コンキリエ枢機卿の優雅な生活 (琥珀堂)
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はじまり

 ロマリア連合皇国。

 始祖ブリミルの弟子フォルサテによって興されたこの国は、ブリミル教の総本山であり、王ではなく教皇によって代々治められてきた。

 ブリミル教が圧倒的な支持を得ているハルケギニアにおいて、この国は人々の精神的な中枢としての役割を担っており、その威光は他の国々に比べ、一段上を行っていると言って差し支えない。

敬意を込めて『光の国』とも呼ばれるロマリアは、まさに神の恩寵と神聖な魂に守られた、ハルケギニア一清らかな土地なのである――。 

 ……と、言いたいところなのだが。

 残念ながら上記の内容は、宣伝的な意味合いしか持たない、適当なレトリックに過ぎない。

 実際のロマリアは、わりと澱んだ国である。

 確かに街や建物は美しい。ハルケギニア中から集まって来る寄付金で整備された街並みは、伝統を重んじつつもつねに新しく、輝いている。

 金や大理石を用いた豪華な装飾をした家も珍しくなく、水路も街道も芸術的な計算によって設計されていて、見る者たちに、「美しい」と感じさせてくれる造りになっている。

 そして、そんな街の中を颯爽と歩いていくのは、きらびやかな衣装を身にまとった神官たちだ。

 職人によって仕立てられた高級な絹の法衣にはしみひとつなく、縫い込まれた金糸や銀糸が日の光をあびて煌めいている。手に持つ法具も美術品そこのけの凝ったもので、無数の宝石によって豪華に飾り立てられていた。

 弟子たちを引き連れ、ゆっくりと聖堂への道を歩む彼らの姿は、なるほど確かに厳かに見える。

 以上が、この国の「光」だ。

 では、今度は光から目を逸らして、国の隅っこの方に目を移してみよう。

 美しい街の、美しい建物の軒の下に、見を寄せ合うようにして座り込んでいる、汚い身なりの人々がいる。

 女性も、子供も、老人もいる。座ることもできずに地面に寝たまま、苦しそうにしている病人もいる。

 彼らは、一言で言うと物乞いだ。職も、家も、明日への希望もない人々。

 他の国で仕事を失ったり、健康を害して周りの人達から見捨てられたり、幼いうちに親に死なれたりして、幸せに生きていくのが困難になった、最低層の平民たち。

 そんな彼らは、最後に残ったブリミルへの信仰のみを頼りに、この国にやってきた。始祖に祈り、救われる日を夢見て、教会からの炊き出しだけを胃に入れて、ただ生きている。

 そんな生きているだけの人達が、このロマリアには無数におり――先の神官たちは、彼ら惨めな人々の横を、表情ひとつ変えずに、しゃなりしゃなりと歩いていくのだ。

 神官たちは、物乞いたちを見ていちいち哀れんだりしない。

 ものを恵んだりもしない。物乞いたちの数が多すぎて、いちいち助けていたらキリがないからだ。

 けっこう酷いことを言っているようだが、物乞いの数が多すぎるから助けられない、というのは、ロマリアではむしろ良心的な神官の思想である。

 良心的でない神官は――「金がもったいないから」助けない。

 彼らは、自分が綺麗な法衣を着るために。豪華な杖を持つために。広い家に住み、美味しいものを食べ、楽に生きるために、少しでも多くのお金を持っていたい。ゆえに、貧乏人に施しをしない。

 完全な捨て金にしかならない出費など、何の意味もない。

 だから、神官たちは物乞いたちの前を通り過ぎる。

 持つ者と持たざる者。輝ける者と、くたくたに擦り切れた者。

 二者の凄まじい温度差が、あちらこちらに遍在している。それが、このいびつな国――ロマリアなのだ。

 

 

 今また、美しい衣装を着た神官が、道を歩いてきた。

 まだ若い、女神官のようだ。顔立ちはまだ幼さを残しており、眉にかかる程度で切り揃えられたアメジスト色の前髪にも、若者特有のツヤがある。

 その顔を見ただけなら、神に仕え始めたばかりの新米シスター……という印象を受けるが、しかしその服や持ち物は、先ほど通り過ぎた神官より、さらに豪華で……お金がかかっているようだった。

 レースを編んだ白いヴェールを頭に被り、灰色の帽子をその上に載せている。

 柔らかそうなゆったりした法衣には、エメラルドやルビーで装飾したボタンが沢山ついており、法衣のすそからのぞく小さな足には、金粉で細緻な絵が描かれた美しい木靴を履いている。

 手に持つ杖は、短く細いワンドだが、その素材は銀とプラチナだ。先端には、人の目玉ほどの大きな宝石がついているが、それはなんと曇りひとつない、最高品質のダイヤモンドなのだ。

 彼女の身につけているものを、全て売り払ったとしたなら……まず、一万エキューは下るまい。

 そして、そんな彼女の後ろに付き従っているのは、五十人近いシスターの列である。

 以上のことから推し量れる事柄は、ふたつ。

 この豪華な女神官が、ロマリアにおいて、相当に高い地位にいる人物である、ということと……。

 彼女が、貧しい者たちに施しをするより、自分のために金を使うことを優先する人物である、ということだ。

 彼女の名は、ヴァイオラ・マリア・コンキリエ。

 二十六歳の、結婚適齢期を二、三歩ほど踏み越えた、ギリギリ若い女枢機卿である。

(……なんか今、誰かにすっごい不快な評価をされたような気がするのじゃ)

 女の勘が知らせたのか、眉根を寄せて渋い顔をするヴァイオラ。

 その不快感は根拠のないものだったため、すぐに眉間のしわは消えたが、直後にまた表情を憎々しげに歪めた。

 その視線の先にあったのは、ぼろをまとった貧民たちの群れだった。

 彼らは皆、髪も肌も汚れ、頬はこけ、目からも生気が失せている。

 母親らしい女が、乳房を赤ん坊の口に押し当てているが、痩せすぎて乳が出ないのか、ついに赤ん坊は泣き出してしまった。

 あわれを催す光景である。

 しかしヴァイオラが心に浮かべたのは、全く違う感想だった。

(きったない奴らじゃのー……まったく、『光の国』の景観が台なしじゃわい)

 彼女の頭の中には、貧民たちへの憐憫の情はかけらもない。汚物を見るような嫌悪感しか、そこにはない。

(なーんだってヴィットーリオのクソガキは、この連中をロマリアから追っ払ってしまわんのかのぅ。

 ここにいたって救われんっちゅう当たり前のことを理解させにゃならんのに。こいつら馬鹿じゃから、教皇自ら強く言ってやらんと聞きやせんぞ。

 それとも、ヴィットーリオが言っても聞かんじゃろか……人に頼らんと生きていけん、能無しどもの群れじゃからのー。

 教会の金と台所にたかる、恥知らずな害虫……それが貧民どもじゃ。道理より自分の胃袋を優先してもおかしくはない、がな。

 あー、アホのブリミルめ。この国が貴様のお膝元なら、お前ん家に住み着いた害虫ぐらいガーッと駆逐してくれい。全く役に立たん……)

 心の中でぶつくさ言いながら、ヴァイオラは足早に貧民たちの前を通り過ぎていく。

 彼女は、始祖ブリミルに対する信仰も、世の中のブリミル教信者たちに対する慈愛の気持ちも持ってはいない。

 裕福な家に生まれ、何一つ苦労することなく、今まで生きてきた。一番大切なものは「自分」で、他人は自分の幸せのための踏み台だと思っているし、踏み台にも使えない役に立たない人間は、生きる価値がないと本気で思っている。

 そんなヴァイオラが神官になったのは、その職業がハルケギニアにおいて、最も強い権力を持っているから、というだけの理由に過ぎない。

 血筋のいる王様にはなれないが、教皇にならなれるチャンスがある。そしてロマリア教皇は、その威光において諸王国の国王たちを上回る。

(有力な聖職者どもに賄賂をばらまいて、枢機卿に選ばれるところまではこぎつけた。

 今の教皇――ヴィットーリオは我より若い。奴がなれるなら、政治的工作次第で、我が次期教皇に選ばれても不思議はない。

 いずれこのロマリアに、ハルケギニアに、このヴァイオラ様が君臨してくれる……この夢、けっして大それたものではあるまいて。ウケケケ)

 猛烈な出世欲と権力欲。それがヴァイオラ・コンキリエ枢機卿の本質であり、彼女はそれを満たすだけの財産と才覚に恵まれていた。

 これから始まるのは、ヴァイオラが自分の望みを叶えるために奮闘し、邪魔する者たちを無情にも蹴散らしていく……そんな物語である。

 

 



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金のない平民など、飢え死にすればいいのじゃ。

「よし、昼メシにするのじゃ」

 午前中の仕事(うろ覚えの説教を、無駄に広い教会に集まったアホ群集どもに適当にしゃべり聞かせる)を終え、我は厳かに宣言した。

 仕事というものは、ストレスが溜まるものじゃ。それが、自分が馬鹿にしとる相手の機嫌うかがいをせねばならん仕事じゃと、特に肩が凝る。

 その疲れを癒してくれるのが、美味くて栄養のあるメシなのじゃー。

 特に今日の昼メシはすごいぞー。今朝、普段から便宜をはかってやっておったゲルマニアの牧場から、デカイ牛が一頭まるごと送られて来たんじゃよ。

 乳牛ではないぞ? 脂ののった、ステーキにして美味しい最高級の肉牛じゃ!

 届いてすぐに、肉屋を呼んで解体させたから、今は立派なブロック肉となって、我が家の食料庫におさまっておる。

 料理人には、仕事に出る前に言っておいたから、帰った頃には四サントの厚みのサーロインが、ミディアムに焼き上がった状態で我を待っていてくれるという寸法よ!

 ……あん? 誰じゃ、聖職者がなまぐさを食うてええのか、などと言う奴は?

 ええんじゃよ。ブリミル教会は別に、肉食を禁じとらんからな。

 とゆーか、ハルケギニア人はみんなブリミル教徒なんじゃから、肉食NOならハルケギニア人全員ベジタリアンになっとるわ。

 貴族の子女が集まる魔法学院の食堂じゃ、朝から鳥の丸焼きが出るくらいじゃし。見苦しくがつがつしなけりゃ、聖職者だって、ちょいとぐらい食うてもよかろ?

 たとえ禁止事項だったとしても、いい肉の美味さには抗えんぞー。ニンニクのフライと、赤ワインのソースがたっぷりかかったぶ厚いお肉……焼けた鉄板に乗って、ジュウジュウ言っておるのを想像するだけで……あー、ヨダレがとまらんのじゃー!

 いてもたってもいられんくなった我は、法衣のすそを指でつまんで持ち上げると、たったかさっさと我が家への道を急いだのじゃ。

 今思うと、この走り方は少々はしたなかったじゃろか……? ま、途中で誰にも会わなかったから問題はあるまい。

 コンキリエ家の邸宅は、我の勤めし教会から三百メイルも離れておらんゆえ、通勤も帰宅も徒歩じゃ。

 それはステーキを食べるための待ち時間が短いというのと同義であり……ええい、短くても待ちきれんもんは待ちきれん!

「シザーリア、ただ今戻ったぞ! 昼餉の準備はできておろうな?」

「おかえりなさいませ、ヴァイオラ様。――万事滞りなく。どうぞ、正餐室へお越し下さい」

 玄関で我を出迎えた、メイドのシザーリア(十七歳なのに、我より頭ひとつ分以上背が高い、いけない金髪娘じゃ。胸とかも目に見えてでかい。……我は百五十サントを越えん上に、体型も幼児のごときじゃというのに……ブリミルが不公平過ぎて呪い殺したくなる)が、優雅な礼とともに我を正餐室へ――ステーキのもとへ導いてくれる。

 いつお客様が来ても安心な三十メイルのロングテーブルを、我一人で占拠し、我のためだけに用意された極厚のサーロインステーキを、アルビオンの赤ワインとともに味わう。

 ……ううむ、見事な霜降り……ナイフが何の抵抗もなくズブズブ入っていきよる……。

 口に入れれば、おう、噛むまでもなくとろけよるわ! そして広がる、脂の甘みと肉の旨味……ふはー、これぞ至福なのじゃよ〜。

 もきゅもきゅ。んぐんぐ。……おーいシザーリアー、ワインおかわりー。

 ………………。

 ――うん、聖職者にも関わらずがつがつ食ってしもうた。しかし後悔はしていない。

 すっかり満足したお腹をさすり、椅子の背に体重を預ける。

 今日はサーロインじゃったが、明日はヒレ肉をカツレツにして食べたいのう。ちなみに今日の晩は、煮込んだタンのシチューで既に決定しておる。

 水魔法で冷凍した内臓肉は、トマトや豆と一緒にコトコト煮込んでもらう予定じゃし……ううむ、夢が広がりまくってとまらんぞ畜生め!

 牛肉というロマンに想像の翼を羽ばたかせながら、我は食後の紅茶をちびちびすすった。

 午後の仕事に戻る前の、リラックスタイムじゃ。レモンとハチミツをたっぷり垂らした紅茶は、そのまま昼寝したくなるくらい、ノンビリした気分になれるんじゃよー。

 そうして、とろりんと垂れた時間を過ごしていると、シザーリアが寄ってきて、我にそっと耳打ちをした。

「ヴァイオラ様。今、裏口に難民の方が見えられました……聖マリオ教会の庭に滞在しておられる方々の代表だそうです」

 その途端、ステーキの美味さの余韻も、紅茶のまったり気分も、一瞬で台なしになってしもうた。そのはかなさときたら、真夏の夜の夢の如しじゃ。

 聖マリオ教会っつったら、我の教会じゃ。広くてでかいことにかけては、有名な聖レミ大聖堂にも引けをとらん。

 その広い庭の一角に、十人ほどのボロクズどもが住み始めたのが、一週間ぐらい前のことじゃったか。

 一応教会は門戸を広く開いとるし、比較的裕福な信者どもも、貧しい奴らは助けるべきだ的な考え方をしよるもんだから、個人的に嫌でも無理矢理追い払うことができず、正直困っておったのじゃ。

「で、何用じゃと?」

「助けを求めておられます。栄養失調による病人が増えてきたと……。死者が出る前に、食料を分けてもらいたいそうです」

「またか……まったく、図々しい奴らじゃ……」

 三日前に、見習いコックが作った焼きそこないの黒パンを、カゴいっぱいにくれてやったばかりじゃろが。

 けっこうな量だったはずじゃが……あれもう全部食ったんかい。

「いえ。それが、あのパンは堅すぎて、衰弱の激しい病人やお年寄りでは、食べることができなかったと申しておりました。

 ですから、できれば弱った人でも食べられる、柔らかいものがいいと……」

 呆れてものも言えんとは、このことじゃ。

 施しをねだるだけならまだしも、注文までつけてくるとは。寄生虫でもそこまで恥は捨てとらんぞ。

 弱って食うこともできんなら、素直に死んでしまえばええんじゃ。強い者が生き残るように、この世はできとる。それにわざわざ抗うなど、始祖の意に反しとるわ。

 一度、きっついお灸をすえてやらにゃいかんの。我の金で食って、我に何の利も返さぬその性根、叩き直してくれる。

 なあに、死んでしまったところで、しょせんは平民、しかも根無し草。衛士にいくらか握らせれば、最初からいなかったことにしてくれるわい。

 まずは裏口のタコ助から折檻してくれる。どんな魔法でいじめてやろうかの……。『念力』で、すねに小石を延々とぶつけ続けるとか……?

「…………お。そうじゃ」

 いーいことを思い付いちまったわい。

「シザーリア。今朝、牛をバラした時、骨がたんまり出たな。あれはどうした?」

「骨でございますか? 全て大鍋に入れて、厨房に運んでありますが」

 よし、まだ捨てとらんかったな。

 肉をとった後の要らんゴミじゃが、物乞いいじめのために役に立つなら、少なくとも裏口にいる奴よりは価値があるのう。

「では、その骨を全部、待っている奴に施してやれい」

 これぞ、我の考えたゴミクズどもの心を折る必殺技! 『パンより柔らかいものをねだったら、硬くて食えない骨が出てきたでござる』の巻じゃ!

「大鍋に入れてあると言ったな? その鍋ごとくれてやれ。調理用具はあれば便利じゃからなあ。向こうもいらんとは言うまい」

 施されたもんを拒否れば、それは施した側への侮辱になる。重くてでかくて持ち運びに不便な鍋でも、ひーこら言いながら持ち帰るしかないというわけじゃ。

 クズどもを苦しめることができるなら、鍋一個の損失程度は安いものよ。

「………………」

 おーおー、我の深謀遠慮を察したか、シザーリアが目を丸くしたぞ。

こいつは歳のわりに落ち着いとる奴じゃから、こんな表情を見れるのは珍しいことじゃわい。

「よろしいのですか? その、」

「かまわんかまわん。遠慮なしにくれてやればええんじゃ」

 我は、心配そうに何か言いかけたシザーリアに念を押した。

 たぶんこいつは、貧民相手に無体なことをして、我の評判が傷つかないかと考えてくれておるのじゃろ。

 しかし、そんな心配はメイドの領分ではないな。

 虫以下の貧乏人どもの支持など、教皇を目指す上でなんら重要ではないし。

 多少悪い噂が立っても、こっちにゃあ金とツテがある。賄賂と密談で人を動かして、噂を揉み消すことも、逆に良い噂を流させることも自由自在じゃ。

 ま、よーするに底辺の平民をどんな風に扱おうが、我の自由と言うわけじゃな。

 うむ、下の立場の者を踏みにじるというのは、気持ちのいいものよのう。

 ストレス解消用いじめプランもしっかり立って、気をよくした我は、わざわざ裏口まで顔を出して、難民代表だという男に挨拶などしてやった。

 焦げ茶色の髭や髪を伸ばし放題にした、老けた顔の男じゃった。鍋と中の牛骨をくれてやるといったら、驚きに口をあんぐり開けておった。ざまあ。

 で、施し品引き渡しのついでに、ちょっとしたイヤミも言ってやったら、神妙な顔をしておった。頭の悪い平民なりに、自分の行動を今さら恥じるようになったのじゃろか?

 しかし、残念じゃったの、恥を知ったところで貴様が薄汚いのは変わらんのじゃ。

 骨のたっぷり入った鍋は重く、男ひとりでは持ち上げられなかったので、仲間を何人か呼んで、えっちらおっちら運んで去っていった。

 きっと奴ら、食えもせん骨と、でかすぎて使い道のない鍋をどうすりゃいいか、途方にくれておるじゃろの。 

 我のいじめとプレッシャーに耐えかねて、さっさと聖マリオ教会から――我の目のとどかないところまで、速やかに失せるがいい。

 ふふふ……くっくっく……のじゃーはっはっはっ!

 と、心の中で三段階に分けて笑っておると、シザーリアが妙な目で我を見とることに気付いた。

 なんじゃ、その我が子の成長を見守る母親みたいな、慈愛に満ちた眼差しは。貴様のようなボンキュッボンを母に持った覚えはないぞ。

「いえ……ヴァイオラ様のお慈悲を目の当たりにして、あなた様のような方にお仕えできる幸せを、再確認しておりました」

 ? 何をわけわからんことを言っとるか。

 あ、そうか。あのたかり野郎をぶち殺さんかったことを、慈悲深いと言うとるのじゃな。

 しかし残念、奴らは余計な荷物を背負わされて生きて、底辺を這い回り続けて、ゆっくり死んでいくのじゃ。それは一思いに殺されるより辛かろう。

 それがわからんとは、やはりまだまだ、シザーリアも世間知らずの小娘にすぎんようじゃ。

 ま、何も知らずに我を崇拝し続けるがいいわ。あの貧民どもの悲惨な行く末など、お前のような純粋な奴が知る必要はないのじゃからな。

 

 

 俺がゲルマニアで事業に失敗し、物乞いとしてロマリアに流れてきて、もう三年も経つだろうか。教会からの炊き出しに並んだり、ただで飲める川の水で腹を膨らませたり、神官や貴族の家の裏口を叩いて、残り物を恵んでもらう暮らしにもすっかり慣れてしまった。

 宿無しの貧民同士で、物を交換したりして助け合っていたら、いつの間にか仲のいい十人ぐらいのグループが出来ていて、俺はそのグループのリーダーにおさまっていた。

 その集団を率いて、色んな教区を渡り歩いてきたが、未だ安息の地には巡り会っていない。

 毎日、手に入る食料はわずかだし、道路や教会の敷地に不法に滞在する俺達への風当たりは強い。どこに行っても、それは同じだ。

 どこかに落ち着こうにも、貧民を住まわせてくれる家などないし、貧民を雇ってくれるような店もない。

 惨めな暮らしを抜け出すきっかけすら掴めず、だらだらとロマリア各地を放浪し……しまいにゃ、仲間の中から病人が出始めた。

 病人と言っても、栄養不足で体力が落ちて、風邪を引いた程度だ。

 しかし、それが俺らには致命傷になる。普通は、風邪なんて水と栄養を取って寝てれば治るが、俺達はまともに栄養を手に入れられない貧民だった。病気になった奴は、どんどん衰弱していった。

 特に、年寄りがやばかった。歯の弱いじいさんは、もらったパンも噛むことができないくらい弱っていた。

 このまま、何も食べないでいたら死んでしまう……。焦った俺は、パンをくれた神官様……コンキリエ枢機卿様のお屋敷に、再び物乞いをしに訪ねた。

 短い期間に、同じお屋敷に二度も物乞いをしに行くことは、今までなかった。相手の印象が悪くなるからだ。昔、同じ屋敷に何度も食事をもらいにいった物乞いが、四度目で無礼討ちされたという話を聞いたことがある。

 俺だって、そんなたかられるような真似をされたら怒ると思う。だから、やらないでいたが……今回は切羽詰まっていた。何か年寄りでも食えるものを手に入れないと、葬式をやることになってしまう。

 裏口の扉を叩いた時、俺は急に後悔の念に襲われた。二度目の物乞い……相手が歓迎してくれるわけがない。

 しかも、前にもらったものより柔らかいものをという注文付き。図々しいにもほどがある。

 これで何かもらえたとしたら、それこそ幸運。普通に考えて追い返されるか――四度目でもないのに叩き殺されるか。まず、いい目は見られないだろうな、と思ってしまった。

 しかし、ああ、しかし。

 そんな俺の目の前に運ばれてきたのは、大鍋いっぱいに入った牛の骨だった。

 しかも、入れ物の鍋も、一緒にくれるという。

 貧民相手に、このような大盤振る舞い……俺は夢でも見ているのだろうか?

 夢ではなかった。実際、この骨と鍋のおかげで、俺達のグループは救われた。

 子供でも知っていることだが、動物の骨を煮込めば、美味くて栄養たっぷりのスープがとれる。

 だからスープ用に、肉屋では普通に骨を売っているが、平民の手に入るのは、大抵は鳥の骨だ。

 平民ではまず手に入れられない牛骨、しかも今日ばらしたばかりのような新しい骨――それを、こんなにたくさん――買えば、かなりの値段になるはずだ。

 コンキリエ枢機卿という方は、どれだけ太っ腹なのだろう。

 鍋と骨を持ち帰ると、すぐに森で枝を拾ってきて火を起こし、川の水を鍋に張って、じっくりコトコト骨を煮込んだ。

 丁寧にアクをとり、枝を火にくべ続け、数時間後には、琥珀色の濃厚なスープが大量にできており、俺達はその美味さに舌鼓を打った。

 歯の弱い年寄りや病人たちも、これなら口にできた。堅いパンも、スープでふやかして粥状にすれば、楽に飲み込める。さらに、煮込んだ骨をナイフで割って取り出した骨髄はとろとろで、これも病人食として振る舞われた。大量にあったスープは、三日でなくなってしまったが……その頃には、風邪を引いていた奴らは全員、健康を取り戻していた。

 俺達は救われたのだ。コンキリエ枢機卿のご厚意によって。

 あの、紫色の髪をした、小柄な女枢機卿が、わざわざ裏口までお越しになって、俺ひとりのために説教をしてくれた時のことを思い出す。

『よいか、かつて始祖は、貴族に魔法をお与えになった。

 その恩恵は今の社会を作り、人々が食料を奪い合っていた過去を、安定した生産、交換、売買によって、皆が苦労せずに食事にありつける現在へと変えた。

 そんな今、食うに困るのは、始祖がお主に与えたもうたものを、正しく使えておらんからじゃ。

 いや、魔法ではない。平民に与えられたもの、それは知恵と工夫と、腕っ節じゃ。

 メイジが魔法の力で社会に貢献するなら、平民は相対的に、それ以外の分野を活かすべきじゃろう。

 この骨と鍋を持ち帰り、考えよ。始祖は皆に、平等にすべきことを与えられた。お前のすべきことを知り、行動せよ。その時、初めてお前たちは救われるであろう』

 なんと徳の高いお方だろう……なるほど、若くして枢機卿に上り詰めただけはある。

 枢機卿様のおっしゃる通りだ。俺達は人からものをもらうのに慣れて、かつての、貧民生活から脱却してやる、という気概を忘れていた。

 ゲルマニアにいた頃の、バリバリ働いて、出世してやろうと夢見ていた――あの情熱も。

 確かに、人にすがらず、自分たちの力で生きていけるなら、それが一番いいに違いない。

 住める場所がない? 雇ってくれる店がない? ならば、その条件でもできることを考えればいい。知恵と工夫で、メイジができないことをする、それが俺達平民だ。そんな簡単なことを忘れていたとは……。

 俺達のグループの連中は、みんな元気になった。これからは、再び社会に戻るための仕事を始めよう。

 もう、惨めな生活を続けなくてもいいように……コンキリエ枢機卿のご厚意を、無駄にしないように。

 …………え? なに? 施しに鍋と骨って、役に立ったとは言え、斜め上過ぎやしないかって?

 図々しい貧民への嫌がらせじゃないかって? 適当言って、ゴミを俺達に押し付けたんじゃないかって? ……馬鹿野郎!

 そんな考えこそ穿ちすぎたろ! 骨と鍋でスープって、ごく自然な連想だぞ!?

 いくらお金持ちの神官様で、家事を召し使いに任せっきりで、料理のりょの字も知らない方だとしても……スープの取り方ぐらいは知ってるはずだろ! 枢機卿が、まさかそんな無知な人なわけがない!

 持って帰る途中で、枢機卿の家にいたおっぱいの大きいメイドさんが追ってきて、「教会の森に自生しているローリエを一緒に煮れば、臭み消しになりますよ」って教えてくれたんだぞ! そんなアドバイスをくれるんだから、嫌がらせなんてことは絶対ないね!

 なに? そのメイドさんは美人かって? おっぱいでかいって、具体的にどれくらいかって?

 そうだな、すごい美人だったぞ。おっぱいのサイズは……ええと、だいたい、(以下の発言は省略されました)

 

 

 アホ貧民に嫌がらせをしてやって、すでに十日が経つ。

 死に際の足掻きで、我の悪い噂でも流すかも知れんと、討伐用に聖堂騎士を五十人ほど待機させとったのじゃが、その気配は毛ほどもない。

 奴らは、我の嫌がらせについて、愚痴を言って憂さを晴らすという真似はせんかったらしい。

 何も言わず、我が教会の庭から、ひっそりと去ってくれるなら、まだしもその潔さを賞賛してやってもよかったのじゃが……。

 奴ら、もっとろくでもない方法で、我に報復しよった。

 前に見た時は、十人くらいのゴミどもがたむろしておった、我が教会の庭。

 うん、十人くらいじゃったはずなんじゃ。

 それが…………。

 ワイワイ ガヤガヤ 

 ……なして増えとる……?(´・ω・`)

 三十人ぐらいおるように見えるんじゃけど、目の病気か? 眼科専門の水メイジに見てもらった方がええんかの?

 ……いやいや、やっぱりおる。小汚いのがわんさか。

 しかし、小汚いと言うても、それなりに髭とかあたっとる奴も多いし……物乞いでなく、日雇い労働者みたいな奴らが増えとるんか?

 で、連中の集まっとる中心点には、火にかけられた大鍋があって……その中身を器によそって、配っておるのか?

 ははあ、わかった! こりゃメシ屋じゃ! 料理を作って、それを日雇い労働者どもに売っとるんじゃな!

 試しに、近くにいた奴に聞いてみたら、やはりそうじゃった。

 始めたのは、我が骨と鍋をやった貧民どもじゃ。

 まず、若くて体力のある男どもが手近な森に入り、手作り弓矢や罠で、鳥とか野兎とかを狩ってくる。

 女は食える野草を集め、男たちの捕まえた獲物をさばく。子供は薪を拾ってきたり、鍋に水を入れたりする。 

 あとは集まった材料を煮込めば、美味い具入りスープが出来上がる。味付けは海水、野生のショウガにニンニク、唐辛子だそうじゃ。

 それが、木の器にたっぷり盛られて、一杯2ドニエ。安いのか高いのかわからんが、こんだけ人が集まっとるっちゅうことは、満足感はあるんじゃろう。

 実際、匂いはめちゃくちゃ美味そうじゃった。この我が、ついふらふら〜と引き寄せられてしまったくらいじゃ。

 で、気付けばスープ売りをしておる貧民野郎の前におった。うちの裏口に来た、あの老け顔男じゃった。

 向こうも我に気付き――なんか、土下座せんばかりに感謝された。

 あなた様のおかげで、再び自立した生活に戻れそうです、とか言われた。どういうこっちゃ。嫌がらせした我へのイヤミのつもりか。勝手に教会の庭で商売しよって、それを我が許可したことみたいに言うつもりではあるまいな。

「我は何もしておらぬ。お前たちの行動は、お前たちの精神が、自ら決断して起こしたものじゃ。

 誰も何も言わずとも、いずれお前たちは、同じことをしたじゃろうよ」

 そう言って、我に責任のないことをほのめかしてやると、泣かれた。

 女も子供も、代金受け取りをしとったじいさんも泣いた。周りの労働者どもにいたっては、我を拝み始めた。これはイジメか? 史上初の、神官に対する平民たちの集団イジメか?

「代金は頂きません。いや、頂けません。どうぞ、我々の自活の味を、一杯召し上がっていって下さい」

 そんな風に言われて、スープの盛られた粗末な木の器とスプーンを渡された。

 うん、間違いなくイジメじゃな。高級料理を食い慣れておる我に、こんな平民のエサをどうぞとか。馬鹿にしとる。

 ……でも、いい匂いなんじゃよなー。

「…………ぱくっ。もきゅもきゅもきゅもきゅ…………」

 でかい肉がいっぱい入っとるとはいえ、これ、得体の知れん森の鳥や兎じゃろ? ちと抵抗があるというか……いや、味が染み込んどって、めちゃくちゃ美味いんじゃけどな。

「はふはふ、むぐむぐ……むしゃりむしゃり」

 あ、はしばみ草とムラサキヨモギが入っとる……我、これ苦手なんじゃよなー。こいつは煮込んであるから、あんま苦くないんで助かるが。

「ずずず〜〜〜〜っっっ」

 野草と肉の旨味がたっぷり溶けたスープは、まあ確かに幸福感満載な気分にさせてくれるが……塩加減もしっかりしとって、我好みではあるが!

「…………も一杯よこせ」

 貧民メシのくせに、普通に美味いとか――けしからん過ぎるぞコンチクショー!

 

 

 これは、ヴァイオラが自分の望みを叶えるために奮闘し、邪魔する者たちを無情にも蹴散らしていく……そんな物語である。

 しかし、彼女の足はとても小さい。

 だからときどき、蹴散らし損ねることもある。そんな物語である。



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死よりも恐ろしい苦痛をやろう。

「えーと、拝啓、リッシュモン様。ラグドリアン湖の水位が上がりまくっている今日このごろ、いかがお過ごしでしょうか……と」

 教会の奥にある、誰にも邪魔されぬ枢機卿専用の執務室で、我はマジック・ランプの青白い光のみを浴びながら、私信を書いておった。

この部屋は、我が機密情報を扱うために用意した特別な場所じゃ。窓はなく、壁と床と天井は、土スクウェア十人に重ね掛けさせた固定化に守られておる。扉も同じように固定化してあるが、さらにアンロック防止魔法を付与し、特殊なマジックアイテム・キーによってしか開けられんようにしてある。まさに難攻不落の小要塞なのじゃ。

 掃除係のシスターたちも、この部屋には立ち入らせん。重要な情報を扱うのだから、当然なのじゃ。

 さて、そんな部屋で書いとるこの手紙も、もちろん重要で極秘なものじゃ。

 宛先は、トリステインの高等法院長をしておる、リッシュモンというジジイ。

 古くからトリステインに仕え、私心なき公正な人柄の男と評判じゃが、実態は賄賂を贈ればかなり融通をきかせてくれる、使い勝手のいい悪党じゃ。

 我も、トリステイン関係の儲け話がある時は、よくお世話になっておる。

「……それで、かねてより進行中の、女神の杵亭買収の件ですが、先方の提示した条件は――」

 今回は、トリステインのラ・ロシェールという港町にある旅館、女神の杵亭の買収を、彼に裏から手伝ってもらうのじゃ。

 女神の杵亭は、貴族ご用達の高級旅館で、部屋や料理の素晴らしさはもちろん、サービスの上質さでも名が知られておる。

 買い取れば、年間五千エキュー程度の利益は期待できる優良企業じゃ。

 しかも、今はアルビオンで、レコン・キスタとかいう連中がもにょもにょしておる。

 王党派の旗色は悪いと聞くし、もしレコン・キスタが勝利してアルビオンを支配すれば、ハルケギニア統一をうたう奴らは、次にトリステインに攻め込むじゃろう。

 アルビオンとトリステインが戦争になれば、勝負の要となるのは、両国をつなぐ港町……トリステインでは、ラ・ロシェールじゃ。

 敵に港を取られんよう、トリステインはラ・ロシェールに、大軍を駐留させるじゃろう。

 そしたら、兵士たちの生活の場が必要になるから……旅館はまっさきに接収されるはずじゃ。

 その旅館がトリステイン企業であれば、王権で安く――もしかしたらタダで、ぶん取られてしまうかも知れん。

 しかし、ロマリア……外国企業ならば、トリステインの王権は通らん。向こうは、適正な値段で、ロマリアのオーナーから旅館を買い取らねばならん。

 しかも、そのオーナーが我であれば。女神の杵亭を手放すのを渋るそぶりを見せてやれば。物件の値段を、こちらでいかようにもつり上げられるようになる。

 トリステインとしては、どうしても買わねばならん物件ゆえ、多少お高い値段を提示されても、黙って金を吐き出すしかなくなるっちゅうわけじゃ。

 つまり! 女神の杵亭は今がアツい! 買っとけば確実に儲かる、金のなる旅館なのじゃー!

「……つきましては、売買交渉の始まる来月までに、必要な情報を――ささやかではありますが、お骨折り代として千エキューをお包みしておきますので、お受け取り下さい――なお、この書簡は、開封後十二時間で自動的に消滅しますのでお気をつけを――ヴァイオラ・マリア・コンキリエ、と……」

 書き終えると、吸い取り粉でインクがにじまぬように乾かし、丁寧に畳んでから、蝋涙で封印をほどこす。

 この封印は特別なもので、どっかの火メイジが開発した機密保持用のマジックアイテムになっておる。

 開封のためにはパスワードが必要で、しかも一度開封すると、十二時間後に自動的に発火し、手紙自体を消滅させてくれる。

 もし昼間に開封して、そのまま机の上とかに放置しといたら、夜中に思い出したように火災が発生しちゃうのじゃが……まあそれも愛嬌という奴よ。

 小間使いに言って、手紙を風竜便で送らせる。これなら向こうに届くのに一日もかからん。

 大きな仕事を成し遂げるためのコツは、慌てず、慎重に……しかし情報のやり取りは素早く、じゃ。

 情報の足の早さは、生魚にも勝るからな。腐る前に活用せねば、の!

 

 

「ヴァイオラ様。トリステインのド・ラエモン氏から、お手紙が届いております」

 二日後、仕事を終えて帰宅すると、シザーリアが銀盆に手紙を乗せて持ってきてくれた。

 ド・ラエモンというのは、リッシュモンじいさんの通信用の偽名じゃ。もちろん外書きだけで、中の本文には本名を添えてくれておるが……ド・ラエモン……なんか知らんが、ものすごい頼りになる感じがする、いい偽名じゃと思う。

 ちなみに我も、外書きには偽名を使っておる。ロマリア風に、ごくありふれた名前をと考えて、ノビータという名を採用した。

 全く違和感がないし、いい名じゃとも思うのじゃが……何故じゃろ、無駄にヘタレっぽい雰囲気を醸し出す名前にも思える……。

 ま、そんなことはどうでもよい。ド・ラエモンから返事が来たということは、女神の杵亭に関する取引の情報が手に入ったということじゃ。さっそく読んでみよう。

 ……ふむふむ。ラ・ロシェールのそばの、タルブ一帯を治めるアストン伯爵が、資金集めを始めておると……所有のワイナリーや乗合馬車組合の株を売って、まとまった金を作っておるのか。

 伯も女神の杵亭を狙っておるのなら、競売の時、強力なライバルになるじゃろう。

 もちろん、田舎伯爵ごときに負けるつもりはないが……ライバルができるっちゅうことは、買値が釣り上がるということじゃ。より安く、女神の杵亭を手に入れたい我としては、伯には勝負の前に退いてもらいたいもんじゃのう……。

 そう悩みながら手紙を読み進めると、さすがは老練なるリッシュモン、その問題への対策案も、ちゃんと提示してくれておった。

 ふむ、トリステインの株式市場を操作? アストン伯の資金源である持ち株会社の株価を落としてやれば、株を売っても充分に金が集まらず、伯は競売参加を断念する可能性が高い、とな?

 そのために、トリステインの金融界に詳しい男をロマリアに送るから、彼と相談して市場操作を行い、アストン伯対策をしてはどうか……か。なるほどなるほど。

 馬車でやって来るから、ロマリア着は次の虚無の曜日になる予定か。ふむ、来てもらってすぐに仕事を始めてもらえば、競売には間に合うか。

 よしよし、さすがは古狸、いい仕事じゃ。その金融屋が来るまでに、こちらも必要な資料をまとめておくか。

 ……ん? 手紙の文章に、まだ続きがあるぞ。なになに……「なお、この手紙は開封後二分で、自動的に消滅する」……って危なうわぢゃぢゃぢゃー!

 お、おのれ、マジックアイテムの術式を変更して、発火までの時間を短くしてくるとは。年寄りのお茶目としては度が過ぎとるぞ。

 まさか、半年前に我が送った手紙の不始末が原因で、高等法院が半焼したのを、まだ根に持っとるのか? 大人げのない奴め。

 次に我が手紙を送る時を覚悟しとれよ。恨みつらみ書き連ねてやるからな。

 具体的には、そうじゃな。「死ね! 不正がバレて追い詰められて、劇場の隠し扉から下水道に逃げ込んだはいいけど、そこで待ち構えていた復讐の鬼に刺されて死ね!」とか書いてやる。

 まー、いくらなんでも、こんな劇的な死に方はせんじゃろうが、こちらの怒りのほどを思い知ってくれれば、それでいいのじゃ。恐れおののけヌハハハハー。

 ……ふう、バカ笑いも終えたところで、さっさと燃えカス片付けて資料を用意するか。

 時間は常に、貴重じゃからのう。

 

 

 そして、虚無の曜日がやってきた。

 資料の準備も万端、あとはリッシュモン推薦の金融屋が到着するのを待つのみじゃ。

 朝の到着という話じゃったから、ちょいと太っ腹なところを見せようと、金融屋の分の朝食も用意させておいたのじゃが……。

 もう昼前なのに、誰もやってくる気配がない。

 どうなっとんじゃトリステインの人間は? 商用じゃろうに、待ち合わせに遅れていいと思うとるんかい。

 これから大きな仕事をしてもらうというに、これでは先が思いやられるわい……あ、シザーリア、朝食のデザートのプリン、客の分がひとつ余っとるじゃろ? もう朝食の時間ではないし、捨てるのももったいないゆえ、我が食べてやろう。持ってきてくれ。……え、もうすぐお昼ごはんだからダメ? そ、そんなこと言わずに……。

 そんな感じで、頑固なシザーリアと一進一退の(向こうが一進すると、我が一退するの意)メンタルファイトを繰り広げていると、来客を知らせる玄関のベルが鳴った。

 シザーリアは我との勝負を放棄し(ぶっちゃけホッとした)、来客を迎えるため下がっていった。……が、すぐに戻ってきた。

 客を案内してきた様子はないので、妙に思っていると、我の耳元に口を寄せて、こう囁いた。

「――トリステインからのお客様について、衛士の方がお知らせに上がりました。半壊状態の馬車が、アクレイリア北の駅に到着したとのこと。御者、護衛の兵士が重傷、乗客の男性は重態だそうです。

 なんでも、オーク鬼に襲われたとか」

 ほう? なるほど。遅いと思ったら、そんなことになっとったんか。

 オーク鬼ねー。しかも重態とか。そりゃ予定時刻に来れんでもしゃあないなー。はっはっはー。

 ……………………。

 って、ええええええ――――――――ッ!?!?

 

 

 僕は――トリスタニア王立銀行主任会計士、ルイ・デキスギイルは、灰色の雲の中にいた。

 何も見えない。何も聞こえない。ただ、妙な息苦しさと、腹の底から響いてくるような鈍痛があるだけだ。なぜ、僕はこんなところにいる――いや、こんなことになっているのだ?

 自分の中に問い掛ける。すると、ほんの少し前の鮮明な記憶が、まるでその瞬間に舞い戻ったかのように蘇ってきた。

 ああ、そうだ。オーク鬼が襲われたんだ……アクレイリアに至る、森の中の街道で――。

 敵は、一匹だけだった。群れで生活するオーク鬼には珍しい、はぐれ者だったらしい。

 しかし、護衛が一名しか乗っていない馬車にとっては、一匹でも充分な脅威であった。

 三メイルはあろうかという巨体。醜悪な豚の頭の下には、太った人間のような肉体がついているが、その腕や足は丸太のようだ。手にはこん棒を持っており、それには赤茶けた血の痕跡があった。

 亜人退治のセオリーとしては、オーク鬼一匹に対して、戦士五人で挑まねばならないとされている。いくら凄腕でも、護衛の兵士ひとりで当たるには部が悪い。

 だから、逃げようと馬に鞭を入れた御者の判断は、最善だったのだろうと思う。

 しかし、オーク鬼は素早く馬車の前に回り込み、馬の動きを止め、御者の足を掴んで引きずり下ろそうとした。

 それを助けようと、護衛の兵士が馬車から飛び出していく。

 剣が抜き放たれ、御者の足を掴むオーク鬼の腕に切り付ける。一撃での切断は叶わなかったが、手傷を負った怪物は、御者を放して、標的を兵士の方に変えた。

 死闘が始まった。オーク鬼の振り回すこん棒を、兵士は必死に避けながら、剣を相手に叩きつけていく。

 オーク鬼相手に、一対一で拮抗しているあたり、この兵士の腕は相当なものだったのだろう。

 だが、一瞬の隙を突かれ、敵のこん棒に剣を弾き飛ばされてしまう。

 絶体絶命! こうなると、僕も見ていられない。加勢すべく、携帯していたレイピアを抜き放つと、馬車から飛び出した。

 ……その直後だ。オーク鬼の投げたこん棒が、僕の腹を直撃したのは。

 ばん、と、体の中で何かが破裂する感覚があった。口の中に、血の味があふれ返った。

 そして、意識がじんわりと闇に沈んで――その直前に、獲物を拾い上げた兵士が、オーク鬼の喉に剣を深々と突き刺したのを見た――そして、今に至るのだ。

 ……そうだ、こういうことがあったのだ。

 しかし、そうなると今の僕は、死んでしまったか、それに近い状態にあるのか?

 オーク鬼から受けた一撃は、間違いなく致命的なものだった。だから目覚められず、この混沌とした意識の雲の中をさ迷っている……おそらく、遠からずこの雲も闇に変わり、完全な死が訪れるのだろう。

 ふと、目の前に、立派な身なりをした、威厳のある老人の姿が浮かんだ。

 ――申し訳ありません、リッシュモン様……あなたに頂いた第二の人生も、ここまでのようです……。

 僕はすでに、一度死を体験していた。それは社会的な死だったが、気分的には今と似たようなものだった。

 平民の出である僕は、もともとはトリスタニアの乗合馬車組合で、金庫番をしていた。

 そこで事務の基本を学び、金の運用方法、そしてその応用を知り、やがて、不正な運用のやり方も覚えてしまった。

 自分では上手くやっていたつもりなのだが――僕の犯罪は徴税官にあっさりと見破られてしまい、気付けば僕の手には、縄がかけられていた。

 貯めた財産は没収され、裁判では懲役八十年を求刑された。真っ暗な監獄の中で八十年――間違いなく僕は、外の世界の空気を吸えずに、そのまま檻の中で朽ちていくことになっただろう。

 そんな僕を、絶望から救ってくれたのが、高等法院長のリッシュモン様だった。

 彼は、裁判の過程で僕のしたことを知り、僕の持つ卓越した計算能力と、資金運用のセンスを看破なさった。

 そして、その才能を埋もれさせるのは惜しいと、取引を持ち掛けてきて――結果、僕は監獄行きを免れ、金融屋として一からやり直すことになったのだ。

 リッシュモン様の口利きで、トリスタニア王立銀行で働き始めた僕は、一生懸命働き、順調に出世していった。

 主任会計士にまで上り詰め、去年の暮れには、結婚も果たした――爵位こそない家だが、貴族の娘さんの婿になり、デキスギイルという家名も手に入れた。

 何もかも順調だった。未来は明るいものに見えた。なのに――こんなところで――。

 ……いや、やはりこれが天命というものなのだろう。罪を犯した僕が、普通の幸せを掴めるはずがなかったのだ。

 幸せになれると思った瞬間に、目の前の道を奪い去られる。これ以上の罰がどこにあろう。これが、始祖ブリミルの課した定めなのか……。

徐々に闇の色が濃くなっていく雲の中で、最後に浮かんだのは、妻の笑顔だった。

 許してくれ、テレーズ――僕は、君のところに帰れそうにない……。

 

 

 俺は――アクレイリアの医師、タッカーズ・アーヴェッサンは焦っていた。

 オーク鬼に馬車を襲われ、怪我をしたトリステイン人がいるという通報を受け、俺は助手を連れて駅に駆け付けた。

 駅舎の一室に、患者たちは横たえられていた。その数は三人――この内、御者と護衛の兵士に関しては、特に問題はなかった。御者は足を、兵士は右腕と鎖骨、左足を骨折していたが、命に別状はなかった。添え木をあて、ヒーリングを強めにかけてやるだけで、折れていた骨はくっついた――あとは二、三日安静にしていれば、元通りの生活に戻ることができるだろう。

 だが、三人目の男(御者が言うには、トリステインの銀行屋らしい)は、きわめて危険な状態にあった。

 骨折や、目に見える怪我はない。しかし、オーク鬼の投げたこん棒に腹を直撃されたらしく、内臓にひどい損傷を受けていた。

 ディティクト・マジックをかけて、体内を調べる。――右肺に穴が空き、胃袋が破裂している。腹腔内に血が溜まっていて、放っておけば他の臓器まで血で圧迫され、機能を失ってしまうだろう。

 俺は、先ほど御者と兵士にかけたのより、遥かに強い精神力を込めてヒーリングをかけた。

 自慢じゃないが、俺は水のトライアングルメイジだ。水を三つ重ねたフルパワーのヒーリングを使えば、ちぎれた手足だってつなげることができる。

 だが、今回はうまくいかなかった。傷口が露出している場合なら、癒しの波動を直接照射できるため、ヒーリングは非常に有効なのだが、体内の患部を治す場合は勝手が違ってくる。健康な皮膚と筋肉に遮られて、力が中まで届かないのだ。

 この銀行屋も、そのパターンだった。打撃により、内臓のみが傷ついた状態。俺のかけたヒーリングは、腹の筋肉まで浸透する程度で、それ以上は通らなかった。

「水の秘薬を出せ! 患者に飲ませてやるんだ!」

 もちろん、内臓疾患を治療する方法も知られている。水の力の塊である水の秘薬を飲ませ、それを媒介として、ヒーリングの波動を体内に浸透させるのだ。

 ひどい怪我ではあるが、これで治すことができる……俺は、そう考えていたんだ。

 しかし、患者の口に秘薬を注いでいた助手の叫び声が、俺の自信を打ち砕いた。

「駄目です、秘薬を飲み込んでくれません! 吐かせても吐かせても、喉の奥から血があふれてきて……胃にまで秘薬が入っていかないんです!」

「何だと!?」

 ディティクト・マジックで再度調べる。……なんてこった。胃が血でパンパンになってやがる。しかも、肺にも少しずつだが、血溜まりができて……。

 血を全部吐かせないと、秘薬は飲ませられない。かといって、出てくる血を全部吐かせてたら、患者は失血死しちまう。

 どうすればいい? どうすれば?

 考えている間にも、患者の顔色はどんどん青白くなっていき、呼吸も衰えていく。

 ヒーリングをあらためて体外からかけても、効果はやはり薄い。むしろ、血の巡りがよくなったせいで、吐き出す血の量が増えた気さえする。

 もう、どうしようもない。

 可能な治療手段が、一切通じなかった。この銀行屋は、ここで死ぬように、始祖に運命づけられていたとしか思えない。

 俺には、この哀れな患者が、じわじわ死んでいくのを、悔しさとともに見ていることしかできなかった。

 水のトライアングルともあろう者が――なんてざまだ……!

 無駄だったヒーリングを止め、杖を懐にしまう。黒光りする美しい黒檀のワンドも、今は煤けて見える。

 俺はせめて、銀行屋が安らかに天に召されるよう、膝をつき、始祖に祈った……。

「……怪我したトリステイン人はここか――――ッ!」

 と、その厳かな雰囲気をぶち壊すような大音声が、部屋に響き渡った。

 振り向くと、きらびやかな法衣をまとった女神官が、部屋の入口に仁王立ちに立っていた。まるで、死者をさらいにきた悪鬼のごとき形相で……。

 

 

 事件の知らせを聞いた我は急いで馬車を呼ぶと、駅へ駆け付けた。駅舎内の、怪我人たちの治療をしておる部屋に飛び込んでみると……中の空気が完全にお葬式じゃった。マジかい。

「医者はお前か?」

 手近いにおった、マントを羽織った短髪の美丈夫(なんとなく、マントより馬車修理工の作業着を着て、ベンチに座っとるのが似合いそうな男じゃった)に尋ねる。

「ああ、そうだ……」

 力のない声じゃった。ものごっつい無力感が、オーラになって全身から立ち昇っておるようで、安易に近付くのもはばかられたくらいじゃ。

 その様子ですでに、結果も察せようものじゃが……諦めの悪い我は、一応聞かずにはいられぬ。

「患者の具合はどうじゃ? 回復しそうか」

 その問いに、医者は首を軽く横に振って答えた。

「胃がひどく傷ついている。水魔法も、秘薬も、これを完治させるにはやや力が足りないらしい。

 ……いや、こういう言い方は卑怯か……神官様、俺みたいな役立たずが言うのもなんだが、この人が安らかに始祖の御下へ行けるよう、祈ってやってくれないか」

「い、祈りって、お前……そこまで、なのか」

 仮眠用と思しき、粗末なベッドに横たわる若者――金融業者ルイ・デキスギイル――に目をやり、その土気色の顔、血まみれの口まわりを見て、我は医師の言葉に誇張のないことを悟った。

 ま、ま、ままままずいぞ、この状況はまずい……我にとって、ひっじょーにまずい。

ここでこの軟弱バンキーナ野郎に死なれたら、女神の杵亭買収計画に支障をきたす。

 すでに我は、デキスギイルの助言ありきで、スケジュールを立てておるのじゃ。トリステイン金融界に詳しい助言者抜きで立ち回れるほど、今回の取引は甘くない。

 かといって、今から代役を派遣してもらうのもいかん。リッシュモンがいかに顔の広い奴でも、急に代わりなど見つけられんじゃろうし、見つけられたとしても、こっちにやってくるまでに時間がかかる。

 新たなパートナーと協議して、全ての準備が完璧にととのいました、ただし競売終了済みです……みたいなことになってはいかんのじゃー!

「医者よ、治療費なら我が出す! もし、最高級の秘薬が必要というなら取り寄せる! じゃから、何とかせい! こやつは死にかけじゃが、まだ生きとるのじゃろう? 助けてやってくれ!」

 我は必死に、医者に詰め寄った。死にかけとるのが他の奴なら、たとえば御者や兵士なら、我もこんなことは言わん。いくらでも死ぬがいい。

 じゃが、この金融屋は駄目じゃ。なにしろ、確実に数万エキューが動く取引で、我の味方をする男なのじゃぞ!? 千エキューする秘薬を二、三本使ってでも、生かさねばならん!

 しかし、医者の反応は無情なものじゃった。

「無駄だ。水の秘薬を飲むこと自体が、できない状態になっているんだ。この患者のために、身銭を切ろうっていうあんたの優しさには感服するが……」

 やかましい! 今、否定語を使うでないわ! 命を操る医者が、そんな簡単に諦めるでない! 諦めたらそこで試合終了だよって、アン・ザィイー先生(4503〜4578、ガリアの女流詩人、劇作家。代表作に『アゴの下の肉をタプタプする者、死すべし』がある)も言うとるじゃろ!

 くそ、イライラし過ぎて頭が痛くなってきたわい。部屋の空気も、重過ぎる上に澱んでおって、気分も悪いし!

 本当にどうにかならんのか。ほんの三日程度でええんじゃ。デキスギイルの助言をもとに、市場を数日間だけ操作できれば。

 そのあとであれば、こんな外国の平民銀行員など、いくら死んでもかまわんのじゃ。

 健康体に戻せたぁ言わん。極端な話、我に何をすればいいかアドバイスできるようにしてくれればええんじゃ。考えるための脳みそと、助言をする口さえ正常に動けば――。

 …………あれ? これ、もしかして――イケるんじゃないかのう?

 前に、人づてでこんな話を聞いたことがある。不治の病に冒された水メイジが、自分の脳をミノタウロスに移植して、病から逃れたのだそうじゃ。

 その半人半ミノタウロス野郎は、結局死んだらしいが、移植せずにいた場合よりは長く生きることができたという。

 つまり、人間やろうと思えば、体のパーツを取っ払って代用品と交換しても、何とか生きていけるのではないか?

 胃が悪いんなら、胃を取っ払えば――人間の脳をミノタウロスの体に乗っけても平気なら、人間の胃の代わりに牛とか豚とかの胃袋をチョイス☆インしても、わりとなじむんでないか?

「なじむ! この体にこの新しい胃袋、実によくなじむぞ! WRYYYYYYYYY!」とか言って、むしろより高次元な生物にランクアップするかも知れんし……なじまんで死ぬにしても、二、三日生き延びてくれれば、我はそれでいいんじゃから……。

 このまま手をこまねいているよりは――やってみた方がいい、かの?

 我は決断し、杖を構えて、デキスギイルに近付く。

「おい、医者。我の補助をせい。この男を助けるぞ」

 ニヤリと笑って、能無し医者に宣言する。

 フハハ。奴め、驚いてマヌケ面を晒しておるわ。そんなだから、治せる患者も治せんのじゃ阿呆。

 対して我は、何か知らんが全身を昂揚感が駆け巡っとる。今なら何でもできそうな気分じゃ。うふふのふ。

「ま、待て! 神官様、あんたの系統とランクは!?」

 あん? そんなこと聞いてどうする気じゃ? まあ一応答えてやるが。

「水のラインじゃ。人の怪我治すには、充分じゃろて」

 野良犬に足噛まれた時も、自分で治したんじゃぞ。すごかろ!

 おっと、いつまでも能無しの相手はしておられん。さっさと死にぞこないを、半死にぞこないくらいにするべく、処置を始めねば。

 悪い胃袋を取り除くのは後回しとして……とりあえず、まずは絶対損傷させてはならぬ部位の保護じゃ!

 最低限必要なのは、考えるための脳としゃべるためのノド。これは外せん。よって……こうじゃ!

「ちぇすとおおおぉぉぉ!」

 我は、精神力を込めたワンドを高らかに振り上げ――振り下ろして、デキスギイルの血まみれの口に、ズボッと突き刺した。

 

 

 俺は、神官ってのは神に祈る仕事だと思っていた。神に祈り、世の中をよくしてもらおうと願う仕事――基本的に他力本願な連中だと。そう思っていた。

 しかし、この女神官は違っていた。いきなり治療の場に現れたかと思うと、患者の容態を我が身のように心配し、治療のために最高級の秘薬まで用意すると言ってのけた。

 こんな、神に頼らない、能動的に人を救おうとする神官に会うのは、初めてだった。

 しかし、彼女の積極性は、この程度にとどまりはしなかった。

 俺が治せないとさじを投げると、なんと彼女は、自ら杖を出して、治療を試みようとしたのだ。

 自信ありげな表情――もしや、治療経験豊富な水スクウェアなのかと思い、系統とランクを尋ねると、水系統ではあるが、ランクはラインであるという。

 無理だ。

 俺は、そう確信した。トライアングルの俺でも不可能な治療が、ラインの彼女にできるはずがない。

しかし俺は、彼女を止められなかった。自信を打ち砕かれた無力感から、動く気にもなれなかったのか……それとも、彼女なら、状況を打破してくれるかも、と期待していたのか……できれば、後者であってほしいものだ。

 とにかく、彼女は患者の前に立った。そして、何を思ったのか――いや、何をとち狂ったのか――持っていたワンドの先を、患者の口に押し込んだのだ!

「お、おいあんた! いったい何をやってんだっ!?」

 俺が止めるのも聞かず、彼女はぐっ、ぐっと、ノドの奥に押し込むように、ワンドをねじ込んでいく。

 するともちろん、患者の肉体はノドへの異物の侵入に対して、反射的な防御行動をとった。意識がなくても、それは自動的に起こる。体を丸めて、異物を吐き出そうとしたのだ。

 閉じていた患者の目が、カッと開いた。「ぐ、ごっ」と、くぐもった呻き声も聞こえる。突然の苦痛に、意識が覚醒したのか!?

 なんて残酷なことを! 意識を失ったまま、なんの苦痛もなく、ひっそりと息を引き取らせてやりたかったのに……死の淵にいる人間に鞭打つような真似をするなんて、どういうつもりなんだ!

 俺はこの無神経な女神官の行動に、心が沸騰するのを感じた。女に手を上げるのは、俺のポリシーに反する。だが、こいつのしていることだけは、多少乱暴なことをしてでも止めなくてはならないと思った。

 実際、手はすでに動いていた。女神官の襟首を掴み、後ろに引っ張り倒すくらいのことはするつもりだった。

 しかし、それは結局実行されなかった。彼女が、患者のノドに杖を差し込んだまま、こう唱えるのが聞こえたから――。

「……ヒーリングッ!」

 

 

 ヒーリングを唱え、精神力を癒しの波動に変えて、杖の先から放出する。

 我にとって必要なのは、デキスギイルの頭とノドじゃ。そのふたつを、完全な健康状態に保たねばならん。医者の話によると、悪いのは胃袋で、頭は問題ないらしい。

 ならば、優先的に保護すべきはノドじゃ。こんなに血を吐きまくっとる以上、口の中つながりでノドにも傷がついとるかも知れん。怪我がないとしても、水の流れをととのえて、より生命力を高めておけば、のちのち胃袋を取っ替える時にも危険を減らせるじゃろう。

 デキスギイルの口から、ヒーリングの青白い光が漏れる。口だけでなく、ノドも内側からぼんやりと光って、癒しの力がノドに充分浸透していることを確信できた。

 我って、水のラインではあるんじゃが、治療魔法の練習はサボり気味でのー。治療する場所に、力の放出口である杖の先を当てないと、いまいち効果が薄いのじゃ。

 熟練の水メイジなら、怪我した人を一列に並ばせといて、ヒーリングを唱えるだけで、広範囲に癒しの波動をばらまいて、人々を回復させたりできるらしいのじゃが……ま、我はあんまり人助けなどせんし、そこまでのレベルアップは求めるまい。

 とにかく、我は誰かを癒す時、杖の先を患部に当てなければならぬゆえ、このような乱暴な方法をとったが、あくまで必要に迫られてのことじゃ。だから、こりゃ、暴れるな! 治療してやっとんのじゃから、息苦しいのぐらい我慢せんかい! 男の子じゃろが!

 意識が戻りよったのか、デキスギイルは手足をバタバタ振り回し始めた。こんちくしょ、杖が抜けそうじゃ! だが、そうはいくか! さらに深く差し込んでくれる! ぐーっとな!

ほれほれほれー! 我の太くて固いモノを、ノドの奥まで咥え込むんじゃよおおぉぉ〜ッ!

「ぐっ、ぶっ、うげ……ごばあっ!」

 のじゃああぁっ!? このバカ、血ぃ吐きよったっ!

 思わず、デキスギイルのノドから杖を引き抜いて、後ろに飛び退く。そして、自分の身の惨状に、気の遠くなる思いをした……我の清潔な法衣がっ! リュティスの仕立屋でオーダーメイドした、三千五百エキューもする法衣に、赤い汚いシミがべったりとおぉっ!?

 くそ、こんなことになったのも、我が補助しろと言ったのにボーッとつっ立っとる、この無能医者のせいじゃ!

「何をしとるか! 早う自分の仕事をせい!」

 我がそう激を飛ばすと、医者はハッとしたようになって、懐から杖を取り出し、デキスギイルにディティクト・マジックをかけた。

 ん? あれれ? なんでディティクト・マジック?

 我は、暴れるデキスギイルを押さえ付けてくれることを期待したんじゃが。

 なして?

 

 

 女神官の叫びに、俺は反射的に杖を振るい、ディティクト・マジックで患者の体を調べていた。

 そして、驚いた。あれほど血であふれていた胃が、今では空っぽになっている。

 しかも、傷口から新たな血が滲み出てくる様子もない……胃の傷が治っている、というわけではない。しかし、止血することに成功している!

 俺は、驚きと感動に打ち震えた。今のこの状態なら、水の秘薬を飲ませることができる!

「今だ、水の秘薬をありったけ飲ませろ! 神官様の御技を、無駄にするな!」

 助手の反応も早かった。血と杖を吐き出して、苦しげに呼吸をしている患者の口に秘薬のビンをあて、そっと秘薬を流し込んでいく。

 ゴク、ゴクとノドが動き、秘薬を嚥下しているのを確かめると、俺はヒーリングを唱え、胃に入った秘薬を媒介に、患者の体内に癒しの波動を浸透させていく。

 うまくいった! 胃の傷が、みるみるうちに治っていく。肺の穴も、よし、これも塞がりつつある。

「もう、大丈夫だ。胃は無事に修復された……彼は、死の淵から生還したぞ!」

 俺が、泣き出したくなるような喜びとともに宣言すると、助手も、ことのなりゆきを部屋の隅で見守っていた御者と兵士も、割れんばかりの大歓声をあげた。

 ひとりだけ、血まみれになった女神官だけが、きょとんとしていたが、どうやら患者が死なずに済んだのだと悟ると、花の咲いたような笑顔を浮かべて、こう言った。

「そうか、助かったか。なんじゃ医者、もう駄目みたいなことを言うとったが、やればできるではないか。

 褒めてつかわすが、次からはもう、患者が生きているうちに諦めるようなマネはするでないぞ……わかったな!」

 そして彼女は、自分の仕事は終わったとばかりに、踵を返して部屋を出ていった。

 俺は、黙ってそれを見送っていた。深い感謝を込めて、その後ろ姿に頭を下げたが、向こうは気付かなかったかもしれない。

「しかし、あの神官様、いったい何をしたんでしょう? トライアングルの魔法でもどうにもならなかった胃の傷を、ラインの魔法でどうやって……?」

 彼女が出ていくと、助手が不思議そうに聞いてきた。

「俺達は普段、内臓を治療する時は、患者に水の秘薬を飲ませる。そうすれば、秘薬を媒介に、体内に魔法を通せるからだ。

 今回の患者の場合は、秘薬を飲めない状態にあった。これだと、対外から体内への力のルートが確保できないから、俺は患者を治せなかった。

 しかし、あの神官様は、自分の杖を患者の体内深くに差し込むことで、魔法を直接患部に送り込んだのさ。

 俺らの魔法は、杖の先から力を放出するから、杖の先を体内に入れてやれば、媒介無しで内臓を癒すことができる……まったく、内臓治療の概念を根底から覆すような、意外な方法だったよ」

「な、なんですって!? あの神官様は、それを計算ずくで、あんな乱暴なことを……?」

「間違いない、な。神官でありながら、あんな新しい治療法を発明するとは……日頃から、他人の治療に献身的に取り組んでいるお方なのだろう。

 水のトライアングルが、知恵と工夫を凝らしたラインに遅れをとる、か……フフ、メイジのすごさは、系統やランクによって左右されないと誰かが言っていたが、本当のようだな。

 いや、俺が彼女に負けているのは、それ以前の問題――医者として、何が何でも患者を治してやろうという情熱だな。

 患者が生きているうちは、けっして諦めるな、か。その言葉、心の奥深くに刻み込んでおくとしよう」

 

 

 彼、タッカーズ・アーヴェッサンは、このあと医者としての修業を一からやり直し、その過程で水スクウェアに開眼。内臓疾患治療のエキスパートとして、ハルケギニア中に名を轟かせる名医となる。

 トリステインの大貴族、ヴァリエール家にも招かれ、病に苦しむ次女を見事完治させたことで、その名声は不動のものとなるのだが――それは、もう少し先の話である。

 

 

「せ、先生! アーヴェッサン先生、急患です!

 アルビオンから亡命してきたばかりの、ロードアンダー伯爵マサーキー様が! 突然の腹痛に苦しんでおられます!」

「何? どれどれ、見せてみろ……ははあ、こりゃ盲腸だな。

 水の秘薬で治療するには、時間がかかる難病だが……こないだ神官様から教わった治療法なら、案外早く片付くかも知れん。

 口は、盲腸のある下腹部までは遠すぎる……下腹部に近くて、杖の先を突っ込める穴はというと……。

 ロードアンダー伯爵! 何も聞かずに、俺を信じてくれないか。

 俺を信じて、あんたの尻を、俺に差し出してくれないか!?」

「( ゜Д ゜) !?」

 

 

 ……少々くそみそなことになったりもするが、彼は間違いなく名医への道を歩んでいた……。

 

 

 僕の意識を覆う灰色の雲が消え去った時、目の前に現れたのはあの世の景色ではなく、すさまじい形相の女神官だった。

 ノドに感じる圧迫感。堪え難い異物感。あまりの苦痛に、思わず手足を振り回して、僕の頭上に覆いかぶさるようにしている女神官を跳ね退けようとした。だが相手は、さらに強い力で、僕のノドに固い棒をねじ込んできて……反射的に咳き込んだ僕は、空気と一緒に血を吐きだした。

 僕の血を浴びた女神官は、まるで死者の国からの迎えのようだった。

 このような恐ろしいものを見せられて、このような苦痛の中で死んでいかねばならないなんて! 妻の優しい幻を見ながら、安らかに眠りにつくことも、僕には許されないのか?

 しかし、そのあとすぐに医者らしきメイジの方が、秘薬や回復魔法で僕の苦痛を和らげてくれて……その心地良さから、再び意識を失って……次に目覚めた時には、恐ろしい女神官はおらず、体の不快感、激痛も、一緒に消え去っていた。

「おっ、目が覚めたかい銀行屋さん。あの世に行きかけて、引き返してきた気分はどうだい」

 目覚めた時にそばにいたお医者様は、爽やかに僕が完治したことを教えてくれた。

 危うく死にそうだったが、ある神官様が機転をきかせて、棺桶に入りかけていた僕を救い出してくれた、ということも……。

「その神官様というのは、もしや、紫色の髪の、女性の方では……?」

「ああ、そうさ。ひどく乱暴な治療だったが……あんたを救いたい、という強い気持ちが、行動に表れた結果だろう。

 俺みたいな本職の医者でも、あそこまでがむしゃらに取り組むのは難しい。あんな激しい優しさがこの世にあるとは、俺も驚いたよ」

 僕は恥じ入った。あの悪魔のように思えた女神官が、逆に死の手から僕を守ろうと奮闘してくれた天使だったなんて。

 彼女のおかげで、僕はまだ人生を続けられるんだ……妻にも、テレーズにも、また会える……。

 僕の人生を救ってくれたのは、リッシュモン様に続いて二人目だ。もし、あの血まみれの女神官様(今なら、あのお姿も、民衆を守るために戦う英雄のように思える)に出会えることがあったら、何とかして礼をしよう。僕のような銀行員が、神官様にどのような礼ができるのかはわからないが……。

 翌日、完全に復調した僕は、予定よりやや遅ればせながら、聖マリオ教会のコンキリエ枢機卿を訪ねた。

 そこで、運命が僕を待っていた。笑顔で僕を迎えてくれた、小柄な紫色の髪の女枢機卿様……。

 これこそが、始祖ブリミルの真のお導きなのだろう。ここで恩を返せと――お前の持つ金融のノウハウを、彼女のためにフルに使えと……。

 体中に、やる気がみなぎるのを感じた。

 最高の仕事をしてみせる――心の中でそんな誓いを立てながら、僕はコンキリエ枢機卿様に導かれ、教会に足を踏み入れた。

 

 

 やーれやれ、一時はどうなることかと思うたが、何とか無事にことを終えることができたわい。

 デキスギイルの奴がえらい張り切ってくれたのが、すごいよかった。方々に手紙や使いを出しまくった結果、アストン伯の資金ルートは完全にブロックされ、彼は買収を断念。競売は我の一人舞台と相成った。

 その結果、むふふ、二万二千エキューという安値で、見事女神の杵亭をゲットすることに成功したのじゃー!

 いやはや、あの平民バンキーナが、あそこまで使えるとは思いもせなんだ。医者の奴が本気出して、奴を治してくれてマジで助かった。

 我の胃袋移植計画は――まあ、実践までいかなくてよかったわい。あんときゃノリで、ついやる気になってしまったが、やってたら間違いなく死んでたじゃろな。

 例の脳移植の逸話だって、やらかしたのは水スクウェアだったそうじゃし、ラインの我じゃ無理無駄無謀。あの場の空気の重さと、苛立ちが産んだ気の迷いじゃ。いや、ホントに人間、とち狂うと怖いわい。

 とにかく、万事無事に終わった――デキスギイルは帰ったし、女神の杵亭の株は金庫の中。あとは、オーナーとして利益が上がってくるのを待つもよし、戦争を前にしたトリステイン王国に、適正価格――五万エキューくらいかの――で、売り払うもよし。

 どちらにせよ、大儲け確定じゃー。のじゃはははー!

……と、ワインを飲みながら馬鹿笑いしていると、シザーリアが無表情で近づいてきた。

「ヴァイオラ様。トリステインから、早馬で伝言が届きました。発信者は、女神の杵亭支配人、リチャード・ラミィ様です」

「ふむ? どしたんじゃ、つい先週、奴とは挨拶を済ませたばかりじゃろ。利益報告にしても、早過ぎるし……」

「はい、なんでも、女神の杵亭が全焼したそうです」

 ……ぱーどぅん?

「女神の杵亭、全焼です。なんでも昨日、いきなり傭兵の集団が表玄関からなだれ込んできて、客を襲い始めたのだそうです。

 しかも土メイジも襲撃に関わっていたらしく、三十メイル級の大ゴーレムが、壁面を激しく殴打し、柱が折れ、ベランダが粉砕。

 その後、厨房の油を一階にばらまかれて火がつけられ……ゴーレム自体も、油をかぶったように燃え始め……火をまとったゴーレムが、ふらつきながら建物に抱き着いて、そのまま一緒に倒壊。今では、女神の杵亭があった場所には、瓦礫しか残っていないそうです。運よく、死人は出なかったそうですが」

「……………………」

「再建するとなると、見積では、三万エキューが必要だと……」

「…………ベッドの用意を」

 我はそうとだけ命じると、テーブルに突っ伏した。

 今ぐらいは我……ふて寝してもええよな……?

 



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偉い奴は、女をはべらし美酒に酔うものじゃ。

「の、のじゃああああぁぁぁぁ――っ!? ぎゃ――っ!!!」

 我は、恥も外聞もなく絶叫しておった。

 まさか街中で、こんな怪物に遭遇するとは思いもせなんだのじゃ。巨大な体躯が、覆いかぶさるように近付いてくる。太い力に満ちた両腕が、我を絞め潰さんと迫ってくる。怪物の体に生えた、野性そのものの縮れた毛からは、えもいわれぬ不快な臭いが……これが獣臭というものか。

「そ、それ以上近寄るな、ばけものー! イル、ウォータル……っぎゃああぁぁ――っ!」

 魔法でやっつけてやろうかと思うたが……だ、駄目じゃー! 恐すぎて詠唱が形にならん!

 し、シザーリアー! 我はピンチじゃ、助けろー!

 心の中で叫んだが、我が忠臣であるはずのメイドは、涼しい顔で我の後ろに立っておるばかり。どうしてじゃ?

 我は涙目になりながら、この街にやって来たことを後悔した……まったく、何故このようなことになったのか……。

 ――ことの原因は、数日前に遡る……。

 

 

「シザーリア。明日の朝からトリステインに行くゆえ、準備をしておけい」

 夕食後の紅茶をすすりながら、我はそう命じた。

 急な話じゃが、トリステイン行きを決めるきっかけになった事件自体が、急なものじゃったからしかたがない。我の所有するトリステインの高級旅館、女神の杵亭が、なんかわからんすったもんだの末に全焼して、瓦礫の山になってもうたのじゃ。

 で、女神の杵亭を再建するか、それとも更地にして新しい別の施設を作るか、それを判断するために、我自ら現地に行って状態を確認しようと考えたのが、今日の朝。

 それから、女神の杵亭支配人(女神の杵亭がなくなってもうたから、もと支配人かのう)に、様子を見に行くぞー、という手紙を書いて、鷹便で送ったのが昼前。

 と、そこで、トリステインに行くなら、ついでにトリスタニアにおる兄様の顔も見に行こう、と思いついた。

 うん、言うてなかったが、実は我には兄様がおる。トリステインの王宮に勤めておる、めっちゃ頭のいいお人なのじゃ。

 仕事が忙しいらしく、向こうに住み着いたっきり、ちいとも帰ってきてくれんのじゃが……よう考えたら、兄様が帰ってこれんのなら、我の方から会いに行きゃええんじゃよな。

 というわけで、兄様への手紙も書いて、これも送ると、ちょうどお昼になった。

 それから昼メシを食って、ごろごろしてだらだらして、おやつを食べて芝居を見に行って、帰ってきて夕食を摂って……トリステインに行くことを思い出したのがついさっき。

 ……シザーリアに言うたら、「お昼の時点で言って下さい」ってお説教されること確実じゃから、黙っといた。

 ――そして翌日。

 呼んでおいた竜籠に乗って、ビュンビュンズギャーンと快適な空の旅を半日ほど楽しんで、我はトリステインの地に降り立った。

お供として連れてきたのは、シザーリアひとりだけ。こいつもさりげなくメイジなので(火のトライアングルだそうじゃ)、我の世話係に護衛も兼ねておる。

 駅で馬車を借り、荷物を馬車に移し替えさせ(服とアクセサリーとおやつと枕で、トランク七つ分。枕が変わると寝られんのは、全人類共通よな?)、城下街トリスタニアにIN。

 そしてまず、トリスタニア一の高級旅館のスイートルームを確保。荷物を預けて……ここは、ゴーレムが襲ってきたり、全焼したりせんじゃろな……とかいらん心配を一通りしておいてから、まずはそこで一泊。朝出発で到着が夕方とか、ロマリア・トリステイン間の距離はも少し縮んでもええと思う。

 そして翌朝。旅の目的のひとつを果たすため、ラ・ロシェールに向かう。

 現場視察は五分で済んだ。だってマジで、黒焦げの瓦礫しかないんじゃもん……。しかもかなり片付けられとって、敷地の半分はすでに更地化しとったし。

 こりゃ、まったく新しい建物を造るしかないのう。やっぱり、高級旅館じゃろか……今度は固定化と、耐火処理をしっかりかけて、頑丈な建物にしなくては。

 しかし、また同じ「女神の杵亭」という名前だと縁起が悪いから、別の名前を考えてやらねば。そうじゃな、砂漠に吹く熱風という意味の「サンタナ」亭というのは、どうかな!?

 それから、ラ・ロシェールの建築事務所に、新たな旅館の設計図を描いてくれと依頼して……トリスタニアに戻った時には、昼をだいぶ過ぎておった。

 旅館で遅めのメシを食うて、さてそろそろ兄様に会いに行こうと思うたら、兄様から手紙が届いた……急な仕事が入って、今日は時間が取れんくなったっちゅうのじゃ。

 我はがっくりしたが、明日の朝なら会えるから、朝食を一緒にしようという追伸が添えてあったんで、落ち込みかけた我が心はぐいんと舞い上がった。

 ま、明日会えるならそれでええ。それまでのんびりトリスタニアの街で遊んで、時間を潰しゃあええのじゃ。

 でも、慣れない街ゆえどこに遊びに行っていいかわからないよ! 助けてド・ラエモーン! ……ということで、困った時のザ・便利ジジイ、高等法院長リッシュモンを頼ってみた。

 奴も普通に仕事中じゃったが、高等法院の玄関でのじゃのじゃ騒いでやったら、暇な部下を街の案内に付けてくれることになった。たまにはごねてみるもんじゃ。

 ……で、その部下の人と、ある酒場で待ち合わせることになったんじゃけど……。

 その酒場の扉を開けて店内に入った瞬間、冒頭の怪物に襲われたのじゃ。

 え? 意味がわからない?

 たわけ。我とてわからんわい。

 まったくいったいどうなっとるんじゃ。トリスタニアの酒場が、怪物を売りにしとるなんて聞いてないぞ。

 ……え? トリスタニアの、なんちゅう酒場か、って?

 魅惑の妖精亭、ちゅう酒場じゃよ。……ってうわああぁぁっどーでもいいこと考えてる間にまた迫ってきたああぁぁ――っ!

「あらぁん! とぉってもプリッティなお嬢様のご来店ねェん! 大人の社交場へよ・う・こ・そっ!

 あんまり可愛いから、アタシ自らお席へ案内しちゃう! さ、遠慮せずに、アタシの胸の中へカモォン!」

 なにっ、こいつ……変な調子ではあるが、人語を操っておる! ということは、韻獣か!

 妙に全身をくねらせるこの動きは、おそらく野性の中で生き抜くうちに培われた、こやつの種族が独自に発達させた拳法の型であろう。

 中途半端な知性、強靭そうな肉体、そして人の文化からはあまりに掛け離れた戦闘スタイル……そうか、さてはこやつ、どこかのメイジに召喚された、亜人型の使い魔じゃな!? 謎はすべて解けた!

「落ち着いて下さい、ヴァイオラ様。彼は人間です」

「のじゃあぁ……ふえ? ……ニンゲン?」

 シザーリアの落ち着き払った声に、我がおうむ返しに聞くと、彼女は小さく頷いた。

 人間……その言葉を頭に染み込ませてから、再び怪物を見やる。

 ……確かに、人間に見えなくもない。服着とるし。やたらカットの深い胸元から、もっさもっさと胸毛が出とる上、腕毛も指毛も生えまくりじゃから、亜人でないと断言はできんのじゃが。

 ヒゲはちゃんと剃っとるし(ヒゲ剃り跡が海のように青いのがやはり怖いが)、髪も油でピチッとセットしておる。

 野人拳法のような動きも、よく見たらくねんくねんしとるだけじゃし……なんじゃ、単なる挙動不審な大男か。

「……やっぱりフツーに怖いのじゃ――っ!」

 シザーリアのエプロンドレスにすがりついて泣く我の感性は、ごく普通のものじゃと思う。

 ある意味これは、我が人生最大の危機だったかも知れん。未知の土地、計り知れぬ謎と恐怖をまとった大男、頼みのシザーリアは落ち着き過ぎてて、逆に見ていて不安になる。

 もう、なんというか、気絶まであと十秒的なカウントダウンを始めようとした、そんな時。救世主が現れた。

「す、スカロン、貴様! お嬢様に何をしておる!」

 我を助けてくれたのは、店に突然なだれ込んできた、数人の貴族。

 リッシュモンの寄越してくれた、我のための接待係……徴税官チュレンヌと、その取り巻きたちじゃった。

 

 

「あ、あらぁ……こちらのお嬢様、チュレンヌ様のお連れの方?」

 おっ、この恐ろしい怪物が、貴族……チュレンヌが登場しただけで怯みよった! さすがに貴族の威光は違うのう!

「うむ、さる大貴族の御令嬢様で、我々がもてなすことになっている。もし無礼な真似をすれば、大問題になるぞ。

 そうなれば、この店が潰れる程度ならいい方、ことによると、トリステイン王宮の判断で、貴様の一族郎党、全員を裁判なくして処刑……なんてことも有り得るぞ? その気色の悪いツラも、ちゃんと相手を見て晒すのだな」

 チュレンヌが、悪そうな顔で脅しをかける。おうおう、ウネウネ野人(仮)が、さっきまでのテンションが嘘のように青い顔をしておるわ! くくく、いい気味じゃ……人間未満の生物ごときが、我を怖がらせたりするからそうなるのじゃぞ?

 あ、ちなみに今の我は、法衣ではなく普通の貴族らしいドレスを着ておる。さすがに神官の格好で、こんな下賎な酒場に入るのはどうかと思ったからの。

「ヴァイオラお嬢様、どうも申し訳ありません。我々の到着が遅れたばかりに、不快な思いをさせてしまいましたようで……この変態につきましては、我々がたっぷり罰を与えておきますので、どうぞご容赦を」

 全体的にぽちゃぽちゃした、小悪党顔の貴族……チュレンヌが、うやうやしく我に頭を下げる。うむ、野人と我に対する態度の違い。自分の地位を弁えておるようじゃな。好感が持てるぞ。

「いや、罰の必要はない。確かに少々驚いたが、要するにこの店独特のパフォーマンスのようなものであろう? ちょいとしたスリルを楽しませてもらったと思うておくわい」

 へりくだられれた以上は、我も上に立つ者としての威厳を見せねばの。少なくとも、野人を見てビビりまくってました、とか認めたら台なしじゃ。ちとやせ我慢してでも、全然平気だったぜー的な態度を取っておくのが正解じゃろう。

 この言葉に、チュレンヌは小さく頷き、野人はあからさまにほっとした顔をしておる。

「さすがはお嬢様。そのお心の広さに、感服致しました」

「世辞はよい。ところで、我の名を知っとるっちゅうことは、お前がリッシュモンの紹介の者かえ?」

「は、チュレンヌと申します。トリステイン王国より、徴税官の任を賜っている者です。本日は、トリスタニアの案内を務めさせて頂きます」

「よろしい。……まあ、案内と言っても、あまりたくさんの場所を回ることは考えておらぬ。美味いメシと酒、面白い余興などある店へ連れていってくれれば、それでよい」

「ははっ。となるとやはり、この魅惑の妖精亭でしょうな。店長はこんなのですが、食事と酒とサービスは悪くありません」

 え、この野人が店長? マジで? トリステインって、トロール鬼の血を引いとっても店が持てるん?

 まあ、その辺は気にせんでおこうか。いちいち気にしとったら、ツッコミが追いつかんような気がするし。

「わかった。ではもういい時間じゃし、ここで夕食を摂るとしよう。店長、席まで案内せい」

「は、はぁい! 承りましたぁん!」

 ウインクとともに、気色悪い返事をされた。精神力がガリガリ削られた。

 もしかしてこの店、中におるだけで、メイジは精神力を奪われて、魔法が使えんくなるんじゃなかろか。

「それでは、一番奥のお席に……」

 と、野人店長が我々を誘おうとしたのだが……それをチュレンヌが遮った。

「スカロン。貴様は客商売をしているのに、気の利かない男だな。高貴な身分のお方に、平民どもと一緒に食事をさせる気か?」

 そう言って、彼は杖を抜き放った。それに合わせて、取り巻きたちも杖を出す。

 平民どもは本能的に、メイジの杖というものを恐れておる。それが魔法の媒体であり、ほとんどの場合「攻撃」を象徴しておるからじゃ。

 そんな杖を、人のいる場所で抜くという行為が、何を意味するか……。

 魅惑の妖精亭の中は、まだ酒飲みには少々早い時間にもかかわらず、そこそこ繁盛しておった。品のなさそーな平民のオヤジどもが、若い女給たちにお酌されながら、気持ちよさげにウダウダしとったのじゃが……見よ、チュレンヌたちが杖を抜いた途端、こそこそと逃げ出し始めたではないか!

 魔法の一発でも放ったわけでもないのに、賑やかだった魅惑の妖精亭は、あっという間にガラッガラになってしもうた。

「よし、これで今夜は、この店はお嬢様の貸し切りだ。文句はないなスカロン?」

 ああん、お客様ぁ〜! とか言うて、悲しそうにしとる野人に、ニヤリと嫌みっぽい笑みを向け、杖をしまうチュレンヌ。

 うおおなんじゃこいつ! デブいくせに、ものごっつカッコイイではないか!

 平民を押しのけて、わがままを通す! これぞ貴族の、強者の正しい在り方よ! そこにシビれる憧れるぅ!

 こういう、世の中の道理がわかっとる貴族となら、美味い酒が飲めそうじゃわい!

「……ハアハア……ない胸を頑張って張ってる幼女、萌えぇ〜……」

 ……おい、なんか今、逃げゆく平民のひとりが、不気味な呟きを残していかんかったか?

 せっかく支配者ロマンにひたっとったのに、台なしではないか!

 まったくこれだから、教養のない平民という奴は……軽蔑と怒りと憎しみを込めまくった視線を、平民どもが去っていった店の入り口に向けてみたが、そこにはもう誰もおらんかった。

 ええい、ムカムカするが、こんな気分はいつまでも抱えておくものではないな。とりあえず飲んで、陽気になるのじゃー!

 

 

「ささ、ヴァイオラお嬢様、どうぞご一献……タルブの赤の、三十年ものを開けさせましたので、ご賞味下さい」

「………………」

「肴には、こちらの豚肉の串焼きを召し上がれ。香草と岩塩の味付けがクセになりますぞ」

「……………………」

 貸し切りになった魅惑の妖精亭の中。我は一番奥の、一番いい席におさまって、チュレンヌ一味と食事を始めたのじゃけれど……。

「のう、チュレンヌ」

「ブランドものの古酒の味わいはいかがですかな、お嬢様。この豊かな香りと、輝くようなルビー色! まさに、液体の宝石とでも言うべき上物でしょう?」

「いや、だからな、チュレンヌ、」

「この串焼きのスパイシーさときたら、口に入れるだけで額に汗が浮かぶ刺激の強さですが、ついクセになるというか、食えば食うほど、口に入れるのを止められなくなるという……おっと失礼、つい解説に興が乗りまして。いかがなさいましたか、お嬢様」

「おお、ようやく聞いてくれたな。いや、大したことじゃないんじゃがのー……我々の席順について、ちと思うところがあっての?」

「と、おっしゃいますと?」

「うん、まあ一言で言うと……これはないわー」

 軽く圧死しかけながら、我はか細い声で抗議した。

 とりあえず、現状について簡単に説明しようか。

 我々の座った席というのがな、四角いテーブルの周りを、ソファーがコの字型に囲んどるような形をしておったんよ。

 我はまあ、一味の中で一番偉いから、コの字の縦線部分、その真ん中に座るわな。

 接待役のチュレンヌは、我の右隣に座り、酌などすることになった。こいつも、コの字の縦線部分じゃ。

 で、我の左隣に、チュレンヌの取り巻きのひとりで、どうやら一番実力のあるらしい男……チュレンヌに負けず劣らず、ぽっちゃりさんじゃった……が座った。こいつもまた、コの字の縦線部分じゃ。

 ふたりがけ程度の狭いソファーに、三人が並んで座っておる。右からチュレンヌ、我、取り巻きぽっちゃり。

 ……デブふたりに挟まれた我は……完全に圧迫祭り状態じゃ……。

 しかもこいつら、微妙に汗ばんでおるし。スパイシーな串焼きを食うたせいか? ふうふう言いながら額の汗を拭いよってからに。一秒ごとに不快指数が急上昇しておるぞバカ野郎ども。

「主人と同席するなどという無礼は働けません」と言うて、テーブルのそばに立って控えておるシザーリアが、めっちゃ快適そうに見える。貴様まさか、このオチを予測して、立っているのを選んだんではあるまいな?

「と、とにかくチュレンヌ、我の横からどくのじゃ……左の奴も、じゃぞ。

 酒飲む時くらい、ゆったり座らせい」

「うむー、ご希望には沿いたいところですが、やはり酌ぐらいはさせて頂けませんでしょうか。そのためには、やはり隣に座っているのが適切なのですが」

「だったら命令じゃ、離れろ。なんかお前の体から、あの店長と同じ臭いがするんじゃよ」

「がはぁっ!?」

「ちゅ、チュレンヌ様ー!」

 ……右のデブが、血を吐いて崩れ落ちた。やっぱりあの野人と同じ体臭というのは、ショックじゃったか……かわいそうなことをしたかも知れん。

 我が言われたら、たぶん耐え切れずに自殺するレベル。

結局チュレンヌは、放心状態で取り巻きどもに支えられて、ちょいと離れた別の席に移っていった。ちと申し訳ない気もするが、めっちゃ風通しがよくなって快適になったので、すぐに罪悪感は消え去った。

 しかし、酌をしてくれる奴がおらんくなったんは寂しいのう。シザーリアにやらせてもいいが……それだと、いつもウチでやっとるのと変わらんし……。

 ん? そうじゃ、どうせ貸し切りなんじゃから、この店の女給に相手をさせりゃいいんじゃ!

 食い物追加したいし、ちと要求したいこともあったし、よし、そうと決まれば。

「おい、そこの女給! ちとこっちゃ来い!」

 少し離れたところから、こちらの様子をうかがっていた女給のひとりを手招きする。

 応じてやってきたのは、黒に近いブルネットヘアーの、ちょっと嫉妬したくなる程度にスタイルのいい娘じゃった。

「お、お呼びですか、貴族様」

 平静を装っておるが、笑顔がぎこちない。肩も、微妙に震えておる。ふむ、やはり我も貴族ゆえ、恐れる気持ちを止められないのじゃな? くふふ、優越感優越感。

「食うものが足りん。何でもよい、この店のお勧めを持ってまいれ。

 あと、何か台になるものを寄越せ」

「台、ですか?」

「うむ、腰をかける台じゃ。椅子の高さが合わんでの」

 ……まあ、普通酒場の内装っつったら、大人の体格に合わせて作られておるわな。

 ところがどっこい、我は頭脳は大人、体は子供を地でいくコンパクトボディの持ち主じゃ。この店の、大人規格のテーブルで食事をするには、少々座高が足りぬ。

 テーブルの天板が、鎖骨と同じ高さにあるんじゃぞ? さっきまではチュレンヌがグラスや串焼きを取ってくれてたからいいものを、ひとりになった今では、普通にメシを食うのも難事じゃ。テーブルの奥の方とか、手が届かん。

 ゆえに、尻の下に厚めのクッションか何かを敷いて、底上げをはからねばならん。座る場所が十サントかそこら高くなれば、酒を飲むにも、メシを食うにも不自由はすまい。

「とゆーわけじゃから、速やかに持ってまいれ。ただし固いのはノーセンキューじゃ」

「か、かしこまりました。じゃあ、クッションを何枚か重ねて――」

「……いや、待った」

 踵を返そうとした女給を、我は引き止めた。

 ふとした思い付きが、天から降ってきたように、突然閃いたからじゃ。

 先ほどの、平民の客どもを追っ払ったチュレンヌの勇姿に影響されたのかのぅ、我もちと、わがままを言ってみたい気分になったのじゃ。

 酒と食い物を楽しむだけでは足らん。チュレンヌには、余興も要求してあったのじゃ。無力な平民を――金を払う客の機嫌を取らねばならない、しがない女給をいじめて遊ぶのは――さぞや胸のすく余興になろうのぅ?

「台を持って来なくてもかまわん。その代わり、こっちに来て座れ。

 なあに、取って食うわけではないから安心しろ。ちと、遊び相手になってもらうだけじゃよ……!」

 生かさず殺さず、散々にいたぶってくれよう。

 まずは、我が尻の下に敷く、台の代わりにしてやろう。平民の肉でできた、卑しい家具……人間椅子になるがよいわ!

 

 

 あたしは――魅惑の妖精亭の娘、ジェシカは――自然に浮かんでくる笑みを押さえ込むために、非常な努力を必要としていた。

 あたしが今、女給として相手をしている客は、徴税官のチュレンヌが連れてきた、どこかの貴族のお嬢様。

 ウェーブした紫色の髪が印象的な、小さなかわいい女の子だ。年の頃は、九歳から十……一、二歳ってところかしら。あたしもお酒は、子供の頃から親しんできたけど、こんなに小さい子でも飲んでよかったんだっけ?

 相手がそんなお子様だから、どう接客していいのか、ちょっとはかりかねていた。大人の男の人なら、普段から相手をしているから、扱いは慣れている。大人の女の人も、ときどきいらっしゃることがあるから、相手をしろと言われて困ることはない。

 でも、幼女はちょっと、さすがに初体験だ。酒場という場所に、その存在は異質過ぎる。どう接したらいいのか、正解の前例が思い当たらない。

 幸運なのは、このお嬢様が、おそらくはチュレンヌたちとは違って、私たち平民をいじめて楽しむような嫌な貴族ではないらしい、ということだろうか。

 さっき、店に入ってきたお嬢様を、父さんが思いっきり怖がらせた時も(家族として店員として、父さんは店に出てこない方がいいと心から思う)、文句の一つもつけずに許してくれたし、チュレンヌがお客さんたちを脅して、店から追い出した時も、嫌そうな顔をしていた。こんなに小さくても、人に迷惑をかけるのはいけないことだと、ちゃんと理解している証拠だ。

 しかも、チュレンヌのしたことに不快感を覚えても、ほんの数秒間顔をしかめていただけで、あとは普通に彼らに囲まれて食事をしていた。周りの大人に恥をかかせないよう、気遣うこともできるのだ。わがまま放題で人の気持ちを考えないチュレンヌより、ずっと心は大人だと思う。

 そんなお嬢様があたしを呼んだ時、彼女はひとりだった。

 ちょっと目を離していたから、何があったのかは知らないけど、どうもチュレンヌが体調を悪くして、別の席に移ったようだ。取り巻きたちも、親分の介抱に回ったから、お嬢様はひとりで食事をするしかなくなった。

 やっぱり貴族といっても、この年頃でひとりごはんは寂しかったのだろう、つまらなそうな表情で、テーブルのふちにアゴを乗っけていた。

 ……そ、そのしぐさがね? 飼い主に構ってもらえなくてヒマしてる子猫みたいでね? やたらかわいくってしょうがないのよ。

 普段は自然に浮かべられる営業スマイルも、別な種類の笑顔に邪魔されて、どうにもぎこちなくなっちゃう。気を抜くと、顔が一気にフニャッてなっちゃうの。あーもう、変に表情筋を酷使してるから、肩も微妙に震えちゃう。変なお姉さんだなーとかって、思われてないかしら。

 そんなあたしに、お嬢様は食事の追加と、椅子を上げるための台を注文してきたわ。

 やっぱり気付いてたのね! テーブルが高すぎるってこと!

 むしろ、お嬢様はその不自由そうな環境にいるからこそかわいかったんだけど……だから、台に乗って、ちょうどいい高さになんてなって欲しくなかったんだけど……台を要求する時の、恥じらい感が! 「言わせんな恥ずかしい」的な表情がすごくツボだったから、ここは折れておくことにするわ!

 料理は、適当に……というか、このお嬢様に特に相応しいであろうメニューをチョイスして、厨房に伝言してもらった。それから、厚めのクッションを持ってこようと、お嬢様に背を向けたその時。彼女は、そのオーダーをキャンセルすると言ってきた。

 そしてその代わりに、あたしに隣に座れという。どういうことなんだろう? 自分でテーブルの上の料理を取るのを諦めて、あたしにひとつひとつ取らせようって思ったのかな。まあ、お客さんにお酌はいつもしてるし、「アーン♪」もときどきやったげてるから、別に嫌じゃないけど……ていうか、こんなかわいい子相手に「アーン♪」とか、バッチコイだけど!

 とりあえず、言われた通りに隣にお邪魔する。それはもう光の速さで。

 並んで座ると、お嬢様の小ささがよくわかる。あたしの胸の高さに、彼女の顔があるんだもの。……胸を、なんかすごい険しい表情で睨まれてる気がするけど、たぶん気のせいね。

「娘、名は?」

 見上げられながら聞かれた。キリッとした顔してるつもりかも知れないけど、上目遣いでかわいいからね?

「ジェシカです、どうぞお見知り置きを。お嬢様のお名前は?」

「ヴァイオラじゃ。覚えておくがいい。

 さて、ジェシカ。お前に命じる。これから、一切、ぴくりとも動いてはならん。身じろぎひとつするでないぞ。わかったな?」

 え? それってどういうこと?

 あたしに、食事の手伝いをさせるんじゃないの?

 あたしが首を傾げていると、お嬢様……ヴァイオラちゃんは、あたしの膝に手を乗せ……って、ちょっ!?

 よじよじ。のぼりのぼり。

「よーし。これでちょうどいい高さになったのじゃー」

 今は後頭部しか見えないヴァイオラちゃんが、満足げにそんなことを言っている。

 体の前面に、ヴァイオラちゃんの背中の暖かさを感じる。ももの上には重みがあるが、人間ひとりの重量としては軽すぎるくらい。

 えーと、何が起きたかって言うとね? ヴァイオラちゃんが、あたしの膝の上に乗ってきました。

 ソファーに腰掛けるあたしを、椅子代わりにして座ってます。あ、今、こちらを振り向いて、超至近距離でにぱーと笑いました。ドヤ顔に近い笑顔です。「どう? どう? 素晴らしいアイデアでしょ?」って言いたいのが透けて見えます。査察するまでもなくシースルーです。

 ……なにこのカワイイ生き物。

 ギューッてしたくなる衝動がすごいけど、これってあたしが変態だからじゃないわよね? 幼いものに保護欲を喚起させられるのは、生物として当たり前の本能よね?

 あーもうドキドキする。頭ン中ぐるぐるだし、すぐそばにある紫色のふわふわから、すっごいいい匂いするし! たぶん、あたしみたいな街娘は絶対買えないようなお高い洗髪剤を使ってるに違いないわ、このつむじをクンクンしたら、さすがに犯罪よね――。

 って、ダメダメダメ! 何考えてるのジェシカ! クールになりなさい! トリスタニアっ娘は取り乱さない!

 ……などと、あたしが頭の中を沸騰させていることに気付く気配もなく、ヴァイオラちゃんはよいしょと手を伸ばして、赤ワインの入ったグラスを掴み、それをきゅーっと飲み干していた。

「ううむ、さすがはタルブの古酒。ロマリアの名酒に慣れておる我でも、唸らずにはおられぬ。この香りと酸味、たまらんのじゃー」

 さもワイン通のように、得意げに言っている。でも、こんな小さな子が、違いがわかるほどワインを飲み慣れてるわけがない。きっと、大人ぶってみたい年頃なのね。

「ジェシカ、も一杯注いどくれー。この酒は、チュレンヌにやるのはもったいない。奴の体調が戻る前に、我ひとりで飲み干すのじゃー」

「はい、承りましたわ、ヴァイオラ様」

 うん、間違いなく子供の背伸びだ。高い古酒を、ジュースみたいに続けてがぶ飲みとか有り得ない。主にもったいない的な意味で。

 有り得ないといえば、お客さんの後ろからお酌をするなんてのも、今までの常識からすると有り得ないわね。あんまりカッコ良くないかもだけど、貴族様的にはこれってアリなのかな?

 貴族風のマナーをまだ、それほど厳しく教えられてないのかしら? それとも、外国の貴族って言ってたから、彼女の住んでいるところでは、こういう食事風景もオーケイってこと? ヴァイオラってロマリア風の名前だから、そっち方面の出身なんだろうけど……ロマリアって、そんなにマナーにおおらかな国だったっけ? あるいは逆に、普段がマナーでガチガチだから、こういう大衆酒場では羽目を外して、気楽にやりたいのかな。

 とりあえず、彼女がマナーを気にしたくない、と思っていると仮定して――あたしもあえて、砕けた調子で話しかけてみようかな。

「ね、ヴァイオラちゃん。ヴァイオラちゃんは、どこの国から来たの?」

「んー、我かや? ロマリアのアクレイリアじゃよー。水のきれいな、よか街じゃえー」

 平民にタメ口をきかれても、不快そうにしている様子はない。この接し方は正解のようね。

「そうなんだ。トリステインには、旅行に来たの?」

「いんにゃ。この国に働きに来とる兄様に、会いに来たんじゃ。兄様はなんとの、王宮に勤めとるんじゃぞー。すごかろー?」

 それは確かにすごいかも知れない。王宮勤めなんて、この国の貴族たちばかりで占められてると思っていたのに。

 ううん、この国の貴族たちの中でも、選ばれぬいた優秀な人達でないと、まず採用されないだろう。外国人でありながら、そんな場所に入っていけるだなんて、本当にものすごく優秀な人なんだわ。

 すごいわねーって褒めてあげたら、ワインで少し火照った顔をこちらに振り向かせて、「じゃろ? じゃろ!?」って、まるで自分が褒められたみたいに喜んでた。お兄さんのこと、すごく誇りに思ってるのね。

 お客さんと会話を弾ませる時は、相手の好きなものについて話させるのは基本中の基本。だから、このことについてもう少し突っ込んでみよう。

「ヴァイオラちゃんのお兄さんってことは、さぞかし美男子なんでしょうねー。どんな感じの紳士様なの? クールな文官様? それとも、ワイルドな魔法衛士様?」

 軽くヴァイオラちゃんのお腹に手を回しながら(こ、これくらいはいいわよね?)、聞いてみる。

 そしたら、彼女はちょっと意外な反応を見せた。すでに酔いでそれなりに赤くなっていた顔を、さらにトマトみたいに真っ赤にして、あたしから目を逸らしてしまったのだ。

「あ、いや、兄様は、兄様と呼んではおるんじゃが……我の、本当の兄弟ではないんじゃ。

 我の父様を師と仰いで、うちの屋敷に住み込んで勉強をしておった、いわゆる書生さんというやつでの。小さい頃からよう遊んでもらっとったから、いつの間にか自然に、兄様と呼ぶようになっとったのじゃ。実際、実の兄のように思うとるから、今さら呼び方を変えるつもりはないんじゃがの。

 ま、そういうわけじゃから、見た目は特に、我とは似ておらんかのう……」

 おやー? おやややー?

 血のつながらないお兄さんをすごく誇りに思ってて、しかもこの恥じらい全開な反応は、果たして何かな〜?

 まさか、甘酸っぱいレモン味なのかなー? こんなちっちゃくても、かわいいかわいいレモンちゃんなのかなー? やだ、お姉さんニヤニヤが止まらなくなっちゃいそう。

「じゃあ、そのお兄さん、結婚とかは……?」

「し、ししししてない! してないはずじゃ! 少なくとも我は聞いとらん!

 そもそも、あの兄様に釣り合うような、立派な女などそうそう居まいから、なかなか結婚はできんじゃろがな」

 うん、そうだろうね。妹様のおめがねに適う女性なんて、絶対現れないでしょうね。たとえアンリエッタ王女様が立候補しても、きっとヴァイオラちゃんは不採用にするんだろうなぁ。

 いやー、ロマリアの貴族様でも、こういう色恋の機敏ってあるのね。血のつながらないお兄さんへの思慕とか、まるで演劇みたい。

 ま、言葉には出せないけど、心の中でじんわり応援してるからね。ヴァイオラちゃん。

「一番テーブルのお客様〜、お待たせしましたー。ご注文のお料理、お持ちいたしました〜」

 おっと、同僚のエミリーが、大皿を持ってやってきた。

 お兄さんの話題はこれくらいにしといた方がベターかしら。

 どん、とテーブルに皿が置かれる。その上に並ぶのは、うちのコックが腕によりをかけた、至高の料理たち。

 あたし自ら選んだメニュー……ヴァイオラちゃん、気に入ってくれるかな?

 

 

 ジェシカという娘は、平民にしてはわりと存在価値のある娘のようじゃ。

 といっても、主に椅子としての価値じゃがな! ふともものやぁらかさが、クッションとしてちょうどいいぞーフゥーハハハァー!

 背中をもたれかけさせると、ふたつの乳房がちょうど首を挟むようにフィットするんで、たいそう落ち着く。直に感じるこのバストサイズ……シザーリアに負けずとも劣らぬレベルのようじゃ。かなり本気でもげろと言いたい。

 途中からいきなり、我に対してタメ口になったのはどうかと思うが、下賎な酒場に勤めるような娘じゃからのう。ちゃんとした敬語など、まともに教わってないんじゃろう。

 無知な相手の無礼を大目に見る我は、マジに寛大な大物よのう。ククク。

 ……てか、実際のところは「無礼者、チェンジじゃー!」ってしたら「申し訳ありませぇんお客様ぁ! 代わりにワタクシの膝にどおぞぉん!」とか言って、さっきのトロール鬼店長がやって来そうじゃから言えんのじゃが。

 ほら、今も視線を感じるし。バックヤードからねっとりと暑苦しい眼差しがガンガンと突き刺してくるし。そっち見ないようにするんじゃぞ、我。見たら最後、ありとあらゆる場所から毛が生えてボンとなるであろう。あれはきっと、それくらいの呪いは行使できる生き物じゃ。

 で、まあ平民酒場にしてはいい酒を出しておったんで、それを飲んでいい気持ちになっておったら、なんかその場の流れで、兄様のことをジェシカに話してしもうておった。

 頭がようて、優しい兄様。ご本を読んでくれたり、チェスの相手をしてくれたり、髪の毛を梳いてくれたり、プリンの盗み食いがバレて怒られて泣いとった我を慰めてくれたりした兄様。

 酒に酔った父様に「ヴァイオラが二十歳までに婿を取れんかったら、お前もらってやってくれ」なんて冗談を言われて、苦笑いしとった兄様。

 ある日突然トリステインに行ってしもうて、それ以来、ロマリアにほとんど帰ってきてくれん、薄情な兄様。

 我が酒にほろ酔っておる今も、机に向かって仕事をしておるんじゃろう。

 サボるの大好きな我には、そんな真面目者の気持ちはわからぬ。同様に、兄様も我の気持ちなどわからぬのじゃろう。トリステイン王宮の仕事なぞやめて、ロマリアに帰ってきて欲しい、などと我が思っておることなぞ、きっと想像の埒外なのじゃろな。

 ……父様の冗談に苦笑いしとったあなたは、我があの時、胸を高鳴らせていたことなど、気付かずに去ってしもうたんじゃろな。

 我ももう二十六。今さら、父様の冗談を思い出せとは言わん。じゃが、明日会うたら、たまにはうちに帰って来い、ぐらいは言うてやるつもりじゃ。

 兄様は、他人でありながら我が家族と認めた男なんじゃからの。これはつまり、兄様が世界で二番目に価値のある人類であることを意味する。一番は言うまでもなく我じゃが。

 ナンバー2は、ナンバー1のそばにおって、いろいろと補佐するのが、正しい在り方じゃと思うんよ。それを彼がわかってくれるのは、いつの日なんじゃろか……。

 おっと、なんかしんみりしてしもうたわい。せっかくの酔いが台なしじゃ。

 ジェシカに、また酒を注がせようと声をかけようとしたら、別の女給が料理だと言うて皿を持ってきた。

 ふむ、ちょうどいい。酒ばかりでもなんじゃから、固体にも手を付けるか。

 テーブルに置かれたそれは、どうやらワンプレートに複数の料理を集めた、平民風のオードブルらしかった。

 シュリンプフライにポテトフライ、ミートローフにウインナーソーセージ。真ん中に山型に盛られているのは、チキンの入ったケチャップライス。デザートとしては、ウサギのように細工切りされたリンゴがある。

 うむ、酒のツマミにするには、悪くない品揃えじゃ。さすが酒場、わかっておる。きっとこのプレートを、粗野な酒飲みオヤジどもが、安酒と一緒にこぞって注文するのであろう。ウサギリンゴだけ気になるが、基本的にワイルドな、大人の雰囲気がある。

 褒めてつかわすぞジェシカ。これはオトナな我に相応しい、渋くて良いメニューじゃ。

 そう思ってスプーンとフォークを握り、食欲をそそるメシに挑みかかろうとした、その瞬間……。

「ごめーんジェシカ〜。お子様ランチの旗、立てるの忘れてた〜」

 さっきの、料理を運んできた女給がパタパタと戻ってきて、ケチャップライスの山のてっぺんに、串と四角い布きれで作った、小さなトリステイン国旗をぶっ刺していった。

 ……なぜじゃろ、ワイルドだったそれが、一気にかわいらしくなった……。

「てゆーかお子様!? 今、お子様ゆーたかコラあぁっ!?」

 おまかせで出てくるんが、お子様と名のつくメニューって! これが我に相応しいっちゅーんか、ええ!?

「落ち着いてヴァイオラちゃん。お子様って言ったんじゃないわ、奥様よ。奥様ランチって言ったの」

 ジェシカが我の頭を撫でながら、優しく諭すように言うた。

 あー、なーんじゃ、奥様かー。それならいいわい。我としたことが聞き間違えてもうたわ、あっはっはー。

「って、ごまかされるかぁアホ――っ! 馬鹿にしよって、店長を呼べーっ! いや待った、やっぱ今の無し、呼ぶな、来るな、のじゃああぁぁーっ!」

 怒りと恐怖で、ジェシカの膝の上で思い切りのじゃのじゃと騒いでやったが、ジェシカは黙ってハアハア言いながら、我を抱きしめて、杖を出させないよう押さえ込むだけ。他の奴らも、どいつもこいつも微笑んで、余裕のよっちゃんで我を取り囲むばかりじゃった。

 やはり酒場、酔っ払いが暴れたりという修羅場が日常茶飯事な場所……客という脅威に対する訓練を、ちゃんと積んでいるということか。

 正直、混沌のように這い寄ってきた店長も寄せつけんようにしてくれたのは助かったが……ちくしょう、生意気な平民どもめ、まとめてもげろと呪いをかけてやる。

 あ、このあとちゃんとお子様ランチは我が美味しく頂きました。

 ……マジ普通に美味かったのが、さらに悔しさ助長なのじゃ……。

 

 

 私……ヴァイオラ様にお仕えするごく普通のメイド、シザーリア・パッケリは、敬愛するご主人様ではなく、鬱陶しくむせび泣く贅肉の塊のようなミスタ・チュレンヌのために、グラスにコールドウォーターを注いでおりました。

「うう、わ、わかってはいたんだ……体臭がちょっとヤバいんじゃないかってことは……。

 妻は最近、寝室にフローラルの香りの防臭剤を置くようになったし、魔法学院の初等科に通う娘は、ハグしてやろうとすると逃げるようになったし……。

 しかし、まさかスカロンと同じだなんて、そこまで恐ろしいことになっていただなんて……これはもう死んだ方がいいのかも……」

「チュレンヌ様、お気を確かに……あなた様は、悪酔いをなさっているんですわ」

 しょんぼりと落ちた肩を軽く叩きながら、お水を差し出します。

 かなり、激しく凹んでおられるようです。男性でも、身嗜みに命をかける例もあるということの、これは生きた証拠でしょう。

 しかし、それなりに近づいていますが、言うほど臭いは感じませんね……先ほど、店長にお水のピッチャーを持ってきてもらいましたが、その時も、特に不快な臭いはしませんでした。

 こういうのは個人差があるか、密着するほどに近付かないとわからないか、汗をかくなど、特殊な状況下でしかわからないものなのかも知れません。

「だから、あまり気にしない方がいいですよ、チュレンヌ様」

 泣き萎む太った中年男など、鼻より目の毒ですから。

「うう、あ、ありがとう、君は優しい娘だな、シザーリア君。お尻撫でていいかね」

「ええ、どうぞ。撫でたその手を、炭にされてもいいのなら」

「……イエ、スミマセン、調子ニノッテマシタ……オ許シ下サイしざーりあ様……」

 あらあら、どうしたのですか? 顔が青くなっていますよ、チュレンヌ様。言葉も片言ですし……おかしな方ですね、ふふふ。

「え、笑顔で黒いオーラをせおってはならん、シザーリア君! 仕方ないのだ、男とはそういう生き物なのだ! ちょっと優しくされたら、コイツ俺に気があるんじゃね? と思って、舞い上がってしまう習性があるのだ!

 魔法学院の学院長が、そういう学説をアカデミー経由で発表しておった……学問的な裏付けのある、どうしようもないこの世の真実なんだ!」

 だからと言って、好意を示されたらお尻を撫でると? その間の接続が、無学な私には理解しかねるのですが?

「そ、それは、我々が自分を知っているからよ。私は自分がイケメンでないと知っている。女に好かれにくい顔だとわかっている! だから、チャンスが来たと思えば、それを逃すまいと必死になるんだ!

 この店に来るのも、少しでもたくさんのチャンスを欲してのことだ……女の子たちが近い距離で接客してくれるこの店なら、チャンスも多いかも知れんと思って……それだけでなく、貴族権限で女の子を隣に座らせて、こちらからボディタッチを繰り返し、精神でなく肉体からガンガン押していけば、いずれ向こうもこちらの情熱に当てられて、クラッと来てくれるんじゃないかと……そう、思って……!」

 心の底から搾り出すような、チュレンヌ様の腐れた叫びでございました。

 見ると、周りの取り巻きの皆さんも、涙しながら頷いておられます。トリステインの男たちというのは、かくも馬鹿ばかりなのでしょうか?

「チュレンヌ様……あなた様の(奥様や娘さんがいながら、他の女性とのアバンチュールを求めるという、夏場の沼地に一週間放置された犬の死体より腐れた)情熱については、よくわかりました。

 しかし、女性の立場から、そのやり方にひとつ修正を加えさせて頂けませんでしょうか?」

「と、というと?」

「論より証拠。あちらをご覧下さいな」

 そう言って、私は主の……ヴァイオラ様のおられるテーブルを指差します。

 チュレンヌ様は、それを見て、驚愕に目を見開かれました。当然でしょう。そこにはいつの間にか、ハーレムとでも呼ぶべき人間模様が出来上がっていたのですから。

 ヴァイオラ様を取り巻く、女性、女性、女性。皆さん、愛しい者に向ける優しい目で、ヴァイオラ様を見つめています。

 ヴァイオラ様を膝に載せて、後ろから抱きしめるようにしている、ダークブルネットの女性は……あれは少し、まずいかも知れませんね。ヴァイオラ様を見る目が尋常ではありません。頭の中で「好き好き大好きヴァイオラちゃん」という言葉を、一分間に二百回ぐらい繰り返していそうな目です。

 とにかく、女給たち全員が全員、男どものする阿呆な勘違いではない好意を、ヴァイオラ様に向けていたのです。

「な、な、なんだあれは……何が起きているのだ、先住の魔法か?」

 震える声で、誰にともなくチュレンヌ様が問い掛けます。

「我々が、いくら女給たちを近付けても、向けられたのは接客用の作り笑顔だけだったのに……お嬢様は、なぜこんな短時間で、女どもの心を掴んだのだ? わからん、私にはわからん……」

「本当に、わからないのですか? これはいわゆる、『北風と太陽』なのですよ。この民話、ご存知ありませんか?」

「き、『北風と太陽』だと!?」

「し、知っているのか、ライディン!?」

 声を上げた取り巻きのライディンさん(他に、ギガディンさんとミナディンさんとパルプンティンさんがいらっしゃいます)に、チュレンヌ様が聞き返します。

「ええ、子供向けの民話です。その筋は、確かこのようなものでした――」

 

 

 ――昔々、あるところに、『北風』と呼ばれる風メイジと、『太陽』と呼ばれる火メイジがいた。

 ふたりはライバルであったが、どちらが上かという決着のついたことはなかった。その日もふたりは、互いを下そうと、杖を向け合っていた。

「太陽殿、勝負だ! 今日こそ、我が風が最強だということを証明してみせよう!」

「あやややや、受けて立ちますぞ! こちらこそ、火の本質が破壊だけではないということを証明してみせましょう!」

 そしてふたりは相談の結果、そばを通り掛かった旅人に得意な魔法を使って、その服を脱がした方が勝ちだというルールを取り決めた。

 まず、北風が旅人に向かっていった。強力な風魔法が、旅人のコートを激しくはためかせ、吹き飛ばそうとする。

 が、旅人は服を飛ばされてなるものかと、コートの前をしっかり合わせて、風に立ち向かった。北風は結局、抵抗した旅人から、一枚も服を剥ぎ取れなかった。

 次は太陽の番だった。彼は炎の魔法を使い、周囲の気温を急上昇させた。汗が吹き出るような熱気に、旅人は涼しさを求め、厚いコートをさっさと脱いでしまった。

「やった、私の勝ちですぞ!」

 太陽が勝鬨を上げた、その直後!

「さっきからあんたら、何してくれてんだい!」

 二重の魔法に曝された、怒りの旅人(アルビオン人、二十三歳女性)が、杖を振るい、三十メイル級の巨大ゴーレムを作り出し、その巨大な拳を北風と太陽に向かって繰り出したのだ!

「あたしに恨みでもあんのかっ、この唐変木ども! 死ね、氏ねじゃなくて死ね!」

 あわれ、北風と太陽はゴーレムにボコボコにされ、最後には踏まれてぺっちゃんこにされてしまったのでした……おしまい。

 

 

「……えーと、そのやるせない終わり方の民話が、あのお嬢様のハーレムとどう関わってくるのだ?」

 納得がいかないらしい表情で、チュレンヌ様が問われます。

 まったく、察しの悪い豚です。これならば火を通せば食べられる分、普通の豚の方が優れているかも知れません。

「いいですか、チュレンヌ様。あなた様は、女性に好かれようと、いろいろなことをなさいました。女性と接触する機会を増やすため、この酒場に通い、女性を無理矢理に引き寄せたりもしました。そうですね?」

「あ、ああ、そうだ」

「対して、ヴァイオラ様はどうでしょう。今までの経緯は存じませんが、今はもう女性たちを疎ましく思われたのか、離れようとしておられます。

 なのに、女性たちは逆に、ヴァイオラ様を引き寄せ、離すまいとしています。チュレンヌ様とヴァイオラ様、していることは真逆で、結果も真逆です。なぜ、こんなことが起きたのでしょう?」

「はっ!? き、『北風と太陽』か!」

 わかったようですね。どうやらナメクジよりはまともな脳をお持ちのようで、何よりです。

「そう。チュレンヌ様は、女性たちを無理にものにしようとなさった。対してヴァイオラ様は、まさか全員を短時間のうちに口説いたはずもないですから……おそらく、女性たちからアプローチしたくなるような、そんな態度を取ってみせたのでしょう。

 それを踏まえた上で、もう一度ご覧下さい。……ほら、ヴァイオラ様ときたら、ただあそこにいらっしゃるだけなのに、何となく近付いて撫でたくなりはしませんか?」

 短い手足を振り回して、愛くるしいお顔の表情をくるくる変えて。まるで幼い子供のよう。

 きっとあの女給たちは、ヴァイオラ様のことを、十歳前後だと思っているのでしょうね。

 本当の年齢を知っている私でも、つい微笑んでしまいます。チュレンヌ様も、目尻を下げて、父親のような表情で和んでいます。取り巻きさんたちも……あら、ひとりだけ、目をギラギラさせてハアハア言っている人がいますね。この方はあとで、軽くウェルダンにして差し上げましょう。

「なるほど、わかった……大切なのは、向こうから近付いてきたくなる態度を取る、ということなのだな。

 しかし、私のようなブ男はどうすればいいのだろう? 私はあのようにかわいくはないのだ。同じような仕種をしても、思いっ切り引かれるだけだろう」

「いい質問です、チュレンヌ様。……つまりそこを、女性たちから学ぶべきなのですよ。女性が寄りつきたくなるような、魅力あるナイスミドル。それがどういうものかを知り、その像に近付くよう、己を変えていけば……」

「おおお……シザーリア君! 君のような素晴らしい教師には、私は初めて出会ったよ!」

「お褒め頂き、光栄です」

「君のような教師に、魔法学院時代も教わりたかったものだ……おっぱいの大きい、若くて美人の女教師に……ためになる授業の礼として、おっぱい揉んでもいいだろうか?」

「ええ、お好きなように。ただし、あなた様の上半身が沸騰して爆散しますが、かまいませんね?」

 答えは聞いていません。

 

 

「のじゃああぁぁっ! く、くっつくなきさまらー! ここはたわわな果実の農場かー!? 誰か、誰か男よ、我と替われー!」

「ん〜♪ ヴァイオラちゃんのほっぺ、すべすべ〜♪」

 

 

「ちゅ、チュレンヌ様あぁっ!? チュレンヌ様の下腹部が、年齢制限無しでは描写できないことにー!?」

「あら。間違えましたでしょうか……? フフフ……」

 

 

 さまざまな愛欲を坩堝で混ぜて――魅惑の妖精亭の夜は、更けていく……。

 

 

 ……やれやれ、昨日は死ぬかと思うた。

 我がいくら高貴で、人の上に立つ者のオーラを撒き散らしとるからとはいえ……まさか、酒場の女給どもが、あそこまで奴隷根性を顕在化させるとは思いもせなんだ。

 全員が忠誠の証のつもりか、我とのハグを望みよったし(我の顔を埋める大きさの胸を持っとる奴は、全員腐り落ちよと呪っておいた)、ジェシカにいたっては「ヴァイオラちゃんの椅子になっていいのは、あたしだけ!」とか大声で宣言しとった。

「また来てね? 待ってるからね? むしろ座りたくなったらいつでも呼んで! すぐに椅子になりに飛んでいくから!」

……とか、店を出る時に言われたのが、怖くて仕方がないのじゃあぁ……。

 と、とにかく、思い出すと不安になることは、記憶のごみ箱に詰め込んでフタをして、ひもで縛って土に埋めて周りを鉛に錬金して閉じ込めて、忘れ去っておくのじゃ。

 今日はこれから、兄様に会える。その喜びの前では……その、恐怖的なものは不要じゃ。

 馬車に乗り込み、朝日の中を王宮へ向かう。

 貧乏矮小国家トリステインといえど、王家の城はさすがに立派じゃ。衛士が左右に立つ大門を潜り、城に入る。

 出迎えの衛士に、アポイントメントを確認させ……さあ、ついに兄様のおる場所まで、連れていってもらえるのじゃ。

「シザーリアよ、ここからは私的な面会になるでの、お前は控えの間にて待機しておれ」

「かしこまりました、ヴァイオラ様」

 シザーリアと別れ、案内役の文官について、城の廊下を進む。

 赤い絨毯の上を、曲がりくねり階段で上り下りし、百数十メイルほど歩いて……ついに、その部屋が見えてきた。

「あちらの応接室にて、お待ちです」

「ご苦労でありました。ここからはひとりで行きます故、どうぞお構いなく」

 文官に礼を言って、下がらせる。久しぶりの再会、他人の同席などいらんのじゃ。

 わずかな緊張とともに、扉を叩く。中から「どうぞ」という、懐かしい声。心臓が、一度大きく跳ねた気がした。

 扉を開ける。アーチ窓のある、広く明るい部屋の中、小柄な人影がひとつだけ立っていた。

 それを見た瞬間、我の心と体は、どちらも駆け出すことを選んでいた。柔らかい絨毯の上をぱたたたと走り抜け、その人に、兄様に向かって、一直線。

「兄様――っ!」

 がし、と、鷹が獲物を捕らえるように、兄様の腹にタックルするように抱き着いた。兄様が苦しそうに「がはっ」とか言うたが、喜びで頭いっぱいな我には聞こえぬ。

「ミ、ミス、コンキリエ。いけませぬ。淑女が、そんな子供じみたことをしては」

「えー? かまわんではないか、兄様。アクレイリアの屋敷にいた頃は、毎日我を受け止めてくれたじゃろ?」

 兄様の暖かみを頬に感じながら、我は彼の顔を見上げた。

 総白髪で、口ひげも真っ白の兄様は、シワだらけの顔を苦笑させて、昔のように、我の頭を撫でてくれた。

そして、そのあとに続くんは、言い聞かせるような説教じゃ。わかっとるんじゃよ、我。

「昔は昔、今は今です。あなたも今は、枢機卿という責任ある立場についた大人でしょう。それにここは、トリステイン王宮。あなたは、ロマリア人のお客様です。私人ではなく公人として振る舞って頂かねば、私が困ってしまいますのでな」

「まったく、相変わらずお固いのう……じゃが、教皇選定会議の時、帰ってこんかった奴に、枢機卿としての責任を言われたくはないぞ?

 のう、兄様……ううん、公人として、じゃったな……久しぶりに会えて嬉しいぞ? ミスタ・マザリーニ」

 ロマリア人にして、トリステイン王国宰相を務める彼。我と同じ、枢機卿の肩書きを持つ彼。

 さらには、「鳥の骨」などというふざけたあだ名を持つ彼……マザリーニこそ、我の大好きな、兄様なのじゃった。

 

 

 おまけ

 

 

 俺、平賀才人と、ご主人様であるルイズが、この魅惑の妖精亭で働き始めて、しばらく立つ。

 俺はだいぶ皿洗いに慣れてきたけど、ルイズの接客の方は……残念ながら、今日も客の額を、ワイン瓶でノックする衝動を抑え切れなかったみたいだ。

 これじゃ、チップレースでの最下位は確定的に明らかかな……。スカロンさんやジェシカも、いろいろ指導はしてくれてるんだけど(特にジェシカは、「ちっちゃくてフワフワ……ハアハア」とか言いながら、いつも積極的にルイズにかまってくれている。……なんか危険な感じもするけど、たぶん気のせいだよな?)。

「何か、一発逆転の大イベントみたいなのがあればいいのよ! 悪徳役人とかが客や店員を脅して、横暴を重ねて、最後には私たちに退治されて、有り金全部置いていくような……そんなイベントさえ、発生してくれれば……」

 ルイズが、爪を噛みながら不穏なことを言っている。

 いやお前、さすがにそんな都合のいい事件とか起きないって。しかもちょっぴり強盗みたいな思想も入ってるぞ。自重しろ。

 あ、またお客さんが来たみたいだ。ルイズ、行ってこいよ。

「はーい……って、なにあれ」

 ルイズが、訝しげに入ってきた客たちを見ている。

 俺も、ちょっと覗いてみたが……確かに、あんまり見ない種類のお客さんたちだった。全員が、黒や紫の色眼鏡をかけていて、口には葉巻をくわえている。マントをつけてるから、貴族なんだろうけど……なんだこれ。Vシネinハルケギニア?

 ルイズが躊躇していると、別の妖精さんが接客に出ていった。

「あ、チュレンヌ様、いらっしゃいませ〜。お席、いつものところで?」

「ああ。酒も同じだ……アルビオンのスコッチをロックで頼む」

 ボスらしき恰幅のいい貴族が、めっちゃ渋い声でそんなことを言ってる。

 で、ぞろぞろと店の奥の、やたらランプの明かりを暗めにしている席に行って、男たちだけでポーカーなんか始めやがった。妖精さんをひとりもはべらせないで。この店の客なのに、なんかすごい珍しいな。

「ねえねえ、ジェシカ。あの人たち、何なの? チクトンネ街の闇に潜む組織のトップか何か?」

 ルイズが、近くにいたジェシカに聞いている。うん、確かに見た目はマフィアとかの大物臭い。

 しかし、ジェシカは何でもないとばかりに、笑って答える。

「ああ、あれ? この辺を取り仕切る、徴税官のチュレンヌ様とそのご一行よ。渋くてカッコイイ男の在り方を研究していて、うちの店じゃ『男の浪漫倶楽部』なんて呼ばれてるわ。そんなことより、あなたの髪の匂い嗅いでいい?」

「ふーん、そう。じゃあ別に悪者とかじゃないわけ? 税率勝手に変えるとか言って、お店の人を困らせたり、杖で脅して、お金も払わず飲み食いしたりはしないの?」

「あはは、ないない。昔はそんな時もあったけど、最近は仕事もきちんとしてるし、支払いも普通にしてくれるしね。男として恥ずかしい振る舞いはしない、がコンセプトだから、むしろ普通のお客さんより、マナーはいいわよ。そんなことより、うなじ舐めてもいい?」

 男の浪漫、かあ。確かにあれは……なんていうか……イイな。

 酒場の奥の静かなテーブルで、ウイスキーを傾けながら、バクチに興じる強面の男たち。

 その姿は、薄暗いランプの明かりの中、葉巻の紫煙でぼんやりと煙っていて……。

 ま、混ざりてェー! あの漢どもの末席に、俺も加わりてェーッ!

「うーん、そんな人たちじゃ、一発逆転イベントの相手にはなりそうにないわね。

 はぁ、どこかにいないかしら、ちょうどいい悪党って……」

「ね、ね、そんなことより、今夜あたしの部屋に来ない?」

……うん、とりあえず、ルイズはジェシカからなるべく遠ざけておこう。

 そんなことを思った、魅惑の妖精亭のアンニュイな夜だった。



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ロマリアから来た良心と、ロマリアに棲む悪意

 存分に再会を喜び合ったのち、我と兄様は同じテーブルで朝食を摂ることにした。

 王宮のメイドたちが、テーブルの上に皿を並べて準備をしてくれる。白パンの盛られたバスケット、小牛のポワレ、生ハムの盛り合わせ、チキンのロースト、キャビアの添えられた半熟卵、きのこのポタージュスープ、鴨肉とピスタチオのパテ、白身魚と海老のミルフィーユ仕立て、鱒のマリネ、野菜のテリーヌ、ハシバミ草とムラサキヨモギのサラダ、ズッキーニのフリット、デザートには桃のシャーベットにコーヒークリームのタルト、焼プリンにクレープシュゼットにクックベリーパイ……って多い多い多い。

 こういう量は魔法学院とかで、食べ盛りの学生どもに出してやらんかい。こんまいふたりにこんなにもの朝メシて。無駄の宝庫かトリステイン。

 ……まあ、出された以上は食うが。

 やらかい白パンをちぎって、ポワレのソースをつけて、口の中に放り込む。

 よう染み込んだ旨味を楽しみながら、我は兄様に話しかけた。

「しかし……またちょいと痩せましたかの、ミスタ?」

 フォークとナイフを握る彼の手は、骨に、潤いのない皮をかぶせただけのような……見ているだけで、なんとも心配になる細さをしておった。

 頬もひどくこけていて、口に入れた食べ物を咀嚼する様子が、頬肉を透かして見えるのではないかとすら思ってしまう。

「以前、ミスにお目にかかってから、もう五年近く経っておりますからな。あの頃に比べれば、確かに少し痩せましたか。

 なに、長い年月のもたらす変化としては、微々たるものです」

 兄様は、何でもないことのように言うが……嘘じゃ。

 あなたの変化は、年月だけがもたらしたものと言うには、あまりにも激しい。

 我と、二十近くも年の違う兄様。しかしそれでも、実年齢はせいぜい四十四、五歳のはずじゃ。なのに、その外見は、あまりにも老け過ぎておった。

 髪もヒゲも白くなり、顔中にシワが刻まれた。目は落ち窪み、下まぶたには青黒い隈もできておるな。あなたを知らない人に、あなたの姿を見せてみるがよろしい。きっと七、八十歳くらいであろうと言うてくれるわ。

「王宮でのお仕事は、やはり大変ですかえ」

 この問いへの返事は、我も見慣れておる苦笑じゃった。ただし、疲れを隠しきれない、少しだけ悲しくなる苦笑。

「ええ。国政という大事に、わずかとはいえ関わらせて頂いておりますからな。その名誉に釣り合うだけの責任は、やはりついてくるものです」

 これも嘘じゃ。

 トリステインの現王家が、それを支えているとされる宮廷貴族たちが、お飾り程度の価値しかない無能じゃということは、遠いロマリアにおった我にさえ聞こえておることじゃぞ?

 前王崩御後、王妃は喪に服し続けることを選び、冠を戴かんかった。王女は幼く、国を継げるほど完成しておらぬ。結局、王位が空位のままで続いておるこの国を、潰れぬように支えておるのは……あなたじゃろう、兄様……宰相、マザリーニ。

 そう、この兄様は、ほとんど独りで一国家を支えておられる。トリステインという国を心から愛し、そこに住む人々のために尽力しておられる。

 それこそ、命を削る覚悟で――いや、これはたとえとは言えんな。実際に兄様は、命を削っておる。その結果が、年齢に似合わず年老いたその肉体じゃ。

 兄様の周りに……トリステインに、ちょいと忠義のある奴や、ちょいと有能な奴がおったらば、彼もこんなにはならなんだろう。

 しかし、悲しいまでにろくなのがおらんのが現状らしい。宮廷貴族どもの忠誠は、利権を確保するためだけのおべっかに過ぎぬようじゃし(これ自体は、何も問題はない。むしろ、利権を手に入れようと考える奴の方が、金をかき集められるし、他者とのパイプも上手く作れるから、国のためには役に立つ。いかんのは、利権を持ってそうな奴についていくだけで、利権の一部を自分の口に放り込んでくれんかとボーッとしとる奴じゃ。つまりこの国の宮廷貴族どもじゃな)、わずかな使える連中は、外国人の兄様を快く思うとらんから、あまり協力してくれん。

 ヴァリエール公爵などが、その例じゃ。彼の政治手腕は、その領地の栄えっぷりと、彼自身の資産を調べりゃようわかる。公爵という地位に、おんぶに抱っこというだけでは、まず有り得ん金持ちじゃ。

 だがこやつときたら、基本的に自分の領地にこもりっきりじゃし、ものっすごいわかりやすいアンチ・マザリーニ派らしい。アホな姫様をそそのかして、トリステインを乗っ取ろうとしとるんじゃないかとか、半分くらい本気で考えとるフシがある。

 ……まあ、最近の政策で、王家の血を引く唯一の後継ぎ、アンリエッタ姫をゲルマニアに嫁がせる作戦を立てて実行したのが、兄様らしいから……兄様への嫌悪感と敵意は、トリステインへのマジモンの忠義と評価することもできるんじゃが、それでもつくづくもったいない公爵よ。

 王宮内では四面楚歌。しかし有能で、彼無しでは国が回らんから、とにかくこき使われはする。それが兄様の立場じゃ。

 そこに、責任はあれど、名誉なんてものはない。

 兄様のいうことは、嘘っぱちじゃ。

「疲れておるようじゃが、ちゃんと休んでおられるか? 仕事から離れて、ゆっくりする時間などは……?」

「もうすぐ、アンリエッタ姫様と、ゲルマニアのアルブレヒト三世閣下との結婚が成ります。そうすれば、神聖アルビオン共和国を名乗る逆賊どもに対し、強力な牽制となるでしょう。

 今は、トリステインにとって、非常に大切な時なのですよ、ミス。それまでは、寝る間すら惜しいと言わざるを得ませんな。

 なに、ご心配には及びませぬ。ことがうまく片付けば、一月ほど休暇を取って、ゆっくりするつもりです。さすがの私も、健康は大事と思っておりますのでね」

 その言葉も嘘じゃな兄様。もうとっくに、寝る間なんぞ犠牲にしとるんじゃろうが。

 目が軽くしぱしぱしとるし、体の中の水の循環もよろしくない。水メイジ舐めんなや。昨日何時間寝たか言うてみい。……なんて、口に出しては聞けないのが寂しい。

 あ、でも、そんな忙しい時なのに、我との食事の時間を作ってくれたのは、素直に嬉しいのぅ。えへへ。

「……休暇の時は、ぜひ帰省なされ。今度は我が、あなたを食事に招待したいので、の」

 今、このテーブルに乗っているより美味く、多く、高価な料理を。

 メシの美味さなら、ロマリアはトリステインに負けんぞ。子羊背肉のソテー・りんごソースかけをメインにしたコースを振る舞おう。

 前菜はトマトとモッツァレラチーズのサラダ。肩コリが治って、シワだらけの肌にハリが戻るぞ。次に、唐辛子をきかせた、ついついクセになる旨さのスパゲティーニ。骨とか丈夫になって、虫歯も完治するぞ。メインの子羊背肉は、内臓の疲れた人にオススメじゃ。ハラワタが爆発するかのような美味さのおかげで、便秘も腹痛も笑ってサヨナラできるんじゃ!

(※注……すべての効能は、シェフの水メイジの使う魔法によるものです。通常のロマリア料理に、そんな作用はありません)

「ええ、ぜひに……楽しみにさせて頂きますよ、ミス・コンキリエ」

 わーい。兄様と、また一緒にお食事フラグが立ったのじゃー。

 こんな約束が取り決められた以上は、さっさとアンリエッタ姫とアルブレヒト三世には結婚してもらわねば。

 ふたりのあからさまな政略結婚的な仲を、ロマリア聖マリオ教会枢機卿ヴァイオラ・マリアは応援しています! 結婚する若人どもを、ここまで祝福したのは、聖職について以来初めてかも知れん(普段は行き遅れ代表として、リア充死ねと叫んでおる)。

「それで、あなたの近況はいかがですか、ミス?」

 食い終わった生ハムの皿を下げさせていると、今度は兄様が聞いてきた。

「ん? 我の近況……ですかや」

「ええ。私がロマリアを去った後、先生の……お父上の事業を引き継ぎなさったのでしょう。会社自体が順調なことは、市場の動きを見て知っておりますが、何かご不便はありませんかな」

「にしし、大丈夫、うまくやっとりますわぃ。目を離しさえしなければ、『セブン・シスターズ』は、実に親孝行な子供達ですゆえにな」

 ニカリと笑って、爽やかな酸味のタルブワインで喉を潤す。

 我がコンキリエ家は、その資産のほとんどを、『セブン・シスターズ』と呼ばれる七つの会社の利益から得ておる。

 これが何の会社かっつーと、全部、風石の採掘、流通を扱う、グローバルカンパニー……つまりは、風石メジャーと呼ばれるものなのじゃ。

 ハルケギニアにおいて、最も生活に役立っている天然資源は何かと言われたら、おそらく多くの人が、風石と答えるじゃろう。

 風石。それは風の精霊の力を秘めた、なんかプカプカ浮かぶ石。これをフネに積め込めば、フネを浮かせることもできる。乗っている荷物や人も、一緒にじゃ。

 その利便性は計り知れぬ。風竜でも運び切れぬ大量のモノ・ヒトを空輸可能で、しかも誰が使おうとその性能は変わらん。流通において、そのことがどれだけ有利に働くかは、説明するまでもないじゃろう。

 また、軍用としても大いに需要がある。現代の軍艦は、そのほぼ全てが空を飛ぶ仕様じゃ。ガリアの両用艦隊などは見事なアイデアじゃが、あれとて風石なしでは、海でしか活躍できぬ。つまり、風石は国力そのものを支える、重要なファクターであるのじゃ。

 我がコンキリエ家は、その風石を扱うことで財を成した。

 その歴史は、それほど長くはない。七十年ほど前、我が祖父にあたるアントウニオ・コンキリエという人物が、アウソーニャ半島の西に位置する、サルディニアっつう島に土地を買うたことが始まりじゃったそうな。

 彼は土のスクウェアメイジじゃったが、とにかく土を掘ることが好きじゃった。サルディニアでも、「この土地で金鉱を掘り当てて、一儲けしてやる!」とかアホなこと言うて、とにかく朝から晩まで、掘りに掘って掘りまくっとったそうじゃ。

 で、結果として、一儲けでは済まんものを掘り当ててもうた。

 地下七百メイルという超深度に埋蔵されていた、巨大な風石鉱脈。それは、今までハルケギニアで見つかっとった、あらゆる鉱脈を凌ぐ大きさじゃった。

 土のスクウェアで、しかも土を掘ることばかりに情熱を傾けた変態でもなければ、まず発見できなかったシロモノじゃったそうな(実際、深度七百メイルというのは、人類の掘削深度記録ナンバーワンらしい)。

 その鉱脈は、アントウニオに莫大な財産をもたらした。その金で、彼はシチリア島という場所に土地を買い……そこでまた穴を掘り、金鉱探しを始めた。

本人曰く、「風石鉱脈はいい資金源になってくれた。だが風石は黄金じゃねえ。俺が求めるのはあくまで金鉱! 金鉱探しこそ男の浪漫!」だそうじゃ。アホス。

 で、シチリア島での穴掘りの結果、地下六百五十メイルから、またクソでかい風石鉱脈が出てきた。

 アントウニオはさらに資産を増やし、その金で今度はカプリ島というところに土地を買い以下略。まあ、なんつーか、祖父は凄まじいまでに風石に好かれていた男であったらしくての、七つの土地で同じように穴掘って、そのたびにどでかい風石鉱脈を掘り当てまくったのじゃ。

 そのあまりの当たりっぷりに、アントウニオは「もしかしてこの鉱脈、ハルケギニアの地下全体に広がってるんじゃね?」とのたまったそうじゃが、ま、さすがにそれはあるまい。

 結局、力衰えて引退するまで、金鉱は見つけられなかったが、それでも、十代ぐらい先の子孫まで遊んで暮らせるだけの金を作ることには成功した。

 さて、アントウニオの掘り出した資源は、確かに莫大な財産を産んだが、彼は残念ながら、それを増やすことを考えるほど、オツムはよくなかった。

ただ穴を掘って、金鉱を探せればいいという人だったので、放っとけば鉱脈の採掘権を適当な誰かに売っぱらって、二代か三代を食わせる程度の財産だけを持って満足してしまう可能性すらあった。

 それを阻止したのが、アントウニオの息子であり、我の父様である、セバスティアンじゃった。

 父様は、土と水の二系統を操ることができる多才なメイジじゃったが、ランクはラインどまりで、圧倒的なパワーが必要な、アントウニオの穴掘り仕事を手伝うことはできなんだ。

 その代わり、彼はすでにある風石鉱脈の経営に着手した。算術と経営学を学び、それに則って明確な経営方針を打ち立て、適当に風石を採って売るだけのザル商売を改革した。

 まず、親戚や友人の中から、使える奴らをかき集めた。人の動かし方を心得ている奴を、金を扱い慣れている奴を、そして何より、信用できる奴を。

 集めた者たちに部下をつけ、仕事を割り振り、それだけで会社の体裁は整った。父様が作ろうとしたのは、風石の採掘、保管、売買、輸送まで、全てをこなす多機能企業じゃった。それはいともあっさり出来上がり、完璧に機能してみせた。

 ひとつの風石鉱脈につき、ひとつの会社を設立。サルディニアには、スタンダード・ウインドストーン・オブ・サルディニア社を、シチリアには、ロイヤル・ダッチ・シシリー社を。カプリにはモーガン社、レッツェにはソーシャル社、ボロニアにはブリティッシュ風石社、モデナにはテキスト社、パエストゥムにはエクソニア社を置いた。それらは全て、別々の社長によって運営されており、企業国籍もバラバラではあったが……七人の社長が、全員セバスティアンの傀儡であり、利益を全てセバスティアンのもとに捧げていた、という点で、完全に一致しておった。

 ロマリア風石を独占する七つの会社は、やがてセブン・シスターズ(七人の魔女)と呼ばれるようになり、この名はすぐに、国際風石資本の代名詞として使われるようになった。

 現在、全世界の風石シェアの八十パーセントを、セブン・シスターズが獲得しておる。アルビオンは自身の国土から、ガリアはサハラから、風石を独自に採掘しておるようじゃが、供給量ではロマリア七大鉱脈の足元にも及ばん。軍隊のために自国産の風石を使ってしまえば、民間に売り出せるのは雀の涙じゃろう。

 結局、世界の風石のほぼ全てを、セブン・シスターズが……その背後のコンキリエ家が握っている、と言って、過言ではないわけじゃ。

 我が生まれた頃には、セバスティアンの操作する風石マネーによって、我が家の銀行口座は偉いことになっとった。百代先の子孫まで遊ばせられる資産というのは、正直ピンと来ぬものじゃ。

 我はものごころついた頃から、父様の薫陶を受けて育ったが、ある日いきなり七大会社全ての経営を任せる、とか言われても、やっぱりピンと来んかった。

 ……あんのクソ親父め……何が「ロバ・アル・カリイエがどんな土地なのか見てみたい」じゃ。そんな、適当な一言だけ残されて旅立たれた娘の気持ちも考えんか。しかも母上まで連れていきくさって……やっぱあれか。アントウニオの血を継ぐ父様も、やっぱアホスな人じゃったんか。

 ともかく、我はやった。金を操る力の強大さは、父様から耳にタコができるほど聞かされておった。その力の使い方も、力のさらなる増やし方も。アホスパパンの教えを参考に、動かせるだけ動かしてみたのじゃ。

 聖職につき、顔が広がると、金を集める方法も広がった。出世のためにたくさんの賄賂も贈ったが、それに見合う結果が常に返ってきた。

 我は現在、セブン・シスターズの他に、世界中に五十以上の会社を持っておる。出資しておる会社はその十倍。どれもが黒字じゃ。

 コンキリエ家の資産額も、父様が去っていった頃よりはじんわり増えておる。動産だけで、約六十億エキュー。採掘可能な風石の規模を考えると、この数万倍は固い。クルデンホルフとも協力関係を結んでおり、ハルケギニア金融界の裏側を、ちょちょいと掻き混ぜるくらいは朝飯前じゃ。

 兄様ひとりの力で保っとるような、死にかけのトリステインとは、比べるのも馬鹿馬鹿しい。輝きが違う輝きが。

 将来、我を射止める殿方は、世界屈指の大金持ち決定じゃ。どの国の王より贅沢な暮らしのできる、途方もない幸せ者になれようぞ。

 ――だからのう、兄様。

 こんな弱くてボロボロのトリステインなんかにかまうのはやめて。我を見てはくれぬじゃろうか?

 

 

 ……なあんて、のう。口に出して言えたらば、どれだけ楽か。

 言葉にこそせんが、我はずっと、兄様をトリステインから引き離したい、と思い続けてきた。

 十年かそこら前には、髪の毛にも普通に色があって、肉付きもよくて、精力的な若者であったはずの兄様。それが、この国に来てから劇的にビフォーアフターしてしもうた。

 たとえ老けようと兄様は兄様、我が嫌いになることは有り得んが……それでもこの変わり様、嘆かわしくはある。この国におることが、兄様のためになるとは、ケシツブひとつ分たりとも思えん。

 できることなら、無理矢理にでも引きずって帰りたい。今日ここでお会いして、その気持ちがいっそう高まった。

 やろうと思えば、兄様の強制送還は不可能ではなかろう。ブリミル教会として圧力をかけて、ロマリアへの帰還を要請ではなく、命令すればよい。何人かの枢機卿に賄賂を送れば、これは容易に実現するじゃろう。

 しかし、できぬ。やるわけにはいかぬ。

 兄様は、トリステインに恋をしておる。彼の目に映っとるのは、このしょっぽい王ナシ王国だけじゃ。

 無理に引き離して、ロマリアに戻しても、遥か彼方のこの地を思い続けるだけじゃろう。我のことを、その目に映してはくれん。

 はあ、惚れた相手がどっかの女なら、いくらでもやりようがあるのにの。何だって兄様は、こんな国が好きなんじゃか。

 ……前にちらりと、兄様はマリアンヌ王妃を恋慕しておるから、トリステインに尽くしているのだ……みたいな噂を聞いたことがあるが、まさかそんなことはあるまいな?

 もし、あるんなら躊躇せんぞ。問題の原因が明らかなら排除すべし、というセオリー・オブ・エブリシングに基づき、トリステイン王妃様に全力で暗殺者差し向けたる。『白炎』のメンヌヴィルとか、元素の兄弟とか、地下水とか、『公爵』トウゴウとかの名うての殺し屋どもを、大隊規模で送り込んでくれるぞ。大丈夫、依頼主が我じゃとバレないように雇うから!

「……ミス? ミス・コンキリエ、いかがなさいました?」

「彼の者への連絡方法は、確か賛美歌十三番を……ふえ? な、何ですと?」

「いや、マリネを非常に細かくしておられるようですので。もしかして、鱒はお気に召しませんでしたかな」

「へ?」

 って、うおお!? 言われて気付いた!

 マリアンヌ王妃への(特に確証もない)殺意で、どうも手元への注意が疎かになっておったらしく、我はたった一切れの鱒のマリネを、ナイフで切ってはまたナイフで切り、それをまたナイフで切りを繰り返しまくっておったようじゃ。

 鱒の肉はもう、なんというか、切り刻まれたカケラというよりは、挽き肉とかすりおろしとか、ペースト的なそんな感じになっとった。うん、こいつはもうフォークでなく、スプーンで食いたいシロモノじゃのぅ。

「やや、や、し、失礼を致しましたのじゃ。ちょいと考えごとをしとりましてな」

 慌てて取り繕うが、取り繕い切れない程度に動揺がすごい。

 うあああ、我のスカポンタン。兄様の前でなんちゅう行儀の悪いことをー!

 ふがいなさと恥ずかしさで、顔がぽかぽかしてしまう。待て、首から上の皮膚に集結するでない我が血液! 殿方との食事の席で赤面なぞ、さらに行儀が悪いこっちゃぞ!?

 適当にごまかして、普通に食事を続ければいいだけなのに、兄様が目の前にいるというだけで、そんな簡単なこともできなくなる。

 フォークとナイフを持つ手が震え出す。目に涙が溜まり、視界がぼやける。何かしゃべろうにも、舌が上手いこと動いてくれん。

 あーもう、ほら、見れ! 兄様がじーっとこっちゃ見とる! まなじりのシワが増えて、目が細うなっとる! 我のあまりのぶざまっぷりに呆れとるのじゃ! 大好きな兄様に呆れられてもた! うわあああん駄目じゃああぁぁ我のこと嫌いにならないで兄様あああぁぁぁ!

 心の中で大瀑布さながらに泣きながら、許しを請うように涙の浮かんだ目で兄様を見つめる。そのまま、何も動かない時間が過ぎる……おそらく数秒程度じゃったろうが、おたおたしておった我には数時間にも感じた。

 そんな居心地の悪い時間は、兄様が動いたことで終わりを告げた。

 彼はまず、口元を優しく綻ばせて、なぜか、自分の前にあった手付かずのマリネの皿を、こちらに差し出したのじゃ。

「ミス・コンキリエ、プレートを取り替えて頂けませぬか。その鱒の方が、その――少々――私には食べやすそうに見受けられますのでね」

 はい、すごいわかりやすい気遣いが来たのじゃ!

この兄様らしい優しさ、嫌われたわけでないことがわかって嬉しいんじゃけど、情けなさが身にズガンとしみて、つらさは三割増じゃぞ!?

 し、しかしせっかくのフォロー、無駄にするわけには……我は力の入らん手で、かろうじて皿の交換を行い、食事を再開した。

 うえーん、我のマジ大馬鹿野郎〜。せっかく兄様と会えたその時に、何故わざわざかっちょ悪い姿を見せるんじゃ〜!

 普段のカリスマと知性に満ちあふれた、セレブな才媛そのものの我を見せつけられれば、きっと兄様もメロメロになって、トリステインなんぞおっぽり出して、ロマリアに帰りつつゴールインしてくれるじゃろなーうへへへ、とか、考えとったのにー。これじゃトリステインから、兄様の心を引っぺがすことすら、夢のまた夢じゃー。

 ちくしょう、どちくしょー……鱒のマリネ美味いぃー……。

 

 

 私は――トリステイン王国宰相マザリーニは、久方ぶりの心の平穏を感じていた。

 生き馬の目を抜くようなトリステイン政界で、宮廷貴族たちとの政治闘争に明け暮れる毎日。最近は、アンリエッタ姫のお越し入れという大事に携わり、ほとんど眠れぬ日々が続いていた。

 辛くない、とは言わない。だが、私のしていることは、トリステインのために絶対に必要なことなのだ。政務を滞らせては国が維持できぬ。姫殿下の婚姻も、成されなくては国の安全が確保できない。どんなに苦しくても、どれだけ敵を作ろうとも、やらなくてはならない。仕事というよりは、むしろ使命であると考えて、ただひたすらに取り組んでいた。

 これは孤独な戦いだ。この国において、私が本当に信頼できる仲間には、いまだ出会えていない。一時期はワルド子爵という、非常に優れた若者を見いだしたと思ったが、結局彼はあんなことになってしまった。アンリエッタ姫殿下は、私のことを信用して下さっている。私も、殿下には絶対の忠誠を誓っているつもりだ。しかし……あのお方は、こちらが頼るにはまだ未成熟。私がゲルマニア皇帝との縁談を取り纏めて以来、私への反感も育っているようだ。望まぬ結婚を強制したのだ、私を恨むのも当然だと思うし、申し訳ないとも思う。だが、政治に携わる者として、情に流されることは禁物だ。

 そう、政界というのは無情の世界。善も悪も、暖かみも冷たさもない。ただただ、理に適うことだけをせねばならない。国全体のバランスを鑑み、時には冷酷な決断も下さねばならないのだ。

 そんな、鋼ゴーレムのような無機質な精神でもってしか立ち向かえない戦場に、ずっと立ち続けていた私の心は、いつしかそれに慣れ、凝り固まっていたのかも知れない。

 この子と……コンキリエ枢機卿ヴァイオラ・マリアと再会して、本当に私は疲れていたのだな、と実感した。

 彼女は、私がロマリアにいた頃に師事していた、経済学者セバスティアン・コンキリエ殿のご息女で、当時から私を兄様と呼び、たいそう懐いてくれたものだ。

 私がロマリアを去って以来、会うのは数年ぶりのことだったが、今でも彼女は私を兄様と呼んでくれる。

 昔から思っていたが、彼女はあまり変化しない。十歳頃で成長が止まってしまったかのように小柄で、顔立ちも幼い。

 そしてなにより、人間が変わらない。セブン・シスターズの頂点に立ち、世界経済に大きな影響力を持っており、なおかつブリミル教会の枢機卿という地位をも得ている、まさに怪物とでも呼ぶべき才媛であるにも関わらず……性格は昔の、純粋無垢なヴァイオラのままだ。

 よく笑い、よく動き、ダイレクトに好意を示してくれる。時には頬を膨らまし、無作法をして怒られそうな気配を察すると、不安に震えて赤面し、涙目になる。

 昔と変わらぬ彼女と一緒に食事をし、話していると、ロマリアにいた過去に戻ったような気がしてしまう。私がまだ若く、何の悩みもなかったあの頃に。

 それは、心が若返るような、不思議な感覚だった。安心感に自然と頬が緩み、気持ちが穏やかになった。ほんのわずかな時間とはいえ、国も仕事も忘れ、ただくつろぐことの、なんと心地よいことか!

 癒されるとは、まさにこういうことだろう。人は疲れている時、肉体に漠然とした不快感しか感じぬものだ。しかし、肩を回し、首筋を揉み、凝っている部分をほぐした時に、その気持ち良さ、疲れが取れた瞬間の爽快さで、自分がどれだけ疲れを溜めていたのかを推し量る。

 今の私が感じている開放感からすると、やはりそれなりのストレスを溜め込んでいたのだろう。仕事をしている最中は、まだやれる、もう少しいける、と、自分に言い聞かせていたのだが……やれやれ、確かにこれではシワも増えような。

 ヴァイオラと交換した鱒のマリネを口に運びながら(まさかマリネをスプーンで食べる日が来るとは思わなかった)、自分の生活を反省する。これは社交辞令ではなく、本当に近いうちに休暇を取って、心も体もしっかり休めた方がいいかも知れない。

 やがて食事を終え、食後のコーヒーが運ばれてくると、このくつろぎの時間も残りわずかだと気付き、寂しい気持ちになる。

 私が、ロマリアから訪ねてきたヴァイオラのために確保できた時間は、たったの一時間、この朝食の間だけだった。あとには、すぐに会議の予定が入っている。その会議が終われば、溜まっている書類を片付け、財務卿と打ち合わせをして、それからゲルマニアに使者を送り――。

 ……いかんいかん。また仕事のことを考えている。せっかくの落ち着ける時間なのだ、そういうものは、考えから追い出しておかねば。

 ひとたび仕事のことを思い出すと、急にまた、疲れが肩にのしかかってきたような気がしてきた。

できれば彼女には、責任の重い仕事も平気でこなせる、元気で力強い兄だと思っていてもらいたい。だから、疲れを帯びた表情は、なるべく見せたくないものだ。

 不快感のある肩の筋を伸ばそうと、軽く首を傾げる。人との会食中につき、礼を失さない程度に、さりげなく。

 しかし、意に反して、ゴキゴキゴキッ、という、ものすごい音をさせてしまった。

 ヴァイオラが、目を丸くして私を見ている。

 今度はこちらが、赤面をしなければならないようだ……まったく、自分の体のことなど、自分ではわからぬものなのだなぁ……。

 

 

 まさか兄様が、この細い体で、あの大量の朝食をお残しナシに食べ切るとは思わなんだ。

 我なんぞ、半分くらいでお腹ぽんぽんになってしもうたというに……やっぱワーカホリックは体が資本、しっかり栄養摂らんとやってられん、っちゅうことじゃろか。

 見た目はかなり干からび気味じゃけど……中身は案外健康だったりするんかのう?

 ――そんなことを思いながら、食後のコーヒーを楽しんでいた時、事件は起きた。

 矢を三本束ねて、一気にへし折ったような音がしたんじゃ。

 音源は、隠しようもなく兄様。首を傾げかけたような、不自然な姿勢で硬直しとるゆえ、言い逃れの余地はゼロじゃ。

「ミスタ。今の音は」

「……寝過ぎで、少々肩の筋が固まってしまっていたようですな」

 異議あり! ならばなぜ、じんわり視線を逸らすのじゃ?

 くっくっく、やってもうたのう兄様……。

 さんざん余裕ぶってみせたようじゃが、化けの皮が剥がれるとはこのことよ。やはり、お疲れちゃんの肩凝りさんなのじゃな〜?

 となると、兄の身をいたわる妹としては、やることはひとつよ。

「ふ、ふ、ふ。ミスタ、あなたも迂闊な人よのう。自分が疲れてない、元気いっぱいじゃと、我に思い込ませたかったのかや?」

 椅子からぴょんと飛び降り、とことこと兄様に近付く。

「残念ながら、そりゃあ無理というものじゃよ〜。我は顔だけ見て、人の内面を読み取れるほど観察力に優れてはおらぬが……さすがにまともに寝とらん奴と、たっぷり寝た奴の見分けぐらいはつくとも」

 ニヤニヤ笑いを浮かべながら、兄様の後ろに回り込む。こちらを振り向こうとして、また首筋をゴキゴキ言わせる彼は、もう語るに落ち過ぎて可愛いにもほどがある。

「どうせあれじゃろ。ミスタ……ああもうめんどい、兄様のことじゃから、トリステイン王国の宰相として、他国人に弱みは見せられんとか、そーゆー理由で強がっとったんじゃろ?

 いかんなぁそれはいかん。確かに我はロマリア人で、ブリミル教会の枢機卿じゃから、トリステインとしちゃあ、ちょっとした賓客扱いせにゃならんのじゃろが……兄様とふたりだけの時は、私は兄様の妹に過ぎぬ。

 変な気を使わず、素の兄様のままでよろしいのじゃぞ?」

 兄様の背後に立ち、その両肩に手を乗せる。うん、うっすい肩じゃー。肉より骨が目立ちまくりじゃの。

「じゃからな、兄様や。今から我が、あなたの妹として、ちょいと労ってくれようぞ。

 なぁに、昔はようしてやっとったことをするだけじゃ、大人しくされるがままになっておくがいいわ」

「昔、よくしていた……? ま、まさかっ、あれをするつもりかね、ヴァイオ……ミス・コンキリエ!?

 ま、待て、どうか考え直してくれ! ここは王宮、もし誰かに見られたら!」

「にははは、かまうものかい。兄様、ご存知ないのですかや? 年上からのスキンシップを、年下は拒めるが……年下からのスキンシップを拒む権利など、年上にはありませんのじゃ〜♪」

 慌てる兄様をからかうように囁きながら、我は兄様の肩に置いた手に、そっと力を込めたのじゃ……。

 

 

「とん、たん、とん、たん、とん、たん、たん〜っじゃ〜」

 私の後ろで、ヴァイオラが妙な調子で楽しげに歌っている。

 そして、その調子に合わせて、私の肩の上で上下する小さな握りこぶし。

 肩たたきである。

 小さいお子さんでもできる、最も一般的な親孝行の代名詞。ロマリアにいた時、ヴァイオラがご両親にしてあげていたのを、私はよく目にしていた。

 長い時間勉強をして、ちょっと疲れた気分になっていると、どこからともなく彼女が現れ、『肩たたきはいらんかえ〜』などと言って、いかにもやりたそうに目を輝かせてこちらを見るので、私も何度かお願いしたことがある。

 懐かしいし、微笑ましいが……今、この場でやるには、少々場違いな気がしてしまう。

 お互いに、別々の国の要人と言っていい立場なのだ。彼女に肩たたきなどさせている姿を人に見られたら、国際問題になりかねない。一国の王が、もう一国の王のズボンについていた泥汚れを払ってやっただけで、それが両国間の力関係を表していると見なされるのが、政治の世界なのだ。

……いや、正直、肩たたきされるのは気持ち良い。小さな手で、強過ぎない力で叩かれているので、加減もちょうどいい。もうしばらく、この幸せに浸っていたいが、万一のことを考えると、もうそろそろやめさせなくてはなるまい。

「ば、ヴァイオラ、ありがとう、もういいから……」

 ガチャ

「食事中にごめんなさいマザリーニ! 結婚式の詔のことで、どうしても相談したいことが……あら?」

 って、姫様ああぁぁ――っ!?

「あら。あらあら。ごめんなさいマザリーニ。せっかくの団欒を邪魔してしまったわね?」

「い、いえ姫様、これは」

「いいのいいの。何も言わないでちょうだい。全部わかってるから。……可愛いお嬢様、私はアンリエッタよ。あなたのお名前は?」

「ヴァイオラと申しますです、姫殿下。お会いできて光栄ですのじゃ」

「まあ! ちゃんと挨拶もできて、えらいわね〜。

 ね、ミス・ヴァイオラ。こちらの紳士は、いつもお仕事を頑張ってくれているから、とてもお疲れなの。しっかりお肩を叩いて、いたわってあげてね」

「はっ! 承りましたですじゃ!」

「ひ、姫様、」

「みなまで言わないで、マザリーニ。ええ、わかっていますから。プライベートな時間に、これ以上割り込むつもりはないわ。

 詔についての話は、また今度聞いてちょうだいね。それじゃ、失礼しますわ」

 微笑ませた口元を指先で軽く隠して、アンリエッタ様は優雅に退室なされた。

 大いに勘違いされていた気配だったが(あの方が「わかっている」と言った場合は、大抵間違っておられるのだ)、あの様子ならば、今の私とヴァイオラの持つ政治的意味合いなど理解しておられないだろう。とりあえず、目撃したのが政治に疎いあの方で助かった、といったところか。

 さあ、これ以上ややこしくなる前に、ヴァイオラに肩たたきをやめさせて……。

 バタンッ!

「失礼するぞ、マザリーニ殿! 会議の前に、お前にひとつ文句を言っておきたいことが……む?」

 ヴァリエール公爵うううぅぅぅ――っ!?

 ま、まずい、彼はアンリエッタ様とは違い、超一流の政治家! この光景の持つ重要性も、すぐさま看破されるに違いない!

「ま、マザリーニ、お前……この子はいったい……?」

「い、いやこれは」

 言い訳を必死に考えていると、ヴァイオラがさっと前に出て、公爵に綺麗なお辞儀をしてみせた。

「ヴァリエール公爵様ですな? 私、ロマリアから参りました、ヴァイオラと申しますですじゃ。どうぞお見知り置きを」

「ロマリア……? そうか、なるほど。マザリーニ殿が故郷に残してきたご家族ということかな」

「さすが公爵様、完全無欠に正解ですじゃ」

 いや、確かに広い意味では間違っていないが。両者に何か食い違いがあるような気がする。

「初めて知ったぞマザリーニ殿。しかし考えてみれば、お前も家庭を持っていてもおかしくない歳だしな……」

「い、いや、それは誤解ですぞ公しゃ、」

「お前は孤独な仕事人間かと思っていたが、いやはや、こんな風に肩たたきをしてくれる、思いやりのある家族がいるとは、なかなかの果報者ではないか。

 ミス・ヴァイオラといったかな? お父上が遠い国(トリステイン)に行ったまま帰ってこないというのは、さぞ寂しかろう」

「? はあ、確かに父は(ロバ・アル・カリイエに行ったきり)ちっとも帰ってきませぬが……(なぜこのお人が、それをご存知なのじゃろ?)。

 しかし、父はご自分の夢と目標のために旅立たれたのです。それを立派に思いこそすれ、責めることはできませぬ(あくまで対外向けのセリフであって、本心ではあのアホバカ親父のことは常にファッキンじゃがなあぁ!)」

「ぬう! なんとよく出来た娘さんだ。この男……ゲフンゲフン、ミスタ・マザリーニのことを、尊敬しておるのだね」

「(あれ? 何でいきなり兄様のことに話が飛ぶのじゃ? まあ、その問いに対する答えは決まっとる)

 はい、世界で一番、だーい好きですじゃ!」

 無邪気な笑顔でそんなことを言われると、年甲斐もなく照れてしまう。

 まったく、妹分に懐かれるのは嬉しいものだが、ヴァイオラもいい歳なのだし、家族としての親愛の情に過ぎないものを、あまりに大袈裟に言う癖は直した方がいいと思う。

 しかし、ヴァリエール公爵は、ヴァイオラの言葉に大いに感銘を……というか衝撃を受けたようで、はらはらと涙をこぼしていた。

「何といういい子だ……まるで、我が娘たちの小さい頃を見ているようだ。『おとうさまだいすきー』と言って、朝と寝る前とに必ず頬に接吻をくれた、あの無邪気な頃……あれはいい時代だった……」

 いやいや、公爵。ヴァイオラはそんな子供ではありませんから。おたくのエレオノール嬢やカトレア嬢と、ほとんど変わらん歳ですぞ?

「マザリーニ!」

 私の内心の注意など知るよしもなく、公爵は感動に赤らんだ顔で、私にそっと耳打ちした。

「私はお前のことを誤解していたようだ。娘にこんなに愛される父親が、いい奴でないわけがない。

 今度、晩餐に招待させてくれ。お前となら、美味い酒が飲めそうだ」

「は、はあ」

 ……行間を読むかぎり、ヴァイオラと公爵の話がズレにズレまくっているのは明らかだったが、私にそれを指摘する勇気はなかった。

公爵は、結局そのまま、私とヴァイオラを親子と思い込んだまま去っていった。アンリエッタ様も、きっと同じような勘違いをなさっておられるのだろう。この間違い、正すべきか正さざるべきか……。王宮内での立場を考えるなら、正さぬ方が有利だが、しかし……。

「ほれ、邪魔者は去ったぞ兄様。肩たたきの続きじゃ〜。たんとん、たんとん」

 ……何だか、もうどうでもよくなってきた。

 今はこのささやかな癒しに浸っていよう……そうしよう……。

 

 

 やがて、兄様の部下らしい文官が会議の時間の迫ったことを知らせに来て、我と兄様の密会……もとい会談の時間は終わりを告げた。

 楽しい時間はあっちゅう間に過ぎ去るもんじゃが、過ぎ去ったあとの残念っぷりは長く尾を引くものじゃ。それがわかっとるから、どーしても別れを引き延ばしたくなってしまう。

「兄様、休みが取れたら、絶対に一度は帰ってきて下さいませな。ヴァイオラはずっと、お待ちしております」

 そう言うて、我は兄様のかさかさとした頬に接吻した。

 せいぜい、二秒か三秒程度の、別れの挨拶。本当ならもっと長くくっつけていたかったが、淑女としてのマナーが、かろうじて四秒が経過する前に、我を兄様から引きはがした。

「ええ、約束しますとも。久しぶりの本格ロマリア料理を、楽しみにしておりますよ」

兄様もお返しに、我の頬に口付けて下さった。我がしたのとは違って、ほんの一瞬の、短い接吻じゃった。

 兄様が部屋を出ていく。手を振り、別れる。我と兄様の間の扉が、ぱたんと閉じられる……それでおしまい。

それから数分ほど、誰もいない応接室の中で、ぼうっとしていた。兄様の唇が触れた頬が、兄様の頬に触れた唇が、ほんのりと熱を持っていて、それが落ち着くまでに時間がかかった。

 さて…………帰ろう。

 この国での用事は、すべて済ませた。ロマリアに、我が故郷に帰って、ゆっくりしたい。

 ベルを鳴らして、使用人を呼ぶ。二件のお使いを頼んだ。まず、竜籠の手配。そしてもうひとつ、我の宿泊していたホテルに連絡して、荷物を竜籠に積み込ませるように指示した。

 本当は城の中庭に竜を呼んで、そのまま籠に乗り込みたかったが、現在城の上空は飛行禁止になっているそうで、仕方なく城門前に来てもらうことにした。

 使いを送り出して、やっと応接室を出る。あとはさっき来た道を逆に辿って、城の外に出るだけじゃ。

 途中、ふと、廊下の窓から、トリスタニアの町並みを見下ろしてみた。

 高い階層から見下ろすその街は、おもちゃの街のようじゃった。小さい積み木のような建物たち、小枝を並べたような、道や川。そしてその中で、何千という人々がうごめいている。

 兄様が愛し、より良い生活をくれてやろうと頑張っている対象――トリステイン国民たちが。

 だが、そんだけ愛されていると気付いている者が、この中にどれだけおるのじゃろうか?

 ……おらんじゃろうな、たぶん。

 兄様のことを、鳥の骨などと呼んでからかう囃し歌が流行るくらいじゃ。

 自分たちを支配する貴族階級の中で、誰が身を削るほど頑張っていて、誰が役立たずなのか。それをわかっておる奴など、きっと、いない。

 自分たちが虐げられているのか、それとも最悪から保護されているのか。それを理解しておる奴も、いない。

 民衆というのは、いつの時代も無知じゃ。

 それでいて、声ばかりでかい。愚痴を言い、文句を言う。自分らの暮らしが良くならないのは、政治家が無能だからだ、力を持った奴らが、弱い者を食い物にしているのが今の社会だ……みたいな。

 間抜けじゃ。

 政治を利用できぬ無能ほど、そういう阿呆たれたことを言う。どんな愚昧な王の下でも、どんな残酷な暴君の下でも、常に新しい富豪は生まれてきた。有能な奴はどんな環境でも適応して繁栄できるが、無能な奴は環境に振り回される。そのあげく、雨や日の光を降らす天に向かって唾を吐くのじゃ。

 平民っつうのは、そういう馬鹿がほとんどじゃ。だから我は……平民を好かん。

 貧乏で無能で、世の中を憂いておるような、頭空っぽの平民は、特に好かん。

 もちろん、貴族と平民とでは住む世界が違うし、政治というのが具体的に何をすることなのか、下々の者どもに懇切丁寧に教えてやるような仕組みも、ハルケギニアにはない。知的環境のアドバンテージに差があることも、我は否定せん。

 だが、それでものし上がってくる平民もおるのじゃから(前に使ってやった銀行屋は、平民出身の貴族じゃった)、やはり大抵の平民が、脳みそを使っておらんだけなのじゃろう。

 知れる立場におるはずの、貴族も同様……協力してあたれば、簡単に片付きそうな問題を、足を引っ張り合って難しくしとる。

 リッシュモンのように、利益で派閥の方針を操れるような、頭のいい奴がなかなかおらん(あの狸は、けっこう平気で人や国を売るが、使える使えんで言うと、文句なしに使える)。

 奴のような非凡な男が、兄様の味方をしてくれたら心強いんじゃが……いざ汚職がバレた時、兄様まで巻き添え食いそうじゃから、イマイチ薦められんのじゃよなー。

 ヴァリエール公爵やアンリエッタ姫なんぞは、噂で聞いていたより、兄様に好意的な態度をとっておったから、少しだけ安心したが、兄様の心労を消し去るには、あの二人だけの味方では足りん。

 不器用で頑固な兄様が、少ない味方とともに背負うには、この国は重過ぎる。

 何か、よほどのことがないかぎり……兄様が安心して去れるくらい、この国が急成長するみたいなことがないかぎり……兄様は、これからも己を削って、この国のために尽くし続けるじゃろう。

「……ふう」

 ため息がもれる。

 待つのは嫌いではないが、賭けをするのは嫌いじゃ。

 我は今まで、欲しいものは必ず手に入れてきた。時に買い、時に奪い、時には転がり込んでくるのを待ったりもした。

 諦めたものはない。そういう性分なのじゃ。

 教皇の地位も、ハルケギニアを統べる頂点の権力も、いつか必ず手に入れる。

 そして、それと同じくらい、兄様のことも諦めない。

 あの人も、いずれは我のパートナーとして、我の隣に立たせてみせる。

 じゃから。

 じゃからな。

 我の手の中におさまる前に、兄様を使い潰すようならば――お人よしの彼をこき使い、摩耗させ、その命を使い切らせるようなことがあったら――。

「……我が貴様を殺すぞ、トリステイン……」

 我がその名を呼んだ、目の前に広がる国は、我の手のひらでも握り潰せそうなほどに、小さく見えた。

 

 

 おまけ。

 

 

 竜籠がヴァイオラと荷物を乗せて、ロマリアへ向けて飛び立ってから数時間後。

 トリステイン王宮には、妙な噂が流れていた。

 曰く、マザリーニ枢機卿は実は子持ちであり、しかもたいそう子供に懐かれている良き父親であるらしい、と。

 その噂は、厳格で融通のきかない鼻つまみ者、と認識されていたマザリーニのイメージを、ちょっとだけ親しみやすいものに変えるという効果を発揮していたが……当のマザリーニはというと、頭を抱えていた。

(姫様か、それとも公爵のしわざか……あるいは、その両方か)

 目撃者はその二人だから、容疑者もその二人だ(給仕たちは含まない。噂はもっぱら、貴族たちの間で流れていたから)。

 どちらでも有り得た。二人とも会議の時、普段よりマザリーニに優しかったから。

 おかげで、かねてより煮詰めていた案件を通すことができたのだが……彼としては、結婚もしていないのに子供がいるという評判は、あまり歓迎できなかった。

 広がる噂をどう収束させるか。それを考えながら歩いていると、後ろからポンと肩を叩かれた。

「やあ宰相殿、聞きましたよ。幸せな家庭をお持ちのようで、羨ましいかぎりです」

 財務卿のデムリだった。ヴァイオラが無能ばかりとしたトリステイン王宮に出入りする貴族の中では、比較的仕事能力が高く、人への気遣いもできる人物で、マザリーニも彼のことは高く買っていた。

 そんなデムリですら、噂を信じていると知り、マザリーニは深いため息をついた。

「あなたもお聞きになったのですか。私に子供がいるという、あの噂を」

 そうこぼすと、デムリは魚の小骨でも喉に刺さったかのような顔をして、聞き返した。

「いや、噂というか、アンリエッタ姫殿下が、直接目撃したとおっしゃってましてね。

 子供ではなく、お孫さんと戯れていたと……違うのですか?」

「姫殿下アアアアァァァァ――――ッ!?」

 マザリーニの怒りの叫びが、王宮に響き渡った……。

 ――のちに、怒られたアンリエッタ姫は語る――「だって、見た目からして、おじいちゃんと孫以外の何者でもなかったんだもの!」

 半泣きの姫におじいちゃんと言われて……マザリーニは、深く静かに……泣いた……。

 

 

 おまけ2。

 

 

「ヴァイオラ様、こちら、火竜山脈産の極楽鳥の卵でございます。茹でて燻製にしておりますので、ワインとともにお召し上がり下さい」

「……………………」

「こちらは、ガリア産ライカ檜で作られた孫の手です。背中がかゆくて、しかしそばに誰もいない時にどうぞ」

「…………その、シザーリア」

「そうそう、土産話もたくさんございます。ガリアの山中の館に泊まった時、密室殺人事件に遭遇しましてね。その顛末など、お聞きになりたくはありませんか?」

「そ、その、あのな、シザーリア、」

 底冷えするような笑顔を浮かべたまま喋り続けるシザーリアを、なんとか遮る。

「いかがなさいました? ヴァイオラ様」

 問い返してくる彼女は、笑顔のまま目を細める。笑顔、笑顔……友情や好意の証であるはずの、笑顔……それをここまで威圧感たっぷりに作れるのじゃから、やはりこやつはただ者ではない。

「えーと、えーと、あの、そのな、」

 我は、震える舌を必死に動かして、何とかその言葉を吐き出した。

「……置いてきてゴメン、シザーリア……」

 我が、トリステイン王宮で待機させたまま、うっかり忘れて放置してきたシザーリアが帰ってきたのは……我の帰宅から、二週間後のことじゃった……。

「いいえ、お気になさらないで下さいませヴァイオラ様。おかげで貴重な体験ができましたから。

 道中、いろんな人に出会い、いろんなものを食べて、いろんな文化に触れ……オーク鬼の群れや、火竜と戦ったりして、火のスクウェアにも開眼しましたし……これも全て、ヴァイオラ様が置き去りにして下さったおかげです。むしろ私は、お礼を言いたいくらいですわ」

「し、シザーリア? セリフとは裏腹に、目が笑っとらんのじゃけど?」

「あら、そうですか? だとしたら、それはヴァイオラ様のお優しい心が、責任を感じておられるせいかも知れませんね。

 となると、形だけでも罰を受けなければ、きっと罪悪感はヴァイオラ様を苛み続けるでしょう。ああ、なんということ。メイドの身でありながら、主人に罰を下さねばならないという不敬……しかしそうしなければ、ヴァイオラ様の異常が治らないというのなら……私、あえて鬼となりましょう」

「い、いいいいや待て待て! そのりくつはおかしい!」

 芝居気たっぷりのシザーリアを止めようとするが、基本的に奴は我が制御しきれる相手ではない。少なくとも、わずかな時間しかない状況では……。

「というわけですので、ヴァイオラ様。食後のデザート、三時のおやつなど、スイーツ全般を向こう一ヶ月間、禁止させて頂きます」

「の、のじゃああああぁぁぁぁ――――っ!?」

 にっこりと、天使の笑顔で宣告するシザーリアを前に、我はマジ泣きした。スイーツ(涙)。



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戦争で得をしようとする人々

「よし、今日は聖職者らしく、人々を幸福へ導く方法を考えるとしよう」

 我がキリッと表情を引き締めてそう言うと、午後の紅茶の準備をしていたシザーリアが、がしゃんとティーカップを取り落とした。

 そして、無表情のまま「失礼いたしました」と言って、割れたカップを片付け――なぜか、風邪を引いた子供を心配するようなせつない眼差しで、我にこう言いおった。

「ヴァイオラ様……あなた様は少しお疲れのようです。すぐにベッドを用意して参りますので、午睡をなさって下さいませ」

「……どういう意味じゃ」

 こやつの忠誠を疑うわけではないが、なんか我はしょっちゅう、失礼なイメージで捉えられとる気がする。

「いえ、私の勘違いかも知れないのですが、あなた様は聖職にこそ就いているものの、信心の浅さにかけては、イワシの頭以下のようだと考えておりましたので」

 ……忠誠、疑った方がええんか、こら。

「勘違いでしたのなら、深くお詫び申し上げます。しかし、普段から教会での礼拝は上の空でやっておられますし、賛美歌は歌詞をまともに覚えておられませんし、説教は同じ内容をときどき使い回しなさったりするので、これはブリミル教を信仰していないのだと、ずっと思い込んでおりました」

 そ、そ、そそそそんなことはないぞ。お前が見た時は、きっとあれじゃ、体調が悪かったんじゃ。

 普段はもう、練りに練られた完璧な説教で、群がる信者どもを感動の涙に沈めまくりなんじゃよ!?

「左様ですか? 教区の信者の皆さんにアンケートを取りましたが、ヴァイオラ様の説教を聞きに行く理由は、その内容が素晴らしいからではなく、演台の上でたどたどしい説教をつっかえつっかえ話すヴァイオラ様がかわいいから、そのお姿を拝見しに行くのだ、という意見が、85パーセントを超えておりましたよ?

 あと、最前列で演台の下から見上げるように観覧すると、ときどき法衣のすそから下着が覗けるという意見も3パーセントほど」

「って、うえ、ちょ……なにそれこわい」

 羊のよーに大人しく説教を聞いておった我が信者どもが、狼の群れにしか思えんなってきたんじゃけど!?

「ご安心を。3パーセントの不埒者については、きっちり始末をつけさせて頂きましたので」

「あ、そりゃーよかった、グッジョブじゃシザーリア……って違ぁーう!」

 話がズレ過ぎじゃ!

「わ、我が言いたいのはじゃな! もうすぐ、国と国とのブライドっちゅう、ビッグなイベントがあるじゃろ? あれに、我が何かしら関われんかということじゃ!

 結婚式を司るのはブリミル教会で、我はブリミル教の枢機卿じゃ。トリステイン、ゲルマニアの二国を結ぶ、アンリエッタ姫とアルブレヒト三世閣下の婚姻……このハルケギニアの平和のためにも、ぜひとも我自ら、祝福してやりたいのじゃ!」

「まあ」

 気合いの入った言葉をぶつけると、シザーリアも我の本気っぷりをようやく察してくれたのか、深々と頭を下げてきた。

「そのような広き慈愛のお心をお持ちとは、このシザーリア、深く感服いたしました」

「うむ、わかればよい。……で、我がどんな風に祝えばいいか、ちと考えたいから、知恵を貸せ。我ひとりでなく、人の意見も取り入れれば、きっとより素敵にエレガントに祝えるであろうからの」

「はっ。喜んでお手伝いさせて頂きます」

 かくして。我とシザーリアプロデュースによる「大型企画! アンリエッタとアルブレヒト三世のラブラブ☆ウエディングプランbyロマリア」計画が発動したのじゃった。

「ヴァイオラ様。『企画』に相当する意味合いの単語が多過ぎはしませんか」

「え? ……あ」

 まあ、その……気にせん方向で、ひとつ。

 

 

 ん? なぜ我が、縁もゆかりもない連中の結婚に、こんなに関心を示しているのか、って?

 うむ、まあ、我としても、トリステインの姫とゲルマニア皇帝がくっついたところで、別にどうでもいいんじゃがな。結婚それ自体ではなく、その副次的効果に、大いに期待できるものがある故、ちと応援してやろうと思うたのじゃ。

 王族の結婚による好景気? あー、それもある。大規模な国際的イベントを利用した、コネクション構築? もちろんそれもする。だが、第一目標はそんな瑣事ではない。

 こないだ、トリステインを訪ねた時、兄様が……マザリーニ宰相が言うとったのじゃ。

 アンリエッタ姫と、ゲルマニア皇帝の婚姻が成れば、休暇を取ってロマリアに帰ってくると。

 つまり! 結婚式がうまくいき、その後のゴタゴタが少なければ少ないほど、兄様は我のところに、早く帰ってきてくれるのじゃー!

 兄様ご帰還のためならば! 我は、全然知らん奴らの結婚式でも、全力全開で祝いまくってくれようぞ!

「というわけで、さっそく連中の結婚を、よりハッピーでプロブレムレスにする介入方法を検討するのじゃ」

 我の書斎に、わざわざ黒板と白墨を用意させ、シザーリアひとりを相手に、マジ会議のような雰囲気を醸し出してみた。

「議員シザーリア君、何か意見はあるかや?」

「はい」

 シザーリアも、事務机をどこからか持ってきて着席し、発言の際は挙手と、見事に空気を読んでおる。

「まずはシンプルに、結婚祝い品を贈ったり、ヴィンドボナの教会と相談して、式場の装飾を豪華にしてみてはいかがでしょう?」

「うむ、悪くない。採用じゃ。

 じゃが、仮にも王族同士の結婚式。我らが何もせんでも、贈り物も式場の飾り付けも、最上級のものがセッティングされとるじゃろう。

 他の連中が間違いなくすることに混ざるより、我は他の誰もしておらぬことをして、式に貢献したい」

「と、おっしゃいますと」

「今度の結婚は、いわゆる政略結婚じゃ。アルビオンの脅威に、トリステインとゲルマニアが、力を合わせて対抗する、という名目で……まあ、財政も軍備もちょろいトリステインが、ゲルマニアに守ってもらうために、同盟を結ぶ。

 で、その同盟締結の条件が、アンリエッタ姫の嫁入りじゃっちゅうわけよな。ゲルマニア皇帝は、自分の権威を確かなものにするために、ブリミルから続く王家の血を欲しておる。トリステインを守ってやる対価として、アンリエッタ姫を妃にというのは、悪くない買い物じゃろうて。

 しかし、その取引を喜べん奴ももちろんおるわな。金子の代わりに、ゲルマニアにお支払いされるアンリエッタ姫とかがのぅ。

 実際、結婚が決まって以来、奴は目に見えて憂鬱そうにしとるらしい。国のためとはいえ、好きでもない男のところに嫁がされるんじゃから、仕方ないっちゃ仕方ないんじゃが」

 我じゃったら、たぶん母国に対して挙兵するな……レコン・キスタに参入することも辞すまい。

「ま、そんなわけで、ちょっと可哀相なアンリエッタ姫じゃが、まさか同情で、結婚をやめろとは言えん。

 やめたらやめたで、トリステインはゲルマニアの協力無しで、アルビオンに向き合わねばならなくなるからの。

 では、あっちを立たせてこっちも立たせる、誰も我慢せんで済む、みんなハッピーな結婚の在り方はないのか?」

「はい」

「何じゃな、シザーリア」

「その条件であれば、アンリエッタ姫殿下にさえ納得して頂ければ、全て丸くおさまるのではないか、と考えられますが」

「素晴らしい……お前は本当に優秀な脳みそを持っとる。

 ご褒美に、白墨をプレゼントしよう」

「ありがたき幸せ」

 我の差し出した白墨を、両手で恭しく受け取るシザーリア。……ついノリでくれてやったが、こいつ、白墨なんぞどうするんじゃろ。

 まあとにかく、シザーリアが言うたことはまさにどんぴしゃりで、この結婚の瑕疵と、その解決法を同時に示してくれておる。

 結婚なんつうもんは、もともとお互いに好き合っとるからするもんじゃ。周りの利益のために、義務としてせねばならん結婚は、あまり幸せとは言えんじゃろう。

 政治的に見ても、国同士の結束を固めるための結婚で、花嫁が花婿を嫌っとったら、これはちょいと具合が悪い。夫婦間がぎくしゃくしておれば、周りの家臣たちはフォローに回らねばならぬ。つまり、いらん手間がかかる。

 ちゃんとした夫婦生活を営める程度に、妻と夫がお互いに心を通わせるまで、お世話をしてやらにゃならんというのは、面倒くさいことじゃろうな。

 で、その面倒くさい役を割り当てられるのが、トリステイン側では、あの面倒事収集家の兄様であろうということは、想像に難くない。

 んなことになったら、休暇取って帰省どころではない。何とかせねばならぬ。

 具体的には、シザーリアが言ったように、アンリエッタ姫に、この結婚を納得させなければならぬ。

 アンリエッタとアルブレヒト三世が、夫婦水入らずで放っといた方が気が利いとるってくらいのラブラブっぷりになれば、周りの者たちは手がかからんで助かるじゃろう。

 手がかからない、イコール、兄様の仕事が楽になる、イコール、手が空くので早めに休暇、イコール、兄様おかえりなさーい! わーい! でフィニッシュ……となる!

 うむ、完璧じゃ。アンリエッタ姫がラブ臭を漂わせるだけで、誰も彼もが幸せに!

「決まりじゃな、シザーリアよ。哀れな姫に恋心をプレゼントして、無機的で義務的な結婚を、夢と希望と愛にあふれたものに様変わりさせてくれよう。

 これは誰も手をつけておらぬ、最高の贈り物になろうて」

 我は、ニヤリと悪い笑みを浮かべる。

 くくく、王族の結婚も恋心も、我にかかれば利益(兄様と一緒に過ごす日々)のための糧に過ぎぬわ。

「……で、問題は、どうやってアンリエッタ姫に、アルブレヒト三世を想わせるかじゃが……何かいいアイデアはないか?」

「はい、ヴァイオラ様。このような場合、問題を解決する手段は、およそ二通り考えられます。

 ひとつは、アルブレヒト三世閣下の長所を、アンリエッタ姫殿下にアピールすること。

 もうひとつは、アンリエッタ姫殿下が、アルブレヒト三世閣下に好意を持てない原因を排除することです」

「ふむ、道理に適っておるの。よし、ひとつ目から検討してみよう。アルブレヒトの奴の長所、か……」

 まず、大国ゲルマニアをまとめあげておる、その辣腕ぶりかのう。

 もともと小国の群雄割拠状態にあったゲルマニア地方は、ひとつの国として統合された現在でも、権力闘争の激しい、完全実力主義の国家じゃ。

 アルブレヒト自身も、並み居るライバルたちを倒して、ようやく王座につくことができたという。

 しかも皇帝になったらなったで、今度は下から追い落とされる危険に晒されるゆえ、なお血で血を洗う大闘争を続けねばならない。

 そんな世界で権勢を維持するには、知力、体力、カリスマといった、王者に相応しい才能を軒並み揃えておかなければならんじゃろう。

 ついでに言うと、前に一度何かの機会で見たことがあるが、顔も悪いもんじゃなかった。むしろ、初老に差し掛かりつつある渋い中年で、かなりイケとる方じゃと思う。まあ、兄様には及ばんがの。

 つまり、まとめると、ひとりの男としては、めちゃくちゃ優良物件だと思うわけじゃ。

 ゲルマニアという国を見てみれば、競争は激しいが、その分経済も活発に動いとる。技術開発も盛んで、新しいもの、より良いものがどんどん作られておる。現在でもたくさん儲けとる上、将来性も二重マルじゃ。

 ううむ、挙げれば挙げるほど、トリステインの姫なんぞにはもったいない嫁ぎ先ではないか?

 まあよい。次は、欠点探しじゃ。

 たとえ政略結婚でも、相手が嫌う要素のない素敵な男性なら、ワガママ姫もふらつくじゃろう。

 ……しかし、何かあるか? アルブレヒトの欠点。

 顔よし、資産よし。権謀術数渦巻く政界で上手く立ち回っとる男じゃ、心の底が悪党だとしても、世間知らずの妻を優しく扱うくらいは楽勝のはず。つまり性格も(アンリエッタ姫の主観上は)、優良であるはずじゃ。

 歳が離れとることも、特に問題にはならんじゃろうし(我なんか、歳の離れた兄様に求婚されたら、きっと嬉しくて夜も寝られんはずじゃ)、となると、何が問題なんじゃろ?

「ヴァイオラ様。ひとつ、思い当たるふしがあるのですが」

 悩む我に、シザーリアが挙手という助け舟を出してくれる。

「申してみよ」

「は。長い歴史を誇るトリステイン人は、新興国であるゲルマニアを、野蛮な国であると軽んじる風潮があると聞きます。

 始祖から授かった魔法を操るメイジこそ、支配階層の貴族として相応しく、お金を払えば平民でも貴族になれるゲルマニアは、始祖を軽視し、拝金主義の蔓延する、誇りなき人々の国であるという考え方ですね」

「ふむ、なるほど……そういう考え方もあるのか」

 普段から、始祖のことなんてロクに考えとらんかったから、想像もしとらんかったわい。

「金儲けに必死になる者は、心が貧しいと考えている人もいるのでしょう。

 芸術、マナー、教養、道徳といった点で、ゲルマニアは一段低く見られているようです。もし、アンリエッタ姫殿下も、そのような先入観をお持ちだとしたら……」

「うまいっ! 確かにそれはありそうじゃ。トリステイン人ときたら、どいつもこいつも頭の固い、保守派揃いじゃからの。

 となると、芸術性とか教養の分野で、優れたところを見せつければ、見直されるかも知れんというわけか」

「まさに、その通りでございます。

 ただし、気をつけねばならないのは、芸術性と言っても、それが金満主義を想像させるような、華美過ぎるものでは逆効果だという点です。

 たとえば、宝石を散りばめた装飾杖を贈ったりしては、金額で芸術をはかる不粋者と見られかねません」

「そうじゃな。トリステインにも、見る目のある知識人はちゃんといるじゃろう。

 そこらの世間知らずの小娘なら、宝石のゴテゴテついた派手な杖の贈り物を、何も考えんと喜ぶかも知れんが、まともな感性の持ち主なら、そういう品は安っぽく感じてしまうじゃろう……逆にセンスの無さを知らしめる結果になる。

 絵画とか彫刻とかいった美術品を贈る場合でも、見る目は相当厳しいじゃろう。

 第一、進歩的なゲルマニアと、保守的なトリステインとでは、美的感覚に大きな隔たりがある可能性もある。単純な贈り物で、相手を満足させられるじゃろうか?」

「それを贈ることで、アンリエッタ姫殿下のお心を翻すことのできる物品というのは、おそらく存在しないでしょう。

 姫殿下は王族なのですから、美しいもの、高価なものは見慣れておられるはずです。そんなお方のお心を揺るがすには、前代未聞の、よほど飛び抜けたモノでなければ……」

「となると、プレゼントではいかんな。モノではなく、ゲルマニアのセンスの良さと、知的水準の高さを知らしめることができて、なおかつアンリエッタ姫に、深い感動を与えるような何か……」

 うーん、何じゃろか?

 我がロマリアなら、アクレイリアの街並みとか、たくさんの寺院とか、綺麗で感動できるものがたくさんある。

 ガリアもグラン・トロワに代表される美しい建築物が多いし、料理が美味いことでも有名じゃ。

 アルビオンは、何つってもその景色の雄大さ。宙に浮かぶ白の国は、外から眺めても素晴らしいし、中から下界を見下ろすのも、心が震えるものじゃ。

 子供の頃、観光でアルビオンに行った時、白い雲の中に浮かぶ大陸の偉容と、その更に上を編隊飛行するアルビオン空軍船団の美しい姿を見て、感動に腰が抜けそうになったのを覚えておる。

 空の大陸という自然の美と、艦隊の描く幾何学的な美しさ。その見事な融合が……ん?

「そうじゃっ! ゲルマニア空軍による、航空ショーというのはどうじゃろう!?」

「航空ショー……で、ございますか?」

 いまいちピンとこないらしく、小首を傾げるシザーリア。

「お前は見たことがないかの? 空軍がよくやるデモンストレーションでな、何十隻という戦艦が、矩形をいくつも重ねたような隊列を組んで、それを崩さぬように空を翔けるのじゃ。

 もちろん、矩形にこだわることはない。戦艦の並び方を利用して、空に美しい幾何学模様を描くことが、このショーの醍醐味じゃからのう。

 どのような形を描いて飛ぶかは、指揮する者のセンス次第……」

「理解いたしました、ヴァイオラ様。つまり、その隊列の美しさでもって、ゲルマニアの芸術観を見直させる、というわけですね?」

「左様。幾何学模様の美術ゆえ、必要になるのは数学的な美的感覚じゃ。そして、数学上の美は、おおむね全人類共通の感覚と見て差し支えあるまい。

 さらに、大編隊の飛行というのは、それだけで雄大。アンリエッタ姫の心に、少なからぬ驚きを与えるじゃろう。

 さらにさらに! それをトリステイン貴族どもが見れば! ゲルマニア空軍の規模の大きさ、高い練度をアピールすることができる!

 アルブレヒト三世こそは、強い国をまとめる強い男、というイメージを、トリステイン全体に刷り込むことができるっちゅうわけじゃ!」

 軍隊をまるごと動かす、大迫力の美しいショーを見せられたアンリエッタ姫の、感動に打ち震える様子が、目に見えるようじゃ。

 そのタイミングで、アルブレヒトから「このショーは、君だけのために用意したんだよ」なーんて言われてみい!

「まあ、なんてステキ! 今すぐ挙式しましょう、マイダーリン!」なんてエンディングも夢ではないぞ!

「どう思う、シザーリア!?」

「完璧です、ヴァイオラ様。近年まれに見るグッド・アイデアと存じます」

 無表情ながらも、微妙に瞳を輝かせ、グッと親指を立ててみせるシザーリア。

 こやつがここまで褒めてくれるならば、我も自信を持てるというものじゃ。

「そういえば、ヴァイオラ様。もうすぐ、神聖アルビオン共和国の親善大使が、艦隊とともにトリステインを訪ねるという話を聞きましたが……」

「おう、そうじゃ! 失念しておったわ。

 アルビオン空軍といえば、空の覇者という異名を持つほど、練度の高い軍隊じゃ。軍事行動ではなくとも、奴らの飛行はさぞ素晴らしかろう。

 逆を言えば……奴らより素晴らしい飛行を見せれば、ゲルマニアの格は一段も二段も上がる……。

 こうしてはおれん、今すぐアルブレヒトに手紙を送って、航空ショーのための訓練をやらせるよう説得しなければ! アルビオン親善大使の到着に間に合わなければ、台なしじゃからの!」

 我は仕事机につくと、引き出しから羊皮紙を二枚、羽根ペンを二本取り出して、そのセットの一対をシザーリアに寄越した。

「シザーリア、お前も手紙を書くのを手伝え。

 我は、アルブレヒト宛ての手紙を書く。その間にお前は、我の言う通りに、別の手紙を並行して書いていってくれ。時間をなるべく節約したいでの」

「かしこまりました。宛先は?」

「ゲルマニアのバイエルン市、モーガン社の社長、ホフマン氏じゃ。

 いいか、言う通りに書くんじゃぞ。……ヴァイオラ・マリア・コンキリエ個人として、風石を購入したい……量は、二千五百立方メイル分。届け先は、ボン空軍基地……目録には、アルブレヒト三世閣下への、モーガン社からの献上品という一文を添えること……支払いは、バイエルン銀行を通して、我が個人資産から……」

 シザーリアに口述させながら、我自身も、アルブレヒトへの手紙をしたためていく。

 我の書いとる方は、もちろんアルブレヒトに、航空ショーの実施を提案する内容じゃ。といっても、直接的な言葉を使って提案したりすると、ロマリアからゲルマニアに対しての内政干渉と見なされかねないので(我もゲルマニア皇帝も、そういうのを注意せねばならん程度の高い身分についてしまっておる。少々面倒じゃが、仕方がない)、単純な結婚祝いの文句に見せかけて、当たり障りのない言葉の裏に別の意味を潜ませ、遠回しに表現しなければならない。

 頑張って二種類の文面を考え、書いて書かせて。なんとか、二枚の手紙は無事に書き上がった。

 シザーリアに書かせた奴をチェックして、問題がないとわかると、文面の下に我のサインを書き込んで、これにて完成。あとは二枚ともたたんで封印し、風竜便を呼んで超特急で届けさせる。

 我らの仕事はここまでじゃ。あの提案を採用して、アンリエッタを口説きにかかるかどうかは、アルブレヒトの裁量次第。ふたりがうまくいくことを祈ってはおるが、我がプランを実施しろとかいうような強制はせぬ。

 まあ、ゲルマニア空軍宛てに、風石をたっぷり贈ってやったから、アルブレヒトとしては断りにくかろうがの、ウエヘヘヘ。

「しかし……よろしいのですか、ヴァイオラ様?」

「ん? 何がじゃ」

 手紙を風竜便に渡してから、シザーリアがなんか言うてきたので、我は問い返した。

「いえ、アルブレヒト三世閣下への贈り物として、二千五百立方メイルもの風石は、大変素晴らしいと思うのですが……むしろ、高価過ぎはしませんでしょうか?

 女神の杵亭の再建も進行中の現在、あまり極端な出費は、おすすめできかねます」

 ふむ、確かにの。艦隊に充分な飛行練習を積ませるのに、必要と思われる量を贈ったわけじゃが……ちょいと値が張る買い物ではあった。

 だが、お前はまだ若い。金の動かし方というのを、いまいち理解しておらんようじゃ。

「よいか、シザーリア。金を惜しむ気持ちは、確かに大切なもんじゃ。我とて、財布を落としたら……その中に、一ドニエしか入っていなかったとしても、悔しくて泣きたくなるじゃろう。

 だが、それは何の益もない金の失い方じゃからよ。他にも、安く買えるものを、高い値で買ってしもうたり、自分にとって役に立たんものを、わけもわからず買ってしもうたり……金額に関わらず、そういう出費はできるだけ回避すべきじゃな。

 じゃが、惜しんではならん出費もある。絶対に欲しいものがある時、金を出すことが自分のためになると確信できる時、そういう時は遠慮なしに金を出さんといかん。金額は売り物の評価じゃ。金を出すっちゅうことは、その売り物の価値を認めることじゃ。価値あるものを手に入れたいなら……金を惜しんでは、ならん」

「アンリエッタ姫殿下と、アルブレヒト三世閣下の婚姻に、それだけの価値を……?」

「ああ、認めておる。正確には、二人の結婚による、トリステインとゲルマニアの協調に、な」

 二国が密に結び付けば。ゲルマニアの有能な指導者が、トリステイン内政に力を貸してくれるようになれば。兄様の負担は、必ず減る。

 そうすりゃ兄様は、もっと休めるようになる。休暇を取って、ロマリアに帰ってきてくれる。

 兄様と過ごすひとときを買えるなら――我は、一億エキュー出したって惜しくはないのじゃ。

 

 

 ヴァイオラがゲルマニア皇帝に手紙を出してから、一月ほどが経ったある日――神聖アルビオン共和国からの親善大使が、トリステインを訪れた。

 超巨大戦艦レキシントン号を筆頭としたアルビオン艦隊が、迫力の面でトリステイン艦隊を圧倒しつつ、悠然と空を行く。トリステイン艦隊指揮官ラ・ラメー伯爵をして「戦場では出会いたくないものだな」と言わしめるそれは、まさに空の覇者と呼ばれるに相応しい貫禄であった。

 二つの艦隊は、手旗信号で挨拶を交わしたのち、軍隊式の礼として、空砲を撃ち鳴らし合った。まずレキシントン号が、火薬のみの砲撃で空気を震わせる。それに応えて、トリステイン艦隊も同じく、火薬のみの砲撃をアルビオン艦隊に浴びせた。

 しかし、ここで有り得ないことが起こった。トリステイン軍の砲声と同時に、アルビオン艦隊の端にいた小型艦が火を噴き、木の葉のようにくるくると墜落してしまったのだ。

 それが何を意味するのか、トリステイン軍が理解するより早く、レキシントン号から信号が届く――『なぜ実弾で攻撃するのか』――『そちらに敵意ありと判断、当方は自衛のため、応戦を開始する』――。

 トリステイン軍は大いに慌てた。『今のは当方の攻撃にあらず』――『誤解である』――そういった内容の信号を送ったが、レキシントン号からの返事はなかった。

 レキシントン号の長距離砲が、再び空気を引き裂く轟音を発した。今度の発射は空砲ではない……無慈悲な弾丸が、トリステイン艦隊に襲い掛かる。

 聡い者たちは、アルビオン艦の墜落が、アルビオン艦隊自身による、トリステインに攻撃を仕掛ける大義名分を得るための自作自演だと気づいていた。この親善訪問自体が、侵略行為をカムフラージュする罠だったのだ。

 しかし、それに気づいたところで、強大な戦力を持つレキシントン号以下アルビオン艦隊に太刀打ちできるかと言うと、話は別だ。

 なし崩し的に、大空戦が始まった……トリステイン側に、圧倒的に不利な条件で。

 

 

 その知らせを受けた時、余は――ゲルマニア皇帝アルブレヒト三世は、王宮の中庭で薔薇の剪定をしていた。

 美しい薔薇を育てることは、多忙な余の数少ない楽しみのひとつだ。ゆえに、宰相の報告に耳を傾けながらも、余は鋏を動かす手を止めることはなかった――今手がけている黄薔薇は、つぼみをどれだけ落とすかで、残った花の咲き具合が調節できる。大輪過ぎても品がないし、小さ過ぎても貧相だ。さて、どうするか……。

「閣下、聞いておられますか?」

「ああ、聞いているとも。トリステインが、軍を派遣して欲しいと言ってきているのだろう?」

 余が応えると、宰相(余の倍は生きていそうな老人だが、老いてなお火の如く元気なのは、いかにもゲルマニア的で好ましい)は大きく頷いた。

「その通りです! アルビオン軍の攻撃に対して、トリステイン空軍も必死の抵抗を試みておりますが、戦力差は歴然、あと数時間もつかどうかというところまで追い詰められているようです。ここは同盟国として、速やかな救援の手を、」

「救援部隊の編成に、あと二、三週間かかる模様……そう、トリステインの使者に伝えたまえ」

 ぱち、と、鋏で黄薔薇のつぼみをひとつ切り落として言うと、勢い込んだ宰相の言葉も、途中で切り取ったように止まった。

「聞こえたかね? 軍の派遣には、まだしばらく時間がかかると伝えるのだ。

 知らせを持ってきた使者は、我々の返事を待っておられるのだろう? 早く行ってあげるといい」

 余がそう念を押すと、宰相は喉にパンでも詰まらせたように喘ぎ、信じられないものを見るような目を余に向けた。

「み、見捨てるとおっしゃるのですか? トリステインを……?

 同盟を結んだばかりの友好国を見捨てるなど、誇りを捨て去るような行いですぞ!?」

 義憤にかられてのことだろう、いつもは冷静な宰相が、顔を赤くして叫ぶ。

 本当に彼は、いつもなら冷静で、損得のわかる男なのだが……やはり、突然のことで動揺しているのだろう。余は道理を説いて、彼の気持ちを落ち着ける必要があると認めた。

「いいかね、宰相……これは必要な措置なのだ。

 我々ゲルマニアが、圧倒的に有利な条件でアルビオンに対処するために、トリステインには一時的な犠牲になってもらわねばならない」

「ど、どういうことでございますか」

「考えてもみるがいい。ゲルマニアは、トリステインと組んでアルビオンに対処する。この『対処』という言葉は、侵略という危害から自分達を防衛するという意味合いでも使えるが……ハルケギニア統一をうたう、神聖アルビオン共和国という危険の原因がある限り、防衛を続けなければならないというのは、あまりに非効率的だ。よって、いずれは『対処』を、アルビオンに対する攻撃という意味で使う必要が出てくるだろう。

 その時、ゲルマニアとトリステインで、アルビオンに攻め込もうと考えた時……我々は非常に面倒な立場に立たされる。

 問題となるのは、距離だ……トリステインにとって、アルビオンは海と空を挟んだお隣りさんに過ぎないが、ゲルマニアにとっては、敵は海と空と、トリステインを挟んだ向こう側になるのだよ。

 その距離は、あまりに遠過ぎる。戦争において、補給線が長ければ長いほど不利になるというのは、今さら言う必要もなかろう。ゲルマニア軍は、いつ補給線を断たれ、敵地に取り残されるかという恐怖を味わいながら、アルビオンと戦わねばならなくなる。

 おっと、トリステインに物資を支援してもらえばいいではないか、とは言わないでくれ。それは一見道理のようだが、ゲルマニア軍を食わせるほどの余裕を、将来的にトリステインが持つとは、余は信じていない。農業生産量は並、技術力は我々より三段は下、国庫は火の車で、宰相や財務卿の金策でかろうじてもっている。いざ戦争をするとなれば、借金や増税をして、ようやく自国の兵を食わせられる、といった程度だろうな。

 つまり、トリステインは、ともに戦う隣人として以外には役に立たないのだ……ゲルマニアは、長く伸びきった補給線を守らねばならないから、どうしても地力を削られる……色々な意味でギリギリの友軍と、後方の不安な自軍でもって、敵のホームで戦う。そんな戦争は、非効率にもほどがあると思わないかね? 宰相……?」

 ぱちり、ぱちりと、要らないつぼみを摘んでいく。

「この問題を解決するには、どうすればいいか? 答えは簡単……トリステインというクッションが、無くなってくれればそれでいいのだ」

 ぱちり。ぱちり。

「まずは、アルビオンにトリステインを落としてもらう。トリステインがアルビオンの一地方ということになれば、その一地方はゲルマニアに接している――アルビオン本国ならまだしも、征服したばかりで不安定なもとトリステインに駐留しているアルビオン軍程度なら、ゲルマニア軍の敵ではない。

 トリステインを乗っ取ったアルビオン軍が駆逐され、我らゲルマニア軍がトリステインに入れば、その土地はトリステインとして復活するのではなく、ゲルマニアの一地方となる……」

 ぱちり、ぱちり、ぱちり。

「トリステインがゲルマニアになれば。アルビオンは、海と空を挟んだ、目と鼻の先だ。

 アルビオンに攻め込む決定をする前に、ゲルマニア領トリステインを、巨大な補給基地へと作り変えておけば――もともと農業国という下地はあるし、我が国の開発力を投入すれば、五年ほどで立派な食糧庫となろう――そのあとでなら、ゲルマニアは非常に短い補給線で、危なげなくアルビオン本国を攻めることができる。

 やや長期的な戦略ではあるが……トリステイン、アルビオンという二国を、ゲルマニア領として手中におさめることができるかも知れんわけだ。どうかね? 非常に安全で、利益も大きい、効率的なやり方だとは思わないか」

 ぱちり。――む、いかん。このつぼみは、落とさずに置いておいた方が、バランスが良かったな。

「た、確かに……確かに、閣下のおっしゃる通りかも知れませぬ……。

 しかし、そうなると、アンリエッタ姫殿下はどうなります? ゲルマニア国内での、閣下の権威を固めるためにも、姫殿下との結婚は必須。トリステインを見捨てて、姫殿下を失っては、本末転倒です」

 ふむ、宰相もかなり冷静になってきたようだ。しかし、そんなことを言うようでは、まだ本調子とは言いかねるな。

「宰相……アンリエッタ姫殿下は、はっきり言ってしまえば箱入り娘だ。家臣たちに大事にされて育ち、戦争を経験したことがない。

 そんな姫が死ぬことなど、有り得ると思うかね? 歴史に残る、勇敢な王たちのように、兵を率いて戦場に向かって……戦死する様子が想像できるか? 本人にそんな度胸のあるわけはないし、周りの人たちも許さんよ。

 まず間違いなく、彼女はトリステイン空軍がやられると同時に、遠くへ逃がされる。逃亡先はもちろん、同盟国であり、安全なここ、ゲルマニアだ。

 我々は姫殿下を保護し、救援の遅れたことを謝罪するとともに、侵略者に奪われた領土奪還を誓う。やがて、トリステインからアルビオン軍を追い出す頃には、アンリエッタ姫殿下はゲルマニア皇妃だ。だとすると、取り戻した土地(トリステイン)はゲルマニア皇妃に返されることになり、ゲルマニア皇妃の土地ならば、当然そこはゲルマニアの土地ということになる。

 何も、問題は、ない」

 余が、つぼみ摘みに使った鋏をセーム革で拭い始めた頃には、宰相は絶句してたいそう静かになっていた。

 冷静になっては欲しかっただけで、発言量的に静かになって欲しかったわけではないのだが……まあいいか。

「他に質問はあるかね、宰相」

「いえ……ございませぬ」

「よろしい。では、速やかにトリステインの使者のもとへ向かいたまえ。それと、空軍にも連絡を。ゆっくり時間をかけて、準備をしてもらわねばならんからな」

 余の言葉に、つらそうな様子で頷いた宰相が、踵を返そうとしたその時……。

「か、閣下! 失礼いたします!」

 血相を変えた文官が、中庭に駆け込んできた。

「何事か?」

 この中庭は、余のプライベートな空間だ。余の許可無しに立ち入ることは不敬であり、その罪は、彼の持ち込んだ用事がよほどの大事でなければ、許されることはない。

 それだけの覚悟をしてのことか、それとも見た目通りの動揺で、頭が回らなくなっているのか……とにかくその文官は、おののいた様子で、余に一通の手紙を差し出した。

「ロマリアのコンキリエ枢機卿様から、閣下宛てに私信が届いております。風竜便で、速達で出されたものなのですが……」

「それがいったい……む? どういうことだ、日付が一月も前になっているではないか」

 手紙を開き、中をあらためて、余は首を傾げた。文面には、筆を取った日付が記されていたが、それが一月も前のものなのだ。普通の馬車便で出しても、到着がこんなに遅くなることは有り得ない。

「は、はい、それが、手紙を受け取った検閲官が、検閲作業中に、誤って関係のない書類の束に重ねてしまって、見逃してしまった手紙であるらしく……つい先ほど、書類整理中に、偶然発見したのだそうです。そのため、お届けが今日まで遅れまして……」

「検閲室長に、その検閲官を解雇するように伝えたまえ」

 余に宛てられた手紙や小包は、余の手に届く前に、全て検閲官たちによって検査される。くだらない内容のものであったり、危険なもの(毒物が染み込ませてあったり、発火の術式が付与されていたりする場合がある)が送られてきた時は、ここで差し止められるのだ。

「は、該当の検閲官は、すでに処分されております。そして、その者の仕事を、室長が引き継いだのですが……その、コンキリエ枢機卿様からのお手紙が、非常に重要な内容を含んでいるらしいと、室長が申しますので……」

「重要な内容? 御定まりの、結婚祝いの手紙に過ぎないようだが……?」

 余は、手紙の文面に視線を走らせながら呟いた。これまでに、各国の権力者、著名人が送ってきたのとほとんど変わらぬ、祝福の手紙だ。ありふれた美辞麗句を重ねているだけで、何も特筆すべき内容など――。

「………………っ!?」

 核心は、半分ほど読み終えたところで、突然現れた。

 しかしこれは……この手紙が、一月も前に書かれたものだとすると……!

「……君、ご苦労だった。下がってよろしい。

 宰相、この手紙に書かれていることで、少し相談がある。先ほどの指示は忘れて、ここに残ってくれたまえ」

「? は、はい」

 文官は会釈をして中庭を出ていき、あとにはもとの通りに、余と宰相が残った。

 余は、読み終えた手紙を宰相に渡し、花壇のそばにしつらえてあるベンチに腰掛けた。

「読んでみたまえ。最初の方の、つまらん挨拶や祝いの言葉は飛ばしていい。

 問題は、三段落目からだ。それが一月前に書かれた、ということを考慮に入れて、意見を聞かせて欲しい」

 宰相は、手紙を渡された時こそ、訝しげな表情をしていたが、指定された箇所を読み始めると眉をひそめ、次第に目を見開いて、驚きをあらわにしていた。

 それも仕方あるまい。あんな、途方もないことが書かれているのでは。

 余がその重要性を認めた部分を、以下に引用する。

 

 

 ――さて、親愛なるアルブレヒト三世閣下。かくしてお妃になられるお方の生国の安全も、あなた様の双肩に委ねられることになりました。

 夫として、男として、一国の皇帝として、その重みをむしろ、誇らしく思っておられることでしょう。

 貴国ほどの強さがあれば、いかな危険とて、あなた様の背後にある守るべきものを傷つけ得ないであろうというのは、まったく疑いようがありません。

 ところで、これはアンリエッタ様と同じ性別を持つ者としての意見なのですが、女というのは、伴侶の頼りがいのある姿を見ることに、非常な喜びを感じます。

 そこで、式を挙げる前に、一度貴国の軍隊の勇姿を、アンリエッタ様に見せて差し上げてはいかがでしょう。

 もっとも、女性は男性に比べ、軍隊の強さを判断する方法を知らぬものです。説明を受けてもピンと来ぬものですし、純粋な争いを見るのは、恐ろしく感じたりもします。

 一目見て強さがわかるもので、なおかつ、女性の感性でもって、美しさを感じられる軍隊の勇姿……かつて一度だけ、それに当て嵌まるものを目にしたことがあります。アルビオン空軍の、隊列飛行訓練です。

 無数の船が、一糸乱れぬ連携で並びながら飛び、大空に模様を描くあの芸術です。

 あれは軍事に疎い私の目から見ても、操船する者たちの腕前や、指揮をとる者の従う者たちの信頼の強さを察することのできる、まさに軍隊としての強さを象徴するものでした。

 私は、ゲルマニア空軍がアルビオン空軍に劣らぬ練度を誇っていることを疑いません。きっとその気になれば、アルビオン空軍よりも素晴らしい空の絵画を、トリステインとゲルマニアの空に描けることでしょう。

 ところで、来月にはトリステインに、神聖アルビオン共和国の親善大使が、空軍を引き連れて訪れるそうですね。

 今のアルビオンは、王権を排したばかりで、安定しておりません。それゆえ、今回の訪問には、他国に対し、自分たちの力を見せつけて牽制する目的もあるはずです。

 となると当然、彼らは練習に練習を重ねた、完璧な隊列でトリステインの空に現れることでしょう。親善という建前の裏に、トリステインに競り勝とうという本音を隠して(もちろん、自軍の規模と練度を示すことで、アルビオンに介入させまいとする無言の示威行為を行なうだろう、という意味です。けっして親善大使の皮を被った攻撃部隊がやってくる、などという風にはお取りにならないで下さい)。

 即ち、今回の訪問では、アルビオンとトリステインの二つの空軍が、正面からぶつかり合うことになるはずなのです(お互いを目視比較する、という意味であって、直接的な戦闘が行われる、という意味でないことをご了解下さい)。

 残念ながら、トリステインはアルビオン空軍には勝つことができないでしょう(見栄え的な意味で)。そして、この空軍比べの結果は、そのまま両国の威信の差を表すことになります。

 トリステインがここで敗北を喫することは、おそらく良い結果を生まないでしょう。トリステイン国民にとっても不幸なことですし、アンリエッタ様も悲しまれます。

 しかし、その親善大使を迎えるトリステイン空軍の背後に、アルビオン空軍より大規模で、美しい隊列を維持するゲルマニア空軍が控えていたなら?

 アルビオン空軍は、自分たちより強大な力に立ち向かう愚を犯さぬでしょうし、トリステインは、友誼を結んだゲルマニアという国への信頼をより強くするでしょう。

 そしてアンリエッタ様も、閣下への親愛の情をさらに深め、お二方の結婚をより幸福なものにするでしょう。

 無論、私はあなた様に、空軍に命じて編隊飛行の訓練をさせ、トリステイン空軍がアルビオン親善大使を迎える場に派遣しなければならない、と言っているわけではありません。

 このようなイベントを行うかどうかの判断は、閣下にお任せします。行わずとも、私にも閣下にも害はないでしょう。私はただ、トリステインとゲルマニアの友好を考え、つたないアイデアを提案させて頂いたに過ぎません。

 トリステインとゲルマニアが仲良くして、世界が平和であれば、私はそれでいいのです。

 もしも、もしも私の案を採用して頂けるなら、非常に光栄に思います。しかし、提案だけして、何の手伝いもしないというのも、いささか無責任でありますので、空軍の訓練に欠かせない風石を寄贈させて頂くことにしました。

 この手紙と前後して、モーガン風石社から、二千五百立方メイル分の風石が、ボン基地に到着することでしょう。

 既に申しました通り、空軍の訓練と準備を行うかの判断は、閣下にお任せしますので、しない場合でも、この風石をお返し下さる必要はございません。私からの、結婚をお祝いするためのプレゼントとしてお納め下さい。

 どちらを選ばれるにせよ、私はゲルマニア軍が、トリステイン、ひいてはハルケギニアの平和を維持してくれる力であることを、一切疑いません。遠いロマリアからですが、トリステインと貴国との友好に基づいた同盟が、曇りもひび割れもなく結ばれ続けるさまを、じっと見守らせて頂きます。

 世界平和に花束を。アルブレヒト三世閣下とアンリエッタ様の未来に、始祖の祝福がありますように。

 ――ヴァイオラ・マリア・コンキリエ。

 

 

「し、信じられませぬ。この手紙が、一月も前に書かれたものだなどということは……」

 額に浮いた汗を袖で拭いながら、宰相は言った。

「括弧を使って、わざわざ直接的な表現を否定してありますが……それを除いて読めば、今日起きたことを、まるで見てきたかのように記しておるではないですか。

 アルビオン親善大使が、トリステイン空軍と戦うということ、そしてトリステイン空軍では、アルビオン空軍に勝てないということ……さらに、アルビオン軍の親善大使という姿が偽装であり、本来の目的がトリステインへの攻撃であったということも、看破しておられる。

 これは……これはまるで、予言の書ではないですか!」

 恐れに近い感情を滲ませて、宰相は叫ぶ。

 余も、彼とほぼ同じ畏怖の気持ちを感じていたが、それでも訂正すべきところを訂正するだけの冷静さは生きていた。

「それは違うな、宰相。その手紙に書かれていることは予言じゃない……推理だ。

 冷静に、そして深く考えさえすれば、今日のアルビオンの襲撃を、我々でも予想することはできたはずだ。アルビオンの情勢、そして連中の、ハルケギニア統一という目標……必ず、近いうちにトリステイン進攻は起こるはずだった。

 そして、親善大使という形で、トリステインの懐に飛び込んでくることも……難癖をつけることで、一方的に不可侵条約を破棄して、被っていた羊の皮を脱ぎ捨て、狼の本性をあらわにすることも……言い当てるのは不可能ではなかった。むしろ、これ以上に進攻に適した機会などない、とすら思えるほどだ。

 コンキリエ枢機卿は、我々が考えなかったことを、一月前に考えただけに過ぎない。そこにあるのは、予言という神秘的な能力ではなく、ただの優れた頭脳の働きだ……」

 そう、そして彼女は――コンキリエ枢機卿ヴァイオラ・マリアは――それを阻止し、トリステインを救おうと、余に手紙を書いたのだ。

 それも、余がトリステインを見捨てるであろうことをすら、予想して。

 空軍を、今日の事件のために備えさせるかどうかは余に任せると言いながら、ロマリアからじっと見ているとも言っている。これは、ロマリアという国自体が、ゲルマニアを評価すべく観察しているとも取れる。同盟国の危機に、きちんと動くかどうかを。

 しかも、風石の寄贈という方法で、「急な話で、空軍の準備が間に合わなかった」と弁明する余地をなくしている。もしそんな言い訳をすれば、ゲルマニア軍は、よそから軍備をととのえるお膳立てをしてもらいながら、それを無駄にした無能である、というレッテルを貼られることになる。

 完全にしてやられた。敵国であるアルビオンではなく、かりそめの同盟を結んだトリステインでもなく、蚊帳の外であるはずのロマリアに、余の策謀は完全に潰されたのだ。今、トリステインを見捨てることは、ロマリアに余の不誠実を知らしめることであり、ロマリアがことの真相をアンリエッタ姫にばらせば、彼女は絶対に婚約を破棄するであろう。余が心から望む、始祖の血筋は永遠に手に入らなくなる。

 それだけならまだいい。よくはないが、得られるはずのものが手に入らないだけで、まだ我慢はできる……問題は、このことがゲルマニア国民に知れ渡った場合だ。

 同盟国を見捨てる王を、国民はけっして支持しないであろう――たとえ、遠大な発展のために必要なことだとしても――だ。王としての余の力は、間違いなく落ちる。そこを、余を追い落として、玉座につかんとして蠢動している者たちに突かれたら、確実に破滅だ。

 ロマリアに首輪をつけられた余は、コンキリエ枢機卿の見えざる手に、身を委ねるしかなくなってしまったのだ――。

「宰相。お前はコンキリエ枢機卿がどういう人物か、知っているかね」

「は。お会いしたことはございませんが、噂は聞いたことがあります。

 自分の教会の庭で、貧民たちが商売をすることを認めたり、死にかけの平民を、自分の衣服が血で汚れることも厭わず治療したり……まさに、聖人と呼ぶに相応しいお方であると……」

「そう、その通り。余の知っている彼女も、そういう人物だ。

 下々の者に優しく、人を幸せにすることを生きがいにしている、生まれたての子供のように無垢な精神を持った人物……つまりは、ただのお人よしだ」

 そう、ただのお人よしだと思っていた。

 余は去年、一度だけ、コンキリエ枢機卿と会ったことがある。ハンブルクに建設された、聖ジークフリート教会の落成式で。

 背が低く、顔立ちが幼く、落ち着きがなかった。見た目は、まるっきり子供に見えた――晩餐会でも、余ったプリンをやたら欲しがっていたし。

 あの時は、まるでとるに足らない人物だと思っていた。のちにロマリアから流れてくる、聖女のごとき評判を聞いても、無邪気で無害な子供が、小さな手でできるつまらない善行をして、それを周りの暇人どもが大袈裟に宣伝しているのだと思っていた。目の前の人間は救えても、世界は絶対に救えない、無力で無知な平和主義者。そういう人物だと、思い込んでいた。

 だが、実際はどうだ?

「アルビオンの謀略を看破し、余の動きまで読み切り、さらに両方を封殺すべく、手を打ってきた……。

 短い言葉で余に釘を刺し、さらに確実にトリステインを守らせるために、大金を出した。風石二千五百立方メイル? モーガン社に、いったい何千エキュー払った?

 ただのお優しい平和主義者なら、何の問題もない。だが、知恵と権力と財力を兼ね備えた平和主義者となると……!」

 その存在は、いっそ危険ですらある。世界が平和になるよう、裏で権力者たちに糸をつけて操る大蜘蛛――あの愛らしい女性(少女とすら表現したくなる)が、そんな途方もない怪物に思えてきた。

 宰相も余と同じく、コンキリエ枢機卿という人物の奥深さにぞっとするものを感じたらしく、顔を青くして、言った。

「か、閣下。枢機卿様の本性がどうあれ、我々はトリステインを見捨てるわけにはいかなくなってしまったようです。

 どうか、ご命令を……トリステインが敗北するまでに、派兵が間に合わなければ、どのようなことになるか想像もつきません」

 そうだ。今は時間がないのだった。

 トリステイン・アルビオンを併呑するための長期計画を捨てるのは惜しいが、余はまだまだゲルマニアに君臨し続けなくてはならない。ここでは終われないのだ――素早く決断を下す。

「ボン基地に連絡を。トリステイン軍を救援するため、ローエングラム伯爵の部隊を派遣する!

 彼の補佐には、ミッターマイヤーとロイエンタールをつけろ! 全速力で戦場に駆け付け、アルビオン艦隊を完膚なきまでに叩きのめすのだ!」

「はっ!」

 宰相は力強く頷くと、一礼して中庭を去っていった。

 余は――余は、たった独りになると同時に、やけに疲れた気分になり、ベンチに座ったまま目を閉じ、大きなため息をついた。

「誰の言葉、だったか……?

『王者に相応しい人間とは、民衆に親しまれ、権力者からは畏怖される者のことである』とは……。

 コンキリエ枢機卿……彼女はどうやら、余よりも一枚以上、上手であるらしい。ハルケギニアとは、余が考えているより、ずっと広いものであるのだな……」

 ああ、そうだ。今の気分を表す、ぴったりの言葉を思いついた。

『井の中の蛙、大海を見せつけられる』だ――。

 

 

 結論から言うと、ゲルマニア軍は間に合った。

 少ない戦力ながら、ラ・ラメー伯爵率いるトリステイン空軍は必死に戦い、時間を稼いでいた。

 しかし、ほとんどの艦が落とされ、ラ・ラメーも死を覚悟したその時に、援軍は現れた。

 まず到着したのは、神速の用兵術を誇るミッターマイヤー提督の率いる部隊だった。この艦隊に守られ、ラ・ラメーは無事、ヴァルハラ以外の行き場所がないと思われた戦場から生還する。

 その後、トリステインはタルブの上空を、後発のローエングラム、ロイエンタールの艦隊が埋め尽くした。その数、ミッターマイヤー隊を合わせて、約五十隻。それは、強国ゲルマニアを象徴するような威容であり、特にローエングラム伯爵の乗る旗艦ブリュンヒルトの、白く輝く美しい姿は、一種の神々しさすら漂わせていた。

 あまりの大部隊に、動揺するアルビオン艦隊。それを率いる司令官ジョンストンは、楽勝だと思っていた戦闘に割り込んできた強敵に、恐慌をきたした。

 本来、ジョンストンは政治家であり、軍事は畑違いだった――圧倒的に格下の相手を、一方的に蹂躙するだけなら、彼でも問題なかったのだが、このような敵が力を増した状態においては、彼では役者が不足していた。

 そんなジョンストンに取って代わり、指揮権を受け継いだのが、レキシントン号艦長、ヘンリ・ボーウッドである。

 彼は生粋の軍人だった。命令によって敵と戦うことが仕事であり、それを誇りにしていた彼にとって、今回の騙し討ち作戦、そしてトリステインを一方的に侵略する仕事は、まったく気乗りのしないものだった。

 しかし――しかし、目の前に強敵が現れたとなれば、話は別だ。

 やる気のある有能な司令官が指揮を取り始めたアルビオン艦隊は、一気に持ち直した。ベテランのボーウッドの指示に従い、巧みな連携を見せて、ゲルマニア艦隊に食い込んでいく。

 敵が強敵らしいということを知り、士気を高めたのは、ゲルマニア軍も同様だった。若い金髪のローエングラム伯爵は、『獅子』という二つ名と、高いカリスマ性を持つ将軍だった。彼の命令によって、ゲルマニア軍は三方向から、アルビオン艦隊を包囲する作戦に出た(かつて、ダゴン上空戦と呼ばれる戦いで使用された戦法で、三つに分かれた部隊の連絡さえ完璧なら、無類の強さを誇った)。

 特に攻撃力の高い、月目のロイエンタール提督の部隊が、包囲によって行き場をなくしたアルビオン艦隊を、次々落としていく。

 しかし、アルビオン艦隊も負けてはいない。レキシントン号の長距離砲で牽制しつつ、進路を一点に集中した紡錘陣形により、ゲルマニア艦隊の内部を食い破ろうとする。

 速度、火力、数ならゲルマニアが勝ち、射程、命中率、防御力ならアルビオンが勝っていて――連携、指揮官の腕前ならば、互角といったところだ。

 戦局は拮抗していた。ともに多くの艦を撃ち落とし、タルブの草原に敵の廃艦を並べていく。

 予定では、アルビオン軍はとっくに地上に兵を下ろし、火竜部隊にタルブ村を制圧させるはずだったのに、今はまったくそんなことができる状態ではない。

 タルブ領主アストン伯爵や、居合わせたトリステイン兵士たちの地上での仕事は、タルブ村民を安全な場所まで逃がすという、思いのほか地味なものとなった(もっとも、地上に降下されなかったおかげで、村民にひとりの死者も出ずに済んだというのは、僥倖だろうが)。

 トリステイン王宮を飛び出し、民衆を救うべく駆け付けたアンリエッタ姫も、村民たちを逃がす仕事を手伝っていた。

 彼女はウエディング・ドレスのスカートを引き裂き、引き止めるマザリーニに破いた切れ端を投げつけてまで、民のためにここまでやってきたのだ。

 いざとなれば、自分の身を盾にしてでも、国を、民衆を守ろうと……。

 そんな彼女の中には、民を思う気持ちの他にも、政略結婚で、望まぬ相手に嫁がされることへの、反抗の気持ちもあったかもしれない。

 野蛮なゲルマニア皇帝の嫁になるくらいなら、この身を戦場に散らしてもいいという、後ろ向きな気持ちだ。

 しかし、そんな考えは、上空で激しくアルビオン艦隊と争う、ゲルマニア艦隊の勇猛な姿を見て、あっという間に消し飛んでしまった。

 ゲルマニア皇帝は、約束通り、軍を派遣してくれたのだ。そして彼らは、自分が野蛮と蔑んでいたゲルマニアの人たちは、本来何の関係もないトリステインのために、命をかけて戦ってくれている。

 今、落ちたゲルマニア艦の中には、アンリエッタと同じ年頃の兵士がいたかも知れない。好きな人がいて、その人と結婚したいと思っていた若者が。

 でも彼は、国にいて安全に過ごすより、戦地に赴くことを選んだ。

 必死に戦って、そして、トリステインを守って、死んだ。

「姫殿下!」

 やや遅れて、破れたドレスを頭にくくりつけたマザリーニや、トリステイン貴族たちが追いついてきた。彼らもまた、杖を握り、覚悟を瞳に宿らせ、侵略者たちと戦うつもりでやってきたのは明白だった。

 しかし、戦場が空以外になく、地上での戦闘は考えられないと気付くと、彼らもまた避難民の誘導に手を貸した。姫が現状を見て、真っ先に動いたことで、彼らも状況を見て判断することを覚えたのだ。

 こうしてタルブ村民は、アストン伯爵のみならず、アンリエッタ姫、マザリーニ枢機卿、その他大臣級のトリステイン貴族たちに守られながら避難するという、トリステイン一のVIP待遇を受けることになった。

「ねえ、マザリーニ」

 道中、アンリエッタは、隣を歩く宰相に囁いた。

「私、ゲルマニアの人たちのことを、誤解していたのかも知れません。国のために尽くすということ、約束を守るということの意味も……。

 アルブレヒト三世様のこと、今はまだ、愛せるとは言えませんが……この戦が終わったら、逃げずに、きちんと向かい合って話をしてみたいと思います。

 王族として、そうすべきだと――ええ、きっとそうすべきなのだと……私、今、悟りました」

 その表情に、悲劇じみた諦めはない。未来を見据え、新しい道を模索する若さの輝きがあった。

 マザリーニは、世の中の父親が、立ち上がり歩くことを覚えた小さな娘に向けるような、慈愛の眼差しを姫に向け、満足げに頷いた。

「ウエディング・ドレスは、また仕立て直させればよいでしょう。お二人の中に近付きの気持ちが生まれるなら、ドレスなど……む? あれはっ!?」

 バルバルバル、と空気を引き裂く音を聞き、マザリーニは空を仰いだ。

 その音は、戦の終わりの先触れだった。敵を打ち倒し、トリステインを、その同盟国を勝利に導く、不死鳥の羽ばたき。

 かつてタルブで、『竜の羽衣』と呼ばれていた、謎の鉄塊――旧日本軍の誇る空戦用飛行機械『ゼロ戦』が、風竜をすら遥かに凌ぐ速度で、ゲルマニア艦隊とアルビオン艦隊の間を駆け抜けていく。

「ふっ……うふふ……あーっはっはっはっは――っ!」

 ゼロ戦を操縦するパイロット、ガンダールヴ平賀才人の後ろで、桃色の髪をたなびかせる美しい少女、『ゼロ』のルイズ・フランソワーズは、高らかに笑っていた。

 その手の中では、秘宝である水のルビーと、始祖の祈祷書が不思議な光を放っている。

「主人公は、最高のタイミングで登場するものだって、お母様が言ってたわ……ついに、ついによ! 私のための見せ場が! 初めて訪れたんだわ! チョイ役じゃない、紛れも無い活躍の場が!」

「お、おい、ルイズ? どうしたんだお前? よく聞こえないけど、なんかすっげーメタなこと言ってないか!?」

「気のせいよ。それよりサイト、あの一番大きいフネに近付ける? 私、選ばれちゃったみたいなの……この力を使えば、この戦いを終わらせられるわ!」

「あのでかいのだな? わかった!」

 散開するアルビオンの火竜騎士たちを、機銃で蹴散らしながら、ゼロ戦は矢の如く空を翔け、レキシントン号に肉薄する。

 ルイズは始祖の祈祷書を開き、そこに見出だした呪文を――虚無魔法の基礎の基礎、爆発魔法『エクスプロージョン』を唱え始めた――。

 

 

 ――私はこの戦の真に驚くべき完璧な記録を持っているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない。

 まあ、ルイズさんの魔法でアルビオン艦隊が一掃されたのは皆さんご存知の通りなので、あえて記す必要もなかろうというのが本音である。ご了承下さい。

「ちょ、待ちなさいよっ! わ、私の大活躍は、」

 アーアーキコエナーイ(´・ω・`)

 

 

 トリステイン・ゲルマニア連合艦隊がアルビオン艦隊を打ち破ったという知らせは、あっという間にハルケギニア中を駆け巡った。

 当然、ゲルマニアにいた余のもとにも、その知らせは届いた。ローエングラム伯爵からの使者が、勝利とともに、詳しい戦闘の内容も持ち帰った。

 余は王宮の執務室にて、宰相リヒテンラーデとともに、使者からの報告を聞いていた。それは喜ばしいものであり、同時に驚嘆に値するものだった。

「ふむ、つまり、我が軍とアルビオン軍は拮抗状態にあり、そこに飛び込んできた謎の『不死鳥』の放った光が、アルビオン艦隊だけを破壊し、飛び去ったと言うのだね?」

「はっ、その通りです、閣下。間違いなく、この目でその様を目撃いたしました! 風竜より速く飛び回り、目に見えぬブレスで火竜を薙ぎ払い、太陽を思わせる強烈な光が天地に満ちたと思うと……次の瞬間には、アルビオン艦隊のみが、船体や帆から火を噴き、地面に落下していったのです。

 あれはきっと、始祖の使いに違いありません。始祖が、我々に味方して下すったのです。あの光が、アルビオン艦隊を全滅させていなければ、我々は……負けたかも、とは言いませぬが、さらに十隻はフネを失っていたかも知れません」

「なるほど……そうか」

 余は、安堵のため息をつきかけるのを、すんでのところで防いだ。

 さすがのコンキリエ枢機卿も、そのような得体の知れない救いの手が、トリステインに現れるなどとは、予測していなかっただろう。

 その始祖の使いとやらは、誰に言われたわけでもなく、勝手にやってきたものだ。おそらく、ゲルマニアが派兵せずとも、勝手にやってきて、アルビオン艦隊を蹴散らしたに違いない。

 どっちにしろ、トリステインは勝つ運命にあったのだ。

 余は考える――もし、ゲルマニアが助けに行かなかった場合のことを。始祖の使いの力を借りてとはいえ、トリステイン一国だけでアルビオン艦隊を撃退していた場合のことを。

 その場合、同盟を結んでおきながら、助けをよこさなかったゲルマニアは、トリステインに頭が上がらなくなってしまっただろう。同盟も、向こうにずっと有利な条件で、結び直されてしまうことになったはずだ。

 今思えば、派兵しておいて本当によかった。コンキリエ枢機卿の提案は――半ば、脅迫とも言える強制力を持ってはいたが――結果として、余とゲルマニアの立場も、危ういところから救い上げてくれたのだ。

 余が物思いに耽っている間にも、使者は続ける。

「アンリエッタ姫殿下や、マザリーニ枢機卿様からも、感謝のお言葉を頂きました。特に姫殿下は、我が軍がアルビオン軍と戦う姿に、いたく感動なされたご様子で……」

「? ……待て、なぜアンリエッタ姫が、お前たちの戦う姿を見れる? トリスタニアの王宮におられたのではないのか?」

「いえ、かの姫君は、トリステイン貴族たちを率いて、戦場たるタルブへ駆けつけておられました。

 トリステイン地上軍の先頭に立ち、杖を掲げてユニコーンを駆るお姿の凛々しいこと! まさに、我が国の妃になられるに相応しいお方であらせられました!」

 敬意のこもった口調で語る使者を前に、余は静かな衝撃に撃たれていた。

 一国の姫が、戦場に出向いた? それも、他の貴族たちを率いる形で?

 そんな度胸と、責任感を備えた女だったのか? 戦を恐れ、真っ先に逃げ出しそうな、弱々しい娘だと思っていたのに――余の、人を見る目は――いったい。

 報告を終えた使者を労い、退室させる。余は俯き、密かに笑っていた。その様子を目にする権利は、ただひとり、信頼する宰相にのみ与えた。

「どう思う、リヒテンラーデ……アンリエッタ姫のことを?」

「迂闊なお方のようですな。自分の身に間違いがあれば、王家の血が絶えてしまうというのに、戦場に出るなど……。

 迂闊で、感情に流されやすく……しかし、人を従える才覚と、敵を許さぬ闘争心と、我を通すエネルギーをお持ちの、女傑であると思われます」

「お前もそう思うか。確かに、虎のような女だな。

 まったく、ふふ、ふふふ……このゲルマニアの王妃としては、これ以上ない女ではないか?」

 余の中で燃え盛る炎が、勢いを増したのを感じた。

 余は今まで、野心という蝋燭に、巨大な炎を燃やし続けてきた。ゲルマニアの頂点に立ち、それだけで終わらず、世界にまで進出するという夢を見る、自分を強く、大きくしていこうという心にのみ、生命力を注いできた。

 その、野心の蝋燭に――恋という名の蝋燭が近付き、飛び火した。

「宰相。余は、本気でアンリエッタが欲しくなってきた。

このような血のたぎる思い、もう何年も忘れていたものだ――同盟も駆け引きも関係ない。ただ、あの女を余に振り向かせ、惚れさせたい。

 そのためなら、いくらでもトリステインに協力してやろう――どう思う? 余は皇帝として、馬鹿なことを言っていると思うか?」

「いいえ……それでこそ、胸に情熱を持つことで知られる、ゲルマニア人でございますよ、皇帝(カイザー)」

 老宰相は、どうやら心から、そう言ったようだった。

 

 

 アルビオン軍の騙し討ちと、それの撃退が行われた翌日、情報ギルドはこぞって号外を出しました。

 彼らは本来、週一のペースでその時々の世界情勢をまとめ、教会などの掲示板に張り出すことで、人々に世の中の動きを教えてくれます。もっとも、平民の識字率はあまり高くないので、主に読むのは貴族の皆様です。そして、特に裕福なお方は、情報を記した紙(新聞、というらしいです)を、直接自宅に配達させます。

 我が主、ヴァイオラ・マリア・コンキリエ様も、ギルドから新聞を定期購読しているひとりです。ヴァイオラ様は、聖職のかたわら、たくさんの会社の経営もしておられるので、世界情勢は常に頭に入れておく必要があるのです。

 さて、先ほど私は、七つの情報ギルドから、それぞれ別の新聞を受け取りました。

 これをヴァイオラ様にお渡しする前に、内容をざっと確認して、重要と思われる記事を朱で囲むのが、私の仕事のひとつです。

 ヴァイオラ様は、自分の出した手紙が、ゲルマニア皇帝にどのような影響を与えたのか、気にしておられるご様子でした。

 さて、市井の噂で、アルビオン軍とトリステイン・ゲルマニア連合軍が戦ったという話は聞きましたが――どのような記事になっているのでしょうか?

 

 

 トリステインの危機に、颯爽と駆けつけるゲルマニア軍! 親善大使を装ったアルビオン軍の謀略を粉砕!(ウィークリー・アクレイリア)

 アンリエッタ姫殿下、アルブレヒト三世閣下に感謝の意を表明。閣下を晩餐に招待――トリステイン・ゲルマニアの友好関係、より緊密に(フィレンツェ・タイムズ)

 マリアンヌ妃殿下とアンリエッタ姫殿下、宰相マザリーニ枢機卿とヴァリエール公爵を、トリステインの摂政に任命――姫殿下がゲルマニアに輿入れの後は、この二人によってトリステインが運転される体制がととのう(ケーニヒスベルク産業経済新聞)

 マザリーニ枢機卿のコメント「責任ある任につき、光栄であるとともに、身の引き締まる思いである。まだしばらくは、休むことはできなさそうだ」(トリスタニア・ニュース)

 モーガン社の愛国的行為に、賞賛の声! ゲルマニア空軍に、風石を寄付――モーガン社社長ホフマン氏、「どうしてこうなった」と謙虚なコメント(ボン国際情報紙)

 アルビオン艦隊を壊滅させた、謎の飛竜の正体にせまる! 目撃者によると、体にピンク色のケルプ(海藻)を付着させていたため、飛行能力を持った海竜の亜種ではないかとの予想が……(週刊メー)

 

 

「………………」

 以上の記事を朱で囲むと、私は新聞をたたみ直し、ヴァイオラ様の寝室に向かいます。

 我が主は、ベッドの上に寝転んだ状態で、私を迎え入れました。

「おー、シザーリア。新聞はどうじゃった? アルブレヒトの奴は、うまくやっとったか?」

ヴァイオラ様は、無邪気な様子でお尋ねになりました。枕を抱いて、うつぶせになって、足をパタパタさせながら、私を上目遣いに見ておられます。

 淑女としてはしたないので、本来なら注意すべきなのでしょうが――大変可愛らしいので、あえてスルーさせて頂きます。

「ヴァイオラ様。その質問にお答えする前に、ひとつ確認させて頂いてよろしいでしょうか?」

「ん? なんぞ」

「ヴァイオラ様の目的は、アンリエッタ姫殿下と、アルブレヒト三世閣下の仲を緊密にすること……それでよろしかったですね?」

「うむ、その通りじゃ」

 きっぱり言って頷いた主に、私も頷きを返します。

「だとすると、これ以上ない大成功かと存じます」

「そ、そうか! うまくいったか!」

 ぺかーと、太陽のように輝かしい笑顔を浮かべて、ヴァイオラ様はベッドの上をごろんごろんなさり始めました。

「うえへへへー。やっとじゃー。やっとこれで兄様が……さ、シザーリア、新聞をよこせ。我にも、成功した計画の記事を楽しませるのじゃ」

「は。どうぞ、こちらになります」

 私は、仰向けになった状態で止まったヴァイオラ様のお手に、新聞の束をお渡ししました……。

 

 

「のじゃああああああぁぁぁぁぁぁっ!」

 ……読み終わった瞬間、なぜかヴァイオラ様は、新聞をまとめて壁に叩きつけ――布団をかぶって、丸パンのようになってしまわれました。

 何がお気に召さなかったのでしょうか? 不思議です……。



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幕間劇/夢

 これは、死と恐怖と別れに彩られた、悲劇の物語じゃ。悪霊と怨霊が跳梁跋扈し、死人が道化役としてさ迷い歩く。
 つまり、いわゆるシリアス回なのじゃ! ギャグを期待しておる軟弱者は、がっかりする準備をするがいいぞ!


 夢。夢を見ている。

 

 

 我は、夢を見ておった。

 我の背丈が、今より二十サントほど低かった頃の夢。

 五、六歳といった年頃じゃろうか。法衣ではない、リボンやフリルのいっぱいついた、可愛らしい子供服を纏った我が、ポニーテールに結った紫色の髪をたなびかせながら、屋敷の廊下を駆け抜けていく。

 曲がり角の向こうから、使用人たちの近付いてくる気配を感じれば、柱の影に隠れてやり過ごし、また人の気配のない場所を求め、走り始める。

 そう。この「昔の我」は、逃げておったのだ。

「難儀だねえ、ヴァイオラ様は……いくら子供だからとはいえ……」

 やり過ごした使用人たちの囁きが、耳に入る。

「さすがに、もういい加減しっかりお灸をすえてさしあげないと、将来のためになりませんよ。

 もう五回目ですよ、厨房に忍び込んで、プリンを盗んでいったのは。いくらトニオさんの作るプリンが絶品だからって、ねぇ?」

「ああ、だから屋敷の者総出で、お嬢様を探しているのさ。命令を出した奥様自身も、捜索に加わっておられるからな、しっかり言って聞かせなさるおつもりだろう。

 しかし、俺にはそれより心配なことがある。お嬢様が持ってったプリン、三日前の古いやつだったんだ……。お腹を壊してなければいいんだが」

 ちょ、おま、なんでそんなの置いといたんじゃ、と小一時間問い詰めたくなったが、見つかってしまっては本末転倒なので、ぐっと言葉を飲み込んで、逃走に戻る。

 屋敷の中を右に左に、東に西に。誰にも見つかってはならぬ。使用人は何十人もおるから、とても気が抜けんし、母様はメイジじゃから、ディティクト・マジックが使える。その探知に引っ掛からぬように、神経を研ぎ澄まさねばならんかった。

 なんとなくスニーキングなスキルがめきめきレベルアップしそうな感じで、正直全然貴族的なふるまいではないが、我はそれを仕方なしと考えるくらい、母様に怒られるのが嫌じゃった。

 人間誰しも、幼い頃は母親というものを恐れるらしいが、我は特にそれが顕著じゃった。母様が怖くて怖くて、仕方がなかった。

 ――とは言っても、ガミガミとヒステリックに怒鳴り散らされるとか、しつけと称して暴力を振るわれるとか、そういったことは一切ない。抱きしめてくれるし、笑いかけてくれるし、ご本も読んでくれるし、いいことした時は褒めてくれるし、叱る時だって、我の何が悪いのかキチンと説明してくれるし……つまり、我のことを心から愛してくれている、とてもいい母様なのじゃが……それでも、我は恐怖を感じておった。

 なぜかって? それは……。

 ――ずるっ。ずるっ。

 おっと、向こうから人の気配。

 ――ずるっ。ずるっ。ぴちゃ、ぴちゃっ。

 それも、この感じは使用人なんかじゃなく……た、退避! とりあえず、窓から庭に逃げ出すのじゃ!

 ――ずるっ。ずるっ。ぴちゃ、ぴちゃっ。ひた、ひた、ひた……。

 我が窓の外に身を躍らせるのと、ほぼ同時に、その人は我のいた廊下に、姿を現した。

「ヴァ、ヴァイオラあああぁぁぁ……どどど、どこに、い、行ったのかしらあああああぁぁぁぁぁ?

 お、お説教は、まだ、お、終わってないの、よ? で、出てきて? ね? 今なら痛くしないから、優しくするから。たぶん、きっと、もしかしたら。だから、ね? ね? ね? お顔見せて? 見せてよおおおいい子だからああああ」

 自分の背丈よりも長い、波打つ暗紅色の髪を、ずるずると引きずって歩きながら、その人は調子外れの言葉をつぶやいておった。

 目は、紅い瞳が滲み出したかのように血走り、爛々と輝いておる。顔色は青白く、目の下に濃い隈ができ、まるで何日も眠っていないようじゃ。唇は、きゅっと左右の端が吊り上がり、紅い三日月を思わせる。そしてそこから、だらだらとよだれをこぼしており、それが顎を伝って床へと落ちていた。

 歳の頃は、二十半ばほど。小柄で線の細い、たいそう美しい女性なのじゃが、ヘタに美しいからこそ、異様な部分が際立ってしまっておる。

 ……コレが、その。我の母様で、名をオリヴィアと言う。

 水のスクウェアで、『怨霊』の二つ名を持つ、もと傭兵メイジ。かつては父様の護衛として勤めており、日々を一緒に過ごしておるうちに気が合い、結ばれたそうな。

 父様とは、周りが砂糖を吐きたくなるようなおしどり夫婦で、子である我に向ける愛情にも、まったく偽りがないのじゃが――とにかく、その、――見た目が、なんか、怖い。

「どこ、どこにいるの? ヴァイオラ、ヴァイオラ、ヴァイオラ? で、出てきてくれないの? 私が、こんなに頼んでるのに?

 お母さん、すっごく悲しいわ。悲しくて寂しくて指先がぶるぶる震えるの。ね、ね、見て? ね、知ってるでしょ? 私が嫌ぁな気分になるとこうなるの。こ、こ、こんなに指が震えてたら……なんだか、その、いろいろと手元が狂っちゃいそう。大変だわ大変だわぁ。ヴァイオラが出てきてくれないばっかりに……うひ、いひ、うふえへいひひひひひ」

 母様はケタケタ笑いながら、手の中で杖をもてあそんでおった……その杖というのが、鋭い刃のついたごっつい手斧ときとるから、なんというか、アレじゃ。

「ヴァイオラ、ヴァイオラあぁ〜……ここかしらぁ?」

 がちゃ、と、手近な扉を開いて、中を覗き込んでおる。

「いないわねぇ……じゃあ、こっち?」

 がちゃ。

「こっちかなぁ〜?」

 がちゃ。

 そこらへんの扉を片っ端から開いて、我を探す母様。

 我は安全なところから見てるだけなのに、緊張感がものすごい。

 ――がちゃ。がちゃがちゃっ。

 やがて、母様は鍵がかかっていて、中を確かめられない扉に行き当たった。

 それは鍵孔のない扉で――つまり、中に誰かがいるということを意味した。そこに気付いた母様は、三日月型の唇を少し開き、白い歯を見せて笑うと、早速その扉をこじ開けにかかった。

 手斧型の杖を振り上げ……振り下ろす。

 ――ガッ。

 刃を扉に食い込ませ、引き抜き、また振り上げて……。

 ――ガッ。ガツッ。ドカッ! バキッ! バキバキッ!

 刃を扉に叩きつけ、叩きつけ、叩きつける。「アンロック」を使えば一発じゃのに、あえて破壊行為を選んじゃう辺りが母様クオリティじゃ。

 木屑を飛び散らせながら、笑みを浮かべて斧を振るうその姿は、凄惨の一言に尽きた。

 やがて、ぶ厚い木の扉に、人の頭ほどの大きな穴が空けられた。――ははあん、さてはこの穴から手を突っ込んで、中のロックを外すんじゃな? ――そう思ったお前は、母様に対する理解が少々足りん。

 母様がその穴に突っ込んだのは、手ではなく――顔。

 おそらく、部屋の中に誰がいるのか、血走った目をギョロギョロさせながら見回しておるのじゃろう。

 そして、怯える獲物を見いだせば、顔いっぱいに喜色を浮かべて、こう快哉をあげるのじゃ……。

「(*´∀`)<しゃああぁぁ〜いにいぃ〜んぐ」

 部屋ん中から、ぎゃああああああ、と、ものすごい悲鳴が聞こえた。

 ああ、あれはついこないだ勤め始めたばかりの、新人メイドの声じゃ……かわいそうに、トラウマにならなければよいが。

 尊い犠牲が生じてしまったが、おかげで母様の注意はそちらに向いておる。我はなるべく音を立てないように、そっとその場を離れた。

 どこへ逃げるべきか悩んだ我は、まず裏庭にある大きな池へ向かった。

 ここの岸には、一人乗りの小船がつないであった。我は、ひとりになりたい時や、何か憂鬱な気分になった時は、よくこいつに乗りに来ていたものじゃ。

 この時も、その小船に乗り込んで、ほとぼりがさめるまでじっと隠れていようと考えて……って、いかんいかん。

 よく考えたら、池には母様の使い魔であるクーがおるんじゃった。あのまま池に行っとったら、感覚共有ですぐに居場所がばれてしまうところじゃった。危ない危ない。

 クーは灰色のタコで、体長五メイルぐらいある、そりゃもうでっかい奴じゃ。

 召喚した時はもっと小さく、母様の手の平に乗ってくーくーと鳴く可愛い生き物だったそうで、「クー・リトル・リトル」と名付けたらしいんじゃけど、予想外に育ちに育って、もうまったく小さくないんで、この頃じゃ単に「クー」とだけ呼んどる。

 ……なんか、ただ成長するだけじゃのうて、人間みたいな胴体ができ、カギ爪のある手足が生え、さらに背中には、コウモリみたいな羽も生えてきとるけど……クーよ、お前ホントにタコじゃろな?

 とにかく、我は池に向かっていた足をUターンさせ、その反対にある森に向かった。

 ここも池の小船同様、我にとっての癒しスポットじゃ。オーク鬼の胴回りよりぶっとい杉や楠がたくさんあり、空気がしっとり爽やかで気持ち良い。木漏れ日の中を歩いて深呼吸をすると、とても気分が落ち着くものじゃ。

 ……そういやここは、アントウニオ爺様の使い魔であるナイア(ナイアルラトホテップという生き物だそうじゃが、そんな生き物を我は聞いたことがないし、ナイアに似た外見の生き物もまったく知らぬ。見るたびになんか形の違っとる、筆舌に尽くし難いあの生き物は、どこから召喚されたんじゃろか)のテリトリーで、我が入り込むと、嬉しそうにずりずり這い寄ってくるのじゃが……まあ、爺様なら我のことを、母様に告げ口したりはせんじゃろうし、別に良いか。

 森の入り口からちょっと入ったところに、直径二メイルほどの太さを持つ楠があり、その根本には、我がなんとか入れるぐらいの大きさのウロが、ぽっかりと口を開けておる。

 その中に潜り込んでしまえば、母様といえど、そうそう見つけることはできまいて。

 ウロの中には、楠の枯れ葉がたっぷり敷いてあるので、横になればふんわりふかふか、ひじょーに心地よい。陽の光もほとんど入ってこんし、耳に入る音といえば、枝葉が風にそよぐ音ぐらい。小さな我は自然とうとうと、眠気を誘われ、日が暮れるころまでのお昼寝を始めてしまう。

 その頃までには、母様の怒りもおさまっとるとよいのじゃが。むにゃりむにゃり。

 ……………………。

 ………………。

 …………。

「……――ィオラ。ヴァイオラ……眠っているのかい、ヴァイオラ?」

 優しい声に、我は起こされた。

 目を開ければ、辺りは血を浴びたかのように真っ赤じゃった。どうやら夕焼けの時間を迎えたらしく、傾いた赤い光がウロの入り口から差し込んで、我が寝床になっておった落ち葉も、我自身の衣服も、手も脚も、一日の終わりの色に染められておった。

 真っ赤な世界の中で、ただひとりその人だけは、別の色の中におった……我を起こしたその人は、逆光でほとんど真っ黒なシルエットにしか見えなんだが、その微笑みだけは、なぜかしっかり見ることができた。

 豊かな髪、上品な口髭。シワもシミもない、若く、力強い顔立ちの青年。その瞳は、他者を思いやる優しさと、どんな問題でも自分で解決できる知性とエネルギーとを備えているように見えた。

 父様の下で修行をしておる、才能豊かな政治家のたまご。我よりも二十近く年上の、我とよう遊んでくれる、兄様のような人。

 小さな、小さな我が、はじめて憧れを感じた、男の人。

「マザリーニ様、どうしてここに?」

「ヴァイオラの姿が見えないと、お母様が探しておられたからね。僕も手伝わせてもらったのさ。

 いろいろな場所を探して回ったが、僕もまさか、こんなところで見つかるとは思わなかったよ」

 苦笑する兄様に、我は頬を熱くした。確かに、貴族の娘が隠れるには、木のウロは少々やんちゃに過ぎるかも知れぬ。

「恥ずかしいですわ、こんな……こんなはしたない姿を、マザリーニ様に見られてしまうなんて……」

「はしたなくなんてないさ。外に出て遊ぶのは、健康的でいいことだと思うよ。

 でも、あまり遅くなるのだけはよくないからね。お母様もお待ちだし、一緒に屋敷に戻ろう?」

 お母様、という言葉を聞いて、我はちと尻込みした。

 兄様まで使って我を探しとるということは、たぶんまだほとぼりがさめとらんっちゅうこっちゃろう。このまま帰ったら、お説教プラスデザート抜きというお仕置きコースメニューが待っておるはずじゃ。

 それを思うと、少なからぬ怯えの気持ちが、ここから我を動かすまいと働きよる。

「どうしたんだい、ヴァイオラ? お母様のところに帰るのが、嫌なのかな?」

 相変わらずの穏やかな笑顔で、兄様はずばり聞いてきた。

 我はしばしためらったのち、小さく頷いた。

「き、きっとお母様は、まだお怒りのはずですわ。悪いことをしたのはわかっていますが、叱られるのが怖いのです。

 だって、あのお母様ですよ? 『怒り狂った「烈風」カリンと、恨めしそうに睨んでくる「怨霊」オリヴィア、どっちと戦いたい?』なんて、究極の選択問題のネタになってしまうようなお母様が、お怒りになっているのですよ? 今出ていったら、どんなにじめじめねっとり心の闇を突いてくるような叱り方をされるか、想像もできなくて、怖くて、怖くて……」

 目に涙を溜めて、肩を震わせる幼い我に、兄様はただ、その手を差し延べた。

「大丈夫、怖がることはないよ。僕からお母様にとりなしてあげよう。

 だから、涙を拭いて、こちらにおいで……小さなヴァイオラ」

 我にとって、兄様の言葉はいつだって信頼に足るものじゃったし、その微笑みは心を暖かくし、勇気をくれるものじゃった。

 こんな頃から、すでに我の中に、兄様への思いは芽吹いておったようで、我は怯えた顔を、恥じらいつつも嬉しそうな、たんぽぽを思わせる愛らしい笑顔に変えると(我が美しいのは昔からのことなので、この手の自己賛美表現を控えるつもりはないのじゃ)、差し出された兄様の手を握り、ウロの中から這い出そうとした。

 ……あれ? 兄様の手……なんか、手触りがおかしいぞ?

 男の人の手といえば、ごつごつしとって、肌の感じもザラついとるというか、荒いイメージがある。

 なのにこの手は、指が細く、肌がしっとり柔らかい。いい石鹸で体を洗っとる、貴族の婦人のようななめらかな手じゃ。

 妙な違和感に、顔を上げると――目を見開かずにはおられぬ怪奇現象が、ごく間近で起きておった。

「……究極の選択問題のネタになっている、ねぇ……」

 ぐじゃり、ぐじゃりと、兄様の顔が歪み、紫色に変色し、崩れ始めていた。

「心の闇を突いてくるような叱り方をする、ねえ……そんな風に、思ってたんだ……?」

 まるで腐った死体の肉が、骨から剥がれるように、顔そのものがズルリとはげ落ちる。

 我は、言葉ひとつなくその様子を見つめておった。いや、言葉など、あっても口にできなんだじゃろう。恐怖に全身が硬直し、ただ脚だけが、ガクガクブルブルと震えておった。

 兄様の顔が崩れて落ちた、その内側から現れたのは――血走った赤い目と、三日月のような弧を描いた唇。そして、ばさりと広がる、血を浴びたような暗紅色の髪。

 母様の、猟奇的な笑顔。

「マザリーニ君だと思ったあぁ?

 ざんねええぇぇん! 『フェイス・チェンジ』でしたああああぁぁぁぁ」

 の、の、のぎゃああああああぁぁぁぁぁぁ――ッ!!??

 

 

 夢。夢を見ていた。

 

 

 ――私は――アンリエッタ・ド・トリステインは、夢を見ていました。

 それは眠る時に見る夢ではなく、起きている時に見る夢。私は今までずっと、夢を見ていたのです。

 トリステインの王女として生まれ、それに相応しく育つように言い聞かされ、世間の少女たちが過ごすような、青春の日々からは遠ざけられて――自由のほとんど許されない、そんな私はまるで、鳥かごの中のカナリアのよう。

 国民の前では、笑顔で手を振り、国家トリステインの象徴として、権威の頂点についているけれど、実際に国を動かしているのは、マザリーニや宮廷貴族の皆さん。会議に出席していても、これまでお勉強を嫌々していたからか、実際的な政務のレベルが高すぎるせいか、口を挟むことすらできず、ただ座って話を聞いているだけ。本当に私はただの象徴であり、お飾りの王族。見た目と血筋のみしか価値のない、中身の有無はどうでもよい幻の女でした。

 悲劇的でしょう? 滑稽で、情けなくて、それ以上にかわいそうでしょう?

 そう、きっと私は、悲劇の悪霊に魅入られた女なのです。

 確かにこれまでの人生においても、本物の幸せを感じたことはありました。おともだちであるルイズ・フランソワーズと過ごした、無邪気な日々。ウェールズ様との出会い、そして言葉と気持ちを交わし合った、短い時間……それらはすべて、私の心の宝石であり、けっして手放すことのないもの。

 しかし、その宝石をくれた人たちを、悲劇の悪霊は奪い去っていきました。

 ルイズ・フランソワーズはまだ手元にいてくれます。でも、それは臣下として。無邪気にケンカをしたりして、対等に付き合うことは、もうできません。

 ウェールズ様は――もっと直接的に連れ去られました。『レコン・キスタ』によるアルビオンの内戦で、彼は命を落としたのです。

 私の初恋。あの甘く、華やいだ気持ちをくれたあの人は、もういません。

 それだけでも悲劇であるのに、さらなる悲劇が私を襲います。

『レコン・キスタ』の脅威からトリステインを守るため、私は同盟の材料として、野蛮なゲルマニア皇帝のもとへ嫁がねばならなくなったのです。

 時期的には、ウェールズ様を失うより、この結婚話を強制された日の方が先でした。つまり、ウェールズ様が亡くなっても生き延びても、私たちは引き裂かれる運命にあったということ。やはり、私から大事なものをことごとく奪っていこうとする、邪悪な大怪魔の存在を感じずにはいられません。

 私には、自分がこの世に生きていてよかったと感じられるだけの幸福がないのです。あったとしても、それは常に目の前で失われてきました。

 私は悲劇のヒロイン。何も知らされず、舞台に立たされ、他の役者たちの演技に驚き、恐れ、涙するだけの、道化役者。あるいは先ほど使った、鳥かごの中のカナリアというたとえでもいいでしょう。餌をもらい、生かされてはいるけれど、その運命は抗えぬ上位者の心次第。

 どうやっても運命の大渦から抜け出せない、哀れな哀れな独りの女。

 ――でも、本当にそうなの?

 私が自分の運命に疑問を感じたのは、この間のアルビオン空軍奇襲事件の時。

 あの時、トリステインは圧倒的に不利でした。敵は装備も練度も数も上回る、強力な軍隊。不意を突かれたこともあって、奇跡でも起きなければ引き分けにすら持って行けない状況でした。

 戦場に飛び出した私も、国民が蹂躙されるのを、黙って見ているのが我慢できなかっただけで、勝算があったわけではありませんでした。普通ならば、私はタルブで戦死し、トリステインは滅亡していたでしょう。

 でも、奇跡は起きました。

 最初の奇跡は、ゲルマニア空軍が意外な速さで救援に来てくれたこと。彼らの奮闘のおかげで、多くのトリステインの民が救われました。

 そして、もうひとつの奇跡。『不死鳥』を操る少年と、『虚無』に目覚めた少女。彼らのおかげで、アルビオン軍は壊滅し、トリステインは勝利を収めたのです。

 ……ルイズ・フランソワーズ。私のおともだち。疎遠になっていたこともあったけど、それでもあなたは、私のためを思って行動してくれました。

 アルビオンへの潜入任務の時も、今回も……。ただの忠誠心ではなく、本当におともだちと呼べる絆が、私たちの間にはあるのかもしれません。

 だとしたら――とても、嬉しい。

 ……ゲルマニアの人々。新興国で、始祖の血を引かない、お金さえ積めば平民でも貴族になれる、お金に汚い野蛮な連中――だと、思っていました。

 実際はどうだったでしょう? 彼らは、我々の危機に、速やかに駆け付けて、その身を呈して守ってくれました。

 操船技術、フネ同士の連携、砲撃の精度。全てアルビオン空軍に劣らず、素人の私から見ても、厳しい訓練を積んできた精鋭であることがわかりました。

 彼らは、自分の仕事に誇りを持ち、自己を高めるために日々の努力を怠らない、立派な人たちだったのです。

 そして、昨日。私はゲルマニア皇帝、アルブレヒト三世閣下を、ディナーにお招きしました。タルブ戦での協力に感謝し、その礼としての招待でした。

 これまでにも、アルブレヒト三世閣下とは、顔を合わせたことはあります。しかしそれは、外交としての婚姻をまとめるための顔合わせに過ぎず、もっぱら話をしていたのは、同席していたマザリーニでした。

 だから、それまでの閣下の印象は、鋭い目と立派な髭をお持ちの、ちょっと怖いおじ様といったところで、特にいいイメージではありません。むしろ、無理矢理結婚させられる相手、それもライバルを蹴落として王座についたという、冷酷非情な人物という評判を聞いていたので、思いっきり嫌っていたと言って差し支えないでしょうね。

 しかし、しかし――昨日、夕食の席で、初めて言葉を交わした時――閣下の印象は、どうだったでしょう。

 閣下は笑顔を見せてくれました。鉄でできているかのような、厳しい表情を崩し、王としてでなく、ひとりの人間として、私に接してくれました。

 会話は知性に溢れており、政治、経済、芸術、歴史などの幅広い分野にわたって、私のような勉強嫌いの王女では及びもつかないほどの、奥深いお話を聞かせてくれました。しかもただペダントリー豊かなだけではなく、気の利いたジョークを織り交ぜてくる洒落っけもあったのです。

 食事のマナーも完璧。逆に私の方が緊張して、ナイフを取り落としたりする失態も犯しましたが、閣下は笑って流してくれました。

 ……野蛮な連中だと、ゲルマニアの人たちを見下していた自分が恥ずかしい。彼らはいざとなれば、かのごとく紳士的にふるまえるというのに。始祖の血? トリステインの王女? そんな私自身が努力して手に入れたわけでもないステイタスでは、とても彼らには太刀打ちできそうにありません。

 閣下のことを、好きになることはまだできません。しかし、この夕食での交流で、彼への軽蔑や嫌悪の気持ちは吹き飛び、敬意がそれに取って代わりました。

 ……距離を感じていた幼なじみは、今でも私の親友でした。蔑んでいた憎らしい王様は、尊敬できる人生の先輩でした。

 敵だらけだと思っていた私の周囲には、頼れる味方がちゃんといたのです。

 よく考えれば、マザリーニやトリステイン貴族たちも、役に立たない私を陰日向に支えてくれていたのです。私は鳥かごの中に押し込められていたけれど、その外ではみんな必死に働いていました。私がもし自由であり、あれこれと政治に口を出していたら、今頃トリステインはどうなっていたかしら? ……残念だけれど、あまり愉快な想像はできなさそうね。

 結局のところ、誰もが私に不幸を押し付ける悲劇の存在自体を、私は疑い始めています。こんなにたくさん味方がいるのに、私はどうして周りが敵だらけだなどと思っていたのかしら? ただのお飾りとして扱われ、何にもさせてもらえないことを嘆いていたけど、そもそも私に何が出来るの?

 私を陥れていた、悲劇の悪霊はどこにいるの?

 ――お前の頭の中さ、アンリエッタ――。

 そんな声が、すぐそばで聞こえた気がしました。

「はあ……」

 私は、寝室の中でベッドに腰掛け、深いため息をつきました。

 寝酒にワインを口にしていたので、やや熱く感じる吐息でした。頬も火照っていますが、こちらはあながち、酒精のみのせいとは決めつけられません。

 昨日の夕食後の、アルブレヒト三世閣下との会談が、まだ尾を引いていたのです。

「プロポーズ、されてしまったのね……私」

 そう。閣下はあの時――食後の紅茶を頂いている時に、私とマザリーニとの三人だけで、内密な話がしたいと申し出てきました。

 そして、私が食堂にいた人たちを下がらせ、閣下の要望通りの、私、閣下、マザリーニの三人きりになると、彼は私の手を取り、真剣な眼差しで結婚を申し込んできたのです。

「すでに、国と国との間で婚姻の話は進められておりますが。余は公人としてではなく、ひとりの男として、直接あなたを求めたい。ぜひ、我が伴侶になって下さい」

 この言葉に、動揺しなかったといえば嘘になります。

 なぜなら、アルブレヒト三世閣下の表情が、冗談のように真剣だったから。まるで、初めて恋というものを知ったうぶな青年のように、緊張した面持ちだったのです。

 前にルイズから、ゲルマニア人は呼吸するように気楽に愛をささやく、って話を聞いたけど、閣下に関してはそれは当て嵌まらないようね。

 私はこの告白を、政治的なパフォーマンスとは受け取りませんでした。すでに私たちの結婚は、中止できないところまで話が進んでいたから、今さら私の同意を得る必要なんてまったくないし、もし政治的な意図があるなら、たくさんの人に見られた方が効果的なはずだから、人払いをする意味がないのです。

 単に、お互いの国の利益のためだけに結ばれる、誰の気持ちも関わらない、とても無機的な結婚だと思っていたのに……なぜ、皇帝閣下からは、冷静さよりも情熱を感じるのかしら?

 私は言葉に詰まり、頬を熱くしていました。まるで、閣下に握られた手から、熱が私の体に注ぎ込まれて、それが頬っぺたと心臓とに溜まってしまったみたいに。

 そう、心臓も熱く、早鐘のようにドキドキと動いて……ああ、なんてこと、こんなにも困った気持ちになったのは、生まれて初めてかも知れないわ。

 私も、閣下と同じように、恋をする子供のように――。

 ……そこで私の心に浮かんだのは、今は亡きウェールズ様のおもかげ。

 私の、本当の初恋の人の姿――もう、二度と手の届かない、愛しいあの方の笑顔――。

 ……ああ、私は、わたしは。

 私は――情のない女です。はしたない、女の風上にも置けない、口先だけしか愛を知らぬ――女です。

 ウェールズ様のことを忘れられないのに、アルブレヒト三世閣下の告白に――その情熱に、ときめいてしまうだなんて。

 私は――ウェールズ様を愛しているという資格も――アルブレヒト三世閣下に愛される価値も――どちらも持たぬ、悪い女です……。

 私がそんなことを思っていると、閣下は少し悲しそうな目をして、手を離されました。私の内心の陰りが、顔に出ていたのかも知れません。

「……もちろん、すぐにお返事が聞きたいとは申しませぬ。今までの我々の関係は、いささか事務的に過ぎましたからな。急にこんなことを言われては、さぞ戸惑われたことでしょう」

「いえ、違うのです、閣下。私は――」

「しかし、今申し上げた気持ちに、偽りはありません。これからは、どうか公と公としての交流を越えて、私と私としてのお付き合いをさせて下さい。余はあなたのことを知りたいと思っていますし、あなたにも同様に、余のことを知って頂きたいのです」

 動揺と、自己嫌悪とに心を乗っ取られた私に、頷く以外の何ができたでしょう。

 閣下は、自分の心の奥底を私に打ち明けてくれました。なのに私は、自分の心の内を、彼にさらけ出す勇気が、結局持てなかったのです。

「ああ、私は……本当に、駄目な女だわ」

 独り呟きながら、グラスにワインを注ぎ、それを一気にあおります。すでに消費した量は、ボトルの半分ほど。寝酒としては、少し多過ぎるかも知れません。

 でも、飲まずにはいられませんでした。お酒の力で、頭の中をぼやかさなければ、とても耐えられそうになかったのです。

 絡み合い、捻れ合い、互いに拮抗する二つの気持ち。

 ウェールズ様を忘れられないという気持ちと、アルブレヒト三世閣下と、未来を築いていきたいという気持ち。それらの相反する想いが、私の中で、同じ力で剣を打ち鳴らし合っているのです。

 そして、それらが戦い続けて、未だ決着が着かないという事実は、私の内心が二人の男性を天秤にかけているということを意味していて――自分の卑しい部分を自覚するのは、辛くて、情けなくて――私は、またお酒を口に入れて、何も考えなくていい状態になろうとします。

 いつか、答えは出さなくてはいけないのに。問題に向き合おうともせず、逃げ続ける――。

「悩み、苦しまなくてはならない私は、やっぱり悲劇の主人公なのかしら」

 自嘲気味にそうつぶやくと、またもグラスにワインを注ぎ……。

 ――こん、こん。

 気のせいでしょうか。窓の外から、誰かがノックをしているような音がしました。

 顔を上げ、カーテンのかかったままの窓を見やると、再び――こん、こん――と。

 やはり気のせいではありません。誰かが外にいるのです。

 私は反射的に杖を構え、その先端を窓に向けて叫びます。

「誰です!? ここが王女の寝室と知ってのことですか!?」

 夜中に、窓から訪ねてくる人間が、まっとうであるはずがありません。ノックをして、その存在をこちらに知らせている以上、害意があるのかどうかは判断に苦しむところではありますが、少なくとも王族に対する敬意と、世間一般の常識については欠如しているようです。この客を迎え入れて、もてなして差し上げる道理はありません。

 そう、受け入れてはならない、はずだったのです。

 なのに、なのに――。

「僕だよ、アンリエッタ。窓の鍵を開けておくれ」

 ――ああ、その声を聞いた途端。私の思考は、真っ白に凍りついてしまったのです。

 この声。懐かしいこの声。二度と耳にすることは叶わないと思っていた、この声。

「そんな、そんな……嘘です。あなたは――生きていないはず」

 驚愕に打ち震えながら、私は窓に近づきます。窓の外の声は、そんな私とは対称的に、落ち着いた様子で言葉を返してきました。

「アルビオンで死んだのは、僕の影武者さ。本物である僕は、あの地獄から生還したんだ。

 でも、君が信じられないのも無理はない。だから、僕が君の知る僕であるという証明をしようと思う。

 この言葉に覚えはあるかい? ――『風吹く夜に』」

「――『水の誓いを』……」

 かつて、ラグドリアン湖のほとりで語らった時に作った、私たちだけしか知らない合言葉。それを口にできるということは――。

 私は、すがるようにしてカーテンを開けました。その向こうに見えたのは、窓を挟んでバルコニーに立つ、あの懐かしい笑顔。

 永久に私の腕の中からいなくなったはずの、ウェールズ様。

 私が窓の鍵を外すと、彼は自ら窓を押し開き、部屋の中へと入ってきました。

「久しぶりだね、アンリエッタ」

 思い出と全く変わらぬ微笑みをたたえて、思い出と全く変わらぬ声で、彼は言います。

 何も変わっていない。一見、そう、見えました。

 ええ、あくまで『一見』です。水メイジである私の目は、ウェールズ様の体の中の、異常なまでに滞った水の流れに、気付いてしまったのです。

 まるで、すでに心臓の止まった肉体の中の水を、生命以外の力で無理矢理に動かしているような、ものすごく気持ちの悪い、流れ。

 正常な、というか、生きている人間には、ついぞ見たことのない流れ方です。

 これが意味していることは、即ち――。

(この方は、間違いなくウェールズ様。でも、生きているということだけは、嘘)

 そのことに気付くと、途端に悲しくなりました。そして、少しだけ嬉しくなり、更に怒りの気持ちまでもが湧いてきたのです。

 悲しみは、慕っていたウェールズ様が、やはり死んでいたと確実にわかってしまったから。嬉しさは、どんな状態であれ、再びウェールズ様と出会うことができたから。そして怒りは――今のウェールズ様が、道具として利用されているから。

 死人が、自分ひとりの力で動き回るなんて、ありえないことです。ウェールズ様を蘇らせた人が間違いなく存在しており、その人のために、ウェールズ様は行動しているのでしょう。

 死人を、まるで生きているかのように動かすなど、荒唐無稽に思えますが、ありえないではありません。死人を操る邪法は、一般的でこそありませんが実在しています。そういう記録を、どこかで見た覚えがあるのです。

 今のウェールズ様は、その邪法の主の操り人形。合言葉を知っていた以上、生前の記憶は持っているのでしょうが、心までは持っているのでしょうか。

 案の定、その生きていないウェールズ様は、私にアルビオンまで一緒に来て欲しいなどと言ってきました。普通に考えれば、まず頷けない求めです。トリステインの王女として、この国を離れることなど、できるはずがありません。

 ……でも、王女としてではなく、ひとりの女としてのアンリエッタならば、どうでしょう。

 本当に生きていなくても、このウェールズ様は、こうして私に笑いかけてくれる。お話もできるし、手を握ることも、抱擁することも、きっと、できる。

 私にしてくれることが、生きている時の彼と全く変わらないのならば、真の生命の有無など、こだわらなくてもいいのではないでしょうか?

 少なくとも『ウェールズ様を忘れられない私』は、王族としてのしがらみをすべて投げ捨てて、ただのアンリエッタとして、愛する人と逃避行をするという未来に、強烈な魅力を感じてしまっています。

 それが、ウェールズ様の死体を操る何者かの手の上で踊ることに他ならないとしても。せっかく戻ってきた愛を、再び失う恐怖を思えば、真実に目をつぶり続けるくらいは、きっとできるでしょう。

 その結果、何が起ころうとも、耐えられるはず。ゲルマニアとの同盟が破棄され、トリステインがアルビオンに滅ぼされたとしても、すべてを捨てた私には、何の関係もないと思えるでしょう。私には、悲劇の悪霊がまとわりついているんですもの、それくらいのことは起きかねないから、覚悟ができます。

 ウェールズ様が隣にいて、笑いかけてくれる。その夢を、できるだけ長く、見続けていたい。

 それが、夢見る乙女としての、私の願い。

 右手に杖を持ち、左手をこちらに差し出すウェールズ様。

「この手を取ってくれ。そして、ともにアルビオンに行こう。叛徒どもの手から、あの国を取り戻すために、君の力が必要なんだ。

 君のことは、僕が必ず守る。僕と君との間に愛がある限り、僕は君の手を離しはしない。さあ……」

 決断を迫るウェールズ様を前に、私は小さく息を飲みました。

(これは分岐点よ、アンリエッタ)

 ――ずっと思い続けてきた愛しい人の手を取り、愛以外のすべてを捨てるか。

 ――この愛を終わったものと断じて、未来を生きるか。

 どちらを選んでも、辛い決断になるでしょう……故に私は悩みます。決めかねます。どうすればいいの? 女としての自分、王女としての自分、どちらに従えばいいの?

 究極の難問に、私の思考は硬直してしまいます。

「悩むことはないよ、アンリエッタ」

 立ち尽くす私に、ウェールズ様が優しく声をかけて下さいます。

 煮え切らぬ私の気持ちに、決断を下させたのは――意外にも、操られているはずの彼の言葉だったのです。

「君がそうしたいと思うことをすればいい。君の望むことをだ。

 きっと君なら、正しい道を判断して選ぶことが出来るだろう。君はもう――子供ではないのだから」

 その言葉を発する瞬間だけ、ウェールズ様の体の中を流れる淀んだ水が、わずかに澄んだ気がしました。

 肉体は死して、心を失い、その行動の全てを操られて。しかし、それでもなお、魂の一欠けらが、彼の中に生き残っていたのだと、そう信じることは、非現実的に過ぎるでしょうか。

 でも、私にはそう思えてなりません。迷う私に、ウェールズ様が最後の力を振り絞って、道を示してくれたのだと、私は心から信じます。

 私は――私は、弱くて情けなくて、頭もけっしていいとは言えない娘だけれど――それでも、彼の気持ちに応えねばならないと、そのくらいのことは理解することができました。

「………………っ」

「ん? 何と言ったんだい、アンリエッタ?」

 ややうつむき加減に呟いた言葉を、ウェールズ様は聞き取れなかったらしく、一歩こちらに近付きます。

 私としては、聞こえなくてもよかったのです。それは、ある言葉の羅列の一部だったのですから。その文章を言い終えるまでは、聞こえなかった方がいいくらい。

 しかし、最後の一言は。こればかりは、力強く口にせねばなりません。それこそ、ウェールズ様の耳の奥にしっかり染み込んで消えないくらいに――。

 杖の先をさりげなくウェールズ様に向け、私はこう叫びました。

「ウォーター・カッター!」

 テーブルの上のワイングラスが、ぱん、と音を立ててはじけました。私の魔法で刃物に変えられたワインは、真っ赤な弧を描いてウェールズ様に迫り、彼の白い喉を、深々と切り裂いたのです。

 ウェールズ様のお体は、首に衝撃を受けた勢いそのままに吹き飛び、対面の壁に叩きつけられました。

「これが……これが、私の答えです……ウェールズ様」

 そう。私は、もう子供ではありません。

 女としてでも、王女としてでもなく。大人として、恥ずかしくない人間になりたい。

 ウェールズ様。私は、間違いなくあなたを愛していました。だから、だからこそ。

「私は、あなたを倒さねばならないのです。ここであなたへの思いに、決着をつけなければ……私は永遠に、成長できない」

 夢を見るのは、もうおしまい。

 これからは、もっと周りを見て生きていく。間違った道を拒み、正しい道を見つけて、そこを歩んでいける人間になる。

 そのために、私がまずすべきことは――私をアルビオンに拉致しようという、この茶番じみた陰謀を潰すことでしょう。

 そして、それと同時に。ウェールズ様の魂を、お救いして差し上げなければ。ええ、放っておくものですか。私の初恋をこんな風に侮辱するなど、けっして許してはおけません。

「げぼっ……がふっ、あ、んり、えったあぁ……ごほ、い、いけない、子だな、君はっ……」

 喉笛を、相当深いところまで切り裂かれたというのに、ウェールズ様は平気な顔で立ち上がりました。

 傷口から、血が流れ出ている様子はありません。ただ、真っ赤な裂け目だけが喉に走っていて、それすらも、まるで糊を塗って継ぎ合わせたかのように、みるみるうちに皮膚と皮膚とがつながって、元通りのきれいな状態に戻っていくのです。

 やはり、水メイジとしての私の目は正しかったのです。このウェールズ様は、もはや人では有り得ません。

「げふ、げっ……こうなったら、もう……君を眠らせて、連れて行くしか、ないぃ……ようだ……。

 少し痛いかも知れないが――げぼっ――恨まないでおくれよ、あ、アンリ、エッタ?」

 ウェールズ様が、杖を持った腕を振り上げます。私も急いで、杖の照準を彼に合わせました。

 まともな戦闘では、軍人としての経験があるはずのウェールズ様に、私が敵うわけがありません。幸い、彼の喉の傷は、まだ塞がりきっていない――彼がスペルを普通に唱えられるようになる前に、押し切らなければ!

「ウォーター……」

「がふっ、――エア……」

「「カッター!」」

 ほぼ同時に詠唱が完成し。それに応えた風と水が無数の刃となり、私たちしかいない部屋の中で荒れ狂ったのです――。

 ……………………。

 ………………。

 …………。

「強くなったね、アンリエッタ。君は――本当に強くなった」

 ウェールズ様の優しい声が、遠いもののように、ぼんやりと聞こえます。

 私はその声を聞きながら、がくりと膝をつきました。寝巻きは何十ヵ所もボロボロに切り裂かれ、その内側にのぞく肌には、血がにじんでいます。

 筋肉や太い血管、内臓などを傷つける大きな怪我のないことが、奇跡のような有様です。

 これもひとえに、ウェールズ様が私を殺そうとしなかったおかげでしょう。もし彼が殺すつもりで私を攻めていたなら、私など一撃で首を落とされていたはずです。

 死体を操る邪法を操る術者がアルビオンにいるのなら、私を殺して死体を持ち帰るだけでも、利用価値は充分だったでしょうに……それをしなかったのは、やはりまだ、邪法の戒めの中で、ウェールズ様のご意思が生き残っているためではないでしょうか。

 そして――そのウェールズ様のご意思があったからこそ――私は、戦いに勝つことができたのでしょう。

 痛みをこらえながら、顔を上げてウェールズ様を見ます。彼は今、部屋の壁に造り付けられた化粧台に、全身をめり込ませていました。

 全身――という言葉は、正確でないかも知れません。なぜなら、彼の下半身は上半身と別れて、ベッドの向こう側に倒れているはずですし、杖を握る右腕も切断されて、私のそばに落ちています。化粧台に叩きつけられて、動くこともできなくなっているのは、それ以外のウェールズ様の部分です。

「まさか、僕が負けるなんて思わなかったよ。それなりに鍛えていたつもりなんだが……はは、情けないな」

 彼の声からは、活力がほとんど失われていました。顔色も悪くなり、さらには、先ほど見せたおぞましいまでの回復を、もう行っていません。

 傷は傷のままで、ぽたぽたと赤黒い体液を滴らせています。そして、そこから同時に、水魔法に共通して含まれるエネルギーが、流れ出しているように感じました。

 このエネルギーこそが、ウェールズ様を自動的に回復させていた魔法のタネであり、ウェールズ様を操る邪法使いの糸であり、本来死んでいるはずのウェールズ様を動かしていた、生命線だったのでしょう。

 それが全て流れ出してしまったとしたら……ウェールズ様は――。

「アンリエッタ。僕は、もうすぐ動けなくなる。君の水魔法を受け続けたことで、『アンドバリの指輪』の死体を動かす力が、洗い流されてしまったようだ……。

 この先に待っているのは、真の死だが……僕は、助かったと思っている……死んでから敵のために働かされるなんてことは、屈辱以外のなにものでもないから、ね」

 ウェールズ様は、死にどんどん近付いていましたが、残っている生命力に反比例して、その表情には人間味が戻ってきているような気がしました。

 ウェールズ様の言っていることが事実なら、彼の魂が、邪法から解放されつつあるということなのでしょう。

 それは、とても喜ばしいこと。彼の、人としての誇りを、取り戻してあげられた。

 なのに、なぜ……私の目からは、涙が溢れているのでしょうか?

「今度こそ、お別れだね。アンリエッタ」

 ウェールズ様が、私の涙の理由を言葉にしました。

「最後まで、君には迷惑をかけ続けてしまったようだ……君を幸せにしてあげたかったのに……何もできないどころか、このていたらくだよ。

 許しておくれ、アンリエッタ……僕は、最初からいなかった方が……君のためには、よかったかも……知れない」

「そんな風に、おっしゃらないで……ウェールズ様」

 私は呼吸を整え、痛む手足をかばいながら立ち上がると、ウェールズ様の頬に触れました。

 かさかさとした、冷たい頬。どんよりとしたその目は、確かに半分死人です。

 でも、でも。残りの半分は、私の愛したウェールズ様なのです。

「ウェールズ様。私、ゲルマニア皇帝と……アルブレヒト三世様と、結婚します」

 私は、ウェールズ様の目を見て、はっきりとそう告げました。

 彼の最期に――けっして、後悔しないように。

「私は、彼を愛することができると、思います。あなたへの未練を残したまま、嫌々嫁ぐのでは、ありません。

 でも――でも、私に初めて、恋を教えてくれたのは、あなた。

 人を愛する幸せを、人生の素晴らしさを教えてくれたのは、ウェールズ様、あなたです。

 これでお別れですけれど、私、けっして、あなたのことは忘れません。それだけは、申し上げておきます」

 私の言葉に、ウェールズ様の目が、大きく見開かれました。

 そして、心底愉快そうな笑みを浮かべて、こう囁きました。

「ここに来て、よかった……そんな――立派になった、君の姿を見られたんだから。

 ああ……僕にはもう、思い残すことも、すべきこともない……。

 ただ――そうだな――あえて、言い残すなら――。

 ……幸せになってくれ、アンリエッタ……それが僕の、ゆい、ご……ん……」

 かすれ、細く消え去るように、言葉が途切れ。それきり、ウェールズ様は動かなくなりました。

 彼の体内の水は、流れることを完全にやめており、水のエネルギーもすべて失われていました。彼は、今度こそ、行ってしまったのです。私の手の届かない場所に。

 私はそれを確かめると、そっと彼の目を閉じさせ、自分も目を閉じました。

 彼の最期を看取った者として、その死を悼むために――静かに、祈りを……(ドタドタドタ)……?

 ――ガラッ!

「姫様、ご無事ですか!? 先ほど、トリスタニアで、操られていると思われるウェールズ様が目撃されたとの情報が、」

 ――ぴしゃっ。

 ……ふう、いきなり扉が開いたから、驚いて思わず閉め直してしまいました。

 一瞬、外に私のおともだちがいたような気がしましたが……きっと気のせいね。たぶんピンク色のケルプか何かでしょう。

 さ、もう少しだけ、ウェールズ様のためにお祈りを……。

 ――ガラッ!

「ちょ、どうして無言で閉めるんですか姫様!? 緊急事態なのに――っていうか、どうして姫様の寝室の扉が引き戸、」

 ――ぴしゃっ。

 はい、閉めたついでに魔法でローック。

 トライアングルがフルパワーでかけたロック、そうそう解除することはできないはずよ、ルイズ。

 最後のお別れなんだから、もうちょっとぐらい名残を惜しませてちょうだい。

 なんだかドンドンガンガンと扉が叩かれていますが、今は無視。

 ウェールズ様のためのお祈りの言葉は、百八まであるのです。せめてそれを心の中で唱えるくらいの時間は、もらってもいいじゃないですか。

 外からの呼びかけや、乱暴なノックの音を意識から外し、ただただウェールズ様の冥福を祈ります。

 やがて、祈りの言葉を三十ほど唱えた頃、ノックの音がやみました。

 急な沈黙に、不思議に思って振り向くと……扉の隙間から、不思議な光が室内に差し込んでいることに気付きました。

 そして、その直後。ルイズの、ややキレ気味の叫び声が轟いて――。

「ディスペエェ――――ルッ!!!」

 扉を外から内へ貫くような、圧倒的な魔法の光が視界に満ちて。

 その光の効果でしょうか、ロックの魔法によって維持されていた扉の留め金が弾け飛ぶのを目の当たりにしながら――私は、しみじみと思いました。

 ねえ、私のおともだち……ちょっとぐらい空気を読んでくれても、バチは当たらないんじゃないかしら?

 

 

 ――とにかく、こうして私の夢は終わりました。

 お花畑のようにふわふわとして、曖昧だった幼い夢は覚め。私は一歩、大人になったのです。

 よりよい大人になるためには、もっと勉強を頑張らなくてはいけませんが……。

 でも、もう自分の境遇をウジウジと呪ったり、くじけて立ち上がれなくなったりはしないだろうという、確たる自信は持っています。

 なぜなら私には、未来を共に歩いてくれる人がいて。さらに、忘れられない人が示してくれた、人生の喜びが胸の中にあるのですから。

 それらが私を支えてくれる限り、私がくだらない悲劇の悪霊に惑わされることはないでしょう。

 もちろん、大切なおともだちであるあなたも、私の支えのひとつですよ、ルイズ。

 だから、だからね、そんな怖い顔で私を見ないで? ね? ね?

 え、何でこっちに杖を向けるの? 私たち、おともだちでしょう? ね?

 それに私、一応トリステインの姫……ちょ、やめ、るい……アッ――!

 

 

 夢。夢を見ていなかった。

 

 

 どうも、おはようございます。ヴァイオラ様の忠実なメイドにして、皆様のそれなりに誠実な友たるシザーリア・パッケリでございます。

 今日もまたスッキリと日の出前に目覚め、ヴァイオラ様の身の回りのお世話を一から十まで過保護にこなす一日が始まります。

 メイド服を一筋の乱れもなく身につけ、自慢の髪も品よく結い上げて、仕事人としての自分を作ると、まずは本日のヴァイオラ様のお召し物を、私の独断と偏見で選びます。金糸とシルクで編まれた美しい法衣は、変にたたむとシワが取れなくなるので、お召しになる直前までクローゼットから出しません。今はまだ、選んでおくだけです。

 それから、厨房に朝食の準備ができているか確かめに行きます。今朝の献立は、トマトのパスタに白身魚のソテー、ムラサキヨモギとチーズのサラダ、あとは季節の果物のようです。サラダについては、ヴァイオラ様がお残ししないよう、しっかり見張っておく必要がありそうです。

 次に、井戸から冷たい水を汲んで、桶に溜めておきます。これはヴァイオラ様が起きてから、お顔を洗うためのものです。ふわふわのコットンタオルも、当然用意してあります。

 さて、ここまで終われば、ようやく主のご尊顔を拝見する栄誉を頂けます。陽が出てきた頃を見計らい、ヴァイオラ様を起こすため、寝室へ向かいます。

 寝室の大きな扉に、コン、コンと、社交辞令的なノックを二回。

 大抵ヴァイオラ様はまだ寝ておられるので、あまり意味はありません。返事がなくとも、平気で中にお邪魔します。

「ヴァイオラ様、おはようございます。起床のお時間で……あら」

 今日は珍しく、ベッドの上にヴァイオラ様のお姿は見られませんでした。

 すでに目覚めていた、とかではなく。この時、ヴァイオラ様は床におられたのです。

 ベッドからずり落ちたのでしょう、フカフカ羽毛の掛け布団を抱きしめて、絨毯の上に転がっておられました。右足だけをベッドに引っかけて、大層不自然で不格好なお姿です。

「うぐぐぐ〜……ぐにに、ぎぎぎ〜」

 近付いて様子をうかがいますと、眉をしかめて、歯ぎしりをして、何やら苦しんでおられるようですね。

 悪い夢でも見ているのでしょうか?

「だ、だめなのですじゃあぁ〜、かあさま〜……。

 クーの触手を、そんな風に使ってはぁ〜……うごごごごご」

 なるほど。オリヴィア奥様の夢でしたか。

 あの方は確かに、ちょっと印象に残るお方ですからね。悪い意味で。より正確にはトラウマ的な意味で。時々突発的に夢に見たとしても、何の不思議もありません。

 ……しかし、ご様子からして悪夢とはいえ。オリヴィア様の夢を見ておいでのところを、わざわざ起こすというのも、いささか情に欠ける行いではないでしょうか。

 普段お会いになれない分、夢の中でくらい甘えるのも、悪くないと思うのです。――甘えるどころか、逃げ惑っているやも知れませんが。

 とまあ、そういうわけで、私はヴァイオラ様をお起こしする仕事を中止いたしました。あくまで前述の理由によるもので、うなされるヴァイオラ様が愛らしいからという身勝手な理由ではございません。

 ヴァイオラ様の小さな体を抱え上げ、ベッドに戻して、布団をかけ直します。そして、気持ち良くお休みになられるよう、オリヴィア様から直接お聞きした、人の心を安らかにする魔法の言葉を、主の耳元でそっと囁きました。

「いあ いあ くとぅるふ」

「ひぃ!?」びくぅっ

 ……なぜか、ベッドの隅でガタガタ震えて、命乞いを始めそうな状態になってしまわれました。眠りながら。

 でもまあ、目覚める気配もありませんので、特にフォローもせず放っておくことにしましょう。

 どうぞ良い夢を、ヴァイオラ様――。

 生まれたての小鹿のように、ベッドの上でぷるぷるしている主をそのままに、私は音もなく退室します。

 さあ、厨房に、朝食を出すのを、一時間ほど遅らせるよう伝えに行きましょうか。




――その頃の、お城の外で待機していたアルビオンゾンビの皆さん――

ウェールズ様、遅いねー(´・ω・)(・ω・`)ねー。
(´・ω・)(´・ω・)?    でぃすぺーる>
(*´ω`*)(*´ω`*)ほっこり。

……こんな感じで、成仏したそうじゃ。


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陰謀の基本は、やっぱり手紙なのじゃ。

ガリア編、はーじまーるのじゃー。


 なんかようわからん変な夢を見た気がするが、思い出すと精神衛生上良くなさそうな気がするのであえて思い出せないまま放置するとして――さしあたり現実的な問題について。

 兄様の負担を減らそうと、アンリエッタ姫をゲルマニア皇帝に押し付けたら、兄様がトリステインの摂政になりました☆

 その後、兄様から手紙が届きまして、そこには「仕事が普段の三倍に増えたから、しばらく帰れない」と書かれておって、純情一途な我のハートはウィンディ・アイシクル五発分くらいのダメージを負った形です。かなり瀕死に近く、こう叫ぶくらいの体力がかろうじて残っておる程度であります。

 ――どうしてこうなった!?

「うえええぇぇぇぇ〜ん、トリステインのクソボケアホス〜……! 自分とこの政治くらい、自分でやらんかーい!」

 兄様が摂政になったことを知らされたあの日から、我は荒れに荒れておった。

 無意味に壁を殴って手首を捻挫したり、柱を蹴って足首を捻挫したり。

 野良犬に喧嘩を売って返り討ちにされたり、シザーリアのポケットにカエルを入れようとして、関節技を極められたり。

 とにかく、精神的にも肉体的にもボロボロじゃった。

 今思えば、兄様に会いにトリステイン王宮へ行ったのが、根本的な失敗じゃった。それまでは、ずーっと会っとらんかったから、兄様がおらん環境に慣れることができとったが――あの日、不用意に兄様分を補給してしまったばっかりに、今、兄様欠乏症に陥ってしまっておる。

 ああ、もう。恋は女を強くするというが、そんなのは嘘じゃ。

 また兄様に会いたい。ロマリアに帰ってきてもろうて、一緒に暮らしたい。

 そればかり思うておる。

「ヴァイオラ様。明日の説教の草案、推敲が終わりました。目を通しておいて下さい」

 我の内面がどんなに凹んでおっても、シザーリアはいつも通り運行中じゃった。

 本棚に囲まれた書斎の中、我がいつも使っておる執務机の上に、羊皮紙の束が置かれる。我が机に向かわず、てきとーな百科辞典を枕にして、ソファーの上でふて寝しとっても、このメイドはおかまいなしじゃ。

「うー。働きたくなーい。我は働きたくないのじゃー」

 今はまったく、そんな気分ではないのじゃよー。普段が働く気マンマンかと聞かれたら、思いっきり否なんじゃけどー。

 どーせやらにゃならんのじゃったら、気力体力が共に充実しとる時にしたい。つまり今はダメダメじゃー、まずはがっつり癒しをよこせー。

 そう言ってやったが、シザーリアは小さく首を横に振り、駄目ですときっぱりはっきり言いおった。

「ヴァイオラ様。あなた様は、ロマリアという国においても、ブリミル教会という組織においても、高い地位におられます。上の者がしゃんとしていなければ、下の者に示しがつきません」

 小さな子にお説教するように(我を見る目が、比喩でなくマジで年下を見る眼差しじゃったんじゃが、さすがにこれは我の気のせいじゃよな?)、丁寧に、そして頑として言い聞かせてきよる。

 こいつは我の部下で、所詮は使用人に過ぎぬが、東方に旅立った父様から、直々に我の相談役とお目付け役を任されておる。あのアホスパパンは、「シザーリアのいうことをよく聞いて、いい子にしているんだよ」などと我に言い残していきよったが、我より年下のシザーリアにそーゆー役目を任せる時点で、お目付け役やお叱り役が必要なんは父様の方ではないかと思わずにはおられん。

「ううー……じゃけどー」

「じゃけどではありません。あなた様はブリミル教会の枢機卿なのですよ。ゆくゆくは、教皇にまで上られる器であろうと、私は信じております。

 ブリミル教会の頂点、ハルケギニア人民の規範となるべきお方が、自分のすべきことをおろそかにして、世の中が成り立つとお思いですか?」

「そっ……それはっ!」

 シザーリアの問いを聞いた瞬間、我は鋼鉄製のゴーレムに頭をぶん殴られたかのような、強い強い衝撃を受けた。

 普段なら聞き流しておるところじゃが、いろいろ煮詰まっておった我の脳みそに、それはスルリと入ってきたのじゃ。

 我は教皇に上り詰める器。ハルケギニアの頂点に立つべき女。

 至高の座につくためにすべきことは、なんでもやる。それが、我という人間ではなかったか?

 それは思いがけず、突然に与えられた、我自身を客観的に見直す機会じゃった。そうじゃそうじゃ。我はハルケギニアで一番えらい、教皇になることを望んでおったのじゃ。

 教皇になれば、ハルケギニア全体の権力を握ったも同然。経済は、もう大部分が手中にあるようなもんじゃから、宗教によって人心を完全に掌握すれば、この世で我の自由にならんものなぞない。

 なーにを我はボケとったのじゃろか。思い通りにならない世の中を憂うなぞ。世の中が全部我の意のままになるようになってから、兄様を手に入れようと動けばいいだけではないか。

 教皇にさえなれば、テキトーに強権発動させて、トリステインに兄様を帰国させるよう命じることだってできる。めっちゃくちゃ簡単じゃ。これが、我をノックアウトしよった問題を解決する答えであるとは……本当に馬鹿馬鹿しくて涙が出るわ。

「うむっ、よう言うてくれた、シザーリア! 我は目が覚めたぞ!

 お前の言う通り、我は頑張らねばならんようじゃ。ここはひとつ、初心に戻ったつもりでやってみるか……椅子を引けい!」

 ソファからぴょんと飛び起きると、仕事の待つ机へと向かった。シザーリアは我が命じた通りに、さっと椅子を引き、我は高級レストランでディナーのテーブルに着くように、優雅に腰掛け、片付けるべき書類を開き始めた。

 真面目にことに当たる我を見て、シザーリアは満足げに小さく頷いておった。

 ……見ておれよ、シザーリア。お前の信用に応えて、我はきっと遠くないうちに、最高の位にまでのし上がってみせるぞ。

 そう、そのために我は努力を惜しまん。すべきことをきちんとこなして。

 手段を選ばずに! 邪魔者も障害も、容赦なく蹴散らして!

 教皇への最短ルートを、我は駆け上がってやるのじゃー!

 

 

 さて、我が初心を思い出したところで、ひとつじっくり脳内作戦会議を開きたいと思う。

 最初の議題はこちら。我が教皇になるために、確実にやらにゃならんことはなんじゃろか?

 他の枢機卿たちを取り込み、教皇選定会議の際に味方してもらうよう頼み込む?

 聖職者としての仕事を真面目にやって、民衆からの支持を得る?

 そんな後回しでもいいことではなく、もっと根本的に必要な仕事がある。

 それは、現教皇サマをその地位から引きずり下ろしてやることじゃ。

 我より年下の、あのクソガキ……聖エイジス三十二世こと、ヴィットーリオ・セレヴァレ。

 ヤツがたったひとつしかない教皇の椅子に、その汚ならしいケツを下ろしておる限り、我はそこに座ることができん。

 というわけで、ヴィットーリオのヤツには早々に腰を上げてもらって、どっかに退散してもらわねばならん。

 ヤツさえ消えれば、後釜は我々枢機卿の中から選ばれることになる。そうなればしめたもの、現枢機卿のうち数人は、鼻薬の効くことがわかっとるし、賄賂を受け取らんような融通のきかん奴らには、真面目に働く我の姿を見せたり、いい噂を吹き込んだりして、信頼を騙し取ればよい。

 我以外にも、教皇候補になりそうな奴はいないではないが(兄様なぞはその筆頭じゃが)、そいつらの当選を阻むのは、我の経済力と組織的な情報操作力を使えば、何も難しいことではない。

 つまり、ヴィットーリオを排除できたならば、我の最大目標は、九十九パーセント達成されたと言っていいのじゃ。

 では、どうやって奴を、教皇の座から追い払えばいい?

 一番単純な腰の上げさせ方は、やっぱり始祖の御許へ逝って頂くことじゃろう。

 何人かの、信頼に値する殺し屋へのコンタクト方法を、我は知っておる。金は少々かかるが、それでも高くて一万エキュー程度で、ヴィットーリオの命の炎を、確実に吹き消してもらえるじゃろう。

 しかし……この方法は後腐れが残る。殺し屋が捕まって口を割ったりとか、そういうことを恐れておるのではない。

 まだ若い教皇が変死――しかも殺されたとなれば、口さがない連中は、教皇の座を狙う何者かに消されたのでは、とか噂するに違いない。

 となると、疑われるのは、次に教皇になる者じゃ。

 いざ教皇になれても、民衆から人殺しの疑いを持たれていては、尊敬の気持ちを向けられることは期待できぬ。それではいかん。我は、ハルケギニアに住まうすべての人々に崇められる、権威の象徴としての教皇にならねばならんのじゃ。

 そのためにヴィットーリオには、奴よりも我が教皇になった方がいいやーって空気の時に、何も残さず立ち去ってもらう必要がある。

 となると、やはりこの手で行くべきじゃろうなぁ。

 つまり――ヴィットーリオの評判を落とし、教皇の座を退かなければならんような状況に追い込む!

 いわゆる、ネガティブキャンペーンじゃ!

 評判の悪い、気に入らない奴の命令など、聞きたくないと思うのが人間じゃ。タイムリーにアルビオンでは、王族を気に入らんっつー貴族どもが革命を起こしよったが、同じことをブリミル教会の中で起こしてやろうと思う。

 信者のみんなが、ヴィットーリオはいらん、別な奴を教皇にしろ、と騒ぎ立てれば……民衆の総意が、奴を教皇の座から引きずり下ろしてくれるならば……我はむしろ歓迎されて、空いた席に座ることができるっちゅうわけよ!

 てなわけで、基本的な方針としてはこれで決まり。では次に、どうやってヴィットーリオを陥れるかを考えていこう。

 奴の、民衆からの人気は高い。清く正しく、始祖の教えに忠実に従っており、まさに、ブリミル教僧侶の鑑のような男じゃ。貧民どもへの施しも欠かさず、子供たちを集めては、読み書きなどを教えたりしておる。

 そりゃー貧民どもは支持するじゃろうて。自分たちの生活を助けてくれる上、ガキどもにゃ将来良い仕事に就けるかも知れんスキルを授けてくれるんじゃからの。

 じゃが、その清廉潔白、貧しい者の味方、というイメージこそ、奴の弱点になり得るのではないかと、我は考えておる。

 真っ白だからこそ、汚点がつけばえらく目立つ。ヴィットーリオがほんのひとつでも、「民衆を裏切った」的な事件をしでかせば。信頼が大きかった分、失望感もまた大きいはずじゃ。

 となるとやはり、奴には、ハルケギニア人民に何らかの害を与えようとしている(または与えた)、っちゅう種類のスキャンダルをおっかぶせるのがいいじゃろう。

 酒に酔って信者を殴ったとか……寄付金をちょろまかして私腹を肥やしてるとか……うーん、奴の生活態度からすると、説得力がないのう。

 性犯罪被害をでっちあげるか? 男に無実の罪を着せるなら、一番楽で効果的なやり方じゃって聞いたことがある。

 いや、これもいかん。ヴィットーリオのイメージから掛け離れておる。「うちの教皇様がこんなに卑劣なわけがない」って、否定されたりしたら意味がない。信じられないだけならともかく、現教皇を陥れるための陰謀だと看破されたら、こっちの身が危うくなる。

 民衆に、無理なくヴィットーリオの悪評を広めるには、奴がやっても不思議でない悪事を考えねばならん。

 あのアホタレがしそうな悪事……。うーん、極端なもんしか思いつかんのぅ。

 たとえば、レコン・キスタみたく、聖地行こうぜ! というスローガンのもとに聖戦発動して、エルフに勝ち目のないケンカ売ったりとか。

 真面目で頭のいい奴じゃけど、真面目過ぎるのが少々危なっかしい。信仰のためなら、十万人規模の犠牲者が出たとしても、それを平気で是としそうなタイプに見える。

 でも、ヴィットーの助をそういうデスマーチ主催者に仕立てあげるとすると、奴は救世の英雄か、パブリック・エネミー・ナンバーワンかになってしまう。世論が熱狂的に支持するか、強迫的に排除しようとするか。どっちになるかは、我も予測がつかん。後者ならいいが、前者ならマジヤバイ。奴がハルケギニア中から狂信されたら、追い落とすことは完全に絶望的になる。その上、奴自身もノリノリで聖戦を指揮しそうな気がするし。

 どっちにしろ、聖戦になるとロマリアがその旗印っちゅーか爆心地になるから、あんまりその手の極端な陰謀を描くのはノーサンキューしたいところじゃ。おうちのまわりが危なくなるのは、我は嫌じゃー。

 もっと軽くて――かつ、揉み消されない程度に大きな、反社会的行為……。

 レコン・キスタを、裏で操っとるとかいう濡れ衣はどうじゃろ? あいつら王権を打倒するっちゅう大事やらかしとるし、一応聖地目指すとか言っとるし。規模としても、信仰を大義名分に使っとるところも、ヴィットーリオにマッチする社会悪ではあるまいか?

 ……いや、ダメじゃ。ヴィットーリオと、レコン・キスタのオリヴァー・クロムウェルとの間に、接点がない。

 ロマリアとアルビオンでは、連絡を取るには遠すぎるから、ロマリア教皇がアルビオン皇帝を傀儡にしとると言い切るには、かなりたくさん、無理のある証拠をでっちあげねばなるまい。

 あーもう、ヴィットーリオとクロムウェルが旧知の仲だったり、ロマリアとアルビオンが隣接していたりすれば、話はずっと楽なんじゃが。

 なんでレコン・キスタのアホタレどもは、浮遊大陸なんちゅう聖地から遠い場所で決起しよったんじゃ。ガリアとかでやれと小一時間かけて説教したい。まったくどいつもこいつも……。

 …………ん?

 ヴィットーリオとクロムウェルが、仲良しなら問題なくて――レコン・キスタがいるのが、アルビオンじゃなくてガリアなら問題ない……?

 だとすれば……おお! 思いついたぞ!

 この案ならいける気がする――ヴィットーリオを排除し、それと同時に、我の商売上の邪魔者も始末できる、一石二鳥の名案じゃ!

 こんなにも巧緻にして絶妙、優雅かつ悪辣な策を思いつくとか、我の頭脳の天才ぶりに、恐怖すら覚えるわい……。

 おっと、自画自賛はあとでゆっくり、寝る前にでもするとして。せっかく思いついた策じゃ、新鮮さを損なわぬうちに、実行に移すとしよう。

 やることを決めた我は、まずシザーリアに命じて、外行き用のマントを持って来させた。今からちょいと、教会まで足を運ばねばならん。

 必要なものは、そこにあるのじゃ。

 

 

「ふ、ふ、ふ……よーしよしよし、完璧じゃ。筆跡、文体、印章まで、そっくり見事に真似しておるわ……」

 我が、企み事を思いついてから、三日の時が経った。

 誰にも見られる心配のない、教会の最深部にある我が執務室。その中で、我は一枚の開封された手紙を眺めながら、ニヤリニヤリと悪ぅく冒涜的に笑っておった。

「このしょっぽい紙切れが、何人もの善良な人間たちに、いわれのない罪をおっかぶせてしまうんじゃのう。しかもそれは、死刑にもなりかねん、極悪な重罪じゃ。恐ろしい、恐ろしいのぅ……じゃが、我がより高い地位へ上がるための踏み台になれるんじゃから、濡れ衣を着せられる連中は、我を恨むどころか、むしろ光栄に思ってくれるかもしれんの。くくくふふふ、いっひっひ」

 そう、この手紙こそ、我がヴィットーリオを陥れるために用意した、華麗なる作戦のキモとなるものじゃ。

 我は、何度もチェックしたその文面を、もう一度読み返す。

 差出人の名は――シエイエス。

 ガリアのリヨン周辺を教区として担当しておる、大司教の職におる男じゃ。

 その人柄は慈悲深く高潔で、弱い者と見れば手を差し延べずにはおられんという。

 収入の半分以上を、貧しい者たちのために使い、休日は一般の信者たちに混じって街の清掃活動をしたり、子供たちに読み書きを教えたりしておるらしい。

 そんな野郎じゃから、教区の信者たちの支持は凄まじく、まだ生きとるのに、早くも「聖シエイエス」などと呼ばれとるそうな。

 我も、前に一度お目にかかったことがあるが……あれはマジモンの善人じゃな。ほんの十五分ほど話をしただけで、背筋がゾワゾワして、鳥肌が立ちまくったものじゃ。我の精神と、本能的な部分で決定的に相容れん。

 で。そのシエイエス大司教。同じような真面目腐り聖人君子野郎のヴィットーリオと、旧知の仲じゃったりする。

 ヴィットーリオが無名のいち僧侶に過ぎんかった頃から親交があるという話で、今でも私的な書簡のやり取りをしとると、ヴィットーリオ本人の口から聞いたこともある。

 さらには、ヴィットーリオが教皇に選ばれた選定会議の時、奴を推薦するよう、ガリア出身の枢機卿たちに働きかけたのも、かのシエイエスじゃという話じゃ。

 つまり、ガリアの誇る人望たっぷりの大司教サマは、現教皇サマと、深ーい深ぁあーい絆で、べったりがっつり結び付いておるわけじゃ。

 では、このシエイエスが、何か重大な犯罪に手を染めていた、という風聞が持ち上がったら、さてどうなる?

 それも、非常に組織的で、背後に何者かが潜んでいそうな、奥の深い陰謀に関わっていたとしたら……?

 大司教とつながりのある(だけの)ヴィットーリオに、きな臭いイメージをおっかぶせることが、自然にできるのではないか?

 そう、我の思いついた策とは。シエイエスという中継点を介して、間接的にヴィットーリオを陥れるという、アクロバティックな方法だったのじゃ!

 で、ヴィットーリオへの攻撃のために、あわれイケニエに捧げられてしまうカワイソーなファーザー・シエイエスには、どのような罪を着せて差し上げるのかっつーと……やはり、人の上に立って導く大司教サマじゃもの、悪の道でも人の上に立つのが相応しかろう?

 今のガリアは、ハルケギニアの五つの国家の中では最も栄えておるが、政情は平和で安定しておる、というわけではない。魔法の才能がなく、自らの弟を暗殺したという噂のある『無能王』ジョゼフ一世は、国民からの人気が低い。好かれてないだけの空気な王様だったなら、まだよかったのじゃが、気に入らなかったり、逆らったりした臣下を大量に粛清しておるから、尊敬されないどころか、大いに恐れられておる。

 そんなんがトップに立つ国じゃから、この無能×恐怖政権を打倒しようと企む連中も少なくない。

 筆頭は、ジョゼフに殺された(と言われている)シャルル王子を信奉していたグループ、通称「シャルル派」じゃろうが、奴らは今は雌伏の時と考えておるのか、まったく活動を表に見せんため、反社会組織というには無理がある。

 じゃが、我が目をつけた政治団体『テニスコートの誓い』は、別じゃ。

 こやつらは、かなり堂々と王制、貴族制の廃止、国民による共和制の実現を目標に掲げており、その実現のためなら、実力行使も厭わないという、なんとも過激な集まりじゃ。

 ガリア各地で、『テニスコートの誓い』によるものと思われる強盗事件が、今年だけで十件も起きておる。主に標的となるのは、税を過剰に取り立てて、平民を圧迫しているという評判のある貴族連中で、屋敷を破壊、放火された上、溜め込んだ財貨をごっそり奪われてしまったらしい。

 先月には、バスティーユ監獄が襲撃を受け、収容されていた政治犯二十三名が脱走するという事件が起きたが、これも『テニスコートの誓い』が関与したものじゃという話じゃ。

 ガリアという国の地下に潜み、非合法な手段で金と人材を集め、王家を打倒しようと企んでいる共和主義組織。まさにガリア版レコン・キスタよの。

 で、そんなブラックな組織が、王宮に目を付けられてないわけがなく。はっきり言えば、壊滅させてやりたい国家の病気なんじゃろうが、連中に対する捜査は難航しており、全然その勢いを殺せん、というのが現状らしい。

 なぜかというと、『テニスコートの誓い』の指導者が、まったくの正体不明であるゆえ。

 ビラ撒きをやらされた雇われ者や、貴族屋敷襲撃の実行犯なんぞは、ちょくちょく逮捕されておるのじゃが、そんな下っ端は上の連中のことなど何も知らず、『テニスコートの誓い』の首領や幹部たちは、名前も顔も、深く暗い闇の奥底に隠れたまんまじゃ。

 そう、この正体不明というのが、非常に良い。ロマリアの方言でいう、ディ・モールト・ベネというやつじゃ。

 つまり、誰か『テニスコートの誓い』と全然関係ない奴が、組織のトップであると、嘘の告発をされたとしても、自信を持ってそれを否定できるのは、濡れ衣を着せられる当人と、本物の『テニスコートの誓い』メンバーたちだけじゃということになる。ただし後者は、表立って発言することのできない連中じゃからして、弁護にしゃしゃり出てくることはまず有り得ん。疑惑をかけられた不幸なマヌケは、ひとりも味方を得られぬまま、孤独に裁判を戦わねばならんのじゃ。

 さて、我が手中にある手紙に話を戻そう。この中でシエイエスは、愚かにも自分の実名に、『テニスコートの誓い』会員という肩書きをつけた上で、今後行う予定のテロ活動について、賛成し支援する意志を明らかにしておる。

 筆跡は、シエイエス本人のもの。末尾に捺された印章も、シエイエスが私信に使っておるものと一致する。文章のクセも、シエイエスからの手紙を受け取ったことのある者なら、「まぎれもなく彼の書いたものだ」と、ためらうことなく言ってのけよう。

 絶対に言い逃れのきかぬ、あまりにも直接的かつ物理的な、シエイエスと『テニスコートの誓い』との関連を示す証拠品なのじゃ。

 ……まあ、ここまでの話を聞いとって、マジでそうだと信じるバカもおるまいが……もちろんこれは、我が偽造した、偽の証拠物件じゃ。

 我の教会に、以前シエイエスから送られてきた手紙の類と、奴自身が執筆した、始祖に関する論文とが保管されてあったゆえ、その筆跡と文章と印章をもとにして、偽造屋に造らせた。

 たったの手紙一枚、しかも材料は豊富にあったゆえ、プロにとっては簡単な仕事だったようで――偽造屋のジョバンニが、一晩でやってくれたのじゃ。

 ま、ニセモノとはいえ、限りなくホンモノに近い出来なので、説得力は充分。これがガリア王宮に渡れば、シエイエスは確実に破滅するじゃろう。

 その上、文面の中には、「我が親友にして至尊の地位にあるお方が、資金を融通して下さった」という一文も忍ばせておいた。そこから、どれだけの人間が、ヴィットーリオの存在を邪推してくれるか……シエイエスと教皇サマの友情は有名じゃし、調べてみたところ、実際にヴィットーリオは、シエイエスの教会に寄付金を何度か送っておるし……けっこうたくさんの人が、このエサたっぷりの釣りにひっかかってくれるんじゃないかの、うひひひひ!

 ちなみに、この手紙の宛て先は、シレ銀行の副頭取をつとめる、ロベスピエールという銀行家にしておいた。

 こいつも、真面目を絵に描いたような奴で、賄賂や裏取引に一切応じようとせん、潔癖野郎じゃ。まったく融通がきかんので、ガリアにおける我が商売の、目の上のコブとなっておる。

 こいつさえいなくなれば、ガリアでもっと好き放題に金をかき集めることができるようになるので、今回の陰謀についでに巻き込まれてもらうことにした。

 このたびの演劇のメインキャストは、シエイエスとロベスピエール。役はどちらも、『テニスコートの誓い』幹部。助演兼黒幕はこの我、ヴァイオラ・マリア・コンキリエでお届けしよう。

 筋はこうじゃ――ある日、我のもとに、匿名の封書が届いた。その中の手紙には、「ガリア全土を脅かすテロ計画が密かに練られている。自分はその陰謀を企てている組織の一員だが、このような恐ろしい計画の片棒を担ぐ度胸はない。よって、首謀者を示す証拠の手紙をあなた様に送ることで、ひそやかな告発を行うことにする」と書かれておった。ガリアの衛士や王宮に持ち込まなかったのは、ガリアではどこに連中の仲間がいるかわからないから、だそうな。

 封筒の中には、その手紙とは別に、『テニスコートの誓い』の陰謀をしたためた、開封済みのシエイエスの手紙が入っておった。

 それを確認した我は、ガリア王に宛ててこんな手紙を書くのじゃ――「私のもとにこのような告発文が届きましたが、あの尊敬すべき人格者で、信仰篤く民からの信頼も深いシエイエス大司教が、このような恐ろしい犯罪組織に関わっているなど、到底信じられません。きっとこれは、大司教を陥れようという罠ではないかと思います。もしよろしければ、疑惑の手紙の真贋を徹底的に分析して、大司教の潔白を証明して頂けませんでしょうか?」と。

 この書き方なら、万一手紙がニセモノと見破られた場合にも、我がシエイエスを陥れようとした、と気付かれずに済むはずじゃ。

 ま、偽手紙はすごい良く出来とるし、そうそう見破られるとは思わんけれど。

 無事、手紙が本物であるとガリアのアホどもが判定して、シエイエスが逮捕されてくれれば、我は「あの素晴らしい大司教が、そんな悪人だったなんて」と落胆するフリをしながら、心の中で万歳三唱すりゃあええ。

 で、そののちにさりげなく、「『テニスコートの誓い』のシエイエスを裏で操っていたのは、親友のロマリア教皇だった」という噂をばらまく。

 シエイエスとヴィットーリオのつながり、ロマリアからガリアへの寄付金の存在……噂とはいえ、信憑性はけっして低くあるまい。教皇への疑心が、世界中に広まっていけば……おお、見える、見えるぞ! ヴィットーリオの足元が、ぐらついて崩れだす未来が!

 将来のヴィジョンがこうもはっきり見えるのじゃ、理想像が実像に変わるのに、そんなに長い時間はかからんかもしれぬのう。

 

 

「ヴァイオラ様。ガリア王室より、親展が届いております」

 ガリアの王宮に、例の偽手紙について相談する嘘手紙(ややこしいのう……)を送ってから四日。ついに先方から返事が届いた。

 シザーリアが銀の盆に乗せて差し出した手紙を、我はすぐさま開封し、読み始める。

 そこには、まあいろいろと修辞上の無駄な文句もいっぱい並んどったが、要するに「興味深いので、ぜひ調べさせて頂きたい。その証拠の手紙を、こちらに送ってほしい」という意味のことが書かれてあった。

 ふむ、よしよし。我は、うまくガリア王の興味を引くことに成功したようじゃ。

 実のところ、我はまだ偽手紙の現物を、ガリアまで届けてはおらん。「そちらのご迷惑にならないならお届けします」というポーズを、わざと取った。

 そして、今回のガリアからの手紙に対しては、こう返事をする――「郵便など、人を介する方法では何かと危険が多いので、私自らガリアへ赴き、ジョゼフ陛下に直接、証拠品をお渡ししたいと思います」。

 こう書けば、手紙の重要性をより強調できるし、『テニスコートの誓い』問題に、ロマリアが注目しているという印象を与えることができる。

 少なくとも、協力者となる我にも内緒で、こっそりと『テニスコートの誓い』を闇に葬る、なんてことはできんなるはずじゃ。

 我の野望のためにも、この過激共和組織は、世界的な話題になるくらい、大々的に撲滅されてもらわにゃならんからの!

 ガリア王宛てに返事を送り、さらに待つこと三日。とうとうジョゼフ一世のサイン入りで、面会の時間を作ったから来い、とのお便りがやってきた。

 よっしゃ、我の芝居も、クライマックスに差し掛かったようじゃぞ! 気合い入れて、最後の仕上げにかかろうか!

 我はすぐさま、最大級の敬意を払った返事を書いた。もちろん、招待に応じる旨じゃ。それを、速達の竜便で届けさせれば、それでもう手紙のやりとりはおしまい。

 七日後には、我はガリアの土を踏んでおるじゃろう。

 

 

 ガリアの首都リュティス。華やかなこの街の一角に、ジャコバン・クラブはあった。

 貴族や財界人ご用達の店で、もちろん酒や料理も出すのだが、それよりも会話の場所を提供する、というのがこのクラブの価値であり、セレブリティーの社交場としての役割が最も大きい。

 重厚な樫のテーブル、ひじかけの彫刻にもこだわりの感じられる、背もたれの高い椅子。パイプの煙が染み込んだ、太く黒い梁が天井に走り、それに支えられて、飴色の光を降らせる、年代物のシャンデリアが下がっている。

 やや年月を経たクリーム色の壁板には、ゼラニウムの浮き彫りが施され、そこにかけられているのも、同じように時代を経た絵画たちだ。ファン・レイン、フェルメール、ミレーにルノアール。そこにあるすべてが古風であり、上品だった。当然、そこで働く者たちも、上品なふるまいを身につけていたし、同じように上品な人々でなければ、ジャコバン・クラブの客になることはできなかった。

 今、ウェイターに案内されて、ワイン色の絨毯の敷かれた廊下を歩いている男も、上品な紳士だった。

 白い口ひげをたくわえ、同じ色の髪を後ろに撫で付けている。目は小さく、鼻はやや赤らんでいて、丸い。背が高いが、肩幅があまりないため、かなり痩せているように見える。

 身にまとっているのは、柔らかな木綿の法衣。このクラブの客の衣装としては、安物と言っていい。だが、この老人がそれを着ていると、えもいわれぬ清浄な雰囲気が漂い、へたに値の張る仕立て物を着てくるよりも、その場に溶け込めてしまうのだから不思議なものだ。

 法衣の老紳士が通されたのは、クラブの一番奥に位置する個室で、予約が必要なVIPルームだった。

 そこにはすでに、ふたりの紳士がテーブルを挟んで酒を酌み交わしており、老紳士の入室に、先客たちは軽く手を挙げて挨拶の代わりとした。

 老紳士も、僧帽を脱ぎながら会釈をして、空いている席に腰を下ろした。

 ウェイターには、ブランデー入りの紅茶と焼き菓子を注文して下がらせ――そしてようやく、口を開く。

「お待たせして申し訳ない、ミスタ・ロベスピエール、ミスタ・サン・ジュスト。来る途中で、馬車の車輪が溝にはまり込んでしまってね」

「いえ、構いませんよ、ファーザー・シエイエス。時間は充分ありますので。

 今回の問題は、非常に微妙で重大なものなので、じっくりと話し合うことができるよう、他のスケジュールはすべてキャンセルしてきたんです。途中で時間切れになって、銀行に戻らなくてはならなくなるのは、困りものですからね……なあ、ロベスピエール?」

 シエイエスの言葉にそう言って応えたのは、ウェイブした黒髪を長く伸ばした、中性的な顔立ちをした美青年だ。

 青年――シレ銀行会計部主任サン・ジュストに話を振られて、もうひとりの人物――金髪の巻き毛を左右対称にぴっちりと整えた、丸ぶち眼鏡をかけている学者風の男、ロベスピエール副頭取も頷いた。

「その通り。今回の問題は、時間を気にせずに、徹底的に話し合わねばならない。我々の進退に関わることだからな。

話し合いの結果によっては、今後の計画をすべて考え直さねばならないかも――む。ファーザー、あなたの紅茶と菓子が来たようだ。受け取ったら、ウェイターにしばらく声をかけないように言って下さい。そして、その上でこの部屋に『サイレント』をかけてもらえませんか」

「うむ、承知した」

 シエイエスはウェイターを迎え入れ、注文の品をサービスさせると、そののちにロベスピエールの要望した通りのことをした。

 シエイエスが呪文を唱え、杖を振ると、部屋の内と外で音が完全に遮断され、盗み聞きが一切不可能になった。サイレント――秘密の会議や内緒話をしたい時に、もっとも重宝される魔法である。

「さて、これで機密を扱うことに関しては問題あるまい。それでは、ミーティングを始めよう……サン・ジュスト。ファーザー・シエイエスに、例の情報を」

「了解した。……王宮に潜入させている、アントワーヌ・ジュリアンからの報告です。

 ファーザー・シエイエス。あなたが、ロベスピエールに宛てて書かれた手紙が、近く無能王の手に入る予定になっているそうです。あなた方が『テニスコートの誓い』の活動に関係していることを示す内容の手紙……心当たりはおありで?」

 その言葉に、シエイエスは目を見開いた。ソーサーから持ち上げかけていたティーカップが動揺し、紅茶が少しこぼれる。

「それは……そんな……信じられぬことだ。そんな手紙が、あるということ自体、馬鹿げている。

 私がロベスピエール君に送った手紙は、読後すぐに焼き捨ててもらうよう、頼んでおいたはずだ。私が彼から手紙を受け取った場合も、そうしている。例外があったのかね?」

「そんなことはありません。私も当然、そのような証拠品を残すような愚は犯しておりませんとも。

 私たち三人が、『テニスコートの誓い』のリーダーであるという事実は、完全に隠匿されなくてはならないことですからね」

 低く抑えた、冷静な声で、ロベスピエールは断言する。しかし、シエイエスの動揺はおさまらず、眉根にしわをよせて、苦しげに唸った。

「では、なぜそのような情報が? 存在しない手紙が、どうして陛下の手に入ったりするのだね?」

「問題はそこです、ファーザー・シエイエス。ジュリアンが王室付きの書簡検閲官から聞き出した話によると、どうやらこれは、内部告発らしいのです」

「内部告発……『テニスコートの誓い』の会員の、裏切りということかね?」

 問い返されて、サン・ジュストは頷く。

「はい。事情はこうです……『テニスコートの誓い』のメンバーを名乗る何者かが、あなたの筆による手紙を、ロマリアのコンキリエ枢機卿に送り付けました。我々の革命活動についていけなくなったので、その手紙を証拠として、あなたを告発するという文句を添えてね。

 おそらく、その裏切り者は、あなたが手紙を送った直後か、ロベスピエールが手紙を受け取る直前かに、隙を見て掠め取ったのでしょう。我々はお互い、頻繁に書のやり取りをしていますから、一通くらい相手に届かなかった手紙があっても、気付かないかもしれない」

「なるほど……となると、その裏切り者は、案外我々のそばにいるかも……ひょっとしたら、我々のすぐ下にいる幹部たちのひとりかもしれんな」

「そう。その可能性が高い。ガリアに共和制政府を誕生させるための、大切な戦いを前にして、獅子身中の虫が生じるとは……嘆かわしいことだ」

 憮然とした面持ちで、ロベスピエールがため息をつく。

「我々は、貴族に支配され、不当に圧迫される平民を解放するために立ち上がった。

 今の社会は、公平ではない。魔法が使えるか、使えないかという、ただそれだけの基準で、支配する側とされる側が決定されている。さらに悪いのは、魔法を使う能力が、技術のように努力によって得られるものではなく、血筋によって先天的に決定されるということだ。

 つまり、支配する者は支配する者として生れつき、従う者は従う者として生れつく。この二元構造が、貴族制、王制によって補強され、六千年のもの長きに渡って維持されてきた。

 力ある者が、弱者の上に立って導く、という形を、間違っているとは言わん。人類を生き残らせるためだけなら、それでもやっていけよう。だが、これからハルケギニアが発展していくためには、それではもう通用しないのだ。魔法の使えぬ平民にも、頭が良かったり、力の強い者はいる。魔法の使える貴族にも、無能な者や卑劣な者はいる。魔法という基準だけで人を区別すべきではないということを、社会に認めさせる必要がある。

 そして、能力と人格が共に優れた指導者たちを、人民全体の投票によって選出し、民意をできる限り正確に反映する政治を行うようにならなければ……今からさらに六千年の時が経っても、平民は貴族にあごで使われ続けることになるだろう。

 誰もが平等に、努力次第で上に行ける。そういう世の中を作り、子孫たちに残してやりたい。そんな理想を共有した者たちが集まり、我ら『テニスコートの誓い』は生まれた。その理想と信念を貫き、革命が成るならば、この身を犠牲にしても構わない……互いにそう誓い合ったからこその、この組織名だというのに――恥知らずにもほどがある!」

 ロベスピエールの拳が、テーブルをドン、と叩き、上に乗っている皿やグラスを跳ねさせる。激しい怒りのために、彼の秀でた額は紅潮し、薄く汗をかいていた。

「まあ、まあ、落ち着きなよロベスピエール。俺たちにはたくさんの仲間がいるんだ。ひとりやふたり、初志を貫徹できない奴がいても不思議じゃない。

 俺たちさえ理想を失わなければ、他のみんなはちゃんとついて来てくれるさ。『テニスコートの誓い』は、今の世の中を憂いた者たちの集まりなんだからな。貧困や差別がある社会を放置していたい人でなしが、そう何人もいるとは、俺は思わない」

 ロベスピエールをなだめるサン・ジュストの言葉に、シエイエスも頷く。

「貴族や上流階級にいる人々は、実に華やかで充実した暮らしをしておられる。私や君たちのような、仕事を持つ者たちも、ありがたいことに、衣食住に困らず、時々はこういう店で遊興を楽しめる余裕を持てておる。

 しかし……家も仕事も持たぬ者たちは……何一つ満たされずに、幸福であるべき人生の時間を、苦痛のみを感じて過ごしておる。この華やかなるリュティスでさえ、少し裏道に入れば、物乞いの姿を見る……彼らは、布とさえ呼べぬようなぼろをまとい、痩せこけ、大半が助からぬ病に冒されている。

 私はブリミル教徒として、彼らをひとりでも不幸から救い出すべく、努力を重ねてきた。食事を施し、薬を与え、仕事を紹介した。何人かはそれで助けられた……しかし、貧しい者たちは何百、何千人といるのだ。個人の力では、どうしても追いつかぬ」

 顔全体に苦渋の色をにじませて、シエイエスは語る。ふたりの仲間も、それを聞きながら、同情とも義憤とも、悲しみともつかぬ表情を浮かべていた。

「この状況を打破するには、個人ではなく、国家の力を使い、社会自体を変えていくしかない。貴族が平民を見下す今の世の中では、無数にいる不幸な人々を救うことはできない。

 そう思ったからこそ、私は『テニスコートの誓い』に賛成した。信者たちの中から同志を募り、社会を変革しようと決意した。

 腐敗したブルジョアを排し、彼らの溜め込んだ財産を使って、ガリア国民全体の再生を計る。真に平等な、誰も飢えずに済む、幸福な社会を作る――たくさんの犠牲を出す荒療治ではあるが、間違ったやり方だとは思わないし、これ以外の方法があるとも思わない。ロベスピエール君、怒りをおさめ、自信を持ってくれ。ガリア全土に散らばる一万五千の会員たちは、みんなきっと私と同じ気持ちでいるはずだ」

「……ありがとう、ファーザー・シエイエス」

 ロベスピエールの中で沸き立っていた怒りは、シエイエスへの感謝と尊敬の念によって、もうすっかり静まっていた。彼は、冷静で論理的な本来の性質を取り戻し、ずれかけていた眼鏡を、中指で軽く押して直した。

「裏切り者の出たことが意外で、少々取り乱した。申し訳ない。怒りや罵りの言葉を吐く前に、この件による不利益をいかに抑えるか、それを話し合うべきだった」

「その通りだ、普段の理性的な君に戻ってきたようだね、ロベスピエール君。

 まあ、脱落者については、後で追及するとして……サン・ジュスト君。ひとつ確かめたいことがあるのだが」

「何でしょう、ファーザー?」

「君は、私の致命的な手紙が、ロマリアのコンキリエ枢機卿に送り付けられて、それが近くジョゼフ陛下の手に入ると言ったね? ということは、まだその手紙は、ガリア王政府のもとに届いていないのかな?」

「ええ、その通りです。どうやら、コンキリエ枢機卿という人物は、かなり慎重な性格のようですね。郵便で送ると、途中で我々に奪われる可能性があると言って、自らジョゼフ王を訪ねて、直接手渡すという約束を取り付けたようです」

「その枢機卿の心配は……我々にとっては残念なことだが……的を射ていたな。王宮宛てに送ってくれていたなら、アントワーヌ・ジュリアンあたりに、容易に抜き取らせることができただろうに」

「もしも、の話をしても仕方ないさ、ロベスピエール。具体的に、どうする? 手紙のことと……コンキリエ枢機卿のことだが」

「もちろん、始末せねばなるまい。両方、な」

 ロベスピエールはためらいなく言ってのけ、それを聞いたシエイエスは、深い悲しみの表情を浮かべ、始祖に祈った。

「その枢機卿は、問題の手紙の筆跡を見ている。証人になる可能性がある以上、確実に口を塞がなければならん。

 話通りの、慎重で気の利く人物なら、手紙を他人に見せるような軽率な真似はすまい。コンキリエ枢機卿を始末し、手紙を奪ってしまえば、我々の危機はひとまず去る……証拠がなければ、いくら王宮といえども、我々を糾弾することはできまい」

「それが妥当だろうな。しばらくは目をつけられるかもしれないが……そうだ。枢機卿を始末する時、手紙を奪うだけでなく、こちらで偽造した、偽の手紙を代わりに置いてくるというのはどうだ? ファーザーの筆跡とは、似ても似つかぬ偽手紙を、さもこれこそがジョゼフ王に渡されるはずの手紙です、みたいな感じで残しておくんだ。そうすれば、枢機卿のもとに届けられた告発は、誰かが創作したはた迷惑な悪戯だったということになって、容疑を完全に逃れられるのではないか?」

「ほう、うまいこと考えたじゃないか、サン・ジュスト。よし、その手でいこう。枢機卿と、本物の手紙を始末し、偽手紙を残して王宮の捜査を撹乱する。大筋はこれでいいな?」

 ロベスピエールの確認に、サン・ジュストが頷き、シエイエスも大いなる諦観とともに、「仕方あるまい」とつぶやいた。

「革命のため、多くの飢えた人々を救うためとはいえ、ガリアにさえ関係のない人物を殺さねばならないというのは、気が重いが……我々は歩みを止めることはできない。そう、仕方のないことだ……。

 始祖よ、正義を行うために、他者に犠牲を求めなくてはならない、愚かな私を許したまえ……」

 シエイエスの祈りに、ロベスピエールも神妙な面持ちになる。

「我々は、きっと死せる後に、始祖によって魂を罰せられるのでしょうな。しかし、子孫たちに、より良い社会を残せるのなら、それとて覚悟の上です。

 果たして裏切り者は、それだけの覚悟をしているのでしょうかね? 我々に、無関係なコンキリエ枢機卿を殺害することを決めさせた何者かは……?」

 皮肉げなロベスピエールの言葉に、サン・ジュストは肩をすくめた。

「革命を望んで仲間になっておきながら、その礎になることを拒んだ者なんだ、覚悟など初めからあるわけがない。

 そんな奴が仲間内に紛れていて、そのことにまったく気付けなかったことは、非常に苦々しい思いだよ。

 いっそ、最初から裏切り者などいなかった、裏切り者がいるように見せかけた、外部の何者かの罠だった……そう考えることができたら、気が楽なんだが」

「外部の罠? 今回の問題が『テニスコートの誓い』に関係のない場合かね? 私にはちょっと想像がつかないが……そんな仮定も可能なのかね、サン・ジュスト君?」

 シエイエスの素朴な問いに、サン・ジュストは、そうですね――と前置きして、こう答えた。

「たとえば……ファーザー・シエイエス。あなた個人に害意のある何者かが、あなたに無実の罪を着せるために、適当に『テニスコートの誓い』との関係を示す証拠を捏造して……宛名も適当に、名の知れているロベスピエールにして……それを世に出してみたら、本当にあなたやロベスピエールが『テニスコートの誓い』に関わっていた、という場合なのですが……」

「……………………」

「……………………」

「……失礼、忘れて下さい。いくらなんでも、ご都合主義が過ぎますね……」

「う、うむ……さすがに私も、それはないと思うね」

「サン・ジュスト、お前、最近仕事が忙しかったから、疲れているんだろう。このミーティングが終わったら、ゆっくり休め」

 シエイエスもロベスピエールも、自分の発言に頭を抱えた仲間を、優しく労った。

「と、とにかく。コンキリエ枢機卿が、ガリア王に手紙を届ける前に、処置を施さねばならん。問題は、誰を差し向けるか、ということだが」

「やはり、荒事に慣れた会員たちを使うか? 今まで、貴族たちを襲撃したように?」

「いや、今回の仕事に『テニスコートの誓い』の影を見せては、枢機卿の持っている手紙が本物だと、自白しているようなものだ。

 だから、我々と関係のない者。フリーランスの殺し屋を雇って、仕事をさせようと思う。都合よく、凄腕をひとり知っているのでな……」

 そう言って、ロベスピエールは小さく口元を歪めた。容赦というものを欠いた、凄惨な笑みだった。

「依頼料は、千エキューもあれば足りると思うが……私やファーザーの口座は、王宮に睨まれている可能性があるからな。サン・ジュスト、悪いが、立て替えておいてもらえないか」

「了解した。あとで使用する口座を教えてくれれば、いつでも振り込むよ」

「その者の仕事は、コンキリエ枢機卿を始祖の御下に送ることと、例の手紙のすり替え工作だね? ならば、ついでに裏切り者の書いた告発文も、一緒に奪ってきてもらってはどうだろう。その筆跡を調べれば、裏切り者の正体を明らかにする助けになるかもしれない」

 ロベスピエールの要請は、サン・ジュストによって受理され、シエイエスの提案もまた、賛同を得られた。

 話し合いはほぼ決着し、シエイエスのティーカップも空になっていたので、ロベスピエールは会議の終了を宣言した。

「では、ファーザー・シエイエス。来た時と同じように、私とは別のタイミングで、別の出口からお帰りになってください。王宮の犬どもに、今日の会議に参加したことを悟られぬよう、くれぐれもお気をつけて」

「ああ、わかっているよロベスピエール君。君も気をつけて……」

 シエイエスは僧帽をかぶり直し、仲間のふたりに一礼して退出していった。

 その十五分後、サン・ジュストも退室し――後には、ロベスピエールひとりが残った。

(……正念場、だな……今回の問題を解決できるかどうかが、我が革命の、『テニスコートの誓い』の将来を左右することになる……)

 ひとりきりのVIPルームの中、彼は心の中でそうつぶやき、ベルを鳴らしてウェイターを呼んだ。当然、シエイエスの唱えたサイレントは、すでにその効果を失っている。

「お呼びでしょうか、ミスタ?」

 ロベスピエールは、やってきたウェイターに、少し多めのチップを渡した。彼の本来の仕事でない用事を頼むことへの、手間賃がそれに含まれている。

「悪いが、ひとっ走りお使いを引き受けてくれないか。サヴォイ・ホテルの、イーノヘッドを呼び出してくれ……」

 

 

 旅をするには、良い日じゃ。

 我は自家用船《シャピアロン》号の甲板にしつらえられた寝椅子に横になって、高所の澄んだ風を頬に浴びながら、大きく膨らんだ真っ白な帆布と、突き抜けるように青い空を眺めておった。

 火竜山脈の真上あたりじゃから、ちぃと硫黄っぽい臭いのするのがアレじゃが。やはり地上にない景色を見るのは、いい保養になるもんじゃ。

「ヴァイオラ様、冷やしたオレンジ・ジュースをお持ちしました」

「うむ」

 我は上半身だけを起こして、シザーリアの持ってきたグラスを受け取る。一息にぐっとあおれば、オレンジの豊かな香りがまず鼻に抜け、次いで豊かな甘みと、それを引き立てる酸味とが、舌の上をさっと通り過ぎていく。うむ、果汁はやはり、ちびちび味わうより、こうして喉越しの爽やかさを楽しむのが正解よのう。

「ときにシザーリア、ガリアまでは、あとどれくらいで着くのじゃ?」

 飲み終えたグラスを返しながら、我のすごい役に立つメイドに尋ねると、コヤツは予想通り、間髪入れずに答えを返してきよった。

「はい。先ほどガルース船長に確認したところ、ボルドーの港へは、あと三十分ほどで到着するそうです」

「わかった。では、今のうちに、下船の準備を済ませておいてくれ。我は、もうしばらくここでくつろいでおる」

「かしこまりました」

 一礼して、シザーリアは音もなく船室へ戻っていった。再びひとりきりになった我は、悪魔に冗談を打ち明けるように小さく笑うと、懐に潜ませた小箱を、法衣の上から軽く撫でた。

 今回の旅行の行き先は、ガリアのボルドー……ではなく、リュティス。

 目的はもちろん、ガリア王ジョゼフに、例の偽手紙を渡すこと。

 リュティスまで直接フネを飛ばして、一直線にジョゼフ王のとこまで行ってもええんじゃけど、ガリアの犯罪組織撲滅に、ロマリアの枢機卿が直接協力した、って話になると、あんまり都合がよろしくない――ガリア王宮の体面的な意味で――ので、我は休暇をとって、何の政治的意図もないガリア旅行を楽しむ、という体裁をとることにした。

 これなら、途中でちょっと挨拶をしにガリア王を訪ねて、そのついでにロマリア土産じゃと言うて、さりげなーく手紙を渡すことができるというわけじゃ。

 実際に、我が渡すのは、ロマリアの宝石職人が手がけた、芸術的な化粧小箱。これだけでも、王に贈るものとしての価値は充分。その中に、真の土産である手紙をおさめてある。

 この手の偽装工作は、臆病に思えるくらいの慎重さで企てるのがちょうど良い。細かいところに手を抜くような、自信家のおマヌケさんは、生き馬の目を抜く政治の世界では、生き残っていけんのじゃからな。

 ……慎重といや、アクレイリアを出発する前に、ガリア王から「ボルドーに着いたら、こちらの派遣した騎士と合流して、一緒に行動すること」って手紙が届いたんじゃよなぁ。証拠の手紙を奪うために、いつ、どこから『テニスコートの誓い』の刺客が襲い掛かってくるか知れん、とか言うて。

 今回の事件のウラを知っとる我にしてみれば、まったく無駄な心配であり、滑稽ですらあるんじゃがなぁ。シエイエスがマジで『テニスコートの誓い』と関わっとるなんてことがあるわけがないし、奴の容疑が事実無根な以上、連中も手紙を奪いになんか来るはずもない。

 つまり、この旅の安全は、ガリア王に守ってもらわんでも、最初から保証されとるのじゃ。

 ま、お供がひとりふたり増えたところで、我は別に困らんからええんじゃけどな。

 せいぜい、その騎士とやらが、一緒に旅をして退屈でない奴であることを祈っておこうか。

 

 

 ボルドーという街は、主にガリア・ワインの一大産地として、名を知られておる。

 我々がボルドーの港に到着した時も、そよ風に乗って、甘く渋いワインの香りが漂っておった。周りに係留されておるフネも、客船はあまり見当たらず、貨物船が主じゃった。桟橋からフネへとかけられたタラップを、屈強な船員たちが、大きな酒樽を担いで登っていく。樽以外にも、有名な酒蔵の焼き印が捺された木箱なんかが、そこら中に山と積まれておった。この場所から世界中へ向けて、美味いワインが送り出されていくのじゃろう。ああもう、着いたばかりじゃというのに、さっそく酒盛りをしたくなってきたわい。

「ううむ、よう考えたら、そろそろ昼時じゃし……ランチのついでに、いいやつを一本空けてみるか」

 前からちょっとやってみたかったんじゃよなぁ。昼間から酒を喰らって、べろんべろんに酔っ払うの。

 よし、そうと決まれば、さっそく美味そうなレストラン探しに乗り出すとするか!

「ヴァイオラ様、その怠惰かつおとなげないご希望に、あえてご注意申し上げることはいたしませんが……それより、まずはジョゼフ陛下の寄越して下さった騎士様とお会いした方がよろしいかと」

 我が、旅の目的を教えた(告発が我の自作自演っつーことだけは、さすがに伏せたが)唯一の人物であるシザーリアが、走り出しかけた我を、静かなアドバイスで思い留まらせる。

「おお、そうじゃったな! 忘れておったわい。そいつをまずは探さねば……つーかお前、最近マジで我に対して、遠慮がなくなってきてないか……?」

「気のせいでしょう。もしそうだとしたら、それはヴァイオラ様の親しみやすいお人柄の賜物とお受け取り下さい」

「そうか? 微妙に言いくるめられとるんじゃないかっつー予感が、我が心のうちに、ハチミツのようにべったり張り付いて離れんのじゃけど。

 まあよいか。で、その騎士とやらじゃけど。港の出口で待っとるから、そっちで見つけて声をかけろ、みたいに、手紙には書いておってな。

 目印があるから、すぐわかるという話なんじゃが……」

 話しながら、我々は桟橋を離れ、港の出口へと向かう。

 トリステインのラ・ロシェールにある港は、枯れた世界樹を利用しておったが、ここボルドー港は、ジュリオ・チェザーレ大王時代の、背の高い石造りの城を改築したものじゃ。フネを係留する桟橋は、天高くそびえ立つ尖塔じゃし、乗船受付所や待合室は、かつての食堂やダンスホール。客の出入りは、もちろん大扉の開け放たれた正門から。

 我々も、かつてのこの建物の堅牢さに思いを馳せながら、悠々とその門をくぐり、外へ出た。我は手ぶらで、その後ろからシザーリアが、我の荷物である革トランク十七個を、レビテーションで浮かべながらついて来る。

「まあ、その目印っつーのが、ただ一言『竜』なんじゃけど……さすがにまあこれは比喩じゃろうなぁ。たぶん、竜の彫刻を施した杖を持っとるとか、竜の鱗を使った贅沢な鎧を着とるとか……」

「ヴァイオラ様」

 ちょうど、城壁を囲む堀にかけられた橋を渡り終えたあたりで、シザーリアが我の服を引っ張った。

 我の注意を引きたかったのじゃろうが、どうせ引っ張るのなら襟首以外の部分にせい。頭がガクンッてなったぞ。ガクンッて。

「……とりあえず、申し開きを聞こうか、シザーリア」

「ヴァイオラ様、騎士様を見つけ出す目印は、竜とのことでしたね?」

「うむ、そうじゃ。……つーかお前、言い訳ぐらいしてくれんと、我は寂しくて泣くぞ」

 すでに首ガックンの痛みで半泣きの我を、しかしシザーリアは華麗にスルーして(こん時、我の目からこぼれ落ちたものがあったが、たぶんそれは真珠か何かじゃ)、橋の横手を指差した。

 そこは緩やかな土手になっており、柔らかそうな芝生にふさふさと覆われておった。日当たりもよく、寝転がると大層気持ちがよさそうじゃ。普段ならば、港の利用者や、近所の平民どもが、お昼寝なりひなたぼっこなりしておる場所なのじゃろう。

 じゃが、今、この時において、そののどかな斜面を占拠して横になっておるのは――青い鱗を持つ、一頭のどでかい竜じゃった。

 いや、どでかいっつっても、軍属の竜騎士とかが乗る竜は、もっと倍ぐらいでかいから、こいつはきっと幼生なんじゃろうけど、それでも大人の四、五人は背中に乗せられそうなサイズの巨大生物が、思いもよらぬタイミングで目の前に現れたのじゃ。我があっけに取られて、数秒間思考停止してしまったとしても、それは恥でも何でもあるまい。

 美しい青い体、背中に生えた立派な翼から見るに、風竜であろう。尻尾の先をくわえようとしているかのように、ドーナツ状に丸くなってじっとしている――どうやらこやつも、この陽気に耐えられず、スヤスヤとおねむの時間を楽しんでおるようじゃ。

「竜でございますね」

 シザーリアが、眠れる竜を見ながら、こともなげに言う。

「うむ、どっからどー見ても竜じゃ」

 我も同意する。さりげなく、シザーリアの後ろに隠れながら。

 しかしこれ……おい、ジョゼフ王ッ……まさか貴様、我の護衛に竜騎士を派遣したっつーことなのか?

 確かに、ガリアにとって『テニスコートの誓い』は、ぜひとも撲滅したい国敵なのかもしれんが、いくらなんでも本気すぎるじゃろ。どんだけ凶悪な襲撃を想定しとるんじゃ!?

 つか、騎士はどこぞ? ここまで目立つモンにどっかり鎮座されとる以上、コレが目印の『竜』だろうことは、我も間違いないと思うが、それを駆る竜騎士、つまり人間が見えぬ。

 まさか、この竜自体がジョゼフ王の派遣した「騎士」でしたなんてオチは……無理、無理無理無理じゃぞ! さすがの我でも、言葉の通じん大型肉食動物と一緒に、はるかリュティスを目指すなんてことは! 我は調教師じゃないから、出発後一時間以内で食われる自信がある!

 そんな感じで、我が戸惑いと恐れとジョゼフ王への文句をまぜこぜにした言葉を、脳内で同時に二十種類くらい組み立てておると……「ぱたん」と、軽い音がした。

 竜が寝ぼけて、翼や尻尾を動かしたわけではない。それ以外の部位でもなく、つまり竜自身が発した音ではなかった。

 音源は、我々からは見えぬ位置、小山のような竜の胴体の向こう側にあるようじゃった。そこに何かがある――いや、何者かがおる。

「……そこにおられるのは、ロマリアからの客をお待ちの人か」

 我は、精一杯の勇気を振り絞って、そう問いかけた。

 返事が返ってくるまでには、たっぷり十秒を要した。我が固唾を飲んで見守っておると、かさり、と――人の立ち上がる時の、衣服の擦れ合う音がして――次いで、さく、さくと草を踏む音。

 竜の頭側から回り込んで、その人物はこちら側に姿を現した。

 我の視界に入ったそいつは、お世辞にも騎士らしいとは言えぬ姿をしておった。――まず、背がちびっこい。立った状態でも、地に寝そべった竜の背に、頭まですっかり隠れてしまうほどじゃ。

 次に、幼い。そのツラはどー見ても、十三歳以上とは思われぬ。しかも身につけとるものはといえば、白のブラウスに群青色のプリーツスカート。思いっきり学生服じゃ。スカートと同じ色のマントを羽織って、貴族らしさを演出するんはええが、まずは武人らしさとか、それ以前に社会人らしさを醸し出す努力をして欲しかった。それに、あの紐ネクタイの飾りは、トリステイン魔法学院のマークじゃあるまいか。ガリア騎士なのに……何なんじゃ、このツッコミどころに困らん娘は。

 あー、うん。ちびくて幼くて、ついでに言うと野郎でもなかった。女性と呼ぶにはまだ足りぬ、愛らしい少女じゃ。

 ここに来るまでに見たような、晴れた空みたいに青い綺麗な髪をショートにしていて、縁の赤い眼鏡をかけておる。右手には、自分の背丈よりもでかい、節くれだった木の杖を持ち、反対の手には、茶色い革装丁のぶ厚い本をかかえておった。おそらく、先ほど我の聞いた「ぱたん」という音は、読んでいた本を閉じたために生じたものなのじゃろう。

 ……うん、どっからどう見ても、クラスにひとりはおる、物静かで目立たない、読書好きな文系貴族女子Aじゃ。

 こんなひょろっちい奴がガリアの騎士で、しかも我の護衛じゃと?

 少なからぬ疑念(大丈夫なんじゃろか? 我の身の安全ではなく、ガリアの国防は?)を感じながら、じっと少女の様子を観察しておると、ふと彼女と目が合った。眼鏡の奥の――凍った湖のような、底の知れない深みと透明感を持った――瞳が、こちらを静かに見つめておる。

「……《シャピアロン》号」

 ガラスでできた鈴が鳴るような――あるいは、妖精がそっと囁くような、そんな涼やかな声が、桜色の小さな唇からこぼれた。

「《シャピアロン》号でやって来る、ミス・コンキリエと約束がある。……あなたが、そう?」

 やはり間違いないらしい――彼女の問いに、我は頷いて応えた。

「ヴァイオラ・マリア・コンキリエじゃ。こっちは侍従のシザーリア。

 そちらの名も教えてはもらえぬか、ミス?」

 それを見て、向こうも小さく頷く。

 どうやらこの少女は、その容姿から所作に至るまで、コンパクトにしてシンプルを貫いておるらしい。次に彼女の口から出た自己紹介もまた、短く無駄がなかった。

「花壇騎士、タバサ」

 ボルドーの真っ青に澄んだ空の下。

 タバサと我――以後長い付き合いになるふたりの女は、こうして出会った。



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タバサの冒険/孤独の森:前編

タバサかわいい!


 私の名は、シャルロット・エレーヌ・オルレアン。

 でも、今はその名は使っていない。今の私が名乗る時は、タバサという名を告げるようにしている。

 この時点で、私という人間には名前がふたつある。しかし、世の中というものはひねくれていて、さらに別の名で私を呼ぶ人もいたりする。

「いいかい人形。今回の任務は、ロマリアからやってくる尼さんの護衛さ。もちろん、楽な仕事じゃあないから覚悟しておくんだね」

 柔らかなソファーに腰を沈め、得意そうに踏ん反り返って、イザベラは私にそう言った。

 彼女の広い額の上に結い上げられた、濃い青色の髪は、ガリア王家に連なる者の証だ。宝石をちりばめたティアラや、華美なドレスをまとったその姿は、まるで物語に登場するお姫様のようで――実際、イザベラはお姫様だった。ガリア王国国王ジョゼフの一人娘、見目麗しい、たったひとりのプリンセス・ガリアなのだ。しかし、残念なことに、仕草や口のきき方が野蛮で、性格も短気と、内面はあまり憧れられる要素がない。

 ああ――このなんとも高慢で、人を見下しきったイザベラが、今の私の上司でさえなければ。手足を縛り上げた上、十時間ほどぶっ通しで足の裏を羽根ペンでくすぐり続けることで、日頃の態度の反省を促し、王族らしい態度を身につけるよう説得するところなのだが。

 私のそんな内心を気付く気配もなく、イザベラは私に、筒状に丸められた書類を投げ渡した。

 その書類に記されていたのは、ガリア国内で暗躍する犯罪組織を告発するために必要な手紙を、コンキリエ枢機卿という人物が王宮まで届けに来るということ――しかし、その枢機卿が致命的な手紙を届けに来ることを、犯罪組織『テニスコートの誓い』がすでに突き止めており、暴力的な手段でこれを阻止しにかかる可能性があるということ――そして、北花壇騎士であるこの私に、この火の粉を払い、コンキリエ枢機卿を無事にグラン・トロワに入城させよ、という、断固たる命令だった。

「その命令書にも書いてある通り、今回の仕事はガリアの威信に関わる大事だ。『テニスコートの誓い』を潰せれば、同じ共和主義組織である『レコン・キスタ』に倒されたアルビオンと比較して、ガリア王国の強さをハルケギニア全土にアピールできる。

 でも、もしアンタが失敗して、コンキリエ枢機卿が何らかの危害を被ったり、証拠の手紙を奪われて、容疑者どもを告発することが不可能になってしまったりしたら……わかるだろうね?」

 ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら、イザベラは私を見る。

 ――そうなれば、逆にガリア王国は、犯罪組織にしてやられた無能な国家として、恥をさらすことになるだろう。国を守る王家、ひいては貴族そのものの力が疑問視され、『テニスコートの誓い』のような反政府勢力が支持を集めることになりかねない。

 私個人としては、この国のトップがいくら恥をさらそうと、なんとも思わない。この国の王は――かつては、伯父として親しんでいたこともあるあの男は――私にとって、父を殺し、母を毒薬によって病に陥れた、この上なく憎い敵であり、いつかこの手で倒そうと決意している相手である。そんな彼がどのような不利益を受けようが、知ったことではない。

 でも、それでも。たとえ敵の利益になるとしても――私は、この仕事を行い、成功させなくてはならない。

 私が、伯父王に屈服していると見せかけるために。毒薬によって心を壊され、人質同然に扱われている母様の安全を守るために。

 使える人形としてふるまい、敵を油断させておかなくてはならない。

 復讐を成し遂げ、母様の心を治す方法を見つけ出す、その日まで――。

「それで、だ。今回の仕事の何がきついかってね。どうやら敵さんの方は、コンキリエ枢機卿の持ってくる手紙をかなり重視してるみたいで、確実な実力を持った刺客にこれを奪わせようとしてるらしい、ってところさ。

『テニスコートの誓い』に潜入工作員として接触させた、コルデーって女の報告によると……こいつは、組織のリーダーまではつきとめられなかったが、中級幹部であるマラーって野郎の部下になることに成功しててね……これまで『テニスコートの誓い』は、暴力沙汰を起こす場合、農民兵や盗賊くずれといった有象無象の寄せ集め、つまりは数で押す戦法を使っていたんだが、今回は金を払って、外部からフリーの殺し屋を雇ったらしいんだ。

 その殺し屋の、顔や名前はわからない! コルデーがマラーから聞き出せたのは、そいつが『孤独』という二つ名を持っていて、平均500エキューの仕事料で、どんな難しい相手でも始末してきた、凄腕の《メイジ殺し》ってことだけさ」

「メイジ殺し? ……メイジでは、ないということ?」

 私はイザベラに聞き返した。彼女から指令を受けている間、私の方からはあまり口をきくことはない――しかし、こちらの身を守ることに繋がる情報があるならば、仕入れておくに越したことはない。

「ああ。これまでに『孤独』の仕業と見られる暗殺事件が、ガリアのあちこちで確認されているが、どれも死因はナイフや弓矢のような、平民が使うような武器による切傷、刺傷によるものだった。火や風の魔法を使った傷じゃない。

 土メイジが、武器を持たせたゴーレムを使ったって可能性もなくはないが……注目すべきは、殺された側も、魔法を使った形跡がないってことさ。これはつまり、不意を突くのが上手い人間によって、スペルを唱えるヒマもなく、素早くザクリとやられたってことを意味している。

 やられた奴の中には、軍にいた経験もある、戦闘魔法に特化した火スクウェアもいたそうだよ……どうだい、怖いだろ? 魔法のウデをご自慢にしてる奴でも、涼しい顔してぶっ殺していく、謎の怪人を敵に回すんだ。風トライアングル程度のあんたじゃ、荷が重いかもしれないねぇ?

 ま、あたしも鬼じゃないし? あんたが、こんな危ない仕事は怖いから勘弁して下さい、って泣いて頼むなら、この任務、別の奴に回してやってもいいんだけど〜?」

 そう言うイザベラの表情は、慈悲や同情などといった感情からはまったく掛け離れていた。彼女はいじめっ子である――私が怖がり、涙を浮かべるところや、膝を笑わせる姿を見たいから、こんなことを言っているのだ。

 しかし、私にも――復讐を成すため、強い人間になるため、感情をあえて押し殺して暮らしている私にも――多少のプライドというものはある。

 これまでにも、死線は数多くくぐり抜けてきた。今回の仕事が、過去の仕事に劣らず危険だとしても、怯えずにそれと向かい合う程度の胆力はあるつもりだ。

「……この任務、確かに、引き受けた」

 私はそうとだけ言って、ニヤニヤ笑いを続けているイザベラに背を向けた。

 私が踵を返した途端、彼女の表情がどう変わったかは、想像に難くない。そのまま退室しようとする私に、背後から不機嫌さを隠そうともしない荒い言葉が飛んできたのだから。

「ああ、そうかいそうかい! ま、死なない程度に気をつけるがいいさ! あんたみたいなちんちくりんの小娘じゃ、ナイフで刺されて突っ込める穴が増えたって、喜ぶ男はいやしないだろうからね!」

 ――やっぱりイザベラは、いまいち品に欠ける。

 冗談にこそ知性と品性が必要だと思うのだけれど、彼女はその逆を好んでいる気がする。今度、嗜好を矯正するためにも、トゥモノリー・ジーン・ナイ教授とか、アンジャッシュ卿の喜劇本でも薦めてみよう。それとも、ダウンタウン兄弟の【誰も笑ってはならぬ】がいいだろうか。

 頭の中で十五冊ほどの喜劇本をリストアップしながら、私は無言でイザベラの部屋を後にした。

 プチ・トロワを出たあたりで、使い魔のシルフィードに乗り込み、リュティスの空に舞い上がる。彼女は人語を話すことのできる風韻竜の幼生で、少々おしゃべりなところはあるが、頼りになる使い魔だ。

 周りに風しかない高空に達すると、シルフィードは見た目に似合わない、幼い子供のような声で、早口に喋り始めた。

「きゅいきゅい! お姉様、またあのデコ姫にお仕事を押し付けられたの?

 お姉様がお仕事すると、シルフィもめんどくさいことさせられるから嫌なのね! 服着せられたり、縛られたり、ご飯少なかったり! 使い魔の扱いをよくして、お姉様自身が安心して暮らすためにも、お姉様は『働きたくないでござる!』ってデコ姫に言うべきだと、シルフィは心の底から求め訴えるのね!」

「却下」

 私は全意識の2パーセントほどを使って、シルフィードのおしゃべりに付き合ってあげる。

 残りの98パーセントの意識は、イザベラから受け取った命令書を読み返していた。

 護衛対象――ヴァイオラ・マリア・コンキリエ枢機卿。

 命令書に添付されていたプロフィールによると、まだ年若い女性でありながら、ブリミル教会内で高い地位を築くことに成功した、類い稀な人物であるらしい。また、七つの主要風石会社の大株主でもあり、ハルケギニア経済の30パーセント以上を握っているとまで言われている。

 そのような大物でありながら、ガリアの平和を守るために、犯罪組織に狙われる危険を冒してまで、自ら手紙を届けにやってきてくれる、勇気に満ちた人でもある。

 まさに、女傑という言葉が相応しい。知性とエネルギーに満ちあふれ、やると決めたら必ずやる、そんな強い女性が思い浮かぶ。

 ――少し、憧れる。私にコンキリエ枢機卿ほどの力と意思があれば、きっと今頃は仇を討ち、母様を助けることができているかも知れない。

 このプロフィールに見た目は書かれていないが、どんなお姿をしているのだろう? イメージとしては――魔法学院で仲良くしている、キュルケのような感じではないだろうか。背が高くて、スタイルが良くて、母性にあふれ、落ち着いた雰囲気を漂わせている。それでいて、目には火竜のような、力強い輝きが宿っているのだ。

 ああ、少し不真面目な考えかも知れないが――危険な任務だというのに――コンキリエ枢機卿に会うのが、楽しみになってきた。

 シルフィードが大きな翼を羽ばたかせ、真っ青な空を突き進む。目指す先は、待ち合わせの場所、フネとワインの街、ボルドー。

 

 

 ――そして、私がボルドーで出会ったのは。

「ミス・タバサと言うたな。まずは、お前の立場について、はっきりさせておくべきだと思うのじゃ」

 こちらを警戒心丸出しで睨みつける、小さな子供だった。

 背は低く、顔立ちは幼く、体つきは丸みを感じさせるほど成長してはいない。独りで他人と向かい合うことに不安を感じているのか、隣に立つメイドのエプロンドレスの裾を、ぎゅっと握り締めている。

 ――この少女が、ミス・コンキリエ?

ブリミル教会の枢機卿であり、ハルケギニア経済界の大物であり、ガリアの危機を救うべく立ち上がった、善意の人、だというのか。

 確かに、立派な僧衣を着て、枢機卿であることを示す灰色の帽子をかぶってはいるけれど――私の期待していた、包容力だとか母性だとか、人の上に立つカリスマだとかは、微塵も感じられなかった。

「わかってもらえるかの? ミス・タバサ。我々はこれから旅路を共にする。となるとじゃ、相手に不審を感じていてはいかんはずじゃ。少々不愉快に思われるかも知れんが、どーしてもひとつ、確認させてもらいたいことがある」

「……わかっている。あなたの要求は、狙われている人間として、当然」

 今にもメイドの背後に隠れてしまいそうなほどに警戒しているミス・コンキリエに、私は丁重に同意を示す。私のイメージ通りでなかったとしても、彼女が私の護衛対象であるという事実は変わらない。失望の表情を浮かべるといったような、礼を失することはしてはならないのだ。

「ここに、ジョゼフ一世陛下のサインが書かれた命令書がある。それが、私の身分を証明してくれるはず――」

「ああ、いや、違う違う。我が確かめたいのは、そういうことではない」

 私が、書類を取り出してミス・コンキリエに渡そうとすると、彼女はそれを不要であると言わんばかりに、手をひらひらと振った。

「身分だとか所属だとか、そういうのはどーでもよいわ。我が知りたいのは、お前の極めて個人的なパラメータでの……ちょっとの間、背すじをしゃんと伸ばして立っておれ」

 ミス・コンキリエはそう言うと、険しい表情を崩すことなく、慎重な足取りでこちらへ向かってくる。

 彼女が一歩近付くたびに、私の身も強張った。何を、どう確かめるというのか。

 私は不意に、ミス・コンキリエがブリミル教会の枢機卿であるということを思い出した。教会といえば、異端審問の総本山である。想像もつかないような恐ろしい拷問にかけられて、必要なことも不要なことも洗いざらい喋らされる未来が、ひどく鮮やかに脳裏に浮かんだ。

 じっと私をねめつけながら、ミス・コンキリエは目の前まで寄ってきて――そのまま、横を通り過ぎ、私の背後に回った。

 そしてその直後、背にあたった柔らかな感触。これは、人の体――ミス・コンキリエに、背中に触れられた? いや――後頭部に感じるふさふさとしたものが髪の毛だとすると、彼女は私と、背中合わせに立っているのか。

 互いに背を預け合って立つ。このことにどんな意味があるのだろうか?

 私がミス・コンキリエの意図をはかりかねていると、その疑問に対する答えとなる言葉が、背後から発せられた。

「今じゃ、シザーリア。……測れ」

「かしこまりました」

 ミス・コンキリエの命令を受けて、メイドがそばに寄ってくる。そして、彼女は私と、彼女の主の頭に、左右の手の平を軽く乗せた。

 こ、これは――「測る」というのは、まさか――?

「ど、どうじゃ、シザーリア? 我とこのミス・タバサとでは、どっちが高い?」

 背後から、ミス・コンキリエの、期待感で上擦った声が聞こえた。しかし、メイドのシザーリアはゆっくりと首を横に振って、主人を悲しませる真実を告げた。

「公正に申し上げます。残念ながら、ミス・タバサの方が、一サントほど高いようです」

「なん……じゃと……?」

 少なくない期待感があったからだろう、答えを聞いた時のミス・コンキリエの呟きには、同情したくなるほどの絶望が滲み出ていた。

 私が振り向いた時、彼女はよろよろと崩れ落ち、地面に膝をついていた。

「くうう〜……絶対に勝てると思うたのに……久々に、ちゃんとした仕事をしている社会人で、我より背の低そうな奴に出会えたと思うたのに〜……無念、無念じゃあぁ〜……」

「………………」ムフー

「……おい、ミス・タバサ。今お前、勝ち誇った顔をせんかったか」

「……していない」

 口を真っ直ぐに引き締め、つとめてポーカー・フェイスを維持する。

 大丈夫、私は復讐のために感情を捨て去った人形だ。表情を動かさないことには慣れている――だから、こらえられるはず――笑うな、まだ笑うな――し、しかし――。

 油断するとひくひく動いてしまいそうな頬に注意して、ミス・コンキリエから目を逸らす。逃れた視線の先にいたのは、真面目な顔をしたメイドのシザーリアだ。

「ヴァイオラ様……どうか、お気を落とされませんよう」

 彼女は嘆き悲しむ主人に向かって、そっと慰めるように声をかけた。

 そう、それは非常に優しい声色だったので、私はついつい気が緩んでしまったのだ。

「そもそもヴァイオラ様は、背丈を底上げできる、かかとの高いシークレット木靴をお履きになっておられるはずでしょう。つまりミス・タバサとの身長差は、実際はもっと大きいわけで……最初から勝負になっていなかったと思えば、悔しさも薄れるのではありませんか?」

「あ、そっか、そーいやそんな靴を履いとるんじゃった……って! し、シザーリアッ! 人前でそれをバラしてはいかんとあれほど!」

「…………〜〜〜〜ッ!」プークスクス

 口元を手で隠すひまもなかった。

「の、のじゃあぁああああっ貴様ァアアア――――ッ!!!」

 私の漏らした笑い声を聞きつけたミス・コンキリエは、半泣き+グルグルパンチというコンビネーションで私を襲撃し始めた。

 騎士として、護衛対象から攻撃を受けた場合は、いったいどうすればいいのだろう? ――っていうか痛い痛いやめてやめてごめんなさい私が悪かったからやめ痛い痛い。

 

 

 ひとしきりポカポカ殴られはしたけれど(ちょっと頭にコブができた)、この一連のやり取りのおかげで、私とミス・コンキリエ――ヴァイオラは、自分たちの間にわだかまっていた、ある種の緊張感や堅苦しさを取り払うことができた。

 お互いのカッコ悪いところを見せ合うことには、互いを身近に感じさせる効果があるらしい。今の私なら、キュルケほどに気を許すところまではいかないが、ミス・ヴァリエールや、その使い魔であるサイトという少年と同じくらいには、ヴァイオラに対して、心の壁を薄くして接することができる気がする。

「よいかタバサ。我はもう、お前相手にミスとか付けて呼んじゃらん。その代わりお前にも、我をヴァイオラと呼び捨てることを許そう。

 お前には、この場所で合流した我のイトコという設定で、旅に同行してもらう。ガリア騎士を護衛につけての物見遊山など、物々し過ぎて風聞が悪いからの。それを肝に銘じて、これからは我に接するがいい」

「わかった。あなたが――ヴァイオラが望むなら、そうする」

「よし、ではタバサよ、これからの予定についてじゃが、」

「駄目」

 ヴァイオラの言葉を遮るように一言を発すると、彼女は目をぱちくりさせて、首を傾げた。

「駄目って、何がじゃ?」

「私を、タバサと呼ぶこと。その呼び方は不自然。

 イトコ同士という設定ならば、よりリアリティを追求した呼称を使うことを提案したい。ヴァイオラ――あなたは私のことを『お姉ちゃん』と呼ぶべき」

「へ? ……はああぁぁっ〜!?」

 一瞬呆気にとられ、次の瞬間には不満もあらわな叫び声をあげたヴァイオラ。

「な、何を言うとるか!? どうしてそういう話に、」

「イトコ同士といえど、年齢差によるヒエラルキーの差は自然と生じるもの。同い年のイトコだとしても、人間は必ず上下の区別をつけたがる。

 となると、どちらが姉で、どちらが妹かの設定を決めておかないことは不自然。そして、どちらが姉かを決めなければならないなら――背の高い私がお姉ちゃん役をすべきなのは、確定的に明らか」

 ヴァイオラに抗議をさせるひまも与えず、論理的な指摘(というかこじつけ)で、一気にたたみかける。

 彼女は私の言葉にたじろいだのか、動揺の色を顔に浮かべたが、しかしやはり譲り切れない部分があるらしく、自信なさげに反論してきた。

「し、しかしのぅ、実年齢的にそれはさすがに……我、もう二十六歳なんじゃけど」

「……ヴァイオラ。妹役が嫌だとしても、さすがにそれは苦しいと思う。

 年齢を偽るにしても、もう少しリアリティのある歳を言うべき。十二とか十三とか言えば、あるいは騙されてくれる人もいるかも知れない」

「ちょ、嘘じゃない――って待て、その言い方、我を十二歳よりずっと下だと思っとるっちゅうことを、暗にほのめかしてないか!?」

 何をいまさら。

 大丈夫、私はヴァイオラが、十にもならない年齢で枢機卿になり、世界の経済を操っている超天才児だとしても、変に特別扱いして寂しがらせたりはしないから。

「そもそも、私たちをイトコ同士だということにする偽装は、旅の間、他人の目を欺くためのもの。実際のお互いの立場をごまかすためのもの――だとすれば、実年齢は関係がない。ヴァイオラが二十六歳でも、百歳でも、八歳くらいだとしても、どうでもいい――見た目に応じて、設定を作るべき。違う?」

「ま、まあ、わからんではないが、もうちょっと妥協をな、タバサ……」

「『お姉ちゃん』。間違えたら、駄目」

「い、いや、しかしじゃな、」

「……………………」

 なおも抵抗しようとするヴァイオラの目を、無言で、じっと見つめてやる。

 それは視線による圧力であり、同時に励ましでもあった。頑張って。一歩だけでいい、私に歩み寄って、ヴァイオラ。これは旅を円滑に進めるために必要な儀式。けっして、妹が欲しいという私の個人的な欲望に基づいた要求ではない――私がひとりっ子だから、ずっとお姉ちゃんと呼んで慕ってくれる年下の友人に憧れていたとか、そんなことは全然ない。嘘じゃないたぶん。

「……………………」

「……あー……うーっ……えっと……」

 真正面から、お互いの息がかかりそうなほどの距離で、ただただ見つめ続ける。

 羞恥心と実利との狭間で葛藤しているのか、ヴァイオラの顔は、頬っぺたから耳の先まで林檎のように赤らみ、そわそわと落ちつかなげに視線をさ迷わせ始めた。

 彼女を困らせていることを、申し訳ないとは思わないでもないが、こちらももはや退けないのだ。あくまで、無言を貫き、押し続ける。

 そして、ついにヴァイオラが折れた。

 緊張が極点に達しているのだろう、胸元で、両手のこぶしをぎゅっと握り締め、肩をわずかに震わせて。

 涙をこぼさんばかりに、両目を潤ませ、湯気がたちそうなほどに紅潮させた頬もそのままに、こちらを上目遣いに見上げて――つっかえそうになる言葉を、辛うじて搾り出すように――ヴァイオラは、言った。

「えと、お、……おねえ、ちゃん……?」

 かすれるような弱々しい声で呼ばれた瞬間、私は反射的にヴァイオラを抱きしめていた。

 ヴァイオラは私が守る。

 そう決意せずにはいられない一撃だった。

「ちょ、おねえちゃ、ここまでせんでええじゃろ!? 離せ、ちょっとひんやりして気持ちいいけど離せー!」とかなんとか、腕の中でヴァイオラが喚いているけど、無視。

 今の時点で、私の中の親しみ度ランキングでのヴァイオラの順位は、キュルケと同格かそれ以上になった。出会って三十分も経たないうちにこのランクアップ、やはり高位の宗教家には、人の心を安らがせることに関して、並ではない才能があるようだ――もしかしたら宗教とは関係がなくて、ヴァイオラ自身の性質かも知れないが、この際そんなことはどちらでもいい。この可愛い生き物は私の妹。この絶対真理さえ確かなら、それでいい。

「……ミス・タバサ。ひとつお聞きしたいのですが……ガリアには、音声や映像を記録できるマジック・アイテムは、売っているのでしょうか?」

 ずっと沈黙を貫いていたシザーリアが、真面目な顔でそんなことを言ってきた。

 このメイドとも、仲良くなれる気がする――ヴァイオラとは違った意味で。

 私はふと、そんな風に思った。

 

 

「はーっ、はーっ、と、とりあえず、どこぞでメシでも食いながら、今後の予定を話し合うぞ……ええな? ……ぜー、ぜー……」

 息も絶え絶えで、乱れた法衣を直しながら、ヴァイオラは言った。

 さすがに二十分以上もぎゅってしたまま、かいぐりかいぐりし続けたのは、まずかっただろうか。ヴァイオラの体力を、無駄に消費させてしまったようだ。

 こちらは何とも表現しにくい、心の栄養的なものをたくさん吸収させてもらったので、むしろ元気いっぱいなのだけれど。

 聞けば、もともと私と合流する前から、食事をしようと考えていたらしい。だとしたら、随分と長い時間、我慢をさせてしまったことになる。

「ついて来て。おすすめの店に、案内する」

 私はマントをひるがえすと、ヴァイオラたちを先導して歩き出した。お姉ちゃん(役)として、ここは少しでも頼りになるところを見せておかなくてはなるまい。

 街道の左右に広大なブドウ畑が広がり、その中にポツン、ポツンと、レンガ造りの農家が点在しているのが、ボルドーの風景だ。古きよきワインの街――トリステインの、あの素朴なタルブに通じる、優しい雰囲気がある。

 ただ、あの村と決定的に違うのは、ボルドーは港が街のど真ん中にあるため、人の出入りが活発で、商人や観光客のための旅館や、飲食店が集合した賑やかな一角が存在するという点だろうか。

 私がふたりを連れて入ったのも、その飲食店街に連なるレストランのひとつだ。

『食の千年王国』という店で、有名なリッツ・ホテルの厨房で修業を積んだ一流料理人、マサカゲーヌ・ド・シロタ氏をコック長として擁する名店だ。

 といっても、貴族しか入れないような気取った場所ではなく、平民でもちょっと贅沢をする気になれば手が届く、お手頃な値段のコースもあるという、大衆的な一面もある。

 私は、花壇騎士の仕事などでボルドー近くに来ることがあった場合、大抵ここで食事をすることにしている。この店の味ならば、きっとヴァイオラにも満足してもらえるだろう。

 店に入ると、顔なじみのウェイターの「いらっしゃいませ」の挨拶とともに、客たちの好奇の視線が、私たちを出迎えた。

 遠慮のないその注目に、本能的に危険を感じ、私は杖を握る手に力を込めた。私の後ろにいるヴァイオラは、『テニスコートの誓い』という組織に、狙われている最中なのだ――敵の刺客が、客のフリをして、この中に紛れ込んでいる可能性もある。

 たが、客たちの視線が、ことごとく悪意のないものだと気付いて、私は気にすることをやめた。よく考えたら、若い(幼い、という言葉を使うほど、私は自虐的ではない)貴族の女ふたりに、やはり若い女の従者がひとりという珍しい集団が入ってきたのだ、確かに、ちょっと人目を引いてしまっても、不思議ではなかったかも知れない。

「奥の、静かな席をお願い」

 空いているテーブルに案内しようとするウェイターに、私はそう注文した。

 今、この店の中に敵がいなくても、外から見えやすい窓際や、入り口に近い席で食事をするというのは、あまりに無防備だ。

 ヴァイオラを護衛する以上、周りには常に気を配っておかなければならない。食事中など、気を休めたい瞬間は、特につけ込まれやすいものだ――人が近付けばすぐにわかり、なおかつ裏口という脱出口にも近い奥の席に陣取れば、警護する側としては、かなり楽になる。

「かしこまりました。では、こちらに」

 ウェイターの後ろについて、店の中を横切り、奥へ向かう。その途中、念のために、客たちの中に怪しい奴がいないか、さっと見て確かめる。

 敵の刺客――『孤独』は、メイジ殺し、つまりは平民らしい。だから、私が注意すべきは、怪しい平民だ。それも、多くの戦いに身を置いてきた、鍛え抜かれた体の持ち主。そんな奴がもしいたら、私は警戒を向けなければならない。

 幸いなことに、この時間、店にいた客たちは、全員が貴族のようで、しかもろくに戦闘を経験したこともなさそうな人たちばかりだった。

 カップルらしき若い男女、ぽっちゃりと太った中年の紳士、七十歳は越えていそうな、上品な老夫婦――この老夫婦は、孫でも見るような暖かい目でこちらを見ていた――彼らの中に、冷酷な暗殺者がいるなどとは、とても思えない。

 ただ、ひとりだけ、気になった人間もいた。

 私の勘に引っ掛かったのは、窓際のテーブルでステーキを食べていた、輸入雑貨商風の男だ。

 なぜ、その男の職業を、そんな具体的に連想したのかはわからない。ただ何となく、輸入雑貨商っぽいなあと思ってしまった。

 黒に限りなく近いダークブラウンの髪を短く刈り上げ、前髪を一九に分けた、地味な風貌の男だった。年齢は、青年と中年の間くらい――若くはないけど、衰えてもいない――今がまさに働き盛りといった、脂の乗った年頃に見える。

 腰のベルトに杖を挿しているから、貴族ではあるのだろう。だから、メイジ殺しの平民である『孤独』の可能性は低い。でも、それでも彼が気になったのは、その体が並のものではないと気付いてしまったからだ。

 白いシャツの下から盛り上がって見える、立派な筋肉。

 ただ鍛えただけの、鈍重そうな筋肉ではない。体型が太く見えないような、しなやかで、瞬発力を感じさせる――おそらく、実用的な筋肉だ。

 厳しい訓練と、多くの戦いを経験することで、ようやく手に入る肉体。それを持っている人間が、ここにいる。

 気にはなった。けれど、私はすぐにこの男に注意を向けるのをやめた――それというのも、向こうがこちらに、少しも注意を払っていなかったからだ。

 男は、ぶ厚いステーキをナイフで大きく切って、口いっぱいに頬張っていた。なんとも豪快な食べ方だ。「はふ、はふ」と言いながら、額に汗を浮かべて、実に美味しそうに肉を噛み締めている――その視線は、ステーキ皿から少しも動かず、こちらに向くことは一切なかった。

 その食べっぷりを見ていると、こちらまでお腹が空いてきてしまう。私はそのまま彼の横を通り過ぎ、自分たちが食事をするテーブルに向かった。

「……早く、ワイン来ないかなぁ……ステーキといったら、赤いワインだろうに……」

 背後から、そんな呟きが聞こえた気がした。

 

 

 俺は――ガリア在住の輸入雑貨商ファイブロー・イーノヘッドは、ボルドーの有名レストラン、『食の千年王国』で昼食を摂りながら、仕事のパートナーを待っていた。

 仕事といっても、本業である輸入雑貨関係じゃない。片手間にやっている副業――でも、本業を始めるにあたって必要だった資金を稼がせてくれた、実入りのいい仕事――の段取りを、今日は話し合わねばならないのだ。

 で、お腹もペコちゃんだったし、ひとつしっかりハラを満たして、気力充分で会談に臨もうと思っていたのだが――。

 

 ◎◎本日のオーダー◎◎

 

 ・ステーキ

 上等な肩ロースを、こぶし二つ分くらいの塊で。焼き方はレア。

 

 ・ビーフシチュー

 ばら肉を、ブラウンソースでとろとろになるまで煮込んである。ニンジンがデカい。

 

 ・はしばみ草のサラダ

 ガラスのボウルにたっぷり一株分。子供の頃キライだった味。

 

 ・ブリオッシュ

 渦巻き型のパン。刻んだ海藻が練り込んである。

 

 ・ベイクドポテト

 特筆すべきこともなき一品

 

 ・赤ワイン

 五年もののフルボディ。もちろんボルドー産。

 

(うーん……しまった、ステーキとビーフシチューで、ウシがダブってしまった……そうか、この店では肉類は、ビーフシチューだけで充分なんだな)

 口の中を肉汁でいっぱいにしながら、俺は少しだけ後悔していた。

 美味いことは間違いないんだが、あまりにも動物的に過ぎる感じだ。合間にサラダをつまんで、しつこさを中和しにかかる。

 うん、このはしばみ草は正解だった。苦味の具合もちょうどいい――ウシづくしの中で、すっごく爽やかな存在だ。

 そんな風にして、何だかんだ言いながらも舌と胃袋を満足させていると、待ち合わせ相手の情報屋がやってきた。

「やあ、待たせたなイーノヘッド。仕事の話の前に、僕もワインを注文させてもらうよ」

 小太りで背の低い、善良そうな商人風の男だが、殺し屋の斡旋、武器の調達、計画犯罪の下調べなど、裏の方面で手広くやっている札付きの悪党だ。

 彼は俺の対面に座ると、白ワインとスズキのパイだけを注文し、それが届くとすぐに『サイレント』を唱え、落ち着いて仕事の話ができる環境を調えた。

「よし、これで邪魔は入らない。ゆっくりじっくり、話をまとめようじゃないか。……今回の依頼の内容だが、ちゃんと頭に入っているだろうな、イーノヘッド?」

 情報屋の問い掛けに、俺は小さく頷いた。

「ああ。ロマリアから来ている、コンキリエという尼さんを始末して、彼女の持っている手紙を奪えばいいんだろう?」

「その通り。より正確に言うなら、始末したミス・コンキリエの遺体のそばに、別の手紙を置いてくることもリクエストされている。

 置いてくる方の手紙は、僕が依頼人のロベスピエール氏から預かってるから、後で渡そう。で、ここからが君に頼まれていた情報なんだがね。標的であるミス・コンキリエの似顔絵と、今後のスケジュール、そして彼女についている護衛の戦力についてだ」

 言いながら、情報屋は懐から、折り畳んだ羊皮紙を取り出し、まるでナプキンのようにこちらに渡してきた。

 誰にも見られぬよう、壁を背にしてそれを開く。中には、紫色のインクで精緻に描かれた、幼げな少女の似顔絵があった。

「それがミス・コンキリエだ。子供にしか見えないし、背もかなり低いが、二十六歳の立派なレディさ。髪の色は紫。服装は宝石のいっぱいついた法衣に、灰色の帽子をかぶっている。

 メイジとしての系統とランクは、水のライン。従軍などでの戦闘経験はない。在籍していたアクレイリア魔法学校での、実技の成績は中の下……戦闘上の脅威として考える必要は、まったくないだろうね。

 ただ、彼女を守っているふたりの護衛については、少し警戒が必要かも知れない。

 まず、シザーリア・パッケリというメイドの少女だ。似顔絵は用意できなかったが、金髪で長身。年齢は十七歳。『黄蜂』という二つ名を持つ、火のスクウェアメイジだ。

 火竜山脈を単独で越えた経験を持ち、その際に火竜の成体を二頭も仕留めている! これは火竜討伐ギルドの記録に残っていた、誇張のない事実だ。相当な実力と、戦闘経験の持ち主であることは間違いない」

 驚きに、ついつい口笛を吹きたくなった。火竜二頭とか、俺じゃあ逆立ちしたって狩れやしない。

「そしてもうひとり。ジョゼフ王の派遣した騎士がコンキリエ枢機卿を守っている。所属はわからないが、花壇騎士で、名前はミス・タバサというらしい。

 水色の髪の、ミス・コンキリエと同じくらい背の低い少女だ。実年齢はわからないが、こちらも二十を越えてるとは信じたくないね。女ってものがわからなくなっちまう。

 使い魔が風竜の幼生であることから、系統は風と思われる。また、王が国外のVIPを守らせるために派遣した騎士だ、弱いということは考えられない。まず間違いなく、トライアングル以上の使い手だろう。

 ミス・タバサについては予想ばかりで、確定的な情報が少ないことは勘弁してくれ。彼女が護衛につくことがわかったのは、ほんの一時間前だからな。

 ボルドー港を監視させていた、僕の使い魔が知らせてくれたんだ。護衛がひとり追加されたぞってね。

 今も使い魔には監視を続けさせているが、標的たちの会話からして、これ以上敵が増えることはないだろう」

「うん……その方が助かるね」

 まあ、火竜ならともかく、人間のメイジであれば、どれだけ数が増えようと、始末しつくす自信はあるんだが。

 俺の能力なら、それができる――敵の系統やランクなど、まったく関係なしに。

「ところで、話変わるけど。標的たちがこれから、どういうルートでリュティスに行くかわかる?

 いつ、どんな風に攻撃を仕掛けるか、なるべく早めに考えておきたいんだ」

 俺がそう尋ねると、情報屋は待ってましたとばかりに膝を叩いた。

「うん、よくぞ聞いてくれました!

 標的たちを後ろから追っかけてって、チャンスが来るのをぼーっと待ってたりするのはシロウト、あれはダメ。

 あのね、ボルドーからリュティスまでの間に、大きな森が何か所かあるでしょ。それを迂回したら遠回りになりすぎるし、あちらさんはきっと、森の中を通る街道を選択するはずだから。森の奥深くまで充分に入り込んだところで、側面から襲撃! これしかない!」

 うん、やっぱり海千山千の情報屋。提案が実に合理的だ。

「問題は、連中がどの森の、どの道を通るかってことだが――あ、ちょっと待った、イーノヘッド。使い魔との感覚共有に集中させてくれ。

 コンキリエ枢機卿が、これからの予定のことを話し始めた。僕のフォウルマウンテンが、今、彼女の足元にいるんだ。

 聞き耳を立てたいから、少しだけ静かにしていてくれ」

 俺は無言で頷いた。情報屋の使い魔フォウルマウンテンは、ご大層な名前だが、その実態は手の平に収まるサイズの、小さなハツカネズミだ。

 しかし、その小ささとすばやさを活かした諜報能力は、裏稼業に生きる者にとって、竜種の戦闘能力にも劣らない頼もしいものだった。

 俺はワインで喉を潤しながら、情報屋が役に立つ情報を手に入れるのを、くつろいで待つことにした――。

 

 

「ん?」

 何じゃろ? 今、テーブルの脚の近くを、白い毛玉みたいなもんが駆け抜けていったような。

 我はメニュー表から目を離して、しばし濃緑色の絨毯が敷かれた床に視線を這わせたが、すぐに気のせいじゃろうと判断して、顔を上げた。

 タバサのすすめてくれたレストラン『食の千年王国』は、まあ上等と言っていいたたずまいの店じゃった。大きな窓から差し込む、明るい日差し。壁の棚に並んだ、陶器の人形やドライフラワー。テーブルには、レース編みの洒落たクロスがかかっておる。田舎風じゃが、雰囲気が穏やかで、とても居心地が良い。

 こんな場所でまさか、そこらへんをネズミがうろついとるということもあるまいて。

 ふと正面を見ると、対面に座ったタバサが、こちらを見ながら、小さく首を傾げておった。

 どうやら、我の動きを不審に思われたようじゃ。これがシザーリアじゃったら、こんな目で見られても特に気にならんのじゃが、知り合って間もないタバサ相手じゃと、少々気恥ずかしい。

 フォローしてくれそうなシザーリアは、主と食卓をともにするのは礼儀に適わんと言うて、別のテーブルにひとりで行ってしもうたし――どうやら我は、この微妙な空気を、自分で取り繕わねばならんらしかった。

 とりあえず、一番楽そうな解決法は、タバサの視線をあえて無視して、なかったことにすることじゃろう。我は意識をメニューに戻した。適当に注文をして、料理が届けば、タバサも我が変にキョロキョロしとったことなぞ、きれいさっぱり忘れてくれるに違いない。

「えーと、じゃあまずは、この『究極DPコンソメスープ』というのを、頼んでみようかのぅ」

 控えていたウェイターに注文を伝える。

 コース料理もいいが、こういう格式張らなくてよさそうな店では、一品ずつをたくさん注文して、テーブルいっぱいに皿を並べさせるのも面白かろう。

 しかし、我のオーダーに対して、ウェイターは申し訳なさそうに、こう言った。

「あ、ごめんなさい。それ、来月からなんですよ」

 ……がーんじゃな……出鼻をくじかれた。

「じゃあ、えっと。こっちの『チーズとDPコンソメスープのグラタン』というのを」

「ですから、ごめんなさい。それも来月からなんですよ。DPコンソメは冬季限定のメニューでして、どうも」

 そうか……どうしよう、初っ端のスープからつまづいてしもうた。

 コンソメといやガリアが本場じゃから、ぜひ味わってみたいと思っとったんじゃが――ええい、仕方ない。当初の予定通り、ワインを味わうことに専念するか。

「では、七面鳥をポルト酒とフォン・ド・ヴォーで煮込むのはできるかの?」

「七面鳥の煮込みですね? ええ、大丈夫だと思います。コック長に伝えましょう」

「ぜひ試してみたい、きっと合うと思うのじゃ。フォアグラ入りのソースで頼む。サイズは――」

 まあ、他にも細々したもんを頼むと考えれば、あまりデカい肉を食うのは遠慮した方がよかろうの。

 そうじゃな、だいたい我の手の平半分くらいのサイズなら、ほどよく満足でき――。

「一羽分」

 鳥肉の大きさを思案しておった我をフォローするように、タバサが口を挟んだ。そうそう、まるっとでっかく一羽分――って、何言ってんの!?

 驚いて正面の同席者を見ると、そこには戦闘に挑む騎士としての顔をした、凛々しいタバサがおった。

「他に、エスカルゴの香草バター焼きを二皿。はしばみ草のサラダを四皿。カスレの大をひとつ。そら豆のクリームスープを一皿。十五種類の野菜のテリーヌを一皿、豚肉のリエットを一皿、牛肉とモリーユ茸のパイ包み焼きを一皿、ガーリックバターでトーストしたバゲットを一本分。デザートには、コーヒーリキュールを使ったプリンと、オレンジのコンポート……以上を一人前として、私と彼女の分、二人前を用意して」

 瞳に青い炎を孕み、みなぎる闘志に眉をつり上げて――まるで攻撃魔法を放つように、ウェイターに向かって次々と注文を告げていく。

「カスレの大は、本来は四人ほどでシェアリングするサイズですが……かまいませんか?」

「問題ない」

 涼しい顔で確認するウェイターに、メガネをキラリと光らせて、タバサは応じる。

 いや。いやいやいや。問題あるから。

 何その量。我に胃を破裂させて死ねと言うのか。

 我が唖然としてタバサを見ていると、その視線をどう勘違いしたのか、ない胸を張って、得意そうにこう言いおった。

「大丈夫。旅行中の飲食費、宿泊費は、すべて私の上司持ち。領収書を持って行けば、経費で落としてもらえる。

 だから私は、任務――もとい、旅行する時は、いつもこれくらい食べることにしている。ヴァイオラも、他に食べたいものがあれば、自由に頼むといい」

 料金の心配をしとると思われた。

 つーかお前、毎回こんな量を食っては上司に払わせとんのかい。経費ってことは花壇騎士団の予算なんじゃろうが、食事代だけでこんなに消耗するとなると、馬鹿にならんぞ。

 コイツ、さっぱりしとるように見えて、意外と上司に含むところでもあるんじゃろうか。

「い、いや、そうでなくて、我はそんなに食えはせんと、」

「大丈夫」

 拒絶しようとする我の言葉を、優しく、柔らかい声が遮った。

「遠慮なんか、しなくていい。お姉ちゃんに、任せて」

 そう言うタバサの表情は、ほとんど無表情のまま変化していないにも関わらず、なぜか暖かい思いやりのようなものにあふれておった。

 妹思いで面倒見のいい姉の役を、こうも自然に演じきるあたり、さすがはガリアの誇る花壇騎士だと感心するべきなのじゃろうか?

 我は基本的に、自分のためなら人の厚意を踏みにじることのできる人間じゃ。我が胃袋のためを思うなら、テーブルをひっくり返してでもオーダーのやり直しを要求すべきじゃろうが、この――このタバサの無邪気なお節介を蹴るのは、なんか、その、胸がズキンズキン痛む気がする。しかし、しかしやはり、このまま大量のランチを詰め込む未来を良しとするのも、ためらわれるものが――。

 我が態度をきめかねて、無言のまま逡巡しておると、タバサは我が迷いを察したらしく、眉をほんの少し垂らした。

「……もしかして、私のおすすめが気に入らなかった? だとしたら……ごめんなさい。

 ヴァイオラに美味しいもの、たくさん食べてもらいたかった。だから――張り切り過ぎて、空回りしてしまったかも、知れない……」

 うおお止せ馬鹿やめろ! そんな、申し訳なさそうに潤んだ目で見るでない! わ、我のゴーイングマイウェイな部分が、日光を浴びた吸血鬼の如く、ドジュバアアァァって白煙を上げて焼け爛れてしまうじゃろーがっ!?

 心にヤバめの火傷を負わされた我にはもはや、積極的にタバサに逆らうだけの気力は残されていなかった。

 こうなっては、選べる道は多くない。いや、ひとつしかないと言ってもいい。しかしそれでも、進む道は自分で選ばねばならない。我は、最後の力を振り絞って――。

「……今のメニューに合うワインを、一本ずつ。金額は、この店で一番高いのでもかまわん」

 ヤケクソになることにした。

 

 

 ◎◎本日のオーダー◎◎

 

 ・七面鳥のポルト酒煮込みとその他

 食料品でできたちょっとした丘。一品一品は間違いなく美味しいはずなのに、全体的に見るとなぜか憎むべき異端を感じる。

 

 ・赤ワイン

 シャトー・イケームの150年もの。消化不良を起こしそうになる胃を、柔らかくほぐしてくれる。もちろん、本来は胃薬的な用途で喉に流し込まれるべきものではない。

 

 

 うおォん、私はまるで人間コークス燃焼式熔鉱炉だ。

 額に汗しながら、巨大な七面鳥のまるごと煮にナイフを入れる。その肉はホロホロと柔らかく、口に入れれば深い旨味と、お酒の華やかな香り、そして爽やかな酸味が混ざり合い、食欲を増進させる。

 食べれば食べるほど、さらに食べたくなる。これはいい。充分な熟成を経たシャトー・イケームとの相性も抜群だ。

 他のサラダやスープ、カスレといったメニューも、それぞれの個性を発揮していて、舌を退屈させられることがない。私は幸せな気分で、食事をすることができていた。

 私の向かいにいるヴァイオラも、薄く笑みを浮かべてワイングラスを傾けている。どうやら、ここの食事を楽しんでくれているようだ。その目が何となく、どんよりと濁っているように見えたが、たぶん気のせいだろう。

 私はあと五分ほどでデザートに突入するが、ヴァイオラはあのペースでは、あと一時間はかかるかも知れない。かなりのスローペースだが、そんなところも可愛らしいと思う。

 彼女に合わせて、こちらもペースを落とすと、自然と会話を交わす余裕が生まれた。なるほど、ヴァイオラのような社会的地位の高い人間にとっては、他者との会食も立派な仕事であるはずだ。食事をしながら交流を深め、あるいは交渉をまとめる――そのために、わざと食べるスピードを遅くしている可能性がある。

 やはり、彼女は責任ある立場にいるのだ。それゆえに、命の危機にも縁がある。今回の旅が、こんなに穏やかな形で始まったのが信じられないほどだ。

 守らねばならない。その思いを強くする。

 そう、ヴァイオラを守らねばならない――彼女の頼れるお姉ちゃんとして!

「ヴァイオラ。このあとの予定がどうなっているのか、聞いてもいい?」

 ウェイターはすでに下がらせている。テーブルを中心に、半径四メイルを覆うようにサイレントをかけてから、私はそう尋ねた。

「あ〜、そうじゃな。ボルドーの馬車駅に、レンタル馬車を一台待たせておる。それに乗って、北へ向かう街道を進むつもりじゃ」

 虚ろな目で――絶対に私の思い過ごし――ヴァイオラは、ゆっくりと説明を始める。

「リモージュを経由してディジョンで一泊。明日、ディジョンから直接リュティスに向かう。そっから先はまだ決めておらんが、そうじゃのう〜、シェルブールとかオルレアンを見物して帰るのがええかなぁ。は、は、は」

 言いながらカタカタと笑うさまは、まるでくるみ割り人形のよう。お人形さんのように可愛らしいという意味であって、表情が人形のように強張っていて生気がないという意味ではない。けっして。

 しかし――そのルート。護衛する側としては、少々不安を感じるところがあった。

「ヴァイオラ。その案だと、ディジョンに到着するのが、どうしても夜中になってしまう。

 リモージュの森は深い。早く進めても、確実に夕方から宵闇の時間帯に、森の中を進まなければならなくなる。

 その環境は、間違いなく暗殺者たちにとって有利。万全を期すため、今夜はボルドーに泊まって、朝早くディジョンを目指して出発することを提案したい」

 私がそう言うと、ヴァイオラはなぜかキョトンとして――急に、気まずそうに目を逸らした。

「あ、あー……た、確かに、その方が安全じゃろの。しかし、それだとリュティス到着が一日延びてしまう。

 手紙の到着を待つジョゼフ陛下を、あまりお待たせするわけにはいかぬ。悪いが、その案は却下じゃ。我々は速やかに、リュティスを目指さねばならん。それに――……」

 

 

 それに――と、いかんいかん! うっかり、「手紙自体嘘っぱちじゃから、暗殺者なんか襲ってくるわけないんじゃよ〜」とか口走るところじゃった!

 食い物の山に絶望して、酒ばかり飲んどったから、酔いが回ったらしい。しっかりせねば。

 タバサは――つーかガリア側は、我がマジで『テニスコートの誓い』に狙われとると思い込んでくれとるわけじゃから、本気で周りを警戒しておるのじゃろう。当の我があんまり余裕ぶっこいとったら、不自然に思われるかも知れん。

 ここはそう、我自身も怯えておるというポーズを見せた方がいいじゃろうな。ただし、タバサの中の、我の立場と矛盾せんような言い訳もつける必要があろう。――よし。

「……我とて、不安はあるのじゃよ。もし襲撃を受けたならどうしよう、とは思うておる。

 ただ、その不安の意味が、おそらく違う。我は、敵が襲ってくるということは、即ちシエイエス殿の有罪を意味する――それが現実となることを恐れておるのじゃ。

 我としては、あのブリミル教徒の鑑とも言うべきシエイエス殿の無実を、何としても信じたい。いや、始祖の魂が、常に我々のことを見守っておられるという教えを疑わないならば、シエイエス殿の無実を、心から信じておらねばならないのじゃ。

 故に、我は安全策を採るわけにはいかん。それはシエイエス殿や始祖を信頼していないということを意味するからの。我の裏切りをシエイエス殿が見ていなくても、始祖は見ておられる。ブリミル僧として、御心に背く選択だけはしてはならぬ。それが、信仰というものじゃ」

 我の言葉に、タバサはしばし無言であったが、やがて小さく頷いた。

「わかった。あなたがそう決めているなら、私が言うべきことはない」

「ありがとう。ただ、我とて現実を見ておらぬわけではないということは、了解しておいてくれ。

 我のために、護衛をよこしてくれたジョゼフ陛下には感謝しておるし、タバサの騎士としての力も、大いに頼りにしておる。『テニスコートの誓い』でなくとも、盗賊の襲撃などがないとは言い切れぬし、そういう時には必ず、お前が我を守ってくれると信じておる。タバサを信じるからこそ、我はあえて急ぎの旅路を行くのじゃ。わかってくれるな?」

 我が確かめるように問い掛けると、タバサの目がぱしぱしと瞬いた。

 そして、不意に目を逸らして、小さく唇を動かした。まるで何か言おうとして、うまく言葉にできなかったみたいな感じじゃった。

 どうしたんかと思って耳をすませると、タバサはかすれるような小さな声で、こんなことを言った。

「……タバサじゃない。お姉ちゃん、と呼ばなくては、駄目」

 ちょ、まだその設定を引っ張るかお前!?

 サイレントしとるから、誰も聞いとらんっちゅーのに! あれか? 演技し始めたら心の底からなりきってしまうスーパー女優体質かコイツ!?

 仕事熱心なのはええが、もう少し融通をきかせてもええと思うぞ、我は。

 しかしまあ、こういう性格の奴なら、調子を合わせて仲良くしておけば、我の誠実さ(偽)をガリア王にアピールしてくれるじゃろう。そうすれば、いざシエイエスを糾弾する時に、仲間の無実を最後まで信じていた一途な人として、相対的に我のガリアでの評価が上がるやも知れんな、ウヒヒヒヒ。

 

 

 話を聞く限り、ヴァイオラは危険をあまり自覚していないようだった。

 まあ、それも仕方がない。彼女の持っている手紙を偽物と信じるなら、『テニスコートの誓い』が襲ってくることは、まず考えられないのだから。

 ヴァイオラは、ヴァイオラ自身の信仰と、シエイエスという人物に対しての義理のせいで、危機感を持つこと自体が許されない。これは難しい条件だった。

 ヴァイオラの信念とは裏腹に、彼女は間違いなく狙われている。

 イザベラ――彼女自身は別として――イザベラの部下たちの調査は信用できる。『テニスコートの誓い』が、ヴァイオラに『孤独』という名の暗殺者を差し向けたことは、事実。その情報を知っているということは、こちらのアドバンテージだが、それをあえて無視して、敵などいないという前提で行動しなければならないと、ヴァイオラは言っているのだ。

 困難。護衛にとって、これはあまりにも困難な任務。

 そしてそれ以上に、狙われるヴァイオラにとって、危険。

 どんな愚か者でも、あえて警戒しない、ということの危険性は理解できるはず。なのに、それをするということは、それだけヴァイオラの、シエイエスに対する信頼が深いということを意味するのだろう。

 同時に、始祖に対する信仰の強さもうかがえる――なるほど、この幼さで枢機卿になるだけのことはある。人の善性を信じることにおいて、ヴァイオラほど一途な人間を、私は見たことがない。彼女は心の底から、『テニスコートの誓い』が襲ってくることなどありえない、と思っているのだ。

 だからこそ、私には言えなかった。敵の存在が確定しているということは。――ヴァイオラの優しい信頼を、打ち砕くようなことは。

「……ならば、仮に」

 私は、七面鳥の最後の一切れを飲み込みながら(ああ、これで残るはデザートだけになってしまった)、こう言った。

「盗賊が襲ってきたならば、必ず撃退する。ヴァイオラには、指一本、触れさせない」

 すると、それを聞いたヴァイオラは、破顔してワイングラスを高々と上げた。

「そうじゃ、そうじゃ。それでええ。覚悟は持てども心配は要らん……必要な瞬間に守ってもらえるなら、それで充分じゃ。タバサよ、我のカスレを食べぬか?」

「もらう」

 差し出された大皿(ヴァイオラのカスレは、四分の一も減っていなかった)を受け取り、まだ余裕のある胃に落とし込む作業に移る。

 そんな私を見ているヴァイオラは、諦めとも恐怖とも感嘆とも尊敬とも取れる、複雑で微妙な表情を浮かべていた。どうも彼女の精神には、簡単には底まで見抜くことのできない、不思議な深みがあるようだ。

 見た目は完全に子供なのに。これでは、どちらがお姉ちゃんかわからない――。

「あ」

「ん? どした、タバサ」

「また、お姉ちゃんって呼ぶの、忘れてる」

「……だからもう、勘弁してくれと」

 No、そこは譲れない。

 そう言ってやると、ヴァイオラは何の複雑さもなく、一目でわかるほどげんなりしていた。

 こういう単純な感情を表に出す時は、彼女も年相応(八歳くらい?)に見えた。

 

 

 情報屋から聞いた話を、頭の中にしっかりと書き込むと、俺は席を立った。

 リモージュ経由、ディジョン着。となるとアタック・ポイントは、当然リモージュの森だ。

「おや、もう行くのかい? あちらさんは、もうしばらく食事を楽しむみたいだが」

 スズキのパイにナイフを入れながら、情報屋はのんきに言う。

「ゆっくりしていっても、充分待ち伏せには間に合うだろうに。どうせだから、デザートも食っていきなよ」

「いや、残念ながら、甘いものが苦手なんだ。前世によっぽど、甘いもので痛い目に遭った奴がいるとみえて……。

 それに、いろいろやることがあるからね。そっちはゆっくり食べていってくれ、料金は払っておくから。おっと、そうそう」

 俺は懐から、銀貨を一枚取り出すと、テーブルの上に置いた。

「いい仕事をしてくれたフォウルマウンテン君に、チップだ。美味いナッツでも買ってやりな」

 そう言いながら情報屋の肩をポンと叩き、俺は精算所へ向かった。

 コンキリエ枢機卿たちが、まだ食事を続けるのなら、それはこちらにとっての有利だ。店を出る時に顔を合わせたくはないし(同じレストランで食事をしていると情報屋から教えられた時、俺は非常に驚いた)、どうせなら、ゆっくり時間をかけて下準備をしておきたい。

 標的たちの命を、確実に奪うために。

「そう……暗殺ってのは、救われてちゃあ駄目なんだ……孤独で、静かで、無慈悲で……」

 レストランを出た俺は、そんなことを呟きながら、ボルドーの街道を北に進んだ。

 目指すはリモージュ。標的がそこにやってくるのは、夕方。

 日はまだ、傾き始めたばかりだった。

 

 

「ミス・タバサ。あなたとヴァイオラ様のお姿をスケッチしたいのですが、かまいませんね?」

「駄目。時間がない」

 レストランを出ると、すでに食事を終えて待っていたシザーリアに、いきなりそんなことを言われた。

 このメイドが、主のことを尊敬すると同時に、母親のような慈しみをもって可愛がっているということは、何となく察していた。

 だから、彼女がヴァイオラの姿をスケッチしたがるというのはわかる。というか、きっとこれまでにも、口実を設けて肖像くらいは描かせているはずだと確信を持って言える。

 でも、私もというのはどういうことだろう。特別、シザーリアに気に入られるようなことは、していないと思うのだけれど。

 願いを断られて、しょんぼりとしているシザーリアを横目に、私は馬車駅に通じる街道に足を向けた。

 私と手をつないだヴァイオラも、一緒についてくる。彼女は、レストランを出る前から、ずっとぶつぶつ言い続けていた――「これはさすがに恥ずい」とか「我、ホントに二十六じゃのに」とか。別に、お姉ちゃんと妹が手をつないで歩くくらい、何でもないと思うのだけれど。ロマリアではその辺の価値観が違うのだろうか?

「ううう〜……手つなぎ歩きは、いい歳した大人のすることじゃないと思うんじゃよ〜……しかも我の方が妹役て……。

 はっ! そ、そうじゃ、心の中だけでも、我が姉じゃと思っとけばいいのじゃ! 小さなタバサのママゴトに付き合ってやっとる、優しいお姉ちゃんヴァイオラ・マリア! よし、この設定でいくぞ! 我は姉役、二十六さい、立派なレディ……」

「ヴァイオラ、馬車が通る。もっと道の端に寄って」

「うん、わかったのじゃお姉ちゃん」

素直だ。

「…………のじゃあぁあぁ…………orz」

 でも、道の端でへたり込むのは駄目。膝が汚れる。

 なぜかしょげ返っている主従を引き連れて、たどり着いた馬車駅で待っていたのは、六頭立ての立派な馬車だった。

 高さ三メイル、幅三メイル半、長さ八メイルという巨大なボックス。それを支える車輪は六輪。操縦する御者も、二人は必要だ。

 リムジーン社製の高級大型馬車――ヴァイオラにその意図があったのかどうかはわからないが、護衛する上でこれは非常に頼もしい。

 硬くぶ厚い樫板に覆われたそれは、まさに走る要塞だ。弓矢や剣による攻撃ではびくともしないだろうし、おそらく魔法でも、かなり強力なスペルでなければ、破壊することは叶うまい。

 これで、途中で停まることなく、一直線にディジョンまで走り続ければ、さすがの『孤独』も、襲撃の機会を持てないのではないか?

 しかし、念には念を入れて、事故を起こすような細工がされていないか、チェックをしておく。車軸にノコギリを入れた跡がないか? 手綱に切り込みを入れられたりしていないか? ――大丈夫そうだ。御者は信用できるか? ――シザーリアの話では、地元の馬車組合に長く勤めている者たちで、後ろ暗いところは何もないという。――それならば、問題ないと言っていいだろう。

 私が車体を外から点検している間に、無邪気なヴァイオラはとっくに乗車して、窓から「お姉ちゃんもさっさと乗るのじゃ〜」とか言って手招きしている。彼女もかなり吹っ切れてきたみたいだ。妹の誘いに従って、私もリムジーン馬車に乗り込む。

 中は、乗り物でありながら、ちょっとしたサロン・ルームを思わせる豪華さだった。

 床には毛皮のラグが敷かれ、座席は革張りの柔らかいソファー。食事もできるということだろうか、背の低いテーブルもある。車体後部には、造り付けの戸棚があり、そのガラス扉の奥には、高級そうな酒瓶がずらりと並んでいた。

「おお、よしよし、よーやく来たのう。ほれ、お姉ちゃんの席は我の隣じゃ。窓から外の見える席ぞ。

 ひとつ、車窓からの景色を楽しみながら、ディジョンまでゆっくりしようではないか」

 ぱしぱしと、ソファーのクッションを叩きながら、ヴァイオラが招く。言われた通り、彼女の隣に座ると、後部に控えていたシザーリアが、シャンパン・グラスをサーヴィスしてくれた。

「本場シャンパーニュの品ではないが、ボルドーのスパークリングも悪くないようじゃよ。お姉ちゃんが馬車の周りをうろうろしとる間に味見したから、間違いない。さ、さ、お姉ちゃんもぐぐっといくがいい。甘ぁい香りが口ン中でしゅんわりして、大層気持ちええぞ。ウケケケケ」

 ほんのり赤らんだ顔を楽しげに微笑ませて、ヴァイオラはグラスをあおる。

 ぷはーっと大きく息をつき、口元を拭う仕草は豪快だ。しかしその目はトロリと潤み、フラフラと首が揺れていた。

 ――酔ってる。すごく。

 そういえば、さっきの食事の時も、食べるより飲んでいる時間の方が長かった気がする。なのにまたアルコールを摂取したとなると、泥酔してもおかしくない。

 よほど、ボルドーのお酒が気に入ったのか。それとも、飲まずにはいられないほど、ストレスが溜まっていたのだろうか。

 ――たぶん、前者。後者だとしても、原因はきっと彼女の持っている手紙関連。うん、きっとそう。

「うへへへ、見るがいい、お姉ちゃんが座って、我が立っておれば、圧倒的に我こそが身長の上で勝者じゃー。ざまあみさらせ〜。……うう、立ったままでおるの疲れた、我も座るぞ……の、のじゃ!? ば、ばかな! また急に、お姉ちゃんの方が背が高く見えてきたぞ……これは夢か、幻か〜……!?」

「ヴァイオラ、あなたは疲れている」

 ぽん、とヴァイオラの肩に手を乗せ、軽く引き寄せて、彼女の上半身を私の方に傾けさせる。その際に、彼女の手からシャンパン・グラスを引ったくっておくのも忘れない。

 ゆらゆら揺れていたヴァイオラの頭が、私の肩にコテンと乗っかれば、あとは彼女の紫色の髪を、そっと撫でてやればよかった。昔、小さな私に対して、母様がしていた寝かしつけ方だ。「うー」とか「あー」とかいう呻きが、やがて安らかな寝息に変わったのを確認すると、私は小声でシザーリアに命じた。

「出発させて」

 従順なメイドは無言で頷き、馬車の外の御者たちに指示を出した。

 ゴトリ、という重い音とともに車輪が回り始めた。それから、ゴトン、ゴトン、ゴトンと、馬車特有の規則的な走行音が続いたが、通常の馬車に比べて、その音はずっと小さく抑えられており、まったく不快ではなかった。

 これなら、ヴァイオラも眠りを妨げられることなく、お昼寝ができるだろう。

「……すひゃー……」

 幸せそうに緩んだ顔で、目を閉じているヴァイオラ。

 この穏やかな表情が、ディジョンに着くまで変わりませんようにと、私は祈った。

 

 

 リモージュの森の端に、日が沈んでいく。

 その真っ赤な輝きが失われていく様をちらと見てから、俺は眼下の馬車道に視線を戻した。

 森の中を横切るように整備された――と言っても、馬車が通れるよう、土を固めただけの――道。ここをもうすぐ、標的たちが通る予定だ。

 背の高い木のてっぺんに陣取り、船乗りの使う望遠鏡を使って、監視を続ける。早めの夕食にと、『肉のテン・サウザンド・ビィ・ブリッジ』で買ったカツレツ・サンドイッチをかじりながらのことだが、集中は切らしていない。――うん、これは美味いぞ……肉汁って男の子だよな……。

 一人前をペろりと平らげ、指先についたパンくずを舐めて処理していると、南側に砂埃のようなものを見出だした。

「お……来ました来ましたよ」

 望遠鏡を両手で持ち、砂埃に注視する。じっと見つめると、こちらに近づいて来る六頭の馬と、それらに引かれる立派な馬車――間違いない。時間もピッタリ!

 羽織っているマントをバサリと広げ、腰に挿している杖を引き抜く。長さ三十サントほどのシンプルな木の杖だが、柄に細い革紐がついていて、手首にくくりつけられるようになっている。

 これは、別に落としてなくしたりしないようにするためにつけているわけじゃない。もっと実用的な理由があるのだが、今の時点では、それの説明は割愛させていただこう。

 とにかく、敵はもうすぐ、俺の射程距離に入る。こちらの間合いで、先に仕掛けることが出来れば、圧倒的に有利だ。

 恐れるべきは、こちらの領域から逃げ去られてしまうことだが――標的たちは、女子供の集団に過ぎない。馬車より速く走って逃げることは、まずありえないだろう。

 つまり、先に馬さえ仕留めておけば、かなり余裕を持って、標的を攻撃できるようになるってことだ。

「……なら、問題なしだ。この森じゃ、誰も歌わない」

 スペルを唱え、杖を振る。

 編み込まれた精神力の構造に、風たちが応え――俺のいる場所を中心に、何かが広がった。

 

 

 数時間は、平和な旅路が続いた。

 ヴァイオラは私の肩で、むにょむにょ言いながら眠り続けているし、窓から見える景色も、のどかで争いの影もなかった。

 ずっと気を張っているのも何なので、持参していたヤン・デ・レの全集を読み進めることにした。デ・レは五千五百年代のガリアを代表する作家で、鬼気迫る感情描写が高く評価されている。――クラスメイトのミス・ヴァリエールは、ヤンの祖母にあたる恋愛作家、ツン・デ・レの作品を愛読しているそうだが、そちらもおすすめである。未読の方はぜひ手にとって頂きたい。

 やがて、車窓から田園や町並みが消え、青々とした木々が目立つようになると、私は本を閉じ、周囲を警戒する意識を一段階高くした。

 リモージュの森に入った。敵が私たちの行動に注意を払っているなら、きっと襲撃はここで行われる。

 日も沈みかけている。暗闇の森の中など、攻撃される側にとってはアウェーにもほどがある。馬車には、できるだけ速く通り抜けてもらいたいものだ。

 ガタタン、ガタタン、ガタタン。馬車の車輪が、硬い地面の上を駆け抜ける音だけが響く。

「ミス・タバサ。ミンス・パイはいかがですか?」

 ちょうど口寂しくなってきた頃に、シザーリアが銀皿に盛られた一口菓子をすすめてくれた。それをつまみながら、窓の外をちらと見る。風景は群青色に変わり、いよいよ日没が近いことがわかった。

 ガタタン、ガタタン、ガタタタン。

 と、不意に馬車が大きく跳ねた。

 ソファーから転がり落ちるほどではなかったが、テーブルの上の皿はひっくり返り、パイ菓子を床にばらまいた。

 今までは、こんな風に揺れることはなかったのに――どうして?

 疑問に思って窓の外を見ると、前から後ろへ流れていく景色が、やけに速く過ぎ去っていることに気付いた。

 つまり――馬車のスピードが上がっている?

「シザーリア。ヴァイオラをお願い」

 私は眠る妹をメイドに預け、御者台に通じる小窓に近付く。御者に、少しペースを落とすように言うつもりだったのだ。

 確かに速い方がありがたいが、ここまで速くする必要はない。一番優先されるべきは、無事にディジョンにたどり着くこと。その前に事故を起こされても困るのだ。

 私は小窓を開け、御者たちに声をかけようとして――。

 それができなかった。

 御者台に、御者はいなかった――ふたりともだ。

 ただ、手綱だけが宙ぶらりんになって揺れていて、勝手に馬たちのお尻を叩いている。そのせいで馬が興奮し、走るスピードをどんどん上げているのだ。

 私は、何がどうなっているのかわからず、辺りを見回した。御者たちはどこへ? いつからいない?

 ふと妙な臭いがして、私はある一点に目を向けた。鉄のような、嫌な臭い。御者台の椅子が、真新しい血糊でべっとりと濡れていた。

 これは――つまり、ふたりともすでに殺されている? そして、落馬した? 馬鹿な。人が落ちれば、馬車の中にいた私たちにだって、その音は聞こえたはずだ。それに、悲鳴は? おかしい、静か過ぎる仕事だ。敵が『孤独』だとして――いったい、どうやったというのだろう――?

 ――いや! 今すべきことは、そんなことを考えることではない!

 私は手を伸ばして手綱を掴み、暴走する馬たちを止めようとした。

 しかし、本来は大人の男ふたりでようやく制御できる六頭の馬を、私の細腕で抑えられるわけもない。手綱が手の平に食い込み、腕がちぎれるかと思うほどに激しく引っ張られた。これは、止めることはもうできない。

「エア・カッター」

 杖を手綱に向けて、スペルを唱える。直後、生み出された風の刃が、手綱と、馬車と馬とをつないでいる櫂を切り裂き、分離させた。

 馬車という重荷と、自分を叩く手綱から解放され、自由になった馬たちは、薄暗い森の奥へと駆けていき、やがて見えなくなった。

 そして、動力を失った、我々の乗る車輪付きの箱は、じわじわと速度を落としていた。おそらく、横転したり木に衝突したりすることもなく、このまま自然に停車できるだろう。

 当面の危機は凌いだ――しかし、根本的な問題には、これから立ち向かわなければならない。

「シザーリア、ヴァイオラを窓から見えない場所へ! 私たちは、すでに攻撃されている!」

 小窓から顔を引っ込め、早口でそう告げる。

 シザーリアも、私の様子からすでに察していたのだろう、ヴァイオラをかき抱いて、馬車の後部に退避していた。手には杖を持ち、臨戦体制をととのえている。メイドとは思えない、戦慣れした反応だ。

 ガタタン、ガタタン、ガタタンと、馬車はゆっくり進み続ける。完全に止まるまでには、もう少しかかりそうだ。

「シザーリア、馬車が止まったら、敵が姿を見せるまで、ここで篭城。

 いつでも魔法を放てるように、準備を――」

 しておいて、という言葉は、なぜか私の口から出なかった。

 ぱくぱくと、口だけは動いているのに、声が出ない。喉がおかしい? いや、違う。痛みも不快感もない。喉が震えている感覚もある――なのに、声がまったく、出てこない。

 ガタタン、ガタタン、ガタタ――――。

 ――――――――――。

 私の声だけではない。いろいろな音が、消えている。

 規則正しい車輪の音が、急にぷつりと消えた。ヴァイオラの寝息も、今は聞こえない。木々のざわめきも、野鳥の声も――音という音が、何もかも。

 これは、いったい……?

『きゅいきゅいぃ〜! お姉様、お姉様! 変なのね! この森、すっごく気持ち悪いことになってるのねー! きゅいきゅいきゅい!』

 突然頭の中に、慌てた声が響いた。

 それは、私のもうひとりの妹(できれば認めたくはない。人化状態で姉よりいろいろ大きい妹など、ナンセンスにもほどがある)というべき、シルフィードからの念話だった。

 普段なら彼女が慌てていても、ほとんど聞き流すのだが、今回は状況が状況だ。空を飛んで、私たちについて来ているシルフィードなら、この音が消えた異常の正体に気付いたかも知れないと思い、聞き返してみることにした。

『どうしたの?』

『風の精霊たちが黙らされてるのね! しゃべっちゃダメって、ヒトの魔法で押さえつけられてるの!

 この森の、半分の半分くらいの精霊がそれに従ってるのね! 精霊とおしゃべりするの、シルフィの楽しみなのに、お話ができないの! すごく気持ち悪いっていうか、もやってするっていうか……きゅい、なんか嫌!』

 精霊が黙らされてる?

 人間の魔法で、ということは――音を止める魔法、つまりこれは《サイレント》ということ?

 いや、普通のサイレントは、音を遮断して、効果範囲の外から音が入ってこないようにしたり、中の音が外に漏れないようにしたりする魔法。

 これは音の遮断ではなく、空間内部の音を消し去る効果を発揮しているみたいだから――おそらく、サイレントをベースにした、オリジナル・スペルと考えるべきだろう。

 しかも、この森の半分の半分をカヴァーしているとなると――効果範囲は、ざっと六リーグ四方にまたがるということになる。

 そんな超広範囲サイレントを使う意味は何だろう? 単純に考えれば、接近する時、音でこちらに気付かれないようにするためだろうけれど。

 少なくとも、御者たちは私がまったく気付かないうちに倒されてしまった。サイレントで御者たちの悲鳴や落馬音を消して、弓矢か何かで片付けてしまったのだろう。それをされてしまう程度には、この魔法は有効なのだ。

 もう、辺りは夕闇に支配されかけている。暗闇で視覚を、サイレントで聴覚を潰された状態で、暗殺者の攻撃に対処しなければならない――なるほど、これは厄介な相手だ。

『孤独』がメイジであったということは意外だったが、こういう攻め方を得意としているのなら、これまでの被害者が魔法以外の武器で殺されていることも納得ができる。サイレントを維持しながら、他の魔法を使うことはできないから、どうしてもナイフなどといった直接攻撃を選択しなくてはならない。

 敵の実態は、魔法と通常武器を併用することができる、ハイブリッドウォリアーだったというわけだ。意外、確かに意外だ――しかし、タネが割れてしまった以上は、対処のしようもある。

 まず、エア・シールドで馬車全体を覆う。この風の盾ならば、『孤独』が弓矢で撃ってこようと、接近して直接襲ってこようと、確実に身を守れる。

 直接来れば、敵の全身を風が切り刻んで、その時点で撃破に成功するだろう。弓矢の場合、撃ってきた方向がわかる――つまり、敵の現在位置を知ることができる。そしたら、馬車の影に隠れながら、その方向にウィンディ・アイシクルを連射。たぶん、それでカタがつくはずだ。

 大丈夫、勝ち目はある。敵は自分の魔法の使い方に、自信を持っているのだろう。しかし、魔法に関しては、私だって負けるつもりはない。

 これまでずっと努力して、魔法の腕をみがいてきた。父様から受け継いだ才能も、それなりにあると自負している。

『孤独』。あなたが私に魔法を使って勝負を挑むのなら、私も魔法でそれに応じる。

 私は、杖を持った手を前に突き出し、精神力を練り始めた。

 体の内側にある『力』を、イメージで固めて、どのような魔法として発現させるかを決定する。私を中心に、半径十メイルを循環する、薄く速い風の膜を想像し、その想像を固定して、杖の先に乗せる。

 そして最後に、ルーンを唱え、イメージを実体化させれば、魔法が発動するのだ。

(エア・シールド)

 そう、力を込めて口を動かし――私は、硬直した。

 イメージによって具体化された精神力を、杖に移動させる。そこまではいい。

 しかし、問題はそのあとだ。

(エア・シールド)

 ルーンを唱える――唱えようとする。しかし、その言葉は喉から出てこない。

 敵のサイレントによって、音が完全に封印されているこの森では、たとえ力無い囁きであろうとも、存在できないのだ。当然、当然――魔法の始動キーとして絶対必要な、呪文さえも、唱えられない。

 愕然として、私は自分の相棒である杖を見つめた。

『孤独』の狙いは、無音を利用して、こちらに気付かれないように攻撃することではなかった。いや、きっとそれもあるのだろう。しかし、もっと大きな、対メイジ戦においては無敵とも言える効果を狙って、彼はサイレントを使ったのだ。

 即ち。

 魔法が。

 魔法が。

(――使えない……)

 

 

(俺の場合、相手がメイジでさえあれば、その実力はあんまり関係ないんだよなぁ)

 そんなことを呟きながら(どうせ声にはならないのに!)、俺は左手に持った弓を、指で弾いていた。

(ドットでもラインでも、トライアングルでもスクウェアでも……口を塞がれりゃ、誰でも同じだ。これまで俺が仕留めてきた標的たちは、みんなそうだった。

 今回の標的……コンキリエ枢機卿とその護衛も、何もできずに終わる。俺のこのスペル、《無音(ミュート)》に対処できるメイジなんてのは、いない)

 木の枝にしっかり足を踏ん張って、弓を構える。杖は、左手の甲に革紐で固定してあった――こうすれば、《無音》を維持しながら、両手を自由に使うことができるのだ。

 マントの裏に吊り下げてある矢籠から、矢を一本取り出し、弓につがえる。狙うのはもちろん、斜め下、およそ百メイル先をノロノロと動いている、馬なし馬車だ。

(御者にはうまく当てられた。あの射撃で、距離感と風の具合も把握できたし、今度はさらに精密な攻撃ができる)

 馬車という大きな的の中の、御者台のところに開いている小窓に、狙いを絞る。薄いガラスを挟んだ向こうに、赤い縁の眼鏡をかけた、青い髪の少女が見えた。

 あれがきっと、情報屋の話に出てきた、ミス・タバサという護衛だろう。

 先が湾曲した、大きな木の杖を構えている。――可哀相だが、魔法を使おうという試みならば失敗に終わる。

 ミス・タバサの動きに注意しながら、俺は弓を引き絞る。ゆっくりと、弦と心とに、緊張を与えていく。

 やがて、少女は魔法が使えなくなっていることに気付いたのだろう、眼鏡の奥の目を驚きに見開かせて、体を硬直させた。

 その瞬間、俺は矢を放った。

 弦の震える音もない。矢が空気を切り裂く音もない。

 ただ無音で、粛々と――矢は銀色の直線を描いて、ミス・タバサの眉間に迫った。




今回の話、タイトルを『タバサのグルメ』にすべきかどうかで、ホントに迷った……。

サイレント使いという敵キャラのアイデアは、我が同名でPixivに投稿しておるファンタジー小説の主人公の能力を流用。
手抜きではないっ、リビルドじゃ!


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タバサの冒険/孤独の森:後編

前回からの続きー(・ω・)


 私がその一撃を防ぐことができたのは、単純に運が良かったからだった。

 それ以外の要素はない。魔法が使えなくなっていることに気付いて、呆然としていた私は、敵にとっていい的でしかなかったはずだ。

 だから、敵は――『孤独』は容赦なく撃ってきた。放たれた矢は、音もなくこちらに向かって飛来し、私はそれに気付かなかった。

 敵の狙った着弾点は、おそらく私の眉間だったのだろう。それが幸運だった。魔法が使えないことにショックを受けた私は、自分の杖を目の前に持ち上げて、信じられない思いでそれを見たのだ。すると――ちょうど顔の前にあった杖の真ん中に――軽い衝撃とともに、細い矢が突き立ったのだ。

 私は反射的に、床に体を伏せた。そして、自分が今まさに死にかけたのだ、ということを理解し、ぞっとした。

 心臓の鼓動が高鳴る。額に、冷たい汗が浮かぶ。

 肌で感じる――死線の、空気。

 ずれかけた眼鏡の位置を直して、私は思考を巡らせる。矢は、正面の御者台に通じる小窓から飛び込んできたのだろう。しかし、窓に嵌まっていたガラスが砕けて飛び散っているのに、その音は全く聞こえなかった。矢が、木でできた杖に突き立った音も、衝突した反動で小刻みに震えている、矢の振動音も。

 音のない世界――初めて遭遇する環境――まさか、ここまで気付けないものだとは。

 これでは、ヒトがすぐ近くに近付いてきても、まったく気付けないかも知れない。いや、気付く自信がない。今の一撃だけでわかった。この敵は、挑みかかって倒すには、あまりに厄介な相手だ。

 少しも気配を感じさせずに攻撃してくる隠密性。魔法を使えなくするという、対メイジ戦用の鬼札。

 正面からぶつかるのは得策ではない。それがはっきりとわかった。

 だから、こちらの取るべき最善手は――逃走だ。

『シルフィード!』

 スペルを唱えなくても使用可能な、使い魔に対する念話で、上空にいるシルフィードに呼びかける。

『きゅい!』とすぐに返事が返ってきたので、続けて私は指示を飛ばした。

『降下して、私たちを拾って』

 風竜である彼女に乗って、この消音魔法の効果範囲外まで脱出すれば、ほとんどの問題は解決する。

 私の任務は、ヴァイオラを無事にリュティスまで連れていくこと。敵を倒すことではない。

 さすがの弓矢も、シルフィードの羽ばたきで生まれる風に煽られれば、まともに当たらないだろうし、私たちが飛び去ってしまえば、『孤独』にこちらを追いかける術はあるまい。

 戦って勝つばかりが強さではない。逃げるという判断も、時には必要になる。今が、その時だ。

『わかったのね、お姉様! 今すぐ……きゅっ!? きゅいいぃぃ〜っ!?』

 悲鳴とともに、恐怖と混乱のイメージが、使い魔とのリンクを通じて、私の頭に入り込んできた。

『どうしたの、シルフィード?』

『すごいでっかくて、恐いおじさんがいるのね! お姉様のところに行きたいのに、通せんぼされて……きゅいいっ! 痛い痛い!』

 要領を得ないその言葉に、私はシルフィードの様子を確認しようと、体を低くしたまま、窓のひとつから空を見た。

 ぎざぎざとした木々の影が、群青色の空を突いている。そんな景色をバックに、ふたつの影が追いかけっこをしていた。追いかけられているのは、スマートな青みがかった影――おそらく、シルフィード――もうひとつ、追いかけている方の影があったが、こちらはシルフィードよりふたまわりほど大きく、灰色がかった肌を持っていた。

 シルフィードと同じく、皮膜状の翼を羽ばたかせて飛ぶ、あの生き物は――凶暴な飛竜種、ワイバーン。それも、成体だ。

『わーん、追いかけてこないでー! かじられるのは嫌なのねー!

 い、痛い痛い! ぎゃあぁあ〜っ、おっ、折れるうぅ〜っのねー! 何で竜がこんな上手に関節技を……痛い痛いギブギブギブ!』

 ふたつの影が重なり、空中で暴れ回る。捕まったらしいシルフィードが苦痛の念を送ってくるけど――関節技って何? 竜同士で、しかも飛びながら、どうやったらそんなことが可能なの?

 気になって目をこらしたけれど、ふたつの月は両方とも雲に隠れかけていて、二頭のぼんやりしたシルエットしか見えず、何がどうなっているのかわからない。月、もっとちゃんと仕事して。

 数秒の抵抗の後、何とかシルフィードは敵の拘束から逃れることができたけれど、ワイバーンの追撃は止まらず、シルフィードは私たちのいる場所に、まったく近付くことができそうになかった。

 まさか――このワイバーンも、敵の打った手なのだろうか?

 いや、疑問形ではいけない。間違いなくそうだ。私はボルドー港で、シルフィードとともにヴァイオラを迎えた。敵にその姿を見られていたなら――緊急逃走手段として、私が竜を使うだろうということは明らかで――それを潰しにかかるのは、当たり前の処置だ。

 まずい。少しずつ、こちらの取れる行動が奪われていっている。

 どうすればいい? この状況。

 どう切り抜ける?

 考える私の目の前で、再び音もなく窓ガラスが割れた。

 そして、私の頭上をかすめ、対面の壁に突き刺さる矢。

 敵の一方的な攻撃は、まだまだ続く。

 

 

(よし、うまくあちらさんの竜を追っ払ってくれているな、アームロック……これが終わったら、ご褒美に生きた羊を食わせてやろう)

 俺の使い魔、ワイバーンのアームロックが、タバサとかいう騎士の風竜を小突き回している。

 それを横目に見ながら、俺は弓に矢をつがえた。先ほどの一射で、ミス・タバサを仕留められなかったのは残念だが、牙も足も羽も奪われた敵は、かなり追い詰められているだろう。

 この調子で攻め続ける。彼女らは、まだこもるべき甲羅を持っているから、次はそれを奪わなければならない。

 弓を引き、重い反動とともに、矢を放つ。最初の狙いは、標的たちの乗っている馬車の、窓ガラス。

 御者台の小さな窓はすでに撃ち抜いてあるが、大きな馬車だから、窓は他にも数面ある。これは的も大きく、非常に狙いやすかった。まるで飴細工を砕くように、透明な板はやすやすと崩れ、馬車には窓枠型の穴がいくつも空いていく。

 次に撃つのは、馬車の扉の、蝶番。

 こちらは窓に比べれば、小さい的だ。しかし、落ち着いて狙えば、案外当てられる。弓を鳴らして――音はしないが――いくらかのタイム・ラグののちに、百メイルの距離を隔てて、矢が金属の蝶番を突き破り、破壊する手応えが伝わってきた。

 もちろん、扉を支える蝶番はひとつではない。慎重に、二発、三発と矢を放ち、その小さな金属部品を砕いていく。

 縦に並んだ蝶番を三つ、残らず壊してしまえば、扉はぐらりと傾いで、次の瞬間には馬車から外れ、地面に落下してしまった。

(さあ、これで風通しがよくなっただろう)

 こちらが矢を十本も消費した頃には、馬車は穴だらけになっていた。窓がなくなり、扉も剥がれ落ち、鳥かごのように中身がよく見える。床に伏せる、青髪のミス・タバサ。テーブルの向こう側で、片膝を立てて杖を構えている、金髪のミス・パッケリ。そして、その後ろにかばわれるようにうずくまっている小さな人影が、ミス・コンキリエだろう。

 全員、姿が見えるようになった。ミス・コンキリエだけは、ミス・パッケリが盾になっていて見えにくいが、これは盾の方を先に射殺してしまえば、問題なく狙えるようになるはずだ。

 うまくやれば、あと三本矢を消費するだけで、任務完了できるかも知れない。

 楽な仕事だった。そう思いながら、新たな矢を構えようとすると――。

(む?)

 ミス・タバサが、突然迷いのない力強さで床を蹴り、さっきまで扉の付いていた出入り口から、素早く馬車の外に駆け出したのだ。

 一人で逃げる気か? それとも、俺を始末しに向かってくると言うのか?

 どちらにせよ、大して変わりはしない! 動かない標的と、動く標的――攻撃する優先順位が、確定するだけのことだ!

 馬車を一時的に照準から外し、走るミス・タバサに向けて矢を放つ。

 木々の間に身を隠される前に、始末する――俺の《無音(ミュート)》を体験した以上、けっして生きて帰すわけにはいかないのだ。

 ほぼ直線に近い弧を描いて飛んだ矢は、今度こそミス・タバサの額をぶち抜――かずに、彼女の振り抜いた杖に、虫のように叩き落とされた。

(おや?)

 

 

 どうすべきか、という自問に、私は答えを出せずにいた。

 逃げる? 否。馬は走り去り、シルフィードも使えない状況で、飛び道具を持つ相手から、走って逃げ切れるものか?

 攻める? 否。こちらは魔法を使えない。その不利益は『孤独』も同じだが、通常武器を使い慣れている様子から見ても、向こうの方が圧倒的に有利。

 そもそも、攻めるためにこの場を移動すれば、守るべき人を無防備にしてしまう。ヴァイオラを死なせる可能性の高い選択肢は、選べない。

 この場に留まって、防御に専念する? 否。敵はいともたやすく、この馬車という防壁をぼろぼろにしてしまった。もう、どこから狙ってきてもおかしくはない。矢のストックがいくらあるかもわからない、直接攻撃をされる可能性もある――そんな状況では、どれだけ足掻いたとしても、じり貧にしかなり得ない。

 他に選択肢はないのか。他に。

 それを考え続け、そして結局、何も思いつけないでいた私に、ひとつの決断をさせたのは、杖を持つ手を揺らした、小さな衝突だった。

 後ろから、手の甲に何かが当たったらしかった。見ると、すぐそばに、革の鞘に入れられた果物ナイフが落ちている。

 振り向くと、シザーリアと目が合った。彼女は背中にヴァイオラを隠しながら、戸棚の引き出しを開けて、そこからいろいろなものを取り出しているところだった。果物ナイフ、ステーキナイフ、アイスピック――武器として使えそうな刃物類を引っ張り出しては、床を滑らせて、私の方へ送ってきている。

 そして、私が見ていることに気付くと、まず、ナイフ類を指差してから、外を指差すというゼスチュアをしてみせた。

 その意味するところは、まるで言葉で伝えられたかのように、はっきりと理解できた――すなわち。

(それを手に取って。そして、敵を速やかに始末してきて下さい)

 彼女の意思表示に、私は驚いた。その選択肢は、私自身が、先ほど否定したばかりだからだ。

(ダメ。それでは、私はあなたたちを守れない)

 身振り手振りで、それを伝える。たぶん、正確に伝わったと思う。しかしシザーリアの返事は、首を横に振る、というものだった。

 彼女は、自身の杖――三十サントほどの、金属製の杖――を、戦いに挑むように構えて持ち、その手で、トン、と軽く、自分の胸を叩いてみせた。

(この場は、私が守り通します。だからあなたは、敵の排除に専念して下さい)

 目と態度が、そう言っていた。

 そこにあったのは、並の決意ではなかった。本気でそれをやると決めているし、できると信じている。戦いの場に身を置いたことのない、ただのメイドには持ち得ない自信と胆力だ。

 彼女には、それだけの実力がある――私はそう判断した。

 床に散らばるナイフをかき集め、スカートのポケットに収める。そして、シザーリアに目で合図をする――(すぐ戻る)と。

 彼女も頷き、(ご武運を)と、唇を動かして伝えてくれた。

 そこから、一秒もかからないうちに行動を始めた。床を蹴り、扉の失われた出入り口から、馬車の外に飛び出す。

 森の中を駆けて、まっすぐ敵を目指す。矢の飛んでくる方向と角度から、奴の居場所はだいたいわかっている。青い月の方向、距離はおよそ百メイル。仰角で約二十五度!

 青い月を背景に木々を見れば、一本だけ不自然に揺れているものがある。風に揺さぶられている動きじゃない――『孤独』は、あの木の頂上付近にいて、そこから狙ってきている。

 案の定、その場所を起点とした銀色の輝きが、鋭さを持って私に迫った。月明かりの中を撃ち抜く矢の射線――!

 暗闇の中を、ちらりと走るだけのその線を、視覚だけを頼りに回避するのは難しい。だが、私は風メイジだ。音が聞こえなくても――矢が空間を渡ってくるならば――必ず、風を貫き、掻き分け、押し退けてやってくる。その空気の歪みを、肌で感じることができれば、触覚で矢の動きと位置を知ることができる。集中するのだ――肌の表面で風を感じろ――風を操ることができる私が、空気を感じることができなくてどうする?

 落ち葉だらけの地面を蹴り、前に進む。顔に風が当たる。まっすぐな風の流れが、私を包んで――その中で、一点の流れが歪み――崩れる!

(そこ!)

 風の歪みを切り裂くように、杖を振り抜く。軽い衝撃があった。受け流した先を見れば、一本の矢が落ち葉を巻き上げて、地面の上を跳ねていた。

 そのまま私は、速度を緩めることなく木々の間に飛び込み、太い木の幹を盾にしながら、移動を続けた。見通しのいい街道を通る馬車ならともかく、私のような立木の中に隠れた小さな獲物は、敵の位置からは矢で狙えない。

 いける。これなら充分に近付いて、こちらからも攻撃可能な間合いで勝負が挑める。

 勝ち目が出てきた、そう安堵しかかっていた私の頭上を、風の歪みが駆け抜けていった。

 あれは、私を狙ったものじゃない。あの射線は――狙撃対象は、私がさっきまでいた馬車――。

 私は唇を噛んで、走る脚にさらに力を込めた。敵は決断が早い! 私を撃ちづらくなったと感じたら、すぐに標的をヴァイオラたちに変えた!

 安堵しているひまなどない! 急げ私よ、急ぐのだ!

 

 

 ヴァイオラ様を背後に寝かせて、私は青い月の輝く外へと目を向けました。

 赤い月は、私からは見えない死角にあるようです。今はそれで結構――赤という色は、どうも血を思わせるので、こういう状況ではあまり好ましくありません。

 さて、ミス・タバサを激励して、賊の退治に行かせましたが、こうなったからには、このシザーリア・パッケリ、何としてもヴァイオラ様を守り通さなくてはなりませんね。

 今、私が手に持っているのは、杖の他にもうひとつ、戸棚から引き抜いた、棚板の一枚です。魔法が使えない以上、この板はきっと、杖よりも役に立ってくれるはずです――具体的には、盾として。

 私がすべきは、あくまで防御。攻撃はミス・タバサに任せて、私はこの板で矢を防ぎながら、ヴァイオラ様の前から、一歩も動かないつもりです。

 自分の分をわきまえ、自分にできることをする。それが、慣れ親しんだ私のやり方ですので、そこからはみ出すことも、そこから逃げ出すことも致しません。

『――いいかい、シザーリア君。誰かと戦闘になった場合、まず必要なのは、彼我の戦力分析だ』

 私の脳裏に、かつて私に戦い方を教えてくれた、ある人の言葉が浮かんできました。

 四角いべっ甲縁の眼鏡をかけた、紫色の髪の紳士――アーム・チェアに腰掛け、膝の上にぶ厚い書物を置いて――目尻と頬にしわを浮かべて微笑んでいたあの方――ミスタ・セバスティアン・コンキリエ。

 私のかつての雇い主で、ヴァイオラ様のお父上。

『向かってくるのが、勝てない相手だとわかったら、勝てる人に任せて、引っ込むことも必要だよ。

 判断基準は、敵の攻撃の威力でもいいし、動きから見えてくる頭の良さでもいい。負けている、と考えられる分野では、勝負を挑んではいけない。

 勝っている、と考えられる分野でのみ戦うのが、私が君に求める戦い方だ。ああ、そうそう、あえて自分に不利なシチュエーションで勝負して、格上の敵を打ち破ることを喜びとする人たちもいるけれど、そういう戦闘狂じみた嗜好は持たないでおくれよ。可愛いヴァイオラを守る護衛として、そういう性格は望ましくないからね』

 語るセバスティアン様の周りでは、いつも奇妙な虹色の泡が、ぼこぼこ、ぼこぼこと、膨らんだりはじけたりしておりました。書き物机の上、天井の隅、絨毯の端、果ては彼の肩の上や、ティー・カップの中でまでも。

 しかし、彼はそれを不気味がったり、疎ましく感じたりはしていないようでした。それどころか、その泡にしか見えないものを『ヨグ・ソトホート』と呼び、『僕の頼れる使い魔だよ』と言って笑っていらっしゃいました――あれが使い魔、というか生き物ということ自体、信じがたいことなのですが――奥様のオリヴィア様と比べましても遜色のないほど、不思議なお方だったと思います。

『シザーリア君。君には、できる限り合理的な戦闘スタイルを身につけてもらいたい。

 その場その場で、適切な判断をし、判断通りに迷いなく動き、可能な限り勝利し、絶対に負けない戦いをしてもらいたい。

 勝つよりも、負けないが重点だ。肝に銘じておくれ。最優先事項は、《ヴァイオラを守ること》。それさえ果たせるなら、敵に勝てなくてもいい。他にどんな損失、犠牲が出てもいい。極端な話、君が死んでくれても構わない。

 ヴァイオラを正確に、確実に護衛できるよう、適切に判断して行動してくれ。それができるように、君を鍛えていくからね』

 常に笑顔を崩さない、向かい合っているだけで安心できる人でした。

 それでいて、眼鏡の奥で細められていた目は、何か底知れない感じがして――彼は私に、安心と胸騒ぎとを、同時に与えたのです――結局、私は今でも、あの方がどういう人間だったのか、はかりかねております。

 ただ、ひとつ言えることは、あの方のご指導は、確実に私の血と肉になっているということです――確実にできることをする。ヴァイオラ様を、何としても守る。たとえ、私自身を犠牲にしてでも。

 ありがたいことに、ヴァイオラ様は命をかけて守りたいという気になれるお方です。愛らしく、親しみやすく、微笑ましく、あと、意外と尊敬もできます。少なくとも、彼女が害されるところなど、見たいとは思いません。

 ちらりと横目で、未だ眠りから覚めないヴァイオラ様を盗み見ます。自分の腕を組んで、そこにあごを乗せて、何も知らずにすやすやとお休み中です。これを起こすというのは、どう考えても不粋でしょう。

 ――腕が痺れるような衝撃とともに、私の構えた棚板に、矢が突き刺さってきました。

 不粋。しかし、強い。

 冷静に判断して、魔法という攻撃手段を奪われた私では、この賊を倒すことはできないでしょう。

 しかし、勝たせないことはけっして不可能ではないはずです。

 ヴァイオラ様のお姿が完全に私の陰に隠れるように、体の位置をととのえます。そして、再び感じる、矢が板にぶつかる鈍い痺れ。

 三度目の衝撃では、板のこちら側に鏃が飛び出してまいりました。そして四本目の矢にいたっては、私の右のふとももに突き刺さり、我が戦闘服たるエプロン・ドレスに、血をにじませることを許してしまいました。

 鋭い痛みに、思わずうずくまってしまいそうになります。しかし、私はヴァイオラ様の護衛。この程度で倒れることは許されません。

 私はできることをする。立ち塞がることは、まだできます。

 五本目――板を支えていた、左手の甲をえぐられました。狙ってのことなら、素晴らしい弓の腕前であると感心せざるを得ません。板という盾でなく――盾の持ち手を、確実に傷つけてきているのですから。

 苦痛に手が緩み、盾を取り落としそうになりますが、すんでのところで指に力を入れ直すことに成功しました。そしてその直後、棚板の上部を打つ、着弾の衝撃。もし私が板を落としていたら、眉間に直撃していたであろう軌跡でした。

 ――計算もお上手。でも、残念でしたね。この程度の痛み、火竜のブレスに炙られた時の苦痛に比べれば、何ということはありません。

 とは言っても、あれよりマシというだけで、痛いことに変わりはありませんが。

 矢の刺さった左手の内側に、ぬるりとした感触。いけませんね、血で手が滑ってしまいます。板の縁をしっかり握って――矢の威力に負けて弾き落とされないよう、支えていなければならないのに。

 突然、目の前で木屑が飛び散り、頬に熱いような痛みが走りました。

 痛みから一歩遅れて、視覚で認識した事実は、矢が盾にしている板を貫いて、その鏃が私の頬をかすめた、というものでした。

 さすがの私も、焦りに唇を噛んでしまいます。あと何本の矢を、この板で受けることができるでしょうか?

 考えている間にも、幾度もの衝撃が板を痺れさせ、私の膝や足の甲にも、激痛とともに矢が生え続けていました。

 ――大丈夫。頭と、心臓――そこさえ無事なら、私は倒れません。

 たとえ倒れても、その時は隙間なくヴァイオラ様を包み込んで倒れましょう。主を守る肉の盾となるために。

 ええ、そうですとも。はりねずみのようになったとしても、ここをどいたりするものですか。

 私は確固たる意志を込めて、青い月を見つめました。それと同じ方向にいるはずの、憎らしい賊を睨み殺すように。

 

 

(このワザとらしい挑発行為!)

 手足の少なくない箇所に矢を受けて、しかし逃げることも隠れることもせず、頼りない板きれだけを盾に立ち尽くすメイド――ミス・パッケリの姿に、俺は感心して笑みを浮かべた。

 身を呈して主人を守ろうというのか? 木々の中に隠れたミス・タバサに注意が向かないように、あえて自分が注目されるよう、わかりやすい位置に立ってくれているのか? あるいは、その両方か?

 まあ、何でも構わない。彼女のように、力強い目をした女性は魅力的だ。

 そんなミス・パッケリの努力を無にするのは心苦しいが、こちらも仕事であるから、彼女の命を、彼女の守ろうとしているものごと、打ち砕かなければならない。まずは、すでにかなり被弾してもろくなっているであろう板きれを粉砕し、あの美しいメイドの少女の額に、矢を撃ち込まなければならない。思うに、これはあと数分もかからないうちに完了する。それが済んだら、こちらに向かってきているであろうミス・タバサを迎撃する。魔法が使えなくなって、ただの子供同然になった彼女がこの場所に登ってくるまでには、かなりの時間がかかるだろう。ミス・パッケリを始末してから、落ち着いてゆっくり対処することができるはず――。

(ん?)

 不意に、足場にしている枝が揺れた。

 バランスを崩されるほどじゃない、小さな揺れだったが、風による揺れでもない。身の回りの風の流れと一致しない動きだ――不審に思った俺が、ふと下を見下ろすと――。

(……っとおっ!?)

 黒く重なり合った枝葉が、ばっと左右に分かれて、その隙間から小さな影が飛び出してきた。

 それは猿のような素早い動きで俺に迫ると、その手に握った銀色のナイフを閃かせ、俺のあごの下を浅く引っかいた。

 喉を切り裂かれずに済んだのは、事前に枝の揺れに気付いて身構えていたからだ。あと、敵のリーチが短かったことも幸運だった。

 それでも、あまりのことにかなり肝を冷やした――後ろにのけ反って避ける動きのまま、隣の木に飛び移り、刺客から距離を取る。

 青い月光の中に浮かび上がったのは、青い髪のミス・タバサの小柄な姿。マントを風にはためかせ、左手に大きな木の杖を握り、右手にはナイフ――そんな彼女が、赤い縁の眼鏡の奥から、氷のような冷たい眼差しをこちらに向けている。その表情は、一端の仕事人だ。

 彼女の右手がひるがえり、鋭く振り下ろされた。すると、回転する刃が、風を切り裂いて飛来する。

 スローイング・ナイフ――俺は弓を振って、それを叩き落とした。――と、二本目のナイフが、すでに目の前に迫って――!

 これを打ち落とすのは間に合わない。俺は思い切って枝から飛び降り、第二の投擲物を体全体で避けきった。

 四、五メイルほど自然落下し、別の枝に着地する。その俺の足元に、さらに三本のナイフが突き刺さった。

 見上げると、右手の指の間に一本ずつ、計四本のナイフを挟み込んだミス・タバサが、まるで獲物に襲い掛かる瞬間の肉食獣のように、腕を振り上げているのが見えた。

 うわぁ……まいったなぁ、こりゃあ。

 ここで殺す気マンマンというか、全力で叩き潰す感がスゴイというか。

 少女の細腕が、鞭のように激しく空気を裂き、放たれた四本の銀の爪が、絡まり合うようにブレながら俺に襲い掛かる。

 しかもだ、ナイフを投げたと同時に、彼女自身もこちらに向かって跳躍してきた。スカートのポケットに手を入れて、新しいナイフを取り出しながらという器用なことをしながら。

 迎撃――弓じゃ駄目だ。俺は左手をマントの中に突っ込み、別な武器を取り出す。

 よし。ここはこの山刀(ククリ)で決めよう。

 軽く内側に湾曲した、三十サントほどの刃を持つ刀を構える。柴を刈ったり動物を解体したりするのに向いている、主に猟師などが好んで携帯する刃物だが、意外に対人戦でも使い勝手がいいのだ。

 四本のナイフのうち、顔に向かってくる二本を山刀で弾き、残り二本を、身を屈めて回避する。

 そして、その後ろから飛び込んできたミス・タバサを、返す刀で迎え打った。脳天を目掛けて振り下ろされたナイフと、俺の山刀がぶつかり合い、嫌な痺れが手に伝わる。

 しなる木の枝の上で、一撃、二撃と打ち合う。金属の刃同士がぶつかり合い、闇の中にオレンジ色の火花を散らせた。

 しかし、最終的には俺が腕力で押し切った――思い切り殴るように刃を叩きつけると、それを受け止めたミス・タバサは足を滑らせ、枝から落下した。

 勝った! この高さから地面に落ちれば、どう頑張っても助からない!

 そう思ったのもつかの間――墜落しかけたミス・タバサは、左手に持った杖の、鉤状に曲がった先端を枝に引っ掛けてぶら下がると、そのまま振り子のように体を揺らして、別な枝にふわりと降り立った。

 まるで蝶のような、柔らかな動き。

 なるほど、さすがは花壇騎士。ただのメイジと違って、身のこなしも洗練されているというわけか。

 先ほどのスローイング・ナイフの腕といい、俺とクロス・レンジで打ち合った時の剣閃といい、幼いのに大したものだ。マントの下に学生服着てるけど、やっぱり普段は学生をやっているんだろうか? 国のエージェントとして働く時は、こんなに派手にチャンバラしておいて、学校じゃ普通に文学少女っぽく【イーヴァルディの勇者】なんか読んで、静かに過ごしていたりするんだろうか? 彼女のクラスメイトは、こんなミス・タバサを全然知らないのかも知れない。

 まあ、それはともかく、こんな戦闘センスのある奴相手に、《無音(ミュート)》なしで戦っていたら、どうなっていたかわからないな。

 ――だが、ここまでだ。

 ミス・タバサが別の枝に移ったことで、彼我の間に距離が生まれた。

 弓で射るには近すぎるが、ナイフで切り結ぶには遠すぎる。そんな距離感――そして、スローイング・ナイフは、ミス・タバサだけの専売特許じゃあない。

 俺が持っている刃物も、山刀だけじゃない。投擲用のナイフだって、マントの裏に何本も仕込んであるんだ。

 山刀を鞘に戻し、代わりにふた周りほど小さな、真っすぐの両刃ナイフを抜く。

 腕を曲げ、胸の前で刃を構える。数メイル離れた先で、ミス・タバサが同じようにナイフを構えている。

 彼女の方が、先に投擲した――しかし、それは迂闊だ。ほんの少し頭を右に傾けるだけで、俺は彼女のナイフを避けることができた。

 そして、無傷な俺の目の前には、ナイフを投げた姿勢で――腕を伸ばしきって、完全に無防備な体勢に陥っているミス・タバサの姿があった。

 その絶好のタイミングを逃すことはできないし、俺は逃さなかった。

 半月をイメージして、腕を振り切る。ナイフの軌跡は、ほぼ直線。ミス・タバサは身をよじって逃れようとするが、叶わない。

 ミス・タバサの左肩に、刃が垂直に突き刺さる。苦痛に歪む顔。彼女の足の裏が、枝から離れる。

 小さな体が、大きく傾く。マントに包み込まれるように、背中からゆっくり倒れていき、月の光も届かない暗闇の中に、落ちていく。

 静かな、静かな決着。

(だけど、まだ一人だ)

 あと二人やっつけなければならないのだから、ここで気を抜いてちゃいけないね。

 俺は再び弓を出して、あらためて馬車に狙いを定める。矢の残りは正直少ないが、まあ、何とかなるだろう。

 

 

(んむふふぅ〜、やはりプリンは美味いのじゃー)

 スプーンにすくった、ぷるぷるの甘ぁいお菓子を口に入れて、我はとろけるような幸せに浸っておった。

 よき卵と、よきミルクのコンビネーション! 主役二人を取りまとめる砂糖は控えめ、バニラの風味は後口に香る程度。

 カラメルソースには、チェリーのリキュールをちょいと混ぜて。

 んふー、これはもう人類の生み出したスイーツの極みよの! あなたもそうは思いなさらぬか?

 え? あなたっていうのは、そりゃあもちろんあなた様じゃよ。私の目の前で、優しく微笑んでおられる兄様、あなたじゃ。

 日当たりのいい、ロマリア南部風の庭園の真ん中に、テーブルセットをしつらえて、大好きな兄様と二人っきりでティータイム。

 自然とほっぺの緩む、素敵な時間のただ中に、我はおった。

 紅茶がなくなれば、兄様はそっとおかわりを注いでくれる。『口の横にカラメルがついているよ、可愛いヴァイオラ』などと甘い言葉を囁いて、ハンカチで我の口元を拭うてくれたりする。

 普段は無駄に格式張って、こんな甘いことなんぞしてくれんのに……うえへへへへ夢のようじゃ〜。

 ……………………。

 ………………。

 …………。

 ぱちりと目を開く。

 目の前は薄ぼんやりと暗く、ほっぺにファーのようなフサフサしたモンが当たっとって、唇がよだれで濡れとる感じがする。

 身を起こして、ふぁ〜と大あくび。

 うむ。

 案の定、夢じゃった。

 ……ちくしょう。道理でいろいろチョロいと思うたわ。

 袖口で唇のよだれを拭い、もう一度あくび。そして、目をぱしぱしする。

 薄暗くてようわからんが、ここは――ええと、そうじゃ、確か馬車に乗って、酒を飲み始めて――そのまま、うつらうつらして、寝入ってしもうたんじゃったな。

 馬車が動いとる様子はないし、周りも暗くなっとるから、もうディジョンに到着したということかの?

 だとしても、こうも暗いのは妙じゃな。――シザーリアー。お前も居眠っとるのかー? ランタンぐらいつけんかー。

 と、心の中で文句を言いながら、顔を横に向けると。

 青い月明かりの中に、ぼんやりと浮かび上がるように。

 傷だらけになったシザーリアの、無惨な背中が見えた。

(…………へ?)

 背中に氷を入れられたような悪寒とともに、意識がすーっと覚醒する。え? なんで? なんでこのメイド、こんなに血まみれなのん? エプロン・ドレスの白いとこ、ほとんど赤黒いシミで染まっとるっぽいし、肘とか指先からとか、重たげな汁が黒い玉になって滴っとるぞ?

 肩とか脚とかからにょきにょき何本も生えとる細っこいもんは何じゃ? 我には狩人が使うような矢のように見えるんじゃが。いやいや――それはアクセサリーよろしく身につけるもんでないじゃろ。しかも、皮膚に肉に突き刺して装備するんは健康によろしくない。たぶんツボを刺激して血行をよくする効果もないと思う。

 などと、混乱と不明の渦の中で口もきけずに呆然としとると、どこからか新たな矢が飛んできて、シザーリアの右肩を撃ち抜いた。

(ひいっ!?)

 人間の肉体を、棒きれが突き抜けるというショッキングな光景を目の当たりにし、我は悲鳴を上げた――ってか、上げたつもりじゃった。しかし、どうしてじゃろか、喉は震えたはずなのに、しかし唇から外には一切の音が出ていかなんだ。

 いや、出たのかも知れん。単に、我の耳に聞こえんかったというだけで。

 そういえば、周りが妙に静か過ぎる。風の音も聞こえんし、虫の音も鳥の声もない。馬鹿みたいに静寂じゃ。シザーリアの肩に、矢が当たった時の音も聞こえなんだ――こればかりは幸運じゃったろうか? 人の肉がえぐれる音なんぞ、おぞましい響きに決まっとるし。

 つまりこりゃ、我の耳が聞こえんなっとる? お、おいおい冗談じゃないぞ! 我はまだ若いのに! 耳の病気になるほど不健康な暮らしもしとらんぞ!?

 我は、我が身に起きた異常に狼狽したが、それよりもさらに悪い状態にありそうなシザーリアの体が、ぐらりと傾いで、我の方に背中からぶっ倒れてきた。

 我はとっさに、それを避けた――音もなく床に倒れ伏した我がメイドは、胸や腹にも複数の矢を受けておった。左胸だとか頭だとか、致命的な部分は腕を盾にして防いどったみたいじゃが、それでなくても胴体に七、八本も矢を突き刺されたら、普通に助かりにくいのではあるまいか?

 しかし、それでもまだシザーリアは死んでいなかった。胸が大きく上下し、苦しそうに呼吸を試みておる。表情を苦痛に歪め、咳き込むと同時に、血の飛沫を吐き出す。その数滴が、我の頬に散った。

 我はへたりと、その場に膝をついた。あまりの恐怖に、歯の根が合わぬ。

 何じゃマジで。いったい何が起きておる? シザーリアは火のスクウェアメイジぞ。めっちゃ強いんじゃぞ。それがなして、矢なんて平民のしょっぽい武器でハリネズミになっておる?

 つーか、こいつをこんな風にメタクソにできる賊は何者ぞ!? 『烈風』とかそーゆー怪物か!? それとも七万人規模の軍隊でも攻めてきたんか!?

 わけがわからんであうあうしとった我の方に、シザーリアの青ざめた顔が向いた。

 意識が途切れそうになるのを、必死にこらえておるようじゃった。細められた目は虚ろで、しかしその奥には、消えかけているろうそくの炎のような、かすかな生命の輝きがあった。手負いの狼を思わせる、強烈な意志の輝きが。

 彼女の血まみれの唇が、震えながらこう動いた。

(に・げ・て)

 その意味するところを、我は一瞬飲み込めなんだが――直後、またしても飛んできた矢の一撃が、シザーリアの左胸に突き刺さり、彼女の首ががくり、と力無く傾いたのを目の当たりにして――この場所にいることの危険を、はっきりと理解した。

(の、の、のぎゃああああぁぁぁぁっ!)

 我は、転がるようにして馬車から逃げ出した。

 なんでか扉の外れとった出入口から、真っ暗な森の中に駆け出す。脚が勝手に動いた。心は、とにかくこの恐ろしい場所から遠ざかりたいとだけ思っておって、体の方が気をきかせて、その要求に相応しい動きをしてくれた。

 いつも守ってくれるシザーリアがおらなくなったというのは、それだけでひどく心細かった。裸で、オーク鬼の巣にでも放り込まれた気分じゃった――てか、タバサはどうした? あのガリア花壇騎士のお姉ちゃんは? 我を守らんでどこ行きよった。まさか逃げたんじゃあるまいな? それとも、これはもうちっと嫌ぁな想像じゃが、シザーリア同様やられてしまったとか――!?

 何かに左の足首をガツンと叩かれ、その衝撃で我はすっ転び、落ち葉だらけの地面に顔から突っ込んだ。

 あいたた、何じゃいったい――と、起き上がりながら足首を見ると――くるぶしに、銀色に輝く鋭いナイフが、深々と突き刺さっておった。

 の、のげ、うげげげっ!? 怪我っ、我の足がっ、ひどい怪我をさせられたぁっ!?

 パニックに陥った我は、じたばたとめちゃくちゃに、ナイフの刺さった足を動かした。まるでそうすれば、恐ろしい怪我が、靴についた泥汚れのように振り払えると信じているかのように。

 そして、なんと、ありがたいことに、本当に怪我は振り払うことができたのじゃ。何度か足を振ると、ナイフは我が履いとった靴と一緒に、ぽーんと飛んでいった――かかとがやたら高い、シークレット木靴じゃ――ナイフはその見せかけのかかとに突き刺さったのであって、本当の我の足首には、傷ひとつなかった!

 やった、助かった! と、一息つく暇もなく、我の目の前の地面に、新たなナイフが突き刺さり、落ち葉をばっと舞い上げた。

 全然まったく助かっていないことを思い出した我は、またも声にならない悲鳴を上げて駆け出した――背後に、害意に満ちた邪悪の気配を感じながら。

 

 

 ミス・コンキリエの小さな影は、薄暗い森の中では、いまいち狙いにくい標的だった。

 うまくスローイング・ナイフで足止めできた、と思いきや、ナイフが刺さったのは靴の高いヒール部分だったようで、彼女は靴を放り出すと、そのままウサギのように逃げ出した。これがまた、走りにくい靴を脱いだせいか、さらにちょこまかとすばしこくなったときてる。

 あのメイドに、残りの矢を全部使ってしまったのが痛かった。まさか、あんなにたくさん射たのに倒れないなんて、誰が思う? まったく、根性のある女に男がきりきり舞いさせられるのは昔からのことだが、まさかこんな静かな森の中でもそうだとはね。

 とにかく、あのしぶといミス・パッケリのおかげで、俺はかなり接近してミス・コンキリエを狙わなくてはならなくなった。スローイング・ナイフも苦手ではないが、悔やむべきは、矢ほどたくさんはナイフを持ってきてはいないということだった。実のところ、今さっき標的の横顔を狙って外したナイフが、最後の一本だった。

 これから、どうやってミス・コンキリエを攻撃するか? 近付いて組み伏せて、山刀で首をはねるか? いや、それはあまり気乗りがしない。かといって、今まで使ったナイフや矢を拾って再利用というのも、どうも……。

 などと悩んでいると、細く真っすぐな、ちょっとした杖にできそうな木の枝が目についた。

(そうか……木の枝か)

 俺はふと思いついて、その枝を山刀で刈り取り、葉を落として、先端を削り、鋭くした。

 二十秒もかからないうちに、俺の手には、長さ一メイル半ほどの、手頃な重さの木の槍が握られていた。

 うん、これならいける。

 こんなに簡単に加工できるなら、周りにある木々がすべて、槍の材料として立ち上がってくる。

 今まで森であまり苦戦したことがなかったから、こんなうまい凶器調達方法があるなんて気付かなかった。

 となると、こんな背の低い潅木もうれしい。

 適当な長さの枝を刈り取り、ささっと片方を尖らせ、簡易な武器として、今は空っぽの矢筒にまとめて入れておく。

 ふふ、ちょっとした投擲槍のバイキングだぞ。

 そうして、充分な量の武器を補充した俺は、最初に作った大振りな槍を思い切り振りかぶった。狙うのはもちろん、闇の中をちょろちょろと駆けていく、ミス・コンキリエ。

 ウサギのようにすばしこい彼女を仕留めるのは難しいが、不可能だとは思わない。いくら小柄といっても、彼女は本当のウサギよりかは、ずっと大きいのだから。

 

 

(ひい、ひい、ひいぃっ、ひいっ)

 右も左もわからぬ森の中を、我はひたすらに走り続けた。

 顔は涙でべちゃべちゃになり、高価で清潔だった法衣にも、裂け目や泥汚れが目立った。ルビーやエメラルドのついた飾りボタンが何個か吹っ飛んだし、枢機卿の象徴である灰色帽子もどっかに行った。

 優雅で高貴で美しく、金と権力によって至尊の地位に立っておるべき我が、惨めなことに、犬に追われる猟場のウサギと同じ扱いを受けておった。罰当たりなクソ賊野郎は、ナイフのみならず、野蛮な木の槍を投げて、我を害そうとしておりやがる。

 全身に矢をぶっ刺されたシザーリアの姿が、脳裏に浮かぶ。我も、あんなふうにズタボロにされて死んでしまうんじゃろうか?

 嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃ!

 どうしてこうなった? シザーリアにタバサと、かなり頼りになるボディーガードをつけて、のんびり気楽なガリア旅行じゃったはずなのに、どこで間違えた?

 タバサの忠告を聞かず、ボルドーに留まらなんだことがいかんかったんか? 我自ら、ロマリアを離れて手紙を運ぼうとしたのがマズかったんか? それとも、シエイエスのやつを陥れようとしたのが悪かったのか? 人を踏み台にして出世しようとしたことを、始祖が罪認定してバチを当てよったのか!?

 いや! そんなわけはない! 我はヴァイオラ・マリア・コンキリエぞ! ハルケギニア屈指の金持ちで、枢機卿なんじゃぞ! 偉くて尊いんじゃ! 我の幸せのために、他の下賎な奴らは喜んで踏み台になるべきなんじゃ! それが世の中のためで、ひいては始祖のアホタレの信者どものためなんじゃ!

(ひい、ひい……た、タバサー! どこをほっつき歩いとるんじゃー! 護衛じゃろが貴様、早く我を助けんかー!

 シザーリア、シザーリアはどこぞー! お前の主のピンチじゃぞー! 駆けつけて守れー!

 ぼさっとするな、助けろ、死にとうない! 誰か来い、誰かぁ……。

 助けて、兄様――兄様ぁ、助けて……兄様、兄様、兄様……助けてエエェエェ――ッ!)

 真っ黒な虚空に向かって絶叫する我の脇腹を、木の槍がかすめていく。

 ひらひらした法衣を着た我は、賊にとって狙いにくい的なのか、まだ致命的な一撃はくろうておらん。しかし、さっきから何度も、きわどいところをヤバげな鋭いのが直撃しかけとる。ゆったりしたそでだとか、スカートのすそだとかが犠牲になって引き裂かれていったが、いつまでもそんな辺縁部が身代わりになり続けてくれると思うほど、我は楽観的ではない。

 気配がするのじゃ。

 我を追ってくる気配が、だんだん近付いてきておる。音がせんでもわかる、体中が警鐘を鳴らしておるのじゃ――逃げなくては、逃げなくては。

 駆けて駆けて、何度も転んで、起き上がってまた駆けて。

 暗闇の中を突き進んで――やがて、突然に視界が開けた。

 木々に遮られていた空が現れ、赤青二色の月と、星空が見えた。紫色の月光が、我を明るく照らし出す。

 やった、この恐ろしい森から出られたぞ!

 我がそう喜んだのもつかの間――視線を足元に落とした瞬間、希望は絶望に席を譲った。

 深い、深い断崖が、目の前に横たわっておった。

 それは、森の中を横切る谷川じゃった。縁から覗き込んだ数十メイル下の谷底には、何万匹もの大蛇が絡まりながらのたうっておるような、轟々たる濁流があった。

 谷の幅は、ざっと十メイル以上。向こうの岸まで飛び移るなんてマネは、まず不可能じゃ(フライでも使えりゃ話は別じゃが、何でか今は魔法が使えん。ここに来るまでに、さんざん呪文を唱えようと頑張ったが、成功せなんだ)。

 これ以上先に行くことは、とうていまかりならぬ。

 ああ、気配がする。肌がちりちりとする感じがして、危険の気配が近付いてくる。

 こわごわと、我は後ろを振り向いた。ちょうどその時じゃった――真っ黒な枝葉をかきわけて、そいつが静寂の森の中から姿を現したのは。

 黒いマントに身を包んだ、地味な風貌の男じゃった。どっかその辺で、輸入雑貨商でも営んでそうな。

 一・九に分けた黒っぽい髪についた木の葉を振り払いながら、ゆっくりとこちらに近付いてくる。その右手には、木の枝を荒く削った槍が握られ、もう片方の手には、湾曲した鉈のような刃物があった。

 男は、人間性というものを感じさせない冷たい目で我を見ると、槍の先っちょをこちらに向けた。

 我は(ひぃ)と、声にならぬ悲鳴を口から漏らし、一歩後ずさった――崖の縁にかかとが触れ、そちらに目を向けると、小さな石ころが深淵の中に転がり落ちていくのが見えた。

 あとのない我の手前、三メイルぐらいの距離まで詰め寄ると、男は槍を下に向け、地面の土に、なにやら書き始めた。

 ご親切にも、こちらから見て普通に読めるように書いてくれたので、その内容は容易に理解できた――月の光に照らし出された文面は、実に簡潔に、これだけ。

『手紙をよこせ。そうすれば、助けてやる』

(て、手紙?)

 我は思わぬ要求に、呆気に取られた。

 手紙てあれか、我の懐にある、シエイエスを陥れるためのニセ手紙か?

 何でそんなもん欲しがる? ニセじゃのに。何の価値もないクズ紙切れじゃのに。

 からかわれとるのかも、と思ったりもしたが、向こうさんの顔は真剣じゃ。

 いったい、どうなっとるのか――わけがわからん。

 

 

 俺が地面に書いた要求を見て、ミス・コンキリエは明らかに動揺していた。

 よほど手紙が大切なのだろう。自分の命と比べて、躊躇してしまうほどに。

 しかし、できれば、命を惜しんで手紙をこちらに渡して欲しい。もちろん、素直に手紙をくれても、彼女を生かしておくつもりはない――ただ、渡してくれなかった場合、俺は彼女の死体から、手紙を漁る仕事をしなければならない。その不愉快な手順を省くためにも、ここは素直に従ってもらいたかった。

 ミス・コンキリエは迷っていた。周りを不安げに見回し、何かを確かめるように、手でお腹の辺りを探っていたりした。

 なるほど。あそこに入れているんだな。

 とりあえず不愉快なことをしなければならない場合でも、その作業をごく短くすませられるめどがついたわけだ。

 ならば、いつまでもグズグズしていないで、さっさと彼女を殺してしまった方がいいかな?

 そんなことをぼんやり考えていると――突然、背後に殺気が生まれた。

 考えるより先に体が動いた。さっと身を屈めると、今まで俺の頭があった場所を、節だらけの硬そうな木の杖が通り過ぎていった。

 ゴロゴロと地面を転がりながら、襲撃者の姿を確かめる――なんてこった! あの高い木の上から転落したはずの、ミス・タバサじゃないか!

 制服とマントを泥まみれにして、肌のあちこちに擦り傷を作って、ナイフをくらった左肩は、血で真っ赤に染まっていて、しかしそれでも彼女は、戦意に燃える目で俺を見ていた。あの、赤いフレームの眼鏡も健在だ。

 右手に持った大きな杖を、こん棒のように振り回して、俺を叩こうとしてきた。魔法や投げナイフに比べればなんてことはないが、それでも当たれば痛いだろう。頭に直撃すれば、頭蓋骨が割れるかもしれない。大袈裟な予想じゃない――人の腕くらいの太さの木の棒で殴られれば、そのくらいの怪我はする。

 俺は体勢を立て直して、ミス・タバサに木の槍を放った。彼女は正確にそれを弾き落とし、同時に俺とミス・コンキリエの間に立った。ミス・タバサのはためくマントの後ろに、ミス・コンキリエの小さな姿はすっかり隠れてしまった。

 やはり、見事だ。あそこまで傷ついてなお、俺に奇襲をしかけ、流れるようにスムーズに、護衛対象を守れる位置を取った。

 万全な状態であれば、おそろしくできる奴に違いない。

 そう、あくまで、万全であれば。

 こちらを睨む瞳には力があるが、息は荒い。肩が大きく上下し、杖の先が不安定に揺れている。そして、左手はだらんと垂れ下がったまま、まったく動いていない。

 ここまでやってくるだけでも、かなりの体力を消費したはずだ。となると――。

 当然、起きるべきことが起きた。ミス・タバサが、その場にがくりと膝をついたのだ。

 やはりだ。――彼女は全然、血が足りない。

 

 

 タバサ・イズ・バック!

 我のピンチに颯爽と駆けつけ、悪漢に振りかぶった杖の一撃をおみまいしようとしたタバサに、我は拍手喝采を送りたかった。

 よっしゃよっしゃ、それでこそじゃ! その調子で、そこなタコ助を撲殺して思い知らせてやれー! 天はお前と我に味方しておるぞー!

 ……そんな風に思うとった時期が……我にもあったんじゃ……。

 二、三回杖をぶんぶこ振り回して、敵をちょいと遠ざけたまではよかったが、そこまでじゃった。すぐがっくりと膝をついて、それでもう立ち上がれそうにないときたこのガッカリ騎士。

 いや、仕方ないとは我も思うんじゃよ? この青髪娘、ズタボロじゃったもん。あちこち擦り傷だらけで、左肩なんぞ、ナイフでも突き刺されたんじゃないかってぐらい血まみれになっとった。流れ出した血が、左腕のそで全体を赤く染めとったほどじゃ。

 この出血で、さっきの立ち回りができたって時点で、めちゃくちゃすごいんじゃろう。昔、木の根につまづいて転んで、ひざ小僧すりむいて血が出て、痛くて立ち上がれなくなった経験をした我にはよくわかる。

 この状態で、ろくな動きができんのはよーくわかる――じゃが、じゃがしかし。

 その仕方ないことで、我が守れんのじゃあ意味がなかろーがこの役立たずがァーッ!

 もーこの小娘には頼っておれん! 我は、我のできることで現状を打破するぞ!

 我は覚悟を決め、懐から小箱を取り出した。

 黒琥珀で全体を装飾した、手の平におさまるサイズの化粧小箱。

 ガリア王への献上品として持参したもので――アホくさいニセ手紙が、あそこのバカ賊が欲しがっとるクソッタレなブツが――この中に入っておるのじゃった。

 

 

 動いて、私の脚。ぶざまに震えないで――こんな風にしゃがみ込んでいるなんて、絶対にいけない。

 私は、ヴァイオラを守らなくてはならない。座っていてはそれができない。

 左手が動かないのはいい、呼吸が苦しいのも構わない、でも脚に力が入らないのはダメ。機動力抜きで、この男に対処することはできないから。

 左肩をナイフで撃ち抜かれて、足を滑らせたあと、他の枝葉にぶつかって落下速度がセーブされ、こんもりとした柔らかい潅木の上に落ちることができたのは幸運だった。擦り傷はたくさん負ったけど、死ぬことはなかったのだから。

 ヴァイオラを追う『孤独』の姿を、暗闇に近い森の中で見つけ出せたことも幸運――ヴァイオラが追い詰められた土壇場で、彼女を助けに入れたのも幸運。

 だから、もう一度だけ幸運を――この脚、もう一度動いて。ヴァイオラを、きちんと、守らせて。

『孤独』は、無表情に山刀を構えたまま、じりじりと近付いてくる。私が動けないとわかって――でも、けっして油断することなく。

 彼相手に、ヴァイオラは単独では勝てない。それは間違いない。だから、私が動かないと――。

 そんな風に、私が必死になっている時だった。背後で、ヴァイオラが動く気配がしたのは。

 振り向いて見ると――ヴァイオラは、黒い小さな化粧箱のようなものを手に持ち、何かを決意した眼差しで、『孤独』の方を睨んでいた。

 あの箱はいったい? そう疑問に思いながら、敵の方に視線を戻した瞬間、あるものが私の目に飛び込んできた。

 地面に書かれた文字。

 おそらく、『孤独』によって書かれた、要求文。

 手紙を渡せば助けてやる、という――正直なところ、首を傾げてしまう、その内容。

 助けてやる、というのは、確実に嘘だ。しかし、それより気になるのは、手紙をよこせ、という部分――『孤独』が『テニスコートの誓い』に雇われたのなら、手紙は処分したいはずだ。それを、わざわざ渡せ、と? なぜ? 私たちを殺したあとで、適当に油でも撒いて、死体ごと焼いてしまえば早いだろうに、なぜ、地面に文字を書いてまで、手紙を出させる?

 手紙を回収したい? 処分するのではなく? なぜ――?

 そう考えた時、私の頭の中に、雷が落ちたような、鮮烈なアイデアが浮かんだ。

 そうだ――彼らは、シエイエスの手紙をヴァイオラに送った人物の正体を知りたいんだ。

 それはまぎれもなく、『テニスコートの誓い』の裏切り者。獅子身中の虫を探し出して始末するために――ヴァイオラにシエイエスの手紙を送り付けた人物が、ヴァイオラに事情を説明する手紙の中に、自分の名前をしたためている可能性にかけて――その人物の名を知るために、これを手に入れようとしているのだ!

 しかし、それがわかったところで――もう――。

 

 

 ミス・コンキリエが、懐から小さな箱を出した。

 細かい彫刻の施された、黒い光沢のある宝石――オニキスか、いや、たぶん黒琥珀だな――で覆われた、美しい小箱。

 彼女は俺に見えるように、その場で箱のフタを開けた。中には、折り畳まれた手紙のようなものが、数枚入っている。

 俺は頷いて、こちらに渡せ、と手振りで合図した。

 ミス・コンキリエは、フタを閉じると、その箱を持った手を、頭の上に高々と振り上げた。

 よし、いいぞ。

 そのまま、こちらに投げてよこすんだ。

 そうすれば――すぐに、楽にしてやる。

 

 

 この箱を投げれば、殺されないで済む。

 正直、ホントにそーなのか? と思わないではない。むしろ、ブツをゲットした賊野郎が、よーし手紙手に入れたからもうお前ら用済みだぜヒャッハー、とかエキサイトして、約束をブッチする可能性の方が抜群に高い気がする。

 振り向いたタバサも、『やめて』的な目で我を見ておる。じゃが、我はやる――あえて都合の悪いことから目を逸らして、わかりやすい希望に飛びつかせてもらう。

 もー逃げたりハラハラしたり怖い目に遭ったりすんの嫌なんじゃもん。シザーリアみたいにボロボロのズタズタの痛そうな感じにはなりとうない。

 このまま手紙を渡さずにおったら、ひどい殺され方するんは確定じゃし、それだったらいっそ、豆粒以下のちっこい可能性に賭けてもよかろうよ。0.000000000000001パーセントの可能性でも、0パーセントに比べりゃ高いってのは、数学的に明らかじゃ。

 だから我は、この野郎の善性を信じてみる! 我、僧侶じゃし。助かるにはそれ以外の道ないし!

 我は決意を固め、箱を持った手を振りかぶる。あの賊のいる場所に届かせるために、頭の後ろに手を持っていって、反動をつけてブンと投げ――。

 ようとしたら、箱が手の中でずるりと滑って、指の間をすり抜けた。

(え)

 原因は、手の汗じゃった――恐怖と緊張で、我の手はいつの間にか、汗でじっとりと濡れておった。

 ついでに言うと、箱の表面がつるつるした黒琥珀で覆われておったのもまずかった。じっとりプラスつるつるで、滑りやすさは倍率ドン! さらに倍じゃ。

 低すぎる摩擦力しかない環境において、箱は然るべきふるまいをした――つまり、ウナギのように、つるんと滑って我の手から脱出しおったのじゃ。

 ちょうどその時、我は箱を投げようと、それを持った手を、頭の後ろに振りかぶっておった。

 そして、我が立っとったのは断崖の縁で。谷の方に背を向けとったわけで。

 その条件のもとで、我の手から離れた箱がどこに向かったかは――のう? 考えるまでもないじゃろ?

 黒い小箱は、深い深い谷底さんに、スゥ――ッと吸い込まれて――。

(の、のじゃああぁあ――――――ッ!?)

 

 

 ミス・コンキリエがあんな行動をとるとは、まったく想像していなかった。

 彼女が手紙の入った小箱を、これみよがしに掲げてみせたので、当然それをこちらに投げてよこすものと思い込んでしまったのだ――彼女の目も、そうするつもりだと暗に語っていた。命を失うことを、ひどく恐れている顔。怯えきった、心の折れた人間の表情。麦藁ほどのはかない希望にもすがりつく、弱者の態度。

 それが、こんな土壇場で真逆の決断をするだなんて!

 箱を振りかぶって投げるようなポーズを見せながら、ミス・コンキリエは、手が充分に後ろに回った時に、パッと、小箱を後ろに向かって放り捨てたのだ。

 いや、その表現は正確じゃない。投げ捨てたというよりは、そっと手放したというべきだろう。とにかく小箱は、静かにミス・コンキリエの手から離れ、真っ逆さまに谷底へ落下していった。

 ――まずい! あの箱があの濁流に飲み込まれてしまっては――手紙が失われてしまっては!

 ロベスピエール氏の依頼は、ミス・コンキリエの始末と、手紙の回収なのだ。どちらか片方だけではいけない。早く、あれが川に落ちてしまう前に、取り戻さなくては!

 俺は走った。ミス・コンキリエとミス・タバサの横をすり抜けて、崖の縁を蹴って深淵に身を投じる。

 空中で、山刀を持っていない方の手を伸ばして、小箱をつかみ取る――間に合った!

 しかし、まだ安心するのは早い。ぐんぐんと近付いてくる水面。このままでは、俺自身が川にじゃぼんと落ちて、激しい流れに飲まれてしまう。

 それを免れるために、俺は素早く決断した――《無音(ミュート)》を解除して、別の呪文を唱える。早口で、しかし正確に――もうそこまで水面が迫って――。

「フライ!」

 詠唱を完成させると同時に、上向きの力が体全体にかかり、俺は着水ギリギリでUターンすることに成功した。ふわりふわりと、谷の上へと昇っていきながら、俺は下の濁流を見下ろしていた。

《無音(ミュート)》の効果を切った今、周囲には音が戻っていた。ごうごうという、竜の吠えるようなものすごい音! あれに飲み込まれたらと思うと、まったく、冷や汗が出る。

 とにかく、無事に済んでよかった。そう思いながら、戻るべき岸辺へと顔を向けると――。

 黒い影が、俺の視界をさえぎった。

 バサバサバサとマントを大きく広げて。赤と青、ふたつの月を背負って。

 右手に杖を握った、猟犬のように厳しい目をしたミス・タバサが――こちらに向かって飛び降りてきていた。

 

 

 ヴァイオラがこんな決断をするだなんて、まったく想像していなかった。

 最初は、彼女が恐怖に負けたのだと思った。死を恐れるあまり、敵の見え透いた甘言を信じる気になってしまったのだと。

 それは正しい選択とは思えなかった。おそらく、手紙を渡した瞬間、私たちは殺されてしまうだろうから――かといって、渡さずにだだをこねれば、じわじわとなぶり殺しにされていただろうし。

 一言でいえば、私たちは詰んでいた。何をしても、助かり得ない状況にあったのだ。

 だから、ヴァイオラが本当にしようとしたことは、敵に対する、ちょっとした嫌がらせだったのかもしれない。

 彼女も、暗殺者の要求文を見て、敵が手紙の回収を目的にしていることに気付いたのだろう。そして、その理由――裏切り者の正体をつきとめること――も、見抜いていたに違いない。

 だから、手紙をここで処分してしまえば、『テニスコートの誓い』の中にいる裏切り者につながる情報も、同時に隠滅してしまえると考えたのではないか?

 その裏切り者が無事なまま、『テニスコートの誓い』の中にい続けることができるなら――彼(あるいは彼女?)は、いつか再び、この反社会的組織を告発すべく、内部から動いてくれるだろう――今回の告発が失敗に終わっても、内部の病根さえ残っていれば、それは『テニスコートの誓い』を蝕み、ついには滅ぼしてしまうはずだ。

 ガリアのためを思うなら、それは望ましい結末だ。

 ただ、その未来を選ぶことによって、ヴァイオラの命が救われることはない。

 むしろ、敵の怒りを買い、より悲惨な死をもたらされる可能性の方が高いだろう。

 手紙をこの瞬間に始末しようとすることは、ヴァイオラにとって悪い結果を生む。そんなことは、ちょっと考えればすぐわかること。

 にも関わらず、彼女はその行為を選択した。

 利益は何もないのに。害しかないのに。それによって救われるのは、犯罪組織の中に潜んでいる裏切り者の誰かだけなのに。

 だとすると、ヴァイオラは、その裏切り者のために、自分の身を犠牲にする覚悟を決めた、ということになる。

 あるいは、その裏切り者の告発がもたらす、ガリアの平和のために。

 いくら聖職者だといっても、普通、他人のために、そこまでの決断ができるものだろうか?

 ――できるのが、ヴァイオラという人物なのだろう。実際、彼女はやってみせたのだから。

 小箱を谷底に落としてから、彼女はぎこちなく首を動かして、こちらを見た。目は涙ぐんで、唇は半笑いになっていた。『やっちゃった』とでも言いたげな表情だった。

 勇気ある決断をした人間が、必ず毅然とした態度をとるとは限らない。ヴァイオラの場合は、恐れて恐れて恐れぬいて、それでも勇気を振り絞って、小箱を捨てたのだろう。

 このあとに待っている、殺されるという未来を想像してしまって、彼女は震えている。自分のしたことを誇る余裕など、まったくない。ごく普通の精神力しか持っていない、ありふれた少女なのだ――崇高な自己犠牲を行っても、彼女自身は、やはり死が怖い普通の子供だ。

(守らなければならない――この子雀のように震える少女は――傷つけられるべきではない)

 手紙の入った小箱が捨てられるのを見た『孤独』は、慌てて駆け出した。狼のような瞬発力で私たちの横を通り過ぎ、迷うことなく崖から飛び降りた。

 やはり、奴の仕事は、手紙の始末ではなく、回収。

 ならば、このあと彼が取る行動は――決まっている。

 震える脚をバシと叩く。下唇を噛んで、力を振り絞って――立ち上がる!

 走るだけの体力はない。それでもいい。『孤独』を追って、谷底に飛び降りられればいい。

 これから生まれるであろうチャンスを――ヴァイオラの勇気が、思いがけず生み出すであろう生き残る機会を――モノにできれば、それでいい!

 ほとんどつんのめるように、私は崖に身を投じた。

 数十メイルの距離を落下する、私と『孤独』。やがて、彼は小箱を掴み――でも、そのままでは彼も死んでしまう――フライを唱えて、上昇を始めた――声を出して、魔法を使ったのだ!

 やはり、予想通り! 彼はフライを唱えるために、あらゆる音を停止させるアレンジ・サイレントを解除した!

 瞬時に、世界に音が戻った。聞こえる。水の流れる音、体に当たる風の音、自分の心臓の鼓動まで。

 フライと他の魔法は併用できない。『孤独』が命を惜しむなら、必ず音を停めるのをやめると思っていた。

 私は、口の中で呪文を唱えながら、落下し続ける。上昇してくる『孤独』との距離は、みるみる縮まる。

 やがて、彼は私に気付いた。驚愕に満ちた表情だった――自分の身に迫る危険に、気付いた人間の顔だった。

 彼は山刀を振りかぶり、投擲するモーションを見せる――冷静な判断――だが、もう遅い。

 私は『孤独』に杖を向け、練り上げた魔法を――声を出して――解き放った!

「ウィンディ・アイシクル!」

 正常に発動する魔法――空気中の水分を風が凍らせ、数本の氷の矢を形成し――それを飛ばす。

 超至近距離からの矢の雨を、『孤独』は避けることなどできなかった。

「あぐう〜〜〜〜〜〜っ!?」

 肩に、腹に、胸に、太い矢が次々と突き刺さり、『孤独』はぞっとするような悲鳴を上げた。

 その瞬間に彼の手が緩み、小箱がぽろりとこぼれ落ちる。

 私は、右手の脇に杖を挟んで、右腕を自由にすると、引ったくるように空中の小箱をつかみ取った。左手が動けば、もっとスマートにやれたのだろうが、今の私ではこれが限界だ。

 そして最後に、フライを唱えて、落下する自分を止める。

『孤独』は――血しぶきを散らしながら、真っ逆さまに落ちていった。

「……黒琥珀(ジェット)のせいで、歯車がズレたか……」

 そんな呟きをあとに残して、彼は濁流に飲み込まれ――私たちを死の淵まで追い詰めた暗殺者は、こうして舞台から永久に退場した。

 

 

『オオ――ン……オオォ――ンン……』

 私がヴァイオラのいる崖の縁にたどり着くと、上空から悲しげな遠吠えが聞こえた。

 顔を上げると、灰色の大きな影が、谷川の下流に向かって飛んでいくのが見えた。

『孤独』の使い魔であろう、ワイバーンだ。主人の敗北を悟り、水に飲まれて流れ去る主を追って行こうとしているのだろう。

 アレに追われていた私の使い魔も、これで助かったはず――そう思った途端、シルフィードからの念話が、私の耳に届いた。

『きゅ、きゅひ〜、きゅひ〜……や、やったのね、お姉様……翼のひとつもへし折られず、シルフィは逃げ切ったのね〜……。

 ぜ、全速力で飛び回って、めちゃくちゃお腹すいたのね……何か食べ物……お肉食べたいのっ! 牛、豚、鳥ィィーッ』

 うん。この子は放っといても大丈夫。

 それより問題はヴァイオラ。彼女の服はボロボロだった。怪我をしていないかどうか、心配だ。

 傷があるなら、魔法が元通り使えるようになったのだから、ヒーリングでも使って、速やかに回復をはからなければ――もちろん、私の怪我も治療する必要がある。

 ヴァイオラは、一歩も動くことなく、へたり込んでいた。

 服はかなり破れ、顔も手も足も泥だらけだが、目立った外傷はないように見える。よほど上手に逃げたのだろう。

 ……でも、一応ということはある。

「ヴァイオラ。どこか、痛むところはない?」

「……ふえ?」

 ぼんやりと、寝起きのように目をしばたかせながら、ヴァイオラはこちらを向いた。

 私は、取り返した黒琥珀の小箱を彼女に差し出しながら、もう一度聞く。

「怪我は、していない?

 賊は追い払ったし、手紙も取り返した。あとは、ヴァイオラが無事なら、完全。

 矢とかナイフを受けて、血が出たりしているなら、言って」

「矢……ナイフ……?」

 彼女はおうむ返しにそう呟くと――急に涙をボロボロこぼして、取り乱し始めた。

「た、た、タバサッ! し、しししシザーリアがっ……ああっ、シザーリアがっ、しっ、死んでしまうっ!」

 

 

 身のほど知らずの不敬な賊を地獄に送ったあと、我とタバサは急いで馬車に戻った。

 ライトの魔法によって照らし出されたシザーリアの姿は、血の海に沈んでおった――いや、比喩抜きで。

 真っ赤な血糊でべっちょんべっちょんのどろんどろんになり、顔色は紙のように白い。ぴくりとも動かんし、首筋に触ってみたらめちゃくちゃ冷たい。ジェラート触ったような気分になった。

 そんな、もう手遅れっぽい状態で――しかし、シザーリアはまだ、命をつないでおった。

「弱いけど……脈はある。急所も、かろうじて外している。でも……やはり、危険」

 診察するタバサの表情にも、焦りが見える。

 彼女の肩の刺し傷や、いっぱいあった擦り傷は、我のヒーリングで治してやった(へたっぴじゃから、応急処置レベルの治療じゃが、一応麻痺しとった左腕は動くようにできた。えっへん!)。

 しかし、シザーリアの方は、我やタバサで何とかできるレベルを遥かに越えておった――下手に矢を引っこ抜いたら、大出血して三十秒で死ぬレベルだそうな。なにそれこわい。

「水の秘薬が、たくさん要る。それと、腕のいい水メイジ。

 最低でも、トライアングル以上の、熟練した医者が必要」

 そ、そんなん、この辺におらんじゃろ。

 金はいくらでも払う用意がある。少なくとも、このメイドのためなら、十万エキューぐらいは出してもええ。それなりに長い付き合いじゃし、我とて役に立つ部下には、少しぐらいの愛着は持つのじゃ。

 しかし物理的に用意がならん状況というのは――ちと困りもんなんではなかろうか? この森めっちゃ深いし、うまくディジョンまでシザーリアを運べたとしても、そこに医者や秘薬がなかったらアウト。あまり都会でもない街じゃったはずじゃし、ぶっちゃけ期待できん公算の方がデカイ。

 かといって、見捨てるとか諦めるっつー選択肢はないぞ。何とかせいタバサ。ガリア花壇騎士なら……ガリア花壇騎士なら、きっとなんとかしてくれる……!

「……ヴァイオラ。シザーリアにレビテーションをかけて。私のシルフィードに乗せて、街まで運ぶ」

 しばし考えた末、タバサの出した結論は、それじゃった。

 シルフィード? って誰ぞ――って思っとったら、ばさんこばさんこという羽ばたきの音とともに、瑠璃のように青い風竜が我々の前に舞い降りた。

 おお! そーいやボルドーでタバサと会った時におったのうコイツ! すっかり忘れとった!

 なるほど、風竜に乗せて運べば、森も山も谷もあっという間じゃ!

「し、しかし、ディジョンでうまいこと、腕のいい医者を見つけられるじゃろうか?」

 我の不安な呟きに、タバサは静かに首を横に振った。

「ディジョンじゃない。行き先は、リュティス。

 あそこなら、王宮付きの名医がいくらでもいる」

 そうか――少し距離はあるが、それならば、確かに見込みがあるかも知れん。

 我は頷き、シザーリアにレビテーションをかけて、竜の背にそっと運ぶ。

 タバサはさっと身を翻して、竜の首に騎乗した。「ヴァイオラも、早く」と言われたので、でかい鱗に足をかけて、竜の背に登ろうとしたが――あれ。ツルツルして登りにくい。てか竜の背中って高くないか!? た、タバサ、じっと見てないで引っ張り上げんか!

 最終的にはわざわざフライを使って、よーやく我はシルフィードの背中にまたがることができた。

 タバサがポンとシルフィードの頭を叩いて、それを合図にこの風竜は、優雅に星空目掛けて舞い上がった――皮膜の羽根で空気を打ち、リュティスに向けて、どんどん加速していく。

(死ぬなよ。我が部下ならば、この程度でくたばるでないぞ……シザーリア……)

 我らが行く先の空に、赤い大きな星が、ちかちかと瞬いて見えた。



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うごめく不穏

にじファンに投下した時、激烈に評判の悪かったエピソードじゃ……。
だが、あえてそのまま投下しちゃる。


 あまりに静かだったので、誰もそれに気づかなかった。

 ヴァイオラ・コンキリエの、水メイジとしての実力は、情けないほどに低すぎた。また、タバサも水魔法の心得はあったが、やはり得意としているのは風魔法の方で、回復魔法にそれほど秀でているとは言えなかった。

 このふたりの治療で生命を維持するには、シザーリア・パッケリの負った怪我は、あまりに重過ぎたのだ。

 リュティスまで、残り五十リーグの距離。風を切って飛ぶシルフィードの背の上で。

 シザーリアの心臓は、動くのをやめた。

 

 

 あまりに静かだったので、誰もそれに気づかなかった。

 シザーリアの心臓が停止した二秒後、彼女の胸骨に埋め込まれていた、小さな機構が動き始めた。

 それは、一立方サントほどの、数種類の鉱物で作られた塊だった。一億分の一サント以下のパーツを無数に組み合わせ、水車と歯車で動く粉挽きからくりのように、ある一定の仕事ができるように作られていた。

 その仕事のひとつが、埋め込まれた生体――この場合は、シザーリア・パッケリ――の、健康状態のモニタリングだった。心臓の鼓動、呼吸回数、血中の栄養成分などを観察し、その結果が健康(グリーン)である限りは、何もせず休眠している。

 しかし、ある程度の負傷(イエロー)を負えば、休眠から覚めて準備状態に移行し、さらに死亡(レッド)に至れば、速やかに活動を始める。『修復機能』とでも呼ぶべきものが起動し、風石と水石と土石の箔を何層にも重ねた構造が、少しずつ崩壊して三種類の力を放出した。

 風石は、物理的な力を生み、止まった心臓に一定のリズムで圧力を加え、血流を再開させる。

 水石は、水エネルギーを血液に乗せて全身に行き渡らせ、破壊された体組織を再生する。

 土石は、失われた血や、不足した栄養を作り出し、補った。体内に侵入した毒素や雑菌、苦痛により発生したストレス性物質を変質させて無害化するのも、この石の役割である。

 それは回復や治療というより、やはり『修復』という表現が似つかわしいプロセスだった。およそ四十秒ほどで、『修復機能』はシザーリア・パッケリの肉体を、グリーンに近いイエローの状態まで復調させることに成功していた――体に刺さった矢はさすがに排除できなかったため、その段階で修復が終了してしまったが、もし異物を取り去った状態で機能が働いていれば、傷ひとつないオール・グリーンの状態まで、治し尽くしていたことだろう。

 さて。シザーリアの胸の中にある物体の仕事は、これで終わったわけではない。それは風、水、土の三種のエネルギーを発生させたが、あるパーツは、その力の波動を長・短の二種類の長さに区切って、複雑に組み合わせて、あたり一面に放ち始めた。

 単純なものを並べて、なんらかの法則がありそうな長いパターンを作るというそれは、例えて言うなら、船乗りの使う手旗信号のようで――事実、それは信号だった。精霊力を使った、二進法のシグナル――自然界にはけっして存在しないそのパルスは、はるか天にも届き、地上四百リーグという超高空において受信された。

 信号を受け取ったのは、三十立方メイルほどの、主に風石でできた、フネのように浮遊する構造物だった。その形は、立方体に近いずんぐりとした直方体で、本体の両側に、薄い長方形の羽のようなものが生えていた――それは時おり、くるりと回転したりしていたが、周りに大気と呼べるものがないので、空気を掻いて姿勢を制御しようとしているわけではないようだった。

 シザーリア・パッケリの体内の端末から受け取った微弱な信号を、その構造物――あえて呼ぶならば『中継機』――は、強力に増幅して再発信した。それは人間にも野生生物にも、精霊との縁が深いエルフにも感じ取ることができない種類の波動だったが、中継機と同様の、特別な信号受信機能を備えた端末であれば、それを感知し、人間の目にわかるように解読・翻訳することができた。

 その翻訳端末を持つ唯一の人間は、ハルケギニアにはいなかった。

 中継機の発した信号波は、一瞬のうちにハルケギニア外まで拡散していた――ガリアの東、広大なサハラ砂漠――そこすらも通過し――さらに東、ハルケギニア人が『東方』と呼ぶ地域にまで及んだ。

 その場所は、そこに住む人々には『大中国』という名で呼ばれていた。

 大中国の、国としての規模は非常に大きい――面積は、ハルケギニアの五つの国家を足したものの二倍以上。総人口は三億六千万人。広大な領地は、三十七の「省」という地域区分によって分けられ、その省がさらに、数十の県、市、町、村に分割できる。それらの政治形態は、ハルケギニアとあまり変わりはしない――小さな区分の長が、それらをまとめる大きな区分の長に従い、大きな区分の長が、さらにそれを取りまとめる長たちによって統治される。ハルケギニアと違うのは、爵位というものがないことぐらいだろうか(貴族・平民の区別もないが、メイジ・非メイジの区別は歴然と存在する。支配階級に就く人々は、百パーセントがメイジであるのは、ハルケギニアと同じだ)。

 その、大中国の東端――ニホン省と呼ばれる地域に、『受信者』はいた。

 

 

 ニホン省エヒメ県の中心都市マツヤマ――さらにその中の、ドウゴと呼ばれる地区に、彼はいた。

 このドウゴという場所は、かなり古くから知られる保養地である。五千年以上の歴史を持つすばらしい温泉があり、ほぼ一年を通して、国中から観光客がやってくるのだ。ごくたまに、西方地域――いわゆるハルケギニア――からの旅行者も、評判を聞きつけて、湯に浸かりに来ることがある。彼も、そういう西方からやってきた人物だった。

 彼はその時、ある上等な温泉宿の、最高級の部屋でくつろいでいた。ちょうど湯に浸かってきたところらしく、肌から湯気を立ちのぼらせている。紫色の、ややくせのある髪は水気をやや多めに含んでおり、もう少しちゃんとタオルで拭けばよかったかと、ぼんやり思っていたりした。

 素肌の上に、『ユカタ』と呼ばれる東方風のバスローブを羽織り、藤を編んで作ったアームチェアに腰掛けて、ほてった体を休める。窓から流れ込む空気は、澄んでいて優しい。軒先につるされた、『フーリン』というクリスタル細工のベルが、風に揺られて涼しげな音を立てる。窓の外には、松や楓などの木々を、苔むした岩たちと調和させた、不思議な魅力のある庭が広がっていた。

 実に安らかだ――彼は思った。東方風の、時間がゆっくり流れているかのような、素朴な環境。彼は大いに気に入っていた――木の柱と土の壁、草でできた奇妙な『タタミ』という床、木製の格子に、植物で作った紙を張った、脆弱そうな窓や扉! 西方ハルケギニアにはなかった、東方独特の住居形態に、最初は戸惑いもしたが、今ではすっかり慣れてしまった。

 ハルケギニアからこちらに移ってきて、何年経っただろう? 故郷のロマリアに残してきた娘は、元気でやっているだろうか? あの子も連れて来ればよかった、と思わないではないが、たぶんヴァイオラでは、この国の一般的な料理である『ナットウ』や『キムチ』に順応することはできないだろうから、やはり置いてきたのが正解だったのだろう。

「……セバスティアン? セバスティアン・コンキリエ? 居ますか?」

 フスマ(この国の引き戸)の向こうから声をかけられ、彼は――セバスティアン・パウロ・ベネディクト・コンキリエは、心地よい思考の海から浮上した。

「ああ、いるよ。その声はウェンリーだね? どうぞ入ってくれ」

 そばのサイドテーブルに置いてあった、べっ甲縁の眼鏡を手に取りながら、セバスティアンは返事をする。彼がそれを顔にかけると同時に、フスマが開いて、友人であるヤン・ウェンリー氏が姿を現した。

「やあ、元帥殿。半月ぶりだね。ま、座りなよ」

「その呼び方はやめてくれませんか、セバス。階級で呼ばれるってのは、どうにも慣れないんですよ。仕事の間は、まあ仕方ないと割り切れるんですが……プライベートの時は流石にね、わかるでしょう?」

 ヤン氏は、もじゃもじゃとした黒い髪を掻きながら、彫りの浅い顔に苦笑を浮かべた。

 何となくパッとしない、この威厳に欠ける青年が、大中国政府軍の誇る伝説的英雄『奇跡(ミラクル)』ヤン元帥であると、初見で見抜ける人間は少ない。カーキ色の軍服に身を包み、左腕に階級を示す腕章をつけていても、一兵卒と間違えられることがあるという。それどころか、安物のコットン・シャツにズボンという今の姿では、どう頑張っても、学校の事務員のなり損ないにしか見えない。

 もちろん、見た目がどうあれ、大中国軍部のトップに立つお偉いさんであることには変わりなく、普通であれば、セバスティアンのような外国人旅行者と親しくなる機会などないのだが――そこにはちょっとしたわけがあった。

 ヤン元帥は、セバスティアンからすすめられたザブトン(ひらべったい、八十サント四方ほどの大きさのクッション。この国では、このクッションを敷いて、床に直接座る習慣がある)に腰を下ろすと、にわかに表情を引き締め、言った。

「さて、セバス。今日はプライベートではあるんですが……公の方の用事がひとつあるので、まずはそれを済ませます。

 この度の南蛮との戦役で、あなたが我が大中国に多大な援助を下さったことに、深くお礼申し上げます。

 あなたの助けがなければ、あの地獄の南部国境地方で、五千人は余計に命を落としていたでしょう」

「ふむ……援助といっても、暇をしていた奴らを、たった三人貸しただけだがね」

 何でもないようにセバスティアンは言ったが、ヤン氏は首を横に振った。

「それで充分以上でしたよ。ひとりひとりが、数万人に匹敵する働きをしてくれたのですから。

 彼らの力を借りたのは、これが三度目ですが……やはりあの戦闘能力は凄まじい。西方には、彼らのような強力なメイジが、ゴロゴロしているのですか?」

「ああ、その辺は安心してくれたまえ。西方でも飛び抜けた実力者だからこそ、僕は彼らを雇ったのだ。

 僕の眼鏡に適い、ボディーガードを任せるに足ると判断したメイジは、あちらには指折りで数えられる程度しかいなかった。全体的に見れば、メイジたちの実力の平均は、こちらとあちらで大して違いはすまい」

 セバスティアンがこの東方を訪れた際、同行していたのは、わずか六名だけだった。

 ひとりは、彼の妻であるオリヴィア。残り五人は、セバスティアン自らが発掘し雇い入れた、『スイス・ガード』と呼ばれる護衛集団である。

 彼らは少数ながら、ひとりひとりが『烈風』級の戦闘力を持ち、全員合わされば、実に二十万人規模の軍隊に匹敵すると、セバスティアンは豪語していた。その言い草を、子供じみたハッタリだと笑う者ももちろんいたが、ヤン氏はセバスティアンの発言に、誇張がまったくないということを知っていた。

 彼は遠い目をして、窓の外のニホン風庭園を見つめた。そして、自分とセバスティアンが出会った時の思い出を、脳裏に蘇らせていた。

「もう五年近く前になりますかね。西部国境地方で、あなたと出会ったのは……。

 ある基地の視察に向かう途中のことでした。同行させた部下は五十人……戦闘を行うわけでなし、特に危険な地域でもなしで、正直なところ、油断していたんです。

 だから、思いがけずテロリスト集団『大地教』の待ち伏せ攻撃(アンブッシュ)に遭ってしまった時は、心底焦りました。あとで知ったことですが、私を暗殺するために、大地教に情報を流していた奴がいたんです。――敵のプリミティブな攻撃の前に、部下は次々と討ち取られて、私も右足を深く傷つけられ……死の寸前まで追い込まれてしまった……」

 出血多量で、意識すら危うくなったヤンにとどめを刺そうと、大地教の兵士たちは一気に押し寄せた。

 迫り来る刃、刃、刃――あと数秒で、大中国軍の中心的人物である彼は、ばらばらの肉片に分解されるはずだった。

 しかし、その瞬間はついに訪れなかった。

 具体的に何が起きたのか、朦朧としていたヤンにはわからない。ただ、ひとつだけ覚えていることがある――虹色に輝く何がが、目の前を横切ったと思ったら、視界の中にいたテロリストたちの頭が、次々に爆発していったのだ。

 笛の鳴るような風の音とともに、何人もの敵が輪切りになって崩れ落ちるのも見た。数十人が突然苦しみだしたかと思うと、目や鼻や口から血を噴き出して、のたうち回りながら死んでいくのも見た。

 それは悪夢のような光景で、実際に夢だったのかもしれない。しかし、現実に何が起きたにせよ、ヤンが生き残ったことは事実だ。

 夢の虐殺の半ばで、完全に気を失った彼は、十時間後に最寄りの街の病院で目を覚ました。

 足の怪我は、もとからなかったかのように、完全に消えていた。怪我をした記憶さえ夢だった、というわけではない。強力な水メイジが、完璧な治療をほどこした結果だった。

 ただ、ヤンの治療にあたった水メイジというのは、その病院の医師ではなかった。彼は病院に担ぎ込まれた時点で、すでに傷ひとつない状態にされており、担ぎ込んだ人は、単にヤンを休ませるための場所として、病院を選んだに過ぎなかったのだ。

 ヤンの他に、三人の部下が同じように救出されていた。彼らは、尊敬する上官が生還したことを喜び、ヤンも部下たちの無事を喜んだ。

 しかし、命拾いをしたことはよかったが、いったいどうして、あの絶望的な状況から、自分たちは逃れることができたのか?

 生き残った部下たちのふたりは、ヤンと同じく半死半生の状態で、記憶も幻のようにあやふやだった。

 ただひとり、比較的軽傷だったマ=シュンゴ大尉だけが、はっきりした記憶を持っており、彼はそれを他の三人に話して聞かせた。

 それは、現実であるはずなのに、夢同様に荒唐無稽な証言だった――攻撃してきた敵兵は、少なくとも五百人以上。それを撃退し、自分たちを救ってくれたのは、なんと、たった七人の旅人だったと言うのだ。

『男が三人、女が四人のグループでした。馬もラクダも連れず、荷物らしい荷物も持たず、まるで近所を散歩しているかのような、身軽な姿をしていたのに、なぜか砂漠の方から現れたのです。

 大地教の連中は、ただ通りかかっただけの彼らにも襲いかかりました。目撃者の口を封じるつもりだったのか、裕福そうな身なりをしていた彼らから、金品を剥ぎ取るつもりだったのか、具体的な動機はわかりません。ただ、武装した数百人のテロリストにかかっては、たかが七人程度、数秒で黙らせられると信じていたであろうことは、間違いないと思います。

 ところが、彼らが杖を振り始めると……七人の方ではなく、数百人の方が、あっという間に蹂躙されていったのです』

 マ=シュンゴの説明は、ヤンが夢だと思っていた景色と一致していた。

 吹き飛ぶ頭、ずたずたに切り刻まれる人体、血だるまになって絶命する敵たち――まるで、竜巻や雷や火山噴火や疫病などの大災害が、まとめてやってきたような光景だったそうだ。

 地獄は嵐のようにやってきて、嵐のように去っていった。時間にして三十秒もかからなかった、とマ=シュンゴは言う――それだけの時間が過ぎたあと、テロリストたちは全員、悲惨極まる死骸となって倒れ伏し、七人の旅人は、まったく無傷で立っていたのだ。

『あまりに恐ろしく、人間離れした虐殺でしたが、それでも私は、その旅人たちに助けを求めました。彼らに戦意があったわけではなく、ただ襲われたから迎撃しただけだということが、明らかだったからです。反撃の威力は高過ぎたようですが、間違いなく正当防衛でした。

 リーダーらしき、紫色の髪の紳士は、私の言葉を信じ、助けてくれました。暗紅色の髪のご婦人が、瀕死のヤン元帥や、私の同僚たちを水魔法で治療して下さって、他の方々もご親切に、我々をこの病院まで連れてきてくれたのです』

 ヤンが目を覚ます前に、旅人たちは出立してしまっていたが――義理堅いマ=シュンゴは、彼らに名を尋ねることを忘れたりはしなかった。

『紫色の髪の紳士は、コンキリエ様と名乗られました。ミスタ・セバスティアン・コンキリエ。西方のロマリアという国からいらした、貴族様だということです』

 ――これが、ヤン・ウェンリー元帥と、セバスティアン・コンキリエの縁の始まりだった。

 後日、シャンハイという街に滞在していたセバスティアンを、ヤンが礼を言うために訪ねたことがきっかけで、彼らは正式に知り合い、近付きになった。

 ふたりは、交流を始めてすぐに、お互いに深く信頼し合うようになった。どちらも穏やかな気性であったことに加え、相手の優れた性質が会話の中で理解できる程度に、優れた頭脳を持っていたからだ。

 セバスティアンが大中国で事業を興したいと思い立った時、彼はすぐにヤンの地位と人脈を利用させてもらおうと考えたし、ヤンもまた、セバスティアンの『スイス・ガード』を借りられれば、自分の仕事がどれだけ楽になるかを考えた。

 そうして、互いの長所を必要に応じて借り合うことで、この二大頭脳は、莫大な利益を上げ続けてきたのだ。

「あの大地教襲撃の時、あなたと出会えたことは、あらゆる意味で私にとって幸運でしたよ、セバスティアン。あなたは私と出会わなくても、やはり何らかの成功をつかんでいたでしょうが、私はあなたと『スイス・ガード』がいなければ、この一年のうちに、五回は死んでいたでしょうから」

「そこまで自分を卑下することもないと思うがね。君ほどの将軍は、西側にもそうそういないのだから。

 強いて言うなら、ゲルマニア空軍の『獅子』伯爵が匹敵できるくらいだろうかな……一度、君と会わせてあげたいよ。きっと仲良くなれると思うんだ」

 セバスティアンは、ハルケギニアにいた頃に出会った、若い青年将校のことを思い出していた。ローエングラムというその若者は、当時は一隻の軽巡航艦の艦長に過ぎなかったが、自分の見る目が正しければ、今頃は大艦隊を率いる将軍になっているはずだ。

「それに、私の立ち上げた『東方計画』も、君がいたからこそ実現したのだ。共同経営者になったミス・ユカリンを紹介してくれたのは、君なのだからね。私ひとりでは、彼女のような才能をこの広い国で捜し当てることは、不可能だったに違いない」

「ああ、あの巨大テーマパーク事業ですか! あれは順調らしいですね。グンマ県の広大な密林を切り開いて、神話や寓話を題材にしたアトラクションを集めた遊園都市『幻想郷』を造ると聞かされた時は、正直うまくいくのかと危ぶんだものですが……。

 近く、ソウルに第二幻想郷をオープンさせる予定だと、ユカリンさんは言っていましたっけ」

「うん。自分はあまり関わらず、後継者のミス・ランとミス・チェンを責任者にして、経験を積ませるのだそうだよ。ふたりとも……特にミス・チェンは非常に若いが、ボーダー商事の古参幹部たちがサポートするから、まず失敗はないだろう」

 そして、その資金のいくらかをセバスティアンが融通し、収益の一部が配当金として彼に戻ってくる。おそらくは、出した分の数倍に及ぶ大金が。

 ミス・ユカリンが第二幻想郷を直接運営しないのと同様に、セバスティアンも金を出す以外のことは特にしない。しかしそれでも、儲けは手に入る――彼にとって、仕事とはそういうものだった。努力も、運も、新しいアイデアも必要ではない。ただ、右にあるものを左に持っていくだけで充分なのだ。その間にお金は増えたり減ったりするから、増えてこぼれ落ちた分を懐に収めればいい。ある程度のコツさえわかっていれば、簡単なものだった。

 しかし、簡単だからこそ、最近は少し飽きがきていた。ロマリアに置いてきた分とは別に、大中国の銀行にも、豊かな人生を三十回以上繰り返しても使い切れないだけの金を貯めることに成功していたし、これからもその金額は増え続けるだろう。それを使った気になるほど消費するためには、この世の物価は安過ぎたのだ。

 ここ半年は、仕事を控えて観光地巡りをして遊んでいるが、そろそろ新しい楽しみが欲しくなってきた。セバスティアンは考える――猛獣狩りでもしようか? いや、それは自分の性に合わない。絵を描いたり、文章を書いたりは? 昔やってみて、散々な出来栄えに落ち込んだことを思い出した。

 いよいよ何も思いつかなくなったら、久しぶりに故郷に帰るのもいいかも知れない。懐かしきロマリア――彫刻された大理石の柱や、卵のような丸天井が美しい寺院――きらびやかなステンドグラス――天使屋根――八つの鐘――街中を走る水路――木靴のような形のゴンドラ――金貨や銀貨の投げ入れられる噴水――チーズとトマトをたっぷり使ったラザニア――シチリア島のレモン酒――甘い花の香り。

 そして、ヴァイオラ。

 セバスティアンは、ヤンに気付かれないように忍び笑いをした。そうだ、さっきも娘のことを思い出したっけ。自覚はないが、やはりヴァイオラの顔が見られないことを、寂しく思っているのかも知れない。

 やはり、遠からず帰ることにしよう。ある理由で、数年以内に一度は帰郷する必要があるのだ。具体的な日取りは決めていないが、温泉を充分楽しんだと思うようになったら、でいいだろう。あるいは、何かきっかけが――帰る理由になるようなことが起きたら――。

 などと思っていた時だった。フスマの向こうから、再び声がかかったのは。

「セバスティアン、セバスティアン・コンキリエ……居るかい?」

 その問い掛けに、セバスティアンとヤンは無言で苦笑した。先ほど、ヤンが訪ねてきた時と、ほとんど同じセリフが繰り返されたからだ。

 だから、セバスティアンも洒落っけを発揮して、こう言った――つまり、やはりヤンが来た時と同じ言葉を返したのだ。

「ああ、いるよ。その声はリョウコ君だね? どうぞ、入ってくれ」

 フスマが滑り、浅葱色の地に紺色の朝顔をあしらった、涼しげなユカタをまとった女性が入ってきた。

 純粋な東方風の美人だった。漆を塗ったような、黒く艶やかな真っすぐの髪を、肩の高さで一直線に切り揃えている。前髪もやはり、眉の高さで一直線にしてあり、「おかっぱ」と呼ばれるヘアスタイルの見本のようだ。

 目は柳葉のように切れ長で、唇は薄く、珊瑚のように赤い。全体的に華奢で控えめな、百合の花を思わせる女性――彼女こそ、セバスティアン・コンキリエの秘書であり、『スイス・ガード』の一員でもある、ミス・リョウコという人物だった。

 リョウコは、自らの主の他に、ヤンという客が部屋にいたことに気付くと、小さく会釈をしながら言った。

「おや、ミスタ・ヤンではないですか。どうやらお話し中だったようですね……お邪魔をしたのでなかったらよいのですが」

「いえ、お気になさらず、ミス・リョウコ。私たちはただ、無駄話をしていただけですから。

 むしろ、お仕事の話をなさるのなら、私こそ席を外しますが……?」

「いえ、それには及びません。ちょっとした報告だけですので。――大丈夫だろうね、セバスティアン?」

 秘書の確認に、セバスティアンは頷いた。

「問題ないよ。というか、聞かれてまずい内容なら、そもそもきみはそう言わないはずだ。違うかい?」

「違わないね」

 リョウコはセバスティアンからすすめられる前に、部屋の隅に積んであったザブトンの一枚を勝手にひっぱってくると、よっこらしょ、と言いながら、そこに腰を下ろした。

 秘書が雇い主の前で、しかも来客中に取る態度としては、あまりにくつろぎ過ぎであるかも知れない。しかし、セバスティアンはリョウコをとがめなかったし、ヤンもそれを不自然には感じなかった。リョウコという人物が、もうかれこれ三十年以上もセバスティアンの事業を補佐してきた、事実上のビジネス・パートナーであると同時に、プライベートでも家族同然の付き合いであると言うことを、ヤンはすでに知っていたのだ。

 ふたりのやり取りを、何度も見てきたヤンは思う――不思議な主従だと。もうそれが当たり前になっているのだろう、リョウコは雇用主であるセバスティアンに敬語を使ったりしないし、むしろセバスティアンに対し、姉や母親のような態度で接することもある。すでに五十近い年齢の、目尻や口元にしわができ始めた中年男のセバスティアンに、せいぜい十代後半にしか見えない若々しいリョウコが、だ!

(もっとも、三十年以上秘書をしていると言うからには、彼女の実年齢は確実に見た目と一致しないはずなのだが。実際、ミス・リョウコは今、何歳なのだろうか?)

 ヤンはそんな疑問を、友人たちに対する礼儀として口にせず、したがってセバスティアンたちも、その答えをヤンに伝える機会を持たなかった。

 謎多き秘書は、こほんと咳払いをしてから、謎めいた主に言葉をかけた。

「で、報告というのはだね、セバス。西方からの情報なんだ。つい五分前に、風石衛星経由のSOE(超精霊力)通信で届いたものだ。

 ロマリアに残してきた、キミの娘さん――ヴァイオラちゃんの、世話係の娘さんがいただろう? 金髪のミス・シザーリア。覚えてるかい?」

「シザーリア君? もちろん、覚えているとも。実に優秀な火メイジだった。真面目で、忠誠心が高く、ヴァイオラの扱いが上手い娘だったな。

 兄であるシザーリオ君の才能がもう少し低ければ、彼の代わりに彼女を『スイス・ガード』に迎えていただろうね。……彼女が、どうかしたかい?」

「うむ。どうやらね、死んでしまったみたいなんだよ」

 あっさりとしたその言い方に、横で何気なく聞いていたヤンは目を丸くした。

 しかし、訃報を伝えられたセバスティアンの方は、小さく片眉を上げただけで――驚くでも悲しむでもなく、確かめるように一言だけ尋ねた。

「ええと……それは、『死にっぱなし』ということかな?」

 その奇妙な質問に、リョウコは首を横に振る。

「いいや。ただ単に『一回』死んだと、彼女の体内のチップが知らせてきたってだけの話さ。チップの中の修正パッチは正常に作動した――死亡が確認された直後に、ミス・シザーリアを完璧に蘇生させたし、今はもう全然心配はない。

 ただ、死因がね。全身に二十ヵ所以上の刺傷を負ったことによる、失血性のショック死だ。ちょっと自然な死に方じゃないっぽいんでね、一応キミに知らせた方がいいかなって思って。なにしろミス・シザーリアは、ヴァイオラちゃんのボディーガードも兼ねてたはずだからね……」

 ぎし、と、セバスティアンの座る藤椅子が鳴った。彼はそれに深く背中を預け、何かを考えるように、視線を天井に向けていた。

「……ヴァイオラの体内のチップはどうしてる? あの装置は、死という極端なものだけでなく、小さな怪我でも観察できるはずだ。あの娘のバイタル・サインに、何か異常は?」

 問われると同時に、リョウコはユカタの帯に手を差し込み、四角く薄い手の平サイズのクリスタル板を取り出した。その側面を指で軽くなぞると、ただ透明でしかなかった板が、まるで月明かりを受けたかのように青白く輝き始め――その表面に、ハルケギニア文字で構成された文章が、次々に浮かび上がってきた。

「えっと、修正パッチが起動するまでに至らない、軽い擦り傷や切り傷が少し。手足には、全力疾走した後みたいに、疲労が溜まっているようだね。数分前まで、心拍数と呼吸数がすごく高まっていたが、今はわりと落ち着いてる。あとは、やや血中のアルコール濃度が高いかな。その程度だ」

「つまり、多少の怪我はしたということか」

 セバスティアンは腕組みをして、眉間にしわを寄せながら考えを巡らせる。

(シザーリア君が、どうやら「殺害」されて、同時にヴァイオラが軽い怪我をする。あの娘の疲労というのは、もちろん走って逃げたことが原因だろう。

 つまるところ、何者かにヴァイオラが襲われて、走って逃げた。シザーリア君は襲撃者に応戦して、敗北して死んだ……いや、どうやらヴァイオラは生き延びたようだから、敗北じゃなくて相討ちになったってところかな?)

 セバスティアンはシザーリアに、命をかけてでもヴァイオラを守れ、と教え込んでいた。どうやら、若いボディーガードはその教えに忠実に従ったらしいが、本当に一度命を落とすとは想定していなかった。

 よほどの強敵だったのか、それとも鍛え方が足りなかったのか? その二択のどちらかだとして、どちらであっても大して変わらないと思ったので、セバスティアンは深く考えるのをやめた。

 重要なのは、ヴァイオラが死なずに済んだということと――ヴァイオラが少なからず怖い思いをしただろうということだった。

 それは好ましいことではなかったし、嫌な目に遭った娘を慰めてやりたいという気にもなった。つまるところ、セバスティアン・コンキリエはごく当たり前の、子煩悩な父親だったのだ。

「……ちょうどいいきっかけ、かな」

 彼はぽつりと呟くと、視線を話について来れていないヤン氏に向けた。

「なあ、ウェンリー。仮にだね、僕が近いうちに、西に戻るつもりだと言ったとしよう。

 その場合、僕がこちらで始めた事業のほとんどは、もう僕の手から離れているから、放っておいてもいいんだけど、最近手を出したいくつかの取引については、相場の動きを見て、そのつど適切な対応をする必要があるわけだ。

 僕が自分で対応するのが一番ではあるが、それじゃいつまで経っても帰ることにならない……だから誰か、頭の良い人を代理人にして、その人にこちらでの事業を任せようと思うんだが、使えそうな人はいないかな? 少なくとも、ミス・ユカリンや、上院議員のトリューニヒト氏に匹敵する財務の才能が、必要条件なんだが」

「……また、突然ですね、セバス」

 あなたはときどき、政治家たちよりずっと気まぐれなことをする場合があるようです――と、ヤンは口に出さず、心の中だけでそっと付け足した。

 彼は今の地位に至るまでに、政治家たちのイメージ活動や派閥争いに巻き込まれ、苦労した経験があった。しかし、今、目の前にいる西方の大商人は、かつて彼を振り回した政治家たち数十人をまとめたくらい、さらりと恥ずかしげもなく無茶な相談を持ちかけてくる。さらに、無茶振りをされているのに、セバスティアンの不思議に親しみやすい性格のせいで、何とかして彼の望みを叶えてやろう、という気にさせられてしまうのだから、恐ろしくたちが悪い。

「そうですね……シャイロック氏やカリオストロ氏、チュルヤ夫人、あるいはスピードワゴン氏といった人たちなら、まず信用できるでしょう」

 大中国きっての超富豪たちの名を聞いて、セバスティアンは満足げに微笑んだ。

「金融王と時計王、スモークチーズ王に石炭王か……妥当なところだな。よし、リョウコ君。今名前の出た人たちの会社と、ミス・ユカリンのボーダー商事に、僕の事業と資産を、均等に分割して信託する手続きを取ってくれ。それと、『スイス・ガード』のみんなに連絡を……西方に帰る日取りを、全員で相談して決めたい」

「了解だ。信託の方は、部下たちに手分けして当たらせよう」

 リョウコは頷いて、クリスタル板(タブレット)の表面を、文字を書くように指先で撫で始めた。

 すると、表面に浮かんでいた光の文字が消え、新しい文字が浮かび、あるいは図表のようなものが現れたりして、指の動きに応じて、映し出されているものが絶え間無く変化し続ける。何をしているのか、という問いをリョウコに投げれば、命令書を作成し、それを大中国中に散らばる部下たちへ送っているのだ、という返事が返ってくるだろう。

 彼女の持つタブレットは、土石と水晶からなる複雑なメカニズムを内蔵した、超多機能情報端末だった。遠い場所との通信が可能で、難解な計算を一瞬でこなし、さらに大量の情報を蓄積できる。量産できれば、間違いなくハルケギニアと大中国の両方に革命を起こすであろう品だ。

 その性能に驚嘆したヤンが、一台譲ってもらえないかとセバスティアンに相談したことがあるが――大中国の軍事費一年分を超える代金を提示された。材料代はもちろん、精密部品の加工にかかる手間賃も桁外れで、さらには組み立てにすら、とんでもなく高価な技術が使われているらしいのだ。作り方を教えてもらって、自分たちで作るということも不可能だった。説明を受けても、そのややこし過ぎる構造と機能を、誰も把握できないのだ――リョウコが言うには、これをちゃんと作るには、伝説のミョズニトニルンに匹敵するほどの、マジックアイテムへの知識と理解が必要らしい(しかし、だったらなぜ、そんなものがここに実在しているのだろう? まさか、本物のミョズニトニルンが作ったわけでもないだろうに)。

 無言で端末を操作すること、五分。リョウコはたったそれだけの時間で、数百万エキューの金を動かし終えてしまった。この翌日、いくつかの会社でコンキリエ資金を運用する専門の部署が生まれ、五千人近い人間が異動、もしくは昇進することになる。セバスティアンとその秘書は、予告もなしに大中国の社会をスプーンでぐるりと大きく掻き回したが、その理由が里帰りのためだという事実は、この旅館の一室にいる三人しか知らない。

「……よし、オーケイ。これでキミの事業は全て、四十八時間以内に新しい経営者たちに委託される。同時に、かなりたくさんの株式と証文が入ってくることになるが、それは銀行に預けたのでいいかい?」

「構わない。帰ってくるにしても、また何年も空くだろうからね。こちらの屋敷の金庫に置いとくよりは、その方が確実だ」

 セバスティアンの確認を得て、リョウコは再び端末をいじり始める。その横で、ヤンは控えめなため息をついた。

「どうやら、本気みたいですね、セバス。あなたがいなくなると、寂しくなりますよ……。

 実は、今日ここに来たのは、あなたを来週のフライング・ボールの試合観戦に誘おうと思っていたからなんです。チーム・ハイネセンのスタメンで、うちのユリアンが出るんですよ。これはぜひ応援に来て欲しいのですが、試合の日まではこの国にいてくれませんか?」

 このお願いに、セバスティアンは少しだけ考える。ユリアンというのは、ヤンの家に住み込みで働いている、使用人の少年の名だった。素直で気の利く良い子で、ヤンは彼を実の息子のように大切にしていた。家のことは、この少年に任せておけば、必ず良い結果が出るそうだ――特に、紅茶をいれる腕前は、セバスティアンも絶賛していた。大中国ではお茶といえば、黒っぽいウーロン・ティーか、緑色のグリーン・ティーが主なのだが、ヤンの家に招かれた時だけは、アルビオンの一流ホテルに勝るとも劣らない、美味い紅茶を楽しむことができるのだった。

 まだ十五歳のユリアン少年は、ヤン家の家事を手伝いながら、ハイネセンの魔法学院に通っており(この国では、ハルケギニアと違って、全寮制の学校が一般的ではないようだ)、優秀な成績をおさめている。部活動でも、フライング・ボールという球技に並外れた才能を示し、将来はプロ試験を受けることを、コーチから熱心に奨められているらしい。

「ふむ、こちらの用事も急ぎというわけではないし、一週間ぐらいは延ばしてもいいだろう。僕も、彼の試合は楽しみだしね。

 オリヴィアや、他の連中の都合も聞く必要はあるが、まあ、誰もすぐ帰りたいとは言わないだろうよ。――リョウコ君、『スイス・ガード』たちへの連絡は済んだかな?」

 セバスティアンが尋ねた時、リョウコは相変わらずタブレットの表面を撫でたり、叩いたりしていた。

 流れる情報から目を離さず、彼女は答える。

「『極紫』と『悪魔』からは、もう返事が来たよ。近所の菓子屋でお茶をしていたようだ……あと三十分もしたら、ここに戻ってくるってさ。

『水瓶』君は、位置検索してみたところ、どうやら入浴中のようだね。彼の端末に知らせを入れておいたから、風呂から上がったらすぐ気付いてくれるだろう。そして『轟天』は……」

 リョウコは突然言葉を切ると、不機嫌と呆れを混ぜたような表情を浮かべ、「あの馬鹿」と小さく毒ついた。

「コホン、失礼……。セバスティアン。ルーデルの奴なんだが、今は海上にいるようだ。ここから東に、八千二百リーグの距離を飛行中。まったく、何かあったら、すぐに駆けつけられるところにいろと言っておいたのに!」

 憤るリョウコとは反対に、セバスティアンはクスクスと含み笑いをして、ハエでも追い払うように、ぞんざいに手を振った。

「まあ、あまり目くじらを立ててやりなさんな。ルーデルは、常に空を飛んでないと気が済まないタイプの男だよ。

 それに……彼なら、二、三時間もあれば帰ってこられるだろう?」

 セバスティアンのその言葉と――タブレット上に新たに現れた情報を目にして、リョウコはさらに呆れの気持ちを強め、ため息という形でそれを吐き出した。

「ルーデルから返事が来たよ……『一時間で帰る』ってさ」

「それは結構」

 からからとセバスティアンは笑う。この部屋で、笑っているのは彼だけだ。リョウコは雇い主とボディーガードの自由さに、少なからず諦観の念を抱いていたし、ヤンは「いったい、どんな風竜に乗れば、そんなに速く遠く移動できるのだろう? フライの魔法で出せる速度じゃないし」などと、かなり真剣に考えていた。

「『スイス・ガード』の連中は、それで全員と。あとは、僕の可愛いオリヴィアだけだな。彼女の返事はまだかな?」

「うん、彼女も知らせに気付いたら、すぐ応えてくれると思うんだが……位置検索してみようか……ああ、なんだ」

 リョウコはタブレットから顔を上げ、先ほど自分が通ってきた入り口のフスマを見やった。

「奥様は、タブレットを通して返事をするより、ずっと手軽な方法を取られたようだよ。きっと、最初からここに向かっていたんだろうね――マダム・オリヴィアは、ほら、ちょうどこの部屋の前まで来ておられる――」

 その言葉につられて、セバスティアンもヤンも、同じようにフスマに目を向けた。

 その直後だった――「ビシュ」と濡れた音を立てて、何かひらべったいものがフスマの真ん中を突き破り、室内へと飛び込んできた。

 赤く、薄く、長い――それはまるで槍だった。騎馬兵の突撃もかくやという勢いで、部屋の真ん中を突っ切ると、先端を正確にリョウコの白い喉に埋めた。

 鋭く尖った先端は、リョウコの首をやすやすと貫き、反対側に抜けた。刃の幅は、リョウコの首より少し広かったので、出来事は貫通というよりは、切断と呼ぶべきだろう。ギロチンにかけられたも同然なリョウコの頭部は、タタミの床にゴトンと落下し、そのままセバスティアンの足元まで転がっていくと、藤椅子の脚にぶつかって止まった。

 意思の宿る頭脳を失ったリョウコの体が、糸を切られた操り人形のように、前のめりに倒れた。ヤンの側から見えた首の切断面は、真っ黒に焼け焦げていて、血は一滴も噴き出していない。そしてそれは、転がった頭部の切り口も同じだった。

 ほんの一瞬のうちに、無惨な殺人をやってのけた恐るべき深紅の槍は、二、三秒の間は中空に静止していたが、やがてそれはぐにゃりと萎れ、風に揺れるリボンのように、ひらひらとしながら、フスマの向こうへと引っ込んでいった。

 そして――ばりばりと紙の破られる音――フスマを手斧で引き裂いて、その傷口から溢れ出すようにして、狂気に満ちた紅い瞳が、死人のような青白い顔が、血に濡れたような波打つ髪が、邪悪な美しい笑顔が――オリヴィア・コンキリエが姿を現した。

 彼女は、部屋の奥にいる夫の姿を見つけると、口の端を三日月のようにつり上げた。

「うふ、ふ、ねえ、セバスティアン――私の私だけのセバスティアン。ねえ、ねえ、死んだ? あの泥棒猫。無様に血をぶちまけて死んでくれた?

 あ、ああああのリョウコとかいう黒髪娘、しょっちゅうしょっちゅうしょっちゅうしょっちゅうしょっちゅうしょっちゅうセバスティアンと二人きりで会ったりして。仕事の手伝いなんて言ってたけど、セバスにコナかける気で近づいてるんだって、私にはちゃんとわかるんだから。あなたにちょっかいを出すうるさいハエは、私が一匹残らず叩き落としてあげますからねぇ? 私の魔法でずたずたに切り刻んで、血を地面に吸わせて、苔とかカビとかそういったものにしてあげるの。手足をもってあなたの隣に立てるのは私だけでいいってわかるでしょう? もちろんセバスティアンならわかってるに決まっているわセバスだもの。泥棒猫が何匹寄って来たって揺るがない人だってことぐらいわかってるわ、でも、纏わりつかれるとうっとおしいのは誰だって当然よね? だから私が見つけるごとに潰して殺すの。夫の不愉快は妻の不愉快だもの、もちろん私は喜んで殺すわ! あなたもべたべたしてくる厄介者が死んで嬉しいでしょ、ね、ね? そうでしょ? まるで晴れた夏のカルイザワくらい爽やかな気分よね? 私は今とっても清々しいわ、首のちぎれた泥棒猫の死体って、何でこんなに見ていて気持ちがいいのかしら! ね、あなたもそう思うわよねセバス? だから褒めて、私を褒めて撫でて。ぎゅってして愛してるって言って。もちろん私が言わなくてもあなたはしてくれるでしょうけど、たまには私から口に出して求めるのも重要だと思うのそうでしょう? だから、ね、だから――」

 夢見るような眼差しで、オリヴィアはセバスティアンに歩み寄る。彼女が着ているのは、赤地に黒い揚羽蝶をあしらったユカタだ――前の合わせ目からのぞく首すじや鎖骨、控えめな胸の谷間は白く、瑞々しく、蠱惑的だ。四十代半ばの年齢を感じさせないほどの、若さと美しさを持っていて――だが、それ以上に病的だった。右手には手斧を持ち、暗紅色の長い髪を床に引きずり、表情には正気というものがまったく存在していない――この世ならざる、幽冥の世界の妖女――。

 彼女はヤンに目もくれない。倒れ伏したリョウコの死体にも目をくれない。ただ、愛する夫だけしか眼中にない。

 そして、求められた夫、セバスティアンは、足元にあったリョウコの首を、ひょいと持ち上げてテーブルに乗せると、それでその問題は片付いたとばかりに、オリヴィアに笑顔を向けた。

「やあ、ダーリン。相変わらず君は可愛いね。

 立っていないでこちらにおいで。ちょうど、僕の膝が空いている」

 その言葉を聞いた途端、オリヴィアの青白い頬が薔薇色に色づいた。彼女はこくり、と一度頷き、小走りに夫へと近付くと、彼の膝に横向きに腰を下ろした。

「えへへ、セバス……だぁい好き」

 地獄の亡霊のようだったオリヴィアは、いつの間にかごく普通の、恋する女に変わっていた。恍惚に潤んだ紅い瞳も、三日月のように湾曲した微笑みを浮かべる唇も変わらない。しかし、今のそれは、狂気でも病性でも邪悪さでもなく、血と肉と情熱をそなえていた。愛する者と接する時こそ、一番魅力的になれるのが、オリヴィア・コンキリエという人間なのだ。

 彼女はセバスティアンの首に腕を絡めると、優しくその頬に口づけした。セバスティアンは、そのお返しに、妻の長い髪を指で梳かしながら、唇に唇を合わせた。二人のキスは、彼らの愛の深さに比べるとひどく短い。それでも、たっぷり一分以上、この夫婦は抱き合いながら、お互いの唇の感触を楽しんでいた。

 セバスティアンもオリヴィアも、人の目を気にしない情熱的なロマリア人だった。同じ部屋にいた、他の二人の視線なぞどこ吹く風である。

 ヤンは、このコンキリエ夫妻のいちゃつきぶりは慣れっこだったので、無言で明後日の方を向いて、肩をすくめる余裕があった。しかし、もうひとりの方は――彼女もまた、セバスティアンとオリヴィアのことはよく知っていたし、理解もしていたが――痛い目に遭わされてなお、黙っていられるほど寛容ではなかった。

「……あのね、オリヴィア。あなたがセバスのことを好きなのはわかるがね。だからっていちいち、私を出会い頭に殺すのはやめてもらえないかな」

 その声は、テーブルの上から発せられた。「私、怒ってます」と言いたげに、唇をへの字にして、眉間にしわを寄せているのは――切断されたリョウコの生首だった。

 むくりと、首のないリョウコの体も起き上がる。そして、テーブルに乗った自分の首にトコトコと歩み寄ると、割れやすい壷でも扱うように、慎重に持ち上げた。

 それは、まるで奇術の一幕のようだった。平民のエンターテナーが、トリックを使って催す人体切断のマジック。しかし、殺害に及んだオリヴィアは奇術ショーの助手ではないし、リョウコの首は見せかけだけでなく、実際に切り落とされていた。

 互いの切断面を合わせるように、リョウコの体は、首を自分の上に乗せる。すると、傷口から虹色の不気味な泡がぶくぶくと溢れ出し、まるで包帯のように首の周りを包み込んだ。そのまま数秒――やがて、泡がすべて弾けて、得体の知れない蒸気となって消え去ると、現れたのは傷ひとつない、なめらかな肌だった。首を落とされたことなど、悪い夢にしか思えないほどに、一切の痕跡は消失していた。

 完全に元の姿に戻ったリョウコは、首を左右に軽く振って調子を確かめると、今だ平気でいちゃこらしている夫婦の片方に、空気を読まずに声をかけた。

「こら、聞いているのかねオリヴィア? 昔からさんざん言い聞かせてきただろう、あなたはいささか近視眼的に過ぎるし、思い込みが激し過ぎる! セバスを独占したいのだろうが、世の中にはあなたが思っているほど敵はいないんだよ。年に四百回くらいは言ってるけど、私はセバスを狙ってなんかいないし、人の旦那を寝取る趣味だって持ち合わせちゃいないんだ。あなたも昔と違って、セバスに話しかけたレストランの女給仕だとか、ホテルのコンシェルジュを殺したりしなくなったのは、一応成長したと言えるんだろうが――あなたの殺した女たちを、いちいち生き返らせるのは大変だった――いい加減、私のことも信用しちゃくれないかね? 何だかんだで、もう三十年近い付き合いだろうに――」

 リョウコのこの説教に対する、オリヴィアの返事は、攻撃魔法のスペルだった。セバスティアンに抱き着いたまま、口の中で小さく、素早く――ほんの一秒で構成された呪文は、しかし恐るべき鋭さを持った紅い刃物となり、せっかく復活したリョウコの脳天から下腹部までを、縦一直線に切り裂いた。

「う、ううううるさいわね、い、いいところなのに……ひ、人の恋路の邪魔をする奴はね、馬に蹴られて噛まれて斬られて焼かれて皮を剥がされて食中毒になって死んじゃえばいいのよ。は、ハムみたいにスライスしてパンに挟むわよ?」

 一音一音に呪詛を込めて、オリヴィアは呟く。彼女の髪の中から、赤黒い直線や楕円や三角形などから構成された、まがまがしい幾何学模様が出現していた――最初にリョウコの首をはねたのは、この図形群の内の直線の要素であり、今、脳天を割ったのは、三角形の要素であった。

 水メイジでありながら戦闘を得意とするオリヴィアは、やると決めたら容赦はしない。セバスティアンと愛を確かめ合う時間を確保するためなら、何度殺しても平気な顔をして蘇る、この『無限』の二つ名を持つ女秘書を、何億回でも切り刻むつもりだった――すでにこの三十年間で、一万回以上もこの同一人を殺し続けているが、それでも諦めたりするつもりはない――今もリョウコは、切断面からあの虹色の泡を噴いて、傷を治しつつあるが、もう百回も細切れにすれば、絶命してくれるかも知れない――ある意味、オリヴィアは非常に楽天的な性格の持ち主と言えた。

「ああ、まったく、オーダーメードしたブランド物のユカタが台なしだよ……あれ、タブレットはどこにいったかな? ああ、ミスタ・ヤンのところまで吹っ飛んでいましたか、これは失敬」

 オリヴィアの憎しみを全身に受けてなお、リョウコはのんきに構えていた。破れたユカタの前を手で押さえながら、ヤンから水晶タブレットを返してもらったりしている(このふたりの女性のケンカや、リョウコの超自然的な復活をしょっちゅう目撃しているヤンは、例によってうろたえない。ただ、非常識な出来事に驚かなくなった自分に対し、いくばくかの寂しさを感じるだけである)。

 その余裕が、さらにオリヴィアの苛立ちを煽った。図形たちが空中に並ぶ――複雑で不吉な、狂ったモザイク画が描かれる――これは総攻撃のための準備行動だった。彼女が杖である手斧をチョイと動かせば、憎いリョウコをサイコロのように分解できる――今はまだ、攻撃の射線上にヤンがいるから、発動はさせられないが――オリヴィアは、怨念溢れる頭の中で囁いた――ミスタ・ヤン、どきなさい。その女殺せない。

 彼女の憎悪は、グラスの縁ギリギリまで満ちた赤ワインのようで、今にも弾けそうだった。

 そんな危険域にあったものにケリをつけたのは、リョウコの死でもオリヴィアの諦めでもなく、もっと穏やかなもの――夫であるセバスティアンの囁きだった。

「ほら、オイタはそこまでにしたまえ、可愛いオリヴィア。君は、僕よりもリョウコ君を見ていたいのかな?」

 オリヴィアの小さな顔を、自分の胸に抱き寄せ、セバスティアンは言う。すると、あっという間にオリヴィアの中の憎悪は萎んで失せ、彼女の狭窄気味な意識は、残らず夫に戻っていった。

「あぅ……んーん、私の目に映るのは、セバスだけ。他のものなんて、な、何も見えなくったって、か、かか、構わないわ」

「僕もそうだよ、愛しい木苺ちゃん。さあ、そのおっかない《壁画(ベートーベンフリーズ)》を解除して、また僕のほっぺにキスしておくれ」

「お安いご用よ、ハニー……♪」

 甘い声と、ピンク色の空気。オリヴィアの惨殺用オリジナルスペル《壁画(ベートーベンフリーズ)》の幾何学模様は、まるでいたたまれなくなったかのように、静かに消えた。

『奇跡』のヤンと、『無限』のリョウコも、圧倒的な居づらさに勝つことはできなかった。砂糖を吐きそうな気分をかろうじて耐えながら、そっとフスマを開けて部屋を出る――お互いしか見えなくなっている夫婦に一声かけてから辞去するというのは、逆にマナー違反でしかないので、無言で逃げるように立ち去った。

 ヤンは、一応伝えるべきことは伝えた後だったし、リョウコは――説教が無駄になったのはこれが初めてではないので、すぐに諦めがついた。

 廊下に出て、愛に満ちた濃密な空気から逃れると、ふたりの黒髪の男女は、長いこと呼吸をしていなかったかのように、大きく息を吸い込んだ。

「まったく、あの夫婦ときたら! 昔から私は思っていたんですよ、人ってのは、誰かを愛するようになると、途端に知性が低下するものなんじゃないかってね。いや、あのふたりの場合は、離れ離れにしてても対して変わらないかもしれないが。

 ミスタ・ヤン、あなたも注意しなければなりませんよ。ミス・ミドリガオカと一緒になったあと、あの連中みたいなことになってしまったら、部下たちはウンザリするでしょうから」

 リョウコは、溜まりに溜まった鬱憤をぶちまけるように、手近にいたヤンに言った。

 ヤンは、その忠告を苦笑とともに受け止めた。年下の婚約者である、ミス・ミドリガオカとの結婚は、来年の水無月に予定している。彼は確かに、婚約者のことを愛していたが、お互いに控えめな性格であるため、コンキリエ夫妻のような大胆な睦み合いができるとは、まったく思えなかった。それとも、そんな風に恥ずかしがっているのは最初だけで、やがては彼らのようになってしまうのだろうか?

「まあ、仲がいいのは悪いことじゃないですよ、ミス・リョウコ。彼らだって、場合によってはちゃんと控えてくれますし……たぶん」

「たぶん、とつけたのは、賢明な判断ですよ、ミスタ・ヤン。はあ……フライング・ボールの試合を観戦する時でも、あの調子でいたりしないか、ちゃんと監視しておかなくちゃ……まったく、私としたことが、とんでもない人たちを主に選んでしまったものだ」

「まあまあ、そんなことは言わずに。彼らはややクセがあるだけで、別に悪い人たちじゃないんですから。

 あなたも彼らを気に入っているから、長い間、彼らの仕事をお手伝いしているんでしょう?」

 そう言われてしまうと、怒り心頭のリョウコも、しぶしぶ頷かざるを得ない。

「確かに、そりゃあ、あの子たちのことは嫌っちゃいませんとも。ああいう人目を気にしない態度は、若者特有のダメなところでもありますが、同時に微笑ましくもありますからね。

 それにね、彼らは彼らなりに、素直だったり優しかったりするところもあるんですよ。オリヴィアは私に、編み物のやり方を教えてほしいって頭を下げてきたことがあるし(あの時は確か、マフラーの作り方を教えてあげました。後日、彼女は自作した物をセバスにプレゼントしたんですが、すごく喜んでもらえたとか言って、私に笑顔で抱きついてきたんですよ。あのオリヴィアが! 信じられますか?)、セバスは仕事と関係のない休暇旅行にも、いつも私を誘ってくれますしね。

 今回の、この大中国への旅行が決まった時も、私は西方に残って、セバスの代わりに会社を守っていようと思っていたのです。なのに、私がいないと心細いとか言われてしまいまして、仕方なく……まったく、いくつになっても甘えん坊で……」

 ぶつぶつと、不満なのかその逆なのかよくわからない文句をこぼし続けるリョウコの姿は、ヤンからは、息子夫婦を溺愛しているおばあちゃんに見えた。

「まあ、頼られるのは嫌いじゃないですし? 彼らの気遣いのおかげで、私もいい目を見させてもらってますからね。

 いい服やいい食事を楽しめるし、面白い演劇も見せてもらえるし――何より、色々な場所に旅行に連れていってくれるのがいいですね。この国も、人づてに聞いて想像していたより、ずっと珍しいものばかりで、大いに楽しめておりますし――」

「え?」

 何気ないリョウコの言葉の切れ端が、ヤンの心に引っ掛かった。

「少し意外ですね、ミス・リョウコ。今のおっしゃりようからすると、あなたはセバスにつれられて来るまで、この国に来たことがなかったみたいじゃないですか。

 私はてっきり、あなたのことを、この大中国の出身だと思っていましたよ。それも、名前からして、ニホン省の生まれであろうと考えていたのですが……違いましたか?」

 その問いかけに、リョウコは不意を突かれたように、きょとんとしていたが――やがて、クスリと秘密めいた微笑を浮かべると、こんな答えを返した。

「ええ、そうです。私は『日本』の出身ですよ。――でも、それは『大中国のニホン省』では、ないのです」

 ヤンの疑問への答えは、疑問自体よりさらに謎めいていた。

 リョウコは遠い過去を振り返るように――事実そうしていたのだろう――遠くを見るような目をして、誰に聞かせるでもなく呟いている――。

「懐かしいなぁ……昔の日本……トウキョウタワーにスカイツリー……こっちのニホンには、その手のランドマークって、ツーテンカクしかないからなぁ……」

 板張りの廊下を、ぺたぺたと歩いていくリョウコの後ろ姿を、ヤンは呆然と見送った。

 まったく知らない彼女の過去と、まったく聞き覚えのない、彼女の故郷の何か。ヤンは結局、自分がミス・リョウコのことを、何も知らないということに思い至った。常識を越えた情報処理テクノロジーの秘密も、異常な不死性の正体も、彼女の実年齢も、故郷も、過去の足跡も、そもそも何者であるかさえわからない。

 そしてそれは、セバスティアンやオリヴィアについても同じだった。彼らが仲の良い夫婦で、西方のロマリアという国の出身で、あちらでも相当な財産家であったということは知っている――妻は強力な水メイジで、夫はメイジとしての腕より、マネーを操るセンスが優れている、ということも知っている――他には? そう、娘がひとりいるということも聞いている。

 たくさんのことを語らい、共有していたような気がする――のに、いざ思い起こしてみると、実際に彼らについて知っていることが、あまりに少ないことに驚かされる。ヤンは、セバスティアンたちと友情を持っているということは疑っていない――しかし、漠然と不安になった。

 謎の多過ぎる、西方から来た友人たち。

 彼らはいったい、何者なんだろう?

 ――ヤンがそんなことを思い、立ち尽くしていた時、ふたりきりの閉ざされた部屋の中で、コンキリエ夫妻は、まったく悩みのない平和な時間を過ごしていた。

 具体的に言うと、退室した人たちがいるということにすら気付かず、ひたすらにいちゃこらしていた。

「僕の心に住んでいるのは君だけだよ、ダーリン……」

「嬉しいわ、セバス……じゃあ、本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当に、リョウコとは何でもないのね?」

 夫人が、夫の肩に指先で「Q」の字を書きながら尋ねると、夫は夫で、夫人の髪をくるくると指に巻きつけながら、朗らかに答える。

「もちろんさ。彼女とは、イシヅチ山まで遠乗りをしたぐらいで、特別なことは何もないんだ。だから、そんな辛そうな顔をするのはよしておくれ……僕まで悲しくなるじゃないか」

 言いながらセバスティアンは、幼い子にするように、オリヴィアの背中をポンポンと叩いてやった。すると、それだけで彼の腕の中の女は、ふにゃりととろけて、全身を彼に預けてしまった。

 セバスティアンが、かつて親交のあったトリステインのグラモン伯爵から伝授された、「疑い深い女性をなだめるための会話術」は、完璧に役に立っていた。これほどうまくいくようなら、本当にオリヴィア以外の誰かと浮気をしても、あっさりごまかし切れるかも知れないな――と、セバスティアンは内心で呟いた。

 もちろん、頭の中で仮定しただけで、実際に浮気をするつもりなど、彼にはない。彼女にとって彼が特別で唯一であるように、彼にとっても彼女は特別で唯一なのだ。

「そうそう、オリヴィア、言い忘れていたよ。リョウコ君に言って、君をここに呼ばせたのはね、また、一緒に旅をしないかって提案したかったからなのさ。

 この国の観光は充分にしたし、仕事も全部片付けた。そろそろ、ここを離れてもいい頃だ」

「ふぅん? いいと思うわ。もっとも、あなたさえ隣にいてくれるなら、私は世界のどこに行くのだって構わないのだけど。

 次の行き先はどこ? 北? 南?」

「いいや。未知の土地じゃないよ。実は、ロマリアへ里帰りをしようと思っているのさ。久しぶりに、ヴァイオラの顔を見に行ってやろうじゃないか」

「まあ! まあ、まあ――それは素敵な考えだわ、セバス!」

 恋する乙女の微笑みに、母親としての暖かみが混じった。

「そうよねえ、一度は帰って、あの娘と話をしてあげなくちゃ。手遅れになる前に。

『スイス・ガード』のみんなも連れて帰るのよね? リョウコは置いていきたいけど――それと、あなたのお友達の、ミスタ・ヤンはどうするの?」

「うん? ヤン? ヤン・ウェンリーがどうかしたのかい?」

 問いかけの意味がわからなかったセバスティアンに、オリヴィアは軽く首を傾げて、言葉を足した。

「だって、この大中国は、もうすぐ滅んでしまうんでしょう? 置いていったら、彼、死んでしまうんじゃないかしら」

『だって、リチャードは殺されたんでしょう?』とでも言うかのような、気軽な調子だった。対するセバスティアンも、「ああ」と小さく頷くだけで、その心の水面には、驚きも悲しみも恐怖も現れなかった。ただ、妻の言葉の意味がわかったことへの、納得があっただけである。

「そうか、それのことを言っていたのだね。――うん、確かに、もうすぐこの国は滅びる。でも、それはロマリアも――西方ハルケギニアもそうだ。そう遠くないうちに、大地がまるごと吹き飛んで、空と海と土が混ざり合い、この世の人類は全員、死に絶えることになるだろう――それに備えている、僕たちを除いて……」

「ええ、前に聞いたわ。荒唐無稽だけど、あなたの言うことだもの、きっと真実なんでしょうね?

 だからあなたは、避難場所を造らせたんでしょう? リョウコと、ヨグ・ソトースに命じて。最後の瞬間が来る前に、私や『スイス・ガード』のみんなを、そこに連れていってくれるということも教えてもらったわ。

 でも、他には誰を連れていくの? ミスタ・ヤンやユリアン君みたいな、仲良くなったお友達は? ミス・ユカリンとか、トリューニヒト氏みたいな、仕事仲間の人たちは? 彼らを置いて、ロマリアに戻ってしまったら、世界が滅びるまでに、迎えに来ることができるのかしら?」

「そんな心配はいらないよ、オリヴィア」

 セバスティアンは、妻を抱く腕に、少しだけ力を込めた。

「ウェンリーたちは置いていく……ユリアン君も、ミス・ユカリンたちも、他の人たちも、誰ひとり連れていかない――そして、終末の日までに、迎えに来ることもない。

 ハルケギニアの人たちもそうだ。助けるつもりはない――いや、違うな。みんな、みんな死んでもらわなくちゃいけないんだ」

 それは穏やかでありながら、断固とした口調だった。眼鏡の奥で、強い決意を秘めた目が、冷酷に細められる。

「僕の夢――いや、目標というべきか――を叶えるためには、人類という種には滅んでもらわなければならない。生存を許すのは、ごく身近な、僕の利益に反しない、ほんのわずかな人数でなければならない。それは原理的な問題であって、仕方のないことなんだ……オリヴィア、君には、理解できないかもしれないけれど……」

「私を説得しようなんて、しなくていいのよ」

 しっとりとした、青白く冷たい指先が、セバスティアンの唇をふさいだ。

「理由がどうあれ、結果がどうあれ、私はあなたについていくわ……すべてを、あなたに捧げているんだもの――あなたが、私を犠牲にしたいと思ったなら、遠慮なくそうして、と言えるくらいには、ね?」

「……君のそういうところが、特に好きさ」

 セバスティアンが妻に感じるものは、強い愛情と、それと同等以上のシンパシーだった。自分の思い通りにするためなら、何をどれだけ犠牲にしてもいいという――通常の価値観からすれば、明らかな邪悪――自分の考え方を全肯定してくれる彼女がいるからこそ、彼は自分に自信を持って、これまでどんなことでもやってこられたのだ。

 そして、これからも。

「帰ったら、さっそくヴァイオラに会って、僕らと一緒に来るかどうか、聞いてみよう」

 理解者と肌を触れ合う安心の中で、セバスティアンはまどろみながら言う。

「否と言うなら、僕たちの娘といえど、見捨てなきゃならないけど――まあ、そんなことにはならないだろうな。あの子は割と俗っぽいから。

 あとは、シザーリア君と、トリステインにいるマザリーニ君にも声をかけよう。この二人は来てくれるか微妙だが、来てくれたら来てくれたで、ヴァイオラのいい遊び相手になるだろう。

 ハルケギニア組で、命が助かるチャンスをくれてやるべきは、そのくらいか。他は一人も残さない……特に、人類滅亡を阻止できる可能性を持つ『虚無』たちは――世界が滅びる前に、死んでいてもらった方が安全だ……」

 オリヴィアは、無言で夫の髪を撫でる。子供を寝かしつけるように、優しい笑みを浮かべて。あるいは、魔王に魅入られたかのように、虚ろな笑みを浮かべて。

「ロマリアの聖エイジス三十二世――ガリアのジョゼフ一世――そして、トリステインの虚無も、やっと姿を現した――ヴァリエール公爵家の三女、ミス・ルイズ・フランソワーズ……あとは、アルビオンの虚無さえ発見できれば……」

 セバスティアンは、今の時代に出現している可能性のある、伝説の系統の使い手たちを、かなりの人数を使って捜し求めていた。それ専門の探偵社をひとつ、ゲルマニアに設立したほどである。

 六千年の昔に、始祖の後継者たちによって作られた国が四つ。そのひとつずつに、ひとりずつの『虚無』の使い手。今のところ、三国家までは存在を確認できているが、唯一アルビオンだけが、すっきりした答えを彼に与えてくれない。

(探偵たちは、まったく成果を出せていない――それも仕方ない。あの国は事情が複雑なのだ――大きな粛清騒ぎがあり、最近ではとうとう、王家自体が滅びてしまったと聞く――それと同時に、虚無の血も途絶えたものと考えるのは簡単だが……やはり、念には念を押したい……帰ったら、僕が自分で探してみるか……ヨグ・ソトースを使えば、それほど難しくはないだろう)

 その思考を嗅ぎ付けてか、セバスティアンの頭上に、突如として虹色の泡が浮かんだ。

 リョウコが傷を治すために使った泡と、よく似ている。最初、エキュー金貨ほどの大きさだった小さな泡は、どんどん膨らみ、分裂し、人の頭ほどになった。

 さらに、同じものが、部屋のあちこちに現れていた。タタミの隙間から、梁や柱の木目から、トコノマと呼ばれる飾り台に置かれている、アヤメの生けられた花瓶の中から、鮮やかでおぞましい色合いの、ねっとりとした質感の泡が、ごぼごぼ、ぶくぶくと――。

 その泡と粘液の混合物のひとしずくが、セバスティアンの耳に垂れ落ちる。すると、まるで鼓膜を直接震わせるように、彼にだけ聞こえる声が、耳の奥で囁いた。

『セバス……セバスティアン? もうそちらに戻ってもいいかな? 今、一階のロビーにいるんだが――シザーリオ君と、コーヒー・ミルクを飲んでいるよ――いちゃつき終わったら、再び部屋に入れてくれたまえ』

 くぐもってはいたが、それは確かに彼の秘書の声だった。

 セバスティアンは、口を開かず、頭の中で言葉を浮かべる。この泡を介した通信では、実際に喉で空気を振動させて情報を発信する必要がないのだ。

『ああ、もう大丈夫――いや、やっぱり、他の三人も揃ってから、一緒に来てくれ。人数が少ないと、またオリヴィアが君を切り刻んで、話が進まなくなりそうだ』

『わかったよ。じゃ、もうしばらく戯れているがいいさ。……おっと、菓子屋に行っていた二人が戻ってきた。あとはルーデルだけだね。君たちのお楽しみの時間も、もうあまり残っていないようだよ? ふ、ふ、ふ』

 皮肉げな笑い声を残して、通信は切れた。それと同時に、部屋中にあふれていた不気味な泡たちがいっせいに音もなく弾け、蒸発して消えていく。

 セバスティアンは、目を閉じた。生まれ育った土地、親しくしていた人々、あの清らかさと醜さの混じった空気――先ほども夢想した、あらゆるものを、再びイメージの中に浮かび上がらせる。

 そのすべてを、遠からず失うということが――まったく残念でない。

 心の底でそれを認め、そう確認できた自分にほっと安堵すると、彼は再び両目を開けた。

 

 

 そんな風にして、不穏な意思がうごめいていた――世界の果てで――ハルケギニアから遠く離れた、東の国で――。

 それは、まるでおぞましい生き物が這いずるように、ハルケギニアに帰ってこようとしている。

 彼が、あるいは彼らが、具体的に何を目的とし、何をするつもりなのか、本当にわかっている者は、本人たち以外にはいない。

 彼らを人類全員にとっての脅威――世界の敵であると気付いている者もいない。

 危険性、不吉さ、恐ろしさ――そういったものを巧みに隠したまま――彼らはやがて、故郷への旅路を踏み出す。

 誰にもそれを止めることはできないし、感じ取ることもできない――。

 

 

 遠い遠い、東方から渡ってきたようなぬるい風が吹き――我はその中に、ぞっとするような不穏の気配を感じた。

 肌が粟立ち、背すじが凍る。危険がこの身に近付く時の、あの嫌ぁな感覚が、まるで背後から薄いヴェールをかけられたかのように、静かに訪れたのじゃった。

 それは別に、シザーリアの死を予感したとか、そういうのではない。このハリネズミなメイドの容態は、なんかよくわからんが、気がついたらえらく好転しておった。ちょっと前まで血がだくだくで、今にも召されんばかりの土気色な顔をしとったんが、今ではほっぺも綺麗なばら色、呼吸も楽そうに、深くゆっくりで安定しておる。

 かけてもかけても焼け石に水っぽいなーと思っていた我のヒーリングが、ようやく効いてきたのじゃろう。うむ、さすが我。高貴な身分の者に相応しく、魔法の腕前もスペシャルでグレートじゃ。

 これなら、まず峠は越したと言ってよかろう。今の時点で、シザーリアは死なずに済むことが、ほぼ確定したのじゃ。

 それは良いことじゃった。うん、間違いなく良いことじゃ――しかし――シザーリアの命が助かったらしいと、安心したことで――我は、我の身に迫る恐るべきプレッシャーに気付いてしまったのじゃ。

 ああ、シザーリアのことだけに意識を集中していなければ! もっと余裕を持って、他のことにも注意を向けていれば! こんな、あからさまな危険信号を、見逃すはずはなかったのに!

 体の奥に、ずっしりと溜まる不快感。額に汗がにじむ。不安がつのり、目がきょろきょろと落ち着きを失う。

 まずい、まずい。恐ろしいものが迫ってきている。ワイングラスの縁までいっぱいに水を注いだかのように、限界点が近付きつつある。

 恐怖、苦痛、羞恥、嫌悪、ありとあらゆる避けるべきものが、遠くから我に向かって、青白い手を伸ばしてきている。

 そのおぞましきものの正体を、我は肉体的な感覚で察していた。馴染み深きその不穏。ああ、我は、我は――。

 

 

 

 

 

 我は、ものすごく――トイレに行きたい!

 

 

 

 

 

 やばいやばいやばい。さっきまで死にかけたり死なれかけたりして、まったく余裕なかったから気付けなんだが、すごいもうなんていうかギリギリじゃ。さっき水をいっぱいに注いだグラスのたとえを使ったが、マジでそんな感じ。

 ここまでの圧迫感(プレッシャー)は、五歳か六歳のころ、家族でラグドリアン湖にハイキングに行った時以来じゃ。あん時は、湖の水でよく冷やしたスイカを食べ過ぎたせいで、限界線(デッドライン)に踏み込んでしまったが、今回はどうしてこんなになっておる? 別に、果物食い過ぎた覚えはないのに。

 強いて言うなら、レストランでワインをがぶ飲みして、馬車の中でもシャンパンをゴクゴクしたぐらい――うん、原因特定。ボルドーの酒が美味いのが悪い。

 し、しかし、原因がわかったところで、何の慰めにもならん。この切迫した事態を切り抜ける方法を考えんと、とてつもなく致命的なことになる。

 二十六歳にもなる立派なレディである我が、人前で『グラスから水を溢れさせる行為(比喩表現)』をしてしまったら――もう、なんつーか、精神的に死ぬ。

 しかも、外国の王が直々に派遣した騎士の駆る風竜の上で。さらに言うなら、その竜が到着するのは、ガリア王宮というやんごとなき場所。

 ――ことによると、死刑になるかも知れん。

 そうならんでも、我の方で自主死刑を執行する可能性が高い。貴族の誇りだとか、ブリミル教徒としての良識だとかを軽蔑しておる我じゃが、恥ずかしいのは人一倍気にするタチなのじゃ。

 わ、我が死なずに済むためには。一刻も早く、手洗い場に駆け込むしか方法はない!

 今、森の中に下ろしてもらって、茂みの陰で花摘みとかは駄目じゃ。山暮らしの野暮ったい平民じゃあるまいし、都会暮らしでスタイリッシュな我にはそんな、ワイルドな真似はできん。

 ガリア王宮なら、清潔な水洗式のトイレもあろう。そこにたどり着くまで、何としても耐え抜く――我の全精神力を集中して、ガマンしてみせる!

 じゃから早く、早く着くのじゃ! いやホント、マジでお願いします!

 シザーリアの怪我を心配していた頃よりも強い焦燥が、我をさいなむ。タバサの風竜の飛行が、ナメクジの歩みのようにのろっちく感じられる。

「ヴァイオラ……シザーリアの具合は? 少しは落ち着いた?」

 前の方に座っているタバサが、振り向いてそう聞いてきた。

「もし落ち着いてきているようなら、ヴァイオラは少し休んで。ずっとヒーリングを続けていたら、あなたの方もまいってしまう。

 代わりに、私が治療をするから――シルフィードを誘導することができなくなるから、少しスピードを落とすことになるけど、その方が風が弱まるから、怪我人にかかる負担も減るかも……」

 ちょ、馬鹿言うなコラ!

 今スピード落とすとか、貴様は我に死ねと言うのか!?

「ならん! むしろもっと飛ばせ……一刻の猶予もならんのじゃ!」

 我は、我にできる最大の厳しさでもって、その提案を拒絶した。

 歯を食いしばり、肩を怒らせ、顔を脂汗で濡らして、容認できぬ発言をしたタバサを睨みつける。地獄の淵まで追い詰められた精神が、怒りと焦りに満ちた、甲高い絶叫を上げた――。

「モタモタするな――ッ! 間に合わなくなっても知らんぞ――ッ!」

 我の剣幕にビビッたのか、タバサは息を飲み、「そんなに危険な状態……」と呟いた。

 それから小さく頷くと、風竜シルフィードに向かって、早口でこう命じた。

「急いで。もっと。――全力の出し過ぎであなた自身が再起不能になることも厭わずに、加速して」

『きゅいきゅい! がってん承知なのね――って、お姉様、今さりげなく酷いこと言わなかった?』

 なんか竜の鳴き声に非難の色が混ざっとった気がするが、シルフィードは言われた通り、スピードを上げてくれた。

 大きな翼が長い距離を吹き飛ばし、数分間という短い時間に置き換えた。本来なら確かに短いと言えるそれを、我はぷるぷるしながら、無限を数える気分で耐え忍び――あとちょいとで、堤防の絶望的な決壊に至らんとしたところで――ついに――ついに!

 シルフィードの首の向く先に、リュティスの美しい街並みが現れた。

 そして、その中心に、我は、涙が出るほどの感動とともに――青く輝く、壮麗なるヴェルサルテイル宮殿(トイレのある建物)の姿を発見したのじゃった。

 

 



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ヴェルサルテイル断章(フラグメンツ)/リュティスの休日/だいたい全部ヴァイオラのせい:その1

 真夜中のヴェルサルテイル宮殿は、静かで重い。暗く深い星空の下、光沢のある青いタイルで覆われたその豪壮な建物は、眠れる巨大な海亀にも似ていた。

 その眠りは、羽ばたきの音によって乱された――夜間警備用の篝火の点在する中庭に、青い羽根を広げた風竜が降下し、優雅に着地する。

 あたしは――イザベラ・ド・ガリアは、プチ・トロワの窓から、それを苦々しい気持ちで眺めていた。

 正確に言えば、その竜の首にまたがる、あたしと同じ髪の色をした少女を見て、不快を感じていた。あの嫌な人形娘――あたしの忌まわしい従姉妹、シャルロット。

 あいつが戻ってきたということは、今回の任務も無事に果たしてきたということだ。失敗してぶち殺されていたら、当然戻ってこないんだから、またしてもあたしの期待は裏切られたということになる。

 ――しぶとい奴だよ、本当に。

 腹の中が重くなるような、ムカムカする気持ちを抱えて、あたしは親指の爪を噛んだ。憎悪が汗みたいに毛穴から出るもんなら、きっとどす黒いそれが、あたしの全身をくまなく覆って、さらに床にまで滴っていただろう。

 そうだ、あたしはあの従妹を憎んでいる。この手で絞め殺してやりたいぐらいに怨んでいる。だから会うたびに嘲笑や罵声を浴びせるし、使用人を使ってまで虐め倒している。あのクソ親父――無能王ジョゼフは、シャルロットを騎士としてあたしの下につけ、危険極まる任務を与え続けることで、いつか勝手に死んじまうように仕組んだようだが、あたしにしてみりゃ、気が長い上に回りくどい、イライラするやり方だ。殺すなら思い切って、バシンと死刑にしちまえばいいんだよ。王様なんだから、そんな非道をやったって、誰も文句なんかつけらんないだろうに。

 実はあれを殺したくなくて、せめて生き延びられる可能性を与えてやってるってことなのか? トチ狂った脳みその片すみに、親族を殺めることへの忌避感が、ほんのわずかでも残ってたって言いたいのか?

 そんなわきゃあない――親父がそういう手っ取り早い方法を選ばない理由は、あたしにも大体想像がつく。まず、ひと思いに殺すより、何かさせてた方が面白いだろうってのと――もうひとつ――シャルロットが生きてようと死んでようと、ホントはどっちでもいいんだってこと。

 少なくとも、慈悲の心だとか温情だとかじゃ絶対にない。シャルル叔父を殺し、その奥さんに気が狂う毒を飲ませて、それで平然としている親父が、シャルロットだけにそんな仏(ブリミル)心を発揮するはずがないのだ。

 ていうか、誰に対してだって気遣いなんてことをしないのがうちの親父だ――よりによってこのあたしに、シャルロットの上司をやれってんだから。あの大嫌いな人形娘、チビで陰気で仮面みたいに表情を変えない、気味の悪いアイツと、仕事のこととはいえ、顔を合わせて話をしなくちゃならないことがどれだけ苦痛か、まったくわかっちゃいないんだ。いや、もっと最悪なことに、わかっててやってる可能性の方が高いか。

 あたしの見ている先で、シャルロットがひらりを身をひるがえして、竜から降りた。それに続いて、僧衣を着たえらいちっこい女が、やけに慌てて飛び降りてた――それ以降は、窓にカーテンをかけちまったから見ていない。シャルロットの凱旋なんて、見続けててもヤな気分になるだけだからね。

「アニー」

 部屋のすみに控えていたメイドたちの中の、適当に選んだひとりの名を呼ぶ。赤毛でソバカス面の、田舎臭いその娘は、おどおどと落ち着きのない態度で、あたしのそばに寄ってきた。

「な、何でございましょうか、イザベラ様」

「厨房にひとっ走りして、塩とオリーブオイルをもらってきな。……変な顔するんじゃないよ、あたしがそれだけを食うと思ったのかい。

 ご帰還したあの人形をねぎらってやるのに使うんだ。塩を頭の上の高い位置から振りかけて、そのあとでオリーブオイルを回しかけてやる。きっと美味しくなるよ」

 そう言ってクククと笑うと、アニーはいかにも気の乗らなさそうな表情をしつつ(このメイドはアホだから、考えてることがすぐに顔に出るのだ)、黙って頭を下げて退室していった。

 あたしはそれを見送って、じろりと他のメイドたちを見やった。アニーよりはしつけのされている連中で、仕事中に感情を表に出すような不作法はしないが、それでもわかる。どいつもこいつも、あたしを見る目の中に、軽蔑や嫌悪の光がある。

 昨日も、こいつらが物陰で、あたしの陰口を言っているのを聞いたばかりだ――「イザベラ様のシャルロット様への当たり様は、陰険にもほどがありますよ」――「あんなにかわいらしい子に、どうしてあそこまでの仕打ちができるのかねぇ……きっとお父上と同じで、気がふれているんだよ」――フン、好き勝手言ってろってのさ。お前らの賛成なんて求めちゃいないんだ。誰にもあたしの気持ちはわからないんだから。

 そうとも、理解されてたまるか。誰かを憎まずにはいられない、こんな惨めな気持ちを。

 

 

 我のこのもにょもにょした気持ちを、たぶん誰も理解してはくれんじゃろう。

 無事にヴェルサルテイル宮殿にたどり着いて、タバサにシザーリアを医者に見せるよう頼んだ後――出迎えてくれた綺麗なねーちゃん(自己紹介によると、ジョゼフ王の秘書かなんかをしとるモリエール夫人っつう人じゃそうな。たぶん秘書ってのは建前で、ホントは愛人なんじゃろーなー、やーらしー! きゃーきゃー)を、出合い頭にのぎゃーって脅かして、手洗いまで案内させた。

 そんで、まあ、抱えていた問題を解決して――手水鉢で手をぱちゃぱちゃ洗っとった時は、この世のすべてを許せるほどに慈悲深い気持ちになっとったんじゃけど。

 問題はそれからじゃよ。何とか守り抜いた手紙(忘れとる奴がおるかも知れんから言うが、我がシエイエス大司教を陥れるために作ったニセ手紙な)をジョゼフ王に渡すべく、謁見を求めたんじゃ。

 最初からの約束じゃったし、それはすぐ叶った。もっとも、話す内容が内容じゃから、正式な謁見でなく、王の私室での非公式会談という体裁になった。モリエールさんに案内されて、王専用の遊戯室なる場所に連れていかれたが、これ、人に見られてたら、我も愛人のひとり扱いされたのではあるまいか。ちょっとヤじゃなー。

 遊戯室は、その呼び方をされるには少々陰気な部屋じゃった。だだっ広くて天井が高いくせに、窓がひとつもなく、壁にかけられたランプの明かりも弱々しい。だもんで、薄紫色をした壁は、天井に近付くにつれて暗い色にグラデーションしていき、一番高いところでは、黒々とした闇が雨雲のようにたちこめておる有様じゃった。

 部屋の真ん中には、すごいでかい模型の塊みたいなもんがあった。山や森、川に湖、海岸線や街、街道まであるように見える。あの地形――どうやら、ハルケギニア全体を箱庭化したものであるらしい。さすが大国ガリアの王ともなると、趣味にもなかなか金をかけておるようじゃ。ただ、金かけて作るのが箱庭っつーのは、ちとガキっぽい気がするがの。

「ジョゼフ様。ミス・コンキリエをお連れしました」

 モリエール夫人がそう呼びかけると、箱庭の向こう側で人影がもぞりと動いた。

 ランプの冷たい明かりの中に浮かび上がったのは、青髪青ひげの、立派な風采の男じゃった。肩幅は広く、鍛えられてがっしりとした体つきをしていて、中年だというのにだらけた感じが一切しない。眼差しは鋭く、強い知性の光があり、さりげなくこちらをじっと観察している。

 強そうで賢そうで、見るからに頼もしく――それでいて、絶対に油断のならない人物。

 我から見たジョゼフ一世というのは、そのような男じゃった。

「ご苦労だった、モリエール夫人。あちらに控えていてくれ。……そして、初めましてだな、マザー・コンキリエ。そなたの来訪を、余は心待ちにしていたぞ」

 彼はまず、夫人を部屋の入口まで下がらせ、次いで我に視線を移し、威厳たっぷりに挨拶の言葉をかけてきた。

 深く渋い、いい声じゃ。ぜひとも我が教会で、聖歌を歌わせたい。

 我は礼儀として、その場に片膝をつき、頭を垂れた。

「お目にかかれて光栄でございます、陛下。まずは、こうして会談の機会を与えて下さったことに感謝を。

 そして、ここに至るまでの道中に、陛下の騎士を護衛としてお貸し下さったことにも、お礼申し上げます」

「ふむ。聞けば、何者かの襲撃を受け、そなたの従者を負傷させてしまったという話だが。役立たずを送りつけたことを、むしろ余は謝るつもりであったのだがな?」

 自分のひげを触りながら、ジョゼフ王は不敵に言う。本気で申し訳なく思っておるわけではないようじゃ。単なる謙遜であり社交辞令と考えるのが正解じゃろう。

「いえいえ、ミス・タバサがおりませなんだら、シザーリアは死んでおりましたし、我の運命も同様だったでしょう。我らの命を体を張って救ってくれたあの勇姿、さすがは名高きガリアの花壇騎士でございます」

 王が社交辞令をお使いならば、我もわかりやすいお追従を言うのが筋であろう。見ていて空々しいとか思う奴がいるかも知れんが、それは心得違いじゃ。これは様式美というのじゃよ。

 ――とはいえ、外交の腕前を示す指標のひとつに、いかに様式美を早めに切り上げられるか、というのがあるからのう。我は頃よしと判断し、本題を切り出すことに決めた。

「さて、ジョゼフ陛下。本日参りましたのは、ただご挨拶のみのためではございませぬ。

 我がお抱えの細工師が、素晴らしき工芸品を仕立てましたので……それをお受け取り頂きたく参りました」

 言いながら、我は懐から、黒琥珀で装飾された美しい小箱を取り出し、ジョゼフ王に差し出した。

 その中には、シエイエスを無実の罪に落とすニセ手紙が入っておる――何であのクソ強盗が、これを欲しがったのかわからん――ともかく、これがこの能無しと噂のアホ王によって『本物なり』と認められれば、シエイエスは失脚、彼と仲の良いヴィットーリオのタコ教皇にも、遠回りなダメージを与えることができる。

 現教皇を追い落として、我が代わりにその座につくための、深謀遠慮なる計画が、今まさにクライマックスを迎えておるのじゃ。

「ふむ、なるほど、これは美しい装飾だ……拝見する」

 ジョゼフ王は小箱を受け取ると、装飾など完璧に無視して、ふたを開け、中の手紙を取り出した。

 がさがさした羊皮紙を伸ばし、ためつすがめつしながら、じっくりと読む。やがて満足したのか、彼は小さく頷いた。

「よろしい、マザー・コンキリエ。確かにこの手紙は、我が国を荒らす犯罪組織『テニスコートの誓い』を告発するための、立派な材料になるだろう」

 よっしゃあああああぁぁぁぁぁッ!

 ありがとう目ん玉フシ穴王! そんな簡単にちょちょいと見ただけで本物断定して下さって!

 専門家に鑑定されたらヤバいかなーとか思っとったが、あんたが『裁くのは! 俺の判断だーッ!』って感じにセルフチェックで満足してくれた以上、それも行われんじゃろう。可哀相なシエイエスに黙祷。怨むなら、司法の役目を立派に果たしたこの王様を怨んでくれ。

 我の内心ガッツポーズなど想像もしていないであろうチョロい王様は、ニヤリと白い歯を見せて、握手を求めてきた。

「ご苦労であった。ロマリア人であるあなたが、このガリアのために、命をかけて手紙を運んでくれた恩を、余は生涯忘れぬだろう」

 よせよせ、そんなに褒めるでない、うえへへへ。そのままいい感じに勘違いし続けて、将来的に政治的なコネで我に恩返しをしておくれ。

「――さて、マザーがガリアのためにしてくれた仕事に、ガリアも報いなければなるまい」

 お? なんか報奨金でもくれるんか?

 我がそう思ってワクワクしておると、ジョゼフ王は控えていたモリエール夫人に向けて、こう命令を発した。

「その壁のランプを一台、こちらに」

 彼女は頷き、ランプを壁から取り外すと、ジョゼフ王のところへ持っていく。

 王はそれを受け取ると、金属の傘とガラスの覆いを外し、油を吸って青白い炎を燈している芯を露わにした。

 そして、その揺らめく炎の上に――我が渡した手紙をかざしたのじゃ。

「……って、えええええぇぇぇぇぇッ!?」

 な、何をするだァ――ッ!?

 火は、ぺらっぺらの手紙に、すぐに燃え移った。羊皮紙を舐める炎は、薄気味の悪いオレンジ色をしており、獣のような悪臭がかすかに漂った。炎は徐々に勢力を強め、重大な犯罪の証拠(偽)は、黒ずんだグズグズの灰になっていく。

「……シエイエス大司教が、『テニスコートの誓い』の中枢にいるということは、すでに調べがついていた」

 炎の色を瞳に写して、ジョゼフ王は呟く。

「シレ銀行のロベスピエールについても同様……さらにそこに、サン・ジュストという若造も含めた三人こそが、あの犯罪組織をまとめている。やつらには前から目をつけていたのだ……余と、余が直接指揮した調査員だけはな。

 ただ、奴らは尻尾をつかませなかった。九十九パーセント確実でありながら、確信は持てなかった。余にとって、これほど落ち着かないことはない」

 炎が手紙全体を包み、ジョゼフ王の指にまでその輝きが達そうとした時、彼はぱっと手紙を放った。ひらひらと――オレンジ色の蛾が羽ばたくように――それは床に舞い落ち、やがて燃え尽きて、真っ黒な何の意味もない塊になり果てた。

「マザー。あなたがこの手紙を持ってきてくれたことで、余は確信を持てた。ロベスピエールが殺し屋を雇い、手紙を奪い取ろうとした事実を突き止めた。

 だから実を言うと、この手紙が本物かどうか、検分する必要などなかったのだ……奴らに行動を起こさせ、証拠を出させた……それで、手紙の役割は終わっていたのだよ」

 ジョゼフ王の靴の底が、用済みになった消し炭をぐしゃりと踏みにじる。

 我は、呆然とそれを見ていた。すると、その態度を勘違いしたのか、ジョゼフ王はさらに言葉を次いだ。

「シエイエスの潔白を信じていたあなたには、つらい現実だろうな。そして、おそらくはロマリアにとっても。

 ファーザー・シエイエスは敬謙なブリミル教徒だ……教会内での地位も高いし、民衆の支持も集めている。そんな彼を犯罪者として裁けば、世の中に与える影響は計り知れないものになるだろう。もちろん、悪い方向に、という意味だが。

 もしかしたら、彼を殉教者に仕立てて、新たな指導者のもと、『テニスコートの誓い』はさらに勢いを増すかも知れない……それは我々にとっても、ロマリアにとっても望ましくないはずだ。

 だから、余はシエイエスたちを捕らえぬことにした。こうして証拠も破棄し、奴らが組織とつながっていた事実を葬った。

 マザー、あなたは彼の無実を証明するためにやってきた。ならば、かの聖職者の名が汚されることは望むまい。シエイエスの名誉は守られる……これが、余からあなたへの返礼だと思ってくれ」

 え……えええぇ〜……。

 なんか、ようわからん方向に話が展開してしもうたんじゃが。

 えーと、まとめると、シエイエスがマジで犯罪組織のボスで――我の行動でそれが明るみに出て――そこまではいい――最後に、このアホ王が妙な気ィ使ってくれたせいで、我の企みが何もかもおじゃんになったと、そういうことか?

 ……む、虚しさが……すごい……。

「だが、もちろん、シエイエスを無罪放免にするというわけではない」

 塩のかかった青菜みたくションボリした我の前で、ジョゼフはまだ何か言うとる。

「ガリアが彼を裁くことはできない……衛士でも、花壇騎士でもいけない……だが、外部の者が、秘密に処理するのなら問題ない。

 奴らがあなたに対して取ったのと、同じ手段を使わせてもらった。ある人物にコンタクトを取り……仕事を依頼したのだ。

 シエイエス……ロベスピエール……サン・ジュスト。彼ら複合標的群(マルティプル・ターゲッツ)には……すでに刺客を差し向けている……」

 

 

 ――翌日、正午過ぎ。リヨン郊外、聖タリアン教会にて――。

 昼食を終え、食後の紅茶を楽しんでいたシエイエス大司教は、そのゆったりとした時間を、突然の闖入者によって乱された。

「た、大変です、シエイエス様!」

 部屋に飛び込んでくるなりそう叫んだのは、シエイエスの下で働く若い僧侶だった。顔は青ざめ、焦りに両目を見開いている。

「どうしたのかね、そんなに慌てて……こんな気持ちのいい天気の日に……?」

 シエイエスは、アルビオン風のスコーンにクックベリーのジャムを塗りながら、そう問いかけた。

 彼の視線は、突入してきた若者にも、手元のスコーンにも向いていない。カーテンの開け放された広い窓から、美しいリヨンの空を眺めていた。その日は雲ひとつない晴天で、ラピスラズリを用いた絵の具でも表現しきれない、無限に透き通った青空を拝むことができた。

 しかし、若者にその美しさを楽しむ余裕はなく、シエイエスもすぐに、同じようになる運命にあった。

「そ、それどころではありません!

 あ、あなた様のご友人の、ロベスピエール様とサン・ジュスト様が……今朝、射殺されたそうです!」

「…………!?」

 シエイエスの手からスコーンがこぼれ、ジャムのついている側から床に落ちた。

「ば、馬鹿な! そんなことがあるはずが……」

「リュティスの情報ギルドから届いた、確かな知らせです、ファーザー。ふたりとも、シレ銀行の執務室で、窓から飛び込んできた矢に眉間を貫かれて……」

 シエイエスは呆然としたまま立ち上がろうとして、急に体から力が抜けてしまったらしく、また座り直した。そして、同志を失った悲しみに打ちひしがれ、両手で顔を覆った。

「誰が……誰がそんな、恐ろしいことを……」

「過激派政治団体の仕業ですよ! あいつら、金に汚い貴族ばかり襲って満足してたのが、とうとう金を動かすだけの銀行家まで狙い始めたらしいんです。まったく、とんでもない悪党だ……あの『テニスコートの誓い』って連中は!」

 意外な言葉に驚いたシエイエスは、弾かれたように顔を上げた。

「『テニスコートの誓い』? 今、君はそう言ったのかね? あの団体がロベスピエールたちを殺したと……? ありえない」

 ありえるはずがない。『テニスコートの誓い』に行動を命じる権利は、他ならぬシエイエスと、殺されたロベスピエールたちしか持っていないのだ。

 シエイエスはもちろん、同志たちを殺す命令など出していないし、ロベスピエールたちにしたところで、自分たちの組織を使った自殺など試みるはずもない。

 しかし、若者の口にする言葉は、そんなシエイエスの考えに真っ向から反対するものだった。

「ありえないと言われましても、実際にあいつら、犯行声明まで出しているんですから。二人を殺害後、情報ギルドや高等法院に、普段配ってるビラみたいな、刺激的な文句を並べた手紙を送りつけて、その中ではっきりと……『共和制実現のため、我々への資金提供を拒絶したロベスピエール及びサン・ジュストを排除する』って。ここまでくると、政治理念はただの建前で、金持ちを殺して金を奪うのが、奴らの本当の目的じゃないかって思えてきますね……」

(馬鹿な。『テニスコートの誓い』は、そんな組織ではない。そのような犯行声明だって、我々が出すはずがない……幹部のマラーもバラスも、ダントンもエベールも……そんな自分勝手な理由で、排除する相手を決めるような奴らではない。

何が起きている? わけがわからない……我々のけっしてしないことが……我々の名のもとに行われるなど……)

 シエイエスの頭の中で、無数の否定が駆け巡り、絡み合った。それはやがてつながり合い、固まり、ひとつの形を成していく。

 そして――真実に気付いた時――彼は、脳天に焼けた鉄串を打ち込まれたかのような衝撃を受け、身を震わせた。

(そうか……単純な話だ! これは、我々と敵対する勢力の策略なのだ!

 敵は、ロベスピエールたちが『テニスコートの誓い』の中枢であることを突き止めたに違いない。そして、同時に悟ったのだ……平民にも貴族にも公平な取引をすることで知られている、誠実な銀行家である二人を逮捕することは、平民階級の反発を招き、『テニスコートの誓い』をさらに勢いづかせる結果になると……。

 だが……だが、ロベスピエールたちを社会から排除するのが、他ならぬ『テニスコートの誓い』だったなら……世間の非難は、『テニスコートの誓い』に向く……そのために、おそらくは偽の犯行声明まで出して……実行犯も、ガリア王宮や司法とは関係のない、フリーの殺し屋を雇ったのだろう……だから、魔法でなく平民の矢が凶器に使われているのだ……。

 やられた……実に効果的な方法だ、ジョゼフ陛下! 敵組織の頭を潰すことと、評判を失墜させることを、同時に行なっている……見事としか言いようがない!

 そして……そのような抜け目のない陛下が、もうひとりの頭脳である私を見逃すとは思えない……つまり、次は……)

 大司教は老いた目に、諦観と覚悟の輝きを宿して、立ち上がった。

「君。すまないが、少しひとりにしてくれないか」

 若者にそう言いながら、彼は窓に歩み寄った。ガリアの空を――彼の愛する国の空を、最後にしっかりと目に焼き付けておくために。

(私までも『テニスコートの誓い』の名のもとに殺されれば……組織の評判は、どうしようもなく地に落ちることになるだろう……このガリアを改革するという我々の野望は、もはや潰えた……。

 しかし、ジョゼフ陛下……この国が人民の集合であることは変わらない。格差が、貧困が、差別がある限り……世の中を憂う者たちがいる限り……必ず誰がが立ち上がり、私たちの意志を継いでくれることだろう……)

 若者は、大司教の小柄な背中に、何かわびしさのようなものを感じながらも、一礼して部屋を出ようとした。

 その時だった。窓の外に賑やかに広がるリヨンの街並み――その中でもひときわ背の高い鐘楼塔の上で、何かが一瞬きらりと輝いた。若者はそれが何だかわからず、シエイエスは、それを運命の手であると理解した。

(ガリア、万歳……!)

 ――バシッ!――

 突然、窓ガラスに蜘蛛の巣状のひび割れが走った。そして、シエイエスの体が、まるで朽ち木のように、背中から床に倒れ込んだ。

「ファーザー!?」

 若者は、倒れたシエイエスに駆け寄った。そして、息を飲む――大司教の額に深々と突き刺さった、無慈悲な矢を目撃して。

 こうして、秘密政治組織『テニスコートの誓い』は、人知れず壊滅した。トップを失い、評判も失墜したことで、この組織は徐々に支援者や賛同者を離脱させていくことになり、わずか一月のうちに、ほぼ無力化されることになる。

 この顛末の裏にある真実が、ガリアの歴史に残ることはない。ジョゼフ王の策略も――シエイエスたちを消した、殺し屋の仕事も――コンキリエ枢機卿の活躍も――。

 すべては、闇に葬られた。

 

 

 ……な? もにょもにょした気分になるじゃろ?

 我のやってきたことは何だったんじゃー、って話じゃ。手紙の偽造屋や宝石小箱の職人に払った手間賃、フネや馬車に使った旅費、もろもろ合わせて千エキューぐらい使ったっちゅーに、それだけの金をかけて生み出される予定だった輝かしい成果を、ガリアさんときたら全力で秘匿してくれるとおっしゃる。あーははは殴りたい。

 金も、ここまで来た労力も、途中で殺し屋に襲われた恐怖も、何もかんも無駄に終わった。しょんぼりじゃ。強いて利益があったとすれば、ジョゼフ王にいい印象を与えられた、ということぐらいじゃろうが、こいつアホ王っつー評判じゃしなあ。三歩歩いたら、我の顔も名前も忘れるんじゃなかろか。

「さて、問題が片付いたところで、マザー。あなたのこれからの予定を聞いてもいいだろうか?」

 アホジョゼフが何も察さんと、気楽そうに聞いてきよる。

「もう、大分遅い時間だ。宿は取ってあるのか? ないならば、宮殿の客間を用意させよう。食事をご一緒したいところだが、一時間前に夕食を済ませてしまったのでな、それはまたの機会にお誘いさせてもらおう」

「あー……えと、助かりますですじゃ……ええ、お心遣いに感謝いたします……ううう」

 死んだ魚の目をして、虚ろな返事を漏らす我。

 なんつーか、気力的なものがゼロになっていた。

 

 

 もうどうにでもなーれ、という気持ちで、ジョゼフ王の部屋から退出した我は、宮殿内のプチ・トロワと呼ばれる一角に設けられた豪華な客室に案内された。

 天蓋付きのふっかふかベッドにドサリと倒れ込み、しばしぐったりと脱力する。計画がうまくいかなくて落ち込むなどというのは、我のガラではないが、今回は殺されかけたり走り回ったりして肉体的にも疲れたので、ちと倦怠感に身を委ねることにした。こんな時に発奮したって、空元気に終わることぐらい想像がつくのじゃ。

 今夜はしっかりだらけて気力の回復につとめるとして――明日はどうしよう? もうガリアにいる理由はなくなってしまったが、すぐロマリアに帰るのもつまらん。テキトーに観光でもしようかのう。時間はたっぷりあるし、今回ガリアに来たことに、少しでも意味を見いだしたいし。

「こ、コンキリエ様、失礼いたします」

 扉の外から声がしたので、寝転んだまま「入れ」と返事をすると、年若い赤毛のメイドがおそるおそるといった感じで入ってきた。

「あのぅ、お湯の準備ができたって、釜炊き係のジャンさんが言ってまして……お風呂、入られますか?」

「ほう?」

 我は上半身を起こして、その魅力的な提案に笑みを浮かべた。

 風呂か。疲れを取るために、熱い湯に浸かるっつーのは悪くないな。ガリア王宮の風呂ならば、きっとでかくてのびのびできるじゃろうし。

「うむ、ぜひ入らせてもらおう。浴室まで案内いたせ」

「はっ、はいっ、かしこまりましたです」

 妙におどおどと落ち着きのないそのメイド(たぶん新人なんじゃろーなぁ。シザーリアも我のところに来た頃は、態度が固かった――そういや、シザーリアはどうしたじゃろうか? タバサがちゃんと医者に診せてくれたはずじゃが……風呂から上がったら、様子を聞きに行くかのぅ)の後ろについて、我は部屋を出た。

 案内された浴室は、まず脱衣所からして豪華なもんじゃった。よく磨かれた大理石の柱や壁、細かい織り目で幾何学模様を描いた美しい敷物。我はそこでメイドに服を脱がせてもらって、浴室へと踏み込んだ。

 ほやほやとした湯気の立ち込める浴室は、やはりというべきか、総大理石造りじゃった。真っ白でつやつやしとって、雲の上にでもおるように感じたものじゃ。ちょいとした池ほどの広さがある大浴槽には、真っ赤なバラの花びらがぷこぷこ浮かんでおり、甘い香りを漂わせておった。

 ううむ、これは良い。ロマリアの我の屋敷の風呂もわりと豪華にしとるが、やはり一国の王宮の風呂は見事なものじゃ。いかにも疲れが取れそうではないか。

 赤毛のメイドが、お背中流しましょうかと言ってきたが、我はそれを断って彼女を下がらせた。風呂に入る時は、できるだけ独りでいたいタイプなのじゃ。特に、このように広々とした風呂ではの。――なぜかって? 決まっておろうが。湯舟で、存分に泳いで遊びたいからじゃよ!

 水メイジである我は、水泳という運動に並々ならぬ魅力を感じ、またそれを得意としておるのじゃ。この広さなら、さぞのびのび泳げるじゃろうて。さあ行くぞ、我の優美で洗練された究極の犬かきを、天にまします神々にのみお見せしよう!

 まずは髪と体をざっと洗って、汗を落としたのちに、どでかい湯舟にそーっと足を入れる。よしよし適温。

 そして、いざ泳ごうと湯に顔を沈めかけた時――浴場の奥の方から、声が飛んできた。

「そこにいるのは誰だい? アニーじゃないだろうね、あたしは体を洗う手伝いなんかいらないって、こないだ言ったばかりじゃないか」

 我が声の方を振り向くと、重なり合った湯気の向こうに、ひとりの女性がおることに気付いた。

 青い美しい髪を、タオルをターバンにして頭の上にまとめた、若い女じゃった。目が猫みたいに釣り上がっとって、ややキツめな印象があるが、美人さんであることは否定できん。湯舟の縁に背中をもたれかけさせて、偉そうにふんぞりかえっておる。

 ……ん? この娘の顔、どっかで見たことがあるような気がするが……誰じゃっけか?

 その青髪娘は、我が彼女に対してしておるように、目を細めて、じっとこちらをうかがった。

「あん? マジで誰だい……メイドじゃないね? このイザベラ・ド・ガリアの浴室に堂々と入ってくるたぁ、どういうつもりだい?  言い訳は聞いてやるが、その内容によっちゃ、ただじゃおかないよ」

 その名乗りに、我は熱い湯の中におりながら、肝が凍るような思いをした――おお、思い出したああぁっ! コレ、ガリア王女のイザベラ殿下じゃ! さっきのスットコ無能王の娘ではないかド畜生!?

「こ、これは失礼を、殿下! 我は、ロマリアのヴァイオラ・マリア・コンキリエと申す者でございまする!」

 この場合は、とりあえず我が悪かろうと悪くなかろうと、謝ってへりくだっておくことが必要じゃ。でないとあとがめんどくなる。

 我の名乗りを聞いて、イザベラ殿下の表情から、少しだけ警戒が緩んだ。

「コンキリエ……? ああ、思い出したよ。ブリミル教の枢機卿様だったねぇ。で、結局、何であんたはここにいるんだい?」

「いや、それがその、メイドに風呂の準備ができたと言われまして、ホイホイついて来たらここに……」

 我の釈明に思い当たるところがあったらしく、殿下は渋面を作って、小さくため息をついた。

「それでわかったよ。アニーの奴のせいだね……あいつ、まだ新米でさ。おおかた、来客者用の浴室にあんたを案内するつもりで、間違ってここに連れて来ちまったってとこだろ。この浴室は王族用で、他の人間は一切入れないしきたりになってるんだが……」

「そ、それでは、我がここにいること自体がご無礼に当たりますな。我はすぐに出ますゆえ、どうぞごゆるりと……」

「待ちな」

 慌てて湯舟から上がろうとする我の背中に、殿下の低い声がかかる。

「別にいてもらってかまやしないよ。どうせこんなでかい風呂、あたし独りで入ってても持て余すだけさ。あんただって、今からここを出て、体拭いて、また服着て、来客者用の風呂に行くのなんざ、面倒臭いだろ?」

「あ、いや、我は別にそのくらいは」

「居ろ、ってあたしは言ったよ――ガリア王女が譲ってんのに、それを遠慮する気かい?」

 そんな風に言われたら、我はどうしようもないのじゃよ……。

 ぬるんと湯の中に戻り、その温かさに体を委ねる。温度もよく、香りもよく、肌触りもよい、ひじょーにリラックスできる風呂じゃ――ほんの少し離れたところにおるイザベラ殿下の威圧感を無視できれば、の話じゃが。

 殿下と目を合わせんように注意しながら、ただひたすら時間が経つのを待った。肩までしっかり浸かっとるのに、背筋が妙に冷えるのは、ちょっとご勘弁願いたい。

 心の中で百ほど数えて、もー充分あったまったからお先に失礼しますぞーグッバイ! ってしようと思いついて、いざそれを実践しようとした時――イザベラ殿下は唐突に口を開いた。

「なあ、あんた……尼さんなんだよな? それだったらさ……悩み相談、みたいなのは、聞いてくれるのかい?」

 

 

 目の前にいる、腹を空かせた子リスみたいに切なげな目をした、紫髪のちびっこい娘にそう尋ねて――あたしは――「何を言ってるんだよ自分」という気分になった。

 あたしは王女なんだ。ガリアという国を代表する、特別に高貴な人間のひとりなんだ。そんな奴が、外国人に悩み相談を持ちかけるなんて、あっちゃならないだろ。あたしが弱みを見せるってことは、ガリアの弱みを晒すってことだ――そうさ、もちろんよくないことだ。ガリアがよそからナメられるようなことは、絶対しちゃいけない。それくらいは、ボンクラのあたしにだってわかる。

 でも、それでも――心の底から湧き上がってくるこの衝動を、押さえ込むことはできなかった。この機会を逃したくなかった。完全に人払いのされた、浴室という閉鎖空間。その中には、誠実で思いやりがあると評判の枢機卿と、あたししかいない。そして、あたしは、胸の奥に詰まっているどろどろとした嫌な感情を、もういい加減吐き出してしまわずにはいられない状態にあった。

 ざば、と湯を掻き分けて、コンキリエ枢機卿に近付く。ちびっ子は半泣きになり、表情にさらに怯えの色が加わる。

 そしてあたしは、枢機卿の隣に腰を下ろした。――そばに寄ると、この娘のちっこさがはっきりわかる。もしかしたら、あのシャルロットより小柄かも知れない――下の毛とかちゃんと生えてんのかね? これでハタチ過ぎてるとか、ちと無理がないか――ってか、相談相手として、あまりに心もとなくないかい? あのグズのアニーの方が、まだ頼りがいを感じるよ。

 でも、もう口に出して言ってしまったのだ。今さら引き返すことはできない。

「なあ、どうなんだい。あんたも聖職者なら、いろんな迷える子羊の悩みを聞いてきたんだろ。

 もし、もしもだよ。あたしが、あんたに聞いてほしい悩みがあるって言ったら、聞いてくれるのかい?」

 ひじで軽く枢機卿の肩をつつきながら、あたしは言う。彼女はくすぐったそうに身をよじったが、やがて、おそるおそるといった様子でこちらを向き、小さく頷いた。

「は、はあ。そりゃまあ。人民の心の平穏を守るのが、ブリミル僧としての務めでありますゆえ」

「そうかい。……当然、聞いたことをよそに漏らすような真似はしないね?」

「も、もちろんでございます」

 あたしは大きく頷き、覚悟を決めた。

「あたしの話を聞いておくれ、コンキリエ枢機卿。そして……あたしがどうすべきなのか、助言をしておくれ」

 あたしは関を切ったように、溜め込んでいた激情を、言葉に変えて吐き出した。

 昔のこと。あたしの父と叔父とが仲良くしていて、何の悩みもなかった頃のこと。

 小さな従姉妹のシャルロットと、よく遊んだこと。朗らかで可愛らしいあの娘のことが、本当に大好きだったこと。

 少しだけ成長して――世の中が思ったほどいいことばかりじゃないと気付いた頃のこと。

 魔法の勉強を始めたけれど、あまりうまく使えず、落ちこぼれと言っていいレベルから這い上がれず、もがいたこと。対してシャルロットは、優れた才能を示し、自分よりずっと上手に魔法を使って、周りから褒められていたこと。それを見て、すごく羨ましく思ったこと。

 父が魔法が全く使えず、陰で馬鹿にされていると知ったこと。私もまた、シャルロットと比べられて、馬鹿にされていると知ったこと。

 ガリア王族としてふさわしくあらねばならないという思いから、魔法の才能に乏しい自分に焦りを感じたこと。それに対して、今日は何々の魔法が使えるようになったと、朗らかに話しかけてくるシャルロットに、鬱陶しさを感じるようになったこと。

 そして――病床にあった前王が、次期ガリア国王を指名した直後に起きた、叔父シャルルの暗殺事件。

 世間では、魔法の才がないために王に選ばれなかった父ジョゼフが、王に相応しい、才能豊かな弟を謀殺したのだと噂された。

父は、その噂を否定しなかった――それどころか、王位についてからは、シャルル派だった貴族たちを次々と粛清し、弟への悪意を公然とさらけ出した。

 あたしは父のその残虐な行為を「ああ、やっぱりね」と思いながら見ていた。あたしとシャルロットの関係と、父とシャルル叔父の関係は相似形だ。あたしは、シャルロットを妬み、羨み、憎んでいる――父も当然、シャルル叔父のことを、そう思っていたに違いない。

 ただ、ひとつ戸惑ったのは、父の悪意の矛先が、シャルル叔父の家族にまで及んだことだ。

 叔母は――シャルロットの母親は、シャルロットが毒を飲まされそうになっていることに気付き、代わりにその毒を飲んだ。その結果、彼女は心を病み、愛していた娘のことすらわからなくなってしまった。

 シャルロットは、そんな母親を人質に取られ、父に逆らえないようにされた。外国に追い出され、ガリアの騎士としての身分だけを与えられ、危険な仕事を押しつけられるようになった。それは、父の残酷な遊びだった――自分を憎む姪が、どこまで足掻くか。いつ力尽き、不様な死に目を晒すか。その様子を見て、楽しんでいるのだ。

 そして、そのシャルロットの上司として、あたしを指名した。父は、あたしがシャルロットを憎んでおり、これにつらく当たることを見抜いていたのだろう。

 両親に起きた不幸を経て――部下としてあたしの前に立ったシャルロットは――昔の面影を、大いに失っていた。

可愛らしい顔形は変わらない。ただ、心根は見る影もなかった。明るく、人懐っこかったあの子は、ニコリともしない仮面のようなツラをした、命令を淡々と聞くだけの人形娘になっちまってた。

 あたしは、さすがに父ほどふっ切れちゃいないから、シャルロットの身に起きた出来事を、最初は同情してた。昔はこれでも、彼女の姉代わりだったんだ。魔法の腕前のことで感じていた劣等感を押さえつけてまで、さりげなく励ましの言葉をかけてやったりしたもんさ。

 でも、そんなあたしに対するシャルロットの態度ときたら、氷みたいな冷たさだった。

 結局のところ、あの子にとっては、あたしは憎い仇の娘だってことなんだろうね。こっちの言葉にはろくに反応を返さない。無表情なのに、ときどきはっきりとした敵意の気持ちが、瞳の奥に表れることもあった。

 あたしも、もういいやって気持ちになったよ。自分の憎悪を隠していても、意味がないってね。

 そっからはもう、泥沼というか、あるべき姿に落ち着いたというか――言いたいことを言ってやることにした。面と向かって罵倒したり、メイドに強要して、あいつに卵だとか投げつけさせたりして、シャルロットをいじめにいじめぬいた。

 あいつは眉ひとつ動かさなかったけれど、ちっとも嫌な気持ちにならなかったとは思いたくないね。

 で、本心を露わにして、やりたいことをやったあたしが、スカッといい気分になれたかっていうと、そうじゃない。

 信じてもらえるかわからないけどね。あたしはシャルロットを怒鳴りつけて、痛めつけて、あざ笑っても――少しも面白くなかった。単に疲れるだけでね。あいつが任務を受けて、あたしの部屋から出て行った瞬間にこそ、安らぎを感じるような始末さ。

 じゃあ、いじめるのやめればいいんじゃないかって思うかい? そりゃ無理だよ。あいつのことを考えるとさ、いらいらするんだもの。

 だってそうだろ。あたしのことを思いっきり嫌ってる奴を、どうやって好きになれる?

 昔の慕われてた頃の思い出があるからさ、余計に今の無愛想な感じが我慢ならないんだ。顔見りゃ自然とムカつくし、やり込めて屈服させてやりたいって気持ちになる。で……やっぱり無表情を貫かれて、さらにムカつきが増す。

 負のスパイラルってやつさ。あたしは生まれた瞬間が最高で、そこからどんどん下に転がり続けてるんだ。まず、魔法の腕がマズいことで、王族としての余裕をなくして、シャルロットへの年上としての余裕をなくして、周りからの評判もなくして。シャルル叔父が死んでからは、算奪者の娘と陰口を叩かれ、シャルロットから寄せられる親しみを完全になくして。むしろ、憎悪を向けられるようになって。無理して歩み寄れば無視され、こっちが憎悪を隠さず表せば、向こうの目はさらに冷たくなって。お互いに敵意の応酬で、黒々とした嫌な気持ちが、腹の中にどんどん溜まっていくのがわかって。

 もう、ず――っと、あたしの心は、安らぎのひとつも感じちゃいないんだ。

 はっきり言って、クソな人生さ。まったく、どうしてこんなことになっちまったんだか。過去のどの時点をやり直せば、今の状態は回避できたんだろうか。

 いや、そうじゃないな。あたしが、答えを欲してるとするなら、それは――。

「あたしはどうすりゃいいのかってことだよ……今からでも、このどろどろした状態から抜け出せるとしたら、ね」

 

 

 いや、無理じゃろ。常識的に考えて。

 イザベラ殿下の独白を聞き終えて、我が真っ先に浮かべた感想が、それじゃった。

 何その焼く前のハンバーグみたいなグッチャグチャのお家模様。それをどうにかするって、ハンバーグ種を挽き肉とタマネギと卵とパン粉と塩胡椒とナツメグに分解するぐらい無茶じゃろうが。

 どこが一番キツいって、当のイザベラ殿下とミス・シャルロットに直接の原因がないっつー点じゃ。どっちかが特別悪いんなら、そっちをこらしめるなりして謝罪でもさせれば、まあ関係改善の足掛かりにもなろうが、問題の焦点が魔法コンプレックスと親同士の確執となると、ちとめんどくさい。

 始祖にあらぬ人の身では、どうあがいても生まれついての魔法の才能をどうにかすることはできんし、我程度の身分では、ガリア王たるジョゼフのアホタレに謝罪をすすめたりすることもできん。始祖の教えを説いて改悛させることはできるかも知れんが、我は口下手じゃから、それができるとしたらもっと口の上手い説教慣れした坊主じゃろう。

 それに、仮にジョゼフが心を入れ替えてシャルロット殿下に謝ったとしても――シャルルっつー人死にが出とる以上は、今さら感が拭えないのではあるまいか。

 つまり、クリーンに解決するには、この問題はベトベトしたところが強すぎる。むりやり何とかしても、絶対どっかにしつこい油汚れが残るに違いない。

 そのストレス満載の境遇に同情せんではないが、おいコラこのお疲れ姫、そんな切ない目でこちらを見るのはやめい。我にだってできることとできんことがあるのじゃ。

 だから我は、早々に無駄な期待を断ち切るために、そのことを正直に指摘してやった。

「その問題を解決するのは、我のような非才の身には、荷が重過ぎるように思われますな」

 重々しくそう言うてやると、イザベラ殿下は一瞬泣きそうな顔をして、すぐに目を伏せた。

「……そうかい……。

 いや、あたしだってわかってたよ。人に相談してどうにかなる問題じゃないってことぐらいはね」

 はぁ、というため息が、水面を揺らし、浮いていた薔薇の花弁をちょっとだけ遠くへ押しやった。

「変なこと聞かせて悪かったね。忘れとくれ。

 ……でも、あんたも妙な奴だね。ブリミル僧だから、適当に慰めでも聞かせてくれるかと思ってたら、どうにも出来ませんってはっきり言ってくるんだから」

「う……し、修業不足で申し訳ない……」

「いやいや、逆に少し楽な気分になったよ。どうにもならないものに抗おうとするよりは、すっぱり諦めた方がいいこともあるのかもね。それがわかっただけでも、相談した甲斐はあったってもんさ」

 言いながら手のひらでお湯をすくうイザベラ殿下の表情は、確かに大いなる諦観に安らいでおるように見えた。

 しかし、それが彼女の本心であるとは信じがたい。

 さっきの話を聞く限り、この娘はものすごい俗物じゃ。欲があり怨み嫉みそねみがあり、悲しみがあり迷いがある。そんな奴がそんなあっさり悟って現状を諦められるようなら、世の中に坊主のありがたい説教などいらんのじゃ。

 きっと今も、頭ン中はドロドロした思いが渦巻いておることじゃろう。このままほっとけば、いつか胃に穴が開いたり血圧が上がったり小ジワが増えたりするのかも知れんが、先ほど言うた通り我にはどうにもできん。てゆーかやる気が湧かん。ここはぜひ、我から見えないところで苦しみに耐えて頑張って欲しい。一万エキュー以上の金だとか、出世への足掛かりになるっつーんなら、もう少し真剣に考えてやってもいいが。

 ……待てよ。

 ほんとーに何の利益もないか?

 いやいや、そんなことはないじゃろ。一国のお姫様なんじゃぞ。超大国ガリアの王位継承権第一位なんじゃぞ。こいつに恩を売ることは、のちのち大いに生きてくるに違いない。

 むしろ、ここでコイツを放置して、「コンキリエ枢機卿って案外役に立たないんだね」みたいな印象を与えることこそ、多大な不利益であろう。

 父親のジョゼフ王が期待ハズレにもほどがあったんで、すっかり感覚が鈍っとった。王女から悩み事の相談を受けるなぞ、またとない大チャンスではないか!

「……イザベラ様。ひとつ提案したいことがございます」

 先ほどまでの緊張など、キレイさっぱり放り捨てて。我はキリッと顔を引き締めて、イザベラに言う。

「あん? なんだい」

 顔を上げて、どんよりした目でこちらをうかがう彼女。いかにもひねくれていて、くみしやすそうなタイプではないが、しかし釣りがいのありそうな、大きな魚ではある。

「我の微力でできる範囲ではありますが、殿下の悲しみを多少なりとも軽減させて差し上げられるかも知れませぬ。

 そこでひとつお尋ねしたいのですが――姫。ご自身の心を晴らすために、五百エキュー。用意できますかな?」

 イザベラの眉が寄り、訝しげな表情になる。まあ、仕方あるまい。この言い方だけで、我の企みがこのボンボン姫にわかるはずもない。

 じゃが、是非にでも食いついてもらうぞ。一国の姫になら、五百エキュー程度なら余裕で出せよう。己が心の平安と引き換えと言われたなら、ポンと払うに決まっておる。

 案の定イザベラは、「まあ、それくらいなら」と言って、我に小切手を渡すことを承知してくれた。

 よしよし、その金、絶対に無駄にせんから安心するのじゃ。お前様のことを、きっと幸せな心かるがるお姫様にしてくれよう。

 シエイエスに対する我の企みは破れた。しかし、それで泣き寝入りする我ではない。

 このイザベラとの間に信頼関係をこしらえて、将来の利益につなげてくれる。

 我の座右の銘は、「転んでもただでは起きぬ」なのじゃからな!

 

 

 ――翌日。あたしはお供にアニーだけを連れて、リュティスのはずれにある小さな教会にやってきていた。

 それというのも、あのチビのコンキリエ枢機卿が、そこで待ち合わせたいと言ってきたからだ――昼食をご一緒したい、という名目だったけど、そのあとで「なァに、悪いようにはいたしませぬとも」とか言っていたから、きっと何か他に目的があるんだろう。

 それは、昨日くれてやった五百エキューと関係のあることだろうか? あれは、単なるお布施を要求されたのとは、意味合いが違っているように思われた。あたしの心の平安――そのために必要だ、みたいな――どう使うのか、イマイチ想像がつかないけれど、まあ、アイツから直接聞けばいいことだ。

 礼拝堂に入り、出迎えた若いシスターに、コンキリエ枢機卿と待ち合わせをしていると告げると、奥の個室に案内された。

 アニーを外に待たせて、あたしだけ中に入る――壁に窓がなく、大きな姿見が一枚あるきりの、シンプルな部屋だった。黒塗りの大きなテーブルが中心にあり、その一席に、紫色の髪の、小柄な僧衣の女が着いて待っていた。

「おお、よくいらっしゃいました、イザベラ様。お待ちしておりましたですじゃ」

 コンキリエ枢機卿が、席を立って揉み手をしながら近付いてきた。

「ああ、来てやったよ。それで、さっそくだけど」

「ええ、さっそくランチを摂りに行きましょうか。いい店を見繕っておきましたゆえ、きっとお気に召して頂けるでしょう」

「いや、そうじゃなくてさ」

 あたしは首の後ろを掻きながら、少し言い淀んだ。――あたしの心に平安をくれるってんなら、それを先におくれ――そう、こちらから言うべきか否かで、迷ってしまったんだ。

 その懊悩を見抜いたのか、このチビ僧侶は、ニヤリと悪そうな笑みを浮かべて、わざとらしく頷いた。

「ええ、ええ、わかっておりますとも。ちゃんと準備は整っております。

 イザベラ様のお悩みを聞かせて頂きまして、私じっくり考えましたでございます。そこでわかったのは――はい、イザベラ様は、お父上やシャルロット様とのご関係、そして自分の立場に関わる重圧に悩まされておられる。正しいですかな?」

「否定はしないよ」

 もし仮に、親父もシャルロットも初めからあたしと何の関わりもなくて、あたしが普通の貴族の娘だったら、ここまでの苦しみは感じていなかっただろう。

 コンキリエ枢機卿は、さらにかぶせて聞いてくる。

「で、そのお悩みをですな。これまで、我以外の誰かに打ち明けたり、相談なさったことは?」

「ないよ」

 そっけなく答える。そうとしか言いようがないから。

 あたしの周りの人間は、皆あたしを恐れているか、軽蔑している。北花壇騎士の部下どもには、それなりに忠実な奴らもいるが、そいつらに弱音を吐くのは、上司としてやってはいけないことだ。

 だから、あたしには頼れる相手が、周りに一切いないと言って差し支えない。

「ふむん。だいたい思った通りですな。

 で、肝心のイザベラ様のお心を安らがせる方法――つまりはお抱えの問題を解決するやり方があるのかどうか、ということでございますが、こりゃ立場に起因するものですので、イザベラ様がイザベラ様であらせられる限り、まず不可能だと思われます」

 昨日申し上げた通りですな――と言って、コンキリエ枢機卿は気の毒そうにあたしを見た。

 あたしの感想は、ああそうかい、というもんだった。ちょっと期待してたんだけど、ま、世の中そんなに甘くないってことらしい。そんなことを繰り返し言うために、人を呼びつけたこのチビ紫には、すごいイラッとしたけれど。

「ああ、ですが、誤解なさらぬよう。我は、イザベラ様がイザベラ様である限り、と申しました。

 それは言い換えれば、イザベラ様がイザベラ様でなくなれば、話はまた違ってくる、という意味でしてな」

「はあ?」

 コイツが何を言いたいのか、どんどんわからなくなっていく。

 あたしがあたしでなくなるなんて、そんなことがあり得るわけがないじゃないか。

「ところが、それがあり得るのですな。この首飾りを使いますれば……」

 そう言いながら、コンキリエ枢機卿がこれみよがしに懐から取り出したのは、一本のネックレスだった。

 銀色の細い鎖に、青い小さな石のリングがひとつだけ通してある。飾りっけのない、つまらないアクセサリーだ。コンキリエ枢機卿がそれを差し出してきたので、あたしはつい反射的に、それを受け取ってしまった。

「で、このダサい首飾りが、どうしたって言うんだい?」

「そいつが、イザベラ様を様々なしがらみから解き放ってくれるのですよ。

 ま、深く聞かずに、それを身につけてごらんなさいまし」

 あたしは不審に思いながらも、言われた通りそのネックレスを首にかけた。金属の鎖が肌に触れ、ひやりとした感じを受けると同時に――そよ風のようなものが、あたしの首から上を撫でていったような気がした。

「……ふむ、どうやらうまくいきましたぞ。ちと、これを見てお確かめ下され」

 満足げに笑いながら、姿見の前にあたしを導き、その姿を見るよううながした。

「ったく、いったい何だって言うんだい……んんっ!?」

 鏡をのぞき込んだあたしは、驚きに目を丸くした。

 四角い鏡の枠の中では、あたしの見たこともない女が、呆然としてたたずんでいたんだ。

 茶色の髪を肩まで垂らし、同じ色の目を見開いて、不思議そうにこちらをうかがっている。ややボーイッシュな、悪い言い方をすれば、何だか野蛮に思える顔立ちだ。まあ、整ってるっちゃあ整ってるから、美人の部類には入るだろう――軍人や平民にいそうな、田舎じみた美人だ。

 しかし、もちろんあたしはそんな顔じゃなかったはずだ。青い髪、白い肌。繊細さと高貴さを絵に描いたような、まさに深窓の令嬢って感じのはかなげな顔こそが、あたしの長年付き合ってきた顔のはずだ。誰が何と言おうとそれが真実なのだ。

 あたしの顔はいったい、どこへ消えた? そして、この顔はどこから来たんだ?

「お、おい枢機卿、こりゃどういうことだい!?」

 慌てて問いただすあたしに、コンキリエ枢機卿はくすくす笑いをしながら、人差し指であたしの胸元を指差した。

「そのネックレスの仕業でございますよ。今朝、この街のマジック・アイテム・ショップで手に入れてきた品でして、フェイス・チェンジの魔法が込められておるのです。効果はごらんの通り――身につけた人間の顔を、別人のように変化させるというものですな」

 なるほど、とあたしは、首にまとわりつく鎖と、リング状の青い石を見下ろした。

「基本的には、まあ高価なパーティー・グッズですな。別人の顔になって、顔見知りの相手をちょっとからかうといった使い道の。

 昔は、殺し屋に命を狙われた偉い人が、それで顔を変えて難を逃れた、なんて話もあったようですが、まあ、それなりに見破りにくい変装道具ということでございます。平民はもちろん、高位の風・水メイジであっても、あえてディティクト・マジックで調べようとしない限り、あなた様のその顔が偽物であるとは、気付きようがありませぬ」

「ふーん……つまり、昨日の五百エキューは、これを買うのに使ったってわけかい」

 高ランクのスペルであるフェイス・チェンジを付与してあるアイテムが、安物なわけがない。それくらいの金額はしてもおかしくないと、あたしは判断した。

「でもさ、確かにこりゃ面白い玩具だけど……顔を変えることと、あたしの抱える問題に、何の関係があるんだい?」

それがイマイチわからない。そう言って首を傾げると、相手はあたしをそそのかすように、耳元に口を寄せて、こっそりと囁いた。

「考えてごらんなされ。その首飾りの力で、別人になっている間は、誰もあなた様をイザベラ殿下と思わないのですぞ。

だぁれも、あなた様をシャルロット様と比べませぬ。魔法がうまくなくても、まああのくらいの年頃なら普通だよねとスルーいたします。

 だぁれも、あなた様をジョゼフ陛下の娘とは見ませぬ。纂奪者の娘だとか、無能王の娘だとか、陰口を言われることもありませぬ。

ありとあらゆる、『王女イザベラ・ド・ガリア』としての責任から解放されまする。今のあなた様は、イザベラ・ド・ガリアではありませぬゆえに。

 すべてのしがらみを忘れて、はしゃぎ回るには――それで充分事足りるのではありませぬかな?」

 あたしは、脳天に雷が直撃したかのような衝撃を味わった。

 他人になりきって、自分の抱えていた重荷を肩から降ろす――それはかりそめのものに過ぎない。いつかは覚める夢だし、夢が終わったあとには、また重荷を背負い直さなければならない。

 根本的な解決にはならない。一時的なごまかしだ。

 でも、それでも――今のあたしの、この田舎じみた顔には――あたしの望むすべてがあった。

 自由が。解放が、一時とはいえ手に入るのだ。

「イザベラ様。あなた様に必要なのは、ストレス解消のための手段でございます。

 シャルロット様をいたぶっても気が晴れないなら、こういう別な手をお試しになってはいかがかと思い、提案させて頂きました。

 聞いたところによると、かのトリステインの姫なども、ときおり城を抜け出しては、平民に身をやつして城下に遊ぶ、というご趣味をお持ちだった頃があったとか。それに倣う、というわけではありませんが……今日一日、そのお姿のまま、過去のことをすべて忘れて、羽を伸ばしてみてはいかがですかな?」

「コンキリエ枢機卿」

 あたしは、この発想力豊かな枢機卿に敬意を評して、その肩に手を置いた。

「あたしは、何でこのことを今まで思い付かなかったのかって、ひどく悔しい思いをしているよ。

 今までもお忍びで街に遊びに出たことはあったけど、その時だって、あたしはあたしのままだった。護衛の者は、うわべだけのお追従ばかり言うしさ、レストランや洋服屋みたいな街の人たちも、あたしが王女と気付くや怯えた表情になった。王宮と何も変わらない……外の世界にも、安らぎはないと思ってた。

 でも、この方法なら……あたしのことを誰も知らない世界に飛び込んでいくのなら……もしかしたら……」

あたしは、鏡の中の新しいあたしを、期待のこもった目で見つめた。鏡の向こうにいる奴は、「あたしに任せときな」とでも言うように、自信に満ちた目をしていた。

「お気に召して頂けたようで、安心いたしましたですじゃ。

 では、さっそくそのお姿のまま、街に繰り出して頂きますぞ。案内役はこちらで用意させて頂きましたゆえ、自由な一日をじっくり楽しんできて下され」

 そう言って、あたしを部屋から送り出そうとするコンキリエ枢機卿――って、ちょ、ちょっと待ちなよ!

「あんたは来ちゃくれないのかい? せっかくお膳立てしてくれたのにさ」

「残念ながら、我はあなた様のことを、イザベラ王女殿下と存じ上げておりますので。それを知っていては、顔が違っていても王族として敬意を払わずにはいられませぬ……つまり、お追従じみたことを言わずにいる自信がないのですよ」

「ああ……」

 確かに、それじゃあ意味がない。あたしとイザベラ・ド・ガリアとのつながりを断ってこその自由なんだ。あたしをイザベラと知っている人間がそばにいちゃ、この計画の魅力が台なしになる。

 しかし、まったく知らない奴と連れ立って遊ぶというのは、少々気兼ねする。かといって、独りきりで外をぶらつくというのも、同等以上に不安なもんだ。

「なに、ご心配は要りませぬ。そいつは我の個人的な知り合いでしてな、あなた様の身の上を詮索したりせぬよう、しっかりと言いつけておきました。

 ついでに言うと、あなた様のことは田舎から出てきた知人の妹と告げてありますので、さほどかしこまったりもいたしますまい。まあ、その分、彼女の態度をちと無礼に感じられることもあるやも知れませぬが、相手は王族に接しておるとは夢にも思っておりませぬので、ひとつ寛大なお心で見てやって下さいませ」

「ん〜……まあ、その辺は妥協すべきなんだろうね。わかったよ。

 じゃ、さっそくそいつに引き合わせてくれないかい。さすがに、あんたから紹介ぐらいはしてくれるんだろうね」

「それはもちろんでございます。では、こちらにどうぞ」

 コンキリエ枢機卿に導かれて、あたしはその小部屋を出て、さらに別の部屋の前に案内された。

「おーい、来たぞー。準備はできとるじゃろの?」

 扉をノックしながら、親しげに尋ねる枢機卿。中から、あたしには聞き取れないくらいの小さな声で返事があった。きっと、入っていいとでも言ったんだろう。枢機卿はドアノブを回して、待機させていた知人とやらと、あたしを引き合わせた。

 出会いの場所は、先ほどの部屋と同じような、簡素な小部屋だった。やはり窓がなく、姿見が一枚だけある。そして、部屋の真ん中にはテーブル――その一席に、そいつは、コンキリエ枢機卿と同じように、ちょこんと座っていた。

 干し草色の髪を二本のおさげにして、肩から胸に垂らしている、地味な感じの娘だ。丸い眼鏡をかけていて、その奥で灰色の目がこちらを見つめていた。

 いまいち個性が掴みにくい種類の見た目だ。家庭でパンでも焼いてるのが似合いそうに見えるが、アカデミーで黙々と鉱物の分類をしてるのも相応しそうだ。

 まあ、おそらくは後者の印象の方が、この娘の内面に近いはずだと、あたしはあたりをつけた。なぜなら、彼女の向かっているテーブルの上に、ぶ厚い難しそうな本が、ページを開いたまま置いてあったからだ。あたしたちが来るまで、それを読み耽っていたに違いない。

 そいつは本をたたみながら、椅子から立ち上がった。コンキリエ枢機卿ほどではないが、かなり小柄で、ほっそりしている。いくつぐらいだろう、十二、三歳くらいか? あんまり年下過ぎる相手と組まされるってのもねぇ……休暇が子守に終わるなんて、あたしは嫌だよ。

「待たせてすまんかったな。ほれ、こちらが、今日お前にリュティスを案内してもらいたい、我の友達の妹さんじゃ。

 とにかく気楽に遊びたいそうなんでの、せいぜい肩の凝らんところを巡ってやってくれ」

「……わかった」

 朗らかなコンキリエの頼みに対して、少女の返事は淡々としていた。それこそ、本の一文でも読み上げたみたいな、平坦な声だった。お世辞にも、とっつきやすそうなタイプには見えないけど、大丈夫なのかい?

 あたしは心配してコンキリエ枢機卿の方を見返したが、このチビは「うむ、お前に任せとけば安心じゃ」などと、あたしの印象とは真逆のことを言ってやがる。ホントに大丈夫なのか。今度は自分自身に問い掛けた。

「さてと、時間も押しとるし、我は用事の方に取り掛かってくるかの。あとはふたりに任せるから、仲良く楽しんでくるがよろしい。んじゃ、さらばじゃ〜」

「あ、ちょ、おいっ!?」

 呼び止めようとするあたしのわきの下をすり抜けて、チビ枢機卿は飄々と部屋を飛び出していった。

 おしゃべりがいなくなったあとの部屋は、一気に静かになった。

 あたしは、初対面の相手に、まずどう声をかければいいのか思い浮かばないで、相手のことを気にしながらも、口を開けずにいたし、このおさげ髪の娘は、こちらをじっと見ているばかりで、やはり口を開く様子がない。

 それどころか、コイツ、粘土かなんかでこしらえた人形みたいに、気配がなくて、およそ人らしくない。見ていて不安になる――続く無言に、気分が重くなる。緊張して、握り込んだ手の中が汗で濡れる。

 この息苦しさを、何とかして打破しようと、あたしはついに意を決して、娘に話しかけてみようとした。

「あ、あのさ、」

「リーゼロッテ」

 そしたら、向こうの方も、かぶせるようにぽつりと何かを言った。

「……えっ? あ、今、何て?」

「リーゼロッテ。私の名前」

 どうも言葉の上ずるあたしとは対照的に、なめらかに、冷静に繰り返す娘――リーゼロッテ。

 どうやら、自己紹介をされたらしい。

 そういえば、お互い名乗り合ってすらいなかった。

「あなたは?」

 問われて、はっとする。そうだ、向こうが名乗ったなら、こちらも名乗らないと。あたしはイザベラ――と言いそうになって、危うく踏みとどまる。せっかく顔を変えてあるのに、本名を言う馬鹿があるかい。適当な偽名、適当な偽名――。

「……アラベラだ。ベラって呼んどくれ、リーゼロッテ」

 あたしの名乗りに、リーゼロッテは、「わかった」と小さく呟く。

 そして、再び場に沈黙が降りた。

「お昼ごはん」

 十秒か二十秒か、はたまた五分か一時間か。半端に間を置いて、リーゼロッテはまたも唐突に口を開いた。

「レストランに案内する。……ついて来て」

「あ、ああ……」

 彼女のペースに戸惑いながらも、あたしは先に立って歩き出したリーゼロッテの小柄な背中を追って、部屋を出る。

 こちらを振り向きもせず、つかつかと歩き続けるリーゼロッテ――なんつーか、この無口さ、無表情さ、周りに気を使わないマイペースさ――どっかの誰かさんをすごい彷彿とさせるんだけど。あたしのすっごい苦手なあの娘を。

 コンキリエの馬鹿、何でよりによってこんな娘を案内役に選んだんだい。これじゃ心休まらないだろうがよ、ちょっとは察しなよド畜生。

 心の中で、無邪気な笑顔のコンキリエ枢機卿に毒づく。早くもあたしは、今日一日のささやかな自由が、ひどくぎくしゃくとした落ち着かないものに終わりそうな予感を、ひしひしと感じてしまっていた。

 

 

 アラベラという、ヴァイオラの友達の妹だという女性に、「リーゼロッテ」と名乗った私は――胸の中、服の下に入れてある、緑色の宝石がついたネックレスを、ブラウスの上から撫でながら、昨日のことを思い出していた。

 あれは、かなり夜遅くなってからのことだった。王宮の端に借りた宿直騎士用の仮眠室で、私が眠る準備をしていると、ヴァイオラが突然訪ねてきたのだ。

「タバサや。お前にちょいと頼みたいことがあるんじゃ。

 一時でも姉妹の縁を結んだ女を助けると思って、ちと引き受けてはもらえぬか」

「……内容による」

 ヴァイオラのたっての頼みというなら、私は断る気はなかったが、すぐに頷いてしまうのも、お姉ちゃんとしての威厳に欠ける行為だ。そのため、一応話を聞いてから頷くことにした。

 ヴァイオラのお願いというのは、思った以上に簡単なものだった。彼女の知人の妹さんを、リュティスで遊ばせてやりたいから、観光案内のようなことをしてやってくれないか、というのだ。

「本当なら我と、そいつの姉とで案内して回るべきなんじゃが、我らはちと外せぬ用事があっての。

 代わりをシザーリアに頼む予定だったんじゃが、あいつは怪我をして、しばらく働かせられそうにないし……」

 ヴァイオラの従者であるシザーリアは、ここに来る途中で、襲ってきた賊からヴァイオラをかばって大怪我をし、今は王宮の水メイジたちによる集中治療を受けている。

 私が聞いた限りでは、命は間違いなく助かるが、まだベッドから起き上がれる状態でもないらしい。

「シザーリア以外にロマリアから連れてきた従者はないし、この国で、こんなお願いができる相手というと、お前をおいて他におらんのじゃ。ちと手間をかけることになるが……」

 それくらいならと、私は引き受けた。任務は終わったし、明日はトリステインに帰るだけ。しかも、今は学院が長期休暇中なので、急いで帰る必要もない。

 シルフィードにも無茶をさせたから、一日ゆっくり休ませて、帰るのはそれからでも悪くはない。

「おお、引き受けてくれるか! 恩に着るぞ!」

 ぱっとたんぽぽが咲いたように笑うヴァイオラ。子供のこういう表情は、やはり魅力的だ。

「あっ、そうじゃ。そいつと会う時の注意点を言うておかねば。

 まずの、その娘は姉にねだって、親御さんに内緒で家を出てきておるのじゃよ。ゆえに、身分を明かすのがはばかられる――だから、家名を聞いたり、住んどる土地のことを尋ねたりするのは控えてやってくれ」

「わかった」

 私も、本名を隠して世の中を渡っている身だ。隠したいと思っていることなら、もちろん聞かずに済ませるくらいの気は使う。

「あとは、お前の方でも、なるべく身分を明かさず、変装をしたり、偽名やなんかを使って、そこら辺の一般貴族として相手に接してやって欲しいんじゃ。

 お前も名誉あるガリア花壇騎士じゃからの、もし相手がお前の身分を知ったら緊張するかも知れんし、ロマリア人の我が、ガリアの公務に携わるお前に、プライベートの用事をやらせたと知られたら、ちとごたごたが起きるかもわからん。そういう面倒は、できるだけ避けたい」

「わかった。……けれど、偽名はともかく、変装は難しい」

 今まで、身分を偽って任務につくことは何度もあったが、顔を変えたことはない。風や水のスクウェア・メイジなら、フェイス・チェンジという顔を変える魔法を使えるが、私はまだその域には達していなかった。

 カツラをかぶって、眼鏡を換えてみれば何とかなるだろうか?

 そう思案していると、ヴァイオラは、その点は我に任せろ、と、ない胸を自信ありげに叩いてみせた。

「いい道具があるのじゃよ。マジック・アイテム・ショップに問い合わせたら、あるっつー返事だったんでな、明日の朝一で届けさせて、お前にくれてやる。

 それをつけて、件の娘に会ってくれ。くれぐれも、身分を明かさぬよう気をつけるんじゃよ?」

 ――そして、今朝。

 ヴァイオラが持ってきてくれたのが、今、私が首にかけている、このフェイス・チェンジの首飾り。

 身につけるだけで顔を変え、眼鏡の形までちょっと変えた、とても気のきいたマジック・アイテム。

 これを使って、私は今、シャルロット・エレーヌ・オルレアンでも、タバサでも、人形七号でもない、リーゼロッテという、まったく新しい人間になっている。

 不思議な感覚だった。これまで持っていた三つの名前は、すべて相互に関連があった――どれも私であり、ただ違う名前を使っているというだけで、内面には特に変化は起きていなかった。

 しかし、このリーゼロッテは別だ。離れ小島のように、私にこれまでの私と違うものであることを要求する。

 リーゼロッテとしての私に必要なのは、戦闘能力ではない。敵の企みを看破する知力でもない。伯父ヘの復讐を誓うような過去もないし、愛する父や母といった背景もない。

 ――浮足立つ。

 ゼロから人生を始めるというのは、ふわふわしていて落ち着かない。

 普段使いの大きな木の杖も、私の手の中にない。あれは特徴的過ぎて、見る人が見れば誰のかすぐわかってしまう、とヴァイオラが言うので、泣く泣く部屋に置いてきた。今、私の腰に差してあるのは、スペアのタクト型の小さな杖だ。

 父の形見のあの杖を持っていないというだけでも、何かどこかがひどくズレている感覚がある。正直、あまり気分の良いものではない。

 ――早く終わらせて、もとの自分に返りたい。

 そんな思いがふと浮かんで、私は内心で少しだけ驚いた。私にも、私自身に愛着を持つという意識があったとは。

「で、行き先はいったいどこなんだい、リーゼロッテ?」

 私の後ろからついて来ながら、アラベラはけだるそうな声でそう聞いてきた。

 貴族にしては、変に粗野な言葉遣いをするこの女性を、私はなぜか、初対面から気に入らなかった。

 一言、二言しか会話をしていないし、相手も初対面の私に遠慮している風なのに、何か、よくわからない点で、決定的に合わないと感じていた。

 いや、何が合わないかは、はっきりわかっていた。できれば、自覚したくなかっただけだ。

 似ているのだ。このアラベラの雰囲気が。私の苦手な、あの従姉に。

 だから、――自分でも理不尽だと思うが――アラベラに対する私の態度は、どうしても硬いものになってしまう。

「こっち」

 シレ河沿いの馬車道をさかのぼり、シャンゼリゼ・ストリートに出る。ここは、リュティスでも指折りの華やかな通りだ。凱旋門と呼ばれる、太陽王時代に造られた白亜の大門を入口に、マロニエの並ぶ石畳敷きの歩道を挟んで、両側に流行最先端の洋裁店、ジュエリー・ショップ、レストランが軒を連ねている。

 その中でも、特に評判の高い高級レストランに、私はアラベラを連れていくつもりだった。

 普段は、あまり好んでそういう店には入らない私だが、今日の目的がそもそも接待であるということと、ヴァイオラから充分なお金を預かっていたことから、たまにはいいだろうと、そこを選んでみる気になった。格式にこだわる貴族の子女を連れていくなら、高級店であればあるほどいいのだ。

 しかし、いざ店の前に立つと、アラベラはうんざりしたような声をあげた。

「えー、ここかい? 何だか、肩の凝りそうなとこだね……どっちかっていうとさ、もうちょっとくつろげる店の方がよかったんだけどねぇ」

 やはり、見た目と態度に表れている通りの、粗野でわがままな性格の持ち主らしい。普通、初対面の相手に連れていかれた店に、入る前から文句を言う人がいるだろうか。

 少しイラッとしたが、私は接待する側。もてなされる側のアラベラが気に入らないなら、ここはやめておくしかない。

 では、どこに行こう? 彼女の言い草ならば、肩の凝りそうな高級なところは望ましくない。ならば、必然的に安い店にならざるを得ないけれど――。

 そう考えながら辺りを見回していると、いいものが目に入った。

「ここで待ってて」

 そう言い置いて、私は小走りに通りの端に――凱旋門の下、ちょっとした人だかりができている一画に向かった。

 人波に紛れて、少ししてアラベラのところに戻った私は、丸っこい紙包みを二つ手にしていた。

「何だい、それ」

「ランチ」

 紙包みの片方を、アラベラに手渡した。それを開くと、切れ目を入れたパンに大きな豚肉を挟んだ、ボリューミーなサンドイッチが現れる。

「そこの屋台で売ってた。歩きながら、食べられる」

「いや、肩の凝るのは嫌だって言ったけどさ……こりゃまた、雑だねぇ」

 目を丸くしながらも、気に入らなかったわけではないようで、アラベラはサンドイッチをしげしげと眺めてから、思いきってがぶりとかじりついた。

 

 

 このリーゼロッテっつー娘は、人との接し方ってものをわかっていない。

 言葉は少ないしこっちの顔をほとんど見ないし、何より笑顔がない。権威主義の貴族たちのおべっかに慣れたあたしには、こいつみたいなのはどうも接しにくい。

 シャルロットに様子が似ているから、あいつにするみたいに居丈高にしてやろうかとも思ったが、今のあたしは王女でも何でもないわけで、それなのに威張り散らしてみせるのは滑稽でしかないだろうし、こいつを紹介してくれたコンキリエ枢機卿に恥をかかせることにもなる。それはさすがによろしくない。

 まあ、仕方ないかなと我慢してついて行けば、このチビ、シャンゼリゼ・ストリートいちの名店に、あたしを連れていこうとしやがる。

 あのね、こちとら王女様なんだよ。いいもんは食い慣れてんだ。ガリア屈指の名店は大抵足を運んでるし、このレストランにも飽きるほど来てるんだよ。

 とはいえ、今のあたしは田舎から出てきた、リュティスに不慣れなお嬢さんって設定だから、そんなことを思っても口に出すわけにはいかない。そこで気の進まないフリをして、やんわり断りを入れてみると、今度は畜生、道端の屋台で売ってる、安っぽいサンドイッチを買ってきて、ハイどうぞと来たもんだ。

 上から下へ極端過ぎだろコラ。これ、忙しい商人どもが短い昼休みにサッと買ってサッと食えるように都合した、いわゆるファストフードってやつじゃないか。買おうと思えば、平民でも買える値段のシロモノだよ!

 ちょっとばかし呆れもしたが、よく考えたら、こういうものはイザベラ・ド・ガリアとしては絶対口にできるものじゃないし、今日一日だけの珍しい経験と思えば悪くないか、と思い直して、とにかく食べてみることにした。

 何かオレンジ色と茶色の中間みたいな、ギトギトしたツヤのあるソースがたっぷり付いた豚肉を、周りのパンと一緒にかじる。

「うっわ……大雑把な味……」

 あたしは思わずうめいた。ソースはどうやら、マーマレードと焦がしタマネギで作ったものらしく、甘みとほろ苦さと旨味が混然一体となって、口の中に広がった。

 しっかり焼いた豚の三枚肉は柔らかく、噛むたびに甘い脂があふれてくる。ぶっちゃけ、しつこいぐらいだ。

 でも――うん、まずくない! けっして、まずくないよ!

 さらにひと口、ふた口とかぶりつく。ソースや豚の脂が染み込んだライ麦パンも、かなりイケた。最初はどうかと思ったが、こりゃ意外な掘り出し物だね。

 手間隙をかけたオシャレな高級料理には、色んな意味で遠く及ばないけど、どう言えばいいかな――これは、あたしの性に合っている気がする!

 がつがつとマナーも何もなくサンドイッチを頬張りながら、あたしはすっかりいい気分になって、指についたソースまで舐めてしまった。これも、王宮じゃ絶対できないしぐさだ。

 ふと見ると、そんなあたしの様子を、横からリーゼロッテがじーっと見上げてきていることに気付いた。何だかきまりが悪かったので、咳ばらいをしてごまかしてみる。

「ん、ま、まあ、こういうのも悪かないね。しかし、ひどくくどい味付けなんで、喉が渇いたよ。飲み物の用意はないのかい?」

「大丈夫」

 そう言って、リーゼロッテが向かった先は、一軒の喫茶店。

 そこに入るのかと思いきや、彼女はすぐに出てきた。その両手にひとつずつ、青竹を節に合わせて切ったただけの、簡素な使い捨てコップを持って。

「飲み物。テイクアウトしてきた」

「へえ? 持ち帰りとか、そんなこともできるのかい」

 感心しながら、コップを受け取る――そこに入っていたのは、ピンク色の、小さな泡を生じさせている液体だ。顔を寄せて匂いを嗅いでみると、爽やかなイチゴの香りがした。

「ははぁ、サワーってやつかい」

 昔、ワインも飲めないくらい小さかった頃、オルレアンのシャルル叔父の屋敷に招かれた時、これをご馳走してもらったことがある。世の中には不思議なことに、スパークリング・ワインのように発泡する水を湧かせる泉があり、そこで汲んだ発泡水に、酢に果物を漬け込んで甘みと香りを移した汁を混ぜて、さっぱりとしたジュースのように仕上げた飲み物を、サワードリンクと呼ぶのだった。

 コップを傾けて、キューっと喉の奥まで流し込む。売る直前まで、井戸の底に浸けてあったのだろう、それはキリッと冷えていて、口の中で弾ける刺激的な泡も、鼻に抜ける甘酸っぱいイチゴの風味も、実に爽快だった。

脂っこいサンドイッチでしつこくなっていた口の中が軽やかになり、ひと心地つく。すると、再びサンドイッチの濃厚な旨味が恋しくなる。サンドイッチをかじり、こってりしてきたらサワーをごくり。こいつはいい相性だ。

「悪くない……うん、うん。こりゃ全然悪くないよ、リーゼロッテ」

 青空の下に栄えるシャンゼリゼ・ストリートを、サンドイッチとサワーを手にしたまま、リーゼロッテと並んでゆっくり歩く。

 全体的に安っぽいが、確かにこれは悪くない、のびのびした休日って感じだ。

 隣を見れば、あたしと同じセットを持ったリーゼロッテが、どんぐりにかじりつくリスみたいに、サンドイッチをもふもふもふもふと一心不乱に食べていた。

 人格的にはちょっとダメなこいつだが、こういう仕草は小動物的で好ましい。癒し系って、こういうものなのかねぇ。

「ごちそうさま」

「って、早っ!?」

 なごみながらこいつの食事を眺めてたら、目を離す暇さえなく完食されていた。

 先に食い始めたあたしの方が、まだ半分程度しか済んでないってのに、何だこの早さ。ほっぺた膨らませて口の中でもぐもぐしやがって、ホントにリスみたいだねこいつちくしょう可愛いなぁ。

 そんなことを思いながら見ていると、その視線に気付いたものか、リーゼロッテは小脇に抱えていた本を広げ、歩きながら読み始めた。まるで、あたしのことをわざと視界から追い出すかのように。

「ちょいとあんた。人と歩いてる時に本なんか読むんじゃないよ」

 いくらマイペースったって、人前でこの態度はない。あたしは、その本を上からひょいと取り上げて、意見してやった。

「横にいるあたしがいい気持ちしないってことぐらい、わかんないのかい? ダチの前で同じことやってみな、きっと呆れられるよ」

 言いながら、開いたページにスピン(しおり紐)を噛ませて閉じ、リーゼロッテに返す。

 彼女はそれを受け取り、しばらく本を見つめていたが、やがてそれを脇に抱え直して、こちらを見上げた。

「……確かに、あなたの言う通り。

 失礼なことをした、許してほしい」

「ん。わかってくれりゃ、それでいいんだよ」

 思いのほか素直に言うことを聞いてくれたね。

 あのシャルロットに雰囲気が似てるから、ひねくれた礼儀知らずの性格も一緒なんじゃないかって危惧してたんだが――ちゃんと悪いところを謝れるんなら、こいつはあの人形娘みたいにはならずに済みそうだ。

 

 

 アラベラに態度を注意された。

 イザベラと似た雰囲気を持つ彼女に見られているのが苦痛で、つい本を開いたのだけれど、それを失礼だと言われたのだ。

 確かに、よく考えればその通り。こればっかりは、私に非がある。でも、それを自覚していても、素直に謝るのは何となく癪だった。あの尊大で人を見下さずにはいられない、イザベラに頭を下げるような気分になるから。

 ……もちろん、これは私のわがまま。ただの意固地。私の内心が誰かに見られたなら、確実に非難される醜い考え方だ。

 そんな風に思っていた私が、それでもアラベラに謝罪したのは、彼女が本にスピンを挟んでから閉じるというささやかな気遣いをしてくれたことと、友達の前で同じことをしてみろと言ってくれたからだ。

 その言葉で、私はキュルケのことを脳裏に浮かべた。開けっ広げで陽気で、人をからかうのが大好きな、私とは何もかもが正反対の――私の親友。

 彼女の前でも、私はよく本を読んでいる。時々はサイレントをかけて、彼女の話を遮ったりもする。

 キュルケはそれでも、あの母性的な笑顔で私と付き合ってくれるけれど――それはきっと、彼女が寛容だからなのだ。親しい人と一緒にいる時は、お互いの目を見ているのが一番いいはずなのだから。

 キュルケのことを考えると、アラベラの注意がすとんと胸に落ちる感じがした。そして、さっきまでの自分の考えが、いよいよ情けなくなってきた。アラベラはイザベラではない。意地を張る必要はないし、たとえ注意をくれたのがイザベラだったとしても、内容はごく真っ当で他意のないものだ。意地悪ではなく、単純に私のためを思って言ってくれたことをはねつけるのは、人として恥ずべきことではないか。

 私は謝り、アラベラは鷹揚に頷いて許してくれた。

 彼女の表情に、もはや苛立ちやむかつきなどといった陰険な感情はなく、その態度はまるで水に流したようにさっぱりしたものだった。

 やはり、彼女はイザベラとは違う。性格はあれくらいがさつだけど、イザベラにはない余裕がある。

 ――もしイザベラが、王族なんかじゃなくて、並の貴族としてのびのびと暮らしていたら、こんな風になっただろうか。

 私は、アラベラという女性への不思議な印象に戸惑った。彼女は基本的にイザベラを思わせる。しかし、キュルケのような懐の広さも持っているのだ。ひとりの人間に、別々のふたりの人間と似通った性質があってもおかしくはないが――ちょっと、落ち着かない。

 しかし、同時に、初めて会った時の苦手意識が、かなり薄れたようにも思えた。この感覚は、前にも体験したことがある。あのキュルケも、第一印象は最悪だった。ある事件に巻き込まれて、彼女と喧嘩をして、そのあと仲直りした時、この胸に灯った暖かいものと、非常に似たものをアラベラに感じる。

 ……このアラベラとも、キュルケのように親しくなるのだろうか。この気持ちは、その前兆なのだろうか。

「よし、いい感じに腹は膨れた。んじゃ次は遊びだよ。お上品に取り澄ます必要のない、なんかワクワクするような催しはないかい?」

 私に五分ほど遅れて、サンドイッチとサワーを平らげたアラベラは、街角の屑入れにコップや包み紙などのゴミを捨てながら、そう聞いてきた。

 私は、先ほどの高級レストランを嫌がった時の態度や、今のリクエストから、アラベラは実家でひどく窮屈な思いをして暮らしてきたのだろう、と察した。

 貴族はマナーを身につけていなければならないし、趣味や娯楽にも品性が求められる。もちろん子供の頃から、そういうことは教育として叩き込まれるから、大抵の貴族はそれを当たり前のものとして受け入れるし、むしろそうあることを誇るようになる。

 しかし稀に、そういう生き方が肌に合わない者もいる。彼ら、あるいは彼女らは、貴族らしく生きることに苦痛を感じ、平民のような素朴な生き方や、遊び人や旅人のような、ルールに囚われない考え方に憧れを抱いたりする。当然、家族と衝突することも多い。

 そういった者たちの末路は、まあ、家を飛び出して望みの自由と苦労を得るか、あるいは家族に押し切られて、息苦しいマナーの中に留まって我慢するかの二択だけれど、まだ若いアラベラは、今のところ後者の立場にあるらしい。姉にわがままを言って、こっそりリュティス観光に来たというのは、現状へのささやかな反抗といったところだろうか。

 私のこの想像が正しいかはわからないけれど、彼女の傾向が掴めたのは間違いない。少なくとも、美術館だとか、音楽会だとか、刺繍を教えてくれる教室だとかはアウトだとハッキリわかった。そういった候補地を、頭から追い出す。代わりに、もっと気取らない、貴族的でない遊び場をピックアップする。

 そして、私が選んだのは――。

「あああ落ちる落ちる! めちゃくちゃ揺れてんじゃないか、ちょっと! 危ない、危ないって、あれ!」

 私の肩をガクガク揺すぶりながら、アラベラは恐怖と緊張の叫び声を上げていた。

 その視線は、地上十数メイルの高さに渡された、長さ三十メイルほどのロープの上を軽やかに渡る、ひとりの曲芸師にくぎづけになっていた。

 フライの魔法など使えない平民が、命綱もなしに地上四階以上の高さで綱渡りをすると聞いた時点で、アラベラは落ち着きをなくしていた。それから演技が始まって、曲芸師がそろそろと慎重に綱を渡るのでなく、踊るように跳ねながら足を進めていくのを見ると、ひゃあひゃあ言いながら私にしがみついてきた。時々、スリルを煽るために、曲芸師はわざとバランスを崩すフリをするのだけれど、その演出はアラベラには非常に効果的だった。息を飲み、声にならない悲鳴を上げ、ついでに私の二の腕を、爪が食い込むぐらい、思いっきり握りしめてくれた。痛い。

 しかし、結局その曲芸師は足を踏み外すことなく、見事に綱を端から端まで渡り切り、安全な足場の上で、優雅なお辞儀をしてみせた。

 その時のアラベラの表情といったら。ほっと安心して、そのまま気絶するのではないかとすら思った。

 曲芸師の退場に、惜しみない拍手を送りながら、彼女は疲れたような声で呟く。

「ああ、まったく、とんでもないことをする奴もいたもんだね。一歩間違えば命がないってのに……こっちの心臓が止まるかと思ったよ。

 なあ、リーゼロッテ。ここにいる奴らは、いつもこんな恐ろしいことをしてるのかい?」

「彼らは、特殊な訓練を積んでいる。心配はいらない」

 私は、アラベラをなだめるようにそう返す。彼女は納得できない風な表情を浮かべたが、ステージの上にピエロが出てきて愉快に踊り始めると、目を輝かせて「なにあれ! なにあれ!」と、子供のようにはしゃぎだした。

 ――エッフェル鐘楼塔公園の広場に張られた、白い大天幕の中。華やかな音楽が鳴り響き、面白く着飾った芸人たちが、入れ替わり立ち替わり現れる。そして繰り出される、人間離れした不思議な技の数々。

 そういったものを鑑賞できる客席に、私とアラベラは座っていた。

 旅回りのサーカス団が、リュティスで興行を始めたことを聞き込んでいた私は、アラベラにはちょうどいい催しだと判断し、ここに連れて来た。

 最初こそ「平民の芸なんて面白いのかい?」と首を傾げていたけれど、ここまでの反応を見る限り、この選択も正解だったようだ。

「見なよリーゼ、あの変な服着た白塗りのオッサン、リンゴを七つもお手玉してるよ! あれ、マジで魔法使ってないのかい!?

 あっ、転んだ! 思いっきりすっ転んだのに、リンゴは一個も落としてない! すごい、すごいよ!」

 顔を白く塗り、赤いボールの鼻をくっつけた中年のピエロが演じるジャグリングに、アラベラは立ち上がらんばかりに引き込まれていた。

 しばらく経つと、ふたり目のピエロがステージに上がってきて――細身で背の高い、ジョーカーのような仮面をつけたピエロだ――最初にいたピエロの投げ上げるリンゴに、小さなナイフを投げつけて、一個ずつ撃墜していった。

 ジャグラーのピエロは、残ったリンゴが三つになると、お手玉をやめ、リンゴのひとつを自分の頭の上に乗せ、残りふたつを左右の手に持ち、投げナイフのピエロと、十メイルほどの距離を隔てて向かい合った。

 太鼓がダララララと打ち鳴らされ、緊張感を煽る。やがて、投げナイフのピエロの腕が、ささっと三度動き――次の瞬間には、ジャグラーのピエロが頭と両手に乗せていた三つのリンゴに、鋭いナイフが深々と突き刺さっていた。

 スリル満点のこの芸にも、アラベラは非常に感動したらしく、今度こそ立ち上がって夢中で拍手をしていた。

「見事だねぇ! メイジだって、あんなことはできないよ!」

 そんな称賛の声を背に、ふたりのピエロは舞台裏に消えていった。

 ――そのピエロたちが去っていった方から、「やったぞトマ! 大好評だったな!」という声と、「ええ、一生懸命練習した甲斐がありましたね、ギルモアさん!」という声が聞こえてきた気がするが、たぶん空耳だろう。私は何も聞いていない。

 それからも、美女たちが華麗に舞う空中ブランコの技、凶暴な虎が調教師の鞭に従い、火の輪をくぐる芸など、手に汗握る愉快でスリリングな出し物の数々を、アラベラと一緒に楽しんだ。

 




一話でまとめて投下するつもりじゃったが、十万字超えてしもたんで、三話ぐらいに分けるぞー。


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ヴェルサルテイル断章(フラグメンツ)/リュティスの休日/だいたい全部ヴァイオラのせい:その2

わかっておるじゃろうが、その1の続きじゃ!


 

 夢のような数時間はあっという間に過ぎ去り、あたしたちがサーカスの天幕を出た頃には、辺りは暗くなりかけていた。

 もうそろそろ、王宮に帰らなければならない頃だ。あまりプチ・トロワを空けていると、騒ぎ出すお節介が出てくる――今日だって、外出するために、コンキリエ枢機卿にありがたいお話を聞かせて頂くという名目を作らなくちゃならなかった。王女って立場はそれくらい窮屈なのだ。

 あたしはリーゼロッテに言って、最初に会った教会まで連れていってもらうことにした。夕焼けに燃える鐘楼塔公園を出て、黄金色の夕陽が落ちるシレ川の岸を、ゆっくり歩く。

 ゆっくり。わざと、ゆっくり。

「……今日は、楽しかったよ。リーゼロッテ」

 何となしに、あたしは隣を無言で歩くリーゼロッテに、そんなことを言っていた。

「自由で、何にも縛られることがなくて。人の目も気にする必要がなくて、その上、あたしの好みに合ったものにも出会えた。こんなに羽根を伸ばせたのは、久しぶりだよ……ああ、本当に、本当に楽しかった」

 心からの言葉だった。じめじめとしたカビだらけの部屋を、隅々まで徹底的に掃除して、爽やかな自然の風と太陽の光で乾かしたような、そんな清々しさがあった。

「そう。……楽しんでもらえたなら、よかった」

 無表情に、リーゼロッテはそう返してきた。そのツラといい、素っ気ない口のきき方といい、やっぱりあのムカつくシャルロットを連想せずにはいられないが、どうしてかこいつには、もう全然ムカつかない。むしろ、そのシンプルな物言いが、まごうことなき本心から出ているのだと直感できて、嬉しい気分にすらなった。

「今日が晴れてたのもありがたかったね。あのサンドイッチとサワーは、外で歩きながらってところがキモだったもの」

「同意。青空とシャンゼリゼ・ストリートの景色が、ちょうどいいおかず」

「はは、洒落た言い方をするもんだね。

 そうそう、サーカスも凄かったよ。初めて見る世界だったけど、ああいうのを、血沸き肉躍るっていうのかね? 特にあの空中ブランコ、あんな華やかな演技は、王きゅ……大貴族のダンスパーティーでも見られないよ!」

「あれはサーカスの花形。あの躍動感は、魔法をもってしても真似できない。

 しかし、ピエロなどの演じる地上の曲芸も見逃してはならない。あのテクニックと滑稽味はため息もの」

「わかる、わかるよ! やってることはすっごい職人芸なのにさ、それで笑いを誘うって、並大抵のことじゃないよね!」

 話が弾む。共有した楽しい記憶を、掘り返してお互いに投げ掛け、共感を確かめ合う。たったそれだけの、他愛のないやり取りが、どうしようもなく面白かった。

 心が、いつになく軽い。うーん、と両手を空に向けて背伸びをすれば、そのまま飛んでいけそうな気分だ。これが、自由ってやつなんだろう。

 でも、この自由も、教会にたどり着けば手放さなければならない。

 楽しい時間だったからこそ、終わりはあっという間にやってきた。気がつくと、オレンジ色の明かりが窓に灯る教会の前にたどり着いていたのだ。

「あなたは、ここからどうやって帰るの?」

 リーゼロッテが、門をくぐる前に、そう聞いてきた。

「ああ、ミス・コンキリエの馬車で送ってもらうつもりだよ。そういう約束だったから、中で待ってりゃ、すぐに迎えが来るだろうさ」

「そう……」

 妙に虚ろな返事をしたリーゼロッテは、教会の玄関をちらと見て、それからあたしの方に振り向いた。

 そのまま、じっと、じっとあたしの目を見つめている。何も言わずに、ただ見ている。その行為が、名残を惜しんでくれているのだと考えるのは、自惚れだろうか?

「……それじゃあ、私はこれで……」

「あ、ああ」

 ふい、と踵を返して、彼女は暗い道の向こうへ歩いていく。その小さな後ろ姿が、遠ざかるに従って、さらに小さくなる。あたしをこの場に置いて、離れていく。

 そのことが、あたしにはひどく――それこそ、我慢できないほどに――寂しかった。

「な、なあ!」

 とっさに大声を張り上げて、あたしはリーゼロッテを呼び止めた。

 藁色のおさげ髪を揺らして、彼女は肩越しに振り返った。眼鏡の向こうで、つぶらな瞳が不思議そうにしている。

 今日出会ったばかりの彼女。まだ、全然見慣れないリーゼロッテという少女。

 この顔を、これっきりで見納めにするのは――彼女との付き合いを今日限りのものにするのは――あまりにも、寂し過ぎた。

「あ、あのさ、もし、もしよかったら、なんだけどさ。

 ……また、一緒に遊ばないかい?」

 あたしは、柄にもなくそんなことを言っていた。

 

 

 ――また、一緒に遊ばないかい?

 王宮に戻り、部屋のベッドに潜り込んでからも、別れ際にアラベラから言われたその一言が、頭の中でリフレインしていた。

 枕に顔を埋めたまま、ぼーっとその言葉の意味を考える。正直、そう言われるとは思っていなかったので、たぶん、私は、その意外性に驚いているのだと思う。

 今日一日を、楽しんでもらえた自信はあった。その手応えは感じていた。しかし、彼女が、私個人に好感を覚えるような対応をしたとは、まったく思っていない。

 自分で言うのも何だが、私は話していて楽しい人間ではないと思う。ニコリともしないし、しゃべる言葉は少ないし、場の空気を読む感性もない。だから、アラベラを接待する上で、彼女ひとりでも楽しんでもらえるように、サーカス見物というイベントを選んだのだ。

 つまり、彼女のお誘いの言葉は、つまり、またサーカスが見に行きたいから連れていけ、という意味か?

 ――違う。人の心の内なんか、ほとんど考えない私でも、それくらいはわかる。あの言葉は、サーカスでもサンドイッチでもない、私を求めて発せられた言葉だ。

 しかし、なぜ? なぜ、アラベラは、私のようなつまらない人間と、また遊びたいのだろう?

 私との会話が、楽しかったとでも言うのだろうか? あり得そうにない。

 でも、もしそうだったら?

 ……そうだったら――私は、嬉しいのか? それとも、面倒臭いのか?

 それすらもわからない。わからない。わからない。

 アラベラとは今日初めて会ったのだ。私の中で、彼女の占める位置を決めるには、時間は少な過ぎた。

 また会えば、会って話をすれば。彼女の心も、私の心も、理解できるだろうか。

 ――私はヴァイオラに、フェイス・チェンジの首飾りを、もうしばらくの間貸したままでいてほしい、と頼むことにした。

 シルフィードの方も、もう二、三日休ませてあげても、何も問題はないはずだ。

 

 

 何もしなくても、結果だけが出るって素晴らしい。

 テキトーぶっこいて、タバサにイザベラ殿下の接待を押し付けて、我自身は一日ゴロゴロして過ごしてみたのじゃが、それでもちゃんと利益は出てくれた。夕方になって、教会にイザベラ様を迎えに行ったところ、すごく晴れ晴れとした笑顔で、「ま、息抜きにはなったよ」などと仰せになったので、思わず吹き出すかと思うた。この素直になれんひねくれ小娘がそう言うということは、タバサはこいつをしっかり楽しませてくれたようじゃ。

 これで王女サマの、我に対する好感度はうなぎ登り。人は、楽しみを与えてくれる人間は邪険にせんものじゃ。ジョゼフ王のアホがあまりにアホっぽくて、恩を着せてもすぐ忘れそうじゃから、代わりのコネを作るべく選んだ代用品じゃが、このイザベラが我に対する好意を忘れず、いろいろ便宜をはかってくれるようになるなら、はるばるガリアまでやって来た苦労も、無駄にせずに済んだということになろうて。

 ……しっかし、それにしても。

「なあ、コンキリエ枢機卿。あのリーゼロッテという娘は、学校に通ってるのかい? そうだとしたら、次の休みはいつなのかね。

ま、またお忍び遊びに付き合わせたいからさ……ひ、ヒマしてる日があったら、あたしに連絡するよう、言っといてくれない? それくらい頼んでも、あんたは気を悪くしたりしないだろうね?」

 ……なーんて言うとは。よほどタバサが気に入ったとみえる。

 まあ、あの風呂場での愚痴を聞いた限り、こいつは周りにひとりも信用できる者がおらん状態でずっと過ごしてきたわけじゃから、気兼ねせず遊べる友達ができりゃ、あっちゅー間に依存してしまうじゃろうことは、我にも想像がついていたが。

しかし、じゃとしたら、話はさらにオイシくなるのう。

 イザベラに恩を着せてコネを作るどころか、「はじめてのおともだち」にべったり依存させて、それ無しでは生きていけんようにしてやれば――彼女を、傀儡に仕立てあげることができれば――タバサを介して、我がガリアの国政にちょっかいを出す、なーんてこともできるようになるかも知れん。

 果てはロマリア教皇を目指しておる我じゃが、その前に、大国を影で操る黒幕になっとくっちゅーのも、悪かないのではあるまいか。儲けもたんまり期待できるし。うえっへっへっへ。

 さて、そうなると、タバサにはもっと働いてもらって、このデコ姫を完全篭絡してもらわねば。

 我はイザベラ様のお願いを、「では、先方の都合を確かめてまいりましょう」と恭しく承って、返した踵でタバサのところに駆け込み、またイザベラことアラベラさん(また工夫のない偽名にしたものじゃ。タバサはリーゼロッテと名乗ったらしいが、それくらい大胆に変えた方がカッコイイと思うんじゃがのー)と遊んでやってくれんかと頼むと、意外と簡単に了解してくれた。日にちの都合については、明日でも構わないと言う。もしかして、こいつ騎士のくせにかなりヒマしとんのか?

 我が折り返して、イザベラ様にタバサの返事を伝えると、青い目とデコを輝かせて、「へ、へえ、あいつ、そんなこと言ってたのかい。しかし、明日とはねぇ。あたしも王女だからね、忙しいからね? だからそんなに急に予定は空けられないけど、リーゼが明日がいいって言うんなら、何とかスケジュールを調整してやってもいいさ。……か、勘違いするんじゃないよ!? あいつに早く会いたいってことじゃなくて、あたしがたった一日じゃ遊び足りないから、まとまった休みを取るのも悪くないかなって思いついただけなんだからね!」

 はいはいわかっておりますんじゃよー。そんな耳まで真っ赤にしておっしゃっては、まるで演劇に出てくる意地っ張りのヒロインではないですかープークスクス。

 ほくそ笑みながら、我はイザベラ様のお部屋から下がり、再度タバサの部屋に伝言を持っていく。

 いやー、こんな軽い歩行のみを対価に、ガリアという国を操縦する権利を夢見れるなんて、まったく笑いが止まらんのぅ。

 この国に入ってから、どーも運に見放されとった気がしたが、やっぱり始祖は我の味方らしい。こんなにうまくことが運ぶと、ちょっと怖いくらいじゃ。

 いや、でも、我みたいな富にも地位にも美貌にも知恵にも恵まれた優秀人類には、このような成功ロードこそふさわしいのじゃろうな。痛い目に遭ったり失敗したりすることの方が特別で、十年分ぐらいの奇禍を昨日まとめて味わったのじゃから、これからしばらくは良いことしかあるまい。

 ……あとは、シザーリアが目を覚ましてくれりゃ、言うことなしなんじゃがな。

 あのねぼすけメイド、王宮付きの優秀な医師に治療してもらったっちゅーに、まだ意識を回復しよらん。

 医師曰く、急激な回復による疲労が溜まっているから、しばらく寝かせてやるのが一番健康にいい、だそうじゃが。

 早く起きてくれんと、あいつに世話されることに慣れた我のストレスがすごいんじゃよー。今の我の部屋付きのメイド、あの慌てんぼうのアニーじゃし。こんにゃろう、午後のティータイムにハーブティーを入れろ言うたら、乾燥ハーブと間違えてひじき煎じて出してきよった。優雅な時間がすごい磯臭いことになったわ畜生。

 はー。シザーリアの煎れてくれる、美味い茶が早う飲みたいのぅ……。

 未来の豊かな生活に思いを馳せながら、我は豪壮たるヴェルサルデイル宮殿の廊下を、独り寂しく歩いていった。

 

 

 二日目。アラベラの時間の都合で、私たちはディナーをともにすることになった。

 ヴェルサルデイル宮殿前で待ち合わせて、一緒に辻馬車に乗り、リュティスの夜を行く。

 今回アラベラを連れていったのは、定食屋兼酒場といった色合いの、賑やかな店だ。仕事を終えた商人や、夜の街に遊びに出かける遊び人などが、一杯引っ掛けて景気をつけている。

 私たちもその中に混ざる――アラベラは、私の思っていた通り、この店の喧騒を楽しんでいるようだった。

 花瓶のように大きな木製のジョッキに並々と注がれたエールを、ほとんど一気にゴクゴクと飲み干してしまい、口の周りに白い泡を付けたまま、大声でゲラゲラと笑い始める。 貴族にあるまじき、下品なふるまいだ。きっと、実家ではそんなことをするのは、まったく許されておらず、このような場に来たのを幸い、試してみる気になったに違いない。

「リーゼ、あんたもがっつり飲みな! こいつはワインと違って、量を過ごすのが醍醐味の酒だろ? ちびちび舐めてたって、酔えやしないんじゃないかい!?」

「飲み過ぎは、体によくない」

「へん、何を今さらだよ。第一、飲み過ぎが悪いんなら、食い過ぎだって悪いだろうに」

 何を言っているのやら。私は、牛モツのトマト煮込みの皿(ちょっと大きめな洗面器ぐらいのサイズ)をかきこみながら首を傾げた。

 これを片付けたら、山盛りに盛られたフライドポテト(標高三十サント)に手を付けて、それからやっとエールで口を潤すつもりなのだ。計画的で慎み深くあれというのが、私の食事に対するポリシーであり、無軌道な暴飲暴食など、趣味ではない。

「……それはひょっとして、ギャグで言っているのかい?」

「言ってる意味が、わからない」

 頬を引きつらせるアラベラを横目に、空になった皿を置き、フライドポテトをガッと一掴みし、口に運ぶ。

 そしてようやくエールである。しかし、モツ煮込みに時間をかけ過ぎてしまったのか、ジョッキの中のそれは少しぬるくなっていたので、私は杖を振るい、ごく弱い風魔法をかけて、エールをしっかりと冷やしてから口をつけた。

「あ、それいいね。リーゼ、あたしのジョッキも、軽く冷やしておくれ。もーちょっとキンキンだといいのにって、さっきから思ってたんだ」

 私の技を見ていたアラベラが、感心したように言って、ジョッキ(三杯目)をこちらに差し出してきた。

 お安いご用だ。小さな杖をちょいと振るだけで、アラベラのジョッキも美味しそうに汗をかいた。それをぐっとあおって、アラベラはまたしても白い髭を生やす。

「ん、いい冷え具合だ! リーゼ、あんたの系統は風なんだね」

「……ん」

 アラベラの問いに、私はフライドポテトを頬張ったまま、小さく頷く。

「やっぱりね。それにしても、飲み物ひとつを凍らない程度に冷やすなんて、微妙な仕事ができるぐらいだから、メイジとしての力量も、それなりのものなんじゃないかい?」

 エールを冷やしたことから、そういった方向に考えを持っていくアラベラは、間違いなく支配者タイプの頭脳の持ち主だ。

 どれだけ大きな威力で魔法を放てるか、というのが、メイジのレベルを知る上での最もわかりやすい基準となるが、同様に、どれだけ低い威力で、細かい仕事ができるか、というのも、重要な指標となる。

 熟練した土メイジなら、麦粒ほどの大きさのダイヤモンドに、人の肖像を彫刻してみせるし、経験を積んだ水メイジなら、切断された腕を、血管や筋肉を一本一本つなぎ直すことで、再び動くようにさえできるという。

 そういった仕事に比べれば、私のやったエールを冷やすなんてことは、大雑把でつまらない。しかしその何気ない行動から、私の実力を推し量ろうとしたのは、人を使う管理職ならではの考え方だ。

「ふん、まあ、あたしも家じゃ、人を指図して働かせてる身分だからね。目の前のやつがどの程度使えるか、ちゃんと把握できないとやっていけないのさ。

 下に使えるやつが多いから、楽な仕事なんだけどねー……ただ、使う側のあたしがさぁ、ぶっちゃけあんまり実力がないからさー、肩身が狭いっつーか……あんたみたいに腕のいいメイジを見ると、羨ましくて泣きたくなるよ」

 エールの酔いが回ったのか、アラベラはテーブルの上にひじをつき、あごを手のひらに乗せて、悲しそうに呟いた。

「うちは親からして、魔法の腕はからっきしでさ。それを受け継いだあたしも、たくさん練習したにも関わらず、ドットの下の方というありさまだ。

 それとは逆に、親戚は才能の塊みたいな連中ばかりでねぇ。叔父はスクウェアだし、その娘であたしのひとつ下の従妹も、かなりの風の使い手になってる。

 その出来のいい従妹と、あたしゃことあるごとに比べられてねぇ。召し使いどもにさえ、陰じゃ笑われてるってありさまだ。まったく、嫌になるよ」

「……それは、気の毒」

 アラベラの愚痴を聞きながら、私は、ルイズ・フランソワーズのことを思い出していた。

 魔法がまったく使えず、クラスメイトたちの嘲笑の的となっていた彼女。座学がいくらできても、魔法の才能という貴族の第一条件を欠くがゆえに、誰にも認めてもらえなかった、哀れな彼女。

 アラベラも、同じような不遇に身を置いているらしい。人を使う権力を持っていても、部下が自分より優れていては、劣等感を刺激されるばかりなのではないだろうか。

「で、結局あんた、どれくらいやれるんだい? メイジとしてのランクは、ってことだけど」

 その問いへの正直な答えを、魔法が苦手なことを気に病んでいるアラベラに言うのはためらわれたが、変に気を使うよりは、率直な方が彼女にとってはいいだろうと判断する。よって、ありのままに、トライアングルであると答えた。

「へえ、その歳でかい? 予想以上だね。あたしは十中八九、ラインだと思ったんだけど。

 ……いや、待てよ。世の中にはコンキリエ枢機卿みたいなガキっぽい大人もいるし、あんたも子供に見えて、実はもう大人だとか?」

 私はさりげなく手首を持ち上げ、強すぎず弱すぎず、絶妙な力加減で、アラベラのおでこにデコピンを食らわせた。

「あだぁっ!? な、なにすんだい、いきなり!」

「人のことを、子供に見えるとか言うからいけない。私は見た目通りの十五歳。それほど幼くない」

 歳を取ると、若く見られたいと思うようになるのが女性という生き物だが、若いうちは大人びて見られたいと思うのも、また女性の特徴なのだ。

 あと、今の発言はヴァイオラに対しても失礼。彼女は幼く見える大人ではない。私は今でも、彼女のことを見た目通りの七、八歳ぐらいだと固く信じている。

 しかし、アラベラは自分の発言を反省するどころか、眉をひそめてこんなことを言った。

「あん? 十五? だったらやっぱり幼く見えるって。あたしの見立てじゃ、あんたはせいぜい十一、二歳くらい……」

 私は再び、手を振り上げた。

 まったく、戦争がしたいのなら、素直にそう言ってくれればいいのに。

 

 

「あ゛あ゛〜だだだだ!? 痛い痛いタンマタンマ! おでこ擦りむけるっておでこ!」

「駄目。許さない」

 ほんのちょっとした冗談のつもりで口にした言葉が、思いっきりリーゼロッテの逆鱗に触れてしまったらしく、あたしは今、いつ終わるとも知れない怒涛のデコピンラッシュによって、おでこの中心を集中突破されようとしていた。

 一秒間に十六発は叩いてくる凄まじい指の動きに、なるほどさすがは素早さを売りにする風メイジ――と思ったりもしたが、いつまでも感心していられるほど余裕があるわけでもない。肉体的な打たれ弱さに関しては一般貴族よりさらに下と自負している温室栽培のか弱い花、その正体はプリンセス・オブ・ガリアなこのあたしが、そんな名人級のデコピンを受け続けては、ぶっちゃけ脳震盪も夢ではない。

 ようやく許してもらって、デコピンから解放された時には、あたしのおでこは朱肉で拇印を押したみたいな感じになってた――今の顔は、フェイス・チェンジの首飾りで変化させられている幻影なのに、しっかり跡がついてしまっている。覆い隠しちゃってくれよこんなみっともないの。気が利かないマジック・アイテムだね。

 ちなみに、リーゼロッテの方も、今の絶技を繰り出したことで疲労困憊したらしく、テーブルに突っ伏している。

「うう、すっごいヒリヒリするよ……あんたさぁ、接待する相手に対して、この仕打ちはさすがにないんじゃないかい?」

「その点、素直に謝罪する。でも、私にも譲れない一線がある」

 幼く見えるって、そこまでウィーク・ポイントかねぇ――とは思ったが、口にするとまたこじれそうなので、控えておく。

「そりゃ、ま、こっちも悪かったよ。

 しかし……こういうのも、いいもんだね」

 じんじんと痛みの残るおでこを撫でながら、そんなことを言ったあたしに、リーゼは奇異なものを見る目を向けた。

「あ、いや、勘違いするんじゃないよ。別に、マゾヒスティックな趣味があるわけじゃないんだ。

 こんな風に、人から率直に怒られるなんて、ずいぶん久しぶりでね」

 まだ冷気の残っているエールジョッキを額に当てながら、あたしは問わず語りに語った。

「あたしは実家じゃ、人を使う立場だってのは、さっき言ったね。もっとはっきり言えば、うちの家はあるいち地方で一番権力があって、親父は一族の中でも一番立場が上なんだ。

 だから、あたしの実力が低くても、誰も文句を言わないし、言えない。あたしがワガママを言ったり、ちょっとタチの悪い悪戯をしても同じさ。お大尽様の娘だから、何したって許される。

 でも、もちろん、注意されないってだけで、恨みや軽蔑は山ほど買っちまってるのさ。あたしみたいな無能だって、それくらいのことは察せてる。ただ、誰もそれを、口にも顔にも出してくれないから、どれくらいの悪感情があたしに向けられてるのか、いまいちわからない。

 殺したいほど憎まれてるのか? 道端のゴミを見るように、冷たく興味なく軽蔑されてるのか? それとも、子供のすることだと、他愛もなく肩をすくめられてるだけなのか? 程度というものが、一切わからない。これって、すごく気持ちの悪いことだよ。

 だから、今みたいに……手を上げられて、直接怒りをぶつけられるってのは、うん、わかりやすくて、まだしもスッキリする」

 もちろん、怒りや悪意を直接的な行動でぶつけてこようとした奴も、何人かいないではなかったけど、それって全部ガチの暗殺未遂だったからね……。まったく、王族の身の回りって、どうしてこうも極端なことばっかりなのか。

「……お父さんは? あなたより立場が上のはずだから、叱るくらいは当然――」

「は。あの親父はあたしになんかまるでかまいやしないよ。自分のことしか考えてない人だし、私のことは目に見えて疎ましがってる。

 だいたい、あたしを叱る権利なんざ、あの親父にはありゃしないのさ。人を駒としか見れないくせに、妙に嫉妬深いところがあってね。さっき言った、すごい出来のいい親戚一家に、ちょっとシャレになんない嫌がらせを繰り返しやがって、おかげであたしまで向こうさんの一家に嫌われちまった。

 例の従妹も(そりゃ、あいつの才能には嫉妬してたけどさ)、すごい可愛くていい子だったのが、急に冷たくなっちまって……親の喧嘩が原因だから、仲直りのしようもなくて、寂しい思いをしたもんだよ。

 あたしはそういう問題をいろいろ抱えてるけど、そのうち八十パーセントぐらいは親父のせいだと言って差し支えないね!」

 思い出すと、急にムカムカしてきた。あたし自身嫉妬深かったり、魔法が下手だったり、威張り屋だったり、駄目なところはたくさんあるけど、あたしを取り巻く「嫌なこと」のほとんど全てに、親父の陰がちらつく。親の因果が子に報い、とは言うけれど、それを地で行ってんのがウチじゃあないか?

 腹の中に起こったムカムカを飲み込もうと、冷たいエールをぐっと煽る。そして、半ば皮肉るように、リーゼロッテに忠告をしてやった。

「あんたも家族や親戚には気をつけなよ、リーゼロッテ。あたしの場合は、あたし自身にも悪いところがいっぱいあるけど、あんたみたいに才能のある奴だって、周りの人間次第で不愉快な境遇にはまり込んじまう、なんてことがあり得るんだからね。

 あんたは人付き合いとか苦手そうだから、少し心配だよ。ま、あたしみたいな極端な例は、そうそうないだろうから、そんな深刻に考える必要もないのかも知れないけどね」

 多分に自嘲混じりの、不真面目な言葉だったが、リーゼロッテはわりと真剣に受け止めたらしく、途端にうつむいて、暗い雰囲気を漂わせ始めやがった。

「……そんなことは、ない。人間関係は、きっと誰にとっても難しいもの。

 あなただけじゃない。私にも……家族や親戚のことで、悩んでいることは、ある」

 そう言って顔を上げたリーゼの目には、あたしへの溢れる同情心があった。

 いや、その表現では誤解を招く。それはシンパシーと呼ばれるものだった。共鳴できる心の波動を感じた者特有の眼差し。私の言葉は、なぜか彼女の心の、深い部分を揺さぶったらしい。

「私の場合は、あなたの逆。一族の中で、一番力のある人物に疎まれている。

 その人物と、私の父が、家督を争ったのが始まりだった。本当は私の父の方が、当主に相応しいと言われていたのに、その人は父を押し退けた……ひどく強引な方法を使って。

 それ以来、私の一家とその当主の一家の関係は、完全に冷え切っている。向こうはこちらに、無理な仕事ばかり回したりして嫌がらせをしてくるし、こちらも向こうを心から呪っている。むしろ、いつか直接討ってみせると――……」

 そこまで言うと、さすがに言い過ぎたと気付いたか、はっとしたように目を瞬かせて、またうつむいた。

「……忘れて。今のはお酒のせい……」

「……ん。あたしはエールを飲むのに夢中だったよ。あんたも、飲み食いしてただけだ。お互い、何も聞いちゃいない」

 それはきっと、リーゼロッテの家名を知っていたら、非常に不都合な話だったのだろう。

 でも、あえて詮索しなければ、話した言葉は永遠に闇に葬られる。あたしたちの、ふたりだけの秘密として。

 胸の中に埋められ、掘り起こされることはない。

 互いに見せ合った弱みも、愚痴を言い合うことで同調した、他者への不満も。あたしたちだけのものだ。

 あたしは、そっとリーゼロッテに肩を寄せた。

 彼女は、思いがけぬ接触にこちらを振り向いたが、それでも拒絶することなく、むしろ向こうからも体重を預けてきた。

 この、小柄な少女と触れ合っていることが、妙に落ち着く。

 何だろう、この感じ。ずっと昔、まだ何の悩みもなかった頃に遡ったような、懐かしい安らぎ。

 どうしてそれを、この子に感じているんだろう。昨日、初めて会ったばかりの相手なのに。

 本当に、本当に何なんだろう。

 

 

 なぜ私は、このアラベラにここまでの安らぎを感じるのだろう。

 妙に、警戒が緩んでいる気がする。彼女に、私の抱えている問題を仄めかしたことや、親戚への殺意を教えてしまいそうになったのは、あまりにも不用意だ。いくら、顔を変えて、身分を隠しているとはいえ――私は、ここまで迂闊な人間だったろうか?

 原因は、おそらく共鳴にある。アラベラと私は、全く真逆の立場にありながら、何か通じ合うものがある。それが、私に親しみを感じさせ、彼女に心を開きたいという欲求となって顕れているのだ。

 では、アラベラのどのような点に、私は感じ入っているのか?

 この気持ちは――何となく、だが――懐かしさに近いような気がする。ずっと会っていなかった人と再会したような。

 もちろん、私は過去にアラベラと会っていたことなどない。昨日が初対面だ。それなのに、なぜだろう、ごく近い肉親、つい甘えたくなる姉を思わせる何かを、彼女に感じる。

 ずっと会っていなくて――もう二度と会えないと思っていた、優しい姉……。

 馬鹿馬鹿しいと、自分でも思う。なぜなら、私に姉など、最初からいないからだ。

 だから結局、このデジャブじみた感覚の正体はわからない。いくら考えても、漠然とした好意としか結論できない。

 ――でも、それでもいいのかも知れない。

 人間の心の働きなど、そうそう簡単に解析できるものではないのだから。

 アラベラといるのが、何となく好もしく思える。それで、いいのだ。

 

 

 その日は、夕食を付き合っただけでリーゼロッテと別れた。

 帰り際、二日後にまた、一緒に遊ぼうと約束した。

 

 

 トリステインに帰る予定を、また数日延ばすことにした。アラベラから、また誘いを受けたから。

 彼女といるのは、嫌じゃない。明後日はどこに行こうかと考えながら、ベッドに入る。

 ――翌日、ヴェルサルデイル宮殿の花壇を暇つぶしに眺めていたら、イザベラに見つかって嫌みを言われた。すごく不愉快。

 

 

 リーゼロッテとの約束を楽しみにして、ウキウキした気分で宮殿の庭を散歩していたら、人形娘に出くわした。

 リーゼを知った今では、こいつのことが前より気に食わなくなった。同じ無口チビでも、こいつの目の中には軽蔑があり、あいつの目の中には思いやりがある。その違いがはっきりわかってしまうのだ。

 あたしはその目に耐えられず、無駄飯食ってないでさっさとトリステインに帰れと言ってやった。

 あいつをトリステインに追い出したまま、二度と会わずに済むなら、どんなに気楽だろう。

 

 

 その日は、午前中からアラベラと会えた。

 時間がたっぷりあるので、ふたりで馬を借りて、リュティス郊外の丘の向こうまで、遠乗りをすることにした。

 大きめのバスケットに、お弁当をたくさん入れて持って行き、小川のほとりでお昼を食べた。とても穏やかなピクニックだった。

 青空の下で、楽しそうに笑うアラベラの表情には、イザベラのような陰険さは少しもない。なぜ私は、最初に会った時、彼女はイザベラに似ているなどと思ったのだろう。

 デザートの黒イチゴのタルトを食べ終えた時、アラベラは私の頬についた黒イチゴのクリームを、ナプキンで丁寧に拭いてくれた。

 その優しさは嬉しかったが、やっぱり少し、恥ずかしい。

 本当に、アラベラのことを、お姉ちゃんのように思い込んでしまうような気がして。

 

 

 リーゼロッテがマジ可愛い。

 昨日あのろくでなしのシャルロットに会ってたから、リーゼの可愛さがさらに引き立つ。ああもう、十五歳ってやっぱ嘘だろ、口の周り黒イチゴのクリームで真っ黒にしちまってからに。ほら、動くんじゃないよ、今拭いてやるから。……うんうん大人しくてよろしい。

王宮で、イザベラ王女としてシャルロットと向かい合う時間が、カビだらけの病んだ古木だとするなら、アラベラとしてリーゼと過ごすこの時間は、太陽に向かって健やかに伸びた若木ってところだね。天気もいいし、風も気持ちいいし、心がどんどん穏やかになっていくよ。

 そのあと、丘の上から、見たこともないような夏の草原の広がりを、ふたりで馬の轡を並べて眺めた。

 あたしの生きている世界そのものが、その草原のように、大きく広がったように思えた体験だった。

 

 

 さらに翌日。やっぱりアラベラと、公営カジノで遊んだ。

 かつては、ギルモアの闇カジノだった場所だが、今では国の管理下に入り、健全で公平な遊び場として生まれ変わっている。

 ヴァイオラから預かった軍資金は百エキュー。それをアラベラと半分こして、プレイに興じる。

「おっしゃ、これだけありゃ相当遊べるね! リーゼ、どっちがいっぱい勝てるか、ひとつ勝負と行かないかい?」

「受けて立つ」

 金貨袋を握りしめて、やる気を見せるアラベラに、私も負けずにファイティング・ポーズを取ってみせる。

「んじゃ、二時間後にバー・カウンターで、互いの儲けを見せ合おうじゃないか」

「了解。……負けない」

「あたしだって! 帰りには、この元手を膨らませた分で、コンキリエの奴にお土産を買ってやろうよ」

 そうして、私たちは二手に別れた。別々のゲームでプレイした方が、相手の勝ち具合がわからなくて面白いからだ。

 このカジノには、サイコロを使う数当て、ポーカーやサンクなどのカードゲーム、東方から伝来したマー・ジャンというゲームなど、様々なゲームがあった。私が得意なのはサイコロの数当てゲームだが、それだと百発百中になってしまう自信があるので(イカサマ? 違う。サイコロの転がる音に耳をすませば、誰でもできる)、今回はルーレットに挑戦してみることにした。

「お嬢様、どのマスに賭けられますか?」

 ルーレット・テーブルに着くと、ディーラーがさっそく尋ねてきた。

 前の任務の時と違って、今度は純粋に賭け事を楽しめる。となると、完全に運まかせで事に臨むのが、こういう遊びの醍醐味だろう。駆け引きやテクニックの要素を持ち込むことは、今は必要ない。

 まず十エキューを取り出し、ディーラーに渡す。

「あなたに、運を呼び込んでもらう。好きなところに、置いて」

「いいんで?」

 私は頷く。

「ようし、ではあえて、みんなが嫌がる数字といきましょう」

 そう言ってディーラーが金貨を置いたのは、黒(ノワール)の十三。絞首台の階段の数に由来するこの数は、昔から縁起が悪いとされている。

 それもいい。ギャンブルはそのくらい酔狂な真似をした方が、興が乗るというものだ。

 ルーレットが回され、玉が放たれる。

 回転を弱める盤と玉。玉が最後に落ちたのは――。

「お、お嬢様!」

 ディーラーが興奮を抑えられない様子で叫んだ。

 玉が落ちたのは、黒の十三!

 私は心の中でガッツ・ポーズをきめ、配当金を受けとった。そして、それをそのまま、同じ黒の十三に置いた。

「次も、同じで」

 今日の私は、ツイている予感がする。

 少なくともアラベラには勝てる。そんな予感が、私を大胆にした。

 

 

 ポーカー・テーブルに着いて一時間ほどした頃、リーゼロッテがしょんぼりした様子で近寄ってきた。

「ははあ、その様子じゃ、派手に負けたらしいね」

「……途中までは、いい線をいってた」

 話を聞くと、ルーレットでなぜか黒の十三って数字に運命を感じて、そこに金を繰り返し突っ込んだらしい。

 実際、それが彼女の、今日のラッキー・ナンバーだったんだろう。なんと、四回も連続でそのマスに、玉が止まったと言うのだから。

 その時点で、儲けは二百エキューにまで達していた。しかし、運をあまり過信し過ぎたのが運の尽き。

 元手も合わせて二百五十エキューを積んで、最後の大勝負に出たところで、赤(ルージュ)の八が、すべてをかっさらっていった。

「『あそこでやめときゃよかった、と思うのがギャンブルですよ、お嬢様』……って言われた」

「至言だねえ……ま、残念だが、そういうこともあるさ。

 でも、気を落とすにゃまだ早いよ。あたしが勝って、あんたのスッた分もうまく補填してやるからね。そこで楽しみに待ってな」

「……勝っているの、ベラ?」

 疑わしそうに聞いてくるリーゼに、あたしはフンと鼻を鳴らす。

「ギャンブルにはね、絶対負けない方法があるんだよ。今後のためにも、覚えときな。

 いいかい、賭けの結果を単純化して、負ければゼロ、勝てば元手が倍になると考えるんだ。

 一度負けたら、次も同じ掛け金で勝負に挑む。それで勝てば、倍の金が入るから、前の負けはチャラになるし、負けても、今度は二倍の掛け金で、次の勝負に挑めばいいんだ。それで勝てば、過去二回の負けを清算できる。

 負けばかり連続するなんてことはあり得ないからね、このやり方を繰り返していけば、いつかは負けを取り返せるってことになるわけだ。

 な、簡単だろ? 今さっきふと思いついた必勝法なんだ。だから、最終的にはしこたま儲けてみせるよ。今は二百エキューぐらい負けてるけど、この勝負では四百エキュー賭けてるから、勝ちさえすればまた仕切り直せる……!」

「ま、待って。ベラ、その賭け方、待って」

 あん? どうしてそんな、泣きそうな目であたしのそでにしがみついてくるんだい?

 手札にゃツーペアができてんだ、きっと勝ってみせるからさ、大船に乗ったつもりで待ってておくれよ!

 

 

 何か知らんが、イザベラ様扮するミス・アラベラと、タバサ扮するミス・リーゼロッテが、ふたり揃って我のところに謝りに来た。

 ふたりでカジノに行って、我が遊興費として与えた百エキューをスッたのみならず、六百エキューもの借金をこさえたらしい。

 あはは、安心せい。我は金持ちじゃからの、それっくらいのはした金、笑って払ってやろうぞ。

 ……でも、うん。貴様ら二度とカジノに行くな。

 

 

 その次にアラベラと会った時は、ヴァイオラからの資金提供が打ち切られてしまったので、お金のかからない獣狩りに行った。

 森の中で、鹿や猪を魔法で撃って捕まえるスポーツだ。私はウィンディ・アイシクルなどの射撃系の魔法を得意とするが、木々の間をすばしこく動き回る獲物は、なかなか狙いにくくて苦戦した。

 でも、意外なことに、魔法が苦手と言っていたアラベラが、うまく私をサポートしてくれた。彼女の放つ水の鞭は、鹿を捕まえるほどの威力はなかったけれど、鹿の進行方向の地面を叩いて、大きな音を立てて脅かし、私が狙いやすい場所に獲物を誘導してくれた。

 ふたりで協力して、何とか大きな牡鹿を一頭捕まえることができたので、それを川辺で解体して、ヨシェナヴェ風に煮込んでみた。シエスタの料理の見よう見真似だけれど、それなりに美味しくできたと思う。

 食事を終えた頃には、陽はすっかり沈んでしまっていた。

 鍋を炊いた火を前に、ふたりで寄り添って星を見た。ダイヤモンドをばらまいたような、美しい天の川が、頭上いっぱいに広がっている。夢のような時間だった。

「……何だか、帰りたくないなぁ」

 アラベラがぽつりと呟いたその言葉が、妙に印象的だった。

 

 

 あたしの嫌いな魔法が、たぶん生まれて初めて役に立った。

 相変わらず弱っちい威力の水の鞭。たとえばこれが戦場なら、革の鎧を着た農民兵にすら通用しないだろう。強靭な森の獣相手なら、言うに及ばず、だ。

 しかし、無理に獲物を捕まえようとせずに、リーゼロッテのサポートに回ったのが正解だった。魔法でできた水の鞭は、入り組んだ木々の間を縫って動かすことができたから、走る鹿をリーゼの方へ追い立てるぐらいのことは充分にできた。逃げ場を失った鹿を、リーゼのウィンディ・アイシクルが一撃で仕留め、あたしたちはその日の夕食を手に入れることに成功した。テンションが上がり過ぎて、ついつい鹿の角を握って、森中に響くような大声で、「捕ったぞー!」と叫んでしまったが、後悔はしてないよ。

 リーゼは、そんなあたしを見て肩をすくめてた。

「まあ、確かに大喜びしてもいいくらい、立派な獲物」って呟いてたのが聞こえたけど、あたしが嬉しかったのは、大きな獲物を捕まえられたことじゃなかったんだよ?

 むしろ、鹿が倒れた時、リーゼがあたしの方を向いて、「ナイス・フォロー」って言ってくれたことに、有頂天になってた。しかも、親指をグッと立ててみせるゼスチュア付きだ。

 魔法を使って、こんなに普通に誉めてもらえたのは、何年ぶりだろうか。王族なのにあの程度かと影で馬鹿にされ続けて、誰にも認めてもらえなくて、そんな人生の中でやっと言ってもらえた、誉め言葉。

 嬉しくて、嬉し過ぎて、無理に大はしゃぎしてなきゃ、目から涙がこぼれそうだったよ。

 喜びの余韻に浸りながら、リーゼの作ってくれた鍋を一緒につついた。最近、メシがすごく美味い。気の合う友達と食事をすると、味の感じ方まで違ってくるものらしい。

 お腹が膨れると、ふたりで並んで星を見た。肩と肩とを触れ合わせて、お互いに寄り掛かるようにして。

 静かで、幸せな時間が流れる。この広い世界に、まるであたしたちだけしかいないみたい。

「あ。……流れ星」

 不意に、東の空からリュティスの方角に向かって、オレンジ色の光が横切っていった。

「綺麗」

 と、リーゼロッテが呟く。

 全く同感だった。

 

 

 イザベラ姫とタバサが、そうだ樹海に行こうと言って出かけていった日の夕方頃。王宮の端の医務室では、寝ぼすけがようやくおはようございますしよった。

 シザーリアが目を覚ましたと、アニーから知らせられた我は、あんまり急いで駆け付けても主人としての威厳が損なわれると思うたので、けっして走らず悠然として、奴の病室を訪ねてやった。

 途中で、庭に寄り道をして、花壇を鑑賞するぐらいの余裕すらあったほどじゃ。やはりあれじゃな、怪我した部下の快気などという瑣事に、いちいちかまっておっては、とても大物とは言えんからな。さらりと、何でもないように済ませてしまおう。さらりと。……ところでアニーよ、さっき庭で庭師さんに譲ってもらったお花は、ちゃんと束ねてラッピングしてくれたじゃろな? あ、こんな雑な仕上げじゃいかんぞ! ちょうどここにシルクのオシャレなリボンがあるから、これでまとめ直せ! バラはシザーリアも好きな花のはずじゃから、目立つように手前に配置するんじゃぞ。それから……。

 などと細々した指示を出しておる間に、我はシザーリアの寝とる部屋についてしもうた。

 ノックなどという無粋なものははぶいて、勝手に中に入ると、我の慣れ親しんだシザーリアは、ベッドの中で、上半身だけを起こした状態で、我を迎えた。

 以前より、顔色が青白くなっとる気がする。少し頬が痩せたか? でも、白い病衣の胸元を内側から押し上げる二つのメロンは健在じゃった。少しぐらいしぼめばいいものを。ぐぬぬ。

 扉の開いたのに気付いたシザーリアは、金色の長い髪を揺らして振り向く。灰色の目がこちらを見つめ、こやつらしい控えめな角度で、そっと頭を下げた。

「……ご無事でしたようで何よりです、ヴァイオラ様」

「うむ」

 我は短く、威厳たっぷりに頷く。そして、それ以外何も言わぬ。

 すると、シザーリアの方から、言葉を続けた。

「このたびは、まことに申し訳ありませんでした。私が未熟なばかりに、ご迷惑をおかけして……」

「まったくじゃの。ミス・タバサがおったから、どうにか切り抜けられたが、そうでなければどうなっていたやら。

 父様から我の護衛を任されたぐらいじゃから、あれぐらいの危機は、お前ひとりで軽くあしらってもらえると思っとったんじゃが」

 我の冷たい叱責に、シザーリアはつらそうにうつむく。根が真面目なコイツに、こういう言い方をするのは少々心が痛むが、雇用者としてはこの機会に、護衛としてもうちょい上を目指してもらいたい。じゃから、あえて生ぬるく慰めたりせず、悔しさを刺激する態度を取ることにした。

「精進せい。今後も、我の下で働きたいのであれば、の」

「……必ず」

 お腹の上にかけてある毛布を、引き裂かんばかりに固く握りしめて、シザーリアは搾り出すような声で応えた。

 シザーリアは十七歳と、まだ若い。悔しかろうが、それをバネにして立ち上がるだけの気力は充分にあるはずじゃ。

 それを踏まえると、今のうちに挫折を経験したのは、案外悪いことじゃなかったのかも知れん。失敗を学べば、次はもっと用心深くなるからの。用心深さは、護衛には必須のものじゃ。

 ……しかし、何つーか、落ち込む姿も妙に艶っぽいのぅコイツ。その色気を九十九パーセントでいいから我によこせ。

「……ま、今はしっかり休んで、出来るだけ早く仕事に復帰できるようにするのじゃぞ。お前がおらんと、どうも不便でならん」

 ある程度責めたあとは、ほんのちょっとの優しさと、『我はお前を必要としておる』アピールをさりげなく入れてフォロー。これで大抵の部下はやる気を出す。

 持ってきた花束を、アニーに命じて窓際の花瓶に活けさせ、「また来る」と言うて、渋く部屋を出た。背中に、シザーリアの弱々しい視線を感じながら。

 廊下に出て、扉が中と外とを隔ててようやく、我は自らに課していた緊張を解いて、ぷへぇと息を吐いた。

「――あーよかった! 思ったよか元気そうじゃったな、あいつ」

 衰弱は大したことなさそうじゃし、お肌も傷痕ひとつなかった。あれなら、もう何日もせずに本調子に戻るじゃろう。

 アニーもにっこり笑って頷く。田舎っぽい、歯を見せて笑う笑い方じゃが、これはこれで、人によっちゃ魅力的に映るかも知れん。コイツはメイドとしては未熟で、感情を隠し切れずにしょっちゅう顔に出しよるが、彼女のように、素直に「よかったですねぇ」と表情で語れる女こそ、今この瞬間に我のそばにいるに相応しい。

 とりあえずシザーリアが無事に目を覚ましたのは、めでたいことじゃから、今日のディナーにはいつもより奮発したワインを出してもらおう。我は来賓じゃからして、ちょっとぐらいならわがままを言うても許されような?

 明日からはどうするか――ガリアに来て、もう一週間以上経つからのう……まあ、シザーリアの調子が戻るのを、二、三日ほど待ってみるとして――。

 それから、いい加減にロマリアに帰ることにするか。

 

 

 ぱたりと扉が閉まり、ヴァイオラ様の小さなお姿が見えなくなると同時に、私は小さなため息をついておりました。

 ――叱られた。

 このシザーリア・パッケリが生きてきた、十七年という人生の中で、最も悔しい時間こそ、先ほどの数分間でした。

 それなりに自信を持っていたのですが――火のスクウェアで、戦闘経験も少なくなく――百人や二百人程度の賊に襲われたとて、楽に返り討てる実力を、自惚れでなく持っていて――ヴァイオラ様を守り抜くという目標を、達成できて当然のものであると思っておりました。

 その結果、見事に私は負けました。

 音を消し、メイジから魔法を奪う、あの奇妙な魔法を使う暗殺者――奴の放つ無粋な矢に、冷たく孤独な、氷のような殺意に、私はねじ伏せられたのです。

 私の持つ実力は、彼を倒すには足りなかった。そしておそらく、彼はこの世の中で、私より強い唯一無二の人間ではないのです。

 ――努力しなければ。

 まだまだ強くならなくては。どんな敵が現れても、どのような苦境に置かれても、ヴァイオラ様をお守りできるメイドにならなくては。

 ベッドの横に据え付けられた小さなテーブルの上に、フルーツの盛られたバスケットや水差しと並んで、私の杖が置いてあります。金属製の、細く短い飾り気のないワンド。五歳の時に、父から贈られて以来、ずっと使い続けているこの相棒を手に取り、目を閉じて始祖に祈りました。

 どうぞ、お見守り下さい。私が強くなるために行う、すべてのことを。

 行為に対し、結果がもたらされますように。心くじけ、努力を怠った時には、過酷な試練を下さいますよう。

 祈りを終え、目を開けると、杖を置き、代わりに水差しとコップを取りました。

 何日も眠っていたせいか、どうも喉が渇きやすくなっていたのです。コップに水を注ぎ、口に近付けようとした、その時……。

「――ふぅん、思ったより元気そうだな。もうちょいぐったりしてるかなって思ってたんだが」

 耳に飛び込んできたその声に、私は思わずコップを取り落としそうになりました。

 ほとんど反射的に杖を取り、声のした方に振り向きます。音源は、驚くほど近くでした――私のベッドのすぐ横。窓のそば。

 ひとりの男性が、壁にもたれ掛かるようにして、そこに立っていました。

 金色の長い髪を、背中でみつあみにした、二十歳ぐらいの青年です。彫りが深く、灰色の目はぱっちりとしていて、男ぶりは悪くありません。真っ白でパリッとした清潔感のあるシャツや、体のラインに合った、長い脚を強調して見せるズボンも似合っていて、お洒落にかなり気を使うタイプだということがうかがえます。

 フルーツ・バスケットから取ったらしいリンゴをかじりながら、彼は私に向かって、呑気に片手を上げてみせました。挨拶のつもりでしょうか。しかし、私はそれで気を緩めたりはしません。

 その理由の第一は、彼がいつ、どこから、どうやってこの部屋を訪ねてきたのか、まったくわからないからです。

 ヴァイオラ様がお帰りになられてから、この部屋には私ひとりしかいなかったはずです。誰も、それからは出入りしていません。扉や窓が開けばすぐわかりますし、人の隠れられるスペースもありません。それなのに、彼はいつの間にやら侵入して、こうして私の目の前にいるのです。

 ゆえに、彼の存在は不思議で不審ですが、それ以上に、彼を警戒しなければならない理由を、私は持っていました。

 第二の理由――私は、彼が警戒しなければならない人間だと、昔から知識として知っていたのです。

「……どうして、あなたがここにいるのですか?」

 私は、猛獣が敵を威嚇する時の唸りのように、低く抑えた声で、彼に尋ねました。

 彼はリンゴから口を離して、小さく首を傾げながら、屈託なく答えます。

「どうしてって、そこの扉から普通に入ってきたんだが。……しっかしこのリンゴ美味いな。さすがはガリア王宮、医務室にも高級品を置いてやがる」

「そういうことを聞いているのではありません。

 なぜ、セバスティアン様と一緒に東方に行ったはずのあなたが、このガリアにいるのですか?

 答えなさい、シザーリオ」

 名前を呼び、私はさらに強く彼に問い掛けました。

 そう。私は、彼のことを生まれた時から知っています。

 シザーリオ・パッケリ。水のスクウェアメイジで、二つ名は『水瓶』。セバスティアン・コンキリエ様に見出だされた、精鋭警護集団『スイス・ガード』の一員。出身はロマリア、アクレイリア。パッケリ家の次男で――この私、シザーリア・パッケリの、実の兄なのです。

「なぜ、って……まあ、話して困るこっちゃないから、答えてもいいけどさ」

 シャクシャクとリンゴをかじり尽くし、芯までも飲み込んで(!)、彼は言いました。

「セバスティアン様が、一足先に帰って、ヴァイオラお嬢様に知らせてこいって言うからさ。ルーデルの旦那に……お前も知ってるだろ? 風のスペシャリスト、『轟天』のフォン・ルーデルに、東方からここまで運んでもらったのさ。あの飛行速度は正直ビビるね、スペルをどんなに説明してもらっても、どうすりゃ数千リーグを一時間で突っ切れるのか、まったく理解できやしない」

 やってられない、とばかりに、肩をすくめるシザーリオ。そのおどけた様子には、少しの害意も感じませんが、私はそれでも気を緩めません。

「一足先に帰って……ヴァイオラ様に知らせる……? ということは、セバスティアン様たちは、もうすぐお帰りになられる、ということですか?」

「だからそう言ってるじゃん。まあ、あの人たちは、一月ぐらいかけて、ゆっくりサハラを横断してくるつもりらしいがね。

 お嬢様にゃ、『盛大な出迎えを頼む』って伝言をするように言われてる。この伝言、お前からお嬢様に伝えてもらっていいか? オイラはちょっと、他のところにも回らなくちゃいけなくってさ、忙しいんだわ」

「それは……別に、かまいませんが……」

 ごく平和的な、何の不自然もない話。しかし、それでも、私は彼をすぐに解放する気にはなりませんでした。

 こちらの疑念が、いつまでも消えないのを察したのか、シザーリオは腰を曲げて、私の目を覗き込むようにして聞いてきます。

「んー? どうかしたのか、リア? どうして、そういつまでもピリピリしてんだ?

 そりゃまあ、いきなり入ってきてビックリさせたのは悪かったけどさ、兄妹だろ? もーちょい打ち解けてくれてもいいんじゃねぇ?」

「あなたの……リオの内心が、いつも態度と一致するぐらい単純なら、そうしていましたよ。

 でも、私はあなたを知っていますから。私の知っているリオは、今みたいに愛想よくしている時はね、大抵何か隠し事をしているんです。

 忘れたわけではないでしょう? あなたが、セバスティアン様に雇われるまで、アクレイリアで何をしていたか」

「……………………」

「それにね、そんな簡単な伝言だけなら、ミスタ・ルーデルひとりだけで事足りるでしょう? あなたがわざわざついて来る意味が、私にはわからない」

「……複雑に考え過ぎだよ、リア」

 小さく首を振って、皮肉げにリオは笑いました。

「オイラが来たのは、リアが怪我をしたって、セバスティアン様に教えてもらったからさ。そんなこと聞いたら、居ても立ってもいられないだろ? ルーデルの旦那が受けた任務に同行させてもらって、お見舞いに来たのさ。これでスジは通るだろ?」

「ええ。その語り口が、よけい言いわけ臭くはなりましたけれどね」

 間違いありません。彼は、何かを隠しています。

 それは、嘘をついている、という意味ではありません。セバスティアン様の指示で、ミスタ・ルーデルに運んでもらったというのは本当でしょう。私の見舞いに来てくれた、というのも、きっと本当。どうやって、東方にいるセバスティアン様が、私の怪我を知ったのか、なんてことは聞きません。あの方のことですから、私の理解を越えた方法で、ハルケギニアの情報を得るくらいはやってのけそうですから。

 でも、それ以外で――きっと何か、私に言えない何かを、リオは隠しています。

 そして、その何かが、ひどく不吉なものではないかという予感を、私は拭えません。

 セバスティアン様は、いつだって部下に対して、その人に合った仕事をお任せになります。ちゃんと、誰が何を得意としているか、見抜いておられるのです。

 当然、リオに向いている仕事が何かも、ご存知でしょう。私も、リオがどんな仕事なら喜々として引き受けるか、家族としての経験で知っています。

 もし、私がセバスティアン様ならば――リオに、何か仕事を任せるとしたら――それは「戦場に行け」だとか、「誰々を殺してこい」とかいう種類のものでしか、あり得ないのです。

 リオの帰還の目的が、単なる伝言のお使いと、私のお見舞いだけならば、まったく問題はありません。ですが、私の予感通り、彼がそれ以外の任務を帯びていたら?

 その場合は、間違いなく、ハルケギニアのどこかで血生臭いことが起きます。セバスティアン様は、部下にそういう命令をしないお方というわけではありませんし、リオはそういう命令を嫌がるどころか喜ぶタイプの人間です。私は、それを知っているのです。

 ……止めるべきか?

 これから彼がしようとしている何かを、やめなさいと諭して、東方にとんぼ返りしてもらうことができるでしょうか? 非常に困難です。彼は、何も認めていないのですから。

 では、もう追求するのを諦めて、彼の好きなようにやらせるか?

 実を言うと、個人的にはこれを採用したいところでした。何らかの目的で、セバスティアン様が誰かを処分することは、何も前例のないことではなく、その結果は、すべてコンキリエ家にとっての利益となって返ってきたはずです。つまり、セバスティアン様のお考えであるなら、血が流れても、まあ悪いようにはならないのです。

 しかし、ひとつ問題がありました。それは、リオが私の知らないうちに、この部屋に入ってきてしまったということです。

「リオ……ひとつ聞きますが、あなたは門番さんや警備の人の許可を得て、この宮殿に入ってきたのですか?」

「いや? こっそり忍び込んできた」

 だろうと思いました。

 どういう方法かはわかりませんが、私に気付かれずにこの部屋に入り込めるのなら、そもそもヴェルサルテイル宮殿そのものにも、警備の目を盗んで入ってきた可能性もあるはずです。

 そして、彼は正規の手続きを取らずに、潜入という形でここに来ていることを認めました。

 来賓の従者である私の兄だと名乗り、ヴァイオラ様にでも身元を保証してもらえば、面会はたやすく叶ったでしょうに……その程度の手間を惜しみ、誰にも見られずにここまで侵入するという手間をかけるからには、それなりの理由が要ります。それはいったい?

 おそらくリオは、王宮の人たちに自分の姿を見せたくないのでしょう。

 遠からず、この宮殿内で変事が起きた時、容疑者として数えられないように。

 自信があります。十中八九、彼はこのヴェルサルテイル宮殿の中で、何かをやらかすつもりなのです。

 リオの実力を、私は知っています。何をするにせよ、それは成功するでしょう。そして、間違いなく大きな混乱が生まれるでしょう――それは望ましくありません。他の時ならともかく、今はヴァイオラ様が滞在しておられるのです。もし騒動に巻き込まれるようなことになれば、どんな結果になるかわかりません。

 どうすれば、そのような不都合が起きるのを防げるでしょうか。

 ひとつ。誰にも見られないうちに、リオを始末する。

 ふたつ。誰にも見られないうちに、リオに重傷を負わせて追い返す。

 みっつ。誰にも見られないうちに、リオを気絶させて縛り上げ、ヴァイオラ様が宮殿を出られる日まで、どこかに監禁しておく。

 私の取れる行動は、だいたいこれくらいでしょう。ぶっちゃけリオ相手なら、そんな強行手段を採用しても、全然良心は痛みません。

 ……しかし、私にそれを実行することができるかどうかは、また別問題です。

 精神的な理由でなく、実力的な理由で。

 仮にも彼は『スイス・ガード』。セバスティアン様に選ばれた、烈風級とすら噂される連中の末席に名を連ねているのです。その戦闘能力は、そこら辺の貴族や傭兵とは、比べものにならないはずです。

 病み上がりの私が、そんなリオを行動不能にできるでしょうか?

 いえ、疑問に思ってはなりません。やらなければならないのです。

 ヴァイオラ様の身に降りかかる火の粉は、払われなければならない。ヴァイオラ様にとって危険である可能性がある以上、リオを排除するのは私の役目です。

「なあリア、リンゴもう一個もらっていい? 東方にも、こんな美味いフルーツはなかなかなかったからさぁ」

 私は上半身をひねり、テーブルの上の杖を掴むと、鈍い金属光沢を放つその先端を、呑気なことを言っているリオの顔に向けました。

 あとは、スペルを唱えるだけ。小さめのファイアー・ボール一発でいいのです。この至近距離で、口や鼻などの呼吸口から肺に火炎を叩き込まれれば、いかに優れたメイジとて、即再起不能です。

 十分の一秒で、ことは済みます。ファイアー……!

「――やめときなって、リア」

 哀れむような、リオの呟き。

 それと同時に、ばちり、と、視界の端でライム色の光がはじけたかと思うと、次の瞬間には、信じられないことが起きていました。

 あれだけしっかりと握っていた杖が、その重みと冷たさを肌で感じていたはずの杖が、いつの間にやら、手の中から消え失せていたのです。

 どこへ行ったのか、慌てて周りを見回しますが、どこにも見当たりません。

 ――ばちり。

 ――ばちり。ばちり。

 竹を割るような、熱した鍋に水滴を垂らすような、短く刺激的な音が、どこかで鳴っています。ふと、視線をリオの方に戻すと、音源が彼の周りにあることに気付きました。

 ばちり。ばちり。ばちり。と――ライム色の、毛糸の切れ端のように小さな稲妻が――リオの周辺を取り巻くように、生じてははじけてを繰り返しているのです。まるで、彼自身が帯電した雨雲になったかのように。

 そして、そんな異様な状態にある彼の手には、彼自身の杖――ぶ厚く重そうな、片刃の短剣――があり、それだけでなく、私のワンドまで一緒に握られているではありませんか。

 いったい、いつの間に奪われたのでしょう? 私は一瞬たりとも、自分の杖から意識を逸らしませんでしたし、リオも近付いてきた気配などなかったのに?

 彼は私の狼狽を見抜くように、目を細めて、こちらを睨みつけました。

「無駄なことをするのは馬鹿だぜ、リア。おまえは昔から、オイラよか頭がよかったからわかるだろ? 無駄な戦いを――勝てない戦いを挑むのは、賢いことじゃねえ……」

 ――ばち、ばち、ばちばちばち。

 稲光の輝きが増し、ライム色の雷球が、まるで手旗信号のように、複雑に明滅します。その向こうから、リオは無機質な声で語りかけてくるのです。

「もう何年も前にスクウェアに到達して……それからもセバスティアン様の下で経験を詰んできたオイラを相手に……スクウェアになりたてのひよっこでしかないお前が、杖を向けるのか?

 おい、リア……勝負になると思ってんのかい……? まさか、勝てるかもなんて、ふざけたことは思っちゃいねえよな……?」

 低く、脅すようなその声は、目の前にいる男を、ひと回りもふた回りも大きく感じさせました。

 これが、貫禄の違いというものでしょう。桁違いの威圧感――実力を伴う自信を持つ者だけが発せる、重い波動が、私を上から押さえつけていました。

 私はリオを、侮り過ぎていたようです。彼は東方に行っていた間に、さらに力をつけている――感じたことを率直に表現するならば――まるで、重く堅い、私の力ではびくともしない岩の扉です。

「……お前にゃ、オイラをどうにかすることはできないさ。たぶん、誰にもどうにもできない。

 だが、安心しろよ……うまくやるから……お前にも、お嬢様にも、迷惑はかけねえようにやるからさ……だから、ここでゆっくり、何も考えずに休んでろよ……わかったな?」

 ばぢばぢばぢばぢと、雷光の轟きは勢いを増し続け、それと反比例して、リオの姿は、霧に包まれるようにぼんやりとし始め――。

 ついには、彼の虎のような鋭い眼差しだけが残り――それすらも、最後の稲妻の閃光とともに消え失せ――。

 ――ふと気がつくと、私は独りきりで部屋にいました。

 窓の横には、誰もいません。私の杖も、テーブルの上にちゃんと乗っています。

 ただ、服の中にびっしょりと汗をかいており、まるで悪い夢を見て、飛び起きた瞬間のような気分でした。

 では、あれは夢だったのでしょうか? リオは相変わらず東方におり、このヴェルサルテイル宮殿では、何の騒動も起きないのでしょうか?

 そう思いたいところではありますが、残念ながら、そうではないようです。その証拠に――フルーツ・バスケットの中から、リンゴがひとつ残らずなくなっているのですから。

 私は、諦めの気持ちとともに体から力を抜くと、ベッドから出て、ふらつく足で床に立ちました。

 私には、リオをどうにもできない。それは、不愉快なことですが、彼の言う通りです。

 足元もおぼつかないようでは、戦いなど問題外。今回ばかりは、何もせずに休んでいるしか、できることはありません。先ほど聞いた――ヴァイオラ様にご迷惑をかけないという、彼の言葉を信用するしか、仕方がないのです。

 しかし、いつまでもそんなことを許しておける私ではありません。

 修業を積み、さらに強くなって、リオに『ひよっこ』などと言わせないぐらいになって――彼を倒し、今日の屈辱を晴らしてみせます。

 ヴァイオラ様がお見えになったあとで、固く誓った『強くなる』という思い。

 漠然とした目標でしたが、今、思いがけず、さしあたり到達すべき、具体的な目標が設定できました。

(リオ……近いうちに、必ずあなたを叩きのめしてみせます。

 果てしない強さへの道程の、第一歩目にしてくれましょう……覚悟なさい)

 私は、心の中でそう呟くと、世話係のメイドを呼ぶために、扉の方に向かいました。

 まずは、汗だらけになった病衣を着替えないことには、ゆっくり休むこともできませんから。

 

 

「――それでさ、リーゼとふたりで取った鹿肉の残りを、街の肉屋に売って、ツノと毛皮込みで一エキュー三スウを儲けたんだ。そのお金で、おそろいのハンカチを買ったんだよ。ほらこれ! 安物だけど、デザインは悪くないだろ?」

 コットン生地に、百合の花束を模様をあしらったハンカチを我に見せびらかしながら、イザベラ様は上機嫌でワインをきこしめしておられた。

 このデコが帰ってきたんは、ついさっきのこと。シザーリアの見舞いを終えて部屋に戻ると、彼女がいて、寝酒に付き合えと言うてきた。

 まあ、我もシザーリアの回復を祝って、ちと飲みたかった気分じゃったし、ふたりでテーブルを挟んで、ボルドーの赤の四十年もので乾杯をすることにしたのじゃ。

 もちろん、アニーは下がらせた。最近ずいぶんと笑顔の増えたこの姫様は、我とだべる時は、だいたいリーゼロッテの話に終始するからじゃ。

 今日も、とっても嬉しそうに「リーゼがね、」「リーゼが言うには、」「リーゼったら」「ああ、可愛いリーゼ」とまあ、ちと胸やけするようなとろけたことばっか、つらつらと飽きもせずおっしゃる。それに笑顔で付きおうてやる我って、ハルケギニアいち心の広い人間ではあるまいか。

「リーゼロッテとのご休養を、存分に満喫されておられるようですな、殿下」

「ああ。まったく、友達と遊べるってことが、こんなに楽しいなんて、思ってもみなかったよ。

 ここ最近、すごく肩が軽いし、寝付きもいいんだ。きっと、ストレスがうまく処理されてるからだろうね――こんな日々を送れるきっかけをくれたあんたにゃ、本当に感謝してるよ」

 朗らかに言うイザベラ様。よしよし、すっかりリーゼロッテというお友達に依存しておるな。それが強い酒みたいなもんとも知らずに。

 もはやコイツは、リーゼロッテなしでは生きていけん体に改造されてしまっておる。もし今、彼女からリーゼロッテを取り上げたら、そりゃもう悲惨なことになるじゃろう。ストレスのない暮らしを知ってしまったあとの、ストレス解消ができない暮らしは、ずっとストレス漬けで通してきた暮らしより、落差がある分キツい。

 そして、イザベラ様は馬鹿ではないから、そのこともよーくおわかりになるじゃろう。リーゼロッテという癒しを、自分のそばに留めておくためなら、何だってするに違いない。

 そういう中毒者心理こそ、この尊いガリア王女様を、我が傀儡にする大計画の要なのじゃ。

 もう、充分アメはやったからの。そろそろムチをくれてやって、お互いの立場を我の良いように作り替えてやろう。

 理想は、「コンキリエ枢機卿の言うことを聞いてれば、ステキな人生がもらえる。でも、少しでも逆らえば、地獄が待っている」と、姫様が自分で思い込んでくれることじゃ。リーゼロッテを盾に、直接脅すような真似はしてはならぬ――ここからが計画の大詰めじゃ、抜かるなよ我!

「……そういえばですな、我の方も、今日はいいことがありましたぞ。ほら、怪我をして寝込んどった、我のメイドがおったでしょう。シザーリアというのですが、あれが、ようやく目を覚ましましてな」

「へえ? ずいぶん長くかかったね……でも、よかったじゃないか」

「ええ、我もホッといたしました。シザーリアのことは、ずっとやきもきしておりましたんでな。

 しかしそれも、ようやくひと段落です。ここ数日で、用事も全部片付いておりますし、これでようやくロマリアに帰れます」

 我がそう言うと、イザベラ様の表情がわずかに強張った。

「……そ、そっか。そういやそうだね。あんた、旅行でこっちに来てたってだけだもんね。

 ずっといるから、すっかり忘れてた。このプチ・トロワに住み着いてる、妖精かなんかみたいに思いかけてたよ」

「むふふ、面白いことをおっしゃいますな。まあ、ここの居心地は実に良いものでしたから、我としても住み着くことに魅力は感じておりましたが。

 しかし、向こうに仕事も残してきておりますから……さよう、二、三日中には、おいとますることになるかと思います」

「そう……寂しくなるね」

 しんみりと呟き、グラスを傾けるイザベラ様。しかし、その一杯を飲み干す前に、ふと気付いたように、グラスを置いた。

「なあ、そうすると、あんたが帰っちまったあとは、どうやってリーゼロッテに連絡をつければいいんだい?

 今まで、ずっとあんた経由で、あの子と待ち合わせの相談をしてたからさ。あんたがいなくなったら、もう連絡の取りようがないんだけど。

 ……もちろん、帰る前に、あの子の住所なり、家名なり、ちゃんと教えていってくれるんだろうね?」

「あー……そうですなあ」

 我は中空に視線をさ迷わせながら、何でもない風に言った。

「我の口から、そういうことをお教えするのは、ちとご勘弁願いましょう。

 その代わり、次にガリアを訪れた時は、また仲介をさせて頂きますぞよ」

「なっ……!」

 ガタン、と椅子を鳴らして、イザベラ様は立ち上がった。

「ど、どういうことだい!? 別にいいじゃないか、あんたを間に挟まずに、あの子とやり取りしたって! 隠し立てしなきゃならない理由が、何かあるのかい?」

「……一言で申しますと、殿下。あなた様は、ストレス解消を楽しみ過ぎたのですよ」

 詰め寄ってくるイザベラ様の剣幕を、柳のように受け流し、我は淡々と語った。

「ここ数日、あなた様は毎日のように宮殿から出て、遊び回っておられる。今は我が、やれ説教会にご招待だ、晩餐にご招待だとアリバイを作って差し上げておりますので、だれも不審に思っておりませぬが、我がおりません時に、あなた様はどういう口実で宮殿をお抜けになります?

 仮にうまい言いわけを思いつかれたとしても、ここ数日のご様子では、その言いわけが通用する限り、毎日でもあなた様は遊びに出られるでしょう。その場合、公務はどうされます? 遊びの時間が増えれば増えるほど、お仕事には支障が出るのですぞ。そのバランスを、ご自分で管理できますかな?」

「そ、それくらい、できるに決まって……」

「これから先、それができるようなら、今までだって、もっと慎まれておられたはずだと、我は愚考いたしますな」

 ぴしゃりと言い切る我。うろたえ、後ずさるイザベラ様。

 彼女の表情を見て、心の中でほくそ笑む。我は、完全にこのデコの心理を掌握することに成功しとった。

「イザベラ様、休暇というのは、たまにあるからリフレッシュになるのでございますぞ。毎日が虚無の曜日だったら、人間は駄目になります。

 我も手が空いたら、ガリアに旅行に来させて頂きますゆえ……まずは、リーゼロッテといつか再会できることを楽しみにして、日常を頑張って生きることを考えてみて下され」

「そ、そんなぁ……」

 ここまで言うと、イザベラ様は、泣き出す直前の目になってしまわれた。

 尊大な奴が半泣きになると、妙に胸がキュンキュンするのう。何つーか、心の奥のサディスティックな部分が刺激されるというか。もっといじめてやりたいわいうえへへへ。

 もう一歩、もう一歩踏み込めば、コイツはリーゼロッテを求めて、我のいいなりになる。

 もう一歩――さらに追い詰めてくれる、覚悟せい!

 

 

 あたしは、コンキリエ枢機卿の言葉に、怖れおののいていた。

 コイツがガリアを訪ねてきた時にしか、リーゼと会えないなんて――そんなの、つら過ぎる。

 せっかく手に入れた心の安らぎ。あたしの生きがい。それが、長い間あたしと切り離されてしまう。こんな、こんな理不尽なことが、あっていいのか。

 いや、自分でもわかっている。コンキリエの言っていることは、理不尽なんかじゃない。間違っちゃいないし、あたしのことを考えてくれたからこその提案だ。この小憎らしいチビは、ちっとも悪くない。

 確かに、休日は働く日より少ないから、輝かしいものなんだろう。遊んでばかりの人間がろくなもんにならないってのも、納得できる。

 リーゼロッテは、あたしには休養そのものだ。あたしが仕事をほったらかして、休養にばかりしがみつく人間にならないように、接触を制限しようというコンキリエの提案はわかる。

 だけど、リーゼはあたしにとって、安らぎでもあるけど、友達でもあるんだ。

 ずっとボッチだったあたしはよく知らないけど、友達って、好きな時に会って、話をして、楽しんで、お互いを励まして、成長し合うもんだろう?

 だったら、会って話をするくらいはいいんじゃないのか?

「た、頼むよコンキリエ。仕事をおろそかにしたりしない。抜け出して遊びに行くのも、週一回にする。

 だから、リーゼロッテと連絡を絶たせるようなことをしないでおくれ。お茶の時間に、少しだけ会って話をするだけでも、あたしは元気をもらえるんだ。

 ね、お願いだ、考え直してくれ……あの子は、あたしの初めての、本当の友達なんだよ……」

 そんな必死の懇願に、コンキリエは首を横に振った――まるで、あざ笑うかのような、薄笑いを浮かべて。

「夢でございますよ、イザベラ様。その気持ちは、うたかたの夢。

 我だけがあなた様に提供できる、はかないエンターテイメント。その事実を、まずはご理解頂きたい」

「ば、馬鹿なことを言うんじゃないよ。この気持ちは夢でも幻でもない! リーゼは、あたしの本当の友達だ!」

「そうですかな? 我にはそうは思えませぬ。なぜなら――」

 コンキリエは、テーブルの上に置いてあったあるものを指差した。

 それは、あたしがこの部屋に帰ってきた時、首から外したネックレスだった――リーゼロッテと会う時は、欠かさず身に着けているもの、フェイス・チェンジのネックレスだ。

 その石と鎖の光沢に視線が吸い寄せられた時、コンキリエは冷たく、こう言ったのだ。

「イザベラ殿下。あなた様は、リーゼロッテに対し、一度も本当の顔と名前で接していないではありませんか」

 その指摘に、あたしは頬を叩かれたような気持ちになった。

 そうだ。リーゼロッテと友達なのは、イザベラじゃない。アラベラという、幻の存在なのだ。

 あたしは、あの子にずっと隠し事をしてきた。あたしの真実を、まったく教えずに過ごしてきた。

 こんなのが、本当の友達と言えるだろうか? 顔も見せない、名前も知らせない。それで、相手との間に、信頼など築けるのか?

そんなわけがない。

 あたしはずっと、リーゼロッテの好意を裏切り続けていたのだ。

 絶望にうつむいたあたしに、コンキリエは慰めるように、優しい声をかけた。

「お気落としのなきよう。なぁに、今まで心を開けてなかったとしても、これから本当の友情を育んでいけばいいではないですか。未来は常に、行動する者に開けるのですから」

 そうだ。その通りだ。

 あたしは、リーゼロッテと本当の友達になりたい。そのためには、どうすればいいか? どう行動すればいいか?

「だから殿下、リーゼロッテとまた会いたければ、我とのつながりを断たぬようにして、お互いにいろいろと便宜をはかって社会的に癒着してですな――」

「コンキリエ。あんたに頼みがある」

 何か言いかけていたコンキリエを制し、あたしは言葉を挟む。

「リーゼロッテを、この部屋に呼んでおくれ……今すぐに、だよ」




その3に続くーのじゃー。


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ヴェルサルテイル断章(フラグメンツ)/リュティスの休日/だいたい全部ヴァイオラのせい:その3

もちろんのこと、その2の続きじゃー。


 

 ――ばち。ばち。ばち。

 毛糸屑のように細かい、ライム色の稲妻を体中にまとって、シザーリオ・パッケリは、ヴェルサルテイル宮殿の廊下に立っていた。

 彼の視線の先にあるのは、壁にかけられた一枚の絵だ――ルノアール作『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』。手に手を取り合って踊る男女を中心に、無数の陽気な人々が描かれた、大群像画だ。人物画を得意としたルノアールの最高傑作と名高い作品で、シザーリオはこの絵をぜひ一度見てみたいと、東方に行く前から思っていた。

 夢が叶った彼は、その絵の美しさに惚れ惚れとしていた。妹の病室からパクってきたリンゴをかじりながら、ほぅ、とため息を漏らす。

 しかし、その充実した観賞の時間を邪魔する音が、彼のズボンのポケットから鳴った。ぴぴるぴるぴるぴぃと繰り返す、笛のような音。

 シザーリオは小さく舌打ちをすると、ポケットに手を突っ込み、水晶のように透明な、小さな長方形の板(タブレット)を取り出した。それは、彼が主であるセバスティアン・コンキリエから預かった、小型通信端末だった。音はそのタブレットからあふれ出しており、表面には「着信」という文字が浮かび上がっていた――指でちょっとした操作をして、タブレットを通話状態にすると、耳に当てて呼びかける。

「グラジーム、グラジーム。こちら水瓶。そっちは誰だい? ――ああ、ルーデルの旦那か。何か用ですか?

 ――いや、そんなせっつかないで下さいよ。こちとら、念願だったヴェルサルテイル宮殿秘蔵の絵画を楽しんでる最中なんですから。――わかってますって、仕事はちゃんとやりますよ。ただ、標的が今、執務室か何か、鍵のかかった部屋に閉じこもってましてね。お仕事してんのか、チェスでもして遊んでんのか、美人のねーちゃんとしっぽりしてんのかはわかりませんが、出てくるのを待って始末をつけようかと――ええ、そうそう、もう少し時間がかかるかも知れませんから、酒場で一杯やって待ってて下さいよ。日が換わるまでには、標的の首を――ジョゼフ・ド・ガリア陛下の首を持って、そっちに行きますから」

 宮殿全体に響くような大声でそう言い放って、シザーリオは通話を切った。

 そして、やれやれと首を振って、再び絵に見とれる。そんな彼の横を、夜間見回りの兵士がふたり、何も見ず、何も聞かなかったような涼しい顔で通り過ぎていった。

 ――そう。彼らは、シザーリオの話を聞いていなかった。彼の姿すら見えていない。

 だからこそ、シザーリオは王宮の中という特別な場所にもかかわらず、先ほどのような発言を平気でできたのだ。

 シザーリオの周りで、ばちばちと、ライム色の稲妻が踊る。その怪しい光は、ランプの明かりしかない廊下ではかなり目立つものだったが、誰もそれに気付かない――兵士も、雑用のために行ったり来たりしているメイドたちも、そろそろ家に帰ろうかとあくびをしている文官たちも、誰ひとりシザーリオに目を向けない。短剣型の杖という、いかにも怪しい者を握っているこの男は、まるでその空間に存在しないかのように扱われていた。

 そして、周りのその無関心さは、シザーリオに強い自信を与えていた。なぜならば、誰も彼に注目しないように仕向けているのは、他ならぬ彼自身だったからだ。

(そうさ、こんなでかいアドバンテージがある状況で、仕事をしくじるわけがない。

 セバスティアン様から命令を受けた時は、ちょっと驚いたが、あの人もオイラの実力を知っているから、安心して任してくれたんだろうからな。

 しかし、やはり恐ろしいお方だ。まさか、あんなに気軽に、一国の王を含めた、三人もの重要人物の暗殺を、オイラひとりに命じるだなんて!)

 シザーリオは、ほんの六時間前のことを思い出す――東方の地方都市、ドウゴの温泉宿で、雇い主であるセバスティアン・コンキリエと相対した時のことを。

『シザーリオ君。君の忠誠に報いるために、僕は国をひとつ用意することにしたよ』

 籐椅子に深く腰掛けた、紫色の髪の紳士――セバスティアンは、いきなりそんな度肝を抜くようなことを言った。

『セレファイスという名の、非常に豊かな土地だ。縞瑪瑙でできた美しい城、四季の果物が楽しめる庭、無限に広がる耕作地、白い砂浜のついた暖かい海が、近いうちに君のものになる。もちろん、それまでに僕を裏切ったりしなければ、の話だが』

『オイラは妹より馬鹿だって、親にしょっちゅう言われてましたがね。損得勘定ができないほどのマヌケじゃねえっすよ、旦那』

 シザーリオは、もちろんどこまでもセバスティアンについていくつもりだった。主が、味方に対しては常に充分な報酬を与えるということを、ちゃんと知っていたからだ。国ひとつを云々という話も、他の者が言ったなら鼻で笑うが、セバスティアンが言うなら、信用に値する。彼は報酬に関して、けっして嘘をつかない。

『でも、そんなすげぇもんくれるって言うんなら、もちろんかなり難しい仕事をしろって言うんでしょう?』

『いや、シザーリオ君。君にとっては、比較的簡単な仕事だと思うよ。標的は、たったの三人なんだからね――このメモに書いてある人たちを、これからハルケギニアに帰って、速やかに始末してもらいたい』

 その言葉とともに、渡されたメモ――そこに書かれた名前を見て、シザーリオは眉をひそめた。

 

 ――ガリア国王ジョゼフ・ド・ガリア

 ――ロマリア教皇ヴィットーリオ・セレヴァレ

 ――トリステイン・ヴァリエール公爵家三女ルイズ・フランソワーズ・ド・ラ・ブラン・ラ・ヴァリエール

 

『えーと、これって、ジョークとかじゃなしに?』

『僕が今まで、仕事のことでジョークを言ったことがあるかい?』

 もちろん、ない。シザーリオは肩をすくめた。

『ま、やれって言われるなら、やりますけどね。何でやるのかっていう、理由は教えてもらえます?』

 その問いかけに、セバスティアンは不敵な笑みを浮かべた。

『彼らが、世界を救う救世主になるかも知れないからさ。

 遠からず起きる大隆起現象……それを止めて、人類を滅亡から救う可能性を、彼らは持っている。信じてくれるかい? 彼らはね――始祖の再来、現代に生まれ落ちた、神聖なる虚無の使い手なんだよ』

 セバスティアンは、嘘も冗談も言わない。

 だから、それは真実なのだ。シザーリオはそれを信じた。

 しかし、それでもわからない。

『だったら、殺しちゃまずいんじゃないっすか?

 ダイリューキが何なのかは知りませんけど、人類の滅亡を防いでくれるんなら、その可能性を潰すわけには……』

 その言い分に、セバスティアンは苦笑しながら、首を横に振った。

『駄目駄目。僕は人類にはね、滅びてもらうつもりでいるんだから。その予定を覆す要素は、早めに処理しておきたい。

 君にプレゼントするセレファイスも、人類滅亡以後の、持ち主がいなくなった土地に作る予定なんだから。たとえて言うなら、これはね、大規模な区画整理事業なんだよ――そう言えば、君も僕の意図は理解してくれるだろう?』

 シザーリオはため息をついた。人類を全部殺して土地を手に入れる地上げなんて、途方がないにもほどがある。

 ――しかし、セバスティアンは本気なのだろう。繰り返すが、彼は嘘は言わない。

 だから、シザーリオも忠誠心を持って、彼に従うのだ。たとえ、その命令がどんなに大それたものでも。セバスティアンの言うことは、いつも正しいのだから。

(そうさ、あの人はいつも正しい。そして的確なんだ。

 オイラにこの仕事を任せるってことからも、それがわかる。他の『スイス・ガード』たち……ルーデルの旦那でも、『無限』のリョウコさんでも、『極紫』でも『悪魔』でもない。オイラこそが、この仕事に一番向いている。

 この『水瓶』のシザーリオこそが、な)

 ――ばちばち、ばちばち。

 ライム色の光の中で、シザーリオはくっくっと忍び笑いをした。

 彼の体を取り巻いているのは、その光だけではない。薄い、じっと見てもわからないような微妙な霧が、彼を中心に拡散し、その霧を伝うように、稲光も散らばっていく。

 ――シザーリオの得意な系統は、水である。この系統の得意技は、その名の通り水を操ることであるが、もっと細かい特徴としては、ヒーリングなどの、人の体を癒し、回復させる魔法に優れるという点がある。

 彼は、幼い頃からヒーリングを得意とした。魔法の練習として診療院に通い、医者たちに混じってたくさんの怪我人を癒し、腕を磨いた。

 魔法と同時に、彼は人体の構造についても、深く学んだ。血管の位置や内臓の機能を把握して魔法をかけると、闇雲に患部をヒーリングするより効果が高いと気付いたからだ。

 研究と実践の反復は成長を促し、彼は十五歳で早くもスクウェアに目覚めた。

 そして、転機が訪れたのは、その直後のことだった。とある患者の、精神的な病を治す方法を探して、実家の書庫を漁っていた時。ふと手に取った大昔の医学書に、ある興味深いスペルを見つけたのだ。

 その名は《誓約(ギアス)》。人の心に暗示を与え、意のままに操ることのできる洗脳魔法。

 あまりにも悪用しやすい性質を持つため、今でこそ禁呪とされ、学ぶことも唱えることも許されていないスペルだが、シザーリオはこの魔法に、精神医学を発展させる大きな可能性が秘められているのではないか、と考えた。

 洗脳によって行動を操るというのは、外部から肉体を動かすのではなく、肉体を動かす精神に干渉するということだ。ならば、心を操るギアスを応用することで、病んだり傷ついたりした心を癒す術も、開発できるのではないか?

 そう考えた彼は、誰にも内緒で、こっそりとギアスの解析に取り掛かった。禁呪指定されたスペルを研究することは、明白な異端――犯罪行為だ。誰にも、家族にだって教えるわけにはいかなかった。

 彼は、机上の研究だけではなく、実際にギアスを唱えてみたりもした。最初は、自分の家の使用人などに術をかけ、催眠状態にある人間の脳を、ディティクト・マジックで詳しく調べた。その結果、人間が思考を行うと、脳内でそれに応じた水の流れが生じるだけでなく、微弱な――本当に、問題にならないほど弱い雷が発生する、ということを発見した。

 正常な人間の脳では、この雷は非常に複雑な波形を描くのに対し、ギアスをかけられた人間の脳では、雷は例外なく単純な定形を示した。このことから、シザーリオはこの雷こそ、人間の精神の本体であり、この雷に手を加えることで、人の感情を、ひいては人格そのものまでも変化させることができるはずだ、と予想した。

 その予想を証明するには、更なる実験が必要だった――すなわち、人の脳内の雷を操作することで、実際に人の思考を左右してみせなければならないのだ。

 この実験には、使用人は使えなかった。何しろ、前例のないやり方で脳をいじくるのである。失敗した場合、命に関わりかねないし、身近な使用人が変死したりしては、疑いを持たれる。安全に研究を進めるためには、事件を起こすわけにはいかなかった。

それは言い換えれば、事件を起こしたとしても、発覚させなければいい、ということだった。運のいいことに、シザーリオの住んでいたロマリアには、いつ野垂れ死んでも誰も気にしない難民たちが、そこら中にあふれていた。彼は、そんな難民たちに近付き、ひと切れのパンと一杯のスープを報酬に、実験への協力を依頼した。もちろん、飢えた難民たちの中に、自分が何をされるのか、理解できた者はいなかっただろう。

 実験内容はごく簡単。水と風の組み合わせで生じさせた雷(静電気のようにごく弱いもの。風のスクウェアスペルである、ライトニング・クラウドの威力とは、比べるのも馬鹿馬鹿しい)を、被験者の脳に浴びせ、ある特定の感情状態の波形を再現し、実際に被験者がその感情をもよおすかを確かめる。

 危惧した通り、最初の被験者は死亡した。雷の威力が強過ぎ、脳出血を起こしたのだ。

 ふたり、三人と続けたが、やはりことごとく死亡した。十二人目で、やっと喜びの気持ちを、何の理由もなく感じさせることに成功したが、この被験者も、実験直後に発狂し憤死した。

 しかしそれでも、少しずつ成功に近付いていた。さらに雷の威力を調整して、十三人、十四人と続け――五十八人目にして、悲しみと怒りの再現に成功――百十六人目には、喜びと怒りを交互に三回ずつスイッチさせ、さらに実験後七十時間も生存させることに成功――このペースならば、五百人死なせる前に、感情を完全に制御することができるようになるかも知れないと、シザーリオは夢見た。

 しかし、すべてが順調にいったわけではなかった。彼の家の周りで難民がぽつぽつ行方不明になることが、少しずつ怪しまれ始めたのだ。特に家族には、難民を自分の部屋に連れ込むところを見られたこともあった。その時は患者だと言ってごまかしたが、いつまでもそんな言いわけが通じるはずもない。シザーリオは、すべてが露見する前に、荷物をまとめて家を出た。

 野に下った彼は、もう誰の目も気にせず実験に没頭した。難民たちは、闇に飲み込まれるように、続々と姿を消していった。

 しかし、本業の医者としての職務を放棄していたわけではなく、彼は相変わらず、腕のいい水メイジとしてロマリアの人々を救っていた。ノリが軽くて親しみやすく、しかし仕事熱心な善人というのが、当時のシザーリオ・パッケリの評価である。

 ラルカスという名の、遍歴の水メイジと交流を持ったのも、この独り暮らしをしていた時期のことだ。

 ラルカスは不治の病を患っており、それを治す方法を探して、各地の優秀な医者を訪ね歩いていたのだった。

 シザーリオは彼を診察し、難民での実験すら中断して治療にあたったが、結果は芳しくないものに終わった。ラルカスの病というのは、彼の生まれ持った肉体の質に起因するものであり、どのような魔法を使っても治すことはできない、とわかってしまったのだ。生きることを望むラルカスに、そのことを伝える勇気は、シザーリオにはなかった。ただ、今の自分では手に負えないということを言うに留めた。

 シザーリオにとって、この敗北はつらいものだったが、ラルカスとの出会いが悪い結果しかもたらさなかったわけではない。ラルカスは、彼自身が優れた医者であり、研究者だった。特に脳神経に詳しく、その腕と知識は、動物の脳移植を成功させるほどに極まったものだった。

 シザーリオは、ラルカスから多くのことを学んだ。脳の構造と、各部分の働きを知ることは、彼の研究を一足飛びに進展させた。難民を使った実験でも、成功率が格段に上がり、とうとう命の危険なしに脳の雷を操作できるようになった。

 今でもシザーリオは、ラルカスに感謝している――ラルカスの教えがなければ、シザーリオの研究は、おそらく完成までに二十年は余計にかかっただろうから。

 他人の脳内雷を操作する実験のことを、ラルカスに打ち明けて協力を願えば、もしかしたらさらに五年は、完成が早まったかも知れない。しかし、シザーリオは最後まで、ラルカスに自分の研究について話さなかった。ラルカスは、残念ながら、シザーリオに欠ける良心というものを持っていたからだ。

 いつかシザーリオは、ラルカスの病気を治す方法として、より健康で生命力の強い肉体への脳移植ならば何とかなるかも知れない、という提案をしたことがある。肉体に生まれつきの問題があるなら、問題ない他人の肉体に乗り移ればいいのだ、というのが、シザーリオの考えだった。ラルカスの魔法の腕なら、その移植手術は充分実行できる。さらにシザーリオが助手として手伝えば、成功率は九十五パーセントを越えるだろう。

 しかし、ラルカスはこの方法に難色を示した。自分が助かるためとはいえ、人を殺して体を乗っ取るというのは、いくら何でも踏み出せないと言うのだ。

 そして、とうとう手術は実行されず――脳についてのあらゆる知識をシザーリオに伝授したあと、ラルカスはロマリアを去っていった。

(あいつ、今頃どうしてんのかなぁ)

 絵をぼんやりと眺めながら、シザーリオは物思う。

(結局どっかで移植手術をして、新しい人生を謳歌してんのかなぁ。それとも病に負けて、どこかでおっ死んだか。

まあ、どちらでもいい。ラルカスの知識は無駄にならなかった――今、オイラの中でひとつの結晶となって、セバスティアン様のお役に立ってるんだ。それは、すごい名誉なことなんだぜ)

 ばちばちと雷光をばらまくシザーリオの背後を、また兵士たちが通り過ぎていく。

「いいか、今はこのヴェルサルテイル宮殿に、ロマリアのコンキリエ枢機卿様がご滞在しておられる。普段以上に気をつけて見回りにあたれ――もし少しでも怪しい奴を見つけたら、容赦なく捕まえるんだぞ!」

 隊長格らしい男が、引き連れた部下たちにそんなことを言っている。なのに、彼らはすぐ目と鼻の先にいるシザーリオを、完全に無視していた。

 いや、認識できていなかった。

 兵士たちの頭の周りを、ライム色の稲妻が飛び回る。兵士たちだけではない。メイドも、文官も、貴族も平民も、シザーリオに近付く人間すべてが、この微弱な雷によって、脳に変調をきたしていた。

 ――シザーリオの、雷によって人の心を操る研究は、セバスティアンに見出され、『スイス・ガード』として雇われた直後に、ひとつの到達点を迎えた。

 雷を霧に乗せてばらまくことで、広範囲に散らばるすべての人間の脳を、一定の波長に誘導することができるようになった。人々に思い通りの感情を与え、思い通りの感覚を与え、思い通りの思考を導くことができた。ギアスのように、具体的な指示を与えることはできないが、精神の在り方を偏向させることはできる――。

 シザーリオのそばを通り過ぎた者たちは、皆、目の前に不審者がいるということを認識できないほどに、注意力散漫になっていた。しかも彼らは、自分たちがぼーっとしていることにすら、気付いていないのだ。そんな状態になった警備兵の目を盗んで、宮殿に忍び込むのは楽勝だったし、彼に攻撃を仕掛けようとした妹の意識を五秒ほど混濁させて、その隙に彼女の手から杖をもぎ取るのも簡単だった。

 やろうと思えば、周りにいる人間全員を絶望的な気分にさせて、自殺に追い込むこともできる。陽気な気分にさせて、三日三晩ぶっ通しで宴会を開かせることもできる。シザーリオの発生させた霧の届く範囲――ライム色の稲妻が自由自在に渡っていける範囲――にいる人間は、皆、彼の望んだ心理状態に陥る。そして、雷を孕んだ霧は、ヴェルサルテイル宮殿を中心とした、半径一リーグの空間を満たしていた。その範囲内にいる全員を同時に操れるなら、いったいどのようなことができるだろう?

(とりあえずは、クーデターでも起こったってことにするか……警備兵百人ぐらいと、大臣級の貴族を四、五人操れば、体裁は取れるだろ。

 ジョゼフ王はオイラが自分でカタをつけるが、それからの後始末はその人たちに丸投げだ。本当は、全員の脳を狂わせて大乱闘を起こすのが一番面白いんだが――前に東方で、千五百人の馬賊たちの脳をめちゃくちゃに混乱させて、同士討ちで全滅させた時は、本当に楽しかった――しかし、今回はそこまでする必要はない。標的はあくまでひとりだけだからな。

 人為的に人を油断させて、安全に標的に近付くことができる……まったく、これ以上ない暗殺向きの能力だよ、オイラのこのオリジナル・スペル、《群集(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)》は)

 精神病を治すために開発したこのスペルが、何をどう間違って、暗殺のための道具になっているのか、シザーリオ自身にもわからない。

 間違いないのは、こうなったことを彼が悩んでもいなければ、後悔もしていないということだ。セバスティアンの役に立てるなら、医者としてであろうと、暗殺者としてであろうと、どちらでも誇らしいことなのだから。

(――おっ)

 しばらく待っていると、執務室の扉が開き、中からジョゼフ王と、側近のモリエール夫人とが連れ立って出てきた。

 シザーリオは唇を舌で湿して、現れた標的の方に足を向けた。そして、ゆっくりと――緊張感のかけらもなく――下手な鼻歌さえ歌いながら――まるで、街で偶然見かけた知り合いに声をかけようとしているかのような気楽さで――近付いていく。

 彼の手にした短剣型の杖が、血を求めるようにぎらぎらと輝いた。

 

 

「寝床に入ったところを起こしてしもうて、すまんかったのう。アラベラが、どーしても今すぐお前に言わにゃならんことがある、と言うてごねるもんじゃから……」

「大丈夫。気にしてない」

 夜も更けた頃、ヴァイオラに呼ばれた私は、彼女の宿泊しているプチ・トロワに出向いていた。

 今の姿は、タバサとしてのものではなく、藁色のおさげ髪をしたリーゼロッテのものだ。これから会う相手はアラベラなのだから、この変装は仕方がないが、宮殿の中を変装して歩くのは、さすがに少し緊張した。見回りの兵士に見つかって、身分を聞かれたりしなければいいが。

 だが、不安なのはそのことより、アラベラがどんなことを私に言いたいのか、ということだった。彼女は大雑把な性格だけれど、こんな夜中につまらないことで人を呼びつけるような人間ではない。なのに、それをあえてするということは、ひどく重大で緊急な用事ができたという以外に考えられない。それは、いったい――?

「ヴァイオラ。アラベラの話というのが何か、あなたは聞いている?」

 私の問いかけに、ヴァイオラは小さく首を横に振る。

「いや、我は何も知らんな。ただ、我の印象を言うならば、今のアラベラは、ひどく追い詰められているようじゃった」

「追い詰め、られて?」

 不穏な言葉に、胸がざわめく。

 ヴァイオラも同じような不安を感じていたのか、真面目な顔で頷くと、念を押すように、こう言ってきた。

「ええか、タバサ。アラベラは尊大に見えるが、あれはあれで意外と心根は繊細な奴じゃ。

 今、あいつは、お前だけを頼りにしておる……我ではない、お前の存在を心から求めておるのじゃ。孤独の中で、ようやっと見つけた光が、お前なのじゃよ。

 だから、どうか、何が起ころうと、あれを見捨てないでやってほしい。ガリアの杖が交差した紋章のように、あれを支えてやってほしい。事情を話してもらえなんだ我が、お前にできるアドバイスは、それくらいじゃ」

「……わかった」

 ヴァイオラの借りている客室の前に着いた。ヴァイオラは、席を外すよう言われていたのだろう、扉を開けて、私に中に入るように促したが、自分は廊下に立ったままだった。

 私は、意を決して部屋の中に入る。後ろで、ぱたんと扉が閉められた。ヴァイオラの気配が消え、その代わりに、部屋の奥に馴染みの気配を感じた――ソファに座っていた彼女は、私の姿を認めると、立ち上がって近付いてきた。茶色い髪の、野性的な眼差しをしたアラベラは。

 私たちは、一メイルほどの距離を隔てて、見つめ合った。

「変な時間に呼び出して悪かったね、リーゼ」

「かまわない」

 それで、用件は? ――そう聞こうとした瞬間、私の体は、暖かくて柔らかいものに包まれていた。

 アラベラに抱きしめられたのだと気付いたのは、何秒も経ってからだった。彼女のイメージからすると少し意外な、甘く上品な香りが鼻をくすぐる。姫百合の花束に顔をうずめているような気分だ。

「リーゼ。あたし、あんたのことが大好き」

 私の髪に唇を触れさせて、アラベラはそんなことをささやいた。

「あんたと出会ってから、まだそんなに経っちゃいないけどさ……それでも、あんたと過ごした時間は、他の誰と過ごした時間よりも色鮮やかだった。

 まるで、何の悩みもなかった子供の頃に戻れたような感じさ。そう……子供が感じるような、素直な幸せを、あんたはあたしにくれたんだ」

 愛しさの込められた声で、しみじみと語るアラベラ。思いがけず直接的な好意を表現されて、私はどうにもくすぐったい思いをした。

 でも、それは嫌な感覚じゃない。昔、母様や父様に抱きしめてもらった時に感じたような、心地のよいむずがゆさだ。このぬくもりの中に、もっと深く潜っていきたいと、素直に思える。

 だから私は、アラベラのわきの下から、彼女の背中に腕を回し、こちらからも彼女に抱きついてあげた。

 アラベラはそれに気付くと、驚いたようにピクンと身を震わせたが、すぐに更なる喜びを込めて、私を強く抱きしめてきた。体温を、お互いに伝え合う。

 私も、彼女のことは嫌いじゃない。少なくとも、こうしている時間に、幸せを感じられるくらいには。

「ありがとう、リーゼ。

 ……でも……あんたのことが好きだからこそ、あたしはあんたに謝らなくちゃいけないんだ」

 抱擁を解き、そっと私から離れるアラベラ。

 その表情は切なげで、崩れかけの古城を思わせた。

「あたし、ずっとあんたに隠し事をしてたんだ。

 あんた、コンキリエから言われてるだろ? あたしの素性を詮索したりしないようにって。あたしがどこの家のなんて奴か、あんたにわかっちまったら、いろいろと差し障りがあるかも知れないってさ、コンキリエが気を使ってくれたんだよ。

 あたしも、普段の立場を忘れて、生まれ変わったような気持ちでのびのびしたかったから、アイツの配慮はありがたかった。あんたに家名を聞かせないようにするだけじゃなくて、あたし自身もこんなものを使って、身元がバレないようにしていたんだ。――あんた、これが何か、わかるかい?」

 言いながら、アラベラは首にかけていたネックレスを手ですくってみせた。銀の鎖に青い石のリングがついた、シンプルな首飾りだ。私と会う時、彼女はいつもそれを身につけていた――まさか。

 はっと目を見開いた私の様子にも気付かず、アラベラは続ける。

「これはね、フェイス・チェンジの魔法が付与された首飾りなんだ。これを首にかけると、自動的に魔法が働いて、装着者の顔を別人のものに変える。

 わかったかい、リーゼ。……今、あんたが見ているこの顔はね、あたしの本当の顔じゃないんだ。アラベラって名前だって、適当に考えた偽名さ。

 あたしは、嘘の顔と名前で、あんたと付き合ってたんだ」

 アラベラの表情が陰る。私は、何も言えない。

「単なる気晴らしなら、ずっとそれでもよかったんだろうけど……でも、もう、そうしていられなくなった。あたし、心底あんたに惚れ込んじまったんだ。

 あんたと、本当の友達になりたい。顔を隠したままでのごっこ遊びじゃなく、本当の顔と名前を知ってもらって、嘘のないあたしを受け入れてもらいたい。そう思って、あんたをここに呼んだんだ」

 私の目を、真っ直ぐに見つめるアラベラの瞳。強い決意が、そこにあった。――それと同時に、強い不安も。

「正直なことを言うとさ……あたしの本当の姿じゃ、あんたに受け入れてもらえないんじゃないかって、すごく心配してるんだ。

 あたしの家はいろいろあってね、悪名ばっかり有名なんだ。あんたの耳に入ってる評判も、散々なもんなんじゃないかって思うんだよ。

 だから、もしあたしの正体を知って、こんな奴と友達付き合いをするのは嫌だ、と思ったら、そう言ってくれてかまわない。その時は、あたしもあんたの素性を知らないしね、すっぱり全部忘れることにするよ。変な未練は残さないって、杖にかけて約束する。

 でも……本当のあたしを、もし受け入れてくれるなら……その時は、今度こそ一生の親友になっておくれ」

「ま、待って」

 そう言って、ネックレスを外そうとするアラベラを、私はすんでのところで止めることができた。

 ――彼女が、そこまでの気持ちを見せてくれるのならば、私もそれに応えなくてはならない。

 応えられる人間でなくてはならない。そうなりたい。

「私も、あなたに謝らなければならないことがある。……これを見て」

 私は、自分のブラウスの中に手を入れ、内側に隠していた首飾りを取り出してみせた。緑色の石がついたネックレス――アラベラがつけているものに似た、シンプルなアクセサリー。

「私も、これをヴァイオラからもらって、ずっと身につけていた。

 私の素性を、もしあなたが知っていたら、くつろげないかも知れないと言われたから……」

「そのネックレス……じゃ、リーゼ、あんたも?」

 目を丸くするアラベラに、私は頷く。

「リーゼロッテという名前じゃない。本当の自分を隠していたのは、私も同じ。

 それに、顔を隠すことに、私自身も開放感を感じていた。あなたと同じで、私の家柄も……人に好まれるものではない。だから、率直に言えば、私はあまり、自分がどこの家の者だと、人に明かしたくはない。でも」

 私からも、アラベラを見つめ返す。誠実な思いへのお返し。私も、できる限りのものを贈りたい。

「でも……あなたには聞いてもらいたい。私のことを。本当の私のことを。

 その結果、あなたに拒絶されても、私は怨まないと誓う。これで、おあいこ」

「リーゼ……」

 アラベラの瞳は、感動に潤んでいた。私も、鼻の奥が熱くなるのを感じる。私たちは、似た者同士だったのだ。どちらも隠し事をしていて、どちらも家庭にコンプレックスがあって、どちらも相手を求めていた。

 こんな私たちが、相手の正体を知ったぐらいで、気持ちを翻すわけがない。

「ね、リーゼ。ふたり一緒に、首飾りを外そうか。

 そして、お互いに、改めてよろしくって言うんだ。どうだい、こういうの?」

 アラベラの提案に、私は頷く。

 首に巻きつく銀の鎖に、手をかける。アラベラも、同じようにした。

 頭を下げ、鎖を引き上げて、ネックレスを首から抜いていく。

 魔法のそよ風が顔を撫で、偽りの姿が失われ、もとの私の顔が戻ってくるのがわかる。

 これで顔を上げれば、私たちは本当の自分同士で、ようやく出会うことになるのだ。

 

 

 リーゼロッテと出会えて、本当によかった。

 そう思いながら、あたしは首からネックレスを外していく。

 彼女なら間違いなく、本当のあたしを――イザベラ・ド・ガリアを受け入れてくれるだろう。それができる優しい心を、あたしははっきりと感じた。

 あたしも、本当の彼女を受け入れてみせる。

 たとえ、どんなに身分の低い木っ端貴族でも。家名すら持たない、平民メイジだったとしても。極端な話、犯罪者か何かだったとしても、この気持ちは変わらない。

 あたしはこの子の心に惚れたんだ。身分なんか、何の関係もない。

 そうだろ、リーゼロッテ?

 

 

 私は顔を上げた。すると、そこには――。

 

 

 あたしは顔を上げた。すると、そこには――。

 

 

 私の、

 

 

 あたしの、

 

 

 大嫌いな、青髪の少女が立っていた。

 

 

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

 ふたりは、凍りついたような表情で、しばらくお互いを見つめ合った。

 ふたりとも、自分の見ているものが信じられなかった。何が起きたのか、わけがわからない。イザベラは口をぽかんと開けていた。タバサは無表情に見えなくもないが、眼鏡の奥で目を見開いていた。

 時が止まったような静寂――ぴりぴりと肌を焦がすような緊張――。

 やがて、タバサが先に動き、それが崩壊のきっかけとなった。

「イザ――」

 とにかく何か言おうと、震える唇で相手の名前を呼ぼうとした。すると、イザベラは、まるで至近距離で銃をぶっ放されたかのような勢いで、思いっきり後ろに飛び跳ねて逃げた。

「なっ! な、なな、なっ!?」

 顔を恐怖に歪め、ただでさえ白い肌をさらに青ざめさせて、彼女は破片のような叫び声を上げた。

「な、な、なな何であんたがここにいるんだよ、人形娘! リーゼを、あたしのリーゼロッテをどこにやったんだい!」

「私がリーゼロッテ。イザベラ……あなたこそ、アラベラをどこにやったの」

「ば、馬鹿言ってんじゃないよ、アラベラはあたしだ。……あんたはリーゼじゃない……あの可愛くて優しいリーゼロッテが、お前みたいな冷たい奴だなんて、あり得ない……」

 うろたえて、虚ろな疑いを口走るイザベラ。その様子を前に、立ち尽くすタバサ。

 ふたりとも、ひどく動揺しており、馬鹿げた質問を掛け合ったが、心の底ではちゃんと理解していた。すなわち、自分が心から慕った友人の正体が、けっして相いれることのない、憎らしい敵であったのだと。しかし、それを認めて受け入れるのには、天が大地の周りを巡っているという考えを捨て、大地が天の中を駆け巡っているのだと認めるほどの、大規模なパラダイム・シフトが必要だった。

「う、嘘だ……嘘だ……」

 急激な思考の転換に耐え切れず、その場にへたり込んでしまうイザベラ。そんな相手の姿を見て、タバサは混乱の中でも、少しずつ情報の整理を始める心の余裕を取り戻しつつあった。

(イザベラの顔を見た瞬間は、これが全部趣味の悪いいたずらだと思った。

 まったく他人のふりをして私に取り入り、私が心を開いたところで裏切って、笑いものにするという、唾棄すべき悪ふざけだと。

 でも、イザベラの様子を見る限り、その可能性はないように思える。この悲しみようは演技には見えないし、アラベラとしてふるまっていた時の彼女は、本当に楽しそうだった。あれが嘘だとは思えないし、思いたくない。

 では……まさか……今さっきの、アラベラとしての彼女の発言は、すべて本当?)

 それはそれで、タバサにとってはショッキングな結論だった。あの悪王の娘で、サディズムの権化、タバサに対して憎しみと嘲りと害意しか向けてこなかったイザベラが、本当はつらい思いをしていて、寂しがっていて、リーゼロッテとしての自分を本気で求めていた、などと――。

 とにかく、その辺を確かめる必要がある。そう考えたタバサは、イザベラに歩み寄った。

「イザベラ……」

「く、来るなっ。来るんじゃないよっ。あたしを見るなっ。嫌だっ、こんな現実、もう見たくないっ」

 頭を抱えて、タバサを拒絶するイザベラ。

「せっかく、せっかく頼れる友達ができたと思ったのに。憎んだり羨んだりせずに、気楽に接することができる奴と出会えたと思ったのに。こんなのってないよ。こんなの、酷過ぎる……全部、全部仕組まれていただなんて……」

 涙声で搾り出されたその言葉に、タバサはハッとした。そう、タバサがこの事態を、イザベラの仕組んだ茶番劇ではないかと疑ったように、イザベラもこれを、タバサによる陰謀と思い込んでいたのだ。

「イザベラ、それは誤解。話を聞いて」

「うるさいっ、うるさいっ! あんただって笑ってたんだろ、だらしなく骨抜きになってるあたしを見て! さぞや気分がよかっただろうよ、普段の仕返しができてさぁ!」

 突き放すように言うイザベラの態度に、タバサは頭に血が上るのを感じた。その感覚に、彼女は覚えがあった。魔法学院に入ってほどない頃、不届き者に本を焼かれてしまった時に感じたのと、同じ怒りだ。

 大事にしているものを、粗末に扱われて怒る。それは人形にはできない、人間的な感情だった。

「イザベラ」

 タバサは、顔を隠そうとするイザベラの手首を掴み、引き寄せて、むりやりに対面を果たした。

 イザベラは泣いていた。八十二パーセントの悲しみと、十パーセントの憎しみ、そして八パーセントの現実逃避を、輝くしずくとして目の端からこぼして。

 そんな彼女としっかり目を合わせて、タバサははっきりと言い渡した。

「馬鹿にしないで。私だって、アラベラのことが……あなたのことが、大好きだった」

 ――再び、時が止まった。

 一時の激情にまかせて口走った言葉というのは、しばしば後悔を招く。タバサの場合もそうだった。言わなきゃよかったこんなことと、独りきりの空洞の中でこだまを聞くように、何度も何度も思った。

 それというのも、タバサの言葉を聞いたイザベラが――怒るでもなく、馬鹿にするでもなく、正気を疑うでもなく――顔を、耳まで真っ赤にしたからだ。

「あ、えっと……えーと、え?

 な、な、何言って……何言ってんだよ、ばか。そそそそんなこと、そんな真剣な顔で言われて……ど、どう反応したらいいのさ?」

 おでこから湯気を立てんばかりに照れて、もじもじと落ち着かなげにしているイザベラを前にして、タバサも同じように、どうしていいかわからなくなっていた。

 大嫌いなはずだった従姉に、本心とはいえ、堂々と大好きだなんて言ってしまって。しかも、その発言に対し、妙にピュアな反応をされてしまって、ちょっと可愛いなとか思ってしまったりして。

 そんな自分の気持ちを省みると、途端に恥ずかしくなってしまう。タバサも頬を赤らめ、うつむいてしまう――ここに、照れながら無言で向かい合う青髪美少女たちという、何とも絵になる光景が完成してしまった。

(え、えーと、落ち着け……落ち着くんだよ、あたし)

 無数の感情パターンがごっちゃになった状態で、それでもイザベラは何とか思考を再開した。

(こいつにいろいろと言いたいことはあるけど、まずは何が起きたのかをまとめよう。今のままじゃ、ぐちゃぐちゃ過ぎてわけがわかんないから。

 まずは、ええと、一連の出来事は、どっちかが仕組んだいたずらじゃない、ってのは確定だね。あたしは、リーゼロッテがシャルロットだって知らなかったし、シャルロットもアラベラのこと、あたしだって知らなかったみたいだ。じゃなけりゃ、こいつの反応はあり得ない。

 じゃあ――つまり、誰が悪いんだい? お互いにこんな恥かいて、でも誰も悪くないとか、あり得ないだろ)

 タバサも、火照った顔を意識しないよう、思考を巡らせる。

(私もイザベラも悪くない。でも、こんなややこしい状況が生まれたことについて、何らかの原因があるべき。

 諸悪の根源とでも呼ぶべきもの――考えて――思い出して、私――そう、そもそも、どうして私は、こんなことに巻き込まれた?)

 イザベラはさらに考える――。

(悪いのは誰だ? そもそも、この茶番はどこからが始まりだ? あたしがぶちぶち悩んでたのが原因っちゃ原因だけど、そんなのは昔からだ。そう――最近、あいつに悩みを相談してから、物事が回り出して……)

 タバサもさらに考える――。

(フェイス・チェンジの首飾り。あれさえなければ、物事は複雑にならなかった。あれを私に渡した人物……それこそが、最初のきっかけ……)

 ふたりが結論に手を届かせた、まさにその時だった。

 がちゃりとドアノブが回り、空気を読めない子が空気を読めない笑顔で、部屋に闖入してきたのは。

「そろそろお話は終わりましたかのー? 我、そろそろ寝たいんで、いい加減で切り上げて下さると助かるんじゃけどー」

 のじゃーんと登場した彼女は、部屋の真ん中で向かい合っているふたりを見ると、悩みのなさそうなあっけらかんとした声で、親しげに話しかけた。

「……って、おや? ふたりとも、相手に正体をバラしてしまわれた? ありゃー、お互いの正体を知らずに交流を深めるってとこに、面白みというかお芝居じみた洒落っけがあったんじゃが。

 でもまあ、正体がわかった時のびっくり驚き感も、ちょっとは狙っておりましたし、ここはドッキリ大成功とでもいうべきですかな! のじゃっはっはっは!」

 悪意のカケラもない、ヴァイオラ・マリア・コンキリエ枢機卿の笑い声。

 この小柄な女僧侶を、イザベラとタバサはしばし見つめ――やがて、お互いに目を見合わせると、小さく頷いた。

 言葉を交わさなくてもわかる。ふたりは、結論をぴったり一致させていた。

 すなわち。

 ――だいたい全部こいつのせいだ。

 完璧に同調したイザベラとタバサは、迅速に行動を開始した。まず、タバサが音もなくヴァイオラの背後に回り、羽交い締めにする。

「え、何じゃ?」と、ヴァイオラは慌て始めるが、北花壇騎士として経験を詰んだタバサの羽交い締めは、ちょっとやそっと暴れた程度で抜け出せるものではない。

 両手をぷらぷらとさせて、無防備なわきの下を晒す彼女の目の前に、イザベラが立った。

 ニヤァとサディスティックな笑みを浮かべて。両の手のひらをヴァイオラに向けて突き出し、十本の指をワキワキと意味ありげにうごめかせて。

「え、えーと? イザベラ殿下? タバサ? い、いったい何が行われようとしとるのですかや、これは?」

 ようやく、部屋の空気のおかしさに気付いたヴァイオラは、おどおどしながら尋ねたが、タバサは冷たい沈黙を守り、イザベラは熱っぽく湿った声で、こう問い返すだけだった。

「なあ、マザー・コンキリエ。あんた、くすぐったいのは平気かい?」

「く、くすぐったいのですかや? さ、さあ……あまり平気とは言えませぬ」

「ふぅん、そうかい……じゃあ、何も知らないままじゃ可哀相だから、あらかじめ注意だけでもしておいてあげようかねえ」

「な、な、何をでございますか……?」

 低く押さえたイザベラの声に、ビビりっぱなしのヴァイオラ。その半泣きの顔を、暗い微笑で見下ろして、イザベラは宣告した。

「ガリア王女の名において――あたしたちを騙したあんたをお仕置きするよ」

 直後、プチ・トロワに、のじゃあああぁぁという絶叫が響き渡った。

 

 

 シザーリオと標的までの距離は、わずか三十メイル程度。

 駆け寄らなくても、あとほんの数秒で仕事は終わる。シザーリオの操る広範囲型精神撹乱魔法、《群集(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)》は、虚無の使い手であるジョゼフ王の頭脳さえ支配下に置いていた。ライム色の稲妻が、王の青い髪の中でパチパチとはじけているのに、彼は何も気付かず、傍らのモリエール夫人に冗談など囁いている。

 もちろん、ナイフを片手に接近しているシザーリオのことなど、まったく目に入っていない。

 暗殺者は薄笑いを浮かべながら、さらに歩みを進める。

(すべては、《群集(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)》の作り出す無意識の中で展開し、無意識の中で完結する! あらゆる警備も注意も働かない――オイラ自身、まるで自分の家でくつろいでいる時のような無警戒さで、ことにあたることができる!

 これからオイラは、ジョゼフ王の首を一息に掻き切るが、彼は自分が殺されたことにすら気付かないだろう!

 ほら、もう目の前だ。あとたったの十メイル……)

 彼我の距離は、徐々に詰まっていく。シザーリオの意識は、これから切りつけるジョゼフ王の喉元に集中し――。

「の、の、の、のじゃ――――っ!」

「ぐわっ!?」

 いきなり真横から、何か紫っぽいモノが、ものすごい勢いでシザーリオにぶつかってきた。

 彼は自分の魔法の効力を信じていたので、今、誰かから攻撃を受けることなど、絶対にあり得ないと思い込んでいた。それに、まさか、王宮の中という静謐な場所で、全力疾走する人間がいるとも、まったく思わなかった――それは、シザーリオの油断であった。

 プチ・トロワとグラン・トロワをつなぐ廊下との合流点で、彼はそれと鉢合わせた。ぶつかった衝撃でバランスを崩し、その場に尻餅をついたシザーリオは、自分を転ばせたそれが何なのか確かめるために、顔を上げた。

「あたた……いったい何が……って、ヴァイオラお嬢様じゃねえか」

 彼の目に映ったのは、自分と同じように尻餅をついた、ふわふわした紫髪の小柄な女僧侶――シザーリオの雇い主である、セバスティアン・コンキリエの息女、ヴァイオラ・マリアだった。

 彼女もまた、《群集(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)》の影響を受け、シザーリオのことを認識できなくなっており、なぜ自分が転んだのか理解できない様子で、周りをきょろきょろと見回していた。

「な、何じゃ? よくわからんが、何か透明な壁にぶつかったような、そんな感じが……。

 い、いや、そんなことより、早く逃げねば! あのふたりに追いつかれないように……もう、くすぐり地獄は嫌じゃー!」

 ヴァイオラはそんなことを言いながら飛び起きると、怯えきった目でプチ・トロワの方を見やり、その反対方向へ脱兎のごとく駆け出していった。

「な、何なんだぁ、ありゃ?」

 わけがわからず、シザーリオは首を傾げた。何が起きたか理解するには、情報が少な過ぎた。

 とにかく、まずは立ち上がろうと床に手をついたが――そこで、さらなる得体の知れないもの――爆音のような怒声が、彼の背後から接近してきた。

「逃げんなアアァァこのクソコンキリエエェーッ! 待ちやがれコラアアアァァァ――ッ!」

「ん? 今度はいったい何おぶぅ――○))゜3゜)――っ」

 シザーリオが、声の方向に振り向いたその瞬間。

 怒りの形相で突進してきたイザベラ姫の白いお膝が、身を屈めていた彼のこめかみを思いっきり蹴り抜いていった。

 人ひとりの全体重(たとえ、羽のように軽いお姫様の体重であっても)が乗った強烈な一撃を、何の気構えもしていない状態で頭部に受けては、いかに『スイス・ガード』といえど、ひとたまりもない。シザーリオは凄まじい激痛に声も上げられず、その場でじたばたとのたうち回った。

「んっ? 今、何か脚に当たったような……気のせいかね?」

 立ち止まり、不思議そうにもと来た道を振り返るイザベラ。その足元で苦しむシザーリオの姿は、やはり《群集(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)》の力によって、彼女の目に映ることはなかった。

「まあいいや。それよりもコンキリエのやつ、どこ行きやがったんだい……せっかくあたし自らお仕置きしてやってたってのに、隙をついて逃げ出しやがって……あっ、見つけた! そこだアアァァッ!」

「ひ、ひいいっ、見つかってもうたあぁっ!」

 兎のように逃げるヴァイオラ。それを追って、狼のように駆け出すイザベラ。

 後ろを気にしながら走るヴァイオラの前に、さらなる絶望が立ち塞がった。

「逃がさない。あなたのための道は、ここまで」

「げえっ! タバサ! さ、先回りじゃとっ!?」

「おーっしゃ、よくやったよシャルロット!

 それじゃ、今度こそ覚悟を決めなコンキリエ! 乙女ふたりの純情をもてあそんだ罪は重いんだからね!

 足の裏はどうだい!? どうなんだいオラッ! こちょこちょこちょ〜」

「のじゃはははひははは〜! ら、らめぇ勘弁してぇ! うひあはひゃはははは〜!」

 タバサがヴァイオラを押さえつけ、イザベラが横腹なり足の裏なりおへその周りなりを、執拗に徹底的に残虐非道にくすぐりまくる。

 廊下をごろごろ転がりながら、そんな光景を目撃したシザーリオは――。

(だから……いったい何なんだよ、マジで……?)

 そんなことを思ったのを最後に、とうとう意識を失った。

 

 

 シザーリオが気絶すると同時に、彼の精神力で維持されていた《群集(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)》の効果は、はかなく消え去った。

 ヴェルサルテイル宮殿を覆っていた魔法の霧は蒸発し、ライム色の稲妻も消滅した。脳の働きを阻害されていた人々は、正常な認識力を取り戻し、目の前で起こっていることを正しく理解できるようになった。

 正気に戻ったジョゼフ・ド・ガリアは、まず廊下の先で勃発している騒ぎに気付いて、眉をひそめた。

「モリエール夫人……あそこにいる彼女たちは、いったい何をしているのだろうな?」

「さ、さあ。私にも見当がつきかねます」

 モリエール夫人も、戸惑いながらそれを見ていた。

 ガリア王女であるイザベラが、取り潰しになったとはいえ、王弟家の令嬢であるシャルロット・エレーヌ・オルレアンと一緒になって、ロマリアからの賓客であるコンキリエ枢機卿を組み敷いて、見ている者が引くぐらいの容赦の無さでくすぐり倒しているのだ。

 ぱっと見は、女の子同士の可愛らしいじゃれ合いに過ぎないが、出すトコ出せば、普通に国際問題になる光景である。

 その政治的な意味ゆえに、モリエール夫人は戸惑っていたが――ジョゼフは、まったく別な理由から、その光景に注目していた。

(……なぜ、イザベラとシャルロットの息が、あんなに合っているのだ?)

 ジョゼフの知る限り、ふたりの仲は犬猿のものだったはずだ。それが、気持ちの通じ合った親友同士のように、協力して事にあたっている。

 こんなことは、以前のふたりでは起こり得ない。何があった? 何がふたりを通じ合わせた?

 ジョゼフには理解できなかった。その光景が生まれた原因も、過程も――そして、その光景を見て、自分が顔をしかめている理由も。

 心の壊れた王様には、想像することもできなかったのだ。自分が、自分の娘に――彼と似ていて、彼と同じように不幸なはずの娘に――嫉妬の気持ちを抱くなどということは。

 ジョゼフは、取り憑かれたように、三人の戯れる様子を睨みつけていた。

「あら?」

 そんな王と、彼の見ているものからふと視線をはずしたモリエール夫人は、廊下の片隅に、また別の奇妙なものを発見した。

「可笑しなこと。あの三人だけでなく、こんなところにも、人が寝転んでおりますわ」

 その言葉に反応して、ジョゼフもモリエール夫人の視線の先をたどった。そこには、確かに人が寝ていた――金髪の、洒落た服を着た伊達男が、もがくように絨毯を掴んで、ぐったりと気を失って倒れていたのだ。

 言うまでもなく、シザーリオ・パッケリである。

「ふむ、人の通る廊下で眠るとは、酔狂な奴もいたものだな。

 というか……これは何者だ? 俺の知る限り、我が宮殿に出入りする貴族に、こんな奴はいなかったと思うが。モリエール夫人、あなたはこの男に、見覚えがあるかね」

 哀れにも口から泡を吹いているシザーリオの顔をのぞき込んで、ジョゼフは首を傾げた。モリエール夫人も、人相を確かめるために身を屈めたが、こちらも思い当たるところがなく、首を横に振る。

「私の見知った顔でもありませんわね。顔立ちからすると、外国人のように思えますが……あっ!」

 倒れている男の手に目を向けた途端、モリエール夫人は一歩後ずさって叫んだ。

「ジョゼフ様、お下がり下さい! この男、殿中であるにもかかわらず、抜き身の短剣を手にしております! もしや、陛下のお命を狙う刺客では!?」

「何だと?」

 場の空気が、さっと緊張したものに変わる。

「衛兵! 衛兵ー! 出会え、出会えー! 早く、この曲者を捕らえなさい!」

 モリエール夫人は、よく通る声で見回りの兵士を呼び――わずか十五秒後には、失神した暗殺者は、武装を解除された上に厳重に縄を打たれて、兵士たちに引っ立てられていった。

 

 

 で、あの理不尽極まるくすぐり地獄のあと。

 我は、元気になったシザーリアと入れ代わるように、病室の客となってしもうた。

 ベッドの上で、湿布を貼った足の鈍い痛みに、うおおおぉと切ないうめき声をもらす――まさか、くすぐられ過ぎの笑い過ぎで、足がピーンとつって肉離れを起こしてしまうとは思わなんだ。水魔法のおかげで回復は早いが、それでも治ったばかりの筋肉がしっかり安定するまで、あと三日は寝とかにゃならんらしい。

 てゆーか、物理的な怪我を負わせるぐらいくすぐり続けるって、あのデコ姫には良心というものがないのか。悪辣残忍なエルフでも、あの時のイザベラ姫の笑顔を見ればドン引きすると思う。正直、あの恐ろしさに耐えてまでコネクションを結ぼうと思うほど、我は図太くはない。

 いや、まあ、我もミスったとは思うとるんじゃよ? でも、このミスを事前に予測して対処するって、まず無理じゃろ。あの花壇騎士のタバサが、イザベラ様の愚痴に出てきた大嫌いな従妹だなんて、どう頑張っても思いつかんぞ(タバサの身の上については、あのあと、彼女自身の口から教えてもろうた。取り潰されたとはいえ、政局次第では再浮上もできそうな高貴な血筋じゃと知っておれば、もっと媚びへつらって取り入ったというのに。ぐぬぬ)。

 そんな嫌い合うふたりを、それぞれ変装させて、別人として引き合わせりゃ、うん、真実がバレた時、そりゃ裏切られた感がすごいわな。

 あーあ、イザベラ様とのコネは、これでパァじゃろなー。まあ、最初から無かったもんと思えば、諦めもつくが、やはりもったいないことをしてしもた。

 しかし、あのふたり、これからどうなるんじゃろ。お互いに、相手のことをさらに嫌いになったじゃろうし、やっぱりさらにギスギスした関係になっちまうんかなぁ。

 これきっかけに武力政争とか始めんのはやめて欲しいのう。いや、やってもええけど、我がロマリアに帰ってからにして欲しい。巻き込まれるのだけはマジ勘弁じゃ。

 ――ロマリアに帰る、といえば、父様が東方から帰ってくるとか、シザーリアが言うとったっけ。

 ちょうどあのカタストロフィの起きた日に、シザーリアの病室に使いの者が訪ねてきて、言付けていったんじゃと。ただでさえ失敗してへこんどる我に、何この追い討ちかけるようなバッド・ニュース。

 父様の顔を見ずに済むから、ここしばらくずっとせいせいした気持ちで過ごせとったのに――あのクソ親父のことじゃから、絶対ロクなことせんぞ。

 セブン・シスターズの経営権返せ、って言ってくるぐらいなら、全然無害なレベル。新しい国家興すよ、とか、新しい宗教立ち上げてブリミル教とシェア争うよ、とか言い出してもおかしくない。セブン・シスターズができた時もそうじゃったけど、父様が動きを見せる時って、国家レベルか文明レベルで何かが変わるんじゃよ。そんな奴が東方からハルケギニアまで移動する手間をかけるんじゃから、何をやらかすか心配でならん。

 足の痛みに、つい先ほどの失策に、将来への悩み。繊細な我には、まったく悩みが尽きぬ。

 それに対して、もうすっかりいつもの余裕たっぷりの無表情を取り戻しとるのが、我のベッドの横に控えておるシザーリアじゃ。

 新しいメイド服に身を包んで、果物ナイフでくるくるとリンゴを剥いておる様子は、完全にいつも通りのマイペースじゃが、それはつまり、あれだけ冷たくしてやったにも関わらず、焦りの気持ちが見当たらぬということじゃ。

 我の期待に応えることを諦めたのか、と思いきや、そうでもないらしい。なくなったのは、やる気ではなく闇雲さ。何か一本、スジの通った決意のようなものが、彼女の目の中に感じられる。

「ヴァイオラ様、フルーツのカットが出来上がりました。今、お召し上がりになりますか?」

「うむ、食べる。あーんするから、我の口の中に入れろ」

「かしこまりました」

 フォークに刺したリンゴを食べさせてもらいながら、我はシザーリアに尋ねた。

「シザーリアよ。お前、少し変わったか?

 あの敗戦から、何か学び取りでもしたんかの?」

「いえ。確かに、あれは得難い経験でしたが……もし、私に変化があるとするなら、その原因は、また別な理由によると思います」

「ほう? どんな理由じゃ」

「目標を……越えるべき目標となる人を見つけました。

 ヴァイオラ様をお守りするに相応しい人間になるために、まずはその人より強くなりたいと思っております」

「ふむ……はっきりした目標があるから、どれくらいの加減がいいのかとか、何をしなけりゃならんのかとか、そういう迷いを捨てられた、っちゅうことか?」

「だいだい、そのようなところです。もちろん、その目標となる人は、あの殺し屋より高みに立っておりますが。

 どうぞご期待下さい、ヴァイオラ様。このシザーリア・パッケリ、あなた様が起き上がれるようになるまでに、ひと皮剥けた女になってみせます」

 いや、さすがにそれは進化が早過ぎるんでないか? とか思ったが、護衛が強くなるんは悪いことじゃないし、我はツッコミを入れるのをやめた。

 我の周りは、いろいろと徐々に変わり始めておった。

 

 

 ――さて。シザーリア・パッケリの目標となった人物が、その頃何をしていたかというと――。

 牢屋の中にいた。

 石の壁と鉄の扉に囲まれた狭い独房の床に、脚を折り畳んで、ションボリと座っていた――これは、「セイザ」という東方独特の座り方で、主に反省をする時に用いられるという。

 彼は、見張りの兵士の気配がなくなると、懐からクリスタル・タブレットを取り出して、祈るような気持ちで通話機能を使用した。

『――はい、もしもし』

「あ、もしもし、リョウコさんですか? オイラです、シザーリオです」

 タブレットの向こうから、小川のせせらぎのような澄んだ声がした。シザーリオが連絡したのは、はるか東方にいるセバスティアンの秘書を勤める、リョウコという名の女性だった。

『シザーリオ君かい? こんな朝早くに通話してこないでおくれよ。私、今さっき起きたばかりなんだからね……ふあぁあ……』

「す、すいません。でもちょっと緊急事態で」

『緊急事態? キミ、確か、セバスティアンのお使いで、虚無の使い手たちを暗殺しに行ってるんだよね。そんな難しい仕事でもないはずだけど……まさか、しくじって捕まったとか言わないよね?』

「い、いやー、それがそのまさかでして……アハハ……」

『……………………』

「あ、あの、何か言って下さいよ、リョウコさん」

 シザーリオは不安になって聞き返したが、リョウコの沈黙は、思考を巡らせていたゆえのタイム・ラグだった。

『……キミの能力――《群集(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)》が、打ち破られたということかい? 冗談がきついよ。あれは暗殺のための魔法としては、ほぼ無敵に近いはずじゃないか。

 仮に、虚無魔法の中に、精神操作を解除するスペルがあっても、そもそも相手から対処しようという気持ちを奪ってしまえるから、結局どうしようもないはず……いったい何が起きたんだい?』

「それが、どうしてこうなったのか、全然覚えてないんですよねー。ヴェルサルテイル宮殿の中に潜入して、ジョゼフ王に近付いていったところまでは覚えてるんですけど……頭をぶつけたかなんかしたみたいで、思い出そうとすると頭痛がひどくて」

『役に立たないねぇ』

 ため息とともにそう言われて、シザーリオはさらに肩身が狭くなるが、それでも何とか話を続ける。

「そ、それでですね。今、グラン・トロワの地下牢に入れられてるんですけど……そのー、できれば、助けに来てもらえないかなーってお頼みしたくて……はい」

『……………………』

「お、お願いしますよ。捕まった時に杖を没収されちゃって、オイラひとりじゃ脱出できそうにないんです。クリスタル・タブレットだけは、どう見ても杖じゃないってんで返してもらえましたけど……もう、これで助けを呼ぶしかなくって。

 最初はルーデルの旦那にかけようかと思ったんですけど、あの人の魔法は派手っつーか、威力ありすぎて加減がきかないでしょ? 巻き込まれたくないんで、ここはぜひリョウコさんに、こっそり何とかして頂きたいなぁと……はい」

『……尋問には、何も答えていないだろうね? キミが、セバスティアンの指示で動いていたということや、ジョゼフ王を暗殺しようとしていたことなんかは?』

「い、言ってませんよ! 拷問されたって話しゃしません!

 あ、でも、あと数時間もしたら、マジで拷問が始まりそうなんで、急いでもらえますか。さっき、オイラを捕まえた兵士が、『どばどばミミズを一万匹ぐらい使う拷問プランAを採用する』とか言ってるのを聞いちまったんで。何されんのかわかんないけど、スゲー嫌な予感がします」

『はぁ……まったく、仕方がないな。わかったよ、キミが変な拷問を受ける前に、手を打とう』

「おおっ! ありがとうございます、リョウコさん!

 で、いつ頃、どうやって助けて下さるんで?」

『なぁに、難しい方法じゃないし、キミは待たされたとは感じないだろうよ、シザーリオ君』

 優しく、明るい声で――まるで笑いかけるように、リョウコは告げた。

『私の能力がどんなものか、キミも知っているだろう?

 時間はかかるかも知れないが――あとで、ちゃんと生き返らせてあげるからね』

「えっ。ちょっ、それって、」

 シザーリオが聞き返す前に――通話は切られた。

 

 

 シザーリオからの通話を容赦なく切断したリョウコは、多機能端末であるクリスタル・タブレットを操作して、別な機能を立ち上げた。

 タブレットの表面に、グラフと数字がいくつも並んだ画像が映し出される。それは、シザーリオ・パッケリの健康状態を示すモニターだった。シザーリオのみならず、『スイス・ガード』のメンバーの体内には、体調をチェックする特別なチップが埋め込まれており、怪我したり、死亡したりした場合には、すぐにわかるようになっているのだ。

 このモニター・チップはスグレモノで、体調の観察のみならず、内部に仕込まれた水石の力によって、怪我を回復させるなんてこともできる。いや、回復どころか、脳さえ無事なら、死亡した肉体すら蘇生させてしまうのだから、これはもはや医療の域を超えた技術だった。

 さて、そこまでの凄まじい仕事ができるチップだから、もちろん、生かすことの逆だって、簡単にできる。

 さすがに人為的な操作が必要になるが、リョウコは何の気兼ねもなく、それをやってのけた。シザーリオの現在の状態――『グリーン(健康)を維持』という設定を解除し、別なコマンドを選ぶ。

「えーっと……『シザーリオ・パッケリ――心臓麻痺』と」

 あくびをしながらの、ほんのわずかな指の動き。それだけで、この四十秒後、遠いガリアにいるシザーリオは、虫のように心臓を止めて死んだのだった。

(これで、彼から余計な情報が漏れることはない、と。

 シザーリオは根性のある子だが、たとえばギアスなんか使われたら、さすがにどうしようもないだろうからなぁ。やっぱり、この手の決断は、早く、非情にが鉄則だよね)

 リョウコは眠気の残る頭で考えながら、自分の部屋を出る。時刻は朝の八時――ドウゴの温泉宿の、板張りの廊下には、まだひんやりした空気が残っている。開け放たれた格子窓の向こうに見える庭では、朝露に濡れた木々が、一日の最初の光を浴びて、きらきらと輝いていた。

(とりあえず、朝風呂にでも入って……それから、セバスティアンに連絡するか。

 しかし困ったなぁ。大隆起がまだ始まってもいないのに、『スイス・ガード』がひとり欠けるなんて。

 シザーリオを倒したのは、十中八九ガリアの虚無だろう。四系統メイジごときにやられるほど、彼は弱くない……我々の予想を覆せるのは、いまだに詳細不明の虚無だけだ。

 ジョゼフ王が、シザーリオを撃退できるレベルの実力者だとすると、楽観せず、気を引きしめてかからなければ。次に誰を刺客として差し向けるかは、セバスティアンとの相談で決めなくてはならないが、その任務を受けた者には、けっして油断しないよう、しっかりと言い聞かせておこう)

 残る『スイス・ガード』は、リョウコ自身を除けば、三人。

『轟天』。

『極紫』。

『悪魔』。

 皆、『水瓶』のシザーリオを上回る強力なスクウェア・メイジたちだ。二度目の失敗はない――大隆起を看過し、全人類を滅ぼそうとしている彼女たちが、たかだか虚無のひとりやふたりを片付けられないようではいけないのだ。

 リョウコは、自慢の黒髪を掻き上げながら、朝陽とは反対の方向に目を向けた。そして、滅びゆく種族の、生きるために足掻く姿に思いを馳せる。

 生きようとする意思は美しい。しかし、それ以上にはかない。

 彼女とその仲間たちを除いた人類に、果たして生き抜くだけのパワーがあるのか。彼らは、リョウコたちにどこまで抗えるのか。

 少なくとも、その行く末は見届けようと彼女は思った――それがきっと、新たな世界を支配する種の、担うべき役目なのだ。

 

 

 私は、この古い世界に生きている。

 六千年以上の時間をかけて、私たちの種はこの大地に繁栄してきた。その末裔として思うが――この世界は、お世辞にも美しいものじゃない。

 嫌なものがたくさんある。病気や死がある。事故や争いがある。憎しみや怒りや悲しみがある。

 私個人の世界は、嫌な色の絵の具でめちゃくちゃに汚された、見るに堪えないカンバスだ。父を殺され、母を狂わされ、それをした伯父に殺意を抱き、その娘である従姉と憎しみ合った。暗く澱んだ色しか、そこにはない。

 しかし、だからこそ――ほんのわずかでも、美しく澄んだ彩りを見つけたならば――それを心から大切にするのだ。

 それはたとえば、親友のキュルケだったり。

 勇気を与えてくれる『イーヴァルディの勇者』だったり。

 美味しいごはんだったり。

 あるいは――お互いにすれ違ってばかりいたけれど、ようやく正面からぶつかることのできた、近しい人だったり。

「ねえ。……ねえってば。何であんた、そんなに離れんのさ。もっとこっちに寄っておいでよ」

「嫌。これくらいの距離がちょうどいい」

 シレ河に突き出した桟橋に、私は茶髪の少女と並んで腰掛けていた。ふたりとも、手には安物の釣り竿を握り、糸を緩やかに流れる水面に垂らしている。

 釣りを始めて一時間ほど経つが、獲物は全然かからないくせに、隣の少女は釣り針にでもかかったかのように、ちょくちょく私の真横に移動してきては、ぴったりと肩と肩とを合わせようとしてくる。私はそのたびに、彼女から離れるように移動し、彼女はさらにそれを追いかけてくる。ちっとも落ち着いて釣ることにならない。

「あんたとくっついてると落ち着くんだよ。釣りってさ、穏やかな気持ちでやった方が、よく釣れるんだろ? だったら、あたしの心をほのぼのさせるために協力しておくれよ、シャルロット」

「ダメ。暑苦しい。近寄り過ぎると糸が絡む。あとなんか恥ずかしい。だから諦めて、イザベラ」

 茶髪の少女――かつてはアラベラと名乗っていた少女の、本当の名前を私は呼ぶ。

 イザベラは、ヴァイオラからもらったフェイス・チェンジの首飾りで変装して、今日も宮殿を抜け出してきている。私は、彼女のお忍び遊びに付き合わされていた――私の方も、やはり魔法の首飾りを身につけて――藁色のおさげ髪の、リーゼロッテと名乗っていた時の容姿で。

「ふふ、恥ずかしがるあんたって、ホント可愛いからねぇ。どうしても無理強いしたくなっちゃうよ。

 できれば、偽物の顔じゃなくて、本当の姿で抱きしめてやりたいけど、その楽しみは、家同士のゴタゴタを片付ける日まで取っておくさ」

「……ばか」

 まったく、何がどう間違って、イザベラはこんな風になってしまったんだろう。

 王宮にいる間は、周りの目を気にして、これまでと同じように憎らしく威張ったイザベラで通しているが、ふたりっきりになった時や、こうして偽の身分を使っている時は、まるで糖蜜のようにベタベタと甘えてくるようになった。

 いちいちくっついてくる彼女は、ちょっと鬱陶しくもあるが――それでも、あの陰険な王女としてのイザベラより、ずっと魅力的だし――何より、自然だ。日陰で萎れていた花が、日なたに出されて、たっぷり水を与えられたような、健康で幸せな感じがする。

 実際、今のイザベラは幸せなのだろう。私に正体を明かす前――私の正体を知る前に、彼女が言ったことは嘘じゃなかった。彼女の態度から、私のことを本当に好いてくれているとわかるし、私がシャルロット・エレーヌ・オルレアンだったという事実も、最初こそ戸惑っていたものの、最終的には、むしろ素晴らしい真実として受け入れたらしかった。

 イザベラは、私をずっと憎んできた――私の魔法の才能と、私の冷たい態度が気に入らなくて。

 しかし、そんな大嫌いな相手を、彼女は大好きになることができた。嫌いなものが減り、好きなものが増えた。そんな幸福を、イザベラは思いがけず手に入れたのだ。

 そういう考え方は、素敵だと思う。私も、嫌いなものが好きなものに反転する現象を、イザベラと同時に味わった。だから、実感として、彼女の幸福を理解できる。

 寄ってくるイザベラから、三十サントだけ逃げる。それを繰り返す私が、とても穏やかな気持ちでいると、彼女は気付いているだろうか?

 めちゃくちゃにもつれた糸のようだった私たちの関係を、きれいにほどいて結び直してくれたヴァイオラには、いつかお礼を言いに行かなくてはならないだろう。彼女が用いた方法は、心臓に悪いとんでもないものだったけれど――結果として、私とイザベラに最良の結果をもたらしてくれたのは、間違いないのだ。

「そういえば、さ。これは独り言なんだけど」

 釣れない時間が、さらに三十分ほど経過した頃、イザベラが空を眺めながら、ぽつりと呟いた。

「非公式だけど、親父のところに、砂漠のエルフがひとり、客人として滞在してるんだよ。

 エルフって奴は、人間の知らない知識をたくさん持ってる。薬学にもすごい精通しているはず。

 もし、未知の毒薬のせいで体を悪くした人がいて、その娘さんが困ってる、なんてことがあったら……あたし、そのエルフに、解毒剤がないかどうか、聞いてあげてもいいよ」

 その言葉に、私はたっぷり十秒以上、彼女の横顔を見つめてしまった。

「……いいの?」

「駄目ってことはないだろ。あたしだって、親父の残酷趣味にゃ、ほとほと愛想が尽きてんだ。

 あいつが今までにやってきた悪いことは、償われなくちゃならない。取り返しのつかないこともたくさんあるだろうけど、まだ手遅れになってない問題なら、何とか埒を開けてやりたいのさ。

 言ったろ。あたしはあんたを、本当の姿で抱きしめてやりたい。それができるようになるためなら――あたしと、あたしの家がやってきたことを、あんたに許してもらうためなら――あたしは、何だってやるって決めたんだ」

 力強いその言葉に、私は戸惑って顔を伏せた。

 そんな日が、果たして来るのだろうか。

 母様の病気が治り、ジョゼフが罪を償い、私が怨みを忘れて――私の家とイザベラの家が和解し、みんな仲良く暮らせるような、そんな日が。

 夢のような期待を持つのは、愚かなことだ。でも、私は、その輝かしい未来のヴィジョンが現実になって欲しいと、心から思った。

「あ、シャルロット。あんたの竿、引いてるよ」

 その注意に、はっと我に返る。見ると確かに、浮きが沈んで、竿がしなっていた。

 ぐっと竿を立てて、獲物を釣り上げようとする。しかし、なかなかの大物らしく、力がすごい。私の腕力では、こちらに引き寄せることができない。

 と、その時、イザベラの暖かい手が、私の手に添えられた。

「息を合わせて引っ張るんだよ……そぉ、れっ!」

 ふたりで竿を操り、獲物を桟橋に近付ける。

 さっきより、ずっと竿が軽い。ふたりでやっているから――そうだ。独りでは難しくても、ふたりなら――。

「釣れた」

 暴れ回る獲物が、とうとう水面に顔を出した。

 それは、青黒いひげの生えた、大きなナマズだった。




〜おまけ・その頃の『スイス・ガード』の皆さん〜

極紫「シザーリオがやられたようだな……」
悪魔「フフフ……彼は私たちの中でも最弱……」
轟天「虚無ごときに負けるとは、『スイス・ガード』の面汚しよ……」



リョウコさん「何でだろう、急にものすごく不安になってきた」


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アーハンブラ断章(フラグメンツ)/ジョゼフはみんなにひどいことしたよね(´・ω・`):その1

うひゃはははは! 久しぶりの投稿じゃー!


「ふむ……膠着状態、か」

 薄暗い遊戯室の中で、ガリア王国国王ジョゼフ・ド・ガリアは、短い髭に縁取られた自らの顎をさすりながら、小さく呟いた。

 彼の視線は、目の前にある巨大なジオラマセットに向けられていた。専門の職人によって作られた、非常に精巧な大地の模型だ。山があり、谷があり、森があり、海があり、街があり、国がある。まるで世界のミニチュアのようだ。

 そして実際、それは世界のミニチュアだった。現実の地形を正確に再現した、スモール・ハルケギニア。ジョゼフの作った、彼が見守る、彼が神様の世界。

 その世界では、今、戦争が起きていた。無数の兵隊の駒が、大陸と空に浮かぶ島国とに分かれて、睨み合っている。

 天から、ぬっと、ジョゼフの太い指先が降りてきて、駒のひとつをつまみ上げ、別な場所に下ろす。

 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。戦艦の模型もあり、それも彼の手によって移動させられる。大陸側の空軍が、島国を取り囲むように展開した――特に、港の使用を封じて、島から出ることも入ることもできないように――分厚く、隙間なく。

 その状態をしげしげと見つめて、その意味するところを頭の中で咀嚼して、ジョゼフはため息をつく。

「トリステイン・ゲルマニア連合は、包囲戦術を採用したか。まったく、危なげのない判断だ。しかし、非常に気の長い戦術でもある。

 ゲルマニア皇帝がアドバイスを与えたものだろうが……まだ若いアンリエッタ姫が、このやり方を採用するとは、少々意外だったな。ウェールズ皇太子の死体を使って、戦意と憎悪を煽ったつもりだったのだが、あの程度では足りなかったか……それとも、見た目より自制心があったということか?

 まあそれはどちらでもいい。問題は、これでは面白くないと言うことだ……こんなに戦況が硬直してしまっては……大規模な軍団同士がぶつかり合い、たくさんの血が流れ、たくさんの人が死に、たくさんの悲劇が生まれる……それを期待していたのに。

 こんな退屈な持久戦では、戦艦一隻落ちることすら考えにくいではないか」

 まるで楽しみにしていたピクニックが、雨のせいで中止になったことを嘆くような、そんな屈託のなさで、ジョゼフは文句を言う。

 そう、このジオラマの上で展開しているのは、けっして架空の戦争ごっこではない。駒のひとつひとつが実際の世界での、トリステイン・ゲルマニア同盟軍、アルビオン軍の各部隊が存在する位置を表していたし、軍艦の動きも現実のものと変わらない。では、実際の戦争の状況を、ジオラマの上に再現しているのかというと、それも違う。

 このジオラマの戦争こそが、先に起こっているのだ。

 ジョゼフは、オリヴァー・クロムウェルというブリミル教司祭をアルビオン皇帝に祭り上げ、彼を操ってトリステインやゲルマニアに戦争を仕掛けさせていた。ジョゼフはジオラマの上で、どのような戦法でトリステイン・ゲルマニアを攻めるべきかを検討し、思い付いた通りに盤上の駒を動かし――現実でもクロムウェルに、その駒の通りに軍を動かせと命じていた。

 今現在、ハルケギニアの五大主要国のうち三国を巻き込み、世界全体を緊張させている大戦争の正体が、まさかジョゼフのロール・プレイング・ゲームだなどと見抜ける人間は、どこにも存在するまい。このような人の命をおもちゃにする遊戯は、本来は人間のものではなく、他人の流血と悲鳴と死を楽しむ悪魔のためのものなのだから。

 では、ジョゼフが他者を虐殺することに快感を覚えるサディストなのかというと、それも違う。

 彼には、人が苦しむのを見て楽しんだり、興奮したりすることはできない。そういう趣味がない、という意味ではない。何かを楽しんだり、逆に悲しんだり――そういう心の動き自体を、彼は持っていなかったのだ。

 かつて、弟のシャルルを暗殺した時から、ジョゼフの心は麻痺し、あらゆる感動を受け付けなくなった。

 それまでは、悲しみや憎しみなど、とにかく「自分は生きている」と自覚できる心の震えを、ジョゼフは持っていた。

 魔法の使えない自分と違い、天才的な魔法の才能に恵まれていた弟に嫉妬し、魔法以外のことでなら負けてやるものかと、自分を激励し努力を重ねた。学問、武術、さらにはチェスの腕前で大きく差をつけ、弟から勝ちを拾えば、達成感も覚えたし、優越感に浸れもした。

 しかし、魔法の使えないジョゼフは、何で勝ろうと、世間的な評価はシャルルより下だった。父王の没後、王座につくに相応しいのは、誰もがシャルルだと感じていた――弟をライバル視していた、ジョゼフですら。

 それが、どのような運命のいたずらか――父王がいまわの際に、次の王にと指名したのは、ジョゼフの方だった。

 ジョゼフはこの遺言を喜んだ。王になれることを喜んだのではない。シャルルではなく、自分を選んでもらえたことを喜んだのだ。彼はこの時、やっと弟に勝てたと思った――人からの評価でも、自分はお前を上回ったんだ、ということを誇りたかった。きっと期待していたであろう王座を横からかっさらわれて、悔しがる弟の姿が見られれば、ジョゼフはこれ以上ない満足感に浸れただろう。

 しかし、シャルルは悔しがらなかった。

 笑顔で、兄のことを祝福したのだ。

 まるで、自分には王座など必要なかった、と言わんばかりに。

 兄の必死の闘争など眼中になく、別にどっちが上でも構わない、と言わんばかりに。

 親しみのこもった弟の祝福に、ジョゼフは、あらゆる努力が、優越感が、やる気が、悔しさが、涙が、つまりこれまでの自分の人生が、無惨に叩き潰されたのを感じた。

 大切にしていた価値観を破壊した弟に、ジョゼフは毒を塗った矢で復讐を遂げた。しかし、それは単にこれまで目標にしていたものをゴミ箱に入れたというだけのことで、あとには結局何も残らなかった。

 心に風通しのいい穴が空き、感じたことすべてが、彼の中を素通りしてしまうようになった。そんな風になってしまった者の人生に、どのような希望があるだろうか?

 平坦な凪の海では、船はどこにも進めない。ジョゼフは懐かしむ――苦痛も多かったが、前に進んでいるという感触のあったかつてのことを。

 生きている実感が欲しい。心の震えを取り戻したい。それができなければ、自分は永遠に立ち止まったままになる。

 では、どうすれば心の震えが戻ってくるのか?

 ジョゼフにとっての最後の感情は、シャルルを殺した瞬間の悲しみだった。あれに匹敵する悲劇を目の当たりにし、自分に強い精神的ショックを与えれば、眠っている感情が呼び起こされるかも知れない。

 発想自体は非常に素朴で妥当そうに見える。しかし素朴過ぎたゆえに――この場合は無邪気過ぎたと言うべきか――以降のジョゼフは、周囲に悲劇をばらまく暴君となってしまった。

 シャルル派だった貴族たちを大量に処刑した。シャルルの妻には毒を飲ませ、心を病んだ廃人にしてしまった。さらにはシャルルの幼い娘さえも、母親を人質にして脅し、汚れ仕事を請け負う騎士にして、いつ死ぬともわからない危険な任務をやらせるようにした。

 常人であれば、目を覆いたくなるような悲劇の連鎖。しかしそれを間近で見ていても、ジョゼフの心にはさざ波ひとつ立たない。

 やがて彼は、もっと大きな悲劇、戦争を起こすことを思い付いた。まずはアルビオンで革命を起こさせ、それがうまくいくと、トリステインやゲルマニアに戦火を広げようと企んだ。

 ――しかし――。

 親善大使として偽装したアルビオン艦隊に、トリステインを奇襲させたまではよかった。残念ながらそれは撃退されてしまったが、トリステイン国民にアルビオンへの敵意を植え付けることには成功したはずだ。

 さらに、アンリエッタ姫に対する挑発行為によって、トリステインはアルビオンへの報復を兼ねた侵攻を決意する――はずだった。恐らく同盟国であるゲルマニアも参戦し、三国の軍隊が総力をあげてぶつかる、大規模戦闘が勃発する――はずだった。大勢が直接的に殺し合い、ジョゼフの心を揺り動かすような、この世の地獄を現出させる――はずだった。

 そのはずだったのに、トリステインは理性的に行動する決断を下した。

 アルビオンを包囲し、輸入を規制することで、戦闘なしで相手を降伏させる戦略を取ったのだ。

 確かに、アルビオンは小さな国で、土地もさほど豊かではない。食料自給率は低く、かなりの割合を外国からの輸入に頼っている。

 しばらく食料の供給を止めてやれば、いずれアルビオンは飢えて白旗をあげなくてはならなくなるというわけだ。

 合理的で効率的。アルビオンへの敵意と、直接的な害意さえ抑えられれば、最も良い解決策と思われる。

 ただ、ジョゼフにとっては、それは非常に拍子抜けで、つまらない展開だった。

 そんな穏やかな決着では、絶対に彼の心は震えない。もっと血が。悲鳴が。悲劇が必要だったのに。

「ううむ、いっそアルビオンに、再度トリステインを攻めさせるか? いや、前回の失敗で、空軍がひどく消耗している。恐らくあっという間に鎮圧されてしまうな。戦争の火種が、ますます小さくなるだけだ。

 更なる挑発やゲリラ戦術は……いや、今のトリステインとゲルマニアの結束は固い。散発的な攻撃では小揺るぎもすまい。さて、どうしたものか……」

 相手は攻めを放棄している。こちらから攻めることもできない。状況を動かしうる最も大きな要因は時間だが、待てば待つほど、アルビオンは飢えて弱っていく。

 はっきり言って詰みに近い。もちろん、ジョゼフならば、ここからでもアルビオンを逆転勝利させることのできる策を、いくつでも思い付くことができたはずなのだが、この日の彼は今ひとつ、ゲームに集中できないでいた。

 というのも、他に気になることがあって、ことあるごとにそれが脳裏をよぎったからだ。連続すべき思考はそのたびに分断され、膨らみかけたアイデアはしぼんでしまう。ジョゼフにとって、それは非常に不快なことだった。

 ジョゼフの胸につっかえているもの。それは、彼の娘であるイザベラについてのことだった。

 イザベラ・ド・ガリアは、父によく似た娘である。もっとも、外見的な一致は美しいロイヤルブルーの髪ぐらいなものだが、内面は相似形と言ってもいいほどに似ていた。

 魔法の才能に乏しいこと。そのことにコンプレックスを抱いていること。劣等生の自分と、優秀な従妹のシャルロットとを比べて、自己嫌悪と嫉妬に身を焦がしていること。

 どこをとっても、シャルルと張り合っていた頃のジョゼフ自身だ。

 そんな娘に、ジョゼフは親近感ではなく、同族嫌悪を覚えていた。彼にとって、娘は過去の幻影だ。情けなく、無様で、絶対に幸せになれない。努力はすべて無駄に終わり、誰からも認められず終わる。自分の経験を通じて、そんな未来が手に取るようにわかる。見ているだけで――嫌になる。

 だからこそジョゼフは、イザベラに彼女が嫌うシャルロットをあてがった。イザベラを上司とし、シャルロットを部下として監督しなければならない立場に立たせた。

 これはイザベラ、シャルロット両方に対する嫌がらせだった。シャルロットの才能に嫉妬するイザベラ。父を殺し、母を病ませた仇の娘に従わなければならないシャルロット。ふたりは当然反目し合い、鬱屈を溜めていくだろう。それがつもり積もって、やがて悲劇的な爆発を引き起こしてくれればな、と、ジョゼフはぼんやり期待していた。

 ――ところが。

 先日、ジョゼフは見てしまったのだ。イザベラとシャルロットが、息もぴったりに協力し合い、ロマリアからの客であるコンキリエ枢機卿を追い詰めてくすぐり倒していたのを。

 その時のふたりは、まるで虚無の曜日ごとに待ち合わせて一緒に遊びに行くような、仲のいい友人同士のようだった。屈託もわだかまりもなく、好意によってつながっていることが見てとれた。

 ジョゼフはそれを見ていて、胃が重くなるような感覚を味わった。彼自身気付いていなかったが、それは久しぶりに発現した、動揺と嫉妬の気持ちだったのだ。しかし、鈍感な彼が自覚できたのは、なぜこんなことが起き得るのだ? という疑問だけだった。

(イザベラとシャルロットは、互いに嫌い合うように仕込んでいたのに。いつの間に、何が起きたのだろう?

 シャルロットだけならまだしも、俺に似ている、空っぽの心しかないイザベラが、あそこまで生き生きしているのは解せない。なぜあいつは鬱々としていない? 楽しそうにはしゃいでいる? 理屈に合わない……公平じゃ、ない)

 ひとたびそのことが頭にとりつくと、盤上の戦争ゲームはしばらくの間無視される。やがて、横道にそれていることに気付いたジョゼフが、あらためて駒をどう動かそうか考え始めても、イザベラとシャルロットの顔が、皮膚に刺さったまま抜けない棘のように気になってしまい、集中できない。

 ジョゼフのゲームは、トリステイン・ゲルマニア同盟の気長な戦術と、ジョゼフ自身の思考の不調によって、ここ数日、ほとんど進んでいなかった。

「……ここまでだな。このゲームにも、飽きが来た」

 手のひらをざっと動かし、彼は、ジオラマの上に並んだ駒たちを、ひとつ残らず床に払い落とした。

 ジョゼフが飽きて、ゲームを放棄することは珍しいことではない。もっとも、彼が盤を放り出す理由のほとんどは、簡単に勝て過ぎてつまらないから、というものだから、集中できなくてやめる、という今回のケースは、実に珍しいものと言えた。

 一度放棄したゲームにはもう目もくれないので、アルビオンとトリステイン・ゲルマニア連合の戦争は、これ以降は自然の定める通りに展開し、決着することになるだろう。

 そしてジョゼフは、また新しいゲームを――悲劇を産み出すゲームを探してさ迷うのだ。

 さて、何かないだろうか。戦争より刺激的で、規模の大きい悲しみを作り出すものは?

 それとも先に、目障りなイザベラとシャルロットの件を何とかすべきか。彼女らを不幸の沼に首まで浸けておかなければ、気が散っていけない。

 悲劇的なゲームをプロデュースしつつ、そこにイザベラたちを巻き込めれば一石二鳥なのだが――。

「……ジョゼフ様」

 考えるジョゼフの後ろ姿に、突然声をかけた者があった。

 彼が振り向くと、そこには暗がりに溶け込むように、ひとりの女が立っていた。

 ハルケギニアでは珍しい、長い黒髪。豊かな胸に引き締まったウエスト、長い脚という魅惑的な肉体を強調するような、薄手の黒いドレスを身にまとった、黒ずくめのその姿は、まるで夜の妖精のようだ。

 顔立ちもその雰囲気に相応しく、妖しい美しさを備えている。紫色のルージュを引いた唇は艶然と微笑み、切れ長の目にはジョゼフに向ける親愛と敬意とが表れていた。

 そして、特筆すべきはその額。魔力を帯びて淡く光る、不思議なルーン文字が、大きく刻まれている。

 見る者が見れば、それが古い伝承に記された四体の始祖の使い魔、その中でも神の頭脳と呼ばれるミョズニトニルンを表すものだということに気付くだろう。

「おお、余の女神(ミューズ)。ちょうどいいところに来てくれた。実はな、例のアルビオンを使った戦争ゲームに、すっかり退屈してしまったのだよ。

 新しい娯楽を探さねばと思っているのだが、どうもいいアイデアが浮かんでこなくてな。お前の周りに、何か面白いことはないだろうか?」

 ジョゼフの親しげな呼びかけに、ミューズと呼ばれた女性――王宮内では、ミス・シェフィールドという名で知られている――は、ジョゼフを慰めるように、彼の手に自分の手のひらをそっと添えた。

「それは残念でしたわね。

 まあ、クロムウェルも自分の国の面倒ぐらいは自分で見られるでしょうし、放置しても問題はないでしょう。

 それにしても……新しい娯楽、ですか。生憎ですが、すぐには思い付きそうにありませんわ。

 今日、ここにお邪魔しましたのも、何てことのない事務報告のためですから。先日、王宮に侵入した曲者についての調査結果がまとまりましたので、ご報告に上がりましたの」

「ふむ? 曲者というと、あのわけのわからん男のことか? 巡回の兵士たちにまったく気付かれずに、王宮の深部にまで入り込んできたくせに、なぜか廊下の真ん中で気絶していて捕まった……」

「はい、その男のことですわ。身元を示すものをまったく身に付けていませんでしたので、尋問するために牢に閉じ込めておいたのですが、話を聞く前に心臓麻痺で死んでしまった、あの男です」

「うむ。だが、死体は残っていたのだろう? ならば、結局尋問は成功したはずだな?」

「ええ、もちろんです。これさえあれば、曲者だろうと死体であろうと、私の忠実な友人ですわ」

 言ってうっすらと笑みを深めたシェフィールドの右手、その人差し指には、何やら不思議な雰囲気を醸し出す、古びた指輪がはめられていた。

 これはラグドリアン湖に棲む水の精霊の秘宝で、名をアンドバリの指輪という。

 強い水の力を宿しているマジック・アイテムで、人の心を操って奴隷にしたり、果ては死者に偽りの命を与えて蘇らせたりすることができるのだ。ジョゼフはシェフィールドを介して、クロムウェルにこの指輪を一時貸し与え、その力でアルビオンを支配させたのだった。

「で、あの曲者はどこの手の者だった? 地下に潜っているシャルル派の生き残りか? それとも、『テニスコートの誓い』のような過激派だったか?」

「いえ……それが、なんと言いますか……」

 問われたシェフィールドは、急に、困ったように口ごもる。

「誰の差し金だったか、聞き出すことはできました。ですが、その、その証言が、いまいち信用できない可能性が……」

「? どういうことだ? アンドバリの指輪を使ったのなら、使われた者はお前に忠実になるはずだ。ならば嘘は言うまい。まさか指輪の力に反抗している、などとは言うまいな?」

「いえ、そういうことではございません。ただ、あの男、死ぬ前から、ここに問題があった可能性が……」

 そう言って自分のこめかみを指差すシェフィールド。そのしぐさで、ジョゼフは状況を理解した。

「ああ、なるほど……狂人の類か。それは少々厄介だな。

 で、結局そいつは、どんなことを言っているのだ? 夢枕で、ブリミルに命じられたとでも言ったか?」

「それに近いです。自分はどっちにしろ生き返るはずだったのだとか、この仕事の報酬として国をひとつもらうはずだったのだとか、馬鹿馬鹿しいことを真剣に話すのですから」

「ふむ……確かに、まともではないな……。

 だが、まあ、ちょうど暇をしていたところだ。狂人の夢見がちな話を聞くのも、退屈しのぎにはなるかもしれん。

 シェフィールドよ、その男をここへつれてきてくれ。余が自ら、証言の真偽を確かめよう」

「はっ。かしこまりました、ジョゼフ様」

 優雅に一礼して、シェフィールドは闇に紛れるように、音もなく退室していった。

 ジョゼフにしてみれば、この命令は自身の言葉通り、退屈しのぎ以外の何物でもなかった。次の娯楽を見つけるまでの、どうでもいい時間潰し。

 それがまさか、自分の人生を左右する重大な出会いにつながっているとは、思ってもいなかった。

「つれて参りました、ジョゼフ様」

 五分ほどで戻ってきたシェフィールドは、二十歳前後ほどの、若い男を伴っていた。

 長い金髪を、頭の後ろでみつあみにした、なかなかの美青年だ。パリッとしたシャツ、脚の長さを強調するようなタイトなズボンなど、身に付けているものも洒落ている。暗殺者というよりは、舞台役者か何かと言われた方がしっくり来るだろう。

 彼はシェフィールドに押し出されるようにジョゼフの前に立つと、ややぎこちない笑みを浮かべて、「どうも」と挨拶した。少しだけ緊張しているようだが、本来は人懐こい、明るい性格の人物なのだろうと、ジョゼフは判断した。

「お前が、余を暗殺しようと宮殿に侵入した不届き者だな」

 ジョゼフが威厳を込めてそう尋ねると、青年はばつが悪そうに肩をすくめて、こう答えた。

「ええ、仰る通りです。

 でも、結局失敗して、陛下には傷ひとつつけずに終わりましたし、今じゃこちらのシェフィールド姐さんの部下になりましたんで、どうか過去の悪さは水に流しちゃくれませんかね?」

 そのさばけた態度が、ジョゼフの表情をニヤリと笑わせた。

「ふっ、とぼけた奴だな……気に入った。

 よかろう。貴様の無礼は、今回に限り忘れてやろう。もちろん、余の役に立たないようなら、いつでも思い出すことができるがな。

 さて、それはそれとして、だ。貴様には色々と聞きたいことがある。余が直々に尋ねてやるのだ、心して答えよ。

 まずはそうだな……貴様の名を聞かせろ」

「名前っすか? へえ、シザーリオって言います。シザーリオ・パッケリ。どうぞよろしく」

 

 

 健全な精神は健全な肉体に宿る、という言葉がある。

 しっかり鍛えられた健康な体の持ち主は、心根も鍛えられて立派になるっちゅー意味で、要するにスポーツ万歳貧弱な坊やはクズじゃからちったぁ動いて筋肉つけやがれ、って感じの、汗と青春至上主義者どものスローガン的なあれじゃね。

 さて、この言葉、裏返すとまた違った意味になる。つまり、もとから人に尊敬されるような立派な精神を持っておる人間は、自動的にその肉体も健康である、ということじゃ。

 ならば、ロマリアにおいて絶大な権力を誇り、多くの信者に慕われ、まさに人の上に立つべくして立つ我のような人間は、その白雪のように純粋で清浄な心根の加護によって、常日頃から健康に恵まれるのが当然と言えよう。仮に怪我をしても、すぐに治ってしまうべきである。でなければ道理に合わぬ。

「ふはははーっ! 見るがいいシザーリアよ! 我のこの脚の動きのなめらかさを! これはもはや、完全復活と言って差し支えなかろう!」

「お見事ですヴァイオラ様。あんよが上手でございます」

 メイドのシザーリアに手で支えてもらいながら、我は病室の中を二本の脚で縦横無尽によちよちよちよちと歩き回る。

 数日前、何かわからんがイザベラ姫とタバサにくすぐり倒された我は、脚の肉離れという恐ろしい怪我を負った。

 しかし、ガリア王宮お抱えの医師どものそれなりな治療と、我自身の清廉潔白な魂が肉体に及ぼした聖なる感じのヒーリング作用(我のようなエライ人間にならきっとあるはず)によって、早くも通常の歩行が可能な程度には回復することができた。まだ本調子とは言えんが、リハビリ代わりにこうして室内限定で動くことならちょちょいのちょいじゃ。

「ふーっ。この調子ならば、明日にはもう、この辛気臭い病室からおさらばできるやも知れんな」

「ヴァイオラ様ならば、きっと可能でしょう。ですが、どうかご無理はなさらぬよう」

「わかっておるわ。じゃが、いつ我が元のプチ・トロワの客室に戻ってもええように、準備はしておくのじゃぞ」

「心得ております。お部屋着も、よそ行きのお召し物も、いつでも袖を通せるようにご用意させて頂いております」

「うむ、よい心がけじゃ。まあ、治ったらばすぐに、ロマリアに帰るという選択をする可能性もありうるがの。この国には、ちと長く留まり過ぎたわ」

 ホントなら、シエイエス大司教を陥れる手紙をジョゼフに届けたらば、そのあとほんの二、三日観光してすぐ帰るつもりじゃったのに、なんやかんやあり過ぎて、もう二週間近くこのヴェルサルテイル宮殿に留まっておる。それが実りのある日々ならよかったんじゃが、結局のところ損ばかりで、なーんも得はしておらぬ。

 シエイエスを陥れる計略は、シエイエス自身が陥れられるまでもなく最初から穴の底におったせいで、よーわからんうちにうやむやになったし、じゃあせめてイザベラ王女に取り入ってガリアの国政を裏から操ってやろうと企んだら、やっぱりよーわからんうちに王女とその従妹のシャルロット殿下(パーソナルネーム:タバサ)の怒りを買って、全身くまなくこちょこちょされるし。そのせいで肉離れを起こして、ベッドでしょんぼりせねばならなくなるし――つまるところ我、ガリアに来てから怪我しか手に入れておらぬ。

 どうもこのガリアという国と、我との相性は非常に悪いようなのじゃ。これ以上居続けても、利益があるとは思えんし、むしろ厄介ごとばかり増え続けそうな気がする。やはり住み慣れたロマリアが一番じゃ。早くおうちに帰って、我を礼賛してくれる世の中のバカどもを見下ろしていい気分になりたい。

 というわけで、当面の目標は怪我の全快と速やかな帰郷じゃね。そしてそれが無事に叶うまで、余計なアホイベントがひとつも入らんようにとも祈っておきたい。あの凶悪なイザベラ姫だとか、我を妹扱いする甘ったれのタバサとはもう金輪際関わってやるものか。

 と、そんな風に思っていた時じゃった。こんこんと扉がノックされたのは。

 シザーリアに目配せして、来客のために扉を開けさせる。入ってきたのは、なんか全身真っ黒な出で立ちのカラスみたいな女じゃった。陰気なカラーリングのくせに胸はでかかったので、ちょっとばかしイラッとした。じゃが、立派なブドウの盛られたフルーツ籠を携えておったので、我のイラつきは瞬時に雲散霧消した。甘いものは心を穏やかにしてくれる。見舞品としてはやはりこういうものがありがたい。

「失礼いたします、マザー・コンキリエ。お加減はいかがですか」

「うむ、順調によくなっておりまする。ところで、おたくはどちら様でしたかな?」

「これは失礼しました。私、ジョゼフ一世陛下の直属の女官で、名をシェフィールドと申します。どうぞお見知りおきを」

「おお、陛下の……」

 となると、ちょっとへり下っといた方がいい相手っちゅーこっちゃな。

 今んとこあのジョゼフのバカ王とは特に確執もないし、奴との付き合いは今後の商売に役立つじゃろう。奴と直接的な接触のある女官に媚を売ることは、きっといい結果を生むはずじゃ。

「さ、どうぞこちらの椅子にお掛け下され。シザーリアよ、ミス・シェフィールドのお荷物をお預かりせい。

 ここでは、あまりよいもてなしもできませぬのが残念でございます。もしお時間を頂けるようでしたら、このメイドにお茶を入れさせますが」

「いえ、お気遣いなく。本日は、陛下からの伝言をお伝えしに参りましただけですから」

「陛下からの伝言、ですかや」

 シザーリアが受け取った美味そうなブドウを横目に見つつ、我はシェフィールドに言葉の続きを促した。

「ええ。『明後日の晩餐に、マザーをご招待したい。ご多忙でなければ、是非おいで願いたい』だそうです」

「ほほう! 王様からご招待を頂けるとは、実に光栄ですな」

 うむ、やはりさすがは一国の主、シエイエスの偽手紙を持ってきた我に、ちゃんと恩義を感じてくれておるようじゃ。ケツの青い小娘のイザベラとは違うわい。

 これはあれじゃな、晩餐での他愛ない会話に乗じて、しっかりコネを固めておけという始祖のお導きじゃな。つまり逃してはならない千載一遇の大チャンス。ここしばらく全然いいことなかったが、ここに来てようやく運が向いてきたか。

「かしこまりました、ミス・シェフィールド。必ず出席いたしますと、陛下にお伝え下さいませ」

「ありがとうございます、マザー。陛下もお喜びになられますわ」

 そう言って、にっ、と唇の端だけをつり上げてみせるシェフィールド。その笑い方が少し胡散臭く見えたのは、果たして我の気のせいじゃったろうか。

「では当日、またお迎えに参ります。それまでにお怪我がご快癒なさるよう、陛下と共にお祈りいたします」

「お心遣いに感謝いたしますぞ、ミス・シェフィールド。ではまた、明後日の夜に……」

 そうして話を終えると、ミス・シェフィールドは丁寧にお辞儀をして、部屋を出ていった。まったく、王の側近らしい、そつのない態度であった。

 その後ろ姿が、閉じ行く扉の向こうへ完全に消え去るのを見送ってから、我はフムン、と息を吐き、控えるシザーリアの方を向いた。

「聞いた通りじゃ、シザーリア。明後日の予定ができたわ。

 王との会食に相応しい、品のいい洋服を出しておけ」

「かしこまりました。僧服と夜会用のドレスとでは、どちらがお好みでしょう?」

「んー、普段が僧服じゃからのう。たまにはドレスにしようか。柔らかくて丈が長くて、淡い色合いのやつがよかろうの。

 アクセサリーは、おっきなダイヤのついた髪飾りがあったじゃろ。あれを出しとけ。上品な席にはちょうどいい」

 そう指示を出しながら、我は内心でニヤつく。せいぜいあのアホ王に媚びて媚びて媚びまくって、今までの損を取り返すようなでかいお土産を引き出させてもらうとしよう。

 なーに、相手は国際的にアホだバカだ無能だと言われまくっておる残念王じゃ、聡明なる我ならば、調子に乗らせたり騙したり言いなりにしたりするくらい、おちゃのこさいさいじゃろうて。

 領地を寄越せとかまでは、さすがの我も言いはせぬ。でも、美味い酒を作るワイナリーとか貴族の集うレストランの経営権とか、そういう軽いもんであれば、ポンとくれたりするくらいの太っ腹さは期待してもよかろうな? ウエヘヘヘヘ。

 よっし、モチベーション上がってきたのじゃ! 明後日までに、優雅で美しいウォーキングができるよう、体を仕上げておかねば! 我はやるぞー!

 

 

「ねえ。聞いたところによると、あんたはいろんな薬を作れるんだそうだね?」

 グラン・トロワの奥の奥、特別に許された者しか立ち入ることのできない秘密の部屋で、あたしは――イザベラ・ド・ガリアは、そんな問いかけを口にした。

 何でもない世間話の一部のような、きわめてさりげない切り出し方ができたと思う。でも、内心は緊張と恐怖でかなりガクガク震えてた。問い掛けた相手というのが、ハルケギニア人ならばまず恐れずにはいられない存在だったから。

 あたしは恐怖を押し殺しながら、そいつを直視した。長い金髪を背中まで垂らした、背の高い男だ。話しかけられたにも関わらず、こちらに背中を向けたまま、振り向こうともしない。何やら得体の知れない草や干物を乳鉢に入れて、丁寧にすり潰している。

 王族であるあたしを無視して、手仕事の方に集中しているこの野郎の無礼を咎めてやりたいところだけれど、それだけは我慢しなくてはならない。あたしの計画にこの男の協力は必要不可欠だし、仮に必要ないとしても、こいつを怒らせるような行動は慎まなければならない。純粋な戦闘力の問題で、あたしではこいつに勝つことができないからだ。いや、ぶっちゃけ、花壇騎士を全部束にしてぶつけても、普通に返り討ちに遭う危険性がある。あー、そんな危険物に単身で向かい合うあたしって、なんて勇気があるんだろうね。

「なあ、答えておくれよ。暇なお姫様の知的好奇心を、軽く満たしてくれるだけでいいんだ。

 あんたたちの薬学は、あたしたち人間のものよりずっと進んでるんだってね? ちぎれた手足を元通りつなげるような薬や、流行り病を治すどころか、かかることすら予防できる薬とか。

 毒薬もとんでもないのがあるって聞くよ。一度口にすれば、永続的に心を病ませる呪いの薬とかあるらしいね。まったくゾッとするよ。

 でも、そんな薬のレシピがあるんなら、当然解毒剤のレシピもあるんだろうから、心配はいらないんだろうけど……」

「念のため言っておこう、蛮人の姫、イザベラよ」

 そいつはあたしの口上を、感情のこもらない冷たい一言でさえぎり、そっとこちらを振り向いた。

 ナイフを思わせる切れ長の目。凛々しく一文字に結ばれた唇。大理石の彫刻のように整った、ちょっと人間離れした美形だ。そして実際、こいつは人間じゃない。その証拠に、その耳はピンと尖って長く、砂漠にすむ恐るべき亜人、エルフの特徴を完全に備えていた。

 彼は言葉を止めた私に、まるで楔を打ち込むように、こう言ってのけた。

「もし、その精神を病ませる毒薬が欲しいとか、その毒の解毒剤が欲しいと言うのなら、諦めることだ。我はその要求に応えることができない」

「ッ……そ、そりゃいったいどういうことだい、ビダーシャル卿」

 あたしは足元を崩されたような気持ちを味わいつつも、それを表に出さないよう踏みとどまって、エルフに――ビダーシャルに食い下がった。

「まだ頼んでもいないのにさ、何でそれに応じることができない?

 薬を作れないってわけじゃないんだろ? 対価が払えないだろうとか思ってるんなら、そりゃ侮辱だよ。あたしだって一国の姫なんだ、金なら有り余って……」

「そうではない。理由は、契約に反する結果を生む可能性があるからだ。

 我は今、お前の父君であるジョゼフと契約を結んでいる。彼に願い事を聞いてもらう代わりに、彼のために働いているわけだ。

 お前の依頼を――まあ、毒薬や解毒剤の製作を依頼する意図があったとしてだが――受けてしまうと、ジョゼフにとって都合の悪いことが起きるかもしれないと考えられる。我は、雇い主の利益を損なう行いは、できる限り慎まなければならない」

「つ、都合の悪いことって……あたしが何をするってんだい」

「お前は王位継承権を持っている。そしてジョゼフは、あまり評判のいい王ではない。

 我がお前に毒を与えたとして、それを王に使わないと誰が言える?」

 歯に衣を着せない物言いに、さすがのあたしも二の句が継げない。

「求めるものが解毒剤であっても、似たようなものだ。ジョゼフは政治的に敵対関係にあったオルレアン公夫人に、精神を病ませる毒を用いている。そのことはお前も知っていよう。

 もしも解毒剤が、公夫人の治療に使われたなら。ジョゼフにとっては好ましいことではあるまい。

 そんな使い方をする気はない――と、お前は言うかも知れないが、この場合お前の意思は関係がないのだ。お前に渡った解毒剤が、奪われるなり盗まれるなりして公夫人に渡っても、同じことが起きてしまう。何にせよ、ジョゼフにとって不都合な結果が起き得るというわけだ」

「そうなる可能性があるから、あたしにその手の薬は渡せない……ってわけかい。いや、違うな。誰に頼まれても、そういう薬は渡さないし……そもそも作らないってことだね?」

「その通りだ。もちろん、ジョゼフ自身が望めば話は別だが」

 ビダーシャルの言葉を頭の中でまとめながら、あたしは下唇を噛んだ。

 エルフが契約というものを非常に重視する、ある意味商人のような気質を持つ連中であるということは知っていた。しかし、ここまで取り引きに対して誠実で、思慮深いというのは予想外だった――実際に契約を結ぶとしたら、とても信頼できるが、あたしが出し抜きたいと思っているジョゼフ王――我が不肖の父上――と契約しているこいつは、その信頼のおける姿勢が極めて厄介だ。どんなになだめすかしても、脅しつけても、騙そうとしても、哀願しても、あのバカ親父の不利益になる可能性がある以上、絶対に解毒剤を調合してはくれないだろう。

 しかしそれでも、あたしはその不可能ごとを、このエルフにやらせなくてはならない。可愛い可愛いシャルロットのために。今までのろくでもない人生を清算して、あいつと手を取り合って歩いていくために。

「……ふうん。なかなかしっかりした考え方を持ってるじゃないか。さすがはエルフってとこかね。王宮に出入りしてる商人たちも、それくらいサービス精神旺盛だと助かるんだけど。

 ね、あんた、父上だけじゃなくてさ、あたしとも契約を結ぶ気はないかい? あんたみたいにしっかりしたルールを持ってる奴なら、安心して部下として使えそうだからね」

「ありがたい申し出だが、お断りさせてもらおう。二重契約はトラブルを生みやすい」

「ちっ、ホントにしっかりしてやがるね……でも、だからこそなおさら欲しくなったわ。なんか抜け道はないのかい? あたしにあんたをかしずかせる、今からでもできるやり方は?」

「そんなものはない。我とジョゼフとの契約が切れるまで待つがよい。そのあとでならば、交渉に応じるのもやぶさかではない」

 彼のその言葉に、あたしはごく小さな、しかし確かな希望の光を見た気がした。

「契約が切れたら、か。じゃあ、もし父上が、今すぐにでもあんたとの契約を破棄するって言ったら、その時点であんたはフリーになるわけだね?」

「そうなるな」

「それ以外でも、そうだね、父上が契約を無視して、あんたに不利益な行動をとったら? つまりあんたが裏切られたら? その場合は、あんたの方から契約を破棄することもあり得る?」

「その場合は……確かに、契約は無効となるだろう。そして、ジョゼフにとっても、重大な不利益が生じることとなろう。お互いに得はない。そうならないことを、心から祈るのみだ」

 よし。それならばいける。

 父上がビダーシャルを裏切れば。そうなるようにうまく誘導すれば。二人の契約は切れて、あたしが代わりに彼と契約を結ぶことができるようになる。

 あの気まぐれで人の迷惑をかえりみないバカ親父なら、ほんのちょっと煽れば何となく後先考えずにビダーシャルを裏切ってくれるだろう。あの人に、エルフの報復を恐れるような、当たり前の人間性などありはしないのだから。

 これで方針は決まった。何とかして親父とビダーシャルが仲違いするように仕向ける。そしてふたりの契約が破棄されるのを見計らって、あたしがビダーシャルを雇う――それがうまくいけば、こいつに精神毒の解除薬を作らせるまでは一直線だ。全く難しくない。

 ただ、ひとつ懸念があるとすれば、あの親父は人間性は欠片もないが、知恵は人一倍あるという点だ。こっちの企みが知られたら、絶対に逆手に取られる。警戒される、とかいうレベルではなく、計画を阻まれた上で、こっちが思い付きもしないような最悪の状況に追い込まれる。ジョゼフ王に謀略と詐術で挑もうとして、それをことごとく封殺されて破滅していった政治家や企業家、テロリストの類を、あたしは何人も見てきた。その仲間に入らないように、できる限り注意を払わなくてはならない。

「ときにイザベラよ。我からも、ひとつ尋ねてもいいだろうか」

「ん? ああ、あたしばっかりさんざん質問攻めにしちまってたからね、別に構わないよ。なんだい?」

「正直に答えてもらえることは期待していない。だが一応聞いておく……お前は、我と契約することで、自分の父親を害そうとしているのではあるまいな?」

 その言葉に、あたしの頬はひきつった。

 あたしは自分が最初っからポカをしていたということに、この時ようやく気付いたのだ。

 このエルフだって、並々ならぬ知性の持ち主だ。それこそ、親父が部下としてではなく、わざわざ客人扱いでもてなすほどの。

 そんな奴に、あたしは突っ込んでモノを尋ね過ぎた。薬のこと、親父ではなくあたしに仕えさせるための条件など、際どいことを。――こいつは今、正直な答えは期待していないと言った。半ば以上の確信がないと、そういう言葉は使うまい。

 虎の尾の上に、足を乗せてしまった。だが、ここでやけになってはならない。あたしの『反乱』はまだ、未遂ですらないのだ。尾を踏んだ足に体重をかけないよう、そっと後退して、体勢を整えれば、うん、まだ巻き返せるはず。

「……怖いことを言わないでおくれよ、ビダーシャル。あたしは単に優秀な部下を欲しているだけさ。

 父上に対しては、なんも含むところはないよ。ただ、そうさねえ……父上よりはあたしの方が、あんたを効率的に使えるのにって思いは、確かにあるかな。あの人、あんたのこと、ほとんど遊びの延長でしか使ってないだろ? せっかくのエルフの技術なんだ、もっとこう、医薬品の質の向上だとか、城塞の強化だとか、いろいろ世の中の役に立つことに使いたくなるじゃないか」

「……それは、我も思わないではないな。もし機会があるなら、ぜひお前からジョゼフに進言しておいて欲しいものだ。

 もっとも、そのくらいで彼が気づかいをしてくれるようなら、誰も苦労はしないわけだが」

 鉄面皮をほんの少しだけほころばせ、苦笑に近い表情を見せるビダーシャル。彼もまた、親父に関わったことで苦労している者たちのひとりのようだ。この一瞬だけ、あたしはこいつに、人間とエルフという垣根を越えて親近感を抱くことができた。

「しかし、まあ、なんだ。お前がジョゼフに害意を持っていないというなら、それが真実であることを心から祈ろう。

 肉親同士で争うというのは、悲劇の中の悲劇だ……自分に近しい者を傷つけることは、自分の一部を傷つけることと同じ意味を持つからだ。

 エルフが、蛮人を殺すより、同じエルフを殺すことに忌避感を持つように……あるいは蛮人が、豚を殺すより、同族である蛮人を殺すことに罪悪感を持つように。生物は自分から遠いものより、近いものに共感する性質を持っている。

 共感が強ければ強いほど、それを裏切った時の罪悪感は重いものになる。そして、血のつながりは、生物としてもっとも強く、近い。本人同士がどれだけいがみ合っていようと、そのつながりを断つことは絶対にできない。

 我の言っている意味がわかるか、ジョゼフの娘、イザベラよ」

「……………………」

「肉親を害する行為には、必ず後悔がつきまとうということだよ――これは生物的な必然だ。

 エルフにも、血縁の者を害した犯罪者の例がいくつかある。そういった連中は、相手をどれだけ憎んでいても、やったあとは魂を削られたような、死人のような表情になる。精神的な覚悟や、対象への憎しみといったもの程度では、たとえそれがいかに苛烈であっても、血の感じる忌避感を押し流すには足りないのだな。

 そして、イザベラ……お前は、どう考えても、身内を本気で排除できるような、冷たく鈍い精神の持ち主ではない。せいぜいが嫌がらせをしたり、悪口を言ったりして、こっそり溜飲を下げる程度しかできないタイプだ。

 そんな精神の持ち主は、時として軽はずみなことをしでかすし、やってしまってからの後悔を人一倍感じやすい。己が邪悪だと知っているから、罪悪感を覚えてもそれに背を向ける。だからのっぴきならない事態に陥った時、何の覚悟もできない。

 つまり……お前は陰謀には向いていない。父親を追い落として、自分が頂点に立つ、などという筋書きが似合う器ではないのだ。度を越した野心は持つな……お前には絶対に、肉親を倒す覚悟は、持てないのだから」

 あたしは――あたしは何も言い返せなかった。

 反論は思いつかなかったし、むしろ彼の言うことに心の中で頷いてすらいた。自分の精神の卑小さはよくわかっているつもりだったが、いざ他人からこうもはっきりと言われると、暗がりからいきなり殴りかかられたかのような衝撃だ。

 あたしは、親父を倒す気でいる。シャルロットのために、そしてこれからの自分のために、それは絶対に必要なことだ。

 しかし、そのあとで後悔せずにいられるだろうか?

 親父を倒すということは、言葉にするとどことなく英雄的な響きがあるが、現実的には血なまぐさい行為に落ち着く。あたしはそれをした結果、後悔せずにいられるか?

 いや、もっと単純な話。

 いざ、父王に反旗を翻したとして――あたしは部下たちに、「彼を殺せ」と命令できるだろうか?

 そんな覚悟が、あたしみたいなショボくれたガキにできるのか?

 忠告じみた警告を発したビダーシャルは、言葉を失って立ち尽くすあたしに再び背を向けて、変な薬品の調合作業に戻った。

 あたしはそのそばで、いつまでもうつむいて考え続けた。シャルロットのこと。父ジョゼフのこと。二本の近しい血の流れが、断ちがたい糸となって、あたしの心をがんじからめに縛り上げてしまった――そんな気分だった。

 

 

「ミス・タバサ。今、お時間はよろしいかしら」

 グラン・トロワの、青く明るい廊下を歩いている時。私は、しっとりと濡れた声に、背後から呼び止められた。

 振り向くとそこにいたのは、夕闇のようなドレスをまとった、妖しげな美女――ジョゼフの側近として知られる、ミス・シェフィールドだった。彼女は人目をはばかるように、あるいは愉快な内緒話でも期待しているかのように、アルコーヴから体を半分だけのぞかせ、目を細めた微笑みをこちらに向けている。

「……大丈夫。用件は?」

「仕事の命令ですわ。陛下からの、直接のものです」

 彼女は、胸元から筒状に丸めた書簡を取り出すと、こちらに差し出してきた――私は、それを受けとることに躊躇をおぼえ、また疑念をおぼえた。これまで、ジョゼフから命令を受ける時は、常に北花壇騎士として、イザベラを介して受け取っていたからだ。

「……なぜ、私の上司であるイザベラ姫殿下を通さず、直接私に?」

「王の深き思し召しは、私には推し量ることもできませんわ。ただひとつ言えるのは、この任務が極秘のものであるということ。そして、あなたには拒否する権利などないということです。さあ、どうぞお受け取りになって」

「………………」

 私は意を決して受け取ると、封印を解いた。押印もサインも、間違いなくジョゼフのもの。

 そして、その内容もまた、彼の直筆によることを証明するだけの説得力を持つ、残酷で意味不明なものだった。

 

【トリステインに飛び、ヴァリエール公爵家三女ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ラ・ヴァリエール及び、その使い魔の少年サイト・ヒラガを拉致せよ。

 対象の二名をヴェルサルテイル宮殿に連行し、余に直接引き渡すことをもって、この任務を完了とする】

 

 ――なぜ彼は、私に、このような命令を?

 目の前のミス・シェフィールドに問い質したいが、彼女がジョゼフの『思し召し』を答えたりしないのはわかっている。でも――待って。あのふたりを、ジョゼフに引き渡せ、と? この私の手で?

 ミス・ヴァリエールのことも、その使い魔のサイトのことも、私にとっては、まったくの他人というわけではない。いくつかの事件や冒険を共にして、最近ではキュルケほどではないにしても、親しく(私の基準で)話すぐらいにはなっている。

 ミス・ヴァリエールについては、その勤勉さと、諦めることを知らない心の強さに、同じ女性として敬意を覚えているし、サイトには何か、他の誰にもない、特別なものを感じる。剣を持った時の異様な強さも興味深いが、あの平民とも貴族ともそれなりに打ち解けられる気安さと、何か(自身の矜持であったり、人の命を守るためだったり)のために、自分の命を懸けて立ち向かえる勇敢さ。それらを兼ね備えた、あまり類を見ない精神性――ちょっとだけ、そう、ちょっとだけ、あくまで好奇心の範囲で、気になっている。

 どちらも好感の持てる人物である、という評価で間違いない。私の灰色の世界に、彩りを与えてくれる、数少ない人々なのだ。

 それをさらって――しかも、ジョゼフに引き渡す?

 授業をさぼった生徒を捕まえて、教師のところに連れていく、みたいな牧歌的な任務ではない。教師役はあのジョゼフなのだ。もし、私がこの任務を達成したとして、そのあと、ミス・ヴァリエールとサイトは、どのような目に遭うのだろう? あの残虐な王が、紅茶とマフィンでもてなし、広く明るい部屋に泊めて、丁重に送り返すとでも? あり得ない。ふたりの身の行く末に、不安しか感じられない。

 それに、もし私が彼女たちと特に接触がなかったとしても、この任務はためらわれる種類のものだ。ミス・ヴァリエールがトリステインの公爵家の人間である、というファクターは大きい。彼女がいなくなるだけで大騒ぎになるだろうし、ガリアの手による拉致であると露見した場合には、重大な国際問題になる。この国を統治するジョゼフにとっても、非常な面倒ごとになるはずだ。

 なぜ彼は、このような危険な命令を――いや、理由など考えても意味はないというのはわかっている――ただ、考えがまとまらない――違う。気持ちがこの命令を受け付けないだけ――今までの、私の命を危うくする過酷な任務と引き比べても、私はこの命令を受けたくない。

 戦慄と動揺に、百秒近く沈黙してしまった私に、ミス・シェフィールドは、そっと寄り添うように距離を縮めてきた。

「恐ろしいとお思いですかしら? 仮にそうだとしても、誰もあなたを臆病とは言えませんわ。陛下も、とても困難な任務であるから、もしかするとあなたでもためらうかもしれない、と仰っていましたから……この仕事を実際に行わなければならないあなたに、申し訳ない気持ちでいっぱいだ、とも。

 だから、陛下は、あなたに特別な報酬を用意しておられます。北花壇騎士としての手当の他に、任務達成後、あるとてもいいものが、下賜されることになるでしょう」

「……いいもの?」

 私がおうむ返しに聞き返した時、ミス・シェフィールドの唇は、私の右頬のすぐ横にあった。ぞくぞくと寒気をもよおすような、艶のある囁きが、その唇から、私の耳に流し込まれた――。

「エルフの薬。人の心を壊す毒の効果を打ち消し、正気に返らせることのできる、人間にはけっして作れない奇跡の霊薬。それを譲ってくださるとのことですわ……。

 もちろん、この任務を極秘のうちに、完璧にやりとげたらの話、ですが……」

 脳天から焼けた鉄串をぶち込まれたような、激しい衝撃が私を襲った。

 壊れた心を治せる、エルフの霊薬。私が夢にまで見て、追いかけ続けていたもの。

 それが手に入る? 友人たちを、ジョゼフに売ることで?

 すでに充分動揺していた私は、さらに背中をどんと押されて、大きくよろめいた形になった。

 理性は、これは罠だと言っている。私の大切なものを奪い続けてきたジョゼフのことだ、私を縛る鎖の一番太いものを、そんなに簡単にほどいてくれるはずがないではないか。実態のない餌を目の前にぶらさげることで、私自身に友人たちを捨てさせようとしている、そんな悪趣味な企みでないとどうして言えよう。

 だけれど、ああ、だけれど! もし本当に、薬が手に入るのなら! 母様を、もとの元気な姿に戻せる可能性が、少しでもあるのなら――!

「…………この任務。

 北花壇騎士七号が、確かに承ったと、陛下に伝えて」

 血を吐くような気持ちで、私はミス・シェフィールドに言った。

 彼女は相変わらずの不敵な笑みで、小さくうなずいただけだった。当たり前の返事を聞いた者の反応だった。この女には、この女とジョゼフには、私がこの餌に逆らえないと、前もってわかっていたのだ――疑わしい可能性にしがみつかなくてはならない、私の内心の苦痛も、きっと手に取るようにわかっている。

 私はきびすを返して、その場を去った。悔しさと、裏切った友人たちへの後ろめたさ、そして寂しさが、心の中に黒い絵の具をポタポタと垂らしていく。

 最近は、心の慰めも少しずつ増えてきていた。魔法学院でできた友人たち、仲違いしていた従姉妹との和解。人生は灰色ではなく、鮮やかな色彩もあるのだと思うことができていた。

 でも、それはそう思いたいだけの、勘違いに過ぎなかったかもしれない。私の世界は、やはり、あの恐るべきジョゼフの手のひらの上なのだ。

 

 

 牡蠣うめぇ。

 コンソメ・ジュレのかかった新鮮な生牡蠣を、殻から直接ちゅるんと口の中に落とし込んで、我はほっこりと表情をほころばせた。

 そのミルキーな味わいを充分に堪能してから、キリリと冷えた白ワインで舌をさっぱりとさせる。この繰り返しによって、何度でも鮮烈な感動でもって、このオードブルを楽しむことができる。まったく見事なコラボレーションじゃ。

「ブルゴーニュ産の牡蠣は気に入っていただけたかな、マザー・コンキリエ」

 テーブルの対面に着いたジョゼフ王が、上品に微笑みながら聞いてきた。我は礼を失さぬよう、軽くナプキンで口もとを清めた上で、それに答える。

「素晴らしい味でございます、陛下。我の住まうロマリアも美食に関しては自信のある方ですが、ここまで大粒で濃厚な牡蠣は初めて食べましたぞ」

「それはよかった。そちらの、ポロねぎとかぶの一皿もおすすめだ。柔らかいぷりっとした牡蠣の合間に食べると、しゃきしゃきした食感がなんとも面白い。ぜひご賞味あれ」

「おおお……これはこれは。食感も素晴らしいですが、このかぶの爽やかな香りがたまりませぬなぁ」

 さすがは名高きガリア王宮のディナー、舌の肥えた我でもいちいち唸らざるを得ぬ。ここ数日は怪我の治療のために臥せっておって、あまりがっつりした食事をしておらなんだせいもあって、我は次々に出てくる上等な料理を、笑顔のうちに口に運び続けた。

 玉ねぎを使ったタルトタタン、極楽鳥の卵のオムレツ、トリュフとフォアグラのマカロニ。ハーブ入りのバターをたっぷり添えた鱈のフライ。兎肉のテリーヌに、きのこのオイルマリネ。クレソンのポタージュスープ。デザートはそれぞれ違ったスパイスをきかせた、七種類のショコラじゃった。どれも手が込んでおるし、材料も最良。王族との会食は、ほんとーにいいもんじゃ。

 ついで言うと、ホストとしてのジョゼフ王のマナーも申し分なかった。食器の使い方も美しいし、食事の合間に話す話題も実に楽しい。これはアホタレ王の無能王のはずなんじゃが、案外客を喜ばせる接待の仕方は心得ておるようじゃ。いつか失脚したなら、レストランかカジノのオーナーにでもなるといいと思う。魔法の関係ない商売っけの世界なら、そこそこ認めてもらえるんじゃなかろうか。

 まあそんな感じで、我とジョゼフ王の、ふたりだけのささやかな晩餐会は、まったりと楽しく、なんの問題もなさげに進行しておった。少なくとも、食後の紅茶が出てきた時までは、今回ガリアに滞在している時間の中では、最も楽しい時間じゃったと思えたものじゃ。

 そう、それはまさに、祭りの後とでも言うべき、弛緩した瞬間にやってきた。食べ終えたデザートの皿も下げられ、テーブルの前には、湯気をたてるティー・カップのみが鎮座し、給仕も退出していき、広い正餐室に、正真正銘我とジョゼフだけになった、そんな時に、彼はさりげない様子でこう切り出してきた。

「ところで、マザー・コンキリエ。あなたのお父上は、ミスタ・セバスティアンは、元気にしておられるだろうか」

 口に向かって持ち上げかけたティー・カップを、危うく落っことすかと思うた。

 あのボケ親父が東方から帰ってくる、っつー話をシザーリアから聞いたあとに、このアホ王からもボケ親父の話をふられる。全然関係のないふたりから、ごく短い間隔で同じ人物の話題が出てくるというのは、ちと気持ち悪い。なんか因縁めいたものを感じてしまう。

「と、父様ですかや。最近来た便りでは、相変わらずなようでございますが」

「ふむ、さようか。なに、あなたのお父上が近々、東方からお帰りになるという噂を耳に入れたものでな。本当かどうか、あなたに確かめてみようかと思ったのだ。

 もし帰ってこられたならば、久々にチェスで争ってみたいものだ。次に連絡をすることがある時は、余がそう求めていたと、手紙の端にでも一筆添えておいてくれるとありがたい」

「は、ははっ。そ、それは構いませぬが、そのう」

 言葉につまる。その情報をジョゼフが知っておったというのも意外じゃが、求められた伝言もかなり意外じゃ。

「その、失礼ですが陛下。陛下は、うちの父のことをご存じなのですか? あなた様とご縁がございますようなことを、父からは聞いたことがございませんで……」

「ふむ? そうかね。まあ、二十年以上前のことだから、仕方ないかもしれぬな。

 マザー・コンキリエ。余はあなたのお父上から、学問を教授されていたことがあるのだよ。

 余の父上は、余と弟のシャルルに、王族として相応しい最高の教育を受けさせようと、各分野の優秀な教師を集めた。算術の担当として選ばれたのが、当時、風石メジャーの顧問として活躍していたミスタ・セバスティアンだった。

 王子の教育を任されるだけあって、彼は確かに算術家としては超一流であったな。その教えは、今でも余が政をするのに役立っている。特にそう、今思えば、経済の流れを掴む上で重要な知識を、優先的に叩き込んでくれたようだ。彼の本職を踏まえて考えるに、自分の最も教えやすい知識からカリキュラムを組んだに過ぎなかったのだろうが、今のガリアの繁栄は……余の政策がうまく機能している結果だとするなら……セバスティアン氏は、その一翼を担った、と言っても過言ではあるまい」

 お、お、おおお? なんじゃなんじゃ、あの間抜け親父、ずいぶんベタ褒めされとるでないか。

 一国の王に、こんなに好印象持たれとんなら、我にたっぷり自慢してから東方行かんかい。そうと知っておれば、最初からその話をこのアホ王に切り出して、恩を傘にきていろいろおねだりしたっちゅーのに!

「まったく存じ上げませんでした。仕事のことは、あまり口に出さぬ父親でありまして」

「なに、気にしてはおらん。お父上は国境をまたいだ、大きな仕事をしておられる。交流を持った人たちのことをいちいち家族に話していては、際限がなかろう。

 ただ、余にとっては、彼のいた頃のことはよき青春の思い出だ。一日の勉強を終えたあとは、シャルルや教師たちと、チェスに興じたものだ。ミスタ・セバスティアンは、教師陣の中では一番の差し手であったよ。少なくともシャルルとは、互角の勝負を繰り広げていたな」

 天井を見上げて、懐かしげに語るジョゼフ。――彼の弟であるシャルル王子は、すでにこの世の人ではない。我の聞いた噂では、他ならぬこのジョゼフが、弟であるシャルルを暗殺したのだ、とされている。

「シャルル亡き今、ミスタ・セバスティアンは、余とそれなりにいい勝負のできる、数少ない人間のひとりだろう。余はもう何年も、楽しいチェスを打った覚えがない。マザー・コンキリエもおわかりになるだろうが、ああいう勝負事は、実力の近い者同士の、一進一退のせめぎ合いが楽しいものなのだ。一方的では、たとえ勝利する側に立っていたとしても、満足感は得られないものだ。

 そう、最初から理解しているべきだったのだ……ゲームは、負けるかも、倒されるかも、という緊張感があるからこそ、勝利した時に感動が伴うのだ。安全な高みから独りで駒を操るだけの戦争など、なんと子供じみていてつまらないことか……」

 いつしか彼の言葉は、我に語り聞かせているというより、独白の様相を呈してきた。何が言いたいのかよくわからぬ。しかし、なんか妙に、背筋がぞくぞくとしてきた――これは予感じゃ。よくないものがこの身に近付いてきておる、そんな嫌な予感がする。

「……だから、ミスタ・セバスティアンが帰ってくるという報せを聞いた時は、心踊ったものだ。また白熱したチェスの試合ができるかもしれない、そんな期待を抱かずにはいられなかった。

 しかし残念ながら、彼との試合は永久に実現すまい。余とセバスティアンがチェス・ボードを挟んで向かい合うことができない、ある事情が生じたのだ。それがなにか、マザー、あなたにはおわかりになるかな」

「へ? い、いえ、さっぱり。父が東方から帰るのを取り止めたとか、そういったことでしょうか」

 そうだとしたら、我はむしろもろ手を上げて大歓迎じゃけど。

 しかしジョゼフは、無言で首を横に振って、我の期待をぶっ壊した。そして、彼自身の口から答えを言う代わりに、ぱんぱんと手を打ちならして、部屋の外に合図を送った。

 それに応えて扉が開き、ある人物が食堂に姿を現した。振り返って、そいつの顔を確認する――気のせいか、我にはその男の顔が、見覚えのあるもののように思えた。

 ちょいと軽薄そうじゃが、なかなか顔形の整った、男前と言っていい若者じゃ。長い金髪を太いみつあみにして、肩から胸へ垂らしておる。シミひとつないフランネルのホワイト・シャツも、長い脚にぴったり合ったズボンも、洒落た上等なもの。金に余裕のある貴族の、遊び好きな次男坊か三男坊といったところじゃろか――って、あれ、こいつ、もしかして。

「なんじゃ、シザーリオではないか。妙なところで会ったもんじゃのう」

「へへ、どうもご無沙汰しております、ヴァイオラお嬢様」

 話題のバカ親父のボディー・ガード軍団《スイス・ガード》の一員であり、我が従者であるシザーリアの兄貴でもある彼、シザーリオ・パッケリは、ニヤリと安っぽい笑みを浮かべて、頭を下げた。

「お前がなぜ、こんなところにおるんじゃ? 父上のお供で、東方に行ったはずじゃが……ああ、そうか、わかったぞ。シザーリアのやつが言うておった、父上の帰還を知らせにきたメッセンジャーっつうのは、お前のことだったか!」

「ええ、おっしゃる通りで。セバスティアン様より、一足早く戻って参りました。ご挨拶が遅れまして、申し訳ありません」

「まったくじゃぞ。あんな重大な情報なら、妹に託したりなんぞせんで、我に直接持ってくりゃよかったんじゃ」

 そしてついでに、東方の土産物とか持ってくるべきだったんじゃ。手ぶらとかあり得んわ。何かないんか、東方パイとか東方クッキーとか東方フィナンシェとか。

「ちっと事情がございましてね。セバスティアン様から、他にも内密な仕事を任せられてまして……あまり大っぴらに人前に姿を見せられなかったんすよ」

「内密な仕事じゃ? またあの父上ときたらこそこそと……お前が今、ジョゼフ王陛下とおることと関わりのあることか?」

「ええ、関係ありあり、大ありでございますよ。それというのも……えーと、陛下、オイラから言っちまっていいんすかね? 陛下の方から言うんなら黙ってますけど」

「構わぬ。お前からマザーにお話しするがいい」

 そう許可を出すジョゼフの顔をかえり見てみると、こちらもニヤリと、意味ありげな笑みを浮かべておった。イタズラ者が悪ふざけをする時特有の、ガキっぽさのある笑みじゃ。

「左様っすか。では……ヴァイオラお嬢様、オイラがセバスティアン様から請け負った仕事というのはですね、これは始祖に誓って冗談じゃねえんですが……ここにおられるジョゼフ陛下の、お命を頂いてくるっつーもんだったんですよ」

「…………は?」

 ぽかん、と口が開く。

 まずは理解できぬ内容への疑問符が頭の中で躍り、続いて理解が追いついたことによる驚愕が頭の芯を震わせ、最後に途方もない恐怖が、我の歯をかちかちと鳴らし始めた。

「な、ななな、何を言うとるのじゃ、シザーリオ!? 冗談としてはたちが悪すぎることぐらいわからんか!? そ、そそそ、そんなこと、口にするだけで不敬じゃぞ!」

「いやいや、だから冗談じゃないんですって。正真正銘、天にお日様がひとつ、お月様がふたつあるくらい間違いのない事実っす。オイラはあなた様のお父さんから、ジョゼフ王をぶち殺してこーい、って言われまして、はいはいと頷いてこのヴェルサルテイル宮殿に忍び込んできたんすよ。

 いやー、我ながら、いいとこまでは行ったんすよ? でも残念ながら、あと少しってとこで見つかって捕まっちゃいまして。

 ホントなら首だけになったジョゼフ様に『初めまして、どうぞお見知りおきを』って挨拶したかったところを、普通に陛下の足元にひざまずいて挨拶することになっちまいました」

「その男の言うことは本当だ。彼は、武器を持って余の目の前まで迫りおった。衛兵が取り押さえなければ、余は今頃ここにはいまい」

 ジョゼフが余計な補足をする。いやいや、そんな保証は要らんのじゃ、つーかそんなんなければどんなにええか。間違いであってほしいっつー我の女心を察せよこのスカポンタン!

 とゆーか親父何しとんの!? 馬鹿なの!? いや、馬鹿なのはわかっとるんじゃった。そーゆーことやりかねんボケナスなのは確かなのじゃ。

 そして、そして、だからこそ、我はシザーリオの言うことがきっと事実なんじゃろーなーって、心の底で頷いてしまっておる。きっと何か利益の出るでかい計画があったんじゃろなー、だから周りへの迷惑とか考えないで暗殺者なんか差し向けちゃったんじゃろうなー、そういう人じゃよ今までもそういうことあったよ、まったくしょうがないパパンじゃねー、って笑い話で済ませてやりたいけれども、あいにくこうダイレクトにピンポイントに我にとばっちり食らわしてくるとはテメエこの野郎××××、××××××って感じで、できるだけ口汚い言葉で罵ってやらざるを得ない。

「ま、そんなわけで、任務半ばでオイラは捕まっちまって、尋問を受けたわけですよ。最初はまあ、セバスティアン様への義理もありましたんで沈黙してたんですがね、王様直々に、正直に喋れば命を助けて、ついでに部下として雇ってやる、っつーありがたい提案を頂きましてね。

 さすがにオイラも、命は大事ですから、心の中でセバスティアン様にごめんなさいって言いながら、知ってること全部ゲロしたんっす。ヴァイオラお嬢様も、どーか寛大なお心でこの役立たずをお許し下さいな」

 よーし許してやるからそこに土下座しろ。そしたら我が貴様の口から尻まで水の鞭を貫通させて、腹の中をぐりんぐりんかき回してくれる。

 実際にこの素晴らしい考えを実行に移そうと、杖を手に立ち上がりかけた我じゃったが、その前に再び扉が開き、屈強な衛兵がふたり飛び込んできて、あっという間に我の両腕を、左右から掴んで身動きできんように押さえてきよった。

「ちょ、なんじゃ貴様ら、我に対してこのような無礼を……! 陛下! こやつらに、我を離すよう言うてやって下さいまし!」

「悪いがそれはできぬ。そして、あらかじめ詫びておこう。マザーにはこれから、しばらく不自由な待遇を強いねばならないことをな」

 ジョゼフは言いながら、席を立った。我も衛兵どもに引っ張られて、強制的に立たされる。

「余の気持ちを察して頂きたい、マザー。かつての恩師に、命を狙われた余の気持ちをな。

 衝撃的で、それ以上に悲しいものだ。だが、だからといって打ち沈んでいるわけにはいかない。余への攻撃は、即ちガリアという国への挑戦だ。国家の威信を落とさぬためにも、余はセバスティアン・コンキリエの挑戦に、断固として立ち向かわなければならない。

 そこで、あなたの存在が重要になってくるのだよ、マザー・コンキリエ。あなたはセバスティアンの娘だ。余の敵と、最も近しい関係にある人物だ。

 あなたがセバスティアンの陰謀に荷担していないということは、シザーリオの証言によりわかっている。だがそれでも、あなたの身柄を押さえておくことは、大きなアドバンテージになるはずだ。賢明なあなたならば、きっと理解してもらえるだろうと思う。

 マザー・ヴァイオラ・マリア・コンキリエ。ガリア王国国王ジョゼフ一世の名において、あなたを拘束する。ロマリア連合皇国貴族としての、またブリミル教会枢機卿としての権利はすべて制限され、無期限で余の監督下に置かれることを宣告しておく……衛兵、マザーを丁重に、牢までお連れしろ」

 ちょ、ちょ、ちょちょちょ! う、うそ、嘘じゃろおい!?

 絶望的な気分で、ジョゼフのツラを見つめてみたが、やつの表情には冗談の気配は微塵もなく。

 両腕を衛兵たちに抱えられて、連行されていくことを止めてくれる者も、その場にはひとりもおらなんだ。――つーか衛兵、両脇を抱えて拘束するのはいいが、微妙に持ち上げるのはやめんかい。我の爪先が、床の上十サントあまりの高さでぷらぷらしておるではないか! 我は洗い場に連れていかれる汚れた子犬か!

 のじゃーのじゃーとわめき散らしながら、我は食堂から連れ出された。我のために用意された紅茶は結局誰にも口をつけられることなく、テーブルの上でただ冷めていく運命にあった。

 

 

「……どういうことでしょう。詳しい説明を求めます」

 私は――シザーリア・パッケリは、低く抑えた声で、ミス・シェフィールドに問い返しました。

 優雅に冷静に、仕事は正確に。感情を昂らせて無様なふるまいをすることは許されない。それが、貴族様に仕えるメイドの基本です。しかし、そんな当たり前のことさえ、気力を振り絞って意識してやらなければならないほどに、今の私の心は乱れ、荒んでおりました。

 それというのも、ジョゼフ陛下の側近であるミス・シェフィールドが、私にそっと知らせてくれた情報のせいです。ヴァイオラ様を陛下との会食に送り出して、部屋で主のお帰りを待っていたところに、彼女が人目をはばかるように忍んできたのです。

 ミス・シェフィールドは、前回お会いした時よりずっと余裕の無さそうな様子で、私を驚愕させる恐るべき事態を、ジョゼフ陛下との会食の場で、ヴァイオラ様の身に何が起きたかを、話してくれたのでした。

「詳しい説明も何も、今言ったこと以外に、話せることはないの。ジョゼフ様が、マザー・コンキリエを逮捕なさったということ以外には……。

 その理由も、すでに話した通り。マザーのお父上であるミスタ・セバスティアンが、ジョゼフ様の暗殺を企てて、刺客を送り込んできたから。でも、これに関しては刺客の証言だけが根拠だから、私は怪しいと思っているわ。ミスタ・セバスティアンに罪を着せるための、嘘の自白と考えても不自然ではないもの、ね」

「……………………」

「ミス・パッケリ。私は、今回のマザー・コンキリエの逮捕は、ジョゼフ様の判断ミスの可能性が高いと思うの。陛下が世間で、どんな風に思われているかは、あなたもご存じよね? 無能王、狂人、簒奪者……悪意のある風評がほとんどだけれど、真実から遠すぎる、というわけでもないわ。あの方は確かに、独裁者的な性格の持ち主だし、自分の判断だけで行動するところがあるもの。マザー・コンキリエを、邪悪な陰謀家だときめてかかって、ろくに調べもせずに、早く処刑してしまえと叫んでいる。

 今は、私をはじめとした常識的な重臣たちが、なだめたりすかしたりしながら、決定的な命令は出させないように抑えているけど、それもいつまでもつかわからない……」

 影のように暗い色合いの服に身を包んだミス・シェフィールドは、ただそこにいるだけでも忍んでいるような人でしたが、次の発言をする時には、自分を薄暗がりの中に沈め、できる限り慎重を期した上で、囁くよりもさらに潜めた声で言ったものです。

「ミス・パッケリ。こうなると、頼れるのはあなたしかいないの。今すぐ、ロマリア大使館に駆け込んで、マザーの救出を本国に依頼して。

 証拠もろくにない今の状態でマザーが処刑されてしまうと、ガリア王国はかつてない国際的非難を浴びることになるわ。ロマリア宗教庁は、枢機卿を害したジョゼフ様を許さないでしょうし、ハルケギニアに住まう人々のほとんどすべてがブリミル教徒であるという事実も考え合わせると……ガリア王室は、全世界を敵に回すことにもなりかねない。

 そうならないためには、ジョゼフ様よりも高い地位にあるお方から、警告を発して頂くしかないの。ロマリア教皇から牽制されれば、陛下も強硬な態度は取れないはず。そうして、マザー・コンキリエの処刑を先伸ばしにし、その間に暗殺未遂事件の真相を究明する……ガリアがハルケギニアで孤立することを防ぎ、マザーの命を救うには、この方法以外には考えられない。

 お願い、ミス・パッケリ。あなたのヴェルサルテイル宮殿からの脱出は、こちらで手引きするわ。ガリアを救うと思って……いいえ、あなたの可愛いご主人様を助けるために、速やかな行動を!

 マザー・コンキリエと、彼女に不利な証言をした暗殺者は、今夜中に辺境のアーハンブラ城に移送されるわ。暗殺者の方はどうでもいいけど、マザーの方の尋問は、その社会的地位も考慮して、ジョゼフ様が直々になさるそうよ。王は古今東西の拷問術にも通じておられる。下手な拷問吏より、よほど冷酷で過激な取り調べをなさるでしょうね。誰も止めなければ、マザーは恐ろしい苦痛をあの小さな体に浴び続けながら、処刑の日を待つことになるわ。

 どうか、あなたの手で、ガリアの外から陛下の暴走を止めて! どうか……!」

 私が彼女の訴えに、首を縦に振ったのは、当たり前といえば当たり前のことでしょう。

 ヴァイオラ様を処刑など、絶対にさせられはしません。必ず助け出さなければなりません、一分、一秒でも早く――ジョゼフ王の薄汚い手が触れる前に。

 ミス・シェフィールドの話を聞き終えてから十五分後には、私はヴェルサルテイル宮殿を脱出しておりました。ミス・シェフィールドが手配してくれた、衛兵のいないルートを通って、城門の通用口を抜け、通りに出ます。さすがは国王直属の女官、内側から外への移動とはいえ、王宮の厳重無比な警備体制に、こうも見事に穴を作り出すとは。

 一度、城壁の外に出てしまえば、あとは誰に見咎められる心配もありません。ロマリア大使館は、徒歩で五分もかからずたどり着ける距離にあります。ミス・シェフィールドに依頼された通り、そこに駆け込んでヴァイオラ様の苦境を知らせ、教皇聖下に助けを求める分には、もうなんの障害もないわけです。

 ――そう。常識的な、人道的な人間としては、そうするのが正解なのでしょう。

 しかし私は、足をロマリア大使館へは向けませんでした。踵を返して、大通りを逆方向に進みます。

 なぜ、ヴァイオラ様を助けるための行動を、私は起こさないのでしょう?

 別に、主を見捨てたいわけではありません。ただ、熟慮の必要があると判断したのです――とある、確実な事実を知っていたから。

 そう、ミスタ・セバスティアンが本当に有罪であるという、明らかな事実を。

 ミス・シェフィールドは、ミスタ・セバスティアンの無実を信じてくれていたようですが、彼の性格を知っている私としては、その考え方には頷けません。あの方が王族の暗殺を企てるなど、別に意外でもなんでもないのです。商売の邪魔になるという理由で、それこそ通行に邪魔な梢を刈り取るくらいの気軽さで、部下に人命の処理を命じるところを、私は何度も見てきました。彼の一言で消された中には、勢いのある商人もいれば、犯罪組織のボスも、さらには伯爵や侯爵といった人々もいたのです。今さら王を狙ったところで、ああ、ついにやったか、という程度の感想しかありません。

 そして、私の休んでいた病室にやってきた、シザーリオという要素もあります――彼は確かに、ヴェルサルテイル宮殿に何らかの任務を与えられて、潜入してきていました。今ならわかります――彼の任務は、ジョゼフ王の暗殺だったのでしょう。それが失敗して、彼は捕らえられ、真実を吐いた。

 あの馬鹿みたいに強いシザーリオが敗北したというのは意外でしたが、それだけ強い護衛が、ジョゼフ王のそばにいたということでしょう。そして、強靭な精神力の持ち主であるシザーリオに自白をさせる、恐るべき尋問官も。

 その人物の仕事はしっかりしたもので、リオの白状したことに嘘はないはずです。しかし、ありがたいことに、ジョゼフ王以外は、その自白を信用していません。いくら力を持っているとはいえ、ロマリアのいち商人に過ぎない人物が、大国の王の暗殺を謀るなど、現実離れしすぎているからです。

 だから、今はまだ問題ありません。でも、シザーリオという、生きた証拠がガリア王室の手中にある以上――これからも、綿密な調査が続けられ、真相が遠からず明らかになるとすると――非常にまずいことになります。

 まず、王室の調査の結果、シザーリオが嘘を言っていない、つまりミスタ・セバスティアンが、本当に暗殺未遂の黒幕だと判明してしまうと。非難されるべきは、ヴァイオラ様を捕らえたガリア王家ではなく、ロマリアということになってしまいます。

 ジョゼフ王はヴァイオラ様を処刑することをためらう必要がなくなり、臣下の者たちもそれを止める理由がなくなります。もし、教皇聖下の強権によって、処刑前にヴァイオラ様を救出できたとしても、ガリアが真実を公表すれば、今度は聖下がコンキリエ家に裁きを下されるでしょう。罰がどんなに軽くても、ヴァイオラ様の評判は地に落ち、政界での失脚は免れません。

 ヴァイオラ様は、次期教皇の座を狙っておられます。そして実際、その地位に相応しいだけの才覚もお持ちだと、私も信じております。こんなところで、本人と関係のない原因で、その夢が手折られることなど、あってはいけません。

 では、どうすればいいか。座していればヴァイオラ様は処刑されてしまいます。ロマリアに助けを求めても、破滅からは逃れられません。

 あの方を本当の意味で助けるには、ミスタ・セバスティアンがジョゼフ王暗殺を指示したという事実を、闇に葬る以外にないでしょう――証拠を消し、捜査を絶対に進展させられないように妨害し、事件をうやむやのまま終わらせるのです。そうした上で教皇聖下に助けを求めれば、ヴァイオラ様の立場も安泰、すべては――少なくともコンキリエ家にとっては――丸く収まります。

 証拠を消す。この場合は、唯一の証言者である暗殺者――私の兄、あのお調子者のシザーリオを始末し、永遠に余計なことを言えないようにしてしまえばいいわけです。

 彼の身柄も、ヴァイオラ様とともに、アーハンブラ城に移されると、ミス・シェフィールドは言っていました。その城に忍び込み、シザーリオを消去し、ついでにヴァイオラ様も助け出せば、一石二鳥。このふたりが同じ場所に監禁されてくれるという幸運は、きっと天にまします始祖のお導きでしょう。

 やるべきことが決まると、肚も決まります。私はまっすぐ、リュティス郊外の風竜便発着所に向かいました。

 まずすべきは、アーハンブラ城にたどり着くこと。できれば、ヴァイオラ様を連れたジョゼフ王より先に。

 どうか恐れず、忠実なしもべをお待ち下さい、ヴァイオラ様。あなたのことは、このシザーリア・パッケリが必ず救い出してみせます。

 

 

「いったいどういうことだい、父上! 詳しい説明をしてもらおうじゃないか!?」

 あたしは、自分の気持ちを隠すこともせず、殺意に満ちた怒鳴り声を上げた――あたしの激情の矛先は、執務机の向こうで革張りの椅子に座り、ゆったりとくつろいでいるクソ親父だ。

 グラン・トロワの中心たるこの国王執務室――やや横長な楕円形をしているので、オーバル・オフィスとも呼ばれる――にいるのは、あたしと親父のふたりだけだ。どんなに乱暴な言葉づかいをしても、それを下品だなんだとたしなめる家臣どもはいないし、親父は自分が適当なだけあって、人の無礼に対しても無頓着だ。だからあたしは遠慮も躊躇もなしに、父に感情をぶつけることができた。

「どういうことだ……も何も、今告げたことですべて説明は終わっているのだがな、イザベラよ。

 シャルロットが任務に失敗した。ゆえに処刑する。それだけだ。どこに疑問や不満がある?」

「どこにって……どっから手をつけていいのかわかんないレベルだよ!

 まずあれだよ、あいつの直属の上司はあたしなんだよ? 何であたしを抜かして、あいつに直接任務なんか与えてるんだい!」

「非常に重要で、機密を重んじる任務だったからだ。関わる人間はひとりでも少ない方がよかった。できるなら人を使わず、余が自ら着手したいほどの案件だったが、そんなわけにはいかんのでな、実行役として選んだシャルロットにのみ、声をかけた。

 そもそも、余が王であるということを忘れてはおるまいな、イザベラ? 余の行為はどのようなものであろうと、ガリアが専制君主国である以上、すべて正当化される。お前の職務を余が軽んじたからといって、お前に文句を言う権利はない」

「そりゃ……そうかもしれないけど! でも、シャルロットは今まで、いくつもの危険な任務を成功させてきた腕利きだよ? 一回失敗したからって、それで処刑ってのはもったいないじゃないか。

 あたしに引き渡してくれれば、たっぷり痛めつけて叱りつけて、もう二度と失敗しないように教育してやるよ。今後のガリアのためを考えると、ああいう裏方の掃除係はひとりでも惜しい。どうだい、考え直した方がいいと思わないかい、父上?」

 あくまでシャルロットの命を救いたいという本音は隠して、自分のプライドと職務上の利益を守るため、という名目で、親父を説得しにかかる。

 だが、親父は他ならぬガリア国王ジョゼフだ。無能王というあだ名をつけられただけの、実際には知謀機略に優れた天才だ。あたしが必死に言葉を選んで説得しても、彼は余裕たっぷりに、椅子に体を沈めている。余裕のないあたしを、手のひらの上で転がして遊んでいるのが丸わかりだった。

「残念ながら、そんなに簡単に済ませられる問題ではないのだよ、イザベラ。

 先程言った通り、シャルロットに与えた任務というのは、非常に機密を重んじる種類のものだった。奴が失敗した以上、隠しだてをする意味も失われたので打ち明けるが、それは外国から、人を拉致してこいというものでな。

 それが失敗したということは、さらわれそうになった人間がシャルロットを撃退したということで……その時、向こうは誘拐未遂犯である、シャルロットの顔を見てしまったらしいのだ。

 目撃情報というのは重大なものだ。特にシャルロットは、個性的な容姿の持ち主だからな……相手側が、シャルロットの名前や国籍、所属といった、具体的な人物像を特定するのは、それほど遠いことではないだろう。この意味は、お前にもわかるな?」

「……………………」

「かの国の調査結果に当てはまるガリア人が、この世にいてもらっては困るのだよ。シャルロットを処刑し、証拠を完全に隠滅しなくてはならない。

 それにシャルロットは、シャルルの娘だ……もともと、抹殺されていて当たり前の存在なのだ……北花壇騎士として役に立つなら生かし、役に立たないようなら殺すと、最初から条件を決めて使っていた人形に過ぎん。ここで打ち捨てたところで、惜しくもなんともない」

「そんな……いくらなんでも、そんな一方的な……!」

 父の、あまりに冷たい言いぐさを聞いて、鼻の奥がぴりぴりと痛くなる。頭に血が上り過ぎている――でも、それも仕方ない――シャルロットのことをそんな風に言われては――そんな風に、とるに足らない物のように扱われては。

 ただの父と娘の間柄だったら、ここでぶん殴っていただろう。いや、正直なところ、我を忘れて掴みかかる寸前までいっていた。だが、怒りで熱くなっている頭というのは、冷静なそれよりもえてして働きが遅いものだ――あたしが暴力行為に及ぶよりも、父が牽制の言葉を発する方が早かった。

「何をそうも苛立つ? お前とシャルロットは、ずっと憎み合ってきた間柄ではないか。お前はあいつのふてぶてしい態度を、魔法の腕前を、ずっと嫌い抜いてきたではないか。気に入らないやつが、永遠に目の前から消えてなくなるのだぞ。無条件で喜ぶべきだろう」

「……それは」

「まさか、和解などしているわけではあるまい。それは感心できんぞ。余の実の娘であるお前が、潜在的な政敵と、通じあっているというのは……そんなことがあったら、王としては黙って見てはおれん。

 城の外より、身内に敵がいる方が恐ろしいものだからな。己の手が腐り始めたら、多少の痛みを覚悟してでも、これを切り落としてしまわねばならん。さもなくば、やがて全体が腐って死んでしまう。我が娘よ……お前は余に、そのような辛い決断はさせまいな? 余はよほどの必要がない限り、自分の娘を処刑した王になりたくはない……」

 試すように父は、あたしの顔をのぞき込んだ。その空虚な言葉に相応しい、虚無的な目で。

 彼の眼差しの中に、人間的な暖かみはない。このような目ができる奴が、手を――肉親を切り捨てるのに、痛みなど感じたりするだろうか? また、切り捨てるにあたって、必要なんてものを必要とするだろうか?

 あたしの命もまた、この瞬間、父の頭の中の天秤に乗っていたのだ。シャルロットのついでで殺してみようか? それともまだとっておこうか? ほんの少しの気持ちの揺らぎで、生に傾くも死に傾くも自由自在の天秤の上に。

 それを察した時、あたしは心臓が凍りつくような恐ろしさを味わった。あたしの父は、おぞましい怪物だ。火竜やオーク鬼なんぞより、よっぽど対応の難しい、虚無の怪物なのだ。

「……勘弁しとくれよ、父上。あたしが、あの人形娘と和解だなんて。

 あたしはあいつのウジウジした態度が我慢ならないんだ。昔っから、この手で絞め殺してやりたいって思ってたんだからね。

 あたしが苛立ってるのは、あくまであたしの好き放題に使える駒が一個減るからってだけ! 役に立つ部下をまた補充してくれるなら、別に文句なんてありゃしないさ!」

 ――ビダーシャルと相対した時と同じ。あたしはまた、牙をむき出しにした虎の前から、一歩退いた。

 危険を感じた時、前進したり、思いきった行動をとるのは、愚か者のすることだ。あたしには怒りはあっても、愚か者ほど無鉄砲じゃない――たとえそれが、シャルロットを窮地から救い出す上で、何の役にも立たないとしても。

 あたしが敵対の意思を示さなかったことが、父という虎のお気に召したのかは知らないけど、彼は再びニヤリと笑って、こちらを見つめるのをやめた。

「安心しろ、代わりの部下ぐらいいくらでも世話してやる。余は、余を裏切らない者には、常に満足のいく待遇を与えてやりたいと思っているのだ。

 だからこそ、余の期待を裏切るシャルロットのようなやつには、それに相応しい罰を下すのだよ……今夜のうちに、あれをアーハンブラ城に移送し、そこで余が、自らの手で、ギロチンにかけてやるつもりだ。

 もしお前が望むなら、見物に来ても構わんぞ。切り落としたシャルロットの首を銀の盆に乗せて、それを眺めながら酒を飲むというのはどうだ? 案外月を見ながら飲むより旨く感じるかもしれんな、ハッハッハ!」

「……いや、いい。あたしはそんなのよりは、バラでも見てた方が酒が進むからね。父上はまあ……好きにするといいさ」

 どうしようもなく気分の悪くなる提案をして、馬鹿みたいに笑う父。それを見ているのもつらくなったあたしは、適当に話を切り上げて、オーバル・オフィスを出た。

 プチ・トロワの自分の部屋に戻ったあたしは、ベッドに背中から倒れ込んで、天蓋をぼんやりと眺めた。

 体の力を抜き、色々なことに思いを巡らせる――まずはかつての、シャルロットを憎んでいた頃のこと。あの頃の憎しみや嫉妬、悪意は本物だった。当時のあたしがここにいたなら、きっと父の提案に大喜びして、シャルロットの生首を見ながら飲むワインを選んでいただろう。

 次に思ったのは、ここ数日のこと。シャルロットと和解し、あいつを子供の頃のように可愛く思えるようになった、楽しい時間のこと。この時間は、ほんの短い間の幻想じゃない。まだまだこれから先も、この暖かい関係を続けていきたい。

 そして、最後に思ったのは、父のこと。

 政治はうまくやっている。ガリアをかつてないほどに繁栄させ、富ませ、強くしている。魔法が使えないことで低く見られていることは否めないけど、頭のいい人たちはみんなわかってる。ジョゼフ一世陛下は能力とカリスマを兼ね備えた、理想的な国王だ。

 それでも――あれはどうしようもないほどに狂っている。他人を駒としてしか見ていないし、それを排除することに罪悪感を抱くどころか、子供が小動物をいたぶって楽しむような、娯楽性さえ見いだしている。

 あたし自身、そういう他人を苛めて楽しむ嗜好を持っていたからよくわかる。父は残酷なことをしたがる。そこに彼にとっての、何か大切な意味がある。

 いくら有能でも、そんな人間を王として戴いていていいのか。戦時なら、勇王として評価されることもあり得たかもしれない――だが、どこもガリアを攻めたりはしていない、安定したこの時代に、残虐性を秘めた王など、存在していていいのか。

 あたしは王女だ。父の娘だが、国というくくりの中では、王の家臣だ。ジョゼフ一世に仕え、彼の役に立つ義務がある。

 だが、同時にあたしはイザベラでもある。ワガママ放題の贅沢三昧で、自分の思い通りにならないことが許せないたちの、ありがちな嫌われ者で――それでいて、シャルロットのことが大好き。

 そのシャルロットが、処刑されてしまうという。

 あたしは、王女でいるべきか。それとも、イザベラでいるべきか。

 ――決まってらぁね、そんなこと。

 あたしは起き上がり、ぱんぱんと手を打ち鳴らした。すると、部屋の外で控えていた使用人が、扉越しにおうかがいをたててくる。

「お呼びでしょうか、イザベラ様?」

「ああ。ちょいと、元素の兄弟を呼んできておくれ。

 あたしは執務室にいるから、そこに三十分以内に集合するように、って伝えるんだ。

 誰かが一秒でも遅れたら、あんたも含めて全員打ち首にするからね。さっさと行きな」

「はっ」

 命令を受けた使用人が立ち去る気配を感じながら、あたしはベッドから飛び降りる。命じた当のあたしが、連中より遅く執務室に入ったんじゃカッコがつかない。一度決めたら、素早く行動しなくちゃね。

 そう、あたしは決めた。だからもう、行動することは確定だ。

 あたしはシャルロットを守る。

 そのために――父を、この手で、倒す。

 避けて通れないなら、正面からぶつかってやれってわけだ――ちくしょうめ。

 




その2へ続くんじゃ。


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アーハンブラ断章(フラグメンツ)/ジョゼフはみんなにひどいことしたよね(´・ω・`):その2

1の続きー。


 

 イザベラの立ち去ったあとのオーバル・オフィスにて。

 ひとりきりになったジョゼフは、難しい顔をして、座っている椅子をぎし、ぎしと揺すっていた。

「……ふん。俺の娘だというのに、なんとわかりやすいやつだ。いや、俺の娘だから、わかりやすいということか?

 どちらにせよ、これで、種はまかれた……俺の思い通りなら、あれは必ず芽を出す……他の種と同じように」

 ジョゼフの呟いた独り言は、誰にも聞かれることなく、無意味に虚空へ消えていく。やがて、彼の言葉を聞いてくれる忠実なパートナーが入室してくるまで、彼は黙り込んで、目を閉じていた。

「失礼します、ジョゼフ様。ただいま戻りました」

「おお、その声は我がミューズだな! 入るがいい、お前の方の成果を聞かせてもらおう」

 ジョゼフは露天のキャンディー・バーを買った少年のような笑顔を浮かべて、ミス・シェフィールドの入室を歓迎した。椅子を勢いよく蹴って立ち上がり、執務机を回り込んで、自分の方から彼女に歩み寄る。

 ミス・シェフィールドの方も、甘いお菓子を口に入れているかのように、うっとりした笑みをジョゼフに向け、優雅に一礼した――つい先ほどまで、シザーリア・パッケリに対して、悲壮感たっぷりに主の非道を訴えていた彼女と同一人物であるのかどうか、疑わしいほどの変わりようである。

「マザー・コンキリエのメイドは、無事にヴェルサルテイル宮殿を脱出しましたわ。ジョゼフ様の仰った通りの情報を、しっかりと吹き込んでおきましたから、まず間違いなく、我々の計画通りに行動してくれるでしょう。

 彼女がロマリア大使館に駆け込めば、十中八九、かの国は我が国に対して警告を発するでしょう。教皇の名で遺憾の意を表明するかもしれません。

 こちらがそれを退けて、マザーの処刑を強行すると発表すれば……そこで引き下がっては、ロマリア連合皇国も、ブリミル教会も、面目を大いに損なうことになりますから、実力行使に出ざるを得なくなりますわね。具体的には、マザー救出のために、兵隊を派遣してくることになるはず……」

「そう、そう。ガリアに正面切って戦争を仕掛けねばならない羽目に陥るわけだ。マザーはそれだけの地位にあるお方だものな!

 我が国の軍隊は強いが、ロマリアの兵もなめてかかれる相手ではない。きっと恐ろしい戦いになるぞ! 何千人も、何万人も死ぬかもしれん。俺がマザー・コンキリエを逮捕したばっかりに、そんな大戦争が始まろうとしているのだ! ああ、まったく、なんと罪深いことだろうな!?」

 言葉とは裏腹に、ジョゼフは浮かれきった表情でミス・シェフィールドの手を取り、その体を引き寄せた。

「ロマリアはそれでよし。して、トリステインの方はどうなったかな? シャルロットが失敗したあと、向こうの反応はどんなものだった?」

「そちらも抜かりはありません。ミス・ヴァリエールと、その使い魔の少年は、もともとミス・シャルロットと面識がありました。ミス・シャルロットが、ふたりを拘束しようとして戦闘を仕掛け、敗北したことはすでに報告いたしましたが、負けた彼女を回収する際に、その襲撃がガリア王に命令されてのことだった、と匂わせる言葉を、私の口から、さりげなくミス・ヴァリエールたちに聞かせておきましたわ。

 ガリアからの留学生による、トリステイン有力貴族誘拐未遂事件。その背後にはガリア王がいる。さて、この先はどうなるのでしょう、ジョゼフ様?」

「おお、おお、なんということだ。そんな情報が、たとえばアンリエッタ姫の耳にでも入ったら、大変なことになってしまうぞ!

 ミス・ヴァリエールは王女と親しいと聞くし、このような重大な国際問題に関しては、まず間違いなく上に報告して判断を請うだろう。そして、アンリエッタ姫はガリアの犯罪行為を、強く非難するだろう……ガリアとトリステインの関係が、俺の命令のせいで一気に悪化してしまう! もしかしたら、アンリエッタ姫と婚約している、アルブレヒト三世のゲルマニアも、敵に回ってしまうかもしれん!

 だが、俺は謝罪などしないぞ! ロマリアにするように、非難を突っぱね、逆に挑発し、トリステインの面目をこれでもかというほどに潰してやるのだ! 武力制裁で相手を屈服させるしか、溜飲を下げる方法がなくなるくらいに、な!

 向こうがそこまで思いきれないなら、いっそ、こちらから宣戦を布告してやってもいいな! ロマリアだけでなく、トリステイン=ゲルマニア連合ともやりあうとなると、これはちょっとした世界大戦になるぞ……俺の傀儡の統治下にあるアルビオンは、包囲戦術で無力化されつつあるし、ガリア一国による、文字通りの世界との戦いになる!

 なんという不利だ! なんという無謀だ! まるでクイーン一騎のみで挑むチェスのようだ……そんなことが起きるように策謀を巡らすなど、俺はまったく、国のことを何も考えていない、どうしようもない無能王だな! お前もそう思うだろう、我がミューズよ? ハッ、ハッ、ハハハハハッ!」

 ミス・シェフィールドの腰を抱いて、ジョゼフは楽しげにステップを踏み始めた。シェフィールドも遠慮なく彼に身を寄せて、リズムを合わせる。厳かなるオーバル・オフィスの中にありながら、礼儀のいらない場末の酒場かどこかでするように、無邪気に軽やかに、ふたりはくるくると舞い踊っていた。

「イザベラにも充分な挑発を加えた! あの『ミス・リーゼロッテ』と仲良しな『アラベラ』にもな! 変装して頻繁に会っているお友達が処刑されるとなれば、唯一の心の拠り所が奪われるとなれば、あの不肖の娘も、大胆な行動を取ってくれるだろう!

 兵隊を集めて、クーデターでも起こしてくれれば上出来だな! 少数精鋭で、俺を暗殺しに来てくれてもいい!

 外も中も敵だらけだな! こんなにも追い詰められて、俺はいったいどうすればいいんだ?」

「ええ、本当に絶望的……。あなた様の願いをなんでも叶えてあげたいと望んでいる私でも、危機感で薄ら寒くなるほどですわ。

 ジョゼフ様、実際どうしてこのような、危険な状況をお作りになったのですか? 戦争ゲームがしたいのでしたら、アルビオンでやったように、誰かを操ってことを起こさせればよろしかったでしょうに。ご自身をエサにするような真似をしなくても……」

「いや、それではいかんのだ。そんな、安全なところから見下ろすようなやり方ではな。

 俺は気付いてしまったのだ。ゲームを盤外から楽しんでいる人間は、結局リアルに触れることはできないのだと……我がミューズよ、お前も聞いていただろう? あのシザーリオとかいう男の話を? 奴にこの俺の暗殺を命じた、セバスティアン・コンキリエという男のことを」

「はい。でも、今でもやはり、あれの言葉を本当とは受け取れませんわ。ハルケギニアの全人類を絶滅させて、新たな国を作ろうとしているだなんて……風石メジャーの黒幕ともいえる大実業家が、人類文明の中で地位を築いている人が、それを崩壊させるような荒唐無稽な企みを抱いているなんて、馬鹿げているとしか言いようがありませんもの」

「うむ。まあ、そう思うのが普通だろう。だが、俺は知っている。セバスティアンが、そういう馬鹿げた夢物語を、実際にやろうとする大馬鹿者だということをな。

 あの男と交流があったのは、算術を教えてもらっていた数年間だけの間だったが……それでも、日常的に会話をしていれば、その人間の本質ははっきりわかってくるものだ……セバスティアンは、その地位と知性に似合わない、子供じみた性格の持ち主だった。

 王宮で授業をすると半日も妻に会えない、と、俺の前でぶつぶつ愚痴を言っていたし、花壇からバラを勝手に摘んで帰って、庭師に怒られたりしていた。ブロッコリーが苦手らしくてな、俺とシャルルに、あの小型の森を料理に使わないよう、シェフを脅してくれ、などと頼んできたこともあったし、しかもそれを断られると、その日のディナーで、こっそりより分けたブロッコリーをポケットに隠して捨てようと企み、給仕長に見破られたりしていた。まったく、当時の俺にとってさえ、とても年上には思えなかったよ」

「では、そんな人であるのならば、なおさら大それたことは……」

「いや、それは違う。奴の成功は、そういう幼稚な性格ゆえでもあるのだ。従来の政治家、起業家のように、テンプレート的な仕事をしない。自分が一番やりやすそうだと考えたやり方で、まったく新しいシステムを作り、運用する。例の、セブン・シスターズの経営形態がそうだ。コンキリエ家はもともと巨大な風石鉱脈を所有していたが、セバスティアンがあの多国籍企業を作らなければ、おそらく数万分の一の財産しか手にできていなかっただろうな。

 無論、新しい方法で既存の市場に食い込んでいくということは、従来のやり方で利益を出していた者たちの反発を招く。どれだけ大きな元手があって、どれだけ効率のいい儲け方を発明しても、周りから総スカンされてはとてもやっていけない。経済的にも政治的にも、かなりの圧力がかかったはずだ……だが、この問題も、セバスティアンはその子供っぽさで乗り越えた」

「と、仰いますと……?」

「具体的に、それを実行したという証拠はないがな。まあ、他者への配慮など何もない、自分さえよければそれでいい、という人間特有の発想だよ……邪魔になる人間を、徹底的に排除(エリミネイト)していったのだ。

 基本は暗殺だな。セブン・シスターズ設立と前後して、当時の風石産業界の要人が、少なくとも三十人、謎の死を遂げている。その中には伯爵や侯爵もいたし、枢機卿の地位にいる聖職者もいた。

 村や街単位で、排除が行われたこともあるようだ。風石輸送のための港を開く必要が生じて、セバスティアンはそれに適した土地をみつけねばならなかった。ちょうどいい土地があったはあったが、そこの住人は自分の住み処に愛着を持っていて、出ていきたがらない。すると、その土地で急に疫病が発生し、ほんの数日の間に住人が全滅する事態が起きたりする。トロヤとかボンペイ、ダングルテールといった場所が、奴に目をつけられた不幸な廃村の代表だと言われているが、まあこれも証拠はない……」

「……………………」

「世間一般では天才経済学者のように言われているが、結局のところセバスティアンの思考は、『1たす1は2』のように単純なものだ。気に入ったものは大事に使うし、気に入らないものは速やかに処分する。

 問題は、その思考をすべて実現するだけの力を、奴が持っているという点だ。平民は、貴族が気に入らなくても、排除はしない。そんなことができる力を持っていないからだ。今のガリアには、俺という王を嫌っている貴族は少なくないだろうが、そいつらは俺を排除することはせず、ただ頭を下げる。王がいなくなった場合の、社会的影響を考慮するからだ。

 普通の人間は、自分の立場、常識的な予測、メリット、デメリット、様々な物事を考え合わせて、自分の欲望を適切に抑える。それができるのが、大人というものだ。

 セバスティアンは、そんなことをいちいち考えるほど思慮深くない。かといって、雑な行動をするわけでもない。風石マネーという強大なパワーと、商人として超一流の計算能力、優秀な部下たちを的確に操って、自分のわがままを遠慮なく通す。

 世界が欲しいと思ったなら、あの男なら手に入れようとするだろう。人類を滅ぼしたいと思ったなら、それが実現可能になる方法を、大真面目に考えることだろう。

 そんな奴だと、知っているからこそ……俺はあの、シザーリオの言葉を、そのまま信じる気になったのだよ」

 ジョゼフは、ミス・シェフィールドを抱いていた腕をするりとほどくと、ひとりで窓際に立った。外には静かな夜闇があり、ふたつの月は、すでにかなり高い。赤と青の混ざった紫色の月光を浴びて、彼は自嘲するように呟いた。

「我がミューズよ。セバスティアンの企みを聞いた時、俺がどんな気分になったか、想像できるかね。

 酷く……そう、これほど酷く虚しい気持ちになったのは、ずいぶんと久しぶりのことだ。それこそ、シャルルを毒矢で射った時に匹敵するかも知れん。

 世界人類の絶滅だぞ? それも、ハルケギニアだけではない、東方に住まう数億人さえ巻き込んだ大殺戮! それを、十人にも満たない少数の仲間だけしか連れずに、やってのけようというのだ!

 それに対して、俺の演出したアルビオン戦争はどうだ!? 確かに王家をひとつ滅ぼした、何千人もの死者を出し、トリステインやゲルマニアにも混乱をもたらした! だが、その程度だ! 人類絶滅の大計画と比べて、なんと矮小なことか!

 俺は、自分の器の小ささを思い知らされたのだ。どんなひどいことをしても、心が震えなくて虚しい? 当然だ! やっていることが、全然大したことなかったのだからな! しかも、その小さなお遊びですら、直接関わらず、安全な外から、他人の手を介してでないとやれないという臆病っぷりだ! これでは、真の感動など得られるはずもない!

 だから俺は! 今までにない臨場感を求めることにしたのだ! 騒動の最前面に『俺』自身を押し出し、『敵と戦うリアルな感覚』を味わう! 敵はなるべく多く! ロマリア、トリステイン、ゲルマニア! さらに、我が娘すら反乱するように誘導する! これで、『圧倒的な力に襲われる恐怖』と、『困難に立ち向かう勇気』を獲得するのだ!

 セバスティアンが東方でぐずぐずしている間に、俺が先に世界を敵に回す……この戦いに勝てれば、俺は今度こそ、達成感で心を震わせることができるだろう……負けたなら負けたで構わない。自分の命を奪われるという、一生に一度しか体験できない恐怖によって、一瞬でも心を震わせられれば、もとは取れるというものだ。

 まあどちらにせよ、これから起きるのは大戦争だ。ハルケギニアは荒廃し、貴族社会自体が存続できなくなる可能性もあろう……。セバスティアンが戻ってきて、いざ人類に滅びを、と頑張り始めたとして……その頃には、人類はすでにボロボロになっていました、なんてことになっていたら。あいつは喜ぶかな? それとも出鼻をくじかれたような気になるかな? ふふ、それを想像するだけでも、そこそこ愉快な気持ちになれるものだな。はっはっは、は、ははははは!」

 破滅的なジョゼフの計画。それと同じくらい壊れた調子の、彼の笑い。

 それを聞きながら、ミス・シェフィールドは、全身の皮膚にゾクゾクと震えが走るのを感じていた――彼女の主は今、かつてないほどのやりがいを持って、自分と世界の破滅を演出している。

 そんな彼は彼女にとって、素晴らしく魅力的だった。ジョゼフの発散する雄としての活力が、シェフィールドの雌の本能を、激しく刺激する。

 この男のためなら死んでも構わない。本気でそう思える相手に仕えられる幸福を、彼女は噛みしめていた。

「――ジョゼフ様。そろそろ、アーハンブラ城行きの船の準備ができた頃です。お早めに船内の寝室に入って、明日からの大仕事のために英気を養われてはいかがですか?」

「おお、そうか、もうそんな時間か。確かに寝不足では、せっかくの楽しみを味わい尽くせないだろうからな。よし、行くことにしよう。

 シャルロットとマザー・コンキリエも、いい部屋で寝かせてやるのだぞ。彼女らはこの計画になくてはならないエサだからな。大切にせねばならん。

 そうそう、あのシザーリオと、ビダーシャル卿にも乗船するよう伝えるのだ。奴らも、俺の陣営を守るための立派な戦力だからな」

「ご安心を、ジョゼフ様。すべて、あなた様のお気に召すように……」

「うむ。……おっといかん、忘れるところだった! シザーリオに、もしセバスティアンと連絡が取れるなら、マザー拘束の情報を知らせるように言っておけ。ことによると、世界を滅ぼそうという最悪の勢力までもが、俺を狙ってきてくれるかもしれんから、な!」

 けたたましく笑い続けながら、ジョゼフは部屋を出ていく。

 ミス・シェフィールドもそれに続く――扉が閉められ――静寂と月光だけが、そこに残された。

 

 

 ジョゼフによって誘導された様々な思惑が、ガリアの東へ――アーハンブラ城へと集結する。

 ただし、そのほとんどは、ジョゼフの予想とは違った形で動き始めていた。

 まずはシザーリア・パッケリ。彼女は自分ひとりで主の奪還と、ガリア王暗殺未遂事件の証拠隠滅を行うことを決意していた。

 リュティスの風竜便発着所で、一台の竜籠を雇った彼女が、アーハンブラへ向けて飛び立ったのは夜半過ぎのことだ。ロマリアの軍隊など、その周りには一兵たりともいはしない。もちろん、ジョゼフがいくら待とうと、教皇からの抗議なども来たりはしない。

 

 

 次にトリステインとゲルマニア。ヴァリエール家令嬢誘拐未遂事件によって、ガリアから挑発されるはずだったこの二国だが、こちらもロマリア同様、そもそもそんな事件のあったことを、王家の者たちが知らされることはなかった。

「ほ、ほんとに僕らだけで行くのかい、サイト? 正直、無謀過ぎるんじゃないかと思うんだが」

「何言ってんだよギーシュ。トリステインとガリアが戦になったらまずいから、身内だけで解決すべきだって言ったのはお前だろ?」

 夜闇を切って空を駆けるシルフィード。その背中には四人の男女が乗っており、そのうちふたりの少年が言い合いをしていた。片方は金髪で、もう片方は黒髪だ。

 ギーシュと呼ばれた金髪の少年は、これからしようとしていることにためらいがあるらしく、言葉が少し震えている。

「い、いや、確かにそうは言ったよ。ガリア王主導のトリステイン人誘拐未遂事件なんて大事件を、抗議もせずに放置したりなんかしたら、トリステイン王室の威信は地に落ちる。だけど、今のトリステインは、アルビオンに対する包囲戦術でいっぱいいっぱいだから、この上ガリアと敵対するようになったら、軍備も財政も破綻してしまう。ゲルマニアの支援があっても、大国ガリア相手じゃちょっと苦しいだろう。

 だから、王室に知らせたりして、話を大きくすることはせず、他の解決策を探すべきだと言ったのは認める……でも、僕たち四人だけでガリアに潜入して、厳重に監禁されているであろうミス・タバサを救出しよう、っていうのも極端じゃないかな!?」

 その叫びに応えたのは、サイトと呼ばれた黒髪の少年ではなく、燃えるような赤毛と褐色の肌が美しい、大人びた少女だった。

「あら、なら他に、いい方法があるのなら教えてくれないかしら。

 タバサを連れていったあの黒い服の女は、近いうちにタバサを処刑する、みたいなことを言っていたわ。その『近いうち』は、一週間後かも知れないし三日後かも知れない、もしかしたら明日なのかも知れない。手遅れにならないようにするには、とにかく早く行動しないといけないの……違う、ギーシュ?」

 赤毛の彼女の言葉に、最後のひとり、ストロベリーブロンドの小柄な少女も賛意を示した。

「キュルケの言う通りよ。そもそも、大人たちに頼れない以上、私たちだけで行動を起こさなくちゃいけないっていうのは確定だわ。

 今回の件がおおやけになったら、ガリア王はもちろんだけど、実行犯のタバサだって、立場が悪くなっちゃう。タバサを奪還してどこかに隠して、最初から最後まで、『何もなかった』ってことにしちゃわないと……。

 秘密のうちに、かつ大急ぎで、っていうのが、今回のミッションの大前提なのよ。それを満たすには、どうしても私たちだけでことに当たるしかないわ」

「あら、珍しく意見が合うじゃない、ルイズ」

「今回だけ、よ! タバサを助けるって目的が、偶然重なってるだけ! あんたに同調したくてしてるわけじゃないんだからね!」

 フシャー、と、怒れるにゃんこのように威嚇のポーズをとるルイズを、キュルケは余裕の表情であしらう。国境を挟んで長年敵対し続けているトリステインのヴァリエール家と、ゲルマニアのツェルプストー家の末裔であるこのふたりは、以前から本能的な対立状態にあったが、命がけの冒険を何度か共にした結果、その関係は罪のないじゃれあい的なものにまで落ち着いていた。

 その様子を見ていたサイトとギーシュは、やれやれ、と苦笑して、肩をすくめた。このふたりも、最初は貴族の横暴が気に食わない勇敢な少年と、平民の無礼が気に食わない誇り高き貴族として、最悪な出会いを果たした。しかし、命がけの喧嘩をきっかけに、互いを認め合い、今では親友と言っていい間柄となっている。

 そして――ここにいないタバサという少女――ガリア王によって囚われの身となっている彼女もまた、この四人と、日常と冒険を共にし、固い絆で結ばれている仲間なのだ。

 虚無の主従であるルイズとサイトが、ガリア王の命令を受けたタバサを撃退した時。偶然にもキュルケとギーシュがその場を通りかかった。

 シェフィールドがルイズたちに、任務に失敗したタバサをアーハンブラ城にて処刑する、と話したところも、一緒に聞いてしまった。

 もちろん四人は、タバサを救出することで意見を一致させた。主を囚われた使い魔、風韻竜のシルフィードに道案内を頼み、国の手も大人たちの手も借りず、自分たちの腕っぷしだけを頼りに、暗闇の空を東へ、東へ。

「なあシルフィード。ご主人様のいる場所までは、あとどれくらいかかるんだ?」

「きゅいきゅい! まだかなり遠いの。でもお姉様との絆のラインははっきり感じてるから、一直線かつ全速力でかっ飛ばすのね」

 サイトが竜に尋ねると、子供っぽい声が即座に応える。

 タバサを慕うこのシルフィードも、サイトたち四人の同志には間違いない。ただし彼女は竜種ではあるが、その本領はあくまで生物界屈指の高速飛行能力であり、アーハンブラ城での戦闘要員としてはあまり期待できない。

 彼女の存在は、タバサを救出してからの逃走時に必須のものだ。逆に言えば、その時まで傷つくことは許されない。だからやはり、城塞に侵入し、虜囚を取り戻すのは、サイト、ルイズ、キュルケ、ギーシュの四人でなくてはならないのだ。

 それは確かに無謀な計画であるかも知れない。しかし彼らは、仲間を見捨てることはできないという、人としての勇気を備えていた。

 その勇気が――国の軍隊を使わず、四人だけで死地に向かったことが――ジョゼフの企みを打倒する一因になるとは、この時は誰も想像していなかった。

 

 

 そして。ジョゼフに世界大戦を決意させた人物――東方のセバスティアン・コンキリエも、これまたジョゼフの予想とは違った動きをした。

 シルフィードがガリアの領空にたどり着いた頃、この大実業家であり大陰謀家でもある人物は、大中国とハルケギニアを隔てる、広大な砂漠の真ん中にいた。

 いや、正確には、砂漠の中を西へ向けて移動する乗り物の中にいた――摩擦の小さい細かい砂の上を軽やかに滑る、五十メイル×八十メイルの面積を持つ巨大なソリ。その上に建設された、豪奢な二階建ての屋敷の中に。

 故郷への旅路を快適に過ごすためだけに、セバスティアンはこの移動邸宅を作らせた。屋敷を乗せたソリは、五頭の巨大な竜によって、馬車のように引かれて動いている。その竜は大中国にのみ生息する土竜の一種で、俗にマメンチサウルスと呼ばれているものだ。恐ろしく長い首と、鯨のように大きな体、そして巨木の幹を思わせる四本の太い脚で、しっかりと砂を踏みしめ、西方ハルケギニアへ向けて歩き続ける――屋敷付きのソリなど、彼らにとっては重石のうちにも入らない。

 この時、むしろ苦しみあえいでいたのは、土竜などではなく、屋敷の中にいる人間だった。セバスティアン・コンキリエは、金のかかったインテリアに彩られた、居心地のいいはずの居間の中で、毛足の長いじゅうたんの上をごろんごろん転がりながら、頭を抱えていた。紫色の巻き毛はくしゃくしゃになり、かけていた眼鏡はとっくに顔から落ちて、部屋の隅っこに放ったらかされている。

「あああ、どうしようどうしよう。困ったぞ本気で困ったぞ、いったいどうすればいいんだろう。

 もう一度確認させてくれ、リョウコ君。死なせたはずのシザーリオ君が生き返って、ジョゼフ王に寝返っちゃったんだね?」

 その問いかけに、そばにいた彼の秘書、リョウコはうなずいた。彼女はセバスティアンほど動揺をあらわにするタイプではないらしく、普通に立っているが、表情はかなり渋い。

「ああ、その通りだ。さっき、クリスタル・タブレットを介して連絡があった。

 間違いなくシザーリオ君の声だったし、彼の体内チップも、彼の生命反応の再生を知らせてきている。まあ、正確には死人を生き返らせているのではなく、水の流れを操って、生きているようなふるまいをさせているだけみたいなんだが……それでもさすがに意外だったよ。まさかハルケギニア人の魔法技術が、そのレベルまで進んでいようとは……」

「いや、問題はそこじゃないよ。シザーリオ君が生き返ったことじゃなく、寝返っちゃったことがまずいの。刺客である彼が向こうについちゃって、知ってること全部話したせいで、あの優秀極まる生徒だったジョゼフに、僕が彼の命を狙ったってことがばれちゃったんだよね?」

「うん、ばれちゃったねぇ」

「しかもそのネタバレの瞬間に、僕の可愛い妖精であるヴァイオラがジョゼフのそばにいて、連帯責任だーってばかりに捕まえて投獄しちゃったんだよね?」

「うん、投獄しちゃったねぇ。しかも、処刑するとか言ってるらしいね」

「これって大ピンチじゃないかね、リョウコ君?」

「うん、かなり大ピンチだよ、セバス」

 秘書とのやり取りで、あらためて現状を確認したセバスティアンは、再び唸りながら床を転がり始めた。

「ああ、まったく、どうしてこんなことになっちゃったんだ。僕の可愛い可愛いヴァイオラ。なあリョウコ君、僕の親としてのひいき目を抜いても、客観的にあの子は可愛いよな?  あんなか弱い野菊のような娘が、牢屋に押し込められて処刑されるのを待つだなんて、こんな悲劇は他にあるまい? 何とかしないといけないよ」

「うん、そうだねえ。あの子はとっても可愛いね。さすがはキミとオリヴィアの子だよ。

 早く助け出してあげないと駄目だよね。しかし、ヴァイオラちゃんを人質に取られているとなると、あまり派手なことはできないな。彼女を安全に救出するとなると、隠密性の高いスペルを使えるシザーリオ君が適任なんだが、彼は寝返っちゃったし、どうするか……」

「あ、いやいや、違うんだよリョウコ君。僕は別に、あの子の身の安全を心配してるんじゃないんだ」

「ん? どういうことかね、セバス?」

「だってほら、たとえヴァイオラが八つ裂きにされて殺されようと、リョウコ君、君の能力があれば簡単に生き返らせることができるじゃないか。

 僕が心配しているのはね、ヴァイオラが処刑されたあとのことなんだ。シザーリオ君の例を見る限り、ジョゼフもこちらと同じく、死人を生き返らせる能力を持っている。完璧な復活ではないようだが、少なくとも死者に、生前と全く見分けのつかない行動をとらせるぐらいのことはできているわけだ。

 しかも、シザーリオ君が簡単に寝返っていることから見ても……ジョゼフの蘇生能力は、復活と洗脳が、セットになっているものらしい……処刑されたヴァイオラが、ジョゼフによって生き返らされて、彼の味方になって僕に敵対してきたら……そんな悪夢的な状況に出会ったら、いくらなんでも耐えられない……」

「……………………」

「ああ、想像するだけで苦しいよ。あの天使のようなヴァイオラが、僕に向かって『父様なんか大嫌い! あっちいっちゃえー』とか言ってきたら……冗談抜きで心臓が止まるね。それが洗脳された結果の、意に反する言葉だったとしても、僕のひ弱な心にはナイフのように突き刺さるだろう。そんな事態が起きることだけは、なんとしても避けたい!」

「……いや、セバス……キミね、もうちょっとさ、ジョゼフ王が洗脳したヴァイオラちゃんを使って、ロマリアに働きかけて、私たちに軍隊をけしかけてくるとか、そういった心配の方をだね……まあ、キミが危機感を持ってくれるなら、どっちだってかまやしないけど。

 つまり、ヴァイオラちゃんが処刑されて、ジョゼフ王の手下として復活する前に、救出したいということだろう?」

「いや、だから、それじゃ充分じゃないんだよ。人を殺して復活させて洗脳できる、なんて力を持った奴が、果たしてただ単純に洗脳するだけのことができないのか……って疑問があるんだよ。

 シザーリオ君は、君によって殺されたから、ジョゼフは生き返らせないと洗脳できなかった。死人を動かすために、ジョゼフは強力なエネルギーを注ぎ込まなくちゃいけなくて……そんな大がかりな作業をしたから、我々はシザーリオ君の体内チップを通じて、ジョゼフの死者蘇生の魔法に水の力が関わっていることに気付けた。

 しかし、もしジョゼフが、生きた人間に洗脳を施したなら? 死者蘇生なんかより、よっぽど使用する力の量は少ないだろう。体内チップは精密な素晴らしい機械だが、万能でもない……なあリョウコ君、ヴァイオラが生きたまま洗脳されたとしたら、その魔法の痕跡を、チップのスキャン能力で読み取ることはできると思うかい?」

「ふーむ……」

 リョウコはしばらくの間、まぶたを閉じて考えたが、やがて両手を小さく顔の前で振って答えた。

「残念ながら、間違いなくできる、とは言いがたいね。そもそもあの装置は、擦り傷とか、あまり大きくない怪我は無視するようにできてるんだ。日常でできるような傷が、あっという間に消えてなくなるようじゃ、あまりに不自然だから。

 ただの洗脳となると、怪我もしないわけだし……脳神経に障害を及ぼすほどの大量の水エネルギーが加えられれば、話は別だが……」

「つまり、ヴァイオラを救出できても、洗脳されているかどうかは判定しにくいわけだ。それはよく考えなくても恐ろしいことじゃないかな、リョウコ君。

 手元に帰ってきた可愛い娘が、いつ裏切るとも知れないのでは、僕らは安心して計画を進行できない。この問題は、真っ先に解決しなければ……虚無の使い手たちを抹殺するより、優先して考える必要があるよ」

「ふむ……で、セバス? その問題を、キミはどう解決すればいいと思うんだ?」

「ヴァイオラを殺す」

 一秒も躊躇することなく、セバスティアンは結論を言った。

「あの可愛い子猫ちゃんを一度殺して、ジョゼフの影響を完全にリセットしてから生き返らせる。これは君の死者蘇生能力を当てにしなければ選べない選択肢だ。できるね、リョウコ君?」

「うん、充分可能だ。ガリア訪問より前のヴァイオラちゃんの記録を元に再生すれば、洗脳されていない彼女を間違いなく作り上げられる。

 しかし、ヴァイオラちゃんをただ殺しても、ジョゼフがその死体を復活させてしまったら、ややこしいことにならないか?」

「それも考えてある。ジョゼフに、ヴァイオラの死体を再利用されないように……僕は、ミス・ハイタウンを、アーハンブラ城に差し向けるつもりでいる……」

 寝転がったまま、その名前を口にしたセバスティアンは、ヴァイオラが捕まったことを聞かされた時に匹敵する、憂鬱げな表情を浮かべた。

 聞かされたリョウコも、頭痛でもしたかのように眉間にしわを刻み、額を手のひらで押さえた。そして大きなため息をつく。

「ミス・ハイタウンを? あの『悪魔』の二つ名を持つ彼女に任せると言うの? まあ彼女は強いけど……高い報酬を要求されるんじゃないかね?」

「それでも仕方がない。『スイス・ガード』の中でも最強の破壊力を誇る彼女なら、ヴァイオラを苦痛なく殺し、なおかつ、その死体を髪の毛一本残さず、この世から消滅させてくれるだろう。

 ジョゼフは、水の力で死体を動かしているわけだから……死体さえなければ、ヴァイオラを復活させることはできなくなる……そうだろう?」

 セバスティアンの確認に、リョウコは肯定の返事の代わりに肩をすくめてみせた。

「ともかく、ハイタウンを速やかに動かさなければ。ことは一分一秒を争うからね。リョウコ君、彼女に連絡を……もちろん、ミスタ・フォン・ルーデルにもだ。今夜中にハイタウンをアーハンブラ城に放り込んで、明日の日の出を迎える前にすべてを片付けるように、と命令しなさい。大急ぎで、だよ」

 そう言い終えると、セバスティアンはようやく立ち上がって、大きなあくびをした。命令という仕事を済ませたので、もはや緊張感を維持する必要はないというわけだ。

 リョウコはそんな主に、「はいはい」と気楽に相づちを打って、その場を立ち去った。彼女にとっても、方針が決定した以上は、この問題はすでにひと事であり、気合いを入れるべきは命令を遂行するミス・ハイタウンだという考えだった。

 そして彼らは、『悪魔』と呼ばれる彼女が、完璧に仕事をしてくれるはずだと信頼していた。

 虚無の使い手であるジョゼフ王はもちろん、ガリアという王国自体、ミス・ハイタウンの敵ではない――そのような認識をされている戦力が、西へ西へ、砂漠の果てのアーハンブラ城へ。

 人質の救出ではなく、抹殺という、冷酷なジョゼフでさえ想像もしない任務を携えて――襲い来る。

 まるで、避けようのない砂嵐のように。

 

 

 月明かりで紫色に染まった砂漠を背景に、わびしげに佇む石造りの城塞。

 ガリア最東端の建造物、アーハンブラ城。

 千年もの長きに渡って、人間たちと、砂漠に住むエルフとの戦いを見守ってきた、歴史ある城である。

 今でこそ、固定化の魔法でも維持が困難なほどに古錆びて、戦争の拠点としての機能はほとんど失われてしまったが、それでもエルフに対する人間の抵抗の証として、この場所を慕うハルケギニア人は多い。

 アーハンブラ城。

 それが、年老いた誇り高き城の名前であり、ジョゼフがタバサやヴァイオラを人質として監禁した城の名前であり――今夜限りで、この世から消滅することになる城の名前である。

 

 

 ぱっちりと目を開ける。

 まぶたをしぱしぱ瞬かせて、ゆっくりぐるりを見渡すと、なんか見覚えのない埃っぽい部屋におることがわかった。我の体は革張りのソファに横たえられておって、腹の上にはタオルケットがかけられておる。それはええんじゃが、服がパジャマじゃのうて夜会用のドレスじゃから、あちこちシワになってしもとるのがちょいと頂けぬな。

 あー、どこじゃここ。頭がぼんやりして、色々と明瞭でない。とりあえずひとつずつ確認しよう。我はなしてこんなところで、こんな格好で寝ておる?

 ――あ。そうじゃ。お、思い出した。

 我、あのアホたれジョゼフに、晩餐の席で取っ捕まってしもたんじゃ。

 うちのバカ親父が、ジョゼフを暗殺しようとか企みよって、その仕事を任された間抜けのシザーリオが余計なことペラペラくっちゃべりよったせいで、何も悪くない我が巻き添えで逮捕されてもうたんじゃ!

 で、ロマリアに連絡させろー、とか、弁護士を呼べー、とか騒ぎまくっておったら、メイジの衛兵にスリープ・クラウドかけられて――気がついたらここにおった。

 なんたる非人道的扱い! 我のような高貴な人間を強制的に眠らせ、すやすやしとる間に監禁するとは!

 しかも、置いとく環境もよろしくない。なにこの砂の臭いの濃い廃墟っぽい部屋。照明は壁にかけられたランプだけなんで、薄暗いし陰気じゃ。サヴォイとかリッツのスイートルームとは言わんが、それなりに掃除されて装飾された清潔かつ金のかかった部屋でなければ、我を閉じ込めるにしてもふさわしくなかろう! 寝具もこんな堅いソファじゃなく、天蓋付きのベッドにふかふか羽毛ぶとんを要求するぞ!

 これは次にジョゼフに会ったら、ガツンと文句を言ってやらねばならんな。テーブルマナーでちったぁ感心してやったのに、がっかりさせおって。やっぱあれは無能王じゃ。聖なるヴァイオラ・コンキリエ枢機卿を何じゃと思っとるんじゃ、まったくまったく!

 ――などとひとりで不満をこねくり回しておったら、ランプの明かりの届かない闇の中から、がちゃりと重い音が聞こえた。

 目を凝らしてみると、その音のした場所には扉があり、ドアノブがきりきりと回っているのが見えた。誰かがこの部屋に入ってこようとしておるのじゃ。

 おーしこれはさっそくチャンスじゃ。入ってくるのがジョゼフのタコ野郎か、それともたたの下っぱ衛兵かはわからんが、居丈高にわめき散らして、待遇改善を要求するとともにストレス解消に利用してやる。ハルケギニアには、高位聖職者ほど強く偉いもんはないと、はっきり教え込んでくれるぞ、ゴラーッ!

「起きたか娘。我が名はビダーシャル」

「ごめんなさい文句とか何もありませんので殺すなください」

 耳長アアァァ――いッ! 説明不要ッ!

 その姿を目にした瞬間、我は深くこうべを垂れて、敵対する意思のないことをこれでもかってほどアピールした。

 砂漠に住む亜人、エルフは人間が最も恐れる生き物じゃ。外見的には、ヒトとの違いは耳の長いことぐらいじゃが、何百年もの年月を生き、強力な先住魔法を操り、やたら深い知識や技術を扱う、無駄にハイスペックな連中で、人間がケンカをふっかけるなら、五百倍ぐらいの戦力を用意せんと対等になれんらしい。

 そんな化け物の機嫌を損ねようもんなら、我は一秒で挽き肉じゃ! 教会の威光も、このクソ異教徒どもには通じぬし、命を惜しむなら、ここはへりくだるしかない!

「顔を上げろ、蛮人の娘。我は積極的にお前たちに危害を加えようという気はない」

「へへーっ」

 言われた通り顔を上げる。砂色の長い髪と、彫りの深いなかなかのイケメン顔を持ったこのエルフは、我を優越感も哀れみも敵意もない、完璧な無表情で見下ろしておった。

「ジョゼフから聞いてはいるだろうが、お前はお前の父親の罪によって、しばらくここに監禁される。期間はおそらく、三日ほどになるだろう。その間、なるべく大人しくしているように……今回は、それを言いに来た」

 へ? 三日?

「み、三日で、我は放免して頂けるのですかや?」

「すまない、表現を誤ったようだ。今から約三日で、お前を処刑するための毒薬が完成する。それまで無駄な抵抗をせず、残された時間を覚悟するために使え……そう言いたかったのだ」

 のぎゃ――――――――ッ!?

「我も、お前のような幼い者に、残酷な毒薬を飲ませるのは心苦しい。だが、ジョゼフとの契約を破るわけにはいかない。四の四を揃えさせないために、彼の協力は必要不可欠なのだ。どうか許してほしい」

 許してほしいじゃないわこの耳長ァ!

 チクショウ、なんちゅうこっちゃ、状況は思っとったより千倍悪い。ジョゼフがエルフと協力関係にあったっつーこともヤバいし、我が処刑されることが決定事項になっとるっつーのも激マズい!

 我は、我が捕まったのは、あくまで親父の罪行を謝罪させるための人質として、じゃと思うとった。我を盾にねちねち文句をつけて、バカ親父にごめんなさいさせたら、普通に解放されるもんじゃと思うとったゆえ、ピンチと言うても、悪い評判が立つとか賠償金請求されるとか、そんなレベルの心配をしておったのじゃ。

 ジョゼフの野郎、まさかここまで回りが見えておらんアホ助じゃとは! 我を処刑なんぞしたらどうなるか、ロマリアのブリミル教会を中心とした宗教社会が、あとセブン・シスターズを始めとした世界の資本主義陣営が、ガリアにどういう報復をするか、想像もできんと言うのか!

 それともまさか、それ全部承知だと言うたりはせんじゃろな。世界の大部分を敵に回して、しかも勝てる気でおるなら、こりゃ無能というより完全に狂うておる。

「み、ミスタ・ビダーシャル! どうかジョゼフ陛下にお取り次ぎを! このようなことはガリアのためになりませぬ! 説得の機会を我にお与え下され!」

「お前の気持ちはわかる。その訴えも正当であろう。だが、無駄なことだ。ジョゼフは己の満足にしか興味がない。説得されて考えを翻すようなら、我もそれほど苦労はしていまい」

「……その通り、サイコロはすでに振られたのです。

 誰も後戻りはできません。あとは流れに身をおまかせになるべきですわ、マザー・コンキリエ……ミスタ・ビダーシャル」

 我の声でもビダーシャルの声でもない、第三者の声が、扉の方から響いてきた。

 目を向けると、黒く艶やかな妖女――かつて、我を病室に見舞いに来た、あのおっぱいでかいミス・シェフィールドが、部屋に入ってくるところじゃった。

「ジョゼフ様もすでに退路は絶っておられます。あとは満足を得られるか、滅び去るか。もはや、始祖に仕えるお方のありがたいお言葉も、民の言葉も、金銭的な損得も、あの方を止めることはできません。ええ、絶対にできませんとも」

 暗い笑みで、独り言のように呟きながら、ミス・シェフィールドは我の前まで歩み寄ってきた。よく見ると、その背中には小柄な影がおぶさっておる。彼女は我の座っておるソファの、空いているスペースに、その人影をそっと横たえた。

 すうすうと寝息を立てる、細っこいお人形さんのような青髪の少女。我もよく見知っておる、それはタバサこと、ミス・シャルロットであった。

「マザー。このミス・シャルロットと、あなたはこれから相部屋です。処刑までの間、話し相手として、お互いの気持ちを慰められるとよいでしょう。

 ミスタ・ビダーシャル。手はず通り、ふたり分の毒薬の調合をよろしくお願いしますわ。この可憐なお二方の無惨な死にざまを見ることを、ジョゼフ様はとても楽しみにしておられます」

「……わかっている。わかっているが、やはりエレガントな趣味ではないな」

 シェフィールドの言葉に、渋面を作るビダーシャル。笑顔で我とタバ公の殺害をほのめかすシェフィールドより、化け物なエルフの方がまだしも親近感を覚えるっちゅーのもどうなんじゃろ。

 だが、こいつらどっちも、我らを助ける気がないっちゅーのは変わらんようじゃ。何も頼れん。望めることは何もない。

「……ミス・シェフィールド。我とタバサの命を見逃す気は、欠片もないんじゃな?」

「ええ、マザー。大変申し訳ありませんが、陛下のご意向ですので」

「さよけ。……ならばせめて、我が残りの時間を快適に過ごせるように配慮せい」

「可能なことでありますならば。家具や寝具を提供して欲しい、というようなお望みは聞けませんが、腕のよいシェフを連れてきましたので、お食事はせいぜいよいものを出させて頂きますわ」

 ちっ、ベッドとおふとん駄目か。ならば――。

「ではそうじゃな、まず、話し合いをさせる気がないなら、無駄なおしゃべりなど聞かせんでゆっくり寝させろ。我はまだ寝たりぬ……普段はしっかり八時間睡眠を心がけておるでな。ときに、今は何時じゃ」

「ちょうど、夜中の二時を回ったところですわ」

「ならば、明日の朝十時過ぎまでは起こすでない。朝食は要らぬが、昼は卵とミルクたっぷりのフレンチトーストを用意するよう、シェフに伝えい。

 パンの厚さは四サント以上、ハチミツとホイップクリームを添えること。トマトとバジルを使ったサラダも欲しい。あと、ドリンクはクックベリーかオレンジのフレッシュジュースにするんじゃ」

「かしこまりました。必ず伝えましょう。他にご要望は?」

「我の従者が、シザーリアがどうしておるか知りたい。奴に塁は及んでおるまいな?」

「ご安心を。ジョゼフ様のご関心は、あなた様にのみございます。あのメイドさんは、ロマリアにお帰り願いましたわ」

「さよけ。……安心した。我から望むことはもう特にない」

「では、マザー・コンキリエ……どうぞよき眠りをお楽しみ下さいませ」

 そう言って皮肉げにお辞儀をすると、ミス・シェフィールドはきびすを返し、部屋を出ていった。

 エルフのビダーシャルは、シェフィールドの後ろ姿を忌々しげに見送っていたが、こちらも「さらばだ」といって立ち去りかけた。が、途中で何を思ったか、我の前まで戻ってきて、懐から古びた一冊の本を出し、差し出してきよった。

「これを渡しておく。我が蛮人の文化の中で、とりわけ興味深いと思えたもの、物語と呼ばれるものだ。

 死に直面した者が、恐怖に押し潰されないためには、勇気が必要だとそれには書いてあった……非常に含蓄のある内容だ。

 お前と、そちらで眠っているミス・シャルロットには、きっとそういった、励まされる言葉が必要だろう。心細くなったなら、読むといい」

「……礼は言わぬぞ。だが、ご厚意は受け取っておく」

 我がその本を手に取ると、ビダーシャルは小さく頷いて、今度こそ部屋を出ていった。

 重く堅いであろう扉は閉ざされ、がじゃん、と、外から錠のかけられる音が聞こえた――我は完全に閉じ込められ、すぴょすぴょ眠るお気楽極楽タバサさんとふたりきりになってしもた。

 ビダーシャルから受け取った本を、なんとなしに見てみる。タイトルは『イーヴァルディの勇者』。なんじゃ、めっちゃ子供向けの絵本でないか。エルフっちゅーのはこんなガキ臭いもんが好きなんか?

 まあ確かに、勇気づけられるタイプの物語ではあるが。じゃが我に、こんなもんは要らんのじゃよ、アホエルフよ。

 その本をタバサの腹の上にぽーいと放り出して、我は立ち上がる。勇気なんぞ、最初っからたっぷり持っておるわ。天下のコンキリエ枢機卿様をナメるなよ。

 一応、あのシェフィールドから、明日の朝十時までの時間は引き出した。それまではたぶん、奴らは我を放っておいてくれる。

 じゃから、その間に考えるのじゃ、我よ――この場所から、うまいこと逃げ出す方法を。

 

 

 砂の臭いがする薄暗がりの中で、私は目を覚ました。

 ぼんやりした眠気を振り払うように頭を軽く振って、身を起こす。体の下には、弾力のあるすべすべとした感触。どうやら、革張りのソファに寝かされているらしい。

 起きた拍子に、何かかがばさりと床に落ちる音がした。軽く平べったいものが、お腹の上に乗せられていたらしい。

 どうやら、薄い冊子のようだ。拾い上げてみると、それは懐かしき『イーヴァルディの勇者』の絵本だった。ハルケギニアの子供たちに広く親しまれている、冒険物語――何でこんなものが?

 かさかさとしたその表紙を、指の腹で撫でて、私はため息をついた。このお話、母様にも寝物語に読んでもらったこともある、大好きな物語――勇敢な主人公イーヴァルディのあり方に憧れを抱き、彼のように不屈の精神を持って、強大な敵に立ち向かおうと、今日まで頑張ってきた私だけれど――現実は物語とは違う。私は敵を倒せず、もうすぐ朽ち果てる運命にある。

 ジョゼフから直々に下された命令。ミス・ヴァリエールと、その使い魔サイトを拉致するという任務を、果たすことができなかった。

 戦闘には自信があった。ミス・ヴァリエールは戦いに向いていないし、サイトは強いけれど、心に甘いところがある。実力行使になったなら、間違いなく勝てると思っていた。

 しかし、実際には違った。甘さから実力を発揮できなかったのは私の方で、向こうは――特にサイトは――ミス・ヴァリエールを守ろうという強い意思で力を増し、私を圧倒した。

 敗北した私は、ミス・シェフィールドに回収され、ジョゼフの前に引き出された。

 ジョゼフはこの失敗を理由に、死刑を宣告してきた。諦めきれない私は、せめて一矢を報いようと、彼に挑みかかったが、ジョゼフのそばにいたエルフの先住魔法によって、赤子の手をひねるように撃退された。

 どれほど強力な魔法でも、そのままの威力で反射してしまうなんて。あんな恐るべき使い手に守られているジョゼフを、いったいどうやれば倒せるというのか。

 倒れ臥した私に、ジョゼフはアーハンブラ城で服毒してもらうと言った。エルフが毒を作るまで、砂漠の城の牢獄に監禁し、世にも寂しい場所で最期を迎えさせてやる――のだ、そうだ。毒を飲む瞬間まで立ち会って、苦しみながら死に至るのを見物する、とも言っていた。やはりあの男は悪趣味。

 その宣告の直後に気絶したので、あれから何が起きたのかはわからないが、あの話の流れと、この場所の砂の香り――私は意識のない間に、アーハンブラ城へ移送されたのだろう。

 手元に杖はない。身に付けているのは、トリステイン魔法学院の制服とマントだけ。そしておそらくここは、脱出困難な牢獄のはず。

 攻撃のための武器も、行動の自由も奪われた今、ジョゼフを倒せる可能性も完璧に失われた。

 あとに待つのは、逃れられない死、だ。最後に未来を奪われて、それでジ・エンド。

 勇者には、誰でもがなれるわけじゃない。そんなことはわかってる。でも、私はなれると信じていた。

 力も勇気もあるつもりだ。イーヴァルディは、悪い竜にさらわれたルーを助けたい、という思いの力を持っていたけれど、私の、父の仇を討ちたい、病んだ母を助けたい、という気持ちだって、それに負けていなかったはずだ。

 でも私は、ジョゼフに勝てなかった。

 返り討ちに遭い、あっさり死んでいく――ことになった。

 しょせん私には、勇者の役どころなど向いていなかった、ということだろう。

 すべては終わった。憎しみも執着も誓いも、楽しかった思い出も、これまでの苦労も、私のすべては踏みつけられ、無意味の烙印を押された。あとにはもはや、むなしさが残るのみだ。

 どうしようもないと悟ると、かえって清々しいような、重荷を下ろしたような気分になるから不思議だ。私は案外、諦めがいいのだろうか?

 ――ただ、私の死んだあとのことは、少しだけ気になる。

 母様はどうなるだろう。ペルスランは? 私に対しての人質として生かされているであろうあの人たちは、私が死んでも生きていることを許されるだろうか?

 友達は――キュルケは、私がいなくなったことを悲しむだろうか? ミス・ヴァリエールやサイトは? あのふたりには迷惑をかけたから、悲しんで欲しいなどと図々しいことは言えない。

 イザベラはどうだろう。昔と違い、今は彼女と通じあっている、という実感がある。もしジョゼフが、イザベラを処刑すると私に言ったなら、私はきっと死に物狂いでこれを阻止しようとするだろう。イザベラの場合は? 悲しんで欲しくはないし、不用意な行動をとってもらいたいとも思わない。でも、彼女はカッとしやすい性格だから――どうだろう――。

 それと、そうだ。あの小さなヴァイオラは?

 ロマリアから来た、可愛い枢機卿。私が気安く頭を撫でることのできる、妹のような彼女。イザベラと私の、落ちた吊り橋を直してくれた、奇跡を起こすあの少女は?

 いや、彼女はきっと、私の死など知らされることはないだろう。普通にロマリアに帰って、それっきり――。

「……うーむ、やっぱ扉は頑丈そうじゃな。鍵穴もありゃせんし、こっちからの脱出は考えん方がええようじゃ」

 ――なぜか薄暗がりの中から、そのヴァイオラがよちよちと現れた。

 紫色の髪を結い上げて、ダイヤモンドらしき宝石のついた髪飾りでとめている。着ているのはひらひらとした大人っぽいパーティードレスで、子供が無理して背伸びしてる感があって、なんとも愛らしい。

「窓は……大きさは悪くないが、鉄格子が嵌まっとるのう……あ、でも、表面にうっすらとさびが浮いとるから、固定化の魔法はかかってないか、年月が経ち過ぎてほとんど解けかけておるようじゃな。だとしたらいけるか……?

 窓の外は……うーん、地面までけっこう高さがあるのう。十メイルぐらいあるか? 鉄格子を破れても、そのまま飛び降りたら死ぬな……」

 ぶつぶつ呟きながら、壁沿いに回り込むように、部屋の中を歩いている。あっちを見たりこっちを覗き込んだり、何かを調べているようだ。

「ランプは……おっと、ありがたい、この臭いは獣脂じゃな。傾けた時の流れ方がゆっくりじゃから、粘性もそこそこあるようじゃ。あとは適当なヒモがあれば……」

「ヴァイオラ」

 私が声をかけると、彼女は「のぎゃあ」と叫んで飛び上がった。

「な、ななななんじゃ、今の生命力の欠片もない陰気かつ情けない感じの声は――……って、タバサ、お前か。目を覚ましたんか……いきなり名を呼ばれたから、てっきり牢獄に潜む、出会ったら死ぬ系の幽霊かと思うたぞ」

「さりげなくひどい言い方をしちゃだめ。お姉ちゃん傷つく」

 ヴァイオラはおそるおそるこちらを振り向いて、手に持ったランプを、互いを照らすように持ち上げた。その表情は、安堵しているようにも、固く引きつっているようにも見える。

 安堵の様子は、声をかけた私が幽霊でないとわかったからだろうが、緊張の様子は――彼女も、何らかの危機感を覚えている?

「そもそもなぜ、ヴァイオラが私と同じ部屋に? ここは牢屋ではないの? 外国からの賓客を、鉄格子つきの部屋に閉じ込めるなど、普通に国際問題のはず」

「そ、それじゃよタバサ! あの王様は何なんじゃ、ちいとも話が通じんぞ!

 いや、原因はまあわからんでもないんじゃ。ジョゼフ陛下と、我の親父の間に、トラブルがあったみたいでの。親父が陛下にちょっかい出したんで、その意趣返しに我を拘束して、親父に謝罪を要求する……っつー筋書きじゃったようなんじゃが、さっき話聞いたら、いつの間にか、我は処刑されることになっておった」

「っ……!?」

「何がどうしてそうなるのか、理屈の過程がわからん。しかも、処刑用の毒を作るために、エルフなんぞとつるんでおった。ふたり分の毒を、これから三日で作るとか……あ、そうじゃった、お前を連れてきたミス・シェフィールドとかいうおっぱい、あいつの口ぶりからすると、お前もまた処刑対象のようじゃぞ! 何せ毒はふたり分なんじゃからな、ふたり分!」

「……………………」

「早いこと逃げ出さんと、我らまとめて殺されてしまう。なぁタバサよ、力を貸せ。ふたりでここを逃げ出すんじゃ。破牢して、ジョゼフの手の届かんところへ身を隠すんじゃ!」

「……駄目。そんなことは不可能」

 私は体から力を抜いて、ソファに身を沈めた。

 ヴァイオラの死にたくないという気持ちはよくわかるけれど、現実を見れば破牢なんか不可能だってわかる。硬い石壁。厚く重い扉。鉄格子の嵌まった高い窓。そして私たちはどちらも非力。

「魔法を操るために必要な杖も奪われている。この状況では、ふたりでどれだけ力を合わせても、脱出なんかできない」

「……魔法がなければ、無理じゃと言うか」

「無理。やってみないとわからない、という問題ですらない。

 魔法が使えれば、石壁を破壊できるかもしれない。扉も鉄格子も、エア・ハンマーやエア・カッターで楽に破れる。窓の外が十メイルの高さでも、フライで飛んで逃げられる。

 でも、魔法がないと、どれもこれも突破不可能。今の私たちは、本当に子供並みの能力しか持ってない。鉄格子を曲げようとして、手の皮を擦りむくのが関の山。

 まだしも、外からの助けを待つ方が希望がある。ジョゼフが、あなたのお父様に抗議をしているというなら、その方面から救助の手があっても不思議ではない。

 もうひとつ、あなたのメイドの……ミス・シザーリア? 彼女が捕まっていないなら、ロマリアに救援要請をしてくれているかもしれない。うまく訴えが届いて、教皇聖下がジョゼフに働きかけてくれれば……あなたはたぶん、助かる」

 そう。ヴァイオラはいろんな人と関わりがあり、必要とされている枢機卿。助けてくれるイーヴァルディは、きっと、いっぱいいる。

 私は――どうだろう。私がルーだとして、助けに来てくれるイーヴァルディはいるだろうか?

 一瞬、サイトとキュルケ、そしてイザベラの顔が脳裏をよぎった。

 無理がある。サイトはミス・ヴァリエールにとってのイーヴァルディだ。助けに来てくれるはずがない。キュルケは、今回のことを知らないだろうし、イザベラはイザベラで、王女としての立場がある。彼女がもし動くなら、今までの自分を捨てるくらいの、すさまじい覚悟を必要とするだろう。

 あのおしゃべりなシルフィードは? 私がいなくなって混乱しているだろうか? 使い魔の絆で、彼女とは見ているものを共有したり、心で会話をしたりすることができるが、そのためのラインはあえて切ってある。死の瞬間を、あの純粋な心を持った幼い竜には見せたくないのだ。だいたいの位置ぐらいは把握しているだろうが、単純なあの子に、私を救いに来られるとは思えない。

 やはり私はここで朽ちる。助けが来るとすれば――それはきっと、本当に物語のような、あり得ない奇跡が起きた時、だけ。

 うつむく私。静かな諦感は、絶望をわずかではあるが和らげてくれる。

 根拠のない絶望は、それが破れた時、より大きな絶望を生むものだ。それよりは、この目の前の薄暗がりのような、柔らかい諦めの中に身を浸して、穏やかに最後の瞬間を迎えたい。

「はぁー……おい、タバサ、このちびっこのタバサや」

 そんな私の隣に、ヴァイオラが座る。彼女の方が断然ちびっこのはずなので、今すぐにでも訂正を要求したいが、さすがにそんな空気ではない。

「お前は頭のいい奴だと思っておったのじゃがな。我の見る目って、案外ハエの目玉以下じゃったか?

 よう聞け間抜け。我はお前に知恵を貸せとは言うとらん。力を貸せ、っちゅーたんじゃ……我がこの牢屋を破る、言うたら、それはもうやることが決まっとるんじゃ。諦めるのは勝手じゃが、お前の都合で我の行動を邪魔することは許さん」

「……でも、無理なことをやるのは、労力を消費するだけ」

「何が無理じゃ。話を聞け……この程度のボロボロ牢なら、魔法なんかナシでもやっつけられるわい」

 その言葉に、私は顔を上げる。驚きの気持ちからではなく、疑いと――あるいは、興味から。

「不可能。さっき言った」

「できる。タバサ、頭を使え。あの能無しの間抜けのジョゼフ王のことを考えろ。

 あいつは人間的にクソじゃが、ひとつだけ評価できるところがある。魔法がちーとも使えんくせに、知恵と工夫で国をそこそこにまとめとるっちゅー点じゃ。魔法ナシでも、困難には立ち向かえることは、奴が証明しておる……お前、あいつのできることができんで、悔しくないんか」

「……それとこれとは、話が違……」

「違わん。お前は現実を見る目を持っとるな、タバサ? じゃがそれだけでは、頭のいい奴とは言えんのじゃ。駄目なところ見つけるくらい、七つのガキんちょでもできるわ。

 本当に頭のいい奴っつーのはな、現実を見て、まともにやったら突破できない問題点を見つけ出すことができて……それに対する解決策を考え出すことができて……最後に、その解決策を実際に実行して、ブレイクスルーを実現させられる奴のことを言うんじゃよ。

 最初のふたつまでは、わりと難しくない。最後のひとつができるかどうかが、凡人と天才の間を区切る深い溝じゃ。

 我を凡人で終わらせるっつーなら、そこでぼんやりしておれ。我はひとりでも、自分ができる子じゃと証明してみせるぞ。助けがあった方が、それが楽というだけのことじゃしな……」

 ぎしり、と、ソファのスプリングが鳴る。ヴァイオラが挑むように、私の顔を覗き込んでくる。挑むように。

 その容姿は愛らしい子供そのもの。でも、その瞳の奥に潜んでいるのは、虎や竜を思わせる、意思のエネルギー。

 彼女が世間ですごいと言われているのは、きっとこれがあるからなのだ。ただ頭がよくて、慈愛に満ちているから、だけじゃないのだ。

 やる時はやる子だから。

 あの『孤独』の暗殺者との戦闘の時に、彼女の心の強さは、理解したつもりだったけど――。

 私という頼りないお姉ちゃんは、妹の強さに降参するしかなかった。手の中の絵本に視線を投げて、ぽつりと呟く。

「……私は、イーヴァルディにも、ルーにもなれない」

「ん? なんじゃって?」

「何でもない。私もあがく、と決めただけ。

 ヴァイオラ、あなたはここから出るための、具体的な計画を持っているの?」

「持っとる。うまくいくかは始祖の思し召し次第じゃが、やらんと死ぬ」

「なら、やる。私は何をすればいい? 指示が欲しい」

 私の世界は、『イーヴァルディの勇者』の冊子の中じゃない。絵本をソファの肘掛けに、立て掛けるように置いて――私はそれを、手放した。

 ヴァイオラは私の言葉に、満足そうに頷き、聖職者が信徒に祝福を与える時にするように、指先でそっと頬に触れてきた。

「よっしゃ、これでお前と我は運命共同体じゃ。ちと綱渡りじみたことをするが、途中でビビってやっぱやめました、とかは言うでないぞ。

 破牢のためにやらにゃならんことはたくさんあるが、手際よくやれば、夜明けまでにはなんとかできるじゃろ。

 おっと、こうくっちゃべっとる時間も惜しいんじゃった、いかんいかん。……お前への指示じゃったな、まずは、そう……」

 まずは?

「服を脱げ」

 えっ。

 

 

 薄暗いランプの明かりの中で、我とタバサはこっそりと脱獄を開始した。

 まずはふたりとも、服を脱いで裸になる。裸っつーても、さすがにシュミーズとショーツだけは残しておくがな。女同士ではあるが、風呂場でもないのに完全なすっぽんぽんで顔付き合わすっつーのは、その、気恥ずかしいもんがある。

 で、脱いだ服を細く裂いて、編み込んだり結び合わせたりして、長いロープを作る。

 この部屋ってば広いくせに調度に乏しく、ロープに加工できそうなのが、我の体にかけられておったタオルケットと、我々の衣服ぐらいしかなかった。せめてカーテンとか、布張りの椅子とかあれば、寒い思いはせずに済んだのじゃが、無い物ねだりをしても仕方がない(革張りのソファを裂いてロープにできんかと考えもしたが、硬過ぎてちと無理じゃった)。

 タオルケットと、タバサのマントが特に良い材料になってくれた。でもやはり長さが足りぬ。我のひらひらワンピースドレスも、タバサのミニスカートやブラウスも犠牲にして、やっと長さ十メイル程度のロープができあがった。

 ふっふっふ、これを使えば、窓の外の高さなど恐るるに足らん。ロープをつたって下まで降りれば、城の外までは駆け足でなんとかなろう。

 ん? 高さを克服しても、窓には鉄格子が嵌まっているから、結局そこから出ることはできないだろう、じゃと?

 案ずるでない、そこもちゃんと考えておる。

 鉄格子破りには、このダイヤモンドの髪飾りを使う。千エキューもする、大粒で高品質のダイヤがついた、すごい上等な品じゃぞ。

 こいつを、ちともったいないが――タバサや、ちとこのソファを持ち上げるのを手伝うてくれ――そうそう、そしてソファの脚の下にじゃな、ダイヤの髪飾りを置いて――どーん!

 あわれ、重いソファの下敷きになって、ダイヤモンドは砕け散り、キラキラした細かい破片になり果てた。

 次は、タバサ、お前の制服の紐ネクタイあったじゃろ? あれをよこせ。

 あえてロープに組み込まず残しておいた、この適度に長くて細っこい紐を、ランプの油に浸して、と。

 ねっとりした獣脂をたっぷりまとった紐に、さっき作ったダイヤの粉末をまぶせば――てーってれってれー、紐やすりの完成じゃー!

 こいつを鉄格子にひっかけて、前後に滑らせるようにこすりつけると――ほれほれ耳をすまして聞け、ごーりごーりごーりごーりという、鉄格子の削れる気持ちのいい音がしてくるじゃろう?

 こうして根気よく削り続けていけば、所詮は錆の浮くような軟弱な鉄格子じゃ、そう遠くないうちにスパッと切り落とせてしまうであろうぞ。

 ごーりごーりごーりごーり、ごーりごーりごーりごーり。

 ――疲れた。タバサ、残りはお前に任せるぞー。

「わかった。貸して」

 紐やすりをタバサに渡し、我は疲労を回復すべくベッドに横になる。

「たぶん格子を二本も切れば、我らが外に出るための隙間はできるじゃろ。まだ夜明けまでには数時間はあろうが、速やかに、最低限の本数を切り落とすのじゃよー?」

「了解。……このやすり、とてもよく切れる。もう三分の一ぐらい切れ込みが入った。

 こんな道具の作り方、どこで学んだの? 魔法学院や、宗教庁で教えてもらえることとは、思えない」

「ちょっと前に、大手宝飾工房の視察に行った時にな、職人が教えてくれたんじゃ。

 宝石ってのは、金属より硬いもんがザラらしくての。宝石としては使えんクズダイヤで作ったカッターだとか、それみたいなダイヤの粉末で研磨して、お店に並んどるようなキラキラした宝石らしい宝石に加工するんだそうじゃ。

 宝石も切れるやすりなら、もちろん鉄だってざっくりイケるに決まっとる。覚えておいてよかったわい、まさか、こんなところで役に立つとは、思いもせなんだがな」

 平民は嫌いじゃが、ああいう仕事に誇りを持っておる職人どもは、一目置くに値する。カネになるし、こうしてたまには命の危機を助ける役に立ってくれたりするからの。

「あ、そうじゃ、鉄格子削りながら、窓の外もよく見といてくれ。城じゃから、巡回の衛兵がおるはずじゃ。

 その窓の下を衛兵が通る間隔が知りたい。何分おきに一回とか、ある程度の規則性があるはずじゃ。せっかく窓から脱出しても、衛兵にすぐ出くわしましたじゃ話にならん」

「ん」

 真面目で返事も短い。あー、このタバサお姉ちゃんはコキ使いやすい、ひっじょーにいい部下じゃー。

 シザーリアもその種類の、すごいありがたい部下ではあるが、あいつはけっこう余計なことするからのぅ。我がサボったりミスったりしたら、お尻ペンペンとかしてくるし。完全無欠に甘やかされたい我としては、タバサの無機質な感じはすごいやりやすい。

 こいつが手の疲れも気にせず頑張ってくれれば、夜明けまでには間違いなくこの部屋を脱出できるはずじゃ。城から出て、街に潜り込めたら、ブリミル教会に身を潜める。そこからロマリアに連絡を取って、ジョゼフ王の横暴をチクる――いやいや、それだと親父のことも明るみに出て、我の立場が悪くなるな。カネで雇える暗殺者を何人か雇って、ピンポイントであのアホ王を暗殺せしめて、最初から何もなかったことにする、っつーのが最良じゃろか?

 まあええ、ゆっくり考えるのは、ここを出てからにしよう。

 鉄格子が切れたら、ロープをつたって壁面を降りたり、街に駆け込んだりと忙しい。今のうちにゆっくり休んで、体力を温存しとこう、そうしよう。

 

 ――ズ、ズン――。

 

 ん?

「なあタバサ、今どっかで、変な音がせんかったか」

「……した。大砲みたいな音。

 でも、近くじゃない。この城の敷地内だとしても、全然別の翼だと思う」

「さよけ。風メイジのお前が言うなら、間違いはあるまい」

 おおかた、新米の砲兵が大砲の整備をミスりでもしたんじゃろ。

 近くで起きた事故ならば、我らの企みがバレやせんかとひやひやせねばなるまいが、遠くならば完全に対岸の火事じゃ。捨て置こう。

「我は少し寝るでな。鉄格子が切れたら起こしておくれ」

「わかった。お姉ちゃん、頑張るから」

 あーはいはい頑張ってくれ。今回のピンチを無事に切り抜けたら、ご褒美に妹ぶりっこして甘えまくってやってもいいぞ。

 ふあ、ねむ。

 すぴー。

 

 

 ヴァイオラたちが脱獄をはかり始めた頃、アーハンブラ城の中庭に停泊した、一隻の立派な船――祝福級駆逐艦『ルイ・カペー』の艦橋において、三人の男女が密かな話し合いの場を設けていた。

 その三人とは、即ち、ガリア王ジョゼフと、その使い魔であり忠臣でもあるシェフィールド、そして、彼らによって新しい生命を与えられたもと『スイス・ガード』、シザーリオ・パッケリである。ジョゼフは、機嫌良さそうにワインの満ちたグラスを傾け、シェフィールドはクリスタルのデカンタを手に、主のグラスに酌をしている。シザーリオは好物のリンゴを与えられ、壁際に立ったまま、瑞々しいそれにかぶりついていた。

「明日には世界が目まぐるしく動き始めるな、我がミューズよ。こうして酒をのんびり楽しめるのも、今夜限りかも知れん。ボルドーの五百年もの、伝説級の赤ワインは、こういう時のために取っておいたのだ。ミューズ、シザーリオ、お前らも少し味見をするがいい」

「はい、ご相伴にあずからせて頂きます。シザーリオ、あなたもいらっしゃいな」

「あー、申し訳ねえっす。オイラ、酒飲めねえんすよ。このリンゴで充分ですんで、おふたりとも遠慮なく干しちゃって下さいな」

「なんだ、つまらん奴だな。まあ無理強いはせんよ……ところでシザーリオ。ミスタ・セバスティアンに、俺の言葉はちゃんと伝えてくれただろうな?」

「ええ、ここに着く前、船が空飛んでる間にね。

 このクリスタル・タブレットなら、何千リーグも離れてる東方にだって、まるで目の前にいるみたいに話しかけられるんでさ」

 胸ポケットから、手のひらサイズのクリスタル板を取り出すシザーリオ。そのちっぽけな宝石を、ジョゼフもシェフィールドも、興味深げに見つめた。

「うむ、それならいい。……しかし、その道具はいったい何なのだろうな。俺も、遠方の相手と会話できる人形のマジック・アイテムを持っているが、それはあくまでふたつでひとつだ。お互いの人形同士でしか、声のやり取りはできない。

 しかしそのタブレットは、三つも四つも端末があり、相手を選択して通話ができ、さらには音声や風景の記録、文字の送受信など、いくつもの作業をこなせるマルチ・ツールであるという。

 俺は珍しいものが好きだ。世界中の珍品や珍芸を見る機会は多くあったし、エルフを通じて異文化の産物を集めたりもしている。しかし、このような複雑で高機能な道具は、見たことがない」

「その道具の来歴も気にはなりますが、ジョゼフ様。私はあれが、マジック・アイテムではない、というところに、興味を覚えますわ。

 もしマジック・アイテムの一種であれば、ミョズニトニルンである私が触った瞬間に、その全貌が理解できたはずですのに……機構を動かすために、内部に風石や土石を仕込んでいることは、触ってみてわかりましたが、それ以外はどういう仕組みになっているのか、少しもわかりません。精密道具の極致と言われる、トゥールビヨン式ぜんまい時計を遥かにしのぐ、緻密な構造が詰まっているのです。

 東方の技術なのでしょうか? どのような天才職人が、どれほどの時間と労力をかけて、あれを組み立てたのでしょうか? セバスティアン氏は、あんな貴重品を、どこで手に入れたのでしょう……」

「んー、オイラはちょっと知りませんね。今まで考えたこともなかったっす。

 ミス・リョウコが――セバスティアン様の秘書さんですが――俺にくれて、使い方を教えてくれたんすよ。なくしたら新しいのあげるから、すぐに報告しなさいとか言ってたから、そんなお高いもんとは思ってなかったんすけどねえ」

 シザーリオのそんな言葉に、シェフィールドはあきれたように肩をすくめた。彼の持つタブレットは、最高水準の知能と技術と投資の賜物であることは確実なのだ。簡単に取り替えのきくようなものであるはずがない。

 そう思ったのはジョゼフも同じのようで、下唇をつき出して、しばし無言で思索にふけった。

「……もし、セバスティアンと生きて再会することがあったら、ぜひ尋ねてみたい問題だな。俺と奴、両方が生き残る可能性など、ほとんどゼロに近いものだろうが」

「そんなことは仰らないで下さいませ、ジョゼフ様! このシェフィールド、命に代えても、あなた様をお守りいたします!」

「うむ、頼りにしている。

 だが、お前の他にも、我々のための戦力はあるはずだ。そうだろう?」

「もちろんです。このシザーリオや、今は城内で毒薬の製造に集中しているビダーシャル卿も、いざ敵が攻めてくれば、即座に迎撃にあたってくれる約束になっていますわ。

 サン・マロン港からは両用艦隊(バイラテラル・フロッテ)九十隻が向かっております。その中には、かのレキシントン号に搭載されたのと同じ、私の監修した長距離砲を積んだ特殊艦も五隻あります。

 城内には、オーク鬼に匹敵する戦闘能力を持つ強襲型ガーゴイルが二百八十体。マジック・アイテム・センサーを採用したトラップが八百八十五ヵ所。さらに、もともとこの城に詰めていたミスコール男爵の警護兵団を加えれば……この城を攻め落とせる軍隊など、このハルケギニアのどこにも存在しません!」

「見事だ。良きパートナーを持って、俺は幸せだぞ。

 これで、ロマリアやトリステインを挑発するのに、何の憂いもなくなったというわけだ。

 明日、それぞれの国から抗議の使者がやって来るだろう……それに会うのが、今から楽しみだ。ふっふっふ」

 アルコールでやや潤んできた目を、しぱしぱと瞬かせながら、ジョゼフは笑った。

「……ふう、少し飲み過ぎたかも知れんな。少しばかり、城の中を散歩してくるとしよう」

「ではジョゼフ様、私もお供を――」

「いや、酔い醒ましは独りの方がいい。我がミューズよ、お前は先に休んでいるがいい」

 立ち上がり、軽く背伸びをして、ジョゼフは艦橋を出ていった。

 王の姿が見えなくなると、シェフィールドとシザーリオのふたりは、しばらく所在なさげに艦橋に留まっていたが、やがてリンゴを食べ終えたシザーリオが、あくびをしてこう言った。

「王様、結構酔ってたっすねえ。ちゃんと部屋まで帰れるんすかね?

 姐さんのトラップに引っ掛かってオダブツとか、間抜けなことにならなきゃいいですけど」

「バカな心配はしなくていいわよ。私の作った装置に抜かりはないわ……私やジョゼフ様、ガーゴイル、城の衛兵みたいな、特定の対象には反応しないように設定してあるから。かかるのはあくまで、外部からの敵だけ」

「ああ、なら大丈夫っすね。それとエルフさんと、両用艦隊でしたっけ。それだけありゃ、さすがにセバスティアン様も攻めあぐねると思いますよ」

「フフ、当然よ。ガリアの軍事力に、虚無の使い魔、そしてエルフという、この世の力の代名詞が集まって、このアーハンブラ城を守護するのだから。

 どの国の軍が最初に、ここに攻め込んでくるにせよ、そいつらは驚きに目を見開くことでしょうね。明日の朝は見ものよ、シザーリオ。あと三時間もすれば、両用艦隊の大群が到着して、この城の上空を埋め尽くすことになる。それこそ、タルブ上空戦を越える密度の空戦力を前に、果たして敵は戦意を維持できるのかしら……」

「え、あの、ちょ、待って下さいよ、姐さん」

 シザーリオは突然顔を青ざめさせて、シェフィールドの言葉を遮った。

「あの、確認したいんすけど……両用艦隊、まだ到着して、ないんすか?

 それ、こちら側の主力っすよね? それの到着が、あと三時間……?」

「ええ、それがどうかしたの? サン・マロンからここまでは遠いし、連絡と編制にも時間はかかるでしょうから、妥当な時間のはずよ」

「じ、じゃあ、その前に敵が攻めてきたら、かなり低い戦力で対応しなくちゃならないわけで?」

「まあ、数万規模の軍隊相手にはキツいかも知れないけどね。でも、そんなことはあり得ないでしょう。ロマリアにせよトリステインにせよ、どんなに早くても侵攻が始まるとしたら、明日の夕方か深夜以降のはずだし」

「いえ、そっちはいいんすよ。問題はセバスティアン様の方で。オイラ、もうあの人に、連絡しちまったんすよ? そんでもう二時間ぐらいは経ってる……東方から刺客が送り込まれてくるとしたら、もうそろそろ来てもおかしくないくらいで……」

「はあ? 何言ってるの。東方からここまで、何千リーグ離れてると思ってるのよ。

 あなたのもと雇い主の勢力なんて、来るとしても一番最後になるはず……」

 ――ぴぴるぴぴるぴぃ、ぴぴるぴぴるぴぃ。

 突如として、シザーリオの手の中で鳴り出す、奇怪な音楽。

 シザーリオは、それがクリスタル・タブレットの着信音だと気付いた。反射的に画面を確かめると――やはりそこには、『着信』の表示が、大きく浮かび上がっている。

 しかし、彼は首を傾げた。それだけなら普通に、通話が求められているということを意味するのだが、画面にはさらに、『位置情報送信中』という文字も並んでいたのだ。これはシザーリオも見たことのないものだった。

 十秒ほど、彼は通話要求を受けずに、じっとタブレットを見つめていたが、やがて画面が勝手に『通話中』に切り替わり、若い女の声が、そこからこぼれ出した。

 

『見つけた』

 

 ――その直後。駆逐艦『ルイ・カペー』の艦橋を、激しい爆発が襲った――。




そして3へ続く。


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アーハンブラ断章(フラグメンツ)/ジョゼフはみんなにひどいことしたよね(´・ω・`):その3

その2の続きじゃよー。


 

 砂漠と月は、とても絵になる組み合わせだ。

 そこに美しい女性が加われば、さらに良い。

 真夜中のアーハンブラ城。紫色の月光に照らされる砂漠を臨む、情緒豊かなこの城に、突然の訪問客があった。

 その客は――彼女は、正門を堂々と訪ねてきた。もちろんそこにはかがり火が焚かれ、門番がおり、巡回の警備兵が集まる詰所もあった。城壁は高く、門もゴーレムを使って開け閉めするタイプの、厚く巨大なものだ。外敵にとっては、忍び込むには賑やか過ぎるし、力ずくで攻め込むには堅牢過ぎる、厄介な場所である。

 しかしそれでも、その敵はあえて、真正面から押し通ることを選んだ。

 最初にその人物を発見したのは、門番に立っていた若い兵士だった。いや、発見した、という表現は正しくない。向こうから彼に話しかけてきたのだから、むしろ接触、というべきだろう。

 綺麗な女性だった。年の頃は二十代半ばぐらい。栗色の長い髪を、頭の右側でサイド・ポニーテールにしている。丸顔で、目もくりくりとしていて、やや幼く見える。

 身につけているのは、空軍の軍服を思わせるセーラージャケットとロングスカートだ。上下ともに白で統一していて、しみひとつない。手には、ルビーらしき赤い宝石のついた、いかにも高価そうな杖を携えている――そして肩には、おそらく使い魔だろう、猫のような、いたちのような、白い毛皮と赤い目を持つ小動物を乗せていた。

 そのきちんとした装いと、余裕のある態度は立派なもので、とても邪悪な企みを持つ人物には見えなかった――少なくとも門番の青年は、彼女を名のある貴族であろうと思い込んだ。

 女性は門番の前まで悠然と歩み寄ってくると、にっこりと魅力的な笑顔を浮かべて、こう言った。

「お勤めご苦労様。ちょっと中に用事があるから、入らせてもらうね」

 門番は少し戸惑ったが、失礼のないように敬礼をして、決められた手順に従って、その来客に応対した。

「はっ。入城をご希望ですね?

 現在、当城は厳戒態勢にあります。入城可能かどうか、責任者のミスコール男爵に連絡して確かめますので、まずはお名前とご用件をお聞かせ願えますか?」

「名前? ハイタウン。グレイプ・ハイタウンだよ。

 用事はね……ふふふ、『悪いこと』しに来たんだ。だから、取り次ぎなんか要らないよ。私はただ、通るだけ」

 穏やかに言いながら、彼女は――ハイタウンは杖を掲げ、その先端を門番の顔に、真っ正面から向けてきた。

 一瞬で、彼の全身が粟立つ。女の行為、それは魔法攻撃の前兆に他ならない。反射的に後ろに飛び退き、彼自身も杖を抜きながら、喉が割れんばかりの大声で叫ぶ。

「敵襲、敵襲ーッ! 総員、迎撃態勢を取れーッ!」

 その声を受けて、十人の警備兵が門の前に駆け寄ってくる。空からは、翼を備えたガーゴイルも舞い降りてきた。よく訓練された、迅速な対応である。ハイタウンは、宣戦布告から五秒も経たないうちに、三百六十度を敵に囲まれてしまった。

 しかし、彼女の表情に怯えや動揺はない。それどころか、笑みをさらに深めている――まるで、獲物が増えたことを喜ぶ肉食獣のようなー――獰猛な笑い。

「魔法、撃てえィッ!」

 取り囲まれてもなお、杖を下ろそうとしない女賊に、警備兵たちは容赦なく攻撃を開始した。スクウェア級のファイヤー・ボールが、トライアングルによるウィンディ・アイシクルが、銃弾のような石の槍が、ガーゴイルたちの鋭い爪が、たったひとりの曲者を押し潰すべく殺到する。

 圧倒的な破壊――半秒で、華奢な女性程度なら挽き肉に変えてしまえるであろう暴力の集合体――それを回避する動きすら見せず、彼女は悠然と立っている。

 そして、たった一言だけを口にした。すでに唱え終えていた魔法を発動させるための、短いキーワードだけを。

「《快楽原則(ディバイン・バスター)》」

 まばゆい桜色の光が、爆発した。

 それは炎よりも、氷の矢よりも、石の槍よりも、傀儡の手足よりも速かった。光線はすべてを飲み込む――魔法はことごとくかき消され、ガーゴイルはひしゃげて、空中で粉々になる。警備兵たちは、全身にエア・ハンマーの直撃を食らったかのような衝撃を受けてなぎ倒され、地面に倒れる瞬間すら自覚せず、意識を失った。

 ハイタウンの放った桜色の光線は、そのまま城門に突き刺さった。分厚く、重く、硬く、魔法による防御すら万全の大城門が、びりびりと震えながらへこみ、削れ、えぐれ、吹き飛ぶ。やがて光が収まった時には、まるでナイフでくり抜いたかのような、直径五メイルほどの大穴が開けられていた。

「……ん、よし。今日も私は絶好調だね。にゃは」

 倒れ伏した警備兵たちになど目もくれず、ハイタウンは悠々と、城門の穴を潜って、城の中に足を踏み入れた。

 歩きながら、左手をポケットの中へ入れ、クリスタル・タブレットを取り出す。普段は、通話以外の目的でこの道具を使うことはないが、今回の任務にあたって、ハイタウンはリョウコから、位置検索アプリケーションの使い方を教わっていた。

 この機能は、他の端末の現在位置を探す時に使用される。ジョゼフの洗脳により、裏切ってしまったシザーリオ。彼もタブレットを持っているので、そのありかをこのソフトで調べれば、同時にシザーリオの位置も特定できる。

 ハイタウンがセバスティアン・コンキリエから与えられた一番の任務は、ヴァイオラの抹殺である。だが当然、シザーリオのことも放ってはおけない。この哀れな捕虜の処分も、彼女は請け負っていた。

 ぴぴるぴぴるぴぃと呼び出し音を鳴らしながら、位置検索ソフトが作動する。数秒後、求めたシザーリオの位置が、画面上に表示された。

「見つけた。北西方向、距離二百十五メイル、か。オーケイ」

 ハイタウンはその方角へ顔を向ける。彼女の目に映るのは、幾何学模様で装飾されたアーハンブラ城の壁面だ。

 シザーリオのいる『ルイ・カペー』は、建物ひとつを挟んだ向こう側に停泊している。そこにたどり着くには、城内を大きく回り込んで行かなければならない。

 だが、『悪魔』の二つ名を持つスクウェア・メイジ、グレイプ・ハイタウンには、そんな面倒は必要ない。

 杖を北西へ向けて構える。そして、魔法のスペルを一言。

「《快楽原則(ディバイン・バスター)》」

 またしても、大砲のように撃ち出される、桜色のビーム束。

 それは立ちふさがる壁をやすやすと吹き飛ばし、その向こうにある部屋も廊下も、何枚もの壁も何本もの柱も、まるで存在しないかのように貫通し、二百十五メイル先にあった『ルイ・カペー』の艦橋を直撃、崩壊させた。

 土手っ腹に大穴を開けられ、自重を支えきれず、メキメキと音を立てながら、真っぷたつに折れていく駆逐艦。軍用船としては、あまりにあっけなく、脆い最期だ。

 実際のところ、ここまで大きな被害は、艦載長距離大砲の一撃でも受けなければ起き得ない。火のスクウェアメイジが放つファイヤー・ボールでも困難だろう――土のスクウェアメイジが作る巨大ゴーレムによる、全力のパンチなら、何とかいけるかも知れない。駆逐艦というのは、その程度の防御力は持っているものだし、『ルイ・カペー』は王の使う艦だけあって、普通の駆逐艦よりさらに硬いはずであった。

 しかし、それをまるでワイングラスか何かのように、気軽に破壊してしまえるからこそ、グレイプ・ハイタウンはセバスティアン・コンキリエに選ばれたのだ。

「今ので、シザーリオくんはやっつけたかな。……うん、彼のタブレットの位置表示が消えてるね。これでまずひとつ、任務達成、と。

 あとはヴァイオラちゃんの始末だけど、あの子はタブレット持ってないからなぁ……でも、このお城の中にいるのは間違いないんだし……根気よく探していけば、いつか見つかるよね。うん」

 独り呟きながら、彼女は歩みを進める。

 その進撃を遮るものは何もないし、あったとしても、『悪魔』の破壊力の前ではおそらく無力だ。

 

 

 ハイタウンの攻撃によって、瓦礫の山となった『ルイ・カペー』の下から、かろうじて這い出してきた人影があった。

「くっ……い、いったい、何が……?

 シザーリオ、シザーリオ……大丈夫? 返事をなさい!」

 崩れ落ちた天井板の下から上半身だけを出して、仲間の名前を呼ぶその人物は、ジョゼフの使い魔ミョズニトニルンこと、ミス・シェフィールドだった。

 謎の桜色の光が、自分とシザーリオを飲み込んだところまでは、彼女も認識している。しかし、その直後のことは――数秒間ほどのことだろうが――即座に気を失ってしまい、まったく定かでない。

 あの光が、彼女らの乗っていた高級駆逐艦を破壊したことは間違いないだろう。完全に轟沈した、無惨な『ルイ・カペー』。船をここまで傷つける攻撃のただ中にあって、シェフィールドは特に怪我をしている様子もない自分の身の幸運に感謝した。両手両足すべて動くし、痛みもない。瓦礫に押し潰されそうになっただけで、かすり傷ひとつ負わずに済んだのだ。

 ――しかし、それは本当に、彼女個人にのみ加護のあった幸運に過ぎなかったらしい。周りの様子を、シザーリオの姿を探しながら見回していたシェフィールドは――床板だったと思しき瓦礫の上にちょこなんと乗った、男物の靴を履いた血まみれの足首を発見して、全身の血が凍りつくかのような戦慄を味わった。

 その靴に、シェフィールドは見覚えがあった。ついさっきまで、同じ部屋にいた人物が履いていたものだ。ああ、可哀想なシザーリオは、あの攻撃によって、『ルイ・カペー』よりもひどい姿になってしまったようだ。

(『アンドバリの指輪』で蘇った死体は、ちょっとやそっとの怪我なら、簡単に治してしまう不死身の兵士になる――それなのに、あんな状態になって、ピクリともしないということは――シザーリオの、あそこにある部分以外の肉体は、修復も不可能なほど粉々になってしまった、ということ、よね……)

 ほんの少しでも、立っている位置が違っていたら、自分もあのようになっていたかも知れない。そう思うと、恐ろし過ぎて震えが止まらない。まるで吹雪の中に取り残された人のように、彼女は自分の手で、自分の肩を抱いた。

 と、そこで、違和感に気付いた。震えているのは、恐怖のせいもあるが、実際、ちょっと、寒い。何だか妙に、身体中がスースーする。

「……って、ちょっ!? え、えっ!? な、何これっ!」

 瓦礫から完全に這い出して、自分の体を見下ろして、シェフィールドはその違和感の正体を知った。

 服がない。

 お気に入りの、ダークカラーのタイトなロングドレスが、布の一片も残らず、どこかへ消えていた。下着もない。豊かな乳房も、平らなお腹も、丸みのあるお尻も、生まれたままの姿で、月明かりの下にさらされている。

「う、うそうそうそぉっ!? やだ、な、何か着るものっ! こんな格好、誰かに見られたら……!」

 十四、五の思春期の少女のように、顔を真っ赤にして動揺する神の頭脳。伝説の使い魔といえど、人並みの羞恥心はある。

 特に彼女が恐れ、警戒したのが、今の姿を主であるジョゼフに見られることだった。

 冷酷なジョゼフの手となり足となり、ハルケギニアに戦争をばらまく手伝いをしてきた彼女だが、その精神はわりと平均的で普通な、女性らしい女性のものだったりする。

 自分に自信があり、能力のない者は見下し、人の不幸を見て楽しむ趣味があり――そして、恋すると一途だ。

 シェフィールドはジョゼフを好いている。いざとなれば、自分を犠牲にして愛する男を救うぐらいのことはするだろう。その感情は狂信に近い愛情であり、相手の力になりたい、頼られたい、と心から思っている。それゆえに、ジョゼフには弱い姿は見せたくない。

 ばっちりキメたカッコいい自分、という化粧を剥がされた、ぷるぷる震える情けない子ウサギのような、今の自分を見られるのは――プライドが許さないのだ。

 運良くというべきか、すぐそばに船室のカーテンらしき薄布が、くしゃくしゃになって落ちているのを、シェフィールドは見つけた。とりあえずそれを、マントのように体に巻いて、素肌を隠す。

(これでひと心地ついた――あとは城内で、ちゃんとした服に着替えれば、また安心してジョゼフ様にお会いできる……)

 そう考えながら、ようやくシェフィールドは、思考の優先順位がおかしいことに気付いた。

(ち、違う! バカか私! 服なんかより、ジョゼフ様と合流しなければ!

 あんな派手な攻撃をしてきた曲者……シザーリオの反応からして、おそらくセバスティアン・コンキリエが差し向けてきた刺客のはず。

 だとすると、その目的はマザー・コンキリエの奪還……あるいは、ジョゼフ様の暗殺のはず。ううん、ただマザーを取り戻すだけなら、もっと静かにこっそりやるでしょうから、後者である可能性が高いわ!

 私は、敵が攻めてくるのは、早くても明日だと思っていたから、油断して先制攻撃を受けてしまった……ジョゼフ様も、きっと今はあまり警戒しておられないはず……独りで、城内を散歩なさるぐらいですもの、非常に無防備だわ。

 刺客が、そんなジョゼフ様を見つけ出したら……ああ、いけない! 赤子のようにひねられてしまう! いくら虚無の魔法に目覚められたとはいえ、油断しているところを襲われたら……!)

 シェフィールドの視線は、半ば無意識に、ちぎれ飛んだシザーリオの足首に向けられた。もし、もたもたしているうちに、ジョゼフがこのような姿になってしまったら――。

(じ、ジョゼフ様! 今すぐシェフィールドが参ります! どうかご無事でいて下さい!)

 忠実な使い魔であり、恋する乙女でもある彼女は走り出す。ジョゼフのいる城の中へ。

 ――だが、彼女は知らない。

 頭の中に思い浮かべた最悪の想像より、さらにずっと絶望的な状況で、愛する人と再会することになろうとは。

 

 

 アーハンブラ城を襲った侵入者は、その古錆びた城から、静けさを奪い取った。

 城門を叩き壊し、壁を撃ち抜き、停泊中のフネを沈めるという傍若無人。それに伴う轟音は、城中に響き渡っていたといって差し支えない。

 城内の静かで清潔な一室で、毒薬の調合に勤しんでいたビダーシャルの長い耳にも、その音は届いていた。

 彼は薬種をすり潰す手を止めて、立ち上がった。侵入者があった場合、それを退治することも、ジョゼフから与えられた仕事のひとつだったからだ。

 耳をすませる――轟音は続いている――強力な攻撃魔法が、二発以上放たれている――今また、再び轟音。城の警備兵は、明らかにこの侵入者に対応しきれていない。

(出番、か)

 ため息をついて、彼は部屋を出る。それは面倒ごとを嘆くようでもあり、安堵でもありそうな、複雑なニュアンスを持ったため息だった。

(蛮人たちの争いに足を突っ込むのは、あまり気分のよいものではない……だが、子供を殺すための毒を作る仕事よりは、まだましか)

 ビダーシャルは争いを好まない。そして、自分の実力――この場合は、彼を守る精霊の加護――に自信を持っている。敵がどれだけの強者でも、野蛮な系統魔法の使い手である以上は、彼に傷ひとつ負わせることはできない――そう思っている。

(もし、望めるならば、この侵入者がイーヴァルディの勇者のごとく、諦めることを知らない者であって欲しいものだ。

 必ず我が勝つとしても――戦いが長引けば長引くほど、我はより不愉快な仕事に戻るのを遅らせることができるのだから、な)

 階段を降り、騒ぎのあった城門の方へ、足を向ける。派手な襲撃を仕掛けてきている、悪竜のような敵と対決するために。

 ただ、彼は結局、騒ぎを引き起こした張本人であるグレイプ・ハイタウンに出会うことはなかった。

 その時点で、すでにハイタウンは城の中にまで進んでおり、城門に向かった彼とは、ちょうど行き違いになってしまったのだ。

 さらにもうひとつ、偶然が重なった。

 城門付近には、まだ何もしていない別口の侵入者がおり――ビダーシャルは、それを騒ぎの元凶だと思い込んでしまったのだ。

「……侵入者諸君。お前たちをここから先に進ませるわけにはいかない。速やかに引き返すがいい」

「そうはいかねぇ! 俺たちがここから帰るのは、タバサを無事に取り返してからだ!」

 大きな剣を背負った黒髪の少年が、強い決意を秘めた目でビダーシャルと向かい合う。

 他にも、怯えた表情をした金髪の少年がおり、ピンク色の髪を持つ小柄な少女がおり、赤い髪と褐色の肌を持つ女性がいた。

 つまるところ、トリステイン魔法学院の皆さんである。

 

 

 ――本来ならサイトたちは、もっと違ったやり方でこの城に入り込むはずであった。

 服を着替え、旅芸人のふりをして、城門を見張る警備兵たちに歌や躍りを見せて油断させ、睡眠薬入りの酒を飲ませる。そうして障害を片付けて、静かに侵入を試みるはずだったのだが――。

 下見のつもりで城の前まで来てみると、城門はなぜか破壊され、警備兵たちは全員気を失って倒れ伏している。

「さ、サイト、い、いったいこれは何が起きたんだ?

 大砲でも撃ち込まれたんだろうか? まるで戦場みたいな光景じゃないか!?」

「お、俺にわかるわけないだろ、ギーシュ。

 でも、これはもしかしたら、またとないチャンスかも知れないぞ……門はある意味開いてるし、警備の人たちは全員ぶっ倒れてるし……」

 サイトの呟きに、キュルケが眉をピクリと動かして反応した。

「今のうちに中に入るってこと? 大丈夫かしら。罠……とは言わないけれど、このありさまを見る限り、ものすごく危険なことが中で起きてるような気がするわ」

「あんたにしては臆病な意見ね、キュルケ? 私は入った方がいいと思うわ。

 これはガリア側にとっても、不測の事故、って感じだもの。今、この瞬間、この場所だけが無防備になってるんだわ。

 今を逃すと……きっと明日の朝には、警備は前よりずっと強固に固め直されるはず。そうなったら、私たちがやろうとしてたような、付け焼き刃の詐術じゃ突破できないかも知れないわよ」

 強い調子で、ルイズは即時突入を支持した。顔には出さないが、実のところわりと必死だった――なぜって、もしここで突入しないという選択肢を選んだなら、旅芸人のふりをする最初の作戦を実行しなくてはならなくなり――ルイズは躍り子役として、露出の多いエッチな衣装を着て舞い踊り歌わなくてはならないのだ。それも大勢が見ている前で!

 それだけはなんとしても避けたい。誇り高く恥ずかしいことが大嫌いなルイズには、ゴー・アヘッドしか選択肢はないのだ。

 ルイズの話を聞いて、なるほどと思ったのか、キュルケも今すぐ突入することに納得してくれた。ギーシュも頷き、意思の統一を果たした四人は、早速壊れた城門を潜り抜け始めた。

「……しかし、本当に……ここでいったい、何が起こったんだろうね……」

 門の穴に体を入れながら、ギーシュはちらりと、倒れた警備兵たちに視線を走らせる。

「だから、わかんないって。なんかすごい魔法を食らったんじゃないか? 火属性のめちゃくちゃ威力高いやつ」

 サイトも同じく、警備兵たちを複雑な表情で見てから、門を潜る。

「私の知る限り、火にこんな効果のある魔法はないわよ。彼らみんな、火傷もしてないし。……まあ確かに、火のように大胆なことになってるみたいだけど、ねぇ」

 キュルケはそんなことを言いながら、ニヤニヤと面白がるような笑みを浮かべる。対して、ルイズは汚いものでも見るような冷たい目で、倒れている人たちを一瞥して、なかなか進もうとしないキュルケの背中を押し、一刻も早く門の向こうへ行こうとする。

「何が起きたんだろうと、知ったことじゃないわ。全員、気絶してるだけじゃない。こ、こここ、こんな破廉恥な……こんないやらしいことになってる人たちには関わりたくないし、興味もないから、さっさと先に行きましょ!」

 そんな言葉を残して、四人は去った。

 あとには、気絶した警備兵たちが、ごろごろと残るのみ。

 ルイズの言う通り、彼らは気絶しているだけで、誰ひとりとして怪我をしていない。もちろん死者も出ていない。

 そして、これもルイズの言ったことは、他の部分も間違っていない。警備兵たちは、破廉恥で、いやらしいとはた目には見える姿になってしまっていた。

 城門前に、累々と転がる、肌色の肉体。

 彼らは全員――鎧も、兜も、マントも杖も、シャツもズボンも身に付けていない――全裸で、ぶっ倒れていた。

 強烈過ぎて謎過ぎるその光景は、城内に入ってからもサイトたちの頭の中に「?」をばらまき続けたが、ビダーシャルという強敵の出現が、気持ちを切り替えさせた。

 ミス・ハイタウンの破壊行為は、あえて言うならば祭りの始まりを知らせる打ち上げ花火であった。

 この夜の本番――アーハンブラ城におけるひとつめの死闘が、ここに幕を開ける。

 

 

 静かで薄暗いアーハンブラ城の廊下を、ジョゼフは歩く。

 ヴェルサルテイル宮殿の華やかさとは逆に、この城は質素で、陰気で、空虚だった。その空っぽな感覚は、彼にとって妙に落ち着くものに思えた。

(親近感でも覚えている、ということなのだろうか、な? 虚ろで彩りを失った俺の心と、この城の在り方は似ている……だが、明日にはそうでなくなるだろう。俺は争いの中で、本当の心の震えを取り戻す。戦火の、流血の、殺戮の真紅が、灰色の世界を一面に塗り潰す。

 楽しみだ――この、先の予定を期待する感覚――今までになく、鮮明に感じられる――ふふ、もう感情の一端を掴みかけているのか? まだ始まってもいないのに――これで明日の本番を迎えたら、俺はどうなってしまうんだ?)

 悪魔にでも内緒話をしているかのように、ジョゼフは独りほくそ笑む。

 しかし、彼の待っていたものは、翌朝まで彼を待たせなかった。爆発のような轟音。床を揺らす重い振動。そして遠くから微かに響いてくる、人の騒ぎ声。

「む? 何の騒ぎだ? まさかもう誰かが襲撃を……いや、さすがに早過ぎる」

 音のした方を振り向き、耳をすます。騒ぎは続いているようだ。

 もし、本格的な攻撃であれば、使い魔であるシェフィールドと合流して、迎撃の指揮を執らなくてはならない。しかし、諜報を目的としたネズミが忍び込んできて、警備兵がそれを見つけて追いかけている、という程度の騒ぎであるのなら、そこまで身構えるのも馬鹿らしい。

 ジョゼフは思案する――さて、どうするか。

(それなりに酔いもさめた。騒ぎがどれくらいのものかはわからんが、我がミューズの顔を見に帰ってやってもいいだろう。大したことがなければ、そのまま寝床に入ればいい。

 いや、待てよ。騒ぎの原因が何であれ、その目的は俺か、監禁してあるマザー・コンキリエか、あるいは可能性は低いが、我が姪のシャルロットのいずれかであろう。

 俺が目的である場合は、普通に反撃すればいい。だが、人質の救出が目的であった場合……たとえばロマリアかセバスティアンが、こっそりとマザーだけを脱出させるべく、少数精鋭を送り込んできたとしたら……これは面白くない展開だ。マザーを取り返されたら、ロマリアは無理してガリアに攻撃する必要がなくなる。俺は大きな戦争を望んでいるのに、敵対勢力の一角が抜けてしまっては興ざめだ。

 そう考えると、少しマザーの様子が気になってくるな。分厚い壁と扉、鉄格子付きの窓に囲まれた、内部からは脱出不可能な牢獄に監禁してはいるが、外から手引きする者がいるとしたら話は別だ。トライアングル以上のメイジがいれば、力技でも破牢はできるだろう。

 ふむ……ならば……そうだな、本当にまずい状況ならば、すぐにミューズの方から知らせをよこしてくるだろうし、慌てて帰ることもあるまい。

 ここはひとつ、牢屋にいるマザーとシャルロットの様子を見に行ってみよう。何もなければ、死を間近に控えた者たちのしょげかえった様子を見物すればいいし、もし彼女らを脱出させようとする賊と出くわすようなことがあれば……大戦の前の前菜として、軽く遊んでやるとしよう!)

 自分の考えが気に入ったと見えて、ジョゼフは大きく頷いた。

 曲者を自分ひとりで撃退するというのは、誰でも一度は心の中に思い描く、憧れのシチュエーションである。特に年頃の少年少女なら、自分の通う魔法学院が突然テロ組織に占拠されて、教師も生徒もみんな人質として拘束されたりしないかなぁと、授業中にぼんやり考えるものだ。そして、その中で自分だけが軍人顔負けの機転と行動力を発揮し、テロリストたちをやっつけ、一躍英雄になる――というところまでが、一般的なパターンである。

 ある意味、子供のような性格の持ち主であるジョゼフは、そんな無邪気な空想遊戯を、頭の中で繰り広げることが少なくない。ただし、巷の子供たちと彼の違うところは、その愚にもつかない空想が現実になる時が来たとしても、ちゃんと空想通り活躍できるだけの実力を持っている、という点だ。

 ジョゼフは、魔法が使えないため、無力であると思われている。

 ほんの少し前まではそうだった。体を鍛えているし、格闘や剣術の心得もあるが、いざメイジと戦うとなると、圧倒的に分が悪い、はずだった。

 だが、彼は王家に代々伝わる秘宝、始祖の香炉と土のルビーに触れ、始祖の系統である虚無魔法に目覚めてしまった。この系統の魔法は、他の四系統に比べて、段違いに強力だ。

(俺の虚無――《加速(アクセル)》は、超高速での行動が可能になるスペルだ――火であろうと風であろうと、土であろうと水であろうと、この魔法の前ではのろまなカタツムリに成り下がる。あらゆる攻撃を避けられるし、相手が防御や回避を試みる前に攻撃できる。

 どのような刺客が現れようと、返り討ちにしてくれるわ)

 マントの下に提げた杖を頼もしげに撫でながら、ジョゼフは足を、ヴァイオラたちのいる牢屋の方へ向けた。

 どこかでまた、破壊を思わせる轟音が鳴り響いた――敵の攻撃は、継続中。やはり、目標である何かを探しているようだ。

(この侵入者が、マザー・コンキリエというルーを救いに来たイーヴァルディの勇者であるなら、俺はさしずめ邪悪な竜といったところだな。

 俺が敵を待ち構えるのは、王らしく玉座の間であるべきかと思っていたが――うむ、可憐な少女の囚われた牢屋の前に立ち塞がる、悪役らしい悪役という役どころも悪くない。むしろその方が、しっくり来る可能性もある、な……!)

 自分を取り巻くあらゆる状況を、演劇か何かのように楽しみながら。ジョゼフは、戦場となったアーハンブラ城の中を、弾むような足取りで進んでいく。

 

 

 グレイプ・ハイタウンは、強い女性である。

 迷いのない足取りで、アーハンブラ城の薄暗い廊下を、奥へ、奥へ進んでいく。警備のガーゴイルが、この異物を排除すべく大挙して押し寄せても、破壊力に秀でた閃光魔法の一撃で撃破していく。

 彼女の放つ桜色のビーム束は、一撃ごとにその延長線上にある、あらゆる物体を消し飛ばした。壁や天井は、何枚あろうと、どれだけ分厚かろうと、まるで型抜きされるクッキー生地のように、きれいな大穴を穿たれてしまう。

 十発も二十発も、内部から砲撃され続けているうちに、アーハンブラ城はいつしか、山羊の乳で作るチーズのように、穴だらけのすかすかな建物に変わってしまっていた。

「警備がどんどん厳重になってる。やっぱりこっちに重要なものが隠されてるんだね。ふふ、私って昔っから運はいいんだ。

 あ、また階段。ここは降りた方がいいのかな、それとも上るべきかな……どうしよっかなぁ」

 城の中でも、おそらく中心に近い場所であろう、高い天井に、ちょっとした広場ほどの面積をそなえた、だだっ広いホール。その右奥と左奥に、それぞれ上っていく階段と、降りていく階段がある。

 ハイタウンは、両者を見比べながら考える。ヴァイオラが地下牢みたいな場所に閉じ込められていると考えるなら下だ。しかし、虜囚ではあってもそれなりの待遇を受けていると考えるなら、高いところに監禁場所がある可能性もある。

 決めかねていると、突然胸ポケットにしまっていたタブレットが、軽快な着信音を鳴らし始めた。ハイタウンはさっとそれを取り出し、通話状態にしたそれを耳元に近付ける。

「グラジーム、グラジーム。こちらハイタウン。

 ……あ、リョウコさん。どうかした?」

『いや、順調にいっているか、状況を確認しようと思ってね』

 女性としては低めの、落ち着いた声。連絡してきたのは、セバスティアンの秘書、ミス・リョウコだった。

『シザーリオくんは、無事に始末したようだね? さっき、彼の体内チップの反応の消滅を確認したよ。その調子で、ヴァイオラお嬢様の方も頼む。

 もっともお嬢様は、タブレットをお持ちでないから、探し出すのに骨が折れるかも知れないが……体内チップの位置検索機能は精度が低くて、五百メイル×五百メイル単位での大雑把な位置しか表示できないからなぁ……まあキミなら、しらみ潰しにやったのでも、結果は出せるだろう。頑張ってくれたまえ』

「ん、わかってるよ。その代わり、帰ったらちゃんとご褒美くれるように、セバスティアン様に念を押しといてね。

 私、今年こそはぜーったい、ステキな王子様と巡り会いたいんだから!」

『……あ、ああ……わかってる。セバスもちゃんと考えてくれるよ……うん……ちゃんと』

 思いっきり力のこもったハイタウンの要求に、リョウコはばつが悪そうに言い淀む。信頼できる実力を持ったこの『悪魔』の望む報酬は、世界屈指の大富豪であるセバスティアン・コンキリエにとっても、手に余るものだったからだ。

 リョウコとハイタウンは、ほとんど同時に、今回の仕事を依頼し、受けた時のことを思い出していた。

 ――『ミス・ハイタウン。今回の仕事を成功させてくれたら、僕は報酬として、君に国をひとつ与えたいと考えている』

 砂漠を移動するそり屋敷の中、豪奢な調度に囲まれた居室において、セバスティアンは高級ブランデーで満たされたグラスを手のひらの中で暖めながら、余裕たっぷりに話を切り出した。

『ガグの王国と名付けるつもりでいる、非常に広大な国だ。莫大な資源と収穫、それに伴う金と権力が君のものに――』

『いらない。そんなのより、カッコいい男の人紹介して欲しいな』

 雇い主の提案を一刀のもとに切り捨て、ハイタウンは自分の本当に望むものを要求していた。

『前から言ってるよね、セバスティアン様。私はね、あなたにお金や権力なんかじゃなく、人脈を期待してついてきたんだよ。

 ステキなお婿さん見つけて、ささやかだけど幸せな家庭を築くのが私の夢なの。国なんて、それに比べればその辺の砂粒程度の価値しかないよ。だから……ね? わかるよね? 優秀な経営者なら、私を働かせる上で、何を支払うべきか?』

 アルビオンの縁よりも底の知れない、真っ暗な必死さで塗り潰された目で迫られて、さすがのセバスティアン・コンキリエも余裕を失う。

『あ、ああ、君がそちらの方がいいと言うなら、お見合いをセッティングしてあげてもいいよ。

 で、でもだね、この前も二、三人紹介してあげたはずじゃないか? ほら、大中国技術開発アカデミーのジェイル・スカリエッティ博士なんか、君にお似合いじゃないかな。この千年で最高の天才と言われる研究者で、彼の発明品の数々は、数千万エキューにも達する経済効果を……』

『でもあの人、私と一対一で戦って、十秒もたなかったよ? もう少し実戦慣れしてないと、話が合わないかなー』

『じ、じゃあ、あの人はどうだったかね? 大中国陸軍のレジアス・ゲイツ中将は。軍内改革に積極的な野心家で、エネルギッシュな好漢だ。新兵器の導入など、難しい課題を成功させて評価を高めており、将来は軍部を掌握するであろう武人……』

『うん、なかなかファイトのありそうな人だよね。でも、男の人には苛烈さよりも、包容力を期待したいんだ』

『な、ならば、ギル・グレアム提督がピッタリだよ。海軍の英雄で、その懐の広さから、部下からの信頼も厚い。私生活では孤児院に多額の寄付をするなど、慈善事業に積極的なことから、民衆からの評判も上々……』

『グレアム提督って七十歳越えてるよね? さすがにその縁談本気で勧められたら、私ちょっと困っちゃうな』

 このやり取りをそばで見ていたリョウコは、「セバスティアンも充分困っているよ」と言いたくて言いたくて仕方なかったが、持ち前の奥ゆかしさから出すぎた真似はしなかった。面倒ごとの飛び火を回避した、ともいう。

『まあとにかく、ヴァイオラお嬢様を苦しめずに殺してくれば、ちゃんとした王子様を紹介してくれるんだよね? 期待してるからねセバスティアン様。私もそろそろあとがないし、あなたに頼るしか、出会いなんてないんだから』

 そう言い切り、ハイタウンは交渉を完結させた。他の報酬など、彼女にとっては論外で、歩み寄る余地などないのだった。彼女が立ち去ったあと、セバスティアンが頭を抱えたのは言うまでもない。

 ――グレイプ・ハイタウンは、アルビオンの有力な伯爵家の出である。次女だったので家を継ぐことはなかったが、容姿が優れていたので、そのまま普通に成長していれば、嫁に欲しいという家はそれこそ選り取りみどりだっただろう。

 ところが、残念なことに――貴族としては誇らしいことだが――彼女は、魔法の才能にすさまじく恵まれていた。十歳の時点で、すでにスクウェアに到達。魔法学院在学中には、もと軍人という経歴を持つ教員を、一対一の模擬戦で撃破するほどの戦闘センスも示し、「この子は軍人となって、国を守るために生まれてきたのだ」と、父親に言わしめた。

 魔法学院を卒業すると、アルビオン空軍国境管理局に所属。空賊や、他国から侵入してくるスパイを相手に死闘を繰り広げ、特に一対多の戦況において優れた働きを見せた。『エース・オブ・エース』、『管理局の白い悪魔』などという二つ名で呼ばれ、尊敬と畏怖の眼差しをその背中に集めた。

 そう。彼女は強過ぎて、カッコ良過ぎて、そして「すごい人」になり過ぎてしまった。

 対等に付き合ってくれる男友達などいない。「あのハイタウンさんとタメ口で話すなんて恐れ多い!」という空気が、職場全体に醸造された。

 それでも、尊敬されているのだからけっして悪いことではない。あくまで問題は、仕事仲間に馴れ馴れしくしてもらえない、というだけなのだから、ハイタウン自身もさほど気にはしていなかったが、その空気が生み出した毒は、長期的にじわじわ効いてきた。

 ハイタウンがその毒の存在に気付いたのは、親しい人たちの結婚式でのことだった。

 兄や姉の結婚式。カッコいい花婿さん、きれいな花嫁さん。すごく憧れるなぁ、と思いながら、心からハイタウンは祝福した。

 魔法学院時代からの親友だったミス・テスタロッサの結婚式。白いドレスに包まれた親友の姿を、幸せになってね、と思いながら、少し寂しい気持ちで見ていた。

 年下のいとこであるシュテルちゃんの結婚式。先を越されちゃった、私もそろそろいい人に出会いたいなぁ、と思いながら、危機感を覚え始めた。

 職場の部下で、教え子でもあるミス・ランスターの結婚式。ハイタウン家の養子で、十歳年下の妹であるヴィヴィオの結婚式。ハイタウンのひたいに、脂汗がだらだらと流れ始める。

 ヤバい。もしかしなくても私、すごいヤバい。

 自分が行き遅れつつあると自覚したハイタウンの追い詰められっぷりは、たとえて言うなら、アルビオンの縁の断崖絶壁に立ち、背後からはサー・コナン・ドイルが脚本を書いた演劇に出てくる名探偵が迫ってきている、というほどのものだった。崖の上にいる時に、この名探偵という職業の人間に接近されると、なぜか罪を告白しながら投身自殺しなければならなくなるのだ。

 でも、まだいける。大丈夫。ハイタウンは自分に言い聞かせた。仕事に生きる女性だっていっぱいいる。結婚してなくても、そういう人たちは世間から尊敬されるもん。こういうのも立派な生き方だもん。

 ちょうど彼女は、そんな立派な生き方をしている女性を知っていた。トリステインの国立魔法アカデミーに勤めている、ミス・エレオノールという人だ。一流の研究者であり、トリステインでも屈指の大貴族であるヴァリエール家の令嬢でもある彼女と、アルビオン空軍の軍人であるハイタウンは、ラグドリアン湖畔で催された園遊会で知り合った。職務で男顔負けの活躍を見せているハイタウンと、アカデミーという男社会で成果を出しているエレオノールは、少し言葉を交わしただけで、互いに深い敬意を覚えた。

 ハイタウンがアルビオンに帰ってからも、ふたりはペンフレンドとして、月に一度ほど手紙のやり取りをしていた。前に来た手紙では、相変わらずアカデミーで、仕事一直線に頑張っているようだった。

 私も彼女みたいに、自分の生き方を貫こう。結婚しなきゃマズいなんて、下らない強迫観念に悩まされてちゃダメだよね――そんな風に決意も新たにしたその時だった。トリステインのミス・エレオノールから、ハイタウンに新しい手紙が届いたのは。

 ハイタウンは、エレオノールのことを考えていた時に、彼女からの手紙が届くなんて、これが似た者同士のシンパシーかな、などと苦笑しながら、その手紙を開いて、読んだ――。

 

【グレイプへ。

 昨日、お父様の紹介で、バーガンティ伯爵様という殿方と知り合いました。ヒャッホオオオオォォォ!!!ヽ(゜∀゜)ノ

 すごくカッコ良くて、レディの扱いも心得てらっしゃる素敵な人です。今回は顔合わせを兼ねたお食事と、軽いお話だけだったけど、たぶん、いえ、間違いなく! お付き合いすることになると思うわ!♪ヽ(´▽`)/イエーイ

 しばらくしたら婚約を知らせる手紙を書くことになっちゃうかも! その次は結婚式の招待状で、その次は跡継ぎ誕生のお知らせかしら? キャーキャーッ(///ω///)♪

 私、とっても幸せになれそう。この気持ちをグレイプにも分けてあげたいぐらい。あなたも早くいい人見つけなさいよ、こうなってみてわかったけど、独りはすっごい寂しいわ!

 ――仕事に夢中なあなたを心から心配する親友、エレオノールより】

 

 読み終えたハイタウンの目は光を失い、心はどす黒く濁ってしまっていた。

 その夜、彼女は家出した――管理局の戦艦を二十隻ほど、八つ当たりで叩き壊して。

 それから、泣きべそをかきながら逃げ続け、気がつくとセバスティアン・コンキリエに拾われていた。『スイス・ガード』として東方への遠征についていったのも、これまでの人間関係と無縁な遠い場所に行きたかったからだった。

 でも、俗世を離れて、余計なものから目をそらしても。ことあるごとに、寂しい気持ちが心の中に巣を作る。

 ――やっぱり私も、結婚したいよぉ。

 デートしたい、チューしたい、イチャイチャしたい。よりによって雇い主のコンキリエ夫妻が、ハイタウンが今まで見た中でも一番のおしどり夫婦だったので、そのラブラブ具合を始終間近で見せつけられることになり、羨ましさと妬ましさと危機感と人恋しさが加速度的に募る募る。

 ついに決断して、セバスティアンにお見合いの世話をお願いしたのは、どれくらい前のことだっただろうか。顔の広い実業家である彼は、たくさんの魅力的な男性をハイタウンに紹介してくれたが、なかなかこれは、という人がいない。世の中はまだ彼女に厳しく、彼女の王子様はいまだに、この広大な世界のどこかに埋もれている。

「何で微妙な人しか見つからないのかなぁ。リョウコさんはどう思う? 私、そんなに高望みなんかしてないと思うんだけど。

 お金持ちでなくていいし、よっぽどの不細工でなければ、顔にもあまりこだわりはないよ? 強いていうなら、年齢が近くて、優しくて、趣味が合って……あと、私より高火力で、高機動で、高耐久であって欲しいってぐらいなのに」

『イージス艦でもキツくないかね、その条件』

「? 何、イージス艦って?」

『私の故郷の戦艦だよ。金属製で、すごい武器がいっぱいついてて、間違いなくロイヤル・ソヴリンより強い』

「へええ! 見てみたいなぁ、それ。アルビオン人として、ロイヤル・ソヴリン級以上の戦艦があるとか言われたら、ちょっと黙ってられないもん。

 あ、もちろん、そのイージス艦並みの男の人との出会いはもっと求めてるからね? 忘れてもらったら困るよ?」

『前者は諦めなさい、このハルケギニアにはたぶんないから。後者は……まあ、善処するが……ちゃんと任務を片付けてくれないとおあずけだからね? わかってるだろう?』

「うんうん、ちゃんとわかってるって。ヴァイオラ・マリア・コンキリエは、この私が必ず殺すよ。

 だからね――」

 そこで唐突に言葉を切って、ハイタウンは強く地面を蹴った。

 バネのように横に跳ねて、床を転がる――すると、ついさっきまでいた場所に、バシバシと何かが突き刺さり、石のタイルに穴を空けた。もしハイタウンが移動せずにぼーっと立っていたなら、穴が空いていたのは、床ではなく彼女の腹部だっただろう。

 二回転、五メイルほどを移動して、ハイタウンは立ち上がる。同時に杖を構え、攻撃の飛んできた方向に突きつけた。

 彼女の視線は、襲撃者と思われる人影をとらえた。向こうも杖を構え、油断なくハイタウンの様子をうかがっている。

 警備兵でもガーゴイルでもない。エプロン・ドレスを着ている――女性、それもメイドだ。きっちり結い上げた金髪、意思の強そうな灰色の目。歳は――まだ二十歳にもなっていないだろう。

(このお城に勤めてるメイドさんかな。若いのに殺気がすごいや……とっても素敵。でも、ただのメイドさんが、自分で杖持って侵入者を迎撃しようとしたりするかな?

 というかこの子の顔、どこかで見たような……どこだっけ、セバスティアン様関連で会ったことがあるような……ううん、違う、ヴァイオラお嬢様の関係だ。えっと、誰だっけ……あ)

 記憶の底から、そのメイドの名前を引っ張り出し、ハイタウンは目を丸くする。

「シザーリアちゃん! シザーリア・パッケリちゃんだよね。撃たないでね、私だよ、覚えてない? グレイプ・ハイタウン。セバスティアン様のボディーガードの」

「ええ、覚えております、ミス・ハイタウン。

 我が兄のシザーリオも含め、あなた方『スイス・ガード』のお顔を忘れたりする私ではございません」

 メイド――シザーリアは、ハイタウンの呼び掛けに頷いた。

 ハイタウンはホッとして、杖を下ろしかける。おそらくシザーリアは、主であるヴァイオラを救うためにこの城に侵入したのだろう、と気付いたからだ。ならば、セバスティアンの部下であるハイタウンとは、争う必要がないはず。

「ああ、よかった。じゃあ今の攻撃は間違いなんだね。警備兵か何かと間違えたのかな?

 でも、もう安心していいよ。私はあなたを攻撃しないし、この辺の敵はあらかた片付けたから――」

「ミス・ハイタウン。私はあなた様を見間違えたりなどいたしません。お顔もお名前も鮮明に覚えておりますし、あなたがハルケギニアにもまれな、戦闘のスペシャリストである、ということも、ちゃんと記憶にございます」

 ハイタウンの言葉を遮り、シザーリアは続ける。杖を下ろしもせず、殺気もそのままで。

「だからこそ、出来れば今の一撃で片付いて頂きたかったものです。見事な回避でした。さすがは『スイス・ガード』ですね。敵に回すと厄介なことこの上ない。

 とても残念ですよ、ミス・ハイタウン。あなたを倒さなければならないだなんて。でも、仕方がありません。ヴァイオラ様に仇なすものは、それが誰であろうと、死あるのみ、です」

「へ? えっ……あっ」

 シザーリアが何を言っているのか把握できずに、戸惑ったハイタウンだったが――すぐに、その意味するところに思い至った。

 このメイドは聞いてしまったのだ。先ほどハイタウンが、タブレットに向かって「ヴァイオラ・マリア・コンキリエは、この私が必ず殺すよ」と言ったのを。

「どのような事情かはお聞きしません。言いわけも無用です。私はヴァイオラ様を守る。そのためにはあの方の害になるものは、残らず排除する必要があるのです……ご理解下さいませ」

「ちょ、ちょっと待ってシザーリアちゃん! それ誤解だよ! 私は別にヴァイオラお嬢様を殺したいわけじゃなくてね、」

 言いかけて、ハイタウンは困る。シザーリアは明らかに勘違いしているが、ハイタウンがヴァイオラを殺そうとしている、という一点は間違ってないのだ。

 充分な理由があるとはいえ、それを更なる誤解を招かずに説明するのは難しい。一度殺して、また生き返らせるつもりだなどと言っても、信じてもらえるかどうか怪しいし、信じてもらえたとしても、そのやり方に嫌悪感を抱かせないで済むかどうか。

 どうしよう、何て言って切り抜けよう――そんなことを考えているうちに、さらに状況は悪化する。

『ハイタウン? どうしたね、急に話をやめて? 何か問題でも起きたのか?』

 タブレットから、リョウコの声が流れ出る。ハイタウンは、まだ通話を切っていなかった――シザーリアもハイタウンも無言の、静かな夜の城の中で、その声はひときわ大きく響いた。

『とにかく、なるべく早く仕事を終えて帰ってきておくれよ。セバスティアンも、ヴァイオラお嬢様の死の知らせを、手ぐすね引いて待っているんだから』

 その致命的な言葉を聞いたシザーリアの眉間に、深くしわが刻まれる。

「……今のは、ミス・リョウコの声ですね。何てこと、セバスティアン様までもが、一枚噛んでおられるとは……ヴァイオラ様に、何とお話しすればいいのでしょうか」

 あちゃー、と天を仰ぐハイタウン。ここまでこじれると、もう彼女ではどうにもできない。というか、考えるのがめんどくさい。

「……えーと、リョウコさん。仮に今、シザーリアちゃんが死んだとして、あとで生き返らせることってできる?」

『ん、なんだって、ハイタウン? シザーリアって、ヴァイオラお嬢様のお付きのメイドの、あの子かい? まあ、そりゃ簡単だが。体内チップを入れてある人のデータは、常に記録し続けているから』

「そう、了解。じゃあ、あとで少し面倒かけるけど、ゴメンね」

 ハイタウンはそう告げて、ため息とともに通話を切る。そして今度は、ため息と同じくらい切ない諦めの眼差しを、シザーリアに向けた。

「……言いわけは聞かないんだよね、シザーリアちゃん?

 わかったよ、じゃ、手っ取り早く力比べといこうね――それが一番、話が早いもん」

 戦う意思を明確にして、杖を構え直す。

 ハイタウンの宣戦布告に対し、シザーリアは頷いた。お互いの意見が一致したところで――同時に紡がれ始める、攻撃魔法のスペル。

 この夜のアーハンブラ城における、ふたつめの死闘が、こうして幕を開けた。

 

 

 まったく、どうしてこうも問題だらけなのでしょう。

 私――シザーリア・パッケリは、やるせない気持ちとともに、そんな一言を心の中で吐き捨てました。

 レンタルした風竜で、アーハンブラ城にたどり着いたまでは順調でした。しかし、この辺境の城は、想像以上に厳しい警備体制を敷いていたのです。

 見た目も音も派手な竜で直接降下したのでは、あっという間に発見されて、魔法攻撃の的になっていたでしょうし、私ひとりで、フライの魔法を使って城壁を乗り越えようとしても、その壁一枚を隔てた場所に、警備兵がいれば結果は同じ。

 そこで私は、まず風竜をアーハンブラ城の上空に、昇れるだけの高さまで昇らせました。上からは、城内はかがり火を焚いているのでよく見えますが、地上からは上空の竜など、豆粒のようにしか見えないでしょう。充分な距離を取って、城壁の内側を観察し、人影のない場所を探しました。

 そして、ちょうどよい場所が見つかると、思いきって竜から飛び降り、そこへ向かって自由落下。竜より人の方が小さいので、よほど運が悪くない限りは見つかりますまい。竜と違って羽ばたきもしないので、移動していても静かなものです。そして、地面に激突する直前に、唱えておいたフライの魔法を発動させて、柔らかく着地。かくして、私は警戒厳重なアーハンブラ城に、誰にも気付かれず忍び込むことに成功したのです。

 でも、そこからも大変でした。城内には警備兵だけでなく、自律性を持ったガーゴイルまで徘徊していたのですから。

 これらの目を盗みながら探索を行い、見つかった場合には、相手が声を上げる前に、静かに魔法の一撃を食らわせて沈黙させる。

 警備兵を七人、ガーゴイルを十体以上、あと何かよくわからない罠の類いを数え切れないほど始末して、かなり奥の方まで足を運んで来たのですが――。

 ここでまさか、あの『スイス・ガード』と遭遇することになろうとは。

 しかも、敵として向き合わなければならなくなるとは、思いもしませんでした。

 私も最初は、彼女を――ミス・グレイプ・ハイタウンを、味方だと思いました。何しろ『スイス・ガード』は、ヴァイオラ様のお父上であるセバスティアン様の護衛集団なのですから。私と同じく、ヴァイオラ様の救出を目的として、この城にやって来たに違いない、と考えたのは、当たり前のことのはずです。

 それなのに、私は聞いてしまいました――ミス・ハイタウンが、タブレットと呼ばれる携帯通信アイテムに向かって、ヴァイオラ様を殺すと宣言したのを。

 絶対に聞き間違いではありませんでした。そしてこの瞬間、私にとって彼女は、頼りがいのある仲間ではなく、ジョゼフ王にも並ぶ、見逃せない抹殺対象に変わったのです。

 そのあとのやり取りで、彼女の許しがたい企みの裏には、セバスティアン様の影があることまで知れました。父親が実の娘の死を、今か今かと待っている。このようなおぞましいことが、他にありましょうか?

 闇から闇へ、葬らなくてはなりません。

 ミス・ハイタウンも、セバスティアン様も、その間に立っているらしき秘書のミス・リョウコも。ヴァイオラ様が、この人たちに命を狙われたということを知ることもないように、速やかに始末する。

 敬愛するヴァイオラ様を守るためでもありますし、人道的にも放っておくことはできません。すべてを上手く処理できれば――そう、セバスティアン様一行は、東方から戻ってくる途中で事故に遭い、亡くなられたとでも、ヴァイオラ様にはお知らせすることになりましょう。あの無邪気なお方は悲しまれるでしょうが、本当のことを知るよりは傷つかずに済むはずです。

 さて、そういう筋書きを現実にするために、まずは当面の問題を解決しなくては――。

 杖を構えたミス・ハイタウンは、バック・ステップで、私から距離を取り始めました。間合いを調節しながらも、その唇は忙しなく動いており、スペルを唱えていることは疑いようがありません。

 しかし、距離が欲しかったのは私も同じ。そして、こちらはすでに、スペルを唱え終わっております。早撃ち勝負は、私の勝ちです。

「《螺旋(ストックレーフリーズ)》」

 始動キーを唱えると、私の周りに何百もの、黄色く輝く炎の球が浮かび上がりました。

 ひとつひとつの大きさは、せいぜいが一サントほど。ドットメイジの唱えるファイヤー・ボールより、見た目はずっと頼りないものです。しかし、この魔法の本領は、大きさでも派手さでもありません。

 杖をまっすぐに、ミス・ハイタウンの心臓に向けて。私は心の中で「発射」と叫びました。すると、黄色い炎弾は次々と、弓から放たれた矢よりも速いスピードで空間を駆け抜け、黄蜂の群れのようにターゲットを襲います。

 これが私のオリジナル・スペル、《螺旋(ストックレーフリーズ)》。速度と威力、そして連射性に特化した、炎の小矢(フレシェット)です。

 火を三つに、土をひとつ重ねたスクウェアスペル。高温高圧の炎の中心に、重い金属の芯を入れて放つこの魔法は、一発一発が小さく速いため、回避や撃墜が困難。さらに焼けた金属の芯のおかげで、貫通力に優れており、生半可な盾や鎧であれば、軽々と貫いてしまいます。

 有効射程は約八百メイル。五百メイルの距離でも、厚さ九十サントのホワイト・パイソン(白マツ材)を撃ち抜き、三百メイルまで近付けば、硬い鱗に覆われた火竜の皮膚にも有効です。

 私とミス・ハイタウンの距離は、離れつつあると言っても、せいぜいが二十メイル程度。相手までの到達時間は、一秒にも満たないものです。一発でも直撃すれば、それだけで戦闘不能。連続して食らえば手足が吹き飛び、頭は潰れ、内蔵は散らばり、挽き肉同然の状態になってしまうでしょう――そんな弾を、私は一度の詠唱で、秒間二発、三分間連続で放ち続けることができるのです。

 ぱ、ぱ、ぱ、ぱ、ぱ、と、床の石畳に無数の穴を穿ちながら、射線はミス・ハイタウンのいるポイントと重なりました。しかし、彼女はその一瞬前に、宙に飛んで黄蜂の群れを回避しました――そしてそのまま上昇――床から五メイルほどの高さを維持したまま、大きな円を描いて、私の背後に回り込もうとしてきます。

「この状況で、フライとは! しかし、逃がしません!」

 飛ぶミス・ハイタウンに照準を合わせ、弾をばらまき、撃墜しようと試みます。しかし、敵のフライは鳥のような速さでした。彼女の去った空間を、少し遅れて私の弾丸がむなしく通り過ぎていきます。上下左右、前後も絡めた立体的な機動を行う標的は狙いにくく、私は手数で勝っているにも関わらず、さんざんに翻弄されておりました。

 やはり恐るべき精鋭『スイス・ガード』。一筋縄ではいきません。

 ただ、回避が上手だからといって、それか私の撃破につながるか、というと、答えは否で。フライの魔法を使って飛行し続けているミス・ハイタウンは、他の魔法を使えません。逃げるだけで、反撃ができないのです。

 相手からの攻撃がないのなら、私は落ち着いてゆっくり、狙いを定める仕事に集中することができるわけで、いつかは当然、黄蜂の一匹が、ミス・ハイタウンを撃ち抜き、地に落とすことになるでしょう。

 こちらに断然有利で、向こうにとってはジリ貧の状況――だと考えていた私でしたが――飛び回るミス・ハイタウンの唇が、いまだに動いているのを、ちらりと目にしてしまい――頭から氷水を浴びせられたような、ゾッとする予感を覚えました。

 そして、その予感は的中したのです。ミス・ハイタウンは飛びながら、速度を一切落とさずに、それでも正確に私の方に杖を向け――「《快楽原則(ディバイン・バスター)》」と口にしました。

 瞬間、桜色の巨大な光線束が、私のすぐ横を駆け抜けていったのです。悪い予感に反応した肉体が、勝手に横に飛んでくれたのが、私自身の命を拾いました――光線の通過したところにあった壁に穴が空き、床がバターのように削れていくのを見る限り、エプロン・ドレスの裾の一部を削られただけで済んだのは、本当に幸運だったと言えるでしょう。

「あれ、今の避けちゃうんだ。完璧なタイミングだと思ったんだけどな」

 砲撃の姿勢のまま、緩やかに宙を漂うミス・ハイタウンは、意外そうに呟きました。

「今のは、いったい……ミス・ハイタウン、何をしたのです?

 フライの魔法を使いながら、別の魔法で攻撃を行うなど、見たことも聞いたこともございません」

 怪しみながら問いかけると、彼女は嬉しそうににっこりと笑い、持っている杖をゆっくりと、注目しろとでも言いたげに振ってみせました。

「特別なことをしたわけじゃないよ。私が、人のできないことをした、ということでもないの。

 戦いに赴く上で、できる限り自分が有利になれるように、装備とかいろいろ凝ってみた結果だよ。……紹介するね、この子。インテリジェンス・スタッフで、名前はレイジングハートっていうの」

[Nice to meet you.]

 突然、杖についた赤い宝石がチカチカと輝いたかと思うと、どこからか抑揚のない、不思議な声が聞こえました。

 はじめまして、の挨拶を意味する、アルビオンの古語を話したのは――まさか、ミス・ハイタウンの持っている、あの杖なのでしょうか? だとすると――。

「私の家に代々伝わる、守り神みたいな杖でね。言葉はちょっとかしこまってるけど、とってもいい子なんだよ。

 ところで、シザーリアちゃんは、インテリジェンス・アイテムについて、どの程度の知識があるかな。意識を持っていて、言葉を話すだけのちょっとうるさい道具、って認識が、最近は広まっちゃってるけど、それだけじゃないんだよ。全部が全部、ってわけじゃないけど、知性ある道具はね、その子だけが使える、特別な能力を持っていたりすることがあるの。

 このレイジングハートは、持ち主にフライの魔法を付与する能力を持ってる。だから私は、この子といさえすれば、空を飛びながら地上の敵を魔法攻撃するなんていう、とっても有利な戦術をとることができる……」

 杖の――レイジングハートの先端が、再び私を狙いました。そして、またしても撃ち込まれる、凶悪な光線束。

 今度は私が、できる限りの速さで逃げ続けなければならなくなる番でした。ミス・ハイタウンの魔法、《快楽原則(ディバイン・バスター)》というらしい破壊光線は、そうそう連射のできるものではないようですが、一撃一撃の効果範囲が広く、破壊力も尋常ではありません。硬い石壁を貫通する威力となると、私の魔法にも勝るとも劣らず、一撃必殺であるはずです。

 数秒ごとにほんの一瞬、夜明けを迎える桜色の太陽。その輝きをかろうじて避けながら、私も負けずに、《螺旋(ストックレーフリーズ)》をミス・ハイタウンに向けて撃ち続けます。

 パワーはお互い充分である以上、どちらの射線が先に相手をとらえるか? これはそういう勝負なのです。

 ――そう思っていた私は、次の瞬間に起こったことに、愕然とせざるを得ませんでした。

 がむしゃらに放った弾丸のいくつかが、偶然にもミス・ハイタウンにまっすぐ飛んでいったのです。両者の速度と移動方向を計算しても、絶対に避けようのない激突が起きるはずでした。

 しかし――ああ、それなのに。私の炎弾は、ミス・ハイタウンに命中する、その直前に――謎の光の壁に阻まれて、カキン、カキンという乾いた音だけを残して、打ち消されてしまったのです。

「ッ!? 何、が……?」

 ミス・ハイタウンの目の前に現れた、オレンジ色に輝く半透明の壁を、私は信じられない気持ちで見つめます。正八角形の薄い色ガラス、といった見た目ですが、本当にそんなものなら、私の炎弾で打ち砕けないはずがありません。

〈どうして人間という生き物は、同族同士で争うのかな。まったくわけがわからないよ〉

 またどこかで、聞き覚えのない声がしました。ミス・ハイタウンの方から聞こえたのは確かですが、彼女の声ではありませんし、あのインテリジェンス・スタッフ、レイジングハートの声でもありません。

〈大いなる意思のように、もっと広い視野で物事を見るべきじゃないかな。エントロピー、無秩序度という概念があるが、同じ種類の個体同士が潰し合うような動機が生じるのは、種のエントロピーが増大し過ぎて、自壊し始めているということを――つまり滅亡に向かう段階に到達したということを意味するんだけどね。君たちはその段階に六千年前から足を踏み入れているのに、しぶとく生き残ってなかなか滅びない。いったいどうしてなのかな? 理解に苦しむね〉

 続く、何やら哲学的な独白。よく見ると、ミス・ハイタウンの肩の上にいる白い獣が、もぐもぐと口を動かしています。まさか、しゃべっているのは――?

「こら、初対面の人がいる時に、あんまり変な皮肉を言っちゃダメって、前から言ってるでしょ。

 ……ビックリした? シザーリアちゃん。驚かせる前に、この子のことも紹介しておくべきだったね。

 この子は私の使い魔で、韻獣のユーノ君。エルフほどじゃないけど、彼の一族も先住魔法が得意なの。特にこれ、身を守る精霊の壁、《プロテクション》は、艦載大砲の五発や六発程度なら、ヒビも入らないくらい硬いんだよ」

〈先住魔法じゃなくて精霊魔法だよ。正しい言葉を使ってくれないと、僕も君たちメイジのことを、魔法男とか魔法女とか呼ぶよ。

 そしてはじめまして、ミス・シザーリア。僕らの一族は、力ある生き物とパートナーシップを結びながら、長い長い年月を生き延びてきた、歴史ある獣だ。

 もしこのグレイプより先に、君のような才能ある若者に出会えていたら、「僕と契約してより強いメイジになってよ!」と申し込んでいたところだよ。少しだけ残念だ〉

 韻獣――ユーノの赤いくりくりとした目が、その愛らしさとは裏腹に、冷たく私を見ています。

 なるほど、底の知れなさそうなこの獣がうまいこと利用するには、ミス・ハイタウンはしっかりし過ぎているというわけですね。まったく、お似合いの主従です。

 そして、能力的にも相性は抜群です。高火力だけれど隙のある砲撃魔法に、その隙を補う強力な盾。そこにさらに、機動性を付け加えるインテリジェンス・スタッフ。

 コンパクトでありながら、完璧な布陣です。個人でありながら、駆逐艦と同等、あるいはそれ以上のポテンシャルを秘めている――まるで人間戦艦ではありませんか。

「シザーリアちゃん。いずれ生き返ってくることになるあなたのために、先輩がひとつ教えを授けてあげるよ。

 敵に挑むのは、自分が相手より攻撃、防御、移動の三点で優れていると思われる時だけにしておくべきなの。そうでないなら、そうなるように工夫を凝らしてから行動しなくちゃ……火力だけに自信を持っているメイジはたくさんいるけど、そういう人はとっても死にやすいんだよ?」

 ありがたいお言葉を、こちらに投げ落としてから。ミス・ハイタウンは、激しい空爆を再開しました。

 パーフェクトなプロフェッショナルの猛攻に、私は反撃の機会も見い出せず、ただただ逃げ続けるしかなかったのです。

 

 




その4に続くわけじゃ。


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アーハンブラ断章(フラグメンツ)/ジョゼフはみんなにひどいことしたよね(´・ω・`):その4

その3の続きー。
今回はこれでひと区切りじゃ!


 

 ハイタウンの放つ《快楽原則(ディバイン・バスター)》の光線が、広大なアーハンブラ城を串のように刺し貫いて、反対側の夜空へ抜けていく。

 彼女のこの華々しいオリジナル・スペルを見て、火系統のものだと勘違いする人は少なくない。だが、よく観察しさえすれば、この砲撃が熱を一切伴っておらず、ただただ物体を削り抜いていくだけのもので、火魔法の性質とは異なるということに気付くだろう。

 では、何の系統なのだろう? 嵐のような衝撃波が生じるから、風系統ではないかと想像する人もあろう。しかし、これも違う。もちろん、水系統には、似かよった部分は少しもない。

 グレイプ・ハイタウンは、実のところ、土のスクウェア・メイジなのだ。

 ゆえに、《快楽原則(ディバイン・バスター)》も、土系統のスペルである。土と破壊光線――これまた系統とまったくちぐはぐなように思われるが、この魔法の本質は、桜色の美しい光ではなく、物体を削り抜いて、貫通するという効果にこそある。

 具体的に何をして、その効果を生んでいるのかというと。ハイタウンは、強力な《錬金》の魔法を『線』として放出し、杖の向いた先にあるものをすべて、空気へと錬金しているのだ。

 石も鉄も木材も、すべて空気に変えられ、削られる――というよりは分解されて、霧散してしまう。撃たれた壁は貫かれているのではない、変質し、くり抜かれているのだ。あの派手で、いかにもエネルギーの奔流のような桜色の光線は、効果範囲を認識しやすくするためだけのものでしかない。

 もちろん、狙った先にあるものをすべて錬金するなどということが、楽なことでないことは当たり前だ。材質によって、錬金しやすさの度合いには違いがあるし、固定化という魔法によって、錬金による変化を受け付けないようにしてある物体も存在する。宝物庫だとか、城壁などは大抵、土メイジの固定化によって頑丈に防御されている。アーハンブラ城も、その例に漏れない。

 だが、それを破るからこそ、ハイタウンは『スイス・ガード』なのだ。

 圧倒的な精神力を魔法に込めて、完全な力技で、あらゆる防御を撃ち抜いてしまう。スクウェアが十人がかりで重ねがけした固定化に守られた壁でも、ハイタウンならものの十秒で穴を空けてしまうだろう。これは修行の結果とか、努力の賜物とかではなく、生まれつきの才能によるものだ。並のスクウェアメイジを遥かに越える、バカみたいな量の精神力を彼女は保持しており、艦載大砲以上のむちゃくちゃな攻撃を平気でできるからこそ、彼女はセバスティアンに認められたのだ。

 さて、そんなみもふたもない仕組みによってはたらく魔法、《快楽原則(ディバイン・バスター)》。その効果はあくまで『物体』に対してだけで、『生き物』には作用しないように設定してある。ゆえに、生きた人間がこれを食らうと、城門を守っていた門番たちや、『ルイ・カペー』で直撃を受けたミス・シェフィールドのように、着ているものだけが吹き飛ばされることになり、あわれ素っ裸になってしまう。

 生き物ではないものは、食らえば消し飛ぶ。ガーゴイルだとか、生ける屍――もう死んでいるのに、魔法の力で動かされている死体なども、分解されて大気に還ることになる。あのシザーリオのように。

 また、固体が空気に変わると、なぜか瞬間的に体積が何倍に膨れ上がるらしく、気圧が変化し、周辺に爆発を思わせる衝撃波を生み出す。衣服や鎧を消し飛ばされ、無防備になった人間が、この衝撃波を浴びてしまうと、それこそ全身を鞭で打たれるのと同じ結果になる。よくても立ち上がれないほどの激痛に見舞われ、普通なら失神、悪くすれば骨折ぐらいは負ってしまうだろう。

 つまり、《快楽原則(ディバイン・バスター)》の正体とは――広範囲にいる複数の敵の武器と防具を破壊した上で、気絶させて無力化することを目的とした、ある意味でこの上なく平和的な、非殺傷設定の暴徒鎮圧魔法なのだ。

 だが、そんな魔法しか使えないのでは、無慈悲なセバスティアン・コンキリエが、ハイタウンを暗殺のために使うはずがない。

 もちろんハイタウンは、殺傷能力に優れた、より強力な切り札の魔法も持っている。にもかかわらず、ここまでの戦闘で《快楽原則(ディバイン・バスター)》しか使っていないのは、標的があくまでシザーリオとヴァイオラのふたりだけだったからだ。城の警備兵など、無関係な人間を殺戮して回るような低俗な趣味は、ハイタウンにはなかった。

 すでに死体となっているシザーリオは、《快楽原則(ディバイン・バスター)》でも充分始末できる。ならば殺傷設定の魔法は、ヴァイオラを見つけた時に、たった一発放つだけでいいという話だ。当たり前だが、殺傷設定の強力な魔法と非殺傷設定の弱い魔法、ポンポン連射するなら、後者の方が疲れずに済む。つまりハイタウンは、下手に消耗しないよう、体力を温存して、ジョギング気分で適度に城攻めをしていたわけだ。

 だが、ここで誤算が生じた。予想していなかった敵戦力、シザーリア・パッケリが、ハイタウンの前に立ちふさがったのだ。

 あらぬ誤解(ではないかも知れないが)を受けたハイタウンは、シザーリアを抹殺しなくてはならなくなった。しかし、それでもまだ本気を出しはしなかった。シザーリアの使う火炎弾連射魔法はなるほど強かったが、レイジングハートによる回避運動と、ユーノの《プロテクション》を攻略できるほどではなかった。安全は充分に確保されていたので、ハイタウンは今まで通りの《快楽原則(ディバイン・バスター)》でシザーリアを気絶させ、動けなくなった彼女に殺傷設定の魔法を使い殺害するという、なるべくエネルギー消費を抑えられる戦術でのぞむことにしたのだ。

 ただひとつ、ハイタウンにとって予想外だったのは、シザーリアがひらひらのメイド服といういでたちでありながら、異様に機敏だったということだ。直径五メイルもの極太光線束を、飛んだり跳ねたり転がったりして、避ける避ける。しかも隙を見つけでは、《螺旋(ストックレーフリーズ)》の弾丸を正確に撃ち込んでくるのだ。

 繰り返すが、その攻撃ではハイタウンの防御を破ることはできない。ただ、火炎弾が《プロテクション》に弾かれる時の炸裂光は、ハイタウンにとって鬱陶しい目くらましになっていた。そのせいで、逃げるシザーリアを完璧に捕捉することができないのだ。

 もう十発以上の《快楽原則(ディバイン・バスター)》を撃ちまくっているが、いまだに直撃させることができない。またしても、ハイタウンの目の前で、黄色い蜂が精霊の壁に阻まれて弾け飛んだ。もし《プロテクション》がなかったら、眉間を撃ち抜かれていただろう。向こうの精密な射撃は見事のひと言だ。

「くっ、ちょこまかとーっ!」

 負けじとハイタウンも、シザーリアの真横に回り込みながら、桜色の光線を発射する。素早い敵に攻撃を当てるには、ハイタウン自身も常に高速移動し続けて、相手の死角を狙うしかない。

 そのため、ありとあらゆる方向に魔法が撃ち込まれることになり――しかもシザーリアがあっちこっちに移動してそれを避けるため、可哀想なアーハンブラ城は、内側から外側に向かって、何度も何度もいろんな角度で刺し貫かれることになった。

 ある時は西の空に向けて。ある時は東の空に向かって。またある時は北の地面に食い込むように。さらにその次は真南方向に水平に、桜色の太い杭が飛び出していく。

 流れ弾でどんどんどんどん削られていくアーハンブラ城。今や、この城の壁や床、天井や柱といった構造物の、実に十パーセント近くが、蒸発し、消滅しつつあった。

 しかもその無益な破壊の連続は、終わりを見せる気配が微塵もないのだ。

 ハイタウンともシザーリアとも関係のない場所が、彼女らにまったく気にされないうちに吹き飛んでいく――色々な場所が。

 

 

 ジョゼフは、城の中の緊迫した空気を味わいながら、それでもいささかも慌てることなく、ゆったりとした足取りで、ヴァイオラたちを閉じ込めた牢の前までやって来た。

 重そうな鉄の扉の前には、見張りの兵士がひとり立っている。彼は王が近付いてきたのに気付くと、背筋を伸ばして敬礼をした。

 ジョゼフは礼儀をわきまえた見張り番に「ご苦労」と短く労いの言葉をかけると、扉を開けて、中の囚人と面会させるように命じた。

「はっ、かしこまりました、陛下。……中に入られるのでしたら、ご一緒しましょうか?」

「いや、それには及ばん。余だけを入れてくれれば、それでいい。武器はちゃんと携帯しているから、心配は無用だ」

 ジョゼフが魔法を使えないということは、周知の事実だ(本当は違うが)。それゆえ、囚人に手向かいされた場合にジョゼフが怪我をしないで済むよう、見張り番は気を使って提案したのだが、ジョゼフはそれを理解した上で辞退した。ヴァイオラもシャルロットも杖を取り上げられているはずなので、今はただの小柄で非力な少女に過ぎない。ふたりがかりでこられても押さえ込む自信はあるし、いざという時には《加速(アクセル)》の魔法もある。危険は一切、ない。

「囚人たちの様子はどうだ? 泣き叫んだり、暴れたりしている様子は?」

「ありません。静かなものです……おそらく、ぐっすり寝ているのでしょう。

 もっとも、この牢は扉も壁も厚いので、よほど大騒ぎしないことには、中の声なんて聞こえてきませんがね」

 言いながら、見張り番は腰にぶら下げた鍵を使って、扉の錠を外した。

「よし、扉を開けよ……そして、余が中に入ったら、また扉を閉めるのだ」

「は? その、あまり居心地のいい場所ではありませんが、よろしいのですか?」

「構わぬ。囚人と少し内密な話がしたい。鍵をかける必要はないが、扉は開いていてもらっては困るのだ。出る時には、中からまた呼び掛ける」

「……かしこまりました」

 もしかしたら、その内密な話は長引くかも知れないな、と、ジョゼフは内心で呟いた。もし、ロマリアなりセバスティアンなりの手の者が、ヴァイオラを取り戻しに忍んでくるなら、牢の中でそれを待ち受けていたかった。ひと晩程度なら寝ずに待つことは簡単だ。睡眠時間を削るくらいのことで、謎の刺客と対決するエンターテイメントが得られるなら、安いものではないか。

 ごりごりと音を立てて扉が開かれ、ジョゼフは薄暗い室内に足を踏み入れる。とたんに伝わってくる、焦りの気配。それが何か確かめる前に、背後で扉が閉められた。

「えっ、なんの音……って、げっ!?

 じ、じじじジョゼフ王!? ど、どしてこんなタイミングで、ここに入ってくるんじゃ!?」

 動揺しまくりの悲鳴をあげたのは、ソファに腰掛けてくつろいでいた様子のヴァイオラ・マリア・コンキリエ枢機卿だった。

 その姿を見たジョゼフは、心の中に疑問符を浮かべる。確かヴァイオラは、ここに連れてこられた時には、パーティー用の上等なドレスを着ていたはずだ。それなのに、今目の前にいる彼女は、薄いシュミーズにショーツだけという、あられもない姿になっている。いったい何が起きたのか?

 暑くて脱いだ、という可能性もないではないが、まだそんな寝苦しい季節ではない。それに、そんなのはしつけの行き届いた貴族の子女がするには、あまりにもだらしないふるまいだ。あり得ない。

「マザー? いったい、その格好は……」

 そう尋ねようとした時、背後から急激に殺気が迫ってきた。ジョゼフが反射的に振り向くと、細い紐を手に襲いかかってくるシャルロットと目が合った。その紐は彼女の右手と左手の間に、六十サントほどの長さで張りつめていて、ジョゼフの反応が一瞬遅ければ、それは彼の首に巻きつけられ、喉に深く食い込んでいただろう。

 だが、その奇襲は失敗した。ジョゼフは逆にシャルロットの手首をつかみ、背負い投げの要領で床に叩きつけた。

「ぐっ!」

「ずいぶんな歓迎だな、我が姪よ。貴様もすっかり、北花壇騎士としての生き方に馴染んだと見える」

 背中を打ちつけて悶絶するシャルロットを、ジョゼフは冷たく見下ろす。そして、彼女もまた、裸に近い格好であることに気付いた――薄い肌着と下着だけ。

 目のやり場に困る姿の少女がふたり。これは何かある。陰謀の存在を嗅ぎつけたジョゼフは、鋭く室内を見回した――そして、色々と注目に値するものを発見する。

 まずは、床にとぐろを巻いている、不格好な布の塊。それは複数の布をつなぎ合わせ、編み込んだ長いロープだ。どうやら、ヴァイオラの着ていたドレスや、シャルロットの着ていた魔法学院の制服を材料にしているらしい。

 そして窓。鉄格子がはまっているはずなのに、そのうち一本が切断され、不自然に大きな隙間が空いている。他の格子には異常は見られないが、無事な一本に何か、キラキラした粉のまぶされた紐が引っかけてあり、それがジョゼフの興味を引く。

 明晰なガリア王の頭脳は、ここまでの手がかりで、囚人たちが何をしようとしていたのかを理解した。

「ふ、ふははははは! なんと、ずいぶん面白いことを考えているではないか!?

 杖さえ奪えば何もできないだろう、などと思って油断していた。余もいつの間にやら、貴族的な考え方に染まり過ぎていたようだ。このような……まるで平民のような工夫で、脱獄を試みられるとはな! 紐やすりで鉄格子を切って、衣服で作ったロープをつたって逃げようとするとは……まったく、感心したぞ!

 我が姪よ、お前の発案か? それとも、平民にお優しいことで知られるマザーの思いつきかな? どちらにせよなかなかのアイデアだ。こうして見つかりさえしなければ、案外成功していたかも知れんな」

 王の青い目で睨みつけられたヴァイオラは、顔を青ざめさせて、助けを求めるようにシャルロットにすがりつく。頼ろうとしている相手は、背中を強打したせいで息をするのも苦しそうだが、そんなことにも気付いていないのか、青い髪の頭を抱きしめて、「はよ、はよう起きろお姉ちゃん」と、震える声で呟いていた。

 ヴァイオラは頭が良く、計算高い人間だ。自分に自信を持っており、やることなすことうまくいくに違いないと思い込んでいるところがある。

 だからこそ、取り組んでいる仕事が思いがけぬ偶然で破綻したりすると、無能な人間や自信に欠ける人間が失敗した場合より、遥かに大きなショックを受けるし、立ち直るのにも時間がかかる。動揺をあらわにし、怯えるばかりの今の彼女は、もはや無力な子ウサギ以外のなにものでもなかった。

 囚人のそんな無様な姿を、嗜虐的な笑みを浮かべて見下ろしながら、ジョゼフは言う。

「ふと思いついてここに来てよかった。さすがは死を目前にした者たちだ……人間、追い詰められると意外な行動力を発揮するのだな。いや、本当に素晴らしい見世物だ。余は、こういう知恵を凝らした仕事というのが大好きなのだ。

 できれば、お前たちの企みを最後まで見物していたいところだが……立場上、そうできないのが残念でならんよ」

 ジョゼフは屈み込むと、床に置いてあった布製のロープを掴み上げた。そして、固く結んである布と布とのつなぎ目を、ひとつひとつほどき始める。

 ゆっくり、丁寧に、ヴァイオラたちに見せつけるように。

 やがて、それなりに出来上がっていたロープは、バラバラの洋服の破片へと戻されてしまった。ジョゼフは、それをバッ、と床にぶちまけ、腹を抱えてげらげらと笑い始めた。

「これでよし! 見ろ、なかなか壮観だぞ! 脱出のための道具が、生き延びるための希望が、細かいゴミに成り果ててしまったさまというのは!

 もちろん、この服はズタズタになってはいるが、お前たちのものだ。あえて奪おうとは言うまい……やりたければ、この布を拾い集めて、またロープのようにつなぎ合わせても構わん。だが、そこの窓の下には、これから二十四時間、ずっと見張りを置くことにしよう。

 何をしようと、お前たちの死の運命は変わらないのだ。余が変えさせぬ。心の底を絶望の色で染めながら、最期の瞬間を迎えるがいいわ! はは、ははは、はーっはははははははは――ッ!」

 仁王立ちで哄笑するジョゼフは、まさに悪竜に相応しかった。邪悪であり、強大であり、立ち向かう者が尻込みするような威厳をそなえていた。

 彼の存在は、囚人たちに絶望を与えた――もともとちょろいメンタルしか持ち合わせていないヴァイオラはもちろんだが、一度折れかけて立ち直った、以前よりもさらに「生きたい」という気持ちを強めているシャルロットですらも、この怪物を乗り越えられるのか、と、戦慄したほどだ。

 ――その時だった。

 怯える少女ふたりの、目の前で。

 右側の壁をドカーンとぶち抜いてきた桜色の光線が、左側の壁に突き刺さりながら、その中間にいたジョゼフの全身を飲み込んでいった。

 

 

「頭をぶつけないように気をつけな。ここからさらに天井が低くなるから。

 でも、もう少し進めば、アーハンブラ城の中の隠し扉に出られるはずだよ……あんたたち、覚悟はできてるだろうね?」

 あたしは――イザベラは、狭く暗い石造りの地下通路を慎重に進みながら、後ろの連中に声をかけた。

「大丈夫ですよ、姫殿下。ボクらは一度請け負った仕事はちゃんと、最後まで責任を持ってやるんです。今までずっとそうだったし、もちろん今回だってそうします。雇い主として、そこは信じてくれないと」

 おどけた調子で返事をしたのは、目がくりくりのガキにしか見えない、ちびっこい男――ダミアン。

 その後ろからついてくる、むすっとした坊主頭の大男――ジャックも、無言のまま頷いている。さらにその後ろ、チャラい羽根飾りのついた帽子をかぶった優男のドゥードゥーは、その容姿に相応しく、キザったらしいウインクとともに、ダミアンの言葉を補足した。

「ダミアン兄さんの言う通りですよ。俺たちは裏家業の人間だが、だからこそ契約ってのは蔑ろにできません。

 それに、今回は報酬がデカいときてる……途中でビビって降りたんじゃ、一生後悔するでしょうね。なぁジャネット」

「そうね、兄さん。たぶん一生に一度の大仕事だわ。

 成功したら私、ニースに別荘でも買おうかしら。デ・ロアズで、ダイヤモンドたっぷりのネックレスをオーダーするのもいいかも。

 どちらにせよ、モチベーションは最高ですわ、イザベラ様。お金のこともそうですけど、もともと私たちは、ジョゼフ陛下よりも、あなた様に仕えているという気持ちで、北花壇騎士団に籍を置いていたのです。そのあなたがことを起こそうというのなら、どこまでもついていきますわ」

 ドゥードゥーと並んで歩いている、フリルだらけのお人形さんみたいな服を着た少女――ジャネットもそう言う。

 あたしは彼ら四人のまっすぐな眼差しを受け止めて、「バカな質問をしちまったみたいだね」とだけ呟くと、再び進行方向に視線を戻した。

 ――ガリア北花壇騎士団の誇る、最強クラスのエージェント、『元素の兄弟』。

 あたしが彼らを呼び出し、今回の仕事を依頼したのは、もう四、五時間は前のことになるだろうか。

『いいかい、よく聞きな。今回の仕事は、カテゴリーセブン(緊急最優先・最高難度・最高機密)に属するものだ。あんたたちの実力をもってしても、命の危険は今までの任務より遥かに高いと心得てもらおう。

 トップ・シークレットだから、命令の内容を聞いたあとでは引き返せない。その条件では受けられない、という奴は、今すぐ退室してくれて結構だ。五秒以内にどうするか決めな』

 集まった四人に対して、あたしはいきなりそんなことを言ったのだ。まったく、今思うと、あたしの焦りっぷりは滑稽そのものだった。それだけ急いでたのも確かだけど、あんな言い方をされたのに、こいつらもよく引き受けてくれたものだと思う。

 やはり、もともと肝の据わってる奴らだったってことだろう。それから、アーハンブラ城に潜入してシャルロットを救い出し、父王ジョゼフを暗殺するという作戦内容を伝えても、誰ひとり驚いた顔をしなかった。ただ淡々と、作戦内容を確認して、報酬の交渉をした。事務的なことを全部まとめ終えて、いざ向かわんアーハンブラ城と立ち上がったのは、奴らを集合させてからわずか二十分後のことだった。

 あまり巨大な戦力を揃えて、派手に動くことはできない――少数精鋭で、素早く、目的だけを達成することができるエージェント。その条件において、元素の兄弟を凌ぐ者をあたしは知らない。

 ただ、能力があっても、従ってくれないのでは話にならない。命令をしたあとで、いくらなんでも王には逆らえないと言われてしまっては、その時点であたしは破滅だ。あの命令の瞬間は、人生最大の賭けだったと言ってもいい――そのベッティングにおいて、あたしは最高の選択をした。

 こいつらなら、たとえ自分が死の淵に立とうとも、あたしを裏切りはしないだろう。誇り高き暗殺者、完全無欠の裏世界の存在。その決断に迷いはなく、引き返すという無様も見せない。それがプロフェッショナルというものだ。

 ――だから。あとは、あたしが覚悟を決めるだけだ。

 シャルロットは必ず救い出す。それは絶対。その上で、のちの憂いを絶つために、父ジョゼフを始末する。

 この、父を殺すというのが、最大のヤマだ。父親を、血のつながった家族を殺す。決断するには、あまりにも重い行為。

 ビダーシャルは言っていた。あたしは、父を殺せる人間ではないと。激情に任せてそれをしても、必ず後悔することになると。

 何となくだが、あいつの言ったことは、間違っていない気がする。

 あたしは殺しのプロフェッショナルじゃない。どちらかというと小心者だ。弱いものいじめはできても、強い者に立ち向かう勇気はない。血を見るのは気持ち悪いし、誰かの死の責任を、心の重石にするのもまっぴらだ。

 あのバカ親父のことは大嫌いだが――それでも、血のつながりは、自分と近しいものであるという感覚は、常に覚えている。

 父を目の前にした時、「あれを殺せ」と、部下たちに命じられるか。

 何度自問しても、はっきりした答えは出せない。

 やがて道は、水平から徐々に上っていく階段になり始める。この地下通路は、何代か前の城主がこしらえた緊急用の脱出口だ。アーハンブラ城の中心から、数リーグ離れた場所にある城外の枯れ井戸までをつないでいる。戦争が起きて、落城が避けられない場合には、ここを通れば安全な場所まで落ち延びることができるわけだ。

 あたしは以前、北花壇騎士団長としての仕事の中で、国中の城の構造や弱点を調べなければならなかったことがあるのだが、その時にこの通路の存在を知った。城の中から外まで直通ということは、逆に進むなら、外から城内の重要なポイントまで一気に攻め込める、理想的な進軍ルートだ。今回の作戦では、なるべく城の警備兵と派手な争いをしたくなかったので、地上からのアタックは避け、ここを使うことにした。

 暗く静かな地下という世界は、五感を研ぎ澄ませる。それは即ち、精神の活発化にもつながる――あたしは歩きながら、常に悩み続けていた。本当にあたしのしようとしていることは正しいのか。シャルロットを取り返すだけで済ませるわけにはいかないのか。他に選択肢はないのか。どうしてもこの道を進まねばならないのなら、どうすれば覚悟を決められるのか――。

 しかし結局、その自問に答えは出ず、ついにあたしたちは地下通路の終点、場内に通じる扉にまで到達してしまった。

 こうなりゃもう、ぶっつけ本番でことにあたるしかない。あたしはため息をついて、吐いた息を大きく吸い込み、元素の兄弟たちに呼び掛ける。

「……よし。この扉を開けたら、全速力でいくよ。救出対象のいる牢獄までは、走れば一分もかからないはずだ。

 いつ敵と遭遇してもいいように、魔法の詠唱は済ませておきな。……もういいかい? じゃあ……ゴー、だッ!」

 扉を体当たりするように激しく開け放ち、あたしたち五人は砂臭い城内に突撃する。

 運のいいことに、巡回中の警備兵には出くわさなかった。疾風のように廊下を駆け抜け、牢獄へとたどり着く。ここも、見張りの兵はたったのひとりしかいなかった。その見張りも、接近するあたしたちに気付いて、杖を構えようとした瞬間に、素早いドゥードゥーによって首筋に手刀を叩き込まれ、あっけなく崩れ落ちた。

「オーケイ! これでもう邪魔は入らないね!

 ジャック、扉を開けて! ジャネットは、シャルロットが怪我している場合に備えて、回復魔法の準備を!

 ダミアンとドゥードゥーは周囲を警戒! あと少しだ、油断しちゃいけないよ!」

 あたしの命令を受けて、ジャックが重い扉を開け放つ。彼は鍵ごと破壊するつもりだったようだが、もともと施錠されていなかったようで、少し拍子抜けしたような表情を浮かべていた。

 まあそれはいい、シャルロットとの再会だ。あの子の無事な姿を、早く確かめなくては。

 扉を潜り、牢の中に入る。そこであたしは――。

 悪夢に、遭遇した。

 

 

「ぬ、ぬうううううううううっ!?」

 桜色のまばゆい光と、全身を打ち据えるような激しい衝撃を浴びながら、しかしジョゼフは耐えきった。

 彼の強靭な精神と肉体は、気絶することも、片膝をつくことも拒否し、ただただ全身の筋肉を固くして、嵐の過ぎ去るのを待った。

 それは、グレイプ・ハイタウンの《快楽原則(ディバイン・バスター)》の流れ弾が、偶然にも彼のいる場所を通過したものであるが、数枚の壁を撃ち抜いて、ある程度パワーダウンしていたとはいえ、この凶悪な砲撃魔法の直撃を受けて、なお立ち続けているあたり、ジョゼフという男の強さを垣間見ることができる。

 もちろん、耐えたとはいえ、それによってもたらされた激痛は、彼を大いに消耗させた。はあはあと呼吸を荒くし、ヴァイオラたちを睨みつける。

「な、なんだ、今の光は? お前たちのしわざ、か?

 いや、その目は違うようだな……この城に忍び込んだ、賊のしたことか? どちらにせよ、一撃で俺を殺せなかったということは、大した使い手でもないようだが」

 ヴァイオラもシャルロットも、驚きに満ちた目で彼を見ていた。とても、予想していた展開に出会った人間の表情ではない。攻撃の方向も、彼女らとは無関係な真横からだった。

「あの叩きつけるような衝撃、エア・ハンマーか? ふっ、痛くはあったが、ちょっと強めの涼み風に過ぎんな。むしろ浴びて、爽やかな気持ちになれたくらいだ……これからの時期、冷房として使うなら、あれくらいでいいかも知れん、な、ふ、ふふふ」

 強がりを言うジョゼフ。しかし、実のところ半分は本気の感想だ。今の一撃は、痛くはあったが、確かにどこか爽やかなところがあった。風で全身を洗われたような――肉体にこびりついた邪魔なものを、ひとつ残らず取り除いてもらったような、そんな不思議な気持ちのよさが――。

 彼が、その謎のリフレッシュ感に首を傾げた時だった。背後で扉の開く音がして、誰かが騒々しく飛び込んできた。

「シャルロット! 無事かい!?」

 振り向くと、それはジョゼフの娘、イザベラだった。彼女は入ってくると同時に、救うべき者の名を大声で呼んだが、部屋の中にジョゼフもいることに気付くと、ギクッと表情を強張らせて立ち尽くした。

「ほほう? お前が一番最初に、ここにたどり着くとはな。少々意外だったぞ、イザベラ。

 後ろにいるのは――元素の兄弟か。なるほどなるほど、少数精鋭で、素早くカタをつけようというのだな。合理的で悪くない選択だ、我が娘よ」

 あごひげを撫でながら、余裕たっぷりにジョゼフは言い放つ。イザベラのあとから部屋に入ってきた元素の兄弟たちも、王の堂々たる立ち姿を見て、ある者は目を見開き、ある者は眉根にシワを寄せ、ある者は目をぱちくりさせた。全員、動揺していることは共通している。

「な、何を……何をやってるんだい、あんた」

 震える声で、イザベラが尋ねた。何をわかりきったことを、と思いながらも、ジョゼフは笑みを浮かべ、答えてやる。

「見ればわかるだろう。余の思いついた最高の遊戯を楽しもうとしているのだ。

 余はこれまで、どのようなことをしても、心からの満足を得ることができなかった。少々の刺激では、とても満足のできない体なのだ。そこで、今回は今までにない、非人道的で背徳的な遊びに手を伸ばしてみようと思ってな……」

 世界大戦。自分の国をも戦禍に巻き込む、恐ろしき企み。

 その展望を、イザベラのような矮小な人間は、愉快には思えないのだろう。信じられないような目で父親を見つめ、それから視線を、シャルロットとヴァイオラに移した。その視線に、言い知れぬ優越感を覚えながら、ジョゼフは続ける。

「シャルロットも、マザー・コンキリエも、その楽しみのためにこうして拘束しているのだ。

 お前は彼女らを助け出しに来たのだろう、イザベラ? 彼女らが悲惨な目に遭うのを見たくないのだろう? それでとうとう、部下たちをたきつけて、余に反旗を翻したというのだろう?

 お前ごときがそのような決断をしてみせたこと、大いに評価するが、だからといって、余を邪魔するというのなら容赦は……」

 さらに続けようとした、ジョゼフの言葉が突然止まる。驚愕に固まっているイザベラの様子が、少しおかしいことに気がついたのだ。

「ふ、ふふふ、ふぅーん……は、背徳的な遊び、ねぇ?

 そのためにシャルロットや、ちびっこのマザーを、ねぇ? ほ、本気で言ってんのかいクソ親父……し、シャルロットは、あんたの血のつながった姪なのに……それをわかってて? は、ははは、こりゃまたずいぶん、笑えないねぇ……えぇ?」

 口の端とまぶたが、ぴくぴくと痙攣している。目はすわり、広いひたいには青すじが浮いていた。熱を含んだ木炭のように――静かな怒りが、彼女の中で圧力を増しつつある。

「そ、それで、こんな辺境の城に来たんだ? 誰にも見られない場所で、ゆっくりお楽しみするために? ああ、そうだよねぇ……ヴェルサルテイル宮殿じゃ、いくら人目を憚っても、噂が立っちゃうかも知れないからねぇ……その点ここなら、見張り番にさえよく言い含めておけば、何やらかしても、そんないやらしい格好ではしゃぎまくっても、人に知られる心配はないってわけだ。は、はは、は、考えたね、ホンット見事な計画だよ、この人でなし」

「……? どうしたイザベラ、何を言っている? 確かにここはヴェルサルテイル宮殿よりは、秘密を守りやすいが……いやらしい格好とは何のことだ?」

 異様な娘の態度に、ジョゼフは少し不安になる。相手が何を言っているのか、いまいちぴんと来ない。歯車が噛み合っていない気がする。

 いやらしい格好――どうやら自分の外見に、何か問題があるらしいと、彼は思いついた。そういえばさっきから、何だか妙に全身がスースーしている。とても爽やかな乾いた風が、体中の皮膚を優しく撫でているような――。

 ふと自分の体を見下ろして、ジョゼフはその爽快感の正体を知った。

 服がない。

 上着もシャツもズボンも、マントも靴も靴下もない。もちろん一番最後の砦であるパンツもない。完全完璧なすっぽんぽんである。王様の王子様が、王女様の目の前で、ぶらんと重そうに垂れ下がっている。

 そりゃ涼しくて爽やかなわけである。数時間このままなら、風邪を引きかねない爽やかさではあるが。

 さて、見るべきものを見て、気付くべきことに気付いたジョゼフは、自分のありさまに驚く前に、その明晰な頭脳をフル回転させて、今の状況を客観的に分析し始めた。

 

 1、全裸のおっさんが、荒い息で仁王立ち。

 2、すぐそばには、怯える半裸の幼女がふたり。

 3、床には、彼女らの服だったものが、ビリビリに引き裂かれて散らばっている。

 

(あ、これはいかん)

 今の自分がイザベラたちにどう見えているか、ジョゼフは極めて正確に把握した。そのことが相手にどれほどの心理的影響を与えるかも理解した。彼はイザベラがどんな風に考え、自分にどんな言葉を投げつけてくるかも想像がついたし、実際、相手のアクションは、だいたいその予想と変わらなかった。

「あ、あんたがそこまで、道を踏み外してただなんて。昔から非常識な人だとは思ってたけど、それでも最低限の良識はきっとあるはず、って思ってたのに。

 ち、血のつながりとか、後悔とか関係あるもんか。こ、こ、これは見逃しておけないよ、この変態、変態、ド変態!」

 プッツン切れた怒声が、誤解された王様に容赦なく浴びせかけられる。

 王女様は激しい怒りに頭を熱せられて、怒鳴る以外に具体的に何かしてくるわけではなかったが、その後ろの元素の兄弟はもっと冷静で、遥かに過激だった。

 まず、紅一点のジャネットが、日傘のような杖を構えた。その先端から、細長い水の筋が噴き出し、蛇のように杖の周りに巻き付いて、ぎゅるぎゅると螺旋状に回転し始める。それはいわば、エア・ニードルの水魔法版であり、突き刺されれば肉がえぐれ、ぐちゃぐちゃに挽き潰されるという、残虐無比な性質を持っていた。

 もちろん、それを発動させたジャネット自身も、冷酷そのものだ。自分の国の王であるジョゼフに対し、薄汚いゴミを見るような目を向けている。

 続いてジャックが、ゴーレム錬成の魔法を唱える。拳の部分にトゲトゲのついた、凶悪なフォルムの鋼鉄ゴーレムが、ずもももももと床から現れる。ドゥードゥーも負けてはいない。室内でありながら、三メイル級のブレイドを発現させ、大上段に構えた。ダミアンも、「無理。これは無理。さすがに無理」と呟きながら、杖を一直線にジョゼフに向ける。

 数々の汚れ仕事をこなしてきた、彼らのような闇の人間にも、許しがたい邪悪というのはあるのだ。

 グツグツと煮えたぎるような殺意の矛先を向けられたジョゼフは、一歩後ずさる。本当にまずい。

 いや、誤解されたことはさほど重要な問題ではない。どうせ彼らとは敵対する運命だったのだ。攻撃の意思を示されることは、もともと覚悟の上だった。

 だが、素っ裸になって、なにも身に付けていないということが――即ち、杖もなくしてしまったということが、非常にまずい。

 伝説の虚無のメイジであっても、杖がなければ魔法を使えないという点は、普通のメイジと同じである。ジョゼフは無敵の虚無魔法、《加速(アクセル)》の使い手であるが、それも杖なしでは発動できない。

 今の彼は、徒手空拳しか頼るもののない、平民同然の存在だ。一応、格闘術も人並み以上には修めているが、それで百戦錬磨の元素の兄弟に太刀打ちできるか、というと、答えはノーだ。

(な、何かないか……この状況を打開できる「力」は!?)

 ジョゼフがそれを求める気持ちが、天に通じたのか、運命は彼のもとに、彼をけっして裏切らないもうひとつの力を導き、到着させた。

「ジョゼフ様ッ、ご無事ですか!? お助けに参りました!」

 またしても扉が開き、誰かが部屋に飛び込んできた。

 カーテンの布をマントのように羽織った、黒髪の美女。ジョゼフの使い魔でありパートナーでもある、ミス・シェフィールドである。

「おおっ! 我がミューズよ、よく来てくれた!」

 ジョゼフの心に希望がともる。ミス・シェフィールドは、神の頭脳ミョズニトニルン。ありとあらゆるマジックアイテムを使いこなす能力を持った、伝説の使い魔だ。

 彼女が手足のように扱うマジックアイテムの中には、もちろん絶大な戦闘能力を持つものもある。数千のガーゴイルを同時に操って、一軍隊を圧倒することもできる。また、『アンドバリの指輪』という、おぞましき水魔法兵器も彼女は所持していたはずだ――あれを使えば、元素の兄弟たちを一瞬で、ジョゼフの味方につけることも不可能ではない。

「ミューズよ、ここにいる者たちは皆、余の敵だ! お前の力を使って、速やかに殲滅を――」

 と、命じようとしたジョゼフの目の前で。

 シェフィールドもまた、目を見開いて、さあっと顔を青ざめさせた。全裸のジョゼフと、半裸のヴァイオラたちを交互に見比べ、酸欠の魚のように口をぱくぱくさせる。

 それは、部屋に入ってきた瞬間のイザベラたちと同じ反応で、しかもそれより劇的に、悲痛の色の濃い表情だった。

「じょ、ジョゼフ様……そ、そそそそのお姿、は……?

 ま、まさか、そういうご趣味、なのですか? ち、小さい子の方がお好みなのですか?

 だから、だから私が、何度も遠回しに夜のお誘いをしても、受け入れて下さらなかったのですか? あなた様のお気に召す私になりたかった、のに……よ、幼女は……はうっ」

 哀れな使い魔は、どしゃあとその場に崩れ落ちた。非情過ぎる現実に絶望し、意識を手放すことを選択したのだ。

 シェフィールドは十人中十人が魅力的だと言うであろう、色気に溢れた大人の女性である。だが、すでにしっかり成長してしまっている。なにものも彼女を、ひくい・かるい・ぺったんこ・ほそい・うすいの時代に逆戻りさせることはできないのだ。

「み、ミュウゥウウウゥゥ――――ズッ!?」

 そして、シェフィールドという最後の砦が崩壊した事実も、同じく覆しようがない。ジョゼフは叫んだが、夢の世界に旅立った使い魔は、ピクリとも反応しなかった。

 その代わりに、じりじりと迫ってくる、四人の北花壇騎士たち。彼らの目にちらりと、同情の色が浮かんだが、それは恋に破れたミス・シェフィールドに対してのものだった。むしろ今のやり取りを聞いたせいで、彼らのジョゼフへの殺意はさらに固められたと言えよう。

「えーと、ジョゼフ様。見苦しい態度はもうよしましょう、ね? 大人なんだからけじめはつけないと。大丈夫、かなり痛くしますけど、そこの女の子たちが感じた恐怖よりは、全然ましだと思いますから」

 苦笑いで、しかし顔に暗い影を落として近付いてくるダミアン。

「……………………」

 無言で、岩のような肩をいからせて、威圧感満載で近付いてくるジャック。

「女の子を悲しませんのは感心しねえ……ああ、全然感心しねえなぁ。しかもその理由が遊びってことになると……余計に、なあ?」

 普段のおちゃらけた表情を引き締め、どすのきいた声で呟きながら近付いてくるドゥードゥー。

「潰して、ちぎる。潰して、ちぎる。潰して、ちぎる。潰して、ちぎる。潰して、ちぎる。潰して、ちぎる。潰して、ちぎる。潰して、ちぎる」

 瞳の中に、地獄のような深い闇を渦巻かせて、ゆらりゆらりと近付いてくるジャネット。

 ジョゼフは息を飲み、さらに一歩、二歩と後ずさる。肌をぴりびりと刺すような殺意のまなざしを浴び、これから行われる残酷な仕打ちを予感し、ごくりと喉を鳴らす――恥も体裁も捨てて泣き叫びたくなるような、そんな心の圧迫感、恐怖に打ち震える。

(震え……? 震えているのか。この俺が?

 力を失い、味方もなくし、敗北を避けられない状況に追い込まれて、とうとう俺は、心の震えを取り戻したのか?

 そうだ、この感覚だ。シャルルよ、あの懐かしい絶望が、今、俺の頭の中に戻ってきた! いくら頑張ってもお前に勝てなかった、あの頃の絶望感が! ゲームではけっして得られなかった、生きているという実感が! 本物の命の危険を前にして、ついに!

 俺は、俺は今――この世に生きている自分を、鮮明に感じている!)

 この最悪の状況において、ついに長年の悲願であった、人間らしい感動を取り戻したジョゼフ。胸の空虚さが満たされ、見えている世界に彩りが戻ってくる。たとえ恐怖であったとしても、彼にとってそれを得られたことは、この上ない幸せだった。

 そして、かつての感動を回復した今――生きている実感を取り戻した今――彼は、初めて人生に、生きがいを見い出していた。まだ生きていたい、この世にある感動を、もっともっと味わいたい。そう思えるようになっていた。

 ならば当然、こんなところで終わるわけにはいかない。いくら不利な状況といえど、諦めるわけにはいかない。

 心の震えは、困難に立ち向かう気力を、ガッツを生む。ジョゼフは己を叱咤激励した。これは試練だ。乗り越え、成長につなげるべき試練だ。武器がこの体ひとつしかなくても、周りに敵しかいなくても、知恵と工夫で切り抜けるのだ。それでこそ、人間には未来が開ける!

「控えい!」

 ジョゼフは胸を張ると、自分に迫る敵たちを真正面から睨み据え、城中を揺るがさんばかりの大声で大喝した。

 その威厳ある様子に、元素の兄弟たちはぴた、と動きを止める。彼らには、卑劣な悪漢だったはずの男が、急に高貴なオーラを放ち始めたという、なんとも不思議な風景が見えていた。一瞬前とはあまりにも違い過ぎる、その印象。何が起きたのかわからないが、そのギャップが、彼らの足を止めさせた。

「北花壇騎士も落ちたものよ! 目の前の光景を、正しく判断することもできないとは!

 誤解を招くような有り様であることは、余も認めないではない。だが! 始祖に連なる血筋を誇る余が! 神聖なるガリアの国王である余が! 婦女子を弄んで己を慰めるような、卑小な男だと思うのか!? 貴様ら、その杖を自らの胸に向け、不明を恥じるがいい!」

「い、言いわけは見苦しいぜ、王様よぉ! この状況! 他にどんな解釈ができるっていうんだ!?」

 威厳を叩きつけてくるようなジョゼフの叱責に、かろうじて反論を返したのはドゥードゥーだ。

 若きこの暗殺者の言葉を、ジョゼフは理解できる、とばかりに頷いて受け止め、今度は逆に包み込むような優しい声色で、敵意をなだめにかかる。

「ちゃんとした理由、お前たちの考えとはまったく違う解釈があるのだ。お前たちが杖を下ろすなら、それを説明して聞かせよう。

 余の声が聞こえる耳がついてさえいれば、余に杖を向けたことが間違いだったとわかるだろう。余は、お前たちの過ちを責めるつもりはない。ただ単に、同じガリア人同士で争いたくないという気持ちで、言葉での解決をはかっているというだけのことだ。

 どうする? このまま余の言葉を無視して、愚かな逆賊となるか? それとも、余の話を聞いてから、何が正しいかをあらためて判断するか?」

 しん、と、部屋の中が静まり返る。ジョゼフはもはや、この場の空気の流れを完全に掴んでいた。彼の生まれ持ったカリスマ性と、明敏な頭脳の働きがうまく組み合わさって、素晴らしい説得力が生まれていたのだ。

「……いいだろ。聞いてやるよ、親父。説明ってのをしてみな」

 やがてジョゼフの提案を受け入れたのは、彼の娘であるイザベラだった。

「イザベラ様、よろしいのですか? もしも時間稼ぎだったなら……」

「だとしても、この人には何もできないさ。見ての通り武器も何も持ってないんだからね。

 それに、あたしはこの状況の、他の解釈ってのを聞きたい。どうせ倒す相手だとしても……見栄を張る機会ぐらいは、設けてやんないとね」

 慎重なジャネットの忠告に、イザベラはそう言葉を返した。

 イザベラとしては、これはすがりつける最後の蜘蛛の糸だった。さっきは頭に血が上って、見たままの状況をそのまま受け止めてしまったが、ジョゼフの言う通り、他の解釈があるのなら?

 ここに来ても彼女は、ジョゼフのことを信じたかったのだ。当たり前のことだが、自分の父親を情けない鬼畜だと思いたい娘など、いるわけがない。偏屈で残酷ではあっても、威厳ある王であって欲しかった。

 そしてできれば、敵対せずに済ませたかった――父を倒す、という選択肢を選びたくなかった。

 こうして父親と、正面から向かい合えるなら、腹を割って話し合えるなら、シャルロットのことでも、お互いに歩み寄ることができるのではないか? 父を傷つけず、シャルロットも害させず、ぬるま湯のように安定した平穏な関係を、あらためて築いていけるのではないか?

 最大の決断を下しかねていたイザベラは、父の言葉と態度に、最後の望みを賭けたのだ。

「ふっ……感謝するぞ、イザベラよ」

 不敵に笑い、一歩前に出るジョゼフ。彼にとっても、この機会は最後の希望だった。娘と元素の兄弟を説得できるか否かで、これからの人生が決まる。生き延びたいと心から望む以上、絶対に失敗できない仕事だ。

(ふふふ、かつて、ここまで真剣にスピーチにのぞんだことなど、あっただろうかな? 体の芯が、じわりと熱くなってくるようだ……これが、やる気というものか。

 この気持ちを生涯忘れまい。この気持ちの高ぶりがあれば、心の震えがあれば、俺はなんでもできるし、いつだって満たされた気分でいられるのだ)

「さて……」

 オホン、と咳払いをして、ジョゼフはその場に居並ぶ全員の顔を見渡す。そしてついに、運命を左右する言葉を口にした――。

「まず、弁明を始める前に、ここまでたどり着いたお前たちに敬意を評して、これだけは言っておこう。

 余は今、お前たちの無遠慮な視線に晒されて、これまでにない興奮を覚えている――」

「ぶち殺せ(´・ω・`)」

 イザベラは何のためらいもなく、最終的な命令を下した。

 命じられた部下たちも、それに従うことに、少しのためらいも覚えることはなかった。

 

 

 かくしてひとつの悪が滅び、アーハンブラ城に夜明けが近付く。

 この騒がしい夜の中で繰り広げられているふたつの死闘も、そろそろ決着に向かおうとしていた――両者はお互いのことを知らないうちに連動しながら、お互いの戦いの幕を引く紐を手に握っていた。

 まず、城門に近い場所で繰り広げられていた、勇敢な少年少女たちと、エルフとの戦い――。

「わ、わわわ、やっぱり全然通用しないよ! ぼ、僕のワルキューレが、あいつに近付こうとするだけで回れ右してしまう! 攻めようがないっ!」

「私の炎も通らないわ! くっ、あのエルフの防御、本当に無敵だっていうの!?」

 ギーシュとキュルケが、少なからぬ焦りを含んだ言葉を吐き捨てる。

 彼らの目の前に立ちふさがるエルフ、ビダーシャルの表情は涼しい。むしろ、退屈しているように見えるほどだ。

 実際、彼は何もしておらず、する必要がなかったのだから、その様子も仕方がない。彼の操る精霊魔法《反射(カウンター)》は、ありとあらゆる攻撃を逆進させ、跳ね返す性質を持っている。ドットレベルの青銅ゴーレムの攻撃程度はもちろんのこと、トライアングルのファイヤー・ボールも楽にさばくことができたし、剣士による物理的な攻撃も、当たり前にはじき続けていた。

「無駄だ、蛮人の子供たちよ。諦めて引き返せ。

 我も、だらだらとお前たちの相手ばかりをしているわけにはいかないのだ。今ならば、黙って見送ってやってもいい。だが、これ以上続けるというのなら、多少の怪我は覚悟してもらうぞ」

 忠告しながら、ビダーシャルはちらりと背後に視線を走らせる。

 遠くから聞こえてくる、複数の爆発音。その方向に、彼が今相手をしている子供たちより、ずっと過激な侵入者がいることは間違いなかった。仕事の優先順位的には、そちらにまず急行すべきなのだが、こちらの子供たちも、強くないわりには諦めが悪い。まるでイーヴァルディの勇者のように。

 大抵の敵は、《反射(カウンター)》を常時発動しているだけで、あまり時間もかからずに撃退することができていた。エルフと見れば、メイジはとにかく全力全開の魔法で勝負に出てくるので、跳ね返った自分の攻撃を受けて一発で撃沈してしまうからだ。

 サイトたちの場合は、一発一発の攻撃があまり強力でない。また、跳ね返しても直接的に害を及ぼす攻撃が少なかった(剣による斬りかかりとか、ゴーレムの突撃とかが多い)こともあり、早々に《反射(カウンター)》の性質を見抜かれてしまい、警戒されてしまったことも、長期戦化を助けていた。

 もちろん、攻めあぐねているのはサイトたちとて同じである。どんな攻撃も通じないのだから。

「くそっ、こうしてる間にも、タバサがどんな目に遭わされてるか……デルフ、何かないか? こういう状況をぶち破れる、すごい作戦とか!?」

『おう、あるぜ相棒!』

 サイトの構える剣のつばがカチカチと鳴り、男の声を吐き出す。伝説の使い魔ガンダールヴの相棒、意思を持つ魔剣、インテリジェンス・ソードのデルフリンガーがしゃべったのだ。

『エルフの《反射(カウンター)》には、虚無魔法の《ディスペル・マジック》が有効なはずだ! あれなら精霊の影響を打ち消せる!

 娘っ子、俺っちにディスペルをかけるんだ! 魔法をまとった俺っちで相棒が斬りかかれば、あの防御も貫けるに違いねえ!』

「わかったわ、デルフ!」

 虚無のメイジ、ルイズ・フランソワーズが、すぐさま詠唱を始める。エルフという種族として、聞き逃せない言葉を聞いたビダーシャルは、表情を変えて、そのストロベリーブロンドの少女を睨みつけた。

「虚無……まさか、ジョゼフ以外の悪魔(シャイターン)……!? くっ、やらせぬぞ!」

 精霊に命じて、床や壁から石の手を出現させ、ルイズを襲わせるビダーシャル。しかし、魔法詠唱中の無防備な虚無を守るために存在しているガンダールヴが、そんな攻撃を許すはずがない。華麗な剣さばきで、石の手を打ち砕き、主人にけっして寄せつけない。

「ちょっと! 私たちのことも忘れてもらっちゃ困るわね!」

「ぼ、僕だって、やられっぱなしじゃないぞ!」

 キュルケの火球や、ギーシュのゴーレムも、ビダーシャルの攻勢を阻む。美しい声で呪文を読み上げるルイズを中心に、停滞していた状況は目まぐるしく動き始めた。

 やがて、ルイズの魔法が完成した。あとは始動キーを口にして、デルフリンガーにディスペルを付与すれば、この強大な壁であるエルフを打ち払うことができる。

 彼女はサイトの手に握られた魔剣に杖を向け、最後の呪文を唱えようとした。その時――。

 ずがーん、と、ビダーシャルの背後の壁が吹き飛び、桜色の光が――ハイタウンの放った《快楽原則(ディバイン・バスター)》の流れ弾が――入り乱れて戦う少年少女たちの間を縫って、キュルケに直撃した。

「きゃあああぁぁぁっ!?」

「きゅ、キュルケ!?」

 服を分解、消失させながら吹っ飛ぶキュルケ。チョコレート色のなめらかな肌があらわになり、豊かなふたつの乳房が、立体的にたゆゆんと揺れた。

「おおっ! こ、これは! シースルー・ナイス!」

 好奇心旺盛な年頃の青少年、ギーシュは、戦いの場であるということも忘れ、両の目をこれでもかと見開き、女性の裸体という芸術を脳裏に焼きつけていく。

「なんというボリューム! これが情熱の国ゲルマニアの、パワーの源かッ!? モンモランシーや、ミス・ヴァリエールの平坦な胸にはない、生命力の輝きを感じるッ!」

「お、おいギーシュ! 何言ってるんだよお前!」

 ギーシュの盛り上がりっぷりを見たサイトは、友人の無遠慮な発言を鋭く戒める。

「ルイズをさりげなくバカにするんじゃねぇ! そりゃ確かにあいつの胸は平坦だ! まな板だよ! でもなぁ、形はものすごく綺麗なんだぜ!? 毎日着替えの手伝いをしてたから、俺は知ってる!」

「何だってサイト!? 君って奴はッ……そこんとこ詳しく!」

 言い争いなのか仲良しの情報交換なのか、よくわからない言葉の浴びせ合いを始める少年ふたり。

 戦士たちの注意が変な方向にいったことを、ビダーシャルは呆れた目で見ていたが、その話し合いがなかなか終わらないらしいと悟ると、ゴホンと大きめの咳払いをして、彼らの興味を自分に引き寄せた。

「仲のよろしいのは結構だが、少し落ち着きたまえ。そんな言い争いをしている場合か?

 何が起きたのかはよくわからないが、我々の戦いはまだ終わっていないのだぞ」

「何を言っているんだね、君は! おっぱいの大きさは蔑ろにできない問題だろう!?」

 ギーシュは、ビダーシャルの注意をひと言で切って捨てた。先程までエルフをさんざん怖がっていたのに、この態度。おっぱいは男を強くするらしい。

「そうだそうだ! エルフのおっさん、あんただって、人と大して変わらない見た目なんだからわかるはずだろ!?

 女の子の胸について、何の意見もないとは言わせねえ! あんたは形を重視するタイプか? それとも大きさにこだわりがあるタイプか? 聞かせてもらおうじゃないか!」

 サイトもギーシュに同調して、ビダーシャルに詰め寄る。その目はイーヴァルディの勇者そのものだ。誰になんと言われようと、どんな危険が目の前に迫ろうと、己を貫き通す、誇り高き男の目をしている。

 こんな奴らにすごまれて――ビダーシャルは、どうすればいいのか本気でわからなくなった。

「お前たちが何を言っているのか、我には理解できぬ。女性の胸がどうだというのだ。

 そこの赤毛の女のように、発育のいい大きな乳房だろうと……そっちのピンク色の髪の少女のように、発育不良で、子供以下の哀れな胸であろうと……己の好いた女のものこそ、自分の好みだと言うべきではないか? 大きい胸だから、形のよい胸だから好きという論法は、順序を誤っている」

「お、おお……」

「な、なるほど……」

 理路整然としたビダーシャルの言葉に、サイトとギーシュは強い感銘を受けていた。

「さすがは長い年月を生きるエルフだ、言うことが深い。僕は目から鱗が落ちた思いだよ」

「ああ、俺たちの完敗だぜ。エルフのおっさん、ビダーシャルっていったか? 見事な主張だったよ。敵として出会ったのでなければ、俺たち友達になれていたかも知れない」

「……お前たちの言うことは本当にわからぬ。今ので納得してくれたのか?

 ならばさっそくだが、攻撃を再開してもいいだろうか。さっきも言ったが、我はあまりのんびりしていられないのだ」

「あ、わりぃ。じゃあさっさと続きやろうぜ!

 もうそろそろルイズが呪文唱え終わってると思うし……ルイズー?」

 のんきにサイトが呼びかけた先で――ルイズ・フランソワーズは、うつむいて立ち尽くしていた。

「……平坦……まな板……子供以下の哀れな胸、ね……? へえ……そう……」

 低い呟きとともに、顔を上げる。死仮面のように表情のない、ゾッとするような無表情が、男三人に向けられた。

「ねえ、そこの犬」

 ルイズは杖の先で、ぴっ、とサイトを指し示す。

「そこの派手シャツ」

 フリル付きのおしゃれなシャツを着たギーシュにも、同じく杖を向ける。

「あと、そこの長耳」

 最後に、ビダーシャルにも杖を向けて。

 何かを暗示するように、にっこり、と――花の咲くような、愛らしい笑みを浮かべた。

「る、ルイズ?」

「ど、どうしたのかねミス・ヴァリエール?」

 サイトとギーシュは、本能的に危険を感じて後ずさる。そして、虚無のメイジの魔法の力を感じ取ったデルフリンガーは、慌ててルイズに声をかけた。

『お、おい嬢ちゃん! その心の震えはなんだ!? お、落ち着け! 精神力を注ぎ込み過ぎ――』

 彼の忠告は間に合わなかった。ルイズは杖を持っていない左手を握り込んで、その親指だけをグッと立て――。

 最後にそれを、ぐりんと下に向けた。

「まとめて、くたばれ」

 ――ディスペル――。

 真昼の太陽もかくやと思われるほどの閃光が、アーハンブラ城全体を一瞬で包み込んだ。

 

 

 こちらは、アーハンブラ城の中心付近。グレイプ・ハイタウン対シザーリア・パッケリの戦場だ。

 ハイタウンの攻撃が、徐々にシザーリアを追い詰めていく。しかし、相変わらず決定的な一撃だけはもらわないよう、うまくシザーリアが逃げるため、ハイタウンの方も苛立ちが積もっていた。

「もう、こんなに当たらないなんて! お空の軍艦とかなら、いつも一発で勝負がつくのに!」

〈あの子は頭がいいよ、グレイプ。君の攻撃のクセを、二、三発撃たせて見抜いてしまったようだ。ギリギリまで引きつけて、そこからかわしている。軍艦や軍勢にはできない動きだ〉

「そんなことわかってるよ、ユーノ君。ああもう、私ってつくづく一対多向けなんだなぁ……それとも彼女の才能がすごいのか……」

〈どちらにせよ、時間は押してるよ。見て、彼女、後ろをチラチラと気にし始めた。逃げるつもりでいるんだと思うよ。

 こちらの視界から姿を消しておいて、油断した頃に暗殺を仕掛けてくるつもりだ。もともと彼女は、そういう戦い方に向いた能力と精神性の持ち主だ。

 僕らとて、二十四時間気を張っているというわけにはいかないし、逃がしたら厄介なことになるよ〉

「わかってる、わかってるよ。となると……」

 ハイタウンは、すぐさま決断する。消耗は大きいが、ここは必殺技を使ってでも、シザーリアを潰してしまわなければ。

 レイジングハートのフライで、高い位置に陣取り、スペルを唱え始める。《快楽原則(ディバイン・バスター)》より複雑で、長い詠唱。

 それは、《快楽原則(ディバイン・バスター)》の非殺傷設定を解除した、一撃必殺の魔法。無生物だけでなく、人体すら錬金してしまえるように調整した、まさに究極の殺戮消失魔法。

 名付けて《光の帝国(スターライト・ブレイカー)》。

 放たれる光線束の直径は、約二十五メイル。有効射程は千五百メイル強。放たれれば、おそらくアーハンブラ城の全体積の、十分の一ほどは消し飛ぶことになる。

 周りへの被害も大きいが、だからこそ、シザーリアにもけっして避けきることはできない。

 連続的な砲撃を止め、ハイタウンが何か非常に長いスペルを唱え始めたことに気付いたシザーリアは、牽制のために連続して火炎弾を撃ち出した。しかしそれはやはり、ユーノの《プロテクション》に阻まれ、ハイタウンの詠唱を邪魔することにもならない。

 全力で逃げようか、ともシザーリアは考えたが、それは難しい。じわじわとそちらに向かってはいたが、まだ出口までは多少の距離がある。走り始めた瞬間に、背中を撃たれる危険が大き過ぎる。

 だが今さら、相手の魔法を止める方法もない。

「――できた」

 長い詠唱が終わる。ハイタウンが振り上げた杖、レイジングハートの宝石部分に、桜色の光が集まり始め、それが凝縮して刺すようなショッキング・ピンクに変わっていく。

 あとは始動キーを口にして、発射するだけ。長い戦いも、これで終わる。

「いくよ、シザーリアちゃん! これが私の全力全開!

 スターライト・ブレイ――……」

 ハイタウンが、一撃を撃ち放とうとした、その瞬間だった。

 目も眩むような真っ白い光が、ハイタウンもシザーリアも飲み込み、その目を眩ませた。

 ――同時刻。少し離れた場所で、ルイズ・フランソワーズが虚無魔法《ディスペル・マジック》を放っていた。

 これは、系統魔法、精霊魔法の区別なく、あらゆる魔法の効果をかき消すという性質を持つスペルであるが、その射程は術者の周囲だけでしかなく、普通ならばある程度距離の離れた、ハイタウンたちのところまで届いたりはしない。

 だが、魔法を放った時、ルイズの心は震えていた。

 魔法というものは、たとえ同じスペルでも、術者のメンタリティによって、大きく威力が変わってくる。

 コンプレックスに思っている胸のことをさんざんに言われ、ルイズの心は、かつてのタルブ上空戦の時に匹敵するほど(怒りと殺意と羞恥心で)高ぶっていた。

 その結果、放たれたディスペルは、アーハンブラ城全体を覆うほど巨大で、強力なものとなったのだ。

 ディスペルの光は、ハイタウンが撃ちまくった《快楽原則(ディバイン・バスター)》によって破壊され、穴だらけになったアーハンブラ城の内部に、まるでスポンジに染み込む水のように、あっという間に行き渡った。

 その一部が、ハイタウンたちのところにも届いた――あらゆる魔法を打ち消す光が――。

 白い一瞬の輝きに飲まれて、発射直前だった《光の帝国(スターライト・ブレイカー)》のショッキング・ピンクが、水をかけられた火種のように、じゅっと消え去る。

「えっ? あ、あれ? ええっ!?」

 自分の組み上げた魔法の構造が、一瞬で失われたことに、ハイタウンは驚き、声を上げる。

 しかし、彼女を襲った不調は、それだけではない。

[Error! error!]

 手の中のレイジングハートが、けたたましい警告音を鳴らして、宝石を点滅させた。

 その直後、がくっと体勢を崩し、落下するハイタウンの体。レイジングハートが制御する、フライの魔法が打ち消され、飛行していられなくなったのだ。

 さらに、肩にしがみついたユーノも、珍しく動揺した様子で、ハイタウンの耳元に囁いてくる。

〈あれ、お、おかしいぞ。グレイプ、大変だ。この辺り一帯の精霊が、全部まるごとどこかに吹っ飛んでいっちゃった。これじゃ精霊魔法が……《プロテクション》が維持できない〉

「え、ちょ、ええええっ!? な、何それー!?」

 白い影が、『悪魔』が、『エース・オブ・エース』が、ゆっくりと落ちていく。

 対して、最初から地を這っていたシザーリアにとっては、謎の光――ディスペル・マジックは、天からの素晴らしき追い風となった。

《螺旋(ストックレーフリーズ)》の火炎弾も、虚無の光に飲まれて消え去ったが、彼女の受けた被害は、それだけだった。体勢を崩すことがなかったので、すぐさま新しく魔法を唱え直す余裕があった。

 早撃ちでは、シザーリアの射撃魔法の方が一歩上だ。ハイタウンが床に墜落するより早く、新たな《螺旋(ストックレーフリーズ)》を発動させ、弾丸を補充する――そして、そのありったけを、いまだに体勢を整えることができていないハイタウンめがけて、撃ち込んだ!

〈あっ、なんかヤバい……あばばばばばばっ〉

「ゆ、ユーノ君ッ! ……ぐっ!」

 数十発の弾丸が、韻獣のユーノにぶち当たり、その体を蜂の巣にする。

 ハイタウンも被弾は免れなかった。左腕と腹部、そして胸の真ん中を、鋭く撃ち抜かれる。

 白い装束を血で染めて、石の床へと叩きつけられる彼女。だが、死んではいない――しっかり受け身を取ったのを、シザーリアの目は確かめていた。

 口から血を吐きながらも立ち上がり、杖を構えるハイタウン。その目は怒りと苦痛にぎらついて、シザーリアを睨んでいる。まだ戦意を捨てていない――恐るべきプロの執念に、シザーリアは背すじが凍りつくような思いだった。

「し、シザー……リア……ッ!」

「……………………」

 シザーリアも、火炎弾の発射準備を整えて、ハイタウンと向かい合う。すでに勝負はついている。だが、ここで油断したら殺される。それがミス・ハイタウンという相手だ。

 両者ともに一歩も引かない。最後の一撃を交差させる、そのタイミングをはかっていた――と、その時。

『ストップだ、ハイタウン! 急いでその場を離脱したまえ!』

 ハイタウンの服の、胸ポケットの中で、勝手に通話状態になったクリスタル・タブレットが、早口でしゃべり始めた。

 ミス・リョウコの声だ――普段になく慌てているのが、朦朧としているハイタウンにもわかった。

『何が起きた!? キミ、死にかけているぞ!

 体内チップが、キミの健康状態についてのレポートを送ってきてくれている! 左腕の動脈が破れた上、小腸が穴だらけだ! 心臓も傷ついている!

 何よりまずいのは、心臓を傷つけた何かによって、体内チップの肉体修復機能が破壊されてしまったという点だ! それさえ無事なら、今すぐにでもその怪我を治してやれるんだが、不可能になってしまった!

 今、ルーデルをアーハンブラ城の上空に向かわせている! 彼と合流して、連れて帰ってもらうんだ。キミにそこで死んでもらいたくはない!』

「……ダメ、だよ、リョウコさん。私の任務は、まだ終わってないもの。邪魔、しないで」

 かすれた声で、かたくなな返事をするハイタウン。だが、リョウコも譲ろうとはしない。

『任務は取り消しだ。話してる時間も惜しいということがわからないのか!?

 体内チップの計算によると、キミはあと二分十五秒で意識不明になり、三分三十秒で絶命する! それで任務を達成できると思うのか!?』

「二分? にゃはは、それだけあれば、シザーリアちゃんぐらいは殺せるよ。どうせ死んでも、あとで生き返らせてもらえるんだから……せめて、道連れに、させてよ」

『違う、違う、そういう問題じゃない! キミに、そのアーハンブラ城で死なれるのが困るんだ!

 もしキミの死体が、ジョゼフ王の手に渡ったら! キミがシザーリオ君みたいに、ジョゼフの傀儡にされてしまったら! 私もセバスティアンも困るんだ! 敵対するには、キミは厄介過ぎるからね!

 いいか、これは命令で強制だ! 今すぐ、城を飛び出して、ルーデルと合流して、彼の見てる前で死になさい!』

「うー……で、でもぉ……」

 この期に及んでまだ決めかねているハイタウンに、とうとうリョウコはキレた。

『ああもう! あんまりダダこねてると、新しい男の子紹介しないよ!?』

「今すぐ帰りまぁす!」

 とってもいい返事をして、ハイタウンは踵を返した。何事にも優先順位というものがあり、ハイタウンにとってお見合いは任務より上だったのだ。

 幸い、レイジングハートはディスペルによる不調から、すでに立ち直っていた。インテリジェンス・スタッフのフライによって、彼女は再び浮き上がり、天井に空いた穴から外を目指す。

 もちろん、シザーリア・パッケリを警戒することも忘れない。ふたりは睨み合ったまま、ハイタウンがどんどん距離をあけていく。

「シザーリアちゃん。次は油断しないからね」

 最後にそう言い捨てて――ハイタウンは、さっと城の外に飛び出していった。

 それを、無言で見送るシザーリア。数分間は、ハイタウンの出ていった場所を見つめていた。しかし、どうやら戻ってくることはないらしいと納得すると、大きく息を吐いて、その場にへなへなと座り込んだ。

「……次は、ですって? もう二度とごめんですよ、ミス・ハイタウン」

 猛攻から逃げに逃げまくった彼女は、すっかり疲れきっていた。

 仏頂面を維持してはいるが、完全に限界、グロッキー寸前だったのだ。しかも、何かよくわからない偶然の作用がなくては、ハイタウンに勝てなかった、ということも理解している。

(まったく、恐ろしい相手でした。あれが『スイス・ガード』……。

 シザーリオやミス・ハイタウンの他にも、二、三人いるはず。そして――それを束ねているのが、ヴァイオラ様を殺そうとした、ミスタ・セバスティアン……)

 勝てるのだろうか、と、シザーリアは自問する。愛する主人、ヴァイオラを守りきれるのか、と。

 難しい、という、現実的な答えが、彼女の頭の中に浮かぶ。

 でも、やらなくてはならない。勝たなくてはならない。

 シザーリア・パッケリは、そのために存在しているのだから。

 数十秒ほど休んで、彼女は再び立ち上がり、アーハンブラ城の廊下をさらに奥へと進んでいく。

 主を助け出して、誉めてもらってから、またゆっくり休めばいい。

 戦いは――終わった。

 

 

 気がついたら、アーハンブラ城に朝が来とった。

 結局、ことは何がなんだかわからんうちに、それなりに悪くない感じで収束してくれた。いや、説明しようにも、我にはほんとーに何がなんだかわからんのじゃ。だから、ここから先は、我の見たまま、聞いたままだけしか言うことができぬ。知らんことは話しようがないので、仕方がない。

 まず、アホのジョゼフは、なぜかいきなり全裸になったあげく、なぜかいきなり突入してきたイザベラ姫とその部下に、フルボッコにされた。

 見てて可哀想になるくらいのタコ殴りじゃった。終わった頃には、それなりにダンディなイケメンじゃったあのツラが、パンのカンパーニュみたいにまんまるに腫れ上がっとったし。

 しまいには、恨み骨髄のはずのタバサが、「い、イザベラ、もうそれくらいで」と、不安げな表情で止めに入っとった。おそらく、復讐したい憎しみというのにも、限界というものがあるのじゃろう。ここまでやっつけたらスカッと気分が晴れて、それでもう許してやれる――というポイントを遥かに越えて、ジョゼフは痛めつけられた。そのせいで憎しみと真逆の、憐れみの気持ちがタバサの中に芽生え、かばうという行為をさせたわけじゃ。

 そのため、最終的にジョゼフは死なずに済んだ。ボコボコのまま厳重に縛り上げられ、あとの処分はイザベラに任されることになった。

 イザベラといえば、あんにゃろう、自分の親父を倒したら、一気に甘ったれになりおった。

 ジョゼフを蹴ったり殴ったり、フルボッコに積極的に参加しておったデコ姫じゃが、タバサが止めに入ると、これを思いっきり抱きしめて、「つらい思いさせてごめんな、これからはもうこんな目には絶対に遭わせない、あたしがずっと守ってやる」とかなんとか、泣きながらほざいておった。

 これには統一性のかけらもないイザベラの部下どもも苦笑い。でも止めない。空気の読める連中じゃ。ただ、フリフリの服を着た女が、「私もだっこー」とか言ってふたりの包容に混ざろうとしたので、坊主頭の大男に羽交い締めにされておった。あれはなんか怖い。

 んで、しばらくしたら、今度はまったく見たこともないガキどもが、タバサの名を呼びながら飛び込んできよった。

 すわジョゼフの部下か、と身構えたが、聞いてみるとこいつら、タバサのトリステインでの同級生たちらしく、友達の危機を知って助けに来たらしい。

 ヤバい、なんじゃその若さゆえの無鉄砲さ。そして実際、我らが閉じ込められてる牢屋までたどり着くってどうなん?

 しかもそいつらの言うには、途中でエルフのビダーシャルに会ったけど、撃退してきたらしい。――おい、おい、たった四人で? あの恐怖の象徴であるエルフを? トリステインってあれか? 死にかけのオンボロ国家の皮をかぶって、その実バケモノレベルのメイジどもを量産しておるのか? そういや、あの烈風カリンもトリステイン人じゃし――少し、かの国への認識を改めた方がいいのかも知れん。

 ピンク髪の、何か得体の知れん迫力のあるチビ娘と、胸のでっかい赤毛褐色肌の女(なぜかこいつはマントで体をすっぽり覆っておった)と、黒髪の地味なボウズと、金髪巻き毛のチャラボウズの四人じゃったが、このうちボウズふたりは、目が悪いのか、ずっと目をぱしぱししておった。「あのディスペルの閃光で、まだ頭が痛い」とか、「強い光で気絶するなんて初めてだ」とか、「起こさずに、あのままエルフと並べて置いてきてもよかったのよ」とか話しておったが、どういうことじゃろ?

 とにかく、連中もイザベラと一緒に、タバサを抱きしめて、無事を喜んでおった。

 まったく果報者じゃよな、タバサは。つらいこともいっぱいあったんじゃろうが、こうして気にかけてくれるバカどもが、周りにいっぱいおるんじゃから。

 やーれやれ、気恥ずかしくて見てられん、と思った我は、気をきかせて部屋の隅っこに行き、大絶賛失神中のミス・シェフィールドの横で、まったりと腰を下ろしておった。

 ジョゼフが倒れ、タバサの味方どもがこんなに集合したからには、もう我の命の危険も過ぎ去ったということじゃろう。我を殺す毒を作る、と言うておったエルフもやられたらしいし、めでたしめでたし、というわけじゃ。

 とりあえずひと安心したので、そのままボーッとしておった。じゃが、ちと肩が寒い。よう考えたら、服をズタズタに裂いたゆえ、我は今すっごい薄着なんじゃった――とりあえず、とっととイザベラたちを急かして、この辛気臭い牢からおさらばすべきじゃろうの。

 しかしあいつら、いつまでも楽しそうに大騒ぎじゃ。黒髪の坊主が、裸に近いタバサの胸をジーっと見たせいで、ピンク髪の娘に関節技をかけられておる。賑やか過ぎて話しかけにくい。寒いが、もうちっと気をきかせ続けてやるべきか?

 そう思っておると――突然、我の肩に、ふわりと暖かいマントがかけられた。

「お迎えに上がりました、ヴァイオラ様」

「……待った。遅いぞ、シザーリア」

 振り向いた先におった、我に忠実なメイドの姿を見た時、思わず泣きそうになったのは、誰にも内緒なのじゃよ。

 

 

 それからはもう、この騒動の後始末しか残っておらん。

 イザベラは、捕まえたジョゼフと、その側近であるミス・シェフィールドを連れて帰ることにした。

 とどめこそ刺さぬが、こうして反乱した以上、何事もなかったかのようにジョゼフを自由にするわけにはいかん。国民には「王は重病で政務が不可能になったため、娘に王位を譲り、引退する」という風に発表して、身柄は転地療養の名目で孤島に送り、軟禁するつもりだという。

 我々が帰るための船は、一隻で充分じゃろうに、その九十倍くらいやってきおった。ガリアの誇る両用艦隊というやつが、アーハンブラ城の上空に続々と集結してきおったのじゃ。

 どうやらそれを呼んだのはジョゼフらしく、奴さん、戦力をアーハンブラ城に集めて、マジで周りの国と戦争おっ始めようとしとったらしい――アホ過ぎる。今回のことがなくても、こんな奴には、信頼する部下に刺されて死ぬぐらいのオチしか待ち受けてなかったじゃろう。ボコボコにされたとはいえ、生きて無難に失脚できたのをイザベラに感謝すべき。あと我にも謝罪しろ。

 ジョゼフに呼ばれてやってきて、着いてみたら王様が半死半生になっとったのを見た時の、両用艦隊隊長クラヴィル提督の驚きようは見ものじゃった。奴は結局、新たな主人であるイザベラに命じられ、そのままサン・マロン港に引き返すことになった。その上、ついでとばかりに、イザベラをリュティスまで運ぶ役目を押しつけられた。完全にただの馬車扱い。哀れ。

 その両用艦隊には、イザベラたちだけでなく、我や、トリステインから来たタバサの友人たちも乗せられた。トリステイン魔法学院の四人は、ぶっちゃけ不法入国じゃったが、タバサのとりなしで無罪放免と相成った。イザベラとしても、従妹の友人たちのことは気になるらしく、船内でもしきりに話しかけておったわ。特に、赤毛のおっぱい――ミス・ツェルプストーとかいうたかな? あれとは馬が合うようじゃ。たぶんどっちも、『かわいいタバサを愛でたい友の会』的なメンタリティなんじゃろうな。あんまお近付きになりたくない。

 そして我々は、ガリアの軍艦に乗ってリュティスへと飛び立った。

 瓦礫まみれの中庭から船が浮かんで、空に向かって徐々に上昇していく。砂漠の要塞、アーハンブラ城。この城に滞在しとる間は、マジで恐ろしいことばかりじゃったが、こうして離れる時が来ると、感慨深いものがある。

 監禁されたことや、エルフと出会ったこと。死を宣告されたことや、真っ裸ジョゼフ集団リンチも、すべて衝撃的じゃったが――最も印象に残っとるのは、やっぱり、うん、あれじゃな。

 船で飛び立った我々の目の前で、アーハンブラ城そのものが、どしゃーんと崩れ落ちたのを見たこと。

 子供の作った砂の城のように、全部が全部ぺっちゃんこにぶっ潰れよった。のちの調査でわかったのは、城全体に無数の穴ぼこが穿たれ、ただでさえ自重を支えきれなくなっていたところに、城を守っていた固定化の魔法が一気に消えるという謎の現象が重なって、短時間での崩壊につながったらしい。

 まあ、古い城じゃし、しょうがないわな。怪我人がひとりも出んで済んだだけ、儲けものと思うべきじゃろ。

 それを最後の騒動として、あとは平和な船旅が続いた。我も服を着て、髪もシザーリアに整えてもらい、すっかり元通りの、美しく高貴で清潔なヴァイオラ・マリア様に戻ることができた。

 余裕ができると、やりたいことも増える。我はクラヴィル提督にねだって、甲板に安楽椅子を用意してもらい、リュティスにつくまでの間、日向ぼっこをしてのんびりくつろぐことにした。

「あ、見つけた。あんた、こんなとこにいたのかい」

 ぎーこぎーこと安楽椅子を漕いで遊んでおると、イザベラ姫が船室から出てきて、声をかけてきよった。

「おや、これは姫殿下。……おっと、もう今は陛下と呼ぶべきですかな」

「その呼び方は、戴冠を済ませるまで取っときな。それよか、あんたを探してたんだ。話がある……今、時間いいかい」

 もちろん我に否やはない。この小娘は、ジョゼフが倒れた今、近いうちにガリア王になることが確定している超絶VIPじゃ。今まで以上に、積極的に仲良くしていかねばならぬ。

 我は、そばに控えておったシザーリアに、イザベラのためにもう一台安楽椅子を用意するよう命じた。

「さて、お話というのは、どのようなことでございますかな」

 陽気の穏やかな甲板で向かい合い、お互いにギコギコと椅子を鳴らしながら、ゆったりと話を始める。

「ん、まあひと言でいうとさ、これからのガリアについてのことさ。あたしは今日。親父から王位を奪い取った。つまり、これから王様にならなきゃいけないわけだ」

 まあ、そりゃそうじゃよね。

「重責なのは間違いないし、不安もいっぱいだ……でも、後悔しちゃいない。親父がずっと王様でいたら、きっとガリアはどこかで、とんでもない過ちを犯してたはずだ。

 あんたを監禁したりしたのも、その前兆というか、破滅の始まりだったんだと思う。親父があんたを捕まえるために、どんな口実をでっち上げたのかは知らないが、ここまで周りの迷惑をかえりみないようになっちゃあ、もういけない。

 あんたには気の毒だったが、今回のことはガリアの膿を抜き取る、いい機会になったと思ってる。親父のしたこと、あたしからも謝っておくよ。怖い思いさせて、すまなかった」

「い、いえいえ、そんなことは仰らんでで下され。結局、何もされないうちに助けてもらえたわけですからな」

 我は心の中で、万歳を叫びつつガッツポーズ。おっしゃああぁぁっ、我の方のクソ親父のアホ王暗殺未遂事件は、これでうやむやになった!

「……で、病んだ親父から国を取り上げて、あたしのものにしたまではいい。これでとにかく、親父の毒はもうガリアを汚さない。

 だけど、だからもう安心ってわけじゃない。あたしが国を傾けちまったら、意味がないんだからね」

「ふむ……仰ることはわかります。ですが、あなた様の他には、相応しい人などおりますまい」

 何しろ、王様の実子じゃし。

「うん。シャルロットとも話し合って、それがいちばんいいって、あの子も言ってくれた。

 ついでに言うと、親父もあたしに、女王になれって言うんだよ。

 今も縛って、船倉に放り込んであるけどさ。王位継承に必要な玉璽のありかを尋問しようとしたら、こっちが聞くまでもなく普通に教えてくれたんだ。

 そして、正式にあたしに王位を譲るって……本当に妙な態度だった。子供みたいに素直というか……自分はもう夢を叶えたから、あとはもうどんな生き方でも構わない、とか言ってさ。強く殴り過ぎたのかな? 憑き物が落ちたみたいな、さっぱりとした表情で、あたしに笑いかけすらするんだよ」

 父親の変化を、気味悪がるイザベラ。でもえーと、言いにくいんじゃけど、あのアホ王は最初からそんな感じじゃったぞ。躁鬱が激しそうというか。孤島で転地療養というのを、名目でなくガチにすべきではなかろーか。

「まあ、親父にもシャルロットにも言われちゃさ、もう気合い入れてやるしかないだろ。あたしは王になる。そして、ガリアをいい国にするよう、精一杯頑張るつもりだ。

 でもさすがに、経験も見識も、あたしには足りない。誰か優れた人材をそばに置いて、不足を補う必要がある」

 ほほー。この不良王女、見た目に反してなかなか謙虚じゃし、考えてもおるのう。

「で、だ。さっき、シャルロットの友達のヴァリエールって娘と話してて思いついたんだけどね。あいつの国、トリステイン。あそこじゃ、あんたのお仲間さん……マザリーニ枢機卿ってやつが、宰相として国の舵取りをしてるらしいね」

「は、はい、そうですじゃ! 兄さ……オホン、マザリーニ枢機卿は、私心なき態度で政治にのぞみ、内外から非常に高い評価を受けておられます!」

 大好きな兄様の話が思いがけず出て、我は思わず身を乗り出してしもうた。

「そうらしいね。だとしたら……あたしの国でそれを見習うのも、悪くないかも知れない。信用できる、清廉な人格と高い政治能力を持った聖職者を迎え入れれば、国民の心もついてくるだろうし、統治もうまくやれるかも知れない……」

 じっ、と、イザベラの鋭い眼差しが、我を見つめた。

 内側まで見極めるように。ポーカーで、相手の手のうちを読み切り、勝負をかけるように。

「ヴァイオラ・マリア・コンキリエ枢機卿。

 あんた、ロマリアを出て、あたしに――ガリア王家に仕える気は、ないかい?」

「……………………は?」

 えっと?

 ――――――は?

 

 




今回のお話はここまで。続きはまたいずれじゃ。
しっかし……長かった。けど何とかなった。
我はそれなりに満足じゃ。


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恐怖! ガリア三頭政治なのじゃ。

何となくきりのいいところまでできたから投稿してみる。
……てゆーか前の投稿から、もう一ヵ月か……月日の経つのは早いのう……。


 わーい。わーい。新しいお仕事いっぱいもろたぞー。

 儲けもいっぱい、社会的な名誉もいっぱい手に入る! もう笑いが止まらぬわ。よーし、ここはひとつ、気合い入れてバリバリ取り組んじゃうぞー☆

 

 

「……なんて言うか、ボケええぇぇ――――ッ!」

 机の上いっぱいに積まれた書類の山を、グーパンチで粉砕しつつ、我は腹の底から叫んだ。

「うわぁ! またヴァイオラがキレた!」

「シザーリア、プリンを出して。早くご主人様をなだめる」

「心得てございます、シャルロット様。さあさヴァイオラ様、こちらはシェフが腕によりをかけた、クリームたっぷりのプリンでございます。ひと口食べておくつろぎ下さい」

 のじゃーのじゃーと暴れる我を、イザベラとシャルロットが押さえつけ、シザーリアがどこからか取り出したプリンを口に運んでくる。

「うおおおお! こんなもんで我はごまかされんぞー! やろうぶっ殺してや……ふぐっ、もきゅもきゅもきゅ……あまーい」

 どんなに心が荒んでおっても、甘味を楽しめばある程度癒されてしまうのが、女という生き物の浅ましさよ。自分でも少し悲しくなるが、もしプリンという精神力回復薬がなければ、我はずっと前に廃人となってしまっていたじゃろう。

 ヴェルサルテイル宮殿の抱えるパティシエは凄腕で、ことあるごとに頂けるプリンは、文句のつけようもない絶品なのじゃが、卵やクリームや砂糖を惜しげもなく使ったそれを、わりとちょくちょく、心が折れそうになるたびに食べておるもんじゃから、太らんかどうかがすごい気になる。

「ふう、ふう……あースッキリした。イザベラもシャルロットも、すまぬ。仕事の邪魔をしてしもうた」

「なに、気にすんなって。気持ちはわかるからさ」

「本当にそう。私もよく、叫び出したい衝動にかられる」

 青髪のふたりも、顔に疲れをにじませて、我に同調してくれる。我ら三人、今は運命を同じくする共同体じゃ。こいつらが頑張っとる時に、我だけいつまでもごねてもおられぬ――仕方がない、もうちょい気を張るか。

 そう思いながら机に戻り、我が崩した書類に再び手につけようとすると。

「イザベラ様、シャルロット様、マザー・コンキリエ。ナントの治水工事についての計画書が届きました。承認を――」

「アンティーブの財政監査の報告書です! ご確認の上、次の指示を――」

「ゲルマニアからの鋼鉄材輸入について、八つの団体が優先権を主張しておりますが、どのように処理いたしましょう――?」

 ばったんばったん扉が開いたり閉まったりして、次から次へと仕事が舞い込んでくる。

 我、イザベラ、シャルロットのそれぞれの机の上に、さらに書類が重なっていく。目に見える範囲にある羊皮紙の半数以上に、「至急」の朱書きがしてあるってどうなんじゃ。

「……のう、イザベラ……シャルロット……ちと提案があるんじゃが」

「……何だい、ヴァイオラ」

「だいたい想像はつくけど、一応聞く」

 書類の山の向こうに隠れて、顔の上半分しか見えぬふたりに、我はダメもとで言うてみた。

「何もかも放り出して、逃げるとかどうじゃろ?」

「…………………………」

「…………………………」

 ふたりとも、五秒以内には「否」とは言わなんだ。

 こいつらも濃密な疲労の中で、心に棲む悪魔に、ちらっちらっと同じような誘惑をされておるのじゃろう。あと少し自我が削れておったら、たぶんノリノリでヒャッハー言いながら、三人一緒にお外に駆け出しておったと思う。

 そんだけ我らは疲れておる。追い詰められておる。まさかこんなことになるとは――数日前の、イザベラの誘いにホイホイ乗ってしまった間抜けた我をぶん殴りたい。

「……と、とにかく、仕事は放り出せないよ。泣き言はこの書類を全部片付けてからにしようじゃないか」

「…………イザベラの、言う通り」

「のじゃあああ〜……」

 ギリギリで誘惑に打ち勝ったイザベラたち。二対一で破れた我は、羽ペンを持った手を動かしながら、涙をホロリとこぼすしかなかった。

 ヴェルサルテイル宮殿、国王執務室。通称オーバル・オフィスの空気は、今日も湿っぽい。

 

 

 さて、何がどうしてこういうことになったのか。

 あの恐ろしいアーハンブラ城からの帰り道、両用戦艦の甲板で、イザベラから王家に仕えないかと誘われた我は、大いに喜んでそれに飛びついた。

 だってあれじゃぞ、ハルケギニアいち豊かな国と名高いガリアの王家に仕えるって、その時点で勝ち組必至じゃろ。

 豊富な税収、世界中にまたがるコネ、クソ民衆のすみからすみまで手が届く絶大な権力。それに間近でちょっかい出せるわけじゃ。

 しかも、これから政権を握るイザベラは若く、あまりに経験が不足しとるように見える。ならば、どうしても政務は周りの人間に頼らなくてはならんわけで――我の自由にできる部分が、さらに大きいものになると期待できる。

 イザベラを傀儡に、我がガリアを操るというステキプランが、かなり現実的な形で目の前に! まぶしくて涙が出る! ひゃっほい!

 そこからしばらくは、夢の中におるようなふわふわした時間じゃった。

 ヴェルサルテイル宮殿に戻ったイザベラは、玉璽と王家の秘宝『土のルビー』と『始祖の香炉』を確保し、王位継承に向けてフル回転で動いた。翌日にはリュティス郊外の聖マーロー大聖堂で戴冠式を執り行い、名実ともにガリア王国新女王、イザベラ一世となったのじゃ。

 我ももちろん、その式には出席しておった。我を世界の操縦席に案内してくれるお人形様の晴れ舞台じゃもの、これまでにない笑顔で祝福できておったな、うん!

 冠と錫杖を取り、王としての祝福を受けたイザベラは、最初の仕事として、大赦の布告を出した。ジョゼフ王時代に、反逆の罪で地位を剥奪されたオルレアン家の名誉を回復し、さらに、投獄されておったシャルル派貴族のうち、思想が穏健な者を幾人か解放した。これによって、タバサ――シャルロット・エレーヌ・オルレアンは、貴族として表舞台に戻ることができたのじゃ。

 この王の従妹は、もちろん立場が立場じゃから、それに相応しい地位が与えられる。役職名はなんか長ったらしかったんで忘れたが、イザベラの政務を補佐する特別な役職――ひと言で言うと、副王とでも呼ぶべき位置に抜擢された。

 イザベラの父、ジョゼフと、シャルロットの父、シャルルの間に起きた悲劇的な事件は、ほとんど国中に知れ渡っておったため、その娘たちにこのような蜜月関係が訪れたことには、多くの者が驚きを隠せなんだようじゃ。

 確かにかつては、我もイザベラから、シャルロットとの仲が悪いことを相談されたりもしたが、今のあいつらは散歩の時に手を握り合うようなラブラブちゅっちゅじゃ。二人三脚で政治にあたるなら、わりと息の合った働きを見せてくれるんじゃなかろうか、と、我はこの頃から思っておった。

 んでもって、んふふふ、イザベラは我のこともな、「広範囲な外務と財政についての相談役」として、国民の皆様にちゃーんと紹介して下さったわ。

 翌日の情報ギルドの出した、号外を見てみるがいい。『イザベラ一世、オルレアン大公令嬢シャルロット、マザー・コンキリエによる、ガリア三頭政治の発足』とデカデカ書かれとるんじゃよー? 三頭政治、なかなか的確で洒落たネーミングではないか。これってつまり、ガリア国民が我のことを、ガリアの三つのブレインのひとつ――特に偉い指導者の一角として認めたっちゅーこっちゃよな! えへ、えへ、えへへへへへ!

 その後、かつてジョゼフが独り占めしておった国王執務室、オーバル・オフィスに、我とイザベラ、シャルロットのための三つのデスクが用意されて――よっしゃ、これからいっぱい頑張ってイザベラたちを利用しまくって、私腹を肥やしてやるぞーっと、甘く明るい未来に思いを馳せた――その辺りが、我の絶頂期じゃった。

 甘かった。砂糖入れ過ぎた上に、上等なハチミツまでぶちまけたプリンより甘い考えじゃった。

 ヒトとカネを操ることにかけては、我も風石メジャーの会長的なことやっとったから、それなりに自信があったんじゃが、国政って、それとは勝手が全然違うんじゃよ。

 たとえば、公共事業。長年暖かく育んだ縁故主義(ネポチズム)を食らえーっとばかりに、我の息のかかった会社ばかりに、旨味のある仕事を回しまくろうとしたんじゃが、それはいかんと言われてしもた。競争相手の会社はもちろん、事業によって利益を得る地域の住民、さらには、間接的に関わってくる別な事業の担当会社にまで配慮して、一番無難な選択をせんといかんらしい。

 今まで我が得意としておった資本主義的経営法なら、我と我の味方だけで利益を独占して、競争相手だとか関係ない奴だとかは徹底的にぶっ潰すぐらいの気持ちでやればよかったんじゃが、政治は基本的に社会主義。みんなにまんべんなく得が回らねばならん。あっちにいい目見させるために、こっちに悪い目見せてはいかんのじゃ。えこひいきってのは、王様の信用を落としてしまう。それはよくない。民から評判の悪い王様に統治されとる国っちゅーのは、周りの他の国からナメられるでな。

 よしよしわかった、じゃあみんながいい目見れるよう、国民どもの願いをひとつひとつ叶えていってやろう。その中でチマチマおこぼれ頂戴できればそれでもええわ――と考えたはいいが、これの実行がまた難しい。

 みんなは何を望んでおるのかな? なになに、役に立つ道路や水路を整備して欲しいって? よっしゃーやったるぞー、と、計画を立ててみるとする。それによって流通が活発化することで利益を得られる人たち――商人とか、都会から人を呼びたい観光地の人たちからは歓迎された。しかし、それによって損をする人たち――陸路や水路での流通が活発化することで、相対的に高コストになり、客を奪われることになる風竜便や風石船の関係者からは、強い反発を受けた。

 どこどこの地方で、農作物の不作から失業者があふれて、困窮から犯罪に走る例が増えておるっつー話を聞いたんで、とりあえず連中の生活費の面倒を見てやりつつ、何か適当な仕事を用意してやろうと計画しとったら、それなら子供たちの教育にも、病院の設備充実にも、養老院で暮らすお年寄りたちの待遇改善にも、どこどこの工業地開拓にも、どうか支援をーと、蟻のごとく陳情が群がりおった。予算は限られておるゆえ、いくつかは突っぱねなければならなくなるんじゃが、そうなるとその関係者が、不公平だと言うて烈火のごとく怒る怒る。

 うん、何日かやってみて、少しずつ感じがつかめてきたんじゃけど――政治って、要するに人と人の取りなしが主なんじゃね。

 対立する勢力の利害を調節して、どっちもが「まあ、これなら文句は引っ込めてもいいかな」って思えるポイントを模索するお仕事。基本的にどの勢力も、愛すべきガリア国民であるがゆえ、敵対はできんからめんどくさい。右から左からあーだこーだ言うのをまとめて、着地点を提案していく。どっちかが納得してくれんかったら、また新しい案を出す。それでもまだダメなら、さらに別の案をという感じで――すごい、疲れる。

 そうしてさんざん苦労して、ひとつの案件を合意に導いても、下々の連中はよくやったね、なんては誉めてくれん。もうちょっと上手い解決策があるだろとか、ひとつの問題にいつまで時間をかけてるんだとか、ブチブチと文句を言いおる。国の予算を使って何かすれば、それで利益を得られる人は協力的になってくれるが、それ以外の奴は否定的な言葉しか吐きよらん――ああ、直接的に害を受ける人とか、何か我慢を強いられる人は、そういうのを言う権利はあると思うとるよ? しかしこういう時、一番声がでかいのは、利益も害も受けぬ、まったくの無関係な連中なのじゃ。自分たちの出した税金を、そんなことに無駄遣いすんな、とな。

 民衆という頭の悪い生き物どもは、自分たちに直接還元される使い方でなければ、すべからく無駄じゃと思い込んどるフシがある。関係ない誰かを助ける使い方というのは、何の意味もないらしい。我が風の偏在でも使えたならば、分身して片っ端から殴りに行きたい。どんな使い方であろうと、無駄に使われた余分な銭など、一ドニエもない。無駄だと誰かが主張する使い方をされた一ドニエは、他の誰かの死命を決する一ドニエなのじゃ。

 自分と無関係な奴のことなどどうでもよい、という考え方の奴は、政治に口を出すべきでないと本気で思う。そして、自分と無関係な奴のことなどどうでもよい、という考え方を地で行く我なんぞは、商人としてはやっていけても、政治家としては難があるということがよくわかった。

 そんな相性の悪さに加えて、我やイザベラ、シャルロットのもとに持ち込まれる案件は、他の大臣や下っ端役人では手に負えぬような、めんどくてデカいヤマばかりじゃ。その分、判断も難しいし、ミスった時の被害もデカい。それがもう、次から次へと、ポコポコポコポコ持ち込まれてくる。なんぞこれ。ガリアって順調に見えて、山のような問題に蝕まれとったヤバい国じゃったんか。

 それとも、先代であるジョゼフがサボりまくっとって、そのツケが今ごろ来たのか――と思って、ジョゼフにも仕えておった大臣に聞いてみたところ、奴は同じくらいの量と質の仕事を、たったひとりで、合間に昼寝を交えつつ片付けておったらしい。なんじゃそれ。なんじゃそれ!?

「なあイザベラ……今からでも遅くない、事務員代わりとしてでもええから、あの青ひげのオヤジを呼び戻さんか? それだけでだいぶ楽になると思うんじゃけど」

 我はすがるような気持ちで、はす向かいで鬼気迫る空気を醸し出しておる女王様にそう言ってみた。

 イザベラに敗れ、強制的に引退させられた前王ジョゼフは、側近のミス・シェフィールドとともに、エルバ島という小島に流されていった。

 小さな屋敷がひとつあるきりの無人島で、訪ねる者は週に一度、船で食料を運んでくる業者のみ。ジョゼフは魔法が使えぬし、ミス・シェフィールドもメイジではないらしいので、島からの脱出は不可能。奴らを殺すことなく、政界から完璧に排除する、我らにとっても奴らにとっても安全な追放である。

 今頃は主従ふたりで仲良く浜辺に座って、のんびり魚釣りでもしとるんじゃなかろうか。我らの苦労を知りもせんと。

「親父を……? できるわけないだろ。あの変態がすごい奴だったってのはよくわかったけど、だからって頼っちゃダメだ。今のガリアのトップは、ここにいるあたしたちなんだからね。あたしたちがしっかりしなきゃ、この国に未来はないよ」

 うおおチクショウ、根性のねじ曲がった不良姫じゃったイザベラが、真面目な顔して真面目なことほざいておる。人間変われば変わるものというが、こいつは最初に会った時に比べて、キャラがブレ過ぎではなかろうか。

「な、ならば……そうじゃ、シャルロット。あのビダーシャル卿に手伝ってもらう、っつーのはどうじゃ。彼はまだおるんじゃろ? あやつほどの知性の持ち主ならば、充分戦力になると思うんじゃが……」

「駄目。彼はとても大事な調合作業中。邪魔はけっして、許さない」

「……じゃよねー……」

 アーハンブラ城にて、トリステインのガキどもに敗れた見かけ倒しのエルフ、ビダーシャルは、今はシャルロットの客として、このヴェルサルテイル宮殿に滞在しておる。

 もともとはジョゼフが雇っておったらしいんじゃが、そのジョゼフがイザベラに負けて、もういろいろどうでもよくなったらしくて、ビダーシャルに頼んでおった仕事を、もうやらんでいいよーと言っちまったらしい。

 そこで困ったのがこの律儀なエルフ。ここで契約を打ち切られては、自分の要求が通らない。どうも彼がジョゼフに支払ってもらう予定だった報酬というのは、金銭ではなかったらしく、イザベラが代わりに払ってやるから帰れ、と言っても、首を縦に振らなんだ。

 そこでジョゼフの奴、じゃあシャルロットの望みでも叶えてやれ、そうすればお前の望んだ通りにしよう――なんて、急に人格者じみたキモチワルイことを言い出して――シャルロットはシャルロットで、その提案に一も二もなく飛びついて、母の病を治す薬を作ってくれと頼んでおった。

 ビダーシャルはこの要求を快く受け入れ、今はグラン・トロワ奥に与えられた研究室において、せっせと怪しげな薬草や粉末を混ぜ混ぜしておる。

 シャルロットにしてみれば、最愛の母上様を治してくれる、ようやく掴んだ希望の光じゃ。一分一秒でも早く仕事を完成させてほしいじゃろうし、邪魔立てする者がおれば容赦はすまい。

 つまりやっぱり、我々三人は誰にも頼らず、朝飯とか昼飯とかの時間も惜しんで、日によってはお休みの時間を大幅に削って、コツコツコツコツ書類を片付けていかねばならぬということじゃ。

 そりゃ、トリステインで似たようなことしとる兄様が、まだ若いのにめっちゃ老けるわけじゃよ。我もこの仕事、あと半月も続けておったら、疑いなく白髪が生じてしまう。

 休み欲しい。贅沢で栄養のある美味いメシが欲しい。いや、もっと根本的な解決が――誰かからの助けが欲しい!

 そんな風なことを切実に思っとった時じゃった。我らのもとに仕事を運搬してくる女官が、もうこの日何度目かわからぬ入室を告げてきた。

 ひい、また書類の追加かとおののいた我らじゃったが、そいつは今回に限っては、書類の束を持参してはおらなんだ。その代わり、たった一枚と思しき、筒状に巻いた羊皮紙を手にしておった。

「イザベラ様、シャルロット様、マザー・コンキリエ。お仕事中失礼します。エルバ島のジョゼフ様から、お手紙が参りました」

「何だって? ……ったく、このくそ忙しい時に……その辺に置いときな」

 イザベラは不愉快そうに眉根を寄せると、ぞんざいに手を振って、その手紙の扱いを指示した。

 島流しになったジョゼフじゃが、完全に外界との連絡が絶ち切られたわけではない。もし何か、不都合なことが起きたり、緊急的に知らせたいことが生じた場合には、食料を運んでくる船に、イザベラ宛ての手紙を託すようにと伝えてあった。

 その手紙が、こんな早くやって来るということは――もしかして――。

「い、イザベラや、しばし待て! その手紙、まずちょっと開けてみよ!

 追放されてからまだ間もないのに、ジョゼフに問題が生じたとは思えぬ。もしかしたら、仕事の引き継ぎのことで何か、言い忘れたことがあるのかも知れんぞ!

 た、たとえば……仕事を早く片付けるための、経験者としての知恵だとか……いや、もっとダイレクトに、役に立つ人材の推薦だとか書いてあったら……!」

 我の指摘を受けたイザベラの表情が、ハッと変わる。デスクのすみに置かせた手紙に手を伸ばし、急いで封蝋をはがしにかかった。

 我とシャルロットも席を立ち、イザベラの肩越しにその手紙を覗き込む――ガリアの国政をひとりでうまく回しておった、辣腕家からの情報。それを上手に使えば、我々の苦労も少しは――!

 丁寧に巻かれていた羊皮紙が、ばっと広げられる。そこにジョゼフの直筆で、水茎麗しくも書き綴られていたのは――。

 

『でっかいおさかな釣れた(*´ω`*) byジョゼフ』

(その文字の下に、五十サント強の鯛と思しき魚拓)

 

「うおおおぉぉぉ――ッ! くたばりやがれあのクソ親父イイィィ――――ッ!」

 バリバリバリィィと、羊皮紙を真っ二つに引き裂いて咆哮するイザベラ!

「縛り首にしとくべきじゃった! 縛り首にしとくべきじゃった! ふざけよって! ふざけよって!」

 引き裂かれた手紙を奪い取り、床に叩きつけ、げしげしと踏みつける我!

「イザベラ、ヴァイオラ、どいて。それをエア・カッターで細切れにしてから、ウィンディ・アイシクルで吹き飛ばす」

 震えた低い声で、ごっつい杖を構えるシャルロット!

 我ら全員心はひとつ! 仕事の疲労でまいっとるところにこのクソ手紙! 頭の奥底で何かがプッツンしたところで、何の不思議があろう!?

 ガリアの首脳が三人同時にはっちゃけたのを抑えることは、さすがのシザーリアでも困難じゃった。我々は、シザーリアが呼んだ元素の兄弟が部屋に突入してくるまで、思い思いの方法で、ジョゼフの手紙に鬱憤をぶつけ続けた。

 

 

「……ふう、何とか落ち着いたのぅ」

「ああ。これでもうしばらくは、机に向かいたくないね」

「同感。文字を読むのも、嫌」

 ジョゼフの手紙を巡る大騒動を演じた、その日の晩。

 ついに書類を全部片付けた我らは、プチ・トロワのテラスで、遅い夕食を摂りながら、お互いの健闘を讃え合っておった。

 今は、シザーリアすらも席をはずしておる。我とイザベラとシャルロットの三人だけ――あの地獄を支え合いながら乗りきった我々だけで、ゆったりのんびりくつろぐのじゃ。

 とりあえずここ数日の、嵐のようなお仕事の群れは、これでひと段落したと、大臣どもが言うておった。王が変われば、あちこちでいろいろ変えなきゃならんところが出てくる。でも一度変わって落ち着いてしまえば、もう同じ問題は起きなくなる――ものらしい。

 つまり、明日からはもーちょいだらけることができるようになるっちゅーわけじゃ。いやはや、本気で安心した。あのペースの仕事がこれから永遠に続くとかじゃったら、我は絶対逃げとった。

「もういくつか、細々した調整をしさえすれば、まとまった休みも取れるようになるよ。

 とにかく、お疲れさん、シャルロット、ヴァイオラ。今夜ばかりは、たっぷり飲もうじゃないか」

 イザベラの音頭によって、我々はワイングラスを打ち合わせ、乾杯をする。ほどよく冷えたボルドーの赤を、キューっと喉に流し込めば、これまでの苦労も吹き飛ぶというものじゃ。特に飲みっぷりのいいイザベラは、まさに会心の表情と呼ぶべき笑顔で、ひと息にグラスを空にしておった。

「明日持ち込まれる予定の書類は、今日の半分とかいう話だよ。楽勝でいけるね。明後日はさらに減るし、明々後日はそれ以下だ……あたしたちとガリアの未来は、とっても明るいよ」

「でも、書類仕事が全部終わったからといって、それで将来に渡って何もかもうまくいく、というわけでもない。目下の大問題についても、なるべく早くカタをつけたいところ」

 グラス片手に、海老のオイル煮をつついておったシャルロットが、イザベラの楽観的なセリフに続けるように、そんなことを言いおったので、我は思わずため息をついた。

「ああ……シャルロットや、嫌なことを思い出させんでくれんか。あの、ジョゼフの手紙のことを言うとるのじゃろうが、せっかくのびのびくつろげる時間を、台無しにしてはもったいないぞ」

「でも、あれは放っておけない。至急何とかしないと、冗談抜きにガリアが危ない。

 アルビオン革命の裏話……明らかになった日には、私たちの政権にとって、致命的なスキャンダルになる」

 そう言われては、我も黙り込むしかなくなってしまう。イザベラも、さっきまでの笑顔を苦々しいものに変えて、考え込んでしまった。

 ――先王ジョゼフから届いた、ぶん殴りたくなる類のお手紙。その書き出しと、でかでかとした魚拓につい気をとられてしもうたが、よく見ると一番下に小さな字で、けっして見逃せない重大な告白がしたためてあったのじゃ。

 その告白というのは、ついこの間、アルビオンで起きた共和革命についてのことじゃった。

 オリヴァー・クロムウェルという男が、無数の貴族をまとめあげ、六千年続いたアルビオン王家を打倒した――あの歴史的事件。

 それを裏で操っておったのが、なんと、我らがガリア王国の先代アホタレ王、ジョゼフ・ド・ガリアだったらしい。

 ジョゼフの命令を受けたミス・シェフィールドが、ラグドリアン湖に棲む水の精霊から『アンドバリの指輪』なる伝説級のマジック・アイテムをパクり、それをクロムウェルに渡した。彼はその指輪のケタ外れた洗脳能力で、アルビオン貴族どもを操り、王家に対して弓を引かせた――っつーのが、ことの真相だそうじゃ。

 確かにあの革命には、起きた当初から疑問が囁かれておった。アルビオン王家にはもともと、モード大公粛清事件など、貴族どもの不満を集める要因がいくつかあった。しかしそれでも、長いこと王家へ忠誠を誓っておった連中が、いきなり一致団結して蜂起するなんちゅーことは、非常識過ぎて考えにくかったのじゃ。

 しかもその旗印であるクロムウェルは、貴族ですらないただの僧侶。軍部の中枢におった将軍とか、王族に次ぐ格式を誇る公爵だとか、そういった奴が率いるのならまだわかるが、僧侶が革命て。

 一時期は、クロムウェルが始祖の再来、この時代に蘇った虚無の使い手で、その神々しい力を見せつけられたからこそ、貴族たちは彼に従ったのだ、などというクソ下らん流言も広がっておったが、真相がわかってみりゃ、やっぱりアホみたいな嘘っぱちはリアリティがないのう。虚無(笑)じゃって。そんなんおるわけないじゃろーに、どんな脳みそコドモな発想じゃ。まだしも、イーヴァルディの勇者に憧れる方が現実的ってもんじゃよ。

 水の先住魔法を秘めたマジック・アイテムってのも眉唾ではあるが、虚無(爆笑)に比べればまだしも頷ける。実際、ラグドリアン湖には水の精霊がおるし、こいつが一時期、湖の水位を勝手に上げまくるっちゅー事件を起こしたこともあった。

 この事件の解決に当たったのが、当時北花壇騎士じゃったタバサことシャルロットなんじゃが、なんと水の精霊と会談する機会を得て、奴が「盗まれたアンドバリの指輪を取り戻すために、水位を上げている」と言うのを、はっきり聞いたそうじゃ。しかもその窃盗容疑者たちのひとりが「クロムウェル」という名で呼ばれていた、という証言も得ておる。となるとやはり、アルビオン革命の裏側には、アンドバリの指輪という秘宝の暗躍があったのじゃなと、断定せざるを得まい。

 そして、このくそったれた指輪をクロムウェルに渡したのが――ジョゼフだとするなら――あの戦争の責任は、ガリア王国にあると言っても過言ではない。

 この事実は不都合過ぎる。まったく、これっぽっちも歓迎できん。シャルロットの言う通り、公になったら、それだけでガリア王室を崩壊させかねない大スキャンダルじゃ。イザベラやシャルロット、そして我という、現在のトップには何の関係もない謀略であったとしても、大衆は「ガリア王室が起こした許しがたい非人道的事件」としか判断せぬじゃろう。王宮に出入りする貴族はみんな同じ穴のムジナ、ある政党の政策がダメなら、その政党に属する政治家は全員ダメ、ってのが、典型的な浅はか能無し身勝手愚民どもの思考じゃからの。間違いなく、我々はあの変態ジョゼフとひとくくりにされてしまう。

「隠し通さなければならぬ。なんとしても、な」

 たん、と音がするくらい、強めにグラスをテーブルに置いて、我は言った。それ以外に選択肢はあり得ぬ、と、断言するかのように。

「ありがたいことに、最大の証拠品であるアンドバリの指輪は、我々の手の中にある。そうじゃったな、イザベラ」

「ああ。あの手紙に書かれていた通り、ミス・シェフィールドの私室で見つけたよ。

 あたし自身がディティクト・マジックをかけたけど……確かにありゃ、とんでもない水の力を秘めたアイテムだね。あれなら、アルビオン貴族どもをまとめて洗脳するって絵空事も、不可能じゃなさそうだ」

「その指輪を見つけたこと、ここにいる我とシャルロット以外には話したか?」

「まさか、だよ。大臣たちにすら話せる内容じゃない。スキャンダルの暴露とは関係なく、もしもあの指輪の存在が、野心的な誰かの耳に入りでもしたら……それを使って、よその国に戦争を仕掛けようって意見が沸き上がってきても不思議じゃないだろ?

 実際のところ、あれさ。うまく使えば、トリステインぐらいならあっという間に征服できるよ。こっちの被害ゼロで、ね」

 う、ううむ。そこまでなのか――ちょっと魅力的に思ったのはナイショにしとこう。

「できれば、あの指輪をラグドリアン湖に放り捨てて、知らぬ存ぜぬを決め込みたいところなんだけど、ね……」

「そう。問題の本質は、アンドバリの指輪そのものじゃない。むしろ気にするべきは、アルビオンにいるオリヴァー・クロムウェルの動向。

 クロムウェルが、自分の革命にガリアが関わっていたことを、どの程度具体的に知っているのか……その答えによって、危険度がかなり、変わってくる」

 それなんじゃよなぁ。

 シャルロットの言う通り、今一番危険なのはクロムウェルの口じゃ。奴が、果たして、自分を操っていたのが、ガリア王ジョゼフじゃと知っていたかどうか?

 ガリアの政変、ジョゼフの失脚については、もうアルビオンにも聞こえておろう。クロムウェルがジョゼフを上役として仰ぎ、これに頼りっきりじゃったとすると、今頃は大慌て、何をしていいのかもわからずウロウロしとるといったところじゃろう。

 しかし、まさかガリア王が関わっとるとは知らず、有力で野心的な貴族の誰かじゃと思っとったなら――たぶん、それほどは危機感を持っておらぬ。黒幕から連絡が来なくなっても、今はお国がゴタゴタしているから、こっちに指示を出す余裕がないんだろうなーって、気をきかせて黙っとるじゃろう。

 今、アルビオンはトリステイン=ゲルマニア連合から、包囲戦術を仕掛けられておる。これはアルビオンにしてみれば、破ることは厳しいが、すぐに負けることもないのんびりした戦争じゃ。自前の補給策を模索したり、国内情勢を立て直したりしながら、黒幕から連絡が来るのを、一年か二年、慌てず待つくらいの気分にはなれるじゃろう。

 でも、心底飢えて、もうどうしようもなくなったら?

 クロムウェルが悪賢い狐じゃったら、きっとこっそりと、ガリアを脅しにかかってくる。

「私はあなたの国から支援を受けて、戦争を起こしたんですよー。このことを言いふらされたくなかったら、小麦粉と野菜下さい」とか、きっと言ってくるはずじゃ。

 こうなると、もういろいろと手遅れじゃ。突っぱねりゃ、ことの次第を世間にバラされる。アンドバリの指輪はこっちにあるが、それ以外に何か証拠になるものをクロムウェルが握っておる可能性だって、けっして無視できない。

 脅迫を受け入れて、アルビオンを秘密裏に支援するっつー選択肢もあるが、こりゃもう普通に泥沼じゃね。我々は陰謀に関わってなかったんですよー、っつう逃げ道もなくなる。我々はあのお空の小国に手綱を握られて、言いなりのお馬さんになってしまう。

 どっちもよろしくない。ヤバい。なんちゅう置き土産を残してくれやがったんじゃ、あのアホジョゼフめが。

 イザベラとシャルロットの顔も暗い。他国も関わる大問題だけに、より慎重に考えねばならんし、かといって中途半端な対応は禍根を残す。できれば我も、知らんぷりしてロマリアに帰りたいところじゃ。

 しかし、今この問題から逃げるわけにはいかん――すでにして、我はガリアの政治家として、イザベラに抱えられてしもうたんじゃからの。イザベラの失脚は我の失脚で、ここでの失策は我の将来にも長く響くであろう。

 逆を言えば、ここでこのアンドバリの指輪問題をうまく片付けられれば、我に対してのガリア女王の信頼はより深くなる。世界の頂点への道を、さらに一歩進めることができる。

 というか、じゃ。ある意味王の中の王というべき教皇を目指しておる我がじゃぞ? おそらく、さらにたくさんの複雑な問題をさばかねばならぬであろう教皇を目指す我が、この程度を解決できんでどうするっちゅー話じゃ。

 この難問も、一種の試練と捉えるべきなんじゃろう。うまくさばいて、天下に我の王たる資質を示さねば。いずれはこのイザベラもシャルロットも、教皇となった我にひざまづくことになるんじゃから。

「まあ、こうなると……ガリアの立場を悪くせずに、ことをおさめるには、ふたつしか方法はあるまいな」

 我がそう呟くと、青髪ガールズの目が同時にこっち向いた。

「ふたつもあんのかい? 頼もしいね。聞かせておくれよ、ヴァイオラ」

「私も、聞きたい」

「うむ、よかろ。イザベラ、シャルロット、耳を貸せ。この案は、正直なところ、我が口に出したことが知られただけで、醜聞になってしまうたぐいのもんじゃ。ゆえに、小声でしか話さん。

 ……まずひとつは、めっちゃ簡単。秘密を知っとる可能性のあるクロムウェルを、こっそり暗殺する」

 ぴくり、ぴくり、と、イザベラとシャルロットの眉尻が上がる。こいつらホント仲ええな。

「ああ、あんたもその結論か……うん、あたしもそれは考えたよ。クロムウェルがどこまで知っているにせよ、死んじまえば文字通り、死人に口なしだからね。あたしたちは安全になれる。

 でも、実行はちと厳しいよ。何しろ相手はアルビオンのトップ、共和議会議長サマだからね。相当厳重な警備がついているはずだ」

「単純に考えて、クロムウェルが拠点にしているハヴィラント宮殿には、よく訓練された兵隊が何百人といるはず。あとこれは未確認だけど、『白炎』のメンヌヴィルという腕利きの傭兵も雇っているらしい。この防御を破って、本丸のクロムウェルを暗殺することは、おそらく元素の兄弟でも困難」

 ふたりの指摘に、我はさも当然とばかりに頷いてみせる。

「うむ、その通りじゃ。しかも、ガリアがこの暗殺事件に関わったことを知られちゃいかんわけじゃから、難易度はさらに跳ね上がる。つーか、まず不可能じゃね。

 じゃから、クロムウェル暗殺は現実的でない。こんな企画はゴミ箱にぽーいじゃ。残るもうひとつの案こそを、我は本命として提案したい。

 即ち、これまた簡単……ガリアからクロムウェルへ、降伏勧告を行うのじゃ」

「降伏……?」

「……勧告」

 ふたりは目を見合わせて、微妙に納得のいかないような顔をしおった。

「賛成しかねるかや、イザベラ? シャルロット?」

「いや、ヴァイオラ。言ってる意味はわかるよ。あっちがこっちに変な気を起こす前に、上下関係をはっきり教え込んでやろう、って話だろ?」

「こちらは、アンドバリの指輪を持っている。言わばクロムウェルの玉座の上に、馬の毛一本で鋭い剣をぶら下げているようなもの。

 その事実を言い含めれば、確かに、彼は我々に逆らうわけにはいかなくなる。しかしそれは、けっして裏切りが起きない、というわけではない」

 その通り。まったくもってその通り。

 今回の事案では、基本的にはクロムウェルに対して、我々の方が圧倒的に有利な立場におる。アンドバリの指輪はイザベラの手にあるし、経済的にも武力的にも、ガリアはアルビオンよりだいぶ上じゃ。

 しかし奴が、真相の暴露という、こちらを一撃必殺できる鬼札を持っとるがゆえに、我々はあのお空の傀儡野郎ごときに、頭を悩ませねばならん。

 ジョゼフに代わって、我々がクロムウェルを操る黒幕の座におさまって、奴を屈服させ、永遠の忠誠を誓わせることができれば、話は早いんじゃが――クロムウェルとて人間じゃもの、いつ裏切りたい気分になるかわかりゃせん。我々は、いつ爆発するか知れん爆弾を部下として持つつもりはないのじゃよ。

「じゃからこそ、な。我はクロムウェルを、降伏させようと思うんじゃよ。脅して、我々に逆らうなと釘を刺すのではない。神聖アルビオン共和国を治めるオリヴァー・クロムウェルには、敗北宣言をして頂き、お役御免になってもらう……というのが、いっちゃん安全で、憂いを残さないやり方じゃ、と思うのじゃ」

「あん? つまり、屈服させて口を開かせないようにするのと、どう違うんだい?」

「今の話からすると……ヴァイオラは、クロムウェルを失脚させようと考えているように聞こえた。それって……ああ、そういうこと……」

 ふむ、シャルロットの方が先に、我の言いたいことを察してくれたようじゃな。

 じゃが一応、まだわかっておらんらしいイザベラ陛下のために、詳しい説明をさせて頂こう。

「まー要するに、じゃ。クロムウェルが政治の表舞台から退いてくれれば、奴の口をそんな気にする必要もなくなるじゃろ、って話じゃよ。

 ええか、今んところ、クロムウェルは我々を脅そうという考えは起こしておらぬ。奴からの連絡がないわけじゃから、これは確定よの。

 奴が自分を操る黒幕に翻意を起こす前に、こっちから接触して、アンドバリの指輪を見せつければ……奴は我々を上位者と認め、素直に言うことを聞いてくれるであろう。奴は奴でじわじわ追い詰められておるし、何とか助けてやるって言ってやれば、喜んで飛びついてくるはずじゃ。

 で、その時にこちらが出す指示というのが、じゃ。自分が操られていたことを人に話すなー、っつう秘密の厳守ではなく……今の地位から降りて、トリステインとゲルマニアに降伏すること。つまり、引退せいと言ってやるわけじゃ……」

「はあ!? ちょ、ちょっと待ちなよ! いくらこっちがアンドバリの指輪を握ってるからって、そんな命令ひとつで、クロムウェルがせっかくの王座を降りるわけがないだろうに!」

「果たしてそうじゃろうか? なあイザベラよ、お前が王になってから、今日に至るまでのことを思い返してみい。ここ数日のお仕事はキツかったな? 仕事量や内容はもちろん、精神的な重みがヤバかった。位置としてはお前の臣下である我ですら、何度潰れそうになったかわからん。一番上の女王サマであるお前は、それよりもさらにキッツい心労を味わっていたじゃろう。

 王になるというのは、とにかく気苦労を背負い込むことじゃわな。無責任で自分勝手な輩には、とても勤まらんものよ。平民がよくする夢物語で、王様になって周りの人に命令をして、自分は遊んで暮らしたいというのがあるが……実際、それが実現したら……たぶん、ほとんどの人間は、二日か三日でギブして、元通りの自分の世話だけしとけばいい暮らしに、戻りたがるんじゃなかろうか……」

「……………………」

「イザベラ。お前は始祖の代から、ずーっと続いてきた高貴な血の継承者じゃ。生まれた時から、人の上に立つことを義務づけられとる。だからわりと早いうちに、覚悟はできとったはずじゃ。今の女王としての仕事も、心折れることなく、きっと続けていけるじゃろう。

 じゃが、クロムウェルは違う。あいつはもともと僧侶だという。本当なら王様になる可能性なんか、まったくなかったんじゃ。せいぜいが、酒を飲んだ時なんかに、王様になってみたいと笑い話に語る程度じゃったろう。

 それがどういう因果か、ジョゼフの企みで、マジもんの王様になってしもた。最初はその権力に、大勢を従えられる快感に、有頂天になっておったじゃろうが……さすがにもうな、嫌になっておらんとおかしいと思うぞ。

 奴は我々みたく、国の仕事をバリバリやっとるってわけじゃなかろう。そんな勉強をした経験があるはずはないし、きっと優秀な部下に、ありとあらゆる判断を丸投げして、自分はあくまで旗印として、アルビオンに君臨しとるだけのはずじゃ。

 ただ、君臨しとるっちゅうことは、それだけで責任の重さだけは、肩にずっしりかかってくる。トリステインとゲルマニアが、打倒すべしと叫んでおるのは、『アルビオン』と同じくらいの重さで『オリヴァー・クロムウェル』なんじゃ。我のおったロマリアにとっても、歴史あるアルビオン王家を抹殺した罰当たりは、実際に動いた何万人もの兵士ではなく、『オリヴァー・クロムウェル』じゃ。ハルケギニア中に注目され、ハルケギニア中に憎悪され、ハルケギニア中に恐れられる。こりゃよっぽどの胆力がないと耐えられん。それでもまだお空の国を治めておるのは、アンドバリの指輪の力と、自分に指示を与えてくれる誰かなことを頼りにしておるからじゃよ。

 断言する。クロムウェルは、アンドバリの指輪を持った誰かに――それが我々でなく、他の誰かだとしても――引退しろ、と命じられたら、むしろ大喜びで引退するわい」

「ヴァイオラの予想は、的を射ていると、私も思う」

 シャルロットが、横から我の話に頷いてくれた。

「覚えている、イザベラ? 私は前に、あなたの影武者として振る舞い、『地下水』という暗殺者の襲撃を受けたことがあった」

「え……あ、あの話? た、確かにあったけど、あれがどうしたのさ」

 急に目が泳ぎ始めるイザベラ。様子がおかしい。その『地下水』襲撃事件とやらに関して、何か思い出したくない記憶でもあるんじゃろか。

「あの時私は、人の上に立つことの危険さ――その一部を味わった。身分が高いというのは、それだけで多くの人の利害に関わることになる。いつ、何者が、どういう動機で命を狙ってくるかわからない。そんな生活を続けることは、よほどの覚悟がなければ、できないこと」

「……まあ、そりゃそうさ。あたしの場合は、ヴァイオラが言った通り、生まれてからずっとだから、諦めもついてるよ」

「クロムウェルは……できると思う? 諦めをつけることが?」

「……………………」

 シャルロットの澄んだ目で見つめられ、イザベラはしばらく考え込んでおった。

 じゃが、この質問は酷じゃ。イザベラは生まれつきの高貴な人間。王でなかった人間が、王になった時のことを、それほどはっきり想像できるとは思えん。

 ゆえに我は、さりげなく助け船を出してやることにする。

「国のトップ、という立場の重さに加えてな、今、アルビオン自体が、かなり苦しかろう?

 タルブ上空戦に負けて、空軍戦力をごっそり欠いたし、その報復でトリステイン=ゲルマニア連合に包囲戦術仕掛けられとる。もともと食糧自給率の低い国じゃ、それが外国からの輸入を差し止められて、ひどく飢えておるに違いない。

 今はまだ、備蓄でなんとかなっとるじゃろうが、いずれ必ず、貯蓄と生産が、消費に追いつかなくなる日が来よう。

 もうすでに、国民どもの、共和議会への――クロムウェルへの不満は、ぶちぶちと垂れ流されとるじゃろう……外は敵に囲まれ、養うべき国民は文句ばっかり言う。しかも自分の手に、お役立ちのアンドバリの指輪はないし、遠い国の支援者は長いことだんまりしておる……そこに我々が、お前の肩から重石を取り除いてやる、もう自由に暮らしてもいい……と言ってやったなら……?」

「……確かに。うん、心情的には、かなりやれそうな気がしてきたよ。

 しかし、そういう言い方で説得するってんなら、引退したあとのクロムウェルの面倒は、あたしたちが見てやるってことになるのかい?」

「まあ、そうなるわな。じゃが、そのくらいのことはしてやってもバチは当たるまい。クロムウェルもある意味、ジョゼフの悪巧みに踊らされた被害者じゃからの。奴ひとりを生かす程度の年金ぐらい、どっかから搾り出せるじゃろ。

 それに、じゃ。クロムウェルには引退後も、下手な暴露行為をせんよう、監視をつけておく必要があるから、目の届くガリアのどっかに住まわせる処置が必要不可欠なんよな。個人的には、どっか山に囲まれた僻村か、ジョゼフみたいに孤島で暮らしてもらえればいいと思っとるんじゃが……」

「それは大丈夫。ガリアは広い。山奥の村も、孤島もいくらでもある。手が空いたら、適当な場所をリストアップしておく」

 おっと、さすがシャルロット。なんとも頼りになるお言葉じゃ。

「ふむ、それならずっと、クロムウェルの口を封じておけそうだね。悪くないよ。

 でも、どういう名目で、奴を引退させる? 裏での取り引きを、表沙汰にするわけにはいかないからね。やめたくなったからやめます、なんてのじゃあ、アルビオン国民はもちろん、トリステインやゲルマニアも納得しないよ?」

 ぬふふ、そこも当然考えておるわ。ステキ頭脳の持ち主である、このヴァイオラ様をなめるなよ。

「我が直接、クロムウェルと交渉することができれば、奴の引退する理由は作れるぞ。

 まず考慮すべきは、今の神聖アルビオン共和国の基盤じゃよ。あの共和主義国家の前身……レコン・キスタとか言うたかな。あれの掲げたスローガンっちゅうのが、腐敗した王家に代わり、ハルケギニアを統一し、聖地にはびこるエルフどもと戦うのだー、的な感じだったと思うんじゃが、間違っとるか?」

「いや、合ってるね。ずいぶんな大口を叩くもんだって、半分感心しながら聞いた覚えがあるよ」

「よしよし。つまり、クロムウェルの主義主張、大義名分は、ブリミル教の教義にのっとったものじゃということがわかるであろう?

 アンドバリの指輪の力だけじゃない、宗教の力も使うて、自分の立場に正当性を持たせようとしておる。もちろんあまりに無謀過ぎるから、ロマリア宗教庁としては認められんがの。

 しかし、クロムウェルの表の動機が宗教であるなら、同じ宗教家としての立場から、説得を試みる余地がある」

「……つまり?」

「具体的な流れとしては、こんな感じにしたい。

 我は遠からず、アルビオンに渡る。名目は、戦争で疲労しておる民衆たちに、いち僧侶として励ましの言葉をかけに来た、とかでええじゃろ。その際、ハヴィラント宮殿も訪ね、クロムウェルにも会談を申し込む。

 これはアポを取る時、指輪のことをさりげなく匂わせさえすれば、確実に実現するじゃろう。奴と会った我は、アルビオン国民の不安と窮状を奴に訴える……もちろんこれはポーズで、ふたりきりになれたところを見計らって、我がアンドバリの指輪を持っとるということと、クロムウェルにとっての黒幕は、今や我じゃということを突きつけてやる。

 奴の引退、トリステイン=ゲルマニアとの戦争の終結も、そこで無理矢理にでも承服させる。奴に自分の身分への未練があったとしても、我に逆らうだけの力はない。それにたぶん、さっきも言った通り、クロムウェルはいい加減職務上の重圧にうんざりしとるじゃろうから、十中八九は素直に従ってくれるはずじゃ。

 で、えーと、クロムウェルが引退するための名目じゃったな。基本的にあれよ、我々としては、アルビオンが聖地回復を目指そうと、それはどうでもいいわけで、むしろ放っとけんのは、それを動機に周りの国にちょっかいをかけておることじゃ。その点を、ブリミル僧として、ガリア外務担当相として、こんこんと意見してやる……というか、してやった、ということにするんじゃ。

 始祖ブリミルへの深き信仰ゆえに、苛烈な方法で聖地をがむしゃらに目指していた聖戦士クロムウェルは、より立場が上の聖職者である我からの、誠意に満ちた説得を受け、己を省みる! 自分は急ぎ過ぎていたのではないか。武力を振りかざし、ハルケギニアに住まう人々の血を搾りながら聖地を目指しても、それは近道に見えて、むしろ反感という向かい風を受け続ける遠道なのではないか。和平によって、友好的に人類の意思統一をはかり、長期的に聖地を目指す土壌を作り上げた方が、より強い結束を生み出せるし、始祖の御心にもかなうのではないか……そんな風に、『改心』して頂くのじゃよ。

 会談のあとで、そういう経緯で国策を転換することを、議会でクロムウェルに宣言させる。議員の大半は、クロムウェルの操り人形にされとるのじゃろうし、正気の議員がおったとしても、包囲戦術でじり貧のアルビオンにおいて、なおも徹底抗戦を主張する好戦派もおるまい。飢えた状態でモチベーションを維持することは、誰にもできん。

 この宣言が採択されれば、クロムウェルはトリステイン=ゲルマニア連合に降伏を申し入れる運びになるじゃろう。そして、それが済めば、戦争の責任を取るという言い分で、晴れて辞職できるっちゅーわけ。

 無論、奴が自主的に辞職する程度では、戦争で迷惑をこうむったトリステインもゲルマニアも納得はすまい。奴の首を求める声が、いろんなところから出てくると思われる。

 じゃが、それは我が……ブリミル教会が押さえつける。我の説得でせっかく改心した人間を処刑したのでは、罪の償いにはならぬと主張する。トリステインもゲルマニアも、ロマリア人であり、ガリアに仕える我に対しては、強いことは言えんはずじゃ。戦争の終結に、我が関わっておるとなれば、なおさらの。

 奴らには、クロムウェルを始めとしたアルビオン貴族の財産没収とか、アルビオンの領有権とかを与えておけば、まあ手を引いてくれるじゃろ。

 そして、王様でも何でもなくなったクロムウェルは、このガリアに招かれて、田舎で慎ましい暮らしを始め……トリステインとゲルマニアは、戦争を終わらせ、新しい領地とカネを手に入れ……我々は、秘密の暴露を恐れる必要がなくなる。全方位すべからくハッピーエンドじゃ。どないじゃ、悪いシナリオじゃなかろう?」

 我がイザベラとシャルロットに問うと、ふたりはしばらく考え込んでおったが、やがて同時に頷いた。

「うん……確かに悪くない。どうやらいけそうだ。

 というか、四方を丸くおさめるには、それしかないような気がするよ。ヴァイオラ、あんたがブリミル僧だったことを、始祖に感謝すべきかね」

「全部が丸くおさまるだけじゃない。この計画が成功すれば、ガリアはアルビオンにも、トリステインにも、ゲルマニアにも恩を売れる。国際的な地盤が今まで以上に固められるし、我々の王室も、評判を高められる。

 メリットは非常に大きい。それでいて、デメリットはほとんど見当たらない。ヴァイオラ、ぜひ実行に移して」

「よしよしよしよし、任された。この任務、必ず果たしてくれようぞ」

 ふたりの承認を得て、我はグラスの影で、にんまりと笑みを浮かべた。

 ふたりは気付いとるかどうか知らんが、この作戦が成功したあかつきには、ガリアの評判ももちろん高まるじゃろうが、それ以上に我の、このヴァイオラ・マリア・コンキリエの名が、世界に轟くことになるのは間違いない。

 ガリアの政治家としての地位は、我にとってはあくまで、教皇の座に昇るための踏み台に過ぎぬ。その踏み台の一段目におるうちに、ひとつどでかい名声を得ておけば、将来の教皇選定会議の際に大きなアドバンテージになる。

 アルビオン・トリステイン・ゲルマニアの三国戦争を和平に導いた聖女! こんな強力な肩書きは滅多に手に入らぬし、これに勝てる名誉というのも、なかなかないはず!

 ガリアの危機を解決し、自分の未来の成功につなげる。一石二鳥とはまさにこのこと。我の頭のよさに、今さらながら感心するわい、うへへへへへ!

「んじゃ、そういうわけじゃから、今度アルビオンに行くために、我が一番最初に長期休みを取るぞ。

 わりと急ぎの仕事じゃからな、できれば今週中か、遅くとも月が変わる前がいい。他の、国内関連の仕事……我の分の書類は、お前たちふたりに分担してやってもらうことになるが、明日からはだいぶ量が減るらしいし、平気じゃろな?」

 ――我が深く考えず口にしてしもうたその言葉が、さっきまで安心してほころんでおったイザベラとシャルロットの表情を、再び固く緊張させた。

「……な、なあヴァイオラ。ちょっと提案があるんだけど。

 あんただけでなく、女王のあたしもついて行った方が、ガリアが戦争問題に深い関心を示している、って知らしめる効果が得られて、いい感じなんじゃないかい?」

「私もアルビオンに行く。今のガリアは三頭政治と言われている……ヴァイオラとイザベラが行くなら、私も同行して、ガリア王室の結束の強さを、内外に見せつける必要がある」

 冷静を装った、ガリア女王と副王の必死アピール!

 ああ、こいつらふたりとも気付いておるのじゃ! 明日からの仕事は量が減ると言っても、あくまでそれは今日までと比較してのことであり、やっぱり多いことに変わりはないということに!

 三人でやればだいぶ楽じゃけど、誰かひとりいなくなって、そいつの分が自分に降りかかってくれば、また書類の中であっぷあっぷ溺れなくてはならなくなる、ということを!

「え、えーと、お前らにひとつ尋ねたいんじゃけど。

 我ら三人がガリアからいなくなったとして……その間、内政のお仕事は、誰が……?」

「……………………」

「……………………」

 我ら三人、同時に沈黙。

 たっぷり三分ほど、静かな睨み合いを続け――最終的には、イザベラが結論を出した。

「……モリエール夫人に丸投げしよう」

「そうするかのぅ」

「おそらく、ベストな選択」

 我もシャルロットも頷き、生け贄羊は決定した。

 かつて、ジョゼフの愛人であったモリエール夫人。恋人が失脚し、遠い遠い場所に追放されてしまい、ひとり残された可哀想な夫人。

 愛する人と離ればなれになってしまった悲しみを、彼女は仕事への熱情に昇華させた。我々に回される仕事の選択だとか、大臣たちとの打ち合わせだとか、その他細かい問題の処理だとか、とにかくいっぱいいっぱい働いて、今のガリア王室を陰日向に支えてくれておる。

 この人がおらなければ、ガリアは王が変わったことによる混乱に揺らぎ続け、とても今ほどの安定を見せておらなんだじゃろう。

「たぶんモリエール夫人も、現状の四倍くらい忙しくなれば、失恋の傷も気にならなくなるはずさ。うん、あの人に仕事を任せるのは、あたしらにとって都合のいい押しつけじゃなくて、あくまで善意からのことだから、きっと文句は出ないよね」

「そ、そうじゃよそうじゃよ。あの人もそろそろジョゼフのことに見切りをつけるべき時じゃ。大量の仕事をこなして、そりゃもう数えきれないほどの人たちと話し合いをする機会を持てば、もしかしたらその中から、新しい恋のお相手も見つけられるかも知れんし!」

「モリエール夫人なら、信頼できる。私たちがルーならば、あの人はイーヴァルディの勇者のような、そんな感じ。悪竜退治並みのツラい仕事だって、きっとちょちょいのちょい」

 夫人に苦行を課す後ろめたさを、それぞれ、いっしょーけんめい正当化してみる。我々がアルビオンに行っとる間、あの人に寝る時間があるかどうかわからんが――モリエール夫人なら、モリエール夫人ならきっと、何とかしてくれる――!

 とりあえず、あとで夫人宛てに疲れと眠気を取る水の秘薬(飲み過ぎると中毒になるので注意が必要)を、山ほど差し入れることで意見を一致させた我々は、確かな信頼感と、なぜ存在するのかわからぬわずかな罪悪感を抱いて、それぞれ寝室へと引き取った。

 そして、この秘密会談の五日後。偉大なる犠牲と引き換えに、我とイザベラとシャルロットは、アルビオンに発つことになったのじゃ。

 

 

「……んで、ヴァイオラ。シザーリアが運んでる、あの荷物はいったい何だい」

「何って、我の着替えとか着替えとか枕とか、その他いろいろじゃよ。我とて女じゃもん、旅行するならこれくらいの荷物は必要じゃわい」

 シャルロットなら楽々入ることのできる大きさのトランクケースを、さしあたり二十七個。シザーリアが何往復もしながら船に運び込んでいるさまを見ながら、我はイザベラの問いに答えた。

 場所は軍港サン・マロンの、海に向かって突き出した桟橋の上。天気は、透き通る青に吸い込まれそうな快晴。我々をアルビオンまで運んでくれる、長距離用大型両用高級旅客船『スルスク』も、陽光を浴びて光り輝いておる。

 きっといい船旅になる、という予感が、我の心に満ち満ちておった。そして、旅を満足なものにするためには、何かに不足することがけっしてあってはならない――ということじゃ。

 どれだけ船のデッキから臨む風景が美しくても、着ているのが前日と同じドレスでは、爽やかさが六十分の一以下になろう。船室のベッドがいかに柔らかかろうと、枕が頭に合わなければよい眠りは期待できぬ。旅先の環境に自分を合わせるのではない、旅先の環境に自分の居場所を作るべし。我のような繊細で、感受性豊かで、か弱いお嬢様タイプの人間は、長距離を移動する際にはそれくらいの準備をしておかねば、すぐに疲れが来てしまう。今回は物見遊山を楽しむだけではなく、ひとつの戦争を終わらせるという大きな仕事をこなさねばならんのじゃから、己の満足のためにしっかり念を入れておくのが、きっと正解なんじゃよ?

「んー、まあ、確かにそうかもね。あたしもそれなりに荷物は多いから、あんまりあんたを変な目では見れないか」

「そうじゃそうじゃ。貴族の娘じゃもの、荷物が多いんは当たり前じゃ。しかもお前は王族じゃもの、我より多いぐらいでもよかったんじゃよ?

 ……っていうか、イザベラや。我やお前よりも、むしろシャルロットの方が、奇異な目で見られるべきじゃと思うんじゃけど。あの年頃の女で、何日もかかる旅行で、荷物が背中に負えるナップザックひとつにまとまるってどうなんよ?」

 ひそひそ話をする我とイザベラの目の前を、普段通りのごつい木の杖と、トリステイン魔法学院の制服と、大きめのネコぐらいのサイズのナップザックだけを身につけたシャルロットが、てくてくと歩いてくる。

「……言ってやるなよ、ヴァイオラ……あの子はまだ、北花壇騎士時代の感覚が抜けきらないんだ……。

 ああ、もう、あの無駄な合理性、早く何とかしてやりたい……コキ使ってた頃に、もうちょっと甘やかしておけばよかった」

 声を潜めて嘆くイザベラ。

 確かに、死と隣り合わせじゃった過酷な生活においては、動きやすく目立ちにくい服装と、最低限の物資だけでことにのぞんだ方が、生き残りやすかったかも知れん。

 でも今は、もう立派に一国のお姫様なんじゃぞ。むしろ華美な装飾をこそ誇った方がええじゃろに。そのカッコでは、まるっきり遠足に行く学生ではないか。

 聞いたところによると、留学しておったトリステイン魔法学院の籍も、まだ残したままらしい(だから、着ておる制服もそのまんま)。あんにゃろ、ちびっこくて身のこなしが軽やかなふりして、意外と環境の変化についていけんタイプか。バシッと切り替えろバシッと。

 まあ、その点はこれからゆっくり教育してやればええわな。どーせ奴は、今回は勝手についてくるだけのオマケでしかない。それはイザベラも同様――あくまで今回の主役はこの我。我さえしっかり、豪華絢爛にしておけば、少なくともガリアは恥をかかんで済む。

「おお、そうじゃ、イザベラよ。船に乗り込む前に、例のものを受け取っておきたい。あれを必要とするのは、交渉役の我じゃからな」

「わかってる。それじゃ、確かに渡したよ……ガリアの運命を左右するお宝なんだから、無くしたりするんじゃないよ?」

 そう注意して、イザベラは自分の指にはめていた古ぼけた指輪を、我にそっと渡してよこした。

 この美術的センスゼロの腐れかけたアクセサリーこそ、アルビオンを革命の嵐に巻き込み、今またガリアをも暗雲で包もうとしている諸悪の根元。水の精霊の秘宝、アンドバリの指輪なのじゃ。

 我々にとってはとんだ疫病神ではあるが、同時にクロムウェルに対する唯一の鬼札でもある。扱いは何より慎重に、かつ厳重にしなければならん。

「よしよし、確かに受け取ったぞ。もちろん我も、これを粗末に扱う度胸はないわい。じゃから、さしあたり一番安全そうな場所に保管しておくことにする。……おーい、シザーリア! お前、例の黒いトランクはもう積み込んだか? まだ? よろしい、ならばちょいとこちらへ持ってこい!」

 せっせと船へ荷物を運び込んでおるシザーリアを、目当てのトランクと一緒に呼び寄せる。

 我が注文したそれは、衣服などを詰めた、軽くてオシャレな革のトランクとは違い、金属的に黒く輝く、ごっつい箱であった。実際それは金属で――それも鋼鉄でできており、旅行鞄というよりは、金庫といった雰囲気を漂わせるものであった。

 重さもかなりあり、シザーリアはレビテーションでそれを運んできたが、それでも空中でちょっとフラフラしておった。おそらく魔法なしであれば、屈強な男数人がかりで、やっと持ち上がるという代物じゃろう。正直、持ち運びには不便極まるが――それを補って余りある頑丈さと機密性を期待できるからこそ、我は今回の旅路に、この金属トランクを携行することにしたのじゃ。

「お待たせしました。お求めはこちらのトランクでございますね?

 そこに置きますので、一歩お下がり頂けると助かります」

「うむ、慎重に下ろすのじゃぞ、シザーリア。箱は頑丈でも、中身はそうとは限らんゆえにな」

 板敷きの桟橋をみしりと軋ませて、トランクは横たえられた。我はその留め金をはずし、扉のようにでかいフタをばくんと開ける。

 その中には、いろいろな得体の知れない道具がごちゃごちゃと詰め込まれておった。――うーむ、我自ら詰めたとはいえ、この乱雑ぶりはちと目を覆いたくなるのう。

「その箱は何だい? いやにグッチャグチャじゃないか」

 我の肩越しに、イザベラが興味深そうにのぞき込んでくる。

「これかや? まあひと言で言うと、アンドバリの指輪のお仲間どもじゃよ。

 ほれ、ジョゼフと一緒に島流しになった、ミス・シェフィールドっつう女がいたじゃろ。あいつ、ずいぶん熱心なマジック・アイテムのコレクターじゃったみたいでの、私室にたんまり面白げなもんを並べておったんで、ちょいといくつかパクってきたんじゃ」

 転地療養という名目のもと、裁判もなしにあっという間に追放された先王ジョゼフ。その奇特な忠臣、ミス・シェフィールドも、自分の部屋を整理する暇もなく、身ひとつで離島にポイスされた。

 今もグラン・トロワには、シェフィールドの部屋がそのままの状態で残されておるのじゃが、先日我は、あるジョゼフ政権時代の資料を求めて、彼女の部屋にお邪魔する機会があった。

 いやー面白かった。ちょいと指でいじるだけで歌い踊る人形だとか、絵が動く絵本だとか、破れてもすぐにもと通りに戻るストッキング(!?)だとか、見たことも聞いたこともないマジック・アイテムが、棚や引き出しに盛りだくさんになっておったのじゃから。

 どーせシェフィールドが帰ってくる可能性はないし、こんな愉快かつ価値のありそうな物品を延々と死蔵しとくのももったいない。そう思った我は、これぞ一種の所有権フリー物件と判断し、特に興味を覚えたものを片っ端から我の部屋に持ち帰っていった。これは正当な接収であって、横領などではないので、勘違いしてはいけないのじゃよ?

「で、今回のアルビオン旅行じゃけど。和平目的とはいえ、やっぱそれなりに危険もあろう? じゃから一応、身を守れそうなマジック・アイテムを、いくつかこうして見つくろってきたんよ」

 もちろん、シザーリアとか、頼りになる護衛はおるけれど、ここしばらく、なぜか自分の力で何とかせにゃならん危機にばっか直面しておるからのう。我個人の自衛能力を、マジック・アイテムで底上げしておいて、きっと損にはなるまい。

「へえ、そりゃ頼もしいじゃないか。

 あたしも、自分自身の力にはあんまり自信がない方だからねぇ……ねえ、もしよかったら、あたしにも使えそうなアイテムをひとつかふたつ、貸しておくれよ。そんな大きな箱に山ほど詰め込んでるんだ、数は余ってるんだろ?」

「もちろんかまわんよ、イザベラ。えーと、お前にも使えそうで、なおかつ携帯に便利なのは……このあたりかのう。『ジャンボ・ガン』と『熱線銃』」

 箱の奥から掘り出した、小さなL字型の鉄塊ふたつを、我はイザベラの手にズシンと乗せた。

「どっちも銃? 銃って、平民の武器だよね。確かに手のひらサイズで、扱いやすそうだけど……マジック・アイテムというからには、ただ火薬で弾を飛ばすだけじゃないんだろ。いったいどういう機能があるんだい?」

「ちょいと待てよ、ここに説明書がある。えーと……『ジャンボ・ガンは、一発で三十メイル級の岩ゴーレムを吹っ飛ばす!』、『熱線銃は、ロイヤル・ソヴリン級の戦艦を一瞬で煙にしてしまう!』……だそうじゃ」

「使えるかぁッ!」

 声をひっくり返らせて、二丁のただならぬ破壊兵器を放り出すイザベラ。

 うん、これは我も悪かった。よく説明書も見ずに、武器っぽいものを適当に詰め込んでみたら、まさかこんな恐ろしいもんが混じっておったとは。

 もしこの武器をアルビオンで使ったら、それがたとえ自衛のためだったとしても、フツーに宣戦布告に匹敵する被害を周りに及ぼすじゃろう。こんな銃は箱の一番底にしまっとこう――いや、アルビオンに行く途中の海に投げ捨てた方がええかもな。できれば我の周囲一リーグには存在していてほしくない。

「まったく、ミス・シェフィールド……なんつーもんをコレクションしてんだい。ヴァイオラもひどいじゃないか、背筋がぞぞっとしたよ」

「いやはや、すまんすまん。でもたぶん、今の以上に危険なアイテムはもうないと思うから安心せい。

 あ、こっちなら持っていても害はあるまい。かぶると姿が見えなくなるマントだそうじゃよ。誰かに襲われても、これをかぶれば安全に逃げおおせることができよう」

「おお、いいじゃないか。こういうのだよこういうの。

 どっかの貴族が、同じようなアイテムを持ってるって話を昔、聞いたことがあってね。ずっと欲しいなって思ってたんだ」

 たためばメモ帳サイズにおさまる、非常に薄いマントをイザベラは受け取り、ケープのように肩にまとった。すると、まるで空気に溶けたかのように、一瞬で彼女の姿が目の前から消え去った。

「おお、これは面白い。イザベラ、我にはお前がどこにいるのか、まったくわからんようになったぞ」

「へへえ、そうかいそうかい! こりゃ自衛以外にも、面白く使えそうだね。ねえヴァイオラ、今の状態で、あそこにいるシャルロットのスカートめくったら、あいつどんな顔するかな?」

「うむ、気配だけでお前の存在を察知して、杖でぶん殴ってくると思う。やめといた方がええじゃろな」

 果たして、とことことこと我々の目の前までやって来たシャルロット(大地がもっと輝けと囁く遠足スタイル)は、まず我を見て、それから何もない空間に――たぶん、イザベラのいる位置に――ちら、と視線を走らせ、こう言った。

「私はそろそろ船に乗る。ふたりも、そろそろ乗船した方がいい。出航予定時刻まで、あと十五分ほど」

「おう、了解じゃ。我々も一緒に行くことにしよう。ええな、イザベラ?」

「……ああ」

 ちょっとがっかりしたような声が、まさにシャルロットの見た方向から聞こえた。

「……なあヴァイオラ……こんなあっさり見抜かれるなんて、もしかしてこのマント、一流どころの傭兵とか暗殺者には全然通用しないんじゃ……?」

「だ、大丈夫じゃよ。息とかしっかり止めて、身動き全然せずに、気配を完璧に絶てば、誰も気付かんに違いないと、説明書にも書いておる」

「けっこうハードル高いよね!? あたしに今から、職業レベルの間諜になれってのかい!?」

「……イザベラ。あなたの姿は見えないから、今の状態だと、ヴァイオラがひとりで会話しているように見える。少し自重すべき」

 涼しい顔で、我と同じように中空に話しかけるシャルロット。うん、確かにこりゃ異様じゃ。

 しかし、こいつがこういう奴じゃというのはわかっておったが、こうも全然驚いてくれんと、我としてもあんま面白くないのう。さっきのジャンボ・ガンと熱線銃、何の説明もなしにこいつに装備させちゃろうか? 杖をなくした時の隠し武器とか言うて。

 と、そんなことを思うておると、出航準備完了を知らせる旗が、マストに高々とあげられるのが見えた。いい加減船に乗らねば、予定が狂ってしまう。

「よし、イザベラ、とりあえず話の続きは、船のラウンジででもするとしよう。なぁに、このトランクには他にもお役立ちの品が盛りだくさんじゃ。一緒に気に入るもんを選ぶのも楽しかろうて。

 シャルロットも見るか? そのごつい杖以外にも、身を守るアイテムはあって損にはならんぞ」

 トランクのフタをぱたんこと閉じて、我は再びシザーリアに命じ、重い重いそれを船内に運ばせる。

 我の提案に、シャルロットは無表情ながらもこくりと頷いた。イザベラもブツブツ文句こそ言っていたが、「次はちゃんと役に立つもんをもらうよ」何て言っておるのを見る限り、マジック・アイテムへの興味をなくしたわけではなさそうじゃ。

 安心せい安心せい、ちゃんと役に立つもんをくれてやるでな――もちろん、我が優先的に使えるもんを独り占めした上での、残りのおもちゃみたいなアイテムの中から、っちゅー意味じゃが!

 我々は三人並んで『スルスク』に乗船し、それを最後として、桟橋からタラップがはずされた。

 もやい綱が解かれ、錨が上げられる。どこかで船長が、出発の合図を大声で叫んでおる。我はデッキの上で海面を見下ろしながら、それを聞いていた。

 やがて、あのふわりとくる感覚とともに、『スルスク』はその巨体を、海から空へと持ち上げていった――。

 

 

『スルスク』の乗客用ラウンジには、ずらりと並んだ豪華なライカ檜のテーブル・セットとともに、何十種類もの酒瓶を揃えたバーカウンターがあり、二十四時間好きな時に美味い酒を楽しめる。

 我々はさっそく、バーテンに好みの酒を注文し、旅の時間を陽気なものにしようとたくらんだ。

「我は、ピニャ・コラーダを頂こう。イザベラ、シャルロットはどうする?」

「あたしはジン・トニックにしておこうかね。船旅にゃ、さっぱりしたもんがいい」

「私は、ギムレットがいい。少しシロップを多めで」

 できあがったグラスをそれぞれ受け取り、窓際の明るいテーブルへ移動する。デッキに向かって解放された広く大きな窓は、青空が天頂まで見渡せそうなほどの開放感じゃ。軽く潮気を含んだそよ風も心地よく、我はゆったりとした気分で、フレッシュ・フルーツの搾り込まれたカクテルを傾けた。

「ふー、快適、快適。あとはこうしてのんびりウトウトしておれば、アルビオンまで一直線というわけじゃ。船というのは楽でええわい」

「まあ、あたしたちは特にすることはないけど、一直線ってのは間違ってるよ。途中、トリステインのラ・ロシェール港に降りて、風石の補給をしないといけないって、フライト・プランには書いてあったから」

「それに、アルビオンは今、トリステインとゲルマニアによって完全封鎖中。風石補給作業が行われている間に、トリステイン王室から発行される特別航行許可証を受け取らなければならない。これは、外務担当であるヴァイオラの仕事になる」

「うええ〜? 我だけ仕事あるん? 面倒じゃなぁ……シャルロット、暇ならば代わらんか?」

「嫌。それに、出発前にトリステインに向けて、許可証の発行申請は手紙で送ってある。ヴァイオラはそれを受けとるだけだから、面倒でもないはず」

 いや、ぶっちゃけ、我だけが仕事をして、他の奴らが遊んどるっつー状態が気に入らんだけなんじゃけどね。

「まあどっちにしろ、ヴァイオラはアルビオンに着いたら、ちゃんとした外交的な仕事をしなくちゃいけないんだしさ。その程度のみみっちい仕事でダレてちゃダメだよ。

 かの国での交渉は、失敗が許されない難しいものなんだからね。今のうちから、しっかり気合い入れててもらわないと!」

「あー……まあ、そうじゃわなぁ。うむ、そん時になったらシャキッとするとも。我にどーんと任せておくがいい」

 イザベラの激励に、しかし我は言葉では頷きつつも、頭ン中はだらだらーんと、真夏の屋外に放置した聖水盤のごとき心境であった。

 それというのも、我はそっちの仕事にも、別に気合いを入れて取り組む気などないからじゃ。

 オリヴァー・クロムウェルの説得を諦めたとか、そういうのではない。単に、気合いなんぞ入れんでも、奴を取り込むぐらい簡単にできると知っておるから、やる気を出す必要を認めんというだけのことじゃ。

 いや、我も最初は、この任務に命がけで挑んでやろうと思っておったよ? アメとムチを織り混ぜた、完璧な説得のセリフを考えて、クロムウェルの心を技術的にぐわしっと掴んでやろうと思っておったよ?

 でもな、イザベラから、アンドバリの指輪を受け取った瞬間、ふと気付いてしもたんじゃよ。

(……あれ? もしかして、我がこの指輪を使って、クロムウェルを操り人形にしてやれば、わざわざ説得とかする必要ないのでは?)

 ――と。

 そう、その方が圧倒的に楽で、確実で安心なんよ。応じてもらえるかわからん説得の言葉を重ねるのは面倒じゃし、うまいこと説得できても、そのあとでクロムウェルが裏切ったら、もとも子もない。

 その点、洗脳という手段が使えれば! 説得するまでもなく、奴は我の言うことを何でも聞いてくれるし、裏切りの心配もせんで済むというわけじゃ!

 ゆえに我は、今回の仕事についてものっすごい気楽に構えていられる。たぶん、アルビオンで使う労力は、トリステイン王室から航行許可証を受け取る仕事とどっこいどっこいじゃろう。こうしてピニャ・コラーダを飲みながらでも、余裕のよっちゃんで完遂できる。

 もちろんそんなことを、イザベラたちに言うつもりはない。ガリアの運命が今回の旅行で左右される、と思い込んで、きっと今も深刻な気分でおるじゃろうこいつらには悪いがな。

 簡単な仕事をさっさと済ませた、と思われるよりは、ギリギリの難しい仕事を必死に成功させた、と思われる方が、我の評価も上がるしの。

 引き続き、我に頼りまくりのベッタリな政治体制を貫いてもらうためにも、こやつらにはまだしばらく緊張感を維持してもらおう。酒と美しい空の景色があるのじゃ、まあストレスで潰れてしまうということはあるまいて。

「と、そういえばさ、ヴァイオラ。さっき桟橋で見せてくれた、マジック・アイテム。今はちょうど時間あるし、じっくり見せてくれないかい?」

「私も気になる。さっきは、イザベラが透明になっていたようだけれど、他にはどんなものがあるの」

「おうおう、いいともいいとも。あのステキコレクションを、お姫様たちにご覧に入れよう。

 といっても、あのトランクは我の船室に運ばせたから、じっくり見てもらうにはあとで我の部屋に来てもらわねばならぬが……ああ、でも、いくつか我自身が身に付けておる奴があるんで、それを見てもらおうか。これとこれとこれとこれ……」

 ふわふわ柔らかな僧衣のポケットをまさぐり、中に放り込んであった携帯サイズのマジック・アイテムを、次々とテーブルの上に出してみせる。

「さあさ、こいつらは持ち運ぶのに手軽な大きさだったゆえ、身に付けてみたそれなりの品々じゃ。説明書を見ながらひとつひとつ説明してやるから、お気に召したもんがあったらどうぞお持ちになるがいい。

 えーと、このちっこい人形は……木のスキルニル? 血を一滴垂らせば、血の持ち主そっくりに姿を変える、携帯型ゴーレムだそうじゃ。知性も能力も、本人そっくりになるらしい……影武者が必要なお前らの立場なら、重宝しそうじゃね。

 こっちの鈴みたいなんは……眠りのベル、じゃと。寝る前にこれの音を聴いたら、ぐっすり安眠できるらしい。眠りの鐘とか、スリープ・クラウドみたいに、人を強制的に眠らせるとかではないらしいのう。

 その革ベルトは……魔法の拘束具? 合言葉を唱えると、装着した人間の体に微弱な雷が流れる……痛いだけで怪我はしないので、言うことを聞かない彼氏をしつけるのに最適……って、何じゃこれ。

 あ、シャルロット、そのうずらの卵みたいな、小さな桃色の水晶球が気になったかや? それはえーと、魔法のピンクたまご……そのまんまじゃな……説明によると、合言葉を唱えるとブルブル振動するので、肩の凝ってるところとかに押し当てると気持ちいい……」

「身を守るのに使えそうなの、スキルニルくらいしかないねぇ」

 ぐっ。イザベラに呆れ顔で、バッサリ切って捨てられてしもうた。

 確かに我も、説明書を読みながら、ろくなもんないなーとは思うたけど。さてはシェフィールドのアホめ、マジック・アイテムでさえあれば、特にこだわりもなく無差別に集めまくっておったな。

「も、もちろんこれだけではないぞ? ちゃんと役立つもんだって、もっといろいろあるんじゃよ。えーとえーと、他には……」

 シェフィールドのせいで、我の株まで落ちかねないので、さらにアイテムを放出して、名誉挽回をはかることにした。

 しかし、ポケットの中はすでに空っぽ。この青髪のガキどもに「わーすごーいこんなものがあるんだー」と尊敬の目で見られるには、一旦部屋に帰って、あのごつい黒トランクを引っ掻き回さねばならん。

 うわーめんどい、もう素直に、これで品切れじゃから、アイテムに頼らず自分の身は自分で守れこんちくしょー、と逆ギレしてやろうかな――などと考え始めた時、ポケットに突っ込んだ手に、何かが触れた。

「あ、こんなもんあった。……けど、何じゃこれ」

 引っ張り出してみると、それは小さな護符(タリズマン)じゃった。始祖の像と教典の文句が刺繍された、コットン生地の巾着袋で、中には何か、硬くて四角い、平べったいものが入っているようじゃ。

「どういうマジック・アイテムかのぅ? 説明は……あれ、これには説明書がついとらんな。中身を開いて確かめてみるべきか?」

「ちょっと、やめなよヴァイオラ。そういう護符って、開けて中身見ちゃったらご利益がなくなるんだよ。

 説明書がないってことは、マジック・アイテムじゃないんじゃないかい? ミス・シェフィールドだって、マジック・アイテム以外の私物を持ってなかったってわけじゃないだろうし、たまたま紛れ込んだ、ただの護符なんじゃないか?」

 イザベラの指摘に、我もうーんと考え込んだ。確かにそういうこともあり得るか。

 しかしじゃとしたら、我としたことが、余計な荷物を持ってきてしもうたわい。我は聖職者じゃが、別に本気でブリミルのことなんぞ信仰してはおらん。世の中カネと権力なので、護符のみみっちい加護なぞどうでもいいのじゃ。

 それに――紛れ込んだイレギュラーが、このちっこい護符ひとつならまだショックも小さいが、あの大きなトランクの中身を、我はまだ詳しく確認しておらぬ。もし同じような、ろくでもないがらくたが数多く混ざっているとしたら、すごい無駄をした気分になる。

「……イザベラ、シャルロット、お前ら、どっちか、この護符欲しいか?」

「うーん、あたしは要らないな。もともと他人のだった護符を身に付けるってのも、変な気分だし」

「私は、このピンクたまごの方がいい」

 要らんゴミを厄介払いしようとする我の企みは、両者に断られたことであえなく潰え去った。あ、シャルロットさんはどうぞ、そのごくつまらん振動水晶球をお持ち帰り下さい。何がこいつの琴線に触れたのかはわからんが、そんなに目をキラキラさせて見られたなら、ピンクたまごも本望であろう。

 それでも、役立たずが結構手もとに残るのう。やっぱり、ゴミなんじゃし捨てるしかないな。船に乗っとる間に、よく調べて分別して、要らんもんはトリステイン沖の海に投下しよう。ジャンボ・ガンとかに対して考えていた処分方法が、ここにきてにわかに現実味を帯びてきた。魚のエサにして、何もかもなかったことにしてしまおう。

「まあ、やっぱりあれさ。自分の身を守るなら、アイテムより信用できる部下を見つける方が確実ってことだろうね。

 あんたのメイドのシザーリアだって、そこそこの腕なんだろ。忠誠心もなかなかありそうだったし、ああいう奴にもっと目をかけてやんな。部下ってのは、雇い主に気にかけてもらえるほど、いい仕事をするもんだよ」

 北花壇騎士団長として、強者どもを統率しておったイザベラが、なかなか含蓄のあることを言いおった。

 なるほど、確かにそれは道理じゃろう。アイテムは自分で使わにゃならんけど、ヒトならば勝手に自己判断で我を守ってくれるものな。

「まあ、シザーリアがおる限りは、我の身は安全じゃろうな。しかし、お前らはどうじゃ? シャルロットはこいつ自身強いから、あまり心配しとらんが、イザベラはどうする。さすがのシザーリアも、ふたり、三人もは同時に守りきれんぞ」

「イザベラのことは私が守る。安心していい」

 フンスと気合いも充分に、シャルロットが杖を掲げてみせる。こいつらはいつも一緒におるから、実際にイザベラの護衛としても機能するじゃろうけど、ええんかそれで。

「馬鹿、それでいいわけないだろシャルロット。今はあんたも、ガリアの重要人物なんだからね。自分で杖を取って、戦いにのぞむなんてしちゃいけないよ。

 当たり前のことだけど、今回の旅行には、ちゃんとボディーガードを連れてきてるんだ。腕利き揃いの、東薔薇花壇騎士団から、特に信用できるのを……ああ、噂をすれば影だ。ほら、こっちにおいでカステルモール!」

 ちょうどラウンジに入ってきた青年騎士に、イザベラは手を振って合図をした。

 呼ばれた方は、軍人らしいきびきびとした歩調で我々の前までやってくると、片膝をついて我々に敬意を示した。うむ、己をわきまえた、礼儀正しい奴のようじゃ。

「お呼びでございますか、イザベラ陛下」

「ああ。カステルモール、あんた、ヴァイオラとはまだ面識がないだろ。今ちょうど話題に出たから、紹介しておいてやろうと思ってさ。

 ヴァイオラ。こいつは東薔薇花壇騎士団の団長をしている、バッソ・カステルモールだ。今回の旅行には、あたしたち三人のボディーガードとしてついてきてもらった。

 風のスクウェアで、戦い慣れもしてるし、正規の軍人だから、貴族としての作法も身につけてる。アルビオンで行動する時、エスコートを任せても、まあ恥をかくことはないだろうよ」

 ほう、こいつがあの名高い、ガリアの東薔薇花壇騎士団の団長か。

 我は、イザベラに紹介されてこちらを向いた、カステルモールとやらの顔をじっと観察した。口ひげなんぞ生やしておるが、思った以上に若いようじゃ――年齢は、二十代の半ばを越えまい。がっちりした体格と、きりりと引き締まった表情を持つ、隙のない感じの男じゃ。

 顔立ちはまあ、美青年といって差し支えはあるまい。まだまだ青臭い感じは抜けきらんが、あと十年もすれば、シブいダンディさんになれるんじゃなかろうか。

 しかし、この若さで東薔薇花壇騎士団団長ということは、相当に将来性のある若造じゃな。何年かのちには、ガリアの軍部の中心人物となっておる可能性が高い。そういう奴には、いい顔を見せておくべきじゃろう。我は外交用の特製スマイルを浮かべ、若き騎士団長に言葉をかけた。

「ふむ、ミスタ・カステルモールかや。お初にお目にかかる。ご存知じゃろうが、ロマリアから来たヴァイオラ・マリアという、始祖のしもべじゃ。

 今回の旅路では、大いに頼らせて頂きますゆえ、よろしくお願いしますぞ。このイザベラ陛下とシャルロット殿下の安全を、よく気を付けてあげて下されや」

「はっ、ご挨拶が遅れまして申し訳ございません、マザー・コンキリエ。東薔薇花壇騎士団団長、バッソ・カステルモールでございます。

 あなた様方の旅の安全は、私が責任を持って守ります。どうぞ、大船に乗った気持ちでいて下さい」

 我の言葉を受けて、さらに頭を深く下げるカステルモール。うむうむ、ちと堅いが、悪くない印象じゃ。こういう若い真面目くんは、裏表のない奴ばっかりじゃから、安心してコキ使えるな!

「こいつは、あたしが北花壇騎士団の団長をしてた頃にも、何度か使ったことがあってね。

 今回のアルビオン旅行は、別に軍事行動ってわけじゃないから、大袈裟な部隊を連れて来るわけにはいかないだろ? だから、ある程度人柄がわかってるこいつを、護衛兼便利屋要員として連れてきたんだ。ヴァイオラ、何か力仕事とか必要になったら、遠慮なく命令してやんな。

 ……で、カステルモール。あんた、今入ってきた時、あたしたちを探してるようだったけど、何か用があったのかい?」

 イザベラの問いかけに、カステルモールは頷き、懐から取り出した一通の書簡を、恭しく差し出した。

「先ほど、フクロウ便でこれが届きました。差出人はモリエール夫人ですが、トリステイン王室からの書簡を転送したものであると但し書きがしてあります」

「トリステイン王室から……? 何だろう? まさか今さら、航行許可が出せないとか言うんじゃないだろうね……」

 イザベラはいぶかしげに眉根を寄せて、受け取った書簡を開いた。そして、しばし中の文章に目を走らせて――。

「……ふん、なるほどね。向こうさんもこの機会を、うまく利用しようってつもりらしい。

 ヴァイオラ、シャルロット。あんたたちの意見を聞かせてほしい……この手紙でトリステインは、我々の船に、アルビオン議会への交渉(ネゴシエイト)を目的とした外交団を同乗させてくれ、と要請してきている。

 争いに無関係なガリアの船を使って、交渉人を送り込むことで、平和的な話し合いを望んでいることを相手にアピールしたいんだろう……どうやら、この冷戦を早めに終わらせたいと思っているのは、トリステインも同じらしい」

「トリステインの外交団、じゃと?」

 我は少し思案する。我々の存在を利用しようという魂胆については、まあ大目に見てやらんでもないが、トリステイン側でアルビオンに交渉を仕掛けよう、というのは、ちと歓迎しかねる。

 オリヴァー・クロムウェルを降伏させるのは、この我でなくてはならんのじゃ。でなければ、戦争を終わらせた聖女という肩書きが手に入らない。

 それだけではない、ジョゼフのやらかした陰謀について、クロムウェルの口を封じることもせにゃならんから、トリステインの人間がチョロチョロされては、スッゴいやりづらくなってしまう。もちろん、事情を知らぬカステルモールの前で、そんなことは言えぬので、もうちょいマイルドな理由を考えて反対を表明せねばならんが――。

「我は、できるなら反対したいのう。アルビオンと敵対しておるトリステインの外交団を乗せてしまっては、我々の中立性が崩れる。ガリアはトリステイン側についた、と言われても、仕方のないことになってしまうわい」

「私は、それだけの条件ではまだ、どちらがいいか決められない。イザベラ……その手紙には、他にどんなことが書いてあるの? 断った場合の、こちらのデメリットだとか……外交団のメンバー構成だとかは……?」

 ふん、優柔不断なシャルロットが、何か言うておるわ。

 どーせトリステインごときが、我々大ガリアにデメリットなりペナルティなり食らわせられるとは思えんし、外交団のメンバーが誰であれ、我の精密かつ論理的かつ常識的な判断を覆すことなどあり得んじゃろーに。

「ああ、ちょっと待ちな……デメリットは、特にないみたいだね。この手紙には、はっきりと『この要請が断られても、我々はあなた方に一切の遺恨を持つことをしないと約束する』と書かれてるし。

 で、外交団のメンバーだったね。これもちゃんと書いてあるよ……ええと、ヴァリエール家の三女、ルイズ・フランソワーズ……驚いたね、シャルロット、これってあんたのお友達じゃないかい? それと、護衛の平民、ヒリガル・サイトーン……」

 ぴく、と、シャルロットの肩が揺れた。

 アーハンブラ城に来とった、あのピンク髪のおともだちが大使か。ははぁん、さてはそれで、判断が許可の方向に揺れたな?

 やはり情に流されやすい子供よな。じゃが、我はそんなことはないぞ。感情より利益を追求してこそ、政治を動かす資格のある大人なんじゃからな。

「それと、もうひとり……おっと、ずいぶんな大物を敵地に送り込むもんだね。ヴァイオラ、三人目の大使は、あんたの同僚だよ。マザリーニ枢機卿が外交団のリーダーとして、自ら交渉のテーブルに着く気らしい……」

「さっきの発言を取り消そう。我はトリステインの方々を全力で歓迎するぞ」

 我は力強くそう宣言した。

 やはり政治家には、意見を変える柔軟性も必要よな、うん。




というわけで、アルビオンへお空の旅編スタートじゃー。
次はもうちょい書き溜めてから投稿したいところ。


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バッソ・カステルモールの動揺/我こんな虚無の主従イヤじゃ

約四ヵ月ぶりかのう。だらだら投稿していくぞー。


 俺には果たすべき使命がある。

 それは、人から与えられた任務よりも大切なものだ。もちろん、それをおろそかにすることはないが、もしも任務が使命と相反する場合には、俺は任務を捨てるだろう。

 

 

 俺は――東薔薇花壇騎士団団長、バッソ・カステルモールは、ひとつのテーブルを囲んで話し合いをしている三人の少女を、内面まで見通すつもりで、じっと見つめていた。

 ひとりは、ロマリアから来られた、ヴァイオラ・マリア・コンキリエ枢機卿。この、アメジストのような紫色の髪を持つ幼げな女性聖職者に関しては、何も問題はない。先王ジョゼフ失脚後、新たに王座についたイザベラ女王が、政務のサポートをさせるために宮廷に招いたという。要するに部外者だ。

 俺にとって重要なのは、残りのふたり。

 簒奪者ジョゼフの娘にして、親と同じく王座を占拠しているイザベラ・ド・ガリア。

 そして、オルレアン公のひとり娘、本来ならば女王としてガリアに君臨すべき、シャルロット・エレーヌ・オルレアン様。

 このふたりの関係性を、俺は見抜かなくてはならない。

 さも心を許し合ったかのように、くつろいだ様子で話をしているイザベラとシャルロット様の仲が、見た目通りのものなのか、それとも偽りのものなのか、それを確かめなくてはならない。大恩あるシャルル様のためにも、シャルロット様が本当に幸せにしておられるのか、知らなければならないのだ。

 ――このガリアには、かつて、『シャルル派』と呼ばれる、秘密のコミュニティが存在していた。

 類いまれなる魔法の天才であり、人格も明朗快活なシャルル・オルレアン殿下を崇拝し、彼をこそガリアの国王に、と推していた人々の集まりで、シャルル様が暗殺されてしまったあとは、卑劣な手段で王座を奪ったジョゼフを倒すべく、怒りと悲しみと復讐心でお互いを結んだ人々の集まりであった。

 他ならぬこの俺も、その一員であった。もともと下級貴族に過ぎなかった俺は、シャルル様が見い出し、推薦してくれたからこそ、名誉あるガリア東薔薇花壇騎士団に所属することができたのだ。シャルル様は、俺の人生を切り開いてくれた第二の父だ。あのお方へ向ける敬意は、始祖へ向ける敬意にも劣らなかったと思う。

 だから、シャルル様の訃報を聞いた時には、まるで太陽が滅び去ってしまったかのような、絶望的な気分になったものだ。

 ああ、生きておられれば、必ず王として指名されていたであろうシャルル様。彼の代わりに王座に着いたのは、魔法の使えぬ、偏屈の変わり者という評判のジョゼフだった。

 彼は王になった途端、その残虐な本性をあらわにした。シャルル様を応援していた貴族たちや、自分に反感を持つ大臣たちを大量に粛清し、ガリアを自分の思い通りになるオモチャへと変えてしまった。

 それだけではない。奴がシャルル様のご家族にした仕打ちときたら、人間のものとは思えないおぞましさだ。未亡人には、心を病ませる毒を飲ませ、いつ終わるとも知れない長い長い苦痛を与え、お嬢様――シャルロット様には、病んだお母上を人質とし、奴隷のような生き方を強いた。ガリアの裏方であり、汚れ仕事を扱う北花壇騎士として、命の危険のある任務を命じ続けたのだ。

 オルレアン公一家に対する、ジョゼフの悪意はすさまじい。そこに感じられたのは、怒りや憎しみなどではなく、子供が虫を殺して楽しむような、陰湿な喜びだ。無能なジョゼフは、優秀な弟のシャルル様を妬むあまり、ついに狂ってしまったのだろう。

 シャルル様が毒矢で暗殺された、という噂を聞いた時には、まさかそんな、ジョゼフでもそのような卑劣な真似はすまい、と思っていた俺だったが、ジョゼフの異常な行動を見せつけられた結果、噂は真実だったのだ、と確信するようになった。

 敬愛するシャルル様を殺された怒り。残されたご家族の不幸を見ての悲しみ。このままではいけない、狂王ジョゼフを倒し、ガリアをあるべき姿に戻さなくては、という使命感が、俺を『シャルル派』として活動させた。

 ジョゼフに恨みを持つ仲間を集め、地下で連絡を取り合い、『シャルル派』は徐々に力をつけていった。やろうと思えば、いつでも革命を起こし、憎きジョゼフを断頭台へ引っ張っていくことができる――それだけの規模と戦力を、我々は手に入れつつあった。

 なのに。

 予想だにしていなかった、イザベラ姫のクーデターが、『シャルル派』の存在意義を真正面から叩き潰した。

 ジョゼフは一夜のうちに権力を失い、どこかへ追放された。

 大赦が布告され、ジョゼフによって投獄されていた人たちが釈放された。

 そして――取り潰されたオルレアン公家の名誉が回復され――シャルロット様が、救われた。

 彼女はもはや、危険な仕事に従事する北花壇騎士ではない。女王の補佐をする、ガリア政権のナンバー・ツーだ。ここ数日はオーバル・オフィスで、一生懸命に国政を切り盛りしている。

 さらに言うと、これは未確認な情報ではあるが――東方から招いた薬師によって、お母上の病を治す薬も、近日中にできあがるらしい。

 名誉も、社会的地位も、命の安全も、愛する家族も。すべて、シャルロット様は奪還した。

 そのことを祝福しないではない。嬉しく思わないはずはない。ただ、ただ。コツコツと蜂起に向けて頑張っていた『シャルル派』の活動は、まるっきり全部、意味がなくなってしまった。

 暴力的な最終行動を起こさずに済んだ、と言って、素朴に喜んでいるメンバーもいる。その気持ちもわかる。いくら憎らしい敵を倒すためとはいえ、武力革命は多くの血を流す。大義がなければ、杖を振り上げたくはない――その気持ちは、俺にだってわかる。

 取り潰されていた家の復活を許され、名誉を取り戻したメンバーは、我々の代わりにイザベラ女王が、正義を執行してくれたと泣いて喜んでいた。その気持ちもわかる。オルレアン家が復活し、シャルル様の名誉も取り戻されたことを、俺だって涙を流すくらい喜んだ。

 しかし、しかし。釈然としない。

 大きな喜びの中で、いろいろなことが、納得できない。

 たとえば、そう。なぜやすやすと、ジョゼフは倒されてしまったのだ?

 俺が言うのも何だが、ジョゼフは恐ろしい相手だった。魔法こそ無能だったが、策略にかけては悪魔のように知恵の回る男だった。

 彼を倒そうとし、攻撃を仕掛けた個人、組織は数えきれない。しかし、誰ひとりとして、成功はしなかった。それなのに、イザベラごときが? あの、無能王の娘、という肩書きに相応しい少女が、それを達成したというのか?

 俺の知るイザベラは、父に負けず劣らず狂っていて、父より遥かに頭の悪い小娘だった。

 俺は時々彼女に命じられて、使い走りのような任務をやらされていたことがあるので、その人柄はある程度わかっているつもりだ。シャルロット様への嫉妬と憎しみを隠そうともせず、嫌がらせをし、嘲笑をし、悪態をつき、それで卑小な心を慰めている、まさに小物だった。

 部下である北花壇騎士たち――汚れ仕事に抵抗のない人格破綻者ども――からは、それなりに慕われていたようだが、そんなのは類は友を呼ぶ、といった程度のもので、カリスマがあるとか、人から尊敬される能力があるとか、そういうのとはまた違う。召し使いや警護の兵士、宮廷に出入りする貴族たちからは、彼女はことごとく恐れられ、それ以上に白眼視されていた。

 王としての器などでは、断じてない。もちろん、魔法の才能も親譲りで乏しく、個人的戦闘能力に優れている、ということも、けっしてない。

 そんな彼女が? あの知謀知略のジョゼフを、大した流血もなく倒しただと?

 ――納得がいかない。

 納得がいかないといえば、イザベラのシャルロット様に対する接し方の変わりようもそうだ。

 以前のイザベラは、間違いなくシャルロット様を憎んでいた。本人がいないところですら口汚く罵り、軽蔑し、悪意を撒き散らしていたのに、クーデターの日を境に、まるで愛犬を愛でるかのように、シャルロット様を可愛がり始めた。

 食事の時間、シャルロット様にプリンをあーん、と食べさせてあげているイザベラを見たことがある。

 政務の合間の休憩時間、うたた寝するシャルロット様に膝枕をしてあげているイザベラを見たことがある。

 シャルロット様たちの身の回りの世話をしている女官によると、ふたりはお風呂にも一緒に入り、シャルロット様の髪をイザベラが洗ってあげているところも見たことがあるそうだ。

 うらやま――じゃない、おかしい。違和感があり過ぎる。

 本当にクーデター前後のイザベラは同一人物なのか? そう疑いたくなるほどの変わりようだ。

 何か、イザベラの悪意を霧散させるような大事件でもあったのか? それとも、イザベラは最初からシャルロット様を憎んでなどおらず、父を倒す日まで、嫉妬深い愚か者を演じていただけなのか?

 もし後者だとしたら、イザベラは演技の天才だ。しかし、しかし、俺にはとても、以前の彼女の、あの憎悪の表情がニセモノだったとは思えない。ピリピリと刺すような殺意混じりの空気。とても忘れられないし、疑うこともできない。

 かつて、その悪意を一身に浴びていたシャルロット様は、どう思っておられるのだろう。

 今は、イザベラの好意を完全に受け入れている――ように見える。シャルロット様は、お母上のご不幸があってから、表情の変化が乏しくなられた。だからパッと見はわかりにくいのだが、それでもイザベラといる時、かなりリラックスしているような雰囲気がある。

 不自然に思っておられないのか? シャルロット様にはシャルロット様で、何かがあり、イザベラを許しているのか? かつてのイザベラに対する、シャルロット様の態度は、無関心のひと言だった。人形になりきり、嫌がらせや中傷を冷たく受け流していた。

 それが、春になってほぐれた花のつぼみのように柔らかく変わったのは、どういうわけだろう?

 歴史的な和解事件があり、ふたりの気持ちが通じ合ったのだとすれば、それは喜ばしいことだ。シャルロット様が許しているのであれば、俺だってイザベラを見る目を改め、簒奪者の娘、としてではなく、シャルロット様の友人として、ガリアの女王として、今度こそ忠誠を誓ってもいいと思っている。

 しかし――しかし、納得のいかなさが、奥歯にものの詰まったかのような不自然さが、俺の腹の中に、ずっしりと溜まっている。嫌な予感が、イザベラへ心を許すことを妨げている。

 もしも、この不自然な仲直りが、何者かの謀略(プロット)だとしたら?

 イザベラとシャルロット様は、本当は仲直りなどしていないのだとしたら? そういう演技をさせられているだけなのだとしたら?

 いや、もっと根本的に。クーデターなど、起きてはいなかったのだとしたら?

 実際、個々人の人間性や実力について考え合わせると、どうしてもこの発想に行き着いてしまうのだ。

 イザベラには、ジョゼフを倒せるほどの実力などない。ならば、彼女は父親を倒していないのではないか。

 イザベラはシャルロット様を本気で憎んでいた。ならば、今だって仲直りなんかしていないのではないか。

 何者かが、イザベラを女王にし、その補佐としてシャルロット様をつけて、ふたりをガリアの代表として立たせることを望んだとしたら。

 その何者かは多くの人に憎まれており、これ以上国王をしていれば、いずれ反対勢力に倒されてしまうということを察知した。そこで、誰かに倒される前に、自分は倒されて追放されたことにして、娘に跡を譲った。

 イザベラとシャルロット様を仲直りさせたのは、最大の反乱勢力である『シャルル派』を空中分解させるため。憎むべき敵の首魁がいなくなり、自分たちの守るべきお姫様の名誉が回復されたとあれば、反乱勢力は存在意義を失う。国内の不安と、自分の命を狙う者たちを、静かに排除できる。

 となると当然、イザベラとシャルロット様は仲直りなどしていない。ふたりは命じられて、仲良しの演技をさせられているのだ。イザベラは、父からの命令なので、それを素直に聞くだろう。シャルロット様の方も同じ――今まで北花壇騎士をやらされていたのが、新しい役目を割り振られただけのことだ。彼女に言うことを聞かせる材料はもちろん、病気のお母上。東方から来た薬師によって治療される、という噂は、もちろん嘘なのだ。

 すべては、悪意と知謀と狂気を兼ね備えた、本当の邪悪――ジョゼフによって、仕組まれている。彼は倒されてなどおらず、自分でどこかに隠れて、傀儡であるイザベラとシャルロット様を操り、今もなおガリアに君臨しているのではないか?

 ――などと、思いつく限りのことをつらつらと連ねてみたが、別にこの想像が正しい、という根拠などはない。

 ただ、この仮説ならば、いくつもの不自然をうまく解消できるのではないだろうか。ジョゼフがイザベラごときに破れた理由。犬猿の仲のイザベラとシャルロット様が、急に仲良くなった理由。その裏には、このような悪魔的な企みが横たわっているのではないか?

 だとしたら。ガリアはまったく平和になっていないし、シャルロット様はまったく救われていない。むしろ、以前よりもひどい、針のむしろに巻かれるような苦痛の中にいるはずだ。

 ――真実を確かめねば。

 イザベラとシャルロット様は本当に仲直りしているのか。それとも、ジョゼフの陰謀によって、演技をさせられているのか。

 本当に仲直りしているのであれば、それでよし。そうでないのならば――何らかの裏が、ふたりの間にあるのなら――俺は、たったひとりでも『シャルル派』として、行動を起こすつもりだ。

 今回のアルビオン訪問に、ボディーガードとして同行するよう命じられたのは、幸運だった。イザベラとシャルロット様に接触する機会を、多く得られる。ふたりのやり取りに演技があるかどうか、さりげなく観察して検証していこう。

 今、イザベラとシャルロット様と、マザー・コンキリエの三人は、トリステインからの外交団をこの船に同乗させるかどうかで、話し合いをしている。

 マザーの強いひと言で、同乗を許可することに決定したようだ。これも運がいい。トリステインの外交団には、主に外務担当のマザー・コンキリエが対応することになるだろう。なれば、イザベラとシャルロット様は、自然とふたりきりになることが多くなるはずだ。

 彼女たちの会話に耳をすませて、真実を探り当ててみせる。ヴァルハラにおわすシャルル様、どうか見守っていて下さい。お嬢様の幸せは、このカステルモールが確かなものにしてみせましょう!

 ――そう決意した、三秒後のことだった。

「ミスタ・カステルモール。悪いが、我と一緒に来て頂こう」

 マザー・コンキリエに声をかけられて、シャルロット様たちから遠ざけられるはめになったのは。

 

 

 まーだかなー。まーだかなー。ラ・ロシェールの田舎港に着くのはまだかなー。

 トリステイン宛てに、『同乗歓迎。ラ・ロシェールにて会いましょう』という手紙をフクロウ便で送ってから、我はずーっとそわそわそわそわしっぱなしじゃった。

 ピニャ・コラーダを飲み終わったあとも、マティーニ、モスコミュール、ウイスキー・ソーダと杯を重ねてしもうたし。あーもう、久しぶりに兄様に会えると思うと、ワクワクでまったく落ち着かん。

「のうシャルロットやー。トリステインまで、あとどれくらいで着くものかのう?」

「数時間はかかる。ヴァイオラ、だから少しお酒のペースを落とすべき」

「あんた、さっきから飲み過ぎだよ。顔真っ赤になってるじゃないか。

 散歩でもして、酒精を抜いた方がいいね……ぐでんぐでんに酔っぱらった状態でトリステインの外交団に会われちゃ、ガリアが恥をかいちまう」

 む、そ、それはいかん。兄様に会うのじゃから、普段より三百パーセントはキレイでしとやかな我でなくては。

「ち、ちとデッキに上がって、風を浴びてくるわい。ミスタ・カステルモール。悪いが、我と一緒に来て頂こう。ひ、ひとりじゃとふらつくゆえ、肩を貸して欲しい」

 東薔薇花壇騎士団団長どのにそう声をかけたら、なんか知らんけどあからさまにガッカリした顔された。ひどくないかその反応は。まあ確かに、自分の国のトップが酒に溺れた姿なんぞ見ちまったら、幻滅してもおかしくはないが、一応お前社会人なんじゃから、もうちょい取り繕わんか。

「……は、はっ。かしこまりました、マザー。お手をどうぞ」

「ううう、すまぬのう」

 あーいかん、ダメ出しする元気もない。早いこと冷たい空気を深呼吸して、腹の中の熱気を吐き出してしまわねば。

 我はカステルモールの右腕にしがみつくようにしながら、よたよたとラウンジを出て、デッキへと登っていった。

 広々とした板張りのデッキは、やはり船内とは空気がまったく違っておった。涼しく爽やかな風が、さやさやーと頬を撫でていくのがめっちゃ心地よい。周囲三百六十度は全部青空。ヴァルハラまで見通せそうな景観に、視覚的にも癒される。

 我はカステルモールに指示して、船の舳先まで連れていってもらい、デッキをぐるりと取り囲む金属製の手すりによりかかると、大きく息を吸い込んだ。

「すー……ひゃー……すー……ひゃー……。ああ、空気がすごいうまい……」

「大丈夫ですか。お望みでしたら、お水などお持ちしますが」

「いや、けっこう。見苦しいところを見せてしまい、申しわけない、ミスタ・カステルモール」

「いえ……」

 さらに何度か深呼吸を繰り返して、遠いお空に目の焦点を合わせて、酔いをゆっくりと駆逐していく。二、三分も肺の中の空気を入れ換えていると、かなり楽になってきた。

 酒精が抜ければ、自然と頭の中身も落ち着き、気持ちに余裕が出てくる。周りを見て、今まで気付かなんだことに気付くこともできるようになる。青空から、デッキの方へと視線を転じれば、バッソ・カステルモールが、そわそわと落ち着かない様子で、さっきまでおったラウンジへ続く階段の方へ意識を向けておるのがわかった。

「……残してきたふたりのことが、気にかかりますかな、ミスタ?」

「え? は、はい。否定はいたしません」

 ギクリとこちらを振り向いて、やや強張った声音で返事をする彼。

 まあ、落ち着かんのも仕方あるまいな。我とイザベラ、シャルロットの三人を守るボディーガードに任命されたというのに、そのうちのひとりが別行動しておるのじゃから。

 しかも、自分はそのひとりの付き添いとして、外に連れ出されてしまった。今この瞬間、ラウンジにおるふたりは無防備じゃ。それが気になってしょうがないのじゃろう――我に、早くイザベラたちと合流して欲しいと、職業的な必要から思わずにはいられないのじゃろう。

「心配する必要はありませぬぞ、ミスタ・カステルモール。

 イザベラ陛下たちは、ふたりとも仲良くくつろいでおられるはずじゃ。この船の中に、彼女らの心を乱す要素は、ひとつもありはしないのです」

 我は滅多にない親切心から、カステルモールにそう言うてやる。

 仕事への意識が高いのはけっこうじゃが、こんなお空の上で、何者かの襲撃を受けることなどあり得んのじゃし、今は気を抜いとってもええはずじゃ。プロなら気合いを入れるべき時がいつなのか、また休憩するべき時がいつなのか、パッと計算できとかんといかん。こんな何でもない時まで、ピリピリと神経を張っておっては、肝腎な時に疲れきって動けなくなるぞ。

「……マザー。今のお言葉、自信を持って繰り返せますか」

「おお、言えますとも。あのふたりについては心配などいらぬのです。我はちゃんと確かめておりますでな」

 ええい、我に対して念を押すとは、無礼じゃぞカステルモール。

 ガチで心配なんぞいらんのじゃって。船員については、船長から料理人まで、我がひとり残らずちゃーんと身元を確かめたんじゃ。思想的に危険な奴とか、外国の間諜とかがこっそり乗り込んどる可能性はゼロ! つまり、少なくとも、次に着陸するラ・ロシェールまでは、敵襲とかの心配はひとつもせんでええのじゃよ。

 我の自信たっぷりの物言いに、少しは気を楽にしたのか、カステルモールは表情を少しだけ緩ませて、大きく息を吐いた。

「マザーがそう仰るのなら、きっとそうなのでしょう。現在の陛下とシャルロット様に、最も接する機会の多いあなた様が仰るのなら……。

 私はどうしても、あなた様のいらっしゃる前のおふたりを基準にして考えるくせがついてしまっているのです。マザーはご存じですか? 陛下とシャルロット様が、以前はどのような関係であったのか……?」

 ん? 何じゃこの質問。あ、もしかして、カステルモールが心配しておるのって、外敵に狙われる危険じゃのうて、昔は仲悪かったイザベラたちが、ふたりきりになったらまた喧嘩し始めないか、という疑念についてか? いかん、我、盛大に勘違いしとった。

「存じております。しかし、昔は昔、今は今という言葉もありますからな。最近はとても仲良くやっておりますぞよ」

「ええ、そのようですね。

 正直なところ、かなり驚いているのです……あのおふたりが、手と手を取り合うことのできる日が来るとは。いったい、何が原因であの方々は和解できたのでしょう?」

 その疑問は仕方ない。宮廷貴族なり召し使いなり、昔のイザベラとシャルロットの関係を知っとる者どもに聞いてみたところ、全員が全員、今のふたりの協力関係には仰天したと言うておったからの。どんだけ激しくやりあっとったんじゃ、あのガキども。

 そんな犬猿のふたりを、我が知謀知略を尽くした取りなしで和解させた素晴らしきエピソード(なのにその報酬がくすぐり地獄だったのは不条理じゃと思う)を、吟遊詩人の語るサーガのごとく語り聞かせて、カステルモールを感動の渦に巻き込んでやってもいいのじゃが――王族がフェイス・チェンジで身分を隠して巷に遊び歩いたり、王族が従妹との仲直りのしかたを外国人に相談したり、あんまり公にすべきでない情報も多いので、詳しく話して自慢してやることは叶わぬ。

 しかし、ちょっとは自己顕示欲を満たしたい気分じゃったので、かるーく匂わす程度に、我の手柄をこいつに吹き込んでくれよう。

「ひと言で言いますならば……さよう、おふたりの間にはたらいたのは、始祖の愛でございましょうな」

「始祖の愛……? どういうことです、マザー」

「我がガリアを訪問したその日に、イザベラ陛下――当時は姫殿下ですが――から、始祖についての教えを受けたい、という要請を頂きましてな。二、三度、プチ・トロワに招かれて、経典の解説のようなことをお話ししました。

 その時に取り上げたのが、家族と隣人愛に関するエピソードであり、憎しみは無知と不理解から生じるという教訓を含んだ箇所であったのです。イザベラ陛下は我の説明を聞いて、たいへん感銘を受けられたようで……」

「まさか、それでイザベラ陛下が歩み寄られたと仰るのですか?」

「ではないかと思いますなぁ。無知と不理解から憎しみが生じるということは、知ろうとする努力と、理解を拒まない覚悟さえあれば、何者も憎まずに済むということでもあります。陛下がそうなりたいと思われたとしても、我は不思議に思いませぬ。

 我の講義を受けたあとで、陛下はシャルロット様と、何度も話し合いの機会を持たれたと聞き及んでおります。互いの不満を吐き出し、ことによると言い争いもしたかも知れません。しかし、お互いを知り、気に入るところも入らないところも、意識して許容していったならば、やがては親近感が芽生えてくるものです」

「となると……おふたりは、急に仲直りをしたわけではなく……」

「ゆっくり、同じ時間を共有して、少しずつわかり合っていったのでしょうよ。不仲というのは、一瞬の劇的な出来事で覆されるようなものではございませんからな。だからこそ、丁寧に修復された絆というのは、尊く、また強いものであるのです」

 我がしみじみとした口調で結論づけると、カステルモールはライトニング・クラウドでも受けたかのように目を見開いて、呆然としておった。

 我の手腕と、始祖ブリミルの威光に感動して、言葉もないといったところか? まあ、ちょいと嘘エピソードを交えたが、あいつらがお互いに愚痴り合って、傷を舐め合って仲直りしたっつーのは間違いないはずなんで、基本的には我は真実を告げたと言って差し支えないと思う!

「そう、でしたか。陛下も、シャルロット様も、お互いを許されたのですね。マザーは、そう仰るのですね……」

「ええ、間違いありませんとも」

 と、我が胸を張って言い切ったところで、ぶるりとした寒気が、肩に襲いかかってきた。酔いの覚めてきた体には、爽やかな風もちと冷たいようじゃ。

「さて、そろそろ船内に戻りましょう、ミスタ・カステルモール。イザベラ陛下とシャルロット様のもとへ。

 あなたも、あのふたりのことが不安でしたら、この旅行中に、ボディーガード特権で何か話しかけてみればよろしいでしょうな。ちとおてんばではありますが、どちらも意外とさっぱりした方々ですぞ」

「……はっ。検討させて、頂きます」

 彼はそう言って頷いたが、表情はどちらかというと強張っていて、むしろ迷いを増したように見えた。まあ、お堅そうじゃしなー、こいつ。女王様と副王様に気軽に話しかけてみろって言われたって、できるわけないか。

 しかし、そんな奴の悩みにいつまでも付き合ってやる義理もない。我はさっさと船内に戻り、カステルモールはとぼとぼとついてきた。

 もう酒はいらんし、トリステインに着くまで、船室でゴロゴロしておることにしよう。

 

 

 マザー・コンキリエの証言は、俺の疑惑に少なからぬ動揺を与えた。

 イザベラが、聖職者に始祖の教えを乞うような心地になったことがあったなんて。無神経で、大雑把で、悪だくみをする時にしか頭を使わないような印象しか持っていなかったのに、意外だった。彼女も始祖にすがりたくなるような、そんな苦悩を抱えていたのか?

 イザベラが、シャルロット様と何度も話し合った、ということも知らなかった。いや、そういえば、クーデターの数日前に、プチ・トロワの女官たちが、イザベラが時々不自然な外出をしている、と噂しているのを聞いたことがある。その時は、サボって外で遊び歩いているのだろうと思っていたが、まさか、シャルロット様と密会していたのだろうか?

 いや、ここでそう決めつけてしまうのも、良いことではない。マザー・コンキリエの言ったことがすべて正しいとしても、彼女が物事を正しく解釈しているかどうかは疑問だ。見たところ、彼女はとても単純で、楽天的な性格であるらしい――イザベラとシャルロット様の仲直りを、自分の話の成果であると素直に信じているようだが、よく考えると、マザーはイザベラとシャルロット様との間で、具体的にどのような話し合いが行われたのかを聞いていない。

 マザーはあのふたりの関係を、恐らく表面的にしか知らない。

 そしてそれは、もしかしたら、俺も同じなのではないだろうか。イザベラが悪意に満ちた陰湿な女かどうか確定できないし――それと同じくらい、シャルロット様がどのようなお方なのか、ほとんど知らないのではないだろうか。

 俺は、自分の忠誠心に、小さな揺らぎが生じたのを感じた。

(知らなければ)

 イザベラとシャルロット様を観察するだけではいけない。周囲からの情報収集にも力を入れる必要がある。

 マザーは言っていた。憎しみは無知と不理解から生じると。この憎しみという単語を、迷いと置き換えても、この教訓は成立するのではなかろうか。

 俺は迷いを振り払うためにも、自分の仕えるべき人のことを知らねばならぬ。ガリアの裏面で蠢く陰謀ももちろん重要だが、俺自身の忠誠心を再確認することも、同じくらい大事だ。

 

 

「ヴァイオラ様。床の上に小物をやたらと放り出しておくのはおやめ下さい。お掃除が大変です」

「あー、すまんすまん。そうじゃ、片付けるんなら、それ全部、まとめて燃えないごみに放り込んでおいてくれ。どーせ役立たずのガラクタばかりじゃからのー」

 船室に帰ってきたヴァイオラ様は、着ていた僧衣を脱ぐと、それをぽいと椅子の背に引っかけて、シュミーズ姿でベッドに横になられました。

 たいへんお疲れのご様子でしたので、その不作法については見なかったことにいたしましたが、椅子にかけられた僧衣のポケットから、何やらごちゃごちゃしたおもちゃのようなものがどばっとあふれ出したのには、さすがにひと言申し上げずにはいられませんでした。メイドとしての性でしょうか、貴族としての美意識でしょうか、塵ひとつない床をあえて散らかすという行いは、どうにも我慢できないものがございます。

「まったく、こんなことではいけませんよ。ここはあなた様の私室ではありますが、貴族であり聖職者である以上、人に見られていない時でも、ある程度の節度はわきまえていなければ。

 あら。護符(タリズマン)まであるではないですか。こういった聖なるものを粗末に扱うと、バチが当たるものですよ」

「んー? 護符じゃと? ……ああ、それか。どうせマジック・アイテムとしての用途もわからんから捨て……いや待て、良い機会じゃ、それはお前にくれてやろう。

 枢機卿ヴァイオラ・マリアが授ける聖具じゃ、きっとそこらの教会で配っとるような、量産品の護符よりは加護があると思うぞー」

「はあ……では、ありがたく頂いておきましょう」

 手のひらに収まるような、小さな布製の護符をエプロン・ドレスのポケットに入れながら、私は一応、お礼の言葉を述べておきます。あくまで一応。

 我が主ヴァイオラ様は、その地位にあるお方にしては、どちらかというと始祖への信仰心が薄い方です。前にも、教典を枕にしてお昼寝されていたのを見たことがあります。

 ですからして、ヴァイオラ様から頂いた護符が、他のものと比べてより上等かというと、やはり少々疑問です。

 何となくですが――あくまで無責任な推量に過ぎませんが――要らなくなって処分したいガラクタを、自分で捨てるのが面倒臭いので、贈与の名目で人に押しつけたのだ――という受け取り方も、できないではないのです。

 まあ、たとえそうであったとしても、経典の文句が縫い込まれた護符というのは、ブリミル教徒にとってありがたいものであることに変わりはありません。何だかんだで人に好かれやすいヴァイオラ様が触れなさったものですから、家内安全だとか、良縁招来だとか、そういったご利益があったりするかも知れませんし。大切にさせて頂きましょう。

「ではヴァイオラ様。護符以外の小物は、こちらのテーブルの上にまとめておきますので、あとでご自分で整理なさって下さいね。

 私は今夜の夕食について、船のキッチン・スタッフと打ち合わせをして参ります。もし何かご用がございましたら、厨房の方へお声かけを下さいませ」

「おう、了解じゃー。はしばみ草のサラダは出さんように、しっかり言い聞かせてくるのじゃぞー」

 私はあえて、最後のリクエストには返事をせずに部屋を出ました。先んじて、シャルロット様がはしばみ草とムラサキヨモギのサラダを強く希望なさっていることを聞き及んでおりましたので、まずヴァイオラ様のお望みが入れられることはない、とわかっていたからです。

 おかわいそうなヴァイオラ様。しかし、かといって、真実を告げて絶望を早めるのも、同じようにおかわいそうで、私には逃げるしか選択肢がなかったのです。

 ――おかわいそうと言えば。先日、アーハンブラ城にて発覚した、ヴァイオラ様の並々ならぬ不幸についても、まだ決着をつけられていません。

 ヴァイオラ様のお命を狙ってやって来た『スイス・ガード』』、ミス・ハイタウン。彼女の背後には『スイス・ガード』の筆頭、ミス・リョウコの影があり――さらにその背後には、ミスタ・セバスティアン・コンキリエの存在がありました。

 ヴァイオラ様のお父上である、ミスタ・セバスティアン。あの方が、なぜ愛娘の死を願ったのか、その理由はわかりません。私の知る限り、セバスティアン様はけっして子への愛情の薄い方ではなかったのですが。

 まあ、どのような事情があったにせよ、ヴァイオラ様のお守りを任せられた私としては、この企みは見逃せるものではありません。東方からこのハルケギニアに帰ってくるセバスティアン様たちを、サハラ砂漠まで出向いて暗殺しようという決意は、アーハンブラ城から出た時点ですでに持っておりました。

 しかし、機会に恵まれない時というのはあるもので――ヴァイオラ様がイザベラ陛下に求められ、ガリアの政務に関わるようになってしまったために、ヴァイオラ様の身の回りのお世話をする私も、同時に忙しい体となってしまい、とても暗殺のための休暇を取ることができずに、今に至ってしまったのです。

 ――セバスティアン様がハルケギニアにお戻りになられるという知らせを、我が不肖の兄であるシザーリオが運んできてから、すでにかなりの日数が経っております。

 東方・ハルケギニア間の距離がいかに遠くとも、到着までの時間には限りがございます。もし明日にでも、帰郷の一隊がガリアなりロマリアなりにたどり着いたならば。果たして私は、ヴァイオラ様を悲しませることのないように――証拠を残さず、自然にセバスティアン様たちを始末することができるのでしょうか。

 どうしようもない要素と、不明な部分と、非常に困難な条件の組み合わさった問題を頭の中でこねくり回し続けましたがどうにも正解と呼べる答えは出しかねました。

 ――厨房での打ち合わせは、セバスティアン様に関わる問題に比べれば、もちろん赤子の手をひねる以下のもので、あっという間に片付いてしまいました。

 シェフの方が、はしばみ草とムラサキヨモギとニガウリとサザエの内臓とセンブリの煮出し汁をマリアージュさせた、苦味界に革命を起こす一品を創作したと仰ったので、ぜひそれをディナーに出すよう、積極的にゴーサインを出しておきました。ヴァイオラ様がNGを出したのは確かはしばみ草のサラダだったはずなので、私はまったく命令違反を犯してはおりません。

 たやすくひと仕事が済んだので、さあヴァイオラ様のお部屋に戻り、お茶でもいれて休憩しようかしらと考えていると、「きみ」という呼び掛けとともに、背後からぽんと肩を叩かれました。

「きみ。もしかしてきみは、マザー・コンキリエの侍女殿ではないか?」

「……はい、その通りでございます。あなた様は?」

 振り向いた先におられたのは、精悍な顔つきをした、若い男の方でした。力強さと落ち着きを兼ね備えた、叩き上げの軍人といった雰囲気の人ですが、小さな口ひげがちょっと可愛らしいです。

「私は、東薔薇花壇騎士団団長のバッソ・カステルモールという者だ。イザベラ陛下とシャルロット様、マザー・コンキリエの護衛役として同行している。

 すまないが、少し時間をもらえないだろうか。職務として、ひとつ尋ねたいことがある」

 護衛役、ということは、ある意味私と同業ということになりますね。

 仕事は終わりましたし、恐らくヴァイオラ様も部屋でお休みでしょうし――。

「わかりました、ミスタ・カステルモール。私にわかることでしたら、何なりとお尋ね下さい」

「ありがとう。ええと、ミス……」

「パッケリでございます。シザーリア・パッケリ」

「では、ミス・パッケリ。ここではなんだから、ラウンジにでも移動しないか。飲み物ぐらいならご馳走しよう」

「あら。私のような使用人に、そのようなお心遣いなど、なさらなくてもよろしいですのに」

「いや、頼みごとを聞いてもらうわけだからな。貴族の男として、あまりレディにぞんざいな扱いをするわけにはいかんだろう」

「では、お言葉に甘えて……エスコートして頂きますわ、ミスタ」

 融通の利かなさそうなお方ですが、律儀で、礼儀を重んじるというタイプでもあるようです。わたしはそんな、古きよき貴族の生き残りであるミスタ・カステルモールのあとについて、ラウンジまで移動しました。

 好きなものを頼んでいいと言われたので、パッションフルーツのシロップ・ソーダを頂きます。これがプライベートであったなら、酒精のあるものでもよかったのですが、このあとにラ・ロシェールでトリステインのお客様をお出迎えするという大仕事を控えているからには、酔いは控えておかなくてはなりません。

 ミスタ・カステルモールも、注文品はルートビアになさったようです。バー・カウンターに並んでいるスコッチの瓶を、少し残念そうに見ておられたことについては、指摘しない方がよろしいでしょうね。

「……それで、私に尋ねたいこととは?」

 氷の浮いた、冷たく甘いソーダ水をひと口味わって、こちらからミスタ・カステルモールに切り出しました。

「ああ。マザー・コンキリエのそばに、常についているきみの見たまま、聞いたままのことを教えてもらいたい。

 装飾なしで、率直なところ……イザベラ陛下と、シャルロット様の関係は、良好なものだろうか?」

 ははあ――なるほど。

 確かにそれは、ガリアの王宮に関わる貴族にとっては、非常に重要な問題でしょう。

 私の住んでいたロマリアにさえ、先代国王ジョゼフ様と、その弟君、シャルル・オルレアン公の間に起きた悲劇は聞こえております。シャルル公の死後、ジョゼフ様がオルレアン公家の名誉を剥奪したり、遺族に残酷な仕打ちをしたということも、この国に来てから知るところとなりました。

 加害者ジョゼフ様のご息女、イザベラ陛下。被害者シャルル公のご息女、シャルロット様。普通に考えて仲良くできるはずもありませんし、実際に少し前までは、非常に殺伐とした関係だったと、他ならぬイザベラ陛下とシャルロット様からうかがいました。

 それが今では、実の姉妹のように机を並べて、協力して政務に当たっているのですから、疑問にも思うでしょうね。王宮の内情を知るガリア貴族の方であれば、なおさら。

「私の印象でよろしければお答えしますが、陛下とシャルロット様は、見た目通りに、互いを慈しみ合っているように思います」

「ふむ。王室の結束をアピールするための、対外用プロモーションではない、ということだね?」

「左様でございます。こう言っては不敬かも知れませんが――陛下もシャルロット様も、己をよく見せる演技については、あまりお得意でないようです。あの方々は基本、好きも嫌いも快も不快も、素のままに表現しておられるのではないでしょうか」

「……確かに。おふたりに演技の才能があれば、公共の場でももう少し、笑顔を増やして下さるだろうな」

 ミスタ・カステルモールは頷きながらも、ため息をついて、憂鬱そうな表情をなさいました。

 お気持ちは何となくわかります。今のガリア王族のおふた方は、どちらもあまり、いえ、ほとんど全然と言っていいほど、愛想笑いというものをなさいません。

 イザベラ陛下はよく言えばさっぱりとした、姉御肌の性格です。王として好ましい、頼りがいのあるお方ですが、裏を返せば大雑把で、己の気持ちを隠すような思慮には欠けておられます。気に入らないことについては口汚く罵られますし、怒るとちょくちょく手も出ます。自分の担当の書類を、こっそり陛下の受け持ちの書類に紛れ込ませようと企んだヴァイオラ様に、背負い投げを食らわせたことも、一回や二回ではありません。陛下のお気持ちはわからないではないですが、粗暴であることは、王の資質として相応しくはないはずです。

 シャルロット様は、寡黙で落ち着きのある、思慮深いお方です。活動的なイザベラ陛下を補佐するには、なるほど適切な性格でしょう。しかし、寡黙過ぎて表情の変化に乏しいのは、見ていて心配です。笑顔は政治家として、必須の武器のはずなのですが、来客を迎える時もにこりともせず、仏頂面を通すのはさすがにどうなのでしょうか。そしてこの方も、不快に思ったことに対してはすぐに手を出す性質をお持ちのようで、ヴァイオラ様が夕食の席で、シャルロット様のデザートのクックベリーパイをちょろまかそうとした時など、あの大きな木の杖で、ごつんとヴァイオラ様の額を打っていたものでした。

 ――というかこれ、もしかして、ヴァイオラ様をこそ、一度しっかりお説教して戒めた方がよろしいのでしょうか。私は色々な意味で、我が主のことが心配になりました。

「だがしかし、ミス・パッケリ。そうなると、あのおふたりが結束したきっかけというのは何だったのだろう? きみもヴェルサルテイル宮殿でしばらく寝起きしている身だ、陛下たちの過去については、ある程度聞き及んでいるだろう。環境から客観的に判断すれば、絆を結べるタイミングなど訪れるとは思えないのだ。

 ある方にもご意見をうかがったが、現実味に乏しい想像の話しか聞かせてもらえなくてな。こういうことがあったのを見た、こんな話をしていたのを聞いた、などの事実を示す証言を欲しているのだが……きみは何か、具体的なエピソードを、オーバル・オフィスにいる時に、耳に挟んだことはないか?」

「具体的なエピソード、でございますか」

 さて、そればかりは、心当たりがございません。

 少なくとも、オーバル・オフィスでの三巨頭の皆様は、お仕事に手いっぱいで、私語などなさる余裕などないのです。私があの場所で聞くのは、基本的にうなり声や悲鳴や怒声の類ばかりですね。

 イザベラ陛下たちが仲直りなさった現場を目撃したりもしておりません。家政婦はいろいろと見るものだ、ということわざがロマリアにありますが、メイドは別に大したものは見ないのです。

 そして恐らく、おふたりが仲直りしたと思われる時期には、私は怪我の治療のため、医務室のベッドに伏せっておりました。見る、聞くする機会は、最初から私と縁がなかったのです。

 もし、そんな機会に恵まれた人がいるとすれば――アーハンブラ城でのクーデターの少し前から、イザベラ陛下と親しくし始めたという、我が主のヴァイオラ様ですが――。

「あいにく、私には心当たりがありません、ミスタ・カステルモール。しかし、もしかしたら我が主であるヴァイオラ・コンキリエ様ならば、具体的ないきさつに触れたことがあるかも知れません。もしお望みでしたら、さりげなくヴァイオラ様におうかがいしてみますが?」

「ぬ……マザー・コンキリエか……いや、ありがたい申し出だが、実はマザーにはすでにお話をうかがったのだ。先程言った、想像の話を聞かせてくれたのが、彼女でな……」

「あら、左様でしたか」

 ヴァイオラ様でも具体的なことを言えなかったとすると、もはや調べようがない気がして参りました。

 他に、イザベラ陛下とシャルロット様のおふたりと交流を持っていた人を、私は存じ上げません。これ以上を知るとなると、ご当人たちに直接尋ねる他ないのではないでしょうか。

「でも、ヴァイオラ様は一応、なぜ仲良くなったか、についての予想は聞かせて下さったのですよね? 参考までに、私にもその予想がどんなものだったのか、聞かせては頂けませんか」

「ああ、構わないとも。それがだね……」

 ミスタ・カステルモールは、軍人らしい几帳面さでもって、極めて正確な様子で、ヴァイオラ様の話された『予想』を教えて下さいました。

「なるほど。始祖の愛、でございますか。

 確かに事実と呼ぶには、ヴァイオラ様の空想に拠るところが大きいですが……もしその解釈が正しいならば、非常にロマンティックな話ですね」

「ああ。将来、イザベラ陛下の伝記を誰かが書くとしたら、ぜひ入れるべきエピソードだろう。しかし、護衛役としては、それが事実だった、と言い切ることに不安を感じる」

「護衛対象のメンタリティを考慮せずして、有事に適切な行動は取れない、という意味でよろしいでしょうか、ミスタ?」

「その通りだ」

 私の言葉に、ミスタ・カステルモールは重々しく頷きました。

 その反応を見て、私は次の問いかけにも肯定が返ってくることを確信して、言葉を続けます。

「つまり、ミスタ。あなたは、イザベラ陛下とシャルロット様が、今も憎み合っている可能性を考えておられるのですか? いざという時に、どちらかが相手の背中を襲うかも知れない、という可能性を危惧しておられる?」

 ――もちろん、私の想像通り、ミスタ・カステルモールの返事は是でした。しかし、ミスタがそうと認めるまでには、ゆうに一分ほどの間があり、その中には無言の葛藤もあったようです。

「……否定はしない。ここに至るまでのいきさつがいきさつだ。そういうことが起きたとして、誰が不思議に思うだろう?

 ミス・パッケリ。きみはイザベラ陛下たちが、心から仲良くしているように見えると言った。あのおふたりは演技のできるお人柄ではない、とも。私はそれに頷いた。

 だが、私たちの意見が一致したからと言って、現実がそれと一致するとは限らない。我々の意見は、あくまで印象の上に立脚している。これは、砂丘の上に城を建てているようなものだ……問題なさそうに見えるが、事実が違っていても、文句は言えない不確実さだ。

 護衛役として、そのような不確実は許されない。イザベラ陛下とシャルロット様が、お互いにどう思っているか、実際のところを知って、事実に基づいておふたりを守らなければならない。

 ゆえに、真実を知りたいのだ……おふたりに何があったのか……おふたりの本心は確かに、おふたりのものなのか……?」

 ――ふむ。

 そこまで熱心に、なおかつ慎重に仕事に挑むとは。この方は確かに、王家を守護する東薔薇花壇騎士団に相応しい人物のようです。

 彼は当然、ヴァイオラ様を守ることも己の仕事の範疇に入れているでしょうから、何者かが――ことによると、新たな『スイス・ガード』が――襲撃を仕掛けてきたとしても、充分に戦力として頼ることができるでしょう。私も一応、火のスクウェアですが、戦闘経験はそれほどではありません。ミスタ・カステルモールのような、熱心なプロフェッショナルが味方としてついてくれることは、非常にありがたいことです。

 ですから、彼の仕事への情熱に報いるためにも、望む情報を与えてあげたいところですが、持たぬものを与えることはできません。はて、どうしたものでしょう。

「……では、仕方ありません。私から、イザベラ陛下かシャルロット様に、さりげなく事情をおうかがいしてみましょう」

「え? い、いや、待ってくれミス・パッケリ。そこまでしてくれなくてもいいんだ!

 使用人が王族に、プライベートなことを尋ねたりしたら、不興を買うことになりかねん。これは私の個人的な調査なのだから、きみに危険をおかさせるわけには……」

「その点はご心配なく。ロマリア人である私には、イザベラ陛下も肩肘を張らなくて済む、というお気持ちをお持ちになるのでしょう、ティータイムなど、気休め時のお話相手をつとめさせて頂く場合がよくあります。シャルロット様にも、魔法の効果的な運用について、意見を求められることがしばしばございます。そういった時に、思い出話を聞くようなていで探りを入れるならば、陛下たちもご機嫌を損ねることはないでしょう」

「な、なるほど、それなら……いやしかし、ううむ……」

「それに、ミスタ・カステルモール。私もあなたのお話を聞いていて、少々好奇心というものが刺激されてしまいました。ガリア王室に、我らが王であるイザベラ陛下とシャルロット様に、何があったのか、知りとうございます」

 そう言って、許可を求めるようにミスタ・カステルモールを正面から見つめますと、彼は一瞬たじろいだような表情を見せましたが、やがて頷いてくれました。

「わかった、ミス・パッケリ。私からも、よろしく頼む。

 しかしくれぐれも、陛下たちのご機嫌を損ねることだけはしないように……もし何か都合の悪い事態が生じたら、遠慮なく私の名前を出してくれ。いいね、私の指示で、探偵をしていたのだと言うのだよ」

「ふふ。お気遣いありがとうございます。でも、そんな失敗はしませんわ……なるべく」

 責任感も誠実さも人並み以上。この人になら、この旅路の警備を――ヴァイオラ様の身の安全を、安心して委ねることができそうです。

 この方の仕事が成功する、ということは、それは私の仕事――ヴァイオラ様の守護――の成功も意味します。これはひとつ、気合いを入れてかからねばなりませんね。

「では、今夜にでも陛下たちからお話をうかがって参ります。その結果は……明日、この時間に、またこの場所に待ち合わせて、というので構いませんか?」

「わかった。また明日、ここで会おう……ミス・パッケリ」

 ええ。また明日会いましょう、ミスタ。

 

 

 ミス・パッケリに嘘をついてしまった。

 いや、全面的に騙したわけではない。俺の調査が、ボディーガードの仕事の役に立つことは否定しない。だが、イザベラとシャルロット様の和解の原因を探っているのは、どちらかというと『シャルル派』としての俺なのだ。東薔薇花壇騎士団団長としての俺、ではない。

 実際、イザベラとシャルロット様の仲が偽物であったとしても、仕事の上では支障などないのだ――この大型旅客船『スルスク』には、入念なボディ・チェックを受けた、身元の確かな者しか乗り込めないので、怪しいテロリストなどの侵入は考えられない。航行中に空賊に襲われる、などの可能性はあり得るが、『スルスク』は戦艦並みの強固な外装で覆われているので、それこそ正規軍の高性能大砲でも撃ち込まれない限り、轟沈することはないだろう。

 では、空賊船が接近してきて、テロリストがむりやり乗り込んできたならどうするか。そういう場合こそ俺の出番だ。風のスクウェア・スペルに、《偏在》というものがある。あまねく場所に吹き流れる風によって、自分と同等の力を持つ写し身を作り出すことができるという、極めて強力な魔法だ。これを使えば、護衛対象であるイザベラ、シャルロット様、マザー・コンキリエを、それぞれ一体ずつの偏在で守りながら、安全に敵に対処することができる。もちろん、イザベラ(あるいはシャルロット様)が、身内の誰かを攻撃しようとしたところで、問題なく取り押さえることができる――はずだ。

 護衛任務は、確実にやり遂げられる自信がある。イザベラとシャルロット様の仲を調べることは、それとは関係のない、バッソ・カステルモール個人の使命だ。

 確かにそれは、俺個人にとっては任務より大事なものだが、密偵に近い役割を任せてしまったミス・パッケリにとっては、はっきりいってどうでもいいことだろう。

 ロマリア人である彼女には、シャルル様への恩もない。

 ガリアを正しい血統に継がせるべきだと考える理由も、理想もない。

 イザベラの背後にジョゼフがいて、国政を密かに操っているとしても――それを打倒する義理もないわけだ。

 だというのに。ミス・パッケリは、俺の知りたいことが、俺の任務に必要だと思ってしまったがために、危険な役目を引き受けてしまった。

 おそらくは、自分の主の安全をより確かなものにするために、という理由もあっただろう。マザー・コンキリエへの、素朴な忠誠心が、彼女には確かにある。

 俺は、ミス・パッケリを止めなかった。彼女が聞き出してこれるかも知れない情報は、きっと有益なものだと思えたから。

 しかし、もし本当に、イザベラの背後にジョゼフがいたならば、ミス・パッケリは、彼女自身が考えているより、ずっと高いリスクをおかすことになる。

 頭のいいジョゼフは、メイドのつたない探偵行為など、容易に見破ってしまうだろう。そして、けっして油断することなく、自分の秘密を暴こうと行動しているミス・パッケリを、証拠ひとつ残さずに始末してしまうだろう。奴はそれくらい慎重で、また非情であるからこそ、あれだけ嫌われてなお、王として長く君臨することができたのだ。

 ――もし、明日までにミス・パッケリが不審な死を遂げれば。それは、ジョゼフ非失脚説を裏付ける、有力な材料になる。

 だが、そんなことにはなって欲しくはない! ミス・パッケリは単純な親切心と、主への愛情から――いわゆる無償の愛から、俺に協力してくれたのだ! あのような優しい少女を犠牲にして達成する使命など、とても正義の側のものとは言えない!

「ミス・パッケリに偏在をつけて、見守っておくべきだろうか……少なくとも、今夜ひと晩だけでも」

 ラウンジでミス・パッケリと別れて、自分の船室に戻った俺は、その案についてかなり真剣に考えた。

 杞憂かも知れないが、もしかすると――と思ってしまうと、気分が落ち着かない。あの何も知らない協力者の身は、俺という人間の責任において守らなければならない。

 この時ほど、イザベラが本当にシャルロット様と仲直りしていて欲しい、と願ったことはない。

 丸い船窓から、何気なく外の景色を眺めた。迷える俺の心の中とは違い、ガラスの向こうに広がる空は、穏やかな一面の青だった。

 

 

 わずかな横揺れとともに、『スルスク』の巨体はラ・ロシェール港の七番桟橋に接した。

 神話級にくそでかい樹木そのものを、船の発着場として使っておるこの港では、タラップから桟橋に降りることに少なからず恐怖を覚える。だって、桟橋自体がめちゃくちゃ高い位置にあるんじゃもん。タラップの手すり越しに下を見たら、母なる大地まで一直線に見通すことができる。パッと見、二、三百メイルってとこかのー。我、別に高所恐怖症というわけではないが、この眺めは何度来ても慣れん。

 じゃが、今回ばかりは少しの怯えもなく、らたたんとスキップすら織り混ぜながら、軽やかにタラップを降りることができた。なぜかって? 桟橋に我のハートを独占する輝かしい人がおるのに、周りの景色なんぞ目に入るかい、っちゅー話じゃ。

 先んじて『スルスク』の到着を待っておってくれたであろうその人に、我は駆け寄る。丸い灰色帽子をぴったりとかぶり、年期の入った地味な僧服を身につけた、いかにも真面目そうな彼。年齢に似合わぬ白い髪、しわだらけの顔、肉の薄いやつれた頬に、しかし慈愛に満ちた魅力的な微笑みを浮かべ、再会の喜びを表情であらわしてくれたその人。

「ファーザー・マザリーニ。お久しぶりでございます」

「マザー・コンキリエ。お変わりなく」

 鶏がらのように痩せた、相変わらずな兄様の手をそっと握り、挨拶を交わす。できればこのまま、ハグとちゅーぐらいはしてあげたい瞬間じゃったが、兄様の背後におるピンク髪のちんちくりんと黒髪のはな垂れボウズの存在に気付いてしまった以上、あまり大胆な真似はできん。ついでに言うと、『スルスク』の甲板から我々のやり取りを見下ろしているであろう、イザベラたちの存在も考慮対象じゃ。我はガリアの外務担当相として、相応しい態度を取らねばならぬ。

「我と、我の仕えるガリア王室は、このたびのファーザー・マザリーニと、トリステイン外交団の皆さまの同道を歓迎いたします。船内で、イザベラ・ド・ガリア陛下とシャルロット・エレーヌ・オルレアン様から、あらためて挨拶がございましょう」

「こちらの急な申し出を受けて下さったことについて、トリステイン王室に代わってお礼申し上げます、マザー。

 そう、外交団のメンバーたちとも、友好の握手を交わしてやって下さい。ご紹介します……こちら、ヴァリエール公爵家のご息女で、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール嬢。隣は、護衛のヒラガ・サイトくん。東方ロバ・アル・カリイエの出身で、まれに見る剣術の達人です」

「これはこれは。どうも初めまして、ミス・ヴァリエール、ミスタ・サリ、サイトー……サイト。ガリア外交担当相のヴァイオラ・マリア・コンキリエと申しますじゃ」

「る、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールです。よろしくお願いします、マザー・コンキリエ」

 緊張のせいか、やや表情の固いミス・ヴァリエールと握手をする。逆に手の方はずいぶん柔らかい。労働をあまりしておられんな。貴族らしい貴族の手で、なかなか好感が持てる。

 兄様のおまけに過ぎん奴じゃから、我としてはあまりへりくだってやる必要はないんじゃが、ないがしろにすると兄様の心証が悪くなるからな。できる限り優しくしてやろう。

 そしてもうひとり、黒髪のボウズであるミスタ・サイトーン――もといサイトにも、手を差し出す。

 手紙ではヒリガル・サイトーンと表記してあったが、兄様が紹介してくれた際の呼び方に従って、ミスタ・サイトと呼ぶことにしよう。恐らく東方独特の発音で命名されておるのじゃろう、呼びにくいことこの上ないが、こればっかりは変な名前をつけられた本人を責めるわけにはいかんからな。

 ミスタ・サイトはなぜか、握手を求めた我を怪訝そうな目で見ておったが、二、三秒のタイムラグを置いて、ようやく手を握ってくれた。武人らしい、ざらざらと固い手のひらじゃった。あんまり触り心地のいい手ではない。力の加減も及第点に届かずじゃ。強過ぎる強過ぎる痛いっちゅーのこんボケが。レディの手の扱いぐらい心得ておかんかい。

 さらに言うと、我がすでに名乗っとるのに、こいつはいまだに名乗らんというのも減点じゃ。兄様が名前を教えたからって、自分の口から名乗らんでええっちゅーわけではないんじゃぞ。そこんとこは社会の常識じゃと思うんじゃけど、どーなんじゃコラ。

 我の無言の圧力が、この常識知らずの頭に届くのには、やはり数秒の時間が必要であった。しばらく難しそうな顔して我を見つめておったミスタ・サイトは、はっと気付いたように露骨な作り笑いを浮かべて、ようやく言葉を返してきたのじゃ。

「あ、よ、よろしくな。えーと、ヴァイオラ、ちゃん?」

「ちゃん!?」

 予想外にもほどがあるミスタ・サイトの呼び掛けに、ついすっとんきょうな声で返してしまう我。身分を明かした上でのこの馴れ馴れしさは、いくらなんでも前例が無さ過ぎて、怒りとか不快感より衝撃が先に来た。

「ちょ、サイト! あんた何よその砕けた態度は!?

 ガリアの宰相様相手に、親戚の子供に話しかけるみたいなことしてんじゃないわよ!」

 ミス・ヴァリエールが慌てた様子で、ミスタ・サイトを叱りにかかる。もちろん小声で、礼を失することのないように心がけてのことじゃったけど、我としては思いっきり大声で怒鳴りつけてくれても全然よかったレベル。

 だってこのアホたれサイト(もうミスタなんぞつけてやる必要を感じぬ)、公爵令嬢に注意されてなお、こんなことほざきよったんじゃもん。

「いや、だってさ、ルイズ。こんなちっちゃい子に敬語使うのも、何かおかしいじゃんか。言葉の使いどころを間違えてる感じっていうか、丁寧過ぎると逆に変に見えるっていうか……。

 あと、俺、この子のこと、どっかで見たような気がするんだよなー。それが思い出せなくって、気が散ってて、つい違和感のない話し方を……いでででっ!?」

「へぇ〜ふぅーんそうなのー。じゃあしばらくしっかり口閉じてこれ以上無礼をはたらかないよう大人しくしてなさいいいわねこの駄犬」

 突然呻き声とともに身をよじり始めるアホサイトと、それに寄り添うようにしとやかな笑みを浮かべて、さらなる注意を促すミス・ヴァリエール。我の位置からは影になっていて見えぬが、どうやらミス・ヴァリエールの右手が、サイトの脇腹か背中の肉を、思いっきり力を込めてつねっているらしい。いいぞもっとやれ。

 サイトが、我の顔に覚えがあるというのは、もちろんあの忌まわしきアーハンブラ城での記憶であろう。我だってちゃーんと覚えとる。ミス・ヴァリエールとサイト、それとあとふたりぐらいのジャリどもが、囚われのシャルロットを救出すべく、入国管理法とか思いっきり無視して飛び込んできよったのを覚えとる。

 ほんの数分で、特に挨拶らしい挨拶も交わさんかったが、我とサイトは間違いなく出会っておる。じゃが、じゃがしかしじゃ、それをうろ覚えなのはまだ許せるとして、めっちゃナチュラルに口に出そうとするでないアホたれタコ野郎!

 アーハンブラ城での出来事はな! お互いに機密中の大機密なんじゃぞ! ガリア側にしてみれば、ロマリアの高位聖職者を監禁した上、殺害しようとしたっちゅー洒落にならん醜聞じゃし、トリステイン側――っつーかミス・ヴァリエール側にしてみりゃ、他国の軍事施設に侵入し、警備の者ぶっ倒したりいろいろ傍若無人をやらかしたっちゅー罪がある。

 で、双方ともにヤバげなところを目撃してしもて、こりゃーマズいぜーどーしよー、と混乱しとるうちに事態がなぜか全部、ジョゼフだけを悪者にすることでキレイに解決してしまったので――『お互い、何も見なかったことにしようね?』と口裏を合わせて、円満に別れることに成功したというのに――。

 よりによってわざわざ、トリステイン王国の重鎮である兄様の目の前で、我に見覚えがあるとか、ホントに殴ったろかこのボウズ。

「かくかくしかじかこそこそもにょもにょ……ってことだから! マザーと私たちが顔見知りだってことは、しっかり隠しておかなくちゃいけないの! あの人とは初対面! わかったわね、サイト!?」

「お、おう、そういうことだったんだな。確かに不法入国とか公になるのはマズいよな。

 わかった、ヴァイオラちゃんとは今会ったばかり、それ以前にはすれ違ったこともありません! ……って感じでいくことにする!」

「ちゃん付けもやめなさいってのよ! 言っとくけどマザーはね、私たちよりずっと年上なんだからね!?」

「え、うそ!? だってあれタバサよりちっさ、」

 兄様に聞こえんよう、めっちゃ声を潜めて、ミス・ヴァリエールがサイトを教育してくれておる。頑張れ頑張れミス・ヴァリエール。もっと言ったれミス・ヴァリエール。その犬以下のクソ平民をしっかりしつけるのじゃ。

 ――つーか、むしろ我も調教行為に参加させろ。さっきからちょくちょく繰り出される、サイトから我への侮辱発言の数々は、鞭打ち刑の十発や二十発には匹敵すると思うんよ。

「ミス・ヴァリエール? サイトくん? さっきから挙動が不審だが、どうかしたのかね?」

「え、いえいえいえ、ななな何でもありませんわファーザー・マザリーニ! ちょっとサイトが、外国の方との挨拶の仕方に戸惑っておりましたので、軽く指導をと!」

 ずーっと隅っこで額を突き合わせてごしょごしょやっておったミス・ヴァリエールとサイトの様子は、やはりはたから見ても怪しさ満点じゃったので、とうとう兄様から心配の声がかけられた。

 少々慌てながらも、それなりにごまかしてくれるミス・ヴァリエールはホントーにいい子。友達を助けるためにアーハンブラ城に乗り込んでくるような向こう見ずじゃが、たぶん根は真面目人間なんじゃろう。普段からことあるごとにテンパりまくっとる姿が目に浮かぶようじゃ。

「なるほど。確かに、ハルケギニアではどの国も言葉は同じだが、文化や習慣には少なからず違いがある。特に、遠い国の出身であるサイトくんには、トリステイン以外の国の人と接することは不安に思えるかも知れないね。

 だが、サイトくん。別に緊張する必要はないよ。マザー・コンキリエは、とても懐の深い人だ。細かい挨拶の不備などに、文句を付けたりはしないだろう。

 敬意を持って接すれば、ちゃんとその気持ちを汲んでくれるはずだよ」

「……だ、そうよサイト。とりあえず挨拶、やり直しなさい」

「わ、わかったよ。コンキリエさん、馴れ馴れしい口きいて、ごめんなさい。アルビオンまでの船旅の間、よろしくお願いします」

 兄様の優しい言葉と、ミス・ヴァリエールの後押しを受けて、よーやくさっきよりマシな挨拶ができるようになった間抜けサイト。

 どーせなら水の鞭をビュンビュン振りまくって、このクソガキに痛みとともに上下関係を叩き込んでやりたかったが、兄様にフォローまでされては、我もあまり強硬な態度は取れん。残念じゃけど調教は諦めようか。――えへへ、兄様の中では我、懐の深いレディなんじゃな。えへ、えへへ。

「お気になさらず、ミスタ・サイト。どうぞよろしゅう。

 ……さ、皆様、どうぞ船の中へ。イザベラ陛下たちも、早く皆様に会いたいと、首を長くしておりましょう」

 トリステインの三人を導いて、『スルスク』の船内へ。この時の我は、他国の使節を迎えるにあたってこれ以上ないほど、自然な笑顔ができておったと思う。

 

 

 トリステイン外交団と、イザベラ、シャルロットの挨拶は、何の問題もなく済んだ。

 その後の晩餐会でも、ガリアとトリステインの交流は和やかであった。イザベラは精一杯ネコをかぶって、おしとやかっぽく振る舞っておったし、シャルロットはもともと落ち着きのある奴じゃから、静かにメシを食うだけなら見苦しいことにもならぬ。

 兄様と、公爵家令嬢であるミス・ヴァリエールのマナーも素晴らしかった。やっぱ地位も財産もある人たちというのは、それに相応しい品性を身に付けておるものじゃ。

 例外はあのアホ一直線の少年、ヒラガ・サイトじゃが、他の連中が立派過ぎるからどーしても色褪せて見えるだけで、思っていたよりはだいぶマシじゃった。平民じゃからすごい汚い食い方して、我の食欲を撃滅しやがるんじゃないかとヒヤヒヤしておったんじゃが、なかなかどうして、見苦しくない程度にはナイフとフォークを使いこなしておった。この日のためにミス・ヴァリエールからマナーを叩き込まれたのか、それとも平民としては上流の家の生まれなんじゃろうか。

「……げ。うわ、何だこれ。この黒っぽい緑っぽいのヤバい。ちょっと洒落にならないくらいニガい! 口の中が原始に還る感じがする!

 る、ルイズ、ルイズ! これ食べなくちゃダメか!? 嫌な予感がするんだ、もし完食したら、俺たぶん全身緑色になる!」

「お残し? あのねサイト。普段ならともかく、こういう格の高い席じゃ、好き嫌いなんて言っちゃダメ。ガリアの方々に失礼でしょうが……って何これ!? ニガいニガいニガい! ていうかむしろエグい!」

 急に苦悶の表情を浮かべ、小声でやり取りを始めるトリステインのガキ主従。ふむ、多少の訓練は積んでおっても、やはりまだ経験が足らぬか。ちょいと舌に合わんものがあった程度で、それを顔に出すとは、未熟よのー。ぱくんちょ。――え、あれ、待て待て待て、確かにこの黒っぽい一皿はただ事ではないぞ。たとえて言うなら、はしばみ草とムラサキヨモギと魚介の内臓とご禁制の毒薬を混ぜて煮詰めたような、壮絶なニガ味――いったい何ぞ!? おいこらシェフ、調理中にどのような気まぐれを起こした!?

 よう見ると、イザベラもフォークを持ったまま青い顔しとる。兄様の額に脂汗が浮き、肩が小刻みに痙攣しておる。たぶん、我も負けず劣らず苦しげな顔をしとるのじゃろう。こいつはよくない。たった一品の脅威のために、この会食の優雅な雰囲気がぶち壊しになることはよろしくない! 何とかせねば――じゃが、どうすればいい!? ガリア側として、率先してお残しするとかできるわけないし、トリステインの連中は言わずもがなじゃし――どうする、どうする!?

「あ、そうだ。タバサー、確かニガいの好きだったよな? これ食べるか?」

 思いがけぬピンチを、思いがけぬやり方で救ったのは、思いがけぬことにサイトの野郎じゃった。この恐れ知らずのノータリンは、栄えあるガリアの副王様に対して馴れ馴れしくも、食べかけの皿をひょいと差し出しよったのじゃ。

 正直無礼討ちしても全然問題ない、破廉恥極まる行為であったが、今回ばかりはこれがブレイク・スルーとなった。この席で唯一、邪悪なニガさに対して耐性(つーかむしろ好んで食らう習性)を持っとったタバサことシャルロット・エレーヌ・オルレアンは、眼鏡をきらりんと輝かせて、「ご厚意に甘える」と、皿を受け取ったのじゃ。

 これを見たイザベラ、「あ、ああ、そうそうそうでしたわこのエレーヌはこの味付けをとても好んでいるのでしたわ健康志向の強い子でしてハイそうなのですわたくしも彼女には健康に育ってほしいのでよくニガい料理を譲ったりしているんですのだから今回もちょっと残念だけど私が自分で食べたいのはやまやまですけれどエレーヌが好きそうだから私の分のお皿もこの子に譲ってあげましょうそうしましょう遠慮なんて要らないのよウフフさあどうぞ食べてちょうだいさあさあさあ」と一気にまくし立てつつ、ごく自然に品位を落とすことなく、シャルロットに極ニガ料理を押しつけることに成功した。

 こうなると、同じやり方を踏襲する者が出てくるのは必然であった。ミス・ヴァリエールも、「で、でしたら私の分もどうぞ、ミス・オルレアン! 同じお船に乗せて頂くことへのお礼ということで! ぜひ!」と言って皿を移動させるし、我だって「ミス・オルレアンは育ち盛りじゃからして、たくさん好物を食べてええんじゃよ?」と、慈愛の精神とともにおぞましき栄養素を譲った。

 兄様は最後の最後まで迷っておったようじゃが、「この料理とて、嫌々食べられるよりは、美味しく食べてくれる人の口に入るのを望むはず……」と己を納得させ、自分の食べかねていたものをシャルロットに捧げた。

 シャルロットは、自分の大好物がたくさん懐に入ってきてご満悦。他の者は、その次の魚料理を舌を壊すことなく味わえて、ホッと胸を撫で下ろし。

 愚かなサイトの礼儀知らずな振る舞いによって、全員が救われた瞬間じゃった。

 ありがとうサイト。フォーエバーサイト。この瞬間だけは貴様の評価を上方修正してくれよう。でもたぶん、もう二度とお前と一緒に食事をする機会は設けぬ。我やっぱ、常識的な作法を身につけた奴とだけメシ食いたいもん。

 そして、ちょうど食事が終わった頃に、風石の補充が完了したという知らせが入り――『スルスク』は世界樹の枝から、再び夜空へこぎ出した。

 あとはアルビオンまで、安全で平穏な旅が続くのみじゃ。静かで邪魔の入らぬ、兄様が手の届く距離にいる夜の空。

 こんな滅多にない機会に、我が多少のロマンチックを求めたとして、それは不埒なことじゃろうか。いやいや、きっとブリミルも見て見ぬふりをしてくれるじゃろう。

 

 

「ファーザー・マザリーニ。ちと、アルビオンでのお互いの行動について、相談したいことがございますので、これからお部屋にお邪魔しても構いませんじゃろか」

「おお、マザー・コンキリエ。ちょうど私も、そのことについてあなたと打ち合わせておきたいと思っていたところです。歓迎しましょう」

 夕食後、ヴァイオラとトリステインのマザリーニ枢機卿は、お互いにそう声を掛け合って、一緒に食堂を出ていった。

 あたしはふたりの聖職者を見送ると、大きく息を吐いて、ぐぐーっと背伸びをした――もちろんこの時も、同じテーブルには気心の知れたシャルロットだけでなく、トリステインのルイズ・フランソワーズと平民剣士のサイトも着いていたのだが、コイツらに関しては特に礼儀を気にする必要はない。あのアーハンブラ城で、お互いの見苦しいところを見せ合った仲だ。ルイズもサイトも、あたしが暴言を吐き散らしながら実の父親をボコる、おしとやかとは程遠いガサツな女だって知っているから、丁寧で威厳ある態度なんか続けたって、何を今さらって感じにしかならない。

 あたしという人間を品の良いモノに見せなくちゃいけないのは、あの白髪狸のマザリーニ枢機卿の前でだけだ。ヴァイオラが彼を連れ出してくれたからには、窮屈なマナーを脱ぎ捨てて、地のままの姿でのびのびと過ごすのが正しいあり方ってもんだ――少なくとも、咎めるような奴は近くにいない。

「……まったく、こんなすぐにあんたたちと再会するなんて、思いもしなかったよ、ミス・ヴァリエール。

 どっちかというと、もう一生会うこともないだろうなー、くらいに考えてたのに。いい迷惑だ、あーいい迷惑だ」

「ぐっ……じ、女王陛下に無理をお願いして、申し訳ありません。でも、今回の同道は、私たちの意思ではなく、アーハンブラ城での出来事を何も知らないトリステイン王室の命令であるということは、どうかご承知下さい。

 私とサイトが、あの日のことをけっして口外するつもりもないということも」

 生真面目なルイズは、あたしが態度を崩しているにも関わらず、堅苦しい話し方をやめようとしない。ま、王族相手に簡単に馴れ馴れしくできるようじゃ、とても人の上に立つ器じゃないから、コイツの態度は公爵令嬢として正しい。

 だが、あたしはワガママだから、この場において正解なんざ望んじゃいないんだ。

「冗談だよ、怒っちゃいないさルイズ・フランソワーズ。それより口調を崩しな、これは命令だよ。

 あんたとシャルロットは、魔法学院で同級なんだろ? シャルロットのことを王族と知らなかった頃は、シャルロットにも敬語なんか使ってなかったんだろ? その時分と同じ感覚で、あたしに口をききゃいいんだ。

 オトモダチのために、よその国の城に特攻かます行動力をお持ちの上品なご令嬢なら、それくらいお茶の子さいさいだろ?」

 からかうようにそう言ってやると、ルイズは「う〜」とひと声唸って、やがて小さく肩を落とした。

「……女王陛下のたってのお望みとあらば、応えるのもやぶさかじゃないけど……じゃあ、砕けた感じでイザベラって呼んでいいのね?」

「おほ、おほほっ。そう、それでいいんだよ。あたしは敬語なんて話すのも聞くのもニガテなんだ。めんどくさい大人のいないとこでは、思いっきり雑にしな。シャルロットもヴァイオラも、普段はそうしてるんだからね」

 ホント? って感じに、ルイズはシャルロットに目で問いかけた。シャルロットは未だにデザート(おかわり三皿目)をつついていたが、フォークを口にくわえたまま、肯定の頷きを返していた。

「イラッとしたら殴ってもいい」

「……そ、そのレベルの気安さはさすがに遠慮したいんだけど」

 シャルロットの言葉に、ちょっと引いた様子で呟くルイズ。うん、ごめん、あたしも痛みを伴う親しみはNG出すよ。求めてるのはあくまで堅苦しさの排除であって、流血をともなう青春の類いじゃないんだ。

「そっちのサイトってボウヤもだよ。さっきから気になってしょうがなかったんだけど、あんた、ホンットーに礼儀正しくするのニガテなんだね。ギクシャクしてて見苦しいったらありゃしない。

 オトナどもがいない間は、せいぜいのびのびしてな。あくびしよーと背伸びしよーと、文句は言わないよ。このあたしが許す」

「え、マジでいいの!? 助かる!

 魔法学院とは雰囲気違い過ぎて、正直いづらかったんだよなー!」

 ルイズと違い、サイトは一瞬で肩の荷を下ろしやがった。あたしの言った通りに、「ん〜」って背伸びしてる。無邪気な野郎だ。

「ああ、ああ、普段通りにくつろいでな。ただしもちろん、あたしの態度にも文句はつけない、って条件を飲んでもらう必要はあるけどね」

 そう言って、あたしは椅子の背に体重を預け、ヒールを履いた足を持ち上げると、テーブルの上にどっかと乗せた。安酒場で、ならず者がやるようなしぐさだが、きちんと膝を揃えて背筋をぴんと伸ばしているよりは、百万倍居心地がいい。

「おお……カッコいい。女王様っていうより、姐御って感じがする」

「アネゴ? ふふん、姐御ねぇ。悪くない響きだ。やい三下、タバコを寄越しな……とかって言やいいのかね?」

 感嘆の響きがこもったサイトの呟きに、いい気分で頷く。確かにこのポーズで水ギセルでもふかせば、ちょいと絵になるだろう。部屋に戻ったら、ひとつ試してみるかねえ。

「まあ、それはいいとして、だ。ルイズ、サイト。

 あたしがわざわざ、あのアーハンブラ城での出来事を蒸し返されることも覚悟で、あんたらに無礼を許したのには、もちろんわけがある。

 おしとやかな女王様をやってるのがめんどくさくなった、ってのも大きな理由だがね。それ以上に、あんたたちと腹を割って話をしたかったんだ。お互い、立場を捨てた、ただの同年代のガキどもとして。

 駆け引きなし、聞きたいことを聞いて話したいことを話す。そういったことをしてみたい。別に国境を越えたダチを作りたいとか、張り切ってるわけじゃない……フツーに突っ込んだ話がしたい。これは命令じゃなくて、ただのおうかがいだ。どうだい、ここにいるただのイザベラと、仲良くおしゃべり、してくれるかい」

 この問いかけに、ルイズとサイトは顔を見合わせた。

 サイトの方は特に深く考えているわけではなく、ただキョトンとしているだけみたいだったけど、ルイズの方は困惑とためらいが瞳に浮かんでいた。礼儀や立場の重みを知らない平民と、礼儀や立場を捨てた上での立ち位置をはかりかねている貴族。それぞれの属する集団を象徴するような、ふたりの表情だ。

「俺は別にいいけど。あんまり面白い話とかする自信ないけど、それでもいいのか?」

「かまやしないさ。あたしだって、あんたらを抱腹絶倒させる話題のバリエーションを持ってるわけじゃないし。

 あんたは、ルイズ? 嫌なら嫌で別に責めないよ。あたしはこのサイトと、ふたりっきりでどっかに引きこもって、のんびり楽しい時間を過ごさせてもらうけど」

「そ、そそそそれはダメっ! どーせ変な意味じゃないんだろーけどそれはダメ!

 そ、それに、私、別に嫌だとか言ってないし。い、いいわよ、おしゃべりくらい、いくらでも付き合ってあげるわよ。どうせ寝床に入るまでには、まだたっぷり時間あるんだし」

 フグみたいにほっぺを膨らませて、半ばやけっぱちにそう言い捨てるルイズ。ひねくれてて可愛い奴だ。シャルロットとは違うベクトルで、コイツもからかったら楽しいタイプだね。

「オーケイ! そう言ってもらえてあたしも嬉しいよ。お互い、遠慮なく、変な気遣いナシでくっちゃべろうじゃないか。

 じゃあ、さっそくだけどさ。あたし、前からあんたらに聞きたいことがあったんだ。よかったら、率直に教えちゃくれないかい?」

「聞きたいこと? なんだ? 俺で答えられることなら、教えるぜ?」

「なに、そんなに難しいこっちゃないさ」

 あたしは、あんたらが知っていると確信していることしか聞かないよ。

「――ぶっちゃけた話。あんたら、いったい何者なんだい?」

 

 

 この場において傍観者に過ぎない私は、無言でデザートの皿をつつきながら、他の三人のやり取りを聞いていた。

 イザベラが問いかけ、サイトとルイズがそれに答えるだけの、他愛もないおしゃべり。少なくとも、イザベラはその点を強調した――しかしその内容の深さは、ただのヒマ潰しなどというくくりにおさまるものではなかった。ある意味それは、一種の外交戦争であった――我が従姉は、最初からそのつもりで話を切り出したのだ。

「何者、って言われても……最初に自己紹介した通りよ、イザベラ。

 私はヴァリエール家の三女、ルイズ・フランソワーズ・ド・ラ・ブラン・ラ・ヴァリエールだし、こいつは平民剣士のヒラガ・サイト。それ以外……」

「それ以外の何者でもないって? おいおい、バカをお言いでないよ。そんなわけないだろうが。それだけなわけないだろうが。

 なあ、自分でも不自然だとは思わないのかい、ルイズ。身分がそれなりに高いとはいえ、なんでまだ政界デビューもしてない学生が、戦争してる敵国に飛び込んでいく外交団の一員なんだよ。トリステイン人ですらない、遠い東方出身の平民がそれについてきてんだよ。王宮付きの外交担当の貴族はどうしたよ? 外務やってんのが、マザリーニ枢機卿ひとりってわけじゃないだろうが。要人の護衛を担当してる魔法衛士隊はどうしたよ。貴族守るのに平民ひとりとか舐めてんのか。あり得ないっつーの。

 あんたらはただの学生貴族と、ただの平民剣士じゃない。なにか特別な立場にいる人間で――あんたたちにしかできない大きな役目があるからこそ、マザリーニと一緒にこの船に乗り込むはめになったんだ。間違いない」

 断定的な物言い。イザベラが自分の言っていることについて、強い確信を抱いているのは明らかだ。それが伝わったのか、ルイズとサイトは目に見えて動揺した――何かを隠している、という意識を、態度に出して見せてしまった。

 イザベラが攻め手であり、ルイズたちが受け手。そんな構図が、わずか十秒程度のうちに成立した。私の知っているルイズとサイトの性格では、ここから会話の流れを逆転させることはまず不可能だろう。

「そもそも、さ。あのアーハンブラ城の時点で、あんたたちがただ者じゃないってことはわかってたんだ。ルイズ・フランソワーズ、あんたの頭の中の常識に照らし合わせて答えてみな。たった四人で、エルフと真正面からぶつかって勝てるかってーの。スクウェア・メイジ十人がかりで挑んでも怪しいもんだよ。

 ――悪く思わないでもらいたいけど、あのあと、一応あんたたちのことを軽く調べさせてもらったんだ。ついてきてた他のふたり……ミスタ・グラモンと、ゲルマニアのミス・ツェルプストーについてもね。土のドットに、火のトライアングルか。それプラス、魔法をすべて失敗する『ゼロ』のルイズに、平民の剣士。どう考えてもエルフ相手に勝ち目のある布陣じゃないね。

 それなのに、あんたらは勝った。お強いお強いビダーシャル卿に油断があったのか、それとも並々ならない奇跡的な運がはたらいた結果なのか? ……ううん、きっと何か、エルフの先住魔法を打ち倒すだけの必然的な理由があったはずだ、とあたしは確信しているよ。ハルケギニアの常識を覆す、とんでもない切り札を、あんたらは持っていたんだ。

 そしてそれは、今回の対アルビオン交渉でも利用することができるものなんだろう――少なくともトリステイン王室はそう判断して、マザリーニ枢機卿の外交団にあんたらを組み込んだ。

 地位とか身分じゃない、エルフを倒し、外交でもカードとして使用できる……おそらく抑止力として……それはきっと純粋なパワーだ。

 ルイズ・フランソワーズ。サイト・ヒラガ。あんたらは何を持っている? 素直に気軽に、口を滑らせてくれると、あたしすっごく助かるんだけどねえ」

 ――正直なところ、私もそれには興味がある。

 ルイズたちには、明らかに他の誰にもない秘密がある。ジョゼフが私に、ふたりの拉致を命じたことからもそれがわかる。ただ、私への嫌がらせのために、私と交流のあった人をさらわせようとしたのであれば、その対象にはきっとキュルケが選ばれていたはずだから。

 ルイズとサイトを、じっと見る。イザベラも、異端審問官のような鋭い目で、彼らを睨みつけている。

 ガリア王族ふたり分の眼差しを受けて、プレッシャーに耐えかねたのか、それとも受け流してはぐらかそうとしたのか。ため息混じりに言葉を返してきたのは、サイトの方だった。

「いや、悪いけどさイザベラ。それは誰にも話さないようにって口止めされてるんだよ。

 ルイズの系統は、アルビオンを降伏させる切り札になる情報だから、もし人づてに話が広まったら効果が薄れるってさ。だから話せな――」

「でりゃアアアアァァァァ――ッ!」

 裂帛の気合いと共に放たれたルイズの裏拳が、サイトの鼻っ柱をドグシャアと打ち砕いた。

 椅子に座ったまま、後ろ向きに倒れるサイト。鼻血を噴き出し、「おぶぅーっ」と切ない悲鳴を上げながら、床を転げ回って悶絶するサイト。その様子に同情のカケラも見せず、苦しむ彼に飛びかかって、流れるような手際のよさでヘッドロックを極めるルイズ・フランソワーズ。

「ナニ言われた通り素直に気軽に口滑らせてんのよ! 口止めされてるって言葉の意味、勉強し直してきなさいよこのバカ犬!」

「え、ちょっ、ちょっと待ってルイズ、俺なんか変なこと言った!?」

「言ったわよ! 堂々とさらっと言ったわよ! 私の系統がどうとか意味深かつあからさまなことを!

『偽の虚無で国をまとめてるアルビオンに、本物の虚無の存在を突きつけることはそれだけで爆弾のような効果をもたらすから、オリヴァー・クロムウェルに会うまで、情報を厳重に秘匿しておくように』って、マザリーニ枢機卿とアルブレヒト閣下に注意されたでしょ! このバカ! このバカ! このバカ!」

「ああぁ〜やめてやめて絞めないで痛い痛い! 顔に当たる感触が平たい! 顔に当たる感触が平たい!」

 どっすんばったんと、多種多様かつ夢のような関節技の数々でサイトを折檻するルイズ。主が使い魔に対してするにしては、あまりにも派手でやかましい躾だ。

 それを見下ろす私とイザベラは、逆にとても静かだった。ルイズたちの漏らした情報は、トリステインとアルビオンにとってだけでなく、我がガリアにとっても、いや、ハルケギニア全体にとって重大極まる意味を持っていた。

 失われた系統、虚無の本物――その情報をアルビオン攻略の武器にする――この交渉計画の背後には、マザリーニ枢機卿だけでなく、ゲルマニアのアルブレヒト三世もいる――?

 壮大で強力、かつ複雑なパワー・バランスの上に成り立つ計画が進行している。ガリアはその中で、どのような役割を振られている?

 すぐに結論を出すには難し過ぎる。まさに大事だ。このトリステインの交渉計画について、我々がどういうスタンスを取るべきか、外交の担当者であるヴァイオラと、今すぐにでも相談したい。

「……あー。どうしようかね、シャルロット」

 イザベラも、困惑を隠しきれない様子で、頭を掻きながら問いかけてきた。

「ホントにどうしよう。この子たち、こっちが心配になるぐらいすごくバカだよ……」

 危惧すべきはそこじゃない。

 



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バッソ・カステルモールの逡巡/語らいの夜/襲撃

今回は二話同時更新なのじゃよ。
このひとつ前の話を読み飛ばしてはおらぬか? 大丈夫? ならば読み進めよ。


 ひとつのお部屋でふたりきり。男と女が、見つめ合ってふたりきり。

 手を触れようと思えば届く距離。抱き合おうと思えばできる距離。耳をすませば互いの吐息が、心臓の鼓動が聞こえそうな距離。

 兄様のために用意された、広くて立派な貴賓用船室の中。少し視線を動かせば、花束もありお酒もあり、ベッドもある。ドアには内側から鍵をかけ、サイレントもディティクト・マジックも使用済みなので、出歯亀もお邪魔虫も存在できぬ。我々を見守るのは、窓の外のふたつの月とお星様だけ。何このロマンチックな据え膳。始祖は我に、一晩かけてたっぷり兄様に甘えなさいと申してくれておるのじゃろーかうえへへへ。

 この絶好の機会を、無駄にはしたくない。ほのぼのした兄と妹のような関係を、今夜をもって乗り越えるのじゃ。まあそうは言うても、兄様は真面目くさった禁欲の人じゃからして、向こうからのアプローチはあり得ぬものと考えねばならぬ。つ、つまり、我の方から、勇気をふりしぼってユウワク的なことをするべきじゃろな。不肖この我、ヴァイオラ・マリア、オトナの女として頑張っちゃうぞ。

 と、ととととりあえず、今夜じゅうに兄様に膝枕とかしてあげられたら、一歩前進でミッション・コンプリートじゃと思う! 結婚するまでは、それっくらいが自然で正しい男女の距離感よな、うん!

「さて、マザー・コンキリエ。今回のアルビオンへの渡航についてですが……」

 我の内心の決意も知らず、キリッとダンディな欲のないツラで我を見つめてくれる兄様。実に魅力的じゃが、色っぽい雰囲気を演出するにはあまりにも合わぬ。

 ま、こちらとしてもいきなり、兄様とスキンシップなんてする度胸はないし、目下の解決すべき案件である『アルビオンで何をするのか打ち明け合って、互いの邪魔にならないよう計画を立てておこう問題』について話し合って、後々の心配を片付けておくのもよかろう。

「そうですな、お聞きしたいこと、お話ししておきたいことはたくさんありますが……まずは、兄様。なぜ今回のような重大な交渉の場に、あのミス・ヴァリエールとミスタ・サイトをお連れなさった?」

 我は軽い導入の話題のつもりで、不思議で不思議で仕方のなかったことを、トリステイン外交団団長である兄様に問い質した。

 クッションのきいた安楽椅子に腰を沈めた兄様は、半ば覚悟していたような、そんな諦めの表情を浮かべた――我の座る革張りのソファは、彼の安楽椅子と向かい合わせの位置にあるため、その顔はよく見えた。

「やはり、マザー・コンキリエも、その点を不自然に思われましたか」

「それはそうですとも。ふたりとも、まだ子供ではないですか。ミスタ・サイトに至っては平民で、簡単なマナーについても充分とは言えぬ様子でした。とてもとても、他国との戦争の調停などという、難しい任務につけるとは思えませぬ」

 あのアホサイトはたぶん、外交どころか、まともに貴族と会話したこともないんじゃなかろか。あってもせいぜい、魔法学院に通うような世間知らずのガキ貴族とだけじゃろな。社会人としての会話っつーか、お互いの立場とかお約束的なもんを全然理解してない感じじゃったし。

「どー考えても場違いな連中です。しかし、それにもかかわらず、兄様はあのふたりをお連れなさった。あなた様は仕事の上で、無駄なことをされるお人ではない……絶対、何か深い企みがあるのでしょう。

 アルビオンで何をなさるおつもりです? ミス・ヴァリエールとミスタ・サイトは、いったい何者なのです?」

「……それをあらかじめ伝えておかなかったことを、まず私は詫びるべきでしょうな。

 マザー・コンキリエ、ブリミル教の聖職者であり、ガリアの外交を担当しているあなたには、遠からず事情を打ち明けて協力を願うつもりでした。お話ししましょう。彼らが何者であるか……どのような力を持っていて、それがアルビオンとの交渉にどれだけの影響を及ぼすと考えられるかを。

 これから私の言うことには、一切の嘘はありませぬ。そのつもりでお聞き下さい……実は……ミス・ヴァリエールは、現代に蘇った、伝説の虚無の系統の使い手なのです」

 我は目を見開き、口元を手で覆った。静かな衝撃が、我の心を揺さぶり、寒気のように全身を突き抜けていった。

「そんな。……そんな……」

 我の口から漏れた声は、我自身でも落ち着かせることができないほど震えておった。

 ――真剣な眼差しの兄様にそれを言われた時、我の心に去来したのは。『馬鹿な、あり得ない』とか、『なんととんでもない情報じゃ』とかいう感想ではのうて。

 えーと、その――『おお、兄様……仕事のし過ぎで、とうとう……』という、涙を誘う種類の切なさであった。

 もとから頑張り過ぎなのはわかっとったからのう。顔の萎び方からも、健康について危惧はしておったが、ああ、ついにその時が来てしもうたのか。

 まあ、たとえ精神がすりきれてしもうたとしても、彼が我の大好きな兄様であることに変わりはない。むしろこれで、遠慮なく彼をロマリアに連れて帰れるわけじゃから、いい口実ができたとも言える。

 とりあえず邪悪国家であるトリステインから力づくで引き離した上で、これからの後半生をつきっきりで優しくお世話してやらねばと思いを新たにしているうちにも、彼は夢物語的な始祖復活劇をつらつらと語り続けておった。

「ミスタ・サイトは、ミス・ヴァリエールに召喚された使い魔で、神の盾と呼ばれるガンダールヴのルーンを持っております。剣を持たせれば一騎当千の戦闘力を誇り……異界からやってきた鉄の船、『竜の羽衣』に騎乗し、風竜を越える速度で空を飛ぶこともできるそうです。

 無論、その主であるミス・ヴァリエールも、これまでのメイジの常識を覆すような力の持ち主です。彼女が操る虚無魔法は、四大系統魔法のどれにも属さない、強力かつ不思議なものです。かつてタルブを襲ったアルビオン艦隊を、一瞬で全滅させる爆発魔法。先住魔法を含めた、ありとあらゆる魔法の効果を消し去る解呪魔法。私も、直にこの目で見なければ、とても信じることはできなかったでしょう」

「ほほう、左様ですか、兄様はご自身の目で、ミス・ヴァリエールの虚無魔法をご覧になりましたかー。へー」

「はい。最初にミス・ヴァリエールから、虚無の系統に目覚めたことを打ち明けられた、アンリエッタ姫殿下の立ち会いのもと、見させて頂きました」

 ――ん?

「あの、兄様? ……アンリエッタ様も、ミス・ヴァリエールの虚無をご覧になっておられる?」

「ええ。アンリエッタ様から相談を受けた私が、ミス・ヴァリエールを招き、目の前で《ディスペル・マジック》という解呪魔法を使ってもらい、確かめました。

 奇妙な魔法でした。錬金魔法で生成した真鍮のインゴットが、もとの石ころに戻され、風魔法で作られたウィンディ・アイシクルの氷の矢が、溶けるでもなく光の中に消え去り、コンデンセイションで産み出された水も、同じ運命を辿りました。あのような効果をもたらすことは、四大系統の魔法では不可能です。非常に勇気のいることですが、私はミス・ヴァリエールの使う魔法を、虚無であると認めざるを得ませんでしたよ……もちろん、非公式に、ですが」

 いや、問題はそこではない。虚無の再来も重要ではあるが、そんなことより、お疲れ気味の兄様以外にも、ミス・ヴァリエールを虚無魔法の使い手と認識しとる人がいる、っつーことがすごい気になる。

「アンリエッタ様が、ミス・ヴァリエールの虚無をお認めになったので? 兄様とふたりで、どちらもそれが真じゃと確かめられた?」

「ええ、おっしゃる通りです」

「……他には? ミス・ヴァリエールが虚無であるとご存じの人は……?」

「それが、困ったことですが、ゲルマニアのアルブレヒト三世閣下も、アンリエッタ様経由でミス・ヴァリエールの秘密をお知りになりました。

 トリステイン=ゲルマニア連合が成立してから、おふたりは非常に親しくしておられます。近く夫婦になるのですから、当然と言えば当然なのですが。

 閣下もまた、非公式な場において、ミス・ヴァリエールの虚無を確認なさいました。ものすごく、それはもうものすごく、難しい表情をしておられました。ミス・ヴァリエールをどう扱ってよいか、心から悩んでおられるご様子でした」

「……………………」

「本来ならば、速やかにロマリア宗教庁に連絡して、教皇聖下のご判断を仰がねばならない事態です。しかし今、我が国は非常に立て込んでおります……アルビオンとの戦争。ゲルマニアへの、姫殿下のお輿入れ。内政も私とヴァリエール公爵が、国王代理として回しておりますが、お世辞にも安定しているとは申せません。

 そんなトリステインで、虚無が目覚めた……公になれば、新しい波風の原因としかなり得ません。一番考えられるのは、ミス・ヴァリエールを女王に据えて、王権をヴァリエール家に移させる、という動きでしょうか」

「そうなると、まずいですかな」

「まずいですな。いえ、ミス・ヴァリエールが始祖の系統である虚無に目覚めた以上、最終的にはそうなるべきですが、今はよろしくない。国全体の心をまとめるだけのカリスマを持ちながら、しかし王となるための教育をまったく受けていない人物をいきなり玉座に座らせるのは、デメリットの方が大き過ぎます。

 まず、アンリエッタ姫殿下とアルブレヒト三世閣下の婚姻の意義が薄れます。おふたりの婚約は、はっきり言ってしまえば、外交上の契約に過ぎませんでした。トリステインとゲルマニアの二国で協力して、アルビオンに対処することを目的としたものでしたが、おふたりの仲が思いのほかうまくいっているので、その雰囲気に当てられてか、国同士の関係も良好なものになってきております。

 貿易が活発になり、旅行者も増加しています。トリステイン国民への意識調査を実施したところ、半年前までは落ち込んでいたゲルマニアへの好感度が、ここ二ヵ月で四十パーセント近く上昇しているのです。これは、非常にいい傾向です……商業、行政、軍事、あらゆる点で都合がよろしい。

 しかしこの関係も、ミス・ヴァリエールを王として発表したならば、容易に崩れ去ってしまうでしょう。トリステインは虚無を持つ強力な王のもと、結束し自立できるようになり、ゲルマニアを必要としなくなる。むしろ、もとからゲルマニアを一段低く見ていたお国柄です、反動で排斥思想が生じる可能性が高い。

 ゲルマニアはゲルマニアで、トリステインへの接し方を考え直さねばならなくなります。始祖の再来であるミス・ヴァリエールが女王として君臨すると、トリステインの精神的地位はゲルマニアより一段も二段も上になってしまう。軍事力、経済力といった物質的な力はゲルマニアの方が上であるにもかかわらず、です。そこに意識の歪みが生じることになりましょう……軋轢、と言った方が正確でしょうか……。

 トリステインは国力を増し、国際的にも一段上の立場に昇れましょう。しかし、それはハルケギニア全体を視野に入れず、自分の国だけの得を見るならば、という条件付きの評価です。世界平和を、国と国との友好を大事にするならば、もっと慎重にことを運ぶ必要があります」

「……兄様は、トリステイン王国の宰相であらせられますな? それでいて、トリステインがどかーんとレベルアップするチャンスよりも、ゲルマニアと仲良くすることを優先したいと仰る?」

「そうです。ブリミル教の教典にもありましたでしょう、マザー。隣人を愛せないことは、悲しいことだと」

「……………………」

 あーもう。

 我、兄様のこういう考え方ニガテじゃ。

 異なる国の、考え方も違う人たちと、苦労を背負い込んででも通じ合いたい、そして一緒に成長していきたい、っつー精神は、我みたいな利己的な人間には理解できぬ。

 誰かを踏みつけにして、エサとか犠牲的なものにするからこそ、人はでっかい利益を得られるのであって、お仲間増やしたりしたらその分、利益も山分けにせねばならんではないか。

 弱小トリステインが急成長して、ゲルマニア相手にふんぞり返りたいならそうさせてやればええんよ。我の属するガリアやロマリアは、その時はその時で損せぬよう臨機応変に行動するだけじゃし。損するのはたぶん、対等な同盟結んどるゲルマニアだけ。しかもかの国をアゴで使える立場になりゃ、兄様の負担もがっつり減って、ラッキーハッピー万々歳ではないか? そうしちゃいなよマイブラザー、と、イイ笑顔で提案したい。

 ――でも。

 それでもあえて、理想を追って苦難の道を選んじゃえるからこそ、兄様はカッコいいんじゃよなー。

『自分のまわりの人たちさえ幸せであればそれでいい』、『敵は容赦なくやっつければいい』、『自分の手の届かないところで助けを求めてる部外者たちなんか知ったことか』、そんなありきたりな考え方をする能無しどもとは全然違う。自分の故郷とは全然関係のない国や、自分のことを悪く言うアホ国民どものために、己の健康を犠牲にしてまで必死に働く兄様。政治家として宗教家として、とても強いお心をお持ちの兄様。我とはまったく違った、国と国との隔たりよりずっと遠いメンタリティをお持ちの兄様。

 そんな兄様じゃから、我、大好きなんじゃ。

 うん、大好き、なんじゃよ。

「――それに、ミス・ヴァリエールが王座についたとして、そこまで都合がよくトリステインが、世界の中で高い地位にのし上がれるなどとは、私はまったく信じておりません」

 真剣なお顔で、兄様は続ける。

「先程も申しました通り、彼女は王となる教育を一切受けておりません。王たる資格はただひとつ、虚無という力があるのみです。

 臣下を、国民を率いていくだけの心構えも、能力も備わってはいない。専制君主制の国家においては、王がどれだけ優れた人物であるかによって、すべてが決まります。未熟な王が、臣民たちに担がれているだけの国では、衰退は避けられませぬ」

 ついこの間までのトリステインのように、じゃろか。

「最低でも、そうですな、国政のすべてを自分で判断・決定できる知識と意思の強さが、王には必要です。それを育てる教育を施した上でなければ、ミス・ヴァリエールを王にするのは危険でしょう。

 政界というのは、マザー・コンキリエならおわかりでしょうが、様々な対立意見と、利益不利益が錯綜する場です。雨季の大河よりも激しく、乱雑に暴れる流れです。その流れを制御し、国益へと引っ張り込めるようなリーダーシップ……それを身につけてもらってからでなくては、トリステイン女王ルイズ一世の誕生を、私は容認できません」

 ――兄様の危惧は、我にもよーくわかる。

 ここしばらくのガリアでの政務のお手伝いで、ガチに、身にしみて理解できる。

 大臣どもも地方領主どもも各種権利団体もひとりひとりのヒラ国民どもも、それぞれ好き勝手、自分のことしか言わんもん。相手の話とか全然聞かん。絶対的な個人である王は、その意見の大渦に対して、あれはダメこれはダメ、こういう方針でいくから反対でも言うこと聞け、って、ビシッと言って取りまとめにゃならんのじゃ。しかもちゃんといい方に、国がよくなる方向に持っていかねばならん。失敗は許されない――何の社会経験もない小娘にできるこっちゃない、マジで。

「ミス・ヴァリエールには、知識と経験を積んで頂かねばなりません。そして、広く太いコネクションを手に入れて頂かねばなりません。これから数年は、そうして王としての基盤を固めることになるでしょう。ゲルマニア皇帝は、ミス・ヴァリエールをお認めになられた。マザー・コンキリエ、あなたにとりなして頂ければ、ガリア王室とのつながりも作ることができるでしょう……この旅の間だけの、社交辞令的な挨拶だけに終わらない、個人的な友好関係も」

「ミス・ヴァリエールを、今回の外交団に採用されたのは、そのためで? 他のトリステイン貴族の方々が虚無のことを知らない今のうちに、彼女がただの学生であるうちに、ガリア女王イザベラ様との顔合わせをさせるために?

 となると……となると、アルビオン行きも、同じ目的ということですかや? 神聖アルビオン共和国を降伏させるのではなく、その皇帝であるオリヴァー・クロムウェルに接見させ、交流を持たせるために……?」

「ああ、いえ、それは違います。あくまでトリステインとゲルマニアは、神聖アルビオン共和国を降伏させるべし、という立場です。けっして、皇帝オリヴァー・クロムウェルを承認してはおりません。

 むしろ、我々はクロムウェルに対する決定的な攻撃手段として、ミス・ヴァリエールをアルビオンへ連れていくのです。クロムウェルの心理状態が、トリステイン軍情報部の分析した通りのものであれば、おそらくミス・ヴァリエールをぶつけることで、より早い降伏を促すことができるでしょう……」

「と、おっしゃると……?」

「マザー。あなたはオリヴァー・クロムウェルが、自らを現代に蘇った虚無の系統であると語っている、という噂をご存知ですか?」

 我の体の中で、胃袋がびくん、と跳ね上がる。

「その噂をどう思います。事実だと思いますか。それとも、嘘だと思いますか?」

「さ、ささささあ、わ、我はそのような噂を初めて聞きましたゆえ、何とも申せませぬ。ししししかし、ミス・ヴァリエールが本物の虚無なら、もしかしたーらクロムウェルも本物? とか思っちゃったりなんかしたりなんかして?」

「答えは……事実、ではありません。クロムウェルは、虚無を名乗っているだけのニセモノです。

 彼が、系統魔法では不可能な、恐るべき死者蘇生の術を操ることは事実ですが、それは水の精霊から盗んだマジック・アイテム、『アンドバリの指輪』の力を借りた奇跡であるということが、最近の調査で判明したのです」

 兄様のお言葉が、我の胃を二発、三発と、キレーなパンチでどついて右往左往させておる。

 我がガリアにとって不都合な真実に、彼はものごっついギリギリまで近付いておった。ヤバい、トリステインの情報部、こんなにも優秀なんか。『アンドバリの指輪』のこと、もう知られとるとは思いもせなんだ。

 この時点でじゅーぶんダメージなのに、ステキに真剣に仕事に取り組む兄様、我の内心など知りもせず、更なるアタックを繰り出してこられる。

「……しかし、もともとただの僧侶に過ぎないクロムウェルが、水の精霊から指輪を盗み出せるはずもありません。ラグドリアン湖の底から指輪を持ち出す実行力を持った何者かが、クロムウェルのそばにいたはずです。

 しかし、その共犯者は、一切アルビオン革命に姿を現しておりません。あくまで有名なのは、権力を手に入れたのは、オリヴァー・クロムウェルただひとり。

 この事実から、アルビオン革命そのものが、レコン・キスタとはまた別の、強大な実力を持った組織あるいは個人によって計画された――目に見えている形とは全く違う真相を持つ、謎多き陰謀であるのではないかと、我々は考えました。クロムウェルはあくまで、指輪を与えられただけの道化役者。指輪を与えた黒幕に言われるがままに、自分の役割をこなしただけの、意思のない操り人形です」

「……そ、その、クロムウェルを操った黒幕っちゅーのは、どこの誰が、もうお調べで?」

「いえ、残念ながら、まだ。黒幕の真の目的が何であるのかも、未だに不明です。

 アルビオンの王座、ではないでしょう。それはクロムウェルのものになっていますから。単純な利益とも考えられますが、この革命と戦争で金銭的な得をした組織、団体をリストアップしても、それらしいものは見つからず……もし、本気で聖地を目指そうとしているとか、ただ世の中が混乱するのが見たいとか、そういう思想的な動機で動いているのなら、まず発見は不可能でしょう」

「そ、そうでございますか。そりゃーよかっ……ゲフンゲフン、残念でございますな!」

 ちょっぴり、ほのかーにホッとできた。ガリアにとって最悪の段階までは、まだ至っておらぬようじゃ。

 じゃが、しかし。こいつはまずいぞ。兄様がオリヴァー・クロムウェルの正体について、そこまでご存知で――しかも、それを知りつつミス・ヴァリエールをアルビオンに連れていこうとしとるとなると――彼のなそうとしておる作戦がどういうものか、うっすら見えてきてしまう。

 そしてそれは、我にとってひっじょーに都合の悪いもの――の、はずじゃ。

「さて、アルビオン革命の重要な小道具となったマジック・アイテム、『アンドバリの指輪』についてですが。どうやら現在、クロムウェルはそれを使えない状態に陥っているようなのです。

 これはアルビオンを包囲している艦隊の交戦記録と、ハヴィラント宮殿に潜入させてある草からの報告を統合して出した結論です。クロムウェルは『アンドバリの指輪』の力によって、味方に死者が出ても、それを蘇生させることができるはずなのに、ここ数週間はその蘇生の奇跡を、一切行っていません。

 アルビオン軍では、包囲艦隊との戦闘で兵が死亡した場合は、死体をロンディニウムに輸送させていました。そこでクロムウェルが、華やかな虚無の儀式を執り行って、蘇生の奇跡を起こすわけです。そうして不死兵となった死者たちを再び前線に送り返すことで、戦力を維持していた。

 なのに、最近では死者が出ると、普通に埋葬してしまうというのですな……もちろん、棺をロンディニウムに送る手間もかけさせません。

 アルビオン軍の人員は徐々に減り、包囲艦隊への攻撃もかなり弱まっております。兵力を温存しているとか、撤退を始めているとかではなくて、純粋にヒトが足りなくなっている様子なのです。ハヴィラント宮殿にこもるオリヴァー・クロムウェルも、日に日に焦りと苛立ちを募らせているようで……要するに、何もできずに追い詰められているらしいのですな。

 彼が『アンドバリの指輪』を持っているとしたら、この態度はおかしい。彼は我々との戦闘を継続しなければならないのです……ならば、兵士はひとりでも多く欲しいはず。指輪の蘇生能力をフル活用して当然なのです。なのに、現実には逆に、蘇生を行わなくなってしまった。

 これは、クロムウェルが『アンドバリの指輪』の力を使えなくなってしまった、ということを意味しているのではありますまいか。指輪が力を使い果たして、役に立たなくなったとか……何か黒幕の不興を買って、指輪を取り上げられてしまったとか……具体的なことはわかりませんが、少なくとも、今のオリヴァー・クロムウェルが、皇帝という肩書きを持つだけの、ただの中年男に過ぎないということは間違いありません。

 それも、周りの国々から憎まれ、狙われている中年男です。兵は消耗し、兵糧も補給できず、命綱の『アンドバリの指輪』も使えなくなった、いつ限界を迎えてもおかしくない、本当に哀れな境遇にいる、ただの人間……それがオリヴァー・クロムウェルなのです。

 この状況が今後も続くなら、我々は包囲艦隊への支援を欠かさないだけで、アルビオンを降伏に追い込むことができるでしょう。しかし、私はもっと、速やかにことを解決する作戦を取りたいのです」

「ミス・ヴァリエールを……本物の虚無を、クロムウェルに会わせることで、ですかや?」

 我が、震える声で発した問いに、兄様は無言で頷いた。

 ヤバい。ヤバいヤバいヤバい。これほんとーに我が危惧した通りの展開になっとるぞ。

 はっきり言っちまうと――兄様、我と同じ作戦を企てておられる!

「オリヴァー・クロムウェルは、現状をどう見ているか? 恐らく絶望視しているでしょう。もともと、ただの僧侶に過ぎなかった彼には、国の危機に真正面から向かい合う意思の強さなどありません。

 よしんば、それができるだけの強さがあっても、実際的な力を持っていない。アルビオン軍は崩壊寸前、『アンドバリの指輪』も使えない、政治的な駆け引きでこちらに譲歩を迫る狡猾さも、持ち合わせているとは思えない。彼がまだ降伏しないのは、ただの意地か、あるいはしばらく持ちこたえれば、逆転の目を出せるという希望を持っているかのどちらかです。

 前者である可能性は、あまり高くありません。将来にジリ貧以外の展望がないのなら、こちらが降伏条件についてある程度の譲歩をする用意がある今のうちに、さっさと決断を下しているべきだからです。クロムウェル自身の性格から判断しても、苦労しかない王の地位に死ぬまでしがみつくよりは、こちらの提案に甘える選択をするだろうと思われます。

 後者……しばらく耐えることで逆転を狙っている、という可能性の方が、情報部での評価は高いものでした。自国での食糧の増産に期待している、という、楽観的な見方もありましたが、よりあり得るのは、クロムウェルの背後にいる何者かによって、支援がなされる予定がある、という見方です。

 もし、その支援が本当に約束されていたなら、クロムウェルは窮状に屈することなく、戦争を続けるでしょう。もし、黒幕が本当に、クロムウェルへの支援を実行する意思があるのなら――逆に我々が、トリステイン=ゲルマニア連合が、危機に陥ることもあり得るかも知れません。黒幕は、『アンドバリの指輪』一個をクロムウェルに与えただけで、六千年続いたアルビオン王家を滅ぼしてしまった。今後、クロムウェルにどのような助けがもたらされるにせよ、それは国のひとつやふたつを、容易に傾けるとてつもないものであるはずだ、と覚悟しておかなければなりません。

 それだけは阻止しなければなりますまい。アルビオンにまつわる戦役をここで終わらせ、未来に起きるかも知れない戦禍を、未然に防がねばなりますまい。

 そのためには、なるべく早く、黒幕からの支援がなされる前に、クロムウェルの心を折り、降伏させなくてはならないのです。本物の虚無という、ハルケギニアに住まうすべての人間にとって、敬意の対象となる力を示すことで、それを行います。

 クロムウェルの背後にいる何者かが、どれだけ強大な力を持っていようとも。始祖の再来である虚無の使い手、ミス・ヴァリエールの威光に勝れる道理はありません。

 すでに、兵力、資金力において、アルビオンは我々、トリステイン=ゲルマニア連合に劣っています……そこにさらに、虚無の使い手という宗教的なシンボルから『否』を突きつけられれば、クロムウェルはどう思うか?

 彼を操っていた、黒幕の方がまだ強いはずだと、揺るぎない信頼を保てるでしょうか? それとも、さすがに虚無まで敵になっては、もうどうしようもないと、白旗を上げざるを得なくなるでしょうか? マザー・コンキリエ、あなたはどちらに、天秤が傾くと思われますか?」

 我は、その答えを口にできない。ただ、沈黙のまま、兄様を見つめるのみじゃ。

 じゃが、頭の中には、こうなるに違いないと確信を持って言えるヴィジョンは浮かんでおる。

 ――クロムウェルは降伏する。ぽっきり心を折って、ミス・ヴァリエールに土下座する。

 奴の背後の黒幕、もうおらんもん。支援なんか永遠にないもん。クロムウェルは今も、ただ単に死への恐怖だけを支えに、必死の抵抗を続けとるに過ぎぬ。レコン・キスタの大義は、ずいぶん前からしおしおのぱーになっとるはずじゃ。

 オーバーキルにもほどがあるっちゅーの。トリステイン=ゲルマニア連合の包囲作戦だけで充分なんよ兄様。黒幕が盤面をひっくり返すかも知れない、なんて予想は的外れ。虚無なんぞ引っ張り出してきて、決着を急がんでも問題ないんよ。

 いや、むしろ、我にとって問題が起きるんじゃけど。

「ミス・ヴァリエールを、クロムウェルの喉元に突きつけた短剣として……我々は、彼に取引を持ちかけます。

 こちらが要求するのは、アルビオンの降伏と、共和議会の解体。そして、黒幕についての情報です。

 クロムウェルとて、黒幕のことを何も知らずに踊っていたわけではないでしょう。具体的な人物名や、組織名を話してくれれば万々歳。そこまでいかなくても、つなぎとなっていた人物についてや、どのようなやり取りがあったか、などを語ってもらうだけでも、充分な収穫となるでしょう。

 その条件を飲むことで、我々が与える報酬は、彼の生存権です。処刑を免除し、我々の指導のもとに、アルビオン統治を継続して頂く。……操られてのこととはいえ、オリヴァー・クロムウェルのしたことは、死刑に値することですが、彼の背後にいる黒幕の方が、危険性は上です。情報源として、また黒幕を釣り出すためのエサ、二重スパイとして、生かしておいた方が有益であると、我々は考えます。彼自身は何もしなくていい……国政を憂慮することも、外国からの脅威に怯えることもしなくていい。ただ、黒幕からの接触を待っていてくれればいいわけです。この役目は、今のクロムウェルが置かれている状況に比べれば、ずっと気楽なものでしょう。

 もちろん、ミス・ヴァリエールの虚無については、まだ秘匿すべき段階にありますので、彼の降伏の理由は『資源不足で戦線を維持できなくなったから』としてもらう必要はありましょう。この理由なら、黒幕にも言いわけは立つはずです。そしてこの秘密も、やがてミス・ヴァリエールが王座に着く日が来たなら、ヒロイックなエピソードとして、宣伝することが可能になる。

 アルビオンにまつわる問題はすべて解決され、新女王の経験値とカリスマ性を高めることにも一役買う。今回のアルビオン行きには、それだけたくさんの利益を見込んでいるのです。おわかりでしょう、マザー・コンキリエ……ミス・ヴァリエールをこの船に乗り込ませたことは、トリステインの行く末を左右する、まさに国運をかけた大事業なのですよ」

「そ、さ、そのよう、ですな……お、大事過ぎて、我も震えが止まりませぬぞ、は、ははははは」

 うん、確かに大仕事。この仕事を成功させ、女王になったのちに回顧録か何かで真相を明らかにすれば、ミス・ヴァリエールはとてつもない高評価を手に入れられよう。

 我がことのようによーわかる。ミス・ヴァリエールの位置に我を置いた計画を、我自身が立てておったがゆえに。

 嫌な予感は的中した。クロムウェルを降伏させ、アルビオン救済の聖人となる大計画。その実行権を、よりによって兄様と競り合わねばならんとは。

「この計画を知っているのは、この世に五人だけです。私、ミス・ヴァリエール、サイト君、アンリエッタ姫殿下、アルブレヒト三世閣下。そして、マザー、あなたに知らせましたので、これで六人の秘密になりました。よろしければ、あなたの口から、イザベラ女王陛下と、ミス・オルレアンにも伝えて頂き、この計画への参加を進言してもらえないでしょうか。

 実を言うと、クロムウェルを説得するためにアルビオンに渡る外交団は、私とミス・ヴァリエール、サイト君の三人だけではないのです。アルブレヒト三世閣下とアンリエッタ様も、あとから別の船で、お忍びでやってこられます。

 ミス・ヴァリエールという虚無の使い手、トリステインからは私とアンリエッタ様、ゲルマニアからはアルブレヒト三世閣下。そこにさらに、ガリアのイザベラ女王陛下と、ミス・オルレアン。そして、マザーがロマリアを代表して同席して下されば……全ハルケギニアが、オリヴァー・クロムウェルに降伏を勧告する形が出来上がる。ここまですれば、アルビオンがどれだけ頑固であっても、折れざるを得なくなるはずです。

 ……もちろん、あくまでガリア王国が中立を保つというなら、この提案は聞かなかったことにして下さっても構いません。しかし一応、陛下にはこの件、お伝え願いたい。トリステインに味方する、という意識でなくてもよいのです……ハルケギニアの、世界の平和のために、ご協力頂きたい」

 ぐっと身を乗り出して、白髪になった頭を深く垂れて。兄様は、長い長い話を終えた。

 ――どーしよう。ガチでマジで、どーしよう。

 大好きな兄様のお願いじゃし、素直に聞いてあげたい気持ちはある。しかしそうすると、こっちがもともと立てとった計画が、がらがらぐしゃーんとブッ潰れてしまうことになる。

 兄様の計画じゃと、クロムウェルを屈させる最大のファクターはミス・ヴァリエールじゃ。虚無の使い手であるという、あのピンクわかめ。

 この肩書きが、兄様だけが言うておるものならば、疲れた人が夢に見たことを真と思い込んどるだけなんじゃろなー、と言って片付けることもできるんじゃが、アンリエッタ姫やアルブレヒト三世まで認めておるとなると、だいぶ話が違ってくる。ことがことじゃ、仮にも王族を名乗る連中が真と発言したのなら、そこにはそれなりの責任があるはず。

 あとで、そのお二方――加えて、ミス・ヴァリエール本人にも――確認を取る必要があるが、トリステインに降臨した虚無の使い手は、少なくとも王族が否定できん程度には『本物』なのじゃろう。

 つまり、のちに今回のアルビオン降伏作戦が教科書に載るとして、一番大きな扱いになるのはミス・ヴァリエール。始祖の再来、新たな伝説、特別な存在、この時代の女主人公じゃ。我はたぶん、ミス・ヴァリエールの活躍の場に立ち会った偉い人その五ぐらいの扱いになるであろう。聖女と呼ばれるほどの名誉など、とても期待できぬ。肩書きがスゴ過ぎて、太刀打ちできんっちゅーか立ち向かえんレベル。

 まあ、涙を飲んでそれを是としてもじゃよ? 名誉への野心を捨てて、脇役に甘んじてもじゃよ? オリヴァー・クロムウェルの身柄が、ガリアの預かりになるのではなく、トリステイン=ゲルマニア連合のものになる、というのは捨て置けん。

 どこでどう調べたのか、トリステインはクロムウェルの手品のタネが『アンドバリの指輪』じゃと知っておった。しかも、クロムウェルが傀儡に過ぎず、その背後に別の何者かがおるということまで突き止めておった。

 兄様たちは、クロムウェルを使って、その謎の黒幕を見つけ出そうとしとる。こればっかりは困る。だってだって、その黒幕、我がガリアの先王であるあのジョゼフなんじゃもん。

 もうエルバ島から出ることのできぬジョゼフが、クロムウェルをエサにした釣り出し作戦にかかることはあり得ない。しかし、クロムウェルへの尋問の結果、ジョゼフの名前が出てくることは――あり得ない、とは言えぬのじゃ。我も、ジョゼフがどの程度まで姿をさらして、クロムウェルを操っとったのか知らんゆえに。

 もしも、クロムウェルが黒幕の正体を知っておったら。ガリアは、非常に不味い立場に立たされる。

 もともと、今回のアルビオン行きは、そうなる可能性を排除することを目的としておった。クロムウェルを説得して口を封じ、不都合な真実が漏洩するのを防ぐための旅行じゃったんよ。それなのに、それなのに兄様に協力して、トリステイン=ゲルマニア連合にその秘密を知られるリスクを背負い込むなど、絶対にあり得ん選択肢じゃ!

 では、中立という立場を守る、という建前を使って、協力を断れば済むか? いや、それも違う。

 我々ガリア組は、戦争で疲弊した民衆を見舞う、という名目でアルビオンへ行こうとしておる。公式発表でもそうなっており、ハヴィラント宮殿にオリヴァー・クロムウェルを訪ねる、なんて予定は、後回しになっておる(傷ついた人々と国土を見て、悲しんだ我がクロムウェルにご注進に行く、という筋書きであるゆえ)。対してトリステイン外交団は、最初からハヴィラント宮殿に直行じゃ。ガリア勢無しでも、虚無っつーデカいタマがある以上、兄様たちはクロムウェルの説得を成功させるじゃろう。我は完全に蚊帳の外になり、クロムウェルはトリステインのものになって――名誉もなく、ガリアのヤバい秘密がバレる危険性だけが高まるという、悪いことばかりのオチがついてしまう。

 な、何とかせにゃいかん。兄様に対し、これまでにない選択肢でもって応えねばならん。

 イエスでもノーでもダメじゃ。考えろ、考えろ――千載一遇のチャンスをフイにせずに済み、なおかつガリアの醜聞を完全に隠し通せるようなプランを――!

「非常に、非常に壮大で、素晴らしい計画である、と思いまする。ファーザー・マザリーニ」

 我は、紙のように乾いた喉で、かろうじて言葉を搾り出した。

「個人的には大賛成です。しかし、あくまで我はガリア王国のいち臣民に過ぎませぬ。

 あなた様の計画に賛同するかどうかは、国の方針を決める唯一の立場にある、イザベラ女王陛下が選択なさるべきこと。あなた様のご提案に従って、陛下に先ほどのお話を伝え、判断を仰ぎたいと思います。このような返答でよろしいでしょうか」

「おお、マザー・コンキリエ! ありがとうございます。それで充分でございますぞ。

 たとえ陛下が、否と仰られたとしても、あなたのお心遣いに感謝する私の心は変わらないでしょう」

 破顔し、我の手を取って、子供のように喜ぶ兄様。

 ほんとーに無邪気なお人じゃ。うう、こんな人の目の前で、トリステインを出し抜く方法を考えなくてはならんとか、言葉にしにくいヤな感じじゃ。

「では、さっそくイザベラ陛下たちのところへ行って参ります。おそらく、それなりに時間のかかる話し合いになるでしょう……ことの成否をお伝えするのは、明日の朝、朝食ののちに、ということでよろしいですかな?」

「ええ、もちろん構いませんとも!」

「わかりました。それでは、今夜はこれにて……明日のために、よくお眠り下さいませや、兄様」

 我はそう言って立ち上がり、兄様の笑顔に見送られて、彼の船室をあとにした。

 パタン、と扉が閉じ、兄様の姿が視界から消えると同時に――我は猛ダッシュで、自分の船室を目指した。

 

 

 兄様の要請通り、素直にイザベラにおうかがいを立てに行くほど、我は素直な愚か者ではない。

 部屋に帰った我は、すぐさま文机に飛びつくと、大急ぎで手紙を書き始めた。この仕事はとにかく、速さが重要じゃ。頭の中で文面を考えながら、かりかりかりと羽根ペンを滑らせていく。

 宛先はロンディニウム――ハヴィラント宮殿のオリヴァー・クロムウェル皇帝陛下。

 内容は簡潔明瞭に。『指輪の件で内密な相談をしたいので、宮殿を離れ、人目につかないところで会って頂きたい』。

 今現在、我の身に降りかかっておる危難を逃れるために、どーしても必要なこと――まず、兄様たちトリステイン外交団より先に、クロムウェルと接触せねばならぬ。

 これができれば、危険度は大幅に下がる。クロムウェルと密会し、出会い頭に『アンドバリの指輪』を使って操り人形と化してやれば、奴がどれだけのことを知っていようが、あるいは知るまいが、兄様たちの尋問に対し、我やガリアにとって不利なことを言う可能性はなくなるのじゃから。

 兄様たちは、クロムウェルがハヴィラント宮殿で待ち受けていると思っておるじゃろうから、あえて外出させて、全然違う場所で待ち合わせる。どこがええじゃろ――おお、そうじゃ、ロンディニウムとロサイスの間、サウスゴータ地方にしよう。あの辺は森の多い田舎じゃし、旅人の通り道なんで宿屋もたくさんある。

 具体的な会見場所を見つけるため、書棚を漁り、アルビオンの地図帳を引っ張り出す――サウスゴータ地方のページをめくり、いくつかある宿場街の中から、最も適当なものを選択する――お、ここなんか良さそうじゃ。ウエストウッドの森と、クボノの森の間に挟まれた、ヴィレッジ・オブ・ムーリィー。木工細工を特産にしておる地味ーな村じゃが、貴族専用のオシャレでひなびたペンションがある。よしよし、ここにクロムウェルを呼び寄せよう。

 指輪の恩恵を忘れていなければ、何を差し置いても来るように――と、強制的な一文も添えて。ここまで露骨に書いときゃ、クロムウェルがどんだけニブい野郎でも、まず逆らうことはあるまい。

 検閲にかけさせる時間も惜しいので、正直に我の名でサインをしたため、封蝋にはコンキリエ家の家紋を刻んだ印鑑を押す。そんでもって赤インクで『親展!』とでっかく書いといてやれば、直接クロムウェルのもとに届くじゃろう。

 封蝋が冷め、しっかり固まったのを確かめて、我は部屋から飛び出し、その手紙を船の中のある場所へ持ち込んだ。

「郵便係はここか? 夜分遅くにすまぬが、この手紙を出したい。鷹便は使えるか?」

 我らの乗り込んでおる巨大豪華客船『スルスク』には、便利を最大限に追求した結果、終日受付の郵便局まで備わっておった。ここに手紙を持ち込めば、訓練された鷹やフクロウを使って、世界のどこへでも郵送してくれるのじゃ。

「はいはい、お手紙の郵送ですね。確かに承りました。

 鷹便による速達をご希望ですね? この船では郵便用の風竜も乗せておりますので、三エキュー割り増しすれば、鷹便より速い風竜便で、お手紙を配達することができますが?」

「おお、そりゃラッキーじゃ! ぜひとも風竜便で頼むことにしよう!」

 窓口のねーちゃんのオススメに乗っかって、我は普通郵便の料金にはした金をプラスし、さらに余裕を持って策を実行することを選んだ。風竜便なら、鷹やフクロウを使うより、だいぶ時間を節約できる。『スルスク』が今いる地点からロンディニウムまでの距離なら、半日近い短縮も可能であろう。

 オリヴァー・クロムウェルの方は、これでよし。次はイザベラとシャルロットに相談して、兄様の提案にどう応えるか、考えをまとめねばならん。

 仮に兄様の計画に参加して、一緒にハヴィラント宮殿に行くのなら、我が途中で離脱する口実を――ヴィレッジ・オブ・ムーリィーに寄って、クロムウェルを洗脳する予定をタイムテーブルに挟み込む方法を――打ち合わせねばならん。

 あ、そうじゃ、問題の中心であるあのピンク、ミス・ヴァリエールにも確認を取っておく必要があるな!

 奴がホントのホントーに虚無の使い手なのか、証拠があるなら見せてもらわんと。ガチの本物じゃったら、またいろいろと面倒ごとが増えるから、今のうちに打てる手を打っておかねばならん。奴がトリステイン女王になるっつーなら、脅威はさほどデカくないが――もし仮に、一国の王よりも、ハルケギニア全体を統べるロマリア教皇の座に憧れていたりなんかしたら、我にとって最大最強のライバルとなり得る。

 排除するなり、懐柔するなり。今のうちに選択肢を作っておくに越したことはなかろうの。

 ええい、ロマンチックとはほど遠い。今宵は忙しくなりそうじゃ。

 

 

 ルイズとサイトの、どーしよーもない失言から、数時間が経過していた。

 どったんばったんと絞めたりひっぱたいたり、殴ったり蹴ったりを続けていたふたり(どちらかというと、一方的にサイトがやられる側だった)に、シャルロットがエア・ハンマーをぶつけて大人しくさせて――冷静になった馬鹿たちを、あたしがあらためて質問責めにして。

 すでに戯曲が三、四冊は書けるだけの情報を引き出すことに成功していたけど、はてさて、あたしはこれをどう活かせばいいのか。正直、頭を抱えずにはいられなかった。

「現代に蘇った虚無の使い手と、その使い魔ガンダールヴねぇ……その権威でもって、偽の虚無であるクロムウェルに降伏を勧告しに行く、か。どう思うね、シャルロット?」

「まずはヴァイオラの意見を聞きたい。今回の旅の主役は、あくまで彼女。彼女がどう思うか、どういう行動を選択するか、それがすべて」

 少ない言葉で、内輪にだけわかる表現で、シャルロットは返事をしてきた。

 確かに、どうすべきかの決定権を持っているのはヴァイオラだ。クロムウェルを降伏させる計画は、あたしたちガリア王国も持っているが、その計画、実行両面において、重要な位置を占めているのは、あのチビの女枢機卿なのだ。あたしやシャルロットはついてきただけで、実際にはほとんどタッチする予定はない。

 なのに、その計画を破綻させてしまうような情報を、ヴァイオラでなくあたしたちが入手してしまった。話を聞いたら、彼女はのじゃのじゃ言って慌てるだろう――でも、それは速い方がいい。あとになればなるほど、計画を修正するのが難しくなるからだ。

「えっ、ちょっ……い、イザベラもタバサも、今の俺たちの話、ここだけのことにしといてくれないの? で、できればそのー、あまり触れ回ってほしくなかったりなんかするんだけど」

「う、うん、できればあなたたちの胸にだけしまっておいて? あなたたちに話しちゃった、ってバレたら、絶対にマザリーニ枢機卿に怒られちゃうもの……」

 あたしたちのやり取りを聞いて、動揺する虚無主従。どっちも捨てられた子犬みたいな眼差しだ。とても始祖の再来なんて、御大層なもんには見えない。

「ああ、心配すんな心配すんな。あんたらに迷惑がかかるようなことにはならないよ。

 今聞いた計画を邪魔したりしないし、ファーザー・マザリーニに対しても、知らないふりをしてやるさ。ただ、うん、ヴァイオラは高位のブリミル僧だからね。虚無の再来、なんて重要事、いつまでも知らずにいる、なんてことは考えられないんだよ。

 どうせ遠からず、他ならぬファーザー・マザリーニから、ヴァイオラに情報は流れることになる……その時、あの子が驚かなくても済むように、ちょいと匂わせてやるだけだよ。

 ていうか、そんなことよりさ。四系統とは全然違う、虚無の魔法が使えるんだよね? どんなことができるのか、ぜひ見せて欲しいね、あたしとしては! 何か危なくない呪文があったら、唱えてみてくれないかい?」

 好奇心に胸踊らせながら、あたしはぐい、とルイズに顔を寄せ、おねだりしてみた。

 深刻っぽくなりつつある場の空気をほぐすつもりで出した、ある意味ごまかしの言葉だったが、もともと珍しいもの好きのあたしの本能が、虚無がどういうものなのか知りたくて知りたくてうずうずしてたのも事実だ。

 シャルロットも、身じろぎひとつせずにじーっとルイズに視線を注いでいる。よく見れば、その目が期待と興奮でキラキラ輝いていることに気付くだろう。ハルケギニアに生まれ、魔法に親しみ、始祖ブリミルの教えの中で育ってきた人間にとって、虚無にロマンを覚えない、などということはあり得ないのだ。

「うーっ……じゃあ、条件付きでなら見せてあげる! まず、マザー・コンキリエ以外には、ぜーったいに誰にも、虚無のことをバラさない! これ、いい!?」

「オーケイオーケイ。てか、さっきすでにそれは約束したつもりだったんだけどね、あたし」

「それともうひとつ! 明日の朝食のデザートはクックベリーパイにしてちょうだい! いける!?」

「ああ、お安いご用だとも」

 結局、ルイズの要求というのは、そのふたつだけだった。欲がないというよりは、この手の駆け引きに慣れてなくて、要求が思いつかなかった、って感じに見えた。こっちとしちゃ、もっとかなり際どいことを望まれても、それを叶えてあげるつもりでいたんだけどねぇ――ガリア=トリステイン国境での関税の撤廃とか、それくらいのレベルなら、だけど。

「それじゃ、ええと……《エクスプロージョン》は危ないから、《ディスペル・マジック》あたりを見せてあげましょうか。

《ディスペル》は、魔法の効果を消し去るスペルだから、悪いけどイザベラ、何か目に見えるタイプの魔法を、私に向かって使ってもらえる? あ、もちろん、私が呪文を唱え終わってからね!」

「ああ、了解したよ。……しかしアレだね、見せてもらう前に言うのもなんだけど、ずいぶん地味な効果なんだね……もうちょっとこう、派手な魔法はないの? 空全体を幻影で埋め尽くすとか、地の果てまで瞬間移動するとか、そういうスゴいのは?」

「うっ。し、仕方ないじゃない。まだ《エクスプロージョン》と《ディスペル》しか、虚無の呪文を覚えてないんだから。

 あ、でも、今まさに新しい呪文を必要としてるし、祈祷書に新しい呪文が浮かび上がってたりするかも……少し待ってて! 一応チェックしてみるわ!」

 ルイズはブラウスの胸ポケットから、手のひらサイズの古びた冊子を取り出し(冊子の厚みが消えたせいで、もともと平らな胸がさらに寂しくなった)、忙しなくページをめくり始めた。

 何してんの? と尋ねるのもはばかられるほど、真剣な様子だったので、代わりにサイトに目で問うてみる。このアホっぽい少年は、それでもあたしの言いたいことを正確に察してくれたようで、「ああ」と言って、疑問に答えてくれた。

「あの本は『始祖の祈祷書』って言ってさ、ルイズが虚無の呪文を習得するための、キーアイテムなんだよ。

 あの祈祷書と……ほら、ルイズの指に、水色の宝石の指輪がはまってるだろ? あれは『水のルビー』って言うんだけど、そのふたつのアイテムを虚無の使い手が持つと、祈祷書の中に、ブリミルさんのメッセージと、虚無の呪文が浮かび上がってくる、って仕組みらしいんだ。

 ただ、一気に全部の呪文が見えるようになるわけじゃなくて、持ち主が必要とした時に、必要な分だけ、呪文を表示するシステムになってるみたいでさ」

「ははあ、つまりあの子は、今この瞬間に、新しい呪文が解禁されてるんじゃないかって思って、祈祷書をめくってるってわけ?」

「そういうことだと思う。ブリミルさんも意地悪だよなー、そんなややこしいことしないで、普通に全部の呪文をずらーっと見せてくれればいいのに。

 ……っていうか、キーアイテムなんか残さないで、普通に教科書みたいな形で虚無の呪文を残してくれればよかったんだよ。指輪と祈祷書、このふたつがないと虚無の呪文が手に入らない、なんてシステムのせいでさ、ルイズすっげー苦労したんだぜ。魔法が使えない無能の『ゼロ』なんて呼ばれてさ……」

 ことり、と。

 あたしの頭の中で、何かが転がったような、不思議な感覚が生じた。

「……サイト。ちょっと確認したいんだけど。虚無のメイジとして生まれた人間は、魔法が使えないのかい?」

「ああ。少なくとも、ルイズはそうだった。何唱えても爆発するばっかりでさ」

「でも、『始祖の祈祷書』と『水のルビー』を手に入れたら、魔法が――虚無が使えるようになった?」

「ああ。最初に目覚めたのは、アルビオン空軍がタルブに攻め込んできた時だったな。あれはすごかったなー、クジラみたいにでかい戦艦を何隻も、一発の爆発でドカーンと……」

 サイトが何か続けて言っているが、あたしの頭にはその言葉は入ってこない。

 魔法の使えない、無能なメイジ。しかし、『始祖の祈祷書』と『水のルビー』を手に入れることで、虚無に覚醒した。

『始祖の祈祷書』も『水のルビー』も、始祖の代からトリステイン王家に伝わる、有名な秘宝だ。だが――それと同じような秘宝が、他の国の王家にも伝わっていることを、あたしは知っている。

 アルビオンには、『始祖のオルゴール』と『風のルビー』。ロマリアには『始祖の円鏡』と『火のルビー』。そして、我がガリア王国には、『始祖の香炉』と『土のルビー』。

 もしも、それらのアイテムもまた、虚無を目覚めさせるための鍵としての能力を持っているとしたら?

 そして、この世に現れた虚無の使い手が、ルイズ・フランソワーズだけではないとしたら? 我が国にもひとり、有名な能無しメイジがいた――彼がもし、キーアイテムに触れていたら、どうなっていた?

 いや――そもそも、彼は――キーアイテムに、触れなかったのか? 一度も?

「……なあ、シャルロット。あんた、覚えてるかい? あたしが王位継承のために、親父の部屋から『始祖の香炉』と『土のルビー』を持ち出した時のこと」

「覚えてる。私も、あなたと行動を共にしていた」

 返ってきたシャルロットの声は、震えていた。ああ、あたしの賢い従妹。あんたも同じことを考えているんだね。あたしと同じ不安を、あんたも感じているんだね。

「あの香炉……何度か使ったことがあるように、あたしには見えたよ。あんたは?」

「私も同じ。ごく最近、使われた形跡があるように見えた」

 ――考えられるだろうか?

 あの、無能王と蔑まれていた父が。あのバカでマヌケでトンマでウスラデブでノータリンなジョゼフ・ド・ガリアが。実は最も正統に始祖の血を受け継いでいた、虚無の使い手だった――などということが?

 不安というか、危機感に近いものが、積み木のように重なり合って、形をなしていく。いやいや、あのバカ親父は島流しにされた。もしアレが虚無に覚醒していたとしても、もう何の問題もない。今のガリアは、あたしの時代だ。

 だが、だがそれでも、いずれエルバ島を訪ねて、親父に確かめなくてはならないだろう。彼は結局、何者だったのか? 本当はどんな人間だったのか――?

「……あーもう、やっぱりないー! 仕方ないから、予定通り《ディスペル》でいくわよ! イザベラ、呪文の準備、お願いね!」

 ルイズが残念そうに叫んだ声で、あたしは我に返った。

「あ、ああ。あたしは《水の鞭》を使わせてもらうよ。こっちの詠唱はすぐに済むから、そっちが時間かかるんなら、先に唱え始めてくれていい」

「了解。それじゃいくわよー、……」

 彼女が息を吸い込み、スペルを唱えようとした、その時だった。

 

 ――みぎ。ぎ、ぎ。みぎぎぎぎぎぃいぃ――っ。

 

 不気味な、怪物の悲鳴のような音が――前後左右、あらゆる方向から聞こえた。

 何事かと、周りを見回す。ルイズもサイトも、シャルロットも同じように、不思議そうにきょろきょろしている。しかし、何も変わった様子はない。

 ――いや、あるとんでもない要素が、劇的な変化を遂げつつあったのだが、状況判断に視覚を優先していたあたしには、それに気付くことができなかった。

 この時点から、約五秒後。かなり痛い思いをして、あたしは何が起きているのかを、理解することになる。

 

 

「すまない、ミス・パッケリ。こちらから話を持ちかけておいてなんだが、やはり例の件について、私が頼んだことを忘れてはもらえないか」

 夕食の時間からしばらく経った頃。ほとんど、床につく直前のような時間帯に――俺は再び、ミス・パッケリと面会していた。

 船内に異常がないか確かめるための巡回中に、思いがけず彼女と出くわしたのだ。俺は、挨拶をしてやり過ごす、などということはできず、衝動的に彼女の手をつかみ、話がある、と短く告げた。

 話し合いの場所は、月の見える窓のある、半月形のアルコーヴ。

 俺の言葉を聞いた彼女は、きらめく灰色の目でこちらを見上げ、不思議そうに首を傾げた――絵になるしぐさだと、思った――特に今のような、薄紫色の仄かな月明かりの中では。

「それは……つまり、ミスタ・カステルモール。私が行動する必要がなくなった、ということでしょうか? あなた様は、お知りになりたがっていた真実を、無事に得ることができた、と?」

「いや、そういうわけでは、ないのだが……」

 間抜けな俺は、この時、とっさに『そうだ』と言うことができなかった。ほんのひと言、簡単な嘘をつくだけで、彼女を関わり合いから外すことができたのに、その程度の器用さも発揮することができなかった。

 いつもの俺ではない。

 ミス・パッケリに対する後ろめたさが、考えて喋るという基礎の処世術を俺から奪い、正直さだけをあとに残したのだ。

「……あれから、もう一度考えてみたんだ……やはり、君に探りを入れさせるのは、危険過ぎる。

 ただ単に、女王陛下の不興を買うかも知れない、という可能性だけではない。詳しくは話せないが、もっと直接的な……命を落とす危険性も考えられるんだ。

 そんなリスクのある仕事を、本来無関係な人にさせるわけにはいかない。昼間、君に話を持ち掛けた時の私は、明らかに冷静を欠いていた――自分の仕事に責任を持つ男のやるべきことではなかった。

 あの件は、私が単独で片付けることにする。君にやらせるよりは、多少遠回りになるかも知れないが、それでも無関係な人間に、知らないうちに危険を冒させるようなことをするよりはましだ。

 どうか、忘れると言ってくれ、ミス・パッケリ。それが君自身のためにもなる」

 ラウンジで仕事を頼んでから、数時間。俺はずっと考え続けていた。迷いに迷い、しかし答えを出せずにいた――なのに、再び彼女の顔を見た瞬間、結論が出た。

 やはり、俺のしていることは卑怯だ。邪悪をいぶり出し、正義を遂行するためとはいえ、手段はやはり選ばなければならない。

 ヴァルハラのシャルル様がご覧になっていたとしても、恥じ入らずに済む自分でなくては。誇り高き東薔薇花壇騎士は、正々堂々とことに挑むのだ――敵が、簒奪者ジョゼフがどれだけ持って回った罠を仕掛けていようとも、正面から打ち砕いてやる、という強い気持ちでいなくては。

 彼女の――ミス・パッケリの顔を見た瞬間、はっきりとそう自覚できたのだ。無垢な灰色の目。この目の前で自分を偽ることは、ひどく居心地が悪い。

 こちらの脳の裏側まで見通そうとしているかのように、彼女はじっとこちらを見つめたまま、動かない。俺も視線をそらさない――見つめ合うこと、数秒――やがて彼女は、肩の力を抜いた。

「……左様でございますか……かしこまりました。

 ミスタ・カステルモールが、ご自身の責任のもとにそう仰るのであれば、私もこれ以上は立ち入りますまい。私はあなた様から何も聞かされませんでしたし、同じく何も頼まれておりません」

「感謝する」

「いえ。文字通り何もしておりませんので、礼は不要です。

 ただ、これだけはお心に留め置き願います……立場こそ違えど、あなた様も私も、この船に同乗しておられる方々をお守りする仕事を持っております。我々の利害は、ほとんど重なっていると言って良いでしょう。

 ですから、もしまた何か、私にご用事がございましたら、その時はどうぞ遠慮なさらずお申し付け下さい。私も私の責任のもと、お仕事をさせて頂きます」

「……ありがとう。ミス・パッケリ。その時はぜひ、頼らせてもらおう」

 俺は心からの感謝と、正直な気持ちを、出来る限り飾らない言葉で伝えた。ミス・パッケリは騎士ではないが、やはり誇り高く、自分仕事を全うしようとしている。

 もし彼女が男であれば、俺たちは良い友人のようになれていたかも知れない。

 肩の荷を下ろした俺は、そこでミス・パッケリに別れを告げるつもりだった。途中だった船内巡回の仕事に戻り、そのあとは動揺も迷いもなく、軽やかな気持ちで仮眠に入るつもりだった。

 しかし、思いがけぬ感情の大波が――我が人生においても最大のものに近い動揺、緊張をともなう出来事が――直後に起こり、すべての平和な計画はご破算になった。

 トン、と。

 実に軽い感触とともに、ミス・パッケリの顔が、俺の胸に触れていた。

 甘い香りが、女性の髪の匂いが、鼻腔をくすぐる。よく観察する。何が起きたのかを、目で見て、正確に判断する。

 ミス・パッケリが、俺に抱擁を求めるように、身を寄せてきている。

 上半身が触れ合っている。俺の胸に彼女の顔が、腹の上辺りに、彼女の乳房の柔らかさが感じられる。――俺は、十代半ばの小僧ではない。女の暖かみに触れた程度で、驚いたりはしないし、顔を赤らめたりもしないし、我を忘れたりもしない――ただ、心臓がひと打ち、大きく跳ね、疑問符が頭の中をかすめただけだ――これまで、ミス・パッケリに、そんなそぶりは一切なかった。いったいなぜ、突然こんなことをしている?

 俺が、ミス・パッケリに問い掛けるより先に、彼女の方から、冷静な口調でその行為の理由を――いや、原因を教えてくれた。

「ミスタ・カステルモール。……異常事態のようです」

「異常事態?」

 それはいったい――と、聞き返す間もなかった。

 ぎぎぎぎぃいぃ、という、背筋がかゆくなるような不快な音が響き渡り、俺はめまいを起こしてたたらを踏んだ。

 いや、違う。俺の肉体は正常だ――めまいなど起きていない。それなのに、足がふらついた。これは単に、床が、まっすぐ立っていられない状態になりつつあるのだ。

 ぐぐ、ぐぐぐと。真後ろに倒れそうになる。そういう風に、体重のかかり方が変わっていく。窓の外の二つの月が、すうっと流れて、窓枠の外に消えた。星空も流れ、真っ暗な背景が――恐らく、海面が見え始める。

 これは――この状態は――!

「床が……船が、傾いているだと!?」

 ぎぎぎぎぎぎぎぎ、と、悲痛な音を響かせて。『スルスク』は、空中にありながら、その船体を横たえようとしていた。

 

 

 その頃。アルビオン=トリステイン海峡から何千リーグも離れた、サハラ砂漠に存在するエルフの国ネフテスにおいて、ひと組の男女が和やかな語らいをしていた。

「……でねえ、その時、ミスタ・ヤンが頭の上に赤い洗面器を乗せて歩いてくるのが見えたんだよ。思わず僕は尋ねたね、ミスタ、君はなぜそんなことをしているんだい? って」

「ふんふん、それでそれで? その人はなんて答えたの?」

「それが、驚かないで欲しいんだけどね、なんと彼は――」

 海に浮かぶ小島に密集した、石造りの摩天楼を眺めながら、月明かりに照らされた冷たい海岸に腰を下ろして。のんびりと東方での思い出話を語っているのは、紫色の髪とべっ甲縁の眼鏡が印象的な壮年の紳士――セバスティアン・コンキリエである。

 聞き手は、わずかな幼さと溢れんばかりの快活さを表情ににじませた、若きエルフの少女――ルクシャナだ。

 セバスティアンたちの乗った竜そりが、ネフテスにたどり着いたのが、三日前のこと。彼らはエルフと交渉し、ちゃんとした手続きを踏んだ上で、観光客として滞在していた。屋敷を載せた大そりを引く土竜たちを休ませる必要があったし、セバスティアン自身、エルフの暮らす街並みがどのようなものか、興味があった。

 人間(エルフ的な表現をすれば蛮人)との交渉を担当していたルクシャナに願って、いろいろな場所を案内してもらい、いろいろな言葉を交わすうちに、ふたりはすっかり仲良くなっていた。もともと蛮人文化に深い関心を持っていたルクシャナと、思い出話をするのが好きなセバスティアンの歯車が、かっちりと合ったのである。

 ルクシャナの方がむしろ、積極的に話をしたがった。ハルケギニア、東方と、ふたつの異なる人間社会に身を置いた経験のあるセバスティアンは、とにかく豊富に話題を持っていた――ルクシャナのような、強烈な好奇心を持て余している少女にしてみれば、彼はまさに聞く宝石箱だったのだ。もちろんセバスティアンも、少女になつかれてお話をせがまれるのは、悪い気はしない。暇を見つけては肩を寄せ合って、愉快におしゃべりをしているふたりはまるで、仲のいい親子か、あるいは恋人同士のようだった。

 ――と、本人同士は非常に満足しているこの関係を、快く思わない者がいる。

 まず、ルクシャナの本当の恋人であるところの、アリィーという青年がそうだ。

 この時も彼は、少し離れたところから、楽しそうに話す恋人とセバスティアンの姿を、憎々しげに見つめていた。

「……あの老いた蛮人めが……いつまでだらだらと話を続けるつもりだ。ルクシャナもルクシャナだ。野蛮な連中の堕落した文化など真面目に聞いたところで、何の役にも立ちはしないだろうに。まったく、少しは誇り高きエルフとしての自覚を……」

 ぶつぶつと不満の呟きを漏らしつつも、ふたりの会話を邪魔したりせず、じっと様子をうかがっている。彼はエルフの多くがそうであるように、人間を低俗な生き物と見て軽蔑していた。明らかに未熟な文化と精神性しか持たない彼らに、並々ならぬ興味を示す恋人に不満を募らせていたし、その交流がルクシャナ自身のためにならないと本気で信じている。

 だから――もし、チャンスがあるなら、語らうふたりの間に飛び込んでいって、一刀のもとにセバスティアンを切り捨てたい――ぐらいの気持ちを持ち続けているのだが、それを見抜いたルクシャナに「お話の邪魔したら、今後一年間デートはおあずけだからね!」などとクギを差されてしまったので、ただ遠くから見守ることしかできなくなってしまった。

「あっ、あのじいさん、ルクシャナの肩に汚い手を乗せおって! なんといやらしい……ああ、なんだ、ついていた糸屑を取ってやっただけか。いや、今回が他意のない行動だったとしても、次もそうとは限らん……蛮人はことあるごとに欲望を剥き出しにする生き物だし、ルクシャナはあの通り美人だからな……何かあってからでは遅いんだ。

 この際、ルクシャナの忠告など無視して、無理矢理にでも引き離すべきか? 彼女のためを思うなら、ここで約束を破るのは不義理ではない、むしろ誠意の表れだ……そうではないか……?」

 嫉妬がぐつぐつと煮詰まり、我慢の限界に達し、とうとう分別を失ったアリィーが、行動を起こそうと足を一歩踏み出した、まさにその時。

 ――がり。がり、がり、がり。

 その不穏な音が、少し後ろの岩場の方から聞こえた。

 何の音だ? と、気になった彼は振り向く――そして、ひっ、と息を飲んだ。

 うずくまった熊ほどの、大きな岩の影から、ちらりと斧の刃が突き出している。

 ぬらりと紫色に輝くその刃先は、微妙に震えており、誰かの手に握られていることは明らかであった。

 その危険な凶器のすぐ上に――もしかしたら、さらに危険なものが――鬼のように険しい女の顔が、右半分だけを覗かせていた。いや、覗かせていると言うより、ぎろりと殺意に満ちた眼差しで覗いていた。

 血走った真っ赤な目。暗紅色の長い髪をざんばらに垂らし、口は獣のようにぎざぎざの歯を剥き出しにしている。ぎりぎりと、歯軋りをする音がアリィーのところまで聞こえるようだ。彼が恐怖して後ずさるくらい、その女の表情は鬼気迫っていた――また一歩、さらに二歩と、彼は遠ざかる。岩場の女から――女が睨みつけている、ルクシャナとセバスティアンのふたりから。

「あ、あ、ああああのエルフの小娘ええぇぇ……私の、私だけのセバスティアンに、色目使って……み、みみ、身の程知らずっ。雌犬っ。泥棒猫っ。蒸し鶏っ……こ、こここ殺したい。今すぐあの髪の毛の生えた頭皮を剥ぎ取って、首の血管を噛みちぎって殺してやりたいっ。カエンタケの毒で、マムシ草の毒で、ヤマカガシの毒で、イモガイの毒で、ライオンのたてがみの毒で苦しめて殺したいっ。針、針もいけるわ。竹串、鉄串、小さな縫い針、画鋲、山ほど口に突っ込んで飲ませたい。千本よ、針千本飲ませちゃう。あのよく喋る唇を縫い合わせて、あのきらっきらした目を潰して、鼻にトウガラシの煮汁を注ぎ込んで、耳に三日三晩かけて、セバスに二度と近付くなと囁き続けたい。あの細い体を水に沈めてふやかしたい。火で炙って香ばしくしたい。土に還して野菜とか元気にしたい。風に乗せて遥か世界の果てまでばらまきたい。そうしたら私、きっと爽快な気分になれるし、あの恥知らずな娘さんも始祖のご加護で清廉潔白な人柄を取り戻すはず。や、や、や、ヤッていいわよね? ヤッちゃうのが正義で真理で道理で自然で当然で必然よね? 斧ブンブン振り回しちゃっていいわよねきっとたぶん確実に。あ、で、でも、今朝セバスから、『僕のことを愛してくれるオリヴィアはとても気のきくいい子だから、僕がエルフのお友達と世間話をしていても邪魔しないよね?』なんてさりげなく言われてたんだったわ……ここでもし乱入したら、彼に自分勝手なわがままさんだって思われちゃう、それはダメ、絶対ダメ。セバスに愛される奥ゆかしいいい子でいなくちゃ。もちろんわがまま言っただけで私を嫌ったりするような薄情なハニーでないことぐらいわかってるけど、それでも彼のためを思うなら感情を抑えて踏みとどまらなくちゃ……ああでもあの小娘見てるとイライラする……あの小娘と楽しそうにおしゃべりしてるセバスを見てるとモヤモヤする……す、す、す、砂、砂が流れてあの小娘だけ飲み込まないかしら。流砂っていつ起きるかわからなくて怖いって言うし。そ、そ、そうよ、流砂よ起きて。あの長耳女を地の底に埋葬して。落雷でもいいわ、あの長耳をこんがりポテトみたいに揚げて。す、スズメバチの大群とか、毒さそりとか、毒サンドワームに襲われるとかでも爽快だわ。うひ、えへ、いひひひひひ。始祖よ精霊よ、私の代わりに事故を起こして。私の代わりにあの小娘を呪って。呪って、呪って、呪って、呪って、呪え呪え呪え呪え呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う死ね死ね死ね死ね死ね死ね」

 ぶつぶつと、邪悪かつ粘着質かつじっとりと湿っぽい呪詛の言葉を、延々と吐き散らし続ける狂気の女――オリヴィア・コンキリエの姿を目の当たりにして、アリィーは恐怖にとらわれると同時に、我に返った。ショックが彼の心の中の嫉妬の炎をかき消し、己の考えていたことを省みさせたのだ。

(……い、いかんな。ルクシャナ愛しさからとはいえ、理性を失うのは……うん、ちょっと頭冷やそう……。蛮人のことは気に入らないが、野蛮な者に寛容であることも、誇り高きエルフとして生きる上での必要条件であるはずだ。そうだ、落ち着けアリィー……今後はもう少し嫉妬を抑えるように心掛けよう……敵意と殺意の行き着く先は、たぶんあの岩影にいる女のような境地だ……そんなところに到達するのは……いくらなんでも、その、ヤバい)

 アリィーはオリヴィアが見えない位置まで移動すると、今度は静かな気持ちで、穏やかにルクシャナたちを見守り始めた。ときどき目頭を揉み、疲れたような表情を浮かべるが、少し前までのとがった雰囲気はなくなっていた。

 彼が見たものは、あまりに刺激的で、あまりに示唆に富み過ぎていた――その後の生き方に、少なからぬ影響を与えてしまうぐらいに。

 具体的には、先入観による好悪の印象に左右されず、客観的に物事を判断するようになった。感情を昂らせないように抑えることを覚え、落ち着いた性格になった。アリィーは少しだけ大人になったのだ――自分と同じような、いや、自分を何倍にも拡大したかのような、とてつもない嫉妬心の持ち主を見て、それを反面教師にしたのだった。『ああはなりたくない』という気持ちは、自己を変革する上で、意外と強力な動機となり得る。

 彼のこの変化は、恋人のルクシャナにとっても好ましいもので、以降、ふたりの仲はオシドリか白鳥のように睦まじいものとなる。

 もちろんこの時点では、アリィーもルクシャナも、そんな未来のことは知るよしもない。その原因を作ったオリヴィア・コンキリエに至っては、自分が若きエルフのカップルに与えた影響など、今後永遠に知らずに過ごすだろう。世の中は何と何がつながってどのような結果を生むか、なかなか予想できない、というお話。

 ――さて、それは置いておくとして。

 ここで新たな人物が、砂浜に登場する。ざし、ざしと、砂を踏む足音を響かせて、セバスティアンとルクシャナに近付いていく者がある。

 見た目二十歳前後くらいの、黒髪の女性だ。目は柳葉のように切れ長で、唇は薄く、やや赤みが強い。東方の民族衣装であるキナガシをまとい、その上からマントのように、アーガイル・チェック柄のケープを引っかけている。

 セバスティアンの秘書である、ミス・リョウコである。

「やあ、セバス。ルクシャナもこんばんは。言われた通りの時間になったから、声をかけに来たよ」

「やあ、リョウコ君。もうそんな時間かい? じゃあルクシャナ、今日はこれでお開きにしようか。夜は寝る時間だし」

「えー、もう? ざんねーん……じゃあまた今度、お話の続き聞かせてね。約束よ?」

「うん、約束するとも。次はお昼でも一緒にしながら、でどうだい」

「歓迎するわ。いいレストラン知ってるの。……それじゃ、おやすみなさい、セバスティアン。リョウコさんも。あなたたちに大いなる意思の加護がありますように」

「ああ、おやすみ」

「おやすみ、ルクシャナさん。ああそうだ、さっき、あっちの方でアリィー君を見かけたから、帰りは彼に送ってもらうといいよ」

 ルクシャナは人間ふたりに手を振って、リョウコに指し示された方向に――アリィーがいるという方向に去っていく。セバスティアンとリョウコは、微笑みとともにその後ろ姿を見送っていたが、やがてエルフの少女の姿が見えなくなると、表情を引き締めた。

「……さて。リョウコ君。首尾は?」

「今、始まったばかりだね。ついさっき、『極紫』から連絡があった。『スルスク』号への攻撃を開始した、という連絡がね。

 シザーリオ君もミス・ハイタウンも、不幸な偶然から任務を達成できなかったが……『極紫』なら心配はいらない。船で移動している敵相手に、彼女が返り討ちに遭う可能性は、万にひとつもないよ」

「うん、その点は僕も信頼しているよ。彼女の能力であれば、たとえ虚無の使い手がターゲットの中にいたとしても、反撃は許さないだろう……そういう能力だということは理解している。

 となると、問題は『スルスク』が、海の藻屑と消えたあとのことだね。リョウコ君、彼は……雲隠れしたジョゼフ・ド・ガリアは、ちゃんと姿を現すだろうか?」

「最低でも、何らかのアクションは起こすだろうね」

 セバスティアンの問いかけに、リョウコは自信たっぷりに頷いた。

「まったく、あの男は本当に頭のいい奴だよ。まさか、王位を娘のイザベラに譲って、自分は表舞台から消えるだなんて。これ以上確実な護身方法は、他にはちょっとないだろうね」

「うん、まったくだ。暗殺を狙う側にしてみれば、一番困る戦略だよ。いくら僕たちが大きな戦力を抱えていても、殺害対象が見当たらないのでは、どうにもならない。

 シザーリオ君や、ミス・ハイタウンの失敗が、やはり大きかったのだろうね。彼らという強力な刺客を、ジョゼフは見事に退けた。だけど、彼は安心しなかった……このセバスティアン・コンキリエが、懲りずに更なる刺客を送り込んでくるだろうと考えたのだ。

 連続する暗殺者たちを、延々と相手し続けるわけにもいかない。そこで彼は一計を案じた。イザベラ王女に命じて、クーデターを起こさせたのだ……もちろん、これはヤラセだ。自然に行方をくらますためのね。

 でなければ、あのイザベラごときに、ジョゼフが敗れるはずがない。彼は虚無の使い手であり、なおかつハルケギニア屈指の優れた頭脳の持ち主だ。たいした魔法の才能もなく、頭も特にいいわけじゃない世間知らずのお姫様に、本当の本気の冗談抜きに負けて追放されるなんて、あり得ないことだ!」

「ああ、セバス、私もその点は同意見だよ。よっぽどバカみたいな幸運が重なり合わないと、イザベラ王女のクーデターは成功しないだろう。私も個人的に計算してみたが、失敗する確率は99.9999パーセント(シックス・ナイン)を上回った。つまり、イザベラ女王の戴冠は、ジョゼフが図面を引いた、彼自身の陰謀だということだね。間違いない」

「そう。そして、姿を隠したジョゼフは、新女王イザベラの背後で、今もガリアに君臨しているはずだ。イザベラが傀儡だとしたら、同じ立場であるシャルロット・エレーヌ・オルレアン嬢も、そして我が愛しのヴァイオラも……もう、その可能性がある、という消極的な表現を使う必要はないね。ジョゼフの洗脳能力によって、あの子は操られてしまっているんだ。

 人質として、また僕に対する反撃のための手段として、ガリアに留め置かれている。まったく、さすがはジョゼフ……えげつない手を使ってくるものだ……」

「だが、そう確信を持てたからこそ、我々ももうためらう必要はないということだ。だろう? セバス」

 セバスティアンは強く頷き、リョウコを見返した。

「彼がやり過ぎなくらいの方法で、我々から身を隠すのなら、我々だって過剰にやらせてもらうまでだよ。

 ジョゼフの企みを粉砕し、彼が再び表に出てこざるを得ない状況を作ってやる。イザベラ女王たちのアルビオン行きは、実におあつらえ向きのチャンスだ。海峡上で船を落とせば……イザベラ女王も、シャルロット嬢も、ヴァイオラも、まとめて抹殺できる上に、死体も回収不能にできる。

 傀儡たちが死に、しかも蘇生もできないとくれば、ジョゼフもさぞ困るだろう。隠れたままでいるにしても、何か大がかりな対策を取らなくてはならなくなる……そこできっと尻尾を出す。その時こそ、彼の最期だ。僕とオリヴィアと、ルーデルの三人がかりで、ジョゼフの存在する地域ごと消滅させる心構えで、攻撃を仕掛ける」

「ふむ? キミたち三人だけで行くのかい? 確かに、シザーリオ君とミス・ハイタウンの蘇生は、まだ完了していないが……キミの目の前にもひとり、戦力が残っているのだがね?」

「わかってる、わかってる。別に仲間はずれにする気はないよ。リョウコ君には、別の仕事を頼みたいんだ。

 君には、アルビオンの調査をして欲しい。まだ判明していない、かの地の虚無の使い手を探し出してもらいたい。

 トリステインの虚無は、目覚めたばかりのひよっ子だ。問題にならない。ロマリアの虚無は、直接的な戦闘能力が皆無に等しい……それらを除くと、我々にとって危険性があるのは、ジョゼフと、未だ詳細不明なアルビオンの虚無ということになる。これを探し出し、排除してきてくれ……それができたら、我々の悲願への障害は、ほとんど存在しなくなるだろう」

「ふぅむ……ふむ、ふむ。なるほど。悪くない作戦かも知れないね。

 一応確認しておくが……私はアルビオンで、虚無の使い手を探し出すために……何をしてもいいのかね?」

「何をしてもいい。このセバスティアン・コンキリエが許そう」

「それを聞いて安心した」

 にっ、と酷薄な笑みを浮かべ、リョウコは自らを崩壊させ始めた。

 ぼこ、ぼこ、と、全身から虹色の泡を吹き出し、それに溶けていくような様子で、彼女の優美な肉体は少しずつ崩れ、小さくなり、砂浜に染み込んでいく。

「仰せの通り、アルビオンに跳ぶよ……キミから許可はもらった。

 アルビオンに住まう人々を全滅させてでも、虚無の使い手を見つけ出してみせよう。セバス、キミはジョゼフ対策に集中したまえ……『極紫』は間違いのない仕事をするだろうが……ジョゼフとて、これまでに何度も我々の裏をかいてきた天才なのだ……油断せず、『スルスク』沈没後にすぐさま行動できるよう、態勢を整えておくがいいよ」

 そう言い残したのを最後に、リョウコは完全に崩れ落ち、砂浜の小さな染みとなった。その痕跡も、数秒後にはきれいさっぱり蒸発し、あとにはただひとり、セバスティアンが残るのみ。

 彼はしばらく、リョウコの消えた場所を見つめていたが、やがて立ち上がった。ズボンについた砂を払い、うんと背伸びをする。背中と首筋の筋肉が、ぽきぽきと鳴った。

「準備、か。確かに言う通りだ。先を見越して行動することは、成功を得るために必要不可欠……ちゃんとわかっているよ、僕もね」

 虚空に向かってそう呟くと、砂を踏んで去っていく――向かう先は、オリヴィアがいる岩の方。セバスティアンは、もう何時間も前から、妻に見守られていることに気付いていた。

 

 

 セバスティアンたちは知らない。自分たちの考えが、完全な的外れであることを。

 発端から結論まで、何ひとつ現実に則していないということを。

 ジョゼフは本当に打倒されているし、イザベラは女王だし、ヴァイオラは操られてなどいない。『スルスク』を落としたところで、彼らの望むジョゼフの再出現は起こり得ない。

 しかし、ことの正否に関わらず、彼らの行動は継続する。

 海上を孤独に航行する『スルスク』を、セバスティアンの放った刺客、『極紫』は容赦なく攻撃する――船体を傾け、歪ませ、悲鳴を上げさせる――その事実に、間違いはない。

 

 




今回は基本的にフラグ回であった。
ここでいろいろ思わせぶりにやらかした行動を、次回以降に生かせられればええのじゃが……。


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バッソ・カステルモールの確信/Kuolema kuuntelee/ルイズ・フランソワーズ暗殺計画

前回は二話連続投稿じゃったが、今回は一話。
よってお手軽に、ぽーいと投下するんじゃよー。


 急激に傾いていくアルコーヴの中。床は水平から斜めに、徐々に垂直に近付いていく。

 靴底の摩擦と、下半身の踏ん張りで体勢を維持できる限界の角度を、ついに越えた――廊下は長大な滑り台となり、俺とミス・パッケリの体は、滑り落ちていきそうになる。

「掴まれ、ミス・パッケリ!」

 俺はひと声叫んで、彼女の細い腰を、左腕で抱きしめた。それと同時に、俺の背中に回るミス・パッケリの腕――お互いの体がしっかり固定されたのを確かめて、杖を抜く――スペルを唱え、魔法を発動させる――この間、約一秒。

「フライ!」

 飛行の呪文は、廊下を果てしなく転落するところだった俺とミス・パッケリの体を浮かせ、空中にひとまずの安定を得さしめた。

「……助かりました、ミスタ・カステルモール」

「いや、礼には及ばない。――しかし、これはいったい、何が起きたのだ? 船が航行中に横転するなど、普通は考えられないが……」

 ミス・パッケリの言葉に応えながら、俺は改めて辺りを見回した。突然倒れた船体。床の角度は、およそ六十度ほどまで立ち上がり、そこでひとまず止まった。

 頭の中に、『スルスク』の全体図を思い浮かべて、傾きの方向を考える。どうやら右舷側が上昇したか、逆に左舷側が沈んだかしたものらしいが、その原因がいまいち想像できない。海を行く船であれば、浸水でこのようなことも起きようが、空を行く船では、まずあり得ないことだ。

「さしあたり、艦橋(ブリッジ)を訪ねてみてはいかがでしょう。船の運行に関しては、そこですべてを取り仕切っているはずです。

 トラブルがあった場合に、まず詳しい情報が集まるとしたら、そこではないでしょうか」

「ふむ、確かにその通りだ。それが一番手早いだろう。ミス・パッケリ、きみはどうする? マザー・コンキリエのところに戻るなら、途中でマザーの船室に寄っていくが」

「いえ、私も艦橋までご一緒させて下さい。これが事故なのか、それとも人為的な破壊工作なのか、それを確かめてから、ヴァイオラ様のもとへ赴きたいと思います」

「わかった。では、一緒に行こう」

「はい。私もフライを唱えますので、少々お待ちを」

 ミス・パッケリも、自分の杖を構えると、短く飛行呪文を詠唱し、宙に浮いた。

 俺たちは並んで、艦橋を目指した。傾いた時の揺れによって、天井のランプはほとんどが消えてしまっていたので、安全を考えるとあまりスピードは出せなかった。そうでなくても、斜めに傾いだせいで、船内が通常時とはまったく違う印象になってしまっている。まるで百年も閉ざされていた廃墟の中に入り込んでしまったかのようだ。

 そんな非現実的な世界で、俺は考える――先ほどのミス・パッケリの言葉を――彼女は、これが事故か、人為的な破壊工作かを確かめたいと言った。

 後者ということはあり得るのだろうか? 悪意を持った何者かがこの船に乗り込み、船体を傾けるほどの大破壊を行った――これは考え難い。乗船者は全員、厳重にチェックされている。テロリストの潜り込む余地はまったくないのだ。

 外部からの攻撃? それも難しい。今は夜間だが、だからこそ、見張り番が周囲に睨みをきかせているはずだ。不審な船が近付いてくれば、攻撃される前に警報が発せられるはずだ。

 となると、やはりこれは事故以外に考えられないが――?

「……着いたぞ。ここが艦橋だな」

 船長や航海士が詰めている、操船の中枢――その部屋は、我々がドア越しにでも中の様子を知ることができるほどに、混乱を極めていた。

「何とかして圧を下げろ! 水をありったけかけて冷却するんだ! なんなら風石を部屋から持ち出して、外に放り捨ててもいい! 暴発が怖くて触れない!? 馬鹿野郎、そんなこと言っている場合か!」

「高度、依然上昇中! 止まりません! 現在、二千五百八十メイル……メイン風石室、出力を落とせ! いや、完全に止めてしまっては駄目だ、最悪の場合でも、墜落は免れるように……」

「甲板、応答なし! 見張り台のディックとケビンも、沈黙しています!」

 俺たちはドアを蹴り破るように開けて、その喧騒の中に飛び込んだ。室内にいたシップマンたち全員の注目が、こちらに集まる。

「東薔薇花壇騎士団団長のバッソ・カステルモールだ! 船長、いったい何が起きている?」

「ああっ、ミスタ・カステルモール! 緊急事態です、非常に危険な状態です! 風石が暴走し、船を破壊しかけているのです! 船員たちも事態をおさめようとしてはいますが、なかなか……」

 髭面、太鼓腹の老船長が、顔を赤くしてまくし立てる。俺の知りうる限りでは、彼は三十年以上も空の上で過ごしてきた、一流の船乗りだ。それがここまで慌てているということは、やはり相当に深刻な事態であるらしい。

「落ち着け、船長。我々にわかるように、詳しい説明をしてくれ。具体的に、何が起こっているんだ? なぜ、この船はここまで傾いてしまっている?」

「は、はい、ご説明しましょう。……船体を浮揚させるための動力源である風石が、蓄えている風の力を急激に解放し始めたのです。何の前兆もなしに、突然に」

 船長は、斜めになった壁にかけられた、船内見取り図を指差して話を始めた。

「この図をご覧下さい。当船『スルスク』号は、船としては極めて巨大でありますから、たったひとつの風石室ではバランスがとりにくく、水平に浮かせることができません。

 そこで、船体の中心にメイン風石室を、そしてその周りに、姿勢制御用の四つのサブ風石室を配置することで、複数の点で船体を支えるようにしてあるのです。合計五つの風石室がお互いを補うので、非常に安定します。それだけでなく、仮に風石室がどれかひとつ不調に陥ったとしても、残りの四つで航行を継続できるので、安全面でも優れておるのですな。

 しかし……しかし、今回起こったのは……風石室の不調ではあるのですが……出力が低下したのではなく、逆に過剰になったがためのものなのです。右舷側の第三風石室、ここに搭載されている風石が、風の力を際限なく解放し、船の右側だけを吊り上げるように上昇させているのです」

「原因は何だ?」

「まったく不明です! 三十年間、このような現象には出会ったことがありません。

 風石は基本的に、扱いやすい安全な動力なのです。刺激を与えなければ、風の力を出すことはありません。自然に暴走するなどということは、まずないのです。

 風石室に詰めている船員が、取り扱いを誤った……という可能性もありません。ここまで風石を過剰に暴走させるには、絶えず刺激を与え続けなくてはなりません。具体的には、大きなハンマーで延々と叩き続けるとか、コークスなどの燃料で強力に加熱するとかいった方法が考えられますが、もちろんそのようなことが行われている形跡はないのです」

「加熱……と言ったな? 問題の第三風石室で、火事が起きているという可能性は?」

「ありません。むしろ、暴走中の風石に水を浴びせて、活動を弱めようと努力しているところです」

 となると――いったい、なぜ風石は暴走している?

「他に、考えられる原因は? どれだけ可能性が低くてもいい、まだ検証していないパターンを聞きたい」

 断固とした俺の問いかけに、船長はしばし沈黙し――やがて、ためらいがちにこう答えた。

「あまり、現実的ではありませんが……外部からの魔法による攻撃、という手段で、風石を暴走させることが可能です。

 風石室は、周りを頑丈な壁で囲まれておりますが、その壁を貫通するような強力な攻撃魔法が、外から撃ち込まれて風石を直撃したとなれば……今起きているような、まったく原因不明の暴走、という事態も、あり得るかも知れません」

「壁を貫通する攻撃魔法、だと? そんなものが使われていたら、風石そのものより先に、船体が大きなダメージを受けるのではないか?」

「その通りです、ミスタ・カステルモール。なので正直、現実的ではありません。

 しかし、しかし……わしは、あまり魔法というものに詳しくありませんので、適切なたとえができているかわかりませんが……昔、ライトニング・クラウドという魔法を得意とする風メイジに会ったことがあります。彼はその呪文を使って、鉄扉の向こうにいた敵を、扉自体には傷ひとつつけることなく、黒こげにしてみせたのです。どうやったらそんなことができるのかと聞くと、なんと雷は、金属に染み込んで、反対側まで突き抜ける性質があるのだという答えでした……。

 それと似たようなことが、今回の風石事故にも当てはまるのではありますまいか? 外部から、風石だけを標的にした、壁を突き抜ける魔法によるピンポイント狙撃が行われているのだとしたら? そういう魔法が、存在しているのだとしたら? いかがです」

「ううむ……外部からの狙撃……それも、船体の壁面を貫き、風石だけに害を与える魔法攻撃、か……」

 船長の熱弁に、俺は少し反応に困った。確かに、まだ検証されていない可能性を求めはしたが、さすがにそれは、無理が多い気がする。

 まず、そのような限定的な効果を持つスペルを聞いたことがない。船を傷つけずに、その奥の風石室までエネルギーを届けるというのは、はっきり言って困難だ――どのような系統で、どのような現象を起こせばそれが可能なのか、想像もつかない。

 次に、その攻撃をやらかしたメイジは、いったいどこにいるというのか? 『スルスク』にどうやって近付き、どこから魔法を撃ってきているというのか? 内部への侵入はあり得ない――ならば、外部から別の船で接近してくるしかないが、それを見張りが見逃すとは考えられない。

 つまり、外部の狙撃者説は採用に値しない、という結論になるが、だとするとやはり、話は最初に戻ってしまうのだ。なぜ、風石は暴走してしまったのか?

「……船長さん。ひとつ、お尋ねしてよろしいでしょうか」

 と、ここで、これまで沈黙していたミス・パッケリが、一歩前に進み出た。

「何ですかな? メイドさん」

「大したことではないのですが。この船にも、夜間の安全を守るための、寝ずの見張り番の方がいらっしゃるはずですね? 空賊などにそなえて、船の周りを常に監視している人たちが。

 その人たちは、今、どうしておりますか? この事故が起きる前に、不審な船が近付いてきているとか、そういった報告はしていませんでしたか?」

「ああ、そうだ、それも報告しておかねばならんかったんじゃ! ミスタ・カステルモール、さっきからずっと、伝声管で全船員に呼び掛けておるのですが、マストの上の見張り番ふたりが、まったく応答をしないのですよ。

 船が傾いたせいで、見張り台から転落したのか、それとも他に事故があったのか……確認のために人をやりたいところですが、風石室の事故の方が深刻で、とてもその余裕が……」

 なんだと?

「だとすると、見張り番が機能を失っているとすると……ミス・パッケリ」

「ええ。そちらを先に片付けられた、という見方もできるのではないかと」

 そういうことか。発見されるより先に、『スルスク』の目を始末して、それから船本体に攻撃を――。

「だとすると、やはり外部の……いや、待て、それでもおかしい。見張り番がすでにやられているとしても、敵の接近を報告する前にやられた、などということはあり得ないからだ。

 ここは周りに遮るもののない空の真ん中だ。どこから近付いてこようと、丸見えになる。攻撃が可能になる距離に入られるまでには、見張りは敵を発見しているはずだ。順序としては、見張り番が敵影を視認する、報告が行われる、それから攻撃がなされる、という流れでなくてはならない。

 見張り番を沈黙のうちに抹殺することは、理論上不可能だ……それこそ、敵が透明でもない限り……」

「いえ、ミスタ・カステルモール。実を言いますと、私、それが可能な人物に、ひとり心当たりがございます」

「何? そ、それはいったい――」

 私が勢い込んでミス・パッケリを問い質そうとした時だった。ガ・ガガン、と、船全体を痺れさせる轟音とともに、床が激しく上下した――女の子が遊ぶようなお人形の部屋を、思いっきり放り投げたら、同じような惨状が生まれると思う――テーブルも椅子も、空図もコンパスも、船長も航海士も船員も、そして俺もミス・パッケリも、等しく天井に叩きつけられ、艦橋の中を鞠のように跳ね回った。

 俺とミス・パッケリは、もともとフライを使っていたおかげで、激動する部屋の中でもかろうじて受け身を取ることができた。船長たちも、柱や窓枠にしがみつくことで、必死にこの大破壊を乗り切ろうとする。

 部屋の中をしっちゃかめっちゃかに引っ掻き回した上で、ようやく揺れは止まった――先程とは逆に、右舷側が下になるように傾いた状態で。

『艦橋、艦橋、応答せよ! 応答せよ! こちら右舷C7ブロックのリチャード機関士!』

 艦橋にいる全員が起き上がるのにも苦労している中で、壁から伸びている真鍮製の伝声管から、割れた声が飛び出してきた。

『応答せよ! こちら右舷C7ブロックのリチャードだ! 緊急連絡! 緊急連絡! 今しがた、第三風石室が爆発した! 繰り返す、第三風石室が爆発した!

 風石の暴走が臨界点に達し、風の力の全放出を起こした! この風石室はもう使えない! 大破し、修復不能だ! 風石も全部吹っ飛んだ!

 左舷の第二風石室の出力を低下させるよう、指示を出してくれ! でないと船体を水平にできない!』

「な、何てことだ……何てことだ」

 船長は顔を紙のように白くして、しかしそれでも事態の収集に努めようと、部下たちに向かって矢継ぎ早に指示を飛ばし始める。我々が訪れた時以上の喧騒が生じ、そこはまるで修羅の巷のような有り様となった。

「……ミスタ・カステルモール、行きましょう。情報は充分に得られました。これ以上ここに留まっていても、皆様の邪魔になるだけです」

 ミス・パッケリが空中で半回転し、流れるように艦橋を出ていく。俺は慌ててそれを追いながら、彼女の背中に、先程しようとした問いを投げ掛けた。

「待ってくれ、ミス・パッケリ。きみはさっき、この事態を引き起こすことのできる人物に心当たりがある、と言ったな? それはいったい何者なんだ?」

「それにお答えする前に、ひとつ確認を取りに行かせて下さい。時間はかかりません……甲板の見張り台へ行けば、私の予想が正しいかどうか、はっきりします」

 彼女は振り向きもせずにそう言って、傾いだ『スルスク』の薄暗い廊下を、甲板目指して漂っていく。

 その声色が、少なからぬ苛立ちを含んでいるように感じたのは、俺の気のせいだろうか?

 

 

 やはり、のんびりし過ぎていた。この事態に陥って、ようやく私は己の怠慢を悔いました。

 ヴァイオラ様のお世話を誰かに任せて、お暇を頂くべきでした。あのアーハンブラ城の事件の直後に、東方に向かい、セバスティアン様たちと対決しておくべきだったのです。そうしていれば、この『スルスク』号の事故は起こらなかった。この露骨な襲撃は、起こらずに済んだのです。

 ミス・ハイタウンの後任が、今、こうして襲いかかってきている。十中八九、間違いありません。それも、向こうにとって、極めて有利な条件で――航行中の船を、飛行中の風竜を、馬車の中の貴人を、馬上の敵将を――よく目立つ場所で、安心して移動している相手を攻撃することは、あの女性にとって十八番です。相手に視認されず、安全に仕事をするという手口も、彼女の――『極紫』の個性と一致します。

『極紫』。セバスティアン様の私設護衛集団『スイス・ガード』の一員で、火のスペシャリスト。

 同じ火系統の使い手として、教えを頂いたこともございます。『スイス・ガード』の中では、兄であるシザーリオに次いで、よく知っている人物であると言えるでしょう。

 そしてそれゆえに、私は彼女の戦闘スタイルを、よく存じております。その恐ろしさと、厄介さも、身に染みるほど。

「ミス・パッケリ。甲板に出て確かめたいこととは、いったい何だ?」

 後ろからついてくるミスタ・カステルモールが、焦れたように問いかけてこられました。彼の協力も仰ぎたいので、私は素直に答えます。

「見張り番の人たちが、亡くなっているかどうか。もし亡くなっているとしたら、死因は何か。それを調べたいのです」

「死因……?」

 甲板に至る押し上げ扉を開き、私たちは瞬く星空に包まれた、涼しい甲板へと出ました。左舷側を上にして、四十五度近い角度で傾いている広大な甲板の様子は、まるで趣味の悪い幻想画のようです。甲板から垂直に伸びている、太く巨大なマストは、三角形の帆をぐんにゃりと歪んだ形で垂れ下げさせていて、ひどく不気味です。

「船長は、見張り台はマストの上と仰っていましたね……」

 私たちはマストの天辺に設置された、大きな洗濯かごのような見張り台まで飛んでいき、中を覗き込んでみました。

 ――どうやら、幸運に恵まれたようです。見張り台のフレームには、太い丈夫なロープが取りつけてありました――危険な高所での仕事を、安全に行えるようにするための、船乗りの工夫――見張り番たちは転落しないよう、命綱をちゃんと腰に取りつけていたのです。

 そのため、船体が激しく揺れ、傾いても、彼らの体は――残念ながら、すでに亡くなっておりましたが――遥かな海原に落ちていかないで済みました。

 大柄な、男性船員の死体がふたつ。うつ伏せになっていたそれをひっくり返し、額をあらためます。

「……想像通りでした、ミスタ・カステルモール。ご覧下さい、これが、彼らの死因です」

「ふむ? ……何だ、この傷跡は? 眉間に小さな焦げ跡が……こっちの死体は、こめかみに同じ跡があるな。こんな小さな火傷で、彼らは死んだのか?」

 ミスタ・カステルモールは、私の肩越しに船員たちの死体を見て、いぶかしげな表情を浮かべています。確かに、その傷はごくちっぽけなものに見えました。大きさはせいぜいが直径二サントほど、ドニエ銅貨ぐらいのサイズでしかありません。

 しかし、見た目の地味さに反して、それは非常に恐ろしい、死の刻印なのです。

「ええ、ミスタ。この火傷が間違いなく死因です。小口径で、しかし高威力の火の魔法によって撃ち抜かれた痕跡なのですよ。

 彼らは頭の中を、一瞬で焼き尽くされて死んだのです。間違いありません。この傷跡を知っております……まったく同じ手口です。心配していましたが、やはりあの人物の仕業……」

 ため息とともに吐き出した言葉に、ミスタ・カステルモールは、たまりかねたように食いついてきました。

「ミス・パッケリ、あの人物とは誰だ? 先程から聞いていると、かなりはっきりとした確信があるようだが。

 そして、火の魔法で撃たれたと言うが、いったいどこから、どうやって撃ち込んできたと言うんだ? この広大な星の海の真ん中で、ふたりもの見張り番の目をごまかしながら、攻撃をなさしめた手段というのは、どういうものなんだ?」

「……ミスタ・カステルモール。あなたは、『極紫』という二つ名を持つ殺し屋の噂を、聞いたことはありませんか」

 私は、ゆっくりと、考えながら言葉を紡ぎます。

 危険に立ち向かえるよう、渡せる限りの情報を彼に渡す必要があります。しかし、この襲撃事件の裏にセバスティアン・コンキリエ様がいるという事実が露見してしまうことは、避けなくてはなりません。

 真実と多少の嘘をうまく組み合わせ、自然なストーリーを構築しなければ。

「『極紫』? いや、聞いたことがないな。かの『地下水』だとか、『公爵』トウゴウのような有名どころならわかるのだが……」

「無理もありません。それほど多くの仕事をしていない、闇の世界でも新参に近い人物だそうですから。

 でも、私はある縁から、その暗殺者のプロフィールを聞いたことがあるのです。我が主、ヴァイオラ・コンキリエのお父上であるセバスティアン様から、教えて頂きました……セバスティアン様は、ハルケギニア全体を相手に手広い商売をなさっていたお方ですから、裏の世界のことについても、相当詳しくご存知でした。

 世間話のような形で、裏の世界で活躍する暗殺者や怪盗、陰謀家について、おとぎ話めいたエピソードを語られることも、しばしばございまして……」

「ふむ、なるほど。あれほどの大商人ならば、そのような話を耳に挟んでいても不思議ではないな……それで?」

「『極紫』という暗殺者についても、彼は口にしておりました。船や馬車など、乗り物の中にいる相手を、姿を見せることなく殺害することに長けた人物であるそうです。

 被害者はいずれも、頭や左胸といった、致命的なポイントを焼き切られて殺されます。しかし、被害者のすぐ近くで護衛していた人たちには、誰によって、どこから攻撃されたのか、全く検討がつかないのだそうです。周囲にはまったく人影が見当たらず、火の魔法が飛んできた瞬間も、一切目撃されていないのです。暗殺者が実在している、と信じられる証拠は、被害者の死体と、死因である特徴的なコイン大の焦げ跡のみ……。

 誰が呼び始めたのか、あるいは本人が自ら宣伝したのか。いつしか、その不可視の暗殺者には、『極紫』という二つ名がつきました。世の資産家、権力者の間では、『極紫』に狙われたと知った時こそ、遺言を書くべき時だ――などという冗談も言われているそうです」

「そのような人物がいるのか……しかし、そいつは実際、どのような方法で殺しを実行するのだ? 姿が見えないとはいえ、実在しているのは確かなんだろう。どんな魔法を使っているにせよ、我々にも理解できるような仕掛けはあるはずだ」

「はい。セバスティアン様も、そう仰っていました。そして、彼なりに考えた見えない攻撃の正体を、私に教えて下さったのです」

「その、正体とは……?」

「火系統のオリジナル・スペル。それも、それ専門にカスタムされた、高度なスクウェア級の狙撃魔法であろうというのが、セバスティアン様の考えです。

 暗殺者の姿が見えないのは、目に見えないほど遠くにいるから。飛んでくる攻撃魔法が見えないのは、飛んでくるもの自体が非常に小さく、なおかつ激烈に速いからです。気付かれないのではなく、目にそもそも映らない……それが、『極紫』の特性なのですよ」

 私の言葉に弾かれたかのように、ミスタ・カステルモールは、辺りを見回し始めました。

 私も、ぐるりと周囲三百六十度の空を確かめます――もちろん、それは無意味。私の視力では、やはり周りには星しかなく、殺意の存在すらも感じとることはできません。

「つまり、ミス・パッケリ……見えなくても、どこかにいるのか? 岩影や梢に潜んで、弓を引き絞っているような、凄腕の弓兵(アーチャー)が、この夜空のどこかに?」

「はい。おります」

 殺意も敵意もまったくない、平坦でニュートラルな空。

 しかし彼女は、それに紛れて私たちを見つめている。

 そうでしょう、『極紫』――シモーヌ・ヘイス?

 

 

 星空の下に、じっとうずくまるように、一隻の船が浮いている。

 ラ・ロシェールの港で個人向けにレンタルしている、遊覧用の小型ヨットだ。推奨乗員数は五人以内という、とてもとても、ちっぽけな船。

 その舳先に、彼女は――シモーヌ・ヘイスは立っていた。

『極紫』の二つ名を持つ、『スイス・ガード』の一員。火系統のスペシャリストで、冷酷な暗殺者でもある彼女は、無言で、標的である豪華客船『スルスク』号を見つめていた。

 彼女の攻撃によって、すでにその船は軽微でないダメージを被っていた。右舷側の壁が内側から炸裂し、直径十メイルほどの大穴が空いている。船体全体が大きく傾いており、まるで瀕死のロバのようだ。

「……だが、まだ、殺しきれては、いない……。

 風石室は、全部で五つ……落とすには……あと四点、支えを砕く……必要がある……」

 凪いだ海に吹く弱い風のように、低くゆっくりとした口調で呟くと、彼女は杖の先端を、遠き『スルスク』へと向けた。

「お前たちに……恨みは……ないが……大恩ある……ミスタ・セバスティアンの……望まれた、ことである……。

 乗員全員……ここで、消えてもらう……お前もだ……シザーリア・パッケリ……。

 お前は、私に攻撃されていると……気付いているだろうが……それゆえに……対処も不可能だと……理解できよう……」

 シモーヌの視界に、見知ったメイド服姿の少女が入り込んだ。意思の強そうな灰色の目で、空を睨んでいる。

 かつての弟子である、才能あるシザーリアを標的に含んでも、シモーヌは一切動揺することはないし、罪悪感も持たない。

 彼女はただただ、セバスティアンの命令に粛々と従うだけである。シモーヌ・ヘイスという人間にとっては、リクエストを完遂する、ということがすべてであり、それ以外には、何にも興味を持っていないのだ。

 金も名誉も、愛情も友情も、セバスティアンへの忠誠より優先されるべきものではない――そういうメンタリティを、彼女は二十三年の人生の中で作り上げてしまっていた。

 ――シモーヌ・ヘイスという女性は、ガリア北部に領地を持つ、ラウトヤ子爵の長女として生を受けた。

 ただし、正妻の子ではなく、平民の妾とのあいだにできた子供であった。父である子爵は、シモーヌの存在が醜聞につながると判断し、彼女とその母である妾を、領地から遠く離れた山村へと隠した――口の固い猟師の老人に金を渡し、当面の世話を頼んで。

 そのため、シモーヌは己の出事を知らされず、ただの平民として育てられた。彼女が二歳になるかならないかの時に、母親が胸の病気で亡くなったため、家族といえるものは世話役の老人ひとりだけであった。寂しい幼年時代であったが、その時間がなければ、恐らく彼女は将来、スクウェア・ランクのメイジにまで成長することはできなかっただろう。

 長じるに従って、シモーヌは老人から、山歩きの仕方や、食べられるキノコの見分け方など、ひとりでも生きていける方法を、ひとつずつ、丁寧に教えられた。彼は無口な男だったが、自然の中で生き抜く術にかけては、天才的な素養と経験を有していた。その指導のもと、シモーヌは一種の自然児として、たくましく鍛えられていったのだ。

 十歳になった日からは、弓矢を使った狩猟のやり方を習い始めた。

 彼女は目視による空間把握能力と、指先の微細な感覚に優れていたようで、みるみるうちに射撃の才能を開花させていった。師である老人とともに、毎日のようにケワタガモ撃ちに出掛けていき、老人に勝るとも劣らない数の獲物を下げて帰ってくる。時には食用として、猪や鹿、熊、オーク鬼なども撃った。とにかく弓を引き絞り、矢を放つことを繰り返す日々が続いた――具体的には、五年ぐらい。

 シモーヌが十五歳になった時、師であり父であった老人が死んだ。しかし彼女は、特に困らなかった。生きていくための技術は、すでに充分身につけていたからだ。老いた亡骸を、谷に晒して鳥葬に伏した時に、ほんの少しだけ泣いたが、感傷はそれだけだった。彼女が人生の中で涙を流したのは、それが最後である。

 さて、そうしてひとりきりになったシモーヌ・ヘイスだが、彼女が完全なひとり暮らしを経験できたのは、老人の葬式からわずか一月の間だけだった。

 ある日、身なりのいい貴族の男が、彼女の山荘を訪ねてきて、そなたこそはかのラウトヤ子爵の末裔である、速やかに領地に戻り、貴族としての義務を全うせよ――と、意外な命令を下してきたのである。

 その男はガリア王国の高級官吏であり、主に爵位と領地の相続についての監督を任されている人物だった。シモーヌは彼から、自分の隠された身分を聞かされた――ラウトヤ子爵の妾腹の子であること。子爵によって母ともども追放され、山の中に隠されたこと。

 そして、そのラウトヤ子爵家が、断絶の危機に陥っているということも知った。流行り病によって、子爵一族の全員がほぼ同時に、命を落としてしまったのだ。

 子爵の正妻も、息子たちも、時を置かずに次々と死んでいった。子爵本人だけは、かろうじて持ちこたえていたが、それでももはや助かりようのないことは、誰の目にも明らかだった――覚悟を決めた彼は、リュティスから官吏を呼び寄せ、ラウトヤ子爵家の相続について、相談を持ちかけた。

 認知はしていなかったが、妾の子を遠方に隠してある。我が唯一の血縁者であるこの娘、シモーヌ・ヘイスにラウトヤを継がせて欲しい、と。

 官吏はそれを了承し、シモーヌを訪ねてきたというわけだ。

 本人確認はすぐに済んだ――子爵はラウトヤ家の家紋を彫り込んだ指輪を、妾に渡していた。それはシモーヌに受け継がれており、その証拠品の出てきたことで、彼女は正式に子爵家を継ぐ権利のあることを認められた。

 残念ながら、その間に父親であるラウトヤ子爵の命の火は失われてしまい、親子の再会は叶わなかったが、それでよかったのかも知れないと、シモーヌは思っている。もともと無口で、人との会話を好まないたちの彼女だったし、死の間際の父に会えたところで、どんな話をすればいいのか、想像もつかなかったからだ。

 そうして、山を降りて貴族になったシモーヌだが、はっきりきっぱり、嘘偽りも飾りつけも遠慮もお世辞もなく言うならば――貴族としての生活は、山での生活の何万倍もキツいものだった。

 きれいなドレス。着替えるのに十分も二十分も、ことによると一時間以上もかかるドレス。

 恥ずかしくない程度の礼儀作法。テーブルマナー、社交界での言葉遣い、話題選び。ダンスのステップ、カードゲームのルール、流行りの香水、行楽地。

 ガリア王国の歴史。地理。どんな貴族が有名で、どんな力を持っているか。ハルケギニアの歴史、地理。それぞれの国の力関係、法律、特産、軍備。

 領地経営。ラウトヤ子爵領はどんな商売が盛んか。どんな行事があり、どんな施設があるか。人口は、税率は、予算はどれくらいあるのか、どのような公共事業を行っているのか。

 ブリミル教の教え。戒律。始祖の偉大なる御技、魔法について。四系統にそれぞれの特性。どんなことができるか、スペルの組み合わせは効果にどう影響するか。

 三日で山に帰りたくなった。

 しかし、それを許されるほど、新参貴族のシモーヌの立場は強くない。虚ろな目で必死に自分の仕事をこなし、そのストレスを、余暇に山で狩りをすることで解消した。

 もはやそれは生きるための手段ではなく、趣味の範疇になってしまってはいたけれど、動物を撃って撃って撃ちまくることは、シモーヌの若くか弱い精神の均衡のために役立った。三つ子の魂百までということわざがあるが、実際彼女の人格は山での暮らし向きに出来上がってしまっており、それを矯正することはまず容易ではなかったのだ。

 しかし、射撃のための武器が、弓でなくてはならないというわけではなかった。貴族としてのたしなみとして、シモーヌは当然、魔法の使い方を学ばされた。彼女には火の適性があり、それは風系統と並んで、発射するタイプの攻撃魔法が多い系統だった。

 それを聞いた彼女は、大喜びで火魔法の練習に取り組んだ。発火、ファイヤー・ボール、フレイム・ボール、ファイヤー・ウォール――基礎を学び、応用を学び、簡単なものから難しいものまで、順番にスペルを習得していって――たどり着いたのは、失望だった。

 ファイヤー・ボールなんかでケワタガモを撃ったら、価値のある羽毛が全部燃え尽きてしまう。

 フレイム・ボールで鹿や猪を撃ったら、肉が大部分黒焦げになってしまう。ファイヤー・ウォールなど話にならない――というか、何でこんなに火の魔法って、光輝いて大きくて派手なものばかりなんだ? 大きさをもっと絞って、速度と貫通力を上げないと、まともに狩りなんかできないじゃないか!

 とにかくシモーヌはしょんぼりした。狩りの基本は、目立たず、素早く、正確に――であると叩き込まれて育った彼女であったから、派手な戦争用の攻撃魔法には、あまり馴染むことができなかった。十七歳でトライアングルに到達し、周りの人たちから立派だと褒められても、素直に喜ぶことができなかった。

 しかし、だからといって、魔法という面白い道具を使った狩りを諦めたわけではない。

 教科書に載っている、既存の攻撃魔法に見切りをつけ、シモーヌは独自に工夫を凝らして、狙撃に特化したスペルを編み出してみようと企んだ。

 目をつけたのは、ライトというスペルだ。文字通り、光を生じる魔法で、暗闇を照らす時などに使われる。

 シモーヌは、このライトの光を強力にして、しかも一直線に飛ばすことはできないかと考えた。まっすぐな光の線で狙うのは、鳥や獣の目である。強い光で獲物の目を眩まし、動きの止まったところを捕獲するという作戦だ。

 この直線光魔法は、ライトのスペルを少し組み替えるだけで、簡単に完成した。労力はほとんどなかったのに、実際に使ってみると、その威力は想像以上だった――光の矢はとにかく速く、とにかく正確で、とにかく静かだった。矢では届かない高さを飛ぶケワタガモも、容易く撃ち落とせる。しかも精神力をほとんど消費せず、実質上弾数は無限だ。

 威力は、獲物を殺傷するまでのものではなかったが、シモーヌは大満足だった。ホクホク顔で獲物を持ち帰りながら、この光魔法をさらに洗練しようと心に決めた。

 スペルを追加し、出力を高める。できれば、獲物の目を狙う必要を排除したかった。光は熱を持つ――影になっているところより、日向の方が暖かいのだから、これは自明だ――動物の毛皮や厚い肉、骨も内臓も貫けるような、高熱の光線を実現できれば、一番いい。獲物の急所を一瞬で焼き切り、発火することなく反対側に抜ける。そういうまったく新しい火魔法を作りたかった。

 とにかく光を強くすることに心を砕き、三ヵ月ほどで、一リーグ先の鋼鉄板を貫通できる光線を生み出すことに成功した。しかし、まだ無駄が多いように思えた。もっと精神力の消費を抑え、かつ高威力にできないか?

 彼女は、光の種類に着目した。赤い光は暖かく感じ、青い光は冷たく見える。その印象通り、色によって光の性質が異なってくるとしたら?

 実験に実験を重ねた結果。赤い光は、確かに赤に近付けば近付くほど、照射されたものの温度が上がることを発見した。不思議なことに、赤さを高めに高めると、最終的には光の色が見えなくなってしまったのだが、見えない光が熱だけをともなって獲物を撃ち抜く、という現象は面白く、シモーヌはしばらくの間、このウルトラ・レッド線を利用した狙撃を研究した。

 この成果は確かに、彼女の研究の成功例のひとつだが、しかしまだ完全に満足はしていなかった。ウルトラ・レッド線は高い攻撃力を備えていたが、発生する熱量も大き過ぎる。照射した部分の周辺にも熱が伝わり、かなり広い範囲を焼いてしまう。これではファイヤー・ボールと変わらない。もう少しスマートに、もっとさらに鮮烈な――実際に突き刺さる矢のような、そんな光を求めたい。

 そんな思いで研究を続けていた彼女が、最終的にたどり着いたのは。紫を越えた紫、極限の紫――ウルトラ・ヴァイオレットの領域だった。

 この紫という光も、その成分を突き詰めていくと、最後には目に見えない輝きになった。しかし、その性質はウルトラ・レッド線とはまったく違っていた。まず、それほど熱を生じない。照射された対象には焦げ跡こそできるが、その範囲は非常に狭く、本当に光の当たっている範囲だけが焼けるようだった。

 そして、熱が乏しい代わりに、殺傷能力が並外れていた。分厚い毛皮と筋肉を持つ大熊であろうと、硬い鱗を持つ火竜であろうと、この光線の前では薄い絹のハンカチ同然だった。どんな動物の体組織でも容易に貫き、絶命せしめる。これこそ始祖に与えられた魔法の究極、狩猟魔法の到達点であろうと、シモーヌは確信した。

 ――しかし、その達成感がシモーヌの頂点だった。ウルトラ・ヴァイオレット線による狙撃魔法を完成させた頃あたりから、彼女は徐々に体の具合を悪くし始め、三ヶ月も経つと、もうベッドから起き上がれないまでに衰弱してしまったのだ。

 何人もの医者が呼ばれ、手を尽くしたが、一向によくならない。そもそも、シモーヌがどういう病に冒されているのかを指摘することすら、誰にもできなかった。

 全身の倦怠感と発熱。強い吐き気。目は白く濁り、ほとんど見えなくなった。髪の毛が抜け、禿頭になってしまった。血液が黄色みを帯び、傷口がヒーリングをかけても治らなくなった。

 こんな異様な症状を呈する病気は、それまでハルケギニアになかったのだ。医者たちはこの新しい病を必死に研究したが、それが進まぬうちにどんどんシモーヌは弱っていく。

 彼女は病床の中で、恐怖し続けていた――彼女の血縁者は、皆が皆、病に倒れている。自分にも同じ運命の手が降り下ろされるのか、猟師の老人を葬ったような、孤独な死の谷へと自分も送られるのか――そう考えると、たまらなくつらい気持ちになる。

 やがて、意識が朦朧とし始め、一日のうちのほとんどを寝て過ごすようになった。覚醒している時間が短くなるごとに、彼女は自分が死に近付いていることを感じた。目を必死に開いたままでいようとしても、すぐに気絶同然の眠りが訪れる。もはや、彼女には何もできることはなかった。

 ――そんな時間が、どれくらい続いただろうか。

 ある時ふと目を覚ますと、枕元に見覚えのないふたり組がいた。ひとりは、鼈甲縁の眼鏡をかけた、紫色の髪の紳士。もうひとりは、異国風の装束に身を包んだ、真っ黒な髪の若い女だった。

 彼らは病人の前とは思えないようなくつろいだ様子で、何やら小声で話し合いをしていた。

「……で、リョウコ君。君の診断は?」

「まあ、予想通りだったね。典型的な放射線障害だよ。光魔法で狩りをして遊んでいたって、執事さんに聞いた時からそんな気はしてたけど。

 しかし、だとしたらすごいよ、このラウトヤ子爵は。ハルケギニアの知識の範囲で、ほとんど自分の工夫だけで、紫外線以上の危険な放射線を発生させる方法を編み出していた、ってことだからね。まあ、収束が不完全で、周りに散乱した光を自分で浴びているのに気付かなかった、というのはお粗末だけど」

「ふむ。つまり、役に立つ人材かね?」

「きっとね。研究者としてももちろんだが、戦闘のプロにもなり得る才能の持ち主だ。スカウトしといて、損はないと思うよ、セバスティアン」

 リョウコと呼ばれた女の言葉に頷いて、セバスティアンと呼ばれた男は、ぐっとシモーヌの顔を覗き込んできた。

「起きているかな、ラウトヤ子爵シモーヌ・ヘイス」

「……………………」

 口をきく元気はなかったが、首を小さく縦に振ることで、肯定を伝える。

「どうやら意識はあるようだね。結構だ。

 さて、今から君の体を治療して、健康な状態に戻してあげよう。ここにいるリョウコ君は医術のプロでね、治せない病気なんかないんだ。明日までには、君はまた元気に山に狩りに行ったりできるようになるよ。

 ただ……それをする上で、ひとつ頼みごとがあるんだよ。別に交換条件、という形じゃない。治ったあとで、君はそれを拒否しても構わない。だが、もし恩を感じる心があるなら、ひとつ考慮してみてもらいたい。

 ああ、頼みというのは何か、という顔をしているね。そうだそうだ、その内容を先に話しておくべきだったな……。

 頼みというのはね、ミス・ラウトヤ……君の病気が治ったら……僕たちの友達になってもらいたいんだよ。いいかな?」

 シモーヌは、何のためらいもなく頷いた。

 生き延びることができるなら、この運命の手から逃れられるなら、悪魔とだって仲良くしてやろう。そんな心持ちだった。

 ――果たして、セバスティアンたちは宣言通りに、シモーヌの体を治してみせた。

 ミス・リョウコの治療は劇的な効果を表し、わずか半日ほどで、シモーヌは立ち上がれるまでになった。抜け落ちた髪ももとに戻り、目に至っては、病気になる前よりクリアに見えるようになっている気さえした。運命の手は去り、健康が戻ってきた――この時点で、セバスティアンとリョウコのふたりは、シモーヌにとっての神となった。始祖ブリミルのご加護である水魔法が太刀打ちできなかった病を、こともなげに覆してみせる、そんな奇跡を見せた者たちを、他に何と呼べるだろう?

 シモーヌはセバスティアンたちから、友情を期待されたが、むしろ彼女は忠誠でもって彼らに報いた。セバスティアンたちも、最終的にはシモーヌを部下として雇い入れたい考えだったので、このことはむしろ好都合だった。

 素直にいうことを聞くシモーヌに、セバスティアンは神として、いろいろな神託を与えた。まず、彼女オリジナルのウルトラ・ヴァイオレット線狙撃魔法を、安全なものとして改善すべしと。指向性、収束性を完全なものとし、術者に一切光の悪影響が及ばないように、スペルを組み直せと指示した。

 そして、できあがったその魔法を、徹底的に極めるべく修行せよと命じた。他の誰と戦っても負けないよう、狙撃魔法を使いこなせるようになれと。

 彼女は愚直に、その命令に従い、研究と修行に明け暮れた。

 ただでさえ一線級であった実力を、めきめきと伸ばし続け――やがてシモーヌ・ヘイスは、『スイス・ガード』に迎え入れられることになったのだ。

 今の彼女は、平民の女猟師でも、ラウトヤ子爵でもない。セバスティアン子飼いの暗殺者であり、ロング・レンジなら右に出る者のない狙撃手である――。

 強い海風が、シモーヌの髪をはためかせた。やや堅めな、鉄灰色の長い髪。

 カミソリのように鋭い細い目が、さらに細まる。瞳の色は、氷河より冷たいアイス・ブルー。唇も横一直線に結ばれ、まるで雪花石膏(アラバスター)に刻まれた彫刻の顔のようだ。

 首周りには、狼の毛皮で作ったマフラーを巻いている――温度の低い船の上での仕事には欠かせないものだ――上半身を包むのは、同じく実用的な、ポケットの多いカーキ色のジャケット。ズボンも同色で、足元は耐久性の高い牛革のブーツ。

 そんな、まるで軍人のような装いこそ、『極紫』シモーヌ・ヘイスのトレード・マークであった。

「……次は……第四風石室を、狙う……その次は……第二……その次は……第五……最後に、第一風石室を……。

『スルスク』の見取り図は……事前に、手に入れてある……風石室の位置……船外からでも、寸分の狂いなく、わかる……。

 ……そこを私の魔法で……撃ち抜き……風石を暴走させて……落とす……簡単な仕事……」

 ジャキン、と撃鉄を起こして、シモーヌは愛用の杖を持つ両腕に力を込めた。

 左手で銃身のハンドガードを、右手で銃把を握り、銃床を肩にあて、三点でぴったりと固定する。

 引き金に人差し指をかけて、これで魔法の発射準備がととのった。

 ――シモーヌの杖は、一般に貴族が用いるワンド型や、スタッフ型のものではない。

 銃口があり、銃身があり、引き金も撃鉄もある、いわゆる『銃』を、彼女は杖として使用している。

 ゲルマニア製の狙撃用長銃、モシン・ナガン。全長百三十サント、ボルト・アクション単発式。精密加工の神様と呼ばれるシュペー卿の作品で、一丁で五千エキューは下らない、超高級な品である。

 だが、もちろんそれは、高級とはいえ平民の武器に過ぎない。サイズも大きく、重量もあるので、取り回しが悪い。普通の貴族なら杖に使うどころか、手に取りもしないだろう。

 それでも、彼女がこの平民の武器を杖として選んだのには、理由がある。

 とにかく、圧倒的に、狙いがつけやすいのである。

 銃身の向いた方向に、一直線に弾を飛ばすというコンセプトが、シモーヌの琴線に触れた。ワンドを片手で握って、振りながら魔法を撃つより、ずっと標的に集中できる。

 両足を肩幅に開き、美しい立射の姿勢を取る。頭を斜めにして、銃身の上にマウントしてあるスコープを覗き込む。レンズの中に、遥か遠くの『スルスク』の姿がくっきりと浮かび上がった。このスコープは、ミス・リョウコから譲り受けたマジック・アイテムで、その名も『遠見の望遠鏡』という。口径三サント、長さ十五サントというちっぽけな筒だが、中を覗き込めば、その直線上のどんな距離にでも、自由自在にピントを合わせることができる。そう、人間の視力が及ばないような遠くでも、目の前にあるように見ることができるのだ。

 狙うは、『スルスク』の舳先にある第四風石室。シモーヌは引き金を引くことで、銃の中に『装填』してあった魔法を放った――フレイム・ボールのような、発射後も意思の力で自由に操作できるタイプの魔法と参考にして、詠唱によってエネルギーを銃の中に溜めておき、好きなきっかけで瞬間的に発射可能にするというシステムを、彼女は自分の魔法に採用していた。

 モシン・ナガンの銃口から、音もなく発射された目に見えない光線は――ほんの一瞬で『スルスク』までの距離を駆け抜けた。

 スペルによって、ほんの少しの減衰も散乱も起こらないように束ねられた光は、船体の分厚い壁に当たっても跳ね返らず、屈折もせず、まっすぐに染み込んでいき、ただ前へ、前へと突き進む。

 接触した部分を高エネルギーで変質させ、破壊しながら、貫いていく。一メイル以上ある樫材の壁も、五サントの鋼鉄製シールドも、羊皮紙のようにぶち破り、その奥に鎮座していた風石塊に突き刺さり、風エネルギーの励起を促す――かくして、第四風石室でも風石の暴走が発生し、『スルスク』は再び、寝返りを打つように、空中でその身をねじり、傾け始めた。

 スコープ越しに、シモーヌの目には見えていた――更なる風石室の事故に、船体の傾きに、船員たちが慌てふためいている姿が。

 甲板にいたシザーリアと、その仲間らしい男が、素早く船内に戻っていくところが。

 彼らは必死に、ことをおさめようと努力するだろう。船員たちは、風石の暴走を止め、傾いた船を立て直そうと行動するだろう。シザーリアたちは、主たちを守ろうと、あるいは逃がそうと奔走するだろう。もしかしたら、襲撃者であるシモーヌを倒そうと、立ち向かってくるかも知れない。

「……しかし……すべては、無駄に……終わる……」

 撃鉄を起こし直して、彼女はひとり、呟く。

「距離という盾が……何より確実に、私を守る……。

 お前たちと私の間を……詰めることができるのは……我がオリジナル・スペル、《収束ガンマ線バースト(Kuolema kuuntelee)》のみである……運命の手……一方的な死しか……お前たちには、ない」

 第四風石室をさらに攻撃すべく、シモーヌは銃の狙いを定めた。

 ロング・レンジを得意とする狙撃手である彼女は、敵からの反撃を受けないよう、充分な距離を取って攻撃を仕掛けていた。広大なアルビオン=トリステイン海峡――船で移動する、獲物と猟師。『極紫』にとっては、最高に攻めやすい環境である。

『スルスク』号と、シモーヌ・ヘイス。二者はおよそ、六十八リーグの距離を挟んで、対峙していた。

 

 

 またしても、ぎりぎりと耳障りな音が響いた。

 そして、それが高まるに従って『スルスク』に新たな傾きが加わっていく。今度は舳先側が持ち上がっている――急激な角度の変化に、広大な甲板は海原のように波打ち、長大なマストは釣竿のようにしなった。係留用の太い綱がびゅんびゅんとスイングし、重い帆がひきつり、裂け始める。

「くそっ、また別の風石室が攻撃されたのか! これ以上船が破壊されては、アルビオンまでたどり着くことも危うくなるぞ!」

 俺は、暴れ狂うマストから離れながら毒ついた。

 船員たちを音もなく射殺し、船体を撃ち抜いて風石室を破壊する――これがミス・パッケリの語った『極紫』という暗殺者(マーダラー)のしたことであるなら、一刻も早くそいつを見つけ出して、始末しなければならない。

 しかし、俺の意気込みとは反対に、ミス・パッケリは逃げるように、船内へ通じる扉へ向かって一直線に飛んでいった。

「ミス・パッケリ、どこへ行く!? 敵が、『極紫』が外から狙ってきているなら、まずは見通しのきくこの場所で奴を見つけ出し、反撃するべきだ!」

 無論、この呼び掛けは手前勝手なものだ。彼女はあくまでメイドであり、騎士ではない。そもそも戦闘行為に参加する義務はないのだ――俺の仕事に手を貸してくれていたので、つい忘れがちになってしまうが。

 逃げたくなったのなら逃がしてあげるべきなのだ。むしろ危険が少ないよう、積極的に船内に戻るよう呼び掛けるのが、東薔薇花壇騎士としての務めではないか? いけない、急な展開に翻弄されているせいか、どうも頭が正常に働いていない。

 しかし、俺の言葉に対して、ミス・パッケリは冷静に、律儀に返事をしてくれる。

「反撃は不可能であると思われます。『スルスク』は、もはやスピードを出して航行できる状態ではありません。

 先程も申しました通り、『極紫』は充分な距離を取って、こちらを攻撃してきています。ノロノロとしか動けないこの船では、たとえ敵を発見できても、間合いを詰めることはできないでしょう」

「ああ、確かに、この船を敵に向かって走らせることは無茶だろう。

 だが、私にはフライの魔法がある。一リーグや二リーグの距離であれば、飛んでいって始末をつけることも可能だ……まさか、それ以上遠くから攻撃してきているというわけでもあるまい。私に任せてくれれば――」

 俺の反論に、ミス・パッケリはなぜか気の毒そうな表情を浮かべた。

「繰り返しますが、反撃は不可能です、ミスタ・カステルモール。

 セバスティアン様が分析したところ、『極紫』は常に、ターゲットと自分との間に、五十リーグから百二十リーグの距離を置いて狙撃しているのだそうです。今回もそうしているとすると、あなた様が敵のところにたどり着くまでに、『スルスク』は十回以上墜落させられることになるでしょう」

 彼女の言葉に、俺があんぐりと口を開けてしまったのは、別に不自然なことでも何でもなかっただろう。

「……私の聞き間違いか? 五十リーグから百二十リーグ……? メイル、の間違いではなく?」

「間違いなく、単位はリーグでございます。信じられないのも無理はありませんが、過去のデータから計算すると、どうしてもそれだけ離れて攻撃してくるとしか、説明のつけようがないのだそうです。

 ですから……ご理解頂けますね……我々がすべきことは、反撃ではなく逃走です。『スルスク』を放棄し、この巨大な船体自体を盾にして、救命ボートでアルビオンに逃げ込むのが、ベストな戦略だと思うのです。そうすれば、私たちが命を預かっている貴人の皆様は、生き残れる可能性が高くなるのではないでしょうか」

 はっとして、俺はミス・パッケリの顔を見つめた。そうだ、まずは守らなければならない方々のことを――特にシャルロット様の安全を考えねばならぬ!

「わかった、確かにきみの言う通りだ。急いで皆様に避難するよう呼び掛けねば。救命ボートの位置や使い方は、わかるかね」

「はい。乗船前にマニュアルに目を通しただけですが、操縦はそれほど難しくないようでした」

「よし。では急ごう……時間のない時に引き止めて、済まなかった」

「いえ、構いません」

 俺たちはフライで出せる限りの速度で船内に飛び込み、一直線に食堂を目指した。少なくともシャルロット様たちは、そこにまだおられるはずだ。

 ――飛びながらふと、得体の知れない寒気が背筋を撫でるのを感じた。食堂には、シャルロット様と一緒に、簒奪者の娘イザベラもいる。

 テロリストの襲撃による、船体が傾くほどの大事故――この特殊な環境を利用して、あの陰険な娘が何か大それたことを企まないだろうか。シャルロット様に危害を加えるような、恐ろしいことを。

 私とミス・パッケリは飛んだ。ほんの数百メイルに過ぎない食堂までの道のりが、ひどく長いもののように思えた。

 

 

「の、の、のぎゃーあああぁぁぁーっ!?」

 ごろんごろんころころころんと、我は転がる。クルデンホルフ大公国の伝統的な催し、チーズ転がし祭りのチーズのように転がり落ちていく。

 なんじゃこれ、なんじゃこのひたすら目の回るアトラクションは。なんの前触れも予告もなく、突然廊下が身を起こすように傾きよった。百メイル近くある廊下が、今やステキな滑り台じゃ。

 四十五度を越える傾きを前に踏ん張ってられるほど、我はバランス感覚に自信はないし、周りに引っ掴んで転落を防止できるような取っ掛かりもなかった。ゆえにただただ落ちていくしかない――うえええ目が回るー。

「のじゃっ!?」

 不幸中の幸いと言うべきか、我の肉体は固い壁に激突することなく、柔らかくて分厚いもんにファッサァと包み込まれる形で止まった。我が突っ込んだのが何かというと、くしゃくしゃのシーツとか洗濯物の山じゃった。リネン室に運ばれる途中で、この廊下の傾きが起き、運搬用のワゴンごとぶっ倒れてばらまかれたのじゃろう。うう、我としたことが、まさか汚れ物に命を救われるとは。

「ああっ、マザー・コンキリエ、ご無事ですか!?」

 上から突然降ってきた声に顔を上げると、船員が四、五人、床を四つん這いになりながら、こちらに近付いてきておった。我は体に絡みつくシーツを振り払いながら、そいつに問いかける。

「わ、我は大丈夫じゃ。それよりお前たち、これはいったい何が起きておる!? 嵐にでも巻き込まれたのか!?」

「はっ、お答えします! 風石室で、風石が暴走する事故が発生いたしました! そのせいで船体のバランスが崩れ、このようなありさまに……」

「風石の暴走事故じゃと? そんなことが起きるものなのか……んで、あとどれくらいで、この状態は直るんじゃ?」

「そ、それが……最初に暴走した第三風石室は、すでに臨界に至って爆発、大破いたしました。

 その上、さらに第四風石室が暴走を始めており、原因がわからないため、沈静化もできず……ひと言で言って、危険な状態です。墜落の可能性も出て参りましたので、念のため、お客様方には早急に、救命ボートへ避難して頂きたく存じます」

「えっ、えっえっ、つ、墜落じゃて!?」

 そ、それマジでヤバすぎじゃろ。

 今いる場所は、アルビオンからもトリステインからも離れ過ぎておる。ここで墜落などしようもんなら、深き海に沈んでしまい、永遠に発見すらされまい。そんなのは嫌じゃ――は、はよ逃げねば!

「救命ボート、と言うたな。それはどこに行けば乗れるんじゃ?」

「甲板後方にございます。この廊下をまっすぐ行って、突き当たりを右に行けば、一番近道でしょう。

 おお、そうだ、途中にファーザー・マザリーニの船室がございます。六号客室です……よろしければ、途中でファーザーにもお声かけを願えませんか。我々は、イザベラ陛下たちに事態を告げにいかねばなりませんので……」

「あっ、ふ、ファーザー・マザリーニじゃな!? わかった、確かに承ったぞ。彼と一緒に、先に救命ボートに行っておるでな!」

「よろしくお願い致します、マザー」

 敬礼をし、よじよじと慎重に廊下を降りていく船員たちを見送って、我は急いで兄様の船室に向かう。

 杖を出して、フライの魔法を唱えたので、もういくら床が傾こうと問題はない。滑るようになめらかーに船内を駆け抜け、六号客室を目指す。イザベラとかシャルロットはどーでもいいが、とにかく、兄様の命だけは救わねばならぬ。あの人は、こんなところで意味もなく死んでいい人ではない。

 六号客室にたどり着き、扉を開けて中を覗き込んで、我は悲鳴を上げた――室内を彩っていた調度品は残らず吹っ飛び、床の傾きによって下になっている一角にごちゃっと積み重なっておった。重そうなチェストも、大きなソファも、ゴーレムが蹴散らしたかのようにひっくり返っておる――そして、そのそばに、見覚えのある白髪頭の男性が、ぐったりと倒れておるのが見えたのじゃ。

「あ、兄様!」

 我は急いで、動かないその肉体に駆け寄ると、肩を揺すぶりにかかった。

 力なくがくがくと揺れる、兄様の頭。意識がない――たらりと、おでこの生え際からひと筋、赤い血が垂れた。

 え、おい、ま、まさか、まさかヤバめの怪我とかしとらんじゃろな。転んだ拍子に頭をぶつけたり、重いものにぶつかったりなんかして。頭の怪我は不穏じゃぞ――わりと軽く見えても、ひどく重い場合があったりする。

 ど、どうか目を覚まして下され、兄様! 我嫌じゃ、このまま起きてもらえんとか嫌じゃ!

 ありがたいことに、我が必死で呼び掛けを続けていると、兄様はぱっちりと目を開いてくれた。ううん、と唸り、少々めまいを起こしているご様子じゃったが、どうやら命に別状はなさそうじゃ。よかったぁ。

「う、うっ……ま、マザー? どうしてあなたがここに? それに、この部屋のありさま……いったい、何が起きて……」

「大変なのです、ファーザー。この船で、風石が暴走する事故が起きたらしいのです」

 目をしぱしぱさせながら問うてくる兄様に、念のためヒーリングをかけながら(額の怪我は、二サントほどのちっこい切り傷だけじゃった)、船員から聞いたことを伝えた。

「風石事故? ……ああ、そうだ、だんだん思い出してきました……床がひどく揺れて、急に傾き始めて……私はよろめいて、壁に叩きつけられたのだった……なるほど、姿勢制御用の風石室が暴走したせいで、船体のバランスが崩れたというわけですな……」

「そういうことですじゃ。今、この船は非常に危険な状態になっていて、復旧するどころかむしろ、悪化し続けているとのこと。

 ことによると、沈没するかも知れんのだそうです。というわけですので、早く避難を……救命ボートが甲板にあるそうですので、一緒に行きましょうぞ」

「わかりました。――いえ、その前にお聞きします。ミス・ヴァリエールやサイト君は……? ふたりはもう避難したのでしょうか」

「え? あー、我は存じませぬな。おそらく、船員たちが見つけ次第、避難するよう声をかけるでしょうから、あとから来るのではないでしょうか」

 どーでもいい連中のことだったので、適当にそう返事をしてしまったのじゃが、これが大きな失敗であった。

「なんと! それはいかん、まずはそちらの安全を確保してからでなければ、避難などできませんぞ!

 あのふたりは、アルビオンとの戦争を終わらせるための切り札なのです! 万一のことがあったら、トリステインの平和への希望が潰えてしまう!」

「ええっ!? ちょ、ちょ、兄さ……ファーザー!?」

 さっと杖を振り、フライを唱えたかと思うと、兄様はぶいーんと部屋の外へ飛んでいく――そ、それはええんじゃけど、向かう方向が明らかに甲板じゃないのは、ちと承知できんぞオイ!

「待った待った、ファーザー、それはいけませぬ! 船内はぐっちゃぐちゃで、またどんな風に床とか天井とかひっくり返るかわからんで、すっごい危険なのですぞ! 二次遭難とかしたら、どうなさいます!?」

「し、しかし! 私はミス・ヴァリエールたちの引率を任されているのです! 彼らを、マザーの仰るような危険な船内に置いたまま、自分だけ避難することなどできませぬ!」

 我は彼に追いついて、後ろから羽交い締めにして説得を試みるが、あーもうこの責任感と頑固さの塊のようなダンディめ、全然止まってくれようとせぬ!

 口には出して言えんけど、我にとっては兄様が危険にさらされることの方がたまらんのじゃ! さっさとお先に避難してくれい! ミス・ヴァリエールとか放っといていいから! というかどうでもいいしあんなピンク髪、むしろ死んでくれた方が都合がいい――。

「……んむ?」

 兄様の背中にぺったりくっついたまま、グイグイ引きずられていくうちに――我の頭の中で、あるひとつのアイデアが形をなしていく。

 1、我にとってミス・ヴァリエール邪魔。奴がいると、オリヴァー・クロムウェルを説得して戦争をやめさせる役目を譲らにゃならんかも知れんし、長期的にはロマリア教皇の座を争うライバルにもなりかねない。

 2、今、『スルスク』号は大事故中。船体大揺れ、ひっくり返ったりふんぞり返ったりでめっちゃ危険。転んで頭打ったり、調度品に潰されたりしたら死ぬかも知れん。

 3、ミス・ヴァリエール、たぶん今もまだこの船の中におる。

 以上、三つの条件から導き出される結論は――?

(あれ、もしかしてこれって……事故に見せかけてミス・ヴァリエール抹殺すれば、全部丸く収まる感じか?)

 そうじゃ、そうじゃよ。

 この大混乱の中であれば、我がミス・ヴァリエールの後頭部に、重くて硬い陶器のツボとかぶっつけて暗殺したとしても――誰かに目撃されない限り、事故として片付けられるはずじゃ。

 実際、それくらいの悲劇は起こりかねない環境じゃしのう、もしガチで船が墜落して海の藻屑と化してしまえば、ありとあらゆる証拠は失われる――こりゃイケる! 完全犯罪も夢ではない!

 まあ、兄様の言う通り、ミス・ヴァリエールが死ねば、トリステインによるアルビオン説得は困難になるじゃろうが、なぁに心配することはない。我がその任務を引き継いで、クロムウェルに戦争を止めさせるんで、結局世界は平和になるぞ。ガリアは後ろ暗いところを完全に隠匿できるし、我は栄光を掴めるし、兄様は対アルビオン政策に頭を悩ませんでもよくなる。全方位もれなくいい感じ!

 こ、こりゃあ躊躇してはおられん。世の中のありとあらゆるものの希望のために! ミス・ヴァリエールをぶっ殺しに行かねば!

「――わかりました、ファーザー。では、我もあなた様にお付き合いしましょう。ふたりで手分けして探せば、ミス・ヴァリエールがどこにいようと、すぐに見つけ出せるでしょう」

「なんと!? マザー、そこまでして頂くわけには……あなたにも危険が及ぶかも知れないのですよ!?」

「なぁに、どちらにせよ、ファーザーとミス・ヴァリエールが来てくれなければ、救命ボートを飛ばすつもりはありませんでな。待っているのも探しに行くのも、危険度は似たようなものです。ならば、ことが早く片付く方がよろしいでしょう」

「おお、おお……マザー・コンキリエ! 心から感謝いたしますぞ!」

 感激に涙さえこぼしながら、兄様は我を抱擁してくれた。うわーいあははは! もっとしてもっとして。そのままくるくる回ってもええんじゃよ?

「えっへっへ、なーにこれも聖職者としての義務でございますよ。さあ、時間を無駄にはできませぬ、さっそく二方向からミス・ヴァリエールとミスタ・サイトを探索しましょう。我は食堂の方を見てきますので、ファーザーは彼女らの客室を確かめてきて下され。

 もしそこにいなかったら、素直に甲板の救命ボートに移動すること。我も、食堂に探し求める相手がいなければ、同じようにします。これは、どっちか片方がミス・ヴァリエールたちを見つけ出して、救命ボートまで誘導したというのに、もう片方が知らずにあちこち探し続けて危険を招く、という事態を防ぐためです。よろしいですな?」

「了解しました。それではマザー、食堂方面の探索、よろしく頼みましたぞ。あなた様に、始祖のご加護がありますように」

「ええ。ファーザーにも、始祖のご加護がありますように」

 そう言葉を掛け合って、我々は別々な方向へと移動し始めた。

 兄様の姿が見えなくなってから、我はにんまりとほくそ笑む。うっふっふ、兄様も若者の心理には、ちと疎いようじゃのう。ミス・ヴァリエールやサイトのアホたれは、シャルロットの奴と顔見知りでそれなりに親しくしておる様子じゃった。ならば、メシを終えたからといって、すぐバイバイサヨナラで客室に引っ込むなんてことはあり得んじゃろうよ。意味もなく紅茶とかちびちび飲みながら食堂にねばって、無駄話とかし続けとるに違いない。

 そこに我が乱入して、言葉巧みにミス・ヴァリエールだけを連れ出す。少なくとも、あのピンク髪とふたりきりにならねばならん――目撃者なしで奴をぶち殺すには、人目は完全に排除しなければならんのじゃ。じゃからすまぬ、兄様。だーれもおらんであろう客室をキョロキョロ探して回ったのち、フツーに救命ボートに避難して大人しくしておいてくれ。あなた様には何の危険もないし、何の責任もない。

 そんな風に企みながら、明かりの消えて薄暗くなった廊下を、スピーディーなフライでびゅんびゅん駆け抜ける。途中で、さっき出会った船員どもが、苦労して斜めった廊下をよじ登っているのを見つけたので、すれ違いざまに「食堂の連中には、我が避難するよう言うてきてやるから、お前らは自分の仕事に戻るがいいぞー」と声をかけてやった。我がこれからすることは、兄様だけではなく、こいつらにも見られるわけにはいかん。食堂周辺に存在する人間は、ミス・ヴァリエール以外、百パーセント排除じゃー。

 それ以降は、運よく誰とも会わずに済んだ。そろそろ食堂に到着する――さて、どういう口実で、ミス・ヴァリエールだけを連れ出そうか、と考えを巡らせていると――。

「ああっ! ま、マザー・コンキリエ! ちょうどいいところに! 助けて下さい、イザベラが怪我をしたんです!」

 おおーうナイス。ひっじょーに目立つピンク髪を振り乱して。鳶色のきれーなおめめに涙を溜めて。

 我の獲物が、自分から罠へと飛び込んできよった。

 

 

「いっ……てえぇーっ……!」

 あたしは背中を丸めて、しばし激痛にのたうち回った。

 恐ろしいことが起きた。床が、いきなりぐぐっと傾いたのだ。

 椅子を傾けて、テーブルの上に足を乗っけていたあたしは、受け身を取ることもできずに、後頭部から床にダイブしちまった――ちくしょう、まだ頭の中で、星がチカチカしてる――頭とか首の骨とか折れてないよな? 美しいあたしの体の造形が、一部でもへこんで台無しになるなんてのは、単なる死より悲劇だよ。

「……大丈夫、イザベラ?」

 そんなあたしに声をかけてくれたのは、従妹のシャルロットだ。よかった、この子は平気そうな顔してる。どうやらあの状況でも、うまく立ち回ったみたいだね。さすがはもと北花壇騎士だ――あたしも、騎士並みとはいかなくても、とっさの時に怪我をしない動きができるように、少しは運動した方がいいのかねえ。

「ちょっと、あたま、うった。シャルロット……ルイズと、サイトは?」

「ふたりとも無事。打ったところを見せて……たんこぶができてるなら、ヒーリングをかける」

 あたしはその言葉に甘えて、痛む部分を彼女に向けるように転がった。

 ヒーリングの心地よい波動を感じながら、耳は少し離れたところから響いてくる「ナニ的確にダイレクトにひとのスカートの中に顔面から突っ込んで来てるのよ! この発情期のエロ犬! 子供には見せられない種類の犬!」とか「や、やめろルイズ! 偶然なんだ、悪気はなかったんだってだから腕ひしぎ逆十字固めはやめてやめて折れる折れる」みたいな声を聞き取っていた。うん、あっちは全然心配する必要はないね。

「ありがとうシャルロット、だいぶ楽になったよ……しかし、いったいこりゃ何が起きたんだい。この『スルスク』みたいな大きな船が傾くなんて、そうそうないことだよ」

「考えられる可能性としては……風石室の事故。バランス制御用のサブ風石室が、不調か、あるいは暴走したのだと思う。

 問題は、それが純然たる事故か、それとも人為的なものか、ということ」

「……何者かの襲撃かも知れない、と?」

「ガリアの王族と、トリステインの高級貴族。ロマリアの枢機卿。ハルキゲニアの重要人物が、この船には満載。誰が、どんな動機で襲ってきたとしても、不思議はない」

「ああ、確かに。厄介ごとが舞い込んでこない方がおかしいか。

 ……しかし、なかなか復旧しないね……この船のスタッフは、ガリアでも屈指の腕っこきどものはずだ。ただの事故なら、そんなにかからずに解決しちまいそうなもんだけど……」

 あたしが嫌な予感を抱えながら、狂った角度になった壁や天井を見渡していると――再び、ゴゴゴゴッとものすごい音がして、床がまた違った角度に傾き始めた。

「イザベラ、掴まって!」

 あたしはその言葉に、ほとんど反射的に従って、シャルロットの細い腰に抱きついた。そのまま、彼女のフライの魔法で、中空につり上げられる――直後、波打ち、ひび割れ始める床。重く巨大なテーブルが、まるで怒れる雄牛のように滑り、あたしたちのいた場所を駆け抜けていく。飛び上がるのが一秒遅かったから、あたしたちは轢き潰されていただろう。

「うわ、わっわっ! ま、また始まった! ルイズ、危ねえ!」

「ちょっ、ど、どこ触ってるのよバカサイト! 私のお説教ちゃんと聞いてた!?」

「聞いてる、聞いてたけど今それどころじゃねえだろ!? ……うわああテーブルこっち来たああぁぁ!?」

 うわー、スゴいねサイト。ルイズをお姫様抱っこして、荒ぶる床の上でテーブルとかから逃げ回ってる。あれが伝説のガンダールヴのパワーってやつかね?

「おーいサイト、なに低い方低い方に逃げてんだい。高い方に逃げな。そうすりゃ落ちてくるモノに追いかけられる気遣いはないよ。

 それか、ルイズさあ、あんたもフライ使いなよ。虚無だけじゃなくてコモンも使えるんだろ?」

「あっ、そ、それだ! サンキューイザベラ!

 ルイズ、タバサたちみたいに魔法で飛んでくれ! 俺、もう腕とかつりそう!」

「こらあああ! 私が重いみたいな言い方はやめてよね! と、と、とりあえず飛べばいいのよね……ふ、フライ!」

 逃げ回るふたりの上に、一度大きくバウンドして覆い被さろうとしていたテーブルをかろうじて避ける形で、ルイズたちは空中に飛び上がった。これまでとは違い、飛ぶルイズにサイトが持ち上げてもらう形になったが、あの懲りない平民の少年は、ご主人様の慎ましい胸にべったしと顔を押しつけているので、たぶんまた烈火のごとき折檻を受けるはめになるんだろうねえ。

 あーやっぱりやっぱり。タクト型の杖で、頭べちべち叩かれてる。よかったねサイト、ルイズの杖が、シャルロットのみたいなごっついのでなくてさ。

「……イザベラ。あなたも杖を出して。自分でフライを唱えて、浮いて欲しい」

「うん? ああそっか、いつまでも掴まりっ放しじゃ悪いね。すぐ唱えるから待ってな。……ところで、シャルロット。さっきからあんた、窓の外を気にしてるみたいだけど、どうかしたのかい」

 ちら、ちらと、目立たないレベルで食堂の窓に注意を向けている彼女に、囁くように聞いてみる。

 あたしがフライを唱え終えて、自分の体重を自分で支えられるようになってから、シャルロットはポツリと答えてくれた。

「事故にしては、やはりおかしい。船員たちが、まったく対応できていない。

 何者かの襲撃と考えて、準備をしておくべき。だから、窓が気になる……敵がアタックしてきているとしたら、窓の外に、敵の乗ってきた船なり、竜なりが見えるはず」

「……………………」

 その推定には、あたしも賛成だ。

 ヴァイオラやカステルモールが言ってた。船員たちは事前に入念なチェックをされているから、身分を偽ったテロリストが乗り込んできて、内部破壊を行うような可能性はないって。ならば、敵は――それがいるのなら――外から別の乗り物を使って接近してきて、攻撃を加えてきているということになる。

 食堂の窓は、ラウンジの窓に劣らないほど大きく、立派なものだ。食事をしながら、美しい星空も存分に楽しめる。今は船の傾きのせいで、窓のある壁が斜め下側になってしまっていて、空はほとんど見えないけど、この窓から外を覗けば、周りに不審な船がいるかどうかぐらいは、確かめられるはずだ。

 そろりと、シャルロットは空中を漂って、窓へ近付く。

 あたしは、その行動を彼女の後ろで見守っていた。――すると、突然に――背中にゾッと、粟立つような悪寒が生じた。

 簒奪者の娘として、何度も何度も暗殺の危機にさらされてきたあたしだからこそ、感じられた何か。死の気配に対する感性は、汚れ仕事を数々こなしてきたシャルロットにだって、負けるつもりはない――彼女の行く手に、得体の知れない、ヤバいものがある。

 気が付くとあたしは、「シャルロット、だめっ!」と叫んで、彼女の肩を掴んでいた。

 不思議そうに振り返る、シャルロットの横顔。その頬に――ぱっ、と、赤い花が咲いた。

 そして、その直後、あたしは右肩に耐え難い激痛を覚えた――悲鳴を上げ、杖を手放す。フライを維持できなくなり、そのまま落下する。

「イザベラ!」というシャルロットの叫びが、耳を打った。

 

 

「……あ。外した……」

 少し意外な思いで、シモーヌ・ヘイスは杖を下ろした。

 彼女としては、ターゲットとしてセバスティアンに指定された、イザベラ女王とシャルロット・エレーヌ・オルレアンの二名を、同時に抹殺するつもりだった。第四風石室を攻撃中、ふとスコープの視界をずらしたところ、大きな窓の中に、ガリア王族特有の青い髪が見えたのだ。

 食堂と思しき部屋の中で、イザベラとシャルロットはほとんど重なるような位置関係で存在していた。シモーヌには自信があった――あのふたりがあまり動かずにいるならば、一発の《収束ガンマ線バースト(Kuolema kuuntelee)》でまとめて貫くことができると。

 シモーヌは、スコープの中のシャルロットの眉間を狙って、引き金を引いた。彼女の計算では、発射された光の一弾は、まずシャルロットの頭部を貫通。そのまま、後ろにいるイザベラの胸にまで突き刺さるはずだった。それが、いったい何がいけなかったのか、イザベラがいきなり妙な動きをして、獲物たちの位置を微妙に狂わせたのだ。

 その結果、シャルロットには頬にかすり傷を、イザベラには、右肩を貫通する怪我を負わせたにとどまった。イザベラは落下し、窓枠の向こう側、シモーヌからは見えない死角に入ってしまった。シャルロットも、傷ついた女王を追って、見えない位置に移動してしまう。

 大失敗だ。千載一遇のチャンスを逃してしまった。カンのいい野生動物を撃っていた時にさえ、このようなことはなかったのに。

「……だが……うん、起きてしまったことは……仕方ない」

 悔しくはあったが、シモーヌは追撃を諦めた。

 別にこれで、全ミッションがおじゃんになったというわけではないのだ。彼女はとても切り替えの早い人間だった――当初の予定通り、風石室を破壊して、船自体を墜落させるお仕事を継続することにした。

 モシン・ナガンの黒い銃身が、第四風石室にあらためて向けられる。あと二発も撃ち込めば、ここの風石もまた、臨界に達して炸裂するだろう。

 

 

 我々が食堂にたどり着いた時、そこは血の海だった。

 まず、俺の目についたのは、顔の右半分を真紅に染めた、シャルロット様だった。横倒しになった大きなテーブルのそばにしゃがみ込んだ彼女は、まるで食事をしている最中の肉食動物のようだった――鮮血が目の下あたりからたらたらと流れ、頬を、口の端を、顎を汚している。よく見れば、白いブラウスの袖口や胸元にまで、点々と血の斑点が散っていた。

「しゃ、シャルロット様! そのお怪我は――!」

 俺はフライの速度を上げて、シャルロット様のそばへ近寄る。

 北花壇騎士として、過酷な任務に従事していた経験のある彼女が、船の揺れや傾き程度で怪我をするはずがない。あの血は、攻撃を受けた痕跡だろう。それも、彼女の反射神経をもってしても回避できないような強力なものか、あるいはまったくの不意打ちによるものでなければならぬ。

 俺は、恐れていたことが起きたのだ、と思った。あの陰険なイザベラが、この船の事故を利用してシャルロット様を亡きものにしようと企んだのだ。

 実際、この状況は暗殺には最適だ――たとえ他殺であっても、事故死に見せかけることが容易なのだから。憎悪する相手がそばにおり、手頃な武器が手の中にあれば、それで充分。ことを済ませたあとは、知らんぷりしていればいい。どうせまともな死因究明など行われない。

 しかし、しかしまさか、そんな卑劣で自分勝手な行動を実践する愚か者がいようとは! イザベラという女は、そこまで恥を知らぬ女であったのか!?

 そんなことを思いながら、怒りを燃え上がらせていた俺だったが、シャルロット様の前まで来て、想像のすべてが無責任な妄想に過ぎないことに気付いた。さっきまでは見えなかった位置、倒れた大テーブルの影に、イザベラが倒れており、彼女は明らかにシャルロット様より重い怪我を負っていたのだ。

 仰向けに倒れ、両目を閉じたイザベラの右肩から、血潮がじくじくと染み出している。彼女のまとう純白のイブニングドレスは、今や胸や腹のあたりまで真っ赤だ。顔色は青く、不規則な呼吸がいかにも苦しそうだった。

「しゃ、シャルロット様!? こ、これは……イザベラ陛下は、なぜこんなことに!?」

「黙って、カステルモール……あとにして。気が散る」

 こちらを振り返ろうともせずに、鋭い声でシャルロット様は言う。

 よく見れば、彼女はイザベラの肩に杖を向け、癒しの波動を送っているのだった。ヒーリングの魔法だ――しかし、シャルロット様の系統は風。水系統の回復魔法を、うまく扱える道理はない――出血を多少抑える程度で、傷を塞ぐ役には立っていないようだった。

「お願い、死なないで……目を開けて、イザベラ……家族を失うのは、もう、嫌」

 震える声でそう呟き、シャルロット様はヒーリングをかけ続ける。頬を流れる血を拭いもせず、眼鏡の奥の瞳には涙すら浮かべて。

 系統違いの魔法を使い続けているせいで、精神力を無駄に消費しているのだろう、その表情には疲労の色が濃い。しかし、彼女は治療を止めない。簒奪者の娘のために、己の命を振り絞るようにして、杖を振るう。

「……ミス・オルレアン。お手伝いさせて下さい」

 私の後ろから、ミス・パッケリが声をかける。この言葉には、シャルロット様も「ん」と頷いた。

「では、失礼いたします」

 ミス・パッケリは、窓枠にかかっていたカーテンを手際よく引き裂き、細長い布を作った。次にイザベラの体を起こし、ドレスをはだけさせ、右肩の怪我を露出させる。白い肌の上に、二サントほどの焼け焦げのような傷口が見えた――そこに柔らかいガーゼをあて、その上から先程の裂いたカーテンを、包帯のように巻いていく。

「これで少しは、出血が抑えられるでしょう。ミス・オルレアン、この上から治癒をかけ続けて下さい。

 しかし、やはりできるだけ早く、本職の水メイジに見せるべきですね……傷を塞がないと、根本的な解決にはなりません」

「わ、私、呼んでくるわ! 船医さんを探して、連れてくればいいのよね!?」

 ストロベリー・ブロンドの少女――トリステインのミス・ヴァリエールが、手を上げて叫んだ。

「お願いできますか、ミス・ヴァリエール?

 医務室は、船尾側にあるはずです。わからなければ、適当な船員を探して聞けば、助けてくれるでしょう。

 あるいはそうですね、ヴァイオラ様を……マザー・コンキリエを見かけたら、事情を話して連れてきて下さい。あの方も、一応は水のラインメイジです、イザベラ様の怪我を治療することは、充分可能でしょう」

「わかったわ、任せて。――イザベラ、シャルロット、もう少しの辛抱だからね!」

 そう言い置くと、彼女はタクト型の杖を振って、あっという間に食堂を飛び出していった。見た目に反し、なかなか活発な娘であるらしい(イザベラやシャルロット様のことを呼び捨てにしていたのは、少し気になったが)。

「……それで? 結局、ここで何が起きたのかね?」

 手持ちぶさたになってしまった俺は、同じくできることがなくて立ち尽くしていた平民に声をかけた。ミス・ヴァリエールのボディーガードだという、ヒラガ・サイトという少年だ。剣士らしいが、さすがにこの食堂では帯剣していなかったので、ひどくたよりなさげに見える。

 彼は、声をかけられてようやく、俺の存在に気付いたみたいな反応をした。びくっと肩を震わせて、弾けるようにこちらを振り向いたかと思うと、ぱちぱちとまばたきをしたのである。

 そして、問われてから三秒ほど遅れて、「あ、ええと」という不要な前置きを挟んで、ようやく話し始めた。

「イザベラが――じゃない、イザベラ陛下が、狙撃されたんです。窓の外から」

 狙撃――。

 その言葉に反応して、俺は窓の方を見た。今は斜め下を向いている大きな窓のひとつに、蜘蛛の巣状のひび割れが生じている。高速の弾丸が、そこから侵入したことは疑いようがなかった。

「弾は、タバ……ミス・オルレアンの頬をかすめて、イザベラ陛下の肩に当たったみたいです。窓に向かってミス・オルレアンが前、陛下が後ろって感じに並んで浮いてたんですけど、まずミス・オルレアンの頬から血がしぶいて、そのあとで陛下が墜落しました。みんなで陛下に駆け寄ったら、あんなひどい傷ができてて……」

「そうか。ありがとう、よくわかった」

 俺はサイト少年の説明に満足し、頷いた。間違いない、これも『極紫』という奴のしわざだ。イザベラとシャルロット様のどちらを狙ったのかはわからないが――あるいは、その両方か――見えない狙撃手は、船を攻撃するだけでなく、機会さえ許せば乗客を直接狙うこともするのだ。

 うっ、という呻き声がしたので、振り向くと、イザベラが意識を取り戻したらしく、目を開いていた。

「う、ぐ……いて、痛ぇ……ちくしょう、何だってんだい……。

 ああ? どうしたのさシャルロット、ひどい顔しちゃってさ。テーブルの角にでもぶつけたのかい……? まったくドジだよね、あんたは」

 ひひひひ、と、引きつるように無理矢理な笑みを浮かべ、品のない言葉を吐くイザベラ。怪我をしてなお、虚勢を張るところなど、いかにもあのジョゼフの娘らしい。

 なぜシャルロット様は、こんな奴のことを涙を流してまで救おうとするのか。俺にはまったくその気持ちがわからない――だが、今シャルロット様が感じていることはわかる。明らかにほっとしていて、強張っていた表情が緩んだ。そして「よかった」と小さく呟き――くたくたと、その小さな体を、イザベラの腹の上に重ねるように倒れ込んだ。

「あ痛っ!? こ、こら! 怪我人の上に崩れ落ちるバカがいるかい! ……って、こいつカンペキ気絶してるし。ほんと何なのさ、あいたたた……」

「ヒーリングの使い過ぎで、精神力を消耗したのでしょう。しばらくそのまま、休ませて差し上げるべきかと。もちろん、陛下も安静になさっていて下さい。変に動くと、血がさらに出ますよ」

「んん? お前は……シザーリア。おや、そっちにはカステルモールもいるね。いったいいつの間に来たんだい? ……っつーか、あたしどれくらい気を失ってた? 床が二回傾いたところまでは、覚えてるんだけど」

「つい二、三分ほど前です。陛下がお眠りになっていたのは……それほど長い時間ではないかと」

 今は、三回目の傾きが――舳先側の上昇が、起こりかけて止まったところだ。それぞれの傾斜の間には、それぞれ数分ほどの間隙がある。

「ふぅん? まあいいや。で? あんたら、何のためにここに来た? 逃げろ、とでも言いにきたか? それとも、この事故の原因と対策について、報告しに来たのかい?」

「両方です、陛下。この船は現在、危険なテロリストによって、回避不可能な攻撃を受けています。最悪の場合、墜落の危険もございますので、速やかに救命ボートに移動し、脱出の準備をととのえて下さい」

 眉ひとつ動かさないミス・パッケリのその言葉に、イザベラの眉がいぶかしげにぴくんと動いた。

 そして、彼女の不機嫌そうな眼差しが、ぐるりと俺の方を向く。

「どういうことだい? カステルモール。あんたの口から報告しな」

「は、ははっ」

 そういわれても、すでに必要なことはほとんど、ミス・パッケリが短くまとめて言ってくれていた。

 俺が言えたのは、細かい情報による補足だけだ。第三風石室が暴走し、大破したということ。その原因が、外部からの魔法攻撃によるものらしいということ。見張り番が射殺されており、外部からの遠距離狙撃が行われているのはほぼ間違いないということ。襲撃者の正体は、『極紫』という二つ名を持つ、プロの暗殺者である可能性が高いということ――。

 持っている限りの情報を出し尽くす。その間、イザベラは黙って聞いていたが、その顔は苦痛による歪み以外にも、あからさまな不機嫌さで、どんどん険しくなっていった。

「……わかったよ。よく調べてくれたね」

 俺が報告を終えた時、イザベラはそう言い、ふう、と大きく息を吐いた。

 そして、窓の方に首を向ける――蜘蛛の巣状のひび割れが目立つ、大きな窓に。狙撃手の覗き窓となっていた、透明なガラス張りの枠に。

「御者座の方角だ」

 無傷の左腕で、彼女は窓の外を指差した。

「あたしとシャルロットは、三メイルくらいの高さのところで浮いてた。狙撃魔法の弾が入り込んできたのは、あのひび割れの真ん中だろ? そこと、あたしらの浮いてた位置をつなげば……その延長線は、まっすぐに御者座に向かうだろう。狙撃魔法とやらが、まっすぐ飛ぶという前提での話だが、敵はその方角にいる。わかるね?」

 青い目でじっと俺を睨んで、染み込ませるように説明するイザベラ。

 こちらが頷くと、「よし」と呟いて腕を下ろし、その手のひらをシャルロット様の頭に乗せた。

 ガリアン・ブルー。何もかも違うイザベラとシャルロット様の、唯一の共通点である青い髪。イザベラは、寝息を立てるシャルロット様の髪を、丁寧に、柔らかく撫でた。

「野郎、シャルロットの顔に怪我させやがった」

 ぽつりと、穏やかと言ってもいい調子で、イザベラは呟く。

「この可愛い顔に。女の子なんだよシャルロットはさぁ……傷跡とか残ったらどうするつもりなんだい、ええ……? ふざけてんのか……許されるこっちゃないよ、許すわけがないだろうがちくしょう……」

 呟きはだんだん、苛立ちを帯びて緊張したものに変わっていった。弓をきりきりと引き絞るように。

 そして、最後には大きく息を吸い込み――雷鳴もかくや、というほどの怒声を、俺に叩きつけてきた。

「命令だッ、カステルモール! これをやらかした『極紫』とかいうクソ野郎を、速やかにぶち殺してこいッ!」

「ッ……はっ! かしこまりました、女王陛下!」

 俺は反射的に姿勢を正し、最敬礼でそのオーダーを受け取った。脳天から爪先まで突き抜ける、痺れるような感動とともに。

 イザベラの――いや、イザベラ陛下の、その有無を言わせぬ命令こそが。殺意に満ちた表情こそが。俺が求め続けていた、答えそのものだった。

 それは、どう見ても演技や偽りではない、本気の怒りだった。しかも、自分が怪我をさせられたから怒っているのではない――彼女は、悲惨な自分の肩の傷については、ほとんど意識していないようだった――イザベラ・ド・ガリアの注目は、ほとんどすべて、シャルロット様のお顔の怪我に注がれていた。

 シャルロット様を傷つけられたことに対して、あそこまで感情を剥き出しにして怒ることができる。あそこまで醜く、殺意を溢れさせることができる。

 ――シャルロット様のことを内心で憎んでいて、果たしてできることだろうか?

 確信した。俺の今までの疑いは、すべて間違っていた。少なくともイザベラ陛下は、シャルロット様の味方だ。それも、最も近しい位置にいる、最大の支えなのだ。

 ふたりはお互いを大切に思い合っている。片や、大怪我をした従姉を、精神力を空っぽにするまで集中して治療するほどに。片や、自分の大怪我を放ったらかして、従妹の顔の小さな傷にわめき散らすほどに。

 ――ジョゼフが背後で何かを画策しているかどうかなんて、もうどうでもいい。信頼できる相手がそばにいる以上、シャルロット様は安心だ。俺はもう迷わなくていい――シャルロット様に、そしてシャルロット様のお味方であるイザベラ陛下に、心からの忠誠を誓おう。復讐も革命も成すことができないが、ヴァルハラのシャルル様も、きっとこのふたりの少女が作る新しいガリアを応援せよ、と言って下さるだろう――魔法が優秀だっただけでなく、思いやりもあるお方だったのだから。

 さて。イザベラ陛下に忠誠を誓うとなると、先程の命令にいきなり逆らうわけにはいかないな。

『極紫』を倒す――ああ、やってやるとも。新たな素晴らしい主を得た今の俺には、できないことなんてない。

 数十リーグ離れた場所から、ピンポイントに人を狙撃できるような弓兵。普通に考えるならば、まず太刀打ちできない相手だ。だが、イザベラ陛下はその位置を――いる可能性のある方向を突き止めて下さった。

 ならば、ひとつだけ打てる手がある。『極紫』に接近し、こちらからの攻撃を届かせる方法が、ひとつだけ。

「ミス・パッケリ。サイト君。陛下とシャルロット様のことを、よろしく頼む」

 俺は、無傷なふたりにそう言い置き、食堂を飛び出していった。

 フライの速度を最大限にまで高め、歪んだ廊下を突っ切り、ある場所へと向かう。

『極紫』が、船を完全に破壊し尽くすのが先か。それとも、俺が奴に杖を突きつけるのが先か。

 一分一秒を争う、時間との戦いが幕を開ける。

 




今回はここまでー。
次回、『バッソ・カステルモールの敗北』(仮タイトル)を楽しみに待つがいいのじゃ。


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バッソ・カステルモールの敗北/ルイズさんは元気ですか?/薔薇が咲いた/散った

「……ない」

 ランプの明かりに照らされた部屋の中で、もぞもぞと蠢く影がある。

 砂色の髪に、尖った長い耳を持つエルフの男――ビダーシャルであった。

「ここにもない……まったく、この部屋はものが多過ぎる……棚ひとつをあらためるのもひと苦労だ。……こちらのチェストはどうだろうか?」

 引き出しの中身を、丁寧により分けるように探りながら、ビダーシャルは呟く。

 六段あるチェストの一番上から、一段ずつ、開けては探り、閉め、開けては探り、閉めを繰り返す。それで成果が出なかったので、次は壁に据え付けの戸棚を開き、再び探し始める。

「この部屋にあるはずなのだが……あのようなもの、よそに持ち出す必要があるとも思えぬからな……なのになぜ見つからないのか……隠し金庫のようなところに入れてあるのか? だとしたら、まずその金庫を探し出さねばならないが……」

 長い耳を困った犬のように垂れさせて、彼は探し物を続ける。

 月の明るい夜。ヴェルサルテイル宮殿の静かな夜。

 ヴァイオラたちの乗る『スルスク』号が、アルビオン沖で襲撃されている夜の、平和なひと幕。

 

 

 ズドン、という腹に響く衝撃音とともに、またしても床が、壁が、天井が、激しく上下に揺さぶられる。

 直感的に、ふたつ目の風石室が破壊されたのだという考えが頭の中に浮かんだ(あとで知ったことだが、この想像は間違っていなかった。舳先側の第四風石室が爆発を起こし、機能を喪失したのがこの時だった)。敵の――『極紫』の攻撃は素早い。俺は充分に急いでいるつもりだったが、まだ余裕を持ち過ぎていると自分を叱る。傾いた廊下を矢のように駆け抜け、目的の場所へとたどり着く。

「よし……ちゃんといてくれたな、助かった……!」

 俺が駆け込んだのは、『スルスク』号の船内郵便局だ。ここは速達の風竜便も取り扱っているということを、乗船前に聞いていた。

 風竜便があるということは、当然そこには風竜が待機しているということになる。風竜といえば、ハルケギニア最速の生物として名高い。敵の戦術の要である超長距離攻撃をしのぐには、撃たれる前に高速で接近するしか方法はないだろう。

 期待通り、郵便局の裏には数部屋分の大きさの広いケージがあり、そこには五匹の元気そうな風竜がいた――ずっと続いている船の揺れに怯えているのか、それとも怒っているのか、かなり興奮しているようだったが、怪我をして飛べないとか、そういう問題を抱えている者はいないようだ。

「よしよし、安心しろお前たち。今すぐ、この居心地の悪い檻から出してやるからな。

 俺と一緒に外へ飛び立つんだ。そして、この船をメチャクチャにしている『極紫』とかいう殺し屋に、思いっきりやり返してやろうじゃないか!」

 ケージの格子扉を開けながら、俺は《偏在》のスペルを唱える。スクウェア・スペル、風のユビキタス――流れ行く風は偏在し、自分の分身を作り出す。

 渦巻く空気の流れが形を作り、数秒後、ケージの中には、本体を含めて五人のバッソ・カステルモールが立っていた。

「オーケイ諸君、行くとしよう。目指すは御者座の方角、全速力で羽ばたかせろ!」

『了解!』

 俺たち五人は、ひとり一匹ずつの風竜に騎乗し、次々に夜空へと飛び出していく。

 まず最初に、本体がケージ後部の竜発着台(ドラゴン・ポート)を開いて出発した。そのあとから、数秒おきに一騎ずつがついていく。先発の竜は、夜闇に紛れてあっという間に見えなくなるが、本体も偏在も、同じ自分だ。それぞれがどこにいるのか、感覚で察知できている。

 もちろん、視覚や聴覚もすべて共通だ。だから、四人目の偏在――最後に残った俺――が、いざ飛び立とうと竜の手綱を握った時、突然に横から声をかけられたことは、他の偏在や本体にも伝わっていた。

「ミスタ・カステルモール。あなたの本体を『極紫』の方に向かわせるのはお止め下さい」

 呼び掛けの主は、ミス・パッケリだった。いつの間についてきたのか、厳しさと不安とを含んだ眼差しで、俺を見上げている。

「ミス・パッケリ……なぜここに? きみには、イザベラ陛下たちのことを頼んだはずだが」

「そのことはミスタ・サイトに任せてきました。どちらにせよ、陛下たちへの応急処置は終わっていますので、私にできることはありません。

 あそこでただぼうっとしているよりは、あなた様に助言をさせて頂く方が有益だと判断しました。ミスタ、『極紫』相手に風竜で近付くなどという自殺行為はお止め下さい。あなた様がどれだけ速く飛んでも、敵は正確に急所を撃ち抜いてきますよ。時間稼ぎとしてならまだしも、あなた様の本体を前面に晒して攻撃を仕掛けるというのは、無謀です」

「……『極紫』の実力を、よく知っているのだな。きみの言い方はまるで、親しい友人か師匠を語るかのようだ」

 態度と表情は落ち着いているのに、どこか必死さを隠し切れていないミス・パッケリの様子に、俺はつい、くすりと笑ってしまう。

「残念だが、ミス・パッケリ。ここにいる私は偏在だ。本体はすでに、御者座に向かって一リーグ以上飛んでいる。今からでは、引き返す方がよっぽどいい的だろう。

 それに、どちらにせよ私は退くつもりはない。『極紫』は、ガリアの王権に対して弓を引いた。状況が不利だからと言って、敵に背を見せるのは、ガリアへの忠誠を捨てることを意味する。俺にとって、いや、騎士にとって、それは死よりも受け入れられないことだ」

「頑固だとか、融通がきかない、とか、よく言われませんか。ミスタ」

 理解できない、という感情を言葉の裏に潜めて、ミス・パッケリは言う。

 だが、それに対する俺の回答はひとつしかない――「すまない」だ。人間誰しも譲れないものはある、そうじゃないか?

「……わかりました。そこまで決意が固いのでしたら、私はもう止めません。その代わりと言ってはなんですが、これをどうぞ」

 彼女は諦め顔で言いながら、ポケットから何か、小さなものを取り出し、それを俺の手に握らせた。

 教典の文句が刺繍された、平たい小袋。ブリミル教徒ならわりと見慣れた、ささやかなアイテム。これは――。

「護符(タリズマン)でございます。マザー・コンキリエから頂いたものです。お持ちになれば、きっと始祖のご加護がございましょう」

「いいのか? きみにとって大事なものでは?」

「ええ、その通りです。なくしたりしたら、きっとお叱りを受けるでしょう。なので、必ず生きて帰って、私の手に返して下さい」

「ああ……なるほど、了解した。『極紫』を倒して、必ずこれを返しに来よう。約束だ」

 手のひらの中に握り込んだそれは、始祖のご加護が詰まっているからか、それともミス・パッケリの思いがこもっているからか、ほのかに暖かいようだった。

 ちっぽけで、しかしとても頼りがいのある護符を左胸のポケットに入れ、俺は改めて風竜の手綱を握る。

「では行ってくる。ミス・パッケリ、きみは今度こそ、イザベラ陛下たちのところへ戻っていてくれ。この状況では、まとまって行動するのが一番安全なはずだ」

「ええ、そうします。――あと、もうひとつだけ。できるだけ、一直線には飛ばないようにして下さい。狙撃魔法は、横や縦にジグザグに移動する標的には、照準を合わせ難いはずです」

「なるほど、了解した。ご助言、ありがとう」

 そのやり取りが最後だった。俺は風竜の腹を蹴って、今度こそ深い夜の中へ飛び出していく。

 背中に、ミス・パッケリの視線を感じながら。

 

 

 私は何のために生きているんだろう。

 ときどき、そう思うことがある。魔法の才能に目覚めてからも――たまに。

 

 

 ふんふんふふーん。ふふんふーん。

 ついつい出そうになる鼻歌を、なんとか頭の中だけで奏でるにとどめる。我もいい歳じゃものな、心がふわふわ華やいでおっても、表情はしっかり引き締めておかなければならぬ。

 表面上は緊迫しておる風を装って、間抜けなピンク髪のミス・ヴァリエールのあとをついていく――この世間知らずのアホお嬢様は、我の殺意になどとーんと気付いておらんようじゃ。ユカイユカイ。始祖ブリミルは己の後継者よりも、我にこそ微笑んでくれとるらしい。

 ミス・ヴァリエール――哀れなる運命の子、我らが時代に生まれ落ちた虚無の使い手。お前が我にとってどれだけ邪魔者か、まったく想像もつくまいな。

 お前の人格にはなんの恨みもない。じゃが、お前の持って生まれた才能が、他の誰も持たない虚無魔法の系統が、我にとってははなはだ不都合なのじゃ。

 始祖の再来であるお前は、トリステイン=ゲルマニアの期待通り、アルビオンのオリヴァー・クロムウェルを降伏させるじゃろう。戦争を終わらせた聖女として、大衆の賞賛を浴びるじゃろう。

 教皇も高く評価するはずじゃ。ハルケギニア中の聖職者が、お前にかしづく。全ブリミル教徒が、お前を始祖と同じくらい、あるいはそれにも増して熱狂的に崇拝し、現人神の座に担ぎ上げてくれるじゃろう。世界最高の名声が、権力が、お前の手の中に転がり込む。

 それは、それは――ミス・ヴァリエール――お前さえおらなんだら、我の手に入るかも知れんものなんじゃよ?

 我は、お前が手に入れるであろうものが欲しい。ゆえにじゃ、お前を生かしておくわけにはいかん。

 この『スルスク』号の大事故は、そんな思いを抱く我にとってひっじょーに都合がいい。ミス・ヴァリエールを事故に見せかけて殺すのに、これほど向いている環境が他にあろうか?

 凶器はそこら辺にいくらでもある。落ちて砕けたシャンデリアの破片、へし折れて手頃な角材のようになった窓枠、花を活けてあった金属製の花瓶。それらを持ち上げて、目の前にいるこいつの脳天をガツーン! それだけで、スッ転んで頭を打って死んだお間抜けさんの出来上がりじゃ。この激しく揺れる船内では、実に自然な死因よの。疑われることはまずあるまい、ふひひひひ。

「マザー、コンキリエ、早く! イザベラはすごくたくさん出血していたんです、急がないと危険かも知れません!」

「わかっております、わかっておりますとも、ミス・ヴァリエール」

 時おりこちらを振り返るピンクわかめに気付かれぬよう、我は近くに落ちていた木材を拾い上げる。もともとは階段の手すりかなんかであったのじゃろう、太さ四、五サントほどの、握りやすい棒材じゃ。長さも六十サント程度で、こん棒として振り回す上で、実に具合が良さそうであった。

「んで、イザベラ陛下はなにゆえ、そのような怪我をなさったのですかや? この揺れで倒れた家具にでもぶつかりましたかな?」

 凶器を後ろ手に隠しながら、我はじんわりじんわりとミス・ヴァリエールとの距離を詰めていく。その接近を不自然に思われないよう、てきとーに話しかけながら。

「それが……外から誰かに狙撃されたらしいんです。窓ガラスに蜘蛛の巣状の穴が開いて、イザベラの肩が真っ赤に血を噴いて。

 平民の使う銃のようなもので撃たれたって、サイトは言ってます。『ごるごさーてぃーんで全く同じエフェクトを見た』って騒いでたんですけど、どういう意味かわかりますか、マザー?」

「さあ……ちょっと我には想像がつきませぬなぁ……」

 でも、あのアホサイトのことじゃから、きっとどーでもいい下らないことなんじゃろうなぁ、とは思う。

 しかし、イザベラが撃たれたというのは、衝撃的な情報ではあるが、同時にこれ以上ない吉報でもあった。

 外部から攻撃が加えられたということは、この船に起きている異常も、突発的な事故ではなく、何者かの仕組んだテロ行為であると考えて間違いあるまい。ならば、もし我がこのピンクわかめを一撃で葬ることに失敗した場合――のちのち、ミス・ヴァリエールの遺体が調べられることになって、それが他殺だとバレてしまった場合でも――その罪を、どこのバカとも知れぬテロリスト野郎におっかぶせることができるっちゅーわけじゃ!

「しかし、銃で撃たれたというのはまずいですな。あれの作る傷口は、かなり大きくてぐちゃぐちゃした感じになりますぞ。血がたっぷり出るのも仕方のないことです」

「ええ……私には、どうすることもできない怪我でした。シャルロットがヒーリングをかけて、その上でマザーのお付きのメイドさんが止血をなさってたので、少しは持ちこたえていると思うのですが」

「ほほう? ウチの者がそのような役に立ちましたか」

「はい。見事な手際でした……私なんか、ただ見ているだけだったのに」

「まあ、貴族のお嬢様に、しかも水メイジでもない人に、そのような場合の手際を求めるわけにもいきますまい」

「でも、王家に仕え、人々を守るのが、貴族のつとめです。私は貴族なのに……自分の国の人でないとはいえ、王族の人が襲われるのを目の前で看過したばかりでなく、怪我をして苦しんでるイザベラに、何もしてあげられなかった……」

 心なしか、肩を落とすミス・ヴァリエール。顔もうつむき加減で、その視線はこちらから完全に外れておる。

 こりゃ好機到来じゃな、と悟った我は、隠していた木材を振り上げながら、一気にミス・ヴァリエールの背中に突進していく。

「わたし……もうゼロじゃないはずなのに。無能で役立たずのダメな子じゃ、なくなった、はずなのに。

 魔法もちゃんと使えるようになって。それどころか、他の誰にも使えない、すごい系統の担い手になれた、はずなのに。血統に相応しい義務を果たせる、立派な貴族になれると、思ってたのに。

 大事なところで、なにもできない。怪我した友達を癒してあげることもできない。友達を傷つけた敵を、やっつけることもできない。すごいはずの力が、何の役にも立ってない。

 アルビオンに渡ってからの交渉だって、実際に話し合うのはマザリーニ枢機卿で、私はただお神輿としてついていくだけ。何かすることを望まれてなんかない。

 私は……結局、何も変われないのかしら。持ち物が増えただけで、心は満たされないゼロのままなのかしら。

 マザー、私は……どうやったら、みんなの役に立てる、立派な貴族になれるんでしょうか……」

 ぶつぶつねちねちと、陰気な独り語りで盛り上がっておるミス・ヴァリエールの後頭部を狙って。

 我は渾身の勢いで、木片を振り下ろした。

「でりゃあああぁぁぁ――ッ!」

「あぼぁ!?」

 べちこーん、という、かなり派手な音とともに。殺意のこもった一撃は、ミス・ヴァリエールの左肩に着弾した。

「い、痛……いったあぁぁ――ッ!? ま、マザー? い、いきなり何をするんですか!?」

 涙目でこちらを振り返るミス・ヴァリエール。そのツラには、怒りと混乱が混ぜこぜになって浮かんでおる。そして、彼女の抗議の声ときたら、ずいぶんと元気じゃ。

 致命傷どころか重傷ですらない。ちっ。完全にやりそこなった。なんだってこのバカピンク、我が凶器を振り下ろしたその瞬間にこっちを向きやがるのじゃ。おかげで目測が狂ったではないか。

 ふん、まあよい。一発で即死させてやるというのが、面倒がなくてベストではあったが、そうでなくても特に問題はない。

 そう。何度も何度もぶっ叩いて、痛みをその体に刻み込んでやるというのも、けっして悪いやり方ではないのじゃ。地位と名誉を横取りされそうになった我の、鬱憤を晴らす効果は大きかろう。

 高貴で神聖なる我こそが、アルビオンにおいて聖女と呼ばれるようになるべきなのじゃ。始祖に選ばれただけの、意識の低い愚か者には、身の程というものを思い知らせてやらねばなるまい! 罵倒と苦痛でもって、な!

「ミス・ヴァリエール。誰もができて当たり前のことも満足にできぬ、能無しのミス・ヴァリエールよ」

 低く抑えた、悪意たっぷりの我の言葉に、ピンクワカメの表情が凍りつく。

「誰も救えぬ役立たずのミス・ヴァリエール。誇れるものを持たない卑小なミス・ヴァリエール。悩み悲しみ、嘆くばかりで前進せぬ、根暗のミス・ヴァリエール。我は貴様のような奴が大嫌いじゃ」

「なっ、な、なななななっ」

 おうおう、こいつ、どんどん混乱が深まっておるようじゃの。まともに言葉も返せぬようになりおった。

 じゃが、我の求める反応はそんなものではないのじゃよ。恐怖と恥辱にまみれて、虚無の使い手に生まれたことを後悔しながら死んでいくがいいわ。

「はっきり言ってくれよう。我は、貴様のような軟弱者が始祖の再来として讃えられることが不快じゃ。

 誰もに恐れられ、誰もに尊敬され、誰も代わりになれない。虚無の使い手とはそういうものじゃ。生まれながらにして価値があり、ただそこにおるだけで意味がある。

 そんな素晴らしき属性を得た特別な人間が……フン! このようなウジ虫以下の精神しか持たぬクソガキとはのう! どうやら虚無の属性を受け継ぐ条件は、始祖が適切な人物を選ぶとかではなく、あくまで血統のもたらす偶然によるようじゃな。神聖なる意志がそこに働いとるようなら、こんな奴は選ばぬわ」

「なっ……なんで……何で、そんなひどいこと、言うのよぉ……」

 ぽろり、ぽろりと。大粒の涙が、ミス・ヴァリエールのまなじりから零れた。

 ちと意外じゃったな。サイトのバカへの態度から、何事にも怒りが先に来るタイプかと思うとったんじゃが、こちらの想像以上にモロい精神の持ち主であるらしい。これからはプディングメンタルヴァリエールさんと呼んでくれよう。

 そして、ミス・ヴァリエールの心が目に見えて折れそうになっておるという事実は、我にとって実に都合がいい。精神的に弱っている人間を上から目線でいたぶり、叩きのめす! これほど楽で愉快なことは他にあるまい、うへへへへ!

「なぜ、じゃと? 間抜けな質問をするでない、嫌いな奴に嫌いと言うことは、当たり前のことじゃろうが。

 我は能無しが好かん。そして貴様は能無しじゃ。ゆえに嫌う、非常に単純で矛盾のない理屈じゃろう?

 いや、それだけではないな。単なる能無しなら、我もここまで激しく嫌いはせん。

 本当の意味で能力を持たない者であるのなら、何もできなくても仕方ない。草木が海を泳げぬことを、無能と呼ぶ者はおらぬしな」

 たとえば、貧乏人や浮浪者ども。我は奴らを役立たずのクズじゃと思うし、目の前にいれば、さっさといなくなれと思う。しかし、この手で積極的に虐殺したいとまでは思わぬ。

 ぶっちゃけ、どーでもええもんな。見苦しくて汚ならしいだけで害はないし。他の親切な人が片付けてくれれば、そりゃーさっぱりするが、我自ら労力を割いて駆除するとか、めんどくて嫌じゃ。服に下賎な血がついたりしたら、気分も急降下じゃ。できれば近付きたくさえない。

「じゃが、ミス・ヴァリエール。貴様の場合はどうじゃろう?

 あえて感情を無視して評価させてもらうがな。貴様自身はどー見ても無能ではない。血筋は王家にも連なる申し分のないもので、容貌も実に美しい。マナーもしっかりしておるから、社交界に出しても恥はかくまい。魔法学院で最高級の教育を受けとるのであれば、学も一定の基準以上にはあるのじゃろう。才色兼備の、とても素晴らしいお嬢さんじゃ。我が、お嫁さん探しをしとる独身の男の子じゃったとしたら、まず放っておかんじゃろな」

「へ? ……え、あれ? え? ……え?」

 二度、三度と、起き抜けのように目を瞬かせるミス・ヴァリエール。

「しかも魔法の才能ときたら、偉大なる始祖を継ぐ虚無の属性なんじゃろ? 天は人に二物を与えずと言うが、貴様はいくつイイものを持つ気じゃ。英雄譚の主人公か何かか。イーヴァルディの勇者でもここまで贅沢しとらんぞ。シャルロットが頬っぺた膨らませて石を投げるわ」

「えっと、ほ、褒められてるの? けなされてるの? ど、どっち?」

「けなしとるに決まっとろうが、この間抜け。ええか、何が言いたいかってな、どんなにええものをたくさん持っておっても、それを扱う心がろくでもなかったら、ぜーんぶ台無しじゃっちゅーことよ。

 人間は自分の身の程を知って、それに相応しい心構えをせねばならぬ。王になるべき人間には王としての、料理人になるべき人間には料理人としての適性があり、それぞれ違った心構えがある。卑屈で責任感のない人間は人の上に立つべきではないし、多くの他人を従えられるような奴は人の下につくべきではない。自分の領分を知り、自分の仕事をきちんとこなす者は、貴賤問わず高い評価を得られよう。

 ひるがえって、貴様はどうじゃ、ミス・ヴァリエール?

 地位にも魔法の才能にも恵まれており、人間的にも多くの点で平均的な水準をぶっちぎっておる。それでいて、自分は役立たずで何もできないじゃと? なんじゃそれ。イヤミか? イヤミなんか? それとも自分を客観的に見ることもできんノータリンなんか? すでにある才能を生かすこともできず、ないものねだりばかりをして、ぶちぶち文句ばかり垂れる……なんとムカつく、なんと恥知らずな、なんと傲慢な、大馬鹿者よ」

「えっ……あっ、う……」

 我の言葉を聞くミス・ヴァリエールは、水揚げされた魚のように口をパクパクさせておる。

 よほど衝撃なのじゃろう。我のような、美しく上品で理知的な感じの聖職者に、むき出しの悪意を向けられるというのは。彼女のように真面目そうな小娘には、生まれて初めてのことじゃろうな。

 品のないゴロツキや、教養のないクソガキに罵られるのとはわけが違う。普段優しい人間や、大人しく分別のある人間に責められる方が、人は心を痛める。ギャップっつーのは大切ぞ。人に取り入る時も、叩きのめす時も効果的なんじゃから。

 今回我は、我の栄光を奪おうとしておるこのミス・ヴァリエールを、徹底的にいたぶり尽くすつもりでおる。肉体的な拷問にはなんの興味もないが、こいつの心はズタズタに引き裂いてから殺してくれよう。この世に生まれてきたことを、ヴァルハラに行ってからじっくり悔やむがいいのじゃ。

「……でっ、でもっ! でも、身分が高くても、虚無の魔法が使えても、イザベラになにもしてあげられなかった! シャルロットみたいに治癒の魔法をかけてあげることも、メイドさんみたいに応急処置をしてあげることもできなかった!

 勉強ができても、すごい威力の魔法が撃てても、大事な時に役に立たないんじゃ意味がないの! 私は……私はっ、みんなに認めてもらえる人間になりたい! 立派な貴族になりたい! 特別な人間になりたいんじゃない、他の誰にもできないことができる人間になりたいんじゃない、みんなの上に立ってふんぞり返りたいんじゃない! 困ってる仲間たちを助けたい、仲間たちの輪に入って馴染んでいきたい、父様や母様や、ちい姉様や、あとついでにエレ姉様にも褒めてもらいたい! そのためのありふれた才能が欲しかっただけなの! それが傲慢だって言うの!?」

「傲慢じゃろうが。自分の与えられた役割に、文句を言うな」

 涙ながらに噛みついてきたガキの言葉を、我はひと言で叩き潰す。

 ああ、もう。必死の訴えを蹴散らされたミス・ヴァリエールの、絶望的な表情ときたら! な、なんっつーか、ゾクゾクするのう。イケナイ悦びを見い出してしまいそうじゃ。イジメがいがあり過ぎぬかコイツ。

「ええか。貴様にそんな未来は来ない。ルイズ・フランソワーズという少女は、永遠にその辺の有象無象どもの集まりに馴染むことはできぬ。

 虚無の才能を持って生まれた以上、それは必然じゃ。貴様は人の上に立ち、人を導き、王者としてふんぞり返らなければならない運命にある。誰かの役に立ちたいだとか、誰かと仲良くなりたいだとか、そんなのは叶わぬ夢じゃ。一般大衆に紛れて穏やかに暮らしたいっちゅーなら、一度死ぬしかないわ」

 だから心優しい我が殺してやろうというのに、貴様が勝手に避けるから、変に苦しむことになるんじゃよ?

「役割を直視せよ、ミス・ヴァリエール。虚無として、自分の求められた仕事をしろ。それを果たさずして、貴様が認められることなどない」

 役割を放棄するならそれでもいい。というかそれがいい。何もできないまま、役立たずとして死ね。

「誰かが困っておる時に、自分は何もできないと嘆くのは愚かじゃ。何かをするのは、その瞬間に何かをすることのできる能力を持った者だけでいい。

 そして、貴様はその者たちを羨んだりする必要はない。その者たちが、他のあらゆる場面で役に立てる人材だなどということはあり得んからじゃ。そやつらは、貴様の虚無魔法が必要な瞬間に、何もできない。万事に対応できる人間など、この世にはおらぬ。肝心な時に何もできない己を恥じるのは、貴様ひとりの特権ではない。

 ……答えよ、ミス・ヴァリエール。身についた虚無の才能を厭うか」

「えっ……そ、それは」

「人を癒せる水魔法の才が良かったか。農耕の役に立つ土魔法の才が良かったか。戦場において取り回しのいい風や、火の魔法が使いたかったか。どの才能でもできることとできんことがあるが、それはわかっておるのか。

 オリヴァー・クロムウェルを訪ねて、虚無魔法を見せつけて、奴を降伏させる仕事は不満か。アルビオンに平和をもたらすことに誇りが持てぬか。多くの人が貴様を称え、貴様に感謝するじゃろうに、それは認められることには含まれぬか」

「そ、……それ、は」

「正直な気持ちを言うぞ、ミス・ヴァリエール。我は貴様が妬ましい。貴様の立場に取って変わりたい。

 じゃが、それはできない。我は虚無ではないのでな。誰に聞いたって、アルビオンに降臨する聖女の役には、貴様の方が適していると言うじゃろうよ。他ならぬ我自身も、そう思っておる。

 じゃから……じゃからこそ! ムカつく! そんな立派な役割をもらっときながら、その体たらくはなんじゃーっ!」

 再び、我は木材を振り上げ。「じゃーっ」の叫びとともに、ミス・ヴァリエールに突進していった。

「貴様のような! 身の程知らずの贅沢三昧の不平不満言いまくりのワガママ女は! ヴァルハラにおわす始祖のもとへ出向いて、ゴメンナサイしてくるがいいわーっ!」

「わ、わわっ、きゃ――――っ!?」

 我の剣幕に恐れをなしたか、ミス・ヴァリエールは空中で器用にきびすを返し、一目散に逃げ出した。

 その後ろ姿を追いかける我。逃がすものか。いっぱい悪口を言って、奴の心を折った。次は物理的に、奴の頭蓋骨を折ってやる番じゃ。

 片手落ちはよくない。我が攻撃の前に、完膚なきまでに敗北せよ、ミス・ヴァリエール!

 

 

 私は――ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは、逃げていた。

 異様に傾いだ船の中を、慣れないフライの魔法を駆使して、上へ下へと飛び回って。追いかけてくる小さな影から、逃げ続けていた。

 なんで、どうして、こんなことになったのか。

 ちらりと後ろを振り返って、追跡者の姿を確かめる。まだ、諦めずに追ってくる。彼我の距離は、十メイルもない。近過ぎて、表情までよくわかる――殺意で耳まで赤く染めた、マザー・コンキリエの悪鬼のような形相。

 本当に、なんで? なんで私、マザーに追われてるの?

 私がしたことは、ただ単に愚痴を言っただけ。

 怪我をしたイザベラに、何もしてあげられなかった。他の人たちが、何かしら役割を見つけて動いていた時に、私はただ突っ立っていることしかできなかった。

 そのことをふがいなく思うと、同じように何の役にも立っていない自分のいる場面が、連鎖的に思い出されてきてしまった。

 フーケの事件の時。

 アルビオンで、ワルドに裏切られた時。

 タルブ村での空中戦の時。

 私は大きな事件にいくつも関わってきたけれど、どの場合でも、ただそこにいただけのような気がする。

 最初の二つの事件では、サイトがいてくれなかったら、きっと私は死んでいた。

 三つめの事件では、私は虚無の魔法に目覚め、敵を全滅させる最後の一撃を撃ち込んだ。これは、大きな役割だったかも知れない――でも、トリステイン艦隊とゲルマニア艦隊は、アルビオン艦隊を相手に互角以上に戦えていたのだ。私がタルブに行かなくても、結局トリステインは勝っていたのかも知れない――私は軍人さんたちが一生懸命働いているところに、横からひょいと顔を出して、手柄をさらっていっただけなのかも知れない。

 そうでないと、誰に言えるだろう?

 惚れ薬事件の時は? 私は薬の効き目に抗えず、みんなに迷惑をかけてしまった。

 アンリエッタ姫殿下が、生ける屍と化したウェールズ皇太子に襲われた時は? 何でか知らないけど、姫様にお部屋に入れてもらえず、閉め出されて鍵までかけられた。

 ジョゼフ王に監禁されたシャルロットを助けに行った時は? 私たちがエルフ相手にまごまごしてる間に、イザベラがシャルロットを救出してた。

 ――思い返せば思い返すほど、気持ちが沈む。本気で、疑いようがなく、誇張も偽りもなく、私、何の役にも立ってない。

 虚無魔法に目覚める前と、何も変わらない。いえ、魔法が使えなかった頃は、「魔法さえ使えるようになれば、きっと立派な活躍ができるようになる」という希望があったから、まだよかった。

 今はもう、それすらない。魔法を手にしても、私は相変わらず、活躍の機会ゼロのルイズだ。

 そんな私のことが、決定的に嫌になったのは――ついさっき。

 イザベラが撃たれて、大怪我をしたのを見てしまった時。

 シャルロットが一生懸命、治癒の魔法をかけて。マザーのメイドさんが、慣れた様子で応急処置を施して。

 私は、それを何もできずに、ただ見ていた。

(わたし、どうして、ここにいるんだろう)

(わたしの虚無は、いったい何のためにあるの)

(始祖ブリミルはわたしに、何を期待してるの。なんでわたしを、選んだの)

(何もできない魔法。何もできないわたし)

(ただその肩書きだけを、使われるだけなの?)

(名前と地位と属性だけが必要で。わたし自身はいらない子?)

 そんな、鬱屈した考えばかりが、頭の中を駆け巡る。

 これ以上独りで悩んでたら、死にたくなっちゃうような気がした。

 だから、誰かに聞いて欲しかった。この胸の内を。

 慰めてもらえるかも、とか、何かいい解決策を授けてもらえるかも、とか、そんな都合のいい期待をしてたわけじゃなかった。人に話せば、それだけでモヤモヤが少しは晴れるかな、と思っただけ。

 ちょうどそんな気分になった時。そばにいたのは、マザー・コンキリエだった。

 ブリミル教会の中でも高い地位におられる、枢機卿様。いろんな人の悩みを聞いてきたであろう、尊き聖職者。愚痴を聞いてもらうには、一番適した相手のように思えた。

 それがまさか。こんな苛烈な反応をされるなんて、思ってもみなかった。

「きゃーっ! きゃーっ! 待って、やめて、武器を収めて下さい、マザー! は、話し合いましょう! ね! ねっ!?」

「今さらできるかあぁ――ッ! 素直に我が懲罰の一撃を受けるがいいわ!」

 折れた木材らしきものを振り回しながら、こちらを睨むマザー。聞く耳さえ持ってもらえない。

 何が悪かったのか? ――心当たりが、ないわけじゃない。この荒んだ追いかけっこが始まる前に、彼女は丁寧過ぎるくらいに言葉を使って、私を嫌い、攻撃する理由を、切々と語ってくれた。

 マザー・コンキリエは、私が悩み、苦しんでいることそのものに、憤っている。

 私が、私のことを、役に立たないゼロだと思っていることを、嘆いている。

 よくよく考えてみれば、マザーの激怒は当然の反応だったのかも知れない。

 彼女は、敬虔なブリミル教徒だ。若くして枢機卿にまで上り詰めるほどのお方なのだから、私なんかより、よほど真剣に始祖を崇め、深い信仰をもって仕えてきたのだろう。

 そんな彼女の前に、特に深い考えも持たずに現れた、私。

 虚無の魔法を扱う――ブリミル教にとっては、始祖の再来とでも言うべき、私。

 そんな私が、自分を、虚無を、役立たず扱いしている。

 これは、始祖ブリミルを冒涜しているのと、同じ意味を持つのでは?

 ただの不信心者が、始祖を貶すのとはわけが違う。私は(自分自身にその気がなくても)、始祖の再来なのだ。私の言葉は、始祖自身の言葉のように、強い力を持つことになる。

 ああ、私の馬鹿。

 マザーにとっては――始祖同様に崇めなければならない相手から――「始祖は何もできない役立たずだ。お前の信仰も、まったく意味がない」と言われたようなものなんだ。

 それは怒る。すごく怒る。

 仮に私の立場に置き換えたとして、たとえば姫様が「王族も貴族も国もどうでもいいわ。私は恋に生きるひとりの女の子になります!」とか言い出したら、きっと怒る。ぶん殴りたくなるし、たぶんぶん殴る。

 マザーに、ごめんなさいって言って謝りたい。

 大切なものを、足蹴にするようなことをした私を、許して欲しい。

 でもきっと、彼女は受け入れてくれないだろう。私の心構えが変わらない限り、うわべだけの謝罪なんて意味を持たない。

 私が、自分に誇りを持てるようにならなければ。

 自分はできる子だって、ちゃんと何かの役に立てる人間だって、胸を張れるようにならなければ。

 虚無の使い手という肩書きに、始祖の再来という肩書きに、振り回されないようにならなければ。むしろ、その肩書きに相応しい人間にならなければ。

 そうでなければ、マザーはきっと許してくれない。

(でも、でも……そのために、私はどうしたらいいの?)

 今の私には、何もできない。

 いや、やるべきことが特にない、というべきだ。

 何かをしなければ。何か立派なことをやり遂げなくては、自信なんてつけられない。

(始祖ブリミル様。私を、どうか助けて下さい)

(人にできて自分にできないことを、もう羨んだりなんかしません。自分を、あなたのお力を、役立たずなんて蔑んだりしません)

(ですから――私に、果たすべき役割をお与え下さい)

(つらい仕事でも。危険な仕事でも、文句は言いません。あなたの後継者として自覚を持つために、使命を下さい)

 無言の祈り。

 飛びながら、逃げながらの、無様な祈り。

 けれども始祖は、ちゃんとそれを聞き届けてくれた。

「…………えっ?」

 突然、私の手もとが、美しく輝き始める。

 水のルビーの指輪が。新たな目覚めを告げるように、光を溢れさせている。

 この現象には覚えがある。タルブの上空で、初めて虚無の魔法が使えるようになった時。王宮で、姫様の寝室の前で、施錠された扉をぶち破るために、新しい呪文を身につけた時。

 同じ光を、私はこの指輪に見た。

 慌てて、ポケットから始祖の祈祷書を取り出す。そこにも、神聖な輝きが宿っていた。

 ページをめくる。今まで空白でしかなかったところに、新たに文字が浮かび上がっていた。

 虚無の呪文。

 今の私に、必要な呪文。

 私だけにしかできない役割が、そこにあった――。

(与えられた役割に文句を言うなと、マザーは仰った)

 飛びながら、私はその呪文を詠唱する。

(どんな時にでも役に立つことのできる人間はいない、とも。自分にできないことは、それができる人に任せておけ、とも)

(つまり……役割が与えられた時は。できることが見つかった時は、きちんとそれをこなせってことよね……)

(私、やってみせます。マザー!)

 虚無の呪文を唱え終えて。発動準備を整えた私は、フライの呪文を解除する。

 フライを使いながら、別の魔法を使うことはできないからだ。

 全身を持ち上げていた力が消え去り、私は床に降り立つ。

「ふはははははー! ようやく観念したかピンクワカメ! 潔くて良いぞ! 褒美にその頭蓋骨をキレイに陥没させてや――」

 マザーの声が近付く。でも、それをちゃんと聞いている時間はない。

 杖を振り、呪文を叫ぶ。新たに手にした、私の力。

「《イリュージョン》」

 ――その効果は劇的だった。

「どえ? え? え? え? な、ななな、なんぞこれー!?」

 発動した魔法を間近で見たマザーは、ただ混乱している。

 私も、その不思議な光景に、しばらく固まってしまった。

 そこら中に溢れ返る、無数の私。

 百一匹はいそうな、大集団のルイズ・フランソワーズが、わちゃわちゃと駆け回っている。

「ど、どどど、どっから涌いたんじゃこいつら!? 風の精霊の悪戯か何かか!?

 ああ、いかん! どれが本物のヴァリエールかわからんくなったぞ!? こいつか? いや、こっちか!?」

 わーわーと賑やかに、あっちへこっちへ散らばっていく偽の私。それらはすべて、実態のない幻影らしかった。マザー・コンキリエの振り回す木切れが頭や体に当たっても、煙のようにすり抜けて、ダメージを受けている様子がない。

「これが……新しい虚無魔法、《イリュージョン》……」

 幻を作り出す力。

 またずいぶんと、使い勝手の悪そうな魔法だ。

 すでに習得した《エクスプロージョン》や《ディスペル・マジック》と同じで、日常で役立たせることのできるものではなさそうだ。もしかして、虚無魔法ってひとつ残らず、こんなニッチな性能のものばかりなんだろうか。

 でも――使う。

 デルフリンガーが言ってた。虚無の呪文は、使い手がその呪文を必要としている時に、祈祷書に浮かび上がってくると。

 今、この魔法に目覚めたということは。今、この魔法が役に立つということのはずだ。

「ええい、逃げるなミス・ヴァリエール! こうなったらもう、片っ端から全部ぶっ叩いてくれるわーコンチクショー!」

 どこへともなく逃げていく私の幻影を追って、マザー・コンキリエは遠ざかっていく。本物の私をほったらかして。

 その小さな背中を見送りながら、私は呟く。

「ありがとう、マザー……私、頑張るから」

 私は立ち上がり、食堂へと駆けた。

 虚無のメイジ、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。

 私の魔法で、みんなを救ってみせる!

 

 

「あ、おかえりルイズ! 船医さんは? 見つからなかったのか?」

 食堂に戻った私を迎えてくれたのは、サイトのそんな言葉だった。

 わ、わ、わ、忘れてたーっ!

 

 

 ――えーと、とりあえず。

 イザベラの怪我はなんとかなり、私のポカは無事うやむやになりました。

 船医さんが甲板の救命ボートに避難する途中で、偶然食堂のそばを通りかかったので、声をかけて治療をお願いしたのです。

 本当によかった。きっと、天にまします始祖のお計らいね。

 そしてごめんなさいイザベラ。でも、仕方なかったの。マザーの狂乱と、新しい呪文の覚醒っていう衝撃的な出来事が重なったせいで、最初に何をしようとしてたのか、するっと頭から抜けちゃってたの。きっと誰でも、私の立場になったら同じようなミスをしてたと思う!

 ――はい、自分でも言ってて言いわけにしかなってないなーって気はしてます。ごめんなさい。

 まあ、イザベラには、あとで落ち着いてからちゃんと謝るとして。

「サイト。あんたちょっと、こっち来て」

「ん? 何だよルイズ。イザベラの怪我も治ったし、早くみんなで避難しようぜ」

「その前に、ちょっとやることがあるの。イザベラとシャルロットには、先に行ってもらって」

「……何か、あったのか?」

 ちら、と、イザベラたちの方を確かめながら、サイトは聞いてくる。

 気持ちはわかる。イザベラは大怪我を治療してもらったばかりで、まだ全然本調子じゃない。シャルロットも、応急処置として不得意なヒーリングを使い過ぎて、体力をかなり消耗してる。

 船医さんや船員さんたちに頼んで、救命ボートまで連れていってもらうとしても、心配してしまうのは仕方のないことだ。

「いや、イザベラたちもだけどさ。お前も危ないだろ。ふたりを先に行かせるってことは、このグラグラする船の中に留まる気なんだろ? いつ沈むか、わかんないってのに」

「わかってる。でも、私、やれることを見つけちゃったの。

 私にしかできない仕事。うまくいけば、『スルスク』号を救うことができるかも知れない。ううん、そこまでできなくても、テロリストに一矢報いることができるかも知れない。

 とにかく、試してみたいの。無理をするつもりはないわ。ほんの少し試してみて、危なくなりそうならすぐに避難する。

 だから……だから。その、ほんの少しの間。私を守って。お願い」

 サイトの目を正面から見つめて、頼み込む。

 彼は必ずしも、これに頷かなくてもいい。お互い身の安全を考えるなら、余計なことをせずに避難するのが最善だろうし。むしろ、私を引っ張って、救命ボートに連れていく権利すらあると思う。

 これは私のわがまま。何かしたいという、個人的な望みに過ぎない。

 サイトに一緒にいて欲しいのも――わがまま。

 新しい力を手に入れても、恐ろしい敵に立ち向かうことへの恐怖は、克服できるものじゃない。

 だから、支えてもらいたい。

 ひとりで何でもできる人間はいない。無理な時、誰かに頼ることは、恥じゃない。

 サイトなら、頼れる。

 守って、欲しい。まだまだ弱い、私の心を。

 寄り添っていて、欲しい。それだけで私、頑張れるから。

「……あー。イザベラ、悪いんだけど、さ」

 サイトはわしわしと頭を掻きながら、ばつの悪そうな視線を、イザベラに投げた。

「みなまで言わなくていいよ、サイト。あたしらなら、別に平気なんだからさ」

 即席の担架に乗せられて、船員さんたちに運ばれながら、イザベラが言った。

「ああ、ああ、もちろん先に避難してるとも。あんたらに付き合う気は微塵もないしね……こっちは馬に蹴られる趣味はないんだから。

 言うまでもないことだけど、あとからちゃんと追いついてきなよ? あんたらに死なれちゃ、ガリア王家の面目丸潰れだし、あのマザリーニ枢機卿にどんだけ怒られるか知れやしない。面倒は嫌いだし、人から叱られるのはもっと嫌いなんだよ。せいぜい、あたしに不快な思いをさせないように立ち回るんだね」

「ありがとな。助かる」

「ありがと……イザベラ」

 ふん、と鼻を鳴らしながら運ばれていくイザベラを、サイトと共に見送る。シャルロットも、船員さんに背負われて従姉のあとを追った。

 食堂に残ったのは、私とサイトだけ。

 人が減ると、一気に場は静かになった。

「……で、結局、何があったんだよ。お前がそんな風にしおらしくしてるの、俺、たぶん初めて見るぞ。何かできるようになったとか言ってたけど、それが関係してんのか?」

「そう……うん、それもあるわ。でも、それよりも……久しぶりにひどく、怒られちゃって。ちょっとしっかりしなくちゃ、って思ったの」

 私は先ほどの、マザー・コンキリエとのやり取りを、サイトに話した。

 彼はとてもびっくりしてたけど、最後にはなんだか納得したらしくて、腕組みをしてうんうん頷いてた。「俺にはわかるぜ」的な態度が、ちょっとイラッとする。似合わない。

「あー、なるほど……思いっきり喝を入れられたってわけかー……。すっげえなぁ、コンキリエさん……あんなちっこいのに、大人なんだなぁ……」

「カツ? って、何よ」

「なんていうかな。弱ってる奴や迷ってる奴の根性を、気迫で叩き直す感じ?

 俺の故郷にもあったんだよ。強くて活力に溢れてる人のところに、悩みのある人が集ってさ。思いっきりビンタしてもらうことで、強い人のパワーを注入してもらう、みたいな儀式が」

「な、何それ……あんたの故郷って、やっぱりかなり野蛮なんじゃ……?

 う、ううん、でも、よく考えたら、確かにマザーのお説教と暴力も、そんな感じがしたわ。後ろから殴られた時だって、酷い怪我をしないよう、肩を叩かれたし。もし本当に殺す気だったら、頭を真上からやられてたわよね……」

「だろーな。お前、コンキリエさんがめちゃくちゃ怒ってたって言ってたけど、よく考えたらそれ、本気の怒りじゃないってことがわかるだろ?

 あくまであの人、お前を励ましたかっただけだと思うぜ。すごく手荒くはあるけどさ、それくらいしないと、根本的なところが変わらないって考えたんじゃないかな。生ぬるい慰めが、何の助けにもならない時ってあるし……お前って、特に同情とか苦手なタイプだろ?」

「……………………」

 ふぅっ、と、大きなため息をつく。

 やっぱり、マザーはすごい人だ。厳しいけど、優しい。正しいけど、近寄りがたい。

 方向性は違うけど、私のお母様に通じるところがある。とってもとっても怖いけれど――きっと、嫌いにはなれない。

「さて。それじゃ……注入されたパワーとやらで、さっそくひと仕事しようかしら。

 イザベラにも、すぐに避難するって言っちゃったし、ぱぱっと終わらせなきゃね。サイト? 私が魔法を使ってる間、周りの警戒をよろしくね」

「おう。任せときな」

 サイトと頷き合って。私は、先ほど覚えたばかりの呪文を、再び紡ぎ始める。

 大きな窓の方を向いて。ガラス一枚挟んだ向こう側には、星の海。

 イザベラを狙撃し、『スルスク』号を沈没させようとしている、謎のテロリストが潜んでいる大空があった。

 敵が――悪意ある弾丸を、こちらに撃ち込んでくるというのなら。

 その目で狙いを定め、まっすぐに攻撃してきているというのなら。

 私の力は、確実な防壁となる。

「――《イリュージョン》!」

 静寂の空に。私の声は遠く、染み込むように響いた。

 

 

 五匹の風竜は羽ばたく。夜闇を切り裂くように。空気を打ち据え、後方に投げ放つように。

 俺が『スルスク』号を飛び立って、はや数分。十リーグ近い距離を飛び越えたが、未だに敵――『極紫』の姿は確認できない。

 ミス・パッケリが教えてくれた、人間離れした狙撃者の懐までは、まだまだ大きな隔たりがあるらしい。

 その魔法攻撃の射程は、五十リーグから百二十リーグと聞いたが、事実だとすれば、まだまだ旅程の半分にすら到達していないということになる。

 だが、俺は充分に希望を持っていた。俺と俺の偏在によって構成されたバッソ・カステルモール竜騎士隊は、総勢五名だ。また、各々が『スルスク』号より遥かに小さく、素早く、小回りもきく。どのような優れた弓兵であろうとも、この真っ暗な空を飛び回る砂粒のような我々を、狙って撃ち抜き、しかも全滅させるなどということは不可能に近いはずだ。

 ――そう、思っていた。ミス・パッケリの話した、『極紫』の評価は、過大なものであるに違いないと。

 それが誤りだと気付いたのは、――ビクン! と、騎乗している風竜が震え、急に螺旋を描いて墜落し始めた時だった。

「なんだ、どうしたっ!? ……っ! くそ、やられたっ! 本体である俺が、まさか最初の脱落者になるとは!」

 落ち行く風竜の眉間には、見覚えのあるコイン大の焦げ痕が刻まれていた。背中に乗っていた俺は、運良く狙撃魔法の射線から逃れられたようだが、乗り物を失ってしまっては、もう遠い道のりの果てにいる『極紫』のもとにたどり着くことはできない。

 急いで竜の死体から離れ、フライの魔法を唱えて、宙に浮かぶ。

 追撃はない。もう完全に仕留めたと思われているのか、竜という移動手段を奪ったから、とどめを刺す必要はないと見逃されたのか。どちらにせよ、俺の胸の中は、言葉にできない屈辱で満たされていた。

「だが……だが、まだ四人いる! 俺の偏在たちが、ひとりでもたどり着けば……ぐっ!?」

 偏在たちに感覚をリンクさせた途端、その苦痛は襲ってきた。

 竜の胴体ごと、胸の真ん中を撃ち抜かれた感触。左目から右の後頭部まで、焼けた鉄串をぶちこまれたような感触。二体の偏在が、続けざまに射殺された。

 ――まずい。俺は、『極紫』の実力を、あまりにも侮り過ぎていたようだ。不規則な軌道を描いて飛行する高速の竜を、こうも正確に狙撃してくるとは!

 ほんの数秒の間に、三騎が落とされた。残りはわずか二騎。こうなると、俺も楽観してはいられない。敵まで、あと何十リーグを残しているかも知れないのだ。このままのペースで特攻しても、確実に全滅する。

 なにか、ブレイク・スルーになるものが必要だ。速いだけではいけない。強いだけでもいけない。敵の圧倒的な攻撃を防ぐか、回避することのできる、なにかがなくてはならない。

 俺個人では、どうしようもない。実力や工夫で、どうにかなる状況ではなかった。

 やれることがあるとしたら――祈ること、それだけだった。

『極紫』が狙いを外しますようにと。残る二人の偏在が、うまく致命傷を食らわずに飛び続けられますように、と。

 始祖に祈るぐらいしか、できることはない。

 歯がゆさを押し殺しながら、しかし真剣に祈る。敵を倒せる可能性があるのは、いまや風前の灯である偏在たちだけなのだ。あれらを落とされた瞬間、我々の敗北は決定する。それは『スルスク』号の沈没を意味し、ガリア王家が害される可能性を意味する。そのようなことは、けっして現実にしてはならない。

 始祖よ、どうぞご加護を下さい。この無力な俺にではなく、あなたの末裔に。シャルロット様とイザベラ様を、あの尊敬すべき君主たちを、危難から救いたまえ。

 ――結論から、言うと。

 その祈りは、通じた。

 突然、俺の頭上を、何か大きなものが横切った。

 かぶりを振って、それを仰ぎ見る。そして、それが何であるのかを認識して、俺は息を飲んだ。

 竜騎士が、いた。

 俺の偏在ではない。鞍もくつわも手綱も着けた軍用風竜を駆る、完全武装の立派な竜騎士が、一、二、三、四――数えきれないほど、たくさん!

 空を埋め尽くすほどの、大部隊。国籍も所属も知れず、どこから現れたのかもわからない。ただ、彼らは一様に、御者座を目指していた――俺には目もくれず――まっすぐに、雄々しく突撃していく。

 そのことはつまり、彼らが俺の味方であるということを意味していた。連中の狙いは、『スルスク』号を攻撃する者――『極紫』ただひとりなのだ。

 いつの間にやら竜騎士たちに取り囲まれ、編隊の一部に組み込まれてしまった俺の偏在も、そのことを理解し、感動に打ち震えていた。

「は、はは……ミス・パッケリ……これがまさか、枢機卿様の護符の加護なのか?

 さすがというべきか……まったく、驚くべきものだな……信仰に対し、始祖は必ず応えて下さると、昔から教えられてきたが……ここまで露骨にお力添え頂けたのは、これが初めてだ!」

 その偏在は、左胸のポケットに入れた護符を、服の上から握りしめた。

 しぼみかけていた希望が、一気に膨らむ。始祖の遣わして下さった天の軍勢が加勢してくれるのだ、負けることなどあり得ない!

 風竜はさらに力強く、羽ばたいていく。飛行距離はいつの間にか、三十リーグを越えていた。

 

 

 ルイズが発動させた虚無魔法。広範囲に渡って幻影を生み出す《イリュージョン》は、七十リーグ近い遠みにいたシモーヌ・ヘイスにも、その効果を及ぼしていた。

 彼女の目の前に、何千、何万とも知れぬ竜騎士軍団が、虚空から染み出すように出現していた。まるで、夜空の星々がすべて変化したのかと錯覚するほどの数だ。

『スルスク』号から飛び立ち、シモーヌの方へと近付いてきていた五匹の風竜を、手際よく三匹まで撃ち落としたところで起きた、この不可思議現象。

 さすがのシモーヌ・ヘイスも、度肝を抜かれた。その細く鋭い目を、ぱしぱしと数度、まばたきさせたほどの驚愕である。

 だが、彼女もプロフェッショナル。超一流のメイジばかりを集めた護衛集団、『スイス・ガード』の一員であった。すぐに冷静さを取り戻すと、現状を分析しにかかる。

(あの、風竜の数……どう考えても、『スルスク』号に搭載されていた、戦力ではない……多過ぎる……。

 船外に潜んでいた……伏兵でも、ない……私の目に捉えられずに、隠れていられる死角など、ないし……護衛艦のたぐいも……周囲に、ない。

 風魔法の、偏在……? ノン。あのような数の偏在を出すには……数千人のスクウェア・メイジが必要……あり得ない。

 他のあらゆる魔法でも……私の知る限り、あのような軍勢を虚空から生み出すことなど、できはしない……。

 即ち……既存のものでない、未知の魔法の力によって、あれらは召喚された、可能性が高い……。

 ミスタ・セバスティアン……あなたの読みは、当たったようです……ジョゼフ・ド・ガリア……虚無のメイジ……真のガリア王……やはり、傀儡のイザベラやシャルロットとともに、あの『スルスク』号に……乗り込んで、いるのでしょう……。

 船を破壊されるという……未曾有の危機に……とうとう、隠れていられなくなって……自ら、杖を持って反撃に出た、といった、ところ……か。

 見たことのない魔法……間違いなく、虚無……それはわかるが……いったい、どういう効果……? あの数の竜騎士が……皆、実体ならば……さすがの私も、苦戦しそうだが……)

 そこまで考えたところで、シモーヌは改めて、杖――狙撃用長銃モシン・ナガン――を構え直した。

 そして、無数の竜騎士たちの中から、適当に選んだ一騎を、魔法で射抜いてみる。

 ウルトラ・ヴァイオレット光線を利用した、火系統の狙撃魔法。シモーヌにしか使えないオリジナル・スペル、《収束ガンマ線バースト(Kuolema kuuntelee)》は、数十リーグの距離を一瞬で駆け抜け、狙いをつけた竜騎士の額を貫通した。

「……わかった……」

 ふう、と、安堵のため息を漏らしながら、彼女は呟く。

「突然、出現した……あの、大量の竜騎士たちは……実物ではない。

 目に見えるだけ……触ればすり抜ける、ただの幻……そう、間違いない……手応え、ないし」

 一流の狙撃手ともなると、何かを狙い、撃ち、命中させた時には、標的となったものの手応えがちゃんと感じられるという。

 どれだけ遠くものを撃った時でも。タバコのように軽いものを撃った時でも。その感触が、その手に伝わってくるという。

「あの竜騎士は……撃っても、何も、感じなかった……まったくの……虚無……。

 さっき……軍団が、出現する前……『スルスク』号から飛び立った、五騎の竜騎士たち……そのうち、三騎を落とした時には、ちゃんと重い反動が……感じられた……そのうち、二騎は……偏在だったけど……空気袋を貫く、実感は……ともなっている……。

 新しく現れた方には……それすら、なかった。つまり、幻。私を脅かすものでは、ない」

 しかし、と、シモーヌはひとりごちる。

「それでも、二騎。偏在と思われる……私に攻撃を加えられる可能性のある……竜騎士が残っているのは、確か。

 なのに……そいつらは……あの、無数の幻の中に……紛れて、しまった……これは、こまった……どうしたものか……さすがにもう、私にも見分けが……つかない」

 ならば、どうすべきか。

 シモーヌは考える。既存のスペルに工夫を凝らし、まったく新しい狙撃魔法を産み出した天才的な研究者が、その優れた頭脳をフル回転させて、今現在直面している問題を解決しようと試みる。

 思考に費やした時間は、およそ三十秒。自分の手札と、相手の手札。周囲の環境。あらゆる条件を計算に組み込み、考えに考え抜いた彼女が出した答えとは――。

「……よし、決めた……とりあえず全部撃つ」

 それが一番、楽で、確実。

 少なくともシモーヌ・ヘイスには、そう思えた。

 気持ちも新たに、モシン・ナガンのトリガーに指をかける。

 迫り来る敵を撃ち落とせる確率は、数万分の二。

(大丈夫……落ち着いてやれば、できる。

 セバスティアン様のため……リョウコ様のため……このシモーヌ・ヘイス、今こそ、お役に立って……みせましょう……!)

 トリガーが引き絞られ、撃鉄が落ちる。

 暗闇の虚空に、目に見えない極紫の火線が乱舞した。

 

 

 実体なき竜騎士たちが、空いっぱいに狂い咲く。それを刈り取るべく、実体なき光の弾丸が空を裂く。

 ――カチ。カチ。カチ。カチ。目にも止まらぬ早さで、繰り返し繰り返し、シモーヌ・ヘイスは引き金を引き続ける。カチ。カチ。カチ。カチ。カチ。カチ。カチ。カチ。天球を埋め尽くす敵たちを、目に入ったそばから、しらみ潰しに撃ち抜いていく。すでに数百発を発射しているが、手応えはひとつもない。しかし、それにめげず、飽きず、諦めず、ただただ正確に、幻影を排除していく。

 幻の竜騎士は、撃たれても落ちたり消えたりしない。攻撃がすり抜けるだけだ。だが、撃たれることで失われるものもあった。それは、相手にする価値である。シモーヌにとって、幻影を撃つという一見無駄な行為は、それをもう二度と撃つ必要はない、ということを知る役に立っていた。

 彼女は、同じ竜騎士を二度撃つということをしない。どれを撃ったか、どれを撃っていないか――ちゃんと判別し、記憶している。敵の群れがどれだけ多かろうと、目でひとつひとつ区別できるならば覚えられる。

 カチ。カチ。カチ。カチ。カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ。千騎、二千騎と射抜いていき、それでもまだ無数の残敵が迫ってくる。だから何だ、とシモーヌは思う――慌てたって、怖がったって、有利になどなるものではない。ひたすらに、機械的に、殲滅狙撃を続けるべし。

 そんな作業に没頭していた彼女の視界に、再び大きな変化が生じた。

 雲が渦巻くように、風景そのものが歪む。すわ、さらに竜騎士が増えるのか、と身構えたが、次の瞬間に現れた幻影は、それよりさらに都合の悪いものだった。よりによって『スルスク』号が――墜落させるべしとセバスティアンに命じられたメイン・ターゲットである『スルスク』号が、分裂するように増え始めたのだ。

 これはありがたくない。向かってくる竜騎士への対応は必要だが、『スルスク』を撃ち落とすことは、それより遥かに優先順位が高い。何しろ、神であるセバスティアンの命令なのだから。自分の身を守ることより、ずっとずっと重要だ。

 もし、竜騎士の幻影と戯れている隙に、『スルスク』号も何万隻を越える大群になってしまったら? 同じようにどれが本物か見分けがつかなくなって、落とせないままアルビオンに逃げ込まれてしまうことになったら?

 まずい、標的を変えなくては。竜騎士たちは放置だ、『スルスク』号がこれ以上増える前に――まだどれが本物か区別がつくうちに、速攻で仕留めておかなければ!

 広い範囲にばら撒かれていた狙撃魔法が、一点に集約され、連続で撃ち込まれる。

 狙いは『スルスク』号の心臓部、第一風石室。他のサブ風石室より規模が大きく、船の重心を支えているこの施設を破壊されれば、『スルスク』は間違いなく沈む。

 十発。二十発。三十発。四十発。

 強烈なウルトラ・ヴァイオレット光線が、分厚い壁面を貫通し、風石に注ぎ込まれる。さすがに搭載量が多いだけあって、すぐさま臨界に達するというわけにはいかないが、それでも内蔵されている風エネルギーを急激に活性化させていく。

 無理な浮力をかけられて、ギシギシ、ギリギリと苦悶の声を上げる『スルスク』。

 船体の歪みによる傾きと振動は、船内を蠢く人間たちにとっては、災害以外のなにものでもなかった。

 船長は『スルスク』の沈没がもはや避けられないものになったと判断し、全船員、および全乗客に対し、避難勧告を出した。

 それを受けた船員たちは、大急ぎで、しかしつとめて冷静に行動した。まず、最優先で乗客たちを救命ボートへと誘導する。この時『スルスク』に乗っていたのは、ガリア王家にトリステインの高級貴族、そしてブリミル教会の枢機卿。ひとりとして死なせるわけにはいかない顔ぶれだった。

 まず、トリステイン外交団のリーダーであるマザリーニ枢機卿が保護された。彼は船内で、仲間であるミス・ヴァリエールとサイト・ヒラガを探していたが、ついに見つけることができず、仕方なくマザー・コンキリエの指示通り、救命ボートに乗り込んだのだ。

 次に、ガリア女王イザベラ、副王シャルロットが、船医に付き添われて、救命ボートの客となった。ふたりは怪我をしていたが、命に別状はなかった。特にイザベラ女王は、意識はしっかりとしており、貴人用の個室(たとえ救命ボートであろうとも、そういう部屋をちゃんと用意しておくのがガリア客船業界の心意気である)のベッドに横たえられた時も、仲間の安否を気遣う言葉を口にしていた。

「おい、船医。シャルロットは……あの子の顔の怪我は、大丈夫かい?」

「問題ありません。出血のわりには、浅い怪我でしたので。明日までには、傷ひとつ残らず治りますよ」

「そうかい……よかった。そういえば、ヴァイオラの奴は見てないかい? あー、コンキリエ枢機卿のことだけどね。あいつもちゃんと避難してるのか、確かめたいんだけど」

「少々お待ちを。誰かに聞いてきましょう」

 イザベラのもとを辞した船医は、混雑する救命ボートの中で、適当な船員を捕まえてこう尋ねた。

「君、枢機卿様がどこにいるか知らないかね? まだ避難してこられていないのだろうか?」

 問われた船員は、ちらりと――マザリーニ枢機卿のいる部屋を見て――「ええ、先ほど避難してこられました。あちらの部屋で、お休みになっておられます」と答えた。

「そうか、ありがとう。それさえわかれば充分だ」

 こうして得た答えを、船医はイザベラに伝えた。「コンキリエ枢機卿様も、ちゃんとこの救命ボートに乗り込んでおられます」と。それを聞いたイザベラは安堵し、自らも休むことに決めた。船員と船医との間に、とんでもない誤解があったことになど、少しも気付かずに。

 同じ過ちを、シザーリア・パッケリも犯した。

 彼女が救命ボートに乗り込んだのは、イザベラたちのあとだった。カステルモールを見送ったあと、船内を軽く回り、主人であるヴァイオラを探していたが、結局見つけることができなかった。

 すでに避難していることを期待して、救命ボートに来てみれば、通りすがりの船員が「枢機卿様は先ほどお休みになった。お疲れのようだから、あのまま寝かせておいて差し上げろ」などと話していて。それを聞いたシザーリアは、普段の慎重さを忘れてしまったかのように、ほっ、とひと安心してしまったのだ。

 無理もない。彼女は彼女で疲れていたのだ。何しろ、考えるべきことが多過ぎた。ミスタ・カステルモールは無事に帰ってこられるだろうか。『極紫』と戦うためのアドバイスは、あれで充分だっただろうか。このテロを仕組んだセバスティアン・コンキリエには、どう対応すればいいか。彼を始末しつつ、ヴァイオラ様の名誉を損なわないようにするにはどうすればいいか。

 それらの重大な問題の前では、のんきにすぴよすぴよと眠っているらしい主の様子を確認することなど、特に必要とは思えなかった。彼女は救命ボートの甲板で、手すりにもたれ掛かり、大きくため息をついた。

 ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールと、その使い魔平賀才人は、最後まで『スルスク』の中に残り、『極紫』の攻撃に抗い続けた。

 ルイズは長く繊細な交響曲(シンフォニー)を指揮するような気持ちで、虚無魔法《イリュージョン》を維持していた。

 彼女はサイトから、ガリア騎士のミスタ・カステルモールが、イザベラに命じられて『極紫』の討伐に向かったと聞いていた。ならば、それを支援するのが、攻守両面から見て一番良いはずだ。空を埋め尽くすような無数の竜騎士たちを産み出せば、カステルモールはその中に紛れて、安全に『極紫』に接近できるようになるだろう。

 いや、どうせならもっと贅沢をしてしまおう。せっかく使える魔法なのだ、そのポテンシャルを最大限に発揮してやらないともったいない。

 さらにイメージを、魔法の力を振り搾る。実現させるのは、『スルスク』号が無数に分身する光景。竜騎士隊を進攻させながら、新たな幻を作り出すことは、未熟なルイズにとって大きな負担だった。

 頭の奥で、ちりちりと何かが焦げつくような感覚が生じる。そして、めまい。精神力が枯渇に近付いているのが、ある種の切迫感とともに理解できた。

 でも、ここでやめるわけにはいかなかった。倒れるわけにはいかなかった。『スルスク』を増やす、増やす、増やす、増やす。増やせば増やすほど、敵はこの船を撃ちにくくなる。みんなを守りやすくなる。

 この仕事は、私にしかできない。だから、ルイズは苦痛を押さえ込んで、杖を掲げ続ける。

「おい、大丈夫かルイズ? つらいなら、適当なところで切り上げろよ?」

 その様子を見ていたサイトは、何度もそう声をかけた。

 ただでさえ燃費の悪い虚無の呪文。それを、長時間に渡って連続使用しているルイズの顔色は、客観的に見てひどいものだった。

 どちらかと言うと鈍感で、無神経な行動をとってはご主人様の怒りを買いまくっているこの使い魔が心配するほどなのだから、相当なものである。ただでさえ白い顔は青ざめ、眉間には深いしわが刻まれ、目は充血していた。額に、頬に、滝のような汗が浮く。事情を知らない者がそこにいれば、即座に医者を呼ぶだろうありさまだ。

 しかし、ルイズは杖を下ろさない。使命を果たそうとする自分を、止めない。

「まだやれるわ。私、まだ続けられる。

 ミスタ・カステルモールは、きっとまだ敵のところまでたどり着けていない……そのための時間を、私が稼いでみせる……私にしかできない、ことだもの……!」

 汗が顔の輪郭をつたって、ぽた、ぽた、と落ちていく。立派な貴族であろうとする少女の横顔を、使い魔の少年は、不安と好感の混じり合った気持ちで見つめた。

 ――そして。ヴァイオラ・マリア・コンキリエは――。

「ええい、畜生、どこへ行きおった、あのキラキラピンクめが。確かにこっちに逃げたはずなんじゃがなぁ……五、六人ぐらい」

 幻影のルイズを追いかけて、彼女はいつしか『スルスク』号の船尾の辺りまでやってきていた。周りには人影がまったくない――食堂で頑張っているルイズとサイトを除いたすべての乗客乗員が、救命ボートへ避難してしまったからだ。

 折れた木の棒を片手に、きょろきょろと辺りを見回す。目的であるルイズの姿はない。当たり前のことだが、ルイズはすでに自分の幻影を作るのを止めていた。竜騎士と『スルスク』のコピーを作り出すので手いっぱいになっていたからだ。

 そんなことなど知るよしもないヴァイオラは、人の隠れられそうな場所を徹底的に探し回った。薄暗い倉庫、トイレ、乗員休憩室。目的の人物はどこにもいない。

 もたもたしている間にも、ぐらりぐらりと船は揺れ続けた。床は波打ち、天井からは木屑の混じった埃が落ちてくる。目の前で、壁にかけられていたランプの灯りが、ふっ――と消えた時には、神経の太い彼女も身震いを禁じ得なかった。

「ちっ、いかんな……いよいよこの船、ヤバそうじゃ。早いことヴァリエールのアホをやっつけて、救命ボートに避難せねば。

 次の場所におらんかったら、いっそ回れ右して逃げるのもええかもしれんな。いずれ落ちるこの船の中に放置しとけば、かくれんぼの得意なあのガキも、もろともにくたばるじゃろうし」

 そう呟きながら、ヴァイオラは『第五風石室』というプレートの掲げられた部屋に、足を踏み入れた。

 そこは、まだシモーヌ・ヘイスに撃たれていない、無傷の風石室だった。狭く、頑丈そうな部屋で、中心には風石炉とでも呼ぶべき、巨大な装置が鎮座している。この中に風石をくべて、適切な刺激を与えることで、風エネルギーを取り出し、船に浮力を与えるのだ。

 ゴオ、ゴオと、低く不気味な音を立てて稼働している風石炉をちらりと横目に見やって、ヴァイオラは唇をへの時に曲げる。

「うーむ、ここにもおらんか。ホントにあいつ、どこに隠れよった?

 まあ、こうなっては仕方ない。あんなクズのために、我の身を危険にさらすわけにはいかんしの……どれ、さっさと脱出を……」

 そう言って、踵を返そうとした時だった。

 ひときわ大きな揺れが、『スルスク』を襲った――シモーヌ・ヘイスに狙撃された第一風石室の出力が爆発的に上昇し、船体が急激に浮き上がる。

 内部にいた者にとっては、床が突然跳ね上がったように感じられただろう。フライの呪文で、ふよふよと浮いていたヴァイオラにも、そのように見えた――恐ろしい速さで迫ってくる床板――バシイッ、と派手な音が鳴り響き、彼女は吹き飛ばされた。

「うげっ!?」

 ハエ叩きで殴られた羽虫と同じ運命を、彼女は辿った。床板によって打ち上げられ、天井にぶつかる。その衝撃で杖を手放してしまい、飛行呪文が強制的に解除され、受け身も取れずに、再び床へ落とされる。

 小さな体は、でん、ででん、と、二、三度バウンドし、風石炉に寄り添うような形で、ようやく止まった。

 悲鳴は上げない。目は閉じている。指先さえ、ピクリとも動かない。ふわふわした紫色の髪の生え際から、額に向かって、たらり、と赤い血が流れる。

 ヴァイオラは、完全に意識を失っていた。

 目覚める様子はない。頭を打ち、意識が底無し沼のように深い暗闇の奥へ沈んでしまったのだ。

 激しい揺れも、柱や梁がへし折れていく轟音も、彼女を起こすことはできなかった。

 狭い風石室の中で。今にも落ちてしまいそうな船の中で。そこにいるということを誰にも知ってもらえないまま、彼女は眠る――。

 

 

 起きていても、眠っていても、時は流れる。

 ルイズが《イリュージョン》を使い始めてから、すでにかなりの時間が経過していた。

 もう少し、まだやれる、最後の踏ん張り――自分にそう言い聞かせながら、彼女は幻影を一秒でも長く維持しようと努めた。

 しかし、ついに限界が訪れる。細い両足から、不意に力が抜け、彼女はへなへなとその場に崩れ落ちた。精神力を使い切り、気を失ったのだ。

「ルイズッ!」

 そばに控えていたサイトが、倒れかけるルイズを抱きとめた。

 窓の外では、少女の力によって現れた竜騎士たちが、その姿を失いつつあった。魔法が解けて、にじむように、崩れるように、虚空へと還っていく。

 あとには何も残らないだろう。しかし、その出現は無意味ではなかったはずだ、とサイトは確信する。

「よくやったよ、ルイズ……みんなが逃げる時間を稼げたし、きっとカステルモールさんの助けにもなれたはずだ。

 やっぱりお前、役立たずなんかじゃないよ。ちゃんと、立派に、貴族できてると思うぜ。

 おっと、しんみりしてる暇はないよな。早く避難しなくちゃ。救命ボートに乗り遅れて、こいつを死なせるようじゃ、俺こそホントの役立たずになっちまう」

 軽い少女をその背に負って、少年は大急ぎで甲板まで駆けた。

 船の揺れと傾きは、いよいよ激しくなっている。サイトが救命ボートのところまでたどり着いた時、その乗り込み口で、船員たちが必死な様子で彼を手招きしていた。

「早く! 早く乗り込むんだ! もう出発するぞーッ!」

「わ、わかった!」

 サイトたちが救命ボートに乗り込んだ途端、最後の大きな振動が、『スルスク』を襲った。

 広い甲板が、バキバキとウエハースのようにひび割れていく。もう限界だった。これ以上留まっていては、救命ボートも危うくなる。

 乗り込み口が閉じられ、救命ボートは『スルスク』から飛び立った。スピードは出ないが、ゆっくり、着実に、滅びつつある巨大客船から遠ざかっていく。

 サイトは窓越しに、『スルスク』が崩れ落ちていく様子を見ていた。それは事故というより、むしろ天変地異に近い眺めだった。城のように大きな船が、バラバラになる。ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、と、腹に響く音を撒き散らしながら、真ん中から真っ二つに折れた。

 壁も、柱も、床も、梁も、竜骨も、マストも、帆も。テーブルも、椅子も、食器も、酒も、食べ物も、花瓶も、ベッドも、枕も、ドレスも、化粧品も、海図も、コンパスも、すべてが雨のように、海へと降り注いでいく。

 いや、すべてではない。キラキラと光るものが、逆に天へと昇っていくのも見えた。

 近くにいた船員に聞くと、それは風石室に残っていた風石の欠片だろう、という答えが返ってきた。風の力を励起させている状態の風石は、宙に放り出されると、あのように落下せず、空に向かって浮き上がっていくのだとか。

 よく見ていると、かなりたくさんの瓦礫が、落ちずに空中で渦巻き、風に流され、どこへともなく飛び散っていく。それは幻想的な光景であったが――同時に薄気味の悪い光景でもあった。地獄へ落下するのであろうと、天上へ召されるのであろうと。それらの意味するものはどちらも『死』なのだ。

 このような雄大な『死』が。たったひとりのテロリストの狙撃によって現出したとは。

 それを思うと、サイトは背筋が寒くなるのを感じた。そして、そのテロリストにひとりで立ち向かっていった、カステルモールのことがひどく心配になった。

 どうか、無事に帰ってきて欲しい。

 そう祈る。ブリミル教徒でないサイトは、始祖ではなくカステルモール自身に対して、祈りを捧げた。

 彼の背中で、ルイズが身じろぎをした。始祖の再来であるこの少女には、今しばらくの休息が必要なようだった。

 

 

 駆ける。駆ける。駆ける。駆ける。

 羽ばたく。羽ばたく。羽ばたく。羽ばたく。

 大勢の味方たちに守られて、俺、バッソ・カステルモールは夜を鋭く突き抜ける。

 もう何分飛んだだろうか。すでに、数十リーグの距離を稼いだ。

 敵からの狙撃はない――どうやら完全に、向こうはこちらを見失ったようだ。

 それも仕方がないだろう。こちらは数万という竜騎士の群れの中に、身を潜めているのだ。見分けをつけて正確に撃ち抜けるとしたら、それはもう人間技ではない。

(しかし、こちらも敵を見つけることができないでいるのは同じ……いったい『極紫』は、どこに……むっ!?)

 飛行距離が、そろそろ六十リーグに達しようかという時だ。俺の目はついに、暗闇の中に浮かぶ、一隻の怪しい船を見つけ出した。

 五人も乗れば満員といったサイズの、遊覧用と思しき小型ボート。灯りもつけておらず、星明かりの下にかろうじて、その姿を潜めている。

 さらに目を凝らす――舳先に、誰か人が立っている。そしてその人影は、こちらに――あるいは『スルスク』号に――何かを向けて、構えているようだ。

 あれだ、間違いない! ついに俺は『極紫』を捉えたのだ!

 興奮が高まる。あとは、もうほんの少し接近して、魔法による一撃を叩き込んでやれば、それでミッション・コンプリートだ。『極紫』自身を狙い撃つ必要さえない。あの小さな船を落としさえすれば、乗り物を失なった敵は勝手に詰むだろう。

 もう少し、もう少しだけ――攻撃魔法が届く距離まで近付くことができれば、すべては終わる――。

 そう思ってほくそ笑んだ、まさにその時だった。

 周囲を守ってくれていた、天の竜騎士たちが。まるで霞のように、その姿を失い始めた。

「なんだ!?」と、疑問に思えども、虚空から答えは返ってこない。ただ、見たままの現象がそこにあるだけ。形が薄れ、色が薄れ、彼らはだんだん消えていく。

 そして、その事実がもたらす結果に思いを巡らせて、俺は震え上がった。竜騎士たちが消える――しかし、俺は消えはしない。ならば――あとにはただ、俺が残るのみ。

『極紫』に撃たれればすぐに落ちてしまう、脆弱な俺が。

「い、いかん! 始祖の軍勢が帰ってしまう前に! 急いで『極紫』を始末しなくてはッ!」

 敵の船までの距離は、目測でおよそ、八リーグ強。

 五百メイルまで近付けば、こちらの魔法の射程に入る。あと七リーグ半! 何としても縮めねば!

 にじみ去る天の竜騎士たちの中を掻き分けるようにして、俺は疾走する。

 速く、速く、速く、速く。流星よりも、速く。

 残り七リーグ。六リーグ。五リーグ――ああ、竜騎士たちが。ヴァルハラの英雄たちが。もう、半透明になってしまっている。彼らの向こう側に、星や月が見えそうだ。

 残り四リーグ――三リーグ――敵の姿が、『極紫』の顔が、はっきりと見えてくる。女だ――しかも、まだ若い。俺と同じぐらいかも――鉄灰色の髪を風になびかせて――なんという堂々とした佇まいだ。手にしているのは――長銃か? その構えは、老練な猟師を思わせるもので、実に美しかった。

 しかし、その目は恐ろしい。氷のように冷たい眼差し! 俗に言う邪眼(イビル・アイ)というやつだ。ただ睨むだけで、死の呪詛を飛ばすという呪われた目。その言い伝え自体は迷信だが、この女に見られることは確かに、死を意味するだろう。

 残り二リーグ。一リーグと五百メイル。一リーグと三百メイル――まだ、まだ届かない。

 ここにきて、ビシリ、と、首を焼かれる不快な衝撃。

 ふたりいる俺のうち、片方がやられた。

 その偏在が風となって散り消えるさまを、気にかける余裕もない。俺はもうあとひとりしか残っておらず、天の軍勢も、もう人の姿すらしていない靄と成り果てた。もう、次の瞬間にでも、『極紫』に捕捉されるかも知れないのだ。

 ここまで来て。ここまで来て、やられるわけにはいかない。

 左胸のポケットに入っている護符に、改めて祈る。

 あとほんの数秒でいい、この身を守りたまえ。

 敵にたどり着く時間を。『極紫』を打ち倒すための力を、授けたまえ。

 残り一リーグ――九百メイル――八百メイル――。

 竜の背にしがみついたまま、呪文を唱え始める。俺の使える攻撃呪文の中で、最大の威力を誇るスクウェア・スペル、《カッター・トルネード》を。

 有効射程である五百メイルに到達したら、即座に敵の乗るあの船に向けて撃ち込んでやるのだ。無数の風の刃は、密集し、絡み合って巨大な竜巻となる。その威力の前では、いかに『極紫』といえど、嵐の中の枯れ葉同然の儚きものとなろう。

 残り七百メイル――六百五十メイル――六百メイル――。

 五百九十――五百八十――五百七十――。

 あと少し――時間が、遅く感じる――まるで、空気が粘性を持ったようだ――超高速で飛んでいるはずなのに――じりじりと、スローモーションで進んでいるような感覚に陥る。

 その――ゆっくりと動く、視界の中で――。

『極紫』が――。

 そのアイス・ブルーの瞳が――。

 恐るべき『邪眼』が――。

 じろり、と。

 こちらを、捉えた。

「……………………ッ!」

 俺は恐怖に襲われ、反射的に杖を構えた。

 向こうも、こちらに銃口を向けている。完全に見つかっていた。

 彼我の距離は、およそ五百五十メイル。

 あと、五十メイル詰めれば、魔法を撃ち込める。

 五十メイルを進むには――この風竜であれば――あと、一、二秒もあればいい。

 それだけの時間が許されれば、俺の勝ちなのだ。

 残り五百四十。三十。二十。十――。

 あと少し。

 間髪の距離。

 だというのに。

 だというのに。

『極紫』の手は。

 無駄なく。容赦なく。

 引き金を引き絞っていた。

 激鉄が落ちるさまを、俺の目は見ていた。

 ――カチ、という渇いた音が、耳に届いたような錯覚さえあった。

「カッター・トルネー……!」

 有効射程、五百メイルに到達。

 しかし、俺は用意しておいた攻撃呪文の、最後の始動キーを唱え切ることができなかった。

『極紫』が放った見えざる火の弾丸は。

 焼けるような痛みだけを伴って、俺の左胸に――ポケットの中の護符を貫き、始祖の加護さえ踏みにじって――深々と突き刺さったのだ。

「こ、こん、な……ここまで、来て……!」

 もんどり打って、竜の背から転がり落ちながら。

 最後の俺も、アルビオン沖の空に散った。

 

 

 勝ち誇った人間は、その時すでに敗北している――という、古い格言がある。

 圧倒的な有利を得て、勝利を確信した瞬間こそ、人は最も油断しやすく、反撃に対して無防備になるという意味だ。

 人類の歴史の中で探しても、追い詰めたはずの相手に逆襲され、屍をさらすことになった強者は数多い。

 もちろん、本当に強い英傑であれば、最後の最後まで油断などしない。勝利を喜び、誇るのは、間違いなく相手に止めを刺したあとのことだ。

 ――バッソ・カステルモールと死闘を繰り広げた、シモーヌ・ヘイスの場合は、どうだっただろうか。

 彼女は、明らかに『油断しない強者』だった。

 接近するカステルモールとその偏在たちを、次々と撃ち落としていった。

 最後の二体は、謎の幻影の妨害もあって見失いかけたが、最後には無事発見し、始末をつけた。

 六十八リーグの距離を貫き、残り五百メイルにまで迫った偏在を射殺し――シモーヌの勝利は確定した。敵の戦力を完全に排除したので、逆転される可能性などひとつもなかった。

 シモーヌ・ヘイスは油断しなかった。

 それは確かだ。

 だからこそ。

 この直後に起きた、シモーヌの死は――彼女の敗北でも、ましてやカステルモールの勝利でもないのだ。

 

 

 シモーヌ・ヘイスの目の前で、カステルモールの最後の偏在が消えていく。

 竜の背にいた男が、左胸を押さえながらのけぞり、風に溶けていった。シモーヌはそれを見届け、銃の引き金にかけていた指をほどく。

 ――勝った。

 確信と共に、大きく息を吐く。敵を全滅させた安心感に、ほんの一瞬浸る。

 だが、まだ任務は達成していない。『スルスク』は完全に破壊したが、救命ボートが脱出していくのを、彼女の目はきちんと捉えていたのだ。

 それを落としてやっと、セバスティアンの御心にかなうのだ。休憩している暇はない。一刻も早くボートを撃って、標的であるガリア王族たちを抹殺しなければ――。

 そう思いながら、再び銃を構えようとした、その時。

 シモーヌの視界は、一面の深紅に染まった。

 

 ――ズ・ド・ド・ドドオオォォ――ンンンッ!

 

 全身を砕くような轟音が、直後に訪れた。

 いや、「全身を砕くような」というのは、比喩にはならなかった。回避不可能な衝撃波が、文字通りシモーヌの体に叩きつけられ、骨という骨を砕き、肉という肉を引き裂き、血煙よりも粉々にして、吹き飛ばしてしまったからだ。

 彼女の信頼した愛銃、モシン・ナガンも、その頑丈な銃身をねじ曲げられ、引きちぎられ、ばらばらの鉄屑となって飛び散った。乗っていた小型船も、ぐしゃぐしゃの木材の破片に分解されて、暗い海に撒き散らされた。

 まるで、巨人の拳に叩き潰されたかのような、瞬間的な大破局であった。

 自分の身に何が起きたのか、シモーヌは知る暇もなく命を落とした。

 だが、彼女の死の原因となった現象を目撃した人間は、大勢いた。

 六十リーグほど離れた場所に浮いていた、バッソ・カステルモール(本体)も。救命ボートに乗っていた、『スルスク』からの避難者たちも。

 空中に咲いた、紅蓮薔薇の大輪を目の当たりにした。

 何十リーグ離れていても、はっきりと視認できるほどの大きな花火。真っ赤な炎が爆発し、海に太陽を浮かべたような光景を作り出していた。

 炎の赤は、闇に飲まれるように沈んでいき、その痕跡から、もくもくと巨大なキノコ雲が立ち昇る。大理石のような色合いの、重々しく、禍々しい雲だった。

 サイトがそれを見て、呆然とした様子で「え、何あれ、やべぇ」と呟いたのも、無理のないことだろう。目撃者であれば、きっと誰もが、同じ感想を抱いていた。

 何の予告も予兆もなく、まったく突然に起きた、謎の大爆発。

 シモーヌ・ヘイスを倒したのは――誰でもない。

 神の起こしたような、得体の知れない「現象」だった。

 

 

 ――同時刻。リュティスのヴェルサルテイル宮殿では、ビダーシャルが使用人たちと、他愛もない会話を交わしていた。

「やっぱりありませんよー、ビダーシャル様」

「こっちもです。壁に隠し扉とかも見つかりません」

「はいはいはーい。天井裏の捜索、終わりましたぁ。ホコリしか見つかりませーん!」

「ぬう……そんなはずはないのだが……どうなっているんだ」

 使用人たちの報告を聞いて、ビダーシャルはうめいた。

 場所は、かつてミス・シェフィールドの居室だった部屋だ。彼は、この場所にあるはずのあるものを見つけるために、人手を借りて、部屋中をひっくり返していた。

「他に手をつけていないような場所はないだろうか? 何かに紛れて隠れている、という可能性も、大いにあるんだ。

 もう一度説明するが、モノは手のひらより少し小さいくらいの大きさの護符だ。布製で、表面にはブリミル教の聖句が刺繍してある。

 中には、平たい赤褐色の石が入っている……必要なのは、この石だ。護符はあくまで入れ物に過ぎないから、別の何かに入れ直されているかも知れない。入れ物になりそうなものがあれば、ひとつ残らず中を確かめてみて欲しいのだが」

「それも踏まえて、あらゆるところを探しましたよー」

 疲れた様子のメイドが反論する。彼女以外の者たちも同じことを思っていただろうし、他ならぬビダーシャルも、そう思っていた。それほど広い部屋でなし、ちゃんとモノがあるのなら、大人数で探して出てこないわけがないのだ。

「あ、あのー。そういえば、なんですけど」

 赤い癖っ毛の大人しそうなメイドが、おずおずと手をあげて発言した。

「ここ最近、マザー・コンキリエがこの部屋に入り浸っておられました。なので、もしかしたら、あの方なら何かご存じかも知れません」

「なに? マザー・コンキリエが?」

 ビダーシャルの端正な顔がしかめられる。話に上がったマザー・コンキリエは、ちょうどアルビオンに出掛けていて留守だ。

 彼女が持ち出した、という可能性が生じたのはありがたかったが、それを確かめることができるのは、ずいぶんと先のことになるだろう。

「うーむ、しかしまあ、十日もすれば帰ってくるだろうし……他に手がないならば、気長に待つとするか。

 皆の者、ご苦労だった。助力に感謝を。君たちのもとの仕事に、戻ってくれて構わない」

 ぱんぱん、と手を叩き、彼は使用人たちを解散させた。

「しかし、ミスタ・ビダーシャル。私たちの探していたその石ってのは、いったい何なんです?」

 好奇心の強そうな使用人が、去り際にビダーシャルにそう尋ねた。

「ただの石であろうはずもなし。宝石でもなさそうですし、まさか、石が薬の材料になったりするんですか? あなたは、ミス・オルレアンのお母上のために、薬を作っているんだという噂ですが……」

「ふむ、そうだな。手伝ってもらった礼の代わりだ、教えてあげよう。

 その石は『火石』というものでな。風石と同じで、精霊の力が秘められた鉱石なのだが、これは風ではなく、火の力を持っているのだ。

 主な利用法は、やはり燃料として、だな。適度な刺激を与えて、うまく力を取り出せば、かまどで薪を燃やすより大きな火力が得られるのだ。今作っている薬は、どうしても材料を高温で熱する必要があってな。火石が手元にあれば、作業が実に楽になるのだが……」

「ほほう。なるほどなるほど。そういう事情でしたか。

 しかし、火の力を含んだ石だなんて、どうもおっかないですな。危険はないんですか? たとえば、放っておくと燃え出したりとか」

「心配はいらない。火石は非常に安定した精霊石だからな……意図して力を取り出そうとしない限りは、普通の石ころと変わりはしないよ」

 そう言ってビダーシャルは、その使用人を安心させたが――万が一、火石の中に秘められたエネルギーが暴走したらどうなるかまでは、話しはしなかった。

(あの火石は小さいものだが、全部の力を一斉に取り出したとしたら……だいたい、半径一リーグの空間を焼き尽くす大爆発を生じることになるだろうな。

 まあ、そんな致命的な暴走など、まず起きないだろうが。極端な話、ジョゼフの使う虚無の爆発魔法とか……あるいは、蛮人の分類でいうところの、火のスクウェア・スペルのような強烈な刺激を叩き込まない限りは、エネルギーの全解放を起こすことなどできはしない。

 マザー・コンキリエがあれを持っているとしても、平和な船旅で、そのような凶悪な魔法を浴びることなどあり得ないだろうし、数日後にはちゃんと、何事もなく我が手に戻ってくるだろう。……まったく、小さなサンプルとはいえ、軽い気持ちでミス・シェフィールドに譲るのではなかった。我が手元に置いておけば、無駄な回り道をしなくて済んだものを)

 そんな風に心の中で文句を言いながら、ビダーシャルは自分の部屋へと帰っていった。

 もちろん、言うまでもないが、彼の手元に火石が戻ってくることは、永遠にない。アルビオン沖の空中で、それはシモーヌ・ヘイスの狙撃魔法によって貫かれ、直径二リーグの大火球となって吹き飛んだのだ。

 ――のちに、彼の火石が引き起こした爆発は、ハルケギニア人たちの間で『スルスクのための始祖の雷』と呼ばれ、伝説化することになるが――それが自分の私物によるものだと気付いた時、ビダーシャルはとても、とても、渋い顔をしたという。

 

 

 あの爆発は、果たして凶兆でしょうか、それとも瑞兆でしょうか。

 救命ボートの甲板でそれを見た私には、どちらなのか、区別がつきませんでした。ただ、何かに決着がついたのだと、漠然と感じられただけで。

 キノコのような不気味な雲が天を衝き、およそ十数分も経った頃、竜に乗って飛び立っていったミスタ・カステルモールが、フライの魔法で帰還してきて初めて――私はそれを、瑞兆だったのだと認めることができました。

 彼は怪我をした様子もなく、元気そうに見えました。ですが、表情はどこか呆然としていて、まだ幻の中にいるような、そんな不安定な空気を醸し出していました。

「おかえりなさいませ、ミスタ・カステルモール。ご無事で何よりです」

「……あ。ミス……パッケリ……」

 声をかけた私に、彼はぼんやりとした目を向けてきました。

「俺は……勝てなかった。『極紫』に、あと一歩のところで返り討ちに、されてしまったよ……きみの応援を受けていたってのに……情けない、限りさ」

「? 何を仰っているのです。あなたはこうして、生きて帰ってきたではありませんか。勝ったのは、あなたのはずです」

「勝ったのは……始祖だ。天の軍勢、天の雷火……俺じゃないんだ。始祖が、すべてを片付けて下さった。俺の手柄なんて、何ひとつ、ない」

 自嘲ぎみに呟きながら、彼は甲板の冷たい床に座り込みます。船を落とすような強敵に、勇敢にも立ち向かい、生還した戦士とは思えない、このくたびれた様子は、いったい何なのでしょう。天の軍勢や、天の雷火とは? 後者は、あの凄まじい爆発のことを言っているのでしょうか?

「ミスタ。ミスタ・カステルモール。何があったのです? あの爆発が、『極紫』に引導を渡したということですか? とんでもない威力のように見えましたが……あれは、あなたの魔法による攻撃では、ないのですか?」

 そう問いかけると――ミスタ・カステルモールは――うつむき、顔を青ざめさせて――震える声で、こう、囁いたのです。

「……たりずまんが。ばくはつ、した」

「……は?」

「きみから、あずかった、たりずまんが。まざー・こんきりえの、たりずまんが。へんざいが、むねぽけっとにいれてた、たりずまんが。

 ぼーんって。いきなり、ふっとんだの。

 そんで、あのでっかいひのたまが、できた」

「……………………」

 絶句する私。

 泣きそうなミスタ・カステルモール。

 彼は背中を丸め、膝を抱える三角座りをして。顔を膝小僧に埋め、ぷるぷると肩を震わせています。

「みす・ぱっけり……始祖のご加護、めっちゃコワイ……」

 ヴァイオラ様――――――――――ッ!?

 このボートの貴賓室で休んでいらっしゃるであろう、我が主を。今すぐに叩き起こして、問い詰めたい気持ちで心がいっぱいになりました。

 ヴァイオラ様、あなたは私に、何を下さったのですか。爆発する護符って、いったいどういうことですか。私にそんなものを持たせて、どうなさるおつもりだったのですか。

 ミスタ・カステルモールに対する、この罪悪感をどうすればいいのですか。この人、完全にトラウマ負っちゃってるじゃないですか。立派な騎士様が丸くなってすすり泣いてる様とか、あまりにも対応に困るのですが!

 とりあえず、「おーよしよし」と声をかけながら、可哀想なミスタの背中を撫でて、慰めて差し上げます。ヴァイオラ様への追究は確実に必要ですが、この人も放ってはおけません。

 泣き止むまでは、そばにいてあげるとして――ヴァイオラ様のお部屋をお訪ねするのは、アルビオンに到着してからにしておきましょうか。

 それまでの時間は、あの方にどのようなお仕置きをするか、考えることに費やしましょう。一ヵ月おやつ抜きは当たり前として――夕食に欠かさずはしばみ草を混ぜるとか――おしりペンペンもありですね――動機の重さに応じて、三百叩きから千叩きぐらいの間で調整して――。

 そんな風に延々と、悶々と、粛々と思考をこねくり回し続けます。

 計画を立て、推敲している時間は、それなりに精神を落ち着ける役に立つものです。気がつくと救命ボートは、アルビオンを監視するトリステイン艦隊に発見され、保護されておりました。

 彼らもまた、海峡上で起きたあの大爆発を目撃しており、調査のためにこちらに近付いてきていたのです。

 艦隊のトップであるトリステイン空軍元帥、ラ・ラメー伯爵は、当然のことですが、遭難者である我々の身元の提示を求めました。

 この取り引きにおいて、アクシデントは一切生じなかった、と言っていいでしょう。ガリアの乗客は、イザベラ様が全員の身元を保証し、トリステインの乗客は、マザリーニ枢機卿様が身元を保証しました。

 船員たちについては、『スルスク』号船長が責任を持ち、生存者はもちろん、『スルスク』崩壊で失われた人員についても、資料として整理していたようです。

 その資料によりますと、救助された乗客は七名。

 イザベラ・ド・ガリア。シャルロット・エレーヌ・オルレアン。シザーリア・パッケリ。バッソ・カステルモール。

 ファーザー・マザリーニ。ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。サイト・ヒラガ。

 生き残り、保護された『スルスク』号船員は、百七名。

 確認された死亡者は、十三名。いずれも、船員でした。

 

 そして。

 

 資料に記された項目は、もうひとつ。

 

 ――行方不明者、一名。

 

 そこに、ヴァイオラ・マリア・コンキリエの名が。

 呪いのように、刻みつけられておりました。

 




今回はここまでー。
次回、『フツーにひょっこり見つかるヴァイオラ様』、『森の真ん中でクロムウェルが「むーりぃー」と叫ぶ』、『リョウコさんのアルビオンまずいもの紀行』(全て仮タイトル)を、楽しみに待つのじゃー。


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森の中のヴァイオレット

フェステさんの方がひと段落したので、こっちも更新しておくのじゃよー。


 私――アンリエッタ・ド・トリステインが、アルビオンの土を踏んだ時。

 そこにあったのは、混迷以外のなにものでもありませんでした。

 

 

「アンリエッタ。ローズヒップ・ティーはどうかね。

 ヴィンドボナの王宮で、余が育てた薔薇の果実で作ったものだ。優れた疲労回復効果がある」

「頂きますわ、アルブレヒト様」

 アルビオンの首都、ロンディニウム。その中心にそびえ立つ、雄壮なハヴィラント宮殿のバルコニーで。私とアルブレヒト三世様は、穏やかな時間を過ごしておりました。

 そう――信じられないくらい、とてもとても、穏やかな時間を。

 初冬の柔らかな日差しを頬に浴びながら、よく手入れされたアルビオン式庭園を観賞し、暖かいお茶と甘いお菓子を頂いています。

 戦争を終わらせるため、アルビオンの現君主、オリヴァー・クロムウェルに降伏を呼び掛けるために、気合いを入れてやってきたというのに。高度な政治的駆け引きを、困難な精神的闘争が繰り広げられることを覚悟していたというのに。

 もう、かれこれ十日以上も。私たちはこのハヴィラント宮殿に滞在して、子供の長期休暇のような、平和な日々を過ごしているのです。

 なぜ、このようなことになったのか。

 そもそも、この地で何が起きているのか。無学な私では、とても理解が追いつきません。

 わかることといえば、断片的な数々の事件の、限られた側面だけ。

「オリヴァー・クロムウェルは、どうやら今日も、我々と面会するつもりはないようだね、アンリエッタ」

 テーブルを挟んで、私の対面に座ったアルブレヒト様が、穏やかな声でそう仰いました。

「我々を迎え入れてくれたあの将軍――確か、ホーキンスといったか――は、神聖皇帝閣下は多忙のため、面会まで暫しの猶予を頂きたく……などと、格式張ったことを言っていたが。結局のところ、奴は我々をいつまで待たせるつもりなのだろうな」

「きっと、永遠に面会するつもりがないのでしょう。彼らも、自分たちがひどく不利な状況に陥っていることはわかっているでしょうから」

 言いながらカップを持ち上げ、ルビーのように赤いローズヒップ・ティーで、舌を湿らせます。ピリッと強い酸味と、爽やかな薔薇の香り。アルブレヒト様のお好きなこのお茶は、頭をすっきりさせる効能もありそうです。飲んでいると、普段よりもちょっとお話が弾むような、そんな気がしました。

「一度でも話し合いの機会を持てば、なし崩し的に説得を受け入れざるを得なくなって、地位を追われることになる……クロムウェルはそれを恐れているのです。風前の灯の権力でも、一秒でも長く、維持していたいのではないでしょうか」

「ふむ、なるほど。そういう考え方もあるかも知れない。

 だが、それなら、そもそも我々を迎え入れる必要がない、とも思うのだがね。面会する意思を見せず、門前払いを食らわせればいい。敵国の王に対する仕打ちとしては、まったく不自然ではない。

 なのに、彼らはそうしていない。一応だが、もてなそうという意思も見せている。交渉に応じる気もないのに、礼儀を示してみせるのは、いささか奇妙だ」

「交渉自体を断れば、その時点で総攻撃が行われるのでは、と危惧している可能性は?」

「それはないだろう。我々の包囲戦術によって、この国は飢え、衰え、滅びつつある。彼らはむしろ、こちらが包囲戦術を切り上げて、密集した軍隊で侵攻を始めることを望んでいるはずだ。そうなれば、彼らはホームグラウンドでそれを迎え撃つことができるからね。

 それが、アルビオン側にとっての、おそらく唯一の勝機だ。軍略に慣れていないであろうクロムウェルだけならともかく、経験豊富な軍人がそれに気付かないはずがない。

 交渉を受け入れて、少ない犠牲で降伏するか。はっきり拒絶して、総力戦という賭けに出るか。多少なりとも情勢が読める者なら、このどちらかしか選択肢がない、ということはわかるはずだ。――なのに、今のところ、選択がなされた様子はない。クロムウェルが状況を悲観して、決断を下すことを放棄したとしても、議会や軍はそれを許すまい。必ず、何らかの動きを求められるはずなんだ」

「それさえない、ということは……いったい……?」

「わからない。謎だよ、アンリエッタ。真相を見い出すには、情報が足りなさ過ぎる。今は、クロムウェルが動きを見せるのを待つしかないだろうな。

 まあ、こちらとしても、最初の予定が大幅に狂ってしまっているから、待つ分には特に問題はないがね。

 ……ファーザー・マザリーニの様子はどうだね? 彼は、少しは落ち着いただろうか」

 その問いかけに、私は――つい数時間前に見た、我が国の屋台骨である老いた枢機卿の姿を、脳裏に浮かべました。

「いえ。お世辞にも、本調子とは言えません。トリステイン王宮で、身を粉にして働いていた時よりも、さらに鬼気迫る様子で……忙しく手紙を書いたり、馬を駆って出掛けていったり、人と会ったりして、常に動き続けています。

 かなり大勢の人を雇って、いなくなったマザー・コンキリエを探しているようですわ」

「そうか……噂によると、彼とマザー・コンキリエは、兄妹のように仲が良いらしいからな。妹分が事故で行方不明になっては、さすがに平静ではいられまい。

 ガリアのイザベラ女王やシャルロット副王も、捜索を続けているようだ。彼女らには、クロムウェルとの交渉の場に同席して頂きたいと思っていたのだが……さすがにそれどころではない、だろうな」

 アルブレヒト様は、途方に暮れるように、首を左右に振りました。

「まったく、まさかアルビオンに入国する前に、『スルスク』号がテロリストに襲われるとは! しかも、あの巨大な船が轟沈するほどの大被害を被るとは、思いもしなかった。アルビオンへの渡航計画は、完全に秘することができていたはずなのだが……いったい、どの線から差し向けられた刺客であったのやら。

 ファーザーやミス・ヴァリエールたち、それにガリア王族たちが命を落とさずに済んだのは喜ばしいが、マザー・コンキリエという大物が行方不明になったのは痛い。あまりにも痛過ぎる」

「ええ、本当に。……ファーザー・マザリーニやガリアの方々のご様子から察するに、マザーというお方は、多くの人々の精神的支柱であったようですね。

 私は、マザリーニがあんなにも取り乱した姿を、かつて見たことがありません。あれでは、クロムウェルとの交渉に臨んだとして、本来の鋭い弁舌を振るえるかどうか……」

「彼は外交団のリーダーであり、我々の主力だ。交渉のキモはミス・ヴァリエールの虚無だが、その切り札もファーザーの巧みな話術があってこそ生きるものだ。

 彼が実力を発揮できないのでは、むしろ不利にさえ陥る危険性がある。クロムウェルは虚無としてはニセモノだが、論客としてはなかなかのものであるらしいからな。

 ……となると、クロムウェルが姿を現さず、交渉が延び延びになっている今の状況は、むしろ幸運と言えるかも知れん。

 交渉が始まるまでにマザー・コンキリエが見つかれば、ファーザーも常態に復するであろう。彼女の発見は、今や我々の命運も握っている……」

「しかし、アルブレヒト様。マザーは、本当に生きておられるのでしょうか。

 墜落した船に取り残されていたと仮定して――それはほぼ確実ですが――その残骸は、引き上げることもできない深い海の底に沈んでしまいました。そんな状態から生還するなど、果たしてあり得ることなのでしょうか?」

「常識的に考えれば、あまりにも厳しいであろうな。余ならば、捜索の手間そのものを無駄と判断するだろう。

 だが、ファーザーも、ガリアの女王たちも、マザーの生存を信じているようだ。その根拠が何なのかはわからないが、彼らの行動には信念というか、確信めいたものがあるように感じる」

「ならば……私たちは、ただ祈るしかありませんわね。彼ら、彼女らの信念が報われますようにと……」

 私がそう言って、始祖のおわす青い空に視線を移すと、自然と穏やかな沈黙が場に降りました。

 祈りの時間だけは、私たちにもたっぷりとあったのです。

 

 

「……で? シザーリア。間違いないんだろうね。お前のご主人様は、今もどこかで、あのアホ面もそのままに生きているんだね?」

「はい。確実です。ヴァイオラ様は、今、この時も、この世界のどこかで生きておられます」

 あたしの問いかけに、金髪のメイド――シザーリアは、一片の疑いも混じらない、完璧な確信のこもった返事をしてきた。

『スルスク』号の墜落から、七日。ヴァイオラの行方不明が判明してから、六日。あたしたちがハヴィラント宮殿に入城してから、五日が経過している。

 あてがわれた貴賓用客室で、クロムウェルとの面会の日を待ちながら――あたしたちは、やるべきことを必死こいてやっていた。

 交渉の準備? そんな、結果の決まってるもんに備える必要なんてありゃしない。あくまであたしたちが追求しなくちゃいけないのは、いなくなったヴァイオラの行方についてだ。

 シャルロットもシザーリアも、この問題を何より重要視していた。

 状況があまりにも絶望的だったにも関わらず、みんな必死になって希望を探した。

 あのチビでのじゃのじゃうるさい友人のことを、あたしもそれなりに気に入っている。船の沈没に巻き込まれて死んだ、なんて、信じたくなかった。

 冷静に考えれば、現実逃避でしかないのだろうけれど、知ったこっちゃない。

 ――だけど、あたしたちの現実逃避は、意外なことに実を結んだ。そのきっかけとなったものこそ、シザーリアの持ってきてくれた、この知らせだったのだ。

「ロマリアに風竜便で手紙を送り、確認を取りました。

 アクイレイアのコンキリエ邸には、ヴァイオラ様の使い魔が残されております。ダゴンという名前の、ちっちゃいメダカですが――このダゴンの体を調べさせましたところ、今もなお契約のルーンが存在している、ということがわかったのです。

 コントラクト・サーヴァントの魔法で刻まれるそれは、ただの入れ墨とはまったく違うものです。もし、ヴァイオラ様が亡くなっているとしたら、使い魔との契約は解除され、ルーンは消滅しているでしょう。それが無事に残っているということは、つまり――」

「オーケイ、よくわかった。確かにこれ以上ない、生存の証拠だ」

 安堵と嬉しさに、あたしは少しだけ口の端をつり上げる。まったく、悪魔的な豪運の持ち主だよ、ヴァイオラって奴は。普通、あんな派手な事故に巻き込まれたら、生き残れる可能性なんてゼロだろうに。

「じゃああとは、あいつを見つけて連れ帰れば、問題は全部解決するってわけだ。

 でも、実際のところさ、あいつ、どうやって助かって、どこへ行ったんだろうね? 救命ボートには乗っていなかった。『スルスク』号は完全に崩壊して、海の底に沈んだ。行き場所なんて、どこにもなかったように思えるんだけどねぇ……?」

「それに関しては、ひとつ仮説がある」

 そばに控えていたシャルロットが、テーブルの上にアルビオンの地図を広げながら、話に入ってきた。

「『スルスク』号が落ちる瞬間を目撃していた人たち……サイトや船員たちから、こんな証言を得た。壊れた船の残骸は、大部分が海へと落下していったが、何割かは空へと昇っていった、と」

「……? どういうことさ。物体は普通、下に落ちるもんだろう。上に行くってのは、自然の法則に反してないかい?」

「どうやら、風石の力が関わっている現象らしい。風石室で風のエネルギーを取り出されている最中だった風石は、それ自体が浮力を持っている。船が壊れた際に、外に飛散したそれらが飛んでいく様を、彼らは目撃したと思われる」

「ははあ、なるほど。そういうこともあるかもね。……って待ちなよ。だとしたら、まさか、ヴァイオラは……?」

 あたしの反問に、シャルロットは眼鏡をきらりと輝かせて、頷いた。

「『スルスク』号には五つの風石室があったけれど、それらは『極紫』というテロリストの魔法攻撃によって、連続して破壊された。

 しかし、最後まで攻撃を受けなかった風石室もある……船尾の第五風石室などがそう。『スルスク』がまっぷたつになって崩壊した瞬間も、ここは無傷だった可能性がある。

 もしもヴァイオラが、避難中にこの風石室に迷い込んでいたとしたら……」

「そうかっ! きっとそれだよ、シャルロット!

 あいつが第五風石室に入った時に、『スルスク』号は最後の大崩壊を起こして、バラバラになった! でも、風石室の周りは特別、頑丈な造りになってる! 鋼鉄製のシールドや、樫材の壁で、がっちがちに固められてるんだ。もしかしたら、船の他の部分が壊れても、そこだけは独立して形を保っていたのかも知れない!」

 そうだ、それしか、ヴァイオラが生き延びる方法はない。

 無事だった風石室が、即席の救命ボートの役割を果たしたのだ。強固な部屋のフレームが、船体の代わりになった。浮力となる風石も、その力を取り出す風石炉とセットで備え付けられている。その部屋は、粉々になって落下する『スルスク』号から分離し、風石と一緒に空へ昇っていったんだ――ヴァイオラを中に秘めたまま!

「と、言うことはだ。あいつは今も、風石室にこもったまま、お空をプカプカ浮いてるのかい?」

「それは違う……風石には限界があるから。ある程度上昇したら、エネルギーが尽きて、今度は徐々に高度を落としていく。

『スルスク』号の壊れた場所を起点とした、大きな放物線を描いて……最終的には、どこかへゆっくりと着陸する」

「どこかっ……ていうと?」

「わからない。ヴァイオラの乗り込んだ風石室に、どの程度の風石が残されていたのかがわからないから、正確な計算ができない」

 シャルロットは、広げた地図の上に、ややこしい数式や矢印をいくつも書き込み始めた。

「あの日のアルビオン周辺の風向き、風力だけを手がかりにするのでは、ヴァイオラがどの方向に、どれくらい流されていったかを予測することしかできない。あと、アルビオンの大地そのものが動いている点も、計算に入れる必要がある。

 変数が多過ぎる――だから、出てくる答えの幅も、大きい。

 間違いないのは、このアルビオンのどこかに落ちた、ということだけ。マンチェスターかも知れないし、エディンバラかも知れない。プリマスかも知れないし、ヨークかも知れないし、グロスターかも知れないし、カンタベリーかも知れない」

 それは――いくらなんでも、範囲が広過ぎる。

 アルビオンはちっぽけな島だけど、それでもひとつの国なのだ。無数の村、街、都市の集まりなのだ。人だって、平民も貴族も引っくるめれば、何十万人もいる。その中で、あのちっちゃなヴァイオラを見つけ出すのは、草原に落とした縫い針を探すようなもんじゃないか?

「……深い森林か、高山地帯ではないかと思います」

 しばらく無言でいたシザーリアが、シャルロットの後ろ姿に意見を投げた。

「大きな船の残骸が空から降ってきましたらば、普通は噂になるものです。それに、人が乗り込んでいたとすれば、なおさら。

 しかし、今日の今日まで、そのような報告はどこからも入っておりません。となると、ヴァイオラ様を乗せた風石室は、人目につかない場所に落ちたのでしょう。街中でも街道でも、田畑でもあり得ません。誰も人が入り込まず、目撃も発見もされないような土地……即ち、未開の原生林や、踏破困難な険しい山の上などが、可能性が高いのではありませんか」

「うまいっ! シザーリアの言う通りだよ、シャルロット。そういう条件で捜索範囲を絞れば、案外簡単にあいつを見つけられるかも!」

 シャルロットは振り向き、小さく頷く。その表情には、微かにだが、希望の赤みが差していた。

「わかった。その方針で、候補地をピックアップする。イザベラ、あなたは人を集めて。できるだけたくさん。人探しなら、手数は多いに越したことはない」

「ああ、わかってるよ。ガリアから探索専門の人員を呼んで……いや、このアルビオンで現地調達した方が、早くて良さそうだね」

 トリステインとゲルマニアに包囲されているこの国は、食糧が少なく、働き手は余っている状態だ。アルバイトの募集をかければ、応じてくれる人はいくらでもいるだろう。

「イザベラ様、シャルロット様。トリステインのファーザー・マザリーニにも、今のお話をお伝えしてもよろしいでしょうか?

 あちらからも人を出してもらえれば、探索はさらに容易になります」

「ん、いい考えだ。ぜひ教えてやんな。

 あの爺さんも、ヴァイオラのことはすごく心配してたし……生きてるって言ってやれば、気合いも入るだろうよ」

「かしこまりました」

 深く一礼し、部屋を出ていくシザーリア。その足は、いつもより少しだけ、早足に見えた。

「……フン、あの鉄面皮のメイドも、爺さんに負けず劣らず取り乱してるみたいだね。迷子になった犬みたいに、必死にご主人様の影を探してら。

 んじゃ、シャルロット。あたしはバイト募集の手続きをしてくるから、ここは任せたよ」

「わかった。行ってきて」

 このちっちゃい従妹も、必死な犬ころの一匹だ。

 振り向きもせず、抜き身の刃みたいに鋭い眼差しで、地図とにらめっこしてやがる。

 シャルロット北花壇騎士モード、とでもいうか――こいつがこんな真剣味を出すのは、母親を助けようと無茶な仕事をしていた、あの頃以来じゃないだろうか。

「ずいぶんなつかれたもんだよ、ヴァイオラの奴」

 部屋を出ながら、小さくため息をつく。――まあ、あたしも、人のこと言えた義理じゃないけどさ。

 まったく、みんなをこんなに心配させて。いったいどこをほっつき歩いてんだろうね、あのチビのお姫様は?

 

 

 アンリエッタたちが待ち、イザベラたちが行動している時。

 同じハヴィラント宮殿の別の部屋では、アルビオンの人々が、彼らなりの問題に取り組んでいた。

「ドンカスターの小麦の備蓄は、底をつきかけているようだな」

「ああ、トーキーも少し危ないようだ。やはり、あのトリステイン=ゲルマニアの包囲戦術が痛い。去年までであれば、輸入で充分に補えたのだが……我が国の生産分だけでは、とても需要に追いつかない」

 話し合っているのは、アルビオン議会に席を持つ数名の貴族だ。

 いや、それだけではない。軍部のトップ、白髪のホーキンス将軍もいる。彼だけは議論のテーブルから一歩離れたところに立ち、政治家たちの顔を見渡していた。どうやら、オブザーバーとして同席しているらしい。

「密輸入は? 金ならあるんだ。ガリアあたりの業者に鼻薬を嗅がせれば……」

「すでに試したよ。だが、港を押さえられている現状では、どうにもならない。大型の貨物船を停泊させられる設備がないと、国民を養える量の食糧は持ち込めないのだ。

 小型船で、包囲を掻い潜りながらちびちびと運んできても、焼け石に水だ。往復に必要な風石の代金も計算に入れると、大赤字になる。外から補給するという選択肢は、この際捨てた方がいい」

「だが、かといって国内の生産量を増やすのは無理があるぞ。先の内戦で、多くの田畑が焼け、農民が死んだ。この傷を癒すだけでも、五年から十年はかかる」

「いっそ、周りを囲んでいるあの連中が、大攻勢でも仕掛けてきてくれればいいのに。大軍を集中して乗り込んできてくれれば、我が国土の奥深くまで引き込んだ上で、殲滅することもできよう。そうすれば大量の戦略物資を鹵獲できるし、捕虜を得られれば、身代金として穀物を要求することもできる」

「いや、無傷でこちらを締め上げる戦略を取っている奴らが、大怪我する危険をおかしてまで、攻めてきたりはすまい」

「ええい。現実的な方策など、ひとつもありはしないというのか」

 言葉は活発に飛び交うが、それぞれの表情は暗い。

 戦争中の国を統治する者の責任が、彼らの肩にのしかかっており、その重みは日に日に増していた。貴族という地位にある以上、それはけっして逃れられないものであったが、だとしても現状のアルビオンを治めることは、他のどの国を治めるより、遥かに過酷だった。遠からず、重責に負けて肉体が潰れてしまうのではないか、と、全員が予感してしまうほどに。

「……なあ。もう素直に、トリステインに白旗を上げた方が、いいんじゃないのか」

 ふと、ひとりの議員が、そんなことを呟いた。

「そうすれば、問題は全部解決するぞ。包囲は解けるし、食糧の輸入も再開してもらえる。国民に餓死者が出る前に、決断しなくちゃいかんのじゃないか」

「ううむ……確かに、いつまでも戦争を続けていても、国が衰えるだけだしな……」

「降伏するとなると、我々は連中の法に従って、裁きを受けねばなるまいが……」

「それも仕方があるまい。我々は、自分で思っていたほどは、上手くやることができなかったのだ。これ以上己の無能をさらし続けるよりは、潔く散った方が見栄えもするというものだ」

 肉体はともかく、彼らの心はすでに折れていた。それでいて、自暴自棄になるには、理性が残り過ぎていた。

 全員の意見は、『降伏』でほぼ一致した。それに踏み出せない者も、現状を打破する方法を提案することができず、最終的には同調せざるを得なかった。

「将軍。あなたはどう思われますかな」

 最後に、ずっと沈黙していたホーキンスに、意見が求められた。

「……私個人としては、降伏には賛成です。国民のことを第一に思うなら、そうするしかありますまい。

 軍人としての力を発揮する機会がないまま、破れ去るというのは、残念ではありますが……戦略での敗北は、戦術では覆せません」

「詰み(スティール・メイト)ということですな」

「いかにも。――しかし」

 頷きながら、しかしホーキンスは、まだ問題があるとばかりに、表情を苦々しげに歪めてみせた。

「我々だけの決断では、それはできない。ここにいるのは議会の過半数ですが、どれだけ優勢な意見も、承認されなければ実行力を持てません。降伏するには、最終決定権を持つ人物……即ち、皇帝陛下にイエスと言わせなければならないのです」

 その言葉に、場が静まり返る。

 まるで、実行不可能なことを要求されたかのように。石像、あるいは死体から、許しを得よと言われたかのように。

「……ホーキンス将軍。トリステインとゲルマニアからの客人はどうしている?」

「今のところ、大人しくしておられます。少なくとも、我々が隠していることには、まだ気付いていないでしょうな。ですが、かなり不審には思っているはずです。

 こちらとしても、彼らとクロムウェル陛下には、なるべく早く話し合いをしてもらいたいのですが……クロムウェル陛下の現状では、とても……」

 ため息を漏らしながら、白髪の将軍はゆっくりと首を左右に振った。

「部下たちを四方に走らせていますが、いまだに手掛かりは掴めません。だが、必ず結果は出してみせます。

 あなた方には、今日の会議の結果だけを、しっかり胸に留めておいて頂きたい。クロムウェル陛下に、我々の結論の承認を迫る時に、思い直したりすることのないように。

 また、当然のことですが……陛下の秘密が表沙汰にならないよう、口をつぐんでおくこともお忘れなく。あのことが明らかになってしまうと、この国全体が混乱に巻き込まれることになりますから……ことによると、戦争に負けて降伏するよりも、ずっとひどく、大きな混乱に……」

 貴族たちは無言で頷き、そのままひとりずつ、席を立って退室していった。秘密会議の、静かな結末であった。薄暗い会議室に残されたのは、ただひとり、ホーキンス将軍のみ――。

「秘密を持つというのは、面倒なものだ」

 彼は虚空を見つめて、独り言を言う。

「だが、この秘密だけは守らねばならん。国民を動揺させることも、外国に弱みを見せることも、するわけにはいかんからな。

 我々にできることといえば、事実を覆い隠して、何も問題がないかのように振る舞うことだけだ。まったく、とんでもない面倒を押しつけよってからに……クロムウェル皇帝陛下め。

 こんな忙しい時に、いったいどこへ行ってしまわれたのだ?」

 問いかけは虚しく宙に響き、誰にも聞かれることなく、消えた。

 ――そう。彼のその言葉こそ、アンリエッタ姫やアルブレヒト三世が、会談の申し込みを受け入れられも、断られもせず、長々と待たされている理由だった。

 ヴァイオラ・マリア・コンキリエ枢機卿が、遭難して行方不明になったのと、時を同じくして――。

 なぜかオリヴァー・クロムウェルも、前触れひとつなく、ハヴィラント宮殿から姿を消していたのだ。

 

 

 

 

 ――健康状態:イエロー。頭蓋骨骨折。脳挫傷。呼吸停止。脳死まで十一秒――五、四、三、二、一。

 ――健康状態:レッド。修復パッチ起動。――頭蓋骨再生完了まで、残り七秒。――完了。脳細胞再生完了まで、残り十九秒――完了。

 オートセーブ・データ、リロード開始。残り三十三秒――残り二十一秒――残り五秒、四、三、二、――error――不明な問題が発生――作業を一時中断。

 ――セルフ・チェック開始。残り八秒――セルフ・チェック完了。ハードウェアに重大な損傷を発見。風石バッテリー使用不能――外力により破壊されたものと思われる――活動可能時間、残り十一秒。中断していた作業を再開する。

 データ、リロード。――error――。

 データ、リロード。――error――。

 データ、リロード。――error――。

 データ、リロード。――error……。

 ……………………。

 …………。

 

 

 

 

 ――じゃぼん、と。みずにおちたおとで、めをさました。

 もうろうとした、いしきのなか、ほおがぬれ、まつげにしずくがしたたるのをかんじた。

 おどろき、とびおきる。あとすこし、かおをあげるのがおそければ、われはみずにかおをおおわれ、おぼれておったであろう。

 うすぐらい、せまくるしいへやに、われはいた――でいりぐちは、こわれてかたむいたとびらがひとつ。そのすきまから、なんたることか、ざあざあとくろいみずが、ながれこんできておる。

 あしくびが、ひざが、あっというまにすいちゅうにしずむ。こしが、むねが、あたまのさきまでがしずんでしまうには、どれほどかかるものか。

 われはあわてて、にげだした。ながれをかきわけて、とびらのそとへ。

 

 

 どうやらわれは、かわのなかにおったようじゃ。

 さっきまでいたしかくいへやが、ずぶずぶとすいちゅうにぼっしていくのを、ぼうぜんとながめた。かんいっぱつであった。かわぞこでおさかなたちのごきんじょさんになるのは、さすがにごめんこうむる。

 かわぎしをめざして、いっしょうけんめいおよいだ。ふくがみずをすって、はだにはりつくわおもくなるわ、とにかくめちゃくちゃたいへんじゃった。なんども、みずがくちやはなにはいってくる。じゃまになるそでやすそをちぎりとりながら、ひっしにみずをかいた。

 なんとかきしへはいあがり、みどりのくさゆたかなどてにからだをよこたえたときには、そりゃもうひろうこんぱいであった。

 こんなところで、ぐったりねそべるというのは、ちょいとばかりはしたないようじゃけれど、ざんねんむねん、もういっぽもうごけやせぬ。

 ぼーっとみひらいたままのりょうめが、どてのむこうのけしきをうつしている。そこにあったのは、あおあおとおいしげるき、き、き。どうやら、そこはもりのようじゃ。かなりひろそうで、なおかつ、ふかそうにみえる。へびとかおおかみとかちかづいてきたらいやじゃな、と、ふとおもう。

 あんぜんでは、ないかもしれん。やっぱり、すこしむりをしてでも、いどうしたほうが――ああ、だめじゃ、つかれた。

 もう、まぶたもあけておれぬ。かんがえることもおっくうじゃ。

 いしきが、うすれる。めのまえがくらくなり、おとがとおざかる。

 ねておる、ばあいでは、ないのに。

 われには、せねば、ならんことが。

 ぴんくわかめを――たおして――。

 せいじょになって――ええと――。

 あにさまと――いちゃいちゃ――。

 それから――ぷりんたべたい――。

 ――――――――。

 ――――――。

 ――――。

 ――。

 

 

「テファお姉ちゃん、こっち来て、こっち! 人が倒れてるー!」

「ええっ!? た、大変……村まで運ばなくちゃ! エマ、悪いけど、先に行ってベッドを整えておいて!」

 んー?

 なんじゃ、このこえ? うるさいぞー。ぐう。

 

 

 再び目を覚ました時。

 我は、柔らかいおふとんの中におった。

「…………おー?」

 上半身を起こして、まぶたをしぱしぱさせる。周りが、少しぼんやりして見える。

 寝過ぎたのか、頭への血の巡りが悪くなっているようじゃ。ひとつずつはっきりさせよう――ここは?

 外ではない。そこは、なんつーか、粗雑で狭い、田舎臭い部屋じゃった。

 天井の梁はむき出し。壁も床も、木目がそのままあらわになっていて、壁紙も絨毯もない。木こりとか猟師とか、美意識のない奴が住んでそうな部屋じゃ。窓に若草色のカーテンがかかっておる点にのみ、文明を感じられる。

「あ、起きた?」

 のんびりと周りを見回しておったら、意外と近くから声をかけられて、思わず我はビクッとしてしもうた。

 反射的に、声のした方に目をやって、――我はそこで、とんでもないものを目撃してしまい、再びビクッと肩を震わせた。

 声の主は、まだ若い少女であった。

 絹のように滑らかな金髪を持つ、まあはっきり言って並外れた美少女。顔立ちは幼い、というより穏やかで、微笑みがえらく似合っておる。背中に羽根でも生えておれば、まんま神話とかに出てくる天使のイメージじゃ。

 室内だというのに、耳まで隠す大きな帽子を目深にかぶっているのが、異様な感じではあるが――正直、そんなことは細かいことじゃ。

「あ、あんた、は」

 我は震える声で尋ねる。喉が乾き、言葉が引っ掛かる。いかん、平静でいられん。美しく、しかしあまりにも奇妙な姿のその少女を前にして、混乱とともに恐怖を覚えておる。

「あ、私? 私はティファニア。家族のみんなからは、テファって呼ばれてるわ。よろしくね?」

「あ、こりゃどうもご丁寧に……い、いや、そうでのうて……」

 少女――ティファニアは、我が初対面の人間に対して警戒しておるのじゃと考えたらしいが、それは違う。

 我の意識は、ティファニアのパーソナリティーや危険性になど興味はない。というか、そういう事柄に注目するだけの余裕がなかったというべきか。

 目の前に突きつけられた、恐るべきもの。常識では考えられぬ、大質量の凶器。

 ――ティファニアの――。

 ちょっとあり得んサイズの、どてかいおっぱいに、我の目は釘付けになっておった。

 な、なんぞこれ。マジで人類のおっぱいかこれ。

 メロンじゃろ。リンゴとか桃どころじゃない、大ぶりなメロンが、ダブルで服の中に入っとる感じじゃ。

 我なんぞぺったんのフルフラットじゃのに、いったい何をどうしたらこんなに差がつく? こ、これは我がみじめなのではない、このティファニアがケタ違いの規格外なのじゃ。我の周りにもおっぱいでかい女はいたが、こいつほどのへヴィーオブジェクトを装備しておった奴はおらんぞ。あの――――アだって、こいつよりは小さ、

 ――――ん?

 ふと、妙な違和感を覚えて、我は顔を上げる。

 なんか、途中で、つまずいたような。

 走るでも歩くでもなく、考えが途中でつまずくというあり得ない感覚。

 今、我は、心の中に何を浮かべようとしておった?

「あ、ここがどこか気になるの? ここはね、ウエストウッドの森の中にある、ウエストウッド村よ。

 あなたが川岸で倒れているのを、水汲みに来てたエマが見つけて……あ、エマっていうのは、私の家族でね、まだ小さいのにすごくしっかりしてる子で……」

 ティファニアが何か言うておる。我が考えを巡らせるために、中空に視線をさ迷わせたのを、「ここってどこじゃろ?」って疑問に思っておるものと考えたらしい。

 正直的外れなわけじゃが、少し気になる言葉も聞こえた。我が川岸に倒れておった? なにゆえ、そんなことに? 必死に泳いだのは、おぼろげながら覚えておるが、なぜ泳ぐはめになったのか、心当たりがない。

 ウエストウッドの森とか、ウエストウッド村とかいう地名にも、聞き覚えがない。我、どうして、名も聞いたことのない土地におる? 人間、普通は名前を知っておる場所にしか行かんものじゃ。我がホームグラウンドであるア――――アの街でも、散歩コースはいつも決まって、

 ん? んん?

 また違和感。これは何じゃ。

 おかしい、あまりにもおかしい。

 めまいがする、寒気がする。自分がとんでもないことになっておる気がする。我は、いったい、我は、我は、我は。

「怪我はないみたいだったけど、さすがにびしょ濡れで倒れてる人を、そのままにしておくわけにもいかなくて。こうして私の家まで背負ってきたんだけど……。

 あ、ごめんね、私ばかりしゃべっちゃって。ずいぶん久しぶりな女の子のお客様だから、ついはしゃいじゃった。

 そういえば、まだ、お名前を聞いてなかったわよね。よかったら、教えてもらえないかしら」

「名前? 我の、名前……」

 その問いを。

 頭の中で噛み締めて。

 意味をしっかり、理解して。

 答えを、無造作に引き出そうとして――。

 我は、脳天に焼けた鉄串をぶちこまれたような、どぎつい衝撃を受けた。

 ティファニアのたわわなメロンなぞ、どうでもよくなるほどの大打撃じゃった。歯が、カチカチと鳴る。背中にじっとりと、嫌な汗が浮かぶ。頬がひきつり、泣き笑いのような不自然な表情で、ティファニアの方に向き直る。

「名前……えと。

 我の名前って、何じゃったっけ……?」

 思い出すべきものが、何もない。

 我は、自分がどこの誰なのか――きれいさっぱり、忘れ去ってしまっていた。

 

 

 どうしよう。

 私――ティファニア・ウエストウッドは、目の前で頭を抱える女の子と同じように、途方に暮れました。

 森の中で気を失って倒れていた、小さな女の子。紫色の髪がふわふわしてて、肌が白くて、お人形さんみたいにきれいな女の子。

 歳は、エマと同じくらいかしら。普通はこの歳で、森の奥までひとりで入ってくるようなことはないから、きっとお父さんやお母さんからはぐれて、迷子になったんだと思います。体がびしょ濡れだったから、川に落ちて流されてきたのかも。

 どちらにせよ、運良く怪我ひとつなかったので、しばらくベッドで休ませて、元気になったらおうちまで送ってあげようと思っていました。

 ――でも。肝心の彼女が記憶をなくしてしまっているのでは、どこに送っていけばいいのか、まったく、全然、見当もつきません。

 少し問答を重ねてみましたが、彼女は、住んでいたところはもちろん、自分の名前や両親、家族のこと、どんな生活をしてきたのかさえも、全部まるごと忘れてしまっているようでした。

 覚えているのは、一般的な言葉とか、服の着替え方、フォークやナイフの使い方ぐらい。

「あ、あと、お金の単位とか、算術の公式とかもわりと覚えとるみたいじゃ」

 でも、それをどこで教わったのかとか、どんな風に役立てていたのかまでは、思い出せないとのこと。

 つまり、生活に必要な知識や、身につけた技術なんかは残っているけれど、個人を構成する思い出だけが、すっぽり抜け落ちてしまっているみたいなんです。

 ――本当に、どうしよう。

「うーん、いつもなら――森の中で迷子になった人を見つけたら、って場合だけれど――街道へ出られる道を教えてあげて、自力でおうちまで帰ってもらうようにしてるんだけど……」

 彼女は小さいから、安全のためにも最寄りの街まで送ってあげることになるかな、なんて思ってたんですけれど。明らかに、それどころじゃありません。

「も、森の外に案内されても、そこからどうすりゃええんか、まったくわからん……帰る家が最寄りの街になかったら、それこそ立ち往生するしかないではないか……」

 伏せられた彼女の目から、じわ、と涙があふれ出します。

 記憶を失った不安と恐怖が、その苦しそうな表情から痛いほどに伝わってきます。過去がないということは、未来を想像することもできないということです。先行きが見えないという試練は、彼女の小さな両肩に乗せられるには、あまりに重過ぎるもののように思えました。

「……大丈夫。私が、あなたのことを守ってあげる」

 私は心を決めて、彼女の手をそっと握りました。

「前にどこかで聞いたことがあるの。記憶喪失って、頭を打ったりしたショックでなるものらしいんだけど、長続きはしないんだって。しばらく心を休めて、ショックがおさまれば、徐々に回復していくんだって」

「そ、そうなんか? 初耳じゃ」

「けっこう有名な話よ。きっと、あなたも聞いたことはあっても、忘れてるだけじゃないかしら」

 私がそう言ってあげると、彼女はだいぶ気が楽になったのでしょう、こわばっていた表情が、ホッ、とほぐれていきました。

 ――実際のところ。記憶喪失が長続きしないというのは、まったくのでたらめです。

 彼女に少しでも希望を持ってもらうためについた、真っ赤な嘘。本当はどうなのか、私は少しも知識を持っていません。

 ちゃんとしたお医者様なら、わかるのかも知れません。そう、真に彼女のためを思うなら、根拠のないその場しのぎの安心を与えるより、街に連れていって、お医者様に診てもらうのが、正しい選択なのでしょう。

 でも、私には、それができないのです。

 とある事情を抱えているせいで、私自身はめったに村の外に出ることができないのです。彼女がもし、記憶喪失になってなかったとして。普通に街まで送っていくことになっていたとしても――私は街の入り口まで送るだけで、街の中へはひとりで入ってもらうことにしたでしょう。

 衛兵さんとかお医者様とかに、身元を訪ねられたり、顔を見られたりするのは、とてもとても、困るのです。

 病気の子供を差し置いて、自分の都合を優先させるということに、嫌な気分がしないわけではありません。というかむしろ、最悪に近いです。額を床にこすりつけて、目の前の彼女に謝りたいぐらい。

 でも、それもできません。彼女を明かりのない絶望の中に、放っておくわけにはいきませんから。私はあくまで、「すぐに治るから不安にならないでいいのよ」という顔で、何も問題がないかのように構えていなければならないのです。

 とりあえずは、何日かうちで世話をしてあげるとして、様子を見ることにしようと思います。もしかしたら嘘からまことが出て、日にちを過ごすことで記憶が戻ってくれるかも知れませんし。

 もし、時間が経っても状況が改善しないようなら――マチルダ姉さんが帰ってきた時に、お願いして街まで連れていってもらいましょう。私や、村のみんなの面倒を見てくれている、優しくて便りになるマチルダ姉さん。今は、トリステイン王国でお仕事をしているって、送られてきた手紙には書いてありました。ウエストウッド村の外で暮らしている姉さんならば、この子をお医者様のところに連れていくのに不都合はありません。

 結論は出ました。この子には、姉さんの次の里帰りまで、この村で過ごしてもらいましょう。まだ見ぬこの子のお父様、お母様。お子様のことでしばらく不安にさせてしまいますが、どうかお許し下さい。時期が来れば、必ず無事にお返ししますから。

 私はそう心の中で祈ってから、当人に、記憶喪失が治るまで、一緒に暮らそうと持ちかけました。彼女は少し考えていたようですが、やがて、うんと頷いてくれました。

「知らない人のおうちに厄介になるのは、ちと抵抗があるが……記憶がないのでは、実際に何の行動も取れぬしな。申し訳ないが、しばらくの間、軒を貸してもらえるか」

「うん、任せて。きっと不自由はさせないわ。

 ……それで、ええと……まず、あなたの仮の名前を決めてもいいかしら。やっぱり名前がないと、いろいろ不便だと思うし」

「ふむん、確かにそうじゃ。どんな名前がええじゃろうのぅ? できれば、女らしいきれいな名前をつけて欲しいところじゃな。可愛い系よりは大人っぽい方が良い」

「え、可愛いのもいいと思うけど?」

「いやいや、なんか我の奥底に潜む何者かが、子供っぽさを拒絶しとる。そう、社会に出てバリバリ働いとるような、強くかっこいい二十代女性のイメージでネーミングをお願いしたい。この条件はちと譲れんのう、うむ」

「う、うーん、具体性が増したのはいいけど、難易度も上がっちゃったような……どうしよう」

 それから三十分ほど話し合った結果、最終的に彼女の新しい名前は、スミレを意味する『ヴァイオレット(Violet)』に決定しました。彼女の髪の色も、美しい紫(violet)なので、とてもよく似合っていると思います。

 ヴァイオレットも、この名付けには満足してくれたようです。「なんか、すごくしっくりくるわい。もしかしたら、忘れておる本名と、意味か音かで重なる部分があるのかも知れぬ」と言って、うんうんと頷いていました。

「それじゃあ、ヴァイオレット。今日からよろしくね」

「うむ、ミス・ティファニア。こちらこそ、よろしく頼む」

 この日、ウエストウッド村にひとり、新しい仲間が増えたのでした。

 

 

 こうして、ティファニア・ウエストウッドの庇護のもと、ウエストウッド村で仮初めの生活を始めたヴァイオレット。

 もともと、肉体的な怪我は(不自然なまでに)していなかった彼女は、翌日には病床を出ることができた。

 ヴァイオレットの当面の住まいとして、ティファニアは自分の住む家の一室を貸すことにした。東向きの窓がある小さな部屋だ。もともとは物置に使われていた場所だが、ティファニアが頑張って掃除をして、ベッドや机を備え付けたことで、過ごしやすそうな子供部屋に生まれ変わった。

 ヴァイオレットがその部屋に移り住むと、すぐに村の子供たちが様子を見にやってきた。その数は、ざっと十数人にも及ぶだろうか。幼い子供たちが、遠慮も何もなく好奇心だけで詰めかけてくるのだから、まるでお祭りのような騒ぎになる。

「その子が新しいおともだちー?」

「うわー、ちっちぇー」

「かわいいー」

「もう大丈夫なのー?」

「俺より年下?」

「ももりんご採ってきたから、食えー」

「こういう時は、搾りたてのはしばみ草ジュースよ!」

「ばっか、レーナ! デタラメ言ったらテファ姉ちゃんに怒られるぞー」

「うさぎさんの気持ちになるですよ」

「わ、わ、わ、なんじゃお前らー! よくわからんが、とりあえず散れー!」

 群がってくる子供たちのやかましさに、部屋中を逃げ回るヴァイオレット。しかし相手は、怯みもせずヴァイオレットを追いかけ、取り囲み、撫でたりつまんだりくすぐってみたり揉んでみたり、やりたい放題だ。ヴァイオレットの実年齢こそ不明だが、見た目は自分たちとたいして変わらないようなので、子供たちもまったく人見知りしない。

「はい、みんなそこまで! ヴァイオレットはまだ病み上がりだから、あんまりうるさくしちゃダメよ。もうちょっとして、しっかり元気になったら、一緒にお外で遊びましょうね」

「はーい」

「またねー、ヴァイオレットちゃん」

 暴走する幼い好奇心たちを、ティファニアが手際よくまとめて追い出した。

「ごめんね、ヴァイオレット。ベッドから出たばかりなのに、いきなりうるさくしちゃって」

「お、おお、まあ、ちと驚いたな。子供とは案外、迫力のあるものじゃ……敵に回したら絶対勝てんぞ。怖過ぎる」

「ふふ、大丈夫よ。みんな、新しいお友だちに興味津々なだけだから。元気があり余ってるだけで、心根はいい子たちばかりよ。

 だから、あんまり苦手意識は持たないで、仲良くしてあげて。しばらく一緒に過ごしていたら、あなたもきっとみんなのことが好きになるわ」

「ふむ……そういうもんか?」

 記憶を持たず、他人との関わり方も知らないヴァイオレットは、ティファニアのその助言を、素直に心にとどめた。

「しかし、子供ばかりで大人は顔を見せなんだな」

「あ……うーん、ちょっと言いにくいんだけど。このウエストウッド村は、家族のいない子供たちが集まってできた村なのよ。だから、今のあの子たちが、村の住人のほとんど全部だったりするの」

「なぬ? じゃあつまり、ここは村というよりは、孤児院に近いのか」

「そうね。大人は私と、外に出稼ぎに行ってくれている、マチルダ姉さんって人だけ」

「そりゃ……ちと大変なのではないか? 実質、ミス・ティファニアひとりで、あのわんぱくどもの世話をしとるってことじゃろ?」

「うん。確かに大変だけど、やりがいもあるし、楽しいわ。さっきも言ったけど、みんないい子たちだから。私がどうにもならない壁にぶつかったら、必ず助けてくれる。

 そうやって協力し合って暮らしてるから、つらいとか苦しいとか思うことは……ほとんど、ないかも」

 えへへ、と、はにかみながら言うティファニアに。ヴァイオレットは、ほうほうと頷く。

「なるほどのう。なかなか、いい環境であるらしい。我も、ミス・ティファニアのように、楽しく過ごしていけるじゃろうか」

「大丈夫! 子供たちも、ヴァイオレットのことを気に入ったみたいだし。

 それでも何か問題が起きたら、いつでも相談して。困った時はお互い様って言うし、みんなで支え合えば、きっとどんな困難でも乗り越えられるわ」

「そうか……うん、そうかも知れぬ。では、気楽にくつろがせてもらうとしようか」

「それが一番いいわ。……今日の夕食、何か食べたいものはある?」

「そうじゃなー、ぜひともプリンが食いたい。プリン」

「それはデザートでしょ、もう」

 あんまりなリクエストに、苦笑するティファニア。彼女から見たヴァイオレットは、比較的のびのびとしていて、新しい環境にそれほど萎縮していないようだった。

 ――それもそのはず。ヴァイオレットは、多くの会話を欲していた。

 記憶を失い、不安定になった精神が、立つべき土台を新規に築こうと、無意識の情報収集活動を行なっていたのだ。記憶を持たないがゆえに、目の前の状況、耳から入ってくる言葉を、素直に飲み込む。ティファニアの話は、特に参考になっていた。

 生まれたての子供のように、ヴァイオレットは、ゼロから世界を学習し始めていた。自分はどういう立ち位置にいるのか、他人とどう付き合えばいいのか。いわゆる世界の常識を、得られた情報をもとに組み立てていく。

 それは子供が大人になっていく間に、誰もが経るプロセスである。記憶喪失になる前のヴァイオレットも、自分の育った環境から学び、自分なりの常識を得ていた。

 ただ――今現在、ヴァイオレットがいるウエストウッド村という場所は――かつて彼女がいた場所とは、真逆と言っていいほどに、性質の異なる環境であった。

 どんな家庭で、どんな親に、どんな教育を受けるか。それは子供の人格が形成される上で、非常に大きなファクターとなる。

 となると、まったく違う環境で、まっさらな状態から知識を収集すれば。出来上がる常識の土台も、かつての彼女の常識とは似ても似つかぬものになる。記憶を失う前と同じ人格に成長することは、絶対にあり得ない。

 しかしその歪みに、誰も気付くことはない。ヴァイオレットの過去を知らぬティファニアも。当のヴァイオレット自身すらも――。

 

 

 ウエストウッド村で暮らし始めたばかりのヴァイオレットは、さっそく暇を持て余していた。

 記憶はないが、体は健康。体力も、二晩もゆっくり休めば充実する。

 もうとっくに病み上がりとは言えない。そろそろ何かして遊びたい。しかし、自分がどういう遊びを好むのか? 暇な時、何をして時間を潰していたのか? それを思い出せないので、どうしていいかわからない。

「……そういや、この村にはガキどもがいっぱいおるんじゃったな。あーゆー騒がしい連中なら、日の高いうちは寄り集まって遊びまくっておろう。ひとつ、仲間に入れてもらいにいくか」

 遊び方がわからないなら教わればいい。実にシンプルな論理に従って、ヴァイオレットは行動を始めた。

 ティファニアの家を出て、子供たちを探す。すると、木桶を手に下げた男の子が、森の方に歩いていくのを見つけた。

「おーい、そこのちびっ子ー。我は暇じゃ、何かして遊ばぬかー」

「あ、ヴァイオレットだー。もう外出て大丈夫なの?」

「体は全然平気じゃよー。というわけで遊ぼうぞ。木桶を持っとるが、虫でも捕りに行くんかや?」

「んーん、違うよー。川に水汲みに行くんだー。水瓶が空っぽになりかけてたから、補充しないといけないの。そのあとでいいなら、遊ぼうねー」

「ふむん、となると、今すぐは無理じゃな。わかった、帰ってきてから何かしようぞ」

 手を振って少年を送り出し、ヴァイオレットは当てが外れたことにため息をつく。

「水汲みか。我よりちびっこいのに、お手伝いとは感心な奴じゃ。あれか、ティファニアの言うておった、支え合いっちゅうやつか。

 我も悪いタイミングで声をかけたものよ。……ま、しゃあない。別の遊び相手を探すのじゃー」

 気分を切り替え、とてとてと村の中を巡り始める。

 次は女の子たちを見つけた。三人ほどおり、連れ立ってどこかへ向かっている。その背中に呼び掛ける。

「おーい、お前らー。暇なら一緒に遊ばんかー」

「あー。ヴァイオレット!」

「やっほー」

「ごめんねー。これから、畑の世話をしに行かないといけないの。雑草抜いたり、お水撒いたり……またあとで誘って欲しいなー」

「そうか、なら仕方ないのう……また今度じゃー」

 やはり、手を振って見送る。少し嫌な予感がしてくる。

「のうのう、そこな小僧。我の暇潰しに付き合って……」

「悪い! 俺、雨漏りの修理しなくちゃいけないんだよ! またな!」

「そっちの小娘よ、一緒に遊ぼうではないか」

「残念ながら、自家製石鹸の練り込み中でごぜーますよ。あとにしてくだせー」

「あ、遊び、」

「あたしたちね、森にももりんご採りに行くの! いっぱい採ってくるから、待っててね!」

 あの子も、この子も、どの子もその子も。

 ウエストウッドの子供たちは、みんな何かしらの仕事を、忙しそうにこなしていた。

 ――なるほど、と、ヴァイオレットは理解する。

 これがこの村での、子供たちの過ごし方なのだ。

 大人がいない村。何もかもをティファニアに任せ、一方的に世話をしてもらうだけでは、回らない。

 自分でも手伝えることがあれば手伝い、ティファニアや他の子たちのために貢献する。それが普通。それが、人間らしい生き方。

 ヴァイオレットは学習し、得た知識に自分の思考を適応させる。

 ――あれ?

 となると、もうすっかり元気なのに、何もお仕事してなくて、遊ぶことばかり考えてる自分って、いったい。

 途端に襲い来る居心地の悪さ。何だか、他の人たちの努力の上にどっかりと座り込んで、ひとりだけいい目を見ているような気になってくる。

 ――ちょ、ちょいとこれはよろしくないのでは。今のままでいることは、言わば『非常識』なんではないか。

 そう考えたヴァイオレットは、きびすを返して、ティファニアの家に戻った。

 保護者であり、家の主であるティファニアを探す。その立派なおっぱいは目立つので、すぐに見つかった。ブリキのバケツを横に置いて、廊下の掃除をしている――彼女が雑巾をぎゅっとしぼると、たわわな乳房も両腕に挟まれて、むにゅっと形を変えた。

「お、おーい! ティファニア! ミス・ティファニアや!」

「あ、どうしたのヴァイオレット? お昼ごはんはもう少し待ってね。ここの掃除をしてから、お洗濯して、薪を割って……そのあとでお料理、始めるから」

「い、いやいやいや、そういう催促ではなくてな。

 今ちょっと外に出て、ガキどもと話をしてみたらな。何かみんながみんな、忙しそうに仕事をしておってな」

「あー……うん。やっぱり人手が足りなくて。私ひとりで全部できれば、一番いいんだけど、ね」

「いや、それは別にええと思うぞ。お前さん、自分で助け合い上等みたいなこと言うとったし、連中も喜んでやっとるみたいじゃったしな。

 で、それで、じゃ。この村で今、何の仕事もないのって、どうも我だけみたいなんよ。ひとりだけ遊んどるのって、どーにも落ち着かんで……つ、つまり、そのー……な? 我にもできる仕事があったら、ひとつ回してくれるとありがたいんじゃけど」

「あら。……ふふ、嬉しいわ、ヴァイオレット。

 それじゃ、ええと。向こうの部屋に、取り込んだ洗濯物が置いてあるの。ほとんど、コットンのタオルなんだけど。それを四つ折りにたたんで、重ねておいてくれると、助かるわ」

「洗濯物たたみじゃな?わかった、任されたぞ!」

 与えられた任務を速やかに果たすべく、ぴゅーんと飛んでいくヴァイオレット。

 駆けていくその小さな背中を、ティファニアは微笑ましく眺めていた。

 

 

 環境と教育によって、子供の人格は大きく変化する。

 仕事を人にやらせて、自分だけ遊んでいることに居心地の悪さを覚える。すすんで人の手伝いをする。

 そんなありふれた思考が、かつての――記憶を失う前のヴァイオレットにしてみれば――天地がひっくり返ってもあり得ないものだと、気付く者は誰もいない。

 

 

 ――ヴァイオレットがウエストウッド村の仲間になってから、十日が経った。

 記憶のない彼女は、何をやるにも最初はおっかなびっくりだった。タオルを四つ折りにたたむくらいは何とかなったが、洗濯、掃除、畑の世話、水汲みなどは、根本的にやり方を知らず、仲間たちの教導が必要だった。

 不器用なタイプ、というわけではない。あくまで知識と経験が足りていないだけだったので、二、三回も手本を見せられれば、大体の仕事は問題なくこなせるようになった。

 飲み込みが早く、学習意欲も高い。もともと優れた頭脳を持っていたところに、ウエストウッド村流の助け合い精神が植え付けられたため、さりげない気使いもできるようになり、よく仲間を手伝った。

 なりは小さな子供である。しかし、その知性、立ち振舞い、気のききようは、どうも見た目通りのものではない。村で何か問題が起きると、「テファお姉ちゃんかヴァイオレットに相談しよう!」が合い言葉のように交わされるようになった。

 いつの間にか、ヴァイオレットはみんなに世話をされ、教えられる立場から、世話をし、教える立場になりつつあったのだ。

 

 

「ふんふんふふーん、ふんふふーん。今日の晩飯は〜、みんな大好きシチューなのじゃ〜♪」

 即興の歌を口ずさみながら、我は大鍋を木べらで掻き回す。

 もちろん鍋底は空っぽではない。大振りに切った鶏肉、玉ねぎにんじんじゃがいもさんを、バターでいい感じに炒めておるのじゃ。完成まではほど遠いが、この時点ですでに香りが素晴らしい。これはよいダシが出るぞー、うえへへへー。

「ただいまー、ヴァイオレット。はー疲れたー」

「今帰ったでごぜーますよー。今日の晩ごはんは何でやがりますか?」

 気持ちよく料理に熱中しておると、仕事帰りのガキどもが、泥だらけで厨房に入ってきおった。土のにおいというか、労働のにおいがぷんぷんする。今日も一日、手を抜かずに頑張ってきたのが、鼻で嗅ぐだけでわかってしまう。ええ子たちじゃ。

「おう、おかえりじゃー。畑の草むしりお疲れさん!

 今夜はシチューとパンなのじゃよー。行商さんが新鮮なミルクを持ってきてくれたでな、コクのある美味いのができるぞー。

 テファが風呂を沸かしておるから、まずは汗を流してさっぱりしてこい。出来上がったら呼んでくれよう」

「りょうかーい」

「楽しみでごぜーますよー!」

 トテテトトテと走り去っていく彼女らを見送って、我は再び鍋に視線を戻す。炒まり具合は――頃合いか。ここに水を放り込んで、コトコト煮込んでやるのじゃよ。

 しかし、この料理というやつはずいぶんと楽しいのう。テファに野菜を洗うところから教わり始めたから、まだレパートリーは少ないが、自分の手で美味いものを作り出すという行為には、なんつーか奇跡じみたものを感じる。原材料→完成品の差がものすごいもん。絵の具とカンバスから荘厳な絵画を、岩の塊から神聖な始祖像をこしらえるような、芸術活動に通じるものがある気がする。

 同じような意味で、掃除や洗濯も非常に興味深い。やることは要するに、自分の身の周りを清潔に保つというだけじゃ。ホウキで塵を払い、雑巾で磨く。水を溜めたタライの中で、汚れた衣服をゴシゴシ揉み洗う。頭を空っぽにして、それらの行為に没頭していると、何でかわからんが、いつの間にやら己の心の内まで、スッキリ爽やかになっておるような気がする。

 我はあまり多くの記憶を持っておらぬが、なぜかブリミル教についての知識はある。教典の文句はある程度暗唱できるし、特殊な儀式の手順も把握しておる。

 それらのディープな知識の中には、始祖像に向かって三日三晩黙祷を捧げることで、精神を清めるという秘法があったが、ある意味それに近い効果が、ごく単純な家事作業によっても得られるように思えるのじゃ。

 掃除や洗濯を通じて魂を浄化できるとしたら、この村の子供たちがええ子揃いなのも納得できる。連中、みんな自分の寝床周りは、自分でお片付けしとるからな。それを物心ついた時から続けとるとしたら、彼ら彼女らの心は、もはや高僧の域に達しとるのではなかろうか。

 ならば、それを見習って、この世の生きとし生けるものがみんな、掃除と洗濯を己の手でこなすようになったなら。きっと、全人類がここの子供たちのように、無邪気になれるはずじゃ。

 誰もが彼らのように、余裕と優しさを持ち、お互いに助け合えるようになるなら。貧富の差や暴力、国境による軋轢といった、人々を不幸にするあらゆるものが退治されるのではないか? うむ、この考えは真理かも知れん。我は断然、世の中がそうであることを推奨するぞ。

「お疲れ様、ヴァイオレット。とってもいい匂いね」

「おう、テファ。お疲れさん。今夜のメシは期待するがいいぞー。ぬっふっふっふ」

 気がつくと、後ろにテファが立っていた。風呂の準備をしていた彼女は、半袖のコットンのシャツに、ショートパンツというラフな格好であった。シャツの生地が湿気を吸い、肌にぴったりと張りついて、胸のばかでかい膨らみの形をくっきりと浮かび上がらせておる。なんとなく、ヴァルハラにおわす始祖が、目の前のものをもげと我に囁いておるような気がした。

 そんな我の内心など知りもしない彼女は、頭にかぶっていた白い三角巾を取りながら、我のかき混ぜる鍋をのぞき込んでくる。スープの中でごろごろと回転する肉や野菜を見て、目を輝かせるその様子は、先ほどのガキどもといくらも変わらん。

「おい、あんまり鍋に近付くでないぞ。三角巾で頭を覆っているならええが、今のお前は下ろし髪ではないか。髪の毛がスープに落ちたらどうしてくれる」

「あ、ごめんね。ついうっかり」

 我のすぐ横で、テファの柔らかい金髪が揺れた。

 ――ここに来てから、五日ぐらい経った頃じゃったろうか。どんなタイミングでのことじゃったかは忘れたが、我はテファの『顔』にまつわる秘密を明かされた。

 それは、ハルケギニアに住んでおる人間にとっては禁忌と言えるもので――彼女がこんな森深いところに、人目を避けるようにしてひっそり暮らしておる理由であった。

 我は、自分がどこの誰だかわからぬ。しかし、前述した通り、ブリミル教についての知識は持っておる。

 じゃから、本来ならば、テファの秘密を知った時点で、彼女を恐れるべきだったのじゃろう。きっと、記憶喪失になっていなければ、それまで積み重ねてきた学習と経験に従って、彼女を忌み嫌っておったと思う。

 しかし、今の我には、それができぬ。

 記憶がないゆえに、かつての人生を失っておるがゆえに。頭の中に残っておる知識を、自分の人格の一部と見なせぬ。無条件で従うべき、当たり前の常識であると感じられぬ。

 この十日間を一緒に過ごしたせいで、こいつが怖くもなんともない、ただのか弱くて好感の持てる娘に過ぎぬとわかっておるがゆえに。頭の中の不完全な知識を、信用することができぬ。

 ――もし将来、我がちゃんと、すべてを思い出すことができたなら。

 その時は、テファに対して、今感じている印象を優先させるのじゃろうか。それとも、本来の我が持っておった常識の方を優先させるのじゃろうか。

 どっちになるんじゃろうかなぁ。

 とりとめのないことを考えながら、鍋をかき混ぜ続ける。

 充分に煮込めたら、別に作っておいた牛乳と小麦粉のソースを流し込み、よーくなじませて。ドロリと濃厚な、うまうまホワイトシチューが完成する。

「よっしゃ、こんなもんでよかろ! テファ、ちびっこどもを食堂に集めろー。あっつあつのうちに、頂きますに持ち込むのじゃー」

「了解! みんなー、ご飯の時間よー!」

 よく通るテファのひと声で、わらわらわらわらとガキどもが集まってくる。連中は基本的に、てんでばらばらに行動しているが、メシの時だけは一糸乱れぬという表現がぴったりな動きをしよる。食事というものがどれだけ大切か、よくわかるな。

 それぞれ自分用の木の皿を持って、鍋の前に並んでくるので、一杯一杯シチューをよそってやる。順番は基本的に、ちっちゃい子からじゃ。――あ、おいボビー、ニンジンさんが入っているのを見て露骨に嫌な顔をするな! 好き嫌いしておると、大きくなれんぞ。――ベス、お前はお前で、露骨にニンジンさんばかりリクエストするんじゃない。好き嫌いしておると大きくなれんとは言ったが、ニンジンさん食ったからって、確実に大きくなれるわけではないのじゃ。そう、テファのおっぱいと、ニンジンさんは無関係なのじゃよ――。

 全員にパンとシチューが行き渡ったら、その日の糧が得られたことに感謝してから、頂きますをする。

 こいつら、列に並んどる時は大人しいのに、いざ食事が始まるとやたらうるさい。水をこぼしたりする奴がおったり、鶏肉の皮のついてる部分を奪い合っとる奴らがおったり、やっぱりボビーがニンジンさんを食うのをためらっておったり。

 ほれほれ、ニーナ。慌ててないで、この布巾でこぼした水を拭き取るのじゃ。濡れたのはテーブルの上だけで、服は大丈夫じゃな? よしよし、もう大丈夫じゃぞー。――ほれ、パウルとシモンは喧嘩するでない。ちょうど我の皿にも、皮付きの肉が入っておったでな、これをくれてやる。そうすれば争う必要もなくなるであろう? さ、わかったら仲直りじゃ。――ボビー、案ずるでない。ニンジンさんを食うのは、そんなにきついことではない。口入れて、何度かモグモグして、ゴックンすりゃいいだけじゃ。気づいておるか? さっきから、テファもお前のことを心配しておるぞ。お前の代わりにニンジンさんを食べてあげようか、どうしようかと、そわそわしておる。じゃが、お前は男じゃから、テファお姉ちゃんに助けてもらわんでも、自分でなんとかできるわな? ここはひとつ、勇気のあるところを見せてみい。ほれ、ほれ、ほれ――よし、食うたな! ようやったぞ! 立派なもんじゃ。褒美に頭を撫でてくれよう。

「ふふっ、ヴァイオレットは本当に、面倒見がいいわね」

「んー? そうかのう」

 ボビーの髪を、五本の指でもってワッシャワッシャと撹拌しておると、テファにそんなことを言われたので、我は首を傾げる。

「どーもこいつらろくなことせんから、つい放っておけずに口を出しちまうだけなんじゃがな。面倒見の良さで言うたら、ずっとこいつらをまとめておったテファの方が上じゃろうに」

「ううん。こういうのには、上とか下とかはないと思うわ。私はただ、あなたが他のみんなのために、いろいろしてくれるのが嬉しいだけ。

『つい放っておけずに』なんて言ってるけど、みんなのしていることを不愉快に思って、しぶしぶ世話を焼いてる、とかじゃなくて……みんなのことが本当に大好きで、手助けすること自体を楽しんでくれてるでしょう?」

「あん? おいおい、テファよ、何を言うとるんじゃ。そんなん、当たり前のことではないか」

 言わずもがなのことを言う彼女に、我はちとあきれてもうた。

 元気いっぱいで無邪気な子供たちに、好意を持たない人間なんぞ、この世にいるわけがない。

 そして、そんな可愛い奴らのために、何かをしてやるというのは――なんつーか、極めて自然なことというか。呼吸をすることのように、生きていく上でやらずにいられないものだと思うのじゃ。

「誰かの役に立てると嬉しい。困ってる奴を見たら、手を差しのべたくなる。人の幸せそうに笑っておるのを見れば、自分も幸せな気持ちになれる。

 そんなことは、人としてフツーにわきまえておるべき常識じゃ。だからこそ、目の前で面倒ごとが起きていたら対処するんじゃろうに。ことさらに注目するようなことではないぞ」

「うん……そうよね、ヴァイオレット。私、わかりきったことを言っちゃったかも。

 私も、まだまだ子供なのかも知れないわ。ヴァイオレットのこと、なんだかお母さんみたいに感じられるんだから」

 慈しみたっぷりの笑顔とともにそんなことをほざくテファに、我は可能な限りの渋面を作ってやる。こんな天然セクシーな娘なんぞ、いてたまるか。我は自分の年齢も覚えておらんが、この巨乳より年上である自信はないぞ。

「お母さん……じゃないとしても、学校の先生とか、伝道師さんとか、そういう雰囲気を感じるのよね。人の上に立つというか、人を導くタイプっていうか……もしかしたら、過去にそういう職業と縁があったんじゃないかなって、さっき思ったの」

「ふむ……」

 教師や、伝道師か。

 我自身が、いっぱしに仕事をしておったとは思えぬが、身近にそういう職業の人間がいたということはあるかも知れん。

 ブリミル教についての知識が豊かなことからも、かつての我が、聖職者の影響を強く受ける環境に生きておったことは、まず間違いない。たとえば、親とか兄弟がブリミル教の神官であったらば、就学時にその方向性の教育を受けることは必然じゃろう。

 家族から始祖の教えを学び、人としての生き方を教わったとしたら――なるほど、しっくりくる。

 我は記憶喪失という病気には詳しくないが、その症状はあくまで過去の出来事を思い出せなくなるというもので、性格を変えるものではないはずじゃ。

 となると、記憶を失う前の我も、今と大して変わらんものの考え方、価値観を持っておったと考えられる。

 働くことが好きで、子供が好きで、自分ひとりが得するよりも、みんなで得を分け合うことを望む。

 そういう性格の人間だった可能性が、非常に高い。

「確かに、説得力がある仮説じゃ。我の前身は、親を教師に持つ幼年学校の生徒か……あるいは、教会に入ったばかりの見習いシスターかも知れん」

「たぶん、確率が高いのはシスターじゃないかしら。最初に川べりで見つけた時、あなたが着ていた服も、かなりボロボロになってはいたけど、修道服に似てたような気がするし」

 ふむん。

 ならば、その方向で考えていけば、案外手がかりを思い出せるかも、な。

 普通の物忘れだって、忘れた内容と近しい情報を見聞きすることで、ポンと思い出せたりするし。ついこないだも、テファに頼まれた仕事をド忘れして、さて何やるんじゃったかなーと頭を悩ませておった時に、地面に落ちておった枯れ枝を見て、薪を取ってきてと言われたことを思い出した経験があった。

 我がシスターだったのなら、ブリミル教についての知識を反芻することで、それにまつわる記憶を取り戻せるかも!

「あ、でも、算術についても、わりといろいろ覚えとるんじゃよなー。シスターって、数の勉強とかするんじゃろか?」

「うーん。そこは私にもわからないわ。ブリミル教のことにも、算術のことにも詳しくないから……」

 ブリミル教と算術。そのふたつが、我の頭の中にかろうじて残っておる、過去への手掛かりであった。そのふたつを同時に学ぶ環境というのが、ちと想像できんが、実際に知識を持っておる以上は、かつての我はそれらを必要とする生き方をしておったのじゃろう。

 何はともあれ、まずはその手掛かりを手繰ってみること、じゃな。

「テファや、どっかに要らん紙とか、あるいは書き物に使えそうな大きめの板きれとかあるじゃろか? まずは、覚えておる教典の文句とかを書き出してみることから始めたいのじゃよ。

 算術の方も、同じように書いて復習していきたい。そうしとるうちに、思い出せることもあるかも知れん」

「それなら、物置部屋の奥に、古い黒板と白墨があったと思うわ。明日にでも、ヴァイオレットのお部屋に運んでおくわね」

「うむ、よろしく頼む。……っと、いかんいかん、食事中だというのに、ずいぶん話し込んでしもうた。せっかくのシチューが冷めてしまってはことじゃ。テファ、ガツガツとかき込もうぞ!」

「ああっ、ヴァイオレット! それは駄目よ、さすがに行儀が悪いわ! もう、やっぱり見た目相応なところもあるのね!」

 その注意については、我はわざと聞かぬふりをした。熱々の状態が美味しい料理は、熱々のうちに食う。それ以上に大切なマナーなぞ、あるはずがないからじゃ。

 

 

 それから、さらに三日が経った。

「よーしよしよし。お前ら、もう足し算引き算は完璧じゃな。んじゃ、次はかけ算とわり算についての話をしよう。この計算は、いくつかでワン・セットになっとる商品を買う時とかに役立つでな、耳をかっぽじって聞くと良い」

 我の言葉に、はーい、という元気のいい返事が返ってくる。

 壁に立て掛けた大きな黒板に背を向けて、我は学校の先生よろしく、算術の講義をしておった。

 生徒は、目の前におるウエストウッド村の子供たち。十二、三人ほどが床に三角座りをして、我と黒板とを見上げておる。連中の眼差しはなかなかに真剣で、こちらとしても教えがいがあった。

 ――なぜ、こんな教室を、我が開いておるのかというと。

 娯楽の少ないこの村において、我の記憶を取り戻すための作業が面白がられてしもうたため――ということになるじゃろうか。

 最初は我ひとりで、黒板に黙々と教典や数式を書き並べておった。初歩的なものから難しいものへと、段階を踏んで準々に。

 その光景を、好奇心旺盛なちびどもに目撃されたのが運の尽き。これ何書いてあるのー、どういう意味なのー、何のために使うものなのー、と、質問の大攻勢を受けるはめになった。あんまりしつこいんで、質問ひとつひとつに対して、二度聞き返されることのないように、懇切丁寧に説明をしてやったら――面白ーい、もっともっとお話聞かせてー! ということになって――ええいならば仕方ない、いっそちゃんとした講座を開いて、我が叡知をお前らに伝授してくれるわー、と大見得を切って――現在に至る。

 脳みそってのは基本的に、幼ければ幼いほど、知識の吸収効率が良い。それはイコール、子供ほど学習に飢えている、ということでもある。

 この閉鎖的な村では、遊びと言えば体を使うスポーツ系ばっかりで、頭を使う知的遊戯は発達しておらなんだ。そんなところに、我が体系的な知識を引っ提げてやって来たわけじゃから、連中にしてみれば物珍しくて、首を突っ込まずにいられんかったじゃろう。

 我が教えられるのは、ブリミル教の教義と算術じゃが、より人気があったのは算術の方じゃった。問題を解くことに、少なからぬゲーム性があるからじゃろう。足し算、引き算を教えた時は、誰が一番早く二桁の計算ができるか、全員で競争しておった。やる気があるのは実に良い。

「――てなわけで、みんなの皿にデザートのイチゴを三つずつ行き渡らせるためには、全部でいくつのイチゴを用意すればいいか、テファは自然に計算しとったわけじゃ。お前らが料理の手伝いをする時には、この計算を思い出すといいぞ。

 さて、このかけ算をスムーズにこなすためには、九九というものを覚えておくと非常に便利なんじゃが、これはちと量が多いので、何日かに分けて覚えることになるじゃろうな。とりあえず、全部ここに書き出してやるが、はて、お前らは今日中に、どこまで覚えられるかのー? くっくっく」

 白墨を黒板の上で踊らせる。ガキどもは集中して、記されていく九九の一覧表を読んでおった。こんな風に一生懸命勉強してくれると、教える方もやりがいがあるというものじゃ。

 ――最初は、我の記憶を回復させるために、頭の中の知識を復習するだけのはずじゃった。

 それが、ごく自然な流れで、子供たちにその知識を分け与えることになり。今では、むしろ教えることの方を目的にしているような気がする。

 なーんか本末転倒な気もするが、まあいい。これはこれで、充実した時間の使い方じゃ。

 いつかはすべてを思い出して、本当の自分に戻らねばなるまいが、急ぐ必要はない。まだしばらく、この村で、穏やかな暮らしを続けてもいいじゃろう。いまだに顔も思い出せぬ両親は心配しておるじゃろうが、我の親ならば、きっと穏やかで懐の深い人たちのはずじゃ。ここでの暮らしを話して聞かせれば、「良い経験をしたね」と、笑って許してくれるに違いない。

 

 

 ヴァイオレットの、ウエストウッド村での幸せな生活。

 彼女は、それがまだしばらく、いや、かなり長く続くものと信じている。

 しかし、あらゆるものはあらゆる瞬間に変化し続けている。

 同じ時間が、ずっと続くということは、まずない。

 変化の種は、いつどこからやって来るかわからないのだ。

 そして、そのうちのひとつが、わずか数十分後に、ウエストウッド村に舞い込んでくることになる。

 

 

「ヴァイオレット! ヴァイオレット! 大変、大変!」

 授業がちょうど終わった時じゃった。外から、テファの慌てた声が呼び掛けてきたのは。

 なんじゃなんじゃと、我は慌てて飛び出していった。ただ事でない雰囲気を察した、他の子供たちも一緒じゃ。

 果たして、我らが目にしたのは――なんかわからんボロボロの塊を背負った、テファの姿じゃった。

「おい、どうしたんじゃテファ、その塊は? たしかお前はキノコ採りに行っていたはずじゃが、シイタケやシメジにしては、そいつはやたらでかくないか」

「き、キノコじゃないの。人なのよ……森の中で、倒れてたのを見つけたの。かなり大きな怪我をしてるみたいで、放っておけなくて……」

 そういわれてよく見ると、確かにそれはヒトじゃった。いたるところにかぎ裂きをこしらえた、ぼろ切れのような服をまとった、いまいちパッとしない中年男。顔は血まみれで、目は虚ろで、口からは「ううん、ううん」と、苦しそうな呻き声を漏らしておる。

 こりゃ確かに、早く手当てしてやらんとまずい。

「エマ、ベッドの用意じゃ! ヘンリーは湯を沸かしてくれ。レーナは救急箱を! ……テファ、他に必要なものは?」

「ありがとう、とりあえず、それだけあればなんとかなると思うわ。……さあ、もう安心ですよ。気をしっかり持って……!」

 背中で呻いている男に、テファは優しい言葉をかけて励ましておった。我も、遭難したところを彼女に救われた時には、同じように声をかけてもらっていたのじゃろうか。

「しかし、この人は何者じゃ? 木こりとか猟師にしては、貧弱な体つきじゃが……かといって、野盗にも見えんし。道に迷った旅行者かのう?」

 我は、男を子細に観察しながら首を傾げる。髪やヒゲがきれいに整えられておるので、わりと上流層の人間であることは間違いなさそうじゃが、それ以外に身元を確かめられそうなデータが一切ない。服がちゃんとしておれば、その仕立てから、貴族なのか裕福な平民なのかの区別ができそうじゃったが、こうもボロボロではそれもかなわぬ。

「身分とか、職業とかはわからないけど……名前はわかるわ。私が見つけた時、この人、まだ意識があったから、名前を尋ねておいたの」

「ほう、それはよかった。この人が我のように記憶を失ったとしても、名前は自分のを使えるわけじゃな。

 で、何ていう人なんじゃ? このおっさん」

 ぐったりした男の頬を指でつつきながらの、我のといかけに。テファは素直に答えてくれた。

「オリヴァー、って言っていたわ。オリヴァー、なんとかさん。

 家名も持っていたみたいだけど、それをはっきり言う前に、気を失っちゃってたの……」



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