ふと思いついたFate/zeroのネタ作品 (ふふん)
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金ぴかはオリ主
その儀式は、万全であり完璧だった。幾度思い返しても、それしか言葉が出てこない。それほどの完成度。
少なくとも、儀式自体には欠片の欠点もない。そう遠坂時臣は自負している。呼び出したサーヴァント・アーチャーは万全のステータス、スキルでここに在った。
ならば、何が悪かったのか。臣下の礼も取った。落ち度は無かったはずだ。
しかし、現実として黄金のサーヴァントは、時臣の語りに答えることすらせず。一瞥をくれると、すぐにおもむろに『何か』を取り出し――
瞬間、令呪に激痛が走った。慌てて見てみると、そこには三画ある筈のうち、二画が消えており。さらに、アーチャーとのラインも消えていた。
何が起きたのか知る暇も無く、アーチャーは巨大な何かを取り出す。それは、家を内部から軽々吹き飛ばし、そしてサーヴァントはいずこへと去って行く。
これが、遠坂時臣の、最悪な聖杯戦争の幕開けだった。
訳が分からん。空を高速で飛翔する宝具に乗って、俺は頭を抱えた。がしがしと頭をかく指も、靡く金髪も、当然俺本来のものではない。この肉体、と言っていいかどうかは分からないが、とにかく元の持ち主、ギルガメッシュのものだ。
目が覚めたら、目の前に何かを勘違いしたとしか思えないアゴ髭親父がいた。しかもなぜか頭を下げてくる。この時点で反応に困らない奴はいないだろう。自分を気の利かない人間だとは思わないが、こんな状況で気の利いた事を言えるほどボキャブラリが豊富ではない。
現状は、幸か不幸かすぐに把握できた。知らないはずの知識が、頭に膨大に詰め込まれていたからだ。その中でも重要だったのが、聖杯やらサーヴァントやら令呪やら。あとは戦争やらと物騒な単語。
Fate、という物語がある。今の自分の環境は、正しくそれだった。しかも、スピンオフ作品であるFate/zeroの登場人物の一人、アーチャークラスのギルガメッシュ。
「訳分かんねー……」
さらに深く頭を抱えて、背中を丸める。現状を把握できたところで、それを理解できるわけじゃないのだ。
とりあえず、と。飛行宝具、おそらくヴィマーナを近くのビル屋上に着陸させた。別に冷静さが戻った訳じゃ無い。無駄に魔力を消費するのは避けるべきだと、そう思ったからだ。
高所から、人工光に彩られた雑踏を見下ろす。それで何となく、自分が日常に混ざった気分を味わった。所用現実逃避だ。
「とりあえず、マスターを見つけないと……」
このまま消えるという選択肢は、最初からない。アーチャーは単独行動スキルが高く、今のままでも数日は現界可能だろう。しかし、それを幸いと言うには、マスター候補に問題がありすぎる。
まず、魔術師ですら無い雨竜龍之介は論外。同時に、サーヴァントを呼び出し済みの言峰綺礼も除外。魔力供給に不安が残る間桐雁夜もない。
ここからは、まだサーヴァントを呼び出していないという前提の話になる。ウェイバーは、魔力供給量の問題で優先順位は低い。それに、ごちゃごちゃと文句をつけて来そうな奴はごめんだ。信頼関係を築けば話は違うのだろうが、生憎とこちらにも余裕が無い。
次に切嗣。そもそも会話を放棄する時点で、文字通りお話にならない。こっちはなんとしても生き残りたいのだ。それに、物理的な距離も遠い。彼はセイバーに苦労してもらおう。合唱。
最後はケイネスだ。こいつは限りなく本命に近い。魔術師として申し分なく、個人の戦闘能力も高い。切嗣ほどではないが頑なな部分こそあるが、あれはランサーも悪い。初っぱな寝取り能力発動さえなければ、もうちょいマシな主従関係だった筈である。天敵である切嗣にも、防御宝具を2、3貸しておけば問題ない。ただし、こちらも距離が遠い。
こうして見ると、時臣はかなりの安パイだった。迂闊に飛び出したのが悔やまれる。まあ、最終的に裏切ってくるので、遅いか早いかの違いだと思って諦めよう。
幸い、時臣から奪った令呪が二画、手元にある。これを使って、新しくマスターを作ってもいいのだが。
「誰かいるか? マスターにして角が立たない人間って」
ぶっちゃけどこもヤバい。
アイリスフィールは切嗣の言いなりだ。信頼関係を気付いて話を聞くようになっても、最終的には伴侶を選ぶだろう。あと下手したら修羅場。
ソラウ。不可能である。今でさえ修羅場ど真ん中。能力を見せて、ちょっとそそのかせば内部に入るの自体は難しくない。戦力的には間違いなく全陣営最高だが、必ず自滅する。修羅場を見るのは楽しいが、強制参加はごめんだ。
最終手段ですらない地雷、みんな大好き間桐臓硯。メリットを得るためにリスクを振り切ってどうするって話だ。
「あー、マスターさえいれば何とかなるのに……」
そう、俺は、まともなマスターさえいればどの陣営と戦っても、絶対に勝てると思っている。
ぶっちゃけギルガメッシュのスペックは異常だ。ただでさえステータスが高いのに、強さイコール宝具だというのが最高である。これが、宝具よりも本人が強いアルトリアやディルムッドではこうはいかなかった。
加えて、王の財宝は初見殺し。考えてみて欲しい、相手の攻撃方法が分からず構えていると、いきなりミサイルが百発以上降ってくるのを。これをなんとかできる英霊など、まずいまい。
イスカンダルも宝具頼りの英霊だが、能力の桁が違う。常時飛び回っているのは確かに驚異だが、逆に言えば、白兵戦能力が低いと言っているようなもの。少なくとも、セイバーやランサーに接近されてなんとかする能力はあるまい。当然俺にも、ギルガメッシュにも、密着されると普通に勝つ能力はない。
宝具を発動されても、なんとかする自信がある。ランクの高い宝具は、螺湮城教本、騎士は徒手にて死せず、約束された勝利の剣、王の軍勢あたり。他にもあるが、ひとまず置いておく。まず前者二つは問題ない。俺は宝具が汚れるのなど気にしないし、奪われようとも対処不能な物量を投げればいい。状態異常やステータス低下系の道具を撒いてやるのも手だ。
星の聖剣は、エアを使わずとも防御宝具を多数動員すれば、防ぎきれる。とは言え、セイバーの場合、迎撃や防御不可能なタイミングで放ってくる可能性が高い。油断は禁物だ。
王の軍勢は……正直、コメントに困る。独立サーヴァントの連続召喚、確かに凄いだろう。凄いが、これが聖杯戦争でどれほど役に立つかと問われると、首を傾げる。考えてみて欲しい、宝具の殆どは『対軍宝具』以上なのだ。そう、軍隊をぶっ飛ばすのに適した宝具を持つサーヴァントが、山のようにいる。そんな中で軍隊を召喚? まあ、王の威厳を見せつけるには、この上無いのだろうが。そういう意味では、俺の憑依先がギルガメッシュで本当によかった。イスカンダルでは飛んで逃げる以外に何も出来ない。
「……思考が横にずれた。とにかく、マスターだよ。魔術師としての能力低くてもいいから、供給魔力多くて、あんまりごちゃごちゃ言ってこない奴。そんなのいるか? ……いや、一人だけいたか」
俺は立ち上がった。同時に、移動用宝具を取り出す。漠然とした考えでも、最適な宝具を取り出してくれる王の財宝は便利極まる。
(確か、残りのサーヴァント召喚タイミングは殆ど同時だったか?)
ならば、これから行く場所にもサーヴァントがいる可能性が高い。同時に、呼び出したばかりでは体制が万全とはいかないだろう。最悪戦闘になる事も考えると、付け入る最高のタイミングは今だ。
ヴィマーナに乗って、最高速度で飛翔させる。
目的地は、間桐邸だ。
――その瞬間、間桐邸は地獄と化した。いや、この呪われた家が地獄で無いなど、一度たりとて思ったことは無い。少なくとも間桐雁夜にとって、そこは地獄の写し身であった。
しかし、今日のそれはいつもと毛色が全く違う。最初に感じたのは、衝撃波だった。あらゆる家具が吹き飛び、当然雁夜の体も壁にたたきつけられる。半ば砕かれた家は、残りの部分から崩れ落ちた。体が上げる悲鳴は、建物全体から響くきしみにかき消される。
すぐに立ち上がれるほどダメージが少なかったのは、奇跡でもなんでもない。危険――それに反応したバーサーカーが、勝手に具現して構えていたからだ。骨を何本か持って行かれたはずの渦は真っ二つに裂かれ、その余波だけを浴びた。
崩れた壁の向こうに広がる夜空を見ながら、とりあえず体をはたく。全身に被った埃が、霧のように舞った。床がぐらぐらと揺れており、とても頼りない。今にも抜けてしまいそうだ。
ここは地獄だ。ただし、いつもの凍てつくようなそれと違い、灼熱の煉獄に落とされたような。ただ、地獄であるという事だけが共通している。どう変化しても地獄でしか無い間桐家に、なんだか笑いがこみ上げてきた。非常にばかばかしい。現実的ではない。まるで――そう、まるで、戦争のようではないか。紛争地近くの村であれば、こんな事もある、という程度の出来事。
そして、そんな戦争に参加している自分も馬鹿馬鹿しい。魔術師の妄執に振り回された自分が、魔術師の怨念に参加した。どこもかしこも馬鹿ばかりの、非常にくだらない話。
ただ、それでも。どれだけ馬鹿馬鹿しくも、許せないことがあり……救いたい人がいる。それを達成するならば、どんな犠牲を払ってもいい。少女に、もう一度笑顔を――
「桜ちゃん!」
雁夜は絶叫した。崩れそうな床を無視して、破壊された断面まで急ぐ。縁の部分に手を突くと、がらりと崩れ、体を強くたたき付ける。今度はそのまま落ちないように藻掻き、体を安定させて、やっと下を覗いた。
彼が休んでいたのは二階だ。床が壊されているのだから、それは当然一階まで貫通している。しかし、その大穴はさらに奥まで突き抜け、深淵のような闇に消えている。
「――――!」
声にならない悲鳴が、頭の中で反響する。気が狂いそうなほどの絶望感。自分は、英霊召喚の疲れで休んでいたのだ。その次に、蟲蔵に入れられるのは、一人しかいない。
体は、全身の麻痺も忘れて動き出していた。階段は今消滅した。半分消えた床部分から飛び、一階に置いてあるソファの上に降りる。それでもすり減った体力では衝撃を殺しきれず、強かに体を打ち付けた。痛む体を叱咤して、さらに深くまで続く穴を見る。地中深くまでくり抜かれたそこは、ちょっとしたビル程度の高さがある。さすがに、飛び降りれば死ぬ可能性が高い。
暗くて何も見えなかった蟲蔵が、一瞬にして全てを照らした。そのあまりの光度に、蔵全体を恐ろしい火力で燃やされているのだと、気付くのが遅れる。
「くそっ!」
悪態を吐く。もう一刻の猶予も無い。助走をつけて、いっきに飛び降りた。目的は、手すりも無い石をくり抜いて作った階段だ。着地と共に、踊り場にたたき付けられる。体をかばった左腕から、嫌な音がした。構うものか、どう鈍らで役立たずだったものだ。
「桜ちゃん! 無事だったら返事をしてくれ!」
冗談のような火力にかき消される声。それでも、声を上げずにはいられなかった。
まるで神罰が下ったかのような光景だ。間桐数百年の悪夢を、一瞬にして浄化するような熱を帯びた光脈。ただし、それは桜をも巻き込んで滅ぼそうとしている。
「どこだ――お願いだ――」
体があぶられるのも、喉が張り裂け血が流れるのも無視して、ただ少女を探す。もうだめなのかも知れない、絶望が、脳裏をよぎった時だ。
光の膜から、さらにまばゆく輝く何者かが姿を現した。黄金の鎧に、黄金の髪、紅の瞳。全てを金で構成した、圧倒的な存在。この煉獄の中にありながら、汗一つ垂らしていない。
彼のことを、雁夜はしっていた。正確に言えば、彼のような存在の事を。
――英雄。到達者であり、世界が誇る奇跡の結晶。時代の輝きを収束させた、英知の具現者たち。バーサーカーを見たときは、知識として知っていても、そんな思いは抱かなかったというのに。目の前のサーヴァントは、まるでそういう存在の中心に立つように、当然と、悠然と、そこにいる。
その化け物じみた男の脇には、一人の少女が抱えられていた。よく見知った、彼が幸福を願った少女。それが、今はぐったりと意識を失い、抱えられるままになっている。
「桜ちゃん! ……っ、貴様、桜ちゃんに何をした!?」
一瞬圧倒されていた意識を呼び戻す。この惨状は、間違いなく目の前の男が引き起こした事なのだ。相対した男の反応は、一瞥、それだけだった。無視するように、何かを始めようとして――バーサーカーが、地面を踏み砕いた。
正気を失っているバーサーカーは、そのトリガーを術者の感情にまかせている。つまり、雁夜が怒れば、バーサーカーも戦闘態勢に入るのだ。普段であれば、悪い事ではない。ただ、今は標的の横に桜がいるのだ。そして、バーサーカーに彼女だけ狙うのをやめるような正気と器用さはない。
「やめ――!」
言葉は、最後まで続くことはなかった。一瞬前に突撃したバーサーカーは、次の瞬間には、雁夜の脇を通り過ぎて、壁に激突。ぎしりと音を鳴らして、そのまま霊体化した。
「……は?」
何が起きたか、全く理解できない。いや、何をされたかは、偶然バーサーカーと視線を同調させていたから分かる。
まず男の背後が揺らぎ、山のように針が飛んできた。騎士は徒手にて死せずという、持ったものを自分の所持物にする宝具。強力ではあるが、小さな武器が山のように降ってくれば、対処しきれない。幾ばくかは握れたものの、全身は殆ど穴だらけ。そして、動きが鈍った所に、巨大なハンマーをたたき付けられた。たった、それだけだ。
英霊としてのステータスで言うならば、バーサーカーの圧勝だ。殆どが最高ランクであり、恐らく今戦争中最高だろう。しかし、そのバーサーカーが、まるで歯が立たない。一矢報いることすらできなかった。
このサーヴァントには勝てない――何が起きても。それを刻みつけられるのに十分すぎた。
それでも、いや、それですら、雁夜の心を折るには足りない。どのような恐怖であろうと、今の彼を折る事は出来ないだろう。死の覚悟も、とっくの昔にできている。――それが、ただの狂気であったとしても。
「こいつはもらっていくぞ」
黄金のサーヴァントが残したのは、いまだ反骨心を見せる雁夜への手向けだったのかも知れない。
「ふざけるな! 桜ちゃんを――」
しかし、それだけだ。もう雁夜の言葉に反応せず、背を向ける。そして、また空間が波打ち、出てきた巨大な何かで、男は去って行った。
後に残ったのは、吹き飛んだ蟲蔵だけだ。雁夜しか、そこにはいない。桜は、もういない。
火の勢いが衰えたそこで膝を突き、涙を流して絶叫する。いくら泣き叫んでも、敗北の苦さはごまかせなかった。
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時臣は苦労性
じとり、床に付く手に、大きな汗の粒が浮く。それは疲労のためでもあり、魔力消費のためでもあり、そしてなにより――緊張のためであった。
頼む――万感の思いを、魔力に乗せる。開いた魔術回路から、感情ごと魔力が流れていき、それが手元にある魔方陣に染み渡った。もはや、高望みはしない。頼む、それだけを念じ続けて、最後の一節を唱える。
「抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ!」
魔方陣が、強く赤い光を発っした。熱すら帯びそうなそれは、ぶわりと待って工房内に満ちる。これだけの魔力であっても、ただの呼び水でしかない。それは『一度目』の召喚の時に、よく知っているのだ。発光は臨界点を超え、そして――
それ以降、術式は肥大化することは無く、静かに幕を下ろしていく。後に残ったのは、薄暗い魔術工房と、膝を折った時臣だけだった。
「……やはり、だめだったか」
可能性は低いと、最初から予測していた。しかし、期待をしていたのも事実なのだ。実際に試してみて、失敗を目の当たりにすれば、落胆は大きい。
遠坂時臣は、アーチャーに逃げられた翌日、次のサーヴァント召喚儀式に挑む。しかし、結果は見ての通りの、大失敗であった。マスター一人に一体のサーヴァント、この原則は、たとえサーヴァントを失っても適応されるらしい。
魔力は十全とはほど遠く、媒介すら無い状態での無差別召喚。ありったけの魔力を注ぎ込んでの挑戦は、むやみに魔力を失っただけ。キャスターでもいい、どれほど弱くともいい。聖杯戦争に参加する資格さえ得られれば、それだけでよかったのに。
これで、最後の手段に頼らざるをえなくなった。
言峰綺礼から、令呪を一画移植されての、サーヴァントの共有。つまり、合計四画の令呪で、サーヴァントに多重契約をさせるのだ。これは、自信を分割できる能力のあるアサシンだったからこそ出来る荒技だ。
当然、こんな真似をして問題がない訳が無い。命令系統に異常が起きる、意思の統一に影響が出る、最悪の場合はアサシン内で意見が割れる。あり得そうな可能性は、いくらでも考えつく。本当に、無理矢理参加資格を得る、それ以外にメリットのない行為なのだ。どこかに、マスターを失ったサーヴァントがいればいいのだが。それもやはり、過度な期待はできない。
「綺礼か……いや、変わらなくていい。やはり、召喚は成功しなかったとだけ伝えてくれ。移植と令呪の調整は明日にする」
必要事項だけを手早く伝えて、連絡を切った。常に余裕を持って優雅たれを家訓としていても、さすがに長々と話して入れる精神状態では無かった。
倒れ込むように、備え付けの椅子に座る。肘掛けに手を置き、頭を乗せれば。その場で眠ってしまいそうな程に、精神的な疲れが襲ってくる。彼から余裕を奪っているのは、サーヴァントについてだけではなかった。
「……桜」
口から自然と、養子に出した娘の名前が漏れる。
早々にサーヴァントを失い自失する時臣に、次の悪い知らせが届いたのはすぐだった。なんと、サーヴァントによる間桐邸の襲撃と崩壊、そして間桐桜の拉致。聞いた瞬間、足下から何かが崩れていくのを確かに感じた。
教会が事後処理に忙殺される中、独自に間桐と連絡を取る。そこで、襲撃したのが自分から逃げたサーヴァントである事。間桐臓硯は無事だが、手ひどいダメージを受けた事。そして、サーヴァントの目的は桜であった事を知った。聖杯戦争中の出来事であるため、間桐からも追求の声は上がらなかったが。サーヴァントを御せなかったという、汚名を被ったのは変わらない。
桜の発見は、とても簡単だった。いくらアサシンを総動員したとは言え、翌日の朝に見つかったのだから。アーチャーには、彼女を隠す気配がなかった。それどころか、桜をマスターにしたという事実すら、秘匿する様子がない。
救出も考えたが、それは止めざるを得なかった。アサシン曰く、桜の周りには常に強力な宝具の気配がする、との事。桜を簡単に発見できる所に置いておいたのは、守る自信があったからだろう。
そして、逃げ出す可能性も考えていなかっただろう。桜の側には、アーチャーの宝具らしい女性が一人だけ。他に、逃走を妨害しそうなものは見当たらなかったのに、桜は動かなかった。いや、それどころか、監視している間、微動だにしなかったのだ。
「私は……」
頭は、いつの間にか冴えていた。疲れは相変わらず、体を冒している。しかし、それを凌駕するほど、脳はクリーンに働いていた。
なおも思考は続く。
「私は綺礼から報告を受けて、桜の正気は、アーチャーに何らかの手段で奪われたものだと思っていた」
瞬きすら最小限。茫洋と、同じ方向を見続ける……いや、見てもおらず、視線を向けていただけ。そこには何も映っていなかった。
アーチャーが迎えに来るまで、桜の様子は変わらない。呼び寄せられた後も、やはり人形のように、ただ粛々と従うだけだったと報告を受けた。
「しかし、本当にそうなのか? それは、なんと言うか、効率的ではない筈なのだ」
独りごちる。とにかく、上手く言えないが……おかしい。暗く、正面にある壁のシミも見えない部屋で。ただ一人、虚空と自分に語りかけた。
「アーチャーは、自分に都合のいいマスターを求めていた。だから、桜を選んだ……これが納得いかない。なぜ桜なのだ?」
拉致の連絡を受けて、早半日。多忙な日中を乗り切り、魔術儀式で体力の一欠片まで消費し、やっと得た空白の時間。そこで、今までにないほど冷静な脳が、淡々と疑問点を持ち上げてきた。アーチャーに向いていた、無軌道な憤りが消えたわけでは無いが。しかし、一度見つめ直すと、見え方が全く違ってくる。
「魔術師の正気を奪えるならば、私のままでも問題ない。条件があったとしても、桜で大丈夫ならば、凛でも大丈夫だったはず。敵サーヴァントと会うリスクを考えれば、凛一択でなければおかしい。しかし、現実には私でも凛でもなく、堅牢と行ってもいい魔術師の住居にいた桜を選んだ、か」
なぜだ。分からない。サーヴァントの気まぐれであるかも知れない。いや、気まぐれならば、むしろその方がいい。ただ理解を諦めればいいだけなのだから。しかし、そこに理由があったとしたら。桜が最善であると、アーチャーが判断したのであれば。
例えば、桜は洗脳されてなどいない。間桐にいた時から、あの有様だった、とか。
ぞわりと、時臣の背中を虫が這い上がる。その感情に何という名前をつけていいのか、全く分からなかった。ただ、それは胸の内で納めきれないほど苛烈に、大きくふくれあがる。
ほんの僅かな希望。それがあるとすれば、桜がアーチャーのマスターである限り、指一本触れられる者はいない、という点であろう。
とにかく、なんとしても桜を助けなければならない。そのために、今の時点で聖杯戦争から脱落する訳にはいかなかった。
最悪、アサシンを使いつぶしてもいい。今回聖杯を諦めるのすら、許容範囲であった。
とにかく、真実を。ただ事実を暴く。アーチャーの真意と、桜の事情。これだけは、何があっても知らなければならない。
そのためには、どんなことでもするつもりだ。
やばい……セイバーが怖い。札束がいっぱいに詰まったアタッシュケースが複数並び、金銀宝石がぞんざいに転がっているテーブルを前に。俺は顔を引きつらせながら、そこにいた。
桜を奪還して余裕ができたとはいえ、それはあくまで、最低限の生存権を得られた、というだけだ。ここから生き残るのであれば、まだまだ足りない。次に求めたのは先立つもの――早い話が金だった。食料を買うのも、拠点を得るのも、戸籍が無い怪しさをひっぱたいて黙らせるのも、全て金の力だ。金、金、金。現代の世で力ある者というのは、すなわち金があるもの。たとえ圧倒的な武力を持とうとも、金がなければ弱者でしか無い。
幸いにも、ギルガメッシュとは黄金律というスキルがある。一生金に困らず遊んで暮らせる能力だ。どうでもいいが、これをスキル扱いするのは何か間違っているのではなかろうか。
桜をその辺に置いておき、宝具を山ほど置いて金策に出た俺。ちなみに、今冬木市で動けるサーヴァントは、俺とアサシンだけというのは確認済みだった。だからこそ、サーヴァントの強襲を度外視して動けたのだ。
当初、俺はスキル内容を金運がいい、程度に考えていた。適当に金を拾って、それでギャンブルでもする。そうすれば、まあ数日しのげる程度には稼げるだろう、と。
一日街を歩いた詳細は省く。ただ、その結果、俺は拠点となるビルを手に入れた。
いや、確かにビルは欲しいと思っていたのだ。聖杯戦争の内容を考えると、そこそこ人がいる場所に、がちがちに防御を固めた陣地を作るのが一番いい。俺ならば、町内全体を探索範囲として設定する事ができるのだ。つまり、昼に攻撃できず、敷地に入れば迎撃部隊を投入され、外部からの破壊はほぼ不可能、内部は半異界と化したダンジョン。そんな拠点になる。
しかし、それはあくまで最善を想定した話。そんな都合のいいビルが手に入ると思っていなかったのに……入った。
呆然としながらも、とりあえず拠点となる場所に移動しよう、そう考えて桜の元に戻ろうとした。しかし、そこでも金を手に入れたり、なぜか貴金属を献上されたり。とにかく、金が山のように手元に入ってきた。
……これが、三日前の話だ。さらに二日、ものを揃えに買い物に出向いたりすると、また金が増える。今や俺は、ちょっとした富豪だった。
さて、アーチャーの黄金律のランクはいくつだっただろうか。答えはAだ。これは桜にも確認してもらったので、間違いはない。
も一つ問題だ。セイバーの戦闘向けスキルはいくつあったでしょうか。答えは四つ、直感と魔力放出と騎乗と対魔力。もう一つ問題、それらのランクはいくつだったでしょうか。答えはAだ。
数日でもっとも都合のいいビルと、合計十数億の金銭を手に入れられるスキルランクと、同じランクなのだ。しかも、ステータスも俺より上。マジで宝具がなかったら勝てる気のしないステータスとスキルである。最優の名は伊達ではない。zeroセイバーはSN時と違って、やたらメンタル弱いから、そこだけが救いだ。
金の使い方は、おいおい考えよう。欲しいとは思ったが、こんな大金、庶民だった俺には使い道が思い浮かばない。
「アーチャーさん……」
ぼそり、と声に出される単語。それが俺を呼んでいると理解するのに、少しだけ時間がかかった。
振り返ると、そこには間桐桜。現実に見る彼女は血の気が薄く、顔に生気が全くなくて、死体を見ているようだ。そんなのが入り口で体を僅かに隠し、ぼそりとこちらを呼ぶ。下手な幽霊よりよほど怖い。
「何だ?」
「ごはん」
霞のような音をふっと吐き。消えるように、という表現がとても合う動きで踵を返していた。
その背中には、あまりにも何も無く。彼女に謝ろうとしても、どう言葉をかければいいか、全く分からない。
俺は桜を拉致して、無理矢理マスターにした。全て俺の都合だ。そして、彼女には何も報いていない。世話すら、取り出した自動人形に任せている。顔を合わせる事はそれなりに多いものの、そこに会話がある事は殆ど無い。はっきり言ってしまおう、俺の桜に対するスタンスは、完全に放任だった。
自分がろくでもないという自覚はある。彼女をいいように利用しているという意味では、間桐と大差ない。
そして今日も、かける言葉が見つからず。ただ黙って、リビングへと向かった。
食事はいつも二人だけで、無言のまま終わる。自動人形に片付けをさせて、そのまま何となく解散。それがいつもの流れなのだが、今日は違った。いつの間にか近づいていた桜が、服の袖を握っていたのだ。
「何だ?」
「アーチャーさんは、どうして私を助けたんですか?」
「……別に、お前を助けるつもりでやった訳じゃない」
ただの本音だ。聞かれたから答える。だから、これは別に懺悔でもなんでもない。
「魔力があって、黙って言うことを聞く奴が欲しかった。だからお前を選んだだけで、助けようなんて、最初から思っちゃいない」
「そうですか」
言って、手放される手。表情からは、感情を読み取れない。ただ確認しただけ、そうとしか思えない口調だ。
「……でも、もういたくないです」
だから、その言葉にどんな思いを乗せたのか、俺には分からなかった。
言うだけ言った桜は、近くのソファーに座り、あとはじっと動かない。このまま誰かに何か言われるまで、じっと動かないのが彼女の普通だった。たまに、立ち上がったと思えば座る場所を変えたり。あとは町内をふらふら歩いたり(防御陣営内を昼間、自動人形を連れてなら出歩いていいと言っている)しているので、全く自意識がないという訳ではないのだろうが。
後回しみたいになるが、桜の行く末は聖杯戦争の後だ。今は、生き残りの為に集中しなくては。
王の財宝から、遠見の為の道具を取り出し、テーブルの上に設置した。それを起動し、倉庫地帯全域を写す。じっくり隅々まで観察して……いた。濃厚な気配を振りまいている存在が。そこにピントを合わせる。
と、ここで隣に、ぽすりとものが落ちた。振り向くと、相変わらず無表情の桜が、しかし隣に座っている。
「見たいのか?」
答えはない。が、首は確かに縦に振られていた。隠し立てをするような内容ではないし、何かのきっかけで自意識が復活するかもしれないし。鏡の解像度を上げていった。
そこにいたのは、呪符にくるまった二槍を持つ美丈夫。間違いなくランサーだ。
ほっと胸をなで下ろす。彼らを動かすために、色々と骨を折ったのだ。もし動いてくれてなかったら、機能の努力は全くの無駄に終わっていた。
俺がギルガメッシュに憑依した事による影響を受けたのは、時臣陣営と間桐陣営だ。つまり、他の陣営にはまだ大きな影響はないのである。少なくとも、早々に方針を変えよう、と思わせる程の影響は。
ならば、多少のリスクを冒しても、物語通りに動くよう調整する。ここはzeroないし、zeroに限りなく近い世界ではあるだろう。しかし、どこかで何かがずれているとも限らない。
全陣営の情報を持っているが、それはあくまで全て正しという前提で、初めて意味がある。ここは多少の優位を捨ててでも、全陣営に情報をはき出してもらうべきだ。
と、言うわけで、俺は昨日の晩ふらふらと出歩いていた。当然戦いなんてごめんなので、気配はかなり薄くして。……バーサーカーとの戦闘は、本当に死ぬかと思った。能力知って事前に対策を立ててたから咄嗟に動けていたものの、あの不意打ちは本気で心臓に悪い。
俺がふらふらすれば、当然アサシンも付いてくる。と言うか、付いてこさせるために、アサシンが陣地に入っても迎撃しなかったのだ。俺の索敵能力をなめてもらわねば困る。
ちなみに、アサシンの気配遮断スキルは攻略済みだ。いくら気配がなかろうと、長時間宝具で作り出した陣地にいられれば、さすがに発見できる。
アサシンお供に夜遊びに出かけ、他陣営の使い魔が俺を追跡するのを待つ。揃ってきた所で、さあ攻撃しようとし――逆にアサシンが、じりじりと近づいてきた。
ふと疑問に思ったが、よく考えればそんなに不思議でも無い。アサシンが退場したと思わせるには、原作のシチュエーションよりも遙かに説得力があるのだから。俺はランサー組を動かしたく、綺礼はアサシンを隠したい。ここで利害は一致したわけだ。
ある程度接近してきた所で、俺は急激に反転。アサシンに躍りかかった。宝具は使わない。事前に桜にステータスを確認させ、オールEの薄い個体だと確認済みだ。わざわざ手札を見せてやる理由も無く、掴んだ頭を強引に地面にたたき付けて、戦闘をあっさりと終えた。
これで、明日戦争に動きがある可能性が高くなっただろう。加えて、俺の索敵能力が低いと判断してくれれば言うことなしだ。
そして今日……まあ策略という程のものではないが、おびき出しは成功。狙い通り、ランサーが姿を現してくれたわけだ。
瞑想しつつも、周囲に撒く圧力は押さえない。それから程なくして、セイバーがやってきた。
「頼むぞー」
「?」
「なんでもない」
ぼそりとした俺のつぶやきに、桜が首を傾げていた。言いながら、ぐっと頭を持って鏡の方向に向かせる。
画面の端に、白い髪の女、恐らくアイリスフィールが映っている。これでほぼ確定だ。しかし、断言はできない。俺はもっとはっきりした証拠が欲しいのだ。
剣士と槍兵の戦いは、次第に激しくなっていく。獲物がぶつかり合う度に、強烈な衝撃波が周囲にあるコンテナを叩いている。たまに、武器そのものが壁や地面に触れると、最初からそうであったかのように殆ど抵抗なく抉られている。余波だけでこれだ、本流を叩き付け合っている二人には、どんな力学が働いているのか。
両者共に、相手を攻めきるほどの差は無い。しかし、それは大きく引き離せていないと言うだけで、差は確かに存在する。その証拠に、セイバーがランサーを、じりじりと押し込み始めていた。独特の槍裁きと経験で凌いではいるが、純粋なパワー差をどうにかするほどのものではない。
「ねえ」
桜の呼びかけ。視線は画面に向いたままだが、それに見入っているという様子でもない。虚ろな瞳には、鏡写しになった画面。ちょうど火花が散り、虹彩を彩っている。
「この人達は、なんで戦ってるんですか?」
「あん? 何でって……聖杯を手に入れるためだけど」
「セイハイ?」
もしかして桜は、まだ聖杯戦争の事情を知らないのだろうか。いや、思ってみれば当然かも知れない。魔術は一子相伝で、後継者以外は一般人として育てられるとか何かに書いてあった気がする。
養子に出されたのは、およそ一年前。直前まで扱いを迷っていたのなら、遠坂家で説明がないのも当然だ。間桐で普通に育てられていたとしても、年齢を考えれば、聖杯の説明があったかは微妙なライン。仮に説明されていても、理解できるかどうかとは別の話だしな。
「そう、聖杯だ。そんなもんが欲しくて、遠坂も間桐のジジイも、色々やってた訳だ」
「そのいろいろは……わたしもですか?」
――聡い子供は嫌いだ。言いたくなかった事まで、言わなければならなくなる。これで俺が関係なければ、そんな事は知らなくていいとでも言えていた。けど、俺は当事者で、遠坂や間桐と変わらないような人間だった。
「そうだ。俺も、そうやってお前を巻き込んだ。……悪かったな」
左手で桜の頭を掴み、無理矢理なで回す。何をしても抵抗がない事を知っていて、彼女の目を見たくなくて。
くそ、ただの一般人だった俺がなんでこんな思いをしなきゃいけないんだ。ギルガメッシュが神を嫌いな理由がよく分かった。俺も運命の女神なんてもんがいたら、絶対に呪ってる。
意識を画面に戻すと、場面は佳境に入っていた。ランサーが自分の槍から、呪符を剥がしている。俺は身を乗り出して、集中した。
セイバーが後退し、剣を大きく脇に構える。しかし、体は前のめりだ。あからさますぎる、チャージの姿勢。来たか、俺の中の観客が腰を浮かせた。直後、鎧が消えて――これは――暴風と共に、視認も難しい速度でランサーに突撃。
そして、黄色い槍にざっくりとやられてくれた。
「やった!」
勝った! 俺の勝率はうなぎ登りで鯉のぼりだ!
「?」
「いやなんでもない」
さっきよりも怪訝そうな様子の桜の頭を、両手で持って画面に向かせた。
興奮のあまり、ちょっとテンションがおかしくなっていた。反省はするが後悔はしていない。とにかく、それくらい嬉しかった。
なぜ俺がそんなに喜んでいるかと言うと、それはFate/zeroの設定に由来する。もっと言えば、Fate本編と、zeroとの設定の違いに、だ。
スピンオフなだけあって、Fateとzeroには、かなり設定の違いがある。例えばSNでは、セイバーと切嗣は、感情はどうであれ阿吽の呼吸であった。切嗣も、魔術師から忌避されるような存在では無く、魔術師らしすぎる魔術師という評価だったり。参加したマスターの魔術師を殺しまくって無双をしていたとか。セイバーは願いの内容からして違った。遠坂時臣は言峰綺礼ばりの武術の使い手という設定もある。あと、言峰が目覚めるのも聖杯戦争よりもっと早く、覚醒内容も異質で得体が知れない。元のアーチャーがセイバーに求婚した理由も違った。
まあつまり、キャラが殆ど違うのだ。ここで問題なのは、キャラが違えば行動も違ってくる、という点である。どちらの方がより強いか、というのは、この際関係がない。
俺の優位とは、主に二つ。全サーヴァント中ぶっちぎりで最強のギルガメッシュである事。そして、Fateの情報を持っている事だ。
Fate本編では、言峰以外のキャラクターは一言二言の出演のみで、後は設定だけ。それに対し、zeroの場合は、大まかな行動と性格のほぼ全てを把握しているのだ。出来事については、俺の行動でほぼ意味をなさなくなったと言ってもいいだろう。それでも、性格を知っていれば傾向を把握でき、対策を立てられる。ほぼノーデータのSN基準とでは、相手の行動の予測範囲が違ってくる。
特にセイバーは、SN基準だと恐ろしすぎて笑えない。本編のセイバーには、ギルガメッシュを倒した実績があるのだ。そして、倒した原因になった宝具も、すぐ近くにある。確実に俺の死亡フラグで『あった』。
ありがとう、馬鹿なほうのセイバーさん! 自分は宝具を二つ持ってるのに、相手は一つだと思って突っ込んでっちゃうセイバーさんで本当にありがとう!
「だれかきた」
ぼそりという桜の言葉に、俺の有頂天だった意識が戻ってきた。来客か、と思って、自分が馬鹿だったのを再確認。画面には戦車に乗ったライダーが乱入して、周囲をぽかんとさせていた。
たぶん今頃、出てこない根性なしは余の侮蔑を~、と言ってるのだろう。しかし残念ながら、この宝具は見るだけのもの、声は聞こえません。挑発に乗りようがない。
それからしばらく、誰も来ないので徐々に解散していく。これは当然。今回は俺こと元時臣のサーヴァントが出てきても、バーサーカーが出てこない可能性が高い。ダメージ自体は、耐久力が高いのと、俺も行動不能を優先した攻撃であったため、もう回復していてもおかしくない。だが、俺が時臣のサーヴァントで無くなったことも知れてる可能性が高いので、突っかかってくる理由自体がなくなった。現界してない状態では、セイバーに挑みようが無い。
原作よりかなり穏便に終わった倉庫での開戦。誰もいなくなったのを確認して、機能をオフにし、王の財宝の中にしまった。桜は宝具が消えた後も、俺の隣で虚空を見続けている。
とりあえず、今回の確認で、現状が俺にとても都合が良いと確認できた。あとは、方針をどうするかだ。
絶対にしなければいけないのは、アイリスフィールの――正確に言えば心臓の確保だろう。見た限り、聖杯の器があれば、ある程度任意のタイミングで聖杯を起動できる筈。タイミングさえ操作できれば、エアで一発である。余裕があれば、アンリマユの摘出を試してもいい。
大聖杯の破壊は最後の手段だ。破壊だけなら今でもできるが、それをすると全陣営から確実に袋叩きに合う。スペック的には、返り討ちは不可能では無い。だが、魔力が絶対に足りなくなる。死にたくないので嫌だから、やるなら終盤だ。
と、ここまで考えて気付いた。俺はアイリスフィールさえ確保してしまえば、割と全て上手くいくのだと。そもそも、聖杯を問答無用でぶっ飛ばせるとう言う時点でかなり有利。宝具をふんだんに使った拠点も、サーヴァントでもなければ突破不可能だ。いや、サーヴァントであっても、完全合体していないアサシンと海魔未召喚キャスターでは突破できまい。
かなりヌルゲーだ――と思う思考こそが敵だと思わねばならない。はっきり言って、戦って負けるとは今でも思ってない。それこそが慢心であり、死の要因なのだ。俺がギルガメッシュであるならば特に。
とにかく、今後は出会ったアサシン以外のサーヴァントと監視なく一対一で戦える状況なら、最大火力で各個撃破する。アサシンの場合は、戦っている内に情報を持ち帰られるかもしれないので、とりあえず放置だ。
今回のアサシンは、最後まで残れる可能性が一番高いサーヴァントである。同時に、絶対に最終的な勝者になれないサーヴァントでもあった。
自己分割宝具は、確かにサバイバルという状況では強力だ。しかし、聖杯を降臨し最後の持ち主を決める場合、必ず『正面決戦』をしなければいけないのだ。ただでさえ数を減らし、ステータスを低下させたアサシン。それが、たとえ手負いのサーヴァントだったとしても、勝つのはどうあがいても不可能。
と言うわけで、アサシンは放置しておいても問題ない。
それより一番なんとかしたいのは、キャスターだ。今現在も、子供を拉致してフィーバーしてる筈なのだが、全然見つからない。いや、彼らがやらかした『跡地』は見つかるのだ。問題は、行動がめちゃくちゃだからか、それとも見つかりにくい行動をしているのか。現場を押さえられない。
夜に足で稼げば、それなりに遭遇率はあるのだろう。だが、戦争が活発になる時間帯に、長時間桜を放置するのは恐ろしい。それに、関係ないサーヴァントと遭遇戦をするのも馬鹿馬鹿しくある。
向かってくる敵を探知する能力はあるのだが、長時間遠距離の対象を監視する力が無い。いや、全くないことはないが、それも宝具であり、つまりすごく目立つ。他の陣営のように、確証はないけど見られてるだろうな、という状況を作れないのだ。
大半の陣営の拠点位置を把握してるのだが、その大半に入らない相手だ。拉致された子供達は哀れだと思うが、優先すべきはこちらの事情であり。出現位置が確定するまでは、申し訳ないが泣いてもらう。俺が巻き込んだ手前、桜よりも優先はできないのだ。
とりあえずは、こんな所だろう。
今晩のイベントは、セイバーとキャスターの接触に、ハイアットホテルの爆破だったか。確実にサーヴァントを脱落させるならランサーの監視……と考えたが、それが間違いだと気付く。そもそもケイネス陣営は、一番、何をしても俺に影響のないチームだ。潰す必要も理由も無い。衛宮切嗣に監視されているならば尚更だ。
それに、キャスターの位置が確定するのも今夜だ。それが、山道のどこかという、アホみたいに膨大な範囲だったとしても、である。
しばし考えて、山道の一部で、通る車を張ることに決めた。運が良ければ、今日でキャスターを倒せる。
方針を決めて、俺は立ち上がった。手始めに、隣でうとうとしている桜を、ベッドに転がす事から始めよう。
非情に耳障りな、歓声とも悲鳴とも取れぬ声。そこに込められた感情は分からないし、分かりたくも無い。非情に耳障りな雑音が、アイリスフィールの鼓膜を叩いた。
「神はどこまで残酷な仕打ちをおおおぉぉぉぉぉ……!」
鶏を絞め殺したような、という表現が最もふさわしく。絞り出す声を、ただ自分の感情によってのみ吐き出し続ける。確かに、両陣営とも口は開いていよう。しかし、これは会話というものでは断じてない。少なくともアイリスフィールには、感情を一方的に吐き捨てるだけの行為を、会話とは呼べなかった。……ちょっとだけ切嗣の顔が浮かんだのは秘密だ。
しかし、この場をどう切り抜けるか、それが問題。セイバーは会話に応じながらも、油断無く構えている。何かあれば、すぐ切り伏せられるだろう。アイリスフィールの目からは、今でも切れるように見れるのだが。サーヴァントとはいえ、所詮はキャスターでしかない。対魔力Aランクのセイバーであれば、圧倒できると思うのだが。
それができない、させない何かがキャスターにはあるのだろう。戦闘に関して素人でしかないアイリスフィールには、セイバーの指示に従う選択肢しかない。
と、突然――本当に突然だった。キャスターを注視していたセイバーが、その集中を手放し、崖の面を向いた。当然、そちらにあるのはガードレールと、伸びた木と……なぜか、幻影があった。薄く伸びる黒い霧。茫洋としたそれの隙間から見える、黒い甲冑。なによりも、圧倒的な存在感。
間違いなくサーヴァントだ。アイリスフィールが逃げ腰になり、セイバーが戦闘姿勢の対象を変更――し切る前に、そのサーヴァントは襲いかかった。キャスターにだ。
「■■■■■■■■■■■!」
キャスター同様、理解できぬ絶叫。違うのは、キャスターは正気と狂気が混じり合ったおぞましさがあるのに対し、サーヴァントのそれは純然たる狂気。
狂気を、ただの暴力に。甲冑に包まれた拳を握り、キャスターに突き出された。バーサーカーの筋力ランクは、恐らくセイバーと同等かそれ以上なのだろう。すんでの所でよけられた拳は、威力を維持したまま真正面の壁に突き刺さった。
土砂崩れ防止の壁は一瞬にして突き破られ、亀裂は波紋状で全体に広がる。土の塊が奥にあるにも関わらず、分厚いコンクリートは奥に埋め込まれた。冗談のような膂力。セイバーとランサーの戦いを間近に見たが、それと比べても現実離れしている。なにより恐ろしかったのは、その力に洗練されたものが感じられなかったのだ。本当に、ただの暴力。破壊に特化した力、それを思い知らされる。
初撃をよけたキャスターは、全力でその場を離脱していた。勝てない、そう瞬時に判断した結果だろう。
全力で後退しながら、しかし狂気に彩られた顔をさらに歪め、絶叫する。
「おのれええぇぇぇぇぇ! 神はまだ、このような哀れに堕ちた魂を私に向けるかああぁぁ!」
喉を大きく震わせ、掻き毟らんばかりの形相。その怒りは、セイバーと会話にならぬ会話をしていた時の非では無い。困惑も悲哀もない、純粋すぎる怒りを虚空に向けていた。
「聖処女ジャンヌよ、お迎えの準備をして必ず向かわせていただきます。それと、そこの哀れなる仔よ、私は必ず貴方の魂を、その呪縛より解放すると誓いましょう! それまで、どうか待っていて欲しい……!」
言葉を置き去りに、その姿を溶かすキャスター。迎え、という不吉な単語が気になった。が、今はそれよりも重視しなければならない事がある。
ぎしぎし、と音を立てて、バーサーカーが腕を引いた。同時に、ぐるんと首を回す。対象は、言うまでも無い。
「■■■■■■■■■■■!」
再び耳に届く絶叫は、しかし先ほどまでよりも勢いが増した気がした。膝を曲げ、体を落とし、今すぐにでも飛びかかれる体制。対するセイバーも剣を握る手に力を込め、激突を予感させた。コンクリートが弾けたのは、ほぼ同時だったように思う。アイリスフィールの目では、とても追うことは出来なかったのだ。次に目に映ったのは、瞬間移動したように壁際にいるセイバー。他には誰もいない。
ふと見回しても、やはりバーサーカーはいなかった。
「セイバー、バーサーカーは?」
「分かりません。いきなり霊体化したのですが、それ以上は……」
怪訝そうに首を振るセイバー。ここでバーサーカーを引かせる理由が、思いつかない。むしろ、消耗し癒えぬ怪我を負ったままのセイバーは、絶好の相手の筈だ。
「す……すまない」
掠れて、そよぐ風にも負けそうな声。しかしそれにセイバーはしっかりと反応し、音とアイリスフィールの間に自分を潜り込ませていた。そして、音の方向には、パーカーを着た男の影があった。
状況を考えれば、この男がマスターなのだろうが。アイリスフィールには、そしてセイバーにも、とてもそうは見えなかった。見るからに消耗した体、弱々しい魔力、そして、恐らく上手く動いていない左半身。どれをとっても、マスターとして活動する人間の健康状態ではない。
なんとかガードレールを乗り越えて、しかしそれで力尽き、アスファルトに転がる。手を貸すべきか、放っておくべきなのか、判断しかねた。
「貴方たちに、頼みがあるんだ」
声よりも、むしろ呼吸の方が大きいのではないだろうか。それほど生命力を感じられない声。実際、生命力は殆ど尽きているのだろう。
男は、なんとかガードレールを背もたれに座り込んだ。パーカーから除く顔半分は、異形じみている。しかし、そこにキャスターから感じたような、狂気は無い。
「サーヴァントの支配権は渡す。知ってる限りの情報も渡そう。俺を殺してもいい。だから、少しだけ、俺に力を貸して欲しい……」
「ちょ、ちょっと待って。あなたは誰? そして、なんで私たちなの?」
懇願は、悲鳴じみていた。恐らくは演技では無い、全くの本音。しかし、アイリスフィールには何を判断するにも、全然情報が足りない。
「すまない、焦りすぎた……。俺の名前は、間桐雁夜だ」
その名前に、セイバーの目が一瞬細まった。アイリスフィールも、僅かに目を見開く。
間桐雁夜が、というよりも、間桐は今聖杯で少し名が売れていた。と言うのも、聖杯戦争開始直前で、敵サーヴァントに襲撃を受けた、という意味で。詳細は集められなかった、と切嗣が言っていた。真実を知るのは、当事者同士だけ。そして、サーヴァントを持つ雁夜が当事者でない筈が無い。
そのときの情報を得られる、これだけでも、彼の話を聞く価値はあるだろう。
「君たちを選んだ理由は、これだ」
言って雁夜が投げ捨てたのは、何かの機械だった。それが何の機械かは、疎いアイリスフィールには分からない。しかし、それが化学品というだけで、息を詰まらせるのに十分だった。
「……それは何かしら」
「ごまかさないでくれ。君たちの協力者が、これを使ってるんだろ?」
息絶え絶えの言葉の中に、隙を見つけた。彼は、切嗣を協力者だと言ったのだ。つまり、マスターはアイリスフィールだと思っている。少なくとも、真のマスターは露見していないのだ。
「なぜそれが私たちのものだと思ったか、聞いてもいいかしら」
「簡単な……消去法だ。アーチャー組とライダー組は、サーヴァント側が主導権を持っている。キャスター組はまともに聖杯戦争をしていない。アサシン組は……」
そこで、一度ふっと鼻で笑った。何かを嘲るように。
「機械なんて、死んでも使わないだろうな。残ったのはランサー組とセイバー組だ。最初はランサーかと思ったけど……それにしては設置する位置がおかしい。それが町中にあるなら、町中で挑発しなければならない筈なんだ。君たちは別のやり方で、向かってくる相手を待っていた。おそらくは、サーヴァントと同時に来るマスターを発見するため。自分すら囮にして、協力者に見抜かせようとした」
彼の言うことは、殆ど正解だった。同時に、自分と夫の失態を感じる。なぜ、ここまで読めたのだろう。
今から誤魔化すか……いや、無駄だ。彼は確信している。だからこそ接触してきた筈だ。ここで無理に否定すれば、最悪戦闘になる。それだけは、なるべく回避したかった。
「……そうね、それは確かに、私の協力者のものよ」
「アイリスフィール!?」
「もうばれてるわ、セイバー。それで、もう一度聞くけど、貴方はなんで私たちに話を持ってきたの? 他の魔術師でよかったんじゃない?」
「魔術師なんて……!」
ぎりり……! 歯ぎしりは、半死人とは思えないほど力強く、そして怨嗟に満ちていた。正気だと思っていた男から見えてた、強烈な狂気、それにたじろぐ。
「信用できるか! だから、まともじゃない魔術師がいる君たちに、話を持ってきたんだ。俺が話をしたいのは、君であり君じゃない。仲間の、協力者の方だ」
だから、機械などを持ってきたのだろう。確かに、最新の化学品を持つような魔術師は、まともな存在では無い。切嗣も、魔術師からは蛇蝎の如く嫌われていた。まあ、それは魔術師殺しという異名も、少なからず影響があるのだが。
「セイバー」
「私はアイリスフィールの決定に従います。ただし、あまり猶予はありません。素早い決断を」
頼ろうと思ったセイバーに、判断を返される。雁夜と、そしてバーサーカーへの警戒で、他に割り振る余裕がない。
うぐ、と声を詰まらせて、アイリスフィールは悩んだ。こんな時に、切嗣に連絡を取れればどれほど頼もしかったか。彼は今、大事な『作戦』の途中だ。科学的な手段、魔術的な手段、どちらでも連絡は取れない。自分で決定するしかないのだ。
しばらく、リスクとメリットを考えて、やがて思考を放棄した。どの内容がどれと釣り合いが取れているか、全く理解できないのだ。
ならば、焦点は一つ。セイバーとアイリスフィールで、雁夜とバーサーカーを止められるか。少し悩んで、可能だと判断した。
「車に乗ってちょうだい。詳しい話は城で聞きます。セイバーは後部座席で、彼の隣に。妙な動きをしたら、お願いね」
「ええ、分かっています」
「すまない……ありがとう……!」
涙ながらに感謝を述べる男に、しかしアイリスフィールの気分は沈んでいた。切嗣ならば、情報を引き出すだけ引き出し、サーヴァントを奪って殺しかねない。いや、よほどのメリットがなければそうするだろう。
それでも、アイリスフィールは衛宮切嗣の妻であり、アインツベルンである。行動の全ては、自分たちに利益があるものにしなければならない。たとえ、それが非情の判断だとしても。
「……? どうしたの? 早く乗って」
未だに座り込んだままの雁夜に言う。しかし雁夜は、とても申し訳なさそうな、そして情けない顔で返した。
「その、すまない。出来れば手を貸してくれないか」
「……」
「……。セイバー、手伝ってあげてちょうだい」
「分かりました。カリヤ、貴方を持ち上げますので手を」
「本当に、重ね重ねすまない……」
ちょっとこの人を危険視しすぎたかもしれない。なんとなく後悔しつつ、アイリスフールはハンドルを握った。
どうでもいいが、車が発進してから城に着くまでの間、雁夜の掠れた悲鳴が止まることはなかった。
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切嗣は絶好調
ベランダの窓を開けて、一歩外に踏み出す。室内は暖炉に火が付いており、それなりに暖かかった。冬の空気は、暖炉の温もりに甘やかされた肌を、予想以上に厳しく接する。
こんな事なら、コートでも着ておくんだったか。今はスーツの上着も脱いで、シャツにネクタイも締めない格好。およそ、冬の夜空を眺める格好ではない。しかし、切嗣はどうしても、星空を見ながら一服したかった。
口の中に滞留する紫煙。それを息と共に、思い切り肺の中に送り込む。ニコチンは一瞬で脳へと周り、ぼんやりしていた思考を僅かに覚醒させた。これで、クソ不味いブラックコーヒーでもあれば、眠気覚まし対策は完璧だったのだが。まあ、わざわざ入れてまで欲しいものでもない。
アイリスフィールが連れてきた、間桐雁夜という男。そいつの話を数時間聞き、さらに数時間かけて情報を編集した頃には、朝と言っていい時間になっていた。
魔力をそれなりに消費し、作戦の連続で精神も疲労している。正直、すぐにでも眠りたい心境だった。しかし、それを退けてまで話を聞いた価値は、十分以上だ。
「切嗣、どうだった?」
「やあアイリ、もう起きたのかい?」
アイリスフィールが、夜着に羽織をしただけの格好で来た。根元近くまで消費されていたたばこを、灰皿に押しつける。
彼女の表情は、一言で言って不安そうだった。男を連れてきたのが自分だからであろう。そんな事を心配する必要はない、切嗣は笑顔を作って見せた。
「正直、間桐雁夜をなめていたと認めざるをえないね。魔術師としては三流以下……それは覆らない。けど、彼の最高の武器は、一般人らしい感覚と視点を持っている、という点だったよ」
切嗣が町中に仕掛けたトラップや、情報収集のための道具。これらは、相手が魔術師であれば、絶対に気付かなかっただろう。それでも、素人に見つけられるような配置にした覚えはなかったのだが……相手が町の住人では、少し分が悪い。
油断があった、と言わざるをえない。
「ええ、うん……それも何だけど……」
もごもごと言いながら、アイリスフールは俯いた。何か、言いづらいが言わなければならない事がある。そして、切嗣には心当たりがあった。
「ああ、大丈夫。間桐雁夜は殺さないよ。と言うよりも、同盟を組むことに決めた」
「……え!?」
驚き、まるで少女のように目を見開く。大変かわいらしい仕草であったが、どう思われているのか再確認し、ちょっとへこんだ。その認識に間違いが全くないのだから、弁明もない。
「ああっ、違うの切嗣! その……とにかく違うのよ、信じて!」
おろおろと慌てふためく我が妻は、非常にかわいらしかった。いつまでも見ていたかったが、それでは話が進まないので中断する。
「はっきり言ってしまえば、彼は捨て駒だ。ここぞという場面で投入し、潰してしまう」
「それは……!」
「勘違いしないで欲しいのは」
声を荒らげようとしたアイリスフィールを、手で制す。
彼女の優しさは、美徳と言っていいだろう。しかし、それを戦場まで引きずるのは、自らの死を呼ぶ行為に他ならない。それを補うのも、自分の役目だ。少なくとも、切嗣はそう思っていた。
「これは彼から言い出したのだという事だ」
「あの人が?」
切嗣は頷いた。持ち上がりかけていた手が、すとんと落ちる。
「間桐雁夜は、どこかおかしいと思わなかったかい?」
「ええ、すごく体力がない人だったわ。それに、調子も悪いみたい。でも、それはバーサーカーに魔力を吸われたからじゃないの?」
「確かにそれも一因ではあるけど、それじゃ足りないよ。彼は、体の殆どを欠損している。……どうやら、足りない魔力を、体を虫に食わせる事で補っていたみたいだ。もし、今すぐ脱落したとしても、一月持たないだろう。実際、急造魔術師が聖杯で勝負をしかけるなら、そうでもしなけりゃ戦いにもならない」
「そんな……」
彼女の言葉は、何にかかったのだろうか。それだけの覚悟を背負った雁夜に? それとも、そんなことをさせた間桐に? もしかしたら、そうさせる仕組みの世界に?
たぶん、どれでもない。しかし、切嗣がそれを聞いたときは、確かに憤りを感じた。この世界は狂っている。殺意と悪意に狂っている。人と人が手を取り合えない構造。伸ばした手に差し出されるのは、ナイフか拳銃か。こんな悲劇を、ありふれたとしか言えない世の中。どれもこれも、腐っている。最悪の泥沼だ。
「彼は、この戦争で自分の命を使い尽くす覚悟をしてた。もしかしたら、生きるのを諦めていたのかもしれないけど……。とにかく、彼の目的は、僕たちと衝突しない。上手く操作できるなら、十分使える駒だ」
他にも理由はある。例えば、サーヴァントだけを奪っても扱いが難しく、危険である事。バーサーカーはただでさえ術者の魔力を勝手に、それこそ命を消費しきるまで吸う。しかも、真名はサー・ランスロットだった。セイバーに襲いかかったあたり、何か思うところがあるのだろう。山道でなんとかなったのは、あらかじめセイバーの真名を知っていたこと。そして、冷静に魔力を切るタイミングを計っていたからだ。そうでもしなければセイバーに襲いかかるなど、扱いにくい事この上ない。少なくとも、自分たちの陣営で確保しておこうとは思えない。雁夜に任せるのが一番なのだ。
「それに、彼の願いは、間桐桜の救出および今後の人生に魔術を関わらせず人並みの幸せを獲得させる事だ」
アイリスフィールの顔が、僅かに歪んだ。彼女も、人生の全てを魔術に支配されてきた。それでも、自分とささやかながらも幸せを掴めたと、切嗣は思っている。しかし、桜にはそのささやかなものさえ与えられなかった。
「聞いた限り、間桐桜はただの人形だ」
つまり、生き残られたとしても驚異にならない。むしろ、バーサーカーと再契約させれば、利用できるかもしれない。アーチャーがそうしたように。
「だからこそ、アーチャーにマスターとして選ばれたのだろう。そして、思うがままに力を振るえるアーチャーは、間違いなく強敵だ」
雁夜の持ってきた情報は、彼の想像以上に有益だった。例えば、彼のサーヴァントは元々遠坂時臣のサーヴァントであった事。召喚直後離反され、それから一時間もたたずに都合のいいマスターを見つけ、再契約した事。初見のサーヴァント、バーサーカーの戦法を矛を合わせる前、事前に見抜き、対策を立てた事。物量攻撃が可能で、ライダーばりの高機動宝具がある事。
元よりセイバーと相性がいいとは思えない能力。実質30分もせずに、最適なマスターを探索する何か。その上、セイバーのように騎士道などというものにこだわりがない。作戦立案能力が高く、冷徹にそれをこなす。現代で即座に拠点を得て、それを高度な要塞化さえしてみせた。間違いなく今聖杯戦争で、最高の性能である。
マスター暗殺はほぼ不可能。アーチャーもそれを警戒して、要塞と化した拠点にマスターを押し込めているのだろうから。いくら切嗣でも、サーヴァントが構築した要塞を攻略する自信は無い。
ならば、何とかしてアーチャーを倒さねばならない。そのためには、どうしても共闘できるもう一体のサーヴァントが必要だった。それは使いつぶせる相手が最高であり、その最高の相手が向こうから来てくれた。
なにより幸運だったのは、アーチャーの戦闘データだ。恐らく唯一抗戦経験がある相手から、かなり正確なデータをもらえた。全サーヴァント中、最も情報を秘匿しているアサシンに並んで、自分を隠していた相手のをだ。アサシンを倒した時ですら、素手でひねり潰したほど徹底している。もしノーデータで戦う羽目になっていたら……考えるだけで恐ろしい。
そのためには、一つ、必要な手順がある。懐から一枚の羊皮紙を取り出し、アイリスフィールに渡した。
「これは?」
「ギアスロールさ。君にも署名を頼みたい」
「それはいいけど、これって舞弥さんもいるのね」
「ああ、それは……ちょっと失敗しちゃってね」
契約内容は、かなり迅速に決まった。雁夜が重視したのは桜の事のみであり、自分に関する契約を結ぼうとしなかったためだ。
しかし、いざ契約の段階になって、雁夜は渋りだす。切嗣はこれを、まだ協力者がいると見抜いていると判断し、舞弥も含めた。しかし、それはすぐ勘違いだったと気がついた。間桐雁夜がギアスロールに含めたかったのは、アイリスフィールだったのだ。
考えてみれば、当然である。彼はその生い立ち上、魔術師を嫌っていた。殺意を持ってるとすら言ってもいい。つまり、あからさまに危険人物な切嗣よりも、魔術師であるというだけで、アイリスフィールの方が信用できなかった。
彼女を契約に含めるのは簡単だ。それはいいが、今更舞弥の存在は隠せない。まさか「じゃあまだ協力者がいるけど、契約しなくていいよね」とは言えないだろう。そんな相手は誰も信じない。
まあ、元々殺すより確保する方がいいと判断した相手だ。問題はあるが、致命的ではない。
手早く名前が記されたギアスロール。それを確認して、懐にしまった。あとで雁夜にこれを見せれば、正式に同盟は成立だ。
「ありがとう、アイリ。ここは冷えるから、もう中に入りなさい」
「ええ。切嗣は?」
「僕はもう少し、ここにいるよ。朝日が見たい気分なんだ」
久しぶりに――とても久しぶりに、心の底から穏やかに笑えた気がした。それに返すアイリスフィールの笑顔も、やはり穏やかで。彼女を部屋に送り届けてから、白み始めた空を見上げた。
彼女には言っていない事が、いくつかある。例えば、最終的に雁夜を殺すことは、両者の間で決定している事。
間桐の当主である蟲の老人は、アーチャーの襲撃で顔を出せないほどに消耗している。しかし、あの程度で死ぬとは思えないと雁夜は言い、切嗣も同意した。
聖杯が手に入る直前になれば、横槍が入る可能性がある。また、桜を確保した場合、いつまでも放置しておくと体を乗っ取られかねない。少女の安全を確保するためには、目標を達成した時点で死ぬのが一番だった。城に籠もっていれば、容易く干渉できはしないだろうが、いつまでも引きこもっている訳にはいかない。
他にも、本来知ることが出来なかったであろう情報を獲得できた。とても運がいい。まるで冗談のように。
彼自身の存在も、以外と重要だった。元ルポライターだけあって、情報収集はそれなり。しかし彼の真価は、情報解析能力だった。得た情報同士を関連づけ、編集し、他者にわかりやすく伝える。アーチャーをあれだけ解析できたのも、彼であればだ。情報を与えれば、こちらが見えない部分まで見つけてくれるだろう。
全てが順調だ。怖いくらいに。勝利へと、確実に進んでいる。
衛宮切嗣は、穏やかだった。とても穏やかだ。
まだ何も終えていない。聖杯戦争はこれから激化していくだろう。しかし、彼の心は、沈んだ水面のように、波紋一つ立たない。地平線を白く染める光を見ながら、ゆっくりと笑った。
間桐桜。きっと辛い人生を送ってきたのだろう。これからの人生も、そうなる可能性が高かった筈だ。誰の救いの手もなかった筈だ。しかし、切嗣は穏やかだ。
「安心してくれ、間桐雁夜」
静かに、穏やかに、笑顔で。切嗣は、恐らく名を出した本人ではない誰かに囁く。
この世は地獄だ。欺瞞に満ちて、誰もが誰かの不幸を願っている。権力者は人を殺したくて仕方がない。貧民は殺したくなくても殺さざるをえない。銃を突きつけるのに意味は無い。意思もない。ただ、そうしなければならないという事実だけがある。何かも分からぬ内に人を不幸にし、自分も地獄に落ちる。
それも、あと少しで終わりだ。
「僕は勝つ。そして、聖杯を手に入れる。そうすれば、誰もが安らげるだろう。間桐桜も、誰も彼もが……」
今度こそ、誰に囁いたのかすらも分からなくなり。
しかし、衛宮切嗣は、それでも朝日を見続けた。
時間の無駄だった。結局一晩中国道を監視していたが、キャスターは発見できなかった。眠気と無縁なサーヴァントの体だったのが、唯一の救いだ。ただし、精神疲労はプライスレスである。
「ああ、こんな事ならランサーを潰しに行けばよかった。……ランサー潰してもあんまり意味がないんだった、ちくしょう」
むしろ、現時点では害悪ですらある。セイバーの宝具を封じてくれている間は、生きていてくれるとありがたい。始末してくれればなお良しだ。
目元を揉みほぐしてしまうのは、人間だった頃の癖が抜けきらない為か。そうしていれば、精神的には落ち着けるのでやめられない。
こんな思いをするのも、自分がイベントの時間と位置を正確に記憶していなかったせいだ。ホテルのような特徴的な場所ならば話は違うのだが。該当が複数ありそうな場所だと、どうも上手くいかない。こんな事なら、もっと真剣に見ておくべきだった。一番はこんな目にならない事だが。
リビングで一人、詮無い悩みを抱えていると、たしたしと音がした。
「……おはようございます」
「ああ、おはよう」
感情どころか焦点が合っているかも分からない目で、こちらを見る。挨拶だけ手早く終わらせて、すぐに歩き出した。目的地は洗面所だろう。
今日は何があっただろうか……。一番のイベントはキャスター発見と、キャスターが城に攻め込むのだったか。見事に全部キャスター関連だな。ここで先回りして、誰にも知られずキャスターを始末できれば最高なんだが。奴は行動を特定しにくすぎて望み薄だ。
それさえできると、かなり順調にいける。タイミングが変わっても、必ず切嗣はランサー脱落に動く。始末したかしないかあたりで乱入し、最低でもセイバーを倒したい。その他と切嗣を殺してアイリスフィールを確保すれば、あとは俺無双で終わる。
ふと思い出した。今日はアイリスフィールを拉致する最高のチャンスだと。まあ、それはしないが。拉致したとして、彼女が聖杯だと知れれば、今度は全陣営が俺を倒しに来るのだから。
教会は、キャスターの異常を公開するだろうか。俺がいない以上、全ての情報を公開するだろうな。やるとしたら、とどめだけを持って行って令呪の確保か。まあ、自陣営での始末が難しい以上、他に頼らざるをえない。……そうするとまた行動が読めなくなるんだった。先制して始末の可能性が下がってしまった。
とにかく、俺の最優先目標はセイバーとキャスターだ。死亡フラグと行動の意味なく暴走しているのを倒せば、あとはどうにでもなる。疲弊し、誰にも見られていない時こそが動くときだ。難易度は高いが、まだチャンスはある。積極的に動くのは、状況が完全に読めなくなってからでも遅くはない。
洗面所から戻ってきた桜が椅子に座り、いつものように黙った。それと同じ頃、自動人形も朝食を作り始める。少し前まで静寂しか無かった部屋が、一気に忙しくなった。
なんとなしに、ラインを確認する。供給魔力は十分であり、桜の魔力量もまた十分。万が一何かあっても、万全に対応できる状態だ。
桜の魔力量は、とても多い。体感でだが、時臣よりも遙かに多かった。おかげで、俺の筋力と魔力ステータスも上昇している。……幸運ランクは予定調和すぎる下降を見せたが。それでも筋力が上がったのはありがたい。
切り札であるエアは、筋力値によって威力が変動する。使うときは財宝のバックアップでめいっぱい強化するつもりだが、やはり元が多ければ安心感が違う。
また、スキルランクも少々変動している。カリスマが下がっているのは、中身が俺だからだろう。逆に、神性が上がっているのは、特別肯定はしないが否定もしていない為か。ちょうどランクが逆転したような形になる。どちらが上の方が有利かは分からないが、化け物じみたカリスマなんてあっても困る。これはこれでいい。
総じて高レベルで纏まっている、俺と桜の陣営。これで使い魔を作れれば文句なしなのだが、それは高望みが過ぎるだろう。有り余る魔力だけで満足すべきだ。
こう考えると、やはりケイネスの存在は得難かった。魔術師として最高だし、実は人間的には一番まともっぽいし。
人格が酷い、というのに反論はない。しかし、人間性でみるとそうでもないのだ。人格が多少マシでも、人間性が底辺というのが多すぎるだけな気もするが。
彼の資料を取り寄せたが、その経歴はスーパーマンの一言。威張りくさっているが、態度がでかいだけの事をしてきている。ただのビッグマウスとは格が違うのだ。ケイネス先生凄いです。
ちなみに、資料はケイネスだけじゃなくマスターのほぼ全員分取り寄せている。と言っても、あまり深く掘り下げた資料では無い。誰でも見れるような経歴程度だ。例えばケイネスのは、時計塔の貧乏学生が調べられるくらいの公的資料。さすがに裏側まで調べるには、時間とコネが足りなかった。
そう言えば言峰は今どうなっているのだろうか。ギルガメッシュがいないのであれば、覚醒はしていないだろうが。あれも答えを求める余り、フットワークが軽すぎて困る。頓悟でもして座禅組んでりゃいいのに。いや、奴はキリスト教徒だが。
調べた切嗣がよく使う無線周波数を教えれば、少しはおとなしくなるだろうか。やって俺が困るわけでもなし、リークしてしまってもいいかもしれない。切嗣は俺の安全のために、もっと言峰とよく話すべきだ。これはやっても、俺に影響が全くないというのが素晴らしい。苦労するのは当事者二人だけだ。やっぱりダメ元でやっておこう。
他にも、金に飽かして出来そうな事には全て手を回しているが、時間が圧倒的に少ない。上手くはいかないだろう。
やはり、最終的には戦闘能力に頼ることになりそうだ。それを再確認しただけに終わる。そして、ため息が漏れる所まで、いつもの事だった。
食欲を誘う香りが、鼻孔を刺激する。そろそろ朝食ができる頃だと思うと、無いはずの空腹感を感じた。立ち上がり、テーブルへと向かう。
いずれ、こうして考えるだけの時間も終わる。それを自覚しながらも、全ての悩みを切り捨てた。
せめて、その時までは。この些細な日常に浸かっていたかったから。
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ケイネスは心配性
ちょっと意味がわかりませんね。便利すぎて困る遠見宝具を見ながら、俺は心の中でつぶやいた。実際は言葉程度の動揺ではなく、背中が煤けてすらいるだろう。
事の始まりはどこだろうか。少なくとも、俺がきっかけになっているのは間違いないのだろうが。上手く動いていない頭の中を、なるべく整理してみる。
まずは、今日の朝だ。俺は遠見宝具を出しっ放しにしていた。どうやら桜は遠見宝具を気に入ったようで、暇があれば見ている。これは俺ではなくても調整ができる。相変わらず無表情だが、彼女は自分で対象を変え、使用していた。……ストーキング的なウォッチング趣味に目覚めないことを祈るばかりだ。
そして昼頃、聖杯と言うか監督者から招集がかかった。当然、これに応じないという選択肢は無い。こちらが目をつけられるし、情報も欲しかったから。
しかし、連絡手段は問題だった。俺の元が元だけに、目立たず何とかする方法が全くない。仕方が無いので、最低ランク宝具を飛ばしたのだが。最低でも宝具は宝具、目立つことこの上ない。到着した時、言峰なんちゃらにすごいぎょっとした顔をされた。きっとどの陣営も、使い魔の向こう側で同じような顔をしていただろう。
予想通り、かなり詳しく情報公開をしてもらえた。ただ、向こうもアサシンの存在は隠しているのか、見失ったのか。現在地までは教えてもらえなかったが。宝具を撤退させる際、そっと紙を一枚置いていった。あれを言峰が発見していれば、切嗣にストーカーのごとく粘着質さを見せてくれるだろう。そして出来れば出歩かないでくれ。
桜から遠見宝具を返してもらって、町の可能性が高い場所を探したが、やはり見つからない。幸運が低いのだろうか。出向いて探す気はさらさらない。効率は宝具を使うのと大差ないからだ。それに、下手に他の陣営とあって遭遇戦をするのなどごめんだし、共同作戦で戦法を見せるのはもっと嫌である。
ちなみに、宝具を取り上げても、桜からは特に抵抗がなかった。どうやら彼女、見ること自体が楽しみなようで、何を見るという目的はない様子。それはそれで危険な気がしたが。
探索を続けては失敗し、はや夕方。町中で発見は失敗したので、アインツベルン城の森の入り口で張ることにした。しかし、これも問題だ。森はかなり広域に広がっているのだ。つまり、入り口が1カ所な訳が無い。普通に開かれて、徒歩に適した場所で数カ所。道を歩く気が無いのなら、どこから入ったっていい。
この広大な範囲を、限られた場所だけ張る。この時点で失敗フラグだ。それでも俺は頑張った。そして失敗した。もう泣きたくなった。今までの運頼りは全部空振りである。
発見した時はセイバーとキャスターの戦闘がすでに始まっていた。それでも隙あらばばと言うことで、準備だけはしていたのだが。そのうち、セイバーの動きがやたら落ち着き無くなった。
何事だ。まだランサーも到着していない。視点をかえて、原因を探してみると、なぜか予想より遙かに早く言峰が強襲している。なぜだ。俺が余計なことをしたからですね。それでも、この時までは問題ないと思っていたのだ。
ランサーの到着とほぼ同時、なぜかバーサーカーが出てきた。他の二人には目もくれず、海魔をなぎ倒し始める。セイバーはさっさと戦線を離脱して、アイリスフィールの援護に向かった。
訳が分からない。バーサーカーの出現とか、どうやって連絡を取ったとか、疑問が山ほど出てきた。考えられる理由は一つだ。それ以外に考えられない。
どう見ても切嗣と雁夜が同盟を組んでいます、本当にありがとうございました。
「なんでじゃ!」
瞬間、叫んだ俺は絶対に悪くないと言いたい。隣でびくり、と肩を震わせた桜になごんだが、それも僅かな間だけ。すぐに頭痛に戻される。
よく考えてみよう。雁夜が切嗣と、もしくはその逆が同盟を組む理由があるのだろうか。
雁夜が時臣につっかかる理由は、実は殆ど消えている。時臣はサーヴァントに裏切られ、少し溜飲が下がった。桜の安全も、俺のマスターという最低ラインは保証されている。そして、ああして自由に動けるということは、その程度には間桐臓硯が疲弊しているのだろう。つまり、原作よりも多少精神的な余裕がある。彼にあと必要なのは、聖杯戦争後信頼できる預け先だ。
知っている人間からすれば、ウェイバーよりも切嗣を信じるというのは驚く結論。しかし、彼が持っている情報と、魔術師を嫌っているという特徴――魔術なんて知ったこっちゃ無いという態度の切嗣は、一番まともに見えたのだろう。
対して、アインツベルン。雁夜はとても都合がいい使い捨ての道具だ。俺の情報が渡っていれば、多少無理をしてでもバーサーカーが欲しいと思うだろう。桜も、自己主張がないのであれば、殺すまでもないと判断するかも知れない。殺すつもりでも、久宇舞弥を隠しておけばどうにでもなるだろう。
……利害が一致しなくも無かった。
ぶわりと冷や汗が流れる。凄く危険な流れだ。単体ならまだしも、この二人に組まれると死亡率が跳ね上がる。
バーサーカーは対処法が無いわけではないと言うだけで、相性が宜しくないのに変わりない。こいつが武器を持って壁に徹すると、セイバーに余力を持たれてしまう。余力を持たれると、エクスカリバーの危機だ。一人だけならばどうにか出来るだろう。しかし、アロンダイトが一緒に発動したとなると、押し切れる保証が無い。その隙にカリバーを食らいデッドエンド……ありそうで困る。
あの時に、雁夜を殺しておけばよかった。咄嗟であり、そこまで考えが回らなかったとは言え、間桐邸ごとなぎ払う事はできたのだ。後悔が押し寄せる。
こうなると、ランサーがどうでもいいと言っていられない。彼の槍が健在な限り、エクスカリバーは封じられたままなのだ。
今立たないと積む。切嗣勝者で俺があぼんする。そうならない為にも、最低限は横槍を入れに行かないと。
だっと、ソファーから立ち上がる。気合いたっぷりの俺の姿に、桜が反応した。
「ちょっと聖杯戦争に参加してくる」
「……いってらっしゃい」
桜の激励(ではないだろうが)を背中に受けて、窓から飛び出した。
水銀の膜が弾丸と虫の山を弾く。激しいあたりを見せるが、その程度ではロード・エルメロイが作り上げた最高の魔術礼装、月霊髄液は小揺るぎもしない。その圧倒的性能とは裏腹に、使い手であるケイネスの苛立ちは頂点に達しそうだった。
「っぐ、アイリは!」
「はぁ……ぜぇ……っ、セイバーには、連絡を入れた! キャスターにはバーサーカーを向けた!」
「まだ隠しておきたかったが……」
「無茶を言うな!」
「この私を前に、ごちゃごちゃと相談事をする余裕があるのかね?」
攻撃が途切れた瞬間を狙い、圧縮水銀の鞭を振るう。身を隠していた道具が軒並み吹き飛ばされ、獲物はさらに無様に逃げ出した。いい気味だ、ケイネスは思う。しかし、この程度で許してやる気は毛頭無い。
「科学などに頼る落伍者と、この程度の魔術行使しかできん未熟者が……。身の程を弁えろ!」
紙の様に薄い三枚の刃。目隠しの為に展開された虫をあっさりと吹き飛ばす。合間を縫って飛んでくる弾丸も、月霊髄液の自動防御能力があれば問題にならない。
面白くない。全く持って、面白くない。唇を噛みながら、気概の欠片も感じられない獲物を追いかける。
(私の魔術は、このようなつまらない事に使うために高めたのではないと言うのに……!)
つまる所、それが全てだった。
ケイネスが求めたのは、あくまで魔術師同士の闘争。魔術を蔑ろにする愚か者の始末、それ自体が、すでに魔術に対する冒涜だった。
魔術師とはつまり、世界の回答を求め続ける探求者であり。魔術とは即ち、真実を追い求めるための資格なのだ。だからこそ魔術師は、自分の工房に籠もり、追求を続ける。三流魔術師はまだいい。未熟極まりないが、未熟なだけなのだ。分を弁えているのなら、支援してもいいとすら思っている。
しかし、魔術を道具になり下げた愚か者は別だ。百度殺しても殺したり無い。そして、その愚か者を始末するのに魔術を使っている自分も、また腹立たしかった。
気分が悪い。最悪の気分だ。ケイネスの愛する人、ソラウがランサー風情に籠絡された時ですら、これほどの怒りは無い。
激情は、確実に目を曇らせていた。もし普段通りの冷静さを保っていれば、あるいは気付いたかもしれない。己が罠にはまり、着々と死へと近づいていることに。
確実に迫る死、その流れを寸断したのは、彼自身ではなかった。当然、彼の従僕でも、ましてや獲物と見下している連中でもなく。
屑が銃を投げ捨てる。そして、別の銃を構えた。性懲りも無く――鼻で笑い飛ばしながら、月霊髄液は自動防御を開始する。あんなものでは、傷一つつけられないのをまだ理解していない。
戦闘を継続していられたのも、この時までだった。
唐突に、窓ガラスが全て割れた。粉々に砕けたそれは風圧に乗り、雨のように降り注ぐ。
獲物の二人は、咄嗟に体を丸めて防いでいた。それでも、鋭利なガラス片を防ぎ切れず、体中に裂傷を負う。対してケイネスは、そのような手間をかけること無く、魔術が防いでいた。だからこそ、現状を把握するのが一番早い。
窓ガラスを吹き飛ばした原因。外にいたのは、巨大な飛行機に乗った、黄金の男。悠然と見下ろしながら、そこに佇んでいた。
「馬鹿な、サーヴァントだと!?」
唯一、情報が全く入らなかった、最後のサーヴァント。おそらくはアーチャーであるそれ。自陣営に籠もりながら、虎視眈々と漁夫の利を狙っているとは思っていた。しかし、まさかこのタイミングで襲いかかるとは、予想だにしていない。
いや――考えてみれば、絶好の機会なのだ。マスターが三人、サーヴァントを自分から離し、争い合っている。
(~っ、迂闊だったか!)
至極当然に争い、聖杯を欲するサーヴァントであれば、付け入らないわけが無い隙。自分のサーヴァントが正面決戦に固執するあまり、その存在を忘れていた。
アーチャーが剣を手に取り、横に構える。
(受けきれるか!? いや、破魔の紅薔薇のような能力があったら……)
余計な事を考えて、動きが追いつかない。そもそも、体の反応速度が英霊のそれを凌駕するなどありえないのだ。一瞬先にある確実な死、それに最も早く反応したのは、意外にも死にかけの男だった。
「バーサーカー!」
男の右手に宿るそれが一角、弾けて消える。膨大な収束魔力は一瞬にして霧散し、意思に呼応して姿を変えた。光の道筋が一瞬にして構築され、あり得るはずの無い奇跡――つまり瞬間移動を現実のものとし、次なる奇跡は具現した。黒い甲冑の、茫洋とした暗黒騎士。それはアーチャーが剣を振るうよりも早く動き出し、そして、甲冑で剣を弾いて見せた。
「チッ!」
小さな舌打ちが聞こえる。それは、バーサーカーが現れた事に対してか、それともパワー負けをした事に対してか。
押し返される力に逆らわず、アーチャーは飛行機ごと後退。まずい――誰もが感じた。アーチャーは、遠距離攻撃を得手とするからこそアーチャーなのだ。少なくとも、遠距離攻撃ができない間抜けなアーチャーはいない。ただでさえ、有効な攻撃手段がサーヴァントによる攻撃しかないのだ。そのサーヴァントの攻撃すら届かない場所に行かれてしまえば、なぶり殺しにされてしまう。
アーチャーの背後が揺らめいた。陽炎のように、ではない。水面に水滴を落としたように、弧を描いて波紋を作り、それがいくつも現れる。それに恐怖をしたことを、ケイネスは恥じることはできなかった。それに驚異を感じたのは、魔術師的な感覚でも、時計塔の誇る一級講師としての勘でもなく、もっと原始的な生存本能、それが悲鳴を上げたのだ。
がむしゃらになって、自分に出来る最高の防御陣を構築しようとする。それが……その程度で、どれほど役に立つか分からなかったが。人は死を間近にすれば、頭を抱えて背中を丸める。それと同じように、彼は詠唱をした。
集中力の無い術式に、魔術は答えない。それがケイネスの、本日最大の失敗であり、それを必要とする事がなかったのが、本日最大の幸運だった。
それの接近に気付いたのは、アーチャーとバーサーカーだけだった。彼らのみ反応した事こそが、人知を越えた存在の襲来を教えている。
アーチャーが右側に向かって、剣を振るう。いや、それは振ったのではなく、盾にしたのだろう。直後、金色に、巨大な青い弾丸が命中した。分厚い金属を無理矢理引き裂いたような、強烈な異音。接触時に生まれた火花は、アーチャーの姿を隠すほどに大きかった。
飛行機ごと押し飛ばされたアーチャーは、しかし無傷であり。受け止められ軌道を変えた弾丸を目で追った。
城の壁面に、黄金に輝く剣を突き刺しブレーキ代わりに。魔力で編んでいる筈の甲冑を脱ぎ捨てた、剣の精霊が力強くアーチャーの視線に答えていた。倉庫でも見せた風魔術宝具の応用、圧縮風圧を推力にして、一瞬で飛んできたのだ。
体をアーチャーに向け直したセイバーは、剣を後ろ溜めに構えた。切っ先で渦巻いている暴風は、まだ収まっていない。いつでも飛び出せ、かつ致命傷を狙える構え。当然、それにまんまと引っかかるアーチャーではなかろう。しかし、今はその隙を作る役割をこなせるバーサーカーがいる。
一瞬の均衡、それもすぐに破られる。
「主よ!」
セイバーより僅かに遅れて、ランサーが飛び込んできた。黄槍と紅槍を構えて、他の全てのサーヴァントに対応できるよう、位置を取る。
「これまでだな」
最も早く見切りをつけたのは、アーチャーだった。飛行機を浮かせながら反転させ、離脱を計る。
「ここまでされて逃がすと思うか、アーチャー!」
セイバーの怒声に、しかし反論はなかった。その代わり、ずだん、と床に剣が刺さる。そこは、ケイネスが獲物にしていたマスター二人の、丁度中間だった。
「くっ!」
悔しげなうめきが聞こえる。まだ戦うならば、魔術師を集中的に狙う、そう言っているのだ。ただでさえ空を飛べて、遠距離攻撃が出来るサーヴァント。それに加えて、マスターを守るために足を止めながら戦うのでは、勝負にならない。
双方ともが、今よりも自分に有利な戦場がある、そう判断した上での行動だった。
「ケイネス様、失礼します」
言うランサーの撤退も早い。槍をしまってケイネスを抱くと、全力でその場を離脱する。
その時、ランサーが進行ルートをアーチャーに併せて取っている事に気がついた。元々ランサーの俊敏は今大会最高値。普通に追っても追いつけない。しかし、万が一割り込まれた場合、アーチャーを巻き込む事を保険にしたのだろう。一体二ならば躊躇がなくとも、ニ対ニもしくは混戦にされるならば躊躇う。少なくとも、向こうのマスターはそう判断するだろう。ケイネスも同様の判断をする。
撤退自体は、恐ろしく順調だった。途中妨害に遭うことも無く、拠点である廃墟まで何事も無い。
ソラウからかけられた労いの言葉は、あからさまにランサーの方が比率が高い。収まらぬ苛立ちが、さらに加速される。
「主よ、申し訳ありません。キャスターを後一歩の所で取り逃がしてしまいました……」
「セイバーに続いて、キャスターもか」
「恐れながら……!」
「まあいい」
ランサーの言葉を、どうでも良さそうに打ち切った。今、彼の感情が向いているのは、ランサーではない。それが分かったから、ランサーも言いつのりはしなかった。
無言でどかりと、椅子に座り込んだ。思い出すのは、先ほどの戦闘の事。近代兵器に頼り、魔術を道具に貶めた落伍者。あれをあと一歩の所で始末できたのに。それを邪魔してくれたのは、アサシンを始末して以来、初めて戦闘に参加したサーヴァント。
「おのれ、アーチャーめ……!」
「ずいぶん嫌われたみたいだな」
「っ! 貴様、いつの間に!」
ランサーが構えた槍の穂先。明かりすら最小限の、暗い闇の中。漆黒にまみれながら、しかしその輝きを僅かも曇らせない男がそこにいた。
着ているものは鎧でも、魔力に溢れたものでもなんでもない、ごく普通の服。しかしその金髪と、紅の瞳。なによりそこにいるだけで圧倒される存在感を、忘れられる筈が無い。
アーチャーはランサーの威圧に、僅かも怯まない。気負いすらしない。当然と、散歩でもしているかのように歩いてくる。そして、彼の格好と表情は、実際に散歩でしかない、そう言いたげだった。
「いくらロードと言えど、こんな即席の、工房ですらない場所ではまともな防備は敷けないだろう? なら、やり様はいくらでもある」
どうする……ケイネスは思考を巡らせる。魔力はかなり消耗しており、戦闘継続時間はそう長く取れない。ランサーやソラウも、寸前まで戦闘をしていたのだから同様だ。対峙するサーヴァントは、少しばかり漁夫の利を狙っただけで、消耗らしい消耗は無い。
逃げるにしても、位置が悪かった。ランサーの能力を生かせるようにと、不満しか無い場所から選択した廃墟。広い室内ながらも、壁が壊れて外に出られるようになっている。つまり、どう逃げるにしても、あの飛行機ですぐに追いつけるのだ。ランサーが押さえるには、飽いた壁が邪魔すぎる。
「まあ、そう構えるな。今日は戦いに来たわけじゃないんだ」
かつかつと音を立てて、宝具も展開しないまま、ついにランサーの間合いに踏み込む。戸惑いの視線は、己のサーヴァントのものだ。やめろ、と視線を飛ばし返す。それに答えて、ケイネスの一歩前まで引いた。
策を弄するサーヴァントに答えるのは、確かに危険だ。しかし、それ以上に、戦闘をするのは利口では無い。所詮、奴はアーチャーであり、ランサー有利な距離でいきなり押し負ける事はないだろうという下心もある。少なくとも、至近距離でアーチャーの方が早い、という事はあるまい。
サーヴァントは、ケイネスの五歩先で止まった。当たり前であるが、さすがに剣が届く距離まで踏み込んでくるような真似はしない。そこで、アーチャーは何かを投げてきた。魔力も何も感じない、ごく平凡なコピー用紙の束。つまり、ただの書類だ。
「ランサー、警戒しておけ」
「はっ!」
「好きなだけ警戒すればいいさ」
立ち止まったアーチャーは、片足に体重を乗せて、腕を組んだ。一般人が、その辺の道路の上でするような仕草。舐めているのか、戦わないという意思表示か。
反応速度も、魔術強度も。どれをとっても、サーヴァントとして幸運以外のステータスが一級以上であるアーチャーには対抗できない。止めるには、ランサーを信じるしか無いのだ。ならば、開き直って無様を見せない方が、万倍マシだった。
書類を拾い、それに目を通す。数枚もめくれば、眉間に皺がより、全部見きる事なくそれを捨てた。
「何のつもりかね、これは。私の経歴、しかも当然のことばかりを並べて」
鼻で笑う。所詮、このサーヴァントもこの程度なのだと。しかし、アーチャーは全く気にした様子がなく、
「見事な経歴だ。さすがロードと言ったところか。俺にマスターを選べていたら、お前を選んでいただろうな」
当然だ、と胸を張るが、内心悪い気はしていない。少々態度が気になるが、それでもランサーよりはまともだ、と評価を下す。とはいえ、油断ができる相手でない事は変わりない。
「それで、何が言いたいのだ? そんな事を言いに来たのなら、お帰り願おうか」
「単刀直入に言えば、同盟を組みに来たんだよ。どうせ組むなら、一番レベルが高い魔術師だ。違うか?」
――分かっているじゃないか。思わず口元が緩む。ランサーではなく、マスターであるケイネスを見て判断したのはポイントが高い。しかし、それをすぐに厳しく直し、睨み付けた。
「私が頷くと、本気で思っているのかね? 貴様はついさっき、私が敵マスターを始末する邪魔をしたばかりではないか。いや、それどころか私ごと始末しようとしたな」
「勘違いだ、とは言わないさ。戦場ってのはそういうものだ、殺られた方が悪い。……だが、さっきの事に限定すれば、俺はロードに感謝されてもいいと思っているぞ?」
「なに?」
戯けて言うアーチャーに、ボルテージが一気に跳ね上がった。この男は、あろう事か、抹殺しなければならない屑の始末を邪魔しておいて、のたまったのだ。
炎のような怒りを向けられても、やはり男は気にした様子が無い。それどころか、肩をすくめすらした。我慢の限界は、寸前まで近づいていた。
「お前は確かに優秀だが、だからこそ足下をすくわれる。敵対するマスターの事くらい調べておくべきだな」
ふざけた物言いに、大きく舌打ちをする。あのような魔術師未満どもに、情報網を消費する価値などない。しかし、集めようとしたが漏れがあり、情報が足りなくはあったのだ。物言いに、全く反省すべき点がない訳では無いのだ。
次に飛んできた書類は、最初よりもかなり薄いものだった。それが誰のものかは、見る前に分かる。あの、現代兵器に被れた愚か者のものだ。
魔術師殺し。あれはそう呼ばれていたらしい。資料によれば、力ある魔術師を複数名打倒しているらしいが……あの様子では、その内容もどれほどが真実か。実際は名前だけが大きくなった、痩せ犬ばかりだったのだろう。しかも、勝ちの全ては対象魔術師の魔術行使失敗による自爆だ。話にならない。
馬鹿馬鹿しいと断ずる前に、アーチャーの言葉が飛ぶ。
「話一割だとしても、実際に高位の魔術師はいたのだろう。そうでなかったとしても、経験がとても多い魔術師ばかりだ。さあ、ロードの意見を聞かせてくれ。魔道に数十年どっぷり浸かっ者達が、こう都合良く自滅してくれるものなのか?」
そんな訳がない。時計塔の講師の中ではまだ若いとは言え、それでも数年の経験はあるのだ。魔術行使の失敗にはパターンがあり、それを積み重ねて能力を上げていく。大魔術を行使するのであれば、最大限に気を遣う筈だ。そんなものは、未熟者の自爆だ、で済ませていい問題では無い。つまり、考えられるのは。
「魔術に対するカウンターか!」
「その通り。奴は何らかの手段でそれを可能としていた。お前が大魔術を使うのを、虎視眈々と狙っていただろうな」
くっ、と歯がみをして、資料を叩き付けた。彼には自負心がある。魔術師の大家として積み上げ、時計塔で功績を重ね、若年にして一級講師になったというプライドが。そこに付け入られ、あざ笑われていたのだ。あろう事か、魔術師の本懐を忘れたような輩にだ。
今度こそ、油断はしない。あらゆる対策を立てて、再び奴の間に立つ。そして……今度こそ、絶対に殺す。泥のようにうねる殺意を固め、しまい込む。拳は、いつの間にか血が流れるほど握りしめていた。
「君には……感謝をすべきか?」
「いらんな。これは同盟を組む為の前支払いだ。俺は自分の真名を飽かす気は無い。その代わりに、情報と拠点を提供しよう。少なくとも、ここよりはマシな場所をな」
激情は、押さえたつもりだった。しかし、声までは意をくんでくれなかったようだ。低く、震えた声になる。
無理矢理感情を抑制したつもりになる。つもりにさえなれば、今冷静でなくとも、間を置かず冷静にはなれる。魔術師として必要な技能だ。そして、なぜアーチャーが同盟を申し出たか、考えた。
恐らく邪魔だったのだ。同盟を組んだ陣営が。セイバーかバーサーカー、もしくはその両方が邪魔だった。だから自分も同盟を組んで、共同で始末したかったのだ。
「拠点は後で考慮する。役に立つか分からんし、何か仕掛けられていないとも限らん。その代わり、私たちと君の陣営以外の情報を全て開示してもらおう。そうすれば、同盟の話を受ける」
「ケイネス様!?」
「お前は黙っていろ!」
声を荒らげた自らの従僕を、一喝して黙らせた。
がなぜ止められたか、分からないケイネスではない。ようはランサーが最後まで残ったところで、驚異では無いと思われているのだ。それが正しいであろう事も。しかし、それのどこに問題があると言うのだ。
アーチャーについて集められた情報の、数少ない一つ。傀儡をマスターとして、好き勝手振る舞っているというものがある。つまり、マスターはそいつで無くても構わない。例えば――ケイネス・エルメロイ・アーチボルトでも。残るサーヴァントがランサーとアーチャーになった時点で、自分の勝利は確定するのだ。
それに、ランサーが反対をしている理由も分かっている。奴は、セイバーとの尋常な勝負とやらに、未だ拘っていた。
ふざけるな、というのが、ケイネスの感想だ。上辺だけの忠誠を誓い、妻を籠絡し、あまつさえ聖杯戦争をそっちのけにし、己が望む戦場に立たせろと言う。馬鹿にするのも大概にしろ!
いい気味だ。そう思うと、いままでの怒りが大分和らぐのを感じる。
「その条件で構わない。元より、全ての情報を見せるつもりだったからな。同盟成立、早々脱落されては困る」
「私がやられる、とでも言いたいのかね?」
「お前が手強いなら、お前を狙わなければいい。ランサーでも、離れた位置にいる二人は守れまい」
その予定だった、という言葉に嘘はなく。その場で資料が渡された。そして、思い切り顔が引きつった。
「なるほど、これだけの情報を集めたから、動き出したのだな」
枚数にして数十枚と、五枚。数十枚にまとめられたマスターの情報は、それなり有用だった。しかし、それが霞むほどの、冗談のような情報。たった五枚だが、それには聖杯戦争を攻略するのに必要な、全ての情報があった。つまり、サーヴァントの明細。
全てのサーヴァントの、全ての真名、全ての宝具が、完全に記されている。まるで冗談のような精度。ステータスも、スキルも、何もかもが裸だ。そして、いや、だからこそ、彼がこれを見せたがっていた理由が分かる。例えば、アサシンはまだ死んでいない。今までのようにソラウを置いて戦っていれば、人質にされていただろう。例えば、バーサーカー。紅薔薇の優位を信じて戦っていたら、真の宝具による手痛いでは済まない反撃が待っていた。あまつさえ、ライダーの最大宝具。それが固有結界などと、冗談でも面白くない。しかも、物量で押し込んでくる、という戦い方は、ランサーの天敵と言っていい。最悪の相性だ。
しかし、その全て。知っていれば対策の立てようはある。これらの情報と、後衛を勤められるアーチャーの存在。まさしく、千金に値する。
サーヴァント情報の資料だけを、ランサーに押しつけた。それに目を通したランサーも、大きく目を見開いている。
「すばらしい。予想以上だ。それで、最初はどこに仕掛けるのかね? キャスターか、それともセイバーとバーサーカーか?」
「主よ! セイバーは私が必ずや御首級を……」
「貴様は黙っていろ、と言ったのだ」
今までは、それでもいいようにさせてしまっていた。しかし、これからはそうはいかない。ケイネスは、いつしか自分のサーヴァントよりも、アーチャーの方を信じていた。実際、相性は悪くない。
「ん? 決闘したいならさせてもいいんじゃない?」
「……は?」
とは、誰の声だったか。
てっきり、自分の援護が飛んでくると思っていたケイネス。実際には、やる気なさげに肯定する声だ。思わず拍子抜けする。
「今のセイバーはエクスカリバーを使えない。なら、ランサーが負ける事はまずないな。実は、この二人に能力値の差って殆どないんだぞ」
ほら、とランサーが持っていた用紙から、一枚を抜き出す。出てきたのは、当然セイバーのものだ。殆どAランクが並んだ、壮観なステータス。とても対抗できるとは思えない。
「まず魔力値。宝具発動に関係するけど、ランサーの宝具が常時発動型なのと、セイバーがエクスカリバー使えないから、この差はないも同然。差の大きい耐久力だけど、これは紅薔薇の力で、セイバーのは実質C以下。まあ、耐久に必要ない分、筋力をブーストしてくるだろうが。それでも最終的な差は、筋力の1ランクのみだ」
セイバーが魔力配分によってステータスを変化できるのは確認済み。ランサーの筋力がBであるから、耐久力もそれに合わせたBにしたとして。筋力が1ランク上昇するが、差はそれだけ。
敏捷のプラス補正分は、どれほど優位になるか分からない以上考慮しない。
「……確かに」
高レベルな数値に目が行っていたが、そう言われると、確かに差は出てこない。それとも、これでまだセイバーがやや優勢という事に驚けばいいのか。言われてみれば、納得できる内容だ。
でも、横で「もっと言ってくれ!」という顔をしているランサーが、張り倒したくなるほど腹が立つ。
「あとは戦い方の差だな。セイバーは瞬発型宝具だから、最後に頼るのは宝具の威力だ。それに比べ、ランサーが頼るのは、常に自分の技量。切り札を封じられてて、この差は大きいぞ」
「その通りですケイネス様! 必ずやセイバーを討ち取って見せます!」
「ついでに言うと、バーサーカーのアロンダイトとは相性が悪い。純粋にスペックアップされると、技量で補いきれない可能性があるからな。これは魔力がネックだが、相手に魔術師が複数いると、それだけで解決されかねん」
懇願するランサーに対し、やはりアーチャーは無気力。勝つために同盟を組むという事は、勝てれば何でもいいという事。勝算が高いなら、それで構わないのだろう。
苛立たしく、腹が立つ。そして、気に入らない。……結局、このサーヴァントの求める通りになってしまうのが。
しかし、それで勝利できるのであれば。拒否する理由がないのも事実だった。そしてケイネスは、気に入らないからという理由で、勝利を手放すほど耄碌してはいない。
「……今度こそ、次は無い。よく覚えておけ」
「は……はっ! お任せ下さい! 必ずや、勝利を捧げると誓います!」
恭しく頭を垂れて、礼をする。それも、ケイネスが受け取るには、不快な感情をぬぐいきれなかった。
それでも。勝つためならば――ソラウを取り戻し、時計塔に凱旋する為ならば、堪えられない事ではない。
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ソラウは恋愛中毒(ラブジャンキー)
ソラウにとって、昨日一日はとても生きた心地のしない一日であった。いや、昨日だけではない。初めて恋した人、ランサーが戦場に赴くときは、いつも緊張を強いられている。
幾度、何も出来ない自分をもどかしく思っただろうか。
それが、自分に求められた役割だとしても。ケイネスにとっても、ランサーにとっても。彼女以外の皆がそう思っている。そして、自分の実力では、それ以外の役割はこなせない事もよく分かっていた。だから、いつも彼が戦うときは、つながったラインだけを縁に祈り続けている。
転機は、昨日訪れた、のだと思う。そう断言できるだけの情報があった訳ではない。何がどう変わったのかというのも分からない。そう確信が持てたのは、彼女の婚約者と、愛する人がそういう態度だったからだ。だから、よく分からなくとも、そういう態度だけはとっておく。そうすれば、とりあえず、問題にはならない。少なくとも、自分が理解できていない、という点を除けば、何もおきていない。
そして、彼女は今町を歩いていた。仲間である二人と、驚くことにもう一人と。さらに驚くべき事は、新たに加わったもう一人が先頭を歩いているという点だ。ついでに言うと、彼と一緒になってなぜ町中を歩いているのかも分からない。
金髪で背の高い、現代の服を着こなしている男。昨日同盟関係が成立したアーチャーだった。
恐らく、現代に一番順応しているサーヴァント。社会的な力を得ている、という意味でも。英霊と言う、一種超越した存在として見るには、卑近すぎる気がする。その存在の発する圧力だけは、彼が本物だと告げている。それでも、ランサーなどと比べれば、あまりにも『神聖さ』らしきものに違いがある。とはいえ、これは多分に乙女視点の補正がかかっているという自覚はあった。
今、こうして歩いていること自体に不満はない。なにしろ、ランサーが具現化し、自分の隣を歩いているのだ。アーチャーが用意した現代の服は、普段と違う野性的な印象があって、また素晴らしい。素直に、惚れ直した。
ランサーが具現化してるのは、単純にサーヴァントに対する警戒の為だ。アーチャーにも、それ以外、特にアサシンにも。特に、アサシンが健在なのであれば、霊体化していては、連れて歩いても不意を突かれかねない。とは、アーチャーの言葉だ。その言葉には、実際にランサーを具現化させておくだけの真実味があったのだろう。もっとも、ソラウにとっては隣に彼がいる、それが全てだが。婚約者の目つきが気にあるが、そこはそれ、乙女とは盲目で独善的なものである。
「アーチャー、貴様いつまでこうして町中を歩いているつもりだ?」
普段より二回りは強い口調のケイネス。ソラウとランサーの、やり場の無い怒りをそちらに向けていた。
「慌てるな。経験からすれば、あと少しだ」
「だから、何があと少しだと言うのだ! いい加減に説明しろ!」
どうやら、歩き回っている理由を知らなかったのは、ソラウだけでは無かったようだ。いや、あの様子だと、アーチャーしか理解していない。これも、ランサーを具現化させた理由の一つだろう。
「お前だって、俺が前々から所有していた、何が仕掛けられているかも分からない建物は嫌だろう。だから、今建物を「得ている」所だ」
こいつは何を言っているんだ。胡乱な、どころではない。完全に馬鹿を見る目で、アーチャーを見るケイネス。ランサーもそこまであからさまでは無いが、呆れた顔をしている。それは、ソラウも全くの同意だった。それどころか、こいつは完全に頭がおかしい、と思っている。
「好きに思ってろ。そのうち理由が分かる……来たか」
と言って、話が打ち切られる。
いつの間にか、近くまで男が寄ってきていた。中年くらいの、東洋人らしく背の低い男。魔力の反応も無く、特に危険には見えないそいつ。なぜか感極まって、涙を流しながら震えている様は、別の意味で危険だが。そっとソラウをかばうように前に出たランサーに、胸が高鳴った。
男はアーチャーの前まで来ると、跪く。一言二言会話をすると、何かを差し出した。アーチャーはそれを受け取って、とっとと歩き出す。男は、去るアーチャーを目で追いながら、いつまでも拝み続けていた。
狂信者にしか見えない者の脇を通り抜けるという、今までの人生にない経験。今度狂信者に出くわした時、役に立つかもしれないが、そもそもそんな所には近づかない。ついでに、全く嬉しくない経験だ。
誰も理解が追いつかず、しかしアーチャーだけは平然と、今受け取った何かをケイネスに押しつけた。
「お、おいアーチャー。おまえは今、何をしたのだ?」
ランサーは戸惑いながら、しかし代表して聞く。実際、それはケイネスもソラウも聞きたいことではあった。
「何って……見てただろ?」
「いや、見て分からなかったから聞いたのだが……」
何を言っているんだ、という口調のアーチャーに返した答えは、口ごもっていた。ふと、アーチャーは顎に手を当てて考え込む。
「献上品を受け取った。今手に入れたものだから、お前達も元々所持していた不動産よりは安心できるだろう?」
「献上品、だと?」
「そうだ。俺は何か、お前らに渡す拠点が欲しいと思った。そして誰かが献上しに来た。俺がそれを受け取り、お前らにくれてやった。それだけだ」
いや、もっと意味が分からない。聞きたかったのは、なんで見知らぬ誰かがいきなりものを差し出しに来るか、なのだが。全く理解されなかったようだ。
そうこうしている内に、また新しい誰かが寄ってきた。先ほどのように挙動不審ではないものの、その瞳には狂信の色が見える。
「御託はいい。もらってやるからさっさと出せ」
と、差し出された書類は即座にケイネスに渡し、深々と下げた男の手に握られている。それを皮切りにして、一人、また一人と人が集まる。
アーチャーは得体の知れないサーヴァントだ。正々堂々や自己流に拘る者が多い聖杯戦争で、珍しく『戦争』らしい戦術を組み立てていた。魔術師の道理に理解がある、という意味では、サーヴァント唯一ではないだろうか。能力も、飛行能力を持ち、剣を使い、使い魔のようなものを持っていたりと多彩だ。ケイネスが頭を捻って真名を割り出そうとしていたが、結局分からなかった。恐らく、自分の正体が割れるような事は、まだ何もしていないに違いない。秘匿を重視する、という意味でも、おそらくは希有だろう。サーヴァント達は総じて、真名が知られる事を重要視していない。真名を知られたところで、目立った攻略法がない、という事でもあるのだろうが。ならば、アーチャーは真名を知られれば、わかりやすい弱点も知れるのだろうか。とてもそんなタイプには思えない。隠せるものは最後まで隠す類いの人間だ。
確かに得体は知れないのだが。ケイネスはランサーよりもアーチャーを信頼している節がある。元々、二人の間には(一方的だが)不和があったのだが。それを抜きにしても、経歴や魔術師としての技量を認め、同盟を申し込んだアーチャーがよほど琴線に触れたらしい。ソラウから見れば、えり好みの激しい派手な男でしかないのだが。
問題は、それで切り捨てに走りかねない、という点だ。たとえアーチャーでなくとも、理解のあるサーヴァントの方がやりやすいのは当然だろう。だが、それと感情とは話が別。むしろ女は感情に生きる者である。ランサーの切り捨てなど、何をしてもさせるつもりはない。そもそも、敵サーヴァントをあっさり信じるケイネスがおかしいのだ。
五、六人ほどから献上品を受け取ったアーチャー。貰ったものは全てケイネスの手の中にある。
信者だか家来だか、よく分からない連中を追い払って振り向く。
「そこらの権利書は、正式に届け出なければお前のものにはならんけど、警察やらを追い払うのには役に立つ。全部本物だから、向こうも文句のいいようがない。あと、賄賂を渡す場合は気をつけろ。警察の下っ端などに渡しても意味は無い、というか逆効果だ。渡すなら、上層部に秘密裏で、だ。つてがないなら渡りをつけてやる」
「ちょっといいかしら?」
「何だ、ええと……」
「ソラウよ、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ」
「ソフィアリと呼んでも?」
「それで構わないわ」
見知らぬ男に名前で呼ばれて喜ぶ趣味はないため、了解した。彼女が声をかけた理由は単純だ。まだケイネスがフリーズしているからと、敵愾心が、気後れする事を許さなかったから。たとえ無意味だとしても、自分が優位であるという安心感を得たかった。
「その、権利書? はどういう事なの?」
アーチャーが、あからさまに眉をしかめる。何度言わせるつもりだ。表情が語っていた。
「だから、この中から、好みの拠点を選べって事だ。さっきも言ったが、俺が何かしてるかも知れない拠点は嫌だろう。だから、今貰ったばかりの中から、好きなのを選べと言ってる。分かりやすいだろ」
「いえ、そうじゃなくて……」
それは聞いた。理解もしている。なにより、同盟条件の一つに、新たな拠点の手配があるのだ。その場所を掲示されるのは当然だし、複数箇所から選ぶのも分からなく無い。
当たり前に意味不明なのは、それの獲得手段なのだ。町を歩いていた、話しかけられた、拠点を手に入れた。どう理解したら、まっとうな反応ができるようになると言うのか。子供向けの絵本でも、こんな理解しがたい展開は無い。
「私が聞きたいのは、何で、見ず知らずの誰かが貴方にそれを持ってくるのか、という事なのよ」
軽い疼痛を感じ、指先で額を支える。そう言えば、とアーチャーは顔を明るくした。本気で分からなかったようだ。
「黄金律」
「え?」
「だから、黄金律だ。スキルの」
「……は?」
確かに、黄金律という保有スキルを、Aランクで所持しているのは知っている。それが、これを起こしたとでも言うのだろうか? そんな話があるか、と脳裏で反論する。しかし、そんな事に何の意味があると言うのか。どうせ、どう説明されても納得できないのには変わらない。ならば、口に出さない程度でどう罵っても、影響はないし意味も無い。
しかし、釈然としないものだけは、確実に心の中に残る。少し手を伸ばして、隣にいるランサーの服を掴んだ。
「ね、ねえ、ランサー。スキルにそういう事って、あるのかしら……?」
「申し訳ありません、ソラウ様。俺も、このようなスキルを持つのは奴しか見たことがないので何とも」
申し訳なさそうな、と言うよりは同じように呆然としている。それくらい反則的な力だった。
相変わらず、細かい事は気にしない様子のアーチャー。また町中を歩けば、それだけで財産を持ち寄る人が出てきた。
たちの悪い冗談のような光景を目にしながら。とりあえず、廃墟生活に嫌気がさしていたソラウは、アーチャーが味方でよかったと思うことにした。
とりあえずランサー陣営を味方に引っ張り込めた。これで一安心である。
最善はあの城で、マスター三人を仕留める事だったが、失敗したなら仕方ない。まさか間桐雁夜の反応速度があそこまで高いとは思わなかった。いや、出来ることが少ないからの反応速度なのか。何にしても、奴を追い詰めすぎれば、食らわなくていいダメージを負いそうだ。
なぜ、同盟に彼らを選んだのかは理由がある。ぶっちゃけ他の陣営が役立たずだったというだけだが。言峰は、変に覚醒されても嫌だし、アサシンは必要ない。時臣と関わって面倒があるのも嫌だった。ウェイバーは言わずもがな。あのライダーが人の話を聞いて動くとは思えない上に、余計なことすらしそうである。同盟相手として、これほど不適切な相手もなかなかいない。キャスター組はもっと論外なので、ここしか残っていなかったのだ。
それに、彼らは能力だけで見ると、実に優秀である。ケイネスが優秀な魔術師である事は言うまでも無い。切嗣の驚異を知った以上、己が出向くこともあるまい。戦闘はサーヴァントに任せるはずだ。
ランサーも、保有スキルやステータス自体は大した事がない。しかし、今聖杯戦争に限れば地味に強キャラだ。黄槍は聖剣を封じ、紅槍は騎士は徒手にて死せずと戦車の雷撃を気にせず行動させ、螺湮城教本の機能を停止させる。半数以上に有利な行動が取れるのだ、それで勝てるかは別にしても。同時に、俺は彼の宝具を恐れる必要が無い、というのもいい。筋力と魔力以外のステータスは飾りだからな。
とにかく、不仲でなければ最有力の優勝候補ではある。
味方にするのは、とても簡単だった。プライドの高い奴は、そのプライドを刺激してやればいい。下に見られぬよう居丈高な態度でも、評価が底辺の同種が近くにいれば、相対的に良く見えるものだ。
俺にリスクの無い方法で仲間に出来た、というのもいい。くれてやった情報も拠点も、元手はゼロだ。俺の情報がないのなら、痛むものは何もない。むしろ、向こうから共同でサーヴァント討伐を打診してくれれば万々歳。
ちなみに、セイバーとの戦闘が有利だみたいに言ったが、全くそんなことは思っていない。確かにステータスの上では大差がなくなるだろう。しかし、スキルの差は大きいのだ。魔力放出は俊敏と筋力を瞬間的に倍加できるし、直感はランサーの真眼を上回るA。普通に地力で上回っている。
まあ、彼が普通に勝ってくれればそれで問題なし。負けたとしても、俺がバーサーカーを仕留めるまで持っていればいい。楽なものだ。
セイバー陣営とバーサーカー陣営の同盟で一瞬戸惑ったが、これで少し余裕ができた。懐が広くもなる。
「どうしたんだ、早く選べ。ああ、別に複数使っても構わんぞ。予備は必要だろうしな」
「そ、そうか……」
未だに俺の黄金律効果から立ち直っていないケイネス達。気持ちはすごく分かる。俺も最初はそうだった。
しかし、慣れとは恐ろしいもので。道を歩く度に献上品を持ち寄ってこられても、普通に対処できるようになっている。今回に限れば、そういう姿を見せることで、一つ精神的な優位すら作れた。……まあ、自分でやっておいて、違和感が大きかったが。
用事は全て済ませた。ケイネス達も、これから選んだ拠点に向かっての工房化が忙しいだろう。これで今日は解散か、と思った時だ。桜から、ラインを通じて連絡があったのは。
『来た』
ラインを通じた念話まで、抑揚がなく感情の薄いものだった。しかも短すぎる。しかし、それで問題は無い。最初から、連絡が来る時のパターンを話し合っていたのだから。
やっと、運が向いてきたか。ひっそりと口元を歪める。早朝に桜を起こし、見ていて貰った甲斐があった。
『予定通りの場所だな』
『そうです。……子供をたくさん、連れてます』
『分かった。もう監視はやめていいぞ。あと、これ以上そこは絶対見るな。チャンネルの別の場所に当てておけ』
事前に言っておいたが、もう一度注意をして念話を切断。そして、後ろを振り向いた。
「キャスターを見つけた」
唐突な俺の言葉に、唖然とするケイネス。しかし、彼もまた優秀な魔術師であり。一拍おいて見せた表情は、すぐに冷徹なそれに変わっていた。
「今新たな拠点に帰ったところだ。俺はこれから強襲を仕掛ける。お前達はどうする? 拠点に帰って防衛網を敷いてもいい」
と言っておくが、それを選択しないだろうと確信していた。ここで勝てば、切り札たる令呪が一つ手に入る。なにより、
「行くに決まっているだろう……! 魔術をおもちゃか何かと勘違いしている連中に、真の魔道とは如何なるものか、身をもって教えてやる! ランサー、準備をしろ。ソラウ、済まないが一緒に来てくれ。君を一人にして、アサシンに狙わせる訳にもいかない」
「了解しました、我が主よ!」
「ええ、分かったわ。手に持ってるものを渡してちょうだい」
一度方針を決めれば、迷い無く達成にするために動けるチーム。これで修羅場さえなければ、本当にいい人たちなのだが。
和んでいられるのもこれまでだ。俺も、自分を叱咤し、油断を切り捨てる。
「急ぐぞ。子供が何人も連れられていた。おそらくは、生け贄のためだろう」
「なんだと? それを早く言え! アーチャー、貴様の飛行機は、これだけの人数を乗せられるか?」
「大丈夫だけど、隠蔽ができん」
「それは私が請け負ってやろう。急いでいるのだ、早くしろ」
是非も無い。彼らに王の財宝を隠す意味も薄れており、二つ返事で了解した。殆ど異界と化した空間、その鍵を開ける。目に見えず、感じずとも底にある扉から、巨大な飛行機が出てきた。
四人全員(ランサーも念のため霊体化しなかった)でそれに乗り、現場へと急行。一瞬で入り口である、巨大な下水口へとたどり着いた。ソラウが凄く嫌そうな顔をしているが、こちらも考慮も配慮もする余裕は無い。無言で内部へと、足を踏み入れた。
しばらく進んで、前方に違和感を感じた。ランサーも同じらしく、足が鈍る。
「待て、アーチャー、ランサー。そこに結界が敷いてある」
幾ばくか遅れて来たケイネスが、警告を飛ばした。
前に進んで、しばらく結界を調査する。何度か呪文を唱えた後、チッ、と舌打ちが聞こえた。
「魔術の程度はたいしたことがない。しかし、力任せで気付かれず解除するのは難しいか。アーチャー、お前はキャスターに気付かれず、結界の内側に入る手段があるか?」
「無茶を言うな。俺のやり方は、全て派手なんだ。気付かれぬよう大人しく、というのに向いていない。ついでに言うと、魔術の専門家であるお前に出来ない事は、俺にもできん」
宝具の山を上手く運用すれば、確かに何でもできる。が、それはあくまで、結果的に上手くいかせられる、という話でしかない。
例えば一番最初の時。俺は時臣との契約を切り、令呪も欲した。契約の遮断は簡単だ。ルールブレイカーのような、契約に関する伝承というのは、世界中にある。つまり、それだけ契約破棄の手段があると言うこと。
しかし、令呪の奪還は上手くいかなかった。一つは、これが魔術的手段であること。一つは、それ自体は契約魔術ではなかったという事。一つは、最高峰の術式であったという事。最後に、それは聖杯によって、サーヴァントからの干渉をはね除ける保護があったという事。これらによって、令呪を全て奪いきれなかったのだ。逆に言えば、それでも奪えた宝具がすごい、とも言えるが。
とにかく、俺は魔術に対して、力業的な手段しか持ち合わせていない。手段を問わず、結界を壊せ、というのならば簡単だ。しかし、術者に気付かれぬよう解除しろ、というのは不可能だ。
「仕方が無い。ランサー、やれ」
「はっ!」
返事と同時に、紅槍が振るわれる。それだけで、今まで感じていた違和感の全てが吹き飛んだ。これで、侵入者が来たと知られたが、しかし結界もすぐには再構築できないだろう。下手に仕掛ける猶予を残しておくよりは、遙かにいい。
結界の崩壊を確認し、俺とランサーは同時に走り出した。キャスターに、海魔を召喚させる余裕を与えず、子供に手を出させないか。速度がそれを決める。
しかし、俺たちがサーヴァントであるように、キャスターもサーヴァント。単純な動作速度ならいざ知らず、判断速度でそう大きな遅れを取るはずが無い。大した数では無いが、海魔が地に出来た闇の渦から、顔を覗かせている。
「飛べ! 子供を確保、できればマスターを仕留めろ!」
「承知した!」
宝物庫から、剣を一本取り出す。それを横薙ぎにするより早く、先行していた青い影は上へと跳ね、天井を走る。
振るわれた剣先から、一筋の赤光が走った。それは剣筋の通りに真っ直ぐ飛翔し、半ばまで生まれていた海魔の頭に突き刺さる。着弾と同時に、火炎が爆ぜた。火の勢いこそ、余波で海魔を焼くには足りないが、爆風は吹き飛ばすに十分。先頭で壁になっていた魔物はそれだけで消え、隠れかけていたキャスターの姿を露わにする。
この宝具は、振れば炎が溢れるという伝承を持った、常時発動型の宝具だ。これだけ聞くと恐ろしく強力に聞こえるが、実際はそうでもない。付与効果が派手なものの、威力は見た目ほどではなく。その上、これは魔術効果という扱いなのだ。対魔力ランクがBあれば、余裕をもって防げてしまう。射程距離もそう長くない。
サーヴァント戦だと微妙な効果だが、今の状況ではこの上ない力を発揮する。ランサーの対魔力ランクはBだ。その上、魔術に対する絶対的優位を持った『破魔の紅薔薇』を所持している。つまり、剣をむちゃくちゃに振り回しても、子供達には傷一つつかない。
「おのええぇぇぇ! この匹夫どもめがああぁぁぁぁ!」
「黙れ外道め! さらに罪の無い子供達を生け贄にするとは……どこまで堕ち果てているのだ!」
爆炎の奥から、地獄から絞り出したような声が聞こえる。同時に、ランサーの悲鳴のような声も。
いくらか遅れて、その場にたどり着き。俺も子供をかばう位置に立つと、再び青い弾丸が疾走した。その背中から、巻き込むのも気にせず灼熱の光線を山ほど浴びせる。ランサーに触れたものだけはその対魔力に消え去り、残りは海魔の防衛網をずたずたに焼き尽くす。密度のなくなった壁など、彼にしてみればないも同然だ。
容易くくぐり抜けたランサーが、キャスターに肉薄する。気づき、後退しようとしていたが、しかし早さの差は歴然だった。
「ジャンヌよ……!」
「貴様の凶行もこれで……終わりだ!」
盾にされた宝具、螺湮城教本。しかし、十分に助走をつけた紅槍の前には、その程度の防御、無いも同然であり。禍々しさを発する本ごと、キャスターの首は宙に舞っていた。
どさり、というのは、主なき体が地面に転がった音。その後には、音は何も響かなかった。地面にたどり着く前に、光の粒になって消滅する。外道を貫いた槍を一度振り払い、残心を残す姿は、正しく誰もが思い浮かべる英雄のそれであろう。
「だ、旦那あ!」
「貴様はもうしゃべるな」
意識をしたわけでは無い。声を聞いた瞬間、足は勝手に雨竜龍之介と思わしき男に突き刺さっていた。地面と水平に軽々と飛ぶそれ、壁に激突すると、ぐちゃり、という嫌な音を上げて墜落し、それ以来動かなくなった。死んだかもしれないし、死んでいないかもしれない。どちらであっても、どうでもいい。少なくとも。
背後、つまり守っていた子供達を見る。そこには、恐怖に顔を引きつらせた子供、手足を失って、しかし痛みに口を開くこともできずにいたり。酷いものは、すでに何かを感じることもできないほど、壊されている子もいた。
胸くそ悪い光景だった。最悪の気分だ。こんな気分は、桜を見つけた時に、怒りにまかせて周囲を焼き尽くして以来だった。
「どうだ?」
「はっ、キャスターのサーヴァントは討ち取りました。しかし……」
ランサーが泣きそうな顔になりながら、子供達を見た。五体を傷つけられていない子供ですら、あまりの残虐性に正気を失っている。
魔術師である以上、人を害する事もあるだろう。いや、人をただの、魔術を研究するための道具にすらする。しかし、それでも。言い訳をするならば、人を傷つけるのが好きなわけではないのだろう。ケイネスの顔には、隠しきれぬ嫌悪感があり。ソラウなど、あまりの惨状に口元を押さえている。
「治療は俺がする。後の処理は任せられるか?」
「構わん。元々魔術師の仕事だ。しかし……」
その続きを。ケイネスは言わなかったのか、言えなかったのか。
たとえ記憶を操作しても、経験というのはそう無くなってくれない。強烈なものであればなおさら。
自分の体を、生きながらおもちゃにされた子供達。傷を癒やして、そうされた記憶も失って。それで日常に帰れるだろうと言うのは、楽観に過ぎた。彼ら、彼女らは、すでに一度深淵を見てしまったのだ。見た以上、それらの気配に敏感になり、見つける度に無いはずの記憶が蘇り……ある日突然、許容量を超える。その時が、その子の人生最後の瞬間だ。
それでも、俺たちにはもう、祈ることしかできない。せめて残りの人生、どうか思い出さぬようにと。
治療と記憶操作を完了し、眠りに陥る子供達。あとはこの子達を適当な場所で解放すれば、この件は終わりだ。そう思っていた。
入ってきた方向、大きな通路から、轟音がなり響く。嘶きと、何かが擦れ合う音と、そして雷鳴。
馬鹿な、と思わず歯がみする。なぜこのタイミングでライダーが。
悠長に考えている暇など無く、雷撃は室内までをも貫き。そして、現れる戦車から、巨躯を誇って腕を組む、英雄が一人。
「ほっほう、アーチャーの奴を見つけたとおもったが、ランサーもおったか。こりゃあ運がいいわい」
その不敵な笑いには、一筋の曇りも見えなく。嘗て大王と呼ばれた新たな勢力が、その場に現れた。
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ウェイバーは憂鬱
自慢ではないが、ボクは天才だ。誰かに――あるいは誰に聞かれても、ウェイバー・ベルベットはそう答える。相手が怖い場合は、心の中だけで言いつつ、密かに罵ることもままあるが。まあ、心の中だけでも答えは答えであり、嘘ではない。
しかし、時計塔ではその才能が認められず、あまつさえ苦労して作った論文をケイネスごとき(やはり怖いから、面と向かっては言わない)に捨てられてしまった。寝不足と、苦労の日々がパアになった瞬間である。
今、思い返してみれば。
きっとその時、自分の正常な思考能力もパアになっていたのだろう。少なくとも、とてもでは無いがまともだとは言えない状態だった。
時計塔の魔術師どもを見返す。これはいい。権威主義の血族主義という、およそ進歩を旨としている魔術師とは思えない退廃者ども。そいつらの眼を冷まさせるには、ガツンと一発、真に優秀な魔術師(例えばウェイバーのような)がくれてやらねばならない。それでやっと、時計塔は正常で、優秀な者が正しく評価される状態に戻る。それを自分が担う。これもいい。どんなジャンルにおいても、優秀である者は先駆者であり、指導者たらねばならない。自分がそうだという自覚があるのなら、その義務を果たすのは当然。進歩とは、後進と先進の融和あってこそ、最大の効果をもたらす。
では、なんで聖杯戦争に参加したのか。ぶっちゃけ勢いです。参加したこと自体が間違いだったと認めます。
――だから、もうボクを、
「下ろしてくれえええぇぇぇぇぇぇ!」
「いきなり喚くな、坊主。今は余が話しておるのだ」
そこは、キャスターの工房であったらしい場所。なぜ、らしい、になるかと言うと、すでにキャスターは討伐済みであり、その残滓しか感じられなかったから。魔力は淀んでおり、霊的にも不安定。あまりそういった事の感知が得意で無いウェイバーでも、ここがろくでもない事に使われていた、というのは分かる。
これだけでも、とっとと出て行くには十分な理由だ。
ウェイバーにプレッシャーを与えているのは、それだけでは無い。工房には先客がいた。まあ、それはここにいる理由を考えれば、当たり前なのだが。
そもそもの発端は、ライダーが寝ているウェイバーをたたき起こした所から始まる。何事か、と起きてみれば、アーチャーを発見したと言うのだ。
今聖杯戦争で、アーチャーは最も謎の多いサーヴァントである。極端に露出が少ないのだ。偶然などではなく、本人が努めてそうしている。英霊とは、自分を偽らぬ存在。早い話、自分の力に自信を持って、堂々とそれを開帳し相手に打ち勝つのがサーヴァントという連中なのだ。その中で、アサシンを抜かせば唯一己を隠したサーヴァントだ。おかしい、と思わない訳が無い。
情報を秘匿し、ここぞという場面で致命的な一撃。戦争において基礎だが、自分の力を信仰しているサーヴァントには理解されない。根本的に、魔術師と英霊は相性が悪いのだろう。
信仰対象をひた隠して戦うというのは、ウェイバーの知る英霊らしくない。ライダーみたいなのは逆の意味で異常だが。
そして二つ、出来ることの多彩さだ。ウェイバーが把握している限りの、多くない事柄。マスターとの契約を強制解除。新しいマスターを、自分で作り出す。僅かな時間で、魔術師の工房など相手にならない強度の陣地を構築。そして、ライダーと同等の飛行宝具。その上、ステータスはセイバーに続く二位の高性能。スキルまでは確認できなかったが、これだけでも異常すぎるのが分かる。
多少の無理をしても、情報が欲しい。そう思うのは、ウェイバーだけでは無いはずだ。
だから、ライダーにアーチャーの追跡を命じたし、それが間違っていたとは思わない。進んだ先が、キャスターの工房らしき場所なのも、聖杯戦争のルール変更を考えれば予想の範疇内。丁度討伐済みの所に出くわしてしまったのも――許容範囲かどうかは別にして――まあ、仕方がないとは言える。たどり着いた場所が狭かったのも、まあ許せるだろう。ライダーの能力を十全に生かせる戦場ではなかったが、それはアーチャーにとっても同じなのだから。
唯一の誤算は、そこにランサーも一緒にいたことだった。もっと言えば、ランサーのマスターである、ケイネスが。
しかも、出た位置が悪い。アーチャーとランサーに挟まれる形で、殺気を向けられているのだ。生きた心地がしなかった。
「じゃあ反転だ! とっとと離脱するぞ!」
「戦車は堅牢な代わりに、急反転に向かんもんだ。いい加減に腹をくくれ」
悲鳴を上げ続けるウェイバーの頭を、大きな手がばしんと潰した。うぎゅ、というカエルが潰れたような声と共に、体が御者台に沈む。
殺気と敵意が充満する中で、一人平然としているのはライダーだけだ。他の誰もが戦闘状態に移行している中、彼だけは、当然の様に悠然としている。普段は苛立たしいだけの態度も、緊急時は頼もしく思えるから不思議だ。
チッ、という鋭い舌打ちは、黄金のサーヴァントのものだった。腕をだらんと垂らしたまま、しかし紅の瞳は鋭く、決してライダーから動かない。
反対側を見てみると、ランサーはもっと剣呑だった。すでに槍を構え、いつでも飛び出せる体制。戦車の出だしが僅かでも遅れれば、その時は自分の首が飛びかねない。一度自覚してしまうと、体が凍り付いたかのように、筋肉が緊張した。
「で、お前らは何しに来たんだ?」
アーチャーが吐き捨てた。それは好戦的なようであり、戦闘を回避したがっているようにも聞こえる。
「うーむ」
剣呑に過ぎる雰囲気に、ライダーは顎に手を当てて悩んでいた。
「とっととかかってきたらどうかね、ウェイバー・ベルベット。まさか、君ごときが、少しばかり私が消耗しているからと言って勝てると思うほどのぼせ上がっているとは、夢にも思わなかったよ」
消耗している? 何の事かは分からないが、とにかく苛立っているのは分かった。そして、ウェイバー・ベルベットがいくら天才とは言え、彼はインドア派。多少消耗した程度でケイネスに勝てると思うほど、楽観的では無い。そして、その楽観できない状況が、完成しつつあった。
「これ、そこの魔術師よ。余らはただ単に、アーチャーの奴が見えたから追ってきただけよ。別に今貴様らと事を構えるつもりはないわ」
「つまり殺りに来たって事だろう」
「貴様も結論を急ぐ奴よのう。顔すら直接見たことが無い奴と、ちょいと話してみようというだけじゃ。それに、その居住まい、貴様もどこぞの王であろう? 王たる者が余裕をなくしてどうする」
「お前に「王である」って事情があるように、こっちにも急ぐ事情があるんだよ。用がないならとっとと帰れ。見逃してやる。そうじゃないなら構えろ。殺してやる」
「ふむ……。貴様らの用事とは、そこの童どもの事だな?」
アーチャーの苛立ちも全く気にせず、顎をしゃくって指すライダー。釣られて、アーチャーの背後をよく見てみると、薄暗くて分からなかったが、子供がたくさん転がっていた。服は破れて、血が張りつている。眠っている顔は、恐怖と苦痛に引きつっていた。
「な、なんだよ、あの子供達は……?」
「おおかたキャスターの奴が連れ去ったのであろうよ。ああして保護されているという事は、少なくとも生きておるようだ」
殺気を飛ばされようが、挑発されようが、全く様子の変わらないライダー。アーチャーはついに、何かを諦めたかのようにため息を吐いた。みるみる殺気がしぼんでいき、比例して感じていた圧力も減る。
御者台の一部を握りすぎて、白くなっていた手。そして、体は力を入れすぎて、全身がぎしぎし言っている。あの短時間で、どれだけのストレスを与えられたのだろうか。
「分かった。会話でも何でもしてやるから、とっとと済ませろ。俺たちはお前と違って、暇じゃ無いんだ」
「何だ、そんなに忙しいのならば、手伝ってやってもよいぞ?」
「お前が何の役に立つんだよ。いいからとっとと聞くこと聞いて帰れ」
「と言ってものう……。この辛気くさい場所では、そんな気分にならんわい」
大仰に周囲を見回しながら、ライダー。さんざん文句を出したが、その点に関してはウェイバーも賛成だった。結局、めぼしい情報を得られなかったのは残念だが。こんな不利な場所で、二対一で戦いかねなかった状況を考えれば、十分に許容範囲である。腰抜けと言うなかれ、作戦とは諦めの良さも重要なのだ。
ライダーは荒唐無稽で破天荒極まりないが、言っている事に何一つ共感できないわけではない。たまには、珍しく同意できる事も言うのだ。今回の発言も、その一つだった。ランサーもアーチャーも、そしてケイネスでさえ、反対の声は出さない。
アーチャーの背中が波を打ち、そこから飛行宝具が出てきた。
(なるほど、ああやって出現するのか。……ん? って事はもしかしたら、あれは宝具じゃない? 普通、宝具は霧が集まるように現れる。そうじゃなくても、伝承のプロセスを通って出てくるものだ。だから、ライダーの剣も準宝具級の武装ではある。元々アーチャーの宝具が飛行機ってのがおかしいんだ。もしかしたら、あの揺らめいてる何かの方が宝具なのか?)
これが見られただけでも、収穫はあったと言える。しかし、まじまじと見すぎたのか、アーチャーの鋭い視線と目が合ってしまう。
「ずいぶん、熱心だな」
「いっ、いや……ボクは…!」
先ほどの圧力が蘇る。出した言葉は、自分でも情けないほど上ずっていた。
「これこれ、あまり坊主をいじめてくれるな。それに、王たる者がちょいとのぞき見をされたくらいで、いちいち腹を立てるでない」
助けに入ったのは、ライダーだった。丸まっていたウェイバーの背中をばしんと叩き、背筋を伸ばさせる。同時に、得体の知れぬサーヴァントの厳しい視線も、笑い飛ばして見せた。
その態度に呆れたのか、それとも論ずるつもりは無いと言う意思表示か。視線を翻したアーチャーは、そこに子供達を乗せ始めた。
「それだけでは乗り切らなかろう。余の戦車にも乗せるがいい」
「何のつもりだ?」
聞いたのは、ケイネスである。いつも深い眉間の皺を、さらに深く刻んで。
「貴様らは余と戦うつもりが無い。余も貴様らと、今事を構えるつもりは無い。つまり、この場だけの停戦協定よ。子供を負担するのは、その証みたいなものだ」
忌々しげに鼻を鳴らし、視線をそらすケイネス。それを見たライダーは、仕方が無い奴だ、と言わんばかりに肩をすくめた。
そんなやりとりを全く無視して、アーチャーは子供を戦車に乗せ始めていた。今まであった会話など、全く無視である。我関せずと作業を続けるサーヴァントを見て、もしかしたらこいつは、ライダーに匹敵するくらい我が道を行くタイプなのでは、と考えた。考えただけで、絶対に口には出さない。それに、よく考えてみれば。召喚早々マスターを見限って、他のマスターを探しに行くサーヴァントの我が弱い訳が無い。
先頭を歩いたのは、アーチャーだった。背後を正確に、飛行宝具がふよふよと付いてきている。さらに後ろに、戦車が走る。最後尾では、徒歩でランサーとケイネス、その婚約者(名前は知らない)が付いてきていた。明らかに、何かあった時、挟撃できるようにした配置である。この状況で鼻歌など歌っているライダー。もうウェイバーには、宇宙人的な何かに思えてきた。
「ときにアーチャーよ」
答えは無い。しかし、視線だけは面倒くさそうに背後に向いて来た。一応、聞いてはいるらしい。
「貴様も当然、倉庫でセイバーとランサーの対戦を見ていたのであろう。その時の余の呼びかけに、なぜ答えなかったのだ?」
何言ってんだコイツ――という視線は、ウェイバーとあと一つ。背後のケイネスのものだった。
聖杯戦争とは。たった七組十四名が基本の少数とは言え、まごう事なき戦争なのだ。真名を隠すのは当然だし、切り札を隠すのも当然。例えば、自分から真名を名乗ったり、知られたからと言って高らかに宣言したり。どっちがおかしいかと言われれば、間違いなく後者がおかしい。むしろ、ランサーは兵士なのだからともかく、何で軍を率いていたライダーやセイバーがそんな真似をするんだ、というレベルの話である。
顎に手を置き、不思議そうに首を傾げるライダーに非難の色は無い。純粋に疑問なだけなのだろうか、もはやそれを疑問に思っている点が疑問だ。
「見てはいたな。見てただけだが」
「と言うと?」
「声は聞いてない」
「あー、そりゃ仕方がないのう」
やる気無さげでも、受け答えだけはしっかりしている。案外付き合いは悪くないらしい。
「ちなみに、おぬしの名はなんと言うのだ?」
視線を前に戻しかけていたアーチャーが、再びライダーに視線を戻した。その色は変わっている。とても面倒くさそうに、嫌そうに。気持ちはとても理解できた。ウェイバーも、そんなことを聞いてくるマスターがいたらとても嫌だ。
「……なんで」
「貴様、王であろう? さっき否定しなかったしな。王であるならば、己が名を名乗りを憚るまい」
「いや、憚るだろう。これそういうルールじゃねぇし。そもそも戦争の基本は、物量で押しつぶす。出来なければ奇襲内応だ。物量と奇襲方法を相手に教えてどうするよ」
その通りだと、思わず強く頷いたウェイバーは悪くない。ケイネスも同じように頷いていて、ランサーが少なからずショックを受けていた。が、まあ。それは彼らの問題であり、ウェイバーが気を揉むような話ではない。……しかし、ランサーを初戦で投入するケイネスは、人の事はあまり言えないだろう。これも当然、口には出さない。
「なんだ、ケチくさいやつめ。器が知れるぞ」
「広くも狭くも勝手に見てくれ。お前が広い器を見せてくれてる間、俺は確実に聖杯をいただく」
「むぅ……堅い奴め」
「何言ってるんだ、相手の言うとおりだろ!」
「坊主こそ何を言っているのだ。よいか、ただ座して手に入れられる情報など、たかが知れているものよ。真に必要な情報は、自分で動かなければ手に入れられん。特にアーチャーの奴について分かったのは、余の戦車に匹敵する飛行機を持っているのと、ここらを焼いた何かがある、というだけだ。弓兵としての本領すら見せていないのだぞ。多少無茶でも、突っつかねば分からんのだ」
その言葉に、息が詰まった。
アーチャーは戦闘らしい戦闘をしていないのだ。キャスター討伐でも、この閉所では本領を発揮していない可能性が高い。してきた事が多彩すぎて、技能とスキルと宝具、どれでどれを行ったのかの判断すらできていない。そして、これからも可能な限り隠し通すだろう。
やってみなければ分からない。それは、一つの真理だ。ネズミは猫に勝てるのか。夜と朝は交互に巡るのか。ハンバーガーの中に、ピクルスは入っているのか。もしくは、聞いたら答えてくれるのか? 無謀であるかも知れないし、案外容易いのかもしれない。しかし、それを言うのは馬鹿馬鹿しい、という点については、誰もが共通して抱く認識だろう。当たり前の事なのだから、当然だ。当然だから、誰も試さない。意味が無い。
言うなればそれは、常識と習慣だ。常識だから、当たり前。習慣だから、それで当然。わざわざやるまでも無い、確認するまでもない事柄。答えは聞かずとも、そこに置いてある類いのものだ。それで事が済めば、それでいい。それ以上など余分であり、不必要な事をわざわざリスクを冒してまで、見る必要はないのだから。
では、それで分からない事のリスクは、どうやって判別すればいいのか。これだけのリスクを負えば、これだけメリットが戻ってくる。そんなことが分かっていれば、それはもはや常識であり習慣だ。誰もが確認し尽くし、使い古されている。
それでは足りないから、例え馬鹿馬鹿しくとも、試さなければならないのだ。
誰に憚る事も無い、だからこそ常識など考慮せず、ものを試してみる。その先にこそ、新たな道があると知っているのだ。憚る事がない故の征服王なのだから。
ライダーの言うとおりだった。何でも試してみなければ、分かることなど何もない。怯え、自重したところで、それで得られるのは自分は常識的だったという満足感だけだ。それこそ、本当に無意味だというのに。
己の矮小さを見せつけられたようで。言い様のない敗北感を感じた。
「そうだな、それを本人の前で言わなければ完璧だったな」
「何を言う。このイスカンダル、誰に憚る事などない。ゆえに誰かに聞かれて困るような事などありはせんのだ」
些末だ――と大笑して飛ばす。そしてすぐに、顔を子供のように輝かせ、身を乗り出した。
「で、突っつかれて何か反応してくれるのかのう。余としては、聖杯にかける願いなんぞでも良いぞ?」
言われたアーチャーは、ふと考え込んだ。珍しい反応である。今までは、自分の中で言っていいラインといけないラインを明確に線引きし、即答していたのに。それでも、どれほども考え込まなかったが。
「受肉だ」
「ほほう、貴様も余と同じか。あれか、この世にもう一度己が帝国を築こうって腹か?」
「そんなもんに興味は無い。普通に生きようってだけだ」
実際、英霊にとっての普通というのは、想像が難しかった。ただでさえ、言ってしまえば古代人の同窓会のようなもの。それがこんな、狂乱甚だしい宴を開いているのだ。普通に生きる、と言われても、ろくな想像ができないのは、非難されるべきでは無い。恐らくマスターの誰に聞いても、同じような答えが出るだろう。
「とは言え」
ぼそり、と。小さな声。誰かに言うつもりでは無く、独り言の延長のように。ただ、漏れただけの音。
いや、漏れただけと言うのは正確では無い。少なくともアーチャーにとっては。それは、漏れただけ、ではなく『漏らしてしまった』だ。
「聖杯が、それを叶えられれば、の話だけどな」
「お、おい! ちょっと待てよ、それってどういう意味だ!?」
それは、断じて聞き捨てならない台詞だった。それこそ、聖杯に望む願いがあるのではなく、聖杯を勝ち取る、それが目的のウェイバーですら。
ライダーの笑みが深まった。今までのような、人のいいものでは無い。あえてそれを表現するならば……王のような笑みだった。
「やはり、何か知っておったな。前半、情報収集に徹していただけはあるわい。恐らく全ての陣営中、もっとも聖杯の真実に近いであろうよ」
「ライダー、それはどういう意味なのだ? 聖杯の真実だと……おまえも何か知っているのか?」
ランサーの声は厳しく、切羽詰まっていた。
「偉そうに言っておいて何だが、余は何も知らん。ただ漠然と、違和感があったというだけよ。だから、そいつを詳しく掴んでいそうな奴に聞こうというわけだ」
全員の視線が、一斉にアーチャーに集まった。彼の顔は前を向いており、その顔色は窺えない。だが、答えだけは返ってきた。ため息と共に。
「証拠は無い」
「けど、ある程度の確信はもってるんだろ? だったら教えてくれ」
ウェイバーは御者台から、殆ど体を放るような体制で乗り出した。鋭く閃く、アーチャーの視線、それに恐怖しないわけでは無い。ただ、ここは引けない場所だったと言うだけだ。両足をがくがくと振るわせながらも、しかし維持し続けた。
「聖杯は、自分に望みがある者を呼び込む。足りなければ、近場で素質、この場合魔術回路がある者を数合わせにするわけだが。そいつらの基準は何だ? この広い街の中、魔術回路を持つ者があいつだけと言うこともあるまい。それでも聖杯は、候補の中から殺人鬼のコンビにしたんだ。まるで、そいつらが一番ふさわしい、と言ってるように」
「お、おい、待ってくれよ! それってもしかして、聖杯ってむちゃくちゃな危険物じゃないのか!?」
もし、言っている事が正解であったのならば。聖杯とは、破壊と殺戮を望んでいる――そういう風に聞こえた。
「しかし、貴様はまだ現界を続けておる。それも、勝つつもりでな。なあ、アーチャーよ、その聖杯とは、何とかなりそうなものなのか? それとも、何とかしなければまずいものなのか?」
「……。両方だ。この聖杯が魔術儀式である以上、魔術師の協力は不可欠だがな」
「ランサーと組んだ裏には、そういう事情もあったわけだ」
ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは世界有数の魔術師だ。確かに、ケイネスであれば、聖杯の異常を何とかできるかもしれない。逆に言えば、彼に出来ないのであれば、誰にも出来ないだろう。
「おもしろい、おもしろいぞアーチャー。未だ見ぬ器だ。その上、余と同じく王と来た。その器、比べたくなってくるのう」
戦車の上で、ぐっと立ち上がるライダー。野獣のような笑顔が、アーチャーを付け狙った。そこには、殺意や闘気は含まれていない。純粋な圧力が、ライダー風に言うのであれば、王の器を発散しているのだろう。
その隣にいるウェイバーは、思い切り圧倒された。今まで、見たことのない姿を見せる、己のサーヴァント。それは自分を対象にしていないのに、余波だけで屈服しそうになる。そして、それを受けて平然と歩き続けるアーチャー。どちらも異常で、頭のおかしい連中だ。全く持って理解できない。
ライダーの勢いは、なおも止まらない。顎髭をぐしゃりと潰しながら、節くれ立った指でなで回す。その眼は大きく開かれ、爛々と輝いたままだ。
「しかし、この戦争、王が三人も雁首揃えてただ剣を交えるだけ、というのも面白くない。それぞれの王の器、試してみたいと思わんか? ん?」
「……酒か?」
「く、くくくっ。ただの堅物でもなく、話は分かる、か。いよいよもって貴様の器、覗いてみたくなったわ。ならば、否やはないであろう? それぞれ、自分が掲げる杯を持ち、その内を見せ合うのだ」
どこまでもぎらつき、今にも吠えそうな、満ちぬ静けさ。戦にして、戦にあらず。それですらなのか、だからなのか。ライダーは、今までの聖杯戦争で一度も見せなかった猛りを見せた。
「ランサーも来るがいい。王でないとて、貴様も騎士よ。それにふさわしい器を示せ。余の誘いを断るならば、余の器に収まりきらぬ、と証明して見せよ」
心情的には行きたいのであろう。しかし、彼は忠実な騎士としているならば、主の意向を無視することはない。ケイネスの顔を伺うが、考え込んだままで、回答する気配は無い。聖杯について、それほどショックだったという訳でもない様であるが……その内心まではうかがい知れない。
「場所は、セイバーの所だな」
「うむ、そうなる。他にできそうな場所がないしのう」
「……いいだろう。ランサー、参加する事を許可する」
「ありがとうございます、ケイネス様。そういう訳だ、征服王。俺も参戦させて貰うぞ」
その会話の、何が決め手だったのかは分からないが。とにかくそこに決断する要素があったらしく、考え込む姿勢から顔を上げた。
「それで、何時に向かえばいいんだ?」
「あん? そんなもん、用が済んだら適当に向けばいいではないか」
「嫌だ」
なぜか。本当になぜか、すっごい真顔で言うアーチャー。
「俺は待つのも待たせるのも嫌いなんだ。時間指定しないなら行かない」
「何と言うか……キャラの分からん奴よのぅ。それなら、あー、酒が入るから、十時過ぎくらいでどうだ?」
「分かった。十時に向かう」
行きは戦車で飛ばしていたため、一瞬に思えた道も。ゆっくり進めばやたらと長く感じ。やっと、日の光の下へと出ることができた。長時間暗い場所にいたために、日の光が目に痛い。
休戦は延長される事が決定し、その場で彼らは去って行った。子供達を半数押しつけられる形になったが、それは仕方が無いと諦めるしか無い。
それよりも、ウェイバーには言わなければならない事があった。何をおいても、とりあえずこれだけは。
「ライダー」
「ん? なんだ坊主」
「時間、マジで守れよ。アーチャーって、時間を破るのも破られるのも絶対に許さないタイプだ」
「……うむ、余もそう思った」
終始、どこか気のないキャラであったのに。時間を指摘するところだけが、本気すぎて別の意味で怖かった。
喋りすぎてしまったと言うべきか、喋らされたと言うべきか。ライダーに、ずいぶん余計な事まで知られてしまった。聞かせておいた方がいい話もあったのは事実なのだが。その課程で、別の情報まで奪われたというのは、さすがイスカンダルと言わざるをえないだろう。
なにしろ、語る雰囲気を作ってるのがやたら上手い。そして、語らなければケイネス達に不信感を与えるような言い方も。恐らく、小細工を好まない性格だから、無自覚なのだろうが。あれを自覚してされていたら、勝てる気がしない所だった。まあ、基本遊び人気質な人間ではあるのだし、そこだけは救いだ。
「それで、そろそろ説明して貰いたいのだがね?」
子供達の処理を終えて(と言っても、適当な所に転がして、警察と教会に連絡しただけだ)人気の無い街の空白に入り込む。その上に、念のため結界を敷いたケイネスが聞いてきた。言えなかった理由はあれど、聖杯の事を黙っていたのが気に入らず、眉間に力が入っている。
「あの愚か者のライダーの言に乗った理由があるのだろう。そうでなければ、貴様がわざわざ聖杯戦争中に、宴会の誘いになど乗るまい」
歩数にして、およそ五歩ほど。それが、俺とケイネスとの間にある空間だ。少し開きすぎているため、声が大きい。消音の結界も重ねて敷いているので、それでも問題が無いと言えば無いが。あらかじめ使い魔でも潜りこませておくのでなければ、聞かれたりはしないだろう。
ちなみに、微妙に距離が離れているのは、ソラウの為だ。彼女は聖杯戦争に対する興味が薄く、大抵はランサーにべったりである。最大の護衛対象が近くにいるものだから、ランサーも迂闊に俺に近寄れない。そうすると、ケイネスがランサーに合わせて距離を置かなければならなくなるわけだ。ちなみに、俺に対する態度がずっと刺々しいのも、隣で婚約者が堂々と浮気しているからである。八つ当たりに文句がある事はあるのだが、哀れで全く指摘する気にはなれなかった。
「聖杯ってのは、どこにあると思う?」
「どこに?」
はっ、と鼻で笑う。表情はあからさまに、下らない問いかけだと言っていた。
「答えは、この世ならざる場所だ。どこと聞くのであれば、それはどこでもない」
「そうだな。だが、これが魔術儀式である以上、そこに至る前段階の受け皿が必要だ。儀式にて『成った』ものを蓄積して、聖杯に至る為の道筋が」
「……なるほど、それならば明確に、この世にある。そしてそれを……アインツベルンが持っているのか! そうか、だから貴様はライダーの口車に乗ったな?」
「アインツベルン城への侵入、あくまでライダーの主導だ。警戒は当然されるだろうが、俺たちが直接侵入するのとでは比べものにならない。そこで、聖杯の欠片なり術式の一部なり、手に入れれば」
「直接聖杯にたどり着けずとも、観測くらいはできるか。そこから、異常を調べ、対抗手段を練ろうと言うのだな」
「ついでに言えば、敵情視察の目的もある。ライダーが俺たちにやった事を、今度は俺たちがアインツベルンにやってやるわけだ」
正直に言えば、そんなことはしたくなかったのだが。切嗣と雁夜のつながりがどうなっているのか、確認をしておきたいのだ。特に、雁夜が城で治療に専念していた場合、バーサーカーの能力に関わる。
これについては、ランサー達が来なくても、俺一人でやるつもりだった。どちらにしろ、アイリスフィールに対する事前調査は必要だからだ。ここで得た情報は、当然ケイネス達に回さない。それを察知したからこそ、付いてくると言う決断をしたのだろう。一蓮托生に近い関係ならば、少しでも俺がやることの成功率を上げた方が、彼らの利益にもなる。
「相手に警戒されないように、となれば派手には動けんぞ。どうやって探しだし、一部を奪うつもりだ」
「目的のものは、恐らくアイリスフィール本人だ。普通の手段では取り出せないが、少しばかり抜き取るだけなら問題ない」
恐らくどころか、知ってるのだが。
アイリスフィールの内部にある聖杯を取り出すのは、宝具の力があれば簡単だ。当然、内包する聖杯の全てを取ろうとすれば、確実に気付かれるだろうが。ごく一部分をかすめ取るだけであれば、異常は発生しない。つまり、気付かれるような反応は現れない。
もはや達観に近いため息が聞こえる。まあ、気持ちは分かる。俺も、逆の立場だったらそうなっていただろう。
「ついでに、奴らに「聖杯に異常があります」と言ってみるのもいいかもしれんが……」
「やめておけ、無意味だ」
ケイネスが自信に満ちあふれた顔で断じる。聖杯の異常、それを肯定するまでに、彼なりの魔術的ロジックがあったのだろう。それは自分くらいでも無ければ理解できない、という自負が満ちあふれている。
「ああ、一応確認しておく。ランサーと一緒に、お前達も来るんだろ」
「当然だ」
いくら拠点を手に入れたとはいえ、所詮は急ごしらえ。これから陣地を構築しての防御能力は、よくて二流魔術師の進入を防ぐという程度だろう。良くも悪くも、工房とは主がいて最高の性能を発揮するものだ。俺が宝具でがちがちに固めるのとは訳が違う。
ランサーだけを向かわせる、というのはあり得ない。もし戦闘になった時、魔力供給に不安が出てくるのだから。最低でも、ケイネスが出向かなければならない。しかし、前記の通りに、工房にソラウだけを残すのは、暗殺の危険が恐ろしく高かった。ケイネスが構築した工房を、ソラウが十全に機能させられる訳がない。実力的も、経験的にも。
工房攻略にビルごと爆破をするような奴を相手に、その程度で勝負する気にはなれない。ましてや、まだアサシンのサーヴァントが健在ならば、ホテル上階に用意してあった拠点でも、完璧とは言い難かっただろう。
当然、俺の拠点で保護しておく、というのは最初から選択肢にない。危険から身を守る為に、熊の巣に逃げ込むというのはただの馬鹿だ。
「じゃあ時間になったら迎えに行こう。拠点をどれにしたかだけは教えてくれ」
「これだ」
一枚の紙を見せると同時に、残りを渡してくる。個人的には、こんなものあっても使い出がないので、貰ってくれても構わなかったのだが。まあ、向こうも余計な事をして、借りを作りたくはあるまい。
その場で彼らと別れ、背を向ける。
これから、ケイネスは大変だろう。ただでさえ、徹夜をしているのだ。その上、アインツベルン城と下水、二度の戦闘をこなしている。疲労は限界に近いだろう。サーヴァントへの魔力供給は別人、二度目は補助のみであっても、楽ではない。仮眠をしてから、陣地構築するのか、防衛陣を作ってから眠るのか。どちらにしても、ゆっくり休めるのは大分先になるだろう。そう言えば、教会にも行かなければならないのか。キャスターを倒したのだから、令呪をもらえる。
俺たちは令呪をもらうつもりがない。利用できれば、少し無理をしても行く価値はあったのだが、使えないんじゃ顔見せ損しかない。
令呪の一番のキーは、意思によるものらしい。それを励起させるだけの感情の高ぶり、それこそが鋭い指向性と奇跡を作り出すのだ。つまり、感情が殆ど死んでいる桜では、どうあっても令呪は起動しない。あくまで人が使うことを前提に作られているのであり、人形が使えるようには出来ていない。酷い言い方だが、これが一番しっくりくる表現だった。
「ただいま」
家に帰って、声をかけるが、返事が無い。そして、部屋は真っ暗だった。カーテンを閉め切り、明かりもつけていない。
一瞬、誰かが攻めてきたのかと思ったが、それは違うと思い返す。警戒の網の隙間を縫うのは、ほぼ不可能だ。武力による強引な攻略であれば、とっくに俺が気付いている。なにより、ラインの流れは正常だ。
ゆっくり、部屋に入っていく。内部はやはり、暗かった。電気のスイッチを探して手探った所で、ふと小さな音が聞こえた。かたかた、かたかた、という、ものが小刻みに振動するような音。音源はすぐに見つかった。部屋の隅にいる、桜だった。
「お、おい、何かあったのか!」
駆け寄って、彼女に触れてみる。体温は氷のように落ち込み、反応が返ってこない。いや、反応が恐ろしく鈍いだけで、それ自体はあるのだ。ゆっくりと顎が持ち上がり、視線が交わる。幽霊どころでは無い。完全に、死人の瞳。
よく見えないが、恐らく青白くなった唇。それが、ちいさく開いた。
「……ひと……あかい……いたい」
「っ! 馬鹿が、見るなとあれほど言っておいただろう!」
好奇心だったのか、それとも覚えのあるにおいを思い出したのか、または偶然か。何であったにしろ、彼女は見てしまったのだ。かつて、自分が所属していたそこのような、地獄の光景を。
俺は、この短期間では、桜はどれほども変わらないと思っていた。しかし、それは間違いだったのだ。目に見えなかっただけで、彼女の心は順調に癒やされていたのだろう。そして、癒やされていたからこそ、その光景に強い恐怖を感じたのだ。光にすら怯えて、膝を抱えて蹲るくせに、声すら上げられない程に。涙も出せず、ただ、何かが迫るのを諦めるように、部屋の隅で小さくなっていた。
「もう大丈夫だ、大丈夫だから……。ごめん……ごめんな……」
空虚なままそこにいるだけの少女を、強く抱きしめた。そうすれば、何かが変わるのだろうか。桜が安らげるようになるとでも言うのか。そういう事にして、彼女に優しくして、そして、免罪符を得たつもりになっている。本当に安らぐのはどちらだ? 彼女に優しくして、抱きしめてあげて、泣いていたならば涙を拭ってやってもいい。そして、したり顔で言う俺。もう大丈夫だ。
笑える。馬鹿馬鹿しくて、笑いが止まらない。観客のいない三流映画でありそうな、三文芝居だ。金と、自分の愚かさを笑って捨てるならば、丁度いいのかも知れないが。ゴミ箱にたたき込んだパンフレットには、でかでかと『マッチポンプ』の文字が、非難がましく躍っている。
桜を蟲蔵から助けたのは俺、今トラウマに震えているのを抱きしめているのも俺。そして、聖杯戦争に巻き込んだのも俺、キャスター主催のスプラッタ・ムービーを見せる原因を作ったのも俺。酷い話だ。とても、酷い話だ。
俺は、あと何回くらい、彼女を痛めつけるのか。そのたびに、こうしてごまかし続けるのか。何度でも、するのだろう。少なくとも、聖杯戦争が終わるまでは。
「わらってた……おじいさま……みたいに……」
膝を抱えていた小さな手が、俺の背中に回る。保護者を求めて、抱きついてきたのだ。こんな俺に。当然だった。彼女には頼れる人間などいない。彼女を道具のように扱った、俺しかいない。
どうする事もできない。こうして優しくして、自分が救われた気になるのがせいぜいだ。
それでも、それだけは出来るのであれば。俺は桜が満足するまで、そうしている。氷のような少女に暖かさを分けるように、その矮躯をしっかりと抱え込んだ。桜の震えが止まったのは、もうすぐ9時になろうかという時間だった。
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セイバーは潔癖症
自分を信じると言うことは、どういう事だろうか。
自分など信じなくとも、生きていける。自分を信じたところで、死ぬ奴もいる。しかし、まあ。世間一般的には、自分を信じるという漠然とした行為は、必要であると信じられている。だから、重要ではあるのだろう。どこかの誰かがそれを信じて吹聴し、それを信じるどこかの誰かが生まれる程度には。
何を信じれば、自分を信じたことになるのだろうか。努力、才能、愛想、筋力、技術、素質、容姿、自信、もしかしたら親兄弟など。どれもこれも、悪くないものではある。信じたものに裏切られるまでは、とりあえず気楽に信仰を貫けるだろう。もしかしたら、そのお手軽さこそが最大の利点なのかも。
しかし、残念ながら、間桐桜には自分を信じたことになれる何か、というのがなかった。もしかしたら奪われたのかも知れない。
約一年前のあの日、少女がまだ遠坂であった頃は、存在したように思えるのだ。少なくとも、まだ幸福ではあった。厳しくも優しい姉がいて、優しい母がいて、厳格な父がいる。これは恐らく、誇ってもいいものだった。他にも探せば、ささやかながら誇れるものがあったのではないか。
間桐に養子に出された事で、まず家族を失った。それから少しずつ、ささやかなものを失っていく。手探っても何にも触れられないと気付いたときには、もうどんな顔をすればいいかも忘れていた。
何も無い。感じない。ただ暗闇と蟲に包まれる。自覚を繰り返すだけの毎日。
心は容易く鈍化していった。何かを感じて、それに感情を写す。それだけの人間的活動が、これほど難しいものだと初めて知った。
少しばかりの人間性をかき集めては、苦痛と恐怖に塗りつぶされ。やがて、それすらも諦めて、桜は人形になった。それからは、楽であったと言って良かったかも知れない。何しろ、何も感じないのだ。日々の生活が、ルーチンワーク以外何でも無くなったのだから。それこそ、苦痛や恐怖すら。
日々が変わったのは、それからどれほど経過してからだっただろうか。早くはなかっただろう。が、遅かったかと言えば断言できない。なにしろ、全て同じでしか無かったのだから。時間も景色も消え去った思考も、何もかもが。それがいつだと差別化する何かは失われていた。
館からビルへ。生活場所が変わっただけで、桜の何が大きく変わったわけでは無い。蟲蔵に費やされる時間こそなくなったが、それも、やはり大した違いは見いだせなかった。何もしない時間が多くなる、それが新たな日々のパターンに組み込まれただけ。
だから、何も感じない筈だった。
苦悶の声を上げて、ばらばらにされる人。笑いながらそれを行う人。
――かつて感じていた、名前も思い出せない感情。それが体の芯からわき起こり、全身を痙攣させる。正体を正確に感じ取る心は、まともに動いてなかった。しかし、明確に思い出された記憶は、体を勝手に動かす。
気付けば、桜は部屋の隅で丸くなっていた。自分でどうしたかは分らないが、部屋は暗く、電気もついてない暗闇。かつて嫌っていたそこに、ひっそりと身を沈める。手軽であったのだ。闇は簡単に心を恐怖させてくれ、同時に個を薄れさせてくれる。自分を感じ取れなくなれば、恐れるものは何も無い。感じるものもない。そこには耐えるという意識さえ存在せず、渺々と溶けていくに任せる。
それが終わった、と知れたのは、体を抱きすくめられたからだった。体は自分のものでないかのように動かない。なぜ抱かれているのかも、いつまでも謝罪されているのかも、何も分らなかった。
理解できることなど、いや、それ以前に意味のある思考など殆どない。ただ、どうしてもその人――蟲蔵から助け出してくれた、アーチャーと名乗った人――の腕の中から抜け出す気にはなれなかった。震える体を、ずっと抱きしめていてくれる手に、忘れたはずの安心感を得る。
そしてやっと、その温もりがとても嫌いではないものだと、自覚できた。きっと、安らぎとはこういうものだったのだ。
「じゃあ行ってくる。何もないとは思うが、気をつけろよ。遠見のしすぎはしないように」
「……いってらっしゃい」
最近は、夜になると出かけることが多いアーチャー。少し前までは、もっとずっと家にいたというのに。
よく分らないが、大変なのだろう。よく分らないが、忙しそうなのだし。やはり、よく分らないが。
ただ、閉まるドアを眺めながら、桜は思った。今日は早く帰ってくればいいのに、と。
なんとか桜を大人しくするのになんとか成功して、一息つくまもなく家を出た。時間は、余裕が無いとは言わないが、ゆっくりしていられる程でも無い。
行きがけに買い物を済ませてから、ケイネス達を拾いに行く。こういう時、王の財宝は便利だ。買ったものを収納しておけるのだから。
少々疲れているように見えるケイネスに、隠蔽の結界を飛行宝具周辺に展開して貰う。辛いかも知れないが、俺にはどうにもできないので頑張ってくれ。すぐ隣でいちゃつかれては、さらに疲れが溜まるかも知れないが、それも俺にはどうにもできないし、助け船も出さない。恨むなら、婚約者を連れて寝取り騎士などを呼んだ自分を恨んでくれ。……今更だが、もうちょっとマシな選択肢はなかったのだろうか。
郊外の森まで来れば、あとは楽なものだった。遠目に見ても、木々がなぎ倒され、焼かれている様子が見えるのだ。誰かに見つかれば、宇宙人だなんだと騒がれそうな風景だ。これが教会的にはセーフな理由が分らない。
「……なんて奴だ」
「とんでも無いことをするのね、ライダーは」
俺の後ろにいる魔術師二人が、呆れた声を出した。
気持ちは分らなくも無い。無駄にハイスペックな体は、魔術師ではないとしても、強力な結界であれば可視化してくれるのだ。つまり、俺にはこの森に張ってある結界がよく見える。ライダーが通った場所を中心に、無残に破壊されて、無意な数式の塊となってあたりに転がっている。なまじ残っているだけ、完全に破壊されるのより、修繕が難しいかも知れない。
結界とは、つまり領域の事だ。自分が最も有利に事を運べる陣地、と言い換える事もできる。だからこそ、同じ魔術師でも破壊できないような、堅硬なものを作るのだ。進入を諦めるか、結界内部なのを承知で踏み込むしか無くさせるために。
それを力業で破られれば、言葉も出なくなるのは当然だろう。
やる事がむちゃくちゃだ。しかし、それがありがたくもある。いや、はっきり言えば、このむちゃくちゃを期待していたのだ。これだけ暴れてくれれば、セイバー達の注意はそちらに向かわざるをえない。俺、もしくは俺たちが何かするかもと思っていても、明確に何かするだろうライダーより警戒はできない。予想は、いつだって結果に勝ることは無いのだ。そして、警戒度が傾けば、それだけ聖杯の欠片を抜き取るチャンスが多くなる。
とりあえず、同類とは思われるのは不味いので、ライダーが通った道をゆっくりと進む。いや、不味くなかろうが結界を粉砕して直進する、などという真似はしないが。サーヴァントになってしまったが、常識を投げ捨てた覚えは無い。
森を抜け終わってついたそこは、丁度二人の王が対峙している所だった。その脇にいるウェイバーが俺――正確に言えば、俺の後ろにいるケイネス――を見て、びくりと肩を震わせる。聖杯戦争に出たり、時計塔という魔窟で権利を主張したり、無茶な行動を繰り返す割りにはチキンが直らない奴だ。いつかさっくり殺されそうだ。
怯えたのも一瞬で、その後何かに気付くと、ちらりと懐中時計を見下ろした。そして、ぽろりとつぶやく。
「きっかり五分前だ……」
「本当に時間にうるさい奴だのう……」
「当たり前だ」
宝具から下りながら、きっぱりと言ってやる。俺は時間にルーズな人間が大嫌いなのだ。遅れたりなどされれば、かなり本気でキレる自信がある。
続いてケイネスが下りてきた。着地すると、すぐに歩みを進める。きっと、エスコートされて下りるソラウを見ないためだろう。他陣営に諍いは見せられない、だからランサーとソラウの事を黙認してるようだ。直視してしまえば堪える事ができそうにないから、視界に入れぬよう勤めている。つくづく、不憫な奴だ。居丈高で高圧的な事以外に、欠点らしい欠点がないと言うのに。
「ランサーまで来ましたか。それに……貴様も来たか、アーチャー」
言うセイバーの表情は、今にも殺しに来そうだった。マスターが殺されそうになったのだ、そう落ち着けはすまい。そうではなくとも、積極的にマスター狙いをするサーヴァントは、それだけで驚異だ。
「これこれ、落ちつかんか。これよりの戦いは、剣を交えずの戦よ。ここで剣を抜くというのならば、貴様の不戦敗になるぞ」
「……分りました。挑まれた戦いの流儀を反するのは、私も望むところではない。しかしアーチャーよ、次もこうなるとは思うなよ」
「好きにしろ」
まあ、その時の相手はランサーだろうが。俺は自分の死亡フラグとは、可能な限り戦わない方針なのだ。
「役者も揃ったのだ、案内してもらおうか」
「いいでしょう。こちらです」
武装をしたセイバー先導の元、歩き出す。ちなみに、ここで武装していないのは俺だけだ。
鎧を着ていないと言っても、財宝のバックアップは受けている。防御力は折り紙付きだ。少なくとも、いきなりエクスカリバーでもかまされない限りは、死ぬことは無い。戦う気が無いのを、格好で表現しただけで油断してくれれば御の字である。
と、中庭に付くか付かないかという時点で、予定通り反転する。気付いたセイバーが、鋭く視線を飛ばしてくる。
「アーチャー、どこへ行くつもりだ」
「トイレ」
「サーヴァントが!?」
やたら乗りが良く突っ込んでくれたのは、意外にもランサーだった。思ったよりも遙かに仲良くなれそうだ、と思った俺は間違ってない。ちなみに、ライダーはげたげた笑っていた。
唯一冷たいままの、と言うか真面目なセイバーの眼は、さらに冷たくなる。
「ふざけているのか?」
「飛行機しまうのを忘れただけだ」
「そう言えば出しっ放しであったか」
ふん、と鼻を鳴らして戻るセイバー。最初の一言で、上手く毒気を抜くことに成功していたようだ。
行き際に、ウェイバーが行かないでくれ、という視線を飛ばしてきた。よほどケイネスと一緒の空間が嫌なのだろう。しかし彼は、俺がケイネスと同盟関係だと本当に理解しているのだろうか。まあ、それすら凌駕するほど苦手だ、という可能性の方が高いが。
割とゆっくり来た道を戻るのだが、予想された襲撃はなかった。つまり、間桐雁夜による詰問。
俺がどんな人間であれ、彼にとって大切な人間、桜を確保しているのには変わらない。真意を確かめに来るだろう、と思っていたが、予想を外された。今城にいないか、伏せっているのか。まあ、襲撃を期待していたわけではないので、何も困りはしない。来るパターンと来ないパターン、どちらも考えていたのだから問題はない。
城の入り口まで戻ると、そこにはアイリスフィールがまだ残っていた。もしいなければ、勝手に城に侵入して探す羽目になっていただろう。ありがたい話だ。
「アインツベルンか」
「っ! アーチャー! なんでまだここに?」
声をかけられた瞬間、びくりと体を震わせて。振り向くと即座に体を引いて、腰を落とす。いかにも、素人が中途半端に護身術を習いました、な反応だ。何もしないよりはマシ、という意味では同意する。
「な、何か用かしら?」
「マスターでもない奴に用は無い。あと、サーヴァント相手に構えるくらいなら、すぐに逃げた方がまだマシだ」
「っ……どこでその情報を!」
「言うと思うか? まあ、お前がマスターだと言い張るならそれでもいいぞ。俺には関係ないし」
可能な限り、気丈に振る舞おうとするアイリスフィール。目的どころかやる気も無い俺にそんな態度をしても、きっぱりと無駄だ。疲れるのは彼女だけである。
そんなことよりも、俺にはやる事がある。右手で、密かに出しておいた宝具、それに触れた。歩きながら、アイリスフィールの死角になる位置で。この宝具も、決して大人しい類いのものではないのだが。出力を絞りさえすれば、起動そのものに気付かれない。わざわざ私服を着ていたのには、こういう理由もあった。現代の服に宝具が組み込まれているなど、予想外も甚だしい。
顔をしかめて、背筋を伸ばして立ち直すアイリスフィール。すっと深呼吸を一つして、顔をしっかり凛とさせた。この切り替えのうまさは、やはり彼女も魔術師という事なのか。
「ねえ、雁夜さんの代わりに聞かせて。貴方が桜ちゃんを拉致したのはなぜ? 彼女は今どうしているの?」
「俺のマスターにするのに、都合が良かっただけだ。今頃は家でボーとしてるんじゃないか? 他にやる事もなさそうだったしな」
回答して問題のある事ではないため、しっかりと言う。それは満足するものだったようで、アイリスフィールはほっと息を吐いていた。もっとも、安心できる回答をしたのだから、そうでなくては困るが。
「それと、聖杯戦争が終わったら、あの子をどうするつもりなの?」
嫌な質問だ。拉致をした犯罪者が回答するのには、一番困る類いのそれ。
欠片を抜くには、もう少し時間がかかる。それまでは、会話に乗らなければならない。適当な嘘をついてやり過ごそう、そう思って口を開いたのに、出てきた言葉は意図したものと全く別だった。
「俺の都合で勝手に巻き込んだ。だから、可能な限りの償いはするつもりだよ。それが……」
言って何になる。こんなものは、ただの愚痴だ。しかも一番みっともない、弱音にも似ている。言わなくていいことだ。念じたが、感情の波はすでに、口を飲み込んでいた。
勝手に開く口。もう止める気にもなれない。
「それが桜の望むことなのか、俺がそれを出来るかなんて、全く分らないがな」
言い終える俺を、とても意外そうに見るアイリスフィール。きょとんとした顔にまるくした目が、俺のそれと合わさる。
「驚いたわ。あなたって何と言うか、とても人間らしいのね」
「あんたはサーヴァントを特別な何かだとでも思っていたのか? それは、ただの買いかぶりだよ」
なにしろ、中身はただの人間なんだから。漏れそうになった言葉を飲み込む。言って意味のある言葉では無い。理解されようが、されなかろうが。
飛行機にたどり着き、蔵の中にしまう。中庭に向かう足は、自然と早足になっていた。
「アーチャーが今まで大人しかった理由が、なんとなく分った気がするわ。英霊って、もしかしたら私が思っているよりも、ずっと私たちに近いのかも」
「そうかい。あんたが遠いと思っていたのは、あんたのもんだ。あんたが近いと思ったなら、それもあんたのもんだ。どっちだろうと代わりはしない。変わらないなら、好きにすればいい」
振り向いた俺に、彼女の表情は見えない。声もかからず、振り返る理由が無かったのは、幸いと言っていいのか。
ポケットの中にある、小さな欠片を指先で遊んだ。聖杯の欠片を奪うという任務を、完全に成功させたのだ。目的を達した以上、今日はもう消化試合だ。酒宴など、余興にもならない。
そのはずなのに、この胸に残るわだかまりは何なのだろうか。もしかしたら、実に下らない事だが……。俺は桜に、許されたいなどと思っているのかも知れない。何一つ、報いること無く、図々しく。
胸焼けのような不快な熱さが、無いはずの頭痛を思わせる。こんな時は、酒を飲むに限るのだ。酒を浴びるほど飲んで、いつしか酒に飲まれ、最後には罪悪感も何も、忘れてしまえれば。そうすれば、明日桜と顔を合わせても、何事も無かったかのように――自分は悪くなかったかのように振る舞える。
それでいいのか? 自分の中の良心が訴えた。しかし、それをすぐに蹴飛ばす。余裕が無いという事を言い訳にして、後回しにし続ける。仕方ないでは無いか。何が仕方が無いと言うのだ、結局俺は、自分のことしか考えていない。その分を、彼女に与えればいいだけだ。その程度でどうにかなるものか。あの有様を見て、どうしてそんな楽観ができる。それに――だって、すでに顔向けできるような――
くらくらとする頭に、しかし足取りだけはしっかりしていた。こんな状態でも取り繕える自分を誉めればいいのか、嗤えばいいのか。
飲もう。とにかく、死ぬほど。この罪悪感を、酒精で薄めるために。
アーチャーが戻ってきたのは、それから数分もしない内だった。まあ、彼曰く飛行機を回収しにいっただけなので、当然と言えば当然なのだが。
「おーい、アーチャーよ、遅いぞ」
「……どれほども経ってないだろうが」
答えた声は、どこか不機嫌というか、勢いがなかった。普段から覇気や気力に乏しい男ではあったが、輪をかけてしぼんでいる。気になると言えば気になったが、とりあえずどうでもいいかと、放置する事にした。機嫌がいいよりは、遙かにマシだった。少なくとも、セイバーにとっては。
「それでは」
「待て」
「……なんだアーチャー。せっかく余が音頭を取ってやろうと思ったのに」
誰もそんなことは頼んでいない、という生暖かい視線が、三方からライダーに刺さった。が、その程度の事を気に病む男でも無い。酒樽に振り下ろそうとした拳を、今か今かと彷徨わせていた。
アーチャーが自分の背後に手を伸ばし、揺らめく波紋に埋まる。その瞬間に、僅かに身構えたのはセイバーだけだった。そして、その光景に驚いたのも。アーチャーの引き抜かれた手からは、テーブルが二台に、椅子が十足ほども出てきた。取り立てて特徴の無い、どこでも買えるような代物。実際、これは召喚されてから手に入れたのだろう。一台を自分の前に置いて、もう一台をマスター達の方へと渡す。
「ほう、気が利くのう」
「城の中でやる訳が無いし、外で座り込むのも嫌だったからな」
「それに、それが貴様の宝具か? 便利そうで良いなあ」
と、ライダーが触れようとしたが、その手は素通りし、後ろの何も無い空間をつついた。それは、アーチャーが任意で発動できるのか。それとも、単純に彼しか触れられないのか。そんなものは可能性でしかなく、考えて答えが出ることでもない。どちらにしても、他人に触らせるわけがないのだし。
「なるほど、貴方のそれは倉庫でしたか」
「予想はしていたんだろ」
すげなく言ってくる。
間桐雁夜のもたらした情報は、非常に有用であった。そして、彼の情報整理能力は、それ以上に有力だった。彼を警戒する必要が無い、というのも理由なのだろうが。あの切嗣すら、その力を頼りにしていたくらいだ。
アーチャーの、恐らく宝具である背後の空間。それがものを出し入れする能力なのでは、というのは、予想の中でも有力なものの一つだった。それが確定したことで、候補に挙がる英霊の数がかなり絞れる。それでもまだ、あの飛行機らしき道具があるため、特定しきれないが。
「では」
ごほん、と一度咳き込んで、ぐっと力むライダー。今までの遊んだ雰囲気は嘘のように吹き飛び、空間が引き締まる。遊びが過ぎようと英霊、それを知らしめた。
「これより、我らの聖杯問答を始める。酒杯を交わし、各々が格を見せつけ合えば、剣に屈するまでも無く相応しき者を知るであろう。己こそが聖杯に相応しい、と名乗るのであれば。相応の格を我らに、なにより自分自身に刻むがいい」
言葉と共に、振り下ろされる拳。木製の蓋をたたき割って、あたりに酒気が充満した。
国を治めるならば、剣より何より、己の格。それは、短いながらも治政の経験で、嫌と言うほど味わった。故に、こうして器を競い合うという行事に、胸躍らぬ訳が無い。例え、セイバー自身が王で無かったとしても、それは変わらないだろう。それを証明するように、ランサーの猛りが感じられる。
だから、セイバーには理解できなかった。テーブルに頬杖を突き、普段より一層やる気無くだらけているアーチャーが。この男は、気負う所か面倒くさそうですらあった。
「では、これ……」
「それは柄杓。掬うための道具だ。これを使え」
「お前本当に用意がいいのう。未来予知でもしておるのではないか」
「わかりやすすぎる奴がいるだけだ」
陶器のコップを四つ取りだし、ライダーに放り投げる。こだわりなど無かったのか、それを普通に受け取って酒を注ぐライダー。
「あと、これはついでだ」
と言い、またしても波打つ空間に手を入れる。取り出されたのは、なぜか料理だった。保存用の器に入れられた各種料理はまだ湯気を上げており、今できあがったばかりのように見える。漂う香りも、サーヴァントという食事を必要としない存在にすら、十分な食欲を促した。つまみとして、頼りがいがある存在だと言えよう。が、それを取り出した意味が全く分らない。
「ほほーう、つくづく気が利く奴よ。こいつが、貴様が格として用意したものか?」
「は? そんな大層なものじゃない。作らせておいたものを、行きがけに取ってきただけだ。まあ、この辺じゃ一番いいもんだとは思うが」
「っくうー、宴会らしくなってきたのう! なんだ、すげない態度をしておいて、貴様も乗り気だったのでは無いか」
「うまい飯も無いのに、貴様の与太に付き合ってられないってだけだ」
この二人は相性がいいのか悪いのか。喜ぶ巨漢に、犬歯をむき出しにして嫌そうに言う。
ライダーはぐっと杯を持ち上げて、一気に飲み干す。それに続いて、という訳でも無いが。他の面々も杯を傾けた。言わば、開戦の合図。宣戦布告。それをアルコールと共に体に満たせば、自然と熱く滾る。
全身に気を充実させながら、これからの『戦争』に備えて。ふと、横目に視線を飛ばした。そこは、言わずもがなマスターの集う卓。そちらでも、セイバーのそれとは別の戦争が起こっていた。誰もが射殺すような顔を(一人だけ、なぜか死にそうな顔をしているが)して、情報戦に望んでいる。
セイバーは元王であり、当然交渉などの経験もある。故に、分ってしまった。その戦が誰に一番有利に進んでいるかが。アイリスフィールもなんとか食らいつこうとしているが、その男には一歩も二歩も及ばなかった。時代最高の魔術師の一人に数えられる、ランサーのマスター。総本山である時計塔でも、相応の地位を持っているという。下地も、経験も、能力も。アイリスフィールが彼に及ぶところが、何一つ無い。
この時ばかりは、歯がゆく思っている己のマスター、切嗣の存在が頼もしかった。彼女からある程度の情報を奪われても、全容を知っている者は別にいる。つまり、ここでの争いは、負けて当然勝てれば儲けもの、という程度。負けても、他の陣営と違ってそれが致命的になる事はないのだ。当然、負けすぎるのは宜しくないが。
どちらにしろ、そちらの戦いは彼女に任せるしかない。セイバーは、自分の戦いに集中しなければならないのだ。
視線を戻す。偶然目に入ったアーチャーは、なぜか恐ろしく渋い顔をしていた。
「……まずい」
「そうかぁ? なかなか悪くないと思うぞ」
「安酒を適当に買ってきただろう。ああ、くそっ」
悪態を付きながらも、酒を飲み干す。そして、叩き付けるように杯を置き、また倉庫に手を入れた。取り去れたのは、黄金の瓶。漂う臭いは、ライダーが持ってきたそれよりも遙かに芳醇な酒の臭いだった。
からの器に酒を注ぎ、一気に飲み干させる。すると、眉間に寄っていた皺が一瞬で解かれ、嬉しそうにつまみに手を出す。あの不機嫌を一瞬で吹き飛ばすほどの酒とは、どれほどのものなのか。
「おいおいアーチャー、酒宴に酒を出しておきながら、まさか一人で飲むつもりではあるまいな」
「飲みたければ勝手に注げ」
ライダーとは別の意味で自由な人間だ。
「では早速」
早速、こぼれんばかりに酒を満たし、続いて喉を潤す。一口、たったそれだけで、ライダーは驚愕に目を見開いた。
「なるほど、言うだけの事はある。これは余の完敗だ」
あっさりと、己の負けを認めたライダーに、今度はセイバーとランサーが目を剥く。間違いを認める、というのはあるだろう。しかし、負けを認めるというのは、およそその男らしくなかった。つまり、それだけぐうの音も出ないほど、大差をつけられたという事だろうか。
同じように、酒をあおる。そして、驚嘆に思わず杯を取り落としそうになった。
まるで冗談のような、完成されたそれ。これを一度飲んでしまえば、今まで飲んできたそれを酒と称するのが馬鹿馬鹿しくなる。確実に、この時代で手に入れたものではあるまい。
「酒とは、こういうものだったのか」
「ああ。俺の故郷でも、これ程のものはお目にかかったことなどない。アーチャーよ、つくづく底が知れぬな」
針の様な何かと、ハンマーの射出。それに飛行機、剣と続いて、今度は冗談のような酒だ。本当に、次は何がでてくるのか想像も付かない。しかし、それだけ油断ならないという意味でもあり。笑ってばかりいられる事ではないのだが。
静かに、味わいながら酒を干す二人。対照的なのは、ライダーとアーチャーだ。水を飲んでいるかのように、飲んでは注ぎ足しを繰り返す。とは言え、ライダーが大酒飲みに見えるのに対し、持ち主は自棄のようだったが。まあ、自分の持ち物なのだから、文句は言うまい。
「ライダー、もう少し遠慮はできないのか? 酒ばかり飲んでいては話が始まらんぞ」
「何を言うか。この征服王の前にこれほどの酒を持ってきておきながら、まさか征服されぬと思っていまい。のう、アーチャーよ」
「好きにしろ」
「お前、さっきからそればかりだな……。何かあったのか?」
「ほっとけ」
ランサーの気遣いも意味を成さず、さらに酒に飲まれる。本格的にダメらしい。
「しかし、まあ。セイバーの言う通りよな。酒はあくまで、口をなめらかにするためのもの。それにかまけては本末転倒よ。まず手始めに、そうさな、アーチャーから行ってみるか?」
「意外だな」
思わず、つぶやきが漏れていた。思いはしても、言葉にするつもりはなかったのだが。ライダーのきょとんとした視線が向く。言うつもりの事ではないが、隠し立てをするような事でもない。続けて言葉にする。
「てっきりお前が一番を名乗るのだと思っていた」
「おう、先頭を走るのも正しく征服よ。しかし、王たらばトリで構えているのも道理である」
「つまり何でもありってのを王道に絡めてるだけだろ」
杯を積むようにしてゆらしながら、身も蓋も無く。さすがにあの量を飲めば、素面ではいられないのだろう。顔がうっすらと赤い。
「まあいいや。俺の目的は受肉だよ。この世で普通に生きる」
と、沈黙。
誰もが、アーチャーの言葉の続きを待った。しかし、彼はまた酒をつぎ始める。それをさらに待っても、今度はつまみに手を出し始めた。沈黙が、闇雲に続く。
いや、つまみを食べる事を非難する気は無い。セイバーも、この中では一番ハイペースで手を出しているのだから。……非難が無いというは嘘だった。もう少し食べるペースを減らせとは思っている。自分の分け前が減るのだから。それが不条理なものだとは自覚していたのだが、言わずにいられない。それこもれも、酒ほどとは言わずとも、見劣りしないほど鮮やかな味をしたこれらが悪いのだ。美食は人を狂わせると、初めて知った。だから、料理に宿る魔力が悪い。自分は悪くない、多分。
「いや、もうちょっと何かないのか? 貴様とて王なのであろう、そこらの意気込みとか」
「王?」
「そういや、セイバーだけは知らぬか。こやつも王であるらしいぞ」
これまでも、何度も驚かされた。しかし、此度の衝撃はその遙か上を行く。
それが王というのであれば、それだけの格が見える。例え隠していてもだ。ライダーとて、かなり奔放だと思ったが、王と名乗られればすんなり受け入れられる格があった。それが、アーチャーからは感じられない。恐ろしく普通というか、自然体というか。それが良いか悪いかは分らないが、とにかく『王』らしくは見えなかった。
安い挑発でもして、名乗らせてみようか。一瞬考えたが、すぐに破棄した。その程度の事はライダーがしていない訳が無く、秘密主義のアーチャーが答える訳も無い。ついでに言えば、そのやり方は彼女の流儀とはかけ離れていた。
「意気込みも何もないな。俺は過去を見ないんだ、何か思うとすればこの先の事だよ」
「貴様が王であったならば、その治政に思うことはなかったのか? 悔いが……後悔が、あったのではないのか?」
その言葉は、本当にアーチャーに向けて言ったかどうか、自信が持てなかった。耳の中に残る自分で言ったはずの言葉。それが何度も反芻して、脳で繰り返し再生される。
ランサーは痛ましげに目を伏せた。そしてライダーは眉をひそめた。今はそんな事はどうでもいい。ただ、同じく王であった者の答えが聞きたい。明確な――どんな答えを聞きたいと言うのだ?
頭を軽く押さえるアーチャー。やはり面倒くさそうに、しかし、そこには若干の困惑があった。
「何度も言うが、俺が国の行く末に対して思うことは何もない」
言葉には、あるべき重さが無かった。国という、強大かつ膨大な人の収束点、その中心たる王の自負。そう、自負だ。責任を果たしたか否かでも、先導者たれたかでもない。単純に、自分が王であったという、ただの自信。それが全く感じられないのだ。この男は、本当に自分が背負っていた国を、どうでもいいと思っている。
それを理解してわき出たのは、怒りでも悲しみでもなく、ただ純粋な困惑。ある一点までは理解でき、それ以上が完全に理解の埒外にある。同じではなかろう、しかし似たような経験は数多くあったはずだ。その上で、相手の考えが全く理解できない。
「死ぬのが怖くないか? 俺は怖い。とても怖い。お前達だって分るだろう、一度死んだんだから。一度死んで、こうして蘇り、そして人生の続きを得る可能性がある。それなりにやる気にもなるさ。少なくとも、積極的に死なず、それなりに苦労しようと思う程度にはな」
先ほどの言葉には重さが無く、だからこそその言葉の重さが強く伝わる。この英霊は、間違いなくただ『生きる』という事の為に戦っている。理想も、誇りも、何も解さない。極めて原始的な、生存本能、死の回避。それこそが原動力であったのだ。
だからと言って、王の自負が無い得体の知れなさが明かされた訳では無いのだが。ただ、彼が偏っている事自体は、それよりも遙かに納得しやすかった。
「うーむ、貴様は我らとはずいぶん旗色の違う王だったのだなぁ。この世にはそういうのもいるのか」
分ったように頷くライダー。実際は、理解できないことが理解できた、という程度だろうが。
「余からも、一つ聞きたい。召喚早々マスターを裏切っていたが、あれは何だったのだ?」
「あー、それは……」
アーチャーの、杯を持った方の手が上に上がり、ゆらゆら揺れる。彷徨っているようにも見えるそれは、何かを探しているようでもある。張力の限界を超えた酒が、掲げた酒杯からだらだら零れた。いち早くそれを察知したセイバーが、さっと料理の乗った皿を移動した。隣のランサーから、すごく微妙な視線を貰ったが、そんなことは気にしない。美味な料理とは時に、メンツに勝るのである。それを必要ないというのは、恵まれた者の戯言だ。もし非難する者がいたら、口の中めいっぱいに、塩をまぶして焼いただけの肉の塊を詰め込むことも辞さない。
だらだらと酒を零しながらも、なおアーチャーは悩み続ける。その様子は、言いたくないという風ではなく、どちらかと言えば言い方に困る、という感じだ。
「例えばだ」
掲げたままの手、つまり杯を持つ手の指をぴんと伸ばす。その先にはライダーがいたが、多分その行為には意味がない。
「召喚されて早々目に入ったのが何か勘違いしたとしか思えない格好をした顎髭だ。頭をたれて、王がどうたらと言ってる。な?」
何が「な?」なのか、誰一人として理解していない。それどころか、どこに同意を求めたのかすら分らない。
また、沈黙が訪れた。誰もが続きを期待する。だが、期待されている男は空気を無視して、空になった杯を落とした。顔は、かなり和らいでいる。悪くなった機嫌はずいぶん快調に向かったのか、それとも忘れただけか。
「……え? まさか、それだけなのか?」
「それだけってお前、重要な事だろ。想像してみろよ、寝起き早々上辺だけ貴族を取り繕ったような顎髭が、私は家臣ですとか言ってるんだぞ。これはもう縁を切るしか無いだろ」
「ち、忠義とかそういうものはお前にないのか!?」
あんまり過ぎる物言いに、ランサーが驚嘆の声を上げていた。セイバー自身も、理由が馬鹿馬鹿しすぎて言葉も無い。
「俺は騎士でも何でもないんだ。忠誠なんざ誓うわけないだろうが。そんなもん理解できるのは、王でも騎士王だけだろうよ」
「まあ、道理ではあるのだがなぁ。余とて、坊主を戦友とは考えても、忠誠を誓おうとは欠片も思わん。余こそが王である、というプライドだけは曲げられんからな」
「そうだろ? もっと言ってやれよ。目覚めに顎髭なんていたら、絶対に引っこ抜いてたって。まったく、そこだけちらちらと生やしやがって。顎髭め」
「貴様は貴様で、どれだけ顎髭が嫌いなのだ。何か顎髭に恨みでもあるのか?」
「ないけど腹立つだろ。それに……」
完全に酒を楽しむだけの人間になっているアーチャー。
「奴は必ず俺を裏切ってた。土壇場の、重要な盤面でな。そんな奴と仲良く戦ってやるほど、お人好しにはなれん」
その言葉は、調子自体に何も変わったところが無い。だからこそ、驚きは大きかった。初見――たった一度、一瞬の邂逅で、そんな事を見切れるものなのだろうか。それが可能かどうか、信憑性の程がどれほどかは分らない。しかし、少なくとも彼に取っては、それで決断できる程度には信頼できる見識だったのだ。
「人を測り、見抜き、決断するか。なんのかんのと言って、やはり王であるな」
「んー……あー、まあ、そうかもな」
否定しようとしたのか、それとも反論か。それすら曖昧な間。つくづく、彼に取ってどこが要点になっているのかが分らない。
「それでも……俺は貴様の『裏切り』という行為に納得出来ん。例えその末に、裏切りが待っていたとしても」
どこまでも頑なに、口を曲げてうなるランサー。表情には、ただ苦悶だけが残っている。
ディルムッド・オディナ。フィオナ騎士団随一の騎士であり、同時に呪われた黒子により、その忠義を見失った男でもある。己が狂わせた女の愛に殉じ、その生涯に強い後悔を残した。不幸だ、というのは簡単だ。仕方が無かった、と諦めるのも。しかし、それで全てを諦めるには、彼は誠実で真面目すぎた。
その無念がどれほどか、セイバーに計ることはできない。ついでに言えば、呪われた性質故に、忠義を誓う者から愛を奪わねばならなかった。それについての苦境など――賛成にしろ反対にしろ――セイバーには論ずる事を許されないだろう。
ただ、剣を交えれば分ることはある。それは、彼はどこまでも誠実であり、同時に忠義に飢えているという事だった。ならば、どのような理由があれ、不忠を許すはずが無い。例えそれが、過去の自分に対してでも。
「アーチャーよ、そしてライダーよ。俺に貴様らの言う、王の理論は理解できぬし、しようとも思わん。俺は所詮騎士であり、それ以上にもそれ以下にもなれん」
腕を真っ直ぐに伸ばし、その先端には杯。それは、槍であり剣だ。騎士が忠誠を誓い剣を捧げるように、それを掲げているのだ。
「ならば、俺はこの忠誠を持って、主に聖杯を捧げる。寸分たりとも濁りのない、この世で最も清廉なものをだ。騎士道に殉じ、騎士として勝ち、そして……今度こそ、我が主に」
見事だ――誰もそれを疑わない。あのアーチャーですら、しずしずと刮目している。
その通りだ。騎士道とは、曇り無ければこそ、道しるべとなるのだ。輝く栄光、誰もが憧れる姿なればこそ、騎士であるのだ。汚れた道に誰が憧れる? 清濁併せのむ等という都合のいい言い訳に手を汚す者を、誰かが求めるのか? あってはならぬ。栄華の道でなければ価値が無い。誰かが目指す道というのは、つまりそういうものなのだから。
堂々たる。騎士のあり方。笑いたくば笑えばいい。賢しさを信奉し、後ろ指を指してもいい。上手くやることに、成功することにこそ価値を見いだすのであれば。そのような者達に、そうでなければ意味がない、という事など、一生涯を費やしても理解はできまい。
そして、いつか思い知るのだ。騎士が粉砕してきたのは、まさにそういう者達なのだと。
唯一、勝利こそが栄光である戦争に、騎士道はナンセンスであろう。それを否定するつもりは、セイバーには無い。恐らく、ランサーにも。しかし、だからこそ、騎士道を捨てるわけにはいかないのだ。そこでそれを捨ててしまえば、騎士は本当に、ただ勝つだけの存在に成り下がってしまう。
だからこそ。セイバーは、そしてランサーは。その栄光を守るために、互いを倒さねばならなかった。
「お前の高潔さをもって、捧げさせて貰うぞセイバー」
「それは私とて同じだランサー」
「お前さあ……」
漏らしたのは、アーチャーだった。酒はもういいのか、もうコップは置いている。その代わりに、器用に箸を使って、料理を楽しんでいた。先ほどに見せた、真剣な表情ではなく。今は呆れたような表情で、ランサーを見ている。何に迷ったのか、箸を迷わせて、テーブルの上に転がした。
「そうやって語ることがあるなら、もっと言葉にしろよ」
何が言いたいのか、と眉をひそめるランサー。
「今言ったではないか」
「俺たちに言ってどうするんだバカ。お前が本当にそれを主張しなきゃならないのは、お前の主に対してだろうが」
「アーチャー、貴様には分らぬかもしれぬがな、騎士とはそういうものではないのだ」
主に捧げるのは忠誠たる意思と結果のみ。思想や決断は、胸に秘めておくべきものだ。セイバーもそうして騎士と接してきたし、国に接した。
「一つ忘れてる。お前の今の主は、フィン・マックールじゃなくて、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトなんだよ」
「当然だ。そして、俺は同じだけの忠誠を我が槍に誓った」
分ってねぇ――アーチャーが頭を抱える。彼以外の誰も、言わんとすることが理解できない。そして、己の憤りを理解している男は、指を力強くつきつけた。
「いいか、お前が黙ってても理解して『下さる』のはフィンだけなんだよ。それはお前とフィンの、主従関係の時間がそうさせたんだ。聖杯戦争の主従関係なんざ、所詮は即席でしか無いって本当に理解してんのか? 言わなきゃ分らないんだよ。だからお前が、いくら忠誠誓ってようが、言うこと聞きゃしないんだから信用されないんだ。思ってる事を伝えれば、納得はされなくても理解する余地が……」
怒ったように、息を荒らげて椅子から立ち上がりかけていたアーチャー。不意に言葉を止めて、大きく息を吐き、背もたれに寄りかかる。
「つまんない事を言った」
「いや、なかなかの名演説であったぞ。己の部下ではなくとも、その道を違えておれば導く。実に心地の良い王っぷりであった」
特大の舌打ちが、ライダーを貫く。しかし、その程度でへこたれる男な訳が無く、にやにやと不機嫌そうな男を眺めていた。それを消し飛ばすように、また酒に手を出す。この男、実はかなりのダメ人間なのかもしれない。
ランサーはその言葉に、立ち上がることはしない。しかし真っ直ぐにアーチャーを見て、すっと頭を下げた。
「忠告、痛み入る。俺は貴公の事を誤解していた」
「うるせぇ、黙ってろ」
「フ……。俺は、一度主と話さなければならぬな」
国に、興味など無いとアーチャーは言った。今思い返せば、それは自信の裏返しなのではないかと思えてくる。国に尽くしたかどうかは分らないが――人には尽くしたのだろう。今の彼は間違いなく、一国の王であり、誰かに道を示す標でもあった。。見ていたのだ、どちらにも等しく、分け隔て無く、満遍なく。そして、そのすれ違いを苦く思い、言わずにはいられなかったのだ。
彼の者の国がどうなったかは、真名も知らぬのであれば分りようがない。おそらくは、とっくに滅んでいるだろう。しかし、きっと……人は救われた。王が没しても、彼で良かったと思われるような王だった。
まるで真逆だ――心に残る澱を自覚して、セイバーは自嘲した。国に尽くした己と、人に尽くしたアーチャー。なのに、どうして――ここまで差が出たのだ。そうだったとして、自分は何を呪えばいいのか、それすら分らない。運命が悪かったのだと、そう思っても諦めきれぬものを抱えているというのに。
だからこそ、という奇跡に、残りの希望を託した。
「そういやアーチャーよ、なにやら聖杯がおかしいとか言っておったが、それはどうなったのだ?」
「……なに?」
その言葉に、驚きの声を上げたのはセイバーのみであった。ランサーが同盟関係である以上、当然なのかもしれないが。
さっと顔が青ざめる。それを求めたが故に、こうして戦っているのだ。それに異常があるかもしれない、等と言われて平常でいられる筈が無い。
「ん、まあ何とかなるだろ。何とかならなかったら、何とかするし」
「うむ、それを聞いて安心したわ。いざ聖杯を手にしても、それが役立たずでは興ざめだからのう。……セイバーなぞ、あからさまにほっとしておるわ」
「ええ、当然だ。私はそのために、聖杯の呼び声に答えたのだから」
時間も、運命も、あらゆる楔を破壊し奇跡を具現する。それを最も強く願っているのは自分だという自信があった。
緊張していた手が、テーブルを半ばまで握り砕いていた事に気がつく。引き抜いた指を軽く払って、木片を落とした。じっとりとかいていた汗が、思うように汚れを落とさせてくれない。ざりざりと、いつまでも残る感触が嫌に気になった。
「ほう……聖杯の為にと。そういう意味では、貴様はアーチャーに一番近いのかもしれぬな。余も聖杯は、あくまで過程でしかない」
眉は自然と、小さく潜められていた。
目的に対して、文句をつけるつもりは無い。が、それを認めがたいのも事実だった。
「貴様も違うのか」
「おうともよ。余の目的は、アーチャーと同じく受肉。しかし意識はまるで反対よな。征服という行為を成すために必要なのが、余という個に必要な肉体なのだ。まず戦争を楽しむ。強者どもを見極め、剣を交えて、これを屈服させる。聖杯など、所詮はおまけよ。ま、これだけ大層な祭りなのだから、その景品もそれなりのものは期待しているがな。そして、おまけによって肉体を持った余が、世界を制す為の進行を始める。なんとも壮大であり、余にぴったりだ」
立ち上がり、大仰に両手を持ち上げる姿は、征服という行為がどれほど偉大なものかを表現しているようだ。両手をぐっと握り、脇に構える。アーチャーとも、セイバーとも違う。言わば、覇王としての姿。
征服王イスカンダルの、原動力そのもの。
「その夢に、騎士達を乗せていたか……」
「なんだ、余の配下に加わりたくなったか? いつでも歓迎するぞ、と言いたいが。貴様は来ないであろうな」
「当然だ。俺は、至らなかった。それを思い知ったのだ。ここから真の忠誠を誓う。そして、必ずや栄光を捧げるのだ」
「惜しいな。貴様ほどの騎士を逃すとは、実に惜しいぞ。しかし、今までよりも遙かに良い顔をしておるわい。それでこそ、征服しがいがあるというものよ」
互いに威圧し合いながら、その雰囲気は戦のそれとほど遠い。もしかしたらこの時こそが、本当の意味で相手を認識した瞬間なのかもしれない。
さて、とライダーが振り向いた。その気が無くも、重圧をそのままにして、セイバーを見た。それぞれの宣言で、気を猛らせたのは彼女とて同じ。むしろ気に当てられれば、さらに奮い立つというものだ。
それぞれ、信じる道は違う。セイバーにも、己だけが信ずる道がある。誰にも負けないだけの道程。もはや誰も酒を飲んではいない。それは、この時点で十分に役割を果たしたのだ。一番酒に飲まれていたアーチャーすら、顔の赤みを引かせて、素面に近いまでに戻っている。
それは同時に、この宴の終わりを予感させた。
「トリを譲ってしまう形になったな、騎士王よ。さあ、貴様が聖杯を望んで止まぬ理由を、何より大志を聞かせて貰おう」
「言われずとも」
すっと、大きく息を吸い込んだ。そうすれば、祖国の記憶が、己の歩んできた道が通り過ぎていく。
苦難の連続であった、決して、人に誇れる事ばかりではないだろう。いや、むしろ至らぬ事の方が多かったかも知れない。それでも、己は全力を尽くしたのだと、胸を張って言えた。王としての、アルトリア・ペンドラゴンとしての生涯。
確実に滅びへと向かっていた国。悲鳴すら上げられなかった愛する国民達。次々と脱落していく騎士達。何が悪かったのか、何かが足りなかったのか。どれだけ血を尽くしても、手の中にあったものは、こぼれ落ち続けた。誰もが懸命に生きても、なお運命は高い波で飲み込んでいく。
最後に、死の際に残ったのは、怨念に近い無念の声のみ。それが今も、呪いのように耳元に張り付いている。
救わなければ。ただそれだけを想って、少女は剣を取った。そして王となった彼女は、再び剣を握り直す。聖杯を手に入れるために。
「私の願いは、祖国を救うことだ。運命を変え、救済をもたらす」
「……なんだと?」
言ったのは、誰だったのであろうか。ライダーとランサーの気配が、今までの鋭かったそれから考えられぬほど、乱れたのを感じる。
何だ? 困惑したのは、セイバーも同じだった。受け入れられる事を望んでいたわけではない。しかし、この反応が予想外であったのも事実だった。
「セイバーよ、貴様運命を変えると言ったか? 聖杯の力を持って救済すると、本気で言っているのか?」
「当然だ。私は、国の為に死力を尽くした。しかし、届かなかった……。ならば、最後の義務を果たさなければならない。そうだろう? 国を滅ぼしてしまった私が、救済を望むのに何の問題が……」
「あるに決まっておろう!」
ライダーの怒声が響いた。悲鳴のようにも聞こえるそれに、言葉は中断される。
声はマスター達まで届き、細々と続いていた会話を中断して、振り向く。
「王が、己の行いを悔いるだと!? 王とは振り向かぬ者の事だ! そして、先頭に立ち夢を見せ、全てを束ねるからこそなのだ! よもや運命の改竄を望むなど!」
「っ! 貴様とて国が滅んだのであろう? ならば考えたはずだ! 国の滅ばぬ道筋を! 悔いたはずだ! 足りなかった力を! 国に身を捧げて、それでも無くしてしまった場所に後悔があるはずだ!」
「そんなものはないわ! 王とは振り向かず、ひた走るから王なのだ! そうであるからこそ、人は王に夢を見てついてくる! ……悔いて後ろに置いてきた栄光を見るなど、それは王ではないのだ、セイバーよ」
ライダーの顔は、泣きそうにすら見えた。何を泣くと言うのだ? もしかしたら、それは、哀れみではないのか?
「余は国に尽くしてなどいない。国が余に尽くしたのだ。それを集めたからこそ、余は王たれた。言うなれば暴君よ。しかし、暴君であるからこそ、王であるのだ」
そんなものが自分に向けられているなど、セイバーには認めたくなかった。
「貴様は、ただの小娘だ、セイバーよ。哀れにも、そんな者が王になってしまったのだな……」
何故だ。セイバーには分らなかった。祖国の滅びを目前にして、なぜ悔いぬというのか。国を想ったのは同じ筈だ。それを救うことの、どこが――
「セイバーよ、おこがましいかも知れぬが、俺の騎士としての言葉を聞いてくれ」
ランサーの声。苦しげなそれ。
何故だ。
聞きたくない。彼とて、悔いなかった筈が無いのだ。望まぬ裏切りを強要され、忠誠を貫けなかった事を。考えたはずだ、裏切らずに済んでいればと。
「俺は確かに、裏切りを働いてしまった。言い訳のしようもなく、無様に。そして、確かに願ったのだ。もし機会が与えられるのならば、今度こそは最後まで忠誠を貫けるようにと。確かに、裏切りを働いてしまったのは苦しく、最悪の気分であった。幾度も悔いて、幾夜も己の身を呪った。だが、それが無ければ良かったとは、最後まで想わなかったのだ」
やめろ、言わないでくれ。心が、悲鳴を上げた。
セイバーの願いなど聞き届けられる事はなく、ランサーの言葉は続く。
「それを願ってしまったら、俺が過去に捧げた忠誠と栄光までもを、偽物にしてしまうからだ。代用が、入れ替えが効いてしまうと、自分で認めてしまうからだ。なあ……頼む、セイバーよ。一騎士として、どうか……。アーサー王という者に仕えた、騎士達の忠誠を、どうか嘘にしないでくれ」
「そん、な……事は……」
できない。
分る。分ってしまった。ランサーの言うとおり、彼女の願いはそこにあった全ての想いを、偽りに変えてしまうものだと。彼らの言葉が正しいのも、分ってしまった。
じゃあ、他の者はどうなるのだ。悲鳴を上げて散っていった臣民達。やせ細っていく、国そのもの。それらも、救いは望んでいないと言うのか。偽物になるから、それで拒絶するのか。自分は間違っているのか。何が正しい。偽物は間違いなのか。真作であれば正しいのか。ならばどこに――自分の想いはたどり着くというのだ。
体をかきむしりたくなる。全身が熱い。頭が働いているのか、疑いたくなる。正しさが分らない。間違いも分らない。手の中からこぼれ落ちた、最後に残っていた理想。それをつかみ直すために手を伸ばして、どこを目的にしているのだろう。
自然と、視線がアーチャーに向いていた。それは、他の二人のそれを追ったからだろう。それ以上の意味はなく、ただの反射だ。なぜならば、本当は見たくなど無かったのだから。
いつも通り、つまらなそうな顔。内にある感情を、崩れかかる精神では捕らえられそうに無い。
「お前らさ、ここはどこだと思う?」
「どこ、とはどういう意味だ?」
「難しい話じゃ無い。今の時代はいつだって話だ」
「現代だろう」
ランサーの答えを、鼻で笑った。とてもつまらなそうに、下らなそうに。しかし、予想通りだと言うように。
「違うね、ここは未来だ」
「まあ、そういう見方もできるのう。それが、何の関係があるのだ?」
「関係が無いと本気で思ってるのか?」
アーチャーの言葉は、吐き捨てるようだった。とても忌々しげな仕草。何が、かは分らない。だが、何かは確実に、アーチャーのどこかに触れたのだろう。
「俺たちは過去の存在なんだよ。誰一人として例外は無い、すでに終わった人間なんだ。それが、過去だ未来だ、だと? 変わりはしないじゃないか、馬鹿馬鹿しい」
例えば、ある存在が過去から現代に飛んで事をなし、それを過去に持ち帰ったとして、それは過去への干渉に当たるのか否か。同時にそれは、未来への干渉に当たるのではないだろうか。視点が問題だと言うのであれば、そもそも自分がいる場所が現代だ。自分が自分である以上、干渉は常に現代である。
過去とはすでに結果だから、干渉はできないかもしれない。しかし、未来から見れば現代も過去も等価である。現代がすでに結果では無いと、どう証明すると言うのか。どこまでが許されて、どこからが許されないのか。そもそも誰が何を許すというのか。こんなものは、ただの言葉遊び以上にはならない。誰が見ても、誰から見ても、視点の時代は固定されているのだから。そんなことを可能にできると言うのであれば、それこそ『魔法』であろう。
過去に死んだ存在が英霊となり、現代に蘇る。それと過去改竄の願いに、どういう違いがあるのか。過去は確定、未来は未定。そんな保証は、どこにもない。
「過去に未練はない? 否定できない? 綺麗事抜かしやがって。お前らも俺も未練たらたらだから、こんな所にいて、こんな事してるんだろうが。過去にできなかった『続き』を望んでる連中が揃いも揃って、ご大層な事だ」
「アーチャー、お前は……」
「否定してないだけで、同意もしてねーよ。お前が過去を変えて、生き返る機会がなくなるってんなら俺の敵だけど、そうじゃないなら知らんってだけだ。ああ、現在進行形で聖杯戦争中なのに、敵じゃないとかおかしな話だな」
言いかけたセイバーの言葉を、ばっさりと切り捨てて。酔いの勢いが残っているのか、さらにまくし立てる。
「違いなんて、過去が許せたか許せなかったか、それだけだ。覚悟や生き様の違いですら無い。ああ……くそったれめ。未だにみっともなく足掻いといて、何「自分は違うんです」みたいなツラしてんだよ。同じ穴のムジナじゃねえか。悔いてねえだ変えられねえだ、本気で言ってるんなら今すぐ自殺でもしてろ。そうすりゃ……誰も巻き込んだりしないだろうよ」
頭皮に指をめり込ませながら、血を吐くような苦しげな言葉。その目が、どこに向いているのか。少なくとも、ここにいる誰にも向いていない。
ただ、一つ分ったことがある。彼が悔いているとすれば、それは今であるという事だ。一度死に、そして二度目の生を欲しがりながら、現代で誰かに後悔をして……それでも止まれない。もしくは、止まり方も忘れてしまったのか。正しく、生きる事への未練が引き起こした事態。過去未来という区分で、割り切ることができなかったそれ。
彼の視線の先には、誰が映っているのだろうか。なぜか、それを無性に知りたくなった。
「セイバーよ……いや騎士王よ。余は謝罪せねばならぬ」
吐息を吐く音。誰かのであった気がするし、自分のである気もする。ただ、誰がしてもおかしくない雰囲気ではあった。もしかしたら、全員が同じようにしていたのかもしれない。
「未だ、貴様が正しいとは思わんし、これからも思えん。アーチャーについても同じよ。一理あるとは思うが、正しいとは考えとらん。だがな、余はいつの間にか己を過大評価し、器を小さくしていた。許せ」
「受け取ろう、征服王。私も、自分の願いは変えられん。だが、お前達の意思には、確かな正しさが宿っていた。それを気付かせてくれた事、感謝する」
それで、何かが解決したわけではない。祖国は救われないし、騎士達の意思のあり場も宙に浮いたまま。ただ、見直すにしても、覚悟するにしても。その機会を与えられたことは、喜ばしいことであった。それが、自分をさらなる苦難に追い込むものだとしても。
胸は透いていた。自分でも不思議なほどに、穏やかに。王としての義務は、重荷などでは無い。それこそが、自分が王で在るという証なのだから。
「ああぁぁぁ……俺はまた余計な事を……しかも、何か、凄く……」
「そう伏せるな、アーチャーよ。お前の言葉、俺の胸にも響いたぞ。いつしか俺も、自分の願いを、都合がいいように考えていたようだ。つくづく、顧みなければならぬと教えられたよ。感謝している」
「やめろーというか本当にやめてくださいお願いしますただの八つ当たりなんです」
なぜか、一人で勝手に精神ダメージを受けているアーチャーだった。そんな大層なものじゃないから……と、似たようなか細い言葉が、突っ伏した腕の中で消えずにあぶれている。
「認めよう!」
声を上げて、杯を掲げるライダー。
「貴様ら全員、聖杯を奪い合うに相応しい勇者である! この征服王イスカンダルが、その名において認めよう!」
「元より、貴様に認められずともそうするつもりだ。が……それが賛辞であれば、受け取っておこう。その礼は、この剣で返すがな」
「くくっ、抜かしよるわ。貴様こそ、余の蹂躙に飲まれる準備をしておけ。隙あらば、配下に加えてくれるわ」
ライダーから当てられる王の圧力に、同質同等のそれで返す。もう、押し巻けるような事は無い。
迷いはまだある。が、祖国を救済するという願い自体は、絶対に変えられないのだ。それに、何を成すも成さないも、まずは聖杯を手に入れなければ始まらない。迷っているからと言って、剣を置くわけにはいかない。それに、不思議と――この男達を倒せば、答えが見つかるような気がした。
「今日は、これで終わりかね」
なぜか、最後の最後でやたら落ち込んだアーチャー。気分を引きずったまま、気力に乏しく言う。
「待て待て、まだ酒もつまみも残っているでは無いか。もったいない」
「もう話すこともないじゃないか、とっとと帰りたいんだ。人だって待たせてるし。何かやたら疲れたし……」
「しかしのう、あれを残してお開きというのは、なんと寂しいではないか」
ちらちらと、アーチャーの出した酒瓶を見ながら、名残惜しそうに言っている。アーチャーはそれを無視して……いや、無視してはいない。凄く鬱陶しそうに、半眼を向けている。酒をしまおうとすると、その手を横から、太い腕が掴んだ。
「ま、待つのだアーチャー。最初に言ったぞ? 余の前にその酒が出た以上、征服される運命を逃れられん、と」
やたらいい顔をしての宣言。それが無駄にいらつかせる、と思ったのは、セイバーだけではあるまい。アーチャーからすごく大きなため息が聞こえ、それが無性にもの悲しい。
「……もういい。これやるから、お開きな」
「つまみはどうだ?」
「全部もってきゃいいだろうが!」
「待て、アーチャー。それがここで広げられた、という事は、私にこそ権利があるのではないか?」
「ほう……言うものよ、騎士王」
「おまえらで勝手にしろよぉ!」
かなり本気の絶叫だった。
セイバーは、目の前のライダーとにらみ合う。強烈な圧力が、己を押し潰さんとした。当然だ、これは遊びではない。求めるものはたかが料理、されど料理。笑うなかれ、食とは生命の基本であり、それを制したならば、無双の軍を手に入れるに等しい。かつて、食など重視していなかったセイバーであったが、あれほどのものを食べた今であれば、それが理解できる。健全な肉体、健やかな精神、安定した成長、それらは完璧な料理あって初めて得られるものだったのだ。
この料理を得ることが出来れば、セイバーは遙かに強くなる。きっと、たぶん、二倍とかそんな感じに。彼女の体感では、令呪のバックアップがなくとも、片手を封印されたままエクスカリバーを使えるような気がしてくる。だから、これは食欲を満たすためなどでは無い。れっきとした、戦力増強という行為なのだ。誰に文句を言われる必要すらない、実に理にかなっている。
だからこそ、これを征服王に渡すわけにはいかなかった。
これは戦争だ。酒宴などというものよりも、遙かに重要で、殺伐とした、しかし言葉での戦い。そう、交渉という場での、己の権利を主張し、相手の権利を奪うのだ。自分が得るべき料理を守るために。
「征服王、貴様は酒をすでに貰っているな? その上で料理も、というのは欲張りすぎだろう。なにより、この場所は私が提供したものだ」
「これはこれは、騎士王ともあろうものが器の小さき事を。酒が余のものなのは、奴と直接交渉して得たのだから当然よ。料理はまた別問題」
「あいつら死ねばいいのに」
「セイバーよ、お前という奴は……」
やたら悲しそうにランサーが呟いていたが、彼女的にはそれどころではない。
最終的に、取り分はセイバーが6で、ライダーが4に決定した。その代わりに、セイバーは望んだ料理を優先的に得られる事になっている。満足な、とは言えないが、納得できる戦果ではあった。やはり征服王は難敵であり、易々とはいってくれなかった。
「とにかく、これでお開きな。ライダーも早くしろよ。お前のマスター死にそうな顔してんぞ」
マスター側の会話も段落はついたのか、初期のような緊張感はない。ただし、ライダーのマスターらしき少年が、ランサーのマスターにいびられているようだったが。本人は取り繕っているのかもしれないが、全身が痙攣するように震えていてはあまり意味が無い。
「坊主も、もう少し気をしっかり持てば良いのだがのう。おいアーチャーよ、貴様もずいぶん良いものを持っているものよ。あとどれだけ所持しているのかと思うと、今から期待に胸が高鳴るわ。いずれ、それも蹂躙し奪い尽くしてくれる。覚悟しておれ」
「…………俺は今ほどお前をひっぱたきたいと思ったことはない」
長い沈黙。ついで、金髪を掻き毟る。そして最後に、形容しがたい壮絶な顔で言っていた。
「よせやい、今はまだ休戦よ。次に会ったときこそ、余の力を見せつけてくれるわ」
「……もういい。なんでもいい」
自分本位で自由人、それがアーチャーの印象だった。しかし、通してみれば、人の心が抱える不和に口出しせずにいられなかったり、彼自身も考えすぎたり。人を見捨てきれないあたり、案外苦労性なのかもしれない。損をする性分なのは確実だ。
「おーい、坊主! そろそろ行くぞ!」
「――待てライダー」
「あん? セイバー、貴様もか。今日剣を交えるのは、あまりに風情がないぞ」
そんな、ライダーの戯れ言を無視して。セイバーは剣を構え直した。油断無く見回す先は、誰もいないはずの場所。慎重に視線を飛ばして、警戒を続ける。何も無い、筈ではあるのだ。しかし、セイバーの『直感』は、未だ最大級の警報を鳴らし続けていた。
勘に頼ってみたが、やはりどうしても分らない。だから、なんとなししに呼んでみた。クラス適正に差がある以上、セイバーより先に見つけていてもおかしくはない。
「アーチャー」
「いるな。10や20どころではない。おそらく50以上、しかし100には届かないか」
答えたアーチャーは、すでに武装していた。黄金の鎧を身に纏い、一降りの剣を握っている。
ただ事では無い、と気付いたのだろう。残る二人のサーヴァントも、武装をした。警戒を続け、少しずつ下がりながら、四人でマスターを囲む。
ここに来る可能性があるのは、アサシンのみだ。バーサーカーとは同盟関係である以上、襲いかかってくる理由はない。例えそうだとしても、50を超える筈が無かった。逆に、アサシンでない可能性もあるのだが、これはあまり現実的ではない。直感に引っかかるまで、そして引っかかっても発見できない理由が思いつかないからだ。仮にそういう手段があったとして、考慮するだけ無駄だ。それがアサシンでないならば、そもそも驚異にならない。
サーヴァントとは、言わば超越した存在を扱いやすく制限したものだ。多少弱体化した所で、それが超越存在である事に変わりは無い。手負いであろうが、獅子が人間の手に負えないのは同じなのだから。だからこそ、魔術師は弱体化をした英霊に、さらに令呪という拘束を重ねることを思いついたのだ。
つまり、単純な戦闘能力で最低値である、アサシンとキャスター。これであっても、人にはどうにも出来ないし、最低でもこの程度の能力がなければ、サーヴァントの相手にならない。
どう足掻いても抵抗しようのない、単純な力という事実。これがあるからこそ、切嗣はセイバーを使い続けるし、ケイネスはランサーを切れないでいる。誰一人として、サーヴァントをどうにか出来ると思っているマスターはいないのだ。
サーヴァントは、ただの聖杯戦争参加資格ではない。同時に、生命線でもある。
「ありえない。何が目的だ?」
「今まで逃げ隠れていた暗殺者が、今更顔を見せるか? いや、いずれしなければならない事ではあるが……なぜ今なのだ?」
両者の会話に、心の中だけで同意する。
ランサーの言葉には、隠しきれぬ侮蔑があった。が、その程度の事で、情勢を見誤るような事はなかった。対してアーチャーは、最低限だけの意識を残して、ひたすら考え込んでいた。ある意味、最も混乱している。
ずっ――と、周囲の至る所から仮面が姿を現す。弱い、セイバーは瞬間的に判断した。これならば、倒すのに苦はないだろう。マスターについても、四人のサーヴァントで囲んでいるのであれば、もしもが起こる余地も残されていない。つまり、アサシンには寸分たりとも勝ち目が残されていない。
ならば、今攻めてくる理由とは何なのか。
「酒宴が終わってしまったのが悔やまれる。しかし、まだ遅いという訳では無いぞ。さあアサシンよ、余の杯を取れ。そして、己の格を語って見せよ」
回答は、短刀の投擲だった。それは掲げられた杯を割って、ライダーの顔面に直進し、寸前でたたき落とされる。大小の音が鳴る。大は短剣が石畳に転がる音であり、小は固い地面に落ちた陶器が割れた音。
「やれやれ、こいつはまたずいぶんと余裕のない連中よな」
「バカッ、そういう問題じゃないだろ!」
「そういう問題だ。話しもしなければ杯も取らぬ。切羽詰まりすぎておる。ずいぶんと念押しに強要されたみたいだのう」
令呪で縛られている、その答えに、その場の全員がたどり着く。それは、より疑問を強調する結果にしかならなかったが。
アサシンのマスターに、彼を消耗するだけの理由がどれほどあるのか。ここで、無謀な作戦に使い切るというのであれば、理由は二つしかない。一つは、考えにくいがサーヴァント以上の切り札を持っているという可能性。もう一つは、何らかの理由でアサシンを消耗もしくは脱落させる理由がある場合。
馬鹿馬鹿しい。そういう意味では、どちらが正解でも。いくら考えても、想像の域を出ない。どこかに真実はあるのだろうが、少なくとも今この手の中に転がってくる事はない。ならば、今はとにかくこの場を凌ぐしかなかった。
「アーチャー、こいつらはどれだけいる?」
低い男の声。該当者は一人のみ、ランサーのマスターだ。
「……70と少しだな」
その会話に、どれだけの意味があったのかは分らない。だが、両者はそれで通じたとばかりに黙り込んだ。
「セイバー、大丈夫なのかしら……?」
「ええ、問題ありません」
背後から、アイリスフィールの不安そうな声。それを安心させるように、力強く断言した。
実際、戦闘そのものには全く問題ないのだ。意識をアサシンの他に、アイリスフィールと思考に割り振っても、まだ余裕を持てる程度には。問題は、それ以外の所に問題がある、点なのだが。
「丁度良いわ」
ライダーはそう言うと、剣を抜いてずんずんと前に出始めた。マスターを囲んでいた防衛網が崩れる。その程度でアサシン達に付け入らせるほど、誰も弱くは無い。だが、怪訝に思う気持ちはある。
「お、おいライダーどこに行くんだよ!」
慌てた風に、情けない声を上げる少年。声質はともかく、それは皆の代弁であった。
「セイバーよ、貴様の王道、確かに否定はせん。しかし、絶対に認められんとも余は言ったな?」
「ああ、確かに言っていたが……なぜ今になってそれを?」
「これから、その理由をみせてやる、と言っておるのだ」
ずん、と音がするほど力強く右足を踏み込んで、体を絞る。そして、剣を一薙ぎするのと同時に、声を、天まで轟かせるように張り上げた。
「さあ、呼び声に答えよ! 余と命運を共にした勇者達よ!」
その言葉と共に――世界が入れ替わった。何の比喩でもなんでもなく、本当に、世界が全く別の場所へと変わったのだ。
いや、変わったのでは無い。世界は変わらない。絶対にして唯一無二。それだけは、例えどんな存在であろうと否定できない。ならば、これはどういう事だと言うのか。これではまるで、世界が塗りつぶされたようではないか。征服王イスカンダルという存在が、世界を作り上げたようではないか。
延々と続く砂漠に、容赦なく照りつける太陽。この世において、最も過酷な環境の一つに分類される。しかし、そこからは、何もかもを飲み込むような乾きを感じられなかった。なぜこんなにも飢えた、恐ろしい世界でありながら――そこから、夢と希望が強く胸に刻み込まれるのだ。
「こんな……まさか……固有、結界?」
「その通りよ。これこそ、余の切り札。最も信ずる、宝だ」
「だ、だってお前魔術師じゃないだろ!? それなのに、なんで固有結界なんて使えるんだよ!」
「この世界はな」
ライダーが、ぐっと両手を広げた。それで、嫌が応にも理解する。この世界の中心は、彼なのだと。
「余がかつて駆け抜けた場所。同時に、余に忠義を捧げ、共に駆け抜けた者達が等しく見た『夢』そのものよ。だから、これが余の固有結界というのは、正しくない。余と、勇者達と――国そのものがあって、初めて存在する心象風景なのだ」
高々と、真上に伸ばされる剣。それと同時に、ライダーと同じ夢を見た勇者達、その全てが武器を掲げ、咆吼を上げた。
巨大な一つの世界が、裂帛のうねりに震撼する。当然だ。なぜならば、この世界はどこまでも、彼らの為にある世界なのだから。何の工夫も無く、正面から叩き付けられるそれ。いや、正面からだからこそ、愚直なまでの絆の強さが、強烈に叩き付けられていた、
死を迎えても、時を超えても、そして、サーヴァントとしてこの世に仮初めの生を受けても。なお、切れることの無い強き絆。一体どれほどの繋がりがあれば、それを可能とするのか。
「分るか、セイバーよ。余がどうしても、貴様の願いを認められなかった理由が」
今ならば、分る。セイバーが己の願いを否定する声、それに打ちのめされようと、決して引くことが出来なかったように。彼女に聞こえていた、助けを求める無数の声。未だ耳から離れぬ、国の悲鳴。それと、同じものがライダーにも聞こえていたのだ。絆を想い、彼を押し上げ、王たらんとする声が。
「余は、何があろうと、その道筋にどれだけの後悔があろうと、これだけは否定できぬのだ。……アーチャーの言うとおりだ。貴様には、国に別の命運を手繰りたい程の何かがあったのだろう。余とて同じであった。家臣とこうして心を通わせあい、余の言葉に応じ続ける以上、後悔はできぬ。過去を無かったことにするのも許されぬ。振り返ることだけは、どうしてもできぬのだ! 前を向き、進み続けるのよ。それこそが、余も、家臣も、誰もが信じた征服という道なのだから!」
それは、ある一つの、国家としての理想型。
ただの群れでも軍でもない、志を一つに束ねた集合体。征服王イスカンダルという、理想そのものの具現であった。
なんと、雄大な事か。今までライダーが語った事など、矮小に過ぎる。ここに広がる希望の砂漠に比べれば、小さいという言葉すら大きい。それだけの――器。全てを飲み込むような、膨大な熱気の嵐が飲み込まんとしている。
「これこそが、余が持つこの世のどんな至宝にも勝る宝! 世界そのものに並べて恥じることの無い最大宝具! セイバー、貴様の生き方では、どれほど良き王であろうとも独りにしかなれぬ! 祖国が最高の繁栄を迎えようと、貴様は一人にしかなれぬのだ! 余は、確かに良き王ではなかったのだろう。だが! 余は一人ではない! 余に連れ添う、この者達がいる限り、余はイスカンダルたるたった一つの我、たった一人の王を誇れるのだ! 勇者達を隣にして!」
誰が、残った?
セイバーは自問した。その問いかけに、偽りを答える事はできなかった。自分の死に様は、完膚無きまでに独りであったのだから。最後には、何もかもが己を裏切り、押しつぶされて終わった。
しかし――
ならば、後悔はあるだろうか……ないと断言できる。国を救えなかったことに対する、ではない。最終的に、自分が国という怪物に飲み込まれた事に対するだ。己の結末など、どうでもいい。ただ求めているのは、愛する国を救うこと、それだけなのだ。それが達成できるならば、例え地獄に落ちようとも構わない。
剣の握りを確かめる。指先まで、しっかりと力が入る感覚。この程度で、力が抜ける事はない。
「腰抜けてはおらぬようだな。それでこそ、征服王の敵だ」
視線を、前へ――つまり、いつの間にか集められていたアサシン――に向けるライダー。
「さて……待たせたな、アサシンよ。貴様にも事情があるのだろうが、戦端を切られた以上、手心を加えるつもりはない。さあ――進軍せよ!」
世界いっぱいに満たされる闘気、として吶喊。アサシンは容易く分断され、連携も取れぬまま、易々と各個撃破されていく。これはもう、数の暴力やステータスの違い、などと言う程度では無い。逃げ惑うアサシン達は、すでに戦意を喪失していた。戦う前から挫けている以上、勝機は一欠片たりともない。
戦闘と呼べるものはなかった。一方的な、彼の名を証明するかのような蹂躙。ものの数分もしないうちに、この場にいたアサシンは全て消滅していた。
騎士達の勝ちどきと意思そのものを背負った征服王。崩れゆく世界を背にして、一歩一歩確実に歩み、セイバーの前に立った。突きつけられる剣は、まっすぐ少女に向いている。
「これが余の王道よ。さあ、答えよ騎士王。この光景を前にして、なお貴様の王道は余に比すると言うか」
強すぎる程に、強い視線。しかし、それは弱者を叩き伏せるそれではない。己の全てを見せつけて威圧しながら、なお瞳には期待が写っている。
「当然だ」
セイバーは剣を振るった。小さく、下に向けて払うようにしたそれは、暴風を四方に叩き付け、光の届かぬ先から黄金をこの世に顕す。刀身を、まるで太陽のように輝かせた、匹敵するほどのものが無いほどの神造宝具。
エクスカリバー。またの呼び名を、約束された勝利の剣。残念ながら、ブリテンの勝利までは保証してくれなかったそれ。至らぬ自分に、最後の最後まで付き合ってくれた相棒。
全ての騎士が、騎士道を誇りそうするように。彼女もまた、同じように己の道を誇り、剣を眼前へと掲げた。
「征服王、この剣の輝きが見えるか?」
「応とも」
「この剣は、王たる者の手に渡る運命にある、人の心を反映した剣。この輝きが失せる時こそ、私は王でなくなるのだ。光の照らす先が私にある限り、騎士王とは私である」
だから。
例え、その道が間違いであろうとも。救済に至る道を、探し続ける。
ひび割れた世界が終わる。全てが、元の夜の森に戻った。何事も無かったかのように続く、夜の静けさ。僅かな寂しさが到来する。
「余は、余を中心に皆で国を掲げた。貴様は、たった独りで国を背負うか」
「――宿命だ。痩せ衰え、今にも屈しそうな国を救うための。なれば、それを誇ろう。独りであっても、独りでしかなくとも」
ふ、と、小さな笑い声。ライダーは踵を返した。
「もし余と貴様が戦うのであれば、それは互いの国の全てをかけた戦いよ。ひとたび油断すれば、一瞬にして蹂躙してくれるぞ。そうなってくれるなよ」
「言われずとも。貴様の絆がどれほど偉大であろうと、我が剣の前では無力である事を証明してくれる」
ライダーが剣を、縦に振るった。何も無いはずのそこで、しかし空間を両断する。開かれた異空間をこじ開けるようにして、戦車が現れた。馬の嘶きとは別種の声を上げながら、想い音を立てて地を蹴る。
具現した戦車に、己のマスターを押し込む様にして乗せた。
「アーチャー、ランサー、そしてセイバーよ! 次に見える時は、決着に相応しい場である事を望むぞ!」
高笑いを残しながら、去って行くライダー。それでも酒とつまみを忘れないあたり、さすがと言えばいいのか、呆れればいいのか。恐らく両方なのだろう。
いつの間にか、アーチャー達も空を舞っていた。声をかける暇も無く、しかしランサーの強い意志が宿った視線だけは受け取る。アーチャーが視線一つよこさないのも、まあ彼らしくはあった。ある意味、聖杯戦争に対して一番真剣なのが彼なのだから。それでも、今日見せていた言葉――それが強さか弱さかまでは分らないが――からは、多くのものを得た。
剣と、そして鎧を解除する。戦闘衣だけの姿は、ドレスのようにも見えた。まるでただの少女に見える姿を、密かに自嘲する。覚悟を持っておきながら、このような姿になるのは、何というか、滑稽に思えてならなかった。もしかしたら、真に覚悟を決めていれば、あるいはそれすらどうでも良くなるのかも知れない。
「セイバー……」
背後から、アイリスフィールの声が届いた。振り返って見る彼女の顔は、どこか力強い。
彼女に答える多くの言葉を、セイバーは持たない。ただ一言、それに全ての想いを込めて言った。
「勝ちましょう」
「ええ、そうね」
そして、肩を並べて城へと帰っていった。明日からは、また戦争が続くのだから。
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臓硯は蠢動す
間桐臓硯は死にかけていた。
とにかく身を薄めて、分散させ、屍肉を漁って一時の命を凌ぐ。慎重に、慎重に。誰にも気付かれぬように。なによりも、決して派手な行動は起こさぬ様に、細心の注意を払っていた。力も、工房も、未来への布石すら無くして、光を恐れて這いずる毎日。これほどの屈辱は、長い人生でも覚えが無かった。
けちのつき始めは、はっきりと分っている。あの忌まわしきサーヴァント、アーチャーが襲ってきたからだ。あれの、たった一度、一瞬の気まぐれが、全てを砕き奪い去って行った。魔術工房は物理的に半壊され、内包していた蟲も9割死滅させられた。あまつさえ、胎盤としての利用を考えていた桜も奪われてしまったのだ。
今の臓硯には、人の姿を維持する力も無い。いや、それどころか。早く人間を食わねば、自分という魂が滅んでしまうのも、そう未来の話ではない。
普段であれば、その辺の人間を取って食らってしまっても、問題は起きないのだが。今は時期が悪かった。
聖杯戦争が始まっている時期は、少しの油断が死を招きかねない。派手な真似をして、それで目をつけられれば一巻の終わりだ。これは、隠蔽を上手く行えようが行えまいが関係ない。隠蔽が下手であれば、魔術の秘匿を蔑ろにするとして、早々に処分される。上手く隠蔽を行おうとしても、今の状態では完璧なものは無理だ。それなりに上手くやれたとしても、一流の魔術師であれば確実に発見してくるだろう。そして、その一流の魔術師が町中で、他のマスターの痕跡を必死に探しているのだ。これで見つからぬ訳が無い。マスターで無かろうとも、それが一流の魔術師な時点で見逃すはずが無い。マスターでなかったとして、危険度が下がるわけではないのだから。
現状は、殆ど詰みに近い。桜を失い、雁夜も裏切ったとなれば、間桐の未来は潰えたも同然。それどころか、自分の命すら明日とも知れぬのだ。
キィ――一匹の虫が鳴いた。
(おのれ……時臣の小僧めが。不相応にも、余計な事をしおって)
遠坂時臣が、何のサーヴァントを呼ぼうとしていたのかは知っている。取り寄せた聖遺物は確認済みだ。だからこそ、あの男に――いや、世界の誰にも制御など出来ぬ事は分っていた。なにせ、今回の聖杯戦争を諦めた理由の一つでもあるのだから。
英雄王ギルガメッシュ。数多に存在する英雄の中でも、頂点に立つ存在。こんなものが、人の言う事を聞くわけが無いのだ。これは確定事項であり、それは時臣も考慮済みで行動していたであろう。ただ、誤算があるとするならば。彼の英雄王は、誰が想像していたよりも遙かに自由であり、気ままであったという点だ。制御どころではない。最初から、話しすら通じる相手ではなかった。
魔力が漏れるように零れていく。それに乗って、少しずつ命も失われていった。命の危険が、臓硯を焦燥に駆り立てる。
教会を頼るか――そう考えた愚かな自分を笑った。奴らなど、すでに何の力も持たない。力なき抑止力に、好んで従う者はいないだろう。ましてや何でもありの戦争であれば、それに頭を下げるのはただの馬鹿でしかない。
ただでさえ、サーヴァントが存在するマスターを匿うという、反則を行っている。この上に、生きた人間を捕らえるなど出来るはずがなかった。、口実を得た勢力は、嬉々として教会に攻め入るだろう。それが分っていて、教会が臓硯に力を貸す訳が無い。最低でも、アーチャーと衛宮切嗣は、アサシン生存に気付いているのだから。
それでもアーチャーが勢力内にいれば、話は違った。いや、アーチャーでなくとも、別のサーヴァントがいれば。そうすれば、迂闊に攻め込めない場所にはなった。抑止力が、力として機能できたのだ。まあ、この仮定は、そもそもアーチャーが裏切らなければこのよな状況にならなかった、という時点で無意味なものでしかなかったが。
ぎぎぎ……体がさび付くように、鈍くなる。また、魔力が減っていった。さらに蟲を脱落させねば、命すら危うい。
(嫌だ……死に……死にたくない……)
もはやそれは、ただの妄執の塊でしかなくなっていた。積み上げてきたもの全てが消え去った、その事実が、さらに追い詰める。
だからこそ、臓硯は微かな希望に縋る。それを知ることができたのは、単純に運が良かっただけだった。気付かれなかったのは、それほど弱っていたからだったが。
アーチャーと、ランサーのマスターがしていた会話。それは、聖杯という道具についてだった。
どこでどう調べたのかは分らない。どちらにしろ、情報源などどうでも良かった。重要だったのは、聖杯という道具の所持について、それの所在を明らかにするという点だ。それこそが、臓硯の消えゆく命を凌がせる、希望になった。これ以上命を繋いでも、聖杯にたどり着く希望がない。しかし、今回のそれをかすめ取れれば、まだ逆転の余地はあるのだ。
彼は気付かないふりをしていた。聖杯の異常について、それがどういった類いのものなのかを。例えそれだけの余裕がなかったとしても、考慮する必要があったというのに。
とにかく、潜伏し続けた。限りなく薄く、街の中に溶け込み機会を付け狙う。それは、異常なまでの、数百年に及ぶ執念が可能にした技だった。人間並みの年数しか生きぬ存在には、決して及ぶことの無い怨念。死を恐れながら、ゆっくりと死に向かうという矛盾。それすらも気力でねじ伏せて、臓硯は時を待ち続けた。
いよいよ、己の全てが崩壊する寸前だった。待ちに待った、機会が巡ってきたのは。
監視対象をソラウに絞ったのは、結果的に正解であった。アーチャーの動きを知るためには、他に選択肢がなかっただけなのだが。
アーチャー本人を監視する、という選択肢は元からない。と言うか、サーヴァントの知覚範囲が分らないために、迂闊な事が出来なかったのだが。こればかりは、雁夜にバーサーカーを召喚させたのが悔やまれた。その上に、アーチャーは自身で陣地を構築している。この目をかいくぐって、というのは現実的ではなかった。
ならばマスターを、という話しになる。この時点で、桜は除外された。当然だが、アーチャーと同じ陣地にいる者を監視など出来るはずが無い。そもそも陣地に入れすらしないのだから。その上、桜は人形のマスター。彼女を監視したとして、アーチャーの動向をすることは出来ない。ならば、ランサー陣営のマスターになるのだが。これも、ケイネスを監視し続けるのは不可能だ。万全であったとしても、魔術師としての格で上を行かれている相手。迂闊な監視などして、見つからぬ筈がない。臓硯には、ソラウという選択肢しか無かった。彼女とて並の魔術師ではない。だが、ケイネス程ではなかったし、何よりランサーにうつつを抜かしている為か、隙が多かった。
一度目の動き――ランサー陣営単独の動きだったらしい。恐らくは、令呪を受け取りに行ったのだろう。二度目。ここで早くも、望む動きがあったのだ。
アーチャーの動きなどを知って、何がしたかったのか。どう足掻いても、聖杯戦争に向けられる余力などないと言うのに。間桐臓硯は、ただ一点だけを見ていた。
力の回復、と言うだけならば、ソラウを狙うのが良かったかも知れない。しかし、これは下策だ。まず、ソラウを確実に食う手立てがない。普通に戦っても、十中八九負けるのに。仮に勝てたとしても、超一流魔術師とそのサーヴァントに、確実に殲滅されるだろう。人質に取ればどうか、これも意味がない。確実にアーチャーが、ソラウごと殲滅するだろう。仮にランサーが敵対したとて、アーチャー相手に勝機は無い。
いや、それを言うのであれば、全てのサーヴァントにも該当することなのだが。アーチャーがその気になれば、全てのサーヴァントを殲滅できる筈である。なのになぜ、同盟などという迂遠な事をしているのか。それが、臓硯が抱える唯一の不安材料だった。
とにかく、臓硯は彼らを監視していても、真の狙いはそちらでは無い。もっと、確実な相手でなければいけなかった。
臓硯は運がいい。いや、悪運が強いのか。とにかく、最後の最後で追い風があった。桜の拉致という、追い風が。
ざわざわと、草をかき分けて虫を進行させる。これで失敗すれば、後はのたれ死ぬしかない。それほどに、全ての力を振り絞って。
進行する先には、一人の男がいた。まだ中年にもさしかかっていない、細身を高級なスーツで覆う。悠然とした仕草が似合いそうな男はしかし、激しい運動に息を荒らげていた。
全力で駆けていた男が、ぴたりと足を止める。臓硯の接近に気付いたためだ。
「む、間桐の翁ですか。申し訳ないが、今は急いでいます。ご用件はまた後日に」
「そう言ってくれるな時臣よ。ワシとて、お主の召喚したサーヴァントに、家を工房ごと砕かれてのう。さほど余裕がある訳ではないのじゃ」
「……手早くお願いします」
――かかった。
口元がにやける自分を、止められなかった。と行っても、所詮今は虫の姿。止めなかったところで、それを知られる訳でもないのだが。
さらに、時臣との距離を詰めていく。警戒され、踏み込めないであろうという範囲は、かなり狭かった。やはり、現状にじれており、警戒心がおろそかになっているらしい。本来であれば、今すぐにでもアインツベルン城に赴きたいのだろう。
「それに、これから話す事は、お主にとっても無関係では無い。なにせ、桜の現状と不肖の倅、雁夜についてなのだかのう」
「そうでしたか。申し訳ない間桐の翁、是非聞かせていただきたい。……それに、私からも是非、訪ねさせていただきたい事がある」
今の言葉で、警戒範囲がさらに縮まった。踏み込みを深くする。
人としてであろうと、魔術師としてであろうと。向かう先と種類が愛であるならば、その内約に差があろうと関係ない。愛とは、即ち執着だ。転じて執着が強ければ、それに対する愛も比例して大きくなっていく。それが心配と交わり、加速されてしまえば。時として、人間は正常な思考ができないまでに思考が鈍る。
まあ、無理も無い。魔術師として育てられる筈だった間桐桜は、ただの魔道具として教育された。それを知ってしまったのだから。
アーチャーが戦闘目的以外で外に出ており、行き先まではっきりしている。おまけに、戦闘行為をしないと公言さえしていた。彼を問い詰めるのに、これ以上の機会はないだろう。焦るのも無理はない。だからこそ、そこにつけ込んだ訳だが。
「まず桜についてじゃが、こちらは問題ない。捕らえられてはおるが、丁重に扱われているわ」
「そうですか……」
あからさまにほっとした様子で、胸をなで下ろしていた。
(やはり、中までは調べられなかったようじゃのう)
にやりと内心で笑いながら、しかし態度にはおくびにも出さない。
当然、臓硯とて桜の現状など知らない。ただのはったりだ。こんな、役に立たないような言葉でも、二つの意味を持てる。一つは、自分の力が今でも健在だと主張すること。自分では届かない部分まで見る事ができたとなれば、安く扱うことはできまい。そして、桜が何らかの操作を受けている、と思わせる事も出来る。
時臣が自分を疑っているのは、理解していた。桜の様子を目撃して疑っていなければ、それはそれで問題だ。しかし、アーチャーが桜をマスターにするに当たって、何らかの操作をしたと思うのも当然なのだ。そして、どちらがそうしたのか……という選択肢になれば、有力なのはアーチャーである。自分への不信感と警戒を少しでも和らげるために、責任をあちらに押しつけたかった。
「そして、不肖の弟子である雁夜について、なのだがこれは謝るしかないのう。なにせ、ワシが見ておらぬ間に、アインツベルンの所になど入り込んだのじゃ」
「ええ、それは私も知っています」
「うむ。あ奴、ずいぶんお主に隔意を持っておったようでな。それも、あそこに入り込む理由じゃったようだ」
「む……そうですか。貴重な情報をいただきました」
実際、隔意の内約がどれほどかは知らないが。ある事に嘘はない。
雁夜が時臣を嫌っているというのは、かなり危険である。なにせ、彼には今、ろくな戦力がない。いくら魔術師として優秀であろうと、それがサーヴァントに及ばないのは当然。もしバーサーカーをけしかけられれば、命を賭しても逃げ切ることすらできないだろう。彼に有利な情報を送ることで、少なくとも敵ではない、そう思わせられる。
(まあ、その程度で止まれはせんだろうがのう)
今回参加のサーヴァントは、揃って何を考えているのか。臓硯には理解しがたいが、宴会なぞを始めだした。過去の例を見ても、前代未聞である。
が、これは時臣が目的を果たすのに、これ以上の好期は無いのも事実。酒を飲み、気分良く酔っているサーヴァントであれば、そうそう力を振るいはしまい。問いかけられるのは――桜の事から契約を切ったことまで――このタイミングだけだ。これを逃せば、危険度は爆発的に跳ね上がる。
「で、間桐の翁よ、それだけではないのでしょう?」
「うむ。ワシの消耗も、決して無視できる程ではないのでな。幾人か見繕ってもらえぬか?」
「無理ですな」
だろうな、と同意する。ただし、態度には出さずに。聖杯戦争中にそれを行うのは、敵に背後を見せる行為だ。サーヴァントを失ったとしても、こうして出歩けば攻撃対象には十分なる。そして、交渉も成り立たない。
そもそも交渉とは、ある程度対等であれば成り立つのだ。同時に、互いが己の利益になるものを所持していて。臓硯は今、力を大きく失って、時臣に交渉をさせるだけの力がなかった。少なくとも、そう思わせる事は出来ていない。工房を失ったことで、代わりに差し出せるものも殆どない。リスクもメリットもなければ、こんなものだろう。
そう、今の間桐臓硯は思い切り格下だった。見下されていると言ってもいい。だからこそ、時臣は詰問に近い質問を投げかける事ができる。
「今度は私の番です、間桐の翁よ。あなたは桜に、どのような教育を施しました? もしや……魔術師として、育てていないのではないですか? 都合のいい、生きた魔術礼装としてしか」
「またずいぶんと、思い切った質問だのう。間桐と遠坂には、盟約があったと記憶しているが?」
「そうですな。あくまで、互いに納得できる形であれば、ですが。それが破られれば、その限りでは無い……違いますか?」
「然り、然りよ」
なんだかんだ言って、甘いし失敗もする男だ。だが、肝心な所を見誤らないのも、この男だった。視線は鋭い。回答を間違えれば、今にも殺されそうだ。
まあ、それは。肝心な部分で失敗をしない、というのとは話が別なのだが。すでに重ねられた失敗は、取り返しが付かないほどに積み重なっている。それこそ――命に届いてしまう程に。
急に、かくんと。時臣の足から力が抜けた。いや、足ばかりでは無い。全身から、まるで筋肉が抜け落ちたかのように、ぐったりと地面に横たわった。首所か、視線を動かすのすら苦労する。そんな様子で、震える眼球を必死に動かし、臓硯を捕らえようとする。
アインツベルン城に向かうために、必死に走っていたから、などという理由では無い。時臣ほどの魔術師であれば、体の損傷を気にしなければ、一晩中車並みの速度で走り続ける事も可能だ。少しばかり息が上がっているとしても、そこはまだ市内。この程度で限界を迎える程柔ではない。
しかし、現実は指の先すら動かない。そして、魔術回路すらまともに動かないであろう事を、臓硯は知っていた。
がさりと、草をかき分ける音がひときわ大きくなる。背の低い草を踏む音は、勝利への進行の証だった。
「まだまだ青いのう……遠坂の小倅よ」
「あ……う……」
何を、とでも言いたかったのだろう。生憎と、彼の体は完全に所持者を裏切っており、命令を聞き届ける事などしないのだが。
どれほど高く積み上げた積み木も、崩れるときは呆気ないもの。超常的な力を使える魔術師は、己が本当の意味で、人間でしか無いという事を忘れる。臓硯と他の魔術師に違いがあるとすれば、間違いなくここだという自負があった。肝心な時に、必ず成功させる、という能力。ともすれば臆病にしかならないそれは、しかし臓硯に数百年という時間を生き長らえさせた。今日という死も回避して。
小さな鳴き声が上がる。多足類に分類される蟲、それが時臣の足下あたりから進み、臓硯という虫の集合体に合流した。
臓硯に残された、最後の切り札。虎の子の対人兵器。高い隠密性と毒を併せ持った、特製の蟲。他の虫を脱落させても残しておいたそれは、文字通り希望となった。
「な…………ぜ……」
「うん? なんじゃ、不可侵条約の事か? それとも別の事か? どちらにしても甘いのう。魔術師ともあろうものが、そんな吹けば飛ぶようなものを盲信するなど」
この圧倒的劣勢を覆し、聖杯戦争に乗り出るためには、クリアすべき条件がいくつかあった。
生存権を得るためには、強制的に聖杯戦争参加者からも監督者からも睨まれる。それを考慮すると、聖杯戦争に参加しない、という選択肢はなかただけでもあるが。とにかく、与しやすい魔術師を見繕う必要があった。
まず、それなり以上に魔力を持つ相手であること。乱獲ができない以上、消耗しきった力を命に別状がないまでに回復するのは、力がある相手でなくてはいけない。そして、接近しても怪しまれない相手であること。最低でも、麻痺の力を持った毒虫が接触出来るほどに、今の臓硯を見ても油断する相手でなくてはならない。最後に、精神的に余裕がない事。何かを企んでいても、それを気にかけられないのが望ましい。
全ての条件に合致する相手など、まずいない。少なくとも、普通に聖杯戦争が動いていれば、絶対に現れなかっただろう。
しかし、サーヴァントを失ったマスターであれば。臓硯の実態を知り、違和感なく近づける相手であれば。桜のために我を忘れた、遠坂時臣であれば。
手玉に取ることは、容易い。
「まあ、お主はあれじゃ、運が悪かったわ。ワシの危機と機会、両方に都合がいい相手であった、という点でのう」
キキキ――小さな虫に不釣り合いなほど、大きな鳴き声が響く。ざわりと、時臣を囲むように雑草の荒らされる音色。大した数ではないが、それでも現在臓硯が操作可能な数の虫全てが、ここに集められていた。
「安心せい」
普段の腐った木に寄生する植物のような、異臭が感じられない。ただただ、彼には全く似合わない優しさで語りかける。
これから男の命を啄み、己の糧にしようと言うのであれば、なけなしの優しさも出そうとくらい思えた。とても優しく、声をかける。この世の最後に聞く言葉くらい、そうであってもいいだろう。
「お主の命も魔道も全て、ワシが有効活用してやるわ。なに、嘆くことは無い。聖杯は、しっかりと手に入れてやるからのう」
「あ……あ…………!」
それは、怒りの声であったか。それとも、怨念を吐こうとしたのか。そのどちらかか両方か、あるいは別の何かか。どうであったとしても、もう二度とそれを知る機会は訪れないだろう。
周囲にあった虫が、一斉に時臣の頭と胴に食らいついた。皮膚を裂き、血を啜り、肉を食み、骨を砕く。粉じんとなった骨が、油っぽく粘り着く肉と絡んだものが、妙に旨く感じる。人を食うことなど慣れており、味そのものに興味を持ったことなどなかった。しかし、今の希望と死の回避を感じながら食らう『人の死』とは、なんと美味な事だろうか。この快感は二度と味わえない事は自覚していた。だが、この感覚を思い出すために、人を食うのが癖になってしまいそうだ。
体を、半ば程まで食らった時だろうか。すでに人としての原型を止めていない肉の塊の中で、臓硯はある事に気がついた。
右手にある、膨大な魔力の塊。これは分かる。時臣は令呪を二画簒奪された。そして、教会に逃げ込んでいないのであれば、手に一画残ったままなのは当然である。しかし、そこには二画分の魔力が残っていたのだ。あり得るはずが無いそれ。
得た情報が間違いであった、と無視することはできる。しかし、それをしないからこそ間桐臓硯なのだ。すぐさま令呪に干渉し、その先を調べ上げる。そもそも、令呪とは臓硯が中心に開発したものだ。核心部分まで干渉するなど容易い。時間など殆ど掛けずに、令呪が正常起動している事を調べ上げ――ぞわりと、ないはずの背筋が凍るのを感じた。
サーヴァントを失った令呪の機能は、休止中でなくてはならない。影響する相手がいないのであれば、聖杯戦争というシステムに負担を掛けぬようにしておくのは当然だ。しかし、これは何の異常も無く動いている。つまりそれは、サーヴァントがいると言うことだ。
まずい。最悪に近い展開だ。致命的に近いミスをしたと言ってもいい。
(いや……まだだ。まだ挽回はきくぞ……!)
臓硯は、本体である虫を頭に、つまり脳に向かわせた。時臣は死して新しく、頭部に目立った損傷も無い。毒の種類も、脳にダメージを与える類いのものではなかった。ならば、記憶を抜き出すのなど難しくない。
どんな情報を抜き出すか、考えるまでもない。アーチャーが離反してからの2日分、余裕を持たせても3日分で事足りる。
得られた情報は、驚くべきものではあった。今回のアサシンは、自己を分裂させる特殊型の宝具持ち。その特性故に、マスターを複数持つという変則契約を可能とした。マスターの片割れは言峰綺礼であり、私欲のなさから時臣が命令の優先権を持つ。その全てが、時臣をアインツベルン城に導くために、森の中に配置されている。そして――時臣の異常を知り、アサシン全てが全力で戻ってきている事。
恐るべき事態ではあった。しかし、猶予はある。言峰綺礼が令呪を発動させるまでは。致命的に近いが、致命傷ではない。なにより、老獪なる魔術師、間桐臓硯であればこれを解決できた。
まず右手を食らっていき、令呪をむき出しにする。手早く令呪を己に写すと、すぐさまそれを起動した。
「我が名においてアサシンに勅を下す。ワシに絶対の忠誠を誓えぬ者は、すぐさま反転し一人でも多く道連れにせよ」
その令呪の起動は、ぎりぎりだった。令呪に宿る膨大な魔力が弾けるのを感じる。同時に、別の場所から流れた魔力が臓硯のそれに負けて、霧散するのまで。
恐らく言峰綺礼は、アサシンから異常を報告され、時臣に連絡を取った。そして、連絡が取れないとなれば、令呪で転移をさせた筈だ。臓硯はそれよりも僅かに早く、令呪での命令を下すことに成功した。多重マスター間での優先順位、これが臓硯を救ったのだ。時臣はこれを、アサシンの混乱を防ぐために設定したのだろうが。皮肉にも、それが自身を破滅に追いやる最後の一手となった。
ラインを辿り、サーヴァントの現状を確認する。動かない気配は、たったの一つだけだった。満足行く結果ではない、しかし忠実なコマが一つでもあるならば、十分プラスだ。そして、残った個体は絶対に裏切らないだろう。令呪の命令は、その中に嘘を含ませないのだから。
この命令で、誰も殺せなかったとしても問題は無い。主目的は邪魔者の抹殺なのだから、そちらだけ達成できれば文句なしの結果だ。むしろ、誰か一人でも殺せていたら出来すぎで、罠を警戒するだろう。
そして、臓硯は食事の再開と、時臣の記憶の抽出を再開した。
貪り終えて、とりあえず体の不調だけは回復した。虫の個体数は通常時の5パーセントにも満たないが、こればかりは時間を掛けるしかない。その代わりに、個体ごとの力は充実している。
食い残した左腕だけを残して、素早くその場を離れていく。アサシンが迎えないならば、ここに来るのは言峰綺礼をおいて他にいない。あれは――代行者は――正しく臓硯のような存在の天敵だ。身の安全もなしに接触していい相手ではない。魔術刻印の宿る部位を残していけば、それを無視して追ってくることもできまい。魔術師にとっては、命より想いのだ。
群体の体を四方に散らしながら、臓硯は思考した。綺礼の存在は、はっきりと予想外であった。何とかして味方に引き込まなければならない相手である。
考えながらも、次の手を打つことは忘れない。力を充実させた今であれば、ケイネスに使い魔をつけておく事も不可能ではない。攻撃を考えず、隠密性に特化させれば会話も拾えるだろう。町中に蟲を撒き、発見次第特性使い魔を向かわせる。充実した魔力があり、消耗を考えなくていいからこそ出来る荒技だ。ちなみに、発見は難しくない。飛行宝具が下りられる場所など、限られているのだから。これで、なんとしても小聖杯の正確な位置を掴む。まあ、今までの情報を統合し、位置と言うかモノと言うか、には八割確信を持っているが。
誤算があり、危険もあった。それは現在進行形で続いている。しかし、勝負を仕掛けるという意味においては、非常に悪くない。
(面白い。面白いぞ、あの神父は)
キキ――牙をすりあわせる音は、草の音色に溶けて消える。本人でさえも、それがあったと自覚できない。それほど深く広く、闇に飲み込まれれいった。
時臣は、あの神父を見て何も思わなかったのか。それとも、分かっていてあえて放置していたいのか。記憶を見ることは出来ても、その思考までは分からない。
言峰綺礼という男を言葉で表現しようとして、臓硯ですら正しいと思えるものがない。恐らく、世界のどこにも、彼を表現するのに相応しい単語はないだろう。最も近いのは、偽りの空虚。しかし、それも近いようでやはり遠い。何者も、近づく事はできない。接触しても、触れる事ができない。
人のあり方とは面白いものだった。長き時を生きた臓硯にすら、飽きを感じさせない究極形の一つ。そして、ここにまた面白い素材が一つ。
惜しむらくは、それで楽しむだけの余裕がない事だろう。手早く素早く、自分が望み使えるように調整しなければいけない。が、あの男であれば、それすらも楽しめるであろうと予感があった。
時臣を始末した、という事実があれば、神父を呼び出す必要もないだろう。勝手にこちらを見つけてくれる。
完璧だ。勝利の方程式は出来上がっている。小聖杯を手に入れるだけよりも、より完璧に勝ち抜けるだろう。この聖杯戦争で、己の悲願を成就させられるだろう。いや、させてみせる。最初こそ多大な被害を受けたが、今ではそれで良かったとすら思える。この好期を逃さずに済んだのだから。全てが順調に進んでいた。
この時までは。
無駄に疲れる酒宴を終えて、俺たちはやっと市街地まで戻ってきた。
酒にものを言わせて、考えたくないことを薄れさせるのだけは上手くいった。上手くいったのは、それだけだが。酔っていたせいで、言わなくてもいいことを言ったり、言わない方が良いことを言ったり。今考えても頭が痛い。というか、普通に恥ずかしかった。きっと、黒歴史とはこうして出来上がっていくのだろう。最悪である。
今度辛くなっても、絶対に酒は飲まない。信憑性皆無の誓いを立てて、飛行宝具から下りる。
人影がなく、そこそこの広さがある場所というのは、案外少ない。それでも、夜という事を考えれば、昼より遙かに楽ではある。日中であれば、街の外に大きく外れるという手間を掛けなければならなかった。
ちなみに、ビルの上に下りるという選択肢は無い。ケイネスがとても嫌がるからだ。理由は分かりやすく、ビルから下りる為に魔術を使いたくないのだ。と、言う表向きの理由の裏には、ソラウがランサーにアシスタントを願うからだろう。ただでさえ、アインツベルン城では限界以上に堪えていたのだ。恋愛関係で脳の血管が切れないことを、切に願っております。助けは絶対にしないが。多分ランサーが頑張ってくれるだろう。
全員が下りて、宝具をしまう前に、やはりケイネスが結界を張った。情報交換は、翌日行う可能性も考慮していたのだが、さすがにそれは無いようだ。
結界を周囲に展開し終え、俺に向くケイネス。アイリスフィールとの会話で戦果を得たためか、機嫌は悪くなかった。少なくとも普段よりは。
「さて……戦果を見せて貰おうか」
「ちょっと待て。その前に……ランサー」
「何だ?」
「お前はアサシンをどう思う?」
ランサーに声を掛けると、ソラウに腕を捕まれたまま反応する。ケイネスの機嫌が急降下したが、それを相手にしてやる余裕はない。
僅かに顔を伏せて、考え込むランサー。いくらもせずに顔を上げると、首を横に振った。
「……分からん。少なくとも俺には、あそこでアサシンを消耗しきる理由が思い浮かばない」
「俺もだ。奴らは何を考えて、無謀な特攻をした……いや、命令されたんだ?」
「マスターを狙ったのではないの?」
と、ソラウ。体をぶるりと震わせ、肩を抱いた。限りなく薄くなったとは言っても、サーヴァントはやはりサーヴァント。圧倒的な力に殺意を向けられれば、その恐怖はしっかりと残る。
これに答えたのは、限りなく優しい声色を出したケイネスだった。
「それはないんだよ、ソラウ。暗殺しか脳のないアサシン風情が勝負を仕掛けるには、マスターとサーヴァントが離れている事が絶対条件なんだ。それを、マスターとサーヴァントが1カ所に集まっている場所に攻撃を仕掛けるなんて、これはもう無謀ですらない。完全に無意味なんだ」
「あれだけ数がいるのだから、一人くらいは抜けていけるかも、と思ったのかもしれないわ」
「ソラウ様、恐れながら。あのアサシン、本調子であった所で、三騎士であれ余裕を持って倒せます。ましてや分裂した状態では、マスターを守りながら倒しきるなど容易い。それほど奴らは弱いのです」
「え、ええランサー。ごめんなさい、疑ったわけでは無いのよ」
「承知しております。私の役目は、貴方の不安を取り除くことでもありますので」
ソラウの様子に、苦々しそうにしながらも礼をするランサー。ケイネスの憤怒の表情は、無いはずの歯ぎしりまで聞こえてきそうだった。
酒宴でのランサーの言葉、それを全く聞いていなかった訳では無いだろう。が、まあ。それで許せるかと問われれば、そんなわけが無いと言わざるをえない。セイバーの件はまだいいとしても、ソラウにいちゃつかれる理由になるわけもなし。それに、こういうのは理屈では無く感情だ。彼自身、落ち度が全くなかったとしても、許せないと思う気持ちは理解できる。
「ランサー、それにアーチャー。奴らは何人に見えた?」
「俺は75人か、6人に見えた。アーチャー、貴様はどうだった?」
「同じだ。残りがいたとして、始末できるマスターすら選ぶ羽目になるだろうよ」
もっとも、令呪を使われなければ、の話だが。と心の中で付け加えておいた。口に出さずとも、承知しているだろう。
聖杯戦争で、一番気をつけなければいけない事は何だろうか。相手サーヴァントのスペック、もしくは保有スキルか。宝具も気をつけるべきものではあるだろう。戦法も知っておかなければならい。しかし、どれが一番か、と言われれば、俺はその全てに否と答えるだろう。
最も注意すべき点は、令呪の数と使用の傾向だ。
令呪とは、対象に限り――つまりサーヴァント専用の――奇跡機関。極端な話、令呪を無制限に使用できれば、それだけで聖杯戦争の勝者になれるだろう。それほどまでに反則的なものなのだ。超英雄ポイントを凶悪にしたような感じか。
あらゆる判定を自分が有利な方向にねじ曲げられ、短時間であれば上位宝具発動級の火力上昇、もしくはステータスアップの恩恵を得られる。極端な話をしてしまえば、令呪とは使用回数三回のみの、万能宝具とも言えた。アサシンの残りは、全て集めても全ステータスEランクにも届かない。これでは、さすがに令呪を使いまくっても、俺に勝算を得る事は不可能。しかし、拠点に籠城している桜にならば、その凶刃を届かせる事が出来るかもしれない。
他の全てのサーヴァントに勝てるだろう。見込みがありながら大胆に動けないのは、これがあるからだった。例えばだ。俺が圧倒的な力であるサーヴァント一体を倒した。俺を何とかするために、他のサーヴァント達が手を組む。多分3体か、4体くらいになるだろう。俺は魔力が十分で、桜のバックアップも万全。勝つ見込みは十分にあったとして。しかし、マスター達が令呪を同時に使用し、俺を倒す方向に持って行かれてしまったら。敵サーヴァントがどのように強化されるか、が全く分からないのだ。最悪なのが、一人は威力型宝具の強化、一人は身体能力の向上、一人は俺のすぐ近くまで転移、等のように分散される事。それぞれ対処が全く違い、対応しきる自信が無い。
ランサーがライダーに勝つのは至難の業だ。雷撃を気にしなくていいとしても、常に上空を飛び回り、攻撃は高速の一撃離脱。捕らえるのにも苦労するはずだ。ましてや、王の軍勢には事実上対処する術が無い。相性は最悪だ。が、勝てないかと言われると、必ずしもそうではない。
ケイネスも俺と同じ事を考えているであろう。確実性の高い方法など、そうはない。
戦車の突撃、その接触する瞬間に、黄槍で渾身の一撃を入れろ。令呪でこう命令してやれば、必ず押し勝てる。殺しきれなかったとしても、ダメージは甚大だ。王の軍勢を展開されたならば、その瞬間にライダーの元に転移させる。繰り返すが、令呪があれば対処は可能なのだ。
この通り、対応は割と簡単なのだ。そして、対応が簡単だからこそ、対応の対応もまた容易い。相手も令呪を使用しての回避してしまえばいいのだ。令呪で対処をしても、令呪で対処され返してやれば、状況はイーブンへと戻る。令呪をどれだけ上手く使うかは、もしかしたらサーヴァントが何かよりも重要になるだろう。
と、ここまでならば。令呪を使用できないほど精神を摩耗させた桜をマスターにしたのは、失敗に見える。しかし、令呪とは元々、サーヴァントを律するためのものなのを思い出せば。令呪を使えないリスクよりも、使わせないメリットが十分に大きいと分かってもらえるだろう。
原作にも、ランサーはマスターと不仲であったために、令呪を意趣返しに使われた。アーチャーも、撤退する、ただそれだけの為に令呪を使う羽目になっている。まあ、ランサーの方はあながち間違いとも言えないのだが。強敵が弱った所を、囲んで叩くというのは戦略的に正しい。バーサーカーが自滅の代名詞であるならば、尚更である。
とにかく、令呪とは最重要である筈なのだ。マスターにとっては尚更。その令呪ですら挽回できない状態にして、その後の行動というのが、全く予想できない。
「ふん、まあいい」
嘲笑そのものの声色。
「マスターは代行者だったか。だが、所詮サーヴァントを浪費する事しかできない程度の輩だ。恐るるに足らん」
こいつもこれさえ無ければ。多少高飛車でも、本気で理想のマスターなんだが。
彼の能力が高い事は、誰も否定ができないだろう。しかし、己を高くするあまり、相手を引く見る傾向はなんとかならんものか。
「それについては、俺も調べておく。注目する相手が分かっているのだから、すぐに情報を得られると思うが……」
「問題は、相手もそれを想定しているだろう、という事だな」
ランサーの指摘に、俺は頷いた。やたらと騎士としてのあり方に拘る男ではあるが、こうした裏側を理解しない男でも無い。むしろ、裏から足を取らずに正面から戦えるよう、人一倍気を遣うだろう。
「ああ。どういった対処をしてくるかは分からないが、これがかみ合わないと、最悪情報を得られないか」
「手遅れになって、初めて気がつくか、か。そうならないようにしなければいけないのだが……あれだけの情報収集能力を持つ貴様でも、失敗する事はあるのか?」
「ああいうのは、相手が全く想定してないからこそやりようがあるんだよ。大抵の連中が、魔術以外の情報収集を想定していないだろ? それが分かった時点で、魔術に気付くための努力を、いかに発見されないようにするかとか、暗号化するとか、そっちの努力に切り替えてくるだろうさ」
「なるほど、道理だ」
実際は、元から知っていた事の裏を取っただけなのだが。俺の情報収集能力は、どの陣営が考えているよりも低い。
俺はケイネスに視線を飛ばす。そっちで何か分かったことはないか、という意味を込めて。
「教会に使い魔を張り付かせているが、動きはないな。とは言え、監視されていると分かっていれば、やりようはある。所詮使い魔の目ではこれが限界だ」
「だろうなぁ」
それも仕方が無い、というつもりで言ったのだが。ケイネスはそれを、落胆と捕らえたようだった。苛立ちを舌打ちで表現する。
「そもそも、貴様があの下らんサーヴァントと酒盛りをする、などと言い始めなければ、素早く対処できたのだがな。我々は貴様の演説を聞きに、アインツベルン城にまで出向いたのではないのだよ」
反論しようと口を開き掛け、しかし言葉が見つからずに閉じる。
そもそも、俺は酒宴では空気だった……筈だ。うん、その筈である。基本的に、何も言っていないのだ。……ちょくちょく口は挟んだが。なので、説法など説いてはいない。あれはただの、酔っ払いの戯言だ。うん、どう考えても、余計みっともない。ただでさえ恥をさらしたのに、この上自己弁護はみっともないと言うか、むしろ死にたくなる。ただでさえ首を吊りたいのに。
桜の件での自己嫌悪と酒が化学反応を起こして、バッドトリップしていたのだ。八つ当たりして道連れが欲しかった、とも言う。いや、英霊に対して偉そうに語った時点でおかしいのだが。
英霊がどのような存在か、と問われれば諸説あるだろう。俺は、英霊とはすでに到達した人間である、と考えている。小難しい言い方をやめてしまえば、成功した者達だ。思考の時点で、大局的なそれと、極めて規模の小さい一般人的なものとでギャップがある。あらゆる物事のとらえ方について、確実に差が出るのは当然なのだ。そりゃライダーも一人一人を見てると言うだろう。なにせ、皆を見ることができない。奴の物言いは、あくまで皆が見れている前提で、個人も見る事ができている、という事なのだ。
所詮、ビール缶片手に野球中継にヤジを入れているとか、程度はそのあたりと同レベルだ。
しかし、言い訳をさせて貰うなら。奴ら突っ込み所が多すぎなのだ。騎士として忠義を尽くすと良いながら、俺俺だったし。王談義では優劣の意味がよく分からなく(当然なぜセイバーが敗北を意識してショック受けたのかも分からん。破滅寸前の国だったんだから彼らの帝王学と違って当然である。と言うか本編ではそうだった)、王のあり方と願いをごっちゃにして叩き始めたり。そもそもライダーさんあなた自分が後悔してるじゃないですかやだー、だったり。自分を棚上げと弱メンタルで構成されすぎだ。
いや、上下関係を作るならば、英霊が上だと言うことに異論は無い。全面的に支持する。何かをやり遂げてきた人間と、ただのぐーたらとでは、本来同じ舞台にすら立てない。が、つっこみとは何が無くとも咄嗟に出るもので、やはり相手が偉いから出ない、というものでもないのではなかろーか。
……下らない話だった。肯定であっても否定であっても、正解でも不正解でも、あまりにも馬鹿馬鹿しい。主に俺が。
ベクトルは違うだろうが、ケイネスも不毛さを感じたのか。ため息を一つ吐いて、眉間の皺をほぐした。
「それで、出向いただけの成果はあったのだろうか?」
「当然だ。と言うか、それが出来てなかったら本気で何をしに行ったか分からん」
自分が馬鹿晒しただけでした、とかだったら泣く自信がある。
厳重に封印しておいたそれを取り出そうとして、ふと考えた。ここで話して大丈夫だろうか。
しばらく悩むが、結局その思考に意味は無いと結論づけた。俺の陣地とケイネスの陣地、どちらで話し合うのも嫌がるであろうからだ。それに、簡易と言えど時計塔のロードが構築した結界、これを知られず抜けられる魔術師はまずいない。少なくともマスターの中には存在しない。
警戒はしておいて損にならない。想定したパターンの中に、現実したものがあれば対応速度が変わってくる。だが、警戒のしすぎで余計な面倒を追うというのは、話が違うか。
財宝庫にしまっていた、こぶし大の宝石箱を取り出す。蓋を開けると、神々しい雰囲気の布。それを開いていくと、さらに内側には禍々しい布の塊。それも解いて、中身を出す。最終的に残ったのは、手のひらの上に乗る程度の金属片だった。
「これだ」
「おお……!」
今までの不機嫌はどこへやら。見た瞬間に、顔を輝かせて金属片を手に取るケイネス。
聖杯の確信に近いそれを調べられるというのは、それほどの事らしい。俺には、いや、魔術師以外には理解できない感覚だ。
「これが……聖杯……!」
感極まって声を震わせながら、手袋越しに感触や見た目を確かめている。俺が厳重に封印しておいたものに、直に触れるような事は、さすがにしなかった。手袋もただの布ではなく、魔術礼装か何かだろう。
口元は、形容しがたく歪んでいる。歓喜か、屈辱か、とにかく色んなものをまぜこぜにしながら、それを凝視した。
「何なのだこれは……! ただの金属ではない。エーテルを混ぜた訳でもないか。アインツベルンはこんなものを作ったと言うのか、素晴らしい……」
「それ、多分生きてるぞ」
「なんだと?」
それは、勘でしかないのだが。しかし、俺のでは無く、ギルガメッシュの勘がそう告げていた。それを否定するだけの何かは、俺にはない。
「正確には、生体部品の一部とでも言えばいいのかね。肉と金属が混ざり合ったのか、それとも金属自体が生物的な特徴を得たのか、そこまでは分からないけどな。とにかく、それは生きてる」
「馬鹿な……いや、しかし、そんなことがあるのか?」
欠片を前に、さらに深く考え込むケイネス。それは恐ろしいまでの集中力だった。どれほどかと言えば、魔術師らしく興味を持ち、欠片を覗きに来たソラウに気付かないほど。
「これでは生体と融合してたはずだ。それをどうやって抜き取ったのだ?」
「宝具で」
隠すような無いようでは無い。正直に言うが、理解されなかったようだ。ケイネスと、ついでにソラウとランサーも疑問符を浮かべている。
「単純に、別の可能性と入れ替える類いの宝具だ。それを抜き取っても、体が普通に肉で出来ていた可能性と入れ替えれば発覚されない。いや、逆か? 聖杯じみていた肉体の色を濃くして、聖杯のような肉で埋めた、が正解になるのか」
「そういう事か!」
こういった類いの話では、知識の無い俺では感覚的にならざるを得ない。今も、自分で言っておいて、かなり意味が分からなかった。説明にもなってないような言葉だったが、ケイネスははっとして、口元を押さえた。
「聖杯の中継点は、必ず外で触れられぬよう置かねばならなかった。何かに接触させていれば、直接それの属性を魔力に与えてしまう。しかし、肉体と半融合させるこの方法であれば……。そうだ、逆転の発想だ。魔力が他の属性に影響を受けやすいのであれば、最初から聖杯の保管庫に、聖杯色の器を用意しておけば良い。その結果がこうなのか!」
くくく、と笑うケイネスは、とても生き生きとしていた。少なくとも、聖杯戦争をしているよりは遙かにらしい。
「アーチャー、これは私が貰っていいのだな?」
「そうしてくれ」
口調こそ疑問系だったが、態度は当然だと語っていた。むしろ、ここでごねられればあらゆる犠牲を払ってでも、獲得に動きそうですらあった。欠片を手のひらの上にのせているだけなのに、指にやたら力が入っている。それこそが、彼がこの話しにどれだけ力を入れているかの証明であろう。
反対する理由はなく、二つ返事で答えた。恐らく、もう返すつもりはないだろう。聖杯戦争が終結しても保持し、研究に使うのだと顔に書いてある。まあ、やることさえやってくれれば、聖杯戦争後にどう使おうと、俺の知ったことでは無い。むしろ厄介払いとして、処分してくれると思えばありがたくすら思う。
「ああ、一つ忠告しておく。それをランサーに触らせるなよ」
「元より、触れるつもりはない。だが、理由は何だ?」
予定がないだけなのと、絶対に触れてはいけないのでは、話が全く違う。
「理由なんぞない。ただの勘だ」
「勘?」
こういう時に、実績というのは役に立つ。とりわけ、知識に乏しい分野でいくつか成功していると、技能に関係なく「そうかもしれない」と思わせる事ができる。そこまで鋭い勘も、導き出すだけの情報と頭脳もない。だが、それは俺以外の誰も知らないことだ。いつか馬脚を現してしまうかもしれないが、それは今ではない。ハッタリが通用する今ならば、勘と言うだけでも説得力を作れた。
「そうだ、勘だ。それっぽい理由もなくはないが、説得力のあるものではない。なんとなくそれが危険だと感じるし、俺もそれを積極的に触ろうとは思わん。だから多重に封印して持ってきたのだ」
アンリマユが中にいると知っていても、それがサーヴァントに致命的だと知っているのは俺だけ。そして、それを相手に理解させるだけの材料がない。そも聖杯の欠片があるのならば、直接調べた方が早いのだから。
運ぶ時など、気が気ではなかった。何かの拍子で漏れてしまえば、アンリマユで財宝が全滅だ。サーヴァントに致命的な力を持ったそれを、宝具とは言え同じく聖杯で形作られたもので、どれほど耐えられるか。少なくとも、大丈夫だと楽観するには危険な賭だろう。
ケイネスに処理して貰いたい理由は、そこにもあった。危険な要素であるアンリマユが無くなったとしても、聖杯自体がサーヴァントという存在に、高い影響力を持っているのは変わらないのだ。捨てたら捨てたで、後からどうなるか気が気では無い。その点、時計塔で管理されるならば、気を遣わずに済む。
「そうか。忠告、感謝する」
「余計な話はそこまでにしておけ。もう用事はないな。ならば我々は帰らせて貰う」
じれたように言ったのは、当然ケイネスだ。今すぐ調べたくてたまらない、そんな顔をしている。
「そうしてくれ。次に動くのは、そっちが調べ終わってからでいいな」
「構わん」
こまめに連絡を取ったところで、研究に没頭していればろくな返事もないだろうし。最低限の連絡を取り合っていればいいだろう。
俺の言葉と同時に結界が解除され、ケイネスは早足に去って行った。その後を追うソラウに、霊体化するランサー。見送りもせずに、背を向けた。
帰るのは、少し憂鬱だ。桜と顔を合わせて、何と言っていいか分からない。
酒に逃げた自分の責任だ。多分、英雄と言われる人間ならば、ここで逃げないのではないだろうか。いや、実際の所など、知りはしないが。
次の日に、ケーキでも買って機嫌を取ってみようか。などと、また小ずるい事を考えながら、人工灯を避けて帰って行った。多分、桜が待ってくれているであろう場所に。
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綺礼は不感症
――祈りを捧げる。
その姿は、堂に入っていると言ってもいいだろう。少なくとも、他人に見せて恥じるような作法ではない。そう言峰綺礼自身が自画自賛できる程度には、洗練されたものだ。誰一人として、綺礼に文句をつけた者はいない。つまりは、少なくとも、その程度には出来ているという事なのだろう。
片膝を突き、胸元で合掌し、頭をたれてただ祈る。宣教師が説法を説く台か、巨大なパイプオルガンか、その上にあるステンドグラスか。あるいは、その辺にあるキリストやマリアを模したと信じられている石像。そんなものの向こう側に、やはりいると信じられている唯一神に。
疑うべきでは無い。それは分かっている。少なくとも、信心深い者がする思考ではない。そして、綺礼は誰よりも信心深くなくてはならない。しかし、と。否定するよりも早く、思考は続けられた。
聖杯戦争。サーヴァント。英霊。願い。どれもこれも、つまらない。正確に言えば、興味を引かれるようなものは、何一つ無い。願う事もない。何も無い。己に令呪が現れた事に多少驚きはしたが、それだけだ。繋がりの深い遠坂時臣からの要請がなければ、すぐにでも破棄していたであろう程度のもの。つまり、やはり。これも無い。
綺礼が僅かな疑問を持ち始めたのは、実際にサーヴァントを召喚してからだった。別に、アサシンというサーヴァントに特別な何かがあるわけではない。あえて言うならば、召喚できた事自体に驚きを隠せなかった、という点だが。まあこれは、魔術関連に対する常識的な知識があれば、誰でも同じ道を辿るだろうが。英霊という、霊的に存在を一段昇華させた者をほぼ完全な状態で召喚できるなど、誰が考えるだろうか。はっきり言って、その瞬間を目の前にするまでは、良くて話半分、実情はただの妄言だろう、などと失礼極まりない事を考えていた。少なくとも、密かに病院の手配を考え、召還後にキャンセルしていても、非難されるいわれは無い。
実際に、英霊という存在を目の前にして。綺礼は口に出さずに、実の父にすらそれを打ち明けず、思う。
彼らという存在は、何なのかと。
過去の偉人や有名人。レジェンドやミソロジーの登場人物。言葉にしてみれば、ずいぶんと卑近な存在だ。実際、紙をめくればいつでも会える英雄を、ありがたく拝む者もいまい。御利益を得られるのは、呼んでいる内だけなのだ。まあ、少年少女の心を躍らせるのには、この上なく役立つだろうが。そういう意味では、下手な神よりも御利益があるかもしれない、と考え直す。
とりあえず、一番驚いたのは。英雄という者が――少なくとも、そうであると信じられている者が――実際に召喚できた、という点だ。
偉人、有名人、伝説、神話。とにかく、そんなものの人物。なぜ、そんなものが呼び出されるのか。いや、なぜそんなものが存在するのか。英霊とは、いないからこそ意味があるというのに。そんなものが本当に存在してしまっては、全くの無意味だ。実体として存在してしまっては、誰も盲目的に信じることができない。
例えば、神性というスキルがある。あらかじめ言っておくと、綺礼に限らずキリスト教徒には、ありえない話だが。ヤハヴェこそが唯一神なのに、それと全く関係を持たず『神の血筋』もくそもない。ないのだが、まあ、大目に見たとして。他の宗教で神と信じられる者の血族も、英霊として存在するのだという。
まず、失笑をした。馬鹿な、と。引きつりそうな口元を必死で押さえて、まるで何でも無いことの様に、当然の有様のように、笑った。続いて、下らないとも。そして、呪った。
神とは何だ。
唯一無二にして、全知全能であり創造主。考え得るものから、想像も付かないものまで、全てを内包する超越事象。それが神だ。神の筈だ。神はそうでなくてはならないのだ。
しかし、存在しないはずの伝説がいる。あり得ないはずの神話は、確たる存在として、現世に降臨していた。
馬鹿馬鹿しい。考えるような事では無いはずだ。少なくとも、自分は。
手には、いつの間にか力が入っていた。それを緩めるのに注力して、また祈りに集中するよう努める。だが、それは無駄な努力でしか無く。またもや心には霧がかかった。
他の宗教とは言え、神と定義されている事には変わらない。それは、同じく超越した存在で無くてはならないのだ。しかし……神は証明された。そこに神はいるのだと、証明されてしまった。それは、言うのであれば。神は実のところ、人でも足下が見える位置にいる、そういう事では無いのだろうか。影も形も見えぬ、超常的な存在でも何でも無く。
――やめろ。心の中の誰かが言った。
信仰とは、無形であり無償のものである。その根幹には、神とは理解しえず道のみを示す、という不文律があるからだ。だからこそ、人はその存在を疑わず、盲信できる。だからこそ、救われる。
(そうだ。神は私に手をさしのべない。それは、森羅万象に対して等しく神であるからだ。何もかもを導く、無形の道しるべ)
しかし、神が存在してしまっては。純粋に、そこに存在してしまっては。
それは果たして、神と言えるのだろうか。信仰を、続けられるのだろうか。神の存在証明など、ただ残酷なだけで……ただの、絶望ではないか。全てであり、何者でもないからこそ、無垢に祈る事ができたと言うのに。
目に見えて、手が届くことの出来る神。そんなものを、誰が喜ぶのだ? 影も形も無く、夢の向こうの偶像。だからこそ、救いを求められ、満たされぬ事に呪うことができ、それで自分を慰められるのではないのか。
神は道だけを示す。しかし、それすら無かった自分。それでも、己だけは哀れむことができていたのに。神が、思っているよりも遙かに人間に近いなどと知ってしまえば、何を信ずればいいと言うのだ。
(私には情動がなく、共感も持てなかった。人とは感性の構造が違う……神にある筈の無い、明らかな欠陥品)
それは試練だと、今までは思えていた。神が万物に等しく与える、生きる意味を見つけるための。そうではなかった。本当に、ただの欠陥だった。
下らない。感傷だ。世界はそうだと、心の中では気付いていた。ただ、それを誤魔化し続けてきただけで。それに気付いたところで、また同じように祈りながら生きれば良い。今度は、神以外の何かに祈って。
ふと現れる、胸の中のわだかまり。一つだけ残った希望。
(衛宮切嗣)
心の中でだけ、その名前を反芻する。もしかしたら、己と同じ回答を持っているかもしれない男。
彼の連絡手段を知れたのは、幸運だと言って良かった。いつの間にかあったそれの出所は分からないが、どうせ他のマスターの妨害工作あたりだろう。聖杯戦争の勝敗に興味が無い以上、それが自分に対しての妨害であったとしても何ら問題はない。すぐに連絡を入れまくったが、生憎とまともな会話にもならなかった。直接アインツベルン城に出向いても、切嗣の取り巻きと思わしき女達とろくに話す間もなく、セイバーがやってくる。ろくな情報は得られなかった。
それを確認するまでは、どれだけささやかだろうとまだ希望はある。少なくとも、己に救いは無い、と確信するギリギリ手前で。
ぴたりと、祈りを止めた。ただの習慣に成り下がったそれを、続ける意義が得られなくなって。
すっと立ち上がり、そのまま反転。まだ薄暗く、冷気の強い外界へと足を踏み入れた。名目だけ脱落したマスターが外を歩くのは、当然命の危険がある。が、だからはいそうですかと諦めて、教会に引っ込んでいられない理由があった。
前日夜中に、遠坂時臣から、アインツベルン城に向かうという連絡を貰った。出来ればついて行きたかったが、それが許可されないであろう事も分かっている。そして、人が集まった所に衛宮切嗣が現れないであろう事も。
そして、それからしばらくして。アサシンから、時臣に異常が発生したらしいという連絡が入った。訳も分からぬまま、連絡を取ろうとするが返信がない。非常事態だ、そう判断して令呪を発動。時臣の元に、アサシンを転移させようとしたが、その前に優先命令が下されてしまった。何が起きたかも分からず、アサシンは全滅。存在するであろう残りも、ラインを限りなく薄弱にされ、何体残っているかも把握できない。
現場と思われる場所に急行するが、そこには左腕一本が転がっており。僅かな魔力の残滓と共に、遠坂時臣という人物は永久に消え去った。
とりあえず、魔術刻印がある腕を持ち帰り、父に時臣が死んだのであろう事を報告。腕が腐らぬよう処置を施して、そのまま璃正は倒れてしまった。一気に何十年分も老け込み、哀れなほどに力の無い姿。放っておけば、そのまま老衰で死んでしまいそうだ、などと言う事を、無感動に考える。
現在聖杯戦争の監督者、教会の管理者が脱落したとして、責任を放棄して良い理由にはならない。とは言え、聖杯戦争の参加者となっているので、そちらに監督者として何かができる訳でも無いのだが。教会の人間として、遠坂時臣を殺した犯人だけは見つけなければいけなかった。
冷たい空気を杯いっぱいに吸い込み、活力を吸収する。
正直に言ってしまえば、面倒ではあった。時臣に恩義がない訳では無い。だからと言って、この時期に命を危機にさらしてまで調査する程の仲でもでなかった。璃正の嘆願と義務感、この二つがなければ動かなかったに違いない。
薄情ではあるのだろう。しかし、恩も親愛も、殺された怒りも悲しみも理解できないのだ。感情以外を動く理由にしろと言うのに無理がある。
体に気力が充実したのを確認して、綺礼は走り出した。多少異常な速度が出ていても、起きている人間もまばらな明け方であれば、そう気をつける必要は無い。さらに、目的地までの道のりも廃れた場所ばかりとなれば、気をつけるのも億劫であった。仮に誰かに見つかったとしても、所詮は早く走っていただけ。ごまかしはいくらでも効く。
一度ギアを上げてしまえば、体は軽快に駆動する。教会の裏を抜けて、小さな林をくぐり、背の低い雑草の丘に。途中、戦場を分断する川に当たるが、これは素直に橋を渡った。他に通れる場所などないし、まさか水の上を走るわけにも行くまい。
多少の遠回りをしつつ、また走り出す。
すぐ脇には森がある。そんなギリギリの位置を走り、現場へと戻っていった。
街が遠く離れた位置で、ミニチュアのようになり。木々が僅かに生えた、森の中で立ち止まった。奥まった、という程では無い。
膝をたたんで、その場にかがみ込む。そこは、昨日には血だまりがあった場所である。現在は、掘り返して草葉を掛けられ、凄惨さの残り香は確認できない。回収しておいた血痕から、それが遠坂時臣のものであるというのが判明している。つまりは、まず無い話であるが、腕だけが本人のもの、という可能性は消えていた。
生存を期待していたのでは無い。面倒なもしもを考慮しなくて良いならば、その点だけは感謝してもいいと思っただけだ。その、時臣を殺した誰かに。
しばらく、魔術的な痕跡を探して。それが存在しない事の確認を取った後、顔を上げた。
考えなければならない事は、いくつもある。同時に、調べなければならない事も。
やや明るくなってきた空を確認しながら、視線を横に飛ばす。木々の隙間から、街の輪郭が見えている。つまり、森の対して深い場所でもないのだ。
「なぜ、この場所なのだ?」
リスクを回避するならば、この場所は中途半端すぎた。こんなに浅い場所で犯行に及べば、もしかしたら一般人に見られる可能性がある。結界を張っていても、遠目で、かつ勘の良いものであれば見つけてもおかしくは無いのだ。魔術師の扱う結界など、所詮は人の技、万能とはほど遠い。
他のマスター達――正確に言えば、アインツベルンに見つかりたくないのであれば、森の外でなくてはならなかった。アインツベルンが居城のある森からは遠いが、しかし接触している場所でもある。本格的な結界はなくとも、進入を察知できる仕掛けくらいはあっても、おかしくない。
つまり、この場所では双方からのリスクが存在するのだ。もっと奥にいくか、森から出てしまうか。賢い選択はそのどちらになる。わざわざリスクを増やす理由とは、何なのだろうか。
まだ問題はある。
「どうやって時臣師を殺した? 容易い相手ではない筈だ……」
間違いなく、一流と言っていい腕前が、その男にはあったのだ。少なくとも、綺礼が魔術で張り合ったところで、勝ち目は万に一つも無い。戦闘という一点に絞っても、良くて勝率五割だろう。そして、戦えばあたりは焦土と化す。
周囲を見回した。確認するまでも無い、無駄な行為。全て確認し終えたところで、そこにおかしな光景などはない。森らしい静けさが、相も変わらずそこにある。
(相手は、時臣師を一瞬で無力化した。もしくは、探索の隙間を縫って不意打ちをしかけた……か)
これから戦場になりかねない場所に行く人間が、まさか警戒しなかったという事もあるまい。当然、索敵型の魔術の一つも展開していた筈だ。一流の魔術師が扱う魔術は、何気なく使ったものでも侮れない。即興とはいえ、真剣に使ったのであれば、それを何とかするのはまず不可能だ。
控えめに言っても、人間業では無い。馬鹿馬鹿しいと、笑い飛ばした。
「そんなことが出来るならば、サーヴァントとも戦えるな……」
例えば、神の血を引くような。例えば、神と触れあったような。そんな超越者どもとも、対等に戦える。
そう思えば、大した事はないのかもしれない。高々、ちょっと人間離れしただけの魔術師が、互角に戦える程度なのだ。凄いことは凄くても、大した高みにはいない。所詮その程度だ、と思わせてくれた。それが、誰に対してかは分からなかったが。
立ち上がり、指に付いた葉を軽く払う。これ以上地面とにらみ合っていても、得られるものは何もない。
(その、恐るべき魔術師がいたとして。時臣師を殺した動機はどこにある。サーヴァントと戦いたかった、と言うならば話は早いのだが)
それはないだろう。
時臣を殺すなどと言う迂遠なことをせずに、普通に戦いに行けば良い。そうすれば、情け容赦なく殺してもらえるだろう。こんな事をする理由にはならない。逆に、脱落後の襲撃を恐れたマスターに袋叩きに会うだけだ。
それに、その後にアサシンが取った不可解な行動も、説明がつかない。時臣の持つ優先順位の高い令呪で何かをした。そこまでは予測がつくものの、それ以上に何があるかまでは予想できない。
が、まあこれは良いだろう。妄想と変わらぬ、馬鹿馬鹿しい仮定なのだから。
とは言え、本命と思える可能性も、それはそれで下らないものだ。
(襲撃したのは、時臣師の知る相手。総称と故知……あとは何か一要素あたりか。これで油断と集中力の欠如を誘い、仕留めた)
これならば、場所がここであった理由も一応説明はつく。一つは、ろくな魔術行使なくして、双方からのリスクが控えめだという点。もう一つは、余裕が無く場所を選べなかったという点。
油断を誘いたいならば、大層な魔術展開などしてはならない。そして、聖杯戦争中に時臣を殺さざるを得ない人物に、余裕などあるはずが無いだろう。危険すぎる橋を渡って、メリットを得る方向に動いたのだから。確かに、時臣の現状と、サーヴァント達のある程度の情報を持っていれば、この上ない機会だとは思うだろう。そして、最大の問題だけが残る。
その相手は、誰なのだ。
魔術師は閉鎖的な生き物だ。同時に、独善的な生き物でもある。友好的と呼べるほどの魔術師など、どれほどもいない。そして、数少ない知人の一人が、綺礼でもある。
つまり、ある程度警戒されず接近できる人物事態が限られているのだ。そこから、時臣の不意を突けそうな実力のある人物を参照し。さらに、実際に実行しそうな者まで絞ると、該当者はいなくなる。
(面倒な話だ)
ため息をつきつつ、頭を指で支えた。そうしなければ、やる気無く傾きそうになる。これから考慮する可能性を考えれば、特に。
可能性を一段下げた。つまりは、実行する可能性がありそうな者、という部分を削除する。これで、実行する能力がある者に絞られた。その中には、当然言峰綺礼もいる。まあ、そうである可能性は、言峰が急性の夢遊病にかかり、さらにそんな状態でも十全な思考能力と戦闘能力を発揮できる、という前提あっての話だが。
そうすると、第一容疑者に上がるのが、間桐臓硯であった。
あの老人である可能性が本当にあるのか、という疑問は当然ある。綺礼が知る臓硯という化け物は、慎重に慎重を重ねるのだ。それが理由で、機を逸しかねない程に。
ふと、思い出す。間桐邸の事後処理をしていた時に知った事実。間桐桜は拉致、間桐雁夜は逃走していたのではなかったか。だが、所詮は出来損ないと養子でしかなく、致命的な痛手とは思えない。少なくとも、追い詰められる理由にはならないし、同時に時臣を手に掛ける理由にもならない。
だが、他に当てがある訳でもなし。とりあえず、事情徴収くらいはしてみなければならないだろう。当然、最大限の警戒をしながら。
綺礼の持つ代行者の業は、間桐臓硯に致命的だ。こちらが武装していると分かれば、下手な真似はすまい。
そして、また新たな疑問。
「そう言えば、臓硯は今どこにいる?」
間桐邸崩壊後に、連絡を取った覚えがない。聖杯戦争参加者でもない者に、そこまで手間をかけていられなかったからだが。今になって、それが裏目に出るとは。
その場でしばらく、臓硯に接触できる方法を――通常の接触から脅迫を交えた誘き出しまで――考えて、ふと気がつく。
「陳腐で、下らない言葉だ。普通に考えれば、現実を知らない者の戯言、その程度だろう。言わば推理小説のようなものだ。犯人がトリックを駆使する訳が無い。複雑さを増せば、それだけヒントが増えるのだ。現実味の無い現実味。つまりは、意味が無く馬鹿馬鹿しいという現実」
腕をゆっくりと下ろした。脱力はしない。僅かに関節を曲げて、伸ばすにしても畳むにしても、最適で最速の行動ができるように。同様に、膝も曲げた。僅かに猫背になったのは、咄嗟の防御力を高めるためだ。当然、人体として攻撃を受けて良い部位では無いが、それでも腹などに直撃を受けるよりは、遙かに信頼できる。
すっと、視線を周囲に飛ばした。先ほどと寸分違わぬ風景。しかし、漂う空気が僅かに入れ替わっていた。
「犯人は犯行現場に戻ってくるなどと言う格言だか洒落だかがあった気がするが、まさそれを本当に実行する愚か者がいたとはな」
「ならば答えは簡単じゃろうて。意味なく戻ってきたのではなく、明確に意図があっただけの事よ。例えば、この事件を調査しようとする者に、接触をしようとした、とかのう」
キキキキ――という耳障りな音と共に響く。スピーカー越しの電子音とはまた違う、ささくれて割れた声。聞き慣れたものではない、しかし聞いたことが無い訳でもない。臓硯という魔術に寄生した怪物のそれ。
神経を集中する。木の葉が擦れ合う様すらも見落とさぬように。が、相手の位置はつかめなかった。恐らく、この場にいるのは使い魔か何かだけなのだろう。当然ではある。
しかし、この場にいないからと言って油断してはいけないのも、魔術師という存在だ。両手に、不格好な剣の柄を握った。集中するまでも無く、あくまで挙動の延長として、それらに魔力が流された。ずらりと、一瞬にして伸びるそれは、一般的な長剣ほどの長さにもなる。黒鍵と呼ばれる、代行者が持つ代表的な奇跡だった。とは言え、間違えても扱いやすいとは言い難く、それを本格的に扱う者は少なかったが。
この障害物が多い場所で、黒鍵がどれだけ役に立つかは分からなかったが。何かに直接触れるよりはマシであろう。
「さて、間桐臓硯よ。単刀直入に聞こう。遠坂時臣を殺したのは貴様か?」
「ワ、ワシではないんじゃ、信じてくれぇ! ……とでも言えば、信じてくれるのかのう?」
キキキと、またもやあざ笑うように、音。不快でない訳が無い。だが、これが本当に間桐臓硯だとすれば、それを気にしている余裕などなかった。
迂遠なそれを肯定だと受け止め、さらに警戒度を高める。精度を上げた探索術に、一匹の虫がひっかかった。やはり、使い魔か何かで見ているだけのようだ。
「このような愚かな真似をしたのはなぜだ? 正当性無くば、貴様を討伐の対象とする」
「ほほう……それはまるで、正当性があれば討伐をしない、と言っておるように聞こえるぞ」
なぶるような声に、しかし綺礼は淡々と応えた。
「そう言っている。あればの話だがな」
その返答に――なぜだろう、面白くて仕方が無いと言わんばかりの笑い声が木霊した。相変わらずの調子であり、つまりは不快であるはずのもの。しかし、そこからは何故か、一切の情動を得られなかった。
「面白い。とても面白いぞ、言峰綺礼とやら」
「これから自分が貫かれる剣の輝きが、それほど面白いか?」
あまり言って意味のある返しではなかったが、一応してはおいた。会話の時間が長引けば、使い魔から本体を逆探知できるかもしれない。元の実力が違うので、可能性は限りなく低かったが。
ちらり、と鋼のように宿った奇跡に目を落とした。剣の力強さは、反射する光沢に至るまで、今までと何一つ変わらない。教会の主張を信じるならば、この刀身を作れるのは神を信仰しているからだ。信仰心が揺らいでいる今でも当たり前のように存在するそれ。当たり前だった。こんなものは、魔術的反応でしかない。神がこれに及ばせられる力など、最初からないのだ。非常に下らない。こうして、構えながら臓硯を問い詰めることくらい下らない。
一瞬、自分が何を信じ何をしているのかさえも疑い――しかしすぐに立て直す。これは、そういう問題ではない。単純に義務の話だ。
「お主、ワシに正当性あらば、討伐せず身をひくと、そう言ったのだな? 師の敵を討とうともせずに」
「……何が言いたい? それが道理、というだけだ」
「クッ、呵々々々々! 本当に分かっておらぬようだのう! 人とは、そういう生き物ではないのじゃよ。理性を持ちながら感情を優先させる、ある意味もっとも神に近く、同時に動物的な生き物よ。恩人が、家族が、兄弟が死して『道理』などというもので引っ込める者など、この世に、人間には居らぬわ!」
みしり、と。どこかが音を立てた気がした。どこかは分からなくとも、そこが自分にとって、重要で致命的であるのだけは理解できる。
聞く必要などない。情報が得られない以上、とっとと虫を潰して、間桐臓硯の探索に切り替えれば良い。犯人が分かった以上、これから間桐邸まで赴いて、痕跡を調べなければいけないのだ。聖杯戦争が未だ正常に行われている以上、探索に使用できる時間は少ない。余計な事をしている余裕など、無いはずだ。
しかし、どうしても。その言葉を遮る気にはなれなかった。
「貴様は何を知っている?」
「何を? 大したことは知っておらぬよ。せいぜい、遠坂の小倅から抜き出しに成功した情報くらいじゃて。その程度でも、貴様が壊れておる、というのは手に取るように分かるわ。まるで機械のように、行動に感情が絡んでおらん。そもそも、そんなものが『存在しない』様にすら見えるではないか。呵々」
――見抜かれた。初めて。
今まで、師も同僚も上司も父も、そして死した妻でさえ自分から告白しなければ気付かなかった真実。それを、この老人は時臣から奪った僅かな知識から、見抜いたと言うのだ。
本当にそうなのか? 誰も気がつかなかったそれを、見つけたと言うのか? 容易く信じられる話では無い。だが、黒鍵を構えていようと、もう綺礼は手を出す気になれなかった。
「奴は人間としての機微に疎かったからのう。良くも悪くも魔術師的ではあったが、それが過ぎて鈍くなっておったようだ。こんな簡単な……自分の弟子が本当の意味で敬意を向けていない事にすら、気がつかなかったのじゃ。滑稽な事よ」
虫のすり切れるような笑いが止まらない。しかし、先ほどまで脳に張り付いていたそれが、嘘のように通り抜ける。集中する対象は、ただ臓硯の言葉のみ。
「――下らん。言いたいことはそれだけか?」
違う。口に出したかったのは、そんなことではない。
しかし、臓硯はそれを見透かしたかのように――いや、実際に見透かしていたのだろう。悠々と、笑いながら続けた。
「なんだ、ワシを急かす理由でもあるのかのう? お主の行動には常に戸惑いがある。疑念ではない、戸惑いじゃ。まるで、本来あって当然のものを手探るように」
否定するのは簡単だった。心を偽るのは慣れている。いつもそうしてきたのだから。しかし、ここでそれをしてどれだけの意味があるだろうか。自分を知る機会を潰してまで、それをする理由。
実際、綺礼はその言葉に魅入られていた。それは、まるっきり臓硯の思惑通りだったであろう。それでも、やめられない。人生を通して探索し続けた『答え』の前には、全てが霞んでいた。義務も、使命も何もかもが消えてしまうほどに。不確かな神など、風解してしまうように。
「それも当然よの。器というのは、覗こうとして覗けるものではない。ましてや、お主のような者であれば……」
「もったいぶるな」
「もう取り繕いもせぬか。呵々」
にんまり、臓硯が笑う。顔を見せなくとも、それが手に取るように分かるほど、その男は歓喜していた。
もどかしさに、指に力が籠もる。こんな無様な緊張の仕方をしていては、戦闘行為などまるで不可能。しかし、それすらどうでもよくなっていた。
「そもそも、お主は己の器を勘違いしておるのよ。理解を求める? 人並みの感情? 己の、人間らしさ? どれも勘違いが過ぎて、腹がよじれるわ!」
嘲笑う。恐らく、自分を侮辱する類いのそれで。どうでもいい。笑いたくば、好きに笑えば良い。どうせ、そんなものを感じる器官など存在してはいないのだから。
答えを。心が全力で、ただ求めを謡う。中身など問いはしない、欲しいのはただの回答。もっとも原始的に、究極的に。自分が『誰』なのかを知りたいのだ。
「――何も無いわ、貴様には」
「……なに?」
「聞こえなかったのかのう? 貴様の器は、ただの無だと言っておるのだ」
ひたすら、楽しそうに。
臓硯は、笑いながら。
言峰綺礼には何も無いと。
そう、言った。
「なんじゃ、何を意外そうにしておる? 人の感情とは、経験と反応の反復よ。そうして、少しずつ蓄積されていくのが『人間』というものじゃ。器の底が抜けたか、それとも蓄積が出来ぬのか……お主は天然の欠陥品」
黒鍵が、地面に転がり落ちた。指が震えている。森は音すら消えた。木々の隙間から差し込む光が、常闇の誘いに思える。
虚無、つまりは虚像。ホログラム。在って無き。空。器だけの食器。断たれた階。そして――自分自身。
曖昧であり、漠然として、混濁し、亡羊である。あるものがない。在るが故に、形だけのもの。そうだ、それはまるで……例えるならば、神の様だった。人が届くようになった、もはや手垢と欲にまみれたそれではない。遙かな昔、夢の中にあった、ただの神という器のみのそれ。ヤハヴェですらなくキリストでもない、ただの、概念の受け皿。
それはまるで――
「お主は、ただの人形なのじゃよ。己の意思と思っていたそれすら、誰か、何かの模倣に過ぎぬ。偽りの自分しか持たぬお主は、所詮誰かの受け皿にしかなれぬのだ」
答えを求めていた。いつからは始まったそれは、いつの間にかそれだけを追い求めるまでに成長した。多分、前も後ろも分からず、霧をかき分けるように進んでいたのだろう。
しかし、それもこれまでだ。ここに、終着点はあった。知ることができた、己の業。ただの無であり、乾いた皿でしかない反応機器。
臓硯はまだ何か語っている。しかし、もう言峰には、どうでも良かった。
その答えが、自分が求めていたものかどうかは分からない。いや、多分求めていたものなのだろう。なぜならば、反応とはそういうものだ。正否でも善悪でも是非でもなく、ありのままのそれを受け止める。清々しい、とはこういう気分なのかも知れない。もう思い悩む必要は無い。あとは、やることは決まっている。
満たせばいい。己の器を。幸いにして、器に満たして有り余るそれを、自分は持っていたのだ。
「さて、言峰綺礼よ。ワシに協力して貰おうかのう」
自信に満ち溢れ、己の失敗など一遍も疑わぬ言葉。
綺礼の反応は、冷淡とすら言っても良かった。ただひたすら無感動に、まだ居たことだけを確認する。もはや彼にとって、それはなんら価値のないものではあった。しかし、
「いいだろう」
そう答える。
恐らく、これは必要になる。この老人は、求める最後のパーツを手に入れるのに、重要なのだ。他ならぬものが、そう言った。
うごめき、歩き出す虫の後ろを追って、歩き出す。
胸が高鳴った。初めての経験だ。やっと、己を知ることが出来た。あとは追い求めさえすればいい。それを手に入れた時こそ、きっと本当の意味で感動ができるのだろう。
確信を、胸にしまい込んで。自分の器を満たした『中身』を、ただ一人、称えていた。
最初からわかりきっていた事ではあるが。まあ、俺に探索なんて出来るわけがないのだ。
一応言峰教会に顔を出しても見たが(遠くから見ただけで、中には入っていない)、存在を確認できたのは父親の方だけで、当然の如く綺礼はいなかった。綺礼父の憔悴した様子を見ると、始末されたという線まで想定する必要があるかも知れない。時臣の方も一応探してみたが、こちらも家には居なかった。まあ、彼に取っては綺礼が生命線なのだから、そちらの探索をしていてもおかしくはないが。
まず綺礼自身がこれを命じたと言う可能性、これはほぼない。彼らにとって、デメリットしかないのだから。本来なら存在したアーチャーという切り札。しかし、現在にそれはなく、多少弱いエースでもアサシンを使わなければならない。そんな状態で、アサシン使い潰そうと考える者はまず居ないだろう。
ならば、綺礼が倒されたという可能性。これの最有力候補は切嗣だが、ぶっちゃけ綺礼と接触したがるとは思えない。彼の視点に立ってみれば、完全に電波なストーカーなのだから。こんなのにつきまとわれたら、俺だって逃げるか殺すし、絶対に近寄らない。
雁夜とバーサーカーを使って始末した、とも考えられる。これならば、上手く遭遇できるかどうかは別にして、ほぼ確実に綺礼を始末できる訳だし。だが、これもアサシンを潰す理由にはならない。高確率で雁夜に命じた切嗣が、それを欲するであろうし。セイバーでサーヴァントの足を止め、アサシンと自分二枚で暗殺に向かうのであれば、桜以外のマスターを殺せるだろう。確実に、自陣営に引き込もうとするはずだ。
綺礼と時臣、二人同時に始末された可能性もあるにはあるのか、と思い返す。アインツベルン城に行くこと自体は隠していなかった。俺に接触しようと考えていたならば、それもあり得るだろう。
まあ、どれも信憑性の低い予想でしかない。
こうして街をほっつき歩いているのも、何かヒントを得るためだ。これも、やらないよりはマシという程度であるが。
「アーチャー、何か見つけたか?」
「お前と同じものしか見てない」
だから、まあ。ランサーが俺の後に付いてくるのはいい。いや、本当は良くないのだが。
ケイネスが工房をがちがちに堅め、聖杯の欠片の解析に入った。その際、足りない道具を補うために、いくつか宝具を貸し出してやった。あの目の輝きは、本気で恐ろしかった。最悪宝具が返ってこない事まで想定させた程に。とにかく、アンリマユの摘出術式の作成という、ある意味本題に入ったのだが。必要なのは魔術師としての技能であるために、ランサーは役に立たない。戦力を遊ばせるくらいならば、外で探索をさせようと思ったのだろう。多分に、ソラウの近くに居させたくないという思惑があったのだろうが。
ちなみに、ランサーは町内のどこに居ても、全力で走れば数分以内に帰れる。消耗を考えなければ、短時間ヴィマーナよりも早いと言うのだから恐ろしい。最速の名は伊達では無い。現在、ケイネスの工房は索敵方面を強化しており、前回のような不意打ちは許さない。これも、側を離れた探索を実行した理由の一つだ。
「そう言うな。こう騒がしくては、見逃しが出てしまうかもしれないのだ。っと、申し訳ないが、俺にはやることがある。君にはつきあえない」
「半分お前のせいだって分かってるか? 貰ってやるからとっととよこせ」
主要道から一本離れた、歩行者通り。大きなデパートなのではなく、個人経営の小洒落た店が並んでいる。そして、今は昼前という時間。早い話が、人が多いのだ。
右からはあるゆる年齢層の女が山と群がり、左はカルト宗教のように頭を垂れる者の群れ。冗談というよりも、むしろ悪夢のような光景だった。その中心に自分がいると思うと、何と言うか、もう死にたい。警察に通報されないのが奇跡である。
「お前達が揃うと凄いのう……」
「カオスだ……」
「こうなる原因が言う台詞じゃないなおい」
と、背後から声をかけてきたのは。サーヴァントの中でも、絶対に人混みに出してはいけない二人を引っ張り出した原因だった。
ランサーが付いてくるのはいい。同盟中だし、いざと言うときの盾にもできる。しかし、ライダーが付いてくるのはきっぱりと邪魔だ。現に、今害になっている。
最初は、町外れを集中的に探していたのだ。こちらでも、範囲が広すぎて、散歩の延長程度でしかなかったのだが。そこを、運悪くこの主従に見つかってしまった。昼に大暴れをするわけにもいかないし、同行する気など当然無かったのだ。離れて終わり、というのがベストだったのだが、何を思ったか一緒に来ると言い始めたのだ。
正直すごく嫌だった。だが、ランサーに行動を把握しておいた方がいいと言われては、反対する理由が思い浮かばない。放っておいて策を弄するタイプではないが、代わりに何をするか分からない怖さがある。確かに、見張っておいた方が安心感を得られた。
そして、口車に乗せられ、いつの間にか街の中に入ることになり。最終的にこの有様である。
「ただそこに居るだけで、人を従わせるか。うむ、中々よのう」
「何が中々だ。そうさせた大元が」
思い切り、犬歯をむき出しにして睨んでやる。が、当のライダーは何が悪いのか分からない、という様子だった。
「人が寄ってきているだけではないか。何か問題があるのか?」
「俺たちが何をしに街に出たかって聞いてたか? それに、こういうのは嫌いなんだよ……」
言っても、理解はされまい。諦めながら献上品をひったくった。俺の望みがないと、献上される品は多岐に渡る。それでも、渡されるのはほぼ必ず書面だったので、バッグ一つあれば十分なのが救いであった。
「驚いたな。お前にも苦手なものがあったのか」
本気で意外そうなその視線に何を言っているのだと思ったが、ふと思い出す。そう言えば、彼らは紛う事なき英雄であった。視線を集めるというのは、ごく当然の日常なのだ。実際、女性を追い返す手並みはとても慣れたものであった。ウェイバーは肩身が狭そうなのに対し、ライダーは悠然としている。俺はそこまで酷くないが、居心地がいい空間ではなかった。
「面倒だろ」
「ああ、貴様はそんな感じだのう。割と飽きっぽいと言うか、長続きせんと言うか」
適当に吐いた台詞に、やはり適当に納得するライダー。視線は常に、入れ替わり周囲を飛んでいる。会話はおまけで、あくまで現代を楽しむのが主題なのだ。当然、アサシンの真相も、彼にとってはどうでも良い事でしかない。
ふっとため息をつきながら、周りを確認する。自発的に寄ってくる者を無視したとしても、人が多い。ここでは、目的を何一つ果たせそうは無かった。
背後には当然ライダーが居て、その隣にはまた当然ウェイバーがいる。
スキル性能というのは、案外広義に解釈される。例えば、真っ先にセイバーが潜伏するアサシンに気がつき、他のサーヴァントが気がつかなかった理由。潜伏した時点で戦闘フィールド扱いされ、直感が働いたためだだろう。俺の場合は、単純に宝具の力だ。
ライダーのスキルに、軍略というものがBランクで存在する。これは、戦場に複数、もしくは対象人数が複数の宝具に体して、有利な判定を得られるというものだ。原作でセイバーの対城宝具を受けても、戦車が吹き飛んだだけで済んだのに、このスキルの影響が無かったわけではないだろう。まあ、それを上回る直感Aがあるのに直撃しなかった、という不可解な点はあるのだが。
状況を限定された直感スキル、と言い換えることも出来る。そして、その発動条件は戦場である事と、多人数もしくは対象人数が二人以上であればだ。
四人居る現状で、俺が隙を見てウェイバーを殺そうと思っていたら、そうできない状況へと持って行く能力があるのだ。おそらくは、無自覚であっても。
ここでライダーが脱落してくれていれば、聖杯戦争は勝ったも同然だと言うのに。つくづく、スキル補正とは厄介だ。宝具のように目立ちはしないが、要所要所でいい仕事をしてくれる。良くも悪くも。
まあ、好意的に考えるならば。ケイネスが聖杯の欠片を所持している現状で、あまり大きな変化があるのは宜しくない。下手をすれば、解析などに影響がでるのだから。急ぐ訳でも無く、一対一であればほぼ確実に負けない。諦めは肝心だ。
「これじゃ何も分からんだろうな。どこかに入るか」
「そうしよう。外歩くだけでこんなに疲れたのは初めてだ……」
思い切り疲弊した声が、援護に回る。このような状況に、一番慣れていないだろうから当然だ。
「おう、そりゃいいのう。そう言えばもうすぐ飯時ではないか。こいつは一つ、うなるような旨いものが食いたいわ」
「ライダー……我らに食事は必要ないのだぞ?」
「食わんでも大丈夫というだけで、食って悪い物ではあるまい。せっかくこの世に具現して、食事の一つも楽しまんでなんとするのだ。それで、アーチャーよ。お主どこか旨い所を知らんか?」
「何で俺に聞くんだ」
「そりゃ、貴様が現代を一番知っているからに決まっているであろう。何かないのか?」
「大層なもの食いたいなら、どこも予約か必要か時間がかかる。そこら辺に入るなら、どこも変わらんだろ。ゆっくりできる所ならどこでもいいんじゃないか?」
幸い、まだ店が混み始めるよりも前の時間だ。一般的な店ならば、どこでもさほど待たされはしまい。
「そりゃ残念だ。ふむ、せっかくだからこの国の料理を食ってみたいな。よし、あそこにしよう」
良いながら、俺たちを追い越してずんずん歩いて行く。ウェイバーもそれに慌ててついていった。戦闘になっていなくとも、敵対サーヴァントが二人もいる状況、さすがに離れては不味いと分かっていた。
俺の方はともかく、ランサーの取り巻きは邪魔をされて怒りそうなものであったが。文句がありそうではあっても、それを口に出来たものはいない。誰もがライダーを直視すると、その瞬間に息を飲んでいた。さすがは化け物じみたカリスマAの持ち主だ。
本来は、俺もカリスマA+を持っていた筈である。これが黄金律と組み合わさったらと思うと……恐ろしくて考えたくもない。
ライダーが選んだ店は、奇縁と言えばいいのか、お好み焼き屋だった。それが、原作のものと同じかまでは分からなかったが。彼らしい選択と言えば、そうであろう。
店の中に入っただけで、えらく驚かれる。まあ、カリスマと黒子のスキルを抜いても、美形二人に巨漢一人を含んだ、外人の四人組だ。そりゃこんなのがいきなり入店してくれば、ぎょっともする。
フリーズしている店員に、四人である事と座敷にする事を無理矢理伝える。どもりながらも再起動し、奥に案内される。一番奥の、締め切りができる他者から見られづらい場所。意外にも気が利く事に、僅かに驚いた。
「手慣れているな」
「好き放題やってるからな」
呆れたような声を、気にもとめず返す。
非難するつもりこそないのであろうが。ランサーにとっては、娯楽に時間を使うくらいならば鍛錬を、という意識が先立つのだろう。こういう所融通の利かない所が、ケイネスとかみ合わないのだろうな。指摘したとして……まあ直るまい。彼の自分に厳しい所は、性のようなものだ。
靴を脱ぎ捨てて、座敷の奥に陣取る。当然ながら、俺の隣はランサーだった。対面にライダーペアが座る。
改めて、席の位置を確認する。俺の背後も、反対側も壁だ。仕切りではなく、しっかりと一部屋が独立している。人から見られるような場所は、故意に隠れたりしなければ通路側だけだ。その通路も、先にあるのは非常口であり、つまり人通りは少ない。通路の奥は壁、と言うか厨房だろう。行きがけにカウンター席が見えていた。あとは、興味本位で覗いてくるバイトを視線で追い払ってやれば、大層な話はできなくとも、ちょっとした情報交換くらいならば可能になる。
「おお、これは旨そうだ! むむ、しかしこちらも捨てがたい……。なんとも珍妙な料理だ。こいつは悩ませてくれるのう」
「お、おいライダー。ボクたちにはそんなに持ち合わせがないんだぞ」
「坊主は何を言っとるんだ? ここはアーチャーの払いであろう」
「は!?」
素っ頓狂な声を上げたウェイバーが、俺を見てくる。
「そうだな」
いい加減な回答をしながら、隣でメニューを占拠している男を見る。やたら真剣な目で、一品一品を吟味してた。面倒くさい。こいつ実は、料理を食べに行くと、なかなか決められないタイプだった。
とっとと決めてしまうのは早々に諦め、ラミネート加工されたサイドメニュー表を取り出す。当たり前だが、そう珍しい飲み物があるわけでもなく。無難に烏龍茶と心に刻んで、早々に手放した。
「でも、いいのかよ?」
「別に」
ランサーが現代の金を持っているわけが無く、俺の支払いになるのは当然。今来ている服も、出所はこちらだった。そして、一般人の家に潜り込んで生活しているような連中に、金銭面で期待などするわけが無い。常識的に考えれば、マスター連中が大量の金を所持してはいないのだし。聖杯戦争に大金持ち込むくらいならば、事前準備に消費しきるだろう。少なくとも、無意味に外食をするために持つ金は無い。余裕があるのは俺だけだ。
ついでに言えば、これは俺が誘ったことでもある。周囲に金がない事を承知している上に、言い出しっぺで惜しむような真似はしない。
「けど……」
「じゃあ払えるのか? そっちのでかぶつは遠慮無く注文するつもりみたいだが」
「うっ」
とたんに息を詰まらせる。先ほど金欠を示唆していたばかりなのだから、こうなるのは当然だ。
しかし、と。視線を横に飛ばす。あれこれと、山のように注文しようとしているライダーと違い、ランサーは一品目すら決められていない。あれが、いやこれの方が……とぶつぶつ呟きながら、当然メニューを手放す様子は無い。
奴を待っていては、いつまで経っても食事が始まらない。ただでさえ、これからランチタイムで、人がたくさん入ってくると言うのに。
待とうか、待つまいか。しばらく考えようとして、しかしすぐに決断し、呼び出しベルを押し込む。待ってたら進まないのに、これ以上時間を浪費してどうする。
「おいおいアーチャーよ、ちょいとせっかちすぎやせんか?」
「その通りだ。まだメニューを決めていないのだぞ?」
「……先に飲み物だけ決めろ」
飲み物と少量のおつまみがのったパウチメニューを、ウェイバーに投げた。慌てて受け取り、すぐに飲み物を選ぶべく視線を向ける。
この時、ランサーの顔面に拳を打ち込まなかったことは、きっと誰かが称賛してくれる筈だ。
入店時は不満げだったくせに、もう馴染んでやがる。あれなのだろうか、料理はサーヴァントをおかしくさせる力でもあるのだろうが。……まあ、気持ちは分からなくもないが。日本人の食に対するこだわりは異常。海外に行って帰ってくると、コンビニ弁当すら旨く感じる事があるくらいだ。
やってきた中年くらいの店員――恐らく店長か、フロアリーダーかあたり――がやってくるなり頭を下げてきた。さっきの、店員の視線についてだった。ぶしつけではあったが、多分にこちらの事情もあったので気にしない。
「余はレモンスカッシュなるものを頼むぞ」
「アイスコーヒーを頼む」
「ボクはコーラで」
「烏龍茶と」
ランサーが持ったままのメニューを、指の裏側で軽く叩きながら、
「全部」
「……は?」
と、にこやかだった店長(仮)が素の表情に戻って、聞き返す。指でたたき直しながら繰り返した。
「だから、飲み物以外の全部。できたものから順番に持ってきて」
「あ、あの、はい。少々お待ち下さい」
手元のハンディをがちゃがちゃと急いで操作している。最初戸惑ったが、やはりプロなのだろう、すぐに立て直した。そういう意味では、サーヴァントとマスターは負けている。彼らはまだ、驚いたままだった。
「トッピングはどうなさいますか?」
「別にして持ってきて」
「承知いたしました」
一度対応してしまえば、あとは流れるように注文取りを終わらせる。帰り際に鉄板の火を入れて、店長は戻っていった。
「むむむ、なんとも豪快な注文をするものよ。こいつは余も負けてられんぞ」
「何がむむむだ。お前に勝負を仕掛けたわけじゃない」
「オマエ、張り合うところが間違ってるだろ……」
嬉しそうに口を三日月にしながらも、どこに対抗意識を覚えたのか、やたら挑戦的な視線が飛んでくる。本当に、豪快な事が好きな奴だ。
「しかし、なるほど……全部か。そういう頼み方もあるのだな」
「おい、やめろよ。ボクの払いでそんな事絶対にするなよ。いいか、絶対だからな!」
「それは、前振りというやつか?」
「違うよ! どこでそんなこと覚えてくるんだオマエは……」
ライダーの様子に頭を抱えながら、余計な事を覚えさせやがって、という視線を飛ばしてくるウェイバー。しかし、今度どのような注文の仕方をしようとも、俺の知ったことではない。軽く受け流す。
「相変わらず、豪快と言うか無精者と言うか。それがお前なのだろうが」
諦めたような物言いをしながら、メニューを渡される。受け取って、恐ろしく納得のいかない感情をもてあましながら、建てかけに戻した。
そもそも俺がメニューを全品頼んだ原因は、決めるのを悩みまくっていた誰かのせいである。金遣いが荒い、と言うのであればそれは認める。自分でもびっくりするくらい、金銭感覚が狂っているのだから。だが、この件に限って言えば、殆ど目的を忘れていた奴にだけは言われたくない。
……すごく今更だったが。ランサーは、戦闘以外では割とだめな奴なのではないだろうか。
「お待たせいたしました、お客様」
待つこと、さほどの時間でもなく。お盆いっぱいにものを乗せた先ほどの店長がやってきた。商品を置いては、また取りに行き。テーブルの上に次々とのせられるお好み焼き玉とトッピングの山は、中々に壮観だった。テーブルが六人席でなければ、置く場所にも困ったに違いない。これですら、まだ全てではないのだ。
テーブルにきっちり並べ終えると、最後に焼き方の説明が載った紙を置く。
「お客様、ご注文のお品物が多いので、宜しければこちらで焼いたものをお持ちいたしますが、どうなさいますか?」
「ん? こいつは自分で焼くのが醍醐味なのであろう? いらんいらん」
頼もうとしたのだが、ライダーが先に断ってしまった。呼び直して頼んでも良かったが、別にそこまでするほどの事でもない。時間は確かにかかるが、それでどれほど変わるわけでもなし、諦める事にする。
ランサーとライダーは、紙を熟読しながら早くも焼き始めていた。顔つきは真剣そのもので、何故か聖杯戦争をやっているのが悲しくなる。鉄板の上で焼けるお好み焼きを放置しながら、適当なつまみをつまむ。俺が確保したのは、冷や奴だった。まあ、どれも似たようなものだが。火を通さなくてもいいものから優先して持ってこられるため、基本全部冷や物である。
大して大きくもない、粉物が焼ける音を聞きながら。ちまちまと、豆腐を崩していく。
「……たく、こんなに注文して食い切れるのかよ」
「そりゃ大丈夫だ」
正面で、納得いかなさ気にしていたウェイバー。愚痴のようなつぶやきに、まさか反応されるとは思っていなかったのだろう。飛んできた声に、あからさまにぎょっとしていた。
俺も、別に意味があってそれに答えたわけでは無い。サーヴァント同士、話す事くらいはあるのだが。残りの二人がお好み焼きに本気すぎて、声を掛けられないのだ。だから、声に応えたのも気まぐれの暇つぶし、それ以上の理由はない。
「大丈夫って、どうやってだ?」
おっかなびっくりと聞いてくるウェイバー。実際、俺は隙あらば殺そうとしていたのだから、その警戒は正しい。
「単純な話、魔力を使って食べ物を消化できるんだよ。まあ、腹を満たせば満腹感も感じるし、そこまでして食いたいかってのとは別問題だけどな」
消化をするのに消費する魔力と、消化で得られる魔力を計ると、得られる方が多い。大量に食べて魔力を摂取しよう、というのは、一応不可能ではなかった。ただし、魔力の支出量にさしたる差がないため、恐ろしく効率が悪い。少なくとも、好んでやろうと思える手口ではなかった。
「へえ、そうなのか……ん? だとすると、何を食べても魔力で分解できるのか」
「それは無理だ。分解できるのは、あくまで食べ物に限定される」
ここは俺も、よく分からないのだが、聖杯の知識ではそうなっている。例えば、その辺の石でも食べたとして、それを消化はできない。あくまで判定は、食い物に限定されるのだ。サーヴァントが非生物なのだから、対象が物体なら何でもよさそうなものだが。まあだめなものはだめで構わない。そんなことをする機会は、絶対に無いし来させない。
「できたとして、それを実行するサーヴァントなんていないぞ。その辺に生えてる木でも食いまくれ、なんて令呪で命令するマスターがいると思うか?」
「ああ……確かにそれは無理だ。絶対に殺される」
表面が泡立ち始めたお好み焼きをひっくり返す。ライダー達は、要領を掴んできたのか、次の玉に入れるトッピングを吟味していた。本気で満喫している。
サーヴァントが非生物だと言っても、人間的な感覚を失ったわけではないのだ。これで味覚や触覚を失ってれば、まだ抵抗がなかったかも知れないが。生憎と、全て生前のものが完備されている。魔力のためにそのへんにある物を適当に食えと言われて、怒らない英霊がどれだけいるか。少なくとも、俺であればすぐに縁を切る。
焼き上がったお好み焼きに、ソースや鰹節を適当に振りかける。食べ慣れているわけではないので、この辺は適当だ。一切れつまんで食べてみると、それは予想以上に旨い。この店は当たりだ。
とっとと一枚目を食べ終えて、次を鉄板に落とした。トッピングは無い。わざわざトッピングを楽しみにしている人間から取り上げる事も無いし、ノーマルが好きでもあるし。
さらに、途中で残りが運ばれてくる。その頃には、店内もずいぶんと騒がしくなっていた。
「のうアーチャー、それにランサーよ。ちょいと話がある」
軽く腹を満たし、少々余裕ができたのか。ライダーが話を振ってきた。それでも、へらを手放さないあたりはさすがだが。
半ば予想はしていた。いくらライダーとて、遊ぶためだけに話しかけてきた訳ではあるまい。マスターがいつ殺されてもおかしくない状態だったのだ。それだけの理由と、目的があって当然だ。
まあ、様子を見る限りでは。現代を、そして料理を楽しむというのも目的だったのだろうが。
「貴様ら、余と同盟を組む気はないか?」
「断る」
焼きそばをつつきながらも、断固とした態度で言う。ランサーやウェイバーが口を挟むよりも早く。
ふむ、と悩みながら。ライダーの右手に握られたへらが翻った。無駄に精緻な動作で、お好み焼きをひっくり返す。トッピングの入れすぎで三割ほど体積を増していたそれが、沈黙の中ひっそりじゅうと音を立てた。
「理由を聞かせて貰うぞ」
「お前と組むメリットがない。お前の能力も、マスターの能力も」
辛辣な言葉に、身をすくめたのはウェイバーだった。引き合いに出すような真似をして悪いとは思う。ライダーが弱いというのは、つまり遠回しにマスターの魔力供給が少ないと言っているも同然。ただでさえ、ケイネスとは魔術師としての能力に、天と地の差がある。
「ふむ……自分で言うのも何だが、余は強いと思うぞ?」
「俺の言ってることがそういう事じゃ無いのは分かってるだろ?」
「まあ、そうなのだがな……」
「どういう事だよ、ライダー?」
怪訝そうに、眉をひそめてウェイバー。
「坊主、セイバーとランサーとアーチャー、この中で余が組むとしたら、誰になると思う?」
「え? そりゃアーチャーじゃないのか? なんだかんだ言っても、一番スペックが高いだろうし」
「違うな。余が必要とするのは、セイバーかランサーだ」
言われても、まだ怪訝そうだ。まあ、当然だろう。これは身にしみてみなければ、実感できない。俺だって、絶対に必要という訳では無いが、しかしランサーがいるとなれば、安心感が違う。
「余やアーチャーのようなタイプに必要なのは、盾となれる者なのだ。強靱で分厚く、敵の足を止めてくれる力があってこそ、火力が生きる」
「ゲーム的に言うならば、俺とそいつは後衛だ。後衛二人でも弱いとは言わんが……前衛後衛バランス良く揃えたときと比べれば、まるで話しにならない」
仮に、俺がライダーと組んだとして。そのときに取れる戦略は、とにかく面制圧の連続をする事のみになる。遠距離から乱射する俺と、突撃を繰り返すライダーでは、他に戦いようがないのだ。互いに当てぬよう、当たらぬよう気を遣いながら戦うのでは、敵が強ければ、むしろ楽にすらなっているかもしれない。
その点、前衛と組めれば、敵を止めた一瞬に撃ち込んでやればいい。細かく配慮する必要は無く、また自分に攻撃が届かない安心感から、精密射撃もできる。ライダーの場合も、射撃が戦車の突撃になるだけで、やることは同じだろう。あとは、どこかに隠れられても、俺がいぶりだして、前衛が仕留めるなどもできる。これがライダーとになると、偶発的な発見を期待した、無意味な破壊活動まで成り下がるのだ。
唯一、王の軍勢と王の財宝の組み合わせ。これだけは強力かも知れないと思える。だが、これなら王の財宝から直接ぶっ放しても大して変わらないのだ。俺にメリットが無い。
戦闘面でも、それ以外でも。とにかく、組んで一番意義の見えない組み合わせである。
「けど、それってライダーが必要にならない理由にはならないんじゃないか? 少なくとも、セイバーとバーサーカーを倒すまでとか」
そこには、純粋な疑問もあっただろう。が、顔つきがそれ以上に、ライダーが必要ないと言われたことが気に入らないと書かれていた。やはり、最も仲の良い主従はここなのだろう。
「俺がランサーと組んだ一番の理由は、マスターがケイネスだったからだ」
一番苦手な人間の名前が出て、僅かに怯むのが見えた。が、すぐに立て直していた。アインツベルン城での一件を考えれば、ずいぶんと肝が据わったものだ。
「本当に必要だったのは、腕の立つ魔術師だったんだよ。ランサーがサーヴァントだったのは嬉しいが……もしそうじゃなくても、同盟を申し込んでいた」
「そいつが聖杯の異常と関わってくる訳だな?」
疑問系にしては、確信に満ちた鋭い視線。まあ、ここまで言えば分かってしまうだろう。それに、ライダー相手に腹芸が通じるとも思っていない。
カッ、と音をさせたのは、ライダーが持ったままのへら。お好み焼きのようなごちゃ混ぜ焼きを、きっちり四等分し、慣れた手つきでソースと鰹節を振る。それらを、手の止まっていた俺たちに滑らせてきた。サーヴァント組は普通に食べているが、ウェイバーだけは顔を青くさせている。食い過ぎなのだろう。頑張れ。俺は助けない。
「アーチャーよ、結局聖杯の異常とは何なのだ?」
「確証はないって言ったぞ」
「だが、予想はしている。言ってしまえ。俺の主も関わっているのだ、関係ないとは言わせんぞ」
鉄板の上で、唐揚げを温め直しながら。しかし、視線は真剣なものだった。敵意一歩手前な程に。
その主は、話を承知しているのだが。守る側からすれば、事情も分からずに信じることは出来ないだろう。
「聖杯が無色だっていうのは聞いたことがあるよな」
「ああ、この前主がぽつりと呟いてたあれだな? 意味はよく分からなかったが」
「俺だってちゃんと分かってるわけじゃ無い。まあ分からんでも、水だとでも思っておけばいいだろう」
言いながら、コップを前に差し出す。入っているのは、何の変哲も無い水道水だ。
同じ魔術師であるウェイバーが、一番興味深そうに身を乗り出していた。お世辞にもいいとは言えない顔色で、必死に集中をしている。どうやら出されたものは食べきるタイプらしく、手元にはもうお好み焼きは無い。
とっとと食べきってしまうから、次を差し出されると言うのに。今も隣で、ライダーが嬉々としてお好み焼きを焼いているのに気付いていない。変なところが学習能力が低かった。
「聖杯は水だからこそ機能する。ここで重要なのは、中身が水であるという事だ。ジュースや他のものじゃ、聖杯は正常に機能しないんだ」
「つまりこうなっておると言いたいのか?」
ライダーが持っていたソース瓶を傾け、コップの中に流し入れる。黒は一瞬だけ滞留したが、それもかき混ぜられれば全てを黒く染めた。そして、混ざってしまえば普通の手段では戻らない。
「これが、お前がやったようにソース程度ならかわいいもんだ。実際、影響が出ても誤差の範囲内な可能性が高い。だが」
「水に投げ込まれたのが、毒などであれば致命的になる」
一番深刻な顔をしたのは、ランサーだ。最前線で戦っていた経験があるからか、その恐怖を一番身に染みさせているのだろう。
「そして、聖杯の儀式はただの指針。触媒なしにサーヴァントを呼んだ場合、術者に最も近い性質を持った者が呼ばれるのも、聖杯が無色であるが故の特性だ」
「だからか……!」
ウェイバーははっとした。
「予備マスターに殺人犯が呼ばれたのはまだ納得したとしても、それで殺戮者のサーヴァントが呼ばれるのとは訳が違う。性質って言うのは、ただ気が合うとか趣向が同じとか、そんな些末な事じゃない。もっと深く根強い場所に起因する。つまり、殺人犯に殺戮者が呼ばれたって事は、今の聖杯は抹殺や破壊方面に偏っているって事か!」
「そんなもので願いを唱えた場合、中身好みの過程を中継して、結果に走ってくれるだろうな」
ここで頭の切れる魔術師の存在は、非常にありがたい。ぽつぽつと情報を出すだけで、勝手に結果へと至ってくれるのだから。これで魔力量さえ多ければ、文句なしだったというのに。非常に惜しい。
驚嘆の事実に至り、顔を引きつらせたウェイバー。しかし、その後すぐに別方面に引きつる羽目になる。またライダーから、お好み焼きが滑ってきたのだ。もう半泣きであるが、彼を気にするのは彼の相棒の役割。俺は知らない。
そこで、ランサーに向いた。交わる視線に、殺気のようなそれが混ざり始める。
「だから、ケイネスが絶対に安全だとは言えない」
「それでは……!」
「けど、俺たちが近くにいたらもっとやばい。サーヴァントは聖杯によって具現化してるんだからな。下手をすれば触れた瞬間に吸収、脱落しかねない。だが、魔術師ならまだ対処法はある。俺たちがサーヴァントである以上、出来ることはなにもない」
「くっ……己の無力がこれほどもどかしいとは……」
悔しそうに拳を握り、手の内にあった割り箸を握りつぶす。忠義に飢えた彼が、守る事を許されないと言うのは、想像を絶するストレスだろう。
いつの間にか店員を呼び、追加の注文をしていたライダー。日本酒やらビールやら、とにかく酒を片っ端から頼んでいた。隣のマスターが、食べ過ぎとは別の意味で顔を青くしている。とりあえず全部頼む、は金欠魔術師に鬼門だ。
満足そうに店員を見送って、すぐに振り向く。
「しかし、貴様の話を聞くと、全くどうにもならんように聞こえるのだが。良く分かっとらん余ですら、ただ事で無いと分かるぞ」
「だからただ事で無い魔術師の協力が欲しかったんだよ。俺も可能な限りの道具を貸し出してる」
「ほお、この上まだ何かを持っておるのか。そろそろ名乗る気はないか?」
「断る」
ギルガメッシュがすでに、対策の立てようがない能力ではある。それでも対処法を編み出す機会を、与えてやる馬鹿はいない。
命がかかっている。ならば、勝てればいいなではだめなのだ。細心の注意を払い、必勝を狙う。まあ、景品が景品足ればの話だが。
「それでだめだった場合はどうする?」
おどけた、若干試すような口調。が、目は真剣そのものだ。回答によっては、確実に殺しにくる、そう語っている。
「壊すしかないだろう。この馬鹿騒ぎで、他者に大きな被害を出す気はない。残念ではあるけどな」
「それが貴様が前話していた「なんとかする」の方か。うむ、そんな所だろうな」
「覚えてたのか」
酒の席で、ぽつりと出た言葉でしか無いのに。
満足げに頷いたライダーが、丁度運んできたビールの大ジョッキを一気に飲み干す。味など期待できない筈だが、旨そうに飲んでいる。それ自体のうまさよりも、雰囲気を味わって飲んでいる。
熱い吐息を吐き、口の周りに泡をつけたまま、テーブルにジョッキを叩き付ける。顔を絞ってくぅ、などと言われては、こっちも飲みたくなってしまうではないか。
「当然よ。気になってはいたのだからな。人任せは性に合わぬが、こればかりはどうにもならんか。果報は寝て待つとする」
俺も酒を頼もうかと、すこし心が揺れる。いや、この前酒はもう飲まないと誓ったばかりだ。悪酔いしてダウナー入るのは、一度で十分。
「なあアーチャー。その、聖杯の解析? ってのは、ケイネス先生じゃなきゃいけなかったのか? その……例えばセイバーのマスターとか」
終始口ごもりながら、ついでに言えば、最後は誤魔化すようにして、ウェイバーが言った。よく見るまでも無く、その心情は見て取れる。ケイネスはそれほどのものなのか、そして自分ではいけなかったのか。彼には自尊心があり、それは人一倍強いと言ってもいい。だが、未熟である事も自覚はしているのだ。だからこそ、これほど歯切れが悪い。
取り繕うべきか、はっきりと言うべきか。少し考えて、オブラートに包むのはやめる事にする。俺は魔術師では無く、彼らの価値観は理解できない。
「単純に実力で計った場合、セイバーのマスターの優先順位は三番だ」
答えてから、ふと彼らはセイバーのマスターが切嗣か知っているのか気になった。だが、どちらでもいいかと考え直す。アイリスフィールが本当にマスターだったとして、順番は変動しない。
「2番は誰なんだ?」
「俺を呼んだ奴」
「じゃあそいつで良かったんじゃ……って裏切りそうな奴だったのか」
「ああ。それに顎髭だしな」
「どんだけ顎髭が嫌いなんだよ……」
もっさりしててて非常に鬱陶しい所が嫌いなのだ。それに、第一印象でうさんくささ大爆発だったし。
「ちなみにお前は五番だ。下はど素人と死にかけ」
「う……」
反論したそうではあったが、結局言葉にはならない。彼も、自分の実力は下から数えた方が早い、という自覚はあるのだろう。俺にとっても死活問題なのだから、真剣に実力で選んでいる。つまり、他者の基準であっても忌憚の一切無い意見だ。これを、お前は分かっていない、で飛ばすには少々重い。
まあ、これは上位四名が化け物であるのだから、仕方が無い。とりわけ上位二名は、戦闘特化の魔術師に、単純に魔術の腕だけで食らいつける超人だ。これと張り合おうというのが無謀である。まあ、そういう化け物が平然と存在するのが聖杯戦争なのだから、やっぱり参加自体が間違いか。
「まあ、組むにしたって、どちらにしろセイバーの所はないけどな」
「何でだよ? あそこの組には、まだ何かあるのか?」
あるにはある。主に切嗣が。だが、それを抜かしてもセイバーとは組みづらい理由がある。
「セイバーというクラスは、正しく最優であるという事だ」
俺の代わりに言い始めたのは、ランサーだった。何だかんだ言って、セイバーと一番縁が深いのは彼である。同時に、セイバーに最も拘っているのも彼だろう。
「あの前にするだけで肌がしびれるような、圧倒的な剣気。荒々しくもありながら、清澄さを失わない鋭さ。なにより迷いの無い剣筋は、共に戦うよりも雌雄を決したいと胸を高鳴らせる……」
「違います。はい、ライダーさんどうぞ」
ただの感想文になっていた言葉を中断する。俺が聞きたかったのは、もっと戦術的な面だ。
「うむ、指名されてしまっては仕方が無い。余が説明をしてやろう。セイバーはな、限りなく万能型に近いのよ」
「万能型って言ったって、さっき前衛って言ってただろ」
「あやつを一番生かせるのがその位置というだけで、後ろに据えて戦えない訳ではない。本当の意味で、奴には連携を取る必要がないのだ。一人で全ての役割をこなせるのだからな」
脇で、ランサーが人知れずへこんでいた。真面目に答えないから(本人は大真面目だっただろうが)そうなるのだ。
「セイバークラス全てがそうかは知らぬがな。一発のエクスカリバーに、変幻自在で使い勝手の良い風の宝具。特に風は、上手く使えば全距離に対応できる。最高ランクがずらりと並ぶステータスとスキル。多少の攻撃では通らんし、危険なものは直感で対応される。な、厄介であろう? 間違いなく正面からぶつかってはいけない相手よ」
さらに、と続ける。
「アーチャーは前衛後衛と言ったがな。余は技巧型、火力型と表現できると思っておる。余やアーチャー、あとはキャスターのように、威力や数で押し込むのが火力型。対して、身につけた技で食らいつき、隙を逃さず一太刀浴びせるのが技巧型。……もう分かったであろう? セイバーはこの二つを高次元で融合させておるのだ」
ただ突っ込むだけでも強いセイバー。あまり目立っては居ないが、風王結界は変幻自在かつ不可視で、対応がごく難しい。完全に封じられるのは、恐らくランサーだけだ。それをなんとかしても、本命のエクスカリバーが残っている。あれの前には、王の軍勢も無力であろう。仮に軍勢が削りきられなかったとしても、ライダーに直撃する。一度は戦車を犠牲によけたとしても、二度は無い。そして、切嗣がマスターのセイバーならば、無理をすれば二連射が可能だ。
原作で、ライダーがセイバーに対して王の軍勢を使わなかったこと。あれはとても正しいと、俺は思っている。軍が展開した所で、エクスカリバーでライダーを狙われれば、それで終わりだ。
互いの威力型宝具の力の差も大きい。ただでさえ、戦車はエクスカリバーの7割以下の威力である。ついでに言えば、突撃型と放出型では、ぶつかり合ったときのダメージが違う。装甲車で突撃と、ロケットの射撃がぶつかり合ったと考えれば分かりやすい。仮に威力が互角であったとしても、装甲車が一方的にダメージを受けてしまうのだ。
そもそもライダーは、宝具のチョイスからして偏りすぎている。EXとA++では、取り回しが最悪なのだ。武器が戦車な関係上、そう細かく戦うことも無理であるし。瞬間火力に優れていても、時間が経てば経つほど不利になる。かと言って、軍勢と戦車を同時に使えば、魔力など一瞬で枯渇するだろう。いや、そもそも固有結界を展開しておいて併用できるかすら分からないが。そこまでしておいて、令呪で撤退されたら最悪だ。
逆なのはランサーだ。こっちは戦場を選ばず戦い続けられるが、決定力がない。やはり、セイバーの万能のCと瞬発のA++の組み合わせは、バランスが良すぎて犯則的である。正面から戦って打ち破れるサーヴァントは、ギルガメッシュを除くとほぼ存在しないのではないだろうか。
改めてみるとヤバい万能スペックなのに、なんで総じて見ると残念になるのだろうか。きっとzeroセイバーには妙な呪いがかかっている。
「セイバーと組んでも、安く買いたたかれるだけだ。協力は、手の届かない場所を補い合ってこそ意味があるんだからな」
「ある意味バーサーカーは当たりであったな。連携という選択肢が最初からない分、余計な事を意識しなくて済む」
そしてこれが、ライダーがこちらに声をかけに来た理由でもあるだろう。バランスよく揃っているとは言え、基本特化型のこちらの方がまだ目がある。
「ずいぶん余計な話をしたな。けど、まあ。そういうわけで、同盟は断る。……だが、期間限定の休戦条約ならば結んでもいい」
「お前は、普通に倒せばいいと言う意見だと思ったのだが。どういう心変わりだ?」
「それをこれから聞くんだろ」
むっつりと、黙り込んでいるライダー。
料理はもう殆ど残っていない。かちゃかちゃと、店員が皿を下げる音と、そしてピークを過ぎて若干静まった店内の音が響く。それが心地よいわけでもない。ただ、間を取るには丁度良いものであったのも確かだ。
皿が持ち去られ、音源の一つが消えた頃に、ライダーは口を開いた。
「……気付かれておったか」
「気付かない訳が無いだろ。不自然すぎたんだよお前は。町中でもアーケード街に誘って、休憩を取ろうとしたし。その上、自分を売り込むだ? 少なくとも、俺の知っているライダーにはあり得ないな。お前は売り込ませる側の人間だ」
俺の言葉に、反対する者はいない。どこまで気付いていたか、具体的だったかは分かれるとしても、誰もがライダーに違和感を持っていた。気弱とも違う、それほどの戸惑いがあったのだろう。
「根拠はないぞ?」
「俺も根拠なく言っていたが」
「そんなもん比べものにならないくらい、根拠など無い。なにせ、理由は余の『勘』だけだ」
普通であれば、一笑に付してやる類いのものなのだろうが。しかし、それで笑い飛ばせないものがある。
「それはいつからだ? どういうものがどれほどだ?」
「……やけに具体的な質問よ。また、何か掴んでおるのか……。昨晩、酒宴が終わる当たりから少しずつ不安が大きくなってきた。今では、なんとなくだが、しかし確実に、このままでは不味いと思うようになったのだ。だから、なんとか手を組もうとしてのう」
「お、おい! ボクは一言も聞いてないぞ!?」
「と言われても、今回は本気で理由がないからのう。坊主は、こんな事言われてどう反応した?」
「いっ、いや、確かに言われても困るだろうけど……」
ライダーの、本気で困ったような顔に。半ば怒っていたウェイバーも、その勢いをしぼませた。頼りないから相談されなかったのではなく、どうすれば良いか分からなかったからだと分かったから。
サーヴァントの勘は馬鹿に出来ない。それに、俺はもしかしたら勘違いをしていたのかもしれなかった。それが「アサシン襲撃の前後」となれば尚更。
軍略というスキル、これの発動条件は、思うところとは別だったのかも知れない。俺はずっと、これは戦闘レベルで発動するものだと思っていた。この場合の戦闘とは、開戦直前あたりから、という意味だ。つまり、準備段階では発動しないと思っていた。しかし、これが本当の意味で戦術レベルで機能するのであれば。例えば、誰かがどこかで、サーヴァントに致命的な何かを企んでいることも、勘で知れるのであれば。ライダーの不安は、無視できない要因になる。
事態は、予想よりも危険かもしれない。
「――ライダー。昨日の、アサシンの不可解な動きを覚えてるよな?」
「そりゃ、昨日の今日で忘れぬが……」
視線をランサーに飛ばす。この件は、一応こちらで把握した情報である。俺一人の決定で、喋っていい事では無い。
頷きが返されるのを確認して、話を続けた。
「アサシンのマスターが見つからない。それと、アサシンのマスターと縁が深い、俺を呼び出したマスターも」
「……そりゃ本当か?」
死んだ、ではない。見つからない、だ。単純に殺されただけならば、聖杯戦争の犠牲者で片付ける事もできた。しかし、生死不明で姿をくらませたのであれば、それ以上を疑わなくてはならない。
狙われたのはどちらかか、それとも両者なのか。どちらにしても、このタイミングで聖杯戦争が無関係な訳が無い。さらに問題なのは、容疑者がいないという事だ。
どの組であっても、殺した事実を隠す理由がない。第三者であったとしても、隠蔽にどんな意味があるのかが分からない。とにかく、全てが不明であった。
それでも、俺の聖杯戦争に関係なければ放置してもいいと思ったのだが。ライダーの反応を見る限り、その線はとても薄い。それどころか、聖杯戦争どころではない事件も、覚悟すべきだろう。
「ああ。我々もそれくらいしか把握していないが。だから町中を探索していた。とにかく、状況もつかめていない」
「納得は行かなかったが、敵サーヴァントより気にする必要はないと思っていたんだが。そういう訳にはいかなくなってるかもな。と言うわけだライダー。同盟は組めないが、この件が発覚するまでは攻撃をしかけないし、情報のやりとりもする。それでどうだ?」
「うむ、それで構わん。坊主も良いか?」
「ああ、大丈夫だ。教会の奴って、確か代行者だよな。そんな奴が……」
「そんな心配するな。いざとなれば、余が吹き飛ばしてやるわ!」
ばしん、と大きな音を立てて、ウェイバーの背中が叩かれた。その勢いは細い体に強すぎて、上半身が激しく踊る。背をさすりながら、恨みがましそうにライダーを見上げるが、そこにはもう、恐怖の色は無い。つくづく、良いコンビだ。
「ちょっと待て、今主に事情と連絡を……こちらも許可を貰った。この件が解決するまでは、矛を交えないと誓おう」
「うむ。余が感謝をしよう。受け取るがいい」
「ふ……謙虚なんだか尊大なんだか、よく分からぬ奴よ」
がはっと、一つ大きな笑い声を上げて。太ももをばしりと叩く姿からは、先ほどまでの不安は、完全に吹き飛んでるようだった。
「そうと決まれば、さっそく行かなければな。坊主、いつまで休んでおる。ほれ、行くぞ」
「待てよライダー! まだ腹が……」
「腹がぁ? 何でそんなになるまで食ったのだ」
「お前がどんどんよこすからだろうが! あ、ちょっ、待ってよ!」
どたどたと慌ただしく去って行く。あの様子のライダーは、正直苦手なタイプであるのだが。しかし、妙にしおらしかったのと比べれば、遙かにらしいだろう。
彼らが去って、俺たちが残っている理由も無い。伝票を持ち、支払いを済ませて店外に出た。人混みを避け、裏通り辺りまで入っていき、今度は宝具まで展開して探索を再開する。危険な可能性が高い以上、出し惜しみをして情報を逃すような、間抜けな事だけはすまい。
「ライダーに会ったときはどうなるかと思ったが、結果的にはあえて良かったな」
目の鋭さを三段階は上げたランサーが、神経を全開で尖らせたまま言う。準戦闘態勢に入っているのだろうか。もしかしたら、それで心眼のスイッチを入れられるのか。どちらにしろ、頼もしい。
「ああ。知らなかったら手遅れになってたかも知れん」
宝具から送られてくる情報料は多い。さらに自分自身でも探索していると、酔いそうにすらなる。流れてくる情報と、この場所。どちらに自分が経っているか、分からなくなりそうだ。
脳にじんわりと、違和感が広がる。ここまでやっても、おそらくは何も見つけられないだろう。これで見つかるなら、綺礼と時臣の生死くらい、とっくに発見している。
現状は、確実に後手だ。例え切り札はこちらの方が強力だとしても、切り所が分からなければ意味が無い。普通に考えるならば、仕掛けた誰かもサーヴァントが動きづらいタイミングで動いてくる。いや、考え方を変えてみればいいのかもしれない。いつ、ではなく、誰に仕掛けてくるであれば。まだ対処法はある。
「ランサー」
「何だ?」
振り向かないままに問うてくる。俺も、雑草の増えてきた道を蹴りながら、それに答えた。
「一つ……いや二つか。保険を掛けようと思ってな。何かあったときの為に」
不幸とは、連続するものなのだろうか。
マーフィーの法則なるものがある。これは単純な話、ただのユーモアなのだが。現実に、あるいはフィクションに。それがただの冗談で終わらせられない現実味、とういものがあった。落ち込んだ時に何かがあっても、ネガティブに捕らえてしまう、などと言うような事も含め。教訓にはなっているだろう。
不幸は連続しない。それぞれ独立したものであり、個別の対処法があったであろうものだ。連続して存在しているのは、あくまでそれを受ける自分自身。
だから、これらに関連などない。
きっかけこそは、裏切り者のサーヴァント、アーチャーにあっただろう。奴こそ転落の出発点だと言って、誰も否定はできまい。そして、彼を恨むのもお門違いとは言うまい。
それでも、なんとか立て直そうとはしていた。掟破りのダブルマスターに、可能な限りアサシンの温存。マスター脱落によるサーヴァントとの再契約まで考慮した、令呪の分配。同様に、問題も次々と積み重なった。間桐桜の簒奪。それに影響され、時臣は聖杯戦争から意識をそらし始める。さらには、アーチャーとランサー、セイバーとバーサーカーの同盟。勝ちの目はどんどん削られていった。
極めつけは、時臣の死だった。昨晩、状況も分からぬままに死して、左腕だけが戻ってきた。刻印を保持するために、今も魔術的措置を施した霊廟の中心に安置されている。
青白い光に照らされながら、ぽつんとそこにある腕。それを初めて見下ろしたとき、体から生命力そのものが抜け落ちていく錯覚に陥った。終わった……なにもかも。そこに転がっていた腕は、非常な現実を叩き付けるのに、この上なく有用だった。
現実を把握するのにすこぶる都合の良いそれ。事実を間違えようがないという意味で、それはとても優秀だった。肩の根元辺りから食い破られたような痕。同じものなど二つとしてない魔術刻印。形見らしいものと言えば、彼が所持していた一本のステッキ、それだけだ。その全てが、持ち主を遠坂時臣だと告げている。
完膚無きまでに間違えようが無い。疑う余地はないし、確かめる必要も無い。ゆえに、希望も無い。
もしかしたら、どこかに否定できるだけ隙間があれば、何かが変わっていただろうか。必死に否定して、探索をしていたかもしれない。問題はないと、ゆっくりお茶を飲んでいたかも知れない。もしかしたら、大声で泣き崩れる事もあっただろうか。しかし、そのどれでもない。生気が抜けていく自分の無力を、ただ押しつけられただけだ。
だが、それと同時に、心はどこか安らいでいた。これ以上、不幸が重なる事は無いと。
不幸中の幸いとして、言峰璃正の愛する息子、言峰綺礼は健在であったのだ。綺礼だけは、無事であった。
不幸は連続しない。そして、アーチャーも関係ない。我々の聖杯戦争は終わり、故にもう不幸は重なりようがない。あとは、静かに監督者としての役割を果たすだけだった。
なのに――
「……なぜだ」
言葉が、喉から漏れた。意識したのではない。単純に、心の枷が壊れて、勝手に喉を震えさせ、舌を動かした。
意図したものではない。もしかしたら、意識すらないのかも。何も分からぬまま、ただ感情が慟哭となって消えた。
「何故だ!」
絶叫など、そんな無力なものなど、どこにも届かない。誰一人として捕らえようともしない。璃正自信ですら、その叫びが意味あるものだと思えなかった。
慟哭したのだ、魂が。それは悲鳴だった。
終わりの筈だ。何もかも。それ以上もそれ以降も、存在してはいけないのに。
安らかに過ごせる瞬間とは、必要なのだ。それがどれほど一瞬であっても、それなくして人は生きていけず、それがない者は人間ではない。言峰璃正にとっては、これからがそうである筈だったのに。これ以上など、あってはならない。何を置いても、あってはならない。そう重いながら、床に膝を突き、右腕の根元を押さえ込んだ。
肩口からきれいに切断された、血を吹き肉を覗かせる断面を。
「何故だ――答えろ綺礼!」
意味の無かった音を、今度こそ意味がある言葉にする。
血を吐くように、ただ叫んだ。己が実際に血を吐いていない、その事実が不思議でならない。なぜ、血を吐いているのが口では無く、腕なのか。どうして、こんな事になってしまった。愛する息子は、なぜあんなにも――安らかなのだ。
「父上」
いつも通りの言葉。表情も、声も、仕草も、何もかもに違和感がない。左手に黒鍵を構え、右手に腕を持ち、顔に血しぶきをつけていなければ、あれは悪い夢だったと考え直してしまいそうなほどに、いつも通りだ。
父親の腕を切り落として置きながら、しかし綺礼には動揺の色は無い。ひたすら静かな――神に祈っているかのように、波紋一つ無い水面のよう。
「申し訳ありません。ですが私には、どうしてもこれが必要だったのです」
言いながら、腕を、その上に浮かぶ令呪を愛おしそうに撫でる。浮かぶ微笑から、なぜ信心深さすら感じるのか。
「なぜなのだ……! この期に及んで、まだ聖杯を欲するか!」
「……聖杯? ああ、そう言えば、今は聖杯戦争中でした。そんなものはもうどうでも良いのです。前段階として必須ではあるでしょうが、それ自体に何ら価値はないのですよ」
断じながら、笑みを深める。黒鍵を取り落として、腕を僅かに広げ。そして表情は、どこまでも優しげであり、一切の不純物がない。
(これは……誰だ?)
言峰綺礼。それを装った誰か? 分からないが、そんなはずはない。しかし、このような綺礼は見たことがなかった。そして、誰かも分からなくなったような男が――聖人にすら見えるのだ。
「父上、どうか信じて欲しい。私は真実を見つけたのです。神よりも確かなそれを。令呪はそのために必要なのです。渡していただけないと思ったから強硬手段に出ましたが、きっと最後は父上にも気に入ってもらえる」
狂った。何にどう狂えばこうなるのか、定かではない。しかし確実に、綺礼は正気ではなかった。
綺礼が一歩を踏み出す。次の行動が全く予想できない。狂人の次の一手を考えるほど、不毛な事はない。だから、璃正に出来たのは全力で背後に飛び、その後すぐに逃走する事だけだった。一歩を踏み出す度に、右肩に激痛以上の違和感が走る。気を抜いたら、その時点で膝が折れてしまいそうだ。それでも、ただ走り続けた。生きたかったからではない。無念が、死ぬことを許さなかった。
勢いのまま、日の落ちかけた外に躍り出ながら、考える。どうしてこんな事になってしまったのだ。不幸はもう終わりの筈だ。誰も、そして何も。それを繋げる手段など持たない筈なのに。こんな事はありえない。あってはいけない。なぜ、綺礼がそうならなければならなかったのだ。答えてくれ、神よ――
声が出ない。目もかすむ。どこに向かっているか分からないが、どうせ見えていても目的地などない。ただ、足が動くままに任せるだけなのだ。心が正常に、機能していないのだから。
もしその感情に名前をつけるのであれば、憎しみだっただろう。
不幸はある所にはあるし、積み重なる。それが自分になるという可能性があるのも分かる。だから、納得しろと言うのか? そんなことは世界の誰にも……それこそ、神にすらできやしない。
だから、ただ呪った。命の火を消しかけながらも、魂の底から絞り出すように。
敬虔な神の使徒。言峰璃正が初めて、純粋に混じりっけ無く呪ったのは。
運命という名の神であった。
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アイリスフィールは失った①
僅かに疲れを残す体を引きずって、部屋に入る。ドアと、そして自動ロックがかかるのを、音だけで確認。さらに上から魔術的な鍵を重ね掛けする。万全とは言えないし、攻め込まれれば容易く突破されるような簡易結界だが、それで問題ない。それは敵を早期発見する事、盗聴をされない事を目的にしているのだから。
どちらにしろ、ビジネスホテルの一室など使い捨て以外の何物でもない。こんな所で戦端を開くような馬鹿は、まずいないだろう。とは言え、可能性はゼロでは無い。そのための備えも、一応はあった。
狭い廊下を窮屈そうに通り抜け、ベッドと簡単なテーブルセットを置いただけで満杯になる部屋。フードを被った雁夜が椅子に座っており、その正面に切嗣も腰掛けた。少し勢いよく身を落としただけで、ぎしりと悲鳴を上げるそれ。安ホテルになど何も期待はしていないが、それでも宿泊費を考えればお粗末なものだ。
懐からたばこを取り出し、同席者に声も掛けずに火をつける。ニコチンをめいっぱい脳にしみこませ、思考力を無理矢理起こした。
続いて、二三度紫煙を吸い込み、零れそうだった灰を灰皿に落とした所で、やっと雁夜が口を開く。
「どうだった?」
「一命は取り留めるだろう。暗示を使って一般人に通報させ、対応させた」
事の始まりは、今から一時間前ほど。
その日は朝から、拠点引き払いの為に動いていた。結界を粉砕された城では、その場にいてもデメリットしかない。元々、大火力で爆撃を行っても、周囲に知られる恐れのない場所なのだ。それでもあそこに居たのは、事前に敵を察知でき、トラップ満載の道の通行を強制できたから。その二つの利点がなくなっても、居続ける理由は無い。
拠点の移動は選択肢の一つとして最初からあったため、それ自体はスムーズだった。弾薬も魔術礼装も、町中に分散して保管してある。大荷物を持って移動するのでなければ、撤収には気付かれても、次の拠点までは分からない。
次拠点周囲の最終調査を終えて、アイリスフィール達を呼んだ、その時だった。彼女から、血まみれの監督者発見を告げられたのは。
切嗣は、すぐにその場を離れるように指示し、雁夜を連れて現場に急行した。当然、治療や救出などが目的ではなく、事情の聞き出しのため。
雁夜を連れたのは、ある程度連絡を取り合った経験のある彼が居れば、スムーズだと思ったから。幸い、魔術的な攻撃手段のほぼ全てを失った代わりに、普通に動ける程度に体は回復していた。それで足手まといにはならないし、むしろバーサーカーという最高の護衛を得られる。
連絡があった通りの場所に行くと、人払いの結界に包まれた一人の神父がそこにいた。血の止まった右肩を強く握りしめ、悲痛な表情を浮かべる老人。
聖杯戦争だけの関係に、親しさがあるわけが無い。とは言え、名前と顔を覚えていないなどと言うこともありえない。書類と、あとは幾度か使い魔ごしに見た顔、それとは似ても似つかない、ただのくたびれた老人のようなそれ。顔のパーツは同じでも、生気というものがごっそりと消えていた。切嗣ですら、最初はだれだか分からなかったほどだ。
あとは、その場で雁夜に情報収集をさせ、先に帰す。事前に確保しておいたセーフハウスの一つを指定するだけだから、簡単だった。さらに事後処理を終えて、切嗣も撤退したのだ。
ちなみに、監督者を殺さなかったのは、単純に処理が面倒だからである。死体の片付けもそうだが、神秘の秘匿には彼のコネが必要だ。
「しかし、言峰綺礼か。大人しくしていたと思ったら、面倒な事をしてくれる」
「なあ、そいつどういう人間なんだ? 聞く限り、あんたは詳しそうだが」
「あんな奴、詳しいもんか」
吐き捨てるように――いや、実際に痰を吐き捨てながら言った。喉の奥にはまだ、タールか何かが張り付いて違和感がある。つまるところ、言峰綺礼とはそういう存在だった。
切嗣は当初から、その男が危険だと感じていた。理由は無い。敢えて言うならば、ただの勘だ。言い換えてしまえば被害妄想。しかし、それをどうしても払拭できないほど、そいつの存在が目障りで仕方が無かった。
結局、その勘は正しいと言うか正しくは無かったと言うか。目障りだという点のみでは、正解だったが。どこでどう知ったのか、機械的連絡手段を得た綺礼のおかげで、通信網の半分を失った。いや、使えないことはないのだが、油断するとひっきりなしに声が飛んでくる。アイリスフィールにすごく微妙な顔をされたのは、一生ものの恥だ。
「本当にか? あの様子は、とてもそう思えなかったんだが……」
「君は死にたいのかい? 僕と奴に接点なんてないし、つきまとわれる覚えもない」
疑うというよりも、情報になることならば何でも言えと言いたげな雁夜。それに、今にも銃を抜き出しそうな様子で威嚇する。
返答は、一つのため息だった。腹立たしく思ったが、非が自分にある自覚はある。黙って話を進めた。
「恐らくこの件は、迷宮入りの殺人事件として処理される可能性が高い。それが発覚する前に隠す人間がああだから、当然だけどね。あとは、使い魔に教会を探索させたけど、やっぱりめぼしい情報は何も見つからなかった。……ああ、地下に遠坂時臣のものと思われる腕が転がっていたよ。刻印入りだから、まず間違いない」
「そうか……あいつが……」
顔を伏せ、うめくように雁夜が言った。
(へえ。意外だな)
率直な感想を言ってしまえば、切嗣は彼がもっと喜ぶと思っていた。少なくとも当初、彼の時臣に対する感情は、怨念と言ってもいいほどのものだったのだから。
喜ぶ感情がないわけではないだろう。だが、それ以上に先を見据えた反応だった。
治療と鎮痛により、正常な思考能力を取り戻したおかげだろう。まあ多分に、桜の安全、臓硯の影響下から離脱、時臣の凋落などがあるだろうが。とにかく、因縁ある相手の死に、変な興奮のされかたをせずに良かった。
「そちらは何かあったかい?」
「ああ、あんたの助手の女から連絡があった。すでに拠点に入ったそうだ」
アイリスフィールの安全も、これである程度確保された。防衛機構に乏しいが、その分敵を、特に害意ある者は絶対に見逃さない。早期発見さえできれば、セイバーで撃退できる。
あの騎士王の戦力は、行動に感情さえ挟まなければ非常に優秀だ。飲み会の後からは妙に落ち着き、戦力として信頼できなくはない、という程度には信じられるようになった。機能にむらがあっては、兵器とは言えない。ありがたい限りだ。
つまり、今現在憂いはないと言うことだ。ただ一点を除いて。
「で、君はこの件をどう思う?」
「情報が足りないとしか言いようがない。俺はその、言峰綺礼だったか? 奴とは接点がないんだ。行動もちぐはぐで、快楽殺人鬼か狂信者あたりにしか見えない」
「ただの頭がおかしい奴じゃないだろう。そんな人間が代行者にはなれないしね」
やんわりと、頭がおかしいという点については否定しない。
がさりと音を立てながら、テーブルの横に積んである紙が広げられる。それらには分かる言葉で書いてあるものから、記号にしか見えないものまで。所狭しと書き込まれていた。
切嗣は、紙の内自分の正面に置かれたものに視線を落とした。そこには、分かる言葉の方でいくつか書き込みがあった。『アサシンの消耗』『監督者への裏切り?』『ストーキングの中断?』『令呪の簒奪』
「こいつが令呪を欲しがって襲撃したのは、間違いない。親子だし、奇襲それ自体は楽だったはずだ」
まあ、その通りだろう。頷きで答えた。
はっきり言ってしまえば、監督者には予備令呪以外に価値など無い。右腕を奪っている事からも、それは間違いないだろう。ただし、それをどうやって使うのか、という問題がある。
彼が召喚したサーヴァント、アサシン。あれは非常に有用だ。強力なのでは無く、有用。そうたらしめているのが、汚れ仕事でも忠実に働く精神と、気配遮断スキル、そして数の暴力を振るえる点だ。分裂に常に複数の優位を得られる点は、最大の強みになる。逆に言うと、その優位をなくせば、便利なだけの存在になってしまうのだ。極めてフラットなメンタルというのも、確かにありがたい。しかしそれは、ある程度大砲に対抗できる、という前提あってのものだ。便利なだけのナイフでは、多少扱いづらくとも大砲の方がいいに決まっている。
数を生かせる、という意味ではライダーもそうだろう。しかし、あれは限られた空間、密集した人員と便利性が皆無。実際の扱いは瞬発型宝具と同じ。
恐らく一番近いタイプはアーチャーだ。道具を取り出しそれを上手く運用すれば、あの通りなんでも出来てしまえる。マスターが使えるものも、多数所持しているだろう。能力だけで言えば、切嗣との相性は最高だ。
複数存在することが最大の長所であるのに、その利点を取り払ってどれほど意味があろうか。分裂アサシン一体あたりの能力はE-。令呪をどれほど投入しようが、もうサーヴァントは仕留められないスペックだ。あれだけ消耗してしまっては、もうどれほども残ってはいまい。今更令呪を手に入れて、どれほど意味があると言うのか。
しかし、それはあくまで自分で使う場合の話。それを利用できる相手に持って行くのであれば、話は違ってくる。
「言峰綺礼の行く先は、まず間違いなくアーチャー達の所だ」
断言する切嗣に、しかし雁夜の反応は鈍い。口元に手を当てたまま、悩み込んでいる。
「こっちに来ていない以上、他にはどこもないだろう。まさか三流マスターと暴走サーヴァントのコンビに靡くと思っているのかい?」
「いや、そうじゃない……そうじゃないんだが、どうもしっくり来ないんだ」
書面を睨みながら、思考の世界に埋没する雁夜。
切嗣は、灰皿に置かれたたばこに手を伸ばす。それに触れて、初めてフィルターの根元まで燃え尽きている事に気がついた。指先で尻を蹴り、灰皿の中に落とす。そして、新しいたばこを取り出して、ゆっくりと煙を肺に溜めた。
プロファイリング。多数の情報を整頓するのではなく、限られた情報から全体像を見通す能力。フリーのルポライターが事件にありつくには、こういう力が必要だった、とは彼の弁。それを抜いたとしても、大した能力だと思っている。
雁夜は一枚の紙を手にとって、裏返す。そこにもびっしりと何かが書き込まれているのを確認すると、それを投げて次の紙を手に取った。同じ事をなんどか繰り返し、白紙を見つけ、そこに愛用の万年筆を滑らせ始める。左側に、アサシン、時臣、右側に監督者、令呪と書かれ、中心に線を引いた。
「俺は、この二つは別だと思う。言峰綺礼の行動と言うか、意思は、多分右側だけだ。そして、左側の何かが原因で、そういう行動を取り始めた」
「そうだとして、じゃあ左側は誰がやったんだ?」
「……分からない。ただ、言峰綺礼と左側の行動に、どうしても繋がりが見えないんだ」
納得はできないが、しかし言わんとする事は分かる。言峰綺礼が企んだのならば、もっとスマートに事を運べたはずなのだ。
まず、時臣の暗殺に、アサシンを消耗させる理由がない。状況から察するに、恐らく時臣とアサシンの間に何らかの繋がりがあったのだろう。時臣を害すれば、それを守るためにサーヴァントも動く、という風に。しかし、一人だけそれを除外できる人間が居る。それが綺礼だ。元からのマスターである彼であれば、アサシンの介入を防いで暗殺を完遂できるだろう。
ならば、消耗はデモンストレーションだろうか。アサシンを使い切り、自分にはもう手札が無い事を証明する。その上で令呪を手に入れて、どこかの勢力に入り込む。しかし、それで信頼される保証などない上に、令呪だけ奪ってしまえば話を聞く理由はない。それに、サーヴァントを無くしてまでやる事でも無い。
これが綺礼以外の誰か第三者が実行犯、こう考えれば、アサシンを始末する所までつじつまが通るのだ。しかし、そうであれば。今度はそれが『誰か』という問題が出てくる。同時に、その人物に綺礼がどう影響されてこの事態を起こしたか、という問題も。
例えば、
「一流の魔術師である遠坂時臣を、誰かに痕跡すら発見されること無くスマートに始末。その上、言峰綺礼を籠絡し支配下に置いたとかかい?」
よほどの不意を打つのでなくては不可能だ。例えば、信頼する協力者がいきなり裏切ったり、などの。
妄想をそのまま口にして、思わず吹き出した。非常にナンセンスで、馬鹿馬鹿しい。三流劇場に乗せる自主作成映画あたりならば、上等と言えたかもしれないが。
「それ、一部逆だとしたらどうだ?」
「逆? どこが?」
「時臣を殺したのは、容疑者A。そして、言峰綺礼は多分、そいつに接触できた。しかし、ここからは言峰綺礼が主導をし始めた。容疑者Aに気付かれた、気付かれてないは分からないけど、そっちの意図を無視して動いている」
「……根拠はあるのかい?」
「監督者の言葉を聞いたとき、だいたいは意味の無い言葉だった。苦痛と出血多量だったのもあるだろう。だが、その中に『神』や『真実が』なんて単語があった。言峰綺礼の事を聞いたときだ。それらが関係してないとは、俺にはどうしても思えない。少なくとも今、言峰綺礼には彼自身の為に動いているだろう」
今度は、切嗣が悩む番だった。確かに、綺礼が支配下に置かれたのでは無く、互いに利用し合う関係になったとすれば。同時に、かなり漠然としていて無作為であり、それ故に切嗣に向いていた意思。それが一つに統制を取られ、何かに走り出したとすれば。それぞれがちぐはぐな理由はある。
綺礼が本気で動き出したというのは、恐ろしく危険だった。少なくとも切嗣にとっては、見えぬ誰かが影に隠れて蠢動するより遙かに。
しかし……やはりだめだ、と頭を振る。それの先がどうであろうと、動かない、という選択肢はもう取れないのだ。
死にかけの監督者を放置した理由、これは簡単だ。同盟を組んだ陣営どちらかに発見させて、もう片方に攻め込ませるため。実際に令呪を渡そうが渡すまいが、そうなってからでは遅い、という意味で思考は共通する。
どうやって時臣を始末したか、というのも疑問のまま。いや、むしろより難易度が上がっていると言ってもいい。
そして、雁夜の考察は、それを押しとどめる理由にはなれなかった。
「やはりだめだ。ただでさえ手のつけられないアーチャーに、大量の令呪を渡す可能性があってはならない。最低でも今、ランサーを落とせなければ、勝算が『ある』のはここまで。そう定義されてしまった」
その言葉に、悔しそうに顔が伏せられる。その理由は、己の考察に逆うからか、それともアーチャーと敵対するからか。
「やめるかい?」
もう一本、たばこを吸おうか。ソフトケースに指を掛けたところで、中止し手を戻した。手をふさがれてしまえば、銃を持てなくなる。
最悪の場合は、彼を殺して令呪を奪う。そうするためだ。
「いや……仕方がない。アーチャーがまがりなりにも桜を守っているとは言え、それは聖杯戦争中だけだ。どちらにしろ、奴を倒して保護する必要がある。少し前倒しになっただけだ」
「そうか。じゃあ、行こうか」
今度こそ、たばこを指に挟む。引き金ではないその感触は、とても柔らかく軽い。
アイリスフィール達に襲撃決定の連絡を入れて、二人は部屋を出た。その時に、結界も解除しておく。もうここを利用する事は無い。
部屋と同じく寂れた廊下を歩きながら、切嗣は前を睨んだ。道の先よりももっと遠く、見果てぬどこかを。
聖杯を手に入れるのに、邪魔が入った。計算外の事態も、己の予想を遙かに超えて大きいものになっている。しかし、まだ大丈夫だ。何も終わってはいない。
必ず手に入れて、そして世界中に捧げるのだ。誰も苦しまぬ世界を。その為に、必ず手に入れる。
無垢なる完全な奇跡――聖杯を。
太陽が沈んで間もなく。街は未だ人工灯で人の活動時間を告げながら、しかし活気は全くと言って良いほどなかった。
しばらく前に起きた、連続殺人事件。犯人逮捕のニュースはすでに流れていたが、それでも住民は闇を恐れて、家という名の箱庭から出る事はできなかった。分かっていたことだが、人の社会とは脆いものだ。どれほど平和な日常も、簒奪者の出現によってあっという間に失われる。そして――悲しむべき事に。それは太古から今に至るまで、常に幾度も繰り返された日々だ。
夜風、と言うには早すぎる冬のつむじが、セイバーを撫でる。お世辞にもそれが心地よいと感じられないのは、これから行うことの自覚があるから。
どれほど気が乗らなくとも、しかし今更やらないという選択肢はない。聖杯戦争も、そして王である事も。
腕をだらんとたれ下げ、そして次に感じるのは、ずっしりとした剣の感触。改めて持てば、それがとても重いことに気がつく。当然だった。なにせ、その輝く剣は、ブリテンという国の思いそのものなのだから。
いつしか……剣を振るうことに、戦をすることに、そして、王である事に。慣れすぎて、鈍磨になり、やがてただの剣のように振るっていた。
思い出すのだ。その剣には、祖国の命運がかかっているのだと。
「セイバー、大丈夫?」
「ええ、問題ありません」
集中するセイバーの背中に、心配げな声がかけられる。
振り返り、アイリスフィールの顔を確認した。そこにはやはり、はかなげな表情があった。
「やっぱり、私から切嗣に言って……」
「違うのです、アイリスフィール。間違っていたのは私だ」
不思議そうな表情のアイリスフィール。きょとんとした様子はまるで童女のようで、そう言えば、彼女は外見ほど人生を体験していないと思い出す。安心させるように、優しく、そして力強く微笑んだ。
「私にはしなければならない目的があり、そして切嗣にもあった。しかし、私は彼の願いを抱えていることも忘れて、自分の誇りのために戦っていたのです。相手に信じて貰う努力を放棄しておきながら、自分は信用されるのだと、身勝手にも信じていた。切嗣の言うことは、全くの正解でした」
風の鞘に包まれた聖剣を撫でる。そこに剣がある事を確認するために。
「エクスカリバーは、いつ折れても仕方が無かったと思います。しかし、この剣はまだ私の手の内にある。ならば……今度こそ、ただ勝利のために戦う」
その剣の名にかけて。
「と言うわけで、私は大丈夫です。心配いりません、もう迷わない」
持ち上げていた剣を一度振り払い、再度片手で吊るすように持つ。
正直に言ってしまえば、その手段に思うところがない訳では無い。ただ、それ以上に大切なことを思い出したというだけ。しかし、それが何より重要だった。
「そう……なら、私からはもう何も言わないわ。ただ、一つだけ……」
不安さは振り払われ、いつもの快活さが宿った顔つき。めいっぱいの彼女らしい笑みと、勝ち気な雰囲気。それで全開に叫んだ。
「勝ってきて、セイバー!」
「はい……! 貴方と切嗣に、必ずや勝利を収める事を誓いましょう」
この先の道は、決して容易くない。それを知るからこそ、誓いを立てた。
振り返ったセイバーは、ガードレールに手を置く。郊外の、なだらかな丘になっている場所、その頭頂部。見下ろす、とういう程の高度はないが、それなりに遠くまでは見通せる。街を眺めるならば、少し交通の便が悪いことを除けば、なかなかの位置だった。なにより、ここはランサー組の拠点が見えるのがいい。
新たなランサーのマスターが構える拠点の、領域より少し外。何かを探すように、人通りの少ない場所を探す影。それがランサーであると、セイバーの視力はぎりぎり捕らえていた。なぜ具現化し、現代の服を着ているかは分からなかったが。
「そっちの準備はもういいか?」
「カリヤですか。ええ、私はいつでも」
車から出てきたのは、雁夜と舞弥だ。
今回の作戦は、セイバーとバーサーカーによるランサーへの速攻だった。
ランサーというサーヴァントには……いや、ディルムッド・オディナという英霊には、致命的な弱点が存在する。それは、彼が限りなく一対一向けの戦闘能力を持つ、という事だ。紅薔薇はその特性でもって、能力の多くを防ぎ、または突破する。そして黄薔薇で回復不能な傷を負わせて、じりじりと追い詰めるのが基本戦法だ。しかし、これは同時に瞬発力に欠く事も意味している。今聖杯戦争は、火力に富んだサーヴァントが多い。その中で、最も火力が不足しているのがランサーだ。
瞬発力があるというのは、決着を急げるという事だ。対軍以上の宝具は、複数の襲撃に対して有効な手段を持っている事にもなる。戦闘持続能力と安定感が高く、宝具の能力は多くの敵と優位に戦えるというのは確かに長所だ。しかし、それは一転して不利な状況に追い込まれると、逆転する手札が少ないという意味でもある。
バーサーカーもこの時のために、武器を用意していた。さすがに宝具は不可能であったが、強度に重点を置いた強力な概念武装。それならば紅薔薇に切り飛ばされる事もない。さすがに、素のままでサーヴァントを切るのは不可能だったが。
「切嗣は?」
「位置に付いたと連絡を受けた。まあ、出番は恐らくないだろうが」
フードで顔を隠したままの雁夜が、街灯だけが頼りの暗い街を見る。そのどこかに、切嗣が潜んでいる。
あわよくば、ランサーが襲撃されたことに気がつき、出てきたマスターを仕留めるためだ。だが、出てきてくれる可能性はまずない、とは雁夜の判断である。
敵マスターは、切嗣に危険な切り札があると判断している可能性が高い。少なくとも、アーチャーにはそう諭されているだろう。これが彼のプロファイリングした結果だった。挑発までしてみるが、それですら表に出てくる可能性は五分五分、との事だ。その程度の確率だからこそ、舞弥はこちらでアイリスフィールの護衛役になっていた。
ちなみに、爆撃等の手段は、立地が悪く不可能だったとか。突入するには、格上の魔術師では危険が高すぎる。
「それでは――行きます」
言葉と同時に、セイバーは一つの弾丸となった。草は風圧だけで荒れて吹き飛び、ただの踏み出しで地面が陥没する。
それより僅かに遅れて、バーサーカーも追ってくるのを気配で感じた。セイバーとて大人しくはないが、こちらはさらに荒々しい。地面をめくり返し、走った後に土の墓場を作る。
数キロ離れた距離も、サーヴァントが全力で走れば分とかからない。ランサーの輪郭はみるみるうちに大きくなっていき、あと数百メートルの時点で、急にセイバーへと向き返った。
(さすがに、奇襲は成立しないか)
サーヴァント同士は互いの気配を察知できる。例外は、気配遮断スキルを持つアサシンのみ。故に、この結果は当然であり。落胆と感謝の入り交じった苦笑、しかしそれを外に出す事は無かった。気付かれようが、気付かれまいが、嬉しくあり惜しくもある。我ながら現金なたちだ、と呆れた。
剣を持つ手にさらに力を込めて、肩に担ぐように構える。見えないが、恐らくバーサーカーも同じように構えているだろう。
ランサーが、両手に槍を構えた。
隙を狙うには、気付かれたのが早すぎる。しかし、完全な対応をするには、気付くのが遅すぎだった。
構えた剣に、ありったけの魔力を乗せて、全体重を乗せて叩き付ける。接触した紅槍が大きく撓むのが見み、衝撃を殺さんとした。
しかし、と。セイバーは地に着けた出足を、勢いに乗せてさらに踏み込むために使った。もう一段の加速と二重の衝撃に、さすがのランサーも堪え切れなくなる。体は大きく後方に吹き飛ばされ、膝を突きながら勢いを殺していた。あれだけの衝撃に見舞われながら、それでもセイバーを確認し続けているのはさすがだった。
無茶すぎる加速で体勢が崩れぬ訳が無く、つんのめるようにして裏まで抜けるセイバー。本来であれば、がら空きの背後に一太刀貰っていただろう。しかし、今回に限りその心配は無い。
追撃の黒い暴風。暗黒の霧を纏った暴力的ながらも精緻を極めた一撃が、触れるもの全てを粉砕しようと放たれる。未だ膝を付いたままの、体勢を立て直しきれぬランサー。いくら彼でも、この状態で武器破壊はできない。二本の槍を十字に構えて、可能な限り衝撃を受け止めようとした。だが、誰から見てもそれは無謀だっただろう。バーサーカーは、混じりっけなしの全力の一撃。それに対して、ランサーは力を入れ辛い姿勢の、苦し紛れな防御。どちらが勝るかなど、火を見るより明らかだ。
再度、吹き飛ぶランサー。向かう先は、当然その先まで走り抜けていたセイバーの元だ。
最優の名を冠するセイバーであれば、刹那ほどの時間でも体勢を立て直せる。ましてや、後続が敵を吹き飛ばしてくるほどの時間があれば、足の指先まで力を充実させるのに十分すぎる。
地面が割れそうな程に力を込めて踏み込み、力の流れを一切無駄にすること無く、剣に伝える。命を砕くことに特化した、頂点から真っ直ぐに振り下ろされる死神の鎌。空間すらねじ切れそうな程の一撃。
しかし、それにすらランサーは対応してみせた。左足で急制動をかけて、セイバーに向かう体を無理矢理止める。左肩を右手の槍で防御し、斬撃が放たれると同時に逆方向に飛んで見せた。
うまい――セイバーは思わず称賛していた。手に伝わる、重い感触。しかし、完全な当たりであった場合と比較すれば、軽すぎる。槍で剣を滑らせ、上手く地を蹴る代わりにして距離を取られる。槍が引かれて、見せた額からは僅かな出血。しかし、それだけだ。ランサーの耐久力であれば、一撃で死してもおかしくない攻撃の三連撃。それを受けて、なお悠然としている。
分かってはいたが、容易い敵ではない。いや、元々聖杯戦争に、容易い敵などいなかった。それを確認し、剣を構える。
ランサーは槍を構えなおして、しかし視線を左右に飛ばしながら動けない。
「ランサーよ、貴方には、先に謝罪をしておく」
挟撃をされながらも、しかし全く隙がない構え。やはり、容易くはない。バーサーカーも剣を構え、しかし動けないでいた。
「許してくれ、と言うつもりはない。だが、私はやはり、何よりも聖杯を優先しなければならいのだ。尋常な決着をつけられないのは心苦しいが……ここで脱落して貰う」
セイバーの宣言に、しかし警戒を解かず、隙も無いまま、大きく一つ息を吐いた。まるでため息にも見えるそれ。
「全く――」
初めて口を開いたランサーに、セイバーは眉をひそめた。おかしい。何かは分からないが、とにかく何かがおかしい。
理由も分からないまま、しかしじりじりと距離を詰める。救援が来る前に、決着をつけるのが今回の作戦なのだ。些細な違和感に、躊躇っている時間はない。
しかし、
「釣ろうとは思っていたが、まさかお前達だとはなな」
今度は、違和感を無視できなかった。その声も、口調も、まるでランサーのものではない。
ランサーの姿が、ぼろぼろと崩れて光になっていった。
「……馬鹿な」
上部から消えて、別のものが中から現れる。どちらかと言えば落ち着いた雰囲気の美丈夫。その内側から出てきたのは、似ても似つかない男だった。
髪も、鎧も金色。全てが輝くように構成された存在。持っていた槍すらいつの間にか光に溶けて、二本の剣へと入れ替わっていた。黄金にして、完璧の王、しかしその中で数少ない金以外の構成物。額から流れる血と、瞳の紅。眼光から飛ばされる視線が、セイバーのそれと接触した。
そこに居たのは、槍兵のサーヴァント、ランサーなどではなく。弓兵のサーヴァント、アーチャーだった。
「惚けている時間があるのか?」
言葉に、意識を集中する。敵は予想外にして最悪の相手だった。しかし、今更引くことはできない。こうなれば、ここで倒し切る事も考慮すべきだろう。
しかし、その様子をあざ笑うように、アーチャーが口元をつり上げた。
「お前達が来た方向は丸わかり。そして、ここにいるのは俺一人。バーサーカーがここにいるという事は、さほど離れた位置でもないのだろう」
「まさか……!」
その言葉に、最悪の展開を予想する。そして、それこそが失敗だとすぐに悟った。
「なるほど、その先にいるわけだ」
「くぅ!」
かみしめた歯の衝撃と音が、刺激物のように脳に突き刺さる。
まずい。間違いなく失敗だ。
例え上にいる全員を討ち取られても、セイバーだけは残る。マスターが存在するのだから。しかし、それでは殆ど詰んでいる。
どうする――と思考を高速で巡らせた。エクスカリバーは未だ使えない。かと言って、アーチャーは多対一に卓越している。速攻で仕留めるのはまず不可能だ。いや、それ以前に、距離を開けられたら一方的な展開になってしまうだろう。
最悪であっても、絶望的であっても、必ずどこかにある最善を。それを探し続けて、
「お前が行くなら止めはしないぞ」
「なに?」
「お前が、今向こうに向かっているランサーを止めに行くのを止めはしない、と言っているのだ」
理由を聞くまでもない。アーチャーにとっては、ここでバーサーカーを確実に仕留めた方がいい、それだけだ。しかし、彼の最善は同時にセイバーの最善でもあった。
これでセイバーが急行し、ランサーを止められれば、まだ五分の状態。それに防戦一方ならば、セイバーはあまり役に立たない。能力的に考えても、バーサーカーの方が相性がいいだろう。
手の内で踊らされているようで気に入らない。しかし、それ以外に手が無いのも事実だ。
アーチャーを警戒しながら、脇を駆け抜ける。通り抜けた後は、脇目もふらずに全力で来た道を戻っていった。アイリスフィールの無事を祈りながら。
あっという間に豆粒程まで小さくなるセイバー。その背中を見送りながら、俺は息を大きく吐いた。この襲撃で、どれほど寿命を減らされたか。
これほど強引な速攻が予想外なら、それをしたのがセイバーとバーサーカーだというのも予想外だった。バーサーカーの正体を考えれば、まずセイバーに襲いかかりそうで、共闘が成立しなさそうなのだが。
いや、それよりも問題はセイバーだ。zeroのセイバーが、二対一の戦闘を許すとかありえない。と言うか奇襲じみた攻撃も嫌がるだろう。現実はそれどころか、即席の連携までして見せ、精神的に弱そうな部分も見えなかった。あれはどう見てもSNセイバーである。凛マスターのセイバー並とか、それだけで勝負する気になれない。これでアヴァロンまで手に入れられたら、本気でラスボスだ。
左手に持つ剣を蔵に戻し、額の血を拭う。右手に持つ剣は、当然バーサーカーに向けたままだが。
本来、これはまだ舞台に上がらない見知らぬ誰かを引っかけるための作戦だった。
そもそも、ただの人間にとって、どのサーヴァントが一番攻略しやすいか。おそらくは、ライダーかランサーになるだろう。理由は簡単で、ステータスのバランスが悪い者である。まず論外なのが、俺だ。アーチャーというクラスの関係上、気付かれず接近するのがほぼ不可能。気付かれても遠距離攻撃で接近が不可能。同時に、豊富な宝具を揃えて、対応能力も高い。そして、誰も知らないことであるが、財宝のバックアップで表示など飾りにもならないステータスアップが可能。そうでなくとも、ステータスはアベレージBである。
次に無理なのが、セイバーとバーサーカー。通常戦闘に必要な筋力、耐久、敏捷がほぼAで揃っている。この時点でどうにもならない。さらに、セイバーは戦闘スキルが多彩。特に魔術師殺しと言える対魔力がAランクだ。バーサーカーも、攻防共に力を発揮する騎士は徒手にて死せずがある。それでも、理性が無いだけ与しやすいかもしれないが。なお、バーサーカーの場合はマスター狙いをしてもいいが、その対策を切嗣が取らない訳が無い。恐らく何らかのカウンターを仕込んでいるだろう。
そうすると、残るのがライダーとランサーだ。ライダーの場合、耐久こそ高いが、敏捷が全サーヴァント中最低値である。戦車を出す前であれば、手の撃ち様はある。また、マスターを狙っても良いし、宝具の無駄撃ちを誘発してもいい。強力なサーヴァントではあるのだが、宝具の融通が利かなすぎるのが欠点だ。ランサーは逆に、耐久が低く、攻撃を通しやすい。対魔力Bと高い数値を持っているが、これは一流の魔術師であればやりようがある。また、瞬発型宝具がないだけに、物量攻撃がこの上ない効果を発揮するサーヴァントなのだ。
当然、両者ともに容易い相手ではない。だが、他のサーヴァントと比べると、まだ攻略に希望が持てる。ついでに言うと、これからサーヴァントなし――居たとしても薄くなったアサシンだけの魔術師が、方法の一つも考えていない訳が無い。下手をすると、俺が知らぬ所でランサーが脱落している可能性があった。
ならば、どうすればいいか。答えは簡単だ。俺がランサーのふりをして、囮になればいい。
まず、宝具の力で俺の姿の上に、ランサーをかぶせる。同時にステータスも、全てA+に近くなるほど強化しておいた。これで、襲われてもまずいきなりやられはしない。とりわけ、相手がランサーのつもりで襲ってくるならば、このステータス差は痛いだろう。
通常探索も続けつつ、ケイネスの陣地ぎりぎり外あたりを歩く。そしてランサーは、本拠地近くで霊体化し、常に俺を確認していたのだ。遊撃兵として、即時対応ができるように。
ライダーを襲った場合は、もしかすれば空中に逃げられる可能性がある。それに比べれば、まだ罠に見えてもこちらを狙ってくると思ったのだが。
引っかかったのは、別の獲物だった訳だ。
「■■■■■■■■■■!!」
「くっ……んのぉ!」
力任せに見えて、その実恐ろしく鋭い一撃をなんとか受け止める。
考えてやった事では無い。いや、悠長に思惟などしていては、間違いなく両断されている。これは、見た瞬間に体が勝手に反応しているのだ。
それは経験なのか、それとも身に染みついた技が成しているのか。本来のギルガメッシュではない俺には分からない。ただ分かっているのは、それがあるからこそ、俺は今も生き長らえているという事だけだ。
余計な事は考えない。全て、体が反応するがままに任せる。ただの暴風に見えて、その実しっかりと急所を狙う剣筋。いくら筋力で勝ろうとも、相手にはその差を補って有り余る技術がある。
鋭く狙ってくる突き。剣だけでは捌ききれず、鎧にも当ててそれを回避した。耳障りな音が、肋骨から伝わってくる。剣を引くと同時に、流れるようななぎ払い。これも剣の腹で受け流すが、しかし次の切り落としまでは流せない。剣同士が激しくぶつかり合い、衝撃で足が地面に沈む。筋力で勝っている筈なのに、全くそんな気がしなかった。
「っおおぉ! 下がれぇ!」
「■■■■■■■!」
つばぜり合いからの、全身をつかったぶちかまし。当然、こんなものでダメージは狙えないが、しかし貴重な十メートルという距離を稼げた。
互いに剣を構える。俺からは攻められず、そしてバーサーカーも様子を見ていた。これだけの距離、俺に有利なようで、しかし実はそうでもなかった。サーヴァントにとっては、この十メートルという距離ですら、一足一刀の間合いにすぎない。ただの一歩で、また剣の応酬が始まる。
宝具を放ちたい衝動に駆られたが、それをなんとか自制する。以前にバーサーカーと対峙した時とは、状況が異なるのだ。今は武器を持ち、しっかりと構えてもいる。元はランサーと戦う気だったのであれば、紅薔薇対策もした剣なのだろう。武器破壊は期待できず、小物の武器を大量に打ち出すには、距離が足りない。かといって強力な武器を選べば、相手の戦力を増すだけだ。
このまま戦っても、そうそう負けはしないだろう。しかし、勝つにしても時間がかかる。
いっそ、アロンダイトに頼ってくれれば楽なのだが……様子を見る限り、それは全く期待できなかった。
バーサーカーは、理性が無くとも、本能まで無くした訳では無いのだろう。そうならば、すでに自分の間合いにするべく、突撃しているはずだ。それで危険だと思っているから、機会をうかがっている。
「……長くなりそうだな」
距離を離したい俺と、詰めたいバーサーカー。じりじりと動けば、多少の距離は変動するものの、やはり一歩分の間合いは動かない。
なるほど、確かにこれは、サーヴァント攻略としては最高の一手だ。それを認めながら、バーサーカーを牽制した。
考えてみれば、サーヴァントはまだ5体か6体健在なのだ。自分で倒すよりも、互いに喰らい会わせた方が遙かに楽で、効率的である。問題は、セイバー組の指揮官である切嗣をどう動かしたか、という点だが。そこまでは、ここで考えて答えがでる事ではないし、そんな余裕も無い。
姿の見えぬ敵は、思ったよりも遙かに狡猾だ。全てにおいて予想の上を行かれ、かつ後手に回っている。サーヴァントと情報、二つの優位を持ちながら。
しかし、勝負はまだ決まっていない。戦い始めたのは、ケイネスも桜も気がついている。ケイネスは前に出ず、聖杯の解析と術式の構築を急ぐだろう。桜には、もしもの場合は第二の保険を動かすように伝えておいた。おそらくは、これをもしもの事態だと判断してくれるだろう。
それで大丈夫だとは思っている。だが、あくまで保険は保険でしか無い。頼りすぎるには危険だ。
やはり、ここは俺自身が決着を早めるしか無い。大きく息をすって、覚悟を決める。あるいは、諦めた。
篭手越しの剣を確かめる。慣れない感触であり、強力な宝具のはずのそれは、酷く頼りない。それでも、バーサーカーの剣を止めるのであれば、そんなものにすら頼らざるをえない。
二人が動いたのは、ほぼ同時だった。しかし、方向は正反対。俺は後ろに全力で飛び、バーサーカーは前方に疾走する。
苦し紛れの一手ではあった。タイミングがずれてしまえば、それだけで距離を調整され、得意な距離に持ち込まれただろう。しかし――俺は上手くやって見せた。
「吹き飛べ!」
万が一に備えて剣だけは構えたまま、力の限り吠える。
俺の背後の空間が撓むように揺らめく。この世界と、ここではないどこかと。それらが繋げられた証。以前もやって見せた、バーサーカーに対する必勝法。小型の攻撃型宝具を、無数に飛ばして対応するだけの余裕を奪い取る、というやり方。以前と違い、手に武器を持ち、そこそこの距離的余裕があると言っても、対処など出来るはずが無い。単純に、手数が足りないのだから。
だが、バーサーカーの行動は、全くの予想外だった。
地面に深々と突き刺される剣、それで掘り起こすようにひっくり帰される。それで作られたのは、高さ二メートルはあろうかという土壁だった。横幅も決して狭くは無い。例えば、バーサーカーが盾にするのには。
そんなもので、防ぎきれる筈が無い。騎士は徒手にて死せずは、ただの鉄骨を宝具と打ち合えるまでに強化してくれる。正しく規格外宝具だ。だが、それでもただの土で、宝具の乱射を防御し切る事はできまい。それが機能するのは、あくまで一瞬だろう。
だが、バーサーカーにとっては、その一瞬で十分だった。右手で地の盾に触れて、それを宝具化する。そして、左手に持った剣で飛来する宝具の群れをなぎ払い始めたのだ。
「んなっ!」
土壁が持ったのは、本当に一瞬だった。数発の宝具に打ち付けられて、すぐに崩壊する。しかし、それで稼いだ時間は。バーサーカーが宝具の雨から、自分一人抜けられる穴を作るのに、十分だった。
左半身だけを前に出し。降る宝具に鎧を削られながらも。しかしきっちりとくぐり抜けて、フェンシングのように剣を突き出してくる。
「アホな!」
単純な話、突きを捌くのは難しい。早さがどうのという問題以前に、接触面が酷く少ないからだ。酷い話だが、切りつけの場合は適当に剣を置いても、それに触れられるのだ。威力を殺せるかは別にして。しかし、突きで同じ真似をすれば、確実にざっくりと行く。
寸分の狂い無く、眼球ごと脳を狙った一撃。がむしゃらに振った剣が甲高い音を立てて、眼前いっぱいに広がっていた切っ先をずらす。頬に何かが突き刺さる感触と共に、骨を削る不愉快な音。しかし、それも命を拾ったためだと思えはどうという事はない。弾ける鮮血を見送る余裕も無く、体を固める。眼前には、バーサーカーの全身が迫っていたのだ。
迫る黒い鎧の肩と、胸の前で盾にしていた金色の篭手が激突。ただでさえ、予想外の攻撃に集中していた俺に、それを耐える術は無い。ろくな抵抗もできず、吹き飛ばされる。それでもいい。最悪の展開、体当たりに負けて転がってしまうのよりは。
左膝を突く。受けるのに必死で、宝具を出す余裕もない。
体当たりから体を一回転させ、掲げられた剣。姿勢の低くなった俺に、思い切り振り下ろされた。
目の前で、激しく火花が散る。金属がねじ切れるような、普通はありえない、酷くばかげた鋼の絶叫。それに加えて、剣などという前時代的な武器が己の命を奪おうとしている。これで、現実感の一つも失ってればまだ良かったのだが。生憎と、俺の精神はそれを現実的な脅威と認めて抗わせた。
立った姿勢と、半ば崩れ落ちる体勢。これで力勝負など、本来は成り立たない。実際、俺は今にも押しつぶされそうだった。
「ぁぁぁぁあああああああ!」
自分でもよく分からない絶叫が、口から漏れる。悲鳴だったのか、気合いだったのか、それとも単に気が狂ったか。とにかく、力の限り声を張り上げる。
その行為に、どれほどの意味があったとも思えないが。しかし、瞬間的に倍加した力は、なんとかバーサーカーを押し戻し、数歩後退させるに至った。よろけるバーサーカーを見ながら、やはり自分もよろけつつ下がれるだけ下がる。
互いの距離は七メートルほど。圧倒的にバーサーカー有利だ。たが、それでも呼吸と精神を整える余裕くらいはある。
「くそ、ふざけんなよ。どこがバーサーカーだ……」
思わず悪態をつく。それほどにバーサーカーは厄介だった。
理性を失っているくせに、戦闘レベルでは極めてクレバーな戦い方をしてくる。力任せ、スキル便りの技量任せに戦っていればいいものを。これでは単純に、ステータスの高いセイバーだ。クラス詐欺も良いところである。
いや、違う。一番の問題は、騎士は徒手にて死せずとかいう、壊れ性能の宝具である。触れたものを宝具にして、サーヴァントに通用するようにするというのはまだいい。しかし、普通であれば簡単に断てるようなものを、宝具と互角の強度にするとかふざけんな。楡の枝で敵を倒した伝承から派生しただけにしては強力すぎる。と言うかだ。それで宝具化できるのならば、日本や中国には、似たような宝具を持つ英霊が山のように出てくるわ。
その上騎士は徒手にて死せずは、扱いの分からない道具まで動かせるのだ。騎乗スキルも持ってないのに、戦闘機を完璧に操縦していた。使い方が分からなかろうが何だろうが、事実上あらゆる道具を使いこなす宝具でもある。王の軍勢も、独立サーヴァントの連続召喚などというふざけた能力だが、騎士は徒手にて死せずも負けてない。本来の機能をはみ出しすぎている。いや、科学が発展すればするほど強くなると言う意味で、凶悪さでも最高ランクだ。
ランサーは自分の持ち物である剣すら許されないと言うのに。セイバーはアヴァロンとカリバーン不許可だと言うのに。どう考えても優遇されすぎだった。いや、俺も人の事は言えないが。
とにかく、技量と判断力、そして宝具が揃ったバーサーカーは凶悪すぎる。改めて、蟲蔵の時に即吹き飛ばせたのは、運が良かったのだと思い知った。雁夜は実は、かなり運が良いのでは無いかと思えてくる。距離と武器の問題だけで、ピンポイントにギルガメッシュを追い詰められるサーヴァントを呼べるのだから。
やはり、何者かが高速接近してきた時点で攻撃すべきだった。敵がサーヴァントであった戸惑いと、引きつけ時間を稼ぐ必要があったための躊躇。二つの要因のおかげで、今はこの有様だ。
最悪の相性を持った敵が、最悪の距離で、最悪の武器を持ち対峙している。せめて、どれか一つでも欠けてくれれば。
宝具を一時的に解除した所で、恐ろしい硬度を持つ剣があればあまり意味が無い。距離を取るにしても、それができないからさっきから四苦八苦しているのだ。
本当に、手段はこれだけなのか? 全身から冷や汗が吹き出るのが分かる。作戦と言うよりもむしろ賭であり、故に恐ろしく危険だ。やる必要が無いならば、ぜったいに実行しない類いのもの。それは裏を返せば、必要あるならば実行しなければいけない、という事でもある。
そこまでする必要はないのでは――弱い考えが浮かび、しかしそれをすぐに否定する。頭に思い浮かぶのは、セイバーの姿だった。
精神面で弱く、まず決闘に拘ってくれていれば、安心してランサーに任せられた。だが、何より勝利を優先し、清濁併せ呑む事が出来る今のセイバーは、放置するのは非常に危険だ。そして、恐らく現段階でのセイバーの第一目標は、ランサーに勝つことではない。黄槍の破壊だ。最悪の場合、アヴァロンまで持っている。
圧倒的に俺たち有利だったバランスが、一気に五分まで戻されてしまうのだ。
俺はまだ死にたくない。生きていたい。そして、死ねない理由もできた。
やるしかない。今度はがむしゃらなどではなく、明確な意思を持って。
両手で持っていた剣から、片手を離す。バーサーカーの持つ剣の先が、戸惑うように揺れた。無視し、手を掲げる。その先に現れた柄を、一気に引き抜いた。
刃渡りは、一般的な片手剣ほどだろう。サーヴァントの膂力であれば、それの重さなど無きに等しい。右手の長剣、左手の片手剣、双方を構える。当然、俺に双剣術の心得などないのだから、構えは即対応できそうだと思えるだけの、いい加減な型だ。
そして――この戦闘で初めて、俺から攻撃を仕掛けた。全力で前に踏み込みながら、右足の着地と同時に左に溜めてきた剣を閃かせる。
バーサーカーである事の利点というのは、こんな所でも発動されるのか。不利な側からの、破れかぶれにも見える攻勢に、しかし僅かも動揺しない。
腰をしっかりと入れた一撃。しかし、所詮は片手での一撃でしかないという事なのだろうか。両手でしっかりと構えられた剣に、軽々と受け止められた。しかし、その一撃で。バーサーカーが持つ剣にまとわりついてた黒い霧が、一瞬で霧散した。初めて、狂戦士が動揺を見せるように、鎧をきしませる。
この左手の剣は、破魔の紅薔薇同様『対魔力構成物兵器』なのだ。この剣に触れる限り、奴の持つものは宝具になることが無い。そして、右手に持つ剣。腕をねじり、左肩に担ぐようにしていたそれを、剣に思い切り叩き付けた。
バーサーカーの、二度目の動揺。その長剣は、僅かであったが、確実に剣にめり込んでいたのだ。
交わる三本の剣を、バーサーカーが弾いて分解させる。今度引くのは、相手の番だった。傷つくはずの無い、しかし損傷を見せた剣。それを構えながら、最大限に警戒してくる。
俺が右手に持っている宝具、これは『とてもよく切れる』という概念を持った剣だ。どれだけ堅牢に出来ていようとも、この剣で切れない訳が無い。事実、バーサーカーが持っていた剣がどれだけ優秀かは知らないが、こうして損傷させる事ができた。左の破魔剣と併せて騎士は徒手にて死せずの修正を打ち消せば、当然の結果だ。
ランサーの宝具を知り、搦め手を使ってくる相手を想定し、ミスマッチを狙ったのだが。完全に裏目に出てしまった。
元々破魔剣を持っていれば、これほど苦労しなかったのかも知れない。と思ったが、どちらにしろこれほどの接近を許した時点で、苦戦は必至だった。
そしてこれから、もっと苦しい思いをする。
右足が地面に食らいつくのを感じた。その感覚に任せて、体を前に押し出す。離されていた距離が、刹那の内にゼロになり……そのタイミングが予想より早かったのは、同時にバーサーカーも踏み込んで来たからだ。こちらが剣を振るより早く、右脇を狙う黒い閃光。剣を振るのを諦めて、左の剣で脇を守った。
体を貫くような、強烈な衝撃。こんなものは防御でも何でも無く、ただ切られるのだけは堪えただけ。サーヴァントの中でもひときわ強力な力は、完全に俺の体に通っていた。
それが、予想外であれば動くことは出来なかっただろう。しかし、予想していたものであれば。悶えるより早く、剣を叩き付ける事ぐらいはできる。
剣同士が接触したのは一瞬だけ。力を入れ直したバーサーカーに、体ごと弾かれた為だ。
すぐさま剣を構え直し――必要かどうかは知らないが――呼吸を整える。腕は上がるし、足も動く。衝撃こそ凄かったが、ダメージはさほどではないようだ。一瞬の空白も、攻撃を貰う事前提ならば十分動けると、今証明された。
バーサーカーの持つ剣から、小さな金属片が落ちる。大層なものでは無い。少なくとも戦闘に支障はなく、せいぜい刃こぼれ程度のそれ。しかし、二度目の損傷は、互いの立場を決定づけた。
「分かっているだろう、バーサーカー」
その言葉は、理解されないであろう。知っていたが、しかし口は勝手に開いていた。
「その剣が壊れるまで、どれほどもかかんねーぞ。俺は剣や武器を、お前に撃ち出して『やらん』。あとは……」
敏捷に割り振っていた宝具の強化を解除、筋力に集中する。速度が大幅に下がる代わりに、さらなる膂力を得た。これで、力負けをする事はないだろう。
両方の剣を、脇にしっかりと抱える。もはや構えも何もない。力一杯叩き付けるためだけのそれ。
「時間の問題だ!」
その宣言に、ありったけの勇気を乗せた。この瞬間だけは、全ての恐怖を押さえ込んで、無理矢理忘れる。自分を、いっぱしの戦士だと思い込むのだ。
後退しつつ、バーサーカーの手が背後に回る。そして、構えられたのは、全く見慣れない黒光りした筒。ある意味で、現代人にとっては最も恐ろしい死の象徴。銃だった。
体がすくみそうになる。しかし、それも気合いか、根性か、とにかくそんなもので消し飛ばす。無策とも取れるような突撃を、バーサーカーに敢行した。ここで引けば、剣での追撃があるだろう。つまり、攻勢に回れるという事だ。防戦一方になってしまえば、剣を破壊する機会は遠のく。そうするわけには、絶対に行かなかった。
構えられたそれは、ショットガン。銃に詳しくない俺では、それを見ただけで何と言うものなのかは分からない。ただし、ドラムマガジンのそれであれば、冗談抜きに暴雨のような弾丸を降らせる事が出来る。それだけは分かった。
腕を上げて、顔の七割を隠す。片目のみ晒し、目を細めた。露出した急所に命中しない事を、神か何かに祈りながら。やはり、足は止められない。
黒い霧に包まれた銃、その引き金が絞られた。自動で連発される散弾の嵐。その中を、防御力に任せて駆け抜けた。
彼らの目的は、あくまでランサーの打倒であった。ならば、持っている武器も対ランサー用のもので然るべき。つまり、低い耐久を前提としたものだ。俺であれば、よほど当たり所が悪くなければ大事に至らない。
額に、側頭部に、そして眼球のすぐ横に。弾丸が連続して叩き付けられ、そのたびに皮膚と肉が抉られる。泣き叫びたい。今すぐ気絶してしまえれば、どれほど楽であろうか。引けるのならばとっくに引いている。しかし、それが許されなく、進む義務があるのであれば。例え地獄でも、進まなければならなかった。
弾が切れて、マルズフラッシュが消失する。つまりは、顔に降り注ぐ宝具化弾丸の雨も、これで打ち止めだ。血が降りかかっているが、目はまだ見えている。
まだマガジンがあるのかどうかは知らないが、どちらにしろ俺の方が早い。バーサーカーも同じ判断をし、銃を投げ捨てた。同時に、投擲される手榴弾。だが、所詮は苦し紛れ。
「無駄ぁ!」
両者の距離は、もうどれほどもない。素早く左の剣を閃かせて、手榴弾に当てる。それとほぼ同時に爆発するが、宝具でも何でもない現代兵器では、目隠しにもならない。
そして、ついにバーサーカーを射程距離に納めた。両腕を弓のように引き絞り、思い切り剣に叩き付けた。
恐ろしく鈍い衝撃。化け物級同士の筋力がぶつかり合う。そして、肘まで貫いて感じる――右手の剣が、芯にまで食い込む感触。
バーサーカーの剣は、半ばで折れ曲がっていた。後一撃、耐えられれば御の字。それほどに、無残な姿になっている。
気持ちが焦る。これで、終わらせられるのだと。しかし、忘れるべきではなかった。対峙している敵は、例え狂化していたとしても、本物の英雄なのだと。
右手を引こうとして、それが動かない事に気がつく。自分の腕を、バーサーカーが掴んでいる。それを正しく理解する前に、足を払われてた。
「が――っ!」
背中から地面に叩き付けられる。視界が動いたのにすら気づけないほどの、技のキレを誇る投げ。全ての空気が、体から逃げ出した。目が回る。現状を理解できない。何をすれば、現状を打開できるのか、思考など全く追いついてくれなかった。そして、視界いっぱいに広がる黒いそれ。
咄嗟に首をねじったのは、何かが迫る、という状況への反射だった。何かが顔の横を通り抜け、そして背中から巨大な振動と、文字通りの爆発音。俺の腕を拘束したまま、バーサーカーの膝が狙っていたのだ。
確実に、一撃で死ねるであろう一撃。しかし、体は恐怖に竦まなかった。それだけの余裕がない、というの正解だろう。
恐怖とは、状況に対する余裕の表れだ。それを、今日初めて知った。本当に眼前まで迫った驚異の前には、悲鳴も絶望もしている暇などない。ただ備えて、抗わなければいけないのだ。
打撃に失敗したバーサーカーは、今度は腕をねじってへし折ろうとしてくる。させるか――ありったけの力を込めて、がら空きの頭部に、蹴りを叩き込んだ。
大きく傾く、黒い鎧。まだ極まり切っていない腕を、力任せに引き抜いた。片方だけは自由を取り戻したが、しかしもう片方は捕われたまま。膝を立て、もう一度引き抜こうと力を入れて。しかしその前に、バーサーカーの裏拳が側頭部を強打していた。
視界が吹き飛んで、次に見えるのは全てが歪んだ景色。酔っただのなんだの、そんな生やさしいものではない。まるで世界が崩壊したかのように、常識を無視して崩れている。一瞬、目的すらも忘れそうになった。しかし右腕が上げた悲鳴、それが現実に引き戻してくれた。
もう狙いも何も無い。足を上げて、ただ前に突き出す。何かに触れたが、それでもお構いなしに蹴りを放った。
右腕が上げる悲鳴が止まる。同時に、触れられる感覚も消失していた。やっと視界が戻り始め、目の前に黒色の転がる物体。戦う理由すら忘れていた。しかし、それを倒さなければいけない――そんな強迫観念に駆られて、両手に持つ何かを同時に振り下ろした。
ギィン――と。何かがはじけ飛んだ。銀色をした、永細い何かだ。幾度か回転し、地面に突き刺さって。やっとそれが、折れた剣だと理解できる。
少しずつ、現状を思い出してきた。俺が持つのは剣で、敵はバーサーカーであり、戦う理由は――もう必要ない。ただ、勝って生きなければいけない。生きる理由があるから。それで十分だ。
剣を杖代わりにして立ち上がり、同時にバーサーカーの射程外へと逃げる。
両手に持つ剣を持ち上げる。相変わらず不格好で、棍棒でも持った方が様になりそうだ。まあ、格好なんて付こうが付くまいが、実用には劣る。
跳ね起きるバーサーカー。頼りの筈の武器は、すでに根元近くから消失している。ダメージ自体は、まだバーサーカーの方が遙かに少ない。その点だけ見れば、まだ有利ではあった。だが、
「無駄だ」
今のバーサーカーでは、武器を持つ俺に勝てない。雨のように降る小型宝具を、捌ききる事も出来ない。そして、まともな戦闘行為が出来ないのであれば、強引な手段で距離を開くのも容易い。ダメージは決して小さくないが、この程度であればすぐに逆転する。
王の財宝を起動。背後の空間を歪ませて、軽く百は超える小型宝具を展開した。それを見たバーサーカーが、全力で肉薄してくる。
宝具が間に合おうが間に合うまいが変わらない。武器の無いバーサーカーであれば、俺でも接近戦で勝てる。
体を可能な限り縮めて、被弾面積を下げ、地を這うように飛び込んで来た。だが、魔力不足かダメージのためか、その速度は先ほどよりも僅かに鈍っていた。
俺に届く前に、宝具が射出される。正面からバーサーカーに襲いかかる雨。あるものは、剣の残骸で弾いて。あるものは、手甲で殴り飛ばして。なんとか重要部分だけは守るものの、体の末端から突き刺さる宝具に、損傷は蓄積されていった。そして、圧力に負けて、ついに止まるバーサーカーの足。容赦をする理由は無い。宝具の圧力をさらに強めた時、それは起こった。
バーサーカーを隠していた黒い霧が、周囲ごと吹き飛ばすように晴れる。輪郭をしっかりとさせた黒鎧。そして――新たにもたれた剣。
鋭い――そんな陳腐な感想、しかしその一言に全てが収束されるような剣。美しさも、輝きも、何もかもが。まるで、見ただけで断ち切られそうな鋭い刃に、一瞬だけ魂を奪われた。しかし、その宝具を前にしては、それを恥じることができない。それこそが、神創宝具、アロンダイトだった。
全てのステータスをワンランク上昇させ、さらにST判定二倍というふざけた性能。性能強化型の宝具で、これ以上はまずありえまい。そう思わせる、反則的な力。騎士は徒手にて死せずと己が栄光のためでなくの二つの宝具を放棄してまで、使用するだけの価値があるだろう、正しく切り札。
だが、それは相手が俺以外だった場合の話だ。
「終わりだ、バーサーカー」
先ほどまでとは比べものにならない速度のバーサーカー。しかし、それがどれほど早くても。瞬間移動でもしない限り、すでに展開されている宝具の方が早い。
小物の宝具を、難なく弾いていくバーサーカー。英霊の中でも飛び抜けた技量を持つバーサーカーならば、この程度の芸当は容易いだろう。しかし、その中に、普通の剣サイズのものが混ざり始めれば、そうはいかない。単純な話、威力が桁違いに上がっていくのだ。
進行は完全に止まり、じりじりと押し戻されるバーサーカー。さらに宝具の数を増やして、圧力を増した。
良くも悪くも、俺にとってバーサーカーは騎士は徒手にて死せずが全てだったのだ。下手な宝具を放てば、相手の力にしてしまう。そういう無言の圧力があったからこそ、手にとって役に立つ、中型以上の武器を使用できなかった。ましてや接近戦の危険があるのに、壊れない武器など絶対に提供できない。ステータスで多少勝っても、バーサーカーと対等に戦える訳が無いのだ。
しかし、狂戦士は無毀なる湖光を手に取った。そうしなければあの場で死んでいた以上、その判断は正しい。しかし、それは一秒先に迫った死を、五秒先に引き延ばした以上の意味はないのだ。
騎士は徒手にて死せずがない以上、もう射出宝具の使用制限は必要ない。
「■■■■■■■■■■!!」
アロンダイトで迫る宝具をなぎ払いながらの絶叫。それは、悲しささえ思わせる。
「あんたもセイバーに思うところあって、言いたいこともあったんだろうが……残念だったな」
このまま放っておけば、撤退するかも知れないし、令呪で消えるかも知れない。だが、この場で逃がすほど、優しくしてやるつもり無かった。
バーサーカーの腕が、一瞬だけ止まる。彼の腕に絡みつかせたのは、ギルガメッシュの親友の名を冠する宝具、天の鎖。神の血を引かないランスロットに、その拘束は大した力を持たない。破壊しようと思えば、すぐに破壊出来るであろう程度だ。無毀なる湖光を発動させているのであれば、尚更容易い。
しかし――その一瞬は宝具の雨の前に致命的であり。降り注ぐ剣の山に、抵抗の手段を失ったバーサーカーは、瞬間、全身を貫かれた。
「■■■■■■■! ■■■……■■……■…………」
狂化の象徴である絶叫もがやて小さくなっていく。確実な致命傷。もう令呪をもってしても助からないだろう。
短剣の一つが、バーサーカーの兜を割る。現れた顔は怒りに支配されているようで、しかし、その瞳だけは正気に見えた。
「a……ar……アーサー……王よ」
大量の剣を身に刺したまま、ランスロットが膝を突く。手からこぼれ落ちたアロンダイトは、すでにその鋭さを失っていた。
瞳は一瞬宙をさまよう。バーサーカーではなくなった、ただの騎士、その視線が俺を捕らえる。
「アー……チャー……感謝…する…………。我が……王は…………」
最後まで述べる事も出来ず、そのまま騎士サー・ランスロットは光になって消えた。もうこの場には、いや、世界のどこにも、この時代に彼が居た証拠は無い。
ランスロットの倒れ伏した場所を見ながら、ふと思いついた。ランスロットがアーサー王に襲いかからなかったのは、もしかしたら、もう満足していたからかもしれない。
答えはどこにも無い。そう考えたのも、ランスロットの最後の言葉から、都合良く解釈しただけだ。でも、それでいいと思える。
恐ろしく疲れた。魔力もかなり消費している。幸い、魔力量の多い桜から魔力は送られ続けている。治療を行いつつ、もう一戦くらいならば可能だ。できれば、そうなっていて欲しくないが。
すぐにランサーの救援に向かおうとして、ふと背後を振り返った。そこには、俺の記憶の中だけにある、バーサーカーとの戦闘の痕跡。少しだけ、その場を名残惜しんで。もう振り返らずに、今度こそ走り出した。
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アイリスフィールは失った②
夜の空気を切り裂くように、ランサーは走った。
開かれた戦端、それは予想より早ければ、相手も想定していたものと違う。結果的に、裏をかきつつ、裏をかかれた状態になった訳だが……不謹慎ではあったが、ランサーはそれを同時に喜んでもいた。実際、自分の相手がセイバーだと言うのは、とても気合いが入る。どこの誰かも分からぬ魔術師などよりはよほど。
それに、状況を聞く限りアーチャーは不利であった。遠距離攻撃を得手としている者が接近されれば、そうなって当然なのだが。
つまり、ランサーには、可能な限り早くセイバーを打倒してアーチャーを助ける、という役割もあった。全く持って、難易度の高い現状。しかし、だからこそランサーは滾っていた。
もたらされた情報によると、彼のマスター達の位置は、襲撃方向から真っ直ぐ。まあ、これは改めて確認するまでもない。地面には、足跡と言うには派手すぎる跡が、しっかりと残っていたのだから。
跡を追った先には、車が一台止まっていた。が、当然そこに人影はなく、また気配も無い。
恐らく、理由は二つ。バーサーカーを制御するには、なるべく近い方がいいという点。そしてもう一つは、襲撃失敗に対するカウンターから、身を隠しているのだろう。
隠れられる場所は、多くない。せいぜいが、ガードレールを乗り越えた先にある、閑散と木の生えたなだらかな丘。そこを集中して見れば、二人の女と、一人の男。女が障害物に隠れながら、下ろうとしていた。
その中に最低でも一人、マスターが居る。
全力で走れば、その中の一人くらいは切り捨てられただろう。だが……と、不適に笑みを浮かべながら、丘の麓を見る。極めて不自然に作られた道、それを逆流するように、砂塵が舞っていた。
「やはり、来るか」
マスターらしき相手を切るのに集中していれば、背後から両断されていた。アーチャーが二人の足止めをしなかった以上、それは無理な話だ。
可能であったのなら、戦略的にはマスターに集中攻撃の方が正しいのだろう。だが、元より気乗りのしない作戦。加えて不可能になったとなれば、否やは無い。むしろ望みの展開だった。
セイバーがマスター達にたどり着いたのと、ランサーが空高く飛び、セイバーに紅槍の一撃を見舞ったのは同時だった。
触れあう刃と刃。風の宝具に触れたらしく、一瞬だけ周囲に吹き荒れる烈風。それもすぐに収まり、そしてランサーは宙で上手く姿勢を取りながら、音も立てずに着地した。
超反応にも、剣筋にも陰りが無い。半ば奇襲じみた一撃に容易く対応し、その上押し返してさえ見せた。これを喜ばずには居られない。
ランサーに意識のほぼ全てを集中しながらも、背後に声をかけるセイバー。
「アイリスフィール、無事でしたか」
「え……ええ、私たちは何ともないわ。セイバーが来たのと、ランサーが来たのは同時だったし」
「良かった。カリヤ、そちらはどうです?」
「う……くっ、ダメだ。アーチャーの癖に、想像よりも接近戦が強い。こっちが有利なのは変わらなが、攻めきれなければいつか必ず逆転される」
「十分です」
それだけ言い終わると、セイバーは改めて構え直した。
「早く下に……」
「逆だ。俺たちは上に戻らなければならない」
「すでに見つかってしまいました。なら、隠れながら下るよりも、車に乗って一刻も早く離脱すべきです。マダム、行きましょう」
下る時同様、女の主導で戻っていき、手早く車に乗り込み。テールライトの尾を引かせながら、車が去って行った。
そして、その場に残ったのは。風の静寂と、僅かに届く街灯の光。そして、剣呑な空気。
「待っていてくれたか」
「それを惜しむほど急いでもいないのでな。それで、もう憂いはないか?」
「ああ、十分だ」
いよいよと、周囲の空気が異界と思わせるまでに歪む。
セイバーとランサー。聖杯戦争の中でも、接近戦に特化した二つのクラス。この組み合わせ以外で、触れただけで死にそうな闘意の空間は現れない。それほどに、戦い方のかみ合った――かみ合いすぎた二人だ。
「ランサー、私は謝罪を……」
「そこまでだ」
戦意を保ちながらも、申し訳なさそうに開くセイバーの口。それをすぐさま遮る。
「私こそが、最初に剣を交えた相手がお前で、少し思い違いをしていた。これが名誉ある戦であると同時に、軽々と人の命が消えかねぬものであると。どうやら、付き合わせてしまったようだな」
「何を言う。私とて、貴殿との剣戟を心地よく思っていた。それを言うのであれば、私にも罪がある。だが」
セイバーがにんまりと笑った。純粋な闘気が跳ね上がる。
開戦を、全身が予感する。
「いいのか? 結局、このように決闘の形になっているぞ?」
「ならば、答えは一つしかあるまい」
あまりにも大きく、強靱なそれは、明らかに初めて剣を合わせたときよりも大きい。だが、それで負ける事などはありえない。呼応するように闘気を上げて、槍の戦端にまで神経を通わせた。
「一対一の型こそが、俺の一番強い戦場なのだ。セイバーよ、せっかくこの場に立ったのだ。フィアナ騎士団一の槍捌き、存分に味わうがいい!」
「それは一国を支える我が一撃に耐えられればの話だ、ランサー!」
絶叫と同時に、地面が爆砕する。人にはどう足掻いても捕らえられない、神話の領域の速度。どれほどの書物を紐解こうと、絶対に見ることが出来なかった『完成形』同士の戦い。それが、誰にも知られず、見届ける者はなく、しかし何よりも苛烈に火ぶたが切られる。
はじめの一合は、以外にも両者の中間点だった。甲高い音が周囲を突き刺し、刹那の瞬間だけ、その場が明るくなる。二本の槍と、一本の剣。計三本の獲物が交わりながら、しかし拮抗は一瞬。セイバーが体を無理矢理前に出すと、青い影は軽く吹き飛ばされた。
この結果に最も驚いたのは、言うまでも無くランサーだ。最速と名高いランサーのクラスを持つディルムッド。彼自身にも自負があった。
勢いの分で互角に持ち込める、ランサーはそう思っていたのだが。しかし、セイバーが全く劣らぬ速度で迫ったことにより、それは破綻する。少なくとも直線を疾駆する速度において、セイバーは最速と張り合える領域にいるのだ。
(面白い、そうでなくては!)
己の最も信頼する部分で勝れない。しかし、それこそがディルムッド・オディナの求めた戦場であり。彼の求めた敵なのだ。
宙に浮いて、身動きの取れないランサー。追撃を掛けるべくセイバーが、ただの一歩で全ての距離を塗りつぶす、今度のそれは、速度を重視したものではなかった。純粋すぎるほど威力を追求した、鉄槌のような一撃、
まともに受ければ、槍が折れる。ランサーがディルムッドとして幾千超えた戦場、幾百超えた死線で培った経験、それが告げていた。避けることはできない。受けるのも不可能。無慈悲な一撃を前に、取れる手段などない。それが、ディルムッド以外であれば、の話だが。
紅槍に軽く指を絡める。決して、力を入れすぎたりはしない。欲しいのは柔軟性だ。
迫り来る剣の進行方向に並列して、槍を走らせる。あくまで柔らかく剣に合流した槍は、その勢いを上手く調整して見せた。同時に、反発力を利用して体をずらす。剣の軌道が変わった分で半分、そして体が流れた分で半分。双方を合計して、体一つ分の変化。ランサーの体を二つに分けて然るべきだったそれは、体のすぐ横で空を切るに終わった。
伸ばした左足が、地面に付いた。地面に接触できれば、それを中心に力の伝達ができる。
人間の体は、便利であり不便だ。関節は稼働方向を限定し、筋肉は利用熱量を制限する。しかし、それは逆に、関節と筋肉が許す限り、どんな行動も起こせるという意味でもあった。
つま先が地面に食い込む。足が伸びていても、ひねりは加えられる。踵を外側に滑らせれば、膝は内側に向く。ねじりが生まれたことで、横腹に幾ばくかの余裕が生まれた。横腹に余裕が生まれれば、広背筋に熱量を生み出す機会が与えられ、それが腕部と完璧に連動すれば、十分な威力とならなくとも、鎧の隙間から人体を串刺しにするのに十分な威力を与えられる。
黄色の切っ先が腰上部、筋肉が薄く骨も無い部分を貫こうと牙を剥く。強撃の終了する瞬間を狙われ、しかも剣を槍で押さえられているセイバーに、対応する手段は限られている。
自分でも絶賛できるタイミングでの攻撃。しかし、それを貰おうとしているセイバーの顔に、欠片の焦りも見えなかった。
無理に槍を弾こうとせず、むしろ流れに任せるように脱力。それに併せて、腰を捻ってしまえば。穂先は簡単に、腰のプレートの上を滑った。
対処を一つずつ確実に。まずはカウンターを処理し、続いて絡まる槍を外す。自由になった剣を横に一閃。尋常な相手であれば、それだけで終わっているであろう。
ランサーを吹き飛ばした一撃と、その後の無慈悲な超級の剣。流れるような連携を見せるセイバーを指して、最優の名を疑う者はいまい。しかし――それに対峙するランサーとて、正しく英雄。外に向いていた踵を正面に戻し、さらに指先に力を込める。筋肉内で生まれた力を関節の方向で制御し、今度は後方に移動する原動力にする。
本来、ランサーの腹を、半ばまで切り裂いていてもおかしくなかった一撃。剣の先端は軽く服を擦るだけで終わり、むなしく通過していく。
しかし、それすら予想していたのだろう。セイバーはさらに、間合いを詰めていた。通過した剣に会わせて、体のひねりは終えている。出足が着地するのと同時、切り上げるように不明の刃が走った。狙うは、足。
踏み込みも、剣速も、ランサーのそれに並ぶ超高速。しかし、彼女が持ちうる全ての速度が、ランサーに匹敵する訳では決して無いのだ。
浮かされた体は、十分に落ちている。つまり、もう変則的な体術を利用して、攻撃と回避を行う必要は無い。太もも、膝、ふくらはぎ、踵、つま先。それらの全てが正しく連動するのならば、しっかりと力を入れる必要などない。
それは、ランサーにしてみれば、横方向に軽くステップしただけ。上半身を殆ど動かさない、高速移動術。しかしセイバーにとっては、かき消えた様に見えていてもおかしくない。ましてや攻撃動作の途中でそれをされてしまえば、効果は絶大だ。敵を見失った戸惑いと、技後硬直。これを隙と言わずして、何を隙と言うのか。
回避の置き土産とばかりに、黄槍を走らせる。背面から頸椎を狙う、えげつない一撃だ。
セイバーには、何も見えていなかったであろう。己が放った剣の軌道と、変哲も無い雑草、あとはしみこむような暗い闇。せいぜいその程度であり、少なくとも攻撃に関するものは何も視界に入らない。
それが直感であったのか、それとも予想していたのか。ランサーに知る術は無い。だが、確実なのは。セイバーは右手を剣から離し、首を僅かに傾げる。そして、命を断たんと迫る槍頭を、手甲で受け止めた。
(姿を見失った敵に、完全に死角から迫る攻撃に、これほど完璧な対処ができるものなのか!)
侮っていた訳では無い。油断も慢心もない。今のところ、体は万全に動いている。しかし、それでもセイバーに顔色一つ変えさせる事ができない。
気力の充実しきったアーサー王とは、これほどのものなのか!
これ以上の追撃はならないだろう。むしろ、中途半端な攻撃はセイバーの利になる。ランサーは間合いを開けて、仕切り直しをした。
幾度か剣を合わせて気がついた。今のセイバーに正面から挑んでも、押しつぶされてしまうだろう。筋力のランク一つ分が、重くのしかかっている。その上、セイバーはまだ魔力放出技能を全力で使用していない。正確に言えば、剣での魔力放出には、威力に差をつけていると言うべきか。剣の振りが同じでも、魔力放出の分だけ威力に差が出る。常に同じ調子で受けていると、一発で押し切られるだろう。
元より、ランサーは二槍で攪乱し、手数で勝負しなければいけない。両手に違う武器を持っている彼では、両手で一つの武器を持ち、さらにランク一つ上の筋力を持つ相手とは、勝負にならない。そして、正面からぶつかり合うのに、最も必要なのは、残念ながら相手をねじ伏せる力だ。
状況は、全く持ってランサーに有利と言い難い。しかし、正面からぶつかるだけが戦いではないのだ。
「セイバーよ、前回の戦いは、お前の有利な戦場であった」
周囲を見回す。しっかりと暗くなっている周囲は、ある程度進んでしまえば見通しが付かなくなる。
つまり、点々と生える木以外に、障害物はない。
「だが、今回の戦場は俺に有利だ。活用させて貰うぞ」
「やってみるがいい。その全てを受け止めてやる」
どこまでも不適な返答に笑みを浮かべて、ランサーの体が静かに弾けた。しかし、それは前方にではない。横にだ。
確かに、セイバーの動きは速い。だが、それは魔力放出を利用し、一方向に無理矢理ブーストした結果だ。連続して、しかも別方向に使うには、体勢を崩すリスクが高い。仮に可能としても、ランサーの柔軟で縦横無尽な動きには、全く追いつけるかと言われれば。
ランサーが足が、地から離れる。それだけで彼の体は、弾丸より早く獣よりしなやかになり、獲物を狙う狩人となった。
惑うセイバーの左後方から。紅槍二つ、黄槍一つの、神速三連突き。体をねじり、剣で弾いて二つ。しかし最後の一つは、完璧に躱しきれなかった。鋭く疾駆する刃が、セイバーの二の腕を僅かに削る。追いかけるようなカウンターが放たれたが、所詮は苦し紛れ。回避に労力など必要とせず、簡単に回避し、再び身を神速の領域に溶け込ませた。
この攻防、ランサーに誇れる程の戦果はない。しかし、意味はとても大きかった。なぜならば、トップスピードを維持すれば、セイバーにすら対応できないと証明されたのだ。
しかし、この速度にすらそう遠からず対応してくる。速い、という事など、所詮は力強いと同様、一要素に過ぎない。
(驕るなよ)
自分を戒める。速度などというものは、所詮は才能。持ちうる素質が、努力はあれど、勝手に伸びただけのものだ。真に頼るべきは、血と栄光に彩られた、戦闘技術そのものなのだ。それこそ、あのライダーやアーチャーすらが、驚異と見なしたものである。いくらステータスに恵まれようと、持ちうる技術には及ばない。
そして、バーサーカーを除外すれば。セイバーはランサーのそれに対抗できる、唯一のサーヴァントだった。
圧倒的な膂力に対応して見せた。ならば、騎士王ともあろう者が、同様の事をできぬ筈が無い。幾度も交えた剣から、それを感じ取る。
ランサーの踏み込みは、恐ろしく静かで、そして鋭い。他の者では不可能な、もはや芸術の域にまで到達した戦闘軌道。赤い軌跡を残して走る紅槍は、地面すれすれを走り右足を狙った。
闘気を察知し、即座に反応を見せるセイバー。しかし、動きは僅か一瞬なれど、確実に遅かった。彼女の構えは――それが故郷での一般的なものかどうかは知らないが――右足を前に出し、両手で剣を構えるもの。西洋剣術と言うよりも、東洋日本の「ケンドー」を連想させるそれ。どんな構えにも、必ず弱い部分と言うのは存在し、この構えにとっては右側からの強襲だった。
振った槍は、足の裏を素通りする。足を上げて回避された。続く二つ目は、黄槍で腕の鎧に守られぬ部分を狙う。だが、これも当然のように、篭手に阻まれた。しかし、腕の余裕を防御の為に使ってしまった以上、剣での反撃は不可能。これで攻撃防御回避、全てを封じることができた。
紅槍で防御を抜き、黄槍で回復の阻害。致命傷たりうる連携は、自分でも称賛出来る程の超高速を誇った。左腕に続いて、右脇。喰らってしまえば、全ての戦闘行動に障害が残る。
(こんなものかセイバー!)
上手くいきすぎている攻勢。怒りに近い声を上げながら、セイバーを睨もうと顔を上げ……その強靱な瞳の光に、彼の経験が警報を鳴らした。
セイバーの体が、前触れも無く飛んできた。足を動かす気配は感じられなかったが――しかし、彼女には魔力放出がある。筋力でも魔力でも、推力として機能するのであればどちらも変わらない。いや、それよりも驚嘆すべきは、彼女の安定感だろうか。バランス感覚という意味では、ランサーに軍配が上がるのだが。不安定な状態にも関わらず、急な制動を行っても真っ直ぐ飛べるとは。
急速に接近してくる体。まだ半ばまでしか突き出されていない槍は、当然目標地点には届かない。柄で外側に弾かれ、鎧は元のまま。黄槍には、それを抜くほどの威力はない。
攻撃に失敗した双腕は、今更別の動作に対応してはくれなかった。いや、それ以上に、無意味だ。セイバーはランサーの間合いを割り開いた。このタイミングでは、せいぜい攻撃を覚悟する事くらいしかできなかった。
歯を食いしばる。密着しそうな程に顔が接近するが、その前に、胸板と肘が痛烈な接触を果たした。
吹き飛ばされながら、みしりと鳴る肋骨を自覚する。折れてはいまい。だが、まともだとも言えない状態。
痛みに顔を歪めている余裕はなかった。セイバーの追撃は苛烈であり、容赦が無い。ランサーの体に、受け流しようのない一閃が迫る。
元々、筋力値が違う。その上に、ランサーは二本の獲物を操っているのだ。両手武器を持った相手が、全力の一撃を見舞ってきた場合、受ければその先に待つのは死のみ。
しかし――戦場は、やはりランサーに有利だった。
飛ばされた先、そこには一本の木が生えている。高さ三メートルに届かないような、貧弱なそれ。しかし、柔和な足腰を持つランサーが足場にするに、十分すぎる強度だ。
着地、そして身を捻る。黄槍を剣への盾にして受け止め、激しい火花を散らせ……しかし、折れない。剣の威力にねじりは加速され、そしてついに、体に触れること無く通過した。
驚嘆を浮かべる、セイバーの顔。必殺の一撃は、転機により空を切った。
肘のお返しだ、とばかりに突き出される紅槍。狙いも定まらず、鎖骨近くをえぐるだけに終わる。
木を跳ねて、仕切り直しを望む。着地する頃には、セイバーも同様に、身をひき距離を取っていた。
「分かるだろう、セイバー」
振り払った紅槍から、血が散る。
マスター不在の現状では、回復手は存在しない。
互いに抱える事になったダメージ。しかし意味合いは大きく異なる。ランサーが小さくとも二つ、槍を届かせているのに対し。セイバーの剣はまだ届いていないのだ。
「以前の戦場は、お前に有利だった。だが、今回場を生かさせて貰うのは俺だ」
側面に並ぶコンテナ――つまり直線移動以外を大きく制限された戦場。そこは、力と装甲を生かせるセイバーにとって、うってつけの戦場だった。駆け引きによって黄槍を命中させたのでなければ、まず間違いなく負傷を負わせられなかった。
だが、ここは違う。俊足を妨害するものは、何一つ存在しない。点在する障害物も、ランサーのバランス感覚を生かすのに一役買っている。
今度攻めきれなくなるのは、セイバーの番だ。
だが、
「その程度で――」
右頬の隣で、突きの型に構えられる剣。己の最速でもなお届かぬ。ならば、より速くを。シンプルすぎるほどシンプルな回答。
「私をなんとかできると思っていたか?」
「く――くく。いいや、全く。それでこそ、俺の見込んだ戦士だ」
戦場は自分好み、出だしの先手を奪えたと、完全優位な状況ですら肘を貰った。それに、ダメージを永続させられる黄槍は、まだ一撃も加えていない。
肋骨を中心に響く胸の高鳴りは、意識せずともそのまま戦意に変わる。向けられる切っ先に集中して、真っ直ぐ頭を狙っていたそれが瞬間、揺らいだ。
動く。セイバーの足下で、地面が粉砕した。
同時に、ランサーも槍を突き出す。己の最も信ずべきものは技量。それを知るからこそ、超高速の世界の比べあいで、負けるつもりにはなれなかった。一秒が刹那よりも短くなる世界。速度に信条を置いているからこそ、そこで勝負をして負けるわけが無い。
正しく高速戦闘はランサーの手の内にある。剣はランサーの肩を抉るだろう。その代わりに、確実に心臓を貫ける。その、確かな確信。
だからこそだった。ランサーは、咄嗟に槍を振り上げた。負ける可能性の高い、破れかぶれの一撃。そんなもので、セイバーが勝負を仕掛けるわけが無い。勘にも似た経験則、それが勝手に体を動かしていた。
眼前で、圧縮された空気が吹き飛んだ。ただの空気であれば問題ない。だが、鋭いそれが宝具であるのならば、サーヴァントすら容易く死に至らしめる。
背筋が一気に寒くなった。正面から来ると見せかけて、冷静に喉元に短剣を添えるなど、なんという駆け引き。気付くのが一瞬遅れただけで、間違いなく死んでいた。
まだそれに戦いてはいられない。心臓を抉るはずの槍、それを防御に使わされた事で、セイバーを止めるものがなくなった。中途半端に前に出た槍が、軽く打ち払われる。切っ先とランサーを結ぶ線上に、何もかもがなくなった。
まずい。何を感じるより考えるより速く、首を思い切り捻った。そこが狙われる、という確信はなかった。経験かがそうせた。
めまぐるしく入れ替わる視界。ただ、その中心には常にセイバーを捕らえる。それを見失えば、その時こそ終わりだ。
首の根元に、灼熱が走った。確認するまでも無く、剣が食い込んでいる。だが、灼熱を『感じられる』と言うことは、致命的な深傷でもない。少なくともそう信じて、黄槍で剣をかち上げた。
どれほどの負傷かも分からない。だが左腕は動いた。ならば、戦場においてその怪我はないのと同じ。剣が体から離れると、一気に身をかがめた。
セイバーの、速度に対する攻略法、その答え。先手を打ち、その場での斬り合いに持ち込む、というものだ。
(下がるか? いやだめだ。距離を置くのと、距離を詰められるの、この速度は互角だ。振り切れない)
ならば、攻めるしか無い。
制空権の内側に飛び込む――ように見せかけて、下から槍を突き出した。が、これはフェイント。本命は、太ももを狙う黄槍。紅槍は柄を叩かれ、黄槍は剣で弾かれ、容易く対処される。その隙に一歩後退し。
しかしセイバーは、それすら見越していた。離された距離を一瞬で詰めて、払いのために下げられていた剣で切り上げる。
「甘い!」
「こちらの台詞だ!」
セイバーが後退を読んでいたように、ランサーもまた、追撃を予想していた。いや、誘発したと言ってもいい。ましてや黄槍はブラフで、その目的は剣の軌道を限定する、であったとすれば。
その剣を、避けきろうとは思っていない。左脇を捕らえた刃は、斜めに走り、肋骨を二本寸断、血しぶきを上げた。しかし、その代償は。
ランサーは、はっきりと見た。自分が突きだした槍、それが彼女の右太ももに、しっかりと突き刺さっているのを。
どぶり、激しく流れていく血液。体から急激に力が抜けていき、同時に目も霞む。石突きを地面に突きつけて、なんとか倒れるのだけは堪えた。どっと押し寄せる倦怠感は、出血のためだけではあるまい。意識せず、限界を超えた運動と、それに伴うダメージが一気に吹き出たのだ。
(このくらいで膝を折るな! セイバーはすぐにやってくるぞ!)
深い呼吸を一つ。しかし、それだけでは体に力を戻してくれない。もう一度、体の芯にまで届くほど深く息を吸って、やっと視界が戻ってきた。
地面に点々と続く血の跡。その先では、セイバーが膝を突いていた。右側の分厚い布地を、真っ赤に染めている。剣を杖に立ち上がろうとして、しかし上手く立てないようだった。幾度か足を確かめながら、今度はしっかりと立ち上がる。戦えない程では無く、しかし筋肉の重要部分を損傷してはいる。
あの足では、今までのような突撃はできまい。
好機だ。この上なく。
自分のダメージも、確かに大きい。しかし、これを逃しても勝算は無い。
一歩を踏み出そうとして、その時だった。左手に持つ黄槍が、勝手に滑り落ちたのは。
血で滑ったわけではなく、握り込むのに失敗したわけでも無い。ただ、指先の力が、感覚ごとなくなっていた。試すまでもなく理解する。もうこの指で、槍は持てないと。セイバーの放つ一撃は、ランサーからしっかりと戦闘能力を奪っていた。
相手の焦点を一つに絞らせない槍術、それを奪われたのは苦しい。だが、それはセイバーも同じだ。ランサーの動きに絶対に追いつけないとなれば、できる事は限られる。
どちらともなく、獲物を構え直した。そして、ランサーは思った。セイバーも同じように思ったはずだ。この程度で、負けてやる事などできないと。
「どうしたランサー、これではもう、自慢の槍捌きとやらが見られぬぞ」
「確かに槍を一本失ったが、それで俺の槍術に影が差したと考えるのは早計だ。槍一本でもフィオナ騎士団一である事、見せてやる」
互いに、精一杯の強がりだと言うことを知りながら。
ダメージ自体は、命を奪うのにほど遠くとも、戦闘能力の減衰は著しい。普段のような戦い方が出来なければ、ミスも積み重なる。失策があれば、それだけ死に近づく。
つまり、戦闘はもう長く続かない。
終わりが迫っているのを自覚しながら、そして覚悟を決め、飛び出そうとした時。
セイバーがいきなり、地面に剣を振った。剣の光跡が一瞬にして帯となる。つまり、剣に宝具を纏っていない。
圧縮空気の弾丸が、地面を叩き付ける。地面を薄く抉り、周囲に巻き散らかされる草と土の煙幕。蔓延した煙は容易くランサーを飲み込んで、数メートル先の視界すらも遮断した。
「奇襲のつもりか?」
声に出し、槍を一降りしてみる。切った部分だけ煙は割れるが、当然ながら意味は殆ど無い。
(まあいい)
全神経を、感覚に集中した。
こんなものは奇策ですら無い、下策の類いだ。煙幕を撒いた程度で、英霊の不意を突けるはずが無い。ましてや、それが白兵戦能力に卓越したランサーであれば。
(どうなるかを教えてやる)
鋭く、それこそ刃のように体を尖らせる。どの方向から、どんな攻撃を放ってこようとも。確実にカウンターを決める。
一秒、二秒、三秒、と神経を集中し続け。五秒、六秒と、何のつもりかと訝しみ始める。そして、十秒経ち、周囲の砂埃が収まり始め。ここでやっと、セイバーが離脱したのだと悟った。
すでに周囲には誰も居ない場所にぽつんと立ち。槍を、取り落としたものもろとも消した。
「なぜ逃げたのだ?」
詰まるところ、ランサーの懸念はその一言に尽きる。
対峙していた時のセイバーは、確かにランサーを倒そうとしていた。少なくともあの時点では、撤退のことなど考えて居なかったはずだ。
もし、あの時点でランサーが向かっていれば。確実に、背中から串刺しになっていただろう。それほどのリスクを冒してまで、そうさせる何かがあったのだろうか。
「……まあいい」
煮え切らない。が、戦闘はすでに終わってしまった。これ以上考えても、仕方が無い。
アーチャーの援護に行こうかと確認する。遠目に移る戦場に、もうバーサーカーはいない。そちらも終わっているのだ。同時に、主であるケイネス達にも、累が及んでいないと確認した。
またしても、セイバーの御首級を上げる事は敵わなかった。最高の結果、とは言えない。しかし、勝利条件は達成している。とりあえずに、そこには満足していいだろう。
今度は街を走らず、霊体化して拠点に戻っていった。しかし、ふと背後を振り返る。
胸に残るわだかまりは、何だろうか。決着をつけられなかった、それ以上の何かがある気がしてならなかった。
「う……」
痛い。どこがではなく、全身余すところなく。実際、それを自覚したのは、自分が目を覚ましたという事実よりも先だった。
「何が……」
起きた。そう言おうとして、頭痛に遮断される。身を起こそうと手を突いて――それすらも、苦痛の前に断念せざるを得ない。とにかく、自分を包む世界の構成物質全てが、痛めつけるべく動いている。
痛みになれている訳ではない。ただ、どうすればいいかだけは知っていた。体も心も小さく丸めて、幼子のように閉じこもってしまえばいい。そうすれば、自分は苦痛を忘れられなくとも、苦痛はその内に、自分を忘れて去って行く。
ふと、消えていった苦痛はどこに行くのだろうと考えた。もしかしたら、消えた分だけ、他の誰かに押しつけているのかもしれない。馬鹿馬鹿しい考えだ。科学的にも神秘的にも、全く持って論ずるべき所が無い。メルヘンチックですらあった。だが、その時彼女は、不思議とそれを肯定していた。
世界中に溢れる苦痛と不平等。それを押しつけあう人たち。そんな世の中を衛宮切嗣は変えたいと考えて居た。そして、そんな男をアイリスフィール・フォン・アインツベルンは愛していた。そして、愛した男の願いは、世界がどうの等という大きすぎて形がつかめないものよりも、よほど命を賭ける価値がある。だから……
(そうだわ。今は聖杯戦争中で……)
少しずつ、思考力が戻って来たのは、頭痛が引いてきた証拠でもある。生憎と、全身の痛みはしっかり残っており、動かす気になれなかったが。
(車で逃げ出したんだった。セイバーに足を止めて貰って。その後、やっぱり誘き出しが上手くいかないからって、切嗣と合流しようとした。そうしている内に、バーサーカーが負けちゃって。合流を急ごうとして、その前に……そうだ、襲われたんだ)
アサシンに。
目を思い切り見開いて、身を起こそうとした。もう痛いなどと言っていられない。とにかく――何をすれば良いかなんて、全く分からないが――とにかく、なんとかしなければ。
体を持ち上げることには失敗する。酷い苦痛は、アイリスフィールの気合いでどうになかるレベルのものではなかった。ただし、目を開いて視線を確保することだけには成功する。
視界に映る光景は、一言で言えば殺風景だ。廃墟のような薄汚さはない。しかし、人が頻繁に利用するような生活感もない。ただ使われていない、というだけに見える一室。コンクリートに包まれただだっ広い部屋、その隅にある台の上。それが、アイリスフィールの所在だ。
サーヴァントに襲われて、なんとかなるような戦力はあの時にはなかった。もっとも、どこに行けばそんな戦力が存在するのか、という話ではあるが。とにかく、襲われて、未だ生きており、そして見知らぬ場所にいる。ならば、拉致されたとしか思えなかった。
(けど、私を生かす理由って何?)
そんなものがあると思えなかった。自分をマスターと知っていても、そうでなくとも。
もっとも、彼女の真の役割――聖杯そのものであるという事――を知っていれば、その限りではないのだが。しかし、それこそ誰が知っているという話だ。
なんとか肘を叩き付けるようにして(実際は弱々しく押しただけだろうが)、寝返りだけは成功させる。急に広がる視界。少なくとも、代わり映えのしない天井よりは、意味のあるものになった。一人の神父を見つけたことによって。
取り立てて代わり映えする場所があるわけでもないカソック。切嗣とはまた違う長身。彼を鋼に例えるならば、その男は樹木だ。美醜よりも厳格さの先立つ顔。そして何よりも、暗く感情の見えない瞳。間違いなく、言峰綺礼だ。以前現れたところと違う場所は、何一つない。敢えて上げるのであれば、手に持った黄金の杯くらいであろう。
(……杯?)
なぜだろう。それが自分のものである気がしてならない。あるべき場所が違う、そう断言できる。根拠など、どこにもないのに。
「お……おおぉ……! これが聖杯!」
いきなり、声がした。綺礼ではないし、もちろん自分でも無い。他に人影などないのに、不自然に声だけが現れている。
「ワシにそれを寄越せ! それはワシの……」
「触れたければ触れれば良い。それが貴様の最後の時だ」
「ぐぅ……おのれ、いつまでも生意気な口を……!」
いや、居ないのでは無い。言葉の他に、小さな何かがうごめくような音。小さすぎて分からなかったのだ。床に、無数の虫が群れを成している事に。
魔術に類しているとは分かる。だが、その虫はそうであるにしても、醜悪に過ぎた。悪趣味、などというレベルを超越している。もっと深い澱の、人が決して触れてはいけない領域。例えば、吸血鬼化の秘法のような、人間で居る事を放棄してしまう類いのそれ。そんな雰囲気を、あの虫は醸し出していた。
「あなたたち、私をさらってどうするつもり?」
「目を覚ましたか」
綺礼の感情のない瞳が、アイリスフィールを見る。
男の瞳に捕われて、ぞっと体を震わせた。何故だろう、あのガラス玉に色を塗っただけのような、不出来な眼球。前に会った時の方が、ずいぶんとマシに思えた。
体の痛みは、ずいぶんと減っている。体を動かして、台の上に座れる程に。しかし、一部、心臓だけは、苦痛を加速させている。
鼓動すら止めてしまいそうな、強烈な喪失感。痛みのせいで、今すぐ気を失ってしまいそうであり、逆に意識を手放せなそうでもあり。体の不調が、心臓を中心にしている、と分かった点だけは収穫であった。
(って、え? 体が普通に動く?)
おかしかった。今の彼女は、まるで普通の人間のように体が動かせている。ありえる事では無い。なぜならば、アイリスフィール・フォン・アインツベルンという存在は、すでに人間としての機能を失い始めていたのだ。ましてや、二体目のサーヴァントを回収した後、脱力感で体が動かなくなってもおかしくない。
しかし、現実に体は普通に動いていた。いや、それどころか。不調を訴えている場所は、今のところ心臓しかない。
(……待って。心臓って……もしかして!)
胸に手を置いた。聖杯の反応を確かめようとして、しかし反応はなかった。不具合ではなく、故障でもない。完全な素通り。つまりは、喪失だ。
「まさか……それが聖杯!?」
「やっと気がついたか。鈍いな。いや、鋭いのか?」
どうでも良い事を、どうでもよさげに悩んでいる――そんな調子で、綺礼は顎に手を当てた。その仕草すらも、やはりどうでも良さそうだ。
聖杯を、誰かの手に渡してはならない。それが、絶対の不文律だ。あらゆる奇跡を現実に引き起こす神の器、だからこそ、それは繊細である。純なるもの以外に触れては、一気に不純となってしまうのだ。起こるべき奇跡に、陰りが差してしまう。
「やめなさい! それはあなたの……」
「それはもうお嬢さんの気にする事ではないのじゃよ」
キキ、と小さな鳴き声を発した蟲。ぞわりと、アイリスフィールに近づきながら広がる。
「この小僧は、お主を逃がすつもりであったようだが……しかしワシとしては、まだ我らが見つかってしまうのは、少々都合が悪い。と言うわけでじゃ。アインツベルンのお嬢さんや、申し訳ないんじゃが……」
――ワシの餌になっておくれ。
また、虫が鳴く。今度は一匹やそこらではない。全ての虫が一斉に、嬉しそうに鳴きだした。
「ひ……!」
思わず悲鳴が漏れる。醜悪なそれらがぞわぞわと迫ってくる。逃げようと体に力を入れるが、上手く動かなかった。心臓の後遺症と、恐怖にすくみ上がって、動かぬ体。
ついに足下まで到達し、しかしすぐには上らない。アイリスフィールの恐怖を味わうように、なぶり始める。
「なあに、案ずる事は無い。残りの世話は、聖杯も含めて、全てワシが請け負ってやるからのう。ただちょっと、少しばかり……そうさな、二時間ほどじゃろうか。生まれてきた事、女である事を後悔し続ける、その程度よ。ああ、皮も衛宮切嗣とやらに奇襲を仕掛けるのに、絶好の素材よのう。うむ、それも有効活用してやろう」
止まらぬ老人の声と、笑い声。
命乞いをしなかったのは、どうせ声の主は聞き届けまい、という冷静な判断をした――などと言うわけでは、当然ない。喉に詰まった緊張が、どんな言葉の発声もさせなかったというだけ。できたのであれば、きっと大きな絶叫を上げて泣きじゃくっていたであろう。
(誰か――)
もしかしたら、初めて祈ったのかも知れない。神か何か、もしかしたらもっと高次元なものか。それとも、その辺の草木か、ありがたみもなにもないコンクリートに。
意味があるとは思っていなかった。それ以前に、意味の是非を論じられる余裕などなかった。ただ、祈りを捧げる。対象など、さしたる問題ではない。それがどれだけ純なものであるか。祈りに必要なのはそれだけだ。
しかし、どんな祈りであろうと。それを聞き届ける者は、自分以外にありえない。もし聞いたとすれば、それこそ全知全能の神くらいなものだ。だから、その祈りは誰にも届かなかった。
(誰か助けて!)
届かず、聞かれず。ただ唱えるだけの儀式。意味の無い行為を行って。
しかし助けが本当に来たのは、どれほどの幸運であったのだろうか。
「なっ、何事じゃ!」
「ひ……ぃっ!」
爆砕する壁。揺れる建物。轟く嘶き。響く雷鳴。この世の天災を一カ所に集中したような惨状が、ただの一室に充満した。
アイリスフィールには、もう体を丸めて縮こまるしかなかった。蟲の群れですら、一斉に部屋の隅に待避する。全く変わらぬ様子を見せず、涼しげなままなのは綺礼だけだ。
「はぁっはっはっはっはっはっは!」
天まで届きそうな、呵々大笑。
牛らしき生き物の足が、床にたたき付けられる。床前面にひび割れが走り、僅かに部屋を傾けた。
「征服王イスカンダルの参上である!」
牛の後ろに繋がれた戦車のさらに上、そこで仁王立ちをしている大男。アイリスフィールの信じるアーサー王に同格だと言わしめる、英霊の一角。サーヴァント・ライダー。
その男が、ここに現れた。
「アーチャーの奴め、黒幕に一番乗りとは、おいしい役割を用意してくれるわ! さて貴様ら、余が現れたからには、影でこそこそと謀りを進められると思うなよ!」
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雁夜は夢を見る①
勘というものは、あまり好きでは無い。と言うのも、ウェイバーにとって勘というのは、外れの代名詞、みたいた所があったからだ。しかし、それについて彼を非難するのは酷というものだろう。普通、勘とは運以外の要素でありえないものなのだから、そもそも頼るのが間違っている。
そのベルが鳴ったのは、夕食を食べ終えて間もなくの頃だったか。ゆっくり腹を休めていた、という事だけは覚えている。
魔術礼装と言うのもおこがましいその道具。ただ魔力を通して鳴らせば、別の場所にあるもう一つも同様に音を奏でる、というだけのもの。しかし、その音色は、ウェイバーの背筋を凍らせた。
ベルは、本来鳴るはずのないものであった。と言うのも、これは本当に緊急用だったのだ。
アーチャーと休戦した時、一つだけ取り決めをした。この、聖杯そのものに異常がある緊急事態。もしもの為に、連絡くらいは取れた方が良いと。
連絡を取る余裕がある場合は、直接連絡を取るからいいと言われた。ちなみに、場所も分からないのにどう連絡を取るのだと言ったら、知ってると簡潔に、かつ当然のように答えられた。全身から汗が噴き出たのを覚えている。
そして、もしその猶予すらなかった時の場合。とにかく『何かがあった』という事だけは伝えたい、という時にどうするかと言う話で。ウェイバーは、自分が持っている道具を渡そうと提案した。とりたてて特徴のない、そして扱いに特殊性のないそれであれば、緊急連絡にもってこいだ。
あっさりと受け入れられた意見に、ひとりほくそ笑むウェイバー。渡したベルには、密かに探索術式が組み込んであり。それを辿れば、アーチャーの拠点が分かると思ったのだ。
当然これは意味が無かった。あからさまに拠点と分かる膨大な敷地、それがアーチャーのものだと確定しただけだったのだから。知られていないよりも、攻め込めない事を重視した拠点。確かに、発覚したところで痛くもかゆくもない。ひっそり下唇を噛み、見透かしていたライダーにそれをからかわれ、さらに悔しい思いをした。
と言うわけで。そのベルは、まず使われない筈のものであったのに。こうも素早く、しかもあっさりと使われるとは予想だにしていなかった。なぜならば、それが使われると言うことは。あのアーチャーから、それだけの余裕を奪っているという事なのだから。
だからこそ、ここは慎重に動くべきだ。なのに、
「よし坊主、出撃だ!」
「なんで!?」
「勘だ! 余の勘がそうした方がいいと言っておる!」
しかも、その理由が勘なのだ。ウェイバーの人生の中で、最も信用がおけないものを上げろと言われれば、常に上位に位置する勘。
お好み焼き屋の一件で、ライダーの勘は無視できないと承知している。だが、勘はただの要素。それを頼りに動くとなれば、話は全く別なのだ。
「あのなぁ……」
「待つのだ。今回はそれなりに根拠もある」
大きな手のひらで、ウェイバーの視界を隠すようにしながら。
身長を誇られているようで気に入らない手の平を、叩いてどかす。言葉にどれほど説得力があるのかは分からない。しかしウェイバーは、自分が半ば言葉を信じることに決めているのを自覚していた。何だかんだ言っても、主張の内容がむちゃくちゃでも、最終的に、言葉が正しいことが殆どだったのだから。
「そもそも、ランサーとアーチャーに組まれて、奴らから余裕を奪える存在などまずおらぬ」
「そうだよ。だから、半ば孤立している僕たちは冒険できないんだろ」
「結論を急ぐな。まず居ないが、しかし例外は存在する。つまり余達のような存在だ」
「何言ってるんだよ。そんなのまずいな……いや」
「そうだ。残りの組をあてればいい」
確かに、セイバーとバーサーカーであれば、奴らの足を止めるのに十分だろう。片方に速攻を仕掛けるか、悪くても一対一の状況を作って、アーチャーに接近できれば。少なくとも、二人に連携を取られるよりは、悪い状況になるまい。
だが、パワーバランスという問題がある。今のところ、最強の陣営はランサー、アーチャー連合なのだ。そこに攻め込むというのは、控えめに言っても賭である。迂闊に攻め込めない陣営が、亀のように籠もっている。だから、戦線は降着していたのだ。少なくとも、彼らの陣営が何かしら動きを見せるまでは、それが続くと思っていた。
「積極的に攻め込む理由が無い。けど、状況が変われば……いや、誰かが変えたのか? けどどうやれば……」
「馬鹿者。そんなもんは、所詮机上の空論よ。何かあったかもしれない、それを確かめに行くのであろうが」
ぐ、と言葉に詰まる。
自分が小賢しいと、聖杯戦争で幾度も思い知らされた。今回のこれもそうだ。しかも、それに腹が立たないのが、また腹立たしい。
ライダーの弁は、つまり実戦経験者の言葉なのだ。経験は知識を凌駕する。ウェイバーがどれだけ頭を捻ろうと、ライダーに敵うはずがなかった。それでも考えてしまうのは、魔術師の性だろうか。
大まじめに胸を張っていたライダーが、今度は戯けるような表情をして言う。
「それに、互いが争っているという事は、悪くとも奴らの手札を見られる、という事だぞ? こいつだけでも、出撃する価値はあるというものではないか?」
ここまで言われて、反対する理由は無い。
と言うかだ。これだけ理路整然と出撃理由を作れるならば、最初に勘などと言わなければいいのに。そこら辺は、自分が中心になって国を引っ張っていた王である、という事なのだろう。
「十秒で支度せい。時間は敵だぞ」
「ゼロ秒だ! 今すぐ行くぞ!」
「ほう! 渋っていた割には気合い十分ではないか!」
テーブルに転がっていた双眼鏡だけを掴み(何か遠くを見る機会が多かったので買った。高い買い物だった)駆け出す。
戦車が夜の闇を切り裂いて、静まり返った街を見下ろした。殺人鬼の後遺症から、未だに回復できぬ街。不謹慎ではあったが、その状況はライダーというサーヴァントに味方していた。
アーチャー達が戦っている場所は、すぐに見つかった。街の隅でアーチャーとバーサーカーが。人工林、というよりは木を植えた公園でランサーとセイバーが戦っている。人気が少ないとは言え、あまりに派手な戦闘。気にする気がない、というよりも。これは明らかに、気にする余裕を失っている。
「ほう、こいつはまた良いものが見れそうだ!」
「見るなとは言わないけど、そっちばっかり気にするなよ。妨害者だって特定しなけりゃいけないんだ」
戦車から身を乗り出し、双眼鏡を覗く。偶然映った先は、丘の上に止まっている車がヘッドライトを点灯した時だった。白いベンツが、エンジンを起動し走り出す。
「ライダー、あれ」
「うむ。無関係と言うこともあるまい。恐らくマスター、最低でも協力者だな」
ライダーは戦車を滑らせた。二つの戦場と、走る車。どれかに集中していても、必ず他の二つから目をそらさない位置。
ウェイバーも、車を常に意識に置くよう注意しながら。双眼鏡の焦点を、戦場に合わせた。
「くそっ、何だよあれ……。こんなに遠くから見てるのに、姿が全然捉えられないぞ」
「これがランサーの本領か、見事なものよ。倉庫での戦いの数段上を行くぞ。そしてセイバーも、あの時よりも遙かに強い。果断さをそのままに、迂闊さと甘さが消えたな。アーチャーの言葉、しっかりと効いているようだな。どちらも見事だ」
「見事だ、じゃない! あんなの本当に何とかなるのかよ」
「何とかなる、ではない。何とかするのが戦争なのだ。だが、まあ。ありゃ予想以上だ。近づかれてはどうにもならんな」
「そんな……」
思わず漏れた声は、泣き言のようだった。自分でもやめようと何度も思っているのだが、どうしても出てしまう。
悲鳴を上げるのがウェイバーの役割ならば、それを止めるのがライダーの役目であり。太い指のデコピンは、しっかりと少年の額を捕らえた。バヂン、という音は、むしろ頭蓋骨から響いてくる。御者台に転がり、続いてじんと熱が広がる。
「余は騎乗兵だ。元より接近して剣を合わせるのが役割では無い。近づかれて勝てぬのであれば、近づかせず勝てばよい」
「っつぅ……じゃあ不安にさせるような事を言うなよ」
自分でも情けなくなるような声だと自覚して。話をそらすように、別の戦場に目を向けた。そして、瞬間的に凍り付く。
ライダーも釣られたようにアーチャーを見、むぅと声を漏らした。
「ありゃ不味いなぁ。あ奴、接近戦でバーサーカーと互角にやり合っておる。いざとなれば白兵戦に持ち込んでなんとかしようと思っていたが、当てが外れたのう」
「それどころじゃない!」
ウェイバーは絶叫した。当たり散らすように。なぜ、これを見て事の重大さが分からないのだ。こんなものを見ては、どんなマスターだろうと冷静でいられる訳が無いのに。理不尽だと分かっていても、やはり、怒声を押さえられなかった。これが分からないなんて、絶対にどうかしている!
「いきなり八つ当たりをされても、余には何も分からんぞ。しっかりと説明せい」
「あ……アーチャーのステータスが……平均A+になってる!」
「はぁ!?」
これには、さすがのライダーも悲鳴とも取れる声を上げた。
サーヴァントのステータスなど、そう簡単に上げられるものではない。確かに、魔力量を増やすことによって、より生前の能力に近づけられるのだが。言うは易し、行うは難し。例えば、ウェイバーがライダーのステータスのどれかを、ワンランクアップさせようとすれば、それだけで倍の魔力を注がねばならない。
バーサーカーのように、狂化で無理矢理引き上げても、まずあり得ない数字。間違いなく今のアーチャーは、全サーヴァント中最高のステータスだ。
「これで合点がいったぞ。アーチャーは、ステータスを上げることで無理矢理バーサーカーに対抗しているのだな」
「そうだけどそうじゃなくて。問題は、どうやってステータスを上げてるかだ」
「気持ちは分かるがな。ここから見てるだけでは、どうやっても分からん。諦めよ」
その通りではあるのだが。しかし、敵サーヴァントの能力を見切るのはマスターの役割。少なくとも、ウェイバーにはそういう意識があった。敵の能力を見ながら、それに予想すらつけられない。悔しくて仕方が無かった。これでは、本当にライダーの足手まといにしかならないではないか。
ただ、取り返し様のない無力を味わわされ。それを中断したのは、やはり。大きな手のひらだった。
「そう悔やむな。能力が分からぬのであれば、別の部分で挽回すれば良い。それだけであろう?」
「う……オマエに言われるまでもない! ふん、見てろよ! いまにしっかりと情報を暴いてやる!」
「おう、その意気よ!」
がしがしと頭を撫でる手を、やはり振り払いながら。精一杯、威勢良く言ってみせる。
「奴らの分析も良いが、車の方も忘れるでないぞ。そっちも注視しておかねば」
「あっちもか? 乗ってるのはセイバー側のマスターだけなんだろ?」
「うむ、勘だ」
「また勘かよ……」
呆れたと言うか、飽きたと言うか。何度目かに聞かされた単語に、少し嫌気がさしてくる。
「こっちも根拠は一応あるぞ。単純な話で、一番手を出しやすいマスターと言う意味でな。拠点に籠もっているのと、車でサーヴァントから離れたマスター。狙うなら後者であろう?」
「まあそうなんだろうけどさ」
確かに、黒幕が干渉してくるという意味では、そこが一番可能性が高い。逆に言ってしまえば、他のマスターに干渉されても、彼らにはどうしようもない、という意味でもあったが。車にいるマスターだけが、何かあったときにギリギリ介入できるマスターなのだ。
どうであるにしろ、けしかけた以上はここで何かしらの動きがある。その予兆は、絶対に捕らえなければならい。……まあ、そのついでに各サーヴァントの能力を、しっかりと解析するが。
セイバー対ランサーは、相変わらず超速度と超絶技巧の比べ合い。戦闘素人どころか、格闘技の経験も無いウェイバーでは、もうどんな駆け引きが行われているのかも分からない。加えて言ってしまえば、単純に優れている(強い、ではない)ものと正面から戦う場合は、こちらがより優れることでしか勝てない。対策の取り甲斐も取りようもない相手だ。
それに比べアーチャーとバーサーカーの戦いは、一言で言って野獣的だった。技量という意味では、バーサーカーは前者の戦いにひけを取っていないのだろうが。根本にあるのが、敵を思い切りぶん殴る、という事だとありありと分かるのだ。アーチャーの場合は、戦術的には一番冷静なのだろう。だが、戦い方は本当に暴力としか言えない。場当たり的、と言ってもいい。
と、アーチャー達の戦況が僅かに動いた。アーチャーが、上手く間合いを詰めさせない事に成功したのだ。そして、背後に揺らめく空間から、無数に現れる道具。
「あ奴、まだあれほどの道具を持っておったか。ますます征服しがいのある奴よ」
「それだけじゃない……あれ全部宝具だ! 馬鹿な、ライダーだって宝具扱いにならない宝具、キュプリオトの剣を持ってるけど、あの数は異常だ! いや待てよ……」
もしかしたら、思い違いをしていたのかも知れない。あのサーヴァントは、宝具扱いにならない宝具を持っているのではなく。ましてや、状況に上手く対応させて道具を使っていた、のではないとしたら。
記憶の中にあるアーチャーの情報を、今見たものも併せて一つ一つ整理していった。
生に対する濃い執着。暴力的な戦闘方法。王であったという経歴。
最後に、新たに生まれた疑念。それは、あらゆる状況に対応できるだけの道具を持っているのではないか、という可能性。
「なあ、ライダー」
「今、余も思い至った。アーチャーの真名は、恐らく古代ウルクの王。英雄王とも言われる、ギルガメッシュだ。だとすれば、獲物を失った時点でバーサーカーに勝ち目は無くなるぞ」
話している間にも、戦況は加速し続ける。アーチャーの攻勢を捌いていたバーサーカーの剣、それがついに破壊された。
吹き荒れる、アーチャーの宝具一斉放火。バーサーカーの儚い抵抗も、秒と持たずに。そのまま圧殺されるかと思ったが、その前に、バーサーカーを包む黒い霧が吹き飛んだ。同時に現れるのは、その力、セイバーのエクスカリバーにすら匹敵するのではないかと思えるほどの宝剣だった。
「あの剣! 曇りなき泉のように静謐な輝き、間違いなくアロンダイト。と言うことは、バーサーカーはサー・ランスロットであったか!」
「バーサーカーのステータスが見えるように……何だこれ! アーチャー以上のスペックじゃないか!」
平均A+のステータスを誇ったアーチャー。しかし、今のバーサーカーはそれに匹敵し、一部凌駕してさえいる。どこにどう、宝具の力が影響しているのかは分からない。だが、圧倒的技巧を持ちながらも、あのステータス。まともにやって、勝てるわけが無い。そう確信させるだけの、圧倒的な存在だと言うのに。
アーチャーの攻勢が強まった。飛ばす武器のサイズが大きくなり、比例して威力も上がる。剣を振るい、それらを弾いていくバーサーカー。しかし、圧倒的な手数に間に合わず、攻撃に晒されていく。最後は物量に負けて、呆気なく串刺しになり。宝剣を抜いてから、僅か数秒の出来事だった。
「あのバーサーカーが一瞬で……ウソだろ?」
「相性の問題だ。アーチャーに取っては、最後の切り札よりも、手に持ったものを宝具に変える能力の方が厄介であった、それだけだ」
それは。
相性のいい能力を持たねば、簡単に圧殺されてしまう。どれほどのステータスを誇ろうと意味が無い。そういう意味では無いのだろうか。
対抗する手段が見つからないからこそ、ライダーの声に真剣味しかなかった。そんな、恐ろしい想像が脳裏をよぎる。現に、ウェイバーがどれほど脳を働かせようと。ライダーでアーチャーに勝つ戦略が見えないのだ。最大の優位、物量がアーチャーに通用しない。それどころか、飛行して宝具を撃ち込まれれば、抵抗する手段がない。
どうにかして糸口を見つけたい。自分の世界に没頭し続けて、しかしそれは唐突に終わりを迎えた。
「坊主、悩むのは後だ。状況が動いたぞ」
ライダーの指した方向では、車が停止していた。よく見ると、ガラスが割られているのが見える。
「何があったんだ?」
「アサシンだな。どうやら、まだ生き残りが居たらしい。白い髪の、セイバーのマスターを連れてどこかに向かっておる」
「え、拉致したのか? その場で殺したんじゃなくて?」
「うむ。何のつもりだかなぁ」
絶対に気付かれないよう高度を取って、アサシンを追跡する。
「助けるのか?」
個人的な意見を言ってしまえば、最低でも契約破棄をさせたいのだが。それは、ライダーが必ず反対をする。そう知っていたからこそ、口にしなかった。
「最終的にはな。しかし、もう少し泳がせる。アサシンが向かうとしたら、それは黒幕の居場所以外ありえるまい」
「そうだな」
幸いにして、アサシンの動きはサーヴァントとは思えないほど遅い。酒宴の場で、多数撃滅された影響だろう。とは言え、それでも人間の限界を軽く二周は凌駕している。間違っても、ウェイバーが戦っていい相手ではない。
周囲を観察しながら走るアサシン。気をつけてはいるが、さすがに上空までは対象外だったようだ。気付かれる事なく後をつけて、そしてたどり着いたのは市民会館だった。まだ工事の途中で、所々骨組みが覗いている。
「よし、突入するぞ!」
「わあ! 待てバカ!」
「なんだ、ノリが悪いぞぉ」
「そういう問題じゃない! お前、あの女の人をさらった連中が、あそこのどこにいるかなんて分からないだろうが! 下手に暴れてみろ、見つける前に逃げられちゃうだろ。待ってろ、今使い魔を飛ばして、中を探す。突入は、居場所を見つけたその後だ」
即席で使い魔を作って、地面に落とす。大したことはできず、持続時間もお寒い限り。だが、建物一つを探す程度であれば十分だ。
いつも無茶を言い出すライダーへの不満を、ぶつぶつと口角に残しながらの探索。そうしながら、ふと気がついた。あのライダーが、その程度の可能性にも気付かないだろうかと。本当に考えて居なかったという可能性も、無いわけで無いのが恐ろしいのだが……しかし、まず間違いなく分かっていた。
ならば、なぜそんな事を言い出したのだろうか。もしかしたら、自分に自信をつけさせるため、敢えてそう振る舞ったのかもしれない。
聖杯戦争が始まって、幾ばくかの時間。正直、お世辞にも付き合いが長いとは言えないだろう。深さで言えば、それなりの自信はあったが。その程度で、何がどう、相手の事が分かったなど言えよう筈が無い。ただ、一つ。最初の頃と関係が変わったのだけは分かった。
どこが変わったのだ、と詳しくは言えない。本人にも、自覚はなかった。ただ確実に、関係に違いができたのだと、それだけは断言できる。それでも、敢えて言うならば。
片方が上で片方が下、などという些末なものではなくなったのだろう。
ちらりとライダーを見る。いつもと変わらぬ、自信に満ちあふれたいかつい笑み。結局どっちだか分からず、しかしどちらでもいい、そんな風に小さな悩みを吹き飛ばす顔だ。いつもそうだ。だから、ウェイバー・ベルベットはいつも通りでいい。
「いつも無茶ばかり言いやがって、ちょっとは考えてから動けよ!」
「そう言うな坊主。余は蹂躙のための道を走り、何かあるのであれば貴様が指摘する。それが『コンビ』というものであろう?」
「ふん、何がコンビだ。苦労ばかりかけやがって」
何故だろう。その言葉は。
自分のことを真剣に考えられていたからか。それとも、相棒だと認められたから。無性に嬉しかった。
当然、そんな姿は見せない。見せて良いのは隙であって、弱みを見せてはいけないのだ。多分、それがコンビというものなのだから。
「見つけた! 東側から回って、二階三つ目の部屋、工事途中の所だ」
「承知した! しっかり捕まっておれ!」
「分かってる!」
手すりの縁に、しっかりと指を食い込ませる。ライダーに自重と手加減という文字が無いのは、嫌と言うほど思い知らされていた。
大人しく進入することなど全く期待していなかったのだが。突入はやはり、無理矢理壁を粉砕するという荒っぽいものだ。
飛び散るガラスとコンクリート片から頭を守り、衝撃を堪えた。気を抜けば、振り落とされそうな気さえしてくる。衝撃が止み、おそるおそる部屋を見てみると。そこには、完全に破壊した方がいいであろう部屋と、二人の人間がいた。一人は、まるで一般人のように怯えた、少女のようにも見える銀髪の女性。もう一人は、その女性とは対照的、惨状に驚愕どころか、眉一つ動かさない神父だった。
とりあえず、女性を分かりやすく味方と断じた。ここでいざこざを起こし、セイバーと即敵対するのも馬鹿馬鹿しい。
ライダーにアイコンタクトをすると、口上が上がる。その隙に、ウェイバーはなるべく小さな、しかし相手に届く声を上げた。
「あんた、早くこっちに!」
「え?」
恐怖に引きつった涙目の女性が、惚けた声でウェイバーに答えた。その表情を見て、僅かに驚く。彼女の顔は、キャスターに拉致され、下水に転がされていた子供達のそれに似ていたのだから。
「逃げるつもりがあるなら速くこっちに! 信じないのは勝手だけど、これ以上手は貸さないぞ!」
「あ……待って!」
震える足をもつれさせながら、必死に走る女。たった数メートルの距離を走り、戦車に乗り込むだけで、恐ろしく息を荒らげている。
いや、それは運動の為ではなかった。緊張、恐怖、あらゆるものは、人を実情以上に疲弊させる。それが強烈であればなおさら。
中に転がり込んだ女性の背中を、ゆっくりをさすって落ち着かせる。敵陣営の人間であり、油断していい相手でもないのだろうが。しかし、少なくとも今の彼女よりは、驚異と見なす相手がいる。
「おのれええぇぇぇ! 何故だ、何故ここにライダーが来る!」
声を上げたのは神父、ではない。どこからか――少なくとも部屋の中だったが――絞り出すような、老人の声。それと同時に響く、キチキチという、何かをすりあわせる音は、控えめに言っても不気味だ。
「見る限り」
ライダーは、じろりと視線を巡らせた。部屋の隅から隅まで、余すところなく探索し。一通り見終わって、信じられないものを見るように、それを目を向けた。虫のコロニー、ぎちぎちと不愉快な音を奏でる使い魔とも思えないそれらが、声の主だ。ウェイバーも同じくそれを見て、思わず目を背けたくなった。思わず目を背けたくなる瘴気。常識的にも魔術的にも、明らかにまともでは無い状態だ。
「貴様が黒幕であるな。余は盗人を責めぬし、敵対者も許す。しかし、貴様の様な外道を許してやるほど、優しくも甘くもないぞ」
月光と、牛から僅かに弾ける紫電、それを反射した剣が、凶悪に輝いた。それは悲鳴であったのだろうか。小さな羽音を立てて、虫が後退する。
協力者と思わしき、虫の群体。それが追い詰められているのに、しかし神父の男は微動だにしなかった。ひたすら興味なく、まるで他人事の様に、成り行きを見守っている。あからさまに、人間性を欠いた男。なぜか、そこから全く驚異を感じられない。だからこそ余計に、男が恐ろしかった。
ふと女性の顔を見た。しゃがみ込んだままの女性は幾分落ち着き、余裕を取り戻している。しかし、まだ立ち上がれる程では無い。その顔を見続けて、
(そうだ、確かアイリスフィール・フォン・アインツベルンだ)
どうしても思い出せなかった名前を思い出し、一つ落ち着く。これから話しかけようと言うのに、名前も思い出せませんでしたは、何と言うかみっともない。
幾度か名前を反芻してから、女性の耳元に顔を寄せた。一瞬戸惑いの表情を見せたが、すぐに意図を察する。
「なあ、あんたアイリスフィールさん? でいいんだよな。あいつらって何者なんだ?」
「一人はアサシンのマスター、言峰綺礼よ。もう一人は多分になるんだけど……御三家の、間桐の実質的支配者である間桐臓硯だと思う」
聞いたことが無い名前だった。少なくとも、聖杯戦争について調べた時、出てきた名前では無い。間桐、というファミリーネームには聞き覚えがあったが、それはバーサーカーのマスターであり、今はセイバーの陣営にいる。
「間桐臓硯って何者だ?」
「私も詳しくは知らないわ……すごく長い間生きてるとか、化け物とか……あとは、人を食べるとか……それくらいよ」
震えながら言うアイリスフィールに、小さく頷いた。とにかく、まともで無い存在なのだけは分かった。特に最後のは、恐らく彼女自身が『そう』なりそうだったのだろう。
問題は、そんな存在がなぜろくなサーヴァントも引き連れず、聖杯に干渉してきたかだ。こうすることで、サーヴァントを引き連れるよりも勝率が高い、とでも言うのだろうか。
「あと少しで、悲願を達成できたと言うのに、なぜ今になって……!」
「愚か者めが。外道を行い、火事場泥棒で栄光を手にしようという事自体が間違いだとまだ分からぬか!」
ライダーの罵声に、虫がざわりとざわめく。もしかしたら、逃げようとしているのかもしれないが。それは、ライダーが目を光らせている時点で不可能だ。もし虫の一匹でも離脱させようものならば、その前に部屋ごと、ライダーによって焼き尽くされるだろう。
苛烈な怒りを演出するライダーに、ウェイバーはそっと囁く。
「ライダー、あいつは……あれはやばすぎる。とっとと消し飛ばした方が良い」
「それは余も承知しておる」
部屋の隅で、何かに縋るように群がっている蟲。見た目だけは、気色悪く、同時に哀れでもある。それが矮小な存在だと誤解してしまいそうな程に。
しかし、蓋を開ければそんな生易しいものでは、絶対にない。それは、アイリスフィールの反応を見ても分かるだろう。なにより、間桐臓硯は確実に、身体改造の極みにある魔術師だ。数ある魔術師種別の中でも、特にえげつない一派。それを考慮しても、臓硯からは危険な雰囲気が漂っている。
いや、取り繕うのをやめてしまえば。間桐臓硯の雰囲気は、酷くあるものに似ていた。
人食いの化け物――吸血鬼に。
あの様であっても、間桐臓硯はまだ人間の範疇であるのだ。正確に言えば、人外のぎりぎり範疇外、と言うべきか。
(ただでさえ、妄執の塊みたいな奴なんだ。必要とあらば、平気で吸血鬼にだってなってくれるぞ。ただでさえ人間やめてるような力と精神を持った奴が、それ以上になるだって……? そんなものは)
悪夢という言葉でも生ぬるい。
「なら何で!」
「だが、ここで目的を聞いておいた方が良い。もしここで闇雲に奴らを滅ぼせば、手遅れになるという気がするのだ」
また勘だ。未来予知にも近い虫の知らせ。しかし、今回ばかりはそれを無視しても、早く終わらせて欲しくて仕方が無かった。
化け物と言われる存在は、世界に数多く存在する。しかし、その中でも吸血鬼こそが徹底して討伐される。人間の天敵であるというのは、それだけ大きなファクターであり、同時に恐怖を刻み込む。それの前では、自分が餌にしかならぬのだから。
「まあ……警戒すべきは、あちらの神父の方かもしれんけどな」
「え?」
呟きに答える声は無く。ライダーは続けた。
「貴様も、何ぞ遺言はあるか? 許すつもりはないが、それくらいであれば聞いてやろう」
視線は、あくまで虫の群れから外さすに。黙って立ったまま、成り行きを聞いていた――聞き流していた男に声を掛ける。まるで日常の延長でそこにいるかのような自然体。もう少し離れた場所で立っていれば、存在を忘れてしまいそうではあった。
戦場において言えば、それこそが異常。鉄火場で、しかも命に王手がかかっているのに、どうと言うことはないと言いたげ。命など勘定に入れていない様にも見える。直接的な驚異という意味では、臓硯の方が遙かに勝っているのに。あの男の得体の知れなさは、どこから来るのであろうか。
綺礼は僅かな戸惑いも見せない。機械的に、ただ音に反応するように、ライダーに視線を向けただけだ。
やはり、目立った反応はないのか。待避するにしても、攻撃するにしても。行動は早いに越したことは無い。ライダーに合図を送ろうとした、その時だ。
「ライダー、お前は神の血を引いているのか?」
「何?」
「神の血を引いているのか、と聞いている」
抑揚の極めて少ない口調で、決められた文書を読み上げるように淡々と言う綺礼の言葉に、ウェイバーはびくりと体を震わせた。恐怖を感じたわけではない。ただ、あまりにも動きのないそれを、置物か何かのように思っていた。それが、こちらの言葉に反応して単語を発したのは、それほど意外だったのだ。
質問の意図が分からない、と首を傾げるライダー。それはウェイバーも同じだった。こういった場面で聞くことと言えば――月並みだが――なぜここが分かったとか、少し踏み込んで逃走の手口とか、そういう事ではなないだろうか。
しかし、と綺礼の顔を見る。相変わらず色を感じず、水を見ているように、透き通り過ぎて何も見えない瞳。少なくとも『普通』からほど遠い男から、一般的な反応を期待するのは間違いだ。ある意味、こういった意味も意図もつかめない唐突な質問の方が、安心できるかもしれない。
「なぜそんな事を知りたがる?」
「答えないならばそれでいい。それまでの話だ」
とりつく島もなく会話を終わらせて、親指で黄金の杯を撫でる。
(……ん? 何だあれ?)
ウェイバーは眉を潜めた。今までその存在を、意識に入れなかったわけでは無い。ただ、間桐臓硯という異常の前に、霞んでいただけだ。しかし、改めて確認した黄金の器は、何と言えばいいのだろう……言葉が見つからずしばらく悩み、そしてふと、単語が頭に思いついた。
浮いているのだ。
それが単純に、超高度な魔術礼装だと言うのは分かる。逆に言うと、大して優れている訳でも無いウェイバーの解析では理解できぬ程の一品。その程度しか分からないのだが。もっとも、中級以上の魔術礼装を解析できないウェイバーの能力を基準としては、それすら怪しいのだが。
しかし、ウェイバーにそう思わせた理由は違う。直視して感じる、恐ろしく清浄な雰囲気。同時に、深淵に恐ろしさと言うか悪意と言うか、そんなものが潜んでいそうでもある。
なぜあの男は、そんなものを持っているのだろう。
「まあ良いわ。答えは知らん、そしてどうでもいいだ。余がゼウスの血を引いていたとして、それの影響で余が行う覇道の何が変わるわけでもなし。そのような矮小なものに影響されるほど、余の夢も征服も、そして余を慕う勇者達も、何一つ小さくないわ」
「く――くく、くくくく」
一瞬、目を見開いて。そして、その表情を納める事もできず笑い出す綺礼。
彼は笑っているはずだと言うのに。憎悪、嫌悪、害意、絶望、あらゆるもので染まっている。
「なんと、下らない。下らなくつまらない答えだ」
口から汚泥を吐き捨てるような言葉。しかし、その対象はライダーでは無い。誰でも無い。
答えの向こう側、ここにない虚空を見て、全力で嘲笑しているのだ。おそらくは、神とやらに対して。元から、理解できるような存在ではなかった。だが、今はそれがさらに極まっている。だから、ライダーも声を掛けられず、ただ黙って男を観察していた。
「神の血などに、どれほどの力も無いか。もっともだ、もっともすぎる。ああ――私にも、未練というものがあったのだな。しかし、無意味な感傷を断ち切ってくれたことに関してだけは、感謝しよう」
言い終わった時には、綺礼の顔は元の鉄面皮に戻っていた。ただし、僅かに違うのは。口元を僅かにつり上げて、笑みを浮かべている事。そして、不気味なほどに静謐な雰囲気へと変化している。
何故だろう。とてもまともではない男なのに、そいつを見て、聖人を連想したのは。
「アンタは、何を言っているんだよ」
妙な、本当に理解しがたいとしか言いようのない悪寒を振り払うように、ウェイバーは言った。間違えている。致命的に。どこか、などという局所的な事ではない。目に映る男の全てが、そうであってはいけないものなのだ。
人は理解できないものを恐れる。当然だ。だが、ウェイバーが感じたものは、そういうものではない。上手く説明する自信はなかったが、とにかく、そうではないのだ。
自然と力が入る腕。それを納めるように、ライダーの手が肩を叩いた。
「やめよ、奴を分かろうとするな。方向が違うだけで、奴はキャスターと似たようなものだ。理解されることなど求めていない。奴の感情も行いも、奴だけで完結しておる」
ライダーの強烈なカリスマ。それが十全に発揮され、ウェイバーの精神を平静へと引き戻す。
腕から力を抜いて、深呼吸を何度か繰り返した。そうだ、今考えなければならない事はそんなことでは無い。情報を抜き取り、可能であればその対処法を編み出す。それだけに集中すればいい。その過程で必要になったのは、やはり相棒と言えるライダーの言葉だった。幾度か心の中で繰り返し、そしてふと思いつく。
(……あれ? じゃあ何で、アイツは臓硯に協力なんてしてるんだ? いや……そもそも、協力をしてるのか?)
ライダーは確かに言ったのだ。奴は理解することもされる事もせず、己の目的のために動いていると。意思疎通をする時、最も厄介な相互理解をする気のない相手。そんな奴が協力者だと、本当に言えるのだろうか。
様子を見る限り、少なくとも主で動いているのは間桐臓硯で間違いない。
妄想じみた執念の具現と、理解の放棄をしている男。これ以上話して、得るべき者は無い。そう言うように、ライダーは最後の言葉を発する。
「これで終いだ、貴様らの目的、全て吐いて貰うぞ! さもなくば……」
「ある程度サーヴァントを削って、聖杯の疑似降誕。それを利用して、残りのサーヴァントを殲滅し、真に聖杯を確保する。それが目的だ。少なくともそこの、間桐臓硯にとってはな」
不意に、世間話を投げかけるような何気ない口調で、回答が帰ってくる。そのあまりの気軽さに、思わず聞き逃してしまいそうになった。
問いかけをしたライダーが、唖然としている。いや、ライダーだけでは無い。ウェイバーもアイリスフィールも、共犯者である臓硯すらも。言葉を発した綺礼以外は、誰もが時間を止めていた。
一番最初に正気に戻ったのは、やはり経験が違うのか、ライダーであった。男の得体の知れなさにいよいよ拍車がかかり、今ではむしろ、臓硯よりも警戒している。もしかしたら、本人は自覚していなかったかも知れない。持っていた剣の先端が、僅かに言峰綺礼へと傾いた事に。
「……命乞いのつもりか?」
「お前が問いかけをした。それに私は答えた。それだけだ」
それを嘘だと思うのも、欺くためだと思うのも、すべてそちらの勝手。それ以上もそれ以下も存在しない。そう言わんばかりの態度であり。確かに彼からは、それ以外の意図が何も感じられなかった。
「貴様、裏切るのか!?」
「裏切る?」
それは、ただの復唱であった。言っている意味が本当に分からないが故の、ただの聞き返し。
彼らは互いに、最初から本当の意味で仲間ではなかったのだろう。臓硯は言峰を都合良く操れ、制御しきれると思っていた。そこには、ある意味で一定の信頼があったとも言えるだろう。しかし、言峰綺礼にはそういったものの一切がなかった。臓硯が役に立つ、ですらない。そこにいるのは、もしくは彼の何かが都合が良かった、それだけ。
言峰綺礼はどこまでも等しかった。ライダーを見る目も、臓硯を見る目も、そして世界そのものを見る目も。それらの価値がどれほどであるのかは、もう意味を成さない。価値に差が無いのであれば、無価値とどれほど違いがあるのかなど、誰にも説明できない。
(けど、じゃあ何で彼は動いてるんだ。何もかもが同じなら、何かをする理由すらも無いはずだ)
何かと何かに生まれる差こそが、人を動かす原動力になる。例えば、ウェイバー・ベルベットであれば。魔術こそが他の価値よりも高いのだから、命を賭けて聖杯戦争に参加できたのだ。
誰にだってあるはずだ。当然、彼にも。こうして臓硯を利用し、聖杯を求めさせる動力源が。
「まずいな……」
ライダーが呟いた。もしかしたら、無意識に。
「何がまずいんだ? あの男に、何かがあるのか?」
「いや、そうなのだが、そうではない」
頭を振って、ライダー。
まずいも何も、男が異常であるのは、目に見えて分かっている。それがどこがおかしいのか、それが知りたいのだ。
「何がまずいって、奴から何も感じられんのがまずい。不快感、違和感は感じる。理性が危険人物だとも断定しておる。しかし……勘だけは、奴から何も感じてはくれんのだ。これはどういう事だ?」
「そんなの聞きたいのはこっちだよ」
「言われても、余にも全く分からん。なぜ奴から危機感を『感じ』ないのだ?」
ライダーが感じる勘の精度がどれほど高いかは、何度も体感している。
ウェイバーは、再度綺礼を見た。あの、少し話せば分かる異常、どこからどう見ても危険人物。彼の頼りない勘を使ってすら、害悪と断じてしまって良い程だと言うのに。なぜ、寄りにもよって、あの男に働かないと言うのだろうか。
「このっ……大人しくワシの人形をしていればいいものを!」
臓硯の誹りにも、全く反応しない。いや、僅かに瞳が、音の発信源を追っていた。
人形とは何の事かと思ったが、確かに言い得て妙だった。ただでさえ、人ならずという雰囲気を持っていた綺礼。彼から目的を引きはがしてしまえば、確かに人形に見えるのかもしれない。
「余の流儀から、いささか反するが致し方ない。目的は果たしたし、聖杯についてもアーチャーの奴が何とかするであろう。ここで二人とも滅ぼしてくれる!」
言葉と共に、戦車に魔力が通った。ライダーというクッションを置いて、ウェイバーから魔力を吸っていく。その感覚に、一瞬めまいを覚えた。
牛の嘶き。振り上げられた力強い前足が、床へとたたき付けられ、轟音を上げた。ただでさえ半壊していた床が、ついに限界を超え、面積の半分以上を落下させた。
足場の無くなる戦車。しかし、元より宙を駆ける雄牛に、ただ物理的な地面が無くなった程度では、何の影響も無い。収まりつつあった雷光を再びほとばしらせ、それが終わりを告げる。
「ふむ、これまでか」
崩れた床を、一歩下がるだけで完全に対応。
そこで、初めて綺礼は動きを見せた。杯はかかげたまま、しかし右手を持ち上げる。そこに何か持っている訳でも無い。拳すら握ってもいない。ただ、むき出しの手の甲に、令呪が二画残っているだけだ。
「令呪を持って命ず――アサシンよ、自害せよ」
ライダーがそれに構えるよりも速く、綺礼の言葉。手の甲から、令呪が一画はじけ飛んだ。たったそれだけのアクションだが、確実にアサシンは死亡しただろう。
なぜこのタイミングでアサシンを殺したのか、全く分からない。状況を考えれば、手札は一つでも欲しいはずだ。例えその程度では、ライダーに対抗し得ないとしても。最弱にまで薄まったアサシンでは、確かにライダーに一矢報いることも出来ない。例え令呪をつかっても。それでも、囮や足止めなど、有効活用する手は浮かぶ。
「続いて、令呪をもって『アヴェンジャー』に命ず。顕現せよ」
「お、おお! その手があったか!」
手に持つ杯、そこから、どぷりと泥が溢れる。それを直視したウェイバーは、思わず吐きそうになった。
奴は令呪を使って命じた。ならば、そこから現れたのはサーヴァント以外にあり得ない。しかし、それがサーヴァントだなどとどうしても思えなかった。単純に、知性の感じられない液体にしか見えなかった、というのもある。だが、それ以上に、それは呪いだった。
キャスターのように、その行いや思想が邪悪なのではない。ただそこに居るだけで、悪意を振りまき、同時に悪意を煽る。言わば吸血鬼を、恐ろしく強化したような。それはそれ自体にとっても他にとっても、ただの呪縛であった。
黄金の杯。ただ事では無いものだと思っていた。だが、それは予想の遙か上を行き、サーヴァントを溢れさせている。いくら魔術礼装が優れているとは言え、儀式もなしにそんな芸当、人間の域を大きく踏み外している。あり得るはずが無い。しかし、あり得ないことが多すぎて、可能性の可否そのものが分からなくなってくる。
「な……」
今まで大人しく座っていたアイリスフィールが、体を乗り出して驚嘆する。瞳からは、信じられないものを見ている、というのが伝わってきた。
「なんで、聖杯からあんなものが出てくるの!?」
「は……? あれが聖杯!?」
「言うのが遅いわ!」
内心で、思い切りアイリスフィールを罵った。
ずきずきと、脳が悲鳴を上げる。その泥は、正しく人類の天敵だ。もしやすれば、吸血鬼以上に。人間の身であるウェイバーが苦痛を感じるのは、当然だった。なぜならば、今彼の中で悲鳴を上げているのは、生存本能なのだから。
あれが、アーチャーの言っていた、危険な聖杯の中身なのだ。まるで冗談みたいな、いくら危険という言葉を重ねても足りないそれ。こんな事であれば、聖杯など速く破壊するべきであった。あれが現れる可能性があるのであれば、アーチャーに任せず、すぐに破壊していたのに。
そもそも聖杯がどこにあるのか、どんなものかも分からなかった。それを無視して、しかしウェイバーは叫ぶ。あんなものは、在ってはならないのだ!
「ライダー早く!」
ウェイバーは、気付けば叫んでいる自分に気付いた。普段そうしているように、考え抜いての行動では無い。言うなれば、それは勘に根ざす行為だっただろう。しかし、その脊髄反射を否定できないほど、ウェイバーは追い詰められている。
「分かっている! 全て吹き飛ばすぞ! おおぉ……遥かなる蹂躙制覇!」
瞬間、停止状態から一瞬で、最高速度まで加速。雷光で目が眩む。光は全てを覆い隠し、ただ進路上の敵、つまりは蹂躙対象しか見えなくなる。
加速する世界の中、ウェイバーは確かに見た。綺礼が聖杯を持つ左手で、そっと右袖をまくり上げ。その中に、無数の令呪が残っているのを。
「さらに続け、命ず。アヴェンジャーよ、間桐臓硯を取り込み、それを世界への触覚とせよ」
「なに――ガ――!」
命令と共に、黒い泥は一瞬にして虫の群体を飲み込んだ。池となった黒い泥、その中から、粒のようなものが次々と溢れる。
蟲だ。大量の、数えるのも馬鹿馬鹿しくなる蟲。それは泥から生み出され続け、その量は明らかに、最初から居た虫よりも多い。さらに、聖杯の器にある泥、その中からも、虫が溢れ出していた。
まずい――最大級の警報を鳴らす勘。もう、勘がどうのと言っていられる程度の、弱々しいものではない。強烈な脳の痛み、直後に迫る、死の予感。このまま突撃すれば、確実に負ける。
既に宝具は発動した。もう止める方法はない。だからこそ、ライダーは顔を引きつらせているのだ。
躊躇はなかった。それは、もしかしたら逃避の為だけの行為だったかも知れない。それでもいい。あんなものに食われて死ぬくらいであれば、腰抜けと誹られた方が百倍マシだった。
「避けろライダァァァーー!」
令呪がはじけ飛び、膨大な魔力が発散されたのを感じる。
ウェイバーの意思を乗せた魔力束は、直接戦車に干渉した。持ち主の意思よりも優先して干渉する、絶対的な意思という名の奇跡を運んだ魔力。戦車に浸透しきったそれは、まるで最初からそうであったかのように、上向きに方向が変更され、残っていた天井を上階ごと大きく吹き飛ばし、全て突き抜けて夜空へと脱出した。
冷たい夜風を感じる。同時に、宝具の発動が終了し、雷光も消えて通常の視界へと戻った。そこで、やっと、自分はまだ生きているのだと実感する。
感じられたのは、安心では無く恐怖だった。全身に鳥肌が立ち、ぶわりと大量の冷や汗が吹き出る。油断していたら、震えた体が崩れ落ちてしまいそうだった。
「良くやってくれた、余のマスターよ」
相変わらずの、大きな手。自分が押さえつけられているようで、どうにも好きになれないそれ。しかし、頼もしさで言えば、この世の何よりも勝る。
導かれるがままに、御者台に尻をつけた。緊張で硬直していた体が、少しずつほぐれていく。
「もし坊主がした咄嗟の判断がなければ、今頃は……」
戦車が僅かに傾く。市民会館を中心に、弧を描いて回るためだ。角度が変わったことで、少しだけ視界が通る。さらに首を傾ければ、ほぼ真下が見えた。
ほぼ最強クラスの、宝具の一撃。それの直撃を喰らって、要塞でもない建物が耐えられる筈が無い。余波によって大半を砕かれた天井、そこから連鎖的に崩壊が始まり、市民会館そのものが崩れ落ちようとしていた。落下する巨大なコンクリート、一つ着地するごとに巨大な粉塵の柱を上げる。それからしばらく遅れて、倒壊の轟音が連続して響いた。
この様子では、言峰綺礼の生死は確認できないだろう。ごく低い確率ではあるが、押しつぶされて死んでいる可能性も、ありえなくはない。
しかし。
もう、彼がどうなっていようと、考慮していられる段階ではない。崩れ、はじけ飛ぶ建物の破片、その所々から、黒い粒が見えていた。
少なくとも、聖杯は。そしてアヴェンジャーと呼ばれ、間桐臓硯を取り込んだサーヴァントは健在。最悪の事態は、何も改善せず最悪のままなのだ。
「これはもう、余たちだけで何とかできる事態ではない」
「ああ。アーチャーの所と、出来ればセイバーの所にも協力を要請しよう。事情を見ていたアインツベルンから説明して貰えば、多分大丈夫だと思うし。して貰えるだろ?」
「え……え、ええ。そうよね、そうしなきゃいけないわよね……」
呆然と、ただ見下ろしていたアイリスフィール。彼女が見ていたのは、聖杯であろうか。大きなショックを受けているのは、聖杯の中身があんなものであったからだろう。ウェイバーだって、気持ちは分からなくも無い。あれは、まるで詐欺だ。本当に奇跡を願って勝ち残っても、そこで叶えられる願いが何も無いなど。
黒い虫は増殖を続けていた。その速度は凄まじく、最初は気のせいで済ませられるような量だったのに、今では一画を占拠しようとしている。
「行こう。僕たちがここにいて、もう出来ることは無い」
「そうだな」
ライダーは同意して、戦車を走らせた。背に市民会館を置いていきながら、しかしぽつりと呟く。
「それで、何とかなれば、であるが」
その言葉に、ウェイバーは何も応えられなかった。口を開いたら、肯定してしまいそうだったから。
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雁夜は夢を見る②
夢を見ているのだろう。
その光景を見て、即座にそう断言できたのは、都合が良すぎるからだった。
場所はどこだか分からない。が、近所の公園でも草の生い茂る太陽に祝福された草原でも、あるいは楽園でも、場所がどこだとして、何が分かるわけでも無い。ただ確実なのは、そういう穏やかなものがとても似合いそうな光景だ、という事だった。母がいて、子供が居る。それだけで、人が心を満たすのに十分な光景になる。
もしそれが、休日の散歩がてらにでも見たのであれば、例に漏れぬ感想を抱けた。適当に、そこら辺にある自販機からコーヒーでも買って、ベンチでちびちびと飲みながら。あとは、子供の笑い声でも聞こえてくれば、祝福も出来ただろう。見知らぬ人間であれば、最高だ。彼女らの事情など、何も知らずに、無邪気に祝福できるのだから。
その親子――母と、娘が二人――は、雁夜が知っている顔だった。遠坂葵、そして凛と桜。
誰もが笑っていられる空間――もちろん、桜も。母に手を引かれて、姉の少女にからかわれて、顔を赤くしながらも楽しそうだ。こんな時ばかり鮮明に思い出せる笑顔。遠坂でなくなった、間桐桜という少女が笑わなくなって久しいと言うのに。
そこにあるのは、ただの休日。どこまでもありきたりで、特別な事などなくて、だからこそ幸せなもの。一般的な家庭、という、ただそれだけのものだ。
最悪の気分だ。目元を覆ってうめく。いや、そういう気分になっただけだが。感覚など無く、目をそらすこともできない。夢というのはそんなものだ。自分のもののようで、思い通りにならず止める事もできないビデオを、目が覚めるまで見せられる。
間桐桜はまだ笑えない。少なくとも、雁夜は笑えるようになった場面を見ていない。こんなものは、ただの願望だ。まだ何も成していない男が、そうなればいいという願いだけで見ているもの。
なにより、そこにはある男がいなかった。遠坂時臣。遠坂葵の夫で、遠坂凛と間桐桜の実父。家族の団らんと言うのであれば、存在して当然の男なのに。それが、自分の醜く一方的な感情が反映されていると言うのは、明らかだった。彼女たちの笑顔に、ただの悪意を投影している。あまりに下らない都合の良さに、思わず笑ってしまいそうだ。
かつて憎んでいた――いや、今でも憎んでいる男。向けた感情が、八つ当たりに近いものだったとしても、殺意すら向けていたのには変わらない。許せない理由を上げろと言われれば、いくらでも上げられる。だが、それを言わせる理由も、やはり嫉妬か何かなのだろう。
雁夜は葵を愛していた。今では遠くなった彼女と感情であっても、それは恋だったのだと断定できる。やがて葵を諦めて、勝手に時臣に託し。やはり勝手に信頼していたのを、勝手に裏切られたと思った。桜を助ける為の行動も、代償行動だと言われてしまえば否定できない。つくづく……女々しい自分。
冷静に考えられるようになったのは、アーチャーというイレギュラーの影響だ。奴の行動によって、雁夜は二つの者を得られた。現在、そして今後の、桜の安全。間桐臓硯という支配からの脱却。本来達成不可能な目的が同時に果たされた事によって、余裕を得られたのだ。目的が感情に繋がらなくなった、と言ってもいい。
時臣に拘る理由がなくなり、結果、彼に対するものは感情のみになったのだが。だからこそ、自分の醜さを直視する羽目になったとも言える。
それを再確認したところで、むなしさばかりが募る。結局、方向が変わっただけで、大人になれていない。禅城葵を諦めた時か、それとも間桐を捨てた時か。いつから、自分の成長は止まったのだろう。
浮上する意識。白と黒で塗りつぶされ始める視界。もうすぐ目が覚めるのだろう。
ふと、女性がこちらを向いた。それを確認して、空しさに歯がみをする。
葵には、顔がなかった。そこに顔を作ろうとして、彼女がどんな風に笑顔を浮かべていたか、もう分からなくなっている事に気がつく。
こんな光景を見せるのなら、それくらいはサービスしてくれてもいいだろうに。下らない思考を、虚空に投げつける。当然帰ってくる声はなく。葵が笑顔を見せることも無い。空想の中にしか無い、薄っぺらで張り付いたような幸せがそこにあるだけ。……夢の中くらいでなら、自分が愛されてもいいだろうに。願うことも、夢で現実させる事も、何も選べない、情けない自分。
もし、どこかで何かが違ったら。また別の自分になれたのだろうか。最後に考えることすら、前向きになれず。ついに全てが塗りつぶされて……
「間桐雁夜!」
自分の名前を絶叫する声にたたき起され、そしてすぐにうめき声を上げた。
全身が、恐ろしく痛い。少し前、虫に体を啄まれている時は、苦痛は感じるもどこか鈍かった。完全な痛みを得られるのは、それよりは健全である証拠だろう。だからと言って、何も嬉しくは無いが。
鋭痛と鈍痛の内、鋭い方だけを意識して無視した。鋭い痛みは瞬間的な分、容量が多い。
二度三度と、浅く速い呼吸をする。そして四度目に、なんとか周囲を確認できるだけの意識が戻ってきた。目の前には、この数日ですっかり見慣れた男の顔。焦燥の為か、恐ろしく目つきが鋭い。人殺しの目、というのはこういうものを言うのだろう、と思わせる目つきだった。そして、背後にある夜空で、自分が今外に転がっているのだと悟る。
なら、自分はどこに転がっているか。知ろうとして、それ以上考えるのをやめた。強烈な痛みの原因は、背面にある。どう見積もっても、楽しい事にはなっていない。
恐ろしい顔をした切嗣から視線を外して、視線を横に振ってみる。山の斜面を削って作ったためにできた、大した高さもない壁。その近くに、不自然な影がある。それが、自分の乗っていた車だと知るには、僅かに時間が必要だった。常識的に考えれば、事故を起こして激突したのだ。車の天井がめくれ上がってさえいなければ、その回答にも説得力があっただろう。
「一体……何が?」
「それを聞きたいのは僕だ! 何が起きてこうなったんだ!?」
冷静さを失って、胸ぐらを掴んでくる。その振動に、雁夜はうめいた。無視の限界を超えた痛みが、脳をかき乱す。
「やめ……今、思い出す……」
「くっ!」
切嗣は悔しそうにうめき、同時に背中に何かを貼り付けた。その瞬間、気絶しそうな痛みが走ったが、すぐにそれも消える。それは、少ない雁夜の魔力を吸って機能していた。効果は、恐らく沈痛と止血といった程度。治療効果には大して期待できないが、こういう場合は頼もしい。
体を起こしながら、再度周囲を注意深く見回した。今はとにかく、情報が欲しい。
路面には、四本の黒い線が残っている。タイヤが削れた後が、大分長く続いていた。と言うことは、衝突時の衝撃はさほどでもなかった可能性が高い。事故による死者は考えなくていいだろう。
舞弥とセイバーは、周囲を警戒していた。周囲に恐ろしく神経を尖らせている様は、ある意味切嗣よりも恐ろしい。この場にいるのは、それだけだ。
「……そうだ、アイリスフィールがアサシンに浚われたんだ!」
「アサシンに? くっ……監督者を泳がせたのは、サーヴァントの消耗じゃなくて、アイリが目的だったのか? 状況は」
「ああ、戦場から離れてしばらくした所で、アサシンが車の中でいきなり実体化したんだ。アイリスフィールが悲鳴を上げて、車のブレーキが踏まれた。しかし、次の瞬間、舞弥が後頭部を叩かれて気絶。俺も銃で応戦したが、屋根を破って脱出しようとしていたアサシンに引きずって落とされた」
少しずつ、思い出せてきた記憶。一つ思い出す度に、当時の苦痛を再現し悲鳴を上げる脳。それを、頭を振って押さえつける。
切嗣から手を差し出された。別に、雁夜を立たせようとしている訳では無い。そんな非効率な優しさは、この男に存在しない。手の上に置いてある拳銃を差し出しているのだ。切嗣に貰った、護身用のもの。ただの拳銃が、魔術師相手にどれほど役に立つわけでも無く。ましてやサーヴァント相手では、気休めにもならない。
取り出した弾倉には、弾が一発も入っていなかった。気付かず、全弾撃ち尽くしていたようだ。
立ち上がり、新たな弾倉を入れて初弾を装填した。とりあえず、撃てる状態にしておけば。やはり気休めにはなってくれる。
「アサシンが向かった方向は、川沿い……」
「あっちだろう?」
言い終えるよりも速く、切嗣が親指で指した。その方向に目をこらしてみるが、闇に包まれており、何があるのか判別不能だ。
「何があるんだ?」
「見えないか。ついさっき、市民会館が倒壊した。規模から言って、間違いなく宝具の一撃だろう」
なるほど、と雁夜は頷いた。このタイミングで宝具により破壊された建物、それがこの件に無関係な訳がない。
これだけの威力を発揮できるサーヴァントは限られる。その内、戦闘行為をしていた者を除くと、可能性があるのはライダーのみだ。どうやって特定したかは気になる所だが、まあ密かにアーチャーあたりと繋がっていた、とでも考えれば済む程度の事でもある。聖杯戦争で身を隠し暗躍する存在は、彼に取っても目障りだったのだろう。
宝具の一撃で、黒幕らを倒せたかどうかは分からない。だが、少なくとも煙幕にはなったはずだ。
「じゃあ、これからアイリスフィールを助けに行くのか」
「ああ。幸い、車はまだ動く。飛ばせばすぐだ」
切嗣が車をバックさせて、道に戻す。助手席に舞弥が乗って、後部座席にセイバーと雁夜が落ち着いた。
この場の誰一人、アイリスフィールが死んでいると思っていない。希望的観測などではなく、そうでなければ不自然だからだ。
アサシンのマスター言峰綺礼が何を思ってそうしたのかは分からない。しかし、アイリスフィールが殺される理由が、どうしてもないのである。そもそも殺す気であれば、雁夜と舞弥が死んでなければおかしいのだ。いや、舞弥はわざわざ殺す理由がなかったとしても、雁夜を生かす理由は無い。彼はマスターなのだから。
マスターである雁夜が生きているのだ。まだアイリスフィールがマスターと思っていたとしても、拉致してから殺す理由とは何か。こじつけて殺す理由を考えるのであれば、生かされていると考えた方がよほど自然だった。
あとは、ライダーがどういうつもりだか、だろう。宝具に巻き込むつもりが無ければ、これも生きてる可能性の方が高くなる。何だかんだ言っても、アイリスフィールは優秀な魔術師。倒壊する建物から逃げるだけならば、よほど運が悪くない限り可能だ。生きていることを期待して動くのには十分だ。
一気に加速し、暴力的に揺さぶられる車。ぶつかった衝撃で多少フレームが曲がったかも知れないが、それでも問題なく走っている。元から頑丈な上、さらに改造まで施したベンツは、さすがと言える安定感があった。
元来た道を逆走(直線距離ではそのまま走った方が近いが、続く道が無い)する。無理矢理オープンカーにされた車で、冬の夜に法定速度を無視した速度で走るのはさすがにキツい。少なくない血液を失っているのであれば、なおさらだ。
冷気に軋む体を自覚しながら、隣に座るセイバーに話しかけた。
「なあ、セイバー」
「カリヤ、話していて、体は大丈夫ですか?」
「ああ……心配をかけたな。そっちは問題ない」
と言うよりも、今更それくらいでどうにかなる程度のダメージではないというだけだが。余計なことを言って、心配させる事も無い。
「済まなかった。俺がバーサーカーを倒されたせいで、お前に負担を掛ける事になったからな」
「それを言うのであれば、早くランサーと決着をつけて救援に向かえなかった私も悪いのです。責任が、と言うのであれば、貴方だけにあるわけではない」
言葉に、慰めの色は無い。しかし、と雁夜は手の甲をさすった。令呪は、まだ二画残っている。それを使えば、一時期は追い詰めていたアーチャーを倒せたかも知れない。いや、そこまで言わずとも、生き残っていた可能性は十分にある。
落ち込んでいる雁夜に、セイバーは言葉を続けた。
「それに、これでアーチャーの真名も、戦法も全て分かりました。次は明確に、攻略法を立てて戦えます。それに、ライダーと同盟を組める可能性も残っていますし、戦いはこれからだ」
そう言えば、戦場の様子は舞弥がモニターしていたのだと思い出した。まあ、雁夜は途中で枯渇死し、情報を得られない可能性があるのだから当然の措置だろう。
「そうか……すまん」
「謝罪をされる理由がありませんよ」
戯けたように笑って、セイバー。
何と言うか、彼女は変わった。性格や主張が変わったようで、その実元のものと同じ。ただ、精神的な安定を得たことで、ふらふらとしていた分を誇りで埋める必要がなくなっていた。アイリスフィールあたりに話を聞けば、また違う回答が帰ってくるのかも知れないが。少なくとも、雁夜はそう思っている。
「間桐雁夜。君に聞きたいことがある」
運転席から、暴風に遮られながらも届く声。しかし、その音は。風で打ち消されている点を考慮しても、弱々しすぎる気がした。
「君は今回の件をどう見る? 恐らく、君や舞弥、アイリを殺すなと命令しただろう……」
「言峰綺礼か」
言いにくそうにしてた切嗣の言葉を、注ぎ足すようにして言った。それが正解であったと言うのは、むっつり黙り込んだ切嗣の様子で分かる。
衛宮切嗣と言峰綺礼。この二人にどんな確執があるのか、雁夜は知らない。ただ、互いに恐ろしく意識してはいるようだが。少なくとも、自分と時臣のような、一方通行なものではないだろう。
彼ともあろう者が、怨敵と言って差し支えない相手について、予測を立てられない。そこには『未確定情報を利用しない』『現状の判断材料で素早く最もリスクの少ない決断を下す』と言った、傭兵らしい判断力にも原因があるのだろうが。それ以上に、言峰綺礼という存在について、これ以上考えたくない、という理由がある気がした。
雁夜に、その感覚は分からない。彼に取っては、綺礼など普通の異常者でしかないからだ。少なくとも、極まった異常者である魔術師に比べれば、大分マシだと思える。
なにより、どんな危惧を抱いているか教えて貰わなければ、解析のし様もないのだが。本人が言うつもりがない以上、そこを省くしかない。
「監督者から聞いた様子を信じるとして、あとはかじっただけの心理学に当てはめるならば、何か悩んでいたのを、神だかによって吹っ切った、って所だろうが」
「神? 奴が? 宗教にでも目覚めたって言うのかい?」
間違った分析だ。そう言うように、切嗣は鼻で笑った。
元々、言峰綺礼は宗教家なのだが。それは黙って続けた。
「そうじゃなくて、あの手の奴は、宗教なんて信じちゃいない。神だけを信仰しているんだ。それも、世間一般に共通認識としてある神じゃなくて、自分だけが信じる神を」
何もないと信じている人間が、何かを得る。その内容など、二つに一つだ。即ち、愉悦か抑制。自己を解放することによって肯定するか、押さえ込んで拠り所を得るか。悲しい事に、どちらも狂人の領分だ。
そこに何の感情も無いのと、信仰という名分の為に躊躇しないの。どちらにしろ、戸惑いを持たない、という事には変わりないのだが。根底に己の欲がある分、後者の方が遙かに恐ろしい。人間の行動、性能、全てに至って、目的のある人間の方が優れているのだ。それはこの一年、感情だけをよりどころに耐えていた雁夜が、よく知っている。
つまりだ。言峰綺礼は、今までよりもよほど恐ろしい。今までよりも倒しづらい、という意味でも、何をしでかすか分からない、という意味でも。
とは言っても、これが切嗣に受け入れられはしないだろう。なにせ、大部分が雁夜の予想なのだ。妄想、と言われてしまえば、それで終わる。そして、彼自身も、それほど自分の考えに自信がある訳ではなかった。
「まあ、内容は何でもいいか。どうであれ、奴はそれによって殺人を自戒した。切羽詰まってまでそれを通すかは分からないが……付け入るには十分な隙になるんじゃないか?」
「……ああ、そうだな」
しかし、切嗣は納得しきれないのか、煮え切らない返事。
言うべき事ではないのだろう、それは分かっていた。だが、気付けば雁夜は、身を乗り出して顔を寄せていた。
「いいか、奴は狂人だ。それ以上でも以下でもない。そうじゃないと思っていても、そういう事にしておけ。お前は無自覚に、奴を理解しようとしている。そんなことはやめろ」
誰かが誰かを理解できるなど、夢物語だ。雁夜には、葵が何を思って嫁ぎ、子供を養子に出したか理解できない。桜がどんな思いをして、己を殺したか、理解できない。そして、間桐臓硯。あの男が、なぜ嬉々として人を痛めつけるかなど、理解したくも無い。他の人間から見れば、間桐雁夜という男も理解できないだろう。嫉妬と未練と八つ当たり、それで命を使い切ったなど、自分だけが知っていればいい。知って欲しくも無いし、言われてやめる事も無かっただろう。
切嗣がしている事は、はっきり言って無駄なことだ。
だが、それで近づく事は出来てしまう。わがままの様な言い方をするのであれば、その努力をアイリスフィールに使用するべきだ。彼は理解される事に慣れすぎて、近しい者を理解しようとしていない。
魔術師であるアイリスフィールがどうなろうと、知ったことでは無い。ただ、このままだと彼は、望まない悲惨な人生で終わりを迎えるだろう。……例えば、自分のような。
衛宮切嗣という男を分類するのであれば、確実に悪党の類いだ。間違っても善人ではない。ただ、それなりに会話を繰り返して、どうしても嫌いになれなかった。彼は、ただの善人だ。善人だからこそ悪が許せなく、誰かが悪を行う前に、自分が悪になり悪を潰す。自分で全ての割を食う事で、誰かが泣くのを止めている。
嫌いになれる筈が無いのだ。だって、もし彼が最初から桜の側に居たら、きっと桜は泣いていなかった。そうやって救われた子供が、たくさん居たのだろう。
理解されるだけに任せてしまえば、止まることもできない。誰かが止めた時に、少しだけでも耳を傾けられるようにしておくべきだ。彼は――彼も、救われるべきなのだ。
「……そうだな。考える必要があるのは、言峰綺礼の殺し方だけだ」
雁夜の言葉には、納得してはいないだろう。だが、それで少しでも迷いを断ち切ってくれていれば、それでいい。
体を後部座席に戻そうとして、ふと、違和感に襲われた。
「カリヤ、どうかしたのですか?」
「いや……何でもない、多分」
「多分?」
異常をめざとく見つけたセイバーが問いかけてくる。それに曖昧な返答を返すしかない。本当に、自分でも何がおかしいのか分からないのだ。
高級車らしく、ぴたりと自分の体を包むシート。思い切り脱力しても、体の違和感は消えない。いや、それどころか、少しずつ大きくなっていた。どこにも力を入れていないのに、体が動いているような感覚。全身の筋肉が微弱な痙攣を繰り返せば、こんな感覚にもなるのだろうか。
もしかしたら、怪我の影響かも知れない。今すぐどうにかなるものではないが、普通なら入院させられている。
右手を持ち上げて、指の動きを確かめてみた。人並み程度には正確に動く指。これも普段通りとは言わないが、怪我を考慮すれば十分なものだ。その程度大丈夫であれば、違和感はむししてもいい。そう判断した時だった。体に、苦痛が発生したのは。
「カリヤ!?」
咄嗟に体を丸めた雁夜に、セイバーが声を上げた。すぐに視線だけを向けて、その動きを抑制する。
「大丈夫、驚いただけだ」
「しかし」
額に脂汗は浮かべているものの、しっかりと体を起こす雁夜。その姿にとりあえず納得した。
驚いただけだ、という言葉に嘘は無い。その感覚は、つい最近までとても慣れていたものだったのだ。
虫に体を食われる感覚は。
今まで、捕食されていなかった訳では無い。そうしなければ、バーサーカーの魔力を工面出来なかったのだから。しかし、それは切嗣らの魔術によって、都合良く抑制されていたのだ。体を這いずり、肉を食いちぎり、思考能力ごと人の尊厳を奪うそれ。間桐臓硯から切り離されて、久しく忘れていたと言うのに。
(いや、待てよ。と言うことは、つまり……近くに奴がいると言う事か!)
慌てて周囲を見回した。暗闇と、高速で流れる風景。何か――それも虫のような小ささを発見するのに、悪条件は揃っている。それでもめいっぱい目をこらして、何も見逃すまいとした。
(あの化け物爺が出てきて、何も仕掛けが無いなんて事はあり得ない。あるとすれば、十中八九外からだ。俺の中の虫を使う可能性もあるが……それで隣に座るサーヴァントが判断を誤る、なんて甘い期待をするような奴じゃ無い。確実にこちらを取れる状況で、狙ってくる)
もし、間桐臓硯に信頼を置ける部分を上げろと言うのであれば。姿を現すのは、必殺の確信あっての事だ、という点だろう。つまり、この警戒は必ず役に立つ。
銃を取り出し、安全装置を解除した。狙う場所がないため、銃口は空中を向いたままだが。しかし、セイバーに異常を教え、警戒を促すのには十分だ。
「切嗣、近くに間桐臓硯がいる。気をつけろ」
その一言で、一瞬にして空気が変わる。
車の速度をやや落とす。速度よりも、何かあった時に咄嗟の対応を取れるためだ。セイバーは武装し、雁夜と同じように周囲を観察している。彼女の索敵能力は、ただの人間と比べるのも馬鹿馬鹿しくなるくらい鋭い。そして舞弥は、銃口を雁夜の頭に向けていた。もし雁夜が操られた時、被害を最小限にするため。
「どうだ?」
「近づいてきている。どれくらいの距離かは分からないが、確実に」
虫のざわめきが増している。幸い、体を啄まれる感覚はさほどでも無い。操られなければ、という前提あってだが、邪魔にだけはならずに済みそうだ。
銃を構えながら、額にたっぷりと脂汗が浮かぶ。間桐臓硯の恐ろしさは、文字通り身に染みているのだ。セイバーも切嗣も、破格の能力を持ってい事は知っている。だが、それで化け物の悪辣さにどれほど対抗できるだろうか。少なくとも、雁夜には保証ができない。彼に取って、間桐臓硯とはそれほどの存在なのだ。
警戒だけを続けて、無為に時間が過ぎてゆく。それでも、警戒を解かないのは、虫の活性化が進み続けているから。
そして、ついに虫の動きが、間桐臓硯が健在であった頃と同じほどになり、
「後ろだ!」
「サーヴァントです!」
雁夜とセイバーが叫んだのは、完全に同時だった。
正面からは高速で迫るのと正反対に、背後は景色が遠ざかる。過ぎ去っていく道は、ライトの届かない暗い闇に、銃数メートルで飲み込まれていった。しかし、その隙間から、ちらちらと黒い影が見える。置き去りにされる光景に似つかわしくなく、車へと接近してくる何か。一つや二つでは無い。無数の何かが、道を覆い尽くすほどの群れとなって迫っていた。
何だ、あれは。そう言ったのは、誰だったか。雁夜も、その一言に同意した。
迫ってくるそれは、虫なのだろう。そして、間桐臓硯である筈だ。しかし、それを本当に間桐臓硯であると言っていいのか、雁夜には分からなかった。
全て手を黒に染めて、泥のような体を必死で動かす。唯一、瞳だけは赤く爛々と輝いている。なにより、それは視界に入れるだけで、吐き気を催すおぞましさがある。虫のふりをした化け物、そう言われた方が、よほど納得できた。
『ヲ・ヲ・ヲ・ヲ・ヲ・ヲ・ヲ・ロロロロロロ!』
それは言葉なのか、鳴き声なのか、それともただの羽音か。判別の方法すら思いつかない。ただ一つ分かるのは、間桐臓硯はもう、まともな存在ではなくなった、という事だった。
「気をつけなさいカリヤ! あれからは、サーヴァントの気配がします!」
後部座席から下りたセイバーは、後部トランクの上に乗った。僅か数十センチ先の最前線。足の速い虫が飛びかかってくるのを、冷静に切り落としている。今でこそ余裕で処理しているが、いずれ限界が来るだろう。いかなセイバーとて、今の十倍、百倍の数に襲われては対処しきれまい。そして、虫の群れとはそれを可能にするのだ。最悪な事に、あとどれほどせずとも虫の群れが車にとりつくだろう。
とにかく、目に付く虫の群れに銃を乱射した。総弾数20発にも満たない数では、一瞬で撃ち尽くしてしまう。すぐに弾倉を取り替えては、撃ち尽くしの繰り返し。
助手席から後部座席に滑り込んだ舞弥も、同じように銃を撃つ。だが、やはり無意味だった。虫の勢いは止まらない。
「トランクを切って!」
舞弥の声。とっさに反応したセイバーは、端に寄り、トランクを根元から切った。支えをなくし、背後に飛んでいく鉄板。
トランクの中には、山のような銃器が並んでいた。それも、拳銃のような豆鉄砲ではない。爆弾からロケットランチャー、機関銃まで、冗談のように。
「これを!」
半ば押しつけられるようにして、ばかでかい銃を渡された。
使い方を知らない、などと言っていられない。座席に銃を固定して、あとは引き金を引くだけだった。狙いなどつけず、とにかく弾が変な方向に飛ばない事だけ注意する。どうせ、ある程度方向さえ合わせておけば、どこに撃っても虫に当たるのだ。はじけ飛ぶ薬莢は、口紅のように太い。そんなものを喰らってすら、やはり虫にダメージがあるようには見えなかった。
舞弥が、トランクに乗せてあった爆弾、それをありったけばらまいた。一瞬だけ、背後が明るくなり。紅の火柱を隠すように、黒い点が飛んでいた。あれ一つ一つが、全て虫なのだ。
ダメージがなくとも、周囲ごと吹き飛ばせば虫も飛ぶ。遅滞を期待するならば、いい方法だ。そう雁夜は思ったのだが、
「おかしい。半分くらいしか爆発していない……」
うめくような声と、どれほどもたたず追いついてくる蟲。その数は、少し前までよりも増えている気がした。
爆弾を吸収したのか、それとも無関係に増殖しているのか。ある程度爆弾を無力化する力を、それらが所持しているのだけは分かる。それでも諦めぬと、今度はロケットランチャーを叩き込むが、それも効果は薄い。
「ダメです、捌ききれません!」
「捕まるぞ!」
抵抗も空しく。虫の群れは、ついにタイヤを目前にしていた。
もうだめか――そう、雁夜が諦め駆けた時だった。切嗣の声が響いたのは。
「セイバーに命じる。左腕の負傷を無視し、宝具を使用せよ」
令呪が弾ける、膨大な魔力の感覚。魔術師として半人前である雁夜にも、それが分かるほど膨大な流れ。
言葉が聞こえた瞬間、雁夜は銃から手を離していた。銃が転がり落ち、虫の波に飲まれたが、そんなことは気にしていられない。急ぎ両手で耳を塞いだ、その瞬間だった。目を焼くような、圧倒的な光の帯が、直線上全てを塵にする。今来たアスファルトは、めくれ上がりなどしない。なぜならば、砕け飛び散った瞬間に、光の余波で消し飛んでいるのだ。
エクスカリバー。星の鍛え上げた幻想。
人では絶対に届かない高みにある、最強の聖剣。それが作り出した奇跡は、正しく闇を切り裂いた。立てに切り裂かれた地面と、膨大な熱量に発熱し、煙を立たせている断面が遠ざかる。
ここ数日で、この世にある奇跡など見尽くしたつもりだった。だが、英雄が見せたそれらと比してなお圧倒すると断言できる、世界の輝き。――それも当然だ。セイバーの言葉を信じるならば、その剣は人の希望の集合体なのだ。それ以上の奇跡など、あろう筈が無い。
……しかし。
切り裂かれた闇。その隙間からわき出るようにして、虫の群れが迫る。まるで、何事も無かったかのように。
「馬鹿な! 効いてないのか!?」
「いえ、確実に直撃しました」
淡々とした、セイバーの声。剣を握る篭手から、軋むような音が鳴った。それが、彼女の心境を如実に表している。
「ただ、それだけでは対処しきれない量があるだけです」
左右から波のように溢れ、全くの振り出しに戻る。少なくとも、雁夜にはそう見えた。
消耗戦。言葉が浮かぶ。それは、絶望的な単語だった。効いてるどうかも分からない弾薬は、既に半数を消費している。面制圧できる爆弾は、とうに使い切っていた。サーヴァントにも有効な、魔術礼装化したライフル弾頭、あれの残りはどれほどだろうか。一発も消費していなかったとして、大した量にはなるまい。それに、こんな何万、もしかしたら何十万いるかも分からない相手に使うものでもない。
虎の子のエクスカリバーは、あと何発使えるだろうか。左腕はまだ治癒していない。つまり、令呪の残数が、そのまま使用限界になる。それも、
「カリバアアァァァ!」
二度目、同時に二画の令呪を消費して使用された聖剣。これで、切嗣の令呪は全てなくなってしまった。
視界から消え失せる蟲。そのまま、どこかに消えてなくなれ。胸に銃を抱えながら、ただひたすらに祈る。祈りながら、それはどこにも届かないであろうという事は分かっていた。間桐雁夜は運が悪い、などと言うのは、ただのジンクスのようなものだ。自分が願う事は必ず裏になるのだから、とりあえず覚悟だけはできると。
そして、やはり蟲は健在だった。数が底をつき始めたのか、密度が減った気がする。だが、それでも車を飲み込んで、十分なだけの数が存在した。
息を大きく吸って、そしてはき出す。これもやはり、ジンクスのようなもの。そうすれば、現状の全てを飲み込めるような気がする。動くに足る、勇気を得られる。そうでもしなければ、覚悟を決めるというのは難しい。
「切嗣、セイバーとの契約を解除しろ」
「君はいきなり何を言っているんだ」
ハンドルを切りながら、後ろを振り向く余裕もない切嗣。しかし、声は恐ろしく冷徹で、鋭かった。
「俺が再契約する。そうすれば、あと二発、宝具を撃てるぞ」
「しかし、それで何とかできる保証はありません」
セイバーが渋った。マスターを変えるという行為にある、大きな忌避感。同時に、それで現状を打開できる保証のない不透明さ。行き当たりばったりな作戦でしかない。このままならば。
「それと、俺はここで下りる」
息が止まったのを感じた。誰のだろう、考えて、それが自分だったと気付く。
こんな場所で下りれば、すぐに蟲の餌食になるだろう。誰でも分かる理論。とりわけ、蟲の餌食に鳴り続けた雁夜ならば、誰よりもよく理解できる。
「自殺行為です。何の意味もない!」
「ある。こうすれば、切嗣だけは生き残れるんだ」
セイバーの勢いが、ぴたりと止まった。肩を掴もうとしていたのか、伸びていた左手が、宙を彷徨う。
覚悟を決めるというのは、簡単であり、とても難しくもあり。それが、死ぬ覚悟であるというならば、尚更だ。
死など、とうに覚悟している。一年前に、間桐という魔窟に戻ったときから。しかし、やはり目前に迫る死とは、とても恐ろしいものだった。漠然と、ただ耐えるだけのものではなく。自分から死神の鎌に、首を差し出すというのが、これほどの恐怖を呼ぶとは。死にたくない、そう叫びそうになる。無様に生にしがみつきたくなる。
それでも、これは。間桐雁夜にしかできない役割なのだ。
「……死ぬぞ」
「一月後が今日になるだけだ」
壊れたトランクを漁り、銃を引っ張り出す。訓練を受けたわけでも無い雁夜に扱える銃など、そう多くも無く。面倒がなさそうで、片手で持てて、弾をばらまける。サブマシンガン二丁に、長いマガジンを取り付けた。
「君たちを素通りするかもしれない」
「俺の中の蟲がざわめいている。まだ、あれが臓硯という蟲の属性を持つ証拠だ。囮に俺以上の適任はいない」
予備のマガジンを手に取り、持っていくかどうか僅かに悩み。結局、ベルトに差し込んだ。それほどの時間保たせられるかは分からないが、持っておいて損はあるまい。
切嗣の言葉がなかった。そして、契約の解除もない。聖杯戦争の脱落と、増える犠牲者。恐らく、そういったものが、彼を責め立てているに違いない。
「衛宮切嗣、お前はここで死ねない。俺と交わした契約、桜ちゃんを助けるっていう約束があるんだ。俺はそのために死ぬ。だから、お前はその為に生きろ。それに、生きてればなんとかなるかもしれないぞ。アーチャーなんかは、上手く交渉すればマスターになれる可能性もある」
それが気休めだと、誰もが分かっていた。しかし、そんなものでも必要な事はある。覚悟は、人を死に向かわせる。そして、希望は生に向かわせる。
車が空気を切り裂くのとは違う、風の音。切嗣の口から漏れたものだ。それでいい、雁夜は肯定する。
「……さようなら、間桐雁夜」
「ああ、さようなら。後を……桜ちゃんを、頼んだ」
セイバーと切嗣の間で、ラインが切断される。
再契約は呆気なく終わった。召喚もそうだったが、サーヴァントに関する魔術は、大部分を聖杯が代行してくれる。
銃を抱えるように持ちながら、シートを蹴った。着地に気を遣う必要は無い。どうせ自分でそんな事は出来ないのだから、セイバー任せだ。
彼女の手から離れてすぐ、役に立つかも分からないおもちゃを、群れに構える。地面そのものがうごめいているのでは無いだろうか。そうとすら思える物量が、しかも吐き気を覚えずにいられない醜悪さで迫ってくる。あんなものと心中するなど、考え得る限り最悪の死に方だ。それを選べた自分を、少しだけ誇った。
「悪いな、自殺に付き合わせて」
「いえ、私もマスターが死ぬのは本意ではない。聖杯をこの手に出来ぬのは悔しいですが、そのためにマスターを殺す様な判断などしたくありません」
だから、気にするな。言外にそう込めて、セイバーが剣を構えた。
戦闘態勢に入ったサーヴァント。ごっそりと魔力を持っていかれ、久しぶりに吐血した。血に混じって出てくる、小さな蟲。忌々しいものだが、今だけは頼りにしていた。もっと盛大に肉を食って、魔力を生成すればいい。そうすればするだけ、元の宿主である間桐臓硯に仇なすのだから。
群れと反対側、つまり背後で、ごしゃりと音がなった。何事か、振り向くと、銃器を大量に抱えた舞弥が転がっている。
「何でお前まで来たんだ!」
「二と二、三と一、より敵を引きつけられるのは、どちらですか?」
慣れている、と言わんばかりにすぐに立ち上がる舞弥。車から重い荷物を持って飛び降りて置きながら、ダメージがあるように見えない。
「そうかも知れないが……」
「それに、たかが短機関銃二丁では足止めにもなりません。こういう場合は、弾倉を取り替えるのでは無く、銃を持ち替えるのです」
いつもと変わらぬ鉄面皮。少なくとも、雁夜は彼女の口元がつり上がるのを見たことが無い。こんな時までそれを維持したまま、持っていた銃の半分を、無理矢理押しつけてきた。
安全装置を解除して、銃口を向けながら、彼女は続ける。
「私はこれと同じです。消費されるのに相応しい場所があるなら、それは間違えない」
黒い鋼の塊を撫でる指。少女然とした容姿とは不釣り合いに、ごつごつとして、油に黒ずんでいる。
つまりは、そういう生き方なのだ。どうしようもなく。望もうが、望むまいが。
雁夜は自分の指を見下ろした。右手に作られたペンだこは、一年現場から離れた程度では消えてくれない。そして、虫食いになった体も。彼は「間桐」に逆らうためにそうなったが。人に誇れないような人生ではあっただろう、だが自分がそうなった事には後悔などない。少なくとも、選択した瞬間だけは、自分の意思で決断したのだから。
彼女はどうだろう。銃を持って戦う人生に、選択の余地があったとは思えない。だが、雁夜と一点違う場所がある。切嗣の道具である事を、誇っている事だ。
もう、何かを言うつもりにはなれなかった。その選択が正しいとは、今でも思っていない。だが、自分を受け入れられる彼女が、とても眩しかった。
「来ます」
セイバーの短い声。
雁夜と舞弥は、同時に引き金を引き絞った。銃口から連続して立つ火柱。人なら一発でも当たれば死にかねないような掃射の嵐に――分かっていた事だが――しかし、その影響すら見えない蟲の津波。夜の闇と比べてもなお深い黒が、接触する寸前でぶわりと盛り上がり、三人を飲み込もうとする。
「させん!」
強烈な突風は、指向性を持って蟲の山を破砕する。しかし、その程度でどうにかなるならば、先ほどの攻撃で殲滅できていた。側面を通って、あっという間に包囲される。
物量の恐ろしさはこれなのだ。倒しても倒してもきりが無い。替えが利くから、消耗を恐れぬ特攻を繰り返せる。ましてや、その一つ一つに無視できない威力があるのだとすれば。人のみで対抗できる方法など、無きに等しい。
しかし、それはあくまで人であればの話だ。
セイバーは、剣を大きく薙いだ。未だ半分ほど剣と繋がっていた風は、直線上を広範囲にわたってなぎ払い。最後には渦を作って、三人をその内側に納めた。内から外に、触れたものを吹き飛ばすように流れる竜巻。蟲を仕留める威力はなくとも、時間稼ぎが目的だという事を考えれば、最良の選択だ。
「くっ……まさか、宝具を浸食しているのか? 二人とも、これも長くは持ちません!」
「つくづく化け物だな」
内側からの一方的に、弾丸の嵐を浴びせる。だが、それも長くは続かないと知らされた。弾の切れた銃をすぐに持ち替えて、さらに不毛な攻撃を続ける。
「エクスカリバーは!?」
「まだです! もう少し、敵を引きつけなくては!」
切嗣の後を追わせないのが第一条件であれば、確かにここで少しでも数を減らしたい。理想を言えば、一匹も通さぬように。だが……と、吹き飛ばされては風の壁に挑む蟲を見た。こんなものを前にして、いつまで堪えればいいのだろうか。
勝負を急ぎたい理由は、それだけではない。蟲に囲まれるようになってから、明らかに体の中が騒がしくなった。ぶちぶち、という骨伝いに伝わる音は、確実に雁夜の寿命を縮めている。このペースで食われていけば、反撃をするよりも先に、命がなくなるだろう。今は、怪我をした時に張られた護符のおかげで、苦痛で動けなくなる、という事態にはなっていない。しかし、例え痛みに耐えられたとして、先に体の機能が壊れればおしまいだ。
口にまで溢れてきた血と細長い虫を、無理矢理喉奥に押し返す。既に感覚も味覚も、何もかもが麻痺して、嫌悪感を感じないのが救いだ。
「カリヤ、今です!」
「っ、撃て、セイバー!」
最初に比べれば大分小さくなった、ドーム形の風。それが一瞬だけ爆発的にふくれあがると、近場の虫を全て正面に集める。
包囲していた蟲全てを射程範囲内に納めて、光の道が、直線上の全てを焼き払った。周囲一帯が、まるで太陽がそこにあるかのように照らされる。
それとほぼ同時、大量の血が胃からせり上がって、喉を占拠した。口の中で止めようとして、しかし堪えきれず、唇の隙間からだらだらと零れる。体の中の蟲が幾ばくか死に、残ったものも、魔力の消耗に苦しむ。失った分をどうにか取り戻そうと、さらに雁夜の体を暴食し始めた。
現在、セイバーのスペックは見る影も無い。それは、宝具発動以外の全てを捨てているからなのだが。いくら令呪が強力とは言え、最上級の聖剣分の魔力全てを補えはしないのだ。ましてや、令呪で左手までも補っているとなれば、負担は決して軽くない。
それでも切嗣は、魔力をほぼ枯渇させながらも、成功させていたのだが。魔術師としての素養が低い雁夜では、これが限界だった。
「後ろは!」
「居ません。大方の蟲は、ここで足止め出来ています。追っていたとしても、大した数では無いでしょう。切嗣で対処可能です」
雁夜が判断するよりも一瞬速く振り向いていた舞弥が、淡々と述べた。消えつつある光に照らされて、壊れかけたベンツが見える。両者を結ぶ線の上に、黒い粒は見えない。
作戦は成功した。これでもう……憂いはない。
中途半端に弾の残った銃を捨てて、次の銃を構える。だが、蟲がやってくる気配はなかった。
これで打ち止め、などと言うことは無いだろう。しかし、セイバーが今なぎ払った方向から、蟲が追ってくる気配はない。何のつもりかは分からないが、状況が動かない以上、こちらから動くしかないだろう。そう考えたときだった。急に、背中を押し飛ばされたのは。
「ぐっ!」
全くの不意打ちであったそれに、逆らうことはできず転がる。と言っても、食われた影響で、もう殆ど体に力が入らない。正面から受けたとしても、耐えられなかったであろう。
倒れた雁夜に、覆い被さるようにして倒れてきたのは舞弥だった。何が起きたか分からず、とりあえず彼女をどけようと伸ばしていた手を、ぴたりと止めた。腰あたりに、じんわりと暖かく、粘ついた感触。良く彼女を見てみれば、脇腹に人体構造上あり得ない、大きな穴が開いていた。
(食われたんだ、不意を突かれて!)
ステーキを汚く噛み千切るような、不愉快な音。えぐれた脇の、肉の隙間から、赤い滴が吹き出している。彼女の顔が歪むのを、始めて見た。激痛に脂汗を浮かべながら、歯を食いしばっている。
指を思い切り立てて、腹の肉を掴む舞弥。そして拳銃を抜き出し、手の甲ごと、腹に弾丸を叩き込む。それで、腹部の虫は倒せたのだろう。耳を塞ぎたくなる咀嚼音は、それで途切れた。その代償に――舞弥はごぶりと、大量の血を吐いた。脇腹の怪我一つとっても致命傷。その上、内部を食い荒らされ、銃弾まで喰らっている。
彼女はもう、助からない。常から感情の読めない瞳は、別の意味でその輝きを消していく。
「カリヤ!」
セイバーの警告が飛んだ。
視線を周囲に向け直して、そして目に入ったもの。それは、周囲に潜んでいた蟲が、顔を出す姿だった。血を連想するような、赤い目。それが、至る所から見張っている。
「切嗣を追うよりも、我々を確実に仕留める事を優先しましたか……」
戦力を分散し、別個の場所に潜ませる。向かってきた敵をまとめてなぎ払う戦法しか取れない彼らにとって、致命的な戦法だった。恐らく、潜んでいるのもこれだけではあるまい。あと最低でも二回分、残っている筈だ。
最初から覚悟は決めていた。だが、これでもう本当に、生き残る可能性もなくなる。体の震えは恐怖か、それともダメージが増えすぎた為か。
同じように飛びかかってくる蟲に、やはり同じように風の幕を張る。しかし、それの威力は先ほどよりも、遙かに弱々しく狭い。セイバーの魔力も、文字通り雁夜が身を削って捻出してすら、追いつかなくなっている。
「く、そっ!」
自分のものではないかのように重い手。それになんとか力を入れて、舞弥を引きずろうとした。このままでは、足から食われて死ぬことになる。
しかし、それは彼女自身の手で払われた。まずい、と直感した。静止しようと手を伸ばして――しかし、こんな時ばかり手は絶望的に鈍い。腕を伸ばしきる事もできずに、腹を抱えた彼女が結界の外に出るのを、ただ見送った。
もう、舞弥の目はどこも見ていない。虚空のどこか、多分雁夜の知らない場所を見ながら、体中一斉に食いつかれ。そして――初めて見る笑顔を浮かべながら、呟いた。
「キリツグ……あなたは……」
――生きて。
声は聞こえなかった。ただ、唇の動きがそう言っているような気がしただけだ。
そして、彼女は光になった。何かあったときの為の、自決用の爆弾。それを動作させ、虫を巻き込んで果てたのだ。最後まで、衛宮切嗣の為に。
目の前で吹き飛んだ少女の顔が、目に焼き付いて離れない。彼女の選択は、とても正しかった。目的の為には、一番効率がいい行動だっただろう。……だかと言って、目の前で自爆するのを肯定できる訳が無い。己の無力さに絶叫しようとして、しかし声は出なかった。代わりに、大量の血が虫と一緒に流れ出る。
自分も、終わりが近い。それを感じながら、雁夜は立ち上がった。
目はかすんでいて、もう殆ど見えない。握力も殆ど無くし、引き金を引くのが精一杯だ。照準などつけられる筈が無く、反動のままに銃口はぶれている。それでも、雁夜は立ち上がった。まだ戦えるならば――それが無意味であったとしても、戦い続ける。
それは、反逆だ。誰かにでも、ましてや間桐臓硯でもない。言うなれば、自分の今までの人生に対する行為。
「カリヤ、もう一度です!」
「放てセイバー!」
そして、最後の光が走り去った。
今度は間を置かず向かってくる蟲。風の守りは、もはや二人を包むのすら難しくなっていた。ちらりと見たセイバーの剣にも、もう力は無い。
終わりは、時間の問題だ。
「なあセイバー……少しだけ、愚痴を聞いて貰っていいか?」
「……ええ、いくらでも」
声など殆ど出ていなく、しかも血でつっかえて聞き取りづらい筈なのに。しかしセイバーは聞き取り、頷いてくれた。
「俺はだめな奴だ。葵さんが好きで……でも、時臣と結婚すると聞いたとき、何も出来なくて。間桐家が嫌で、逃げ出して……葵さんの娘の桜ちゃんが養子に引き取られるって聞いたとき、葵さんの顔が頭に浮かんだんだ。……それで、せめて桜ちゃんだけはなんて言い訳して、間桐に戻って……」
恥ばかりの記憶。誰が聞いても罵るような、下らない話。なぜ、そんなものを急に言いたくなったのだろう。
もう目は見えなかった。腕も上がっているかどうか、分からない。ただ、銃声はしていない。もう引き金を引く力もないのだろう。それも、感覚が失われていて分からない。体がとても寒い。でも、震える事もできない。
「桜ちゃんのために、なんて言いながらさ……時臣に嫉妬して、八つ当たりしようとして。結局俺は、そういう人間だったんだ。自分の感情が一番でさ……何もかも空回りさせて……結局、一人じゃ何もできなかった」
どれほど無様でみっともなくとも、誰かに知っていて欲しかったのだろうか。自分の心が分からない。ただ、そうするのが自然であるように、口から言葉が漏れていた。
「カリヤ、貴方の感情は、確かに誉められたものではないかもしれません」
背中合わせに感じる、セイバーの体温。全身凍り付いたような感覚の中で、しかしそれだけが痛いくらい。
「しかし、理由はどうであれ、貴方はサクラの為に最善を尽くしたのです。それまで嘘にするような事は、決して言ってはいけない」
ああ――何故だろう。そんな、少しだけの言葉で、とても救われる。
腕に力を入れる。上がった気がした。引き金を引いた気がすると、弾薬が連続して爆発する音が蘇る。そうだ、まだ戦える。戦わなければいけない。
「それに、誰かの為に命を賭けられる者、それを騎士と言うのです。誰が認めなくとも、私は認めましょう。貴方は、間違いなくサクラの騎士だ」
「……。そう、か。俺は、あの子の騎士であれたのか」
その言葉は、気休めかも知れない。死に際の手向けの可能性もある。しかし、体には、確実に力が戻った。あと少しだけ、引き金を引いていられそうだ。
彼女がなぜアーサー王なのか。王とは、どういう者であるのか。それが、少しだけ分かった気がした。
セイバーが一歩踏み込んだ。背中の支えが消えて、思わず倒れそうになるのを、なんとか踏みとどまる。
「あと一撃で、私の魔力が尽きます。お元気で、とは言いません。……お先に」
「ああ、俺も、すぐに行く」
それが、彼女と交わした、最後の言葉だった。
「おおおおおおぉぉぉぉ!」
雄叫びが上がり、剣が振るわれる。最初に足が消えて、続き下半身、胸元と、自分自身を魔力に変換して、力を捻出した。剣が振るい切られる頃に残っていたのは、手首のみ。それも、剣から放出される風の刃に変換されて、全てが蟲を切り裂く牙となった。
周囲の蟲が切り刻まれ、それとほぼ同時に弾が無くなる。
ぐちゃり、どすん。最初の音は足を食われる音で、次は支えきれなくなった体が転がる音。どちらも、感覚はなかった。
一斉に群がる蟲。食い荒らされるのを自覚しながら、しかし雁夜の精神は平静だった。
間桐桜。彼女の事を、最後まで見ていられないのは悔しい。だが、衛宮切嗣ならば何とかしてくれるだろう。そう信じるしか無い。あるいはアーチャーあたりが、桜を幸せにしてくれると願おう。
遠坂葵。今更になって、彼女の笑顔を思い出せたのは、良かったのか悪かったのか。ただ、その笑顔の向いた先が自分でなかったのは、らしいと言うべきか。最後まで情けないのには、苦笑いをするしかない。
遠坂時臣。彼は結局どうなったのだろう。生きていたとしても、弟子が裏切っているのだ、まともな状態ではあるまい。今更、それが報いだと言うつもりはない。だが、哀れむつもりにもなれなかった。
あとは、誰かいただろうか。衛宮切嗣か。彼に、今更言うことは無い。少しだけ力を抜いて、それなりに幸せを得る事ができればいい。
ごりごりという音の割合が多くなってきた。恐らく、虫が骨まで到達し、削っているのだろう。それを感じて、間桐臓硯のにやけ面が明確に浮かんだ。
最後の抵抗だ。と、右手を持ち上げた。当然、そこにはびっしりと虫が張り付き、肉を食いつぶそうとしている。ふるい落とす事も馬鹿馬鹿しくなる数のそれを無視して、人差し指を手首に伸ばした。僅かにでっぱった引っかかりに、指を絡める。何度か失敗し、苦労したが、健を噛み千切られる前に成功した。
それは、自決用の爆弾だ。久宇舞弥の使用したものとはまた違う、雁夜の体を綺麗に吹き飛ばすためのもの。臓硯の支配を受けたときに、隙を見て死ねるように、という為のものだ。
「こんなもの……使うときが来るとはな。世の中……何が幸いするか分からない」
そして、雁夜は蟲を睨んだ。いや、目は見えていない。睨んだようにして、その先にある臓硯の顔を想像しただけだ。
音が、ぶつりと切れた。鼓膜を破られたのだろうか。脳まで届くのも、そう遠くない。全て食い尽くされる、その前に。
「何でも……思い通りに行くと……思うなよ……クソジジイ」
精一杯の悪態と、強がりを吐き捨てて。
桜が、葵や凛と、元の家族のように楽しんでいた姿。今すぐではなくても、いつか現実になってくれればいい。そう願うくらいならば、自分にも許されるだろうと信じながら。
間桐雁夜は、周囲の蟲たちと一緒に、跡形も無く吹き飛んだ。
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桜は思い出す
魂すら凍りそうな程の、悪寒がする。
理由は全く思い浮かばない。
空調は完璧だ。少なくとも桜の経験する中で、アーチャーが構築したここよりも快適な場所は記憶にない。現代最新機器を揃えている上に、人形が様子を見て室温を調整している。いや、空調だけではない。このビルには、市販されている最新鋭機器が、惜しみなく使われているのだ。これで、快適でない訳が無い。寒さを感じる理由もない筈だ。
しかし、桜は部屋の隅で膝を抱えていた。がたがたと震える体は、臓硯の仕打ちを思い出した時に匹敵するかもしれない。
こんな時、昔はどうしていたか思い出そうとして、諦めた。そもそも、昔は何も思うことなど無かったのだ。虫に嬲られようが、食まれようが、何があってもされるがまま。まるで人形の様だ。
あれのようだった、と桜は視線を飛ばした。そこには、現代に似つかわしくないエプロンドレスを着た、金髪の美人。しかし、その視線は無機質で、桜を捕らえる視線も、その眼球に彼女は映っていない。アーチャーの取り出した、宝具の一つ。遠見の宝具が一番のお気に入りであれば、一番嫌いなのはあれだ。
どこまでも完璧な人間の造形をしながら、人で無い何か。それは、心のどこかで間桐臓硯を連想させていた。あるいは、鏡を見ているようで、とても気に入らない。
恐らく、昔はそんな感想を持つ事も無かっただろう。ある意味で、本物の人形よりもよほど人形らしかったのだから。全ての権利を――家族と家族でいる権利すら奪われ、蟲よりも価値の低かった少女。そもそも、自分のもの、などというものが存在しない。精神も肉体も、全て間桐の為に消費される。そんなものが、人形を嫌うというのは、酷く滑稽な話だ。今なら自嘲すらできそうだ、とすら思う。
色々な事が、脳裏をよぎった。幾度も幾度も、蟲蔵に沈められた記憶。最初は、多分泣き叫んでいた。声が出なくなったのは、いつだったか。最後には、虫を感情では無く感覚でしか感じられなくなっていた。
膝に顔を埋める。幸せだった頃の記憶など、何も思い出せないのに。こんな、思い出したくも無い事ばかりが繰り返される。
それもこれも、全部悪寒のせいだ。
この寒さは――蟲蔵に似ていたのだと思い出す。諦め始めてから、何も感じなくなるまでの短い間。確か、感じていたのはこんなものだった。
「アーチャー……」
ふと、口から漏れる言葉。それが意味の無いものでは無く、誰かの名前であった事に、僅かに驚く。
少なくとも、桜が間桐の家に居た頃は、誰かの名前が出たことはなかった。最初こそ、父や母、姉に何度も助けを求めたが、それが叶えられる事は無く。義理の家族になった間桐雁夜は、むしろ一緒に苦痛を受ける側の人間だった。
苦しいときに、名前も呼ばない。呼んだところで、その人が助けてくれるわけでは無いと、分かっていたからだ。持てる希望が無い。だから、名前を呼ぶという事はしなかった。
しかし、アーチャーだけは違った。苦痛で満たされていた蟲蔵、そこから初めて助けてくれた人。火の海に、それに焼かれて弾け悶える蟲。まるで人工的な地獄を作ったかのような光景の中で一人、黄金のように輝いていた人。恐らく、その光景を一生忘れることはないだろう。
一緒に暮らしても、特別な何かがあった訳では無い。家に居ない時間も多かったし、居ても普通に食事を食べて、一緒に寝て。そんな事をしていただけ。しかし、それは昔に無くした――一番欲しかった普通の家族のようだった。
今は、もう昔では無い。自分を助けてくれる人が居る。だから、縋るように名前だって呼べるのだ。
それは良いことなのか、それとも悪いことなのか。弱さではあるのだろう。しかし、それを頼らないようにするには……桜は弱すぎて、アーチャーは優しすぎた。
(大丈夫……)
念じながら、背筋を走る寒さに負けそうな自分を太鼓した。
そう、大丈夫なのだ。相変わらず自分は弱く、何も成長できてはいない。だが、今は頼れる誰かがいるのだ。それさえあれば、少なくとも強がれる。
そして。
急に、鋼の骨組みを上から無理矢理押しつぶすような音が聞こえた。ギシギシギシ! と軋む音は、悲鳴にも似ている。
何が起きたのかは分からない。だが、このまま座り込んでいるのだけは、絶対に良くない。それを確信して、桜は立ち上がった。部屋の中心、テーブル付近に待避して、とにかく何があってもいいようにと見回す。慣れぬ急激な運動に筋肉が付いていかず、倒れ込みそうになるのを堪えながら。
音はどんどん大きくなり、比例して悪寒も増す。意味のない警戒を続けて、部屋の中を見回し、それに気がついた。アーチャーが以前語っていた、迎撃用宝具、それが全て出払っているのだ。
宝具というものを、桜は正しく理解していない。ただ、それは一つでも桁違いの力を持っている……らしいという事は聞いていた。それが、全て迎撃に出ている? 聞いた話を信じるならば、サーヴァントでも出てこなければ、それだけの数は必要ないというのに。
ただ事では無い、そして危険な事態である、それだけは分かった。しかし、それでどうすればいいかまでは分からない。この場にいた方がいいのか、それともすぐに逃げ出すべきか。
鋼の軋む音は、ついに耳を塞ぎたくなる程になり。そして、急に止まった。悪寒は最大値を記録し続けているのに、音だけがぴたりと止まったのだ。
恐ろしさしか感じない、気を抜けば口から悲鳴が漏れてしまいそうな静寂。それを破ったのは、窓が小さく軋む音だった。
「キ……」
それは、桜が上げた声では無い。窓が揺れて立てた音でも無い。外から内側に通した、どこか聞き覚えのある声。
桜は後ずさった。一歩後退すれば、二歩三歩とよろめく様に、窓から遠のいていく。
一度下がってしまえば、あとは止めようもない足。それは、背後のドアにぶつかって、やっと停止した。それでも足だけは、なお後退しようと足掻く。
「キキキキキキキキ!」
地獄の底から――あの炎に満たされた蔵の跡、そこから蘇ったかのような。
もう間違えようも、誤魔化しようも無い。桜にとって、恐怖の象徴。間桐臓硯の声が、部屋の中に何よりも恐ろしく響き渡る。それを聞いただけで、動けなくなりそうな程に、足が震た。
連続して窓ガラスが揺れ、ヒビがびっしりと生える。そして、ヒビの本数よりも多く、黒いものが張り付く。とてもよく見慣れた、色だけが違う、蟲。かつて、自分の体に巣くっていたもの。
「ドコヘ行クツモリジャ、桜アアアァァァァ……」
ひび割れたような、人間性を失ったような、しかし桜を嬲る口調だけは変わらぬそれ。枯れたはずの涙があふれ出し、足の震えは全身に伝達する。忘れたと言うには恐ろしすぎて、昔と言うには新しすぎる。桜から、全てを奪い全てを支配した、間桐臓硯。間桐という家そのものの、怨霊。
気付けば、桜は走り出していた。ドアを叩くように開いて、廊下に飛び出る。背後で窓ガラスの割れる音がしても、脇目もふらずに走り抜けた。恐らく人形が蟲と対峙しているが、あれだけの宝具を無力化した相手に、長くは持つまい。どれほど楽観的に見積もっても、分は無いだろう。その間に、可能な限り遠くへ逃げなくては。
廊下を駆け抜け、階段を下り、外を走り抜ける。服を重ね着せず外出できないような冷気に、しかし桜は何も感じる余裕はなかった。いや、それ以前に、全身が外気よりも冷たくなっている。
逃げ出せたのは――自分が逃げる行動に出れたのは、奇跡だった。少し前までは、抵抗するという発想自体が無かったはずだ。あったとしても、行動に移せなかったに違いない。なぜならば、その先に希望はないのだから。
しかし、今は違う。逃げれば、きっとアーチャーが助けてくれる――間桐桜にとっての、無二のヒーロー。彼が居るからこそ、折れそうだった足は動いてくれたのだ。
『カカカカカカカカカカカ』
数多の蟲の合掌。逃げ惑う桜をもてあそぶ笑い声。それを振り返りもせずに、少女は走り続けた。令呪という縁が示す、アーチャーのいる方向へ。
全力で足を動かす。ただでさえ運動が得意だと言い難く、無茶な運動のために呼吸も荒れている。それでもアイリスフィールは、走ることをやめなかった。
ライダーと、そのマスターに救われて少し。逃走に空を走った彼らは、しばらくして近くのビルに下りた。いや、下ろされたのはアイリスフィールだけで、他の二人は硬い表情のまま残っていたが。
蟲の群れから離れられて、僅かに安堵していた。だが、それは自分を殺す相手が変わっただけかもしれないと思い出す。
彼らが、何をどこまで知っているかは分からない。まだセイバーのマスターだと思っているのか、それとも違うと知られているのか。驚愕のしかたから見て、少なくとも、聖杯の運び手である事は知らなかった様だが。どうであったとしても、自分を生かす理由などないのだ。
命の危機に瀕して冷静で居られたのは、まだマシな死に方だと思えたからだった。そこで刺されて死ぬのだとして。どう考えても、生きたまま虫の餌になって死ぬのよりはいい。
ところが、彼らの選択は違った。殺すどころか、アイリスフィールを害そうという意識すら無い様に見えた。
いくつかの事は、当然問い詰められたのだが。それも、セイバーや切嗣と言った、聖杯戦争に関係する事ではなく。専ら聖杯についてと、それから溢れた黒い何かについてだった。そして、その両方ともに、アイリスフィールが答えられることはない。彼女も、聖杯がどういうものかなど、詳しく知らないのだ。あの黒い泥については、存在すら初めて知った。
問うだけ問われ、解放されるアイリスフィール。彼らの様子は、もう聖杯戦争どころではない、という風だった。
この件についてだけは、アイリスフィールよりも詳しく知っている。逆に問いかけようとしたのだが、その時には既に、空の上。結局何も出来ずに、下唇を噛む。
しかし、それで止まっている訳にはいかない。頭を働かせて、すぐに今自分がやるべき事を、導き出した。切嗣と合流し、見た情報を彼に渡す。あれが、自分たちの利になるにせよ、害になるにせよ。知っていなければ話にならない。
まずはビルを下り(飛び降りるには高すぎたので、普通に階段から下りた。警備会社と契約している、セキュリティの高い会社だったので、無駄に苦労し、時間も浪費した)駆け出す。日中は車の数が多くとも、連続殺人事件があった後では、数はかなり控えめ。主要道ならばまだしも、町中を通る道はかなり大人しい。たまに渋滞を嫌ったトラックが走っていく程度だ。
お粗末ながらも、地図は頭の中に入れてある。現在地さえ分かれば、いざという時のための合流地点も分かるのだ。
それに、切嗣は確実に近づいてきているという確信がある。アイリスフィールの役割は、囮なのだ。いざという時――例えば、拉致されるような事態――に備えて、発信器が取り付けてある。それを使って、近くに来ている筈なのだ。それが、助けにでは無かったとしても。
目的地は、倒壊した市民会館から大分遠い場所にした。あれによって、家に籠もっていた民間人が大分起きている。物騒な事件があった直後で、野次馬が集まるかは怪しいところだが……近くで合流すれば、誰かに見られる可能性がある。それが敵陣営だったら最悪だ。
この騒ぎの影響が少ない場所。人影もなくて、他のマスターに発見されぬであろう地点。それを基準にしていたら、ずいぶん遠くまで走る羽目になっていた。
やっと目的地に到着して、アイリスフィールはそのまま崩れ落ちた。限界まで疲労の溜まった足は、もう一歩も動かせそうにない。人生で一番運動した。ばくばくと鳴る心臓は、未だ引かぬ苦痛と相まって、酷い事になっている。
全身から汗が噴き出て、ぬれた髪の毛が体に張り付く。心地の良い感覚では無いが、それを振り払う元気も無く、背後を見た。ぽつぽつと上がっているだけの光。市民会館は、火事が起きた訳でもなく、倒壊を視認する術は無い。だが、目を覚ましかけた街という、その影響は確実に出ていた。
好ましくない状況だ。魔術師としても、聖杯戦争参加者としても。仕方なかったとしても、やはり口惜しさは残る。何より苦しいのが、聖杯を奪われたこと、そして聖杯から、あんなものが出てきたことだった。
聖杯は、切嗣の願いを叶えるためにある。アイリスフィールにとっては、そういうものなのだ。
しかし、願いを叶える根源の奇跡。それ自体が、あんなおぞましいもので、果たして正常に願いを叶えてくれるのだろうか?
体が冷えてきたのは、不安のためか、それとも汗が冷えただけか。出来れば、後者であって欲しい。
しばらくそうしていると、幾分呼吸が整ってくる。と言っても、足はまだ動かそうとは思えない。単純に落ち着いてきたというだけであり、だから行動できる、という訳では無い。まあ、それでも。地べたに座り込む行儀の悪さを感じて、どこか座われる場所を探そうか、そんな風に考えた時だった。
けたたましいブレーキ音を響かせて、一台の車が急停止した。
一言で言って、廃車寸前のそれ。窓ガラスはフロント以外失い、天井はめくれ上がり、トランクカバーもなく、中に何も入っていないケースを覗かせている。助手席のドアを開けて、顔を覗かせたのが夫で無ければ、警察辺りに通報していたかもしれない。
「アイリ!」
「切嗣!」
絶叫に近い切嗣の声。アイリスフィールは、すぐに駆けだした。
倒れ込むようにして、助手席に座る。それと同時に、身を乗り出していた切嗣がドアを閉め、車を急発進させた。急激なGに、体がシートに押しつけられる感触。
自力で走っていた時などとは比べものにならないほど、急激に移り変わる景色。車と人間の違い以上に、切嗣がそれだけの速度で飛ばしているのだ。ずいぶんと聞き慣れた、エンジン音。それが、かつて無いほどの回転数をたたき出している。
ちらちらと、頻繁に背後を確認している切嗣。不安に駆られながらも、問いかける。
「ねえ切嗣……舞弥さんと雁夜さんはどうしたの?」
「彼らは……」
答えようとした切嗣は、しかしその先が続かない。彼が口ごもることなど、ありえないと言ってもいい。少なくとも、アイリスフィールはこれが初めてだった。いつもであれば、知るべき事では無いと誤魔化すか、すぐに回答するか。どちらでも無いというのは、それだけの異常だ。
その異常を。アイリスフィールは、何となく理解した。
「……死んだのね」
「そうと決まってはいない。だが、生きてるとは言えない」
煮え切らない言葉は、彼なりの優しさだったのだろう。何とも不器用なものだが。その優しさに、彼女は泣きたくなった。
衛宮切嗣。久宇舞弥。間桐雁夜。アーサー王。そして、アイリスフィール・フォン・アインツベルン。よくも、これほど寿命が短そうなメンツが揃ったものだ。……そう、今まで誰も欠けなかったのが奇跡なのだ。
切嗣は最愛の夫。人生経験の短い彼女には、計り知れない事が多い。逆に、人生のほぼ全てを彼との時間に費やしたアイリスフィールは、他の誰が分からない事も理解できる。舞弥は切嗣の道具だ何だと言いながらも、可愛い人だった。それが恋愛で無いとしても、切嗣に愛情を向けていたのだろう。だからこそ、アイリスフィールは舞弥と共鳴できた。セイバーは真面目であったが、それがいけなかったのだろう。彼女視点では、恐らく切嗣は駄目で弱い人間に映ったはずだ。騎士たらんという行動の裏には、少なからず切嗣に騎士という道を見せようとしていたのだろう、そう思う。まあ、多分に性もあるのだろうが。あとは雁夜。アイリスフィールという個人を理解しようとしていたが、それ以上に魔術師という肩書きを嫌っていた男。理解しようという意思と、拒否する嫌悪感。両方を常に感じていた。不謹慎だが、何となく学校に通っているような気がして、決して不快では無かった。嫌われるのも、雁夜個人も。
そんな日々を思い出しながら、改めて思う。その日常が、とても好きだったのだと。そして、もう二度と戻ってこない。
全て聖杯戦争のおかげで手に入れて、聖杯戦争のせいで失った。聖杯のせいで……理不尽でしかない感情が、あふれ出してくる。
仮に、聖杯そのものにそれだけの価値が無かったとして、誰が引き返せると言うのか。こんなものに参加した全員が、退路などとっくに無くしていると言うのに。
「セイバーは……」
「……」
それに対する答えは、沈黙。
本当に、二人だけになってしまったのだ。理想を語る男、それを支えようとした女。最初の二人に。
片方しか生きていないライトで闇を削りながら、曲がりくねった裏道を曲がる。とてもでは無いが、人目に付くような所を走れる車では無い。一発で通報されるだろう。
誰も居ない道。そこで何を話した所で、誰が聞いているわけでも無い。走っている車の上ならばなおのこと。
「アイリ、君はどうやって逃げてこれたんだい? まだ生きてるとは思っていたけど、自力で脱出してこれた、とは思えないんだ……」
「自力で逃げられた訳じゃないわ。正直、もうダメだと思ったもの」
説明をするために、思い出そうとして――脳裏に浮かぶ、蟲の化け物の笑い顔。溢れそうになる悲鳴を堪えながら、続けた。
「私が拉致された場所にいたのは、言峰綺礼と間桐臓硯だったわ」
「間桐臓硯だって……? そうか、奴ならば遠坂時臣を暗殺できる。いや、しかし今更参加するだけの動機があるのか?」
しばらく、ぶつぶつと独り言を言いながら考え込む切嗣。いつものことだ。気にせず、言葉を続ける。
「言峰綺礼の方は、私を殺す気はなかったみたい。……いえ、眼中に無い、というのが一番正しかった気がするわ。何と言うか、人を殺さない理由があったのであって、私を殺さない理由は無かったと言うか。事実、その後に間桐臓硯が私を殺そうとした時、全く気にしていなかったし」
喰おうとしていた、とは言えなかった。心のどこかで、その出来事を肯定できないでいる。あれは悪い夢だ。だからこそ、ただ殺されそうであった、という事実に入れ替えた。
そして。
今度口ごもるのは、アイリスフィールの番だった。絶対に、あってはならない事実。それを白状しなければならない。
「ごめんなさい切嗣……。彼らの目的は、私の中の聖杯だったの。それを、奪われてしまった」
「聖杯だって? どこでその事を……いや、そんなものを手に入れて、どうするつもりだ?」
聖杯の在処は、それこそ教会の監督者にさえ伏せられていた事実だ。アインツベルンが用意する必要がある以上、彼女がそれを持っていていると思ってもおかしくはない。だが、それは彼女が持っているという確信を持てることとは、まるで違う。だれがどうすれば知ることが出来たかなど、それこそ予想も出来ない。
そして、聖杯それ自体の使い方も。あれは、持っていて意味があるものではないのだ。どれほど所有権を主張し、縛り付けるようにして持っていたとしても。最終的には、必ず聖杯戦争の勝者に配られる。そういうものなのだ。もし、力を漏れ出させる事に成功し、それを上手く使えたとして。それで、最終的な勝者として認定されるかは微妙な所だ。
アイリスフィールは、そう思っていた。あの時までは。
「切嗣、よく聞いてちょうだい」
「アイリ……?」
太ももを握るようにして、俯くアイリスフィール。彼の顔を見て言うべきだ。しかし、どうしても切嗣の目を見られなかった。もし、その瞳から、自分への失望を感じてしまったら。もう二度と、立ち直れない。
それでも、言わなければならない。ここで黙るのは、失望よりも恐ろしい、裏切りとなるのだから。
「聖杯は、言峰綺礼が持っていたわ。そして、彼らの暗躍を察知したライダーが現れたの。その介入で、私は無事だったんだけど。そ、その時……言峰綺礼が聖杯を使ったのよ。彼はアサシンを自害させて、聖杯の蓄積を増した。そして……、あの男が『アヴェンジャー』と呼んだサーヴァントが……聖杯から……溢れたわ……」
「聖……はい、から……? 馬鹿な、そんな事が……」
あり得るはずは無い。あってはならない。なぜならば、聖杯とはこの世の何よりも純なるものの筈である。そうでなければ、鏡たり得ない。人の願いを映し出す、願望機にならないのだ。その中に、何かが入っていたら。それでは、それの願いこそが最優先されてしまうのだ。
勝ち残った所で……衛宮切嗣の願いは叶わない。それは、他の全てを、人生の何もかも、それこそ愛する者までもを捧げた男に対して……。最後に残ったのが、これだと言うのか。
小さな音。恐らく、切嗣がハンドルを強く握りしめた為に。それを確認する事は、アイリスフィールにはできなかった。
「……いや、まだだ。まだ――アーチャーは確実に、この事を知っていた。酒宴の時の言葉……対策があるはずだ。それに、今の魔力共有するだけのマスターなら、僕にも交渉の余地が……」
それは、希望的観測の連続。現実味の酷く薄い、作戦ですらないもの。しかし、そんなものに縋らなければならないほど、真の意味で聖杯戦争の勝者となるには、遠い。
「アイリ……続きを、頼む」
震えた声が、アイリスフィールの耳に届いた。声の小ささを思えば、それを聞き取れたのも奇跡だと思えるほど。
努めて、何でも無い風を装いながら、彼女は言った。ここで折れてしまえば、もう何も言えなくなりそうな気がしたから。
「言峰綺礼は、監督者から奪ったであろう大量の令呪を持っていたわ。命令は、間桐臓硯を取り込め、というものだった。次の瞬間には、アヴェンジャーの中から、無限の黒い虫が溢れていたのよ」
「黒い蟲、だって?」
「何か心当たりがあるの?」
「ああ。多分、僕たちに襲いかかってきたのがそれだ。セイバーはサーヴァントの気配を感じると言っていたし、通常兵器は殆ど効果が無かった。知性も形もない水のような存在に、間桐臓硯を与えることで、ある程度上手く使えるようにしたんだな。あとは、サーヴァントに対して致命的な力がある、か」
「ええ、そうだと思う」
ライダーの宝具、ヴィア・エクスプグナティオ。単純な威力であれば、今戦争最高の威力を持つであろう、エクスカリバーに次ぐ威力。
あの大男は、持ちうる勝負勘に相応しく、確実に先制で宝具を放っていた。対して、言峰綺礼。いくらアヴェンジャーと間桐臓硯の融合に成功していたとしても、所詮は出始め。まだ数は少なく、圧倒されるほどとは思えなかった。逆に言えば、その程度の数でも、英霊に撤退を考えさせるほど、あれは危険なものだったのだ。
「それでアヴェンジャーから逃げた後、ライダー達は私を置いてどこかに行ったわ。たぶん、現場に戻ったんでしょうけど、私を相手にしてられないっていう風に。ああ、そう言えばアーチャーの名前が出ていたと思うわ」
「同盟、ではないだろうな。この件に関してのみの、限定的な協力関係と見るべきだ」
言葉に、アイリは頷いた。疑う余地が無い。
どこかと同盟を組む必要が出てきた場合、真っ先に拒否するのがライダーである。自由奔放すぎる彼は、同盟の意味を限りなく無意味にしてくれる。適度に距離を置いて、有事にのみ協力をする、というのであればまだしも。同じような感想を持っているはずのアーチャーが、そうしない訳が無い。
他に、いくつか要点を話し合い。その内に、アイリスフィールは耐えきれなくなり、口を開く。
「ねえ、切嗣。私たちは……もう負けた。そういう事にして、諦めることはできないの? イリヤを取り返して……どこかで、三人で……」
残酷な言葉だったであろう。自分で言っておいて、それがどれほど非道であるか。しかし、そんな希望に縋ってしまったのだ。負けた、という体の良い言い訳が用意されて。まだ引き返せると。
そして、無残な希望に縋っているのは、切嗣も同じだった。アーチャーという可能性、アーチャーが示した可能性。それらと、彼の為に死んでいった人たち。全てが切嗣に膝を折るのを躊躇わせた。もしかしたら、絶望しかないのよりも、遙かに残酷に現実を写している。
「駄目だよ、アイリ。まだ、勝つ術はある。それに、言峰綺礼がそんなものを手に入れたなら、放置はできない。きっと……世界中が恐ろしいことになる」
「でも! ……それは、きっと、アーチャー達が何とかするのよ」
泣きそうな声で、アイリスフィールは言った。
分かっている。だから、切嗣も否定しない。感情のままに涙を流すアイリスフィールを、そっとしていた。
誰かが、などと言って任せられなかったからこそ、衛宮切嗣は殺人機械になった。たかがサーヴァントを失った、仲間を喪った――その程度で、誰かに押しつけられるならば。どれほど楽だっただろう。
「それに、アイリ。もう僕たちに――いや、もしかしたら誰にも、退路なんてないんだ。進み続けるしかない、勝つしかない。ここで逃げても、その先にあるのは、多分別の絶望と地獄なんだろう。だから、僕にはもう、前に進むしか道は残されていない」
そうやって、言い聞かせるように、切嗣は言った。アイリスフィールと、自分自身に。それほどに、痛ましい言葉。
手の力を緩めて、眼前にかざした。彼のそれとは似ても似つかない、綺麗な手。何かで汚したことの無い、何を成したことも無い、役立たずの手。
無力だ。
「切嗣、気をつけて。言峰綺礼は普通じゃないわ。どこがどう、と言う事はできないけど、とにかくまともじゃない。だから、気をつけて」
今も、わかりきった助言にもならない言葉しか、伝える事ができない。
「ありがとう。奴には注意するよ」
そんなものにすら、彼は優しかった。
これだけ等ではなく。全てに対して優しく、心を痛める彼。
車が停止する。周囲は見たことがある場所。第二の拠点になった、武家屋敷の正面。これで、終わりなのだ。
「ねえ、私に手伝える事はないの?」
最後の、ささやかな抵抗。こと戦闘において、切嗣よりもアイリスフィールが正しかったことなど、一度として存在しない。それでも、彼女は聞いた。肯定して欲しかった。そして――せめて、一緒に死にたかった。
「待っていてくれ」
彼の声は、決して肯定するものではない。しかし、否定するものでもない。
「必ず、帰るから」
「……うん」
喜べばいいのか。悲しめばいいのか。人生が短く、その全てに切嗣がいる彼女に、それは分からない。ただ、頬を涙が伝った。
少々歪んだドアを開いて、地面に立つ。足が震える。きっと、さっきまで走っていたせいだ。そうに違いない。それ以外の理由など、ある訳が無い。
割れたガラス越しにある切嗣の顔は、まるで別人のよう。また一つ、彼の新しい顔を知った、と思いながら。その顔を、脳裏に焼き付けた。絶対に忘れぬように。
「行ってくるよ」
「はい、いってらっしゃい」
短い、再開を願う別れの言葉。走り出す車。
そして、アイリスフィールは、その後ろ姿をいつまでも眺め続けた。
見えなくなっても、いつまでも。
いつまでも。
結局、自分はこの人の事をどう思っているのだろうか。
魔術の名門出身である自分すら触ったことが無い、超高度な魔術礼装を調整しながら。ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリは、目の前の婚約者を見ながら考えた。
「つまり聖杯とは、英霊の座による座標指定と、圧倒的魔力で、その存在圧を根源表層近くまで掘り下げている。素晴らしいと思わないか、ソラウ!」
「ええ。英霊を召喚する際に、工程を逆算しているのね。強引な力業のようで、その実恐ろしく緻密だわ」
研究をして、協力者がいるのであれば内容を語り合い。つまりは、いつもの時計塔での日常。まさか、聖杯戦争に来てまで、そんな事をするとは思わなかったが。まあ、目の前に魔術礼装の域を超えた――疑似魔法礼装と言ってもいい道具。その欠片が手元にあるのであれば、仕方あるまい。しかも、手元に宝具という一級の研究用礼装まである。この環境には、不覚にもソラウすら心が躍ったのだ。
目指す方向が違うとは言え、魔法の足下を見ている。これに興奮しない魔術師はいなし、興奮しない者は魔術師では無い。
聖杯が異常を来している原因、それを特定するのは、とても簡単だった。まあ、一度『開いて』しまえば、後は視認すらできるので、難しい事など何も無いが。
問題は、これを引きはがす術式だ。ただ混ざっているだけなので、極端に言えば濾過してやれば良い。ただ、それが魔術に対して影響を与え合う上に、調査の結果分かった、相手がサーヴァントだと言う事実。これらの影響で、万全を幾重にも重ねる必要が出てきていた。
それだけは、まあ、面倒ではある。
しかし、聖杯戦争の成果という意味では、これで十分以上だ。なにせ、武勇や聖杯等よりも遙かに有意義な、魔法の足がかりを手に入れられたのだから。
もっとも、それでケイネスが聖杯を辞退しようとしたら。どんな手段を使ってでも、止めるつもりだが。ソラウが欲しいのは、武勇でも聖杯でも、ましてや魔法の某でもない。ランサーという男ただ一人なのだ。
彼に恋したという、何よりも確かな事実。だからこそ、分からない事がある。自分は目の前の男の事を、どう思っているのだろうか、など。
「ごめんなさいケイネス、ちょっと速度を落として。さすがに、貴方がその気になった速度にはついて行けないわ」
「む、すまない。魔法を前にして、少し自制心を欠いてたようだ。……これくらいで良いかい?」
「ええ、大丈夫よ」
おもちゃを目の前にして、堪えきれないといった、まるで子供のような様子のケイネス。
この男に魅力がないかと言われれば、まあ、あるのだろう。傲慢が服を着たような男だが、それが許されるだけの実績はある。世の中、実績も無いのに権利を要求する者が居ることを考えれば、遙かにマシだろう。ついでに言えば、自分に対しては情けないくらいの態度なので、気にする必要も無い。
魔術の腕前は、名門と言うことを加味しても異常だ。単純に魔術師として、彼より上の者など数えるほどしかいない。これが戦闘というジャンルになると、大分遅れを取るのだが。だからこそ、ケイネスは武勇を欲したらしい。
おおむね、優良物件だ。女性的な視点で見れば。
ただし。それは残念ながら、ソラウという少女性が恋する理由にはならなかった。
(何でこの人じゃダメなのかしら……?)
呪文を唱え、指先を滑らせながら、考える。高度な魔術行使ではあるが、補助が得意なソラウには慣れたもの。少なくとも、主導で聖杯の解析と、分離術式の構築をしているケイネスに比べれば、遙かに楽だ。余計な事を考えられる程度には。
理由など、ばっさりと切り捨ててしまっていいのであれば。彼がケイネスだから駄目で、愛しの人がディルムッドだから良かった。それは分かっている。分かっているが、ケイネスも彼女にとっては、いい人であった筈だ。それなのに、イメージをしようとして、全然そういう光景が思い浮かばない。
「わ、私の顔に何かついているかね?」
「え? ああ、ごめんなさい。少し考え事をしていて」
「そ、そうか。うん、まあ、ほどほどに」
いつの間にか彼の顔を凝視していて、それに気づき顔を赤らめる。分かりやすく、惚れている反応。彼の優しさも、そこから出てきているのだろう事は分かる。
実際、彼が研究に没頭している時は、とてもいい顔をしている。見惚れる、という程のものではないにしても。見ていて飽きる類いのものでもない。少なくとも、聖杯戦争などに参加して、思い通りに行かないことに、眉間の皺を刻み続けるよりはよほど健全だ。
研究に最も適正があったのだから、そちらのみを追求していれば良かったのに。なぜ急に「聖杯戦争に参加する、君も近くで私の雄志を見ていてくれ」などと言い出したのか。武勇を求めるにしたって、もう少しマシな戦場があった気がするのだが。
過去を思い出しつつ、答えの出ない考え事をして。ついでに言ってしまえば、答えを求めた訳でも無い、ただの疑問の連続。
唐突に中断し、意義をなくた思考を放棄し。手持ちぶさたなのを、ランサーとの会話で埋めようとして、彼が今居ないのを思い出す。そうでもなければ、元々こんな詮無い思考などしていなかった。
(ランサーの様子は……大丈夫なようね)
当たり前の事を、再確認。ソラウが余裕を持っていられる理由なので、それは当然だが。
ランサーの今回の任務は、敵の探索。アーチャーが囮を勤める上に、相手は魔術師。対魔術師能力が全サーヴァント中トップのランサーには、これより安全な任務は無い。
途中、アクシデントがあったが。囮らしくアーチャーが役に立ち、ランサーは安全だった。
一時期は、かなりピンチだった様子だが。これも、アーチャーの状況。彼であれば、死のうが何をしようがどうでもいいので、いくらでもやってくれて構わない。ランサーが戦闘に入ったと聞いたときは、少しばかりひやりとしたが。それもどれほどもしない内に、終わっていた。
なんにしろ、ランサーの「安全な任務」は続いており、未だ索敵と警戒中。アーチャーが敵を仕留めた代わりに負傷したので、帰ってくることもできないらしい。役立たずめ。
そのおかげで、ソラウは魔術に集中していられる、とも言えるのだが。
ランサーと出会ってから、久しくなかった余暇。いつの間にか、昔はもてあましていた暇の消費方法をも忘れていたようだ。
「順調だな。ソラウ、少し休憩しよう。今紅茶を煎れてる、待っていてくれ」
次の題材を考えて居た所で、声がかかる。
どうせやることが無いのならば、喋っていた方が暇はつぶせる。否定するだけの理由もなく、頷いた。
「メープルシロップはあったかしら?」
「ああ。持ってこよう」
ケイネスはキッチンに消えてどれほどもせずに、戻ってきた。お湯も沸かせられないような、短い時間。しかし、彼が持つティーポットからは、しっかりと湯気が上がっている。
完璧な状態に仕上がった紅茶を、口につける。ひと味足りないのは、まあ日本で完璧な葉を見つけるのは難しい。メープルシロップを入れて、風味を無理矢理誤魔化した。それ以外を考えれば、悪くない出来だ。いつでも紅茶の飲める環境とは、つまり常にお湯の沸いている環境だ。
それだけではない。温度は常に一定で、暖炉の様子を確認する必要は無い。電話は、秘匿性はともかくとして、素早く連絡を取るのに優れている。全てが全て、そうではないのだが。何と言うか、
「便利よね」
「……ああ、便利だ」
ソラウの呟きに、しかし否定の声は上がらなかった。
科学を毛嫌いしている魔術師なのだ、否定の声の一つ上がってもおかしくないのに。しかし、帰ってきたのは消極的同意。それほど、否定しきれないものだった。科学に囲まれた、便利な生活と言うのは。
部屋にあるものは、全てアーチャー主導で導入されたものだ。最初はケイネスが強く否定したし、ソラウも口に出さないが同じだった。だが、アーチャーの言葉「こんなものは手間を省いて時間を得るためのものだ。お前らの、魔術に使う時間を増やしてくれる。嫌なら使わなければいいだけだ」の元に、無理矢理入れられた。
結果、その便利性に負けて、使用する事になっている。
「まあ、論理的なのだ。魔術に融合させる訳でも無い。手間を省いてくれるのであれば、それが下賎なものであれ、利用はすべきだろう」
魔術師の見本のような男の。魔術師らしい言葉ではあった。後は、口元が悔しげに歪んで居なければ、完璧だったのだが。
「それでも、ケイネスがよくこれを認めたと思うわ」
「む……」
ソラウは、何気なく言ったつもりだったのだが。少しばかり、皮肉っぽい響きになってしまっていた。ランサーの件でぶつかることが多く、それが出てしまったのだが。
そんなつもりは無かった――しかし、どう言葉にすればいいか分からず。誤魔化すように、残った紅茶に口をつける。
「発展の成り立ちが違うのだから、それほど反目する必要もない、そう思っただけだ。聖杯の解析は限られた期間のみで、余計な時間を取っている暇は無い。利用できるものを利用しようと思っただけなんだ」
普段よりやや早口で、まくし立てるように、ケイネス。
そんな所も――どこもかしこも。普段はやり過ぎと言うくらいに気取っているのに、時折妙に子供っぽくなる。
……そうだった。ランサーが来る前は、確かいつも、こんな距離だった。ふと、感傷のように思い出す。ディルムッドが増えて、ソラウは恋をした。同時に、聖杯戦争という事もあり、かつての和やかな空気はなくなる。昔が恋しくなったわけでも、ましてや戻りたくなった訳でも無い。本当に、ただなんとなく思い出し――それが遠い昔のように感じた。それだけ。
恋とは、おそらくはそういうものだ。そう断じながら、ソラウは気を取り直す。
一杯目の紅茶を飲み終えて、しかしそれ以上飲もうという気にはなれず。目の前の婚約者に、声をかけた。
「ケイネス、私はもう大丈夫よ」
「む……そうかね? では続けよう」
(やっぱり)
思った通りであった。立ち上がりながら思う。
ケイネスは彼女に(大抵は失敗する)気遣いを、よくしていた。空気が読めるとは言い難い上に頻度が高いので、鬱陶しいか無意味なことが殆どなのだが。
二人の間に、魔術師としての素養はそれほど差が無い。当然、刻印の分を除けば、という話になるが。実力ほど、才能に差は無いのだ。それを天と地ほど、大きなものにしているのは、間違いなく彼自身が努力をしたからである。
それはともかく、二人にはプロとアマチュアほど、一流と二流ほど差がある。いくらケイネスが倍以上の容量と難易度で作業をしているからと言って、先にへばることはあり得ないのだ。おそらくは、ソラウの顔色を見ながら作業している。考え込んだのを、疲労と勘違いしたのだろう。
(優しい人ではあるのよね。付き合いも長いし)
一度も、ときめく事はなかったが。
聖杯の欠片を中心に添えた、小型神殿。さらに周囲にアーチャーの持っていた宝具と、水銀の矢が二本。正確には、ケイネス渾身の対聖杯用魔術礼装であり、聖杯の中身を分離する、単発式の砲弾でもある。
もう完成は間近だ。手を伸ばし、呪文を唱え始めて――
「すまない、少し待ってくれ」
魔術を発動しようとしていたケイネスがいきなり中断して、額に指を当てた。ロードとして立つときよりも、さらに鋭い目つき。
ランサーからの念話だ。それも、ただ事では無い。それが分かったからこそ、ソラウは黙っていた。
どれほどもせずに、深まる眉間の皺。そして、苛立たしげな舌打ちが響く。
指が額から離れ、それでも険しい表情はそのままだった。ソラウの前では常に良い自分で居ようとするケイネスには珍しく、その様子を隠そうともしない。
「どうしたの? ずいぶん機嫌が悪そうだけど」
「ああ、すまないソラウ。どうやらどこかの馬鹿が、聖杯を使用したらしい」
「使用って……これを?」
良いながら、ソラウは嫌悪と言うよりも、汚物を見るような目で聖杯を見た。
聖杯の中身を初めて見たときの、ソラウの感想。それは、汚い、だった。魔術師的な、いや、神秘的な観点で見れば、それは間違っても存在してはいけないものだ。ケイネス曰く、人間の正の感情を反転させたもの。マイナス面の感情と動機を集めたと言うよりも、正しさへのカウンター、らしい。どう違うのか、彼女には分からなかったが。
しかも、ケイネスが調べた結果によると、サーヴァントの精神を犯し、霊体を分解する力まであるのだとか。こんなものに、愛しのランサーが触れていたらと思うとぞっとする。
「ああ、それをだ」
「何を考えてるのかしら……?」
「アーチャー伝いに聞いたライダーの情報によると、下手人はアサシンの元マスター。落ちぶれた御三家も協力していたらしいが、すぐに裏切られて死亡したようだ。肝心の、アサシンのマスターはどこから用意したか、大量の令呪を使って聖杯を制御しているらしいが……聞いた限りではただの狂人だな。中途半端な魔術の知識と腕で、全く余計な事をしてくれる」
こんなものを使用する人間は、確かにまともではありえない。
意識的に、聖杯から目をそらしながら、ソラウは言った。
「今はどうなっているの?」
「現在はアーチャー、ランサー、ライダーが共同で南側の、海の方に押し込んでいる最中だ。火力的にはアーチャーが居るから問題ない様だが、何しろ数が多い。聖杯を破壊しようにも、アサシンのマスターが見つからないようだ。しばらくは現状維持になるだろう」
「でも、それじゃあランサーが……」
彼を亡くしてしまうかも知れない。そんな不安に駆られ、左腕を強く握った。
一瞬むっとして、声を荒らげそうになったケイネス。しかし、すぐに深呼吸をして落ち着き、極めて優しい声で言う。
「ソラウ、今我々に必要なことは、アサシンのマスターを見つけるか、素早く聖杯からあの汚物を分離することなんだ。マスターの発見は、汚物を押し込みながら、現場の方が頑張っている。なら、私たちがする事は、もう一つの解決方法を持って行くことだ。そうだろう?」
「……ええ、そうね」
未だ不安が押し寄せる。だが、彼の言うことは正論だった。ソラウは小さく頷く。
叫びたくなる心を押さえながら、無理矢理自分を納得させる。それに、その方がランサーの生存率が高いであろう――
と。
ソラウがそれに気づけたのは、全くの偶然だった。聖杯から目をそらした。その先が、たまたまそれらの進行方向だった。その程度の事。
「ケイネス上よ!」
そして、咄嗟に声を上げられたのも、まったくの偶然だった。自分でも驚くほどの声量で、危険を促す。
ケイネスは、即座に横に飛んで、身を転がした。普段――例えば、時計塔などであれば、それに反応できなかったであろう。しかし、聖杯戦争と言う、神経を尖らせる必要がある場所に数日滞在していた。その分だけ、普段よりも警戒心が高かったのだ。
とにかく、近くに何があるかも確認せずに、全力で跳躍し。備え付けではない、美観に併せて買ったテーブルをなぎ倒して、そのまま一回転。
彼が起き上がる前に、ソラウは天井から降ってきたそれを見た。数多の蟲。黒い、汚物を煮染めたように醜悪な、吐き気を催すそれ。
感覚だけで分かる。こんなものが、二つとあるわけが無い。これは、聖杯の中身だ。
「馬鹿な! なぜそいつらがここに……いや、それ以前に、結界をどうやって抜けたと言うのだ!?」
ケイネスが、頭を抱えながら絶叫した。
奇襲に失敗したと悟った蟲は、ぞわりと、外から窓を破って、溢れてくる。どうやってここに来たのか。どうやって結界を抜けたのか。それは分からないが、しかし何を目的にしているかだけは分かった。
部屋にある、一番小さい――しかし一番頑丈なテーブル。つい先ほどまで解析作業をしていたそれを、ケイネスの方に向けて、思い切り押し倒した。極小の神殿化空間は解除され、床に宝具と、作りかけの魔術礼装と、あと聖杯の欠片が転がる。
一瞬、呆然としてたケイネス。しかしすぐに意図を理解して、床に散らばったそれらをかき集めた。
「ソラウ、飛んで!」
聖杯の欠片を差し向けた事で、蟲に囲まれつつあり。響いた声に反応して、ソラウは飛び上がった。乱暴ではあったが、吹き上がる風は確かに彼女を抱えて、持ち上げる。そのまま、ケイネスの進行方向へと向かった。
彼の正面は、壁であった。いや、壁があった場所だった。今では一人分のスペースを、楕円形に切り抜かれている。
シングルアクションでの魔術行使。もしかしたら、ただのかけ声をも詠唱にしていたのかもしれない。二方向に、全く異なる魔術効果。それを難なくやって見せた。
ケイネスに運ばれるまま、穴の開いた壁から飛び出る。着地も制御も、全てを彼に任せて、ソラウは魔力を集中した。
たった今出てきた場所から、追いかけて蟲が溢れている。嫌悪に飲まれそうになり、魔力が乱れる――だがそれを、経験と膨大な魔力で、むりやり押さえつけた。指先にかかっているのは、数少ないソラウ専用の魔術礼装。そこに魔力を通せば、ケイネス程とは言わぬまでも、そこらの魔術師では対抗できない火力を放てる。
可能な限りの魔力を注ぎ込んだ、渾身の一撃。魔力を刃の形に加工して、さらに風属性を添加。内部で高圧縮された空気は、小さく雷を発生させながら、高速で対象に着弾した。
その威力は、家を横に両断して有り余る。少なくとも、蟲風情に防がれる事などありえないし、あってはならない。しかし、
「うそ! 魔術を吸収したの!?」
「密かに結界を抜けられたのは、それが理由か!」
地面に着地し、二人は同時に走り始めた。もう彼らに、蟲の相手をしようという考えは無い。魔術を吸収できると言うのは、それだけで、魔術師が相手すべき存在ではない。
しかし、蟲もただ追い立てていた訳ではなかった。逃げられた後のことまで考えていたか、それは分からない。ただ、外では、既に虫が山のように待機していた。
ケイネスの、小さくうめく声。魔術が通用しない相手に、逃げ場が無い。
「くっ……ラン――!」
令呪を消費し、ランサーを呼ぼうとしたのだろう。手から、膨大な魔力の反応を見せて。そして、彼の目が見開かれた。
ソラウには、何があったのか分からない。ただ、驚愕したケイネスの顔が、自分の後ろを見ている。そして、驚愕は必死の形相となり、ソラウを捕まえようとしていた。
ここで初めて、彼女にも悪寒が理解できた。背中から襲いかかるような、醜悪な魔力の気配。危険すぎるそれ。しかし、死の気配というには、あまりにも気が抜けていて、そう思い切れない。
おそらくは、どちらかしか助からない。彼女の冷静な部分が、そう告げていた。もしかしたら、冷徹な部分だったのかもしれない。
彼の犠牲で助かったら、まずは魔術礼装その他を持って、この場から逃げる。聖杯の欠片は、置いていってもいいかもしれない。そして、まずはランサーと再契約だ。後は、アーチャーなり何なりにでも任せておけば、聖杯戦争は勝手に終結するだろう。そして、自分は故郷へと帰れば良い。ランサーと一緒に。
そんな事を考えて――
ソラウは、ケイネスを押し飛ばした。
「……え?」
呟いたのは、ケイネスだった。しかし、より驚いていたのは、ソラウだっただろう。
彼女自身、なぜ自分がそんな事をしたのか、全く分からなかった。彼の事は嫌いではなく、悪い人だとも思っていない。ただ、何とも思ってないだけで。
だから、自分の命を優先すべきだった。そして、ディルムッドと添い遂げて、幸せになるべきだった。身を焦がすような恋を知り、情熱に身を任せ、今までのような、無機質だった人生と別れを告げる。そうすれば、きっと幸福だっただろう。こんな所で、こんな死に方をすべきでは無い。やっと、幸せの足がかりを掴んだのだから。
なのに。
ソラウは、自分が死にたくないと考えるのと同じくらい。ランサーに恋い焦がれるのと同じくらい。ケイネスに、死んで欲しく無かったのだ。
(ああ、そうだったんだ……)
妖精の囁きに似た、小さな音。それは、自分にしか届かない。確かな確信。
何の事はない。難しい事も無い。当然だった。何よりも間違った選択こそが、彼女にとって、もっとも自然な選択だっただけ。
ソラウは、恋をしたことはない。つまらない毎日。ただ、ドラマの隙間を縫うかのように、何事も無く過ぎていく毎日。感動など、感じられなかった。ただの日常、その連続。確かに、恋はなかった。
(けど……)
またしても、囁き。今度は妖精などではなく、しっかりと自分の言葉の、自分の意思で。
(愛しては、いたのね。咄嗟に、命を賭けて、助けたい程度には)
つまらないばかりだった毎日。しかし、そこには気付けばケイネスがいた。色んな思い出が、めまぐるしく過ぎていく。子供の頃から、今に近づくにつれて、彼との思い出が増えていった。どれもこれも、つまらなそうな顔の自分。しかし、それで許される空間であった。
なんでもないものばかり。それが、とても懐かしくて、もう一度味わいたくて。しかし、もう届かない。彼と顔を合わせて、紅茶を楽しむことは、もうできない。
(どうしよう)
指先が、彼の体から離れた。名残惜しく追っていたそれも、もう終わり。
終わり際になって、こんな事に気がつくなんて。きっと、ソラウと言う女は、どうしようもない馬鹿だったのだろう。
離れていくケイネスの顔は、子供の泣き顔のようだった。何度も、情けない顔を見たことがある。しかし、これほどまでに情けないのは初めてだ。こんな顔もするのだな、などと。最後に、新しい彼を見れたことに、感謝をすればいいのか。
伸ばされる手。しかし、ソラウがそれを掴むことは無い。そんなことをすれば、二人とも死んでしまう。それだけは、絶対に許せなかった。
(こんな時、どんな言葉をかければいいのかしら?)
生きて、とでも言えばいいのだろうか。それとも、他に気の利いた言葉でもあるのか? 分からない。こんな事ならば、彼ともっと話しておけばよかった。
だから。
ソラウは微笑んだ。
令呪が発動し、ここに飛んでくるランサーに向かってでは無く。己の婚約者。恋してはいない。しかし、愛する人に向かって。
愛していたと、伝えるために。
いつから、彼女が好きだったのかは分からない。出会った瞬間、恋に落ちたのかも知れない。幾度も会っていた内かもしれない。どちらでもよく、どうでもいい事。
事実は一つだった。そして、残酷だった。
一度目、彼女を助けるために伸ばした手は、逆に彼女に助けられる事になった。そして、二度目に伸ばした手は、届かずに空を切る。
どれほど伸ばしても、届かない手。蟲に飲まれていく彼女。そして、初めて見る――自分に向けられた、微笑み。
サーヴァントの召喚は、遅すぎた。ソラウが飲み込まれるのも、ケイネスが絶望するのも。彼女を見捨てて、自分が逃げおおせるのにだけは、十分な時間だったというのに!
「やめろランサーぁぁぁぁ! 戻れ! もどれえええぇぇぇぇ!」
「っ! 申し訳ありません主よ!」
ランサーに抱えられ、一瞬で遠のいていく地面。短い間ではあったが、家であり――なによりも、ソラウがいる場所。そうだ、そこにはまだ、ソラウがいる。彼女を置き去りにしているのだ。置いていけるわけなどない。やっと、彼女が自分に向かって微笑んでくれたと言うのに。
押さえ込まれながら、ただ暴れ回った。遠くなる景色。愛した彼女がいる場所。
そして、いつの間にか。何も見えなくなっていたケイネスは、どこかの屋上で膝をついていた。ただ、喪失に呆然としながら、いつここに着いたのかも分からずに。
いつの間にか、床の上に転がっていた道具。宝具と、聖杯の欠片と、礼装。こんなもののために、彼女は死んだと言うのか。こんな自分のために、彼女は命をかけたのか?
「ランサー、貴様はなぜもっと速く来なかった! なぜソラウを守らなかったのだ!」
「……」
ランサーは答えなかった。そして、目も合わせない。
涙があふれ出る。何故だ、理不尽な世界に対しての怒り。彼女は、生きているべきだった。死ぬのであれば、自分が犠牲になるべきだったのに。
止められない。何も。自分を自分で、制御できない。
拳を握り、ランサーに振り下ろした。どすり、という鈍い感触。こんなもの、サーヴァントに効くわけが無い。そして、何の意味も無い。それでも、ケイネスはランサーを殴り続けた。型も何も無い、子供のように、ただ拳を突き出し続けるだけの行為。涙が溢れるのも、八つ当たりも、何も止まらない。どうすれば良いかなど、分かるはずが無い。
「お、お前が、遅かったから! 忠義を、誓うと、お前は、ソラウが、なぜ! 肝心な時に! あああぁぁぁ……」
ケイネスの拳など、効いている訳が無い。サーヴァントに通常攻撃は効かず、仮に有効だとしても、鍛え上げた英雄に通用するはずが無い。意味が無いことなど、分かっているのだ。
だから、痛ましい顔をして目をそらすのを、やめてくれ。
「お前が……お前が! 遅かったから! き……貴様が!」
腕の感覚がなくなっていく。いや、無くなっているのは全ての感覚だ。自分が何をしているのか、もしかしたら、立っているのすら嘘にすら思える。何をしているのだろう。聖杯戦争に参加しているのか? 目の前の男はランサーか? ここはどこだ? 一番嘘のような事実が、自分が生きていることだというのに、何を信じれば、自分を信じられる?
ランサーの胸に、拳を叩き付けながら……ケイネスは、ついに拳を上げることも出来なくなった。がたがたと震える体を小さくし、そのまま地面に倒れ、蹲る。
握った手を、地面に叩き付ける小さな音。彼の泣き声は、それよりも小さく儚かった。
「なぜ私は……彼女を殺させてしまったのだ……」
震える手を、握りしめたまま。力を抜こうとしても、それは堅く閉じたままだった。
上から降ってくる、ランサーの言葉。
「申し訳ありません、ケイネス様……。私が、ふがいないばかりに」
「やめろぉ!」
それは、怒りだったのだろうか。分からないが、ただ、激情ではあった。
あふれ出たそれが、ケイネスを立ち上がらせる。目の前には、彼女が好きだといって止まなかった美丈夫。もう、己のサーヴァントに対する、嫉妬の感情はなかった。ただ、やるせなさが、どうしても止まってくれない。
「ソラウは私を庇って死んだ! 私を、庇ったんだ! 私は、庇われなければならなかった……。私が、弱かったばかりに……」
両手で顔を抱える。そして、強く押さえ込んだ。こんな顔で、こんな意思で、どうして見せられようか。
「なあ、ランサー……。なぜ私は……こんなにも弱いのだ」
帰ってくるはずもない答え。
それが、騎士としての忠義らしいのか、ケイネスには分からない。だが、ランサーは一言も発すること無く、その場に立ち尽くしていた。嗚咽を漏らし続ける主を、待ち続けていた。
やがて、ケイネスは腕を開く。一言で言って、酷い顔だ。涙で濡れた顔より何より、死期が間近にせまっている、そんな顔色。それでも、瞳にだけは、強い意志を宿している。
「ランサー、いくぞ」
どこに行くのだ。ケイネスは自問する。これで、ソラウの所に、とでも言えたらどれほど楽だったであろうか。少なくとも、胸を突き刺す苦しみは考えなくて済む。そして――彼女に笑顔の理由を聞いてみて、答え次第で浮かれるのも良いし、嘆くのも良い。そして、いつものようにお茶でもするのだ。そんな都合の良い妄想をしていられる。
けど、だめだ。もう少しだけは。
「はっ」
小さな返事をして、ランサーが答えた。
フェンス際にまで寄って、ケイネスは夜の街を見下ろす。そこは、市民会館に比較的近い場所らしく。僅かな光に、倒壊した巨大建築物の輪郭が見えた。そこには、あるいはその近くには。ソラウをこんな目に会わせた犯人が、必ずいる。
それは、魔術師としての矜持であり、義務であった。しかし、その中に。
(君をこんな目に遭わせた事への、恨みくらい乗せてもいいだろう?)
もう聞く者がいない言葉を、胸中で呟いた。誰にも、本人にすら看取られること無く、言葉は露と消えて。
「奴を倒す。そのための魔術礼装を作る時間を、全力で稼いでこい」
「承知しました、我が主ケイネス様。……今度こそ、この槍と命にかけて」
ランサーが跳ねて、消えていくのを目にしながら。その向こうには、もうソラウが居ないことを自覚して。
彼は再び、魔術礼装に魔術を撃ち込み始めた。ぼやけて見えぬ視界を、強引に働かせながら。強力に、完璧に。
今度こそ、彼女のような犠牲を出さぬ為に。
「くそっ、どうすりゃいいんだ!」
俺は叫びながら、目の前の波を睨み付ける。
そう、波だ。あれはもう、蟲の群れなどという生易しいものではない。サーヴァント三体の努力で、人の少ない方に押し込んではいるものの。戦況は全く改善していなかった。
一体一体の能力は、直に触れさえしなければ大したことは無い。まあ、数万、数十万という数が居て、一体が驚異でたまるかという話だが。問題は、拡散しすぎてて殲滅しきれず、いくらでも湧いて出てくる事。一匹でも放っておくと、勝手に増殖するのだ。そして、弱点である聖杯の所在が不明な事だった。
ちなみに、この時点で聖杯で願いを叶える事は諦めている。生き汚い自覚のある俺だが、さすがに大量虐殺をしてまでそれを成そうとは思えない。
まがりなりにも、天秤が釣り勝っている理由。それは、アンリマユ側が本腰を入れていないからだろう。
詳しくは全く分からないのだが。今のアンリマユは、ただの水を間桐臓硯というホースで勢いをつけているような状態らしい。どちらの方が強力なのか、というのは、元のアンリマユを味わっていない俺には分からないが。少なくとも、使いやすくはなっているのだろう。上手く戦力を拡散して、少ない量で殲滅されていない、という点からも窺える。
ただし、それでも欠点らしき部分はあるようで。どうも、サーヴァントの気配が一点に集中しているのだ。恐らくそれが、間桐臓硯本体なのだろう。
相手が本腰を入れていない、と言った理由は、この点にある。一定以上の量を出すと、間桐臓硯の気配がはっきりしてしまうのだろう。つまり今の状態が、居場所を悟られないギリギリの量だという事だ。もう少し分かりやすくなっていてくれれば、エアをぶち込んでやったと言うのに。
それに、一緒に戦っているサーヴァントも問題だった。
「ライダー! お前もう少し何とかなんないのかよ!」
「無茶を言うな。これは、余の天敵のような能力をもっているのだぞ」
俺の絶叫に、涼しい声で、とまでは言わずとも、淡々と答えるライダー。ただし、表情には僅かに渋いものが混ざっていた。
この、対聖杯臓硯という戦場で、一番役に立っていないのがライダーだった。縦横無尽に空を走ってはいるのだが、攻撃対象は漏れ出たものを削る程度でしかない。早い話、戦車で直接触れられないのだ。攻撃はあくまで、余波の雷撃のみで行っている。当然、魔力を調整して雷撃の量を増やす、くらいはしているのだが。それでは焼け石に水だ。
「戦車の攻撃方法は、触れて吹き飛ばす、なのだぞ。こんなもんに触れたら、一瞬で穴だらけになっちまうわい。貴様こそ、宝具をそんなに大盤振る舞いして大丈夫なのか?」
「俺の宝具は、想定した機能が停止した瞬間、あらかじめそのまま残しておくつもりでもなければ、勝手に戻ってくる。それこそ、一瞬で破壊されれば話は別だけどな」
「くぅ、流石は最古の王、ギルガメッシュ。良いもの持っておるわい。やはり余に下らぬか?」
心底悔しそうに喉を鳴らす。ある意味、恐ろしく余裕がある男だ。
「何でもいいから後にしろ!」
「そいつを言質と取るぞ!」
「いやそれは違うだろ!」
声を上げる気力もなくなって。俺の代わりに言ったのは、ウェイバーだ。あらゆる意味で、息の合った二人だ。当然皮肉である。
そして、ライダーは戦車で走り、撃ち漏らしを中心に狩るのだが。やはり、火力に比べて殲滅量が少なすぎる。これならば、地面で走り回りながら戦っているランサーの方が、まだ力になっているくらいだ。実質的な火力が、飛行宝具で飛び回り宝具を降らせている俺だけになっている。
仕方が無いと言ってしまえば、それまでなのだが。ライダーには、聖杯臓硯に有効な手立てが無い。戦車のような、大ざっぱで面積の広いもので接敵すれば、確かに一瞬で食い尽くされるだろう。王の軍勢であれば広域に渡って隔離してくれるが、その代わりにただの餌場と化す。
これは、ランサーとライダーのスタンスが違う、というのも関係している。接近されても、卓越した技術と速度で何とかする自信のあるランサー。対して、接近されれば力押しでなんとかしなければならないライダー。どちらが優れている、という話では無い。質より数で来られれば、前者が有利だ、というだけの話だ。同時に、この場では致命的な問題でもある。
そのランサーも、寸前まで戦っていたセイバーとの影響で、槍捌きに陰りが見える。事前に俺が治療をしたのだが、それでも完治とは言い難く。素人目に見ても、左が動いていなかった。
「こんな時に、セイバーがいればな……」
「無い物ねだりをしても仕方があるまい。それに、あやつとて無関係ではないのだ。気付けば応援に来る」
分かってはいるのだが、それまでがもどかしすぎる。
風王結界であれば、蟲の中に入り込む事も不可能ではないだろうに。そうすれば、聖杯化した臓硯の発見はともかく、言峰綺礼を見つけられる筈だ。エクスカリバーであれば、戦車のように、蟲に触れられる心配をする必要もない。
「ランサー! そっちは、と言うかケイネスの方はどうなってるんだ!」
同じく空を飛んでいるライダーに比べて、距離の離れているランサー。彼に声が届くように、声を張り上げる。
「主からの伝言だ。「もう少しで礼装が出来上がる。それまでどうにかして耐えろ」との事だ」
「気軽に言ってくれて!」
筋違いな怒りだ。むしろ、立場ではこちらが頼む側である。しかし、それだけ余裕が無いのだ。
状況は互角か、ややこちらが有利な様に見える。しかし、この釣り合いが維持できる時間は、そう長くない。サーヴァントの戦闘持続時間は、マスターに依存するからだ。
まだ限界は見えていない。しかし、それは俺のマスターが、通常に比べて遙かに多い魔力量を持っているからだ。この調子で進めば、魔力量が少なく、燃費が悪いサーヴァントを持つウェイバーから潰れる。そうなれば、蟲の取り逃がしが発生し始めてしまうだろう。
市街地に抜けた臓硯が、どんな行動に出るのか。片っ端から人を食い尽くすのか、それともどこかに本体を潜ませるのか。想像できる行動の範囲が広すぎて、対応できない。そうなれば、いよいよ街ごと消し飛ばす事も、考える必要が出てくる。最後の手段としても、考えたくない行為。それでも、聖杯戦争に参加した者としての、義務ではあるのだろう。被害をここ以外に広げる訳にはいかない。
とにかく、今取りうる手は全て取っているのだ。その上で、事態が進まない。いらだたしさに、舌打ちが漏れた。
「アーチャーよ、そう短気になるな。殺気立っておっても、状況は何も変わらぬぞ?」
「分かってはいるんだけどな……」
自覚はあるのだ。たしなめられて、それを止められる訳が無い。
この辺が、ただの一般人と英雄の差なのかも知れない。
「余らが押し込みきってしまえば、奴らとて本腰を入れざるをえん。ランサーのマスターが用意している、切り札が届いても同様よ。こんなものは長く続かん、必ずどこかで破綻する」
それまで押しとどめるのが、我々の役割。全く持ってその通りだ。そう分かっていても、それで焦りが無くなるわけでは無い。
「しばらくはこのままか……」
「祈れ。言峰綺礼とやらが信じた神以外にな」
気の利いた皮肉に、思わず笑みが漏れた。確かに、そんなものに祈れば、上手くいくものも上手くいかなくなる。
いくらか余裕を取り戻せた。再度黒い蟲に集中して、広範囲に宝具の雨を降らせる。移動している分を含めれば、数キロという広範囲の戦線を、カバーしなければいけないのだ。集中力はあって足りない事は無い。既にいくつものクレーターが作られ、悲惨な姿になっている空き地。そこに黒い影が潜り込めば、戦場ですらありえないような高火力爆撃を降らせる。
少なからず宝具が破壊される事も考慮していたが、今の所その心配はない。対魔力、対エーテル攻撃能力は高くとも、物理的な攻撃力は虫に毛が生えた程度。殆ど物質となっている宝具を、破壊する手段は無い様子だ。もしくは、あっても一つ二つ壊したところで意味が無いと割り切っているか。
一度端まで飛び、飛行宝具をターンさせる。丁度、その時だった。北側、つまり背後から、太陽にも似た光が溢れたのは。
「あれは、恐らくセイバーの宝具だな」
「これがエクスカリバーなのか!?」
ウェイバーは、純粋にエクスカリバーの発動に驚いた様子だが。俺とライダーは違う。
ここからずいぶん離れた高台の道、そこで宝具が発動された。つまり、彼女らにも聖杯臓硯が攻撃を仕掛けた可能性が高い、という事だ。馬鹿な……思わず絶叫しそうになる。
「サーヴァント三人の目をかいくぐって、蟲を切り離したか? 分体とて、濃くはないが、サーヴァントの気配がするのだぞ。ただでさえ器用な真似ができなそうなあれに、そんなことが可能なのか?」
「もしくは、お前が離脱した僅かな隙に、ありったけの蟲を忍ばせておいたか……やってくれる、言峰綺礼に間桐臓硯」
今度こそ、舌打ちを押さえられなかった。体が浮ついて、街に駆けつけそうになる。
「アーチャー、早まるなよ! これだけ吹き飛ばされて、なお数を用意できると言うことは、奴らは確実にここにいるのだ。我らが離脱して逃がしてしまえば、それこそ取り返しが付かなくなるぞ!」
「分かっているさ!」
だから、こうして腰を浮かしただけで堪えているのだ。
間桐臓硯、そして言峰綺礼。本編でも、凶悪な人間を上から数えるのであれば。誰に聞いても、必ず上位にいる二人。それが合わさると、これほど厄介だとは思わなかった。
「それにしても、余が策略でことごとく遅れを取るとは、やってくれる!」
称賛半分、怒り半分に、ライダーが吠える。
臓硯と綺礼、どちらが主導してやっているのかは分からないが。ことごとく、裏をかいてくる。こちらが立てておいた保険のおかげで、なんとか保っていたと言うのに。保険をかけた分すら、消えようとしていた。
俺の、最大の間違い。間桐臓硯を、倒したか倒してないか分からぬ状態で、放置するべきではなかった。草の根をかき分けても探しだし、確実に仕留めておくべきだった。
「あ、主!? っ……すまん、ここは任せる!」
返答する間もなく、ランサーは己の体を疾風に変えた。
悪いことは重なる。しかし、それは運では無い。全て、彼らが企んだ事だ。
「押さえきれぬぞ!」
「仕方がない! ここでケイネスに死なれたら、切り札を失う事になる!」
漏らした蟲は、街に進行するだろう。僅かな数でも、それがどれだけ拡大し、被害者を生み出すか。想像すらできない。
背後では、またしても星の光が輝いていた。連続する光の意味は、考えるまでも無い。孤立したセイバーを倒してしまえば、聖杯の力はさらに強まる。それだけでも、バランスを崩すには十分だ。少なくとも、戦線が崩壊すれば。俺たちが守りを諦めて、聖杯の破壊をなし得るまで。果たして、この街に人は残っているだろうか。
と、ここで急に、違和感に襲われる。俺は、何かを忘れているのではないだろうか? 何か分からない。ただ、それはとてつもなく重要で……
そして、俺からは遠すぎる、しかし戦場から近すぎる場所に。ここ数日ですっかり見慣れた、少女の姿を見た。
「桜ぁ!」
そうだ、マスターであるケイネスが襲われているのであれば、桜も同様に襲われていない筈がないのだ。
ラインの繋がりは感じ、魔力も供給されている。しかし、それ以上は分からないのだ。桜との連絡手段は一方通行で、緊急時に使えるようなものではない。そもそも、拠点の守りを抜かれる事自体、想定していなかったのだ。大量の宝具で守られた要塞など、普通は攻略できない。数少ない例外が、出現してしまった。
宝具を急降下し、必死に走っていた少女の体を抱える。それと、完全に同時だった。蟲から感じるサーヴァントの気配が増して、同時に数を十倍以上に膨れ上がらせたのは。
飛行宝具が一瞬で飲み込まれ、魔力を吸い尽くす。機能を維持できなくなった宝具は、すぐさま王の財宝に収容された。今から別の飛行宝具を用意しても、間に合わない。すぐに食い尽くされるだろう。
四方八方上下左右、あらゆる方向の区分を無視して、襲いかかる群れ。全方位に宝具を乱射して、片っ端から吹き飛ばす。それですら、小ささと数を生かして、宝具射出の隙間から接近してくる蟲。常に数万という虫が取り囲み、押し潰さんとする状況では、それもかなりの数になる。しかし、ギルガメッシュは道具の多さが売りなのだ。すぐに叩き潰してやろうとして……
「ひぃ――」
胸元から響く、小さな悲鳴を聞いた。
感情を失っていた少女と、同一人物だとは思えないほどに――恐怖に引きつった顔。そして、明らかに彼女を狙っている蟲。
異空間から、武器を取り出そうとしていた手。それをとっさに引いて、かわりに桜を守るよう抱きかかえた。飛びかかる虫の殆どは、鎧に弾かれたのだが。数匹、鎧の隙間を縫って、体に齧り付いてきた。
「がっ、あ!」
痛い、痛い、痛い! それ以外に何も考えられない。バーサーカーとの戦闘時に喰らったものなど、比べものにならない苦痛。ダメージで言えば、それでもバーサーカーに貰ったものの方が多い筈なのに。肉を分解しながら食われる感触が。なにより、間桐臓硯の人を苦しめる手腕が、何でもないダメージすら、強烈な痛みに強制変換される。
痛みに脳の血管が千切れそうになりながら、蟲を掴んで握りつぶす。じんじんと響く右腕を自覚しながら、しかし桜を強く抱いた。
「ご……ごめんなさい……あ、ぁ……ごめん……なさい」
「っ、う……お前は何も悪くない。だから、何も心配するな」
普通の子供のように泣きじゃくる桜をあやしながら、宝具展開の比率を変えた。
攻撃用の宝具を減らして、防御用の宝具を多数展開する。火力の目減りは目を覆うほど。しかし、これで桜の安全はある程度維持できる。しかし――蟲に群がられている現状、ここから脱出する術がない。奴らの物量は、減った攻撃能力を上回られた。
一人であれば、強引に抜け出ることも出来ただろう。しかし、桜を抱えたままそんな真似をしてみれば。撃ち漏らした蟲が、容赦なく彼女を食い殺すだろう。完全に手詰まりだ。
「ああ、くそったれ! それが目的かよ!」
間桐桜は、魔力供給源としては優秀でも、マスターとしては三流だ。魔術支援が不可能で、令呪も使用不能。戦場に連れて行けば、確実に足手まといになる。
だから、奴らはこう思ったはずだ。アーチャーは単独行動スキルがある。今マスターを殺した所で、他のより優秀なマスターと組まれては、より厄介になってしまう。ならば、足手まといになるマスターをわざと残し、サーヴァントの元へ向かわせてやれば。即座にマスターを殺すほど非情で無ければ、りっぱな枷になってくれるだろう、と。
全く持ってその通りだ。俺は、何が何でも絶対に桜を見捨てられない。少し前までならばともかく。もう、ただの魔力供給源だなんて、そんなふうに彼女を見られないのだ。
「ごめん……なさい。ごめ……」
「大丈夫だ、何も心配いらない。謝る必要も、理由も無い。大丈夫だ」
確証のない言葉。刻一刻と削られていく魔力。気休めで誤魔化すにも、限界が近い。
状況を打破するならば、外の変化に期待するしか無いのに。その期待は、どう考えても勝算の低いものだった。
いざとなれば、せめて、桜だけでも。自分が生き残る道筋を見失った俺は、ただ桜を守ったまま。終わりの時を、覚悟した。
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ライダーは駆け抜ける
とりあえず家の中に入る。玄関から入り込んで段差を上り――そう言えばこの国は、家では靴を脱ぐのだったか、そんなことを思い出したが、結局そのまま上がり込んだ。どうでもいい事だった。
そして、玄関から居間までの短い廊下で、アイリスフィールは立ち尽くした。こんな短時間で、足の疲労が取れるわけが無い。魔術を使っても。座り込んでしまえば、実際楽なのだろう。それでもアイリスフィールは、意地を張るかのように立ち尽くしてた。立ち尽くして、家の中でも冬の夜空でもないどこかを見る。
ふと、横を向いてみた。何の変哲も無い、普通の武家屋敷。彼女にこの国の普通がどのようなものか分からなかったが、切嗣が普通と言ったのだ、まあ、普通なのだろう。普通である家の中には、普通で無く何も無い。当然だ。元々長く身を置く予定の無かったここに、たくさんの荷物があるわけも無い。最低限の荷物ですら、一カ所にまとめてあり、今は視界に入っていない。つまり、大ざっぱに掃除だけされて小綺麗なだけの、あとは何も無い殺風景な景色。
こんな……こんな、生活感の欠片も無い場所でも、切嗣が帰る場所なのだ。誰もいなくなった、ただ一人の寄る辺。娘を差し置いてまで、アイリスフィールが帰る場所。
「さーて、切嗣が帰ってくる前に、料理でも作っちゃおうかしら!」
出来もしないことを、大きく言った。腕前がどうこう以前に、材料すら無い。近辺に、こんな時間までやっている店もない。
わざとらしく、振り上げた手。それの下ろし方も忘れた彼女は、腕を上げたまま、顔を言葉に相応しく変化させたまま、どうしていいか分からなくなった。
そんなことをして、どんな意味があると言うのだろう。
切嗣を迎え入れるために。日本らしく、風呂でも入れておくのか。晩酌の用意でもするか。笑顔で迎え入れれば、それらしくなるかもしれない。あるいは、他の何かか。探せばどこかに転がっているかも知れない、何かを探してみる。それが有意義が無意義かはともかく、悩んでいる間、時間だけはつぶせるだろう。
だから、それでどうなると言うのだ? ただ、そんな無意味なことをして、待っていろと言うのか?
命を賭けにいった夫。共に命を賭けると誓った自分。そして、一人置き去りになったイリヤスフィール。
腕が、勝手に下りていた。せめていつも通りの表情だけは維持しようとして、えもいわれぬ無様な表情になる。顔が熱い。もしかしたら、泣いているのかも知れない。それでも、俯くことだけはできなかった。それをしてしまえば、敗北を認めたようで、動けなくなってしまいそうで、許せない。無意味な精神論。無意義な主張。それでも、今だけは意味があると信じる。
切嗣に言われるままに、こんな所で佇んでいる自分。何がしたいのかも、何ができるのかも、まるで分からない。
手をぐっと握ってみた。しっかりと力が入る腕。キャスターが脱落した時のような、脱力感は全く感じられない。かわりに、心臓が痛み出したが、そんな事は知ったことか。とにかく、力は入る。
(なんで……私は……)
痛む胸など、どうでもいい。重たい足も、考慮の必要は無い。もしかしたら、まだそれなりに残っている魔力すら、関係ないかもしれない。
結局の所、それらを動かすのは、意思でしかないのだから。
(あんなにあっさり……諦めてしまったの!)
心の中で、絶叫した。
もっと食らいつけば良かったのだ。そして、一緒に付いていけばよかった。そうすれば、盾くらいにはなれたはずだ。少なくとも、こんな所でただ待っているだけなのよりは、よほどいい。
決めたのだ。アイリスフィール・フォン・アインツベルンの人生は、衛宮切嗣に捧げたのだと。
どれほど小難しく考えようと、選択肢はたったの二つしかない。理屈は、必要ない。考慮も思慮も、そんなものは全て、後から追いつかせれば良い。今必要なのは、択一の答え。つまりは、行くか行かないか。
彼女は、足を踏み出した。家の中だろうと関係ない、力強く床を蹴る。廊下から直接外に飛び出して、市民会館まで全力で走り始めた。足は限界を超え始め、心臓の鼓動が遙かに増す。どちらも限界を超えて二度と使い物にならなくなるかも知れないが、知ったことか。道だって選ぶ余裕など無く、人の多さなど無視して全力疾走。夜中に町中を走る回る外人として、都市伝説にでもなるかもしれない。その程度で追いつけるのであれば、構いはしない。
何がしたいのか、何ができるのか。やはり答えは出てこない。足手まといにならない保証も無い。それでも、動かなければ何も変わらない!
口の上手くない切嗣が、やはり口では言わず、その生き様で言った事。人の人生は、なるようにしかならない。そして、そのなるようには、いつでも自分以外の誰かの積み重ね。連続した、巨大な積み重ねが生み出す理不尽。それを何とかするならば、やはり誰かがやらなければならない。
そして、誰かが必要ならば、それは己がやるのだ。例え自分がどうなっても。
彼はそうだった。いつでも、そして今でも。ならば、その妻であるアイリスフィールも、そうでなければならない。
(ごめんなさい、イリヤ)
胸に思い浮かべたのは、雪に包まれた愛娘の笑顔。
娘の事を考えれば、何がなんでも生きるべきだったのかも知れない。けど、やはり駄目だった。切嗣から教えられた人生というのは、そうではないのだ。
誰かの為の人生。自分の無い生き方。見返りのない行動。もしかしたらそれは、悪徳であるかもしれず、愚かしいかも知れない。怒りを示す者が居れば、指を指して笑う者も居るだろう。しかし、切嗣はいつでも、そういうただの人間の為に、戦い続けてきたのだ。他の誰が否定しても、彼女だけは肯定し続ける。
愚かしく、無様な生き方。矛盾と綻びだらけの人生。それでも、それが輝いていないなどとは、全く思わない。
彼の様には生きられないし、生きるつもりもない。ただ、誰よりも近くにいたいだけ。ただの、一人の女としてのわがまま。だから、それだけでいい。
近づいていく、人の絶望と悪意が集う場所。切嗣の居る場所は、いつもそこにある。
闇だ。
あるいは、黒と言い換えてもいい。とにかく、周りを見回した時に連想する、そんなもの。
それは、光無くして存在し得るのかと、ふと考える。まあ、常識や科学的にどうなのかは知らないが、存在するのだろう。闇は闇だけで完結できる。逆に、光はどうなのだろう。なんとなくだが、光は闇なくしては存在できない気がした。正確には、成立しない、であろうが。恐ろしく不平等な、対等関係。
そんなところに居れば、もしかしたら手を伸ばしたところで、何にも触れられない気さえしてくる。実際は、当然そんなことは無い。腕の中には、確かな暖かさがあったし、少し手を伸ばせば、不愉快に蠢く虫に触れているだろう。いや、そもそも宝具に囲まれていて、満足に体を動かすスペースすら存在しない。
宝具の攻撃で数を減らし、それ以上の早さで増えて居るであろう蟲。魔力を吸い尽くされては収納される防御用宝具。展開は一瞬でも、再度魔力を注入するには、それだけ時間がかかる。武器のように、吹き飛ばせばはい終わりで無いだけ、回転が悪い。もしかしたら、魔力が尽きる前に使える宝具がなくなるかも。そんな心配すら出てくる。
どれほど虫を吹き飛ばしたところで、光は見えない。それは、決して今が夜だというだけの問題ではないのだろう。攻撃された先から、すぐに蟲で埋める。隙間など作らず。
完全な闇。五感の内一つを奪われたところで、何が変わるわけでもないようだ。強がりを交えながら、俺はそんな事を考えた。
実際、いずれ来る破滅を自覚していようと、一度均衡が取れてしまえば、余裕は生まれる。それが、光と闇のような、不平等な対等関係でも。
足下以外の全方位が、濃い魔力とサーヴァントの気配で包まれている。これでは外の様子も分からない。加えて、たまに守りを抜けてくる蟲から桜を守るため、余裕はあっても暇ではない。希ながら体を抉られつつも、こうしてされるがままになる事しかできなかった。
左腕が、肩の根元辺りから千切れかけている。上から桜に降るものは、全て肩で弾いていたからだ。最初は恐ろしく痛かったが、今はもう麻痺し始めていた。痛みは感じる、が、思考できない程では無い。それは、逆に危険であるのだろうが……それも、ここで考えて、あまり意味は無いように思えた。
どうせ、先のあるなしなど分からないのだ。
とにかく、闇だ。黒でも、まぶたの裏でも、呼び方は何でも良い。区切られた視覚に裂いていた分の容量は、思考に割り振られた。こんな時くらい、集中力に割り振られてもいいようなものだが。
俺はあまり上手く眠れないタイプだった。と言うのも、寝ようとした時から、余計な事を考えるタイプだったから。今は丁度、そんな状況である。
自覚して思考しないとき、おおよそ浮かぶのは、その状況に意味の無い事だろう。ただふと思い浮かんだことが、有用であるのならば、それはきっと誇って良い。
闇の中にうっすらと、月光に照らし出された蜃気楼のように浮かぶ。昔の、かつての光景。
俺はうんざりとしながら、手に持ったナイフで蟲を払い落とし、刺し殺す。どろりと水に溶けたようなものが、ナイフの魔力を根こそぎ奪っていった。呪いの泥が地面に零れるのとほぼ同時、ナイフが送還される。新しい武器を取り出して、構えた。見えないのでそれが何だかはよく分からないが、まあ、突き刺せるものであれば何でも良い。今手に持っていたものも、便宜上ナイフと言っていただけで、刃がついていたかどうかも分からないのだ。
思い浮かんだものは、決して見たいものではなかった。蟲を殺した感触と、どちらがマシかと一瞬考えてしまう程に。
俺の名前はギルガメッシュだ。伝説を紡いだ当人ではなくとも、肉体がそうである以上、そう名乗るしか無い。それ以外を名乗ったところで、俺はそれ以外になれず、ましてや以前に戻ることなどできないのだから。
もし戻れるのであれば、どんなに気が楽だったか。
俺は英雄では無い。当然だ。英霊でも無い。これも、当然だ。ただの普通の人間で、何かの拍子に不相応な力を手に入れた、卑賤な存在。
どこでも誰しもがそうであるように、普通に生きていた。あたりまえに家族がいて、友人がいた。目的もなく何となく未来に必要だからと学校に通い、進学していき、そこそこ勉強してそこそこの学歴を得て。将来も、国民の九割がそうするように、なんとなく就職する。幾度か転職を繰り返すかも知れないし、ずっと同じ会社に居続けるかも知れない。目立つイベントと言えばそれと、あとは結婚に子供くらいか。当然、そこまで行くのに、極めて個人的な思い入れと言うのはあるだろう。だが、それだけ。人に自慢するようなものではない、ただの思い出。
人はだれでも、夢を空想する。具体的なものではない、指針ですら無い。例えば、ヒーローになりたいだとか、お姫様になりたいだとか。医者やパイロットになりたいだとかでも、具体的な道筋を調べすらしなければ、程度は変わらない。そこに至るまで、もしくは至ってから七難八苦あり、それを乗り越える自分なんてものを空想するだろう。そして、おおよそ夢というのは、現実する事など誰も望んでなどいない。
波瀾万丈な人生を、誰が求めるというのか。
年を重ねるごとに分かる、安定という言葉の価値。安定した就職、安定した給料、安定した家庭。それはつまり、平穏という事だ。人生にドラマなど、あって楽しいものではない。とりわけ今の時代は、他人のドラマを娯楽として、いくらでも得られる。フィクションで――対岸から眺めるだけで満足できるし、満足しなければならない。
苦などいらない、楽だけ欲しい。達成感も、安全と安定あっての物種。右にならうというのは、つまり皆が同じ、普通という事。何か問題が出てきても、それの解決方法は出そろっているのだ。問題の解消だって、右に習える。
普通を放棄し、苦を自ら背負う、もしくは背負わされる。どちらであっても、必ず生まれるのは後悔だ。そして、それらの行き着く先は二者択一。つまり、のたれ死にか、英雄か。
イスカンダル王は、制覇をなし得なかった。
アーサー王は、国を救えなかった。
ディルムッド・オディナは、忠義を貫けなかった。
ハサン・サッバーハは、完全なる個体になれなかった。
サー・ランスロットは、苦悩を捨てられなかった。
ジル・ド・レェは、理不尽を呪った。
英雄で無いものなど誰も居なく、後悔を抱えない者もいない。しかし、誰かや何かの為に、命を賭けたヒーロー。
俺は、そんな風にはなれない。
自分の命が一番なのだ。誰かの為に、労力を裂く事くらいはあるだろう。しかし、それはあくまで余力、自分の平穏を乱さぬ範囲での話だ。自分に咎があれば、多少の危険があっても、その分の義務を果たそうと思える。そうでもないなら見向きもしない、ただの小市民。卑怯ではあるのだろう。しかし、その卑怯を罵れる一般人が居るはずがない。なぜならば、それはもう一般人ではなく、英雄だ。
なのに、なぜ俺は、ここまでして桜を守っているのだろう。
都合が良いだけの存在だったはずだ。人形のような少女で、機械的に魔力を供給してくれる。俺が俺の方針で、好きに動けるからマスターにした。その程度の基準で選んだはずの、相手。そして、下心を言ってしまうのであれば。
――いざという時に切り捨てられる、感情が無いならば、それで胸を痛めることが無い。
当初の方針通りに、ここで桜を見捨ててしまえば良い。令呪だけを奪って、俺だけがここから出るのならば、難しくとも不可能ではない。あとは、令呪を持って、ソラウあたりとでも契約。ダメージはあっても、戦闘能力はさほど減らないのだから、距離にだけ気をつけて戦線復帰する。
それが、一番効率的な筈だ。正しい、筈だ。なのに……いつからだろう、それができなくなったのは。
「大丈夫だ、何も問題なんてない」
胸元で、震えを小さくしている体を確認する。言葉は、届いているか分からない。うるさく虫が蠢く中で、それはすぐに消えてしまっただろう。
それなのに、桜は服を握って答えた。無責任な単語の羅列に、信頼が返される。もしかしたら俺は、彼女の心すら裏切っているというのに。何で、そんなに信じるんだ。俺は英雄じゃ無い。誰かの為に命なんてかけない。ただの、普通の人間でしかないのに。命を預けても、それに答えられるような存在は別だというのに。
誰かが危険だからと言って、ナイフを突きつけ合う人間の間に、誰が割り込んでいくと言うのだ。
何度も、強く自分に言い聞かせる。負い目があるからと言って、俺が命を賭ける義理まである筈が無い。ましてや、たった数日一緒に暮らしただけの子供のために。
やる事は簡単だ。まず左腕を離し、宝具を一方向に集中。防御用の宝具は最小限でいい。ほんの一秒持てば良いのだから。穴が開いたら、そこに体をねじ込んで一気に脱出。多少体を喰われても、所詮は魔力で作られたもの。魔力と時間さえあれば、いくらでも回復できる。簡単な仕事だ。
さあ、速くしろ。まずは手を解放するんだ。力を抜くだけなんだから、簡単だろう。強く念じる。何度も何度も、自分の命を助ける為に。
誰だって自分がかわいい! 人のためになんて命をかけられない! 俺が俺を助けるために動く事に、悪いことがあるものか! だから、手を――
それでも、力は抜けてくれなかった……
目に見えずとも、体はしっかりと桜の存在を確かめ続ける。じわりと染みるような暖かさ。まだ僅かに震えている体。どれも、彼女が確かにそこに存在し、生きている事を教えてくれている。
この子を、見殺しにするのか? 自分が自分に問うてきた。
頷いてしまえば良い。そうすれば、少なくとも俺は助かる、のに。
気付けば、全身が緊張していた。蟲の対処が散漫になるほどに、体の動きが鈍い。それに反するように、腕は桜をしっかりと抱きしめていた。無様な自分に、ただ悔しさばかりがこみ上げる。その悔しさが、何に向けられているのか――桜を見捨てられないことか、それとも桜を見捨てることを考えている事か。
脳裏にちらつく影。やめろ、そう絶叫したくなった。
それらは、何でもない者達だった。家族や、友人や、近所の人や、学校の知り合いや、そんな人たちばかり。もう会うことができない、顔を合わせることができない人。それがどうだと言う訳ではない。ただ、もう顔を見ることができないと言うだけ。
移ろう風景はさらに続いた。見たことが無い場所、見たことの無い人波、見たことが無い親友。現代ですらない、誰かの記憶。それを見て、俺が何かを思うことなどない。ただ、そこから伝わる感情だけは自分のもののように浮かんできた。羨望、憧憬、望郷、苦難、絶望、感動、そしてやはり、後悔。
やめてくれ、なくしてしまったものの事なんて、もういいだろう。取り返しの付かないものを置き去りにして、普通の人生を歩もうとしているんだ。一度失ったことで、今まであったなんでもないもの、なんでもない人が、どれだけ貴重であったか知ったんだ。だから、お願いだよ。忘れさせてくれ、なんて言わない。ただ、そっとしておいて欲しい。
それなのに、最後に浮かんだのは。
少女だ。どこにでもいそうな、肩口くらいで髪を切りそろえた。ただ、笑った顔をどうしても思い出せない、間桐桜。
まだ、失っていない人。
死とは喪失だ。喪失とはつまり、置き去りにされる事、そして置き去りにする事。変えようが無い事実。ただの、過去。それを知っておきながら、本当に桜を過去にできるとでも言うのか?
それに、思ってしまたのだ。
憑依でも転生でも、他の何かでも、言い方は何でもいい。とにかく俺は、この世界のこの場所に、俺以外の俺としてそこに居た。誰に望まれた訳でも無く、俺だけがそう決めて。
やり直せる筈だった。聖杯戦争さえ終わってしまえば、憂いを断ち切って。俺はこの世界で、ただの一個人として生きる。少々目立ちはするだろうが、それも些細な問題だ。聖杯戦争などという悪夢など、早々に過去にして、何も無かったかのように生きられた筈。なのに。
最初は、彼女に罪悪感が湧いた。非道を誤魔化すようにした優しさは、ただ自分を慰めるためだけだったのだろう。どうすれば彼女に報いられるだろうか、そう考える内に、彼女が占める割合が多くなっていった。いつしか、家という安らげる場所で、隣にいるのが当たり前になって。
家族だと、思ってしまったのだ。
死は怖い。とても怖い。あの無限の喪失をまた味わうのが、怖くない訳がない。英霊が後悔するのなんて、当たり前だ。だって、死んだのだ。全て失ったのだ! 何も、手元には残っていないのだから!
誰でもなくなった俺。ギルガメッシュではない。当然、元の俺でも無い。誰も知らない、放っておけばただの数日で、また消えるだけの存在。でも、桜は知ったのだ。誰でも無い誰かじゃ無い、ギルガメッシュになってしまった俺を、彼女だけは、知ったのだ。他の誰でも無く、誰かでも無く。俺を。
他人だったらいくらでも見殺しに出来る。俺が知らない、俺を知らない誰かの為になんて、命を賭けられない。テレビでニュースを眺めているのと、どれほどの差がある。登場人物なんて、所詮知っているだけの存在。そんなものは、便利ではあっても、身近でもなんでもない。
でも、家族だけは、見捨てられない。死ぬのが怖い、でも俺が知る人を失うのは、同じくらい怖い。それは喪失だ。
死ぬのが怖い。家族を失うのも怖い。どちらも怖い。だから、何も選べない。
ああ――やっと、悔しさの正体が分かった。俺は決断ができないのだ。英霊が、当然のように行っている事を。
セイバーは、見捨てる決断が出来る。
ライダーは、見捨てない決断が出来る。
俺は、そのどちらもできない。決めかねて、優柔不断に、ふらふらとしているだけ。
元々、ただの一般人なのだ。出来なくて当然……そんな言葉を言い訳にして、どれほど価値がある。英雄だろうが、そうでなかろうが、選択は迫られると言うのに。
緩慢に、しかし確実に死に向かう中。どうしても、この世界で得た初めてのぬくもりを手放せなくて。
他のサーヴァントの助けだって、期待できない。俺たちの同盟関係は、利害の一致あってこそだった。俺を助けるメリットが、デメリットを超えれば助けは来ないだろう。いや、それ以前に、彼らが英雄だからこそ、助けるべき人間を間違えない。ランサーが、マスターの元に走ったように。
ああ、そう言えば。もう一つだけ、選択肢があったな、と思い出す。
ひたすら無意味なもの。このまま何も出来ずに、死を恐れながら縮こまるだけで、最後の時を待つ、というものが。ただの一般人のように、それらしく、何も出来ずにのたれ死に。
それは、酷く俺らしい死に方なのだろう。自虐的に笑った。
はっきりと理解できる、俺という存在の終わり。
欠損した体の部位から、魔力が流れ失われていくのが自覚できる。自分自身が、体の内側から薄まっていく感覚。それは、桜から供給される魔力の量を上回っている。それが分かってしまえば、諦めきれずとも、悟ってはしまうのだ。
全英霊中最強と言われている、ギルガメッシュのスペックを持っていても。扱うのが俺では、所詮この程度か。せめて、終わりの時は苦しまないように、そんな事を願いながら。俺は、桜を抱く腕の力を緩めた。
「……アーチャー?」
不思議そうに、囁く声が聞こえる。雰囲気で、俺を見上げたのが分かった。
俺が抜いた力に比例するように、桜が鎧の隙間から掴む服が引っ張られる。
「ねえ……アーチャー……いや……」
それが、悲鳴に聞こえたのは願望だろうか。もしかしたら、その程度には好かれて居るのかも知れないという。
彼女の声に、俺は応える事ができなかった。代わりに、さらに力を緩める。本当に薄まっているのは、体か、それとも意識なのか。
「やめて……いかないで……」
何度も服を引っ張り、反応を求める桜。しかし、今更彼女に、どんな言葉を返せばいいというのか。
報いたい、などと格好つけて言っておきながら、結局は何も出来ていない。おもちゃを与えて、彼女の為になったつもりにでもなっていたのだろうか。本当に求めているものは、そんな事で無いと知りながら。心を失った少女に必要だったのは、ごく普通の家庭にあるような、何でもないぬくもり。しょっちゅう家を空けていた俺が、与えられている筈がないもの。ましてや、彼女との接触が割れ物に触れるようではなおさら。
心残りがあるとすれば。彼女を助けられなかった事だ。見捨てることすら考慮しておきながら、今更偽善すらならない。
最後まで泣かせてしまった桜の頭を、そっと撫でる。
「やめて……やめてぇ……行かないで……お願いだから……一緒にいて……!」
それは、奇跡であった――
声は、悲鳴でしかなく。そして、悲鳴以外の何者でもなかった。そう、それは『悲しみ』という感情の籠もったものだったのだ。
光が届くはずの無い場所で、一瞬だけ輝くものがある。体の左下、腰の辺り。正確に言えば、桜が握っている、右手の甲にある――令呪。
ありえない事だ。令呪の使用に必要なのは、火付けとなる魔力よりも、まず意思なのだ。思いこそが、何よりも力になる。思いを魔力という力に乗せるのが、令呪の仕組みである。ならば、まずは強靱な――普通の人並みの――意思がなければ、それは令呪の機能たり得ない。
ならば、これは何だと言うのだ。体には力が溢れている。欠損箇所から漏れる魔力も、一時的にだろうが止まっていた。勢いを失いかけていた宝具達が、また勢いを取り戻す。先ほどまで以上にだ。
桜が受けた心の傷は、たった数日で治療出来るほど浅いわけが無い。ならば、これは――俺のために絞り出してくれた感情に他ならない。何よりも、意思を失っていた少女が俺を思って。
失い駆けていた腕、その力を強く入れ直した。桜の小さな体を、もう放さぬように力強く。
「何を……諦めかけてんだ俺は!」
暗闇の中、全力で吠える。蟲の壁を突き破って、外にまで響きそうな程全力で。
そう、忘れかけていた事。俺は死ぬのがとても怖くて、同時に人生をやり直したくて、ただの日常の続きが欲しくて。そのために、やりたくも無い戦争なんてしてきたのだ。使い慣れない頭を捻って、やりたくない事をたくさんやって、ここまで来られた。今更、ちょっと天敵の蟲に囲まれた程度で諦める? 冗談じゃない! それで本当に諦めきれるなら、ここまで来ちゃいない!
しかもだ。令呪を発動させられるほどの意思を、桜が見せてくれた。家族がここまで頑張っていながら、俺が先に諦めるなど、絶対にできない。
俺は英雄じゃない。でも、英雄の様になろうとならばできる。
桜を胸元にしっかり抱えて、強く足を踏み込んだ。それに意味はなかったかも知れないが、しかし身を屈めたのには意味がある。隙間を埋めようと、僅かに綻ぶ蟲の大岩。それはつまり、包囲が僅かに薄くなった、という事だ。例え、それが数センチなくとも。
「行くぞ桜」
「……はい」
俺の言葉に、力強くはなくとも、しっかり言葉が返ってくる。それに、俺は笑った。
いままでは無理であった方法。しかし令呪のバックアップが効いている今であれば、無茶ができる。例えば、宝具の展開量を一時的に倍加して、桜を傷つけさせずに外にでるという事が。
防御用宝具の最大展開。大部分を正面に回し、背後には申し訳程度。それこそ、3秒あれば食いつぶされて、蟲が雪崩を打ってくるような。もう守る気はないという意思表示。進行方向、体一つ分の小さな空間に、王の財宝の最大展開。隙間を埋め尽くすように、刃の先端が覗いている。
背後の宝具が食い破られる、一瞬前。地面にクレーターを作るほどの強烈な蹴りが、体を前に突き出した。
飛んだ瞬間か、その手前だったのか。ふと、俺はなぜか背後を押された気がした。ただ、それに害意があるとはとても思えなくて。背後を見る。
そこには、誰かがいた。暗闇の中に、はっきりと映る人影。金髪の、赤目の、まがい物の俺とは違う、本物の王者の風格を持った、青年が。恐ろしく不機嫌そうな顔が、とても印象的で。左手だけは組むようにして、右手を突き出している。俺を見て、やはり不機嫌そうな表情で、あざ笑うように鼻を鳴らした。それっきり反転し、蟲に触れるより速く消える。
それが誰だったかなんて、分からない。そもそも、俺の妄想だったという可能性が一番高いのだ。それでも、俺がそれを事実だったと認めるくらいは、きっと許される。もう居ない青年に対して、笑顔だけを返し。あとは、背後を見るのはやめにした。もう前だけ見ようと、決めたのだから。
数十という宝具の一点集中に、ひとたまりも無く吹き飛ぶ蟲。突き破られた穴から、初めて外の光が見えた。閉じようとする蟲を、さらに大量の宝具で吹き飛ばす。開いた隙間を防御用宝具で無理矢理こじ開けるのは、簡単な話では無い。触れただけで魔力を吸収する蟲、それに連続して触れれば、枯渇はすぐ。いくら宝具とは言え、力を奪われては満遍なく防御するというのは不可能だ。削りきれない蟲が、体当たりをするように、俺たちに降ってくる。
降ってくる蟲の量は、内側に閉じ込められていた時の比ではない。耐久力の高い鎧ですら、すぐに効力を失って。ついに、俺の左腕が体から切り離された。
闇しか無い洞窟の中に落ちていく、ただのエーテル塊になったパーツ。蘇った苦痛も喪失も感じる、が、問題は無い。右腕さえあれば、桜を抱えているのに支障はないのだ。
体に積み重なるダメージ。急に、右目が見えなくなった。降ってきた蟲がたまたま触れて、分解されたのだろう。桜を助けられるならば、右目くらいくれてやる。
外の星光が目前に迫ったところで、勢いが急激に衰えた。最初に稼いだ勢いは、蟲の圧力で予想以上に削られている。このままでは、脱出しきる前に、止まってしまう。
これで終わってなどやるものか! 桜は俺を信じて、摩耗しきった感情を露わにすらしたのだ。それを受け取った俺が、この程度の窮地で負けて良い筈が無い。足を大きく持ち上げた。そんなことをしても、踏み台になる大地は無い。だが、なければ作ってしまえば良いのだ。
正面に展開する筈だった宝具の一つを、足下に置く。それは空中で踏み台になるほど質量があるものではないが、半ば王の財宝に埋まっていれば話は別だ。足に引っかけたそれは、多少頼りなくとも、十分な感触。一気に踏み出して、足場が転げ落ちていく感触を感じた。代わりに、俺たちは蟲を頭ながらもそれを突破し――ついに、周囲に何も無い、空へと出られたのだ。
時間にして、数分。少なくとも、数十分は経過していない、短時間と言っていい合間。しかし、体感的には一年にすら感じた、怨念と呪いの澱に閉じ込められていた俺たち。着地し、踏みしめた地面すら新鮮に感じた。
脱出したとは言え、高さ百メートルに届こうかという蟲山は健在なのだ。気を抜かず疾走を始め、同時に宝具で向かってくるものを吹き飛ばす。
つまらないことを考えた、と思い返す。きっと、周囲を満たしていたアンリマユの空気にあてられたのだ。だから、俺はあんなに死を意識し、みっともない事を思考していたのだ。それが事実かどうか、考えたくも無いが。少なくとも、言い訳にするには丁度良く、上等なものだと思える。
情けなく、下らなく、つまらない自分。しかし、それでいい。それが『人間』というものなのだから。きっと、俺はどれだけ望んでも、英雄にはなれないだろう。でも、それでもいい。誰もが思い描くような英雄になれずとも、俺の家族の――桜の英雄にさえなれればいいのだ。ただの、『人間』なのだから。
俺は後退し終えて、桜を下ろした。令呪のバックアップは、もう切れている。ダメージの分だけ、宝具の展開量が減っていた。それは、決して無視できる量ではない。少なくとも、もう飛行用宝具に割り当てられる魔力はないだろう。
事態は五分にすら戻っていない。それでも、もう負ける気だけはせず。ただ、桜との確かな繋がりだけを感じていた。
まずい、そう声を上げる余裕すらなくして、ライダーは空から地上を見下ろしていた。
眼下にあるのは、高さも幅も数十メートルあろうかと言うほどの、巨大な岩。否、それは無機物などでは無い。時折形を変える様子が、それが生物だと教えていたし、見る者へ与える醜悪な印象が、まともな物質で無い事を伝えている。
それは、つい数秒前までは存在しなかったものだ。突如現れた、アーチャーのマスター。それを餌にして、蟲の群れが包み込んだもの。言わば、最大火力を持つサーヴァントを殺すための牢獄であった。
体勢を崩して転がっていたウェイバーが、体を起こす。そして、ライダーと同じように見下ろした。胸元につり下げていた双眼鏡を持とうとして、しかし手を淵へと戻した。下方どれほども離れていない方向にある、ビルよりも遙かに大きい物体。そんなものを見下ろすのに、双眼鏡など必要ない。
定位置で空しく揺れる双眼鏡、それに気づきすらせず、ウェイバーは言った。
「あれって、アーチャーだよな……」
唖然とした様子で、無意味な問いをするウェイバー。しかし、ライダーにはその気持ちが、とても良く分かった。それほど、ばかげた光景なのだ。
最大でも、数センチほどの矮小な蟲。それが、山を作るほどの数など、もういくつだと数を数えるのも馬鹿馬鹿しい。つい先ほどまで、南部に存在した全ての蟲。それを集めたところで、これに比べれば半分にも満たないだろう。
「生きて、いるんだよな?」
「でなければ、奴らはとっくに拡散しているだろうよ」
標的が居ないのであれば、そこに集中している理由は無い。とっとと食い荒らしに行くなりしてしまえば良いのだ。この場合、ライダーを気にする必要はなかった。なぜならば、あの蟲達にとって、最も問題にならないサーヴァントがライダーなのだから。
マスターを利用して、アーチャーを引きずり下ろす。それと同時に最大物量で、奴をマスターごと封じる。シンプルだが、アーチャーがマスターを大事にしていればしているほど、有効な手段だった。それは同時に、アーチャーを最強のサーヴァントと認めた上での戦略なのだろう。
ぎりぃっ、と強く歯を噛んだ。少なくとも、間桐臓硯か言峰綺礼にとって、ライダーの優先順位はアーチャーやランサーに劣るのだ。それを、まざまざと見せつけられている。
しかし、今はその屈辱も飲み込まねばならない。
「自力での脱出は無理なのか? 例えば、大火力の宝具とかで……」
「無理だな。坊主には分からん感覚だろうが、宝具の真名発動とは魔力も集中力も、恐ろしく気を遣わねばならん。ただでさえ、全方位に宝具を展開し、マスターを守っているのであろう。その上で、大火力の宝具など使ってみろ。あっと言う間に、防衛戦に穴が開くぞ」
ついでに言えば、と。ライダーは心の中だけで続け、下を見直した。人造の山は頻繁に蠢いており、大人しくなる様子を見せない。
アーチャーはマスターを守りながらも、大人しくせずに抵抗を続けている。それが、活路を見いだそうとしているのか、それともそうする必要があるのか、そこまでは分からないが。とにかく、大火力で攻撃され、蟲を消滅され続けている以上、あのように動き続ける必要はあるのだろう。
そもそも、真名発動できる宝具を他に持っているかも分からない。もしかしたら、単発型の使い切り宝具を持っているかも知れないが。だとして、アーチャーは所詮所持者であり、使い手ではない。調整のできない宝具を切羽詰まった状況で使ったところで、待っているのは自滅だ。あの慎重な男が、そんな真似をするとは思えなかった。脱出口を作ったところで、後ろから喰われましたでは話にならない。
「固有結界で蟲だけを持って行って、アーチャーを救出するのはどうだ? あとは適当な所で、結界を解除すれば」
「それも無理だ。魔術師の固有結界ならばいざ知らず、余は所詮仮初めの使い手よ。どこに居るかも分からぬアーチャーを、器用に対象外にすることはできぬ」
「これもダメか……」
悔しげに、ウェイバーがうめいた。
アーチャーを救うために、アーチャーまで固有結界の中に封じてしまっては意味が無い。その隙に、街は思い切り食い荒らされるだろう。拡散されてしまっては手に負えない。
固有結果を展開し、アーチャーを救出してすぐに解除。そんな作戦も一瞬思い浮かんだが、すぐに破棄した。呼び出すサーヴァントは、当然蟲に相性が悪い。救出できる保証がないし、できたとして、ライダーまで消耗しきっては事態がさらに悪化する。ただでさえ、魔力量の少ないウェイバーがマスターなのだ。これで宝具を使ってしまっては、もう二度目が無い。それまで考慮しての作戦だったとしたら、恐ろしい限りだ。
彼もよく考えてはいたが、如何せん宝具について知らない事が多すぎる。使い手以外に分からないことばかりなのだから、仕方が無いのだろうが。
ほんの一瞬だけ、顎に手を置いて考え――すぐに、次の言葉を発する。
「そう言えば、聖杯に取り込まれた臓硯の本体はどこにいるか分かるか?」
「あっちだな」
と、一番サーヴァントの気配が濃い方向を指さした。そこは、アーチャーに群がるほどの数ではなくとも、大量の蟲がいる。そのほかの場所には、殆どと言っていいほど蟲はいなかった。
広範囲にわけて攪乱するのをやめて、集中攻撃を仕掛け始めたのだ。一カ所はアーチャーに、もう一カ所は臓硯本体への守りに。
「余の戦車で押しつぶすか?」
分厚い蟲の層を突き破るには、戦車ではほぼ不可能。可能性は低いが、ライダーの死と引き替えにすれば、臓硯を殲滅できるかもしれない。はっきり言ってしまえば、希望的観測以外の何物でもない。しかも、それですら。核である臓硯が蟲をこれ以上生産せず、位置も移動させない、という前提でのもの。
ただの独り言のつもりであったのだが。しかし、ウェイバーから回答があった。
「臓硯はあくまで、聖杯の泥を使いやすくするためのものでしかないと思う。言峰綺礼は、最低でも令呪の続く限り泥を操れるだろう。アーチャーを包んだ以上、今の形状が蟲であるっていうのは、逆に都合が良いよ。液体じゃあ、もっと防ぎづらい。これで、ライダーが戦闘不能になって、残ったのがランサーだけじゃ、それこそ賭けにならない」
今回の攻略には、二つの最重要攻略対象がある。一つは間桐臓硯であり、もう一つは言峰綺礼――正確に言えば、綺礼の持つ聖杯。この両方を撃破しなければ、最悪機能し続ける。
生存が絶望的であるセイバーを頼りにはできない。ならば、ライダーがアーチャーのどちらかを、最後まで宝具使用可能な状態で、生存させなければいけないのだ。
ライダーは拳で、自分の額を叩いた。ごすり、という音が脳に直接響く。
急ぐあまり、少々冷静さを欠いていたらしい。そこをしっかりと補ってくれるマスターなのだから、なんとも頼りになる。
「現状では『待ち』しか選べぬか」
「ああ……悔しいけど、相手の作戦に乗って、こっちまで消耗するわけにはいかない」
この鉄火場にあって、見ているだけしか出来ぬ事に。常に先端を走ってきた征服王イスカンダルが、悔いぬ訳がない。
「全てが計算通り、と言うわけでは無いだろうが……ここまでの采配、外道ながら見事だと言うより他あるまい」
気付けば、強く拳を叩き付けていたライダー。
彼とて、常に軍を率いていた身である。それは、軍略というスキルにも、反映されていた。アーチャーはともかく、セイバーも軍を率いていた身。彼女に軍略スキル無く、自分にあるというのは、それだけ自信の上乗せにもなった。言わば、自分の土俵と言っても良かったのだ。
それなのに、こうして容易く先手を取られ続けると言うのは。屈辱以外の何者でもない。
「気持ちは分かるけど、押さえてくれよライダー」
「分かっておるわ。堪えていれば必ず、もう一度我らに機会が巡ってくる。それまで、何としても耐えねば」
それでも、激情を抑えきるのは難しく。拳に籠もった力は、そのままだった。
実のところ、その落ち着きが無いとも取れる姿は、彼の本来の姿に近いのかも知れない。激高し、感情に身を任せても、それを冷静に諫める事が出来る者が近くにいる。それは同時に、ウェイバーをそれだけ信頼しているという事でもあった。マスターとサーヴァントという、この場限りの関係すら超えて。
「ん……? ライダー、あれを見てくれ」
蟲達が、多少飛べる事は知っている。だからこそ、万が一にも撃墜されぬよう、少々高度を高めに取っていた。そのため、ウェイバーが下を詳しく確認するには、双眼鏡を使うしか無い。二つのレンズから遙か下方を確認するウェイバーに、ライダーが続いた。
視力に優れたアーチャークラスには及ばずとも、双眼鏡程度には見える。
そこには、大荷物を背負った一人の男が、巧みに蟲を回避しながら走っていた。それも、災害の中心点へ。この厄災の地で、まさか野次馬ではあるまい。もしそうならば、それは危機感の足りないただの馬鹿だ。
「あれは、セイバーの仲間だったか?」
ライダーのぽつりとした呟きに、ウェイバーは首を傾げた。双眼鏡の倍率を上げて、男の顔をよく観察する。髪の収まりが悪い、という点以外に特徴が思い当たらない、ごく普通の男。当然、記憶に引っかかる人物も居なかった。
まあ、ライダーがそうだと言うならばそうなのだろう。悔しいが、注意力というものにおいて、ウェイバーは全く勝てる気がしていない。
なぜか、彼が一人でここに居る。あの厳格な王が、仲間一人を敵地に突入させるわけが無い。という事は、まず間違いなくセイバーは死んだのだろう。想定の範囲内であるが、同時に惜しい損失。しかし、それ以上に。彼が今ここに駆けつけているというのは、大きな意味がある。
「ライダー!」
「応とも! 転機がやってきたぞ!」
手綱を大きくふるって、戦車を一気に加速させた。今までの鬱憤を晴らすように、大きく雷が鳴る。ほんの一瞬空を照らすと、そのまま雷を道に変え、誰にも止められぬ閃光と化した。
高度を下げたことで、飛びかかってくる蟲。しかし、その数はまだ少なく、全て余波の雷で焼き尽くせる程度だ。
「アイツを回収するのか?」
「んな暇あるかい! 奴が真っ直ぐ進むというならば、その方向に道を作ってやるだけよ!」
いよいよ、男の前に回り込み。地面に下りたって、戦車を全速進行させる。蟲の数は空中などよりも遙かに多い。それもウェイバーが多少無理をして魔力供給すれば、なんとかなる。
無数の蟲を踏みつぶし、焼き殺し。かなりの区間、道を稼げただろう。しかし、それだけでは駄目だ。雷と踏みつぶしで対処できるギリギリ、それを違えずに、ライダーは見極めた。
戦車を持ち上げて、再び宙に浮かべる。ライダーを喰らうために集まっていた蟲は、飛んだ彼らを追おうと、地面で蠢いていた。このまま離れてしまっては、男の進路上に蟲を配置しただけで、邪魔にしかならないだろう。
であれば、これから最も重要な任務。つまり、集めてしまった蟲を引きつける、という仕事が待っていた。
「戦車が荒れるぞ! 頭を上げておけ!」
跳ねて、飛びかかってくる虫に対処するべく、ライダーは剣を引き抜く。雷撃網の処理能力を超え、くぐり抜けたそれらが、彼らに明確な殺意を持って牙を剥いた。
「ボクだって戦えない訳じゃない!」
ライダーと同じように、ウェイバーも魔術礼装を取り出す。一言で言ってしまえば、申し訳程度。ないよりはマシだという程度の装備である。聖杯戦争において、通じる相手を探す方が難しい、その程度のもの。しかし、小さく大量の敵を相手するならば、そんなものでも頼もしい。
接近する蟲を、ライダーが連続して切り伏せた。それは、正確ではあった。しかし、素早くは無い。いかに人知を超えているとは言え、蟲に対処するには、やはり遅いと言わざるをえなかった。
しかし、ライダーは一人では無い。魔術師として頼りなくとも、この上ない相棒が居る。一人で、全てをこなす必要は無いのだ。
ウェイバーは、外側から降りかかる蟲を、優先して落としていった。これは、単純にライダーに合わせるだけの技量が無かったからなのだが。しかし、それでも数を減らせば、十分に力になる。拙くありながらも確かな連携は、ついに御者台に一匹の蟲も、進入を許さなかった。
しかし、その代償に。神牛のダメージは決して小さくなく。体の至る所に抉られた後を残して、血で体を染めている。
(不味いな。戦車のダメージが大きすぎる)
冷や汗を垂らしながら、剣を大きく振るった。
動力源たる牛のダメージが嵩めば、速度高度共に削られていく。今ですら、徐々に速度が下がってしまっているのだ。このままでは、戦車を失ってしまう。
「ライダー左だ!」
その声に、ライダーは咄嗟に舵を切った。左に何があるかなど、確認は必要ない。彼の信頼するマスターがそう言ったのだから、そこに間違いがあるなど、寸分たりとも考えなかった。
遠心力に体を引っ張られながらも、足の力だけで踏ん張る。ウェイバーが振り落とされぬ事に集中する以上、蟲の対処はライダー一人でせねばならない。急な方向転換に敵への対処、二つの処理を同時に行い、意識が飛びそうになる。
一瞬にして目に映る景色が入れ替わる。殺風景な、毒蟲に生命力を食い荒らされた平原、それはかつて市民会館だった残骸へと移り変わった。
「そうか!」
ライダーは叫び、不適な笑いと共に、戦車の高度を上げた。
囮である以上、蟲の攻撃が届く距離にいなければならない。彼が再設定した高度は、蟲の攻撃能力を超えた場所、である筈だった。本来ならば。
「上手い手だぞ」
「ぅ……これなら、引きつけるのに最適だろ?」
遠心力に負けて、顔を青くしているウェイバー。口に手を当てて、吐き気を堪えながら言った。
平地であれば、蟲はどこからでも飛びかかり、攻撃を仕掛けられる。しかし、市民会館が崩壊した後の、高低差の激しい地形ならば。一度に飛びかかれる蟲も、その位置も、かなり制限される。今までよりも遙かに楽に、かつ堅実な囮役が可能だ。
ライダーの消耗は激しい。特に戦車の格となる雄牛はダメージが深く、能力にしてワンランク下以上下がっていると見ていいだろう。生物型の宝具というのは、普通の武器型宝具に比べて、ダメージの回復が遙かに早い。まあ、その長所の代わりに、防御力が著しく低いという欠点も持っているので、一長一短だが。とにかく、もう少し時間をおけば、ワンランク下くらいの能力にまで回復してくれるだろう。
能力低下と、ダメージと、蟲の襲撃数。これの釣り合いを完璧に取るのは、ライダーの役割だ。マスターが完璧に仕事をこなしたのだから、それくらいはしなければ、顔が立たない。
消耗の隙間を抜いて、雷の結界内に入ってくる蟲に剣を突き立てながら。ウェイバーが持ち上げようとした頭を、そっと押し戻してやった。
「ふらふらしておるではないか。少し休んどれ」
本当に、そっと赤子に触れる様な手つきで、額に触れただけなのだ。それにすら、抵抗できないほど消耗している。これは、戦車の無茶な機動の為だけでは無い。ただでさえ、魔力を吸収し、エーテル分解する蟲の中を突っ切ってきた。ライダーに供給する魔力だけを見ても、通常戦闘の軽く三倍は必要だったのだ。その上、蟲を払うために魔術行使までしている。ウェイバーの魔力は完全に底を尽き、僅かだが、魂すらも削って必要分を捻出していたのだ。
本当ならば、今すぐ倒れてもおかしくない。
「……お前だけに戦わせて、ボク一人のうのうと座ってられるか」
力の無い言葉が、ウェイバーから届く。それに、ライダーは笑った。
まるで別人だ。初めて会ったときの、甘さばかりが目立った彼と。ウェイバー・ベルベットは、現在進行形で進化している最中なのだ。時計塔の魔術師であり、得られぬ権利に、ただ不満ばかりを募らせた小僧。戦を前に強がりながら、その実全く覚悟が無かった子供。
子供以上になれていなかった男が、いつしか征服王の隣に座って戦略を論じる。その上、咄嗟の視野で言えば、ライダー以上な面すらある。
そして。今のウェイバーは、間違いなく戦士であった。英霊の隣に並んで、何ら恥ずかしくない。こんな人間がいるから、勇者を束ねる王というのは、やめられないのだ。これが、笑わずにいられようか。
しかし、まだ甘い。覚悟は決まっているが、勢いばかりが先行してしまっている。それを諫めるのも、また王の役割だ。
「ここは余一人で十分よ。こんなつまらぬ所で力を使うくらいならば、今はしっかり休め。そうすれば、多少なりとも魔力を回復できるであろう?」
「そりゃあ、ここら辺は聖杯の影響か、普通の場所よりもかなり魔力が多いけど。そんなもん、雀の涙にしかならないぞ」
「それで良い。魔力がいくらか回復すれば、疲労も取れるであろう? ならば、頭の冴えが戻るのも当然の帰結よ。まさか、これからも続く戦いに、鈍った頭で挑むつもりではあるまいな?」
挑発をするように、ライダー。
ウェイバーは一瞬むっとして、唇を折り曲げる。しかし、すぐに平常心へと戻った。
「ああ、オマエの言うとおりだよ、ちぇっ。確かに頭脳派のボクが、前線で戦うって言うのはらしくなかったさ。大人しく魔力回復してるよ」
「そうしておけ。ここは余一人で十分よ」
分かってはいても、やはり納得しきれないのか。あるいは、少しばかり反抗して見せたいのか。すねたようにウェイバーは言って、その後は大人しく座った。
一度体を休めてしまえば、後から抵抗するのは難しい。本人が思っていた以上に、深く座り込んでしまっていた。
疲労色の濃い表情を隠しているのは、乱れた髪。それをかき分けるように、ライダーは頭をがしがしと掻いた。
「うわっ、な、何だよ! 全く、子供扱いしやがって……」
(そんなつもりはないのだがな)
本当に。全く持って。
それが僅かであろうが何だろうが、ライダーはウェイバーを頼りにしている。能力に信頼を置く相手を、ライダーは子供扱いなどする気は無い。
しかし、訂正をする気はなかった。
ウェイバー・ベルベット。大器の片鱗を見せるが、その中身は未だ無色。いや、それどころか、器の形すら定まっていない。これからどんな器になり、どんな中身を納め、どれほどため込むのか。全てが未知数。確かに、今手を加えてやれば、その型を自分好みに変える事も出来るだろう。しかし、そのような無粋な真似はしたくない。器は、自分で作るからこそ面白いのだ。思い通りになるものが、当然のように思い通りの形になって、何が面白い。
――もう少しだけ、彼が進む先を見てみたい。
それを肴にするというのは、どんな宮廷料理にも勝る贅沢だ。
「く、くくくっ」
「な、何だよ。何を笑ってるんだよ」
「いや、ちょいと良いことがあってな」
訳が分からない、と疑問符を浮かばせるウェイバー。それでいい。彼の成長はあくまで自分だけのもの。彼自身が吸収するのならばともかく、外から影響を与えてはならない。
寂しい限りの魔力残量。これ以上の魔力供給を望むなら、令呪に頼るしかない。うまく魔力をやりくりするために、出力を一つ落とした。
戦車上面を覆う雷の幕が、一段下がる。戦車本体が消費する魔力は、ある程度使い回しが可能なのだが。雷撃は打ちっぱなしな上に、元から余波でしかない。蟲に有効な攻撃がそれしかないから、無理矢理強化していたのだが。効率はすこぶる悪いのだ。上面に跳ね飛んできたものだけでも剣で対処できるから、かなりの節約になる。
「さっきの男はもう行ったぞ」
少しは回復したのか、顔の青みが大分抜けたウェイバーが言った。
「どっちの方に向かった?」
十分に高度を取り、蟲が届かないのを確認して、ライダーは問うた。
「市民会館跡地の奥の方だ。あんまり移動していなかったらしい」
する必要がなかったのか、できない理由があるのか、それは分からないけど。そう言外に告げていた。
高さを稼ぐと、肉眼で追いつかなくなったのか。再び双眼鏡で戦場を確認し始めるウェイバー。こう暗い中で、どれほどの精度が見込めるのか、ライダーにはいまいち分からない。
「追いかけてみるのはどうだ? こう魔力が濃くて、しかもまばらな場所なら、魔術師が接近しても気付かれないと思うんだけど」
「無理だな。余がアサシンのクラスであれば、気配を断つ事もできたであろうが。それで逃げられてしまっては、本末転倒よ。大人しく、我らは我らの仕事をするぞ。丁度、ランサーの奴が復帰したようであるしのう」
大地を駆ける獣となって、地を跳ねながら。今までの様子とは比べものにならない苛烈さで、蟲の群れを割り裂く。その動きは、最速のサーヴァントだという点を考慮しても、限界を超えている。悲痛さすら見える、圧倒的な速度での制圧だった。
何かがあった――そう確信させるのに十分な動き。しかし、それを考慮している余裕など、どこにもない。
戦車を滑らせて、すぐにランサーから少し距離を離した位置まで寄る。接近しすぎれば、蟲と同じように両断されてしまう。そう思わせるほどに、彼の槍捌きは危険だ。
あたりに雷を撒き散らす。派手に響いた音は、確かにランサーに届いた。かつての美丈夫と同一人物だとは思えぬ、鋭い瞳。
狂った獣を飼い慣らすように、ライダーは大声を上げた。
「末端をいくら切ろうとも、奴らには痛くもかゆくもないわ! 落ち着くのだ、ランサーよ! 貴様の槍は冷静さを貫き、氷原のような鋭いものであっただろう! 煉獄のようなその槍、貴様の持ち味を殺しているぞ!」
ほんの一瞬だけ、ランサーの殺意がライダーへと向いた。その威圧たるや、余波だけでウェイバーが息を詰まらせるほど。
(こいつはダメか?)
ランサーの怒りは、その矛先を変えても、いささかも衰えない。それだけ我を忘れている。この状況で、ランサーの相手までしていられる訳が無く。いざとなれば、すぐに離脱するよう、手綱を強く握る。
しかし、離脱の準備が必要になる事はなかった。ランサーの瞳の感情は徐々に薄まり、やがて己を取り戻す。平静、とは言い難いが、直前の状態を考えれば十分だ。
「……すまん、迷惑をかけた」
「よい。今は聞くこともせん」
敵を目の前にして、脇目もふらずに撤退したランサー。そうしなければならないだけの事態など……碌なものである筈が無い。
重い音を立てて、ゆっくりと戦車を方向転換させる。位置は相変わらず空高くであり、ランサーに近づくような事はしなかった。宝具として機能する限界近くまで消耗している戦車が、下の激戦区などに行けば一瞬で破壊されてしまう。下で槍を降り続けるランサーに、声を張り上げた。
「ランサー、気付いておるか?」
「こいつらの核の事だな。分かるとも、この禍々しくも忌々しい、醜悪な気配が漂って来る」
視線ですら、射殺してみせる――そう言わんばかりの、殺意の刺突。それは正確に、もう一つの蟲溜まりを見ていた。
「単刀直入に聞く。貴様はあれを抜いて、本体を叩けるか?」
「俺だけで、というならば無理だ。不本意だが、早さで勝ろうとも、数で圧倒される。威力型の宝具で、半ばまで道を開かれれば話は別だ」
「つまり、余の戦車で道を開いてやれば、叩き潰す事も可能、という訳なのだが……」
言いながら、ランサーが蟲の山を見て、鼻を鳴らしていた。
それと殆ど同時に、虫の山が膨れ上がった。数が増えた、というのではない。一点に固まっていた蟲達が、一斉に広がったのだ。密度こそ下がっているが、しかし臓硯にたどり着くまでの距離は、倍以上だ。
あからさまな、ライダーの宝具対策。これで、ランサーが必殺を狙える距離まで近づけない。しかし、これは予想できた事であり、落胆は無い。物量という優位があったとは言え、それを上手く生かして先手をとり続けてきた相手だ。ここに至って、対策を取り間違えるなどという、都合が良い妄想はできない。
「そっちは何とかなるか?」
次にライダーが指さしたのは、前のそれより遙かに大きな山だった。
「向こうでも歯が立たないのに、明らかに三倍以上あるこっちが何とかなる訳がないだろう。いや、それ以前に、これはもしかして……」
「おう、アーチャーよ。マスターを人質に取られて、脱出する事もままならんようだ」
蠢く山は、相変わらずうず高い。それでも、僅かに背が低くなっている。アーチャーの攻撃能力が、蟲の増殖能力に勝っているのだろう。しかし、それがアーチャー脱出まで持つのかと問われれば、それはないと言わざるを得ない。それは、つい先ほどまで蟲と相対していたライダーが、一番よく分かっている。
「お前の宝具で何とかならないのか?」
「無理だ」
今度は、ライダーが否定する番だった。
「余の宝具は、とにかくこいつらと相性が悪い。『体当たり』をする戦車では、自ら攻撃を食らいに行っているようなものよ。軍勢を使ったところで、蟲を処理するのは無理であるし……なにより、それでアーチャーを助け出しても、今度は余が戦えん。火力を持つ二人が戦闘不能になっては、それこそ奴らの思うつぼだ」
それは、迂遠に。もしもという時は、アーチャーを見捨てるという宣言でもあった。
ともすれば、甘さとも取れる己の美学を貫くライダー。それが彼を不利にすることは、多々あったであろう。だからこそ、重要な盤面での選択は間違えない。その非情さをも含むからこその、征服王である。
「セイバーが居れば、話は違ったのだろうが……」
「だからこそ、真っ先に狙われたのだろうよ。威力が『ありすぎる』という欠点を除けば、理想的な宝具だからな」
この時点でセイバーが生存しており、合流まで果たしていれば。その時点で、臓硯らは詰んでいた。大火力を持つ者が三人になれば、一つの攻略目標を撃破するのに、二人まで犠牲にしていい計算になる。それに、セイバーの風王結界。あれを戦車に纏わせれば、ライダーの対蟲攻撃能力が跳ね上がる。かなり安全に、連中を倒し切れた事だろう。
どこまでが計算で、どこまでが偶然なのだ。全く判断できない。少なくとも臓硯にとっては、自分が喰われた事は計算外であったはず。それを、こうまで修正できるものなのだろうか。
一つ分かるのは、偶然の要素すら、今は相手の追い風となっている事だけ。
半ば予想していたが、ランサーが復帰しても事態は好転しない。それを意識すると、ライダーに初めて、焦りが生まれ始めた。しかし、それを断ち切るように、淡々とした声が上がる。
「我が主が、あれを倒す魔術礼装を完成させて、もうすぐここに来る。俺は、それまでの時間稼ぎを命じられて、ここに来たのだ。それまでの辛抱だ」
無表情を取り繕っても、押さえきれぬ怒りを零しながら。走る槍は、怨敵を断ち続けている。
ここに来てやっと、願望に頼らない、具体的な打開策が出てきた。希望は、まだある。希望があれば、作戦の立てようだってある。
「休みの時間はもう終わりだ。しっかり頭を起こしておくのだぞ」
「分かってるよ、先生が来てからが勝負、だろ?」
ライダーの軽快な言葉に、同じく軽快に答えるウェイバー。もっとも、声が掠れている辺り、大分無理をして出したのであろうが。
どんな機も逃さない。集中し始めた、その時だった。アーチャーを包んでいる山の一部が大きく盛り上がり、強烈な爆発音を立てながら、吹き飛んだのは。
「ぬ、おおぉ!」
「おわぁ!」
はじけ飛んだ虫の一部が、恐ろしい勢いでライダー達に叩き付けられる。素早く戦車を加速させ、離脱を試みるが。そもそも蟲の飛び散った範囲が広大であり、回避し切れない。振り落とされそうになるウェイバーを掴みながら、自身も手綱を強く握った。
幸運にも、殆どは雄牛から逸れ、僅かに残ったものも雷撃と剣で対処可能だった。急発進した戦車の上から、爆心地を見下ろす。宙に舞う大量の蟲、それをかき分けるように、金色の影が飛び出た。
輝いた、と言うには煤けすぎているそれ。鎧は無残にひび割れているし、至る所から血を流し、金を汚している。いや、それ以上に、左腕すら失っているのだ。
満身創痍と言って差し支えない状態でありながら――しかし、とライダーは彼の懐を見た。そこには、無傷でいる幼子の姿。間違いなくサーヴァントの天敵である蟲に、長時間囲まれて。その上、マスターを助けて脱出を可能とするとは。やはり、能力が頭一つ飛び抜けている。
すぐに距離をとって、攻撃を開始するアーチャー。それには精彩が無く、宝具の数も囲まれる前に比べて、遙かに少ない。
しかし、彼が戻ってきた事の意味は大きい。
「ランサー!」
「分かっている!」
ライダーの声に、すぐに反応して跳躍したランサー。その先は、アーチャーの背後。
背中合わせになるよう降り立ったランサーは、正面以外から襲いかかってくる蟲を貫き始めた。火力はあっても、細かい制御に向かないアーチャー。消耗しているのならば、それはなおさらだ。全方位警戒しながらでは、十全の能力を発揮できない。しかし、その余分を他者が補うのであれば。全英霊中、最高峰の火力を存分に生かせる。
分散しようとする蟲を、巧みに牽制しながら。一纏めになっていた蟲に対し、存分に宝具を浴びせるアーチャー。しかし、
「不味いぞこれ……」
呟いたのは、ウェイバーだ。
アーチャーの消耗が、激しすぎる。そして、蟲が増えすぎていた。増殖速度が、火力を上回ってしまっている。
蟲がもう少し少なければ、もしくはアーチャーのダメージが少なければ。正面から押し込めたのだろう。
間桐臓硯の守りは、相変わらず分厚い。火力と物量の兼ね合いで勝った以上、もう彼に勝負を急ぐ理由はないのだろう。悠然と、布陣を変えぬまま、押しつぶされるのを眺めていた。
「アーチャー、オマエは大火力宝具はないのか!」
悲鳴の様に、叫ぶウェイバー。それに対する答えは、苦々しい肯定だった。
宝具自体は、存在する。恐らく、この状況を打開するだけのものが。しかし、魔力不足か、敵の圧力に余裕がないのか、左腕がないためか、使えない状況なのだ。
「令呪は……!」
「使える状況であれば、とっくに使っておるであろう」
いざという時に、出し惜しみをする男では無い。ならば、既に使い切ったか、それとも――
ライダーは、視線をアーチャーのマスターへと向けた。彼に抱かれながら、小さく縮こまっている少女。彼女の魔術師としての程度は分からぬが、しかしこの状況で戦えそうな様子は無い。間違いなく、聖杯戦争の用意などしていなかった、急造のマスター。的確な行動など、望むべくも無い。
そして。
それは、幸運だったのか、不幸だったのか。多分、幸運で合っているのだろう。
ライダーの膨大な経験がはじき出した、戦術的行動。勝利への方程式。どんな過程を通ろうとも、目的を達するのに一番可能性の高い道。
負けて笑えるような戦であれば、それを無視しても良かっただろう。しかし、犠牲になるのはこの地の民だ。イスカンダルが率いる国の者でなければ、聖杯戦争とも縁もゆかりもない。言わば、それぞれが願いを叶えるために、とばっちりを受けた者達。あまつさえ、勝てる道を放棄して、そのもの達が皆死ぬのであれば。
それを良しとできる者など、もはや英雄でも何でもない。ただのクズだ。
ゆえに、決断に躊躇はなかった。
戦車が走り出した。戦場に背を向けて、逆方向に。隣に座るウェイバーから、ぎょっとした雰囲気が見て取れた。
「お、おい! どこに行くつもりだライダー!」
「時に、余らは聖杯戦争の中でも一番の組だと思わんか?」
「それ今言う事かよ!」
初めてでは無いだろうか。ウェイバーが本気の怒りを露わにして、絶叫した。
もちろん、今言うことでは無い。それはライダーも、十分承知している。言ってしまえば、そんなものは、ただの雑談の類いだ。あえて言うことに、意味など無い。
ただ、それでも、口が開いたのは。気付いてしまったからなのだろう。
「他の組は全く駄目だ、全然分かっておらん。個人であれば勝つのは強い者だが、聖杯の争奪は戦争。最も息を合わせられた者達が一番強い」
「いいから戻れって! そんなの後からいくらでも聞いて……」
掴みかからん勢いで怒鳴っていたウェイバーが、いきなり声を窄めた。視線の先は、ライダーの顔。
彼は今、笑っていた。いつものように、大きく口を開けて、不敵に笑うのではなく。微笑を称えた表情。ウェイバーが始めて見る表情であり、ライダー自身、自分がまずしない表情だろうと思っていた。
道は進む者であり、壁は壊すもの、人は懐に入れるものという信条で、いつも行動している。そんな人物に穏やかさは無縁であり、そうであろうともしていた。世界の果てまでたどり着こうと思うのであれば、時間などいくらあっても足りはしない。 振り返り、ゆるりとしている余裕などないのだから。
しかし、ライダーはそうした。あえて、ウェイバーに向かって。
「な……何だよ」
うすうす、ウェイバーも気がついたのか。問いかける言葉は、険がなく。そして、言葉に反して、何も知りたくないと言うように、困惑している。
いや、聞きたい言葉はあるのだろう。今の考えを否定する言葉、それを求めている。
ライダーは正面に向き返った。頬に浴びせられる夜風が、何故か無性に心地よい。似た所など全くないのに、かつて駆け抜けた、彼の丘を思い出す。
「余とウェイバーこそが、一番優れておる。この盤面であっても、一番余裕を残しているしのう。これも、互いに助け合うからこそよ。反発していたり、片方が力を与えるだけではこうはいかん」
ライダーは笑った。わざとらしく、大きな声で。今度こそ、普段そうしているように。
隣にいる相棒は、笑わなかった。俯いて、そして絶対に顔を見せようとしない。
「征服王イスカンダルの召喚者がウェイバー・ベルベットなのが最高であった、そう認めよう。こいつはちょいと、自慢して良いのでは無いか? なにせ、世界に名をはせる大王が、貴様の師より貴様自身を認めたのだからな」
「何が……最高だった、だよ。今まで、坊主としか言わなかったクセに……今更、名前でさぁ」
精一杯の悪態。震えて、弱々しく、寒々しい。それでも、体中から絞り出して言ったのだろう。
わなわなと、全身を振動させているウェイバー。それの正体を、ライダーは知っていた。理不尽だ。どうしようもない事、そして覆し得ない事が目の前にある時、人はそういう反応をする。かつて、己が生きていた時代で。幾人もの人間が、そんな姿を見せた。そして、征服王すらも、そうであった事がある。
「そんなの、まるで……遺言みたいじゃないか……」
「――そうだ。余はここで、勝利のために死力を尽くし、そして死ぬだろう」
「なんでだよぉ!」
ウェイバーは、両手を思い切り叩き付けた。場所など見ていない。右手は御者台の縁に、もう片方は、乗り口に手首を強打して。しかし、それを、そして疲労すら無視して、ただ絶叫した。
大きく開かれる、両の眼。隙間から、止めどなく涙が溢れていた。髪を振り乱しながら、強くライダーをねめつける。
「オマエじゃなくたっていいじゃないか! そうだ、アーチャーが宝具を使う時間を、ボクたちで稼げばいい! そうすれば、ライダーが犠牲になる必要なんてないぞ。ははっ、軍略なんて大層なスキル持ってるクセに、こんな事も分からないなんて、案外大したことないじゃないか。だからっ! 大人しくボクの指示に従ってればいいんだ!」
立ち上がったウェイバーは、ライダーの胸ぐらを掴み上げた。ここがどれほど高い位置かも忘れ。
必死の形相ですがりつくようにする姿は、まるで子供のようだ。服を掴み上げる手には、震えるほど力が入っており――しかし、入りきってはいない。それに、ライダーはそっと手をかぶせた。
「分かっているのであろう?」
小さな言葉。諭したわけでもない。
ただ、それだけ。大きな手に包まれながら、ウェイバーの手は、胸からこぼれ落ちた。
先ほどまでとは戦況が違う。虫の密度も数も、遙かに多い。そんな場所で戦車を使えば、他の二人を援護する余裕もなく、戦車が破壊されるだろう。待っているのは共倒れだし、そもそも勝算がない。
しかし、もし増殖しすぎた蟲を、一時的にでも、消すことができるのであれば。アーチャーであれば、安定した火力を発揮して、なぎ払う事が出来る。ランサーでも、数が少なければ、卓越した技能と速度でもって、的確に一太刀を浴びせられるだろう。蟲を、消せればの話だが。
普通は無理だ。しかし、ライダーであればできる。固有結界という、いかさまじみた宝具を使って。
仕掛けるならば、アーチャーが蟲を一塊に固定している今しかない。それが分からない、ウェイバーでは無い。そう、イスカンダルが認めた、軍略家が。
「こいつを持っていろ」
腰に吊るした剣を外して、ウェイバーに無理矢理持たせる。ライダーが片手で軽々振るっていたそれも、細身の彼では両手にすら余った。
「形見の……つもりじゃないだろうな?」
剣を抱えながら、ウェイバーは笑った。ぼろぼろと涙を流して、眉は寄っている癖に、口元だけは必死に笑顔を作ろうと。酷く無様な顔だ――しかし、何よりも力強い。
とうてい、受け入れられる訳が無い。相棒の死を、誰が受け入れられると言うのか。だが、覚悟だけはできる。それが、今生の別れに対してではなくとも――相棒に、無様な姿を見せない、そういうものであっても。己の背中が、偉大であったと思わせられるでのであれば、それだけで意味がある。残される者は、思い返して力に出来る、と。そう信じられるのだ。
「馬鹿を言え、丸腰よりはマシであろうと、貸してやるだけだ。軍勢の中であれば、武器はいくらでもあるからな。そいつは余が持つ武器の中でも、とっておきなのだ。帰ってきたら、当然返して貰うぞ」
「それまでに、ボクがオマエより上手く使いこなしてなければな」
「ほう、余より剣に相応しくなると! そいつはそいつで構わんぞ!」
無理矢理に笑いながら、その声もすぐに途切れて。マントが小さく、引っ張られた。
「オマエ……もうちょっと生きることにしがみついたって、いいじゃないか。二度目の人生が欲しかったんだろ?」
言われて、ライダーは笑った。全くその通りであったのだから。
自分の命を安売りするつもりは無い。まだ、夢の続きを見ていたい。
それでも、
「アーチャーの言葉、覚えているか?」
問われて、ウェイバーは静かに首を横に振った。
「我らは所詮、稀人なのよ。機会があるならば戦うし、肉の体も狙う。しかし、優先すべきはこの時代に生きる者達だ」
かつて、駆け抜けた場所。国と、丘と、戦場と、友と、あらゆるものと。生まれ落ちてから死ぬまで、輝き続けた一生。ライダーにとっては、もう終わったものであり……ウェイバーにとっては、今がまさにそうなのだ。
何より、ライダーは生かしたいと思った。誰よりも、まずウェイバー・ベルベットという人間を。
戦車が地面に下りた。戦場が見通せる程度には近いが、敵が来ない程度には遠い。そんな、絶妙な位置。
「さあ、下りるのだ。ここからの戦場は、余一人で十分」
ウェイバーに、抵抗の様子はなかった。地面に降り立ち、ライダーへと振り返って。見せた顔は、赤く腫れ上がっている。
そして、どちらともなく笑った。二人とも、決して上手くはないが、その時にできる精一杯の表情。
ライダーは背を向ける。もう、彼の姿は瞳に焼き付けた。心残りはあれど、これで安心して――死地に向える。
「では、行ってくる」
さらばだ――そう言おうとして、言葉にはならなかった。帰ってくると、約束したのだから。ならば、相応しい言葉は違うだろう。
それを、恐らくは嘘にしてしまう。それが心残りであったが。
「ライダー……」
すぅ、と息を吸う音。あるいは、それはウェイバーが覚悟をするための儀式であったのか。布擦れの音、腕を持ち上げたのだろう。
「勝て!」
声と共に、膨大な量の魔力が流れ込んできた。体を満たす充実感は、しかし魔力によるものだけではない。悲しみと、それを乗り越えようとする意思。なによりも、僅かな期間であれど、共に歩んできた行程。それらが一纏めとなって、ライダーの中に流れ込み、力となる。
奇跡とは、意思無くして成立しない。ならば、今体を包んでいる万能感は、間違いなくウェイバーが令呪によって起こした奇跡。
勝たねばならない。それが、マスターの意向に反するものであったとしても。だからこそ、彼は戻ってこいとは言わなかった。
「我が朋友よ――我が友よ! 貴様に会うことこそが、余がこの時代に呼ばれた意味であった! なれば、余の発する輝き、その目に焼き付けておいてくれ!」
戦車が、走り出した。動かした自分自身、驚くほどに速い。とても消耗しきっていたとは思えない、加速と最高速度。
これが令呪の力だろうか。いや、とライダーは否定した。この膨大な、心の奥底まで踊らせるような感覚が、ただの魔力反応である訳が無い。これは、己が望み、そして相棒に望まれたからこそ生み出されたものだ。向かう先は義務感でも、ましてや罪悪感でも無い。ただの勇気、最初の一歩を踏み出す意思!
最短距離を最高速度で、一気に駆け抜ける。下方に位置する、蠢く虫。よかった、と安堵する。まだアーチャーは、蟲を逃がさぬよう戦えていた。
戦車の上に立ち上がって、腕を組み、大きく仁王立ち。そして、聞いているかも分からない宣言を、どうどうと行った。
「間桐臓硯よ。貴様の策は見事の一言、何度も辛酸を舐めさせられたわ。しかし――」
地面と水平に走っていた戦車が、思い切り傾いた。直角に近いのでは無いか、そう思わせる角度。激しい雷が蟲に触れて、けたたましい鳴き声を上げる。それでも足りないものが内側に進入し、雄牛とライダーの体をじわじわと削る。それでも止まるつもりは、毛頭無い。二つの蟲の山、その中心からややアーチャーらが抗戦しているもの寄りに。つまりは、可能な限り多くの虫を納められるような位置。
上空、と言える場所から、一瞬にして戦闘圏に潜り込む。一瞬にして雄牛が食い荒らされて、長い時を共にした戦車は、ついに召された。すまぬ、そして感謝する――心の中だけで、消えゆく戦車に、感謝を送った。
ライダーの身を守るものは、もう何も無い。こんな所に居れば、一秒と断たず死ぬだろう。しかし、もうそんな心配は必要ない。戦車という多大な犠牲を払いながら、しかしライダーはついに、目的の位置にまで、たどり着いたのだから。
「今度は余が、してやる番よ!」
そして、世界が入れ替わった。
荒れ地から砂漠へ。夜から昼へ。そして、蟲の支配地から、ライダーの支配地へ。
固有結界。世界を上書きする秘法。
それは、別の見方をすれば。持続時間中は、中に閉じ込めたものを絶対に逃がさない、牢獄でもあった。
大地にしっかりと降り立ったライダーは、ゆっくりと瞳を開いた。その先には、冗談のような大きさの、黒い山。強大な敵を前に、しかし僅かも恐怖心は無い。
側に控えていた騎士の一人から、剣を手渡された。受け取り、自然体に下げた剣身に、血液が線を引く。キュプリオトの剣と比べれば、なまくらと言うより他ない、ただの鉄器。しかし、自身の技量を考えれば、今手に持つ、ただの剣くらいが丁度いい。それに相応しくなると、宣言した者がいるのであれば尚更。
染みた滴を弾けさせるように、剣を力一杯天にかざす。
「よくぞっ! 我が呼び声に答えた、勇者達よ!」
槍が、あるいは剣が。一斉に同じく掲げられ、爆発のような歓声。
「しかし、余は諸君に告白せねばならない……」
持ち上げた剣を一度下げ、胸元に構え、静々と言う。勇者達は、困惑するように、少しずつ静かになっていった。
「この時間に召喚されて、知ったのだ。世界の果てなど無かった。この大地はただ丸く、あらゆる場所に繋がっている。余が目指したものは夢にしかなく、夢でしかなかった。だからこそ、問いたい」
王の言葉を、誰もが聞き逃さんと聞き耳を立てる。
彼らの言葉などお構いなしに、崩れる山。それは無数の敵を確認し、さらに多い無限でもって、進軍を開始する。それでも、誰一人として、音を立てない。
「我らの行いは、無意味であったか……?」
『否! 否! 否!』
駆け抜けた日々は、それ自体に意味がある。皆が揃って、数多の夢を重ね、王の元で一つになった。たとえ、地の果てなど無かろうとも。たったそれだけの事で、あの日々が色あせていい筈が無い。万の大合唱に、ライダーは笑った。地の果てなど無い、己は道化であった、そう悔いもしたが、間違いでは無い。
かっは、と。声を上げるのを、止められなかった。全身を食まれている。左腕があるだけ、アーチャーよりはマシかもしれない。その程度が慰めの状態。しかし、気分は最高だった。笑いを止められないほどに。
「その通りだ! 余はこの時代で、二つのものを手に入れた。一つは、天より高く、果ての見えない宇宙という世界の知識! まだ誰も走破した事の無い、完全なる未知! そしてもう一つは、このような大きな世界に圧倒されながらも、己を誇示し、英雄たらんとする新たなる我が友! 我らと同様、世界を制する喜びを知る朋友だ!」
大きな、大きすぎる歓声が。世界を貫き、ウェイバー・ベルベットへ届けと、大きく上がる。
再び掲げられた槍が、一斉に斜め前へと突き出された。膨大な闘気の渦が、ライダーの背中を押し飛ばそうとすらしている。一人が皆になり、皆が群れとなり、群れが、やがて国となるこの感覚。国とは、ただ人が住まう場所をさす言葉では無い。意思の揺りかごこそが国であり、その舵を取る者が王である。
故に、群れでしかない者に、負ける道理は無い。
「新たなる友の門出を祝う! 盛大に戦笛を鳴らせ!」
より大きくなった夢と、それ以上に大きな朋友を祝いながら。
そう言えば、とライダーは思い出す。一つだけ、心残りがあった。もう少しだけ、ウェイバーの成長を、見ていたかったな。血まみれの体に力を入れて、剣を構えながら思う。
「いざ、征服せよ! 世界を超えて、宇宙の果てまで!」
直前まで迫っていた蟲に、やっと軍は動きだし。大きな砂塵を舞わせながら、進軍を開始した。
万対億の戦争。無謀に過ぎる、最悪の敵を前にしながら。誰一人として、笑わぬ者はいない。
誰もがそうであるように、ライダーも笑いながら突撃をし。
そして、黒い波に消えていった。
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ランサーは忠義者
ケイネス・エルメロイ・アーチボルトにとって。実のところ、世界とはさほど価値があるものではなかった。
当然のように、歩んできた人生。古い歴史を持つ家である以上、優れた魔術の才能を持つのは当然。元々貴族であったアーチボルトを継ぎ、支配者たらんとするのも当然。時計塔の教授となり、一派閥を率いるのも当然。それは、誰かに用意されたものであり、同時に、あってない選択肢から選んだものでもある。
持っていた才能を育み、用意された地位を得て、差し出された名誉に努力し。そんな風に、当然の道を当然の様に歩いてきた。
恐らくそれは、周囲の人間から、さぞ華やかに彩られた人生に見えただろう。それを、ケイネス自身否定する気は無い。ただし、肯定できるのかと問われれば、それに首を傾げたが。
美しくも素晴らしい、成功を約束された人生。誰もがうらやむような。
しかし、それがどれほど美しかろうが。そこに華しかないのであれば、それはモノクロであるのとどれほど違うのだろうか。それを美しいと感じられるのは、醜いものを知るからだ。それを寂しいと感じられるのは、輝かしいものを知るからだ。華やかなものだけに囲まれた彼は、それが素晴らしいなどと、本当に思えるだろうか。
人は必ず、相対的な評価を下す。絶対的だと信じているそれも、実のところ、経験を元にした相対評価でしかない。比べる対象がないなら、そんなものはゼロのままだ。
血にまみれただけの人間は、自分を不幸と思えるか。ただ何も無いだけの人物が、それを空しいと思えるか。何も、しらないのに。
あとは、例えば。ケイネスは、果たして本当に、自分の人生を素晴らしいと思えるのだろうか。彼に取って、あらゆる全てが、当然のことでしかなかったのに。
全能感はある。そもそも何も求めていないし、不満はない。求めていないものが、求めないだけで、勝手に埋まる。これは、まあ。感覚として少しばかりの全能感を味わうのには、十分だ。だからどうしたと言うような、ひたすら無意味な感覚だったが。あってもなくても変わらないようなものなど、そんなものだろう。
つまり、そんなものだ。
道を歩き続けるだけが仕事。他に何も無く、求める者もない。あるがままに。
それは、魔術師としてのスタンスにも現れていた。例えば、ウェイバーが持ってきた論文。一言で言えば、時計塔の風通しを良くして、自分たち三流魔術師にも権利を寄越せ、というもの。
無意味だ。意味が分からない、とすら思った。ケイネスにとって今のままが当然の姿であり、それ以外は当然では無い。彼の論文が良い悪い、という問題ですらないのだ。時計塔も魔術師も、然るべき姿になっている。そうでない形にするのなど、良くない。なぜならば、それは当然とそこにある形では無いから。
そうやって生きてきたケイネス。本来ならば、死ぬまでずっと。
しかし、彼女は現れた。彼に取って、比較対象を作る存在。
己の婚約者として紹介された少女は、何よりも美しいと感じた。全て一緒に見えていた人生に、初めて一つ『上』が生まれたのだ。どれほどささやかであっても、比較ができるようになったのだ。
彼女が欲しい。無理矢理では意味が無い。そんなことをすれば、彼女の美しさが損なわれるだろう。
ソラウの心が欲しい。そして。
愛されたい。
そうやって一度思ってしまえば、もう歯止めは効かなくなった。
ケイネスの人生は、ソラウを中心に回り出す。明けても暮れても、彼女のことばかり。どうすれば気を引けるか、どうすれば喜んでもらえるか、四六時中そればかり考えていた。
感情は、大きくないながらも価値観にも、影響を及ぼした。とは言え、元から方向が同じではあったのだ。貴族趣味や、魔術師と言うことに対するプライドがより強調された、程度のものだが。だが、まあ。つまりは、そういった細かな点にまで、ソラウというたった一人の女性が根付いていたのだ。深く、とても深くまで。
たった一人の愛しい人。そして……もういない人。
「ソラウ……」
自覚すら無い呟きは、多分どこかに吸い込まれて消えた。戦場がしっかり見える場所。名前も知らない、建ち並ぶビルの一つに。彼は迫真の表情で、礼装に術式を埋め込んでいた。
工房はまるごと消え去ってしまった為に、ペースはかなり下がっている。それでも、ソラウの犠牲のおかげで、辛うじて宝具は無事だったのだ。それに、ケイネスが持つ魔術の技量が合わされば。並の魔術師ではあと数日かかるであろう作業を、今終わらせていた。
手に持つのは、二つの銀珠。魔術で正円に固定されているそれは、金属らしく重くて冷たかった。……彼女の手とは、似ても似つかない。
ふいに、そのまま握りつぶしてしまいたい衝動に駆られた。
(こんなものと引き替えに、ソラウは……)
それが彼女の死に関わったものであれば――それが例え、彼女が命と引き替えに守ったものであっても――壊したくなる。世界も、何もかも、全てを、目に付くものを手当たり次第に。こんな世界に、ソラウのいない世界に、一体どれほどの価値があると言うのか。全てが塵であふれかえってしまったのと、どう違う。
灼熱の怒りがあふれ出す。そのまま、己を破滅に向かわせるような煉獄。それを制御しようという気すら起きない。それでも、礼装を破壊しなかったのは。やはり、それをソラウが守ったから。そういう事なのだろう。
腕から力を抜いて、そっと銀珠を握った。手のひらが凍えるよな冷たさを感じても、やはり想うのはソラウのことばかり。
最後に見た、彼女のあの笑顔。必死に思い出すそれは、鮮明なようで、ぼやけているようで。
(あれは……本当に、私に向けられたものなのか)
いっそ、手など凍り砕けてしまえば良い。そうすれば、あるいは、心の寒さは消えてくれるかも知れない。
この世で一番ソラウを愛していたのは、間違いなく自分だという自信がある。しかし、それと同じくらい、彼女の事が分からなかった。
なぜ、振り向いてくれなかったのだろう。ランサーのどこが気に入ったのだろう。好きな事、好きなもの、好きな場所。そんな小さな事は分かっても、肝心な事ばかりが分からない。
……本当は、あの笑顔は。ランサーに向けられたものでは、ないのだろうか。そんな疑念が、抜けてくれなかった。最後の最後まで、己が望んで呼び出したサーヴァントが祟る。もはや、笑えばいいのか。
見えずとも、強烈な魔力の収束を感じさせる、令呪。いったい何度、それに力を込めて、ランサーを自害させようとしたか。
ソラウを奪われた。ランサーが気に入らない理由など、それに尽きる。
上辺だけの忠誠。奴にとって重要なのは、マスターという座であり、その上に座る者は、己の許容範囲であれば誰でもいい。忠誠を誓う相手は、あくまでケイネスでは無く、令呪を持つ者なのだ。しかし、それでも妥協できたのだ。気に入らない、と言う感情はあっただろう。それでも、勝つためならば。いや、勝つためなどという名目すら必要ない。ケイネスにとって、そんなものは、所詮どうでもいい要素の一つでしかないのだ。
後半、多少は理解をしようという努力をしようとしていたが。やはり、奴は分かっていない。重要なのは、経歴や資質などと言った、そんな下らないものではない。
どれほど好感の持てるサーヴァントであったとしても、ソラウを侍らせるだけで憎くなる。ただ一つ、それだけあれば、ケイネスはランサーの求める主を、演じることも出来ただろう。
もうソラウはいない。ランサーを殺す障害も、ない。ならば、殺してしまって良いのだろう。
しかし、それはまだだ。少なくとも、ソラウを殺した怨敵を殺害せしめるまでは、そうするわけにはいかない。
幸い、と言っていいのかは分からなかったが。ケイネスはもう、ランサーの忠誠心を疑ってはいない。ケイネスに忠誠を誓ったのでは無く、主に誓った。それさえ分かってしまえば、納得はしやすかった。名誉欲のようなものなのだから。その欲が満たされぬ限り、裏切りはしないだろう。
それさえ分かっていれば。たとえ、最後の笑顔すら奪われていたのだとしても、使い続けられる。敵を殺し尽くすまでは。
もしかしたら、ソラウが死したことによって、間を塞ぐものが無くなったが故の考え方かもしれない。最も守りたい人が死んだことで、初めて私情を無視して 使えるようになるというのは。なんとも皮肉な話だ。
少しだけ強く銀珠を握り、そして立ち上がった。後ろ向きな考えも、今しばらくは封じる。難しくない、魔術師にとっては、自制など慣れたものだ。
しかし、次に溢れた感情。それだけは制御できず、またする気もない。
「待っていろよ……」
つまりは、怨念。
もしも誰が、その表情を見ていたら。あまりの形相に、近づくことさえ出来なかっただろう。
狂気や正気といった全ての要素を超越する、怒りと悲しみ。ある意味において、アヴェンジャーに向ける感情に、最も相応しいものだった。
「貴様がソラウにした事の、百倍の苦痛と屈辱を味わわせてやる……」
今のケイネス・エルメロイ・アーチボルトは。それだけを拠り所に生きているのだから。
そして、ケイネスはビルの屋上から飛び降りた。慣れた感覚、では無いが、容易いものではある。急激に迫るアスファルトに、しかし僅かな焦りも見えない。シングルアクションで、当然の様に身体強化、重力制御を行う。地面に足が付いたときの衝撃は、階段から下りた程度のものだった。
地面に到着してすぐに、全力で走り抜ける。健康を維持する以上の、無駄で野蛮な運動などしたことが無い。その程度のトレーニングですら、魔術を使えば、下手に車を使うよりもよほど速い。
現場に近づくと、一つの事に気がついた。周囲が静かすぎて、同時に騒がしい。
特別、その原因を解明しようなどと言うつもりは無かった。ただ、発信源が進行方向にあったというだけ。
目の前に現れたのは、忘れようとしても忘れられない蟲。黒く、禍々しく、汚らしい、汚穢にまみれたうずたかい屑。そして、なにより――ソラウの仇。
今まで必死に維持していた理性が、一瞬で決壊する。目の裏側に火花が散り、魔術回路が勝手に起動する。刻印すらうなり声を上げて、自身に唯一残された、そして最強の礼装を起動していた。
「潰せええぇぇ!」
もはや、呪文ですら無い、ただの絶叫。ただ、魔術礼装という型に、魔力を通して形成しただけの行為。魔術と言うことすら、おこがましい。
それでも十分な威力を発揮できるのは、ケイネスの技量のおかげだろう。魔術に最も重要な、冷静さを失っての魔術行使。それでも、数の多くない蟲を殺すのには十分だった。
強烈な打撃に、足下が大きく揺れる。アスファルトに大きなクレーターを作ったところで、やっとケイネスは、幾ばくかの冷静さを取り戻した。蟲が全て死滅したのを知り、慌てて月霊髄液を持ち上げて、蟲と接触した部分を切り離した。
べちゃり、音を立てて黒い泥と一緒に落ちた銀は、もうケイネスの意思では動かない。正真正銘、魔力の通っていない、ただの水銀に戻っていた。捨てなければならなかった水銀は、大して多くない。しかし、蟲は確実に、水銀の消費量を下回ることはあり得ないだろう。
ちっ、と舌打ちをする。
「これではいくらあっても足りんな」
悪態をつきながら、跡地を覗きにいった。見るのもおぞましい蟲。しかし、こんな場所に居たというのは、確かに気になる。
クレーターの隅には、布地が転がっていた。虫に食い破られ、さらに月霊髄液で潰されて。袖口の形を見つけて、やっとそれが服だったと分かる程度のもの。一人分ではない、恐らく三人分ほど。
「野次馬か。救いようのない馬鹿どもだな」
ふん、と鼻を鳴らしながら、遺品に侮蔑を叩き付けた。
ただでさえ、アインツベルンの愚物が現代兵器などを使った、テロまがいの行為をしていたと言うのに。あの大騒ぎを見てなお、こんな所に出てきた馬鹿なのだ。普通であれば、すぐに遠くへと非難して然るべき。事実、周囲の住人は市民会館が倒壊してしばらくすると、すぐに避難を開始していた。
危機感が欠如した愚か者の自業自得。少なくともケイネスにとって、この死体はそれだけの価値しかなかった。
だが、対象が変われば話しも変わる。
「こいつらは、聖杯の魔力があってもなお、魂喰いで魔力を稼いでいたのか……?」
走るのを再開しながら、考える。
確か、これも元は魔術師であった筈である。ならば、魔術師として、神秘秘匿の常識が残っていたのだろうか。思いついたそれを、すぐに頭をふって否定した。およそ、欲望でしか動いていると思えないそれに、あまりにも馬鹿馬鹿しい考えだ。
聖杯の魔力が足りない、という事はありえない。町中の人間を食い尽くそうと、聖杯の一割にも届かないであろう。もしかしたら、一度に出せる魔力量には限界があって、それ以上を求めて魂喰いをしていたのかも知れない。それならば――例え僅かであっても――限界値を超えた魔力を得られる。
そして、再び頭を振った。今度はもっと深く。
どれだけ考えても、それは予想でしか無い。加えて言えば、今知ったところで価値の無い事でもある。そう、問題は。
戦場の外側で、密かに数を増やしているという事実だ。
建物の隙間を抜けて、視界が開ける。未だに、戦闘は激しい。たったの二人対億の対決ながら、それは戦闘として成り立っていた。ランサーが早さを生かし、アーチャーが火力で押しつぶすという戦術によって。早さと技量を信条とした者と、火力と手数自慢。この二人で無ければ、成り立たなかったであろう。同盟相手であり、ある程度の連携が可能であった、というのも運が良い。
虫の数が、大幅に減少しているのは知っていた。ランサーとの視界供給で、ライダーが固有結界に封じたのまでは確認している。
あと一歩という所まで本体に迫っていた。しかし、ケイネスは知っている。間を置かずして、複数の野次馬を餌に、数を増やした蟲が集まるであろう事を。
『ランサー、こいつらは外側で魂喰いをして、数を稼いでいた。すぐに到着するぞ』
簡潔に、用件を一方的に告げた。これで、もしかすれば。ケイネスが手を下すまでも無く、本体は抹殺されるかもしれない。
期待半分、達観半分。殺せれば何でもいいと思う、しかし、自分の手で無残に無様に殺してやりたい、とも思う。
ランサーに話しを聞いたのか、アーチャーの動きが変わった。何か、大きな宝具を使おうとしたのだろうか。しかし、蟲の攻勢が強まり、その動きを阻害。元の、少しずつ押し込み、本体に到達するという戦術に戻っていた。
(だろうな)
簡単に予想できた事ではある。加えて言えば、ケイネスが復讐する機会を得た、そういう意味でも。
もうそこに、見る価値はない。確実に、ランサー達がたどり着くより速く、虫の増援が到着するだろう。そうなれば、攻防の天秤は逆転、とまでは行かずとも、差は確実に緩まるだろう。ライダーが敗れるか、それともアーチャーが崩れるか。いずれにしろ、時間は敵の味方だ。
ケイネスが、対聖杯用礼装を作っていなければ、の話だが。
『ランサーに命ずる。令呪の力を持って、その身に秘す力を解放せよ。私が到着するまでに、少しでも距離を縮めておけ』
『感謝します、主よ!』
残る全ての令呪を使って、ランサーの力を底上げした。対多数に弱いランサーでは、大きな効果は望めないだろう。
一段階速くなるランサーの動き。激しくなった抵抗を削るように、上乗せされた力を存分に振るっている。もしやすれば、増援分を帳消しにするくらいの働きをしてくれるかもしれない。
(視界の共有情報では、こちらの方の筈だが……)
散発的に見える蟲を、ことごとく討ち取る。もう、正気をなくすほどの怒りに飲まれはしない。本丸が、無様な姿をさらして待っているのだ。それを誅伐することを思えば、そんな余裕などなかった。もっとも、月霊髄液に貫かれて、泥になったそれを踏みにじるくらいはしてやるが。
ほんの僅かではあったが、ライダーが飛び去る方向、それを確認していた。ならば、そちらに居るはずなのだ。
目的のものは、探すまでもなかった。一人佇みながら、胸に大きな剣か――あれはライダーの使っていたものだろうか――を抱えている。大型過ぎる片手剣は、魔術師らしく細身であり、しかも背が低い彼には、酷くアンバランスだ。
「ウェイバー! ウェイバー・ベルベット!」
「はっ? ……え、せ、先生? なんで?」
呼び声に、ウェイバーが上げたのはただの戸惑いだった。目を白黒させて――しかし大事そうに抱えた剣だけはそのまま、慌てふためいている。
ライダーが自滅に似た賭けに出る前に、マスターが離脱するというのは、当然だった。好きこのんでサーヴァントと心中するようなマスターなど、居るわけが無い。であれば、直前に向かった方向、そこにマスターであるウェイバーがいて当然だ。
「来い」
返事も、アクションすら待たない。肩口を握って、そのまま引きずり歩いた。
彼が躓く度に、いちいち腕が引っ張られる。非常に煩わしく、面倒だ。思わず投げ捨てたくなる。
抵抗するつもりは無い様だった。躓くこともなくなって、歩くのが楽になる。足を速めて、戦場へ向かう速度を上げた。ケイネスにとっては早足程度の感覚であったが、身長が違うからか、小走りになっている音が聞こえた。
「先生、何なんですか! 事情を教えて下さい!」
(絶望的に察しが悪い!)
咄嗟に、怒鳴りつけそうになる。声に出さなかったのは、自分の理不尽を自覚したからではない。その分のエネルギーは、蟲へと向けるべきである、そう思ったからだ。
ウェイバーは、いつもどこにでも居た、出来の悪い生徒だった。当たり前に重ねた年代が浅く、満足に魔術研究できるだけの資産が無く、魔術回路も魔術刻印も評価すべき点が無く、肝心の魔術行使もお粗末極まる。他の生徒と違う点があるとすれば。無駄に自己を過大評価する点と、恥知らずな権利の主張か。何にしろ、碌なものではない。
はっきり言ってしまえば、役立たずだ。もっとも、ケイネスという希代の魔術師を前にすれば、大抵の者がそうなってしまうだろうが。
そんな三流であっても、今は必要だった。
「これから、聖杯からあの汚物を分離する。貴様も魔術師の端くれだ、働いて貰うぞ」
「でも、ボクにはもう、殆ど魔力が残ってないですよ」
「その程度の事を、私が分からないとでも思ったのかね? いいから黙って、指示に従っていろ」
手に持っていた銀珠の一つを、ウェイバーに押しつけた。手に持ち、じっくりとそれを観察している。無意味なことだ。ウェイバー程度の実力では、その術式を抜き出すだけでも、数年はかかるだろう。この場で見た所で、起動方法すら分かるまい。
「よく見ていたまえ」
背後のウェイバーに見えるよう、手を肩の横に置き。小さく呪文を唱えた。
手のひらにのっていた球体が、筒状に伸びる。先端を尖らせたそれは、まるで小さな矢のようにも見える。
「これが、射出形態だ。よく覚えておきたまえ。これを、ある程度固まっている対象に、二点から同時に当てれば良い。聖杯本体に影響させる必要は無い。あの黒いものは、それぞれが独立しているようで繋がっている。どこか一カ所で術式が浸食すれば、二カ所に刺さった術式が互いに反響しあって、あとは全てに影響を及ぼすだろう」
すらすらと出てくる解説。それは、口調すら今までとは不釣り合いに穏やかだった。
……当然だ。それは、ソラウのために用意していたものだったのだから。彼女には、こんな説明は入らなかったかも知れない。しかし、頭に入れておけば、もしかしたら一秒でも彼女と話せていたかも知れない。だから、用意していたもの。
まさか、それをソラウ以外の誰かの為に使うことになるとは。ケイネスは自嘲した。
本当は、ソラウが使う予定であった礼装すら、誰かの手に委ねたくない。しかし、それも自分の感傷でしかなく。今は堪えるしか無かった。
「貴様が特別何かをする必要は無い。そうであれば、時間をかけてでも他の誰かを探しているのだからな」
「はい」
調子を取り戻そうと、挑発混じりに侮ってみたが。ウェイバーの声からは全く動揺が見えず、歩調もそのまま。
逆に、さらに調子を崩されてしまった。気に入らない。
ふん、と鼻を鳴らしながら、続けた。
「やることは三つだ。起動する、狙いをつける、同時にあてる、それだけだ。魔術師としての技量すら必要ない。範囲内に一定の量があればいいのだが……それは私が指示する」
これであれば、ウェイバーのすることは殆どない。失敗の確率は、ないと言ってもよかった。
あとは、ランサーとアーチャーが作っているであろう進路に潜り込み、当ててやるだけ。それで、己が持つ全ての怒りを叩き付けられる。
油断は、恐らくあったのだろう。そもそも、ケイネスは戦士ではない。気をつけるべき場所、瞬間など分からないのだ。攻める側にとっては、絶好の相手。それでも、対応できたのは、月霊髄液が桁外れに優秀なおかげだった。
唐突に現れた蟲が、足下から食らいつこうとする。それに反応し、銀幕が一瞬にして展開された。
「うわぁ!」
背後から聞こえる悲鳴。ケイネスは舌打ちをして、月霊髄液を動かした。
彼の判断は、お世辞にも速いとは言えない。しかし、月霊髄液の展開と動作の速度を持ってすれば、それを補って有り余る。迫った蟲を、無数の針で突き刺し、水銀の鞭でなぎ払った。ただの水銀となった部分が落ちる。が、現在の量はまだ、許容範囲内だ。
「先生、すみません……」
「そう思うならば、次からは自分の身くらい自分で守るのだな」
出来ないであろうと分かっていたが、それでも文句の一つくらいは言いたくなる。
お荷物を抱えているが、それは彼を使うと決めた時点で、織り込み済みだ。蟲も、こちらに来られるのはあくまで余力。条件次第でサーヴァントすら打倒せしめるケイネスならば、余裕を持って対処可能だった。
月霊髄液の残量にだけは、気を遣っておかねばならないだろう。なにせ、水銀を補充すればいい、などという安っぽい礼装ではないのだ。
集う蟲に怨念を重ねながら、講義を続けた。
「これ自体の射程距離は、さほど長くない。せいぜい数十メートルといったところだが……今回は私が制御する。これも気にしなくて言い。唯一気を遣うとすれば、それはタイミングだけだ」
蟲は、その数をじりじりと減らしていった。アーチャー達が奮闘しているおかげか、それともケイネスの実力か。少なくとも彼は、後者である事を信じて疑っていないが。
銀の刺突にて貫かれる。刃で両断され、針で縫い止められ。纏まった数が押し寄せれば、風に馴染ませた最速の流動でなぎ払う。
無残な屍を大地に晒すたびに、ケイネスの心は晴れ、同時に黒い怨念が増していった。
(そうだ、もっと向かってくるがいい。ソラウの苦しみを知るならば、どれだけ死のうが足りん!)
そのような事態では無いと分かっているからこそ、追い回しはしないものの。蛆虫にすら劣る下等生物が必死に群がる様に、暗い喜びを見いだす。その状況を、密かに楽しんですらいた。
世の中が、ままならぬ事などあり得ない。順調どころか、起伏など何も無い平坦な人生を送っていたからこその思考。この状況にあって――ソラウの死という事態に直面しても、その不条理を噛みしめながら、甘えにも似た考えがあった。ここの状況で、怨敵にとどめを刺すのが自分でない訳が無い、と。
しかし、それは敵にも適応されるのだ。この状況で、打開策を練ってこない筈が無い、と。
「あ……」
ケイネスは惚けたように、声を上げた。止まった足は、崩れ落ちそうな程に力が入らない。何も考えられない。ただ呆然と、泣きそうな顔で正面を見た。
そこには、ソラウがいた。
当然、偽物だ。ケイネスは確かに、彼女が食い殺される瞬間を見ていたのだ。ただの事故ならばまだしも、魔術的な威力を持つ蟲に攻撃されたのでは、蘇生もあり得ない。だから、こんな。自分にはついぞ向けられなかった、満面の笑み、慈しみの表情。その主が、ソラウである訳が無い。
(攻撃を……)
こんな真似をするのは、蟲以外ありえない。だからこそ、彼の判断は正しく。それが偽物であるという絶対的な判断材料と、仇が愛しい人を汚すという行為に対する怒りが、最速で判断を下した。もはや、反射と言ってもいいほどの領域。間違いなく、その判断速度だけは、サーヴァントの領域にあった。
振りかぶる腕。呪文はなくとも、それに正しく応答した月霊髄液。あとは、振り下ろしてしまえば、そこにあるたちの悪い幻影を、殺してしまえる。憎き蟲どもに、ソラウの亡骸すら辱めた事がどれほどの罪か、教えてやれるだろう。それがどれほど触れてはいけないものだったか、教えてやる最高の好機だ。
そして……ケイネスの腕は止まった。
(……できない)
悔しさに、唇から血が出るほど強く噛んだ。
例え、それが偽物だと分かっていても。ソラウだけは、決して傷つけられない。銀の断頭台は、刃の形のまま、行き場を失った。
「先生!」
背後から、悲鳴のような声。下半身を満たす激痛は、それよりも遙かに速かった。
咄嗟に自分の体を見る。そこには、いつの間に飛びついていたのか、多数の虫が食らいついている。そして、現在進行形で食い荒らし、内部から上へと進んでいた。敵を始末しようと作っていた刃、それは皮肉にも、自分の体を切り裂くために使われた。腰の少し上あたりで、痛みを切り取るように、不愉快な肉を両断する感触。それに感じたのは、苦痛よりも吐き気だった。口から何もかもを、胃液はおろか血や内臓すらも吐き出してしまいたくなる、嘔吐感。
「やめろおおぉぉぉ!」
ウェイバーが絶叫しながら身を乗り出し、手をかざした。先端から、大して威力の無い衝撃波が迸る。月霊髄液とは比べるのもおこがましいそれ。しかし、それでもソラウを模した人型を崩すには、十分だった。
命中した左胸を中心に、ばらばらと蟲に戻っていく。今度こそ、ケイネスは迷わなかった。切り離された下半身に群がっているものごと、一気に串刺しにする。
上半身だけが、どさりと音を立てて落ちた。受け身は取らない。やり方など知らないし、知っていたとしてもそんな体力的余裕はなかった。つまりは、それほどの消耗。
多分、そのまま眠ってしまうのは、とても気持ちがいい。少なくとも、この吐き気と決別できるのであれば、それだけで意味があるように思えた。それを中断したのは、ゆっくりを頭を抱え上げる手だった。
「せん、せい。ああ、あぁぁ……」
上下逆さまに映る、教え子の顔。おそらくは、聖杯戦争でもなければ、印象にすら残らなかったであろう。彼の顔がやたら大きく感じて、同時に空がとても小さい。消耗しきって見る世界はこれほど違うのだと、初めて知った。
とても眠い。それに、疲れた。意識があるのが、不思議なくらいに。
月霊髄液が形を崩して、ただの水銀になり地面に零れて広がった。供給する魔力が無くなったのだ。残っていた魔力は、全て魔術刻印に吸い上げられ、ケイネスの命を保っている。
魔術を継ぐ者は、自分の意思で死ぬことを許されない。どの刻印であっても、次代へと技術を繋ぐために、延命の術式が込められている。しかし、アーチボルトの刻印は、生命に突出した技術では無い。さらに言えば、半身を失っても機能を補え、復元できるような魔術刻印など、世界中探しても片手で足りるだろう。
つまりは、助からないのだ。ケイネス・エルメロイ・アーチボルトという人間は。ここで終わる。
そう確信してしまえば――何故だろう、恐ろしく安らかだった。普段の自分であれば、ヒステリックに怒鳴り散らしていただろうに。客観的に見る余裕すらある。そして、それを苦笑しながらも、認める事も。
もう、何も出来ない。ならば、このまま無為に死んでしまえばいい。
(いや)
一つだけ、しなければならない事があった。ケイネスに残された、最後の拠り所。
泣き声を上げて、崩れるウェイバーに、魔術師らしい姿はない。ケイネスが見ていることにも気付かない顔の横を、強引に掴んだ。
「いつまで……そうしているつもりだ、ウェイバー・ベルベット」
「あ……先生! 意識が……でも……」
未だ混乱の中にあるのか、言っていることがめちゃくちゃだ。それを修正するように、手に力を込めた……どれだけ込められたかは、分からなかったが。
「これを持って行け……そして、もう一人魔術師を見つけろ……。貴様が……やるのだ」
「な、何を言ってるんですか! 速く治療しないと!」
「私の事などいい……どうせ、もう助からん……」
「そんな! そうだ、アーチャーなら何とかできるかもしれない!」
それは、甘ったれの反応だ。まるで一般人のような、魔術師がしないであろう思考。
言葉の為にはき出した空気を、もう一度吸い込む。その程度の動作すら、酷く重くて億劫だ。血の味と臭いしかしない気体に、しかし不快感も湧かない。ただ、機械的に、次の言葉を発するための燃料を取り入れた。
「奴も……万能ではない。そんな余裕があれば……自分に使っている。いいから、私の話を聞け」
「だって! そんな事をしてたら、先生が死んじゃいますよぉ!」
その通りだ。全く持って正しい。彼の言葉には真理があった。重傷を負えば、生物は死に向かうという、超越者たる魔術師ですら回避しえない不文律。
「そうだ。だから……余計な時間を使わせるな」
ウェイバーの、涙に濡れた瞳が揺れる。よく知っている目、負け犬のそれだ。栄光の道を進み続けるケイネスに、よく向けられたそれと同種。
どこにでも居る。自分の限界を知って、絶望した者。
「ボクがやるなんて……無理ですよ。だって、結局何もできなくて、ライダーにも何もしてやれなくて、魔術だって、ボクは、本当は、大した事なんてなかった……。優れた、魔術師の筈だったのに……」
本当であれば。その言葉を聞き流して、話を続けてもよかった。いや、時間が限られている以上、それこそが利口だっただろう。
しかし、ウェイバーの言った言葉。それは、どうしても聞き逃せなかった。
重たく鈍い腕を動かして、胸ぐらを掴む。いや、指に力が入らず、腕の重量に負けて簡単にほどけていった。指先だけが襟にひっかかり、なんとか垂れ下がる。
揺れて、合わせようとしていなかった視線を、自分のそれと無理矢理重ねさせる。涙にまみれた少年の目に、強く、強く言い聞かせた。
「貴様は……魔術師だろう」
そして。
今まで揺れていただけのウェイバーの目が、初めて定まった。
「ケイネス様ぁ!」
不意に聞こえる、ランサーの声。なぜここに居るのか、そう考えたが、それも当然だと思い返す。ラインが繋がっているのだ。異変があれば、一発で分かる。あの忠義に飢えたサーヴァントであれば、来ないはずが無かった。
「お……俺という奴は、またしても……なんと愚かな」
「黙れ、ランサー」
切れた胴体の向こう側で、崩れ落ちるランサーに告げる。
涙に濡れた顔を上げたランサーが、言われる通りに黙った。しかし、その場を動こうとはしない。
「貴様に……持ち場を離れていいと言った覚えは無い。それに……私は今……話をしている最中だ」
視線も向けずにそれだけを告げて。再び、ウェイバーに言葉を作った。
「いいか、ウェイバー・ベルベット。貴様が……今後も魔術師を名乗るつもりならば……覚えておけ。優れたる者には……必ず義務がある。王には王の……貴族には貴族の……。そして、人間以上である魔術師にも……当然だ。いいか、それがこれなのだ。魔術師である以上、吸血鬼や……こういった存在を討伐するのは……義務なのだ。誰も拒否できない……してしまえば、魔術師ではなくなる。そこに、力の程度など関係ない。ウェイバー・ベルベット……貴様がこれからも魔術師であると言うならば」
そこで、一度言葉をとぎった。
もう、それに意味など無いのかも知れない。無くしてしまっても、良かったのだろう。根元の部分が、消えてしまったのだから。
でも、と否定する。ケイネスが魔術師である事。そして、その技量。それは、言葉少なで滅多に感動をしなかったソラウが、誉めてくれたからなのだ。彼が、自分が魔術師である事にプライドを持つ、誇りの根源。彼女を無くしてまで、持ち続ける意味があるとは思えない。それを誉めてくれる人は、もういないのだから。
それでも。
ソラウが居なくなってしまっても。誇りを捨ててしまえば、彼女まで否定してしまう気がして。どうしても、捨てられなかった。
だからこそ、ケイネスは最後の時まで、魔術師で居続ける。意味などなくとも、価値はあると信じて。
「義務を果たせ……魔術師としての」
手に持った銀珠を押しつけようとして、それはこぼれ落ちた。しかし、それが地に落ちる前に、しっかりとつかみ取られる。間違いなく、ウェイバーの手だった。
ウェイバーの目は、未だ涙に濡れている。しかし、もう敗者のような弱さは感じられなかった。……いや、実際はどうなのだろうか。目がかすんでいて、よく見えない。そうである気がした、というだけ。
「ランサー」
「はっ……お側に」
近くに、跪く気配。そして、手を取られた。
正直に言ってしまえば、ソラウが触れた彼に触れられるのは、不愉快だった。しかし、まあ、最後くらいは多めに見ても良いだろう。
「私は……貴様が、嫌いだった。ソラウを奪った貴様が……憎くて仕方がない。幾度、令呪で自害を命じようと思ったことか」
「……」
「だが……いや、だからか。貴様の忠誠心、それだけは信じている。一つ聞く……私は令呪を使い切り……今こうして死に向かっている。それでも……貴様は忠誠を誓っているか?」
「当然です! 俺の主はケイネス様を置いて他にありません!」
手を、強く、強く握られた。全く持って、理解しがたい。クールなようで、暑苦しい。それは、最後まで変わらないようだ。
「ならば……最後の命令だ。ソラウの仇を……取れ。そして、私という魔術師に仕える者として……あれを許すな。必ず、仕留めろ。奴は……野放しにしてはいけない」
「……必ずや。我が命と、槍にかけて」
どの口が言うのだ。普段であれば、そう返していたであろう、ランサーの言葉。しかし、なぜかそれを素直に信じられた。もしかしたら、死に面して弱気になっているだけかも知れない。他に縋るものがないだけかも知れない。それでも、彼が受けたのならば。安心する事だけはできた。
そして、暗い闇に閉じていく意識の中で。ケイネスは、うっすらと考える。
(思えば……満足のいくような人生ではなかったな)
上手くいかない事などなかった。全てが、多少の苦労はあれど、自分の思い通りにいった。そして、達成感も何もなく。ただ漫然と、今日だけを見て生きてきた。何かを案ずるような事など無かったのだから、当然だ。
だからといって、別に苦労や達成感を欲したわけでは無い。そもそも、そんなものは知らないのだ。憧憬以上になりようが無い。つまりは、妄想と同じ。存在しないのと同じ事。
ケイネスの世界は、ソラウと自分だけで完結していた。そして、それで良かった。
(思ってみれば、ソラウにもっと私を見て欲しい。武名があれば、もっと私を見てくれるだろう……それが、聖杯戦争に参加した動機だったな)
馬鹿なことをしたものだ。それで、ランサーに奪われたのだから、ぐうの音も出ない。おそらくは、人生で初めての後悔だったであろう。ましてや、ソラウが死んでしまうのであれば、参加などしなければ良かった。
それでも。もしケイネスが過去に戻れるのであれば、やはりもう一度、参加してしまうのだろう。今度こそ勝利すれば、ソラウが喜んでくれる。そう思いながら。彼の世界が狭いからこそ、好きな女性に良い格好をする、それだけの事で命を賭けられる。……まあ、今度行くとしたら、ソラウをおいていくだろうが。
その時は、ソラウの笑顔という、人生初めての満足を得られるだろうか。そうであれば、言うことはないのだが。
思考が、ずいぶんと鈍ってきた。いや、こんな風に過去を顧みるような性格では無かったのだ。最初から、少しばかりおかしくなっていたのだろう。
もう何も見えないし、何も分からない。感触すらない。もしかしたら、生きているか死んでいるかの判断すら、付かない。
光ではなく、闇でもなく。昼ではなく、夜でもない。あらゆる区分が無くなった、純然たる空間。ただ、そこに広がって存在するだけ。もしかしたら、それこそが天と呼ばれるものなのだろうか。
いつの間にか、体が軽くなっていた。今までの倦怠感が嘘のようだ。いや、嘘なのだろう。何せ、ここにいるケイネスには、下半身があった。つい先ほど、永遠に失ったばかりのものが。
冗談のように広い空間は、やはり、相変わらず冗談のように広い。無意義に広がるそこに、ただ一つ、存在する。赤髪でショートカットの、シンプルかつ高貴な雰囲気を漂わせる格好の、よく見知った女性。
相変わらず、表情は固く閉ざされたまま。ランサーに出会ってからの、柔らかく花が咲いたよな笑顔では無い。
それは、戻ったと喜べばいいのか。それとも、笑顔を向けてくれないと嘆けばいいのか。
ただ、一つ。迎に来てくれたのが彼女であるという事、それだけが喜ばしい。
そして、ケイネスは彼女に向かって大きく手を伸ばし、
「ソラウ、私も行くよ……」
ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは、静かに眠りについた。
二度と、覚めぬ眠りに。
全てが円満に、満足できる人生などはない。それは哲学などという大層なものではなく、ディルムッド・オディナの人生から出された結果だった。
不可抗力であろうが、なかろうが。結果的に、彼は信頼を裏切って、愛を選び、それに殉じた。
選択と、それを貫き通した自分自身に後悔はない。だからこそ、次の機会を与えられるのであれば、愛を捨ててでも忠義に生きると決めていたのだ。
(本当に、それは正しかったのか?)
しかし。いざ、その場面に直面すれば、浮かんだのはやはり、後悔だった。どこかを満足する代わりに、どこかで悔いを残す。一度目の人生と同じく、今生でもまたそれはあった。
手に取っているのは、主の垂れた手。もう動かない。
主の愛する者を死なせてしまった。そして今、こうして主すら、守りきれないでいる。
(俺は何だ? 本当に騎士なのか?)
自問すれど、帰ってくる声は無い。それに対する答えを持っているのは、彼に他ならないのだから当然だ。
もう少し、うまいやり方が。あとちょっとだけ、優れた選択が。どこかに埋まっていたのでは無いか。いつも後悔をする度に、思い続けた思考。そして、そんなものにまみれ続けていた騎士道。
愚直なまでに道を貫いた。問題を、上手く交わせるだけの器用さなど、持ち合わせていない。切り開いてきた道は、いつでも武勇によるものだったのだ。全てを選んで、それを貫き通すような力と強さなど、どこを探しても存在しなかった。ただの、一個人。一人の騎士。騎士道を貫くことが、その裏返しで無かったと、言い切る自信が無い。
英雄、などと言われ、奉られて置きながら。そんな、大層な人間ではない。普通に悩んで、普通に失敗し。ただ、上手くいった部分が名誉となっただけ。
それでも、名誉を勝ち得た部分にだけは、相応の自信があった。
しかし、今はそれすら揺らいでいる。武を必要とされる部分で、それをなし得なかった。
こんな自分で、一体何ができると言うのか?
自力で答えを出すことができない。いくら手を強く握っても、主は何も応えてくれない。
「なあ、ランサー」
同じように、うなだれていた少年。ライダーのマスターが、空虚に呟いた。抱えていたケイネスの頭を、そっと下ろし。両手に乗せた礼装を見下ろしながら、呟いた。
「ボクはさ、ケイネス先生の事が、大嫌いだったんだ。そうだろ? いつも偉そうにしてて、人を見下しててさ。書いた論文だって、中身を見る前に破り捨てられたんだ。いや、ボクだけじゃない。他にもたくさん、そんな思いをした人はいたと思う。でも、誰も文句なんて言えなかったよ。先生は怒りっぽかったし、やっぱり怖かったんだ。最悪の、先生だと思った」
その言葉は、ケイネスがどれほど嫌な奴かを、如実に語っていた。そして、その表情は、それだけでない事を雄弁に物語っていた。
「それは今でも変わらないよ。けどさ……」
ぽたり、と。透明な液体が、銀の球体にこぼれ落ちる。続いて二つ、三つ。銀に落ちては、表面を滑る。止まらない涙。
辛い思い出ばかりだった筈だ。最初の彼の様子を見れば、良いところを探す方が難しかったと、そう確信できる。それでも、彼は泣いていた。遺品を抱きながら、大きく――慟哭の声を上げる。
「まだ、教えて貰ってない事がたくさんあったんだ!」
その姿を見て、ランサーは理解する。自分は、本当に、何も分かっていなかったのだと。
主に忠誠を誓い、己の命を賭す。それに嘘は無い。だが、それは結局の所、自分の都合でしか無かった。結局の所、彼がマスターに求めていたのは、主としての器。そんな身勝手な願望を押しつけて置きながら、自分自身は主の性質に対して、何一つ理解を示していなかったではないか。
ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは最後まで魔術師らしく、その使命に殉じた。正しくは無かったのだろう。少なくとも、聖杯争奪という、戦争の枠の中では。しかし、誰よりも魔術師であった。死に直面してまでも。
(それに比べて、俺はどうだ……)
騎士の誇りと、それに相応しい戦い。理解を示してもらえない事に、嘆く感情は確かにあった。……なんという、馬鹿な考え。
表層ばかりを注視して、その本質が何も見えていない愚か者。義務に命を捧げる程の人物をおいて、どこに主たらしめる人間がいると言うのだ! 理解することを放棄した馬鹿に、歩み寄る者がどこにいる! 忠誠を誓った気になって、理解をした気になって……一番何も分かっていなかったのは、彼自身であったと言うのに。
恩師の亡骸の前で、涙する少年。嫌っていると言いながら、その実、ランサーよりもよほど理解している。
(至らぬ騎士で、申し訳ありませんでした。しかし……)
例え何を犠牲にしても、遺言だけは必ず果たしてみせる。
ケイネスの手を、そっと地面に横たえる。まぶたに手を当てて、ゆっくりと瞳を閉じた。
「俺が言うことではないのでしょうが……せめて、ソラウ様と安らかに」
最後の言葉を残して、ランサーは立ち上がった。
単独行動スキルのない彼では、マスターを失って行動できるのは良くて数時間。戦闘をすれば、何分持つかも分からない。最後の命令を達成するならば、もう猶予は残っていなかった。
「待ってくれ、ランサー」
背を向けた彼に、ウェイバーの声がかけられた。
「今、ライダーが逝った。アイツが居ない以上、固有結界は遠からず解除される」
呟かれた声に、背後を見る。そこには、光の粒となって消えていく、ライダーの剣の鞘。剣本体が残っているのは、武器は魔力で編んだ装備や、純エーテル体のサーヴァント本体よりも、現実への比重が高いからだろうか。あるいは――既に所持者が移っていたか。ライダーから、そのマスターへ。
ウェイバーも立ち上がり、そしてランサーを見た。未だに涙が溢れており、顔も赤く歪んでいる。しかし、瞳にだけは、強く輝くものがあった。
形見である礼装を持ったまま、手を掲げる。見せられた手の甲には、残り一画となった令呪。
「ボクと再契約しろ、ランサー」
「俺は、二君に使える気は無い」
「違う」
静かに、首を振って応えるランサー。それは、すぐに否定された。
「オマエは先生のサーヴァントだ、ボクに忠誠を誓う事なんて、願っちゃいない。ボクはライダーの、そしてランサーは先生の敵を取る。まだ令呪の残っているボクを利用しろ」
顔立ちは少年然としたまま、しかし悪鬼のような迫力。食いしばった歯が、割れんばかりの意思が滾っている。
「ボクとオマエで、復讐をするんだ。先生の最後の命令を果たせ!」
その言葉に、僅かに戸惑う。
彼の提案は、とても正しかった。令呪のバックアップを得られれば、一矢報いられる可能性は遙かに高くなるだろう。しかし、それでいいのか、と自問した。目的を達するために、他のマスターと契約する。それは、ケイネスに対する侮辱にならないだろうか。何よりも、騎士としての礼節に欠ける……そこまで考えて、否定をした。
何をしてでも、仇を取ると決めたのだ。ならば、己のプライドに根ざす拒否感など、いくらでも捨ててやる。
今更取り繕って何になる。彼の言うとおり、するのは復讐だ。
二槍を眼前に構える。共に、栄光を信じて正しき道を走った相棒。それすらも、今は復讐の道具に貶めようとしている。それらに対し、ランサーは謝ることすら出来なかった。身勝手である事は、重々承知している。しかし、やらねばならぬのだ。例えそれが茨の道であろうとも。主の無念を晴らさず、のうのうとしているならば、それは最早人である事を誇る事すらできない!
「いいだろう。今より貴様を、我が同士と認める。共に、共通する仇敵を討ち取ろう」
「約束しようランサー。オマエは騎士として、ボクは魔術師として、必ず間桐臓硯と言峰綺礼を、殺すんだ」
そして、触れる両者の手。それと同時に、ランサーは感じた。供給される魔力こそないものの、漏れ出るものはぴたりと止まる。希薄であった現実との縁が強化され、いつでも消えてしまいそうだった不安定さが消える。
持ち上がったままの手、その甲に、魔力が漲るのが分かった。令呪に流れ込む意思が、発動する前に感じ取れる。つまりは、殺意。
「ランサー、蟲の本体、間桐臓硯を全力で殺せ!」
「――参る!」
まるで溶岩の様に燃えさかり、消えることを許されない感情。ランサーを、内側から焼き滅ぼさんとしている――そうとすら思える奔流。それに押されるままに、ランサーは駆けた。
幾百幾千という距離を、僅か一歩にまで縮めて。その中途に、アーチャーとすれ違う。
勝手に持ち場を離れたのだ、本当ならば、謝罪の一つでもするべきなのだろう。しかし、今はそれだけの時間すら惜しい。だから、置いたのは僅か言葉一つのみだった。
「道を作る! 俺ごと殺れ!」
一時的にステータスとスキル、そして集中力を一段階跳ね上げたランサー。槍の冴えは今までの比では無く、生涯最高とすら言える捌きを見せていた。音速を優に超える速度で槍を振り、作られた小さな穴に体を潜り込ませる。最小の敵を倒し、最短距離を進む。正しく、最速の名に相応しい進軍。
呪われた黒子により、望まぬ愛を植え付けた。その結果、最高の友であり主である男に背いた。言葉を聞かずに戦に赴き、妻を置き去りにした。そして今、最後に縋った騎士道すら投げ打って、復讐に走っている。
不思議だ。己たる要素を失いながらも、なおも速い槍。
身軽になってしまった事に、胸の内に痛みを覚える。ついぞ救われなかった想い。それだけであれば、ただの空虚であっただろう。しかし、そこを代わりに満たしたのは。ケイネスとソラウという、今生での主だった。
もう、自分の事などどうでもいい。
ケイネスの為に。ソラウの為に。
無念を晴らすために。
今までを、嘘にしないために。
――報いるのだ。
「おおおおぉぉぉ!」
絶叫は、大気を強烈に振動させた。声に呼応するように、槍はさらに速く、何より暴力的になる。蟲は、槍に触れた先からはじけ飛んだ。
核に……つまり間桐臓硯の周囲数十メートルは、どれだけ蟲を駆逐しようとも、体を潜り込ませる余裕が無い。令呪による空間転移で、接近できなかった理由でもある。近くに出現したとして、何かをする間もなく穴だらけになってしまっては、意味が無い。ましてや、臓硯を中心に数メートルは、空気が入る隙間も無いほど、みっしりとしきつまっている。威力型の宝具を持たないランサーには、あまりに分厚い難関だ。
しかし。
確かにランサーは、能力で言えば、他のサーヴァントに見劣りするだろう。相手が魔術師ではなく、かつ一会戦で勝負を決めようと思えば。実質的に、宝具を所持しないサーヴァントとなる。
ならば、ランサーは他のサーヴァントに勝てないのか。それは否だ。宝具が無いのであれば、己の業そのものを、宝具の域にまで到達させればいい。それが出来るからこその、フィオナ騎士団の随一の戦士なのだ。
精緻に突かれていた槍は、暴風と薙がれる。隙間を見つけよう、などという事は、もう考えていなかった。ただあるのは、目の前に存在する全てを殺害せしめる。
球状に振るわれる二槍。その内側に群がろうとする蟲は、ほぼ全て半ばまで潜り込むことも出来ない。僅かに進入できたものも、腕を僅かに喰らうだけに終わる。ライダーにその殆どを持って行かれたとて、未だ残る数は膨大。その半分でも差し向けられれば、倒せただろうが。アーチャーを放置してまでそうするのは、下策だ。
極限まで身体能力を強化し、捨て身の特攻。皮肉にも、それが戦況を逆転させていた。
いよいよ、臓硯を射程距離内にまで納めて。ランサーは吠えた。
「覚悟しろ外道! 我が主をその手にかけた罪、購ってもらうぞ!」
『馬鹿ナアァ! アリエヌ……ワシハ、永遠ノ命ヲ……!』
「妄言は地獄で好きなだけ垂れろ!」
臓硯を守る城、それが切り崩され始める。物量を遙かに増した壁に、傷を多く作りながら。それでもランサーは、前に進む。
遠距離攻撃であれば、内包する魔力が枯渇してしまえば、それ以上はない。しかし、武器を手に持つのであれば、無理矢理にでも攻撃を続けられる。ましてや手に持つ武器が、魔力の干渉を許さない紅槍と、復活を阻害する黄槍であれば。そこで戦い続ける事が前提であれば、悪くない。
蟲が波打つ。それは、臓硯の恐怖を鏡写しにしているようにも見える。
『ワシノ……ワシノ聖杯ガ……永遠ノ命ガアアァァァ!』
「命を冒涜する者に、そのような都合の良いものが転がってくるものか!」
――見つけた!
ランサーの鋭い観察眼は、僅かに除いた臓硯の本体を、見逃しはしなかった。乗った勢いをそのまま動かして、紅槍で両断する……筈だった。
腕は、確かに振るわれた。しかし、槍がそれに付いてこない。正確に言えば、槍そのものがなかった。
馬鹿な。手を見ると、そこには小さな違和感。五本の指の内、親指だけが欠損していた。臓硯の苦し紛れの反抗、それが、ここに来て幸運を呼び込んだ。
『ソ……ソウダ、ワシノモノダ! 聖杯ハ、我ガ手ニ!』
膨れ上がって、死に体のランサーに襲いかかる蟲。槍二本ですら、ギリギリに均衡を保っていたのだ。一本で、それも消耗しきった今の状態では、それを捌ききれるはずもなく。
だが。外道が運によって生かされるというのであれば。英雄が、それを実力や縁によって打破するもの、また道理である。
ずだん、足下で音が鳴った。そこに突き刺さっているのは――ライダーの剣。一瞬振り向く。そこには、剣の雨に怯えながらも助けられ、戦場に入り込む少年の姿。
ウェイバー・ベルベット。この土壇場、最高のタイミングに、ランサーへ剣を届けた。
「見事だ」
四本の指で、剣を拾う。親指がないと分かっていれば、一太刀だけ、全力で振るう事くらいはできる。いや、仮初めとは言えマスターに、あそこまでさせておいて、自分が出来ないなどと言っていいわけが無い。変則的な握りながらも、手のひらにしっかりと固定された柄。それで、今度こそ全力で切り落としてやる。
『ナ――』
槍を失った事で、行動が一つ分遅れた。それでも、最速を名乗るサーヴァントである。体の大部分を犠牲にして、臓硯を露出させる。
肉を切らせて、骨を断つ。
力の入らない体。腕の肉は、殆ど無い。一撃で、絶命させる事は出来ないだろう。しかし、それに傷を与えるのは、呪われた力を持つ黄槍。致命的な一撃と言う意味では、十分すぎる。
胴体が半ばまで断たれる。他の蟲とは違う。すぐに泥に戻らずに、あたかも血液のように粘液を噴出し。地の底からわき上がったような、絶叫が上がった。
『ギィ――イイイイイイィィィィィィィィ! アアアアア! オオオオオァァァァァァ!』
今まで完璧な統制下にあった蟲、それが一瞬で乱れる。全てがその場で、無意味に跳ね回り始めた。
唯一の例外は、臓硯の周囲に位置していた数体。必死に核の蟲を修復しようとしているが、それは全く持って無駄だ。黄槍による呪いは、それを超える神秘で無ければ、治療できない。
『イ、ノチガ! ワシノ、セイハイ! イ、ヅゥ! 永遠ガ……ワシノ……聖杯……命ィ! アアアアアアアアア!』
ランサーは、それを見て、気がついた。
これはもうとっくに、間桐臓硯ではなくなっていたのだろう。ただの妄執、彼が持っていた執念を依り代にした、都合のいい型でしかなかったのだ。
だからこそ。無様にすらなっていなく。無意味な、望みばかりを漏らしている。核になっていたものが消えると言うことは、つまりアイデンティティの消失にも等しい。間桐臓硯であったものが破損したと言うことは、つまりそれを元にした行動ができなくなる。既に、聖杯の端末としての機能は、壊れているのだ。
流星が走る。アーチャーの放った、宝具の雨の数々。
最高の好機を逃すような、甘い男では無い。その信頼は正しく反映され、制御を失った蟲ごと、臓硯を薙ぎ払っていく。大火力の集中砲火は、ただそこにあるだけの蟲で止められるようなものではない。
ただの泥に崩れていく臓硯――いや、もうその呼び名は相応しく無いだろう。液状である、元の形に戻っていくアヴェンジャー。
それを確認しながら、ランサーは笑った。
仇は討てた。これで良かったのかは分からないが、それでも無念のツケを払わせる事だけは、成功している。
それを知って、ケイネスはどのような顔をするだろうか。分からない。結局、最後まで深く知ることが出来なかった主。
笑ってくれ、とまでは思わない。だが、溜飲を下げてくれればいいと思う。
結局は、全てにおいて中途半端。終わるまで、何に気付くことも出来なかった。それで良いなどとは、口が裂けても言えなかったが。
しかし、思う。
もう一度機会があれば、また自分をサーヴァントに選んでくれるだろうか、と。そして、もう一度があれば。今度こそ、忠義という都合の良い隠れ蓑に隠さず、主を知る努力から始めよう。
ケイネスとソラウ、二人が笑い合える姿を夢見ながら。
アーチャーの宝具か、それとも自然消滅か。どちらが速いかは分からなかったが。
終わる時を、静かに待った。
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二人は分かり合えない
体に魔力を通し、魔術を発動する。上手く動けば足は速くなるが、その分負荷が増す。失敗しても、少しばかりの苦痛があるだけ。
どちらの方がいいのかと問われれば、成功した方がいいのだろうが。どちらであっても、不毛な事には変わりない。終わりの見えない道を歩く時は、いつもそうだ。当ての無い道を彷徨いながら、しかし考えることもできない。とにかく、何かが、どこかに届くことを願って、いつも。しかし、立ち止まることだけはできない。
いや、そもそも明確に『終われる』道など、見えたことが無い。切嗣は自嘲しながら、崩れたコンクリートと鉄骨の山を走った。
常に人を救おうと走っていた。満足したことは無い。どれほど上手くこなしても、必ず不満があったのだ。不満を解決できぬまま、救おうとする人はさらに多くなり。不満はやがて、強迫観念となって襲いかかり始めた。
皆は救えない。だから、より多くを救う為に、少ない者達を切り捨ててきた。例え、そこに悪が無かろうとも、誰かを救うために殺し続けてきた。
いつからだろう……立っているのすら、こんなに辛くなったのは。いつからだろう……進む先が見えなくなったのは。
ぼやけた思考に浮かぶ疑念、その全て切り捨てた。いつものように。
山のような屍を築いた。後戻りなど、とっくに出来やしないのだ。いつも思ってきた事。今ここで倒れて、奪ってきた命を無意味にはできない。
踏み込んだ足が笑う。それは、体重に匹敵する重装備を背負っているためか。それとも、精神的なものが理由なのか。結構な距離を無茶して、魔術の補助で無理矢理進んでいる。どちらであっても、おかしくない。
歩みそれ自体には、迷いが無かった。まだ何も分かっては居ない。理論を求められたら、答えられないだろう。傍目に見れば、闇雲に走っているだけだ。しかし、切嗣は近づくにつれて確信していた。この先で待っている敵は誰かを。
当然、言峰綺礼の居場所を知っている、などという事は無い。ただ、いるであろう場所に確信があった。根拠のない自信。しかし、確実にいる。
近い……それを感じ取って、破壊された壁の影に隠れた。
静かにしゃがみ、物陰からそっと覗く。世界はまだ夜の闇。しかし、魔術師であればそんなものは、どうにでもできる。慎重に目を凝らせば……いた。
音を立てないように、慎重に荷物を置いた。体重が一気に半分近く減る。悲鳴を上げてきた肩が、無くなった負担に歓喜の声を上げていた。
ひっそりと、物陰から身をさらす。周囲を見回して、ちょうどいい残骸を見つけた。その上に、持ってきた装備の中でも最大火力の一つ、アンチマテリアルライフルの銃身を乗せて、固定する。
(まあ)
スコープから覗く言峰綺礼の横顔は、涼しいまま。今、街の一角をまるまる占拠して行われている戦争、それすら気にしていないように。ただ、夜風に靡かれるまま、直立している。額にうっすらと伸びていた汗が、すっと引いた。不安定だった意識が、その瞬間だけはフラットになる。いつもの、人を殺すときに自分を鈍化する作業。
狙うのは胴体。当るならば、場所はどこでもいい。どうせ、どこに当たったって粉々だ。
(無意味だろうけどね)
諦めながら、引き金を連続で引き金を引き絞る。瞬間、銃口と綺礼の進路上に現れる、黒い壁。セイバーがサーヴァントだと言っていた、何かだ。
対応される事は無論、近くにまで寄っていた事まで、知られているのは予想済み。なにせ、ここに付くまで、蟲の襲撃を一度も受けていないのだ。意図的に避けていたとしか思えない。
音を置き去りにする弾丸が、サーヴァントの群れへとめり込む。それで対象がどうなったかなど確認しない。しようも無い。とにかく、連続して引き金を引いた。暗闇には目に痛いマズルフラッシュ、光量に比例する圧倒的火力。弾丸には、対サーヴァント用として用意した純粋魔力弾頭――対魔力に関係なく、サーヴァントの防御を貫ける。音速近くで動き、音速の十倍ある速度の攻撃に対応するサーヴァントに、使う機会があるかは分からなかった装備。そんなものを、予備弾倉を含めて、全て叩き込んだ。
蟲の壁は分厚い。全弾消費し切っても、向こう側にいる筈の言峰綺礼は見えなかった。
用が無くなったアンチマテリアルライフルを、その場に投げ捨てて。地面に転がしておいた大筒を二つ、肩に担いだ。対戦車ロケット、個人携帯兵装では最大火力に部類される。対サーヴァント効果はライフル弾よりも劣るが、当たれば威力は絶大。
照準をつけた所で、一瞬迷う。ここで、奴を殺した所で、一体何の意味がある? 既に、聖杯の行方は己の元より失ったに等しい。それでもやるのか――愚問だった。迷っても、何も見えなくとも、ただ足を進める。いつもそうしてきたように、今日もそうする。それだけだ。
ロケット弾は吸い込まれるように、壁に着弾する。闇夜に一瞬咲く、煉獄の花。人間どころか、現代の主力戦車すら仕留める兵器。
しかし、それすらサーヴァントの前には、無力だった。火炎が花のように広がったという事はつまり、瀑布と高熱が奥まで届いておらず、その場で拡散した事の証憑。
もう役に立たない、ただの筒になった発射台を落とす。蟲の壁が崩れて、内側の男が姿を現す。それを確認して立ち上がった切嗣に、やっと綺礼は視線を向けた。
「終わりか?」
至極どうでも良さそうに、言う綺礼。
こんな男では無い。少なくとも切嗣の知る言峰綺礼という男は、一切の余裕を失って、自分に執着してくる男だった。今の状況を無視するような男では、絶対にない。
彼にどのような心境の変化が訪れたのか。全く理解できなかったが、しかし。とりあえず、切嗣は足を進めた。
それは、自殺行為に他ならない。しかし、攻撃されないという自信があった。
接近して、言峰綺礼を殺せそうな武器は、まだある。全く使う気になれなかったのは、サーヴァントの反応速度を超える自信がなかったから。そもそも、言峰綺礼自体が、恐るべき手練れである。反撃されれば、一ひねりにされるだろう。
目の前、数歩分の距離をあけて、切嗣は立ち止まった。
「お前には、聞きたいことがある」
「私に、聞きたいことだと? それはまた、立場が逆転したものだ」
何に向けているか分からない笑い方。そんなところばかりは、以前の言峰綺礼らしい。
それが、隙なのかは判断に困った。そもそも、今の言峰綺礼は隙だからに見える。だが、とにかく切嗣は、経験に従った。つまり、右手に持っていた短機関銃を跳ね上げて、男に向けて乱射。
蟲は余裕を持って、全ての弾丸を受け止めた。その上、短機関銃にも取り付いて、破壊し始める。急いで手を離して、なんとか接触だけは避けた。
「ずいぶん厳重に、自分を守っているな」
「守っている? ああ、勘違いするのも仕方がないな。これは私が命じているのではなく、勝手にやっている事だ。仮にも依り代である私に死なれるのは、都合が悪いのだろう」
つまりは、言峰綺礼はある程度こいつらに命令できる。その上でこれは、綺礼を守るために、自動的に動く。厄介な機能だ……それこそ、宝具のような。
チッ、と舌打ちをして。切嗣は、左手に持つ銃も手放した。ライフルやロケットすら通用しなかったのだ、こんな豆鉄砲が通る筈が無い。少なくとも、サーヴァントの制御が一瞬でも途絶えるまでは、何もできない。意味が無いから持っていなくても同じだ。それに、もし武器一つ捨てただけで油断をしてくれれば、御の字である。
切嗣は攻略に失敗した。いや、最初から成功させる手立てがなかった。
誰かが、この状況を変えるまで。そして、一瞬でも隙ができるまで。切嗣は生きていなければならない。
「それで」
まるで、銃で撃たれた事など無かったかのような対応。いや、声の質から何から、綺礼には一切影響を与えられていなかった。
「聞きたい事があるなら、早めにした方がいい。別に急いではいないが、時が来れば中断させる」
(なぜお前は、そんなに穏やかなんだ)
思わず口から出そうだった言葉を、無理矢理飲み込んだ。
言峰綺礼は、切嗣の殺意に全く反応しなかった。できなかったのではない。分かっていて、反応しなかったのだ。奴は、銃を向けられた瞬間、確かに視線をこちらに飛ばしてきていた。おそらくは、単純な反応速度であれば、切嗣以上。接近戦では勝ち目が無いだろうと思わせる、それほどの反射神経。
ならば、蟲を過信しているのだろうか……それも否。彼の言動からも、様子からも、蟲を信じている様子は全くない。
何より、確信があった。言峰綺礼は、銃弾が当たるとしても、そこで佇んでいただろうと。まるで――聖者のように。
頭が混乱する。以前感じていた危機感は、もう覚えない。目の前にいる男が言峰綺礼だと、自信が持てなくなっていた。何があれば、人はこうまで変化するのだろう。指は、自然と引き金を探していた。誰かを助けるためでは無く。ただ、自分に都合が悪い者を消すため――己の悪意の為に。
(まだだ……ひとつずつ確実に、時間を引き延ばす。確信に迫るのは、後でいい)
呼吸を落ち着けた。綺礼が悪意に無反応だろうと、虫は敏感だ。今も、切嗣のそれに反応して、ざわめいている。
感情を消すのに苦労は無かった。元より、命の危機を感じず、敵意もない相手。自分さえ誤魔化してしまえば、あとはどうにでもなる。一番根深いものが、恐怖であっても。
「お前はなんで、アイリを生かしたんだ? 聖杯を奪うならば、心臓ごと抜き取った方が簡単だった筈だ。いや、それ以前に、聖杯の事はどこで知った?」
「聖杯については、間桐臓硯が仕入れてきた。奴は、アーチャーから盗み聞きしたようだが。おおかた調べ物でもしていたのだろう」
綺礼は、黄金の杯を眼前まで掲げた。親指で撫でて、器を回しながら言う。
「聖杯も完全では無い。端末を介しなければ、追加で力を寄り寄せられん。少し、欠け落ちがあるのだろうな。これがアーチャーの仕業である可能性は高いが……これ以上は知らん。知りたければ、本人に聞くのだな」
つまりは、このような事態になったのは、アーチャーが原因であり。同時に奴のおかげで、ギリギリのラインで踏みとどまっている。
とにかく、やたらに聖杯戦争をかき回す奴だ。あれのせいで、最初からイレギュラーばかりが起きる。なまじ強いせいで、倒すことも出来ない。
「それと、アイリとはアインツベルンの女の事であっているな? ならば、奴を生かした理由は簡単だ。そもそも殺すだけの理由が無い」
「殺すだけの理由がないだと? ……はっ」
吐き捨てるように、笑い飛ばす。全く持って、面白くない冗談だ。
「元代行者が、理由が無いから殺さないだって? 嘘にしたって、もう少しましなものがあるだろう」
言わば、聖堂教会の殺し屋。神を信仰しながら、その名の下にあらゆる敵を殺し続ける反逆者。奴らにとって、敵や怪しき者は、とりあえず殺す対象でしかない。魔術師とは別の意味で、頭のおかしい者達が集まっているのだ、聖堂教会という場所は。まあ、そうでもなければ。魔術協会と、延々殺しあいをしたりなどすまい。
そして、殺すだけの理由。わざわざ心霊医術で、丁寧に心臓を傷つけぬよう、聖杯を取り出すなど。そんな面倒と手間がある時点で、殺して奪うだけの理由になる。なにより、アイリスフィールをいたわる理由が、何も無かった。
「ふむ」
顎に手を当てて、悩み始める綺礼――あるいは、ポーズだけそうして見せている。どちらにしろ切嗣は、彼の事などよく知らない。表情筋一つ動かさないのでは、その内心までは読み取れない。
「嘘をついたつもりなどないのだが。そもそも、だ。衛宮切嗣。私は、誰一人として殺すつもりはないのだよ」
「――は?」
何を言っているのだろうか。
台詞はあまりに理解しがたく、まともに反応を返せない。
殺すつもりがない? この、命を浪費しているような男が? 冗談だとしても、馬鹿馬鹿しすぎる。
「今現在も、正体不明のサーヴァントを使って虐殺を繰り返しているお前が言える事か」
「そこでも食い違いがあるか。お前が言うところの正体不明のサーヴァント、アヴェンジャーは無形。故に、間桐臓硯という端末を利用して、この世に形を作っている。そして、飲み込んだ者達は聖杯に蓄えられる」
「聖杯、だと?」
なぜか。怒りがわき上がった。ぞわりという、背筋を震えさせる悪寒。理由の分からない警戒心が、膨れ上がり続ける。思わず、敵意が漏れた。当たるはずの無い銃すら、向けたくなってくる。絶対に、それは聞いてはいけない。そんな気がしてならなかった。
「その通り、聖杯だ。サーヴァント、アヴェンジャー。誰からも望まれなかったもの。無であるが故に、限度も無い。人々は殺されたのでは無く、魂ごとアヴェンジャーに同化しただけだ」
「……知っている」
だから、言うな。声は、乾いた喉に阻害された。上手く言葉にならない。
アイリスフィールから、既に話は聞いている。それが聖杯からあふれ出たものだという事も、臓硯を吸収して今の形になったと言うことも。だから、何だと言うのだろう。自分でも分からなかった。
もしかしたら、聞かなければ、まだ可能性があるかも知れない。確定で無ければ不確定。ならば、まだ信じる余地があるのではないだろうか。愚かしいを超えて、哀れさすら感じる願望。
しかし。
言峰綺礼は、無慈悲であり、無感動であった。
「かつては違ったのかも知れない。しかし、今はもう、こう違ってしまったのだ。アヴェンジャーという、無垢に汚れたものへと」
……馬鹿な。
アヴェンジャーは、言峰綺礼、間桐臓硯という二人の外道によって。あるいは、他の誰かによって変質されられたもの、そうでなければいけないのに。それこそ。最初から汚れたものが、英霊の具現という奇跡を起こしていたと言われるより、遙かに説得力がある。そして『取り返し』がつく。少なくとも、そう思える。
それがどうしようもなく汚れたものだなどと、そんな事があっていい訳がない。
無垢なる奇跡。万能の釜。そして、勝者の願いを叶える鏡。それが聖杯である筈だ。その中身が、美しいものである筈だ、とは言わない。しかし、あのような、おぞましいものであっていい筈が無い。もし、それが本当であるとしたら――どんな風に、願いが叶えられると言うのだ。世界の恒久的な平和という願いが。
こんなものが、結末だと言うのか。あらゆる過去を置き去りにして、無意味にして。妻子すらも犠牲にしようとした。そこまでもしても、平和が欲しかった。もう誰も涙を流さず、不幸を嘆かない、そんな世界を。求め続けたと、言うのに。
その、最後の希望が。
これなのか。
聖杯は、求めたものではなかった。衛宮切嗣の願いを届け、世界を光で満たすようなものでは。ならば、もう彼に。動く理由は無い。
揺れる体は、そのままたれ込みそうになって。何故だろう、自分でも分からぬうちに、踏みとどまっていた。足に力など入らない。今でもふらつき続ける。それでも立って、言峰綺礼を睨み続ける。
許されないのだ。衛宮切嗣という、正義の味方が倒れることは。今まで犠牲にしてきた者達の魂、背中で嘆き続けるそれを、無意味にしてしまう。
数多の命を無価値にしても、無意味にはできなかった。まだ、折れることはできない。少なくとも、聖杯をなんとかするまでは。衛宮切嗣が正義の味方をやめる事は、許されなかった。
「お前は……そんなものを持って、何を企んでいる」
「何も」
端的に答える綺礼の言葉は、半ば予想したものではあった。
彼の事を理解したわけでは断じてない。ただ、思い知っただけである。言峰綺礼は、絶対に理解できないと。思考は理解できずとも、言っている事が理解できるのは、幸いと言っていいのか。少なくとも、切嗣には幸運と思えなかった。
す――と、綺礼の視線が滑り、切嗣のそれと交わる。彼の目を見て確信できる事、奴は聖人か、さもなければ死人だと言うことだ。どちらであろうとも、常人にとってはただの狂人。
「主の召されるがままに――誰にも望まれなかった命、その誕生を祝おうとしただけだ。他の誰もがそれを憎んだとしても、私だけは」
「神だと? 下らない」
吐き捨てるように言った。いや、実際につばを吐き捨てながら。
この世界を見て、まだ神に縋れると言うのか。誰もが泣き、誰もが呪うこの場所で。未だに、神の加護とやらを期待している?
衛宮切嗣は、とうの昔に断言していた。神などいない。もしいたとしても、それは役立たずのクソッタレだ。鉛玉一発にも劣る御利益しか持たない。だから、聖杯を求めたのだ。意思もなにもない、ただ願望を反映するだけの機能。神に願うだけの価値が無いなど、幾度も刻まれている。
そんなものに依ると、言峰綺礼は言った。
だからだろう。
「そうだな」
肯定の言葉が返ってきたのは、予想外だった。
切嗣は、小さく驚いた。その時だけは確かに、聖杯が汚れていた事の絶望すら薄れさせて。ただ、大きく目を見開く。
「何を驚いている。そうおかしな事でもあるまい。私のような、聖職者であれば特に」
視線を外すと、綺礼は前を見る。どこにも焦点が合わなく、そしてどこも見ていない。見ている世界は、常に内側にしかなかった。
つまるところ。言峰綺礼は、とっくに見限っていたのだ。
「神は実在する。サーヴァントという存在が、それを証明してくれたのだ。所で、知っているか? 奴らは神の血を引いていながら、あの程度の力しかないそうだ。なんともまあ、矮小な神だ」
嘲る。切嗣がそうするのとは、全く別の理由で。
確かに、英雄は気に入らなかった。殺戮者でありながら、その事実から目をそらして己を誇っている所が。しかし、綺礼のそれは、事情が違う。
彼は英霊の行いそのものには、何ら感情を抱いていない。いや、英霊そのものを、一般人よりも力が強いだけ、程度にしか思っていないのだろう。問題は、英雄と呼ばれる存在の多くに、神に連なる者達がいると言うこと。そして、神に通じておきながら、その力も、精神も、不完全極まりない。
完璧である筈の神が。不完全な者を量産し、是としている。
「――馬鹿にしている。そうは思わないか? 我々のような、救いを求める者達を集める、その根元が……これだ」
言いながら、綺礼は胸元に手を入れた。取り出されたのは、使い込まれた――しかし、しばらく手入れをしていないのか、薄汚れたロザリオ。
それに力を入れて、チェーンを引きちぎった。零れた鎖の破片が、小さな音を立てて転がる。その後を追うように、ロザリオも廃墟から転がり落ちた。見送る綺礼の瞳から、初めて強烈な感情を感じる。侮蔑だった。
「神は人を救わず、道も示さない? 違うな、救えず示せないのだ。そんな力など、はじめから持っていなかったのだよ。思い知らされた。私の空虚を、埋めるものはないと」
もう一度、綺礼は切嗣を見た。
感情に染まった視線に捕われながら、何故か切嗣は安心した。恐るべき敵であり、理解しがたい狂人。なのに、安堵できたのは、綺礼がいままでより、余程人間らしかったから。
そのはずだ。だから、
「分かるだろう、衛宮切嗣。最初は、お前は私の見つけていない答えを持っているのだと思った。次は、私とお前は全く違うのだと諦めた。そして今は、最も遠い隣人だと思っている。それを受け入れるかどうかは別の話にして――私を理解できるとすれば、それはお前をおいて他に居まい」
この狂人の事など。理解できたから安らいだ、などという筈が無い。
皮肉でも何でも良い。とにかく、何かを言い返そうとして、しかし言葉は浮かばなかった。せめて、と何かをはき出そうとして、渇いた喉ではつばも出ない。
「私とお前の違いは、詰まるところ本質の違い、それだけだった。壊れた行動、壊れた思想、壊れた願い。何もかもが異質でありながら、近い。ただ、求めたものだけが、決定的に違う。人のために自分を捨てた聖人よ。私にはお前が眩しく見えていたのだろう――私は、自分のために人を捨てることしか出来なかったのだから」
お前の事など、理解できないし理解するつもりもない。
だから。早く。
その口を閉じろ――理解をして、しまう前に。
「私の妻は、私の為に死んでいった。私が、人を愛せると証明するために。……涙が出たよ。その悲しさが、一体どのような意味のものであったのかは、分からなかったが」
言峰綺礼は、願いが分からなくなんかない。殆ど、分かっていたのだろう。それに蓋をして、見なかった事にしただけで。深く深く感情を沈めていく内に、いつしか悲しみの理由に悩んだ事すら埋没させて。彼は、ただの求道者に戻った。
しかし、結局は業から逃れられなかった。
もし、そこで普通に愛せていたなら。そうでなくとも、普通に愛していると、自分を偽り続けられていたら。こんな所で、壊れている事もなかっただろう。それが、できていないと言うことは。つまりは、妻が死を賭しても、まだ分からなかったのだ。
かつて姉のように思っていた人がいた。かつて母のように思っていた人がいた。そこに淡い恋心があったのかもしれないし、無かったのかもしれない。成就したかも知れないし、失敗して涙したかも知れない。ただ、一つ。分かっているのは。もし、そんな夢の続きを見ていられたのならば。
こんな所で、衛宮切嗣などしていなかったであろう。そういう、もしも。
(違う)
否定する。それが、どれだけ無意味でも。そうすることで、確かに差異があると信じる。
自分と、言峰綺礼は。絶対に同種などではない。
「彼女の死を無意味にはしても、無価値にはしたくなかった。だが、それでは満足できなかった。彼女の死に、意味を作りたかった」
「それは、さぞや聖女のような女だったんだろうな」
「――分かってくれるか」
皮肉のように言った言葉。しかし、返ってきたのは肯定だった。
そうだろう。それ以外ない。なにせ、切嗣だって同じだったのだ。アイリスフィールのような女で無ければ、きっと彼は、妻を妻と思うことができなかった。自分を自分たらしめる、最重要な欠片の一つ。自分がそうだったのだから、相手のそれが分からない筈が無い。
綺礼の顔が、何の含みも無い笑顔になる。
「信仰を続ければ、何かに尽くせば、もしくは、他の何かで。いつか、報われると思っていた」
そんなわけがなく、それが分からない筈も無いのに。それでも縋り続けたのか、もしくは認められなかったのか。
切嗣と綺礼。二人が強く拳を握り込んだのは、殆ど同時だった。
「しかし、いつも裏切られる。自分が苦悶でしか満たせない、ただの空虚であったと再認させられた。嘘をつき、縋り続けた神ですら、それに足る存在で無いと思い知らされる」
「そんなものは、信じる方がどうかしているんだ」
やっとの思いで口に出せた言葉は。誰かに向けたようで、その実、自分に向けた諦めの文句だった。
「その通り。全く持って。しかし、それが分からなかったからこそ、別の答えを持っているように見えたお前を、必死になって追ったのだろうな。現実は、全くの勘違いだったが」
惨めに転がる十字架、それに蟲が群がっている。神を移し見るための偶像を汚されて、しかし気にする者はここに居ない。いや、本当は。世界の誰も、そんな事を気にしやしないだろう。宗教家が信じているのは、本当に神なのか? 本当は、宗教という枠で集まる金や権力なのではないか? そうだとして、誰が責められる?
彼らはいつだって曝されている。神がいかに無力で、矮小であるかを。人に神という希望を信じさせながら、常に現実に身をすり減らす。
それでも、頑なに信じようとしない者がいた。神を、ではない。現実が無情で、どこまでも現実的であるという事実を。それが、言峰綺礼であり――衛宮切嗣である。
切嗣は、それを貫き通した。ならば、綺礼はどうしたのだろうか。
「――それでも、私は神を信じる」
その言葉は、ここに来てから。本当の意味で、初めて予想外だった。思わず、ぽかんと口を開く。
「驚くことはあるまい。お前だってそうなのだから」
「……生憎と、僕は神を信じたことが無くてね。一緒にされても困る」
そういう事では無い、と分かっていながらも言う。自覚があるのを知られているようで、それに言峰は反論しなかった。ただ、不気味な笑顔だけがそこにある。
吐き気すら覚える会話から、意識を無理矢理逸らす。これ以上続けてしまうと、本当に頭がおかしくなってしまいそうだ。正常化(できていない)脳で考えたのは、それでもやはり、言峰綺礼の事だった。どうにかして、奴を倒さなければならない。少なくとも、聖杯を奪って、その制御の半分を喪失しなければ。そのために、奴を殺す。絶対に殺す。
そうすれば――もう余計な事を、自覚する必要はない。
「私が信じるのは、虚像の神だ。断じて、現実に存在する超越者が、あたかも創造主のような顔をしてふんぞり返っているような、そんなものではない。お前だって、そうだった筈だ。皆が謡う、ありきたりで誰も救われない正義など信じない。誰もが救われる、己の思い描いた正義を行使してきた――そうだろう?」
うるさい男だ――時計に視線を落とす。さっきから何秒も進んでいない。時間は敵だった。だからといって、それを見続けてどうなるものでもない。ただ、そうしていれば、綺礼を殺す事に集中していられる気がした。
切嗣が綺礼を理解する必要など無い。同じように、理解を示される理由だってなかった。理由が無いのならば、そうされてはいけない。ただの敵だ。それでいい。そうであってくれ。
「戯れ言はたくさんだ」
その言葉が、相手を気にしている何よりの証拠になると分かっていても。口から勝手に、飛び出ていた。
「神は虚像こそが良い。そうすれば、無遠慮に縋ることも、非難することもできる。例えば、真に信仰を捧げることも。私の醜悪な本性、それに蓋をして虚無となっても、構いはしない。一生何かに届かないと理解してしまっても、無条件に信仰し続けられる神が居るのであれば。私はこの世で、誰よりも敬虔な信者だ。もう、己の本性が何であろうと、存在しなかろうと、悩む必要は無い。全て、神に捧げたのだ」
だから。自分は救われたとでも、言うつもりなのか。御託だ。そんなものでは、どこにもたどり着けない。
「うるさいと言っている……!」
腰の手榴弾に伸びた手を、ありったけの自制心で止めた。ピンを抜くよりも早く、蟲達が反応する。感情よりも、義務感と経験が勝った。
「おかしな奴だ。自分で始めた話だと言うのに。ましてや……お前にも心当たりがあるだろう?」
薄く笑って言う綺礼に、しかし揶揄している様子は無い。あくまで、当然の事として語っている。
認めてしまえば、それは否定する余地無く正しくなってしまう。絶対に肯定など、出来るはずが無い。出来ることならば、今すぐにありったけの火力で、言峰綺礼を殺してしまいたかった。
なにより。その先は、絶対に聞いていけなかった。
「そうすれば。私は妻の死を、無駄にも無意味にも、しなくて済むのだから」
それは。
願いを決意してからの、妻との時間を。憎しみの無い世界を祝った、娘との約束を。その全てを裏切ってしまった切嗣に対する、最悪の皮肉だ。サーヴァントを失い、そして聖杯もまがい物だと分かり。もう、どこにもたどり着けない。どうしたところで、もう彼女たちの犠牲は、無駄にしかならない。
同時に、怒りがこみ上げた。理不尽だが、それを取り繕う気にさえなれない激憤。胸の中に、ふつふつとわき上がる。なぜ、お前が。
なぜ、衛宮切嗣の願いは断たれて。言峰綺礼の願いは、成就されようとしているのだ。奴の願いが叶っていいならば、自分の願いが叶っても良かったはずだ――
彼は気付かなかった。いや、またしても、目をそらした。
「アヴェンジャーは、言わば無形無意識、霊長類にある負の感情の映し鏡。その本質は、呪いのエーテル塊にある。これによって全人類が飲まれれば――真の平等が訪れる。誰かが誰かとの違いに悩み苦しむ事もない。全てが隣人となれる。これは、救いだ」
その思考は、根本的な方向という意味において、綺礼と同じだと認めている、という事に。
切嗣はそのおぞましい姿に、体を震わせた。彼は、これほどまでに驚異的な存在であった。同時に、自分もそういう存在で在ると、知ってしまった。
無形の怪物。善意でも悪意でも無い。独自の思考と意思によってのみ機能する、出来損ないの機械のようなそれ。つまりは、それによってもたらされるもの。害でも利でもなく、ただの異変。善悪も利害もひっくるめた、異常しかもたらさない。そんな訳が無い。人を救うために動いてきたのだ。それが、無意味な事だったなど、そんな事、あっていい筈が無い。
「世迷い言を!」
「嘘だな」
切嗣が発した否定の言葉は、即座に否定される。
「お前は私の考えを、戯れ言だなどと思っていない。私とお前の違いは、苦痛か享楽か、その程度でしかないのだから」
胸が、痛む。
原因不明の激痛。そして鈍痛。心臓よりもなお奥深く。決して手の届かぬ場所で、それが痛み続ける。
「僕は……ただ世界の平和の為に」
「私も、ただ信仰の為にだ」
両断するような勢いの言葉。
いや、切嗣がそう感じただけだ。彼は、ただ自分の考えを言っただけであり。それ以上にも以下にもなっていない。もし、それ以上の何かを感じたとするならば。確実に、受け取った側の問題だ。
アヴェンジャーに飲まれた世界、そして聖杯に願いを届けられた平和な世界。超越した存在の干渉を受けたそれらに、どのような差があると言うのか。
肉体のあるなしか。世界に満たされたものが、幸福か怨念かだろうか。それとも……笑ってしまうような話だが、そこに至る過程を作った人間の違いでも、論ずるべきか。そうであったとして、そこに意味を見いだせる存在はどこにいるのか。どちらであったとして、どうであったとして、無意味に帰すと言うのに。
価値の崩壊に、優劣を決定づける最終手段の喪失。つまりは、完全なる平等。そこで得られる感情がどのようなものであれ、全ての人間に割り振られる。普通だ。平坦に整列した感情、それ以外に何もない。種類による違いを考えたところで、どうしても実りある結論にはたどり着けないだろう。
行き着く先は、どちらも同じ。ただの――停滞だ。緩慢に過ぎゆくだけの世界が待っている。
独りよがりな正義か。独りよがりな信仰か。どちらであっても押しつけるだけ。自分が絶対的に正しいと、誰に認められるわけでも無く、自分だけが信じて。一人しか居ない、完璧かつ簡潔した世界。
誰が望む?
「…………っ!」
何を言えばいい。どんな反論をすればいい。分からない。
この世は地獄だ。欺瞞に満ちている。いつだって、誰かが救いを求めている。幸福の分だけ、不幸が量産されて。それがどうしても許せないから、正義の味方になった。
言峰が成そうとしていることは、間違いなく悪だ。切嗣が対立する理由は、それだけで十分。だが、行き着く先の光景に差を見いだそうとして、どうしても成功できない。地獄のような光景と、天国のような光景。地獄には地獄しか、天国には天国しかないならば。不幸と幸福の差すらあり得ない。
間違っていないはずだ。衛宮切嗣の願いが、こんなに醜悪である筈が無い。
「私に目的などというものがあれば、結局はその程度のものだ。神が囁くままに、神が正しいと言った事を遂行する。そこに、私の感情が介入する事は無い。それでいい」
木に型を作って、無理矢理ガラス玉をはめ込んだような。人形だ。とても不出来な、人間のふりをした人型。どれほど人間のふりをしたところで、絶対に人間にはなれない。
一つ、だだの人形と違うのは。意思を反映するのが他者では無く、自己だという点だ。所詮それを遂行するための道具でしか無い以上、やはり人形以上にはなれないが。最初から分かりきってる事。そんなものに、人間を理解できるわけが無い。理解を出来ているならば……切嗣は自嘲した。もう少し、利口なやり方があった。あるいは、人が死ななくて済むような。
人形であり、信徒である言峰綺礼。
殺人鬼であり、正義の味方である衛宮切嗣。
どこにもたどり着けず、何者にもなれない愚か者。ただの願望成就機関。
「衛宮切嗣、私を止めるか? 私が成そうとも、お前が成そうとも、違いはないぞ」
分かっている。人に理解されず、理解できない存在だった。人のような何か。おそらくは、人と交ざって生きるべきではない。そして、こんな事は誰も望んでいない。助けるべき相手ですら。望まれていないのに、小さな差異を論って何になる? 意味など無かった。そのまま倒れたところで、何も変わらない。
それでも、衛宮切嗣は。立ち続けて、そして銃を握った。
「駄目だ。僕はそれを許せない」
綺礼は、納得したように首を縦に振る。
「ああ、よく分かるぞ、衛宮切嗣。そうだ、私が逆の立場でも、きっと許せなかっただろう」
指の間に、刃なしの柄が握られた。今はなくとも、少しでも魔力を通せば、それに呼応した長さの刀身が現れる。
誰かが見れば、差など無きに等しい、と笑うだろうか。笑うだろう。それは、きっと笑い飛ばしていい程度のものだ。
だが、そんなものが、何よりも大切だった。誰かの為に。世界に平和を。誰もに幸福と笑顔を。血の流れない地を。祈って祈って祈り続けて、身をすり減らして来た。それが、例え地獄と大差ないと知った後でも。人々が幸福である事への祈りを、今更やめるわけにはいかない。
何より、それで断念出来るのであれば、ここまで来ていないのだ。途中で諦められなかった。機械がプログラムされた命令を、達成し続けようとするように。
狂った人間。壊れた人形。衛宮切嗣と言峰綺礼。小さな違いに妥協できるようには、出来ていない。
「一つ、お前を煽っておこう。アヴェンジャーの真名は、アンリマユ。この世の悪を煮染めた存在だ。アンリマユと、それに与した私。お前の敵になる存在に、これ以上は居まい」
「遠慮無く戦え、とでも言うつもりか?」
「遠慮無く殺しに来い、と言ったつもりだ。まあ……」
綺礼の手にある黒鍵から、刃が伸びた。指二本で支えているのに、両手剣と言われても違和感ない長さと太さ。それが、計六本。
彼の魔術師的素養はどの程度かと問われれば、対したことはないとしか言えない。舞弥よりはいくらかマシ、という程度だろう。ただし、魔術を使用した戦闘となれば話は違ってくる。
切嗣の戦闘経験は、他者の追随を許さない。目の前の男と比べても、勝っている自信があった。ただし、それは総合的な戦場での能力、という意味だ。狙撃や罠などの、近代兵器に精通しているというだけではない、近代戦術にも通じているからこその戦歴。それを生かせない状況とは、自殺行為に等しい。
「私に勝てるとは、とうてい思えんがな」
乏しい火力で、圧倒的物量に対抗する術など知らない。格闘能力に勝る相手に、接近戦を挑むセオリーなどは無い。
若年ながら、歴戦と言っていい代行者。その真骨頂は、吸血鬼と殴り合って殲滅できる格闘技術だ。切嗣にも、心得は一応ある。しかし、彼には吸血鬼と殴り合うような力は、間違っても存在しない。そもそも現代戦争において、サブウェポンが届くような距離で戦うこと自体、最後の手段なのだ。
つまり、周囲を大量の蟲が囲んでおり。数歩で拳が届いてしまうような距離は、切嗣が戦っていい距離では無い。アヴァロンのバックアップがあって、初めて接近戦で張り合える相手だ。セイバーが居なくなった時点で、望みが無い。
(最初から知っていた事だけどな。今になって再確認したところで、勝算が生まれるわけでもない)
だからこそ、最初から会話で引き延ばそうとしていた。相手がその気になった時点でご破綻なのだから、諦めるしか無い。
自分の機能を、一つ一つ確認していく。
足に問題は無い。会話していた時間は決して長くはなかったが、短くもなかった。疲労が多少蓄積していたくらいならば、十分すぎる時間。魔術に耐えられる回数が一度増えるというのは、大きな差だ――ただし、言峰綺礼相手ではどれほど役に立つかは、未知数だが。
呼吸は整っている。体も、軽い興奮状態。すぐに動かすには、ほどよく暖まっていた。装備も、個人で持てる程度の近距離戦闘と考えれば、及第点をやれる。
精神面。この上なくぼろぼろだった。目的も希望も失い、それでも命令を達成しようとする姿は、まるで生ける屍。もはや、切嗣は感情を原動力に動くことができなかった。思考の一切を海に沈めて、肉体の制御を経験と機能に委ねる。衛宮切嗣という個人から、ただの殺人機械へ。つまりは、万全。
感情と行動を切り離す。今は何も考えなくていい。考えるならば、まずは言峰綺礼を殺してからだ。
「全ての生き物が飲まれたら、最後は私が飲まれる。慰めになるかどうかは知らぬが――安心してくれていい」
全く持って、慰めにならぬ言葉だ。
懐から銃を取り出して構える。その威力を思い出そうとして、諦めた。どれほど魔力で強化しようとも、純粋魔力弾頭の対物ライフルに勝ることは無い。防がれた時点で無意味になるのは同じだ。無論、今持っている銃より威力のある装備はあるが。どれも、やはりアンチマテリアルライフルや対戦車ロケットに勝るものでは無い。魔術を含めて。
(あいつの言葉を信じるならば……)
周囲に気を配る。気を遣うのが馬鹿馬鹿しくなるほど、八方から無数の気配。幸いと言っていいのか、距離は僅かに開いている。どんなに急いでも、綺礼の二撃目より早いという事は無いだろう。少しの牽制で、あと二発分の余裕を生める。
綺礼と接近戦をするためには、魔術全開でいくしかない。時間経過するだけで、体は壊れていくだろう。勝とうと思うならば、どう戦うにせよ短期決戦しかない。
頭に照準をつけて(胸だと一撃で殺せない可能性が高い)左手を懐の、先ほど使わなかった手榴弾を二つ。安全ピンを引き抜いて、レバーを握り込んだ。
(アンリマユはサーヴァントでありながら、一部聖杯の特権を持っている。エーテル体のサーヴァントには、相当厄介な敵の筈だ。しかも、魔力を吸収する能力まである。どんなサーヴァントでも、こいつに弱くない者はいない。最悪、現時点で全滅している事も考えられる)
比較的有利に戦えそうなセイバーも、恐らく脱落済み。時間稼ぎの意義が、限りなく薄くなった。
外の状況を知る術は無かった。使い魔の一匹でも置いてくるべきだった、と意味の無い事を考える。やらなかったのでは無い、魔力がないからできなかったのだ。機械を置いてきた所で、舞弥と雁夜が居ない以上、操作も連絡もできる人材がいない。どちらにしろ手詰まりだった。
チャンスなど一度も無い。多分、ゴミのように殺される。戦力の差を覆す余地が与えられているのは、ゲームだけだ。現実は現実に、いつだって非情。鉛玉は人を避けてくれないし、夢で空腹は満たされない。聖杯と、臓硯と、言峰綺礼。この組み合わせを破るにはダース単位でサーヴァントが必要だという現実も、覆らない。
それでも戦えるのは、別に勇気があるからではない。そもそも、立ち向かっている自覚すら無い。ただ、自分はかくあるべしと言う指令の下に。ただの機械として律する。
「行くぞ」
綺礼の短い宣言。振りかぶられる黒鍵が、辺りに銀光を撒き散らす。
「固有時制御、三倍速」
出し惜しみなしの大魔術。瞬間、世界は停滞したように鈍くなった。その視界であっても、綺礼の腕は十分早い。大きく舌打ちをする。綺礼の能力は、予想以上だ。
投擲された黒鍵を避けるために、大きく左に飛んだ。同時に、手榴弾を一つ右側に投げる。着地と同時に、今度は左に。
爆発よりも早く、綺礼は目前まで迫っていた。手に持った銃を発砲、弾は正確に顔面へと飛翔するが、当然蟲が壁になる。彼は避ける仕草さえしなかった。しかし、これは予定調和。
近接戦闘能力に優れた綺礼。ましてや格闘戦ともなれば、何倍速しようとも切嗣に勝ち目は無い。しかし、ただ一つだけ。いかに彼が優れようと、絶対に届かない領域がある。固有時制御で加速されれば、こと反応速度に限って、同等の技術なしには絶対に追いつけない。攻撃のモーションさえ見れれば、ガード自体は難しくない。
腕を十字に構え、後ろに飛ぶ。彼の拳は、正確にその中心点を捕らえた。
みしり、と両手の骨が悲鳴を上げた。いや、それだけに留まらず、肋骨に守られた内臓にすら届く。肺から強制的に、空気をはき出された。浮遊感によって失われる方向感覚。必死に足を伸ばして、なんとか地面を噛んだ。
酸素の欠乏とダメージでぐらつく頭を強制制御、なんとか現状を把握する。飛ばされた距離は、想像よりも短かった。喜べる事ではない。それは、彼の一撃がより体に上手く浸透した、という事なのだから。
加速が切れた。急激な時差の自覚に、またしても脳が悲鳴を上げる。疲労感がどっと押し寄せ、体中が痛い。
同時に、両サイドで爆発が起きた。置き去りにした手榴弾が、ここで弾けたのだ。
蟲に圧殺される未来は、とりあえず遠のいた。変わりに、撲殺の危険性が遙かに上昇する。それを証明するかのように、地面すれすれを疾駆してくる綺礼。
(狙いは足か?)
機動力さえ失えば、何倍速しようと捌くのに限界が出てくる。多少の無理をしても、壊すのに十分な対象。
回避。足を持ち上げようとして。
次の瞬間、彼の足が跳ね上がった。
しまった――思う余裕もない。口は、悲鳴を上げるように絶叫していた。
「二倍速!」
強引な魔術行使の負担は、三倍速の比では無い。骨も、肉も。全身が悲鳴を上げた。
体を反る、間に合わない。首を捻る、間に合わない。ハンマーよりも遙かに鋭い回し蹴り、それが、左眉間のあたりを、頭蓋骨すら削りながらごっそりと持って行った。
前に出るか? 駄目だ、蟲に食い殺される。出血よりも早く決断、倒れ込むように後退した。
追撃がなかったのは、余裕のためか。それとも窮鼠を警戒してか。
(奴を普通の相手と見るな。こと近接戦闘においては、悉く僕の上を行くと思え。甘く見た油断の結果がこれだ)
自戒しながら、牽制の弾丸を放った。ダメージにはならなくとも、頭部に放れば視界を遮れる。
開く、数歩分の距離。綺礼が一秒未満で肉薄するには、十分な距離。切嗣が一手講じるのも、ぎりぎり間に合う。優位に立つ者のギリギリ妥協できる位置。
抉られた肉から溢れる血。しかし、気にしている余裕は無い。例えそれが、視界を遮ると知っていても。弱みを見せれば、その瞬間に切嗣の頭は吹き飛ぶだろう。なによりも、肉体の損傷が酷い。頭部こそ派手に出血しているが、総合的なダメージなら上回る場所が、体の各所にある。つまりは、戦闘継続能力の大幅な減衰。
あと一度。勝利を願うならば、言峰と接触できるのはそれだけ。それ以上は、例え攻撃を食らわずとも、体が耐えられない。
ならば。切嗣は、構えることすらしなかった。
慣性が収まりきらぬまま、流される。僅かに、綺礼の目が開いた。
「固有時制御、二倍速」
右手の銃を撃ちながら、服の内側に配置した手榴弾全てのピンを引いた。全部で十五ある手榴弾が、その場に転がる。
弾が切れた銃をその場に捨てた。今度は両手で銃を構えながら、背後に飛ぶ。追撃は、鋭く心臓を抉ろうとする。だが、視界が遮られている事、そして慣性に影響された分だけ、目算から外れる。
突き刺さる拳は、だが浅い。肋骨を抉られたが、それだけだ。苦痛という意味において、魔術の負担に劣る。
距離を幾ばくも空けていない場所で立ち止まる。それでいい。開きすぎては、今度は接近できなくなる。
「固有時制御……三倍速」
全身に、何かがのしかかったような違和感。深海に沈められれば、こうなるのではと思わせる。つまりは、体の壊れ行く感触。
それはなにも、肉体だけではなかった。ただでさえ枯渇寸前だった魔力が、ついに底を尽きる。
ここで魔術が停止してしまえば、もう逆転の目は無い。魔力を失っても魔術を行使するならば、手は一つのみ。誰でも、それこそ半人前でも知っている手段。切嗣の魂は、喪失の音を立て、がりがりと削れていった。
とにかく、弾をばらまく。一瞬の合間も見せない。手榴弾の中心点で、綺礼を釘付けにする。
二秒、そして三秒――今だ。持っていた銃を捨てて、懐にある残していた焼夷手榴弾に手をつけた。安全ピンは、手榴弾を落としたときに、既に抜けている。爆発タイミングの合わせられたそれを、頭上四方に投げる。
綺礼が反応するよりも早く、蟲が囲んで守った。しかし、それでいい。
あとコンマ数秒で爆発する、そのタイミングで、切嗣は飛び出した。コートを盾にして、爆心地に飛び込む。
これが彼の、最後の手段だった。全方位からの攻撃により、蟲の盾を少しでも薄くする。それさえ抜けてしまえば、あとは綺礼本人の防御力しか無い。
そして、爆発の瞬間に。切嗣は確かに見た。蟲が苦しみにうめきだし、完璧な統制を崩れさせたのを。確かに聞いた。
「――なに?」
言峰綺礼の、戸惑いの声を。
冗談のような話だ。まさかここに来て、物語のような展開。ゲームで用意されたかのような、逆転の手口。それこそ神が用意したかのような、陳腐な奇跡。
強く足を踏み込んだ。一斉に絶叫する手榴弾。弾ける金属片も、灼熱の爆風も、全てに押されながら進む。肌どころではない、喉すら焼けた気がするが、知ったことか。とにかく、宿敵にして隣人の前へ。
なんだこれは、と思わず笑った。世界の運命を賭けたような一戦。奴は自分を悪だと言い、そして切嗣を正義だと言った。それらしい因縁もある。あらゆる面で負けていて、あと少しで死ぬところだった。苦し紛れの戦略は、意味を成さず敗れる筈だった。しかしそこで、仲間だか何だかの行為により、ここ一番で機会が訪れる。
まるで――ヒーローのようだ。
なら、勝たなきゃな。切嗣は笑った。少しだけ、自分が肯定された気がして。
「固有時制御……っ! 四倍速!」
無茶を通り越して、無謀な魔術行使。それ自体すら、魂を消費し切って死んでもおかしくない。全身の負担は言わずもがな。
しかし、意味はある。蟲の壁から飛び出た、綺礼の足刀。三倍速に合わせて、正確に膝を破壊しようとした。僅かな、速度の差。それが壊すはずだった膝を回避して、太ももの骨にヒビを入れるに留まる。折れてないのならば、まだ進める。
蟲壁に右腕を叩き込む。それと同時に、視界が飛んだ。四倍速に耐えられなくなった視神経が、ブラックアウトする事で自己を保とうとする。何も分からない、それでも進む。
もう視界は、さほど重要では無い。ただ、右手を伸ばし続けた。服の上から抉られているのは肉か、それとも魂を変換した魔力か。だが、それも重要では無い。
ただ必要なのは、手のひらからの感触だ。何かに触れて、感じなければいけない。触れる場所はどこでもいい。とにかく、言峰綺礼のどこかに、右手を接触させる。
探る余裕も無い。どこかに触れられると信じて、とにかく手を伸ばす。
そして、右手に感触を感じて。
見えないはずの視界で、確かに綺礼が微笑んでいた。
気付けば、空を見上げていた。どこまでも透き通ったような、濁った空。
星は殆ど見えない。人工的に作られた光と、空をうっすらと覆う化学廃棄物。それらの幕は、意外に分厚かった。人の営みがそうさせたのだと思うと、腹を立てる気にもならない。いや、元々そんなものに、何かを感じたことはなかったが。
しかし、不思議なものだ。今になって、何故か夜空と重ねて、蒼天を想う。夜空と同じく、感情が動かされた事などなく、ましてや感動などない。ただの空。昼か夜かの違いだけ。たおやかに流れる雲に、風情を感じられるだろうか。答えは否。だからこそ、言峰綺礼はこうなってしまったのだ。
今、手を伸ばす先にあるものが、青空だったら良かったのに。こんな事を願う事があるなど、思いもしなかった。些細な願いに、苦笑する。自分はこんな事も考えられるのだと、知りもしなかった。
実際に手を伸ばそうとして、それは無理だと気がついた。体が寒い。全く力が入らない。なにより、右腕の感触がなかった。
そのまま寝てしまうと言うのは、実際魅力的な提案だ。しかし、苦労をしながら意識を保つ。あと少しだけ、そうしている理由があった。
動かない視界に、一つの遺物が混ざる。収まりの悪い髪に、無精髭の生えた顎。まだ、ギリギリ青年と言っていいであろう年齢。しかし、その表情から漂う雰囲気は、今にも死にそうな老人のそれだった。瞳は当然のように死んでいる。むしろ、それ以上彼に似合う目はないだろう。世界から取り残された、迷子の目つき。
自分と同じような。
戦わねば。それが、同類に立ちふさがる者としての義務だ。
体を起こそうとして、やはりそれは失敗する。いや、実行に移すことすらできない。相変わらずの虚脱感は加速する。まるで、命を失っていくかのように。
そこまで感じて、やっと綺礼は気がついた。決着は、もう付いていたのだ。自分の敗北という形で。
「衛宮切嗣……私は今、どういう状態だ……?」
「……右腕が、胸元からごっそりと消し飛んでる」
「なるほど……体が動かぬ訳だ」
どれほど意識を失っていたかは分からない。が、長くはないだろう。四肢の一つが無くなるほどの怪我ならば、長時間放置されて無事なわけがない。長くて一分程か。
結局、何をされたのが全く分からない。蟲に作られた暗闇の中に、腕を差し込まれたのまでは覚えている。
首を動かすのも億劫だ。眼球だけを動かして、なんとか切嗣の上半身を視界に納めた。見るも無惨な姿だが、その中で目立つのは、大きくこそぎ落とされた額。そして、異様にへし曲り出血している右腕。
「腕に……何か仕込んでいたか」
「ライフル弾を、発砲できるように、していた。白兵戦の、切り札としてね。まさか、咄嗟に体を捻られるとは、思わなかったけど……十分致命傷だ」
息も絶え絶えに、切嗣は言葉を発した。
なるほど、記憶が飛ぶほどの衝撃になるわけだ。納得しながら、血の溢れ続ける右肘に注目する。
銃器の扱いにそれほど聡いわけでは無いが、基本くらいならば心得ていた。ライフル弾というのは、衝撃拡散構造をした専用の鋼鉄を、全身と固い床で支えながら使用するのだ。間違っても、固定もされていない腕一本で使用していいものではない。ましてや、少しでも隠密性を高めるために、衝撃吸収構造を犠牲にしたならば。今腕が繋がっていることすら、奇跡と言っていい筈だ。
勝とう、などと意識はしていなかった。だが、負けるとは思いもしなかった。
何が勝敗を分けたのか。こんな壊れ者同士の戦いで、意志の強さ等というものが影響した訳でもあるまい。ましてや、運命か何かが作用したなどと、考慮するだけでも馬鹿馬鹿しい。苦笑すら浮かべられないほどに。人間としての運命から弾き出された者が、それに左右されて良い訳が無い。それを信じることも、あってはいけない。
そういう関係だった。ただそれだけ。
「聖杯は……どうした? もう、破壊したのか?」
「いいや、あの後すぐ泥に、崩れた蟲が、飲み込んだ」
予想できた事ではあった。アヴェンジャーが、より完璧になろうと、聖杯を取り込むのは。
下らぬ屑みたいな命を賭けた勝負の結末がこれとは、なんとも締まらない。そして、これ以上に相応しいものもない。
「そうか……。私の制御を離れたアヴェンジャーは……もう急所を隠しや守りはせん。アーチャーかライダーでも残っているならば、倒すのは容易いだろう」
もっとも、アヴェンジャーが現界している量、それが宝具の限界を超えていなければ。それは口に出さなかった。そうであるならば、知ったところで意味があるとは思えない。
言葉に、切嗣は眉をひそめた。
「何の、つもりだ?」
「景品だ。そうだろう……? 我々には、最も無意味な、勝者の証」
本当の意味で、今の世界などどうでもいい者達にとって。今の世界を保つための手段ほど、無意味なものはない。
世の中が今のままである事を望む者は、この場には居ないのだから。
「参考までに、聞かせてくれ」
綺礼の言葉に、切嗣の反応は薄い。いや、気配すらも。まるで、枯れた老木がそこにある程度にしか思えなかった。
「勝利の気分は、どうだ?」
「……はっ。分かって、いるだろう。……最悪だ」
くくっ、と笑った。全力を絞って、いかにも皮肉げに。なるべく、切嗣が悔しがるように。
「そうか。私は、最高の気分だ。やっと……脱落できる」
この、何もかもが自分とずれた世界から。
生まれてから今まで、一秒として違和感を感じなかった時はない。世界は、自分と致命的に食い違っていた。どちらが正しかったのか――多分、正しかったのは世の中。言峰綺礼という人間が、壊れているから悪いのだ。どれほど強く自覚したところで、決して埋めることの出来ない乖離。
正しく在る事はできた。しかし、ついぞ正しく感じる事はできなかった。周囲にある正解をトレースする毎日。人間で居られるように、ごまかし続ける。そして、そのたびに己が逸脱した存在だと思い知らされた。息苦しさに悶えることもできない。もしかしたら、生きている実感すら失っていたのかも知れない。正しく感じたことがないのでは、そうであったかすら判断できないが。
例えば、衛宮切嗣のように。己を定めることが出来たとして、その違和感は失せてくれないだろう。
唯一の解放方法が、やっと現れてくれた。もう、何も感じなくて済む。
それが、死だ。
「馬鹿な奴だ」
切嗣の侮蔑。肯定しようとして、喉が苦しくなった。それを誤魔化すように、口元をつり上げる。上手く、無様に負け犬のように、笑えただろうか。
「お前は、自覚していれば、良かったんだ。例え、それがどんなに、醜悪であっても。妻の死から……目を背けずに」
一瞬、本当に一瞬だけ、息が止まった。疲れをごまかせないほど明確に。綺礼の根元を抉る。
「――ああ、そうか」
なぜ、こんな簡単な事に。言われるまで、気がつかなかったのだろう。
彼女と出会って、それほど長い期間、夫婦をしていたわけでは無い。ましてや、綺礼のような人間では、理解など望むべくも無かっただろう。だが、最後まで付き合った。本当に、最後の時まで。命が、こぼれ落ちるまで。
あの時の、妻の言葉は何だったか。結局、愛せていなかったと言った己に対して。そうだ……確か「――いいえ。貴方は私を愛しています」と言ったのだ。こんな事すら、忘れていた。彼女の死がありながら、こんな、忘れてはいけない事まで忘れていた。何よりも重要な、心の根元に埋められていた筈のもの。
それに比べて、人生のどこに価値があったと言うのか。死に意味を作ることに価値があった? それとも、神の追求にあったのだろうか? あるいは、己の信じた信仰を貫く事がそれであった? 違う。全てが、全く持って見当違い。彼女の死を秤に掛けて、釣り合うものなど断じてない。
瞳から、涙が溢れた。悲しみの為ではない。
「私は彼女の死を、無意味ではなくとも、無価値にしてしまったのだな」
なんという、下らぬ結末。泣きたくなるほどに、つまらぬ回答。
「つくづく、救えぬ人間だ」
後悔がわき上がる。あの時、忘れなければよかった。認めがたい事であっても、認めてしまえば良かった。目先の苦痛を受け入れて、生涯の苦痛を失うべきでは無かった。やり直したい。もう一度、あの時に戻って。今度こそ、苦痛を忘れぬ様に、胸に強く抱きながら生きたかった。
愚かしさと、無念が。自分のために、そんな資格がないと知りながらも。止めどなく、瞳から溢れる。
馬鹿馬鹿しい。自分のために泣いているという、その事実が。この期に及んで、最後に流す涙が、自分を労る為だなど。それすらも、地獄のような苦しみとして、綺礼に突き立つ。
(……せめて、これくらいは)
受け入れよう。今度こそ、忘れぬように。
一人の、馬鹿な破綻者。大事なことから目を背け、下らぬ事ばかりを追求し。見当違いな事ばかりを夢見てきた。いつしか、重要な事の根源すら閉じてしまいながら。
間違いばかりを犯して生きていた。いや、むしろ間違っていない部分など、存在しなかった。ただの一つとして正解すること無く、的確に不正解ばかりを選択して。愚かしいばかりの人生。独りで完結しながらも、一人で生きることが出来なかった、弱い弱い人間未満。
それでも、願いが叶うならば。ただ一つだけ。潔くなどなれず、無様に泣き叫んで、それで叶えられると言うならば。
祈りと贖罪を捧げる。人生を間違い続けてきた、言峰綺礼という存在の。最後の、己の人生に対する反逆を。間違い続けた人生が、確かにここにあったと刻みつけるために。
安らかさとはほど遠い、死に様。それは多分、人生で初めての正解だろう。破綻して生まれてしまったのだから、破綻して死ぬ。至極、摂理にあった死に方。
「衛宮切嗣、走れるか?」
「……」
酷く重たい沈黙だ。枯れ木のようだった気配が、さらに薄まる。最早、朽ち折れて風化したそれと、さして変わらない。
「……ああ」
返ってきたのは、なんとも曖昧な肯定。
衛宮切嗣が嘘をつくとは思えない。そうする理由がなければ尚更だ。しかし、と綺礼は思い出した。
彼に当てた攻撃は三発。どれも、クリーンヒットにはほど遠い。一つ目は、防御されたものの、確かに内蔵に届くのを感じた。二つ目は、かすっただけ。時間が経てば視力と血液は奪えるが、その程度。しかし、三つ目。失敗したとは言え、足のダメージは大きい。足刀から届いた感触を信じるならば、歩行はまず不可能だ。
普通であれば、救急車で運ばれていてもおかしくない。
それに、彼はまがりなりも、接近戦で綺礼と張り合った。技術は元より、下地となる身体能力すら天地の差。それを、魔術で無理矢理埋めたのだとすれば。体への反動は計り知れない。もしかしたら、綺礼が与えたもの以上の可能性もある。
感じ取れる魔力が全くないのも、気になった。聖杯から多少なりとも恩恵を得ている綺礼と違って、直前まで戦闘をしていた切嗣。魔力の余裕などあるまい。元々、魔術師としての才能に富んでいたわけでは無いのだ。だからこそ、銃弾等に、はじめから魔術的効果を付与するといった戦法を選んだ、とも思える。魔力などとうに枯渇し、己の魂を代償に動いていたのかもしれない。
そう言えば、最後の一瞬だけは、想定していた速度の限界を超えていた。機能の限界を超えた能力は、致命的な損傷を起こす。彼は間違いなく、蝕まれているはずだ。
あと一秒でも戦闘が長引いていれば。勝者と敗者は、逆だったのかも知れない。
そして、アヴェンジャーなどいなければ、そうなっていただろう。
(己が鍛え上げたものではない、強い力など、持つべきでは無いな。勘を鈍らせる)
残念ながら、その教訓が生かされる日は来ないであろうが。
どちらにしろ、本当に走れるかどうかは――自覚のあるなしも含めて――本人にしか分からない。ならば、考えるだけ無駄だ。額面通り信じよう。
と、その前に。一つだけ、聞くことを思い出した。
「もう一つ、お前は……まだ生きるか?」
つまらない問いかけではあった。しかし、重要な質問でもある。
ただ、生きていく。それだけの行為が、とても息苦しく、辛い。拠り所がない事だけを、拠り所に生きる。指先に触れたものが何か、それを知るのもおぼつかない。ほんの僅か、しかし確実に、ガラス一枚隔てた感覚。生きている、という実感を奪うのには、十分すぎる仕打ちだ。死の際になって、初めて気がつく。異質と言うのは、それを抱えて生きると言うのは、これほどまでに辛いものだったのだ。
だからこそ、言峰綺礼は問うた。ここは、チャンスなのだ。
「聞くまでも、ないだろう」
切嗣は、大きく、確かに首を振った。否定的に、横へと。
「僕はまだ、脱落できない。誰も、それを許さない。それに……待っている人が、いるからな」
――お前と違って。言外に込められた皮肉は、今度こそとても痛かった。それを無為に捨て去ってしまった身としては、余計に。
間違った願望を持ち、間違って聖杯戦争に望み、間違ったまま志し折れる。それでもなお、頑なに死んだように濁った、強い瞳を維持し続けている。折れ曲がった所で、走り続ける事だけはできるのだ。また、間違った方向に進もうが。
綺礼は笑った。これも、分かりきった事だった。やはり、自分でも同じ答えを出しただろうから。
つまらない問いかけは終わった。
「ならば、早くこの場から離れるのだな。ここが消し飛ばされるのも、そう遠くはないぞ」
臓硯は上手くやっていた。その物量を十全に生かし、全てのサーヴァントを封じていたのだから。しかし、奴がいなくなればそれも終わる。大火力を発揮できるサーヴァントが解放され、汚染された泥全てを薙ぎ払おうとするだろう。聖杯の位置が不明な以上、それ以外に取れる手は無い。
つまりは、アヴェンジャーの中心地とも言えるここは、正しく死地。真っ先に狙われるであろう場所だった。ここに留まっていて、助かる可能性は限りなく低い。
「お前に、言われなくても、すぐに行くさ」
重い吐息を破棄ながら、切嗣。今にも倒れ込みそうな姿が、嫌に鮮明に見えた。
いや、気のせいではない。動く左指先を確認しながら、気がついた。
「ついでに、しっかりと私にとどめを刺していけ。どうやら、アヴェンジャーは私をしぶとく生き残らせるつもりらしい」
震えて、こぼれ落ちそうな左手を持ち上げた。いかにも弱々しい動作だが、しかし動く事を知らせられれば十分。それが、理由になる。
「まかり間違って、生き残ってしまってもかなわん」
せっかく、やっと、人生から脱落できるのだから。
「そうか……そうだな」
一瞬だった攻防。銃を使い切るには、短すぎた時間だ。
右腕に比べればまだ無事な、左手を懐に潜り込ませ。取り出されたのは、一丁の拳銃だ。お世辞にも口径が大きいとは言えない、魔術師に対抗するにはいかにも頼りないそれ。だが、死にかけを仕留めるには十分だ。眼球を狙えば、十分脳まで届く。いかな聖杯と融合したアヴェンジャーとて、脳を破壊された人間は蘇生できない。
それが、構えられた。視線の先には、小さく深い空洞。つまりは、正確に眼孔に狙いを定めている。
「さよなら、言峰綺礼」
「さよなら、衛宮切嗣」
言いながら、綺礼は静かに目を閉じた。
衛宮切嗣。宿敵と言って差し支えない相手。そうしてやる義理もないのだが、まあいい。これからも続くであろう、地獄のような人生を、せめて祝ってやる。
生と死は等価だ。死んだような生に、死んだような死。何も違いは無い。
それでも、生きることに固執する。ブリキの人形が、人間になりきって、人のそれではない願いや感情を抱きながら。違いを知りながらも、訂正する事もできず、する気もない。どこまでも惨めな人もどき。
敗者となった事で、初めて捨てることを許される。安らぎの無い、悔いだけが残る終わり。
まあ、相応しくはあった。最後に安らかさを得るなど、贅沢に過ぎる。
だから。
終末の鐘が火薬の炸裂音だったのも、なんらおかしくは無い。
まぶたの裏はまるで暗闇、何かを思い返す事など出来ずに。一瞬で沈んでいく意識に身を任せた。
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そして俺は……
耳障りな悲鳴だった。その声を聞けば、魔術師であっても地獄の存在を信じてしまいそうな程に。
最初は、一人からなる複数の声だった。どれだけ鳴り響こうが、所詮は一人。ならば、どれほどおぞましくとも断末魔にしかならない。哀れで、惨めで、妄執的で。何世紀も聖杯という奇跡に縋った男の最後という意味にしては、上等すぎる。
蟲の群体が上げた間桐臓硯の声は、どれほどもせずに静まった。蟲の形が崩れ、群が個に戻っていく。外観だけで言えば、黒いスライムに。実体がそんな可愛げのあるものでない事は、誰もが分かっていた、のだが。
予想以上だった。
臓硯が発したような、鋭い悲鳴では無い。低く唸るような、声と判断するのも難しい音。
苦痛、怨念、殺意、憤怒、あらゆる感情、それも人を殺すに足るものばかり。数万の人間を一度に焼き殺しても、そうはならないだろうと思わせる煉獄の具現。なによりも、その全てが死を促してくるのだ。
そこの石に頭を叩き付けて死ね。建物から飛び降りて死ね。首を切り裂いて死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。
一つ一つの声が、死を望む。そして、殺すことを望む。完全無垢な悪意。
ありとあらゆる死を寄せ集めた、世界最悪の絞りかすだった。
(もっと危険なのは……)
ウェイバーは、そっと首筋に手を添えた。いや、無自覚に指を突き立てようとしてた。
慌てて、手を首から離し、両手の指を組むようにした。こうしておけば、少なくとも自分で自分を害する心配はぐっと減る。
最も危険なのは、人を死に向かわせる強制力だ。しかも、洒落にならないことに、それに魔術的な効果は含まれていない。つまりは、単純に大きな意思をぶつけるだけで、人を狂わせているのだ。しかも、大きな塊からおよそ百メートルほど距離を開けていてこれだ。近くに居たらと思うと、ぞっとする。
魔術や神秘による効果では無いので、魔術で防ぐこともできない。元より、魔術干渉抵抗能力などあってないようなものだったが。
とにかく、意思を強く持つ。そして、如何に奴を攻略するか、それを強く考えた。何もしていない状態、精神に空白があれば、容赦なくそこに割り込んでくる。
それは、唐突であり、分かりきったことでもあった。
急に、空間がひび割れた。大きくドーム上にヒビは広がっていき、大きな卵が割れるように決壊する。ぱらぱらと、降り注ぐ空間のガラス。それが地面に落ちる前に消えるのを、ただ呆然と見続けた。
ライダーの固有結界。崩壊は、同時にライダーの敗北を強く印象つけさせる。分かってはいたのだ。ラインが消失した、その時から。しかし、それは納得できるかどうかとは、また話が違う。相棒の消失を理解するのと、受け入れるのとは、全く別問題なのだ。それが死なのだから。
同時に、今までライダーが封じてきたもの。蟲としての原型を失った、黒い泥の塊。それを見て、暗い感情が溢れそうになった。
赤くなりそうだった視界を、必死に自制する。感情を無理矢理胸の内に抑えつけ、走り出しそうだった体を堪えた。組んでいた指は、両腕に。血がにじみそうなほど、強く握りつけた。興奮を抑えながら、声に出して念じる。
「落ち着け……ここで我を忘れれば、思うつぼだ。分かっているだろう、ボク。もう失敗はできない。先生とライダーに、無様な姿は見せられないんだ」
今、ウェイバーが抱きかけていた感情。それは、間違いなくアヴェンジャーの分野だ。一度流されてしまえば、後は転げ落ちるように破滅へと向かう。最善も、魔術師の義務も忘れて。周囲を盛大に巻き込みながら、多くの死を生み出すために走り出してしまうだろう。
冷静さを取り戻して、少なくとも本人はそうだと信じて、前を見る。
固有結界に取り込まれていたそれは、大分量を減らしたように思えた。蟲と泥では、空白のあるなしで大分差が出てくる。正直、あまり当てにならない目算だった。だが、それが正しいと、少なくともウェイバーは、ライダーを信じた。彼は勇敢であり、そして強かった。あらゆる意味で相性が悪い相手でありながら、削って見せるほどに。
既に、ここで敵が量を増すというのは、あまり意味がない。臓硯という厄介な端末は消滅したが、それで物量に変化がある訳では無い。依然、周囲一体を飲み込むのに十分な量がある。多少増えた所で、変化はなかった。どうしようも無いという意味でも、対処法は変わらないという意味でも。
時を置けば、さらに厄介になる。だから、勝負をかけるならばここしかない。
だが。
ポケットに手を入れて、中身を取り出した。冷たく固い、水銀の塊。一つは半起動状態の円柱、もう一つは待機状態の球形。希代の天才、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトが残した、最後の魔術礼装。それを使用するためには、もう一人の魔術師が必要だ。
残された意思を再確認して、ウェイバーは走り出した。無意味にでは無く、目的を持って。
よたよたと、おぼつかない足取りなのは、アーチャーだ。底に寄り添う、一人の子供。つまりは、マスター。
黄金の、恐るべき力を持っていたサーヴァントに、しかし今はそれを感じられない。象徴のようだった鎧は既になく、左腕をなくし体中を食い荒らされて血を流している。何より、存在していた覇気が、最初からそうであったかのように消えていた。まるで、ただの人間なのでは、そう思ってしまいそうな程に希薄。
しかし、ウェイバーはそれを深く気にしなかった。いや、気に出来なかった。
なぜならば、彼の視線は、アーチャーの無事な右手に持たれた剣。それに吸い寄せられていたのだから。
「お前のだろ」
差し出されたそれを、手に取って。そして、零れる涙を止めることができず、抱え込んだ。
「助かったよ」
「大したことは、してないよ」
「それでもだ」
ウェイバーは数秒だけ、そのままでいた。
感傷を終えて、顔を上げる。いつまでもそうして居られない。持っていた剣を、地面に突き刺した。
「それより、その子の力を借りたいんだ」
指名された少女は、声を掛けられた瞬間、僅かに動いてアーチャーの背後に隠れた。表情は全く動いていないので分かりづらいが、もしかして怯えたのかも知れない。
しかし、今のウェイバーに、それを考慮している余裕はなかった。二つの礼装を見えるように持ち上げる。
「これが、先生の用意した対アヴェンジャー用の礼装なんだ。原理はよく分からないけど、多分波長の違う魔力が必要とか……つまりは、魔術師が二人必要なんだ。ボクと、あとキミがいれば、聖杯からアヴェンジャーを切り離せる」
少女の反応が薄い。まるで、よく分からないとでも言いたそうな雰囲気だ。
答えたのは少女ではなく、庇うように立っていたアーチャーだった。
「この子は、魔術師じゃない。魔術回路を持っていて、その起動くらいはできるが……逆に言うと、それしかできないんだ」
「そんな……!」
答えは、ウェイバーを失意に追い込むのに、十分だった。
魔術回路があり、かつ起動までできておいて、魔術師ではない。まずあり得ない事だが、そういう存在が居ないわけではないというのも、知識だけはあった。つまりは、外付けの魔力タンクのようなものだ。魔術回路の代わりに人間を使っている、言葉にしてみればそれだけだが、まともな手段では無い。
一瞬、その子の境遇を想像しかけて、やめた。何を考えても、所詮は妄想にしかならない。同時に、いい想像にもならない。外付けの魔力タンクに、魔術礼装ではなく人間を使うというのは、つまりそういう事だ。人道とはほど遠い。
そして、今考えるべき事は。アヴェンジャーに対抗する手段が失われたという事だ。絶望しかけた脳を必死に回転させ、打開策を練る。
「そ、そうだ! アーチャーはギルガメッシュであってるだろ? なら、魔術が使えるんじゃなのか?」
最古の、魔術の原型とも言えるそれが、果たして現代の礼装で同じように機能するかは分からない。だが、他に手は無いのだ。
縋るような言葉に、しかし返ってきたのはまたしても否定だった。
「無理だ。俺の魔術は、恐らく宝具扱い。キャスターとして呼ばれてない以上、使用できない。それに、そんな魔力もない」
アーチャーの姿はぼろぼろだ。彼ならば、自分を治療できる宝具の一つや二つ持っていてもおかしくない。それで治療しないというのは、つまり。それが出来ないほど、魔力を消費してしまった。そして、供給が間に合わない速度で失っているのだろう。
うなだれるウェイバーに、声がかかる。
「それは二人居なきゃだめなのか?」
「多分。ボクが作ったわけじゃないから、断言できないけど。でも、あの先生がボクを使ってまで二人で使用すると言ったんだから、一人で使用する、なんて賭はできない」
「そのケイネスはなんでここに居ない?」
辺りを見回すアーチャーを、直視できなかった。ただ、顔を伏せる。
「……そうか」
小さく、肯定でも否定でもない。ただ漏れただけの声。そこに、どんな感情がこもっているかまでは分からなかった。
そう言えば、アーチャーはケイネスと同盟を結んでいた。それを思い出す。
和気藹々とした関係で無かったのは確かだろう。しかし、短期間であっても付き合いがあったのだ。その死に、思うところがあったのだろう。
「他に対処法は?」
あるわけがない。静かに、首を振った。
銀珠の礼装は、そもそも一流の魔術師が運用することを前提に作られている。と言っても、使用自体にさほど技量は必要ではない。それでもケイネスほどとは言わずとも、自在に使うならば二流程度の腕は必要だろう。ウェイバー程度の魔術師が使うことは、想定されてないのだ。それこそ、彼でも発射するだけが関の山だろう。
魔術回路が起動できるだけの人間。それを、今から礼装が使えるようにするなど不可能だ。それが出来るようになる頃には、少なくとも日本が終わっている。
「仕方が無いか……」
「何か手があるのか!?」
「手なんて言うほど、大層なものじゃない。宝具を使って、辺り一面薙ぎ払おうかと思っただけだ」
そう言えば、とライダーの言葉を思い出す。アーチャーが持っている、宝具の可能性を。古今東西、あらゆる宝具の原型を持っているならば、可能性はある。
だが、と。ウェイバーは、改めてアーチャーを見た。
彼から感じられる魔力、それは恐ろしく少ない。大ざっぱにしか魔力感知をできない、ウェイバーから見てもだ。
宝具とは、基本的に範囲や威力に比例して消費する。それは、大宝具ばかりを持っていたライダーを見れば明らかだ。最高峰と言ってもいい宝具二つ、それを使った後の魔力消費は凄かった。直接宝具を使用したわけでは無いのに、強烈な倦怠感を覚えたのだから。 今のアーチャーに、それだけの魔力があるとは思えない。財宝の使用すら躊躇するくらいなのだ。大宝具など発動しようものなら、それが形になるまえに魔力切れで消滅するのは分かりきっている。
(何か、魔力を工面する方法が……令呪か!)
そう、サーヴァントには、令呪といういかさまがあった。使い切った上に、ライダーもいなくなってすっかり忘れていた。魔力切れの消滅を度外視すれば、確実に一発は撃てるだろう。
ウェイバーの知る限り、アーチャーは令呪を使用していない。一つ、もしかしたら二つくらいまだ持っている可能性がある。
しかし、それで問題が全て無くなったわけではない。
「なあ、それで確実に倒せるのか?」
そう、範囲の問題だ。
既に、泥は冗談なまでの広範囲に拡散している。聖杯がこのへんにある可能性が一番高いのは確か。しかし、理論の上で言えば、アヴェンジャーが存在する場所のどこにいてもおかしくない。ただでさえ、この辺り一帯の泥を全て吹き飛ばそうと思えば。セイバーの聖剣や、ライダーの戦車でも余るのだ。それだけの広域を覆える宝具というのは、想像が難しかった。
さらに言うと、少ない数ではあったが、市街地にも泥が潜り込んでいる。それまで何とかしようと思えば、それこそ街を丸ごと吹き飛ばす必要があった。
「安心しろ、ってのも変だが……もう街を丸ごとなんとかするような力はない」
いつの間にか、顔を青ざめていたウェイバー。それを安心させるように、アーチャーが言った。
「この辺を八割吹き飛ばすのが限界だろうな」
しかし、続く言葉で再度顔を青ざめた。
「……その中に、聖杯がなかったら」
「祈れ、あるように」
つまり、今度こそどうにもならないという事だ。
一番可能性の高い場所を当たってすら、二割失敗する。数千万、下手したら億単位の人間の命を背負ってその失敗率は、あまりに大きい。しかもだ。もしウェイバーが聖杯を操っていたら、臓硯の脱落を知った瞬間に身を隠すだろう。成功を期待していい状況では無い。
賭けてはいけない状況、しかし賭けざるをえない状況。
どうにかして、少しでも勝率を上げる方法を考えなければならない。しかし、そんなに都合のいいものが、急に浮かぶわけが無かった。
時が経てば、アーチャーの宝具が発動する。焦りに満たされた頭脳では、碌な考えが浮かばない。
その時、視界に映るものがあった。日本では殆ど見なかった、銀色の長髪。さらに言えば、顔も見たことがある。
「魔術師を見つけた! 少しだけ待って!」
絶叫を置き去りにして、全力で走り出す。
あの銀髪は、間違いなくセイバーのマスターだ。偶然か、それとも理由があってか、はたまた神の悪戯か。とにかく、何でも言い。重要なのはただ一つ、ここにもう一人の魔術師が現れた、その一点だけだ。
「アイリスフィール、待ってくれ!」
よろよろと、左右にぶれながら走る彼女。しかし、その速度は思っていた以上に早かった。魔力もなく、素の体力だけで勝負しなければならないウェイバーには、少々荷が重い。
「待って! 待てって!」
それでも全力で追いかけて、声を張り上げる。彼女は四度目の呼びかけで、やっと背後を確認し、ゆっくりと立ち止まっていった。
彼女の元へ行く頃には、既に息が上がっていた。非力すぎる自分の体に苛立ちながらも彼女をみて、ぎょっとした。アイリスフィールの顔色は、青いを通り越して土気色。疲れに汗ばんでいなければ、既に死んでいると誤解しただろう。
大丈夫なのか、と声をかけそうになったが、ぐっと堪えた。駄目そうだ、と言われたとして、どうにもならない。労ることすらできない。どんな状態であっても、彼女には魔術を行使して貰わなければならないのだ。
どう声を掛けようか、言葉を選び、肺を落ち着ける。しかし、それが完了する前に、アイリスフィールが掴みかかってきた。
「ねえ、あなた切嗣を知らない!?」
「ちょ……っ、まっ、て」
がくがくと、疲れに喘ぐ体が揺すられる。同じく体力を消耗しきっているとは言え、相手の方が少しだけ身長が高い。ましてや、魔術を行使しているのならば天地の差だ。
服に絡まる指を無理矢理引きはがし、投げ捨てる。
「待ってくれ、そもそも切嗣って誰だよ!?」
怒鳴られて、アイリスフィールは我に返る。心臓のあたりをぎゅっと握りながら、平静の顔に(しかし苦しげに歪んでいるが)戻った。
「ごめんなさい。切嗣は、ええと……身長は170センチ半ばくらいの、寝癖っぽい短めの黒い髪型で、くたびれたコートを着てるの。あと多分、たくさんの火器を持ってるわ」
「それって……」
脳裏に、一人の姿がよぎった。敵の中心部へと向かっていた、セイバー一味と思わしき男。ごちゃごちゃしたものやら箱やら、とにかく大量に背負っていた。何を背負っているか、までは分からなかった。言われてみれば、確かにあれは火器だったかもしれない。
「知ってるの!?」
「ええと、あっちの方に」
言ってから、失言だと気がついた。
飛び出そうとしていたアイリスフィールを、飛びついて止める。ただの女性であれば、それで止められただろう。しかし、彼女は魔術師。力に負けて、ずるずると引きずられ始めた。
「待てよ! もう大分前の事だ! 今から行っても、意味なんてないぞ!」
体感では、あれから数十分が経過している。もう少し前後するかも知れないが、だいたいその程度だ。突入して、綺礼に会えたのかも知れないし、その前に死んだかもしれない。どちらにしろ、決着がつくには十分すぎる時間だ。
「それに、今あんな所に行ってみろ! 無駄死にするだけだぞ! ここでしか出来ないことがある! その方が、遙かに役に立つんだ!」
「でも!」
蟲のように、整然とした理性を感じさせる動きはなくなった。泥のスライムに戻ってからは、全くの無軌道。単純に、避けるだけならば今の方が容易いだろう。その代わりに、何が起きるか分からない恐怖がある。早い話が、事故死の確率が格段に上がっているのだ。
それに、元々近寄っていいものではない。ましてや、今の精神が限界に近いアイリスフィールでは、アヴェンジャーにつられて破滅しかねない。やっと見つけた魔術師を、こんな形で失ってはたまらない。
しかし、彼女は止まらなかった。さらに進むべく、体に力を込める。
また駄目なのか? 心の中に、諦めの感情が表れる。
自分の力を認めさせると、勇んで時計塔を出てきた自分。しかし、その結果はどうだ。やることなすこと、全てライダーにお膳立てされている。その姿を見れば、誰もが思っただろう。ウェイバー・ベルベットは、所詮ライダーのおまけ。相手をするに値しない、と。何一つ、己の力で成してはいない。
これもそうだ。礼装は、ケイネスがお膳立てをした。ウェイバーはその使用者を探すだけ。しかしそれすらも失敗して、結局嘆くだけ。
……それでいいのか? ライダーとケイネス。似ても似つかない二人。しかし、ただ一つだけ共通点があった。死を前にしても、決して折れなかったこと。彼らの背中を見ておきながら、ここで折れる?
そんなこと、出来るわけが無い。
「待、ってぇ!」
もう一度、体に力を入れ直す。少しでも、進行を遅らせるために。
「あれをなんとかする礼装があるんだ! けど、二人居なきゃ使えない! オマエがいれば、その切嗣って人の、何よりも助けになるんだ! それにオマエも魔術師なんだろ! 魔術師の義務を果たせよぉ!」
言い終えて、ついに食らいつけなくなり、どさりと落ちるウェイバー。行かせてはいけない、とすぐに顔を上げる。しかし、その必要はなかった。彼女は既に、立ち止まっている。
「ねえ、その話は本当なの? アヴェンジャーをなんとかできるって」
「ああ。けどこれは、二人で使わなきゃいけないんだ。オマエがいないと、使用できない」
肘をついて、体を持ち上げる。口の中にまで入った砂と葉を、つばと共にはき出した。
「……そうね、貴方の言うとおりだわ。焦りすぎていたのね、ごめんなさい」
「気休めかも知れないけどさ。さっきから、アヴェンジャーの動きが鈍いんだ。だから、多分大丈夫だよ」
さっきから、思っていたこと。アヴェンジャーは蟲の時と変わらず、増殖を続けている。しかし、動きが極端に少なかった。
臓硯という端末を失った影響は大きいだろう。綺礼本人が操るには、令呪という媒介を通さなければならないのかもしれない。数に限りがある以上、そう迂闊に使えないというのは分かるのだが。しかし、アーチャーが健在である今は、間違いなく使わなければいけない時だ。彼さえ倒せば、対抗できる存在が、少なくとも近くに居なくなるならば尚更。
なのに、沈黙は保たれたまま。何か、こちらの知らない事情があるので無ければ、可能性は二つ。未だ交戦中か、もしくは既に討たれているか。
前者であるならば。ここでアヴェンジャーを奪うのは、何よりも助けになる。
「これ」
良いながら、起動状態の方の礼装を渡した。
「これを二人で同時に、大きなアヴェンジャーの塊に当てなきゃいけないんだ。聖杯とか、そういうのを狙う必要は無い。大きな塊なら、どこでもいいんだ。射程距離は……安全を取って、40メートルくらいには近づきたい。使い方は分かるか?」
「ええ、多分。使い方自体は、ありふれた礼装みたいだし」
「じゃあ、早く行こう。これが失敗したら、アーチャーが宝具で吹き飛ばす手はずになってる。時間が経てば経つほど、向こうの勝率が高くなるからな」
言うだけ行って、ウェイバーは近くの塊――ライダーの固有結界から出てきたもの――に近づいていく。アイリスフィールの事は確認しない。放っておいても、勝手に付いてきてくれるだろう。
距離が100メートルを切ったあたりで、慎重に進む。そこいらの建物よりはよっぽど大きな塊、それが崩れれば、ものの数秒で飲まれるだろう。ちょっとやそっと距離を開けたところで、全く安心できない。あと半分、たった50メートルそこらの距離が、ひたすら遠い。
「ねえ」
慎重に周囲を警戒(どれだけ効果があるかは分からなかったが、やらないよりはマシだ)していると、ふいに声を掛けられた。まさか、話しかけられると思っていなかったウェイバーは、びくりと肩を震わせる。
努めて平静を装い、動揺を隠しながら、声だけで返答する。
「なんだよ」
「これ、私でもすごい高度な礼装だって分かるわ。あなたが作ったの?」
「いいや、作ったのは先生だ」
そんな事か、思いながら足を進める。アヴェンジャーに対する恐怖で、足を笑わせながら。
あれは、いわゆる根源的な恐怖だ。感情的なものよりも、野性的なものよりも、もっと深くどうしようも無いもの。アヴェンジャーを恐れ、排斥せぬ人間などこの世にいない。それはもう、人間ではないだろう。
それなのに、この女性には全く気負いが見えなかった。なぜ、これだけ接近して、アヴェンジャーのプレッシャーを感じないかのように振る舞えるのか。異質な存在、それに対する恐怖までもが生まれそうになり――しかしすぐに消えた。アヴェンジャーに対する感情は、彼女に抱いた些細なものなど比較にならないためだ。
発射地点まであと数十メートルの距離。その程度の道を意識したことなど、生まれて一度も無い。恐怖だけでは無い。失敗すれば……人口一億と少し、二、三国家分の人口。それを背負っているという重圧。
ウェイバー・ベルベットという、ただの矮小な人間に。それを気にするなと言うのは、不可能だった。
「そう、あなたの先生は、すごい人だったのね」
「……。ああ、そうさ。最低だけど、最高の先生だったよ。ボクにはもったいないくらいの」
もしも、ここにいるのがケイネスであったならば。このように怯えることは、無かったのだろうか。もしくは、ウェイバーが彼のように死んでいたら。きっとあのように、潔くは死ねなかっただろう。無様に惨めに、泣き叫んでいた筈だ。
ただのいけ好かない教師だとばかり思っていた。しかし、現実は全然違った。ウェイバー・ベルベットの目は全く持って、節穴だ。
「魔術師の義務を果たせっていう言葉、すごいと思ったわ。私は、そんな事考えたこともなかったから。あれも?」
「先生だよ。ボクに礼装を託して、死んでいった」
つま先が浮つく。膝から下に、現実感が無い。それと反比例して、アヴェンジャーから感じる重圧が増していく。
あんなものは、人間が立ち向かうようなものではない。完全に、英雄の領分だ。
「私は、冷静にやるべき事を選んで、私を止めた貴方は、先生に負けてないと思うわ。それに、今こうしているのは貴方でしょう?」
ふと、ウェイバーは目を丸くして、背後を確かめた。アイリスフィールは、まるで子供にそうするように、微笑んでいる。
もしかして、励まされたのだろうか。なんとなく釈然としないし、納得も出来ない。だが、少しだけ体が軽くなった気がした。
既にこの世には存在しない二人。もう声を掛けられる事は無くとも、その背中は目に焼き付いている。それでも――いや、だからこそ。彼らに背くような姿は、見せられない。ここで死んでも、そうじゃなくても、悔いが残っても。しかし、せめて誇れる自分でありたい。
「ここだ」
目算で、およそ50メートル弱。大きな対象に当てるには、十分すぎる距離。
既に起動状態の礼装を構える。隣では、アイリスフィールが同じように構えている。
「ボクの合図で」
「ええ」
撃て――そう言おうとした瞬間だった。恐れていた事態が、現実となる。
大きな山となっていた泥の塊が、いきなり崩れ始めたのだ。それも、自分達の方に向かって。雪崩のように押し寄せるそれに、一瞬逃げそうになる。必死になって、腰と、そして精神力を支えた。
「まだなの!?」
隣のアイリスフィールが、悲鳴を上げる。思わず、それに引っ張られて焦りそうになった。開き賭けた口を、無理矢理閉じる。
全てが一繋がりである以上、捕捉の最低量を心配する必要は無い。元々、難易度自体は蟲よりも遙かに低いのだ。
ならば、考慮すべき点はただ一つ。攻撃を、同時に当てると言うこと。タイムラグがどれほど許されるか分からない。それでも停止していれば、心配する必要はなかったが。崩れてしまったら、万が一がある。ならば、それをなくす方法。最も簡単な対処だ。限界まで引きつければいい。
一秒を細かく刻んで、黒の雪崩が襲う。一瞬で、既に20メートルの距離が消えた。あと30。まだ遠い。
かなり進んでも、流れるペースは変わらなかった。粘性があるように見えながら、しかし水のように柔軟。さらに一瞬で、20メートルが消える。しかし、まだ遠い。あと少し。
そして、残り10メートルで。黒の先端が、平均化した。
「今だ!」
絶叫と同時に、銀の帯を引きながら、二つの小さな弾丸が直進。同時にアヴェンジャーへと突き刺さった。
ウェイバーは、顔を両腕でガードし、体を小さく丸める。高速で迫る、超質量の壁。それを相手に、人体などひとたまりも無い。だが、頭さえ無事ならば、万が一が存在する。
その希望に縋った行為であったが、結果だけ言えば、それは全くの無駄だった。雪崩は、銀弾が突き刺さった瞬間に、ぴたりと止まっている。
いや、そこだけではない。全てのアヴェンジャーが、時間が停止したかのように動かなかった。
アヴェンジャーが激しく蠢く。形だけは、相変わらず固まったままなのに、中の黒だけが、激しく動いているのだ。幾度も、苦しみかき混ぜられるように走り続け。そして、その隙間から。光が、零れた。
ウェイバーは、自分の目を疑った。世界中の地獄を集めたような泥、それから光が生まれるなど、冗談じみている。うごめきはさらに大きくなり、比例して光の量も大きくなっていった。光は強くなり、闇は弱くなり。まるで居場所を追いやられるように、ひび割れていくアヴェンジャー。
そして、ついに二つは分離した。
光は、その場に残った。追放された闇は、容量の半分を持って、宙へ飛ばされる。同時に恐ろしい勢いで、一点に集中した。
怨嗟が、人間にとっての地獄全てが集まる。ある意味、聖杯の中にあった時よりも、遙かに純粋な悪意と憎悪の集合体。
君臨したのは、人間の終末を告げる黒い太陽だった。直径は、優に100メートルを超える。直視しただけで、目が焼かれてしまいそうな殺意が降り注いでいた。長くその場にいるだけで、気が狂ってしまいそうだ。
「……あとは任せたぞ、アーチャー」
呟きながら、ウェイバーは反転した。アイリスフィールを連れて、もう黒い太陽は見なかった。
夜が終わる。長い永い、聖杯戦争の夜が。
目の前には、暗黒の太陽があった。日食よりも深く、月よりも大きくその存在を誇示して。今も、光の代わりに呪いを降り注いでる。常人が直視してしまえば、それだけで狂ってしまいそうだ。
しかし、各地に拡散している時よりも、遙かに与しやすい。なにせ、一カ所に纏まってくれていれば、あとは吹き飛ばせば良いだけ。あれを現在進行形で見ておきながら、その程度の感想。つくづく、俺も常人離れしたものだ。思わず、苦笑が漏れた。一般人の枠を出たつもりはないが、しかしまともとも言い難い。
魔力の殆どが失われた体に、しかし力を込める。もう、宝具を降り注がせるなどと言った、派手な行動はできない。いくつか放っただけで、消滅しかねなかった。
腕を、空間のゆがみに突き刺す。それでまた、少ない魔力がごっそりと減った。しかし、問題はない。必要なのは、ただ一降りの剣。円柱を重ねたような、剣とは思えないそれ。不格好なそれは間違いなく、星が鍛え上げた聖剣にすら勝る、世界最高の剣だ。
無限の幻想。あらゆる剣の原型にして頂点。神が――もしくは、それ以上の何かが――デザインした、この世に在らざる宝物。名も無き乖離剣、もしくはエア。世界の破壊と創造を司る、世界最古の宝。
剣を構える。と言っても、持ったそれを垂れ下げているだけ。
黒い太陽を意識しながら、体を確かめた。両足は、やけに浮ついている。だが、一歩踏み込むくらいならば問題ない。腰も力が入れづらいが、許容範囲。左腕はもうない。しかし、右腕はほぼ完全だ。つまり、剣を振るのに不足無い。
つまりは、足りないのは魔力だけ。それさえあれば、この魔術師が始めた下らない騒ぎを、終わらせられる。
目の前にある呪いの集塊は、圧倒的物量を誇っている。それでも、しぶとく強欲に、その体積を増そうと蠢いていた。
しかし、どれだけ彼らが勢いを増そうと無駄なこと。
どれだけ膨れ上がろうとも、所詮は怨念。この世を構成する人間の、さらに感情の一部を集めた程度のものでしかない。世界全てを手中に収めた剣に比べれば、まるで足りなかった。そう確信させるだけの力強さが、右手から伝わってくる。まるで意思を持っているかのように脈動する剣は、まるで意思を持って敵を断たんとしているようだ。
俺は振り返る。そこには、当然と桜がいた。
相変わらず無表情な少女がそこにいる。しかし、少しだけ人間の温かさを得た。僅かに歪んでいる表情が、その証だろう。
「桜」
俺の呼びかけに、びくりと肩を震わせた。目を伏せて、視線を合わせないようにしている。
何を言おうとしているのか、分かっているのだろう。いや、当然か。鈍い俺でも、この状況なら察することが出来る。
目を合わせようとしない彼女に合わせて、しゃがみこんだ。頭の位置が同じになる。目と目が合って、また少女はびくりと震えた。瞳に映るものは何だろうか。多分、恐怖と戸惑いか。
思い返す。彼女との日々を。それは、決して長い時間でも、誇れる時でも無かっただろう。ただ、日常ごっこなりに、濃密ではあった。
初めて触れあうタイプの相手。付き合い方を模索して、戸惑って、しかし殆どは逃げだった。我がことながら、情けない限り。それでも、表面上家族の体裁を作れていたのは……きっと桜が、俺が思っていたよりも遙かに大人だったからだ。全く持って、中身が子供のまま図体だけでかくなった馬鹿とでは、比べものにならない。
だから、言わねばならない。
「ありがとう」
言葉に対する反応は、戸惑いだった。雰囲気は不安そうなまま、小さく首を傾げている。
揺れている瞳を、しっかりと捕らえ、焼き付ける。だって、この目を見ることはもう、二度と無いのだから。
「俺は一人だったら、絶対にこんなにがんばれなかった。勝手にマスターなんて役割を押しつけた俺と、一緒に居てくれた。だから、ありがとう」
ただ、生きたいという欲求。理由も何もかもを置き去りにして、そればかりが先行していた。ともすれば、呆気なく折れてしまいそうだったそれ。支えてくれたのは、他の誰でも無い、目の前の少女だった。
付き合っていく内に、同情と罪悪感を覚えた。生きたい、ではなく生きなくてはいけない、と思うようになった。彼女一人を、置き去りにしてはいけない、という義務感。同時に、常に感じていた、俺はこの世界に一人だという孤独と、どこか希薄な現実感。それが和らいでいく。いつしか義務感は消えて、どこかに桜がいるのが当然になっていた。
きっと、そこに居るのは誰でもよかった。他の誰かでも、俺はそうなれたのだろうと思う。でも、こうまでして俺に付き合ってくれるのは、彼女だけだった。そう断言できる。
だから――
言おうとして、口をつぐんだ。わざわざ、彼女に言うことではない。
「これから、あの暗黒の太陽を破壊する」
ぶんぶんと、髪を大きく振り乱しながら首を振る桜。ついぞ見られなかった、感情の動きに根ざす行動。だからこそ、安心できた。
間桐桜は、心を閉ざしていた。しかし、決して死んでなどいない。
「頼む、俺に令呪で命じてくれ。全力で宝具を放て、って」
「い……いや」
首の動きは、小さくなっていた。その代わりに、少しずつ角度が深まる。まるで、地面以外何も見ないようにするかのように。
例外は、右腕だった。左手で大事そうに抱えながらも、それを誇示するようにする。その内側にある、令呪を意識して。
「す、ぐに治ってって、頼む……」
「けど、桜はそれをしないだろ?」
それで令呪を発動するならば、もうとっくに使用している。また保持しているのは、彼女も分かっていたからだ。今が使い所ではないと。それが分かっていたというのは、まだ令呪を持っているのが何よりの証拠だ。
彼女にそこまで思われていたと言うのは、素直に嬉しいと思う。誇っていい事だろう。だから、それを最後まで裏切ってはいけない。
「う……ううぅぅぅ……」
俯いたまま、小さくうめき始める少女。俺の、剣を握ったままの右手を、そっと掴んできた。
握り返す事は出来ない。もう、その資格は失った。
「や……だぁ。いっ、行かな……いで……」
「……ごめん」
言葉が途切れる度、小さく嗚咽が漏れる。ぽたり、ぽたりと涙が零れては、荒れた芝生に落ちていく。
嬉しかった。桜が、ここまで感情を取り戻してくれた事が。悲しかった。結局、俺は彼女を笑わせる事が出来なかったのが。
受肉を目論んでいた俺。償いは、全てその後ですればいいと思っていた。普通に、人並みの生活をしつつ、少しずつ歩み寄っていけばいい。全部上手くはいかないだろうけど、そのうち心を開いてくれる。そして、いつか普通の人のように、普通に笑えるようになってくれるだろう、と。
夢だ。
それも、願い続ければ叶う類いのものではなく。いつか覚めて、置き去りにしなければいけない。ここが、夢の覚める場所。
俺たちが、同じ道を歩くのはここまで。これからは、別の道。
世の中には、確かに存在する。覆しようのない、圧倒的な現実が。それは誕生であったり、死であったり。子供の頃の、進路やらもそれに当たるだろう。親には逆らえない。血や社会のしがらみ、逆らえない事なんて、いくらでもある。それと同じだ。圧倒的な現実――人を滅ぼしかねない悪意の太陽。降り注げば、今俺を生かしたところで意味がない。取れる選択肢は一つ、対城以上の宝具を持つサーヴァントが、全力で吹き飛ばす。例え、行き着く先が自身の消滅だったとしても。
「頼むよ。俺はもう、間違えたくない。それに、桜を殺させたくない」
俯いたまま、顔を見せてくれない桜。未だに、涙は流れ続けている。しかし、嗚咽だけは止まっていた。
ここで、震える手を握り返せれば、どれほど楽になれただろう。それだけはできない。決断が揺らいでしまう。俺が、死ぬための決断が。
「おかしなもんだな……」
思わず、笑いが漏れた。あれだけがむしゃらに、生きることだけに固執していた俺が、今は死ぬ覚悟を決めている。
数々のものを失った。ただの日常と、親しい人からただの顔見知りまで。後は、見たことも無い何かも含めて。それは、置き去りにしたのかされたのかは、まあどちらでも良いだろう。なくした物の大きさは、恐怖心を抱かせるのに十分だった。
そして、桜に出会った。これで俺が死ねば、また誰かを置き去りにしてしまう。喪失だ。今度は――今度こそ、俺は命を喪失する。それでもいいと思えた。
失うのが恐ろしいから、生きることに執着した。そして、失うのが恐ろしいから、誰かの為に死ねるのだ。
家族を失うのは怖いだろうか? 怖いに決まっている。だから、命を賭けられる。親が、子が、兄弟が、家族にそうするように。俺も、そうする。ただそれだけ。誰もがそうする、当たり前の決断。
この世界に来て、ギルガメッシュになって、現実感がまるで欠けていたのだろう。心のどこかで、まだ物語だと思っていたのかも知れない。いや、そうでなくとも、収まるところに収まると思っていた。なまじ情報を持っていたら。運命というものが、本当にあるのだと。そして、俺は部外者だと。
馬鹿馬鹿しい事だ。運命なんてものはない。だから、皆が足掻いている。確かに、最初は部外者だったかも知れないだろう。しかし、桜を死なせたくないと思ったその時から、俺は部外者で居られなくなっていた。
後悔はある。しかし、躊躇は無い。剣を振れる。
「泣かないで、とは言えないけどさ。けど、君を苦しませるものはもう無いんだ」
家という牢獄も、魔術という足かせも、もう存在しない。血脈という鎖でさえ、この混乱があれば誤魔化せるだろう。
間桐桜は、もう自由になっていい。誰かに振り回されて、何かのために生きなくていい。自分の事を考えて、自分のために生きたっていい。
泣くのは、これが最後でいいんだ。
だから、
「この先を笑って生きてくれ。今は笑えなくても、いつかきっと」
唸るような声が上がった。嗚咽を無理矢理堪えて、ただの音に変えている。これは泣き声ではない、そう言うように。かちかちと、歯が鳴っている。鼻を啜る音もする。瞳は、水で揺れ動いている。目元を強く擦って、後から溢れ続ける水を、決して零さないように。でも――泣いていなかった。
俯いていた顔を上げる。くしゃくしゃで、瞼は腫れ上がり、目も赤く、頬にはたくさんの跡がついている。不格好な表情で、しかし桜は、精一杯顔を歪めた。
まるで、笑っている様に。
「だい……じょっ……だから。もう、だいじょぶ……だっ、から」
唇を噛んでいる。放っておけば、悲しそうに歪んでしまいそうなそれを、必死に制御するように。端から血を流すほどに、強く。そこまでして、笑顔を見せてくれている。
咄嗟に桜を抱きしめようとして、左腕が無いのに気がついた。何とかしようとして、必要ないと思い返す。
彼女はもう、自分の足で立っているのだ。人形のようだった彼女が、心を閉ざして、感情を捨てていた桜が。俺のために、感情が戻った事を見せてくれている。
あとは、歩くだけだ。俺も桜も、それぞれの道へ。あるべき場所へ。
「――感謝する、間桐桜。お前は最高のマスターだったよ。付き合ってくれたこと、感謝している」
「わた、し……も……!」
そして、俺は立ち上がり、振り返った。
「うう……うううう……ううううぅぅぅぅぅぁぁぁぁぁ……!」
堪えきれなくなった嗚咽が、背後から届く。それと共鳴するように、俺の瞳から、一筋涙が溢れた。
どうしようも無い人間。普通と不可能を言い訳にして、非道を容認していた愚か者。我がことながら、最低の人間だった。だから、最後だけは、いい人で終わらなければいけない。桜との時と涙と笑顔を、嘘にしないために。
黒い太陽はこの短時間で、さらに一回り大きくなっていた。冗談のような量と怨念は、それが落下するだけで街くらい軽く全滅出来るだろう。それでも、まるで問題にならないが。
剣が、甲高い音を立て始めた。不揃いな回転の振動が、右手越しに伝わってくる。同時に、発散される圧倒的な圧力。黒い太陽のように、怨念という不純物が混ざったものではない。至極単純で純粋な、ただ力という名の圧力。世界を滅ぼした、それを象徴する膨大な因子の塊。
「桜、お前のサーヴァントとして、最後の力を振るう」
宣言をしながら、しかし背後は向かない。もし振り向いてしまえば、それは無理に笑ってくれた彼女の努力を、無駄にする事になる。
それに、最後に焼き付けた。間桐桜の、とても無様で、けど渾身の笑顔を。土産に持って行くには、十分すぎるだろう。いや、こんな俺には上等すぎるくらいだ。
「これで、さよならだ」
「ちが、う」
小さな声と共に、服が引っ張られる。
「――またね」
ああ。その通りだ。
勝手に会って、勝手にマスターにして、そして勝手に別れる。そんな勝手ばかりの話があるものか。
「また会おう。いつかどこかの巡り合わせで、必ず」
しっかりと、言葉で約束を交わす。また、嘘に出来ないことが一つ増えた。もう一度彼女の前に現れるために、何とかしなければいけないな。
もう、既に一回、別人として別世界に行く、なんてあり得ない経験をしているのだ。或いは願えば、もう一度くらいあるかも知れない。無かったら、やっぱり自分で何とかしよう。何とかならなくとも。
たった数日、しかし俺の人生で一番濃い日々。
無理矢理戦争に巻き込まれたし、逃げたら即死亡だし、殺人事件には巻き込まれるし、過去の英雄と戦わせられるし、最後にはアヴェンジャーの相手なんてさせられるしでさんざんだった。血なまぐさい癖にやたらファンタジーだしで、そりゃ俺でなくても現実逃避くらいする。
でも、無ければ良かったとは、思えない。アーチャーにならなければ良かったなんて、思わない。
元の世界の俺は、どうなったのかな。死んだのか、それとも普通に生きてるのか。死んでいたとしたら、向こうの知り合いに謝らなくちゃいけないな。
こっちに、大切な家族が出来てしまったよ。彼女を置いては帰れない。だから、ごめん。これで本当に、さようならだ。
父さん、母さん。あとは、俺が会った全ての人達。俺はもう居なくなるけど、貴方たちは、これからも生きてくれ。
「これで後はなんもねーよクソッタレ。地獄に叩き込んでやるぜ」
空の上で恨めしげに浮いているアヴェンジャーに、届かぬ言葉を投げつける。恨めしいのは俺の方だ。
けど、もし俺がアーチャーになった事に、アヴェンジャーが影響しているのならば。その点だけは、感謝しなければいけない。最悪の経験で、最高の出会いだった。
「桜、頼む」
「……はい」
大きく、左足を踏み込む。アイドリング状態だった剣の回転が、爆発的に加速した。
甲高い音が、周囲に響き渡る。互い違いの回転に引きずられるようにして、風も逆回転の渦を作っていた。渦に収まりきらない風は鋭い牙となり、地面に接触、抵抗もなく軽々と抉り落としていた。
それも当然だ。剣が生み出している風は、ただの空気の塊では無い。いや、そもそも空気ですらなかった。回転が生み出したのは、擬似的な空間の断層。空間そのものを攻撃している以上、ただの物質で抵抗する術などある筈がなかった。
少しずつうなり声を大きくしていくエア。出力が上がるにつれて、存在感が希薄になっていく俺。自覚できるほどに迫っている、死の瞬間。
踏み込みに合わせて、腰を落とす。剣を思い切りなぎ払えるように、後ろに構えた。地面と剣の距離がさらに近くなり、派手に抉られる大地。巻き散らされた土と小石が、夜空に舞う。
「アーチャーさん……」
桜の呼び声に、令呪が呼応する。魔力が爆発的に膨れ上がり、同時にエアも臨界点近くまで出力を上げた。
いつでも渾身の一撃を放てる状態。それを作り上げながら、空を睨み付けた。正確には、その先にある黒い太陽を。斜線上には何も無い。おぞましさを余すところなく伝える、空白だけが漂っている。
「聖杯戦争を、終わらせて」
そして。願いは正確に、俺に届いた。
流れ込む魔力に、桜のあらゆる感情が乗せられていた。悲しみと、喜びと、あとは感謝と。言葉に出来なかった事が全て。
俺に。俺の軽率な行動に。彼女はこんなにも救われていたのだ。彼女の想いに見合う何かなど、全く返せていないのに。ありがとう――念じながら、万全の状態よりもさらに充実した体に、力を込めた。
この一撃で。その全てを、桜に返せるように。
「天地乖離す(エヌマ――」
甲高い音は、ついに耳障りな騒音へと変わった。空間が引きずられ、断裂していく音。
アヴェンジャーがやっと危険を察知したのか、大きく揺らめく。しかし、ケイネスが死を賭して作り上げた魔術は、その程度では破れはしなかった。球形をどうしても崩せず藻掻く太陽。
すまない、とは思う。アンリマユは人間に対する絶対的な悪。だからといって、俺はそれを弾劾出来るほど大層な人間では無い。だが、俺には他の何よりも優先しなければいけない事がある。お前の事を考えることも、哀れむ事もできない。
間桐桜を取り巻く全てのしがらみを、消し飛ばすように。俺は、腕を大きく振り抜いた。
そして――
「――エリシュ)開闢の星」
――聖杯戦争は、終わりを告げた。
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エピローグ
一つの戦争が終わった。聖杯という名の万能機、それを奪い合う欲にまみれた血みどろの戦争が。
高々一国の地方都市で、それも参加人数は三桁に届かないような戦。それの結果がどうであったとしても、世界に大きな影響があるわけが無い。そして、あっていいものではない。人並みの言葉をつけるならば、世界は皆で変えなければ意味がない、という事なのだろう。なんにしろ、待っていたのは当然と続く延長だ。
冬木市は、その後しばらく混乱が続いた。連続殺人事件に、二度にわたるテロ行為。一度目のホテル爆破は死人こそ出なかったものの、二度目の市民会館破壊の余波は甚大だった。特に、正体不明の毒ガス。これによって未遠川下流の台地南部は完全に壊滅しており、死者は百人をゆうに超える。非難警報が鳴っているにもかかわらず寄っていった人間すら、帰らぬ人となっていた。
これが、およそ一般的な認識だ。公式発表も、これに肩肘張った程度であり、内容自体はほぼ同じ。
とても苦しい言い訳だ。そもそも、毒ガスで死亡と銘打っておきながら、遺体の一つも返されていない。屍肉や骨から感染の恐れあり、という事で一括処分された事になっている。少し調べるだけで、粗は大量に出てくるだろう。そして、その粗に気付いた者は、極秘裏に処分されている。
監督者の不在によって拡大した事件は、魔術関係者を恐れさせるに十分だった。いつどこで神秘が露見してもおかしくなかったのだから、当然だろう。
まずは、聖杯の解体が決定した。これは魔術協会と聖堂教会双方の同意がある。確かに、魔術協会にとって、聖杯は得難きものだろう。しかし、神秘露見の恐れを放置してまで欲するものではなかった。
解体にあたり、最後まで抵抗したのがアインツベルン家。現在、正常に機能している唯一の御三家なのだから当然だろう。しかし、いくら歴史があろうとも、所詮は魔術師の家系の一つに過ぎない。魔術協会に抵抗出来るはずも無く、解体品を御三家で分ける事を条件に合意。
かくして、冬木という偽りの平和があった地。ここに、真の平和が訪れる。もう二度と、聖杯戦争が行われる事はないだろう。
衛宮切嗣。
彼は、聖杯戦争終結直後、十日も目を覚まさなかった。魂は摩耗しきり、魔術回路も焼け切れる寸前、おまけに全身が壊れる寸前だったのだ。むしろ、目を覚ましたのが奇跡だろう。
アイリスフィールの懸命な看護と魔術治療。そのおかげで、目覚めてすぐ立てるようにはなっていた。それは、すぐに動いていいという事ではなく、むしろ絶対安静だ。それでも、衛宮切嗣はすぐに立ち上がった。
電撃的にアインツベルンへ攻め入り、イリヤスフィールを奪還。ぼろぼろの体を、さらにぼろぼろにする。日本に着く頃には、殆ど動けなくなっていた。
それから一年以上の休養をとり、やっと普通に動けるようになった切嗣。もう以前のようには動けなかったが、それでも小さく『正義の味方』活動をしている。折れたのか、とも思わせた彼だった。しかし、やはり自分の信念は捨てきれなかったのだろう。しかし、以前にしていたような無茶は、もうない。
アイリスフィールとイリヤスフィール。彼には守らなければいけない家族にして枷が、二つもある。もう、以前のままで居ることを、許せなくなっていた。
武家屋敷の縁側で、妻子と共にゆっくりする姿がよく見られる。たまに、思い出したかのように、しばらく居なくなる事はあっても。必ずそこに、帰ってきていた。
アイリスフィール・フォン・アインツベルン
現在は衛宮切嗣と正式に籍を入れて、衛宮姓を名乗っている。
本人はそれをあまり表に出さないが、心臓がかなり弱っていた。欠損だらけの心臓は、治療して一応は完治した事になっている。それでも、今まで無茶した分のダメージが、無くなるわけでは無い。抱えた爆弾は、確実に体を蝕んでいる。既に、激しい運動はできなくなっていた。
ホムンクルスは、ただでさえ普通の人間よりも寿命が短い。その上に酷使をしたのだから、切嗣同様、体はぼろぼろだった。しかし、彼女に笑顔が絶える事はない。
そんなアイリスフィールの趣味は、散歩と墓参りだ。町中をふらふらと歩いては、小さな発見をして。それを、家族と舞弥、雁夜に語りかける。辛そうな姿など全く見せず、瞬間瞬間を味わうように。誰よりも、人間らしく。
彼女があとどれだけ生きられるかは、誰も知らない。
ウェイバー・ベルベット。
聖杯戦争終結時、唯一五体満足で存在していた魔術師。そこにライダーの加護が――キュプリオトの剣に込められた想いが無関係だとは言い切れない。
彼はその後、しばらく日本に残った。と言うのも、最低限の神秘隠蔽をする人間が、彼の他に居なかったからだ。アヴェンジャーが少量ながら、町中まで浸透していたにもかかわらず、それを誤魔化す者が誰も居ない。監督者たる教会どころか、御三家のどこも行動不能に陥っていたのだ。金もコネもなく、魔術も拙いウェイバーにできる隠蔽などたかが知れている。それでも、なんとか最悪の事態だけは止められたが。
一通り終えて、魔術協会の増援と入れ替わるように、帰国する。その際に、ケイネスの遺体を一緒に持って帰った。
当主を失ったアーチボルトの混乱は大きかったが、それもなんとか収まった。一つに、魔術刻印が健在であったこと。一つに、ケイネスの拠点から、聖杯に関するデータが得られたこと。一つに、彼が魔術師としてその役割を果たす為に死んだと言うこと。
没落を免れたアーチボルトは、ウェイバーを迎え入れる。それは、刻印その他を持ち帰った事に対する礼でもあるし、彼を使える人間だと判断しての事でもある。
名家の後ろ盾を得たウェイバーは、その後精力的に動いた。と言っても、それは魔術師としてでは無い。成長したウェイバーは、教授として働くほかに、遺跡の発掘等もしていた。
その頭脳を生かして、様々な概念武装、時には宝具を発掘する。教会と当たってしまった時は、その口でねじ伏せて。今では、剣を交えない、協会の最終兵器と呼ばれるようになっている。
はっきり言って、危険な仕事。しかし、彼にやめろと言う人間はいなかった。常に大きな片手剣を携えて、その技量は執行者を抜けば間違いなく最高。下手な化け物よりも、余程強い。
教育に発掘に精を出しながら、常に剣を佩いでいる。まるで、己が見たもの全てを見せるように。
言峰璃正。
信じる息子に裏切られ、腕を失った璃正は信じられないほどに老け込んだ。表向きの教会の仕事こそこなしているが、裏側からは完全に引退している。まあどちらにしろ、監督者の任務を全う出来なかったので、罷免は免れなかったが。
当然、聖杯の解体時にも、何かが出来るわけでは無い。ただの立ち会いとして、そこにいた。それでも、アインツベルンとの交渉では、猛威を振るっていたが。
解体された大聖杯の残骸を巡る話し合い。代表のいない間桐、遠坂の代わりに出たのが、璃正だった。彼からしてみれば、罪滅ぼしのつもりでもあったのだろう。凛と桜、二人の少女から多くのものを奪ってしまった、言峰綺礼。ならば、その償いは親以外にする者が居よう筈も無い。息子の事を全く理解できていなかったと知っても、やはり親子なのだ。たった一人の、愛する息子。
最終的に、大聖杯はきっちり四等分して分配される事になった。内一つは魔術協会である(さらにその中から何割かがアーチボルト家に入るようだった)。聖杯監督者として、長年魔術協会、聖堂教会の両方を上手く操作していただけはある。
かくして、故人・遠坂時臣が望む形で決着をつけた璃正。役割を果たしたという安心感からか、この頃よりさらに老け込むのが早くなった。
外見は、年相応の老人。しかも、片腕が無い。それでも教会の仕事をこなせているのは、昔にずいぶん体を鍛えていたからだろう。
いつからか、銀髪の小さな少女を連れて歩くようになった。どうやら、綺礼が他国に残してきた娘、つまりは孫らしい。今度こそ間違えるものかと、笑顔の絶えない優しい祖父をしている。
遠坂凛。
聖杯戦争に参加していない者の中で、最も大きな影響を受けた者の一人だろう。
たった数日で、父も、兄弟子も、多くの人が帰らぬ人となった。あまりに急すぎる環境の変化に、涙を流さぬ訳がない。それでも、父の言葉を思い出しながら、強く生きていく決意をする。
彼女は当然のように、魔術師になる道を選んだ。しかし、魔術師を習う先で苦労することになる。資料や道具はほぼ完全な状態で遠坂邸にあるとはいえ、遠坂の魔術を使える者が全滅。第一関門として、魔術を学ぶ相手を探す、というものが立ちふさがる事になった。
それで彼女が目をつけたのは、衛宮切嗣だった。遠坂の魔術師として、あの手この手(主に経済的な手)を使い、彼を追い詰めた。最初は断固拒否していた切嗣も、最終的には首を縦に振り、改めて弟子入り。
とは言っても、弟子でいる期間は短かった。あっという間に、師の腕を超えてしまったのだ。確かに、衛宮切嗣は魔術師としての才能に溢れていたとは言い難い。その上、魔術刻印も不完全な形でしか受け継いでいないのだ。それでも、聖杯戦争に参加していたマスターの中では、間違いなく三位の能力があったのだが。それでも、魔術刻印を完全な形で継承した天才の前では形無しだった。
衛宮切嗣を超えてしばらくは、アイリスフィールが師匠をしていたが。それも、短期間で終わることになる。
魔術師として、完璧を目指す少女。体の弱い母を支えながら、今日も家訓を旨に魔術の鍛錬。しかし、宝石と火器を使用する何とも歪な魔術師として、新しい遠坂となっていた。
間桐桜。
ある意味、この聖杯戦争一番の被害者であり。同時に、最も救われた者でもある。
少女は、現在も間桐姓を名乗っていた。当然、本人が好き好んでではなく、大人の事情が絡んでくる。簡単に言ってしまえば、遺産が絡んできたのだ。経済的な面でも、魔術的な面でも。
当主である臓硯の滅びは、即ち間桐の滅亡と同義。しかし、それで間桐の血筋が無くなったわけでは無い。桜が遺産の権利を主張する為には、間桐である必要があったのだ。臓硯の残していた遺産は、莫大である。数世紀もかけて溜めておいた魔術関連の品は、たたき売りでも小さな街がまるまる買えるほど。
血族は当然、権利を主張した。だが、それは魔術師としても後を継ぐ、という意味だと言われるとあっさり放棄。持てるだけの金を持って、とっとと日本から出て行ってしまった。
こうして、分不相応な遺産を手に入れた少女。彼女が日常へと帰るには、長い時間が必要だった。彼女の家族達の尽力があっても、だ。
普通の日常に浸かっていた、ただの子供。それが、ある日を境に絶望と失望と苦痛のみで構成される地獄に落とされたのだ。見かけは治っていったとしても、齟齬は必ず出た。はっきり言ってしまえば、社会性が完全に失われてしまったのだ。
それでも、本人が強い意志を持って、少しずつ克服していった。今では、普通に笑えるようにもなっている。
精神が大分回復してから、彼女も魔術を習い始めた。こちらは衛宮切嗣ではなく、ウェイバーに師事を願って。師匠の力あってか、めきめきと力を伸ばしていく桜。あっという間に凛に追いついたのは、驚いていい事だろう。
かつて、人である事をやめようとした少女。今は精一杯、人間として生きている。
その顔には、いつも柔らかい笑顔があった。
聖杯戦争という、魔術師の欲望が生み出した儀式。関係者にも、そうでない者にも、多くの悲劇を生み出した。
忘れる事など出来るはずも無く、胸の奥底に隠しながら。誰もが、精一杯前を向いて生きていこうとしていた。
それが正しいのか、間違っているか。答えは遙か先、誰も見ることは出来なかったが。
ただ、懸命に進んでいるのだ。
ああ、それと。
もう一つ。忘れていた事がある。
俺についても、言っておかなきゃな。
「アーチャーさん、行ってきます」
「ああ、行ってらっしゃい」
人が多すぎず、少なすぎず。なんて事はない街の一角。もう少し詳しく言ってしまえば、以前拠点を構えた場所と全く同じビル。俺はそこの主として、未だにそこにいながら。今日もいつもと同じように、桜が学校に行くのを見送っていた。
静かになったビルの一室で、ソファーにもたれかかる。
光陰矢のごとし。7年という月日は、長いようで一瞬であった。何故俺がまだ存在していられるかと言うと、それは聖杯戦争終結直後にまで遡る。あの、黒い太陽が破壊された瞬間だ。
言われてみれば当然だ、と思えるかも知れない。もしくは、そんな馬鹿なと呆れてしまうかも。そんな、あまりにも上手くできすぎた話だ。
簡潔に言えば、聖杯戦争の勝者は桜だと認定されたのだ。
アヴェンジャーに集中しすぎて、誰もが忘れていた事なのだが。アヴェンジャーと聖杯を分離した時点で、二つは完全に独立したのだ。そして、小聖杯は行方不明ながら、健在ではあった。
つまりは、儀式としての聖杯戦争は、分離した事で全て終了していたのだ。それ以降はただの余興。アヴェンジャーの消滅など、ただのおまけでしかない。少なくとも、聖杯にとっては。
桜はあの時、確かに願っていた。俺に、死なないでくれ、生きてくれと。令呪にその意思を込めそうになるのを、必死で堪えながら。しかし、外部にあった聖杯。それだけは、心の底からの、本当の願いを聞き届けていた。切り札である規格外宝具、エアを使用して消滅しかかっていた俺に、聖杯が降りかかり。本編であった、アンリマユを飲み干した事による擬似的な受肉ではない。魔力すら自分で生産できる、完全な個人としてこの世に存在することを許された。
その後が大変だった事は、言うまでも無いだろう。
この世に、あらゆる枷なしに存在してしまった英雄というのは、それだけで驚異だ。それが最上級の英雄ともなればなおさらだ。中身が、元々はただの一般人だなど、誰も知らないし知りようがない話である。
と言うわけで、連日ご機嫌伺いが来るわ。ウェイバーと協力して、戦争の後始末に奔走するわ。アインツベルンに、切嗣と共にイリヤ奪還に向かうわ。俺と時臣の関係が知られると、凛に大泣きしながら殴られるわ。桜は凛や葵にまで拒絶を見せて一悶着。気絶した葵を介抱しつつ、両者の取りなしをするわ。
怒濤の日々、という表現に偽りが無い。
それらが多少落ち着いても、やはり安らぎの日々とは遠かった。と言っても、半ば自業自得ではあったが。
俺は時計塔に帰ったウェイバーを、アーチボルトより早く支援し始めた。上り詰めるかどうかは進路によったが、少なくとも能力がある事は分かっていたのだ。貸しを作って損は無い。そんなことをしている内に、いつの間にかウェイバーは、俺と魔術協会を繋ぐ窓口になる。
人となりが広まれば、協力を求める声も増える。特に聖堂教会は、関係を深めようと躍起だった。桜が居たために、そう遠くにまでは行かなかったが。
ちなみに、教会の窓口には璃正にやってもらった。大人しく余生を過ごそうとしている彼には、悪いと思ったのだが。代わりに、綺礼の娘に関する情報を渡す。身勝手な話だが、それで許して欲しい。
外部との関係は、付かず離れず、限られた人間との交流のみで。下手に俺が対応するよりも、遙かに上手くできる形にした。
と、少し話がずれたな。
桜について。聖杯戦争が終わって直後の、他者に対する拒絶感は凄かった。他人は敵、という考えがこびりついていたらしい。あの幼さで虐待され続けたのでは、それも仕方が無いだろう。
頭では違うと分かっていても無駄だ。こういう事は、感情の問題である。自分を『捨てた』時臣に、『見捨てた』凛と葵。そうやって印象付いてしまったものは、容易には覆せない。触れようとしただけで全身が震え出す程だった。いや、それくらいで済んでよかったと言えばいいのか。
反応が返ってくるようになったからと言って、全てが丸く収まる訳が無い。むしろ、そこからが始まりなのだ。虐待の反動が一気に来たことで、極度の情緒不安定と人間不信。そんな桜にとって、唯一の例外が俺だった。
結局葵は、桜と暮らすのを断念。俺が預かって、少しずつケアしつつ、様子を見ることになった。
ただでさえ、俺に依存していた桜。それが、基本二人しかいない暮らしに、依存はさらに深まっていった。悪い兆候だったが、止めてしまえば不安定な精神が戻りかねない。
社会復帰には三年必要だった。それを長いと見るか、短いと見るかは分からなかったが。ただ、俺は精一杯の事をできたと思う。
他人を拒絶しなくなり、ごく普通に笑顔も見せられるようになって。再度、葵が桜と暮らすことを望んだ。今度は遠坂だけで話しあい、俺は席を外していたので内容までは知らない。だが、最終的に戻らないことに落ち着いた。不謹慎ながら、その結果に喜んでしまう。彼女が俺を必要としてくれていた様に、俺もまた、桜が必要だったのだ。
魔術を習いたい、と言い始めたのは、その前後だったと思う。理由は分からないが、あって困る技術では無いと了解。教師として、ウェイバーを呼びつけた。
ずいぶん渋られたが、そんな事は知らん。山ほど貸しを作ってやったのだ、その分はしっかり働いて貰う。優秀な教師を得た桜は、めきめき実力を上げていった。と言うか、魔術刻印ありの凛に近いレベルまで上げたというのがおかしい。余談だが、追い上げに危機感を覚えた凛は、兄弟弟子であるイリヤとより魔術の修行に励んだとか。
そうして、さらに数年。
桜も今年で中学一年になった。ついこの間まで、家の中で俺の後を着いてくるしか出来なかった子。それが、今は普通に学生をしている。これほど嬉しい事も無い。
と、ふと気がついた。テーブルの上に乗っている包み。
弁当を忘れていったか。俺は立ち上がって、ついさっき出て行った桜を追いかけた。
ちなみに、これは俺が作ったものだ。家事は基本的に、二人で交代してやっている。桜は全部自分がやると言うが、そうでもしないと、俺には他にやることがないのだ。
俺は仕事をしていない。と言うか、仕事をする必要がない。一応、投資家ではあるのだが。仕事らしい仕事は、たまにくる教会や協会からの依頼くらいになるだろう。
考えてみてほしい。普通に仕事をして給料を得て、その数百倍の金が黙ってても入ってくる。はっきり言って、恐ろしく空しい。それに、俺は常に裏世界から見られている、と言ってもいい。下手な仕事をして尊厳を下げるのは、本気で危険である。
家を出て、桜の後ろ姿はすぐに見えた。ずいぶん成長したが、やはり小さく華奢なのは変わらない。
「桜」
寸前まで近づいて、声をかけた。
振り向く桜。その表情は、昔からは考えられないほど、人間味が溢れていた。柔らかい、どこか気の抜けた表情の前に、持ってきた弁当を掲げる。
「忘れ物だ」
「ありがとうございます」
弁当箱を受け取って、丁寧にしまい込む。そして、通学路を歩こうとしていた桜が、ふと空を見た。釣られるように、視線を追う。そこには、青空に少々の雲がかかった、何の変哲も無い空。
ただ、なんとなく。昔を――聖杯戦争をしていたあの頃を、思い出させた。
「アーチャーさん、少し歩きませんか?」
「……そうだな」
小さい桜の歩幅に合わせて、俺も歩き始める。
並木道。いい景色だ、と言うには、花はもう散ってしまっている。それはそれで悪くない。いや、それだけはない。
ここ数年、ただの平穏を味わいながら歩いた道。それがすばらしいと感じなかった事など、一度としてなかった。隣に、誰かがいるならば、余計に。
「いい天気ですね」
言いながら、桜は微笑んだ。とても自然に。
それを見て、ふと思う。彼女は元の道筋と、どれほど違うのだろうかと。
下らない考えだった、と己を笑い飛ばす。違うに決まっているから、ではない。そもそも、元の道筋などは存在しないのだ。あるとすれば、それは今のみ。誰もが努力して、勝ち得たり、望まなかったり。そういったものが絡み合ってできた道のみが、あるべき存在の流れだ。
原作の間桐桜? 笑わせてくれる。そんなものがあるのは、作り物の中だけだ。
ここは物語の中だろうか。当然、違う。定められた道などありはしない。俺にとっても、桜にとっても、この世界の誰にとっても。紛れもなく、自分で未来を作り選ぶしか無い現実。
そして、この今を、勝ち取ったものでないなどと、誰にも言わせはしない。
「ありがとうございます」
「何だよ、いきなり」
「いいえ。ただ、言いたくなったんです」
くすり、と悪戯っぽく笑う桜。
親子のような、兄妹のような。当人にもよく分からない関係。多分、これだと断言できるものは無い。だが、一つだけ言えることがある。
俺たちは家族だ。間違いなく。
当たり前の日常の、つまらない道を二人で歩く。その先がどんな場所であっても、二人であれば耐えられるし、乗り越えられる。そして、喜びは大きくなる。
だから、この先も。きっとこうして、ただなんとなく歩いて行くのだろう。
二人で、一緒に。
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