらドアを開ける。いつもの穏やかさは微塵もない。ただ一刻の猶予も彼女には残されていない。それを示すようにその声が、足音が聞こえてくる。

 

本来この屋敷ではあり得ない者達の足音。死者という、この世の者達にとって死でしかない存在。それが今、自分達の命を奪わんと駆けてくる。

 

だが自分は何もしなかった。何も感じなかった。こうなることを知っていたのに。ただ死を待つだけの人形が、今の自分だった。

 

ただ言われるがままに部屋へと入り、琥珀もその後に続くように入室し、間髪いれずに施錠する。ほぼ同時に凄まじい音がドアに響き渡る。まるで鈍器でドアをたたき壊そうとしているかのように。

 

 

「大丈夫です、志貴さん……ここは槙久様のお部屋で、他の部屋より頑丈に作られているんです」

 

 

自分を安心させようとしているのか、琥珀はそんな良く分からないことを口にしてくる。そんなことをしても意味がないのに。どうせ死ぬことは分からないのに何故そんなことをするのか分からない。

 

だがしばらくしてあきらめたのか、それとも違う獲物を見つけたのか。死者達の音は過ぎ去っていく。後にはここではないどこか、きっと街中からだろうか。この世の終わりを告げる鐘が鳴り続けている。何かが燃えるような、壊れるような地獄絵図。もはや視るまでもない。刻限は来た。後は、また死んで繰り返す時を待つだけ。変わらない、自分の運命。

 

 

「志貴さん、お怪我はありませんか……?」

 

 

なのに、彼女は自分を気に掛けている。何の反応も示さない自分に。意味が分からない。何故この状況でそんな風にいられるのか。そういえば、いつかどこかで同じようなことがあった気がする。あれはどこで、誰だったのか。

 

そのまま、時間だけが流れる。ここには自分と琥珀だけ。この部屋に中で二人だけが取り残されている。ふと、思い出す。そういえば、八年前も同じように二人でここにいたような気がする。

 

互いに囚われ、逃げ場のないこの鳥籠の中に。違うのは、自分が目を閉じていることぐらい。他は何も変わっていない。自分も、彼女も。八年前と何一つ。何もかもが無意味で無価値。

 

自分の手には二つの物があるだけ。白いリボンとナイフ。どちらも自分の物ではない借り物。使うこともなく、返すこともなく、ただ捨てることもできず持ち続けている物。遠野志貴の殻を被っているからこそ手に入れてしまった無駄な物。

 

 

「―――志貴さん、覚えていますか? わたし達、ここで八年前に会ってるんですよ?」

 

 

静かに、まるで噛みしめるように琥珀はそう口にする。いつも通りの、聞く者を癒すような声。なのに、どこか言葉を選んでいるように自分には感じられた。

 

自分は何も答えない。答える意味もない。肯定も否定もせず、ただそこにいるだけ。だが琥珀に戸惑いはない。初めから自分が返事をすると思っていなかったのか、それとも。

 

だがどうでもいい。彼女が何を考えているかも。自分は既に知っている。彼女は自分が遠野志貴ではないということを知っている。いつかの公園で、彼女自身が、この彼女ではない彼女が言っていた。それが今更何になる。自分が偽物だと暴きたいのだろうか。それとも自らの復讐に自分を利用したいのか。好きにすればいい。結果は変わらない。なのに

 

 

「――――わたし、あなたにフクシュウするために八年間、生きてきたんです」

 

 

彼女は独白する。告白する。何の感情も感じられない声色で。彼女は自分への呪いを口にする。

 

まるで犯人が自供するように、聞いてもいないのに、彼女は全てを明かす。

 

 

「わたし、ここであなたに会った時に驚いたんです。だって、志貴様だと思ったのに、全然違う男の子がやってきたんですから」

 

 

自分の反応を見ているのか、それとも何も考えていないのか。琥珀はまるで目の前で当時を思い返すように語り始める。

 

 

「だから聞いてみたんです。あなたが志貴様ですか?って。でもあなたは違うと答えてくれました。今考えるとわたしもおかしいですね。そんな話をすぐに信じてしまったんですから」

 

 

クスクスと笑いながら、彼女は続ける。彼女がどんな顔をしているのかは分からない。でもきっと、笑っているんだろう。目を閉じていても、それは分かる。同時に彼女が何を言おうとしているのかも。

 

 

「――――遠野志貴を殺した、俺への復讐か?」

 

 

今まで決して出すことのなかった言葉で、彼女へと問う。驚きもない。悲しみもない。あるのはただ単純な確認。いつかの公園でもした問い。彼女は言っていた。フクシュウが自分の目的だと。遠野志貴を殺した自分へのフクシュウ。そのために彼女が生きてきたのなら、叶えてやってもいい。どうせ死ぬことは変わらない。誰に殺されようが、関係ない。殺すと言うのなら黙って殺されてやろう。だが

 

 

「……? いいえ、違います。確かにあなたにフクシュウしたいのは本当ですけど、それに志貴様は関係ありません」

 

 

琥珀は本当に自分が何を言っているか分からない、と言った風に答える。だが同時に初めて自分の中に疑問が生まれる。一体彼女が何を考えているのか。それ以外に、自分に復讐理由など彼女にはないはずなのに。

 

 

「……どういうことだ。君は、遠野志貴が好きだったんじゃないのか」

「志貴様を……ですか? どうでしょうか。わたし、好きってことがよくわかりませんから。ただ、窓を見下ろしても、もう志貴様がいないことに気づいた時は、よくワカラナイ気持ちがしましたけど……別にそれであなたを恨んだりはしていません。そんな資格は、わたしにはないですから」

 

 

淡々と、それでも未だに掴めない何かがあるのか彼女は自らの心の内を明かす。言葉にすることで、自分の気持ちを確認するかのように。そうしなければ、自分ですら理解できないかのように。

 

 

「だから、あなたにフクシュウするのはあなたがわたしを壊したからです」

 

 

琥珀は明かす。その理由を。八年前から続く、自分が生きてきた理由を。

 

 

「あなたが志貴様じゃないって分かったのは、あなたがそう言ったからだけじゃないんです。あなたは、わたしと同じだと思ったから」

「…………同じ?」

「はい。あなたは人形でした。この部屋に連れてこられてから、わたしに気づくこともなく、そこにいるだけ。何も見てませんでしたし、何も聞いてない。わたしよりも、ずっと人形らしい人形でした」

 

 

それに返す言葉はない。何故ならそれは事実だったから。あの時の自分は、ただの人形だった。今の自分と同じか、それ以上に。琥珀から見てそうだったのなら、間違いなくそうだったのだろう。でも分からない。それがどうして、彼女を壊すことになるのか。

 

 

「わたしはきっとあの時、嬉しかったんだと思います。わたしと同じ人がいるんだって。だからきっと、わたしのことを分かってくれるだろうって」

 

 

同じだから、と彼女は言った。だから彼女は嬉しかった。自分と同じなら、きっと自分を分かってくれる。理解してくれる。肯定してくれる。そうすれば、ひとりぼっちでなくなる。そんな子供の思考。

 

 

「でも、あなたは急に苦しそうに蹲ってしまった。そこで気づいたんです。あなたはまだ、知らないんだって。人形なのに、自分が人形だって気づいてないんだって。だから、教えてあげないとって思ったんです。自分が人形だと思えば、イタくないって」

 

 

だからこそ、彼女は自分に教えてくれようとした。人形になればイタくないと。まるで自分が知っている知識を見せびらかす子供のように。そうすれば、自分を認めてくれると信じて。だが

 

 

「でも、あなたはそれを聞いてはくれませんでした。それどころか、よく分からないことを言って来たんです」

 

 

そこに、わずかな淀みがある。今まで感情を感じさせない彼女の言葉に初めてノイズが混じる。同時に、自分の脳裏にも蘇る。まるで、長い間思い出すことができなかった。思い出すことを拒んでいた記憶が。言葉が。

 

 

「『そんなことをしても痛みはなくならない。わたしは人間だから、人形にはなれない』それが、あなたの答えでした。おかしいですよね。人形のあなたから、そんなことを言われるなんて。わたしはただ、そうだって言ってほしかったのに……あなたは、真逆のことをわたしに突きつけました」

 

 

明確な拒絶と否定。同時にそれは彼女がようやく見つけた生き方の否定でもあった。

 

 

思い出す。それは、否定ではない。ただの嫉妬であり、事実。

 

 

ただ羨ましかった。妬ましかった。人間の、自分がある彼女が。同時に許せなかった。自分が必死に人間の振りをしてるのに、人間のくせに人形になろうとしている彼女が。

 

 

「それから、あなたは何も言わなくなりました。わたしも、何も言わずにただそこにいるだけ。でも、ずっと分かりませんでした。あなたが何を言っているのか。わたしは人形なのに、どうしてそんなことを言うんだろうって。あなたは人形なのに、どうして人間になりたいのか」

 

 

琥珀は理解できなかった。人形の方がいいのに。イタくないのに、どうして人間になりたがっているのか。そんなこと、できるはずがないのに。でも、もし本当にそんなことができるのなら。もしかしたら――――

 

 

「きっと、八つ当たりだったんだと思います。わたしはあなたを認めなくない一心で、一番のお気に入りのリボンを渡しました。もう、覚えていないかもしれませんけど」

 

 

『もし、あなたが人間になれたら、わたしも――――』

 

 

それが彼女の抵抗であり、願い。もし自分が、人形である自分が人間になれたらリボンを返してほしい。自分ができるなら、彼女も人間に戻るから、と。

 

 

「あなたが有間に預けられてから、わたしはずっと人形として生きてきました。そうすれば、イタくなくなりましたから。でも、違うんです。あなたの言葉を思い出すたびに、イタくなるんです。せっかく人形になれたのに、あなたのせいでわたしは、イタく、なる」

 

 

彼女は告げる。イタいと。せっかく人形になればイタくないと分かったのに、自分のせいでそれがおかしくなると。壊れてしまうと。

 

 

「なのに、八年ぶりに会ったあなたは別人みたいに変わっていました。本当に人間になれたみたいに。わたしはあんなにイタかったのに、あなたは楽しそうにしている」

 

 

八年ぶりの再会。そこで琥珀は目にする。自分を壊した相手が楽しそうにしているのを。そのせいで、自分が壊れてしまったのに。気づくこともなく。気づいて、欲しかったのに。

 

 

「だから思ったんです。あなたにフクシュウしようって。人間の振りをしているあなたを、人形に戻してやろうって。初めは遠野の家にフクシュウするために動いていたはずなのに、いつの間にか、あなたへとフクシュウの方が、わたしの中で大きくなっていたんです」

 

 

それが理由だった。八つ当たりでしかない、馬鹿馬鹿しい理由。それでも彼女にとっては、自らの存在理由に足る答え。初めのフクシュウが、いつの間にか違う物にすり替わってしまう程に。

 

 

「わたしは、本当にあなたのことが憎かったんだと思います。あなたがやってくるのを待っている間、ずっと考えていたんです。どうやってフクシュウするか。同じ目に合わせてやろうかって。八年前の約束を突きつけて、あなたを絶望させてやろうかって」

 

 

琥珀は思い出す。彼が下りてくるバス停の前で待っていた時のことを。ただ待ち続けた。本当なら有間家に直接行きたいのを我慢して。ただ彼を待ち続けた。フクシュウするために。

 

 

「なのに、おかしいですよね。あなたを見た瞬間、全部どうでもよくなっちゃったんです。何でそんなことを考えてたのか。そもそもフクシュウすることも、わたしはずっと忘れていました。何ででしょう。わたし、は、ずっとそうしようと思って、動いてきたのに――――」

 

 

反転する。憎しみが、反転する。いや、そもそも彼女の感情は反転すらしていない。これはただの間違い。彼女は、自らの感情の正体を知らなかっただけ。

 

 

かつて蛇が姫君への感情を堕落だと誤解したように、彼女もまた自らの感情が違うものであることに気づかなかった。もし、それが教えられていれば――――

 

 

「――――」

 

 

言葉も出ない。ただ彼女の独白を聞き続けるしかない。だが知らず身体が震えていた。何故か分からない。だが、自分が動揺していることが分かる。そんな物が、まだ残っていたなんて。同時に恐怖する。自分が、何かとんでもない間違いを犯していたのではないかと。

 

 

「……っ!?」

 

 

瞬間、弾けるようにマスクを取り目を開く。それは臭いだった。嗅ぎ慣れた臭いがしてくる。間違いなく、彼女の方から。その証拠に、一定のリズムで喋っていた彼女の言葉にズレが出ている。目を見開いた先には

 

 

「あ、バレちゃいましたか。本当はもうちょっと隠しておくつもりだったん、ですけど……」

 

 

いつもと変わらない笑みを見せながら、血に染まった着物を身に纏っている彼女の姿があった。

 

 

「お前……これは……!?」

 

 

それ以上言葉はいらなかった。見れば分かる。それは彼女の血だった。腹部から、どうしようもないほど赤い血が流れている。着物が染まっている。見た瞬間に悟った。もう、助からない。死の線が、点が、彼女を蝕んでいる。逃れることができない死がそこまで迫っている。それなのに彼女は笑っている。喋っている。いつもと変わらず、人形のように。まるで本当にイタくたいかのように。

 

 

「どういうつもりだ!? 何で……何でそこまでして俺を助けた!? お前は、俺に復讐したかったんじゃないのかよ!?」

 

 

死の線によって自分は彼女に触れられない。できるのは見ていることだけ。だがそれでも叫んでいた。何故そんなことをしているのか。自分を助けるために、死にそうなくせに。どうして復讐したい相手を助けているのだと。どうして、こんな自分のために――――

 

 

「あはは、そうですね。本当に何してるんでしょうか、わたし。でも、いいんですよ志貴さん。わたし、イタくありませんから。ただ壊れかけの人形が元の姿に戻るだけです」

 

 

死の間際にいるにも関わらず、彼女は笑っている。それ以外に、感情を表現できない。

 

 

ただ、祈るように自分は琥珀の顔を見てやることしかできない。死に染まった目のせいで、彼女の顔が、真っ直ぐ見れない。それでも、視線を逸らさずに。

 

 

瞬間、何か温かい物が頬に触れる。細い、美しい指。同時に次第に熱を失って行く、彼女の手。

 

 

「志貴さん……泣いてるんですか。よかったです……約束、守ってくれたんですね」

 

 

彼女は笑う。彼が人間になれてよかったと。リボンは返してもらえなかったけれど、それだけで十分だと。

 

 

だがそれは、違っていた。彼は、涙を流していない。涙を流しているのは彼女の方。その視界が涙でゆがんでしまっているだけ。手の感触がもう、ないだけ。

 

 

「――――琥、珀」

 

 

彼は彼女の名を口にすることしかできない。それしか、できない。涙を流すことが、できない。

 

 

「あ……初めて、呼び捨てにしてくれましたね……志貴さん」

 

 

そんなどうでもいいことに、彼女は嬉しそうにしている。もう目も見えていないはずなのに、刻一刻と命が失われていく最中で、彼女にとってはそのことの方が嬉しかった。

 

 

「嬉しいです……実は、ちょっと翡翠ちゃんが、羨ましかったんです。だから……」

 

 

彼女はその眼に涙を流しながら笑う。いつもと同じように、それでも救われたと。涙の色は透明ではなく、深紅。人形ではない、人間である証。そんな当たり前のことに気づきながら、それでも彼女は変わらない。いや、違う。変わらないのは――――

 

 

「志……貴…………」

 

 

いつか冗談で言っていたように。二人きりの時なら許されると。彼女は彼の名を呼びながらそのゼンマイを使い切る。人形ではなく、彼女が人間に戻った瞬間だった――――

 

 

 

 

「――――」

 

 

ただその姿を目に焼き付ける。きっと、自分は忘れられない。この死を。あるのは後悔だけ。だがもう、遅い。もう彼女は戻ってはこない。その左手には、白いリボンがある。持っていたのに、返すことができなかった約束。

 

そもそも、最初から自分にはこのリボンを返す資格はなかった。初めから、人形の自分が、人間になれるはずがなかったのに。

 

ふと、手で頬に触れる。そこには人間であればあるはずの涙がない。涙を、自分は流すことができなかった。彼女のために涙を流すことができなかった。自分が、人形である証。

 

あった。全部あった。自分が欲しい物が、すぐ傍に全部あった。自分を知ってくれている人が、自分を思ってくれていた人が、自分が求めていた物があった。

 

なのに、全てを失くしてしまった。自分が壊してしまった。

 

自分は、一度も彼女と向き合えなかった。彼女は自分にずっと言葉をかけていたのに、触れようとしてくれていたのに。

 

 

――――ああ、そうか。

 

 

つまり、全ては遠野志貴のせいではなく、蛇のせいでもなく。遠野志貴の殻を被っていることを理由に、全てから目を逸らしていた自分のせい。

 

 

――――なんて、無様。

 

 

結局、あの時、間違えていたのは自分で、正しかったのは彼女だったのか。

 

 

理解しながらも、何故か悲しかった。彼女の言葉を認めることは、彼女との約束を破ることなのだから。

 

 

瞬間、右手のナイフで左の掌を貫く。物を刺すように一切の躊躇いなく。同時に赤い液体が流れ出す。借り物の体から、命の滴がなくなっていく。

 

でも、イタくない。人形である自分は、イタくない。元々がそうなのだから。人形である自分が何かを感じる道理がない。何かを思う資格もない。

 

認めた瞬間、痛みが無くなって行く。消え去っていく。

 

 

体は脈打つのを止め。

 

血管は一本ずつチューブになって。

 

血液は蒸気のように消え去って。

 

心臓もなにもかも、形だけの細工に、なる。

 

人間の振りをしていた自分が、元に戻って行く。

 

意味を持たない、空の容れ物。

 

 

もう一度だけ、彼女の姿を見る。安らかに眠っている、彼女。その胸には白いリボンがある。生きている間に返すことができなかった、約束。

 

 

壊れかけている人形の、哀れな末路。どっちが人形で、どっちが人間だったのか。そもそも、始まりは何だったのか。

 

 

分かるのはただ一つだけ。自分はきっと、この時の光景を忘れはしない。摩耗し、自分が誰か分からなくなっても。

 

 

地獄に落ちようとも、鮮明に思い出すことができるだろう――――

 

 

 

 

ナイフを握りながらドアへと向かって行く。先には死がある。だが構わない。自分は人形だから、何も怖くはない。

 

手を切られても、足を削られても、身体を穿たれても、頭を砕かれても。きっと耐えられる。今の自分なら、できる。死を受け入れながらもできなかったことを。

 

 

知識はある。身体はある。武器はある。だが経験が、ない。

 

 

ならどうすればいい。決まってる。考えるまでもない。繰り返せばいい。何度でも、殺されながら、戦えばいい。経験を積めばいい。一度で駄目なら二度。二度で駄目なら三度。それでもだめなら何度でも。この身は、ただそれだけのためにある。

 

 

痛みと共に、心を失くしていく、削っていく。きっと、自分が誰かも分からなくなって、自分はいなくなる。

 

 

『蛇を殺す』ためだけの人形になる。

 

 

でも、構わない。彼女を――――できるなら、構わない。

 

 

 

 

 

――――鮮血が宙に舞う。月明かりによって、血飛沫がシャワーとなり降り注ぐ。

 

 

死者はただ何が起こったのか分からず、自らの手があった場所を見つめている。ただの確認作業。彼らに知性はない。それでも、目の前の光景に固まってしまったのは彼らがヒトであったことの証明。

 

 

そこには人形がいた。手に一本のナイフを持った人形。だがおかしい。先程まで死者は人形の首を掴んでいた。にも関わらず。両手がなくなっている。落としてしまっている。まるで最初からなかったかのように手首から解体されている。

 

 

蒼い双眼が死者を射抜く。瞬間、死者は一歩後ずさった。そんなことがるはずもないというのに、もう既に死んでいるというのに。死者は、死を恐れた。

 

 

目の前にいる人形が、自分にとっての死神なのだと。

 

 

「――――!!」

 

 

声にならない声を上げながら死者は駆ける。手はない。ならばその牙で喉元に食らいつき、血を奪う。そうすれば、目の前の人形も同じ物になる。自らの主である、蛇の命となる。

 

 

だが死者は知らない。目の前の人形もまた同じなのだと。操られる物同士。違うのは

 

 

人形が、蛇を殺すためだけに生み出された天敵であるということだけ。

 

 

「―――――?」

 

 

失くなった。視覚が、聴覚が。全てが無に環っていく。牙は届いていない。紙一重のところで、避けられている。まるでそうなるのが分かっていたかのように。寸分の狂いもない正確さと無駄のなさ。身体のこなしですら、機械的。

 

 

これは当然の道理。数えきれない反復の賜物であり、それ以外を全て捧げた代償。

 

 

『未来死』

 

 

それがソレの能力であり起源。自らの死を経験し、他人の死を体験してきたからこそ視えるもの。いつか蛇に死を与えるためだけのもの。

 

 

右手のナイフが寸分狂わず死者の死の点を穿つ。力も必要ない。ボタンを押すかのような自然さで、容赦なく死の塊を殺す。

 

 

何も感情はない。感慨もない。あるのはただ目的のために動くことだけ。それ以外の事は全て必要ない。無駄はもう、いらない。

 

 

消滅していく死者を見届けた後、そのまま月を見上げる。理由は特にない。今夜は、月が綺麗な夜だったから。

 

 

今の自分が死を見ないで済む、唯一の世界。

 

 

月明かりと、二つの蒼色だけが夜の街に消えていく。右手にはナイフがある。左手にはもう、何もない。

 

 

それが『遠野志貴』が目覚めた瞬間。始まりと終わりを意味するものだった――――

 

 

 

 



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第十四話 「月世界」

――――ふと、目を覚ました。

 

 

辺りには何もない。自分が横になっていたベッドだけ。それ以外は何もない、殺風景な部屋。ただ寝るためだけの、それ以外の用途のない場所。

 

 

そのまま無造作に立ち上がる。同時に、自らの性能を確認する。全て、異常なし。衝動はあるが、抑えきれないレベルではない。自らの役目を果たすために、ただそれだけのためにこの身はある。

 

それがわたしが作られた理由であり、存在理由。それ以外の物はいらない。

 

だってそれは無駄なこと。それはきっと、身体を鈍らせる。だから切り捨てる、洗い流す。

 

眠りすら、作業でしかない。夢など見ない。寝ている間に見るのは瞼の裏だけ。そも眠る必要すら自分にはない。体力の回復は純粋な時間経過だけでいい。

 

自らの両手を見つめながら、悟る。これが、最後の機会。もう、次はない。明確な事実。だからこそ、これまでと変わらずわたしは繰り返す。ただ、そう在り続ける。

 

死者を狩り、城を見つけ出し、蛇を滅する。ただそれだけ。三日もあれば、終わるであろう作業。今まで十数回、繰り返して来たこと。

 

ふと、空を見上げる。そこには変わることないわたしがいる。千年前から変わることのない、月。

 

その明りに照らされながら、部屋を後にする。その先にあるものは変わらない。今までと同じ繰り返し。それでも、もう次はない最後の刻。それでも、彼女は変わらない。

 

 

『アルクェイド・ブリュンスタッド』は舞台に上がる。最後の舞台へ。その先に何があるか、未だに知らぬまま――――

 

 

 

 

厳かさを感じさせる食堂。本来なら中央にある大きなテーブルで大人数で食事をするはずの場所。しかし今は、一人の少女が静かにその場を支配していた。

 

遠野秋葉。

 

遠野家の長女であり現当主。学生の身でありながら既に彼女は完成している。所作も、振る舞いも、誰しもが当主足ると認めざるを得ない。窓から差し込んでくる朝日が彼女の長い髪を照らし出し、どこか幻想的な光景を作り出している。まるで、髪が朱くなっているかのように。

 

だが、完璧である彼女にも今はわずかな陰りが見える。その表情には確かな憂いが浮かぶ。

 

 

「――――琥珀。今日も兄さんは体調が優れないの?」

 

 

一度、食後の紅茶に口にした後、視線を向けながら秋葉は問う。それを証明するように、秋葉の前には本来いるはずである人物がいない。あるのは無人の椅子だけ。

 

遠野志貴。遠野秋葉の兄であり、普段であれば朝食を共にするはずの存在。彼が家に戻ってきてから一週間近く経つが、結局朝食を共にできたのは数回。彼が朝に弱い、というのも大きな理由だが、何よりも最近は体調が優れていないのが原因。秋葉自身も何度かお見舞いに行ったが兄の不調は明らかだった。元々、彼は貧血、眩暈持ちでもある。しかし、このままずっと続くようなら何か手を打たなければならない。秋葉は、誰よりも兄の体が常人とは違うことを理解しているのだから。

 

 

「はい。まだ起きるのは難しそうです。でも、昨日よりは良くなっていると思いますよ。あと数日は安静にしているのがよいかと」

 

 

琥珀はいつもと変わらぬ笑みを浮かべながら秋葉へと答える。秋葉はそんな琥珀の姿に一度目をやりながらも目を閉じる。琥珀は遠野志貴の付き人であると同時に、その体調管理も任されている。事実、薬剤師の資格も持っており、秋葉自身の体調管理も一任している。だからこそ、一瞬秋葉は迷う。このまま、琥珀に任せていいのかと。琥珀が、兄に危害を加えるとは考えにくい。あるとすれば、自分に対して、遠野の家に対してだろう。琥珀がそれを望むなら、構わない。彼女には、その資格があるのだから。

 

 

「そう……一度、顔を見に行ってもいいかしら。昨日は結局一度も顔を見ることができなかったのだけれど」

「そうですね……ですが、おやめになった方がよろしいかと。志貴さんも、弱っているところは秋葉様には見られたくないと仰っていましたし。今朝はよく眠られていますから、そっとして差し上げた方がいいと思います」

「……分かったわ。琥珀、兄さんのこと宜しくね」

「はい。お任せ下さい、秋葉様」

 

 

一度、兄の姿を見ておきたい衝動にかられるも、琥珀の言葉で思いとどまる。誰であっても、床に伏せている姿は見られたくないものだ。事実、おととい目にした兄の姿は痛々しいものだった。明らかに、自分がその場に行くことで余計な負担をかけてしまうと悟ってしまうほどに。なら、もう少し体調が戻ってからの方がいいだろう。自分では、兄の苦痛を和らげることはできないのだから。だがもし、兄の体調不良が―――によるものなのだとしたら――――

 

 

「じゃあそろそろ行くわ。翡翠、用意を」

「はい。秋葉様」

 

 

全ての憂いを振り払うように、優雅にその場に立ち上がりながら遠野秋葉は食堂を後にし、学校へと向かう。食堂の入口で控えていた翡翠も、流れるように後についていく。いつもと変わらない朝の風景。違うのは、新しくやってきた、戻ってきた少年の姿がないことだけだった――――

 

 

朝食の後片付けを済ませ、琥珀はそのまま何をするでなく立ち尽くしていた。知らず、今は主がいない、彼の席の前にいるだけ。

 

つい最近まで、彼はここで食事をしていた。きっと彼にとっては苦痛以外の何者でもなかったであろう秋葉様との会食。それでも楽しかった。困った顔をしながらも、秋葉様の嫌味と言う名の好意に晒され、わたしのからかいにも応えてくれていた。でもそれが今はもう遠い昔のことのよう。

 

 

「志貴さん…………」

 

 

どうして、こんなことになってしまったんだろう。何が間違っていたのか。そもそも自分は何をしたかったのか。何故こんな気持ちになるのか。彼が苦しんでいる姿。動くことができず、昔に戻って行く彼の姿。それは、自分が望んでいた物。わたしのフクシュウだったはず。なのに、どうして――――

 

 

「――――姉さん、何をしているの?」

「翡翠ちゃん……?」

 

 

いつの間に戻ってきていたのか。翡翠ちゃんの声でようやく現実に引き戻される。振り向けば、いつもと変わらない無表情でありながらも、わずかに不安そうな色を隠し切れていない妹の姿。きっとそれがわたしと翡翠ちゃんの違い。わたしが演じる『翡翠』では、無表情はできても、その上に感情を重ねることはできない。

 

 

「ごめんね、ちょっとぼーっとしてたみたい。翡翠ちゃんはこれからお掃除ですか? ならわたしは志貴さんの看病に」

 

 

すぐさまいつも通りの自分を取り戻し、そう誤魔化そうとするも

 

 

「……姉さん、やっぱり志貴さまはまだ戻られてないのね」

 

 

そんなわたしの嘘を簡単に、翡翠ちゃんに見破られてしまった。

 

 

「……翡翠ちゃん、知ってたんですか?」

「ええ。昨夜、有間の家から電話があった後に、志貴さまがお屋敷を出て行くのを見たから。朝、お部屋にいらっしゃらなかったのも」

「そうですか。じゃあ秋葉様も……?」

「秋葉様は御存知ないわ。でも、いつまでもは誤魔化せない。それは姉さんが一番分かってるでしょう?」

 

 

翡翠ちゃんの言葉は全て正しい。どれをとっても反論できないもの。でも何だがおかしい。いくら慌てていたといっても、こんなに簡単にバレてしまうほど、わたしは分かりやすくなかったはず。いつものわたしなら、こんなに動揺しないはず。まるでそう、これではまるで。わたしは、まだ彼が帰ってきていないことを認めたくないかのよう。

 

 

「志貴さまは、都古さまを探しに行かれたんでしょう? なのにどうして……都古さまはまだ見つかってないの?」

「ううん、都古ちゃんはきちんと家に戻ってこられたって連絡があったの。志貴さんも、一緒だったって」

 

 

琥珀は語る。事の顛末を。彼がマスクをせず、ナイフを手にして屋敷を飛び出した後、しばらくして有間の家から再び連絡があった。彼が都古ちゃんを見つけ、家に送り届けてくれたと。そのまま彼は、帰って行ったと。わたしは安堵するしかなかった。どうやって都古ちゃんを見つけたのかは分からない。どうしてナイフを持って行ったのかも分からない。でも構わない。彼が戻ってきてくれるなら構わないと。

 

 

しかし、どんなに待っても彼は戻ってこなかった。今に至るまで。

 

 

「志貴さまは、有間の家に戻られたんじゃないの……?」

「わたしもそう思ったんですけど、やっぱり違うみたい……あの人がどこに行ったのか、わたしには、分からない……」

 

 

分からない。それが、今の私。彼が何を考えていたのか。どこに行ってしまったのか。そもそも彼が本当にいたのかすら、曖昧だ。

 

だって仕方ない。わたしは、わたしのことですら分からない。ちゃんとゼンマイの通りに動いてきたはずなのに、いつの間にかズレてしまっている。フクシュウのために動いていたはずなのに、彼がいなくなって、初めてそのことを思い出した。

 

一体いつからだったのか。始まりは何だったのか。分かるのはただ一つ。わたしはもう、その答えを得る機会を永久に失ってしまったと言うことだけ。

 

ふと、その手に触れる。

 

真っ白なリボン。わたしが彼に贈った約束。八年ぶりに、自分の元に戻ってきた物。なのに、何の意味も持たない繋がり。

 

彼はこれを八年間持っていてくれた。でも、それを返してはくれなかった。リボンを手にしながらも、それを置いたままいなくなってしまった。きっとそれが彼の答え。彼は、人間にはなれなかった。当たり前だ。人形が、人間になることなんてできるわけがないのに。それでも彼はそうなりたかった。なれると思いたかった。

 

ならわたしはどうだろう。わたしは、彼がどうなるのを望んでいたのだろう。彼に、人間になってほしかったのか。それとも、わたしと同じ人形になってほしかったのか。

 

 

「――――姉さん」

 

 

不意に、翡翠ちゃんの声が聞こえる。またぼーっとしてしまっていたらしい。これでは、まるで彼のようだ。考え事すると周りの声が聞こえなくなる悪い癖。でもわたしは、そんな彼の癖が嫌いではなかった。だって、その間、わたしは彼の姿を―――

 

 

「……? どうしたの、翡翠ちゃん?」

 

 

琥珀は何かに言葉を失っている翡翠の姿に首をかしげるしかない。彼女は気づかない。自分が、その瞳から涙を流していることを。いつかと同じように。本人が気づかぬまま。透明な涙が、頬を伝っている。変わらぬ、いつもの笑みを浮かべながら。それでしか、自らの感情を表現できないかのように。笑いながら、泣いている姉の姿。

 

 

「――――姉さんは、どうしたいの?」

「……え?」

 

 

それを前にして、翡翠は問いかける。今まで決して問うことのなかったもの。いつからだったのか、自分と入れ替わるように誰かを演じてきた姉。それが、壊れようとしている。あるべき姿に、戻ろうとしている。それがいいことなのか、悪いことなのか翡翠には分からない。あるのはただ一つだけ。

 

 

「『琥珀』である姉さんは……どうしたいの?」

 

 

『翡翠』ではない『琥珀』としての姉はどうしたいのか。ただそれだけ。

 

 

八年前から止まってしまっている時間を、どうするのか。

 

 

「わたし、は…………」

 

 

琥珀はその問いに対する答えを持たない。まだ、持っていない。それを知っていながらも、翡翠は突きつける。これを逃せばきっと、姉は二度と自分を取り戻せないと分かっているから。

 

 

そのまま静かに翡翠は去っていく。もうそれ以上言葉は必要ないと告げるかのように。自らの感情を抑えたまま。

 

 

後には知らず、涙を流したままの少女だけが残されるのだった――――

 

 

 

 

 

「いや、すまないね。本当ならもっと静かな所で打ち合わせがしたかったんだが」

 

 

頭を掻きながら、初老を感じさせる男性は罰が悪そうにそう謝罪する。本当に慌てているのか、身につけているスーツも乱れている。お世辞にも、教職として模範と言える姿ではないが、男性はまごうことなく教師だった。その証拠に辺りはせわしくなく多くの教員が行ったり来たり。職員室、しかも授業の合間であることもあり、ちょっとした戦場だった。

 

 

「いえ、お気になさらずに。お忙しいのに無理を言ってお邪魔させてもらっているのはわたしの方ですから」

 

 

そんな教師をねぎらうように、少女は笑顔を見せる。眼鏡をしていることも相まって、どこか見る人に安心感を与える朗らかさ。制服姿であっても、優れたプロポーションは隠し切れていない。間違いなく、男であれば見惚れない者はいないであろう美女。

 

 

「そう言ってもらえると助かるよ。シエル君」

 

 

シエル。それが彼女の名前。およそ日本で聞くことはないであろう名前でありながらも、教師は全く気にすることはない。気にすることができない。

 

 

「だが珍しいよ。留学生で日本に来てるのに、ボランティアでうちにまで来るなんてね」

「そうですね。でもわたし、ずっと興味があったんです。目が見えない学生さんがどんなふうに勉強されているか。少しでも、お手伝いができればいいなと」

 

 

シエルは微笑みながら、教師へと視線を向ける。眼鏡の奥の瞳と、教師の瞳が交差する。それによって、シエルは異物ではなくなる。何の違和感もなく、この場に溶け込むことができる。

 

『暗示』

 

それが彼女が行っている異能。瞳から相手へ直接働きかける代物。それによって、この職員室にいる全ての人は彼女に疑問を抱かない。明らかに日本人ではない容姿も、名前も。当たり前にこととして処理される。例え転校生と偽ってもばれることはないが、あえて留学生としたのはここが普通の学校ではなく、目が不自由な人達が通う学校であったから。いくら暗示が優れていようと、目が見えている自分がそこに紛れるのは大きな違和感を覚えられかねない。加えて、学生は目が見えない人達。彼女の暗示は通用しない以上、留学生のボランティアとするのが無難だと彼女は判断した。

 

 

(とりあえず問題はなし……死者も、魔術的な痕跡も今のところは感じられない……後は……)

 

 

シエルは思考を巡らせる。既に校内の案内は済み、施設の確認はできている。結果は白。ここが、蛇の根城である可能性は極めて低い。だが、それだけでは何の意味もない。まだ、確認しなければならない最も重要なことがある。それは

 

 

(遠野志貴……この辺りで最も大きな家柄であり、異能を持つ一族。その長男。奴なら、間違いなく彼か、彼に近しい者に降りるはず……)

 

 

この学校の生徒である、遠野志貴に接触すること。それがシエルの真の目的。自らの怨敵である蛇が転生した可能性が高い人物。裕福であり、資質があることが蛇が転生体を選ぶ条件。彼以上に適切な候補はない。妹もいるようだが、蛇は男性体の方を好む。蛇自身が男性であることもその理由。

 

だが不用意に接触すれば取り逃がしてしまう可能性も高い。その名の通り、蛇のようにロアは用心深い。加えて城で戦うようなことになれば、いかに自分でも分が悪い。そのため今回は彼が蛇であるか否か。それを確かめることこそが優先課題。そのために準備をし、彼のクラスに関われるよう手配した。後は―――

 

 

「ああ、そういえば……一つ謝らなければいかんな。すまんな、シエル君。君の相手を遠野にしてもらうつもりだったんだが、遠野は数日前から急に休学してしまってね」

「休学、ですか……? 何でまた……」

 

 

思わず声を上げてしまいそうになりながらも何とか平静を保ち問いかける。何故ならあまりにも出来すぎている。自分が接触しようとした最中の休学。偶然で片づけるにしては明らかに度を越している。まるで、自分がここに来ることを予見していたかのような――――

 

 

「いや、私も詳しいことは分からんが……何でも家庭の事情らしい。元々身体が弱い所もあったから、そっちが本当の理由かもしれんな」

「そうですか……確か彼は今は、有間という家に預けられているはずでしたね」

「ああ、そうだったな。何でも遠野の家からは勘当されて……ん? 何で、私はこんなことを話してるんだ……?」

「いえ、何でもありませんよ。ただちょっと、彼のことが気になっただけですから」

 

 

不用意に遠野志貴のことを探ろうとしたからか、わずかに暗示に隙ができかけたがすぐに修正する。何にせよ、このままここにいても何の益もない。方針を切り替えなければ。有間の家か、遠野の家か。どちらにせよ接触の方法を考えなければならない。そう思考を切り替えようとした時

 

 

「そういえば……シエル君。その遠野から君宛の手紙を預かっているぞ。これだ」

 

 

教師が、思い出したかのように机の上に置いてあった一つの封筒を渡してくる。真新しさから、つい最近出された物だと分かる程。

 

 

「遠野君から……ですか? わたし宛に……?」

「そうだ。今朝、学校のポストに投函されていてな。君へ渡してほしいとメモが張られていたんだが……君と遠野は知り合いだったのか?」

「……はい。すいません。言いそびれちゃってました。他には何か預かってますか?」

「いいや、これだけだ。確かに渡したからな」

 

 

そのまま教師の手から封筒を預かる。同時にそれに何か仕掛けがないか看破する。結果は何もなし。魔術的な仕掛けも、物理的な危険もない。それでも警戒を怠ることなく封筒を破る。当然だ。まるで自分がここに来ることを予見していたかのような振る舞い。まだ自分は彼と接触すらしていないのに、どうやって。だがそんな疑問はさらに深まることになる。

 

 

「…………」

「どうしたんだ。何か変なことでも書いてあったのか?」

「いえ、何でも。ありがとうございました、お手間を取らせてしまって」

「おいおい、もう帰るのか? 遠野はいないが、他にも学生は」

「すいません。わたし、用事を思い出しちゃったんです。このお詫びはまた必ず。失礼します、先生」

 

 

頭を下げながらシエルは職員室を後にする。まるで、初めから存在しなかったように教師も、ほかの教師達も動き出す。もう、誰も彼女を覚えている者はいない。

 

残っているのは破かれた封筒だけ。その中身は彼女の手の中にある。その内容も単純明快なもの。

 

 

『今夜、十二時、指定シタ場所デ君ヲ待ツ』

 

 

まるで機械が書いたかのように、無機質な逢引の誘い。

 

 

その意味を知らず、彼女はただ誘われるがままに学校から姿を消すのだった――――

 

 

 

 

 

――――ふと、目を覚ました。

 

辺りには何もない。自分が横になっていたベッドだけ。それ以外は何もない、殺風景な部屋。ただ寝るためだけの、それ以外の用途のない場所。

 

あるのは無造作に散乱している買い物袋の山。食料品と飲料水。

 

そのまま機械的に立ち上がる。同時に、自らの性能を確認する。全て、異常なし。眠気はあるが、抑えきれないレベルではない。原因は机に転がっている睡眠薬。朝服用し、夜目覚める。それが最善。身体が覚えている。目覚まし時計のように、どれだけ飲めば、いつ目覚めるかなど考えるまでもない。そもそも、これがなければ自分は、眠ることができない。目を閉じていても、自分は眠りに就くことができない。何故なら―――

 

 

無駄な思考を切り捨てながら、目を閉じる。もう、マスクは必要ない。ただ目を閉じるだけ。今はまだ、目を覆う物はない。あれ以外で、眼を覆ったとしても意味はない。だが問題ない。あと数日なら、持ちこたえれる。

 

自らの役目を果たすために、ただそれだけのためにこの身はある。

 

それが俺が生まれた理由であり、存在理由。それ以外の物はいらない。

 

だってそれは無駄なこと。それはきっと、身体を鈍らせる。だから切り捨てる、洗い流す。

 

眠りすら、作業でしかない。夢など見ない。寝ている間に見るのは記録だけ。

 

自らの両手を見つめながら、悟る。これが、最後の機会。もう、次はない。明確な事実。だからこそ、これまでと変わらず俺は繰り返す。ただ、そう在り続ける。

 

死者を狩り、城を見つけ出し、蛇を滅する。ただそれだけ。ただそれだけのことができず、繰り返して来た。もう、何度目なのか。きっと、数えるだけ無駄だろう。

 

ふと、空を見上げる。そこには変わることない月がある。いつか、魔法使いを待ちわびて、見上げていた月。あれから、どんなに摩耗しても変わることのない、一。

 

その明りに照らされながら、部屋を後にする。その先にあるものは変わらない。今までと同じ繰り返し。それでも、もう次はない最後の刻。それでも、彼は変わらない。

 

 

『遠野志貴』は舞台に上がる。最後の舞台へ。その先にあるのが、死であることを知りながら――――

 

 

 



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第十五話 「確信」

日は落ち、時刻は間もなく零時。日付が変わらんとしている。それでも街からは光が消えることはない。繁華街には未だ、人々が行き交い賑わっている。電気という光があれば、時間など無意味だと示すように。かつて夜は月と星だけが頼りだったというのに、もう誰一人空を見上げることもない。

 

だが、そんな賑やかな繁華街から離れた路地の一角に月と星の光だけを浴びながら佇んでいる人影があった。

 

場所はビルの屋上。言うまでもなく部外者の立ち入りなど許可されていない。しかしその人影は当然のごとくその場に留まり、風によって纏っている服がたなびく。法衣と呼ばれる聖教者の正装であり、彼女にとっては自らの役割を果たす時に身につけるもの。

 

シエル。

 

埋葬機関の七位であり、吸血鬼を滅する代行者。そこに昼間、学校で見せていたような朗らかさ、甘さは微塵もない。眼鏡もなく、あるのは鋭い眼光だけ。その名の通り、神の教えを代行するためだけの存在。それが今の彼女の裏の姿だった。

 

 

(もうすぐ約束の時間……場所も指定の場所で間違いはない。でも分からない……一体何の目的があるのか……)

 

 

改めて、屋上から指定の場所とその周辺を見渡す。普通なら屋上からであること、深夜であることから視認することなどできないが、彼女にとっては違う。魔術による視覚の強化によって例え離れた場所、暗闇であってもシエルは見通すことができる。その瞳で見渡すものの収穫はなし。未だに何の異常も人影も見えない。もしかすれば誘き出されただけなのではと思考するもシエルにはただその場で待つことしかできない。

 

 

(遠野志貴……やはり、彼がロアの転生先なのか……それとも……)

 

 

シエルが待っている、警戒しているのは遠野志貴と呼ばれる少年。自らが怨敵としているロアの転生先である可能性がある存在。しかしそれだけではなく、彼によってもたらされた一通の手紙がその元凶だった。

 

 

(少なくとも、彼がわたしのことを知っているのは間違いない。何にせよ、接触する必要がある……)

 

 

自分が潜入しようとした先で、まるでそれを予期していたかのように手紙を残す。明らかにこちらの素性を知った上での行動。間違いなく一般人ではありえない。当然手紙に書かれた時刻と場所でそのまま待つような愚策は行わない。どう考えても罠である可能性が高い。そのためあらかじめ約束の時間よりも早く指定の場所を確認している。結果は白。魔術的な要素も、物理的な危険も見られない。本当に自分と接触したいだけなのか、それともただ単に自分をかく乱したいだけなのか。どちらにせよ監視するしかない。今は指定場所が視認できる離れたビルの屋上に待機している。

 

そしてついに時間が訪れる。手紙にあった深夜十二時。日が変わる瞬間。知らず緊張が走る。いかなる状況にも対応できる心構えと共に眼を凝らした瞬間、それは現れた。

 

初老の男性。端から見れば少し疲れたサラリーマン。だがシエルから見れば違っていた。

 

 

(――――死者。ということはやはり)

 

 

死者。吸血鬼に血を吸われ、殺された人間であり、今はロアに血を運ぶだけの操り人形。その挙動と離れた場所からでも感じられる異臭によってシエルは瞬時にその手に己が武器を握りしめる。黒鍵と呼ばれる細剣。埋葬機関の中でも『弓』と呼ばれるほど飛び道具を得意とする彼女が愛用する武器。それを構えながらもシエルは確信していた。やはり罠だったのだと。自分を誘き出し、死者に襲わせる作戦だったのだと。

 

だが逆にこれではっきりとした。間違いなく遠野志貴がロア。死者だけをよこしたのか、それとも本人もどこかに潜んでいるのかまでは分からないがこのまま死者を放置することはあり得ない。例え罠だとしても、それを食い破り相手の喉元まで食らいつくだけ。

 

瞬間、彼女は風になった。響くのはブーツによる反響音だけ。ビルの屋上から他のビルへとまるでピンボールのようにシエルは駆ける。目的地までの最短距離。さながら空を駆けるように瞬く間に両者の距離は縮まっていく。死者は未だに気づいていない。後は先を取り、反撃も逃走も許さぬまま黒鍵で滅するのみ。シエルがその手に力を込めんとした瞬間、あり得ない第三者が姿を見せた。それは

 

 

(あれは――――遠野、志貴?)

 

 

遠野志貴。写真で確認しただけで直接見たことはないが、間違いなく遠野志貴だった。ジャケットにジーンズというラフな格好。だが問題はそこではない。何故今、このタイミングで現れたのか。死者と共に自分を襲うつもりだったのか。だがそれにしては様子がおかしい。遠野志貴はまるで迷うことなく、一歩一歩死者に向かって近づいて行く。ただそれだけ。にも関わらずシエルは踵を返し、その場に留まった。悪寒、直感。そういった類の忌避感。

 

ただ歩いているだけにも関わらず、それは異常だった。歩幅も、リズムも、その全てが均等に整えられた動作。人間味が全く感じられない不気味さ。まるで遠隔操作されている機械人形のような無機質さが遠野志貴の所作にはあった。

 

だがそのリズムが変わる。それは襲撃だった。遠野志貴を視認した瞬間、死者はまるで生贄を見つけたかのように遠野志貴に襲いかかって行く。同時にシエルの思考は一瞬遅れてしまう。当たり前だ。死者が親であるロアに襲いかかることはない。なら遠野志貴はロアではないことになる。考えにくいが、遠野志貴は吸血鬼ではない一般人である可能性がある。それすらも計算に入れて演技している可能性もあるがもはや迷っている暇はない。優先すべきは死者を滅することだけ。しかしそんな彼女の思考は

 

 

――――遠野志貴がその手に得物を持ち、両目を開いた瞬間に止まってしまった。

 

 

それはナイフだった。何の変哲もない、飛び出し式の短刀。なのにそれを手にした瞬間、何かが変わったかのように彼の動きが変化する。その蒼い双眼が晒された瞬間、それは始まった。

 

 

作業。そう形容するしかない程にそれは単調で、一瞬だった。先に動いたはずの死者の両腕が一閃で斬り落とされる。まるで最初からそうであったように、ロボットの腕が取れてしまうように容易くナイフによって解体される。その工程に、死者は気づくことすらできない。ただバランスを崩し、勢いを殺せぬまま無様に遠野志貴の横を転げ落ちんとする。

 

 

だがそれすら遠野志貴は許さない。物を見るような冷たい視線でそれを一瞥した後、振り向きざまにそのナイフを死者の背中に突き立てる。ただそれだけ。死者はみっともなく地に堕ち、そのまま音もなく消滅する。何も残すことはなく、塵となり、無と環える。

 

 

あまりにも自然であるがゆえに、不自然。それが死者が、数秒の間に為す術もなく解体される作業の全てだった――――

 

 

 

 

「――――」

 

 

シエルはその光景をただ眺めていることしかできなかった。言葉もない。理解できない光景に思考が空白になるも一瞬。すぐさま我を取り戻し、現状を把握する。死者は消え去った。いや殺された。他でもない遠野志貴によって。なら彼はロアではないのか。なら何者なのか。自分と同じ、裏の人間か。聖堂教会ではない。なら魔術協会の人間か。だが先の戦闘で魔術は使われていなかった。魔力も全く感知できない。だが問題はそこではない。接触か、撤退か。単純な二択。だがそれは

 

 

「―――っ!」

 

 

遠野志貴の眼と自らの眼があった瞬間に決まった。まだ自分の姿は晒していないにも関わらず、遠野志貴は顔を上げ、自分を見つめている。そう見えるだけかもしれない。しかしシエルは確信していた。間違いなく少年が自分を見ていると。その蒼い双眼に射抜かれているだけで、知らず寒気がする。得も知れない感覚。それを前にして、退くことなどシエルには許されなかった。

 

迷うことなく、風のように舞いながらシエルは遠野志貴の前に姿を現す。月明かりと、纏っている法衣のはためきはどこか幻想的ですらある。しかし、そんな姿を見ながらも遠野志貴は微動だにしない。ただシエルを見つめているだけ。

 

静寂。音のない暗闇だけが辺りを支配する。互いに月明かりだけがわずかな頼り。にも関わらず両者とも曇りなく互いを認識する。

 

 

「――――あなたが、遠野志貴ですか?」

 

 

均衡を破ったのはシエル。その表情にはまったく油断がない。先程死者を前にしていた時よりもその鋭さは増している。間違いなく、死者よりも目の前の少年の方が危険であるのは明白。その証拠に、シエルは遠野志貴との間に大きく距離を取っている。およそ遠野志貴の間合いの二倍。戦闘も撤退もできる距離。手には変わらず黒鍵がある。誰が見ても一触即発の場面。にも関わらず

 

 

「――――さあ、俺にも、分からない」

「……え?」

 

 

全く緊張を見せることもなく、抑揚のない機械のように遠野志貴は応える。そんな予想もしていなかった言葉と、雰囲気にシエルは間抜けな声を上げてしまう。何故なら彼の言葉には全く偽りがなかったから。そう悟ってしまうほどに遠野志貴の言葉には無駄がない。シエルの疑問に対する答えというよりも、独白に近い何か。

 

 

「――――とにかく、ここじゃ話しにくい。近くに公園がある。そこで話そう、シエルさん」

 

 

そんなシエルの胸中など気にする素振りもなく、何故か眼を閉じたまま遠野志貴は歩き出す。無防備に背中を晒したまま。シエルは呆気にとられ、その場に立ち尽くすしかない。当たり前だ。武器を構えている相手がいるのに背中を見せるなど自殺行為。だが遠野志貴は全く気にしていない。まるでシエルは自分にとって敵ではないと確信しているかのよう。加えてその呼び方。変わらずどこか感情に乏しい声でありながらもシエルの名を呼ぶ時にはわずかな違いがあった。慣れ、とでも言うべきもの。

 

 

「――――そうか。なら預けておく。納得したら返してくれ」

 

 

自分の後に付いてこないシエルに気づいたのか遠野志貴は振り返り、眼を閉じたままその手にあるナイフを無造作にシエルの前に投げ渡す。いや、投げ捨てるといった方が良いかもしれない。どうやらシエルが付いてこないのは、武器を持ったままだから警戒されていると思ったらしい。シエルはもはや言葉もなく、呆然と投げ渡されたナイフを手に取るしかない。無論、仕掛けや罠がないかも確認した上で。結果は何もなし。ただのナイフでしかない。こんなナイフで何故死者が殺せたのか、そもそも自分の武器をまるで愛着もなく、あろうことか赤の他人に渡すなど常軌を逸している。加えて自分が付いて行かないのがそのせいだと勘違いする理解不能な思考回路。

 

 

(これは……どうやら思ったよりも厄介なことになりそうですね……)

 

 

内心、溜息を吐きながら、それでも警戒を解くことなくシエルはブーツの音を奏でながら、全てが理解できない一人の少年の後ろを付いて行くのだった――――

 

 

 

 

人気のない公園。深夜零時を回ったせいか、電灯もわずかしか光っていない場所で二人は向かい合っていた。だが先程とは少し状況が異なる。それは遠野志貴がベンチに座っているのに対し、シエルは変わらず立っているということ。両者の距離は先の路地裏と変わらず開いたまま。

 

 

「……座らないのか、シエルさん?」

「……ええ、お気になさらずに。初めて会った男性と隣り合わせで座りながら喋る趣味はありませんので」

 

 

シエルは若干の呆れと苛立ちをみせながら遠野志貴の誘いを断る。そもそも先程までいつ戦闘になってもおかしくない空気を放っていた自分と本気で遠野志貴は隣で座りながら喋る気だったらしい。しかも何故かそのことを全く理解していない。まるで何かが噛み合っていないような、自分だけが空回りしているような感覚。本当に先程死者を一瞬で始末した少年と同一人物か疑わしくなるほど。

 

 

「とりあえず、自己紹介をしておきます。わたしはシエル。埋葬機関……吸血鬼を狩る組織の一員です。もっともあなたはもう知っているかもしれませんが」

「ああ、知ってる。俺は……遠野志貴だ。シエルさんもそれは知ってるだろ」

「はい。ですが肝心なことを答えてもらっていません。あなたは何者ですか。本当に、遠野志貴なんですか?」

 

 

いつまでもこのままでは埒が明かない。加えて相手のペースに乗せられる前にシエルは先手を取る。最も聞きたいこと。目の前の少年が何者であるか。ロアなのか。それとも別の組織の人間か。何故自分を知っているのか。どうやって死者を滅したのか。挙げればきりがない疑問の山。その全てを込めた質問は

 

 

「…………」

 

 

まるで何も聞こえていないかのように遠野志貴が黙りこんでしまうことで終わりを告げた。

 

 

「……聞こえていないんですか。あなたが一体何者なのか聞いているんです。それとも、答える気がないということですか」

「いや……そうじゃないんだが。なあ、シエルさん。俺、何を話してないんだっけ? 何から話せばいい?」

「……? 何を話していないか、ですか……?」

 

 

遠野志貴の理解できない言葉に、シエルは眉をひそめるしかない。どうやら答える気はあるようなのだが、要領を得ていないらしい。もしかしたら、何か精神的な疾患があるのでは思ってしまうほどに言動に一貫性がない。

 

 

「どうしても、初めは上手く話せないんだ……なんで、そっちから一つ一つ質問してくれると助かる。心配しなくても嘘はつかない。つく必要もない」

「……嘘をつかない、ですか。詐欺師の常套手段ですね。そんなことを言われてわたしが信じるとでも思っているんですか」

「いや……まあ、切り札はあるし。本当はシエルさんの暗示が効けばよかったんだけど、俺には暗示が効かないらしいんだ」

「暗示が……効かない?」

「ああ。何なら試してくれてもいい。効けばその方が手間が省けるんだが……」

 

 

遠野志貴はそのままつぶっていた瞼を開き眼をシエルへと向ける。シエルはそんな彼の行動に戸惑ってしまう。自分が暗示を使えることを知っているのはまだいい。だがあまつさえそれを使うように催促してくるなど意味が分からない。逆に魔眼で何かしてくる気かとも思ったがそんな気配もない。それどころか本当に暗示が効いてくれた方がいいと言わんばかり。ここまでされては試さないわけにもいかずシエルはそのまま遠野志貴の眼を捉えながら暗示をかける。難しいものではない、自分の質問に正直に答えるようにするためのもの。

 

だが知らずその眼に魅入られる。蒼い光を放つ瞳。十中八九、魔眼であることは明白。何の魔眼かは分からないが魔術師としてシエルは最高位にも匹敵する。加えて不死でもある。リスクは承知の上で暗示をかけるも、結果はなし。より強い暗示をかけるも、遠野志貴には何の反応も見られない。

 

 

(これは……もう既に暗示にかかっている? しかも、これは……)

 

 

シエルは悟る。遠野志貴に暗示が効かない理由。それは既に彼には暗示がかかっているからなのだと。しかそれは魔術的なものではない。いわば自己暗示に近い物。自己催眼と言い換えてもいい。一体何を自分に刷り込んでいるのか。恐らくは無意識の物。魔術であっても上書きできない程に根が深い故に、それ以上シエルはそこに踏み込むのはあきらめた。それを強引に行えば最悪、彼の人格が壊れてしまうかもしれない。

 

 

「……残念ながら暗示はあなたには意味がないようです」

「……やっぱり効かないか。原因は分からないのか?」

「ええ。それにわたしはあなたのカウンセラーに来たわけではないので」

「そうか。前もそうだったから、仕方ないか……」

 

 

まるで結果を知っていたかのように落胆することもなく遠野志貴は眼を閉じる。それだけではない。そのまま視線を上げ、空を見上げてしまう。もっともそれは最初から同じ。彼は公園に着き、ベンチに座ってからずっと眼を閉じたまま空を見上げている。決してシエルの方を向くことはない。加えて、シエルはずっと気にかかっていることがあった。それは

 

 

「……どうしてあなたは眼を閉じているんですか。それに、眼を閉じているのに何故ここまで歩いてこれたんです」

 

 

眼を閉じているにもかかわらず、どうしてここまで歩いてこれたのか。目を閉じているふりをしていたなら分かるが、そんなことをする意味も分からない。それを聞くことでようやくそのことに気づいたのか

 

 

「――――ああ。この眼、直死の魔眼っていう代物でさ。あまり長い間目を開けてると脳が焼き切れちまうんだ」

 

 

全く気にした風もなく、当然のことを語るように遠野志貴は告白する。シエルは絶句するも、そのまま質問を続けていく。遠野志貴も最初の内は戸惑う、慣れない様子を見せていたが次第に調子を取り戻したのか、事務的にシエルの質問に応えていく。

 

 

そこには全く淀みも間もない。まるで機械のように質問に正確に、淡々と彼は応えていく。同時に先に遠野志貴が口にした嘘はつかないという宣言が恐らくは真実なのだとシエルは半ば確信していた。それほどに彼の言葉は真実であり、同時に常識を超えていた。

 

 

転生。輪廻。直死の魔眼。七夜。遠野。未来知識。蛇。混沌。真祖。『 』抑止力。

 

 

教会であれ協会であれ、聞けば誰もが卒倒するような単語、事象のオンパレード。思わず眩暈がしそうな感覚に襲われながらもシエルはようやく確信していた。遠野志貴、彼がどこか人間離れしている理由を。

 

 

(輪廻……彼の言葉を借りるなら螺旋。世界の修正力と、蛇の『永遠』が混じり合った結果、か……)

 

 

螺旋。それが彼が囚われている輪。『蛇を殺す』という事象を成し遂げなければ乗り越えることができない壁。同時に、遠野志貴の身体がロアと繋がっていることでその永遠にも巻き込まれている。すなわち、蛇が生きているのに蛇が死ぬ矛盾を回避するために彼は巻き戻されている。彼だけが巻き戻されているのか、世界も全て閉じているのかは分からないが結果は変わらない。

 

 

「……あなたは、一体何度繰り返しているんですか?」

 

 

シエルはただ単純に興味からそう尋ねる。深い意味はなかった。ただ、何度繰り返しているのか。何度死んでいるのか。何度生き返っているのか。それが知りたかった。普段の彼女であればあり得ない質問。彼女自身気づかない。何故それを聞いたのか。だがそれは

 

 

「覚えてないな……シエルさんも、何回死んだかは覚えてないだろ?」

 

 

彼の何気ない答えによって明かされる。そう、それは同じだったから。なら、覚えているはずがない。

 

 

もう思い出せない程に摩耗し、それでも忘れることができない地獄の日々。一ヶ月間、殺され続ける悪夢。どんな殺され方をしたか、どれだけ殺されたのか。そんなことは数えるだけ無駄だった。

 

 

ようやくシエルは気づく。初めて彼を見た時の悪寒、忌避感の正体。それが自らの過去、そして未来を彼の姿に見たからなのだと。

 

 

「――――ふぅ、なら仕方ありませんね」

 

 

一人納得しながら、シエルはその手にある黒鍵を仕舞う。同時にそのままゆっくりと彼に近づいて行く。心なしか、警戒の空気も幾分か和らいでいる。それでも彼の隣に腰掛けないのは彼女なりの抵抗なのか、意地か。

 

 

「とりあえずはあなたの話をもう少し聞かせてもらいます。それでいいですね、遠野君?」

 

 

苦労をしょい込むお節介の女性は初めて彼の名を呼ぶ。本当の彼の名ではなくとも、名を呼ぶことに意味があると。彼女もかつての名は捨てている。もう二度と使うことも、呼ばれることもない。

 

 

「ああ、宜しく頼む、シエルさん」

 

 

だが彼は口にする。洗礼された新たな名を。変わらず感情が感じられない声でも、さんづけであるからかどこか親愛を感じさせる呼び方。

 

 

それがシエルと遠野志貴の、最後の螺旋での初対面だった――――

 

 

 

 

「ところで遠野君、わたしが話を信じなかったらどうする気だったんですか?」

 

 

小休止の意味も兼ね、互いに自販機で買った飲み物を口にしている中、シエルはそんな疑問を口にする。確かに遠野志貴の話は真実だろうが、それでも自分が信じるかどうかは分からなかったはず。それともこうなることを彼は知っていたのか。

 

 

「いや、多分大丈夫だってことは分かってたんだ。わざわざ死者を殺すところを見せたのも、前のシエルさんから教えてもらった方法なんだ。実際に戦えるところを見せた方が自分は信じるだろうって」

「なるほど……そういうことですか」

 

 

シエルは納得する。あの時間、あの場所を指定したのは死者が来るのが分かっていたからだったのだと。それを実際に倒すところを見せれば、自分は否応なく彼の異常性を理解せざるを得ない。直死の魔眼というあり得ない魔眼も認めざるを得ない。我ながら、よく考えたものだと。もっとも、彼がここにいるということはその自分がどうなったのかは分からない。それを彼に聞くべきか否か悩んでいると

 

 

「それに、もしそれでも信じてくれなかったらこれを渡せばいいって……」

 

 

思い出したように遠野志貴は元々ベンチの下に用意していたのか一つの袋をシエルに差し出してくる。今度は一体何が飛び出してくるのか。先の死者との戦いよりも自分が信じるであろう物が何なのか。

 

 

だが彼女は悟る。もはや袋を覗くまでもない。匂いだけで、それが何なのか分かる。間違いない。間違えるはずがない。

 

 

カレー。しかもメシアンの持ち帰りメニュー。その辛さも、トッピングも、全てが自分の好みそのまま。

 

 

彼女はその瞬間、遠野志貴の話が間違いなく真実だと、心から確信したのだった――――

 

 

 



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第十六話 「目的」

「とりあえずこれをお返ししておきますね、遠野君」

 

 

一通りの事情を聞き終え、納得したのかシエルはそのままベンチに座っている遠野志貴に預かっていたナイフを渡す。もっとも、預かっていたというより、半ば押し付けられていたと言った方が正しい。

 

 

「ああ。じゃあ、納得してくれたってことでいいのか」

「はい。とりあえず、あなたの話を信じることにしましょう。それはいいとして、自分の武器を他人に渡すのは感心しませんね。あのままわたしと戦闘になったらどうする気だったんですか」

「……? 別に何も。戦いにはならないと分かっていたし、もしなったとしてもナイフがなくても構わない。これは飾りみたいなものだから」

 

 

遠野志貴はそんなシエルの忠告を耳にしながらも気にした素振りを見せることはない。変わらず、ナイフを手にしながらもそこには全く愛着はない。本当のそれがただの飾りでしかないように。

 

 

(―――直死の魔眼、か)

 

 

シエルは変わらず眼を閉じている彼を見ながらも納得する。先の死者との戦いで目にした蒼い双眼。モノの死を視る魔眼。確かにそれならばナイフなど飾りでしかない。重要なのは彼自身が死の線か点に触れること。ならナイフでなくとも構わない。自らの手足はもちろん、極端な話をすれば木の枝でもいいのだから。

 

 

(それでも本物の遠野志貴と同じようにナイフを使っているのは、恐らく――――)

 

 

なのに彼があえて遠野志貴のナイフを使っている理由。彼曰く、ナイフを使った戦い方の知識があるかららしいが恐らくは本当の理由は想像がつく。

 

戒め。

 

何のための、誰のための戒めなのかは分からない。本物ではない偽物。代替の役目を押し付けられた彼が何を思っているかは理解できない。理解できるはずもない。だが想像はできる。自分が蛇から受け継いだ知識を使うことを穢れだと感じるように、彼もまた同じなのだろう。もっともそれをあえて使う彼と使わない自分は真逆なのかもしれないが。

 

 

「―――さて、いつまでもこのままでは夜が明けてしまいますし、そろそろ本題に入ってもらってもいいですか?」

 

 

いらぬお節介を口にする前にシエルは切りだす。もっともその手には先程遠野志貴から、正確には別の世界の自分からの差し入れの袋が握られている間抜けな格好なのだが、遠野志貴には見えていないのでシエルは良しとする。

 

 

「本題……?」

「ええ。わたしをわざわざ呼び出した理由です。まさか自分の身の上話を聞かせるためではないでしょう?」

「そうか……まだ、話していなかったか。まだ少し、時間がかかりそうだな……」

 

 

自分の問いでようやく思い出したかのように、遠野志貴は呆けてしまう。その理由も、事情を知った今なら理解できる。

 

記憶の引き継ぎ。

 

その弊害が今の彼の姿。今まで数えきれないほど繰り返した記憶、記録が引き継がれることで記憶の混濁が起こるといこと。簡単に言えばこの世界で自分が何をしているのか、何をしていないのかが曖昧になってしまうらしい。この状況に限って言えば、彼は自分に何を説明していないかがはっきりと判別できない。そのため彼が主体で会話するではなく、自分が質問をするという形で行っている。だがそれはすなわち、一つの事実を証明している。

 

つまり、遠野志貴はそうなってしまうほどにシエルに対してもう何度も同じ説明をしている、ということ。

 

 

「……ならわたしの方から聞かせてもらいます。遠野君はわたしに何をしてほしいんですか?」

 

 

事情を察しつつも、それを表に出すことなくシエルは代行者としての顔で望む。同情がないわけではない。だがそれは彼にとっての侮辱に他ならない。故に問う。一体彼が自分に何を求めているのか。

 

 

「そうだった……俺は、シエルさんに二つ、お願いがあったんだ」

「二つのお願い、ですか……?」

「ああ。一つは、蛇……ロアを殺すのに協力してほしい」

 

 

シエルの質問によってようやく形を得たかのように遠野志貴は口にする。二つのお願いをするためにシエルをここに呼んだことを。その一つがロアを殺すことに協力をしてほしいという願いであることを。

 

 

(やはりそうでしたか……ロアを殺すことは、わたしとも共通する目的。当然の選択……ですが……)

 

 

遠野志貴の答えにシエルはこれ以上にないほどに納得する。むしろ当然だと感じるほど。自分と遠野志貴は同じく蛇の永遠に巻き込まれている。蛇を転生させず消滅させなければ自分は肉体が、彼は魂が死ぬことができない。彼の場合はさらに繰り返すことになる。いわば同じ境遇。ならこの提案は自分にとっても悪くないもの。

 

既に遠野志貴からは直死の魔眼ならばロアを完全に消滅させられることを聞かされている。自分にも第七聖典という切り札があるがもう一枚、ロアを滅することができる手が増えることは望ましい。だが

 

 

「確かにわたしはロアを滅するためにこの街に来ました。あなたも同じ目的のようですが……はっきり言いましょう。足手纏いは必要ありません。遠野君、あなたはどれぐらい戦うことができるんですか?」

 

 

それとこれとは別問題。共に戦う以上、当然の問題。彼がどれだけ戦うことができるのか。どれほどの強さなのか。確かに先程の戦闘は見事だった。一般人ではなく、死者相手であれば問題ない強さであることは疑いようがない。だが本当の相手は吸血鬼でありロア。中途半端な戦力など足手まといにしかならない。加えて、シエルにはどうしても気にかかっていることがあった。それは

 

 

(回数は分からないが……彼はわたしと共闘したことがある。なのに、彼がここにいるということは……)

 

 

遠野志貴がここにいるということ。それ自体が既に問題なのだと。彼の話を聞く限り、彼は自分と何度も接触している。恐らくは共闘しロアに挑んだこともあるはず。にもかかわらず彼がここにいるということはつまり、彼は自分と共闘しながらも死んでしまったということに他ならない。考えられる理由は二つ。一つが彼自身が弱すぎる、戦力にならなかったから。それを確かめるための問い。

 

 

「どれぐらい……か。そうだな……本物の遠野志貴と戦えば、十回に七回は勝てると思う」

「十回に七回……? あなたは本物の遠野志貴より強いということですか?」

「いや、そういうわけじゃないんだが……遠野志貴には波があるけど、俺にはないってだけだから……結局同じぐらいかもしれない」

 

 

彼はそんなよく分からない答えを口にする。実際に戦ったことなど無い筈にも関わらず、彼には全く揺らぎがない。慢心も自尊もない。彼自身の知識と照らし合わせても客観的な見通しなのだろう。問題は、シエルは本物の遠野志貴の強さが分からないということ。

 

 

「そうか……シエルさんに言っても分からないか。じゃあ例えを変えて……十八体目の転生体、遠野四季のロアが相手なら、五割以上に勝率がある。これで伝わるかな?」

 

 

それにようやく気づいたのか、遠野志貴はシエルにも通じるであろう例えで自らの強さを告げる。だがその答えにシエルは呆気にとられるしかない。当たり前だ。

 

 

「あなたは……一人でも、ロアを倒せるということですか?」

 

 

遠野志貴は、一人でもロアを倒し得ると口にしたのだから。

 

 

「実際に戦ったことがないから予測でしかないけど……多分、負けることはないと思う。余計な要素がなければ」

「……意味が分かりません。なら、何故わたしと協力する必要があるんですか。そんなことをしなくても戦えるということでしょう?」

「意味はある。俺じゃ、どうしてもロアの居場所は探し切れない。それに十八代目のロアが相手なら、俺とシエルさんの二人がかりなら絶対に勝てる」

 

 

遠野志貴は淡々と事実を述べていく。そこには感情がない。自分の生き死ににかかわる事象、加えて話の内容なら自らの希望を語っているはずにも関わらず。年相応の少年に見える姿と、相反する二面性。そのどちらが本当なのか。そもそもそのどちらも違うのか。なんにせよ、シエルは理解した。

 

 

「……分かりました。あなたと協力すれば、ロアを倒すことができるということですね」

 

 

遠野志貴が単独でもロアと戦い得る強さを持っていることを。それに加えて自分も協力すれば負けはないと。しかし

 

 

「……? いや、俺とシエルさんの二人がかりでもロアには勝てないんだが」

「――――は?」

 

 

それは遠野志貴の理解できない、矛盾した答えによって粉々に打ち砕かれた。

 

 

「……聞き違いでしょうか。わたしと遠野君の二人がかりでもロアには勝てない、と聞こえたんですが?」

「ああ、そうだ。俺達じゃ、逆立ちしてもロアに傷一つ付けられない」

「自分が何を言っているか分かっていますか。先程言っていたことと矛盾していますよ。わたし達二人ならロアに絶対に勝てるんじゃなかったんですか?」

「…………ああ、そうか。まだ、言っていなかったのか」

「言っていなかった? 何をです?」

 

 

半ば呆れ、これ以上付き合う意味があるのか考え始めていたシエルに向かって遠野志貴は先程と同じように何かに気づく。どうやら遠野志貴は何かを自分に話している、明かしている前提で話をしていたらしい。それが何であるのか尋ねようとするも

 

 

「俺が勝てないって言ってるのは今のロアじゃない。初代……真祖、アルクェイド・ブリュンスタッドを取り込んだロアの話だ」

 

 

今度こそ、シエルは眼を見開いたまま、言葉を失ってしまった。

 

 

「――――」

「いや、初代っていうのも違うか。身体自体は遠野四季、十八代目なんだが……」

「……待って下さい、遠野君。何でそこであの真祖の名前が出てくるんですか?」

「それは、今から一週間以内にロアはアルクェイド・ブリュンスタッドを取りこんでしまうからだ。取り込むというよりは……力を奪うって言った方が分かりやすいかな?」

「…………」

 

 

シエルは遠野志貴が何を言っているのか分からず放心するしかない。それほどまでに彼の言葉は理解不能であり、想像だにしていなかったものだった。

 

 

「……遠野君、とりあえず一つ一つ確認させてください。まず、アルクェイド・ブリュンスタッドというのはあのアルクェイド・ブリュンスタッドのことですか?」

「ああ。真祖、アルクェイド・ブリュンスタッドのことだ。それ以外に誰がいるんだ?」

 

 

今更何を聞いているのか分からない、といった風に遠野志貴は肯定する。その姿にシエルは悟るしかない。

 

『アルクェイド・ブリュンスタッド』

 

真祖の姫君であり、処刑人。最強の真祖。ロアを死徒にした張本人であり、今はロアを滅するためだけに眼を覚まし活動する存在。シエルにとっても因縁浅からぬ相手。間違いなく、彼女もこの街に来ているだろう。それはおかしくない。

 

だからこそ、理解できない。

 

 

「……なら尚更理解できません。認めたくはありませんが、彼女がロアに後れを取ることはあり得ない。完全に滅することはできないかもしれませんが、取り込まれるなど」

 

 

シエルはただ淡々と告げる。彼女自身が誰よりも理解していた。真祖アルクェイド・ブリュンスタッドという存在を。

 

『処刑人』

 

その名の通り、堕ちた魔王、死徒を狩ることが彼女の役目。それ以外のことは何一つ知らない存在。その強さは反則と言っていい。事実、先代、自らがロアの転生先であった十七代目の時ですらロアは手も足も出なかった。シエルの肉体のポテンシャルは初代に次ぐ程だったにも関わらず。いくら吸血衝動があるとはいえ、後れを取るとは考えられない。

 

 

「それは俺にも分からない。でも、ロアがアルクェイド・ブリュンスタッドを取り込んだのは確かだ。ロア本人がそう言っていたのもあるし、シエルさんも……前のシエルさんも認めてた」

「前の私も……ですか。ということは、前のわたしもあなたと一緒に殺されたということですか?」

「どうだろう……俺は先に死んだから分からないけど、勝てなかったのは間違いない。誰もあのロアには敵わないと思う。まともに戦ったのは一度だけだけど、戦いにすらならなかった」

 

 

まるで思い出すように口にしながらも、そこには全く感情はない。ただ事実を口にしているだけ。それが余計に、事態の異常性と彼の言葉が真実なのだと証明している。

 

そのまま彼は続ける。タイミングは分からないが、今から早くとも一週間後にはロアによって三咲町が死都にされてしまうこと。シエルがいながらもそれを食い止めることはできなかったこと。街を離れ逃げたこともあったが、一月の間に世界が滅亡したこと。それはすなわち、自分以外の代行者や魔術協会、魔法使い、果ては死徒二十七祖達ですらアルクェイド・ブリュンスタッドを取り込んだロア、永遠となったロアには敵わなかったということを意味している。

 

 

(親殺し……祖の代替わり。確かにそれが成功したのなら、その未来もあり得る……)

 

 

『親殺し』

 

死徒が親である吸血鬼を殺し、成り変わること。それ自体はあり得ないことではない。事実、力を付けた吸血鬼が親の吸血鬼を殺す、復讐騎という例もある。だが問題は殺すのではなく、力を奪っているらしいこと。

 

ロアはアルクェイド・ブリュンスタッドの死徒。いわば吸血鬼の親と子と言ってもいい。ならその力を奪うことはできるだろう。その証明として、ロアはアルクェイド・ブリュンスタッドの力の一部を奪っており、それを取り戻すことがアルクェイド・ブリュンスタッドがロアを追っている理由でもある。親子でなくとも、アルクェイド・ブリュンスタッドは姉であり、死徒の姫君であるアルトルージュ・ブリュンスタッドによって髪を奪われている。ようするに、アルクェイド・ブリュンスタッドがロアに力を奪われることは可能性としてあり得ること。

 

だが問題は、遠野志貴の話を信じるならばロアは一部ではなく、アルクェイド・ブリュンスタッドの力の全てを奪い取ったことになる。すなわち、原初の一、アリストテレスに匹敵する力を手にしたと同義。初代ロアどころではない。初代すら超える力を、永遠を手に入れたロアであれば世界を滅亡させることは不可能ではない。

 

だからこそ、目の前の彼がいる。抑止力によって生み出された『遠野志貴』という存在が。

 

 

「……百歩譲って、それが真実だとしましょう。だとしたら、あなたはわたしに何を求めているんですか。あなたの話が本当なら、わたしは何の役にも立てませんよ。いえ、わたしだけではない。誰であっても、永遠となった蛇を倒すことはできません」

 

 

それが答え。そもそも遠野志貴自身が言っていたこと。数えきれないほど繰り返して来た彼が、一度だけ対峙しただけで不可能だと悟ってしまうほどの歴然たる実力差。ならば、為す術がない。

 

 

「そうだ。だから蛇が永遠になる前に倒したい。そのためにシエルさんに協力してほしいんだ」

 

 

だからこそ彼は告げる。その唯一の対抗策。蛇が脱皮する前に滅する。単純であるが故にこれ以上ない方法。繰り返す彼だからこそできる、不可逆の策。

 

 

「なるほど……ようやく理解できました。問題は、いつどこでそれが起こるかですね。本当にそれは分からないんですか?」

「ああ。どうしても、それは分からなかった。時間がなかったんだ……それを知ることと、俺自身が戦えるようになることを天秤にかけて、後者を取るしかなかった。そうしなければ、ここまで来れなかったから……」

「……遠野君?」

 

 

そのまま、遠野志貴はよく分からないことを呟きながら自分の世界に入ってしまう。彼が一体何を考えているのかは分からないが、分かるのは繰り返している彼でもそれは分からなかったということだけ。

 

 

「……いや、何でもない。とりあえず、シエルさんには蛇の城を見つけてほしい。死者を滅しながら、一刻も早く。理想としてはそれを見つけ出した後、昼間に二人で襲撃すること。それができれば、勝てる」

 

 

遠野志貴はようやく思考から戻ってきたのかシエルに告げる。ロアの居場所を特定することが彼女に求めることだと。代行者であり、先代の転生者であるシエルだからこそできる役目。遠野志貴自身も城を探していた時期があったらしいが、蛇は狡猾であり、城を特定してもすぐに移動してしまうらしい。彼の繰り返しに中でも彼だけでは蛇を捉えることはできなかったのだと。

 

 

「いいでしょう。元々それがわたしの役目ですし。遠野君はどうするんですか? わたしに同行するつもりですか?」

「いいや、俺はアルクェイド・ブリュンスタッドにつく。蛇の方ばかりに気を取られて、彼女を無視するわけにはいかないし……」

「っ!? アルクェイド・ブリュンスタッドに接触する気なんですか!?」

「まさか。尾行するだけだ。いつ、蛇と接触するか分からない以上、アルクェイド・ブリュンスタッドの側から監視する必要がある。幸い、蛇と違って彼女がどこにいるか知ってるから」

「……リスクが高すぎませんか。見つかればただでは済みませんよ。例え人間が相手だとしても、彼女は容赦はしません」

「識ってる。でも、シエルさんには任せられない。そうすればきっと、余計な手間が増えるだろうし」

 

 

まるでシエルの答えを知っているかのように、遠野志貴は反論を封じる。恐らくは知っているのだろう。その結果どうなったかを。だが同時に、シエルは辿り着く。もう一つの答えを。それは

 

 

「―――遠野君。蛇と接触する前に、アルクェイド・ブリュンスタッドを滅することができればいいんじゃないですか。そうすれば、蛇は永遠になることはないのでは」

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッドを滅すること。それができれば蛇が脱皮することもない。結果よりも原因を。鶏よりも先に卵をどうにかすればいいのではないか、と。

 

 

「――――無駄だな。永遠になった蛇を相手にするよりはマシだろうけど、それでも俺達ではアルクェイド・ブリュンスタッドは殺せない」

「ですが、本物の遠野志貴は彼女を殺したことがあると。ならあなたにも――――」

「……無理だ。あれは、昼間に加えて遠野志貴が一般人だったことでできた完全な不意打ち。今の俺がやろうとしても、ナイフが届く前に十八に分割されるだけだ」

 

 

まるで、体験したことがあるかのように遠野志貴は口にする。だがシエルは悟る。そう、自分が考えるまでもない。彼は、自分とは比べ物にならない程に考え抜いている。恐らく、その答えも既に体験したもの。

 

 

「それでもやりたいなら一人でやってくれ。俺は、無駄なことはしない」

 

 

それが彼の答え。無駄はしない、と。蛇を殺す結果に結びつかないことは必要ない。

 

眼を閉じているにもかかわらず、その視線に射抜かれる。その光景に、シエルはある単語を思い出す。

 

 

(起源覚醒……彼は、それに近い状態になっているのかもしれませんね)

 

 

『起源覚醒』

 

魔術師の中には自らの存在の原型に達した者もいるという。彼は、それを魔術ではなく、強引に行っているのかもしれない。彼の起源がなんであるかは分からないが、きっとそれは彼にとっては避けて通れないものなのだろう。

 

 

「……分かりました。ただし、無茶はしないようにすること。これが条件です。いいですか?」

「ああ。無茶はしない。できることをするだけだ」

「そうですか……ではもう一つのお願いを教えてもらえますか?」

「もう一つ……?」

「……呆れました。もう忘れているんですか。二つ、わたしにお願いがあったはずでは?」

「そうだった……すっかり忘れてた。ありがとう、シエルさん」

 

 

本当に忘れていたのか、遠野志貴は驚いてすらいる。そんな彼の姿にシエルはどこか毒気を抜かれてしまう。先程まで知らず寒気がするような気配を纏っていた彼の姿が幻であったかのように。だがそんなシエルの感情は

 

 

「あと一つは簡単だ。シエルさんに、魔眼を抑える包帯を手に入れてほしいんだ」

 

 

彼のもう一つのお願いによって霧散してしまう。

 

 

「魔眼を抑える包帯……ですか? 一体何のために」

「直死の魔眼を抑えるために必要なんだ。こればっかりは俺じゃ手に入れられなくて」

「……何故、そんな物が必要なんです? もう眼を閉じているじゃないですか。なのに」

「いや、眼を閉じていても意味がないんだ。魔眼が強くなりすぎて、眼を閉じていても死が見えるから」

 

 

瞬間、今度こそシエルは言葉を失う。さも当然のように明かす内容は、とてもはいそうですかと聞き流せるようなものではないのだから。だが同時に全ての疑問が氷解する。何故彼がここまで眼を閉じて歩いてこれたのか。何故、ずっと空を見上げているのか。

 

 

「……眼を閉じていても、外の世界の死が見えるんですか?」

「ああ、開けている時に比べればマシになるんだが、やっぱり見えるのは変わらない」

「……なら、どうやって睡眠を取っているんです。目を閉じていても死が見えるなら、寝ることができないのでは……」

「よく分かるな、シエルさん。おかげで睡眠薬で強制的に寝るしかないんだ。まあ、動くのは夜だから昼間はずっと寝れるんだけど……意識を失くしてても負担はあるみたいだ。まあ、三日は持つだろうけど。それから先は運次第か」

「――――」

 

 

遠野志貴の言葉に、シエルは知らず息を飲む。三日。このままでは三日で自分が死ぬと分かっているにもかかわらず、彼には全く恐れがない。恐怖がない。焦りがない。

 

 

「――――遠野君、それは一番先にわたしに相談すべきことではないんですか?」

 

 

異常なのはその一点。彼の言葉が真実ならば、魔眼を封じる包帯、目隠しは最優先で手に入れなければならないもののはず。なのに彼はそれを二番目に、後回しにしていた。それどころか忘れてしまうほど。それはつまり

 

 

「いや、蛇を殺せないとそんなこと何の意味もないだろう」

 

 

彼にとって、自分の生死よりも『蛇を殺す』ことの方が重要であると言うこと。それ以外には無駄なこと。自らの命ですら、例外ではない。

 

 

知らず、シエルは思い出していた。つい先日、自分に問いかけられた命題。天使のような悪魔が、囁いてきた問い。

 

 

「――――遠野君、あなたは蛇を殺して生きたいんですか? それとも死にたいんですか?」

 

 

自らにとっての命題であると同時に、彼にとってもあてはまる命題。未だ自分はその答えを持ち得ない。なら、彼はどうなのか。持っているのか。もし持っているならそれは何なのか。シエルは純粋に問う。問わねばならなかった。それに

 

 

「……? よく分からないな。そんなの、どっちも同じだろう?」

 

 

『遠野志貴』は首をかしげながら、そう口にする。本当にその問いの意味が分からないかのように。

 

同じ。それが彼の答え。生も死も、等価値だと。そこに差はない。生きることも死ぬことも変わりはない。死ぬために生きるのか、生きるために死ぬのか。そのどちらも彼にとっては意味を持たない。意味を失くしてしまっている。

 

壊れている。狂っている。そう言った類の境地。世界を救うために、世界を滅ぼす結論に至る錬金術師のように。人を救うために足掻いていたのに、人の死を蒐集するだけになった僧のように。泣いている誰かを救いたかっただけなのに、永遠に泣いている誰かを見続けるだけになってしまった正義の味方のように。

 

生きるために足掻いていたはずなのに、いつの間にはどうやって死ぬかを求めている。自己矛盾であり、摩耗しきった操り人形。

 

 

「――――いいえ、それは違います」

 

 

それを、彼女は否定した。自らも未だ答えを持たないにも関わらず。それでも、それだけは違うと。自分自身と、何よりも彼のために。

 

 

「……え?」

「……何でもありません。とにかく、引き受けました。そうですね……二日、時間をください。それで何とかします。それまでは無理をしないように。待ち合わせ場所はここでいいですか?」

「ああ、それで頼む。あれがあれば、少しはマシになる。一週間は保つはずだ」

 

 

まるでシエルが持ってくる魔眼封じの包帯を知っているかのように遠野志貴は告げる。恐らく全て知った上でのお願い。自分が包帯を手に入れることも、それが二日後手に入ることも。それなら、こんなにも危機感がないのも納得できる。そうなら、どんなに良かっただろう。

 

一週間。

 

彼が口にした刻限。例え包帯をしたとしても、超えられない限界。それはすなわち、彼には蛇を殺したとしても先はないということ。彼はその先を見ていないということ。

 

 

「――――それではわたしはここで。連絡先は渡した通りです。何かあれば連絡してください」

「ああ、こっちも何かあったら連絡する。宜しく頼む、シエルさん」

 

 

振り返ることなく、シエルはそのまま飛び上がり、夜の公園を後にする。後には一人、ベンチに座りながら月を見上げている遠野志貴が残されるだけ。そうしているのは、ただそうするしかないから。

 

 

――――この世界において、彼が死を見ないで済む場所は空と月だけなのだから。

 

 

それが蛇に囚われた二人の邂逅の終わり。そして彼女の目的が一つ、増えた瞬間だった――――

 

 

 



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第十七話 「月触」

月明かりと、街の光によって未だ人々が行き交う深夜。昼とは違う、夜にしか見せないもう一つの世界が広がっている。日中は仕事や、しがらみによって違う姿を晒している人々が、夜という魅力に取り憑かれている。怪しげな店や、危なげな人種。ヒトの二面性、矛盾を形にしたかのよう。そしてそんな中、人々と同じようにもう一つの顔を見せている少女がいた。

 

 

「…………」

 

 

腰にまで届く程の長く美しい黒髪。見る者を委縮させてしまうほどに強い意志を秘めた瞳。同時に令嬢とでもいうべき気品を兼ね備えた少女。

 

遠野秋葉。

 

だがその姿は屋敷や学校で見せるものとは明らかに違う。他人を寄せ付けない凄み、存在感がある。その証拠に彼女が進む先には人が避けて行く。深夜に歩いているのがおかしい年端のいかぬ少女に、その場にいる人々が圧倒されている。しかし、遠野秋葉はそんな人々の存在に気づいていないのか、無視しているのかそのまま気にする素振りを見せることもなく悠然と歩いて行く。同時にその瞳が何かを探しているかのように動くも、見つけることができない。ならば次の場所へと誘われるように。

 

そんな遠野秋葉に続くように、もう一人の少女が付いて行く。遠野秋葉とは対照的に少女は全く存在感を感じさせない程に希薄だった。黒を基調にした洋装。一見すれば喪服に見えかねない影に徹した容姿。同時にその表情も無表情。人形のように、感情を感じさせないもの。

 

それが今の琥珀の姿。昼ではなく、夜の。遠野秋葉の付き人であるもう一つの彼女の姿だった――――

 

 

 

ただ、琥珀は秋葉に付いて行く。影のように、黒子のように。そこに狂いも無駄もない。己の役目を果たすだけ。自らの主である秋葉は一片の迷いもなく夜の街を、道を進んでいく。そこに少女としての姿はない。あるのは厳格な、遠野家当主としての姿だけ。彼女はその役目を果たすために夜の闇を進んでいく。

 

『遠野四季』

 

彼を処断することが秋葉様の目的であり、今街を歩いている理由。秋葉の実の兄であり、同時に父の仇であり、遠野志貴を殺した張本人でもある。遠野家の地下に監禁されていたものの、父を殺すと同時に行方をくらませてしまった存在。だが四季がまだこの街にいることを秋葉は確信していた。

 

吸血鬼事件。ここ最近、三咲町で頻発している猟奇事件。被害者が血を吸われているという異常性。間違いなく、反転した遠野四季の仕業。その凶行を阻止するために、一族の長として、妹として遠野秋葉は夜の街で遠野四季を探していた。

 

 

「――――」

 

 

そんな遠野秋葉の姿を、どこか他人事のように、琥珀は見つめている。職務を放棄しているわけではない。その証拠に、変わらず一定の距離を置きながら付き人に相応しく主の後ろを歩いて行く。異常の痕跡を見落とすことがないよう辺りを警戒もしている。なのに、どうしようもないほどに彼女の意識は、ここにはなかった。

 

 

――――なんでだろう。からだがふわふわする。わたしがわたしでないかのよう。ちゃんとからだは動いているのに、実感がない。勝手にからだがうごいているみたいに。現実感がない。実感を、持てない。

 

秋葉様が四季様を探していること。これは、わたしの計画の一部。四季様を懐柔し、槙久様を殺させた。後は、秋葉様と四季様を殺し合わせるだけ。相討ちが一番理想的だけど、どちらかが死んでくれさえすればいい。後始末の方法は、その後考えればいい。それでわたしのフクシュウは果たされる。八年前から変わることのない、わたしの存在理由(ゼンマイ)。なのに、そのことに全く感情が湧かない。関心を持つことができない。

 

元々、わたしは誰も恨んでいない。だから、感情もない。でもおかしい。それでもここまで無関心じゃなかった。他人事じゃなかった。でも、いつからだろう。こんなにも、それがどうでもよく感じるようになったのは。まるで――――

 

 

「――――今日はここまでね。屋敷に戻るわよ、琥珀」

「…………え?」

 

 

そんなわたしの思考を止めるように、秋葉様の声が耳に届くも呆然とするしかない。みっともない反応を晒すしかない。気づけば、秋葉様はこちらに振り返り、呆れ気味に腕を組んでこちらを睨んでいる。間違いなく、不機嫌なのは明らか。

 

 

「え? じゃないわ。屋敷を出てから思っていたけれど、何をそんなにぼーっとしているの。遊びに来ているわけではないことは分かっているでしょう?」

「……はい。申し訳ありません、秋葉様」

 

 

返す言葉もない。今自分達は四季様を探すために動いている。いわば殺し合い。裏の世界。いつ何時そうなってもおかしくない状況に身を置いている。にも関わらず自分は集中できていない。体は動いているが、心がついていっていない。いや、そんなもの人形の自分にあるはずがないのに、何かの熱に浮かされているように。だがそれは

 

 

「……兄さんのことを気にしているの?」

 

 

秋葉様のその一言であっけなく晒されてしまった。

 

 

瞬間、ぴくんと身体が強張るのを抑えることができなかった。同時に息を飲んでしまう。それは秋葉様に彼がいなくなってしまったことを知られてしまったのかと心配したからではない。ただ単純に、自分がここまでおかしくなっている理由が分かっただけ。

 

彼がいなくなってしまった。

 

ただそれだけのことで、わたしはおかしくなってしまっている。頭の中が、彼のことだけでいっぱいになっている。遠野家へのフクシュウが、どうでもいいと感じてしまうほどに。

 

同時に、チクンと胸がイタくなる。胸が締め付けられるような、痛み。でもおかしい。わたしは人形だからイタくなんてないはずなのに。怪我も何もしていないのに、イタいなんて。

 

彼の言葉を思い出すたびにイタくなる。彼のことを考えるたびにイタくなる。イタくてどうしようもなくなる。なら、考えなければいい。忘れればいい。なのに、できない。どうやってもイタくなる。

 

 

「……兄さんのことなら心配ないわ。体調は優れないようだけど、四季を倒せばきっと良くなってくれる。だから夜の間はこちらに集中しなさい」

 

 

秋葉様はそう言いながら屋敷へと戻って行く。わたしは、それに一歩遅れながら従い付いて行く。今のわたしは秋葉様の付き人なのだから。感応能力者として秋葉様をお支えすること。それが役目。それがわたしのフクシュウに繋がる。なのに、違うことを考えているわたしがいる。

 

心と体がちぐはぐになっている。致命的な何かに気づきかけながらも、それに蓋をしながらわたしは『琥珀』を演じる。もうどれが本当のわたしなのか、分からなくなりながらも――――

 

 

 

 

朝。わたしの仕事の中で一番忙しい時間帯。朝食の準備と、彼を起こすこと。だけどもうそれはない。彼はもういないのだから。作る食事も三人分でいい。なのに、知らず四人分の食事を用意してしまっているわたしがいる。そう決められているから動く機械のように。でも、本当は違うのかもしれない。もしかしたら、わたしはまだ彼がいないことを認めていないのかもしれない。子供のように意地になって――――

 

 

「――――姉さん」

「……翡翠ちゃん? 秋葉様のお送りはもう済んだの?」

「ええ。今日はこのままお部屋の掃除に回るわ。姉さんは?」

 

 

いつの間にか帰ってきていたのか、翡翠ちゃんはいつもと変わらぬ様子で自分へと話しかけてくる。でもきっと、そう振る舞っているだけ。翡翠ちゃんなりに、自分の仕事を全うしようとしているのだろう。自分とは違って。ならわたしもそうするべき。いつも通りのわたしを演じながら、ただ人形のように動けばいい。なのに

 

 

「――――わたし、は……ちょっとお買い物に出かけてきますね。夕方には戻ってくるからお屋敷の方はお願い、翡翠ちゃん」

 

 

わたしは、知らずそう口にしていた。体が勝手に動いていた。買い物なんてないのに、出かけると告げる。その理由が分からない。人形のわたしではない、何か。それが怖かった。今までのわたしが壊れてしまうような悪寒。それでも抑えられない感情。

 

 

「――――分かった。気をつけて、姉さん」

 

 

そんなわたしの言葉を聞きながら、翡翠ちゃんは静かにそう言い残したまま去っていく。何も聞くことなく、何も言うことなく。言葉など必要ないと告げるように。そんな妹の姿を見つめながらも、既にわたしは動き出していた。ただ思っていた。これでは、どちらが翡翠(わたし)なのか分からない、と――――

 

 

 

 

――――陽が差してくる。穏やかな陽気。絶好の行楽日和。休日であることもあって、公園には人が溢れている。親子連れ、カップル、老夫婦、子供達。皆が皆、笑顔を見せながら戯れている。

 

そんな中、公園のベンチで一人腰掛けている少女の姿があった。着物姿という珍しい服装であることもあってすれ違う人々は皆、少女を見つめるも誰一人声をかけることも立ち止まることもない。何故なら、少女は笑っていたから。見る者が和んでしまうような柔らかい笑顔。きっと、誰かと待ち合わせをしているのだろう察せるような姿。

 

誰も気づかない。気づけない。彼女が、来るはずのない誰かを待っていることを。その笑みが、ただの虚構であることを。

 

 

(…………何をしているんでしょうか、わたし)

 

 

自嘲しながら、ただ空を見上げる。雲ひとつない晴天。時刻は正午を回った頃。なのに、わたしは何もしていない。何もすることがない。ただベンチに座っているだけ。隣に誰もいないのに、誰かが座れる隙間を開けたまま。

 

何もしていなかったわけではない。屋敷を出てから、すぐに動き出した。何かなど、考えるまでもない。ただ彼がどこに行ってしまったのか。彼を探すことが今のわたしの行動の理由。わたしの存在理由には何の関係もないのに、当然のようにわたしは駆けまわった。

 

まずは有間の家。

 

彼がいる可能性が一番高い場所。でも、そこには彼はいなかった。落胆はなかった。最初から彼がいないことは分かっていたのだから。電話で知らせを受けた時から彼が有間の家から屋敷へ戻ったことは聞いている。ただ違うのは、彼はあの夜、屋敷の戻ることなくどこかへ行ってしまったということだけ。だから、わたしが有間の家に行ったのは一人の女の子と話がしたかったから。

 

有間都古。

 

有間家の長女であり、彼にとっては妹でもある女の子。そしてあの夜、いなくなってしまった彼女を探すために彼は出て行ってしまった。アイマスクをしないまま、彼には使えないはずの七夜の短刀を手にしたまま。それがわたしが見た彼の最後の姿。明らかに、今までの彼とは違う、彼の姿。

 

電話によれば、都古ちゃんは彼に連れられて家に戻ってきたらしい。なら、都古ちゃんなら彼がどこに行ったのか知っているかもしれない。何があったのか知っているかもしれない。しかし、そんな一縷の望みをかけた願いはすぐに消え去ってしまう。

 

 

それは有間都古が何も答えることがなかったから。

 

 

会ってくれなかったわけではない。警戒されている様子はあったが、きちんとわたしと目を合わせてくれたし、話も聞いてくれた。でも、何も答えてくれなかった。

 

 

『……何も言えない。それが、お兄ちゃんとの約束だから』

 

 

ただそれだけ。都古ちゃんは唇を噛み、泣きそうになるのを必死にこらえながらそう呟くだけ。一体何を約束したのかも話してくれはない。ただ頑なに、それでも必死に彼女は口を噤んでいる。それを守ることだけが、自分の役目だと。その約束を守ることで、兄が戻ってくることを信じているかのように。そんな兄を想う小さな少女を前にして、それ以上追及することはわたしにはできなかった。分かるのは、彼が何かを都古ちゃんに約束したことだけ。

 

それを前にして、何故か胸がイタくなる。知らず持っている白いリボンに手を触れる。果たさせることがなかった約束。なら、目の前の女の子の約束はどうなのか。迷いながらも、そのままわたしは有間の家を後にした。次の手掛かりを求めて。

 

 

彼の学校。それが次の、最後の手掛かり。彼が足を運ぶ可能性がある最後の場所。でもほとんどあきらめていた。彼は休学しており、また屋敷を出て行っているのに学校に来るはずなどない。それでももしかしたら何か手掛かりがあるかもしれない。あってほしいという望み。

 

結果から言えば、収穫はあった。それは彼の手紙。担任の教師から教えられた手紙の話。何でも彼から学校に手紙が送られていたらしい。しかもそれは彼がいなくなった次の日。切手もなかったことから直接投函したことは間違いない。だがその内容が不明瞭だった。

 

 

『シエル』

 

 

それが彼から手紙を送られた少女の名前。何でも留学生らしく、この学校でボランティアをするために訪れていたらしい。問題は、彼がその少女に接触しようとしていたと言うこと。知り合いなのかもしれない。もしかしたらそのシエルという人が、彼の居場所を知っているかもしれない。はやる気持ちを抑えながら教師に彼女の連絡先を尋ねるも、それを知ることは叶わなかった。だがそれは教えてもらえなかったのではない。

 

教師も、学校にいる誰も、シエルという少女の連絡先はおろか詳細なことを何一つ知らなかったから。それどころかどこの学校に留学しているかすらも不明という明らかに異常な事態。それを異常だと誰も気づいていない矛盾。

 

わたしは何とかしようとしたものの、全ては徒労に終わってしまった。分かったのはシエルという名前と容姿だけ。それだけでは何もできない。明らかに一般人ではない。だからこそ、見つけ出すことなどできないだろう。そんなことをするならば、直接彼を探した方が何倍も可能性がある。

 

 

――――だがそれでも、彼を見つけることはできなかった。

 

 

当たり前だ。この街に一体どれだけの人がいるのか。それだけの広さがあるのか。そもそも彼がこの街にいるかも定かではない。砂浜から一粒の砂を見つけるような物。できるわけがない。そもそも彼は何も言わずに屋敷を出て行った。つまり、もう戻ってくる気はないということ。なのに、どうして――――

 

 

(そういえば……彼と八年ぶりに話をしたのもこの場所でしたっけ……)

 

 

ふと、思い出す。この公園のベンチで、自分は彼と八年ぶりに話をした。半ば強引に、そのせいで彼は随分困っていた。今思えば、ちょっとやりすぎだったかもしれない。

 

 

その次は、買い物に付き合ってもらった時。ここで、彼が笑っているのを初めて見た。驚いた。ここで、初めて彼の方からわたしに触れてきてくれた。嬉しかった。

 

 

取るに足らない、思い出。数えるほどしかない、彼とのやりとり。その全てが、まるで夢だったかのよう。

 

 

もう何もない。彼との繋がりはもう残されていない。ただこの公園しか、ない。白いリボンも、彼はもう持っていない。

 

 

ぽとりと、雨粒が膝に落ちる。驚きながら空を見上げてみるも、そこには雲ひとつない空。雨など、降ってはいない。なのにどうして

 

 

――――ああ、そうか。

 

 

何のことはない。わたしは、泣いているらしい。涙が、知らず流れて落ちただけ。もしかしたら、あくびでもしてしまったのかもしれない。目に、ゴミが入ってしまったのかもしれない。なら、拭かないと。でも、止まらない。いくら拭いても止まらない。壊れてしまった蛇口のように、溢れてくる涙を止めることができない。何で涙が出てくるのか分からない。笑っているのに、どうして。

 

 

どれぐらい、そこでそうしていたのか。涙が止まった後も、変わらずベンチで待ち続ける。来るはずのない、誰かを。でも、変わらない。いつまでもこうしていても何も変わらない。それでも、ここであきらめればもう二度と彼に会えないかもしれない。そんな予感。だがそれは

 

 

一つの人影がわたしの前を横切ったことで確信へと変わった。

 

 

「――――え?」

 

 

 

それは彼ではなかった。見たこともない女性。互いに面識も何もないただの赤の他人。なのにわたしはベンチから立ち上がっていた。目を見開いていた。ただ通り過ぎたその女性の後ろ姿に目を奪われているだけ。

 

 

思い出す。いつか彼が言っていた言葉。ここで、わたしはそんな彼をからかった。ただの冗談だと思っていたもの。

 

 

――――金髪の、外国人女性。

 

 

それが琥珀とアルクェイド・ブリュンスタッドの出会い。月触の始まりだった――――

 

 

 



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第十八話 「暗示」

ただ、その後ろ姿に目を奪われるしかなかった。すれ違ったのは一瞬だったのに、鮮明に思い出せるほど、その姿は印象的だった。

 

白。

 

色で例えるなら間違いなく白だろう。身に纏っている上着の色であるが、それ以上に女性自身の雰囲気にこれ以上ないほどに合致している。紫のロングスカートも加えて決して煌びやかな服装ではないにもかかわらず、完成された一枚絵のよう。

 

それが、琥珀が初めて見た金髪の外国人女性、真祖アルクェイド・ブリュンスタッドの姿だった――――

 

 

――――気づけばわたしはベンチから立ち上がっていた。そのまま呆然としたまま彼女の後姿を見つめているだけ。知り合いではない。赤の他人。喋ったことも、見たこともない。確かに外国人は珍しいが、そこまで気にすることなどあり得ない。姿でいえば、着物姿の自分の方が視線を集めるだろう。それでもわたしは、その女性から目を離すことができなかった。

 

金髪の、外国人女性。

 

それはいつか、彼が口にしていた女性。彼によれば道でぶつかって怒らせてしまったことがあると言っていた女性。彼女に出会いたくないがために、自分に見かければ教えるように念を押す程に彼が接触することを忌避していた存在。

 

何故それだけでそこまで怖がる必要があるのか。本当は何か別の理由があるのでは。自分と買い物に行きたくないからついた嘘なのではないかとわたしは思っていた。だがそれはある時、確信に変わった。

 

奇しくも場所はこの公園で。自分の話を聞いていない彼へとちょっとした悪戯。金髪の外国人女性がいると嘘をついた時、彼はそれまで見たことのないような反応を見せ、狼狽していた。まるで自らの命が危機にさらされているかのように。

 

結局、彼にとってその女性がどんな関係であるかは確かめることができなかった。でも、間違いなくその女性がいることだけは確かだった。

 

そして今、自分の前を通り過ぎた女性がまさに、彼が口にしていた容姿と一致する。偶然か必然か。彼はここにはいないものの、自分が彼女を見つけてしまった。

 

 

(あの人がそうとは限らない……でも、もしかしたら……!)

 

 

だが、確証はない。確かに、容姿は一致しているが彼女がそうとは限らない。常識を考えれば、人違いの方があり得る。そもそも、本当にそうだとしても自分はどうするつもりなのか。彼は、その女性を恐れていた。それは間違いない。なら、彼女が彼の居場所を知っているわけがない。

 

 

「あの……!」

 

 

なのに、知らず体が動いていた。そのまま、彼女を追いかけていた。藁にもすがる思いだったのだろう。彼の居場所が分からない。手掛かりすら掴めない。八方ふさがりの現状。それをどうにかしたい一心で、あきらめることができない一念でわたしは彼女の声をかけた。だが

 

 

「…………」

 

 

その声は女性に届くことはなかった。背中からとはいえ、声をかけたのに彼女は全く反応しない。歩みの速さも全く変わらない。一定のリズムで、無駄のない動き。なのにどこか優雅さが感じられる矛盾。もしかしたら自分に声を掛けられたと思っていないのかもしれない。

 

 

「――――すいません、ちょっとお聞きしたいことが」

 

 

息を弾ませ、何とか駆け足に先回りし、彼女の前へと出る。これなら、気づかないことはないはず。無視されているにしても、どうしようもないはず。でも、そんなわたしの考えは

 

 

正面から彼女と向かい合った瞬間に、停止してしまった。

 

 

「――――」

 

 

言葉を失っているのはわたしだけ。もう、自分が何を口にしようとしていたのかすら分からない。それほどに彼女の姿は異常だった。

 

美しい。黄金の金髪に血のように朱い瞳。完璧な造形を思わせる美貌。同じ女性である自分から見ても見惚れてしまう程、彼女は美しかった。だが、それだけではない。それだけであったなら、ここまで我を失うことはない。ただ違うのは

 

 

――――彼女が、全く自分を見ていなかったから。

 

 

端から見れば分からない差異。でも、わたしには分かる。瞳はわたしを映しながらも、彼女は全くわたしを見ていない。意識していない。気づいていない。

 

声も同じ。目の前にいるわたしの声も、きっと彼女には聞こえていない。届いていない。

 

ただ思った。

 

 

――――まるで人形のようだ、と。

 

 

彼女は全く自分を意に介することなく、わたしの横を素通りしていく。一言も発することなく、目を向けることもなく。道端に落ちている石を誰も気に留めることがないように、神が人を気にかけることがないように。ただ彼女は去っていく。機械のように、無駄なことを何一つ知らない白い人形。

 

わたしはただ、その場に立ち尽くすしかなかった。頭にはもう自分が何をしようとしていたのかすら残っていない。ただ、目を奪われていた。何故ならわたしは知っている。見たことがある。彼女の姿が、重なる。

 

 

(今のは……まるで……)

 

 

屋敷を出て行く時の、彼の姿。八年前、初めて会った彼の姿。何も見ず、何も聞かない。ただ人形のような在り方。

 

違うのは、彼が何かによって摩耗し、そうなったのに対して、彼女はまるで最初からそうであったかのようだったこと。使い古されたビデオテープと新品のビデオテープのように。結果は同じでありながらも過程が真逆の二人。

 

わたしはそのまま、しばらくその場に留まっていたもののすぐに動き出した。言うまでもなく、彼女の後を追うために。

 

そこに明確な理由はなかった。ただ何となく、というしかない。彼女が彼のことを知っているかもしれないというのももちろんある。それを問いただしたい。でも、それ以外のよく分からない感情が、予感がある。

 

 

彼女は、自分と同じかもしれない。そんな感覚。

 

 

八年前、初めて彼と出会った時に感じた感覚。それが、先にあった。同時に、惹かれていた。彼女は、わたしや彼とは違う。何かが違う。もしかしたら、彼女なら彼との約束の答えを得ることができるかもしれない。

 

人間の振りをしている人形と、人形の振りをしている人間。そのどちらが正しいのか。それとも、どちらでもない答えがあるのか。

 

 

そんな理解できない、気が触れたと思われてもおかしくない感情に後押しされながらわたしは彼女の後を追って行く。もしかしたら、もうわたしは壊れてしまっているのかもしれない。彼がいなくなってから、自分で自分が何をしているか分からなくなる。今までは、何も感じなかったのに、演じている以外の『琥珀』がいる。

 

熱に浮かされたように、わたしは彼女を尾けていた。話しかけることもなく、ただその後を。端から見ればただの異常者。それでも気配を消しながら、姿を見られないようにしながら歩く。まるで光に寄って行く虫のように、自分と同じ仲間を探しているかのように。

 

 

(…………何をしているんでしょうか、わたし)

 

 

公園にいた時と同じ思考をしながら、ようやく足を止める。気がつけば公園から随分離れている。このまま彼女に付いて行っても意味はない。そもそも何故彼女に付いて行こうと思ったのか。もうやめよう。これ以上続けても、よくなることはない。でも、あきらめたらもう彼とは会えないかもしれない。あきらめたくない。ならどうすればいいのか。そんな思考の牢獄に囚われていた時

 

 

(…………え?)

 

 

唐突に、彼女の動きが止まった。今まで淀みなく、歩き続けていたリズムが止まる。同時に、彼女は視線を上に上げる。そこにはマンションがある。どうやらそこが彼女の家らしい。なら、自分も早く決断しなければ。彼のことを尋ねる機会が失われてしまう。でもわたしが動くよりも早く

 

 

彼女は振り返り、そのままわたしの方へ向かって歩き始めた。

 

 

「――――」

 

 

わたしはその場で金縛りにあったように身動きができない。彼女が近づいて来るのをただ待つことしかできない。あるのは本能に近い思考。逃げなければという思いのみ。

 

でも分からない。どうして逃げなければいけないのか。確かに後を追っていたのは悪いことだが、悪意があってのものではない。そもそも彼女がそれに気づいていたかも怪しい。なのに、わたしの中の何かが告げている。人形のはずなのに、人形であっても逃れられないもの。

 

逃ゲロ。

 

わたしではないわたしが告げる。そこから離れろと。アレから逃げろと。だけど、足が動かない。蛇に睨まれた蛙のように。みっともなく、呆然と眺めていることしかできない。一歩、また一歩と彼女が近づいてくる。表情は全く先程と変わらない。美貌を持ちながらも、人形のように無表情。いつも笑みを浮かべている、笑みしか浮かべることができない自分とは違うもう一つの形。

 

さらに違うのは、彼女がはっきりとわたしを見据えていたということ。間違いなく、わたしに向かって彼女は向かってきている。先程までは意に介していなかったにもかかわらず。それはつまり、今のわたしは、彼女の行動理由に引っかかってしまったということ。

 

そのまま彼女はわたしの前で動きを止める。互いに見つめ合うことができる距離。逃げることができない間合い。そこで、ようやくわたしは悟る。

 

 

何のことはない。目の前の彼女は、文字通り自分達とは違っていたのだと。

 

 

瞬間、彼女の眼が見開かれる。同時に、瞳の色が変わる。光を放つように瞳は深紅から金色へ。魔性を感じさせる瞳によって、私は魅入られる。何かがわたしに入ってこようとしているが、それが何なのか分からない。奇妙な感覚。思い出したのはいつかの彼の瞳だった。そういえば、彼の瞳も彼女と同じように光っていたと。蒼い双眼。色は違えど、そんなところも、どこか彼女は彼に似ていると。そんなどうでもいいことを考えていると

 

 

「――――?」

 

 

初めて、彼女の表情に変化が生じた。変化というには小さすぎる揺らぎ。でもわたしには分かる。目は口ほどに物を言うとまではいかないまでも、金の瞳でわたしを見つめていた彼女は何かに気づいたように瞳を細める。まるで、何か予想外のことが起きたかのように。既に瞳の色は深紅へと戻っている。同時に感じていた違和感も消え去る。一体何だったのか。それを考える間もなく、今度は彼女が先に動きだす。

 

それは手だった。彼女の手がゆっくりと上がって行く。白く、美しい手。思わず見とれてしまうような所作。だが、同時に同じほどの危うさを、不吉さを感じさせるもの。それが何を意味するかなど考えるまでもない。もう、後はない。

 

もう出来ることは何もない。直感、本能。ヒトではない何か。それが目の前の彼女の正体なのだと。魔と呼ばれるものをわたしは知っている。だが、そのどれとも違う。人と混じっている紛い物などではない。正真正銘の、ヒトならざる高み。それを前にして何もできることはない。

 

怖くはない。怖がることはない。わたしは人形だから、壊れるだけ。速いか遅いかの違い。このままゆっくり壊れて行くなら、ここで壊れても変わらない。ゼンマイを失ったわたしにはもう何もない。なのに、どうして――――

 

 

「あなたは……志貴さんを知っていますか……?」

 

 

この瞬間に、そんな言葉が出てくるのだろう。もしかしたら、自分の生死よりも、そのことの方が、わたしにとっては大事だったのかもしれない。

 

瞬間、わたしに向けられんとしていた手の動きが止まる。機械仕掛けの人形が止まってしまうように。理解できない何かが起こってしまってショートしてしまった機械のように。

 

 

「…………シ、キ?」

 

 

彼女はたどたどしくその名を口にする。否、それが名前であることすら分かっていないのかもしれない。ただわたしの言葉を反芻しただけ。その声も、発音もまるで機械のよう。まるで初めて言葉を喋ったかのように、そこには生まれたばかりの赤ん坊のような矛盾があった。

 

 

「はい。目を閉じている男の人なんですけど……知りませんか? あなたともしかしたら、ぶつかったことがあるかもしれないんです」

「…………」

 

 

先程までの、生死の境にあったはずの緊張感は既にない。それを忘れてしまうほど、今の彼女には何もない。ただ、まるで自分が喋ったことに驚いているかのように黙りこんでしまう。

 

それがいつまで続いたのか。彼女はそのまま踵を返し、そのまま去っていく。言葉を発することはもうない。もしかしたら先程言葉を発したのが聞き間違いだったのではと思うほどに。わたしは、彼女がそのままマンションに入って行くのを見つめながらもそれ以上声をかけることはできなかった。それは身の危険を感じたからではない。もっと違う、既視感に近いものを先程の彼女の姿に見たから。

 

 

八年前、わたしが彼と出会って何かが変わってしまった時のように。

 

 

それが琥珀とアルクェイド・ブリュンスタッドの初めての邂逅の終わり。そして彼女にとっての始まりだった――――

 

 

 

 

「…………ふぅ」

 

 

溜息を吐きながら、わたしはようやく遠野の屋敷へと戻ってきた。時間は昼の二時頃。夕方に戻ってくる予定で、早めに帰ってきたはずなのに何故かもうクタクタだった。収穫はほとんど何もなし。それどころか危うく命を落とすところだった。今思えば、正気を疑うようなやり取り。今になって、知らず汗が出てくる。でもそれが既におかしい。わたしはそんなことを気にしたりしなかったはず。死ぬのは嫌だけど、そのことで動揺したりはしないはず。今までのわたしなら、そんな自分を客観的に見つめることができたはず。なのに――――

 

 

「……あ、翡翠ちゃん、ただいま。お仕事はもう終わった?」

 

 

そんな思考を断ち切るように、玄関で翡翠ちゃんと出くわす。翡翠ちゃんも一瞬驚いたような顔をするものの、すぐにいつもの表情に戻ってしまう。彼も、秋葉様もいないのに使用人としての義務を怠らない妹らしい対応に少しだけ心が落ち着いたような気がした。

 

 

「姉さん、早かったのね。夕方に戻ってくるんじゃなかったの?」

「はい。でも、思ったよりも早くお買い物が済んじゃったんです。時間もちょうどいいですし、ちょっとお茶にしましょう」

 

 

ぽんと手を合わせながら翡翠ちゃんを休憩という名のお茶会に誘う。買い物はしていないけれど、お茶菓子ぐらいはある。時間的にもちょうどいい。何より、早くいつもの琥珀に戻りたかった。琥珀なら、そうするだろうという行動を取ることで安心したかったのかもしれない。でもそれは

 

 

「ごめんなさい、姉さん。わたしはこれからお部屋の掃除があるから」

 

 

翡翠ちゃんの理解できない返事によって断られてしまった。

 

 

「……お部屋の掃除ですか? でも、もうお昼ですよ。いつもならとっくに終わってるじゃないですか」

「……何を言っているの、姉さん? 部屋の掃除はこれからするわ。だからお茶はその後にするから」

「翡翠ちゃん……?」

 

 

そのまま翡翠ちゃんはてきぱきと慣れた手つきで掃除道具を手に出て行ってしまう。でも、おかしい。だってもうお昼すぎ。いつもなら翡翠ちゃんは掃除を終わらせているはず。朝も、わたしが出かける時から掃除道具を手にしていた。一体何があったのか。

 

 

(……やっぱり、ここも掃除は終わってる。どうして……)

 

 

急いで部屋の廊下や手すり、お部屋の様子を確認する。そこには埃も汚れもない。間違いなくつい先ほど人の手が入ったのが分かる程。でも、何度声をかけても翡翠ちゃんは聞く耳を持たない。その光景を見せても、わたしはまだしていないの一点張り。頑固なところがある妹ではあるが明らかに普通ではない。そう、まるで本当に自分が掃除をしていることを忘れてしまっているかのように。

 

 

「――――」

 

 

瞬間、自分を切り替える。人形の自分の中でも、夜にしか見せない顔を。遠野秋葉の、遠野家の使用人としての顔。気配を殺しながら、ゆっくりとそれでも油断することなく一階から見回りをしていく。一室一室。曲がり角の度に、息をひそめ、耳を澄ましながら。隠れている誰かを探しているかのように。

 

侵入者。

 

それが今、わたしが警戒している存在。ここは混血である遠野本家。それに敵対する組織や家も存在する。その証拠に、遠野は自らに敵対する者を排除してきた。先の翡翠ちゃんの態度もそれによるものならあり得る。直接被害は受けていないが、もしかしたらまだ侵入者がいるかもしれない。それを放置しておくことはできない。だが今は秋葉様はいない。自分は感応能力は持っているが戦うことはできない。本来なら逃げるべき。でもそれはできない。自分だけならそれもできる。それでも、翡翠ちゃんは屋敷から出ることができない。出ることを禁じている。確証もないままではどうしようもない。

 

気配も、感情も。何もかも消し去りながら二階へと上がって行く。知らず、空気が重くなる。まさか、公園に引き続いてこんなことになるなど想像もしていなかった。でも愚痴を言っている暇はない。これは遊びではない。正真正銘の、命のやり取りの世界なのだから。

 

そして、辿り着く。自分でなければ気づかないようなわずかな差異。それでも、確かな人の痕跡。誰よりもその部屋のことを知っているからこそ。奇しくも、数日前、彼が訪れた場所であり、彼を見た最後の場所。

 

 

(槙久様の……部屋……)

 

 

今は亡き当主の部屋。そこに誰かが侵入している。自分でも翡翠ちゃんでもない。ましてや秋葉様でもない。もしかしたら彼が帰ってきたのかと思うも振り払う。そんな都合のいい話はない。十中八九、自分達に敵対する何者か。とにもかくにも確証は得た。後は、気づかれないようにこの場を離れ、妹共に屋敷を離れることだけ。そう決断しかけた時

 

 

「……覗きはいけませんね。あまり続けていると癖になってしまいますよ?」

「―――っ!?」

 

 

まるで知っていたかのようにドアが開き、中から侵入者が姿を現す。何とか逃げ出さんとするも既に回り込まれ、退路はない。明らかに素人の動きではない。何よりもその容姿が想像だにしていないものだった。

 

 

「確か、琥珀さんでしたか。お買い物で夕方まで戻ってこられないと聞いていたんですが……ちょっと油断しすぎていたかもしれませんね」

 

 

女性。しかも学生服を身に纏い、眼鏡をかけている。およそ侵入者、刺客とは思えないような姿。何よりもその態度。見つかったと言うのに全く焦りがない。むしろ余裕すら見せつけている。自然体そのもの。つまり、この女性は見つかったとしても意に介さない程の実力を持っているということ。その姿に琥珀は最悪の事態を覚悟する。

 

 

「あなたは……一体」

「そうですね……ただの『お節介さん』とでも申しましょうか……ただ少し、今回はそれが過ぎたみたいです」

 

 

思わずこちらの気が抜けてしまいそうな朗らかさで、眼鏡をかけた女性は独白する。内容も意味が理解できないもの。でも今はそんなことはどうでもいい。何とか隙を見つけ出してこの場を離れなくてはいけない。しかし、そんなわたしの考えを知ってか否か

 

 

『――――そういえば琥珀さん、まだ買い物が済んでないんじゃありませんか?』

 

 

侵入者はそのままわたしの瞳を覗きこんだまま、そんな理解できない言葉を口にした。

 

瞬間、強烈なデジャヴを感じる。何故ならつい先ほど、これと全く同じ感覚を覚えたのだから。瞳が光っているかの違いはあるものの、金髪の彼女も、眼鏡の彼女も自分の眼を見つめてくる。何かをわたしに訴えかけるように。しかし、分からない。何も起こらない。

 

 

「――――? これは、まさか――――」

 

 

しばらくした後、眼鏡の女性は困惑したように眼を細める。まるで予想外のことが起きたかのように。金髪の外国人女性とは違い、侵入者はそのことに何か心当たりがあるような素振りを見せている。

 

でもわたしは、そんな彼女の姿を見ながらも全く別のことに気づいていた。それは彼女の容姿。緊張状態であったため切り捨てていた思考によってようやく悟る。目の前の女性の容姿を、自分が知っていたことを。眼鏡に、学生服。加えて明らかに日本人ではない容姿。自分が探していた、もう一人の人物であり手掛かり。

 

 

「あなたは、もしかして……『シエル』さんですか……?」

 

 

彼が学校から手紙を送った留学生。彼のことを知っている確率が最も高い存在。

 

 

それが計らずとも、琥珀と教会一の『お節介さん』が邂逅した瞬間だった――――

 

 

 



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第十九話 「螺旋」

それは潜入調査だった。

 

シエルは埋葬機関に属している。だがその役割は戦闘だけではない。吸血鬼を滅するためにはまずその城を見つける必要がある。そのためにはその土地の情報を得ることも重要な任務。いわば準備段階。蛇の転生体が特定できた今、それが事実であるかシエルは確かめる必要があった。

 

『遠野四季』

 

遠野家の長男であり、幼い頃に反転し、隔離されていた存在。シエルはその存在を予期していなかった第三者から得ることができた。遠野志貴という少年から。その存在も、シエルにとっては理解できない程異常なもの。だが敵ではなく、目的が蛇を滅することであったことから協力関係を結んでいる。彼の言葉が嘘だとは思ってはいないが、任務に私情を挟むことはできない。そのため、シエルは遠野志貴から得られた情報が真実であるかどうかを直接確かめるため遠野家に潜入することを決断した。

 

セオリーとしては夜に行うのだが、今回はあえて日中に決行。理由は二つ。一つが夜は蛇を探すことを優先する必要があるから。彼から得た情報が正しいなら、一刻も早く蛇を見つけ出さなくてはならない。一手間違えれば詰みになりかねない。もう一つが、当主である遠野秋葉の存在。その情報は彼から既に得ている。混血であり、異能の持ち主。接触するようなことがあれば不測の事態も起きかねない。幸いにも遠野秋葉は学生であり、日中は屋敷にはいない。なら、その間に行うのが最もリスクが少なく効率が良い。

 

それは間違っていなかったはず。その証拠に、自分は難なく屋敷に潜入し目的を達した。前当主である遠野槙久の部屋でその手記を手に入れることで。そこには全てが記されていた。遠野四季の存在の証明。その過程。そして、遠野槙久自身の末路も。思う所がないわけではないが目的は果たした。遠野志貴から手に入れた情報が正しいこと。曰く、自分には嘘はつかないという彼自身の言葉も。後は屋敷を離脱し、今夜再び彼と待ち合わせした場所へと向かうだけ、だったはずなのに――――

 

 

「――――お待たせしました、紅茶で宜しかったんですよね?」

 

 

何故自分は、楽しそうな笑みを浮かべている着物姿の少女からお茶を出されているのか。

 

 

「……はい。では頂きます」

「どうぞ、お口に合えばいいんですけど」

 

 

一度溜息を吐きながら、少女、琥珀の手からカップを受け取り口に付ける。同時に彼女もわたしの正面のソファに腰掛ける。ここはどうやら客間らしい。富豪だけあり、ソファはもちろん机も調度品も一目見れば高価な物ばかり。だが戸惑っているのはそこではない。何故侵入者であるはずの自分が客間に通され、あまつさえお茶を出されているのか。これまで数えきれないほど任務をこなしてきた中でも初めての経験だった。

 

 

「美味しいですね。いつも淹れてらっしゃるんですか?」

「はい。秋葉様のお気に入りですから。あ、でもよかったです。秋葉様がいらっしゃったらきっと、お茶どころではなかったでしょうから」

「そうですか。秋葉さんは今、学校に?」

「はい。夕方まではお戻りにはなりません。ですからご安心を」

 

 

本気でこちらを心配しているのか、クスクスと笑いながら彼女は自らの主の不在を明かす。その姿は年相応、可愛らしい少女そのもの。だが侵入者である自分と一対一で向き合っているのにこんな態度を取れるということは、やはり遠野家の使用人ということなのか。だが何にせよ、このままゆっくりとはしてはいられない。

 

 

「本当ならお茶のお代わりをお願いしたいところですが、そういうわけにはいきませんね。琥珀さん、何故わたしをこんな場所に? それにどこでわたしの名前を知ったんですか。お会いしたことはないはずですが」

 

 

何故こんな場所に自分を誘ったのか。あの時、遠野槙久の部屋の前で接触した時、自分はそのまま立ち去るつもりだった。だが一つの予想外の出来事と、彼女が自分の名前を知っていたことからわたしは彼女の言葉に従い、ここまで付いてきた。まさかお茶を出されるとまでは予想していなかったが、彼女が何を考えているのか想像できない。

 

 

「簡単です。あのまま立ったままではゆっくりお話を伺えないと思いまして。お名前は、志貴さんが通われている学校の先生から伺いました。シエルさん、で宜しいんですよね?」

 

 

まっすぐこちらに笑みを向けながら、彼女は淀みなく答える。単純な理由。加えて名前を知られていた理由もあっさりと判明した。結果から言えば自分の小さなミス。遠野志貴からの手紙を優先し、学校に関係する暗示を解き忘れていたことが原因。だがやはり分からない。

 

 

「そうですが……琥珀さん、自分が何をしているか分かっていますか。わたしは侵入者です。なのに何故こんなことを? 危険だとは思わないんですか?」

 

 

侵入者である自分と何の躊躇もなく向かい合っていること。どんな理由があれ自分は遠野家にとっては敵あり排除すべき存在。使用人とはいえ、それは変わらないはず。もしかしたら遠野秋葉が戻ってくるまで時間を稼いでいるのかとも思ったがそんな素振りもない。むしろ遠野秋葉がいないことを好都合だとしている節すら見える。何よりも異常なのは

 

 

「はい。あなたが本当に危険な人なら、もうそうなっているでしょうし。それに、見た目通り、優しい方なんですね。わざわざわたしに忠告してくれるんですから。失礼ですけど、わたしからすればシエルさんもよっぽど変ですよ?」

 

 

彼女がまったく危険を恐れていないから。確かに、今言ったように状況からわたしが危険ではないと判断することはできるかもしれない。だがそれだけで、ここまで自然な態度は取れない。どこかに不自然さかあってしかるべき。なのにそれがない。自然であるがゆえに不自然。だが自分は知っている。この感覚を、この空気を。つい最近、これと似た空気を持つ相手と話したことがある。あれは誰だったのか――――

 

 

「……ええ、よく言われます」

「本当に『お節介さん』なんですね。でも……わたしからも質問させてください。どうしてシエルさんはここまで付き合ってくれてるんですか? 普通ならあのまま屋敷から出て行くはずなのに」

「それは……」

 

 

彼女のもっともな指摘に言葉を詰まらせてしまう。そう、本当なら自分は彼女に見つかった時に離脱するはずだった。なのにここにいる理由。それは

 

 

「もしかして……さっき仰ってた言葉が関係してるんじゃありません? 確か、『わたしがまだ買い物が済んでいない』でしたか」

 

 

彼女に暗示が通じなかったから。

 

あの瞬間、自分は彼女に暗示をかけた。まだ買い物が終わっていない、という暗示。そうすることで自分と会った記憶を改修し、そのままその場からいなくなってもらうつもりだった。だがそれは通じなかった。しかもその理由が問題だった。

 

 

(やはり間違いない……彼女には暗示が通じない。それにこれは……)

 

 

彼女が何も魔術を使っていなかったから。魔術に耐性があるわけでもない。なのに通じない。同時に思い出す。全く同じ現象が、つい先日あったことを。

 

 

(遠野志貴と同じ……自己暗示による自己保存。この琥珀という少女も、同じような状態にあるということですか……)

 

 

遠野志貴。彼にも暗示が通じなかった。自己暗示の類による自己保存、自己形成。何を自分に刷り込んでいるのかは分からない。だが遠野志貴も、彼女もそれによって自己を保っている。いわば既に暗示にかかっていると言っていい。だからこそ自分の暗示は通じなかった。少なからず接触があったであろう彼と彼女が同じ状態にあるということは何らかの理由があるのでは。それを確かめるためにわたしは一時的に彼女の誘いに乗ることにしたのだった。

 

 

「……気づいていたんですか?」

「いいえ。あなたが何をしようとしたかは分かりませんでしたけど、推測はできます。きっと翡翠ちゃん……わたしの妹にも同じようなことをしたのでは? 翡翠ちゃんは掃除をしたことを忘れてしまっていましたから。わたしにも同じようなことをしようとされたんでしょう?」

「……その通りです。暗示、催眠術のようなものです。ですが、人体には影響はありませんのでご心配なく。妹さんもすぐに元に戻ります」

「そうですか、良かったです。でも、どうしてわたしには効かなかったんですか?」

「……分かりません。そういった人も、稀にはいるので」

 

 

隠しても意味はないと判断し、正直に真実を明かすも彼女はぽかんとしているだけ。全く心当たりがないからだろう。同時に自己暗示の話をすることは避けた。問い詰めたところで無駄だということは明白。自己暗示は、自分では気づくことができないからこそ成立している。何を思いこんでいるかを聞いても、本人には分からない。もし、それを自覚すれば最悪自己崩壊につながりかねない。

 

 

「それで……琥珀さんは何故わたしを引きとめたんです? お茶の相手が欲しかったというわけではないでしょう?」

 

 

あえて話題を切り上げ、同時に本題に入る。何故、自分を引きとめたのか。その理由。彼女はそのまましばらく黙りこんでしまう。知らず、着物を握りしめながらも、ようやく決心したのか彼女は口にする。

 

 

「志貴さん……彼がどこにいるか、知っていますか? わたしは、それを知りたいんです……」

 

 

身の危険を度外視しても、自分と接触した理由。その答えを。

 

 

「志貴……遠野志貴のことですか? 何故そんなことをわたしに……」

「志貴さんは数日前に、屋敷から出て行ってしまったんです……探しているんですが、見つけることができなくて……そこで、シエルさんのことを知ったんです。彼があなたに手紙を出していたことも。それで、あなたなら志貴さんがどこにいるのか知っているんじゃないかって……」

 

 

ぽつりぽつりと、何かを思い出すかのように彼女は現状を明かしていく。確かに、筋は通る。その状況ならば、自分が手掛かりになり得ると。それは正しい。事実、自分は遠野志貴と接触し、繋がりを持っている。それを彼女に教えるのは容易い。しかし、すぐにそれを教えることはできない。何故なら

 

 

(彼女は一般人……巻き込むわけにはいかない。遠野家の使用人である以上、そういった類の知識はあるのかもしれませんが、それでも無関係であることは変わらない)

 

 

一般人である彼女を巻き込むわけにはいかないから。もしかしたら、遠野家の使用人であるのならある程度はそういった裏の事情も知っているのかもしれない。だがそれ以上に、足手まといになり得る彼女を巻き込むことは代行者としても得策ではない。

 

 

「……申し訳ありませんが、彼がどこにいるかはわたしも知りません。それと一つ、確認させてください。琥珀さん、あなたは吸血鬼という存在を知っていますか。もしくは、それに近いヒトではないものの存在を」

「……はい。知っています。吸血鬼は知りませんが、魔と呼ばれるものがいることを。遠野家も、その末裔ですから。それにわたしも、魔ではありませんが特別な力を持っています」

「……そうですか。でしたら話してもいいでしょう。わたしと彼、遠野君もこの街にいる吸血鬼を倒すために動いています。彼がここを出て行ったのもきっとそのためです。ですから、それが終われば――――」

 

 

迷いながらもぎりぎりだと思える内容を彼女に明かす。彼の居場所を知らないのは本当だ。連絡先は交換しているが、彼がどこにいるかは知らない。聞こうとはしたものの、結局彼は口にはしなかった。そして、彼女はどうやら裏の事情については知っているらしい。なら明かしても問題はないだろう。遠野志貴なら取ってもおかしくない行動なのだから。しかしそれは

 

 

「……あの人が、どうしてそんなことをするんですか? そんなこと、できるはずがないのに……」

 

 

彼女のどこか呆然としている言葉で断ち切られてしまう。

 

 

「……? 何故、そんなに驚いているんですか。彼は七夜、退魔の一族の末裔です。なら異端と戦ってもおかしくはないでしょう」

「違うんです……志貴さんには、あの人にはそんなことできるはずがないんです。だって……あの人は……」

 

 

琥珀はそのまま、言葉を失ってしまう。まるで何かを伝えたくてもできないかのように。そんな彼女の姿にようやく悟る。自分も全く予想していなかったこと。彼から得た情報、話の中には全く含まれていなかった事実。それは

 

 

「琥珀さん……あなたは、遠野君が本当は何者か知っているんですか?」

 

 

目の前の少女、琥珀が彼が本物の遠野志貴ではないことを知っているということ。

 

 

「……何者かは知りません。でも、彼が本物の志貴さんじゃないってことは、知ってます」

 

 

反芻するように、どこか機械的に彼女は口にする。だがその内容は決して無視できるよなものではない。繰り返しや目的については知らないようだが、彼女は間違いなく彼が本物の遠野志貴ではないことを知っている。確信している。だが、だからこそ分からない。

 

 

「あなたは……それなのに何故彼に会いたいんです? 言いたくはありませんが、彼はあなた達が知っている遠野志貴ではない。それなのに……」

「それは……」

 

 

何故、本物の遠野志貴ではない彼に会いたいのか。探しているのか。本物の遠野志貴は、彼の言葉が真実なら八年前に死んでしまっている。なのにそれを知っていて、何故彼を探しているのか。同時にそれが彼のことを彼女に伝えなかった理由。本物の遠野志貴を案じているであろう彼女達にそれを伝えることを躊躇ったからこそ。きっと彼自身もそれを望んでいるはず。

 

だがその瞬間、ようやく気づく。今まで気づくことができなかった、違和感の正体。

 

それは琥珀という少女のこと。

 

正確には遠野志貴自身から聞かされた彼女の情報。端的に言えば、それはほとんどないに等しかった。遠野家の使用人であり、双子の姉。せいぜいそのぐらいしか自分は彼からあの夜、聞かせてもらっていない。最初は必要がないこと、蛇に関連することではないからだと思っていた。だが、明らかに違う。その証拠に遠野秋葉についての情報については詳細に口にしていた。妹の翡翠についても、遠野秋葉程ではないにしても、彼女に比べれば情報はある。なら意図的にそうしていたということ。彼女が自分の正体に気づいていることを彼が知らないとは考えづらい。そうでありながらも、彼はわたしにはそのことは伝えなかった。確かに嘘はついていない。ただ明かしていない。それはつまり

 

 

彼にとって目の前の少女、琥珀は特別な存在だということ。

 

 

「…………」

 

 

そのまま視線を目の前の少女に向ける。彼女はそのまま黙りこんだまま。先程まで見せていた明るい笑みも、姿もない。何か、自分でも分からない何かに翻弄されているかのよう。それを前にして、わたしも言葉がない。かけるべき、言葉がない。

 

彼が遠野の屋敷を出て行った理由。それをわたしは彼が蛇を倒す上で不都合が多かったからだと受け取っていた。何度かは分からない、彼自身も覚えていない程、彼は繰り返している。その中で、遠野の家でもなく有間の家でもなく、一人で行動をしているのはその方が都合が良いからなのだろうと。事実、代行者である自分の単独行動の方が動きやすい。彼の場合は、直死の眼の影響で昼間に睡眠を取り夜行動している。なら、同居人がいない方が干渉されず動きやすい。それを証明するように彼の行動には無駄がない。だからこそ、それが証明になる。そんな彼が、あえてそんな行動を取っている本当の理由が何なのか。

 

 

――――琥珀を巻き込まないため。

 

 

そう考えれば、納得がいく。あえて自分に彼女の情報を明かさなかったのも、屋敷を出て一人で行動していることも。もしかしたら居場所を自分に伝えなかったのも、自分がそれを彼女にバラしてしまうことを計算に入れてのものだったのかもしれない。

 

 

なら、わたしは彼のことを彼女に伝えるべきではない。それはきっと、彼の意志に反すること。彼が彼女のことをどう思っているのかは分からない。だが、数えきれないほど繰り返し、摩耗しながらもそれを貫き通している以上、そこには明確な意志がある。なら、踏み入るべきではない。そのことで、協力関係が解消されてしまうかもしれない。なのに

 

 

「琥珀さん……一つ、聞かせてください」

 

 

わたしは余計なことをしようとしている。お節介という範疇を超えているかもしれないことを。それでも、口にせずにはいられなかった。

 

 

「遠野君……彼は、もうあなたが知っている彼ではないかもしれません。もし、会えたとしても、すぐに会えなくなってしまうかもしれません」

 

 

感情を殺したまま、ただ淡々と告げる。そこには隠しながらも、真実だけがあった。忠告、予言に近いもの。

 

彼は、果てしない数の螺旋を繰り返している。恐らくは、人格が残っていることすら奇跡。もしかしたら、もう壊れてしまっているのかもしれない。たった一度の邂逅ではあるが、彼が異常であることは感じ取れた。もしかしたら、彼女が知っている彼では無くなってしまっているかもしれない。

 

もし、そうではなかったとしても、先はない。彼の言葉が真実なら、彼は直死の魔眼による負荷でもう長くない。自分が手に入れた魔眼殺しの包帯でも、一週間しか延命できない。蛇を殺し、螺旋から抜け出してもそれは変わらない。もし会えたとしても、すぐに別れは来る。なら、このまま会わない方が彼女のためになるのでは。

 

 

「それでも……彼に会いたいですか? あなたは彼に会ってどうしたいんですか?」

 

 

そんな想いを込めた問い。どちらの答えであっても結末は変わらない。遅いか早いか。ただそれだけの違いでしかない。救いはない。

 

 

「わたし、は……何をしたいのかは分かりません。何でわたしはこんなことをしているのか、もう分からないんです……」

 

 

彼女は独白する。自分が分からないと。どうしてこんなことをしているのか分からないと。子供のように、何も知らない人形のように。そこにはもう先程までいた彼女はいない。客観的に、ただ機械的に淀みなく話していた彼女の姿。それとは対照的な小さな、等身大の少女の姿。それでも

 

 

「――――ただ、あの人にもう一度会いたいんです」

 

 

だからこそ、少女は告げる。他には何もない。何がしたいのか、何を望んでいるのかも関係ない。それすらも、どうでもいい。ただ会いたいと。もう一度、彼に会いたいと。それが琥珀の、人形ではない、人間としての願いだった。

 

 

「――――」

 

 

その答えと姿に、しばらく言葉を失ってしまう。その言葉と姿に、何故か懐かしさを覚える。もう思い出すことができない、思い出すことが許されないはずの記憶。

 

 

――――ただ、少女であった自分。家族に囲まれ、このままきっとそれがずっと続くんだと信じて疑わなかった世界。朝早く起きれなくて、お父さんに怒られてしまう毎日。パン屋を手伝いながらも、自分もきっと、それが続くのだと信じていた記憶。今はもう手に入らない夢。

 

 

そんな頃の自分と、彼女が重なる。でもきっと、彼女はまだ違う。まだ間に合う。自分が手に入れられなかったものを、彼女は手にすることができるかもしれない。例え短くとも、価値があるものが。

 

 

「…………ふぅ、仕方ありませんね」

「…………え?」

 

 

大きく息を吐きながら、肩をすくめる。どうやら自分は根っからのお節介焼きらしい。自分の面倒も見れない癖に、人の心配ばかりしている愚か者。でも仕方ない。

 

年上として、恋する少女の力にならないわけにはいかないのだから。

 

 

「あの、どうされたんです……? お部屋が暑いですか?」

「いえ、お気になされずに。ちょっとあてられちゃっただけですから」

 

 

手をうちわ代わりに仰いでいる自分の姿に彼女はぽかんとしているだけ。そんな少女の姿に知らず笑みがこぼれる。同時にわずかな羨ましさも。もしかしたら自分も、こんな姿を見せることがあったのかもしれないという未練にも似た感情。

 

 

「ごほんっ……そうですね、わたしの負けです。実はわたし、彼の居場所は知りませんが、今夜彼と会う予定なんです」

「っ!? 志貴さんとですか!? なら……」

「でもすいません。今夜、あなたを連れていくことはできません。そんなことしたらわたし、彼に殺されちゃうかもしれないので」

 

 

身を乗り出してくる彼女を諫めながらそう告げる。冗談ではあるが、半分以上は本気の言葉。もし、彼の真意が自分が考えている通りなら、殺されてもおかしくはないのだから。

 

 

「ですから、一度彼と話をさせてください。そうですね……明日中には一度、連絡します。それが条件です。どうでしょうか?」

 

 

それが最低限の譲歩。今夜の彼との接触でそれを確かめること。彼女の気持ちは分かるが、これは彼の問題でもある。急ぎすぎれば意味がない。かといって遅すぎれば手遅れとなる。ある意味、蛇と戦い以上に困難なもの。

 

 

「…………はい。お願いします、シエルさん」

「ええ。任せてください。わたし、お節介さんですから」

 

 

手を握りながらも、彼女はそう懇願してくる。そんな彼女に笑みを向けると同時に、彼女もわずかではあるが微笑む。ただ思う。

 

 

――――願わくば、その笑みが彼に届くことを。

 

 

 

 

 

月が満ち、それでも光が差すことがないほど闇に包まれた路地裏。そこに、彼らはいた。

 

およそ人とは思えないほど巨大な体躯を持ち、黒いコートに身を包んだ男。その風貌が意味するように、彼は人間ではない。見る者が見れば気づいただろう。彼が、彼らがこの世にいてはならない怪物であると言うことを。

 

 

「――――ふむ、ここが限界が」

 

 

ぽつりと、地に響くような重苦しい声で男は呟く。同時に、どこから現れたのか、男の近くにあるものが現れていた。

 

巨大な犬。人一人乗せてもなんら問題にならないような大型犬。もしかすれば狼と言った方が正しいかもしれない。何故なら、それはまさに人を食らうことがその役目なのだから。だが男がその犬に触れた瞬間、それは消滅する。影も形も残らない。まるで初めからそうだったかのように、その場には男の姿だけ。

 

しかし、唐突に男の動きが止まる。同時にその気配も。まるで何かが、自らの縄張りに踏み込んだかのように。それを見て取ったかのように

 

 

「――――真逆な。本当にお前がこんなところにいるとは。驚いたぞ、『混沌』」

 

 

ヒトがいないこの世界で、もう一匹の怪物が姿を現した。

 

 

「それは私も同じだ。よもやこのような役目を私がする羽目になるとはな。久しいな、『蛇』よ。それが今回の皮というわけか」

 

 

混沌、ネロ・カオスはそのまま目を凝らしながら自らに話しかけてきた同胞と向かい合う。否、同胞ではない。その証拠に、そこには全く親愛はない。あるのは、闘争の空気だけ。それを受けながらも蛇、ロアは身じろぎ一つすることはない。その姿は闇に包まれて伺うことはできないものの、確かに存在していた。

 

 

「そういうことだ。前に比べれば格段に落ちるが、まあ構わんさ。それにしてもこんな極東の果てに一体何の用だ。見たところ、まだ『混沌』にはなりきっていないようだが」

「下らぬことを聞く。まだ私は私だ。もっとも、貴様が次に移る頃にはもう私はいないかもしれんが」

「違いない。もう挨拶はいいだろう。聞かせてもらおうかネロ・カオス。お前は何のために私の庭に踏み入った?」

 

 

瞬間、空気が凍る。明確な殺意がネロを射抜く。だが混沌は動じない。一歩も動くことなく、ただそこにいる。動く必要など無いのだと告げるかのように。

 

 

「知れたことを。貴様と同じだ、ロア。白い吸血姫、アルクェイド・ブリュンスタッドを討ちに来た。それだけのことだ」

「ほう、お前がか。興味深いな。だがお前がそんな意味がないことをするとは思えん。そうだな……白翼辺りの差し金か?」

「…………」

「図星か。まだ死徒の王を気取っているのか、あの耄碌は。いくら気取ったところで、月蝕姫には敵わぬだろうに。だがお前が協力すると言うことは、まだ第六をあきらめていないと見える。魔術師ではあるお前には、まだ興味が残っているのか?」

「―――僅かばかりの好奇心だ。魔術を志した者として、アレには惹かれるものがある。もっとも、手に入れたいとは思わんがね」

「成程。確かに、白翼なら運悪く上手く行ってしまう可能性もあるだろうな。もっとも、私にとってはどうでもいいことだ。私が求めるのは『永遠』のみ。お前が『混沌』を求めているのと同じだ」

 

 

同時に、蛇の眼が光る。己が目的。永遠を手に入れることだけが命題だと。それ以外は些事。故にそれを邪魔する物は容赦はしない。それが例え、かつて繋がりがあった相手だったとしても。

 

 

「十数度繰り返しても、まだ外れてはいないようだな。だが私も退く気はない。貴様の望み、我が『混沌』の中での『永遠』で叶えてやろう」

 

 

瞬間、黒い何かがネロから生まれ、全てを飲みこんでいく。ロアの殺気に反応し、『彼ら』は襲いかかる。群生である強みであると同時に極意。だが飲み込んだはずの中には何もない。まるで霧になってしまったかのように、手ごたえがない。

 

 

「そう急くなよ、混沌。私は喜んでいるんだ。私には予感がある。今度こそ、いや今回のために今までの全てがあったのだと。喜ぶといい。お前は、それを最も間近で見られるのだからな!」

 

 

歓喜の声を上げながら、蛇は闇に紛れ消えていく。後には彼らだけが残される。そこには何もない。あるのはただ答えを求めた魔術師のなれの果てだけ。

 

 

ここに役者は全て揃った。舞台も時間も、定められた通り。ただ一つ違うのは、同じ舞台を踊り続けた人形が一体紛れ込んでいることだけ。

 

 

人間と人形と吸血鬼。三つが絡み合う最後の螺旋が今、廻り出そうとしていた――――

 

 

 



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第二十話 「無駄」

陽が落ち始め、晴天だった空は、赤みに染まっていく。昼から夜へ。表から裏へ。人ならざる者達が動き始める時間。刻一刻とその時が迫って行く最中、一人の少年が公園のベンチに腰掛けていた。どこにでもいる、何の変哲もない少年。だが一つだけ、奇妙なところがあった。

 

 

「…………」

 

 

少年が眼を閉じていること。それ自体はおかしいことではない。ベンチに座ったまま寝てしまっていることもあり得る。だが少年は座り、目を閉じたまま微動だにしない。姿勢から寝ていないことは明らかにも関わらず、ただ空を見上げている。人気のない公園であるため、通行人もいない。一人、少年はベンチに座り空を見上げ続けている。それがいつまでも続くかと思われた時、初めて少年はその眼を開く。蒼い双眼。見る者を魅了してしまうような美しさと同時に危うさも併せ持つ魔眼。その瞳が空から目の前にある公園の時計へと視線を移す。時刻が午後六時ちょうど。それが合図となったのか

 

 

「――――もう出てきてもいいんじゃないか、シエルさん。覗きをするために来たわけじゃないだろう?」

 

 

再び目を閉じ、夕焼けを眺めながらどこかどうでもよさげに少年、遠野志貴は口にする。独り言にも思える呟き。その一瞬の間の後

 

 

「……いつから気づいていたんですか。気配は確かに消していたはずですが」

 

 

観念したのか、それとも先の言葉に思う所があったのか。若干、困惑気味の表情を見せながら公園の茂みの一画から一人の女性が姿を現す。その姿は少年とは対照的に明らかに普通ではない。黒い法衣とそれには不釣り合いなブーツ。いつもなら掛けているはずの眼鏡もない。夜の、代行者としてのシエルの正装。

 

 

「いや、気配は分からなかった。ただいるだろうなって思っただけで」

「答えになっていませんよ、遠野君。わたしが約束通りここにやってくるとは限らないでしょう」

「……? よく分からないな。シエルさんが約束を破るわけがないだろ。時間も同じだ。まあ、覗きはいい趣味じゃないと思うけど」

「そうですね……これからは気をつけることにします」

 

 

シエルの嫌味も何のその。遠野志貴はさも当然のように二日前と同じようにどこかズレた返答を返してくるだけ。暖簾に腕押し。そも会話が成り立っているのかも怪しい、どこか違和感を覚えずにはいられない。

 

 

(約束を破るわけがない……か。どうやら彼は、わたしのことも知り尽くしているようですね……)

 

 

知らず、溜息を吐きながらも理解する。遠野志貴、彼が自分のことを知り尽くしているのだと。恐らくはその性格も、在り方も。何度かは分からないが、彼は自分と接している。いや、正確には自分ではなく、過去か、並行世界の自分と。その証拠に彼の言葉の節々には経験が見える。シエルという自分に対する理解と対応。同時に、目の前にいる自分へではなく、違う自分に向かって話しかけられているのではと思える異物感。

 

 

「とにかく、お変わりないようで安心しました遠野君」

「ああ、シエルさんも。久しぶり……っていうのもおかしいか。確か、二日前にあったばかりだったっけ?」

「ええ。まさか、自分がした約束をもう忘れているんじゃないでしょうね。もしそうならこのままお暇させてもらいますが」

「いや、流石にそれは覚えてる。ただ時間の感覚はどうしても曖昧で、たまに良く分からなくなる時があるんだ。だからシエルさんに確認できるのは助かる」

「……わたしは遠野君の時計代わりになった覚えはないんですけど」

「それもそうか。でも時間をきっちり守るのは同じだろう。とりあえず立ったままってのも悪いし、座ってくれ。もう俺を警戒する必要もないだろ?」

 

 

変わらず、まるでこちらの答えをあらかじめ予知しているようなタイミングで彼は自分に話しかけてくる。以前から感じていた違和感。その正体に薄々気づきながらも口にすることなく改めて彼の姿を見る。服装は以前と変わらないジャケットにジーンズ。話している相手が目の前にいるにも関わらず目を閉じ、空を見上げている。その理由も既に承知しているがやはり無視されているように見えるのは何故だろう。何よりも変わらないのが座っているベンチの隣にスペースが空いていること。恐らくは自分が座る部分を空けてくれているのだろう。

 

 

「……? どうした、座らないのか? それともまだ警戒してるのか? ならナイフを預けても」

「いえ、結構です。全く警戒していないわけではありませんが、わたしは遠野君のことは信じています。単にそこはわたしが座る場所ではない、というだけです」

「そうか。よく分からないけど、シエルさんがそれでいいって言うんなら構わない」

 

 

だがあえてそこ腰掛けることはお断りする。彼はまだ警戒されていると取ったのか、またナイフを預けてこようとする奇行を見せるが理由は全く違う。単純に彼の隣に座るのが恥ずかしかったから、というのもあるが大きな理由はもっと別。きっとそこに座る資格があるのは彼女だけなのだろうという確信だけ。

 

 

「世間話はこのぐらいでいいでしょう。遠野君、これが約束の物です」

 

 

このまま無意味な会話を続けていても益はないと話を強引に切り替える。同時に法衣からある物を取り出し、彼の手に差し出す。白く長い包帯。一見すれば、ただの包帯だがその正体は違う。ある効果が付加された魔術品。シエル自身には意味はない、彼が手にして初めて用途がある命綱。

 

 

「ああ、こっちが先か。ありがとう、シエルさん。これで少しはマシになる」

 

『魔眼殺し』の包帯。

 

正確には魔眼を抑える術式を施した包帯。シエル自らが作成した品。もっとも、彼女にとっては知識外の物であったため本物の魔眼殺しには及ばない劣化品。それでも遠野志貴にとっては確かな寿命を延ばす必需品だった。

 

 

「……見ずに触っただけで分かるんですか? わたしがただの包帯を渡しただけかもしれませんよ」

「シエルさんはそんなことはしないだろ。それに、この感触は覚えてる。間違うこともない」

「……やはり、その魔眼殺しを何度も手にしたことがあるんですね。今までと変わりませんか?」

「ああ、変わらない。でも今回は少し心配してたんだ。猶予も一日だけだったし、これで何もできないまま死ぬことはなさそうだ」

 

 

そのまま彼は慣れた手つきで包帯を自らの両目に巻いて行く。言葉通りなら、少しは安堵してもいい場面。にもかかわらず彼は変わらない。出会った時と変わらず。どこか他人事のように自らの状態を確認している。同時にシエルは理解する。恐らく、自分が作った魔眼殺しの模造品が、これまで彼が手にしてきた物と変わらないであろうことを。

 

 

「――――遠野君、やはり死は見えるんですか?」

 

 

分かり切った問いを口にする。もはや問うまでもない。何故なら遠野志貴は変わらず空を見上げている。包帯をしながらも。それはつまり、目を閉じ、魔眼殺しを使ったとしても彼には死が見えているということ。

 

 

「ああ、こればっかりはどうしようもない。でも点は見えなくなるし、線も随分マシになる。おかげで頭痛も少しは収まっていると思う。ありがとう、シエルさん」

 

 

本来なら絶望してしかるべき事態を前にしながらそれでも彼は変わらない。それどころか、こちらを気遣うような素振りを見せている。知らず、感情が表情に出ていたかと思うもすぐに気づく。彼には自分の顔は見えていない。死の線を見ることによって外の世界を見ることができるとしても、人の表情までは読み取れない。だからきっとそれは単純な作業。恐らくは何度も経験しているがゆえにとっている行動。

 

 

「礼には及びません。遠野君からは少なからず、有益な情報をもらっていますから。協力関係であるなら当然です」

「それもそうか。じゃあ、そっちの話もしてもいいかな。シエルさん、蛇の城は見つかった?」

「え……? い、いえ……残念ながらまだ。死者は何体か滅したので少なからず妨害は出来ているはずですがロア本体も城も見つけられてはいません」

 

 

一瞬、呆けてしまうも何とかすぐに彼の質問に答える。詰まってしまったのは遠野志貴の方から尋ねてきたから。以前は自分が主体になっていたにもかかわらず。記憶の引き継ぎによる記憶の混濁が収まったということなのか。それともそうせざるを得ない理由が彼にはあるのか。判断ができないものの、この二日間の成果を口にする。もっともあってないようなもの。決して手を抜いたものではないものの、大きな進展はなし。だがそれは無理のないこと。吸血鬼退治は短時間で行えるものではない。痕跡を探し、死者を滅し、城を見つけ出し、吸血鬼を滅し、土地を浄化する。その過程でも城を見つけ出すことが最も時間を要する。何よりも相手はかつて希代の魔術師であったロア。その知識を受け継いでいるとはいえシエルのそれは残滓に過ぎない。容易に見つけ出すことができないのが現状だった。

 

 

「そうか……でもそろそろ動きがあるはずだ。それを見逃さなければきっと……」

「……遠野君の方はどうだったんです? 本当にアルクェイド・ブリュンスタッドを尾行していたんですか?」

「ああ。でもこっちも収穫なしだ。あえて言えば、ブリュンスタッドが死者を何体か消滅させたことぐらいか」

 

 

どうやら彼の方も大きな進展はなかったらしい。もっとも、あったのならこうして呑気にしている暇はないのだろうが。だが少なからず驚きがあった。それは

 

 

「遠野君、どうやってアルクェイド・ブリュンスタッドを尾行しているんですか?」

 

 

遠野志貴が本当に彼女を尾行しているということ。正確には彼女に見つかることなく、気づかれることなく尾行しているという事実。曰く彼は自分には嘘をつかないらしい。それを信じ切っているわけではないが、にわかには信じられないことだった。

 

 

「どうやってって……別に普通に尾行してるだけだけど……」

「嘘です。普通に尾行しているだけでは絶対に彼女に見つかるはずです。いくら人間だからといっても、彼女は見逃す程甘くはありません」

「それは知ってるけど……ああ、まだ言っていなかったか。俺、直接ブリュンスタッドの後を尾けてるわけじゃない。その気配を追ってるんだ」

「気配……?」

「ああ。前にも話しただろう。この体は七夜、退魔の一族のものでさ。殺人衝動ってものがあるんだ。それを頼りに後を追ってる。流石に視認できる距離で尾行してたら気づかれる」

 

 

遠野志貴はようやく気づいたように種明かしをする。もっとも、彼からすれば隠していたわけではなくただ単に自分に話していたのだと勘違いしていただけ。

 

『殺人衝動』

 

退魔の一族である七夜の人間が持つ特性。本能とでも言うべきもの。ヒトでありながら魔に対抗するための縛り。ヒトでない者を殺そうとする防衛機能であり、本能。真祖であっても例外ではない。むしろ真祖以上にその衝動が感じられる者はいないだろう。

 

 

「殺人衝動……確か、人でない者を殺そうとする衝動でしたか。それは今も?」

「今は感じてない。流石に遠すぎるし、そんなに便利な物でもない。おおよその位置は意識しないといけないし。できればロアを探すのにも役立ったんだが」

「…………」

「……? ああ、心配しなくてもいい。シエルさんは人間だから問題ない。間違いなくシエルさんは人間だ」

「……そうですか。安心しました」

 

 

まるでこちらの心を読んだかのように彼はわたしが気にしていたことを口にする。自分が人間であるかどうか。その答えをまさかこんなところで得ることになるとは思ってもいなかったが、彼がそういうのなら間違いないだろう。もっとも、不死である自分が人間であるかははなはだ疑問だが。否、蛇を殺して初めて自分は人間に戻れるのかもしれない。

 

 

「ですがその殺人衝動は抑えられるものなんですが? 元々は魔と戦うため、逃げ出さないための物だったと聞きましたが?」

 

 

出ることのない答えに蓋をしながら彼に尋ねる。単純な疑問。衝動はいわば本能。吸血衝動と同じように、抑えることができないからこそ衝動と呼ばれる。殺人衝動はいわば退魔の人間が魔を前にしても逃げ出さないようにするためのいわば枷。強制的な興奮状態であるはず。だが

 

 

「そうなんだが、この体は人形だから何とか切り離してるんだ。そうすれば衝動に飲みこまれることもないし」

 

 

遠野志貴は当然のように、そんなヨクワカラナイことを口にした。

 

 

「人形だから切り離す……? どういう意味ですか?」

「……? どうって……この体は自分の身体じゃないって思いこむんだ。そうすれば痛みも何も感じないし、思い通りに動いてくれるだろ? 実際、この体は俺の身体じゃないから、当然と言えば当然なんだけど」

 

 

遠野志貴が口にしている内容は取りとめのない物。聞くだけなら、そういう心構えを持っているで済ますことができるだろう。しかし、そう流すことはできない。何故ならそこにこそ、彼の根本、異常の本質があると確信できたから。

 

 

「……それは、いつから?」

「いつからだったかな……覚えてないな。何かきっかけがあったような気がするんだけど、まあいいさ。それに最初から上手くできたわけじゃない。殺人衝動が抑え込めるようになったのも、確かつい最近なんだ」

「最近、ですか? ならアルクェイド・ブリュンスタッドを尾行するのはそれまでどうやって……?」

「今までは途中で殺されてたんだ。単純に見つかるのと、殺人衝動に飲まれる場合の二通り。そのままじゃ尾行できないのに気づくのに十数回、殺人衝動を抑え込むのにその倍かかったかな。おかげで今回は上手く行きそうだ」

 

 

さも当然のようにわたしの問いに彼は答える。そこには何もない。ただ聞かれたから答えているだけ。その内容は決して淡々と語れるようなものではない。自分が殺された内容。しかも一度ではなく、何度も。同じ相手に。

 

 

「憎しみはないんですか……? あなたは、アルクェイド・ブリュンスタッドに何度も殺されているんでしょう? なのに……」

 

 

なのに、彼には憎しみがない。怒りがない。悲しみがない。まるで自分でない誰かが死んだように、彼には全く感情がない。せいぜい人形が壊れたくらいにしか、思っていない。

 

 

「別に何も。殺されたから、死んだだけだ。別に誰に殺されようと関係ないだろ?」

 

 

それが彼の答え。死は等価値。そこに至る過程も、誰によるものかも無関係。例えそれが蛇であっても変わらない。もしかしたら彼は誰も恨んでいないのかもしれない。そもそんな感情は摩耗し無くなってしまっているのかもしれない。ただ蛇を殺すためだけの人形。

 

 

「そうか……心配しなくてもいい。シエルさんに殺されたことは今のところないから。あっても気にすることはないし」

 

 

自分が言葉を失っている理由を勘違いしたのか、彼はそんな意味不明なフォローをしてくる。彼なりにこちらを気遣っているのかもしれないが、こんなに全く嬉しくない気遣いは初めてだった。

 

 

「そうですか……なら、一番多いのは誰に殺されているんです? ロアですか? それとも死者……?」

 

 

頭を抱えながらも一応聞いておくことにする。単純な興味。繰り返しきた彼が一体誰に一番殺されているのか。本当なら聞くべき質問ではないのだが、あまりにも自分の死に無頓着な彼だからこそした問い。だがその答えは

 

 

「殺されたのは多分死者だけど……一番多いのはきっと自殺かな」

 

 

わたしが全く予想していなかったものだった。

 

 

「自殺……ですか? それは、自暴自棄になって……?」

「そういえば最初の方はそんなこともしてた気がするけど、一番は違う。ただ効率よく繰り返すために自殺してたんだ」

「効率よく、繰り返す……?」

「ああ。前に話しただろ。俺、最初は全然戦えなかったんだ。ま、当たり前だけど経験がなかったから。だから戦って死ぬのを繰り返して経験を積もうとしたんだ」

 

 

彼は語る。自らが最も死んだ理由を。笑ってしまうほど単純な、だからこそ常軌を逸している選択。ゲームのように、何度もリセットをしながら経験を積むという狂気。

 

 

「その一番効率が良い相手が死者だったんだ。死者ならどこで現れるか把握できるし、すぐに殺されることもない。後は繰り返すだけ。死者に触れるようになって、次はナイフを刺せるようになるまで。次がこっちが無傷で済むようになるまで。これが一番難しかったかな。どうしても体の一部が持って行かれるから」

 

 

壊れている。狂っている。なのに、彼は気づいていない。気づくことができない。いつからかは分からない。きっと、彼はそんなことを覚えてはいないのだろう。覚えていてはここまでたどり着けなかったのだろう。

 

 

「それができるようになってからは決められた死者を殺してから、死の点を突いて自殺するようになった。その方が時間を無駄にしないで済むから。後はその繰り返し。知識にある遠野志貴の動きを頼りに再現するように経験を積んだ。まあ、人形だから本物のそのままってわけにはいかなかったけど」

 

 

それが自殺が一番多い理由。死者と戦って生き残ったとしてもまだロアには届かない。ならそこまでの時間を無駄にしないために最短の繰り返しのために自らの死を突き、また繰り返す。リセットボタンを押すように、自らの命を捨ててきた彼。彼曰く、人形。

 

 

「――――遠野君は、『死』が怖くはないんですか?」

 

「――――? シエルさんは『死』が怖いのか?」

 

 

ようやく絞り出した問いに、間髪いれずに彼は問い返す。何を言っているのか、と。同じ死を繰り返しながらも、死が怖いのかと遠野志貴は問う。そこでようやくシエルは知る。まだ答えとしては半分。だがそれでも

 

 

「ええ、わたしは死ぬのが怖いです。きっと、この世の誰よりも」

 

 

死にたくない。不死であるからこそ、死にたくはないと。死を知っているからこそ、それは変わらない。例え何回繰り返したとしても、死に慣れることなど人間にはできない。ならきっと目の前の彼は人間ではない。いや、きっと人形の振りをしているのだろう。それが彼の自己暗示の正体。同時にここにはいない、彼女もそれは同じなのだろう。

 

 

「……そうか。てっきり、シエルさんは死にたがってるんだと思ってた。もし、どうしようもない時には、直死の魔眼なら不死のシエルさんでも殺せるけど」

「魅力的な提案ですが、お断りしておきます。自分の死は自分で決めますし、そんなことお願いしたら、遠野君も死んじゃいそうですから」

「俺が……?」

「ええ、先輩としての勘です。遠野君は、自分の死を許容できても他人の死を許容することはできないでしょうから」

 

 

空気を変える意味も兼ねて、少し冗談っぽく振る舞う。死に続ける、死ぬことができない因果に囚われた先輩としての助言。その意味を介していないのか彼はどこか呆然としている。そんな彼を見ているのも楽しいが、自分にはもう一つ確かめるべきことがある。それは

 

 

「ところで、遠野君。わたし、今日遠野君のお屋敷にお邪魔して来たんです」

 

 

彼の中にまだ、人形ではない人間が残っているのかどうか。

 

 

「遠野家に? 何でそんなところに行ったんだ?」

「いえ、遠野君から聞いた話が本当かどうか確かめるためです。信じていなかったわけではありませんが、やはり裏は取らないといけないので」

 

 

彼の反応、一挙一動を見逃すまいと集中する。結果は何もなし。自分が遠野家に行ったことを明かしても全く動じることはない。もしかしたら、同じ展開を経験したことがあるのかもしれない。

 

 

「そうか。それでどうだった? 俺の話は信じてくれたのか?」

「ええ。お話の通り、遠野四季が今代のロアである可能性が高いのは間違いないようです。ですが驚きました。遠野君の家にはあんな綺麗な使用人さんもいたんですね。彼女、心配してましたよ。あなたがいなくなってしまって、探していると」

 

 

本題を口にする。もちろん前者ではなく後者。後半の内容こそが今のわたしにとっては本題。だが彼は何も反応しない。先と変わらずただ空を見上げているだけ。

 

 

「そうか。琥珀には悪いけど、どうしようもない。そんな無駄なことをしてる余裕はないし」

 

 

彼はそう告げる。何もおかしくはない、答え。でもわたしには分かる。いつもの彼ならばあり得ない変化が。

 

 

「そうですか……でもおかしいですね。わたし、心配しているのが琥珀さんだなんて一言も言ってませんよ?」

 

 

それがわたしのひっかけ。私は今、使用人としか口にしてない。遠野家には使用人が二人いる。琥珀と翡翠。にも関わらず、彼は迷うことなく彼女の名を口にした。それはつまり、自分を心配しているのが彼女だと知っているということ。意識しているということ。

 

 

「…………」

「少し彼女とお話する機会があったんです。彼女、遠野君が本物の遠野志貴じゃないって知っていましたよ。なのにどうしてわたしにそのことを教えてくれなかったんですか?」

「教える必要がないと思っただけだ。琥珀も、翡翠さんもこの戦いには関係ない。それだけだ」

「そうですか……では、琥珀さんに会ってあげることはできませんか? 彼女、ずっとあなたのことを探してるみたいですけど」

「必要ない。そんな無駄なことをしている時間は、俺にはない。俺は琥珀とは会わない。決まってることだ」

 

 

そのまま彼は口を閉ざしてしまう。その言い回しも、どこか機械的なもの。決めている、ではなく決まっていること。まるで自分自身にルールを定めているかのよう。琥珀、彼女に対しては会わないこと。自分に対しては嘘を言わないことが彼の中でのルールなのかもしれない。まるで決められたことしかできない、しようとしない機械人形。それを理解しながら、わたしは口にする。

 

 

「遠野君は、どうして彼女に会いたくないんですか?」

 

 

根本的な問い。何故、彼女と会いたくないのか。その理由。彼はわたしに嘘をつかない。もし答えないならそれだけで十分。

 

 

「――――俺は、あいつが嫌いだからだ」

 

 

だが彼は口にした。間違いなく、彼の本心。同時に、初めて聞いた彼の本音だった気がした。

 

 

「――――そうですか。なら、仕方がないですね」

「……? どうしたんだ、シエルさん?」

「いえ、少し先が長くなりそうだと思っただけです。お気になさらずに」

 

 

腰に手を当てながら、肩をすくめるしかない。期待していた答えではなかったが及第点だろう。むしろ、想像以上だったと言っていい。嫌い、というのは間違いないだろう。だがそれはそのまま否定につながる言葉ではない。わたしが危惧していた彼の答えは無関心だったのだから。表裏一体。愛と憎しみ。反転することによって入れ替わる感情。どちらが先だったのかは分からないが、まだ彼の中にはそれが残っている。

 

 

「さて、長く話し込んでしまいましたけどそろそろ動きましょうか。遠野君は今夜もアルクェイド・ブリュンスタッドを?」

「ああ。シエルさんもこれまで通り頼む。時期でいえばそろそろのはずだ」

「分かりました。くれぐれも無理はしないように。それと――――」

 

 

既に法衣をはためかせ、夜の闇に紛れる間際

 

 

「遠野君から見れば、わたし達はたくさんいるのかもしれませんが、わたし達にとっての遠野君はあなただけです。それを忘れないように」

 

 

シエルはそう残しながら去っていく。その意味を知らぬまま、遠野志貴も立ち上がり公園を後にする。そこに無駄は一切ない。あるはずがない。

 

 

彼は動き出す。その無駄なものによって、自分があり得ない選択をすることを知らぬまま――――

 

 

 

 

 

月明かり。その恩恵を受けながら彼女は進む。そこには何もない。無駄なものは何一つない。ただ機械のような在り方だけ。

 

人が流れていく。彼女の横を無数の人が過ぎ去っていく。その一つ一つが意味を為さない。道端に転がっている石と同じ。気に留めることもない。

 

彼女は歩く。一歩一歩。無造作な足取り。にも関わらず、その所作には気品が満ちている。姫と呼ばれる者が持つカリスマ。だが彼女はヒトではない。真祖と呼ばれる吸血鬼。吸血姫でありながら『処刑人』と忌み恐れられる存在。

 

その足が止まる。場所は人気がない公園。まるで最初からそこに至ることが決まっていたかのように彼女は無駄のない動きでそのまま誰もいないはずの背後に振り返る。変わらない無表情。彫刻を思わせる美貌と無機質さ。違うのはその瞳の色。深紅ではなく金色。

 

同時に、鳥が公園、彼女の周りから無数に飛び立って行く。否、戻って行く。夜のように黒い鳥の群れ。その全てが彼の元に戻って行く。

 

 

「待たせたな……真祖の姫君」

 

 

いつからそこにいたのか、それとも初めからそこにいたのか。コートを纏った巨大な群れが形を為す。

 

 

『真祖』アルクェイド・ブリュンスタッドと『混沌』ネロ・カオス。

 

 

ようやく始まりの鐘が鳴る。二人の吸血鬼の邂逅。それが長いこの夜の始まりだった――――

 

 

 



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第二十一話 「混沌」

「待たせたな……真祖の姫君」

 

 

コートをはためかせ、どこか探究者を思わせる貌を見せながら男は静かに彼女と対面する。いや、対峙する。そこには既に闘争の空気が満ちている。一秒先に自らの首が落ちていてもおかしくはない、そんな極限状態。にも関わらず男には全く恐れがない。焦りがない。動揺がない。彼、彼らにはそんな物は初めから存在していないかのよう。

 

『混沌』ネロ・カオス。

 

死徒二十七祖の一人にして、彼らの中でも異端とされる存在。

 

その名を知るものならば、彼を目の前にした時点で恐れ逃げ出すだろう。それほどに死徒二十七祖の名は重い。同じ死徒はもちろんのこと、魔術師、埋葬者だったとしてもそれは変わらない。彼らと相対するならば文字通り戦争をするだけの力と覚悟がいる。それでもなお届くかどうか。だがそれを前にしても全く意に介していない、もう一人の怪物がその場にはいた。

 

 

「…………」

 

 

美しい金髪と美貌を持った女性。見る者を魅了してしまうような深紅の瞳。ネロとはあまりにも対照的な在り方。それは、彼女が全く闘争心を見せていないこと。殺気も何もない。ただそこに立っているだけ。感情の起伏も、表情の変化もない。いつ殺し合いが始まってもおかしくない状況にいながら、それでも吸血姫は変わらない。

 

だが、それこそが彼女の存在理由。千年前から変わらない、ただ『死徒を狩る』ためだけに在り続ける兵器。

 

『真祖』アルクェイド・ブリュンスタッド。

 

故に死徒二十七祖ですら彼女に恐怖している。彼女に狙われるということはすなわち、死を意味する。曰く、白い吸血姫には関わるな。だがその忠告を無視し、その理を覆さんとする者がいる。

 

 

「まさかこんなに早く出会えるとは思ってはいなかったが……まあいい。蛇とはまだ相対していないようだが、先に私に見つかったのが運の尽きだ。こんな場所に来たのは、ここならば人目を気にしないで済むからか、アルクェイド・ブリュンスタッド?」

 

 

一度、地面を足で踏みながらネロは問う。ネロはすでに気づいていた。アルクェイド・ブリュンスタッドが自らの存在に気づき、尾行されているのを承知の上でこの人気がない公園までやってきていたことを。本来なら罠であるか警戒する所であるが、あえてネロはここまで着いてきた。何故なら退く理由が全くない。自分はただ目の前の真祖を狩るためにここまで来た。未だ蛇も彼女に接触していない。ならば先に永遠を奪うだけ。そんな中でも、ネロが彼女に話しかけたのは単純な興味。これまで幾多の同胞が恐れ、葬られてきた処刑人。同時に異端ではあるがかつて盟友でもあった蛇が執着する白い吸血姫がいかなる者か。既にヒトであった頃の人格はなく、群生としての人格であるはずの混沌であっても僅かばかりの興味はあった。だが

 

 

「…………」

 

 

彼女は何も答えない。応えない。ただその朱い瞳を金に染めながら、鏡のようにネロを映し出しているだけ。まるで人形のように、アルクェイド・ブリュンスタッドはそこに在り続ける。

 

 

「――――成程。言葉を発することすら無意味、ということか。道理だな。詫びよう、吸血姫。少しばかり興が過ぎたようだ」

 

 

自嘲するような空気を飲みこみながら、ネロはただ吸血鬼として彼女と向かい合う。そこにはもう無駄はない。ただ理解した。目の前の存在がいかなるものかを。

 

そう、あれはただの装置。決められた性能でもって、決められた役目を果たすだけの人形。文字通り処刑人。そこに言葉は必要ない。断頭台のギロチンのように罪人を裁くだけ。誰も石に話しかける者はいない。ならば、こちらも言葉など不要。ただ行動を以って目の前の標的を排除するのみ――――

 

 

瞬間、コートの内から黒いナニカが生まれ出す。影、液体。形容しがたい黒い海から無数の彼らが形を為す。それは獣だった。獅子、虎、豹、狼。その全てが四足獣であり肉食獣。大きさもネロを超える巨躯。人など丸のみにして余りある原初の暴力。食物連鎖の頂点に立つ捕食者達。無尽蔵に湧くその全てが彼女を取り囲んでいく。その数は優に五十を超える。誰もいなかったはずの公園は、獣たちの巣窟と化す。その檻の中央にはアルクェイド・ブリュンスタッドただ一人。逃げ場などどこにもない。圧倒的な数の暴力に飲みこまれんとしながらも、それでも彼女は変わらない。

 

 

「――――」

 

 

それははたしてどちらの息遣いだったのか。ただネロはその貌に苛立ちを見せていた。言葉を発さないのはいい。表情を変えないのも許そう。だが、身動き一つ見せないのは見逃せない。これだけの数の自分達を前にして、全く身構えることも、迎撃する気配もないのは許せることではない。今の吸血姫の姿はすなわち、自分達への侮蔑に他ならない――――

 

 

「たわけ――――その身を痴れ、アルクェイド・ブリュンスタッド」

 

 

その驕りを、慢心を正すためにネロは号令を下す。それが合図となったのか、獣達は一斉に彼女へと飛びかかって行く。もはやこれは戦いではない。ただの蹂躙。だがすぐにネロは思い知る。

 

 

――――思い上がっていたのは、自分達であったのだと。

 

 

それは一瞬だった。暴風。そうとしか思えない大気の揺れが巻き起こる。だが何も見えない。あるのは何故か降り注いでいる雨だけ。この公園だけが、嵐に見舞われたかのように暴風雨が荒れ狂う。ただ違うのは、雨の色が透明ではなく深紅であったこと。血の雨に打たれながらも、ただネロはその光景に心奪われていた。

 

 

――――血の雨の中、返り飛沫を一つ浴びず、その場に立っている白い吸血姫の姿。

 

 

その周りには無残に砕かれ、肉片へと変わり果てた獣たちが散らばっている。原形を残しているものは一つもない。あるのはまるでミサイルでも落ちたのではないかと思えるような、放射状の破壊の爪痕だけ。その中心に処刑人は君臨している。最初から一歩も動くことなく。

 

 

(これは――――空想具現化? いや、違う。これはまさか――――)

 

 

一瞬の放心の後、ネロは状況を把握する。自らが放った全ての獣たちが破れ去った。だがそれはいい。相手は真祖にして最強の処刑人。それをただの獣だけで打ち取れると思うほどネロは思い上がってはいない。しかし、その方法こそが彼を驚愕させていた。

 

空想具現化。アルクェイド・ブリュンスタッドが使えると言われる能力の一つ。それを以ってすれば確かに一瞬で五十もの自分達を葬ることはできる。だが違う。彼女はそれを使っていない。その力の流れも何も感じられなかった。その答えが目に映る。それは彼女の手だった。無造作にぶら下げられている彼女の手が、変わっている。美しい指が、そのまま命を狩りとる爪へと変じている。それはすなわち

 

 

先の現象は、ただの爪の一振りであったということ。

 

 

超越した身体能力による物理攻撃。単純であるがゆえにこれ以上にない暴力。それこそが彼女の根幹。復元呪詛を持つ吸血鬼であったとしても再生しきれない、それ以上の力によって葬り去るという力技。ネロが驚愕しているのはただ一点。先の一撃が彼女にとって、虫を払う程度の些事でしかなかったのだという事実。

 

 

「ぬ――――!?」

 

 

それは致命的な隙だった。時間にすれば秒にも満たない思考の隙間。だが処刑人である彼女の前で晒すには、あまりにも長い刹那。

 

彼女の姿が消える。血の雨が降り止むと同時に、白い吸血姫がネロの視界から消え去ってしまっている。一体どこに。思考するよりも早く、ネロ自身がそれを感知していた。

 

自らの背後。死角から金の瞳をした処刑人が迫っている。ネロをして視認できない程の速度。先の人形のように立ち止っていた彼女からは想像もできないような静と動の落差。完全な不意打ち。無駄のない、最低限の動作のみの一撃。だがそれに彼らは反応する。

 

群体。それこそがネロの正体。例えネロが気づかなくとも、その領域に入ったものにはそのいずれかが迎撃する。すなわちネロに不意打ちは通用しない。その証拠に瞬く間にいくつもの彼らが姿を現す。違うのは先の獣ではない、ということ。

 

幻想種。既に現代には残っていない、系統樹の生命。高次元の存在。ネロの中の混沌にはそれらすら含まれる。角を生やした馬。翼を生やした蛇。蟹のような巨大な蜘蛛。その全てが一つの命としてネロが形にできる最高戦力。獣では持ち得ない、神秘を以ってネロ達は彼女を迎え撃つ。だが、すぐに悟る。

 

 

――――神秘は、さらなる神秘によって屠られることを。

 

 

それはただの爪だった。違う所があるとすれば、それが両手によるものだということ。そしてもう一つが、虫ではなく、敵を葬るための力がそこには込められていたこと。その違いを見誤っていたこと。加えて、彼女の瞳には既に混沌の正体が映っていた。故にこれは不意打ちではない。ただ単純に、力づくで混沌を切り裂くこと。それが彼女が出した答えだった。

 

瞬間、混沌は切り裂かれる。無造作に、呆気なく。幻想種ですら例外ではない。断末魔を上げる暇もなく、ネロは両の爪で粉砕され十と八つの肉片へと成り果てる。先のように血飛沫があがることもない。そんな物があがることすらできない程の速度と力。一度彼女に狙われれば、命はない。

 

 

それが最強の真祖、アルクェイド・ブリュンスタッドの力だった――――

 

 

 

 

静寂が全てを支配する。先程までの出来事が嘘だったかのように、月明かりだけが辺りを照らし出す。立っているのも、形を為しているのも彼女だけ。ここに勝敗は決した。誰の眼にもそれは明らか。にも関わらず

 

 

「――――」

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッドはそのまま立ち尽くし、金の眼でネロであった残骸を見つめ続けている。まるでそこに何かがあるのを知っているかのように。同時に

 

 

「よもや――――な。ここまでの醜態を晒すことになるとは。どうやら思い上がっていたのは私の方だったようだ」

 

 

初めからそうだったかのような自然さで、残骸の一つが形を為し、姿を現す。間違いなく、ネロ・カオスそのもの。その姿は全く変わらない。先程間違いなく十八に分割されたにもかかわらず。その証拠にまだ残る十七の残骸は地に伏したまま。

 

だがそれを目にしながらも彼女は眉ひとつ動かさない。殺したはずの相手が生きているのに、まるでそれが分かっていたかのように。

 

 

「やはり最初から分かっていたようだな。私は一にして六六六。その全てのケモノ達の因子を内包している。貴様がいくら私を切り裂いたところで私を滅することはできん」

 

 

既に見抜かれていることを承知したうえでネロは自らの正体を明かす。ネロ・カオスという吸血鬼の成り立ちを。もはや吸血鬼としての意味を持たぬが故の異端。六百六十六もの命を内包し、自我を失いながらもその先に何が生まれるのか。混沌の先に何があるのかを求め続けた魔術師のなれの果て。それがネロ・カオスの正体。

 

アルクェイド・ブリュンスタッドはネロと相対した時点でそのことに気づいていた。ネロが無数の命の集合体であるということ。しかし、どうしても確かめなければならないことがあった。それはネロを滅するための方法。

 

六百六十六回殺せばいいのか、それとも六百六十六の命を同時に殺さなければならないのか。

 

一見すれば同じに見える二つの方法。だが両者は天と地ほども違う。仮に、前者が正解なのだとすれば彼女にとって何の問題にもならない。いくら多くの命があろうと無限ではない。加えてネロの獣では自分を殺し得ない。なら六百六十六回殺し続ければいい。それだけの性能差がある。

 

だが後者であれば話が別だ。もしそうなら、彼女であってもネロを殺し切ることはできない。何故なら――――

 

 

「――――どうやら気づいたようだな。だがもう遅い。今度は私が貴様を狩る番だ」

 

 

『混沌』を殺すということは、一つの大陸を、世界を殺すということに他ならないのだから。

 

 

それは黒い泥だった。数多に散らばっていたネロであった物の残骸。その全てが溶けるように形のない泥へと姿を変える。だが彼女は金の瞳によってすぐに見抜く。それがただの泥ではないことに。そもすれば、先の幻想種など比べ物にならないもの。原初の存在。命そのものなのだと。

 

 

「――――!」

 

 

瞬間、初めてアルクェイド・ブリュンスタッドは目を細め、表情を変える。同時にその場を離脱せんとするも叶わない。もはや全方位から泥が襲いかかっている。跳躍することも、駆け抜けることも不可能。だがこれは偶然ではない。全て最初からネロの掌の上。最初の五十の獣も、自らが十八に分割されたことも。気づかれることなくアルクェイド・ブリュンスタッドを包囲するための罠。それは一つの間違い。アルクェイド・ブリュンスタッドが死徒を狩る処刑人であるように、ネロもまたアルクェイド・ブリュンスタッドを処刑するためにこの場にやって来たのだということ。

 

それでも彼女は変わらない。ただ目の前の死徒を滅するべく、爪を振るう。間違いなく全力の一撃。並みの死徒であれば触れただけで消滅してしまうほどの死の暴力。だがそれを受けながらも、ネロの黒い泥を払うことはできない。水を切るように、そこには手ごたえが全くない。

 

 

「無駄だ。これは六百六十六の私達で練り上げた『創生の土』いかに貴様といえどもこの泥を殺すことはできん」

 

 

もはや人の形を為していないネロの声だけが辺りに響き渡る。既にアルクェイド・ブリュンスタッドの周りは黒い泥の海に飲まれている。散らばっていた全ての残骸が命の泥となり彼女を縛っている。いかな超越的な身体能力を持つ彼女であってもそこから抜け出すことは不可能。物理的な要素も、魔術的な要因もここでは意味を為さない。ここは原初の秩序。命の源。

 

それがネロ・カオスが『混沌』と称される所以。かの騎士王の聖剣ですら耐え得る、吸血種の中でも不死とされた存在。

 

その流れに吸血姫は飲み込まれていく。白が黒に穢されていく。もう姿すら確認できない程に泥が彼女を蝕んでいく。後は消化され、混沌の一部になるだけ。この状況を作り出した時点でネロの勝利は約束されていた。そう、相手がアルクェイド・ブリュンスタッドでなかったのなら――――

 

 

それは光だった。形容しがたい、幻想的なナニカ。黒だけが許されるはずの混沌の中に、確かな白が現れる。針ほどのそれが次第に力を、大きさを増しながら侵食してくる。

 

 

「これは――――!?」

 

 

自らの内に生じる異物感に、知らず嘔吐するような感覚をネロは覚える。同時に目にする。自らに取り込まれ、後は消化されるだけの彼女が未だ健在である姿を。

 

その瞳は金に輝きを放ち、それに呼応するようにその周囲には新たな世界が幻想されていく。ネロは瞬時に悟る。それが何なのか、それが何を意味するのかを。

 

『空想具現化』

 

アルクェイド・ブリュンスタッドが有する超越能力の一つ。身体能力ではない、もう一つの切り札。真祖が自然と自己の意志を直結し、世界を自分の思い通りに改変する力。真祖である彼女だからこそ許される禁忌。

 

それによって、彼女はネロの創生の土に対抗せんとしている。それは彼女の中の無のイメージ。六百六十六の命の混濁の中において、自らが周囲だけに隙間を作り出している。その力が次第に広がり、浸食していく。力という指向性を以ってネロの世界を蝕んでいく。

 

 

「ぐ、ぬううう――――!」

 

 

ネロは自らを内から破らんとしかねない異物を圧殺せんとするも叶わない。確かにアルクェイド・ブリュンスタッドはネロ・カオスを殺し切ることはできない。だがそれはアルクェイド・ブリュンスタッドがネロ・カオスに勝てないことと同義ではない。例え創世の土を殺すことができずとも、抗することはできるのだと。

 

固有結界。自らの心象風景を以って世界を書き換える禁呪。いわばここはネロの世界。だがそこに一つの異物が混ざり、拮抗せんとする。

 

空想具現化。自らのイメージを形とし、世界を改変する力。

 

いわばこれは二つの世界のぶつかり合い。世界とセカイ。心象と空想。人間と自然。互いが互い以外の物はいらぬとせめぎ合う。空間に亀裂が生じる程の矛盾の衝突。

 

だがついにその均衡が崩れ出す。天秤が僅かに傾きを見せ始める。その針の先はアルクェイド・ブリュンスタッド。その空想が次第に混沌から抜け出さんとしていく。

 

ネロはそれを感じ取りながらもどうすることもできない。確かに、自分が殺されることはない。その証拠にアルクェイド・ブリュンスタッドの空想具現化を以てしても混沌は消滅させることはできていない。瞬時に数百の命が消滅させられ続けるも、同時に再生されていく。同時に六百六十六の命を殺すことは彼女でも不可能。だがそれでも、彼女を殺すことはネロにもできない。彼女が自らの内から脱するのを食い止める術はない。

 

故に勝敗はなし。再びネロとアルクェイド・ブリュンスタッドは仕切り直しにも似た状況へと至る。それが両者の一致した未来だった。だがそれは

 

 

『――――この時を待っていたぞ、姫君』

 

 

そんな聞き覚えのある、蛇のせせら笑いによって覆された。

 

 

「――――!?」

 

 

それはアルクェイド・ブリュンスタッドとネロ・カオス、二人だけの驚愕だった。それは一筋の糸。二つの世界以外には入り込めない空間に一匹の蛇にも似たナニカが這い忍び寄ってくる。魔術か、異能か。だが両者は悟っていた。それが間違いなく『蛇』ロアによるものであることを。

 

同時にその蛇が世界を這う。ただ一直線に。混沌と空想。触れれば一瞬で消え去る力のぶつかり合いの中にあって正確に、狡猾に、まるで全てを知っているかのようにその毒牙を向ける。その先はもはや語るまでもない。

 

『永遠』 ロアにとっての命題であり、目的である真祖アルクェイド・ブリュンスタッドだった――――

 

 

「―――っ!」

 

 

瞬間、蛇が彼女の左腕に絡みつき、噛みつく。アルクェイド・ブリュンスタッドは初めて感情を感じさせるような表情を見せるも抗う術がない。何故なら今、彼女はその力を以って混沌と抗している。もしそれを緩めればその瞬間、混沌に飲まれてしまう。身動きも取れる状況ではない。全ては蛇の掌の上。

 

 

「ロア……貴様、私の邪魔をする気か」

 

 

それはネロとて同じ。今、混沌を解除すればその瞬間、アルクェイド・ブリュンスタッドには逃げられてしまう。それどころか下手をすれば大半の命を殺されかねない。アルクェイド・ブリュンスタッドを相手にしてそれは致命的な隙になりかねない。さらに加えるならロアは未だにその姿を見せていない。内に入りこんでいるのはその一部。本体は隠れ身を隠しているのだろう。どちらにせよロアに力を向ける余裕はネロにも、アルクェイド・ブリュンスタッドにもない。

 

 

『クク……それは私の台詞だ、混沌。私はただ、永遠を手に入れにきただけさ。言っただろう? その瞬間を目の前で見せてやるとな』

 

 

狡猾な笑いと共に、ロアは動き出す。それに呼応するように、アルクェイド・ブリュンスタッドの表情が驚愕に染まる。同時に、その力が弱まって行く。否、吸い取られていくかのように、空想具現化によって作り出された空間が狭まって行く。

 

その全てが、ロアへと流れ込んでいく。絡みついた蛇にも似たラインから、親である真祖、アルクェイド・ブリュンスタッドの力が蛇へと奪われていく。

 

 

「…………っ!」

『無駄だ、姫君。万全の君ならいざ知らず、混沌を相手にしながら私を相手にすることなどできはしない。もっともこれは私にとっても嬉しい誤算だ。まさか気紛れに手を貸した混沌で、永く求めた永遠を手に入れる機会を生み出させるとは』

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッドは腕に力を込めながら蛇を振り払わんとするも叶わない。蛇の言う通り、普段であればこんなことはあり得ない。だが今は違う。混沌と対峙している状況では打つ手がない。もし力を抜けばその瞬間、混沌に飲みこまれる。だがこのままでも結果は同じ。秒単位で、自らの力が失われていくのが分かる。そのままでは力を失い、飲み込まれるのは分からない。蛇か混沌か。その違いだけ。

 

 

「……まさかこのまま好き勝手ができると思ってはいまい、蛇よ。私の邪魔をするなら貴様といえども例外ではない」

『そう急くなよ、混沌。私は感謝しているんだ。お前のおかげで私は永遠となれる。姫君を手に入れてから永遠と混沌、どちらが優れているか証明してやろう』

 

 

自らの目的を邪魔され、あまつさえその得物を横取りされんとしている事態を前にしてネロは殺気を以って応えるも蛇は変わらない。それどころか高揚すらしている。

 

互いに動くことができない緊張状態。三竦みにも似た袋小路。

 

『真祖』『混沌』『蛇』

 

三種三様の吸血鬼が絡み合う螺旋。だがそれは今だけ。

 

その中において『真祖』にだけは未来はない。どうなろうと、結末は決まっている。彼女の結末は覆らない。後には『永遠』になった蛇だけが残る。『混沌』でさえ『永遠』には敵わない。世界も変わらない。そこで世界は閉じる。それがこの世界の運命。だが

 

 

――――それを覆すための人形が一体、この螺旋には存在する。

 

 

「―――――」

 

 

それは人影だった。月明かりに照らされた中を、一歩一歩近づいてくる人間。恐らくは気配を消しているのだろう。その歩みにも、全く無駄がない、人間味が、全くない。同じリズムを刻む時計のように狂いがない。取るに足らないはずの、人間。

 

 

だがその場にいる三人の吸血鬼は皆、その姿に目を奪われていた。今まさに死闘を繰り広げているにもかかわらず、ただその人間にだけ目を向けていた。それは直感。この場にいる他の誰よりも、アレこそが自分達にとって脅威なのだと悟ったが故。

 

 

人影、少年はそのまま歩きながら無造作に両手で目元にあるものを解いて行く。白い包帯。右手にはナイフ。少年はそのまま己が両目を解き放つ。

 

 

蒼い双眼。その眼が吸血鬼たちの死を捉える。誰よりも死を理解し、体験したからこそ持ち得る異能。

 

 

吸血鬼達は悟る。あのヒトの形をした人形が決して自分達の味方ではないことを。

 

 

今、最後の螺旋の相克に『遠野志貴』が姿を現した――――

 

 

 



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第二十二話 「混迷」

――――包帯を外し、目を開く。

 

 

直死の魔眼、異常なし。記憶の引き継ぎ時より強くなっているものの想定範囲。

 

殺人衝動、あり。想定以上。死者ではなく、吸血鬼。真祖もいることが原因。身体能力は上がるがノイズと負担が大きくなる。抑制。

 

頭痛、あり。痛みはなし。身体への影響、最小限。戦闘に支障なし。眩暈、貧血も同様。ただし、長時間の身体の酷使は避けるべき。最短、最小限の動作で目的を達する必要あり。

 

 

状況――――三人の吸血鬼の混戦状態。

 

 

一、 混沌。人型では確認できず。代わりに泥のような物体あり。未来知識との照合により創生の土である可能性大。

 

二、 真祖。目視では確認できず。透視により創生の土に飲みこまれているのを確認。未だ健在。

 

三、 蛇。確認できず。ただし、蛇によるものと思われる縛りが真祖を縛っている。その元にいるはずだが確認できず。戦域からは離れている模様。

 

 

目標、蛇の抹殺――――否。

 

 

現在の状況において、蛇の消去は限りなく困難。探索の内に状況が決してしまう恐れが高い。故に求められる最善の選択にて現在の状況を脱する。

 

 

最も望ましいのは奇襲――――否。

 

 

戦闘場所は開けた公園。身を隠す場所はなし。遮蔽物も同様。奇襲は不可能。歩法『蜘蛛』も同様。残存時間も皆無。故に正面突破のみ。

 

 

――――戦闘、開始。

 

 

 

合図も何もなく、『遠野志貴』の作業が始まった。

 

 

歩法のリズムが変わりギアが上がる。既に彼は駆けている。手にはナイフのみ。ただ一直線に一点、ネロが作り出している創生の土へと向かう。あまりに自然であるがゆえに不自然。理解できない状況を前にして三人の吸血鬼はそれぞれの反応を見せる。

 

アルクェイド・ブリュンスタッドはかろうじてその存在を認識するも何もできない。身動きすら取れる状態ではない。

 

蛇はただ向かってくる遠野志貴に言葉を失っている。だがそれは他の二人とは違う。蛇だけが、その人形の正体に気づきかけているからこそ。そして最後の一人。

 

 

「――――何者かは知らぬが、今は戯れる気もない。早々に我が養分となるがいい」

 

 

混沌は静かに告げながら、己が体内から獣を生み出す。その数は三つ。肉食獣であり、先の真祖との戦いで生み出したものと同じ。違うのは数のみ。片手間に相手をするには十分すぎるもの。事実、ネロは新たな乱入者を全く意に介してはいなかった。

 

魔術師、埋葬者の気配も何もなし。間違いなくただの人間。そんなものに意識を割く時間などありはしない。今、己の体内には真祖アルクェイド・ブリュンスタッドがおり、同時に蛇もまた介入している。この状況に置いて目の前の人間など蠅同然。その通り、獣の牙によって裂かれ、捕食されるはずの人間は

 

 

――――さも当然のように、襲いかかってきた獣を解体した。

 

 

「――――」

 

 

それは誰の驚きだったのか。だがそれを知る間もなく、乱入者は既に二匹目の獣を解体していた。一閃。ナイフを振り落としただけで、ネロを超える巨躯の獣は物言わぬ肉片へと姿を変える。それだけであったならまだいい。驚くべきは殺された獣が完全に消滅してしまっていること。本来なら殺されても再びネロの混沌の一部に戻るはずの分身が、悉く滅せられてしまっている事実。

 

 

「――――貴様、何を」

 

 

した、と言い終わる前に遠野志貴は三匹目の獣に襲いかかられる。今度は牙ではなく爪。ネロの動揺を感じ取ったように、油断のない一撃。触れれば呆気なく引き裂かれるはずの一撃を前にしながらも遠野志貴は全く表情を変えることなく、呼吸を乱すことなく身体を捻るだけ。紙一重で回避する。正気の沙汰ではない。後数センチでも読み違えればバラバラにされかねない状況を前にして何も感じていないかのように遠野志貴は平然としている。まるで予知。否、そこには確かな経験の二文字がある。

 

そのまま遠野志貴はすれ違いざま、獣に指を突き入れる。ナイフを持っていない左手の指。ただそれだけで獣は蒸発してしまったように消え去っていく。命から無へと。悪い夢のような事態。

 

だが真に恐ろしいのは目の前の人間。これだけの異常を見せながら、人間には何もない。喜怒哀楽も、殺気も、闘気も。幽鬼であっても、こんなことはない。本当にそこにいるのか分からない程に、ソレには現実感がない。

 

 

人形。機械。ただ決められた性能を以って、決められた役目を果たすための存在。奇しくも先程までネロがアルクェイド・ブリュンスタッドに対して下した評価と同じ。ただ違うのは

 

 

――――人形は文字通り、混沌にとっての『死』そのものだったということ。

 

 

全く無駄のない動き、最短で遠野志貴はネロの元へと辿り着いていた。先の三匹の獣など最初からいなかったかのような自然さ。今目の前で起こった信じられない出来事を前にして、ネロは接近を許してしまう。油断、慢心と呼ぶにはあまりにも少ない揺らぎ。だがそれこそが遠野志貴の唯一、最大の勝機だった。

 

 

――――瞬間、混沌は『殺された』

 

 

ソレが蒼い双眼を見開き、ナイフを突き立てた瞬間に、全ては終わった。まるで最初からなかったかのように創生の土は、混沌は無に環っていく。そこに一切の容赦も慈悲もない。そも、そんなものは彼には残っていない。あるのは目的を果たすための作業だけ。だが誤算があったとするならば

 

 

「――――貴様、私達を、どうやって殺した?」

 

 

混沌の半身を取り逃してしまったこと。そこには影から這い出るように人型を取っているネロ・カオスの姿がある。だがその表情は憤怒に満ちていた。視線だけで人を呪い殺せるほどの殺気がそこには込められている。当然だ。今のネロはいわば九死に一生を得たも同じ。六百六十六の命の内の半分を切り捨て、先の死の一撃から逃れたにすぎない。あの姫君ですら滅することができなかった自分達を、あろうことか創生の土ですら殺すという出鱈目さ。六百六十六の命を殺すのではなく、ネロ・カオスという存在そのものを殺す力があれにはある。しかもたかが人間ごときに。助かったのは群生としてのネロの本能が後退を命じたからこそ。それはネロにとって屈辱以外の何物でもなかった。

 

だがそんなネロを遠野志貴は視界に収めることすらない。何故なら彼の目的は混沌ではない。混沌を排除したのはただ単に、目的を達する上で障害だったから。もしそうでなかったのなら、彼は混沌を無視していただろう。彼が瞳に映す先には

 

 

「……っ!」

 

 

苦悶の表情を見せている白い吸血姫の姿。混沌から解放されたがその姿は満身創痍。立っているのがやっとといったところ。だがそれは混沌によるものではない。その左腕に纏わりついている蛇の呪縛によるもの。今もなお、蛇は吸血姫から力を奪い続けている。その証拠に絡みついている蛇の数は増え続けている。

 

だがアルクェイド・ブリュンスタッドにはそれに抗う術がない。混沌からは脱せたものの既に力の内の半分は奪われてしまっている。同時に、力づくで抑え込んでいた吸血衝動が彼女を蝕んでいく。今はそれを抑え込むことで精一杯。とても蛇から力を奪い返す余力などありはしない。そんなことをすればその瞬間、衝動に飲まれてしまう。だがこのままでは力を全て奪われ飲み込まれてしまう。逃れられない二者択一。だが

 

 

「…………え?」

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッドは呆然としながら声を上げる。何が起こったのか分からない、そんな声。彼女が驚いているのは二つ。一つは自分が声を出していたこと。そしてもう一つが

 

 

自らの左腕が切り落とされ、地面に転げ落ちていることだった――――

 

 

ナイフを持ち変えながら、遠野志貴は一旦アルクェイド・ブリュンスタッドから距離を取る。迎撃も撤退も可能な間合い。ナイフには返り血一つない。同じく切り落とした彼女の左腕にも。

 

死の線。モノの死にやすい部分を形にしたもの。それにナイフを通すことで切断することが遠野志貴にはできる。正確には直死の魔眼の力。それによって彼はアルクェイド・ブリュンスタッドの左腕を切断した。理由は単純。これ以上彼女の力を蛇に奪わせないため。混沌を退けたのもあのままではアルクェイド・ブリュンスタッドを狙うことができなかったため。

 

アルクェイド・ブリュンスタッドの消去。

 

それがこの状況で下した遠野志貴の最善。もっともリスクが少なく無駄がない答え。本来なら蛇を消去することが己の至上目的。だが蛇の姿はなく、現在進行で彼女の力が奪われている。恐らくは既に力の多くが奪われていることは明白。その証拠に夜は死期がないはずのアルクェイド・ブリュンスタッドの身体に死の線に加え点すら視える。自分の魔眼が強まっていることを差し引いても間違いない。加えて混沌から脱したにも関わらず、彼女には抵抗する気配がない。否、抵抗する力が残っていない。このままでは蛇に全ての力を奪われてしまう。そうなればどうなるかを、自分は誰よりも理解している。

 

だが最悪の事態は避けられた。左腕、ロアの呪縛を絶つことでこれ以上力を奪われることはない。後は、再び蛇に狙われる前に彼女を殺せばいい。

 

そのまま再び遠野志貴は目標に向かっていく。魔眼は既に彼女の死を捉えている。逃れようのない死。真祖であっても例外はない。彼女は動かない。そのまま気を失ってしまったかのように倒れ込む。蛇も混沌も反応できない。完全に虚を突いた。

 

 

そのまま眠っている彼女へとナイフを振り落とす。狙いは線ではなく、胸にある点。十七に分割する必要もない。ただの一突き、一瞬、微塵の容赦もなく、ただ人形のように遠野志貴はアルクェイド・ブリュンスタッドを殺した――――はず、だった。

 

 

「――――?」

 

 

驚きは彼だけのもの。アルクェイド・ブリュンスタッドは意識を失っている。抵抗もできはしない。なのに、何故かナイフを手にしている右手が、寸でのところで止まっていた。

 

 

分からない。どうして手が止まっているのか。身体に異常――――否。異常はなし。銃の引き金を引く指と心を切り離すように、ナイフを持つ手と心を切り離す術を自分は持っている。今まで何度も何度も自らの死の点を突いてきた。恐怖も、何もかも失くした。

 

 

なのにそれ以上、ナイフが動かない。身体が、動かない。まるで機械の歯車に小石が紛れてしまったように、動かない。

 

 

できるのは白痴のように、地面に倒れ込み、眠っている吸血姫を見つめることだけ。そんな刹那

 

 

『志貴さん……泣いてるんですか。よかったです……約束、守ってくれたんですね』

 

 

そんな、ここにはいない彼女の声が聞こえた。

 

 

同時に思い出す。もういつだったか思い出せない、原初の記憶。それでも、地獄に落ちても忘れないであろう別れ。

 

 

安らかに眠っている彼女の姿。もう目を覚ますことはない、誰か。その姿に、目の前の吸血姫が重なる。何もかも違うのに、何もかも失くしたはずなのに。

 

 

「――――琥、珀?」

 

 

いつかと同じように、彼は彼女の名を口にした。それが何を意味するのか分からぬまま――――

 

 

 

「――――残念だが、彼女は私の物だ。紛い物の君に横取りされる気はない」

「よかろう――――貴様を、我が障害と認識する」

 

 

そんな遠野志貴の困惑と思考を断ち切るように、二人の吸血鬼が動き出す。

 

 

「――――っ!」

 

 

瞬間、この場に現れてから初めて遠野志貴はリズムを崩す。未だ自分が何故おかしくなってしまったのか解せぬまま条件反射でナイフを手に応戦する。

 

切り裂くのは蛇の呪縛。自分ではなく、アルクェイド・ブリュンスタッドを再び取り込もうとするのを防ぐために。それに間違いはない。でもおかしい。こんなことをするよりも彼女を殺した方が早いはずなのに。そう動いていたはずなのにどうして――――

 

 

「――――たわけ。その驕り、その身で償うがいい」

 

 

侮蔑の言葉と共に、ネロの獣が襲いかかってくる。狙いは自分と、アルクェイド・ブリュンスタッド。だが、彼女の方が食われるのは早い。自分は反応は遅れたものの、対応できる。ナイフで獣を滅し、この場を離脱する。ネロに殺されるなら気にすることはない。蛇に取り込まれないようにすることが自分が介入した目的だったのだから。なのに

 

 

自分は持っていたナイフを投げ捨て、右手でアルクェイド・ブリュンスタッドを引きよせていた。

 

 

「――――」

 

 

同時に、何かが失くなった。どうやら左腕が食われたらしい。痛みは、ない。そんなものは自分は感じない。その返り血がアルクェイド・ブリュンスタッドを染める。綺麗なものを汚してしまったな、なんてどうでもいいことを考えている自分を客観的に見つめているもう一人の、自分。

 

そのまま彼女を無造作に地面に投げ捨てながら、残った右手で食らいついてきている獣の点を突く。何とか食い殺されることはなくなったが左肘から先が無くなった。それはいい。出血だけは見逃せない。失血死の危険がある。

 

間髪入れず、右手で左腕を『殺す』正確には左肩から肘までを『殺した』これで失血死だけは免れる。体の重心も変更。問題なし。死者との戦いで身体の欠損には慣れている。誤差は範囲内。問題はナイフの喪失。地面に投げ捨ててしまっただけだが再び手にする時間はない。素手でも戦えるがやはりナイフがなければ一段落ちる。

 

 

――――そういえば、いつか同じようにナイフと何かを天秤にかけてナイフを選んだことがあったような気がする。あれは、何だったのか。

 

 

もはや逃げ場がない。ネロ・カオスにはもう慢心も油断もない。その証拠に獣の数も質も先とは違う。先の一撃で殺せなかったのは痛かった。ロアも同様。何故かネロに比べると手を緩めているように見えるが理由は不明。それでも最優先がアルクェイド・ブリュンスタッドの捕縛であることは間違いない。

 

残った手札でこの場を脱することはできるか否か。もはや考えるまでもない。完璧だったはず。知識も、身体も、武器も、そして経験も積んだ。それでもダメだった。一体どこで間違えてしまったのか。何が足りなかったのか。

 

そのまま横目に倒れ伏しているアルクェイド・ブリュンスタッドを見る。気づいたのは、そういえば自分は彼女と一言も喋ることがなかったな、なんてどうでもいいことだけ。

 

蛇か、混沌か。そのどちらかも分からぬまま、最後の螺旋が閉じようとした瞬間

 

 

――――天から剣の雨が降り注いだ。

 

 

まるで絨毯爆撃が起きたかのような衝撃と煙が全てを支配する。その全てが寸分たがわず獣と蛇の呪縛を串刺しにし、葬って行く。同時に理解する。遠野志貴は識っていた。間違いなくこれが、自分を救う天からの恵みであることを。

 

 

「――――遠野君、大丈夫ですか!?」

 

 

救いの主であり、弓の主でもある代行者、シエルは凄まじい速度のまま前傾姿勢で遠野志貴の前に着地する。間違いなくここまで全速力で駆けて来たのが分かる程。シエルもまたすぐにその手に黒鍵を構えながら遠野志貴へと振り返る。しかし

 

 

「遠野君、その左腕は――――!? いえ、それよりも何故彼女を」

「悪い……シエルさん。とりあえず――――ここから離れる。殿は任せた」

 

 

理解できない状況に彼女は目を丸くしたまま。当たり前だ。血の臭いを辿ってくればこの戦場。混沌に加えて蛇の気配。満身創痍、左腕を失った真祖に何故かそれを抱えている同じく左腕を失くしている協力者。

 

だが突っ込む暇もなく遠野志貴はアルクェイド・ブリュンスタッドを抱えたままその場を離脱していく。全く迷いない行動。後ろを振り返ることもない。それはすなわちシエルに対する信頼に他ならない。もっともそれはシエルにとっては迷惑以外の何者でもないのだが。

 

 

「~~~っ!! 遠野君、ちゃんと後で事情を説明してもらいますからね!!」

 

 

後始末、貧乏くじを引かされた感を否めないまま。それでも全く迷うことなく完璧に撤退戦に切り替える判断の速さは間違いなく代行者である所以。黒鍵による牽制と煙による目くらまし。シエルもまた時間を稼ぎつつその場を離脱する。

 

 

混沌と蛇もまた、それ以上深追いすることはない。互いに、そうせざるを得ない事情があったが故。その理由をシエルたちが知るのはまだ先。

 

 

それがこの夜の戦いの終わり。そして新たな混迷の始まりだった――――

 

 

 

 



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第二十三話 「再逢」

 

――――夢を見る。

 

 

映像を見るように。だがおかしい。わたしは夢など見ない。寝ている間に見るのは瞼の裏だけ。ならきっと、今見ているものは記憶なのだろう。

 

熱を覚えている。誰かが自分を抱えている。触れている。その感触と温かさ。そういえば、そんなことは初めてだった。誰かに触れられたことなどない。触れるのは相手を切り裂く時のみ。

 

分からない。何故そんなどうでもいいことを覚えているのか。感じているのか。でも、何故かいつかの老人の言葉が蘇る。彼は言った。

 

 

――――君の人生は、目が覚めているだけで楽しいのだ、と。

 

 

意味を持たない言葉の羅列。未だに理解できないもの。なのに何故――――

 

 

 

 

「…………」

 

 

意識が戻り、身体が動き出す。ゆっくり身体を起こし目を開く。そこには見慣れた光景、自らの部屋が広がっている。特に思い入れなど無い、ただ活動の拠点としているだけのマンションの一室。だが違和感は拭えない。

 

何故自分はここにいるのか。ベッドに横になっているのか。過程が思い出せない。一度目を閉じ、記憶の檻を拾う。覚えているのは、混沌を補足し戦闘になった経緯。その後の蛇の乱入。そこまでは明確。だがその先が霞みががっている。

 

しかし、ようやく気づく。本当なら真っ先に気づかなければならない己の異常。

 

そこにあるはずの左腕が失くなっている、ということ。

 

同時に全てを理解し、行動を起こさんとした瞬間

 

 

「――――目が覚めたか、ブリュンスタッド」

 

 

聞いたことがない声と見たことがある姿をした男が現れる。最初からそこにいたかのように、無駄のない在り方。それが彼女と遠野志貴の何度目かの再会だった――――

 

 

 

 

「目覚めてすぐで悪いが、確認させてくれ。ここまでの経緯は覚えているか?」

 

 

男、遠野志貴は部屋の入り口、ドアの前で立ったままベッドに横になっているアルクェイド・ブリュンスタッドに問いかける。本当ならいつ命のやり取りが始まってもおかしくない状況にも関わらず、遠野志貴は普段と変わらずどこか淡々としている。対して、鏡のようにアルクェイド・ブリュンスタッドもまた微動だにしない。ただ赤い瞳で遠野志貴の姿を捉えているだけ。無機質さでいえば彼女の方が上かもしれない。

 

 

「――――そうか。心配しなくても戦う気はない。武器もないし、左腕は……まあお互い様だがなくなってる。もしお前をどうこうする気があるならとっくにそうしてる」

 

 

全く反応しないアルクェイド・ブリュンスタッドの姿に何か思う所があったのか遠野志貴は右手を上げながら自らに争う意志がないのを明かす。その証拠に彼はドアから一歩もアルクェイド・ブリュンスタッドに近づいていない。不用意に近づけば彼女の警戒を強めるだけだという判断。もっとも武器であるナイフがないのはなくしたからで、争う気がないとうのは今現在の話。つい数時間前には殺そうとしていたのだがあえて遠野志貴は口にすることはない。

 

 

「…………」

「――――そうか、思い出した。喋れない、じゃなく喋らないんだったか。なら仕方ない。こっちで勝手に喋るから聞いててくれ、ブリュンスタッド」

 

 

一向に微動だにせず、言葉を発することないアルクェイド・ブリュンスタッドに首をかしげながらもようやく彼は思い出す。彼女が喋れないのではなく、喋らないということを。処刑人である彼女にとってそれは無駄なこと。なのにそれを忘れてしまっていたのは遠野志貴が未来知識を持っているから。その中の彼女と目の前の彼女は全く一致しない。本当に同一人物なのかと疑うほど。もっともイレギュラーなのは未来知識の方で目の前の彼女の方が本来の姿なのだが、遠野志貴にとってはどうでもいい、些細なこと。

 

遠野志貴はただ淡々と事実を述べて行く。あの公園での出来事からここに至るまでの顛末。主観を交えない客観的な事務報告。かつてシエルにしたようにそこには無駄がない。自らの正体と目的。混沌と蛇の現状。その後のいざこざ。

 

時間にすれば三十分ほど。その間、アルクェイド・ブリュンスタッドはただじっと遠野志貴の説明を聞いている。もしかしたら、聞いてすらいないのかもしれない。本当に白い人形のように、ただ遠野志貴がそこにいるから顔を向けているだけ。

 

話し続けている遠野志貴もそれを気にすることなく続けていく。アルクェイド・ブリュンスタッドが聞いているかどうかも大きな問題はない。彼にとってはこれはアルクェイド・ブリュンスタッドが現状維持を望んでいるかを確認するためのもの。

 

結果は予想通り。少なくともアルクェイド・ブリュンスタッドはすぐに行動を起こす素振りもこちらに危害を加える気配もない。もしそうでなければ遠野志貴はこの部屋に入った時点でアルクェイド・ブリュンスタッドに殺されていただろう。彼自身も半分ほどの確率でそうなることは想定していたのだが博打に勝った形。もっともそう簡単に後れを取るつもりはないが互いに左腕を失い、ナイフもない。加えて消耗しきっている現状では殺されるのは避けられそうにはなかったのだが。

 

 

「――――とりあえず、話はこんなところだ。こっちとしてはしばらくブリュンスタッドには動いてほしくない。もし蛇に見つかれば今度こそ力を奪われかねない。少なくとも、まともに動けるようになるまではここにいてくれ」

 

 

大方の説明を終え、遠野志貴は最も伝えたかったことを告げる。まともに動けるようになるまではここから動かないでほしいということ。

 

既に蛇に力を奪われてしまっているのは事実。その証拠に未だに遠野志貴は直死の魔眼で彼女の死を視ることができる。点についてはほとんど見えなくなりつつあるが、線についてははっきり見える。それでも他の人間や世界に比べれば数は圧倒的に少ないのだが、本来夜には死がないはずの彼女にそれが見えること自体おかしい。弱っていることに加え蛇に力を奪われてしまっているのが原因であることは間違いない。もっともどれぐらいの力を奪われたのかはアルクェイド・ブリュンスタッドが口にしないため分からないが、彼女の消耗を見るに少なくはないと見るべきだと遠野志貴は判断した。

 

その証拠の一つが、失われている彼女の左腕。いくら死の線で切られたといっても彼女なら再生できるはず。十七に分割されても生き返ったほどなのだから。にも関わらずそうしないのは何故か。考えられる理由は二つ。一つが再生するだけの力も残っていないから。だがそこまでの消耗ならもっと死の線が見えてもおかしくない。ならもう一つの理由、蛇に左腕ごと力を奪われてしまっているから。そう考えれば納得がいく。かつてアルクェイド・ブリュンスタッドは姉であり、月触姫と呼ばれるアルトルージュ・ブリュンスタッドに髪を奪われている。それは奪い返さない限り、髪が伸びることもない。同じように、蛇を倒さなければ彼女の左腕も戻らないのかもしれない。

 

もっとも、そんなことを気に掛ける理由も何も遠野志貴にはない。彼女の左腕を奪ったのが蛇でも、切り落としたのは彼なのだから。それでも知らず彼の視線が彼女の左腕があった場所に注がれていると

 

 

「――――?」

 

 

僅かに彼女の瞳に揺らぎが見える。急に黙りこみ、自らの左腕があった部分を見つめている遠野志貴に疑問を抱いたかのように。

 

 

「……それと、俺ともう一人の協力者がここを見張ってる。蛇や混沌が攻めてきても応戦できる。信じる必要もないけど、その点は覚えておいてくれ」

 

 

それを振り切るように遠野志貴は話をまとめる。彼自身、それが何故か分からない。だが自分がおかしくなっていることは分かる。そのきっかけも。ただ一つ、その理由だけが抜け落ちてしまっているだけ。

 

 

「――――ああ、そういえばまだ言ってなかったな。俺は遠野志貴だ」

 

 

そんな中、ふと彼は思い出したように告げる。本来なら一番最初に口にすべきこと。にも関わらずそれを後回しにしてしまうのが彼の彼たる所以。もっとも、アルクェイド・ブリュンスタッドに対して名乗る意味はないと判断していたことも大きいが。そのまま踵を返し部屋を出て行こうとした瞬間

 

 

「…………シ、キ?」

 

 

遠野志貴は、初めて彼女が言葉を発したのを耳にした。

 

 

「…………?」

 

 

振り返り、視線を向けるもアルクェイド・ブリュンスタッドは何の反応も見せない。ただ変わらず赤い瞳で彼の蒼い瞳を捉えているだけ。遠野志貴もまた、何も言葉を発することなく部屋を後にする。ただの聞き違いだろう、と。

 

 

それが遠野志貴とアルクェイド・ブリュンスタッドの邂逅の終わりだった――――

 

 

 

 

「――――ふぅ」

 

 

ドアを閉め、マンションの入り口とリビングの間のフローリングで知らず溜息を吐く。どうやら自分は思ったよりも先の状況に緊張していたらしい。いつ死んでもおかしくない状況なのだから当然と言えば当然だが、そんな感覚が残っていたことに驚いていた。もしかしたら、死ではない何かに自分は恐れを抱いていたのかもしれない。だが間違いないのは

 

 

「―――ああ、いたのかシエルさん。何でそんなに怖い顔をしてるんだ。美人が台無しじゃないか」

 

 

いつからそこにいたのか、穴が開くのではないかと思えるほど憤怒の表情で自分を睨んでいる彼女の存在も、自分が緊張している理由の一つだということだけ。

 

 

「それはこっちの台詞です。遠野君、今自分がどんなに危険なことをしているか分かっていますか」

「ああ、分かってる。とりあえず、シエルさんに睨み殺されそうになってるってことは」

「そうですか。残念ながらわたしは睨むだけで相手を殺せる魔眼は持っていないので安心してください。今それがあればと思うほど怒ってはいますけど」

「そうか。で、何でそんなに怒ってるんだ、シエルさん?」

 

 

一応女性に対するお世辞も口にしたはずだが彼女は全く収まらない。それどころか怒りは増すばかり。ここは素直に彼女の言い分に従うしかない。これまでの繰り返しの中で学んだ教訓という名の条件反射。

 

 

「アルクェイド・ブリュンスタッドのことです! 何故彼女と話など……彼女に言葉は通じません。遠野君もそれは知っているはずでしょう!?」

「勿論。何度か殺されたこともあるからそれは知ってる。でも仕方ないだろう。シエルさんに任せたら間違いなく戦闘になるのは目に見えてるんだから」

「それは……否定はしませんが、それでも危険であることは変わりません。真祖といえども彼女は吸血鬼です。殺されなくとも血を吸われることもあり得ます」

「それは多分、ないんじゃないかな。そんなことをするぐらいならブリュンスタッドは死を選ぶと思うんだが……」

 

 

矢継ぎ早に捲し立ててくるシエルに遠野志貴は淡々と応えるしかない。アルクェイド・ブリュンスタッドと対面したのは単にシエルに任せれば上手く行かないだろうと分かっていたから。シエルは個人的にもアルクェイド・ブリュンスタッドと因縁がある。加えて吸血鬼に対しての憎しみも。いくら温和な彼女であっても、直接ではなくとも自分が不死になってしまった原因である彼女を前にしては冷静ではいられない。その結果、遠野志貴がその役をすることになっただけ。

 

 

「……何故遠野君がそこまで彼女に肩入れするのか分かりませんが、これだけ言っておきます。彼女は吸血鬼、決してわたし達と交わることはありません」

「だろうな。俺もブリュンスタッドと分かり合おうなんて無駄なことは考えてない。ただ彼女が状況の大きな要素であることは変わらないってだけだ」

「……そうですね。彼女の様子はどうでしたか。こちらの意図は伝わった様子ですか?」

「いや、分からない。聞いてはいたようだが無反応だったから。何を考えているかはさっぱりだ」

「遠野君も他人のことは言えないと思いますが……とりあえず、敵対する気はないと?」

「多分。そうじゃなかったら今頃このマンションは戦場になってるはずだろ?」

 

 

言外に誰のせいでとは口にせず遠野志貴は口にする。もしあの場でシエルが乱入していればどうなっていたかを突きつける形。思わず息を飲みかけるもシエルは咳払いをしながらそれを誤魔化す。

 

 

「とりあえず、彼女はここに留まるということですね。それをわたし達が見張りながら、蛇と混沌を迎撃する。それで間違いないですね?」

「ああ、当面はそうするしかない。間違いなく蛇と混沌はアルクェイド・ブリュンスタッドを狙ってくる。その前に蛇を殺すことができればいい。これ以上アルクェイド・ブリュンスタッドの力を奪われれば勝ち目はない」

 

 

先程までの冗談は嘘だったように、遠野志貴は機械のように現状を告げる。今はまさにアルクェイド・ブリュンスタッドを巡った争奪戦。それぞれがそれぞれの思惑で彼女を狙っている。同時にそれは遠野志貴、シエルにとっては勝機でありながら大きなリスクでもある。一歩間違えば全てが台無しになりかねない綱渡り。

 

 

「ネロ・カオスはすぐには動くことはないと思う。半分とはいえこの眼で殺したから。ただ、蛇については分からない。あの時追ってこなかったのも気にかかる。ブリュンスタッドの力を奪ったのに動かない理由があるのか……」

「……恐らく、奪ったからこそではないでしょうか」

「奪ったからこそ……?」

「はい。アルクェイド・ブリュンスタッドは最強の真祖。その力は堕ちた魔王ですら狩る程のものです。今代の転生体のポテンシャルは遠野君の話を信じるならそれほど高くない。いわば容量を超えた水を入れた風船のような状態に今のロアはなっているのかもしれません」

 

 

そう考えれば辻褄が合う。あの場で追撃をしかけてこなかったことも。手に入れた力を扱うことができなかったからこそなのだと。加えてもう一つの疑問。それは遠野志貴が告げる三咲町が死都となるタイミング。それは今よりもまだ先。今回は遠野志貴が乱入したことでアルクェイド・ブリュンスタッドは全ての力を奪われずに済んだが、これまではそうではなかったはず。ならそれまでのタイムラグは恐らくロアが奪った力を完全に己が物とするまでにかかった時間だと見ることができる。ならば

 

 

「……ロアが動き出す時は、奪った力を使えるようになってからってことか?」

「恐らく。問題は、それがどれほどの力になるかです。遠野君が見たことがある永遠を完全に取り込んだロア程ではないにしても、とてつもない力を手にすることは間違いありません」

 

 

かつて初代ロアはアルクェイド・ブリュンスタッドからその力の一部を奪い死徒となった。希代の魔術師であった彼の力は凄まじく、諫めに来たアルトルージュ・ブリュンスタッドを退けてしまう程。アルクェイド・ブリュンスタッドもまた教会と協力しそれを殲滅した。

 

ならば今回はどうか。奪った力は恐らく初代の時を遥かに超える。反面、肉体的ポテンシャルは大きく劣るも、奪った力を使えば肉体を作りかえることもできるはず。様々な要素を踏まえても、初代ロアに匹敵する力を今代のロアが手に入れてしまう可能性は否めない。

 

シエルは冷静に分析する。自分と遠野志貴でそのロアに対抗し得るかどうか。結果を知りながらも、まだ希望はある。自分の不死に加えて彼の直死の魔眼があれば僅かではあるが可能性は残されている。最も理想的なのは蛇が脱皮する前に滅することだが最悪の場合を想定しておくことは必須。

 

 

「遠野君、本当に左腕の義手は必要ないんですか。そのままでは満足に戦うことも……」

 

 

それは大きな懸念。遠野志貴は左腕を失っている。奇しくもアルクェイド・ブリュンスタッドと同じ。それによって遠野志貴の戦闘能力が大幅に堕ちてしまうのではないか。

 

 

「いや、大丈夫だ。体の欠損には慣れてるし、もう修正できてる。むしろ左腕でよかった。もし足ならアウトだったし、利き手なら動作がどうしても遅くなるから」

 

 

だがそんな懸念を遠野志貴は払拭する。まるで左腕を失ったことなど大した問題ではないのだと誇示するように。事実、そう彼は思っているのだろう。自分の体ではない、人形の体を扱うように。

 

 

「義手も必要ない。あっても慣れるまでに時間がかかるだろうし、そんな時間はもうない。無駄なことをしている暇はないから」

 

 

義手も同様。付け焼刃の腕など害でしかない。そのせいで動作に問題が生じるなら片腕で十分。それが彼の判断。出会った時から変わらない彼の在り方。だからこそ、シエルは口にする。

 

 

「――――遠野君、どうしてあなたはアルクェイド・ブリュンスタッドを庇ったんですか?」

 

 

これまであえて口にしなかった一番の疑問、違和感。何故アルクェイド・ブリュンスタッドを庇ったのか。あまつさえ自らの左腕を犠牲にしてまで。

 

 

何よりも、何故彼女を殺そうとしないのか――――

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッドを匿うことはリスクでしかない。いや、一つ大きなメリットもあり得るがそれは限りなくゼロに近いもの。蛇に奪われることに加え、最悪回復した彼女によって殺されてしまう可能性もある。いわばパンドラの箱。なら、彼女を殺すことがもっとも無駄がない選択肢。なのに何故、それを実行しないのか。無駄を誰よりも嫌っているはずの彼が何故。だが

 

 

「――――分からない。俺も、どうしてあんなことをしたのか、分からない」

 

 

彼自身がそのことに戸惑っている。既に彼は包帯を目に巻いている。故にその表情も伺えない。だがそれでも、彼が何かに戸惑っているのは感じ取れる。だがそんな彼の姿にシエルは直感する。もしかすれば、自分は大きな勘違いをしていたのではないか、と。

 

遠野志貴。彼は生死観が壊れている。それはこれまでのやり取りから明らか。自らの体を人形のように扱うさまも、その精神も常軌を逸している。死を繰り返す螺旋によって摩耗してしまった代償。それは間違いない。

 

だがそれでも、彼はまだ最後の一線を超えていないのかもしれない。

 

奇しくも先日自分が彼に伝えた言葉。彼は自分の死を許容できても、他人の死は許容できていない。そうあってほしいと願ったもの。それが、恐らくは正しかったのだと。

 

彼はまだ壊れ切っていない。自分の目的のために、他人の命を、死を許容できるほどまでには至っていない。まだ、人間に戻ることができる可能性を、僅かであれ持っている。

 

それでも半分。既に自らの命に対する価値観が、執着が無くなってしまっているのは確か。あとはそれを取り戻すことができれば――――

 

 

「でも、おかしいんだ。あの時、あいつの声が聞こえて……そんなこと、有るはずないのに……だって、あいつはもう死んで……」

 

 

気づけば、知らぬ間に彼は顔を手で覆いながら意味不明な言葉を呟いている。理解できない独語。知らず寒気を覚えてしまうな、そんな人形の姿。

 

 

「……遠野君?」

「……いや、何でもない。とにかくシエルさんには蛇の居場所を探し出してほしい。それしか、手はない」

「分かっています。ですが蛇だけ、ですか? 混沌もいつ動き出すか」

「蛇だけだ。混沌は後回しでいい。とにかく、早く――――」

 

 

そんな彼の珍しく感じる必死さに違和感を覚える。確かに蛇の方が脅威度は高い。だがそれでも混沌も後回しにできるものではない。蛇を殺すことだけが彼の至上目的だからなのか。気にはなるものの、これ以上時間をかけるのは得策ではない。

 

 

「……分かりました。とりあえずわたしはあの公園の事後処理と蛇の探索に出ます。遠野君はどうしますか」

「俺はここに残る。まずないと思うけど、すぐにでも襲撃がある可能性もあるから」

「…………数時間ほどで一旦戻ります。それまでは油断をしないように。いいですね」

 

 

彼の返事を待つことなくマンションを後にする。本当なら足を踏み入れるはずのない真祖の拠点。目が覚めた時に彼のホテルや自分の部屋ではアルクェイド・ブリュンスタッドが警戒するかもしれないという理由から彼はここに彼女を運び出した。

 

 

だがそれでも思わずにはいられない。何かが、歯車が狂いかけているのではないか。そんな予感。

 

 

それを振り払いながらシエルは舞う。持ち切れない程の多くの願いを背負いながら――――

 

 

 

 

瞬間、視点が暗転する。気づけば床に倒れていた。どうやら、流石に限界だったらしい。

 

 

「――――ハ、ア」

 

 

みっともなく、息を吐く。吸う。電池が切れたロボットのように、体は言うことを聞かない。痛みはない。それでも、身体が異常を発していることは感じ取れる。身体が鉛のように重い。海月になってしまったように、力が入らない。さっきまで立っていたのが嘘だったかのよう。

 

 

「これは……まずい、な……」

 

 

誰にでもなく、一人言葉を発する。分かり切っていたことなのに直面することでようやく実感する。既に自分が死に体であることを。

 

額と背中には冷や汗が滲んでいる。体はそれに対するように熱を纏っている。頬に触れているフローリングの床の冷たさが心地いい。このまま眠れば、どんなに楽か。

 

だが流石に床に転がったままではまずい。シエルに知られればどうなるかは明白。自分を気にして彼女は満足に動くことができなくなる、その動きに支障が出る。一刻も早く蛇を見つけなければ先はない。

 

残った右腕を杖代わりにしながら体を起こそうとするも叶わない。みっともなく、蛇のように床を這いながら繰り返す。数分か数十分か。ようやく上体を起こし、壁に背中を預ける。これで、何とか誤魔化せるだろう。

 

そのまま顔を上げる。建物に走る死の線。自らの体を穿つ、点。包帯越しでも見える、タイムリミット。いつも見上げている月も、ここからでは見えない。ただ死に触れないようにするしかない。

 

 

「後一度……か」

 

 

それが限界。脳が焼き切れるのが先か。身体が動かなくなるのが先か。どちらにせよ変わらない。自分の目的は一つだけ。ただそのためだけにこの身はある。

 

 

「蛇を殺すことができるなら、構わない」

『彼女を―――ができるなら、構わない』

 

 

矛盾した願いを思い出しながら、遠野志貴は眠るように意識を手放した――――

 

 

 

 

 

白い彼女は立ち上がり、部屋を後にする。足音すらない。音を殺しながら、それでも優雅に彼女はドアを開け、目にする。

 

壁を背にしたまま、床に座り込んでいる人形のようなナニカ。

 

 

「…………」

 

 

彼女、アルクェイド・ブリュンスタッドはそのまま何をするでもなく一歩一歩、遠野志貴に近づいて行く。そこには何もない。道端の石を見るように、そこには感情というものがない。

 

彼女は感じ取る。遠野志貴が意識を失っていることを。恐らくは睡眠状態。だが一見すれば死んでいるのはと思えるほど、その姿は静かだった。もしかしたらもう目が覚めないのではないかと思うほどに。

 

それを見下ろしながら無駄なく美しい彼女の指が爪に変わる。これまで幾多の吸血を葬ってきた断頭台。自らの目的に対する障害を排除するために。

 

目の前の人間が口にしていた情報も得ている。確かに利はある。だが同時に害も。ならば利を取る。不確定要素は、無駄はいらない。洗い流す。その爪を振り上げる。だが同時に疑問が浮かぶ。

 

何故、この人間は自分を殺さなかったのか。それを為し得る異能を持っていたのに。時間があったのに何故。奇しくも今の自分と同じように。

 

彼女は気づかない。そも疑問を抱くという行為こそが、既に本体の彼女であればあり得ないことに。その意味を解することなく、一切の慈悲も容赦もなく爪を振り落とさんとした瞬間

 

 

――――その場には似つかないチャイムの音が、響き渡った。

 

 

「…………」

 

 

爪を止め、そのままアルクェイド・ブリュンスタッドはその音の主がいるであろう玄関へと目を向ける。来訪者。だがこのマンションの階層は全て自分が所有している。加えて自分に目的がなければ立ち入らないような結界、暗示が施されている。一般人ではあり得ない。同時に蛇や混沌であるとは考えにくい。彼らがチャイムを鳴らすなどあり得ない。ならば一体誰か。

 

一切の油断なくアルクェイド・ブリュンスタッドは音もなく玄関へと向かう。そこは既に彼女の間合い。足を踏み入れれば一瞬のうちに首を狩り取れる距離。それを以ってゆっくりとドアを開けるも、アルクェイド・ブリュンスタッドはそのまま僅かに目を見開きながら動きを止める。何故なら、その少女を彼女は知っていたから。

 

 

着物を着た、琥珀色の瞳を持つ少女。

 

 

それがアルクェイド・ブリュンスタッドと琥珀の再逢。そして彼女達の歯車が狂い始めた瞬間だった――――

 

 

 



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第二十四話 「性分」

――――今思い返せば、その行動はあまりにも愚かだったかもしれない。

 

 

知らず着物を着直し、ただ人形のようにマンションの一室の前で立ち尽くす。すぐにでもチャイムを鳴らせばいいのに戸惑っている自分。『琥珀』である自分であれば考えられないような無駄。ここへやってきたことそのものが既にまともとは言えない。

 

 

(何をしているんでしょうか……わたし)

 

 

もう何度目になるのか、自嘲と自問自答を反芻しながら思い返す。この場までやってきた経緯。夜の繁華街での秋葉様との探索。見間違いかもしれない彼の姿と、彼が追っていた人物。奇しくもその人物のことを、わたしは知っていた。だからこそわたしはここにいる。

 

金髪の外国人女性。

 

あの日邂逅し、恐らくは命を落としかけた相手。加えて彼が気に掛けていた存在。人間ではない人外。異能を持っているだけで戦うことができない自分でも分かる程、彼女は異質であり同時に惹かれるものがあった。魔性とでも言うべきものと、相反する無機質さ。このドアの先に彼女はいる。

 

でもそれは開けてはいけない扉。もう一度出会えば、間違いなくわたしは殺されてしまう。そう確信できるほどにあの日の出会いは衝撃的であり、一命を取り留めたのは奇跡。もうきっと同じことは起きない。

 

死ぬのは嫌だ。イタイのは嫌だけど、死ぬのは絶対嫌だった。だから人形の振りをしながら、誰かを演じながらここまで生きてきた。なのに何でこんなことをしているのか。

 

ふと、胸にしまっている物に手が触れる。無意識にそれを握りしめる。果たされなかった約束。一方的に押し付けてしまった願いであり八つ当たり。それでも今日まで在り続けたわたしの存在理由。ゼンマイが切れかけているわたしに残っている、たった一つの白いリボン。

 

 

そう。願っているのは一つだけ。フクシュウも何もかもどうでもいい。ただもう一度――――

 

 

気づけばチャイムを鳴らしていた。わたしの体がわたしではないみたい。本当なら今日、シエルさんから連絡があるはずなのに、それを待つことができなかった。もう待つのは嫌だった。八年間ずっと待っていたのに、今はもう一日ですら耐えられない。

 

一瞬の間の後、ゆっくりとドアが開く。返事も何もない。自動ドアが開くように機械的に部屋の主もそれは同じだった。

 

 

「…………」

 

 

金髪に、赤い瞳を持った白い女性。数日前会った時と変わらない一つの完成品。知らず芸術品を前にしたような感覚に襲われながら目を奪われる。次の瞬間には命を奪われてしまうかもしれないにもかかわらず、そんなことはどうでもいいと思ってしまうほど。

 

だがそんな彼女の違和感に気づく。表情は変わらない。だが以前あって今はない物がある。左腕が、ない。初めからそうだったのではと勘違いしてしまいかねない。そしてもう一つ。わずかではあるが彼女の瞳が開かれ揺れている。何かに驚いているように。わたしにとってはそのことの方が気にかかっていた。その光景は、わたしが彼女に抱いていたものとは真逆の反応だったから。

 

彼女はその場から動かない。言葉を発することも、金の瞳を見せることも。

 

わたしもそのまま彼女と向かい合うだけ。以前の出会いとは何かが違う。歯車がかみ合わないような、狂い始めているような感覚。だがいつまでもこのままではいられない。

 

 

「あの……」

 

 

いつかと同じように、自らの目的を明かそうとした瞬間

 

 

「…………え?」

 

 

わたしはそんな声を上げるしかなかった。何もないただの驚き。探していたものがあまりにもあっさりと見つかってしまったから。でもそれが信じられない。

 

もうわたしは目の前にいる彼女を見てはいなかった。瞳に映るのはその奥。部屋に続くまでの短いフローリング。そこに、彼はいた。

 

知らず、そのままゆっくりと部屋に向かって歩いて行く。夢遊病者のように、足取りも思考も定まらない。もう何も分からない。隣で自分を見つめている白い彼女のことも、先程まで自分が何をしようとしていたのかも。その全てが、どうでもよかった。

 

 

「――――志貴、さん」

 

 

彼の名を呼ぶ。本当の名前ではない、それでも彼を現わすもの。

 

 

その姿はわたしが知っているものとは大きく違っていた。目には包帯が巻かれ、左腕は失われている。あまりにも痛々しいその姿。壁に背中を預けたまま座り込みながら微動だにしない。一見すれば死んでしまっているのではと思えるほどに、彼は静かだった。

 

でもわたしは知っている。彼が眠っているだけであることを。それを何度も見てきたのだから。それを見つめることが、わたしの密かな楽しみだった。同時に思い出す。彼との何気ないやり取り。もう遥か昔のように思える、遠野家での仮初の生活。

 

 

――――いつもぶっきらぼうで、わたしにだけ厳しくて、それでもわたしの手を握ってくれた誰か。

 

 

もう分からない。自分がどんな顔をしているのかも、どんな顔をすればいいのかも。できるのはただその場に座り込みながら目の前にいる彼を見つめることだけ。触れようと手を伸ばしかけるも届かない。彼が眠っている間にそれをしたくなかったのかもしれない。今のわたしのココロが分からない。でも覚えてる。これはきっと――――

 

 

「――――どうして、泣いているの?」

 

 

その答えを、わたしではない誰かが問いかけてくる。ようやくわたしは顔を上げながら彼女に顔を向ける。そこにはどこか不思議そうな顔をしながらわたしを見下ろしている彼女がいる。まるで、理解できないものを見たかのように。同時にどこまでのその瞳は純粋で無垢だった。だがそこでようやく私は二つのことに気づく。

 

一つが、自分が泣いていること。頬に触れてみてようやく分かった。涙が流れている。でもこれはきっと悲しいからではない。もっと違う気持ちからくるもの。人形のはずのわたしが流すことができないもののはずなのに。

 

そしてもう一つ。それは目の前の彼女が言葉を発したと言うこと。以前のように反芻するようなものではない。自らの疑問を口にしている。本当なら驚くこともない当然のこと。でもそれがどれほど異常なことか、この時のわたしには分からなかった。何故なら

 

 

「――――彼女達から離れなさい、アルクェイド・ブリュンスタッド」

 

 

聞いたことがある女性の、聞いたことがない程冷酷な声がその場に響き渡ったから。

 

 

 

 

 

――――今思い返せば、それはあまりにも理解できない光景だった。

 

 

壁を背にしたまま眠っている遠野志貴。彼はまだいい。左腕を失い、魔眼と体を酷使した後であるなら疲労しているのは当然。

 

アルクェイド・ブリュンスタッド。これもまだ分かる。何を考え、何をしようとしていたのかは定かではないがここは彼女の拠点。

 

故に問題はもう一人の存在。ここにいるはずのない、第三者。奇しくも自分とも面識があり、今日連絡を取るはずだった琥珀という名の遠野志貴にとっても縁のある少女。

 

何故彼女がここにいるのか。だが今それを考える意味はない。問題は琥珀を前にしているアルクェイド・ブリュンスタッドの様子。明らかに普通ではない。そも彼女が言葉を発するなどあり得ない。その理由も不明、加えていつ琥珀、遠野志貴に襲いかかるか分からない。遠野志貴は眠っていることに加え琥珀には戦闘能力はない。ならば自分の役目はただ一つ。

 

 

「彼女達から離れなさい、アルクェイド・ブリュンスタッド」

 

 

代行者として目の前の吸血鬼を排除する。様々な理由によって一時的に休戦状態ではあったが所詮は仮初の物。その大半も遠野志貴に配慮したが故のもの。その彼が今は動けない以上、自分が動くのは当然。

 

そのまま瞬時に黒鍵を取り出し、切っ先をアルクェイド・ブリュンスタッドに突きつける。そこに一切の容赦はない。彼女に対してそんな余裕はない。いくら力を奪われ衰弱しているとはいえアルクェイド・ブリュンスタッドは最強の真祖なのだから。

 

 

「…………」

 

 

その瞳を金に変えながら、アルクェイド・ブリュンスタッドもまたその右手を爪を構える。先程まで見せていた純粋無垢な表情は欠片もない。あるのは処刑人としての顔だけ。自らの目的の障害を排除することだけが今の彼女の行動理念。

 

 

「シエルさん……? あの……」

「琥珀さんはそこから動かないでください。事情は後でお聞きします」

 

 

琥珀は目の前で起こっていることをただ呆然と見つけることしかできない。突然現れたシエル。それと敵対しているアルクェイド・ブリュンスタッド。状況の全てが琥珀にとっては理解できないもの。ただ分かるのは力を持たない自分ではこの場を収めることはできないということだけ。緊迫した空気。その切っ先同士が振れ、互いに切り結ばんとした時

 

 

「そこまでだ。全く……目が覚めたらいきなり殺し合いなんて勘弁してくれ。こっちは貧血持ちなんだ」

 

 

そんなどこか気の抜けた遠野志貴の声によってそれは止まってしまった。

 

 

そのまま遠野志貴は大きな溜息を吐いた後、ゆっくりと壁に背を預けたまま立ち上がる。一度バランスを崩しそうになりながらも右手で体を支えながら。そのまま包帯をしたままの眼で辺りを見渡す。その場にいる三人の女性の姿。一瞬の間の後、遠野志貴は口を開く。

 

 

「シエルさん、そっちはどうだった? 蛇の手掛かりは何かあった?」

「い、いえ……残念ながら。ですがもうすぐ夜明けですから蛇も混沌もすぐに動くことはないはずです……」

「そうか……その手に持ってるのは、俺のナイフ?」

「ええ。公園の事後処理の際に回収してきたんです……ですが遠野君、今はそんなことよりも――――」

 

 

あまりにもいつも通りの遠野志貴の姿にシエルは思わず呆気にとられてしまう。確かに彼はいつもそうだった。しかし、今は状況が異なる。恐らくはアルクェイド・ブリュンスタッドに殺されかけたにも関わらず気にした様子がない。しかも包帯をしたままとはいえその視線をずっとアルクェイド・ブリュンスタッドに向けたまま。話しているはずのシエルに顔を向けることはない。

 

 

「ブリュンスタッドもやめておけ。今の状態じゃシエルさんには勝てない。殺されるのがオチだ」

 

 

淡々と事実を遠野志貴はアルクェイド・ブリュンスタッドに告げる。ただ単純に、結果を口にしているだけ。アルクェイド・ブリュンスタッドがどんな状態にあるかなど遠野志貴には手に取るように分かる。

 

 

「まだ回復しきってないだろ。見れば分かる。まあ、回復してもシエルさんを殺すことはできないだろうけど……無駄なことはしない方がいい。それでも殺されたいって言うんなら止めはしない」

 

 

直死の魔眼によって遠野志貴はアルクェイド・ブリュンスタッドの状態を把握する。未だに死が見えることからも衰弱しているのは明らか。それを見越したうえで遠野志貴は告げる。無駄なことだと。言外に今は大人しくしていろと。アルクェイド・ブリュンスタッドの在り方を識っているからこその諭し方。無駄なことはしないという行動理念。矛盾しているのはそう口にしている彼自身。

 

 

「…………」

 

 

自らの状態を見透かされていると悟ったからか、それとも遠野志貴によってシエルの気勢が削がれたのを感じ取ったのか。アルクェイド・ブリュンスタッドはその金の瞳を赤に戻し、爪を下げる。それはシエルも同じ。シエルとしてもこの場で戦闘になるのは避けたいのが本心。このままでは遠野志貴はともかくとして、一般人である琥珀まで巻き込んでしまう。いくら弱っているとはいえアルクェイド・ブリュンスタッドと戦いながら琥珀を庇うのは至難の業。

 

しかし、一触即発の状況からは脱したにもかかわらずシエルは困惑した表情を見せたまま。それは違和感。正確には自然すぎて感じることができないが故の矛盾。それは

 

 

「…………志貴さん?」

 

 

遠野志貴が、その場にいるはずの琥珀をまるでいないかのように扱っていることだった。

 

 

どこか理解できない様子で琥珀は恐る恐る遠野志貴へと話しかける。無理やりここに押しかけてしまった後ろめたさか。それとも待ちわびた再会による喜びと不安か。琥珀の事情を知っているシエルにもその心情は理解できる。だが

 

 

「とりあえず俺はこのまま休む。ブリュンスタッド、隣の部屋を借りるぞ」

 

 

遠野志貴はいつも通りに理解できないペースで動いている。恐らくは彼なりのルールに従って。機械が定められたことしかできないように。優先すべきが己の体調の回復だからこそ。アルクェイド・ブリュンスタッドはそんな遠野志貴の言葉に返事をすることもなくただ視線を返すだけ。もっとも、彼女が視線を返すということだけでも本来なら異常なことなのだがシエルも遠野志貴も気づくことはない。

 

 

「遠野君、待って下さい……!」

 

 

淀みなく琥珀の、そして自分の横を通り抜けながら部屋を出て行かんとしている遠野志貴を何とか引きとめる。

 

 

「どうしたんだ、まだ何か用があるのかシエルさん。前にも言っただろ。昼間は俺は寝るようにしてるんだって。悪いけど、その間は任せっきりになる。何かあったら起こしてくれ」

「それは構いません……ですが、聞かせてください。遠野君には彼女が見えていないんですか?」

 

 

シエルは問う。もしかすれば見えていないからこそそんな態度を彼が取っているのではないかと。だがそれは考えにくい。彼の話が本当なら包帯をしていても死が見える。つまり周りにいる人間も見えるということ。正確には分からなくともこの場に四人いることは分かるはず。加えて琥珀は声を出し遠野志貴に話しかけた。聞こえなかったとは思えない。

 

 

「いや、見えてる。でもいないんだ。あいつは俺が殺したんだから」

 

 

ならば答えは一つ。遠野志貴は自らの意志を持って、彼女の存在をなかったことにしているだけ。その言葉の意味も理解できないもの。だがシエルには半ば理解できていた。

 

 

何故ならそれは自分がかつて通った道。そして未だ辿り着くができない贖罪という名の迷路。

 

 

「っ! 待って下さい、志貴さん!」

 

 

それを知らない琥珀は慌てながら必死にその場から去ろうとしている遠野志貴に手を伸ばす。その脳裏にはあの時、遠野家から出て行く時に引き留めることができなかった後悔がある。同じことを繰り返さないように、琥珀はその手を伸ばすもそれは彼の手によって払われてしまう。明確な拒絶、否定。

 

 

「志貴、さん…………」

 

 

その光景に琥珀は思い出す。かつて自分が彼の身を案じ触れようとした時も自分は拒絶された。違うのはあの時は突き飛ばされ、今回は手を払われたということ。その包帯に覆われた視線も決して自分を映すことはない。変わらず彼の視線はアルクェイド・ブリュンスタッドに向けられている。琥珀はただその場に立ち尽くすしかない。

 

 

「……遠野君、後のことはわたしに任せてもらって本当にいいんですね?」

 

 

そんな二人のやり取りを見ながらも、どこか怒り半分、呆れ半分といった風にシエルは遠野志貴に確認する。そこには明らかに含みがある。まるで言質を取るかのよう。シエルは既に理解していた。遠野志貴は自分に対して嘘をつかない。彼が彼の中で定めた覆さないルールであり戒め。何故彼がそんな縛りをしているのかに興味がないと言えば嘘になるが今は後回し。

 

 

「ああ。後は任せる、シエルさん」

 

 

遠野志貴はいつものようにそう残したまま部屋を去っていく。振り返ることもない。故に彼は気づかない。これまで幾多も繰り返し理解しているはずの事実。彼女が文字通り、どうしようもない程のお節介であるという本当の意味を。

 

 

遠野志貴がいなくなった後、ひとまず黒鍵をしまいながら改めて振り返る。そこには変わらずその場にいる二人の女性の姿。

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッドは交戦の意志をなくしてからはただじっと事の成り行きを見つめているだけ。これまでと変わらない姿。だがしばらくした後、一度琥珀に視線を向けた後そのまま奥の部屋に戻って行く。変わらず警戒を解くことはしないが、ある意味でシエルにとって一番分かりやすい相手。

 

 

故に問題はその場に残されてしまっている着物姿の少女だけ。その表情からは彼女の感情は読み取れない。遠野家で見た笑みでもなく、無表情でもない。そのどちらにも傾き得る彼女の仮面。

 

 

腰に手を当てながらこの街に来てから一番の溜息を吐く。当たり前だ。一体どうしてこんな状況に自分が陥るなど想像できただろう。

 

 

自らを省みない、壊れかけた協力者を助けながら

 

 

全てを無にしかねない吸血姫を抑え

 

 

恋する少女の力になりながら自らの目的を果たす。

 

 

どれか一つだけでも困難だと言うのにそれが三つ、三重苦。もしかすれば蛇を探し出して滅するだけの方が幾分楽かもしれないと本気で思ってしまうほど。

 

 

「――――はぁ、仕方ありませんね。乗りかかった船ですし」

「…………シエルさん?」

 

 

だが途中で投げ出すことはできない。飽きたから止める、では子どもと変わらない。どこかで自分をからかう同僚兼上司の少年の姿が浮かぶが無視する。

 

文字通り死ぬまで馬鹿は治らない。いや、死んでも治らない。いくら死のうが、自分の性分は変えられない。

 

 

「――――琥珀さん、とりあえずわたしとお茶でもしませんか?」

 

 

なのでとりあえずは、目の前で困っている少女にお節介を焼くことにしよう――――

 

 

 



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第二十五話 「矛盾」

――――ふと、目を覚ました。

 

だが瞼を開くことはない。否、開くことはできない。自分の眼には包帯が巻かれている。例え目を開けたところで視界には何も映らないだろう。何も見えない暗闇。それが目を閉じ、目を封じながら生きてきた自分の世界。もしそれだけであったなら、どれだけ救われるか。

 

 

「…………」

 

 

ゆっくりと体を起こす。体には冷たく硬い床の感触。恐らくはフローリングに横になっていたせいだろう。体の節々に鈍い痛みがある。感じはしないが事実として自らの体の状態を理解する。現状とのその先を。

 

シエルとの共闘関係。蛇の脱皮。混沌との戦闘。アルクェイド・ブリュンスタッドとの接触と確保。同時に左腕の喪失。

 

閉じているはずの視界に死の線が見える。瞼の裏からでも。包帯の下からでも世界の死が見える。壁にも、床にも、自分自身にも。日に日に数が増していく。きっと遠からず点すら見えてくるのだろう。いや、包帯を外せばもうそうなっているのかもしれない。

 

今更な現状を確認しながら、視線をあさっての方向に向けその場を立ち上がる。手元や足元を見るわけにはいかない。死の線や点を触れている体を見ればどうなるか。壁は崩れ、床は抜け落ちるだろう。人であればバラバラの肉片に。だから俺は誰も視界に収めない。自らの体ですら見ることはない。例外は死が見えない空と月と太陽ぐらい。昼間活動しない居間であれば夜空と月だけ。最近はもう一つ、吸血姫というイレギュラーが増えた。とりあえずは彼女の状態を確認しようと動き出さんとした時

 

 

「失礼しますよ……あ、ようやく起きられたんですね。おはようございます、志貴さん」

 

 

そんな懐かしい、聞き慣れた少女の声が自分を出迎えてくれた。

 

 

「――――」

 

 

それに何も答えない。応えることができない。応えることはしてはならない。同時にようやく思い出す。吸血姫だけではない、もう一つの例外がいたことを。だが決して忘れていたわけではない。もう彼女はここにはいないと思っていただけ。正確にはそうなるよう自分は動いていた。

 

『琥珀と会わないこと』

 

それが己の中のルール。どうしてそうなったのか、そうしているのかも曖昧だがそれが人形としての自分の行動理念であり縛り。もしそれを破ってしまえば今までの螺旋で積み上げてきた全てが崩壊してしまうかもしれない。自分が自分でなくなってしまうかもしれない。そんな予感から生まれる行動。

 

だが問題はない。これまでの繰り返しの中でもわずかではあるが琥珀と出会うことはあった。その結果も同じ。琥珀をいないものとして扱うことで彼女はあきらめ去って行った。ならばこそ、自分はもう琥珀はいなくなっていると思っていた。だが

 

 

「……どうしたんですか、志貴さん? まだ寝ぼけてらっしゃいます? もう夜になっちゃってますけど、おはようじゃなくてこんばんはの方が良かったですか?」

 

 

彼女は変わらずそこにいる。どころか昨日見せていたはずの姿すら嘘だったかのように振る舞っている。楽しげに、いつかと同じように自分をからかって遊んでいるような。

 

 

「でも床にそのまま寝るのはいくらなんでもいけません。せめて布団ぐらいは敷いてくださらないと風邪を引いてしまいますよ?」

「…………」

 

 

めっと自分向かってに指を向けているのだろう。年上の姉のように、使用人を演じながら琥珀は自分に向かって話しかけてくる。そのあまりにも予想していなかった態度と状況に言葉もない。あるのはどこかに忘れてしまっていた郷愁のような未練だけ。

 

もう思い出せない程に摩耗した中であっても、覚えている感覚。遠野家で過ごした短くとも意味があった生活。まるでそれが蘇ったような、あり得ない幻想。

 

それを振り払うように包帯に封じられた魔眼をそのまま窓の外へと向ける。包帯、瞼越しでも夜になっていることは分かる。そのまま琥珀から視線を切りただ月を見続ける。これまでと変わらない。人形である自分にそれは変えられない。変えてはいけない。なのに――――

 

 

「……そういえばまだ言ってませんでしたね。わたし、今日から志貴さんとアルクェイドさんのお世話係になったんです。宜しくお願いしますね」

 

 

少しの間の後、心底楽しそうに割烹着の悪魔はそんなヨクワカラナイことを口にした。

 

 

「――――」

 

 

今度こそ、言葉を失った。意味が分からなかった。同時に強烈な既視感に襲われる。いつかどこかで同じように呆気にとられた経験があったと。できるのはただ感情を表に出さず、無視することだけ。しかしそれすらも見越しているかのように彼女はくすくすと笑っている。見えずともその姿が目に浮かぶほどに、その姿はかつての彼女と同じだった。

 

 

「嫌だって言っても無駄ですよ、志貴さん。これはシエルさんも了承されていることですから。アルクェイドさんにもお話はさせてもらってます。返事は……頂けませんでしたけどきっと大丈夫です」

 

 

まるでこちらの思考を読んだように琥珀は事情を明かしていく。どうやらシエルにも話は通っているらしい。いや、通っているからこそなのか。自分が寝ている間にどんなやり取りがあったのかは分からないが、間違いなく自分が想像している方向とは真逆のことをシエルはしてくれたらしい。一般人の琥珀を巻き込む選択を代行者である彼女がするはずがないと、琥珀をあのまま追い払ってくれることを言外に伝えたはずなのにどうしてこんなことになっているのか。

 

 

「そういえば、シエルさんからナイフを預かっていたんです。お返ししておきますね」

 

 

そう言いながら琥珀はその手にナイフを持ちながら自分に差し出してくる。正確には差し出してきているのだろう。視線を向けていない自分には分からないが、気配で彼女が自分に近づいているのは分かる。だがそこまで。琥珀はそれ以上踏み込んでくることはない。自分もそれに応えることはない。互いに手が届きそうなのに、手を伸ばすことはない。それが自分と琥珀の関係。

 

 

「……じゃあここに置いておきますね。危ないので足で踏まないように気をつけてくださいよ?」

 

 

どれだけの時間そうしていたのか。一度息を飲むような気配を見せながら琥珀はそのままナイフを床に置き、その場から離れていく。知らない誰かが見れば、琥珀が一人芝居をしているように見えるであろう状況。昨日再会してから、全く自分を見てくれていないにも関わらず、彼女はそれでも変わらない。もしかしたら演じているだけなのかもしれない。遠野家にいた時のように、自らのフクシュウのために。そのために八年間、彼女は生きてきた。自らを壊した俺にフクシュウするために。なのにそれを忘れて、最期にはその相手を庇って死んでしまった、どうしようもなく愚かな――――いや、本当に愚かなのは――――

 

 

「シエルさんは今、外に出られています。戻ってくるまで絶対に外には出ないように、との伝言です。志貴さん、よっぽど心配されてるんですね」

 

 

笑いながら琥珀はそう告げてくる。どうやらシエルはここにはいないらしい。琥珀だけならば自分はここから離れることができるがアルクェイド・ブリュンスタッドもいる以上、この場を離れることはできない。それを知った上でそんな伝言を残してくるとは恐らく相当おかんむりらしい。それを悟っているからなのか、琥珀は変わらず楽しそうにしている。本当に楽しいのか、演じているのか。螺旋を繰り返している自分でもそれは分からない。分かるのは

 

 

「じゃあわたしは皆さんの食事を用意しますね。その間、志貴さんはアルクェイドさんとお話でもされてて下さいな」

 

 

今のこの状況が、自分にとって喜ばしいものではないという一点だけだった――――

 

 

 

 

そのまま琥珀の言葉に従うように隣の部屋へと足を運ぶ。もっとも琥珀に言われるまでもなく様子を伺う気ではあったのだが。琥珀の姿はない。どうやら本当に食事を用意しているらしい。何かがおかしい。一体シエルは琥珀に何を吹き込んだのか。だがそれを無視し、機械的にドアに前に辿り着く。手にはナイフがある。使うようなことはないだろうが念のため。シエルの言葉に習うわけではないが、自分がどれだけ危険なことをしているかは理解している。

 

 

「邪魔するぞ、ブリュンスタッド」

 

 

ノックと挨拶をしながら部屋へと踏み入る。そんなものは必要ないのかもしれないが形式的なもの。そこには昨日と変わらない部屋の光景。視界が閉じられ、死の線でしか判別できないがそれでも彼女の部屋が殺風景なのは分かる。調度品など必要最低限の物以外は何もない部屋。自分も部屋に物を置かない主義だがそれを加味してもブリュンスタッドの部屋は簡素だった。まるで彼女の在り方が形になったかのよう。

 

 

「…………」

 

 

そこに彼女はいた。変わらずベッドで上半身だけを起こしている。死の線に満ちた世界の中で彼女だけが白い人影のように映る。夜の死期がない彼女だけはこの魔眼を持っていても視界に収めることができる。もっとも今は弱っていることもあり死の線がいくつか見えるが他の人間や建物に比べればないにも等しい。

 

そのまま無言のままブリュンスタッドを見つめる。その死の線の数は昨日よりも明らかに減ってきている。恐らく回復してきているということなのだろう。だがそれは決して喜ばしいだけではない。回復すれば彼女は動き始めるだろう。そうなればここに留めておくこともできない。戦闘になることも充分あり得る。そうなれば今度こそ彼女を殺すしかなくなる。自分にそれができるのか。未だに彼女を殺せなかった理由が分からぬままだというのに。そもそも回復した彼女に勝つことができるのか。シエルの助力があれば違ってくるが力を奪われているとはいえ最強の真祖。曰く処刑人。

 

 

「――――ふぅ」

 

 

溜息を吐きながら無造作にその場に座り込む。視線はブリュンスタッドに向けたまま。彼女を見張る意味もあるがそれ以上に魔眼の負担を考えての判断。本当なら死が見えない相手は脅威でしかないのだが今はその相手を見ることが一番負担が少ないという皮肉。そのままだらしなく座り込んだまま。シエルも琥珀もこの場にはいない。何も偽る必要も演じる必要もない。アルクェイド・ブリュンスタッドは何の反応もすることはない。当たり前だ。それが彼女の在り方なのだから。それなのに

 

 

「…………シキ」

 

 

いつかのように、聞き違いかと思うような声が聞こえた。

 

 

「…………?」

 

 

訝しみながらブリュンスタッドに視線を向けるも何もない。彼女は微動だにしない。気のせいだったのかと思い、そのまま意識を切り替えようとした瞬間

 

 

「――――あなたは、シキ」

 

 

今度こそ間違いなく、アルクェイド・ブリュンスタッドの言葉を自分は初めて耳にした。

 

 

だが理解できない。何故言葉を発さないはずの彼女が。その内容も意味が解せないもの。独り言なのか、それとも自分への質問なのか。声の抑揚からはどちらか判断できない。どこか機械音声のようにたどたどしい。特にシキの部分は顕著。八年以上この境遇で生きてきたがそんな発音で名前を呼ばれたのは初めてだった。

 

 

「……それがどうかしたのか?」

 

 

とりあえずはそう応えるしかない。無視することも考えたがあえてそうした。独り言なら返事をすることはないはず。本当に自分へむけられた言葉なのか確かめるため。だが同時に何かその問いを無視することはできなかった。いつか、誰かに同じ質問をされたことがあったような気がする。あれはいつだったのか――――

 

 

「耳が、聞こえないの?」

「…………は?」

 

 

今度こそ耳を疑うしかない。ここまで唖然としたのはいつ以来だろうか。質問の意味が分からない。何が言いたいのか、聞きたいのか。致命的なレベルで何かが狂っている。歯車がかみ合っていない。

 

 

「……何が言いたいのか分からないが、耳は聞こえてる。眼のことは昨日説明した通りだ」

 

 

とりあえす聞かれたことに返すだけ。魔眼については簡単ではあるが昨日説明済み。もっとも説明を聞いていたかどうかは定かではないが。だが分からない。自分は彼女の言葉に反応した。なのに何故耳が聞こえないことになるのか。

 

 

「泣いていた」

「……泣いていた? 何の話だ?」

 

 

先程以上に意味不明な言葉に首を傾げるしかない。何の脈絡もない、関係性も見えない言葉。思いついた言葉をただ口にしているだけのよう。もはや相手にする意味はないのではないか。そう判断しかけていた思考は

 

 

「コハクは、泣いていた。聞こえていた?」

 

 

彼女の口から琥珀の名が出たことで停止してしまった。

 

 

「……何でそこであいつの話になる」

「分からなかったから。どうして、コハクが泣いていたのか」

「……何で俺にそれを聞く。あいつに直接聞けばいいだろう」

「聞いた。でも教えてくれなかった。分からないって」

 

 

たどたどしくもブリュンスタッドは自分に話しかけてくる。徐々にではあるが、言葉が意味を含みつつある。思考と論理が少しずつではあるが一致しつつあるのだろうか。

 

どうやらブリュンスタッドは琥珀が泣いていた理由が知りたいらしい。何故そんなことに興味が湧いたのかは分からない。そもそも琥珀が泣いていたかどうかも自分は知らない。死の線の世界では、他人の表情など分からないのだから。だがブリュンスタッドの言う通りなら琥珀は泣いていたのだろう。その理由を何故自分に聞くのか。

 

 

「コハクは、シキを見て泣いていた。シキは、何で泣いていないの? コハクは、泣いていたのに」

「――――それ、は」

 

 

ブリュンスタッドにとっては何気ない、当然の疑問だったのだろう。琥珀が自分を見て泣いていたのに、どうして自分は泣いていないのか。子供のような、純粋無垢な問いかけ。

 

だがそれに応えることができない。自分には琥珀が泣いていることが分からなかったから。ただそれだけ。耳が聞こえていないからではなく、ただ単に見えなかったからなのだと。なのにそんな単純な答えが口にできない。

 

 

――――そうだ。俺は泣くことができなかった。彼女は泣いていたのに、泣くことができなかった。涙を流すことが、できなかった。当たり前だ。彼女は人間で、俺は人形だった。ただそれだけ。なのに、それだけがどうしても――――

 

 

『志貴さん……泣いてるんですか。よかったです……約束、守ってくれたんですね』

 

 

あの時の彼女の言葉。寸でのところでナイフを止めてくれたもの。それが何だったのか思い出せない。思い出すことが、怖い。

 

 

「――――シキ?」

「……何でもない。あいつに分からないことが俺に分かるはずないだろ。それよりも、お前はあいつと話したことがあるのか」

「シキが寝ている間。でも、ほとんど話してはいない。ずっとコハクがしゃべっていただけ」

 

 

話題を強引に切り替える。それ以上考えることは時間の無駄。害にしかならない。同時にようやく理解する。どうやらブリュンスタッドは自分が寝ている間琥珀と接触していたらしい。もっとも言葉通りなら接触というよりは琥珀が一方的に喋っていただけのようだが。その光景が容易に目に浮かんでくる。事情を理解しているのかは定かではないが、最強の真祖であり処刑人である今のブリュンスタッドに自ら接触するなど正気の沙汰ではない。恐らくそんなことができるのは琥珀だけだろう。戦闘能力を持たないという点では自分よりもよっぽど常人離れしている。

 

 

「……そうか。だけどどういう風の吹き回しだ。言葉を発するのは無駄なことじゃなかったのか?」

 

 

後回しにしていた疑問をようやく告げる。そう、そもそも彼女と話しているこの状況が既に異常なこと。処刑人であるアルクェイド・ブリュンスタッドにとって言葉を発することなど無駄なことでしかないはず。それなのに何故。

 

 

「…………分からない。ただ、分からなかったから」

 

 

ブリュンスタッドはそう口にするだけ。分からない。分からないことがあったからだと。興味か、疑問か。彼女自身それが何なのか分かっていないらしい。それが何なのか聞こうかとも思ったが止めた。聞いても無駄なことは想像がつく。

 

言葉を発するようになったとしても、目の前のブリュンスタッドは未来知識の彼女とはかけ離れている。十七分割され殺されたことで彼女は言葉を発するようになった。その在り方から外れて行った。なら今の彼女の変化は何が原因だったのか。左腕を切り裂いたことか。それともそれ以前に何かあったのか。

 

 

「シキ、聞いてもいい?」

 

 

そんなことを考えているとブリュンスタッドはそのまま再び疑問を、質問を投げかけてくる。その内容も本当にどうでもいいようなことばかり。

 

何が好きなのか。手に持っているナイフは何なのか。目にしている包帯は何なのか。どうしてここにいるのか。魔眼はどうなっているのか。何度繰り返しているのか。死はどんなものなのか。

 

まるで初めて自転車を乗り始めた子供のように、どこか逸りながらも淡々とアルクェイド・ブリュンスタッドは話しかけてくる。それに自分もまた淡々と応える。一言二言、愛想なんてものはない。ただ面接官の質問に答えるように、機械的に応じているだけ。

 

本当なら無視してもよかったのだがそれはしなかった。それ以外、今やることがなかったのが理由。睡眠は取ったばかり、外に出ることもできない。一応この場にいればアルクェイド・ブリュンスタッドを見張っていることと同義。ならこのままでいいだろうと。だがそれが甘かった。

 

アルクェイド・ブリュンスタッドはそのまま一時間近くずっと喋り続けた。いや、放っておけば一日中でも喋り続けるかもしれない。琥珀も未だに現れない。買い物にでも出かけているのか、それとも。琥珀も喋り続け自分のペースを乱してくれるがブリュンスタッドのそれは根本的に違う。彼女には自分をからかう意志も何もない。ただ単純に興味から質問を繰り返しているだけ。生まれたばかりの子供のように、そこには何もない。

 

表情は伺えないがその姿はとても今まで見てきたアルクェイド・ブリュンスタッドとは一致しない。何がそこまで彼女を変えたのか。それともこちらが本当の彼女だったのか。何にせよ、このままずっと質問攻めにされるのも飽きてきたこともあって、こちらから質問することにする。

 

 

「ブリュンスタッド、その左腕は再生することはできないのか?」

 

 

これからのことも見据えて確認したかった事象。左腕は治るのか否か。だが自分にとっては虎の尾を踏むに等しい行為。もし彼女の気を損ねれば、そのまま死に直結しかねない鬼門だった。だが

 

 

「ええ。切り落とされただけなら再生できるけど、ロアに力を奪われてしまっているから。それを取り戻さない限り元には戻らない」

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッドは全く気にした風もなく淡々と告げる。喋り続けたからなのか、言葉遣いもまた流暢にはなっているがどこか機械的な部分が抜けきっていない。だがそれを差し引いても彼女の反応は自分にとっては予想していないものだった。何故なら

 

 

「……恨んでないのか。俺はお前を殺そうとしたんだぞ」

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッドには全く自分に対する敵意がなかったから。左腕を切り落としただけではなく、殺そうとした相手が目の前にいるにも変わらず何故気にしていないのか。昨日、彼女の部屋に訪れた時も半分以上の確率で殺し合いになると踏んでいた。なのに昨日を含めてブリュンスタッドには全く敵意が憎しみがない。

 

 

「……何故恨むの? わたしは死んでいない。左腕も結果的には失くしたことであの場を脱せた。それだけ」

 

 

当然のようにアルクェイド・ブリュンスタッドは応える。結果がすべてだと。その過程などどうでもいいと。恨みなどない。あるのは自分の行動において障害となるか否かだけ。そこに感情は含まない。感情を持ち得ない。

 

ただ確信する。間違いなく目の前の彼女は処刑人なのだと。機械のように、人形のように目的を果たすための兵器。なのに何故そんな彼女に言いようのない何かを感じるのか。そんな物はとうの昔に失くしたはずなのに。

 

知らず思い出す。八年前、光を失った瞳で自分に話しかけてきた少女の姿。少女に抱いた己の感情。八つ当たりに近い、子供のような反抗心。嫉妬という名の自己嫌悪であり同族嫌悪。

 

 

「わたしも聞くわ。シキは、わたしのことを恨んでいないの?」

「…………え?」

 

 

だがその答えに至る前に現実に引き戻される。正しくは、彼女の問いに呆気にとられていた。その問いの意味が分からない。何故自分がアルクェイド・ブリュンスタッドに憎しみを抱かなければならないのか。

 

 

「あなたはわたしに何度も殺されたんでしょう? ならどうして、わたしを庇ったりしたの?」

 

 

だがようやく質問の意味を悟る。奇しくもそれはいつかシエルが自分に問いかけた物と同じもの。今までの繰り返しの中で何度もアルクェイド・ブリュンスタッドに殺されているのに憎しみを抱かないのか、と。だが分からない。何故そんなことを気にするのか。当たり前だ。

 

 

「何で俺がお前を恨まなきゃいけないんだ。お前は俺を殺しちゃいないだろ。されてもいないことで誰かを恨む程、俺は暇じゃない」

 

 

目の前の彼女は自分を殺していない。自分を殺したのは別の世界の彼女だ。並行世界か、過去の世界かは分からないが目の前の彼女とは全く関係がない。別人と言ってもいい。まだされてもいないことで誰かを恨むことなどあり得ない。生まれていない命に罪科は問えないように、まだ起こしてもいないことに拘る方がどうかしている。

 

 

だが後者の質問については答えはない。何故庇ったのかは未だに自分にも分からないのだから。奇しくも先のアルクェイド・ブリュンスタッドの答えと同じもの。だが

 

 

「なら、どうしてシキはコハクを無視しているの?」

 

 

全く想定していない、決定的な問いを吸血姫は突きつける。

 

 

「シキの言う通りなら、今のコハクはあなたが知っているコハクじゃない。なのにどうして、そんなことをしているの?」

 

 

そこには何もない。自分を糾弾する意図も、追い詰める意志もない。ただ単純な疑問。だからこそ、応えられない。答えを持てない。まるで断頭台のギロチンを前にしたように、思考が真っ白になる。

 

 

「――――」

 

 

そう、それは真理。なのに自分は矛盾した行動をしている。致命的に、何かを間違えているのに、必死にそれに蓋をしている。それに気づけばきっと自分は人形ではいられなくなってしまう。でもそうなったら耐えられなくなる。そうなったら自分は壊れて――――

 

 

「お二人ともお待たせしました。まだシエルさんが戻っていませんけど、先にお食事にしましょうか」

 

 

いつもと変わらぬ声を響かせながら自らにとって矛盾の塊である少女が部屋へとやってくる。今の自分出来るのはただアルクェイド・ブリュンスタッドを見つめたまま、口を噤むことだけ。

 

 

未だ帰らぬお節介の女性を待ちながら、歯車が噛み合わない三人のいつ壊れてもおかしくない共同生活が始まらんとしていた――――

 

 

 



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第二十六話 「因縁」

 

人気のない、夜のビルの屋上。その柵の上に立っている一つの人影がある。およそ正気とは思えない危険な行為にも関わらず彼女は身じろぎひとつせず、眼下に広がる夜の街を見据えている。

 

 

(……今夜はここまででしょうね)

 

 

法衣を纏った女性、シエルは最後にもう一度辺りを見渡しながらも目を閉じ探索を打ち切る。言うまでもなくこの街にいる二人の吸血鬼を見つけ出すためのもの。蛇と混沌。共に吸血鬼の中でも異端であり、危険な力を持つ怪物。一刻も早く滅しなければどれだけの被害が出るか分からないにも関わらず先の夜の戦闘以来、全くその足取りも気配も感じられない。

 

 

(ネロはともかくとして、ロアの死者も全く見当たらないのは明らかにおかしい。やはり、アルクェイド・ブリュンスタッドの力を奪ったことが影響しているのか……)

 

 

ネロとロアは同じ吸血鬼であっても吸血の方法は大きく異なる。例外なのはネロの方であり、ネロは吸血することなく獣によって人間をそのまま食らうことで体を維持している。対してロアは血を吸った人間を死者とし、その死者達に血を集めさせている。ネロに関しては痕跡が残らないため探索は難しい。そのためシエルは今、ロアの操る死者を探しださんとしているものの全く見つけることができない。これまでの探索でも死者が一人も見つけられないことはなかった。ならば考えられるのは二つ。

 

アルクェイド・ブリュンスタッドの力を奪ったことで死者を操ることができない状態になっているのか。もしくは死者を使って血を集める必要すらない程になりつつあるのか。

 

 

(どちらにせよ、後手に回るしかなさそうですね……)

 

 

焦る気持ちを抑えながら、冷静にシエルは判断する。こちらから相手を補足する術がない以上、迎え撃つ形で対応するしかない。奇しくも先日、遠野志貴と状況確認した際の結論と同じ。

 

『アルクェイド・ブリュンスタッド』

 

その存在がこの戦局の要となる。蛇と混沌、両者にとっての目標である以上間違いなく彼らは彼女を狙ってくる。ならば彼女を確保している自分と遠野志貴でそれを迎撃する。これ以上なく単純で分かりやすい作戦。だが問題はアルクェイド・ブリュンスタッドが味方ではなく、護衛するべき対象でもないということ。最悪、乱戦になれば自分達も彼女に殺されかねない。どう扱うべきか分からない、いつ炸裂するか分からない爆弾を抱えながら戦うようなもの。

 

 

「……ふぅ、とにかく一旦戻るとしましょうか」

 

 

誰にでもなく独り言をつぶやきながら飛び上がる。もう時刻は午前四時を回ったところ。じきに夜明け。これ以上探索することに意味はない。ひとまず代行者としての時間が終わったにも関わらずシエルには安堵の顔はない。何故ならこれから戻る場所は、ある意味吸血鬼探し以上に厄介な状況に陥っているのだから――――

 

 

 

 

そのままブーツの音を奏でながらあるマンションへと戻ってくる。本当なら真祖の拠点であるこの場所に戻ってくるということ自体あり得ないこと。かといって放置できるほど自分は薄情ではなく、何よりもそんな危険なことは代行者としてもできはしない。フロア一帯を貸し切っているのは不幸中の幸いだろう。これで隣人や一般人がいれば暗示があったとしても誤魔化すのは容易なことではないのだから。

 

そのまま軽くノックした後、ドアを開けたそこには

 

 

「あ、お帰りなさいシエルさん。もうお仕事は終わったんですか?」

 

 

思わず見惚れてしまうような柔らかい笑みを浮かべている少女が自分を出迎えてくれる、あり得ない光景があった。

 

 

「――――」

 

 

そのまま言葉を失ってしまう。目の前の少女、琥珀のあまりにも自然な姿。割烹着という時代錯誤な恰好も相まってまるで自宅に帰って来たのではないかと思えるような空気がある。お帰りなさい、という当たり前の言葉。なのに長い間、忘れてしまっていた感覚。思い出すことは許されない日々。

 

 

「……シエルさん? どうかされたんですか?」

「……いえ、ちょっと考え事をしていただけです。遠野君は中に?」

 

 

ただいま、という何でもない言葉を寸でのところで飲み込みながら話題を切り替える。もしかしたら、そうすることで何かを誤魔化そうとしていたのかもしれないが今はまだいいだろう。

 

 

「はい。シエルさんの伝言をお伝えしたらそのままお部屋で休まれてます。シエルさん、志貴さんに信頼されてるんですね」

「そうでもないと思いますよ。わたしの忠告を無視して色々無茶してくれてますから」

「ふふっ、そうですか。さあ早く上がってください。お食事の準備もできてますから」

 

 

手で口を押さえながらどこか楽しげに笑っている琥珀に誘われながら奥の部屋に通される。その仕草から間違いなく彼女が使用人なのだなと感じ取れる。だがそんな感慨は部屋に入った途端に一気に霧散してしまった。

 

 

「…………」

「…………」

 

 

そこは異次元空間だった。魔術の類が張り巡らされているのはと思ってしまうほどに言葉にできない空気が部屋に漂っている。それを作り出しているのは二人。

 

一人は遠野志貴。いつも変わらぬ無表情。目に包帯を巻いたまま、椅子が部屋にあるにも関わらず壁を背にし床に座り込んでいる。いつもと違うのは纏っている空気。一言でいえば不機嫌オーラが滲み出ていた。加えて心なしか疲れているような気配もある。これまで短い間だが付き合ってきた中でも見たことがないような有様。

 

もう一人がアルクェイド・ブリュンスタッド。ベッドの上で上半身だけ起こしているところは変わらない。違うのは右手でスプーンを持ち、もくもくと料理を食べているということ。時折コクコクと頷きながら料理を口に運んでいる。その仕草はどこか小動物じみている。およそ普段の彼女からは想像もできないような光景。表情は無表情だがこころなしか純粋さが感じられるほど。

 

そんな二人が互いを見つめ合っている。何が起こったらこんな状況になるのか。

 

 

「琥珀さん、これはいつから……?」

「はい。かれこれ三時間ほどでしょうか……アルクェイドさんがずっと志貴さんとお喋りになってたんですが、途中から志貴さんが喋られなくなりまして。代わりにわたしがアルクェイドさんとお話させていただいていたんです。あ、料理を召しあがられているのはさっきからですよ」

「……そうですか」

 

 

何でもないことのように状況を説明してくれている琥珀に感謝しながらも全く理解できない。まずアルクェイド・ブリュンスタッドが言葉を発するということ自体が本来あり得ないこと。確かに自分がここを出るまで彼女は一言も喋ってはいなかったはず。にも関わらず琥珀の話を信じるならば少なくとも三時間は喋りっぱなしだったのだろう。だからなのか、遠野志貴は疲労しているように見える。いや、呆れているのだろうか。何にせよ彼からしてみれば黙りこんでしまうような状況だった、ということなのだろう。

 

 

「どうですか、アルクェイドさん。お口に合いますか?」

「……分からない。料理を食べたことはないから。普通の食事にあまり意味はない」

「そうですか。アルクェイドさん、吸血鬼でしたもんね。でも食べることはできるんですよね?」

「できる。でもそれは無駄なことだから」

「そんなことはありません。食事というのは栄養を摂る以外にも大事な意味がありますから」

「……?」

「ズバリ、それは誰かと一緒に食事をするということです! 他の誰かと一緒に食事をしながら会話することはとても楽しいですから」

 

 

変わらず一定のペースでもくもくと食事の真似ごとをしているアルクェイド・ブリュンスタッドに向かってどこか楽しげに、諭すように琥珀は喋りかけている。端から見れば妹の面倒を見ている姉といった風。そんな理解できない光景にシエルは言葉を失っているだけ。あのアルクェイド・ブリュンスタッドが言葉を発し、会話をし、人間の食事をしている。何よりも琥珀の態度。琥珀にはアルクェイド・ブリュンスタッドがどんな存在であるかは伝えている。なのに彼女には全く恐れがない。自然体そのもの。何故そんなことができるのか。理解していないだけなのだろうか。それとも理解したうえで演じているのか。

 

 

「そう……でも、シキは食事をしていない」

「そういえばそうですね。これではいけません。志貴さん、少しでも召し上がってくださいね。お身体に障りますよ?」

「…………」

 

 

そのまま視線を遠野志貴に向けてようやく気づく。彼のすぐ傍にも料理が置かれている。全く手つかず。同時に琥珀の言葉にも全く反応を示さない。いや、示そうとしない。

 

 

「シキは何故食事をしないの? 食事を採らなければあなた達人間は生きていけないのに」

「……一日食事をしないぐらいで死んだりはしない」

 

 

だがアルクェイド・ブリュンスタッドの問いかけに対しては応える。これ以上にないほどに分かりやすい、幼稚な行動。予想していたことではあったがここまで徹底しているとは。まるでアルクェイド・ブリュンスタッドを間に挟んで会話をしているかのよう。見ようによっては夫婦喧嘩をしている夫婦が子供を通じてやり取りをしているようにも見える。流石にやりすぎなのではないかと諫めようとした瞬間

 

 

「それに起きてすぐにカレーなんて食べれるわけないだろう」

「何を言ってるんですか遠野君!? そんなことはありません! カレーは一日三食でも何の問題もありません!!」

 

 

条件反射のように机を両手で叩きながら、ただ心からの叫びを上げる。もはや何も取り繕うこともない。その勢いと必死さに遠野志貴だけではなく、琥珀とアルクェイド・ブリュンスタッドもシエルに釘づけになってしまう。

 

 

「……ごほんっ、とりあえず琥珀さん。わたしにもカレーを一つ頂けますか?」

 

 

一瞬の静寂の後、気を取り直しながらシエルは咳払いと共にそう告げる。先程の出来事など無かったかのような振る舞い。それがようやくシエルが三人が作り出している空間に入りこめた瞬間だった――――

 

 

 

 

「御馳走様でした。美味しかったです。もしかしてわたしがカレーが好きだと言ったから作ってくださったんですか?」

「ええ。志貴さんは何が食べたいか仰ってくれませんし、アルクェイドさんは食事はしないと仰られるものですから。志貴さん、何か軽いものでもお作りしましょうか?」

 

 

琥珀の声は聞こえているはずにも関わらず、変わらず遠野志貴は反応を示さない。無視されている。そんな扱いをされていながらも琥珀は少し困ったような笑みを浮かべているだけ。

 

 

「遠野君、いつまでそんなことを続けるつもりですか? 余計に疲れるだけだと思いますけど」

「……シエルさんには関係ない。それはこっちの台詞だ。確かシエルさんに後を任せた筈なのにどうしてこんなことになってるんだ?」

「さあ、どうしてでしょうか。でもちゃんと聞きましたよ? わたしに任せると。ですからその通りにしただけです」

 

 

遠野志貴が何を言わんとしているかを理解しながらも強引に切り返す。何故琥珀が留まることを許したのか。それが遠野志貴の言い分。確かにそれは正しい。一般人を裏の世界に関わらせることは代行者としては許されることではない。だが琥珀、彼女については事情が異なる。彼女自身がある程度裏の世界の事情に関わっていること、何よりも強引に追い払ったところで彼女はあきらめないであろうことは遠野家で会った時から明らか。加えてこの場所を知られてしまっており、彼女には暗示が通用しない以上どうしようもない。中途半端に放置して巻き込まれる方が危険。なら最初からこの場に留まってもらった方が対処しやすい。何よりも遠野志貴にとっては恐らく彼女がいた方が良い。確信にも似た直感がシエルにはあった。

 

 

「それよりも確かめたいことがあります――――アルクェイド・ブリュンスタッド。貴方はこれからどうするつもりなんですか。言葉を紡いでいるようですが、わたし達と敵対する気はないと?」

 

 

故に問題はもう一つの方。アルクェイド・ブリュンスタッドの処遇。先の琥珀と喋っている光景は少なからずシエルにとって驚きに値するもの。だがその真意は計れない。何をもって琥珀や遠野志貴と会話しているのか。不確定要素の塊であるにも関わらず、これ以上事態を混乱させられるのは流石にまずい。だが

 

 

「――――ええ。今のところは敵対する気はない。シキには見えているようだけど、わたしはまだ回復しきっていない。それが済むまでは動く気はない。でもそれだけ。もし障害になるなら全て排除する。ロアも、貴方達も」

 

 

先程まで見せていた姿とは思えない、感情を感じさせない言葉でアルクェイド・ブリュンスタッドは告げる。宣戦布告だと捉えられかねないもの。間違いなく本心なのだろうと確信できる。すなわちそれはこれまでと変わらないということ。例え言葉を交わすことができるようになったとしても、それぞれが己が目的のために動くことは変わらない。

 

 

瞬間、部屋の空気が張り詰める。アルクェイド・ブリュンスタッドの瞳は赤から金に、シエルは法衣の下にある黒鍵に、遠野志貴は右手にナイフを。だが

 

 

「ダメですよ、喧嘩はいけません。それにアルクェイドさんも仰ってたじゃないですか。治るまでは動かないって。それまでは仲良くしましょう」

 

 

本当に事情が分かっているのか、琥珀はこの話題はここまでとばかりに両手をポンと合わせながらその場を強引にまとめてしまう。そのあまりの強引さ、もとい天真爛漫さにシエルはもちろん、アルクェイド・ブリュンスタッドも目を丸くしたまま。変わらないのは遠野志貴だけ。ただ三人の共通する認識が一つだけあった。

 

 

この場を支配しているのは真祖でも代行者でも殺人貴の紛い物でもない。目の前で微笑んでいる割烹着の悪魔なのだということだった――――

 

 

 

 

「シエルさん、すいません。わたしちょっと遠野のお屋敷に戻ってきますね」

 

 

場も落ち着き、洗い物を済ませた琥珀はそうシエルへと切り出す。時刻は朝九時を回った頃。なら吸血鬼や死者が現れる心配もない。元々琥珀には襲われる心配はないのだが。

 

 

「遠野家にですか……何故」

「わたし、着の身着のままでここに来てしまったので。着替えを持ってこようと思うんです。あ、ついでに志貴さんの着替えも。見たところ志貴さんも同じようなので」

 

 

遠まわしに着替えていないことを見抜いていると言わんばかりにクスクス笑いながら琥珀は遠野志貴を見据えるも返事はない。

 

 

「とりあえずこちらの心配は無用です。遠野君、とりあえず何か食べないといけませんよ。流石に何も口にないのは今後に支障が出ます」

「大丈夫だ。これから寝るところだし、カレー以外のものなら考えてもいいけど」

「まだそんなことを言ってるんですか? あんなごちそうを食べないなんて遠野君はどうかしています!」

「ただ単にシエルさんがカレー好きなだけだろう。そういえば……琥珀、俺の歓迎会のごちそうはどうなったんだ?」

「え……?」

 

 

琥珀はどこかぽかんとした様子で固まってしまう。それはシエルも同じ。気づいていないのは遠野志貴だけ。だが二人が固まってしまっていることで、ようやく遠野志貴は気づく。自分が知らず、自分ではなくなってしまっていることに。

 

 

「……志貴さん、今のは」

 

 

琥珀は心ここに非ずといった風に聞き返すも遠野志貴は何も答えない。それどころか、自分が何を口走ったのかすら分かっていない。琥珀には話しかけない、いないものとして扱うことが遠野志貴のルールだったはず。それを破ってしまったことで驚いているのだとシエルは思っている。だがそれだけではない。その内容にこそ琥珀が驚いている理由がある。

 

 

それはあの日の約束。公園でした、初めて彼の方から自分に触れてきてくれた時の、他愛ない約束。なのに果たすことができなかったもの。それを彼は覚えてくれていた。そしてもう一つ。以前の彼なら決して口にすることのなかった言葉。それは――――

 

 

「…………」

 

 

だが遠野志貴はそのまま俯き、口を閉じてしまう。だが確かにあった。間違いではなく、確かに聞こえた。

 

あの時、いなくなってしまったと思った彼が、まだいてくれた。

 

 

「……じゃあ、ちょっと出かけてきますね志貴さん。シエルさん、その間宜しくお願いします」

 

 

これまでで一番の笑みを見せながら、琥珀はそのままマンションを後にするのだった――――

 

 

 

 

「……本当に明るい方ですね、琥珀さんは。思わずペースに飲まれちゃいました。屋敷にいた時からあんな感じだったんですか?」

 

 

琥珀が出かけた後、アルクェイド・ブリュンスタッドがいる部屋の隣でシエルは心からの感想を述べる。確かに遠野家で会った時から笑みを見せている彼女だったが、ここまでとは流石のシエルも予想していなかった。

 

 

「……ああ。いつもあんな調子だ。何も変わっていない」

「そうですか……お屋敷にいた妹さんとは本当に対照的ですね。双子とは思えないです」

「いや……違う。琥珀は、翡翠さんを演じてるだけだ」

「演じているだけ……ですか。遠野君と同じですね。それも以前言っていた自分が人形だと思い込むのと同じですか?」

「……違う。演じているのは琥珀だけだ。俺は違う。でも誰かさんのせいで調子が狂っちまったみたいだ」

「それは大変ですね。でも調子が狂ってるんじゃなくて、調子が戻ってきてる、の間違いではないんですか?」

「…………」

 

 

今度こそ、遠野志貴は黙りこんでしまう。琥珀が相手ではないにも関わらず。シエル相手には嘘はつかないというルールがあるからこそ。答えない、答えれないということはそれだけで認めていることと同義。

 

 

「さて、これ以上いじめると後が怖そうなので止めておきます。でも遠野君も行かなくてよかったんですか? 翡翠さんも心配していましたよ?」

「ああ。俺が行っても意味はない。翡翠さんが心配しているのは俺じゃない。それに――――」

「……遠野君?」

 

 

そのまま遠野志貴は固まってしまう。まるで何かを思い出したかのよう。それがいつまで続いたのか。

 

 

「……少し外に出てくる。アルクェイド・ブリュンスタッドの監視を頼む、シエルさん」

 

 

そのまま遠野志貴は立ち上がり、部屋を後にする。本当なら日中は活動せず睡眠をとるはずにも関わらず。こちらの制止の声も聞こえていないように彼は姿を消してしまう。彼の行動理念は蛇を殺すことのはず。だがこれまでの彼の行動にはそれに矛盾するものがある。シエルは理解しかけていた。恐らくは遠野志貴本人すら意識していない、根源となるもう一つの行動理念があるのだと――――

 

 

 

 

(このぐらいでいいでしょうか……)

 

 

鞄の中に遠野志貴の着替えを押し込みながら琥珀はとりあえず溜息を吐く。今いる場所は遠野志貴の部屋。正確には、部屋だった場所。そこに主の姿はない。抜け殻のように、部屋には彼の数少ない私物が散らかっている。ここの時間はあの時から止まったまま。だが今は違う。ようやく自分は彼を見つけることが出来たのだから。

 

しかし、そこで出会った彼は以前とは変わってしまっていた。失くした左腕、目を覆う包帯。何よりも自分への態度。もしかしたら自分は彼の中でいなくなってしまっているのかもしれない。そう思えてしまうほどに。だがそれは違っていた。それを諭してくれたのはあのお節介の女性、もといシエルさんだった。

 

 

『琥珀さんはこれまでと同じように遠野君に接してあげて下さい。きっとそれが一番の早道です』

 

 

再会したばかりの志貴さんに拒絶され、落ち込んでいたわたしにお茶会でシエルさんはそう告げた。だがすぐにはその意味が分からなかった。彼はわたしの言葉を聞いてくれていない。意識してくれていない。まるで八年前、遠野家で出会ったころのようだったのだから。

 

 

『わたしも彼の事情から遠野君は特別なんだと思っていました。でも最近ようやく分かってきたんです。遠野君は遠野君なんだと。彼はきっと、琥珀さんが知っている彼のままです』

 

 

でもそれをシエルさんはさも当然のように否定した。彼は彼のままなのだと。

 

 

『そうですね……遠野君は今、麻疹にかかっているようなものなんです』

 

 

少し何かを思い出すような素振りを見せながら、シエルさんはそう良く分からないことを口にした。何が言いたいのか、わたしには理解できない。それでも

 

 

『わたしも似たような経験があるんです。自分が世界で一番不幸なんだって、本気でそう思ってしまってるとでも言いましょうか。今思い出すと恥ずかしくて笑っちゃうような話ですけど』

 

 

シエルさんの言葉が間違いなく正しいのだと感じる何かがそこにはあった。まるで同じ道を、経験をしたことがあるのだと告げるように。彼女は苦笑いをしている。でも違うはず。本当はこんな風に笑って話せるような過去、経験ではないことはわたしにも察することができた。

 

 

『だから琥珀さん、今まで通り遠野君に接してあげて下さい。それがきっと、遠野君にとっても救いになりますから』

 

 

だからこそ彼女の言葉には重みがある。言葉の節々に何かを憂うような空気がある。同時に、心から自分と彼を心配してくれているのだと。ならそれに応えることに何の迷いもない。

 

彼に無視されるのは辛い。拒絶されるのは怖い。でも何よりも怖いのはこのまま彼と出会えなくなくなること。ならただ『琥珀』を演じればいい。遠野家に彼がいた時のように。難しいことではない。いつも通り、人形のわたしの役割。

 

なのに今のわたしは違っていた。ココロとカラダが一致していない。熱に浮かされているかのよう。理由は分かっている。

 

彼がわたしの名前を呼び捨てにしてくれた。ただそれだけ。それだけのことがこんなにも嬉しい。話しかけてくれたこともだが、そのことの方が驚きだった。

 

本当はずっと自分を呼び捨てにしてほしかった。理由は単純。翡翠ちゃんが呼び捨てにしてもらっていたから。そんな子供みたいな理由。いつか二人きりの時なら呼び捨てにしてもいいですよ、と口にしたこともあったけど結局できなかったこと。

 

でも分からない。どうして彼が自分を呼び捨てにしていたのか。どんなにお願いしてもしてくれなかったのに。何かきっかけがあっただろうか。思い当たる節はない。もしかしたら、彼の方にはなにかあったのかもしれない。

 

そう、わたしは何も知らない。彼のことも、シエルさん曰く彼が麻疹になってしまっている理由を。シエルさんもそれは教えてくれなかった。ならそれはきっと――――

 

 

 

気づけば知らずその手には白いリボンが握られていた。もしもう一度彼にこれを渡せば受け取ってくれるだろうか。いや、きっと拒絶されるだろう。あの時、彼はリボンではなくナイフを探していた。きっとそれが八年前の約束の答え。人形は人間にはなれない。それが彼の答え。でも、わたしはどうだったのだろう。もしわたしが人間に戻れたら、彼も人間になれるだろうか。

 

 

(……何を考えているんでしょうか、わたし)

 

 

自嘲しながらその場を立ち上がり、部屋を後にする。音を立てずに静かに。まるで泥棒に入ったかように遠野家を歩いて行く。昔はここが自分を閉じ込めているお化け屋敷のように感じられた。今は慣れてしまったけれど、閉じ込められていることには変わらないのかもしれない。翡翠ちゃんのように屋敷の外に出れないわけではないけど、本当の意味でわたしはここから逃れることができないのかもしれない。自分で自分を縛るように。

 

ふと、足を止める。翡翠ちゃんに会って行くべきかどうか。今のわたしは一日無断で屋敷を留守にしてしまっている。加えて今から屋敷を出て行くところ。どんな言い訳をしても無意味だろう。それでも翡翠ちゃんを連れていくことはできない。翡翠ちゃんは屋敷から出ることはない。それにわたしの我儘に巻き込むわけにはいかない。

 

そのまま玄関へと向かう。知らず、早足で。その理由が分からない。もしかしたらわたしは浮かれていたのかもしれない。かつて槙久様に四季様のお世話を任せられた時のように。希望なんてないのに、あきらめればいいのに。もう一度絶望することは分かり切っているのに。自分が焦っている本当の理由に気づかない振りをしている。でもそんなことでは誤魔化すことはできなかった。

 

 

そこに彼女はいた。玄関と門の間。腰にまで届く程の長い黒髪。見る者を圧倒する瞳に、圧倒的な風格。少女は腕を組んだまま、ただ真っ直ぐにわたしを睨んでいる。

 

 

「――――そんな荷物を持ってどこに行こうというの、琥珀?」

 

 

遠野家現当主、遠野秋葉。

 

 

この日、八年前から決まっていた、遠野家の因縁に翻弄されてきた二人の少女が向き合う時がようやく訪れたのだった――――

 



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第二十七話 「願い」

「――――そんな荷物を持ってどこに行こうというの、琥珀?」

 

 

聞きなれた筈の凛とした声色。同時に聞いた者を圧倒するカリスマを併せ持つ矛盾。それを前にして歩みを止めるしかない。自分の挙動におかしなところはない。ただ確かなのは

 

 

「――――秋葉、様」

 

 

わたしにとって、目の前の少女、遠野秋葉と向き合うことがこの八年間の呪縛から逃れるために避けて通ることができないということだけ。

 

 

「……どうやら本当に驚いているみたいね。私が昼間に屋敷にいることがそんなにおかしいかしら? 使用人が昨日から屋敷に戻っていないのだから、それを気に掛けるのは主人として当然だと思うのだけれど」

 

 

変わらず腕を組み、視線で秋葉様はわたしを射抜いている。その言葉からは明らかに自分に対する敵意、いや詰問する意図が含まれている。当然だ。わたしは昨日から無断で屋敷を後にしていたのだから。こうして待ち伏せされているのにも納得がいく。驚いているのは自分自身のこと。

 

そう、こうなることなど分かり切っていたはずなのに、そんな当たり前のことに気づくことがができない程、わたしは壊れてしまっている。

 

 

「……学校はどうされたんですか、秋葉様。いつもならもう出られている時間ですけど」

「一日二日休んだところで何の問題もないわ。元々勉強だけなら家庭教師で事足りる。形式を考えて通っているだけだと以前話したことがあったはずだけど」

「そうでしたね。でもその割には御学友にも恵まれているそうじゃないですか。あまり長く休まれてはきっと心配されますよ?」

「そうね。ならさっさと用件を済ませるわ」

 

 

何とか自分を誤魔化しながらいつもの琥珀を演じる。変わらず笑みを浮かべながら、使用人として当主に仕える人形。これまでとなんら変わらないはずのなのに、今はそれに違和感を覚えてしまう。そんなはずはない。これではまるで

 

 

「――――答えなさい、琥珀。今までどこで何をしていたの」

 

 

わたしが、秋葉様を怖がっているみたいではないか。

 

 

視線が一層鋭くなる。ナイフを突きつけられているかのような悪寒が走る。返答次第によってはただではおかない。少女の激情と当主として厳かさ。そのどちらに天秤が傾いているのか。

 

 

「さてさて困りました……やっぱり秋葉様、怒ってらっしゃいます?」

「今更そんな言葉が出てくるなんて驚きね。私が冗談が嫌いなことは知ってると思うけど」

「はい、それはもう。ちょっとわたしが悪戯しただけで本気で怒られるんですから。心配いりませんよ秋葉様。昨日はちょっと色々ありまして。朝帰りみたいになってしまいましたけど大丈夫です」

 

 

笑いながら秋葉様の質問をはぐらかす。本当のことなど言えるわけがない。信じてもらえるわけがない。いや、知られてはいけない。

 

 

「お伝えするのが遅くなってすみません、秋葉様。わたし、ちょっと行ってみたいところがありまして。数日、お休みをいただきますね」

 

 

手に持った大きなバックを見せながら秋葉様に告げる。旅行に行くのであろう雰囲気を見せながら。強引すぎる言い訳だがそれ以外に思いつかない。使用人としての休みを使わせてもらうことに問題はないはず。ただそれがいつまでになるかは自分にも分からない。それでもわたしはここではなく、あそこに行きたかった。なのに

 

 

「――――つまらない嘘は止めなさい、琥珀。あなたにここ以外の居場所なんてあるわけがないでしょう」

 

 

秋葉様は何の容赦もなく、わたし自身が誰よりも分かっているはずの答えを突きつけた。

 

 

「――――え?」

 

 

秋葉様と対面してから初めて息を飲んだ。目が見開かれ、知らずバックを持つ手に力が入る。できるのはただ呆然と白痴のように秋葉様を見つめることだけ。

 

ワカラナイ。今、秋葉様が何と言ったのか。

 

ワカラナイ。今、わたしが何を怖がっているのか。

 

 

「……その様子じゃ、本当に忘れていたみたいね。どこに行く気かは知らないけど、もう私達に復讐する気はないということ? そのためにずっと八年間動いていたのだと思っていたのだけど」

 

 

何でもないことのように、秋葉様は口にする。これまで決してバレないように動いてきたはずの目的を。人形であるわたしのゼンマイ。行動理由。

 

 

フクシュウという名の自己保存。

 

 

「……いつから気づいてらしたんですか、秋葉様?」

「そうね……確信したのはあなたから血をもらうようになってからかしら。その前から何となくそうじゃないかとは思ってはいたけど」

 

 

表情を変えることなく淡々と、自分でも驚くほど機械的に秋葉様へと問いかける。殺人事件の犯人のように弁明し、狼狽することもない。胸に穴が空いているのではないかと思えるほど、何の感情も浮かばない。ああ、そうか――と思うだけ。わたしが間抜けだったのか、それとも秋葉様の勘が優れていたのか。恐らくはその両方。こんなにも呆気なく、わたしの八年間のフクシュウは終わりを告げる。いや、これから終わらんとしている。

 

 

「そうですか……翡翠ちゃんはともかく、秋葉様にバレていたのは予想外でした。でもどうしてそんなことをわざわざ仰ったんですか? 知っていたのならわたしを殺すなり捕えるなりできたでしょうに」

 

 

壊れかけの人形が、元の姿に戻ることによって。そう、これがあるべき結末。最初からフクシュウが終わったら死ぬつもりだった。毒かナイフか。方法は決めていなかったけれど、それだけはきっと変わらない。だってゼンマイがなければわたしは生きていけない。

 

そのゼンマイも今、終わってしまった。でも後悔はない。そんなもの、最初から持っていないしあるわけない。元々わたしは誰も恨んでいない。秋葉様に殺されるなら、それは至極当然であるような気がする。フクシュウもただ人間ならそうするだろうなと思ったからしていた――――だ、け。

 

 

――――あれ? 何かおかしい。そういえば、わたし、人形になるためにフクシュウしようとしてたのに、それってまるで

 

 

初めに気づかなければならない矛盾に、八年たった今ようやく至る。そう、前提からして間違っている。フクシュウは人間がすること。人間であればそうするであろう行為。それを何故、人形のわたしがしているのか。笑い話にも、冗談にもならない答え。いつかの彼の言葉を思い出す。

 

 

『そんなことをしても痛みはなくならない。君は人間だから、人形にはなれない』

 

 

人間は人形にはなれない。そんな当たり前の言葉。八年間、理解できなかった言葉。それが胸をざわつかせる。イタくないはずなのに、イタく、なる。

 

 

「――そうね、でも琥珀。白状すると私はそれでもいいと思っていたの。他の誰でもなく、あなたに殺されるならそれは仕方がないことだって。遠野家に復讐するためにあなたは生きてきた。その権利があなたにはある」

 

 

その瞳に確かな後悔と覚悟を見る。言葉にできない感情を押し殺した厳しい表情。遠野家当主としてではない、年相応の少女の心。十年以上わたしを縛ってきた遠野の因縁。その一部である自分自身を侮蔑しているかのように、秋葉様は告白する。殺されても構わなかった、と。

 

それをただ、わたしはじっと聞き続けている。どこか半分、夢心地な感覚と共に。わたしは分かっていた。秋葉様ならきっとそう考えるだろうと。もしわたしが殺されそうになったら、半分以上の確率で庇って死んでくれるだろうことも。計画にもそれは含まれていた。なのに、殺されてもいいと口にする秋葉様に驚きを隠せない。しかしそれは

 

 

「それを捨てて琥珀、あなたはどこに行こうというの。それとも、私達よりも復讐したい相手ができたということ?」

 

 

秋葉様の、言葉によって消え去ってしまった。

 

 

「――――」

 

 

言葉を失う。息が止まる。笑みが作れない。気づけば、バックを落していた。それはこれまで忘れていた、忘れていたかった答えを思い出してしまったから。

 

 

 

あの人が有間に預けられてから、わたしはずっと人形として生きてきた。そうすれば、イタくなくなるから。でも、違った。あの人の言葉を思い出すたびに、イタくなる。せっかく人形になれたのに、あの人のせいでわたしは、イタく、なる。

 

 

なのに、八年ぶりに会ったあの人は別人みたいに変わっていた。本当に人間になれたみたいに。わたしはあんなにイタかったのに、あんなに楽しそうにしている。自分が壊れてしまったのに。気づくこともなく。気づいて、欲しかったのに。

 

 

だから思った。あの人にフクシュウしようと。人間の振りをしているあの人を、人形に戻してやろうと。それが全て。初めは遠野の家にフクシュウするために動いていたはずなのに、いつの間にか、あの人へのフクシュウがわたしのゼンマイになっていた。

 

 

それが理由だった。八つ当たりでしかない、馬鹿馬鹿しい理由。それでもわたしにとっては、自らの存在理由に足る答え。初めのフクシュウが、いつの間にか違う物にすり替わってしまう程に。

 

 

わたしは、本当に彼が憎かった。彼が下りてくるバス停の前で待っていた。ただ待ち続けた。本当なら有間家に直接行きたいのを我慢して。ただ彼を待ち続けた。フクシュウするために。

 

 

なのに、おかしい。彼を見た瞬間、全部どうでもよくなってしまった。何でそんなことを考えてたのかも、フクシュウすることもずっとわたしは忘れてしまっていた。

 

 

――――そうだ、わたしは

 

人形として――――

 

――――彼にフクシュウするために

 

 

瞬間、視界が歪んだ。蜃気楼を見るように秋葉様が歪んで見える。それだけではない。その髪が深紅に染まっていく。点滅するように黒が赤に変わっていく。だが違う。これは本来の姿。ヒトとしての遠野秋葉が、鬼の貌を見せんとしている。

 

 

「――――答えなさい、琥珀。あなたは兄さん……いいえ、あの人に復讐するためにここを出て行くつもり?」

 

 

狂気、魔性を感じさせる瞳と深紅の髪をたなびかせながら遠野秋葉は問う。返答以外の言葉は許さないと殺気が告げている。

 

琥珀は身動きが取れない。否、取ることができない。金縛りにあったように磔にされているかのよう。同時に肌が焦げるのではないかと思える熱気が空気を支配する。

 

『檻髪』と呼ばれる遠野秋葉の混血としての異能。その視界に映る物の熱を奪う略奪の呪い。琥珀の瞳には何も映らないが、確かにそれはある。その名の通り、赤い髪が蜘蛛の巣を張るように琥珀の周囲を縛っている。秋葉が能力を行使すれば、一瞬で蒸発してしまうであろう窮地。

 

その意味を誰よりも琥珀は理解している。遠野の血に流れるヒトではない血。混血の末裔。遠野秋葉にとって逃れることができない呪いであり戒め。それが己に向けられている。返答を誤ればそこまで。偽ることも許されない。

 

遠野秋葉がどこまで知っているのかは分からない。ただ琥珀がどこに行く気なのか、それだけは知っている。それ以外に、琥珀が屋敷を出て行く理由などあり得ない。

 

 

「――――わたし、は」

 

 

それでもゆっくりと琥珀は口を開く。自分が死の淵にいることは分かる。死ぬのは怖い。痛いのは嫌だけど、死ぬのは絶対嫌だった。でもそれよりももっと怖いこと。それはわたしがわたしでなくなること。人形で、いられなくなること。そうなるくらいなら、ここで殺されてもいい。

 

あの人にフクシュウすること。

 

それが人形のわたしのゼンマイ。それを否定することは今までの、これからのわたしを壊すこと。絶対に破ってはならないもの。それを分かった上で答えを口にする。

 

 

「わたしは、あの人と一緒にいるために、ここを出て行きます」

 

 

自らの八年間を否定する言葉。遠野秋葉の逆鱗に触れると分かっていても偽ることなく答えを出す。かつてシエルに答えた解ではない。他の誰でもない、琥珀自身の言葉。

 

 

それが八年前から初めて琥珀が『人間』として出した叶うことないユメだった――――

 

 

 

静寂が全てを支配する。張り詰めた空気はいつ破裂してもおかしくない。それでも琥珀はまっすぐに秋葉を見据えたまま。秋葉もまたそんな琥珀を瞳に収めたまま微動だにしない。それがいつまで続いたのか

 

 

「…………好きにすればいいわ。どこへなりと消えなさい」

 

 

一度目を閉じた後、秋葉はいつもと変わらぬ表情を見せながら悠然と琥珀の隣を素通りし、屋敷へ入って行く。既に熱気も威圧感も残っていない。秋葉の髪もまた漆黒へと染まっている。琥珀はただ呆然とそんな秋葉の後姿に目を奪われるしかない。

 

 

「――――秋葉様、」

 

 

不意に、喉まで様々な言葉が出かかっては消えていく。どこまで分かっていたのか。何故見逃すのか。許すのか。もしかしたら、初めから分かっていたのかもしれない。その上で、わたしを試していたのかもしれない。そんな答えの出ない、自分勝手な我儘。その全てを飲みこみながら

 

 

「――――お世話になりました」

 

 

琥珀は頭を下げながら使用人として、最後の務めを果たす。何が最善だったのかは分からない。でも後悔はない。例えこの先に何があったとしても後悔はないだろう。

 

琥珀もまた、振り返らず屋敷を後にする。それが八年ぶりの、人形ではない、自らの足での一歩だった――――

 

 

 

 

誰もが去ったはずの遠野の屋敷の玄関。そこから少し離れた木々の影に、いるはずのない人影が重なっている。

 

影、少年は言葉を発することもなく、音もさせぬまま右手にあるナイフの刃を収める。役目を終えたからなのか、一度大きく息を吐きながら解放されたかのように空を見上げる。そこだけが彼が死を見ないで済む場所。目を閉じ、包帯を巻いている瞳では空の蒼は見えずあるのは暗闇だけ。それでもその暗闇はいつもより少し、違って見える気が彼にはした。ほんの少しの感傷を胸に、静かにその場を後にしようとしたその時

 

 

「――――やはり、近くにいらっしゃったんですね」

 

 

そんな、聞き慣れているはずの、それでも想像とは違う声が遠野志貴にかけられた。

 

 

「…………翡翠さん、か?」

「はい、お久しぶりです。秋葉様は屋敷に戻られたままです。ご安心ください」

 

 

思考を読んだかのようにいつもと変わらぬ雰囲気を持ったまま翡翠はお辞儀をしながら遠野志貴へと向き直る。遠野志貴もまた、虚をつかれたからかそのまま黙りこんでしまう。

 

 

「……いつから気づいてたんだ」

「姉さんが秋葉様とお話になっているところからです。屋敷の窓から、あなたの姿も見ることができましたので」

「そうか……」

 

 

遠野志貴は一度だけ翡翠に視線を向けた後、再び空を見上げる。遠野秋葉や琥珀に気づかれなかったので良しとするしかない。流石に屋敷の中から見ていた翡翠までは気づくことはできなかった。そもそも、琥珀が無事に屋敷を出た時点ですぐに立ち去っていれば翡翠に会うこともなかったはず。それでも一瞬、この場に留まってしまったのは未練か郷愁か。もう思い出せない程繰り返したはずなのに、ここにはそうさせてしまう空気があったのかもしれない。

 

 

「……よかったのか、あのまま琥珀を行かせて。まだ別れの挨拶もしてないんだろ?」

 

 

だからこれも余分なこと。初めから無視して、話しかけずに去ればいいのに、自分は無駄なことをしている。おかしい。いつからか、自分がおかしくなりつつある。ブリュンスタッドを殺し損ねた時か。シエルと出会ってからか。

 

 

「構いません。姉さんは自分で決めて、ここを出て行きました。なら、わたしからは何も」

 

 

言うことはない。言葉にするまでもなく、翡翠はそう断言する。だが分からない。翡翠にとって、姉である琥珀は誰よりも大切な存在のはず。なのにどうして、そんなことが言えるのか。どこに行くかも、どんな事情かも知らないはずなのに。

 

 

「…………」

「……? 何だ。やっぱり何か気になることがあったのか」

 

 

急に黙りこみ、口を閉ざしてしまった翡翠に尋ねる。何かを聞きたがっている、そんな空気。例え見えなくとも、感じ取ることができる。例え仮初でも、短くとも共に過ごした時間があった。翡翠がどんな少女であるかは、知っている。知識ではなく、己自身の経験で。

 

 

「……姉さんのことを呼び捨てにするようになったんですね。いつからですか?」

「……さあな。覚えてない。」

 

 

そんなことか、と思いながらも答えを口にすることはない。忘れることなど、あり得ない。例え地獄に落ちようとも、忘れることはないであろう光景。その贖罪のために、代償行為のようにいつのまにかそう口にするようになっていた。

 

翡翠はそのことは知らない。だが、確かに分かることがある。それは、名前を呼び捨てにするという行為が彼にとって特別であるということだけ。その証拠に、今は翡翠のことも呼び捨てにすることはなくなっている。

 

翡翠だけではない。シエルも、アルクェイドも同じ。彼が名前を呼び捨てにするのは琥珀ただ一人。無意識のうちに課している彼自身のルールの一つ。

 

 

「もういいか? 俺はもう行く。遠野秋葉に見つかると面倒だからな」

 

 

もう話すことはなかったこと。何よりもこれ以上この場に留まることはリスクしかない。自分は遠野秋葉と会うことはしない。それは破滅であり自滅を意味する。この場に来たことですら、本来ではあってはならないこと。翡翠に関してもそれは同じだった。だが

 

 

「――――はい。どうか姉さんを宜しくお願いします」

 

 

まるで全てを知っているかのように翡翠を頭を下げながらそう口にする。目が見えないからこそ感じる何かがそこにはあった。

 

 

「……すぐにあいつはここに帰ってくる。そんな心配は意味がない」

 

 

それを感じながらもただ現実を口にする。そう、意味など無い。いくら琥珀がやってこようと終わりは決まっている。一週間も経たないうちに、全ては終わる。蛇を殺せようが殺せまいが関係ない。だからこそ、これまで自分は琥珀と会うことはしなかった。無駄なことだと分かっていたから。

 

『蛇を殺す』

 

ただそれだけの機械が自分。世界に、抑止力によって突き動かされている人形。それだけでいい。だがそれでも、捨てきれないものがあった。今はもう思い出すこともできない程、魂にまで刻みつけられた、遠い日の誓い。

 

『琥珀を守ること』

 

それが人間としての『遠野志貴』の唯一の願い。例え他の全てが作り物であっても、それだけは本物であってほしいという叶うことのないユメ。

 

そのために、琥珀と会うことを禁じてきた。争いから遠ざけるために。どんなに嫌われても、蔑まれようとも構わない。何度繰り返そうと、死に続けようと構わない。蛇など関係ない。ただ彼女に生きていてほしい。幸せになってほしい。それが『遠野志貴』の生まれた意味。なのに

 

 

「構いません。例え短くとも、あなたと一緒にいることが姉さんの幸せです」

 

 

琥珀と同じなのに、違う声色で翡翠は断言する。一片の迷いも戸惑いもない。まるで自分のことのように、翡翠は琥珀の心を口にする。

 

 

「……何で、そんなことが分かるんだ?」

 

 

子供のような質問だった。本当に分からないからという、純粋な問い。それに

 

 

「当たり前です、わたし達は、姉妹ですから」

 

 

それまでとは違う、確かな感情を込めた声で翡翠は答える。

 

 

双子の姉妹だからこそ分かる。姉が演じている『翡翠』ではなく、本当の『琥珀』の望み。当たり前だ。翡翠の望みは、琥珀の望みそのものなのだから。

 

 

目を開けば、翡翠の微笑みが見えるはず。そう思えるほど、そこには確かな翡翠の姉への愛情があった。

 

それを前にしてもはや言葉はなかった。答えは未だ出ない。終わりは変わらない。結果こそが全て。それでも

 

 

「――――いってらっしゃいませ、志貴さま」

 

 

それ以外のものにも価値があると、そう告げたまま翡翠は『遠野志貴』を見送る。己のことは何一つ口にせず、ただ姉である琥珀のために。彼もまた、何も語らない。彼女が触れない以上、自分がわざわざ触れることはない。ただ思う。

 

 

まるで初めて彼女に名前を呼ばれたようだ、と。

 

 

それが彼と翡翠の最初で最後の偽りない触れ合いだった――――

 

 

 

 

ただ何とはなしに、空を見上げる。雲ひとつない空。立ち止まったわたしを気にすることなく、人々はせわしなく行き来している。道の真ん中で待ちぼうけをくらったかのように、足が動かない。

 

今わたしは、中間点に立っている。遠野家と、アルクェイドさんの部屋の間。わたしの行き先は決まっている。秋葉様に言ったように、答えは変わらない。例えわたしが壊れても、それは変わらない。

 

それでも、僅かな不安があった。自分はいい。後悔はない。けれど、彼はどうだろうか。もしかしたらわたしは彼に辛い思いをさせるだけかもしれない。それだけが、怖い。言葉にできない錘が、わたしの足を止めている。でもそれは

 

 

「…………志貴さん?」

 

 

遠くからでも分かる、見間違えるはずのない風貌をした彼が姿を見せたことでいつの間にか消え去ってしまった。

 

彼は変わらない。目に包帯を巻き、ジャンバーを腕を通さないまま羽織っている。きっと左腕がないのを誤魔化すためだろう。でも包帯を目に巻いているだけでも十分すぎるほどに怪しい。どこかずれているといってもいい有様に呆気にとられるしかない。

 

だがすぐに疑問に至る。何故彼がここにいるのか。日中は睡眠をとっているはずなのにどうして。だがその疑問は

 

 

「……何してる。遠野家をクビになったんだろ。来ないなら置いて行くぞ、琥珀」

 

 

そんなぶっきらぼうな、いつかの彼のような言葉によってなくなってしまう。彼は変わらず目を逸らしたまま。手を伸ばしても応えてはくれない。でもそれだけで充分だった。彼が話しかけてくれた。そして、自分を案じて自分を守ろうとしてくれていたことが、その言葉から分かったのだから。

 

 

「――――はい。宜しくお願いしますね、志貴さん」

 

 

知らず笑みを浮かべながら背中を向けたままの彼の少し後ろに付いて行く。願わくば、いつかのように彼の隣で手を繋ぐことができる日がやってきますように――――

 

 

 

 

 

「…………あ」

「どうした、忘れ物でもあったのか」

「いえ、勢いで飛び出して来たのはいいんですがその……大事なことを忘れてまして」

「大事なこと?」

「はい……その、秋葉様達、食事はどうされるのかな、と」

「…………」

 

遠野志貴は何も答えない。琥珀もまた同じ。ただできるのは遠野秋葉が誰かの赤いサンドイッチetcの餌食にならないことを祈ることだけだった――――

 

 



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第二十八話 「日常」

「……」

「……」

 

 

無言のまま、それでも警戒を怠ることなく法衣を纏った女性、シエルは視線をベッドへと向ける。そこに横になっているのは真祖アルクェイド・ブリュンスタッド。上半身だけ起こしたまま、その赤い瞳でシエルを見つめ返している。そこに敵意はない。ただ風景を見るように一言も言葉を発することなく、シエルとアルクェイドは互いを意識し合いながらも無視しているという奇妙な空間が今の状況だった。

 

 

(そういえば……彼女と二人きりになるのはこれが初めてでしたね……)

 

 

若干この状況に疲れを感じ始めながらもシエルはふと気づく。アルクェイドと二人きりという状況が初めてであることに。今までは遠野志貴がおり、最近は琥珀も行動を共にすることになったため二人が主にアルクェイドと接触をしていた。そのため自分はほとんどアルクェイドと会話をしたことはなく、またする必要もないと判断していた。当たり前だ。彼女は真祖。曰く処刑人と呼ばれるほどの吸血姫。そして自分は吸血鬼を狩る代行者。そも馴れ合うことなどあり得ない。遠野志貴や琥珀が危機感を抱いていない以上、自分はその役割を果たさなければならないのだから。

 

 

「…………」

 

 

そのまま何とはなしにアルクェイドを改めて見つめる。金髪に赤い瞳。およそ完璧と言ってもいい造形の顔立ちと容姿。まるで人形のように、意志を感じさせぬまま彼女はそこにいる。そこにかつて蛇が見た永遠を垣間見る。それ以外知らず、それ以外何もない白い吸血姫。シエルにとっては忌むべき記憶であったとしても、それが美しいと感じるのは間違いない。

 

だが同時に先程まで遠野志貴や琥珀と接する時に見せていた子供のような姿とは一致しない。何を以って彼女が遠野志貴や琥珀と言葉をかわしているのか。そもそも何故言葉を紡ぐようになったのか。疑問は尽きないが無駄なことだと切り捨てる。そう、今の自分がすべきことは決まっている。ならそれを遂行するだけ。

 

 

(そろそろ二時間……遠野君は琥珀さんと合流できた頃でしょうか)

 

 

部屋にある時計に目をやりながらいらぬお節介を焼く自分に溜息を吐く。遠野志貴は出て行く理由を口にはしなかったがバレバレだった。徹底的に琥珀を無視していたのも逆を言えば彼女のことを意識しているからに他ならない。身も蓋もない言い方をすれば好きな子に素直になれない子供のようなもの。もっとも彼の境遇を考えれば決して笑い話にはできないのだが。

 

 

(遠野君の言葉が本当なら、彼は保って一週間……いえ、もう一週間も残っていない)

 

 

遠野志貴のタイムリミットであり死刑宣告。蛇を殺すことができたとしても変わらない現実。だからこそ彼は琥珀と接触することを禁じていた。恐らくは接触することで彼女を傷つけるだけになることを知っていたから。だがそれはもう過ぎ去った。琥珀は既に彼と再会しこの場に留まることを決意している。自分もまたそれを良しとした。なら、自分は遠野志貴が螺旋を超えた上で生き残るための光明を見つけ出さなくては。そのために

 

 

「――――アルクェイド・ブリュンスタッド、貴方に聞きたいことがあります。構いませんか?」

 

 

目の前の白い吸血姫の知識を得ることがどうしても必要だった。

 

 

「……わたしに、聞きたいこと?」

「はい。遠野君のことです。貴方は彼の事情は知っていますか?」

「知っている。昨日、ずっと喋っていたから。でもそれがどうかしたの」

「貴方に聞くのはおかしいかもしれませんが、遠野君があと一週間ほどしか生きていられない、というのは本当だと思いますか」

「本当よ。正確に言えばあと六日ほど。このまま何もしなければ、という条件付きだけど」

 

 

アルクェイドは淡々と真実だけを告げる。自分の質問に答えてくれたこともだが、それ以上にその正確さに驚くしかない。経験か、それともその眼で見たからなのか。恐らくは遠野志貴本人以上に、アルクェイドはその状態を見抜いているに違いない。自らの左腕を切り落とし、自らを殺せる可能性を持つ相手だからこその警戒か、それとも。

 

 

「……そうですか。原因はやはり、直死の魔眼ですか?」

「最も大きい要因はそれ。シキの持つ眼の力は人が扱える限界を超えている。本当なら脳の負荷の頭痛だけで身動きすら取れないはず。自己暗示の類で誤魔化しているんでしょうね」

「……自己暗示、ですか」

 

 

納得するしかない。元々そうではないかと予想していたことでもある。遠野志貴が行っている自己暗示。恐らくは自分を人形だと思い込むもの。それが痛みを感じないようにするための自己防衛だったのだと。もしそれが無くなってしまえば痛みによって彼は壊れてしまう。人間になりたいと願っていながらも、人形にならなければ生きていけなかったという皮肉。

 

 

「なら、直死の魔眼をなくせば遠野君は死ぬことはないのでは」

「無理ね。シキの脳は根源の渦につながっている。開かれている状態。こちらから閉じることはできないし、例え両目を潰したところで死は見えてしまう。シキも一度試したことがあると言ってた」

「そうですか……」

 

 

八方ふさがりの状況に目を伏せるしかない。両目を潰す、という方法ですら意味がない。既にそれを試している遠野志貴もだが、それを淡々と告げるアルクェイドにもおよそ人間味というものがない。だがそんな中ふと気づく。それは先のアルクェイドの言葉の違和感。

 

 

「……最も大きな要因、と言いましたね。なら他にも遠野君が生きられない要因があるということですか?」

 

 

直死の魔眼以外にも、遠野志貴が生きられない要因があるかのような言葉。

 

 

「ええ。もしかしたら、直死の魔眼もこれに含まれるのかもしれない。シキは本来あり得ない存在。抑止力が『蛇を殺す』ためだけに生み出したもの。守護者、カウンターガーディアンと呼ばれるものに近い。」

「守護者……!? ですがそれはわたし達には認識できない存在のはずでは……」

「本来ならそう。今は遠野志貴という形を得ているだけ。何故そんなことをしているのかまでは分からない。でも抑止力は必ず脅威となるものよりも上回る。なのに今までの繰り返しでシキは一度も蛇を殺せていない」

「それは……」

「もしかしたら、通常の守護者では蛇を殺すことができなかったからこそシキが生まれたのかもしれない。抑止力は無駄なことは決してしない。ならきっと、シキが繰り返していること自体に何か意味がある」

「繰り返すことで、蛇を殺す力を遠野君に持たせようとしている……と?」

「おそらく。なら、役目を終えれば、シキも消えるだけ」

「…………」

 

 

話が思いもしなかった規模に飛躍したことで言葉を失くすも、重要なのはただ一点。このままでは遠野志貴には生き残る可能性が皆無だということ。蛇を殺せば己も消える運命。使い捨ての掃除屋に等しい。だがそんなことは認められない。まだ何か方法があるはず。抑止力が、根源とのつながりが断たれたとしてもこちら側に繋ぎとめることができればもしかしたら――――

 

そんな思考の海に深く沈んで行こうとした最中

 

 

「――――シエルはシキのことがすきなの?」

「…………は?」

 

 

そんな先程までと同一人物とは思えない彼女の声によってわたしは言葉を失ってしまった。

 

 

「……聞き違いでしょうか。もう一度言ってもらえますか?」

「あなたはシキのことがすきなのか、と聞いたの」

「――――何でそんな話になるんですかっ!?」

 

 

先程までのシリアスはどこに行ってしまったのか。思わず赤面しながらアルクェイドに詰め寄ってしまう。だがアルクェイドは驚くこともなく、ただきょとんとしているだけ。まるでわたしが何故焦っているのか分からない、といった風。

 

 

「あなたがシキのことを心配しているから。すきだから心配しているんじゃないの?」

「ち、違います! 確かに心配はしていますがどうしてそれが好きということになるんですか!?」

「……よく分からない。でもコハクが言っていた。それを聞けばシエルと喋ることができるって」

「……琥珀さんが、そう言っていたんですか?」

「……? そうだけど、それがどうかしたの」

「……いえ、全てが理解できただけです」

 

 

未だ状況が理解できていないアルクェイドを放置したまま額に手を当てることしかできない。どうやらこの状況は琥珀の入れ知恵によるものらしい。思い当たる節もある。琥珀は自分がアルクェイドと険悪であることを憂慮していた。それを何とかするために自分とアルクェイドが会話するきっかけを作ろうとしたのだろう。問題はその方法がむちゃくちゃであることだけ。知らず脳裏に楽しそうに笑っている琥珀の姿が浮かぶ。ようやく、遠野志貴が彼女を苦手にしていると言った理由が分かった気がした。

 

 

「琥珀さんに何を吹き込まれたのかは知りませんが、気にしないように。わたしと遠野君は協力者です。それ以上でも以下でもない。協力者の心配をするのは当然でしょう」

「……でも、シキはあなたのことがすきだと言っていた」

「っ!? と、遠野君がですか……?」

「そう。あなたのことがすきかきらいかって聞いたらすきだって。なら、シエルもシキのことがすきなんじゃないの?」

「……どういう論理でそうなるんですか。確かにわたしも遠野君には好意を持っていますがそれはあくまで協力者としてです。異性に対する物ではありません。そんなことも分からないのですか」

 

 

呆れ果てながら溜息を吐くしかない。まずは遠野志貴について。質問の意図は抜きにしても躊躇ないなく自分のことが好きだと断言できるその割り切りに呆れるしかない。鈍感だとかそういう次元ではない。それを口にすることが恥ずかしいとすら思っていない。一かゼロか。彼にとってはそれだけだったのだろう。もちろん嬉しくないと言えば嘘になるが、彼には意中の相手がいる以上そういう発言は慎むべき。

 

 

「それに遠野君が本当に好きなのは琥珀さんです。見ていれば分かると思いますが」

「そうなの? でもシキはコハクのことがきらいだと言っていた」

「はぁ……まあそこが遠野君らしいと言えば遠野君らしいですが。それは好意の裏返しです。ちなみに琥珀さんには聞きましたか?」

「聞いた。コハクもシキのことがきらいだって」

「……そうですか。似た者同士、ということかもしれませんね」

 

 

恐らくは二人とも、本音でそう言っているのだろう。同族嫌悪か、嫉妬か。始まりはそのどちらかだったのかもしれない。だがそれはどこかで反転したのだろう。愛と憎しみ。憧れと妬み。表裏一体、対極でありながらも同質の感情。

 

 

そう、かつて人間であった蛇が目の前の吸血姫に抱いたように。人間という矛盾の在り方。

 

 

「……シエルは、わたしのことをどう思っているの?」

 

 

思いついたように、もしかしたら最初からそれが聞きたかったのか。アルクェイドは普通なら躊躇うような質問を何の疑問もなく投げかけてくる。まるで何も知らない子供を相手にしているかのような感覚。先程までの人形のような姿からはかけ離れた彼女の姿。

 

 

「……嫌いに決まっているでしょう。遠野君や琥珀さんの言っている嫌い、ではありません。わたしはあなたを敵として嫌悪しています」

 

 

はっきりと口にする。まるで抱きかけた迷いを断ち切るように。吸血鬼と代行者。血を吸う者と吸われる者。人ではない霊長は認めない。それが今のわたしの在り方であり、贖罪。

 

 

「…………そう」

 

 

ぽつりと呟いた後、アルクェイドはそのまま黙りこんでしまう。先程までの姿はなりを潜め、最初からそうであったように。だがほんの少しだけ。その表情に、雰囲気に陰りがあるように見える。

 

 

「…………」

 

 

そのまま静寂と共に時間が流れる。部屋に響くのは時計の針の音だけ。それがいつまで続いたのか。

 

 

「…………一つだけ。わたしが嫌悪しているのは吸血鬼です。あなた個人が嫌い、というわけではありません。勘違いしないように」

 

 

ついに我慢しきれなかったのか、シエルはついそう口にしてしまう。お人好しにも程がある。敵である相手を気遣うような真似をするなど。しかしそれでも先程まで見せていた好き嫌いの区別も知らない純粋な彼女を前にしてはどうしようもなかった。アルクェイドもそんなシエルの言葉に驚いたのか、目を丸くしている。そんな中

 

 

「遅くなってすいません、ただいま戻りました」

 

 

心なしかいつもより明るい声とともに琥珀が部屋へと戻ってくる。その手には大きなバック。そして後ろからは出て行ったはずの遠野志貴の姿もある。

 

 

「どうしたんですか、遠野君。何故琥珀さんと一緒に?」

「それはたまたま帰り道が一緒になったんです。そうですよね、志貴さん?」

「……琥珀」

「はい。じゃあ立ち話もなんですし、お茶でもお入れしますね。シエルさんも飲まれますか?」

「え……いえ、わたしもこれから一度自分の部屋に戻ろうと思っていますからお気になさらずに。遠野君、その間ここを任せて構いませんか?」

「ああ。けど出来れば早めに帰ってきてくれると助かる。少し体の調子がよくないから休みたいんだ」

「分かりました。ではお願いします」

 

 

シエルはそのまま部屋を後にする最中、琥珀と目配せをする。もはや言葉は必要ない。シエルも気づいていた。遠野志貴が琥珀に対して言葉を発するようになったことを。少しずつではあるが、琥珀達は進んでいるはず。なら、自分はそれを守りながら己が目的を果たすために。

 

シエルは決意を新たにしながら自らの部屋へと跳ぶ。蛇を滅するための切り札足る聖典を持ち出すために――――

 

 

 

 

 

「――――ふぅ」

 

 

溜息を吐きながら自分の定位置になりつつある床に座り、壁に背をする。琥珀の姿はない。今、台所で調理をしているところ。何でも自分のために軽い食事を作ってくれるらしい。本当なら断ってもよかったのだが、空腹なのは事実。何よりも楽しそうにしている琥珀に水を差すのは気が引けた。

 

何だろう。少し、心が楽になったような気がする。肩の荷が下りたような、そんな感覚。本当なら、一緒にいるべきではない。それは分かっている。今までずっと、そうしてきた。そうするしかなかった。なのに、今は違う。

 

 

「コハクと喋るようになったの、シキ?」

 

 

そんな声がやや斜め上からかけられる。言うまでもなく、ベッドの上にいる白い吸血姫からのもの。もはや慣れつつある光景であり、自分にとっては慣れつつあることがおかしい現実。

 

 

「……ああ。無視するのも疲れたしな。それと悪いが今は疲れてる。お喋りなら琥珀としてくれ」

 

 

アルクェイドとの会話。いや、会話ですらない。一方的な質問攻め。しかも三時間以上喋りっぱなしという一種の拷問にも似た経験。それが始まりかねない気配を感じ、有無を言わさず会話を切り捨てる。余裕があれば付き合ってもいいが今はその余裕もない。本来なら休息を取るはずの日中。加えて琥珀を尾行するために出歩きもした。本当なら今すぐにでも眠りという名の機能停止をしたいところ。だがシエルとの約束に手前寝るわけにもいかない。アルクェイドの監視という意味もあるがそれ以上に外からの敵襲の方がリスクが高い。とどのつまり、自分はシエルが戻ってくるまでアルクェイドと向かい合わなくてはならないということ。

 

 

「…………」

 

 

こちらに構う気がないと悟ったのか、アルクェイドは黙りこんでしまう。若干の罪悪感はあるものの仕方がない。そもそも会話すること自体意味が分からない。アルクェイド自身、何故そんなことをしているのか分かっていない節がある。自分達に心を許しているのかと思ったがそれも違う。変わらず処刑人としての在り方はある。相反する二面性。そのどちらが本当の彼女なのか、それともそのどちらも彼女なのか。

 

 

「―――ぐっ!」

 

 

不意に頭痛によってうめき声を漏らしてしまう。頭が割れるような痛み。脳の負荷によるオーバーヒート。一瞬にもかかわらず、眩暈を起こしかねない激痛。忘れかけていた感覚に眠気が吹き飛びかけるも何かがおかしいことに気づく。そう、おかしい。痛みを感じるなんて、あり得ない。あの時から自分は人形に戻ったはず。なのに、どうして――――

 

致命的な何かに気づきかけた瞬間、それは目の前にいた。

 

 

「…………ブリュンスタッド?」

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッド。彼女が目の前にいた。いつのまにベッドからここまでやってきたのか。前かがみになり、自分を見下ろしている。様子をうかがっているかのようだ。その表情も、姿も自分には見えない。今の自分の視界は暗闇であり、死の線だけが形を為す。その中で死の線がほとんどない黒い女性の影。それが今の自分に見えるアルクェイド・ブリュンスタッドの姿。

 

だが彼女は何も答えない。そのままじっと自分を見ている。敵意があるわけではないのだろう。ただその視線が、自分の右手の注がれているのだけは何となく分かった。

 

 

「…………」

「…………」

 

 

ずいっと、不意にアルクェイドがこちらに近寄ってくる。そのままでは身体がぶつかってしまうような勢い。思わずそのまま床を這いながら後ずさる。だが少しの間の後に再びアルクェイドは迫ってくる。ならばと再び距離を取る。追う、逃げる。追う、逃げる。そんな終わることのないいたちごっこ。

 

 

「――――どうして逃げるの?」

「――――何で追ってくる?」

 

 

互いが互いに疑問をぶつける。気持ち悪いぐらいにタイミングが一致した。違うとすれば彼女には何か目的があるようで、自分にはそれが皆目見当がつかないということだけ。

 

 

「手」

「……手? 俺の手のことか?」

「手を握ってもいい、シキ?」

「……一応、理由を聞いてもいいか?」

「特にない。ただ何となくシキに触ってみたくなった」

 

 

意味が分からなかった。その行動理由も目的も。論理ではなく、ただの衝動なのかもしれない。今思いついたから、そんな刹那的な行為。

 

 

「前に一度、シキに触られたことがある。あの感覚がどんな物だったのか、もう一度確かめたい」

「……? 悪いが俺はお前に触ったことはないぞ。ナイフで切り裂いたことはあるが」

「あなたがわたしをここに運ぶ時。意識はほとんどなかったけど、感覚は覚えている」

「そういえばそうだったか……で、それが何でお前と手を繋ぐことにつながるんだ?」

「今度は起きている間にしてみたかった。コハクがそうしてみたらいいと言っていた」

「そうか……もういい、全部分かった」

 

 

それだけで充分だった。それ以外にはあり得なかった。ようするにこの状況はあの割烹着の悪魔によるものだということ。アルクェイドの疑問に答えてあげようとしたのか、それとも琥珀を無視し続けている自分に違う形でアプローチしようと考えていたのか。恐らくは面白そうだったから、というのが一番だったのは疑いようはない。

 

 

「ほら、何がしたいのかは分からないがこれでいいんだろ?」

 

 

そのまま何でもないように自らの右手でアルクェイドの右手を握る。互いに右手しかないのだから、当たり前だが。本当なら自分は人と触れあうことはできない。死の線と点が見える以上、触れれば相手は崩れてしまう。だが彼女は例外だ。僅かではあるが死の線は見えるもののかなり回復したのか今はもうほとんど見えない。なら、触れることができる。同時にこの関係ももうすぐ終わり元に戻るだろう道標。

 

 

「――――」

 

 

だがこちらの声に答えることなく、アルクェイドは呆然としている。心ここにあらず、といった所。そんなに手を繋ぐことが珍しかったのか。確かに彼女の境遇からすれば、そんなことはしたことがなかったのかもしれないが。そんな中、ふと思い出す。

 

 

(そういえば……俺も、誰かに触るのは久しぶりだな……)

 

 

誰かと触れあうのはいつ以来だろうか。直死の魔眼が抑えられなくなってから自分は誰とも触れあっていない。時間にすればどれぐらいか、考えることもできない。

 

温かい。

 

自分ではない誰かの体温が、温もりが伝わってくる。知らずその感覚に郷愁と共に、安堵を覚える。自分が間違いなく、生きているのだという証拠。痛みではない、もう一つの証。そういえば、最後に触れあったのも誰かと手を繋いだことだった気がする。あれはいつだったか―――

 

 

だがふと気づく。アルクェイドは固まったまま。だが何かに気づいたのかそのまま無言でこちらの手を握っては離すのを繰り返す。力を込め、握るのを繰り返す。まるでその感触を、何かを確かめるように。

 

 

「……ブリュンスタッド?」

 

 

声をかけるもアルクェイドは答えない。ただ繋いだ右手に意識を集中しているのか反応すらない。不意にこのまま右手を握りつぶす気なのかと思うも切り捨てる。そんなことをするぐらいなら彼女は爪で切り裂いた方が早い。未だに彼女の意図が掴めない。しかし握っているだけでは飽きたのか、そのまま握手したまま手を上下し始める。ぶんぶんと子供が何かに興奮したかのようにこちらの腕を振り回す奇行に流石に制止の声を上げるもアルクェイドは止まらない。

 

 

結局アルクェイドが止まったのは肩が外れるかと本気で心配する程になってから。息が上がっているのはこちらだけ。こんなことなら大人しくお喋りに付き合っていた方がマシだったのではと思える有様。そんなこちらの事情を知ってか知らずか

 

 

「……うん。やっぱりわたし、シキに触られると嬉しいみたい」

「そうか……そいつはよかった。そろそろ手を離してくれるか。肩が抜けそうだ」

「シキ、なんでか分かる?」

「俺が知るか」

 

 

変わらずマイペース、こちらの言葉を聞こうとしないアルクェイドにどこか既視感を覚える。そう、わずかではあるが今のアルクェイドの姿にどこかの誰かが重なる。それに気づく間もなく

 

 

「……志貴さん、アルクェイドさんと一体何をされてるんですか?」

 

 

その当の本人が、言葉にしがたい雰囲気と共に部屋へとやってきた。

 

 

それは一瞬。他の誰かが見れば修羅場、一触即発だと思えるような空気とシチュエーション。ただ違うのは

 

 

「見れば分かるだろう、ブリュンスタッドと手を繋いでるだけだ」

 

 

当の本人、正確には遠野志貴には全く気にする素振りがなかったこと。

 

 

「……え?」

「何を驚いてるんだ。ブリュンスタッドと手を繋いでるだけだ。見て分からないのか?」

「そ、それは分かりますが……し、志貴さん、もっと他に何かリアクションはないんですか? その慌てふためいたり、言い訳したり……」

「何で俺がそんなことしなくちゃいけないんだ。したけりゃ自分で勝手にしてくれ」

「そ、それじゃ面白くないじゃないですか! せっかくこんな面白い場面なのに、どうして志貴さんは平然とされてるんです!?」

 

 

遠野志貴の反応があまりにも冷たかったからなのか、それとも自らの企みが外れたからか。割烹着の悪魔、もとい琥珀は自分が慌てながら対応する羽目になっている。本当ならあたふたするであろう遠野志貴の姿を楽しむ予定だったのに完全に逆。ミイラ取りがミイラになってしまっている。

 

 

「大体ブリュンスタッドにいらないことを吹き込んでるのはお前だろう」

「な、何をおっしゃってるんですか。それじゃまるでわたしがアルクェイドさんに悪影響を与えてるみたいじゃないですか」

「その通りだろ。これ以上誰かさんみたいなのが増えるのは御免だ」

「ひ、酷いです……やっぱり志貴さん、わたしだけに厳しくありませんか? わたしが嫉妬したりするとは思わないんですか?」

「何で俺がそんな心配しなきゃならないんだ。大体お前は嫉妬したりはしないだろ」

 

 

遠野志貴はよよよと泣き真似をしているであろう琥珀に言い放つ。だがそれは琥珀がどういう少女であるかを誰よりも知っているからこそ。彼女には独占欲はない。想う相手が幸せであればそれでいい、と考えている。妹である翡翠もまた同じ。

 

 

「そ、そんなことはありません。じゃあ志貴さん、わたしとも手を繋いでください。アルクェイドさんばっかりずるいです!」

「断る。俺はお前と触れあう気はない。それに今はブリュンスタッドと手を繋いでいるから無理だ。片腕しかないからな」

「し、志貴さん……流石にその冗談はどうかと思いますよ?」

 

 

片腕しかないことを自虐にしている遠野志貴に思わず突っ込みながらも琥珀は静かにあきらめる。今の自分では彼の手を握ることはできないのだと。

 

遠野志貴もそれは同じ。今の自分では、琥珀の手を握ることはできない。恐らくはこの先ずっと。螺旋が終わるその時まで。

 

 

「いいですいいです……じゃあわたしはアルクェイドさんと触れあいますから。どうでしたか、アルクェイドさん? 何か感じることはありましたか?」

「よく分からないけど……わたし、嬉しいみたい。何でかは分からないけど……」

「それは良かったです。なら今度は志貴さんをくすぐってあげて下さい。わたしができない分、思う存分どうぞ!」

「コハク、重い」

 

 

遠野志貴が相手にしてくれないと悟ったのか、琥珀はそのままアルクェイドにちょっかいを出し、絡んでいく。見えないが、アルクェイドが未だ手を握っているため身体が揺すられ、遠野志貴は解放されることはない。

 

 

そのままふと、窓に目をやる。そこには晴天の空と輝く太陽。だがじきにそれも終わり、夜の空と眩い月が現れる。

 

 

あと何度、それを見ることができるのか。

 

 

ただ今は、この幻のような日常を――――

 

 

 

 

 

 

「――――さて、食事の時間だ」

 

 

混沌はただ告げる。目の前にあるは巨大な建物。人間が集まるビルという名の牢獄。自らにとっては餌場でしかないもの。

 

混沌は食らう。人間であったものを。その内に命を取り込む。失われた半身を補うために。吸血姫を、何よりも自らの死となり得る人間を排除するために。

 

 

 

「――――待っていろ、姫君。私はようやく君へと届く」

 

 

何も見えない暗闇の中で、蛇はセセラ嗤う。体を作り変える痛みすらも愛おしい。ただあるのは高揚感だけ。自分が自分でなくなりながらも求めた永遠が、すぐそこにある。

 

 

幕間はここまで。吸血鬼による三つ巴の争い、そして人間と人形の相克劇の終わりがようやく訪れようとしていた――――

 

 

 

 



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第二十九話 「反転」

慣れた手つきで調理を済ませ、手際良く食事の準備を済ませている少女。割烹着にエプロンという時代錯誤な恰好だが、それがこれ以上なく絵になっている。何よりも傍目から見ても少女、琥珀は楽しそうにしている。そう、まるでようやく自らの望みが叶ったかのように。

 

 

(……よし! こんなところでしょうか)

 

 

味見を済ませ、心の中でそう呟く。目の前には彼のために用意した食事がある。だがその内容はご飯に味噌汁、卵焼きだけ。質素と言ってもいい。個人的にはせっかくの機会なのだから御馳走を用意したかったのだが仕方ない。軽い食事がいい、というのが彼、志貴さんの要望。シエルさんの希望に沿ったカレーはどうやら志貴さんには合わなかったらしい。だが本当にこれだけでいいのかふと考えてしまう。確かに彼は目は見えないが屋敷にいた頃は小食ではなかった。食が細くなってしまったのだろうか、と疑問を抱くも切り捨てる。早くしなければせっかくの食事が冷めてしまう。何よりも

 

 

「はい、お待たせしました志貴さん。お食事をお持ちしましたよ」

 

 

これ以上待たせると、間違いなく彼の機嫌を損ねてしまうのは明らかだったから。

 

 

「…………」

 

 

そこにはいつもと変わらぬ無表情で床に座り込んでいる志貴さんの姿。目には包帯を巻いているため余計に無愛想に見える。だが容姿だけではない。今、間違いなく彼は不機嫌だった。体から見えないオーラが滲み出ているかのよう。

 

 

「あらあら志貴さん、何をそんなに不機嫌になってらっしゃるんですか?」

「……誰のせいでこんなことになってると思ってるんだ?」

 

 

口元を押さえるも笑みを堪えることができない。見えずともそんな自分の気配を察したのか志貴さんは余計に不機嫌になっていく。だが仕方ないだろう。誰だってこんな光景を目の当たりにすれば面白がるに決まっている。

 

 

「……?」

 

 

そこには自分達が何を言っているか分からないのか、きょとんとしている白い女性がいる。金髪に赤い瞳。およそ人間離れした容姿をした美女、アルクェイド・ブリュンスタッド。彼女がいること自体は何の問題もない。だが今の状況は彼にとってはそうも言っていられないらしい。何故なら今彼は、アルクェイドさんに後ろから羽交い絞めにされている状態なのだから。端から見れば恋人に後ろから抱きつかれているかのような光景がそこにはあった。

 

 

「何を仰ってるんですか志貴さん。わたしはただわたしが触れない分も志貴さんに触ってあげて下さいとアルクェイドさんにお願いしただけですよ。それに満更でもなさそうに見えますけど」

「……どこを見ればそう見える。お前の目は節穴か?」

「いえいえ、そんなことは。志貴さんとは違ってわたしは特別な眼はもっていませんから」

「……」

 

 

クスクスと笑いを隠し切ることができないまま用意した軽食を彼の前に置く。先程の自虐のお返しとばかりに彼の目のことを話題に挙げるも応えはない。口にする必要がないからなのか、口にしたくないのか。きっと後者の方なんだろうと理解しながらもそれ以上追及するのは控えることにする。

 

 

「さあさあ、早く召し上がってくださいな。冷めたら美味しくなくなってしまいますよ?」

「…………」

 

 

やや強引に勧めるも彼は箸を手にしたまま固まってしまう。まるで時間が止まってしまったかのよう。一体どうしてしまったのか。要望通りに軽めの食事にしてみたけれど、何か違っていたのだろうか。知らず不安に襲われるも

 

 

「……? シキ、どうかしたの?」

 

 

それを代弁するように志貴さんの後ろから抱きついているアルクェイドさんが肩から顔を覗かせながら尋ねる。アルクェイドさんから見ても志貴さんはどこかおかしく見えたらしい。そんな声が聞こえていないのか、彼は身動きしないまま何かを思い出そうとしているかのように唇を動かしている。それが何度続いたのか

 

 

「……いただき、ます」

 

 

ようやく辿り着いた当たり前の言葉を彼は口にする。もしかしたら、長い間口にしていなかったかのように。

 

 

「――――はい。どうぞ召し上がってください」

 

 

知らず笑みを浮かべながら応える。まだ彼が出て行ってから一週間も経っていないのに、何年も聞いていなかった気がする。いつも通りのやり取り。それが、ようやく彼が帰って来たのだと思える瞬間だった――――

 

 

 

 

手早く洗い物をすませ、リビングへと戻って行く。彼一人分の食器なので十分もかからない量。結果は完食。ゆっくりではあったがちゃんと自分が作った食事を食べてくれたことで安堵するも、その光景はどこかおかしなものだった。

 

一つがその食べ方。彼は箸を持ったものの、決して自らの手元を見ることなく窓の外に視線を向けたまま食事をしていた。初めは目を閉じ、包帯をしているから食事がどこにあるのか分からないのかと思ったがそうではないらしい。

 

そう、思い返せばずっとそうだった。再会してから彼はずっと窓の外を見ている。決して他の物に視線を向けることはない。わたしはもちろん、シエルさんにも向かい合うことはない。今のわたしが分かるのは、それが以前シエルさんが言っていた彼の特別な眼のせいであるということだけ。

 

そしてもう一つのおかしな点。それは

 

 

「ふふっ、志貴さんすっかりおもちゃにされちゃってますね」

 

 

まるで毛玉にじゃれつく猫のように、アルクェイドさんにいいようにされている彼の姿だった。

 

 

「…………」

 

 

わたしの声が聞こえているのか無視しているのか。彼は胡坐をかいたまま座りこんでいるだけ。アルクェイドさんに抱きつかれても、つねられても、引っ張られてもされるがまま。ただ物置のようにそこにいる。唯一の抵抗がテレビを点け、それに聞き入っていること。恐らくはアルクェイドさんと会話するのが面倒になったのだろう。いや、もしかしたらそこにはわたしも含まれているのかもしれない。現にわたしの言葉にも反応してくれない。それでは面白くない。

 

 

「ダメですよ、志貴さん。ちゃんとアルクェイドさんのお相手をして差し上げないと。志貴さんには責任があるんですから」

「……責任? 何の責任があるっていうんだ?」

「決まってるじゃないですか、アルクェイドさんを傷物にした責任です! シエルさんからお聞きしたんですから!」

「……それは、意味が違うんじゃないか?」

「いいえ同じです。女の子の体を傷つけたんですから。ちゃんと誠意は見せるべきです!」

「……? コハク、キズモノってなに?」

「それはですね……」

「そこまでだ。余計なことをブリュンスタッドに吹き込むな。お前みたいになったらどうする」

「ひ、ひどいです志貴さん! わたしを何だと思ってるんですか?」

「割烹着を着た怪しい女……いや、悪魔か」

 

 

これみよがしにアルクェイドさんに耳打ちしようとするも、流石に黙っていられなかったのか志貴さんは割って入ってくる。どこか懐かしいやり取りに思わず笑みがこぼれるも彼には見えていないので構わない。

 

 

「……?」

 

 

対照的にアルクェイドさんはどこか不思議そうにわたしと志貴さんのやり取りを見つめている。きっと言い合いをしているのに嬉しそうにしているわたしが彼女には奇妙に映ったのだろう。

 

 

「そんなことを言っていいんですか志貴さん? わたしにはお見通しですよ。アルクェイドさんに抱きつかれて本当は嬉しいと思ってるんでしょう。不機嫌そうな顔をしても騙されませんよ?」

 

 

以前と変わらない彼の反応に気を良くしながらもあえて意地悪な返しをする。指差した先にはアルクェイドさんに纏わりつかれている志貴さんの姿。どうやらもはや振り払うことはあきらめたのか気にするそぶりすら見せていない。それでは面白くない。アルクェイドさんも志貴さんの反応があった方が楽しいはず。何よりも彼女に抱きつかれて嬉しくない男性などいるはずもない。だというのに

 

 

「……何を言ってるんだ? 大体ブリュンスタッドをけしかけたのはお前だろう」

 

 

彼は微塵も慌てることもなく、淡々とわたしの行動を容赦なく叩き伏せるだけだった。

 

 

「そ、それはそうですが……その、志貴さん? 本当に何も感じないんですか? こう、恥ずかしいとか、どきどきするとか」

「別に何も。暑苦しいだけだ」

「そんな訳ないでしょう!? こんな美人さんに触られてるのに、何も思わないんですか!?」

「美人……? ああ、ブリュンスタッドのことか。確かに美人だとは思うが関係ない。第一、今の俺には見えないしな」

「そ、それはそうですが……その、感触だけでも何か思う所はないんですか?」

「そうだな……温かいってことぐらいだが」

 

 

こちらから振った話題だと言うのに何故かわたしの方があたふたしながら対応する羽目になっている。だがおかしい。確かに反論されるのは分かるがここまで反応しないなんて。確かに、彼は年相応の初心なところがあったはず。あれは確か

 

 

「誤魔化されませんよ、志貴さん! わたし、覚えてるんですから。遠野のお屋敷で起こして差し上げる時、あんなに恥ずかしがられてたじゃないですか!」

 

 

初めて彼を起こした時の出来事。朝だから無理のない生理現象なのだが、自分を意識して恥ずかしがっていた彼の姿。彼からすれば思い出したくないであろう恥ずかしい出来事。流石にあのことを話題に出すのは意地が悪かったかと少し反省するも

 

 

「…………ああ。そんなこともあったのか」

 

 

彼はどこか他人事のように呟くだけ。まるで、遥か彼方の記憶を思い出そうとするかのように。それができないまま、どこか摩耗した老人のような面影が垣間見える。

 

 

「……志貴さん?」

「……? 何だ、まだ俺の恥ずかしい話は続くのか。正直もう横になりたいんだが」

「い、いえ……でもいいんですか? 確かシエルさんが戻ってこられるまで待たれてるんじゃ……」

「そうか。そうだったな、じゃあまだ寝るわけにはいかないな。シエルさんを怒らせると怖いからな」

 

 

本当に忘れていたのか、一人納得しながら志貴さんはまた窓の外を見ながら無言になってしまう。寝ているわけではなく、ただぼうっとしている。ただそれだけ。なのに、どうしてだろう。何か言いようのない不安が胸を締め付ける。まるで、何かが失われていくような感覚。だがそんな中ふと気づく。

 

 

「――――」

 

 

猫のように志貴さんに纏わりついていた彼女が動きを止めている。そういえば絶え間なく彼女も志貴さんやわたしに話しかけていたはずなのにいつの間にか黙りこんでいる。ただ無表情で、その赤い瞳で彼を見つめている。

 

 

「……アルクェイドさん?」

「…………」

 

 

声をかけるも聞こえていないのか反応がない。ただ観察するように志貴さんを見つめているだけ。先程までの純粋さは欠片もない。どこか冷たい機械のような気配が満ちている。初めて会った時の彼女を想起させる姿。それに気づいているであろう彼もまた同じ。違うのは――――

 

 

「そう言えばアルクェイドさん、この街でのお仕事が終わったらどうされるんですか?」

 

 

ただ思いつきで彼女に尋ねる。理由はない。ただこの空気を、現実をどうにかしたかった。過去も、現在も必要ない。その二つにおいて、自分は彼らの役には立てない。裏、非日常の世界でのやり取りにおいて、吸血鬼退治の上でわたしができることは何もない。だから先のことを話そう。そうすればきっと希望があるはずだから。

 

 

「……どうもしない。城に戻って眠るだけ。これまでと同じ」

「そうですか……でも、ちょっとぐらいは時間があるんじゃないですか?」

「時間?」

「はい。この街にいる吸血鬼を倒した後、一緒にどこかに遊びに行きませんか? もちろん、アルクェイドさんがお忙しいなら無理強いはできませんが……」

 

 

突然だったからなのか、アルクェイドさんは怪訝そうな表情を見せたまま。もっとも、そういった表情すら最近見るようになったもの。わたしや、志貴さんと接する中で確実に彼女は人間らしさを手にしている。機械、人形のような在り方から外れて行く。それがいいことなのか、悪いことなのか今のわたしには分からないけれど、きっと何か意味はあるはず。意味を、持たせてあげたかった。

 

 

「……分からない。何故、そんな無駄なことをする必要があるの。そんなことをしても、わたしにもコハクにもメリットはない」

「そんなことはありません。少なくとも、わたしは嬉しいです。アルクェイドさんもきっと、何か得るものがあると思いますよ。少しぐらいお仕事をサボっても誰も怒りません。わたしは……そうですね、こっぴどく怒られてばかりでしたがへっちゃらでした」

 

 

思わず脳裏に鬼になった秋葉様が浮かび上がるもなかったことにする。決してよくサボっていたわけではないと言い訳するも誰も聞いてくれないのは分かり切っている。今はアルクェイドさんのこと。わたしの言葉に何か思う所があったのか、彼女は黙りこんだまま。でもすぐ否定してこないところを見るに悩んでいるのは間違いない。ならばここは一気に畳みかけるのみ。

 

 

「なら志貴さんとシエルさんも一緒に、四人で遊びに行くのはどうでしょう? きっと賑やかになりますよ? 場所はそうですね……遊園地なんてどうでしょう、志貴さん?」

「…………え?」

 

 

上の空、完全に自分の世界に入り込んでいた志貴さんにキラーパスという名の奇襲を仕掛ける。それが成功したのか、志貴さんは口を開けたまま。もし包帯をしていなければ眼をぱちくりさせているのは間違いない。

 

 

「ですから、遊園地です。アルクェイドさんとお話して、吸血鬼退治が終わったら皆さんで遊びに行こうと」

「それは分かったが……何で遊園地なんだ?」

「わたし、遊園地一度も行ったことがないんです」

「……は?」

「ですからわたし、生まれてから一度も遊園地に行ったことがないんです。志貴さんは行ったことはあるんですか?」

「さ、さあ……どうだったかな……」

「あるんですか?」

「……多分、あるはず……」

「そうですか。きっと都古ちゃんと一緒に行かれたんでしょうね……ところで志貴さん、わたし遊園地に行ったことがないんですよ?」

「…………分かった。分かったからそれ以上近づくな」

 

 

満面の笑みを浮かべながら彼にお願いする。そのおかげもあり、志貴さんは快く引き受けてくれた。うん、これぐらいは許してもらえるはず。働き者の使用人の我儘ぐらい叶えてくれるのがご主人様の甲斐性なのだから。

 

 

「……思い出した。そういえば、いつかも似たような脅迫をされた気がする」

「そうでしたか? きっと気のせいですよ。それはともかくこれで決まりですね。シエルさんならきっと二つ返事で了承してくださるはずです」

「だろうな……あの人はお人好しだからな」

 

 

彼の言葉に思わず相槌を打つ。本人の前では言えないが、シエルさんには引率の先生のような雰囲気がある。頼んでもいないのに周りに気を配ってくれる委員長タイプ。何はともわれ約束を交わした。想像するだけで賑やかな四人組。だがそんな想像は

 

 

「――――何で、そんな意味のない約束をするの?」

 

 

理解できないという表情のアルクェイドさんの言葉によってかき消されてしまった。

 

 

「……? アルクェイドさん、やっぱり遊びに行くのは嫌ですか?」

「そうじゃない。わたしは構わない。理解はできないけれど、興味はある」

「なら――――」

「でも、その時にはシキはいない。四人で遊びに行くことはできないのに、どうしてコハクはそんな約束をしているの?」

「―――――え?」

 

 

何のためらいもなく、ただ当たり前のようにアルクェイドさんはそんなヨクワカラナイ言葉を口にする。予言にも似た宣告。固まっているのは自分だけ。志貴さんは微動だにしないままアルクェイドさんを見つめている。分からない。一体彼女が何を言っているのか。知りたくない。心のどこかで、もう一人のわたしが囁く。そう、いつかシエルさんが口にしていた言葉。そして、いつも通りのはずなのに、いつもと違う彼の姿。その意味。

 

 

「アルクェイドさん、それは一体」

 

 

どういうことなのか、と口にする前にそれよりも大きな声によって遮られてしまう。だがそれは志貴さんでもアルクェイドさんでもない。ノイズの混じったテレビの音声。しかし、明らかに様子がおかしい。それを示すようにニュース速報のテロップが流れ、あわただしく画面が切り替わっていく。

 

 

『ドラマの時間ですが予定を変更して今は入ってきたニュースをお伝えします。市内にあるセンチュリーホテルで事件が発生した模様です。ホテルから従業員、宿泊客など少なくとも百数十名が忽然と姿を消し行方不明となっているとのことで……』

 

 

次々に俄かには信じがたい不可解な事件の内容が伝えられていく。

 

残された大量の血痕。動物の毛と思われるもの。途絶えた行方不明者の足取り。その全てが常軌を逸している。わたしはただその場に立ち尽くすしかない。それはニュースに驚いたからではない。

 

 

「…………」

「…………」

 

 

彼と彼女が無言のまま、ただじっとニュースに集中していたから。先程まで見せていた姿は微塵もない。そこにいるのは、自らに必要な情報を手に入れんとしている二つの人形、機械。

 

 

『繰り返し行方不明者のお名前を読み上げます。オオハシケンジ、シマバラユウコ、カワジマタケオ、カワダミサキ、ユミヅカサツキ――――』

 

 

読み上げられ、映し出される数えきれないほどの行方不明者の名前。その一人一人に帰りを待っている家族や友人がいるはず。だが彼と彼女は表情を変えることはない。無表情。眉一つ動かすことはない。それは彼らが誰よりも現状を理解しているから。

 

わたしには、何もできることはない。できるのはただ、人形のようにその場に立ち尽くすことだけ。いや、今のわたしは人形ですらない。人形にも、人間にもなりきれない半端者。

そんな中

 

 

「――――遠野君、ネロ・カオスが動き出しました」

 

 

感情を感じさせない声色と共にリビングのドアが開き、弓の名を冠する代行者が帰還する。お節介さんの彼女からは想像もできない鋭利な刃物のような空気。

 

 

表と裏。日常と非日常。今一度、その全てが反転する時が来た――――

 



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第三十話 「境界」

――――そこは地獄だった。

 

 

残っているのは大量の血痕と獣の跡。生き残った者はいない。その全てが飲み込まれてしまった。たった一人の吸血鬼という名の怪物に。

 

惨状を目の当たりにしながらもできるのは歯を食いしばり、拳を握ることだけ。間に合わなかった自分に対する憤怒と吸血鬼に対する憎悪。その全てを押し込みながらただ代行者としての自分を取り戻す。ここで後悔したところで起きてしまったことはなくならない。犠牲者の無念を晴らすこともできない。

 

今、己が為すべきことは一刻も早く混沌を見つけ出し滅すること。もう二度と、自分と同じような人間を生み出さないために。

 

 

それがかつて許されない罪を犯してしまったシエルの贖罪という名の生き方だった――――

 

 

 

 

そのまま人目に触れぬように注意しながらも建物の屋根を飛び移りながら駆ける。向かう先はアルクェイド・ブリュンスタッドが拠点としているマンション。肩には自らの切り札足る巨大な聖典。本来はこれを取りに行くための外出だったのだが今はそれどころではない。一刻も早く協力者である彼、遠野志貴に事態を伝え動かなければ。

 

本来ならば代行者である自分一人でも動くべき状況。しかし今回ばかりは事情が異なる。何故なら

 

 

(混沌……ネロ・カオス。遠野君の話が事実なら、今のわたしには混沌を滅する術はない)

 

 

相手は二十七祖であり、混沌の名を冠する六百六十六の命を内包する存在。教会にも混沌の情報はあったが実際のそれは予想を遥かに凌駕している。その最たるものが耐久性。六百六十六回殺すのではなく、その全てを同時に殺さなければ混沌は倒せない。事実、万全の状態のアルクェイド・ブリュンスタッドですら混沌を殺し切ることができなかった。だがそれを可能にする例外がここにいる。

 

 

(直死の魔眼……あれを持つ遠野くんなら混沌を消滅させることができる……!)

 

 

直死の魔眼という異能を持つ遠野志貴。彼ならば混沌を殺し得る。事実、先の戦いでは混沌の半身を消滅させた。蛇同様、彼の能力は不死である吸血鬼にとって天敵。彼にとっては忌むべき異能であり、死を意味するもの。だが今はどうしてもその力を貸してもらわなければならない。

 

自らの力不足を呪いながらも部屋へと辿り着く。本当なら出迎えてくれるであろう少女、琥珀を思い、笑みを浮かべるべきなのだがあえて代行者の貌を見せたまま部屋へと入る。だが出迎えはなく、聞こえてくるのはテレビの声だけ。リビングには遠野志貴、アルクェイド・ブリュンスタッド、そして琥珀の姿。しかし誰一人自分に反応を見せない。その意識はテレビへと向けられている。その理由はもはや語るまでもない。違うのは自分はそれを目の当たりにし、彼らは伝え聞いているということだけ。

 

 

 

「――――遠野君、ネロ・カオスが動き出しました」

 

 

簡潔に、それでも今の状況の全てを含んだ言葉を彼に告げる。本当なら一般人である琥珀、そして真祖であるアルクェイド・ブリュンスタッドの前では避けるべきだが今はそうも言っていられない。自らの焦りと憤り。それらが込められた言葉はしかし

 

 

「…………ああ、そうか」

 

 

何気ない、感情を感じさせない遠野志貴の返答によって遮られる。変わらず窓の外を見えがこちらに振り返ることもない。まるでどうでもいいことを聞いたようにそこには何もない。

 

そのことに思わず声を上げそうになるが寸でのところで飲み込む。そう、彼に奇行などもはや見慣れたもの。元々淡々と、まるで機械のように喋るのが彼の在り方。アルクェイド・ブリュンスタッド、そして琥珀がやってきてから徐々にそういった面が薄れてきたため余計にそう感じるのだろう。それでも彼の態度に僅かな苛立ちを感じながらも先に進むことにする。

 

 

「……現場を確認してきました。間違いなく混沌の仕業です。恐らく、先の戦闘で負った傷を癒すためのものです」

 

 

先の戦い、という言葉に力を込めながら彼に告げる。そう、恐らくは今回の事件は混沌にとっては自己回復を計るためのもの。遠野志貴によって半分の命を殺された消耗を癒す目的があるのだろう。だが同時にそれは間接的にとはいえ今回の出来事が自分達に起因していることを意味する。もし自分達があの時混沌を倒すことができていたなら、起こらなかったはず。もしかすれば、傷を負わずとも食事として彼らは殺されてしまったのかもしれない。それでも、結果は変わらない。だからこそ今度こそ見逃すわけにはいかない。

 

 

「遠野君、今夜体調が回復し次第ネロを――――」

 

 

彼が睡眠を取り、体力を回復した今夜にこちらから打って出る。未だ混沌の居場所はつかめていないがネロには身を隠すと言う意図が全くない。こちらから動けば間違いなく姿を現すはず。しかしそれは

 

 

「そんなことはどうでもいい。シエルさん、蛇は見つかったのか?」

 

 

遠野志貴の全く予想していなかった答えによって霧散する。いや、それは答えですらない。そもそも彼はこちらの話など全く聞いていなかった。

 

 

「え……? 蛇……ロアのことですか?」

「それ以外何があるって言うんだ。それで、蛇の手掛かりは何か掴めたのか?」

「いえ……今のところ蛇は全く動いていません。死者を使って血を集めることもしていないようですが……」

「そうか……やっぱり、奪った力が扱えるようになるまでは出てこないつもりか……」

 

 

彼はただ黙って聞き入ったまま。先程までとは違う。傍で聞いている琥珀も、アルクェイド・ブリュンスタッドもそんな遠野志貴の姿を無言で見つめているだけ。自分もまた、呆然とするもすぐに我に帰る。

 

 

「遠野君、蛇も気になりますが今は混沌の方が先です! 一刻も早くネロを倒さなければまた多くの犠牲者が」

「……何を言ってるんだ、シエルさん。何で俺が混沌を倒さなきゃならないんだ?」

「…………え?」

 

 

思わず口を開けたまま固まってしまう。対して遠野志貴もどこか要領を得ない雰囲気を纏っている。そう、まるで前提が間違っている。歯車がかみ合っていない。そんな空気。

 

 

「……覚えてないのか? 俺の目的は『蛇を殺す』ことだけだ。確かにそう言ったはずだけど」

 

 

ようやくその正体が判明する。あまりにも単純な、これ以上にない答え。だからこそ驚愕するに足る思考論理。同時に思い出す。初めて彼と出会った公園で交わした協力体制。その際彼から告げられた二つのお願い。一つが魔眼殺しの包帯を手に入れてほしいというもの。そしてもう一つが蛇を殺すのに協力してほしい、というもの。

 

そう、彼の目的は蛇を殺すこと、逆を言えばそれ以外のことは全く関係がない。自分に協力してくれる道理もないのだと。

 

 

「それは……で、ですが先の戦いでは混沌と戦っていたじゃないですか! なら」

「あれは状況的にそうせざるを得なかったからだ。蛇にブリュンスタッドの力を奪わせないためにはああする他なかった。それがない以上、俺が混沌と戦う理由も、意味もない」

 

 

動揺しながら矛盾を突こうとするも遠野志貴は機械のように淡々と理由を口にする。あの時、混沌と戦った理由。結果的には混沌の半身を殺したが、その根本は蛇にあったのだと。確かに辻褄は合う。いや、間違えていたのは、勘違いしていたのはわたしの方なのだろう。知らず誤解してしまっていた。彼が吸血鬼を殺すことを目的にしているのだと。知らず同一視してしまっていた。自分と同じく死ぬことができない運命に囚われた吸血鬼の犠牲者、私怨で動く復讐者なのだと。

 

 

「なら……遠野君は混沌を見逃す気なんですか。このまま放置すれば、街の人々がどれだけ犠牲になるか分からないんですよ」

 

 

故にこれはただの確認。遠野志貴という人間を問うもの。このまま混沌を放置すればどれだけの犠牲が出るか分からない。傷が癒えたとしても、食事として何百もの人間が食われてしまうかもしれない。それを止める術が彼や自分にはある。なのに何もしないのかと。

 

瞬間、部屋が凍りつく。代行者としての気配。詰問にも似た場面。その場にいるはずの琥珀も、アルクェイド・ブリュンスタッドも口を閉ざしたまま。聞こえてくるのはテレビの音声だけ。淡々と、それでも永遠と犠牲者の名前が読み上げられていく。それを耳にしながらも

 

 

「――――ああ。知らない人間が何人死のうと構わない。俺は俺の目的のためだけに動く」

 

 

微塵の揺らぎも見せぬまま、わたしの視線を受けていることも意に介さず立ち上がり、横を素通りしていく。協力関係が壊れてしまいかねない発言をしながらも彼に迷いはない。そんなもの、とうの昔に失くしてしまっているかのように。

 

 

「俺はシエルさんのような代行者でもなければ、正義の味方でもない。無駄なことをしている余裕はない。混沌を追うなら一人でやってくれ」

 

 

そう言い残し、頭を右手で抑えながら遠野志貴はその場を後にする。恐らくは睡眠を取りに行ったのだろう。でもわたしはその場から動くことができない。いや、言葉が見つからなかった。

 

遠野志貴は自分に嘘をつかない。何故かは分からないが、間違いなくそれは真実であり彼が課している己への制約。だからこそ信じられない。いや、信じたくなかった。それはすなわち先の言葉が彼の本音であることに他ならないのだから。

 

ふと思い出す。いつか彼が言っていた言葉。自分は人間ではなく人形なのだと。ただ蛇を殺すためだけに生み出された意志のない操り人形。それが今の彼なのだと。だが道理に合わない。ならどうして彼は――――

 

 

「……シエルさん、大丈夫ですか?」

 

 

そんな思考は心配そうな着物姿の少女、琥珀によって断ち切られる。どうやら知らずその場で立ち尽くしていたらしい。思わず眼をぱちくりさせながらも意識を切り替える。

 

 

「はい。すいません、みっともないところをお見せしてしまいました。ちょっと熱くなりすぎたみたいです」

「そうですか……あの、志貴さんのことですけど……」

「いえ、心配しなくとも協力関係を解消したりはしませんので安心してください。元々わたしが勝手に勘違いしてただけですから」

「そうしてくれると嬉しいです。わたしも少しびっくりしましたけど……あんなことを仰ったのはきっと、志貴さんなりの理由があると思うんです。ですから」

 

 

彼のことを嫌いにならないでほしい、と琥珀は苦笑いしながらわたしへと告げてくる。そこには確かに彼のことを理解し、憂慮している少女の姿がある。だが彼女から見ても先程の彼の言動は驚くものだったようだ。唯一、驚いていないのは

 

 

「…………」

 

 

白い吸血姫であるアルクェイド・ブリュンスタッドだけ。だが遠野志貴が部屋を出て行ったとほぼ同時に彼女もまた立ち上がり部屋を出て行こうとうする。

 

 

「っ!? 待ちなさい、アルクェイド・ブリュンスタッド。どこに行こうとしているんですか。あなたを外に行かせるわけにはいきません」

「……外には行かない。わたしはシキに聞きたいことがあるだけ。それなら構わないでしょう?」

「確かにそうですが……遠野君は今休みに行ったところです。邪魔をするようなら」

「邪魔はしない。少し、話をするだけ」

 

 

そう言い残し、あっという間にアルクェイド・ブリュンスタッドはその場を後にする。制止の声を上げるも聞く耳持たず。誰もかれもが好き勝手に動き去っていく。結局その場には自分と琥珀が残されてしまう。だが逆にいい機会かもしれない。今の自分はあきらかに冷静さを欠いている。混沌の引き起こした惨状を目にしたこと、それに打つ手がなかった自分の不甲斐なさ。協力者である遠野志貴への甘えと誤解。しかし、それでもまだ自分は一息つくことはできそうにない。何故なら

 

 

「……シエルさん。少し、お聞きしたいことがあるんです」

「聞きたいこと、ですか? さっきの遠野君との会話のことでしたら……」

「そうではなくて……さっき、志貴さん達とお話してたんです。吸血鬼退治が終わったら、皆さんで遊びに行きませんかって」

 

 

自分にとって避けることができないもう一つの約束を果たさなければならない時が来たのだから。もう半ば理解しつつある。琥珀が自分に何を聞きたいのか。何を知りたいのか。

 

 

「でも、その時アルクェイドさんが仰ったんです。その時には志貴さんはもういないから、それはできないって」

 

 

同時にここにはいない真祖の姫君に眩暈を起こしそうになる。そう、彼本人がそれを口にするはずもない。なら、答えは一つ。そも彼女に人間の感情の機敏を感じ取ることなどできるはずもない。言葉を紡ぐようになったと言っても、彼女は吸血鬼。わたし達人間とは相容れない存在。事態をややこしくすることしかできないのだろうか。

 

 

いや、これは単なる言い訳でしかない。自分が先延ばしにしてきたことに向き合う時が来たということだけ。アルクェイド・ブリュンスタッドのせいでも、ましてや遠野志貴のせいでもない。遠野志貴は最初から琥珀と会う気はなかった。そうなれば、こうなることは分かり切っていたから。なのに彼女が遠野志貴に会うことを、共にいさせることを良しとしたのは他ならぬ自分なのだから。

 

 

「…………」

 

 

そのまま自分の答えを待っている少女と向かい合う。そこに迷いはない。それでもその手は自らの着物を握ったまま。懸命に自分の感情を押し殺している人形ではない、人間の彼女。それを前にして、偽ることなどできるはずがない。

 

 

「――――分かりました。わたしが知っていることを全て、お話します」

 

 

一度目を閉じながら宣誓する。嘘偽りない真実を告げることを。同時に祈る。願わくばこの選択が、彼女にとって救いになることを――――

 

 

 



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第三十一話 「鏡像」

――――夢を見る。

 

 

どうしてかは分からない。けれど、すぐにそれが夢なんだと気がついた。正確には夢ではなく記憶。もう摩耗し、思い出すこともできない程擦り切れてしまっている欠片が垣間見える。

 

感じるのは肌寒い風と、瞼の裏からでも分かる夕陽の紅。ぼんやりとしたまどろみの中で思考が定まらない。何故自分がここにいるのか、ここがどこなのか。ぐるぐると無意味な思考が空回りながらも、ようやく目覚めの予兆のように身体に血潮が巡って行く。

 

 

――――ああ、そうか。

 

 

やっと自分の意識が戻り、瞼を開けた先には

 

 

「あ、ようやく起きられたんですね、志貴さん」

 

 

どこか穏やかな笑みを浮かべながら自分を見下ろしている琥珀の姿があった。

 

 

「――――」

 

 

それを視界に収めながらも言葉は出ない。何故目の前に彼女がいるのか。ここはどこなのか。何を口にすべきなのか。しかし、その全てがどうでもよくなるほどに今は彼女の姿に目を奪われていた。

 

ただ慈しむように、彼女は自分を見つめている。夕陽を浴びながら微笑む彼女の姿は、ただ綺麗だった。同時にいつ消えてしまうか分からない儚さ。そこでようやく気づいた。これが記憶であり夢であることを。自分の視界に映る黒い線と点。その数と太さが、違う。まだ自分の視界が死に満ちていない頃の記憶。

 

 

「…………琥珀、さん?」

「はい。おはようございます、志貴さん。あ、でももう夕方ですからこんばんはでしょうか?」

 

 

お寝坊さんですね、などと加えながら彼女は何故か楽しげにくすくすと笑っている。まるで悪戯が成功した子供のよう。そんな姿に呆気にとられながらもようやく気づく。そう、今の自分が地面に横になっていることに。それはまだいい。ただ驚いたのは、自分が琥珀に膝枕をされているということ。それを示すように、頭から確かな彼女の体温が、膝の柔らかさが伝わってくる。どこか安らぎすら感じさせる温かさが、そこにはある。

 

ただ無言のまま、ぼうっと熱に浮かされるように彼女に魅入られる。既視感がある。記憶ではなく記録。経験ではなく知識。場所は違えど、自分ではない本物の遠野志貴が同じ光景を見たことがあるのだと。

 

 

「……何で俺は、琥珀さんに膝枕をされてるんだ?」

「さあ、何ででしょうか? それはさておき志貴さんこそどうしてこんなところで横になってらしたんですか? いくら天気が良くても風邪をひかれてしまいますよ?」

 

 

嗜めるように人差し指を向けながら琥珀はそう告げてくる。そこでようやく彼女以外の状況が見えてきた。周りには草木が生えた地面。そう、ここは遠野家の中庭。そこに自分は横になっている。ただそのまま空を見上げるように大の字になったまま。思い出した。何のことはない、自分はただ空を見上げるためだけにここに逃げ出してきていたのだと。

 

 

「空を、見たいと思ったんだ……部屋からじゃあんまり見えないから」

「空をですか? はあ、また変わった趣味を持ってらっしゃるんですね、志貴さん」

 

 

呆気にとられるように口を開けたままの琥珀を横目にそのまま空に目を向ける。既に蒼はなく、夕刻によって色は紅に染まっている。いつの間にか眠ってしまっていたからだろう。ただ、逃げ出したい一心で、何かに縋るように自分はここで空を見上げていた。

 

 

「でもよかったです。秋葉様も翡翠ちゃんもずっと心配していたんですよ。屋敷に戻られてから志貴さん、一度も部屋から出ようとされないんですから。てっきり昔みたいに部屋に閉じこもられてしまったのかと」

「…………」

 

 

顔にわずかな憂いを浮かべながら琥珀は口にする。それは間違いだ。今もまだ、自分は殻に閉じこもったまま。いや、殻に閉じ込められたまま。死ぬことができず、同じ時間を繰り返すだけの無限螺旋。もう、何度繰り返したか分からなくなってきた。何度死んだのか、数えることがなくなった。希望もまた同じ。まだ自分は、あきらめることができていない。必死に、生きる術を、道を探している。でも見つからない。

 

街から逃げ出しても、誰かに真実を明かしても、自分であがいても、死は超えられない。

 

でも、それよりも怖いことがあった。それは自分の心。それが死んでいくのが何より怖かった。自分が自分でなくなっていくのが。また人形に戻るのが、恐ろしかった。

 

 

「でもよかったです。やっとこうして志貴さんとお話できましたから。何度話しかけても志貴さん無視されるんですから。流石のわたしも傷つきましたよ。おかげでお屋敷の壺を三つも割ってしまったんですから!」

「……それは、琥珀さんが掃除が下手なだけだろう」

「そ、そんなことはないです! それに何で志貴さんにそんなことが分かるんですか?」

「なんとなく、そう思っただけだ」

 

 

何故そのことを知っているのかと琥珀が慌てているもののそれ以上口にするのは止めた。今回の自分は全く琥珀と交流を計っていない。否、接触もほとんどしていない。琥珀だけではない。遠野秋葉とも、翡翠とも自分は全く言葉を交わすこともなければ、眼を合わすこともない。ただ有間の家に留まるより、遠野の屋敷に身を置いた方が死ぬのが遅くなることが分かったからここにいるだけ。それ以外の価値を、意味をもう自分はここに見出すことができなくなった。

 

 

「ごほんっ、それはともかくです! 志貴さん、お身体は大丈夫ですか? 一応毛布はかけていますがいつまでもこのままではいけません。お屋敷に戻りましょう。そろそろお夕飯の時間ですし……」

 

 

そんな自分の身を案じているのか、琥珀はそう言いながらその場から動かんとする。よく見れば自分の体には毛布がかけられている。起こせばいいのに、どうやら起こすことに罪悪感を覚えたのだろう。膝枕についてはその限りではない。きっと半分は、本当に彼女自身何となくだったに違いない。でも

 

 

「もう少し、このままでいさせてくれ……まだちょっと、立てそうにない」

 

 

何故か、自分はその場から動こうとはしなかった。立てないなんて、みっともない嘘をついてでも、もう少しこの時間を過ごしたかった。

 

 

「そうですか……なら仕方ありませんね。もう少し、お付き合いします。膝枕、痛くありませんか?」

「大丈夫だ。そもそも、女性の膝枕なんて男の夢みたいなもんだからな。多少痛くても、問題ない」

「はあ……よく分かりませんけど、そこまで仰るなら。じゃあ交換条件です。今度は志貴さんがわたしを膝枕してください」

「俺が……? 男の膝枕なんていいもんじゃないだろう?」

「そんなことはありません! わたしも誰かに膝枕してもらったことがないんです。ぜひお願いします」

「そうか……ま、気が向いたらな」

「し、志貴さん、ちゃんと聞いてますか? 約束ですよ?」

 

 

自分のいい加減な返答に彼女は焦りながら捲し立ててくる。久しぶりに、誰かと会話した気がした。でも、何の意味もないもの。

 

繰り返せば、死ねば全て意味がなくなる。次の繰り返しの時には、もう何も残っていない。何度関係を築こうと、約束をしようと、意味はない。覚えているのは自分だけ。繰り返しているのは自分だけ。だんだんと周りの人間が人形に見えてくる。決まった動きをして、決まった言葉を発して、決まった最期を迎える人形達。だんだんと世界が灰色になってくる。いや、違う。人形になっていくのは自分の方。世界が狂っているのか、自分が狂っているのか。全てが摩耗し、なくなっていく。

 

 

ただ生きているだけで――――

 

 

そう、誰かが言っていた。その言葉の先に何かあった気がするが、思い出せない。あれは何だったのか――――

 

 

 

「ん……」

 

 

次第に意識が戻ってくる。身体に血が巡って行く感覚。同時に眩暈が起こりそうなほどの異物感。遠野志貴の身体が目覚める前兆。もう何度繰り返したか分からない感覚のはずなのに慣れることはないもの。それでも瞼を開けることなく、外の世界の死が見え始める。だから早く死の見えない窓の外、空に目を向けなければと思うのも束の間

 

 

「シキ、眼が覚めた?」

「…………」

 

 

何故か目の前には白い吸血姫がいた。正確には床に横になっている自分に覆いかぶさるように自分を見下ろしている。知らない誰かが見れば押し倒されているように見えるだろう体勢。普通ならこの状況に慌てふためくのだろうがあいにくと自分とアルクェイド・ブリュンスタッドはそんな色っぽい関係ではない。あるのはただ単純な疑問だけ。

 

 

「……何をしてるんだ、ブリュンスタッド?」

「別に何も。ただシキが起きないか見てただけ」

「そうか……できればもう少し離れてくれると助かる。このままじゃ起きれない」

「……? ええ、分かったわ」

 

 

本当に分かっているのかどうかは定かではないがアルクェイド・ブリュンスタッドは自分から離れて行く。ようやく解放された自分もまたゆっくりと右手で体を支えながら体を起こす。身体の節々に痛みがあるようだがいつものこと。睡眠をとれたからか体の重みは幾分かマシになっている。何かあってもすぐに倒れるようなことはないだろう。

 

 

「……今何時か分かるか、ブリュンスタッド」

「ちょうど日付が変わったところ。あなたが寝ていたのは六時間ほど」

「六時間……まさかとは思うが、お前はずっとそこで俺が起きるのを待っていたのか?」

「そうよ。シエルからあなたが休む邪魔をしてはいけないと言われたから起きるまで待っていたの」

「…………」

 

 

さも当然だとばかりに淡々と答えるアルクェイド・ブリュンスタッドの姿に言葉もない。時間の感覚がおかしいのか、常識がないのか。恐らくは後者なのだろう。

 

 

「それで……俺に何の用だ? 起きるのを待ってたのは何か用があったからだろう?」

「用……そうね。忘れていたわ。わたし、あなたに聞きたいことがあったの」

「聞きたいこと?」

 

 

言われてようやく思い出したかのようにアルクェイド・ブリュンスタッドは口にする。

 

 

「あなたは後一度しかまともに戦えない。何故そのことをシエルに言わなかったの?」

 

 

こちらの眠気を吹き飛ばしてあまりある死刑宣告にも似た事実を。

 

 

「あなたにはもう生命力が残っていない。蛇と戦うことを考えれば混沌と戦う余裕なんてない。そう言えばいいのに、何故わざわざ無駄なことをしているの?」

「……それは」

 

 

不思議と驚きはなかった。むしろ清々しさすら感じるほど、彼女の言葉には無駄がなかった。

 

そう、今の自分にはもう余力はない。余命と言い換えてもいい。そんなことは分かり切っていた。二回。それがこの最後の螺旋で許された自分の戦える限界。あまりにも少ない自身の活動限界。死者が相手なら大きな問題ではない。多少は消耗するだろうが回復できる範囲に収まる。だが死徒は違う。蛇や混沌を相手にするのなら文字通り自身の命を削りながら戦うしかない。故に自分はその二度の制約の中で蛇を殺さなくてはならない。

 

しかし、一度目は既に失敗した。混沌も吸血姫も殺し損ね、蛇には触れることすらできていない。アルクェイド・ブリュンスタッドの力を全て奪われることがなかったことだけは成果だがあまりにも大きすぎる代償。全ては自らの愚かさが招いた結果。それを痛感しながらも

 

 

「……シエルさんはお人好しだからな。本当のことを言えばきっと俺に余計な気を遣う。だから言わなかった。言ったところでどうにかなる話でもない」

 

 

ただ本音を口にする。きっとシエルさんのことだ。本当のことを言えば余計な心配をかけるだけ。最悪自分を戦わせないようにするかもしれない。戦闘中に余計な気を遣わせてしまうかもしれない。そうなっては意味がない。自分は代行者としての彼女の力をあてにしているのだから。何よりも言ったところで何が変わるわけでもない。遅いか早いかの違いでしかない。そう、分かっている。人形である自分は理解している。自分は後一度しか戦えない。

 

 

――――否、後一度しか戦う気が無い。たった一つ、命を伸ばす方法があるのを識っているにも関わらず。だがそれはあり得ない。それは今までの自分を否定する手段。それを選択することはできない。もしそんなことをするぐらいなら、無限地獄に落ちる方がマシだった。

 

だがそんな自分の小さな自己満足を

 

 

「何でそんな嘘をつくの? あなたの無駄な行動は全てコハクに起因している。コハクに知られたくないから隠しているだけでしょう」

「…………え?」

 

 

一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。どうしてここで琥珀の名前が出てくるのか。あるのはただ疑問だけ。当たり前すぎて気づけなかった自己矛盾。

 

 

「あなたは『蛇を殺す』ために生み出された存在。ただそのためだけの装置。それ以外のことには何の意味もない」

 

 

何の感情もなく、星の触覚たる吸血姫は告げる。俺の存在意義を。生まれた理由を。

 

同時に目の前にいるはずのアルクェイド・ブリュンスタッドの纏う空気が変わっていく。先程まであったはずの温かさは微塵もない。もし眼を開ければそこには金の瞳をした処刑人の姿があるのだろう。

 

ただ兵器であれ。そう役目を負わされ、そのために生み出された真祖の姫君。それ以外のことは知らず、それ以外のことは何も教えられなかったモノ。求められたのは強さのみ。兵器に言葉はいらない。喋る機能も、パンを焼く機能も必要ない。そんなものを付けるぐらいならもっと兵器らしい機能をつけるだろう。それは正しい。なのに――――

 

 

「なのにどうしてシキは無駄なことばかりしているの? コハクと関わっても、あなたには何の意味もないのに」

 

 

なのに、どうしてこんなに胸がざわつくのか。頭が、痛くなるのか。もう自分は痛みなんて感じないはずなのに。ただ純粋に、苛立っていた。彼女の言葉に。その在り方に。それしか知ることができなかった彼女のこれまでに。

 

 

――――ああ、そうか。

 

 

ようやく分かった。どうしてあの時、自分はアルクェイド・ブリュンスタッドを殺すことができなかったのか。何のことはない。どうにも信じがたいが、自分は彼女の中に琥珀を見たらしい。笑い話だ。要するに自分は、始まりから終わりまであの割烹着の悪魔に振り回される運命にあるらしい。

 

 

「……お前の言う通りだ。俺は『蛇を殺す』ために生まれた。それ以上でも以下でもない」

 

 

肯定する。それは真実だ。そのために自分は生まれて、ここにいる。それは変わらない。誰だって生まれる理由は選べない。そんなことができるのはきっとカミサマだけだろう。

 

目の前にいる彼女は自分にとっての鏡像。ただ一つの目的のために生み出された兵器であり装置。ただ違うのは

 

 

「――――けど、俺の生きる意味は違う。俺は、琥珀を守るために生きている。それだけだ」

 

 

その意味を自分は持っている。同時に頭痛が警鐘を鳴らす。それを口にするな、と。人形でなければ、この先は進めないと。だが構わない。

 

摩耗しても忘れることはない光景。必死に人形になろうとしていた幼い少女が自分に渡してくれた白いリボン。あの時、自分は生まれた。ただの人形だった自分が人間になりたいと願いを持った。

 

血に濡れた着物姿で、自分を庇って死んでいった少女。笑いながら、自分が人間になれたことを喜びながら逝った彼女。遠野志貴ではない、自分を認めてくれた言葉。

 

そうだ。それだけでもう充分に『遠野志貴』は救われている。なら、もう他には何もいらない。それが紛い物の出した一つの、余分という名の答えだった。

 

 

「――――」

 

 

息を飲む音が聞こえる。アルクェイド・ブリュンスタッドはそのまま黙りこんでしまう。どんな表情をしているのか、自分には分からない。ただ、何かに戸惑っているのは感じ取れた。静寂だけが過ぎて行く。だがこのままずっとこうしてしているわけにもいかない。隣の部屋にいるであろう琥珀やシエルさんのことも気にかかる。そのままその場から起き上がり、部屋を後にしようとした時

 

 

「……『君の人生は、目が覚めているだけで楽しいのだ』」

 

 

彼女は独白のようにぽつりと口にする。それは彼女の口から発せられているだけで、彼女の言葉ではなかった。ただ思い出したように誰かが言っていた言葉を反芻しているだけ。抑揚のない言葉には、彼女自身がその言葉の意味を理解していないことが伺える。

 

 

「昔、わたしが生まれて間もない頃に言われたことがあるの。でも分からない。何を言いたいのか。さっきのシキの言葉と同じぐらい」

 

 

子供のように白い吸血姫は呟く。先の自分の言葉と、昔言われた言葉。その意味が分からないと彼女は言う。

 

 

「ねえ、シキならこの言葉の意味が分かる……?」

 

 

純粋な問いだった。きっと彼女自身、忘れていた言葉だったのかもしれない。だが自分は識っている。その言葉の意味も、理由も。でもそれを口にすることはない。それは彼女が自分で辿り着かなければならないもの。何よりも空の知識から得た答えを口にすることは自分が許せなかった。だから

 

 

「……俺にはその言葉の意味は分からない」

 

 

自分の言葉で応える。目が覚めているだけで、生きているだけで楽しい。それはきっと正しいのだろう。でも自分はその言葉には頷けない。頷くわけにはいかない。

 

もう数えきれないほど繰り返して来た生と死。生きることが、死よりも辛いこともあることを俺は誰よりも知っている。だから俺はその言葉には頷けない。それでも

 

 

「でも……その言葉を言った人が、お前の幸せを願っていたことは、分かる」

 

 

それだけは分かる。まだ兵器として生きる前の幼い少女に贈られた黒衣の老人の言葉。それがきっと、彼女に向けられた祝福であることは。

 

 

「…………?」

 

 

その意味を解すことができないのか、アルクェイド・ブリュンスタッドは呆けたまま。今の彼女には届かないのかもしれない。一度壊れた後、直した機械が壊れる前と違っていたように、何かきっかけがなければだめなのかもしれない。それでも少しずつ彼女は変わってきている。自分は本物の遠野志貴のようにはなれない。だからこそできるのはそこまで。ただほんの少し、誰かのようにお節介をすることぐらい。

 

 

「もういいだろ……喉も乾いたし、隣の部屋に行ってくる」

 

 

そう言い残したまま部屋に後にせんと瞬間

 

 

――――衝撃と共に黒いナニカが部屋に飛び込んできた。

 

 

「――――っ!」

 

 

それは自分とアルクェイド・ブリュンスタッド、どちらの息遣いだったのか。分かるのは同時に意識が切り替わったということ。その視線は部屋の飛び込んできた三匹の獣に向けられる。人間よりも大きな巨大な犬。およそこの世の物とは思えないような気配を纏った怪物の一部。混沌の内の一部。窓ガラスを、ドアを破壊しながら三つの暴力が襲いかかってくる。

 

 

「――――」

 

 

一息、空気を肺に取りこんだ後弾けるように体を操る。第一は手にナイフを持つこと。第二が部屋の壁を背にすること。その動作を思考することなく反射で成し遂げる。目の包帯を外すことはしない。そんな暇はなく、そんなことをする必要はない。混沌ではなく、その一部を相手にするだけなら目を閉じたままでも事足りる。

 

左右、そして前方。三方向から獣の牙と爪が迫る。壁を背にしているために逃げ場がない。いや、壁を背にしている以上獣たちはその方向からしか襲いかかることができない。

 

瞬間、二歩歩いた。同時に世界が反転する。上下逆。背の壁を蹴りあげ、天井を足場に反転し獣の後ろを取る。およそ人間ではありえない三次元的な動き。虚をつかれたためか獣たちの反応が一瞬遅れる。それで充分だった。

 

三本の線をナイフでなぞる。力はいらない。壁に落書きするように呆気なく獣たちは解体され無に帰る。死体すら残らない。だが安心している時間はない。状況は最悪に近い。混沌にこちらの居場所がバレてしまっている。結界が見破られたのか、それとも別の要因か。今更そんなことを考えることに意味はない。問題なのはただ一点。

 

 

――――三匹全ての獣が自分に襲いかかってきた、ということ。

 

 

この場には自分だけでなく、アルクェイド・ブリュンスタッドもいる。そして三匹の内二匹はアルクェイド・ブリュンスタッドに近い位置にいた。にも関わらずそれを無視し、自分に向かって来た。導き出せる答えはたった一つ。

 

混沌が白い吸血姫の抹殺よりも、自らの『死』足り得る自分を標的としている事実のみ。

 

 

「遠野君! 大丈夫ですかっ!?」

「志貴さん!」

 

 

間もなく壊されたドアから法衣服を身に纏い、黒鍵を手にしたシエルさんと琥珀がやってくる。もはや状況は説明するまでもない。このマンションは包囲されている。誰も逃れることはできない。いや、包囲されているのは自分だけ。なら、することは一つだけ。

 

 

「……シエルさん、混沌と戦う。手伝ってくれ」

 

 

同じこの場にいる琥珀が見逃されるわけがない。なら、自分はそれを守るために動く。例え蛇に殺すことに繋がらなくとも、それだけが自分がここにいる意味なのだから。

 

すぐさま目に巻いていた包帯、魔眼殺しを外す。これがあっては混沌と戦うことはできない。線ではなく点でなければ混沌は殺せない。だがそれは『遠野志貴』にとって残された最後の機会。

 

 

「遠野君っ!? ですがそれは……!」

「ここじゃ戦いづらい。向かいにある公園。そこで迎え撃つ」

 

 

昨日と全く真逆のことを口にしているからだろう。明らかにシエルさんは混乱している。当たり前だろう。あれほど蛇を殺すことに固執していた自分が、混沌とは戦わないと口にしていたにも関わらず動こうとしているのだから。

 

直死の魔眼を開く。同時に世界に死が満ちてくる。線と点が全てを支配している。青い双眼は暗闇の中。それでも死からは逃れられない。頭痛によって声が漏れそうになるも食いしばる。人形が余分なことをしようとしているからなのか、感じなくなっていたはずの痛みが襲いかかる。どうやら自分は人形にすらなりきれないらしい。

 

 

「志貴さん……!」

 

 

そんな自分に向かって琥珀が近づき支えようとするも寸でのところで琥珀は動きを止める。自分には触れてはいけないのだと思い出したかのように。ただのその両手を胸の前で握りながら心配そうな顔でこちらを見つめている。

 

本当に久しぶりに、琥珀の姿を見た気がした。変わらぬ死の線と点の世界の中で、あの時とは比べ物にならない程成長し、着物姿をした美しい少女。

 

 

『――――志貴さん、わたし、あの時と変わってますか?』

 

 

そんないつかの彼女の言葉が脳裏に蘇る。八年越しの再会。昔とは比べ物にならない程成長した姿を見てほしいと言った彼女の言葉。八年越しの約束。人形の振りをしている人間。彼女がどんな答えを望んでいたのかは分からない。だから

 

 

「――――本当にお前は変わらないな、琥珀」

「…………え?」

 

 

ぽつりと、思ったままの言葉を口にする。変わっていない、と。あの時と同じ答え。それでも全く逆の意味を持つもの。いつかアルクェイド・ブリュンスタッドが言っていた。今の琥珀は自分が知っている琥珀ではないと。ああ、その通りだろう。でも違う。例えどんなに繰り返しても、違う世界であったとしても、自分にとっては『琥珀』であることには変わらない。どんなに繰り返しても、自分を『遠野志貴』として見てくれた彼女のように。

 

そのまま振り返ることなく部屋を後にする。シエルもまたこの場に琥珀とアルクェイド・ブリュンスタッドを残していくリスクを考えながらも全ての可能性を考慮し遠野志貴の後に続く。アルクェイド・ブリュンスタッドはただその赤い瞳で遠野志貴の後姿を見つめているだけ。そして琥珀は――――

 

 

それぞれの想いを胸に、混沌を巡る長く、深い夜の舞台の幕が上がろうとしていた――――

 

 

 



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第三十二話 「答え」

 

日付が変わり、人々が眠りに就こうとしている時刻。人気がない公園の中に彼らはいた。

 

およそ常人とは思えない巨体とコートを羽織った男。見る者を畏怖させるに十分な風格を持った、ヒトではない存在。死徒と呼ばれる怪物。

 

一歩一歩、一定の歩調を保ちつつ男は公園の中へと進んでいく。表情からは何も感情を読み取れない。まるで修行僧、探究者にも似た貌がそこにはあった。だがその歩みは

 

 

「――――そこまでです。ネロ・カオス」

 

 

凛とした、同時にナイフを突きつけるような鋭さを持つ声によって遮られた。

 

法衣を身に纏い、その手には黒鍵が握られている。そこにはもはや個人としての彼女はいない。ただ異端を狩るための戦闘者。

 

ネロ・カオスとシエル。決して相容れることはない、ただ互いを滅するだけの関係の二人が今、月下の公園で向かい合っていた――――

 

 

 

「…………」

 

 

だが混沌は何も口にすることはない。吸血鬼にとって天敵とも言える教会の人間が目の前にいるにも関わらず。微塵の恐れも見せない。ただ足を止めたまま、何かを探しているかのように。

 

 

「……一つ聞かせなさい。貴方が何故こんな場所にいるのか。真祖アルクェイド・ブリュンスタッドの抹殺が貴方の目的のはず」

 

 

その意味を理解しながらもあえてシエルは問う。問わねばならなかった。何故ここにやってきたのか。そう、ここにはネロが目的とする吸血姫はいない。彼女を殺すことがネロの目的であったはず。にも関わらず、ネロは躊躇うことなくただこの場へと現れた。明確な目的を持って。

 

瞬間、初めて混沌は感情を見せる。片目を閉じ、ただ思考する。自らが持つ宿願、命題。

『混沌』

 

全てが生まれる原初のセカイ。その先に何があるのかを追い求めてきた。そのために全てを捨てて来た。ヒトの名も、命も。全てを飲み干してきた。血も、命も。吸血種の中にあってなお、不死身と称されるほどに。

 

 

――――だが、ソレを目の当たりにしてしまった。

 

 

とうの昔に超越したはずの事象。もはやその事実すら忘れかけていたはずの感覚。それを、思い出してしまった。

 

 

『恐れ』という最も醜悪な、あってはならない感情を。

 

 

「 ――――痴れたことだ。私が私達であるために、障害を排除する」

 

 

自らの『死』足り得る例外を排除するために。己の命題に反するものを残しておくわけにはいかない。ただあるのは魔術師としての、群体としての本能のみ。

 

 

憤怒にも似た形相を見せながら、混沌は自らの世界を解放した――――

 

 

コートをはためかせた瞬間、それらは弾丸のように飛び出していく。混沌の内に宿る獣たち。その全てが人間を一瞬で葬れる体躯を有している。数は六つ。その全てがたった一つの目標に向かって襲いかかって行く。逃れる術はない。人間であれば肉片一つ残さす切り刻まれ、食われてしまうであろう状況。しかしそれは

 

 

音すら置き去りにする弓によって霧散した。

 

 

轟音にも似た風切り音。同時に砲弾が着弾したかのような衝撃と爆煙に公園は包まれる。刹那に等しい時間で六つの獣たちは地面に磔にされている。否、もはや原形を残しているものは存在しない。その全てが細い剣の投擲によって吹き飛ばされていた。

 

 

「――――」

 

 

目を見開き、シエルはただネロを見据えている。手には既に新たな黒鍵が握られている。空気が震えるほどの気迫。握られた黒鍵の柄は彼女の力によって軋み、悲鳴をあげている。

 

一本の剣によって巨大な肉食獣が吹き飛ばされ粉々になる。本来ならあり得ない物理法則。それを為し得ているのは魔術ではない。純粋な身体能力と技術。教会の中においても異端とされる存在。埋葬機関の七位。弓の異名を持つ彼女だからこそ可能な圧倒的な力。並みの死徒ならばその一撃で決着がつく。しかしシエルには油断も慢心もない。何故なら今目の前にしているのは、死徒の中においても恐れられる二十七の怪物の一つなのだから。

 

それは戦争だった。絶えることなくケモノ達が混沌なら生まれ、駆けて行く。その数は優に五十を超える。量も質も先程とは比べ物にならない。咆哮と共に暴力が振るわんとするもその全てが破砕される。寸分の狂いもない芸術。神の裁きを下す代行者。その名に相応しい鉄槌によってケモノ達は己が獲物に辿り着くことさえ叶わない。

 

何よりも今の彼女の強さは鬼神じみていた。彼女を知る者から見ても、常軌を逸していると感じるほどに。その証拠にシエルは未だに一歩もその場から動いていない。一歩も動くことなく、五十を超える混沌のケモノを撃ち落としている。足元の地面は彼女の力に耐えきれないかのように抉れてしまっている。

 

そこには確かな意地があった。叶うのなら、己の力のみで目の前の怪物を滅することができないのか、と。だが――――

 

 

「――――っ!?」

 

 

初めて彼女の顔に焦りが浮かぶ。変わらず襲いかかってくる獣の群れ。それを討ち払うことはできる。そう、それが自分に襲いかかってくるのなら。

 

 

「はあっ!」

 

 

後方に跳躍しながら機関銃のように黒鍵を打ち続ける。その全てが的を射抜く。だが確実にシエルは追い詰められていく。何故なら混沌は初めから彼女を狙ってはいなかったのだから。自分を狙ってくる相手を迎撃するのと味方が狙われているのを迎撃すること。そのどちらが困難かなどもはや考えるまでもない。

 

シエルは己が全力を持って混沌を食い止めんとするも形勢は変わらない。自分を無視し、その後ろにいる彼に向かって襲いかかろうとしていく群れを全て排除することができなくなりつつある。同時に滅したはずの獣たちはすぐさま泥となり根本であるネロの元へと還っていく。完全な袋小路。終わることない繰り返し。

 

瞬間、シエルは思考を切り変えながら大きく跳躍し、その場から脱していく。初めから決められていたかのような手際の良さ。法衣をはためかせながらシエルは公園の中にある雑木林へと姿を消す。だがその眼にはあきらめはない。撤退という二文字を欠片も感じさせない決意を秘めながら彼女は自らを律する。我儘はここまで。ならば本来の役目を果たすために。

 

 

「――――いいだろう。その思い上がり、その身を持って知るが良い」

 

 

微塵の揺らぎも感じさせぬ獣の王は悠然とその場所へと足を踏み入れる。その全てを看破したかのような眼を見せながら戦場は人工の中にある自然へと切り替わった――――

 

 

 

月明かりすら届かない、深い闇の中にソレはいた。身を潜め、自然と一体化している人形。遠野志貴はその手にナイフを握ったまま、木の幹の上でその時を待ち続ける。その瞳は閉じられたまま。だが問題はない。移動するだけならば目を開ける必要はない。必要なのはモノを殺す時だけ。

 

 

「――――ふぅ」

 

 

一度大きく息を吐く。自分の体に酸素を送り込む。もういつ壊れてもおかしくない身体だが、まだ動いてくれるようだ。左腕が無いのは痛いが仕方がない。今持てる物だけで、決着をつける。

 

 

「…………来たか」

 

 

ぽつりと誰にともなく呟く。今まで一定だった炸裂音が変わった。同時に徐々にこちらに近づいてくる。間違いなくシエルさんがこちらにやってきている。予定よりは随分遅いがおおよその見当はつく。恐らく、自分だけで混沌を滅することができないか足掻いたのだろう。間違いなく、自分に戦わせないで済むようにと。やはり、何度繰り返してもあの人のお人好しは変わらない。それに何度救われたか分からない。にも関わらず、自分はかつて彼女に全てを明かすことなく蛇と戦ったことがある。それによって、彼女は命を落した。その間違いを二度と犯さないために、自分は彼女に対しては決して嘘をつかないと誓った。

 

 

「…………」

 

 

無駄なことを考えている自分に驚くしかない。この状況で、何を思い出しているのか。ただ今は混沌を殺すことだけを考えなければならないのに。これではまるで――――

 

 

一際大きな音が響き渡る。樹木が倒れるような衝撃。これまでとは明らかに異質なもの。自分に対するシエルさんの合図。同時に目を開きながら動き出す。ただ木々の間を縫うように駆ける。向かう先は音が起こった場所。ネロ・カオスがいる場所へ。

 

それはまるで巣を這う蜘蛛だった。足を使い、一部の無駄もなく最短の動きで夜の森を這って行く。七夜の一族が得意とする歩法であり戦法。混血、人間でないモノと戦うために編み出された技術の結晶。ただし、自分が扱っているのはその紛い物。知識から得た情報を以ってそれを再現しただけの内に何も宿らない物だが、それでも僅かな勝機となり得る。

 

 

シエルを囮とし、自分が隙を突き混沌を仕留める。

 

 

単純な、しかしこれ以上ない選択肢。奇しくも本物の遠野志貴とアルクェイド・ブリュンスタッドが取った戦法。

 

だが本来の効果は得らない。何故なら自分の存在を混沌に知られてしまっているのだから。その証拠に混沌はシエルさんではなく自分を狙っている。それでも今はシエルさんの力に頼るしかない。ネロには奇襲は通用しない。例えネロが認識していなくともネロの中の獣のいずれかが迎撃する。群体であるが故の強み。ならば、その迎撃を見越したうえで奴の死を貫くしかない。

 

時間にすれば十秒にも満たない間に戦場に辿り着く。青い浄眼によって全ての状況を把握する。

 

――――シエル。

 

跳躍しながら黒鍵によって混沌のケモノを迎撃している。後退しながらも未だに自分に一匹もケモノが襲いかかってきていないことからその全てを討ち払っているのだろう。

 

――――ネロ・カオス。

 

シエルの奮闘を見ながらも全く意にすることなくこちらへと向かってきている。自分がいることはとうに知られているのだろう。あれは六百六十六のケモノの混沌。ならば臭いでこちらの位置がばれても何ら不思議ではない。気配や魔力を隠せても、臭いを消すことなどできるわけがない。

 

だが構わない。それを超えて、逃れられない死を。身体に走る痛みも全て無視する。ただ人形を動かすように、それが自分のできる唯一の生き方。

 

――――瞬間、獣たちの動きが変わった。自分がすぐ近くに来たことを察知したのか。矛先を一斉に木の上にいる自分に向けんとする。しかし、それを弓足る代行者が許すはずがない。

 

 

「――――あぁっ!!」

 

 

渾身の力を込めた黒鍵が自分がいた木の幹ごと昇ろうとしてきた獣たちを粉砕する。それから逃れる術はない。同時に自分は弾けるようにネロの背後にある木へと飛び移る。完璧なタイミング。右手にナイフ。直死の魔眼は混沌の死を捉えている。

 

迷わずその背に向かって飛びかかる。逃れようのない勝機。反射的にネロの体から獣の一部が生まれ自分を葬らんとするがその全てをシエルが薙ぎ払う。こちらの能力が晒されているように、こちらの混沌の能力は看破している。

 

 

――――殺した。その確信は

 

 

「――――勘違いしてもらっては困るな。狩っているのは私達の方だ」

 

 

死を目の前にしながらも全く恐れをみせないネロ・カオスによって覆される。

 

突如、視界が暗転する。何が起こったのか分からない。エラーが起きた機械のように思考が定まらない。ただ必死にその場から飛びのいた。ようやく気づく。自分の身体の一部が抉られている。そう、まるで弾丸に貫かれたように――――

 

 

「――――遠野君、上です!」

「っ!!」

 

 

シエルさんの悲鳴にも似た声によって反射的に身体を逸らす。同時に頬が切り裂かれ鮮血が舞う。ようやく眼がその正体を捉える。それは鳥だった。カラスにも似た漆黒の容姿。だがその容姿は普通ではない。鷹にも似た大きさ、爪、嘴。ようやく理解した。先程自分はその『無数』の鳥たちによって吹き飛ばされたのだと。

 

その恐ろしさを一瞬で自分は理解する。そう、自分達は何も理解していなかった。ネロ・カオス。混沌が獣の群体であるという本当の意味を。

 

 

自分達は追い詰めていたのではなく、追い詰められていたのだと。

 

 

瞬間、無数の鳥が襲いかかってくる。自分はすぐさま体勢を整えながらも迎撃するが対処しきれない。肉食獣ならまだ対抗しようもあるだろう。だが相手は空を飛んでいる。体も小さい。その証拠にシエルさんも自分を援護しようとしているもその全てを撃ち落とすことができていない。

 

 

「ぐっ……!」

 

 

身体を捻り、ナイフだけでなく足も使いながら纏わりついてくる鳥達を殺していく。だが追いつかない。いくら距離を置いても追い縋ってくる。身を潜めることもできない。それでも足場を変えなければ。しかし次の木の幹に飛び移った瞬間、凄まじい激痛が遠野志貴の体を襲う。

 

 

「―――っ!」

 

 

痛みを感じない、人形である自分は声を上げることはない。それでも、信号としてそれは感じ取れた。自らの足に大蛇が巻きつき、その牙に刺されていることを。死の線と点で夜でもはっきりと見える。この周囲、自分がいる空間に無数の蛇が張り巡らされている。恐らくは上空には先程の鳥たちが。もはや称賛を贈るしかない。

 

自分はこの場所が自分にとっての地の利だと考えていた。だが大きな間違いだった。そう、森という場所は混沌たちにとってこれ以上にない狩り場だったのだと。

 

迷うことなく自らの足にナイフを突き立てる。その光景にシエルさんが何かを叫んでいるが聞こえない。説明している時間すらない。ただ身体に廻るよりも早く毒を『殺した』

 

まるで知っているかのように身体が動く。当たり前だ。身体に巡る毒すらこの眼は殺すことができる。自分が識らないはずがない。何故なら――――

 

 

それでも、とてつもない負担が脳にかかる。本来見えない物を見ようとした代償。本物の遠野志貴が一時的に失明した程の負荷。眼が強くなっている分見えやすかったがそれでも昏倒しかねない頭痛が身体を襲う。

 

 

「――――掴まってください、遠野君!!」

 

 

身動きが取れずそのまま地面に落ちようとしていた自分に向かってシエルさんが手を伸ばしてくる。見ればその姿は自分に負けず劣らずのもの。法衣は所々破れ、血が痛々しく滲んでいる。きっと自分を助けようとしている間に獣たちにやられたのだろう。彼女一人ならこんな醜態は晒さないで済んだろうに。

 

 

「ここは一旦退きます……このままでは……!」

 

 

自分を肩に貸しながら跳躍し、森から脱出する。遮蔽物が無い公園の中。だが先程までの状況に比べれば幾分マシだろう。だが

 

 

「ほう……この状況で私から逃げられると思っているのか」

 

 

形勢は覆らない。森の中からネロ・カオスはゆっくりと姿を見せる。もはや逃げ場など無いのだと告げるかのように。それは正しい。そう、自分にはもう、『逃げる』という選択肢すら残されてはいなかった。

 

 

「……ありがとう、シエルさん。助かった」

「遠野君!? まだ動いてはダメです! その体ではもう――――」

 

 

何とか身体を立て直し、立ち上がる。傷も出血もあるがまだ身体は動く。問題は外よりも内。そう、混沌の言う通りだ。逃げたところで意味はない。もう自分には『次』がないのだから。一旦退いたところでもう、戦うことはできない。

 

 

もう一度戦うことができたとしても結果は変わらない。人形である自分は決まった性能しか出せない。機械が定められた機能しか発揮できないように、自分は決まった能力しか遠野志貴の力を引き出せない。先程がその限界。シエルさんの援護を受けたうえであの結末。なら何度繰り返してもそれは同じ。なら、もう――――

 

 

「…………シエルさん、後は任せた」

 

 

ただ思いついた言葉を口にした。深い意味はなかった。ただ、そう言いたかった。

 

 

 

 

――――それは自殺だった。

 

 

少なくとも、シエルにはそう見えた。自分が制止する間もなく、彼は一直線に混沌に向かって走り出した。手にナイフだけを持ちながら。必死に、それでも前へ。

 

だがそこに感情はなかった。生きようとする意志も、戦おうとする意志も。ただそれ以外に生き方を知らない、哀れな人形。壊れてしまうと分かっているのに、崖に向かって飛び降りるような光景。

 

 

「――――」

 

 

声を上げることもできなかった。できるのはただ残された黒鍵を振るい、彼に襲いかかって行く混沌のケモノを薙ぎ払うことだけ。それでも彼は止まらない。恐怖が無いのだろうか。ただ真っ直ぐに、子供のように走っている。その眼は混沌だけを捉えている。獣達には一瞥もくれることはない。自分が援護してくれると信頼しているのか。いや、違う。もし自分が援護をしなくても彼は進み続けるだろう。

 

手を切られても、足を削られても、身体を穿たれても、頭を砕かれても。

 

あるのはただ後悔だけ。こうならないために、自分は彼と契約した。蛇を殺すために。それとは違う、もう一つの願いを、あの少女との約束を守るために。なのにわたしは――――

 

 

 

 

――――眼がアツイ。

 

 

眼球が沸騰しているようだ。もし右手にナイフを持っていなければ眼を抉りだしたいと思うほどに目がアツイ。視界が歪み、ぼやけてくる。比例して頭痛が増していく。もう痛みなんて通り越している。それが何を意味しているかも分からない。

 

 

音も聞こえない。分かるのはまだ自分の形があることだけ。なら行かないと。でないと俺は生きていけない。俺がいる意味が、なくなってしまう。

 

 

このナイフで、あの死の点を突く。ただそれだけでいい。でも、それが届かない。

 

 

目の前には自分を殺さんとする混沌の姿がある。その容姿はそれまでとは全く異なる。人の形をしていない。ただ、自分を、己の死を殺すためだけのカタチ。

 

 

その動きはただ綺麗だった。ただ純粋に、相手を殺すための動き。人形の自分では決してできない、到達点。それに対応することができない。本物の遠野志貴にはできたことが、自分にはできない。分かり切ったことなのに、どうしてそれをあきらめることができなかったのか――――

 

 

 

――――瞬間、想い描く。

 

 

見たことはないけれど、識っている光景。

 

 

向日葵のような笑顔を浮かべながら両の手を広げている、琥珀の姿。

 

 

自分ではない、本物の遠野志貴ならば叶えることができた、彼女の日向の夢。

 

 

 

 

――――ああ、そうか。

 

 

ようやく、気づいた。どうやら自分はただ、その光景が見たかっただけらしい。笑い話だ。死にたいと思っていた自分が、こんなにも生きたいと思っていたなんて。

 

 

 

――――これじゃあ、どっちが人形の振りをしていたのか、分かったものじゃないな

 

 

 

自嘲しながら、満足したようにその眼を閉じ、それを待ち続ける。忘れはしない死の感覚。何もない恐怖。今までと違うのはそれが永遠に続くことだけ。なのにそれはいつまでたっても訪れなかった。

 

 

痛みも、暗闇も。あるのは温かさだけ。それが何なのか理解する前に思考が停止した。その眼には

 

 

 

 

 

自分を抱えたまま、いつものように自分を見下ろしている、どこかで見た吸血姫の姿が映っていた――――

 

 

 

 



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第三十三話 「初心」

 

「…………え?」

 

 

ただ間抜けに呆けるしかない。何が起こったのか。何故自分がまだ生きているのか。夢を見ているのではないか。そんな思考すら目の前の光景を前にしては無意味だった。

 

アルクェイド・ブリュンスタッドに子犬のように首元を掴まれて持ちあげられているという理解できない状況。きっと周りから見れば自分の比ではないだろう。

 

 

「…………」

 

 

その証拠に自分以外にこの場にいるシエルさんと混沌も言葉を失っている。突然乱入してきた白い吸血姫。それだけならまだ驚くには値しない。彼女は吸血鬼でありながら吸血鬼を狩る者。蛇の消去を第一に動いているが、それでも二十七祖であるネロ・カオスを滅するためにここに来るのはなんら不思議なことではない。だからこそその場にいる誰もが驚愕し、言葉を失くしている。

 

 

そう、何故混沌を攻撃できたはずのあの刹那に、自分を助けるような真似をしたのか――――

 

 

「ブリュンスタッド……お前どうし、ぶっ!?」

 

 

何とか声を上げようとした瞬間、無造作にその場に落される。こちらへの気遣いも何もあったものではない。掴んでいた猫を床に落とすかのように為すすべなく地面に落され苦悶の声をあげるもアルクェイド・ブリュンスタッドは表情を変えることなく、いつものように不思議そうに自分を見下ろしているだけ。そういえば眼を開けた状態で彼女の表情を見たのは初めてだった。処刑人とはかけ離れたどこか子供のような純粋さを感じさせるもの。命がけの殺し合いをしているこの場には似つかわしくない彼女の姿にただ目を奪われるしかない。

 

 

「――――ア、アルクェイド・ブリュンスタッド!? 何故貴方がここに……それよりもどういうつもりですか!? どうして遠野君を……」

 

 

助けるような真似をしたのか、と口にしかけたところで口を紡ぎながらシエルさんは慌てながら自分へと駆け寄ってくる。先の言葉を止めたのはまるで自分が助けなくてよかったと取られかねなかったからだろう。そのままアルクェイド・ブリュンスタッドは自らの右手、そして今はない左手があったはずの場所に目を向けた後、ゆっくりと自分を赤い瞳で見つめてくる。何かを思い出しているかのような仕草。それが何なのか分からない。ただ白い吸血姫は口にする。自分がここに来た理由を。それは―――――

 

 

 

――――静けさを取り戻したマンション。人の気配も、それ以外の気配もない。その場に残されたのは二人だけ。琥珀とアルクェイド・ブリュンスタッド。およそこの場に居合わせることがおかしい二人組は何をするでなくその場に留まっている。いや、留まらざるを得なかった。琥珀はただその場に立ち尽くしたまま、遠野志貴が出て行ったドアを見つめることしかできない。

 

 

(志貴さん……)

 

 

ただ見送ることしかできなかった。止める術がなかった。金縛りにあったように。包帯を外すことは彼にとっては禁忌に近い行為だったはずにも関わらず、微塵の躊躇いもなく彼は包帯を外した。何よりもその蒼い瞳で見つめられながら言われた言葉が耳から離れない。

 

 

『――――本当にお前は変わらないな、琥珀』

 

 

何気ない、意味のないような言葉。でもそこに、彼の想いがこもっているような気がした。親愛にも似た何か。同時に哀愁を感じるもの。そう、これでもう会うことはないのだと悟ってしまうほどに。

 

でもわたしにできることは何もない。今も、昔も。それでもわたしは――――

 

 

「…………」

 

 

そんな思考を巡らせているのも束の間。突然アルクェイドさんが動き出す。自然に、そうするのが当然だとばかりにその動作には無駄がない。一言も発することも振り返ることもなく部屋を出て行かんとしている。

 

 

「ア、 アルクェイドさん、どこに行かれるんですか!?」

「……ここを出て行くだけ。もうここにはシキもシエルもいない。ここにいる意味はわたしにはない」

 

 

思わず大きな声で制止してしまうもアルクェイドさんは僅かに顔をこちらに向けるだけ。まるで機械のような反応。出会ったばかりのころに戻ってしまったかのよう。そんな彼女の姿に面喰ってしまう。

 

そう、これが本来の彼女の姿。ただ吸血鬼を殺すことだけを目的に生み出された処刑人。同時に得もしれない既視感、同族嫌悪が生まれて行く。そこにはかつての自分の姿がある。ただ一つの目的という名のゼンマイしか持たないまま人形として生きてきた『琥珀』の姿。そして、『遠野志貴』として生き、死んで行こうとしている彼の姿が――――

 

 

「……アルクェイドさんは、知っていたんですね。志貴さんがもう、長くは生きられないことを」

 

 

ぽつりとただ純粋な疑問を口にする。アルクェイドさんを引きとめる意図もあったが、それ以上にしっかりと確認がしたかった。シエルさんから聞かされた内容。あの人がもう、長くても一週間しか生きられないであろうという事実。

 

 

「ええ。シキの身体は限界にきている。生命力がほとんど残っていない状態」

「生命力……?」

「そう。直死の魔眼による負担によって生命力が急激に失われ続けている。クルマに例えればガソリンが常に漏れ続けているようなもの。なくなれば動けなくなる。死と同義よ」

 

 

淡々と彼女は事実を告げて行く。そこには感情はない。まるで事象を観察する観察者のように、そこには何もない。だが今のわたしにとってはそんなことはどうでもよかった。ただ一つだけ、わたしにもできることがあるかもしれないという光明だけ。

 

ようやく理解する。あの人が、どうしてわたしに何も事情を明かさなかったのか。シエルさんが言っていた。あの人は知識として全てを理解している。なら、わたしのことも知らないはずがない。でも同時に安堵する。もし彼が本当に人形なら、何のためらいもなくわたしに事情を明かしているはず。そうしないのは、きっと――――

 

 

「それにシキはもう戻ってくる気はない。後一度しか戦えないのに、ネロと戦うなんて無駄なことをしているから」

「無駄なこと……? 何でそんなことを志貴さんが」

「……? 何を言っているの? コハクのためでしょう? シキが言っていた。自分が生きているのはコハクを守るためだって。でも分からない。どうしてそんなことをしているのか。貴方達の寿命は短いのだから、無駄なことをしている暇なんてないはずなのに」

 

 

知らず視線を下に向けながら、アルクェイドさんは独白する。理解できない、自らの在り方とは真逆の物を見せつけられた少女のように。

 

その姿がかつての自分と重なる。八年前、初めて彼と出会った時。自分と同じ人と出会えた喜びと、同時にそれを否定されてしまった悲しみ。

 

 

『そんなことをしても痛みはなくならない。君は人間だから、人形にはなれない』

 

 

人間は人形にはなれない。幼いわたしは、それがわたしを否定した言葉なんだと思っていた。それに八つ当たりをするように生きてきた。でもようやく分かった。

 

そう、あれは肯定の言葉だった。人形ではない、人間としてのわたしを認めてくれた言葉。同時に、人間になりたいと願った彼のユメ。

 

そのままアルクェイドさんは部屋を出て行く。振り返ることはない。行く先はどこか。きっと彼女にもそれは分かっていない。

 

彼ももう戻ってくることはない。アルクェイドさんの言葉が正しいなら、例え吸血鬼を倒したとしてももう命は尽きてしまう。それでは間に合わない。帰ってきてくれなければ、わたしの力は意味を為さない。今のわたしには何もできない。でも、彼女ならもしかしたら――――

 

 

「――――」

 

 

言葉が出てこない。たった一言なのに、口にできない。動悸が激しくなる。身体が震える。おかしい。小さい頃は、この言葉しか考えてない時期があったのに。声が出なくても、ただノートに書き続けるぐらい、滲んだコトバだったのに。いつからだろう。それを口にしなくなったのは。いつからだろう、それをあきらめたのは。そんなことを考えるから、イタくなるんだと分かっているはずなのに。それでも、わたしは――――

 

 

「――――助けて」

 

 

人形になってから初めて、心から誰かに助けを求めた――――

 

 

「――――?」

 

 

消え入りそうな声は、それでも彼女に届いたのか。ただ目を見開き、驚いたようにアルクェイドさんはこちらに振り返っている。でも一番驚いているのはわたし自身。

 

 

「お願いです……志貴さんを、助けてあげて下さい」

 

 

壊れた人形のように、涙が止まらない。どこからくる想いなのか分からない。ただ子供のように助けを乞う。かつて狂おしいほど望んだ願い。地獄にも似た世界から救い出してくれる誰か。あの時と違うのは、自分ではなく、彼を助けてほしいという願いだったということ。

 

 

「――――」

 

 

静寂だけが支配する。アルクェイドさんはただ固まったまま。さっきのわたしの言葉の意味が理解できなかったかのように。しかし、徐々にその瞳に揺らぎが生まれて行く。機械が故障したかのように、無駄という名の異物を前にして、白い少女は

 

 

「――――できない」

 

 

ぽつりと、言葉を漏らす。できない、と。だが落胆はない。初めから分かっていたこと。自分ではできないことを都合よく彼女に押し付けようとしただけなのだから。かつてのわたしなら、もっと上手くやったのだろう。今なら、ネロという吸血鬼を殺すことができると、彼女にとってのメリットを提示して状況を整える。遠野家に復讐する時のように。でもそれはしたくなかった。それはもう一度、わたしが人形になることを意味する。彼を裏切ることになってしまう。だから、仕方がないと思った時

 

 

「…………だって、そんなの……したこと、ない」

 

 

彼女はまるで初心な少女のように、戸惑いながら独白する。

 

 

そんなことはしたことがない。初めての行為に戸惑う処女のように、その姿は愛らしいものだった。もしわたしが志貴さんだったら、思わず抱きしめたくなるぐらいに。もしかしたらわたしも、あんな反応をすることがあるのかもしれないと笑ってしまうほどに、今の彼女は眩しかった。

 

 

「――――アルクェイドさん」

 

 

知らず流れていた涙を拭った後、彼女に向かって助言をする。彼女が何に戸惑っているのかわたしには分かる。ちょっとずるいけれど、これが彼女の新しいゼンマイになることを願いながら。

 

 

「もし志貴さんに何か言われたらこう言ってあげて下さい。それだけできっと大丈夫です」

 

 

その時の彼の反応を見れないことを残念に思いながら、割烹着の悪魔は助言という名の悪戯をしかける。それは――――

 

 

 

 

「――――わたしをキズモノにした責任、ちゃんと取ってもらうんだから」

 

 

白い吸血姫は真っ直ぐ遠野志貴を見つめながら宣言する。その言葉の意味を半分しか理解しないまま。もう半分の意味を込めた少女はこの場にはいない。だがそれだけで充分だった。

 

遠野志貴はただ呆然と魅入られる。その姿と言葉に。そう、知識として知っている彼女が口にしていた、始まりの言葉。そして決して聞くことが無いだろうと思っていたもの。それだけならまだ驚くだけで済んだだろう。なのに

 

 

「…………ふっ」

 

 

思わず噴き出してしまった。あまりにも、不可解で、呆れたこの状況に。

 

 

「ははっ、はははははは――――!」

 

 

眼を閉じながらただ笑う。ボロボロになった身体も、頭痛も全て消え去ってしまった。ただ可笑しくてたまらない。こうして生きている自分も、自分をきょとんとした様子で見つめているアルクェイド・ブリュンスタッドも。困惑しているシエルさんの姿も。

 

憑きものが落ちたかのように、全てが晴れて行く。ただアルクェイド・ブリュンスタッドの姿に琥珀の姿が重なる。全く悪い冗談だ。一人でも持てあましているのに、もう一人アンバーな吸血鬼が増えるなんて、笑えない。

 

 

「……? 何がおかしいの、シキ?」

「はは……いや、何でもない。ただこの先苦労するだろうなって思っただけだ」

 

 

ようやく笑いを抑えながら愚痴をこぼす。そういえばこの先、なんて言葉を使ったのはいつ以来だろう。全く、調子が狂ってしまう。いや、狂っていた調子が元に戻ってきただけなのかもしれない。だがいつまでも笑ってばかりはいられない。

 

 

「分かった……確かに、責任は取らなきゃいけないもんな。とりあえず、その左腕分は働かせてもらう」

 

 

身体を起こしながら右手を差し出す。手を貸すと言う意志表示。彼女からすれば意味のない、無駄な行為。だからこそ、責任を果たすために。

 

 

「――――ええ、手を貸してもらうわ」

 

 

どちらの、とは口にしないまま。アルクェイド・ブリュンスタッドはその手を握り返す。あの時のように何となくではなく、明確な意志をもって遠野志貴の手を握る。

 

 

「と、遠野君……一体何を」

「悪い、左手はないからシエルさんの手は握れないんだ」

「な、何の話をしているんですか!? それよりも今は―――」

「ああ、とりあえずは――――」

 

 

眼を開けながら先にある混沌を見据える。アルクェイド・ブリュンスタッドが現れたことで警戒しているかその場に留まっている吸血鬼。それを超えなければどこにも行けない。ただ不思議と恐れはなかった。

 

状況は何も変わっていない。眼の痛みも、頭痛も。身体の限界も。長期戦になどならない。できるのは後一度の接触のみ。故にその一瞬で勝負は決する。だが

 

 

「――――力を貸してくれ、二人とも」

 

 

向こうは六百六十六でありながら一人分の意志。こっちは四人分。なら、負ける道理はない――――

 

 

 



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第三十四話 「極死」

 

ネロ・カオスはただ静かにその光景を観察していた。突如として乱入してきた真祖アルクェイド・ブリュンスタッド。だが理解できなかった。何故彼女があの人間を救うような真似をしたのか。そもそんなことをするなどあり得ない。あれは処刑人。死徒を震え上がらせる程の冷徹な機械。その姿を自分は一度眼にしている。だが今のアルクェイド・ブリュンスタッドにはそれがない。外側は同じでも、その内にあるものが変わってしまったかのように。

 

 

「――――下らん」

 

 

一笑に付す。今この場でそれを考えることに何の意味もない。あるのはただ自らの標的がもう一つ増えた。ただそれだけ。己が為すことは何も変わらない。

 

 

「手間が省けた。その人間と共に、我が一部となってもらおう……アルクェイド・ブリュンスタッド」

 

 

真祖の姫君も、教会の代行者も、己の死と成り得る人間さえも。その全てを食らい尽くし、混沌と為す――――

 

 

瞬間、世界が開かれた。

 

 

ネロ・カオスの内側にある世界。獣王の巣と呼ばれる固有結界。それが表へと現れる。反転し、世界は飲み込まれていく。ただ獣だけが、無数の命という絶対単位しか意味を為さない異界。普段は世界からの修正を逃れるために体内に収めている心象世界をこの瞬間のみ、混沌は展開する。維持できる時間はごく僅か。場合によっては自らを形成する世界が潰されてしまいかねない諸刃の剣。

 

だがネロに恐れはない。魔術師として、死徒として、そしてかつて人間であった欠片として、己が全力を以って目の前の障害を排除するのみ。

 

 

「――――」

 

 

耳を裂くような獣の咆哮。その全てがこの世界に取り込まれた三つの異物に向かって放たれる。黒いケモノ。幻想種すらその中には含まれる。これまでと違うのは、その全てが同時にその世界に存在するということ。外側ではネロが起点となり、混沌を生み出す必要があった。だが今は違う。内側である固有結界の中では最初から混沌の全てが内包されている。つまり飲み込まれたが最後、逃れることなく六百六十六のケモノに襲われ続けるということ。

 

その全てが一斉に牙をむく。光に群がる無数の虫のように、獲物に襲いかかる獣のように世界が迫る。だがそれは

 

 

――――世界を照らす程の雷鳴によってかき消された。

 

 

それは雷だった。無数の電気が走り、火花を散らしながらケモノたちを蹴散らし砕いていく。その中心には黒衣をはためかせながら手をかざしている代行者、シエルの姿があった。だが明らかに先程までとは違う。その身に纏う雰囲気も、瞳も。混沌の世界に飲みこまれながらも、その姿はそれまでよりも力強くすらある。

 

 

「――――貸し一つです、遠野君。これが終わったら返してもらいますからね」

 

 

殺し合いをしているとは思えないほど、場違いな笑みを浮かべながらシエルは呟く。ネロにとっては意味を解せぬやり取り。それが合図になったのか、シエルは己をただ一つのモノへと切り替える。自らにとっての戒め、禁忌を破る行為。魔術師としての姿を。

 

詠唱と共にシエルの身体に光が走る。法衣によって隠れている腕に、不敵な笑みを浮かべている顔に。魔術回路という名のスイッチに火が灯り全身を駆け巡って行く。その駆動音が、発光が辺りを支配する。ただ魔力を通すだけでそんなことは起こらない。だが、シエルにはそれが為し得る。彼女の魔力の保有量は並みの魔術師の百倍を軽く超える。協会であれば王冠に匹敵するもの。だがそれをシエルは表に出すことはなかった。それは自らの罪、蛇から得た知識を使うこと、穢れを意味するものだったから。

 

しかし、今のシエルに迷いはない。自身のことなど今の彼女には微塵も頭になかった。あるのはただ約束を守ることだけ。

 

自らと同じ、死ぬことができない運命に囚われた少年。その姿に己を重ねた。生きることも死ぬことも同じだと、そう言った彼の姿を覚えている。それが違うのだと、証明するために。

 

そんな少年に恋する少女がいた。不器用に生きている彼女と彼が、これからも共に生きる可能性を掴むために。その先にきっと、自分の答えもあると信じて――――

 

 

「はああああ―――――!!」

 

 

魔術を為し、その全てが豪雨のように降り注ぐ。辺り一帯を焦土に帰る程の大魔術。もしこの場が公園であったなら全てが跡形もなく消し飛んでしまっただろう攻撃。その全てによって混沌たちは弾かれ、砕かれ、滅びて行く。数秘紋による雷霆。かつてロアが得意とした術式。それを駆使することで、それを乗り越えようとするようにシエルは自らの命を燃やす。

 

 

――――だが足りない。それだけの規格外の力があっても未だ混沌には届かない。

 

 

一匹。たった一匹が雷雨を逃れて襲いかかってくる。数という暴力。六百六十六。さらに破壊しても、何度でも蘇る不死性。全てを同時に殺さない限り、混沌は無限と同義。ならば雷雨を逃れてくる獣の数もまた無限。多い、という群体の最大の強み。その爪が届かんとした瞬間

 

 

それを超える爪の刃が、暴風となって獣達を消し去った――――

 

 

白い戦姫。金の髪と、金の瞳を見せながら吸血姫は舞う。かつてと違うのはその腕が片方しかない、ということ。だがそんなことは彼女には関係なかった。

 

ただ純粋に、アルクェイド・ブリュンスタッドは強かった。誰も彼女には触れられない。かつて蛇が感じたように白い吸血姫は襲いかかってくる無限に近い混沌たちを蹴散らしていく。シエルとは違う、最強種としての純粋な暴力。だが今の彼女には戸惑いしかなかった。

 

 

――――カラダが熱い。カラダが軽い。鼓動が跳ねる。息が弾む。何かに逸る様に、全てが加速していく。左腕を失くし、力の半分は失われている。万全とは程遠い自身の身体。なのに、今までの中で、一番身体が動く。

 

誰かを助ける。

 

そんな意味のない、無駄なことをしているのに、それがたまらなく嬉しい。

 

もしかしたら、わたしはもう壊れてしまっているのかもしれない。いつ壊れたのか分からない。でも、それが怖くない。今まで見えてこなかった物が、見えてくる。それが何なのか分からない。ただ思い出すのはあの感触。

 

 

自分の手を握ってくれた、シキの手のぬくもり。

 

自分に助けてほしいと言ってくれた、コハクの言葉。

 

 

理由のない熱がわたしを動かす。ただ今は、その衝動だけに――――

 

 

 

雷雨と暴風。二つが合わさり台風となり獣の群れはその中心に近づくことができない。だがそれだけ。近づくことができないだけ。終わりは刻一刻と迫ってくる。混沌は無限。吸血姫と代行者は有限。天秤は徐々に混沌へと傾いて行く。これは分かり切っていたこと。アルクェイド・ブリュンスタッドとシエルでは混沌は倒し得ない。されど――――

 

 

――――ここに、その唯一の例外が存在する。

 

 

それはただの人形だった。ただ一つの役割のために動くだけの、愚かな機械。

 

『遠野志貴』はその中心で膝を着き、右手を胸に当てている。眼は閉じたまま。微動だにしない。自分の周囲で、すぐ傍で戦闘が起こっているにもかかわらず全く気づかないかのように。その姿はまるで神に祈りを捧げる人間のよう。

 

 

「ハァッ……ハァッ……」

 

 

――――ただ呼吸を整える。耳朶に響くのはただ己の心音のみ。

 

自らを守ってくれる雷も、爪も、今は意味を為さない。

 

そう、これは己の内の戦い。これまで逃げてきた、その全てを清算するために。

 

自分では混沌には敵わない。それは覆しようのない事実。例え何度繰り返しても、誰の手を借りようともそれは永遠に変わらない。先の攻防。自分は混沌の動きを超えられなかった。あれ以上の性能を『遠野志貴』は引き出せない。だからこそ自分は、それを選ぶしかない。

 

七夜の奥義であり極致。遠野志貴が持ち得る究極の一でありながら、自分が唯一再現できなかったもの。人形である自分では、この体を十全に扱えない。七分ではない、十全でなければ奥義を放つことはできない。そう、それはすなわち俺が人形であることを止めて、人間にならなければいけないということ。

 

 

「――――」

 

 

瞬間、心臓が跳ねた。心臓がナイフで刺されたかのように、冷たい感覚が全身を駆け巡る。人形ではなくなりつつあるからこそ感じる、痛み。それが、怖い。

 

死ぬのが怖い。痛みが怖い。心が欠けていくのが、怖い。生きて行くのが、怖い。

 

怯えきった子供のように、ただ震えるのを抑えられない。もう何度死んだのか分からないのに、死が怖い。だから、人形になるしかなかった――――違う、逃げるしか、なかった。

 

 

 

『……イタイ、の?』

 

かつての彼女の言葉。それにどれほどの想いがあったのか。

 

 

『……わたしも、イタイの』

 

 

イタイ、と。その言葉にどれだけの意味があるのか、分からない。分かるはずがない。分かるわけがない。それでも

 

 

『だから、自分が人形だと思うの。そうすれば、イタくなくなるから』

 

 

自分は、それを否定した。人間は人形にはなれないと。否定したはずなのに、今、自分は人形になったまま。そうだ。俺は逃げていた。痛みから、世界から、そしてこの時の約束から。

 

 

『もし、あなたが人間になれたら、わたしも――――』

 

 

八年前の約束。それを果たすことを、俺はできていない。右手にはナイフ。左手にはリボン。どちらも自分の物ではない、借り物。それでも

 

 

例え自分が偽物であったとしても、この約束だけは――――

 

 

 

認めた瞬間、痛みが生まれて行く。耐えがたい、それでも生きている証。

 

 

止まった身体が脈を打ち。

 

チューブは一本ずつ血管となって。

 

消え去ったはずの蒸気は血潮となり。

 

細工であるはずの全てが、生まれ。

 

人形の振りをしていた自分が、元に戻って行く。

 

意味は要らない、空の容れ物。

 

 

それが長い螺旋の果てに辿り着いた、『遠野志貴』が人形から人間になった瞬間だった――――

 

 

 

眼を開き、世界を見る。死と向き合う。ナイフを持つ右手はとっくに握りこぶしになっている。これが最後。今持てる、人間としての自分の全てを賭けてあの混沌を乗り越える――――!!

 

 

 

瞬間、ケモノ達は形を失った。その全てが泥のように溶け一つに戻って行く。創生の土と呼ばれる混沌の本来の姿。指向性を持たない命の源泉。しかし、それに指向性を与えているものがある。ネロ・カオスという群体の本能。その全てが集結し、大きな津波となって全てを飲みこまんと迫る。だが

 

 

「――――遠野君!!」

 

 

シエルは残された全ての力を振り絞り、八本の黒鍵を周囲に展開する。その全てにシエルの魔力が流され雷の結界が泥を弾いて行く。三人分の陸の孤島。しかしその圧力によってシエルの顔が苦悶に歪む。魔術回路が焼き切れんばかりの激痛に耐えながらも、シエルは決して退かない。

 

だがそこまで。足場は作れても、シエルにはその先までは至れない。『遠野志貴』が進むべき道を作ることが。しかし

 

 

「――――星の息吹よ」

 

 

それを造り出せる、星の生み出した奇跡がここにある。

 

それは細く、今にも消えてしまいような光の道。

 

『空想具現化』

 

真祖の姫君に許された、己が空想を現実とする幻想。その力は全盛期には遠く及ばない。半分の力しか持たない彼女にとってはそれが精一杯。だがその空想は、これまで彼女が現実にしてきたものよりも、美しい幻想だった。まるでアルクェイド・ブリュンスタッドの今の心が形になったかのように、光の道が生まれて行く。

 

泥によって漆黒に染まった世界において、それはたしかな蜘蛛の糸だった。

 

 

迷いなくその道に向かって飛び込む。痛みはある。今にも頭が割れそうな、目が沸騰しそうな痛みに声すら出ない。だが恐れはない。後悔はない。あるのはそう、ただ生きてもう一度、琥珀に会いたいというみっともない願いだけだった――――

 

 

 

その光景を、確かにネロ・カオスは見た。破ることなど不可能なはずの創生の土による圧殺。そこから生まれた光の道。僅かな空白。そこから飛び出してくる、遠野志貴の姿。

 

だがそれだけ。先程の焼き回し。迎撃し自らの勝利は揺るがない。あの時のようにアルクェイド・ブリュンスタッドが間に割り込む余地すらない。しかしその予測は

 

 

「何っ―――!?」

 

 

遠野志貴と同時に迫ってくる、一本のナイフによって覆される。

 

 

遠野志貴と全く同じ速度で、タイミングで襲いかかってくるナイフ。どちらかを躱したところで、もう一方の一撃によって標的を殺す。二撃必殺とでも言える奥義。

 

 

『極死・七夜』

 

 

人間となった『遠野志貴』だからこそ再現できた借り物でありながら本物の絶技。

 

だが混沌が戦慄しているのはその絶技ではない。確かに極死・七夜は全うな相手であれば必殺なり得るだろう。しかし混沌にとっては子供だましに過ぎない。いくら攻撃を受けたところで混沌には意味はない。二撃だろうが三撃だろうが無意味と化す。そう、

 

遠野志貴が、『直死の魔眼』を持っていなければ。

 

 

「オオオオオオオ―――――-!!」

 

 

咆哮と共にネロ・カオスは全身全霊の動きによって遠野志貴を迎撃する。紙一重のところで飛んでくるナイフを回避する。だがそれこそが遠野志貴の狙い。直死の魔眼を持っていたとしても直接相手に触れなければ意味を為さない。だがネロ・カオスはそのことを知らない。故にナイフは囮。本命は遠野志貴自身。

 

ナイフを回避することで混沌の動きに揺らぎが生じる。混沌はそのまま遠野志貴に向かい合う。遠野志貴の動きは先程とは違う。機械のような、操り人形のような希薄さがなくなっている。生物としての、人間としての意志が満ちている動き。だがそれでも混沌は恐れない。未だ状況は五分。自らの爪が届くのが先か、相手の一撃が届くのが先か。永遠にも似た刹那。その中で確かにネロ・カオスは見た。

 

 

――――遠野志貴の魔眼の色が、蒼から金そして宝石へと変わったのを。

 

 

瞬間、ネロは恐怖した。魔術師としての知識からではない。ただその眼に視られることによって、死を想起させられた故に。時間にすれば瞬きにも満たない刹那。だがこの瞬間においてはあまりにも分厚い紙一重。

 

 

何の変哲もない、指の一突き。

 

 

振り向きざまの遠野志貴の指が、混沌の背筋の点を貫く。ただそれだけ。本来のように首をねじり取るような余分は必要ない。ただ触れるだけで全てを殺すことができる存在。逃れることができない死の体現。

 

 

「貴様――――何者……」

 

 

なのだ、と口にする間もなく全てが消え去っていく。六百六十六の命があろうが関係ない。この一撃はネロ・カオスというセカイそのものを殺すもの。あとはただ消え去るのみ。何が間違っていたのか。何が足りなかったのか。ただ分かること。それは

 

 

眼の前の人間が、自らの死を超える者だったということだけ。

 

 

それが混沌の最期。そしてこの長い夜が終わった瞬間だった――――

 

 

 

 

 




作者です。第三十四話を投稿させていただきました。長くかかりましたがようやく今回でネロ・カオスとの戦いは決着となります。最終戦のようなノリになっていますがまだ終わってはいません。一つ大きな区切りにはなりましたが。このSSも残りは五話程度になる予定です。感想をいただけると嬉しいです。では。



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第三十五話 「成就」

 

――――ふと、目を覚ました。

 

 

瞳に映るのはいつもと変わらない暗闇と死の線。ただいつもと違うのは目覚めることができたことに自分が安堵しているということ。今まではただ淡々と全てを受け入れてきた。心のどこかでもう目覚めることがないことを望んでいたはずなのに、どうして――――

 

 

「――――志貴さん、ようやく目を覚まされたんですね」

 

 

そんな聞き慣れた声によってようやく現実に引き戻される。同時に意識がはっきりする。これまでの経緯。どうやら自分はまだ生きているらしい。同時に耐えがたい激痛が駆け巡る。身体からのものではない、頭痛。今までないものとして扱ってきたもの。思わず声を上げそうになるのを必死に抑え込む。

 

 

「……琥珀か?」

「はい。本当に良かったです……もしかしたらこのまま目を覚まされないんじゃないのかと」

「そうか……そういえば、いつか翡翠さんにも同じようなことを言われたことがあったような気がする。何でも俺の寝顔は死んでるように見えるとか何とか……」

「し、志貴さん……何でそこで翡翠ちゃんの名前が出てくるんですか? ここは心配していたわたしに何か一言あってもいいところですよ?」

「それはいいとして……今は何時だ? 俺が意識をなくしてからどれぐらい経ってる?」

「志貴さん……わざとやってますね。はあ……もういいです。今はちょうどお昼です。志貴さん達が戻ってきてからは六時間ぐらいでしょうか。ちょっと待ってて下さい、シエルさん達をお呼びしてきますから」

 

 

溜息を吐きながらも安心したのか、いつもどおりの態度を見せながら琥珀はぱたぱたと部屋を出て行く。そんな琥珀の後姿を見つめながら、自分が生きているのだと実感できた。こんな何気ない会話が、やり取りがどれだけ大切な物だったのか。自分がこれまでどれだけそれを蔑ろにしてきたのか。

 

 

「――――これで、よかったんだよな」

 

 

ぽつりと呟く。これまでの自分と、今の自分が選んだ選択。その結果がここにある。何とか身体を起こそうとするも叶わない。腕を上げるのにも時間がかかる。横になったままなのに呼吸が乱れ、冷や汗が流れる。まだ汗が流れるだけマシかもしれない。常に貧血が起こっているかのように、身体が冷たい。死に体と言ってもいい自分の体のあり様をまえにしても不思議と焦りも恐怖もなかった。これは分かり切っていたことなのだから。今はただ、生きてもう一度琥珀に会えたことの方が嬉しかった。

 

 

「遠野君、目が覚めたんですか!? 身体の方は――」

 

 

やってくると同時にシエルさんが捲し立てるようにこちらの状態を伺ってくる。その様子にどこか安堵する。心配なんてしてはいなかったがそれでもあの戦闘の中で無事であった彼女の姿。むしろ心配されっぱなしなのは自分の方だろう。

 

 

「ああ、身体の方は何ともない。それよりも助かったよ、シエルさん。傷を治療してくれたんだろ?」

「え? ええ……ですが遠野君、眼の方はどうなってるんです? 魔眼殺しを巻きなおしましたが……変わりはありませんか?」

「眼……?」

 

 

言われてようやく自分の眼に魔眼殺しが巻かれていたことに気づく。シエルさんが巻いてくれようだが確かに助かった。もし眼を閉じているとはいえそのままであったならもう自分は目覚めることはなかっただろう。しかし、シエルさんが何を言っているのか分からない。一体何を今更気にしているのか。ただ、あの時何か違うモノが見えたような気がするが分からない。

 

 

「とりあえずは大丈夫そうだ。シエルさんの方こそ大丈夫なのか?」

「わたしですか? それこそ心配無用です。わたし、死神に嫌われちゃってますから」

 

 

自信ありげにシエルさんは胸を張っている。その姿はいつもとはどこか違っているように見える。先の戦闘で何か思う所があったのだろうか。だがそんな中、

 

 

「…………」

 

 

一言も発することなくその場に佇んでいるアルクェイド・ブリュンスタッドの姿がある。直接は見えないが瞼の裏から見える死の線から彼女もまた無事であることは間違いない。

 

 

「……どうしたんだ、ブリュンスタッド? どこか調子が悪いのか?」

「……いいえ。身体の欠損はシキに切られた左腕だけよ」

「ア、 アルクェイド・ブリュンスタッド……貴方という人は……」

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッドの返答にシエルが言葉を失っているが自分としてはいつも通りのやり取り。彼女は皮肉を口にしたわけではなく、ただ事実を口にしているだけなのだから。できればもう少し空気を読む、言葉をオブラートに包むことを覚えた方がいいのではないかと思うが、すぐに望むべきではないだろう。ある意味、今のアルクェイド・ブリュンスタッドらしさ、とでも言うべきなのかもしれない。

 

 

「そういえばシエルさん……混沌はどうなったんだ?」

 

 

一度大きく呼吸を整えながら状況を確認する。情けないが混沌の死の点を貫いた瞬間からの記憶がない。文字通り気を失ってしまっていたらしい。間違いなく殺したはずだが相手はあの混沌。万が一、ということもあり得るのだから。

 

 

「大丈夫です。間違いなく、ネロ・カオスは消滅しました。代行者として保証します。それと感謝しています、遠野君……貴方のおかげで混沌を滅することができました」

「そうか……よかった。それなら、無駄にならなくて済みそうだ」

 

 

これでようやく一息つくことができた。少なくとも、自分の行動は無駄にならなかったのだと。ただ、もう自分にできることは何もない。蛇を殺す、という命題も叶わない。それは目の前に二人に託すしかない。他人任せにするようで申し訳ないがきっとあの二人なら何とかしてくれるはず。そう思えるほどに混沌との戦いの時の二人は力強かった。そんな中

 

 

「コハク、いつまでそんなところにいるの? 早くしないと間に合わなくなる」

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッドがどこか捲し立てるように琥珀に向かって話しかけている。言われてようやく琥珀が何故か黙りこんだままであったことに気づく。いつもなら楽しそうに会話に割って入ってくるというのに、自分達と少し離れた所からこちらを見つめているだけ。自分が意識を失っている間に三人の中で何かあったのだろうか。

 

 

「ブリュンスタッド……何の話をしてるんだ? 琥珀と何かあったのか?」

「いいえ、問題はあなた達のことよ。早くコハクとシキが交「ま、待ちなさいアルクェイド・ブリュンスタッドっ!!」

 

 

鼓膜が破れてしまうのではないかという大声でシエルさんが絶叫する。いつもの彼女らしくない必死さがにじみ出ている。まるで子供を叱りつけている保護者のよう。俺も琥珀もそんな光景に呆気にとられるしかない。もっとも当のブリュンスタッドは全く意に介していないようだが。

 

 

「……何を怒っているの、シエル。早くしないといけないと言っていたのはシエルの方」

「そ、そうですが……何故貴方が言う必要があるんですか!? まったく……どれだけアーパーなんですか……ごほんっ! 遠野君、わたしとアルクェイド・ブリュンスタッドは街の様子を見てきます。混沌を倒したことで蛇が動き出す可能性もありますから」

「そ、そうか……悪いな、そっちは任せっきりになる」

 

 

思わずこちらがのけぞってしまうような剣幕でそう告げた後、シエルさんは部屋を後にせんとする。色々と話したいこともあるのだがあの様子では望むべくもない。だが、いつまでたってもアルクェイド・ブリュンスタッドはその場を動こうとはしなかった。

 

 

「何をしているんですか? 貴方も一緒に行くんです。ここに残っても仕方がないでしょう」

「意味がないのはシエルの方。今は昼間なのに、そんなことをしても意味はない。ならわたしはここに残る。コハクとシキがどんなことをするのか知識では知っているけど、興味がある」

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッドはただ淡々とそう告げる。そこにはただ好奇心に満ちた猫がいるだけ。どうやらアルクェイド・ブリュンスタッドの様子がいつもと違うのはそれが原因だったらしい。だがその言葉を聞いた瞬間、部屋の空気が固まる。風船が割れる寸前のような緊張感。そして 

 

 

「こ………の、不浄者ぉっっっっ!!!!! どれだけ悪趣味なんですか貴方は!? いいでしょう、わたしが貴方に道徳が何たるものかを教えて差し上げます! 絶対逃がしませんからね!」

 

 

堪忍袋の緒が切れたのか、シエルさんはアルクェイド・ブリュンスタッドの首元を掴み引きずりながら部屋を後にしていく。まるで飼い猫を引っ張っていくような有様。抵抗しても無駄であると悟ったのか、アルクェイド・ブリュンスタッドもされるがまま。もし抗えば黒鍵を投げつけかねない空気が今のシエルにはあった。

 

 

「シエル、痛い」

「――当然です。遠野君、夜には戻ってきます。琥珀さん、後はお願いします」

 

 

そう言い残したまま、シエルさんはブリュンスタッドを連行しながら飛び立って行く。後には嵐が過ぎ去ったような静けさが残っただけだった――――

 

 

 

 

「ふふっ、お二人とも仲良くなられたみたいですね」

「ああ、違いない」

 

 

よっぽど可笑しかったのか、琥珀はクスクスと笑いながら今はいない二人のことを口にする。それに関しては自分も同意するしかない。知識として識っている二人の関係とは異なっているが、あれはあれで息があっているのかもしれない。もっとも苦労するのはシエルさんであるというのは世界が違ったとしても変わらないようだが。

 

その後、取りとめのない会話をぽつりぽつりと琥珀と交わす。意味のないやり取りだが、それでもいい。ただ今は残されたわずかな時間をこうして過ごすことが自分の望みだった。そんな中、ふと気づく。

 

 

「……そういえば、こうして二人っきりになるのは久しぶりだったな」

「そうですね。こちらに来てからはシエルさんとアルクェイドさんがいましたから」

 

 

琥珀も言われて気づいたのか笑っている。遠野の家にいる時にはもっと二人きりの時間があったはずだが、ここのところはそういった記憶がない。その中でも、強く記憶に残っている光景がある。あの時の約束を、ここで果たすのもきっと悪くないだろう。

 

 

「よっと……」

「志貴さんっ!? 急に動かれては身体が」

「大丈夫だ。何とか起き上がるぐらいならできる」

 

 

なけなしの力を振り絞りながら上体を起こして壁を背にし座り込む。それだけで寿命が縮んだような気もするが構わない。心配そうに自分を見つめているであろう琥珀の姿。それを見ながらも

 

 

「横になれ、琥珀」

 

 

琥珀にとっては理解できないであろう命令を下した。

 

 

「――――え?」

「だから横になれって。膝枕してやるから」

 

 

ぽかんとしている琥珀に内心笑いながら手招きする。琥珀は頭を上下しながら自分の顔と膝を往復している。一体何を言っているのか分からないのだろう。当たり前だ。言っている自分も何を口走っているか分からない程、おかしな命令なのだから。男の膝枕という、夢もロマンもないようなもの。

 

 

「…………はあ、仕方ありませんね。主人の命令を聞くのが使用人の務めですから」

 

 

観念したのか、苦笑いしながら琥珀は言われるがまま自分の膝に頭を置いてくる。自然を装っているようだが、それでもどこか緊張を見せながら。自分も柄でもないことをしているな、と自覚しながらも自嘲する。まあ、たまにならこういうのもいいだろう。

 

 

「――――」

 

 

そのまま互いに言葉を発することなく時間が流れる。時折、膝の上にある琥珀の頭を撫でてみる。細やかな髪の感触と、温かさ。琥珀もまた、それにされるがまま。知らず心が穏やかになっていくのを自覚する。同時に思い出す。遠野家の庭で、自分を膝枕してくれた琥珀の温かさ。それには到底かなわないだろうが、ほんの少しでも、あの時の温かさが伝わってくれれば。

 

 

「…………志貴さん、起きてますか?」

「……ああ、起きてる。寝ながら頭を撫でるなんて器用な真似できるわけないだろ」

 

 

あまりにも静かだったからか、琥珀がこちらに顔を向けながら声をかけてくる。自分は窓の外に目を向けながらそれに答える。ちゃんと向き合いたいが、そうすれば琥珀に触れることができない。直死の魔眼がある限り、それは変わらない。でもこのまま眠ってしまうのも悪くない。そう思ったのも束の間

 

 

「……前のわたしが、膝枕をしてほしいと言ったんですね?」

 

 

こちらの眠気を覚ますように、自然に琥珀は答えを告げる。だが驚きはあれど焦りはなかった。もしかしたらと思っていた。シエルさんかブリュンスタッドか。どちらであっても構わないが、一応こちらにも伝えておいてほしい。まあ、自分が話すことを許すわけがないからこそ、勝手に話してくれたのだろう。

 

 

「ああ……男の膝枕なんていいもんじゃないって言ったんだけどな。頑固なところはどこでも変わらないらしい」

「そうですか、志貴さんも他人のことは言えないと思いますよ? わざわざそんな約束を守ってるんですから」

「それもそうか。お互い面倒なことになったな」

「はい。じゃあ今度はわたしの番ですね。横になってください志貴さん。わたしが膝枕をしてさしあげますから」

「え? いや、それじゃあ意味が」

「いいんです。忘れちゃってるかもしれませんけど、わたしはまだ一度も志貴さんに膝枕をしてあげていないんです。それじゃあ不公平じゃないですか」

 

 

めっ、とこちらに向かって指を立てながらあっという間に立場が逆転してしまう。正直身体が辛かったのもあったので助かったが主導権を握られてしまった形。どうやら自分はやはり目の前の彼女には敵わないらしい。何度繰り返しても、それは変わらなかった。

 

 

「――――あなたは、全部知ってたんですね」

 

 

確かめるように琥珀はそう口にする。全部が、どこからどこまでを指しているかは分からない。でも、全部知っていた。その在り方も、生き方も。世界の終わりも、始まりも。自身の正体も。

 

 

「でも、逃げてもよかったんですよ。知ってるからって、あなたが全部背負う必要なんてないじゃないですか。逃げても、誰もあなたのせいになんてしません。そんなことを言える権利なんて世界中の誰にもありませんから」

 

 

彼女は口にする。逃げてよかったんだと。かつて本物の遠野志貴が青の魔法使いにも言われていた言葉。特別な眼を持っていたとしても、特別に生きる必要など無いのだと。

 

 

「そうだな……でも逃げられなかったんだ。逃げても、いいことは一つもなかった」

 

 

逃げて、逃げて、逃げて、ただ逃げながら生きてきた。でも、その先には何もなかった。それが怖くて、人形になった、人形になって逃げようとした。これは自分ではないんだと言い訳しながら。だけど、羨ましかった。人間として、生きている人々が。自分を持っている人々が。

 

 

「覚えてるか……? 八年前、遠野の家で会った時のこと」

 

 

ただ思い出す。自分にとっての始まりの場所。互いに何も持たず、ただ籠に閉じ込められていたあの頃。

 

 

「俺は……君が羨ましかった。人間の君が。でも、許せなかった。人間なのに、人形になろうとしている君が」

 

 

独白する。かつて自分に全てを明かした彼女のように、嘘偽りない己の本音を曝け出す。

 

 

ただ羨ましかった。妬ましかった。自分と同じ人形のように見えて、自分とは違う彼女の姿。お前では届かないと、現実を見せつけられたかのように。

 

 

「俺も……ただの八つ当たりだったんだ。君が人間になれるなら、俺もきっと……人間になれるんだって……」

 

 

人間は人形になれない。

 

それが自分が彼女の告げた真実。同時に、自らに対しての死刑宣告。それは、人形が人間になれないことを意味しているのだから。

 

それでも、そう生きられたどんなにいいかと憧れた。叶わなくても、自分が人形だったとしても――――

 

 

「よかったです……志貴さん、約束守ってくれたんですね」

「…………え?」

 

 

瞬間、温かい手が頬に添えられる。忘れられない、記憶が蘇る。摩耗しても消え去ることのない、自身の罪。同じように笑いながら自分の頬を撫でてくれた、彼女の姿。

 

 

『志貴さん……泣いてるんですか。よかったです……約束、守ってくれたんですね』

 

 

自分が人間になれてよかったと言ってくれた彼女。ただ、あの時と違うのは

 

 

「――――だって、あなたは泣いてるじゃないですか。人形は、泣いたりなんかしませんから」

 

 

頬に流れているのが彼女の涙ではなく、自分の瞳から流れた涙だったということ。

 

 

瞬間、涙が溢れて来た。ただ声を上げて泣き続けた。子供のようにみっともなく、ただ彼女の膝を濡らしながら泣き続ける。

 

 

それが『遠野志貴』が初めて流した、あの時、彼女が亡くなった時に流せなかった涙だった――――

 

 

 

 

「落ち着きましたか、志貴さん?」

「ああ……悪いな、着物汚しちまった」

「構いませんよ。これでもう志貴さんはわたしの言うことには逆らえませんから」

 

 

茶化すような琥珀の言葉に返す言葉もない。大の男がみっともなく泣き顔を晒したのだから。もう二度とこの割烹着の悪魔には逆らえないに違いない。だがそのまま琥珀は黙りこんでしまう。それがいつまで続いたのか。

 

 

「志貴さんは、わたしのことも全部知ってらっしゃるんですよね?」

「……?」

 

 

確認するように、琥珀はそんなことを口にする。自分の無言を肯定と受け取ったのか

 

 

「――でしたらわたしを抱いてください。そうすれば志貴さんは命を伸ばすことができますから」

 

 

琥珀は淡々と、何でもないことのようにそんなことを口にした。

 

 

「――――」

 

 

瞬間、時間が止まる。同時に全てを理解した。琥珀が何を考えているのかも。先程のシエルさん達の態度も。だが、そんなことは自分が誰よりも分かっている。琥珀の持つ感応能力。それを使えば自らの延命が計れるだろうということは。

 

だが、今までに一度もそれは行ってこなかった。もし仮にそれを為したところで寿命が僅かに伸びる程度でしかない。自分が死ぬことは変わらない。

 

何よりもその行為は琥珀を利用することに他ならない。琥珀にとってそれは自らの運命を弄んだ者達の根源ともいえるもの。そんな者達と同列になるぐらいなら、琥珀を傷つけることになるぐらいならこのまま消えた方がマシだった。

 

 

「……琥珀、俺は」

「っ! ごめんなさい……志貴さん。ちょっと待って下さい! ふぅ……これじゃあ、アルクェイドさんのことは言えませんね……」

 

 

俺の言葉を遮るように、どこか慌てながら琥珀は挙動不審な動きをし始める。もじもじと何かを言いたくても言えないかのよう。ぶつぶつと意味が分からないことを口走っている。いい加減何か声をかけた方が良いのだろうかと思い始めた時

 

 

「わ、わたしはあなたのことが好きです。だから……そ、その、そういうのは抜きにして、わたしのことを抱いてください……」

 

 

そんな、こちらが赤面してしまうような初心な告白を、顔を真っ赤にしながら琥珀は口にした。

 

 

「……ふっ」

 

 

思わず噴き出してしまった。笑ってはいけない場面だと分かっているのに、我慢ができなかった。だが仕方がないだろう。あまりにも今の琥珀の姿は、いつも知っている琥珀とはかけ離れていた。まるで初恋の人に告白するような少女のよう。

 

 

「な、何で笑うんですか志貴さん!? わ、わたしがどれだけ恥ずかしい思いをしてるか分かってるんですか!?」

「いや、悪い……何だかおかしくて、お互い柄にあわないことはするもんじゃないな」

「どういう意味ですか……志貴さん、もしかしてわたしのこと嫌いなんじゃないですか?」

 

 

本当に怒ってしまったのか、頬をふくらませるように琥珀は拗ねてしまっている。ある意味当然だろう。男としてここまで言われたら答えは決まっている。ただ、こちらもやっておかなければならないことがある。それは

 

 

「――――ああ、俺も、君のことが好きだ」

 

 

好きだ、という言葉。いつかとは真逆の答え。反転したわけではない、初めから変わらない『遠野志貴』の心だった。

 

 

「――――」

 

 

その言葉をどう取ったのか、琥珀は黙りこんだまま俯いてしまう。だがそれがいつまで続いたのか、思い出したように琥珀は正面から自分に向かい合う。

 

 

「――――お帰りなさい、志貴」

 

 

ただ慈しむように琥珀は告げる。どこから帰ってきたかなど、もはや口にするまでもない。本当に長い螺旋だったが、ようやく辿り着いた。

 

 

「――――ただいま、琥珀」

 

 

互いに名前を呼び合いながら唇を重ねる。いつかの冗談のような約束。二人きりの時なら許される呼び方。

 

 

それが『遠野志貴』の螺旋の終着点。ようやく、彼女を失った時から時間が動き出した瞬間。そして二人が共に過ごした最期の時間だった――――

 

 

 

 



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第三十六話 「約束」

 

 

日が沈み、夜へと変わりかけている夕刻。夕陽に照らされているビルの屋上に二人の女性の姿がある。一人はアルクェイド・ブリュンスタッド。屈みこみ、両手で頬杖をつきながら眼下で行き来している人々を眺めている。まるで興味があるものに目を奪われている猫のように身体がゆらゆらと揺れている。放っておけばずっとそのままなのではないかと思えるほどにアルクェイド・ブリュンスタッドは楽しそうだった。

 

そんなアルクェイド・ブリュンスタッドの姿を少し後ろから見つめながらシエルは大きな溜息を吐くしかない。だがそれも仕方ないだろう。なにしろ彼女は遠野志貴と琥珀がいる部屋から出てから今までほぼ半日アルクェイド・ブリュンスタッドに振り回されっぱなしだったのだから。

 

 

(まったく……何をやっているんでしょうか、わたしは)

 

 

思い返すだけで自分のお人好し具合に溜息しか出ない。蛇の居場所を探るためにアルクェイド・ブリュンスタッドと共にあの場を離れたまではよかった。アルクェイド・ブリュンスタッドも言っていた通り半分以上あの場を離れたのは二人に気を遣ってのこと。いくら遠野志貴の延命のためとはいえ自分達があの場にいたのでは場違いにも程がある。煙草を吸わないのに、煙草を吸ってくると言って部屋を後にするように見え透いた行動だが仕方ない。そうでもしなければ目の前にいるアーパー吸血鬼が何をするか分かったものではなかったのだから。

 

しかし、予想外だったのはそこからだった。自分としてはそのまま夜まで適当に時間を潰し、部屋に戻る予定だった。奇しくもアルクェイド・ブリュンスタッドが言ったように昼までは死者は行動せず、蛇の気配もまともに追うことはできないのだから。にもかかわらず、だからこそなのかアルクェイド・ブリュンスタッドはただ興味に赴くままに動き始める。

 

 

『シエル、あれは何?』

 

 

何度その言葉を聞いたのか分からない。アルクェイド・ブリュンスタッドはまるでタイムスリップしてきた過去の人間のように、はしゃぎ始める。目に付く全ての店に乗り込み、喋り続ける。遊び続ける。食べ続ける。およそ思いつく全ての行為をしながら嵐のように過ぎ去っていく。それを止めることもできず、かといって放っておくこともできず振り回されるしかなかった。真祖の吸血鬼の監視をしていたはずなのにいつのまにか子供のお守をすることになるなど思いもしなかった。もしかしたら死徒と戦う方が気が楽なのでは、と思ってしまうほどに今の自分は精神的に疲れてしまっていた。

 

 

「…………そんなに人が行きかうのを見るのが楽しいですか、アルクェイド・ブリュンスタッド?」

「ええ。前までは全然気にしてなかったけど、あんなに多くの人間がいたのね。あんなに急いでみんなどこに行こうとしてるのかしら」

「きっと帰宅途中でしょう。もう夕方ですし……」

「そうなんだ。家に帰ってるんだ。何でそんなに早く家に帰りたいんだろう。家に帰っても眠るだけなのに」

 

 

そうなんだー、とこっちの気が抜けるように呟きながら明らかにずれていることを口走っている吸血姫に突っ込む気も起きない。本当に目の前にいる彼女は、あのアルクェイド・ブリュンスタッドなのか。だが何度考えても変わらない。蛇が永遠を見た、自分が知識として知っている彼女の姿はもはやどこにもない。ただ世間知らずのお姫様。

 

 

「不思議ね。こんなにも、世界が違って見えるなんて。前は石コロぐらいにしか思ってなかったのに、こんなにも面白いものだったのね」

「そうですか……ですが貴方は確かその時代に即した知識を起きる時に得ているはずでは?」

「そうよ。でもそれって全然損をしていたみたい。知っているのと経験するのは全然違うんだもの。でも……わたし、やっぱりどこかが壊れてるのかもしれない」

 

 

変わらずビルの上から下を眺めながら吸血姫は呟く。自身の異常とも言える変化。知らず知らずのうちに自分がおかしくなってきていることを。

 

 

「壊れている……何のことですか」

「余分な感情が大きくなっている。さっきの混沌の戦いもそう。シキを助けるなんて行動、今までのわたしなら絶対にするはずがない。なのに、わたしはそうしている。これって壊れてるってことでしょう?」

「……遠野君を助けたことを後悔しているんですか?」

「…………ううん、後悔はしてない。それどころか……うん、嬉しかったの。何でか分からないけど、わたしは嬉しかったの。でもそれって無駄なことでしょう? 吸血鬼退治がわたしのすることなんだから、それ以外は全部意味がないのに」

「言っていることがむちゃくちゃですよ、アルクェイド・ブリュンスタッド。ならわたしはその無駄なことに半日付き合わされたわけですか?」

 

 

腰に手を当てながらまたも溜息を吐くしかない。無駄、余分。確かに処刑人たるアルクェイド・ブリュンスタッドにとっては体験したことのないことなのだろう。それがいいことなのか悪いことなのか自分には分からない。ただ、彼女が何かのきっかけで変わり、それに戸惑っていることは間違いない。きっかけについては心当たりがないでもないが当の本人達がこの場にはいないので口にするだけ野暮というものだろう。

 

 

「――――シエルはどうしてロアを殺そうとしているの? ロアを殺したらあなたは不死ではなくなる。死んでしまうのにどうして自分を殺すような真似をしているの?」

「……え?」

 

 

そんな唐突に、全く遠慮のない問いが白い吸血姫から告げられる。自身の命題。ロアによって与えられている不死という呪い。皮肉な話だ。転生をしてまでロアが求めている永遠、不老不死を抜け殻である自分が体現しているのだから。それがなくなれば自分はいつか死ぬ。アルクェイド・ブリュンスタッドからみればそれは自ら死のうとしているのと変わらない。

 

 

『――――君は人間に戻って、生きたいのかな? それとも人間に戻って、死にたいのかな?』

 

 

いつかのメレムの言葉が蘇る。答えることができなかった、わたしの矛盾。だが今は違う。今のわたしには明確な答えがある。あの時には持ち得なかった、彼によって自覚し、彼の生き方によって確信した自身の答えが。それは

 

 

「決まっています。わたしは生きるために、蛇と戦っているんです。不死でも心が死んでるんじゃ死んでるのと同じですから」

 

 

生きること。それが自身が蛇と戦う理由。復讐もある。だがそれ以上にもう一度、自らの生を取り戻すために。

 

 

「そう……なら、蛇を殺した後はどうするの? 埋葬機関でまだ吸血鬼を殺し続けるの?」

 

 

だがアルクェイド・ブリュンスタッドはさらに踏み込んでくる。その先。生きて何をしたいのか。考えたことが無いわけではない。でも、考えることを放棄していた未来。蛇を殺すことができればどうするのか。

 

――――埋葬機関を抜ける。

 

すぐに思いついた選択肢。だがきっと、自分はそれを選ばないだろう。確かに自分の怨敵とも言える蛇がいなくなれば埋葬機関に留まる理由はなくなる。それでも、吸血鬼がいなくなるわけではない。自分のような犠牲者を出さないためにも、自分はきっと戦い続けるはず。何よりも飽きたらからやめるなんて子供のような真似、するわけにはいかない。

 

だがそんな中で、ふいに思い出した光景がある。

 

もう忘れかけている、思い出すことが許されない日々の記憶。

 

朝寝坊して、父に怒られながらも、楽しかったあの日々。

 

 

「…………そうですね、いつかお菓子を作ること。それがわたしの目標です」

 

 

ぽつりと口にする。それがいつになるかは分からない。もしかしたら二度と来ないかもしれない。それでも、いつか自分を許せるときがきたら、あの時できなかったことをするのもいいかもしれない。そんな少女じみた夢。

 

 

「…………?」

「気にしないように。ただの独り言ですから。じゃあ今度はわたしの番ですね。アルクェイド・ブリュンスタッド、蛇を殺すことができたら貴方はどうするんですか?」

 

 

自分の言葉の意味が分からずぽかんとしているアルクェイド・ブリュンスタッドに逆の問いを告げる。

 

 

「決まっている。城に戻って眠るだけ。わたしの中の吸血衝動は抑えられないところまで来ているから、きっともう起きることはない」

 

 

間髪いれずアルクェイド・ブリュンスタッドは自らの未来を告げる。これまでと変わらない答え。処刑人としての在り方。吸血衝動という逃れられない真祖の寿命。それに殉ずるように彼女は眠り続ける。朱い月が満ちるその時まで。だが

 

 

「…………でも、その前に、一つ約束がある」

「……約束、ですか?」

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッドが思い出したように口した単語に思わず聞き返してしまう。約束。およそ彼女が口にするとは思えないような言葉。一体何の約束なのか。それを問いただすよりも早く

 

 

「遊園地」

 

 

彼女は約束を口にする。シエルからすれば意味が分からない言葉。ただシエルは眼を丸くするしかない。

 

 

「…………え?」

「コハクと約束したの。吸血鬼退治が終わったらみんなで遊園地で行こうって」

「そうですか……ちなみにそのみんなにはわたしも含まれてるんですか?」

「……? ええ。コハクもシキもシエルはお人好しだからきっと来てくれるって言っていた」

 

 

顔に手を当てながら黙り込むしかない。自分が知らない内に巻き込まれていたこともだが、それ以上にその未来を想像してのこと。

 

遊園地で好き勝手をするアルクェイド・ブリュンスタッドとそれを制止する遠野志貴。それを楽しそうに茶化す琥珀。その全てに振り回される自分。想像するだけで騒々しい、あり得ない組み合わせの光景。

 

 

想像するだけで、叶わない夢。

 

 

「その通りですが……せめて一言言っておいてほしいですね。それで……遠野君もその約束は了承していたんですか?」

「していたわ。その時にはシキはいないから意味がないって言ったのに、シキは約束をしてた」

「そうですね……でも、約束は守らなくてはいけないものです。貴方もそれは覚えておきなさい、アルクェイド・ブリュンスタッド」

 

 

そう、守るからこそ約束がある。破っていい約束など一つもない。なら自分の約束を果たすだけ。それがどんなに困難のことでも、途中であきらめることだけは絶対に許されない。シエルが決意を新たに動き出そうとしたその瞬間、それは発動した。

 

 

「――――っ!? これは!?」

「…………」

 

 

日が沈み、夜の闇と月明かりが辺りを照らし始めた夜の街。その土地に流れる霊脈の流れが変わっていく。土地の魔力がある一点に向かって流れ出す。同時にその起点となるであろう魔術式が次々に街に刻まれていく。この街を食らい尽くさんとする術式。

 

もはや口にする必要もない。これだけの大魔術を発動することができる魔術師は自分以外にはもう一人しか存在し得ない。魔術の隠匿など欠片も気にしていない有様。逆に言えば、自らの居場所を隠すことなくさらけ出している。すなわち、もう身を隠す必要がなくなったということ。

 

 

希代の魔術師であり、かつての力を取り戻した死徒、ミハイル・ロア・バルダムヨォンの挑発にも似た宣戦布告。

 

 

「―――!! アル」

 

 

瞬間、思考が遅れながらもアルクェイド・ブリュンスタッドの動きを制止せんとする。このままアルクェイド・ブリュンスタッドに動かれては取り返しのつかないことになりかねない。先のように、彼女の力が奪われれば勝機はない。加えて遠野志貴もこの場にはいない。これまでの自分達の行動が無になってしまう。だがそんな焦りは

 

 

「…………何をしているの、シエル? 早くシキ達のところに帰るわよ。もう夜になってるからいいでしょう?」

 

 

早く戻ろうと自分に背中を向けながら飛び立とうとしているアルクェイド・ブリュンスタッドの姿によって霧散してしまう。そのあまりに自然な姿に呆気にとられてしまう。言葉の通り、彼女はロアの城よりも先にその場所に向かおうとしている。彼女自身、そのことに気が付いていないのかもしれない。

 

だが、その言葉にかつての琥珀の姿が重なる。自分を出迎えてくれた、彼女の言葉。

 

 

「――――ええ、遠野君と琥珀さんのところに帰りましょう。アルクェイド・ブリュンスタッド」

 

 

帰る、という言葉。眼下の人達と同じように今の自分達が戻るべき場所へと急ぐのだった――――

 

 

 

 

身体を起こし、手を握る。いつものような機械の確認ではない。自身の肉体の血の流れを感じる。人形ではない、人間である証。身体の節々に感じる痛みも、その証拠。頭痛はない。眼に痛みも同じ。きっと痛みなんて通り越してしまっているんだろう。だが構わない。今はこの感覚だけが愛おしい。

 

温かさ。

 

今までになかった熱が身体に満ちている。誰かに抱かれているかのような温かさ。彼女との繋がりによって自分は命を繋ぎとめている。男として情けないが、これならきっと戦える。後一度なら、いや、最期の一度になる自分の戦いのために。

 

右手でナイフを拾い上げる。もう身体の一部のように慣れ親しんだ得物。自分の物ではない、借り物。でも構わない。これがなければ自分はここまでこれなかった。ならこのナイフも、誇っていいものだろう。

 

だが左で持つものがない。左手がないから、ではない。もう一つ大事な借り物があったはずなのになくしてしまった。心残りがあると言えば、それだけだろう。

 

 

「――――遠野君、ロアが動き出しました」

 

 

感情を感じさせないシエルさんの声が聞こえる。そこにはいつもと違う彼女の姿がある。その身に纏っているであろう法衣が無く、完全武装であったこと。手には巨大な鉄の塊がある。それによって確信する。ようやく、その時が来たのだと。

 

 

「シキ、コハクは?」

 

 

シエルさんに続くようにブリュンスタッドもまた部屋に戻ってくる。少し意外だった。てっきり先に蛇の元へ行っているとばかり思っていたのに。加えて自分のことだけでなく、琥珀のことを気にしているなんて。

 

 

「――心配ない、琥珀は奥で休んでる。俺ももう準備はできてる」

 

 

琥珀は奥のベッドで眠りについている。起こさなくても大丈夫。もう伝えることは伝えた。後は自分がするべきことをするだけ。

 

 

「――――遠野君、」

「約束しただろ。一緒に蛇と戦うって。それにこれは俺の戦いでもある。蛇を倒せなきゃ、俺は先に進めない」

 

 

シエルさんが何を言おうとしているのか分かっていながら先に告げる。その決意を示すように魔眼殺しの包帯を外す。共に戦う、と。ここで逃げればこれまでと変わらない。自分で選んで、自分のために戦う。先に進むために。

 

俺も、シエルさんも、ブリュンスタッドも。蛇という呪縛を超えなければ先に行けない。

 

これまでと違うのは、蛇を殺すことが目的ではなく、その先に目的ができたということ。わずかな、それでも確かな進歩。

 

その一歩を踏み出す前に

 

 

「――――志貴さん」

 

 

後ろから聞き慣れた少女の声が耳に響く。振り返るとそこにはいつもと変わらない琥珀の姿があった。違うのは、今の彼女が人形ではなく、人間であったということだけ。そして

 

 

「――――約束です。必ず、帰ってきてくださいね」

 

 

その手に、白いリボンがある。八年前、自分に渡してくれた約束。自分が無くしてしまっていたはずの物。愛おしそうに握ったリボンを琥珀は自分の手に握らせる。忘れるはずがない、その感触。

 

 

帰ってきてほしい、という彼女の願いが込められた約束。

 

 

「――――ああ、今度こそ約束は守る」

 

 

それを握りしめながら出発する。もう振り返ることはない。恐れるものはなにもない。後はただ、自分が約束を守るだけなのだから――――

 

 

 

 

満月。月が新円を描く刻。

 

ここに一人の探究者がいる。『永遠』という命題を追い続けた愚か者。十七回もの転生を繰り返しながらも、ただ一つの妄執という名の恋慕に焦がされてきた一人の男。

 

 

「――――待っていたぞ、真祖の姫君」

 

 

男は告げる。十八回目となる告白。その姿もかつてと変わらない。初めて彼女に永遠を見た時と変わらない初代の身体。劣化していない完全な人格。黒の月触姫すら退けた全盛期の力。その全てがただ永遠を手に入れるために。

 

自らの城の中から、ただロアはアルクェイド・ブリュンスタッドを迎え入れる。ただ、そこに彼にとっては異物が二つ紛れ込んでいる。

 

自らにとっての抜け殻である代行者。そして、自らを滅ぼすために生み出された、一人の人間。

 

 

ここに、『月姫』ではない紛い物の物語が終焉を迎える時が来た――――

 

 

 

 




作者です。第三十六話を投稿させていただきました。長くかかりましたがようやく最終決戦です。月姫リメイクの新しい情報も出てテンションも上がっているので完結まで一気に行きたいと思っています。残りは三話。楽しんで頂けると嬉しいです。では


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第三十七話 「永遠」

 

「――――待っていたぞ、真祖の姫君」

 

 

自らの城である学校の屋上から見下ろすようにロアは告げる。そこにはかつてロアはいない。知らず聞く者を穏やかにさせるような声色でありながら冷徹な風貌を併せ持つ矛盾。金髪を束ね、眼鏡をかけているその姿は、教会の司祭を連想させる。

 

だがこれこそが彼の本当の姿。アカシャの蛇。無限転生者の異名を持つ、ミハイル・ロア・バルダムヨォン。

 

 

「――――」

 

 

眼下にいる吸血姫、アルクェイド・ブリュンスタッドは一言も発することなく蛇を睨みつけている。そこには遠野志貴やシエルが知っている彼女はいない。瞳は金に染まり、指は爪へと変じている。言葉を紡ぐことはない。目の前の相手には、その価値すらないのだと告げるかのように。

 

 

「それでいい。私は今度こそ永遠を手に入れる。未だ器は半分しか満たされていない。寸分の狂いなく、君の全てを奪い尽くそう」

 

 

淡々と、それでも絶対の意志を見せながら蛇は宣言する。己が宿願の達成を。これが最後の舞台。十七の転生を繰り返しながら辿り着いた終着点。だがそこに二つの不純物が紛れこんでいる。

 

 

「――――ああ、だが不要なモノがいくつか紛れこんでいるようだ。まずはそれを排除することにしよう」

 

 

呟きながら蛇はようやくそれを視界に捉える。アルクェイド・ブリュンスタッドの傍にいる二つの人影。遠野志貴とシエル。共に蛇とは深い因縁で繋がっている者。だがそんなことはロアにとっては意味はない。道端に転がっている石以上の価値すらない。それを排除せんとした瞬間

 

 

「――――消えるのはお前よ、ロア」

 

 

恐ろしい程冷たい宣告と共に、全てが消え去った――――

 

 

それはただの爪の一振りだった。何の技術もない、純粋な力技。そも彼女に技術など必要ない。小手先の技など、何の意味もない。ただ純粋な強さ。ヒトではない星の触覚である真祖にのみ許される圧倒的な暴力。それによって蛇の城は一瞬で跡形もなく消え去っていく。凄まじい轟音と爆音。しかし全てを覆う粉塵。後には、もはや校舎の面影はない。ただの一撃で学校の校舎を粉微塵にする。それが力を奪われながらも健在な真祖・アルクェイド・ブリュンスタッドの力だった――――

 

 

「――――」

 

 

だが、その場にいる三人は微動だにしない。もはや勝敗は決した。誰の目にもそれは明らか。人であろうと死徒であろうとあの力を受けて無事な者など存在し得ない。だが

 

 

「――――今のは何だ、姫君」

 

 

ここに、その例外が存在する。

 

 

崩れ去っている城の跡に、主は変わらず存在していた。傷一つ負っていない。その光景にシエルと遠野志貴は戦慄する。確かに先の一撃は直撃したはず。にもかかわらずロアは無傷。吸血鬼が持つ復元呪詛で再生したならまだ分かる。しかし、それすら必要ないと言わんばかりのその圧倒的な存在感。間違いなく、先のはアルクェイド・ブリュンスタッドの今持てる全力。

 

 

「力を私が奪っているとはいえ、ここまで堕ちているとは……八百年の月日は君をここまで摩耗させたか」

 

 

僅かに潜め、失望を見せているロア。だがそこには確かな違和感があった。ロアは力が衰えていることだけでなく、もう一つの事象にこそ落胆を感じていた。そう、完成品足る彼女が言葉などという不純物を口にした、という事実。

 

だがそんな蛇が見せた一瞬の隙を、三人が見逃す道理などない。

 

 

「――――摩耗しているのがどちらか、貴方に教えてさしあげましょう、ロア」

 

 

目にもとまらぬ速さで蛇の間合いに踏み込みながらシエルは告げる。その眼は見開き、全身から魔力が荒れ狂っている。魔術回路が焼き切れんばかりの稼働を見せ、全身が青白く光るかのよう脈動している。もはや魔術を使用することに対する忌避など欠片も残っていない。目の前の存在を滅するためなら誇りも名誉も無用。泥を啜ってでも、成し遂げるべき目的のために。

 

瞬間、雷鳴が響き渡る。先の混沌との戦いの時も見せた数秘紋による雷霆。混沌の時と違うのは、その雷撃全てが蛇一人に向けられているということ。蛇から得た魔術によって蛇を滅する。毒を以て毒を制す。クレーターを生み出してしかるべき魔術を

 

 

「勘違いしているようだな……お前はただの抜け殻だ」

 

 

心底興味がないと、片手間の児戯のように手の一振りで蛇はシエルの渾身の魔術を無へと帰してしまう。

 

 

「なっ―――!?」

「お前が使っているのは私の知識の残滓に過ぎない。確かにその肉体のポテンシャルは素晴らしい。だがそれでも、本当の私の肉体に比べれば塵芥と同義だ」

 

 

同時に聞きとれないほどの高速詠唱と共に、雷鳴が響き渡る。先の光景の焼き回し。違うのはその規模が桁違いだったということだけ。

 

 

「あっ――――ぐぅ……!!」

 

 

瞬時に全力で同じく雷撃にて相殺せんとするも叶わない。その全てを圧倒され、全身を雷に貫かれる。声上げる間すらない激痛。一瞬で肉体が消炭にされかねない力。何度殺されているか分からない程の暴力を受けながらシエルはその場から弾き飛ばされる。

 

だが間髪いれずに白い吸血姫が蛇へと襲いかかる。音速もかくやという速度。その残された右手には空気が歪みかねない力が込められている。直接蛇を切り裂くための一撃。即座にロアは雷撃によって迎撃するもアルクェイド・ブリュンスタッドは力づくでその一撃を薙ぎ払う。しかし

 

 

「分からないか。今の君では、私には届かない」

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッドを取り囲むように、全方位から逃れようのない雷雨が降り注ぐ。その威力は全て一撃で死徒を消滅させる程のもの。その数も無数に等しい。あらゆる魔術に耐性があるはずの彼女の肉体をしても耐えきれない程の純粋な暴力。

 

それこそがロアの城の力。この一帯には既に無数の魔術が張り巡らされている。いわば要塞。魔術師における工房に位置するもの。ただ違うのは魔術師にとっての工房とは守るための物ではなく、侵入者を滅するためのものだということ。

 

 

「く――――っ!!」

 

 

アルクェイド・ブリュンスタッドは何とか踏みとどまり自分を襲ってくる魔術を右手で振り払い続ける。だがその全てに対処できず徐々に消耗させられていく。その場を動くことができない。一歩でも動けばその瞬間、致命的な瞬間を晒すことになる。そして

 

 

「――――終わりだ」

 

 

その隙を見逃すことなくロアが目前に迫る。その蛇の毒牙が吸血姫に向けられる。先と同じ、掴まれば血を吸うように力を奪われてしまう。咄嗟に対処しようとするも今の彼女にそれに抗う術はない。だが

 

 

それを阻止せんとする者がここにいる。

 

 

「――――」

 

 

声を出すことなく、ただ弾けるように遠野志貴は切りかかる。遠野志貴は理解していた。自分ではこの戦場の乱戦で正面切って戦うことはできない、と。魔術師であり不死を持つシエル。最強の真祖であるアルクェイド・ブリュンスタッド。カードでいえばエースやキングにあたる存在。そして自分はジョーカー。乱戦において、奇襲、暗殺こそが己が本分。

 

完全な隙を突いた刹那。にもかかわらず閃光と共に雷が襲いかかってくる。既視感。混沌の自動迎撃にも似た特性が蛇の城には備わっているのだろう。避けることはできない。なら、自分にできることはただ一つ。

 

瞬間、初めてロアがアルクェイド・ブリュンスタッド以外に目を向けた。その瞳が僅かに見開かれている。当然だ。

 

魔術を殺す。ただナイフを通しただけで魔術を消滅させるという出鱈目さ。全ての事象は生まれた同時に死を内包する。そこに例外はない。問題があるとすれば、生物以外の死を見ることは自身の自滅を意味するということ。

 

 

「ぐっ……!? あ、ああああ!!」

 

 

苦悶し、卒倒してしまいそうな頭痛が襲いかかる。同時に目が焼けるように痛む。視界が点滅する。だが全てを抑え込む。ここで、痛みに屈するわけにはいかない。

 

同時に蛇の死を見る。点と線。しっかりとそれを目に焼きつけながらナイフを振るう。完璧なタイミング。もう雷すら間に合わない奇襲。だがそれを

 

それ以上の神速を以って蛇は覆す。理解できない。何が起こったのか分からない。ただ一つ分かることは、自分の渾身の一撃が呆気なく躱されてしまったということだけ。

 

 

「――――っ!!」

「なるほど、直死の魔眼か。確かにそれなら混沌を殺し得る」

 

 

背後から蛇の声が聞こえる。ようやく理解する。難しいことではない。ただ単純に今の蛇の身体能力が桁外れだということ。全盛期のアルクェイド・ブリュンスタッドを彷彿とさせるほどの純粋な身体能力と希代の魔術師としての力。単純であるがゆえに覆すことができない実力差。それが初代ロアの力。同時に自らにとっての天敵。

 

そう、直死の魔眼は死を見る魔眼。触れれなければ、相手に死を与えることができない。七夜の身体を持ってしても、今の蛇には触れることすら叶わない。単純な生物としてのスペックの差。

 

 

「面白い物を見せてもらった礼だ。手ずから消してやろう」

 

 

慈悲だと言わんばかりにロアの爪が振るわれる。人間の体などあれに触れられればひとたまりもない。紙細工のようにバラバラになってしまう一撃。だがそれは

 

 

「シキ――――!!」

 

 

同じくヒトではない吸血姫によって防がれる。鮮血が宙に舞う。視界が暗い。あるのは温かさだけ。ようやく気づく。流れている血は自分の物ではなく、彼女の物。間抜けな自分を庇って、アルクェイド・ブリュンスタッドは背中を赤く染めている。純白の白が朱に変わっていく。

 

 

「ブリュンスタッド……お前っ!?」

「いいから離れて、シキ。今の貴方じゃ……ロアには届かない。それで、いいの……」

 

 

痛みに顔をゆがませながらも、自分を庇うように再びアルクェイド・ブリュンスタッドはロアと対峙する。同時にシエルさんもそれに並び立つように現れる。同じくその顔は苦悶に満ちている。不死によって身体の傷はないにも関わらず。それほどまでに、ロアと今の自分達の間には覆しようのない実力差がある。混沌とは違う、圧倒的な『個』としての強さ。

 

だが、自らの圧倒的優位を前にしてロアはただその場に立ちすくんでいた。微動だにしない。まるで信じられないものを見たかのようにその顔が驚愕に染まっている。狂気にも似た、感情の発露。

 

 

「どういうつもりだ……真祖の姫。まさか、君が人間を庇ったというのか……?」

 

 

視線だけで人を呪い殺せるような冷たさがその瞳にはあった。深い絶望と憤怒。自らが求めていた物の価値が崩れて行くことに落胆している、探究者。否、恋い焦がれた女が、自分以外の物に執着していることへの、嫉妬。

 

 

「あり得ない……いつもの君はどこに行った……? あの時の君は、こんな紛い物ではなかったはずだ――――!! 私が見た、永遠は――――!!」

 

 

顔を手で覆いながら男は絶叫する。怨差の声を上げる。暴発するように魔術が荒れ狂い、火花を散らす。それを前にしても、アルクェイド・ブリュンスタッドは何も答えることはない。初めから、お前に興味はなかったのだと告げるかのように。そう、これは単純な矛盾。吸血姫が処刑人であるが故に、蛇は彼女と出会うことができた。だが一度たりとも、吸血姫は蛇のことを見たことはなかったのだと。

 

 

「――――――いや、お前に用はない」

 

 

ぽつりと呟くように蛇は口にする。用はない、と。目の前にいるのは紛い物だと。そう、紛い物だ。吸血姫の形をした堕姫。自らの抜け殻の紛い物。自分を殺すために抑止によって生み出された紛い物。見ているだけでおぞましい。吐き気がする。

 

 

「――――見せてやろう。そして知るがいい。己が遠く及ばない、紛い物であることを」

 

 

蛇は宣言する。己が秘奥を解放する。その存在を吸血姫と代行者は知っている。それこそが、蛇の到達点。

 

 

『オーバーロード・ゲマトリア』

 

 

またの名を空洞航路・十七転生。ロアの心象世界を露わす固有結界『過負荷』の究極系。

 

 

瞬間、世界が反転した――――

 

 

 

「ここは…………」

 

 

遠野志貴はただその光景に目を奪われていた。辺り一面が草原に包まれた静かな風景。あるのは今にも堕ちてきそうな鮮やかな満月。それ以外には何もなく、何も要らない完成された世界。かつて一人の男が月姫に出会い、その心を奪われた原初のセカイ。それがこの世界の正体だった。

 

 

「――――見えるか、堕姫。これが真実だ。私が求めた永遠はここにある。お前は、存在するに値しない。ただ私の糧となりかつての自分に詫びるがいい」

 

 

決別にも似た言葉を蛇は告げながら力を行使する。風が吹き荒れ、辺りの風景が消え去っていく。何もない漆黒の世界。まるで今のロアの心象を具現化したような哀れなセカイ。その真価が今、解き放たれんとしている。

 

 

「はあああああ―――――!!」

 

 

それを切り裂くように咆哮と共に青い代行者は自らの全力を以ってロアへと迫る。その速度は先のロアに勝るとも劣らない。加えるなら、その手にしている鉄の塊を含めるならば、上回っている。

 

鉄槌を下すかのような破砕の鐘が鳴り響く。物理法則を無視した重量による圧殺。技術や知識を無視した力押し。それを証明するようにシエルの両腕には鮮血にも似た赤い回路が浮かび上がっている。焦りにも似た表情。何故ならシエルは知っていたから。この固有結界、オーバーロードがいかなるものか。発動されれば勝機はない。だからこそこの刹那に全てを賭ける。

 

 

「―――――セブンっ!!」

 

 

ロアによって片手で鉄塊を防がれるもシエルはその名を告げる。そう、この手にしてるのはただの鉄塊にあらず。概念武装。ただひとつの事象に対して奇跡を可能とするもの。蛇とって天敵となり得る概念。転生批判。転生を認めぬ、魂を打ち砕く力を持つ一角獣の形と魂を併せ持つパイルバンカー。その名は第七聖典。

 

 

「魂を、滅せよ――――――!!!」

 

 

その杭を打ち込みながら全ての力を解放させる。魔術師としての力の差など関係ない。ただ魂すらも粉砕する切り札。だがそれを以ってしても、

 

 

――――この『世界』の蛇には到底届かない。

 

 

「知っているはずだろう……抜け殻。我が魂は不滅。この場において、私を殺せる者など存在しない」

 

 

ロアはつまらなげに事実を口にする。確かに、第七聖典は発動した。だがロアには通じていない。そう、ただ単純にロアという概念に、第七聖典が届かなかった。単純な、これ以上ない力の差。同時にロアの力が増していく。世界からの供給が、全てロアの元へと集って行く。それこそがオーバーロードの力。過負荷ともいえる世界からの供給によってその力を倍加させる禁忌。これまでと違う所があるとすれば、今のロアにとって世界からの供給は過負荷にすらならないということ。

 

ロアがほんの少し力を込め、魔術を行使した瞬間、第七聖典は粉々に砕け散る。呆気なく、初めからそうであったように。その余波によってシエルは心と共に打ち砕かれる。まだ意識を保っていられるのは、第七聖典の守護。自らのマスターを守らんとする小さな精霊の願い。だがそれを受けてもなお、シエルには絶望が下される。

 

 

「アアアアアア―――――!!!」

 

 

まるでシエルを救うためのように、アルクェイド・ブリュンスタッドが駆ける。ただ渾身の一撃を。空想具現化などこの状況では発動させる間も存在しない。だがそんな誰も触れることができないはずの彼女の手を難なく蛇は掴みとる。

 

 

「――――っ!?」

「何を驚いている。知っているだろう、ここでは君は世界からの恩恵を受けられない。それに対抗するために八百年前、教会と手を組んでまで私を滅ぼしたのを忘れたのか」

 

 

吸血姫の手首を握りつぶさんとしながら蛇は告げる。そう、ここはロアの世界。故に星からの供給は絶たれる。大気に満ちているマナもまた同じ。この世界においてはただ己が力のみでロアと相対しなければならない。対してロアはマナも、世界からのバックアップも受けられる。過負荷によって倍加したロアを相手に単身で上回ることは事実上不可能。これが黒の月触姫すら退けたアカシャの蛇の全力。

 

 

「がっ……あっ……!!」

 

 

蛇は間髪入れず、もう片方の手でアルクェイド・ブリュンスタッドの首を締めあげる。その力によってアルクェイド・ブリュンスタッドは苦悶の声をあげるも抵抗する術がない。それだけではなく、その手から徐々に力が奪われていく。蛇に浸食され、汚されていく。刻一刻と、生命力が奪われていく。

 

 

「ブリュンスタッド―――――!!」

 

 

軋む体を無視しながら遠野志貴は叫ぶことしかできない。助けなければ。このままではブリュンスタッドは殺されてしまう。ロアが永遠へと至ってしまう。だがもう、為す術がない。何故なら

 

 

(何で……何で死が見えないんだ……!?)

 

直死の魔眼を以ってしても、ロアの死が全く見えなかったから。満月だからか。固有結界のせいか。ブリュンスタッドの力を吸い上げているからか。あれだけはっきり見えていたはずの蛇の死が見えない。死徒でありながら真祖の領域に至ろうとしているからか。

 

アルテミット・ワン。究極の一。天体種。死という概念すら持たぬ存在。そこに至ってしまえば誰も蛇を止めることはできない。

 

ただ眼に力を込める。眼が沸騰しそうな痛みに、頭が砕けそうな頭痛に声すら出ない。こんなにも、死が見えないことが悔しいなんて思ったことはない。こんなにも死を見ようとすることがあるなんて。

 

だがそれでも見えない。為す術がない。ただのナイフでは、ロアには意味がない。いや、まだだ。考えろ。何か方法があるはず。考えろ。思考を止めるな。あきらめたら、全てが終わる。自ら持ち得る知識を総動員して、この状況を―――――!!

 

気づけば、身体が勝手に動いていた。眼を見開きながらただ死を見つめる。そのままナイフを、

 

 

世界に向かって振り下ろした―――――

 

 

刹那、世界が崩壊した。ガラスが砕けるように、蛇の世界が崩壊していく。ただ地面にあった、世界の点を突いたことで消え去っていく。そう、全ては奴が言っていたこと。世界の供給を、真祖は受けている。かつて、全く同じ戦法を本物の遠野志貴も取っていた。世界の供給によって死が見えないのなら、世界を殺せばいい。

 

だがその代償は、あまりにも大きかった。

 

 

「―――――あ」

 

 

何かが切れた。ブレーカーが落ちるように、左目の視界が死んだ。暗闇。ご丁寧なことに、点と線は見えたまま。嘆くところだが今は構わない。何かが眼から流れている。涙ではない、赤いモノ。血の涙。自らの限界を超えた代価。どうでもいい。ただ今は――――

 

 

「ああああああ―――――っ!!!」

 

 

蛇を殺して、ブリュンスタッドを助けることだけを。

 

 

ナイフを振るう。限界以上の肉体の行使。全力を超えた先へ。この一瞬のみ、自分は遠野志貴を超えた。固有結界を殺された蛇は僅かな揺らぎを見せる。そこに全てを賭ける。ナイフが線を断ち、蛇はブリュンスタッドの首を掴んでいた右手首から先を喪失する。点ではなく、線しか切れなかった。そこが限界。それでもブリュンスタッドは解放された。だからそれでいい。

 

 

自分の右腕が失くなっていることより、そのことの方が嬉しかった――――

 

 

 

 

 

「―――――!!」

「っ!? ―――!!」

 

 

誰かの声が聞こえる。ぼやけて焦点が合わない右目で何とか見る。ブリュンスタッドとシエルさんが自分に向かって何かを叫んでいる。どうやら自分は地面に倒れているらしい。なら、立たないと。立たないと、どこにもいけない。約束を、守れない。

 

 

みっともなく、何度も床を這う。ようやく気づく。両腕がなくなっている。立てないわけだ。どうやらさっきの攻防で、自分は右腕を失ったらしい。蛇は手首から先だけなのに、これでは割に合わない。

 

 

何とか、上体だけ起こす。不思議と、恐怖はなかった。全ての感覚が無くなって行く。夢を見ているようだ。蛇がこちらに向いている。何かを呟いている。同時に光。恐らくは雷なのだろう。それすらもよく見えない。ただ残っているのは、温かさだけ。

 

 

彼女との繋がり。それがまだ、この身体には残っていのだという確信。

 

 

それを胸に光が全てを照らしていく。逃れようのない、死の神罰。それを前にして

 

 

 

 

 

―――――ここに、『遠野志貴』が完成した。

 

 

 



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第三十八話 「直死」

 

――――完璧だった。

 

 

その過程も、在り方も結果も。十七の転生の果てに辿り着いた永遠。今も自らの内に渦巻く力は永遠に相応しい。未だにあの堕姫は存在しているがもはや死に体。力の残滓に過ぎない。故に問題はこの右手を切り裂いていったあの人間。

 

死など存在し得ないこの体を傷つけるなどあり得ない。まさか固有結界すら殺すことができるなどとは予想していなかった。確かに混沌の言う通りだろう。あれは、私達にとっては天敵となりうる存在。逆を言えばあれさえいなくなれば、自分を傷つけられる者はもうどこにも存在しない。

 

 

「――――四つの福音を以て汝を聖別する。嘆かわしきかな、この地に神のおらぬ土地は無し」

 

 

詠唱と共に極大の魔術を行使する。天の崩雷。自ら持ち得る数秘紋の究極系。情け容赦なく、一切の慢心なく全てを無に帰す。魂さえも残さない神罰。

 

 

――――ここに、永遠は成った。そう確信した瞬間、総身が総毛立った。

 

 

「――――――何だ、それは」

 

 

蛇はただ眼を奪われるしかない。そこには一人の人間がいた。両手を失い、みっともなくその場に佇んでいる男。もはや生きているのかも分からない程の満身創痍。にもかかわらずそこにいる。そう、それがおかしい。間違いなく、天の崩雷が直撃したはずにも関わらず、生きている。形を保っている。

 

まるで初めからなかったように、自らの魔術が消されてしまった。いや、殺されてしまっていた。

 

 

「馬鹿な……貴様、どうやって……」

 

 

分からない。わからない。ワカラない、ワカラナイ、ワカラナイ――――!!

 

確かに一度魔術を殺す光景を目にした。だがあれはナイフを使ったからこそできたこと。今はあれにはナイフどころか、両腕が無い有様。微動だにしていない。なのに、どうやって私の魔術を殺したのか―――

 

蛇だけではない。味方であるはずのシエルさえも理解できない光景に言葉を失っている。そして、アルクェイド・ブリュンスタッドだけが、理解していた。その時が、ようやく訪れたのだと。

 

ゆっくりと、遠野志貴が顔を上げる。何気ない動作。なのに、その場の全てを今、彼が支配している。ただその二つの瞳がゆっくりと開かれる。血の涙を流している、今にも壊れてしまそうな双眼。ただ違うのは、

 

 

その瞳が蒼ではなく、宝石へと至っていたということ。

 

 

「――――――――あ」

 

 

ロアの表情が凍りつく。身体が震える。背筋が凍る。人間の頃ですら感じたことのない、絶対的な恐怖。ロアは知っていた。魔眼。あり得ない超常を可能とする奇跡。宝石の魔眼は石化の魔眼などを含む、人の身を超えた域の神秘。だがそれだけでは恐れることはない。今の自分は永遠を手に入れた。宝石の魔眼であったとしても恐れることはない。だが蛇は確かに見た。

 

 

宝石の輝きが、虹へと変じようとしている光景を。

 

 

「――――――あ、ああ」

 

 

一歩、後ずさっていた。もはや、自分が定まらない。知っている。自分は知っている。誰よりも知っている。あの色を。あの眼を。かつて自分が夢見た永遠。その先にある、月の王のみに許されるはずの禁忌。もはや神の域に届く、究極の一。何故そんな物があんな人間に。よりによってこの瞬間に。あと僅か、何故あと数秒それが遅れなかったのか。まるでこの時を、待っていたかのようにその眼が発現するのか――――!?

 

 

「あああああああああああああああああァァァァァ――――――!!!」

 

 

咆哮と共に、永遠は己が力を解放する。認めるわけにいかない。己が宿願のために。己が正しかったのだと証明するために。

 

 

永遠の揺らぎを前にしながらも遠野志貴は変わらない。ただ、自らの足で立つ。大地を踏みしめる。もう時間は残されていない。でも恐れはなかった。全てが、理解できた。自分が何のために生まれて、何のためにここまでやってきたのか。その先に、何を願ったのか。

 

 

一度、大きく息を吐く。最後の呼吸。血潮の流れを感じる。生きている、ということ。今なら分かる。ただ生きているだけで―――――

 

 

誰かがそう言った。そうだ、命には価値がある。どんなものにだって意味はある。でも、永遠なんていらない。命は、一度きりだからこそ価値がある。今なら分かる。

 

 

抑止力。ガイアとアラヤ。根源の渦。霊長の存続。意識されないはずの守護者。魂の知性。形を得てしまった自分。偶然と必然。余分と無駄。永遠。転生。

 

 

その全てに意味があった。そう、全ては今この瞬間のために―――――

 

 

だが、一人では届かない。一人でできることなんて、たかが知れている。俺はお前とは違う。絶対の意志なんて持ってなんかいない。ああ、確かにお前の言う通りだ吸血鬼。人の意志は何よりも強い。だが

 

 

「―――――シエル、アルクェイド。力を貸してくれ」

 

 

お前は一人分。こっちは四人分。なら、負ける道理はない―――――!!

 

 

 

 

「――――――」

 

 

瞬間、彼女たちの瞳に火が灯る。失いかけていた、何かが騒ぎだす。

 

知らず手は握りこぶしになっている。体は震えている。恐怖ではない、歓喜にも似た衝動。遠野志貴の魔眼の変化。それが何かを感じ取っての物ではない。

 

『シエル』『アルクェイド』

 

彼が自分達を呼び捨てにしてくれた。ただそれだけ。それだけのことが、狂おしい程に嬉しい。彼が呼び捨てにするのは琥珀だけだった。それはすなわち、彼が今、本当の意味で自分達を認めてくれていることに他ならない。なら、今それに応えずして、いつ応えるのか――――!!

 

 

 

それは純粋な逃亡だった。もはや吸血鬼としての誇りなど無い。ただあの眼に見られる前にこの場を脱する。それしか今、永遠にはなかった。それは正しい。今遠野志貴が見せようとしているのは最後の輝き。恐らくは数分も持たない蝋燭の灯。永遠の選択は正しかっただろう。

 

 

「――――――セブン!!」

 

 

この場に、自らの抜け殻であるはずの、一人の生きた女性がいなければ。

 

 

シエルはただ己が魔力によって粉々になったはずの第七聖典を操り、結界を造り上げる。概念武装を以って造り上げる最初で最後の包囲網。加えて自らにとっての最後の切り札である、魔術回路の暴走。魔術師はエンジンである。ただ一つの奇跡を為すための機械。その出力はロアに劣る。だがオーバーフローを覚悟した上でなら、魔術師は簡単に限界を超えられる。自滅、という結果を受け入れたうえでなら、限りなく魔法に近い奇跡すら起こせる。不死であってもそれは彼女にとっては禁忌。行えば、身体ではなく心が壊れてしまいかねない。だが、今の彼女に恐れはない。自分は一人ではない。自分が繋げば、後は彼に託せる。そう、あの約束を果たす時は今なのだから――――

 

 

「ぐ……!! 邪魔を……ならば――――!!」

 

 

自らの退路が絶たれたことによって、永遠はその矛先を遠野志貴へと向ける。まだだ。まだ終わっていない。逃げれないならば、あれが発動する前にあの死に損ないを葬ればいい。ただの一撃。掠りさえすれば、終わる。自らの渾身の一撃を、雷へと転じながら放つ。その刹那

 

 

「―――――星の息吹よ」

 

 

右手を天にかざした白い吸血姫によって雷撃は防がれる。そこだけが切り取られた絵本のように、遠野志貴と彼女の周りには雷撃は届かない。もう力の大半を奪われているはずにもかかわらず、アルクェイド・ブリュンスタッドの守りをこの一瞬、永遠は突破することができない。

 

 

「何故だ……」

 

 

永遠は理解できない。何故こんなことになっているのか。何故。

 

 

「何故だ……何故だ何故だ何故だナゼダ―――――!? 何故君がそこにいる!? 何故そんな人間を守る!? 何故、何故何故何故――――――!!!」

 

 

――――――何故そこにいるのが私ではないのか。

 

 

ようやく辿り着く。永遠は、永遠でなくなる。自らが本当は何を欲していたのか。だが、それはあまりにも遅すぎた。

 

 

その眼が開かれる。その色は虹。かつて月の王にしか許されなかったとされる神域の奇跡。

 

 

『直死の魔眼』

 

 

モノの死を視る異能。根源へと繋がることで内包している死を理解する超能力。だが、それは紛い物に過ぎない。この魔眼には、原典となるものが存在する。

 

それに至るために、遠野志貴は螺旋を繰り返した。数えきれないほどの死を経験し、理解し、嫌悪し、乗り越えたからこそその眼に届く。『 』に繋がっている、彼だからこそ可能な一度きりの最期の幻想。

 

死を視るのではなく、死を与える。そこに例外はない。死の概念を持たないアリストテレスですらその眼には抗えない。

 

その瞳に映したものを、例外なく殺す魔眼。

 

 

かつてバロールと呼ばれる魔神のみに許された禁忌。

 

 

その瞳が永遠を捉える。もはや逃げ場はない。永遠は蛇へと堕ち、最期を迎える。それがロアの終着点。何がいけなかったのか。どこで間違えてしまったのか。自分は、何を望んでいたのか。

 

十七度繰り返してきた感覚がロアを染め上げて行く。その刹那、遠野志貴は告げる。

 

 

 

 

「―――――永遠なんて、ない。お前は、最初から―――――間違えてたんだ」

 

 

 

永遠なんてない。そんな当たり前の事実。永遠にも似た螺旋を繰り返して来た、遠野志貴だからこそ、それが理解できる。だから、もう繰り返されることのない、一度きりの死を。

 

 

誰よりも死を理解している男からの最期の言葉によって、ミハイル・ロア・バルダムヨォンはようやく思い出す。忘れることのない、原初の光景。そこにいた、白い吸血姫。生涯でただ一度きりの感情。愛情という名の憎しみ。

 

 

―――――そうだ。私はただ、君が欲しかった。

 

 

自らの望みを胸に、アカシャの蛇は最後の脱皮を終える。もう、戻ってくることはない。それが少女に恋をした、一人の男の結末だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

――――長い夢を見ているようだ。身体の感覚が無い。役目を終えたからなのか。今は酷く落ち着いている。僅かに映る右目の視界が、消え去っていく。

 

死の点も、線も見えない。完全な無。覚えている。何度繰り返したか分からない、死の感覚。どこからが自分で、どこからが世界なのかわからない無の世界。

 

そうだ。これでいい。自分はこれで役目を果たした。ならもう、いいだろう。少し休めばきっと、いつものように眼が覚めるはず。

 

 

ああ―――――でも、何かを忘れているような気がする。あれは、何だったか。

 

 

微かに残る体の熱が、呼び覚ます。その名前を。もう自分の名前も思い出せないのに、彼女の名前だけは覚えてる。だから、言わないと。それがきっと、俺の―――――

 

 

 

『―――――――――■■■■■、琥珀』

 

 

 

声にもならない言葉を残しながら、『遠野志貴』は静かに、自分が帰る場所へと還って行った――――――

 

 

 

 

 

 

 

 




作者です。第三十八話まで投稿させていただきました。早足になりましたが一気に続けた方が良いだろうという判断です。次回が最終話、エンディングとなります。最後の主人公が発した言葉によってノーマルとトゥルー、二つの分岐に別れます。どんな言葉だったかを予想していただけると嬉しいです。その結果次第でエンディングを決定したいと思っています。投稿は来週の土日になるかと思いますが、お付き合いくださると嬉しいです。では。


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『彼方の夢』

 

――――知らず、緊張していた。

 

 

ただ、本当に久しぶりに外の世界を目の当たりにしたような気がする。周りの風景も違って見える。通りすぎる人々も、何気ない街並みも、晴天の空も。

 

一歩、踏み出してみれば簡単だった。自らにとっての戒め。それを破ることに罪悪感がなかったと言えば嘘になる。でも、いつまでもわたしだけが閉じこもっているわけにはいかない。みんな、前を向き始めている。なら、わたしも前に進まなければ。守られるばかりだった、あの頃とはもう違うのだと伝えるために。

 

一歩一歩、噛みしめるように歩き続ける。緊張感が和らいできたからだろうか。身体が軽いような気がする。ふと、自分の服に目を向ける。真っ白な洋装。本当に何年ぶりに着たのか分からないもの。ただ、嘘のように身体が軽くなった。それだけでも、この服を着て来た意味があったのだろう。

 

ようやく目的地にたどり着く。何度も地図を見直す。マンションの部屋番号も確認済み。ここまで部屋を間違えるなんて恥ずかしいことするわけにはいかない。一度大きく、深呼吸をした後、迷いなくチャイムを鳴らす。同時に

 

 

「はーい、ちょっとお待ちください」

 

 

そんな、聞き慣れた明るい女性の声が部屋から聞こえてくる。同時にぱたぱたとせわしない足音。全く変わらない光景。ドアを開けながら一瞬、部屋の主は固まってしまう。きっと、わたしの服装がいつもと違っていたから。驚いて固まっていた表情からすぐに楽しそうな笑みへと変わる。

 

 

「――びっくりしちゃいました。来るなら来るって言ってくれればいいのに。お久しぶり、翡翠ちゃん」

 

 

そう言いながら姉さんはわたしを出迎えてくれる。着物姿に蒼いリボンを結んでいるいつもと変わらない姿。それに安堵しながら

 

 

「――――ええ、お久しぶり姉さん。元気そうでよかった」

 

 

久しぶりに、再会できた姉さんと一緒に微笑み合ったのだった――――

 

 

 

 

「ちょっと待ってね翡翠ちゃん。今お茶を用意しますから」

「気にしないで姉さん。喉は乾いてないから」

「いえ、そういうわけにはいきません。今は翡翠ちゃんはお客さんですからどんと構えていてください。えーっと、あれはどこに……確かシエルさんから頂いた紅茶があったはず……」

 

 

見ているこっちが心配になるぐらい部屋のあちこちを漁りながら姉さんは悪戦苦闘している。手伝おうと思ったが頑として受け入れてくれない。変なところで頑固なところは変わっていないようで安心するも、別の意味で心配になってくる。

 

 

「ありました! ちょっと待ってて下さいね。秋葉様が羨ましがるぐらい美味しい紅茶を淹れてみせますから」

 

 

上機嫌に鼻歌を歌いながら姉さんはティーカップへと紅茶を注いでいる。三か月前には当たり前に見ていた光景なのに、随分と懐かしい気がする。きっと、わたしにとってそれだけこの三カ月は意味があるものだったのだろう。きっと、姉さんにとっても。

 

三か月。姉さんが遠野屋敷から出て行ってから、もうそれだけの時間が流れている。それ以来姉さんはこのマンションの一室を借り、一人暮らしをしている。何でも知り合いが海外に出ることが多いため、必要なくなった部屋を譲ってもらったらしい。

 

 

「はい、お待たせしました翡翠ちゃん」

「ありがとう、姉さん。仕事の方は上手く行っているの?」

「それはもう。勝手知ったる場所ですし、朱鷺恵さんもいますから」

 

 

カップを持ち、自分で満足気に紅茶を飲みながら姉さんは断言する。今、姉さんは遠野家の専属医である時南宗玄の元で薬剤師として働いている。元々姉さんが薬剤師としての資格を持っているのもそこで学んでいたからこそ。それでも少しだけ心配していたのだが杞憂だったようだ。

 

 

「それよりも心配しているのはわたしの方です! 翡翠ちゃん、ちゃんとご飯は食べてますか? ご飯が食べれていますか? 変な物を食べてませんか? 秋葉様はお腹を壊したりしてませんか? それと」

「……姉さん、食事のことは大丈夫。ちゃんと専属の調理人を雇っているから。前も言ったでしょう?」

「そ、そうでしたっけ? ただわたしはそのことが心配で心配で……それを考えると夜も眠れなくなるんですから」

 

 

よよよ、その場で泣き崩れるような真似をしながら姉さんは楽しんでいる。いや、本当に心配してくれているかもしれないが素直に受け取ることができない。暗に自分のことを言われているのは分かるし、自覚はあるがやはりここまでからかわれては頭にくる。

 

 

「わたしも同じ。姉さんがちゃんと掃除ができているか心配していたの。遠野の家ほど壊す物はないでしょうけど、隣に住んでいる方に迷惑をかけてない、姉さん?」

「うっ……だ、大丈夫ですよ翡翠ちゃん。マンションの一室掃除するぐらいお茶の子さいさいです。ほら、見てください。ちゃんと綺麗に掃除できてるでしょう?」

「……そうね。さっきまでは綺麗だったわ」

 

 

姉さんはどこか引きつった笑みを見せながら弁明するも意味がない。来た時には綺麗だったはずなのに、先程のお茶の準備でめちゃくちゃになってしまっている。ある意味変わっていない証拠。だけど、変わっていることもあった。

 

部屋の雰囲気。屋敷にいる時の姉さんの部屋はどこか雑然としている部屋だった。散らかっている、というよりもテレビや小物などで溢れ返っている部屋。だけど、今は違う。必要最低限の物しか置いていない。いや、必要最低限の物しか置かないようにしている。邪魔にならないように。普通の部屋にはない位置に手すりがある。段差をなくしたような跡も。

 

そう、自分以外の誰かが生活できるように整えられている、一人部屋。

 

今はいない誰かがいつ帰ってきてもいいように、待ち続けている証。

 

 

「――――姉さん、あの人は、まだ戻ってきていないの?」

 

 

一度眼を閉じた後、ずっと避けてきた話題を姉さんに振る。聞かないでもいい、聞かない方がいい質問。でも聞いておかなければいけなかった。それが、わたしの責任でもあるのだから。

 

 

「――――ええ、まだ戻ってきていません。まったく、どこで道草食ってるんでしょうか。帰ってきたら文句の一つでも言わなきゃいけませんねー」

 

 

本当に不満に思っているのか、どこか拗ねるように姉さんはここにはいない彼に思いを馳せている。そこに演技はない。本当に姉さんは、心から彼が帰ってくることを願っている。

 

三か月前、姉さんがあの人と一緒に出て行ったあの日。それからほどなく、あの人はいなくなってしまった。どういう経緯があって、どういう理由があってあの人がいなくなったのか、姉さんは教えてはくれない。もしかしたら、姉さんも分かっていないのかもしれない。でも

 

 

「姉さん……わたし、姉さんに言ってなかったことがあるの」

「言ってなかったこと……?」

「姉さんが一度屋敷に戻ってきて、秋葉様と会ったあの日。屋敷の庭であの人に会ったの」

「志貴さんとですか……? どうして志貴さんが屋敷に?」

「姉さんが心配で後を尾けていたみたい。本当ならきっと、わたしと話をする気もなかったみたい」

「そうですか。志貴さんらしいですね。心配症というか何というか……」

 

 

納得がいくことがあったのか、くすくすと姉さんは笑っている。その笑顔に嘘はない。わたしには分かる。あの人が、約束を守ってくれたのだと。『翡翠』ではない、偽ることない『自分』を姉さんは取り戻してくれた。わたしでは叶えることができなかったユメ。

 

 

「……その時、あの人にお願いしたの。姉さんをお願いしますって…………例え、短くても、あの人と一緒にいることが姉さんにとっての幸せだと思ったから」

 

 

思い出す。眼に包帯を巻いた虚ろな彼の姿。今にも消えてしまいそうな在り方。きっと、彼は知っていたのだろう。この結末を。だからこそ、姉さんと一緒にいることを良しとしなかった。今なら分かる。彼の選択の意味。

 

でも、わたしがそれを変えてしまった。もしかしたら、わたしの言葉が無くてもあの人は姉さんと一緒にいることを選んでいたのかもしれない。それでも、間違いだったのかもしれないと、時折考える。

 

わたしと姉さんは双子。表と裏。だから、姉さんのことは誰よりも分かる。わたしが姉さんだったとしたら、後悔はしない。短い時間であってもあの人と一緒にいることを願うだろう。でも、わたしと姉さんは別人だ。姉さんが『琥珀』を演じていてもそれは変わらない。姉さんは――――

 

 

「姉さんは――――幸せだった?」

 

 

姉さんは、どうだったのだろうか。それだけが、怖かった。苦しかった。自分のことではないのに、半身が裂けるように。ただ後悔していた。自分の選択が二人を不幸にしてしまったのではないか、そのことだけが。

 

知らず、手が震えていた。自分が今、どんな表情をしているのか分からない。そんなわたしを

 

 

「――――はい、わたしは幸せですよ翡翠ちゃん。後悔なんてありません。そんなこと言ったら志貴さんに怒られちゃいますから」

 

 

慈しむように姉さんは告げる。嘘偽りない、姉さんの心。幸せだった、ではなく幸せだと。今もそれは変わらない。その笑みは今まで見た姉さんの笑顔の中で、一番綺麗だった。あの時、彼に見せるために化粧をしていた時よりも、何倍も。

 

 

ただ想う。願わくば、もう一度だけでも二人が出会うことができる奇跡があることを――――

 

 

 

 

――――空を、見上げる。

 

 

雲ひとつない、空。意味は特にない。ただよく彼が空を見上げていたからちょっと真似をして見ただけ。彼にとってはこんな何でもない青空が、とても価値があるものだった。

 

 

「寒くなってきましたね……」

 

 

誰にともなく呟く。吐く息が白くなるほど、辺りが冷たくなっていく。時刻は夕刻。もう夜になりかけている公園で、一人ベンチに座っている自分。特に意味はない日課。買い物帰りにはこうして過ごすことがわたしの日常になってしまっている。意味なんてないと分かっているのに、どうしてもやめることができなかった。

 

 

「何やってるんでしょうか、わたし」

 

 

何だかおかしくて笑ってしまう。どういえば、いつかもこんな風に同じ言葉を呟いたことがあったような気がする。その時も、頭の中は一つのことで一杯だった。

 

数えるほどしかない、思い出。その中でも、この公園は特別だった。このベンチに座って、他愛のないことを話していたのを覚えている。あの頃はまだ、互いに互いのことを警戒していた。ギクシャクしていて、でもそれがわたしはおかしくて彼をからかってばかりだった。思えば、ちょっとやりすぎだったかもしれない。

 

かじかむ手を息で温めながら、ただ待ち続ける。意味なんてない。ただ、そうしているだけでよかった。知らず心が穏やかになれるから。

 

もうイタくない。体はもうわたしのもので、目に見える世界も、触れる空気も、何もかも違って見える。生きている、という実感がある。ゼンマイがなくてもわたしは生きていける。もうわたしは、人形じゃないんだから。ただ、胸にぽっかりと穴ができてしまった。欠けてしまった何か。ずっとそのままなのか、何かで埋めることができる時が来るのか。きっと五分五分だろう。

 

 

目を閉じる。今はただ、もう少し叶うことのない夢を――――

 

 

 

 

 

 

「―――――そんなところで寝てると風邪ひくぞ、琥珀」

 

 

 

そんな懐かしい少年の声を、確かに聞いた。

 

 

「―――――え?」

 

 

虚ろになりながら声の方へと振り返る。ベンチの隣。誰もいなかったはずの場所に、彼がいた。

 

 

「――――志貴、さん?」

「本当に大丈夫か? それとももう俺のことなんて忘れちまったってことか?」

 

 

知らず出ていた言葉にどこか呆れ気味に彼は応えてくれる。その仕草に、雰囲気に、温かさに思い出す。間違いなく、彼なのだと。

 

同時に、気づいてしまった。これが夢であることを。それは彼の姿。失われているはずの左腕がある。何よりもその眼に包帯が巻かれていない。青い双眼は黒の瞳になっている。服は学生服。

 

そう、八年ぶりに有間の家で会った時の再現。もしも、何の障害もなく彼と出会えていたらという恥ずかしいわたしの夢。

 

 

「……ええ、今ようやく思い出しました。約束をほったらかしたままどこかに行ってしまったので、すっかり忘れちゃってました」

「相変わらず容赦がないな……まあ、それはそうだな」

 

 

わたしの意地悪が堪えたのか、いつものように彼は苦笑いしている。全く、どうかしている。わたしはもう、気が触れてしまっているのかもしれない。でも、構わない。

 

 

「――――お帰りなさい、志貴」

「――――ただいま、琥珀」

 

 

もう一度、彼に会うことができたのだから。

 

 

 

 

それからのことはよく覚えていない。他愛のないことをずっと喋り続けていたような気がする。自分のこと。アルクェイドさんやシエルさんのこと。翡翠ちゃんのこと。秋葉様のこと。都古ちゃんのこと。

 

話したいことがたくさんあった。聞いてほしいことがたくさんあった。でもどれだけ話しても足りない。ただ、この時間が終わってほしくなくて、喋り続ける。終わりが来るのが、いやだった。それでも

 

 

「――――寒くなってきたな。そろそろ時間だな」

 

 

夢はいつまでもは続かない。いつかは覚めるのは、決まっていること。

 

 

「そうですね。あ、志貴さん今日は御馳走の用意をしてるんです。もう体調は良さそうですからきっと喜んで頂けますよ」

 

ぽんと手を叩きながら、それに抗う。彼とした約束の一つ。歓迎会のごちそう。結局歓迎会をすることはできなかったけれど、今度こそそれを叶えよう。秋葉様や翡翠ちゃんを呼ぶのは難しいかもしれないけど、代わりにアルクェイドさんとシエルさんを呼べば。うん、それがいい。そうすれば遊園地に行くこともできる。それから、それから――――

 

 

「…………悪いな、琥珀。約束、守れそうにない」

 

 

そんなことは、もうわかっていたはずなのに、やっぱり、聞きたくなかった。

 

 

「……そうですか。何となくそうじゃないかな―って気はしてたんです。志貴さん、顔に出やすいですから」

「お互い様だろ。本当ならこうしてるのも……ま、いいか。本当に風邪ひくなよ。他のことは特に心配してないけど……もう、大丈夫だろ?」

 

 

彼が真っ直ぐに自分を見つめている。その瞳に、私が映っている。何か言いたいのに、何も言えない。夢の中ぐらい、願いが叶ってもいいのに。

 

ただ静寂が流れる。寒さは増し、いつの間にか雪が降り始めている。本当に風邪を引いてしまうかもしれない。でも、それでもこのまま。そんな中

 

確かな温かさと共に、雪ではない何かが自分の掌に渡された。

 

 

「―――――え?」

 

 

ただ呆然とそれを見つめる。雪のように白い、何か。でもわたしはそれを知っている感触を覚えてる。だってこれは、わたしが一番大事にしていた物だったから。

 

 

「それ、返しておく。長い間かかっちまったけど、約束だったからな」

 

 

照れくさそうに彼は笑顔を見せながら白いリボンを返してくれた。その約束を覚えている。わたしからすれば、八年越しの約束。彼からすれば、一体どれほどの時間が経っているのか分からない。それでも

 

 

「――――はい。預かっておきますね」

 

 

彼は確かに約束を守ってくれた。守ってくれなかった約束もある。それでもこの約束だけは、叶えておきたかったのだと。わたしと、彼が、人形ではなく人間になれた証。

 

だからきっと大丈夫。寂しい時もきっとある。それでもこの約束が胸にあれば、わたしは生きていける。そう願ってくれた彼がいるのだから。だから

 

 

「―――――ありがとう、琥珀」

「―――――ありがとう、志貴」

 

 

ありがとう、と笑いながら別れを告げる。それが変わることのない、『琥珀』であるわたしのココロだった―――――

 

 

 

 

 

――――ふと、目を覚ました。

 

 

視界には降りしきる雪。人気のない、公園。変わらない、自分一人だけのベンチ。ただ、その掌には確かな白いリボンがある。

 

 

立ち上がり、歩き始める。一歩一歩、雪を踏みしめながら。新しい自分を始めるために。最後に一度だけ、空を見上げた。彼が夢見た、彼方の夢。ただ想う。

 

 

 

―――――今夜はこんなにも、月が綺麗だ。

 

 

 

 

 



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「日向の夢」

「ハアッ……ハアッ……!」

 

 

息を切らせながら必死に走り続ける。吐く息は白くなって、喉が痛くなってくるけど仕方ない。早く行かなければバスに乗り遅れてしまう。

 

 

(もうー……みんなひどいよ。わたしに掃除当番させて先に帰っちゃうなんて……)

 

 

半分涙目になりながら今ここにはいないクラスメートに愚痴をこぼす。自分がからかわれやすい正確なのは分かっているが流石にやりすぎだろう。明日にはちゃんと文句を言わないと。

 

 

「はあー……な、何とか間に合った……」

 

 

ぜーぜー息を吐きながらもようやく目的のバス停に到着する。本当に助かった。これを逃せば次のバスは三十分後。それまでこの寒空の下待ち続けるのは辛い。スカートなのでお腹も冷えてしまう。もう三カ月になろうとしているがはやはりバス通学は慣れない。

 

気づけばバスが到着し、次々に待っていた人々が乗り込んでいく。遅れないようにその流れに乗ろうとしたその時

 

 

「…………え?」

 

 

ふと、その少年に目を奪われた。

 

 

年は自分と同じぐらいだろうか。学生服を着ている。それだけなら気にすることもない。ただ、少年は目を閉じたままだった。その手には白い杖が握られている。間違いなく、目が見えないのだろう。だが目の前にいる自転車によって前に進むことができていない。放置自転車だろうか。点字ブロックの上に置かれているため、少年は上手く前に進むことができていない。バスに乗るつもりだろうに、このままでは間に合わない。

 

手伝ってあげなきゃ。そう思うがすぐに声が出せない。わたし以外の人達は見ないふりをしている。きっと気が引けるのだろう。声をかけても余計な御世話だと言われてしまうかもしれない。周りから奇異の目で見られるかもしれない。そんな自分勝手な理由。それでも、

 

 

「あ、あの……お、お手伝いしましょうか……!?」

 

 

勇気を振り絞りながら少年に声をかける。変に思われないだろうか。無視されてしまうんじゃないだろうか。そんな臆病なわたしを何とか誤魔化しながら名乗り出る。それがどう映ったのか、少年は何かに驚いたかのように動きを止めてしまう。緊張感。時間が止まってしまったかのように感じたのも束の間

 

 

「……ありがとう。じゃあ悪いけど、少し手伝ってもらっていいかな」

 

 

そんなこっちの困惑など一瞬で吹き飛ばしてくれるぐらい、優しく微笑みながら少年は手を差し出してくる。その姿にしばらく呆然とするもすぐさまその手を握り、慌てながらもたどたどしく自転車を避けながらバスへと案内する。

 

 

それがこれから長い付き合いになる、わたしと彼との出会いだった――――

 

 

 

 

「あ、あの、いつもこの時間にバスに乗ってるんですか?」

「いや、今日はいつもより遅くなっちまって。おかげで助かった。時間帯がずれるとあの辺は色々歩きづらくなるから」

「い、いえそんなこと気にしないでください! わたしもちょうど遅れそうだったら同じです!」

 

 

少年と並んでバスの席に座りながら取り留めのない会話をする。いや、会話というよりは彼が一方的に話しかけてきてくれているだけ。緊張している自分を察してくれているんだろう。いつも通りに、と必死に自分に言い聞かせるもやはり上手く行かない。あがり症もあるけど、同じぐらいの男の子と並んでおしゃべりするなんてわたしにはハードルが高すぎる。

 

 

「そ、それにきっと迷惑をかけてるのはわたし達の方です。校舎を貸してもらってるから……新しい校舎ができるまで、どうしても半年ぐらいはかかるみたいだし」

 

 

何とかこちらからも話題を必死に振る。彼との共通の話題になりそうなもの。今、わたしを含めた学生は一時的に彼らの校舎を借りている。三か月前、突然学校の校舎が崩れ去ってしまったから。文字通り、一晩の内に跡形もなく無くなってしまったらしい。

 

 

(でも一体何だったんだろう……? 結局原因も分かってないみたいだし)

 

 

不可解なのはその原因が全く不明なこと。地震があったわけでもないのに学校が崩壊するなんてあり得ない。欠陥住宅……ではなく、欠陥校舎だったのだろうか。だが

 

 

「……いや、悪いのはこっちだな」

 

 

ぼやくように少年はよく分からないことを口にしている。何かまずいことをしてしまったことを思い出しているかのよう。それまで見せていた態度から一変してしまっている。

 

 

「……? 何でですか? 迷惑をかけてるのはわたし達の学校の方なのに」

「それはそうなんだが……まあ、確かに俺のせいではないな」

 

 

うんうん、と何か自分に言い聞かせているような彼の仕草に思わず笑ってしまう。そういえば、最初は敬語で話していたのにそれが無くなりつつある。慣れてきたのか、それともそうなるよう彼が気を遣ってくれているのか。

 

それから他愛ないことを喋り続ける。いつから学校に通っているのか。どこに住んでいるのか。どんなことをしているのか。こっちが聞きにくい目のことも、何でもないことのように彼の方から面白おかしく話題にしてくれる。

 

知らず、その姿に見惚れていた。同年代とは思えない、言葉では言い表せない穏やかさが彼にはある。でも、それと同じぐらい、一緒にいると、ふと不安になるような危うさ。それが何なのか考えようとした時

 

 

『次は―――番地。―――番地前。お降りの方はバスが止まるまで席を立たずにお待ちください』

 

 

機械的なアナウンスによって容赦なく現実に引き戻される。わたしの降りるバス停。どうやら彼も同じようだ。ただ、もう着いてしまったのが残念だった。もう少し、お話しがしたかったのに。そんな中ふと気づく。一番肝心なことを、まだ自分が聞いてなかったことに。

 

 

「あ、あの……な、名前を教えてもらってもいいですか……?」

「え……?」

 

 

彼にとっても予想外だったのか。今まで閉じていた目を一瞬開けながらこちらに振り向く。その瞳は黒。ただ焦点があっていない。彼には自分の姿は見えていない。それでも不思議とその眼には引き込まれるような何かがあった。

 

 

「志貴……遠野志貴だ」

 

 

彼は自分の名前を何でもないように告げる。当たり前なのに、どこか噛みしめるように彼は自分の名を口にしている。

 

 

「わ、わたしはさつき……弓塚さつきです……!」

 

 

あたふたしながら自分も名前を告げる。何だろう、何故か落ち着けない。上手く言えただろうか。だがそんなわたしの心配をよそに

 

 

「弓塚……さつき……?」

 

 

心底驚いたように、心ここに非ずといった風に彼は口を開けたままぽかんとしている。まるで信じられないものを見たかのように。

 

 

「え……? あの、どうかしたんですか……?」

 

 

思わず心配になって声をかけるも、彼は固まったまま。だがようやく何かに納得したかのように

 

 

「――――そうか、そういうこともあるんだな。宜しく、弓塚さん」

 

「――――」

 

 

本当に嬉しそうに、彼は笑顔を見せてくれる。思わずこっちが赤面してしまうぐらい、彼の笑みには喜びが満ちていた。

 

排気音とともにバスが停留所に到着する。運転手の人とも知り合いなのか、一言二言会話しながら彼がバスを降りてくる。彼に比べると何だが自分が子供のように思えて恥ずかしくなってくる。もっと頑張らなければ。そんな気持ちになってくる。

 

 

「じゃあ、弓塚さん。俺はこっちだから。ありがとう、助かった」

「う、ううん……気にしないで! それじゃあ、私の家はこっちだから」

 

 

互いに帰り道は反対方向なのでここでお別れ。ほんとうにたまたまの出会い。もしかしたらもう会うことはないのかもしれない。でも

 

 

「――――またね、遠野君!」

 

 

もう一度会うことができるように。そんな気持ちを込めながら夕陽を背に遠野君に向かって手を振る。まるでそれが見えているかのように振り返りながら、遠野君も手を振ってくれる。

 

後は、恥ずかしさを誤魔化すように全力疾走で、胸の高まりを抑えながら家へと帰るのだった――――

 

 

 

 

「―――――ふう」

 

 

大きくため息を吐く。疲労というよりは驚きの方が大きかった。まさか、こんな形で彼女と会うことになるなんて、思ってもいなかった。自分は彼女のことは知識でしか知らない。その知識の根源も今はなく、摩耗していっている。だがそれでも安堵した。あの時、命を落としたのだと思っていた彼女が生きていたのだから。それを見捨てた自分が言えることではないが、本当によかった。

 

知らず笑みを浮かべながら意識を切り替える。右手に持つ杖に力を込める。浮かれたまま交通事故にあっていたら笑い話にもならない。いざ帰路へ。そんな意気込みを

 

 

 

「――――楽しそうでしたね、志貴さん。もしかしてガールフレンドさんですか?」

 

 

一気に消し去ってくれる、聞き慣れたはずの割烹着の悪魔の声が耳に届いた。

 

 

「…………一応聞くが、そんなところで何をしてるんだ?」

「いえいえお気になさらずに……それよりも見ましたよ志貴さん! 浮気です! 浮気現場発見です! これは現行犯逮捕もやむなしではないでしょうか!?」

 

 

こっちの呆れ具合も何のその。我が世の春が来たとばかり、水を得た魚のように誰かさんは生き生きしている。そのまま溺死すればいいのにと思いながらも向き返る。どうやら少し離れたところに彼女はいるらしい。確かあの辺りは家の塀があったはず。なるほど、もしかしたら家政婦は見たごっこがしたかったのかもしれない。恰好は家政婦かもしれないが、お金を払ってでもどこかに行ってほしい家政婦はこいつぐらいだろう。

 

 

「そうか。じゃあ俺は帰るから。気をつけて帰れよ」

「ちょ、ちょっと待って下さい志貴さん!? もう、少しぐらい付き合ってくださってもいいじゃないですか。これから修羅場ごっこになる予定なんですから」

 

 

なるほど、最低だなと思いながらさっさと帰ろうとするも先回りされてしまう。酷い既視感を感じる。これでは、都古の方がマシかもしれない。中学一年生と比べてもその有様。

 

 

「とりあえず……ただいま、琥珀」

「はい。お帰りなさい、志貴」

 

 

きっといつものように向日葵のような笑みを浮かべながら琥珀は自分を迎えてくれる。

 

それが今の自分の日常。琥珀と共に生きている。何でもない、自分が望んだ日向の夢だった――――

 

 

 

 

「そういえば都古はどうしたんだ? 今日は都古が迎えに来る日だったはずだろ?」

「はい。ですがどうしても外せない用事が出来たみたいでわたしが代わりに。決してわたしが何かしたわけじゃないですよ?」

 

 

腕を組み、自分を先導してくれる琥珀に向かって都古のことを尋ねるものらりくらりかわされてしまう。楽しそうにクスクス笑っている琥珀の言葉が真実なのかは分からないが、都古が忙しくなっているのは確かだろう。もう中学一年生。勉強はもちろん、部活や習いごともある。そんな中で自分を迎えに来るのは大変に違いない。もっとも、最近は俺を迎えに来ること以上に、琥珀に対抗する意味合いが大きいようだが。

 

 

「でも都古ちゃんも可愛いですね。きっと、志貴さんがわたしに盗られそうだと思ってやきもちを焼いてるんですよ?」

「そうか……もう思春期だしな。そろそろ兄離れしてもいい頃だが」

「そんなこと言っていいんですか? きっと『もうお兄ちゃんの下着と一緒に洗濯しないで!』なんてことになりますよ?」

「どういう例えだそれ」

「でも心配しないでください。志貴さんの下着はわたしが洗って差し上げますから」

 

 

意味不明なことを口走っている琥珀を無視しながら、ただ自分の目の前の視界に集中する。

 

 

――――何もない暗闇。

 

 

それが今の自分の世界。目を閉じているからではない。目を開けても、もう自分は何も見ることはできない。完全な全盲。それがあの戦いの代償、そして自分が螺旋から解放された証だった。

 

 

「……志貴さん、眼の方は大丈夫ですか?」

「ああ、変わりない。もう包帯を巻く必要なさそうだ」

 

 

自分の僅かな気配を感じ取ったのか、さっきまでふざけていたのが嘘のように真剣に琥珀が尋ねてくる。だが問題はない。自分にはもう、何も見えない。

 

死の点も、線も。もう直死の魔眼は存在しない。

 

どうしてそうなったのか分からない。根源との繋がりが絶たれたのか、それとも最期の眼の力の反動か。蛇との戦いの決着からもう死を視ることはできなくなった。自分にとっては喜んでいいこと。本当に目も見えなくなってしまったが、それは今までの生活となんら変わらない。アイマスクをしていたとはいえ、八年間ずっと全盲と変わらない生活をしていたのだから。

 

ただ、未だに分からない。どうして今自分が生きているのか。ここにいるのか。自分は蛇を殺すためにだけに存在するもの。その役目が終えれば消えるだけ。なのに、自分はまだここにいる。

 

ふと、思い出す。最後の瞬間、感じた僅かな熱。温かさ。琥珀との繋がり。もしかしたら、それが自分をこの世界に繋ぎとめてくれたのかもしれない。そういえば、あの時自分は何を口にしたのか―――――

 

 

「志貴さん、どうしたんですか? やっぱりどこか具合が悪いんですか?」

「いや、何でもない。今日も寒いなって思っただけだ」

 

 

言いながら自分の手の感触を確かめる。自分の物ではない、借り物の両腕。義手。それが今の自分の両手。本当なら失われたはずの腕を補うためにシエルさんが用意してくれた物。曰く凄腕の人形師が作ったものらしい。その通り、本物の腕と同じ、それ以上に使い勝手がいい。元々自分の体を人形のように扱う感覚には慣れていたこともあり、すぐに自由に動かせるようになった。一体どれだけの価値がある物なのか。しかしシエルさんは気にしなくていいと断言した。曰く、蛇を殺してくれたことに対する報酬だと。

 

 

「そうですね、じゃあ早く帰りましょう。今日は特別な日ですから」

 

 

悪戯を楽しむ子供のように、本当に楽しそうに琥珀は自分の手を引いてくれる。行き先は有間の家ではなく、琥珀が今住んでいるマンション。そこに今自分は住んでいる。同棲、と言ってもいいかもしれない。流石に学生の身分でそれはまずいのではと断ったのだが琥珀は頑として譲らなかった。あっという間に有間の家族(都古以外)を説得し、外堀を埋めてしまった。契約と称して何かの紙に名前を書かされたがあれは何だったのか。

 

そんな自分の戸惑いをよそに琥珀は自分と共に歩き続けている。その温かさが、匂いが、空気を肌で感じる。目が見えなくても、確かにそこに見える彼女の姿。

 

ただ、彼女が白いリボンを着けている姿が見えないことだけが、少しだけ残念だがきっとそれは欲張り過ぎだろう。

 

 

 

 

「はい、着きましたよ志貴さん」

 

 

バス停から歩いて十分ほどでマンションの部屋へと到着する。バス停まで近いことが有間の家からこっちへ越して来た理由の一つ。だがいつもは先にドアを開けてくれる琥珀が動かない。一体何なのか。不思議に思いながらドア開けた瞬間

 

 

「おかえり、シキ――――!!」

 

 

白い吸血姫が、突撃という名の出迎えを盛大にかましてくれた。

 

 

「ぶっ!? あ、アルクェイドか!? 何でこんなところに」

「えへへ、今日帰って来たの。本当ならすぐに迎えに行きたかったんだけど、コハクがこの方がきっとシキが驚いてくれるからって」

 

 

親が帰ってくるのを待ちきれなかった子供のように、アルクェイドは自分へと抱きついてくる。自分の首元に掴まり猫のように纏わりついてくる。暑苦しいことこの上ない。振り払おうとするが真祖の力に対抗できるわけもなくされるがまま。大きな二つの胸の塊が遠慮なく押し付けられるが意識しないようにするしかない。

 

 

「ふふっ、言った通りでしょうアルクェイドさん? 志貴さん凄く驚いてくれてますから」

 

 

もし余計な反応をすればこの割烹着の悪魔の思惑通り。どれだけそれでいじられるか分かったものではないのだから。

 

 

「何をしているんです、アルクェイド!? 早く遠野君から離れなさい、はしたないですよ!?」

 

 

そんな中、この集団の中で唯一の良心であり、苦労人である女性が慌てて飛び出してくる。全く変わってない、お人好しの代行者。シエルさんは慣れた手つきでアルクェイドを自分から引き剥がしてくれる。物理的な意味でアルクェイドに対抗できるのは彼女ぐらいだろう。

 

 

「邪魔しないでよ、シエル。わたしはシキと挨拶してただけなんだから」

「あれのどこが挨拶なんですか? いい加減にしなさいアーパー吸血鬼! 琥珀さんがいる前であんなことをするなんて、いい度胸ですね」

「あらあらわたしは構いませんよ? ささ、早く中にどうぞ皆さん。お茶をお淹れしますから」

 

 

騒がしさも何のその。この状況の黒幕であるにも関わらず我関せずと言った風に琥珀はさっさと部屋へと入って行ってしまう。ある意味、いつも通りの光景。それを前にしながらもいい忘れていた言葉を思い出す。

 

 

「まあ、とにかく……久しぶりだな二人とも。元気そうで良かった」

 

 

アルクェイドとシエル。自分にとっては友人でありながら家族同然の二人の帰郷をねぎらう。姿は見えないが、二人が元気であることはもはや見るまでもない。

 

 

「うん、シキも元気そうで良かったわ」

「ええ。ただ少し元気すぎる誰かさんもいますが」

 

 

互いに笑い合いながら再会を喜び合う。それが久しぶりに、この部屋の住人が全員揃った瞬間だった――――

 

 

 

 

「そっちはどうなんだシエルさん? 上手く行ってるのか?」

「とりあえずは大丈夫です。蛇の事後処理も済みましたし、目下の問題はそこにいる吸血鬼だけです」

「ん? 何か言った? シエル?」

「いいえ、何も。これからのことに頭を痛めているだけです」

「そうなんだ。大変ねーシエル。あんまり考え事してるとハゲてくるわよ」

「誰のせいですか誰の!? 貴方が無茶苦茶をする後始末をしているのが誰か分かっているんでしょうね!?」

「ねえ、シキ。明日わたしも学校ってところに行ってもいい? シキが過ごしている場所を見てみたいの」

「それはいいですね。わたしもご一緒していいですか? ちょっとした授業参観ですね志貴さん?」

「気にするだけ無駄だぞ、シエルさん。ほら、お茶」

「ありがとうございます。ですが遠野君……いえ、やっぱりいいです」

 

 

何かを言いかけながらもシエルさんは自分がおみやげとして持ってきた紅茶をがぶ飲みしている。その心労は推して知るべし。

 

蛇が死に、シエルさんは不死ではなくなった。アルクェイドは奪われた力を取り戻し、俺が切り裂いてしまった右腕も元通り。それでめでたしめでたし……とはいかなかった。

 

 

『わたし? まだしばらく起きてることにしたの。眠るのも何だかもったいないし』

 

 

そんなどうでもよさげな吸血姫のきまぐれによって。

 

 

同時に世界が震撼した。死徒も、教会も、協会も。その全ての勢力にとって畏怖の対象でしかない真祖の処刑人が眠りにつかずに活動する。にわかにも信じられない異常事態。それを収めるために我らがシエルさんに白羽の矢が立ったわけだ。もっとも、最初からそれは決まっていたようなものだったが。

 

表向きは真祖を監視する名目で、教会の死徒討伐に参加させる。いわゆるシエルの相方としてアルクェイドは活動している。この危ういパワーバランスを保てるかどうかは彼女の肩にかかっている。少し同情したくなるが仕方ない。今の自分にできることは、またに戻ってくる彼女のを労わってあげることぐらいだった。

 

 

「でもシエルも物好きよね。せっかく不死じゃなくなったのにまだ吸血鬼退治を続けるなんて」

「貴方にだけは言われたくありませんね。それにわたしが活動しているのはそれだけじゃありません。遠野君の目を治す方法を探すのもわたしの目的ですから」

「俺の目……?」

「ええ。魔術には様々な用途で使える物があります。遠見の魔術……転移の一種ですがそれを使えば遠野君に外の世界を見せることができるかもしれません」

 

 

初耳な話題に思わず言葉が出ない。なるほど、それは考えていなかった。そもそも目を治す、という発想自体が自分には全くなかった。何故なら

 

 

「要するに使い魔の視覚共有みたいなことをシエルは考えてるのね。でもそれでシキがまた死が見えるようになったらどうするの? 今は閉じているけど、いつそうなるかは分からないわよ」

 

 

目が見えるようになると言うことは、自分にとっては死を見ることと同義だったから。そうなるとは限らないが、ないとは言い切れない。それを言い当てられたからかシエルさんは黙りこんでしまう。

 

 

「ですが……遠野君は目が見えるようになりたくはないんですか?」

「そんなことはないけど……見えなくてもいいかな、とは思ってる。シエルさんの気持ちは嬉しいけど、今までもそう生活して来たんだし」

 

 

そう、これでいい。もしかしたら、見えるようになる可能性もあるかもしれない。でも今のままでも充分だ。完璧を求め過ぎてもきっといいことはない。何かが欠けているぐらいがちょうどいい。

 

 

「いえいえそうはいきません! 志貴さんにはイメチェンしたお二人の姿を見て頂くと言う重要な役目があるんですから!」

 

 

だがそんなシリアスな空気などしったことではないと琥珀は騒ぎ始める。今度は何なのか。できれば自分に実害がない方向でお願いしたい。

 

 

「イメチェン……? 何のことだ?」

「はい。実はアルクェイドさんとシエルさんの容姿をわたしがいじらせてもらったんです。シエルさんは前髪を伸ばして、眼鏡を新調してます! 知的なお姉さんスタイルです! そしてアルクェイドは髪を少し整えてから、何とミニスカにブーツを履いもらってます! ミニスカですよミニスカ!」

「そ、そうか……で、お前はどう変わったんだ?」

「わたしですか? わたしはいつも通りですよ? あ、もしかして志貴さん、そういう趣味だったんですか? 早く言ってくだされば今晩からでも」

「いいや、いい。大体見えないんじゃ何着てても一緒だからな」

 

 

一人でフィーバーしている発情猫を放置しながら紅茶を楽しむ。だが琥珀はともかく、二人の新しい服装、容姿が見れないのは確かに惜しいかもしれない。特にアルクェイドのミニスカート姿など想像できない。そんな自分の機敏を察知したのか

 

 

「見えないなら触ればいい。ほら、これ。少し涼しいけど動きやすいわ」

 

 

そういいながらさも当然とばかりにアルクェイドは俺の手をスカートの中に引き入れる。なるほど、確かにミニスカートになっている。だが見えていないが、今の自分の姿が間違いなく犯罪者であることは間違いない。アルクェイドのスカートの中に手を突っ込んでいる変質者以外の何者でもないだろう。

 

 

「なっ――――何をしているんですかこのアンバー吸血鬼!? 貴方には恥じらいという物がないんですか!?」

「別にいいじゃない。シキには見えてないんだし。シエルも同じようにすればいい」

「どうですか志貴さん? 女の子のスカートの中には夢が詰まってるんですよ? パライソです!」

 

 

ぎゃあぎゃあと騒がしい声が響き渡る。それを前にして溜息しか出ない。きっと、こんな日常が続いて行くんだろう。いつ終わるかは誰にもわからない。ずっと先かもしれないし、明日かもしれない。でもそれでいい。

 

 

ただ生きているだけで楽しい。今なら、そう胸を張って言える。不安はある。でも、きっと楽しい事の方が多いはず。

 

 

そっと、手を伸ばす。もう手には何もない。ナイフも、リボンも。どちらも借り物だった。でも今は違う。

 

 

その手に彼女の手が重なる。言葉なんて必要ないかのように自然に、琥珀の手の温もりが伝わってくる。そう、自分が欲しかったのはナイフでもなく、リボンでもなく、その温もりだけだった。

 

 

ようやく思い出す。全てが終わったあの時、自分が口にした、この世界に留まる力をくれた一言。恥ずかしくて、とても口にできないような言葉。

 

 

 

「―――――愛してる、琥珀」

「―――はい。わたしもです」

 

 

 

当たり前のように、二人は自然に口にする。まるで挨拶するように、誰にも聞こえないような小さな声で。柄にないもない台詞だが、たまにはいいだろう。

 

 

日々は続いて行く。きっと、終わりでさえ幸福だろう。

 

 

それじゃあとりあえず、約束の場所へ、四人で遊びに行くことにしよう―――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




あとがき

作者です。最終話を投稿させていただきました。長くかかりましたがこれで完結となります。これまで読んで下さった読者の皆様、本当にありがとうございました。ここでは二つのエンディングの補足と、作品の裏話をしたいと思います。

『彼方の夢』

ノーマルエンド。主人公が最後に『ありがとう』を選択した結末。月姫をプレイした方ならお気づきだと思いますが原作のアルクェイドルートのトゥルーエンドを強く意識したものになっています。琥珀のテーマである『人形と人間』に対する解答。互いのことを認め合いながら、それぞれの道を歩き始めるエンディングです。当初予定していたのはこちらのエンディングのみであり、物語として一番綺麗にまとまっている内容だと思っています。

「日向の夢」

トゥルーエンド。主人公が最後に『愛してる』を選択した結末。Fateで例えるなら桜ルートのトゥルーエンド。ぶっちゃければ『ハッピーエンドで何が悪い』なエンディングでご都合主義の塊です。蛇足である部分もありますが、それでも物語はハッピーエンドであるべきだという作者の我儘です。どちらのエンディングが上ということもありませんが、月姫やfate のように複数のエンディングがあるのが型月作品の魅力の一つでもあるのでこのような形になりました。

この作品を書くきっかけになったのは、もし遠野志貴が盲目だったら、というSSを知ったことです。残念ながらそのSSはもう読めなくなっており、作者も読むことができなかったのですがなら自分で書いてみようと思った結果がこの作品です。

最初は遠野志貴が遠野家に戻った時に、琥珀に気づきすぐに白いリボンを返すという内容で考えていましたがあまりにも話が短くなってしまうこと、何よりもどうしても遠野志貴というキャラクターが描けず、オリ主のようになってしまうことが問題でした。そのため主人公を憑依、転生のオリ主に変更。性格を遠野志貴と七夜志貴を足して割ったようなイメージに設定しました。トゥルーエンドで盲目になったのもその名残。最初の着地点に何とか着地できた、といったところ。目が見えるようになる案もありましたがやはりご都合が過ぎるだろうという判断です。Fateでイリヤが言っていたように何かがたりないぐらいがちょうどいい、と作者も思います。

長くなりましたが、ここまでお付き合いくださり本当にありがとうございました。最後に月姫リメイクが早く出ることを期待しながら。


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後日談 「再演」前編

――――ふと、目を覚ました。

 

 

だが視界には何も映らない。あるのは光のない暗闇。人であるなら不安に囚われてしまうであろう世界。しかし、自分にとってはそうではない。むしろ何も見えないことに安堵すら感じてしまう。何故なら外の世界を見るということは、自分にとってはあの死の線と点に満ちた世界を見ることと同義なのだから。

 

 

「――――ん」

 

 

けだるげに上半身を起こしてみる。結果は良好。眩暈や貧血は今朝は幾分和らいでいる。朝起きてこれなら十分に僥倖といえるだろう。そのまま手を握っては開くのを繰り返す。変わらない自分の体の感触。その熱。当たり前のことなのにそれに心の底から安堵する。そう、自分にとって夜眠りに就いて朝起きるのは当たり前のことではない。いつそれが終わりを迎えてもおかしくはないのだから。

 

なのにそれが怖くない。いつからだったか、眠ることに安心できるようになったのは。そう、あれはたしか――――

 

 

「――――あ、おはようございます志貴さん。ようやく目を覚まされたんですね」

 

 

そんな聞き慣れた声によってようやく現実に引き戻される。もう何度目かわからないやりとり。なのに何故か随分久しぶりに思える。

 

 

「…………? 志貴さん、どうされたんですか? 体調が優れないとか?」

「……いや、ちょっと寝ぼけてただけだ。たった今、誰かさんのおかげで現実に引き戻されたけど」

「そうですか。それは残念でしたねー。一体どんな夢をご覧になっていたのやら」

 

 

クスクスと鈴の音が鳴るように楽し気に笑いながら、さも当然のように隣にいる少女。こっちの方がよっぽど夢であると思えるような有様なのだが言わぬが華だろう。

 

 

「……とりあえず、おはよう琥珀。今日も元気そうだな」

「はい、おはようございます志貴さん。今日も宜しくお願いしますね」

 

 

こっちの挨拶に待ってましたとばかりに応えてくれる琥珀の姿が目に浮かぶ。見えなくても、彼女が向日葵のような笑みを浮かべているのは分かる。

 

 

それが一年前から変わらない、『遠野志貴』の日常。日向の夢の続きだった――――

 

 

 

 

「ふぅ……ところで今何時なんだ、琥珀?」

「ええと、ちょうど朝の八時を回ったところでしょうか。相変わらずお寝坊さんですね、志貴さんは」

「……そういうお前は起きてたんだろ。ならさっさと起こせばいいだろう」

「いえいえ、志貴さんがあまりにも気持ちよさそうに眠られていて起こすのが忍びなくて……でも安心してください。ちゃんと見守っていましたから!」

 

 

そんな意味不明な理由を力強く力説してくる琥珀に呆れるしかない。一体何を見守ることがあるのか。琥珀はどんなに遅くても朝の七時には起床している。なら最低でも一時間は自分の寝顔を見られていたことになる。どんな羞恥プレイなのか。

 

 

「……思い出した。そういえば屋敷にいた頃から主人の寝顔を盗み見るのが趣味だったな。使用人としてはどうなんだ、それ」

「あらあら、そんなこと言っていいんですか志貴さん? それを言ったら志貴さんだって朝起こしに来た使用人にあられもない姿を晒していたじゃありませんか」

「…………」

 

 

意趣返しのつもりだったのが見事に藪蛇になってしまう。この割烹着の悪魔を言い負かすことは生半可なことでは叶わない。助力を求めるも援軍はなし。もはやあきらめるしかない。

 

 

「それに今のわたしは使用人ではありませんから……そうです! 志貴さん、今のわたしは世間一般的にどういう風に見えると思います?」

「そうだな……未成年の男子高校生を囲っている怪しい薬剤師か?」

「ちょ、ちょっと待ってください!? それじゃあまるでわたしが犯罪者みたいじゃないですか!? ちゃんと合意の下です! そうじゃなくて……そう、恋人です! なので何も疚しいことはありません!」

 

 

珍しく狼狽しながらも証明完了とばかりに断言する未成年者略取容疑の女。なお合意があったとの供述をしている模様。真偽のほどはともかく、琥珀も思うところがないわけではないらしい。

 

 

「恋人か……改めて口にすると違和感がすごいな。まだ使用人と主人の方がしっくりくる」

「そんな……こんな甲斐甲斐しい恋人を前にして酷いです、志貴さん…………は! そうですね主人というのも悪くないかもしれません! 知ってますか志貴さん? 世間一般的に主人というのは夫である男性を指す言」

「そこまでにしておけ、琥珀」

 

 

きゃーと自分の横でベッドの上を猫のようにごろごろしだす琥珀にげんなりするしかない。というかこいつは猫が嫌いだったはずなのにここ最近の仕草が猫じみてきたのは何なのか。白い吸血姫に影響を受けているのは明らか。

 

 

「そろそろ起きるぞ、このままじゃ学校に遅刻しちまうからな」

 

 

悪ふざけはここまで。もう手遅れな気がしないでもないが登校の支度をしなくては。囲われているとしても未成年である自分は学校に行かなければならない。いや、行きたい。だがそんな自分の逃走は

 

 

「? 何を仰ってるんですか志貴さん? 今日はお休みですよ?」

 

 

そんなきょとんとした琥珀の言葉によって防がれてしまう。どうやら本当に自分は寝ぼけてしまっているらしい。

 

 

「そ、そういえばそうだったな……」

「本当に寝ぼけていらっしゃったんですね。もしかして、今日お出かけすることもお忘れになってるんじゃありませんか?」

「お出かけ……?」

「やっぱりそうですね! 遊園地です遊園地です! 先週から約束してたじゃないですか。忘れたとは言わせませんよ?」

 

 

めっとこちらを叱りつけてくる琥珀に気圧されるも、どうにも記憶が曖昧だ。というか記憶に何か齟齬があるのではないかと思いたくなってくる。

 

 

『遊園地』

 

 

それは自分にとってはある意味トラウマになっている単語。遊園地自体に罪はないがこればっかりは仕方がない。思い出すのはちょうど一年前。蛇を巡る騒動が一段落し、目の前にいる琥珀と今ここにはいないアルクェイド、シエルさんの四人でした約束。それを果たすために遊園地に繰り出したのだが結果は散々なものだった。いや、確かに楽しいものではあったのだがそれ以上に疲労困憊になった記憶の方が強い。初めての遊園地に子供のように、ではなく子供そのままにはしゃぐ琥珀とアルクェイド。それに振り回される自分とシエルさん。まさに子供を引率する保護者の役割をしなければならなかった自分たち(半分以上はシエルさん)は息も絶え絶えになってしまった。それだけならまだ笑い話で済むのだが、テンションが降り切れてしまったアルクェイドは何を思ったのか、自分を抱えたままビルの屋上まで飛び上がり、そのまま飛び回るアトラクションを慣行。当然シエルさんもそれを追いかける羽目に。琥珀はそんな自分たちを地上からあらあらとばかりに楽しそうに見守っているだけ。目が見えていないとはいえ、それはどんな遊園地のアトラクションよりも恐怖を感じるものだった。それ以来、我が家では遊園地の話題はタブーとなっていたはず。だというのに何故。そんな自分の思考を読んだかのように

 

 

「違いますよ、志貴さん? 遊園地は遊園地でも普通の遊園地ではありません! そうですね、買い物の遊園地とでもいうべきでしょうか?」

 

 

ぽん、と手を合わせたかのように楽し気に琥珀は告げてくる。それによってようやく記憶がつながる。いや氷解するといった方が正しいかもしれない。

 

 

「それはあれか、前に言ってた最近できた例のあれのことか?」

「はい♪ 例のあれです。噂を聞いてからずっと行ってみたいと思ってたんです」

 

 

ともすれば遊園地の時以上のテンションを見せる琥珀に溜息を吐くしかない。あれとは何を隠そう最近できた大型スーパーである。曰く、選ばれた者しか買い物ができない。曰く、とても食べきれないような量の食材が溢れている場所。曰く、一度迷えば二度と出てこれない広さなどエトセトラ。根も葉もない噂はともかく、そんなテレビなどでよく耳にする(琥珀にとっての)大型アトラクションがついに我が街にも上陸。使用人ではなくなったものの、我が家の厨房を取り仕切っているものとして見過ごすことはできない一大イベントと相成ったわけである。しかもそれだけではない。

 

 

「…………思い出した、それってたしか俺たちだけじゃなくて」

「はい、都古ちゃんと弓塚さんも一緒ですよ? ようやく夢から覚めましたか、志貴さん?」

 

 

悪戯が成功した子供のような琥珀を前に言葉もない。こんなイベントを忘れているなんてどうかしている。いや、もしかしたら無意識に記憶からなかったことにしてしまっていたのかもしれない。

 

 

(都古はともかく弓塚さんも一緒か……被害者は俺一人に抑えたかったんだが、もう手遅れだな……)

 

 

知らず、顔を手で押さえるももはやどうしようもない。

 

 

弓塚さつき。

 

 

奇しくも一年前。何の因果か、自分と知り合い、友達になった同級生。本当なら違う学校であり接点もないはずだったのだが、蛇の騒動によって弓塚さんたちが通う校舎が崩壊してしまったせいもあり自分の通う学校の校舎を一時的に使用することに。そんなこんなで交友するようになったもののそれだけで済むわけがない。同じバスで通学する以上、あの割烹着の誰かさんと接触するのは当然。そしてこんな面白そうなことに首を突っ込まないなどあり得ない。自分が知らないうちにあれよあれよという間に琥珀と弓塚さんは知り合い、もとい友達に。結果今回のイベントにも参加させられることになったのだろう。本当申し訳ない。

 

 

「あ、まるでわたしが無理やり弓塚さんを巻き込んだと思ってますね、志貴さん?」

「まるでじゃなくて、まさに、だろ。お前と違って素直で純粋な娘なんだ。あまり巻き込むんじゃない。これ以上犠牲者が出たらどうする」

「志貴さん、わたしのことを何だと思ってるんですか!? ちょっとこのお話をしたら興味がありそうなご様子だったのでお誘いしただけです!」

「どうだかな」

 

 

必死に言い訳する琥珀はともかく、弓塚さんも琥珀に対しては女友達のような関係を築いてくれているらしい。申し訳なさはあるがありがたくもある。どうしても出自、というかこれまで生い立ちもあって琥珀には同世代、同性の知り合いがほとんどいない。そんな琥珀に自分経緯とはいえ友達ができたことは素直に喜ぶべきことなのだろう。もっとも根がいたずらっ子である琥珀がやりすぎないよう気を付ける必要があるが。

 

 

(まあ、俺も琥珀のことは言えないか……)

 

 

絶賛自分に纏わりついてくる琥珀をあしらいながら自嘲するしかない。自分も琥珀とは違う意味で弓塚さんには迷惑をかけてしまっているのだから。主に学校までの通学路の送り迎え。本当なら自分でできなくもないのだが、勇気を出して自分の手助けを申し出てくれた彼女の厚意に甘えてしまっている形。それ以外にも細々したところで弓塚さんにはお世話になってしまっている。何かの形でお返しができればいいのだがどうしたものか。どころか弓塚さん個人だけでなく、学校でも面倒事ばかり引き起こしてしまっている。アンバーな吸血姫による突然の授業参観に始まり、自称二十五歳の新任女性教師による一騒動。そのどちらも我らがシエル先生によって鎮圧されたものの火種は未だにそこらじゅうに燻っている。とにかく無事に卒業することが今の自分の第一目標。

 

 

「はぁ……とりあえず着替えるか」

「そうですね。流石にこのままでは都古ちゃんの情操教育上良くありませんし、風邪をひいてしまっては元も子もありません」

 

 

うんうん、と一番都古の教育上問題のある存在が何か言っているがもはや突っ込む気も起きない。琥珀だけではない。今の自分もまた同じ。布団に包まってはいるものの一糸まとわぬ状態。都古はもちろんだが、弓塚さんにも見られでもしたら色んな意味で自分は死にかねない。

 

 

「お待たせしました志貴さん。ではお着替えを――」

「っ!? お断りだ!? 着替えぐらい自分でできる!」

 

 

そんな自分を知ってか知らずかさも当然、流れるように自分を着替えさせようとしてくる琥珀。知らず背筋が寒くなる。本当に恐ろしいのは琥珀にとって今の行動は自然なものであるということ。自分をからかう意図も何もない彼女自身の素の在り方。それに身を委ねてしまったら一体自分はどこまで堕落してしまうのか。文字通り昼夜問わずの奉仕。これに抗うことが学校を卒業する以上に自分にとっての一番大きな問題、もとい悩みだったりする。

 

 

「そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃありませんか。志貴さんからわたしは見えないんですし、有間の家では都古ちゃんが着替えを手伝ってくれていたらしいじゃないですか?」

「一体いつの話をしてるんだ!? いや、そもそも何でそのことを」

「さてさてどうしてでしょうか? それはぜひ都古ちゃんに直接お聞きになって下さいな」

「…………もういい。分かったからお前もさっさと着替えてくれ。約束の時間になっちまう」

「ふふっ、ではそうさせてもらいますね」

 

 

気にした風もなく、そのまま琥珀は衣服を身に着け始める。視ることはできなくともその衣擦れの音から、和服を纏っているのが分かる。それを振り払うように自らも用意してくれた着替えに袖を通していく。惚気ではないが、この時だけはこの眼が見えなくてよかったと心から思う。もしそうでなければ自分は今以上に琥珀に溺れ、とっくに堕落してしまっていたに違いない。

 

 

――――ふと、眼を開いた。

 

 

瞳には何も映らない。以前使っていたアイマスクも、巻いていた魔眼殺しも、もうしていない。必要ない。それでも感じる温かさ。窓から差し込んできているであろう日向の温もり。それに勝るとも劣らない彼女の体温。それを手のひらから感じ取る。

 

 

「――――じゃあ行きましょうか、志貴?」

 

 

いつものように自分の手を握りながら彼女がその名を呼んでくれる。二人きりの時だけの呼び方。最近はここぞという時にしか使わない彼女の切り札。それによって知らず鼓動が早まる。でもまあ仕方ないだろう。認めたくはないが、もう自分に嘘をつく必要もない。

 

 

そう、何のことはない。自分はとうの昔に琥珀(彼女)にイカレてしまっていたのだから――――

 

 

 

 

 

「お疲れさまでした、志貴さん。ここで少し休憩しましょう」

「ああ……本当に疲れた。遊園地を思い出すくらいにな」

 

 

労いの言葉と共に差し出されたペットボトルのお茶を口にしながらそう愚痴るしかない。だがそれも許されるはず。午前中から出発し、現在は既に夕刻。大型イベントは終了し、弓塚さんとはバス停で別れ、都古は有間の家に送り届けた。それだけでも重労働なのにさらに自分を苦しめたのが今自分が腰かけているベンチの傍に降ろした戦果という名の買い物袋の山だった。

 

 

「しかし本当に凄かったですねー。あんな噂が流れるのも納得の施設でした! 都古ちゃんと弓塚さんをお誘いした甲斐もあったというものです!」

「そうかな……まあ、そうだったと思うしかないか」

 

 

未だ興奮が冷めやらない琥珀を無視しながら、ここにはいない二人の少女たちに思いを馳せる。都古についてはある意味いつも通りといっていい。思春期でもあり、中学生になってからはどこか余所余所しさがあったものの最近は慣れてきたのか、以前の雰囲気に戻りつつある。もっとも琥珀に対する対抗心は変わらないようで、現在は冷戦状態……といっても素直になれていないだけ。琥珀としては自分のことをお姉ちゃん呼びしてほしいと思っているようだが如何せん状況は芳しくない様子。果たしてその野望が叶う日は来るのか。

 

 

(弓塚さんには今度何か埋め合わせをしないとな……)

 

自分の次に振り回されてしまった弓塚さんには申し訳なさしかない。ただでさえ人見知りがちであるにも関わらず、琥珀と都古のじゃれあいに巻き込んでしまった。自分を除き、中立の立場である弓塚さんを仲間に引き入れんとする琥珀と都古。あわあわするしかない弓塚さん。挙句買い物に一緒に夢中になってしまった二人の代わりに途中から完全に自分を誘導する係になってしまった。緊張からか握ってくれた手が手汗だらけになっていたのは彼女の名誉のために墓の下まで持っていく覚悟である。

 

 

「それよりも見てください志貴さん! このお菓子の素晴らしさを! 完全にわたしの理解を超えています……この発想力……感嘆するほかありません!」

「いや、俺には見えないし」

 

 

そんな自分の覚悟など知る由もない自称我が恋人様は新しいおもちゃを手に入れた子供、いや研究を目にしたマッドサイエンティストのように目を輝かせているのだろう。見えなくても声だけで十分だった。

 

 

「いいえ、志貴さんは分かっていません! こんな物がお菓子だなんて……秋葉様が見たらきっと卒倒するはずです! いえ、翡翠ちゃんならもしかしたら……!? これは信条を曲げてでも贈るしかないのでは……」

 

 

どうやら琥珀の中での産業革命が起こっているらしい。それに巻き込まれかねない遠野家。しかしそこまでとは一体どんなお菓子なのか。そんなにすごいのか外国のお菓子。そもそもそれ本当にお菓子なのか。怖いもの見たさもあるが触れない方がいいだろう。

 

そのままベンチに背を預けながら空を見上げる。もちろん何か見えるわけではないが、習慣はやはりなくならない。空を見上げるのが趣味だなんて自分も誰かのことは言えないかもしれない。

 

 

「……志貴さん、大丈夫ですか? 少し横になります?」

「いや、いい。疲れたのは本当だけど、体の調子自体は良いからな」

 

 

さっきまでのはしゃぎっぷりはどこに行ってしまったのか。琥珀は自分の身を案じてくる。こういったところには琥珀は本当に機敏がきく。なので嘘偽りなく答える。直死の魔眼を失ったからか、琥珀の助力のおかげか。それとも他にも理由があるのかは分からないがここ一年は本当に調子が良い。根本的なこの体の欠陥からは逃れられないが、それでも以前よりずっと人並みの生活を送れている。

 

 

「そういえば……思い出した。いつかもこうして買い物に付き合わされたことがあったっけ。確か自分の歓迎会の買い物を自分で運ばされたんだったな」

「そ、それは……志貴さん、まだそのこと根に持ってらしたんですね」

「当たり前だろ。それだけじゃない。この公園では面倒事しか思い出せない」

 

 

話題を変える意味もかねてそう告げる。そう、ここは自分にとっては特別な場所。この公園で琥珀に何度振り回されたか。

 

 

「学校の前で待ち伏せされてここに連れてこられたんだったな。正直生きた心地がしなかった。今思い出してもぞっとする」

「し、志貴さん……それを口にするのは反則です! あれは何と言いますか……気の迷いといいますか……そうですね、シエルさん風に言うなら麻疹にかかってしまっていたようなもので」

 

 

珍しく口ごもり、よく分からない弁明を続ける琥珀。何故そこでシエルさんが出てくるのかは不明だが琥珀にとってあれは消し去りたいほどのやらかしだったらしい。

 

 

「それだけじゃない……そうだ、雪の中でずっとベンチに座って俺を待ってたことがあっただろ。見ててこっちが冷や冷やしたぞ。まあ、待たせちまった俺が悪いといえば悪いんだが」

 

 

そんな琥珀に釣られるように思い出す。自分のせいで雪の降り仕切る中、ずっとベンチで待ちぼうけをくらっていた誰か。約束を信じて、ただ待ち続けていてくれた彼女。それを見ていることしかできなかった自分。それでも何とか約束を果たすことだけはできた記憶。だが

 

 

「……? わたし、そんなことした記憶ありませんよ志貴さん?」

「…………え?」

 

 

そんなことはなかった、と琥珀に返されてしまう。思わず呆然としてしまう。

 

 

「……もしかしたら、わたしではない『琥珀』との記憶じゃないでしょうか?」

 

 

何か感じ入るものがあったのか、それともそれほど自分は呆けていたのか。琥珀はどこか困ったような、悲し気な雰囲気でそう言ってくれる。そう、琥珀は自分の事情も全て理解している。だからこそ、どこか憂いを帯びた様子を見せている。

 

 

「――――ああ、そうだな。きっと」

「ええ、だからたまには思い出してあげてください。その間だけはちょっとだけ志貴さんを貸してあげます」

 

 

少しだけ拗ねるような、それでもどこか嬉しそうに琥珀はそう言ってくれる。もう全てを思い出すことはできないけれど、きっとそこには大切なものがあった。それだけは憶えてる。もう届かない、彼方の夢。

 

 

 

「……少し冷えてきたな」

「はい、そろそろ戻りましょうか。最近は物騒な噂もありますし、これ以上志貴さんに無理をさせるといけませんから」

 

 

互いに互いを気遣いながらそう切り出す。感傷に浸るのもいいが、このままでは本当に風邪を引きかねない。それは避けなければ。だが立ち上がりかけた体が止まる。微かな違和感。

 

 

「物騒な噂……? 一体何のことだ?」

「……ああ、志貴さんはまだご存じありませんでしたっけ。何でも一年前の猟奇殺人事件の犯人が現れた、とか」

 

 

どこか気まずそうに琥珀はそう吐露する。本当なら口にするつもりはなかったのだろう。彼女らしからぬミス。琥珀もまたさっきにやりとりで心あらずだったのかもしれない。

 

 

「でも本当に根も葉もない噂なんです。噂の内容も多種多様で、吸血鬼から殺人鬼、はては魔法使いまで出てくるぐらいで。もちろん内容が内容ですから調べてはみましたが、実際に行方不明になった方もいらっしゃいませんでした。ちょうどあの事件から一年ですし、それが原因ではないかと」

 

 

白状するように琥珀はそう続ける。琥珀からすれば自分が巻き込まれるかもしれない可能性があるものには敏感になるのは当然。実際それを耳にすれば多少なりとも自分は気にせざるを得ない。もっともそれが何であっても今の自分にできることなど何もないのだが。せいぜいできるのはあの二人に助力を乞うことぐらい。流石にただの噂でそんなことをするのも気が引けるが。

 

 

なのに何故か引っかかる。何か致命的なミスを、勘違いをしているのではないか。そんな予感。脳裏によぎるかつての記憶。自分のものではない、もう繋がっていない情報の海。摩耗してしまっている知識の檻。自分には必要ないと切り捨てた知識の中に、何かが。

 

 

「――――琥珀、気になることがある。二人に連絡を」

 

 

――――そう口にした瞬間、世界が歪んだ。

 

 

「――――がっ!? あ」

「っ!? 志貴さん、しっかりして下さい!? いますぐ横に」

 

 

そのまま蹲り、しゃがみこんでしまった自分に駆け寄りながら琥珀が何かを言っている。だが聞こえない。ただあるのは痛みだけ。いつもの眩暈や貧血ではない。いや、そうであってくれればどれだけ良かったか。

 

 

そうだ。自分は知っている。覚えている。この痛みを。頭痛を。忘れるわけがない。忘れることなどできるわけがない。

 

 

知らず両目を開く。そこにはもう暗闇はない。あるのは光。一年以上見ることのなかった、外の世界。その視界の先には初めて見る、自らの義手の掌。だがそんなことはどうでもよかった。ただ目に映るのは

 

 

忘れかけていた、世界に満ちている死の線と点だけ。

 

 

 

それが一年の時を超え、『遠野志貴』に訪れた一夜限りの再演の兆しだった――――

 

 

 

 

 




お久しぶりです。約六年ぶりとなりますが月姫リメイクの発売を記念して後日談を投稿させていただきました。これは元々後日談としてプロットだけはあったものの、蛇足になりかねないということでお蔵入りしたものをリメイクのネタをリファインして再構成したもの、日向の夢エンドの後の世界の話となります。前編と銘打っているように後編含めた二話構成となっています。後編についてはリメイクのネタバレになりかねない部分が多く含まれる予定ですのでご注意ください。少しでも楽しんでいただければ嬉しいです。では。


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後日談 「再演」後編

「大丈夫ですか、志貴さん……?」

 

 

どこか不安げに自分の身を案じる琥珀の声。知らず思い出すのは一年前。いつ死に瀕してもおかしくない自分の体を案じていた琥珀の空気。

 

 

「ああ、大丈夫だ。念のために魔眼殺しも巻いてるし、頭痛もない」

 

 

そんな琥珀に心配かけまいとしながらも、嘘偽りなく自分の現状を伝える。あの後、眼を閉じながら琥珀に介抱されて何とかマンションに帰宅。大事をとって半ば無理やりにベッドに横にされてはいるものの、状態はそこまで深刻ではない。

 

『直死の魔眼』

 

モノの死を見る異能。死の線と点を捉える超能力。一年前に失ったはずの力が再び発現してしまった。本当なら絶望してもおかしくない状況なのだが、不思議と恐怖や焦りはなかった。いつかこういうこともあるかもしれない、と心のどこかで思っていたこともあるがそれ以上に今の現状が一年前とは大きく異なっているからこそ。

 

 

(間違いない……以前ほど死が見えない)

 

 

一年前なら目を閉じていても死が見えていたのに、今は見えない。頭痛も目を閉じていれば起きない。直死の魔眼の力は明らかに弱まっている。加えて根源とつながっていた感覚も、そこから知識を得ることもできない。念のために魔眼殺しの包帯を巻いているが、必要ないレベル。それだけならまだ分かる。決して楽観しているわけではないが、ここまでならまだ理解できる。だが

 

 

(また繋がっただけなら、視力まで戻っているのはおかしい。これは……)

 

 

自分の視力まで戻っていること。それだけが分からない。本当に再び根源と繋がってしまったのなら死の線と点だけが見えるはず。視力まで回復する道理がない。つまりこれは自らの内的要因ではなく、何か外的要因によって引き起こされているということ。そしてそれに自分は心当たりがあった。いや、正確には思い出した。

 

『タタリ』

 

死徒二十七祖の一つにして、自身を存在から現象へと祭り上げようとした祖の成れの果て。一定のコミュニティ内で広まった噂を下に一夜限りの具現化を可能とする能力を持つもの。

 

もっと細かい詳細についての知識も思い出そうとしたものの、既に摩耗してしまっている記憶では全てを把握することはできなかった。だがそれも仕方がない。あの時の自分は蛇を殺す事だけを目的に動いていた。それに付随する知識については把握していたものの、それ以外についてはほとんど切り捨てる他なかった。琥珀の言葉によって、その存在だけでも思い出せただけ幸運だったと言えるだろう。

 

だからこそこの状況も説明できる。自分の眼は再び開いたのではない。そう、これは再開ではなく再現なのだ。ただそれにも限界があるのか、それとも別の要因があるのか。自分の魔眼は神域までは至っていない。どころか最初期の頃まで力は落ちてしまっている。自分にとっては僥倖でしかない。もし完全な再現であったならその瞬間、命を落としてしまっていたかもしれないのだから。

 

 

「……琥珀、二人にはやっぱり連絡が取れないのか?」

 

 

ひとしきりの現状を伝えた後、そう琥珀に確認する。この状況を打開するにはどうしても二人の力が必要になってくる。だが

 

 

「はい、連絡はしているんですが繋がりません。そもそも電波が届いていないみたいなんです。公衆電話からかけても同じでした。この辺一帯……いえ、この街全体がそれに近い状態になっているようです」

「そうか……」

 

 

そんな淡い期待をかき消すようにどこか淡々と冷静に琥珀は報告してくる。久しぶりに感じる琥珀の裏の立ち回りの空気。遠野家に仕えていた頃を彷彿とさせるもの。同じく自分も知らず一年前に近い空気を纏いつつある。表から裏に。反転にも似た状況。だがそのベクトルは一年前とは全く異なる。人形のような機械的なものではなく、人間としての意思に満ちているもの。

 

取れる選択肢は三つ。迎撃か待機か退避か。だがそのどれもリスクが付き纏う。

 

まずは自らの戦力。直死の魔眼にナイフ。己が物とした七夜の体術に加えて琥珀の助力もあり、身体の状態は良好。ブランクによる肉体の鈍りを考慮しても八割の力は発揮できる。

 

だが問題は敵の戦力が全く不明であるということ。タタリの大本とでもいえるワラキアは当然としても、噂によって再現される存在がどんな相手であるかは未知数。かつて戦った混沌や永遠、最悪アルテミット・ワンたる真祖の姫君が顕現する可能性すらある。

 

退避するにしてもワラキアの夜から脱出することができるのかは未知数。何にせよ絶望的に戦力が足りない。タタリの影響下であれば一般人である琥珀も戦闘力を得ることもできるのだろう、それを当てにするほど自分は楽観的ではない。そもそもそれは自分の中では選択肢にすらあがらない。どうするべきか、そう思考した瞬間

 

 

――――玄関からチャイムが鳴り響いた。

 

 

「…………志貴さん」

「――――下がってろ、琥珀」

 

 

有無を言わさぬ勢いで体を起こし、ナイフを構える。こんな時間帯に来客などあり得ない。このマンションのフロアは全て自分たちが借り受けている。関係者以外が立ち入ることはない。知らず魔眼殺しに指をかける。忘れかけていた冷たい空気。それに呼応するように玄関のドアの鍵が回っていく。まるで当然のように。その刹那、体が鼓動に震える。衝動にも似た、懐かしい何か。それが何か思い出すよりも早く

 

 

「ただいま、シキ――――!!」

「ぶっ――――!?」

 

 

あり得ないはずの白いお転婆吸血姫が襲い掛かってきた。

 

 

「あ、アルクェイド!? お前何で」

「まだちゃんと生きてたわね、シキ! あれ? 眼に包帯巻いてるの? なっつかしー! うんうん! やっぱりその方がシキって感じがしてわたしは好きよ? 切られた左腕が疼いてきちゃいそう!」

「何訳が分からないこと言って……!? それよりも抱きかかえたまま振り回すな!? また落とされるのは御免だぞ!?」

「へーきへーき♪ もうビルから落としたりなんかしないから! でもあれはシキも悪いのよ? いきなりわたしの胸を掴んでくるんだもん」

「お、お前な……」

 

 

さっきまでの緊迫感はいったい何だったのか。ある意味それを衝撃によって自分は子供を抱き上げる、ではなくおもちゃを振り回すようにされるがまま。見なくても分かる。こんなことをしてくるのは一人だけしかいないのだから。

 

 

「ふふっ、そろそろ降ろしてあげてください、アルクェイドさん。今度は胸じゃ済まなくなるかもしれませんよ?」

「あ、コハク! たっだいまー! あなたは元気そうね。ならもっとシキに精気を分けてあげた方がいいんじゃない? このぐらいで音を上げてるようじゃ駄目よ?」

「そうですね、それはまた要相談ということで。それよりもおかえりなさい、アルクェイドさん。お元気そうで何よりです」

 

 

自分そっちのけで和気あいあいとする二人のアンバー。琥珀の切り替えの早さも流石だが、アルクェイドの馴染みっぷりも半端ではない。自分や琥珀以上に一番一年前から変わったのは間違いなくコイツだろう。どこかたどたどしかった口調はもはやなく、流暢に言葉を紡ぐようになった。十七分割されたアーパーな吸血姫に近づきながらも割烹着の悪魔による影響による成分も合わさった存在。アーパーでアンバーなファニーヴァンプ。属性盛り盛りの我が家の末っ子の帰還だった。そしてそれは当然もう一人の帰還も意味する。

 

 

「や、やっと追いつきました……アルクェイド! 貴方は本当に何度言っても私の言うことを……って遠野君!? 何をやってるんですか、早く離しなさいアルクェイド!? また落としでもしたらどうする気ですか!?」

「シエルおっそーい。それともうそれシキから聞いた」

 

 

ぶーっと不満げなアルクェイドからまるで母親のような剣幕で自分を取り上げ、助けてくれるシエルさん。よっぽど焦ってきたのか息も絶え絶えになっている。シエルさんがここまでになるとは一体どんな速度でアルクェイドは帰ってきたのか。周囲の街に被害が出ていないことを祈るしかない。

 

 

「全く……帰ってくる度に何度このやり取りをさせる気ですか。大丈夫ですか、遠野君? 怪我はありませんか?」

「ああ……助かったよ。それとおかえり、シエルさん。元気そうでよかった」

「え? え、ええ! その……ごほん、ただいま戻りました」

「おかえりなさい、シエルさん。お二人ともお変わりないようで何よりです」

「シエルったらまだ慣れてないのね、顔を赤くして。いつも恥ずかしがってるんだから」

「ち、違います! これは貴方を追いかけていたせいで、断じてそうでは」

 

 

あまりにも唐突な、嵐の襲来にも似た二人の帰省に面喰いながらも自分と琥珀は迎え入れる。一年前から続いている日常。数奇な縁から生まれた家族四人がそろった瞬間だった――――

 

 

 

「それはそうと……二人とも今回は何でこんなに帰ってくるのが早かったんだ? まだ出て行ってから一週間も経ってないだろ?」

 

 

閑話休題。色々と話したいこと確認したいことは山積みだが、一息入れる意味でリビングに移動し琥珀が淹れてくれた紅茶を飲みながら尋ねる。いきなりの来襲には参ったが、タイミングとしては本当にこれ以上にないタイミングで二人は帰ってきてくれた。だが些か疑問が残る。シエルさんとアルクェイドは現在ペアを組んで吸血鬼の討伐を行っており、ほとんどを外国で過ごしている。その合間に我が家に帰ってくるのがこの一年の生活スタイル。基本的には出発してしまえば数か月は帰ってこないにも関わらず、今回は一週間経たずに戻ってきた。あまりにも出来すぎているようなタイミング。

 

 

「……そうですね、ですがその前に確認させてください遠野君。その包帯……やはり直死の魔眼が戻ったんですね?」

「あ、ああ……そうなんだけど。意外だな、シエルさんならもっと驚くかと思ったんだけど」

 

 

絶賛コクコクと空気を読まず猫舌の猫のように紅茶を飲んでいるアルクェイドをあえて無視しながらシエルさんは自分の現状を確認してくる。しかしその反応は意外なものだった。シエルさんであればもっと驚き、慌ててしまうだろうと思っていたのに想像していたよりもずっと落ち着いている。いや驚いていないわけではないが、悪い予想が当たってしまったかのような反応。

 

 

「いいえ、十分驚いています。やはり魔法使いというものは私たちとは違う条理の下に生きているのかもしれませんね」

「魔法使い……? それって……」

「だから言ったでしょ、シエル? 真剣に考えるだけ無駄だって。魔法使いに初めましてなんて、笑われても仕方ないわよ?」

「貴方は黙っていて下さい、アルクェイド。ごほんっ、遠野君、わたしたちが帰ってきたのはある人物に頼まれごとをしたからなんです」

 

 

茶々を入れてくるアルクェイドをあしらいながらシエルさんは話を続けてくる。だが知らず息を飲んでいた。まだ何も聞いていない。だが分かる。きっとこれは自分にとって大きな意味があるものなのだと。

 

『魔法使い』

 

子供でも知っている御伽噺、空想の存在。だがこの世界においてそれは特別な意味を持つ。真祖でアルクェイド、埋葬機関であるシエルを以てしても。現存するとされる四人の魔法使い。その中の誰のことを指しているのかなど聞かずとも分かる。

 

 

「預かりものです。これを遠野君に、と」

 

 

そのまま自分に手渡される何か。どくん、と心臓が鳴った気がした。その手触りがそれが何かを教えてくれる。それだけで十分だった。何故ならそれはずっと昔から、心の底から憧れていた物だったんだから。あると知っていても、自分には訪れない、魔法使いからの贈り物。

 

 

「それと伝言です。『私が持っていても仕方がないからあげるわ。遅くなってしまったけどきっと君にとってはこれから必要になるだろうから』だそうです」

 

 

この物語には登場することがないはずの青の魔法使い。会ったことも話したこともないのに、その声が聞こえ、姿が目に浮かぶ。十年越しの、小さな余分(ズル)

 

 

「――――」

 

 

知らず贈り物、魔眼殺しの眼鏡を持つ手が震える。息を飲む。ほんの少し前、もし昨日ならこんな風にはならなかっただろう。ただその縁に感謝し、感慨に浸るだけだったはず。だが今は違う。一夜限りの再演によって今の自分には視力が戻っている。

 

無意識に眼に巻いていた包帯を解いていく。晒される裸眼。その瞼を閉じたまま、ゆっくりと眼鏡をかける。信じられない。まるで小さな子供みたいに、胸の動悸を抑えられない。周りから見れば、みっともない姿を晒しているに違いない。でも構わない。何故なら

 

『遠野志貴』にとって死のない世界を見ることは生まれて初めてだったのだから。

 

 

「――――あ」

 

 

思わず声が漏れた。見える。外の世界が見える。なのにない。見えない。死の線が、点が。

 

壁にも、天井にも床にも。自分の体にも。何もかもが、美しく見える。ただまっすぐに、目をそらさずに見ることができる。空を見上げなくても生きていける。でもそんなものより、何より見たいものが自分にはあった。

 

 

「――――志貴さん、わたしのこと、見えますか……?」

 

 

彼女はただのその両手を胸の前で握りながら心配そうな顔でこちらを見つめている。本当に久しぶりに、彼女の姿を見た気がした。死の線と点がない世界の中で。ただその美しさに目を奪われる。何度夢に見たか分からない彼女の姿。見えなくても構わない、なんて言ってたくせに。こうして見てしまったら、もう強がりも言えなくなってしまう。

 

気づけば頬に涙が流れていた。なんて、無様。でもしょうがないだろう。

  

 

「――――本当にお前は変わらないな、琥珀」

 

 

一生見ることができないと思っていた、白いリボンをした琥珀をこの瞳で見ることができたのだから。

 

 

「――――そうですか。でも酷いです。一年振りに見た恋人に向かって変わってないなんて、いくらわたしでも傷ついちゃいます。もしかして志貴さん、わたしのこと嫌いですか?」

 

 

そんな自分の心境なんてお見通し、と言わんばかりに琥珀は満面の笑みでそう切り替えしてくる。その台詞もまた自分にとっては憶えがあるもの。でもあの時と意味合いは全く真逆の信愛に満ちた言葉。それに応えんとするも

 

 

「ねえねえシキ、わたしも見てー!!」

 

 

こちらの空気も何のその。まるで一緒に写真に撮ってとばかりにアルクェイドは琥珀に抱き着きながら自分にアピールしてくる。それだけでは飽き足らないのか、その場でそのままくるくるダンスのように華麗に舞い始めてしまう。その光景に思わず見惚れてしまう。

 

 

(本当にミニスカートになってたんだな……)

 

 

何故ならアルクェイドの姿は自分の記憶に残っているものとは大きく異なっていたのだから。具体的にはロングスカートからミニスカに。いや、それは知っていた。実際にミニスカートを触りもした。だが甘く見ていた。いつかアルクェイド自身が言っていた。経験は知識を凌駕する。百聞は一見に如かず。今ならそれが理解できる。天真爛漫さに可憐さを兼ね備えた白い吸血姫。人では辿り着けない星の現身。

 

 

「あ、貴方という人は本当にいつもいつも……!? ここは静かに立ち去るべきところでしょう!! いい加減に学習しなさい!!」

 

 

その言葉通り部屋から静かに去ろうとしていたものの、悲しいかなそれが叶わず奮闘するしかない気遣いの達人、もといお節介さん。本当にその心遣いはありがたいのだがこの場に限ってはアルクェイドに感謝するしかない。あのままでは流石に空気が重くなりすぎていたかもしれない。同じことを考えていたのか、琥珀もまた苦笑いしている。

 

 

「まったく……誰に似たのか。それで、どうですか遠野君? 眼の具合の方は?」

「ああ、問題ない。やっぱり凄いな、これ。死は見えないし、頭痛もない」

 

 

改めて魔眼殺しの素晴らしさに感嘆するしかない。もっと早く手に入れれていれば、そんな欲が浮かんでくるがその仮定は意味はない。もし手に入れていたとしても強まった直死の魔眼を抑えることはできないのだから。今の状況はある意味奇跡に近い。

 

 

「……? 何ですか、遠野君。そんなにじっとこっちを見て」

「……いや、シエルさんも随分変わったなって。制服じゃなくなったんだ」

「え、ええ。もう制服を着る必要もなくなりましたし、色々とありまして」

 

 

その奇跡を行使し、もう一人のイメチェンした女性を凝視する。自分にとってシエルさんといえば制服だったのだがその雰囲気は一年前とは大きく異なる。端的に言えば少女から女性らしさが増している。どこか知的さ、凛々しさを感じさせる風貌。それを強調するかのようにその服装はどこか女性教師を連想させる。知らないはずなのに何故か何度もお世話になっているような不思議な既視感。それはさておき注目すべきはそのSTYLEだった。アルクェイドが人あらざる者の美しさであるならシエルさんのそれは真逆。人の身であるからこその美しさ。特にしなやかさ、健やかさを感じさせる健脚美。それを強調するかのような短い丈のスカートが

 

「わたしもミニスカなんですけど?」

 

もとい、それに合わせたような黒いストッキングがさらに

 

「それ、わたしも履いてるんですけど?」

 

まるでこちらの思考を読んだかのようなタイミングで横やりを入れてくる不満げなアルクェイド。もしやコイツは俺の嗜好すら把握しているとでもいうのか。馬鹿な。あり得ない。そんなことができるのは一人だけのはず。

 

 

「と、遠野君……? 流石にそんなにまじまじと見つめるのはどうかと……琥珀さんの前なんですよ?」

「関係ない。むしろ見ない方が失礼だ。そうだろう、琥珀?」

「ええ、そのとおりです志貴さん! ちゃんと目に焼き付けておいてください。シエルさんは年々綺麗になっておられるんですから」

 

 

恥ずかしさと居たたまれなさからシエルさんはそう訴えるも、当の琥珀は何のその。どころか自分と一緒に乗ってくる。そう、琥珀が自分の嗜好を把握しているように、自分もまた琥珀の嗜好を理解している。ようするに面白ければ何でもいいのだ。というかコイツは基本的に誰かに嫉妬しないので指摘しても無駄である。

 

 

「わたしだって負けてないのに。あ、そうだ知ってるシキ? シエルったら不死でなくなってから太ったのよ? 特にお尻なんて」

「な、何てことを言うんですかこのアーパー吸血鬼!? 言ったでしょう、太ったんじゃなくて成長したんです!」

「同じようなものでしょ? あ、でも強くなってるのは本当かな。不死じゃなくなってからの方がシエル強くなってるし」

 

 

顔を真っ赤にしながら断じて同じではないと抗議しているシエルさん。思わずそのヒップに視線が吸い込まれそうになるも流石に自重する。主にシエルさんの尊厳のために。それはさておき

 

 

(強くなってる……か。不死じゃなくなったから、肉体以外も成長してるってことなのかな)

 

 

埋葬機関の七位であり稀代の魔術師でもあるシエルさん。その強さは何度も共闘している自分も知っている。だが不死でなくなったことで弱くなるどころかさらに強くなっているらしい。アルクェイド曰く、元々限りなく死に辛い肉体であるのに加えて不死になって時間が止まっていた肉体が再び成長しているらしい。ちなみに一番の衝撃はシエルさんの肉体年齢は十二歳だったこと。一体何がどうなっているのか。

 

 

「今ならわたしといい勝負できるかも。今度本気で喧嘩してみない、シエル? もちろん原理血戒(イデアブラッド)はなしね。わたしも空想具現化はなしでいいから。あ、第七聖典はもちろん使っていいわよ? ハンデねハンデ」

「お断りです。人を戦闘狂扱いしないでください。いくら強くなったといっても貴方の出鱈目さと一緒にしないように」

「そんなこと言って、わたしに何かあった時のために強くなろうとしてくれてるんでしょ? そういうところが好きよ、シエル? 墜天した時は宜しくね」

「な……っ!? 貴方は……まったく」

 

 

不意打ち気味にアルクェイドの裏表がない好意が炸裂し、シエルさんは悶絶するしかない。女性であるシエルさんですらああなのだ。もし男があれをやられたらひとたまりもないだろう。

 

 

「そういえば、たまに聞くけどそのイデアブラッドって何なんだ? 聞いた感じあまり良い感じがしないんだが」

「ん? そういえばシキは知らないんだっけ? 簡単に言えば『王冠』かな。祖が祖であるための血の原理。血を巡らせるだけで惑星の物理法則を塗り替える特異点のようなものよ」

「なるほど分からん」

 

 

アルクェイドに聞いた自分が間違いだった。普段の振る舞いで忘れがちだが彼女は基本的に世間知らずのお姫様。その知識には自分ではとても追いつけない。

 

 

「簡単に言えば二十七祖が持っている固有の能力のことです。遠野君に分かりやすく言うならネロは『混沌』ロアは二十七祖ではありませんが『永遠』という原理血戒(イデアブラッド)を持っていたわけです」

「なるほど……じゃあシエルさんはその二つを持ってるってことなのか?」

「いいえ。その二つは既にこの惑星から消え去りました。他ならぬ遠野君、貴方の手によって。本来消滅させることはできないのですが、直死の魔眼は例外だったようです」

「そうなのか……あんまり実感は湧かないけど。それじゃあシエルさんが持ってるのは?」

「『実り』と『城』『剣』の三つです。もっともわたし単独では手に入れるのは困難でしたがそこにいる反則の誰かさんのおかげで何とかなりました」

「え? もしかしてそれってわたしのこと? でもシエルだって充分反則じゃない。本来祖でしか扱えない原理を大魔術まで堕とすとはいえ自分のものにしちゃうんだから。木乃伊取りが木乃伊にならないように気をつけないさいよ?」

「その言葉、そっくりそのままお返しします。アルクェイド・ブリュンスタッド」

 

 

親愛にも似た言葉を贈るアルクェイドに対して、呆れながらもどこか対抗心に満ちた目で反論するシエルさん。残念ながら二人の話の内容の半分も理解できないが、どんな世界であってもこの二人は理解者であり好敵手であるのは間違いない。

 

 

「はい、お二人ともそこまでです。仲が良いのはいいですけど、今はこの、ええと……タタリさん? を何とかしないといけないんですよね?」

 

 

ぽん、と手を合わせながら子供の喧嘩を仲裁するかのように琥珀がその場の空気を支配する。知らず自分も背筋を伸ばしてしまう。こうなった琥珀には誰も敵わない。一年前から変わらないヒエラルキー。シエルさんもアルクェイドも例外ではない。

 

 

「そうですね……わたしとしたことがちょっとこの空気にあてられてたみたいです。でも心配いりません。そのためにわたしたちも戻ってきたんですから。遠野君と琥珀さんはここで待機していてください。討伐はわたしとアルクェイドで行います」

「え……? いいのか、シエルさん?」

「はい。いくら弱まっているとはいえ直死の魔眼を持つ遠野君を戦わせるわけにはいきません。そもそももう遠野君は戦う必要なんてないんですから」

 

 

指を立てながら自信満々にそう告げるシエルさん。それを前にしては反論することもできない。そもそも今の自分では足手纏いになりかねない。ここにはシエルさんだけではなくアルクェイドもいる。心配するのも失礼なのかもしれない。だが

 

 

「何言ってるのシエル? シキにも一緒に来てもらわないと」

 

 

当のアルクェイドはさも当然のようにシエルさんと真逆のことを口にした。

 

 

「貴方こそ何を言っているんですか!? 遠野君を戦わせるなんて」

「シエルこそ本当に分かってるの? タタリが持つ原理血戒(イデアブラッド)が何なのか」

「当然です! 一夜限りの噂を具現化する『現象』を司、る――――」

 

 

瞬間、シエルさんは固まってしまう。まるで何かとんでもない勘違いに気づいたかのように。

 

 

「――――アルクェイド、貴方最初から」

「やっと気づいたの、シエル? ここに来る前に言ったでしょ? わたしは今回はシキのために戦うって。シエルはどう?」

「ええ、貴方の意地の悪さを甘く見ていました。愚問です。いつもより、負けられない理由ができてしまいましたから」

 

 

先ほどまでとは違う、不敵な笑みを浮かべながら二人は互いを見つめあった後、自分を見据えてくる。二人が何を言わんとしているのかは分からないが、やる気が満ちているのは伝わってくる。

 

 

「……? それで、結局俺はどうしたらいいんだ?」

「ごほんっ、すみません、遠野君。事情が変わりました。わたしたちと一緒にタタリ討伐を手伝ってくれませんか? もちろん無理はさせません。琥珀さんも、構いませんか?」

「ええ、志貴さんが構わないのであればわたしは。でも少し残念です。一夜限りの機会、シエルさんほどではありませんがわたしの成長を志貴さんに見てほしかったんですが」

「そ、それは……」

 

 

よよよ、とわざとらしくよろめき、うらめしそうな演技をしながらリビングから見て奥にある寝室に視線を送る琥珀。その意味するところを悟り、シエルさんは気まずそうに、申し訳なさそうにするしかない。対して自分は呆れかえっているだけ。というか最初から気づいてた。明らかに途中から琥珀の口数が少なかったのでモロバレだった。

 

だがこれで方針は決まった。そもそも最初から自分だけ動かない、なんて考えていなかった。

 

『今を精一杯生きる』

 

それが自分の生き方。明日終わるとしても、最後まで精一杯生きる。それが長い螺旋の先に自分が辿り着いた借り物ではない答え。

 

 

「―――――シエルさん、アルクェイド。今度は俺が力を貸すよ」

 

 

思い出すのは蛇との最後の戦い。あの時は二人の力を貸してもらった。だから今度は自分の番。今の二人にどれぐらいついていけるかは分からないが、少しでも役に立てれば。

 

 

「「――――」」

 

 

しかし、二人はそんな自分の言葉を聞いた途端、言葉を失ってしまったように固まってしまう。一体どうして。恐る恐る声をかけようとした瞬間

 

 

「ん~~~っ! ほわぁーーーー!!」

 

 

アルクェイドは猫背になってぷるぷる背中を震わせたかと思うと、勢いよく天井に向かって両手万歳、奇声、もとい嬉声を上げてしまう。

 

 

「うんうん! 任せてシキ! 一年前とは全然違うんだから! また一緒に戦えるね! 今度は全力のわたしを見せてあげる!」

「え? ちょ、待て!? だから抱きかかえるなって!?」

 

 

再びどころか過去最高調に上機嫌になりながら、アルクェイドに抱きかかえられてしまう。どうやらお姫様の琴線に触れてしまったらしい。

 

 

「だから止めなさいと言ってるでしょう!? それに歩く自然災害のような貴方に遠野君のバディは任せられません! 遠野君との連携を誰よりも上手くできるのはわたしです! そうでしょう、遠野君?」     

「ああ……確かにそうだけど」

 

 

アルクェイドを抑えながらそう宣言するシエルさん。自分もそれには同意するしかない。自分からすれば数えきれないほど彼女と共闘してきたのだから。ただ今の冗談抜きにアルクェイドに対抗できかねない実力に成長したシエルさんについていけるかは自信がない。

 

 

「何よ。シエルったらまたシキに呼び捨てにしてもらえなかったから嫉妬してるんでしょ」

「っ!? アルクェイド何を言って」

「? 俺、シエルさんを呼び捨てにしたことなんてあったっけ?」

 

 

あわあわと慌てているシエルさんはともかく、そんな記憶はない。摩耗してしまっている記憶も多くあるが、それでもシエルさんを呼び捨てにするようなことを自分がするとは思えない。

 

 

「……ええ、一度だけ。一年前ロアと戦った時です。覚えていませんか?」

「ロアと……そうか、悪いけど覚えてないな。あの時の記憶はちょっと曖昧になってて……」

「そうですか……」

 

 

どこか残念そうなシエルさんの姿に罪悪感を覚えるも、思い出せないものは仕方ない。あの時の戦いの記憶は酷く曖昧になっている。きっと無我夢中だったのだろう。もっとも覚えていても、シエルさんを呼び捨てにするのは難しい。自分にとってさん付けは彼女への親愛の証でもあるのだから。

    

 

「あらあら、でもそうですねー……なら先にシエルさんが志貴さんを名前でお呼びしてみるというのはどうです? その代わり志貴さんはシエルさんを呼び捨てにするというのは?」

 

 

こんな面白そうなイベントを割烹着の悪魔が見逃すはずがなかった。それはまさに悪魔の囁き。同時に強烈な既視感。そういえばいつか同じようなイベントがあったような気がする。あれは何だったか。

 

 

「え――――そ、そうですね。それなら、いえそんなのカンタンです。い、いいんですか琥珀さん? 言っちゃいますよ? し――――しし、し――――」

「そこまでにしておけ琥珀。シエルさんも無理に付き合わなくてもいいから」

 

 

きゃん、と鳴きまねをしている琥珀をシエルさんから引き剝がす。そこでようやく正気に戻ったのかシエルさんは慌てて眼鏡をかけなおしている。それを楽し気に見ているアルクェイド。とてもこれから死徒討伐に向かうとは思えないような空気。だが心配いらない。もし永遠を手にしたロアが相手だとしても、今の二人と一緒なら負けはしないだろう。

 

一度振り返って琥珀を見る。彼女もまた自分を見つめ返す。いつかのように白いリボンを渡してくることはない。そう、約束する必要も今の自分たちにはないのだから。

 

 

「――――いってきます、琥珀」

「――――いってらっしゃい、志貴」

 

 

当たり前のようにそう告げて出発する。両隣には月姫と夜の虹。帰る場所は日向の夢。挑むのは一夜限りの再演。

 

 

 

俺たちは歩き始める。それじゃあまずは、この夜の主演である、紫苑の錬金術師に会いに行くとしよう――――

 

 

 

 

 




作者です。後日談の後編を投稿させていただきました。

前編の時点で気づいた方も多かったかもしれませんが、この後日談は元々メルティブラッドへと繋がる物語でしたが月姫リメイクに合わせて加筆修正したものとなっています。

本編でも示唆していますが、リメイクで登場した原理血戒という概念、魔法使いの贈り物とお節介さんの助力によって主人公は時折、夜の間だけ死のない世界を見ることができる幸福が上乗せされることになります。甘いかもしれませんが本編が完結して六年。主人公にもう少し救いがあってもいいかな、と考えた結果です。楽しんでいただければ嬉しいです。

活動報告にて本作の設定やプロットを公開しています、。

長くなりましたが、ここまでお付き合いくださり本当にありがとうございました。月姫 The other side of red garden が早く出ることを期待しながら。

最後に本編では明示されなかった設定やプロットを載せています。興味があればご覧ください楽しんでくれれば幸いです。






『遠野志貴』

本編の主人公。実は蛇の戦いの後、精神的な摩耗や反動で精神的に不安定な時期があったものの、琥珀の献身によって回復。後日談時には完全に素の性格に戻っており、若干子供っぽくなっている。体調面については琥珀の感応能力に加え、秋葉による命の供給も継続されているため以前より良好になっている。

後日談後は青子から贈られた魔眼殺しとシエルによるタタリの原理血戒である『現象』の使用によって死のない世界を見ることが可能に。ただ原理血戒の使用は常時行えるようなものではないため、数か月に一度、シエルたちが帰ってきた夜のみなのだが本人はそれに心の底から感謝している。

無事学校は卒業するも紆余曲折あり専業主夫となる。琥珀に養われることに色々思うところはあるものの惚れた弱みもあり今日も今日とて家事をこなす毎日。働きに出ている琥珀はもちろん、シエルやアルクェイドを家に迎える側となる。タタリ討伐後は戦うことはなくなったが、色々厄介ごとには巻き込まれている。


「琥珀」

本編のヒロイン。我が世の春が来たとばかりに普段通りに振舞っている割烹着の悪魔。主人公のことを第一に考えながらも私情を多分に交えながら今までできなかった事、時間を取り戻すかのように奮闘する毎日。だが日和ったといってもそこは月姫の黒幕系ヒロイン。その姦計によって見事主人公を専業主夫とすることに成功。その地位を盤石とした。

遠野家を離れた際、秋葉から(正確には槙久)一生暮らせる額の金銭が渡されているのだが、四六時中一緒では主人公を堕落させてしまうと自覚しているため彼方の夢エンド時同様、遠野家の専属医である時南宗玄の元で薬剤師として働いている。

最近の趣味はコスプレ。きっかけはアルクェイドの空想具現化によって衣装チェンジした際、アルクェイドの格好をした自分に主人公が反応したのを見逃さなかったため。それ以来、趣味と実益を兼ねたコスプレ撮影会(お触り可)を行っている。


「シエル」

リメイクの影響によって一番変化があった人物。肉体年齢の設定変更によってスタイルはさらに成長を遂げている。そのため制服はサイズがあわなくなり、後日談での服装は「教えて!シエル先生」の物となっている。

実は蛇と戦いの後、主人公がアルクェイドは呼び捨てにしているのに自分にはしてくれていないのを気にしており、「日向の夢」の際もそのことに触れようとするも断念するシーンがある。

本編後はアルクェイドと共に死徒討伐に。しかしアインナッシュ討伐の折、メレムに自らの体術が対城レベルでないことを指摘され同時にアルクェイドとの力の差を痛感。ある祖に剣を師事し体術、剣術を対城レベルに。同時に原理血戒の獲得と第七聖典の修復、改修によってガチで物理的にアルクェイドに対抗できるレベルとなっている。

苦労する性分は変わらず、心労は絶えないものの、自らと似た境遇であった主人公が琥珀と共に平穏に生活しているのを見守りながら、自分もまた贖罪と未来に向かって歩んでいる。


「アルクェイド・ブリュンスタッド」

一年の経験によって原作のアルクェイドに近づきながらもその人格形成には琥珀の影響が強く残っているためかなりイタズラ気質。ロアから力を取り戻したことに加え、アインナッシュの実によって吸血衝動も和らいでいるためその実力は規格外。正面からアルクェイドが自然災害レベルの力で圧倒し、シエルがそれをフォローするのが今の死徒討伐のセオリー。単純であるが故に強力なスタイルでありこのペアに狙われれば命はないとまで祖に恐れられている。

無敵に近いアルクェイドだが青子を苦手、正確には彼女の魔法の力でもある逆光運河がアルクェイドにとって天敵であるため旅先で会った際には警戒を露わにしていた。

今のアルクェイドにとって死徒討伐は「仕事」であり主人公と琥珀がいる場所が「家」、今の生活はいわば仕事に行って家に帰るを繰り返していることになる。

『そうなんだ。家に帰ってるんだ。何でそんなに早く家に帰りたいんだろう。家に帰っても眠るだけなのに』

本編の第三十六話にてアルクェイドが抱いた疑問。今のアルクェイドは無意識にその答えに辿り着いた形となる。


「翡翠」

主人公と琥珀を見送った後、自らへの戒めを乗り越え屋敷の外に出るようになっている。本編では匂わせる程度で明言していなかったが第二十七話の時点で主人公が本物の遠野志貴ではないことに気づいていた。そのため琥珀同様、主人公のことを『あなた』と呼んでいる。

一度だけ街で並んで歩いている琥珀と主人公を目にし、自分の選択が間違いでなかったと安堵。声をかけずに見送った。


「遠野秋葉」

本編ではほとんど出番がなく、どう扱っても主人公にとっては地雷、鬼門であるため後日談でも直接会うことはなかった。

翡翠同様、第二十七話の時点で主人公が偽物であることを看破している。そのため主人公のことを『あの人』と呼んでいる。本来ならその時点で主人公への命の供給を断つところなのだがそうしなかったのは琥珀のため。遠野の人間としての琥珀への贖罪、自らへの戒めとして今もなお命の供給を行っている。

実はがっつり出番があるプロットもあった。いわば月姫転生の遠野家ルートのようなもので、主人公は正体を隠しながら遠野家での生活を送るも発覚、琥珀の策略も交えて泥沼じみたインモラルな展開に。最終的にロアを略奪して主人公と殺し合いを演じた後、何とか秋葉を説得、抑え込むことに成功するも十七分割されていない処刑人アルクが襲来。それを主人公が青子と一緒に退ける、という流れだった。


この先は月姫リメイクに登場するキャラクターのネタバレが含まれるので、まだプレイしていない方やクリアしていない方は閲覧を注意してください。











「ノエル」

本作では直接的な出番はない自称二十五歳の新任教師。本作では本来、シエルと共に赴任してくる予定だったが主人公の介入によってノエルでは状況に対応しきれないと判断したシエルに本国に送還されてしまった。

蛇が討伐された後、その事後処理のために入国。蛇の騒動の中心でもあった主人公に興味を持ち、新任教師として改めて赴任してくる。自らと同じ蛇によって人生を凌辱された存在である主人公に同族意識を持ち(ある意味琥珀が人形である主人公に抱いた感情と同じ)同時に自分と同じ被害者でありながら加害者でもあるシエルを人間らしく変えてしまった主人公に対する増悪という相反する感情を持っている。

もっとも小市民じみたところは変わらず、琥珀とアルクェイドが苦手。アルクェイドに対しては真祖という種としての次元の違いと吸血鬼への嫌悪から。琥珀に対しては自分を見透かしているかのような言動から。琥珀もまた復讐に囚われた過去とそれを乗り越えた経験からノエルを気に掛けている。

後日談後のタタリ討伐にも参戦。しかしその影響からあり得た可能性として死徒化してしまう。その全能感から原作同様危うく道を踏み外しかけるも主人公たちによって防がれる。その後、監視の名目でシエルとバディを組み、再現されたロア(永遠には至っていない)と対峙。シエルと共に共闘し蛇との因縁に決着をつける。その後、代行者から引退。紆余曲折あり、新任教師を継続することになる。

当初は後日談でも登場し、死徒化してしまっているため目が見えるようになった主人公が困惑する流れもあったがネタバレ要素が強すぎるのと話がとっちらかってしまうためお蔵入りとなった。



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