今日の仕事を終わらせ、良央は思いっきり体を伸ばした。
報告書のデータを送信して、タイムカードを押して外に出る。
今日は夕方から、いくつか抱えている案件の担当者から立て続けに電話がやってきて、その対応に追われてしまった。喉がとても渇いている。
ボタンを押して、エレベーターがやってくるまでの間、良央は音楽プレイヤーを取り出して、今日はどんなアーティストを聞こうかと考える。
今日はいろいろあって精神的に疲れたので、激しい音楽で鬱憤を晴らそうと決めた。準備を済ませて音楽が鳴り始めた直後、タイミング良くエレベーターがやって来た。
一階に出ると、彼はロビーにある自販機の前で足を止めた。
左上にあるコーラ缶が甘い誘惑を仕掛けてきたが、そこは我慢して冷たいお茶を購入する。今、腹の膨れる炭酸飲料なんか口に含んでしまったら、せっかく彼女が作ってくれた料理が食べられなくなってしまうからだ。
外に出ると、むわっとした暑さがやってきた。
すでにカレンダーは十月なのに、依然として残暑の厳しい日が続いている。
お茶で今日も働きまくった喉を癒しながら、良央は駅前の牛丼屋を通過する。
新メニューの牛丼の写真が、食べてくれと言わんばかりにドアに張り付いている。一ヶ月前の自分なら、そそくさと中に入っていただろうが、彼女が来てからは外食は一度もしていない。
耳元のイヤホンからは、歪んだギターが大音量で鳴っている。
飲みきったお茶を駅のゴミ箱に捨てて、良央は改札口を通る。
時刻は午後八時。神保町駅のホームには、良央と同じように多くの仕事帰りのサラリーマンが並んでおり、あくびをしながら良央もその列の中に入る。
二分も経たないうちに、緑色の線が入った車両がホームに入ってきた。
今日は、都営新宿線のボディでやってきたようだ。
昨日と一昨日は、新宿線と直通運転を行っている京王線のボディ(こちらは紫と青の線が入った車両である)でやってきたのだ。
もちろん、これは「今日はラッキー」と言えるような珍しい光景ではなく、なんてことない非常に些細な変化である。
音楽プレイヤーの音量を落としてから、良央は車内に入る。さすがに大音量のまま車内に入るわけにもいかない。それくらいのマナーは弁えていた。
新宿三丁目から丸ノ内線に乗り継ぎ、彼は家の最寄駅である中野坂上駅に着いた。
ここから家までは徒歩十分ほどである。会社から家までは合計四十分――。短めの音楽アルバムなら、一枚通して聞けるくらいの通勤時間である。
マンションに着いた良央は、そのままホールを抜けた先にある階段を昇る。部屋は二階にあるので、わざわざエレベーターを使う必要がないのだ。
二〇五号室の前まで着くと、音楽プレイヤーを止めて、部屋のドアを開ける。
彼女がやって来てから、帰りの際はいつも鍵を使う必要が無くなったからだ。
「ただいま」
中に入ると、ゆっくりとした足取りで一人の少女がやってきた。
「おかえりなさい」
透き通っているような白い肌。おかっぱで癖のない金色の髪。
彼女の名前はニニィ・コルケット。イギリス生まれの彼女は、まだ十四歳である。まだ学校の制服を着たままで、黒のセーラー服と金色の髪が妙なギャップを醸している。
「飯はもう食べた?」
「いえ、まだです」
横のキッチンを見ると、鍋からは香ばしい匂いが立ち込めてきた。
匂いからしてカレーだろう。凝った料理をするニニィにしては、今日は珍しくシンプルである。
「じゃあ、一緒に食べるか。着替えるから、ちょっと待ってて」
「はい」
キッチン前の狭い廊下を抜けて、良央は居間に入る。
廊下と居間の間に作ったカーテンを引いて、良央はスーツから私服に着替える。
彼女が良央の部屋で暮らし始めたのは、つい一ヶ月前のことだ。
それまで八畳一Kの賃貸マンションで細々と一人暮らしをしてきた良央にとって、彼女との出会いは人生で二番目に衝撃的な出来事だった。
着替えが終わり、良央たちは早速夕食の準備を始めた。
居間をちょうど二つに分けているカーテンを開けて、良央は隅に引っ込めていた小テーブルを真ん中に置く。ニニィが二人分のカレーとお茶をテーブルに置いて、夕食が始まった。
「うん。うまいよ」
一口食べてから、良央はそう評した。
「今日はカルダモンを少し多めに入れて、食べやすい感じにしてみました」
ニニィの言葉に、良央はスプーンを止める。
「カルダモンって、スパイスのやつ?」
「はい」
ここで台所の方を見ると、いくつものスパイスの名前が付いたケースが並んでいた。クミン、ターメリック、ジンジャー。どれもカレーに必要なスパイスである。
「もしかして、スパイスから作ったの?」
「はい」
さらっと述べるニニィに、思わず感嘆の息を漏らしてしまった。
カレーなんて市販のルーを使えばすぐに完成するのに、彼女は手間を惜しまずに手作りカレーを作ってくれたのだ。しかも、それがとんでもなく美味いときたもんだ。
一口食べるたび、魔法みたいに仕事の疲れが取れていくような気がした。
食事を済ませた良央は、皿を流し台まで持っていってそのまま洗い始める。
「あっ。お皿は私が洗います」
「いいよ。俺がやっとくから、自分の皿を持ってきて」
一瞬、申し訳なさそうな顔をしながらも、ニニィは言う通りに皿を持ってきた。
特にこちらから命令したわけではないのだが、ニニィは料理や掃除、洗濯といった家事全般を率先してやってくれる。
しかも、その全てがぐうの音も出ないほど完璧にやってのけるのだ。
ニニィはテーブルを片づけると、居間のカーテンを閉める。
おそらく、私服に着替えるためだろう。縦長の八畳の居間を二人でシェアするために、簡易的ではあるが部屋の真ん中にカーテンを作ったのだ。
窓側がニニィのスペースで、手前側が良央のスペースである。
なんせ相手は年頃の少女である。非常に狭っ苦しくなるが、お互いのプライベートを多少なりとも確保しないと、二人の共同生活は成り立たない。お互いにちゃんと話し合った末の結論だった。
皿と鍋を洗い終えた良央は、そのまま居間に戻る。
すると、カーテンが開けられ、ニニィがひょいっと出てきた。
すでに私服に着替えている。彼女の着るのは、いつも黒や茶色といった地味な色の服だった。
「トイレです」
そう言って、ニニィは彼の横を通り過ぎる。
トイレは玄関のすぐ先にあるので、必然的に良央のスペースを通り抜けなければならない。ばたん、と扉が閉まる音が聞こえた。
買ってきた雑誌をめくりながら、良央は彼女に初めて会った時のことを思い返した。
大叔父の源二郎から、突然の連絡があったのは一ヶ月前。
そして、良央の前にやってきたのは、源二郎と金髪の少女――ニニィ・コルケットだった。話してみて、真っ先に感じたのは「おとなしそうな子だな」という印象だった。
実際、かなりおとなしい子だった。
そして、彼女が有名な医療一家の末裔である話も、その直後に聞かされたのだ。
一部修正する部分が残っていますが、完結まで執筆済みです。
年内完結を目指して投稿していきたいと思います。
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【02】ニニィ
「社会人になってから、時間の経過がすげえ速くなるぞ。覚悟しとけよ」
そんなことは、大学時代から散々先輩たちから聞かされた話である。
とりあえず、頭の中では理解しておいて、社会人になった。
何とか内定をもらって、いざ実際に自分が社会人になってみると、先輩たちの言葉を身にしみて痛感することになった。
しかし、それはどうすることもできない問題である。
時間の速さに驚きながらも、何も変えることできない現実に奇妙な歯がゆさを感じた。しかし、その一方では「人生そんなものだよな」と、多少ながら受け入れている自分も存在した。
働き始めて三年目。良央はあっさりと二十五歳になった。
生活は相変わらず、何かありそうで何もなかった。八畳一Kの部屋は男の一人暮らしの常識に漏れず散らかっており、ひどい有様だった。この部屋が片づけられるのは、たまに男友達を呼んで麻雀をする時くらいだ。
大きな不満はない。でも、満足はしていない。
そんな生活にささいな魔法が掛けられたのは、お盆を過ぎた後のことだった。
※
この日の二十二時、仕事を終えた良央は憂鬱な気分で会社から出た。
今日は朝からトラブル続きで、ひたすらその対応に追われていた。
良央はイベント用品や備品のレンタルを行っている会社に入っており、彼の顧客から今日いきなりレンタルした機械が使えなくなったとのクレームの電話を受けたのである。
理由はすぐに察した。
その機械があまりに古すぎて、ついに壊れてしまったのである。
実はその注文を受けた時、もう古いから新しいものを購入した方がいいんじゃないかと担当の上司に相談したのだが、受け入れられずに終わった経緯がある。
何とか代替の物と交換して難を逃れたが、さすがに顧客からは猛烈な叱りを受けてしまった。しかも、会社に帰ってきてからは、その上司から「どうして何も相談してくれなかったんだ」と、相談したはずなのに何故か叱られてしまい、その日は沈んだ気分で仕事を行っていたのだ。
音楽プレイヤーは、優しいピアノの音が奏でられている。今日はさすがに精神的に疲れすぎていて、激しい音楽を聞いている余裕などなかった。
へとへとの体でマンションに着いた良央は、いつも習慣でロビーの郵便受けを開ける。
すると、一通の封筒が中に入っていた。いつもはダイレクトメールくらいしか入っていないので、これは珍しいことだった。
裏に書かれてある差出人を確認して、良央は目を見開く。
「瀬名源二郎?」
初めて聞く名前だった。送り間違えなのかと思ったが、表にはしっかり『古川良央』という自分の名前と住所が掛かれていた。
送り先は中野新橋。この家からかなり近い場所にある。
家に入った良央は音楽プレイヤーを止めて、すぐに封筒を開けてみた。
中には何枚もの手紙が入っており、それを読んで思わず「んっ?」と声を出してしまった。
手紙の内容を要約するとこうだった。
瀬名源二郎は、すでに亡くなっている母方の祖母の弟である。
つまり、良央の大叔父にあたる人だ。
その彼は今、イギリス出身の養子の子供と二人で暮らしている。
そして、その子供に関して大事な話があるから、良かったら連絡してくれないかという内容だった。手紙の最後には、源二郎の電話番号とメールアドレスが記載されていた。
――俺の大叔父さん、か。
脱いだワイシャツを部屋の隅に放り投げて、良央は考える。
一応、自分の親戚だということは分かったが、源二郎とはこれまで全く面識はなかった。
良央も詳しい話は知らないが、母方の一族とはその昔、母親と結婚のことで対立があったようで、それ以来疎遠になっていると聞いたことがある。ちなみに、その母親は六年前に亡くなってしまい、父親とは幼い頃に離婚したきり一度も会っていない。
事実上の天涯孤独の身だったが、まさかこのタイミングで親戚からの連絡だった。
万年床に横になり、良央は手紙の連絡先を眺める。
明日は仕事も休みだし、どうせ予定なんて何も入っていない。
とりあえず会ってみるだけ会ってみようと思い、良央はスマートフォンに手を伸ばした。
※
翌日、指定されたカフェに入るが、まだ源二郎たちは来ていないようだった。
店内は木を基調としたおしゃれな内装を施しており、ゆったりするには申し分のない場所だった。すでに源二郎の方で予約をしていたようで、店員に名前を告げると、奥のテーブル席まで案内してくれた。
昨晩、電話をすると、可愛らしい女の子の声が聞こえてきた。
おそらく、養子の女の子だろう。
名前と用件を伝えると、すぐに「少々お待ちください」と言って源二郎に代わってくれた。電話での大叔父は、とても堅物そうな感じがひしひしと伝わってきた。詳しい話は今日伝えるということになり、指定されたのがこの喫茶店だった。
注文したコーヒーが運ばれてきた直後、店の扉が開けられた。
入ってきたのは老人と少女だった。
灰色のスーツを着こなしている白髪の老人は、昨晩の電話で感じた印象の通り、とても堅物そうな人だった。歩き方がぎこちない所が気になったが、それ以外は立派な老紳士だった。
これは良央の予測だが、若い頃は絶対に格好良かっただろうと思った。
そして、その後ろをついていくようにして歩いているのは、彼よりも一回り小さい少女だった。黒の帽子をかぶって、うつむき加減で歩いているので顔はよく確認できないが、耳元から金色の髪がはみ出ている。本当に外国人のようだ。
老人が良央がいることに気付いて、そのままテーブルまでやって来た。
「古川良央さんですか?」
「はい」良央は席から立ち上がる。
「あなたが、瀬名源二郎さん?」
「そうです。この度は突然のお手紙、失礼いたしました」
「いえいえ。そんなことないです」
ここで二人は握手を交わす。
「改めまして、瀬名源二郎と申します。そして、こちらが娘のニニィです。お手紙でも伝えましたが、八年前に私の養子としてイギリスから日本にやってきました。――ほら、ニニィ」
「はい」
彼女が良央に向けて顔を上げた瞬間、思わず息を呑んでしまった。
――可愛い。とてつもなく可愛い子だった。
肌は透き通ったように白く、瞳は少し緑がかかっている。まるでおとぎ話に出てくる女の子が、そのまま現実にやってきたような少女だった。
それと同時に、すごく可愛い顔をしてるのに、どうしてこんな地味な服を着ているんだろうと思ってしまった。今、彼女は黒の帽子に茶色のワンピースを着ており、アクセサリーの類はつけていない。せっかくなら、もう少しおしゃれな服にしても良かったんじゃないのか。
「初めまして。ニニィ・コルケットといいます」
彼女の日本語はそんなに違和感がなく、発音は十分だった。
良央も気を取り直して、ぺこりと頭を下げる。
「古川良央です。よろしくお願いします」
三人は席について、源二郎はホットミルク、ニニィはレモンティーを注文する。
挨拶の時もそうだったが、席に座ってもニニィは帽子を外そうとしなかった。
「さて、いきなり呼び出したこともありますし、まずは単刀直入に申し上げましょう」
源二郎はニニィの肩にゆっくりと手の乗せてから、良央を真っ直ぐ見た。
「良央さん。しばらく、この子の面倒を見ていただけないでしょうか」
「えっ?」
あまりに予想外なことに、思わず間抜けな声が出てしまう。
「突飛な頼みであることは承知しています。しかし、ニニィの面倒を見れる人は良央さんが最適だと判断しまして、このようなお願いをする形になりました」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
大きな声を出してしまったので、飲み物を運んできた店員が驚いて足を止める。
源二郎が軽く頭を下げて、ホットミルクとレモンティーを受け取った。
「まあ、驚くのも無理はないでしょう」
「そりゃそうですよ」
良央はコーヒーを口に含み、ふうーっと大きく息を吐いて気分を落ち着かせる。
「どういうことでしょうか。詳しく説明してください」
源二郎はミルクを飲んでから、ゆっくりとした口調で言った。
「私事で勝手なことだとは承知していますが、仕事の都合で来年の四月から海外に行くことになりましてね。それは会社の大規模なプロジェクトになっていまして、下手したら何年も帰って来れない可能性があります。もちろん、その間ニニィを一人にしておくわけにはいきません。だから、こうして良央さんにお願いをすることにしたのです」
「いきなり、そう言われましてもね……」
良央は頭を掻く。
話を聞いていくうちに、「面倒なことに巻き込みやがって」という苛立ちが大きくなっていく。理由は分かったが、だからといって、いきなり今まで縁のなかった親戚にそんな話を持ちかけてくるなんて失礼だと思わないのか。
とはいえ、ここまで来た以上、もうちょっと詳しい話を聞いてやることにした。
「ニニィさんは養子なんですよね?」
「ええ」
「どうして、あなたが彼女を預けることになったんですか?」
「そうですね。でしたら、まずはニニィが日本にやって来た経緯から話をしましょう」
それから、源二郎の長い話が始まった。
彼の話し方は丁寧で聞き取りやすく、一切の無駄がなかった。
もともと営業の仕事をしている良央にとって、純粋にうらやましいと思ってしまった。三年目になった今でも、良央は自分の営業トークに自信を持てなかったからだ。
源二郎はある大手の貿易商社に所属しており、昔から世界中を飛び回って仕事をしてきた。今から三十年ほど前、仕事の関係でイギリスに長期滞在することになり、その最中にニニィの祖父母と親しくなった。
以来、コルケット一家とは手紙のやり取りをしたり、遊びに行ったりと親密な付き合いを重ねてきた。孫のニニィが生まれたとの連絡を受けた時も、祝福をするため半ば強引に仕事を休んでイギリスへと向かった。
しかし、転機が起こったのは八年前のことだった。
突然、ニニィの祖母から、至急イギリスに来てくれないかとの連絡を受けたのだ。
詳しい話を聞くと、ニニィの両親が二日前に信号無視の車に巻き込まれて、どちらとも亡くなってしまったらしい。
半ば信じられない気持ちで日本を出国して、源二郎が指定された病院に行くと、そこには病床に伏せているニニィの祖母がいた。
そこで、ニニィを養子にしてくれないかとの頼みを受けたのだ。
ニニィの両親は先日、事故で亡くなってしまった。
おまけに唯一の親族であるニニィの祖母も病気であまり長くない。
だから、三十年以上の付き合いがあり、かつ最も信頼できる源二郎に養子のお願いをしたのだ。あまりに突拍子のないお願いに源二郎も当初は断ろうかと思ったが、突然両親が亡くなって憔悴しきっているニニィの姿を見て、このまま放っておくわけにはいかないという思いが出てきて、ついに承諾をしたわけである。
それから様々な紆余曲折を経て、ニニィが六歳の時に源二郎の養子として日本に行くことが決まった。彼女の祖母は、ニニィが日本へ行った直後に力尽きたように亡くなってしまったらしい。
「ここまでの話は分かりました」
良央はカップのコーヒーを飲み干してから続ける。
「ですが、どうして、俺に彼女の面倒をお願いするんですか? いくらあなたの親戚だとはいえ、今日まで全く面識がなかったんですよ」
「それは承知しています。しかし、私にとっての親戚はあなたしかいませんでした」
良央は目を瞬かせる。
源二郎は自分の胸に手を置く。
「私は今日まで独り身でしてね……。両親や姉も亡くなり、ニニィがやってくるまではずっと一人で暮らしてきました。良央さんの存在を知ったのもつい最近のことで、よくよく調べてみたら、社会人として立派に自立した生活を送っているそうじゃないですか。しかも、ニニィとはそこまで歳も離れていないし、私の家からかなり近い場所にあるから、君の家からの通学にもあまり支障が出ない。いろいろと好条件が揃っていましたので、こうして良央さんに面倒をお願いすることにしました。一応、良央さん以外にも何人かの知り合いに並行で相談をしていますが、そちらの方はなかなか難航しているのが現状でしてね」
源二郎は深刻そうな顔で腕を組む。
「もちろん、断る権利はありますから、嫌なら断ってもいいです。しかし、身勝手なことだとは承知していますが、どうか彼女を助けてくれないでしょうか。君が断ってしまったら、最悪ニニィ一人で生活をせざるを得ない状況になってしまいます」
ごくりと唾を飲む。どうやら、事態は思った以上に深刻そうだった。
源二郎の隣に座っているニニィも、顔をうつむかせたまま固唾を呑んで見守っている。よっぽど緊張しているのか、体が異様に震えているのが分かった。
すると、源二郎が小声でニニィに言った。
「ニニィ。良央さんと話してみなさい」
「あっ、はい」
彼女は慌てた素振りで顔を上げる。
「……よ、良央さんは、今どちらに住んでいるんですか?」
「中野坂上」
「あっ、近いですね」
「ニニィさんはどこに?」
「中野新橋です」
「へーっ。近いな」
ここで良央は、源二郎からの手紙が中野新橋から送られてきたことを思い出した。中野新橋なら、良央の家からでも歩いていける距離である。
「昔は中野坂上駅の近くに住んでいました」ニニィは続ける。
「そうなの?」
「中学に進学する際に引っ越したんです」
「ということは、小学校も中野坂上の近くだったのか」
「はい。××小学校に通ってました」
「おおっ。同じ小学校なのか」
まさか、こんなところで母校の小学校の名前が出てくるとは思わなかった。
急に親近感が湧いてきた。
「じゃあ、今どこの中学に通ってるの?」
「××中学校です」
その答えを聞いて、思わず良央は唸ってしまった。
中野区外ではあるが、その中学は近辺では最難関の私立校だった。
「すごく頭が良いんだな。じゃあ、家では普段どんなことしてるの?」
「料理とか掃除とか……」
「他にはどんなことをやってるの?」
「ええと。勉強や研究だったり、お菓子とか作ったりしてます」
それからも、しばらく二人の会話は続いた。
おとなしい印象があったので、質問にちゃんと答えてくれるかどうか不安だったが、それは杞憂に終わったようだ。ニニィの方も、最後はだいぶ緊張が解けた様子で接してくれた。
話が終わると、源二郎が「会計をお願いします」と言って立ち上がった。
「結論は一週間以内で頼む。その際はまた私の携帯に連絡してくれ」
こうして、良央とニニィの初顔合わせが終わった。
※
その夜、万年床に横になって、良央はどうしようか悩んでいた。
源二郎の養子――ニニィと話した限り、特に悪い印象はなかった。
少しおとなしいが、基本的には真面目で良い子で、血の繋がっていない源二郎に対しても、家族として接しているような態度が感じられた。
しかし――。
良央は起き上がって、自分の部屋を見回してみる。
マンガやゲーム、CDなどが散乱しており、隅には昨日着たワイシャツと靴下が脱ぎ捨てられている。
あまりの汚さに、思わずため息をついてしまった。小さなテーブルの上にはカップラーメンの容器とビール缶が満員電車のように敷き詰められており、そういえばここ最近、家の中ではカップラーメンしか食べてないことを思い出した。
――こんな汚ねえ部屋に、あの子と一緒に生活なんてできるわけないだろ。
それに、大学一年からずっと一人で暮らしてきたのだ。このタイミングで誰にも縛られない一人暮らしの生活にピリオドを打つのは、少しもったいない気もした。
真面目そうな性格の彼女のことだ。
もし一緒に生活を始めたら、だらしないことはできなくなるだろう。一日中カップラーメンの食事なんかしていたら、きっと怒られるに違いない。
尻を掻いて悩んでいる矢先、スマートフォンから着信音が鳴った。
確認すると、今日登録したばかりの源二郎の名前が映っていた。
「はい、もしもし」
『もしもし。今、時間は大丈夫かな』
「大丈夫ですけど、いったいどうしたんですか?」
『ニニィのことで重要な話がある。――いや、むしろこれから伝える話の方が、今日話した内容よりも重要になってくるのかな』
良央は気を引き締める。
「どういうことですか?」
『ニニィのちょっとした秘密だ』
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【03】秘密
「まず、先に打ち明けると、ニニィは有名な医療一家の末裔なんだ」
突拍子のない発言を聞いて、良央は体を硬直させる。
カフェでニニィたちと出会った翌日、良央は源二郎の誘いで中野坂上駅近くの居酒屋にやってきた。居酒屋とは言っても大勢で騒ぐような店ではなく、全室個室の落ち着いた雰囲気が漂う店で、源二郎いわく「ここならどんなことも話せる」場所らしい。
そして酒とお通しが運ばれてきた直後に、源二郎が打ち明けたのである。
良央は梅酒のグラスをいったん置いた。
「医療一家の末裔ですか?」
「そうだ。昨日、私はとある大手の貿易商社に所属していると言ったが、具体的に何をやっていたのかと言うと、外国の医薬品を日本に輸入したり、逆に日本の医薬品を外国に輸出するための仕事を行ってきたんだ」
いつの間にか、彼の口調は丁寧ではなくなっていた。
「ニニィの祖父母に出会ったのも、その仕事がきっかけだった。もう三十年以上も前のことだな。当時、コルケット家はそこまで名の通った一家ではなかったが、ニニィの両親が難病に効果のある特効薬の開発に成功したことで、コルケット家の地位は急激に上昇したんだ」
「え、ええと……」
「冗談で言っているわけではない。全て本当のことだ」
源二郎は澄ました顔で水を飲む。
確かに、真面目な性格の彼がこんな所で冗談など言うわけない。
ふと、ここで昨日のニニィとの会話を思い出した。その時、彼女は「家では家事の他に研究をしている」と確かに言っていた。今、源二郎の言ったことが正しいなら――。
「もしかして、ニニィさんも何か研究をしているんですか?」
その答えに源二郎は口元を吊り上げた。
「そうだ。ニニィも独自に研究をしている」
「どんなことをしているんですか?」
「両親と同じく、薬学や病気に関する研究を行っている。その成果は論文として、私を介してイギリスの研究所に所属している知り合いに渡している。私もニニィが提出した論文は全て見ているが、専門家の人いわく、どれも十四歳とは思えないほどの見事な出来らしくてな。将来、彼女もコルケット家の名に恥じない研究者になるだろうな」
「あの子……。どれだけ頭が良いんですか」
おとなしい性格の割に、規格外の力を持った女の子のようだった。
ここで頼んだ物がテーブルにやってきたので、二人はいったん会話を止める。
和食を中心としたメニューで、さすが源二郎が気に入っている店だけあって味はどれも良かった。特に揚げ出し豆腐は、いい感じに餡かけの出汁が効いてて美味しかった。
「ニニィは、できるなら家を出た後も研究を続けたいと言っている」
源二郎は水の入ったグラスを置く。
「だから、もし面倒を見ることを了承してくれるなら、その部分については、なるべく彼女の意志を尊重してくれるようにして欲しい。薬学の関連書籍だけでもかなりの冊数になるから、部屋の中は本だらけになってしまうが、そこは許してくれないだろうか」
「は、はあ……」
さすが有名な医療一家の末裔と言ったところか。そもそも、八畳一Kの部屋に大量の本なんて置けるスペースなんてあるだろうか。
そんなことを考えながら、ひょいひょいと良央は料理を食べる。
今日は源二郎の奢りだし、最近はカップラーメンばっかりの食事だったので、ちょっと遠慮なくいかせてもらおうと決めた矢先だった。
「君に一つ、謝らなければいけないことがある」
突然、源二郎が改まった声で口を開いたのだ。
「昨日、話した内容で一つだけ君に嘘をついたことがある。私が長期で海外へ行くためにニニィの面倒をお願いしたわけだが、実はそうではないんだ」
良央は箸を止める。
「どういうことですか?」
「私の命はあまり長くない。だから、君にニニィをお願いしたのだ」
あまりのことに良央は言葉が出なかった。
源二郎は自分の胸をトントンと叩く。
「詳しい病名は控えるが、先日精密検査を受けたら、私の体に大きな病気があることが判明したんだ。体にある臓器系や循環器系といったあらゆる機能が弱くなっていき、最終的に患者の心臓機能を停止させてしまう難病らしい。今はまだ日常生活に大きな支障はないが、いずれは症状が悪化して、そのまま死に至る可能性が高いとの診断だった」
「そんな……手術とかはしないんですか?」
「つい最近見つかったばかりで、まだ治療法が確立されていない病気らしくてな。対症療法でしかやることがないらしい。先生いわく五年生存率は五十パーセントとのことだった」
「五十パーセント……」
具体的な数値を聞くと、急に現実味が増したような気がした。
唖然とする良央は対照的に、源二郎は落ち着いた物腰で話を続ける。
「今は大きな支障もなく、こうやって良央さんと話していられるが、いずれは他人の介助なしでは生きられなくなってしまうらしい。末期は寝たきりになると先生は言ってたな……。私がこうしてゆったりと外で食べていられるのも、良くてあと一年らしい」
源二郎はグラスの水を飲む。
「昨日も言ったが、私は独り身で今日まで生きてきた。親や兄妹はとっくの昔に亡くなっているし、そんな状況でもし私まで死んでしまったら、ニニィはどうなる? また、天涯孤独の身となってしまう。だから私はできる限りの手段を使って、ニニィを預けるにふさわしい人物を探した。そうしたら、君が中野に住んでいることを知ったのだ。姉に孫がいたなんて、君を見つけるまでは全く分からなかったよ」
水のグラスを持ちながら、源二郎は苦笑する。
ここでようやく、彼が酒を全く頼んでいないことに気付いた。
料理も軽くつまんでいる程度で、おかしいとは感じていたが、まさかそんな理由だとは予想外だった。
「もし、ニニィの面倒を見てくれるのなら、私はいったん中野を離れて、ここから遠い場所にある病院で療養生活を行うつもりだ。もちろん、君たちへの援助は惜しまないつもりでいる。良央さんはすでに働いていて十分な収入はあると思うが、私にできる、せめてもの手助けだ」
「理由は分かりましたが、いつまでもニニィさんに黙っておくわけにはいかないですよね」
「未定ではあるが、いずれは彼女に話すつもりでいる。しかし、今はその時ではない。打ち明けるには、あまりにデメリットが大きすぎるからな」
「デメリット?」
「まだ十四の娘には厳しい話だろう」
「……そうですね」
ここで源二郎は大きく息を吐いた。
「言わなければいけないことは全て話した。何か、他に訊きたいことはあるかね?」
「いえ、特には」
「そうか」
そう言った後、源二郎は勢いよく膝を叩いて頭を下げた。
「良央さん。改めてお願いします。ニニィ――いや、私の娘のために、どうかこの話を引き受けてくれないでしょうか」
「そ、そんな、急に改まって言われましても……」
「あの子は本当に良い子です。私はあの子に何一つしてやれませんでしたが、あの子はこんな私をまるで実の親のように接してくれて――こう表現すると少し恥ずかしいですが、ニニィのおかげで今の私がいるようなものです。だから、あの子の幸せのために、この体に鞭を打って、こうして良央さんにお願いをしています。もちろん、あなたにも断る権利はあります。しかし、どうかニニィのために、私の頼みを聞いていただけないでしょうか」
グラスの氷がカランと鳴る。
頭を下げる源二郎の姿を、良央は呆然と見つめることしかできなかった。
※
食事は一時間半でお開きとなり、良央は部屋に帰ってきた。
コップの水を一杯飲み、大きく息を吐く。源二郎と食事をする前は、終わったら家の近くにあるお気に入りの銭湯に行こうと考えていたが、結局そのまま帰ってきてしまった。
医療一家の話といい、大叔父の病気の話といい、とにかく驚くことが多かった。
あまりに驚きすぎて、これは夢なんじゃないかと少し疑っていたりする。
病気の話が終わった後、話題は良央の母――理恵との思い出に終始した。
源二郎の姉――妙子の子供が理恵であるが、だいぶ昔に結婚のことで妙子と理恵が大きく衝突してしまったらしく、それっきり理恵とは疎遠になってしまった経緯がある。
理恵とほとんど面識のなかった源二郎にとって、良央が話すことの全てが新鮮に聞こえたようだ。けっこう積極的に質問をしてきて、それなりに盛り上がった。
しかし、その理恵も、良央が大学一年の時に心臓発作でこの世を去ってしまったことを告げると、かなりのショックを受けていた。
良央にとっても、母親の突然の死についてはあまり思い出したくない出来事だった。
服を洗濯機に放り投げて、良央はキッチンの前にある扉を開ける。
そこは小さなスペースだが脱衣所があり、左の開き戸の扉がトイレ、右のスライド式の扉が風呂に繋がっている。風呂とトイレを別々にするのは、部屋を選ぶ際に良央が最も優先した事項である。
風呂場に入った瞬間、あちこちに生えているカビを見て、思わず顔をしかめる。
ちゃんと掃除しようとは思っているが、面倒でなかなか実行に移せないのが現状だった。風呂に限らず、トイレ、キッチン周り、居間など、部屋のあちこちがかなり汚れている。
一日分の汗を洗い流した良央は、そのまま風呂から出てパジャマを着る。酒を飲む気分にはなれなかったので、冷蔵庫から缶コーヒーを取り出す。
コーヒーの苦みを味わっている最中、脳裏にニニィの顔が蘇ってきた。
イギリスからやってきた、医療一家の末裔である少女。
薬学の関連本が部屋を占領してしまうことは気になるが、それ以外は日常生活に大きな支障はなさそうだ。喫茶店で話した感じでは、決して出来の悪そうな印象はなかった。
嫌なら断ってもいい、と源二郎は言ってくれた。
もし、頼みを断ったら、ニニィたちはどうするだろう。
源二郎が危惧していた通り、本当に一人で生活することになるんだろうか。それとも、思い切って病気のことをニニィに打ち明けて、そのまま二人で療養生活を始めるのだろうか。
源二郎が、頭を下げた時の光景が蘇ってくる。あの堅物で融通の効かなさそうな大叔父が、あそこまでして血の繋がっていない彼女のために動いているのだ。
大きく息を吐いて、天井を見上げる。
お金は源二郎が援助してくれるとのことで、あまり深刻に考える必要はない。
しかし、こんな八畳の狭い部屋に年頃の少女がやってきたら、いろいろと不便なことは増えるだろう。どのように寝ればいいのか。収納スペースをどう確保すればいいのか。プライベート空間をどう確保すればいいのか。二人分の荷物をどう置けばいいのか。課題は満載である。
飲み切ったコーヒー缶を流し台に放り投げて、良央は万年床に横になる。
こんな自分にできることがあるなら、やってやろうじゃないかと心に決めた。
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【04】そうじ
八月二十八日、朝の六時半に起床した良央は、あたふたと準備を進めていた。
二日前の夜、良央は源二郎に電話でニニィの面倒を見ることを了承した。
すると、早速準備を進めて、今日から部屋に移り住むということになった。
ニニィの希望で、中学校が始まる前に準備を済ませたかったからである。八月の休日は残すところ三十一日の土曜日だけだったので、こうして良央の出勤前という少し無茶な流れで、ニニィがやって来ることになったのだ。
昨晩も少し片づけたとはいえ、部屋の中はまだまだ汚かった。
だらしない生活を続けていた代償である。さっきワイシャツに着替えたばっかりなのに、すでに汗びっしょりだった。
そして、時計が七時半を指した瞬間、家のインターホンが鳴った。
「ああ、ついに来ちゃったか……」
結局、あまり片付けができないままになってしまった。良央は扉を開ける。
以前に会った時とあまり変わらない地味な帽子と服装で、ニニィはやって来た。持ち物は小さな鞄一つだけである。それ以外の荷物は、午前中に宅配でやって来るらしい。
「お、おはようございます」
「おはよう。まだ散らかったままだけど、入って入って」
「はい」
どこか落ち着かない雰囲気で、ニニィは中に入る。
そして、キッチンや居間の惨状を目の当たりにして、大きく目を見開いた。
「ごめん。少しは片づけたつもりなんだけどさ」
「いえ……お仕事、大変なんですね」
完全に引いている様子である。
「ええと、トイレやお風呂はここにあるから」
良央は誤魔化すように大きな声で言う。
そこまで広い部屋でもないので、案内はすぐに終わった。トイレや風呂は簡単な掃除すらしていなかったので、中を見たニニィはまた引きつった顔になっていた。
朝の貴重な時間はあっという間に過ぎてしまい、もう時計は八時前になっていた。
「あっ。まずい、そろそろ行かないと」
「朝ごはんは食べましたか?」
「いや、食べてない。いつもギリギリまで寝てるから、朝はいつもコンビニでパンとかを買ってるんだ」
「会社で食べるんですか?」
「人が来ないうちにな。無理そうだったら抜いてる」
ふと、ここで気になることがあったので、良央は冷蔵庫の中を開けてみる。
普段からろくに料理などしないので、中はすっからかんである。手間の牛乳パックを確認すると、賞味期限から一週間も過ぎていた。
「そうだ。ニニィさんの昼飯とか考えなくちゃな……」
牛乳を処分した後、良央は財布から千円札を取り出そうとする。しかし、いろいろ考えた挙句、千円札を元に戻して、今度は一万円札をニニィに渡した。
「これやるから昼飯や必要なものを買ってきていいぞ」
「えっ?」ニニィは目を瞬かせる。
「収納棚とか医薬品とか、今日からの生活に必要なものだ。――まあ、あらかた実家から持ってきているとは思うけど、まだまだ足りないものも沢山あるだろ? その金は自由に使っていいから、ニニィさんで決めてくれ」
「は、はい……」
ぽかんとしているニニィを尻目に、良央は充電しておいた音楽プレイヤーを持つ。
これで全ての準備が整った。
部屋のカギを持って、いざ出発しようとする。しかし、今日からニニィがこの部屋にいることを思い出し、慌ててUターンして彼女にカギを渡した。
「危ねえ危ねえ……。今のところ家のカギはそれしかないから、大切にしてくれよ。なんなら鍵屋に行って、スペアキーを作ってもいいから」
「はい」
「あと、俺が帰ってくるのは、いつも八時が九時の間くらいだから、それくらいの時間帯は家にいるようにな。そうしないと、俺が部屋に入れなくなるからさ」
「分かりました」
「じゃあ、いってくる」
玄関で軽く手を振ると、ニニィも同じように手を振った。
「いってらっしゃい」
革靴を履いて、良央は部屋を出る。
もちろん、外に出るまでに音楽プレイヤーの再生は怠らない。
今日は朝早く起きたこともありかなりの寝不足だったため、気合いを入れるために激しいロック曲を選択する。
今日も昨日と同様、外は朝からすさまじい熱気に包まれていた。
中野坂上駅までは十分ほど歩くが、いつもその間にワイシャツの中の下着がぐっしょりになってしまう。この感触が大嫌いな良央にとって、これだけで仕事に行く気が七十パーセントくらいダウンしてしまう。もっとも、仕事へのやる気は最初からあまり高くはないのだが。
歩いている途中、良央の脳裏に先ほどの「いってらっしゃい」の声が蘇ってくる。
間近であの言葉を言われたのは、実に何年ぶりのことだろう。あの部屋で一人暮らし始めたのは、今から六年以上も前だ。もう、しばらく聞いていなかった言葉である。
もう一度、「いってらっしゃい」の声が蘇ってくる。
何の前触れもなく、急に体が少しだけ軽くなったような気がした。
相変わらず外は憎しみすら感じるくらいの暑さなのに、さっきと打って変わって、嫌な気分を感じなかった。
良央は激しい楽曲から、ミディアムな楽曲に切り替えた。
※
「ただいまー」
仕事を終えた良央が部屋の扉を開けた瞬間、あまりの光景に開いた口が塞がらなかった。
朝まで油や食べ物の残りカスで盛大に汚れていたキッチンが、新品同様にピカピカに輝いていたからだ。しかも、コンロには鍋が置かれており、そこから良い匂いが放たれている。
「あっ。おかえりなさい」
脱衣所に繋がるドアが開かれ、そこからひょっこりとニニィが顔を出した。洋服の下にエプロンを付けた格好である。
「これ、ニニィさんが掃除したの?」
「はい。今日はキッチンとトイレとお風呂を掃除しました」
「えっ、ほんとに?」
その言葉を聞いて、慌てて良央は風呂場への扉を引く。
すると、今朝まであれほど汚れていた床が真っ白になっており、タイルのあちこちに出来ていた黒カビも根こそぎ無くなっていた。
まるで、この部屋を初めて見に来た時にタイムスリップしたみたいだった。軽い塩素みたいな匂いがするのは、直前まで掃除用の薬品を使っていた証拠だろう。
「すごいな……。全部ピッカピカだ」
「シャンプーや小物は全部そこのカゴにまとめておきました」
彼女の言う通り、タオルを掛けるポールには、シャンプーなどが入ったカゴがぶら下がっていた。昨日までは、シャンプーの容器などは全て風呂の床に置いてあった。
そのため、どの容器も全て黒ずんでいたのだが、それは全て新しいものに差し替えられていた。
「このカゴはニニィさんが買ってきたの?」
「はい。近くの百円ショップで」
「なるほど。それは安上がりだ」
トイレの方も見てみると、こちらもほこり一つないピカピカな状態だった。おまけにこれまで取り付けていなかった便座カバーがあったり、芳香剤や造花が置かれてあったりと、ただ綺麗にするだけでなく、持ち主が快適に使えるような工夫があちこちに施されている。
「造花とかも全部、百円ショップで?」
「いえ、芳香剤だけは近くのスーパーで買いました」
「どうして?」
「すごく匂いがきつかったからです」
「別に、そこまでこだわる必要はないんじゃないかな……」
「いえ。匂いは非常に重要なので、そこはどうしても譲れませんでした」
「そ、そうか……」
ちょっと頑固なところがあるかもしれないな、と思いながら良央はトイレを出る。
居間の方は今朝よりはだいぶ片付いているものの、まだ物が散乱している状態だった。隅にはダンボールが積まれており、その中に彼女の荷物が入っているのだろう。
「ニニィは夕飯もう食べた?」良央が問う。
「いえ、まだです」
「じゃあ、先にそっちを済ませよう」
良央が脱衣所でスーツから私服に着替えているうちに、ニニィは夕食の準備を進めていく。
今日のメニューは野菜たっぷりのシチューと、春雨サラダ、ピラフだった。料理はできると聞いていたが、まさかここまで本格的なメニューだとは思ってもみなかった。
隅にある小テーブルを真ん中まで持ってきて、二人で向かい合う位置に座る。
彼にとって、この部屋で他人と本格的な夕食を摂るのは初めてのことだった。
お互いに「いただきます」と言ってから、良央はシチューを口に入れる。濃厚なクリームと野菜のコクが口いっぱいに広がり、思わず「おおっ」と声が出てしまった。
「あ、口に合いませんでしたか?」恐る恐るニニィが問う。
「いや、すごくうまくて、つい声が……」
空腹だったこともあり、それからの良央は速いペースで食べ物を口に運んでいった。
ピラフはパラパラで、サラダもドレッシングが効いてて非常に美味しかった。それをニニィに言うと、彼女は嬉しそうに「ドレッシングは自分で作ったんです」と返してくれた。
あっという間にテーブルの食べ物は無くなり、良央は満足そうに息を吐く。
久しぶりに充実した夕食の時間だった。食べただけなのに、身も心も温かくなったような気がした。
「ごちそうさま。すごくうまかったよ」
「ありがとうございます」
ニニィは微笑みながら、小さな声で返す。そして良央の食器を重ねて、そそくさと流し台に持っていった。何となく後ろをついていくが、彼女が「私が洗います」と言って、そのまま皿洗いを始めた。
流し台は、昨日まで薄汚いプラスチック製の三角コーナーとスポンジ置き場があったが、それが全て捨てられて、代わりにステンレス製のバスケットだけが置かれていた。どうやら、三角コーナーは廃止となったようである。
良央は、熱心に皿を洗っているニニィを眺める。
初日だから自分を良い子に見せるために、わざと頑張っているんじゃないか――。
そんな邪推な考えも浮かんだが、すぐにそれを振り払った。
「ニニィさん」
「はい?」彼女がこちらを向く。
「今日はありがとう。これからもよろしく」
すると、彼女は嬉しそうに顔を輝かせた。
「はい」
――やっぱり、この子はすごく良い子だ。
こうして、良央と十四歳の少女との生活が始まった。
◇
共同生活が始まって二日目――。
良央を見送ったニニィは早速エプロンを着て、掃除に取り掛かる。
すでに昨晩の段階で、良央が捨てて良いものとダメなものを分けてくれたので、これで心置きなく居間の掃除ができる。早速、ごみ袋を用意して、いらない物の処分に取り掛かる。
これから、この六畳の小さな部屋で暮らさなければならないのだ。不必要なものはなるべく処分して、二人が快適に暮らせるような空間を作らなければならない。すぐに使う必要のない荷物については、この近くにあるトランクルームにすでに預けている。
ある程度、処分が完了したら今度は床の掃除に取り掛かる。
きれい好きのニニィにとって、居間の隅にたまっているホコリだったり、床の汚れは昨日からかなり気になっていることだった。やるからには、徹底的にやらなければ気が済まない。
掃除のために、いったん良央が必要だと言ってくれたものを廊下に移動させる。
衣類や薬品などの日用品の他に、マンガやCDなども多くその中に含まれている。どれもニニィにとって、読んだことも聞いたこともない代物ばかりだ。
ふと、ニニィはその中に入っている『ある物』に目を留める。
それは紅色の小さな箱で、いかにも高級そうな品物が入っていそうな箱だった。試しに開けてみると、中には青色の宝石のペンダントが入っていた。
「きれい……」
思わず、見とれてしまうほどの美しさだった。
初日の部屋の惨状を見て、いかにも不健康そうな暮らしをしてきた良央が、こんなきれいなペンダントを持っているとは少し意外だった。
これはニニィの勘だが、明らかに彼が購入したものじゃなさそうな気がした。
ペンダントを箱に戻して、とりあえず掃除を再開しようとした時だった。
突然、家のインターホンが鳴り、ニニィはびくっと体を跳ねらせる。
こんな朝に来客なんて、明らかにおかしかった。残りの荷物の宅配も、今日の午後に到着するように指定しておいたはずである。
恐る恐る、ニニィは玄関の受話器を取り上げる。
「はい」
「朝早くに申し訳ありません。柳原花蓮と申しますが、ニニィ・コルケットさんですか?」
聞こえてきたのは女性の声だった。
しかも、柳原という名字は、彼女にとって所縁のある名でもあった。
「ご、ご用件はなんですか?」
「瀬名源二郎さんのことで重要なお話がありまして、お伺いに来ました。もしよろしければ、少しだけお時間をいただけませんでしょうか?」
「おじいちゃんのことで?」
「ええ。あと、付け加えさせていただきますと――」
女性はいったん間を置いてから答える。
「私は柳原久子の孫に当たる者です」
「えっ」
「祖母から、何度かニニィさんの話を聞いております」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
ニニィは受話器を置いて、エプロン姿のまま玄関の扉を開ける。
すると、そこには二十代後半くらいの髪の長い女性が立っていた。
「あっ……」
その顔を見た瞬間、疑惑は確信へと変わった。
凛々しさを備えた目と引き締まった表情は、間違いなく久子そっくりだった。
ニニィにとって、柳原久子とは命の恩人にも等しいような存在だった。だいぶ昔に彼女に会っているような、そんな奇妙な既視感すら抱いてしまった。
「初めまして。ニニィ・コルケットさん」
久子の孫の女性は小さく微笑んで、ニニィの手を握った。
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【05】にきび
相変わらず厳しい残暑が続いている、九月の下旬。
「良央さん、良央さん」
この日の朝、良央はニニィの手によって起こされた。
「遅刻しますよ」
完全に意識が覚醒しない中、良央は手元の目覚まし時計を確認する。
七時二十分――。目覚ましは七時にセットしていたが、いつそれを解除したのか全く覚えていない。ニニィに起こされたから良いものの、一人だったらまずかった。
「ごめん。今、起きる」
「おはようございます、良央さん」
「ああ、おはよう」
良央は布団から出る。ニニィはすでに黒のセーラー服に着替えていた。
「朝食は作っておきました」
「ありがとう」
良央は着替えを手に持って脱衣所に入る。顔を洗い、身だしなみを整えて、ワイシャツとズボンを着て脱衣所を出ると、すでにニニィが朝食の準備を終えていた。
居間の真ん中に小テーブルを置いて、そこに二人分の朝食が並んでいる。つい数分前まで良央が寝ていた布団は部屋の隅に綺麗に整頓されており、居間を真っ二つに分けるように引かれていたカーテンも今は開放されている。
良央がニニィと向き合う位置に座った後、食事が始まった。
今日の朝食はサンドイッチとオムレツだ。サンドイッチは肉、野菜、果物と三種類の具材を挟んだものに分けられており、オムレツはトロトロで美味しかった。
食べながら、何となく良央はカレンダーを見る。
「もう一ヶ月か」
「えっ?」
「ニニィがここに来てから」
「そうですね」
サンドイッチを持ったまま、ニニィもカレンダーに目を向ける。
気付いたら、良央は彼女を「ニニィ」と呼ぶようになっていた。どのタイミングでこうなったのか良央自身もよく覚えておらず、ニニィも特に嫌そうにしていなかったので、そのままこの呼び方が定着してしまったのだ。
良央は、カレンダーから部屋の奥にある本棚に目を向ける。天井までそびえ立っている大きな本棚には、英語で書かれた薬学に関する研究書が隙間なく並べられている。
ニニィと生活が始まってから最も高い出費となったのは、あの本棚である。
源二郎が言った通り、彼女が持ってきた研究書の量は想像以上だった。
ただでさえ八畳の居間に二人の人間が生活するので、うまく収納しないと、かなり狭苦しい部屋になってしまう。二人で話し合った結果、ニニィの意向を重視して、極力部屋にあるものを少なくすることで対処したのだ。
それから一ヶ月――。
彼女との生活は何事もなく、穏やかに流れていた。
それまでだらしない生活をしてきた良央は最初の頃こそは違和感を抱いていたものの、一ヶ月も過ぎると少しは慣れた。
朝食を終えた良央はスーツを着て、いざ出発しようとした時だった。
「あっ、良央さん」突然、ニニィが口を開いた。
「ネクタイがずれてます」
えっ、と驚きながら確認すると、確かにネクタイが斜めにずれていた。
「ああ、ほんとだ」
「直します」
ニニィは良央の眼前まで歩み寄ってきてネクタイを修正する。
その手つきはとても手慣れたもので、あっさりと完了した。
「ど、どうも」
戸惑いながらも礼を言う。
すると、ここでニニィはじーっと良央の顔を見上げたまま言った。
「……大きなニキビですね」
「えっ?」
「そこです」
ニニィはその細い指を、彼の左頬に向ける。
手鏡を使って確かめると、彼女の言う通り、巨大なニキビが左頬に出来ていた。
昨日まではだいぶ小さかったのだが、一晩でかなり成長してしまったようだ。
良央は小さく息を吐く。
「顔はちゃんと洗っているつもりなんだけどなあ……」
「薬はありますか?」
「いや、そういうものは無いんだよ」
時間も迫っていたので、二人は早足で部屋を出た。
外に出る際、ニニィは帽子をかぶるのを忘れない。買い物だろうが学校に行くときだろうが、いつもこうなのだ。ちなみに学校に入る直前には、ちゃんと帽子を外しているらしい。
やがて、二人は中野坂上駅に到着して地下への階段を下りる。良央は丸ノ内線、ニニィは都営大江戸線を使っているので、構内に入った二人はそのまま別れることになった。
相変わらず朝の時間のホームは、やる気を減退させるくらいの人ごみで溢れていた。
迷惑をかけない程度の音量で音楽を聞きながら、良央は大勢の人に並んで、やってきた丸ノ内線に入ろうとする。しかし、良央の前でついに車内に人が入れるスペースが無くなってしまった。やむを得ず、少し強引に前の人を押して何とか車内に入ることに成功した。押されたおっさんが良央を睨み付けてくるが、仕方ないだろと思いながら良央は目を逸らす。
良央の目の前でドアが閉まり、ゆっくりと電車が進行する。
走行中、ドアのガラスに映っている巨大なニキビを見て、良央はつい顔を歪めた。
どういうわけか、昔から良央はニキビが出やすい体質だった。おかげで顔はニキビの跡が多く残っており、多少ながらそれにコンプレックスを抱いていた。
――二十五にもなって、なんでこうも出てくるんだよ。
この間にも、丸ノ内線は少しずつ、そして容赦なく仕事場へと向かっていく。
※
「今日はニキビ対策のメニューにしました」
この日の夕食、ニニィは皿を置きながら口を開いた。
スマートフォンを持ったまま呆然とする良央に対し、ニニィは一枚の紙を渡してきた。
そこには、今日の夕食についての詳しい説明が書かれてあった。
「これ、ニニィの手書きなの?」
「はい」
よくこんな手間がかかることをできるな、と思いながらも良央は中身を読む。
『今日のメニューはひじきと大豆の煮物、焼き鮭のサラダです。ひじきにはビタミンB2が多く含まれていまして、ニキビを予防するのに効果的な食べ物です。焼き鮭にはビタミンB6が多く含まれています。ビタミンB6はビタミンB2の働きを助ける役目がありますので、一緒に食べるとすごく効果的です!』
割と細かく書かれている内容に、良央は「へえ」とつぶやく。
まさか、ここまで丁寧に解説してくれるとは思わなかった。
読み終わった頃に夕食の準備が完了したので、二人はお互いに手を合わせて、「いただきます」と唱えた。
ひじきと大豆の煮物に舌鼓を打ちながら、良央はニニィに言った。
「さっきのニキビって、どこで勉強したの?」
ニニィは箸を止めて、自分のスマートフォンを良央に見せてきた。
「えっ。普通にインターネットで調べたの?」
はい、とニニィはこくりと頷く。
「あそこにある本で調べたわけじゃなくて?」
良央は部屋の隅に置いてある本棚を指差すが、ニニィは首を横に振った。
「あの本は、もうちょっと専門的なものです」
「専門的?」
「はい。難しい病気のこととか……。いろいろあります」
「へえ。そうなのか」
ニニィはスマートフォンをしまう。
「しばらく、ニキビ対策用のメニューとかに変えることってできるの?」
良央の問いに、ニニィは箸を動かす手を止める。
「はい。できますけど」
「じゃあ、治るまでお願いできるかな?」
ニニィはすぐに頷いた。
「分かりました」
「悪いね。手間かけさせちゃって」
「いえ。むしろそちらの方がメニューは考えやすいです」
「じゃあ、よろしく頼むよ」
たまには頑張ってみようと思いながら、良央はサラダに箸を伸ばした。
※
それから二週間後、良央たちの努力は報われる結果となる。
「すごいな。跡形もなく消えてるぞ」
すっかりニキビが消滅した頬を撫でながら、良央は満足そうに言った。
スマートフォンで近くの皮膚科を調べて、内服薬と塗り薬をもらった良央は早速ニキビの治療を開始した。もちろん、その間もニキビ対策用の夕食メニューは残さず食べて、洗顔についても普通のせっけんからニニィが買ってきた市販の洗顔料を使うようになった。
最初の数日間は大きな変化もなかったが、それ以降からニキビは少しずつ小さくなっていき、今日の朝には跡形もなく消滅していたのだ。すでに跡になっている部分はさすがに消えていなかったが、結果としては十分だろう。
「良かったです。治りまして」
ニニィは良央のニキビがあった部分を、嬉しそうに見つめている。
礼を言って、良央はニニィのスペースに置かれているテーブルを見る。
食事用に使っている小テーブルは今、彼女の勉強用として使われていた。テーブルの周りには冊子が散乱しており、開きっぱなしのノートにはよく分からない英語が書かれている。
本当に、真面目で勉強熱心な子である。
「薬学の研究をしてるんだよな」
はい、とニニィは答える。
「すごいよな。まだ中学生なのに大人顔負けのことをしてるんだからさ」
「ありがとうございます」
「具体的にどんな研究してるの?」
ニニィはしばらく黙った後、思い切ったように口を開いた。
「難病についての研究をしてます」
「難病?」
「はい」
それを聞いて、良央は以前に源二郎が話してくれたことを思い出した。
彼女の両親は昔、難病の特効薬の開発に成功したことがあると。そして、ニニィも両親と同じように難病で苦しんでいる人を助けたいという夢を持っていると――。
「ニニィの両親も同じような研究をやってたよな?」
「あ、はい」
「すごいことをやってるんだな。親子揃って」
「いえ、私なんてまだまだです」
ニニィはじっと部屋の本棚を眺める。
鎮座している本棚が、いつも以上に大きな存在感を放っているように見えた。
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【06】くすり
「ふーっ。満足満足」
映画館――新宿バルト9を出た良央は、思いきっり腕を伸ばす。
隣のニニィは、相変わらず地味な服と帽子を着用している。
「ニニィはどうだった? 面白かったか?」
「はい。面白かったです」
バルト9の近くには、新宿三丁目駅へ続く階段がある。
二人は寄り道せず、その階段を降り始めた。新宿三丁目から丸ノ内線に乗れば、十分もかからずに中野坂上に到着する。
今日は、二人で一緒に映画を見に行くことにした。
見たのは最近、ネットで秘かに話題となっている外国映画である。
ある家に老人と小さな女の子が住んでおり、老人が病気で余命が一年と宣告されてから物語が始まる。老人と女の子との間に血は繋がっていない。
ストーリーとしては、これからの未来に不安を抱く女の子を老人が励ましていき、最後は女の子に見守られながら亡くなってしまう流れになる。
これだけだと、単なる感動ストーリーで終わってしまうが、ストーリーの合間に血の繋がっていない二人がどうして一緒に住むようになったのかが、絶妙なタイミングで語られており、しっかりとした構成でじわじわと話題になった作品である。
丸ノ内線のホームに入った二人は、そのまま電車が来るのを待つ。
「おじいさん、本当に良い人だったな。女の子が新しい家に行くことになった時、『しっかりお手伝いをするんだぞ』と言った場面は特に良かったな」
「はい……」
丸ノ内線が到着したので、二人はそれに乗る。
良い映画なのは間違いないが、内容が大人向けだったので、行く前はこれで良いのか結構迷った。やっぱりニニィくらいの歳なら、派手な演出の映画が好みなんじゃないのかと思い、当初は往年の人気マンガを実写化した映画にしようかと思っていた。
しかし、ネットのレビューを確認してみると、ストーリーがあまりに原作から離れてお粗末な出来だったらしく、最終的にやめることにした。
やはり、物語の生命線はストーリーにある。
映画のことで話しているうちに、あっという間に二人は家に到着した。
時計の針は十五時を指しており、まだ夕食まで時間がある。
それを確認したニニィは、秋用の上着を再び着た。
「買い物に行ってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
ニニィが軽く手を振って、そそくさと部屋を出て行った。
今日の夕食は何が出るんだろう、と思いながら良央は映画館で買ってきたパンフレットを眺める。ニニィとの生活が始まって以来、食事の時間がとても楽しみになった。
とにかく、彼女の作る料理は美味いのだ。
和食、洋食、中華、基本的なメニューなら何でも作ることができる。
先日はデザートでニニィ特製のプリンが振る舞われ、あまりのうまさに衝撃を受けてしまった。味は濃厚で、なめらかな食感と共に口の中でとろけていく感覚に、思わず鳥肌が立ってしまった。たまに知り合いからお店のプリンをもらう時があるが、それに匹敵するくらいのうまさだった。
――どうやったら、あんなにうまい料理が作れるんだろうな。
ふと、良央の視線が小テーブルに移る。今はニニィの勉強用として使われているが、その研究書の中に混じって『レシピ』と表紙に書かれたノートに目が留まった。
パンフレットを閉じて、良央はテーブルに近づいてそのノートを取る。
よく見ると、『レシピ』の下に『ナンバー5』と細いボールペンで書かれてあった。つまり、このナンバー以外のレシピ本もあることになる。
中を開くと、予想通りいろんな料理のレシピが細かく記されてあった。少し茶色に変色しているので、書かれてからそれなりに時間が経っているのだろう。
よく見てみると、筆跡が明らかにニニィの字ではなかった。テーブルに開かれたまま置いてある研究ノートとは異なり、かなり角ばった字で書かれていたからだ。
――誰かから、このレシピ本を受け取ったのか?
良央はノートを元に戻す。ニニィに誰からレシピ本を受け取ったのか聞きたかったが、そうなると、こっそりノートを見たことも打ち明けなければならない。
そう考えると、然るべきタイミングで尋ねた方がいいかもしれない。
良央は先ほどの映画のパンフレットを手に取ると、再び続きを読み始めた。
※
ニニィが帰ってくると、一枚の封筒を良央に渡してきた。
裏には源二郎の名前が記されており、良央は一瞬ドキッとしてしまう。
「大叔父さんから俺宛てにか」
中身を開けてみると、源二郎直筆の三枚の手紙が入っていた。
内容に簡単に要約すると、ニニィのことを頼んだという旨と、これから一ヶ月おきに良央の口座にお金が振り込まれる旨と、緊急の連絡先の番号が記されていた。
一応、ニニィにも見られる場合を考慮してか、病気については全く触れていなかった。その代わり、海外の長期滞在に関することが細かく書かれてあった。真面目な性格の源二郎のことだから、出張が本当のことだと思わせるためにわざわざ細かい嘘をついたのだろう。
すると、手紙を読んだニニィが困ったように独り言を漏らした。
「おじいちゃんったら……。わざわざここまで書かなくていいのに」
良央にとって、その言葉は聞き捨てならなかった。
「ニニィ。今、なんて言った?」
ニニィは目を瞬かせる。
「ここまで書かなくていいって、どういうことだ?」良央は続ける。
「あっ。え、ええと……」
明らかに動揺している様子である。
それを見て、良央の中である推測が生まれた。
ニニィはすでに源二郎の身に何があったのか、薄々と察していたのかもしれない。ニニィは医療一家の末裔で、病気についても研究しているので、この可能性は高いだろう。
「知っていたのか?」
やや遠回しに言ってみると、ニニィは驚きながらも頷いた。
「良央さんも、知っていたんですか?」
これで確定した良央は、正直に打ち明けることにした。
「大叔父さんが病気を患ってることで間違いないよな? 初めてニニィに会った次の日に、ひっそりと俺に打ち明けてくれたんだ」
「そうだったんですか……」
「やっぱり、ここ最近の大叔父さんの様子はおかしかったのか?」
ニニィはこくりと頷いた。
「でも、おじいちゃんが病気だと分かったのは、柳原花蓮さんという方が私にそのことを教えてくれたからなんです」
今度は良央が驚く番だった。
「教えてくれた?」
「はい。私が良央さんの家にやってきた翌日にその方が来まして、私におじいちゃんが病気だということを教えてくれました」
「名前は柳原花蓮といったな。知り合いなのか?」
「いえ、私は初めて見る方でした……」
「大叔父さんの知り合いってわけか?」
「そう言ってました」
「なるほどな」
彼女がいったい何者なのか、良央は気になってきた。
「あの、このことはおじいちゃんには内緒でお願いします」
ここでニニィが恐る恐るといった感じで口を開いた。
「おじいちゃんはまだ、何も知らないと思ってますから」
「ああ、分かった。気をつけるよ」
そうでないと、源二郎が居酒屋で話した意味が無くなってしまう。源二郎はニニィに病気のことを知られたくないために、わざわざ良央を居酒屋に呼んだのだ。
ここでニニィが立ち上がると、スーパーのビニール袋を持つ。
いくつかの食材を台所に置くと、いつも使っているエプロンを着用し始めた。
「もう夕食の支度をするのか?」
「今日は、ちょっと仕込みに時間が掛かりますので……」
微笑しながら返すニニィだが、その顔色は悪かった。
映画のパンフレットを読みながらこっそり彼女の様子をうかがったが、結構忙しそうで、夕食の準備の合間を縫って良央のワイシャツにアイロンをかけたり、洗濯物を畳んだりしていた。今日は午後まで映画で潰れてしまったので、その皺寄せがやってきた感じだ。
相変わらず顔色は悪いままだったので、良央は尋ねた。
「大変そうだけど大丈夫か?」
「あっ、はい。今のところは」
「何か手伝ってやろうか?」
「いえ、これくらいは私一人で十分です」
そう答えて、燃えるゴミの袋を持って外に出ていった。
※
夕食中、ふと良央は思ったことを口にしてみた。
「ニニィ。大叔父さんの病気のことだけど」
魚の骨を取っていたニニィが箸を止める。今日は和食を中心にしたメニューだった。
「詳しいことは、その柳原さんという人から聞いたのか?」
「はい。最近になって見つかった難病だと聞いてます」
「うん。そうだな」
「おじいちゃん、やっぱり死んじゃうんでしょうか?」
ぴん、と場の雰囲気が変わったような気がした。
良央は味噌汁をすする。
「まだすぐに死ぬと決まったわけじゃないよ。医者から余命宣告されても長生きする人だっているし、もしかしたら途中で治療法ができたり、進行を抑える薬が開発される可能性だってあるかもしれないんだ。そう簡単にあきらめちゃいけないと思う」
「でも、今日の映画のおじいちゃんはすぐに死んじゃいました」
うっ、と良央は言葉に詰まってしまう。
あの映画では、医師の宣言通り一年で老人は亡くなってしまった。
思い返してみれば、舞台設定が源二郎とニニィの関係によく似ている。
それに気付いたのは、先ほど映画のパンフレットを眺めている時だった。ただ、あの時はニニィは源二郎の病気のことを知らないので、大丈夫だろうと思い込んでしまったのだ。
ニニィは箸を置く。その手は小刻みに震えていた。
「ごめんなさい」
「なんでニニィが謝るんだよ」
「せっかく良央さんが映画に連れてってくれたのに、こんな自分勝手なことで……」
「いや、俺もちょっと配慮が足りなかったかもしれない」
ここで良央も箸を置くと、本棚に視線を移した。
あの本棚には薬学に関する研究書が、隅から隅まで納められている。
「この前、難病についての研究をしているって言ってたよな」
「はい」
「俺の推測なんだけど、その病気って大叔父さんが発症している病気なのか?」
びくん、とニニィは反応すると、首を縦に振った。
「……そうです。あの日から研究を始めました」
「専門家じゃない俺が言うのも難だけど、それってこの部屋で研究書をひたすらめくっているだけでうまくいくものなのか?」
ニニィはうつむいたまま黙り込んでしまったので、すぐさま良央は続けた。
「いや、別に責めてるわけじゃないよ。遠くの病院で頑張ってる大叔父さんのために、何かできることはないかって思って研究を始めたんだろ。その気持ちはすごく偉いと思う」
「いえ、良央さんの言う通りだと思います」
ニニィは両手をぎゅっと握る。
「私一人がここで頑張ったところで無駄なんじゃないかって」
ニニィの言う通り、十四歳の女の子ができることは高が知れている。良央も詳しいわけではないが、新薬の開発には途方もない時間と費用が必要になるのだ。
良央はコップのお茶を飲む。
「じゃあ、もうこのまま大叔父さんは死ぬしかないのかな」
「そんなのは嫌です……」
「嫌だったら、このまま勉強を続けた方がいいと俺は思う」
ニニィは顔を上げて、良央と目を合わせる。
「もうちょっと前向きに考えてみよう。大叔父さんの五年生存率が五十パーセントだったら、残りの五十パーセントは五年以上――もしかしたら十年以上生きる可能性だってあるじゃん。今、大叔父さんはちゃんとした病院で本格的な治療を受けているんだ。そう簡単に死ぬわけがない。もし、大叔父さんが五年でも十年でも長く生きてくれたら、その間にニニィや他の研究者たちが治療法を見つけられるかもしれないだろ」
きょとんとしているニニィに対し、良央は続ける。
「ニニィは高校もしくは大学を卒業したら、創薬の研究とかができるところに行きたいのか?」
「はい。できれば……行きたいです」
「だったら、今からいろいろ勉強しておいてもいいんじゃないかな。今すぐ役に立つ知識じゃないかもしれないけど、もしかしたら働き始めた時に役に立つかもしれない。ニニィが難病に効く薬を作ってくれるまで、大叔父さんが生きてくれることを信じてさ」
良央は再び箸を持つと、切り干し大根を食べる。味は言うまでもない。
食べながら、良央は鼻で大きく息を吐いた。
「……って、専門的な知識のない俺が言っても、全く説得力がないよな」
「いえ、そんなことないです。ありがとうございます」
良央は魚を食べるが、しょうゆを付け忘れてしまったので思わず顔をしかめた。
「ニニィの目から見て、大叔父さんはどんな感じの人なの?」
「とても真面目な人です。いつも書斎にこもって本を読んでました」
「どんな本を読んでたの?」魚にしょうゆを付けながら良央が問う。
「経営に関する専門書とか、時代小説とか」
「なんか、喫茶店で会った時のイメージそのまんまだな」
「でも、とっても優しい人ですよ」
「そうなのか?」
「いつも私の料理を『おいしい』と言ってくれたり……。とても優しい人です」
それを聞いて、良央は箸を動かす手を止める。
この瞬間、居酒屋で源二郎が良央に頭を下げている時のことを思い出した。
あの時、源二郎は「ニニィに何一つしてやれなかった」と言っていたが、気付かないところで、ちゃんと彼女に与えていたじゃないかと思った。
良央はふっと笑った。
「そっか。優しい大叔父さんのためにも、ちゃんと病気の勉強を頑張らないとな」
「はい。片付けが終わりましたら、やるつもりです」
「おお、そうか」
何気なく返した良央だったが、片付けという言葉を聞いて、ふと思ったことがあった。
――片付けが終わって、勉強をするのは何時からだろう?
良央は、向かい側で黙々と食べているニニィを眺める。
彼女がこの部屋に来て一ヶ月が経ったか、これまで家のことはニニィに全て任せてきた。
風呂や居間は彼が何をすることもなく掃除をしてくれて、食事についても毎日三食しっかり作られており、しかもその全てが美味しいときたものだ。
料理や掃除、買い物、洗濯――。
家の仕事は意外と時間を喰ってしまう。
おまけにニニィは中学生なので、必然的に家事は学校から帰ってきた後になる。
膨大な家事で貴重な勉強時間を潰されていることは、間違いなさそうだった。
これまで一度も不満を漏らしたことないのが、おかしいくらいである。
良央自身も仕事が忙しくてなかなか手伝えないのも事実だが、完璧に家事をこなす彼女に甘えすぎているのは明白だった。
勉強をしていくことがニニィにとって大事なことだったら、少しでもその時間を確保するべきなんじゃないのか。良い子であるのは間違いないが、少し自分を犠牲にしすぎる傾向が感じられた。これも彼女の真面目な性格故のことだろう。
そうすると、このまま指をくわえて見ているわけにはいかなかった。
「ごちそうさま」
夕食を食べ終わった良央は、自分の皿を流し台に入れる。そしてスポンジに洗剤をつけて、そのまま皿を洗い始めた。
「ニニィ。食べ終わったらお皿を持ってきて。俺が全部やるから」
「えっ。いいですよ。私がやります」
「遠慮するなって。ところで、お風呂の掃除はもう終わったのか?」
「はい。さっきやりました」
「じゃあ、トイレは?」
「いえ、トイレはまだですけど」
「じゃあ、それは俺がやっとくから、ニニィは自由にしてていいよ」
「えっ……」
ニニィは動揺しているのを尻目に、良央は黙々と皿を洗っていく。
――これからはちゃんと俺も家事をやっていこう。
この部屋の住人として、当たり前だが大きな決意をした瞬間であった。
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【07】おんぶ
十月も半ばを迎え、そろそろ秋の気配を感じてきた、この日の夜。
何気なくスマートフォンでツイッターを覗いていた良央は、とある情報を見て、思わず「おおっ!」と声を出してしまった。カーテンが開かれ、勉強中だったニニィが顔を出す。
「どうかしましたか?」
「俺の好きなミュージシャンが、今日の十時から路上ライブをするらしいんだ」
「路上ライブ、ですか?」
「簡単に言うと、アコースティックギターとかの楽器を持って路上で演奏することだよ。今、ツイッターを覗いたらその告知がされていたんだ」
場所は下北沢駅の近く。八時半だから、今からでも十分に間に合う距離である。
こんな直前の時間、しかもツイッターだけの告知だから、ミュージシャン側もひっそりとやるつもりなんだろう。
マイナーではあるが、そのミュージシャンの大ファンである良央は時折、その人のツイッターを覗いていたが、まさかこんな絶好のタイミングで路上ライブの告知がされるとは幸運だった。今日は金曜日だし、遅くなっても明日の心配をする必要はない。
すぐに行こうと決めた良央は、早速準備に取り掛かる。
普段はチケット代を払わないとミュージシャンの生の歌声なんて聞けないが、今日は交通費を払うだけでその歌声が聞けるのだ。次のチャンスが分からない今、行く以外の選択肢は考えられなかった。ちなみに、路上ライブに行くのはこれで三回目だった。
様子を見ていたニニィは、目を瞬かせる。
「行くんですか?」
「うん。場所が下北沢という所で、そこなら三十分ぐらいで着くし」
「そうなんですか」
「なんだったら、ニニィも一緒に行くか?」
勉強に戻ろうとしていたニニィが体を止める。
「別に無理にとは言わないけど、せっかくの機会だし行ってみないか」
少し間を置いてから、ニニィは首を縦に振った。
「はい。行ってみたいです」
思わず、「えっ?」と言いそうになってしまった。今の誘いは半分冗談のようなもので、ニニィのことだから、てっきり断るかと思っていた。
ともあれ、せっかく彼女が乗り気になってくれたので、良央は立ち上がる。
「よし。なら九時過ぎに出発するから、それまでに行く準備を整えておいて」
「何時間くらい演奏するんですか?」
「さあ。細かいところは分からないけど、ライブの時間はいつも一時間から二時間くらいだね。この前はちょっと長引いて十二時前に終わったかな」
ニニィは目を瞬かせる。
「十二時ですか……」
「別に最後まで見る必要はないよ。なんなら、途中で帰ればいいんだし」
「そうですね」
「途中で眠くならないか?」
「……頑張ります」
「じゃあ、そうと決まったら急いで支度だ」
「はい」
自分の好きなミュージシャンのライブに、一緒に誰かを連れていけるのは単純に嬉しいことである。良央は上機嫌になりながら、準備に取り掛かった。
※
丸ノ内線の新宿駅で降りた二人は、次に小田急線に乗り換える。
下北沢は最も早い快速急行でも停車する駅なので、あっさりと辿り着くことができた。
「どの辺りでやるんでしょうか」
「ええと、ちょっと待って」
ホームの隅まで寄って、良央は改めてツイッターを確認する。
ちなみに、現在のニニィの服装は相変わらず地味な色のワンピースと上着を羽織っており、頭にはまるで金髪を隠すかのように深々と黒の帽子をかぶっている。
ツイッターで北口付近にいることが分かったので、早速二人は移動を始める。
すると、閉店した店の前でアコースティックギターを持った一人の男性がスタンバイをしている所だった。良央にとって馴染みのある顔――例のミュージシャンだった。
そして意外なことに、彼の近くにはすでに五十人ほどの人だかりができており、思わず目を見開いてしまった。
「けっこう集まってるな……」
通行人の妨げにはならないよう、客はミュージシャンとは道路を挟んだ反対側に集まっており、静かに演奏が始まるのを待っていた。
通りすがりの人も何事かと顔を向けている。告知はツイッターだけのはずだが、さすがインターネットの力は大きいようである。
良央たちも隅の方に移動して、ライブが始まるのを待つ。
待っている間、後方で何度も小田急線が通り過ぎていく音を聞いた。
「あの方が、良央さんの好きなミュージシャンなんですか?」小声でニニィが問う。
「うん。もう聞き始めて五年くらい経つかな」
「五年……。長いですね」
「今年でデビューして十年になるかな。大きなヒットを飛ばしているわけじゃないけど、地道に活動を続けている人だよ」
「どうして好きになったんですか?」
「うーん。そうだな」
その時、車が道路を通りかかろうとしていたので、周りの人を含め、良央たちも後ろに下がる。路上で大きな音を出す以上、なるべく奏者も客も周りに迷惑を掛けてはならない。
車が通り過ぎていくのを見計らってから、良央は答えた。
「偶然インターネットの動画で、あの人の曲を聞いてさ。良い曲だなと思って試しにCDを買ってみたら、歌詞がすごく好みで、そのままどっぷりと浸かってしまった感じかな」
「そんなに歌詞がすごいんですか?」
「うん。さらっと読む限りだと、なんてことない日常的な歌詞なんだけど――」
ミュージシャンは横に置いていたビール缶を飲んで、ギターのチューニングを始める。ステージに立っている時とは違い、かなりリラックスしている印象だ。
「それがいかにすごいことなのかって、あの人の歌詞を読んでると思い知らされるんだよ」
チューニングを終えた彼は、「やります」と小声でつぶやく。
そして、美しいアコースティックの音色と共に、路上ライブが始まった。
※
路上ライブは、非常にリラックスした雰囲気で流れていった。
隣にコンビニがあるので、途中でミュージシャン自ら新しいビール缶を買いに行ったり、客からジュースの差し入れをもらったり、リクエストに応えてくれたりもした。
さすが相手はプロということもあり、マイクが無くても、その声は周囲に大きく響き渡った。楽器はアコースティックギター一本だけなのに、楽曲ごとに荒々しく、時には穏やかに弾き、楽器に触ったことのない良央でもその多彩な表現力に脱帽した。
立ち止まってくれる人は時間が経つたびに増えていき、最終的には七十人ほどになった。
最初はミュージシャンの声に圧倒されて、棒立ちになっていたニニィだったが、三曲目くらいになると、ゆっくりと体を揺らしながら聞くようになり、終盤になると良央と一緒に大きな拍手するようになった。どうやら、気に入ってくれたようだ。
この日はリクエストをほとほどにしか受け付けなかったこともあり、ライブが終わったのは十一時半を過ぎた頃だった。
ニニィも眠そうにしていたので、すぐに二人は下北沢駅に向かった。さすが快速急行が止まる駅とあってか、こんな時間でも中はかなりの人で混んでいた。
そして、改札口への階段を昇っている途中のことだった。
突然、ニニィがバランスを崩して転びそうになったのだ。
「あっ――」
とっさに良央が彼女の手を掴んで落ちないようにさせたが、その拍子にニニィは階段の角に右ひざを強打した。黒の帽子がひらひらと階段に落ちる。
「つっ……」
「おい、大丈夫か?」
通行人が帽子を拾ってくれたのて、とりあえず良央は礼を言いながらニニィの体を隅に寄せる。彼女は顔を歪めながら、右ひざを抑えていた。
「ごめんなさい。眠くて、ついバランスが……」
「気にするな。そんなことより足の方はどうだ? 痛むか?」
「ちょっと痛いですけど、これぐらいなら何とか歩けそうです」
痛そうにしながらも、ニニィは立ち上がる。
「分かった。だったら時間もないし、出発するよ」
ニニィの足を気遣いながら先へと進み、ようやく駅の改札口に辿り着く。
しかし、妙に周囲が騒がしい。おかしいと思いながら、改札口の前に置かれている看板を確認して、思わず良央は目を疑ってしまった。
その看板には、つい数分前に近くの駅で人身事故が発生してしまったという内容が書かれてあったからだ。これにより小田急線はいったん運転を見合わせすることになり、周囲の客が騒いでいたのだ。
もちろん、ニニィたちも他人事ではなかった。
「……無事に帰れるんでしょうか?」
「どうだろう。ちょっと待ってて」
スマートフォンで調べてみると、丸ノ内線の終電が十二時三十分なので、すぐに復旧さえすれば何とか間に合いそうな計算である。
しかし、駅員の説明によると、現時点で復旧の見込みが立っていないようで、良央は乱雑に頭を掻いた。
「よりによって、どうしてこんなタイミングなんだよ」
「他の電車に乗りましょうか?」
「確かに。それしか方法はないよな」
振替輸送を実施しているとのことだったので、二人は京王井の頭線から明大前経由で新宿に戻ることにした。
しかし、駅の構内は大勢の人でごった返しており、なかなか電車に乗ることができなかった。電車が到着しても、終電前で殺気立った人間たちが我先にと言わんばかりに車内に突入するので、ニニィを連れている良央はどうしても躊躇してしまうのだった。
結局、二人が電車に乗れたのは日付を跨いだ十二時過ぎ――。混雑で京王線も大幅にダイヤが乱れていたこともあり、良央たちが新宿駅に到着したのは、十二時二十九分だった。
さすがに、たった一分で小田急線から丸ノ内線のホームに辿り着けるわけもなく、二人が丸ノ内線の改札口に到着した時は、すでに「本日の電車は終了しました」という看板が立っており、良央はがっくりと肩を落としてしまった。
「……どうしましょう」震えた声でニニィが尋ねる。
良央はポケットの小銭を確認すると、たったの二百四十円しかなかった。
実は、家を出る時、千円札と定期券しか持ってこなかったのだ。
中野坂上から新宿までは定期券内だったので、これなら大丈夫だろうと財布を持ってこなかったことが、まさか裏目に出るとは思わなかった。
この金額では当然タクシーには乗れないし、ネットカフェに泊まることもできない。クレジットカードの類も、全て家に置いてきてしまった。
「仕方ない。ここから歩いて帰るしかなさそうだな」
「帰れるんですか?」
「昔、時間があった時、よく新宿から歩いて家に帰っていたから道は分かるよ。ここから家までは三十分くらいかな」
「三十分……」
「ひざの調子はどう? 歩けそうか?」
「今のところは平気です」
「そっか。なら行くか」
他に手段が思いつかない以上、良央たちはそのまま徒歩で帰ることにした。
近くにある階段を昇って地上に出る。
金曜日の夜ということもあり、新宿駅周辺は酔ったサラリーマンがあちこちに溢れており、週末独特の雰囲気を醸していた。緊張した様子のニニィは、帽子を目深にかぶる。
「大丈夫。普通に歩いていれば、何の心配もいらないさ」
彼女は右ひざを気にするような仕草をしながら、良央の服の裾を握っている。
彼にとっては歩き慣れた道だが、ニニィにとっては未知の世界だろう。
そのうちに周囲を歩いている人は少なくなっていき、良央たちは道路沿いの道に出た。
片側だけで二、三車線以上もある広い道路――青梅街道である。
深夜にも関わらず、道路には多くの車が行き交っていた。
「この青梅街道をまっすぐ進めば、中野坂上駅に着くよ。道路沿いだから夜中でもぽつぽつ人は歩いているし、ここなら少し安心できるんじゃないかな」
ニニィはこくりと頷く。しかし、服の裾は握ったままだ。
十月も半ばを迎えると、さすがに夜は肌寒くなってきた。
路上ライブの時から外に出っぱなしで、お互いに体も冷えてきたので、良央は自販機で温かい飲み物を買うことにした。
良央は缶コーヒー、ニニィにはレモンティーを選び、これで金は完全に無くなってしまった。
コーヒーで冷えた体を温めながら、良央は空を見上げる。
右手には半分欠けた月があり、空気もだいぶ澄んできているのか、以前より綺麗に映っているような気がした。星もぽつぽつとだが、小さく輝いており、やっぱり大都会の真ん中でも星は見えるんだなと思った。
ゆっくりとした速度で歩いていき、ついに二人は西新宿駅を通過する。
ここでようやく残り半分の距離となったが、ここでさらなるアクシデントが発生した。
「つっ――」
小さな唸り声とあげて、ニニィがその場で立ち止まってしまったのだ。
「ニニィ?」
「ひざが、急に痛くなってきまして……」
彼女は顔を歪めながら、ひざを押さえている。
「歩けるか?」
「……ごめんなさい。もう痛くて歩けないです」
良央は思わず頭を掻いた。
「しまった。百円くらい残しておけば良かったかな」
飲み物でお金を全部使ったことを、今さら後悔した。百円さえあれば、近くにあるファーストフード店で休憩することもできたのに、後先考えない使い方をしてしまった。
車が大きな音を立てて通過する。ここまでゆっくりとしたペースで歩いてきたため、時刻はもうすぐ夜中の一時だ。すでにホットドリンクは飲み干しており、このままニニィの回復を待っていると、さらに帰りが遅くなってしまう恐れがあった。
このままでは埒が明かないと思い、良央は思い切って行動することにした。
「ちょっと失礼」
佇んでいるニニィを、そのままお姫様抱っこの要領で抱える。
彼女の体は非常に軽く、いとも簡単に持ち上げることができた。
「えっ、えっ、えっ――」
ニニィは困惑しながら、良央を見上げる。
「な、な、なにするんですか!」
「んっ。イギリスじゃお姫様抱っこはメジャーじゃないのか?」
「そういうわけではなくて……ええと、ですね」
彼女は頬を赤らめながら、目を逸らす。
「いくら周りに人がいないとはいえ、これはちょっとまずいですよ」
「……うん。いざやってみて、これはやばいと思った」
夜中の一時に、少女をお姫様抱っこして歩いている男がいたら、間違いなく不審者に見られるだろう。素直にニニィの体を降ろすと、今度は彼女に背中を向けてしゃがんだ。
「じゃあ、家までおぶってやるから。それならお姫様抱っこよりマシだろ?」
しばらくニニィは迷った素振りを見せたが、やがて「すいません」と頭を下げた。
良央はニニィをおぶったまま立ち上がると、そのまま家に向けて歩き始める。当初はだいぶ緊張しているのが伝わってきたが、次第に力が抜けていくのが分かった。
少し歩いた後、ニニィがぼそりと口を開いた。
「今日はありがとうございます」
「んっ?」
「ライブに誘ってくれまして」
「どういたしまして」
夜空の月を見上げながら、良央は微笑む。
「そういえば、ゴタゴタしてて聞けなかったけど、今日のライブはどうだった?」
「音楽なんてあまり聞いたことなかったですけど、すごく良かったです」
「ホントか? アコースティック一本じゃ、変化に乏しくてたまに飽きてこないか?」
「……実は途中でちょっと眠くなってしまいました」
「だろうなー。だいぶ昔に一人で路上ライブに行ったことがあるんだけど、その時はあんまり曲を知らなかったから、途中で飽きて立ちながら寝そうになったんだ」
「バレなかったですか?」
「何とかね」
信号に差し掛かったので、良央はいったん歩みを止める。
「あの方のCD――良央さん、持ってるんですか?」
あの方とは、言うまでもなく今日のミュージシャンのことだろう。
「そりゃもちろん。全部持ってるよ」
「明日、聞いてもいいでしょうか?」
良央は一瞬驚きながらも、すぐに笑顔になった。
「全然いいよ。むしろ大歓迎! いやー。嬉しいな」
「そんなに嬉しいことでしょうか?」
「そりゃもちろん。自分の好きなミュージシャンに興味を持ってくれたんからさ」
信号が青になったので、良央は再び歩み始める。
もし、これでニニィが音楽を聞くようになったら、十二月にあるライブに誘ってみようと決意した。チケットはまだソールドアウトしてなかったから、彼女の分も確保できるはずだ。
しばらく、ニニィが何も言わなかったので、良央は「ニニィ?」と声をかけてみる。
しかし、返事は聞こえない。振り向くと、ニニィは目を閉じて規則正しい寝息を立てていた。
良央は小さく息を吐く。
――まあ、もう夜中の一時を過ぎてるからな。
ニニィはよっぽどのことが無い限り、十時半には床に就いている。
おまけにライブで二時間以上も立ちっぱなしで、しかもかなりの距離を歩いているのだ。疲れるに決まってる。
ちなみに共同生活が始まった際、十時には必ず居間の電気を消すことを二人の間で取り決めていた。消灯後は原則として小型の電気スタンドしか使えないので、ここ最近の良央は音楽を聞いたり、ひっそりとパソコンを開いて夜の時間を過ごしている。
その時、首筋に柔らかい感触がやってきて、良央は思わずぞくっとしてしまった。
正体はニニィの唇だった。おぶっている彼女を軽く持ち上げた際、偶然にも唇が彼の首筋に当たってしまったのだ。しかも、その状態を維持したままニニィは眠り続けている。
帽子のつばがぐりぐりと当たって少し痛い。
おまけに彼女の鼻息もちょうど首筋に当たるので、かなりくすぐったかった。
――起こすべきなのか?
だからと言って、このままニニィに無理に起こすのも気が引ける。しかし、どうせ家に戻ったら必ず起こさないといけないから、やるなら今のうちに――。
そんなことを考えているうちに、良央は中野坂上に辿り着いてしまった。
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【08】日曜日
利香にとって、今日のお使いは大きな冒険であった。
お気に入りの帽子をしきりにいじりながら、利香は家への道を歩いていく。
もう何百回と通ってきた道だ。このまま真っ直ぐ歩けば家には着くだろう。しかし、七歳の利香にとって、たとえここがどんなに慣れた道だろうと、大きな冒険をしていることに変わりは無かった。
なぜなら、今日は初めて一人で買い物に出かけているからである。
甘えん坊な性格のこともあり、外に出る時はいつも母親――もしくは中三の兄と一緒だった。しかし、今日は二人とも手が離せない用事があるらしく、母親は自分が行けないことを伝えて「利香ちゃん一人で頑張れる?」と尋ねてきた。
当初は利香も真っ向から反対したが、母親にしぶとく説得され、しぶしぶ一人で行くことに決めたのである。
一応、中三の兄は彼女のことをすごく心配してくれたが、「これも利香ちゃんのためよ」と母親に釘を刺されたため、やむなく退くことになってしまった。
家からスーパーまでの距離は、およそ六百メートルほど。
スーパーに到着するまでの間、利香は頭の中でひたすら好きなアニメキャラの言葉をリピートしながら、ゆっくりと道を進んだ。
そして何とか到着した利香は、母親に頼まれたものをしっかりと買って、今まさに家に戻っている最中だった。最初はかなり心細かったが、ここまで来ると精神的にも多少の余裕が出てくる。利香は心の中で自分を励ましてくれたアニメのキャラに感謝をしながら、残り少ない道を進んでいた。
家の手前には小さな公園があり、利香はそのまま通り過ぎようとした時だった。
突然、強い風が吹いて、利香の帽子を吹き飛ばしてしまったのだ。
「あっ!」
帽子はひらひらと飛んで、公園のベンチの前に落ちた。ベンチの前には帽子をかぶった少女が座っており、帽子に気付いた彼女はそれを拾い上げる。
「すみません!」
慌てて公園に入り、少女の前まで駆け寄る。
そして、その少女の姿を見て、利香は驚いてしまった。
少女の髪は、クラスのみんなと違った色をしていたからである。帽子をかぶっていたので気付くのが少し遅れたが、きれいな金色の髪がはみ出ていた。
今、利香が夢中になっているアニメの中にも、あんな髪をした女の子が出てくる。ちなみにその子が利香にとって、一番のお気に入りのキャラクターだった。
「気を付けるのよ」
少女はそう言って、微笑みながら利香に帽子を返す。
間近で見ると、髪だけじゃなく顔もすごくきれいで、利香の視線は少女から離れることができなかった。
「んっ、どうしたの?」
「あっ……ええと。お姉ちゃん、すごくきれいな髪だと思って」
「えっ?」
少女は目を見開く。
「ねえ、どうやったらお姉ちゃんのような髪になれるの?」
「なれるって、これは生まれつきだから」
「じゃあ、生まれた時からずーっとその髪なんだ」
「そうね」
「いいなあー。うらやましいなー」
利香は純粋に少女の髪がきれいだと思って、今の感想を述べた。
しかし、ここで少女は困ったような顔をしながら自分の髪に触れる。
「そんなにいいかな、この髪」
「えっ? どうして?」
様子がおかしいと思った利香は首を傾げる。
すると、少女は微笑みながら、帽子をかぶった利香の頭にぽんと手を置いた。
「ごめんね。私、あんまりこの髪が好きじゃないの」
微笑んでいるはずのに、少女の表情は全く笑っていなかった。
◇
日曜の夕焼け空をぼーっと見ていると、妙に暗い気分になってしまう。
その原因は非常に単純で、明日から仕事が始まるからである。明日からまた五日間仕事をしなければいけないと考えると、どうしても思考が後ろ向きに偏ってしまう。
欲に言う『ブルーマンデー』の一種だが、働き始めて三年も経つのに、良央は未だにこの症状だけは改善されずにいた。もしかしたら、二度と治らない症状なのかもしれない。
とはいえ、働き始めた頃に比べたらまだマシになった方だとも自覚している。あの頃の良央は月曜日になるのが嫌で嫌でたまらなくて、日曜日の夕方に意味もなく町中を自転車で漕ぎ回ったものである。そして、どんどん暗くなっていく空を眺めて、得体の知れない寂しさと失望感を抱いていたのだ。もちろん、今は自転車を漕ぎ回したりはしていない。
良央はふーっと息を吐いて、スーパーまでの道を歩く。家でゴロゴロしても仕方ないので、今日はニニィと一緒に買い物に行くことにしたのだ。
隣のニニィは、いつも通り地味な服と帽子をかぶっている。
制服の時以外、未だにニニィが帽子を外して外に出る姿を見たことがなかった。
――もうちょっとおしゃれな服を着た方が、絶対に可愛く見えるんだけどな。
そう思いながら、良央はスーパーへと歩いていく。
何はともあれ、いずれはやってくる月曜日に絶望していても仕方ない。残り少なくなってきた日曜日を満喫していこうと良央は決めた。
※
日曜日の夕方ということもあり、スーパーの中は混んでいた。
入口からすぐ先にあるエスカレーターの前で、二人は手を振って別れた。
「じゃあ、また後でな」
「はい」
ニニィは食品売り場のある地下一階へ、良央は雑貨売り場のある二階へと向かう。
せっかく二人で買い物に来たので、効率的に済ませようと、事前に家の中で買うものをリスト化しておいたのだ。
二階に来た良央はニニィが書いたメモを見ながら、目当てのものを探していく。掃除用品、消臭剤、あとはニニィの希望でデザート用の皿も欲しいとのことだった。彼女がやって来てから、以前の生活では無縁だった雑貨品をよく買うようになった。
最後の掃除用品をかごに入れて、良央はそのままレジに向かおうとする。
しかし、その途中にある服の売り場に思わず足を止めてしまった。
近所で最も大きいスーパーということもあり、ここは様々なレパートリーの商品が売られている。当然、服や靴といったファッション関連の商品も中に含まれている。
何となく売り場に入ってみると、可愛い服を着たマネキンが多く並べられていた。
良央は、とある一体のマネキンの前に立つ。服装は白のシャツに茶色のジャケットを羽織らせており、タータンチェック柄の赤いスカートを穿いている。その服装をニニィに変換させてみて、良央はうんうんと頷いた。
結果は言うまでもなく、あんな地味な服よりこっちの方が断然可愛く見える。
そもそも素材自体が飛び抜けて可愛いのだ。
コーディネートさえ失敗しなければ、だいたいの服は似合うだろう。ニニィに今のところ付き合っている彼氏はいないようだが、こんな可愛い服を着たら、すぐに男の子が必死でアプローチをするだろうなと思った。
「よし」
良央は決心した。
いったん服の売り場を離れて、持っていた雑貨品の会計を済ませる。そして一階の入口付近に戻ると、すでにニニィが買い物袋を手に持っていた。
「全部買ってきたか」良央が問う。
「はい」
「じゃあ、ちょっとニニィに見せたいものがあるんだけどいいかな?」
「はい?」
疑問符を浮かべるニニィを連れて、良央は二階の先ほどの服売り場へ戻る。
そして、先ほどの服を着たマネキンの前へやってきた。
「この服、ニニィにすごく似合うと思うんだよな」
ニニィは大きく目を見開いて、マネキンを凝視する。
「もし良かったら買ってあげるけど、どうだろう?」
そういえば、こうやってニニィに物を買ってあげるのは初めてのことだった。
しかし、彼女はうつむいたまま首を横に振った。
「いえ、気持ちはすごく嬉しいですけど、結構です」
「でも、絶対に似合う服だと思うんだけどな」
「あんまり、こういったことには興味が無いので……」
頑なに断るニニィに、良央は唖然とする。
まさか、ここまできっぱり断われるとは思ってもみなかった。女の子はみんな自分の容姿やファッションを気にしていると思っていたが、これは良央の偏見なのだろうか。
「そ、そっか。ニニィがそう言うなら……」
しかし、納得がいかなかった良央はマネキンの後ろにある棚に目を向ける。そこには、カラフルな色をしたニット帽があった。これもまた、ニニィにとても似合いそうな帽子だ。
「じゃあさ。服はいいとして、あの帽子なんかはどうだろう?」
ニニィはきょとんとした顔で帽子に目をやる。
少し意地になっていた良央は、棚からニット帽を取り出す。
「そんな地味な帽子なんかより、絶対にこっちの方が似合うと思うんだけどな」
言いながら良央はニット帽をかぶせようと、ニニィがかぶっていた帽子を取り上げる。
しかし――。
「やめてください!」
いきなり叫んだニニィが、すぐさま良央から帽子を奪い返したのだ。
「勝手に取らないでください!」
そう言って帽子をかぶるニニィに、良央は体を硬直させる。
周囲で買い物をしていた人たちも、何事かと視線を向けている。
「あっ……。え、ええと」
我に返ったニニィが、すぐに頭を下げた。
「ご、ごめんなさい」
「あ……いいよ。俺もちょっと強引すぎたからさ」
ショックを隠せないまま、良央はニット帽を棚に戻す。周囲の視線が気になったので、二人はそそくさと売り場を離れることにした。
結局、そのまま一言も口を交わすことなく、二人は店を出た。
何とも気まずい雰囲気だった。もともと口数の少ない子なので、普段からそこまでニニィと会話をしているわけではないが、とても気軽に話せる状況ではなかった。
この生活が始まって、初めて見るニニィの怒った姿だった。驚きと困惑が大半を占めていたが、その一方でニニィもちゃんと怒るんだという奇妙な安心感もあった。
すでに時間は六時を過ぎており、空は赤黒く染まっていた。
部屋に戻ってきた良央たちは、それぞれの家事に取りかかる。
ニニィは夕食の支度、良央は風呂の掃除だった。それが終わったら、少し早いけど買ったばかりのストーブを取り付けようと決めた。ボーッとしていたら、ネガティブな思考に陥りそうだったからだ。
――やっぱり、何か理由があるのかもしれない。
良央は浴槽をシャワーで洗いながら思った。
これまでの行動やさっきの言動からして、意図的にニニィはおしゃれな服を着ないようにしている。しかも、なるべく人前に金髪を見せたくないようで、だからさっき帽子を取りあげた時に激しく抵抗したのだ。
単に、派手なファッションが嫌いだからなのか?
それともコルケット一家ならではの古いルールがあるのだろうか?
さすがに、それをニニィに直接質問するわけにもいかなかった。
「大叔父さんに聞いてみるしかないよな……」
ピカピカになった風呂を眺めながら、良央は小さく呟いた。
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【09】絵の具
俊樹はその場で立ち尽くすことしかできなかった。
なぜなら、彼の前には金髪の女の子が立っていたからである。
――彼女の名前はニニィ・コルケット。
彼にとって、おそらく死ぬまで忘れることのできない名である。
彼女はあの事件が起こった日と全く同じ姿をしていた。小学三年生の図工の時間――。白黒の縞模様の服と赤色のスカート。当然、身長も当時と同じくらいである。
ニニィは無表情で俊樹を眺めている。
怒ることも泣くこともなく、ただ彼のことを死んだような目で眺めているだけだった。
「な、なんだよ……」
自分でも分かるくらい、その声は震えていた。
ここでニニィは足元に置いてあったバケツを手に持つ。そこには黒い液体が入っており、それが何なのかすぐに俊樹は察することができた。
背の小さいニニィはゆっくりとした足取りで近づいてくる。
何故か、俊樹は一歩もそこから動くことができなかった。
「おい、やめろ!」
俊樹が返した瞬間、突如としてニニィの顔が怒りの形相に変わる。
そして、声にならない叫びをあげながら、黒い液体を思い切り彼にぶちまけたのだった。
※
ここでようやく俊樹は目を覚ました。
ぜえぜえ、と息を吐きながら、ベッドから起き上がる。
ついでに顔や頭を確認してみるが、言うまでもなく黒い液体など付いていなかった。
がっくりと項垂れる。
「なんつー夢を見たんだ……」
ようやく中三の現実世界に戻った俊樹はベッドから出て、そのまま部屋から出る。
まだ九時前だが、さすがに二度寝をする気分じゃなかった。
今日は日曜日で部活も休みだし、友人と会う予定もなかったので、朝飯を食べたら適当にマンガでも読もうと決めた。
居間に行くと、妹の利香がソファーに座って、テレビを熱心な様子で見ていた。
歳が離れているせいもあり、いつも自分に甘えてくる非常に甘えん坊な妹である。
今、利香が見ているのは、小さい女の子向けの人気アニメだった。
カラフルな髪の色の魔法少女たちが、魔法の力を使って敵をやっつけていく内容だ。ちなみに、俊樹自身は一度も見たことがなく、概要を知っているのは単純に利香が母親に話しているのを聞いただけである。
洗面所で身だしなみを整え、居間に戻って来た時、ちょうどエンディングを迎えたようで、見終えた利香はソファーの上で大きく体を伸ばした。
「あっ、お兄ちゃん。おはよー」
「おはよう」
「ママ、もう出かけちゃってるから、ごはんは自分で作ってって」
「了解」
面倒なことではあったが、仕方なく俊樹はキッチンまで行く。
「ねーねー、お兄ちゃん。私、この前一人で買い物ができたんだよ。すごいでしょー」
「おお、すげーな。一人で行けたのか」
「それでね。帰る時にマリちゃんみたいにきれいな髪の人に会ったの」
「マリちゃん?」
「んーと。これがマリちゃん」
利香がお気に入りの筆箱を持って、俊樹のところへやって来る。
その筆箱には先ほどテレビでやっていた魔法少女たちが描かれており、ちょうど利香の指先は金髪の女の子で止まっていた。おそらく、金髪の子が『マリちゃん』という名前だろう。
――金髪の子?
その時、俊樹の中で先ほどの夢がフラッシュバックされた。
思わず、妹の両肩に手を置いた。
利香は何事かと顔をしかめるが、お構いなしに俊樹は訊いた。
「そのマリちゃんみたいな子って、俺と同い年くらいだったか?」
「ええと、そうだったかな?」
「どこで会ったんだ?」
「三角公園」
「ここからかなり近いな……。どんなこと話したんだ?」
すると、利香は首を傾げながら答えた。
「わたしがきれいな髪だと言ったら、あまりこの髪は好きじゃないって答えてた。でも、すぐに『ごめんね』と言って、お姉ちゃんのおごりでジュースを買ってくれたの」
つん、と背中が冷たくなるような感触が襲ってきた。
唾を飲み込んで、俊樹は恐る恐る尋ねた。
「その子の名前とか分からないか?」
「たしか『ににぃ』って言ってたような気がする」
疑惑が確信へと変わった瞬間だった。
「……ここに戻ってきてたのか」
だが、俊樹の心情はかなり複雑だった。嬉しい気持ちもあるのだが、その一方では戻ってきて欲しくなかった気持ちも存在しており、具体的なことは自分でもよく分からなかった。
俊樹にとって、ニニィは初恋の人だった。
それと同時に、取り返しのつかない傷をつけてしまった人でもあった。
金色の髪が好きじゃない――。
先ほどの利香が言っていたことは、その傷が未だに癒えていないことを意味するような発言だった。
「お兄ちゃん?」
利香が問いかけてくるが、俊樹は何も答えることができなかった。
◇
彼女から指定を受けた良央が向かったのは、源二郎の家だった。
彼の家は、中野坂上駅から一駅先にある中野新橋駅の近くにある。良央は数年ぶりに丸ノ内線の分線に乗って、彼女から説明された住所に向かった。
彼女とは、柳原花蓮のことである。
ニニィとの生活が始まった直後、良央のもとに源二郎から手紙が届いた。
その中に電話番号が記されており、そこに掛けてみたところ、応対してくれたのが柳原花蓮という女性だったのだ。彼女は現在、源二郎の身の回りの世話をしているらしい。
彼の家は、二階建ての何の変哲もない一軒家だった。
先日、源二郎から聞いた話によると、現在は遠くの病院に入院して治療を行っているらしいが、今日はわざわざ良央に話をするために戻ってきたらしい。
インターホンを押すと、「はい」と女性の声が聞こえてきた。
「失礼します。古川良央と申しますが、柳原花蓮さんはいらっしゃいますか」
「柳原は私です。少々お待ちください」
それからすぐに玄関の扉が開けられ、二十代半ばのスーツ姿の女性が迎えてくれた。
予想以上の美人だったので、良央は思わず息を呑んでしまう。
腰まで伸びた黒髪はとても艶やかで、凛々しい顔つきがスーツにとても似合っている。バリバリのキャリアウーマンといった感じで、良央の好みのタイプだった。
ひとまず、余計なことは考えようにして良央は頭を下げる。
「古川良央と申します」
「柳原花蓮です。お待ちしておりました。どうぞお入りください」
居間に入ると、源二郎がイスに座ったまま迎えてくれた。これまでスーツ姿しか見たことなかったが、今の大叔父は青のシャツに黒のズボンという私服姿だった。
「久しぶりだな。元気していたか?」
「はい。大叔父さんの方はいかがですか?」
「まあ、何とか頑張っとるよ」
良央は源二郎と向かい合う位置に腰掛ける。以前に比べて、彼に纏う生気が薄くなっているような気がした。顔色もあまり良くなさそうだ。
台所で三人分のお茶のグラスを用意してから、花蓮も源二郎の隣のイスに腰掛ける。
ぴん、と背筋を張った彼女の座り方に、良央は緊張を覚える。
「源二郎さんの体調も考慮しまして、本当は私一人だけで話をしても良かったんですが、源二郎さんがどうしても聞かなくてですね……」花蓮は苦笑する。
「ニニィの過去に関する重要なことだ。具体的な説明するのは君に任せるが、もし誤ったことがあったら私が訂正する必要がある」
「そうですね」花蓮は良央に目を合わせる。
「電話で話を聞かせていただきましたが、ニニィさんの服装の件でよろしいですね?」
「はい」
良央は改めて、先日の買い物の件を二人に話した。
「前から気になってはいましたが、どうしてニニィはやたら地味な服しか着ないんでしょうか? 学校の時以外は必ず帽子をかぶって外に出てますし、買い物の時に帽子を勝手に取ったら、ものすごく怒られてしまいました」
「そうだな……。まだ、ニニィはあの出来事を克服してないからな」と、源二郎。
「あの出来事?」
「それは後を追って説明しましょう」
花蓮はきっぱりとした口調で説明を始めた。
「まず、服装に関してですが、ニニィさんは目立つことをひどく怖がるんです」
「目立つこと?」
「ほら――。彼女は人目を惹く容姿をしているじゃないですか。そのせいで昔からやたら周りに注目されまして、かなりのストレスを感じていたそうなんです」
「言われてみれば、一緒に買い物に行くときもよく声を掛けられますね」
少し前に二人でスーパーに行った時は、いかにも好奇心旺盛そうなおばさんに唐突にニニィとの関係を聞かれてしまった。良央は正直に知り合いの子を預けていると言ったが、おばさんは良央のことを妙に疑っている様子だった。今、振り返ると非常に心外な話である。
花蓮は小さく息を吐いた。
「別に派手な服が嫌いなわけではないんです。ニニィさんも年頃の女の子ですし、着てみたい欲求はあるそうです。でも、いざ着てみると急に怖くなって、その場から全く動けなくなってしまうんです」
「それは深刻な話ですね」
花蓮は、隣の源二郎に顔を向ける。
「良央さんの家に移り住む際に、派手な服は全てこちらに置いていったんですよね?」
「ああ。もともと彼女が使っていた部屋のクローゼットに保管してある。とは言っても、中に入っているものは一度も着たことない服ばかりだけどな」
「いつ頃から着れなくなってしまったんでしょうか?」良央が問う。
「大きなきっかけとなったのは、やはり小学三年生の時の出来事だろうな」
「出来事って、さっき言ってた出来事のことですか?」
「そうだ」
ここで源二郎が花蓮に視線を投げる。
彼女は頷き、お茶を一口飲んでから言った。
「私から説明します。先ほど、ニニィさんは人目を惹く容姿をしていると言いました。しかも、外国の生まれで周りとは違う髪の色――。悲しい話ですが、小学校時代はその容姿が災いして、クラスメイトからひどい悪口やいじめを受けていたんです」
あまりのことに良央は言葉を失う。
ひどい話ではあるが、相手が小学生である以上、ありがちな話でもあった。
「これは後から学校から聞いた話ですが、小学校に入学してすぐにニニィさんは周りから悪口を言われてきたそうです。ニニィさんはあの通り、とてもおとなしい性格ですし、当時は日本語がうまく話せなかったのも、いじめを加速させた一因だったのかと思います。もちろん、ニニィさんに罪は一切ありませんが」
「当たり前ですよ。ちょっとだけ周りと違うだけで……」
「でも、誰にも打ち明けることができなかったそうです。日本にやってきたばかりで、周りに頼れる人もろくにおらず、一人ぼっちでかなり辛い日々を送ってきたそうです」
源二郎は苦悩に満ちた表情で、顔を下に向けている。それはニニィの保護者として、何もできなかったことを悔いているような顔だった。
「源二郎さん。そんな顔をしないでください」花蓮は見かねたように言った。
「考えすぎは体に毒ですよ」
「分かっておる。しかし、私はニニィが苦しんでいることに気付けなかった」
「責めたい気持ちは分かりますが、どうか今は自分の体を大切にしてください」
「そうだな」源二郎は目を閉じて、こくりと首肯する。
「髪の色が違うから、周りからいじめられていた……」良央はいったんお茶を飲む。「だから勝手に帽子を取った時、ニニィはあんな怒ったんですね。帽子をかぶっていたのはファッションでも何でもなく、単純に自分の髪を隠したかったからなんですね」
「ええ。まだ、自分の髪が大勢の人に見られるのが、怖くてたまらないんでしょう。それでも昔に比べたら多少は改善されたほうです。あの事件が起こった直後は、学校の中にいる時や家の中にいる時でさえも帽子をかぶっていたそうですから」
良央は小さく息を吐いた。
「いい加減、答えてくれませんか? 三年生の時、ニニィに何が起こったんですか?」
「結論を簡潔に言うなら、同級生たちによって、髪の毛を無理やり黒に染められたのです」
「えっ――」良央は大きく目を見開く。
「彼女が小学三年生の時です。それまでニニィさんは辛抱強く周りのいじめに耐えてきました。誰にも相談することもなく、黙々と学校に通い続けていたのですが、ついに学校を揺るがすほどの決定的な事件が起きてしまいました」
「それがさっきの事件ですか?」
「ああ。図工の時間で絵を描いている時ことでした。よくニニィさんをいじめていた何人かのクラスメイトが、こぞって黒い絵の具をニニィさんの髪に塗ったそうです。ニニィさんは激しく抵抗しましたけど、彼らはそんな彼女を羽交い絞めにして塗りたくったそうです」
良央の額から汗が流れ落ちる。
「すぐに先生が気が付いて彼らを止めましたが、ベトベトに塗りたくられたせいで、しばらく絵の具が落ちなかったそうです。ニニィさんはその日からしばらく学校を休むことになりました。いじめたクラスメイトたちもその日のうちに謝りに来まして、ほどなくして事件は鎮静化されましたが、学校の中ではしばらく大きな問題として取り上げられたそうです」
「そんなことがあったんですか……」
「ええ。胸が抉られるような話です」
良央は信じられない気持ちでいっぱいだった。
聞いているだけで、言い様のない怒りが胸の中でぐつぐつと煮え立ってくる。いくら相手が小学生でも、他人を傷つけることがそう簡単に許されるはずがない。
この瞬間――。
彼の脳裏に、家にやってきた初日にニニィと微笑み合った時のことを思い出した。
あの笑顔は間違いなく本物だった。
心の歪みを感じさせない笑顔だったからこそ、良央は安心してあの子に自分の部屋を託すことにしたのだ。しかし、昔のニニィはそんな笑顔を出す余裕すらない過酷な環境で生活していたのだ。
良央は汗を拭ってから、小さく息を吐いた。
「それからニニィはどうなったんですか?」
「すぐに学校に復帰しました。と言いますのも、事態を重く見た学校側が大幅なクラス替えを行いまして、ニニィさんをいじめた人をみんな別のクラスにさせたらしいのです。まあ、さすがに公には発表しなかったようですが、可能性は非常に高いとのことです」
「そうなんですか」
「それだけじゃありません。その事件の後、源二郎さんの悩みを聞いた私の祖母がこの家に駆けつけてきましてね。その際、ニニィさんとすごく意気投合したらしいのです」
「祖母?」
「はい。仕事でほとんど家にいなかった源二郎さんの代わりに、私の祖母が家の使用人となりまして、ニニィさんに家事やいろんなことを教えたそうです。特に祖母は料理がとても上手な人で、ニニィさんに自分のある限りの技術を全て教えたとか――」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
あまりのことに頭が追いつかず、良央は話を止める。
「花蓮さんのおばあさんが、ニニィに家事を教えたんですか?」
「ええ、私の祖母である柳原久子です」
あまりのことに、良央は源二郎と花蓮を交互に見る。
まさか、こんな所で二人に関係があったとは意外だった。
「久子さんのおかげで、ニニィはまた学校に行くようになったんですね」
頷いたのは源二郎だった。
「それは間違いない。家事や料理のスキルを教えただけでなく、どんな些細な悩みも真剣に聞いてくれる人だった。だから、ニニィもすぐに立ち直ることができたのだ。今のニニィがいるのは、間違いなく久子さんのおかげだ」
「その久子さんは今どうしてるんですか?」
「亡くなった」
えっ、と良央は目を瞬かせる。
「ニニィが中一の時に癌でな……。あっという間のことだった。それからニニィは、これまで興味を持っていなかった病気に関する研究を始めたのだ」
「……そのことについて、もうちょっと詳しくお願いできますか?」
良央はお茶を飲もうとしたが、すでにコップは空になっていた。
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【10】焼肉
今から六年ほど前――。
当時、小学三年生のニニィと源二郎は、久子に連れられて神田川沿いを歩いていた。
だいぶ昔、ここは『死の川』と呼ばれるくらいの非常に汚い川だったが、ここ二十年ほどで水質はだいぶ改善され、今ではこの遊歩道は絶好の散歩コースになっている。
「今日はあったかいね。絶好の散歩日和じゃない」
この日、源二郎とニニィに散歩をしよう、と提案したのは久子だった。
季節はすでに本格的な春を迎えており、心地よい風が吹いている。
「ニニィちゃん。暑くない?」
「……だいじょうぶです」
細々とした声でニニィは答える。
あの事件以来、すっかり彼女は塞ぎこんでしまっていた。
今も灰色の帽子に黒のシャツにスカートという、現在の精神状態を象徴しているような組み合わせの服を着ていた。
末広橋を通過する時、久子は近くに置いてある石碑を指差した。
「この石碑には『神田川』って曲の歌詞が彫ってあって、私の若い頃にものすごく流行ったんだけど、さすがにニニィちゃんは知らないよね」
ニニィは無表情で石碑を眺めている。
普段からそこまで感情を出さない子ではあるが、ここ最近はそれが顕著になっていた。
「まあ、いいわ。もうちょっと先に進みましょ」
久子はニニィの肩をとんとんと叩いて、さらに神田川沿いを進んでいく。
源二郎が久子に相談したのは、一週間前のことだった。
これまでずっと仕事一筋の暮らしをしてきた源二郎にとって、ニニィが初めて家にやって来た時はどうやって接していけばいいのか全く分からなかった。
もし、言うことを聞かなかった時はどうすればいいのか一人で悩んだりもした。
しかし、そんな心配は杞憂に終わった。
ニニィは源二郎の言うことはしっかり聞いてくれて、家事もちゃんと手伝ってくれた。口数は少なかったが、もともとおとなしい性格だったので、すぐに気にならなくなった。
時間が経つと源二郎はニニィのことを隅に置いて、再び仕事に集中していった。
その矢先に、例の出来事が起こってしまったのだ。
源二郎にとって、見えない場所から矢が突き刺さったような気分だった。
事件が起こるまで、ニニィが学校でいじめられていることに全く気付かなかった。
いったい自分はニニィの何を見てきたのか。彼女の異変に気付かないなんて、保護者失格なんじゃないか。
そんな悩みを聞いた久子は、肩を叩いて彼を励ましてくれた。
「起きてしまったことを今さら悔いても仕方ないでしょ。今、私たちがやらないといけないのは、ニニィちゃんがこの傷を引きずらないようにケアすること。私も協力してあげるから、あなたもしっかり手伝ってちょうだい」
七十を超えても生気のみなぎった凛々しい目は、源二郎にとってこれ以上ないくらい頼もしいものだった。そんな彼の様子を見て、久子は面白そうに笑った。
「あなたも昔に比べて、だいぶ変わったね。昔で仕事一筋でそれ以外のことは全く関心を持たなかったのに、こんなタイミングで初めて人間に興味を抱くなんてね」
そして今日、久子とニニィは初めての対面となった。
ニニィの態度は、事件が起きた直後とあまり変わりはなかった。
表情を変えずに、淡々と久子の話に相槌を打っているだけである。
このままではまずいと思ったのか、こうして久子が提案した散歩に付き合っているのだ。しかし、ニニィは顔をうつむかせたまま、ぼんやりと地面を眺めているだけだった。
春の風が荒々しく吹いて、地面に落ちている桜の花びらを舞い上がらせる。
その光景を見ておや、と源二郎は思った。さっきまで桜の花びらなんて数えるほどしか地面に落ちてなかったのに、前に進む度にその数が増えているのだ。
そして、『南小滝橋』という柱がある場所で、久子はいったん足を止めた。
「ここね。二人ともついてきてちょうだい」
源二郎たちは南小滝橋に入って、欄干のところまでやってくる。
「ニニィちゃん。そんな下ばっかり見てないで、前の景色を見てごらん」
久子に促されて、ニニィは前方を見る。
――その目から、徐々に感情が流れ込んでいくのが分かった。
三人の目の前には、無数の桜が咲き誇っていた。
川の両岸に植えられている巨大な桜並木が、まるでアーチのように神田川の上に広がっているのだ。源二郎も純粋に綺麗だと感心してしまった。
「ここらへんがこの辺りじゃ桜が一番綺麗なところでね。ちょっと年寄りには長い道のりだったけど、なかなか良い景色でしょ?」
久子はいつの間にか持っていたカメラで写真を撮る。
よく見ると、周囲にも撮影している人がけっこうおり、どうやらここは人気の花見スポットだったらしい。
「どう? ニニィちゃん」
「……すごくきれいです」
ニニィの視線は、桜並木から一向に離れない。
そういえば、ニニィが何かに感動している姿を見るのはこれが初めてのことだった。
久子は微笑みながら、帽子の上からニニィの頭を撫でる。
「私は十年以上、この辺りに住んでるけど、ここらへんは人がごちゃごちゃしているだけの何のたいしたこともない街だよ。でも、こんな街でも探してみると少しは良い景色があるんだよね。その一つがこれよ。ニニィちゃんは日本にやってきて三年が経ったと聞くけど、どれくらいこの国の良いものに巡り合ってきたのかしら?」
ニニィは顔を上げて、久子に目を合わせる。
「あら、初めて私の顔をまともに見たわね」
「……はい」
久子は嬉しそうに微笑む。
「ニニィちゃんって本当に可愛い顔してるのね。髪もすごくきれいだし、本当にお人形さんみたい。どうか、これからもよろしくね。ニニィちゃん」
「はい。よろしく、おねがいします」
うつむいたニニィの顔は、桜の花びらと同じ色に染まっていた。
◇
網の上でじゅうじゅうと肉の焼かれる音がする。
香ばしい匂いもたちこめてきて、さらに味への期待が高まる。
「よし。これぐらいかな」
良央は焼き終わったタン塩をニニィの皿へ置く。
彼女はこの店に来るのが初めてだったので、まずはレモン汁をつけずに、そのまま食べてもらうことにしたのだ。
ニニィは恐る恐るといった感じで、タン塩を口に入れる。
何度か咀嚼した瞬間、大きく目を見開いた。
「おいしい」
「だろ? この店のタン塩は、俺もお気に入りなんだ」
お気に召したことを安心して、良央は他に注文したカルビやハラミを網に置いていく。
「遠慮しないで食べてくれよ。ニニィのおかげで食費もだいぶ節約できてるから、今だけは何も気にせずに注文してくれ」
そう言って、今度は特上タン塩を注文する。
ニニィもメニュー表をじっくり眺めて、ビビンバとワカメスープを注文した。
日曜日の夕方、良央とニニィは家の近くにある焼肉屋に来ていた。
今日の朝、いつも家事を頑張っているニニィのために良央が提案したことだった。
二十席ほどしかない小さな店ではあるが、味のクオリティは非常に高く、近所では評判の店である。最近は中野坂上近辺もいろんな安い焼肉屋が出来て、ここも他の店に比べたら多少値は張ってしまうが、子供の頃から通っている良央にとって、焼肉はこの店以外に考えられなかった。
ここで良央は、さりげなくニニィの頭に視線を向ける。
――まだ早いな、と判断した。
その時、ポケットに入れていたスマートフォンが振動したので、それを確認する。送ってきたのは大学からの友人で、その文面に思わず舌打ちをした。
「まだ麻雀の誘いか……。しつこいな」
「誰からですか?」
「大学の友人。昔はよくやってたんだけど、さすがに今はそんな暇ないからな」
「最近、忙しそうですからね」
「それもあるけど、いつも俺の部屋でやってたからな」
「良央さんの部屋でですか?」
「あんな狭い部屋に大人の男が四、五人集まるんだぜ。一人暮らしの時はともかく、今やってきたら間違いなくとんでもないことになるよな」
「……そうですね」
ニニィは注文したビビンバの具をかき混ぜる。
特上タン塩も運ばれてきたので、しばし二人は焼肉タイムとする。その間に二十ほどの席は全て埋まり、店内は肉の焼ける音とささやかな喧噪に包まれた。
そして半分ほど平らげた時、いよいよ良央は話を切り出すことにした。
「いつになったら、その帽子を脱ぐつもりなんだ?」
びくん、とニニィはスプーンを動かす止める。
「まさか、イギリスは食事中に帽子を脱がなくてもいい風潮なんてあるわけないよな」
やや強気の口調に、ニニィはたじろぐ。
現在、ニニィは黒の帽子をかぶったまま肉を食べていた。
マナー的にあまりよくない光景だったが、今のタイミングまで何も言わないようにしてきたのだ。もしかしたら、自発的に外すかもしれないという希望的観測を抱いてのことだったが、どうやらその気は無さそうだったので、ついに切り出すことにしたのだ。
ニニィは顔をうつむかせながら箸を置く。
「……ごめんなさい」
「外さなくっちゃいけないって、自覚はあったんだな」
「ごめんなさい」
「別に謝ることじゃない。俺は帽子を外そうが外さまいが、あんまり気にしない方だからな。でも、俺以外の人と外食した時はどうだろうな」
網に焼いてある肉を、それぞれの皿に乗せる。
「焼肉屋は初めてだと聞いたけど、そもそもニニィは外食したことあるのか?」
「いえ、今日が初めてです」
「なるほどね。まあ、そもそもニニィの手料理が金を払えるくらいのレベルだから、わざわざ外食する必要なんてなかったんだろうと思うけど」
彼女は黙ったままでいる。
「改めて聞くけど、どうしてそんなに帽子を脱ぎたくないんだ?」
ニニィの急に顔が険しくなったので、良央はすぐに頭を横に振った。
「いや、言いたくなかったら無理に言わなくてもいいよ。でも、このまま大人になったら、いずれは俺以外の人と外食する機会が絶対にやってくると思う。その時もニニィは今のように、帽子をかぶったままで一緒に食べるつもりなのか?」
「そ、それは……」
「マナーにうるさい人だったら、すぐに怒られるぞ。下手したら、それだけでせっかく築いた人間関係が終わってしまうことだってあるかもしれないな」
良央は特上タン塩を口に入れる。こんな状況でもうまいものはうまい。
もし、このままニニィが黙り込んでいたら、源二郎の家に行ったことを話した方がいいのかもしれないと思った矢先だった。
「……怖いんです」突然、ニニィが小さな声で言った。
「んっ?」
「これを脱ぐといろんな人に見られてるような気がして、すごく怖いんです」
「いろんな人に見られるって、そんなことは――」
ニニィは唇をぎゅっと噛んだまま黙っている。
「ああ、ごめん。この前もスーパーで変なおばさんに絡まれたよな。まあ、世の中にはやたら突っかかってくる輩がごまんといるからな」
「なんで、みんな私のことをじろじろ見てくるんでしょうか?」
「そりゃあ、ニニィがすごく可愛いからじゃないのか」
ニニィが驚いたように良央を見る。その顔がどんどん赤く染まっていった。
「……そう、なんでしょうか?」
「もし自覚してなかったら、今から自覚しておいた方がいいよ」
「いえ……何となく、そうなんだとは知ってました」
「まあ、自覚してなかったら、どれだけ鈍感なんだよって突っ込んだんだけど」
良央は残りの肉を網に入れていく。
「やたら人目を惹く容姿をしている分、いろいろと怖い目に遭ってきたんだと思う。でも、だからといっていつまでも人を怖がっていたら、言いたいことも言えなくなっちゃうよ。怖い気持ちを我慢して向き合っていかないと、せっかく難病に効く薬を作っても、それを他の人に発表できないまま終わっちゃうかもしれないよ。ニニィだって、それは嫌だろ?」
「はい」
「さすがに、いきなり初対面の人に話しかけて仲良くなれとは言わないさ。話を戻すけど、俺の要望としては、帽子をかぶらなくても外出できるくらいの勇気を持ってほしいな。もちろん、ファッションで使いたい場合もあるだろうから、絶対にかぶるなとは言わない。それも無理そうだったら、せめて今――外食中だけは脱ぐようにしてほしいな」
良央は手を伸ばして、ニニィの帽子のつばに触れる。
ニニィは抵抗しない。肉の煙がたちこめて、細かい表情は把握できなかった。
彼は小さく笑って、帽子から手を放した。
「まっ。俺が強引に脱がしても意味ないか。こういうことは自分からやるべきだな」
そして、焼けた肉をお互いの皿に置いていく。
結局、ニニィは最後まで帽子を外すことなく、この日の焼肉は終わった。
外に出ると予想以上に風が冷たく、思わずぶるっと体を震わせてしまう。いよいよ、本格的な冬の季節がやって来ようとしていた。
大通りを通過して、マンションまでの細い道を歩いている時だった。
「あ、あの良央さん」
隣で歩いているニニィが震えるような声を出すと――。
顔をうつむかせながら、かぶっていた帽子を脱いだのだ。
あらわになった彼女の髪が、夜の風に吹かれてたなびく。
「今だけは、周りに誰も人がいないので」
「充分だよ。やればできるじゃないか」
「はい……」
街灯に照らされた髪は、いつもより輝いているように見えた。
「すごくきれいな髪だよ。せっかく良いものを持ってるんだから、これからは自信を持ってみんなに見せたほうがいいんじゃないかな」
ニニィは頬を赤く染めると、少し嬉しそうな顔で頷いた。
「今日はありがとうございました。ごちそうさまです」
「うん。気に入ってくれて良かった」
良央は微笑むと、彼女の肩にそっと手を置く。
彼女にとってこれが最初の一歩になることを信じて、良央は歩き続けた。
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【11】再会
どうして、こんな行動に出たのか自分でもよく分からなかった。
「お兄ちゃんと一緒に買い物なんて、けっこう久しぶりだよね」
「そうだな」
「でも、もうリカ一人でできるから、お兄ちゃんの助けなんていらないからね」
「そりゃ心強いな」
嬉しそうに話しかけてくる利香に適当に相槌を打ちながら、俊樹は歩いていく。
現在、彼は妹の利香を連れて、近くの大型スーパーに向かっている最中だった。ここ最近は妹に任せっきりだった買い物に、俊樹が行っているのは理由があった。
それは昨日の夕食の時、利香と母親の会話を聞いたからである。
要約すると、一昨日に母親がスーパーで買い物をしている時、金髪のすごくきれいな女の子が売り物の服をじーっと眺めているところを見たと話した。
すると、利香が「そのお姉ちゃん見たことある」と答えて、二人で盛り上がったのである。
言うまでもなく、その女の子はニニィ・コルケットのことだろう。
小学三年の頃、俊樹は両親と一緒に彼女の家を訪れて、自分がやったことを謝罪した。
しかし、結局ニニィ本人は現れず、代わりに彼女の養父が対応してくれた。だから、母親は十四になった彼女を見ても、それがニニィ・コルケットだと気付かなかったのだろう。
母親の話を聞くと、つい最近になって見かけるようになったという。
スーパーなら、またやってくる可能性がある。
そう判断した俊樹は妹の利香を連れて、一緒にスーパーに行くことにしたのだ。利香は一度だけニニィとコンタクトしたことがあるので、利香がいれば、ニニィと会った時にも何とかなるかもしれないと思ったからである。
スーパーは休日の夕方ということもあり、それなりに混んでいた。
母親から渡されたメモを見ながら、俊樹はつぶやいた。
「ええと、歯磨き粉は何階にあるんだ」
「二階だよー」
利香はエスカレーターを指差す。
何度か一人でお使いをしたこともあってか、すっかりこのスーパーも慣れている様子だ。
「じゃあ、まずはそっちから行くか」
そう言って、俊樹は利香と共に二階へ行った。
◇
台所に置いてあるレシピ本を、良央はパラパラとめくっていく。
今日の夕食のメインはエビグラタンだと言っていた。それは本の三十ページに記載されており、だから台所に置いてあるようだった。
今、ニニィはトイレに入っており、その隙を突いて良央はレシピ本を見ている。
この本に書かれてる文字が、ニニィのものではないことは先日分かっている。
では、これはいったい誰が書いたのか。先日、花蓮と源二郎から聞いた話から良央は、すでに一つの結論を導き出していた。
それは、柳原久子である。
傷心のニニィを救ってくれた久子は大の料理好きで、自分の持っている技術を全てニニィに教えたと花蓮は言っていた。つまり、このレシピ本は久子が書いたことになる。
――それにしても、びっしり書いてあるな。
そう思いながら、良央はページをめくっていく。エビグラタンを例にしても、ホワイトソースの作り方だけで細かく書き込みがされており、久子の強いこだわりを感じる。
ニニィがあそこまで美味しい料理を作れるのは、言うまでもなく久子のおかげであろう。残念ながら彼女は亡くなってしまったが、彼女の技術は確かにニニィに受け継がれている。
その時、水の流れる音がしたので、慌てて良央は居間に戻る。
トイレから出たニニィは、すぐにスーパーのチラシを鞄に入れた。
「行くのか?」
はい、とニニィは頷く。
良央は早速、三日前に通販で買ったばかりの冬物の上着に腕を通す。
ニニィも黒の上着を着るが、帽子はかぶらなかった。
あの焼肉以来、ニニィはなるべく帽子をかぶらずに外に出るようになっていた。
決して怖い感情を克服したわけではなさそうだが、ニニィにはニニィなりのペースで頑張っているようである。服装に関しては相変わらず地味なままであるが、今は帽子をかぶらないだけで精一杯のようなので、そこに関しては何も言わないようにしている。
スーパーに到着後、良央は「今日は何を買うんだ?」と言った。
「これに書いております」
ニニィからメモを渡されたので、それを確認する。今日は品物は少なそうだった。いつもは手分けして買い物をしているが、これくらいならその必要もなさそうだった。
良央とニニィは二階へと移動する。
そして、衣類売り場を通り過ぎようとした時だった。
数十メートル先、こちらに向かって歩いてくる二人の人間の足が止まった。
視線を向けると、小さい女の子と少年の二人組だった。少年の方はニニィの歳とあまり変わらないようで、大きなビニール袋を二つ抱えている。
ニニィの表情が固まったのは、その直後だった。
それと同時に少年の方も大きく目を見開いて、こちらに視線を送った。
「あっ! 金髪のお姉ちゃんだ!」
女の子がニニィに気付いたようで、こちらに駆け寄っていく。
「知り合いなのか?」良央が問う。
しかし、ニニィは何も答えないまま、呆然と少年を眺めている。
この瞬間、良央の直感が警告を発した。ニニィはどこか怯えきったような目をしており、対する少年も驚いたような態度を取っているのだ。
「アリノくん……」
ニニィが震えた声を出す。普通の知り合いでないことは明白だった。
「お姉ちゃん。こんばんはー」
やってきた女の子は、隣の良央を見て目を瞬かせる。
「お姉ちゃんの知り合い?」
女の子はこくりと頷くが、その目は良央を警戒しているように見えた。
良央は苦笑しながら、女の子と同じ目線までしゃがみこんだ。
「ああ、ごめんね。いきなり話しかけちゃって。紹介が遅れたけど、俺はニニィの保護者で古川良央っていうんだ。よろしくね」
保護者と聞いて、女の子は首を傾げた。
「お姉ちゃんのパパ?」
「いや、パパじゃないんだけどね……」
良央は後方の少年に顔を向ける。
すると、少年も良央の視線に気付いたのか、すぐに目を逸らした。
「リカ! 悪い。俺、先に帰ってるから後は頼んだ!」
「えっ、ちょっとお兄ちゃん!」
女の子が持っていたビニール袋を掴むと、そのまま少年は一階のエスカレーターの方へ向かってしまった。
リカと呼ばれた女の子は困ったようにニニィに助けを求めてくるが、彼女は呆然と立ち尽くしたまま何も応じない。
良央の直感が、このまま彼を逃がしたらまずいと囁いた。
しかし、初対面の彼をいきなり追いかけてしまうのはどうだろう。
そう判断した良央は、財布の中に入っていた会社の名刺を取り出す。そこには会社の電話番号だけでなく、仕事用で使っている携帯電話の番号も入っていた。
「リカちゃんと言ったっけ。ちょっとお願いを聞いてくれる?」
良央はその名刺を利香に渡した。
「この紙をお兄ちゃんに渡してくれるかな? で、もし気が向いたら、そこに書いてある携帯番号に電話して、って伝えてくれるかな」
リカは目を丸くさせる。
もしかしたら、ニニィと何も関係ない可能性だってあるのだ。
それなら名刺だけでも渡しておいた方が相手にデメリットを与えないし、うまくいけば相手から連絡が来るかもしれない。時間がない今、それしか思いつかなかった。
「ほら。早くお兄ちゃんを追いかけないと、はぐれちゃうぞ!」
「う、うん……。お姉ちゃん、ごめんね!」
名刺を受け取ったリカは慌てながら、兄の後を追いかけていった。
二人がいなくなった後、隣のニニィが大きく息を吐く。その額には汗が浮かんでいた。
「どうしたんだ。しっかりしろ」
「……なんで名刺を渡したんですか?」
「何となく。特に意味は無いよ」
通路の真ん中で立ち往生していたので、良央たちは隅に移動する。
「アリノくんってさっき言ってたけど、その子と何かあったのか?」
ニニィが少し落ち着いてきたのを見計らって、良央が問いかける。しかし、唇を舐めるだけでなかなか答えてくれない。余程のことが二人の間であったようだ。
詮索するのを諦めようとした時、ニニィはぽつりと口を開いた。
「……実は、良央さんに重大なことを打ち明けなければなりません」
「えっ?」
「さっきの人……あの人は昔、私をいじめていたグループの一人です」
驚きの気持ちが半分と、やっぱりなという気持ちが半分だった。
ニニィが小学校時代にいじめられていた話は花蓮を通じて、すでに聞いている。
しかし、ニニィの口からそのことを発するのがこれが初めてのことだった。ついに、自らの口で過去を打ち明ける勇気が出てきたようだ。
良央はニニィの肩に手を置くと、前方にあるパン屋に目を向ける。このスーパーの二階にはパン屋が併設されており、中には喫茶店として利用できる席も設けられている。
「こんなところで言う話じゃないね。ちょっと場所を移そうか」
ニニィはうつむいたまま首を縦に振る。
そして喫茶店の中で、今度はニニィの口から小学校時代のことが話された。
一部を除いて、ほとんど花蓮が言ってくれたことと同じだったが、言葉の節々からニニィの苦悩が感じられて、良央の胸の苦しさは増すばかりだった。
◇
「なんで? なんで、こんな数字になっちゃうのよー」
算数のドリルを眺めながら、利香は独り言を漏らす。
今、彼女は家の居間で学校の宿題をやっている最中だった。
二学期の総復習として、九九の掛け算のおさらいをしていたが、どうしても分からずに苦戦をしていた。一年生の時にやった足し算とかはすぐに覚えられたのに、なかなか掛け算は覚えられずにいたのだ。周りの友だちはみんな九九の掛け算を言えているから、なおさら焦りは大きかった。
窓の外を見ると、四時になったばかりなのに空はすっかりオレンジ色に染まっていた。この宿題を終わらせてから母親に頼まれていた物を買いに行こうと思っていたが、こうなってしまうと先に買いに行ったほうがいいのかもしれない。
鉛筆を放り投げて、お使いの準備をしようとした時だった。
玄関の扉が開けられる音が聞こえてきた。おそらく兄の俊樹だろう。母親は用事で出かけており、帰ってくるのは五時くらいになると言っていたからだ。
兄が帰ってきたということは、宿題の分からないところも教えてくれるかもしれない。利香にとって、歳の離れた兄は心強い自分の味方だった。
「お兄ちゃーん!」
叫びながら玄関まで駆けていくと、兄が険しい顔で人差し指を口元に立てていた。
「シーッ! 静かにしてくれ」
どうやら、兄は携帯で電話をしている最中のようだった。
「ああ、すいません。で、何時にすればいいんですか?」
利香が呆然とする中、兄は玄関で通話を続けていく。
その顔はどこか緊張している様子だった。
「はい。大丈夫です。――じゃあ、今日の九時に中野坂上駅前で。――はい。もし遅れそうだったら、この番号に掛ければいいので。――はい。じゃあ、失礼します」
通話を切った瞬間、兄は微笑んだ。
「悪いな。帰っている時、急に電話が掛かってきたもんで」
「……九時に待ち合わせ?」
「ああ。ちょっといろいろとあってな」
その瞬間、利香の脳裏に日曜日のスーパーでの出来事が蘇ってきた。
あの時、兄に追いついた利香はあの男の人が言った通りに名刺を渡した。
記憶が正しければ『ヨシオ』という名前が書かれてあったような気がする。そして、気が向いたら携帯の番号に掛けてということもちゃんと伝えた。先ほどの丁寧な口ぶりからして、明らかに兄は友達や両親と話しているとは思えなかった。
もしかしたら、あの『ヨシオ』という大人と電話していたのかもしれない。
利香の心配そうな目つきに気付いたのか、兄は彼女の頭をそっと撫でた。
「そんな顔するなって。場所は中野坂上だし、終わったらすぐ帰れるから」
「会う人って、この前にスーパーで会った人?」
「おお。よく分かったな。その人だよ」
「何しにいくの?」
突然、兄の顔が険しくなった。明らかに動揺している様子である。
「ちょっと謝りに行かなくっちゃいけないことがあってな」
「あやまる? お兄ちゃん、悪いことしたの?」
「……まあ、そうだな」
ようやく兄は靴を脱いで家にあがると、そのまま自分の部屋へ向かう。
「まあ、そこまで利香が心配することはない。これは俺の問題だからさ。んじゃあな」
軽く手を振って、兄は自分の部屋に入ってしまった。
利香はしばらくの間、呆然と目の前のドアを眺めていた。
兄は大丈夫だと言ってくれたが、やはり心配なものは心配だった。
それにあの名刺を兄に渡したのは紛れもない自分なのだ。
知り合いのお姉ちゃんと一緒にいたから平気だろうと思っていたが、まさか兄がそんな苦しんでるなんて――。利香は得体の知れない罪悪感を抱いた。
気付いたら、すでに時計は四時十分を過ぎていた。
このままボーッとしているわけにもいかなかったので、利香はそのまま買い物に出ることにした。宿題については、帰ってきたら兄に手伝ってもらえるようにお願いするしかない。
家を出て、すっかり慣れた道を歩いている最中だった。
途中にある公園のベンチで、あの金髪の女の子が座っているのを見つけたのだ。
この前とは違い、黒の帽子はかぶっていない。
視線に気付いたのか、女の子の視線が利香に向けられる。確か、名前は『ニニィ』と言っていたような気がする。
「ニニィお姉ちゃん!」
利香が叫ぶと、ニニィがこちらに駆け寄ってくる。
「良かった。来てくれたんだね」
「えっ、どういうこと?」利香は首を傾げる。
ニニィは、利香と目が合う高さまでしゃがむ。
「実はね。利香ちゃんが来るのをずっと待ってたの」
「えっ。どうして?」
「ちょっと利香ちゃんにお願いしたいことがあってね」
「お願い?」
「うん。お兄ちゃんのことでね」
目をぱちぱちさせる利香に対して、ニニィは穏やかな口調で言った。
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【12】銭湯
十二月も半分が過ぎて、いよいよ街にも年末のムードが漂ってきた。
良央は白い息を吐きながら、中野坂上駅の前で彼がやってくるのを待っていた。仕事用のコートを着ているが、それでも震えてしまうくらいの寒さだ。
こんな日は熱い風呂にでもゆったりと浸かって、体を温めるに限る。
約束の時間は午後九時――。
本当はいったん家に帰ろうと思ったが、予想以上に仕事が入ったので、やむを得ずスーツのままでやってきた。
時計を確認すると、約束の十分前だった。
すでに必要なものはスーパーで購入しているので、あとは彼がやって来るのを待つだけだ。
彼とは、有野俊樹のことである。
仕事用の電話に着信があったのは、今日の夕方だった。
良央の目論見通り、利香は俊樹にちゃんと名刺を渡してくれたようだった。すぐさま、良央と俊樹はお互いのプライベート用の番号を交換して、午後九時に中野坂上で待ち合わせの約束を取り付けたのである。
もちろん、ニニィはこのことを知らない。良央、単独での行動だった。
その時、とんとんと後ろから肩を叩かれる。
ついに来たかと思いながら後ろを向くと、そこには予想外の人物が立っていた。
「花蓮さん……」
「偶然ですね」
良央と同じように、黒いコートを着ている柳原花蓮だった。
今の彼女は長い黒髪をポニーテールにしており、これもかなり似合っていた。
「どうして花蓮さんがこちらに?」
「仕事の関係で、急に用事が出来てしまいましてね……」
「仕事ですか?」
先日、源二郎の自宅に行った際、今は彼女が源二郎の世話を行っていると聞いた。花蓮の言う仕事というのは、源二郎の世話以外のことだろうか。
良央の疑問を察したのか、花蓮は笑った。
「この機会ですので、打ち明けておきましょう。私はもともとイギリスの民間の研究所に所属している者でして、その現地法人がこの中野坂上にあるんです」
「研究所?」
「はい。主に医薬品の開発を行っております」
「医薬品ですか……」
たしか、ニニィも薬の研究を独自でやっていたような気がする。
「私は今、一時的に日本に来ている身でして、今は源二郎さんのお世話を兼ねながらこちらで仕事を行っているんです」
「じゃあ、花蓮さんはイギリス在住ってことなんですか?」
「そうですね。源二郎さんが大きな難病に侵されているのはご存じかと思いますが、その病気の治療に関する研究に協力してくれる代わりに、研究所の職員が彼の世話を行っているのです。もちろん、その中には私も含まれております」
「へえ。そうだったんですか」
まさか、花蓮がそこまで優秀な人物だったとは予想外だった。
先日はニニィのことで頭がいっぱいで、そんな話をする余裕など一切なかったのだ。
ここで花蓮が名刺を渡してきたので、それを受け取る。中身は全て英語で書かれており、あまり英語が得意ではなかった良央から見たら、ちんぷんかんぷんだった。
「本当は源二郎さんのいる病院からそのまま自宅に帰るつもりだったのですが、急に会社の方で打ち合わせが入ってしまいましてね」
花蓮は時計を確認する。
「あっ。そろそろ行かないと……。では、私はこれで失礼します」
「ええ。頑張ってください」
ぺこりと頭を下げて、花蓮はそそくさと奥の高層ビルへと向かった。
その後ろ姿を見ながら、ふと良央の中で先ほどの言葉が蘇ってきた。
イギリスの研究所のことである。
いつかどこかで、それに関することを聞いたような気がする。
しかし、具体的に細かいことがなかなか思い出せない。念のため、先ほど彼女が渡してくれた名刺をじっくり眺めてみるが、英語は読めなかったこともあり、結局分からず仕舞いだった。いろいろと考えているうちに、時刻は約束の九時を迎えてしまった。
有野俊樹は、九時ジャストで良央の前に姿を現した。
良央はいったん花蓮のことを隅に置いて、名刺をポケットに仕舞う。
改めてみると、彼はごく普通の少年としか言いようがなかった。
髪は黒だし、アクセサリーやピアスといった類は付けていない。チャラチャラとした印象はなく、むしろ真面目な印象さえ感じられる。
「君が、有野くん?」
良央の問いかけに俊樹はうなずく。
「良かった。来てくれるかどうか、ちょっと心配してたんだよ」
「で、どこにいくんですか?」
電話でもそうだったが、彼の口調がしっかりしていることには驚きだった。
どうしても良央の中では、いじめっこは口調が乱暴だという先入観が大きいからである。
「実はこの近くにね――」
言いながら、良央がビニール袋に手を伸ばそうとした時だった。
「良央さん!」
突然、予想だにしない声が聞こえてきて、良央は思わず手を止める。
駆け足でやってきたのは、黒の上着を着たニニィだった。
「なんで、ニニィが?」
隣の俊樹も、大きく目を見開いて驚いている様子だった。
「今日、リカちゃんに会いまして、九時に待ち合わせをするという話を聞きました」
「リカちゃんって――」
「俺の妹の名前です」と俊樹。
「ああ、あの子のことか……」
良央はニニィの目の前で、利香に名刺を渡したことを思い出した。
頭の回転が速いニニィのことだ。良央と俊樹がコンタクトを取る可能性を考慮して、あらかじめ俊樹の妹をマークしていたのかもしれない。名刺を渡す時間が無かったとはいえ、これは迂闊だった。
良央は大きく白い息を吐く。
「ニニィ。この場所に来たってことは、心の準備はできていると考えていいんだな」
「はい」
きっぱりとした声で答える。しかし、長時間寒い中ひっそりと待ち続けていたせいか、体が震えているのが分かった。
俊樹も寒さを堪えているような顔になっている。
「でも、その前に、ちょっと体を温めることにしようか」
そう言って、良央はビニール袋からある物を取り出してニニィに渡す。
それは一枚のバスタオルだった。
「えっ?」
ニニィだけでなく、俊樹も間の抜けた顔になる。
こんな寒い日は、熱い風呂にでも入ってゆったりと体を温めるに限る。
「……またスーパーで追加のバスタオルを買う必要があるけど、まあいいや。この近くに銭湯があるんだ。俺の奢りで、いったんそこで体を温めようか」
口をぽかんと開ける二人に対し、良央は親指で裏通りの方向を指した。
※
目の前に広がる富士山の光景を眺めながら、良央は安堵の息を吐く。
富士山と言っても、実際はペンキで書かれた絵である。しかし、隣の女湯まで及んでいる巨大なペンキ絵の富士山は、それだけで見る人を圧倒させる力がある。
今、良央たちは駅から近い場所に建っている銭湯でゆっくりとしていた。
以前、部屋の風呂が壊れてしまったことがあり、スマートフォンで検索して見つけたのがこの銭湯だった。いざ行ってみたところ、目の前にある富士山の絵が気に入って、月に何回かは通うようになったのだ。しかし、ニニィが来てからは一度も行く機会がなかった。
隣では、俊樹が緊張した面持ちで富士山の絵を眺めている。
ニニィについては、当たり前だが女湯に一人で入っている。余談であるが、タオルやシャンプーの一式については全員分良央の自腹で購入している。
「この銭湯に来たのは初めてか?」
「はい。というか、こんな場所に銭湯があったなんて知らなかったです……」
「だろうな、俺も少し前に調べてやっと分かったくらいだし」
「ちょくちょく来てるんですか?」
「まあね」
普段は地元の人間が多く来ているが、運の良いことに今は誰も入っていなかった。
これ以上、彼を待たせても仕方ないので、良央は早速本題に入ることにした。
「で、改めて質問をするけど」
びくん、と俊樹が反応する。
「今日、俺がどうして有野くんに会おうとしたのか分かるか」
数秒ほど間が空いた後、「はい」と答える。
「そうか。となると、むしろよく来てくれたと言うべきかな。スーパーで利香ちゃんに俺の名刺を渡したけど、その時は連絡なんてしてこないだろうなって思ってたから」
「このまま連絡しなかったら、すごくヤバいなと思ったからです」
「ヤバい?」
「もう二度とチャンスが来ないと思ったんです」
「……なるほどね」
良央は視線を富士山の絵から、その下に貼られている入浴マナーの看板に移す。かなり細かく書かれており、湯船に浸かる度に何となく最後まで読んでしまうのだ。
「小学校時代のことはニニィから詳しく聞いたよ。彼女が三年生の時、有野くんを含めたクラスメイトの男子グループが彼女を羽交い絞めにして、その髪に黒の絵の具を塗りたくったんだよな。それが大騒ぎになって、有野くんを含めた男子グループは卒業までニニィとは別々のクラスになった。それで間違いないよね」
「そうです」
「絵の具を塗りたくった時、誰もやめようと言わなかったのか?」
「いなかったと思います。その時、ニニィさんをいじめていたグループのリーダーが、クラスのリーダー的な奴でもあったので、誰も口出しできなかったんです」
「クラスのリーダー?」
それは良央にとって初耳だった。
花蓮もニニィも、そんなことは言ってなかった。
「俺もそいつに脅されて、やってしまったんです。やらなかったら、今度は俺がやられてしまうから……。俺が実際にニニィさんに手を出したのは、その時が最初で最後でした」
「でも、有野くんがニニィを傷つけたことに変わりはない」
「はい。親や先生にこっぴどく叱られて、初めてヤバいことやったなと思いました」
当時、彼らは小学三年生だったのである。他人の気持ちを想像することなんて、なかなか難しい年齢だったのかもしれない。
「ちなみに、ニニィをいじめたリーダーとやらは今どうしてるのか分かる?」
「中学の時に遠くに引っ越したことくらいしか聞いてないです」
「なるほど。じゃあ、もう中野にはいないってことか」
俊樹のように、偶然の再会という可能性は無くなったわけだ。
湯口からお湯が流れる音を聞きながら、二人はしばし富士山を鑑賞する。
仕事で疲れた時、いろんな考えが頭の中で駆け巡っている時、良央はこの銭湯のお湯に浸かりながら瞑想をしていた。
すると、不思議なくらい考えがまとまって、すっきりとした気分になれるのだ。目の前の富士山を眺めていると、自分の考えていることが何て小さいことなんだと思い知らされてしまうのだ。
今日、良央が俊樹を呼んだのは、彼から謝罪の言葉を聞くためだった。
当初の予定では、俊樹から謝罪の言葉を聞いた後、良央の口からニニィにその言葉を伝えようと考えていた。
スーパーで俊樹と再会した時、ニニィの動揺はかなりのものだったので、自分を介して俊樹の言葉を伝えた方が、ニニィに余計な負担をかけずに済むと思ったからである。場所を銭湯に選んだのは、単に良央が入りたかっただけなのだが。
しかし、予想に反してニニィが自分の方からやってきた。しかも、良央の問いかけに対して、すでに心の準備ができていると答えてくれた。
そうなると、ニニィがやってきた時点で良央の出番はなかったことになる。とはいえ、このまま手ぶらで帰るわけにもいかず、そのまま俊樹たちを銭湯に誘ってしまったのだ。
――あとはニニィと有野くんに任せたほうがいいかな。
そう判断した良央は、湯船から立ち上がる。
「ニニィがなんて言ってくれるのかは分からないよ」
湯船に浸かったままの俊樹は良央を見上げる。
「でも、自分がやった間違いはちゃんと本人の前で謝るべきだと思う。六年前はニニィの家に謝りに行ったんだけど、彼女は出てこなかったんだろ? だったら尚更だ」
頭に置いていたタオルをぎゅっと絞って、下半身を覆う。
「じゃあ、俺は先に上がってるから」
「あ、あの……」
出口に行こうとした良央を俊樹が止める。
「どうした?」
「俺がニニィさんをいじめたことを怒ってないんですか?」
「怒ってるって、俺が?」
「はい……。てっきり叱られると思って」
「叱りはしないけど、めっちゃ怒ってるよ?」
俊樹の目が大きく見開く。
「リーダーの命令でやむを得ない事情があったとはいえ、有野くんがやった行為はそう簡単に許されることじゃない。俺はそう思ってるよ。だって、そのせいでニニィは六年経った今でも苦しんでるんだからな。下手したら一生苦しむかもしれない。有野くんはニニィに自分のやった間違いを絶対に謝らないといけないけど、ニニィが有野くんを許してくれるとは限らないよ。結局はニニィの答え次第になっちゃうな」
「そんな……」
「軽い気持ちでここにやってきたのなら、今すぐその気持ちを改めた方がいい」
その場で固まる俊樹を置いて、良央は先に浴室を出ようとする。
しかし、すぐに後方から「良央さん!」との声が聞こえてきた。
「やっぱり、ニニィさんは今でも自分の髪が嫌いなんですか?」
「どうだろう。それも今日の有野くんの態度次第で変わるかもね」
良央は浴室を出た。
◇
入口で待っているニニィの体に、冷たい風が吹きつける。
しかし、銭湯ですっかり体が温まっていたので、今はむしろその風が心地よく感じられた。体のコンディションが良くなると、不思議なことに精神的にも余裕が出てくる。体が冷えていた時はネガティブなことばっかり考えていたが、今はとても穏やかな気分だった。
しばらく待っていると、良央が外に出てきた。
「おっ、ニニィ。意外と早いな」
「そうですか?」
「うん。普通、女の子の方が男より長く浸かると思うんだけどな」
「もうちょっと入りたかったんですけどね……」
ニニィが浴室に入った時、二人のおばあさんが湯船に浸かっているだけだった。
銭湯に入るのは今回が初めてで、存在感のある富士山の絵に加えて、その広大な湯船にニニィは圧倒された。
そもそもイギリスでは湯船に浸かる習慣なんて無かったし、日本にやってきた時も全てシャワーで済ませていたからだ。祖父はいつも大量のお湯に浸かって心地よさそうにしていたが、ニニィにとっては気持ちよさそうだと思う以上に、水がもったいないという気持ちの方が大きかった。
ともあれ、まずは体を洗わないといけない。
ものすごく緊張しながら、ニニィは頭と体を洗った。
そして、浴槽の隅にゆっくりと体を入れた。
その途端、全身に痺れるような感覚が襲ってきて、思わず身震いをしてしまった。入口で良央から受けた説明によると、この銭湯のお湯はごく普通の温度らしいが、ニニィにとってはこれが普通だとは信じられなかった。祖父も良央も、よくこんな熱いものに入っていられるなと思った。
とはいえ、時間が経ってくると、意外と心地よく感じるようになってきて、いつしか彼女はリラックスした気分になっていた。
だが、そんな時間もあっという間に終わりを告げてしまった。
同じ浴槽に使っていた二人のおばあさんが、いきなりニニィに声を掛けてきたのだ。突然のことに戸惑う彼女をよそに、おばあさんはやたら機嫌が良さそうに話しかけてくる。
――かわいいねぇ。きれいな髪だねぇ。こんな若い子が入ってくるなんて珍しいねぇ。
おばあさんたちに悪気はないのは分かっているが、慣れない状況にすっかり慌てたニニィは、そのまま退散してしまったわけである。
見ず知らずの人に話しかけられるのはよくあることだが、無防備な状態で話しかけられるのは初めてのことだった。
彼から数分後、俊樹も外に出てきた。その表情はどこか影が差しているようだった。
俊樹が出てきたタイミングを見計らったように、良央は自分の腕時計を見た。
「じゃあ、俺はちょっとコンビニで温かい飲み物でも買ってくるから、ニニィたちはちょっとそこで待っててくれ。十分くらいしたら、ここに戻ってくるから」
「あ、はい……」
「じゃあ、また後でな」
手を振って、そそくさと良央は大通りの方へ歩いていった。おそらく、自分と俊樹を二人にさせるために、あえてその場を離れることにしたのだろう。
残された二人は黙ったまま、小さくなっていく良央の背中を見つめる。
言い様のない緊張感が、二人の間に包み込まれていく。さっきまでの心地よい気分が、どんどん隅の方に追いやられていく。
「ニニィさん」
先に切り出したのは俊樹の方だった。
「ごめん」
少し小さかったが、確かにその言葉が聞こえた。
「今さらなことかもしれないけど、本当にごめん。ニニィさんがそこまで苦しんでたなんて思ってもなかった。――ごめんなさい」
そして、俊樹は深く頭を下げる。
風呂から上がったばかりなのに、ニニィの体は大きく震えていた。
これは明らかに寒さのせいだけではなかった。心臓の鼓動も急激に速くなっている。昔の自分だったら、何が何だか分からずにそのまま黙っていたかもしれない。
でも、この場で助けてくれる人は誰もいない。
全部、自分の力でやらなければ前に進むことはできないのだ。
ニニィは、ふうーっと大きく深呼吸をする。
天国へ旅立った久子に勇気を与えてくださいと祈りながら、口を開いた。
「有野くん。もう、分かったから、頭を上げて」
彼は無言でニニィに目を合わせる。
「有野くんがやったことは許してあげる。……でも、それは有野くんが謝ってくれたから許すんじゃなくて、利香ちゃんのために許してあげると考えてね」
「利香のため?」
俊樹は驚いた声で妹の名を言う。
「今日、夕方に三角公園で利香ちゃんと会って、九時に有野くんと良央さんが会うってことを知ったの。その後、利香ちゃんは私に向かってこう言ったの」
「なんて?」
「もしお兄ちゃんが悪いことをしてたら本当にごめんなさい。ヨシオさんに、お兄ちゃんを許してくださいと伝えてくださいって」
俊樹は口を半開きにして、唖然とした顔になる。
「利香が……。そんな」
「お兄ちゃん思いの可愛い妹さんだね」
ニニィの脳裏に、今にも泣きそうな顔でお願いをする利香の姿が蘇ってくる。利香は細かい事情を知らないので、良央に謝らなければいけないことがあると思ったのだろう。
あの時、ニニィは利香にこんな質問した。
「お兄ちゃんのこと好き?」
すると、彼女は即答で「うん」と答えてくれた。
利香にとって、俊樹はいつも勉強で分からないところを教えてくれたり、構ってほしい時はいつも遊んでくれる、とても頼り甲斐のあるお兄ちゃんだった。
これで本当のことを言っていると確信したニニィは、利香のお願いを承諾することにしたのだ。
ニニィにとって六年以上、悪いイメージしかなかった有野俊樹という人間が、コインの裏表のように一気にひっくり返った瞬間でもあった。
「家に帰ったら、利香ちゃんにちゃんとお礼を言ってね。それでこれからも利香ちゃんのことを大切にしてね。それが約束できるなら、私は有野くんを許してあげるから」
「利香……」
うつむいたまま、俊樹は黙り込んでしまう。
ニニィとしては、俊樹がやったことを許す気持ちは一切なかった。しかし、そんな人間を必死にかばってくれる人がいるので、やむなく許しただけに過ぎないのだ。
――これは有野くんのためじゃない。利香ちゃんのためよ。
何度も何度も自分に言い聞かせているうちに、ビニール袋を下げた良央が戻ってきた。中身は全てホットレモネードで、それを一本ずつ渡していく。
「なんか有野くん、すごくボーッとしてるけど大丈夫か?」
良央はニニィの耳元でささやく。
「大丈夫です」
ニニィはレモネードの蓋を開けた。
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【13】かぜ
この日の夜、ライブ会場を出た良央は満足そうに体を伸ばした。
「いやー。良かった。久々のライブはやっぱ痺れるな」
一方、隣で歩いているニニィの足取りは、ややおぼつかなかった。
「……耳が、すごくキンキンしてます」
「結構激しかったからな。俺も初めて行った時はそうだったよ」
以前、下北沢で弾き語りをしたミュージシャンがバンドでライブをすることになったので、今日はニニィと一緒に代官山にあるライブハウスに来ていたのだ。
平日だったので、仕事帰りで会場にやってきた良央は現在、仕事用のコートを着ている。
しかし、中のワイシャツは汗ですっかりびしょ濡れだった。
今日はニニィも一緒だったので会場の後方でおとなしく見ていたが、久々のライブなだけあって観客も熱気もすさまじく、すぐに会場は蒸し風呂状態になってしまった。おまけに着替えをすっかり忘れてしまったので、泣く泣くこのまま帰る羽目になってしまったのだ。
山手線で新宿駅に向かう途中、ニニィのスマートフォンが振動した。
「珍しいな。メールか?」
「はい。有野くんからですね」
言いながら、ニニィはスマートフォンを操作していく。
ちょうど一週間前、銭湯に行ったニニィは俊樹の謝罪を受け入れてくれた。二人の間でどんなやり取りがあったのかは知らないが、結果は良い方に向かってくれたようだ。
その際、俊樹とニニィはお互いの連絡先を交換した。
やたら俊樹がお願いをしてきたので、ニニィがやむを得ず受け入れたという感じだ。ともあれ、アドレス帳に登録されている名前が片手の指にも満たないニニィにとって、貴重な人間になったのは間違いない。
「良央さん。来週のクリスマスの予定なんですけど」
「うん?」
「実は有野くんから、みんなでスカイツリーに行かないかと誘われているんです」
「それって、俺や利香ちゃんも含まれているの?」
「はい。その日、有野くんの両親が急に仕事で行けなくなってしまいまして、大人の方と同行するなら大丈夫だと言ってくれたそうです」
「なるほどね」
今年のクリスマスは平日だが、この時期は会社もそこまで忙しくないので、今日のように仕事を早めに切り上げれば問題ないだろう。
「俺は構わないけど、ニニィはどうするつもりだ?」
彼女は迷った素振りを見せたので、良央は続ける。
「せっかく誘われたんだし、行ってみてもいいんじゃないのか。自分で言うのも難だけど、俺たちってあんまり外に遊びにいかない方だしね」
「……そうですね」
どうやら、行ってもいいようだった。
「よし。じゃあ、決まりだな」
「本当はクリスマスなので腕によりをかけて豪華な料理を作ろうと思ったんですけど、それはまた来年になりそうですね」
「別に前日のイブでも良いような気がするけどな」
呑気に会話をしているうちに、電車は新宿駅へ到着した。
※
しかし、その翌日から良央の体調は急激に悪くなっていった。
全身の倦怠感がすさまじく、頭や体の節々が痛み始めたのだ。
原因は言うまでもなく、寒い中、濡れたワイシャツを着たまま外を歩いたからである。あの時は大丈夫だろうと楽観的に考えていたが、完全に油断してしまった。
幸いだったのは、ニニィの三者面談をライブの前日に済ませていたことだった、もしライブ後の日程にしていたら、大変なことになっていたかもしれない。
ライブの翌日、翌々日は何とか仕事をこなすことができたものの、ついに木曜日の夜に限界を迎えてしまい、部屋に戻ってきた直後、そのまま良央は玄関に倒れてしまった。
慌ててニニィが駆け寄ってくる。
「良央さん。大丈夫ですか」
「いや……だめだ、さむい……」
部屋の中はストーブで暖かいはずなのに寒気がひどく、良央は体をがたがたと震わせる。ニニィの介助を経て、何とか布団に移動した。
熱を計ってみると、三十九度という高熱が出た。
「大変……。もうこのまま眠ったほうがいいですね。着替えられますか?」
「うん。なんとか……」
パジャマに着替えた良央はそのまま眠ろうとするが、なかなか寝付くことができなかった。
頭や体、そして喉の奥が異様に痛く、起きているような寝ているようなよく分からない状態が続いた。ニニィは毛布をかけたり、氷枕を取り換えたり、額の汗を拭ってくれたりと懸命な看病をしてくれたが、状態はなかなか改善されなかった。
明らかにただの風邪ではなさそうだった。
真夜中、ふと良央が目を開けると、布団の横で心配そうにこちらを見つめているニニィと目が合った。
「良央さん?」
しかし、何も答えられずに良央は目を閉じた。
結局、その夜は満足に眠ることができなかった。
翌朝、良央が何とか会社に電話で休むことを伝えた直後、あろうことかニニィも学校へ休みの電話を掛けたのだ。
「なんで、ニニィも休むんだよ……」横になりながら良央が問う。
「良央さんがインフルエンザにかかっている可能性があるからです」
良央は耳を疑った。インフルエンザなんて小学生の時にかかって以来だ。
これでも毎年ちゃんと予防接種を受けていたが、今年はいろいろとゴタゴタしていたので、まだやっていなかったのだ。
「すでに私に移っている可能性もありますので、私もなるべく外出は控えるようにします」
「ニニィもインフルになったら、どうするんだよ」
「その時は、柳原さんを呼ぶしかなさそうですね……」
再び熱を測ってみると、朝の時点ですでに三十九度五分だった。確かにここまで急激に熱が上がってしまう病気は、インフルエンザくらいしか考えられない。
ニニィお手製のドリンクを飲んだ後、良央はニニィと一緒に近くの病院へ行った。
その結果、ニニィの予想通りインフルエンザだった。
これで一週間以上、自宅にいることが確定となった。
診断書と治療薬をもらって自宅に戻ってきたのは、十時を過ぎた頃だった。
「とにかく、今は安静にしましょう。何かあったら言ってください」
「ああ……。助かるよ」
毛布を何重にかぶり、良央は再び布団に横になる。しばらくウトウトしていたが、なかなか眠れなかったので目を開けると、ニニィが自分のスペースで勉強していた。しかし、集中できなかったのか、すぐに本を閉じて良央のところに戻ってきた。
「こんな時に勉強なんてできませんね」
「でも……いろいろやることがあるだろ」
「いいんです。私に構わず、良央さんはとにかく病気を治すように頑張ってください」
この場にニニィがいてくれて、本当に良かったと思った。この部屋で暮らし始めて、ここまでひどい病気にかかったのは初めてのことだった。もし、彼女が学校に登校していたら、病院にすらまともに行けなかったかもしれない。
お昼すぎ、再び熱を計ってみると、あろうことか四十一度の表示が出た。
朝の時点であれだけの熱だったので、ひどくなるとは思っていたが、これはさすがに予想外だった。
ここでニニィは上着とマスクを着用すると、良央に向けて頭を下げた。
「すみません。どうしても足りないものがあるので、ちょっと買い物に行ってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
玄関の扉が閉まる音がして、良央はしばし一人になった。
薬を飲んでだいぶ時間が経ったが、そう簡単に痛みや倦怠感は無くなってくれなかった。
寒気はようやく収まってくれたものの、目の前の景色が常にグラグラと動いており、まるで自分の魂が半分体から抜け出してしまったような感覚だった。
――ああ、俺、もしかしたらこのまま死んじゃうかもしれない。
良央の中で、急に得体の知れない恐怖感が出てきた。
風邪を引いたときは、体よりも気が滅入ってしまうことが多い。
しかも、今はニニィが不在なので、なおさら孤独を感じてしまう。もし、このまま帰ってこなかったらどうしようと、あるはずもない想像をどんどん巡らせてしまう。
良央は寝返りをうつ。
かちかち、と部屋の時計の音がやけにうるさく聞こえてくる。
不安だ。
急に、一人でぽつんと眠っていることが、ひどく恐ろしいことに思えてきた。
なんで自分はこんな場所にいるのだろう。なんで自分はこんなに苦しまないといけないんだろう。体がすごく重たい。喉も痛い。景色が歪んで見える。もしかしたら、これは神様が自分を本気で殺すためにやっているんじゃないか。これは神様の天罰じゃないのか。
おぼろげな意識の中、良央の脳裏に一人暮らしを始めた頃のことが蘇ってきた。
※
忘れもしない。あれは良央の母親――理恵が病気で亡くなった時のことだった。
最後に見た母親の姿は、自分に対してひどく怒りを放っている姿だった。
理恵は父親との離婚後、女手一つで良央を育ててきた。
どんなに仕事が忙しくても家事は一切手を抜かなかった人で、特に食事については必ず自分で作ったものを良央に食べさせることにこだわりを持っていた。
良央にとってそれは嬉しくもあり、煩わしくもあることだった。
そして、高校を卒業する直前、良央と理恵は一人暮らしのことで猛烈に喧嘩をした。
彼女は息子の一人暮らしは早すぎると反対したが、いい加減に母親から解放されたかった良央は一人になるために必死で説得にあたった。
しかし、結局それは失敗に終わり、半ば家出同然で良央は家を出ていくことになった。
それから、大学に進学した良央は家賃の安いアパートで一人暮らしを始めた。
当初は家事くらい簡単にできると高を括っていたが、いざやってみるとなかなか面倒なことに気付かされた。家賃のためにいくつかのバイトを掛け持ちでやっていたため、家に帰ってくる頃には体もヘトヘトになっており、到底自分で料理や掃除をする気力など無かった。
飯はいつもインスタントやコンビニ弁当で済ませ、部屋は常に散らかっている有様だった。いつしか大学で勉強するのも面倒に思うようになってきて、講義も休みがちになってきた。
バイトと友人と遊びに行く時以外は、いつもゲームや音楽を聞いて時間を消費してきた。
そんな矢先、住所を聞きつけた理恵が良央の部屋にやってくる機会があった。
当然、だらしのない息子の姿を見た母親はひどく呆れ果てた。
――なに、だらしない生活をしてるのよ。こんな生活をしているんだったら、すぐに家に戻ってきなさい。ちゃんとしたご飯を食べさせてあげるから。
当時の良央にとって、その一言はひどく自分を見下しているように聞こえた。
だらしない生活をしていることは自覚していたが、いざそのことを口に出されると自分がひどくみっともない人間に見えて仕方なくなり、その感情が得体の知れない怒りへと変わった。
――ふざけるんじゃねえ! もう俺のことなんて放っておけよ! 迷惑なんだよ!
怒りに身を任せて、強引に理恵を部屋から追い出した。
その後も理恵は外で何かを言いながら何度も部屋のドアをノックしたが、やがて諦めたように帰っていった。しばらく、良央は頭の中で母親に対する怒りの言葉を吐いたが、いつしかそれは罪悪感に変わっていた。
なんであんなこと言ったんだろう、とひどく後悔した。
謝ったほうがいい――。頭の中の自分がそう言った。
しかし、どうしてもそれができずに、時間だけがどんどん過ぎていった。
その矢先、理恵が急死したと知人から連絡があった。死因は心臓発作で、家の中で倒れているのを、訪れた知人が発見したとのことである。
あれを超える衝撃は、おそらく人生で二度とないだろう。
何が何だか状況を理解できないまま、理恵の告別式が行われた。式にはかなりの人が参列をしてくれて、生前の彼女の人徳をまざまざと見せつけられる形になった。
告別式が終わった後、重たい足取りで自分の部屋へと戻った。ろくに掃除もされず、無残に散らかっている部屋をぼんやりと眺めていくうちに、彼は初めて自覚した。
本当に母親が死んでしまったんだと。
そして、これまでの自分は母親のによって助けられてきたんだと。
悲しみ、後悔、自分への怒り。
それが一気に湧いてきて、良央はひっそりと涙を流した。
いったい自分は、何のために一人暮らしを始めたんだろう。
自分はできると勝手に背伸びをした結果がこの有様である。それどころか、もう二度と母親に謝ることはできないのだ。
その後、母親が残してくれた財産がかなりあったので、良央はアパートからマンションに移り住むことに決めた。場所は中学まで住んでいた故郷の中野坂上だ。
大学にもちゃんと通うようになり、一時期は留年の危機もあったが、無事に四年で卒業することができた。現在の部屋に移り住んだのは、つい最近のことである。
家事も大学に通っていた時期は、割とちゃんとやっていた。
食事もなるべく自分で作っていたし、部屋もそれなりに綺麗な状態を維持していた。
しかし、社会人となって自由になる時間が大幅に減ると、再びおろそかになっていった。飯は外食で済ませることが多くなり、居間やトイレの汚れもどんどん目立つようになっていった。仕事で忙しいんだから仕方ないだろ、という言い訳を勝手に作って、勝手にやらなくなっていた。
その矢先、彼の前にニニィ・コルケットという少女がやってきた。
彼女は良央から何も言わなくても、率先して家事をやってくれる。
しかも、その全てが完璧なのだ。さすがに彼女一人に負担を掛けさせるわけにはいかなったので、良央も少しは手伝うようになったが、もしかしたらまだ彼女に無理をさせているのかもしれない。
その思いが、ずっと頭の片隅にあった。
彼女はまだ十四歳で、他にもやりたいことがいっぱいあるはずだ。いくら病気の源二郎のために勉強しているとはいえ、少しは遊んでみたい気持ちもあるんじゃないか。
良央が薄く目を開けると、ちょうどニニィが彼の手を握ったまま眠っているところだった。至近距離で眠っていることもあり、寝息が鼻にかかってくすぐったい。
――眠っている?
この瞬間、ようやく目が覚めた良央は条件反射でニニィの手を放した。
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【14】クリスマス
「おい、なにやってんだよ……」
枯れた声で言うと、ニニィが驚いたように起き上がる。
彼女は良央の手を握りながら、布団の隅に頭を置いて眠っていたのだ。
「あっ、わたし――」
「俺はインフルなんだぞ。そんなところで寝ていたら、うつっちまうだろうが」
ようやく状況を把握したニニィは、慌てて頭を下げる。
「す、すいません……。つい眠ってしまいました」
「いったいどうしたんだよ」
「じ、実は、買い物から帰ってきましたら、良央さんが泣いていたんです」
良央はぽかんと口を開く。
「俺、泣いていたのか?」
「はい。寝ながら」
この瞬間、先ほどまでの夢が一気に蘇ってくる。あの夢の中でも理恵が死んだ直後、良央は涙を流していた。不覚にも、現実の自分も一緒に泣いてしまったようだ。
「すごく苦しそうにしていたので、心配で手を握ってましたら、つい……」
「ああ、よく分かったよ」
ふーっ、と良央は息を吐く。こんな狭い部屋だから、インフルエンザがうつるリスクはそんなに変わらないと思うが、本当に良い子である。
「気にするな。インフルのせいで、ちょっと気が滅入ってただけだ」
「……そうですか。じゃあ、体の方はどうですか?」
「さっきよりはましになったかな」
「お腹の調子は?」
「食欲があるわけじゃないけど、そろそろ食べないとヤバいよな」
良央はお腹をさする。もう一日以上、何も食べていなかった。
「じゃあ、おかゆを作ります。ちょっと待っててください」
そう言って、ニニィは立ち上がる。
窓を見てみると、すっかり外で暗くなっているようで、だいぶ眠ったようだ。
枕元に置いていたスマートフォンを確認すると、時間は夜の八時だった。
ついでに熱を計ってみると、三十八度台に下がっていた。まだまだ予断は許さない状況とはいえ、峠は越えたようだ。体の倦怠感も昼頃に比べたらだいぶ改善されていた。
だいぶ汗をかいていたので、後で新しいパジャマに着替えようと思いながら横になる。台所ではニニィが黙々と夕食の支度をしている。
その姿を眺めながら、良央はそっと目を閉じた。
こうすると、料理を作っている音がよく聞こえてくる。
鍋からコトコトと煮えている音。卵をボールでかき混ぜる音。冷蔵庫が開かれる音。まな板で材料を切っている音。ザクッザクッと小気味の良い音は、おそらくネギか何かだろう。そのどれもが遠い昔、母親と一緒に暮らしていた時によく聞いていた音だ。
不思議と、それを聞いているだけで奇妙な安心感を抱いた。音だけでこんな気持ちになれるなんて、本当に風邪で頭がおかしくなったもんだと良央は思った。
おかゆはすぐに完成して、ニニィは湯気の立った皿を運んでくる。
「栄養を考慮しまして、ニンジン、たまねぎといった野菜をちょっと入れてます」
風邪のせいですっかり嗅覚は鈍っていたが、おいしそうなおかゆを眺めているうちに、少しだけ食欲が湧いてきた。
何とか起き上がった良央は「いただきます」と言って、ゆっくりとスプーンを口に運ぶ。まだ喉が痛いので腹に入れる作業は苦しかったが、何とか完食することができた。
「ごちそうさま、うまかったよ」
「お皿、運びますね」
ニニィは皿を流し台に持っていくと、今度は水の入ったコップを持ってくる。良央に薬を飲ませるためだ。それを済ませると、コップも流し台に持っていこうとする。
「そういえば、ニニィの方は夕食を済ませたのか?」
「いえ、自分のはこれから作ります」
「そうか……」
良央の言いたいことを察したのか、ニニィは微笑んだ。
「私のことより、今は自分の体調を優先してくださいね」
「ああ、そうするよ」
ここで良央が脱いだパジャマを回収して、洗濯機に放り込む。すでに夜の九時を回っているのに、まだまだ家事は残っているようだ。
自分のせいで、またニニィに負担を掛けさせてしまっている。
インフルエンザが治ったら、何か彼女にお礼をしようと良央は決めた。病気の看病してくれたことへのお礼ではなく、普段から頑張って家のことをやってくれるお礼である。
小さく息を吐いて、良央は目を閉じる。
とにかく、今は治療することだけを考えようと決めた。
※
その後、良央の症状はどんどん改善されていった。
不安材料だったニニィへの感染も無く、平熱に下がった後は、彼女と一緒に家の中で安静にしながら過ごしていった。良央が大熱を出した直後にニニィが当分の食料を買ってくれたので、二人とも一歩も外に出ることはなかった。
そして、クリスマスイブのこの日――。
俊樹の誘いを断るため、ニニィはスマートフォンをいじっていた。
当初、良央は熱も下がったし行っても大丈夫だと主張したが、ニニィがどうしても譲らなかった。インフルエンザの潜伏期間はとっくに過ぎているが、無理に外出してぶり返しをしたら元も子もないので、行かない方がいいとニニィが断言したからである。
結局、専門家のニニィの言うことに従うことにした。
「悪いな。俺のせいで行けなくなっちゃって」
「いえ、機会はいつでもありますって」
送信を終えたニニィは、スマートフォンをテーブルに置く。前日でのキャンセルになってしまったが、インフルのことはだいぶ前に伝えていたので問題はないだろう。
すっかり元気になっていた良央は、読んでいた本から時計に視線を移す。
午後二時前――。そろそろ三日前に注文していた品が届くはずだ。
その直後、絶好のタイミングでインターホンが鳴った。
良央が応対すると予想通り宅配業者がやって来たので、すぐに玄関のドアを開けて、品物が入った箱を受け取る。
その箱を持って、勉強しているニニィの前まで来た。
「ニニィ。俺からのクリスマスプレゼントだ。受け取ってくれ」
「えっ。私にですか?」
「気に入ってくれたら嬉しいけど」
箱を受け取ったニニィは中身を開けて、大きく目を見開く。
入っていたのは、一体のテディベアだった。
本当はこっそりと新宿のデパートに買いに行きたかったのだが、さすがに外に出られる体調ではなかったので、やむなくインターネットで評判の高いテディベアを購入したのである。
「すごく可愛くて柔らかい……」
テディベアを抱き寄せたニニィは、良央と目を合わせる。
その頬は、ほんのりと赤く染まっていた。
「ありがとうございます。嬉しいです」
「いやいや。こちらこそ、いつも家の仕事をやってくれてありがとな」
ライブの前までは、ニニィにプレゼントをあげることなんて考えてなかった。
しかし、風邪をきっかけに改めてニニィの大切さを知った良央は、こうしてプレゼントすることに決めたのである。こんなタイミングでなければ、普段のお礼なんて恥ずかしくてできない。クリスマスの前に気付いて本当に良かった、と良央は思った。
すると、ニニィはテディベアを置いた。
「私もあげなきゃ……」
そして、部屋の隅に置いてあった学校の鞄に手を伸ばす。
中から取り出してきたのは、白と黒のストライプ模様のマフラーだった。
「いつもお勤めごくろうさまです。これは私からのクリスマスプレゼントです」
良央は口をぽかんとさせる。まさか、ニニィからプレゼントがもらえるとは予想外だった。よく確認すると、どうやら売り物の類ではなさそうだった。
「もしかして、それって手編み?」
「はい。一ヶ月前から、こっそり作ってました」
ニニィからマフラーを受け取って、すぐに首に巻いてみる。
「どうかな?」
「似合ってますよ」
「ありがとう。すごくあったかいよ」
もともと暑がりなので普段はマフラーなんてしていないが、これからの寒い時期に心強い味方になるのは間違いなさそうだった。この際だから、今年から巻こうかなと思った。さすがに、このまま使わないでいるのはもったいない。
プレゼントも終わり、そのまま良央は読みかけの本に戻ろうとした時だった。
「良央さん。今、ちょっといいですか?」
ここでなぜかニニィは正座の姿勢になる。
「どうした?」
「変なタイミングかもしれませんけど、お願いがあります」
いつにも増して真剣な顔で、ニニィは断言した。
「これからもずっと、良央さんの家に居続けてもいいでしょうか?」
良央は口をぽかんとさせてしまう。
「居続けるって、どういうこと?」
「私が良央さんの部屋に来たばかりの頃、柳原さんがここにやってきた話は覚えていますか?」
「ああ、大叔父さんの病気をニニィに話してくれたことだろ」
「実は、おじいちゃんの病気以外にも、いろいろな約束を柳原さんと交わしたんです」
「約束?」
「はい」ニニィはこくりと頷く。
「まず一つは良央さんとの生活が嫌になったら、柳原さんに電話をする約束です。もし、電話をしたら、すぐに私を別の場所に住まわせる手配をしてくれると言ってくれました」
「ほうほう……。まあ、考えてみたら当たり前のことかもしれないな」
なんせ、こんな狭い部屋で二十五歳の男と年頃の少女が生活するのである。
女性の花蓮からしたら、ニニィの身が心配でたまらなかったのだろう。
「それともう一つ。もし、病気のおじいちゃんの介護をする覚悟が決まったら、これも柳原さんに電話をする約束です。ただし、こちらは十二月末までの期限付きで、電話をしてくれたら、おじいちゃんが入院している病院を教えてあげると言ってました」
「なんで十二月末まで?」
「私の高校受験を考えて、その期限にしたそうです」
「なるほど。高校受験か」
「おじいちゃんは中野から離れた病院にいまして、もし卒業を機におじいちゃんの介護をしたいなら、病院の近くにある高校を受験する必要があるからです」
「つまり、大叔父さんのために中野を出て行くってことか」
「はい。病院の近くで暮らさないといけませんから」
ライブの前日、良央は会社を休んでニニィの三者面談に行った。
彼女の成績は常にトップクラスを維持しているようで、これならどの高校でも全く問題ないと先生からベタ褒めを受けてしまった。一応、希望用紙には近隣の最難関高校を記入していたが、肝心のニニィはどこか上の空で聞いていた。
「最初の約束はともかく、おじいちゃんの介護の方はすごく迷いました」
ここで彼女は鞄から進路希望の用紙を持ってくると、それを良央に見せる。
中身は先日と変わらず、第一希望は近隣の最難関高校だった。
「でも、決めました。私はこの進路希望の通りに受験します。それでおじいちゃんの病気を治すために、ちゃんとした大学に入って、専門の機関に入ります」
ニニィは進路希望の紙を床に置く。
「だから良央さん。これからもこの家に居続けてもいいでしょうか?」
良央の答えは言うまでもなかった。
「俺は構わないけど、それで後悔しないか?」
「はい」
「そうか。ニニィがそう決めたんなら、俺はその考えを尊重するよ」
ニニィは正座の姿勢のまま、ゆっくりと頭を下げる。
「ありがとうございます。どうかこれからもよろしくお願いします」
これに便乗して、良央も正座の姿勢になって頭を下げる。
「こ、こちらこそ、よろしくお願いします」
その直後、二人は同時に笑い合った。
「良央さんが正座って、とても珍しいですね」
「そうかな?」
ニニィは口元を吊り上げる。
「今日はクリスマスの特別メニューを作ります」
「おおーっ。それは楽しみだな」
ニニィはエプロンを着けると、いつものように台所の前に立つ。
つい四ヶ月前までは、赤の他人でしかなかった少女。その子が今や、あんな嬉しそうに自分のために飯を作ってくれるのだ。
彼女が家にやってきた頃は、圧倒的に不安の方が多かった。
おとなしい子なので、ちゃんと意思疎通ができるのか。
得体の知れない男と生活していて、彼女に大きな負担を与えてしまわないか。そもそも八畳で二人の人間がちゃんと暮らしていけるのか――。挙げたらきりがなかった。
しかし、多少のトラブルはありながらも、今日まで順調に生活は続いている。共同生活は大変な面もいろいろあるが、それ以上に一緒にニニィといることで、良央自身もこの上ない幸せを感じているのは間違いなかった。
――これからも、ずっとこの生活が続くんだろうな。
調理しているニニィを眺めながら、良央は思った。
いつか『終わり』の時がやってくるのは間違いない。
ニニィは中学三年生。良央は四年目の会社員である。でも、その時がやってくるのはだいぶ先のことで、少なくともニニィが高校を卒業する三年間は、この部屋で二人の生活が続いていくだろう。
そんなことを思っていた。
そう、思っていたはずなのに――。
※
二人で大いに盛り上がったクリスマスから、三日後。
唖然とする良央とニニィの前で、花蓮は淡々と言った。
「ニニィさん。来年の四月からイギリスの研究所に行くつもりはありませんか」
二人の生活の終わりは、あまりにもあっけなくやってきてしまった。
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【15】岐路
事の発端は、この日の仕事を終えた良央がスマートフォンを確認してからだった。
「花蓮さん?」
つい数十分前に、花蓮から着信があったのだ。
良央の会社は年末は比較的忙しくない時期だったので、今日の退社は七時と割と早めだった。神保町駅までの道を歩きながら、良央は履歴から電話を掛ける。
相手はすぐに出た。
「もしもし、花蓮さんですか?」
「良央さんですか? 申し訳ありません。突然、お電話をいたしまして」
「いえいえ。何か用ですか?」
「それがですね――」
妙にぎこちない口調に、良央は首を傾げる。
「いえ。詳しいことは直接、面と向かい合って話したほうが良いですね。いきなりですが、これからお時間は空いていますか?」
「えっ。これからですか?」
「はい。できれば、ニニィさんも一緒にお願いできますか?」
「ニニィも?」
「はい。ニニィさんのことで重要なお話があります」
良央は足を止める。急に胸の鼓動が早くなってきた。
「重要な話って、どういうことですか?」
「それはお電話の中ではなく、直接お話をした方が良いかと思います」
「分かりました。今、仕事場を出たばかりなので、中野坂上駅で合流してから一緒に俺の家に行きましょう。念のため、これから電話でニニィに確認しますけど、おそらく問題はないかと思います」
「ありがとうございます。では、九時にいったん駅で待ち合わせましょう」
花蓮との通話を切ると、すぐにニニィの電話番号に掛ける。
花蓮がいきなりやってくることに驚いたもの、特に予定もなかったのでニニィからも承諾はすぐに得られた。
得体の知れない不安を抱きながら、良央は再び花蓮に電話をかけた。
※
それから駅前で花蓮と合流を果たし、部屋に招いた後に彼女が発したのがこの言葉だった。
「ニニィさん。来年の四月からイギリスの研究所に行くつもりはありませんか」
一瞬、良央は何を言っているのか理解することができなかった。隣に座っているニニィも唖然とした様子で花蓮を見つめている。
良央は思わず軽く笑ってしまった。
「すいません。詳しく説明してくれますか?」
「もちろんです」
そう言って花蓮は鞄から、クリアファイルに入った紙を取り出した。
中身は英語で書かれているのでさっぱりだったが、ニニィの方はすぐに反応を示した。
「これ、私がこの前に出した――」
「はい。ニニィさんの研究論文です。これを私が所属するイギリスの研究所に提出しましたところ、非常に高い評価を得ることができました。私も拝見させていただきましたが、とても十四歳とは思えない完成度で、ただただすごいとしか言い様がありません」
「どうして、柳原さんが持ってるんですか?」と、ニニィ。
「それは後で詳しく説明しましょう。話を戻しますと、ニニィさんの論文を拝見した我が研究所の所長がニニィさんに大変興味を持ちまして、先日の遠隔会議で私が詳しいお話をしましたところ、昨日の夜、特例でオファーの命令が出されたのです。つまり、ニニィさんがご希望すれば、来年から研究所の職員として働くことができるのです」
「は、働くって……」震えた声で良央は返す。
「正直に申し上げますと、これは大変異例なことです。いくらニニィさんが来年の三月で日本の義務教育を修了するとはいえ、まだ十四歳――。若すぎるのではないかという意見も所内で多くありまして、結論に時間が掛かりましたが、独学でここまでの成果を出したことが大きく評価されまして、このタイミングでのオファーになりました。もちろん、ニニィさんがコルケット家の血を受け継いでいることも大きな要因となりましたが」
花蓮はクリアファイルを鞄にしまう。
「我が研究所は、ニニィさんの両親が大きな功績を残したこともありまして、世界的にもトップクラスの資金力と技術力を兼ね揃えています。ニニィさんはまだお若いですので最初は研修生としての所属となりますが、ニニィさんの力ならば、いずれは研究所の中核を担ってもらう存在になるでしょう。この前、ニニィさんからお電話を頂きまして、その時は良央さんの家で暮らしていくと答えていましたが、どうか今一度、ご検討をお願いできますでしょうか?」
急にめまいがやってきて思わず頭を押さえてしまいそうになるが、そこは堪える。
「イギリスということは、ニニィはそこに移住するんでしょうか?」
「そうです」
「そもそも花蓮さんがいる研究所って、ニニィの両親がいたところなんですか?」
花蓮は首を傾げる。
「良央さんにはまだ説明してなかったでしょうか」
「イギリスの研究所にいるってことは知ってはいましたが、そこまでは……」
ニニィがイギリスの研究所に行く。
その場合、必然的にニニィはこの家を出て行くことになる。
「まさか、今すぐ決めろとは言いませんよね」
「はい。結論は遅くとも来年の一月中旬までにお願いします」
「あ、あの……」
ここでニニィが口を開いた。
「さっきの論文のことですけど、どうして柳原さんが持っていたんですか? おじいちゃんから私の論文をイギリスの研究所の人に渡しているというお話は聞いてましたけど、その方は柳原さんとは違った名前でした」
「それは私の同僚の名前ですね。同僚から受け取った論文を私が本部に流していたのです」
「そうだったんですか……」
ニニィは沈黙する。
しばらくの間、ストーブの音だけが部屋の中に小さく響いた。
「ニニィさん。私からの説明は以上ですが、いかがでしょうか?」
花蓮は尋ねると、ニニィは険しい表情で頭を抱える。
「分かりません。何が何だかもう……」
「そうですね。私も同じ立場だったら、きっと頭が混乱していたでしょう。しかし、どうか冷静になって考えてみてください。もし、ニニィさんが我が研究所に来ましたら、病気の源二郎さんが助かる可能性が高くなるんです」
ニニィは驚いたように顔を上げる。
「先日、お電話でニニィさんはそのまま日本の高校に進学しまして、将来は日本の専門機関に入って源二郎さんの病気を治す研究したいと言っていました。しかし、果たしてその時まで源二郎さんは生存していますでしょうか?」
良央は唾を飲む。
それは、良央自身も頭の隅で考えていたことだった。
源二郎の五年生存率は五十パーセントである。
ニニィが高校に進学することになったら、間違いなく結果を残すまで五年以上の時間がかかるだろう。進学以外にまともな選択肢が無かったのも事実だが、ニニィが頑張っている間に源二郎は力尽きてしまうだろうと、良央もある程度の覚悟は決めていた。
しかし、来年の四月からニニィが研究所に行けば――。
「先ほども言いましたが、我が研究所は最先端の設備と資金力を揃えておりますので、ニニィさんが望んでいる難病の研究もできるでしょう。ニニィさんが研究所に来れば、源二郎さんが生きている間に難病の治療法が確立される可能性はぐっと高くなります。少なくとも、この部屋で細々と研究書をめくっているよりかは遥かに良くなるでしょう。私の見る限りでは、ニニィさんには両親に匹敵――いや、それ以上の才能を持っていると断言します。限られた環境の中で、あれだけの論文を完成させた実力は驚嘆に値します」
花蓮はここでいったん言葉を止める。
「私、個人としましては、ニニィさんは研究所に行くべきだと思ってます。生まれ故郷とはいえ、何年も離れたイギリスで再び生活を始めることは多大な負担になりますが、このようなチャンスは二度とありません。どうか、良い答えを出していただければと思います」
ニニィは呆然と床を見つめている。
呼吸が異様に乱れており、まだ思考が追いついていない様子だった。
「ニニィさん」
それを見かねた花蓮が、声を穏やかにして言った。
「あなたの夢は、ご両親のように難病で苦しんでいる人を助けることですよね」
彼女はぴくんと反応する。
「私はニニィさんのご両親を尊敬しております。当時、不治の病と呼ばれていた難病を抑制する特効薬を開発して、大勢の患者に生きる希望を与えてくれました。突然の不幸な事故で亡くなられてしまいましたが、その意思はニニィさんに限らず、私たち研究所の職員にもしっかりと受け継がれております」
穏やかながらも、花蓮の口調は迫力があった。
「今、この世界には様々な難病で苦しんでいる方が大勢いらっしゃいます。我が研究所も、その方たちを救うために日夜、懸命な研究を行っております。私たちはニニィさんと一緒に、あなたの抱いている夢を叶えたいと思っております」
そして、深々と頭を下げた。
「重ね重ねとなりますが、どうかよろしくお願いいたします」
長い話を終え、花蓮はニニィが用意していたお茶を飲む。
一息つくとスーツの内ポケットから名刺を取り出して、それをニニィに渡した。
「何か分からないところがありましたら、その中にある携帯番号に掛けてください。良央さんは以前、渡したことがあるので大丈夫ですよね」
見てみると、確かにそれは俊樹たちと銭湯に行く前にもらった名刺だった。
「そうですね。俺も方からも何かあったら連絡します」
「お願いします」
花蓮は手元の時計を確認すると、鞄を抱えて立ち上がった。
「こんな遅い時間に申し訳ありませんでした。年末年始でお時間もあるかと思いますので、お二人でじっくりと話し合って決めてください。それでは私はこれで失礼いたします」
そのまま玄関へ向かおうとしたので、すぐさま良央も腰を上げた。
「待ってください。もう遅い時間なので駅まで送ります」
花蓮は一瞬だけ驚いた顔になったが、すぐに微笑んでくれた。
「ありがとうございます」
ニニィを部屋に置いて、良央と花蓮はマンションを出る。
すでに時刻は九時半を回っており、夜の住宅街は静寂に包まれていた。今日の夜は特に冷え込むと朝のニュースで報じられており、肌を刺すような寒さだった。
良央は白い息を吐いた。
「年末はゆっくり過ごそうかと思っていたんですけどね」
「すみません。当初は十二月中旬には結論を出す方針だったのですが、予想以上に議論が長引きまして、こんなタイミングになってしまいました」
「そうなんですか」
「ちなみに、良央さんはニニィさんが行かれることに賛成ですか?」
良央は口を噤む。ニニィを預かっている人間として、どのように答えればいいのか。
迷った挙げ句、良央は首を縦に振った。
「……今のところは賛成ですね。ニニィの夢は以前から聞いていましたし、それを叶える絶好の機会だと思います。でも、最終的な結論はニニィと話し合って決めたいと思います」
「前向きに考えていただきまして、ありがとうございます」
花蓮は鞄を持ち直して、再び前方を見る。
今日は分厚い雲に覆われていることにあり、夜空に月や星は全く見えなかった。今の良央の気持ちを象徴するかのように、どんよりと空は暗闇に包まれていた。
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【16】大晦日
ある休日、源二郎が居間でくつろいでいると、目の前に久子がやってきた。
「ねえ、あなたってそばが好物だったよね」
突然の問いかけに、源二郎は視線を新聞紙からエプロン姿の久子に移す。
吸っていた煙草をいったん灰皿に戻しながら答えた。
「……ああ、そうだけど」
「そう。分かったわ」
納得したように頷いた久子は、そのまま台所へと向かっていく。
しかし、扉を開けたところで振り返った。
「いい歳なんだから、そろそろ煙草を止めたらどうだい?」
「何を言ってるんだ。私の数少ない嗜みを潰す気か」
「ここはニニィちゃんも来るところなんだから、せめて自分の部屋で吸いなさいよ。もしかして、これまでニニィちゃんの目の前で平気で吸ってたの?」
ぐっ、と源二郎は言葉に詰まる。
これまでニニィのことはあまり考えず、ここで煙草を吸ってきた。
ヘビースモーカーほどではないが、それでも多い時は一日十本以上は吸ってしまう。
ニニィが煙草のことで文句を言ってきたことは無かったので、もしかしたら調子に乗って吸っていたのかもしれない。
「ニニィちゃん、こっそり私に教えてくれたよ。煙草の匂いは嫌いだって」
「そうなのか?」
「当たり前じゃない。煙を好んで吸う子供がいるとでも思ってるの?」
そう言って、久子は台所へと行ってしまった。
ばたん、と扉が閉められた後、源二郎は灰皿にある煙草を眺める。久子の言う通り、これからは居間で吸うのは自重した方がいいかもしれない。
源二郎は、煙草を灰皿で潰す。
久子がこの家の使用人として働き始めて、今日で三週間が経った。
自分一人ではニニィの面倒を見ることに限界を感じて、知り合いの久子に相談してみたところ、自分が彼女の面倒を見てやると断言したのである。
勤めている会社で新しい事業がちょうどこれから始まろうとしており、これから仕事が忙しくなりそうだと危惧していた源二郎にとって、久子はまさに渡りに船のような存在だった。
「ニニィちゃん。さあ、やってみなさい」
「はい……」
台所の方で久子とニニィの声が聞こえてくる。
扉が閉まっているので何をやっているのか分からないが、口調からしてだいぶ楽しそうだ。あの事件が起こった直後は、こちらも見ていられないほど塞ぎこんでいたニニィだったが、久子と出会ってからは徐々に明るさを取り戻していった。
この一週間はニニィの精神もだいぶ安定してきたので、家事のことをいろいろ教えていると久子は言っていた。肝心の学校の方も、クラス替えを機にうまくいっているようである。
源二郎は新聞紙を閉じて、台所の扉を眺める。
今日は日曜日で、彼にとって久しぶりの休日だった。
ここ最近は仕事で常に外に出ていたので、今日くらいは自宅でゆっくりとしようと決めていた。そういえば、三日前に買っておいた時代小説が鞄の中に入れっぱなしになっていたので、今日はそれを読もうと思った。
源二郎が立ち上がった直後、台所の扉が開かれた。
「あら、どこに行くの?」
「書斎に本に取りにいくだけだ」
「良かった。一瞬、外に出るんじゃないかと思ったから」
「そんなに出て行って欲しくないのか?」
「ええ。だって、今日のお昼はニニィちゃんが作るんだからね」
源二郎は目を見開く。
「ニニィが?」
久子は嬉しそうに微笑んだ。
「しかも、作るのはあなたの好物のそばよ。期待して待っててちょうだい」
※
それから一時間後、そばが完成してニニィが居間のテーブルへと運んできた。
ざるに盛られたそばを見て、思わず源二郎は目を瞬かせてしまう。麺の長さや太さがどれもバラバラで、明らかに市販で売られているものではなかった。
「もしかして、これはニニィが打ったそばなのか?」
「当たり前じゃない。まさか市販のそばを茹でるだけだと思ってたの?」
「ほう……。打ち方はお前が教えたのか?」
「ええ。手取り足取りね」
久子がニニィの肩をとんとんと叩く。
ニニィはやや緊張した面持ちで、三人分のそばを運び終えた。
それぞれ椅子に腰かけて、「いただきます」と唱える。
いびつな形のそばに不安を覚えながらも、源二郎はそれを口に運ぶ。すると、思ったよりもしっかりとしたコシをしており、喉越しも悪くなかった。
「うまい。形は少しいびつだが、これはうまい」
「やった! 良かったね、ニニィちゃん!」
「は、はい」
久子がハイタッチを求めてきたので、ニニィは恥ずかしながらもそれに応じる。
源二郎は感心しながら、そばを啜っていく。
実際、味に関してはそこまで悪くなかった。
仕事柄、昔から全国各地のそば屋に寄っているが、形はともかく味に関してはそこらの店と同じくらいのクオリティだった。
「ニニィちゃん。私が予想してた以上に器用な子なのよ」
久子は機嫌が良さそうに彼女の頭を撫でる。
「たった一回やり方を教えただけで、ここまで美味しいそばを作ってくれたのよ。ここまで要領良くやってくれると、他にもいろんなことを教えてきたくなっちゃうわね」
「例えば、どんなことを教えたいんだ?」
「そうね。料理とか掃除とか……。とりあえず、あなたが明日いきなり死んでも全く困らないくらいのスキルは教えておきたいね」
「失敬な。そう簡単に死んでたまるか」
「もう。冗談の通じない、頭の固いじいさんだね」
「ほっといてくれ」
久子は微笑みながら、ようやく箸に手をつける。
それ以来、毎日の夕食はニニィもしくは久子が作ることになった。
当初は仕事が忙しいことを理由にして食べない日もあったが、どんどん腕を上げていくニニィの料理を食べないのはもったいないと思うようになり、いつしか早めに仕事を切り上げるようになっていた。そして彼女が六年生の頃には、毎日の夕食が本気で楽しみになるくらいまでになっていた。
そんな矢先、久子が倒れたという連絡が源二郎の耳に入った。
◇
「まさかこんなことになるとは……。私も何と言えばいいのか」
向かいに座っている源二郎は、眉間に皺を寄せながら嘆いた。
十二月三十一日――。
良央は再び源二郎の家に行き、彼と今後のことついて、お互いに話し合うことになった。昨日、良央は花蓮に電話をかけて「大叔父さんと今後の話をさせてくれ」と頼んだところ、前回と同様に源二郎の家で話し合うことになったのだ。
ちなみに、花蓮は良央を居間に案内した直後、外に出て行った。
これは「なるべく二人で話し合いたい」と言う源二郎の希望で、花蓮もすぐに受け入れてくれた。
源二郎は大きく息を吐く。
「話をまとめると、以前からニニィは私の病気のことを知っていて、来年から花蓮さんの誘いでイギリスに行くことになった。これで良いんだな?」
「いえ、イギリスの件は結論が出ていないので、まだ行くと決まったわけではないです」
「結論が決まっていない?」
「まだ、ニニィが行くかどうか迷ってるみたいなんです」
良央はこの数日間のことを振り返る。
花蓮からイギリスの研究所に誘われて以来、どこかニニィは元気がなかった。
それは家事にも影響が出ており、昨日の大掃除はどこか精彩を欠いて、やたら時間が掛かってしまった。良央自身も進路のことについてニニィと話し合わないといけないと思っているが、結局この数日間は何も話せずに過ごしてしまった。
すでに、自分の中では『賛成』という結論が出ているはずなのに。
話を聞いた源二郎は腕を組む。
「まあ、迷うのは仕方ないことだろう。生まれ故郷に戻るとはいえ、六年間過ごした土地から離れないといけないんだからな」
「大叔父さんはどうですか? ニニィがイギリスに行くのは賛成ですか?」
「ううむ……。最終的にはニニィの意見を尊重するつもりでいるが、私個人の意見を言わせてもらうなら賛成だな。ただ、それはあくまでニニィの将来を考えた上での結論で、別に私の病気を治してほしいとの願望から言ったものではない。おそらく、ニニィが病気の治療法を見つける前に私は死ぬだろうからな」
「なに言ってるんですか。ニニィは大叔父さんの病気を治すために研究をしてるんですよ。ニニィのためにも、大叔父さんには一日でも長く生きてもらいませんと」
「長く生きる、か……」
ここで源二郎は微笑んだ。
「良央さん。言っておくが、私はとっくに死ぬ覚悟を済ませている。ニニィや花蓮さんはこの病気の治療法を探すのに必死になっているが、私としてはこのまま死んでもやむを得ないと思っている。私が生きている間に難病の治療法が見つかるなんて、さすがに思っとらんよ。なんせ、つい最近に見つかったばかりの病気で、ろくに研究も進んでないと聞いてるしな。今、私にできることは他人に迷惑を掛けることを最小限にしながら、生きていくことだけだ。だから良央さん――。もし、ニニィが私のために嫌々でイギリスに行くような態度を出してきたら、その時は全力で止めてくれ。この私のために、自らを犠牲にする必要はない」
叫んでいるわけではないのに、源二郎の口調には並々ならぬ迫力が込められてあった。
この人は本当に病人なのかと良央は思ってしまった。
源二郎は姿勢を整える。
「話を変えるが、昨日、花蓮さんから私の病気をニニィに伝えたという話を聞いて、年甲斐もなく怒り狂ってしまった。ニニィはまだ十四歳だ。しかも、信頼していた久子が病気で死んでしまったことで、病気に対して大きな恐怖と憎悪を抱くようになっていた。だから、病気のことは何も話さない方がニニィのためだと思って、わざわざ海外に出張に行くという嘘までついて、良央さんにも協力してくれるように頼んだのだ。しかし、花蓮さんはそんな私の苦労を水の泡にするような行為をした。私が何のためにニニィに病気を隠してまで、ここまでやってきたのかを知っているはずなのに、彼女は私の考えを無視してニニィに病気のことを話した。しかも、それが良央さんの家にやってきた直後ときたものだ」
「……はい」
「しかし、怒り狂ったと同時に、ひどく安心したのも事実だった」
声を落とした源二郎は、小さく肩を落とす。
「以前、居酒屋でくるべき時が来たら、病気のことをニニィに話すと言っただろう? 実を言うと、その時はニニィに病気のことは話さず、そのままうやむやにして終わらせてしまおうかと考えていたんだ。仕事先の海外でそのまま事故で亡くなってしまったと、そんな筋書きにしようかと考えていた。しかし、花蓮さんが本当のことを話したせいでその必要はなくなった。勝手に話したことは腹が立ったが、一方で一人で抱えるものが無くなったことによる安心感もあった。おまけに花蓮さんは、ニニィのことでさらに驚くべき話をしてくれた」
「驚くべき話?」
「私の病気を知ったニニィが、それを治療するために独自で研究をしていることだ。ただ、花蓮さんいわく、資料が少なすぎて全然進んでいなかったらしいがな」
源二郎は苦笑する。
「どうやら、あの子は私が予想した以上に優しい子のようだな。私はあの子に何もしてあげられなかったのに、あの子は私の命を救うために研究を始めた。成功する確率なんて万に一つの値くらいしかないのにな……。本当、優しすぎる子だよ」
「いえ、そんなことは無いと思います」
「どういうことだ?」
「大叔父さんは、ニニィの保護者として役目をちゃんと果たしていたと思います。以前、ニニィがこんなことを言っていました。大叔父さんは自分の作ってくれた料理をいつも『美味しい』と言ってくれて、すごく嬉しかったって」
「……ニニィが?」
「はい。だから、料理も今日まで頑張ってこれたって言ってました」
ここで良央はポケットからスマートフォンを取り出して、ある番号を押す。
唖然としている源二郎の顔を眺めているうちに、相手は出た。
「ニニィか? もう大丈夫そうだから、もう家に向かってきていいぞ」
電話口から「はい」という声が聞こえてきて、すぐに通話は終わった。
何が何だか分からずに困惑している源二郎に、良央は説明した。
「実は今日、ニニィと一緒に来ていたんです。でも、俺と大叔父さんだけで話したいこともありましたので、いったんニニィにはこの近くの喫茶店で待機するように言っておいたんです。おそらく、ものの数分でやってくるでしょう」
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【17】蛍の光
それから五分後、家のインターホンが鳴ったので良央が玄関に行く。
扉を開けると、大きな鞄を持っているニニィがいた。
彼女は今、二週間前に新宿で買ってきた赤と青のコートと黒のチュールスカートを着用している。帽子はかぶっていない。初めて彼女と会った時と比べて、だいぶおしゃれを意識するようになってきた。
「待ってたよ。大叔父さんは居間にいるから、早く上がって」
こくりとニニィは頷くと、そそくさと家に上がって居間へと行く。
「おじいちゃん」
「ニニィ……。久しぶりだな。元気していたか?」
「うん。おじいちゃんは?」
「今のところはな。まだ病気の初期段階だから、これといって日常生活に大きな支障はない。しかし、これからどんどん症状が悪化すると医者から言われてるよ」
ニニィにとって、病気を知ってから初めての源二郎との再会である。
二人の声は嬉しそうにも聞こえたし、どこか悲しそうにも聞こえてしまった。
ここでニニィはコートを脱いで、椅子の背に引っ掛ける。コートの下は白の黒のボーダーカットソーであり、ここでようやく源二郎は彼女の服装の変化に気付いたようだ。
「ニニィ。その服はどうしたんだ」
「この前、良央さんが買ってくれたの。どうかな?」
源二郎は目を擦ってから、改めてニニィを眺める。
「似合っとるよ。まさか、あれだけ目立つことを嫌ってたお前が、そんなおしゃれな服を着るようになるとはな。そういえば、帽子もかぶっていないな」
「うん。もし良央さんがいなかったら、昔のままだったと思う」
「なるほど。良央さんのおかげか」ここで源二郎は良央に視線を移す。「――と、ニニィがしゃべっているが、良央さんはいったいニニィにどんなことを言わせたんだ?」
「い、いや。別にそんなたいしたことは言ってないですって」
「本当にそうか? この子は意外と頑固なところがあるから、私や久子さんがどれだけ言っても服装だけは断固として変えなかったからな」
ニニィは良央の隣の席に座って、改めて源二郎と向かい合う。
「まあ、余談はここまでにして本題に入るぞ。――ニニィ。詳しい話は良央さんから聞いたが、花蓮さんからイギリスの研究所に誘われたそうじゃないか」
「はい」
「まだ結論は出ていないと良央さんは言ってたが、そうなのか?」
ニニィはしばらく黙った後、こくりと頷いた。
「……まだです」
「住み慣れた土地を離れるのは辛いが、非常に魅力的な誘いであるのは間違いない。もしかしたら、二度とないチャンスかもしれない。しかし、それでもまだ決めかねているのは、ここにいる私や良央さんのことが気がかりだからなのか?」
すると、ニニィの体がびくんと反応する。
「そうなのか?」
彼の問いにイエスと答えるかのように、彼女は大きく体を震わせた。視線は手前のテーブルに向けたまま、黒のチュールスカートをぎゅっと握っている。
ふっ、と源二郎は小さく笑った。
「……お前は本当に優しい子だな。確かに数えるほどしか会えなくなってしまうが、だからといって二度と会えなくなるわけじゃない。今の時代、文明の利器を使えば、簡単に遠くからでも会話をすることができる。私もこの機会にスマートフォンを購入しようかな……。もし、イギリスで新しいスマートフォンを手に入れたら、すぐに私と良央さんに連絡先を教えてくれ。そうすれば、少しはお前の不安も解消されるだろう」
源二郎の言う通りである。
ニニィは日本で契約しているスマートフォンを使っているので、現地の会社と契約をすれば少なくとも連絡の手段は確保できるだろう。
もちろん、スマートフォンに限らず、今はいろんな手段で連絡を取り合うことができる。
「とはいえ、まだ行くと完全に決まったわけじゃないから、これ以上私から余計なことを言うのは控えていこう。イギリスに行こうが行かまいが決めるのはお前自身だ。この件について私からとやかく言うつもりはない。ニニィが決めた選択を私は尊重するつもりだ。良央さんとじっくり話し合って、お前自身が決めた道を進んでいけ」
「おじいちゃん……」
再び源二郎は良央に目を向ける。
「良央さん。荷が重いかと思うが、今はあなたがニニィの実質的な保護者だ。二人でじっくりと話し合って、最終的な結論を決めてくれ。もし、決まったら連絡をしてくれ」
「分かりました」良央は頷く。
ニニィの判断に委ねることを考慮してか、源二郎は自分が賛成だと言う意向は話さなかった。良央も源二郎と同じく、ニニィがイギリスに行くことには賛成派だった。
理由は源二郎とだいたい同じだが、「難病で苦しんでいる人を助けたい」という大きな夢を叶えるために、これ以上ない誘いだと思えたからだ。
しかし――。
その一方で、自分でもよく分からない息苦しさを抱いているのも事実だった。
まだ四ヶ月しか経っていないとはいえ、ここまで一緒に過ごしてきた大切なパートナーである。それがいなくなってしまうのは、単純に寂しいことなのは間違いなかった。
「で、また話が変わってしまうのだが……」
ここで源二郎の目線が、先ほどニニィが持ってきた大きな鞄に移った。
「ずいぶんと大きなかばんだな。何を持ってきたのだ?」
「良央さんと私――。明日の分の着替え」
「着替え?」
目を丸くされる源二郎に対して、良央が答えた。
「つまり、今日は二人ともこの家に泊まっていくつもりで来たんです。あっ、ちゃんと花蓮さんには許可とってありますよ? 説得するのが少し大変でしたけどね。もし、大叔父さんに事前に言ったら断られるかなと思いまして内緒にしてました」
「い、いや。突然そんなことを言われてもだな……」
「この機会を逃したら、もう二度とニニィと一緒に過ごせないかもしれないんですよ? まだイギリスに行くとは決まったわけじゃないですが、それでもいいんですか?」
「そう言われるとな……」
源二郎は考え込むように目を閉じる。
少し強引なやり方ではあるが、病気ですっかり他人に迷惑を掛けることに敏感になっている源二郎に対して、これが有効だと思ったのだ。
やがて、観念したように源二郎は言った。
「そうだな。せっかくの年末だし、久々にニニィの手料理を食べてみたい」
「決まりですね。じゃあ、堅い話はここまでにしまして、今日はここでゆっくり新年を迎えましょう。今から花蓮さんを呼び戻しますね」
良央が花蓮を呼び戻す間に、ニニィは鞄からビニール袋を取り出した。
「なんだそれは」源二郎が問う。
「昨日、インターネットで頼んだそば粉。今日は年越しそばを作るつもりなの」
「そば粉だと? 今から打つつもりなのか?」
「うん。今日は十割そばにするつもり。水もちゃんとミネラルウォーターを買ってきたし、道具もちゃんとしたものを持ってきたから」
「ほう……。それは本格的だな」
それから花蓮が家に戻ってきて、ニニィは台所で年越しそばを作っている間に、大人の三人でしばしの談笑が始まった。
その話の中で花蓮はニニィがイギリスに行こうが行かまいが、来年の四月からイギリスの研究所に戻ることを話してくれた。源二郎については研究所から後任の人間がやってきて、これまでと同様に病院で難病の治療に励むらしい。
良央にとって、花蓮が来年の四月に日本を離れるのは地味にショックだった。
とりあえず「時間がありましたら食事に行きませんか」と誘ってみたが、やんわりと断られてしまった。以前、源二郎の手紙に入っていた花蓮の番号も三月中に解約するとのことで、この三ヶ月のうちにどうにかしなければと、良央は秘かに決意をした。
そんなこんなでゆったりしている間に、年越しそばが完成した。
十九時を過ぎた頃、居間のテーブルに四人分の年越しそばが運ばれてきて、良央たちは思わず感嘆の声をあげる。
お盆の上には主役のざるそばの他に、つゆ入れ、ネギとワサビの小皿が載せられており、見た目は完全にお店で出てくるようなざるそばだった。
そばを眺めていた花蓮が、隣の源二郎に顔を向ける。
「すいません。さっき十割そばと聞きましたけど、いったい何か十割なんでしょうか?」
「ああ……。花蓮さんは長いことイギリスにいたから、あまりこういうことを知らないのか。簡単に言えば、そば粉を百パーセント使ったそばのことですよ。値段が安い店で取り扱っているそばは、だいたい小麦粉などの粉を何割か混ぜて作っているんです。味は好みがあると思いますが、単純な値段を比較しますと十割そばの方が高いですね」
「そばにもいろんな種類があるんですね」
「さて、こんな会話をしている間にも麺はのびてしまいます。生粉そばは非常にデリケートな食べ物ですからね。急いでいただきましょう」
ここで源二郎は台所のニニィに声をかける。
「――ニニィ。先に食べてしまっていいか?」
「今、そば湯を用意しているところ。もうちょっと待って」
「だったら、ついでに塩を持ってきてくれ」
台所からニニィがそば湯の入った容器と塩の入った皿を持ってきて、そそくさと良央の隣に座る。準備は整ったようだった。
「さて、いただきましょうか」
テレビでは年末恒例の紅白歌合戦が始まり、それを見ながらの夕食が始まった。
これまで何度か彼女の手打ちそばを食べてきたが、十割そばは今日が初めてだった。
まずはネギやワサビを入れず、つゆだけでそばを食べてみる。すると、しっかりとしたコシとそばの良い香りが口の中に広がり、思わず良央は目を見開いてしまった。
「うまいな」
「ええ。そばの香りがとても濃厚でおいしいです」
花蓮も感心したように、そばを口に入れていく。確かに百パーセントそば粉を使っただけあって、飲み込んだ後もしばらくそばの良い香りが口の中に残っていた。
源二郎はそばを箸で持ち上げて、うんうんと頷く。
「さすがニニィだ。麺が箸で切れることがない」
塩が入った皿にそばをつけて、ゆっくりと啜る。
何度か咀嚼した後、彼は幸せそうに口元を吊り上げた。
「うまい。安物の塩を使っているのが玉に疵だが、こんなところで贅沢は言うまい」
そして今度はネギとワサビをつゆに入れて、ずるずると豪快に口に運んでいく。病人とは思えない彼の食べっぷりに、良央と花蓮は思わず口をぽかんと開けてしまう。
そのうちに、まさかの一番乗りで源二郎は平らげてしまった。
締めのそば湯を味わうように飲んで、源二郎は安堵の息を吐いた。
「以前に比べて、また腕を上げたな。ごちそうさま」
すると、ニニィは照れくさそうに言った。
「ありがとう。これでも結構練習したんだよ」
「だろうな。もはや、本格的な店と全く変わらん味だよ」
あっという間に夕食は終わり、四人はそのまま紅白を見ることにした。
良央にとって紅白は久しぶりのことだった。本当は別のチャンネルでやっている年末恒例のバラエティ番組を見たかったのだが、さすがに三人の前では自重することにした。
「紅白歌合戦って、日本の有名なミュージシャンが大勢出てくるんですよね」
夕食の片付けも終わり、のんびりと紅白を見ていたニニィが問う。
「うん。今年を代表する人たちが大勢出るね」良央が答える。
「良央さんがこの前、連れてってくれたミュージシャンは出てくるんでしょうか」
「……いや、それは出てこないな」
「そうなんですか? あれだけ良い歌を歌っているのに」
「どれだけ良い曲を作っても、なかなか売れないことだってある。ニニィがよく聞いているミュージシャンだって、実はCDの売り上げはかなり低いんだ。悔しいことだけどな」
あのアコースティックライブ以来、ニニィはあのミュージシャンのファンになっていた。
勉強中も気晴らしとして、そのミュージシャンのCDを聞くようになっていた。
「あんなに良い曲なのに……。どうやったら、売れるようになるんでしょうね」
「さあね。宣伝の仕方とかタイアップとかいろいろあるかもしれないけど、やっぱり運の要素が大きいんじゃないかな。もちろん、良い音楽を作り続けることが大前提なんだけど」
「運、ですか……」
ニニィはテレビに目を向ける。
良央は音楽業界に詳しいわけではないので、どうして実力のあるミュージシャンが売りたくても売れない事態が発生しているのか、ちゃんと答えられるはずがなかった。
「そうですね。良央さんの言う『運』は、もっともなことだと思います」
すると、二人の話を聞いていた花蓮が割り込んできた。
「音楽に限らず、仕事や学業の分野で成功するためには、ある程度の運が必要だと私は思います。しかし、そう簡単に運はやってきません。ここで重要になってくるのは、自分で目の前のチャンスを見極めて、運を手に入れることだと私は考えています」
「自分で運を手に入れるんですか?」とニニィ。
「ええ。これは個人的な考えですが、どんな人間も生きていれば、勝手に良い運を掴めるチャンスが訪れると思います。しかし、それを実際に掴めるのは、ほんの一握りの人間だけです。大多数の人間は、せっかくのチャンスに気付かなかったり、気付いても掴み損ねてしまう場合が多いです。あの紅白に出ている歌手の方々はみんな、数少ないのチャンスを見事に掴んで、あの大舞台に立つことができたんだと思います。どんな世界も実力さえあれば成功できるほど、簡単にはできておりません」
花蓮は姿勢を正してから、改めてニニィを見る。
「話が変わりますが、ニニィさんが我が研究所に行くことは大変なチャンスだと思っています。このチャンスを逃したら、次はいつやってくるのか分かりません。もしかしたら、二度とお誘いがやって来なくなるかもしれません」
ニニィと良央は、口をぽかんとさせる。
まさか、紅白の話題からこの話を持ってくるとは予想外だった。
「だからニニィさん。お誘いするタイミングが唐突になってしまいましたが、今回はいろんな良い偶然が重なって、こうしてニニィさんを我が研究所に誘うことができました。どうか良い返事をお待ちしております」
ニニィは、緊張した面持ちで「はい」と答える。
花蓮は腕時計を確認すると、そのまま立ち上がった。
「それでは、私は先に失礼させていただきます。皆さん良いお年を」
「だったら、また駅まで送っていきましょうか?」良央も立ち上がる。
「いえ、そこまで遠くなので大丈夫です」
「そうですか……。良いお年を」
地味にショックだったが、そこは平然を装って答えた。
花蓮が帰った後、引き続き良央たちは紅白を見る。
終わりの時間が近づいてくるにつれ、ようやく今年も終わるんだなという実感が湧いてきた。
あっという間の一年だった。社会人になってから、なおさら感じるようになった。
それと同時に、今年はいろんな出会いがあったなとも思った。この二、三年はいつも一人でテレビを見ながら、年明けを迎えていたのだ。
そして、番組もいよいよ大トリを迎えた。
最後に登場してきたのは往年の演歌歌手だった。ここ数年はポップスの歌手が大トリをやっていたらしいが、今年はそうではないらしい。
最後なだけあって、演歌歌手の衣装は目を見張るほど豪華だった。
とはいえ、曲調が落ち着いたものだったので、舞台の演出はそれほど派手ではなかった。良央にとっては名前だけしか知らない演歌歌手だったが、ありったけの情念を込めたような歌声に思わず圧倒されてしまう。
普段はロックしか聞いていないせいか、妙に新鮮に聞こえてしまう。
その時、鼻を啜る音が聞こえてきた。
視線を動かすと、源二郎は静かに涙を流しながらテレビを見ていたのだ。隣で見ていたニニィも、ここでようやく源二郎の様子に気付いたようだ。
「どうしたの、おじいちゃん」ニニィが心配そうに尋ねる。
「悪いな。見苦しいところを見せてしまって。あの歌手は昔からよく聞いていてな。歳を取ると、どうしても涙腺が緩くなってしまうんだ」
源二郎は目頭を押さえる。
「全く……。よりによって、どうしてこんなタイミングであの曲を歌うんだ」
演歌歌手が歌っていたのは、死別をテーマにした悲しい曲だった。
サビの最後にこぶしを効かせた歌唱は、まるで死者に対する慟哭のように聞こえてしまった。余命宣告を受けた源二郎にとって、あのこぶしはどのように聞こえてしまったんだろう。
「最後になってしまうのかな……。あのこぶしを聞くのも」
源二郎のぽつりと呟いた言葉は、テレビの歌声でかき消されてしまった。
最後の曲が終わり、今年の勝利が紅組に決まったところで、番組はいよいよエンディングを迎えた。出演者が一斉に舞台に集まって、蛍の光が歌われる。
紅白では一番でしか歌われないが、良央にとっては二番の歌詞が割とお気に入りである。
「私、決めた」
その時、ニニィがぽつりと言った。
「私、イギリスに行く」
源二郎と良央が、驚いたようにニニィに顔を向ける。
彼女はいったん息を吐いてから続けた。
「イギリスに行って、おじいちゃんや病気で苦しんでいる人のために研究をする。絶対におじいちゃんを病気で死なせはしないから」
「ニニィ。いきなり何を言っておるのだ」源二郎が恐る恐る尋ねる。
「おじいちゃん。私が絶対におじいちゃんを助けるから。だから――」
彼女の体は大きく震えていた。
「もう、そんな悲しい顔しないで……」
しかし、緑のかかった目には並々ならぬ決意が込められていた。
テレビでは蛍の光が終わり、舞台からクラッカーが盛大に放たれていた。
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【18】告白
新しい年を迎えて、いよいよ明日から三学期が迎えようとしているこの日。
玄関で靴ひもを結び終えた俊樹は、大きく息を吐いた。
この日、彼はニニィと一緒に東京ディズニーランドに行くことになっていた。もちろん、二人っきりではなく妹の利香と、保護者として良央が同行することになっている。
去年のクリスマスに利香と一緒にスカイツリーに行く予定だったが、ニニィの保護者である良央がインフルエンザを発症してしまい、急遽キャンセルとなってしまった。
その直後、利香がディズニーランドに行ってみたいとごねてきたので、良央と両親に相談をして、こうして行くことになったのだ。
ちなみに、良央はこの日のためにわざわざ休暇を取ってくれた。
その際、上司からいろいろ言われたらしいが、インフルエンザの前科があったので何とか押し通したと、笑いながら話してくれた。
「ちゃんと良央さんには感謝おきなさいよ。分かったわね」
玄関で母親がそう言ってきたので、俊樹と利香は「はーい」と答える。
「お兄ちゃん。早く行かないと遅れちゃうよー」
靴を履いた利香がやたら高い声で言ってくる。ディズニーランドに行くことが決まってから、今日まで利香はご機嫌な状態が続いていた。
家を出て、中野坂上駅に到着すると、すでに良央とニニィが改札口の前で待っていた。
良央は白と黒のマフラーを首に巻いていた。
「お姉ちゃん!」
利香の声に、ニニィがこちらに体を向ける。
肝心のニニィは、赤と青のコートと白のスカートを穿いていた。以前は地味な服を着ていたこともあり、今日は一段と可愛く見えてしまう。
改札口を通って、四人は丸ノ内線のホームで電車を待つ。まだラッシュの時間ではないので人はそこまで多くなかったが、あと三十分もすると、この場所もひどい混雑に見舞われる。
「ねえ、お姉ちゃん」
待っている最中、利香が口を開いた。
「お姉ちゃん、本当に四月からいなくなっちゃうの?」
ニニィの顔が一瞬強張る。
彼女が来年の四月から日本を出るという情報がメールでやってきたのは、一月三日のことだった。当初は何が何だか分からずに俊樹はメールで問い質してみたが、詳しいことは今日話すと言ってきたので、それまで我慢してきたのだ。
ニニィは微笑みながら首肯する。
「うん。まだ完全に決まったわけじゃないけど、ほぼ確実にそうだね」
「なんで? なんでなの?」
「困ってる人を助けるために、勉強しにイギリスに行くのよ」
彼女の返事は淀みが無く、あらかじめ考えていた答えなのだろう。
電車が到着したので、四人は中に入る。ちょうど二人分の席が空いていたのでニニィと利香をそこに座らせて、良央と俊樹は彼女たちから少し離れた場所で吊り革を握った。
「いったい、ニニィさんに何があったんですか」恐る恐る俊樹は問う。
「詳しく説明するよ」
丸ノ内線が東京駅に到着するまで、良央は事情を話してくれた。
◇
大晦日にニニィがイギリスに行く決意を固めた。
しかし、最終的な結論はいったん保留することにした。
正式に決まるのはニニィが新学期を迎えてからで、それ以降は移住に向けた準備が始まる。ニニィが前向きに考えていることについては、すでに花蓮にも連絡済みで、花蓮も安心したように「よくぞ決断してくれました。感謝しております」と電話で答えていた。
良央も本来はイギリスに行くことに賛成だったので、本来ならニニィの決断は歓迎しなければならない。しかし、その一方で奇妙な空虚感を抱いているのも事実だった。
お正月はそれなりに忙しかったのであまり意識はしなかったが、この数日間はやたらボーッとする時間が多くなってしまい、あまり仕事も捗っているとは言えなかった。
そして変化は良央だけではなく、ニニィの方にも起こっていた。
まず、やたらと料理に気合いが入るようになった。
以前から料理に対するこだわりは半端ではなかったが、お正月の三日間は特に顕著になっていた。本格的なおせち料理や和食など、やたら時間を掛けて作るようになり、台所に立っている時間が多くなってしまった関係で、それ以外の家事をほぼ全て良央がやる羽目になってしまった。しかし、時間をかけて作った彼女の料理はどれも絶品であり、いろんな料理の感想を聞いている時のニニィは顔をほころばせながら、とても幸せそうな顔をしていた。
初めて会った時に比べて、だいぶ表情が豊かになっているのも大きな変化だった。
また、料理と一緒に良央を外に誘う回数も多くなった。
一月一日は近所の神社で初詣。一月二日は中野ブロードウェイでショッピング。一月三日は池袋のサンシャインシティでプラネタリウムを一緒に見た。
これらは全てニニィの方から誘われたもので、去年まで自宅でひたすら研究や家事をしてきた彼女とは、まるで別人のように見えてしまった。
来週の土曜にも、近くの小学校でお祭り的な行事が行われるので、そこに行く予定となっている。
俊樹に簡単な事情を話して、電車に揺られること一時間――。
良央たち一行は、ようやく東京ディズニーランドに到着した。開園まであと十分ほどで、すでに入り口には大勢の人が並んでおり、良央たちもその中に入る。
「くれぐれも迷子にならないように気を付けるんだぞ」
「はーい」元気な声で利香が答える。
その直後、右手に生温かい感触がやってきた。
ニニィがどこか緊張した面持ちで、良央の手を握ったのだ。
「迷子になったら、いけないんですよね?」
「あ、ああ……。そうだな」
幼い利香はともかく、スマートフォンを持っているニニィは別に手を繋ぐ必要はない気がしたが、別に突っ込むほどではなかったので、そのまま受け入れることにした。
後ろにいる兄妹を確認すると、すでに二人も良央たちと同様に手を握り合っていた。
利香の方は嬉しそうに握っているが、なぜか俊樹の方は顔面蒼白になっていた。
「どうしたんだ。人込みが苦手なのか?」茶化すように良央が言う。
「ええ、まあ……」
俊樹は力が抜けたような声で答える。
その後、ついに開園時間を迎え、ゲート近くにいる人間がぞろぞろと動き始める。
もし、周りが体力のある人間しかいなかったら、このまま人気アトラクションに早歩きで向かっていたが、さすがに今日は控えることにした。
どうせ夜のパレードも見るつもりなので、のんびり楽しむつもりだった。
歩き始めると同時に、ニニィの握る力が強くなる。
ニニィの様子をうかがうと、彼女も良央のことを見ていたようで不意に目が合ってしまった。ニニィは慌てたように目を逸らす。彼女にとってこれが初めてのディズニーランドなので、もしかしたらそれで緊張しているのかもしれない。
ニニィを安心させるように強く握り返しながら、良央は前に進んだ。
◇
なんだよ、あれ――。
俊樹は目の前で手を繋いでいるニニィの姿を見て、大きな衝撃を受けていた。
現在、四人は人気アトラクションで並んで待っている。もう迷子の心配はないのに、それでもニニィは良央から手を離そうとせず、利香と楽しそうに話している。
時折、良央に視線を向けて話すが、その時だけ瞳の奥が異様に輝いて見えるのだ。
もう、結論は言うまでもなかった。
ニニィ・コルケットの心は、完全に古川良央に向けられている。
自分のことなんて、全く眼中にない様子だ。
先ほど、地下鉄の中で良央からニニィが四月にイギリスに移住することになった経緯を聞いたが、衝撃度は圧倒的にこっちの方が大きかった。ずっと前から片思いをしてきた相手だったため、お正月の時にイギリスに行くことを知った時は、かなりショックを受けた。
とはいえ、多少の時間が経つとそれなりに心の整理ができた。
でも、目の前に広がっている光景はいったい何なのだ――。
彼女は四月からイギリスに行くから、彼とは必然的に別れなければいけないはずだ。なのに、どうしてニニィは彼にあんな視線を向けるんだ。もう別れる未来は決まっているはずなのに、どうしてなんだ。
そして、いよいよ俊樹たちの出番が迫ってきた時だった。
「ニニィ、もう十分だろ」
業を煮やしたのか、良央は半ば強引にニニィから手を離した。
「初めてのランドで緊張する気持ちは分かるけど、もういいだろ」
「えっ、でも」
「そろそろ独り立ちしないとな」
「い、いやだっ――」
ここでニニィは慌てるように、自分の口を塞ぐ。
良央は首を傾げる。
「どうした?」
「い、いいえ……。何でもないです。ごめんなさい」
頭を下げたニニィは、そのままうつむいて無言になってしまった。
ここで列が前に進んだので、良央も釣られて前に歩き始める。すると、ニニィが手を伸ばして彼の手に触れようとするが、直前で思い出したように引っ込める。
「お姉ちゃん、どうしたの?」利香が尋ねる。
「ううん。なんでもない。本当になんでもない……」
微笑みながら答えるニニィだが、その表情はどこか苦しそうに見えた。
※
平日とはいえ、今日は休みの最終日だけあって、園内は比較的混んでいた。
休憩を挟みながら、人気アトラクションに乗っているうちに日もだいぶ沈んできた。このまま夜のパレードまでのんびりするのかな、と俊樹が思っていた矢先だった。
「ねえねえ、お兄ちゃん。あれに乗ろうよー」
彼の服を引っ張って、利香が指差したのは絶叫系アトラクションだった。
お昼を過ぎた頃は疲れた様子の利香だったが、先ほど一時間待ちのアトラクションで並んでいた時に昼寝をしたせいで、すっかり元気を取り戻していた。
アトラクション前に立てられている看板では、一時間待ちの表示だった。
「一時間も待つのかよ」
すると、利香がポケットからそのアトラクションの優先搭乗券を出してきた。
「これ、ごはん食べた後に取ったじゃん」
「ああ……。そういえばそうだった」
俊樹は肩を落とす。なぜなら、利香が寝ている間はずっと自分が彼女をおぶっていたので、だいぶ体力が消耗していたからだ。良央が何度も代わってやろうかと尋ねてきたが、そうすると利香が起きてしまう可能性があったので断っていた。また、俊樹はどちらかと言うと絶叫系を苦手としており、もう乗りたくないのが本音だった。
ちなみに、利香と同じ優先搭乗券は利香の分を含めて二枚しか発行していない。ニニィも絶叫系を極端に苦手としていたので、利香と俊樹の分しか発行していなかったのだ。
「有野くん。だったら俺が代わってやろうか?」良央が訊いてくる。
どうしようか迷ったが、ここは彼の好意に甘えることにした。
「お願いできますか?」
「よし、利香ちゃん。お兄ちゃん、疲れてるようだし、代わりに俺が行ってあげるよ」
「いいよー」
「じゃあ、ニニィと有野くんはそこまで待っててくれ。二十分くらいしたら戻ってくるから、何なら近くの店で休憩しててもいいよ」
思わず、俊樹は体をびくんと跳ねらせてしまう。
「じゃーねー。お兄ちゃん!」
良央と利香が視界からいなくなった後、恐る恐るニニィの方を見る。
彼女は寂しそうに良央がいなくなった方向を見つめていた。
「ここに突っ立っているのも難だし、どっかに座ろうか?」
「あっ、うん」
ぼんやりとしているニニィを連れて、俊樹は近くにあるベンチに腰掛ける。
近くにあった店に入るとペットボトルの温かいお茶が売られていたので、俊樹は二本購入して、そのうち一本をニニィに渡した。
「ありがとう。ちょうどあったかいものが飲みたかったの」
「そ、そういえば、まだ俺の方から祝ってなかったよな」
「なにを?」ニニィがボトルの蓋を開けながら尋ねる。
「イギリスのことだよ。良央さんから詳しい話を聞いたけど、かなり有名な研究所に行くらしいじゃん。――ニニィさんって、今十五だっけ?」
「まだ十四。三月で十五になる」
「でも、それってすげえことだよな。おめでとう」
「うん。ありがとう」ニニィは微笑む。
「でもさー。俺の見た感じだと、あんまり乗り気じゃない感じがするんだけどな」
彼女は目を瞬かせる。二人きりになるのは銭湯の時以来だ。
おそらくこんな機会は今しかないと思うので、俊樹はさらに追及してみた。
「もしかして、良央さんと別れたくないからか?」
ニニィはぶるっと体を震わせて、慌てたようにボトルのお茶を飲む。
どうやら図星のようだ。本当はもう少し直球な表現を言ってみようと思ったが、さすがにそれはやめておくことにした。
しばらく沈黙が流れた後、ニニィは静かに頷いた。
「うん。別れたくない」
「じゃあ、なんでイギリスに行かなくっちゃならないんだ」
「大切な人の病気を治すため」
「大切な人?」
「うん。私のおじいちゃん……。血は繋がってないけど、とても大切な人」
そうなのか、と俊樹は内心思った。
良央から話を聞いたとはいえ、さすがに細かいところまでは彼も話してくれなかった。
イギリスの研究所に関しても、最先端の医療の研究をやっている所だという、何とも抽象的なことしか話してくれなかったのだ。
今の話を聞くと、ニニィにとっては苦渋の決断だったに違いない。良央と別れたくなかったが、そうなると大切な人の病気を治すことができなくなってしまう。
俊樹はお茶を飲む。さっき買ったばかりなのに、寒さですっかりぬるくなっていた。
「ぶっちゃけ、良央さんって普段はどんな感じなの?」
ニニィは首を傾げる。
「どんな感じって?」
「いや、単純に家の中だとどんな感じで過ごしているのかなーと思って」
「そうだね。真っ先に言うなら、だらしない人かな」
「えっ?」
「掃除をする時はいつも隅に汚れが残ってるし、頼んでおいた玄関のごみ袋を持っていかない時があるし、缶ビールを普通のゴミ箱に捨てちゃうし、出した本やCDはだいたい放りっぱなしにしてるし、休日はひどい時は午後まで寝てるし、たまにお風呂に入らない時があるし、だらしないところを挙げたら本当に切りがない人なのよ」
突然しゃべり始めたニニィに、俊樹は唖然となる。
「……そうなんだ。それはちょっと意外だな」
「でも、すごく優しい人なの」ここでニニィは笑みを浮かべる。「いつも私が作ってくれた料理をおいしいと言ってくれるし、私が作ったご飯やお弁当は一度も残したことがないし、私がすごく忙しい時は何も言わないで手伝ってくれたりするの。それに良央さんがいなかったら、こんなおしゃれな服なんて一生着なかったかもしれない」
そして、良央が乗っているはずのアトラクションの方に目を向ける。
「どうにかして欲しいところはいっぱいあるけど、良央さんは本当に優しい人よ。最初に一緒に生活を始めた時はやっぱりちょっと怖くて、私がいろんな家事を率先してやったり、良央さんが悩んでいたニキビのことを調べて、その対策用のメニューを無理やり考えたりしてたけど、今は良央さんのためにご飯を作るのがすごく楽しみなの。良央さんがおいしそうにご飯を食べている姿を見ていると、こっちまですごくあったかい気分になれるの」
その目は生気に満ち溢れており、頬は赤く染まっていた。
「私、あの人に会えて本当に良かった。本当に……」
その瞬間、俊樹の中で何かが終わりを告げた。
実は今日、もしチャンスがあったらニニィに告白できれば良いなと、秘かに思っていた。
可能性は低いことは承知しているが、それでも自分の気持ちが伝えられればと思っていた。しかし、今の言葉で俊樹の中にあったささやかな希望も完全に潰えてしまった。
今、ニニィの目は完全に良央に向けられている。
もう、自分に出る幕はとっくに無かったのだ。
「でも、もうちょっとでこの生活も終わっちゃうんだよね」
ここでニニィは肩を落とす。
「……おかしいよね。自分で決めたことなのに。どうして……どうして、今さらこんな気持ちになっちゃうの?」
彼女は唇を噛んでスカートを強く握る。
その表情は苦悩に満ちており、俊樹はかけてあげる言葉が浮かんでこなかった。
遠くでジェットコースターの滑走音と一緒に、乗客の叫び声が聞こえてくる。タイミング的に、良央と利香もその中に含まれているかもしれない。
――何やってんだよ良央さん。ニニィさんがこんな苦しんでるんだぞ。早くニニィさんの気持ちを察してあげないと、取り返しのつかないことになるかもしれねえぞ。
多少の嫉妬も含ませながら、俊樹はジェットコースターに向けて心の叫びを放った。
◇
夜のパレードも見終え、良央たちはなるべく早めにランドから離れることにした。
「良央さん。平気ですか」歩きながら心配そうにニニィが問う。
「ああ、平気。この前はニニィをおぶって帰ったしな」
納得したように頷くニニィに対し、俊樹が驚くように良央に視線を向けた。
利香と二人でジェットコースターに乗った後、妙に俊樹の口数が減ったような気がする。
現在、利香は良央におぶられながら眠っていた。夕方にいったんは眠ったが、再び限界を迎えたようで、規則正しい寝息が耳元で聞こえてくる。
さすがに閉園間近の時間帯なだけあって、最寄りの舞浜駅はだいぶ混雑していた。
それでも電車の座席は何とか二つ分だが確保することに成功して、良央はニニィと利香を座らせた。よほど疲れているようで、利香はニニィの肩に頭を置いて再び眠ってしまった。すると、ニニィの方も目を閉じてそのまま眠ってしまった。
吊り革を握ったまま、良央は前方の窓を眺める。
すっかり外は真っ暗になっており、自分と隣にいる俊樹の顔が鮮明に映った。
「じ、実はですね」ここで俊樹が口を開いた。「今日ニニィさんにやろうと思ったんです」
「やろうって何を?」
窓に映る彼は照れくさそうに言った。
「……あのですね。告白をです」
「おおーっ。さすがじゃん」
その瞬間、良央は先ほど発言のささやかな意味に気付いた。
「――ええと、やろうと思ったってことは、結局やらなかったのか?」
「もう自分の出る幕じゃないと思ったのでやりませんでした」
「まあ、四月になったら日本を離れるしな」
「いえ、そういう意味で言ったわけじゃありません」
妙に力のこもった口調の俊樹に、良央は窓から視線を移す。
「どういうこと?」
俊樹が口を開こうとした瞬間、それまで眠っていたニニィが小さく唸り声をあげた。
ゆっくりと目を開けて、良央と俊樹に視線を巡らせる。
「あれ。私、眠ってましたか?」
「ああ……。東京駅までもう少し時間があるから、まだ寝ててもいいけど」
「いいえ。もういいです」
ニニィは大きくあくびをしながら体を伸ばす。
良央はさりげなく俊樹の様子をうかがうと、彼はうつむいたまま何もしゃべらなかった。さすがにニニィの前で話すわけにいかないので、仕方ないよなと良央は思った。
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【19】運命
櫓から出る火がどんどん大きくなっていく。
「はっきり言いますと、私は源二郎さん――いえ、祖父を一方的に憎んでいました。尊敬する人間の子供を、祖母を裏切った人間のそばに置いていけない。そう思った私は、どうすれば二人を引き離せるのかを考えました。そして考えついた結論が、ニニィさんをイギリスの研究所に連れ戻すことでした」
燃え盛る炎に照らされながら、花蓮は静かに話していく。目の前で燃えている炎は、まるで彼女の感情を読み取っているかのように徐々に勢いが増している。
一連の話を呆然と聞いていた良央は、マフラーの位置を調整してから恐る恐る尋ねた。
「憎んでいた? ということは、今はどうなんですか?」
「今、ですか?」
花蓮は小さく笑って、どんど焼きから良央に目を向けた。
◇
「良央さん。もう十二時ですよ。起きてください」
ニニィの声を受けて、良央は目を開ける。
十二時という言葉を聞いて、意識が一気に覚醒した。
「もうそんな時間なのか?」
「そうですよ、早く準備しませんと、お祭りに遅れてしまいますよ」
「ああ、ごめん……」起き上がって頭を掻く。
「朝食――というより昼食になるますけど、いただきますか?」
「そうする」
大きなあくびをして、良央は洗面所に向かう。
今日はニニィと母校の小学校で行われる祭りに参加するつもりで、九時に目覚ましをセットしておいたが、気付かないうちに切ってしまっていたようだった。
昨日は帰ってきたのが午後の十一時で、慣れない作業に憤りを感じてた良央は夕食後、半ばやけくそ気味で布団に潜って、夜中の三時までゲームをしてしまったのだ。
顔を洗い終えた良央は、何となく鏡に映る男と目を合わせる。目の下にはクマが残っており、すっかり疲れたような顔色になっている。
その理由は、今年に入ってから仕事量が圧倒的に増えたからである。
良央はイベント用品などのレンタルを行っている会社に所属しているが、今年になってからレンタルだけではなく、イベントの設営などの業務にも関わるようになった。去年をもって設営に関わっていた人が退職したため、良央に白羽の矢が立てられたのである。
実際に木曜日と金曜日はクライアントのところに行って、今後行われるイベントについての細かいミーティングが行われた。以前に比べて外に出る機会が格段に増えたため、必然的に会社内でやらなければいけない仕事が増えるようになった。
その結果、終業時間を過ぎても残っている仕事を片づけなければならず、ようやく会社を出れるのが早くて九時――遅くとも十一時になってしまうのだ。
着替えを済ませて、居間に戻った良央は遅い朝食を摂り始める。ニニィが時間を配慮してか、メニューは野菜たっぷりのスープだった。
食べながら、良央は本を読んでいるニニィに言った。
「昨日、十一時頃に帰るってメールしたけど、俺が帰ってきた時はまだ起きてたじゃん。先に寝てても良かったんだぞ」
ニニィの視線が良央に移る。
昨晩、夜遅くに帰ってきたにも関わらずニニィは起きており、彼を迎えてくれた。そして良央の分の夕食を作った後、ようやく布団に就いたのである。
「今日が土曜日だったので、起きててもいいかなと」
「でも、翌日が平日の時はそうはいかないだろ」
「……そうですね」
「あんまり無理しなくていいよ。もし、帰りが遅くなるようだったら早めにメールするから、その時はニニィのペースで動いてもいいよ」
「あの、だったら夕食の方はどうしますか?」
「遅すぎたらあんまり食べられないし、無理して作らなくてもいいよ」
「い、いえ。無理じゃないです」
良央はスプーンを持つ手を止める。
「帰りが遅くなる時は冷蔵庫に入れておきますので、どうか食べてくれませんか?」
「……ああ、そこまで言うならいいよ。でも、本当にできる範囲でいいからな」
ニニィは安心したように頷く。
ともあれ、これからは彼女と一緒に夕食を食べる日が少なくなるのは確実だ。
去年までは七時から八時台の時間帯で帰ってこれたが、今年はそうはいかない日が多くなるだろう。彼女との生活はあと二ヶ月弱だが、地味に嫌な追い討ちである。
食事を済ませて、そろそろ外に出る準備を始めようとした時だった。
スマートフォンから着信が入ったので、確認してみると花蓮の名前が入っていた。
「もしもし」
「もしもし。良央さん、今お時間は大丈夫ですか」
「大丈夫ですけど、どうかしましたか?」
「もし、お時間が空いてましたら、良央さんの家にお邪魔できればと思いまして」
「えっ。今からですか?」
「はい。ちょうど残っていた仕事が終わって手が空きましたので」
そういえば、中野坂上に花蓮が所属している研究所の日本法人があることを思い出した。
普段は源二郎の世話と、病気の研究のために中野から離れた病院にいるらしいが、説明を聞くと今日はどうやら中野坂上に用事があったという。
ここで良央はあることを思いついた。
「花蓮さん。でしたら、今から一緒にお祭りに行きませんか?」
電話口の花蓮が「えっ?」と声を漏らす。
「今からニニィと一緒に近所の小学校でやる祭りに行くんです。もし、良かったらそこに一緒に行きませんか?」
※
良央とニニィは、急いで準備を済ませて家を出る。
待ち合わせの場所である中野坂上駅の改札口に行くと、柱の前で花蓮が待っていた。
今日の彼女はいつものスーツ姿ではなく私服姿だった。
ベージュのニットコートにジーパンを履いており、スーツ姿に比べたら全体に漂う凛々しさが薄らいでいるような気がした。でも、服装が変わったとはいえ、目を惹くような姿は変わらない。
良央は軽く手を振ると、花蓮はすぐに気が付いた。
「こんにちは。もしかして待たせましたか?」と良央。
「いいえ、そんなことないです」
ここで花蓮は、良央の首に巻いてあるマフラーに目を留める。
「あったかそうなマフラーですね」
「ニニィが編んでくれたんです」
「へえ。ニニィさんが……」
そして花蓮はニニィに視線を移すと、そのまま頭を下げた。
「こんにちは。改めまして、この度は本当にありがとうございました」
「いえ、こちらこそ誘っていただきましてありがとうございます」
「イギリスに移住までの手続きや、移住後の生活は私が全面的にサポートさせていただきます。おそらく二月中に一週間ほどイギリスに行かなければいけなくなりますので、詳細は近日中に連絡させていただきます」
「一週間ですか?」
「住む場所でしたり移住に伴う手続きでしたり、事前にいろいろ準備しなければいけませんからね。研究所の上層部ともお会いしなければいけませんし、かなり大変なことになるかもしれませんが、そこはあらかじめご了承ください」
つい一週間前、ニニィの移住が正式に決定し、その時も花蓮は良央の家にやってきたが、その時はお礼の挨拶だけで終わった。
しかし、今の説明を聞いていると、いよいよ渡英に向けて本格的に忙しくなりそうな感じだった。
「小学校から一番近い出口はあっちです。行きましょう」
良央は最寄りの出口を指差して歩き始めた。駅から小学校までは十分ほどである。目的地に近づいていくにつれ、周りを歩いている人も徐々に増えていった。
小学校の校門前に辿り着くと、ニニィは小さく声を上げた。
「あんまり変わってないですね」
「そうだな」
良央にとって十年以上前に卒業した場所であるが、外観に変化はなかった。
「お二人の母校なんですか?」花蓮が驚いたように尋ねる。
「あれ、まだ言ってませんでしたっけ? 実はそうなんですよ」
「……なるほど。考えてみればそうですよね。良央さんもニニィさんも、小学校時代は中野坂上近辺に住んでいたんですからね」
三人は校門を通る。良央たちの母校である中野小学校は、いったん校舎の正面玄関を通り抜けないと校庭に行けない構造になっている。
「下駄箱ってこんなに小さかったんですね」
校舎を通っている途中、ニニィは低学年用の下駄箱を眺めながら呟いた。
校庭に入ると、中心にそびえ立っている巨大な三角錐の櫓に目を奪われた。
あれは今回の祭りのメインである、どんど焼きである。
良央の代からすでに続いている、中野小学校の伝統行事である。ニニィも「なつかしい」と、呟きながら櫓を見ている。
「あそこにあるのはなんでしょうか」花蓮が良央に尋ねる。
「あれはどんど焼きと言って、日本の伝統行事みたいなものです。簡単に言いますと、お正月に使った道具を燃やして、今年一年を無事に過ごせるように願う行事なんです」
「お正月の道具をわざわざ集めて燃やすんですか?」
「まあ、可燃ゴミに出すよりかは、こっちの方が縁起がいいじゃないですか」
「なるほど。詳しいんですね」
「いえ……。昔から行われていた行事ですし、毎年のように見に行っては、母さんからどんど焼きに関する細かいうんちくを聞かされていたんです」
毎年、火災の危険性があるので行うか行わないかで議論がされているらしいが、今年も無事に行われるようだった。
とはいえ、周りが住宅街に囲まれているので、櫓の高さは三メートルほどの小さいものになっている。中には多くの門松やしめ飾り、書き初めといったお正月アイテムが入っていた。数は少ないが、だるまも中に含まれている。まだ火はついてないので本番はこれからだと思うが、すでに準備は万端のようだ。
校庭の外側には様々な屋台が並んでおり、大勢の子供たちもそこにいた。
ラインナップはくじ引きだったり焼きそばだったりストラックアウトだったり、当たり前だが子供向けの内容が多かった。
「お昼、何か買ってきましょうか?」ニニィが問う。
「俺、さっき食べたばっかりだからな……。花蓮さんはどうします?」
「そうですね。何か食べたいですね」
「じゃあ、まずは二人分の食べ物と三人分の飲み物を買うか」
こうしてニニィは焼きそば、良央と花蓮は飲み物を買うことになった。
良央たちはペットボトルの飲み物をすぐに買えたが、一時を過ぎたばっかりなので、ニニィが並んでいる焼きそばにはまだかなりの人が並んでいた。しかも、様子を見ると大勢の子供たちから話しかけられているようで、困ったような顔になっている。
「ニニィさん。すごい人気ですね」感心するように花蓮がつぶやく。
「出会った頃はこういった人が多く集まる場所が嫌いだったのに、ずいぶんと改善されたなと思います。今では帽子もおしゃれをする時以外は滅多にかぶらないですし」
「良央さんのご指導の賜物ですね」
「いえ……俺からはそんなたいしたことは言ってないです」
少し恥ずかしかったので、良央は話題を変えることにした。
「そういえば前から気になっていたんですが、花蓮さんは小学校はどちらなんですか?」
「私は日本ではなく、イギリスの小学校なんです」
「へーっ。いつから渡英したんですか?」
「生まれた時からイギリスです。日本の学校や大学には行ったことがありませんね。ただ、母は現地にいる日本人の父と結婚しましたので、昔から英語と一緒に日本語も学ばされましてね。おかげで、どちらの言語も不自由なく使えます」
確かに花蓮の日本語は、発音に違和感はなく完璧だった。そういえば以前、花蓮はイギリス在住だということをしゃべっていたような気がした。
喉を潤しながら、良央はちらっと花蓮の横顔を見る。
二人になる機会が少ないせいか、まだ花蓮のことをよく分かっていない。これは良い機会だと思い、以前から気になっていたことを含めて追究してみることにした。
「花蓮さんのおばあさんは久子さんなんですよね?」
「ええ、そうですけど」
「久子さんは日本で大叔父さんの家の使用人で働いていたと聞きましたけど、久子さんはよくイギリスに来ていたんですか?」
「いえ、そんなになかったですね」
「やっぱりイギリスと日本は遠すぎるからでしょうか?」
「正直に申し上げますと、私と祖母はほとんど面識はありませんでした」
「へーっ。そうなんですか?」
「祖母は、私の母が結婚したのを機に日本に戻ってしまったからです。それ以来、なかなか連絡が取れない状態が続きまして、次に会ったのは病気で亡くなる直前でしたね」
「えっ?」
良央は目を瞬かせる。
てっきり、花蓮の母が何らかの理由で渡英したのかと思っていたが、花蓮の言葉が正しいなら久子の代から渡英していたことになる。これは少し意外だった。
良央はペットボトルのキャップを締める。これは追究しないわけにはいかなかった。
「花蓮さんって、研究所に入ってどのくらい経つんですか?」
「十年になります」
マジか、と良央は思った。それが本当なら、花蓮はすでに三十を超えているということになる。見た目が二十代半ばくらいなので、すっかり同い年くらいだと思っていた。
「イギリスの大学を卒業して、研究所に入ったんですか?」
「そうですけど、それがいったいどうかしましたか?」
「となると、すごい偶然もあったものですね」
花蓮はきょとんとなる。
「久子さんの病気を知って、花蓮さんはイギリスから日本に来たんですよね? で、そこでニニィに出会いました。でも、ニニィの両親は花蓮さんが所属している研究所で大きな成果をあげています。その両親の娘がまさか遠く離れた日本で、自分の祖母と深い関わりを持っていたなんて、恐ろしい偶然もあったものですね」
この瞬間、まるでしまったと言わんばかりに花蓮は目を大きく見開かせた。
二人の前で、子供たちが大きな声をあげながら駆け抜けていく。
「良央さん、何がいいたいんでしょうか?」
「これは単なる偶然なのかなって疑問に思ったんです。どうせ、花蓮さんもあと少しで日本からいなくなってしまうわけですし、この際に訊こうと思っただけですよ」
内心かなり緊張していたが、なるべく平坦な口調で返す。
すると、花蓮はふっと笑った。
「もし、私が本当のことを言うとしましょう。その時、良央さんはどうされるつもりですか?」
「いや……。別に何もしませんよ。本当に何となく気になっただけですから」
その時、ようやく焼きそばを買い終えたニニィがこちらに向かおうとしていた。
「やっぱり偶然じゃないんですか?」
良央の問いに、花蓮は観念したように小さく息を吐いた。
「まさか、良央さんに問われるとはちょっと意外でした。でも、ニニィさんをイギリスに行かせる以上、ちゃんと話しておいた方がいいかもしれないですね。良央さんの言う通り、私とニニィさんの出会いは偶然ではありません。最近まで面識がなかったのは事実ですが、いろんな要素が絡まって、今日に至っているのだと私は思っています」
「いろんな要素ですか?」
嬉しそうな顔で近づいてくるニニィを眺めながら、花蓮は続けた。
「そうですね。私とニニィさんの出会いは運命だったと、言っておきましょうか」
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【20】どんど焼き
二時を過ぎると屋台の出店も終了し、ぞろぞろ大勢の人が校庭の中心に集まってきている。中心には、三メートルほどの櫓がそびえ立っている。
いよいよフィナーレのどんど焼きが始まろうとした時だった。
「あら、もしかしてニニィちゃん?」
校庭の隅にいた良央たちの前に、眼鏡をかけた中年の女性が近づいてきた。
すぐさま、ニニィが驚いたように反応する。
「森永先生?」
「そうよー。卒業式以来じゃない。ニニィちゃん、すっかり綺麗になっちゃってー」
森永先生と呼ばれた女性は、良央たちに視線を巡らせる。
良央はすぐさま頭を下げた。
「初めまして。ニニィの親戚で古川良央と申します。で、こちらは友人の柳原花蓮さん」
「あら、そうなんですか。私は森永と言いまして、ニニィちゃんが五年生と六年生の時にクラスの担任をやってました。よろしくお願いします」
「ああ、先生だったんですか。こちらこそ……」
そして森永先生は再びニニィに向き合った。
「ニニィちゃん。いくつになったの?」
「もうすぐで十五です」
「あら、そうなると、もうすぐで中学卒業なのね」
「はい」
「やっぱり三年経つのって早いわねー」
何やら話が長くなりそうな気配があったので、良央はニニィに向けて言った。
「先に櫓の方に行ってるから」
そして良央は花蓮を連れて、どんど焼きの前までやってきた。
櫓から少し離れたところの地面には白い線が引いてあり、これより中は入ってはいけないようだ。良央たちから少し離れた場所では、地域の会長らしき人が挨拶の言葉を述べており、それが終わったらいよいよ点火になりそうである。
ともあれニニィがこの場にいない今、話の続きができそうだった。
「先ほど運命と言ってましたが、いったいどういうことですか?」
花蓮は固い表情のまま、櫓をじっと眺め続けている。
「花蓮さん?」
「……その前に、まずは良央さんに打ち明けなればいけないことがあります」
「なんでしょうか」
「私の祖父は、瀬名源二郎さんです」
一瞬、彼女が何を言ってるのか理解することができなかった。
会長の挨拶が終わり、いよいよ点火の瞬間が訪れようとしている。
「私の母は、源二郎さんと祖母との間に生まれた子供でした。しかし、母が生まれる前に、祖母はすでに源二郎さんのもとを離れておりまして、ニニィさんの祖父が紹介してくれたところで滞在していました」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
近くにいた何人かが怪訝そうな顔で良央を見るが、気にしている暇ではない。
「どういうことですか。花蓮さんのおじいさんが大叔父さんって――」
その瞬間、良央は新しい事実に気付いた。
「もし、それが本当だとしたら、俺と花蓮さんは親戚同士になるんですか?」
「厳密には、はとこ同士になりますね」
あまりのことに良央は愕然とする。
自分の隣にいる女性は赤の他人ではなく、自分の親族にあたるのだ。
線の内側に、長い竹の棒を握った小学生らしき少年が中に入ってくる。
竹の棒の先端には布が巻かれており、壮年の男性がその先端に火をつける。
「大叔父さんと久子さんの孫が、花蓮さん……」
良央は声に出して、何とか状況を整理する。
「大叔父さんと久子さんって、結婚してたんですか?」
「いえ、正式な婚姻届は出していないです。いわゆる事実婚みたいなものですね」
「このことを大叔父さんは知っているんですか?」
「知りません。私から打ち明けたことはありませんし、祖母は源二郎さんのもとを離れた時、まだ自分が妊娠していることを知らなかったようです。それからイギリスでひっそりと私の母を出産しまして、女手一つで育てたそうです。私がその事実を知ったのは、母が亡くなる直前のことでした。十三歳の時ですね」
「……孫だってことを、大叔父さんに伝える気はないんですか?」
「今のところはありません。もし、そんなことを言いましたら源二郎さんの寿命がさらに縮んでしまいますよ? なので、このことは他言無用でお願いしますね」
花蓮は微笑みながら、口元で人差し指を立てる。
頭がぐらぐらと揺れる感覚を抱きながら、良央は櫓に視線を戻す。
「あ、あはははは……」
今まで自分がアプローチしてきた女性は、実は自分のはとこだった――。
何とも言えない感覚が襲ってきて、思わず変な笑い声をあげてしまった。
少年が先端が燃えている竹の棒を、ゆっくりと櫓に近づけていく。
「源二郎さんが、コルケット一家と親しくなった経緯はご存知ですか?」
「ああ……。それは以前、大叔父さんから聞いてます」
初めて源二郎たちと出会った時のことが、頭に蘇ってくる。
「仕事の関係でイギリスに長期滞在することになりまして、その時に親しくなったと」
「その時、源二郎さんは祖母を半ば強引に連れてイギリスに行きました。祖母いわく若い頃の源二郎さんは本当に身勝手な性格だったようで、仕事は超が付くほど有能でしたが、それ以外のことは全く駄目な人間だと言っていました。イギリスでの二人の生活はあまり長続きせず、ある事件をきっかけに祖母は源二郎さんのもとを離れることになりました」
「ある事件?」
その時、櫓から灰色の煙があがって周囲が一斉に声をあげた。
「源二郎さんは私の祖母に隠れて、あろうことかニニィさんの祖母と親しい関係になったのです。その現場を何度も祖母は見ておりますので、確実な情報でしょう」
良央は言葉を失う。
あの堅物で真面目そうな大叔父が、昔はそんな人間だったとは意外だった。
しかも、その相手がニニィの祖母だったとは――。
櫓から噴き出る煙がどんどん多くなってくる。
「久子さんは、そんな大叔父さんが嫌になって出て行ったんですね」
「出て行った直後、傷心の祖母を助けたのがニニィさんの祖父でした。その方は祖母のため、友人が経営しているお店を紹介したそうです。当初は日本に戻る予定でしたが、新しい働き口を見つけた祖母はそのままイギリスに滞在することを決めたそうです」
「今度はニニィの祖父が出てくるんですか……」
良央はおおげさに頭を掻く。頭が混乱しそうだったが、何とか整理する。
「ニニィの祖父は、大叔父さんとニニィの祖母の関係は知っていたんですか?」
「さあ、どうでしょう。私もそこはよく分かりません」
「じゃあ、大叔父さんとニニィの祖母は結局別れてしまったんでしょうか?」
「それは分かりません。ただ、ニニィさんの祖父母は離婚をしておりませんので、お二人も親しい関係もそう長くは続かなかったのかと思います」
ここで良央は以前、源二郎が話してくれたことを思い出した。
ニニィの両親が事故で亡くなった直後、幼いニニィを育ててくれと頼んだのはニニィの祖母だったはずだ。
「でも、ニニィの祖母は大叔父さんにニニィを託しました」
「そう考えますと、別れた後も源二郎さんのことは決して嫌いではなかったんだと思います。細かいことは定かではありませんが、周囲の環境が二人の関係に歯止めをかけたのでしょうかね……」
いくら仕事で親しくなったとはいえ、どうしてニニィの祖母が赤の他人である源二郎に、自分の孫を育ててくれと頼んだのか以前から少し気になっていたが、今ようやく分かったような気がした。
煙が良央たちとは反対の方向に流れてしまい、その場にいた人たちが移動を始める。
良央は大きく息を吐いた。
「それにしても、花蓮さんと大叔父さんがそんな関係だったなんて……」
「まだまだ、打ち明けなければいけないことは沢山ありますよ」
彼女の言う通り、まだ本題に入り始めたばかりなのである。
花蓮は櫓を眺めながら言った。
「私が研究所に入れましたのも、ニニィさんの祖父の力が大きかったですね。先ほども言いましたが、イギリスの大学を卒業した直後に入りました。まあ、コネでの入所だったので最初は周りから嫌味をよく言われましたけど、そこは自分の実力で黙らせたつもりです」
「さすがですね……」
「入所した直後は様々なことが起こりました。まず、ニニィさんの祖父が亡くなり、その後にニニィさんの両親が難病の特効薬の開発に成功しました。実を言いますと、その時期にちょっとだけニニィさんに会っているんです。研究所の記念パーティーの時に、父親を盾にして怯えながら周りの様子をうかがっているニニィさんを励ましたことがあるんです。たしか、四歳くらいの頃ですね。ニニィさんは、すっかりそのことを忘れているようでしたけど」
花蓮は懐かしむように笑う。
その時、櫓から何かが破裂するような大きな音が響いた。
竹の破裂音である。節と節の間にあった空気が膨張して、竹を破裂させたのだ。あまりに威勢が良い音だったので、近くにいた子供がびくっと後ろに下がった。
「ニニィの両親はどんな感じの人だったんでしょうか?」
「父親は温厚な方でしたが、母親は少し性格に問題のある方でしたね……。実力や容姿は誰もが認めるお方でしたが、やや破天荒なところがありまして、よく周囲の人たちを困らせていました。実際に私も何度かお会いしたことありますが、突拍子のないことばっかり訊かれて、かなり戸惑ったのを覚えています。中には彼女を嫌っている方もいましたが、私にとってはあの性格だからこそ、あれだけ大きな功績を残せたのだと思いますけどね」
「それを聞くと、なんだか本当にニニィの母親なのか疑ってしまいますね……」
「顔は間違いなく母親似ですよ。性格の方は父親から譲られたのでしょう。そう考えますと、ニニィさんはお互いの長所を上手に引き継いでいると思います」
後方を確認すると、ニニィと森永先生はまだ会話の最中だった。
よく見てみると、森永先生が一方的にしゃべっており、ニニィは少し困ったような顔で相槌を打っている。彼女にとっては少し気の毒だが、今の良央たちにとっては好都合なことだった。
「話を戻しますが、ニニィさんの両親が亡くなったのは私が入所してから二年後のことでした」
花蓮の口調が急に重たくなる。
「二人とも信号無視の車に巻き込まれてしまいましてね……。即死だったようです。しばらくショックで、なかなか仕事に集中できなかったのを覚えています」
「ニニィが日本に行ったのは、その直後でしたよね」
「ええ。それは源二郎さんが説明した通りです。これは私の調査不足でしたが、その事故でニニィさんも亡くなったと勘違いしてしまいましてね……。生きていると知ったのは、祖母が病気で倒れた直後――事故から六年も後でした。上司に日本に行くことを相談した際、ニニィさんが日本人の養子となっていることを聞きましてね。それだけでもかなりの衝撃でしたが、それ以上に衝撃を受けたのはニニィさんの養父が、あろうことか私の祖父だったことです」
櫓から噴き出る煙がどんどん多くなっていく。
それに伴って、竹の破裂音もひっきりなしに聞こえてくる。
「すぐに日本に行きまして、祖母からニニィさんの面倒を見ることになるまでの詳しい経緯を聞きました。正直に言いまして、話を聞いた時は源二郎さんに対して猛烈に怒りが湧いてきました。学校でいじめられていたニニィさんの異変に気付かず、自分のことばかりに目を向けていたんですからね。もし祖母がいなかったら、ニニィさんの精神はそれこそ後戻りができない状態までになっていたかと思います」
櫓からついに火の手が見えてきて、周囲の喧騒が大きくなる。
「それからすぐに祖母は亡くなり、ニニィさんは一人になりました。とはいえ、その頃はニニィさんも立派な中学生になっておりまして、私の見た限りでは、だいぶ精神的に自立していました。さすがに祖母が亡くなった直後はショックを受けておりましたが、しばらくすると、また家のことを率先して行うようになりました。しかし、それで私の怒りが収まったわけではありません。私はどうしても源二郎さんが許せなかったのです」
櫓から出る火がどんどん大きくなっていく。
「はっきり言いますと、私は源二郎さん――いえ、祖父を一方的に憎んでいました。尊敬する人間の子供を、祖母を裏切った人間の許に置いてなどおけない。そう思った私は、どうすれば二人を引き離せるのかを考えました。そして考えついた結論が、ニニィさんをイギリスの研究所に連れ戻すことでした」
燃え盛る炎に照らされながら、花蓮は静かに話していく。目の前で燃えている炎は、まるで花蓮の感情を読み取っているかのように徐々に勢いが増している。
一連の話を呆然と聞いていた良央は、マフラーの位置を調整してから恐る恐る尋ねた。
「憎んでいた? ということは、今はどうなんですか?」
「今、ですか?」
花蓮は小さく笑って、どんど焼きから良央に目を向けた。
「それを言う前に、祖母が亡くなった後のことを話しましょう。ニニィさんが日本にいることを知った私はすぐにイギリスに戻って、長期で日本に滞在できないか交渉しました。ちょうど、その直前に日本にいる職員がイギリスに帰国するという話を耳にしまして、見込みがあると思い、交渉をしました。その結果、入れ替わりで私は日本に来ることになりました。そして、日本に来た私はニニィさんをイギリスに連れ戻すため、ひっそりと行動を始めました」
この時、良央の中であることが繋がった。
「もしかして花蓮さんだったんですか? ニニィに論文を出すように言ったのは」
「ええ。もう二年以上も前のことですね。源二郎さんとコンタクトを取りまして、そこで気になる話を聞きました。祖母が亡くなって以来、ニニィさんは病気の治療について強い関心を抱いているということです。さすが、医療一家の末裔と言った方がよろしいでしょうか。それを聞いて、私はすぐさまこんな提案をしました。費用が全て研究所が負担しますので、ニニィさんに専門的な勉強をやらせてみたらどうかという内容です。そうしたら、源二郎さんを介しまして、ニニィさんから『やりたい』との返事をいただくことができました」
「なるほど。あの膨大な量の本は、全て研究所が負担していたんですね」
ニニィの本棚には膨大な研究書があり、あれを揃えるにはかなりの金が掛かったはずだ。
専門家でもない源二郎が、ニニィのためだけに膨大な金を出していたのか疑問に思っていたが、それがようやく氷解された。
「それからニニィさんからオーダーを受けた書籍を届けたり、定期的に様子を見に行ったりしました。でも、その部分は私ではなく別の担当者にお任せしました。ニニィさんの祖母に対する思い入れが強く感じられたので、孫である私が出てきたら、ニニィさんが大きく戸惑ってしまうと思ったからです。来るべき時がきたらコンタクトを取ろうと考えていました」
「花蓮さんが初めてニニィに会ったのは、たしか去年の八月末ですよね」
「ええ。ニニィさんが良央さんの家に住み始めた直後にやって来ました」
花蓮は櫓に視線を戻す。
「それからニニィさんは、独学ながら驚異的なペースで実力を伸ばしていきました。最初は基礎的な内容の書籍を送っていましたが、徐々に高度な内容の書籍をオーダーするようになりまして、一年後くらいには初めて論文を書くくらいまでに成長しました」
「すごいですね……。さすがニニィと言いますか」
「正直に言いますと、予想を遥かに超える成長ぶりでした。当初はもう少し強引な手段を使って、ニニィさんをイギリスに連れ戻すつもりでいましたが、途中で日本の中学校を卒業した後、研究所に入れるように方針転換をしました。年齢のこともあり研究所からオファーの許可が降りるまでかなりの手間を要しましたが、無事に実現させることができました。源二郎さんの難病発覚が、ニニィさんの決断を後押しさせたのも一因としてありましたが」
難病と聞いて、良央は以前から気になったことを言ってみた。
「大叔父さんは自分の病気を知ってニニィを俺に預けましたけど、あれは大叔父さんの独断で俺にお願いしたんでしょうか?」
「半分、正しいと答えておきましょう。源二郎さんの難病発覚後、私はその治療のために我が研究所が関連する病院への入院を勧めました。しかし、源二郎さんはニニィさんに病気のことを知らせたくないと言ってきました。そこで、海外へ長期出張に行くと嘘をついて、ニニィさんを別の誰かに預けるのかどうかと提案しました。ただ、ニニィさんを誰に預けるのかにつきましては、源二郎さんの判断に任せました」
「ははは……。なるほど」
良央は思わず苦笑してしまう。
「これまでのことは、何から何まで花蓮さんが関わっていたんですね」
「疑問は晴れましたか?」
「ええ。だいたいは」
その時、突風が吹いて、煙と灰が一気に良央たちに襲ってきた。
焦げた匂いが鼻を刺激して、良央は思わずむせてしまう。
「急に風向きが変わりましたね……」花蓮が涙目になりながら言う。
「大丈夫ですか?」
「ええ。何とか」
ここで、背後から何者かが駆け寄ってくる足音が聞こえた。
やってきたのはニニィだった。ようやく先生との会話が終わったようだ。
「すいません。つい話が長くなりました」
「やけに遅かったな」
「昔の話に夢中になってしまいまして」
「そうか。こっちはもうすぐで終わりそうだよ」
「ああ、もう終わっちゃうんですか……」
ニニィは残念そうにため息を吐いてから、良央と肩を並べる。
――憎んでいた? ということは、今はどうなんですか?
結局、ニニィが来てしまったため、花蓮からさっきの質問の答えを聞くことができなかった。花蓮とは親戚の関係だったことや、ニニィをイギリスに行かせる計画が以前からあったことは驚きだったが、良央としては肝心なところが聞けなかったのが残念だった。
前方で燃えている櫓の勢いは、どんどん弱くなっている。気付いたらひっきりなしにあった竹の破裂する音も聞こえなくなっており、それはそれで寂しい気持ちになった。
良央はちらっと隣の花蓮を見る。
親戚同士とはいえ、ニニィと一緒にイギリスに行くことが決まっている以上、しばらく会えなくなってしまうのだ。
だったら、このまま黙っているわけにはいかない。
「花蓮さん」
「はい」
「さっきは簡単にしか言いませんでしたが、どんど焼きには一年の無事を願うだけじゃなく、実はいろんな意味が込められているんです」
「へえ……。例えばどんなことですか?」
母親が得意気に語っていたことを思い出しながら、良央は言った。
「正月に使った道具の中には神様が宿っていまして、それを燃やすことで、神様が煙に乗って天に帰っていくんです。だから、どんど焼きの火は『ご神火』とも呼ばれているんです。なんたって神様が関わっている火ですからね」
「それがどうかしましたか?」
「どんど焼きの火には、穢れを浄め、新しい命を生み出す力があるそうなんです」
花蓮は目を瞬かせる。
頭の中で言葉を選びながら、良央は続けた。
「これは俺の解釈なんですけど、つまり、あの火にあたれば、誰かを憎んでいたり恨んでいたりしていても、それを浄めて新しい自分になることができるんです。花蓮さんは、穢れを浄めることはできましたか?」
ここでようやく花蓮は良央の言いたいことに気付いたようだ。
ニニィは戸惑ったような表情になっているが、それはやむを得ない。
良央にとって、これが精一杯の問いかけだった。
「なるほど。穢れですか」
ここで花蓮はふっと微笑んだ。
「冗談はやめてください。穢れなんて、とっくの昔に無くなってますよ」
その答えは、良央にとって少し意外な回答だった。
「へえ、どういうことですか?」
「私が抱いていたイメージより、だいぶ違っていたからです。先入観というのは恐ろしいものです。百聞は一見にしかず、ですね」
それを聞いて、良央は源二郎と会ったばかりのことを思い出した。
喫茶店で初めて会った時、彼はいかにも厳格そうな雰囲気をまとった老人だった。
しかし、次の居酒屋に行った時は、自分の病気以上にニニィの今後を心配するようなことを言ってきた。良央にとって、大叔父の印象が大きく変わるきっかけだった。もしかしたら、花蓮も実際の源二郎に会ってみて、何かしらの心境の変化があったのかもしれない。
良央は隣のニニィを見る。
そもそも、この子がイギリスに行くのは源二郎の病気を治すためなのだ。
もし、源二郎が性格の悪い人間だったら、ニニィはきっと彼が病気になろうと日本に留まっていただろう。瀬名源二郎は、人見知りの激しいニニィが信頼を寄せている数少ない人間なのだ。
ここで初めて、良央の中で花蓮にニニィを託してもいいという感情が出てきた。
「そうですか。だったら余計なお世話でした」
「いえいえ。今日は誘っていただいてありがとうございます。イギリスに戻る前に、こんな素晴らしいものが見れて良かったです。どんど焼きですか――覚えておきます」
「花蓮さん。どうか、ニニィをお願いします」
良央はニニィの肩にそっと手を置く。
「この子はまだ十四です。良くできた子ですが、一人立ちするにはまだまだ早すぎる年齢だと思います。そんな彼女を連れていく以上、全力でサポートをお願いします。イギリスに行ったら、花蓮さんしかこの子の味方がいないんですから」
「ええ。そのつもりでいます」
「あと、連れていく以上、彼女の要望でもある、大叔父さんの病気の研究はちゃんと行ってください。最近まで縁がなかったとはいえ、瀬名源二郎はれっきとした俺たちの家族なんです。どうか、ニニィ――いや、みなさんの力で瀬名源二郎の命を救ってください。お願いします」
俺たち、の部分を強調して良央は頭を下げる。
その意味を察したのか、花蓮はふふっと笑った。
「そうですね。大切な家族ですからね。でしたら、曖昧な言葉はやめておきましょう。私たちの力で、必ず源二郎さんの病気を治してみせます」
そして、花蓮はニニィと目を合わせる。
「頑張っていきましょう」
「……はい」
ニニィはこくりと頷く。
その時、前方の櫓から大きな破裂音が聞こえて、思わず良央たちは驚愕する。
櫓のほとんどが灰となり、もう破裂することはないだろうと思い込んでいた良央たちにとって、それは予想外の音だった。近くで見ていた男性も「びっくりしたー」と呟いている。
しかし、良央はその音を肯定的に捕えることにした。
「花蓮さん。実は今の竹が破裂する音にも、意味が込められているんですよ」
「へえ。そんな意味ですか?」
「それは災いを退ける力です」
ここで良央は二人に笑顔を向ける。
「今日は嫌なくらい聞きましたからね。これで二人とも、イギリスに行っても無事に過ごせそうですね」
「それは心強いですね」
「機会がありましたら、また日本に来てください。日本には良いものがまだまだたくさんあります。もし良かったら、俺がいろいろ案内してあげますので」
「ええ。その時はお願いします」
――これが最後じゃない。最後じゃないんだ。
遠い親戚であると分かった今、これで花蓮と二度と会えないことはないだろう。
源二郎に会うまでは自分はこれから天涯孤独で過ごさなければいけないのか、と思っていたが、気付いたらこうして小さな繋がりが出来ている。
櫓の火は完全に消えて、周囲から自然と拍手が湧き起こった。
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【21】一人
ようやく今日の仕事を終えた良央は、椅子に座りながら大きく体を伸ばす。
報告書のデータを送信して、誰もいなくなった会社を出る。
時計を確認すると、もう午後の十時を過ぎている。この時間になってしまうと、なんでこんな遅い時間まで仕事をやらなくっちゃならないんだという怒りはとっくに消え失せている。
疲れた。早く家に帰りたい――。
それだけしか、今の良央の頭の中には無かった。
今日もクライアントのところへ行って、細かな打ち合わせをした。
来週の土日には大阪でイベントがあり、良央もそこに行かなければならない。初めてのことで不安は募るが、ここまで来た以上はちゃんとやらないといけない。
ジュースを飲む元気もなく、へとへとの体でビルの外に出る。
その途端、凍えるような北風が襲ってきて、良央はぶるっと体を震わせてしまう。寒さで手の動きが鈍くならないうちに、良央は歩きながら音楽プレイヤーを操作する。今日はミディアムテンポの曲にしよう。
カレンダーは二月になり、暦の上ではもう春だが、相変わらずの寒さは続いていた。つい五日前には東京で大雪が降ってしまい、まだ道路にはちらほら雪が残っている。
駅前にある牛丼屋には、新作メニューの写真が入口のドアに飾られている。
牛肉の上に野菜炒めが乗っかっており、見ているだけで涎が垂れてきそうだ。このまま中に入ってしまおうかと思ったが、結局それはやめて、そそくさと神保町駅に入った。
穏やかなピアノの演奏が、すっと疲れた脳を刺激する。電車を待っている間、しばし耳元から流れる優しい世界観を堪能する。もし、この世に音楽が無かったら今ごろ自分は頭がおかしくなって発狂していたかもしれない。そう思ってしまうほど、疲れ果てていた。
都営新宿線に乗っている最中、今日は何曜日だったのか一瞬忘れてしまった。
すぐに木曜日だと思い出したものの、明日も仕事に行かなければならない事実に直面して、小さくため息を吐く。今日が金曜日だったらどれだけ幸せだったか――。そんな、しょうもないことを考えているうちに、電車は新宿三丁目駅に辿りついた。
時計がもうすぐで十一時になる頃、良央はようやく帰宅することができた。
ポケットから鍵を織り出して、部屋のドアを開ける。
中は完全な暗闇だった。一瞬、胸の中が締め付けられるような感覚を抱いた。
部屋の電気を点けると、朝出かける時と全く同じ光景が広がっていた。
脱ぎ捨てられたパジャマ、くしゃくしゃになっている布団、昨晩に飲んでいたビール缶も枕元に置きっぱなしだった。一週間前だったら絶対にありえない光景である。どんなに散らかっていても、ニニィがちゃんと片づけてくれるからだ。でも、この部屋にニニィはいない。
――そうだ。ニニィはイギリスにいるんだった。
そう思いながら、良央はビール缶を持つ。重さからして、まだ半分ほど残っている。このまま飲んじゃおうかなと一瞬考えたが、結局そのまま捨てることにした。
ニニィがイギリスに向けて出発したのは、月曜日のことだった。
今回は本格的な移住に向けての様子見と、研究所の役員とコンタクトを取るための一時的な渡英なので、三日後の日曜日には再び日本に戻ってくる予定だ。ニニィとの生活が始まってそれなりに時間が経ったが、彼女がここまで家を空けるのは初めてのことだった。
小さい鍋に水を入れて火を点ける。冷凍庫から固まったご飯を取り出すと、それを電子レンジに入れる。それから台所の棚にしまっていたレトルトカレーの袋を取り出して、鍋の水が沸騰してきたタイミングを見計らって袋を入れる。
今日の夕食はレトルトカレーだ。
昨日まではニニィが作ってくれた料理を電子レンジで温めて食べていたが、それも尽きたので、今日は自分で作らないといけない。そういえば、冷凍ごはんも渡英する前にニニィがわざわざ炊いて、ラップに包んでくれたものだった。
三分待った後、ご飯とルーが温まったのでそれをお皿に盛りつける。飲み物のお茶も用意して、居間の小テーブルに座った良央は、そのまま遅い夕食を始める。
食べている最中、良央はリモコンに手を伸ばしてテレビを点ける。すると、すぐに有名な芸能人たちの笑った顔が映った。こんな時間にテレビを見るのは久しぶりのことだ。普段ならこの時間はニニィが寝ているので、テレビは点けられなかったのだ。
しばしの自由が得られた、と思う。
ニニィがこの部屋にやってきてからは、いろんなことが制限されていた。
消灯時間は十時だったし、部屋中は綺麗にしないといけなかったし、ゴミ捨てを忘れたり、お風呂に入らなかったり、だらしないことをすると必ずと言っていいほど怒られた。良い子なのは間違いないが、たまに真面目すぎることを言ってきて、煩わしいと思う時もあった。
カレーを食べ終えた良央は、食器を流し台に持っていく。
すると、流し台には月曜日から溜まっている食器が積み重なっていた。洗うのが面倒だったので、余っているスペースに食器を強引に押し込んでいく。
ニニィが帰ってくるまでは、どんなことをしても良央の自由である。だらしないことをしても怒られることはないし、ニニィの前では行えないことも悠々とできる。明日は大学時代の友人を家に集めて、久しぶりに麻雀をする予定だ。
しかし――。
レトルトカレーの味を思い出しながら、良央は小さく息を吐く。
もう、四月から彼女の手作り料理は食べられないのだ。
この仕事を終えたら、家でニニィの料理が待っている。
この数ヶ月、それをモチベーションにして仕事をこなしてきた良央だが、彼女がいなくなってしまうと、次は何をモチベーションにしてやっていけばいいのか――。まだ、良央は見つけることができなかった。
彼女が作ってくれた数々の料理が、良央の脳裏に蘇ってくる。
ニニィが丹精込めて作ってくれた料理はどれも絶品で、お店で出されるメニューとほとんど変わらないクオリティだった。普通のお店だったらまた来店すればその味を堪能できるが、あの味はニニィにしか作ることができない。
それに家事のこともある。
ニニィがいたときは良央も手伝っていたものの、いざ彼女が不在になってしまうと、また疎かになってしまっていた。部屋はゴミや脱ぎ捨てられた服でだいぶ散らかっていたし、流し台は使用済みの皿が大量に放り込まれている。たった五日でこの有様だから、四月以降はもっと悲惨なことになるだろう。改めて彼女の偉大さを痛感してしまう。
頭を掻いた良央は、そのまま寝ようと居間に戻ろうとする。しかし、昨日も風呂に入ってなかったことを思い出したので、良央は風呂場に入る。
風呂のスイッチを押して、居間に戻った良央は部屋のカレンダーを眺める。
ニニィの出発日は、卒業式から三日後の三月二十日だ。
タイムリミットは刻一刻と迫っており、彼女との生活はすでに一ヶ月を切っている。まだ、真冬のような寒さが続いているが、来週からはどんどん暖かくなって、いよいよ待ちに待っていた春がやってくる。
もう一度、良央はため息を吐く。
四月以降の自分の生活を想像するだけで、どうしてこんな沈んだ気分になるのだろう。
良央はカレンダーに載っている雪の絵を見る。早く寒い季節が終わってほしいと思う反面、まだ終わってほしくないと願う気持ちも一方ではあった。
※
ニニィが戻ってきた後も、良央たちの生活に大きな変化はなかった。
渡英までの手続きや、渡英後のサポートは全て花蓮がやってくれるので、そこまで良央たちが動く必要もなく、ただいつも通りの生活を過ごしていった。
仕事の関係で土日もなかなか休みが取れなくなってしまったが、それでも休みが取れた日はニニィを連れて積極的に外に出るようにしていた。ニニィが部屋にやってきた当初はお互いに一歩も外に出ない日も多かったので、その時に比べたらあまりに大きな変化である。二月最後の休日には、クリスマスの時には行けなかった念願のスカイツリーに行くことができた。
そして、少し春の陽気を感じるようになってきた三月の上旬――。
この日の午前中、久しぶりに早起きをした良央はニニィをある場所に連れていった。
そこは、中野から少し離れたところにある墓地だった。
今日は午前中から暖かい陽気に包まれており、空も雲一つない快晴だったので、ふらふらとしているだけで気分も穏やかになりそうな天気だった。
「ここに俺の母さんの墓があるんだ」
入口を通過した後に良央が言う。
「良央さんのお母さんですか?」
「まだニニィには言ってなかったけど、母さんは俺が大学一年の頃に死んだんだ。心臓発作でね。あまりに急すぎて、しばらくショックから立ち直れなかったよ」
そして、良央たちは目的の墓の前に辿り着いた。これといった特徴のない普通の墓石だが、この下には確かに良央の母親が眠っているのだ。
ニニィと良央は墓石の前で、いったん両手を合わせる。
すでに掃除用具は用意していたので、早速二人は掃除を行うことにした。
「良央さんのお母さんは、どんな方だったんですか?」
周囲の雑草を抜きながら、いきなりニニィは尋ねてくる。
「俺の母さん?」
「はい」
「そうだな。強いていうなら、小言の多い人だったかな」
「えっ?」
「冗談冗談」良央は笑う。「良くも悪くもよくしゃべる人だったね。よくきついことを言われたけど、ちゃんと俺のことを考えて言ってくれて……。良い母親だったよ」
「そうですか……」
「ニニィの母親はどんな感じだったの?」
花蓮から簡単なことは聞いていたが、直接ニニィの口から聞いてみたくなった。
「実は、あんまりお母さんのことは知らないんです」
良央は首を傾げる。
「なんで?」
「研究でかなり忙しかったようでして、一緒にいた記憶がそんなにないんです。いつもお父さんのそばにいたので、お父さんのことなら良く覚えています。お父さんは仕事でどんなに忙しい時でも、私と一緒に遊んでくれまして、本当に優しいお父さんでした」
「ということは、ニニィはお父さん子なんだな」
「はい。大好きでした」
大きめの雑草を抜いてから、ニニィは良央を見る。
「良央さんのお父さんは、どんな方だったんですか?」
「ああ、俺の父さんね……」
良央は固い表情で、ほうきで集めた雑草をゴミ袋に入れる。
彼の様子に首を傾げるニニィを尻目に、掃除を終えた良央は軍手を外し、今度は墓石を洗うためにたわしと水の入ったバケツを用意する。
「実は、父さんと関わった記憶はほとんど無いんだ」
「えっ?」
「俺が幼い頃に離婚しちゃってね。それ以来、父さんとは一度も会ったことがない。母さんが死んだ時も告別式にやってこなかった」
「そうなんですか……」
その後、墓石を丁寧に洗い終えた二人は、最後に花と線香を供えて再び両手を合わせる。良央は天国の母親に、何度やったか知らないお詫びと今日までの出来事を簡潔に報告した。
墓参りを終えて、出口まで歩いている途中、ニニィが桜の木の前で足を止めた。
「もう少ししたら満開になりそうですね」
彼女の言う通り、桜の木の至るところには蕾ができており、一部は花びらは少しだけ開いている。今年は三月になってから、やたら暖かい日が続いているのだ。
「今年はいつ頃満開になるんだっけ」
「私の卒業式の日くらいですね。今年は、平年よりやたら早く咲くらしいですよ」
やけに弾んだ声で答えたので、もしやと思って良央は尋ねた。
「ニニィ。もしかして桜が好きなのか?」
「はい、大好きです。毎年この時期になると、よく写真を撮りに行きます」
「へーっ。そこまで好きだとは意外だな」
この時、良央は良いことを思いついた。
「そうだ。せっかくだから、最後にみんなでお花見でもしないか」
「お花見ですか?」ニニィは目を丸くさせる。
「家の近くに中野公園というところがあって、そこに大きな桜の木があるんだ。どうせなら、最後にみんなを誘ってパーッと盛り上がるってのはどうかな? 有野くんや利香ちゃん、花蓮さん、もし大丈夫そうだったら大叔父さんも誘ってみて――」
「あ、あのっ!」
いきなりニニィは声を張り上げて、良央の言葉を止める。
「あの、お花見は私もしたいですけど、もし、良かったら」
その顔はどこか緊張していた。
「もし、良央さんが良いって言うなら……私たち二人だけで、お花見をしたいです」
「えっ。でも、二人だと寂しくないか?」
「いえ、そんなことはないです」
彼女は首を大きく横に振る。その顔は赤く染まっていた。
参ったな、と思いながら良央は頭を掻く。
ニニィにとっては日本での最後のイベントなんだから、多くの人に集まってもらいたいのが良央の本音である。しかし、主役であるニニィがそう望むのなら、仕方ないけどそれに応えてやろうと思った。
「分かった。そこまで言うなら、二人で桜の名所でも回ってみるか」
すると、ニニィの表情が一気に輝いた
。
「ありがとうございます」
「タイミングは卒業式の次の日――十八日とかにするか。ちょうど土日は大阪に出張しなければならないし、何とかその日に代休をもらえるようにするよ」
ニニィの卒業式は、三月十七日の月曜日である。
しかし、運が悪いことに十五日の土曜日から三日間、良央は大阪に出張しなければならず、卒業式に出られなくなってしまった。このことは先日ニニィにも伝え済みであり、彼女は残念そうな顔をしながらも許可してくれた。
「じゃあ、そろそろ帰るか」
そう言って、良央は桜の木から離れようとした時だった。
いきなりニニィが手を伸ばして、良央の手を握ってきたのだ。
「どうした?」良央は首を傾げる。
「あ、あの……。このままいいですか?」
このまま、とは手を繋ぐことだろう。
特に断る理由もなかったので、良央は了承した。
「ああ、いいよ」
すると、ニニィは手を握る力をさらに強くさせた。
どうしたんだ、と声に出そうかと思ったが、何となくその気になれず良央はそのまま歩き始める。
「ニニィ」
「はい」
「たった七ヶ月間だったけど、すごく楽しかったよ。寂しい気持ちは分かるけど、イギリスに行っても頑張れよ。応援してるから」
「……はい。ありがとうございます」
彼女は頭を下げる。
その時、生温かい風が吹いて彼女の金色の髪を揺らす。出会った時と比べて、その髪は肩まで伸びており、そのせいか急に大人っぽくなったように見えた。
結局、家に帰るまでニニィはその手を離そうとしなかった。
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【22】さくら
三月十六日、日曜日。午後三時――。
この日、利香はいつものように家の居間でゲームをやっていた。
彼女のお気に入りであるアニメの魔法少女たちが登場するゲームである。ステージは最終面の真っ只中であり、ラスボスに魔法少女たちが苦戦しながらも果敢に立ち向かっている。
今や利香のテンションも最高潮に達しており、ボタンを押す手にもどんどん力が入っている。そして、待ちに待ったケージが溜まり、ついに最強の技を出すボタンを押そうとした時だった。
突然、家のインターホンが鳴り、利香は現実に一気に引き戻される。
――もう、なによ! こんな大事な時に!
今、この家にいるのは利香一人だけだった。
兄の俊樹は友達の家に遊びに行っており不在だ。母親からは誰か来てもドアを開けちゃダメだと言われていたので、そのまま無視しようと思った矢先――。
「すいませーん。どなたかいませんかー」
外から聞こえてきたのは、利香にとって馴染みのある声だった。たちまち、ゲームに水を差された怒りが消えていった。
「ニニィおねえちゃーん! いるよ!」
利香はゲームを置いて、玄関まで駆けていく。
ドアを開けると、ニニィが少し驚いたように目を見開いた。
「あっ。利香ちゃん。久しぶりね」
「久しぶりー。どうしたの。お姉ちゃん?」
利香が尋ねる。彼女が家までやってくるのは、これが初めてのことだった。
「俊樹くんはいる? さっき携帯にかけたんだけど繋がらなくてね」
「ううん。お兄ちゃんは友達の家に行ってる」
「ああ、そうなの。どうしようかな……」
ニニィは困ったような顔を浮かべる。
おそらく、兄は遊びに夢中になっていて電話に気付いていないんだろう。
「お兄ちゃんに用事があるの?」
「うん。一応、お兄ちゃんにもあるけど、利香ちゃんにもね……」
迷った素振りを見せた直後、ニニィは利香と目線を合わせるようにしゃがみ込む。その表情はつい先ほどと違って、どこか穏やかだった。
「ねえ、利香ちゃん」
その声に、反射的に利香は背筋をぴんと伸ばす。
「利香ちゃん。何度も言ってるかもしれないけど、お兄ちゃんのことは好き?」
突然のことに少しおかしいなと思いながらも、利香はこくりと頷く。
「うん。好き」
「じゃあ、お姉ちゃんと約束してくれる?」
「えっ?」
「これからもお兄ちゃんのことは大切にするって」
利香は目を見開く。どうしていきなりそんなことを言ってくるのか分からなかったが、利香の返事は言うまでもなかった。
「うん。約束する」
ニニィはふふっと笑顔を浮かべると、利香の頭にそっと手を置く。
「良い子ね。さすが利香ちゃんよ」
ここでニニィは立ち上がる。
「実はね。利香ちゃんとお兄ちゃんに、すごく大事なことを伝えなきゃならないの。お兄ちゃんは今ここにいないから、もしお兄ちゃんが帰ってきたら伝えてくれる?」
すごく大事なことだと聞いて、利香は目を瞬かせる。
そしてニニィは悲しそうな顔で、ゆっくりと話し始めた。
◇
三月十五日。ニニィの卒業式を二日前に控えた日の朝――。
この日、良央は朝早くから家を出ようとしていた。
「じゃあ、行ってくる。月曜日まで留守番を頼むよ」
「はい。気を付けてください」
玄関でニニィに見送られて、良央は出発した。
すでに一部の生活品を除いて、ニニィの私物のほとんどは配送を済ませているので、後は出発の日を待つだけとなっている。少しだけすっきりした居間を眺めながら、良央はドアを閉めた。
今日から三日間、良央は大阪へ出張の予定だった。
夏ごろに行われるイベントの打ち合わせだったり、大規模セミナーやイベントへの参加だったり、どれも今後に大きく繋がる重要な仕事ばかりである。本当はせめて十七日の卒業式だけでも行ければいいな、と思っていたが、会社からの許可が降りず、泣く泣く不参加となってしまったのだ。
丸ノ内線に乗って東京駅に辿り着くと、待ち合わせ場所ではすでに上司が待っていた。
「おはようございます。早いですね」
時計を確認すると、時間は待ち合わせの十分前だった。
「まあ、早いに越したことはないだろ」
弁当の袋を持って、上司は苦笑する。
七歳年上の直属の上司は、良央にとって心強い存在だった。
仕事もバリバリこなすことができ、人間的にもしっかりした人だった。
まだ良央が会社に入り始めたばかりの頃、なかなか会社の仕事に慣れず、精神的にやや不安定だった彼をサポートしてくれたのは紛れもないこの上司だった。
彼のおかげで、良央もここまでやってこれたと言っても過言ではない。今回の出張でニニィの卒業式に行けなくなったのは不本意だったが、まだこの上司と行くならマシだろう、と今は考えるようにしている。
指定のホームに行くと、すでに大阪行きの新幹線が止まっていた。早速、良央たちは中に入って、指定の座席に腰掛ける。大阪までは約二時間半だ。
「最近、お前の様子を見て思うんだけど――」
新幹線が東京駅を出発した直後、ふと隣の席の上司が口を開いた。
「あんまり元気がない感じだな。いったい何があったんだ」
えっ、と良央は反応する。
「そ、そうですか?」
「うん。去年の年末くらいまでは成績も良くて、すげえ働いてるなという感じがしたんだけど、今年になってから妙に覇気がなくなったと言った方がいいのか……。成績もあんま芳しくないし、何かプライベートで嫌なことでもあったのか?」
良央は空笑いをする。
確かに、ここ最近はあまり仕事がうまくいってないことは自覚していた。
「まあ、あると言われたらあると答えなくちゃいけないですね」
「恋人にでも振られたか?」
反射的にびくん、と体を跳ねらせてしまう。
「いや、恋人ではないですけど、大切な人と別れなくちゃいけないことになりましてね」
「大切な人と?」
「ええ。だいぶ昔から親しくしていた友人です」
本当のことを言うと面倒な気がしたのて、さらりと嘘をつくことにした。
「へえーっ。よっぽど大切な友人なんだな」
「ははは……。そうですね」
「まあ、気持ちは分かるが、それをいつまでも引きずっているわけにはいかねえだろ。今日の夕飯は俺のおごりにしてやるから、それでちょっとは元気出せ」
「あ、ありがとうございます」
頭を下げてから、良央は窓の景色を眺める。
上司の言う通りである。これ以上、ニニィがいなくなるショックを引きずっているわけにはいかない。彼女と一緒にいられる日はあと少ししかないが、せめて後悔はしないように過ごしたい。それにイギリスに行っても電話やインターネットで、いつでもニニィとは連絡を取り合うことができるのだ。決して二度と会えなくなるわけではない。
まだ東京を出たばかりのこともあり、窓の外は建物ばかりだった。
隣の上司は本を読み始めていたので、良央は音楽プレイヤーを用意する。
聞くのはニニィも好きなバンドの曲だ。すでにバンドのCDは全て、ニニィにプレゼントとして渡している。そういえばニニィがそのバンドを聞くきっかけになったのは、十月の路上ライブである。
――ニニィをおぶって家に戻ったのも、いい思い出だな。
目を閉じて、良央は再生ボタンを押す。
音楽を聞きながら、良央はこの七ヶ月間のことを思い返した。
ニニィとの生活は特にこれといった大きな刺激もなく、地味で淡々としたものだった。
一緒に食事をしたり、喧嘩をしたり、一緒に家事をしたり、仲直りしたり、学校や仕事に行ったり、たまに一緒に出かけたり、生活における当たり前のことをやってきただけだった。
しかし、その当たり前が、あと数日で終わってしまうのだ。
ずん、と何の前触れもなく、良央の中で悲しいという気持ちが湧いてきた。
映画やドラマのような刺激もない、あんな地味で単純な生活に対して、自分でも疑問に思ってしまうくらい恋しい感情が出てきてしまうのだ。
リアルタイムではたいしたことないと感じていた多くの出来事が、急にかけがえのない思い出のように変換されていく。これまでの思い出が蘇っていくたびに、こんなところで終わって欲しくない気持ちが湧いてくる。
大きく息を吐いて、良央は目を開ける。
耳から流れてくるのは、この前の路上ライブでも歌ってくれた曲だ。そういえば、あの時ニニィから、どうしてこのミュージシャンが好きになったのか、と聞かれたような気がする。
――俺、なんて答えたんだっけ。
それを思い出した瞬間、良央は稲妻に打たれたような感覚を抱いた。
※
三月十六日。午後一時――。
ようやく打ち合わせが終わった良央はビルの会議室を出て、近くの休憩スペースまで行く。今日は休日なだけあって、スペースには誰もいない。自販機で缶コーヒーを購入して、一口飲んでから近くにある椅子に腰を下ろした。
今日の予定はこれで終わったので、これからの時間はしばしの自由行動になる。
大阪出張の三日間のうち、日曜日の今日は実質小休止の日だった。ちなみに明日は朝から夜の八時まで仕事が詰まっているので、東京の家に帰れるのは深夜の予定となっている。
昨日、今日の仕事の成果については、無難に終わったというのが素直な感想だった。
上司に多少のフォローを任せる場面もあったが、それ以外は可もなく不可もなくといった感じで話は進み、この調子で明日の打ち合わせもできればと思った。
コーヒーを飲み切り、そろそろ会議室に戻ろうとした時だった。スマートフォンから着信が来たので、確認してみると知らない番号だった。
「もしもし?」
『もしもし、良央さんですか? 柳原花蓮です』
「花蓮さん? どうしたんですか」
『申し訳ありません。昨日、持っていた携帯を解約しまして、会社の固定電話からかけています。今、お時間の方は大丈夫ですか?』
花蓮の口調はどこか重たく、何となく嫌な予感がした。
「ええ。大丈夫ですけど、何かあったんですか?」
『今、私のそばにはニニィさんがいます。これは直接ニニィさんの口から話した方がいいと思いますので、ニニィさんに代わりますね』
その直後、受話器が渡されるような音が聞こえた。
『もしもし。良央さんですか?』
それは紛れもないニニィの声だった。
「ニニィ。どうしたんだ」
『実は、良央さんに重要なことを伝えなければならなくなりました』
「重要なこと?」
『急に出発が早くなりまして、明日の夕方――日本を出ることになりました』
からん、と右手に持っていた空の缶コーヒーがフロアに落ちた。
一瞬、良央はニニィが何を言っているのか理解することができなかった。
缶コーヒーがころころと向かいの椅子まで転がっていく。
――明日出発? 出発は三月二十日じゃなかったのか。どういうことなんだ。
良央は「ははっ」と笑った。
「それは急な話だな……。いったい何があったんだよ」
『研究所の方から急な要請を受けまして……。私もまだ状況がよく分かっていなくて』
その直後、電話口から物音が聞こえてきた。
『電話代わりました。柳原です。ニニィさんに代わりまして私から説明します。実は研究所の上層部が今週の水曜から急に海外に行くことになりまして、前日の火曜日までにニニィさんに会うことはできないかという要望を受けたんです。ニニィさんの卒業式は明日の午前中で終わりますので、少し無茶な日程になりますが、明日の夕方に日本を出ることになりました』
スマートフォンを持つ手がどんどん震えてくる。
――上層部からの要望? なんでそんな無茶な要望に従うんだよ。
しかし、良央はその言葉を花蓮にぶつけることができなかった。
上層部からの要望と花蓮は言っているが、実質的には命令に等しいものだったんだろう。さすがに社会人として多少なりとも働いてきた良央には、それくらいのことは察することができた。
『ニニィさんからお話は聞いています。本当は火曜日に良央さんと花見に行く予定だったと。しかし、ここで上層部の要望を断ってしまいますと、今後のニニィさんの活動に影響が出てしまう可能性があると判断しまして、勝手ではありますが、私の方からニニィさんを説得させていただきました。――まだ、ニニィさんは十五歳になったばかりです。研究所内では、依然としてニニィさんが来ることを快く思っていない方もいます。どうかお察しください』
そこまで言われてしまうと、良央から反論することなどできなかった。
再び電話口から物音が聞こえてきて、ニニィに変わった。
『良央さん……。ごめんなさい』
ニニィの声に力は無かった。
明日の夕方に出発ということは、花見に行けないどころか、良央に会えないまま出国することになるのだ。もう、お互いに顔を合わせることは当分ないのだ。
良央は目を閉じる。もう、この事実を受け入れるしかなさそうだった。
「おいおいおい! なんでニニィが謝んなくっちゃいけないんだ?」
いきなり大声をあげた良央に、ニニィは驚いたような声をあげる。
「全くさー。ニニィの上司も空気が読めない奴らだな。あと数日で桜も見ごろになるのに、どうしてこんなタイミングでイギリスに来いと命令するんだか。でも、だからといって断るわけにもいかないし、こればっかりはタイミングが悪かったとしか言えないよな」
ニニィは黙っている。
「心配するな。花見はいつだってできるし、イギリスに行ってもこうして電話で会話することはできるんだ。今年は無理になっちゃったけど、また来年にも桜は咲くだろうし、その時期になったら日本にまた来ればいいだけの話さ」
『……はい。そうですね』
しばらく間があった後、ニニィは静かに答えた。
「イギリスに到着して、新しい番号を契約したらすぐに連絡してくれよ。毎日はさすがにきついと思うから、週に一回くらいは連絡を取り合うようにしていこうぜ」
『はい』
ニニィが持っている携帯電話は、すでに三日前に解約を済ませている。
つまり、この電話が終われば、少なくとも出国するまで連絡を取り合うことができなくなるのだ。
「まさか、これが最後になるなんてな……」
『ごめんなさい、良央さん。今まで本当にお世話になりました』
「こちらこそ。日本に戻ってきたら、またうまいメシ食わせてくれよ。研究所に行ったらいろいろと辛いこともあるかもしれないけど、大叔父さんのために頑張れよ」
『はい。ありがとうございます』
静かであるが、確かな力強さを感じさせる声だった。
彼女も成長したな、と良央は思った。
出会った時はあんなに弱々しい印象しか感じなかったニニィが、今や大切な人のために旅立とうとしているのだ。
「じゃあ、元気でな」
『良央さんも、どうかお元気でいてください。さようなら』
電話が切れた後も、良央はしばらくその場に立ち尽くしたままだった。
もしかしたら今のは良央を驚かせるために花蓮たちが仕掛けたドッキリで、もう少ししたらネタ晴らしの電話が掛かってくることことを期待したが、どれだけ待っても電話は掛かってこなかった。どうやら、本当にニニィは渡英してしまうらしい。
「なんで行っちゃうの?」
誰もいない休憩スペースで、良央はよく分からない笑い声をあげた。
ついさっきの電話がニニィとの最後の会話になってしまうなんて、夢にも思わなかった。この現実を受け入れるのは、もう少しだけ時間が掛かりそうだった。
「おう、そこにいたのか」
その時、上司が休憩スペースにやってきた。
「なにのんびりしてんだ。そろそろ昼飯に行くぞ」
「はい」
何とか平静を装って、良央は答えた。
ビルのフロアを歩きながら、どうにかして東京に戻れないかと良央は考えた。
さすがに月曜日は仕事があるので無理だとしても、今日だけなら頑張れば何とかいけるような気がした。
大阪から東京に戻る時間は、新幹線を使って約三時間だ。
かなり無茶ではあるが、今から超特急で東京に戻り、ニニィとちゃんと別れを済ませて、夜に大阪へ戻れば、明日の朝の打ち合わせには間に合うはずだ。夜行バスを使うのもいい。あれなら二十三時くらいに東京を出発しても、明日の朝には十分に間に合って――。
「おい、あぶねえぞ!」
上司の怒鳴り声が聞こえた直後、がくっと体のバランスが崩れる。
ここでようやく、目の前にビルの階段があることに気が付いた。しかし、考え事をしていたせいでそのまま足を踏み外してしまう。
一瞬だけ、宙に浮かぶような感覚。
そして、恐ろしい勢いで迫ってくるリノリウムの床――。
頭を強打した良央は、そのまま意識を失った。
◇
『嘘つき、おねえちゃんの嘘つき!』
三月十六日、日曜日。午後三時十分――。
ニニィが帰った後、家の玄関で利香はぼんやりと立ち尽くしていた。
明日の午後、ニニィはイギリスに旅立ってしまう。
あまりに突然すぎることに、利香はまだ現実が受け入れられないままでいた。
実は出発前日の十九日の水曜日に公園で遊ぼうとこっそり約束をしていたのだが、十七日にイギリスに行くことが決まったので、それは完全にできなくなってしまった。
先ほどニニィが家にやってきたのは、そのことを伝えるためだった。
ニニィは頭を下げて謝ったが、約束を守ってくれなかったことに腹を立てた利香は、思わず「嘘つき!」と叫んでしまった。
どうにかしてニニィを悪者にしないと、自分の気が済まなかった。何度もニニィは謝ってきたが、すっかり冷静さを欠いてしまった利香はそのままニニィを追い出してしまった。
結局、ニニィは悲しそうな顔で帰っていった。
利香の中で徐々に罪悪感が出てきたのは、それからすぐのことだった。
――わたし、なんであんなこと言っちゃったんだろ。
慌てて道路に出て、ニニィを探してみるが、どこにも姿は見当たらない。いつも会っている三角公園にも行ってみたが、彼女の姿はなかった。
ふらふらとした足取りで利香は家に戻る。
罪悪感はいつしか大きな後悔へと繋がっていた。
もう、会えなくなっちゃうのに、どうしてあんなひどいことを言ったのだろう。
謝らなければいけない、と思った。
しかし、今の利香にニニィを探せる手段はなかった。利香は携帯電話を持っていない。
利香にはまだ早いということで、親が許してくれないのだ。それさえ持っていれば、登録したニニィの電話電話を掛けて謝ることができたはずだ。
携帯電話さえあれば――。
その瞬間、利香の頭にある方法が閃いた。
自分が携帯を持っていないのなら、兄の俊樹から借りればいいじゃないか。兄とニニィが、携帯電話でやり取りをしているところを何度か見たことある。
しかし、肝心の兄は友達の家に遊びに行っている最中だった。
その場所は知っているが、いかんせん距離がありすぎた。いつも行っているスーパーとは比べものにならないくらい、ここから離れた場所にあるのだ。七歳の利香にとって、それは大冒険に等しい距離だった。
――無理だよ、遠すぎるよ。
どうやら、せっかく思いついた方法も無駄に終わりそうだった。
「うっ……うっ……」
どうすることもできない悔しさで、ついに涙を流してしまった瞬間だった。
『なにやってるのよ。立って! 立つのよ!』
突然、奥の方から馴染みのある声が聞こえてきた。
それは利香の好きな金髪の魔法少女――マリちゃんの声だった。
『まだ終わったわけじゃないわ! みんなの力を合わせて立ち向かっていくのよ!』
慌てて声が聞こえてくる居間の方へ駆けていくと、床に起動しっぱなしのゲームが落ちていた。どうやら、テーブルから落ちた弾みでゲームが勝手に進んでしまったようだ。激しい戦いで傷ついているマリちゃんは、それでも果敢にボスに立ち向かおうとしている。
『諦めないで!』
その言葉が、利香の頭の中で何度も再生される。
マリちゃんはアニメで出てくる魔法少女の中でもっとも勇敢な子だった。
どんなに強そうな敵が目の前にやってきても、決してひるむことなく全て倒していった。利香はマリちゃんのその勇敢さが好きだった。マリちゃんのような強い女の子になれればいいなと思っていた。一人で初めて買い物に行った時も、マリちゃんの励ましがなかったら絶対にできなかっただろう。
『諦めないで!』
流れた涙を拭って、ついに利香は決意した。絶対に会えるといった保証はないが、今の利香にはそれしかやれることがなかった。
――お兄ちゃんのところに行かなきゃ。
怖いという気持ちはある。
でも、こんなところで怖気づくわけにはいかない。大好きなマリちゃんから大きな力をもらった利香に、ためらう理由などなかった。
家のカギを持って、利香はさっそうと外に出た。
◇
三月十七日。午前十一時――。
頭に包帯を巻いていた良央は、病院のベッドで呆然としていた。
昨日、ビルの階段から転落して前頭部を強打した良央は、上司から通報を受けた救急車によってそのまま病院に運ばれた。
幸いにも意識はすぐに戻ったが、しばらく記憶が混濁してしまい、会話の際に自分でも何を言っているのか分からない時があった。
昨日のうちに検査が行われ、今のところ頭蓋骨や脳に異常はないとのことだった。
ただ、負傷したのが人体でもデリケートな部分である頭なので、医師の勧めもあり、昨晩は病院で安静することになったのだ。良央にとって人生で初めての入院だった。会社の方には上司を通じてすでに伝えてあり、今日の打ち合わせは上司一人で行うことになった。
ぼんやりとしていた矢先、病室の扉が開けられた。
やってきたのは上司だった。
「おう、状態はどんな感じだ」
「今のところは特に異常はないとのことです」
「そうか。それは良かった」
「本当にすいません。迷惑をかけてしまいまして」
「まあ、そんなに気にするな。午前中の打ち合わせも無事に終わったし、この調子なら午後も問題なくいけそうだ。今は安静にして、今後に備えておけよ」
「ありがとうございます」
この人が上司で本当に良かったと、心の底から思った。
「じゃあ、俺はまた一時から打ち合わせがあるから、とっとと行くよ。何かあったら携帯で連絡してくれ。お大事にな」
そう言って、上司は病室から出て行った。再び病室は沈黙に包まれる。
窓の外に目を向けてみると、桜の木が風に吹かれて花びらを散らしているのが見えた。満開まではもう少し先だが、この時点でも十分に見とれてしまうくらいには咲いている。
――今ごろ、ニニィは卒業式なのかな。
そう思いながら、良央はぼんやりと桜を眺める。
結局、自分の失態で日曜日に東京に行くという計画は完全に無くなってしまった。もっとも、怪我をしなくても行かない可能性の方が圧倒的に高かっただろうが。
良央は大きく深呼吸をする。
もう、これ以上ニニィのことを考えていても仕方ない。すれ違いのまま別れてしまうのは辛かったが、そこは何とか受け入れていくしかない。
この瞬間、先ほどの上司の「携帯」という単語が頭によぎる。
病院に運ばれてから一度もスマートフォンをいじってなかったことを思い出した良央は、反射的にポケットに触れる。しかし、そこに端末はなかった。もしかしたら荷物の中に入っているかもしれないと思い、良央は近くに置いてあった鞄を開けてみる。案の定、スマートフォンはそこに入っていた。特に破損している部分はなく、これから問題なさそうだ。
そして電源を点けた直後、良央は目を見開いた。
そこには、俊樹から大量の着信があったからである。
何があったんだと思いながら確認してみると、昨日の二時頃から立て続けに電話を掛けてきたようだ。
さすがに病室で電話を使うのは気が引けたので、良央は病室を出ると、近くに置いてあった公衆電話から俊樹の電話番号をプッシュした。
何度かのコールの後、俊樹が電話に出た。
『もしもし?』
「もしもし。古川良央だけど、有野くん?」
『あっ――。良央さん! いったい今まで何やってたんすか!』
いきなり大きな声を出した俊樹に、良央は一瞬たじろぐ。
「まあ、いろいろあってな……。で、有野くんこそいったいどうしたんだよ。何度も何度も俺の携帯に掛けてきて、何かあったのか」
『あっ、ちょっと待ってください。ついさっき卒業式が終わったところで、人のいない場所まで移動するんで、そのまま通話は切らないでください』
彼も卒業式だったのかと思いながら、良央は百円玉を流し込む。
しばらく待った後、ふーっと息を吐く音が受話器から聞こえてきた。
『すんません。待たせました』
「で、何があったんだよ」
『ニニィさんのことは聞いてますか?』
「ああ。今日の夕方に出発することはもう聞いてるよ」
『なら話は早いですね。ニニィさんの新しい連絡先とか聞いてますか? 登録していた番号にかけても、お掛けになった番号は使われていないと出てきてしまいまして』
思わず、良央はため息をついた。
「悪い。今、ニニィは携帯を持ってないんだ」
『えっ――。じゃあ、もう良央さんもニニィさんとは連絡が取れないんですか?』
「ああ。少なくともイギリスで新しい番号を取得するまではな」
『そ、そうなんですか……』
へなへな、とその場に崩れる俊樹の姿が想像できる。
「なんだ。そんなにニニィに会いたいのか」
『いや、俺と言うよりかはむしろ利香の方が会いたがっているんです』
「利香ちゃんが?」
ここで俊樹から、昨日の午後にニニィが利香の家にやってきたことを話してくれた。
しかし、いきなり彼女がイギリスに行くことに戸惑ってしまった利香は、衝動的にニニィにひどい言葉を浴びせてしまい、そのまま彼女を帰らせてしまったらしい。
利香はそのことでどうしてもニニィに謝りたくて、兄である俊樹に頼ってきたことを教えてくれた。
『実は、昨日の三時頃に良央さんの家を訪ねたんですが、誰もいなかったので帰ってしまいました。携帯に何度も掛けても繋がらなくて……。いったい、どうしたんですか』
良央は百円玉を追加で入れる。
俊樹が細かいことを説明してくれた以上、良央の方もちゃんと説明した方がいいと判断した。
「実は今、大阪にいるんだ」
『お、大阪?』
「会社の出張でね。そこでちょっとしたトラブルが起こったんだ」
ここで良央は、出張と頭のケガのことについて詳しく説明した。
『そうだったんですか……。ケガしてたんですね』
「だから、さっきまで携帯を使うことができなかったんだ。情けないことだけど、有野くんたちと同じように俺もニニィに会うことはできないんだ。そういうことだから、利香ちゃんのメッセージをニニィに伝えるのは当分先になりそうだね」
『でも、良央さんは怪我で今日の仕事にはもう行かなくていいんですよね? だったらこれ以上、大阪にいる必要はあるんですか?』
びくん、と良央は反応する。
頭のケガで思考が停止していたのか、俊樹に指摘されて初めてその事実に気づいた。
「まあ、言われてみればそうだな」
『良央さん。このまま諦めるつもりなんですか?』
ここで急に俊樹の声が低くなった。
『もう、良央さんが大阪に居続ける理由はないんですよね? だったら、このまま東京に戻ってきてもいいんじゃないんでしょうか』
「おい……。いきなり何言ってんだよ」
『ニニィさんは良央さんのことが好きなんですよ? 最後くらい、無理をしてもニニィさんに顔を見せにいったらどうですか? 俺だって、せめて別れる前くらいは好きな人の顔を見てから出発したいですよ』
「お、おい! ちょっと待ってくれ! なんだよそれ!」
脇目も振らず、思わず良央は声を張り上げる。
「ニニィが、俺のことを? なにわけの分かんないこと言ってるんだよ」
俊樹は驚きの声をあげた。
『ええっ! もしかして良央さん、気付いてなかったんですか?』
「気付くも何も、ニニィはまだ十五なんだぜ」
『それがどうしたって言うんですか! まさか良央さん――十五歳の中学生が誰かを好きになるわけなんかない、と思っているわけじゃないでしょうね』
「い、いや、そんなことは……」
『とにかくガチなんです! ニニィさんは良央さんのことが好きなんですよ。ディズニーランドで良央さんがいない時に、ニニィさんからそれっぽいことを聞きましたから』
「あ、ああ……」
俊樹の叫ぶような言葉に、良央は力のない返事をする。
――ニニィが俺のことを?
未だにそれを信じることができなかった。
しかし、ランドに行った時、やたらニニィは自分から離れようとしなかった。あの時は渡英する寂しさから取った行動だと思っていたが、まさかそんなことが――。
体が熱くなってきて、額から汗が流れる。頭の奥でじんじんと痛みを感じるのは、おそらく昨日のケガのせいだけではないだろう。
電話口から、ため息を吐く音が聞こえてきた。
『良央さん。このままでいいんですか? ニニィさんと電話だけで別れを済ませるなんて、寂しくないっすか? 多分、ニニィさんは悲しんでると思います』
出発は今日の夕方、という言葉が良央の脳裏に蘇る。
『俺、この前のディズニーで言いましたよね。ニニィさんに告白しようと思ったけど、やめたってこと。あれは、ニニィさんが良央さんのことを好きだと分かったから諦めたんですよ。まあ、そもそもうまくいくとは思ってなかったですけどね』
時計を見ると、針は午前十一時十分を指している。
『良央さん! あんたはニニィさんを惚れさせた男なんですよ! 頭のケガがなんですか。大阪にいるからなんですか。利香のためにも、早く東京に戻ってきてください。こんな所で諦めないでくださいよ!』
がしゃん、と勢いよく良央は受話器を置いた。
荒い呼吸をしながら、改めて今の状況を振り返ってみる。
今から超特急で病院を出れば、夕方前には東京に到着するだろう。
しかし、それで必ずニニィに出会えるとは限らない。なんせ、すでにニニィとは連絡が取れない状態になっているのだ。もしかしたら、東京に到着している頃には、すでに空港にいる可能性だって無くはない。
でも、それがなんだっていうんだ。
これまでの思い出が、走馬灯のように蘇ってくる。
彼女の喜怒哀楽の表情。二人でいろんな場所に行った時のこと。そして、夕方の住宅街で一緒に手を繋いで家に帰った時のこと。
――行け、と頭の中で何者かが囁いた。
このまま顔を合わせないまま、別れるわけにはいかない。
彼女に会えたところで何を話せばいいのか分からなかったが、とにかく今は東京に戻らなければと思った。
この時、良央の中ではしばらく鳴りを潜めていた感情が蘇ろうとしていた。それは大人になったら出ることはないだろう、と思い込んでいた――言い様のない衝動だった。
「ニニィ!」
彼女を名前を叫びながら、良央は病室まで駆けた。
◇
ニニィ・コルケットにとって、柳原久子との関係は、桜で始まって桜で終わった。
「悪いわね。こんな病人をここまで連れてきてね」
「いえ、平気です」
そうは言ったものの、車椅子で長距離を運ぶのはなかなか辛かった。
ニニィが車椅子の久子と一緒にやってきたのは、神田川にある南小滝橋だった。小学四年生になる直前、久子がニニィと源二郎を連れていった思い出の場所である。
「良かったわ。死ぬ間際にこの景色を見れて」
「おばあちゃん、そんな物騒なこと言わないでよ」
「ふふっ。そうね」
その場所は、今年も大量の桜で覆われていた。
アーチのように無数の桜が神田川の上を覆っており、何度も見ているはずのニニィも思わず感嘆の息を漏らしてしまう。
「きれいね。本当にきれい……」
久子がつぶやく。
春の穏やかな風が吹いて、桜の花びらが散っていく。
久子が倒れたのは、つい一ヶ月前の出来事だった。
ニニィが小学校から帰ってくると、家の台所で苦しそうに倒れている久子を見つけて、そのまま救急車を呼んだのである。幸い命に別状はなかったが、その直後に久子は自らの口で「医者から余命三ヶ月の宣告を受けた」とニニィと源二郎に伝えた。
ニニィにとって、あの時の衝撃は今でも忘れられなかった。
久子が患ったのは、肺癌の一種である大細胞癌という病気だった。
これは後になって分かったことだが、大細胞癌はなかなか初期症状の出にくい病気のようで、判明した時はすでにかなり症状が進行していたらしい。今日の外出も病院にかなり無理を言って、許可を取ったものだった。
車椅子の久子は座ったまま、ニニィを見上げる。
「ニニィちゃん。ちょっと訊くけど、源二郎さんから私のこととか聞いてる?」
「おばあちゃんのこと?」ニニィは首を傾げる。
「……そう。何も聞いてないんだったら好都合ね。もう私には残された時間もあまり残されていないし、このタイミングだから言っちゃうね」
そして、久子は再び桜を眺めた。
「私と源二郎さんはね。昔、付き合っていたのよ」
「えっ?」
「だいぶ昔、もう三十年以上も前のことよ。でも、すぐに別れちゃったわ」
「別れちゃったの?」
「いろいろあってね。詳しいことは話しても仕方ないから省略するけど、若い時の源二郎さんは本当にどうしようもない人でね。仕事のことしか考えない人で、彼の無責任な行動や言葉で傷ついて、そのまま別れちゃったのよ」
「えっ。じゃあ、どうしておばあちゃんはおじいちゃんと付き合っていたの?」
すると、久子は笑い声をあげた。
「なんていうかねー。昔の源二郎さん、本っ当にハンサムな人だったのよ。あの顔に騙されて近づいていった女は数知れず――まあ、私もその一人だったってわけよ」
「おばあちゃんが、おじいちゃんに……」
驚きはしたが、そう言われると妙に納得してしまう自分もいた。
使用人としてニニィの家にやって来たのだが、それにしてはやけに源二郎に話しかけていたので、何となく普通の関係ではないと思っていたが――。
「じゃあ、いつおじいちゃんと再会したの?」
「今からちょうど六年前くらいだったかな。中野坂上駅で偶然にね。ちょうどニニィちゃんが日本にやってきた直後で、いろいろと悩んでいた源二郎さんにアドバイスを送ったことがきっかけで、また付き合いが始まったのよ」
「そうだったの……」
「最初、源二郎さんから悩みを聞かされた時は驚いたね。昔はあれだけ人間に関心のなかった男が、真剣に悩んだ表情で私に打ち明けてくるんだもん。そのせいで、それまで最悪だった彼の印象がガラッと変わったわ。きっと彼に人間の心を与えてくれたのは、紛れもないニニィちゃんのおかげね。ニニィちゃんのおかげで今の源二郎さんがいるのよ」
ここで久子は大きく咳をして、苦しそうに胸を抑える。
「おばあちゃん、大丈夫?」
「……何とかね。全く困ったものよ」
「早く病院に戻ったほうがいいよ」
「いいや。もうちょっとだけ、この景色を見させてちょうだい。これが最後なのよ。こんな中途半端なところで終わったら、死んでも死に切れないわ」
痛みをこらえるような表情になりながら、彼女はゆっくりと息を整える。
久子は大丈夫だと言っているが、ニニィにとっては今にも倒れるんじゃないかと気が気でならなかった。
強い風が吹いたので、帽子が吹き飛ばされないようにニニィは手で抑える。
「源二郎さんが言ってたけど――」
先ほどに比べて、苦しそうな声で久子は口を開いた。
「ニニィちゃんだけ、卒業式の時に泣かなかったそうじゃない」
「あっ……。うん」
「周りの女の子はみんな泣いていたのに、ニニィちゃんだけ表情を変えずに立っていて、ちょっと浮いてたって言ってたよ。あんまり悲しくなかったの?」
この人に嘘をついても仕方ないので、ニニィは正直に「うん」と答える。
今から一週間ほど前、ニニィは小学校の卒業式だった。
久子が言った通り、悲しいといった気持ちはほとんど起きなかった。
楽しい思い出が無かったわけではないが、クラスメイトとそこまで馴染みがあったわけでもないので、泣くほど感情が揺れることがなかったのだ。
「まっ。別に泣かなかったって、責めるわけじゃないから安心しなさい」
「うん……」
「でも、誰とも親しくなれずに卒業するのはちょっと寂しいわね。まあ、いろいろ辛いことはあったから仕方なかったのかもしれないけど、もう少し積極的になるべきだったのかもね」
ごもっともな言葉に、ニニィは何も言い返すことができない。
「そこはニニィちゃんの良いところでもあり、悪いところでもあるわね」
久子は顔を上げて、再びニニィと目を合わせる。
「無理にやる必要はないけど、いざという時は自分から積極的にいかないと、後で取り返しのつかないことになりかねない場合だってあるのよ。ニニィちゃんはまだ若いから平気だけど、これからの長い人生――人間関係や仕事、または恋愛でも、いつか自分から積極的にいかないといけない時がやってくると思うわ」
「うん」
ニニィはこくりと頷く。
いつの間にか、久子の口調には力強さが戻っていた。
「あなたが窮地に陥った時、私は思い切って源二郎さんにニニィちゃんに会わせてくれと頼んだ。その結果、私は幸せな三年間を過ごすことができたし、ニニィちゃんもこうして小学校を卒業させることができた。あの時の私の選択は間違ってなかったと思うわ」
「うん」
「あなたには、私の持っている技術の全てを教えたつもりよ。そんなたいしたものじゃないけど、今後のニニィちゃんの人生に少しでもプラスになれるようにね。――だから、ニニィちゃん。私は一足先に逝っちゃうけど、どうかこれからも元気でいてちょうだいね」
「おばあちゃん……」
今にも泣きそうなニニィに、久子は微笑んだ。
「そんな悲しい顔しないで。あなたはすごく頭の良い子だから、絶対大丈夫よ」
桜の花びらを浴びながら、久子は微笑んでいき――。
※
ニニィの意識は現在に戻る。
南小滝橋の目の前には、無数の桜が咲き誇っていた。
今年も神田川をアーチにするようにして、大量の花びらを咲かせている。急にイギリスに行くことになってしまい、一時はここに来ることすらできないかもしれないと危惧されたが、何とか来ることができた。
もちろん、この場所に行くことは事前に柳原花蓮から許可はもらっている。
つい数時間前、ニニィは中学校の卒業式を済ませたばかりだった。
それからすぐに中野坂上に戻り、一人でこの南小滝橋にやってきた。なので、まだ学校の制服を着たままであるし、横に置いてある鞄の中には卒業証書も入っている。
この景色もしばらく見ることができない。
ニニィにとってそれは辛いことだったが、せっかく研究所の人がくれたチャンスを逃すわけにはいかなかった。祖父を救うためには、自分が頑張るしか方法はなかった。
久子の死後、ニニィはどうすればこの世に存在する病気を治すことができるのか、ひたすら考えていた。
どうして、この世界には病気というものが存在しているのだろう。どうして、あんな優しい久子が病気で死ななくちゃいけなかったんだろう。病気に対して憎しみすら抱いていたと、表現した方が良いかもしれない。
それと同時期に祖父と通じて、研究所の人がニニィにこんな提案をしてきた。
――もし、君が望むなら、両親と同じ研究をやってみないか?
それから、ニニィは研究所の力を借りながら、独学で病気治療のための勉強をやってきた。もちろん、これで本業を疎かにしてしまったら本末転倒なので、学校の勉強や家の家事もちゃんと行ってきた。おかげで同級生と一緒に過ごす時間を確保できず、小学校に続いて中学校でもこれといった友達はできなかった。
春の柔らかい風が吹いて、桜の花びらを舞い散らせていく。
自分はこれから祖父の病気の治療法を見つけるために、イギリスに旅立たなくてはいけない。これまで独自にやってきた研究とは比べものにならないくらい、あそこでは厳しい現実が待っているだろう。
本当は良央とも別れたくはなかった。彼との生活を終わらせたくなかった。
しかし、大切な祖父の命を助けるためには、覚悟を決めるしかなかった。
ニニィにとって、瀬名源二郎は自分の父親によく似た感じの人だった。
彼女の父親は、不器用だけど真面目で誠実な人間だった。
研究で忙しい母親の代わりとして、不器用ながら幼いニニィに接してくれていた。
怖い夢を見てしまい、一人で泣き崩れている時は無言でずっとそばにいてくれた。彼が作った料理を食べて「すごくまずい」と素直に答えると、本気でショックを受けたようにがっくり肩を落とした。その姿は、奇妙な可愛らしさすら感じてしまった。
源二郎は、どこかそんな父親を彷彿させるような人間だった。
普段は仕事もテキパキと効率的にこなしていく彼だが、いざ自分がやってくると、仕事をやっている時以上に必死な様子で自分に接していこうとしているのだ。
もっとも、ニニィが祖父に対して、そんな感情を抱くようになったのは久子が来てからだった。久子がやってくる前は、自分に降りかかってくる言葉の壁だったりクラスメイトのいじめだったり、やってくる脅威に抵抗しているので精一杯だったからだ。
久子が来なかったら、自分は間違いなく他人に関心を持つことができない人間になっていただろう。
ニニィは目を閉じて、これまでの三年間を思い浮かべる。
研究のことで頭がいっぱいだった時は、別に自分に親しい人ができなくても良いと思っていた。同級生の女の子たちがアイドルやファッションの話題で盛り上がっている時も、どうしてそんなことで楽しそうにできるんだか、と心の中で馬鹿にしたこともあった。
でも、馬鹿だったのか紛れもない自分自身だった。
それに気付かされたのは、紛れもなく古川良央という人間だった。
彼のおかげで、ニニィは何かを楽しむことの喜びを初めて知ることができたのだ。
良央のおかげで彼女は初めて音楽という趣味を持つことができたし、彼と一緒に行ったスカイツリーやディズニーランドはどれも新鮮で楽しかった。
これまで全く見向きもしなかったファッションにも興味を持つようになり、新宿のデパートで可愛らしい服を試着した時の衝撃は今でも忘れられなかった。
新しい自分に生まれ変わったような感覚だった。
これまで勉強や家事といった、家の中で完結する世界しか知らなかったニニィは良央との生活で、初めて外の世界に存在するものに興味を持つことができたのだ。
――そして、人を好きになるということも、初めてこの生活で知ることができた。
ニニィはゆっくりと目を開ける。
持ってきたデジタルカメラを構えて、目の前の景色を何枚も撮っていく。これは毎年行っていることだ。撮影した写真を確認している最中、カメラの上に桜の花びらが舞い降りてきたので、思わず顔を綻ばせながら払い落とす。
絶対に戻ってこようと、写真を見ながらニニィは自分に誓った。
今、この気持ちを彼に伝えたところで、彼を大きく戸惑わせるだけである。彼が自分をそんな目で見ていないことなんて、とっくの昔に承知していることだった。
だから、せめてもの形見として、久子のレシピ本を全て彼の家に置いてきた。
彼が自分を子供ではなく大人として見てくれる日がやってくるまで、自分の存在を忘れさせないために、今の自分が最も大切にしている本をあの場所に置いてきたのだ。レシピについて全部とは言い切れないが、だいたいは頭で覚えている。
時計を確認すると、時刻はもうすぐで午後三時である。
そろそろ行かないと、出発の時間に間に合わなくなってしまう。
「さよなら……」
小さくそう呟いて、ニニィは橋を離れようとした時だった。
「ニニィ!」
背後から馴染みのある――しかし、このタイミングではありえないはずの声が聞こえてきた。
振り向くと、そこには頭に包帯が巻かれてある良央が立っていた。
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【23】エピローグ
制服を着たニニィは、呆然とした様子でその場に佇んでいる。
大きく息を切らしながらも、良央は苦笑しながら彼女に近づいていく。
「なんだ。信じられないような顔をしているな」
「よ、良央さん……。どうしてここに」
「不幸中の幸いって言うのかな。昨日の電話があった後、ケガしちゃってさ。今日の仕事は来なくていいことになって、慌てて東京に戻ってきたんだ」
「ケガ? じゃあ、その頭の包帯は……」
「心配するな。検査を受けたけど、異常はなかったよ。で、少し前に花蓮さんからもらった名刺に会社の番号があったから、ダメ元で電話をしたんだ。そうしたらちょうど花蓮さんが会社にいたから、ニニィがどこにいるか尋ねてみたら『南小滝橋にいる』って言ってくれてね。なんていうか、本当に運が良かったとしか言い様がないよ」
病院の先生からは、もう少し安静にしておいた方がいいと説得されたが、そこは強引に押し通すことができた。上司にも東京に戻っていいと、何とか許可を取ってくれた。
「利香ちゃんから伝言を預かってる。――怒ってしまってごめんなさいだって」
「利香ちゃん?」
「詳しい事情は知らないけど、とにかくそう伝えてくれって有野くんが言ってた」
「そう、ですか……」
風が吹いて、桜の花びらが散っていく。
ニニィは未だに戸惑った様子でこちらを見ている。
あまり時間は残されていない。良央は単刀直入に本題に入ることにした。
「実はさ。ここに来る前、家の方にも寄ってみたんだ。そしたら、いつもニニィが使っているレシピ本が全て置いてあってさ。あれ、間違って忘れたわけじゃないよな?」
ニニィはうつむきながら黙っている。
「あの本、久子さんが書いたレシピ本だろ? お前にとってはすごく大切なものだったはずなのに、どうして俺の部屋に置いてきたんだ?」
「そ、それは、その――」
「やっぱりわざとだったのか?」
「え、ええと……」
頬を桜色に染めながら、ニニィは何とか口を動かそうとするが、うまく言えないようで、口をもごもごとさせている。
その小動物みたいな姿は、れっきとした十五歳の子供である。しかし、その中には確かに大人の片鱗を感じさせる何かが漂っており、より一層、良央は複雑な気持ちを抱いてしまった。
でも、久子のレシピを置いてきた時点で、彼女の想いは紛れもなく本物なのだ。
桜が舞い散る中、良央は小さく深呼吸をする。
ついに覚悟を決めた。
「ニニィ。お前の気持ちはよく分かった。でも、今はその時じゃないと思う」
えっ、とニニィは大きく目を見開く。
「俺も含めて、もうちょっと立派な人間にならないとな……。だから、その時がやって来るまでにお互いに待っていよう。お前の覚悟は十分に伝わってきたから、俺の方からも大切なものをお前に託すよ」
そう言って、良央はポケットからある物を取り出した。
それは先ほど家に戻ってきた時に取ってきた、青色のペンダントだった。
「これ、母さんの形見のペンダントなんだ。昔、父さんから結婚祝いとしてもらったものでさ。離婚した後も大切そうに持っていたんだ。それなりに値段の張るものだから、少しニニィには重たい物かもしれないけど、今の俺の中ではこれが一番大切なものなんだ。だから――」
良央はそのペンダントをニニィの首に巻きつける。
「受け取ってくれ。今、俺にできる精一杯の気持ちだ」
その直後――。
突然、ニニィが歩み寄って、良央の体に思い切り抱きついてきた。
良央は大きく目を見開く。いきなりのことに対応できず、そのまま何歩か後ろに下がってしまう。
ニニィの体がどんどん震えてきて、目から大粒の涙が流れていく。
と、同時に抱きつく力がどんどん強くなっていく。
絶叫、に等しい泣き声が響いた。
それは、あらゆる感情を全て放出させんばかりの声だった。あまりの大きさに、周囲を歩いていた人たちも良央たちに顔を向ける。
「おい、ニニィ……。離せ」
だが、彼女は首を大きく振って、良央から離れようとしない。
「ニニィ! 離せ!」
「いやだっ……。いやだっ!」
「おい、ニニィ!」
「あっ、ああっ、ああああっ!」
あろうことか、ニニィはさらに抱きつく力を強くさせてきた。
すさまじい力だった。
何が何でも離してやるものか、と言わんばかりの力だった。こんな華奢な体のいったいどこにそんな力があるのか、良央は信じられない気持ちで一杯だった。
良央は一呼吸した後、体の力を緩める。
「ニニィ、待ってるよ」
そう言って、良央はニニィの頭を撫でる。
その時、強い突風が吹いて、桜の花びらが二人を覆うように舞い散っていく。その花びらたちは、まるで二人を祝福しているようでもあり、別れを惜しんでいるようにも見えた。
「またここで一緒に桜を見よう。なっ?」
良央は微笑みながら、彼女の頭に付いている桜の花びらを取った。
終
最後までありがとうございました。
後書きにつきましては活動報告に記載しています。よろしければ、そちらにも目を通していただけると幸いです。
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