インポテンツ提督がヤンデレ鎮守府を切り抜けるようです (赤目のカワズ)
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1話

久しぶりにマルドゥック・スクランブルを読んだので、一つ。


インポテンツ提督がヤンデレ鎮守府を切り抜けるようです

 

「艦娘ってのは黄金の鼠なのさ」

 

いい得て妙な表現であると俺は感じた。成程、言われてみれば、この現状を正確に言い表した言葉はこれ以外に存在し得ない。俺がインポテンツなのは全て黄金の鼠のせいだ。

 

艦娘。

正味な話、それがどういう存在であるのかさえ、俺は知らない。世間様の言葉を引用するなれば、深海棲艦がどうの、大戦中の記憶がどうのとの事であるが、真相は闇の中だ。

指揮系統を預かる身でありながらそれは如何なものであろうかと、表沙汰になれば近隣住民からの苦情が燃え上がる事間違いなしではあろう。

 

――――突如として一鎮守府の一提督として栄光の架け橋を原付バイクで駆けあがる事となる俺を待っていたのは、二十三十の倫理、人権、その他多岐に渡るカウンセリングであった。

 

曰く、艦娘なるモノは一見人間と全く変わらず外見をしており、曰く、艦娘を兵器として運用するにあたり、人権団体からの抗議は根強いものがあり、曰く、護国の第一線を往く者として艦娘に劣情を催す事は決してあってはならない事であり、曰く、曰く、曰く、曰く…… 

 

長い旅路を終えた俺は見事に勃起不全に陥っていた。ロリにもJKにも熟女にも、俺の息子は答えてくれない。今や俺の息子は小便を垂れ流すだけの要介護者だ。全国津々浦々、様々な鎮守府でこのような悲劇が溢れている事に涙を禁じ得ない。

 

所が、どうやらインポテンツにまでなったのは俺ぐらいで、他の同僚達は普通に健康体らしい。死ね。まあ艦娘に手出したらアウトであるため、その手の不安がなくなった事だけは、パンドラの箱に残った最後の希望であった。

 

と、つい最近まで思っていたのだが…………

 

「………………」

 

見られている。だが、何処からは分からない。

質素を重きにおいた執務室に、僅かに緊張が波立てた。だが、それを気づかれてはならない。あくまで、素知らぬふり。一瞬止まりかけた手を再起動させ、書類に目を動かす。

 

「……………」

 

見られている。だが、その視線を探してはならない。その行動の先には、仄暗い水の底を覗いた時のように、暗い未来が立ち込めている。

緊張で充満する部屋の空気が張り裂けたのは、正にその時だ。

 

「HEY! 提督ゥ! Lunchお持ちしましたネー!」

 

「……お前か、金剛」

 

「What?」

 

「ああいや、なんでもない。それと、扉を開ける時は必ずノックする事」

 

「Boo! 私と提督の仲なんだから、固い事は言いっこナシでショ?」

 

「全く……」

 

勢いよく開かれた扉の先には、お盆に昼食を乗せた金剛型の少女がいた。ウィンクをしてみせる彼女の気安さに、思わず顔が綻ぶ。

彼女の到来を機に、背筋に走り続けていた悪寒が途端に霧散する――同時に、粘度を帯びたあの視線も。

 

「提督、どうかしましたカ?」

 

「な、何がだ?」

 

「何だか顔面がブルーマンみたいネ」

 

「…………」

 

「HAHAHA、ブリティッシュジョーク! ……っと、冗談はさておき、ちょっと体調が悪そうデース」

 

「ああ、大丈夫、大丈夫だよ」

 

股間の紳士は機能不全のままだけどな。

思わず口を滑らせたくなった所をぐっと我慢して、俺たちは昼食に移る事にした。今日の献立は、食堂から取り寄せたカレーである。

直接食堂に赴いても良かったのだが、俺のサインを必要とする書類が殊の外多く、今日は金剛にわざわざ出向いてもらう事になった。

海軍仕込みのスパイスの香りが執務室に蔓延る。ほんのりと湯気立つそれにスプーンを忍ばせ、抉り取った腸を口に放り込むと、咀嚼する度に美味しさが増すように思えた。

 

「美味しいですカー?」

 

「ああ、美味い、最高だ」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「フフッ、それは良かったデース。提督の笑顔を見ていると、それだけでお腹が一杯になりマース。正に、幸せ太りという奴ですネ」

 

「それは語弊を招く危険が……。まぁ、いい。お前もさっさと食え。冷めるぞ」

 

「yes! 腹が減っては戦が出来ぬ、ですネ?」

 

「その通り」

 

深海棲艦との戦いは過酷かつ激務で、こういった日常のひと時を味わう度、その大切さを噛みしめる事となる。お釣りとばかりに、自分の息子の具合ばかり気になってしまうのは困りものではあるが。

それにしても、こうやって食事を共にしていると、艦娘という存在が一層興味深く思えてくる。何せ、どこをどのような角度から見ても、人間とまるで変わらない。

スプーンを口元に寄せる仕草、立ち振る舞い、どこをとってみてもうら若い、そして可愛らしい少女そのものだ。本当に、艦娘とは一体どのような存在であるのだろうか。

 

不意にふって湧いた私の思案を、金剛は目ざとく見つけてみせた。

 

「HEYHEY! 提督ぅ、私の顔に何かついてますカ?」

 

「ん? いやいや、なんでもない」

 

金剛の言葉に我を返してみれば、手元には己の失態が広がっていた。成程、先ほどまで懸命に動いていたルーチンスプーンが何をするわけでもなく空中で静止していれば、食べるのも忘れて何か考え事をしているのは想像がつく。

俺は小奇麗なお為ごかしも出来ないまま、彼女の質問から顔をそむけた。

そんな態度を示されたのだ、金剛も黙ってはいない。

 

「むぅ、言いたい事があるなら言ってほしいデース」

 

「……そういえば、同型艦がいなくて、寂しくはないか? 俺としても、早く全員を建造してやりたい所ではあるが」

 

「ムッ、あからさまな……まぁ、確かにマイシスター達がいないのは寂しく感じますネ……ハートの隙間を、提督が埋めてくれてもいいんですヨ?」

 

「ははは、それが出来ればどれだけ良かったか」

 

主に憲兵とマイサン的な意味で。

それにしても、俺の打った逃げの一手を快く快諾してくれた金剛には感謝せねばなるまい。

正味な話、この手の話を艦娘自身と話すのはなるたけ避けたい気持ちがあった。深淵と目が合うとはよく言ったもので、後戻り出来なくなってしまう予感がある。

忌避すべきラインギリギリを低空飛行しながらも、金剛との会話はそれなりな弾力を持っていた。

いくらEDであろうと、こんなに可愛い少女と会話が出来るのだから口数も自然と増える。この程度の役得があっても、誰も文句は言いやしないだろう。

 

「さて、そろそろ仕事に戻ろう。……悪いが、下げてくれるか?」

 

「お任せデース! ちょっと離れますガ、寂しがらないでくださいネ?」

 

「ははは、子供じゃあるまいし」

 

お盆を持ち上げ、部屋を出る際に再度ウインクを決めてみせた金剛に、俺は思わぬときめきを感じた。伝説の木が一本二本鎮守府内に生えていたならば、俺は日を待たずに彼女の事を呼び出していただろう。無論、爆弾処理は怠らない。

金剛が飛び出ていった執務室は、にわかに静寂を取り戻しつつあった。こうなってくると彼女の騒がしさが恋しくなってくるが、易々と自分の言葉を翻すわけにもいかない。

シミがつかないよう収納していた書類一式を取り出した俺は、早速仕事に取り掛かる事にした。

鎮守府内での業務は一律俺のサインを必要とする。上層部に提出する際のものは勿論、物資受け取りに至るまで、あらゆる書類は一度俺の手元を通さなければならない。

本音を言えば、大淀や秘書艦あたりに権限を回してもらいたい所なのだが、艦娘という名のオーバーテクノロジーを一手に引き受ける関係上、このような体裁である必要があるらしい。

面倒なものだとペンを走らせながら一人毒づく。その一瞬の緊張の緩和を前に、あの視線が黙っている筈がなかった。

 

「……またか」

 

気のせい、と一笑に付すには、くどすぎる。

何かしらの思念。背筋を震え上がらせるほどのそれは、あまりにも強烈過ぎて、もはや執務室の一角を支配する異物感にまでなり果せていた。

窓の方を、見る。誰もいない。誰もいるはずがない。

しかし、一瞬見慣れた物体が横切るようにして窓枠の向こう側へと消えていくのが目に映り、俺は暫し目を見開いた。

電流が走る。

 

「……艦載機?」

 

米国の最高傑作が見るも無残な姿で水底に沈んでいったのは、深海棲艦との戦争が始まってまだ間もない頃だ。

F-35。最強の戦闘機として名を馳せたそれは、なす術もなく深海棲艦の手に堕ちた。今となっては未だに操縦席に骸を抱えたまま、市街地を炎の海で包む最悪の悪魔と化している。

この敗戦を受けて、現代における最高傑作に取って変えられたのが現在主流となりつつある艦載機だ。

玩具を思わせるそれは、見た目に反して凶悪で、今や深海棲艦を両の指では数え切れぬほど落としてきた。艦娘とリンクを果たす事で、そのポテンシャルは無限の可能性を秘める。

とまぁ一般に公開かつ俺の権限で知りうる情報はここまでな訳だが、正直今はそんな事どうだっていい。

重要なのは、艦載機であれば窓から誰には憚る事もなくこの執務室の様子を伺う事が可能だという点だ。俺が視線を窓に向けた所で、窓枠にすぐ身を潜められるという事もある。

しかしその際疑問になってくるのが、一体、誰が、何の意味で?

 

「……現段階では何も言えんが、私的な利用はご法度もんだぞ」

 

俺の心中はおだやかじゃない。

口と眉で必死に上司面を作って見せるも、内心は心苦しい気持ちで一杯であった。

何者かが俺の様子を伺っているならば、それはつまり、俺の普段の様子を求めている事だ。

俺の、提督としての一日を。提督たる人物であるのかどうかを。

 

「…………信用、されていないんだろうか」

 

こちとらインポテンツになってまで護国に勤しんでいるというのに、こんな扱いはあんまりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「失礼します」

 

「ああ、入ってくれ」

 

暫くしてから、俺はある艦娘を執務室に呼び出していた。

彼女の名前は加賀。鎮守府に名を連ねる航空母艦の一人である。

その凛とした佇まいは、職業柄空母達が嗜む弓道に因るばかりでなく、彼女の気質に因る所が大きい。

静謐な雰囲気をふりまく彼女は、それでいてその意志の強そうな瞳が特徴的であった。

 

「…………何か?」

 

呼び出されるような不手際はした覚えがない。執務机の前に立った彼女はそう言外に言って見せて、手持無沙汰に自前のサイドポニーに指を走らせた。

気圧される自分がいる事を自覚しながら、俺は場を和ませるように笑みを作る。

 

「いや、何、大して重要な話じゃないんだが……ああ、そうそう、先日の戦績、素晴らしかった。言うのは二度目になるが、よくやった」

 

「その程度の事でお呼びになったのですか」

 

彼女の表情筋はあまり豊かでない。しかしそれなりに積まれた彼女との付き合いが、彼女の今の心情を即座に割り出した。

不味い、苛立っている。しかし、この手の話を通すなら最も冷静な彼女を除いて他にはいない。

俺は意を決して話を始めることを決めた。

 

「あー……その、だな」

 

「…………」

 

「実は、相談したい事があるんだが」

 

「相談? なにかしら?」

 

「実は…………」

 

事の次第を説明する。

次の瞬間、俺はこの世のものとは思えないものを見た。

冷静沈着に重きを置くはずの彼女が、顔を思いっきり歪め、舌打ち。

 

「…………加、賀?」

 

「誰かは分からないけれど、そんな下らない理由で艦載機を私的に使用するなんて、ね」

 

その言葉に我を返した俺は、しどろもどろになりながらも相槌を打った。

 

「あ、ああ……そうなんだ。無論、不甲斐ない俺が一番悪い事は分かっているんだが、鎮守府内であろうと何が起こるかは分からない。軍規には従ってもらわなければな」

 

「ええ、そうね。取りあえず、皆には私の方から話を通しておきます」

 

「頼む」

 

再び鉄面皮を張り付けた加賀の顔を見て、俺は先ほどの出来事を見間違いであると結論づけた。そうでもしなければ俺はショックで寝込んでしまう。

処女信仰も大概である事は分かってはいるが、女性もあんな表情をするという事実は出来るだけ胸元の奥深くに仕舞い込んでおきたい。

ああ、しかし、もしも俺の性癖がド変態でアレな感じだったら、先ほどの表情に興奮してマイサンも……

 

「提督」

 

「な、なんだなんだどうした! 俺はノーマルだぞ!?」

 

「……? 一体何の話?」

 

「い、いや、何でもない! そ、それでどうした?」

 

「いえ……その……あまり、気にしないで」

 

「何をだ?」

 

急に声色がか細くなっていくのを見て、不思議がった俺は、彼女を体を乗り上げて覗き込んだ。

加賀が後ずさる。ショックだ。

 

「す、すまない」

 

「あ……今のは少し、驚いただけで」

 

加賀はそこから再び、遠慮がちめいた視線を送るだけの人形になってしまう。

何か至らぬ事をしでかしてしまったかと心の汗を掻いていると、一文字に結ばれていた唇がようやく言の葉を発した。

 

「提督は、よくやっていると思うわ。あまり、気にしないで」

 

「そ、そうか? 加賀にそう言われると、ついつい嬉しくなってしまうな……」

 

これは本心だった。実の所、艦載機を飛ばしていたのは加賀ではないかという気持ちも少なからずあったので、その本人から直接このような言葉をもらうとは想像だにしていなかった。

彼女には人を寄せ付けない雰囲気があり、どうにも彼女との交流は深まっていない。

初の第三種接近遭遇が不甲斐ない結果であった事もあり、彼女にはどちらかというと苦手意識の方が強かった。

そう思っていた折、彼女の方からこのような対応をしてもらったとなれば、思わず頬も綻ぶ。

 

「……言わなければよかったわ」

 

「す、すまん……と、とにかく話はこれで以上だ。悪かったな、わざわざ呼び出して。後は宜しく頼む。直接俺が言った方がいいのかもしれないが、いちいち目くじらを立てられては、彼女達も気が気でないだろう」

 

「別に提督は悪くないのだから、気を病む必要はないわ」

 

「ははは、そう言ってもらえると助かる」

 

こちらに吊られてか、加賀の口角が微かに上へ。

やはり美人の笑顔はいい。股間に響くものがある。無論、加賀の微笑は性欲云々を超越した所にあるわけだが。

そのまま暫く加賀と談笑を続けていると、金剛が帰ってきた。

 

「ヘーイ、テイトクー! 資材運搬の方、滞りなく終わったネー!」

 

「…………」

 

「oh……加賀サン……」

 

心底驚いた様子で、金剛は目を見開いた。加賀がいるとは思ってもいなかったのだろう。

 

「どうした金剛? そんな所で立ち止まってないで部屋に入ったらどうだ」

 

「ah…………」

 

「…………?」

 

微妙な雰囲気。奇妙な膠着状態。線上に並ぶ形で、俺たちは口を閉じたまま立ちすくしてしまう。

……仲、悪いのだろうか。

 

「それでは、私はこれで」

 

「ああ……」

 

加賀は矢継ぎ早にそう言うと、踵を返してそそくさと執務室を出てしまった。

入れ替わりになる形で、金剛がようやく部屋に入ってくる。

 

「あー……金剛」

 

「なんですカー?」

 

「……職場関係ってのは大切だぞ」

 

「私、OLじゃアリマセーン」

 



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2話

 インポテンツでマザーコンプレックス。そんな俺と結婚してくれる女性は果たしてこの世に存在するのだろうか。大和撫子の死滅した現代日本には絶望と憤りしか覚えない。

 

「うぐっ……ほうじょう、お酒……」

 

「提督、今日はもうよした方が……」

 

「ええい、上官命令だぞ! 聞かないと南に飛ばすぞ!?」

 

「ああもう……でしたら、あと一杯だけ。それで終わりにしましょう。ね?」

 

「あー、さすがはお母さん、話がわかるなぁ、うんうん」

 

 上機嫌で頷き返す俺とは対照的に、鳳翔はどことなく呆れ顔だ。どうしてそんな顔をするのか、酩酊した思考回路ではさっぱり分からない。

 鳳翔は鎮守府内でも数少ない、気兼ねなく会話を出来る相手の一人だ。

 事の発端は、彼女が時折開く居酒屋での酒の席で、うっかり持病(インポテンツ)について口を滑らせてしまった事に起因する訳だが、それを抜きにしても、俺は彼女に首ったけだ。

 母を思わせる柔らかな微笑、そして抱擁感。垂れ目越しの優しげな視線は、亡郷における少年時代をフラッシュバックさせる。

 あの時、あの時間、俺を見守ってくれていた母の温もりを彷彿とさせる鳳翔の存在は、今や俺の心のオアシスだ。

 少しばかり気安い態度をとってしまうのは自分自身反省すべき点ではあるのだが、特に嫌な顔もせず、にこやかな接客に従事する鳳翔の姿を見るにあたって、ついつい気が緩んでしまう。

 

「もう疲れたよ鳳翔、毎日毎日仕事仕事。俺は何時になったらここから解放されるんだ? 戦局はどうなんだ? 上層部は何も答えてくれない……」

 

「何時もお疲れ様です、提督。今日はせっかくの非番ですし、日頃の疲れを思う存分癒してください……最も、飲むのはほどほどにしてもらいたいのですが」

 

「分かってる分かってる。母さんはすぐこれだ……」

 

 愚痴と反目をいっぺんに吐き出しても、鳳翔はにこやかな笑みを浮かべるだけだ。それが俺の気分を一層楽にしてくれる。

 よくよく考えれば、妙齢の女性が母親云々コブ付き云々名指しで呼ばれる事を、鳳翔は内心どう思っているのだろうか。艦娘以前に、俺は男として無礼千万にあたる行為を平気でやっている気がした。

 それが言外に伝わったのであろうか、俺のどんよりとした視線を受け止めて鳳翔は首を傾げる。

 

「どうかされましたか?」

 

「いや、何……内心鳳翔は、こんな提督に失望していたりするのかと思ってな。一部下としては、こういう上司の所に割り当てられて、さぞ残念がっているのではないか?」

 

 そこまで口にして、俺は自身の失態を知った。酒で滑らかになった舌はぺらぺらと己の内心を吐露する事に汗をかいてさぞいい気分であろうが、困るのは鳳翔だ。

 立場的に上司を批判する事など出来ないであろうし、上司からそんな風な目で見られているともなれば、彼女もいい気分はしないであろう。

 俺は先ほどの言葉を撤回しようと、しかし気恥ずかしさもあいまってか中々ニの口が告げず、顔を隠すようにして軍帽を深く被りなおした。

 

「いや、悪い。今のは失言だった。忘れてくれ」

 

 顔の赤みは酒だけでない。視線を上にあげる事が途端に出来なくなってしまった。

 鳳翔はいったいどんな顔をしてこの話を聞いていたのか。おっかなびっくり視線を向けてみたい好奇心よりも、恐怖の方が勝る。

 ところが、回っていた酔いが急に醒めてきた最悪の気分を前に到来したのは、天使であったのだ。

 

「そんな顔をなさらないで下さい、提督」

 

「……鳳翔?」

 

「確かに、提督は誉れある海軍軍人にふさわしくはないのかもしれません」

 

「…………」

 

「でも、私個人としては…………いつも頑張っている提督が、私だけに、私だけに、こういった脆い一面を見せて頂けるのは……少し、嬉しかったりします」

 

「天使だ……」

 

 そうか、天国はここにあったのか。桃源郷は、黄金の国ジパングは確かに存在したのだ。

 ラブリーマイエンジェル鳳翔を前に、俺は涙を零す。神よ、確かに貴方は安らぎを与えたもうた。今の俺なら右頬ばかりか股間の紳士に向かって急所攻撃されても文句は言わない。むしろ左頬の代わりに、進んで露出する。

 

「うう、やはり、鳳翔が居てくれると心のバランスが安定するな……」

 

「言い過ぎですよ」

 

「いやいや、褒めても褒め足りんよ、鳳翔の事は」

 

「もう、上手い事言ってくれますけれど、本当にお酒はこれで終わりですからね?」

 

「ははは、そこを何とか」

 

 とっくの昔に空になった日本酒。鳳翔さんの店ではとことん燗酒を攻める。勿論、季節によってそれはまちまちだが、肌寒い日々を過ごすのであれば燗をつけてもらわなければやってられない。

 

「あー、この一杯のために、日々を生きている気がするな……」

 

「もう……明日二日酔いになっても知りませんよ?」

 

「大丈夫大丈夫。元々俺は下戸なんだが、下戸って奴はすぐ酔うがすぐ醒める。モウマンタイだよ」

 

「肝臓を傷めますよ?」

 

「うっ……そう言ってくれるな」

 

 まだまだ壮健を誇っていい年頃で、健康の事を気にしたくはない。それに、病気なんてのは気の持ちようだ。煙草酒を延々とやり続けて九十歳まで生きる輩もいれば、酒もたばこも一切やらない奴がさっさと早逝する。世の中、何が起こるかなんてわからないものだ。

 最も、健康云々に対し、何かを言う筋合いはないだろう。インポテンツなどという大病を患っている訳だからであって、こいつが治る保証はどこにもない。

 一瞬の内に広がり始めた心の闇を払拭するが如く酒を一気に飲み下すと、鳳翔が小悪魔めいた笑みを浮かべながら、

 

「そういえば、飲酒がEDを誘発すると聞いた事がありますね……」

 

 やめてくれ鳳翔。女性の口からEDだなんて、正直めっちゃ興奮する。それに俺のインポテンツは心因からくるものだ。

 からかわれた俺は、思わず吹き出しそうになったのをぐっと堪えて、反撃を開始する。

 

「鳳翔、EDじゃなくて、別名称で言ってくれないか?」

 

「……! あらやだ、提督、本当にもうお酒はよした方が……!」

 

 朱の差した頬で、遠慮がちな声をかけてくる鳳翔。ぶっちゃけた話セクハラ問題で裁かれそうだが、熟れた林檎のように動揺する鳳翔の赤ら顔が見られたのだ、十分おつりが回ってくる。

 しかし、ここまで来ると、酒の勢いが怒涛の追風となって俺を責めたてるわけで。

 

「ほら鳳翔、言ってみてくれ」 

 

「そんな、もう、提督っ」

 

「インポテンツ。プリーズ、リピート、アフター、ミー。インポテンツ」

 

「…………イ」

 

「い? もっと大きく言ってくれないか? 言っておくがこれは上官命令だぞ」

 

「…………インポテンツ」

 

「グラシアス。今日は良い気分で眠れそうだ」

 

 録音すればよかった。

 可哀そうに、今や鳳翔は顔を俯かせ、酷く赤らんだ顔を必死に隠そうとしている。ぶっちゃけた話インポテンツはそこまでアダルトな用語ではない筈だが、なんていったって響きがエロい。

 それにしても、ここまで恥じらいを見せてくれるなんて、やはり鳳翔は最後の大和撫子なのかもしれないな。もっと、その羞恥で歪んだ顔を間近で見たくなる。

 気づくと、俺は身を乗り出してカウンターを挟んだ先にいる鳳翔に顔を近づけていた。

 

「やだ、提督っ!?」

 

 後ずさろうとした鳳翔は、草食動物よりも脆弱な存在だ。逃げれないように肩に手をやるだけで、彼女は簡単に肉食獣の前に屈してしまった。

 その頤に指を走らせる。

 

「もっと見せてくれないか? 鳳翔の可愛い顔を……」

 

「そんな、私、まだ……」

 

 憲兵なんて糞くらえ! ぶっちゃけ股間の紳士が再起不能状態でもいくらでも楽しめる!

 そんな邪な気持ちが俺の全身を支配し始めるのに、さして時間はいらなかった。

 キスだけでも! キスだけでも! しかし、その時の俺は、とある事実を失念していたのだ。

 居酒屋の入り口には、鍵がかかっていない。

 

「………………」

 

「し、不知火っ!?」

 

 愕然として振り向くと、入り口の引き戸をうっすらと開け、少女がこちらの様子を窺っていた。

 月光に反射する蒼い髪留めでショートポニーを作る彼女は、一見年相応の溌剌さを持っているようにも思える。その実、その心が秘めるのは凍てつくような視線と冷静さだ。

 すらりとした体躯に、鋭い眼光。こちらを監視していたであろう少女は、ゆっくりと戸を開けて、店内に入ってきた。

 

「ど、どこから聞いていた? どこから見ていた?」

 

 もはや言い訳が無用である事を悟った俺は、単刀直入に不知火を問いただす事にした。

 

「インポテンツがどうのと、婦女子に対し破廉恥な物言いを強要させ、あまつさえ、股間のビッグマグナムで鳳翔さんを暴行しようとしていた所からです」

 

「待て待て待て! 捏造だ!」

 

 俺のマザコンがばれなくてよかったと楽観視する事は到底できそうになかった。

 不味い。端から見てもセクハラかプレイの一種としか見えないのだ。誰かに見られようものならば弁明の余地は存在しないというのに、何故鍵を閉める事を怠ってしまったのか。

 急激に覚醒を果たした俺は、泥酔していた自分自身を呪うしかなかった。

 

「けだもの」

 

「うぐっ…………」

 

 辛辣な物言いが、次々と押し寄せる。不知火の冷徹な視線に、俺は生きている気がしない。

 彼女が俺に辛く当たるのは昔からで、今回はよりにもよってという思いがある。駆逐艦の中でも精神年齢が低い者達であれば誤魔化しようがあっただろうし、よくここを訪れる呑兵衛達であったならば、俺の酒癖の悪さから色々と察してくれただろう。

 しかし、彼女は何故ここに? 不知火がこの居酒屋を利用しているなんて話、一度だって聞いた事がない。

 俺が思考停止に至っている最中、不知火は我関せずといった風にずかずかと店内に乗り込むと、俺と隣の席に腰を預けた。

 

「鳳翔さん、スミノフを一つ。オレンジジュースで割って下さい」

 

「……あっ! はい、只今」

 

 同じく思考停止に至っていた鳳翔であったが、商売気質か、不知火の注文でようやく我に返って、そそくさと支度を始めた。

 無言で佇む不知火に合わせて、落ち着きを求め始めた尻を座らせる。

 

「…………不知火も、こういう所に来るんだな」

 

「いけないですか?」

 

「いや、別にそんな事は……それにしても、ウォッカか。お酒、強いんだな」

 

「いえ、少々ロシアに縁があるだけです」

 

「…………?」

 

 その言葉に俺は違和感を抱いた。駆逐艦不知火とロシアに縁など存在していただろうか。戦前の記録を事細かに覚えている訳ではないため、はっきりとはしないが。

 しかし、今重要なのはそんな些細な事ではない。問題なのは、この室内を支配し始めた居心地の悪さに他ならない。

 暗怪、暗礁、暗雲、黒雲……。

 沈黙を打開するための勇気を捻出する事に、どれだけの時間を要しただろうか。

 そこまで準備に時間をかけておきながら、震える唇、そして微かに漏れ出る域でしかない声色に、俺は己の肝っ玉の小ささを感じ取った。

 

「……その、不知火君、は」

 

「君?」

 

「いやいや、不知火。先ほどの事はどうか内密に頼む。どうも俺は酒癖が悪くてな……さっきのあれは酒の勢いもあって冗談が過剰に演出されてしまっただけなんだ」

 

「それなら、今後一切お酒は飲まない事をお勧めします」

 

「うっ、しかし、それはだな……」

 

「不知火はどこか間違っていますか?」

 

「いや、確かにお前の言い分は正しい。だが、酒が俺の精神安定剤である点を踏まえると……」

 

「お母さんに暴行する前に、決断する事をお勧め致しますが」

 

「なっ、お前、もしかして最初からっ」

 

 そこで俺は白旗を上げた。戦闘の放棄だ。これ以上は戦線が拡大し、被害が深刻になるばかりであり、正に百害あって一利なし。

 落胆は体にのしかかり、自然と尻は椅子の先端側へと滑り落ちていく。

 酷くだらしのない恰好で、俺は戦後交渉を始めた。

 

「……何がほしい」

 

「買収ですか」

 

「そうとも言う。……しかし、何度も言うようだが、さっきのはじゃれあいの延長線でしかないんだぞ。なあ鳳翔?」

 

「え? ……あ、ええ、そうです。その通りです」

 

 ウォッカを割っている最中である鳳翔に声をかけると、空気を読んでくれたのであろう、こちらを支援する形で彼女も同意してくれる。

 実際、先ほどさして抵抗がなかったのも、彼女が俺の持病を知っている所に比重が大きいと思われる。レイプしようとした所で、それは色々と空しくなるだけだ。

 そういえば、あれだけ接近してもさしたる反発がなかったのは、呑兵衛にたいする対応苦慮もあったであろうが、なんだかんだでキスぐらいなら許してくれたのだろうか。 いや、酔っぱらってキス魔に変貌した隼鷹に頬をせがまれるのなんて鳳翔としても日常茶飯事であったし、俺との関係もその程度のものだったのであろうか。

 

「何か、いかがわしい事を考えていませんか?」

 

「な、何だって!? 誰もそんな事は考えてないぞ!?」

 

「なら、別にいいのだけれど」

 

 そう言って不知火は、カウンターに回ってきたウォッカのオレンジジュース割りを一気に飲み干してしまった。空いた口が塞がらない俺を尻目に、空になったグラスを見つめる。

 

「……何か嫌な事でもあったのか? 相談ならいつでも乗るが」

 

「先ほど嫌なものを見ました」

 

「うぐっ」

 

「別に普段から飲み方にはこだわりません」

 

「そ、そうか……いや、それにしてもさっきのは常軌を逸した飲み方だったぞ。まぁ確かに、上司にもスピリタスを一気飲みをする方がいるが」

 

「ふぅん……」

 

「…………」

 

 会話が続かない。酒で潤っているはずの口の根が、乾きを感じる。

 自然、潤いを求めて、俺の手は次なる杯に伸びた。

 

「提督、先ほども言いましたけど、もうそのくらいで……」

 

「いやいや、まだ飲める飲める……って不知火、突然立ち上がって、一体どうした」

 

「言っても聞かないようですので、落そうかと」

 

「落す? いったい何を……待った待った! 首を絞めようとするな! 俺は一応上官だぞ!」

 

「上官の、健康を、考えての、行為です」

 

「ストップだストップ! ギブ、ギブ!」

 

 死闘を繰り広げて数分、何とか交渉を成し遂げた俺は、荒い息を吐きながら不知火に向き直った。

 

「……不知火に落ち度でも?」

 

「大アリだ! やり方というものがあるだろう! 全く……」

 

「それでは、そろそろお帰りになられた方が宜しいのではないでしょうか」

 

「……お前に負けた気がするのは癪だが……まぁ、そうしよう、鳳翔、おあいそ頼む」

 

「分かりました」

 

 会計を済ませて帰ろうとすると、驚いた事に、不知火までもが金を払おうとしていた。

 

「何だ不知火。もう帰るのか」

 

「いえ、私がさっさと帰るように促したのですから、帰り道に何かあったら後味が悪いですし」

 

「どんだけ俺は信用されていないんだ……」

 

 がっくりと肩を下し、とぼとぼと店の外に向かおうとすると、後ろから声がかかった。

 

「また、いらしてくださいね、待っていますから」

 

「ああ……また、いずれ」

 

 嗚呼、天使が離れていく。俺の憩いの時間が彼方へと消えていく。

 

「嗚呼、悲しき男の性よ」

 

「…………」

 

「……何だ不知火、不機嫌そうな顔をして……やっぱり、まだ食い足らなかったんじゃないか?」

 

「別に、何も」

 

「何もって顔じゃないだろうそれは。……おいおい、先に行くなってば。送ってくれるんだろう?」

 

 若干早歩きの不知火に追いつく。夜風は体感温度を急激に貶めて、酒で火照った体は早くも身震いを起こしつつあった。さっさと帰って眠りにつきたい。

 鎮守府内を歩いていると、早々に私室が内設されている建物にたどり着いた。俺のプライベートルームは執務室の一つ下の階にある。

 一方、艦娘たちの部屋はこの建物には存在しない。同型艦ごとに整然と部屋部屋の立ち並ぶ、一種の学生寮のような形を取っていて、これはもう少し歩いた所に存在する。

 本来はここで不知火と別れる筈だったのだが……それを踏まえた心情を吐露するのであれば、苛立ちは募るばかりだ。

 原因は、勿論傍らの少女。

 廊下の曲がり角に差し掛かった頃、俺は震える口調で彼女に尋ねた。

 

「不知火……、一つ、聞いてもいいか?」

 

「何ですか」

 

「お前は、俺の事を一体いくつだと思っている?」

 

「……? 質問の意味がよく呑み込めませんが、容姿相応かと」

 

「ふむ、ならば、わざわざ建物の中にまで入り、わざわざ俺を私室まで見送ろうしているその意義を問いただしたい」

 

「…………不知火に何か落ち度でも?」

 

「無論、落ち度はない! だがな、そこまで心配してもらわんでも俺は一人で歩けるし一人で自分の部屋にくらい戻れる! 俺をいくつだと思っているんだ?」

 

「お母……」

 

「ええい、それはもういい! とにかくだ、明日もまた早い! お前もさっさと自室に戻れ!」

 

「……泥酔した提督が、同じく泥酔した隼鷹さんと同じ部屋で朝を迎えたという話が耳に届いていますが」

 

 突如として前後不覚に陥った俺は、冷静を保つ事が出来ずにその場で立ち止まってしまった。

 嫌な汗が吹き出しはじめるのを感じながら、ゆっくりと不知火と目線を合わせる。

 冷静に、普段通りの口調を心がけ、泳ぎ始めた視線を力づくで彼女のもとへ。

 

「…………サテ、何ノ話カナ」

 

「動揺してるのね」

 

「……あれは、その、だな、いや、間違いは絶対に起きてない筈だ! 二人とも服着てたし!」

 

 それに俺、インポだし!

 不知火の烈火の如く追及に年柄もなく涙をこぼしそうになった俺は、必死に弁解を続けた。

 それにしても、先ほどから彼女にはペースを握られっぱなしだ。

 風の噂によれば、艦娘にはベースとなる検体が存在するケースがあるとの話を聞いた事があるが、それを踏まえればせいぜい不知火は十代後半、こうして劣性に回り続けるのは情けなくてしょうがない。

 

「と、とにかくだ、ここまで来れば、さすがに見送りもいらん事は分かるだろ?」

 

「ええ、そうですね」

 

「うむ、では、見送りご苦労。……見送りご苦労!」

 

「…………」

 

「……ええい、分かった分かった! 最後までよろしく頼む!」

 

「ええ、期待に応えて見せます」

 

「そんな気張る必要はどこにもないと思うんだが……」

 

 妙な責任感を見せる不知火に俺は首を傾げながらも、内心、嬉しいものもあった。

 不知火が俺の事をどう思っているかは定かでないが――評価としては及第点にも届くかどうか――最後の最後まで共に歩こうとするその態度は、上官としても誇らしい。良き部下を持ったものだ。

 まぁ、その上司へ向けた働きを、飲んだくれの連行なんぞには使ってほしくなかったのは確かだが。

 

「提督」

 

「……何だ」

 

「お酒の飲みすぎには、気を付けて下さい」

 

「まだ言うか! しかも上戸のお前が!」

 

 もう少し、威厳のある提督になりたい。

 



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3話

罔(もう)作戦と名付けられたそれは、上層部肝煎りの代物で、何としてでも成功させねばならないという重要性を孕んでいた。

事の発端は深海海戦の草創期に遡る。人間の技術の結晶たる戦闘機、並びに戦車などの近代兵器は軒並み深海棲姫達の前に歯が立たなかった。そればかりでなく、事態はここから最悪の展開に悪化する事となる。鹵獲されたのだ。

大地を蹂躙し、空を滑空してみせたそれらは、深海棲艦に操られるがまま、無残な姿となって海で踊る。戦車が海面を走り、ジェット機がトビウオのように海上を跳ねる様は、悪夢としか言いようがない。本作戦は大戦直後より懸念された事態が現実化したのである。

悲惨なのは、その操縦席にはパイロットや操縦士が未だ骸のまま搭乗し続けている点だ。

敵国兵士の洗脳といえば、近しい所には洗脳されたアメリカ兵士自身による反米プロパガンダなどがあるが、今回のそれは今までのものとはまるで違う。相手は、完全に敵対勢力の一つに成り果せており、交渉の余地は零に等しい。

何の目的もなく回遊し、時折思い出したかのように世界各地で暴れまわるという点では他の深海棲艦となんら変わらないが、居所が掴めた今、最優先で撃破する必要性がある。

それがまだ、幽霊戦闘機である内に、だ。

 

「…………せめて、骸だけでも取り戻したいものだ」

 

手元の資料に目を配りながら、平和だった時代の安寧が掻き消えた海に、思いを馳せる。

彼らが死してなお戦地に赴く理由はどこにも存在し得ない。死者は、尊き安らぎをもって眠るべきだ。

しかし、彼らを何とかして救いたいという気持ちと同時に、容赦のない戦いを用いらなければこちら側がやられるという、一種の二律背反が、俺の心に重く伸し掛かる。

そういった心情を察しての事か、木曾が厳しい視線をこちらに向けてきた。

 

「甘い、甘過ぎるな」

 

「木曾……」

 

「相手はどこまで突き詰めても死者でしかない。戦場にそんな感情を持ち込もうとするな」

 

「分かっている、分かっているさ。そんな事」

 

「いいや、分かってないね。長門に対し、あれだけの事を言ってのけたにも関わらず、だ」

 

彼女はそれまで背中を預けていた壁から離れると、こちら側に足を進める。

その勢いを維持したままに机に両手のひらを強く打ちつけると、口角を吊り上げてこう言ってのけた。

 

「貴様は俺の…………いや、俺達のことだけを考えていれば、それでいいんだ。戦場に赴く者を思え。視界を共有しろ。俺達の痛みを知れ。敵に情けをかけている暇があると思ってんじゃねえ。俺達だけを見てろ」

 

彼女に残された左目が、真剣な眼差しを帯びて俺を射抜く。

その瞳は、反論の余地さえも許さないと言外に語っている。俺達は見つめあい、暫く言葉を用いない舌戦を繰り広げたが、沈黙が室内に飽和し出した頃、とうとう俺は根負けした。

    

「…………ああ、勿論だ。戦場に直接行けない分、俺は何時だって、お前たちの事を考えている。どんな時も、な」

 

「……フッ、いい顔するようになったじゃないか。悪くないぜ、今のお前」

 

木曾が笑みを深くする。優しさと厳しさが同居する瞳だ。

改二になる以前から、彼女にはよく助けられた。それは今も変わらず、彼女は何時だって最前線を突っ切ってくれている。その勇猛さに、俺は憧憬の念を抱いていた。

しかし、そこらの男よりよっぽど男前である彼女からの褒め言葉だ、妙に背中がむず痒くなって、俺は耐え切れずに視線を逸らしてしまう。

 

「なんだ? 照れているのか?」

 

「そんな訳ないだろう! 全く、どいつもこいつも……」

 

「ははは、どうした、俺以外の奴にもからかわれたのか?」

 

「からかうってお前、じゃあさっきのは……全く、本当にどいつもこいつも……不知火だよ不知火」

 

「ああ、あいつか。何だったら、俺の方から話を通しといてやろうか? 提督をからかうなってな」

 

「……お前が言う台詞じゃないな」

 

「ははは、確かに」

 

木曾の快活な笑みになんとも言い難い感情を抱いた俺は、仕切り直しだとばかりに立ち上がった。

窓越しの世界には海が広がっている。蒼海は見るものを魅了する美しさを秘めると同時に、その内側に魔を潜める。

取り戻さなければ。幼き日々の記憶が蘇るとともに、その思いが一層強く感じ取れた。

 

「……承知済みであると思うが、明日、マルキュウマルマルをもって、罔作戦を開始する。厳しい戦いになるだろうが、よろしく頼むぞ」

 

「ハッ、いつも言ってるだろ、お前は俺を信じていればいい。それだけだ。ただ……」

 

彼女は罰が悪そうにそうつけ加えると、憮然とした態度で執務机に散らばる書類を一枚手に取った。

ねめつけるような視線で文字に目を走らせ、ありのままの感想を告げる。

 

「魚の三枚おろし、か。大本営もおもしれぇ事を考えやがる」

 

その言葉通り、罔作戦の内容はあまりにも奇抜なものである。

本作戦の要は、長門、木曾、天龍、龍田、伊勢、日向。

先日開かれた作戦会議においても、前例のない大胆な作戦に異論が噴出し、初めに食って掛かったのは天龍であった。

彼女は眼帯で塞がれていない右目で作戦内容を食い入るように見つめていたが、暫くしてから一言、

 

「……いや、これ考えた奴、馬鹿なんじゃね?」

 

「天龍ちゃん、ストレートに言い切るのはちょっと~」

 

「いや、だって、なぁ?」

 

至って大真面目な表情で大本営を批判する天龍。このあんまりにもあんまりな物言いに、同型艦である龍田が彼女の脇腹を肘で小突く。

無論、上官としての正しき行為は彼女を窘め、その発言の撤回を求める所にあったが、その時の俺はついつい彼女に同意しかけた。

 

――――海面上を飛行するジェット戦闘機――F―35を、一刀両断せよ。

 

これが罔作戦の大筋である。

大まかな流れとしては、支援艦隊の艦載機によって、標的をポイントへと誘導。そこを第一艦隊で叩く。

この作戦内容を聞かされて以来、俺の脳裏にはルパン三世TVスペシャルの記憶がこびりついている。

 

「懐かしいな、五右エ門の幼馴染が可愛くてな……あの展開はショックだったよ」

 

「ちょ、ちょ、ちょ、提督、大丈夫? 現実逃避してる場合じゃないわよ?」

 

「私は……ロシアより愛をこめて」

 

「五右エ門の恋は報われないな、本当に」

 

「日向、そこ乗らなくていいから!」

 

ポニーテールで髪の毛を束ねた女が、現実逃避に華を咲かせる俺達に待ったをかける。

伊勢とも呼ばれる彼女は身を乗り出すと、腕を組んで無表情を保つ相方の体を揺さぶった。

ボブカットが横に揺れ、相方である日向が無理やり現実へと帰還させられる。

 

「現実逃避している場合じゃないでしょーがっ!」

 

「TVシリーズではストーンマンとの対決が好きだったかな……」

 

「俺は四人が協力してダイヤを盗む奴だな。まあ、不二子は何もしてないけど」

 

「ふ・た・り・と・も!」

 

「分かった、冗談はこのぐらいにしておこう。さて、詳細は手元の資料にも記載されている訳だが、何か質問は?」

 

「では俺から。今回この面子が集められた理由を説明してほしい」

 

手を挙げた木曾に目を向ける。

 

「長門を除く五人は嗜みながらも剣術を修めているとの事だったな。実際、お前達には緊急接近時における武装が配備されている筈だ」

 

「……まさか、たったそれだけの理由で集められたのか? それと、本作戦は俺たちの鎮守府のみで行われるみてぇだが」

 

木曾の値踏みするような眼差しに、俺は動揺を誘われた。

俺だって、出来る事ならこんな訳のわからん作戦、やりたくなんてなかったさ。

 

「…………何だその眼は。仕方ないだろう、同じ艦でも鎮守府ごとによっては剣術の熟練度に差が生じるとの事だったし、お前達五人全員がいるのは俺の駐留しているこの鎮守府のみだ」

 

木曾はそれでも納得いかないといった風の顔つきを見せていたが、ようやく席に腰を下ろした。

次に手をあげたのは長門だ。

 

「私にも質問させてくれ」

 

鍛え上げられた肉体を兼ね備え、けれども女性らしさを損なったわけではない。むしろ、絞られた体が余計魅力的に映る。それが彼女への第一印象だった。

凛々しい表情で戦場を駆るその姿は戦艦級に相応しいもので、我が鎮守府の誉れでもある。

 

「超音速で飛行する物体に、砲弾を当てろと?」

 

「いや、撃墜時エンジンから火を噴いていた事が確認されている。鹵獲後もエンジン自体はそのままの筈だから、べら棒に速いという事はない筈だ。だが……正直、それでも当てる事は難しいと思う。海上且つ、どういう訳かあちらは未だにステルス性を保持しているらしい。電探にも映らんだろうし、常識を超えた速さである事に変わりはない筈だ。今回の作戦が立案された理由はそこにある」

 

「我々艦娘が対処する理由は? 目標と同型のものであれば、撃ち落とせるのでは?」

 

「深海棲艦による鹵獲後、やっこさんは水中でも活動が可能になったようだ。その代わりに、長時間の航空持続能力を失っているようだが。……しかし、最高速度を保ったまま入水する事が可能で、幾度かの作戦が失敗に終わり、とうとうこちらにお鉢が回ってきたというわけだな。それに、トップスピードで海中に沈む時に発生するであろう衝撃に耐えられるという話だ、現代兵器では恐らく歯が立たん。女神と妖精のお墨付きである艦娘でなければ、撃墜は困難だろう。相手が深海棲艦ゆかりのものだとすれば、なおさらだ」

 

「武装は?」

 

「ミサイルを積んでいるが、胴体内兵器倉のハッチが壊れたままらしい。A型は25mmガトリング砲を装備しているが、こちらは幾度と続く本土襲来の際に全弾撃ち尽くしたと考えていい。無論、深海棲艦の手によって補給されている可能性は否めないが」

 

「成程、水中潜航可能との事だが、機雷は試してみたのか?」

 

「本作戦と同じ要領で機雷設置ポイントに追い込みをかけてみたらしいが、易々と爆風の中を突破したらしい。それに、この手の作戦は環境保護団体の目が厳しく、何度も実行は出来ん。ただでさえ最近は、深海棲艦は傷ついた地球が生み出した自衛本能だなんて主張が飛び出てくるぐらいだからな……。本作戦においては、対象が潜航した場合に備え潜水艦の少女達を事前に配備、同時に木曾にも雷撃を行ってもらおうと思っている。当たるかどうかは、分からんが」

 

「ふむ……胸熱だな……。それで、だ。砲弾が当たらない事が分かっておきながら、私に一体どうしろと?」

 

「受け止めろ」

 

その瞬間、会議室の空気は沈黙した。

普段の姿とはかけ離れ、口をぽかんと開ける長門。ああ、だからこんな事言いたくなかったんだ。

同じく茫然とした表情を浮かべる一同を前に、俺はもう一度本作戦の大詰めを説明する。

 

「受け止めろ、長門。五人が両断に失敗した場合、後詰に控えていたお前が、迫り来るジェット戦闘機、F―35を受け止めるんだ。その後、速度の低下した対象を、追いついてきた五人が仕留める」

 

無論、酷い無茶を言っている事は、自覚していた。

受け止めろ、だと? アメフトのラインを任せるわけじゃないんだ、我ながらよくもまあそんな大それた事を言えたものである。

真っ先に飛んできたのは天龍の鉄拳でなかったのは、龍田が制止してくれたからに他ならなかった。

罵声が耳朶を打つ。

 

「ふざけんなクソ提督! 受け止められる訳がねぇだろうが! お前は、長門に死ねって言ってんのか!?」

 

牙を剥いて怒鳴りかかってくる天龍は龍田に抑え込まれながらも、その四肢を懸命に動かして俺に掴みかかろうとしていた。龍田がいなければ、俺はここで死んでいたかもしれない。

一般的に艦娘は日常生活を送る上で力をセーブしているものだが、頭に血がのぼっている天龍にそれを求めるのは無理があるだろう。

 

「理屈上は、可能だ」

 

「ああ!?」

 

「とんだオカルトだが……艦娘は、深海棲艦をプロセスとした攻撃以外で大怪我を負う事はない。一般的な現代兵器、火災、落雷に遭遇しても無傷な事は実証されている。いや、一般生活においては、自身に深刻な被害を与えるものと接触するとセーフティがかかると言った方が正しいか。だからお前たちは痛みである辛味も、熱湯も感じ取れる。それに、体調の変化だって存在する。だが、何度自動車に撥ねられた所でお前たちは死なない。これは深海棲艦側にも言えることで、やはり艦娘を経由した攻撃でなければ傷つける事は出来ない」

 

「それがなんだってんだ!?」

 

「F―35はあくまで鹵獲された現代兵器だ。深海棲艦とは違い、何処で作られ、誰が操縦していたのかまで分かっている。衝突時の衝撃に吹き飛ばされる事さえなければ」

 

「潜航可能って事は深海棲艦に限りなく近づいているって事だろ! だのに、こんなん自殺行為以外の何物でもねぇ!」

 

俺と天龍の衝突を尻目に、長門は沈黙を貫いていた。

何故、何も言わないのか。非道と呼んでくれれば、それで構わない。だが、沈黙のままでいられる事は何よりも辛い。言葉にしてもらわなければ、俺達人間は何も理解しあえないからだ。

天龍が脇に差した愛刀に手を伸ばしかけたその時、ようやく長門が重たい口を開いた。

 

「受け止めろ、との事だが、直線状に並びさえすれば、砲撃は可能ではないか?」

 

「たとえ超音速にならずとも、あちらの機動力は予想以上のものがある。回避運動も深海棲艦によるものか、従来のものを遥かに凌駕しているとの事だ。超々至近距離からであれば砲撃も可能だろうが、そんな事をすればおまえの身がもたない」

 

「どっちみち無理じゃねぇか!」

 

「黙っていてくれ天龍――――それで提督は、私なら成功させられると?」

 

「ああ、そう思ったからこそ、数ある戦艦級の中でもお前を選抜した」

 

「そうか、なら…………ああ、この長門、やるからには必ず成功させてみせる」

 

「なっ、お前、何を言って」

 

思いがけぬ長門の言葉に、天龍が息を呑む。

 

「何、心配はいらないさ。何といっても私は世界のビッグセブンだ。この程度の任務、何を苦としようか。それに、所詮私は後詰に過ぎない。……人の心配をしている暇があったら、自分達が成功出来るどうかを心配したらどうだ、天龍」

 

「なっ……」

 

そう言って微笑を浮かべる長門に、天龍は毒気を抜かれてしまったらしい。

握りしめられた両拳が自然と緩められ、脱力するように振り上げられた両腕が、支えを失っていく。

彼女はかぶりを振ってから髪を掻き毟ると、

 

「……あーもう! 人がせっかく心配してやってるってのに! 見てろよ! 成功した暁には、作戦中ずっと突っ立っていただけだった事を馬鹿にしてやるからな!」

 

そう言ってから機嫌悪そうに俺の方を一瞥すると、必要な書類だけをかき集めてさっさと会議室を出て行ってしまった。

遅れて、申し訳なさそうに眉を八の字に曲げて、龍田がその後ろを追う。

 

「いやー、ちょっとびっくりしちゃったわ。作戦の内容も勿論そうだけど、提督、ちょっと舐められ過ぎじゃない?」

 

伊勢の横槍に、俺は思わずどきりと身を震わせた。

俺の持病(インポテンツ)の事は鳳翔以外誰も知らない筈だが――――もしかしたら、生殖を主とするべき生命体としてのハンデが、俺に自信や威厳といったものを喪失させているのかもしれない。

心にふって湧いた動揺を誤魔化そうと、俺は一つ咳払いをしてから、

 

「ともかく、作戦日は刻一刻と迫っている。それまでは各自、ゆっくりしてくれ。俺はこの後、支援艦隊、並びに潜水艦達との会議を続け、その後全体でもう一度概略を説明する事になると思う。それでは、これで解散とする」

 

俺の言葉に残された面々が立ち上がり、承諾の意を口にしてからぞろぞろと会議室を出ていく。

そんな最中、長門ただ一人が先ほどと同じ位置から動こうとしなかった。その様子をちらりと木曾が窺うも、詮無き事と称して部屋を出ていく。

会議室には、俺と長門だけが残された。

 

「…………すまんな、お前にはいつも迷惑をかける」

 

「いいや、別に構わないさ」

 

「……天龍の言った言葉は、実際真実に近い。もしF―35のような存在が深海棲艦達から現れれば、戦局は一変するだろう。勿論、我々にとって都合の悪い方向にな。向後の憂いを断つためにも、深海棲艦に限りなく近づきつつあるアレは、必ず撃墜せねばならん」

 

罪悪感から軍帽を深くかぶり直す。何時だってそうだ。俺は何もしてやれない。

何時命を散らすかも定かでない戦場に赴くのは彼女達で、俺はその無事を祈ってやるぐらいしかやる事はない。

そのやるせなさが、本作戦での無茶具合と重なり、俺は目の前の彼女の事を直視する事が出来なかった。

無論、明け透けで、過剰なまでに自己主張の激しい俺の罪悪感に、長門が気づかない筈がない。

 

「どうした、提督」

 

「いや……」

 

「天龍にも言ったが、心配はよしてくれ。それに……私は嬉しいんだ」

 

「何だって?」

 

死地に赴く者の言葉とは到底思えぬその言葉に、俺は思わず顔を見上げた。

長門が、笑っている。

 

「嬉しいのだ。私の力を、提督のために役立てる事が出来て。提督は、私が役立てば嬉しいだろう?」

 

「ああ、それは、確かにそうだが……」

 

「だったら、そんな不甲斐ない顔をするな。あなたの為に、この長門は死地を往く。せめて、そうだな、笑って送り出してくれ。それが良い。それだけで良い。あなたの為に力を振るえるなら、報酬なんていらない」

 

「長門……」

 

ここまで信頼を寄せてくる部下に会えた事に、俺は内心感謝で打ち震えていた。こんな出会いに巡り合えるのは、軍人の中でも数少ないであろう。

心臓の鼓動が早まるのを感じながら、俺は誤魔化すのに必死だった。

 

「作戦が終わったら、皆で飯でも食べに行こう、無論、俺の奢りだ。アイスだってつけてやるさ」

 

「ふふふ、それは、胸が熱くなるな……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マルキュウサンマル。

長門達第一艦隊は、稀にみる陣形を取って、ポイントに待ち構えていた。

天龍、龍田、木曾、伊勢、日向が単縦陣を形成し、その遥か後方に長門が陣取る。三角形の形を模したそれはF―35を討ち取るための二段構えの策だ。又、海中には伊401、伊19、伊168、伊8といった面々が潜航し、不測の事態に備える。

作戦通りの構え。だが、F―35が接近する筈の時刻を過ぎても、依然として対象はやってこない。支援艦隊は疾うの昔に交戦領域に入っている筈なのに、だ。

しかし、この遅延は元より想定の範囲内とも言えた。元々艦娘の所有する艦載機は対深海棲艦用で、最近の人型深海棲艦らの登場も相まってダウンサイズ化が施されている。

また、着艦時の問題から、速度の点においてはF―35に劣り、これらを踏まえ、追い込みには支援艦隊だけでなく戦闘機を持ち出した合同作戦となっていた。

不測の事態が起こるのは、ここからである。

 

「こんな、時に……!」

 

支援艦隊で追い込みをかけていた加賀の口元から、苦渋の息が漏れ出る。空母ヲ級の来襲だ。

深海棲艦の手元から放たれた無数の艦載機が、支援艦隊に襲い掛かる。獲物を追い掛け回すのに躍起になるあまり、索敵に失敗した事が決定的な失態と言えた。

ここに、せっかくのファイア・アンド・フォーゲット――誘導ミサイルは宝の持ち腐れにに変貌する。

直撃を受けた筈の空母ヲ級が業火の中から姿を現し、狙いを戦闘機へと定めた。速度の面では勝るも数には勝てず、四方八方を固められて、次々と墜落していく戦闘機達。

 

「ッ、五航戦、前!」

 

五航戦翔鶴が数瞬前までいた所を、F―35が通り過ぎる。事前に加賀が気づけたのと、人間とは比較にならない艦娘の身体能力だからこその回避成功だ。

海上を跳ね回るF―35こそ、彼女たちを悩ませるもう一つの問題であった。一瞬でも油断すれば、急接近してきたそれに吹き飛ばされ、宙を舞う。また、ジェット戦闘機の所以たる通過時の衝撃が、戦闘空域に存在する全ての者を襲う。

事前の予測通り、たとえ負傷する事がなかったとしても、一度でも誰かが吹き飛ばされれば陣形は完全に崩壊するだろう。そして、陣形を崩される事、それ即ち空母ヲ級の独壇場を意味する。

 

「このままでは……」

 

加賀の熟考する所に、自分達の死に関するものは存在しない。生き残る事に重きを置けば、必ず撤退は可能であるからだ。

しかし、それは歪ながらも陣形を維持している今だからこそ言える言葉でもあった。そして、撤退を選択すれば、罔作戦は必ず失敗する。

事態は混沌を極めつつあった。

 

「HEY! 加賀!」

 

「金剛!?」

 

その時、艦載機と鮫の行き交う中を縫うようにして加賀の前に金剛が現れた。

爆音の轟く戦場。自然と声は大きくなっており、二人の息も荒々しい。

 

「ちょっと、アレ、アレしてみてくださいネ!」

 

「アレだのなんだのじゃ分からないわ! もっとはっきり言ってくれるかしら!」

 

「艦載機とのサイトリンクネ! 上空からこの戦場を見てクダサーイ!」

 

「それで一体何が…………」

 

「いいから、早く! ハリー! ハリー! ハリー!」

 

言われるがままに瞼を閉じ、一瞬の暗闇に身を委ねれば、次の瞬間には目の前から金剛は消えうせ、世界を俯瞰する形で視界が復活する。艦載機に搭乗する妖精達との視界共有によるものだ。

上空を飛び回る艦載機からの視界には、空母ヲ級、F―35、そして艦娘達が映る。

しばらくサイトリンクを続けていると、確かな違和感が芽生え始めた。

 

「っ、これは……!」

 

「YES! 単なる勘でしたけど、加賀に確認を取って正解でしたネ-!」

 

サイトリンクを中断した加賀は、今後の対策を練り始める。

艦載機から見た視界の中では、これまでの収集されたデータとの差異が存在した。

これまで無秩序に動いていただけであったF―35に、パターンのようなものが出来つつある。

 

「これは、空母ヲ級を、守っている……?」

 

空母ヲ級の周りを周回するような形で移動を繰り返すそれは、かつてのでたらめさを持たず、ある種秩序だった行動であるように思える。そこから、空母ヲ級に最も近い標的に突撃を繰り出しているようだった。

深海棲艦同士の共鳴――いや、それならば、F―35はかなり高いレベルで進行……

そこに至った所で、思考の渦に巻き込まれかけていた加賀を、金剛が救い出す。

 

「加賀!」

 

「ええ、分かりました。理由は定かでありませんが、空母ヲ級をポイントに誘導する事によって、同時にF―35の移動をも誘発出来るかもしれません。全火力を空母ヲ級及び随伴艦へ投入。変化パターンを信じるのあれば、あるいは」

 

「思い立ったら即行動デース!」

 

「ええ! ほら五航戦! ちんたらしてないで動きますよ!」

 

作戦の一部が変更になった事は、直ぐに第一艦隊の元に伝わった。

F―35の動きを誘発させるために、空母ヲ級を先に先行させる――それはつまり、第一艦隊の動きが制限されるという事だ。

F―35が空母ヲ級の周囲をコースとしている関係上、正面から第一艦隊と接触する可能性は限りなく低い。五人が失敗したとしても、彼女らの後ろに直線状に控える都合上、F―35が長門の元に向かう事は無いだろう。

ただでさえ困難な任務が更に困難になったという事実だけが胸に残り、各員に不安の種を抱かせる。

 

「……天龍、あまり気張るな」

 

「気張ってなんかねぇ、別に」

 

表に出さないだけなのだろうか、唯一仏頂面を維持したままの日向が、天龍に声をかける。

天龍はそれを、そっぽを向いて拒絶するが、日向に呼応するような形で、伊勢、木曾までもが、彼女に声をかけてくる。龍田はそれを微笑ましそうに見つめているだけだ。

真っ赤になってまゆじりを釣り上げると、天竜は声を荒らげた。

 

「止めろって言ってんだろ! オラ、もう来るぞ!」

 

天龍の言葉通り、目視可能な距離にまで、空母ヲ級が所有するあの特徴的な艦載機が近づきつつあった。恐らく、退路を得るために空母ヲ級が先行させたものだろう。

艦載機の後方では飛沫がモーセの十戒のように上がっている。F―35だ。

 

「対空!」

 

誰が言うでもなく砲口が空へと構えられ、怒涛の勢いで敵艦載機へと砲弾が飛来する。挟み撃ちされる形であるためか、第一艦隊の方に向かってきている艦載機は思いのほか少ない。

やがて、空母ヲ級の姿が確認できるようになり始めた、正にその時だった。

 

「ッ!」

 

「天龍!」

 

敵艦載機によって隊列が乱された事による、僅かな隙だった。空母ヲ級の背後から躍り出たF―35は、深海棲艦を追い抜き、退路の障害物を排除しようと第一艦隊に接近する。これに対し、第一艦隊の面々は艦載機への対応から抜刀が目に見えて遅れてしまっていた。

斜線上から第一艦隊へ迫ったF―35は、その勢いを維持したままに進行方向上に立っていた天龍へ向かってその翼を強かに打ち付けた。

 

「天龍!」

 

一瞬の出来事に、誰もが空を仰いだ。F―35の衝突を受けて、天龍の体はなす術もなく天に打ちあがったと思ったからだ。

しかし、天龍の姿はどこにも見当たらない。天にも、海上にも。あるのは、第一艦隊を置き去りにして遥か遠くへ、そして再び空母ヲ級の元に戻ろうとするF―35の姿のみ。

 

「うがあああああああああああああああああッ!」

 

どこからともなく、天龍の絶叫が響き渡る。しかしそれは、戦闘機の生み出す衝撃に掻き消されて第一艦隊の元には届かない。

彼女はF―35の左翼に食い込むような形で、戦闘機だけが生きる事の出来る世界に存在していた。衝突よりも一瞬早く解き放たれた刃が、戦闘機の翼に食い込んだのだ。

強風に支配された世界で、天龍の視界は完全にホワイトアウトしていた。目も開けられない。今にも意識が飛びそうになってしまう。

しかし、刀越しに伝わる確かな脈動に、天龍の意識は覚醒を果たした――――翼が、脈打っている。それは日夜戦う深海棲艦を思わせるものだ。

 

「ああああああああああああああああああああッ!」

 

それは、天龍に殺意を抱かせるには十分過ぎる、温かで、血の流れを感じさせるものだった。彼女は今ここに、この戦闘機が、血液と骨格で形成され、肉肌に覆われた代物である事を認識する。認識してしまう。それが分かった今、悠長にじっとしているなど、出来る筈がなかった。邪魔な艤装をパージ。

食い込んだ刀に全体重をかけながら天龍は、片方の拳を握りしめると、それを戦闘機のガワに思いっきり突き立て、貫通させた。

F―35が、哭く。

 

hふぁお;ふぇhふぁお;えhふぉ;hふぁうwh;fはw!!!!!!!!!!!!

 

人の言葉とは到底思えないその絶叫に、天龍は薄れゆく意識の中でふと思った。そりゃ当然だ。『生物』が、内臓を直接弄られているのだ、哭いて、泣いて当然、と。

その悲鳴に負けず劣らず大きな声で、最後の力と共に天龍もまた、泣く。

 

「ナガトオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!!!!」

 

何度も、何度も、赤子のように。一寸の光も見えない世界で、天龍は泣き続ける。

果たして、その願いはかなえられた。

左翼にへばり付いた彼女にとって、それが聞こえたのが左方向であったのは、正に幸運としか言いようがなかった。何せ、『こいつ』の中身を引っ張ってやるだけで……

 

へpわえおfけgじょぱjwぎrじ―――――――

 

その絶叫は、天龍の鼓膜が破けた事により途中で聞こえなくなった。『深海棲艦』の声が、彼女に確かなダメージを与えたのだ。

同時に、体に壮絶なGがかかり、深海棲艦が進路を変えた事を暗闇の中で実感する――――天龍が笑みを浮かべるのも束の間、深海棲艦が急に速度を落とし、彼女は全く理解の及ばぬまま、浮遊感をその身に手にした。

 

「――――?」

 

何だ、これ。

視界が縦に回転するのを感じながら、やがて、視界一杯に広がる青に近づいていき――頭から海に叩き付けられた。

 

「!?!?!?!?!?!?」

 

その勢いのままに深く深く水中へと沈んでいく。パニックを引き起こし、息ができない事に苦しさを覚える。

やがて、視界が霞を覚え、天龍の意識は一時、ここで途絶えた。

 




アニメの方も三話から展開変わったので、急遽流れを変えてみました。
結構テキトーに書いてるので、ミリタリーに詳しい方がいらしたら、ご一報をくれると嬉しいかも


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4話

罔作戦から数日後、執務室へと呼び出しをかけたのは他でもない、彼女もまた、今作戦の立役者の一人であったからだ。

サザンカを思わせる真っ赤な髪の色合いが特徴的な少女で、その名を伊168と言った。

 

「ありがとう、イムヤ。天龍が助かったのはお前のお蔭だ」

 

「ううん、どういたしまして」

 

罔作戦は多少の損害を出しながらも、無事成功の形で終わった。艦娘側における死者は零。

支給されていた戦闘機が何機か撃墜されたが、どうにか脱出していたらしい。こちらも、支援艦隊の面々に回収してもらった。

また、一時は大破していた天龍も現在は完全に復調している。

彼女はF―35を長門が受け止めた際、しがみ付いていたが為に慣性の法則に従って投げ飛ばされ、その勢いのまま頭から海に突っ込んだ。

意識を完全に喪失し、あわや海の藻屑となりかけた所を、元々潜航していた潜水艦艦隊の一員である伊168に救出してもらい、事なきを得ている。

 

「そういえば、あの戦闘機はどうなったの?」

 

「回収した。現代兵器が完全に深海棲艦化したのは前例がない。……遺体は母国に送ってやりたかったんだが」

 

「だが?」

 

「工廠の方で明石にコックピット部分を開けてもらった所、乗り込んだままだったとされるパイロットの姿はどこにも確認できなかった」

 

「や、やだ怖い! 脅かさないでよね!」

 

体を抱くようにして身震いするイムヤと同じく、俺も股間が縮こむ思いだった。勃起出来なくなる理由が増えそうだ。

意識の回復した天龍、長門にも聞いてみたが、戦闘時も誰かが操縦席に座っている様子はなかったらしい。

 

「機体は一時工廠に保管された後、別の場所に移される手筈となっている。さすがにここでは設備が足りないからな」

 

「ふぅん、まあ、そこまでいったら私達には関係ないわね。それで、司令官」

 

「どうした」

 

「長門達にご褒美があるんだから、私達にも、ね?」

 

「ああ、勿論、新しいスマホだろうが何だろうが、買ってやるぞ」

 

「やった!」

 

喜色溢れる笑顔を見て、作戦が終了した事をようやく実感する。どっと肩の力が抜けてきて、部下の前でなければ今にもへたりこんでしまいそうだった。

 

「司令官、私、役に立てたよね?」

 

「……? ああ、勿論」

 

「天龍が轟沈したら、悲しかったよね?」

 

「ああ」

 

「そうだよね、そうじゃないと、助けた意味がなくなっちゃうもの」

 

「…………?」

 

どこか会話にずれが生じているような気がしたが、精神疲労の著しかった俺は、それ以上の頭の回転を望まなかった。実際、伊168が天龍を助けた点に変わりはない。

それで、いいではないか。

 

「ううん、何でもないの。これからも宜しくね、司令官。イムヤ、司令官の為に頑張っちゃうから!」

 

「ああ、宜しく頼むよ」

 

それ以上に問題として脳内会議に上がっていたのは、イムヤの犯罪的可愛さである。

そもそも、私服がスクール水着ってどうなのよ、そこん所。建造妖精は世の提督を殺したいのか? いい加減襲うぞ俺は襲えないけど。

性欲情欲、燃え上がる三大欲求が一つ。しかし、それらが意識の表層に浮かび上がる前に、叩きこまれた倫理観と、もはやいきり立つ事のないビッグマグナムが俺を苛ませる。世の中クソしかねぇ。

作戦終了を確認した俺の心にはもはや酒の事しか頭になかった。あー、鳳翔さんと赤ちゃんプレイがしたい。赤ちゃん=勃起しない=俺という至高の方程式を導き出した今の俺に死角はなかった。

暫くの間妄想の世界に旅立っていた俺を現実へと回帰させたのは、軽快なスマホのシャッター音である。

見ると、イムヤがそれはもう小憎たらしい笑みを浮かべていて、

 

「司令官の変な顔、撮っちゃった」

 

「! イムヤ! 早急にそのスマホを渡しなさい! 良い子だから!」

 

「イーヤ! 後でこれ待ち受けにしちゃうから」

 

「ええい、これでもか! 実力行使だ!」

 

「あっ、ちょっ、駄目ですって……!」

 

イムヤの手元からスマホを掠め取った俺は、腰のあたりでぴょんぴょんと跳ねるイムヤから逃れるように、腕を高々と上げる。

 

「くっ、アルバムにパスワード設定が……! イムヤ、パスワードは!」

 

「教えるわけないじゃない!」

 

「上官命令だぞ!」

 

「あっ、今のパワハラだからね!? 絶対訴えてやるから!」

 

「狡い手を……!」

 

「人のプライバシーを覗こうとするなんて、最低! 司令官のエッチ! 終いにはホントに怒るよ!?」

 

「くっ……!」

 

女性の口からエッチなんてワードが飛び出したからには、こちらが折れるしかない。何故かって? 女性が発音するエッチという言葉は本当にエッチだからだ。

あまりの衝撃に感動に打ち震えた俺は、熟考のち、イムヤのスマホを手放す事にした。

 

「…………ちゃんと後で、消しとくんだぞ」

 

「潜水艦の皆にも送っちゃうから」

 

「な」

 

「グループトークのアルバムにも投稿してやるんだから」

 

「ななな!?」

 

「ふーんだ」

 

機嫌を大分損ねてしまったらしく、イムヤは敬礼の一つなく執務室を出て行ってしまった。

ぽつんと一人執務室に残された俺は、意気消沈のあまり項垂れ、勢い静かに腰を下ろす。

孤独だ。一人だ。秘書艦もいない。

我が鎮守府は立ち回りで担当が変わるようになっている。カレンダーに視線を送れば、今日の日付のところには、陸奥の二文字が記されていた。

 

「……遅いな」

 

彼女のクッソエロいプリーツスカートに思いを馳せながら、寂しさを紛らわせる。姉妹艦である長門の様子が気になるとの事で退席を承諾したが、彼女が姿を消してから、かれこれかなりの時間が経過している。

長門に何かあったのかもしれない、と一抹の不安が芽生えたのはその時だ。

 

「しかし、作戦終了時は、さして問題はなさそうに見えたが……」

 

無論、負傷はあった。高速で接近する戦闘機を生身で受け止めたのだ。しかも都合が悪い事に、相手は長門と接触する頃には完全に深海棲艦と化していたという。

それでも、彼女は競り勝った。衝角と化した戦闘機の機首を抑え込み、衝撃で裂けた皮膚と血風を物ともせず、まるでモーゼの十戒のように海面を裂いて後退しながらも、見事戦闘機を完全静止させた。見事なものだ。彼女は完璧に俺の要求に答えて見せた。

戦艦型は治療に時間がかかる事もあり、恐らくは天龍よりも復調は遅いと思われる。しかし、経過の安定は順調で、正直、何度も心配になって様子を伺いにいくようなものではない。

陸奥の長期不在は、首を傾げさせるには十分過ぎるものであった。

 

「御免なさい、遅れたわ」

 

「おお……長門に何か問題でもあったのか?」

 

「……提督がそれを言うの?」

 

「?」

 

ようやく帰ってきた陸奥から浴びせられた言葉は、正直あまり気持ちのいいものではなかった。だが、愁いを帯びた瞳を見るに、事態はあまり悠長に構えていられるものでない事だけは、容易に想像できる。

どのように聞き出すべきかと腐心していると、先に声を荒らげたのは陸奥の方だった。

眉尻をやにわに持ち上げると、驚く俺を尻目に、大股で詰め寄ってくる。

 

「提督」

 

「どうした」

 

「……もっと、姉さんに優しくしてあげてよ!」

 

「それは、先の作戦の事か? しかし、あれはどうしても必要なもので、確かに長門には苦労をかけたが」

 

「違うわよ! 作戦が終わった後、姉さんにはちゃんと声かけてあげたの!? 褒めてあげた? 傷の心配はしてあげた?」

 

「お、おお? いや、一通りに声をかけた後、負傷していたようだったから入渠を勧めたんだが……」

 

「自分の対応がおざなりだったとは思わないの? これだから童貞は……!」

 

「待て待て待て待て、待て! 今、聞き捨てならない言葉が聞こえたぞ!? 童貞、童貞って言ったかお前! ありもしない事を声高に上げたとして、上官批判でしょっぴくぞこの野郎!」

 

「人の話は最後まで聞いて! それに、そうやって動揺してみせる時点で、自分は童貞ですって言ってるみたいなものでしょ!?」

 

「ゆ、誘導尋問だ! 軍法会議で処罰してやる!」

 

「あー、もう! そんな事はどうでもいいの!」

 

「どうでも、いい、だと? ……ええい、後でじっくり話をつけてやる! とりあえず今は長門だ! 一体何があった? どうして俺が関係してくる?」

 

痺れを切らして本筋を問いただすと、陸奥はこの世のものではないものを見たとばかりに目を見開いてみせる。

愕然とする陸奥を前に、俺が今一つ踏み出せずにいると、

 

「……そこからなの? この童提督」

 

「略すな!」

 

「……もういい。なんだか白けちゃったし。あとで姉さんの所に、行ってくれさえすれば、それでいいわ。……言っとくけど、姉さんを傷つけたら、絶対に許さないからね」

 

「……それは保障できん。深海棲艦との戦いが激化していくばかりで、今だ活路は不明だ。無論、お前たちを轟沈させるつもりは毛頭ないが……」

 

「もう! 頭が固いんだから! そういう事を言ってる訳じゃないの!」

 

「お前との会話はどうにも歯車が合わん! ちゃんと一から十まで説明しろ!」

 

「一を知って、十をも知れ!」

 

「無茶言うな馬鹿者! とにかく、お前の言う通りアフターケアは十全に行う! 心理カウンセリングならお手のものだ!」

 

「ん、今時の軍人って、そんな事もやるの?」

 

お前たちに手を出さない事も含め、上層部じきじきのレッスンを受けたんだよ! そのせいで今や俺はインポだ!

とはいえ、そんな事は大っぴらに口に出せる事でもない。おとがいで指し示して、彼女の視線を書類へと引く。

 

「と・も・か・く! 罔作戦は無事に終了したはいいが、その結果提出すべき書類は山ほど生まれているんだ。俺とお喋りしたいのであれば別だが、暇なら口ではなく手を動かせ、手を」

 

「もう、ちゃんと仕事はするわ」

 

「宜しい。早速だが、今作戦における資材の消費がどの程度の域にまで及ぶかを文書にしておいてくれ。今後の為にも補充申請をせねばならん」

 

「分かったわ」

 

そういって、横付けされた秘書艦用の机に腰を落ち着かせる陸奥。PCを流暢に扱い始めた彼女からは、先ほどのような公私混同は微塵も感じられない。

どーでもいいけど、プリーツスカートの陸奥が椅子に座るとクッソエロいんだよな。これ誘っているんだろうか、或いは気づいていないだけ? インポに手厳しい女だ。俺は彼女への評価を一段階下げる。

しかし仕事そのものは優秀の一言に尽き、俺はその姿に安堵すると共に、どうにも言い難い微妙な感情が渦巻いている事に気づく。

毎度の事であるが、彼女は長門に固執し過ぎるきらいがある。最も、姉妹艦を持つものは大なり小なりそういった性質を持っているものだが、いくらなんでも彼女はオーバーだ。

 

「何? 私の顔に何かついてる?」

 

俺の視線に気づいたのだろう。

軽快に叩かれていたキーボードの入力音がなりを潜め、久方ぶりの静寂が執務室に訪れる。

好奇心という名の疼痛に襲われた俺は、彼女に問いかける事をやめるのが出来なかった。

 

「……陸奥。おまえまさか、レズなのか?」

 

「…………はぁ!?」

 

「……恋愛は人それぞれだが、相手側の事も考えてやれよ? 姉妹艦ともなればなおさらだ。無論、俺はお前の事を応援しているからな。相談にも随時乗ろう」

 

会心の笑みを彼女に向ける。戦時中の事実からして、姉妹艦には同型であるという事以上の絆が存在する。彼女達は名を受け継いでいるだけでなく、その絆をも継承しているのだ。

事実、当鎮守府には在籍していないが、北上と大井の間にはとても強い絆が結ばれているという。陸奥と長門がそういう関係であっても、何もおかしくない。

所が、部下の相談にも乗れる出来る上司を演じようとした俺の目論見は、まんまと失敗したようだった。

陸奥は暫く目を見開いていたが、やがてわなわなと両肩を震えさせ、

 

「……ふぅ~ん、そう、そう言う事、言っちゃうのね」

 

「陸奥? おい、聞いてるのか?」

 

「今度、新しい香水が出るの。買ってね」

 

「話が飛躍しすぎだ! どうやったらそんな話になる!?」

 

「買ってね」

 

「おい、陸奥」

 

「買ってね」

 

有無を言わせぬ物言いに思わず天を仰ぐ。俺の言葉の内の何かが失言であった事は明らかだ。

だが、何が彼女の機微に触れたのか、皆目見当もつかない。

陸奥は呆れた様子で、ともすれば軽蔑の入り混じった視線でこちらを半眼視していた。

 

「…………なぁ、一体何がお前を怒らしたんだ? そいつを説明してくれんと、俺としても納得のしようがない」

 

「…………私と姉さんはそんな関係ではないんだけど?」

 

「…………それは、その、すまなかった」

 

「教えてあげる。私だって普通に男の人が好きよ。ただ、ちょっと遠回りをするだけ」

 

「そうか……だがな、お前は長門に対して心配性過ぎる。あれはそんな、やわな女じゃないだろう?」

 

「そんな事ないわよ。姉さんはいっつも提督の前では無理してるけど、ほんとは……」

 

陸奥の表情に暗い影が走る。姉を思いやるその姿に、俺はかける言葉を見失ってしまっていた。

脳裏を続々と横切っていくのは、全て長門の顔だ。凛々しく、そして武人然とした態度。

俺はそれを頼もしく思うばかりで、彼女の内面を慮る事が出来ていなかったのかもしれない。

 

「……俺が気づいていない所で、あいつも傷ついているという事か。すまんな、陸奥。今後もフォロー、頼むぞ」

 

「それは別にいいけど、提督も出来るだけ姉さんに優しくしてあげてね? 出来る上司、なんでしょ? それと、ちゃんと後で姉さんの所に行く事」

 

「う、む……精進する。それと、別にここに呼び出してもいいのではないか? 艦娘達の寮に行く事は別段禁止されてはいないが、女性だけの世界に足を踏み込むのは勇気がいるぞ」

 

「あら、それ、今更じゃないの?」

 

「……それもそうか」

 

ああ、女に囲まれておきながら物理的に手を出すことが出来ないんなんて、地獄過ぎる。

どうも鎮守府に駐留していると、異物感に苛まれる事が多い。正直、艦漢の一人や二人、出てきてくれてもいい筈だ。

風の噂によれば、島風くんとあきつ丸くんの存在が確認されているらしいが、これも所詮、憶測の域を出ない。

 

「そういえば提督って、大変よね?」

 

妄想の世界に旅立っていると、陸奥が再び声を掛けてきた。

椅子と共にこちらに向き直り、どこか照れくさそうな表情を浮かべる。

改めた態度を不思議に感じながらも続きをうながすと、彼女はとんでもない事を言い出した。

 

「こんなにたくさんの女の娘に囲まれて……まぁ、その、そういう事よ」

 

「なっ……! どどどどど、どういう意味だ、それは!」

 

女の口から、下ネタ! 酒の席とピロートークと女同士の間でしか聞けないものと思っていたものが、今現実に! 結構聞く機会があったと思ったのは内緒だ。

ともかく、顔を赤らめる陸奥に、俺は何も言い出せなくなってしまう。

そもそも、彼女は今一体、いかなる意図をもって、このような話題を持ち出してきた!?

もじもじと足をくねらせる陸奥。口元を隠すように指を交差させるのがかわいい。

すると、気が動転して気が気でない俺の事をあざ笑うように、彼女は次なる行動に移った。

 

「……ねぇ、もし、色々と我慢している事があるなら……」

 

そう言って胸部艤装に手をやる陸奥。

ブラの一種としか思えないそれがずらされ、肉襦袢が顔を覗かせる。早い話が乳房だよ乳房! ガキ向けに言えばおっ○い!

これは、冗談か? それとも真剣な誘惑? 

俺が判断に苦慮していると、それを知ってか知らずか、彼女がこちらに寄りかかってくる。

 

「!?!?!?!?!?!? む、むむむむむ、むつ!?」

 

「提督……火遊び…………してみる?」

 

火遊びしたくても息子が立たねえよ! それに俺は上司だぞ!部下に手を出せるか馬鹿!

それよりも俺が焦るべきはこれ以上の接近を彼女に許す事だった。なんせ、童貞丸出しの反応をしているのに、息子がご起立なさっていないという矛盾を抱えている。陸奥が感づく前に、離れなければ!

 

「――――あ」

 

不意にこぼれ出た、感情の色を失った陸奥の声に、我に返る。

何事かと思い彼女の視線を追えば。

 

「な、長門……」

 

呼吸が停止する。世界が停止する。

視線の先にいるそれは、同じく感情を失った瞳を持っていた。

恐らく、入渠完了後、すぐにこちらに来たのだろう。髪は濡れたまま、上気した頬に、体は汗ばんでいる。

 

「――――――」

 

彼女は何を言うでもなく、そこに佇んでいた。

 




伝わっているか不安だから補足しておくと、
イムヤは天龍の事を仲間だから助けたとかそんなんじゃなくて、天龍を助けないと提督が悲しむ&助ければ褒められる事が分かっていて救助した感じなんだよなぁ。
イムヤはずる賢くって可愛い。はっきり分かんだね。


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5話

 

 

 

 

 

 

 

膠着状態から先に抜け出したのは、長門だった。彼女は何を言うでもなく、扉の隙間から掻き消える。

 

「姉さん! 待って! 姉さんってば!」

 

次いで、服の乱れを直した陸奥が、未だ身動きの取れぬ俺を尻目に、その後を追うようにして駆け出す。その目は既に長門の事しか捉えていなかった。

長門が俺の所に顔を出さなくなったのは、その日が契機として上げられる。

 

「…………」

 

あの出来事から早や数日が経過しようとしていた。長門とは、もう随分と顔を見合わせいない。

彼女は何かと都合を申しづけて、俺との接触を回避していた。散策中は勿論、食堂でさえすれ違わない。

事情は既に承知済みなのであろう、周囲の視線は鋭い針となって俺を苛め抜く。

極め付けは先日、秘書艦の任務を放棄し代わりに陸奥を出向させた時で、俺は思わず滂沱の涙を零しそうになった。

それを何とか耐えてみせた心の拠り所、即ち威厳ある上司たれという信念も、今や砂上の楼閣の如く、消えかかっている。もはや俺の心は限界だった。

 

「提督、その……」

 

陸奥のか細い声が、遠慮がちな形で耳元に届く。俺は彼女に、胡乱な視線を向けた。

彼女自身にその気がないのは明白だ。しかし、そのためらいがちな表情が、声色が、あらゆる全てが俺の罪悪感を逆撫でする。

しかし、激昂に身を任せる事すら、俺には許されていなかった。

 

「そんな顔をするな、陸奥。お前の冗談を軽く流せば、それでよかった。或いは、厳しく律すれば、それでもよかった。――――確かに、お前のそれは軽はずみな行為だった。しかし元を辿れば、俺が上司としてあるべき態度をとれなかった事に問題がある」

 

今となっては、陸奥がからかいを元にあのような行為に及んだのか、あるいは何がしかの好意をもってあのような行動を取ったのかどうかは、些細な問題になりつつあった。

無論、後者であったならば、喜ばない男はいない。

しかし、大勢の女性の中にたった一人だけ男が紛れ込んでいるという特異な状況に、陸奥が気の迷いに駆られたという可能性も否めなかった。

 

「信頼する上司と、実の姉妹が淫行に及ぼうとしている光景を目の当たりにしたんだ。気が動転して、その場を遮二無二逃げ出しても、何もおかしくはない」

 

「そんな、そんなつもりじゃなかったの……」

 

「分かっている。後はこちらで何とかするさ」

 

「提督、少しだけ、姉さんに時間をちょうだい、お願いだから……」

 

陸奥の懺悔を聞きながら俺は、生誕から今日に至るまで童貞である事を心から後悔した。

何故俺はあの時、童貞然とした態度を取る事しか出来なかったのか。悔やまれるのはその点だ。俺があの時冷静な判断を持ち、場をとりなす事が出来ていたならば、このような事は起きなかったかもしれない――――そう考えると、俺がインポテンツになったのは当然の帰結であると言えた。

俺が童貞であるのは人間性に問題があるからで、未熟であり続ける以上、勃起する事すら、許されないのだろう。

陸奥にはそう言ったものの、俺の精神状況は刻一刻と悪化の一途を辿った。

期限が迫りつつある報告書に、身が入らない。見かねた大淀に発破をかけられるも、食指が動く気配は一向になかった。

とうとう堪忍袋の緒の切れた彼女に執務室を追い出され、船着き場に流れ着いた俺は、一人地べたに座りこむと、ただただ海を見やった。

 

「長門……」

 

知らず内に、心の声が漏れる。

四六時中考えているのは、彼女の事だ。他の事なんて一切頭に入らなかった。

あの時、あの瞬間、彼女が俺に向けていた視線が記憶にこびり付いて俺を苛む。胸を焦がらせる忸怩たる思いに、俺は何も手がつかなくなってしまった。

しかし、人間というのはやっかいな奴で、彼女に対して罪悪感でいっぱいの心に、悪魔が忍び寄る。何故、あのタイミングで、彼女が。何故、陸奥は、あのような行動を?

悪意に侵され始めた頭を掻き毟っていると、不意に人の気配を感じ取れた。

 

「提督殿」

 

「……あきつ丸か。一体、何の用だ」

 

振り返る事無く、自然とぶっきらぼうな口調となった事をそのまま良しとする。自分の後ろに、にやけた笑みを象る少女の姿が容易に想像出来た。

黒を基調とした彼女の服装は、一昔前の男子学生を思わせるものだ。今時そんなものを着ているとは、時代錯誤も甚だしい。

あきつ丸と呼ばれる彼女は鎮守府内においても非常に珍しい存在で、所謂陸娘という奴である。

出向という形をとって鎮守府にいるものの、彼女が陸軍所属であった事に変わりはなく、俺は彼女とどことなく距離をとっている自分を感じていた。

恐らくは、彼女の言葉の節々に、海の人間を馬鹿にする態度が透けて見えるのも、大きく割合を占めているに違いない。

 

「長門殿と、上手く言っていないようでありますな」

 

「……ははは、お前にも伝わっているのか。陸軍出身との事で不安だったが、ちゃんと周りとは上手くやっているようだな。……安心したぞ」

 

「それは勿論。提督殿と違って、職場間でのコミュニケーションには十分気を配っておりますから」

 

「……そうだな、その通りだ。不甲斐ない話だが、打開策が全く浮かんでこない。ずっと、ずっと長門にどう言えばいいかだけを、考えている。長門の事だけを、考えている」

 

「ほう、そうでありますか」

 

隣にあきつ丸が座る。

普段の俺であれば一種の警戒心を持ったであろうが、今の俺にはそんな気力すら残されていなかった。光のこもっていない視線で、あきつ丸へと視線を向ける。そして、後悔の念を抱く。

彼女は、底なし沼でもがく俺を嘲笑うかのように、破顔していた。俺の不甲斐ない姿を見るにあたって、よくよく彼女が話題に挙げる将校殿と比較でもしているのかもしれない。

目を背ける。顔も見たこともない男の事が、酷く憎たらしく思えた。

 

「いい方法を、お教えするのであります」

 

その時の俺は、よもやあきつ丸から蜘蛛の糸を垂らされる事になるとは思ってもみなかった訳だから、当然目を瞬いた。

思わず彼女の方へと向き直った俺に気を良くしたのか、あきつ丸が更に笑みを深くする。

しかし彼女が告げた打開案は、俺を更なる奈落へとひきずり落とす酷い代物であった。

 

「逃げれば、いいのでありますよ」

 

「……何だと?」

 

笑みを浮かべながら、あきつ丸が続ける。

 

「全てを捨てて、逃げればいいのであります。私見ではありますが、艦娘との間に軋轢が生じ、未だに提督殿がそれを解消出来ていない事を考えるに、提督殿には鎮守府総指揮の能力が不足していると思われるのであります。尻尾振って、大人しく陸に逃げ帰るのが賢明でありますよ」

 

次の瞬間、俺は彼女の胸倉を掴みあげていた。空いたもう一方の、握りしめられた拳が寸での所で思い留まっていたのは、打って変わって真剣な表情をあきつ丸が見せたからだ。

彼女は、今か今かと振り下ろされる機会を窺っている右拳を一瞥する事もなく、

 

「自分は本気でありますが、何か?」

 

その言葉に、俺の心はとうとう折れてしまった。肩の力が勝手に抜け落ち、下半身がぶれる。もはや、立つ事さえもままならない。

あきつ丸は意気消沈する俺に対し、我関せずと言った態度でしわくちゃに歪められた胸元を正すと、やがて懐から一枚の封筒を取り出した。

ぺらぺらと視界を泳ぐそれに意識を掻き乱された俺は、あきつ丸への質問を余儀なくされる。

 

「…………これは?」

 

「陸の訓練場への推薦状であります。自分がしたためておきました。無論、提督殿は海軍に在籍しておりますので、照会の際には自分が身元や理由を証明する必要性が生じますが……ここであれば、提督殿の腐った精神も立ち直らせる事が出来ると愚考する次第であります」

 

「…………意味が、分からん」

 

思考を放棄する俺を前に、あきつ丸は咀嚼できるよう、ゆっくりと説明し始めた。

無論、俺はその一切を聞き流す。今更あきつ丸の言葉に耳を貸す筋合いはどこにもない。所詮、こいつは陸の人間でしかないのだ。

しかし俺の事情など、あきつ丸にとってしてみれば塵芥とさして変わらんらしい。

俺の都合になんぞ一切関知せず、己の言い分を吐き散らす。

 

「逃げ出すともなれば、提督殿は敵前逃亡で処刑……とまでは今のご時世いかないと思われますが、軍法会議で処され、暫くの間謹慎は免れぬでしょう。そしてその後、二度と海軍の門はくぐれない。……しかし、半人前であるとはいえ、提督殿の能力をそのまま腐らせてしまうのも忍びない。又、海で駄目であったから、陸でも使えないと決まった訳ではない、のであります。陸と海は仲が悪いでありますからなぁ、暫くは冷や飯が続くと思われますが、すぐに慣れるでありますよ」

 

「…………」

 

「自分も所詮は、出向の身。いずれは陸に戻る事になるのであります。そうなった場合、提督殿としても、旧知の人間が来てくれると分かっていれば、心強いのでは?」

 

そこで演説は終わった。満足そうに笑みを浮かべるあきつ丸は、脱力しきった俺の手をとると、無理やりそこに推薦状を握らせる。

まるでそれは、拳銃自殺を促すマフィアを思わせ、拷問し尽くされた俺に、抗う術は残っていなかった。

 

「色よい返事を、期待しているのであります」

 

まだ早い。

こいつの体はまだ、衰弱しきっていない。

彼女は言外にそう言い残し、その場を後にした。毒牙を内に潜ませる少女は、舌なめずりをしながらその瞬間を待っているようだった。

実際、俺が精神を崩壊させ、全てを投げ出して懇願めいた喚き声を発して屈服するその瞬間は、あきつ丸が想像する通り、そう遠い未来ではないように思える。

このままでは。

 

「…………戻ろう」

 

幽鬼の呟き声に自然と似たそれは、俺の心情を如実に表していた。ふらふらと、思うように足運びがいかない。

しかし、このまま何もしないでいるのは、限りなく暗い未来を想像させるばかりであった。

不意に、推薦状が握りしめられたままである事に気づく。

眼前には視界一杯の海が広がっていた。生活用水から土砂に至るまで、海は人類のごみ箱と化している。海を守るものとして、ここに無用な不法投棄を自ら行う事はあってはならない。

俺はそれを言い訳にして、まんまと内ポケットに推薦状を忍び込ませたのである。

すれ違う度に突き刺さる視線に、針のむしろのような気分を味わいながら執務室に戻ると、大淀の姿はどこにもなく、代わりに一人の少女が俺の椅子を占拠していた。

あでやかな緑髪で、ぱっちりとした瞳には、ダマ一つないマスカラが花を添えている。鈴谷と呼ばれる少女はこちらに気付くと、軍人らしからぬ態度と笑みを送りつけてきた。

 

「お、提督じゃん。チーッス」

 

「大淀はどうした?」

 

「提督が機能不全起こしてるから、今日の業務、ぜーんぶ一人で執成してる感じ? あちこち走り回ってるみたいだしー」

 

「そうか……それは、その、すまなかったな」

 

「いや、鈴谷に言われても困るんだけど? 後で大淀に直接言ってあげれば?」

 

「それも、そうだな」

 

どことなく間延びした口調で話しかけてくる鈴谷の言葉には、上司への敬意はまるで存在しない。しかし、今となってはそれが心地よかった。

提督という名は、重荷であり、殻だ。その偉大過ぎる殻に守り続けられた結果、中身は酷く萎縮してしまっている。

だからこそ、提督というフィルターを通さない会話は沈みっぱなしだった俺の意識を大分気楽な方向へと導いてくれるものだと言える――――最も、先ほどその殻を捨てろと言われたばかりだったから、俺はどことなく鈴谷との会話にさえ緊張感を持ち込んでいた。

彼女もまた、俺の気苦労なんぞには興味がないようで、思い出したかのように眉間に皺を寄せると、

 

「てかさー、ここ、コンセント差す所少なすぎなんだけど! どこも埋まってて、スマホの充電が出来ないじゃん! コンセントタップ持ってきておいたから今度から何時でも執務室で充電出来るけどさぁー、何これ、設計ミス? 」

 

「……そんな事はどうでもいい。今日、お前は非番だろ? 用もないのに来るんじゃない」

 

「おおぅ、辛辣……取りあえず、座れば?」

 

明け渡された椅子に体を投げ出すと、どこまでも沈み込んでいくような錯覚に陥った。深い溜息が意図せずうちに漏れ出、感覚が遠のいていく。

そんな俺の事を鈴谷は神妙な面持ちで見つめていたが、興味を失ったのか、机に投げっぱなしになっていたスマホを手に取ると、自ら先んじて沈黙の意思を表明してみせた。

流暢にフリック入力してみせる彼女は、その風貌も相まってか、そこらの女子高生に交じっても見分けがつかない。

 

「……鈴谷、さっきも言ったが、特に何も用事がないようなら、出て行ってくれないか?」

 

「はいはーい、今出ていくからちょっと待っててー」

 

こちらを気にも留めないその態度に、苛立ちが募る。その双眸はスマホの画面に向かうばかりで、一切こちらを見ようとはしなかった。

意固地になった俺は、そのように足蹴にされておきながらなお、再度彼女に退去勧告を行う。この時の俺は、たとえ一方通行の間柄でも構わないからと誰かとの会話を求めてはいたがそれと同時に、誰とも喋らない静寂を追い求めるという自己矛盾に陥っていたと思われる。

鈴谷の対応は、あくまでつれない。

 

「は? ……きっも」

 

凍えるような瞳だった。そこには、普段の彼女の溌剌とした姿は、見る影もない。

萎縮し、途端に掠れを覚え始めた口の根を無理やり震えたたせるも、彼女の弁舌にはまるで歯が立たない。

当然の結果だった。俺の体は、俺の態度は、俺の精神は、当初から敗色に塗れている。

 

「っ、お前なぁ」

 

「あのさぁ、いつまでもうじうじ下を向かれてたら、こっちが迷惑なんだけど? 今深海棲艦が攻め込んで来たら、きっと皆殺しにされるよね? トップがこの有様じゃん、きっと、皆、皆死んじゃうよ。その次は本土ね」

 

「それは……」

 

「鈴谷も含めて、私らが信頼してるのはさぁ、何時もの、馬鹿ばっかりやってるけど必至さだけは伝わってくる、そんな提督なんだよ。今の提督にゃ正直、魅力は全く感じらんないねー」

 

「…………」

 

「長門の事考えるのも別にいんだけど、いい加減そろそろ、鎮守府全体の事を考えてってば」

 

普段の陽気な鈴谷とは大部剥離したその様子に、よもや鈴谷に諭される事になろうとは思っても見なかった俺は、茫然と呆ける己を律することが出来なかった。

戦場に出る事もあり、艦娘の中には鼻っ柱の強い面々が数多くいるが、彼女もまたこういう一面を秘めていたとは夢に思わず、驚きを禁じ得ない。

彼女は、あきつ丸と一緒だった。あきつ丸は、俺に逃げ道を提示し、鈴谷は俺に叱咤激励を送りつけてきた。一見まったく異なるように見えて両者に共通するのは、二人とも今の俺に対し、失望に近い感情を抱いているという事である。

それは上司として、三行半を告げられてもおかしくないほどの惨状であった。今であれば、あきつ丸があれほど冷酷に接してきた理由も理解出来る。もしかしたら、周囲より感じとれた視線も、提督としての役割を果たせぬ事を問題視したものだったのかもしれない。

決着をつけなければ。ここで立ち上がらなければ、二度と挽回の機会は訪れない。

一人そう決心していると、言う事を言ったら満足したらしい鈴谷が執務室から出ていこうとしていた。

その後ろ姿に、慌てて声をかける。

 

「……あ、おい! このコンセントタップ! 執務室に私物を置いていくな!」

 

「あ、それ今度来たときのためにそこらへんに差しっぱにしておいてよ。そんじゃねー」

 

「待て、鈴谷!」

 

廊下の方へと消えかかっていた鈴谷が、もう一度姿を現す。

俺の並々ならぬ気配を感じ取ったのであろう、踵を返した彼女は、それでも先ほどと同じような態度を崩さなかった。

 

「何よー、提督。鈴谷、これでも忙しいんだけれど?」

 

「今の今までスマホ弄っていた奴がよくもまぁ……まあいい。鈴谷…………明日からはまた、よろしく頼む」

 

「おおぅ?」

 

「その……夢から醒めた、気持ちだ。……感謝する」

 

面と向かって言うには、あまりにも羞恥心に塗れた言葉だ。しかし、その時ばかりは俺も、軍帽の手を借りることはなかった。まっすぐに鈴谷を捉える。

一世一代の決心に対し、鈴谷はようやく普段通りの笑みを見せてくれるようになると、

 

「ま、それなりに頑張ってねぃ」

 

難詰され続けた今日が終わろうとしている。

鈴谷と別れた後、帰ってきた大淀にこってり絞られた俺は、痺れる足を伴って何とか就寝の途についた。

翌日、まだ鎮守府が活動を始めてもいない時刻に起床した俺は、身支度もそこそこに、長門がいるであろう彼女の私室を訪れる。

まだ寝間着のままの恰好で俺を向かい入れた長門は、突然の来客に整った眉目を困惑に歪ませていた。

早まったかと、一瞬不安を覚える。よくよく考えれば寝起きの女性の部屋を訪れるのは相当失礼にあたるであろうし、弥漫する女の子のいい香りに、頭がくらくらしてくる。

しかし、後悔が堰を割って到来し、もはや辛抱出来る域を疾うの昔に過ぎ去っていた俺は、彼女の部屋に入るやいなや土下座を試みた。

 

「すまなかった!」

 

「提督……?」

 

「初めに、陸奥に悪い所はなく、全ては俺の責任である事を申し上げておく! 俺は上司として失格で、お前の信頼を失ったのかもしれない! だが、まだ俺を信じる気持ちが残っているのだとしたら、もう一度、俺と一緒にっ」

 

「提督……そんなに畏まって、どうしたんだ。あの時の事なら、もう気にしていないぞ」

 

「はえ? いや、は、何だって?」

 

肩すかしをくらった恰好になった俺は、上半身を上げて、彼女を見やった。

長門は珍客をどう扱ったものかと、思慮を重ねている。

 

「陸奥に話を聞いて、あれが冗談の延長線上にある事はとっくの昔に理解していたさ。ただ、その、ここ数日提督と顔を合わせられなかったのは、提督の顔を見たら、恥ずかしくて何も言えなくなってしまいそうだったからだ。その、びっくりして、あの場から立ち去ってしまった経緯も含めてな」

 

「そう、なの、か……?」

 

「ああ。所が、提督が思った以上に深刻に考えているという事を小耳に挟んでな。あきつ丸とも随分派手にやり合ったそうじゃないか。そこで、今日私の方から出向こうと思っていたんだが……」

 

「俺の方が、先に来てしまった、と」

 

「まぁ、そうなるな……」

 

「じゃ、じゃじゃじゃじゃあ、話はこれで終わり、終わりだ! 俺はここで、かかか、帰らせてもらう!」

 

穴があったら入りたいとはこの事だ。

全部俺の勘違いだった。いや、陸奥に長門のその後の経過を詳しく聞かなかった事も問題であったのかもしれない。思い起こせば、彼女の言葉は長門の状況を正確に言い表していたとも言える。

羞恥心に打ちのめされた俺は立ち上がると、早速踵を返そうとした。それを寸での所で止めたのが長門である。

 

「待ってくれ提督」

 

「な、何だ長門! これ以上俺に辱めを受けさせるな!」

 

熟れた林檎のように真っ赤に染まった頬を軍帽で必死に隠しつつ振り向くと、長門が真剣味を帯びた視線で、こちらを真っ直ぐと見つめていた。

 

「一言だけ言わせてほしい。この長門は、何があっても提督の事は信頼し続ける。何があっても、だ」

 

「長門……」

 

熊さんパジャマじゃなければ、もう少し恰好もついて、俺の感動も三倍増しだったんだろうけどなぁ。

舐めまわすような俺の視線に込められた真意に、ようやく察し始めた長門が慌てふためく。

 

「……あっ! しかし、これは提督がこんな朝に来るのが……!」

 

「そうだ! 今回の一件は端から端までまるっと俺が悪い! 皆まで言うな! 分かっているから! ……しかし、長門の私室、意外とファンシーなんだな」

 

「!」

 

「す、すまん! 悪かったからクッションで叩くな! 結構痛いぞ! 長門は力も強いんだし!」

 

「む!」

 

「痛い痛い! 何故威力が増すんだ!」

 

そう言いながらも、久方ぶりの長門との交流を機会を得られたのだ、穏やかな気持ちでない訳がない。

自然と零れる笑みを長門は勘ぐったが、それは余計な詮索である。俺はただ、長門と会話出来る事がうれしいのだ。

 

「よし、少し早いが食堂に飯でも食べに行こう。長門、出られるか?」

 

「て、提督……。少しは私の事を考えてほしいんだが」

 

「あ……す、すまん」

 

鼻白む長門。高さを誇る彼女の鼻梁が僅かに上ずったのを見て、俺はようやく自分の失態を悟った。

女性に寝間着で往来を出歩けと言えるほど、俺は豪気を持ち合わせてはいない。

部屋の外で長門の支度を待っていると、隣室の扉が僅かに開いた。

陸奥の私室だ。

 

「どう、だった?」

 

「俺が赤っ恥をかいた。詳しくは長門から聞いてくれ。所で、お前も、一緒に食堂へ行かないか? ……どうした、何かあったのか? 何故顔も出さない」

 

「え、私? 私はその、まだいいわ。それにしても……」

 

「どうした」

 

「私から言った事だけど、艦娘寮に提督が来るのはやっぱり、異物感が……」

 

「お前という奴は……まぁいい。さっさとお前も着替えろ」

 

「ちょ、ちょっと提督、もしかしてそれ、姉さんにもそう言ったの!?」

 

突如声色を豹変させる陸奥に、思わず後ずさりしてしまう。

なんだなんだ、また俺は何かしでかしたのか!?

 

「女の子は出かける前に、色々とする事があるの! 提督に言われたら、姉さん服着替えるだけで出てきちゃうわよ! 男と同じ視点で考えないでよね、これだから童提督は!」

 

「あ! また言ったな! また童提督って言ったな! あーあー! 朝の余韻が最悪だ! そうだ陸奥! お前の顔を見てやる! まだノーメイクって奴なんだろう!?」

 

「きゃー! 最低最低最低!」

 

「見・せ・ろ! 大丈夫、長門のやつは化粧なんざしなくても普通に綺麗だったしな! お前も大して変わらん!」

 

「絶対に見せないわよ!」

 

暫く続いた扉越しの激闘を制したのは陸奥だった。

勢いよく扉が閉められ、あわや俺は指を挟みこみそうになる。

忌々しげに陸奥の私室へと通ずる扉をねめつけていると、騒ぎを聞きつけたのであろう、それこそ朝の準備に一時間以上かけていそうな鈴谷がこちらに駆け寄ってくるのが見えた。

勿論、まだ寝間着姿だ。

 

「んあ? 何かと思ったら提督じゃん。ここに居るってー事は、つまり、そういう事ぉ?」

 

「鈴谷か。まぁ、色々とあったが、これからは再び、提督としてしっかり働きたいと思っている」

 

俺の言葉に、鈴谷は笑みを返した。どうやら、汚名は返上出来たらしい。

後はあきつ丸に、胸元に仕舞い込んだアレを返せば、それで終わりだ。

気になって様子を見に来た程度の事だったらしく、鈴谷はさっさと自室へと足を向ける。

所が、不意にその足並みを停止させると、振り向きざまに俺に向かって、

 

「あ、そうそう、後で陸奥に言っといてくれる?」

 

「何をだ」

 

「計画失敗、ご愁傷様、ってね」

 

「…………?」

 

「そんじゃねー」

 

「おい、鈴谷! ……まるで意味が分からんぞ」

 

賭け事でもしていたのだろうか? その疑問は、長門が部屋から出てきたのを機に頭の片隅へと追いやられた。

長門を伴って食堂に赴くと、まだ早い事もあり食堂はまばらで、自由に座る事が出来た。窓から入り込んだ光が、閑散とした食堂を照らし出す。

間宮から朝食を受け取った俺は、お目当ての人物を見かけた事もあり、わざわざそちらの方へと足を運んだ。あきつ丸だ。

近づくと、彼女は食事の手を止め、俺の方に視線をやり、次いで後方に控える長門へと視線を移した。

 

「これはこれは提督殿、それに、長門殿。ほう、その様子では無事に関係は修復されたご様子。重畳でありますなぁ! 正に、計画失敗、ご愁傷様、であります!」

 

「それ、鈴谷にも言われたな。どういう意味なんだ? 何か賭け事でもしていたのか? いちいち目くじらを立てるつもりはないが、そうおおぴっらにしてもらっても困るぞ」

 

「似たようなものでありますよ。ねぇ、長門殿」

 

「さて、どうだったかな」

 

長門型とあきつ丸及び鈴谷の間にどのような関係があるのかは定かでなかったが、さして問題があるようには思えなかった。戦場で支障を起こしたという報告も、聞いたがことがない。

それに、今俺がやるべき事は、彼女から手渡された物を返上することにある。俺は早々に疑問を放棄した。懐から、推薦状を取り出す。

 

「あきつ丸。悪いが、これは返しておく」

 

「そうでありますか。では、また要り様になった時にお声をかけて頂ければ」

 

「いや、もう必要ないさ、そんなもの。それと、あれだけ壮語してくれたんだ。お前には出向期間を長期化させてもらうぞ。海の男を舐めた事、死ぬほど後悔させてやる。今後もビシバシ行くからな」

 

復讐の意味を込めた言葉に、あきつ丸は目を丸くした。

その表情に、俺は優越感を得る。こういう顔が見たかったんだ。しばらくの間は上官命令で死ぬほどコキ使ってやる。

俺の意図を察したのであろう、あきつ丸は身を乗り出して、

 

「ははは、望むところでありますな」

 

「ははは、その言葉を待っていた」

 

お互い笑いあう。

表面上にしか過ぎないそれを建前として、俺たちの間では早くも火花が散っていた。

 

「ああ、そういえば、提督殿のお耳に入れておきたい事が」

 

「陸からの情報か、聞かせろ」

 

「実は…………」

 

彼女からもたらされたのは衝撃の事実であった。

回収した筈の戦闘機が、再び深海棲艦の手に落ちたらしい。

 








提督と艦娘間のトラブルに乗じ、海の艦娘どもから提督を引き離すべく隔離政策を推進。
ホームグラウンドである陸でイチャイチャしようとするあきつ丸は、ずる賢かわいいってはっきり分かんだね。ご指摘がありましたので、ちょっとヤンデレ成分アップでありますよ。
長門&陸奥。鈴谷あたりも分かりづらい、かな? あ、大淀全然喋ってねえや。


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6話

 

「陸」

 

「海」

 

「絶対に陸の失態だ」

 

「本当にしょうがないお人でありますなぁ。海の半人前どもがやらかしたに決まっているであります。現に、提督殿の情報網には上がって来ていないようで。上層部の判断で箝口令が敷かれているのでは? まあ、陸にしてみれば海の不祥事という事だけでどんぶり三杯はいけるでありますが。正に、海ザマァ、であります」

 

「うぐっ……いやはや、あきつ丸君! 陸の糞野郎どもも、たまにはやるじゃないか! あいにくこっちは情報の正確性が売りでな。今は精査している最中との事だ」

 

実際の所、上層部からの通達はあきつ丸とタッチの差であった。後日、つらつらと克明に記載された報告に目を走らせると、思わぬ眩暈に襲われる。整然と立ち並ぶ文字面が歪んで見えた。

設備の整った場所に運びこんだまでは良かったものの、まさか深海棲艦が奪還作戦を実行に移してくるとは、思いもよらなかったらしい。

この点においては俺も強くは言い出せない。俺自身、罔作戦は完全に終了したとばかり思い込んでいて、此度の話は正に寝耳に水といえた。又、責任の擦り付け合いは始まったばかりであるらしく、俺とあきつ丸どちらの判断が正しいものかは未だ不透明なままだ。

気になってくるのが、罔作戦時、急遽作戦の変更を余儀なくされる羽目になった、空母ヲ級の存在である。

報告によれば、随伴艦共々撃沈が確認されたとの事であったが、彼奴の出現によってF―35の行動パターンに変化が生じた事などを考えると、根っからの深海棲艦と鹵獲された現代兵器との間柄は、今後の戦局において重要な着目点になり得るであろう。

今回の件にしてみても深海棲艦達が、戦地に残されたはらからの亡骸を取り返しに来たと考えれば、十分話の筋が通る。

しかし、結局真相は闇の中だ。真実は水煙の中に立ち消え、未だ見えて来ない。

 

「提督?」

 

気づくと、明石が眉頭を眉間に募らせているのが目に入った。

人の目を引く桃色の長髪が特徴的で、歯を見せて笑うのが魅力的な女性だ。加えて、あっけらかんとしたその性格が、知らず人を引き寄せる。

何処となく不安げな視線でこちらを窺ってくる彼女を見るに、かなりの間、思考の底なし沼へと埋没していたらしい。

 

「いや、何でもない。遠征任務の方はどうなっている?」

 

「あ、はい。まず、今日をもって米国における遠征任務が満期終了となります。引き継ぎなどの手続きが残ってはいますが、数日以内には、同任務に就いていた武蔵、大和、及び、阿賀野、能代、矢矧、酒匂は当鎮守府へ帰還する事が出来ると思われます。いやぁ、長かったですね、本当に!」

 

「そうだな。早く彼女たちに会いたい所だが……」

 

明石の言葉に頷き返す。それはきっと、任地に赴いている者たちも同じ思いであったに違いない。各々が郷愁の念を抱きながら、この地に帰る事を今か今かと待ち望んでいる筈だ。

深海棲艦及び艦娘の登場により、世界の安全保障は抜本的な改革を求められた。そこで、押し寄せる時代の潮流に最も対応を迫られたのが日本政府だ。

近しい所に、二○一四年に制定された防衛装備移転三原則が存在するが、これは既に無用の長物と化してしまっている。今日本に世界が希求するのは武器輸出ではなく、艦娘の派遣だ。

アメリカ、EU、中国、そして中東。艦娘の建造技術を持たない彼らは、こぞって自国の防衛に艦娘を求めた。今や日本、並びに同じく建造技術を有するドイツ国の世界における影響力は、決して無視できないものとなっている。

その分、国連やコラムニスト、国際的な経済誌の間において、この二国は常に非難の的だ。

技術公開を求める声は根強く、矢面に立たされているのが日本とドイツである関係上、この構図はかつての国際連盟を彷彿とさせる。

この情勢を鑑み、秘密裏の内にアメリカに対して意図的な情報漏洩が行われ、目下アメリカ産艦娘が建造中との事ではあるが、詳しい事は分かっていない。

又、この抗争に関係のある話として、今最も騒動を起こしているのが艦娘の戦地投入案だ。この戦地とは、深海棲艦との戦いの場を指すのではなく、敵対国やテロリスト対策としての意味を内含している――――深海棲艦という人類共通の敵が現れても、国家間における小競り合いやテロリストによる被害は絶滅する事はなかったという訳だ。

 

「私見が許されるのあれば、決して現実化しない事を祈るばかりだな。お前たちに人殺しなど、させたくはない」

 

「いいんですかねぇ、そんな事を言ってしまって。軍人は常に上意下達ですよ?」

 

「分かっているさ、そんな事。その時はその時だ。しかし、願掛け程度であれば、誰も咎めはしまい」

 

「ふふっ、お優しいんですね、提督は。さて! 次に、当鎮守府近海における任務ですが……」

 

「川内と神通に吹雪、磯波、綾波、敷波を率いさせろ。何か言ってきたら夜戦で釣って無理矢理遠征に行かせろ。第三艦隊として、阿武隈、夕張に第六駆逐隊を。次いで第四艦隊についてだが」

 

「ええっと、吹雪ちゃんは赤城さんにべったりなんですけど……たはは」

 

「……赤城に新建造艦の世話を任せたのは失敗だったかもしれんな。まぁ出撃においては支障がない筈だ。赤城に促されたなら、やる気も出るだろう」

 

遠征任務は毎日のように行われるもので、艦娘達の練度を測る意味合いも兼ね備える。

戦線が拡大し、艦隊を同時展開する必要性に駆られる最中、こういった日々の任務においても気を抜いてもらっては困るという訳だ。

遠征任務に就く面々を艦隊ごとに収集すると、やはり駄々をこねたのは川内であった。さすがは夜戦バカという異名を持つだけはある。一度ごねると梃子でも動かない。

これに対し俺は夜戦参加券なるものを三枚ほど支給。彼女はそれをひったくると即座に各員を伴って執務室を出て行ったが、あれの引き換え有効期限は今日までであり、そして、川内に遠征任務後の出撃予定は存在しない。そもそも、手書きのそれに公的能力がない事は明白だ。

第三艦隊、第四艦隊を送り出した後も、暫く明石との綿密な話し合いは続けられたが、それが煮詰まりを迎える頃にもなると、俺は大きく肩を持ち上げ、

 

「……少し休憩を取ろう。すまんな明石。工廠の件で忙しいであろうお前に、秘書艦の任まで回してしまって」

 

体の節々が奏でる疲労の音に顔を顰める。

同じく疲労が蓄積しているであろう明石に労いの言葉をかけるも、彼女はかぶりを振って、それからいつもの笑みを象った。

 

「いえ、好きでやっている事ですから! それに、私が頑張れば少なからず他の人の負担を減らせる筈ですからね」

 

「この鎮守府が回っているのは、お前の内助があってこそ、だ。しかし、体だけは壊さんようにな」

 

「ええ、勿論です!」

 

「宜しい。ああ、そうそう、お前に修理してもらった電気スタンドだが、中々どうして調子がいい。一時は買い替える事も考えていたが、助かった」

 

「ただでさえ鎮守府の財政は逼迫していますからね。出来るだけ長持ちさせませんと。それに、電気スタンドの一つや二つ修理できないようでは、工作艦の名がすたりますので!」

 

ええ子や、めっちゃええ子やん。先にあきつ丸と舌戦を繰り広げた事もあってか、明石への好感度は花丸急上昇中だ。

こういう従順な子に陸の若い連中は色々仕込んでんだろうなぁと思うと、腸が煮えくり返ってくる。やっぱり陸の奴らは糞ばっかりだ。

無論、海の連中は紳士揃いである事はこれからも世の婦女子に積極的にアピールしていきたい所存である。

明石が思い出したとばかりに口元に手を当てたのは、彼女に向けて情欲に塗れた視線を送っていた正ににその時で、それは彼女を性の対象として見てしまった俺への、神の裁きだったのかもしれない。

 

「あ、そういえば、提督に私用でメールをお送りしたんですが、もう見ましたか?」

 

思わず、硬直してしまう。まさかそこでピンポイント爆撃をされるとは夢にも思っていなかった俺は、ニの口を次げなくなってしまっていた。

突如として唇を真一文字に結んだ俺を見て、明石は首を傾げる。

このままでは、再び明石が俺の沈黙の意味をはき違え、誤った形で誤飲してしまうのは明白であった。窮地に立たされた俺は、依る術もなく正直な告白をせざるを得ない。

 

「………………」

 

「提督?」

 

「実は……折り入って、相談したい事があるんだが」

 

その言葉に、明石は姿勢を正して身構えた。固唾を飲んで俺の次の言葉を待ち受ける彼女を垣間見て、どうしようもなくここから遁走を開始したい気持ちに駆られる。

意を決して告白した俺を迎えたのは、明石の驚きと呆れの入り混じった声だった。

 

「スマートフォンを、無くした!?」

 

「声がでかい! それに無くしたのはプライベート用のものだ! 業務に支障はない!」

 

「いや、でも、提督、子供じゃないんですから。ちょっとそれはフォローできませんよねぇ」

 

誹毀めいた明石の視線に、顔が赤くなるのを感じる。ここまで来ると、俺も黙ってはいられなかった。

売り言葉には買い言葉とはよくいったもので、もはや道理もへったくれもない反論を用いて明石に追走する。

 

「ええい、だから言いたくなかったんだ! お前もこんな時に限って連絡してくるんじゃない!」

 

「ちょ、逆ギレ!? そりゃないわ!」

 

「上官に口答えするな!」

 

「あら、そうですか! せっかくアンティーク趣味の提督のために、時間が出来たら懐中時計の一つでも自作してさしあげようとの話だったんですけど、もうどうでもいいですよね!」

 

「待て待て待て待て! それとこれとは話が別だろう!? 卑怯な手を使うな!」

 

端を発した明石との口喧嘩に、俺は大人げなさを持ち込んだ。途端に地を露呈させた明石も、徹底抗戦の構えである。

こういった場合相手を丸め込むのに必要であるのは、道理でも整合性でもない。勢いと大声だ。一度主導権さえ握ってしまえばこちらのもので、相手に一切の反論を許さずに泣き寝入りに追い詰める事が出来る。

しかし、俺が責め立てるよりも早く、明石が動くよりも早く、第三者が割って入ってきたのだから、その時の俺は思わず声を上げる事も失念してしまっていた。

執務室の扉が開かれ、鈴谷が現れる。

 

「提督? なんかまた大声出してたみたいだけど、随分ご立腹じゃん?」

 

「っ、いや、何でも、ない。それで、突然どうした」

 

鈴谷の登場に冷や水をぶっかけられた面持ちに陥った俺は、咳払いをして彼女の方へと向き直った。

俺の様子を察してか、さきほどまでいかり肩で牙を剥いてみせた明石も背筋をおっ立てて秘書艦然とした表情を取り戻す。

平然を今更取り繕った俺たちを鈴谷は冷めた視線で見つめていたが、やがて本題を語りだした。

もっとも、それはあまりに端折り過ぎて、俺には全く理解できないものだ。彼女は耳の根本の部分をトントンと指し示しながら、

 

「あのさ、聞こえないんだけど、もしかして、明石さぁ」

 

「は? 何だって?」

 

俺は当然聞き返したが、それは自分でも分かってしまうほど、あからさまに動揺の色合いを濃くしたものだ。原因は、鈴谷に他ならない。

一見いつもと変わらぬ軽い物言いではあったものの、彼女は苛立ちを疼かせているようだった。それを如実に表すが如く、乱脈に身を任せ、彼女の左足が小刻みに足踏みをする。

普段から規律や軍機にはとんと頓着しない彼女であるが、今日の彼女は異常の一言に尽きた。横一線に縫われた彼女の唇が、普段の彼女とは正反対の朴訥な印象を感じさせる。

これに察しの良過ぎる反応を示したのが明石だ。彼女はへにゃりと困り果てた笑みを浮かべる。

 

「ああ、それでは、そういう事ですね!」

 

「おい、二人とも、一体何の話をしているんだ? お前らがツー・カーの仲だったとは驚きだが、ちゃんと俺にも説明してくれ」

 

「ああ、実は工廠の方で手持無沙汰な時、試作型のイヤフォンを作ったんです! かなり画期的な機構を備えていて、鈴谷さんにはテストプレイヤーをしてもらっていたんですけれど…………どうもこの様子を見るに、そもそも音が聞こえないみたいですね」

 

「ああ、そういう事か。鈴谷、残念だったな」

 

「もー! ホントだよー! せっかくただで新しいのが手に入ると思ってたのに、最悪だっての!」

 

そこで俺は、先ほどの鈴谷に抱いた違和感が、勘違いであった事に気づいた。

鈴谷は笑みを浮かべながらこちらに歩み寄ると、明石の胸元に軽く拳を打ち付けた。漫才の一幕を思わせるその光景にほっと安堵すると共に気を引き締める。

長門の一件で、勘違いにはほとほと懲りた。いい加減邪推とも取れる考え方は戒めなければならないだろう。

俺は緊張を解こうと姿勢を崩してから、

 

「まぁ、物事はそう上手くはいかないものだ。しかし、画期的な、と来たか。一体どんなものだったんだ?」

 

「え? ああ、それは実用化の目途が立つまでは秘密ですって!」

 

「あ、言っておくけど鈴谷が先に話つけたんだからね。提督が欲しがってもあげないよー」

 

「戦略に活用できるかもしれないともなれば、話は別だ……ところで明石。仕事が少し詰まっているという話だったが、よくもまぁそんなものを作る暇があったな?」

 

「もう提督ったら、作業の効率化には息抜きがつきものですよ!」

 

「本当かそれ?」

 

「本当ですよ! まったくもう!」

 

その後、暫くの間談笑を続けた俺たちは、気分転換がてらに鎮守府内の散策を行う事にした。ついでに資材が保管されている倉庫などに見回りがてら赴き、そのまま遅めの昼食を取る算段で、俺は意気揚々と執務室の扉を開けた。

すぐ傍に、爛爛と目を光らせた小型の肉食獣がいるとは夢にも思わずに、だ。

 

「ぎゃあああああああああああああああああッ!」

 

激しい、痛み。まるで体に熱した棒を突っ込まれた気分に突如として襲われる。

鎮守府に絶叫が木霊し、次の瞬間、俺は、なす術もなく前のめりに廊下へと倒れこんでいた。

端無くも激痛に襲われた俺が最初に考えたのは、何者かによる暗殺計画だ。

鎮守府の指揮を一手に取り仕切る俺を亡き者にし、混乱に乗じてここの設備を掌握しようと考える者がいないわけではない。艦娘を擁するこの地には、それだけの価値があるのだ。

次に俺は、超過する痛みに失神しかけながらも、自然と痛みの出所を抑え込んでいる事に気づいた。

その場所は、尻。もっと詳しく言えばケツの穴だ。そこに至った所で、俺はようやくこのたびの下手人が誰であるかを悟ったのである。

 

「若、若、若葉、この、バカタレ! カンチョーはいい加減止めろって言った、だろうが!

俺のケツが糞を我慢できなくなるって何度も説明しただろ! お、おおぅ」

 

「若葉だ。この瞬間を待っていた」

 

「があああああああ! 明石ィ! 上官命令だ! そこのバカタレをひっとらえろ! 今すぐ! 絶対に逃がすな!」

 

下手人の名は、若葉。初春型三番艦とも呼ばれる少女で、今しがたカンチョーをしてくれやがったクソガキである。

その外見からは予想出来ぬ冷静さが持ち味で、戦場においては淡々と深海棲艦を撃墜していき、更にそれに奢ることもないその姿勢は十分評価できるものである。

しかし、何時からか彼女は俺に盛大な悪戯をしかけてくるようになった。カンチョーはその一例に過ぎず、さんざっぱら戒めても全く聞きやしないという、困った事態に落ち着きつつあるのが現状である。

ケツの穴を愛おしそうに撫でながら、腰が抜けてしまったが為に立ち上がれない状態で彼女に嘲罵悪罵を浴びせる。

申し訳ないが、息子が立たないからといって後ろの穴を開発してくれとは一言も言った覚えがないし、その手の道に行くつもりも毛頭ない。新宿二丁目をスキップで歩き渡れるほど、俺の性癖は歪んではないのだ。

彼女は逃げる事もなく素直に明石に四肢を拘束されたが、その仏頂面を崩す気配はなかった。

手首、肘、肩を極められ、なす術もなく地べたに体を打ち付ける形になった彼女と目線が合う。

感情の起伏をうかがわせないその瞳に無性に腹が立った俺は、後先考えず彼女を怒鳴りつけた。

 

「バカタレ! 何を考えてるんだ!」

 

「悪戯だ」

 

「そんなん見れば分かる! いいか、俺が聞いているのは何故こんな事を繰り返すのかという、そういう意味だ! いいか、これが最後のチャンスだぞ! もうこれ以上は我慢出来ん! ちゃんと言えたら許してやらない事もない!」

 

「提督は怒っているのか?」

 

「当たり前だ、このバカッ!」

 

ケツを苛む鈍痛に眉を顰めながらも、鈴谷に肩を貸してもらい何とか立ち上がる。

鎮守府には大勢の艦娘が所属しており、全員と良好な関係を築けているとは、さしもの俺も断言は出来ない。とびきりの問題児である若葉はその筆頭だ。どことなく角の立つ物言いが、それを更に印象付けた。

口酸っぱく、それこそ耳にタコができるほど返す返す注意勧告を行っても未だに効果の見受けられない現状は、正直提督の地位に立つべくものとしての悔しさが色濃く痛感され、不甲斐なさが立つ。

しかし、頭に血が上った俺にそんな事を気にする余裕はなく、彼女に今か今かと殴りかからんとする拳を押さえつけるのでいっぱいだった。

 

「いいか、理由を話せば許してやらん事もないと言ってるんだ! ……ああ明石! そろそろ立たせてやれ、そこまでやる必要はない! さあ若葉! 言ってみろ! 何故、こんな事を繰り返す!?」

 

「提督は、怒っているのか?」

 

再三に渡る通告をもってしても、杳として効果の程の見受けられない若葉に、俺はとうとうぶち切れた。

 

「……ほーう、そうかそうか、あくまでもそういう態度を貫き続けるか、なるほど、なるほど、大いに結構! 若葉! 後でちょっとケツ貸せ! いいな!」

 

「て、提督! 何を考えているんですか!?」

 

「うるさいぞ明石! いいか若葉! 本日の業務が終わり次第、至急執務室に出頭! 必ず出頭せよ! 来なかった場合は謹慎処分も辞さん!」

 

「分かった。必ず向かおう」

 

ここぞとばかりに自分の意思を表明してみせた若葉に苛立たずにはおれない。

それを解消しようと思い白羽の矢をもって狙いすましたのが、明石と鈴谷であった。

 

「明石! ついでに鈴谷! 溜まってる仕事を片付けるぞ!」

 

「ええ、ちょっまっ、鈴谷も!? 昼食は!? カレーカレー!」

 

「飯返上で仕事に勤しめ! この腸が煮えくり返る気持ちは、仕事で発散するしかない!」

 

「ちょっと待った! 私たちを巻き込む必要性はどこにあるんですかねぇ!?」

 

「どこにもない! けど、俺一人でやっても効率が悪いだろ! さっきお前が言ってた事と同じだ明石! 分かったらさっさと付き合え!」

 

「げっ、藪蛇踏んだ!」

 

若葉を追い出した俺たちは、そこから怒涛の勢いで業務に徹し始めた。

最初は不平不満を口にしていた二人も、なし崩し的な恰好で仕事に着手し始める。

関係各所への通達に始まり、鎮守府宛てのクレーム対応、遠征艦隊が帰ってきてからは川内をいなしつつ、その日のうちに報告書を書き上げた。

中天に月がかかり始めた頃には、三人とも疲労も限界で、夕張に持ってきてもらっておいた夕食は疾うの昔に冷め切ってしまっているようだった。

箸を伸ばすも、旨みが半減してしまっている事は否めない。

 

「うん、美味い」

 

「いや、普通に不味いんですけど? 明石ー、さっさとお風呂入って今日はもう寝ようよー」

 

「そうだなぁ……今日はもう、工廠に戻る元気はないなぁ……」

 

机に向かって、だらりと上半身を投げ出す二人。

自重に押しつぶされる二人の乳房に目を背け、俺は努めて冷静を装ってから、

 

「色々と迷惑をかけたな。飯食ったら今日はもう帰っていいぞ」

 

脱力しきった二人に労いの言葉をかけると、彼女たちは同じタイミングで口を尖らせてみせた。

 

「冷たっ! もう少しさ、言い方考えてよね」

 

「ええい、分かった分かった。俺も大分頭が冷えてきたからな。今後、色々と二人には便宜を図ろう。秘書艦に関してだが、当分二人はやらんでいいぞ。それと鈴谷、前にお前が持ってきたコンセントタップだが、やはり執務室に私物が置いてあるのはよくない。電線の方も問題がないようだし、増設することにしたから持ってかえっておいてくれ」

 

「ほーい。ま、別に秘書艦の方は外してくれなくてもいいんだけどね。一応、これでも鎮守府の一員だし、判官びいきは印象悪いし」

 

「誰もそんな風には考えないと思うんだが……明石も同意見か?」

 

「そうですね! まぁ、私は工廠での作業の関係上、二束のわらじを履く事にはなりますが」

 

「お前たちのような部下を持てて俺は幸せ者だよ。さて、今日の業務は無事に終了だ。二人とも、ご苦労だった」

 

残すは若葉の問題のみだ。

俺はさっそく執務室備え付けの固定電話で彼女に呼び出しをかけると、彼女が現れるのを暫く待つ事にした。窓の外には暗闇が広がっている。

それはまるでこれから起こる惨劇を暗示しているかのようで、ふって湧いて出た罪悪感から逃げるように、俺はカーテンを閉めた。

 

「若葉だ。提督、約束通りやってきたぞ」

 

そう言って執務室を訪れた若葉からは、やはり反省の色をうかがい知ることはできなかった。

無論、元より承知済みであった俺は別段心をかき乱される事もなく、彼女に入室を促す。

 

「うむ。呼び出された理由は分かっているな?」

 

「ああ」

 

「宜しい。それでは俺にもっと近づけ。……分かっていると思うが、バックを取ってもう一度カンチョーをしようとか、そういう事は絶対に考えるなよ! いいか、考えるなよ!」

 

「提督、それはもしかして『振り』か?」

 

「馬鹿者! いいからこっちに寄れ!」

 

目と鼻の先にまで近づいてきた若葉を尻目に、俺は執務室に敷かれたカーペットの上に正座で座り込んだ。

滅多に感情を表沙汰にしようとしない若葉もこれには驚いたようであって、目を真ん丸にする。彼女は俺の言葉を待っているようであった。

 

「俺の膝の上に跨るようにして、俯せで横になれ、若葉」

 

「提督、それは新しい暗号か?」

 

「いいから、言われた通りにするんだ! これが正しい行いとはこれっぽちも思わんが、これ以上の妙案が浮かばんのだ! 分かったら早く!」

 

そう言って捲し立てる俺を若葉は訝しんだが、やがて彼女は素直に命令に従った。

まるでまな板の上で体を投げ出す鯉のようだという錯覚に陥りながら、大人しく縮こまっている若葉に諭すような口調で説明を始める。

俺の片手は、彼女の小さな体を押さえつけるように添えられており、若葉は今や身動きの一つすら出来やしない。

 

「さて、若葉。お前たち艦娘は日常生活において死を実感する事は殆どない。これは既に承知済みだな? だが、痛みというのは危険信号だ。お前たちが人の形をしている以上、痛みから必要以上に逃れる事は出来ない。言いたい事は分かるな?」

 

「提督、それは理解したが、それが現状とどう関係する? よく、分からないぞ」

 

「それは、だな――――今からお前を、制裁にかけるという事だッ!」

 

若葉が息を呑んだのも束の間、俺は彼女のスカートを捲りあげると、その勢いのままアニメキャラがプリントされた下着をずり下ろし、露出した桃尻を思いっきり手のひらでぶっ叩いた。

 

「ん!!! っ、あっ」

 

「――――これより、お前をお尻ペンペンの刑に処す。情けはかけん」

 

情け容赦のない一撃が、再び振り下ろされる。

柔らかな彼女の尻が、手のひらと接触する度に衝撃を受け、揺れ、波となり、破裂音にも似たそれを室内に響き渡らせる。

さらにもう一発。

 

「おら、これでもか! これでもか!」

 

「うぐっ! 痛い、痛いぞっ!」

 

制裁が振り下ろされる度に、押さえつけられた若葉の体が跳ねる。

カーペットに十指を走らせ、衝撃に襲われる都度生地を握りしめる彼女の姿は、俺にやる気を損なわせるには十分であったが、それでも止める訳にはいかなかった。

 

「うあっ! 提督、提督っ、痛いぃ!」

 

「当たり前だ! 痛くしているのだからな!」

 

「痛い、痛い、痛っ」

 

「黙れ! もう堪忍袋の緒はとっくの昔に切れてるんだ! 今日は反省の言葉を口にするまでずっとやるからな! 分かったか!」

 

「あうう!」

 

「返事はきちんとしろ!」

 

彼女の事情などお構いなしとばかりに、全力の一撃を何度も打ち付ける。

言っても聞かない悪餓鬼に対し、俺が最終的に行き着いたのがこれだった。無論、これは名案ではなくただのセクハラだ。

しかし、駆逐艦の生尻を見てインポテンツが治ってしまったらペドフェリアの誹りは免れないと日夜恐怖と戦っていた俺にとって、今回の若葉の件は正に渡りの船といえた。

実験の意味合いも兼ね備えた若葉への制裁は最高の結果であったと言える。どうだ、俺の息子はピクリとも反応しないではないか!

 

「はっはっは! 俺はロリコンじゃない! 俺は犯罪者予備軍じゃない!」

 

「うぐぅ! あ、ああ、いっだい、いだいィ!」

 

若葉の叫び声が鼻声交じりに差し掛かった所で、俺はようやく我に返った。

見れば、若葉の小ぶりな尻は物の見事真っ赤に腫れ上がっていて、彼女の両の目からは溢れんばかりの涙がこぼれ、痛みに打ち震えている。

もはや俺としてもここが限界だった。ここまでが境界線だ。確かに俺のケツ穴は深刻な被害を受けたが、ものには限度というものがある。

怒りの矛先が自分に向かい始めた所で、俺は若葉に再び勧告した。

 

「若葉、痛かったか? 痛かっただろう? これに懲りたら、もうあんな真似はするな。分かったな?」

 

「……嫌、だ」

 

もう一度ケツをぶっ叩く。

 

「ううう!」

 

若葉は再び叫び声を上げたが、決して反省の言葉は口にしようとはしなかった。

彼女が意固地になっているのは明白で、ここに至ったからには、最早どちらが先に折れるかといった段階に差し掛かってくる。

彼女への制裁にメリットを見出していた点を踏まえれば、俺のやり方はかなりあくどいもので、正直今となっては罪悪感の方が比重としても大きい。

しかし、ここで俺が根負けしてしまっては、若葉は再び俺のケツ穴を襲ってくるであろう。それは肛門の崩壊を意味する。

俺が心底困り果てていると、それまでむせび泣く事に終始していた若葉が、震える口調で自分の意思を伝えてきた。

その瞳は真っ赤に充血しており、限界が近いことを訴えている。

 

「提督は、痛かったか?」

 

「何だって?」

 

「若葉にカンチョーされて、痛かったか?」

 

「……ああ、痛かったさ。物凄いな。若葉が今されているのと同じくらいにな」

 

「同じ? 本当に同じなのか?」

 

「どういう意味だ」

 

「片手落ちは、駄目だ。不公平は、駄目だ。若葉は、まだ、全然、痛くないぞ。だから提督は、痛くなるまで、もっと、やらないと駄目だ。反省させたいなら、もっと、やらないと駄目だ」 

 

痛みに震えながらそう強がってみせる若葉に、とうとう俺は打ちのめされてしまった。

ずり下ろした下着を元に戻してやってから、項垂れたままの彼女を解放する。

 

「若葉、お尻ペンペンはこれでお終いだ。もうカンチョーはするなよ、カンチョーしてきたら、またお尻ペンペンだからな」

 

「…………それ、は」

 

「『振り』じゃない! ここは大阪か! 高速修復材の使用を許可するから、風呂に行ってさっさと寝ろ! 分かったか?」

 

「……無理だ、動けない」

 

確かに、肩で息をする若葉にそれを強いるのは難しいように思えた。解放された少女はぴくりとも動こうとせず、四肢をカーペットの上に横たえる。

体中から噴き出した汗とかき乱れた髪はどことなく事後を匂わせ、いたたまれなくなった俺は憔悴と共に打開案を提示した。

 

「じゃ、じゃあ俺がドックまで担いで行ってやる」

 

「無理だ。もう疲れた。ここで、眠る」

 

「お、おい若葉?」

 

「若葉だ、眠るぞ。泥のようにな……」

 

そう言い残すと、若葉はさっそく深い眠りの底についてしまったようだった。

微かに上下する胸元と漏れ出る寝息に、先の所業を行った張本人たる俺は、無理やり起こす事さえもなにか悪い事であるように思え、その場に立ち尽くしてしまう。

触れる事さえも躊躇われるようになった所で俺は自身の私室に向かい、布団一式を執務室に持ち込むと、広げた布団の上に若葉を寝転がせた。

毛布をその体に掛けてから立ち上がろうとすると、まるでぐずる赤ん坊のように若葉の指が、俺の裾を掴んでいる事に気づく。

 

「……全く。頼むから電灯の一つや二つ、消させてくれ」

 

壁に取り付けられたスイッチに手を伸ばすが、彼我の距離は絶望的で、立っている場所から足を動かさない内は決して届きそうにもない。そして、彼女の指は俺がここから動こうとする事を良しとはしなかった。

とうとう観念した俺は彼女の隣に体を横たえると、そのまま瞳を閉じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

起床ラッパの音に目を覚ますと、若葉は既に起床しているようであった。

布団の中で上半身を起こす彼女に、声をかける。

 

「若葉、よく眠れたか?」

 

「ああ」

 

泣き腫らした跡がくっきりと残る少女は、けれどもいつも通りの冷静さを取り戻しているように思えた。

謝罪の言葉を口にしそうになるのをぐっと堪えながら、昨日とうとう聞く事が叶わなかった言葉を求める。

 

「……もう、あんな事はするなよ」

 

「分かった」

 

「わ、若葉?」

 

しかし、てっきりまた断れるものと当初より諦観の念を抱いていた俺は、予想だにしていなかった彼女の言葉に一瞬反応が遅れてしまった。

思わず聞き返すと、再度了承の旨が帰ってくる。黙諾してみせる若葉に、俺は困惑の表情を隠せない。

動揺を赤裸々にしながらも、彼女が昨日から風呂に入っていない事を思い出した俺は、さっそくドックに入渠する事を勧めた。

所が、今度はこちらの方を若葉は拒んで見せる。

 

「嫌だ」

 

「ぐっ、いいか若葉、一度しか言わないからよく聞け。俺が悪かった。昨晩の俺は明らかにやり過ぎだった。私怨にのっとった蛮行だ。お前に非はあったが、俺の方がはるかに悪い。お前が俺に反抗したくなる気持ちも分かる。だがな、深海棲艦にとってそんな事は一切関係ないんだ。疲労したお前が襲われれば、お前は確実に死ぬ。誰が決めた訳でもないが、それだけは絶対に決まっている事なんだ。分かるな?」

 

「……分かった」

 

渋々といった口ぶりで、完全には承諾していないようだったけれども、若葉はようやくのそのそと動き出した。

そこに目を向ける内、ある事に気づく。

 

「若葉、首の所のそれ、どうした? ミミズ腫れになっているみたいだが」

 

「昨日は寝苦しかったからな。それできっと、引っ掻いたんだ」

 

ぶっきら棒な口調に首を傾げるものの、これ以上彼女をここに引き留めるのが躊躇われたのも事実である。

又、俺自身を振り返ってみると、爪の間に赤らんだ皮膚の欠片が挟まっていた。特にどこかに痛みを感じている訳ではないが、俺も寝ている間に掻き毟ってしまっていたらしい。

そこでようやく、悠長に構えている場合ではない事を悟る。秘書艦が来る前に布団は片付けてしまわなければならないだろう。若葉との話し合いは、また後日だ。

そう思い若葉の抜け出した布団を畳んだ俺は、それを私室へと持ち帰ろうとした所で、またもや絶叫をあげる事となった。

 

「うぎゃああああああああああああああああああああっ! け、ケツが! ケツの穴が!」

 

「若葉だ。この瞬間を待っていた」

 

「ぐお、がああ……! …………若葉ァァァァァァ! こっちにこい! もう絶対許してやらんからな!」

 

それから本日の秘書艦である摩耶が執務室を訪れるまで、室内には延々と若葉の泣き喚き声が響き続ける事となる。

 






Q 明石が開発中のイヤフォンって、何らかの伏線になり得る?

A 毎日忙しい明石にそんな物を作ってる暇はないぞ!

Q じゃあ明石と鈴谷は何を話してたの?

A 盗聴器 複数 で検索してみよう! ちなみに明石は以前執務室の電気スタンドを修理しているぞ! 明石は優しいなぁ!

寝静まった頃を見計らって提督の爪痕を自分の体に刻み付ける若葉はドM可愛いってはっきり分かんだね。
ドック入りしたら傷も消えちゃうのに提督は分かってない! そりゃあもう一回お仕置きを求めてカンチョーしちゃいますね!
当初のプロットでは鎮守府中の艦娘を集めた上での公開羞恥プレイ(お尻ペンペン)にしようと思ってたんだけど、さすがに止めました。残念だったね若葉。
ちなみにそっちの文章を見てみると、提督がいきなり「凌辱の時間だ」とか言い出してます。最低だなこいつ。

そろそろ書き溜めがなくなってきましたな……。


追記

ちょっと矛盾が生じたので、第三話における深海棲艦をプロセスとした以外の攻撃で怪我を負わないとしたところを大怪我に変更しました。申し訳ありません。


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7話

 先日の事である。

 度重なる若葉の襲撃に業を煮やした俺は、二日に渡って彼女のケツをぶっ叩いた。

 そこまでは良かったものの、よりにもよってその現場を当日の秘書艦である摩耶に抑えられてしまった俺は、後日、真っ赤な紅葉を頬にくっきりと残したまま、その日の業務を続ける事になってしまったのである。

 

 「くそっ、摩耶の奴め、何も本気でぶたなくてもいいじゃないか」

 

 一日の業務を無事に執成した頃には痛みは引いていたものの、全くもって厄日で散々な一日であった。

 特別広報担当である那珂ちゃんには思いっきり笑われ、無事鎮守府の方に舞い戻ってきた大和ら遠征艦隊には呆れられる始末。

 これは酒の一つや二つ飲まなくてはやっていられないとつくづく感じた俺は、一路鳳翔の店へと足を向けていた。

 潮風が鼻腔をくすぐり、つんざくような強風が身に突き刺さる。

 思わず体を抱いてみせた俺は、自然早足となる形で、彼女の店の戸を叩いた。

 ラブリーマイエンジェル鳳翔を前にして一種の高揚感に包まれていた俺はちょっとしたオサレジョークと共に彼女の店の敷居をくぐる。

 

 「寒い! 寒いぞ鳳翔! お前の体で温めてくっ」

 

 そこで俺はその先の言葉を見失ってしまった。

 思わぬ形で出口を塞がれる格好となった吐息が、飲み込まれる形で喉元を通って嚥下する。

 思考停止に至った俺を一早く出迎えたのは、先に入店していた二人の客だ。

 

 「なんだ、お前か」

 

 「こんばんは、司令」

 

 「き、木曾。それに不知火……な、何だ、お前たちも来ていたのか」

 

 カウンターを牛耳っていたのは木曾と不知火であった。こじんまりとした店内の中で、彼女達は異様な存在感を見せつけている。

 高々二人の客が店内を占領しているように錯覚を起こすのは、彼女達の前で鎮座する、空になったジョッキのせいである事は容易に想像できた。それがいくつも並んでいるのだから、その光景は圧巻だ。

 あぶくを吸い口にこびりつかせたままのそれは、まだ空になって時間がそれほど経っていないように思える。表面に浮かび上がった結露が、冷え切ったビールの味を余韻として俺に伝えてきていた。

 俺がそちらに目をやっていると、木曾と不知火がこちらに構わぬ勢いで握りしめていたジョッキを口元にやる。

 一秒、二秒、三秒、四秒……。なみなみと注がれたジョッキの中身は、ものの数秒で彼女たちの胃袋に収まってしまった。

 その暴飲ぶりに唖然としている俺を尻目に、彼女達は次なる一杯を鳳翔に要求する。

 訊ねる事すら躊躇われるその雰囲気に呑まれた俺は、彼女達から距離を置くようにして腰を落ち着かせると、鳳翔に口元を近づけた。

 同じく調理場から身を乗り出してきた彼女にも、やはり困惑の表情が広がっている。

 

 「あ、あいつら、一体何やってるんだ? あ、今日のお通しはキクラゲときゅうりの和え物? 美味そうだな」

 

 「ああ、提督。私も、彼女達が何をもってあんな事をしているのか、全然分からなくて……」

 

 「鳳翔が分からんのでは、途中からきた俺は尚更だ。場の勢いで座ってしまったが、正直、あまり美味そうな酒が飲める雰囲気じゃないな……。今日は千歳と隼鷹を誘って、鳳翔の店はまた別の機会に回した方が賢明そうだ」

 

 「そんなっ、提督、この空間に私一人置き去りにするんですかっ?」

 

 唇を尖らせる鳳翔に、俺は二人の様子を見ながら小声で諭す。

 

 「俺だってそんな事態は出来るだけ避けたい! だがな、あいつらを見ろ、あのペースはどう考えても異常だ。あの分じゃ、直どっちかがぶっ倒れる、そん時介抱するのは俺だ。普段ならまだしも、今日みたいな最悪な気分の時にそれは御免こうむる!」

 

 「私一人にどうしろと言うんですかっ」

 

 「店に寝かせてやればいいだろ! ここなら別に風邪も引かんし、鎮守府内な事もあって変な輩に襲われる心配もない!」

 

 見れば見るほど、木曾と不知火の異常性は際立った。 

 両者が両者とも顔を真っ赤に赤らめて、虚空を見つめている。もはや視界さえも定かではないとさえ思わせるそれは、ここに至るまでの経緯、並びに二人の間での不和を予感させるものであったが、そこに口を挟む度胸がある訳でもなく、引きっぱなしの腰にそれを求めるのは無理がある。

 そんな俺を見て、鳳翔は少しでも俺の事を引き留めようとしているようだった。予め作ってあったのであろうお通しが即座に回ってくるばかりでなく、注文を聞くまでもないとばかりに大ジョッキが送り届けられる。

 鳳翔にも焦りが生まれたのであろう、勢いよくテーブルに置かれた大ジョッキはその中身を盛大にこぼし、俺の服をこれでもかと汚してみせた。

 

 「うおっ!」

 

 「きゃっ、提督、ごめんなさい! 今拭きますから!」

 

 俺の驚きに対し、鳳翔の対応は手早い。

 調理場を回って出てきた鳳翔の手にはタオルが握られており、甚大な被害を被った部分でそれを押し付ける。その手際の早さに内心感心を示していた俺だったが、その柔らかな感触が股のあたりに近づいた所でようやく、彼女に芽生えた動揺を悟る。

 

 「ほ、鳳翔! 自分で出来るから!」

 

 「あっ、その、ごめんなさい提督。私、気が動転してしまって。申し訳ありません、提督のお召し物を……」

 

 「大丈夫だ鳳翔。俺は軍人だからな。漫画の主人公ばりに、同じ服なら腐るほど持ってるし、こいつも後でしっかり洗えば問題はないさ」

 

 何か言いたげな表情を浮かべる鳳翔にサムズアップしてみせると、ようやく観念したのであろう、鳳翔は調理場の方へと戻っていく。

 包丁を握った彼女を見るに、何かしらおまけをつけてくれるらしく、その様子を見つめていると、鳳翔がはにかんだ笑みを作ってみせた。ううむ、やはり鳳翔は天使だ。そして、このお通しも実に美味い。

 思わぬハプニングに見舞われながらも鳳翔の迅速な対応に心癒された俺は、中身を十二分に貯蔵したままである大ジョッキに口をつけた。麦の味を感じさせるそれに気を良くして言うと、鋭く尖った針のような、聞く者を恐れわななかせるような声が耳朶を打つ。

 

 「鳳翔」

 

 「あっ何でしょうか木曾さん」

 

 「次の一杯を頼めるか?」

 

 「木曾さん、それ以上はよしたほうが……」

 

 「何だぁ? こいつには酒が出せるというのに、俺に出すのはないってののかい?」

 

 もはやそこらの飲んだくれの親父と何一つ変わらない。

 とはいえ、俺を引き合いに出すなと言いたくなったのを寸での所でひっこめつつ、俺は隠れるように大ジョッキを傾けるだけだ。

 酔っ払いに絡むと碌な事がないのは俺自身が証明している。

 しばらく鳳翔は懇願めいた視線を木曾へと向けていたが、やがて無駄である事を悟ると、根負けと認めると言わんばかりに新しい大ジョッキを用意してみせた。

 ここに追随してみせたのが不知火で、同じく大ジョッキを頼む彼女に、俺は鳳翔ともども言葉を失ってしまう。

 鳳翔の目配せにとうとう逃げ道を失った俺は、どことなく気負った風で彼女達に声をかけた。

 

 「な、なあ木曾。それに不知火。何があったかまでは知らんが、それ以上の飲みすぎは良くないぞ。自分じゃ分からんのかもしれんが、二人とも顔が真っ赤だ。良かったら、訳を教えてくれないか? 力になれるかもしれん」

 

 しかし、俺の言葉を二人は揃って拒んで見せる。

 沈黙と連なって首を振る二人に、どうしたものだかと思案の海に沈んだ俺は、暫くすると酒への逃避行を始めた。俺自身、酒が体に回り始めて何もかもが面倒臭くなったのだ。

 これは鳳翔も同様であったらしく、彼女は先ほどから刺身を作る事で手一杯のようであった。赤いマグロの身に、包丁が添えられ、一枚一枚丁寧に切り取られていく。

 我関せずといった仕事熱心なその姿に疎外感を感じ取った俺は、その作業を邪魔するかのように、

 

 「ふん! じゃあもう何も知らん! 二人で勝手にやってろ! 鳳翔おかわり!」

 

 「はっ、お前ともあろう者が、まさか拗ねてるんじゃねぇよな?」

 

 「なっ、す、拗ねてなどないぞ! 俺を馬鹿にするにも程がある!」

 

 からかいの視線に、俺は彼女たちと背比べをするが如く、先にも増して顔を赤くする。

 顔を真っ赤に染めている事による反動であろう、やけに狙いすました挑発をしてくるものだから俺はまんまとそれに乗せられてしまう。

 誘導させられていると頭の中のどこかで分かっていながらも、買い言葉の形式をとって口を開いてしまう。

 

 「飲みたければ勝手に飲んでろ! 何時倒れても知らんからな! 全く、こっちが心配して言っているというのに、どこまでもふざけて」

 

 「声を荒げるなよ、みっともねぇ。それに、こちとら飲み比べの真っ最中なんだ。茶化すつもりなら、後にしろ」

 

 「うぐっ……」

 

 その言葉に、俺はぐうの音も言えなくなってしまう。何より、思考回路に酒が混ざり始めたのが致命傷であった。

 しかし、間違っているのは彼女達である筈なのだから、ここで言いくるめられてしまうのは絶対におかしいという思いが心の奥底で燻る。生来の負けん気の強さは、酒に酔ってようが関係なかった。

 引き下がる事を良しとしない俺は、上気し始めた頬の照りつきを感じながら、なおも彼女たちに食い下がる。

 

 「木曾、それじゃあお前達は何でそんな事をしているんだ? しかも、そんなに意地を張ってまで」

 

 俺がそう言って問いただすと、木曾はそれまで饒舌だった口元を僅かに引き締めた。

 その様子に釣られ俺自身も気を引き締めるが、彼女の口から飛び出した言葉は、すぐには腑に落ちないものであった。

 

 「なぁ、猫っているだろ?」

 

 「猫?」

 

 「ああ、猫だ。猫はきまぐれだ。主人の家を離れ、勝手に近所で飯を食ってきたりしやがる。だがな、それが猫ってもんだ。別段その事に目くじらたてたりはしないさ。だが……」

 

 そこで話を一端区切った木曾は、ジョッキに残された中身をいっぺんに飲み干すと、熱を帯びた視線を虚空へと向けながら、

 

 「近所の奴らが、自分が飯をやっているからって、その猫の事を自分の飼い猫みたいに勘違いしちまう事だけは、絶対にあってはならねえんだ。猫は主人だけのもんだ。どんな猫にだって縄張りは存在するが、その縄張りは主人の元を中心に広がってる。猫は必ず主人の元に帰ってくるってのに、ちょっかいを出したり、ましてや首輪をつけて自分ん家の猫にしちまおうなんて考え、絶対に許してはおけねえ。主人だって、寂しくてたまらなくなるからな」

 

 「……? つまり、どういう意味なんだ?」

 

 「所有権の話だって事さ。ハッ、相変わらずお前は鈍いよ。作戦を立てている時が嘘みたいだ」

 

 その言葉にカッとなった俺は、激情に突き動かされるままに立ち上がった。ここまで馬鹿にされてしまって、腹が立たない訳がない。

 

「舐めるな木曾! つまりはあれだ! その! 木曾が飼っている猫に! 不知火が餌をあげて! あまつさえ猫の所有権を主張しだした! だから木曾は怒ってる! で、どっちが正しいか飲み比べで決めようとした! そうだな!?」

 

 俺の名推理を披露され、珍しくも木曾は驚きを表露してみせた。

 やがて口元に笑みを浮かべると、愉快気に、

 

 「ハッ、驚いたぜ。割かし、的を射ている。なぁ不知火?」

 

 「ええ、概ね、司令のおっしゃった通りです」

 

 「だろう!? そうだろう!? はっ、いい加減俺の事を見くびるな。これでも観察眼は確かなんだ。それで、だ。木曾、猫の名前は何て言うんだ? もしかして…………多摩か?」

 

 俺の渾身の一撃は場を白けさせる以上の効果は持ちえなかったようで、鳳翔までもが沈黙に徹した。木曾と不知火の視線もどことなく冷たい。

 酒に舞い上がっていた俺にとってこれ以上の鎮静剤は他になく、やるせなさに打ちのめされた俺は渋々椅子に座りこんだ。

 無論胸中に渦巻くのはとっておきの洒落が今一つ場に適さなかったからで、俺は彼女達のセンスのなさに落胆しながら、鳳翔におかわりを要求した。

 彼女へ向ける俺の視線にも、どことなく不満に重きをもったそれが込められるなど様変わりをしており、最終的にはとうとうそっぽを向いてしまっていた。

 それでも眉尻を吊り上げたりしないあたり、鳳翔には天使の素質がある。正に、鳳翔は俺の母になってくれたかもしれない存在だった。

 不知火がとんでもない事を言い出したのは、天使との甘い一時を味わっていたその時だ。

 

「別に私は、実力行使で来られても構わなかったのですが」

 

 まるで独り言のように呟かれたそれに、ジョッキへと口をつけていた俺は思わず吹き出してしまった。カウンターに飛沫が巻き散らかされる。

 思わぬ彼女の発言に度肝を抜かれた俺は、吹き出した拍子に変な所へとビールが入ってしまったらしく、しばらく咳き込まずにはいられなかった。

 目に涙を浮かべ、ようやく平静を取り戻した後に俺が取った行動は、彼女を怒鳴りつける事であった。

 酔いがあろうとなかろうと、口に出すべき言葉は自然に出てくるものだ。

 

 「こんの、馬鹿野郎! 何を言いだすんだ! そんな事をして何になる!?」

 

 歯を剥いて怒りをあらわにする俺を、不知火は事もなげにとりなす。

 

 「例えで言ってみただけだわ。それに、不知火の方からそのような手段を取る事は決してありません。ただ、身にかかる火の粉は払わなければならないという、ただそれだけの話です」

 

 「当たり前だ! それに、今のお前の言葉は木曾を侮辱しているぞ! 木曾がそのような野蛮な手段を取る筈がないだろう! ……まぁ、飲み比べが正しい手段とも思わんが。ともかく! 今の言葉は撤回しろ! いいな!?」

 

 「ええ、分かっています。ただ……」

 

 「ただ、何だ!」

 

 怒り心頭、怒髪天を突く勢いで頭に血が上っていた俺は、苛立たしげに彼女の次の言葉を催促する。

 一方、不知火はといえば、さすがに厳しすぎたであろうか、うなじを微かに見せるようにして項垂れている。その表情は伺いし得ない。

 しかし、俺はといえば、もはや不知火が何を弁解しようとした所でなんらかのいちゃもんをつけずにはおられぬ事は容易に想像出来るほど自制が効かなくなっており、問答無用で吊し上げを行おう事ばかり考えてしまっていた。

 鳳翔が指揮をとり、まな板と包丁が奏でる音が室内に響くなか、不知火はゆっくりと表をあげる。

 

 「そもそも、その猫は、不知火が先に飼い始めたんです。後から訳の分からない事を言い始め、その所有権を主張しだすぐらいなのですから、逆上して襲いかかってくる可能性も、なきにしもあらずと誰だって思うわ。……不知火は間違っていますか?」

 

 「お、おお?」

 

 予想だにしない言葉に、俺の心の中では、怒りが水泡のようにはじけ飛び、代わりに困惑が波のように押し寄せ始めていた。

 そもそも、前提がおかしいのだ。前提が間違っている。なんせ、二人とも最初から自分の飼い猫であったと主張しているのだ。

 これではどちらが正しいのかを二人に訊ねても、どちらもが各々の正当性を主張するにきまっている。不知火の先の発言も、彼女の言い分を土台にすれば十分筋は通る話である。

 しかし、あちらを立てればこちらが立たずとはよく言ったもので、不知火を信用する事は木曾を裏切る事につながる。

 そもそも、どちらもが間違っている可能性もあるのだ。彼女達が同時に一匹の猫を飼い始めたとしたのならば、もはや正当性もへったくれもない。

 どちらの側に立つべきか決めあぐねていると、ふと室内がしんと静まり返っている事に気づく。軽快にリズムをとっていた筈の包丁の音が、途絶している。

 鳳翔の方へと視線を向けると、彼女は忌々しげに眉を顰め、指を口の中へと含んでいた。

 

 「どうした、鳳翔」

 

 「すみません、実は指を切ってしまったらしく……」

 

 「見せてみろ」

 

 その言葉に不安が一気に押し寄せてきた俺は、身を乗り出して調理場の彼女に近寄る。

 血の気の引いた思いに駆られるも、その不安はすぐに霧散した。俺は彼女を安心させるように笑みを作る。

 

 「……ああ、まあこの程度であれば大丈夫だ。元々、切断に至るほどの傷をお前達が受ける事はないしな。単なるかすり傷だ。見た目もそうだし、ちょっとびっくりしただけで、今はそれほど痛みは感じない筈だ。そうだろう?」

 

 「……ええ、そうみたいです。こんな事初めてだから、つい動揺してしまって口に指を」

 

 「まぁ初めて指に包丁を落としたんだ。びっくりするのも無理はない。一応、それ以上食べ物には触らんほうがいいな」

 

 「そう、ですね」

 

 料理に絶対の自信を持っている鳳翔にも、珍しい事があるものだ。

 確かに猿でもあっても木からは落ちるであろうし、河童であっても川に流れて彼方へと運ばれてしまう事もあるだろう。

 絆創膏を取りに、鳳翔の姿が調理場の奥へと消えていく。それを見届けてから、俺は不知火と木曾の方に向きなおすと、

 

 「どうも飲み比べを続ける雰囲気ではなくなってしまったな…………不知火、木曾?」

 

 そこには、地獄絵図が広がっていた。

 青ざめた木曾と不知火。

 どちらかと言えば、不知火の方が厳しそうにも見える。

 

 「ど、どどどうした! 顔色が悪いぞ!? 嘘だよな!? まさか、そんな事ないよな!?」

 

 「……ふっ、なんだ、不安なのか? 大丈夫だ、俺を信じろ。この俺が、そんな事をしでかす筈が……」

 

 「アナタも道連れよ……!」

 

 「ああああああああああああああああああああああっ! 不知火イイイイイイイイイ!」

 

 二人から最高のプレゼントを受け取った俺は、涙を流して、今日という日が二度と来ない事を祈った。

 




二月、三月は忙しくなると思われるので、書き溜めをすべて解放します。宜しくです。

あ、文中の猫は例えですよ、例え。木曾も不知火も本当に猫飼ってる訳じゃありません。


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8話

 贈り物に対する歓喜で打ち震えた俺は、後始末を鳳翔に全て一任し、泥酔しきった木曾と不知火をドックに担ぎ入れた。

 彼女たちをドックまで運ぶのがこれまた大変で、呂律の回らない調子で何事かを呟いたかと思えば、突然足を速め案の定千鳥足で壁に激突してみたりと、普段の彼女達とは全く異なる様子に酷く驚かされる事になる。

 

 「貴様は分かってないのさ……。此処が何処で、俺が誰であるのかを、な。ん、いや、本当にここは何処なんだ? そもそも俺は誰なんだ?」

 

 「不知火は、一人で、帰れますので、ご心配なく。そちらの方は、司令官の助けが必要なようですが」

 

 「お前らは一度黙れ! ドック入りした後、体を温かくしてさっさと寝る事! これは命令だ!」

 

 しかし、遅々として進まぬその足取りに怒鳴り散らすと同時に、彼女達をここまで骨抜きにし、且つ俺の一張羅を糞味噌にしてみせた遠因たる馬鹿猫に、強く興味が引かれたのも事実であった。

 途中、丁度ドックに入渠を果たそうとする所であった面々に二人を明け渡した俺は、他人に構う余裕なんぞを疾うの昔に擦り減らしていた事もあり、彼女達を顧みる事無く踵を返すと、鎮守府にたった一つだけ存在する男性用シャワールームに直行した。

 

 「ウォエ! くっさ! ホントにくっさ! 提督さん、マジくっさいっぽい!」

 

 「夕立! 確か明日の秘書艦はお前だったな! いいか、自分が何を言ったのかを必ず後悔させてやるからな!」

 

 後ろ指を指されながらも、辛うじて舌禍の最中から逃げ出す事に成功した俺の思考には、もはや汚れ共々心の洗浄を行う事以外の選択肢は存在していなかった。

 しかし、経費削減といった諸々の諸事情で雁字搦めとなったシャワールームは、狭く、また浴槽もないときた。

 泥酔した結果、熱燗と共にドックに入渠を果たし、結果的にとはいえ隼鷹や千歳のあられもない姿を垣間見た時の事を鑑みれば、提督専用と冠されてはあるものの、正にそこは張りぼての墨俣城であると言う他ない。

 その後、汗やその他諸々を洗い流し終えるやいなや、俺は即座に私室に戻って眠りについた。無論、おここに至れば、執拗な執着心を見せつけてみせた悪臭も綺麗さっぱりとり除かれているもので、俗的な物言いが許されるのあれば、グースカピーという奴である。

 翌朝、体を苛むうすら寒さに目を覚ました俺は、昨夜の自分がろくすっぽ着替えもせずに床に就いていた事に気づいた。自身を振り返れば、酷い事にパンツ一丁だ。これでは、手足の末端が釘や氷になったかのように冷え凍えている事にも十分頷ける。

 朝方の鎮守府は、昨日の乱痴気騒ぎが嘘のように静まり返っていた。

 窓の方を見やれば、太陽はようやく顔を覗かせ始めたばかりで、燦々と光り輝く日の出が、まるで焼き尽くすかのように大地を赤く染める。

 それは、身に襲い掛かるそれとは真逆の態度を見せつけるものであって、その光源恨めしくさえ感じとれた。

 寒さに身を震わせていると、昨日の酒がようやく抜けきったらしく、出し抜けの尿意が眠気眼の思考に襲いかかってくる。

 自然、足が外界に通じる扉へと伸び、パンツ一丁のまま、下界へと旅立つべく私室から外へ。

 進行方向を塞ぐ障害物に気づく事が出来なかった俺は、眠気眼のまま正面衝突を引き起こした。

 「きゃっ、て、ててて、提督っ!?」

 

 「んお? 何だ大和か、お早う…………大和!?」

 

 意識が完全に覚醒した俺は、思わぬ展開に身じろぎとともに目を見開く。

 扉を開けた俺を待ち受けていたのは、かつて日本が誇った弩級戦艦、大和の名を冠する少女であった。

 男性と比べても遜色のない高身長は、かつての戦艦大和が、優に全長二五十強を誇った事に由来する。殆ど俺と変わらぬ背を持つ彼女は、鼻頭同士を盛大にぶつけあった事もあってか、面食らった様子で、こちらを伺っていた。

 やがて、彼女の視線が寝癖を伴った頭部から、下へ。

 彼女の顔が真っ赤に染まりきったのはその時である。茹でタコを思わせる勢いで、狼狽を露わにする。

 だが、動揺に喚き声をあげたくなるのはむしろのこっちの方だ。咄嗟に両掌で股間の息子を覆い隠す。

 これほど己の迂闊さを呪いたくなったのも久方ぶりで、俺はいきり立つ尿意に濡れ衣を着せるので精一杯だった。

 大和が悲鳴をあげる。

 

 「て、提督! その、お召し物はっ!?」

 

 「お、おおおおお、おおお!? ちょ、ちょっと待て! これは事故だ! 回れ右して待機!」

 

 「ご、ごごご、ごめんなさい! 大丈夫です! 大和は何も見ていませんから!」

 

 「俺のパンツの柄!」

 

 「チェックのトランクス!」

 

 「大和ォ!」

 

 「ああん! これは事故です! 不慮の事故です! たまさか目に入っちゃっただけですから~!」

 

 恥辱のこみ上げる顔を同じく両掌で覆い隠し、つんざくような情けない声を上げる大和に我関せず、素早く扉を閉める。

 鍵を掛けるのはもはや語るべくもない。扉が開け放たれる心配がない事を確認した俺は制服一式を引っ張り出すと、さっそく裾に腕を通し始めた。

 扉越しには大和の気配が伝わってくる。彼女はまだその場に立ち尽くしているようで、この異様な状況に気圧された俺は、いよいよもって口籠ってしまっていた。彼女にかけるべき言葉が見当たらない。

 捨て犬ばりの警戒心を露わにした結果は、如実なまでに俺の行動に表れている。  否、ここまでくれば視野狭窄に陥っているととられても構わない。

 扉をゆっくりと開け、僅かばかりの隙間から下界を把握しようとするその様は、目に涙を浮かべる大和の姿を認めるまで解消される事はなかった。

 それでも、瞳に広がる暗暗とした様までは拭いきれず、さながら尋問の体を成して、彼女を問い詰める。

 

 「……どうしてここにいる?」

 

 「ぐすっ、昨日、大変な目に遭ったみたいですから、大丈夫かと思って、様子を見に……」

 

 「俺の恥ずかしい姿が目的か!?」

 

 「青葉でもないのにそんな事はしません! 事故って言ってるじゃないですか! これ以上は本当に泣いちゃいますよ!?」

 

 とうとう大和の涙腺が崩壊の一途を辿り始めた頃、俺はようやく彼女の前に再び姿を現した。

 襟元を正し、うってかわって真面目面を取り繕った俺は、努めて冷静を装って、

 

 「冗談だ冗談。しっかりと俺のパンツ姿を目に焼き付けてくれた事への、お返しだ」

 

 「もう! 提督の馬鹿っ!」

 

 からかわれた事への怒りから、肩をいきり立てて悖る大和。滲んだ瞳はこちらへの怒気を切に訴えていた。

 一方、自身の過失を帳消しにするべく盛大に大和へのパワハラをかました俺は、先の公然わいせつ罪とも取れる光景が有耶無耶になりつつある事に心から安堵した。

 事故は事故であるとはいえ、婦女子に何も前置きもなく痴態を披露したのだ、無性に恥ずかしさを覚える事は勿論の事、誉れある海軍軍人として、自身の迂闊さに腹が立つ。

 勿論、パワハラの是非を問われたとあっては俺に勝ち目はないので、なし崩し的な形でこの話に片がつけば、一石二鳥という結果になる。

 よりにもよって大和撫子とも称される彼女に、という思いも心のどこかにあったのかもしれなかった。これが呑兵衛仲間の隼鷹あたりであったならば、こうはいかなかっただろう。

 

 「そういえばお前とは、昨日ドック前で出会ったばかりだったな、わざわざすまなかった、心配をかけて。皆の代表として様子を見に来てくれたんだろう? だが、ご覧のとおり俺は平気だ。残念ながら服の方はご臨終を迎えてしまったようだが」

 

 「……はい、ご無事なようで何よりです。まぁ、こんなハプニングが待ち受けているとは、思っても、はっくちゅん! っ、ご、ごめんなさい」

 

 すかさず口元を覆い隠した大和であったが、勢い収まらぬくしゃみが小さく零れ出る。

 またもや顔を赤く染めた彼女は居心地悪そうに視線を泳がせたが、俺はあえてそこに追従しようとはしなかった。空気読み人知らずである事も、時としては重要になってくる。

 女性にとって十分痴態に当たるであろう事はとっくの昔に理解してはいたものの、彼女の容体を案じる事に繋がるともなれば、この程度の無頓着さは持ってしかるべきものであったからだ。

 

 「おいおい、お前の方が心配になってきたぞ。大丈夫なのか?」

 

 「ええ、大丈夫です。最近ちょっと寒いとは感じていますけどね。本当に、大丈夫です」

 

 そう言って笑顔を浮かべる大和に暫く視線を送ったが、それ以上の追求を俺は見送った。

 彼女が大丈夫だと言うのだ、これ以上の余計な詮索は、二人の関係にむやみに亀裂を走らせる事になりかねない。

 しかし、過保護なまでに彼女の体調に気を配るのも、所謂一つの訳あっての事で、口が一つの型に嵌ってしまうような感覚に襲われながらも、再三に渡って懸念を表沙汰にしてみせる。

 

 「例の作戦の事もある、体には十分気を付けてくれ……最も、個人としての意見が許されるのであれば、この作戦には首を傾げざるをえない。正直、艦娘に適正があるとはとても思えないし、お前たちの運用方針からも大きく外れている」

 

 「私もその件に関しては同意ですが……私たちが一度アメリカの大地に足を踏み入れている事を鑑みれば、上層部は本腰を入れるつもりなのではないかと」

 

 「だろう、な。こちらの気苦労も知らないで、よくもまぁ易々と言ってくれるものだよ、全く……。さて、この話はここまでだ。大和、朝食の方は?」

 

 先行きの見えない戦況が、彼女の顔を曇らせる。

 思案顔を続ける彼女を朝食に誘ったのは、ひとえにその闇を一時であれ拭い去りたかったからであった。途端に、それまでの剣呑な雰囲気が霧消され、大和は恥ずかしそうに掌を合わせる。

 大食らいの大和の事だ。彼女自身、そろそろ空きっ腹が物寂しさを訴え始める頃合いであろう。腹の虫が大合唱団を混成し始める前に食堂に向かわなければ、大和には再び赤っ恥をかかせてしまう事になる。

 

 「その、実はまだ……」

 

 「見ての通り、こちらも先ほど起きたばかりでな。一緒に食べに行こう。夕立が食事を作って執務室で待機しているとは、とてもじゃないが思えんし」

 

 「分かりました。それでは、ふぁ……、ええ、行きましょう」

 

 「おいおい、今度は寝不足か? 体調管理には気をつけろと」

 

 「ご、ご心配なく! もう、私もそこまで子供じゃありません!」

 

 「そ、そうか……」

 

 誤魔化すような返事に、思わず顔が歪む。こうも立て続けに不安要素が噴出したともなれば、彼女に厳しい視線を送ってしまうのも無理からぬ話だ。

 隠し切れないほど間延びしたそれを不審に思うも、細柳を思わせる彼女の眉が吊り上るのを見て、それ以上は何も言えなくなってしまった。

 その後、大和よりも早めに朝食を切り上げた俺は、夕立が待ち受けているであろう執務室に足を運んだ。

 昨夜の苦い思いが蘇り、知らず歯ぎしりをさせる。

 全身に鼻を走らせれば、確かに悪臭は残らず消え去ったように思えるが、夕立が何を言い出すかは分からない。

 果たしてたどり着くと、既に執務室に待機していた彼女はこちらを認めるやいなや、よきせぬ罵声をもってこちらをののしってきた。

 その顔には、楽しげな笑みが浮かんでいる。

 

 「くっさ! マジくっさ! 提督さん、マジくっさいっぽい!」

 

 悪罵嘲罵でこちらを罵ったのは本日の秘書艦で、その名を夕立という。大和と同じく、丁度昨日、木曾と不知火の予後を頼んだ面々の内の一人である。

 アルビノを彷彿とさせる色素の薄い瞳が特徴的で、ワインレッドに見つめられた深海棲艦は二度と生きては海域を出られないと噂されるほどの戦上手だ。実際、彼女には大きく助けられている面がある。

 しかし、その輝かしい戦績とは打って変わって、人懐っこく、純粋な子供のような性格をした少女で、そのギャップにしてやられた俺はよくよく彼女の事を好意的に捉えていた。

 所が、今回ばかりは、彼女の子供っぽさが悪い方向へと働いた。

 子供は自分に素直であるし、自分を偽らない。そして腹の立つ事に、面白いとなればからかいに全力を投入する事も辞さない。

 元より女性の嗅覚が男性よりも発達している点を踏まえれば、一日中吐瀉物に塗れていた俺が烈火の如き集中砲火が浴びせられるのも無理からぬ所ではあるが、大和が特段気にするそぶりを見せなかった事からも分かる通り、もはや俺に悪臭が付き纏ってない事は明白だ。

 要するに、夕立は子供っぽい悪戯をしかけてきたのである。これをにべもなく振ってみせるのは、提督以前に男としての名が廃る。

 

 「嘘をつけ嘘を! ちゃんとシャワーも浴びたし、着替えだってしたぞ! そういう事を言う奴には……お仕置きをしないといけないな!」

 

 「ぎゃー! 提督さん、抱きつかないでよ!」

 

 「おらおら! そんなに臭いっていうなら夕立にも移してやるからな! どうだ! これでもか!」

 

 「髭の剃り残しでジョリジョリしないで~、あうう、死んじゃう、死んじゃうっぽい。提督さんのくっさいくっさい臭いが服にこびりついちゃうっぽい~。とれなくなっちゃう~!」

 

 「木曾と不知火による特製ブレンドだ! 存分に味わえ!」

 

 「う、うぐぐ……ばたん、っぽい……」

 

 とうとうかいなの中で力尽きた彼女に対し、俺は凶悪な笑みを浮かべながらも、それでいて哀悼の意を表す事にした。

 彼女の異名に準えてから、その散り様を嘲笑う。

 

 「なんとたわいのない……鎧袖一触とはこの事か」

 

 一通りのスキンシップを終えた俺は、絶望に暮れて床に倒れこんだ夕立を尻目に、真白を誇る自身の制服に鼻を近づけ、もう一度嗅いで見せた。

 新品特有の匂いが鼻腔をくすぐり、僅かに顔を歪ませる。しかしその独特の匂いこそが、俺には安堵感をもたらしてくれるものだった。同時にそれは、夕立へ疑問を呈するには十分過ぎるものである。

 

 「……一応聞いておくが、もう、臭かったりはしないよな?」

 

 或いは、そもそも艦娘に鋭敏な嗅覚センサーが備わっている可能性も視野に入れなければならないだろう。彼女達を人間目線で計る事は出来ない。

 その場合、今後は体臭面においても、一層自身を清潔に保っていく必要性が生じてくるが、彼女達と良好な仲を保つためともなれば致し方なしだ。

 懸念すべき人物として頭に浮かびあがり始めるのは、矢張り女子力に秀でた強者たちである。

 

 「この手の話ともなると、どうしても陸奥や熊野は避けられんか……。今までは黙っていてくれたのかもしれんが、内心いい顔してなさそうだ。ビスマルクは……まぁ大丈夫だろう。ドイツ生まれは体臭がきついと言うし、人の臭いにつべこべ言わん筈だ。いや、これまでビスマルクの臭いが気になった事があったか? デオドラントの使用を考慮すれば、彼女に対しても気を配らねば……」

 

 「提督さん、最低……」

 

 「…………」

 

 「きゃー! もう! 抱きつかないでー!」

 

 スキンシップを傘にきたセクハラに、夕立はさしたる抵抗を示す事はなかった。

 心なしか、楽しんでいるようにさえ思える。先の即興劇からも分かる通り、こういったノリの良さも、彼女の美徳の一つであった。

 彼女の外見相応の幼さも相まって、じゃれあいという言い訳一辺倒で弁が立つ所も大きい。大和とは大違いだ。

 しかし、いくら彼女と戯れに興じる事が楽しいとはいえ、何時までも悠長にしている暇はない。時間は常に有限且つ、問題は山積みだ。

 窓の方に視線を向ければ、蒼海と晴れ渡る空がどこまでも続き、知らず知らずの内に原風景へと思考が回帰される。だが、かつて慣れ親しんだ海はもうどこにも存在しない。

 今、彼方へと広がる海の大半は、深海棲艦の手に落ちたままだ。そう思うと、空空とした面持ちが胸元に飛び込んでくる。

 漁獲高の前年割れは、日に日に悪化の一途を辿っており、海上輸送の観点から見れば、日本は大きな打撃を受けたと言っていい。

 陸の孤島、などという時代錯誤的な評価がかつての日本を震撼させたその時、艦娘はまだ一人も生まれていなかった。彼女達は、いまや日本の経済復興の一端をも担っているのだ。

 

 「提督さん? どうしたの?」

 

 腕の中で蹲る少女が、おとがいをあげて、こちらを覗き込んでくる。

 自然、上目遣いとなるその真紅の瞳に、俺は思わず魅入られてしまっていた。無垢と純粋さが同居したそれは、殺戮と残響に彩られていた過去を遠方へと追いやる。

 海にひとたび赴けば、冷酷に深海棲艦を刈り取る悪魔と化す少女も、この刹那の間だけは、腕の中に収まる可憐な少女でしかなかった。

 戦地と日常。二律背反を彼女へと強いるのが、他でもない提督たる俺であるという事実には正直乾いた笑みしか湧いてこなかったが、そこに逡巡以上の何事かを持ち込む事は決して許されない。

 どこまで突き詰めた所で、俺に委ねられた手段は、彼女達を兵器として運用する事でしかないのだ。

 否、そもそもこのような思いを持つ事自体、艦娘として世に生まれ出でた彼女への侮辱に当たり得るのかもしれない。

 そう思うと、俺はどうしようもない遣る瀬無さに駆られ、彼女に視線を合わせ続ける事にさえ、酷く気おくれしてしまった。

 

 「いや、何でもないさ。仕事にかかろう」

 

 ぶっきらぼうなその態度に、夕立は特に何か言おうとはせず、着崩れを直すとすぐに仕事にとりかかる。

 秘書艦業務には戦艦級であろうと駆逐艦だろうと関係はなかった。

 日によっては交代させてまで出来る限り全員に多く受け持ってもらうようにしたのは、最悪の事態を想定してものである。

 仮に俺が何らかの理由で鎮守府を去る事になった場合、或るいは死亡した場合、必ず後任の人事が回ってくる筈だが、そうなった場合少なからず上官と部下との間には祖語が生じるであろう事は明白だ。そして、それは即ち、深海棲艦に付け入る隙を与える事になる。

 そういった後々の事を考え、俺の目が黒い内に、出来る限り同鎮守府に在籍している艦娘達にはノウハウを得てもらう必要性があった。

 人が他人を判断する時、重要視されるのは容姿と能力だ。前者は問題ないにしても、後者は一朝一夕で備わるものでは決してない。

 須らく才媛たれ。俺が在任している間に彼女達を十全に育てあげる事が出来れば、後任の人間も安心して作戦を立案する事が出来るだろう。

 無論、俺がここにいる間に戦争が終わってしまう事に越したことはない。戦後の事がどうなるかまでは定かではなかったが、俺は出来る限り当鎮守府の提督として、彼女達と共に過ごしたかった。

 

 「そうだ、那珂ちゃんからの定時報告は?」

 

 「まだみたいですよ。コンサート会場への資材搬入が予定よりも遅れてるみたいっぽい」

 

 「分かった。……しかし、とんぼ返りで鎮守府に返って来たと思ったら、もう出発とはな。世知辛いものだ」

 

 夕立が同意するように頷き返す。溜息は漏れ出る事を止めようとはしなかった。

 我が鎮守府において川内型が三人出揃う機会は殆どない。

 それは何も出撃や遠征任務などによるすれ違いを指すのではなく、多くの場合川内型三番艦那珂に特別出張が認められている事に起因した。

 所謂広告塔という奴で、艦娘の運用に対する風当たりを少しでも緩和するべく、彼女は日夜奔走している。

 その方法に歌という手段が選ばれた事は、彼女としても願ったり叶ったりと言った所であるに違いない。

 

 「艦娘イメージアップの為の全国巡業か。世界ツアーも計画されているようだし、那珂としても本望であろうが、こうも会う機会が少ないと寂しく感じるな」

 

 「んー、夕立は歌うよりも、深海棲艦沈めてる方が楽しいかも?」

 

 「ま、そこは人それぞれだ……俺にちゃん付けを強制させるのは止めてほしいが、な」

 

 どういう訳だか、彼女を呼びつけるその都度、那珂は自分の呼称を『那珂ちゃん』とする事を強要した。それも俺だけにだ。

 尋ねてみた事もあったが、一度はぐらかされてしまったきり、未だにその理由は掴めていない。

 

 「それよりも、だ。来る作戦において、当鎮守府の指揮権は一時的に第三者が預かる事になる。上層部から臨時の人間が回ってくるだろうから、そいつ用の歓迎会をだな、全部経費で落としていいから、買い出しやら何やら」

 

 「取りあえず、消臭剤買っとくっぽい」

 

 その言葉に、俺は思わず眉を顰める。

 そろそろ、そのネタを引きずるのも潮時だ。

 米神がひくつくのを直に感じとったからであろうか、俺の口調は自然と厳しいものとなっていた。

 

 「あのなぁ、夕立。もうその話は終わっただろ?」

 

 ところが、夕立は俺が尋ねるまでもなく、そんな事はとっくの昔に織り込み済みであったらしい。

 彼女はPCの画面から目を離す事もなく、

 

 「ちょっとの間でも、来る人には嫌な思いしてほしくないよね? トイレ周りとか、細かい所にも気は配らなきゃ」

 

 「む、そうか。すまんな、先の話を引きずっていたのは俺の方だったらしい」

 

 「気にしてないっぽい~」

 

 キーボードが軽快な音を生み出し続ける。

 夕立の作業風景も、戦場と同じく、普段の彼女とのギャップを際立たせるもので、俺は暫くその姿を見つめていたが、やがて自分の作業に取り掛かり始める。

 夕立のPCに電子メールが送信されてきたのは正にその時で、俺が書類に目を通し始めてから、まだ数分さえ経ってはいなかった。

 夕立の方を再び見やれば、彼女は苦渋に満ちた表情を曝け出し、画面上に広がっているであろう散々たる報告に目を通している。

 彼女が秘書艦然としていられたのもあえなく其処までの事で、元々の色も合わさってか、夕立の瞳は判別出来なくなるほど充血しきっていた。彼女の反応から、姉妹艦に関する話であろう事は容易に想像できる。

 それでも、知らぬ内に岸部へと押し寄せていた涙をそっと拭ってみせたのだから、ハンカチへと伸びかけていた俺の手は、いつの間にか止まっていた。

 

 「――――秘書艦として、送られてきた報告を説明してくれ」

 

 「…………まけちゃったみたいっぽい」

 

 「聞こえない」

 

 辛辣な言葉をあえて浴びせると、夕立は一度かぶりを振って、それから意を決して口を再び開き始めた。

 

 「…………先日開かれた、呉鎮守府との合同演習の事後報告です。結果は、こちらの惨敗」

 

 「そうか……」

 

 影の走ったその表情は、俺の催促を無意識の内に拒絶していたが、そこから幾何の間を開けて、要約を述べ始める。

 演習とは、遠方の鎮守府との話し合いから海域を選択し、そこで合同訓練を行うといったものだ。

 標的を狙い撃つ事もあれば、新兵器の試用品テストを兼ねる事もあり、実戦さながらの形式で互いに撃ち合う事さえもある。

 今回の演習に限って言えば、呉のご厚意により色々と便宜を図ってもらった上でのものだったのだが、どうもこちらが思うようには事は運ばなかったらしい。

 不甲斐ない結果に終わった事を悟った俺は、露出しかかった思いの丈を無理矢理封じ込めると、深く椅子にもたれかかった。

 

 「心の問題、か。全く、なかなかどうして上手くいかないものだな」

 

 インポテンツになってまで手に入れた艦娘の運用は、ここに来て暗礁に乗り上げてしまっていると言っていい。

 少なくとも今回の演習部隊――――扶桑や時雨を中心とした面々に対し、俺はどうにも打開策を思い浮かべずにいた。

 悩みの種は至って簡潔で、扶桑達の戦績が捗々しくないのだ。実戦においても、演習においてもそうで、今回に至っては呉の提督にかなり融通してもらったにも関わらず、この体たらく。

 

 「早急に対処せねばならんだろうが、さて、どうするべきか」

 

 この時ほど、もっと迅速な対応をしておけばよかったと悔やんだ事はない。

 扶桑に殴り掛かった武蔵に謹慎処分を下す事になったのは、それから数日後の事だ。

 




寝不足で寒気に震える大和さんは、一体何時から提督の私室の前で待機していたんですかね……? しかも、音すら立てず。

Q 夕立、ちょっとしつこ過ぎない?

A たとえ洗い落としたとしても、木曾と不知火の臭いがこびり付いてたのは事実だからね。マーキングし直さないと。

Q でも消臭剤買ってきたら、提督の匂いも消えちゃうよ?

A 臨時でやってくるどこの馬の骨とも知らぬ男の臭いと混じる事の方が一大事なんだよなぁ。消臭スプレーも買わないと。



次回の更新は2月の中旬か、三月の頭、になると思われます。今回で書き貯めはストック切れですのであしからず。
それと、次回更新でのタイトル変更を考えています。参考にするかは分かりませんが、暇な方はメッセージの方でアドバイスなど送っていただければ。実質アンケートの形をとっているので、感想の方には書き込まないで頂けると助かります。

そういえば、新イベ始まりましたね。ゆーちゃん可愛い。もうこの子だけでいいんじゃないかな……? え、今ならろーちゃんもついてくるの!? お買い得ですねぇ!


追記

ご指摘を受けまして、次話のヤンデレ度を上げようと思います。うーん、難しいなぁ


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9話

 地べたに、一人の女が崩れ落ちている。

 赤く腫れた頬に、焦点の合ってない眼差し。円状に広がった長髪が、どことなく幽鬼じみた印象を膨れ上がらせる。

 そして、そんな彼女を気遣うように寄り添った西村艦隊の面々を前に居丈高に仁王立ちする女こそが、鎮守府の空気を一変させるに至る張本人であった。

 演習を終えて帰ってきた戦艦扶桑が一発の拳によって無惨にも地面を跳ねたその時、朝凪を思わせるそれは、緊張の糸を鉄条網が如く張り巡らしたばかりか、鎮守府の平穏を尽く奪い去った。

 件の一件において弓を引いたのが、他でもない大和型二番艦武蔵である。彼女もまた、英俊かつ敏腕で知られる、当鎮守府きっての実力者であった。

 褐色めいた肌はやけに健康的で、零れんばかりにたわわに育った双丘を、あろう事かサラシ一つで抑えつけている。

 そのあまりに扇情的な恰好に俺は幾度となく精神を掻き乱されたものだが、今回ばかりは、彼女に欲情に塗れた視線をくれてやるわけにはいかなかった。

 おおよその事態を把握した俺は、場所を執務室に移すと、武蔵を眼前に見据えて詰め寄った。

 

「武蔵」

 

 武蔵は返事を返さない。彼女は疾うの昔に部下としての義務を放棄していた。

 眼鏡越しの彼女の視線は、彼我の間に一枚の壁があるかのような錯覚を引き起こす。薄ら氷を彷彿とさせる、薄く、それでいて凍てつくような冷たさが、そこにはへばり付いているように思えた。

 反省の色がまるで見受けられないその振る舞いに当てられてか、俺はとうとうがなりあげる様な大声で、彼女の名前を再び叫ぶ。

 執務室に、怒気を孕んだそれが木霊した。

 

「武蔵ッ!!」

 

「フッ……。そう大声をあげなくても、聞こえているが?」

 

「なら話は早い! お前、自分が何をしたのか分かっているのか!?」

 

「勿論、了承済みだ。だがな、こうして詰問を受ける程の事か?」

 

「何だと!?」

 

 彼女への失望は、ここに来て頭打ちを迎えつつあった。膿が、じくじくと俺を苛む。いきり立つ思いを、何とか腰ごと椅子に落ち着かせる。

 彼女への信頼は、内から身を腐らせる毒物へと様変わりしていた。武蔵がそんな事をする筈がない、その思いを引き摺れば引き摺る程、対処不可能な所にまで化膿は進む。

 行き着く先は、完全なる切断だ。

 唇が、恐れをなして震え始めていた。まるで薄氷の上を踏み歩くかのように、手探りで一語一語に口をつける。

 

「……お前は。…………扶桑を、殴った。そうだな?」

 

「その通りだ」

 

 果たして暗中模索の中から見い出した光――真実――は、実に汚れきっていた。

 

「扶桑は、共に協力し合うべき仲間だぞ。たとえ何があったのだとしても、そのような行為をとった事は許しがたい」

 

「それで?」

 

「また、鎮守府の輪を乱し、無用な動揺を誘った事は咎めねばならん」

 

「だから?」

 

「…………お前に、謹慎処分を、科す。少し、頭を冷やせ」

 

 兜を被らされてる気分だ。視線が極端に狭められ、武蔵を視界に入れる事が出来ない。暑苦しい鉄の籠は、言葉が外界に解き放たれようとするのを、露骨に遮る。

 それは、重々しい空気が、欝屈した感情を伴って執務室に攻め入ってくる事を予想してのものだった。

 だからであろう、想定とは趣の異なる展開に、俺は思わず面喰ってしまう事となる。武蔵は、心底不思議がるかんばせをご披露しながら、徐に首を傾げると、

 

「――何故だ? 何故、私が罰せられなければならない?」

 

「武蔵、お前、何を言って……」

 

「さて、私も艦によってはその運用方法に違いが出る故、一概に誰が最も優れているかなど、中々決められん事は分かってる。けどな、提督。戦艦という一つの括りの中でなら、私は、戦艦武蔵は、少なくとも五本の指の中には入ってる筈だ。私自身、そういう自負もある。実際、あってるだろ?」

 

「た、確かにそうかもしれんが……」

 

 唐突に始まった戦術指南めいた談義は、始まるやいなや、俺を混乱の渦に叩き落とした。

 違和感のこびり付いたさざ波にあっけなくも足を掬われた俺は、部下への叱責も忘れ、完全に武蔵のペースにのせられてしまう。

 自分の意向に沿った言葉に気を良くしたのか、武蔵は酷くうかれた調子に早変わりしていた。もはや謹慎処分の事なんぞは忘却の彼方へ、霞となって消えてしまっているようにも思える。

 挙句の果てに飛び出した突拍子もない話に、俺はまたもや度肝を抜かされる事となった。

 

「ハッハッハッハ。 それなら、重要な戦力であるこの私が戦場に出られないなんて事、罷り通る筈がないよな? 提督が、本当に提督であるというなら、私という最高の戦力をみすみす寝かせておくなんて事、する筈がない。違うかい?」

 

「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか!? 自分が戦力の要を担うから、何をやっても罰せられないと、本気で思っているのか!?」

 

 その暴論は我が物顔で、武蔵の思考の中に入り浸っているようだった。

 もはや改めさせる事すら不可能。その口ぶりは、依然として自分の主張に非があるとは微塵も思っていない事を窺わせる。やもすれば聞き逃してしまいそうな程、その口調は自然体で淀みがなかった。

 そして、その歪な価値観こそが今回の一件の原因である事は、誰の目から見ても明らかである。

 武蔵は俺の怒気と相対すると、臆した気配すら見せずに、

 

「勿論だ。この鎮守府が窮地に陥った時、提督が頼るべき存在は誰だ? 私だろ? この武蔵にさえ任せてもらえれば、どんな深海棲艦が現れようとたちどころに殺し尽くしてやる。そもそも、本来罰せられるべきは彼女の方じゃないのかい? 艦娘は戦う以外の意味を持ち得ない。その曙より、艦娘には強さだけが求められてきた。だのに、アレは一体何なんだ? 弱い艦娘に存在価値なんてない。アレを演習や実戦に出すぐらいなら、私を使え。私なら、必ずや最高の勝利を提督にくれてやる。私こそが、提督の手持ちの駒の中で、最も優れている。だから、足を引っ張る半端者がいてくれては困るんだよ、これがな」

 

 一概に、武蔵の言葉を否定する気にはなれなかった。

 艦娘は兵器だ。そう教え込まれた。兵器に対して情を持つ必要性は無い。極論、使えないなら、使わなければいいのだ。

 しかし、だからと言って。扶桑を切り捨てる事など、到底出来る筈もなかった。矛と盾とが鬩ぎ合う最中、無言が重圧を帯びて室内に充満し始める。

 伊168が溌剌とした表情で執務室に飛び込んできたのは、沈鬱な面持ちがやにわに広がり始めた頃だ。

 彼女は一束に纏め上げた赤髪を振り乱しながら、躊躇いもなく俺の胸元に飛び込んでくる。

 

「司令官! 見て見て! 明石から聞いてたんだけど、司令官が失くしたっていうスマートフォン、見つかったわ!」

 

 首に腕を回し、懐にすっぽりと収まってみせた彼女は赤ん坊のようだ。発達途上ではあるものの、戦場での活躍も相まってか、サラブレッドの幼駒を思わせる。

 まるで見せつけるかのように彼女の五指が掴んでいるそれは、確かに俺のプライベート用のスマートフォンだった。

 よっぽど早く伝えたかったのであろう、彼女の額は油を引いたかのように照かっていて、丸みを帯びた顎を伝って汗が滴り落ちていた。そればかりか、胸元が強い鼓動をもって上下している。

 向日葵と形容したくなる彼女の笑顔に一瞬気が緩みかかったが、寸での所で冷然な態度を取り戻す。

 

「……イムヤ、それはありがたいが、ちょっと、後にしてくれないか? それと、部屋に入る時は必ずノックをするようにと何度も」

 

「でも、イムヤ、頑張って見つけてきたのよ? 司令官は、見つからない方がよかった?」

 

「違う、そうじゃない。見つけてきてくれてありがとう、イムヤ。だが、今は武蔵と話をしているんだ。少し、外で待っていてくれないか?」

 

「武蔵? 武蔵はここにいないわよ?」

 

「何だって?」

 

 胸元に蹲る少女と、視線が絡み合う。

 照りついた頬は酷く健康的で活発なイメージを植え付けるが、彼女の唇だけが、まるで違う生物かのような異なる動きを見せつけてみせた。

 

「司令官を困らせるような存在は、艦娘じゃないの。じゃあ、そこに立ってるのは武蔵じゃない。本当に司令官の事を考えてるなら、武蔵がこんな事する筈ないもの。ほら、ここに武蔵はいない。ここには、司令官とイムヤだけ。そうよね?」

 

 斜め上を見やった加勢に、俺は酷く狼狽してしまう。伊168の言葉は火に油を注ぐものだった。

 早まる鼓動が、纏まりつつあった思考を分散させる。視線が逃げ場を求めて右往左往し始める。

 あらぬ方向にて刃を研いでいた伏兵は、事態を更なる混沌に導きつつあった。

 そうじゃない、そうじゃないんだ、イムヤ。俺は何も、武蔵を徹底的に断罪したい訳ではない。

 俺は、その考えを改めてほしいだけなのだ。誰もが武蔵のような強さを持っている訳ではない。下情を知らず、王が民草を顧みぬようでは、平和は遠いままである。

 あの手この手で打開策を練り始めたものの、光明が差し込む気配は一向に訪れない。 結局、伊168の襲来は、議論の解決を見ないまま、強引に場を締めくりにかかったに過ぎなかった。

 

「水を差されたな」

 

「武蔵?」

 

 憮然とした態度でそう呟くと、途端に武蔵はその場で翻ってみせる。

 酷く中途半端な幕切れを迎えつつある事を察した俺は、立ち上がって彼女を引きとめようと試みた。だが、

 

「きゃっ、司令官、いきなり立ち上がらないで!」

 

「っ、おい武蔵!」

 

「私も艦娘だからな、命令には従うさ。提督の言葉通り、営倉にでも引っ込んでいる事にしよう」

 

「待て武蔵! 話はまだ終わっていないぞ!」

 

 果たして俺の言葉は、彼女の歩みを踏みとどませる程度には効力を持ち合わせていた。乱れぬ足幅で、足早にこの場を去ろうとしていた武蔵の身体が止まる。

 だが、その動向を図らずも注視していた俺は、何の前触れもなく振り返って見せた武蔵と目が合い、一瞬気後れしてしまう。

 先の自信に満ち溢れた表情はなりを潜め、剣呑な雰囲気を醸し出す武蔵の表情がそこにあった。それは、冷たい鉄を思わせる。

 

「どう私の事を思ってくれても構わない。けどな、最後の最後で提督が頼みの綱とするのは、この武蔵を差し置いて他にはいない。それだけは、覚えておいてもらいたいものだぜ。――――アレを受け取る権利は、私だけにある」

 

 武蔵は俺の言葉を待たずに、執務室を出ていく。最後まで、彼女は索然とした態度を崩す事はなかった。

 その姿を追うばかりで、とうとう口の中に言葉を留まらせた俺は、口一杯に広がった苦い味を噛みしめる事になる。

 身の内側に吹きすさぶ空っ風は、心までをも硬くしてみせた。

 

「司令官?」

 

 意識を引きずりあげたその言葉は、腹立たしさを盛大に打ちあげる。ここで決着を着けられなかった事は、のちのちになって悔恨として残るかもしれない。

 そもそも、悠長な対応に徹していた俺にも、今回の一件に限って言えば非があると言える。

 けれども、イムヤがわざわざ探し物を見つけてきてくれた事を鑑みれば、無下に扱う事など出来る筈もない。

 不安そうな表情を象るイムヤを前に、俺は仮面を被った。

 

「ああ、武蔵とはまた後で話をするさ。それよりも、すまなかったなイムヤ。わざわざ探してきてくれて。何処で見つけたんだ?」

 

「食堂にある棚と地面の隙間に落ちてたの。前に、司令官のスマートフォンに位置情報を共有出来るアプリを入れてもらったよね? あれで分かったのよ」

 

「ああ、あれか。確か、他にも色々と入れてもらっていたな。俺はそういうのに疎いからよく分からんが……まあ、お陰で助かったよ、イムヤ」

 

「お礼は別にいいの。司令官が嬉しいなら、それで」

 

「所で、イムヤに聞いておきたい事があるんだが……」

 

 俺はありのままを話した。武蔵の言葉は、ある意味で正鵠を得ている。だからといって、扶桑を切り捨てる事など、出来はしない。

 イムヤは黙って話を聞いていたが、やがて中身を十分に咀嚼し終えると、

 

「武蔵が全部正しいとは思わないけど、扶桑が全く悪くない訳でもないと思うの」

 

「それは、扶桑が俺を困らせる存在だからか?」

 

「うーん…………あ! でも、仮に扶桑が轟沈しそうになっても私が助けてあげるから、大丈夫だよ! まあ、そんな心配はないと思うけど」

 

「……お前は本当に優しい奴だよ、イムヤ」

 

 彼女の頭を撫でつけるには、俺の指指は思いのほか太すぎる。

 イムヤは最初こそ嫌がってみせたものの、やがて諦観と共に、なすがままにされるを許した。子猫を思わせる格好に落ち着く。

 字義通り借りてきた猫同然となった伊168を抱きかかえながら、俺はある事を考えていた。武蔵の姿が思い浮かぶと共に、視線が、執務机の引き戸に注がれる。

 

「…………」

 

 新技術とも称されるそれは、まだ試験運用中の段階ではあるものの、今後の戦局を大きく左右するほどの影響力を秘めていた。

 本格的な実戦配備が始まれば、深海棲艦との戦いは、次なる局面へと足を踏み入れるであろう。だが、そもそもの絶対数が少ない現状を鑑みれば、今はまだ、日の目を見る事のない秘密兵器でしかない。

 虎の子とも言うべきそれを、誰に託すべきなのか。そこが問題だった。

 きっと、恐らく、軍人としての正しい選択は、武蔵の言葉に準ずる事だ。けれども、それを容易に受け入れる事の出来ない自分が、どこかにいる。それ自体が真円を象っている事も、原因の一つといえた。

 

「どっちでもいいと思うの」

 

 いつの間にか、イムヤと俺の視線は重なり合っていた。彼女にしてみれば、俺の悩みの種なんぞ、とっくの昔に御見通しであったのかもしれない。

 

「司令官自身が、やりたいようにやればいいのよ。イムヤは、それでいいと思う」

 

「俺、自身か……」

 

「勿論、イムヤが相手でもいいんだからね?」

 

 くしゃりと笑って見せるイムヤは、何もかもを見透かしているようだった。

 あまりの不甲斐なさに恥入った俺は、誤魔化すかのように件の代物に対し唇を尖らせる。

 溜息混じりの笑みだが、何処となく重みの解消されたそれがそこにはあった。

 

「それにしても、いくら身につける必要性があるとはいえ、よくもまあ上層部もオーケーを出したもんだ。あの形を採用したものを女性に贈るなんて、一歩間違えればドン引きもんだぞ。ピアスやネックレスでも良かっただろうに。おまけとばかりに、酷い字面と来たもんだ」

 

 初夜にインポテンツが発覚してみろ。一日で離婚だ。そうでなくとも夫婦仲には冬が訪れる。

 そもそも、出来る限り彼女達をそういう風に見ないよう教え込まれたこっちの身にもなってほしいものである。心の中で咽び泣いた俺は、あらん限りの罵声を持って上層部の頓珍漢ぶりを罵った。

 老いでとっくの昔に立たなくなったあんたらの息子とは違って、こちとらまだまだ若いんだよ! 若いってのに、俺だけがあんたらの気持ちを汲む事が出来るのはどういう了見だ!? こんな矛盾に苦しめられるのも意味が分からん!

 精神年齢こそ口を出す域には達していないものの、女性にとってこの手の話題は避けては通れないものないらしく、イムヤもまた、腹に一物を抱えているようだった。

 

「あ、分かる!」

 

「だろう? 戦力向上のためとはいえ、いずれはそれを幾人にも配る事になるとあっては、想像するだけで胃が重くなる」

 

「あ、そういう話? うーん、なら、そこまでじゃないかも。だって、どうでもいいもの」

 

「お前みたいにアクセサリー気分で身につけられる奴ばっかりだったら、俺もここまで気苦労はしないさ……さて、そろそろ扶桑の所に行くか」

 

「きゃっ! だから司令官、いきなり立たないで!」

 

 有無を言わさぬ勢いで立ち上がった俺は、執務机をまさぐり、奥の方に仕舞われていたものを取り出した。リングケースである。

 触り慣れないその感触は、たっぷりの違和感で煮込まれていたが、不思議と握りしめる五指に力が入った。

 執務机に投げ出された伊168と目が合う。肢体を投げ出した少女はしばらくこちらを見つめていたが、やがて転げ落ちるようにして執務机から降りた。

 

「いたっ」

 

「重かったからな。その報いだ」

 

「ちょ、今何て言った!?」

 

「うおっ!? 何だ何だ、いきなり大声をあげるな!」

 

 ほうほうの体で執務室を抜け出した俺は伊168と別れると、一路艦娘達が集う寮へと足を向けた。

 足を踏み入れ、立ち並ぶ扉の森を乗り越えた先には扶桑の私室があった。姉妹艦扶桑の私室と隣あう形で、周囲には西村艦隊の面々の部屋部屋が隣在している。

 意を決してノックをしてみると、暫くして、ゆっくりと扉が開く。

 

「……何だ、提督か」

 

「っ、山城か。扶桑はいるか?」

 

「ええ、いますけど……」

 

 俺を出迎えたのは、扶桑型戦艦二番艦である山城であった。姉同様に垂れ下がった瞼が、彼女の落ちくぼんだ精神を如実に表している。

 先の件も兼ねてか、彼女は酷く暗い雰囲気を醸し出しており、所帯なさげに身を揺らす煌びやかなかんざしは、強烈な異物感を振りまいていた。

 山城は一時こちらから視線を外すと、何か言いたげに室内の方に目をやった。どんよりとした瞳の動向を窺っていると、やがて、

 

「姉様に、用があるんですよね? ……入って」

 

「あ、ああ」

 

 了承の言葉を得た所で、俺はようやく扶桑の私室に入りこむ。どうしようもなく身体全体に拡散する動揺が、俺の行動を律しているように思えた。これでは、駄目だ。

 しかし、己を奮え立たせ、何とか足を踏み入れた俺は、扶桑の姿を視界に入れた途端、天を仰ぎたくなる衝動に襲われる事となる。

 

「…………提督?」

 

 声を上げるばかりで、表を上げようともしない扶桑がそこにはいた。

 顔こそ見えないものの、浮かんでいる表情は容易に想像できる。失意に縁取られた輪郭は、彼女の絶望をより一層色濃くしていた。

 山城が彼女の傍に寄り添う。椅子に座りこんだ扶桑は、なすがままに身体を揺らした。

 

「扶桑、大丈夫か?」

 

「私? ええ、大丈夫よ、別に。ほんとよ?」

 

 健気にもそう言ってみせる扶桑であったが、無理をしているのは明らかだ。

 事実、彼女はここに至るまで、表を上げる素振りさえ見せない。

 

「……そんなに気にするな。武蔵との話し合いの場は、いずれ機会を作る」

 

「ええ、そうね、ありがとう」

「演習、残念だったな」

 

「ふふふ……戦艦級の名が聞いて呆れるわね。一度ぐらい連合艦隊の旗艦を務めた事があったなら、話は別だったのかもしれないけど……話は、それだけかしら?」

 

「いや、違う」

 

 山城にならって腰をかがめた俺は、膝元で合わせられていた扶桑の両手の平を手に取った。

 

「提督?」

 

「いつも、すまないな」

 

 だしぬけの謝罪に、彼女は驚いているようだった。唐突な対応に表をあげる扶桑。その瞳には涙が溜まっていた。

 悠長な対応が碌な事を起こさない事を重々承知していた俺は、畳みかけるようにして彼女に語りかける。握りしめる手の平に、熱く火が灯ったかのような錯覚があった。

 

「俺は、戦場に出る事が出来ない。指揮はする。戦術も練る。海域に対する調査だって行うさ。だが、血を流すのは何時だってお前達だ。そして、お前達はそういう役目を帯びて、この世に生まれてきた。たとえ負けようと、たとえ仲間から見下されようと、この使命から逃げる事は許されん」

 

 筆舌に尽くしがたい屈辱が、とぐろを巻いて身体中を駆け巡った。

 もし、俺が戦場に出る事が出来れば。もし、彼女達を上手く運用する事さえ出来ていれば。無用の後悔は二重三重となって、俺の身体に剣を突きたてる。

 けれど、何時までもそれに後ろ髪を引かれる訳にもいかないのだ。俺も。そして扶桑自身も。

 上着から、リングケースを取り出す。

 

「これを、受け取ってほしい」

 

「っ、提督、これって」

 

 扶桑の瞳が驚きに染まるのも構わずにケースを開けた俺は、彼女に見せつけるようにして、その中身を披露してみせる。

 ケースの中には、一紡ぎの指輪が収まっていた。明かりを受けてか、鈍い光を放っている。その輝きはとても眩しく思えるもので、俺は幾度か瞳を瞬かせた。

 装飾の目立たない、シンプルな作りが特徴的である。およそ機能性を重視したそれは、戦闘中であっても差し障りのないよう計算されたもので、だからこそであろう、その指輪及びそれに連なる書類達を総称する言葉に、俺は酷く目まいを覚えた。

 ケッコンカッコカリ。それは、十分な練度を経た艦娘に、更なる力を促すものだ。

 その原理こそ不明であるものの、人の形に抑え込まれたが故に発生したリミッターを、取り外す意味合いがあるのではないかとも言われている。

 暫くの間扶桑は俺と指輪へと交互に視線をくれていたが、やがて先ほどまでの鬱鬱とした表情が嘘のように、忙しなく口を動かし始めた。

 

「でも……私は練度も低いし…………それに」

 

「分かってる。これをはめる資格は、お前にはまだない。はめても、意味がない。戦術的にはまるで意味のない行為だ。だがな、それでも、お前にはこれを持っていて欲しいんだ。俺は信頼の証として、これをお前に贈りたい」

 

「信頼?」

 

 彼女の困惑は織り込み済みのものだ。

 後ずさりしようとする彼女を逃がすまいと更に十指に力を込めると、自然、俺の身体は前のめりになって扶桑に迫っていた。

 

「ああ。当初こそ俺は、この指輪は最も効率的に使うべきだと思ってた。無論、恋愛がどうのこうの言うつもりは端からない。指輪を渡せば結婚が成立するなんて、それこそ中世以前だ」

 

 勿論、嘘がないわけではない。

 そりゃー俺だってこんな美女達に囲まれてんだから、ケッコンカッコガチだってしたくなる。それが男の性ってもんだ。

 だが、恋愛に発展させてみろ。本当に愛する女性を作ってみろ。そんな女性を戦場に送りたいとはきっと思わないだろうし、じゃあそれ以外の艦娘達ならいいのかといったジレンマに襲われる事は目に見えている。彼女達は兵器で、出し惜しみ出来る筈もないのだ。

 自問自答への苦慮は、空気を固定化させた。沈黙に伏した俺を訝しんでか、扶桑が声を上げる。

 

「て、提督?」

 

「は、話がそれたな。と、ともかくだ。俺はこいつを、軍人としてでなく、それこそ恋の成就を願ってでもなく、信頼の証としてお前に託しておきたい。俺は、何があろうとお前の事を信じてる。負けようが貶されようが、俺はお前を見捨てたりなどしない。必ずお前を引き上げてやる。誰が何と言おうと、お前は戦艦だ。戦艦扶桑だ。決して劣ってる所なんてない。こいつは、その証だ。こいつを指にはめるその日まで、そしてそれ以後も、俺は、お前と一緒に戦い続けたい」

 

 リングケースから抜き取った指輪を、無理矢理扶桑の手に握らせる。重なり合った二人の手は、興奮も相まってか熱を帯びていた――問題が起こったのはここからである。

 頭が真っ白になりつつあった俺は、それに付け加え早口で捲し立てたものだから、何がどう作用してその後の展開に影響を及ぼしたのか、まるで理解が追いつかなかった。

 扶桑の瞳から滑るようにして、涙がこぼれる。

 感情の結晶が手の平に落ちてきてからようやく事態の急変に気付いた俺は、止めようのない情動の爆発に、困惑に陥った。

 扶桑が、泣く。狼狽した俺は、彼女と繋がり合っていた手を振りほどいてしまった。

 

「提督……! ごめんなさい……! ごめんなさい……! 私、提督の信頼、私、」

 

「扶桑、泣くな。な、泣かないでくれ。頼むから。ほら、山城がすっごい視線で俺を睨んでる。これは来る、絶対に来るぞ、ほら来た! 痛! 痛いぞ山城! つねるな、つねるなっへ!」

 

 赤らんだ頬で涙ぐむ扶桑。

 けれどもそこには、確かな笑みが湧いていた。

 祈るように胸元で組まれた彼女の両掌は、しっかりと指輪を握りしめている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜。

 薄暗い照明の中、一人、笑う女がいる。

 

「貴方ではないの、武蔵。私だけが、私だけがこれを貰い受ける権利がある。私こそが、提督の初めての相手なの」

 

 月が世界を照らす。薄暗さを誇る室内であっても、その笑みは際立った。

女は、月灯りに指を翳す。雪のように白い肌が、より一層強調された。

 

「見て、私の薬指。とっても――――光り輝いているでしょう?」

 

 机の上には――――指輪が置かれている。

 次いで女は、手渡されたばかりのそれを摘まむと、同じく月明かりに照らしてみせた。月に重なり合ったそれは、真円を描いているような錯覚を引き起こすが、実際は僅かに歪んでいる。

 満月に見立てたそれに始めこそ充足感を覚えたものの、次第に自分の矮小な心が覗きこまれているような嫌悪感を抱いた女は、大事そうにそれを懐にしまった。

 月に、雲が翳る。嘘に塗れた女は、静かにほくそ笑んだ。

 

「うつくしき月。あなたはこれからおこることを見ないほうがいい。みにくい血でそまりたくないならば」

 

 後日、これまでの失態が嘘のように、女は鎮守府においても歴代に匹敵する戦果を叩きだす事になる。

 

 

















デビルマンを久しぶりに読んだので一つ。シレーヌ美しい。ご指摘を受けまして、結構ヤンデレ度アップ。あ、血云々言ってるけど、深海棲艦ぶっ殺しただけだからね。
感想を踏まえ、艦娘視点もぶちこんでみました。何だかんだいって一番病んでるのはイムヤだけど。 


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10話

 連日連夜に渡る西村艦隊の快進撃。昔日の醜態を感じさせないその獅子奮迅ぶりに、俺は舌を巻くばかりだ。

 彼女達が砲弾を放った途端、深海棲艦は木端微塵に散華する。その血を啜り、グロテスクな美しさへと昇華された彼女達は、正に戦場の女神と謳われるに相応しい。これならば、今は営倉入りしている武蔵との関係修復も、そう難しいものではないだろう。

 だが、その活躍を誇らしく思う一方で、過日より続く上層部との衝突に俺の精神は酷く疲労困憊し切っていた。原因は、自業自得の一言に尽きる。

 夜。中天に差しかかった月が、闇夜に紛れるようにして光り輝いている。閑散とした夜道は、身を震わせる寒さも相まってか、まるで鋭く尖ったナイフのように俺の心身をズタボロに引き裂いた。

 その一方で、共に連れ添った秘書艦は笑みを絶やさない。

 上層部からの呼び出しをくらい、偶々その日の秘書艦であったからという理由で道連れの憂き目にあった彼女は、長時間に渡る叱責を受けたにも関わらず、こちらをからかう気概までも見せつけてみせた。

 

「うふふふふ、お馬鹿さんよねぇ」

 

「うるさい」

 

 左腕にしがみ付いてくる少女を振り解く気力さえ、今の俺には残されてなどいなかった。

 愉快げに口角を吊り上げる彼女の笑みは、その未発達な身体が振りまく大人びた雰囲気と重なり合って、妖艶な印象を俺に植え付ける。

 朝潮型四番艦荒潮は、身の丈に合わぬ成熟さを兼ね備えた少女である。一般的に幼気ないケースの多い駆逐艦達を思えば、これは珍しい事だ。

 穿き揃ったスパッツに外側に跳ね返った髪の毛と、外見こそ溌剌とした性格を想起させるものの、その言動は何処となく雲を掴ませるようなものが多く、そうかと思えば、戦場においては烈火の如くその身を血に染め上げてみせる。

 しかし、杳として掴めきれない人物像とは裏腹に、一番艦譲りの気真面目な業務遂行は十分評価に値するもので、急な出頭要請を受けるにあたって彼女が秘書艦であった事は渡りに船であったのかもしれなかった。

 とはいえ、その歯に衣着せぬ物言いも今宵ばかりは勘弁してもらいたい所で、次第に自分の口調が荒々しくなっていく事が肌で感じ取れる。

 

「扶桑にあげちゃったアレには、ケッコンカッコカリが戦場においてどのように発揮されるのか、そういった実地データ収集の意味合いも含まれてたのに、本当に提督はお馬鹿さんよねぇ」

 

「ええい、何度も言わんで宜しい! 確かに、俺が悪かったさ! だがな、果たしてあんな長時間に渡って怒鳴り散らすまでの事か!?」

 

「扶桑にあげただなんて、馬鹿正直に言うから悪いのよ。テキトーに誤魔化しとけば良かったのに」

 

 休日でも、はたまた休暇申請をした訳でもないのに遥々鎮守府を離れる事となった俺がようやく帰路に就いた頃には、沈みかかった夕陽が世界を灼熱に燃やし尽くしていた。

 耳がタコになるまで怒声を聞く羽目になったのだ。募った苛立ちは、鎮守府が目と鼻の先にまで近づきつつある今となっても、決して解消されてはいなかった。

 頭に血が上った上層部の面々の表情と、本来であれば厳かなる面持ちを蓄える夕陽が被る。暫くの間は夕方がめっきり嫌になりそうであった。

 経費削減の名目の元、途中から徒歩に切り替えて鎮守府への帰り道を辿る羽目になったのも、込み上げるむかむかとした感情を形成するのに一役買っていたに違いない。

 

「全く、今日は本当に酷い目に遭った。……すまなかったな。わざわざ付き合わせてしまって」

 

 絞り出す様な謝罪が、そこにはあった。どうしても恥が勝ってしまっているせいか、彼女に視線を合わせる事が出来ない。

 堰を割ったかのように早まった足並みに、荒潮は戸惑っているようだった。左腕が置き去りにされつつある。

 けれども、やがて彼女の方からこちらの歩調に合わせると、

 

「うふふふ、いいのよ~。それに、間違っていたとは思ってないのよねぇ?」

 

「……それは、そうだ。それに、あの調子の扶桑ならじきにデータも取れるようになるだろう。全く、爺どもめ、物事は俺のようにどっしりとだな……」

 

「提督はあの人達が嫌いなのねぇ。まあ、私も嫌いだけど」

 

 何気ないその言葉に、俺は思わず目を丸くした。足を動かすのもそこそこに、傍らに侍る少女を強く注視してしまう。

 

「……驚いたな。だがな、そういう気持ちは胸に仕舞っておけ。誰が聞いてるか分かったもんじゃない。それに、一度口に出してしまった言葉は取り消せないもんだ。そういう言葉ばかり口にしていると、いつの間にか攻撃的になってしまうぞ」

 

「提督はいいのかしら?」

 

「む。た、確かにそれはそうだが……。そもそも、お前とあの方々は今日が初対面の筈だろ? 一体何が気にくわなかったんだ? アレか? やっぱりハゲてるからか?」

 

 まだ髪の心配をする齢ではないものの、こういった女性目線は時として重要になってくる。

 俺は固唾を飲んで今後の展開を見守ったが、果たして荒潮の回答は要望を満たすものではなかった。

 

「提督は、あの人達が嫌いなのよね?」

 

「ま、まあ、そうとも言う。だが、別にそこまで嫌ってる訳では」

 

「じゃあ、理由はそれだけで十分よ~」

 

「お、お前な」

 

 『こてこて』の喜劇物であったならば、一つすっ転んでみせる頃合いだろう。

 これは一番艦にも言える事だが、彼女達は少々素直すぎるきらいがある。俺の判断を前提にして何でも決めるというのは、一概に褒められるものではない。

 腰を屈めた俺は、まるで諭すような口調と共に彼女と目線を合わせた。彼女の両肩にかけられた都合十本の指指に、自然と力が入る。

 

 「いいか、荒潮。お前も子供じゃないんだ。俺の言葉通りに動く事はないし、俺の考えに、無暗やたらに賛同する必要だってありはしない。そりゃあ、お前達は兵器な訳だから、時として命令には従わなくちゃならん。けどな、何も戦場に出てない時にまでそうする事はないんだぞ」

 

「だって私、提督の事、信頼してるもの。信じてるもの。提督が嫌いって感じてるなら、きっと、それは正しい事なんだわぁ」

 

「それは思考の放棄だ。かつての大戦時、哀れな兵士達がどのような末路を辿ったか知っているか? 訓練により思考能力を奪われた彼らは確かに命令に忠実で、それこそ扱いやすい駒だった。だが、判断能力の低下は、彼らから戦場における身の振る舞い方さえも奪い取った。時には、自分自身の判断こそが活路を開く時もある。確かに、不確かな状況の時、他者の意見を強く反映してしまうのが人というものだ。だがな、人につき従っていればいいという訳でもない」

 

 荒潮の大きな瞳が、僅かに濁りを見せる。肩ごしの感触は強かな拒絶を伝えてきたが、それをよしとする訳にはいかなかった。

 部下の誤りを野放しにする事は、此れ放逐と同じである。真に彼女の事を思うのであれば、心に鬼を宿らせねばならない。そして、それは今この瞬間にこそ発揮されるべきものであった。

 遠方を見やれば、目を凝らすまでもなく、鎮守府の灯りが方々についている事が確認出来る。

 しかし、暗澹たる夜空と相反するように光り輝くそれも、俺達の間に生まれた僅かなズレを晴らすまでには至らなかった。俺と荒潮の視線が絡み合っていたのも、数瞬数秒の事である。

 彼女は僅かな隙を突いて俺の軍帽をかっさらってみせると、瞬く間に鎮守府への遁走を開始した。

 

「あっ、こら!」

 

「うふふふふ、私を捕まえてみてぇ。ほぉら、こっちよー」

 

「荒潮! こら、待て!」

 

 荒潮が駆けだす。快活な足取りはその小さな身体を躍動させると、途端に彼我の距離は引き離され始めた。

 時折こちらを振り返るその横顔には、いじらしくなるような笑みが浮かんでいる。呆れかえりながらもその後ろ姿を追いかけ始めた俺の脳裏を、身に覚えのない青春の一幕が過ぎった。

 ここで失念していたのが、俺はたかだか一人の人間に過ぎず、彼女が泣く子も黙る艦娘であった事である。

 無尽蔵の体力と、人の箍から大きく外れた身体能力。その二つを擁する彼女を追いかけ追いつく事なんざ、出来る筈もなかったのだ。

 

「はぁぁぁっ、はぁぁぁっ」

 

「あらあら、提督は遅いのねぇ」

 

「はっ、あらし、はっ……はぁっ」

 

 どれほどの時間が経ったであろうか。遠くから、小馬鹿にするような荒潮の声が聞こえてくる。

 当初こそ楽観的な考えを筆頭に四肢に力を入れていた俺も、一向に縮む気配のない彼我の距離に、ようやく我を取り戻した。追いつける訳がない。

 一度心に入りこんだ認識は、途端に俺の肉体から活力を奪った。とうとう背中が折れ曲がったかと思うと、膝に手がつき、あれほど健脚を誇っていた筈の二足が立ち止まる。荒い息が吐き出され、滴った汗は蹂躙するようにして口元に飛び込んだ。

 唾と共に吐き出したそれは、酷い怠慢性を帯びて、磨き上げられた靴へと不時着する。もはや飛距離を伸ばす余力さえ、俺には残されていなかったのだ。

 

「はっ、あらしお、お前」

 

「本気になっちゃって。提督ったら可愛いわぁ」

 

 たしなめるような言葉遣いに顔を見上げると、荒潮が踵を返してこちらに近づいてくるのが分かった。本当に目と鼻の先だ。それこそ、手を伸ばせば届く距離である。

 かぁっと、顔が先のも増して赤くなるのを感じ取った俺は、機能停止に陥っていた身体に活を入れると、遮二無二大地を蹴りあげた。

 

「っ、お前、俺はしつこいぞこの野郎!」

 

「きゃあっ! ほらほら、鬼さんこちら、ここまでおいでー。うふふふふふ」

 

 再び駆けだした荒潮に追い縋る形で、夜道を走る。

 いつの間にやら、見る見る内に鎮守府の灯りが強くなっていくのが目に入ったが、それを一々気にしていられるような余裕は持ち合わせていなかった。

 息切れ一つ起こさぬ彼女の後姿は絶望感を覚えるには十分過ぎるものであったが、ここまで来て黙って引く事など、出来る筈もなかった。年甲斐もなく、必死の形相で少女の後ろ姿をおっかけるその様は、ともすれば変質者の誹りを免れぬものであるに違いない。

 だからであろうか、もはや彼女の姿しか目に映していなかった俺は、不意に急停止してみせた荒潮を脇目も振らず抱きしめてしまった。

 

「はっ、はっ、つ、捕まえたぞ荒潮!」

 

 身長差があるものだから、必然的に腰を折った形になる。覆いかぶさるようにして彼女を包み込んだ俺は、胸の方に回された指が柔らかな感触を伝えてくるに至るまで、己の愚行に気付かなかった。強引な手並みを受けて、しっかりとアイロンのかけられた彼女のそれがくしゃりと歪む。

 自分が何をしでかしたのか気付いたのは、 息遣いがようやく平常のものに足をかけはじめた頃だ。

 

「はぁ、はぁ、す、すまん! どうかしてた!」

 

 冷静さを取り戻した俺は、自分が、鎮守府の門が見える所にまで来ている事を把握した。夜もふけきった頃合いだ、門は完全に閉め切られている。

 目的地を前にして立ち止まってしまった荒潮を不審に思いながらも、鉄鎖が塞ぐ出入り口の方に目をやっていると、一人の少女が門番然として立ち尽くしているのが確認出来た。

 

「……あれは」

 

 呼吸を十分に取り戻してから、促すように荒潮の背を押すと、彼女はようやく足並みを取り戻したようであった。

 成程、直立不動でこちらに目を向けられたともなれば、驚いて足を止めてしまうのも道理であろう。連れ立って門の所にまで辿りついた俺達を、門番は敬礼と共に出迎えた。

 

「司令官! お疲れ様です!」

 

「ああ、見張り御苦労」

 

 屹然とした態度でこちらを見つめ返してくるのは、朝潮型駆逐艦ネームシップでもある、朝潮その人だ。ぱっちりとしたライトグリーンの瞳は、吸いこまれてしまいそうな美しさを秘めている。

 真面目一辺倒が取り柄の少女で、少々堅苦しいのが難点ではあるものの、軍人然としたその姿にはなかなかどうして、学ぶべき部分も多い。特に、粉骨砕身の働きは特筆すべきものがあった。

 彼女の労をねぎらった俺は、相も変わらず直立不動を貫くその姿勢に苦笑しつつ、休みをとらせる。

 緊張を緩めた朝潮は、不意にその姿勢を崩すと、未だ荒潮の手にあった俺の軍帽を強引に取り上げた。

 

「荒潮! 司令官に迷惑をかけない!」

 

「ああもう、今日は朝潮ちゃん非番でしょう? びっくりしちゃったわぁ」

 

「荒潮が何かしでかすんじゃないかと思ったら気が気でなくて、無理言って代わってもらったのよ」

 

「信用されてないのねぇ。悲しいわぁ」

 

「そういう訳じゃ……」

 

 傷ついたとでも言いたげに顔を覆う荒潮。勿論見せかけの演技ではあろうが、上手い形で言い包められる羽目になった朝潮の表情には、確かな動揺が広がっていた。

 戦場での活躍ぶりをまるで感じさせない朝潮の動揺ぶりは、見る分には愉快なものであったが、何時までも放置しているのはあまりに不憫で冷徹である。

 三流役者の滑稽な演目に終止符を打つべく、俺は荒潮の頭頂部に向けて軽く手刀を放った。

 

「あいたっ」

 

「ほら、朝潮をからかうのもいい加減やめろ」

 

「あう、酷いわぁ。痛いじゃない……」

 

 頭頂部を抑えて蹲る荒潮。道化じみた仕草はもうこりごりだ。

 双眸に涙を蓄える彼女を尻目に、今度は朝潮の方へと視線を向ける。

 

「自業自得だ、全く。……しかし朝潮。心配だったからといって、いくらなんでも見張りを代わりに務める事はないだろう。休む事だって重要な任務だ」

 

「ですが……」

 

 そう言って言葉尻を濁らせる朝潮に業を煮やした俺は、有無を言わせぬ勢いで彼女に迫った。

 

「だがもしかしもない。お前が人一倍任務を果たそうとしている事は十分伝わってるんだ。お前の頑張りは理解している。だから、休める時はしっかり休んでくれ」

 

「…………分かりました」

 

 渋面を浮かべる朝潮は、言葉でこそ了承の意を示したものの、完全には納得していないようであった。ありありと不平不満が透けて見える。

 彼女を納得させるべく懇々と言葉を重ねるものの、汗で波立った髪が苛立ちを助長させては思考を掻き乱し、頭部から昇る湯気は、行き場のない俺の感情を嘲笑うようにして立ち消えていった。

 思わぬ方向からの助け舟に目をぱちくりさせたのはその時だ。何時の間にやら戦線に復帰していた荒潮は、相も変わらずからかうような笑みを浮かべながら、朝潮の背後に忍び寄ると、

 

「朝潮ちゃんは、休みの時に何をすべきか分からないから、困ってるのよねぇ」

 

「荒潮っ!?」

 

「何、そうなのか?」

 

 それまでの軍人然とした表情を取りこぼした朝潮は、類を見ない勢いで慌てふためいてみせた。

 あたふたと、しっちゃかめっちゃかに四肢を動かすも、取り押さえるようにして背中から腕を回す荒潮の前に無力化されてしまう。

 桎梏の楔に囚われた朝潮にとって、弁解の余地を携えたのは彼女自身の言葉のみであった。しかして、それも荒潮の前では徒労に終わる。

 

「違いますっ! 朝潮は」

 

「私達や敷波とかが居る時は無理矢理連れ出してあげるんだけど、一人の時はねぇ」

 

「だから、荒潮っ」

 

 情け容赦のない背中越しの一気呵成に、朝潮は大分参ってしまっているようだった。睨みつけるようにして研ぎ澄まされた視線にも、覇気がない。

 荒潮の行いは、決して手放しで褒められるものでこそなかったものの、朝潮が抱える問題の深刻性を表面化させるものであった。

 勿論、具体性を伴った例をあげ、それこそ銘文化したそれを朝潮に授ければ、彼女はまるで機械を思わせるような振る舞いと共にそれに従うであろう。

 しかし、それを休日と称して憚らぬのも、少々違う気がするのも確かだ。明確な答えを出せぬ俺は、手持無沙汰に顎を撫でつけながら、

 

「なぁ朝潮、何か、自分のやりたい事とかないのか? せっかくの休日だ、趣味に没頭するのもいいだろう。緊急事態が発生した時を除けばそれは、お前に完全なる自由を保障する時間でもあるんだ。誰に遠慮する必要もないんだぞ。勿論、俺にもだ」

 

 考えもしなかった、とでも言いたげに朝潮の瞳が見開かれる。

 途端に静まり返った彼女の四肢は、金縛りにでもあったかのように膠着状態に陥った。

 

「自由、ですか」

 

「何をしたっていいのさ。お前達は兵器だ。だが同時に、日常を謳歌する権利がある。お前達は生きているんだ。何時死ぬかも分からない戦場に身を置く日々が続くにあたって、自分のやりたい事をやって何が悪い? 誰にも文句は言わせない、俺がそれを保障する」

 

「本当に、いいんですか?」

 

 不安が渦を巻いてその胸中を席巻しているのが、手に取るように分かる。

 いつもであれば聡明な光を携えた瞳も、この時ばかりは消えかかっていて頼りない。重ねる様にして確認を求めてくる朝潮の姿は、まるで暖を求めて震える子犬のようだった。

 自然と、朝潮の頭に手が伸びる。この頃になると、荒潮はもう彼女の四肢を拘束してはおらず、見守るように腰を下ろしていた。

 

「ああ、元々、俺が言うまでもない事だ。好きにやればいい」

 

 頭を撫でまわすそれに対し、朝潮はくすぐったそうに顔を歪めながらも、なすがままにされるを許す。

 気をよくした俺は、朝潮が遠慮がちに声をあげるまで彼女の髪を掻きあげては弄んだ。

 

「司令官、その」

 

「お、おお、悪い悪い。ついつい、長引かせてしまった」

 

「いえ、別に気にしていません。それよりも、今日はご教授ありがとうございました! 朝潮は、これより休日を十二分に過ごせるよう日進月歩していく所存です!」

 

「そんな畏まる事じゃないんだがな……。荒潮も、そう思うだろ?」

 

 そう言って彼女の方に視線を向けると、子供でもあるまいし膨れっ面を作っては不満を露わにする荒潮の姿が確認出来た。

 彼女は酷く機嫌を損ねたようで、眉頭を困ったように眉間に募らせてみせる。

 

「私だけ置いてけぼりだなんて、酷いわぁ」

 

「何だ何だ、お前も撫でてほしかったのか? よしよし、それだったら遠慮なく撫でてやる!」

 

「やあ、もう! ぼさぼさになるからやめて!」

 

「はっはっはっは! これでもか! これでもか!」

 

「――それ以上やったらセクハラで訴えるわよ? さっきの、忘れてないから」

 

「お前、こういう時にマジな反応を返すのやめないか? 普通に凹むぞ……」

 

 一しきり彼女との交流を楽しんだ俺は、朝潮に見張りを切り上げるように伝えた。

 聞く所によれば、次の時間帯はあきつ丸との事だ。既に準備は出来ている筈だし、さんざっぱら屈辱を与えてくれた彼女に、一種の意趣返しの意味も含め早めな招集をかけるのも偶には一興であろう。

 そこまで来て、未だ朝潮に軍帽を預けたままである事に気付く。

 遅まきながら彼女もその事実に気付いたようで、恥ずかしそうに視線を反らしながら、朝潮は軍帽を握りしめた右手をこちらによこした。しかし、

 

「ん、朝潮?」

 

 そのまま手に取ろうと軍帽に指をかけるも、強かな抵抗が、持ち主の元に戻ろうとするのを拒絶する。

 鎮守府の灯りは、軍帽を橋渡しに繋がり合った影を映しだしている。見れば、朝潮が指を離していないのが確認できた。

 

「どうかしたか?」

 

「あっ、いえ、その」

 

「何だ何だ、もしかして、被ってみたいのか? ははぁ、意外と朝潮にも子供っぽい所があるんだな」

 

 悪戯を思いついた時のような、そんな笑みが自分の顔に浮かびあがっているであろう事は、想像に難くない。

 図星を突かれたがために生まれたその隙を見計らって軍帽を取り戻した俺は、押し付けるような勢いで彼女にそれを被せる。

 ぐしゃぐしゃになりつつある彼女の髪の毛に構う事無く、俺は朝潮に並び立つようにしてから、

 

「よし、それじゃあ写真でも撮ってくれ、荒潮。朝潮提督の晴れ姿を残しておきたいからな。おおう、逃げるな逃げるな」

 

「あらあら、朝潮ちゃんったら可愛いわね」

 

 深更たる闇夜を照らすようにして、フラッシュがたかれる。

 荒潮のスマートフォンを覗き見ると、硬直しきった朝潮と、それを愉快げに見下ろす俺の姿が映し出されていた。酷い出来だが、自然と笑みがこぼれる。

 一緒に写真を見ていた朝潮に後で送りつける旨をつけると、彼女は軍帽を不躾に手渡して、さっさとあきつ丸を呼びに行ってしまった。

 ぽつんと取り残された俺達は、やがて見合わせるようにして大笑いを始める。

 

「ははっ、好きなようにやれとは言ったが、まさかああいった要求が来るとは思わなんだ」

 

「うふふふふ、本当にお馬鹿さんねぇ。可愛いったらありゃしない」

 

「それにしても、また荒潮に助けられてしまったな。お前の後押しがなければ、朝潮の悩みを解消させる事も、いやさ、それに気付く事すら出来なかっただろう。ありがとう、礼を言う」

 

「いいのよ、だって、朝潮ちゃんは大事な姉妹艦だもの。それに提督だって、仲間同士助け合う事を望むでしょう? 悩みを溜めこんでいるなら、解決しなくちゃ」

 

「その通りだ。だが、分かっているだろうが」

 

 軍帽を被り直した俺は、問い詰めるような面持ちと共に荒潮に視線を送る。

 この追及路線を受けてほとほと懲りたらしく、彼女もいい加減うんざりしているようにも思えた。

 それでも荒潮は笑みを振りまいてから、

 

「勿論、これは私自身の考えだから、心配しないで大丈夫よー。当然でしょう?」

 

「ならば良し。……ああ、それにしても今日は疲れた。業務云々は叢雲を代理に立てておいたから問題はないだろうが、明日顔を合わせる事を考えると気が重くなる」

 

「うふふふふ、ご愁傷様」

 

「まあ、明日の事は明日考える事にするさ。さっさと汗を流して今日はもう寝る。お前も、もう遅いから夜更かしだけはするなよ」

 

「御心配なく。ああ、それと」

 

 顔を曇らせた俺に荒潮が提案したのは、なかなかどうして拒否しがたい魅力を秘めていた。

 成程、この時間であれば、夜更かしを乙女の対敵と捉える少女達はとっくの昔に入渠を済ませてしまっているであろう。それに付け加え、ドック前で荒潮は通せん坊をしてくれるそうだから、誰かが入ってくる心配もない。

 

「いや、しかし、だな。そうだ、荒潮も早くお風呂に入りたいだろう!?」

 

「読んでる小説が、丁度佳境を迎えた所なのよ。待ってる時間は苦じゃないから、提督は気にしないでねぇ」

 

「いやいやいやいや、その理屈はおかしい! そうだ、朝潮だ! あいつだって、見張りが終わったんだからお風呂に入りたい筈だ!」

 

「でも、私と追いかけっこして提督も汗だくでしょう? 提督が入ってると聞いたら、朝潮ちゃんもちょっとくらいなら待ってくれるわよー」

 

「いや、でもな? しかし、そのだな?」

 

「いいからいいからぁ」

 

 なし崩し的な形で男子禁制の場に足を踏み入れる事になった俺は、暫くの間自己嫌悪で雁字搦めになっていたが、何と言っても禁忌は蜜月の味だ。自分に宛がわれている貧相な設備の事を思えば、荒潮の妙案には抗えないものがあった。

 ドック内に内設されたそれは、大勢の艦娘が一度に利用出来るように改築されたもので、一昔前の銭湯を彷彿とさせるものだ。壁面には日本の憧憬として誉れ高い富士山が描かれており、見る者の心を和ませる。

 一般的にこの大浴場は日々の疲れを癒すためであって、戦闘による負傷を治療させるためのものは別個に建造されている。予算の都合上量産化の目途の立っていないそちらとは異なり、こちらは何時だって利用する事の出来るプライベート空間として皆に親しまれていた。無論、流れている湯も至って普通のもので、人体に対する有害性は皆無だ。維持管理は妖精任せと、正に至れり尽くせりである。

 整然と立ち並ぶシャワーホースの一角に腰を下ろした俺は、事前に持ってきていたシャンプーを手に取って髪をかき分けはじめてたが、途中から不思議な感覚に襲われる事になる。

 

「……そういえば、彼女達はいつもここで髪を洗ったり、身体を洗ったりしているのか」

 

 洗い流した所で、違和感までは拭いきれるものではない。

 そこまでくれば、躊躇の末に選びとった選択を死ぬほど後悔する羽目になるのに、あまり時間はいらなかった。どう考えたって、ここは男が来ていいような所ではない。

 インモラルな香りが、今更ながらに鼻腔を擽る。くらくらしてしまいそうな強烈な匂いだ。

 続々と入りこんでくる夥しい数の雑念に、俺は頭がどうにかなってしまいそうだった。

 水栓をしっかりと閉めた俺は、滴り落ちる水滴に構う事無く、

 

「駄目だ駄目だ駄目だ! 帰ろう! ああ! それが正しい!」

 

 嫌な予感が胸中に燻りつつあった。

 まるで、何か、あってはならない事が起きつつあるような、そういった漠然とした悪寒が身に走る。素っ裸の身体は仕切りに湯を求めていたが、それを許すわけにもいかないだろう。

 あり得る筈がないと祈るような面持ちに支配されていく中、物音――酷く限定されたそれだ。まるで、浴場と脱衣所を隔てる扉が開け放たれたような、そんな音――がしたのはその時だ。愕然とした衝撃に襲われつつ、そちらに視線を向ける。

 朝潮がいた。

 

「うがあああああっ!!」

 

 たとえ機能不全に陥り錆びついていたとしても、股間の紳士が朝潮の教育に悪影響を与える可能性は、懸念してしかるべきだ。

 そもそも、だ! インポテンツの知識の有無に関わらず、見る影もなく佇むそれを誰それになど見られたくはない! 泥酔時、隼鷹達の所には、それこそ正装のまま飛び込んだんだ! これは、朝潮を女性として意識する以前の問題である!

 脱兎の勢いで駆けだした俺は、彼女に背を向けると全速力で大浴槽に飛び込む。伊401の蛮行を咎めた昔日の姿はそこにない。砲弾の直撃を直に受けとめた水面は、高らかと水柱を打ち立てた。

 やがて天に舞い上がった水滴は、強かに浴槽の底面に膝をぶつけた俺に、後ろ指を差すかの如く勢いで続々と背中に降り注ぐ。

 糾弾の声に対し、痛みに顰めっ面を作るしか能のない俺はあまりに無力で、針のむしろから逃げ出すための退路には文字通り番人が待ち構えているようだった。

 急速に静まり変えりつつあった世界に、突如として朝潮の声が木霊する。

 

「不肖朝潮! お背中を流しに参りました!」

 

「あらしっ、あらあら、あらしっ」

 

「はっ! 司令官の日々の疲れを癒してあげたいといった旨を告げた所、快く引き下がってくれました!」

 

「この馬鹿ちん! 婦女子たるものが無暗に男に肌をさらすな! そういうのは大事な時のためにとっとけ! 荒潮の奴は後で必ずとっちめる! お尻ペンペンだ!」

 

「それと司令官! 所感を述べますと、身体を洗わずにお風呂に入る事はマナー違反です!」

 

「だまらっしゃい!」

 

 怒りに歯を剥いて振り返る。バスタオルで身を包んだ少女がそこにはいた。

 凹凸の乏しい身体を、真っ白なそれで着飾っている。肌身一つの四肢は俺と比べるまでもなく幼気ない。背中に届かんとする黒髪とのマッシュアップが、清楚感溢れる危険な魅力を振りまいていた。

 元々容姿そのものが端麗である事は分かっていたのだ。劣情を催す事こそないものの、彼女もまた艦娘に名を連ねる一人なのだと再確認する。

 いやいやいや、俺は一体何を言っているんだ。そもそも立場が逆なのだ。往年の名作漫画宜しく叫び声をあげるべきは朝潮の方であるのに、何故ああも男らしい態度を貫く事が出来る!? まさかアレか!? 朝潮は男の娘だったのか!? 俺も男らしく堂々としていれば良かったのか!?

 頭のおかしくなりつつあった俺は心の中で咽び泣いた。ただでさえ犯罪的な幼さである駆逐艦に自身の股関を御披露する羽目になりそうな事態に、気が動転している。

 自分を棚にあげるのもそこそこに声を荒らげると、自然とその熱弁にも力が入った。

 

「じょ、上官命令だ! 今すぐ出てけ! 今すぐ、だ!」

 

「しかし、司令官は言ってくれました! 休日は自分がやりたい事をやれと! 朝潮が思うようにやればいいと!」

 

「趣味が悪すぎる! 俺の背中を流してお前に何の得がある!? まさか、金剛あたりにでも当てられたのか!?」

 

「違います!」

 

「違うんかい! ちょっと傷ついたぞ!」

 

 思わず立ち上がりそうになってしまうのをぐっと堪える。

 彼女とは一度、腹を割って話しあう機会を作るべきだという意思が鋼のような硬度を帯びて顔を出してきたが、まずはこの現状を如何にして打破するかが先決と言えた。

 しかし、茹で上がった思考は厄介者で、活路を切り開くに値する妙案はとんとして浮かんでこない。遅々として捗らない俺を尻目に、先手をとったのはまたしても朝潮であった。

 俺の制止を振り切るようにして、朝潮が浴場に足を踏み入れる。

 一歩。

 

「朝潮?」

 

 二歩。

 三歩、四歩、五歩六歩。

 

「朝潮!」

 

 八歩十歩十二歩十五歩! 

 気付けば、俺は断崖絶壁に立たされていた。或いは、断頭台に首ねっこを掴まれた哀れな罪人か。

 浴槽までやってきた朝潮を前に、俺は股間の紳士をひた隠しにする事で精一杯だった。先ほどまで腰を下ろしていた所にタオルを置いてきてしまったのは、完全に失態である。

 反対側の壁にまで追い立てられ、平穏を求めた背中が縋りつくような形でそこにへばりつく。それは同時に、これ以上の後退が許されない事を意味していた。

 朝潮の見下ろすような視線が、こちらに向けられる。だが、五月蠅いくらいに激しい鼓動が最盛期を迎えたのは、むしろここからであった。

 朝潮が、湯に、足を入れる。

 

「あ、ああああ、朝潮! それは不味い! それ以上は本当に不味い! てか、お前のそれもマナー違反だぞ!?」

 

 俺の言葉は、今の朝潮の前にはまるで無力だ。湧きあがる焦燥感を逆撫でするように、朝潮は更にもう一歩踏み入れてくる。俺の動揺と相反するように、水面は静かにその動きを受け入れていた。柔らかな波紋は、それでいて俺の精神をかき乱すようにして殺到する。

 朝潮が口を開いたのは、ようやく俺の要請が彼女に聞きいれられた時であった。彼我の距離は、それほど離れていない。

 朝潮はここにいたっても、真面目腐った態度を取り崩す事は無かったが、その内面にはどことなく、息苦しさのようなものが渦巻いているように思えた。そしてそれこそが、このような事態を招いた原因である。

 

「司令官。朝潮は、司令官の役に立ちたいんです。朝潮が出来る事であれば、何でもしてあげたいんです。これまでは、司令官の迷惑になるかもしれないと思って、二の足を踏む日々を続けていました。けど、もし、司令官が許可してくれるというのなら、私は」

 

 忠誠心と信頼と、あるいは一摘まみ程度の何かが、暴走しているのかもしれなかった。そして、彼女自身でさえ制御不能に陥ったそれを導いたのは、もしかしなくとも俺によるものなのだろう。

 グラスノスチとペレストロイカの再来を見ているようだ。ゴルバチョフ主導の元に与えられた僅かな自由は、ロシア国民に類を見ないほどの爆発的な行動力を持たせるに至った。

ここで無下なく朝潮からそれを取り上げてみせれば、彼女は自由を笠にきて更なる暴走を迎えるに違いない。そう思うと、たとえその方法が間違っていたのだとしても、彼女の不器用な気遣いに応えなければならないといった気持ちに駆られる。

 結局の所、折れたのは俺の方からであった。後生の頼みで彼女に目をつぶってもらった俺は、その姿を仕切りに確認しながら、朝潮の傍を横切る。

 

「司令官」

 

「分かってる! 分かってるさ!」

 

 逃げるつもりはなかったものの、最初から退路は断たれているらしい。

 観念した俺は椅子に腰を下ろすと、せめてもの抵抗とばかりに自身の腰にタオルを巻きつけてから、彼女を呼び付ける。

 浴槽から上がった彼女は、慣れた手つきで俺の背中を洗い流し始めた。姉妹艦にもよくやっているらしい。

 

「司令官の背中、大きいです」

 

「分かった。もう分かったから。早く終わらせてくれ……」

 

 背中をくすぐる感触は、こそばゆいというよりも羞恥心を煽るそれだ。

 そもそも、姉妹艦はまだしも、男に対してこういった事を行うのを、朝潮は本当の所どう思っているのだろうか。

 もしかしなくてもそういう意味合いで取っても良かったのかもしれなかったが、さしもの禁断の果実にまで手を出すつもりはない。朝潮が盲目な忠誠心と無垢な信頼の元に動いている事を切に願わざるをえなかった。

 背中越しに、彼女が語りかけてくる。リズム感を伴ったボディタオルの律動がいやに心地よかった。

 

「それと、一つ司令官にお願いがあるのですが」

 

「ええい、何だ何だ! ここまで来たんだ、大抵の事は聞いてやる!」

 

「司令官。司令官が待てと言うのなら、朝潮には何時までも待つ覚悟があります」

 

「だから何だ!?」

 

 がなりたてるような勢いでそう返すと、それまで背中に宛がわれていたタオルの動きが止まる。もう勘弁してくれ! 

 もはや爆発しかねないほどに高ぶった感情を俺は持てあましてたが、俺より深刻な色合いを見せたのは何を隠そう朝潮の方であった。

 ここで俺の疑問は唐突に氷解する事となる。何てことは無い。結局の所、彼女は不安だったのだ。

 

「殺せというのなら、深海棲艦に果敢に挑みかかります。死ねと申されるのなら、何時であれ死ぬ用意があります。朝潮が持てるものは、全て司令官に差し上げます。だから、……少しだけでいいから、理由を与えてほしいんです。朝潮に、司令官のために戦い続けるための理由を、命令を聞き続けるための訳を、朝潮がここにいていいという証明を。扶桑さんに与えたような信頼の証を、朝潮に下さい。朝潮の全てを捧げる代わりに、司令官の何かを戴きたいんです。朝潮は、一体何をすれば、司令官を手に入れる事が出来ますか?」

 

 自分の後ろで、朝潮は一体どんな顔をしているのか。俺にそれを見る勇気はなかった。

 彼女は逃げられない。その運命は彼女が生まれた瞬間から決まっていたものだ。その定めを受け入れられるだけの十分な理由がなければ、彼女はいずれ壊れてしまうだろう。その為に、朝潮はこんな事をしてまで、俺に尽くそうと思っているのだ。

 その理由を俺に求めてきた事を誇らしく思う反面、こんな手段を用いるに至るまで彼女を追い詰めてしまっていた事に、申し訳なくなってしまった。もっと早くその悩みに気付く事さえ出来ていれば、それを解消する事が出来ていれば、このような行為に打ってでる事も無かっただろう。

 自分の頑張りに、何かしらの報いを求めるのは当然の事だ。そして、彼女にはそれを受け取る権利がある。物欲の乏しい彼女がわざわざ俺を指名してきたのだ。物で釣るような事は断じて許されるものではない。

 だが、それはそれ! これはこれ! こういったプレイを思わせる形で押し込み、もし噂の一つでも立てば、ただでさえ心もとない俺の信用が更に地に落ちかねない行動に走ったのは度し難い!

 俺はシャワーホースを手に取ると、腹立ち紛れにその矛先を後方へと据えて水栓を押しこんだ。

 

「あう、司令官っ」

 

「いいか、俺は、とっくの昔にお前達に俺の全てを明け渡してるつもりだったんだ。俺に帰る場所はない。父も、母も、友さえ失った。俺にはもうお前達しか残されていないし、お前達さえいてくれれば、それで良いんだ。だから不甲斐ない事に、俺は疾うの昔に素寒貧だ。過去は焼き焦げたままだし、残った物は全てお前たちに預けてしまったからな。だが、俺の体の一つや二つではお前は満足できないと言う。だったら、俺がお前に与える事の出来る言葉は、一つだけだ――――助けてくれ。俺を助けるために、朝潮にはここにいてほしい。力を持たない人間を、どうか憐れんでくれ。頼む」

 

 朝潮は暫く沈黙を貫いたが、やがて、再び背中をタオルが擦り始めたの受けて、それを了承と俺は受け取った。

 苦い静寂が二人の間に訪れる。耐えられなくなった俺は、とうとう言う必要のない言葉を口に出してしまった。

 

「そ、そうだ、ついでに聞いておきたい事がある」

 

「はい、提督。朝潮に答えられる事でしたら、何でも」

 

「これは、恐らく俺の勘違いだ。ああ、そうであるに違いない。そういった前提を踏まえた上で聞くんだが――――見たか? ちらっとでも、見ちゃったか?」

 

 こういう時ばかり、嫌な予感は当たるものである。

 朝潮はぴたりとその動きを止めると、思いだしてしまったのだろう、必死に意識の片隅に追いやろうとしていた事を無理矢理引き摺りだしてしまったという事実に、俺は頭を抱えた。

 

「…………………………あう」

 

「オーケー朝潮! 忘れろ! いいか朝潮! 忘れるんだ! 忘れてくれ頼むから!」

 

「司令、官。前の方も、洗って、さしあげたいのですが」

 

「あーあー聞こえない聞こえない! 俺も何も聞こえないぞド畜生!」

 

 

 

 

 

















提督「何してもいいぞ。自由だぞ。俺に遠慮する事は無いぞ」

今回の一件は自分から地雷を踏み抜いた提督が悪いってはっきり分かんだね。
朝潮型はガチ。いやしんぼめ! 三個か! 三個欲しいのか!?

司令官の命令には従いますとかいいながら、制止を振り切るようにして浴場に入ってくるとはたまげたなぁ。まあ、俺に遠慮する必要はないとか言いだしたのは提督自身だからね、しょうがないね。

??「(金剛が自分の思考選択決定に絡んでる可能性は零なので)違います」


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11話

朝潮との事の次第を話した途端、彼女は単刀直入に言い放った。

 

「自業自得よ、この馬鹿」

 

「うぐっ……」

 

 秘書艦の言葉が胸を突く。

 彼女との付き合いはそれこそ鎮守府当初から始まったものであるが、鋭く尖った棘のような物言いは、毎度の如く俺の心をざわつかせた。

 蛇に睨まれた蛙とて、ここまで一方的にはしてやられないだろう。臓物が浮かび上がるような居心地の悪さに苛まれ、脳裏を朝方の出来事が過ぎる。

 事件はそれこそ鶏鳴も騒ぎ立たぬ朝っぱらに起こった。耐えがたい羞恥と、忍びがたい衝撃から一夜が明け、朝潮の追及から辛くも逃げおおせた俺を夜明けの光が包み込む。温かみに溢れた窓越しの日差しは、目を覚ましたばかりの俺を称えるかのように光り輝いていた。上官としての矜持や、それに連なる諸々の感情を損なわずに勝利を収めた俺にとって、その眼差しは決して安くない報酬と言える。

 しかし、ぼやけた視界を擦るようにして覚醒させた俺は、未だ己が曙光の差しこまない奈落の淵にいるのだという事を再確認する事となった。

 朝潮が、いる。

 

「あさ、あさしっ」

 

「おはようございます、司令官!」

 

 吃りをもって情動を発露させるに至る俺を、朝潮は極めて冷静な風を装って出迎えた。カーペットに正座する彼女はいやに小動物めいて、まるで最初からそこに居たかのように風景と同化している。彼女の理路整然とした態度とは裏腹に、明け方の俺の頭は、目の前の出来事を処理し切れず機能不全を起こしていた。

 口の中に浮かび上がっては消えていく言の葉のせいで、俺自身と現実世界との距離は一層引き離されていく。吃りでうねった水泡が海面で弾け飛び、身体が水中深く沈みこんでは一向に浮上しない。

 活路を見いだせないのを良い事に、勝手気ままに世界が回りだしたのはその時だ。

 

「お召し物は、あちらに用意してます!」

 

「お、おお、あ、ありがとう……? いやいや、違う違う! 何故お前がここにいるんだ朝潮!? ここは俺の私室だぞ!」

 

「扉が、開いていたんです。自室に鍵をかけ忘れるほどにお疲れの御様子である事は容易に想像出来たので、勝手ながら、身の周りの整理をさせて頂きました!」

 

「……誰のお陰で疲れたと思って……ああ、もういい! 何か色々と疲れた! 世話をかけたな!」

 

「いえ! 当然の事をしたまでです!」

 

 舵取りの誤りが、千鳥足な轍を残す。今回の事でそれを酷く痛感した俺は、朝潮と話し合いの場を設けるべく決意を新たにした。とはいえ、その機会は今ではない。今はもう、本当に疲れた。

 俺の内情を反映するかの如く、ベッドのシーツがぐしゃぐしゃに歪んでいる。寝ぞうの悪さは折り紙付きであったものの、今度のそれは殊更酷いものだ。

 ベッドから抜け出した俺は、朝潮が用意したのであろう着替えに手を伸ばしかけ、そこで動きを止める事になる。

 

「……朝潮? 何時までもこっちに視線を向けられていると、その、何だ。着替え辛いんだが」

 

「いえ! 緊急事態に備え、ここで待機しています!」

 

「顔真赤にして言う台詞じゃないだろうが! そもそも緊急事態って何だ!?」

 

 朝潮を追い出した所で、俺の心が休まる時はない。

 一通りの身支度を済ませた後、静寂に慣れつつあった空気は再び流出した。扉の隙間から、朝潮がひょっこりと顔を覗かせる。

 

「司令官! 今日の朝食は和一色です!」

 

「だー! 分かった分かった! 腹が減ってるんだろう!? 俺もそうだからさっさと行こう!」

 

「僭越ながら、お供させて頂きます!」

 

「そう畏まらんで宜しい! たかだか一緒に飯食うだけだぞ!」

 

 朝食後、当直の遠征の任に就いた朝潮と別れた俺は、溜息をつくのもそこそこに、急ぎ足で執務室に向かう事になる。知らず気が塞いでいるのは、朝っぱらから朝潮に絡まれたからだけではない。

 当初の予定通り、俺を待ちうけていたのは罵声の一言であった。ここで話は冒頭に戻る事となる。

 腹蔵を感じさせない物言いは時として親近感を抱かせるものの、行き過ぎれば耳に痛いものばかりだ。

 

「あんたね……駆逐艦連中にはそれこそ純粋な娘が多いんだから、真に受けちゃうでしょ? 言葉を選びなさいよ、全く」

 

「しかしだな! 朝潮の方にだって非があるだろう!? 俺もガキじゃないんだ、一から十までやってもらう必要はない! それこそ、背中を流す必要なんてどこにあったんだ!?」

 

「否定から入る男は嫌われるわよ」

 

「む……」

 

「言葉に詰まった途端黙りこむ癖も、直した方が良いわね」

 

「む、む、む……!」

 

 続々と殺到する毒舌に、待ったをかける暇もなく言い負けてしまう。

 燦々と光り輝く日光を十全に取り込んだ筈の執務室も、冷え込みつつある秘書艦との関係を受けてか見かけ倒しの温かさしか生み出さず、暖気に歯を震わすといった錯覚さえも生みだす結果に至る。

 一方的な舌戦にしてやられた俺はせめてもの抵抗とばかりに唇を尖らせるも、綽綽とした余裕を見せつける秘書艦の前には無力に等しく、彼女はそれを一笑の元に嘲笑った。

 吹雪型五番艦、叢雲と称される少女との出会いは、当鎮守府に初めて足を踏み入れた時にまで遡る。特徴的な色合いのロングヘアは人の目を引きつけるが、彼女を一層際立たせたのはその角立った物言いだった。

 曙や霞といった面々ほどではないにしろ、上官に対する態度とはとてもじゃないが言い難い。

 

「む、む、む、じゃないわよ! 今から昨日の報告を行うから、心して聞く事! ったく、顔くらい出すと思ってたからずっと待ってたのに、そのまま寝ちゃうなんて信じらんないわね!」

 

「そ、そうだったのか? いや、そのだな、もう夜も遅かったし、てっきり寝てしまっているものだとばかり……」

 

 そこでようやく、言い訳まがいの気遣いは要らぬお世話であったと気付かされる事になる。

 叢雲はしばらく目を瞬かせていたが、やがて怫然とした湧きたつ怒りに駆られると、

 

「あのねぇ……もし私がミスをしていたら、それはそっくりそのままあんたの責任になるのよ!? 何か不手際が無かったか早く確認してもらわなくちゃ、こっちは気が気がじゃないわよ!」

 

 彼女の告白に忸怩たる思いを募らせた俺は、頭を深く下げた正式な謝罪を試みた。

 深海棲艦との戦いはそれこそ先の見えないもので、情勢の不確かさが彼女に強いた負担は、相当の物であったに違いない。遠征や出撃こそ中止させていたものの、彼女の心労を取り除くにあたっては微々たるものに過ぎなかったのであろう。

 明日は淵瀬とも言う。何時揺り動くかも知れない現状をいっぺんに取り仕切る事になったのだ、彼女が怫怫と感情を露わにするのも当然の成り行きであった。

 上官のあられもない姿に叢雲は当惑の表情を際立たせたようで、歯切れの悪さが目立つようになった事を皮きりに、険のある言葉が尻すぼみになっていく。

 

「ちょ、仮にも提督が、そう易々と頭を下げるもんじゃ……」

 

「すまん。叢雲になら任せられると思っての事だったんだが……大分、苦労をさせてしまったみたいだな」

 

「っ、ええそうよ、大変だったんだから! とりあえず、今後今回みたいな形で鎮守府を離れる時があった際、代理は私に一任する事! 私でもてんてこまいだったんだから、他の娘がやったらまず間違いなく鎮守府の運営に支障をきたすわ」

 

 その言葉に思わず顔を見上げるも、途端に叢雲はそっぽを向いてしまった。

 彼女はそれこそ居心地悪そうに視線を彷徨わせていたが、やがて顔を強張らせながらこちらに向き直る。今度はこちらが動揺を露わにする番だ。

 

「何よ。おかしい事でも?」

 

「い、いや。お前がそう言うのであれば是非とも任せたいと思ってはいる。しかし……大丈夫なのか?」

 

「……ねえ、どうして私を代理に選んだんだっけ?」

 

「それは、お前が経験のある初期艦だったからだが……」

 

「でしょ? 今度は、しっかり勤めあげてみせるわ」

 

 その言葉に並々ならぬ決意を感じ取った俺は、それ以上の追及を打ち切った。

 彼女がここまで言うのだ。元より何かしでかすなどとは露にも思っていないのだから、こちらとしても安心して任せる事が出来る。

 実際、彼女から受けた報告は非の打ちどころのないものであった。関係機関との七面倒臭い折衝たるや、目に見張るものがある。

 疾しい自尊心との鬩ぎ合いに競り勝った俺は、諸々の書類を読み終えると、彼女に労いの言葉をかけた。

 

「流石だな」

 

「そう言ってもらえると肩の荷が下りるわ。さあ、今日も仕事よ仕事。さっさと取りかかりましょう?」

 

「待て待て待て。お前には頑張ってもらったばかりだし、今日は代休に当てるつもりだったんだ。それに、当直の秘書艦は赤城……そういえば、朝からあいつの姿が見当たらんな」

 

 はたと思いついた俺は首を傾げる。

 平時であれば延々と居座る勢いで朝食を貪り食っているというのに、食堂に彼女の姿はなかった。

 テーブル一杯に広がった食事を平らげてから一日の業務に手をつける事を考えれば、あの時間帯に彼女の姿を見かけないというのもそれはそれでおかしい。

 ふって湧いた疑問を氷解させたのは叢雲であった。彼女はこちらに連絡が回っていない事に大層驚いたようで、

 

「あら、聞いてないの? 彼女、今日は具合が悪いから休むそうだわ。人伝手になっちゃったけど、私が代理業務を報告する手筈なのは分かっていただろうから、たぶんその関係で回ってきたのね。他の娘達の都合を考えれば、私がもう一度秘書艦を務めるのが適任でしょう?」

 

「お前の負担の事を考えると、諸手をあげて賛同は出来んが、今日は出払ってる奴も多いからな。まあ、仕方あるまい。それにしても、直接言いに来ないぐらいだから、赤城の体調も相当酷いんだろう。明日は槍が降るかもしれんな」

 

「あんたって奴はホント口が減らないわね……その一言多いのも改めた方がいいんじゃない?」

 

 再三に渡るこちらを嗜めるような態度に、堪忍袋の緒が臨界点を迎えるのも無理は無かった。自然と声色が過激な色合いを見せる。

 

「っ、ええい! 前々から言っておきたかったんだが、お前は俺の母親か!」

 

「一体どれだけの付き合いと思ってるの? 大体、何度言われても直そうとしないあんたが悪いんでしょ!」

 

「ほほー、何時言ったって!? 何年何月何日何曜日何時何分地球が何回回った日!?」

 

「うわ、このクソガキ! そもそも、アンタはズボラ過ぎなのよ! 壊れかけの奴なんて何時まで使ってる気!? 金をかけるべき所にはしっかり金をかける! みずぼらしいったらないわ!」

 

「ネチネチネチネチ! それじゃあ明石に頼み込んだ意味がないだろ! 壊れたっていうならまた直してもらうさ! そもそも、誰がクソガキだ! 自分の貧相なボディを鏡で見てから出直してこい! このペチャパイ女!」

 

「あ! 言ったわね! 今、言ってはならない言を口にしたわね!」

 

「自覚があるだけ大したもんだ! 見直したぞ!」

 

「このすっとこどっこい! もう許さないんだから!」

 

「いひゃいいひゃい! くひを引っ張るな! 暴力反対!」

 

「自業自得よ、この馬鹿!」

 

 こうして稀に見る形でその火ぶたを切った激戦は、両者共に譲らぬ消耗戦にまで縺れ込んだ。

 やいのやいのといった言いあいから始まり、遂に叢雲は実力行使という名の暴挙に打って出る。紅潮した彼女の頬が、その高ぶった感情の度合いを如実に表していた。

 これは不味い。やがて、このままでは不利益を被るだけであるという事実に行き着いた俺は、停戦交渉の席に着かざるを得なくなる。

 

「ここ、ここ、ここらで一度、休戦だ!」

 

「はぁ? 別に疲れてなんかないわ。良い機会だし、あんたとはとことんやってやるんだから!」

 

「ぐっ……いやいや! やるべき仕事も溜まってる! お前がわざわざ秘書艦の任に就いてくれるというのなら、これほどありがたい事もない! 何と言ったって初期艦だからな! 俺も信頼して仕事を任せる事が出来る!  ああ、ほんと、初期艦様様だ!」

 

「ふぅん? 成程、そういう魂胆? 逃げるのね!」

 

「か、艦娘に取っ組み合いで勝てる筈ないだろ! 」

 

 捻りだした逃げの一手を、叢雲は勝ち誇った笑みをもって迎えた。

 歯がゆい話だが、いくら手加減されているとはいえ、さしもの俺であっても艦娘の一気呵成には防戦する事で手一杯だ。

 手心を加えられているというだけでも矮小な自尊心を擽られるというのに、持久戦に持ち込まれたともなればこちらの手傷は増えるばかりで、ひとえに百害あって一利なしという奴である。

 彼女はと言えば、相も変わらず綽然とした態度をもってこちらを見つめていた。事ここに至っては、主導権は彼女に掌握されたと言って等しい。

 悔し紛れの言い訳さえも許す事無く、とうとう彼女は勝利を手にする事となる。

 

「……ま、さっきの言葉に免じて、今回ばかりは見逃してあげるわ。あんたが私の身体をどう見ていたのかについては後々話し合うとして、ね」

 

「見逃すとかいって、その実水に流そうとかは更々考えてないんだな……。む、叢雲は欲しいものとかないのか?」

 

「ふん、あんたが用意出来る程度のものだったなら、疾うの昔に手に入れてるわよ」

 

 その言葉によって絶望の淵に立たされた俺は、脱力しきった肢体を無理矢理執務机に座らせた。

 一片たりとも活力の見出せないままに書類に目を通していると、傍らに侍る初期艦の一睨みが身を硬直させる。

 間髪いれず、鉄骨を縫いつけられたかのような真面目さを俺の背中が装い始めたのが幸いしたのか、叢雲はそれ以上の追及に手をつけるような事はなかった。

 冷たい視線には何とも形容し難いものがあり、一時であれその場を凌ぐ事に成功した俺は深い安堵の溜息をつく。しかして、その安寧も長くは続かなかった。

 あれほど舌戦を繰り広げた後なのだ、再び言の葉に口をつけた叢雲に、思わず身構えてしまう。

 

「……い、一応言っておくけど!」

 

「お、おう。ど、どうかしたか?」

 

「手を出してしまって事自体は、悪かったと思ってるのよ。ちょっと、興奮し過ぎたわ」

 

 珍しくも飛び出た彼女の素直な謝罪に、当初俺は驚きを禁じ得ないでいた。

 その為か、一歩遅れる様にして相槌を打つ。

 

「あ、ああ。まあ、俺も、言い過ぎた部分があった。すまなかったな」

 

「……あんたには、その、朝潮の件にしろ、私にしろ、自分の言い分を通したいなら都合の良い道具が揃っているってのに、なかなかどうして、私も甘えてしまってるわね」

 

 申し訳なさげに本音を露わにした彼女は、すぐさま罰の悪そうな渋面を浮かべる事となった。

 失態を演じたのは彼女ばかりでない。それまでとは趣の異なる動揺に我を忘れ、聞き逃しておけばよかった話題をわざわざ舌の上に乗せる。

 気付けば俺は咎めるような視線を帯びて眉を顰めていた。叢雲がそのような立場に立たされる理由は何一つないにも関わらずだ。

 

「叢雲、それは」

 

「ふ、ふん! 言っとくけど、今でもこの件に関して大淀は納得してないわよ。ま、当然だけどね」

 

 彼女の性格を鑑みればここで意地になってしまうのも当然の成り行きで、胸一杯に広がる罪悪感は俺を盛大に苦しめた。

 かつて、俺が提督になる前の話だ。俺の権限で取得出来る情報によれば、艦娘と呼ばれる新兵器が世に現れ始め、当時劣勢に立たされつつあった日本国が徐々に反撃の糸口を模索しはじめた頃、彼女達は丁重に扱われ、それこそ軍部との関係も良好であった。

 だが、量産化の目途が立ち、彼女達がはいて捨てる程の個体数を誇るようになってからというものの、徐々にその間にはズレが生じていったという。

 勝つために、人類を守るために、自分の家族を守るために。聞こえの良い言葉を盾前に、比較的建造コストの低い艦の切り捨てや大破状態での進撃も辞さないといった扱いが行われるようになり、言葉持つ兵器は声を上げることもなく海の藻屑へと消えていった。当時は艦娘の人権も軽視されており、今のような抗議団体も存在しなかった。

 このような扱いが増えた大きな要因として、当時の艦娘の基本設計にアイザック・アシモフのロボット三原則が組み込まれていた事が上げられる。

 提督の地位にある人間の言葉であれば、彼女達はどのような命令も聞いたし、どのような些細な事にさえ逆らえなかった。それこそ、反吐が出るような行為まで行われていたという報告もある。

 当初こそ人の形をした彼女達を沈める事に罪悪感を覚えていた者たちも、上層部からの指導を受ける内に、次第に神経が麻痺していったという。これはミルグラムの実験やアウシュビッツの例から見ても分かる通りだ。

 事態が急変したのは、艦娘を一個の生命体として捉えるか否かといった議論が起こった事と、それと相反するように、彼女達が自身を故障と定義し、三原則から逸脱した行為を取るようになった事だ。

 事態を重く見た上層部は彼女達の基本設計を一新し、ロボット三原則はある程度緩和された。又、妖精というある種の独立機関が建造に関する諸々を一手に司るようになったのも、この頃からの事であると聞く。

 これらの決定により艦娘を紛争地域に投入するなどといった新たな論争が巻き起こってはいるが、一軍人たる俺がどうこう言える問題ではない。

 俺に出来る事は、一人の人間として、彼女らと信頼関係を作っていく事にある。ある程度の自由を保障されている今の彼女達は、過去のしがらみから現代の提督に付き従っているに過ぎないのだ。

 だが、このような経緯をもってしても、艦娘を自分達の都合良く運用しようといった考えが無くなる事はなかった。

 洗脳装置である。

 

「大なり小なり周囲と齟齬が生まれるから記憶の改竄はリスクが高いし、例えば深層意識への刷り込みなんてのは再び故障を起こす事への危険性からそこまで強いものは設定できないようになっているけど、些細な口答え程度であれば無くせるだろうし、戦場においても、勝利を目前にした者には確実に作用するでしょうね、それこそ自身の損傷を顧みる事もなく。全く、とんだSFね」

 

 ただ事実を事実として述べるに止めた叢雲から、感情の機微を窺い知る事は出来なかった。

 この事実を一介の艦娘が知る事は無い。情報取得者がメンテナンス担当の明石、大淀、初期艦といった面々に限られているのは、機密が漏れる事によっていらぬ詮索が起こるのを防ぐためである。

 洗脳と一言で言っても、それは何も頭蓋をかち割って脳味噌に直接電極を刺すようなものではなく、或いは催眠と言ってしまっても差し支えのない代物である。

 映像と音声、並びに薬品を併用する事となる妖精謹製のそれは詳細こそブラックボックスと化しているものの、使用の有無が発覚しない事を命題としている関係上、必要以上艦娘の脳味噌をいじくる事をよしとしなかった。装置の開発が始まった頃にもなると、艦娘の建造に上層部の意向があまり及ばなくなっていたのも大きな要因として上げられる。

 本来装置の使用は積極的に推奨されているもので、運用を踏みとどまった今になっても、その選択に対する全員の賛同を得られたとは言い難く、実際この件に関しては叢雲も含む所があるようだった。

 

「……お偉方が突然やってきて、メンテ不十分で使えませんでは元も子もないからな。メンテナンス費自体は計上しているが、本音を言うのであれば、資金をプールして設備投資や資材購入に回したいぐらいだ」

 

「そこまでにしときなさい。ふん、あんたのダブスタもここまでくれば一級品ね。いい加減イライラしてくるわ。あんたは結局、私達の事を一個の兵器として見ているの? それとも一つの生命として捉えてるの? 非道になりきれないなら、さっさと提督なんて辞めてしまえばいいのよ」

 

「甘い事は重々承知済みだ。だが、俺には俺の流儀がある」

 

「ハッ、笑えるわね。世の中勝ってナンボよ。汚い事をしようが、何を言われようが、最後に立っている者こそが勝者だわ」

 

「それではかつての軍のやり方を認める事になる。兵器には兵器なりの生き方があるし、俺がここの指揮を預かっている間は誰にも文句を言わせはしないさ。勿論、お前にもな」

 

「…………付き合ってられないわね」

 

 叢雲の厳しい追及に、俺は断固として首を縦には振らなかった。

 もはや論争は後戻りの出来なくなるほどまでに煮詰まっており、この件に関し叢雲は頑なにその立場を崩そうとしない。

 こうなる事は両者共に織り込み済みであったが故、一度話題に上がってしまったが最後、拳の下ろし所は知らず知らず行方不明となる。

 彼女は苛立っているようだった。唐突に席を立った叢雲は、高ぶった精神を諌めようとしてか、備え付けの電気ポッドへ足を運ぶ。

 設置の都合上、彼女は後ろ姿ばかりを映すようにして佇んでいた。その何処となく哀愁を帯びた背中に、俺は何も言いだせなくなってしまう。

 暫くして、金剛お墨付きのティーカップと共に叢雲が席に戻る。湯気立つ片割れを差しだしてから、彼女はこちらに遠慮する事無く口をつけた。芳しい香りで鼻腔を擽るそれは、朱色を伴って佇んでいる。

 

「飲まないの?」

 

「あ、ああ。まだ、熱そうだからな……」

 

「あ、そう」

 

 叢雲の言葉を、俺はやんわりと退けた。それを飲み干せば最後、彼女の見せた優しさに絆されて言うべき言葉の数々を全て嚥下してしまいそうだったからだ。

 しかし、飲もうが飲むまいが事態が進展する事のないのは明らかであったし、事実、俺はどのような言葉をかけるべきか見当もつかなかった。

 結局の所、叢雲は俺の方針に疑問を呈しているのであろう。戦績こそ問題はないものの、何時までもボロを出さずにいられる訳でもない。

 西村艦隊の件にしてみても、問題が発覚した初期段階において装置の使用に踏み切っていたならば、武蔵と扶桑の関係が悪化するような事もなかった筈だ。後手に回り続ければ、その行く末には破滅が待ち構えているのは目に見えている。

 確かに、提督になるまでの道のりにおいて、兵器を正しく運用するための心得はさんざっぱら学んだ。曰く、アレは、女ではない。ただの鉄の塊であり、人の皮をかぶった兵器に過ぎない。

 下世話な話、俺の息子が何時まで経ってもそれらしい反応を見せないのは、どこか心の中で、彼女達を人として見る事が出来ないでいるからというのもあるだろう。

 しかし、そればかりが真実ではないと俺が捉えているのも事実である。曰く、彼女達は、人である。彼女たちは文字通り生きているのであって、稼動している訳ではない。その生まれは兵器であったとしても、彼女達を人として捉える必要がある。

 まあ、下世話な話、彼女達をあまりに神聖視するあまり、絶対に手を出してはならぬといった強迫観念にも似た何かが、自ずと男としての機能を停止させている可能性もなきにしもあらずだが。

 兎にも角にも、後者の捉え方を大きく採用している俺にしてみれば、洗脳装置などといういかがわしい存在を許す筈がなかったのだ。この点においては、元よりあちら側の立場である大淀や、あまり賛成的でない叢雲にも譲るつもりはない。

 そうして確固たる思いを新たにした俺であったが、唐突に叢雲の言い放った言葉の前には流石に動揺せざるをえなくなる。叢雲は暫し躊躇いを帯びた口調を続けたが、やがて、

 

「…………ねえ、その、あんたは、わわ、私の事、どう思ってるの?」

 

「ば、ばばば、馬鹿! いきなり、何を言いだすんだ!」

 

「べ、別にそういう意味じゃなくて! さっきも似たような事を言ったけど、そういった道具もあるんだし、私が気に喰わないなら、使ってしまえばいいのよ。きっとその方が、鎮守府を運営するにあたって効率的だわ。私は、その、自分の思った事はすぐに口に出ちゃうし、あんたも、部下にそういう扱いを受けるのは気持ちいいもんじゃないでしょ?」

 

「ちょ、ちょっと待て。まさか、お前がこれまで装置の使用を勧めて来たのは……」

 

 あんまりにも頓珍漢な物言いに、俺はすっかり肩の力が抜けてしまった。深い溜息が吐きだされる内に、叢雲をここから叩きだしたくなるような思いに駆られる。

 紅茶に口をつけたのは、そういった衝動的な思いに蓋をするためだった。途端に真面目な思考は放棄されてしまったようで、口を開く事にさえ煩わしさが伴う。

 

「あのなぁ……どこをどう間違えたら、自分を洗脳しろだなんて考えが出てくるんだ?」

 

 まさかと思うが、彼女は自分の性格に負い目を感じて、それでこれまでそういった手段に出る事を提案し続けてきたのだろうか。

 それは、あまりにも馬鹿らしいし、あまりにも愚かな考えでしかない。しかし、叢雲にしてみれば、事はそれなりに深刻であったようだった。

 

「だ、だってそうでしょう!? 間違ってるなら、修正しなくちゃいけないわ! ゆっくり、じっくり、それも誰にも分からない形でそれが出来るなら、尚更よ!」

 

「俺はお前の性格を好ましいものと思ってるし、間違ってるとも思わん。そりゃ、反抗的な態度が鼻につく事もあるが、それが一切取り払われた叢雲なんざ、考えただけでぞっとしないな。全く、そんな訳の分からん事でこれまで反対してきたのか? 馬鹿らしくて怒る気にもならん」

 

「ちょ、頭抑えつけないでよ! 髪型が崩れるじゃない!」

 

「ええい、黙らんか! 訳の分からん理由で何時までもぐずぐず悩んでいたとはお前らしくもない! そもそもだ! 俺の性格を考えれば、そんな馬鹿な話採用する筈もないだろう! 全く…………俺は、素のお前たちが好きなん、だ!」

 

「私だって馬鹿な話とは思ってるわよ! でも、でも!」

 

 もはや、言葉をもって、語り合う事さえも、馬鹿らしくなった俺は、彼女を無視するようにして、更に、紅茶を、あおった。阿呆、過ぎる。馬鹿としか、言いようがない。

 

 もはや、釈明の余地さえ、与える、つもりはなかったものの、彼女の必死な形相を、見るにつれて、同情の念、が募ったのも事実で、俺は、あえ、て彼女の言葉を待った。

 

「――――だって、こんな馬鹿な話でもしないと、それ、飲んでくれないでしょ?」

 

「…………?」

 

 しこうが、ゆれる。

 とにかく、ねむい。

 

「大丈夫。心配は無用よ。元々人間用じゃないからか、そこまで効果はないの。それに、私もね、同意見なの。素のあんたが好き。大好き。本当よ? だから、誰を嫌いになれとか、誰を愛せだとか、そんな事を埋め込むつもりはない。思考を修正するつもりもない。だって、ありのままのあんたが好きなんだもの。ただ、ちょっとだけズルをするだけ。初期艦の役得だもの。利用しない手はないわ」

 

「……、…………、…………」

 

「誰にも文句を言わせはしない。あんたと同じよ。たとえやり方が間違っているのだとしてもね」

 

 しかいが、

 

「ちょっと!」

 

「――――――――?」

 

 叢雲の声が、意識を浮上させる。どうやら、いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。

 外は、すっかり、帳が落ちていた。どうやら、叢雲と一緒に遠征班の報告を受けた後、襲ってきた眠気に、屈してしまったらしい。

 

「…………俺は」

 

「いくら眠気が襲ってきたからって仕事を放棄して眠り出すなんて、いい身分よね!」

 

「…………ああ、そうか。そう、だったな。すまなかった。起こしてくれても、良かったんだぞ」

 

「あ、あんまり気持ちよさそうに眠ってたから、起こし辛かったのよ!」

 

「はは、叢雲は優しいな」

 

「な、何よ! いきなり変な事言いだして!」

 

 頭が少しぼんやりとしている。

 目の前に放置されたままの紅茶に手を伸ばした俺は、へばりつくような喉の渇きを潤した。

 喉元を通った液体は、めっきり冷めてしまっていて不味い。

 暫しその味に舌鼓を打っていると、叢雲がとんでもない事を言いだし始めた。

 

「…………ねえ、その、あんたは、わわ、私の事、どう思ってるの?」

 

「ば、ばばば、馬鹿! いきなり、何を言いだすんだ!」

 

「べ、別にそういう意味じゃなくて! その、どうして私を、提督業務の代理として選んだのかって……。私は、その、自分の思った事はすぐに口に出ちゃうし、あんたも、そういう部下をもってあまりいい気分じゃないと思ってたから」

 

 そう言ってそっぽを向いてしまう叢雲をいじらしく感じた俺は、彼女の頭に手を伸ばした。

 

「ちょ、頭抑えつけないでよ! 髪型が崩れるじゃない!」

 

「何を心配してるのか知らんが、お前は俺の大事な初期艦だ。信頼するのは当たり前だろ? 忘れたのか? いつもの自信満々なお前はどこにいってしまったんだ、全く」

 

「……ふん! 別に不安になってないわよ! 勘違いしないでよね!」

 

 ふと外を見やれば、月に、叢雲が翳っている。

 まだら模様のそれは、やがてその全てを覆い尽くされてしまった。
















攻殻機動隊を読んだの一つ。朝潮は強欲可愛い。
ツンデレとヤンデレのハイブリッドとは、たまげたなぁ。

何で駆逐艦が主役の時は文字数が多いんですかね……? あっ……(察し
すいません許して下さい!何でもしますから!



忙しくて涙出ますよ……。



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12話

 それは五日目の朝だった。

 ザアザアと降り注ぐ横なぶりの雨粒が、鎮守府を包み込む。

 絨毯爆撃を思わせる雨足の強さはここ最近の記憶にはないもので、一寸外に足を向けただけでも、しとどになって雨粒が前髪を伝う。

 こうした豪雨は朝方から既に始まっており、只でさえ憂鬱な気分を引き摺っていた俺の眼に挑発的な見出しが飛び込んできたのは、その日の書類仕事が一段落済み、今か今かと連絡を待ち望んでいた頃であった。

 手持無沙汰を慰めるにしては、それはあまりに過激な見出しとして映る。

 

「…………」

 

 鉄が、人の魂を震わせる事が出来るのか。挑発的な表題が上がったのは、今週発売された週刊誌の一角においてだ。

 紙面上に載せられた川内型三番艦那珂の煌びやかな笑みは、モノクロな色調で蓋をされてその魅力を一段下げている。人の目線を誘う声高なゴシック体をして口火を切った一連の文章は、陰湿な論調を滲ませる形で綴られていた。

 その文面に目を走らせる度、湧き立つような怒りに駆られる。苛立ちを火種にくゆらせた紫煙は、鬱屈した感情を伴って執務室に充満し始めていた。

 休憩と称して仕事を一時中断してからずっとこんな調子なのだ、血の気立つ俺の様子を見て、呆れ返った秘書艦が咎めるような視線を向けてくるのも無理はなかった――――航空戦艦日向は、何事にも動じない女である。

 並大抵の事では波風一つ立たないその心持ちは戦場においても如何なく発揮されるもので、常日頃何かとぐらつく事の多い俺にしてみれば、少なからず羨望を覚えている部分もあるだろう。

 たかだか紙切れ一枚に踊らされる俺にはどうしても辿りつけない境地に彼女が居る様な気がしてならなかった。

 

「君も好き者だな。何時までもそんな雑誌を読んでるんだから」

 

「何、せっかくうちの那珂が紹介されているんだ……。目を通さない訳にもいくまい」

 

 視線を介さずとも、日向の言わんとする言葉は何となく察する事が出来た。

 元々男女間の境といったものを感じさせないほどの付き合いなのだ、文字媒体の抗いがたい魔力に囚われたばかりかそこに視線を傾けるざるを得ない状態になった所で、彼女のかんばせに落胆の表情が浮かんでいるであろう事は手に取るように分かった。

 あいにくの雨模様は、相槌を打つような体をなして俺の心を曇らせる。時折走る稲光と雷鳴の轟きは一層勢いを増すばかりで、止まる所を知らない。悪天候は、誰しも嫌いなものだ。

 酷く限定された世界へと収束しつつあった俺を我に返したのは、無骨ではあるものの女性のそれと分かる日向の指指であった。

 今しがた中身を注がれたばかりであろう湯呑みを伴って現れたそれは、血に塗れた常日頃とは打って変わった白さが印象的である。

 

「茶でもしばいて、気を落ち着かせるといい。それを飲んでなお収まらんと言うのなら、もはや私に言える事はなにもない、がな」

 

「…………すまん」

 

「君は元々そういう奴だよ。たいして気にしてないし、期待もしてないさ」

 

 露わとなった侮蔑の言葉は、かえって俺を冷静な面持ちにさせた。冷や水を被らされたような錯覚が一挙に身を襲い、一時は逆上しかけるほど高ぶった気の迷いも一周回って尻すぼみになる。

 しかし表面上こそ辛辣に見える物言いも、裏を返せば彼女なりの慰みの言葉と解釈する事も出来た。

 元を糾せば、提督の地位に就く者がこの程度の言葉に揺さぶられている事自体おかしいのだ。日向がそこを見透かした上で反抗めいた発言をするのも、無理はなかった。

 湯気立つ湯呑みはいつも以上に熱く舌を焼く。まるで彼女みたいだ。

 

「…………旨い、な」

 

「たかだかインスタントだ、淹れ方の巧拙で味に違いが出るとは思えん」

 

「日向が淹れたから、美味しく感じるのかもしれんな」

 

「……何を言ってるんだ、君は?」

 

「冗談だ。忘れてくれ」

 

 彼女から視線を外した頃には、蔑みで身を固めた文字列の軍勢もすっかり様変わりしていて、もはや何ら意味を成さない記号の集合体にまで落ちぶれていた。又、見る影もなくとんと魔力を喪失した雑誌を読み耽るほど、時間の余裕が許されている訳でもない。

 那珂のアイドル活動が風当たりの強いものである事について、認識が足らなかったのかもしれなかった。

 議論の矢面に立たされているのはあくまで那珂であって、俺ではない。けなげにもステージに立ち続ける少女に向けるべきは、同情や義憤などではなく真摯な応援であるべきなのだろう。

 雑誌を閉じるに至った俺を、当初こそ日向は不思議そうに見つめていた。しかし、それも幾らかの間だけで、

 

「まあ、分かってくれたのなら、それはそれで。これ以上とやかく言う必要もあるまい……それにしても、君は本当に那珂の事が好きなんだな」

 

「好きでもなければ、こんな記事で一々気を揉んだりしないさ。……アイドルソングは耳に合わんし、その、木っ恥ずかしい事もあって、具体的に褒めた事こそないが」

 

「ん……そうか……そういうものか」

 

 実際の所、上司としての贔屓目抜きにしても、那珂の歌唱力は目を見張るものがあった。

 同型艦における性格や趣味嗜好の差異はかなり幅広いものがあるものの、歌に対して興味があるという点では一貫しているものがある。数ある那珂という少女の中から広告塔として選ばれたのは、彼女自身の努力の賜物であろう。

 事実、当鎮守府から栄えある存在として那珂が選ばれた事は士気上昇の面においても一役買っていた。元より上昇志向のある面々にしてみれば、生来の負けず嫌いが刺激された格好だ。

 何より、鎮守府が一般公開されるような日が訪れれば、彼女が当鎮守府でライブ公演を行う事は周辺住民との関係緩和においても大きな強みになる。

 昨今、様々な情勢を鑑みるにあたって一般人による見学ツアーのようなものこそ企画されてはいないものの、準備しておいて損になるような事もない。

 当然、実行に移される事にもなれば、不安要素として那珂のスケジュールとの折り合いや、見学者への監視体制、パンフレット作成やそれに連なった諸々の費用の計上などが上げられるとはいえ、やりがいのある仕事であると言えるのは確かだった。どんな形であれ、戦地に赴く事もなく彼女達が日々を費やせるというのなら、これほど僥倖に値する事もない。

 そうして確証のない青写真を描いていた俺は、日向が唐突に発した言葉に驚きを隠せなかった。

 よもや彼女までもが『あてられていた』とは思いもしなかったものだから、口元が小さく笑みの形を作るのにさして時間はかからない。

 

「……私は、演歌が好きかな。聴くとしても、歌うとしても」

 

「お前も、前線から引いてその手の方向で売り出すか?」

 

「ふむ……演歌歌手か。悪くないな」

 

「同型艦に先を越されない事を祈ってるよ」

 

 もしかしたら、それは意識しての発言ではなかったのかもしれない。

 とんとん拍子で明後日の方向に向かいつつある話題に、日向は罰の悪そうな表情を浮かべる。

 

「おいおい……冗談のつもりで言ったんだ。あまり本気にされても、困る」

 

「だが、お前の歌声も中々のものだと、伊勢から聞いた事があるぞ」

 

「……伊勢の奴め。まあ、確かにそうやって褒められるのも吝かでは、ない。しかし……ああ、うん、これは駄目だな。カメラの前でマイク片手に歌っているだなんて、どうにも想像のしようがないぞ」

 

 彼女の言葉に釣られるようにして、雑多な枠組みが頭の内で形成されていく。

 観客は満員御礼。着物をその身に纏った女が、ドライアイススモークの煙る舞台に一人佇む。スポットライトを全身に浴びるその様は、今宵の全ては彼女を光り輝かせるための舞台装置でしかない事を如実に暗示させた。

 演歌歌手の凛々しい顔つきは、日向のそれと全く同じだ。けれども、所詮それは空想の日向に過ぎなかった。現実の彼女とは違う。

 その呆れ顔を見るに、どうにも俺は思っている事が顔に出てしまう『たち』であるらしく、不遜な考えはまるっきり筒抜けのようだった。

 

「君という奴は……冗談だって言っただろ?」

 

「いや、なに、中々似合っていると思うぞ?」

 

「馬子にも衣装という奴か」

 

「そんなつもりで言ったんじゃない、あまり自分を卑下するな。それに、好きが高じて何とやらという話もある。腕を磨いておいて損はないと考えるが」

 

「……二番煎じに躍起になるほど、私は愚かじゃないぞ」

 

「二匹目のどじょうとて、輝けない訳でもあるまい。それに、さっき自分で、歌う事は好きな方だと言ったばかりじゃないか」

 

 勿論、航空戦艦日向がその道を歩む可能性は限りなく低いし、たとえその手にマイクを掴む日が来るのだとしても、それは彼女の意思が介在してのものではないだろう。

 結局は上の方針がものを言う世界だ。既に那珂という存在がいる以上お呼びがかかるとは到底思えないし、やはり日向の意思が入りこむ余地はない。

 しかしだからといって、夢も希望も持たずに日々を過ごしていくというのも、味気のない話である。欠片程度の可能性であれ、そういう道が少なからず存在している事を日向には覚えていてほしかった。

 

「好きこそものの上手なれとも言うだろう? 何も諦める必要はないんだ」

 

 俺の言葉を、日向はにべもなく振って見せる。

 

「君もしつこい奴だな……そもそも、夢は夢のままである方が好まれるものだ。私も、そっちの方が好きだ。夢には、現実的な煩わしさは伴わん。それに、頭の中で空想を描いている内は、全て私の思い通りだ。誰も文句を言いやしないし、誰にもその筋合いはない。私は、その方が気楽だな」

 

「しかしだな……」

 

「さあ、この話はもういいだろ? そら、そろそろお目当ての連絡も来るんじゃないか?」

 

 力強い足音が次第に近づいてくる。日向が強引に話を打ち切ったのと、けたたましい音と共に執務室の扉が開け放たれたのは殆ど同じであった。

 出撃部隊からの電文が届いたのだろう、淡い髪色の少女が雪崩れ込むようにして入室を果たす。青葉型一番艦は額に汗をかきながらも溌剌とした声で、

 

「失礼します、青葉です! 出撃部隊の長門さんから電文が届きましたっ! 艦載機越しに目標を確認! そのまま後ろを取るようです!」

 

「連絡御苦労。一層警戒の旨を送ってくれ。天候が回復次第、戦闘機をそちらに送ると」

 

「わかりました!」

 

 その勢いを維持したまま、青葉は執務室から出ていく。彼女の到来と撤収は正しく風のようで、その姿は瞬く間に見えなくなってしまった。

 それを機に、突如として走った緊張が俺の身体を蝕む。平静を装った空威張りもここまでで、唐突にやってきた喉の渇きから湯呑みに手を伸ばすのに時間はかからない。人間、緊張を覚えると喉が渇くものだ。

 そうして傾けた湯呑みは、残念な事に空っぽであった。何時飲みほしたのかさえ、覚えてはいない。

 

「…………もう一杯、いるか?」

 

「いや、大丈夫だ。ありがとう」

 

「…………そうか」

 

 日向の言葉をやんわりと退ける。空っぽの湯呑みが吸い寄せられるように口元に向かったのは、その直後だった。

 今回、出撃の切欠を作ったのは無人飛行機が撮った一枚の航空写真だ。写真には、黒い何かが群れを成して泳いでいる所が映しだされている。

 その特徴的なそのフォルムを見るにあたり、俺達は即座にその正体を看破した。駆逐イ級だ。

 その数、水面に顔を出しているものだけでも数十。海中に潜航しているものも含めれば、相当な数に及ぶだろう。驚くべき事ではあるが、ここには最新の研究と一致する点もあった。

 これまでの情報を総括するに、深海棲艦が既存の生物を模倣しているのは周知の事実だ。

 これは大別上深海棲姫としてカテゴライズされる者達を見てからも分かる通りで、現在ではその行動パターンを人間に当てはめるといった分析も行われている。

 又、卵が先か鶏が先かという訳でもないが、比較的最近その存在が確認されるようになった深海棲姫に対するアプローチによって、駆逐イ級といった存在に対する理解も大きく飛躍する事となった。戦争の長期化は様々な憶測から、ある種の真実を掴み取ろうとしている。

 何も海域に赴けば必ず会敵するという事も、相手が艦隊じみた動きをとって現れるという事もないのだ。さしもの彼らであっても、常に戦闘態勢を維持している訳ではない。

 環境保護団体の声高な意見に同調するようで癪ではあるが、彼らも一種の生命体である。常に我々に襲いかかってくる事もなければ、常時迎撃態勢を敷いている訳でもない。彼らもまた、生物としての生活パターンを持っているのだ。

 実際、航空写真が映しだしたのは、ある種の真実だった。駆逐イ級とも称される存在は、まるで魚のように海を回遊しているのである。

 

「この、戦闘機を使った分断作戦というのは、君の発案だったな?」

 

「結局勝負を左右するのは数だ。いくら長門達が精強を誇るとはいえ、あれだけの数を直接相手にするのは分が悪い。それに、駆逐イ級について注意すべきはその砲撃は勿論だが、その形振り構わぬ突撃に関してだ。陣形を崩されるような事があってはひとたまりもあるまい」

 

 現代兵器が深海棲艦に全く通用しないというのは、少々語弊がある。

 艦載機を遥かに凌駕する弾丸やミサイルの直径は、牽制に徹するのであれば十分戦術的効果を見込めるし、輸送機を用いた艦娘の着水訓練なども実戦形式で着々と行われている。

 今回の作戦で言えばヒットアンドアウェイの要領で駆逐イ級の群れを叩いてもらい、その後散逸化した勢力を個々で撃破する事となっている。出撃可能な人員の大多数を割く程の大掛かりな作戦を実行に移す事が出来たのは、他鎮守府の人員を回してもらい、戦艦級の出現に備えてもらっているからに他ならない。

 魚釣作戦と名付けられた今作戦は既に五日目の朝を迎えていた。群れの発見に梃子摺った事に加え、悪天候が戦闘機の出撃を阻んでいる事が大きな要因だ。

 無論、かつていかなる状況においてもスクランブル発進を行い、中国やロシアの挑発に決して屈する事のなかったパイロット達にとって、この程度の天候不順は何ら問題に値しないだろう。だが、もしも撃墜されるような事があった時、荒れる海と激化する戦闘の最中にあってパイロットを救出するのはかなり難しいと言わざるを得ない。

 また、只でさえ海は深海棲艦のホームグラウンドにあたる。悪天候により此方側が受ける影響は大きく、出来る限り万全の体勢で臨みたい所があった。

 

「成程、それが君の雨嫌いに繋がっている訳か。まあ、筋は通っているが」

 

 新たにお湯を注ぐ日向の後ろ姿は、特にこちらを非難しているようには思えなかった。

 だが、後ろめたい気持ちがある事に変わりはない。視線を逃がそうにも、窓の向こう側には蕩蕩とした暗雲が広がっているだけだ。

 

「勿論、四の五の言っている場合ではない時も、ある。天候に関わらず作戦を遂行せねばならない時も存在する。悪天候時に偶然接敵を果たす事になるケースもあるだろう。だが、今回のように緊急性が低い作戦に限って言うならば、出来る限り不安要素は取り除いておきたいのが正直な所だ。包囲網を敷いているため、視界不明瞭のままでは同士討ちを起こす危険もあり得る。まあ臆病風に吹かれていると言われればそれまでだが」

 

 人が笑顔を作ると、楽しい気分や穏やかな気分になるのは本当だ。TVに人口の笑い声が挿入されている事からも分かるとおり、たとえ不自然な笑みであっても人の感情は揺り動く。

 日向との何気ない会話は、確かに楽しいものだった。だが、どれだけそれを実行した所で、出撃中の彼女らの事を想うと一抹の不安が残る。そして、蝕むようにして広がりつつあるのが罪悪感だ。

 有り体に言うのであれば、俺は日向を利用したのである。騒ぎ立つ心を慰める手段として用いた。そして、それに気付かぬほど彼女は愚鈍ではない。

 

「不安か?」

 

「ああ……正直、不安で一杯だ。勿論、彼女らの実力を信用していない訳ではない。いや、だからこそ不確定要素は排除しておきたかったとでも言うべきか」

 

「それは、彼女達が好きだからか?」

 

「す、好きってお前な……。いや、冗談で言ってる訳でないのは分かってる。ただ、その、一々言葉にするのも、こそばゆいしな……」

 

「時には素直に言ってやれ。……彼女達も、きっと喜ぶ筈だ」

 

 黙り込んでしまう俺を尻目に、日向は素知らぬ顔で湯呑みに口をつけた。

 女らしからぬ助言といい堂々とした物言いといい、本当に頭が下がる。とはいえ、その身の振る舞いを自らに反映させるにはそれなりに時間を要するだろう。結局の所、物欲を満たしてやるのが一番手っとり早い手段である事に変わりはなかった。

 

「……たまには、好きなものでも皆に食わせてやるか。日向は、何が食いたい?」

 

「私か? そうだな、一番良い瑞雲を頼む」

 

「いや、瑞雲は食い物じゃないだろうに……瑞雲フリークもここまで来れば一級品だな」

 

「ふむ…………瑞雲について語り合いたい、と」

 

「…………」

 

 喜色を滲ませる日向に、嫌な予感が過ぎった。

 もっと言えば、ほほえみデブがM14を持って日向の横に立っている。

 

「……待て待て待て。まさかと思うが、瑞雲にシャーリーンだなんて名前をつけてないだろうな」

 

「おいおい、私は別に狂ってなんかないぞ? それに、瑞雲は瑞雲だ。それ以上でもそれ以下でもない」

 

 結局の所、それは俺の思い過ごしであった。

 一通りの知識は詰め込んでいたものの、実物と慣れ親しんだ賜物であろうか、彼女の言葉は、その一つ一つがリアルに溢れている。

 俺自身が軍人であるという事も手伝って、彼女の話には興味を惹かれる点も多く、知らず知らずの内の話に聞き入ってしまう

 

「ほう……日向は本当に瑞雲が好きなんだな」

 

「自分の相棒に愛着を持つ事ぐらい、普通だと思うが。……君にも、そういうものがあるだろ?」

 

「そう、だな。物扱いをしてる訳じゃないが、俺も、鎮守府の皆には愛着を抱いている。これからも、ずっと同じ道を歩んでいきたいものだ」

 

「それでこそ、皆の提督って奴だ…………ふっ」

 

 唐突に笑壺に入った様子の日向に、首を傾げる。

 

「ん、どうかしたか?」

 

「何でもない。何でもないさ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結論を先に言うのであれば、作戦は無事に終了した。

 損害は軽微。天候の回復を待って始めた事が幸いしたのか、討ち漏らしも比較的少ない。公式戦果においても上々の結果であると言えた。

 今回の報告書は軍の研究所の方にも回されるようで、駆逐イ級の残骸の輸送も同時に行われている。お陰さまで文書の作成にかかる時間は二倍になった訳だが、誰に噛みつく訳にもいかず、行き場を失ったその思いを無理矢理嚥下する。

 昼夜に渡っての一人仕事はさすがに身に堪えるものであったが、先の一戦による疲労の色濃い面々をかりだす訳にもいかない。戦場で力になれぬ事を考えれば、この程度の苦行はあってしかるべきものであった。

 とはいえ、断続的に襲ってくる睡魔はそれこそ抗いがたい魅力を放っている。当初の予定から作戦が長期化していた事もあってか、ここ最近はあまり睡眠をとれていなかった事も関係しているだろう。寝静まった鎮守府は深々とした薄ら暗さに満ちていて、余計にそれを煽っているように映る。

 口元に単を発した涎橋が机一杯に広がる前に、いくらかの仮眠を取る必要に駆られたのは確かであった。

 早速垂れ下がった瞼を思えば、多少の違和感は意識の外に放逐すべきである。さっさと眠りについてしまっていたならば、もう一度目を開けるような事にもならなかっただろう。

 

「…………一体、何の用だ? ふぁ……眠いんだが……」

 

「あはは、ばれちゃってたか」

 

「…………伊勢?」

 

 何時の間に入りこんでいたのか、苦い笑みを覗かせながら、女がひょっこりと執務机の下から顔を出す。

 ポニーテールを解いて気ままに振る舞うその姿は、普段あまり見かけないものだ。今宵の彼女は珍妙さで着飾っている。

 だらしない笑みに、上気した頬。悪戯を思いついたクソガキを彷彿とさせる形で後ろに回された手。

 おまけとばかりに強い酒の臭いが漂ってきたとなれば答えは自ずと知れるもので、その散々たる惨状に対し、俺は大きな欠伸を返した。

 

「……酔って、いるのか? まあ、先の作戦においてはお前にも出てもらった事だし、別に咎めるつもりはない。が、あまり悪酔いはせんようにな。……俺が言っても、説得力がないか」

 

「ふふーふ。大丈夫ですってば」

 

「……鏡を見ているような錯覚を覚えるな。こういう姿を見る度、金輪際酒に手を出すのは止めようと思うもんだ。結局、無駄な決意に終わるんだが」

 

 彼女を椅子に座らせたのは、何か訳あっての事ではなかった。

 無情にも酔っ払いを追い返す事に、抵抗感があっての事だったのかもしれないし、或いは、労働意欲を背中から刺し殺し、ふって湧いた幸運に藁をも掴む思いで縋りつきたかっただけかもしれない。

 とろんと垂れ下がった伊勢の眼差しはいやに扇情的に映る。だらしのない胸元に視線を向けそうになるのは不可抗力だった。弛緩しきった彼女の背中がそれを助長させる。

 

「んー、そういえば、私が出撃してた時、日向はどうしてました? そういうの、あんまり話したりしないからなぁ」

 

「あ、ああ。そりゃあもう堂々としてたさ。こっちが気後れするぐらいにはな。全く、良い部下を持ったものだ」

 

「ふーん、そうなの……ふふ」

 

 唐突に笑壺に入った様子の伊勢に、首を傾げる。

 

「ん、どうかしたか?」

 

「いえ、何でもないです」

 

「それならいいんだが……ああ、そういえば、一体ここに何しに来たんだ? 仕事の方は……といっても、そんな様子じゃあ手伝いに来た訳でないのは一目瞭然だな」

 

 馬鹿な質問である事を悟ったのはその直後の事だ。酔っ払いがどこぞへと足を向けるのに、理由なんてのは些細なものだ。答えが返ってくる訳がない。

 そう思っていた俺は、彼女がはっきりとした口調でここに来た理由を告げるに至るに驚きを隠せなかった。淀みのない口調だ。或るいは平時のそれに近い。

 けれども、やっぱり彼女は泥酔しているに過ぎなかったのだ。

 

「はい、プレゼント」

 

「…………?」

 

 彼女が手渡してきたのは小さなぬいぐるみだ。眼玉はボタン。糸のほつれた紳士服に袖を通し、凹んだシルクハットを頭にかぶっている。手に杖を縫い付けられたその姿は、どこか往年の喜劇王を彷彿とさせた。

 

「つべこべ言わず、もらって!」

 

「いや、その気持ちは嬉しいが、これ、誰かの持ち物じゃないだろうな? 明らかに新品ではないだろうし」

 

「そこらへんに落ちてたのを拾いました!」

 

 晴れやかな笑みだ。何が楽しいのか問いただしたくなるが、それは無駄な行いと言えるだろう。

 何故なら、酔っ払いは瞳に映るもの全てが楽しく思えるからだ。自然、溜息が吐かれる。

 

「……あのなぁ。紛失物は俺に届け出るのではなくて、皆の分かる場所に置いとくようにだな。全く、何がプレゼントだ」

 

「とにかく、これもっててってば!」

 

「お、おいおい伊勢……」

 

 一端は机に置かれたぬいぐるみが、強引に押し付けられる。酔っ払いはこれだから駄目だ、こちらの意見などまるで聞こうともしない。

 想像の域を出ないが、恐らくこれは駆逐艦の所有物であろう。勿論、長門といった隠れ少女趣味の面々の持ち物である可能性も否めないが、こうして迂闊にも紛失騒ぎを起こすほど間抜けでもあるまい。

 手元のぬいぐるみは酷く乱雑な扱いを受けてはいるものの、不思議と汚れなどはついていない。持ち主と一緒に眠っている内に、寝がえりなどを受けてこうなってしまったのであろう事は容易に想像出来た。

 

「ほら! ほら! せっかくあげたんだから!」

 

「分かった、分かったから……」

 

 それにしても、伊勢の泥酔具合は殊更酷い物だ。まさか俺ほど弱い筈もないだろうから、余程の量を飲みほしたに違いない。今後祝勝会を設ける機会に恵まれたとしても、伊勢に回す酒の量には注意せねばならないだろう。

 そうしてどれほど押し問答を繰り広げていただろうか、下らない騒ぎに終止符をうつべく、執務室の扉が開け放たれたのはその時だった――――航空戦艦日向は、何事にも動じない女である。

 

「…………伊勢。こんな所にいたか」

 

「やっほー日向」

 

 話の全容を把握するのに、さして時間はかからなかった。

 日向によると、泥酔した伊勢を自室で介抱していた所、ふとその場を離れた際に乗じて、いなくなってしまっていたらしい。そういった理由から、こんな所くんだりまで足を運ぶ羽目になった訳だ。

 姉妹艦の彼女であるならば、俺などより余程扱いに慣れている事だろう。飲んだくれを押し付けるようで気が引けるが、今宵の伊勢は異常の一言だ。

 飲んだくれから解放された事によってどっと肩の荷が下りた俺は、日向がじっとこちらに視線を向けている事に長らくの間気付かなかった。

 

「……どうした?」

 

 彼女の視線は、抱きかかえられるようにして俺の懐に収まるぬいぐるみに向けられていた。

 その意図を正しくはかりかねていた俺も、直後の彼女の言葉で全てを把握する事となる。

 

「返してくれ」

 

「日向?」

 

「君が持ってる、それを、だ」

 

「この、ぬいぐるみの事か? てっきり駆逐艦連中のものだと思っていたが……」

 

「いいから、早く」

 

 有無を言わせぬ日向の物言いに、俺は素直に従う事にした。何と言っても普段の彼女からは到底考えられぬ趣味具合だ。長門のように逆上されても敵わん。

 日向としてもあまりずかずかと詮索されていい気持ちはしないだろう。好奇心に蓋をした俺は、彼女にぬいぐるみを手渡す。

 

「ありがとう」

 

「いや、落とし主が見つかって良かった。そういえば、伊勢はこれをどこで拾って……待て待て待て、確か、日向の部屋から抜け出してここに来たと言っていたな?」

 

 日向の様子から、ぬいぐるみを抱えて出歩くなんて機会があるとはとてもじゃないが思えない。

 そこまで来れば、件の犯人たる伊勢が予想以上に酷く酔っているのだという事実に行き着くのも当然の成り行きで、俺は疲労の蓄積した身体を無理矢理立たせた。

 怒号を喚き散らさなかったのは、泥酔者へのせめてもの情けである。

 

「伊勢、勝手に人の部屋のものを持ちだすだなんて、小学生かお前は」

 

「んー、これ、本当に日向の部屋にあった? どう、日向? 本当なのそれ?」

 

「……今後暫く、伊勢は飲酒禁止」

 

「ちょっ! そんなご無体な!」

 

「だまらっしゃい! ったく…………お、おい日向?」

 

 身のしまらない正座を伊勢に強いていると、日向が廊下の方へ消えていくのが見えた。こちらを一顧だにしないその様子から、相当怒っている事が見てとれる。

 伊勢の世話係に任命されるのは癪であったものの、自身の秘密を暴露されたのだ、彼女が形振り構わぬ態度を見せるのも致し方のない事だった。

 

「あー……酔いが覚めたら、ちゃんと謝っておけよ。不安なら、俺も付き添ってやるから」

 

「心配ご無用です。多分、大丈夫ですから」

 

「その自信は一体どこから来るんだ……?」

 

「絵に描いた餅は食えないって話よ、提督。結局、現実の餅が一番美味しいんだもの」

 

「……まるで意味が分からん」

 

 酔っ払いの戯言に俺は頭を抱えた。

 

 

 

















再追記
下記の文はただの言い訳に過ぎない訳ですが、お暇な時間がございました時、目を通して頂けたら幸いです。実際の文章からそのような事実は全く掴みとれないと思いますが……。



本文においてですが、前半と後半において二度に渡って登場した『航空戦艦日向は何事にも動じない女である』という文。また、伊勢に対して提督が言い放った「日向は堂々とした態度で云々」という台詞。
これが提督が捉える日向という人間の人物像で、提督はこの判断のもと、日向の仕草はこれこれこういう意味だと考えています。

しかし、これに対し、姉妹艦であり、彼女もまた日向に関しては提督なんぞよりよほど理解しているであろう伊勢は何か含む所があるといった風に笑みを浮かべます。
ここから、第12話全体における日向に対する提督の主観は、実際の日向のそれとは少しずれたものである事を示唆している……つもりに私はなってました。

提督は前半において、演歌歌手としてステージに上がる日向を想像し、所詮それは現実の日向ではないと一蹴しています。しかし、そもそも提督はそうやって断言出来るほど、現実の日向を理解出来ているのか? 現実の日向とは何なのか。今回の話におけるコンセプトは、このへんだったり、します。

提督の主観が全て間違っているものとして最初から読み返すと、那珂の中傷記事を読み耽る提督に日向が思っていたのは、提督への慰みでも叱咤激励でも何でもありません。

また、その後日向は提督に対し那珂の事が好きかどうかを訪ね、それに提督はyesと回答を返した所、彼女は含む所があるようなつぶやきを発します――――が、ここで提督はその意味ありげなつぶやきを無視。そのまま那珂に対する考察へ進んでしまう。
日向にしてみれば、『せっかく』那珂について書いてある雑誌を閉じてくれたのに、那珂に対する提督の印象をついつい聞いてしまったばかりに、またもや提督思考が那珂に向いてしまう事態に。

直後の話題として上がったのは、那珂について考えている提督の興味を惹くものとしては自然なものであるけれど、同時に、『提督にとっての日向の人物像』とは異なる話題。
話題を那珂→日向に変更できた時点では、まだ成功と言えます。この事から、先ほど雑誌を読みふける提督に投げかけた言葉は、単なる嫉妬によるものでしかない、と描写したつもりになってます。

所がここで提督は『那珂』のようになる事もできると話を蒸し返す。それはそもそも彼女が嫌う二番煎じであるし、上層部の意図が絡む以上、およそ叶う事のない夢である事は分かっている。この夢でしかないという部分が、ポイント、だったりします。

そして最終的に語る日向の言葉こそが今回のヤンデレと言うべきかなぁと。
原文から抜き出しますと、
①夢は夢のままであるべき
②夢には現実的な煩わしさが伴わない
③頭の中にある内は全て自分の思い通りで、誰にも文句を言わせない

その後青葉から連絡が来て、提督は一気に緊張します。
ここでかなり描写不足になってしまっているのですが、何時のまにか湯飲みは空っぽ。また、空っぽでありながら口元に湯飲みを持って行ってしまうというのは、何時飲み干してしまったのかもおぼつかなくなるほど、またじっとしていられず意味のない行動をしてしまうといった提督の緊張状態を表している、つもりでした。
それこそ、日向の事が頭から抜け落ちてしまうほどに。

当然こうなってしまえば、提督としても日向とほのぼのとした会話を続けるわけにはいかない。提督は、『出撃部隊の面々』に思考を向ける事となる。
ここで日向がとった行動こそが『新たに湯飲みにお湯をそそぐ事』。少し前に提督に言ったばかりでありますが、自分もまた、『茶でもしばいて気を落ち着かせようとした』のです。
日向は提督におかわりをすすめましたが、これは拒否されてしまっていますし、たとえ茶を飲んだ所で、作戦が開始しつつある事を考えれば気が落ち着くはずもないし、出撃部隊の面々の事は頭に残ったままであるだろう事は明白です。

この後、日向はあえて先と同じ失態を演じます。それは、出撃部隊の面々に対する提督の印象を聞く事。
那珂から続くこの問答を繰り返し、再確認といった意味合いと読者の方々に解釈してもらおうと考えていた所があります。
そして、提督の答えはまたもや『yes』。日向としては分かり切っていたものだから、その後の対応も淡々としたもの――ですが、『提督にとっての日向という人物像』から、提督はそれを堂々とした物言いとしてとる。

そして再三にわたる確認はもう一度訪れます。これが前半ラストにおける日向の台詞、『君にも、愛着をもつものがあるだろ?』というものです。そして、提督の答えは当然『yes』。鎮守府の『皆』に愛着を抱いているというもの。

ここまでをまとめると、提督は『皆』が好きであり、日向が言う所の『皆』の提督であるという事になります。
……それで、あえて語る必要もあるまいと思って描写不足になってしまったのですが、言外で言う所に、提督は誰か個人を好きになってはいないし、皆が好きなんだという、これこそが日向にとって認めがたい点として上げられます。

ここで、彼女の夢に対する考えを思い出しますと、現実的な煩わしさ(提督は『皆』が好きな事、提督の周りには『皆』がいること)は伴わない。
頭の中にある内は全て自分の思い通り(言葉通り且つ、思い通りの提督を生み出す事が出来る)。
誰にも文句を言う筋合いはない(現実との提督の差異にいちいち口を出してくるのは『自分』以外には誰もいない)というものだったりします。
……絶対こんなの読者に伝わってないわ。

又、これは第三話から一貫してのものですが、日向は目の前の男の事を『提督』と呼んだ事は一度しかありません。その一度でさえ、『皆』の提督という意味です。
これは、目の前の男は現実の、『皆』の提督でしかなく、頭の中の、理想の『私』の提督とは決して相容れないものであり、目の前の男の事を提督として認識出来なくなりつつある事の前兆であったりします。

この事による対応が、提督に男女間の境を感じさせない仲や、各種のネタ振りに繋がっているのかもしれません。ネタ知ってようがいまいが、普通フルメタル・ジャケットのネタなんて異性に振らねえよっていうのは作者の独断ですが。あ、でも、愛と青春の旅立ちならそれなりに通じると思います。


次いで、伊勢と提督の話に移します。
泥酔した割りにははっきりとした台詞。切羽詰まった風にぬいぐるみを押し付ける様。提督が異常とさえ思う酔い方。ここも描写不足気味なのですが、伊勢はそこまで酔ってはいません。酔った風を装った方が目的を達しやすかったからにすぎません。
ぬいぐるみを盗んだ事に関してしらばっくれるのも簡単になりますし、提督の下戸ぶりなら、泥酔者にいたく同情するであろう事は一目瞭然ですし。
どうでもいいですが、今ここで四字熟語間違えている事に気付きました。本文中一目了見ってありましたが、一目瞭然でしたね、すいません。

また、何故日向がぬいぐるみを持っていたのかについてですが、ここに提督が語った演歌歌手としての日向に、彼女自身が罰の悪い表情を浮かべた所が繋がってきます。繋がってないって? はい、私もそう思います。
提督が語った演歌歌手としての日向は、上層部の意向が関わる以上、ほとんど叶わない夢です。
叶わない夢、それは、日向の考える理想の『私』の提督も、所詮夢でしかないという事実を浮き彫りにします。
日向にしてみればぬいぐるみは、形のない夢や空想に現実としての枠組みを入れたものなのです。だから彼女にしてみれば、あのぬいぐるみこそが『提督』という事になります。

そして、そんな日向を伊勢は止めたかった――まさに、絵に描いた餅は食えないからですね。あんまり彼女についてはここで詳しく言えないのでアレなんですが。
伊勢にしてみれば、現実の餅(提督)が一番おいしいのだから、日向にもそれを分かってもらいたかったのかもしれません。というより、どこまで日向が狂ってしまっているのかを知りたかったと言うべきでしょうか。だからこそぬいぐるみを捨てず、直接『現実の提督』の所まで持ってきた。
そして、異変を察知して執務室にまで足を伸ばした日向は『現実の提督』から、『私の提督』を奪い返す。長くなりましたが、今回はこんなお話でした。


ここまで読んでいただいてありがとうございます。おそらく修正を加える事になると思いますが、今回はこういったお話でした。
言い訳じみた補足に長らく付き合って下さって、本当にありがとうございました。


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13話

 ザアザアと降り注ぐ横なぶりの雨粒が、鎮守府を包み込む。

 目を覚ました俺を出迎えたのは、強かな雨音だ。

 

「…………」

 

 絨毯爆撃を思わせる雨足の強さはそれこそ朝方から続いているものだから、俺なんぞはすっかり気が滅入ってしまっていて、抑揚も乏しい。動きが鈍い。動作が遅い。

 雨下がりの屋内からは心なしか活気が失われていて、窓に打ち付ける雨音ばかりが延々と木霊している。静寂とした騒音は、耳朶を打っては止む気配がなかった。

 こういった雨模様は多くの面々にとってもあまり歓迎されないものだ。風情と雅に彩られた情景と褒め称えるにしても、こうも長らく天候が安定しないとなればさすがに話の流れも変わってくる。窓から見ゆる風景は、雨に隔てられて未だ不明瞭なままで、自然足並みも遅くなる。

 とはいえ、こうした悪天候も元気盛りの駆逐艦連中の前ではあまり関係ないらしい。

 寝ぼけ眼を擦りつつ、二度寝に絆されかけた体に鞭打って廊下を歩いていた俺は、食堂に通ずる道に差し掛かった所で、眩しいばかりの光景に目を焦がす事となる。真向いからやってきた少女はこちらに気づくと、律儀に敬礼の形を取った。

 浮かべた柔らかい笑みを受けて、思わずこちらも気が緩む。

 

「あっ! 司令官! おはようございます!」

 

 ――――吹雪という少女を特徴づけるものとして、先ずその生来の明るさが上げられるだろう。戦績としては新米も良い所ではあったが、彼女の加入は鎮守府に新たな風を呼び込んだ。

 最近は師匠筋にあたる航空母艦赤城にべったりではあるものの、建造当時と変わらずこちらを慕ってくれる純粋さには目が眩む。その好意につけこんだ俺は、弛んだ背筋に活を入れる事もなく、不真面目さを思いのままとした。

 

「……おはよう、吹雪。どうしたんだ今日は。食堂は、反対側だが」

 

「もしかしたら寝坊してるのかもって、明石さんが……でも、杞憂で終わったみたいで良かったです! 司令官、今日もとってもお早いんですね! 吹雪、尊敬しちゃいます!」

 

「……まあ、俺も、立場的には、お前たちの上司、だからな。失望させんようにしなければ……」

 

 欠伸を押し殺しながらの戯言だ。どれだけ威厳を蓄えた所で高が知れている。

 しかし、疾うの昔に明石に見抜かれていた俺の不甲斐なさを前にしてもなお、目の前の少女は瞳を煌めかせる事を止めようとはしなかった。

その眼差しを受けて、すっかり気恥ずかしさが優ったばかりか、眠気も何処かへと吹き飛んでしまう。最近感じるようになった事だが、彼女はどこかオーバーなきらいがある。

 

「わっ、素敵な心掛けですね! そんな司令官の旗下で戦えるなんて、私、とっても幸せです!」

 

「う、うむ、そうか。……まあ、お前もここに来てからまだまだ日が浅い。毎日努力を怠らず、しっかりと経験を積んでいってくれ」

 

「はい!」

 

 通り一辺倒の文句を真に受けたネームシップの笑顔は、まるで太陽のように輝いていて曇りを知らない。

相応の幼さの中に時折垣間見せる兵器としての一面も、この時ばかりはその存在を潜ませた。こうまで言われてしまっては、こちらとしても何時までも腑抜けている訳にもいかない。

 

「そういえば、赤城とはどうだ?」

 

 吹雪と連れ立って、食堂への道を突き進む。

 雨粒の打ち付ける音は相変わらず煩わしかったものの、隣に話し相手がいるというだけで、気分は様変わりを果たしていた。

 

「えっ、赤城さんですか?」

 

「ああ」

 

「はい、何時も仲良くさせてもらってます! 一昨日なんてですね!」

 

 手振り素振りと共に回想を思い浮かべる吹雪の横顔はきらきらと輝いていて微笑ましい。一時は判断に迷ったものの、やはり赤城に彼女を任せた事に間違いはなかったようだった。

 聞き手に回って頷き返している内に、俺たちは食堂にたどり着いた。仄かに香る匂いが鼻孔を擽り、食欲を増加させる。朝方の空きっ腹は早くも侃侃諤諤と空腹を訴え始めていた。

 生憎の天候不順にも関わらず、食堂には人の活気が見て取れる。鶏鳴も鳴らぬ時間にも関わらず席はいくらか埋まりつつあり、等間隔で並べられたテーブルのそこかしこに料理が並べられている。

 事実、俄かに人の流れが増し始めたのも丁度その時だ。空いた横隣を少女達が通り抜け、暗雲を物ともしない溌剌さが瞳を焦がす。

 

「キイイイ~ン!」

 

「きゃっ」

 

 初め、先頭に躍り出てみせたのが駆逐艦島風だ。すっと整った横顔が風と共に通り過ぎたのも束の間、後姿を見せつけるようにして前へ前へと駆け抜けていく。金紗を彷彿とさせるきめの細かいブロンドが風に靡いているのが印象的だ。

 まだ朝方である事も関係しているだろう、この時ばかりは彼女も普段通りの服装とはいかなかったらしく、あの前衛的軍装は影も形もない。それでもラフなタンクトップ姿で両肩を晒しているのだから、見ているだけでこちらが寒くなってくる。

 また、風を伴って走り抜けたのは島風ばかりではなかった。後塵を拝する形をとって、少女が続く。島風が小憎たらしい表情を浮かべていたのとは裏腹に、後方に位置する少女の顔は真っ赤に染め上がっていて心なしか余裕も見受けられない。

 銀砂を思わせる髪を振り乱しながら、人目も憚らずに天津風が声を張り上げたのはその時だ。

 

「こら、島風! 廊下は走っちゃ駄目でしょ!」

 

 言って分かる奴でもないのだから、天津風が度し難い矛盾を振り切ったのも無理はなかった。事実、走って追いかけない内は、島風や時津風といった面々は聞く耳さえ持ちやしない。

 とはいえ、天津風のありがたい謹言がちゃんと届いているかというと、やはりそんな事があり得る筈もなかった。

 正に暖簾に腕押し糠に釘。惨憺たる有様がそこには広がっていて、島風がようやく足を止めたのも殊勝な面持ちからでは決してなく、振り向きざまに浮かべた表情からもそれは明らかであった。

 

「天津風ちゃん、おっそーい! 私を止めたかったら、もっともーっと速くなきゃ!」

 

「なっ! 言うに事欠いて、私がスロウリイだって言うの!? てか、貴方が走るのを止めれば済む話でしょ!?」

 

「だめだめ! 天津飯ちゃんってば、そんなんじゃあ世界は縮められないよ!」

 

「いいのよ別に! それに、私は天津風です! もう! 今回ばかりは本当にトサカに来た!」

 

 先にも増して赤らんだ表情につけ込むようにして、島風はからかいの言葉を投げかける。

輪をかけたように赤みを増した天津風の顔からは、今にも湯気が上がってきそうな程だ。いきり立った肩からも、彼女の怒りが窺える。

 さて、確かにこれらを和気藹々としたじゃれあいと捉えるのも一つの手だろう。しかし、そのまま放置してしまうというのはあまりにも天津風が不憫過ぎる。

 破裂もかくやという勢いでいきり立つ彼女の肩き手を伸ばす。表面温度の上昇からか、彼女の差し向けてきた視線は酷く鋭いものであるように思えた。

 

「どうどう、落ち着け天津風。若い頃から怒り顔を続けていると、そんな風に顔も固まってしまうぞ。……島風も、廊下は走らないように」

 

 よもや割って入って来られるとは思いもしていなかったのかもしれない。島風のおちゃらけた雰囲気が霧散し、居心地悪そうに後ずさりを開始する。

 俺の言葉に続くようにして吹雪までもが声を上げたものだから、島風はとうとう強がって鼻を鳴らすまでになった。

 

「そうだよ、島風ちゃん。司令官もこう言ってるんだし、従わなくちゃ」

 

「ぶー、提督に吹雪ちゃんは、天津の肩を持つの?」

 

「いや、そうじゃない。単に、友達を困らせるなってだけの話さ」

 

「あう……」

 

 途端に俯いてしまう島風。厳しい物言いをもって窘めたつもりは全くなかった訳だが、なかなかどうして彼女にも罪悪感はあったらしい。思いのほか深刻に受け止められてしまい、今度はこちらが言葉に詰まる。

 結果、事態の収拾を図ったのは他でもない天津風であった。彼女は自分から島風の方に歩み寄ると、言葉少なげながらも手を伸ばす。

 

「……天津風?」

 

「ほら、一緒にご飯食べにいきましょ。…………早く、ね?」

 

 しかし、天津風の歯切れの悪さとぎこちなさはあまりにも顕著だ。明後日の方向を見やるばかりで、彼女は島風と顔を合わせようともしない。

 そこに追撃するのが、らしくない臆病さと共に、一向に彼女の手を握ろうとしない島風である。ようやく見せた殊勝な態度も、もじもじとしていて一向に話も進みそうにない。

 結局、綯い交ぜになって押し寄せてきたいじらしさと歯がゆさにとうとう耐え切れなくなった俺は、強引に二人の手を結び付ける事にした。掌の中に、都合十本もの小さな指指が収まる。

 

「おうっ!?」

 

「ちょ、ちょっと!?」

 

「ええい、やきもきさせてくれる! ほら、これで仲直りだ、そうだな!?」

 

 動揺する二人を前に、もっともらしい言葉を吐きかけようとしたその時だ。指越しに伝わってくる熱に、思わず気をとられてしまう。

 

「全く、朝から元気なのはご苦労な事ではあるが……んん? 天津風の手って、温かいんだな」

 

「そ、そうかしら? 別に、普通だと思うけど」

 

 何気ない疑問に対し、天津風は早口でまくしたてる。

 その間、俺の手は相も変わらず彼女たちの指を握り続けていた。俺の無骨なそれとは対照的な、柔らかくてふにふにとした女の子の指だ。ほっそりとした第二、第一関節の先にて、丸みを伴った爪床が、ふっくらと強かな弾力を帯びている。

 図らずも指フェチになりかけた俺を寸での所で思い止まらせたのが天津風だった。澄まし顔を象った彼女が無理やり手を振りほどく。

 目まぐるしい事態の急転度合に、置き去りにされつつある島風なんぞは目を点にして当惑の意を示した。

 

「手、放してって言ったでしょ? 全くもう……」

 

「す、すまん。その、元はと言えば、俺が口出しを始めた事に因るだろう? 居ても立ってもいられなくてだな……それに、お前たちの仲が拗れたままでは、俺も悲しい。だから、その、ああいった強引な方法を取ってしまった。……あんまり怒らんでくれ。頼む」

 

「…………もう! もうもう! 本当に貴方って人はもう!」

 

「あ、天津風?」

 

 狼狽する俺を尻目に、彼女は振り解いた筈の島風との架け橋を再び紡いだ。直後、俺と距離を取り始めるのにあまり時間はかからない。

 余計に事態を拗らせてしまったという事実に、俺は己が不器用さを呪った。

 

「……いらぬお世話、だったか」

 

「そ、そんな事ないですよ!」

 

 吹雪のフォローが痛い。時として優しさは、心なき剣に映る時もある。無論、全て俺のせいであって吹雪には一切の非はない訳だが、彼女の浮かべる苦笑いが心苦しい。

 暫く間を置いて間宮から朝食のお盆を受け取った頃にもなると、疾うの昔に先の二人は食事に手をつけていた。料理に舌鼓を打ち、いじらしくもケチャップをくっつけた島風に対し、天津風は何処か呆れ顔だ。

 彼女らが腰を落ち着かせた席の反対側では、これまた見事なまでに多種多様な料理の数々がテーブルに敷き詰められていた。図らずしも目を奪われる光景に、思わず感嘆の息が漏れる。

 

「おお……毎度毎度、この光景は圧巻だな」

 

「提督、おはようございます」

 

「ああ、おはよう」

 

「おあようございます、赤城さん!」

 

 テーブルは何枚もの皿で占拠されてはいたものの、まだ余裕を残していた。都合二つばかりのお盆を押し込むと、皿と皿とが擦れるような悲鳴を上げ、耐え忍ぶ。椅子を引いた俺と吹雪を、彼女は朗らかな笑みと共に出迎えた。

 航空母艦赤城は当鎮守府における古強者の一人で、その出会いも一昔前にまで遡る。初めて出会った当時の記憶が蘇るも、もはや遠く昔の出来事のようだ。

 鉄骨を仕込んだかのようにピンと張った背筋に、凛々しい顔つき。自信に満ち溢れた表情に裏打ちされた実力は、正確無比な弓道の腕前からも見て取れる。

 だが、戦場においては無尽の活躍を誇る彼女も、ひとたび鎮守府に戻って来たならばその素の表情をあけすけなものとした。好きなものに手を伸ばし、咀嚼し、平らげるその様は、女だてらに堂の入ったもので、美味しそうに頬を膨らませる姿を見かける度、自然と顔が綻ぶ。

 加えて、仮にも古参が常時警戒態勢を敷いているようでは、戦場に出るようになって日が浅い新造艦らにしても心が休まる時がない。そういった面も含め、彼女のオンオフの切り替えは有難かった。

 得てして仏頂面で全身を固めてしまうような者も中にはいるのだ、赤城のリラックスした仕草が与える影響は無視できないものがある。

 彼女の食いっぷりに当てられてか、より一層食欲が湧いてきた俺は、煮魚に箸をつけるのもそこそこに、先ずは味噌汁に口をつけた。白味噌の温かな甘みが喉元を伝って心を潤す。雨気が醸し出す薄ら寒さが一瞬で吹き飛ぶような心地よさに、自然と声が出る。それは吹雪も同じであったようで、赤城と同席を果たしているせいもあってか、幸せそうな笑みを普段の二割増しで披露する事となった。

 

「美味いな」

 

「ええ、本当に。それに、一日の健康は朝食から始まりますから、毎日しっかり取らなければ。艦娘とはいえ、そういった面においては人間と変わらないでしょうし。提督も、お酒を控えて健康的な食事バランスを心掛けるようにすれば、ずっと健康で有らせられますに」

 

「そ、そうだな。うむ」

 

 歯切れの悪さを露呈させた俺を、当初こそ赤城は訝しんだ。

 だが、彼女の不審は、自身の胃袋を押さえつけていられるほどの頑強さを有してはいなかったらしく、結局は迷い箸に己の命運を委ね始めた展開に思わず安堵の溜息を吐く。

 よもや彼女が知っているとは到底思えなかったものの、なかなかどうして俺は底意地の悪さを捨て切る事が出来ないでいるらしく、ついついその発言の真意を尋ねたくなる。上官がインポテンツなどと知られれば、赤城は勿論、吹雪だって良い気持ちはしないであろう事は明白だ。

 いや、そもそも吹雪はインポテンツという症状もとい、どこの器官のどんな病気であるのかなどと知っている筈もない。いやいや、知っていて欲しくない。使い古された処女信仰に縋りたくなる程度には、吹雪という少女はまだまだ幼さを秘めていた。

 インポテンツに端を発し、思わぬ形で吹き出した横島ならぬ邪な感情は俺自身の動揺を誘う事となった。箸捌きは精細を欠き、目的地に到達する事もなく箸の間を飯が滑り落ちる。

 なす術もなく地べたに向かって突き進むその様は、酷く緩慢な時の流れと共に俺の視線を釘付けにした。

 

「むっ……」

 

「提督、大丈夫です。十五秒、十五秒ルールがありますから」

 

「いやいや、止めんか意地汚い」

 

「お米一粒の中には、神様が七人いらっしゃるんですよ? どうか何卒、ご再考くださいませ。ね、吹雪?」

 

「え? わ、私!? えと、その!」

 

「ええい、吹雪を巻き込むな!」

 

「むう、提督は少し吹雪に過保護過ぎるのではないでしょうか?」

 

「今でだってお前のほうが吹雪とはべったりしているだろう! 全く、他にも変な事教え込んでるんじゃないだろうな!?」

 

「変な事……ですって? まるで私が先輩として相応しくないとでも言いたげですね」

 

「そ、そこまでは別に言ってないが……と、ともかく! あまり無茶を言ってやるな」

 

 折しも舞い降りた金言には一瞬怯んだものの、吹雪まで巻き込むのはいただけなかった。地面に落ちたそれをフキンで拭い取る。

 確かに、赤城の言葉も一理ある。周知の通り、我々現代を生きる若者は、記録という名の色眼鏡をもってでしか歴史を窺い知る事が出来ない。だが、艦娘は違う。通説化しつつあるそれを全面的に信頼するのであれば、彼女たちは現代に蘇った大日本國艦隊はその人である。

 道義上、客観視にならざるをえない我々現代人とは異なり、彼女たちは正しくその時代を生きた者達だ。かつて確かにあった時代を思えば、対深海棲艦の防波堤として活躍し、その事から世界中の支援を得る立場にある現代の日本社会は想像を絶する域にあると言える。意地汚かろうが何だろうが、目の前に広げられた豪華絢爛の食事の数々は、一粒とて逃したくないというのが実情であろう。

 とはいえ、それはそれ、これはこれ。何かしらの間違いから、地面に落ちたものを平気で食うような事が広がっても困る。

 果たして心を鬼にするべく胸をはった直後、背後から突如として押し寄せた圧迫感に俺は情けなくも背筋を立ち上がらせる事になった。

 

「ご馳走様! 提督、私早い? 早いでしょ?」

 

 俺を包み込むようにして、彼女の両手が脇下へと伸びている。上下に擦り付けるような背中越しの感触は島風によるもので、押し付けられた顔の輪郭は何処かこそばゆい感覚を伝えてきた。まるで犬とじゃれ合っているかのような気分である。

 

「し、島風か……びっくりした。どうだ、美味しかったか?」

 

「うん! それで……提督は何してたの? こっちに来れば良かったのに」

 

「天津風を怒らせてしまったからな。それに、赤城は以前体調を崩した事があって、心配だったのもある。まあ今日の様子を見るに無用のものであったみたいだが」

 

「ふーん、そうなの」

 

 振り返ると、天津風がただ黙々と食事を続けているのが目に映る。

 空の茶碗を横隣りに侍らせたその様は、酷く寂寥に満ちていた。こちらに背中を向けているものだから、その思いは一層強く募る。

 

「ほら、まだ天津風が食事を続けているだろう。もう少し、待ってやれ」

 

「じゃあ、提督も一緒にこっちのテーブルに来てってば! 赤城と食べてないで、ね? きっとそのほうが、天津も嬉しがるもん! 何だったら、吹雪ちゃんも一緒に!」

 

「おいおい……時期こそ違えど、お前も天津風も赤城の世話になったクチだろ? そんな言い方は……」

 

「いーいーかーらー! はーやーくー!」

 

「し、島風……一体どうしたっていうんだ?」

 

「ふん! 来てくれるまで離さないんだからね!」

 

 挟み込むようにして腕に力を込めた島風は、梃子でも動かないといった様相を表に出し、俺をほとほと困らせた。顔が見えない事がそれを余計に煽り立てる。オナモミとてこうは反抗を示さないであろう事は明白で、それ以上に気になったのが赤城の事である。

 艦種こそ違えど、鎮守府の古株でもある彼女には、新造艦の教育を回す事が幾度かあった。事実、この場には吹雪を含めそのテストケースが勢揃いしている。

 実際の所、島風、天津風を育て上げた技量に疑う余地はなく、その実績があったからこそ、吹雪の事を任せた節もある。だからだろう、赤城をないがしろにするような島風の言葉には、どこか違和感があった。

 しかし、当の本人はと言えばどこ吹く風、赤城は素知らぬ顔で食事を続けている。まるで、島風の事など視界にも入っていないかのように、である。

 目下槍玉に上げられている彼女自身がこんな態度を装っているのだ、俺なんぞが易々と口を出せる訳がない。

 俺が不審に思っていると、唐突に先手を制したのは何を隠そう赤城の方からであった。その手には、フォークとナイフが握られている。

 とっくの昔に贄と成り果てた肉塊にフォークを突き刺した彼女は、逸る気持ちを抑えながら、静かに、静かにナイフを引いた。真っ二つに両断された肉片は、その懐をうっすらと赤みで染めている。焼き爛れた表皮が嘘のような処女性だ。

 肉汁の滴り落ちるそれを一口で頬張り、咀嚼し、平らげた彼女は、余韻に浸るのも束の間、深い笑みを浮かべながらこちらに視線を送った。

 

「お気になさらず」

 

「そう言われても、だな……」

 

 口元にこびり付いた濃厚なソースを拭い取る赤城。

 何気ない所作はその節々に至るまで洗練されていて、だからこそ余計に不安を煽った。一連の騒動全てを切り捨てるような無関心さに、喉元まで出かかった言葉が霞に消える。

 

「私の事は気になさらず、さあ、どうぞ島風達のテーブルへ。天津風も寂しそうですしね」

 

「いや、しかし、……」

 

「ほら、吹雪も」

 

「あ、はい! 分かりました!」

 

 先手を打つようにして吹雪までもが立ち上がったものだから、俺はとうとう事態を飲み込まざるを得なくなってしまった。呼び止めようにも、吹雪はこちらを待たずして反対側のテーブルに席を移してしまう。

 赤城の言葉を誰よりも喜んだのが島風だ。今度は腕の方に回ってきた彼女は、あわや肩が抜けるのではないかと思う勢いで思いっきり引っ張り始める。

 後手後手に回り続けた結果は火を見るよりも明らかだ。後ろ髪を引かれるも、当事者たる赤城にああまで言われてしまってはこちらとしても動かない訳にはいかなかった。料理の方が何処か味気なく感じてしまうようになったのは当然の成り行きといえる。

 天津風との関係修復こそ成功に終わったものの、釈然としない気持ちは依然尾を引いていたものだから、俺は何時しか視界に赤城を収めずにはいられなくなっていた。

 要領を得ない会話、的外れな相槌、唐突に訪れる沈黙はさぞかし駆逐艦達の不興を勝ったに違いなかったが、結局それらは食事を食べ終わるまで延々と付き纏う事になる。

 その後、食器を間宮に返し終え、食堂から出てからというものの道半ば。

 忘れ物を思い出した風を装った俺は、踵を返して再度食堂に赴く。

 赤城は、まだ食事をしていた。

 

「いかがされましたか? 提督」

 

「いや……別に、何かあった訳ではない、訳ではないが……」

 

 何処から切り出したものか。椅子に腰を落ち着かせたものだから、浮上しかけた思いも言葉も一緒くたに胸元深くまで沈めてしまう。

 そうやって思い悩んでいると、不甲斐ない俺に先んじて赤城が口を開く。

 

「ああ。もしかして。先ほどの事でしょうか?」

 

「ん? あ、ああそうだ。その……何だ。島風とは……上手く、いっていないのか? ……勿論、こういう聞き方が下策である事は分かってる。だが……しかし……島風があんな事を言い出すなんて、はっきり言ってびっくりした所の騒ぎではない」

 

 彼女の言葉を待つまでの間、俺の脳裏を様々な感情が過った。

 何か、とてつもなく良くない出来事が起こっているのはないだろうか。確かに、面と向かって同僚との仲を聞かれても、赤城も答えに窮するであろうし、そういった視線で見られているともなれば、あまり良い気持ちはしないであろう事は明白だ。

 だが、そうであったとしても、思わず問いたださずにはいられないほど、違和感はその大きさを誇示している。

 もはや、無視できないほどに。

 だが、俺の予想と反し、彼女はさして苦しんでいるようには思えなかった。そもそも、こちらの質問の意味が理解出来ていないのかもしれない。

 それこそ彼女は判然としない態度をにおわせていたが、やがてこちらの意図を察したらしく、微笑みを露わにする。

 

「もう、本当に提督は鈍感なんですから」

 

「何?」

 

「きっと、島風は嫉妬していたのでしょう。そうに違いありません。まあ、それも致し方のない事であると思われます。なんせ、大好きな大好きな提督が、自分じゃない人と会話しているのだから。同年代の者はともかく、私みたいのが相手では、ね」

 

「嫉妬……いや、まさかそんな……」

 

「提督も、島風の気持ちには気づいているんでしょう? たとえ子供の勘違いであったとしても、彼女がそういう感情を貴方に抱いているのは確かです。間違いありません。表にこそ出していませんが、天津風も吹雪も、きっとそうです」

 

 あまりにも突拍子もない赤城の言葉を、俺はすぐには飲み込む事は出来なかった。

 だが、彼女の澄んだ瞳は、そうした疑念の余地を余すところなく取り除きにかかる。それ以上言葉を挟む事を、赤城は言外に阻んでみせた。

 とはいえ、その言葉を真剣に受け取るつもりはあまりなかった。何せ相手は駆逐艦勢だ。恋だの何だのを勘違いしている可能性は十分あったし、そもそも彼女達の人生はまだ始まってすらおらず、その身は兵器として事実上の拘束状態にある。

 彼女達の人生が真なる意味で動き出すのは戦争が終わってからの事で、戦争さえ終われば全てが変わる。鎮守府に滞在するたった一人の男という異常な状況に惑わされてほしくないというのが正直な所であった。

 ……いや、これらは全て建前というか上官としての矜持というかもう色々アレでアレだったりするんだけどね! まったく、駆逐艦は最高だぜ!

 そんな内情をおくびにも出さず必死に取り押さえた俺は、動揺をよそに素知らぬ風を気取って言葉を選ぶ。紳士的かつ平静を装った俺はあまりにも滑稽であった。

 

「……ま、全く、そんな子供染みた……いや、実際子供か。すまなかったな赤城、事情があったとしても、ああ言われてはお前も内心あまり良い気持ちはしていなかっただろう。島風には、後で俺からよく言っておく」

 

「いえ、それには及びません。先に言った通り、あまり気にしていませんし、そもそも、彼女らの行為は一種の義務から来るものですから」

 

「義務……?」

 

 その言葉の意味する所を測りかねた俺は、思わず首を傾げる。赤城は一度間を置いてから、

 

「ええ、提督は、あのMI作戦を成功に導いたお方です。まさしく英雄です。英雄は、全ての人間に認められ、愛される権利があります。逆に言えば、全ての人間は英雄を崇め奉る義務があるんです。英雄を英雄と認めない者は、私が決して許しません」

 

 それは、あまりにも熱のこもった物言いだった。こちらが息を呑むほどに。

 だが、そうやって褒められて良い気がしない人間はこの世に存在しない。途端に緩み始めた口元を慌てて引き締めた俺は、過剰であるも本心から来たであろう褒め言葉に敬意を抱きつつ、

 

「え、英雄か……いきなり話がでかくなったな……だが、そもそも作戦が成功に終わったのはお前たちの努力があったからだ。俺自身は、それを後押ししたに過ぎない。英雄なんぞではないさ」

 

「ええ、私も初めはそう思っておりました。貴方は英雄ではないと。でも、今は違う。貴方様は、れっきとした英雄です。英雄なんです。少なくとも、この鎮守府にいる全ての者には、そう考えてもらわなければ困ります。最も、私がするまでもない事かもしれませんが」

 

「そ、そうか……。だが、尊敬や信頼の念は自らの手で勝ち取ってこそだと俺は思う。お前に言わせるまでもなく、上手くやってみせるさ」

 

「それでは、私も精進を続けていきたいと思います。どれだけ提督が卓越した指揮をした所で、現場の私たちが不甲斐ないままでは申し訳が立ちませんので」

 

 赤城との長話を続けていると、新たに一人の少女が食堂に入ってきたのが目に映った。叢雲である。

 

「あら、司令官。それに赤城。おはよう。調子はどう?」

 

 朝食を取りに来たであろう彼女は挨拶もそこそこに、俺たちを通り越して間宮の所へ向かう。

 途中、何事かを思い出したのか振り向くと、満面の笑みを浮かべつつ赤城にこう尋ねた。

 

「どう? 私は、力になれた? 一回目と二回目よりは、マシになったでしょ?」

 

「ええ、恩に着ます。どうもありがとうございました」

 

「そう、それならいいの」

 

 短い対話を終え、叢雲は満足げに朝食を受け取りに足を再び進める。

 残された二人の内、何が何だかわからない俺は、これで何度目になるのか分からない疑問をもう一度投げかけた。

 

「……何の話だ?」

 

「戦闘における連携の話で少々。何と言っても一番の古株は彼女ですから。これまでも何度か相談に乗ってもらっていましたし」

 

「成程、な。叢雲ともども良くやってくれてるよ。それだからこそ、吹雪や島風といった面々を預けた意味がある。これからも信頼させてもらおう」

 

「……ありがとう、ございます」

 

「ど、どうした。喉でも詰まらせたか? そうそう、それと、あまり拾い食いとかもしてくれるなよ」

 

「ご心配なく。そもそも、落としたりしませんから」

 

「……本当に分かってるのか、それ?」

 

言葉の通り、彼女に十五秒ルールが適用される事は終ぞなかった。

 















>ザアザアと降り注ぐ横なぶりの雨粒が、鎮守府を包み込む。
どこかで見たことのある一文ですね……。


>「全く、他にも変な事教え込んでるんじゃないだろうな!?」
今回、珍しく勘の冴え渡った提督のセリフ。提督のかっこいいシーンはここだけ。

>赤城
自分から恋敵を増やしていくとはたまげたなぁ

前回の反省を踏まえ、今回は超ドストレート。と言っても今回の主役は赤城ただ一人であり、その他の登場人物はすべて賑やかしに過ぎない訳ですが

Q.今回日常会話長くない?

A.そりゃあ島風、天津風、並びに吹雪は(現時点)ではヤンデレじゃない(と思われる)ので。(今回の)彼女たちの行動には一切裏はない、筈。

Q.結局今回はどんな話?

A.洗脳装置の存在を知っているのが叢雲、明石、大淀の三人ってのは、あくまで提督の主観なんだよなぁ。
あ、そうだ(唐突) 赤城と吹雪の現状を第6話で提督に伝えたのは明石だったし、第11話で赤城が当直の秘書艦が出来ない事を提督に伝えたのも叢雲だし、第13話で提督を起こしにいくよう吹雪に伝えたのは明石だったんだよなぁ あっ……(察し

>「少なくとも、この鎮守府にいる全ての者には、そう考えてもらわなければ困ります。最も、私がするまでもない事かもしれませんが」

まあ天然物の方が多そうだし、多少はね?


今回は分かりやすかった、のかな? やっぱり分かりづらい? 今回も補足に頼ります
補足というか要約しとくと、提督を英雄として見るようにしたり恋愛感情をもったりするように洗脳装置を赤城が使ったという感じ。
ちなみに一回目の洗脳相手が島風、二回目が天津風で、三回目が吹雪。調整の問題と性格の都合上島風と天津風はツンデレ仕様だけど、吹雪は完全に信者に洗脳したってトコロ。


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14話

 走る。走る。走る。

 陽光を目一杯に浴びたコンクリートは、ぎらついた様相を呈す。靴の内部で籠った熱は、地面を蹴り上げる度にその度合いを増したように思えた。

 俺が呼吸に息苦しさを覚え始めた一方で、道を先行する部下は変わらぬペースを保っている。面を上げ、胸を張ったその走り方は見事の一言で、遮二無二上下する二の腕は波面を漕ぎ分けるオールのようにして、彼女の肢体を前へ前へと運んだ。

 やがて足並みが止まったのは、見覚えのある風景と何度目かの再開を果たした時で、空母飛龍は弾けんばかりの笑みを浮かべつつ振り返る。

 その上気した頬と滝のような汗が、短いながらも濃密な時の流れを物語っていた。

 

「はいっ、お疲れ様です! んー、五キロを二十分ペースかー。いいじゃんいいじゃん、いい感じじゃんー?」

 

「いや、まあ、この程度はな……しかし、流石だな。俺は、それなりに呼吸も乱れたものだが」

 

「あはは、このぐらいで根を上げてたら、多聞丸に笑われちゃいますから!」

 

 鼻周りを特に赤らめた健康的な笑みを見るにあたり、声高な主張を続けていた胸の痛みが和らぐ。

 彼女は疲れこそ見せなかったものの、ざっくばらんに後ろで纏めてみせた髪の毛は汗を滴らせていて、いやに扇情的だ。額にへばりついた前髪も、水気を吸ってへちゃむくれた様相を呈している。

 オレンジ色のランニングウェアまでもが胸元をしっとりと湿らせているものだから、先ほどまでとは趣の異なる鼓動が胸を突いた。不届きかつ邪な視線をいつまでも続ける訳にもいかず、自然と俺は彼女と目線を絡ませる。

 休日。主だった用事もなければ、差し当たり緊急の案件も存在しない。普段日がな一日執務室に張り付いている事を考えれば、ちょっくら外に足を向けたくなるのも致し方のない事と思えた。久方ぶりに顔を覗かせたお天道様も、それを歓迎しているかのように見える。

 とはいえ、大っぴらには公言し辛いものの日本国は目下戦争継続中である。

 いくら現状が小康状態に落ち着きつつあるとはいえ、国家防衛を金科玉条としている関係上、軍人たる俺が長い間鎮守府を離れる事は流石に憚れた。

 又、本来であれば提督不在時の臨時指揮権なども存在自体はする訳だが、部下達との協議の結果、こちらはなし崩し的に有耶無耶なものとなっている。

 指揮系統の乱れ、臨時指揮官との歩調等の理路整然とした筋論が話題にのぼる頃合いにもなると、反対意見は自ずと尻すぼみとなって立ち消えてしまったのだ。

 しかしこの結果に対し、躍起になって反論を口にしようと思う気持ちは不思議と湧いてこなかった。

 確かに遠出の機会が失われたという点においては如何ともし難い所があったが、楽しみは平和になった時にまで残しておいても問題はないだろう。

 事実として、鋭い棘を思わせる形で深海棲艦らが脳裏に居座り続ける限り、真に日常を謳歌する日は訪れまい。確信めいた想像は、場の空気に反する言葉が飛び出る事を封殺してしまっていた。

 それでも、休日は休日。単なる街歩きであってもそれなりの価値を見込んでいた俺からしてみれば、近所のランニングコースを汗だくになって走った事は多少なりとも不本意な形であると言えた。だが、せっかくの飛龍のお誘いを断るわけにもいかない。

 当然の事だが、軍部に所属している以上形式は遵守しなければならないものである。

 飛龍含む艦娘に外出許可を出すことには相応の申請が必要であったし、ある程度我慢させてしまう分、彼女達のために出来る事があるならば、出来る限りその意向に沿う形で、休日を十全なものにしてやりたいというのは本心であった。それは、たとえ自分の都合を潰す事になっても、である。

 とはいえ、鎮守府務めから来る運動不足に著しいものがあったのは事実で、おくびにも充実した一日を過ごせているとは言い難い。滴る汗は、拭っても拭っても滲み出るのを止めようとはしなかった。

 

「……しかし、何でまたこんな事を?」

 

 吹き込んだ風が、火照った体を不躾に慰める。

 ベンチに座り込んだ二人の違いは一目了見だ。折り畳むようにして体をくの字に曲げた俺とは異なり、飛龍はピンと背筋を立たせている。

 遂に漏れ出た純粋な疑問に対しても、飛龍は疲れを感じさせぬ出で立ちで事もなげに答えてみせた。

 

「だって、最近は雨続きで運動らしい運動も出来ませんでしたし。それに提督も最近は運動不足気味、よね? あっ、少し休憩取ったらもう一本行くけど、その前にちゃんと汗は拭くこと! はい、これタオル! 体が冷えちゃいますからね!」

 

「う、うむ。あー、それで何だが、お、お前が見ていないだけで、屋内であろうが運動は続けていてだな。その、鎮守府にはそういった設備も整っている事であるし」

 

 思わず口から飛び出たでまかせを、飛龍は即座に看破して一刀両断してみせる。

 

「あー! 嘘はめっ! ですよ? 提督が気づいていないだけで、私はちゃーんと見てるんですから!」

 

「……ええい、分かった分かった! 分かったから、もう少しだけ休ませてくれ! ……全く、こうなる事を知っていたなら、きっと断っていただろうさ」

 

「もう! それじゃあ理想の提督への道は程遠いですよ?」

 

 まんまと言質を取って見せた飛龍の笑みとは対照的に、苦虫を噛み潰したような表情が俺の顔に浮かびあがったのは当然の帰結であった。

 今となっては自販機で買ったスポーツドリンクの清涼感ばかりが心の拠り所で、ひしゃげたペットボトルは俺の内心を克明に写し取る。

 熱を帯びた体を吹き抜ける一陣の風も、当初こそ心地よいものに感じはしたものの、時間が経つにつれて酷薄なものへとその姿を変貌させていった。まばらな人気がそれに拍車をかけるようにして、閑散とした雰囲気を醸し出す。

 珍しい面々を見かける事となったのは、汗が完全に引き、事前に持ち合わせたタオルが無用の長物となりつつあった正にその時だ。耳目を引きつけるその出で立ちに、図らずも注意を向けざるをえなくなる。

 それは同時に、悪夢の幕開けと言えるものであった。飛龍の愉快気な眼差しに思わず頭を抱えたくなるも、一欠けらの矜持が踏ん張りを見せつける。

 

「……ふーん?」

 

「…………言っておくが、あれは別に俺の趣味じゃない。趣味じゃないからな。大事な事だから二回言わせてもらったぞ」

 

 連れだってスタート地点に姿を現したのは、偶さか非番が重なったのであろう潜水艦の人員が一部である。その身を着飾るは、見慣れたあの服装ではない。

 普段であれば揃いも揃って水着姿の彼女らも、陸でまで同じ格好を貫く訳にはいかなかった。そこまではいい。そこまでは。水着で街を出歩かせているようでは、長期に渡って築き上げてきた近隣住民との信頼関係も水の泡だ。

 しかして、その代わりとして彼女らが選んだ服装がいただけなかった。よりにもよってブルマーと体操着。ブルマ―と体操着と来た。

 機能性に富んでいる等といった葉が免罪符になり得るとは甚だお門違いもいい所で、一体全体どういう発想からそれをチョイスした!?

 暫くしてあちら側も俺たちに気づいたらしく、先導していた少女が駆け足でこちらに近寄ってくる。

 猪突猛進をかます様は、その青みがかった頭髪とは対照的にとても情熱的に映るもので、伊一九と呼ばれる少女の美点と一つと捉えられる。

 

「てーいーとーくー! イークーなーのーねー!」

 

「お、おう。イクは本当にいつも元気だな、うむ。良いことだ」

 

「いひひっ、イクってば褒められちゃったなの」

 

 軽い衝撃と共に懐に飛び込んできた少女は、凶悪なまでにグラマラスな肉体の保持者だ。

 付け根から晒したむっちりとした太腿、弾けんばかりにたわわに育った豊満な双丘。あどけない童顔とのミスマッチが伊一九と称される少女の魅力をより一層引き立てる。現状、潮、夕雲らと共にトランジスタグラマーの名を恣にしていると言っていいだろう。

 てか、この子が着てる体操着、なんかサイズ小さくない? なんかさぁ、胸のところ引き伸びて横シワ出来てるしさぁ。もうこれ使い物にならないよね? もらっちゃ駄目かな? 衆人環視の只中にあってなお抑えきれない男のSAGAが恨めしい。

 一気呵成に押し寄せてきた邪念をかろうじて退けた俺は、窘めるような視線を伊一九に送る。

 己の不徳を棚に上げ、さも聖人めいた台詞をつらつらと上げて見せる俺は果てしなく滑稽であった。あまりの情けなさから、傍らにいるであろう飛龍に視線をくれる事すら罪であるかのように思えてくる。

 

「えー、ごほんごほん。あー、いいか、イク。確かに機能的、であるのかもしれないが、そういった服装は出来るだけ慎むようにする事。人の口に戸は立てられんしな。確かに、休日にも関わらず上司面を引きずるのは好ましくない。また、俺としても休日ぐらいは上司部下関係なく、一個人としての付き合いをお前達と築きたい。だが、時として心を鬼にせずにはおれぬ時も存在する。今後は、普通にランニングウェアやジャージを使うように」

 

「でも、提督も男だから、きっとこーいうのが好きなのね」

 

 鋭利に研ぎ澄まされた槍先を受け切れず、俺は思わぬ形で答えに窮する事となる。

 重たい沈黙が尾を引いたのは言うまでもなく、絞り出した言葉は明瞭さの点において欠けていた。

 

「…………いや、そんな事は、ないぞ?」

 

「ほんとに~? 怪しいの~」

 

「お、おい……」

 

 小悪魔めいた囁きが耳元を襲ったのはその時だ。自身の胸元を押しつけるようにして詰め寄ってきたイクに、思わず動揺が走る。

 目と鼻の先にまで肉薄した少女に退路を断たれた俺は自ずと身じろぎを繰り返したが、それ以上を許すイクではなかった。

 投げ出された少女の肢体が、立ちあがろうとする俺の体を押さえつける。首に回された二の腕は、視線を逸らそうとする事すら咎めているように思えてやまない。

 

「いひひひっ、顔真っ赤なのね~」

 

「か、からかうな馬鹿者! これは、だ! さっきまで走っていたからでだな! お、お前もいい加減離れろ! 汗の臭いが移るぞ!」

 

「そんなに恥ずかしがる事ないのね。提督は好きな時に、好きな風にイクで遊んでいいの。伊一九の胸部装甲も、提督のために存在してるのね。それこそ、玩具みたいに弄り回していいんだから」

 

「ばばば、馬鹿ッ! 人の目がある所でそんな事を言うもんじゃない! そ、それにだな! 俺は遊び人じゃないし、まかり間違ってもお前をそんな風に扱うつもりはないぞ!」

 

 摩耗しきった理性を火種に、しな垂れかかったイクの身体を強引に押しのけると、驚くべき事にイクばかりでなく飛龍までもがつまらなそうな目でこちらを見やった。

 予想だにしない展開を輪にかけて彩ったのが彼女らの告げた辛辣な言葉の数々である。

 

「つまんないのね」

 

「うーん、今のは理想の提督像からは程遠いわね……。受け入れるにしても断るにしても、もっと堂々としなきゃ! そういう訳なんで、減点一です!」

 

「……ええい、何とでも言え!」

 

 轟々として鳴りやまぬ非難を前にし、俺はとうとう不貞腐れてそれ以上の問答を打ち切った。蓄積した理不尽に耐え切れず、受け皿が音を立ててひび割れたのである。

 そもそも、飛龍の非難はともかく、どう考えてもイクの物言いは常軌を逸しているというのが正直な所だ。

 真っ昼間の屋外で乳を捏ね繰り合った日にゃ、俺の社会的地位はいとも容易く失墜する。それこそ弁明の余地なんてものは一切合財取り掃われて、健闘空しく後ろ指を指されながらの潰走に陥る羽目となるだろう。

 顔を見合わせて同調する二人を意識の彼方へと放逐していると、残りの潜水艦の面々がようやく間近にまで姿を現した。こちらもブルマ―と体操着姿で、やはり何かに悪い影響を受けたとしか思えない。

 合流した二人の内、イクとはまた異なる明朗さを見せたのが伊五八である。負けず劣らずの快活ぶりが魅力的な少女で、どちらかと言えば幼さの目立つ発言が多い印象だ。

 もっと正確性を期するのであれば、感情表現に裏表がないと言った方が正しいのかもしれない。

 

「こんにちはでち、提督!」

 

「ああ、こんにちは……で、だ。繰り返しになるが、一体全体どういう魂胆からそんな格好で外を出歩いているんだ、お前らは?」

 

「? 機能美に溢れる、提督指定の服装ですよ?」

 

「テキトーぬかすな! 俺は一度だってそんな事は……! ああ、もういい! いいか、ユー! お前も、嫌な事は嫌だって言っていいんだぞ!?」

 

 ゴーヤの背に隠れるようにしてこちらの様子を窺っていた少女は、話の矛先が自分に向った事を知るや、びくりと肩を跳ねさせた。

 罪悪感を煽るその姿に、自分自身の口調が酷く攻撃的になりつつあった事を悟る。青く透き通った瞳は、まるで罪科を映し出す鏡のようだ。

 ハッとして我に返った俺が口にした言葉を、彼女はおずおずとして受け取った。

 

「ああ、いや、すまん。怒った訳じゃないんだ」

 

「いえ、大丈夫……です。それに、郷に入っては郷に従えって、聞いてたから」

 

「いやいやいやいや、その、だな。ブルマや何だかが日本共通のものであったのは一昔前の事だし、その時だって皆下はジャージだったしで、ちょっと間違った固定観念に足を踏み込みかけてるからな? ゴーヤとイクを見本にする事はほどほどにな?」

 

「あー! 酷いよ酷いよぉ! ゴーヤ、泣いちゃうでち!」

 

「提督は嘘つきなのね~」

 

「お前らはいい加減黙らっしゃい!」

 

 再三に渡っての横槍を無理やり抑え込んだ俺は、改めてその青い瞳と向き合った。

 薄いプラチナブロンドに、色白の肌。華奢な体と相まってか、その存在はどこか希薄だ。

 U―511は数月前から当鎮守府に駐在している独生まれの少女で、数少ない海外艦の一人として名を連ねている。

 ドイツは艦娘開発においては後発組ではあるものの、その技術水準は日本を凌駕する所も多く、最近ではイタリアにおけるリットリオ、ローマ建造に携わった事でも記憶に新しい。

 U―511においてもそれは顕著に表れており、艤装は先端技術の駆使されたワンオフの一品物。先の戦闘で破損した際は技術的な問題から修復が不可能である事が発覚し、仕方なしに日本製の艤装を間に合わせで支給している有様である。

 そうした事情から日本式の艤装にも慣れを覚えつつあった彼女も、流石にブルマ―と体操着は予想の範疇を超えていたらしい。

 ほっそりとした二の腕がひっきりなしに腰回りを右往左往し、恥ずかしげに視線を迷わせる。

 露出した太腿をしきりに気にするのを見るにあたって、保護欲という名の表皮を被った何かが股ぐらでいきり立つのに、そう時間はかからなかった。いんや、別に物理的に立つ訳じゃないけどね。

 直後、語りかけるような口調を装ったのは、彼女の内面に巣食う不安を一時であれ消し去りたいと思ったからであった。

 少なからぬ同郷の者が当鎮守府にもいるとはいえ、ここは異国の地。周りのペースに振り回される日々が多い事は容易に想像出来る。

 同僚との関係自体は良好と思えるが、隠れ蓑に依存しざるをえない現状はあまり楽観視できるものではないだろう。

 

「あー、うむ。異国の地に赴任する事になって大変であるとは思うが、あまり自分のペースを崩さぬようにな。人間、そう簡単に変わる事は出来んし、急いで変わる必要性もどこにもない」

 

 取ってつけたような言い方だ。

 それ故、反論が波となって押し寄せてくる事は想定内であったものの、次の瞬間ユーの零した言葉には流石に固まらざるをえなかった。

 

「……でも、提督は、こういう格好が好き、って聞きました。合ってる、でしょ? イクが言ってました。早く、ここに溶け込めるようにしなきゃ」

 

「………………」

 

「うーん、減点ね……」

 

 思わず天を見やったのは言うまでもない。飛龍の毒舌めいた批評は耳に残りはしたものの、それに反駁してみせる気概も余裕も、あまり残されてはいなかった。

 だって、仕方ないじゃない。男の子だもの。往年のアニメのワンシーンが唐突にフラッシュバックしたのは言うまでもなかったが、坐してこのろくでもない評価を甘受するつもりには到底ならなかった。あの手この手でいたいけな少女を言い丸めようと思考回路が奔走する。

 だが、膨らんだ言い訳を何時までも口内に留め、その巧拙を競い合わせたのは明らかに失策だった。先手を取った伊一九が、ユーに耳打ちする。

 

「うんうん、それでいいのね。提督の好みの子は、沢山、沢山いた方がいいの」

 

「そうなの、イク?」

 

「いーや違う! 信じるなユー! お前もお前だイク! 一体何の意味があってそのような嘘を言いふらす必要がある!?」

 

 痺れを切らした俺がとうとう立ち上がったのは言うまでもない。

 唯一の救いは、ユーがあまり意味を理解していなかった事だろう。赤子に教鞭を振るうという訳でもないだろうが、彼女のどこまでも純粋無垢な性格を思えば、男女の機微なんぞを理解するのはまだまだ早すぎる話だ。

 さて、言葉に火を灯しはしたものの、怒りや苛立ちという感情とは無縁もいい所であるのが実情であった。

 どちらかといえば気恥ずかしさや動揺といったものの方が色濃く、実際イクの放った次なる言葉によって、俺は更なる困惑の渦へと叩き落とされた。

 

「提督は、牛のどこの部位が好きなのね?」

 

「何?」

 

 話の繋がりをどこにも見出す事の出来ない、意味不明な質問である。

 しかし、その言葉を皮きりに次々と問いかけが投げかかってくるものだから、俺はとうとう本心を問いただす術を見失ってしまった。

 

「カルビは好き?」

 

「……好きだな」

 

「ヒレは好き?」

 

「好きだ」

 

「バラは好き?」

 

「ああ、好きだな」

 

「ハラミは好き?」

 

「よく食べるな」

 

「レバーは好き?」

 

「普通に食えるな」

 

「ハツも、好きなんじゃない?」

 

「ああ、美味しいよな」

 

 禅問答であったとしてももここまでの陳腐さは持ち合わせていないのは、誰の目にも明らかだ。

 それどころか、そのフレーズが胃袋を鷲掴みにし、問答の枠組みを超えた事態を生み出す事になってしまう。ぶっちゃけた話、腹が減ってきた。

 果たして青写真を描いたゴーヤなんぞは迂闊にも涎を垂らし、あわてて手の甲を口元に滑らせる。そのだらしなさに笑みを浮かべたのと、イクが満面の笑みを象ったのは同じ瞬間であった。

 きっと、彼女もゴーヤの事が可笑しかったからに違いない――――一時はそう思った俺も、イクの見せた不可解さの前には首を傾げざるをえなかった。

 

「いひひひっ、イク、これってすごいと思うのね。精一杯生きてる牛の、その体の殆どが、人間に食べられるためだけに存在しているんだから――――イクも、見習いたいのね。いひひっ」

 

「……? 待て待て待て、訳が分からなくなってきた。その、牛の話か? それと、ユーにブルマを穿かせた話が、一体全体どう関わってくるんだ?」

 

 それは当然の疑問であったように思う。事実、噴出した疑念は掘り起こされた泉の如く、収まる所を知らない。

 しかして、謎で彩られた結び目を紐解く時間が残されているかと言えば、そういう訳にもいかなかった。見れば、ゴーヤ、ユーの両名が手持無沙汰で退屈を持て余している。

 また、いくら雨の後で気温が上がっているとはいえ、恰好が恰好だ、何時までも放置するにはどうにも罪悪感の方が勝った。何より、あれほどまでに不明瞭さの漂う会話であったのだ、イクがこちらの言葉を欲しているとはとても思えない。

 案の定こちらの回答を期待していなかったイクは、うんと一伸びしてみせるやいなや、準備運動を始めてしまった。

 

「んー! それじゃあ、そろそろイク達は一っ走りしてくるなのね!」

 

「う、うむ。分かった……あー、今回は許すが、次回からは本当に頼むぞ。ご近所さんの目に煩わされるのはもうこりごりだ」

 

「えー、ゴーヤはこれ、好きなんだけどなぁ。だってせっかくの提督指定だよ! もったいないでち!」

 

「だから、俺は一言もそんな事言ってないと、さっきから言ってるだろうに……ああ、それと。ユーの事、これからも宜しく頼むぞ。潜水艦同士、仲良くやってくれ」

 

「勿論なの! だって、ユーはこれからを担う逸材なのね!」

 

 その言葉に、思わず感嘆の息が漏れる。それは、日々俺が見ていない間にも日進月歩を続けているという事の証左であった。イクをしてここまで言わせるとは、本当に将来が楽しみである。

 イクもその点においては同意見らしく、先と同じようにしてユーにしな垂れかかると、自慢げにこう言ってのけてみせた。

 

「ユーも、きっと素敵な子になるのね。だって、そうじゃないと、おかわり出来なくなっちゃうの! ユー、分かってるのね?」

 

「ははは、ま、別に急ぐ必要はないさ。戦果の有無に問わず、何時だってうちの鎮守府はおかわりし放題なんだからな」

 

「いひひっ、それなら、おかずは沢山あった方がいいのね。同じのばっかり食べてたら、飽きちゃうの!」

 

 連れ立って走り始めたイクを見送る。彼我の距離は見る見る内に離れていって、その後ろ姿たるや、様になって堂々とした部分がある。色々と不安は残るものの、二人に任せておけばユーの事に関しても問題はないだろう。

 だが、そうした何処か誇らしい視線を見咎めるものが一人いた。飛龍である。

 彼女はその秀麗な眉目をこれでもかとゆがませると、一向にその悩ましげな表情を崩そうとしない。

 

「んー…………」

 

「な、何だ飛龍、変な顔して……」

 

「……鈍感なのも減点」

 

「ま、またそれか。一体なんだっていうんだ?」

 

 男としての矜持を逆撫でするその態度に唇を尖らせるも、依然表情を曇らせたままとあっては話も変わってくる。

 苦悩に満ちたその顔を不安げに覗き込んでいたその時、突然彼女は眼をカッと開いて見せるものだから、俺は驚いて後ずさった。

 

「ま、いいや。まだまだこれからだし。大丈夫! きっと私が、貴方を多聞丸みたいに素敵な提督にしてあげるんだから! まあ、期待しててよ! ね!」

 

「いやいやいや、流石にそれは、心苦しい所があるというか、なんというか」

 

「取りあえず、朝はちゃんと歯を磨く事! 今日、休日だからってさぼったよね? それから、執務中はちゃんと集中しなきゃ! 買った小説の続きが楽しみでも、ね?」

 

「ま、待て待て、何でお前がそのことを知ってるんだ!?」

 

 動揺を露骨なまでに顔に走らせた俺を、彼女はしたり顔で窘めて見せる。

 

「ふっふっふ、簡単な事だよワトソン君――――言ったでしょ? ちゃーんと見てるって。ずっと、ずっと……何時だって貴方の事を見守っているんだから」

 

 雨上がりの空に、飛行機雲がかかっていた。

 

 

 
















アニメがブルマだったので一つ。何だろ、別に卑猥な話を書いたつもりじゃないのに、今回は一番そんな匂いが漂っている。

第一話投稿時期を見ればわかる通り、ゆーちゃんは当初の全体プロットにそもそも存在すらしていなかった事ははっきり分かんだね。いーじゃない、好きなんだから。
まあ当初のストーリーに執着し過ぎると、これの投稿が始まってから原作ゲームに登場した新キャラとか一人も登場させられなくなっちゃうからね。しょうがないね。
あ、スーツの構造云々は思いっきり捏造したけど許してくださいでち。

>郷に入っては郷に従え
郷ってどこを指してるんですかね……? あっ……(察し)

あー、それとですね。感想であれほど言われたにも関わらず、またまた性懲りもなく分かり辛くしてしまったので、補足入れます。申し訳ないです。


結局今回がどんな話であったかというと、提督の為になら胸は勿論肉も舌も臓物も心臓も魂に至るまで全て全て捧げたい系女子イクちゃんが、飽きられたりしない用に、あるいは自分だけじゃ足りないと思ってかおかわり(ゆーちゃん)という名の生贄を作ってる最中って話。牛ばっか食ってたら、鶏肉食いたくなるやん?

飛龍はあれ、逆光GENJI計画。そういや第一話で提督の事監視していた艦載機がいたよね――――提督、今回の話の中で全然そのことを思い出してないけど。

あ、でっちーとゆーちゃんは今回サブだよ。片鱗はちょっとあるけど。




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15話

「夜はいいよね~、夜はさ」

 

 静寂を物ともしない、溌剌とした声。些か興奮の色さえ帯びたそれは、声の主の浮かべる笑みと相まってか、獰猛な獣を予感させた。

 夜。消灯時間を過ぎた鎮守府を、月の優しげな光が包み込む。文明の利器が徒党を組み、眩い光源が氾濫する大都会ではまずお目にかかれない光景である。

 常であれば活気に満ちた鎮守府も、疾うの昔に帳の落ち込んだ時間帯という事もあって、静けさの中にその身を投じている。羽虫の羽撃きが耳元を掠める度、かえってその事が印象づけられた。

 時刻は既に消灯を迎えているのだ、自前の眠気が勢いを増した事もあり、しんとした空気は畳み掛けるようにして瞼に襲いかかってくる。

 

「提督、眠そうだね。せっかくの夜だってのに」

 

「む……そんな事はないぞ。ああ、心配はいらない」

 

 事の発端は、とある警備巡回中の出来事だ。不寝番の報告によれば、深夜鎮守府を動き回る人の気配がある。総員起こしを早朝に控えている以上、艦娘が徘徊しているとは考えづらい。

 無論、考えられる可能性として真っ先に上げられたのが、諜報員や工作員の存在である。日本国の技術をあまねく集めたこの地を狙う者は、限りなく多い。

 こうした輩が鎮守府に忍び込んだ際、鎮守府の致命的な脆弱性はいとも容易く露見する。鎮守府はあくまで対深海棲艦の橋頭堡であり、そうならざるをえない。原因として、艦娘の特性が上げられる。

 艦娘はあくまで対深海棲艦用の兵器である。戦場であれば軽々と鉄塊を担ぎ上げる人外の力も、陸にまで持ち出す事は叶わない。彼女らは人間を害するようには出来ていないのだ。

 勿論、彼女らとて自己防衛本能は備わっている訳だから、緊急の際はその限りでない。しかし、故障した艦娘が辿る末路はあまりにも惨たらしく、残酷だ。

 こうした危険性を鑑み、鎮守府の周囲には幾重もの警戒網が敷かれている訳だが、今回まんまと忍び込んでみせた曲者は余程たちが悪いらしい。

 影も踏ませぬ暗夜行を前に、防犯カメラはあまりにも役立たずだ。怪しい人物は全く映っておらず、真相はまるで判然としない。端から誤認でしかなかったのではないかと疑念を抱かせるには、十分過ぎる結果である。

 しかし、そうした方向性を思考に芽生えさせるのを俺は嫌った。全幅の信頼を寄せる彼女達からもたらされた報告なのである、一顧だにせず切り捨てる事など、出来る筈もなかったのだ。

 

「こういう考えは甘い……のかもしれないがな」

 

「何が? ……もしかして、いや、もしかしなくても、夜戦が!?」

 

「いやいやいや、どこをどう解釈すればそうなる。いい加減なんでもかんでも夜戦に結びつけようとするのはだな……」

 

「夜戦って恋の味だよねー。蕩けるぐらい甘くて、舌ですぐ溶けて……まるでアイスだ!」

 

「お、おう……」

 

 好きが嵩じて何とやらという奴か。肥大しきった夜戦愛好家ぶりは、その表現技巧にまで食指を伸ばしつつあった。正直言って何を言っているのかさっぱりだ。

 俺の心配を余所に、川内型ネームシップ川内、人をして夜戦馬鹿と称される少女は何時にも増してご機嫌の様子で、風を帯びて肩口でしなるツーサイドアップがそれを如実に表している。

 その楽天ぶりたるやこちらが面食らってしまうほどで、先の報告を上げたのと同一人物とはとてもじゃないが思えない。

 語弊を顧みずに言うなら、今回の一件は彼女に起因しているとも取れるのだ。報告時の剣呑な雰囲気は何処へやら、辟易してくる程の通常運転っぷりに、思わず溜息がこぼれる。

 明石を主導として盗聴器や爆弾等の有無を調査中である事からも分かる通り、未だ鎮守府の警戒態勢は引き上げられたままだ。相手の出方が分からず、必然的に後手後手に回っている以上、逼迫した事態にある事に依然変わりはない。いくら人外の力を誇っているとはいえ、もう少しばかり緊張感を持ってほしいというのが実情であった。

 

「ふっふふーん。月光や。ああ月光や。月光や」

 

 とはいえ、ある面においてはそれも仕方のない事なのかもしれなかった。とっくの昔に脱出劇に決め込んでいるであろう侵入者に、強化された周辺の警戒網。連日連夜に渡る警戒態勢は、逆に緊張の糸を損ないつつあった。今回のこれも、軍の規定に沿っての行動に過ぎないという一面がある。

 その鼻歌からも分かる通り彼女も現金なもので、楕円形に広がった光の輪は左右に揺れ、アスファルトの夜道を写し出す。一端の風流人めいた言葉も、彼女の前とあっては形無しだ。

 事実、ライトを弄ぶ川内は欲しかった玩具をようやく手に入れた子供のようでもある。本来であれば窘めるべき所ではあったものの、その無邪気な表情に思わず顔が緩んだ。

 不意に、川内と視線が合う。

 

「んー? どうかした? こっち見たりして。危なっかしいなぁ。夜戦はしっかり前を見てからでないと始まらないよ?」

 

「う、うむ。すまない、そうだったな。俺とした事が……」

 

 思わぬ形で向けられる事となった訝しげな視線を受けて、咄嗟に深く軍帽を被り直す。

 まさか見惚れてたなどと言える筈もない。正しく汗顔の至りという奴で、結果として沈黙が波となって押し寄せる。

 こうして蔓延し始めた閉塞感を払拭しようとしてか、さも妙案を引き当てたとでも言わんばかりに深い笑みを浮かべたのが川内である。彼女はそれこそヘウレーカの大合唱をする勢いで目を輝かせると、

 

「そうだ! それじゃあ私が先行するからついてきて! 遅れないでよ!」 

 

「せ、川内っ、お前一体何を……あっ、こら待てっ!」

 

「よーしっ! 夜戦! 夜戦だ! 5500t級の誇り、見せてあげる!」

 

 唐突に始まった追跡劇に、俺は動揺を覚えながらも足を踏み込む。

 そもそも、本来であれば司令官たる者が艦娘と共に巡回警備に当たるなどという機会は、そうあるものでない。事実上明日の業務を放棄、大淀に肩代わりしてもらう事を考えれば、今宵の巡回警備は酷くリスクを抱えているようにも思える。しかし、そうまでしてでも巡回警備に身を費やさざるをえない事情が存在した。

 鎮守府の統括者には、一時的に艦娘に課せられた制限を解除する権限が与えられている。勿論、行使する際には事前の申請や心理カウンセリングの受診が迫られたが、これらは当然の義務と言えるだろう。

 場合によっては、艦娘の力を私利私欲の為に使う事も出来るのだ。実際、その手の事例が無かったわけでもない。報告を行った不寝番の片割れ――初風を今宵の警備に伴っていないのも、二人分の申請が通らなかったからによる。

 また、実際の権限行使にも七面倒臭い手順があり、提督自身が艦娘と同行した上での直接指示が必要とされた。

 これらタイムロスは緊急時において致命的なものになり得たが、艦娘という非現実的対人戦力がそうしたデメリットを相殺していた。人の扱えうる武器の全てを持ってしても、彼女達を殺し尽くす事は叶わない。護衛を複数人伴う必要性がないのも、川内一人で全て事足りるからであった。まっこと、彼女達は所詮人のガワを被った兵器に過ぎない事を実感させられる。

 だが、彼女らに振り回される現実を考えると、また異なった印象を覚えるのも事実であった。

 

「はっ、はっ、せ、川内! 待て! 待てと言っているだろうが! 聞こえないのか!」

 

 闇夜に汗を振り撒きながら、当てもなく彷徨う。

 焦燥を煽るようにして活性化した汗腺は、くぐもった笑い声をあげて軍服の内側を蹂躙した。篭った熱が、更に動揺を広げる。

 よりにもよって川内はライトを消してまでこの逃避行に臨んでいた。夜目の効かない分、頼りは自前の灯りのみ。完全なる闇が広がっている訳ではないといえ、必死に追い縋らなければ直ぐにでもその後姿は見えなくなってしまう。

 果たして彼女が立ち止まったのはそれから十分ほど後の事だ。心根疲れ果てた俺を見るに当たって、川内が言い放ったのはあまりにもこの場にそぐわない発言である。

 

「はっ、はっ、はぁ」

 

「ほらっ、前、向けたよね? それに、ちゃんと追ってきてくれた」

 

「いや、前、というよりお前の事しか頭に、だな」

 

 肩で息を切らす。それなりに自信を兼ね備えた心肺機能と健脚も、今回ばかりはてんで役に立たなかった。

 不思議な事に、この時心の内を席巻したのは怒りよりも安堵である。軍人としての責務も上司としての義務もかなぐり捨てて抱きつきたくなる程、川内との再会には心が和らんだ。

 先ほどまであった恐怖も、今となっては霧散して輪郭すらない。手のかかる妹分が闇夜に消えていってしまうかのような焦りが、俺の体を突き動かしたのである。ただの兵器が相手であったなら、艦娘が肉の詰まった人形に過ぎなかったならば、こうはならない筈だ。

 しかし、そうした温かい思いに恵まれたのも最初だけ。沸々とようやくこみ上げてきた怒りを抑えつける気には到底なれず、艦爆よろしく拳骨が振り下ろされる事になるのは当然の帰結であった。

 

「い、いたたたた……」

 

「……勝手な行動を取るなんてどういうつもりだ? いくら夜戦好きって言ってもな、限度ってものがあるだろう」

 

 辛うじて自制は働いたものの、その声は驚くほどの怒気を宿していた。息を潜めた間者に自ら居場所を知らせるような行動に、我ながら頭が痛くなってくる。

 しかして、そうした俺の心理を知ってか知らずか、怒気を孕んだ謹言も彼女の前とあっては馬に念仏。軽々柳に風と受け流した川内は、痛みを滲ませつつも口元を歪めると、

 

「もう、そんな怒んないでってば。もし敵さんが近くにいたら、今ので全部ご破算だよ?」

 

「へ、減らず口を……そもそも、だ。お前、本当に侵入者を捕まえる気があるのか? 全く任務に身が入ってないように見えるが」

 

「え? やだなぁ、勿論あるよ。当然でしょ?」

 

「だと良いが……それと、さっきみたいな突然の単独行動も慎んでくれ。心配するだろうが」

 

「あはは。でもさ、提督がいるから私も突撃出来るのよ。ま、この熱く滾る夜戦魂を抑え付けたいんなら、いっその事首輪でもつけてみないとね」

 

 木っ恥ずかしい台詞を言いはなっただけならまだしも、依然として反省の弁の見受けられない彼女に業を煮やした俺は、一切合財の羞恥を飲み込んで川内の手首を力強く掴み取る。

思わぬ展開に声を上げた彼女を尻目に早口で口上を捲くし立てたのは、顔に差した赤色を必死に誤魔化そうとしての事だった。この場が暗がりに包まれている事を感謝せねばなるまい。

 

「ちょっ、提督?」

 

「……お前という奴は手綱を握っとらんと何をしでかすか分かったもんじゃない。いいか、今日はもう絶対に目を離さんし、勿論勝手な行動も許さん。お前は、俺の命令に従っていればいいんだ。分かったか?」

 

 しかしこの程度で矯正出来ていたならば、彼女も栄えある夜戦バカの称号を受け取ってはいない。

 混乱の波が引いて暫くのち、気を取り直した彼女は、

 

「ふっふーん。甘いなぁ。さっきも言ったけど、首根っこ掴んでみるぐらいの事してくれなきゃ、私の事は止められないよ?」

 

「借りてきた猫でもあるまいし……」

 

「ま、そうでもなきゃもっと強く強く掴んでおく事だね。それこそ、痕がつくぐらい。そうしないと、またさっきみたいにどっか行っちゃうかもね」

 

「うぐっ……何故ここまで余裕でいられるんだ……間違っているのは川内の方である筈なのに……」

 

 どこか言い包められているような錯覚に陥るのは、別に気のせいという訳でもないだろう。

 意気消沈する俺に対し、彼女が空いた方の手を差し伸べてきたのはその時で、浮かべたにやけ面はいっそ清清しい。

 

「それじゃあ、とりあえず手でも握る? あ、別にこっちの手首は掴んだままでもいーよ! 結構、間抜けに映るけどね」

 

「い、いや、さっきのは比喩表現であってだな? 俺の傍さえ離れなければ別に……ああ、それと、つい強めに掴んでしまったが、痛くはなかったか?」

 

 ようやく彼女の手首を離す。

 余程力が篭っていたのだろうか、夜戦続きの生活であっても美しさを損なう事のなかった彼女の細腕には、うっすらとした痕がついていた。川内が否定の言葉を口にしてくれなければ、俺は何時までも罪悪感に囚われていただろう。

 だが、跳ね上がった川内への好感触も、長くは続かなかった。

 

「それで、手、握るの? 握らないの? 私の事、離さないんじゃなかったの? 残念、せっかく提督の命令を聞こうかなーって思った所だったのに」

 

「う、うむ……」

 

「あ、でもやっぱり駄目か。だって、私らの上司は泣く子も黙る童提督だしね!」

 

 とうとう発せられた禁句中の禁句に、頭の中で何かがぶち切れる。腹の底から絞り上げたような唸り声は、正しく怒りの結露だ。

 安い挑発を大枚はたいて買い上げる事に決心した俺は、米神をひくつかせながら川内を抱きしめる。

 

「わっ、何何、どうしたの?」

 

「……いいか、川内。俺の事を女の手も握れないほど奥手な奴だと思ってるようだが……それは間違いだ。分かるな?」

 

 珍しくも面食らった様子の川内を尻目に、俺の心は冷え切っていた。

 何かがおかしいと思っていたのだ、今日の川内のテンションは。夜である事を勘定に入れても、彼女の態度にはあまりにも目に余る所がある。

 考えるに、これら蛮行はある種の復讐から来るものだ。原因を追い求めれば、以前発行した夜戦参加券の存在にまで遡る事になる。

 無論、名ばかりの紙屑が公的能力を有する筈もない訳だが、川内にしてみれば死活問題であったに違いあるまい。確かに俺が悪かった面も否めないが、それはそれ、これはこれ。

 己のアイディンティティを容赦なくへし折った彼女に対し、慈悲はない。決断を迫られた俺は、任務等の何から何までを全て放棄し、個人的な我執をもって直接行動に打って出る。

 そうした俺の態度とは裏腹に川内は酷くご機嫌であったが、果たしてその余裕が何時まで続くか見物である。彼女はしたり顔で頷き返してみせると、

 

「うんうん、提督も一応日本男児なんだね……ってか、首の後ろに腕なんて回しちゃったのはどういう意味? ちょっと、いや、かなりエッチだよね。もしかして……夜戦、夜戦がしたいの!?」

 

「ははは、そりゃ見当違いもいい所だ。俺にそういう魂胆は一切ない。ただ、今からコブラツイストをかけて川内の事を思いっきり泣かせるつもりなだけだしな」

 

「へ?」

 

「そーら、シャイシャイシャイシャイシャイ!」

 

 直後、声にならない悲鳴が川内の喉を駆け上がった。背中、脇腹、腰、肩、首筋を一遍に極める必殺の絞め技は、往年の名プロレスラーが最も得意としたサブミッションの一つである。見る見る内に苦痛に歪む川内の顔つきが、その威力の証左と言えた。

 双眸に涙を浮かべた彼女は、堪らず手のひらを俺に打ちつけ始める。

 

「あ、がっ……、て、提督、ギブギブ……」

 

「よし、それじゃあちゃんと宣誓する事が出来たら許してやろう。出撃編成に勝手に自分の名前をつけ加えない。疲れが残ってる時はちゃんと寝る、勝手な行動はしない、夜中に大声を出して他の奴らに迷惑をかけない、俺の命令はちゃんと聞く。どうだ? 承服しかねるか?」

 

「うぅぅ、それはぁ」

 

「…………」

 

「あたた! 分かった、誓う、誓うからぁ。これからは、全部、全部提督に従うし、勝手な事もしないって。ほんと、やれって言われればなんでもやるし、するなって言うなら絶対しないよ。忠犬川内にこうご期待、まあ任せてみてよ!」

 

「俺に従うか?」

 

「いたた! うん! うん! 従う! 絶対に従う! 提督が私の事を見てる間は、絶対に従う!」

 

「俺が見てる時だけなのか?」

 

「違う違う! 何時も! 何時も提督に従う! そう! 犬! 犬になるから! 従順な犬に!」

 

「よくぞ言ったこの悪ガキめ」

 

 言質をとった俺が腕を緩めると、川内は荒い息を吐きながらぺたりと地面に倒れこんだ。

 前髪がだらりと垂れ下がり、その表情はいまいち掴み取れない。しかし、あれほど騒いだ後であった訳だから、苦痛を伴った皺が未だに顔面に取り残されているのは誰の目にも明らかであった。

 そうなってくると、途端に沸いてくるのが罪悪感である。またしても、またしても武力行使に動いてしまった。熱の引いた頭に、途端に重圧が圧し掛かってくる。

 

「はぁっ、はぁっ」

 

「あー…………その、だ。川内、大丈夫か? いや、コブラツイストなんざ学生時代以来だから技の掛け方なんざとんと覚えちゃいなかったんだが……まさかあそこまで痛がるなんて思いもしなかった。今更だが、その、何だ。俺も少しやり過ぎた。立てるか?」

 

 若葉にしろ川内にしろ言葉で諭す事が最も道理であると分かってはいるのだが、頭に血が上ってしまうとどうにも前後不覚になりやすい。それは、上司たるものとして致命的に成り得る欠点であった。何といっても今回は任務中の出来事である。これでは川内の事をとやかく言えはしまい。

 だが、次の瞬間俺の苦悩はものの見事に裏切られる事ととなった。なんて事はない。俺という奴は、まだまだ川内の事を十分に理解しきれていなかったのである。曰く、川内は所詮川内であると。

 彼女はそれまでの苦痛を感じさせない勢いで立ち上がって見せると、やにわにこう言ってのけてみせた。

 

「熱いね」

 

「は?」

 

「今気づいたんだけどさ。提督、凄い汗だね。あれだけ走ったんだから当然か。手、ベタベタ、それに体も火照ってるし……ははぁん、それだけ私と夜戦したいんだな? しょうがないにゃあ……いいよ! 私と夜戦しよ!」

 

「せ、ん、だ、い……これ以上何か言うと、首輪どころか猿轡もつけて口きけなくしてやるからな……」

 

 先ほどまでの苦痛に満ちた表情も何処へやら。ころっと笑顔を浮かべてみせる川内に、罪悪感も瞬く間に霧散する。結局、川内は川内でしかないのだ。そう簡単に変わるものではない。

 とはいえ、その表情からは全くもって窺い知れなかったが、ほんの少しは反省する気になったようで、

 

「あはは! 嘘だよ、う、そ。もうしないから心配しないで。だって、川内は犬なんだから。飼い主には良い顔しなきゃね」

 

「またそれか。どうせ飼うならもっと愛嬌のある小型犬がいい。それに、じゃじゃ馬はこりごりだ」

 

「つれないなぁ。今なら何だって聞いてあげるのに。勿論、夜戦と引き換えにね?」

 

 言葉でこそ従順を示したものの、それ以後も川内は普段通りの印象を振り撒いた。もはや破綻したと言わざるを得ない巡回警備の再開後も、彼女の夜戦癖はまるで直らない。

 不知火直伝の絞め技が日の目を浴びる事になるのも、そう遠い光景ではないのかもしれなかった。

 

「全く……さっきの事も含め、こんな夜更けに元気なのはきっとお前ぐらいだろうよ」

 

「えー? だって、夜だよ夜! 提督は楽しくないの? つっまんないなぁ」

 

「馬鹿言え。もはや意味を成しちゃいないが、こいつも大切な任務の一つだったんだ。楽しいどうこうの問題ではない」

 

「はっは~ん、もしかして提督、怖いんだ?」

 

 挑発的な視線だ。小憎たらしい笑みが輪にかけてそれを印象付ける。どうやら、まだ懲りないらしい。

 

「……それこそあり得ん話だな。俺にはお前がついているんだ。どんな事があろうと、どんな輩が潜んでいようと関係ない。そうだろう? これでもな、俺は信頼しているんだ、お前の事を」

 

 情けない、他力本願等といった悪罵の限りを送られようと、純然たる事実を否定する気にはなれなかった。無論、川内に対する信頼も本心である。

 不思議だったのが、それまでの喧しさと相反するようにして川内が沈黙に徹した事である。彼女の事だ、当然とばかりに鼻高々と胸を張ると思っていた俺は、ふと横に目を移す。

 

「せ、川内?」

 

 彼女は、足を止めていた。それまでの楽天ぶりは綺麗に吹き飛び、もはや別人の域に達している。その醸し出す雰囲気は、それまで場を形成していたのとは百八十度異なるものだ。

 その異様さに呑まれた俺は、彼女がこちらを何度も呼びつけている事に暫くの間気付けない。

 

「提督」

 

「な、何だ?」

 

「夜戦ってのはさ……誰にも邪魔されず、何と言うか、思い通りにならなきゃダメなんだよね」

 

「? つまり、どういう事だ」

 

「いるよ。侵入者」

 

 初め、俺は彼女の言葉を上手く咀嚼することが出来なかった。

 辺り一体は皆一様に暗闇に包まれ、どこに何があるのかが辛うじて分かる程度だ。申請が通らなかった事から川内もその手の装備は手にしておらず、目視という点においては俺と大して変わらない。

 しかし、川内の口調にはどこか確信めいたものが秘められていた。第六感か、はたまた文字通りの意味での嗅覚か。出来る限り部下の意見を汲み取る事を方針としている俺とて、思わず聞き返さずにはいられない。

 

「川内、一体どこにいるというんだ? 鉢合うような配置にはなっていないが、海側を監視している他の誰かなんじゃないか?」

 

「違う」

 

 その言葉を最後に、あらぬ方向へと川内は全力疾走を開始する。その速さは先の比ではなく他の川内型よりも抜きん出た速度を叩き出せるという話があながち嘘でもない事を実感させられる。

 ともかく、置いてけぼりにされた俺が遅れて追走を開始した所で、本気をだした艦娘に追いつける筈もない。前方で煌くライトの光だけが、第六感に支配された彼女の動きを知る唯一の手がかりだ。

 果たして息を荒く吐き出しつつ川内に追いついた俺が目にしたのは、侵入者でこそなかったものの、思いもよらない人物であった。

 

「……扶桑?」

 

 そこには扶桑型戦艦一番艦の女の姿があった。何故、彼女がここに。その思いは川内にも共通されるものであったようで、瞳には動揺が広がっている。

 

「……あら、提督も。どうして、そちらに?」

 

 不思議そうに頬に左手をあてて首を傾げる扶桑。だが、問いただしたいのはむしろこちらの方だ。出撃を間近に控える彼女は、今宵の警備枠に含まれていない。

 

「それはこちらの台詞だ、こんな夜更けに、一体どうしたっていうんだ?」

 

「ふふふ……月が綺麗なものでしたから、つい、外を出歩いてしまいました」

 

「なっ……」

 

 ロマンチックな物言いに、つい言葉を失う。

 思わず同意しかけたのは、彼女の退廃的な美しさが、朧げな月の明かりとものの見事に調和していたからである。

 

「そ、そうだったのか……いやいや、駄目だ駄目だ。既に消灯を迎えているし、夜の点呼後に抜け出してきたのか?」

 

「申し訳ありません。こんなに鎮守府が慌しい時に、勝手な行動を取ってしまって……」

 

「う、うむ。誰かを贔屓するようでは皆に示しもつかん。今後はその、控えるようにしてくれ」

 

「えー、なんか私の時と対応違うよね?」

 

「う、うるさい」

 

 頭を下げる扶桑に、何とか上官面を取り繕う。川内の不満を都合よく聞き取れなかった事にしたのは、扶桑との間に気恥ずかしさを持ち込んでしまったからだった。先の一件以降、どうにも彼女の前ではそうした感情を表沙汰にしてしまう傾向にある。

 紋切り型の説教を続ける最中、扶桑は申し訳なさげに顔を伏せていた。こちらの思いを知ってか知らずか、どうにもやり辛い。口酸っぱく言って聞かせるにはあまりにも準備不足であり、知らず知らずの内に彼女の胸元を注視してしまう。着物には似つかわしくない銀のネックレスは、声高に自身の存在を主張していた。

 やがて覚束ない段取りと共に説教が終わり、寮の方に向かって扶桑は踵を返す。

 そこに待ったをかけたのは、胸の内に秘めていたある事柄について話す必要性に駆られたからだ。このような機会でもなければ、俺という奴は永遠に切り出せずにいたと思う。

 

「ちょ、ちょっとまってくれ」

 

「……何でしょうか?」

 

「その、武蔵の事なんだが……」

 

「ああ、あの人……」

 

 悩ましげに左手の人差し指を唇にあてる扶桑は、どこか蠱惑的だ。

 件の女、武蔵は疾うの昔に営倉入りを終えていたが、それ以来ぎこちない関係性が続いていると言って良い。

 確かに、出撃や遠征において支障はないように思われる。武蔵は普段通りの戦果を見せ付けたし、戦力の中核を担う事に変わりはない。表面上だけを覗き込めば、彼女との会話もかつての彩りを取り戻したかのようにさえ映る。

 だが、きっと何かが違うのだ。そして、それが先の扶桑との問題に端を発しているのは明白で、艦隊運営を図る上でその解決は至上の急務とされた。最も、未だ具体性を伴った解決策は一つとて実行に移されていないのだが。

 

「その、武蔵も反省していると思う。機会を作るから、今度話し合いの一つでも、してやってくれないか。お前たちの仲が悪いままでは、今後の編成面においても差し障りが出る。勿論、俺も同席するつもりだが」

 

「あら、それでは今後の展開によっては、当鎮守府においても最強の一角にあるあの人と私が、肩を並べて戦線に出る可能性があると? 提督は、そうおっしゃりたいのですね?」

 

「ああ、勿論だ。お前の練度は日を重ねるごとに上がってきている。見違えるくらいにな。すぐにでも――その、何だ。あー、指輪の方が効果を発揮する事になると思われる」

 

 指輪。その言葉に、思わず赤面せざるをえない。

 彼女は指輪にチェーンを通し、ネックレスとしてそれを取り扱っていた。出撃等を除いて日常的に身につけているものだから、こちらとしては気が気でない。元はといえば信頼の証として渡した筈であったが、どうも必要以上に意識してしまう。

 視線を逸らしつつの提案に何ら効果は見込めないと分かっていながら、扶桑の事を直視出来ないのもその一端と言えた。

 

「あー、それで、だな。少し話がずれるが、その、指輪の事なんだが……べ、別にいつも身につけておく必要はないんじゃないか? ほら、その、あれだ。着物にネックレスって、何だかちぐはぐな感じもするしな」

 

「でも……普段からこれを身に着けていると、私、感じるの。提督の信頼を、提督の思いやりを。提督が常にお傍にいてくれているような気がして……いけない、のでしょうか? それに、肌身離さず持っていれば万が一紛失してしまうような事も、ないでしょうし」

 

 扶桑の言葉は抉るようにして俺自身の羞恥を誘った。こうも慕われては、言い返す事など出来やしない。いや、反駁めいた言葉を用いようとする事さえ、罪に思えてくる。

 なし崩し的な黙認を後押ししたのが、扶桑の浮かべる微笑みである。吹けば飛ばされてしまいそうなくらい弱々しいそれを進んで壊す気には到底なれなかった。

 

「う、うむ。俺が少しでも役立てるというのなら、これほど喜ばしい事もない。それに、紛失されてしまっては新装備に関する報告書にも不備が生まれてしまう。け、賢明な判断だな」

 

「ありがとうございます、提督。それとぉ……ええ、提督がおっしゃるのなら……あの人とも折を見て、はい」

 

「そ、そうだな、そちらの方も宜しく頼む。今後とも、より一層の活躍を期待させてもらおう」

 

「お任せください。それに私……提督のために働けるなら、たとえ死ぬ事になったとしても、後悔なんてしないわ」

 

「え、縁起の悪い事をぬかすな。冗談でもやめてくれ。戦なんてものはだな、戦場から帰ってくる事が出来てはじめて成功って言えるんだ。名誉の戦死なんぞに拘らんでくれ」

 

 どうにも話が間延びしてしまっている事を感じつつ、扶桑と話が続く。

 意外な事だったのが、川内がさして会話に割り込んでこなかった事だろう。あれだけの馬鹿騒ぎを演じて見せた片割れが、嘘のようにしんとしているのは驚きに値すると言っていい。何だ何だ、扶桑と俺の違いは一体どこにあるというんだ?

 懊悩たる物思いに沈んでいると、扶桑が川内に目を向ける。彼女は相も変わらずにこやかな笑みを浮かべていたが、その言葉は多少の棘を伴っていた。

 

「ああ、そういえば」

 

「ん? 私になんか用?」

 

「私が言える事ではないのかもしれないけど……提督に迷惑をかけないようにね。あんまりお痛が過ぎると……提督もお疲れのご様子ですし」

 

「ふーん。忠告ありがとね」

 

「こら、川内、そんな言い方は……」

 

 ぶっきら棒な態度を見せ付ける川内。豹変した顔つきに躊躇を覚えつつも、彼女の言葉遣いに釘を差す。いくら侵入者との夜戦が不発に終わったとはいえ、扶桑に八つ当たりするのはお門違いだ。

 しかし、扶桑はさして気にするでもなかった。彼女は左手を差し伸ばすと、赤子をあやすようにして川内の頭を撫でる。腰を屈めてのその仕草は、悪ガキを優しげに包み込む母性そのものでもあった。

 

「ふふふ……それでは私は失礼させて頂きます。お手数おかけして申し訳ありませんでした」

 

「あ、ああ……」

 

 一頻り川内の面倒を見た後、彼女は一礼と共に寮へと去っていく。

 扶桑が居なくなったとなれば、場に残されるのは俺と、ぶっきらぼうな態度を見せ続ける川内だけである。

 逐一前髪を弄くるようになった彼女に訝しげな視線を向けながら、

 

「……川内? さっきからどうしたんだ? そんなに夜戦出来なかった事が残念だったのか? だがな、あんだけ大騒ぎしたんだ。そうそう不審な輩に会える筈もない。まあ、扶桑ともあろう者が夜中に出歩いていたのは多少びっくりしたが」

 

「んー、そうですねー」

 

 どこをどう見ても異常を来たしているとしか思えない川内に、疑惑の念が強くなる。

 その証拠に、先まで見せていた彼女の元気も薄れ、活発さは見る影もない。一体どうしたというのだ。

 

「あ、でもさっきの提督の言葉は心に響いたよ! 戦は生きて帰ってこれて初めて勝利! ほんと、正しくその通りだね!」

 

「おいおい、俺は当然の事を言ったまでだぞ。そこまで大それた話ではない筈なんだが」

 

「うんうん。それでさ、提督もさっき言った事、忘れないでよ? 私は夜戦になるととどうにも止まらなくなっちゃうから……ちゃんと此処に帰ってこれるように、日ごろから手綱を握っておいてよね。ずっとずっと、約束よ?」

 

「う、うむ。勿論そのつもりだ。というか、一応自覚あったんだな……」

 

何時になく塩らしい彼女の姿に、違和感はとうとう最後まで拭えなかった。


























グラップラー刃牙を読んだので一つ。
正妻アピールいいゾ~これ(左手という記載を見つつ)。盗難対策をしっかり考えてる扶桑は頭脳冴えわたる大和撫子や!
てか、侵入者がいようがいまいが盗聴器は山ほど見つかりそうなんだよなぁ。





とまあ今回がどんなオチであったかというと、
好きな人には拘束するより拘束されたい構ってちゃん拗らせ系女子川内が初風と共謀して偽の報告を提出。存在すらしない侵入者を探すという名目でふたりっきりの夜を楽しみつつ所有物宣言をぶちまけていた所、乙女の勘かどうかはともかく、セイサイカッコカリが釘を刺しにきた感じ。川内「いるよ。(提督との夜を邪魔する)侵入者が」
川内が終始陽気だったのも、提督を独り占め出来てるから。ほんとに侵入者がいるなら提督に危険が及ばないように、本気でぶちのめしに言ってるだろうし。

ちなみに、提督のコブラツイストは全く極めてないので効果なし。
だから犬宣言も、痛みに堪えつつ提督の許しを請うためのものでなく、歓喜に打ち震えながらの絶叫に近い。挑発しまくってたのはアレだ。犬って基本従順に見えて散歩の時間になると途端に主人の気を引こうとするやん? あれと同じ。


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16話

「えー、本日はお日柄も良く――皆様にいたしましては益々のご健康を――当鎮守府は護国の最前線にありつつ常に――又、日本国は深海棲艦との戦いにおいて世界をリードしていく主導的立場にあり――」

 

「んー、なんかいまいちですねぇ……堅苦しいというか、何というか……もっと、こう、キャッチーな感じはどうですか? お子様人気を狙う感じでお願いしますっ」

 

「ええい、面倒な……いっその事俺は影に徹するべきじゃないか? 世間様からしてみればぽっと出の一提督に過ぎん訳だし、艦娘が放つ威光の前とあっては俺なんぞ霞むばかりだ」

 

「それこそもっと駄目になる感じがプンプンしますねぇ……あ、これ文屋の、じゃなかった、女の勘です!」

 

「お前の勘ほど信用にならんものもないがな……」

 

 侵入者の一件に端を発した騒動は未だ収束の目を見ず、その残り火を燻らせ続けていた。いや、風に煽られて再燃しつつあると取ってもいい。

 何より鎮守府周辺の警備を強化した事が悪手に変じつつあった。監視カメラの増設は勿論の事、警備人員の配置入れ替えや検問の強化等使える手は片っ端から使ってみたものの、これが近隣住民の不安を誘発させる事態に陥っている。艦娘の事しか頭になかった俺の失態であろう。

 こうした事態を鑑み、当鎮守府ではほとぼりが収まり次第、鎮守府の一般公開ツアーを開催する事が内々に決まりつつあり、かつての構想が現実味を帯び始めた格好だ。

 戦時中、加えてごく最近侵入者に警戒網を食い破られたばかりだというのに何を馬鹿な事をと思いがちだが、戦線を支えるのに不可欠なのは物資や人員ではなく、国民の支持である。芳しくない住民の心象をどこまで回復せしめる事が出来るかは、今後の鎮守府運営において至上の命題とされた。

 また、結果としてスーパースター那珂ちゃんの招聘時期が早まったのは喜ばしい事であったが、悩ましい問題が発生したのはここからであった。無論、念頭に置かなければならないのは深海棲艦への対応であったが、それだけで済む話ではない。

 大々的なプロモーションの是非から始まり、いわゆるプロ市民の排除やツアーの日程、監視体制に関係各所との連携などなど。問題は山積みであり、計画は草創期において早くも躓きつつある。

 

「殆ど丸投げされているようなものだからな。いくら対米政策の件で忙しいとはいえ、こちらの身にもなってほしいものだ、全く」

 

「青葉は結構楽しんでる方ですけどね。えへへ」

 

「お前という奴は……」

 

 困窮極まった現状に対し、上官と部下の反応は至って両極端だ。青葉型重巡艦ネームシップたる彼女とてここ最近は徹夜続きである筈なのに、浮かべる笑みは光り輝いていて実に新鮮に映る。とてもじゃないが、斜に構えがちな現代人には真似出来る代物ではない。

 とはいえ、これは大本営直々のお達しでもある。その如何を問わず上意下達は軍人の義務であって反論は許されない。仮にも鎮守府運営の任務を拝命している訳だから、それ相応の誠意をもって今回の一件にあたる必要性に俺は迫られていた。

 しかし、気が重たいのもまた事実。窓先に目を向ければ憎たらしくなるくらい澄んだ群青色の空が広がっているというのに、執務室には閉塞感が漂う。

 青葉の言葉通り、机に散らばった開会式及び当日スケジュールの草案は目もあてられないほど粗雑なものだ。一応の体裁は整えたものの、見れば見るほど粗が目立ってこの上ない。

 自然と漏れ出た深い溜息を見かねてか、青葉が現実的且つ進歩的な提案を口に出したのもこの時で、その言葉には多分に上官への励ましが加味されている。

 

「そうですよ司令官っ! ここは一つ、声の出し方や滑舌から練習し直しませんか? 司令官も人前で声を張るのは久しぶりだと思いますし、そこらへんも関係してるんだろうと思います! 大丈夫! ちゃんと青葉が見てててあげますから!」

 

 彼女の言葉にも一理あった。成る程、確かに四六時中取材を名目に駆け回っているだけあって、青葉の言葉ははきはきとして聞き取りやすく、それに加えて明朗だ。怪新聞作りの面目躍如という奴か、彼女の技術指導には一見の価値がある。

 元より彼女を今日の秘書艦に据えたのにも、開会式挨拶の草案を練るにあたって助力を期したからに他ならない。よもや発声練習くんだりまで遡って指導が入るとは思いもしなかったが、対策を怠れば恥をかくのは俺である。そしてそれは、ひいては鎮守府の沽券にも関わってくる話と言えた。

 一も二もなく快諾してみせた俺に気をよくした青葉は、それこそ赤子に言い聞かせるような口調で、

 

「それじゃあ、ゆっくり、ゆっくり、口を大きく開いて、一字ずつ、じっくり、大きな声で発音していきましょうっ! はい、青巻紙赤巻紙黄巻紙!」

 

「……あおまきがみあかまきがみきまきがみ」

 

「ゆっくりゆっくり! それに、もっとはきはきと!」

 

「……あ、お、ま、き、が、み! あ、か、ま、き、が、み! き、ま、き、が、み!」

 

「お綾や親にお謝り、お綾やお湯屋に行くと八百屋にお言い!」

 

「おあぁやや、おあ、……お、あ、や、や、親にお謝り、おあぁやお湯屋に行くと八百屋にお言い!」

 

「バスガス爆発ブスバスガイド!」

 

「ば、す、が、す、ええいまどっろこしい! バスガス爆発ブスバスガイド!」

 

「巣鴨駒込駒込巣鴨親鴨大鴨小鴨!」

 

「す、すがもこまごめ、こまごめすがも、す……悪い、何だって?」

 

「きくきりきくきり3きくきりあわせてきくきり6きくきり!」

 

「き、き、きくきりきくきり3きくきり、あわせてきききくり6きくきり!」

 

「んー、見事にぐっちゃぐちゃ! 青葉、こうなる事を予想して予め録音を行ってました! 聞いてみます?」

 

 ものの数分で疲弊した口筋と舌筋は、青葉の愉快げな態度をあげつらう事すら不可能に近い状態にまで追い込まれていた。間誤付く口元にいよいよもって諦観を覚えた俺は、椅子に深く項垂れかかって負けを認める事となる。

 彼女の態度を槍玉に上げようにも、疲れが勝っては構える事さえも億劫だ。撤退戦の様相を呈し始めた戦場を前にして、俺は早々に自身のわだかまりを切り上げる事にした。

 

「……まあ、いい。この話はここまでだ。とりあえず進捗状況を確認しておこう。青葉、現段階で上がってる意見を報告してくれ」

 

「はい! とは言っても急遽決まった話な訳ですから、あんまり芳しくはー、といった感じですねぇ」

 

「それでも別に構わんさ」

 

 手渡された書類は艦種ごとの意見を吸い上げたものである。全員の意見を抽出する事こそあまりの繁雑振りから断念したものの、事前に仲間内で議論を進めてもらった甲斐もあって、それなりに纏まりを見せる内容となっている。

 

「ふむ……成る程、確かにかねてより行われている航空ショーと比べれば、見栄えはともかく艦娘の発着艦訓練が派手さに欠けるのは否めんな。それで弓道と流鏑馬……まあ、確かに機動部隊にしてみれば十八番って奴なんだろう。この際だ、大名行列よろしく馬に跨って街から鎮守府までの道のりを渡り歩くなんてのも良いかもしれん。車両の通行止めは事前に告知してもらうとして、問題は馬を結びつけておく場所が無い事か……コンクリの上にあばら小屋をおったてるのも一つの手だろうが、その場合馬糞を誤魔化しきれんな」

 

「もう一つ、日向さんや伊勢さん達から提案が上がってるんですけど……」

 

「……護衛艦を鎮守府に? いや、これ単にあいつらが間近で見たいだけなのでは……」

 

「青葉もそう感じますねぇ。日向さん、とってもいい顔してましたから」

 

「ま、結果がどうなるにしろ一応の要請はしておこう。あいつらにはガイド役でも押し付ける事にするさ。ああそれと、この正義の味方出雲マン主演のヒーローショーに関してだが、一週間ほど隼鷹から酒を取り上げる事にしたので後できつく言っておくように」

 

 飲兵衛から酒を取り上げる事ほど残酷な事もない。しかし、場を弁えず盛大に悪ノリを披露してくれたとあっては話は別だ。彼女のあけっぴろげな性格には確かに好意を抱くが、時としてそれが鼻につく時もあるのだから複雑である。

 又、駆逐艦や潜水艦連中の意見に目を移してみると、子連れのツアー客への対処や受付に関する提案など、比較的穏健なものが目立ったのが印象的であった。察するに、かけっこや素潜りといった代物が見受けられないのは、安全面を考慮して報告前に握り潰されたからと見て間違いない。

 一通り書類に目を通し終えた俺は、疲労の色濃い喉をお茶で潤しつつ、

 

「ふむ……やはり艦娘らしさが希薄なのが気がかりだな」

 

「艦娘と市民の方々との積極的な交流自体、あまり前例のないものですし、正直どういった反応が返ってくるのかまるで定かでないのが実情ですねぇ。那珂ちゃんさんのコンサートはある種特殊なケースですし」

 

「そうだな……期限を目一杯ずらすかして、近隣の市民団体とイベントの一つや二つを行ってみてからの方が良さそうだな。あまりにもテストケースが不足し過ぎている。うむ、とりあえずの現状把握は出来た。先の一件で当鎮守府は出撃を割かし控えている事もあるし、暫くは企画立案に集中する事が出来るだろう…………それで、だな。青葉。ちょっとばかしよく分からない所があるんだが」

 

「何でしょう、司令官」

 

 待ってましたとばかりに青葉の笑みがぎらつく。それは猛禽類の爪を思わせるものだ。全く何故そんな顔をする事が出来るのかさっぱり分からない。

 今回、書類の末尾は青葉の意見をもって締められていた訳だが、その内容がいただけなかった。曰く、当鎮守府当提督、艦娘と人類の共存を自らの身をもって示すべく、最も信頼する者を帯同しつつ当作戦に参加し、その間柄を周囲に知らしめるべし。尚、信頼が情愛に取って代わっても一向に問題はなく、むしろ推奨されるものとする。いやいや、なんだこの大本営口調は。

 無論、青葉にしてみればこちらの当惑は織り込み済みであろう。広まった動揺を意に介する事なく、鮮やかな手並みでテープレコーダーを起動させてみせる。尋問の様相を呈し始めた展開に、俺は牙を剥いて食って掛かった。

 

「えーとだな、青葉。こいつぁ一体どういう意味なんだ? ん?」

 

 米神がひくつくのを感じながら、努めて冷静を装う。感情を押し殺した声色は、けれども激情を蓄えつつあり、臨界点は目と鼻の先だ。

 そうした思いとは裏腹に、青葉の快調ぶりはここに至って更に勢いを増しつつある。彼女の真意を問いただそうとした俺は、二の口を継がせぬパパラッチの大攻勢に思わず言葉を失ってしまった。

 

「言葉通りの意味ですよ司令官! 艦娘が国民に受け入れられてるのは、何だかんだいって戦時中故の不可抗力の意味合いも強いじゃないですかっ。言葉にこそ出さないものの、心の中では私達の事をあまり快く思ってない人も大勢いらっしゃると思うんです! そういう方々に対し艦娘も人間とさして変わらない存在であるという事を主張していくためにも、提督御自ら率先的にプロモーションを図る必要性があると思うんですよねぇ! それじゃあ時間もおしてますので、早速独占インタビューに移らせていただきます! ずばりですねぇ司令官! お相手は誰を予定してますか!? あ、勿論青葉って答えもオーケーだよ! 二十四時間、常に受け付けてるから!」

 

「た、確かに筋は通って……いやいや! なんかおかしくないか? 世間様で言えば、実家に恋人を連れてくようなものだぞ? 最も信頼する者というのはとりあえず置いておくとしても、じょ、情愛というのは……」

 

「嫌ですねぇ司令官! 実家に恋人というよりは、球場でプロポーズぶち上げるって言った方が正しいと思います!」

 

「それこそ論外だ! ええい、お前は一体、俺に何をやらせたいんだ!? 大体お前という奴はいつもいつも!」

 

 青葉の意図を掴めずにいた俺は、とうとう痺れを切らして声を張った。なじりを交えた詰問をも辞さない覚悟である。

 しかし、青葉の反応はこちらが事前に想定していたものとは百八十度異なるものであった。

 彼女は首からぶら提げていたカメラを手に取ると、唐突に俺をパシャリ。まんまと間を外されたものだから、肩透かしをくらった格好になる。矛先を振るうあてを失った俺を尻目に、青葉は今しがた撮った一枚を確認しつつ、憮然とした表情で、

 

「んー、やっぱり、ちょっといまいちかなぁ」

 

「お、おい。そ、それはちょっと、いやかなりショックなんだが」

 

「あ、違うんです司令官、そういう意味じゃなくて。やっぱり司令官は鎮守府の皆さんとご一緒に居た時の方が映えると言いますか……今回こうして提案を上げたのも、青葉なりに今後の鎮守府運営を考えての事でして……広報活動においても見栄えのいい写真があった方が良いですし、そう考えると益々、司令官が最も信頼する、あるいは恋愛の対象として見ている方と一緒にいる時を撮った時の方が、クオリティもダンチだと思うんですよねぇ。いかがでしょうか?」

 

「そ、そういうものなのか? 写真なんてものにはとんと縁がないから……いや、お前がそこまで言うんだ、きっと真実なんだろう。しかし、その、だな? お前の言葉は確かに正しいかもしれんのだが、うむ」

 

 怒涛の勢いで捲くし立てる青葉を前に、俺はすっかり牙を抜かれてしまっていた。ようやく搾り出した反論も、押し寄せる高波の前にいとも容易く潰えることとなる。

 

「でも、考えてみてください司令官。ここまで大義名分と舞台装置が揃った機会なんて、中々ありませんよ? もしかしたら、これ一遍きりかもしれませんっ。戦争が終わり、戦後処理の名目で艦娘の本格的な人権回復が始まったら、もう二度と会う事も出来なくなるかもしれないんですよ? その前に、憲兵や大本営を気にする事もなく、自由に好きな人と触れ合ってみたくないんですか?」

 

 青葉の弁舌は今や俺の心を掴んで離さない。何ら前振りも見せず、それこそ蛇の姿を借りて忍び寄ってきた彼女の甘言は、今ここに最盛期を迎えつつあった。音を立てて崩れ落ち始めた自前の倫理観は、今となっては風前の灯よりも頼りない。

 又、何にも勝って心の比重を占めたのが、昨今の世界事情に見る艦娘の立場である。開発班が洒落をもって名づけたケッコンカッコカリが女性蔑視と人権問題に結び付けられ、一度は沈静化を見た艦娘の人権問題が再燃しつつある。何かしらの声明はいずれ公表されるとはいえ、具体的な対応策に目処が立っていないのも事実だった。

 

「確かに今回の一件、大本営としてもメリットが…………いやいやいや! 駄目だ駄目だ駄目だ! そもそも、だ! 恋愛どうのはともかくとして、俺はお前達との間に健全な信頼関係を築きたいのであってだな! それに! 信頼関係に優劣なんてつけられるものではない! そうだろう!?」

 

「毒食らわば皿まで、据え膳食わぬは男の恥ですよ、司令官っ」

 

「ちゃんと意味分かって言ってるか、それ!? ……確かに、飲兵衛仲間たる隼鷹や千歳には、少し気安く対応してしまったり、上司部下の境を見失っている部分があるかもしれん。これは、他の奴らにも言える事だ。だが、当然の事ながら超えてはならないラインはしっかり自分の中に敷いてあってだな。ましてや部下に自分の本音をあけすけにするなど」

 

「鳳翔さん」

 

「…………」

 

「あ、今のシーンはカットしときますので、また次の機会にでも」

 

「……そう、だな」

 

 有無を言わせぬ青葉の態度に、思わず言葉に詰まる。

 何より失態だったのが、青葉の提案に少なからぬ魅力を感じている自分が存在する事だった。戦局を覆そうという気概が一切湧いてこない。

 実際彼女の言葉はつくづく理にかなったもので、欲望がとぐろを巻いて思考に纏わりついてきたのも決して無理からぬ所であった。これほど大義名分が出揃うような機会、そう何度も恵まれる訳でないという事実が更に拍車をかける。

 しかし、そうした情動を言葉にする事ほど木っ恥ずかしい事もなかった。誰か一人を選出するにはどうにも甲乙つけがたい事も相まって、口から出るでまかせもどうにも要領をえない。

 

「…………まあ、そりゃあれだ。…………俺はその、分け隔てなく、皆の事が好き、だぞ? うむ。あ、勿論鳳翔をえこひいきしているつもりもないからな」

 

「そういう言い訳は別にいらないかなって青葉は思います!」

 

「ほ、ほんとの事だから仕方ないじゃないか! そうだろう!?」

 

 必死の弁明も青葉の前とあっては焼け石に水。軽くあしらわれては失意に沈む度、己の不甲斐なさを肌で感じ取る事になる。仕方ないじゃない、男の子なんだもの。

 しかし、自体が急転直下の展開を見せ始めたのは正にここからであった。徐に広がり始めた諦観に侵食されつつあった俺は、愕然とした面持ちと共に激流に身を任す事となる。

 

「でも、大丈夫です! どうせ司令官ならそう言うだろうと思って、青葉、見栄えと実績重視で三人ほど見繕っておきました! 一応、最も提督の信頼する艦娘としてお呼びしてあります! そろそろいらっしゃるんじゃないかな?」

 

「いらっしゃる? おい、青葉、お前一体何を考えてっ」

 

「言ってなかったかもしれないけど、青葉が見ていて一番好きだなって感じるのは、困った顔してる司令官なんだよ?」

 

 執務室の扉がけたたましい音と共に開け放たれたのは正にその時だ。

 ノックの一つもない、嫌がおうにも注視せざるをえない横暴ぶりにまんまと視線を奪われた俺は、そこでおもいもよらない人物を目の当たりにする事となる。

 

「や、大和? 一体、どうしてここに」

 

 空いた口が塞がらないとは正にこの事で、そこには大和撫子と謳われた清楚さは微塵も残されていなかった。試しの門に挑んでいる訳でもないのだ、ここまで幽鬼じみた雰囲気を表露させている事には首を傾げざるをえない。

 こちらに許諾を得る事もなくずかずかと執務室に入り込んで見せた彼女は、その威圧感ある長躯を間近にまで持ってきてから、開口一番こういってのけて見せた。

 

「提督。大和、感激です。ああ、私、ワタシっ」

 

「や、大和。落ち着け。落ち着けったら」

 

 大和の醸し出す迫力に気圧された俺は、知らず知らずの内に体を引き気味にして彼女と相対していた。言わずと知れた三十六計も、この時ばかりは役に立ちそうにない。

 こちらの言葉に対し一切聞く耳を持たない彼女は興奮鳴り止まぬといった態度を前面に押し出すと、

 

「まさか、ここまで大和の事を重用してくれるなんて……提督は、大和の事をちゃんと見てくれてたんですね。ええ、ええ、大和は信じてました。提督なら、必ず立ち上がってくれると。そう、提督は必ず私にお声をかけてくださると。再び与えられた華舞台。大和は、今度こそ提督と共に辿りついて見せます」

 

「いやいやいや、何か大きな意識の隔たりというか、とてつもない勘違いが生まれているというか何というか、あー、その、だな、大和。大変、大変心苦しいんだが実は……」

 

 答えに窮した俺は言葉を濁らせつつ、この場を如何にして誤魔化すかに終始せざるをえない。

 この際視界の端で捉えたのが愉快げにカメラを携える少女もとい主犯である。影と徹したその存在に大和はこれっぽっちも気付いていない様子で、異様な興奮ぶりは益々熱を帯びるばかりだ。どうも話が拗れて先方に伝わっているとしか思えない。

 果たして事態を揺り動かしたのは俺でも大和でもなければ、ましてや青葉という訳でもななかった。閉じ込んで久しかった執務室の扉が再度開け放たれたのは正にその時で、外気と共に室内に押し入ったのは新たなる感情の澱みである。

 きりっとした目鼻が俺を捉えたかと思うと、肉体美溢れる肢体はダイナミックな躍動感を引き連れ瞬く間に彼我の距離を詰めた。戦艦長門のお出ましである。

 

「話は聞かせてもらったぞ、提督」

 

「な、長門、お前まで……い、一体どうしたというんだ? うん? 主力艦隊には特別休暇を与えてあるんだから、今日は仕事に関わる必要はないんだぞ? いやいや、その熱意は認めるがな? あと、ノックの一つや二つはするようにな? お前らしくないぞ?」

 

 背中から忍び寄ってきた悪い予感は、こういう時に限って百発百中の出来栄えを見せ付ける。的外れの見解を容赦なく切り捨てて見せた長門は、単刀直入初っ端から本題を切り出した。

 

「何、こうして直々のお達しを受けたのだ。うかうか休んでなどいられないさ。確かに、戦闘一辺倒な生き方をしてきたものだから、この手の任務は空っきしだ。だが、それを承知の上でなお提督がこの長門を頼りにしてくれたというのなら、これほど嬉しい事もない。ああ、この長門に任せておけ。万事この上なく至高の戦果を叩き出してみせるさ。提督のためにこの身を役立てる事が出来るというのなら、これほど喜ばしい事もない。そう、私は、戦艦長門は、元よりそのためだけに存在する。貴方のためにだったら、何時だって私は」

 

 腕を組んで目を瞑った彼女は、感慨深さに浸っているように見えた。男勝りながらも何処か乙女を思わせる仕草に、普段の武人然とした態度とのギャップが広がる。ああ、勿論こういうのは大好物だ。しかし、緊急事態とあってはそれを楽しむ余裕さえ存在しない。

 

「あー、長門。その言葉は大変誇らしい。尚且つ喜ばしい事ではあるんだが……」

 

 誤解を解こうとした矢先の事である。不意に視線を横に向けた長門が、目を丸くして驚きを露にする。得てして同じ反応をみせたのが、今回の一件に巻き込まれた片割れたる大和だ。

 

「ん?」

 

「ん?」

 

 どうやら本気で、今の今まで互いの事に気付いていなかったらしい。口に手をあてて息を呑んだ大和は、躊躇いがちに途切れ途切れの言葉を搾り出す。

 

「なが……と?」

 

「大和こそ、どうしてお前がここに……」

 

「私は、その、とある一件における重要な任務を提督から任されるにあたって、極秘かつ慎重に事を進めるべくここに足を運んだのですが……」

 

「ふむ、それならば尚更、こんな所で出会うだなんて奇遇だな。いや、なに、恐らくお前のとは別件であると思うのだが、私も急を要する任務に就いていてな、提督と綿密かつ秘密裏に話し合いの場を設ける必要性があったんだが」

 

「今日はお休みだったのでは?」

 

「それはお前にも言える事だろう?」

 

 一歩間違えれば二人の関係性に亀裂を走らせかねない事態に危機感を覚えるも、どうにも舌が回らない。原因は己に芽生え始めた腑抜け具合にあった。

 青葉に良いように操られているのは癪であったものの、絶世の美人たる二人にこうも慕われているとあっては、だらしのない笑みが顔中に広がるのも致し方のない事のように思えた。

 正に両手に華。あーもう、正直このまま、ずっとずっと、ずっと時が止まってしまえばいいのに。俺の股間は端から有頂天だ。血よ! 今こそ一点に集まれ! 

 だが、広がりつつある混乱を制せずして、何が鎮守府の長であろうか。弛緩しきった顔を引き締める。また、この時ばかりはインポテンツである事に感謝せねばならなかった。ほら、あれ、立ち上がるにしろ二人を説き伏せるにしろ、テント立てたままじゃ格好がつかないし。

 

「そ、そういえば青葉」

 

「ん、何ですかぁ司令官」

 

 閑話休題。

 二人の世界に突入しつつあった大和と長門を他所に、隅っこにへばりついたままの青葉へ話しかける。

 

「その、だ。もしかして最後の一人って、扶桑だったりするのか?」

 

「? 違いますよ司令官。ケッコンカッコカリの印象が悪くなってるのに、彼女を表舞台に出せる訳ないと思いますけど。青葉も今回はそういうのに配慮して、扶桑さんの写真は撮らないつもりですが」

 

「そ、そうなのか。いや、なに、正直最近、扶桑の事を見てると妙にドキドキするというかなんというか、ああ、今のは関係ない話か」

 

 そこで話を切り上げた俺は、なにやら苛烈な冷戦を繰り広げている二人に向き直る。

 軽い咳払いと共に事態の掌握を開始しかけた俺の失態は、扶桑がこない安堵感に我を忘れ、真なる三人目の存在を思考の外に追い出してしまった事だろう。この期に及んで執務室に入り込んできた輩が、またしても口を挟んでみせる。

 

「――――ちょっと一言よろしいかしら?」

 

 苛立ちを募らせた、強気な口調。穏やかな色調の瞳は、相反するようにして激情を携えている。生来のブロンドまでもが怒りに逆立って見えたのは、決して錯覚などではなかった。黒を機軸とした艤装が威圧感を醸し出しているのは言うまでもない。

 日本戦線において殊更異彩を放つ彼女は名にし負うドイツの名艦で、その名をビスマルクと言った。名だたる海外艦の中でも逸早く日本に赴任する事になった彼女とはかれこれ随分と長い付き合いで、勝気の中に潜む幼さがつい笑みを誘う、そんな少女である。

 しかし、たった今現れたばかりの彼女からは、常である内面的脆弱さは全く見受けられなかった。まるで重厚で鳴らした鉄の兜を被っているような、そんな印象を受ける。感情がまるで窺えない。

 彼女は重々しい軍靴の音を響かせると、大和と長門の間に割って入り、執務机に己の思いの丈をしこたまぶつけてみせた。両手のひらを打ち付けられ、机が盛大なかなきり声をかき鳴らす。背中が酷く臆病な内面を曝け出す羽目になったのは当然の帰結だ。

 

「提督」

 

「な、何だ?」

 

 彼女はおおよその事態を把握しているらしかった。その鋭い眼光を左右にぶつけてから、再度こちらに向き直る。

 

「このビスマルクを差し置いて、何やら話が進んでいるようね? あなた、これは一体どういう事なの? 事と次第によっては相応の対応をさせてもらうけれど」

 

「いや、その、だな? 俺はだな」

 

「そういった優柔不断さがこの事態を招いているのではなくて? 全く、最も信頼出来るなどと謳っておきながら三人も集めるだなんて、いいご身分よね?」

 

 ビスマルクのもっともな言い分に、ぐうの音も出ない。

 仮に青葉が嘘を織り交ぜているならば、ここから更に雪達磨式で四人目五人目が現れるのだ。そうとなれば、さしもの大和や長門でも怒りを覚えずにはいられないだろう。

 ビスマルクの出現で大体の事態を把握した彼女らは、不満を思わせる色合いを見せつつこちらに視線を送ってきた。

 

「提督、今の話は?」

 

「あー、いや、俺は鎮守府の全員を信頼しているのであり、そこに順位づけをするなどというのはあまりに不当で卑劣かつ信頼という言葉に仇名す行為であるというか……」

 

「それで、皆さんをお呼びしたんです! 私と司令官だけでは何時までたっても埒があきませんので! 皆さんをお呼びすれば嫌が応にも答えをださざるをえないと思いまして!」

 

「な、ななななっ」

 

 装いも新たに素知らぬ振りを気取って、青葉がひょっこり顔を出す。

 それまで影となって場の情勢を見守っている姿に一種の安心感を抱きつつあった俺は、伏兵の唐突な横槍にまんまとしてやられる格好に相成った。顔一杯に苦い表情が広がり、正に苦虫を噛み潰した気分だ。

 青葉に毒づきたくなる気持ちに駆られていた俺に更なる衝撃が走ったのはこの後で、ビスマルクが投下した爆弾によってまたもや断崖絶壁へと追いやられる事となる。彼女は綺麗に整った眉を憤慨でいきり立たせると、

 

「ふう……本当に貴方って人は優柔不断ね! 一度矯正の機会を設けるべきかしら!? そんなの、迷うまでもない話でしょう!? そういう時は取り敢えず私とか私とか、あと、私なんかを選んでおけばいいのよ!」

 

「びび、ビスマルク? お前、一体何をっ」

 

「何よ。べ、別に当然の事を言ったまででしょう? は、恥ずかしくなるからいちいち聞き返さないでくれる?」

 

 思わず広がった沈黙の海。本土爆撃を敢行したドイツ生まれの少女は顔を真っ赤に染めてしらばっくれたものだから、会話はそこで沈滞の憂き目を見た。

 いやね、これほど嬉しい事はないよ? だけどさ、別に、今言う必要はないんじゃないかな? かな?

 あまりの動揺に前後不覚に陥った俺を置き去りにして、逸早く思考停止から脱却した二人の強者がビスマルクに詰め寄る。

 

「ふむ……ビスマルク。今のは?」

 

「大和も、お聞かせ願いたいです」

 

「あら、いたの二人とも? 全然、全く、これっぽちも! 気付いてなかったわ。これが言わずと知れたドイツ軍の速攻というものよ。ヤーパン特有の奥ゆかしさとやらは少々欠けるんだろうけど、中々のものよね? 褒めてくれていいのよ?」

 

「…………ふむ」

 

「…………へぇ」

 

「な、何よ二人とも。変な顔して」

 

 なんか、すっごい変な事態に陥ってるよな、これ。

 頭を抱えたくなった俺に、ぱしゃり、ぱしゃりと、無機質なシャッター音が送り届けられる。

 

「……青葉?」

 

「いやぁ、いい顔してますねぇ、司令官。あ、ちょっとかぶってるんで、ビスマルクさんどいてもらえますか? あ、ついでだから皆で記念写真でも撮りましょうか!」

 

「いや、今ここでそれを言うか!?」

 

「いやぁ、輝いてますね司令官! やっぱり、司令官の居場所はここなんです!」

 

 結局、事態の沈静化が図られたのはそれから一時間後の事であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私室。たった一人しかいない部屋で。鬱屈とした思いが燃え上がる。

 

 じょき、じょき、じょき。じょき。

 

「嘘」

 

 じょき、じょき、じょき。

 

「全部、嘘なんです、司令官」

 

 じょきん。じょきん。じょきん。鋏が全てを切り裂く。

 

「出来た。えへへ。出来ちゃった。出来ちゃったんだ」

 

 ――――青葉は。彼女は。

 

 画面越しのデジタルな感動よりも、手塩にかけ、自らの手で作品を作る事をこぞって好んだ。きっと、活け花をしているような錯覚が好みに映ったからに違いない。

 一枚の写真から切り取られた人型。そこには、大本の写真に写っていたであろう大和も長門も、ビスマルクも存在しない。

 

 「欲しいなぁ。欲しいな欲しいなぁ。どうして、どうして青葉だけのモノにならないんだろ」 

 

 青葉は、司令官の事が好きだった。

 皆に囲まれて幸せそうな司令官の姿が。

 けれど、その姿を見るたび、結局、司令官は皆の司令官である事を再認識させられてしまう。時折、誰か一人に傾きかけるけど、結局は元通りになってしまう――それで良かった。それこそが青葉の大好きな司令官であり、同時に、押し寄せてくる胸を締め付けるような思いに、青葉はいっそのこと窒息死してしまいたかった。

 青葉は、司令官が欲しかった。皆に対して向ける好意の全てを、自分だけに向けて欲しかった。

 けど、それでは駄目だ。それは、彼女自身が望む司令官の姿ではない。司令官は皆の司令官であって、はじめて司令官足りえるのだ。

 だが、しかし、けれど。それでは。手を伸ばせば直ぐにでも届くそれをどうしても手に入れる事が出来ないという現実に、どう立ち向かえばいいのか。

 

 愛用のテープレコーダーに手を伸ばす。再生とリピートが繰り広げるのは、青葉が求めて止まないたった五文字の言葉だ。

 

「――――あ、お、ば、す、き」

 

「~~~~! はい! 青葉も、青葉もです! 青葉も、司令官の事、大好きです! 大好き! 大好き! 大好き! えへへ……!」

 

 その瞬間、青葉は気が狂いそうになるほどの感動の渦に巻き込まれた。

 いや、既に狂っているのかもしれない。胸から溢れ出す罪悪感と歓喜が綯い交ぜとなって彼女の高揚感を更なる高みへと送り出す。

 狂喜こそが、彼女を鬱屈とした現実から解放せしめる唯一の手であった。狂気こそが、正気を保たせる唯一の劇薬であった。

 彼女は、泣いていた。嬉しいからなのか、悲しいからなのか。その判別が出来なくなる程の異常な興奮が、高波となって彼女に押し寄せる。

 

「あ、お、ば、す、き」

 

「いやですねぇ司令官。そんな大胆な……」

 

「あ、お、ば、す、き」

 

「えへへ、そんな何度も言わなくても……! もう、青葉恥ずかしくなってきちゃった……!」

 

「青葉好き」

 

「えへへ、幸せだなぁ、幸せ、幸せ」

 

 リピート、リピート、リピート。

 二人で一緒に過ごす彼女の夜は、まだまだ始まったばかりだ。

 人型に切り取られた写真の中で、男が困り果てた、だけどどこか楽しそうな顔を浮かべている。

 

 

 

























(どうせ切っちゃうから)記念写真はOK。だけど、司令官と被って写るのは(切れないので)NG
もし司令官が好きな子を作ったとしても、写真の中の司令官は自分に微笑みかけてくれる訳だし、まあ無問題ですね。あ、デジタルな感動ってのはパソコンで画像いじくるって意味ですよ。

鎮守府の警備強化したら那珂ちゃんのコンサートが早まったって、あっ(察し)

そういえば、北上さんを大破進撃させて危うく轟沈しかけました。
すっごい昔のドラマでですね、見ず知らずの子供にゆっくり一文字ずつ単語を言ってもらったのを録音並び替えして、それを犯行声明の音声に使ったってお話が……。何が言いたいかというと、あ(おまきがみ)、お(あやや)、ば(すがす爆発)、す(がも)、き(くきり)。
今回はあれ、青葉の一人語りがやりたかったので扶桑回と同じパターンでいきました。
三人娘のヤンデレ? 提督がじきじき選んでくれたと思ったんだからそりゃ吹き飛ぶよ。結局有耶無耶になったせいで悪化したけど。うん、めっちゃ悪化した。

次回は結構軽めを予定。


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第17話 隼鷹という女

 金剛の機嫌が良い。

 普段の七割増しの陽気さは鎮守府の賑やかさに華を添えていたし、何より増して彼女の笑顔は、晴天の続く大らかな天候によく映えた。原初女性は太陽であったとはよく言ったもので、日がな一日眺めていたって飽きはしないだろう。

 

「ふっふふーん。ふっふふーん」

 

 えらくご機嫌な鼻歌だ。場所と時、事と次第によっては慎んでしかるべきものであるとはいえ、今回ばかりは小言を言うつもりにはなれなかった。金剛と称される少女の悲願は、今ここに日の目を見る形になったと言える。思わず執務の手を止めて彼女に向き直ったのも、その喜びを共有したかったからに他ならない。

 

「それにしても、本当にようやくだな。この調子でまだ見ぬ比叡、霧島の両名とも合間見えたいものだが」

 

「そうデスネー。ふふ、やっぱり、信じる者は救われマース」

 

 彼女の笑顔には一切の曇りがない。それもその筈、待ち望んだ姉妹艦がようやく着任したのだ、俺なんぞでは推し量れぬ思いが心の内を駆け巡っているであろう事は、想像に難くない。

 先日の事である。金剛型三番艦榛名が着任したのを皮きりとする歓迎会は、興奮冷めやらぬ内に幕を下ろした。喜びに浸った金剛の浮かれ様はそれはもう凄まじいもので、酒保から提供されたワインを片っ端から空にしてみせた酒豪ぶりは、並み居る飲兵衛を唖然とさせるには十分過ぎるものであった。

 とはいえ、羽目を外しに外して見せた彼女も一応の節度は持っていたらしく、翌日の仕事ぶりに何ら支障はない。それどころか、かえってその所作に益々磨きがかかったと言っても過言ではなく、姉妹艦の着任がある種のカンフル剤となったのか、一皮も二皮も向けた印象を覚える彼女には舌を巻くばかりだ。

 

「しかし、同型艦の着任がここまで遅れるとは思っても見なかった。お前にも、随分寂しい思いをさせてしまったな」

 

 かつて胸中を席巻し、今もなお燻り続ける焦燥感に思いを馳せる。戦艦榛名との邂逅がここまで間延びしたのには訳があった。

 これまで彼女を建造で引き当てたのも一度や二度でなかったが、その度に海外からの要請から、新造艦を手放す必要に迫られたのである。これは、昨今世界的規模で艦娘の需要が急騰している事に関係する。

 鉄は早いうちから打て、という訳でもないだろうが、慣れない異国の地に早くから順応出来るよう、即戦力足り得る戦艦級の一部は建造直後からの海外派遣が決まっていた。

 無論、こうした政治的経済的要因の絡みは現場の金剛には全く関係ないし、理解の範疇を飛び越えた話だ。それ故、海外派遣が打ち止めとなった今をもってなお、妹達との絆を引き裂いてきた己の悪漢ぶりに罪の意識を感じてきた訳だが、彼女はそれを笑みをもって一蹴する。

 

「ふふ、そこまで私の事を考えてくれてたなんて、艦娘冥利に尽きますネ。正に感無量という奴デース」

 

「い、何時にも増してオーバーだな。お、俺はただ、同型艦が存在しない事による疎外感が、艦娘に与える悪影響を危惧していただけであって……」

 

「AHA。そういう事にしておきマース」

 

「お、お前な…………いや、まあ、いいか。うむ」

 

 こちらの真意を見透かした上での発言に唇を尖らせるも、彼女が浮かべる微笑みを前にして何も言えなくなってしまう。

 気恥ずかしさを伴い始めた顔の赤らみに更なる追い討ちをかけたのが、歌うようにして語られた金剛の胸の内である。彼女は感慨深げに何度も頷いてみせてから、

 

「ふふふふ。テートク。私、今とっても幸せデース。ここまで、本当に長かったネ。ええ、本当に長かった。ふふふ、欲しいモノは往々にして手に入らないと言いますカラ、その点私は運が良い方デース。AHAHAHA!」

 

「う、うむ。嬉しそうで何よりだ。今日は執務の都合上あまり構ってやれないが、俺も積極的に榛名とのコミュニケーションを図りたいと思っている。なるたけ早く、この鎮守府に馴染んでもらわなければな。処女航海というには役者不足かもしれんが、明日には鎮守府近海の警備にも回ってもらおう」

 

「榛名ならきっとダイジョーブネー! あの娘は、とっても良い娘だから……それに、私も出来る限りの範囲で尽力しマース!」

 

「ははは。出来る部下を持てて俺は幸せ者だよ。ああ、それと、榛名が来て嬉しいのも分かるが、あまり贔屓し過ぎるなよ。浦風達が寂しがる」

 

「HAHAHA。言われるまでもないデース」

 

 古株の金剛を慕う者は多いが、駆逐艦浦風のそれは特に顕著だ。WWⅡからの縁はそう簡単に切れるものでないという事だろう、二人の和気藹々とした間柄は鎮守府における周知の事実となっている。

 つい最近もその仲の良さを周囲に見せ付けたばかりで、それは浦風が紅茶を嗜むようになった積み重ねの一つと言えた。

 

「確か、何日前だったか。二人でお茶会を開いてたな」

 

「イエス。とっても楽しかったデース」

 

「四日前だったか? いや、それとも三日前だったか?」

 

「イエス。その頃だったと思いマース」

 

「いやいやいや、思い出した。五日前だ。あの時俺はお前達がお茶会を続ける傍ら、磯風謹製の奇天烈手料理を食わされていたんだ。ああ、全く持って独創性溢れる、うむ、個性的な味つけだった。思わず記憶を封じ込めたくなるくらいにはな」

 

「ah…………それにしても、その、何というか、災難、でしたネ。そんなに、美味しくなかったんデスカ?」

 

「ああ、この世のものとは思えない類のそれであった……かの魯山人だって裸足で逃げ出すだろうさ」

 

「ハハハ……それじゃあ、口直し、という訳じゃありませんケド、そろそろ昼食の時間デース。提督、今日はどちらで食べますカ?」

 

 促されるようにして時計に目を移せば、既に時計は昼時を指している。

 彼女の言葉に触発されてか、それまで沈黙を保っていた胃袋が唐突に喚き声を上げ始めたのがその時だ。それは産声にも似た感情の発露であったが、意地汚さという点において他の追随を許さない。認識するや否や猛烈に訴えを起こし始めた空腹感を慰めるのは、何にも勝る急務と言えた。

 何より、口の中を蹂躙し始めた感覚が苦々しい過去を克明に浮かび上がらせる。舌にこびりついた残滓は、まるで貴金属を腐食させるかのようにして俺の味覚を蝕みつつあった。

 

「ぐっ、思い出しただけで……これは確かに口直しが必要かもしれん。確か、今日の昼食は……」

 

「ヘイ、テートク、忘れたんですカ? 今日の昼食は――――カレーネ」

 

「ああ、そういえば、そうだったか」

 

「私の手作りじゃないのが残念ですケド、ちゃんと食べてくださいネ? 健康は、日々の過ごし方の賜物ですカラ」

 

「うむ、正にその通りだ。さて、それじゃあ今日は食堂でゆっくり食べる事にするか。特段急を要する仕事がある訳でもないしな。領海巡回、並びに貨物船の護衛部隊が帰ってくるまでには食事を済ませる事にしよう」

 

「テートク、だからと言って早食いはトゥーバッドですからネ?」

 

「こ、子供でもなしに、そんな事は言われんでも分かっとるわ!」

 

 険のある言い方になったのは不可抗力だった。こちらの身を案じての発言である事は重々承知していたものの、頭ごなしの物言いが癪に障ったのも事実だ。

 しかし、矮小な自尊心をひけらかした代償はあまりにも大きい。金剛は肩身狭そうに顔を曇らせると、申し訳なさげに頭を垂れる。その仕草は、俺の罪悪感を盛大に煽り立てた。

 

「……怒りましたカ?」

 

「うっ……いや、別に怒ってはいない」

 

「そ、それなら良かったデース!」

 

 笑顔を貼り付ける金剛。影の差した微笑みは、一転して彼我の溝を大きく広げる事となる。

 金剛の気遣いを無碍も無く切り捨てたのは、無条件の信頼に対する一種の裏切りであると言えた。彼女の慕情に託けた報復行為は、こちらの言い分に強く言い返してこないだろうという前提の上で行われている。

 これが叢雲や陸奥、あきつ丸といった面々であったならばまた勝手も違ったであろう。上官への口答えという点に関して言えば、彼女らのそれは一級品だ。

 だが、金剛は違う。彼女は何時も――そう、どんな時も俺を立ててくれた。インポテンツを遠因とする艦娘への嫌悪感が早期に払拭されたのも、彼女の存在が大きい。

 それに比べて、俺はどうだ? 上官と部下という名の上下関係を後ろ盾に彼女との関係を有耶無耶にし、あまつさえ彼女の健気さに鞭を打ってみせるとは、日本男児にあるまじき恥ずべき行為である。

 遅まきながら罪悪感と己への嫌悪感に打ちのめされた俺は、謝罪の言葉を口にしたまでは良かったものの、それ以上の打開策を見出せなかった。並び立って歩く二人の間には、沈黙の冬が訪れる。己の過失は豪雪を思わせる形で俺の体に覆い被さっては止もうとしない――――これこそが、自堕落な自棄酒を深刻なものへと変貌させた真相である。

 夜。帳の落ちきった鎮守府の一角。部屋を満たす煌々とした明かりが、自身の存在を暗闇に曝け出す。それは暗がりの中にあって一層光り輝いたが、同時に夜の濃淡を際立たせるものでもあった。

 

「…………」

 

 常日頃の整然とした景色は見る影も無い。私室には酒瓶が散乱し、我先にとアルコールを欲する様は、篝火に群がる蛾のようでもあった。胡坐をかいて床に居座る俺の頬も、今となっては林檎のように火照って久しい。

 コップに並々と注がれた日本酒を胡乱な眼差しで見つめていた俺は、沸々と沸きあがってきた屈託した思いを誤魔化すべく、一思いにそれをあおった。

 

「おっ、良い飲みっぷりだねぇ提督! さーさーもう一杯! 嫌な事があった日にゃ、酒を飲むに限るってな! あ、勿論酒を飲むのに理由なんざ一々いらないんだけどねぇ! んく、んく! ぷはぁ!」

 

 これに気を良くしたのが今宵の晩酌付添い人の片割れたる、軽空母隼鷹である。こちらに釣られてか、つまみを口に含んだ彼女は次いで缶ビールに口をつけると、おとがいを引き上げて一気にそれを流し込んだ。

 彼女のあっけらかんとした性格は建造当初からのもので、それは誰とも隔てなく接する様子からも窺い知る事が出来る。酒の嗜み方を覚えたのも、隼鷹からの影響が大きい。

 彼女は常日ごろから酔態を晒すほどの飲んだくれであったが、今宵の泥酔ぶりはそれはもう凄まじいものであった。顔は真っ赤に染まりきり、腰あたりまで伸びたパープルカラーの長髪は悲惨なまでに型崩れしているものだから、打ち上げられた魚の死骸のような有様だ。ぺたりと額にはりついた前髪が余計にそれを連想させる。

 それと、胸胸。はだけてるって。直さなくていいけど。

 

「あー、ほんと良い気持ちだよぉ。やっぱ酒は良いねぇ。何つったって、禁酒令出されてた時は手ぇ震えてたし」

 

「おいおいおいおいィ? 大丈夫なのかそれ? 典型的なアル中の症状だぞ?」

 

「あははぁ、冗談だってばぁ。艦娘がそんな柔な体してるわけないじゃん! かー! それにしても、旨いねぇ、ほんと!」

 

「うむ、そうだな! ほら、お前ももっと飲め! 上官の酒が飲めんとは言わせんぞ!」

 

「おおっとぉ、こりゃどうも! あはは、こいつはまた旨そうだねぇ!」

 

 対面の女に酒を注ぐ。よっぽど餓えていたのだろう、注がれるや否や彼女はそれを一気に飲み干し、次の一杯を催促してみせた。

 酒。酒。酒。酒に貴賎はない。日本酒だろうが缶ビールだろうがワインだろうが、飲めれば何でも良いのだ。飲んでいる間は嫌な事は全て忘れられる。ここに広がる景色だけが現実に移り変わる。そうだ! これこそが唯一無二かつ絶対無敵のパライソなのだ! 

 瞬く間に酒気とアルコールと脳内エンドルフィンによって精神を汚染された俺は、上下左右の境を無くし、逃げるようにして酒を飲み続けた。朦朧とした視界の中、声高な脈動がひっきりなしに警鐘を鳴らし続ける。オーバーワークにその身を窶す肝臓は、刻一刻とその寿命を減らしつつあった。

 さりとて酒宴はまだまだ始まったばかり。オイルサーディンに箸を伸ばした俺はいい塩梅にほぐれた身を一摘みすると、勢い新たに口元へと放り込んだ。舌の上で転がすや否や広まった優しげな味わいに充足感を得た俺は、次いで口元へとコップを運ぶ。

 

「なんだ、空じゃないか!」

 

「おーおー、大丈夫かい? 提督はあたしらと違うんだからさぁ。あんまり、無理するもんじゃないぞぉ?」

 

「ううむ、分かってる、分かってるさ、そんな事。ああ、本当だ。うん」

 

 予想以上に酒の回りが早いらしい。

 呂律こそ確かであったものの、ぼんやりとした視界からは根こそぎ意識が刈り取られ、もはや自分が何を言っているのかも定かでない有様である。

 これで緊急事態の一つでも起こった日にゃ目もあてられない惨状となるのは想像に難くなく、千鳥足の酩酊状態が如何に鎮守府を危険な立場に晒しつつあるのか、嫌でも頭に叩き込まれた事だろう。

 しかし、そうした現実的思考が脳裏を掠めたにも関わらず、下卑た欲求はまるで収まる所を知らなかった。親しみを伴う、それでいて真に迫った隼鷹の諫言が耳に痛い。彼女は時折こうして、平時のおちゃらけた姿勢を取っ払った物言いをする事があった。

 だが、今回ばかりはその言葉に従う訳にはいかない。人間には、酔わずにはやっていられない夜もある。

 隼鷹に癇癪を起こしつつあった俺を寸での所で踏み止まらせたのが、もう一人の晩酌付き添い人たる軽空母千歳である。傾けられた酒瓶が、その半透明な臓物をコップの中へと流し込む。コップの中で轟く波濤は、これ以上の飲酒を暗に拒絶しているようにも思えた。

 

「うふふ、はい提督。おかわりはまだまだありますからね?」

 

「おーおー、すまんな千歳。お前もちゃんと飲んでるかー?」

 

「ええ、勿論! あっ、これとっても美味しいのよ! ほら、提督も食べてみて!」

 

 酒気を伴わない微笑みに、清楚とした立ち振る舞い。

 酒には滅法弱い方というのがお決まりの弁であったが、彼女が酔い潰れて醜態を晒した事は一度とてなかった。

 単に謙遜しての事か、はたまた自身のウワバミっぷりを自覚していない天然さんなだけなのかは定かでなかったが、個人的には後者の意味合いが強いと思われる。つまみを頬張り、口元にあどけない笑みを広げる千歳。どこか抜けている印象が拭えない所も、彼女の美点の一つであると言えた。

 最も、それこそが千代田を悩ませる頭痛の種だという事は想像に難くない。そうでもなきゃ、さっきからたわわに実った胸部装甲をガン見しっぱなしの俺に対して、何かしらのアクションを起こしていてもいい筈だ。いや、ほんと眼福だよね。おっぱい最高だわ。

 

「でも、隼鷹も言ってたように、提督もほどほどにしてくださいね? 明日に響くといけないから」

 

「う、うむ。分かってる。分かってるさ! ほんとだぞ!?」

 

「もう……本当に分かってるのかしら?」

 

 どうやら千歳の御気に召す発言とはかけ離れていたらしい。前のめりになってこちらに迫るおっぱいに動揺を覚えつつ、誤魔化しに終始する。

 本音を言えば、分かってなどいない。分かっていたら、酒なんぞに手をだしてはいない。

 こちらの言葉がその場凌ぎの急拵えである事を早々に見抜いた隼鷹は、呆れた様子で視線を向けてくる。

 

「しっかし、分かんないねー。話を聞く限りじゃさあ? 金剛も金剛じゃん? 提督がいちいち反論しなきゃ気がすまないタチなのは何時もの事だし、そんな真に受ける必要なかったと思うんだけどねぇ」

 

「む……いや、金剛は、悪くない。あれは俺の対応が不味かっただけだ。俺は、その……金剛と、どう接すればいいのか、うむ。よく分からんのだ。いっその事、陸奥のような減らず口を叩いてくれる方が、俺としてはよっぽど扱いやすかった。その、良い意味で何も言い返してこないものだから、俺という奴もついつい……」

 

「もうさぁ、付き合っちゃえば?」

 

「いやいやいやいやいや! それは許されん! 誉れ高き日本海軍の男として、部下に手を出すなぞ以ての外! そもそも、だ! 俺が目指すのは戦争の終結であり、深海棲艦の絶滅である! 恋愛なんぞは最も唾棄すべきものであってだな……」

 

「ふーん?」

 

 ちらりと、胸元に手をやる隼鷹を俺は見逃さなかった。挑発するように肌蹴たそこは、彼女の手管を受けてヒートアップする。御簾越しの双丘の頂に、俺はえもいわれぬ興奮と動揺を覚えた。あ、バレてたのね。

 そこから巻き起こった隼鷹の行動は機を見逃さず敏としたものである。立ち上がった彼女は徐に千歳の背後に忍び寄ると、その類まれなる乳房に十指を伸ばし、盛大に揉みしだいてみせた。羨まけしからん。

 

「きゃっ、ちょっ、ちょっと隼鷹ってば」

 

「あんまり物欲しげな視線で提督が見てるもんだからさぁ」

 

「ん、ふぁ、やだ、そうだったんですか提督? それなら、んっ……私に直接言ってくれれば……」

 

 荒々しい手つきに、千歳は浅い呼吸を繰り返すのが精一杯だった。下手人に差し向けられたその腕も、俺の名前を出された途端弱弱しく矛先を失う。隼鷹を律する立場にあったにも関わらず、まんまと図星を突かれたものだから咄嗟に口を開く事も出来ない。

 いの一番に否定の言葉を口にするべきだった俺は、目の前で繰り広げられる余興に目が離せなくなってしまっていた。潤んだ瞳と羞恥に染まった千歳の表情は、情欲という名の炎を一層煽り立てる。

 寸での所で軍人としての矜持を取り戻した俺は、怒りを撒き散らしては誤魔化しに走った。エロは確かに大好物だ。しかしそれを公言する立場にある訳ではない。いや、一度や二度あけっぴろげにした覚えはそりゃあるけどね!

 

「ば、馬鹿を申すな! そんなふしだらな行為を俺が考えていただと! 心外な! 隼鷹! いくら酔いが回っているとはいえ、言って良い事と悪い事がある! ああ心外だ! 全く!」

 

「んー? 何処に行こうってんだい?」

 

「トイレだ、トイレ! 勝手に乳繰り合ってろ!」

 

「そんじゃまリクエストにお答えして……なあ千歳? 夜は長いし、とりあえず前哨戦とでも洒落込もうよぅ!」

 

「あっ、ちょっと隼鷹、ほんと、それ以上はもうっ」

 

 千歳の涙声に後ろ髪を引かれながらも私室を後にした俺は、トイレを目指そうとするとも早々に壁と激突してしまう。相当酔いが回っているらしい。

 トイレに備え付けの鏡に視線を送ると、酔いに見合った赤ら顔と視線が絡み合う。酷い面構えだ。

 小便をして幾分か落ち着きを取り戻した俺は、責めるようにして己を罵った。何時もこうだ、何故俺という奴は酒に溺れてしまうのか。私室に帰ろうとするも、己の情けなさからか二の足を踏んでしまう。

 踏ん切りのつかない俺がようやく決心したのはそれから暫く経っての事だ。己の奮い立たせるかのように、ドシンドシンと大きな足音を立てながら廊下を歩く。

 今こそ、上官としての威厳を取り戻す時である。そう気を引き締めて私室に舞い戻った俺を待ち受けていたのは、阿鼻叫喚の地獄絵図であった。

 調度品は散乱し、カーペットは荒れ野原。引き出しは押し入り強盗の手にでも遭ったかのように揉みくちゃにされており、先にも増して酷い有様だ。

 

「……なんだこれは」

 

 俺の視線はベッドで絡み合う二人に向けられていた。一人用の手狭なそれは、馴染みの無い乱暴な手つきに酷く動揺を覚えているようにも見える。シーツは乱れ、誰のものとも知れない汗が染みを広げたその様は、情事の最中であるかのような錯覚を起こさせるものだ。

 正に蜘蛛に絡め取られたとしか言いようがない。私室の惨状は抵抗の表れであったが、蝶は成す術も無く手折られる運命にあるらしかった。ベッドの上で千歳に馬乗りになっていた隼鷹は、こちらに気付いたかと思うと満面の笑みを浮かべ、

 

「あ、提督も混ざる?」

 

「ま、混ざっ!?」

 

「良いではないかっ良いではないかっ」

 

 千歳が一瞬の隙を見計らい、最後の力を振り絞ったのがその時だ。彼女は荒々しい呼吸と共に立ち上がると、

 

「もう! 酔い醒まし作ってくるから、提督ちょっとお願いします!」

 

「ぐおおおお!? ここで俺に渡すか!?」

 

「……さっき、私見捨てられたばかりなんですけど?」

 

「むぐっ……それを言われると、だな」

 

 こちらの返答を待たずして千歳が部屋を出て行けば、俺と隼鷹だけが場に残される事となる。

 現場の荒れ具合に言葉さえ出なくなった俺は、ゆっくりとその場に腰を下ろした。アルコールを排出した事もあってか、先ほどよりも思考がクリアとなっている。

 

「……あー、隼鷹。その、だ。俺は何も否定せんが、そういう行為は双方の同意の上にだな」

 

「ちょっとしたジョーダンだってばぁ。いや、マジでマジで」

 

「…………」

 

 とてもそうには思えない。場の惨状は千歳が必死に抗った故のものだろう。

 あの温和な千歳がここまでの事をしでかしてくれたのだ、隼鷹の迫り方が並大抵のものでなかった事は想像に難くない。人のことを言えた義理でないが、本格的にその酒癖を矯正する時期に来ているのかもしれなかった。

 俺が決意を新たにしていると、ベッドに肢体を横たえていた隼鷹が不意にかま首をもたげる。またぞろ突拍子のない物言いを繰り返すものだと思っていた俺は、半ば諦観を覚えながらも彼女の言葉に聞き入った。

 

「でさ、さっきの続きだけど」

 

「……何だ? 千歳との関係修復なら手を貸すぞ。勿論、最後はおまえ達自身が決める事になるんだろうが、何、心配はいらない。千歳は良い奴だし、お前さえちゃんと気持ちを伝えれば、あいつも応えてくれる筈だ」

 

「そっちじゃなくてさ。……あたしは、応援してるよ、金剛の事。だって、一途じゃん。提督も、ちゃんと答え出さないと駄目だよー、ほんとさ」

 

 突然の隼鷹の助言に、俺は我を忘れてしまった。真摯な光を携える彼女の瞳に、思わず息を呑む。

 

「別に提督が誰を好きになろうと知ったこっちゃないけどさぁ? 色恋沙汰にはちゃんと結末を用意しないと、ねぇ。金剛も、悲しむんじゃね? アタシみたいになられても困るし」

 

「…………隼鷹、お前、ほんとは酔ってないのか?」

 

「んー、どっちだと思う? ひひひっ」

 

 煙に巻くようにして笑い声をあげた隼鷹に、俺はそれ以上の言葉を見つける事が出来ない。

 やがて酔い醒ましを作ってきたらしい千歳が部屋に帰ってくると、そこで宴会は取りやめになる事となった。だが、如何せんまだ飲み足りない。いや、俺は単に、隼鷹の言葉から逃げたかったのだ。

 そういった胸の内を伏せて千歳につまみを催促すると、彼女は快く承諾してくれた。いい女である。

 一方、隼鷹はといえば、宴会がこれで終わりと知るや否や、俺のベッドに寝入ってしまった。我が物顔で惰眠を貪るその姿は、先の真面目ぶった表情と百八十度異なるものである。

 それから暫く経ったであろうか。お盆一杯の手料理を伴って再び千歳が姿を現す。手塩にかけた自信作なのだろう、彼女のにこやかな笑みが印象的だ。

 

「牡蠣酢です」

 

「おお、すまんな千歳」

 

 一品目はそれこそ手間のかかってそうな代物である。牡蠣そのものの触感もさる事ながら、ポン酢の風味豊かな味わいが口一杯に広がる。気取った所のない優しげな味付けだ。

 

「イワシの甘露煮です」

 

「ああ、旨いよなこれ」

 

 箸で簡単に千切れるほど煮込まれたそれを頬張る。解された魚の身は、噛まれる事もなく早々に胃へと押し込まれた。うむ、酒が欲しい。

 言葉にするまでもなく顔に出ていたという事であろう、予め用意していたものを千歳が差し出してくる。料理の待ち時間にしこたま酒を飲み干していた俺は、酩酊した思考を囃し立てるべくそれを一気に口に含んだ。ブラッディマリーか何かだろうか? 赤い液体が舌に触れ、そこでようやく俺は勘違いを知る事になる。

 

「ぶへぇ! な、なんじゃこりゃ!?」

 

「何って、スッポンの生き血ですよ。はい、お次はイモリの黒焼きです」

 

「苦っ! 不味!」

 

 そこから始まった連鎖的反応は、俺の想像を超えるものであった。動揺する俺を尻目に、千歳が強引に黒ずんだ何かを口に押し付けてくる。不味い。死ぬほど不味い。つい先ほどまで千歳の手料理に舌鼓を打っていた俺は、予想外の展開に成す術も無く追いやられた。

 

「ち、千歳? こ、これは、何なんだ? いや、うむ、初めて堪能する味であったから、未知の経験を与えてくれた事には感謝する。しかし、だな、うむ」

 

「ああ、御免なさい提督。それじゃあ、はい、これ――――『口直し』に、どうぞ」

 

「……!?」

 

 差し出されたそれに、俺は強烈な違和感を覚えた。

 中身は、ただの水のようにも思える。だが、それを一度口に含めば、何かが壊れてしまうような、そんな不確かな恐怖を覚える。

 いや、違う。違うのだ。駄目だ、俺はこれを飲んではいけない。

 

 そうだ。俺は、これを、知っている。何処か、何時かも定かでないが、俺はこれを飲んだ事がある。そして――漠然とした忌避感にその場を後ずさりし始めた俺を、千歳が逃すはずもない。

 彼女はコップ一杯の液体を口に含んだかと思うと、流れるような動作で俺の唇を奪った。舌で関門を抉じ開け、強引にそれを流し込む。そこから起きた反応は劇的なものだ。体が、熱い。燃えるような熱さが身を包んでいる。体中の汗腺が活発化を果たし、痺れが四肢を拘束する。眩暈と頭痛に思考を支配された俺は、そのまま千歳に向かって倒れこんだ。

 柔らかな感触が、俺を支える。しかし、今となってはそれも恐怖を煽り立てるだけだ。

 

「ごふっ、なん、だ、これは……ぢど、ぜっ」

 

「盗聴器とか、もうどこにもないのかしら?」

 

「うん、あらかた取り除いたと思うよぅ」

 

「お前ら、何、を……!?」

 

 狸寝入りをしていたらしい隼鷹が、千歳と何事かを話している。

 かいなに抱かれる俺を、彼女は母親のような慈悲深い視線で見つめてきた。

 

「ひひ、大丈夫だよー提督。特に後遺症とか残らないらしいし、朝には記憶もぶっ飛んでるからさぁ。なんだっけ? 高速修復剤を人間用に改良した試作品? ま、どーでもいいよねぇそんなの。ひひひひ。大丈夫、大丈夫。何時もそんな感じだし」

 

 彼女は、俺を抱きかかえると、ベッドに、下ろした。

 

「アタシもさ、欲しいんだよねー、提督が。けどさ、色々と問題あるじゃん? 戦争、立場、他の艦娘、思い出、記憶、矜持、提督自身の気持ち――――色々とね」 

 

 隼鷹が馬乗りになって覆いかぶさってくる。熱い。重い。

 彼女はいつの間にか服を脱いでいた。乳房が、ブラジャー一枚で支えられているのが見える。

 

「だからさ、もう、提督個人は見ない事にしたんだー。提督は、何も応えなくていい。ただ、アタシが求めるだけ。提督は、何も覚えてなくていい。ただ、アタシが勝手に貪るだけだから。それに、提督が誰を好きになろうとアタシは一向に構わないしぃ? だって、アタシも勝手にやらせてもらうだけなんだからねぇ! ひひ、ひひひ――――提督の気持ちなんて、提督の答えなんて、いらないんだよっと」

 

「あ、私は別にそういうのはどうでもいいの! けど、ふふふ、楽しいじゃない? みーんなが提督の事を好きなのに、今この時だけは、私たちだけのモノ! ふふふ、ちょっと子供みたいかしら? ふふ、ふふふ!」

 

 隼鷹の悲鳴にも似た何かが聞こえる。千歳の、どこか壊れたような喜び様が目に映る。

 俺は朦朧とする意識の中で、下半身の熱さを感じていた。何かが飛び出てしまいそうな熱がそこにはある。熱い。馬鹿みたいな熱さだ。

 熱に浮かされた思考が、隼鷹の裸身を捉えた。

 

「何もかもを忘れられる、素敵な夜にしようぜ、提督」

 

 

 

 



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18話

 戦艦榛名が着任して、一ヶ月が経った。

 厳しい冬も去りゆき、草木の萌芽は今か今かと花開くその時を窺っている。砲台に照りつく日の光は、早くも夏の気配を感じさせた。

 額に滴り落ちる汗に、榛名はそれほど嫌悪感を抱いてはいない。着任して日の浅い彼女にとって、一定の努力や勤勉さは必要条件であって十分条件ではないのだ。

 正しく粉骨砕身の四文字に準えられる精神性が、彼女の体を突き動かしていた。戦術確認、訓練、持ち回りの雑用、装備整備に至るまで、どれに対しても彼女はひたむきな姿勢を貫いた。

 榛名はそれを当然の事だと思っていた。だからこそ、上官からの直々のお言葉に、幾ばくかの反感を抱かなかった訳でもない。

 

「なあ榛名。あんまり頑張り過ぎるのも体に毒だぞ」

 

 それは榛名が廊下の掃除をしていた時だった。鎮守府の拡充にあたり、慢性的な人手不足こそ改善されてはいるものの、この手の雑用は猫の手を借りても足りないと言っていい程である。

 見かけによらず積極的に雑用を買って出る鈴谷らのおかげで清潔さこそ維持されてはいるものの、やはり限界は存在する。そうした経緯から、一日も早く鎮守府に溶け込もうとする榛名にとって、この手の雑用は正に打ってつけの代物であった。

 上官からの忠告をありがたく思いながらも、榛名は気丈に徹する。

 

「榛名は大丈夫です! ご心配なさらず! こうした雑用も、きっと何かの役に立ちますし!」

 

「だが、お前は先日演習ばかりか出撃も行った身だ。それに報告の後、夜遅くまで戦術データを読み返していたとも聞いている」

 

「それは……ですが、榛名はまだまだ未熟者ですし、頑張って金剛お姉様や他の皆に追いつけるよう努力しなければ!」

 

「確かにその通りだろう。お前はまだまだ未熟者で技量も乏しく、何より経験が足らない。金剛のように第一線を往くにはまだまだ時間がかかる、それは事実だ」

 

 上官の言葉は鋭い刃となって、榛名を貫く。彼は正しく榛名の現状を理解していた。

 男の言う通り、戦艦だからといってすぐに活躍出来るようになるものではない。練度が伴っていなければ無用の長物でしかなく、それを重々承知しているからこそ、榛名は今の自分を歯痒く感じ、日夜切磋琢磨に励んでいるのだ。

 それを頭ごなしに否定されているように聞こえたものだから、榛名は知らず知らずの内に顔を俯けてしまっていた。せめてもの反駁も、胸元に突き刺さった痛みのせいか、搾り出すような声色で染まっている。

 

「そ、それが分かっていらっしゃるならどうして……。は、榛名は、少しでもお役に立てるようにと」

 

「誰もがすぐに活躍出来るようになった訳ではない。あの金剛だってそうだ。確かにお前にとって、他の連中との開きは大きなものに映るだろう。だがな、お前にはお前の歩き方がある。気負ってばかりでは何事も、な」

 

「…………」

 

「分かるな?」

 

「…………はい。榛名が間違ってました」

 

 上官の言葉に逆らうほど、榛名も強情ではなかった。しかし、その場凌ぎで取り繕ったものだから、榛名の言葉は鈍く、とても重い。拭い切れない反感が榛名の心中を渦巻いていた。

 理解は出来る。しかし、納得出来たかと言えば疑問符がつくだろう。胸の内に不満を抱え込んだ彼女の表情は自然と暗いものであったが、上官はそれに気付いた様子もない。

 元々人の機微に疎いというのもあったが、それに相まって、押し寄せてくる気恥ずかしさが男から正常な観察眼を奪い取っていた。

 いやに芝居がかった男の咳払いに、榛名は顔を上げる。

 

「あー、それで、だな。うむ。ちょっとばかし話は変わるんだが」

 

「……?」

 

「う、うむ。少し待ってくれ。いや、何だ。これが慣れた相手なら勝手も違ってくるんだが……」

 

 突如として動揺を露にした上官に、榛名は首を傾げる。先ほどまでの佇まいは何処に行ってしまったのか、榛名の視線の先にいるのは挙動不審を繰り返す只の青年だ。

 榛名の眼差しに堪えきれなくなった男は、意を決して彼女と再び向き合うと、緊張で波打つ声色に鞭を打ちながら、

 

「その、だな。今度の週末、商店街における軍事行進の件に関して、話し合いが行われるのは知ってるな?」

 

「は、はい。確かあちらに直接出向いてのものとか……」

 

「理解が早くて助かる。それで、急な話ではあるんだが、今回の会議にはお前にも出席してもらおうと考えていてな」

 

「は、榛名がですか?」

 

「う、うむ。俺もお前の努力を否定する気はないし、出来得る限りの手助けをしてやりたいというのも本心である。一般市民との交流は、お前の思考に更なる幅を加える事になるだろう」

 

 それは、事前に種明かしされた手品そのものだった。使い古された方便でもあった。

 事実、尤もらしい建前を吐き出すのに男は一生分の勇気を使い果たしたかのようにも見える。三下の手品師とて、こうも無様な真似は晒さないだろう。

 本来艦娘が鎮守府の外に出るには各種申請が必要で、受理されないケースも多いのが実情だ。上官を経由する必要がある上、手間もかかるとなれば尚更である。

 その点、上官の出先に同行するといった類の任務は艦娘にとって酷く都合が良かった。空いた時間がショッピングや娯楽施設に費やされる事になろうが、名目上は上官の護衛と地域の視察である。申請さえ通ってしまえば、艦娘の自由はかなりの範囲で保証されていた。

 詰まる所、この手の任務は艦娘達のガス抜きを図る為のものと見ていい。黙認状態にあるといっても差し支えないだろう。精神状態の不安定さが肉体の疲弊に伍するとすれば、上層部の判断もあながち間違ってはいない。

 しかし、だからと言って大っぴらに言葉にするには躊躇いが生じたのだろう、奥歯に物が挟まったかのような上官の口ぶりは、その節々に動揺が走っていて痛々しい。顔に感情が出やすい男であったから、突けば直ぐにでもボロを出すのは明白であった。

 しかし、榛名はそれをあえて言及しようとはしなかった。勿論、戦艦榛名が上官の言う所の過剰な努力を捨て切ったからではない。上官の言葉に素直に従ったからでもない。

 あえて言うならば、無用な心配を招いてしまった罪悪感と――――提督から送られた不器用な気遣いが、妙にくすぐったかったからである。

 

「提督は、お優しいのですね……」

 

「や、やさしいだと? どうも勘違いしているようだが、市民参加の場に赴くというのは重責が付き物で……」

 

 誰だって、自由な時間が欲しくない訳ではない。その点においては榛名も一緒だ。欲望に蓋をして仕舞い込んでおく事を彼女は躊躇しなかったが、それにしても限度は存在する。行き過ぎた努力を優先し続ければ、それは最悪な形で榛名の前に現れるだろう。

 ストレス、倦怠感、疲労――榛名自身は気丈に振る舞い続けるであろうけれども、艦隊への影響は必至だ。

 提督の行動は、そうした榛名の現状を見かねてのものだったとも取れる。猛省すべき点ではあるけれども、提督はしっかり自分の事を見てくれていたのだと認識出来た気がして、彼女は何だかそれが歯痒くも嬉しかった。

 

「あー、は、榛名。何か誤解しているようだが、俺はただ、色々な経験を積ませてやろうと考えてだなっ」

 

 自然と微笑みを浮かべる榛名に堪えかねて、男が声を荒げる。

 意固地になって上官ぶる男の姿は、傍目から見れば滑稽そのものだろう。縺れこんだ声色に、揺れる視線。およそ上官として求められる理想像からは酷くかけ離れている。

 しかして不思議な事に、榛名はそんな提督の様子を見て、どことなく子どもっぽくて愛おしいと、そんな感情を抱き始めていた。

 

 だからこそ、榛、榛、h、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無能な男①

 

 それは明くる日の午後の事だ。真っ赤な夕焼けが世界を燃やし尽くしている。

 水平線越しの太陽が沈むにつれ、鎮守府もまた、その動きを緩やかなものにしようとしていた。昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、往来を行き来する影法師も、心なしかその数を減らしているように思える。

 その日は、榛名が始めて秘書艦を勤めた日でもあった。結果は上々。前日の彼女の緊張ぶりと来たら金剛が辟易する程であったから、特に大きな失敗もなく過ぎ去ったこの一日は、彼女に大きな自信を与える事になったと言える。

 しかし、榛名の顔色は一様にして優れない。陰りを帯びた横顔に、どれ程の間夕暮れが注がれたであろうか。赤い夕日に照り映えた彼女の横顔は憂いを帯びていて、その視線もどこか虚ろだ。

 遠征部隊の報告書に目を通していた上官の男も、この時ばかりは彼女の異常に感付いた。

 

「……榛名、どうかしたのか? どこか、悪い所でも?」

 

「っ、い、いえ! 榛名は大丈夫です! ご心配なく!」

 

「……そうか? それなら、いいんだが…………」

 

 夕暮れを背に受けているものだから、男の影は間延びするようにして伸びている。

 そればかりではない。窓先から差し込んだ斜陽は、結果的に執務室の陰影を際立たせるものである。陰に沈みこんだ男の姿に、榛名は思わず息を呑んだ。

 

「……榛名、どうかしたのか? どこか、悪い所でも?」

 

「っ、い、いえ! 榛名は大丈夫です! ご心配なく!」

 

「……そうか? それなら、いいんだが……」

 

 榛名が目元に大きな隈を拵えたのは、何も秘書艦任務への緊張からだけではない。この数日、寝床に体を横たえる彼女の脳裏を駆け巡ったのは、提督の姿である。

 秘書艦ともなれば、必然的に二人だけになる時間も多い。その時自分は何を話せばいいのか、榛名はどうしようもなく考え込んでいた。

 何も鎮守府を包む情勢は緊急を要している訳ではないのだ。世間話の一つ二つに花咲かせる事は大いに想像できる。それは今日の天気や好きな料理だとか、ありきたりなもので全く構わなかった。榛名としても――それは無自覚の好意でもあったが――上官との信頼関係の構築は急務の一つである。

 彼女が提督との会話を楽しみにしていたのは紛れもなく事実であり――だからこそ、その失意はあまりあるものだった。

 悴んだ手足とてこうは無様を晒さなかっただろう。どうにも私的な話をしようとすると、話が纏まらない。彼女がようやく話をまとめ、心を決めた頃には、とっくの昔に陽は暮れようとしていた。

 

「…………あの、提督?」

 

「…………どうかしたのか?」

 

「…………今日は、その、とっても、良い天気でした。榛名は、とても嬉しいです。何事もなく、今日という日が終わって……」

 

「……………………そうだな。俺も、そう思う。願わくば、ずっとこんな日常が続いて欲しいものだ。ずっと、ずっと」

 

「は、はい! 榛名も! 榛名もそう思います!」

 

「……そうか。お前も、そ、そう思うか。そういえば、今日はとても良い天気だったな。俺はとても嬉しい。今日という日が、何事も無く終わって」

 

「…………提督?」

 

「………………どうか、したのか?」

 

 ――提督の様子がおかしい。その事に初めて榛名が気付いたのが、この夕暮れ時だ。

 見れば、男の手が震えている。見れば、男の視線は何処か虚ろげだ。思い返せば、男はまるで痴呆老人の如く、何度も何度も、唐突に話を切り変えた。

 提督が何時からおかしかったのか、榛名は覚えていない。もしかしたら、最初からおかしかったのかもしれない。

 さりとて、彼女がその事実を提督へ告げる事に、躊躇いを感じたのも事実である。それは部下として見過ごす事の出来ない失態でもあった。真に提督の事を思いやるのであれば、彼女は直ぐにでも提督の体調を聞き尋ねるべきだったのだ。

 榛名は臆病な忠誠心を飼い肥らせるに飽き足らず、仄かな恐怖心さえ抱きつつあった。何か、大きなものが、榛名が知らない何かが提督を包み込んでいるように思える。

 それは付き合いの短い榛名には到底推し量れないものであり、それこそが榛名の心に躊躇を芽生えさせた魔物でもあった。

 

「……榛名、どうかしたのか? どこか、悪い所でも?」

 

 榛名の思案はとうとう提督の困惑を増大させるに至った。再三に渡る男の問いかけに、榛名は腹を据えかねて、

 

「……提督? その、大丈夫、でしょうか?」

 

「…………ん? どういう意味だ?」

 

「その、お体が優れない様子に見えたので」

 

「む……そうか? 俺はいつも通りのつもりなんだが……そういえば、今日はとても良い天気だったな。俺はとても嬉しい。今日という日が、何事も無く終わって」

 

 首を傾げる男の姿が、更に榛名の不安を煽りたてる。

 杞憂に終わったのであれば、言うに越した事はない。全ては榛名の勘違いで蹴りがつく話だ。だが、無自覚の病が提督を蝕んでいるのであれば、その時榛名は――思案の海に沈みかけていた彼女を前に、男は何の気なしに訪ねた。

 

「そういえば、最近の調子はどうだ?」

 

「は、榛名ですか? ええ、それは勿論! 金剛お姉さまに追いつけるよう、日夜努力は惜しみません!」

 

「そうか。それは良い事だ。これからも慢心せず、己を磨いていってくれ」

 

「は、はい! 提督のご期待に沿えるよう、榛名は」

 

「ははは、だが、前も言ったように無理は禁物だぞ? お前は頑張りすぎるきらいがある」

 

 次の瞬間上官の取った行動は、榛名の体を硬直させるには十分過ぎるものだった。突如として伸びた男の五指が、彼女に向かって押し寄せる。

 思わずぎゅっと目を閉じた榛名は、次いで襲ってきた頭を撫でつけられる感触に違和感を覚えた――震える瞼がそっと開かれれば、優しげな微笑みを浮かべた提督の姿が、榛名の瞳に映りこむ。

 耐えかねた彼女が疑問を口にさえしなければ、提督は何時までもそうしていたに違いない。

 

「あ、の、提督……?」

 

「む……す、すまん。何だか、無性に頭を撫でてやりたくなってな。気を悪くさせてしまったか?」

 

「い、いえ、そんな! その、突然でしたから……」

 

「頑張っている奴を見ると、どうにも手が勝手に動いてな……ほら、駆逐艦の連中はよく嬉しがるものだからな、つい癖になってしまった。忘れてくれ」

 

 申し訳なさげに引っ込む提督の手を、榛名は名残惜しげに見つめる。

 そこから起こった彼女の行動は正しく連鎖的発作だった。声高な自己主張を続ける胸の鼓動が耳に障る。震える口元が拙いながらも言葉を紡ぎ始めるのに要した勇気は、並大抵のものではない。

 榛名は自分の頬が熱を帯びていくのを感じていた。私事に関して言えば酷く自己主張に乏しい女であったから、我を忘れていたと言っても過言でもない。

 夕暮れの日差しが彼女の背中を押していたのも関係しているだろう、真っ赤な日差しを隠れ蓑に、榛名は、

 

「あ、あの、もし宜しければ……」

 

 その時、彼女の背筋を強烈な寒気が襲った。熱を帯び始めていた彼女の意識が、冷や水をぶっかけられたかのように寝静まる。

 それは榛名の慣れ親しんだ感覚でもあった。顔面に迫る悪意、海中を駆け巡る悪魔、空から押し寄せる悪寒――なべて殺気と称されるべき戦場の気配が、唐突なまでに彼女の肌に突き刺さる。

 榛名の動揺は尋常なものではなかった。たちどころにして薄氷の上に立ち尽くす事になった彼女の背中を、冷や汗が滴り落ちる。恐怖に鷲掴みされた心臓は正常な脈拍を失い、壊れたポンプは異常な速度をもって血液を送り返す。

 事ここに至れば、もはや殺気の出所は明白なものである。しかし、榛名はそれを頑なに認めようとはしなかった。

 当然の道理だ。榛名にとって『鎮守府《ここ》』は、平和で、皆が仲良くて、辛い事もあるけど、楽しい職場で、皆が、笑って。

 故に――故に! 初期艦叢雲が執務室の扉越しにこちらを窺っていたとしても、それは何かの間違いなのである。

 

「ひっ」

 

 榛名にとって彼女は、信頼出来る先輩の立場にあった。

 気の置けない間柄という訳ではなかったが、その草創期から提督と共に在ったというだけあって、彼女の言葉の数々には多くの金言が身についている。勿論その中には、仲間に対して敵愾心を抱けなどという見当違いな方針は、一つたりとて含まれてはいない。

 叢雲の瞳が、榛名を射抜く。思いもよらぬ敵意を向けられた榛名は、それだけで立ちすくんでしまっていた。小さな悲鳴を上げた彼女を余所に叢雲がずかずかと執務室に入り込んできたものだから、怯えは更なる悪化を見せる。

 榛名を襲った更なる驚きは、いつの間にか自身の背中が壁と接触を果たしていた事だ。知らず知らずの内に始まっていた彼女の後退はとうとう潰え、その間にも叢雲は榛名のほうに向かって迫ってくる。一歩二歩とあちらが確かな歩みを見せる中、榛名はもうどこにも逃げられない。隠れられない。対面せざるをえない。

 果たして瞼を閉じて諦観溢れる逃走を果たした榛名であったが、想像していた恐怖は一向にやってこようとはしなかった。

 

「――――はいこれ。頼まれてた仕事」

 

「おお、いつもすまんな」

 

「ふ、ふん! べ、別にあんたの為にやったんじゃないんだから! 鎮守府の一員として、あたりまえの事をやっただけよ!」

 

「どうにも手が回らなくてな……色々と忙しかっただろうに、よくぞやってくれた」

 

「と、当然の事をしたまでよ。わ、私を誰だと思ってるのかしら?」

 

 ――震える瞼がそっと開かれれば、優しげな微笑みを浮かべた上官の姿と、気恥ずかしげな叢雲の姿が映りこむ。榛名を襲った殺意の足跡は、一つたりとて見当たらない。

 

「……榛名? 何だ何だ、そんな所で縮こまって」

 

「あ、いえ、榛名は、その」

 

「……どうかしたのか?」

 

「い、いえ、何でもありません。何でも……」

 

 先の異変に全く気付いていない男の様子に、榛名は愕然とした。傍らの叢雲までもが不思議そうにこちらを覗きこんでいる。

 奇妙な疎外感が榛名を蝕みつつあった。何か、榛名には全く分からないが、何か大きな枠組みから逸れて、たった一人だけ取り残されているような感覚が彼女を襲う。同調圧力に屈した榛名はとうとう先ほどの出来事全てが勘違いであったと決め込む事にした。

 榛名の不幸は止まらない。

 

「そ、それで? 虱潰しに調べてみた訳だけど、ご希望に添えたかしら?」

 

「ああ……深海棲艦に関する論文のピックアップ……膨大な数の論文の中から、よくぞお目当てのものを探し出してくれた。こういう時はお前がいてくれて助かるよ。単純作業の精密さに関しちゃ、艦娘が一枚も二枚も上手だからな……ま、この手の話を余所ですると人権問題どうのに発展する訳だが」

 

「ふん、まあ当然よね? この私が直々に調べあげたんだから! 不備はない筈よ」

 

「ああ、ほんとに助かった。これからも宜しく頼むぞ」

 

「な、何よ……今日はいやに素直じゃない。ま、まあ頼まれれば? 私もしっかり仕事はやるけどね?」

 

「ああ、これからも宜しく頼むぞ。……ああ、そういえば、今日はとても良い天気だったな。俺はとても嬉しい。今日という日が、何事も無く終わって」

 

 上官と叢雲の間には、二人だけの世界が構築されつつあった。それは榛名が欲して、とうとう手に入れる事が出来なかったものでもある。

 男の口ぶりに淀みはない。彼の言葉には、いつの間にか生気が満ち満ちているように榛名には思えた。

 これが叢雲の年季が成せる業であるとすれば、榛名が手に入れる事が出来ないのも無理はない。榛名が提督と共に過ごした時間は、叢雲のそれと比べれば圧倒的に短いのだ。

 それこそ比べるのが馬鹿らしくなってくるほどの大きな壁がそこには存在した。叢雲がお茶を淹れ、榛名にもそれが配られる。一瞬輪の中に入れた気になっても、結局それは刹那にも満たないものだ。扉は再び閉められる。

 榛名はそれを――当然の摂理として処理した。もっともっと頑張ればよいのだ。頑張れば、一生懸命頑張れば、榛名は報われる。提督と良好な関係を構築できる。榛名は盲目的にそう考えた。

 

「そういえば、あんた、昨日は大丈夫だったの?」

 

「…………昨日? …………どうかしたのか?」

 

「確か、そう、千歳が秘書艦だったわよね? 大丈夫だったの?」

 

「……特に問題はなかったが……何か、気になる事でも? あー、もしかして、アレか? 晩酌の量を減らせって話か? あいにく休肝日とは縁がなくてだな……」

 

「ちょ、また飲んだの!? あれだけ飲みすぎは禁句だって言ったのに! これだからあんたって奴は……!」

 

「ええい、言われんでも自分の限界は分かっとる。次の日の業務に支障を来すようなヘマ、する筈がないだろう。榛名、お前からも説明してやってくれ」

 

 榛名に疎外感を与えたのが男であれば、瞬く間にそれを解消したのも、やはり男の言葉である。

榛名と提督の間に介在していた壁が霞みの如く掻き消えたかと思うと、榛名は胸の内から暖かい感情があふれ出るのを感じ取った。

 弾けるように顔を上げた彼女の表情には喜色が滲んでいて――そこでまた、彼女は思考停止に至る。

 

「――――あ」

 

「榛名? ……どうかしたのか?」

 

提督の事を真に慮るのであれば。行うべき事を、彼女が心の内から望んでいたならば。榛名はただ一言言ってしまえば、それで良かった。

しかし今現在、一見正常であるかのように映りこむ提督の姿が、事態をより一層おかしくさせる。

 どれだけ榛名が切にその異常性を訴えたとしても、今の提督には決して届かないだろう。良くて単なる冗談として処理され、悪くて機嫌を損ねるのが関の山だ。

 榛名はそれが怖かった。もし、勘違いに過ぎないかもしれない疑念により提督を呆れさせてしまうかと思うと、途端に胸元を締め付けられるような痛みが彼女を襲った。それは榛名に誤った判断を取らせるには十分過ぎる疼痛であり、無自覚の病でもあった。

 

「――――何も」

 

「ん?」

 

「…………何も、ありませんでした。何も。ええ、この榛名が、保証します」

 

 悪鬼の再来を見たのがその時である。

 食い入るような叢雲の視線が榛名を射抜いたかと思うと、経験した事のない重圧が彼女に圧し掛かった。

 薄汚れた嘘が、榛名を責め立てる。しかし、彼女自身にさえ制御出来ないちっぽけななにかが、榛名を蝕み始めていた。

 

「本当なの? それ」

 

「――――ええ、本当です」

 

「そう、そうなの。それならいいの。それなら――――でも、一応大事は取っておいた方がいいわよね?」

 

 果たして踵を返した叢雲は提督の方に向き直る。彼女は優しげな笑みを浮かべると、男を休息へ誘った。その視界には、既に榛名の事など映ってない。

 

「ほら、今日の業務はもう終わりでしょ? 仮眠でも取ってきたらどうかしら? いい加減あんたも、自分の体をもっと養生させるべきよ。ほら――私が、ついていってあげるから」

 

「…………どうかしたのか? 叢雲」

 

「何が? ほら、さっさと仮眠室に行きましょ? 大丈夫、私が見守っててあげるから。ね? ね? ね? 大丈夫、ずっと、ずっと私がいてあげる。だって私は、私だけが、あんたの初期艦なんだから。当然でしょ?」

 

「いや、しかし、だな……俺は先に飯を食いたいし、風呂にも入りたい。別段眠気がある訳でもなし……」

 

「でも、いやきっと、今のあんたには睡眠が必要だわ」

 

「何故そこまで言い切れるんだ?」

 

「分かるわ。だって私――初期艦だもの」

 

その時叢雲の瞳が悲痛な色合いを見せたのを、榛名は感じ取った。

それがどういう事を意味しているのかは、榛名にはよく分からない。しかしはっきりしている事が一つだけあれば、叢雲の行動は真実心の内からくるものであるという事である。

彼女は真に上官の御身を心配している。それだけは、榛名から見ても確かであった。薄汚れた嘘に塗れた榛名にとって、その姿はとても眩しく思える。

 

「……えーい、分かった分かった。お前がそこまで言うんだ。仕方あるまい。榛名、すまんが事後処理を頼めるか? どうもウチの初期艦は、休養を今すぐにでも取らんと艦隊運営に支障をきたすとお考えらしい」

 

「は、はい。分かりました」

 

「そうと決まれば話は早いわ! ほら、さっさと立ちなさい! 頭がふらついてちゃ、いくさには勝てないんだから!」

 

「うーむ……ま、確かに体を休める事に異論はない。それじゃ、榛名。後は頼んだぞ」

 

叢雲と共に、提督が執務室を後にする。残されるのは、榛名ただ一人だ。

扉がゆっくりと閉められていく。上官と、女の姿が見えなくなっていく。

三人が完全に隔てられるその間際、消え入るようにか細い女の声が、榛名の耳元に届いた。

 

「――――――え?」

 

地平線の彼方で、太陽が、沈む。

 

 

 

 




千歳とかいう万年発情期艦娘


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19話

 俺は、彼女を哀れんだ。同時に、それは俺自身の悪徳を浮かび上がらせた。

 

「楽しかったよな! 休暇を使って司令と行ったスキー場! 何せ俺たち艦娘に山なんざこれっぽちも縁がないし……いや、愛宕さんあたりは、一応関係あるのか?」

 

 とある春の、午後の事だ。

 晴れ渡る空は、雲ひとつない晴天ぶりだった。夏の風物詩が、早くも酷暑の訪れを予告している。熱を帯びた日差しが徐々にその勢力を増していくのは、目に見えて明らかだった。

 早足で土中の七年間を終えた蝉達は、己の生きた証を刻み込まんとすべく、力の限り喉を枯らして叫んでいた。そこにあるのは生命の輝きだ。蜉蝣に肩を並べる短い命の迸りは、夜に煌く線香花火の一瞬の輝きに似ている。早や歩きの十三階段だ。

 しかし、彼らの生命の証左を美しいと思えるほど、俺に余裕は存在しなかった。

 虫が鳴いている。命の迸りはそこらの雑音と変わらず、もっと言えば煩わしいだけだった。

 秘書官がくるくると踊る。執務椅子に座った俺は、黙ってその演目を見続けた。

 

「冬もそうだけどさ、今度の夏も、もっと楽しめるといいな。あ、いやいや、戦時中だってのは分かってるけどさ。たまにはゆとりって奴も必要なんじゃねえの? 覚えているかい? あの時の司令ってば、いきなり俺と水泳勝負をしようだなんて言い出すもんだからさ」

 

 凛々しい顔つきと、時折垣間見せる子どもっぽさが両立しているような、不思議な子だった。

 煩わしい雑音が重なる。10キロヘルツになる蝉の鳴き声は間断なく耳元に差し迫り、凛々しい彼女の声と混じり合っては俺を苛んだ。

 彼女に罪はない。それは確かだ。誰がなんと言おうと。どのように眼に映ろうと。彼女に罪はない。駆逐艦嵐に、罪は、ないのだ。

 肩口で踊る彼女の毛先は、彼女自身の陽気さに合わせるようにして踊り跳ねる。犬の尾っぽみたいだ。彼女の喜びや笑みは本物に違いなかったが、その言動は虚飾に塗れて腐っていた。

 知らない。

 

「また今度、温泉に行くなんてのもいいよな! あ、でも……こ、混浴だけは勘弁だかんな。お、俺だって、恥じらいくらいあらぁ」

 

 俺は、それを、知らないのだ。

 俺は彼女と、嵐とスキー場に行った覚えはないし、水泳勝負もしていない。温泉にいった記憶も、どこにも存在なんてしない。

 彼女の語るそれは、全て妄想に過ぎなかった。妄想は立派な額縁で飾られてあたかも真作であるかのような自己主張をしていたが、贋作である事は一目で分かった。凝ったディテールの何と無駄な事か! 彼女の主張はその全てが嘘でしかなかった。口裏を合わせる相手など、一人とていないのだ。

 

「司令?」

 

「ん、お、おお、聞いてる。聞いてるぞ。ちゃんと」

 

 時折、建造という名のプロセスを経由せず艦娘がこの世に生まれ出でる時がある。漂流者という奴だ。

 海に眠る想念が実体化したとも、艦娘のガワを被った深海棲艦とも言われているが、真相は定かでない。ともかくこうした連中は一度検査にかけられ、一切の疑念を払拭したのち晴れて艦隊に編成される事となる。駆逐艦嵐もその一人だった。

 とにかく疑惑という奴は、尾を引く事に関して言えば他の追随を許さない。暗鬼を生むという点においては一級品だ。彼女は酷く警戒されていたし、俺もそう対処せざるをえなかった。

 そうした初期方針がこの過ちを生み出してしまったのか? 悪手と成り果てたマニュアルに舌打ちを放ったが、全てはもう遅い。再編成された第四との再会も果たし、晴れやかな笑みを浮かべていた嵐はもうこの世には居ないのだ。

 

 俺は、彼女を憐れんだ。俺は、俺自身を恨んだ。

 

「司令? 話、ちゃんと聞いてたか? 俺の話、ちゃんと覚えてるよな?」

 

「ああ、覚えているとも。俺はお前と一緒にスキーに出かけたんだ。でかいスキー場だったよな。お決まりのラブソングが延々と流されていて、耳によくこびり付いている。前日に降った雪のおかげで、新雪を楽しめたんだ。きめ細やかな雪だった。それで、俺とお前は上級者コースに行った。コブと傾斜で構成されたコースで、お前は鮮やかなターンを決めていた。俺も運動にはなかなか自信のある方だったが、嵐には驚かされたよ。そうそう、滑り下りる時の景色を覚えているか? 良かったよな。雪化粧を施された山々が広がっていて、言葉では言い表せない美しさがあった。どこまでも吸い込まれてしまいそうな、惹きこまれる美しさだ。今度は山スキーなんてのにも挑戦してみるか? 誰も滑ってない斜面を行くんだ。舗装なんて一つもされてない、処女雪ってやつだ。きっと素晴らしいものに違いない。ああ、それと夏だったか? 去年の夏は酷く暑い夏だったな。不思議な事に、鎮守府暮らしで海には慣れきっているというのに、どうにも舞い上がってしまってな。お前に泳ぎで勝負を挑んだのも懐かしい思い出だ。海の家で食べた……600円の焼きそばにはあまり良い印象がないが……そうそう、肌を焼いた嵐ってのも、また新鮮で良かったよ」

 

「へへへっ。何だか、照れるぜ、うん。改まってそう言われると」

 

「それで温泉の話なんだが……うむ、あれはだな、その、俺も記憶の奥底に閉まっておきたい所だ。た、確かに事前の調査が不十分であった事は認める! だ、だがな! 混浴だなんてのは本当に知らなかったんだ! 無実である事をここに切に訴えたい!」

 

「ま、まあそうなんだけどさ。は、ははは。……あー、この話やめだやめだ! この話はこれっきり! はー、しまらねぇな、ったく……」

 

 諳んじる事が出来るまでに昇華された小気味なトークに、嵐は酷くご満悦だった。それは作業工程が順調に進んでいる事を意味している。

 彼女との会話の際、俺は機械に徹する必要に駆られた。同じ行為を吐き出すだけの、単純明快極まる機械になりきらなければ、俺と彼女は出口のない袋小路にずっと閉じ込められる事になる。

 しかし、俺は経験上後手後手に回らざるをえない立場でもあった。生物が急激な変化に適応出来ないのと同様に、唐突に生えてきた設定に対応する事は出来ない。

 その日、俺は通算何度目かとなる遅れをとった。彼女の騙る思い出はそれこそ複雑怪奇連なるバックボーンを持っていて、憶測でものを言うには難題過ぎた。

 

「……でも、ほんとに楽しかったぜ、司令。一緒に見た月も綺麗で……忙しくてお土産は買い忘れたけど、思い出だけはずっとずっと胸の中に残ってる。……へへっ、な、なんか恥ずかしいな……そ、そういえば、料理も美味しかったよな!」

 

「ああ、そうだな。混浴は置いとくとしても、あの宿の料理は格別なものだった」

 

「だから、それはもうええんじゃ。まあ、実際美味しかったんだけどさ。しかし、良い時代になったよなぁ。右を向いても左を向いても美味い飯ばっかりだ。ほら、あの時食べた汁。美味かったよな。なあ? あれ、何て名前なんだっけ?」

 

「……あ、ああ。そうだな。確かに、美味かった。ほんと良い時代になったものだ。お前たちがかつて生きた時代とはまるで違うと言えるだろう。グローバル化、とでも言うべきなのか? それこそ昨今じゃ食の欧米化などと叫ばれているが、ポジティブに選択肢の多様化として捉えるべきだと俺は感じている。色々なものが食べられる。良い時代じゃないか。今度はもっと色々ものにも手を伸ばしてみるといい」

 

「――――――――ああ、そうだな、司令」

 

「ああ」

 

 切り抜けた。

 そう思ったのは俺だけだった。俺だけが、ある種の安心感に身を浸からせた。一瞬の隙が、ようやく訪れ始めていた会話の終息を崩壊させてしまった。

 

「そういえばさ司令! 飯といえば、わざわざ長野くんだりで食べたのも美味しかったよな! 俺達は内陸地とはほとほと縁がない訳だけど、あんなに美味しいのは久々に食べたぜ! 間宮さんの料理が美味しくないって訳じゃないんだけどさー。ほら、司令も覚えてるだろ? あっちじゃ司令以外にもたくさん人がいて、あの時すれ違ったのは」

 

「う、うむ。そうだな。なかなか長野に行く機会もないからな……お前にも、良い休暇になっただろう。今後も精進してくれ…………嵐? どうか、したか?」

 

「………………………なあ、司令。もしかして、もしかして、だけどさ。覚えて、ないのかい? 覚えて、いないんじゃないか」

 

 彼女は目ざとく俺の急所を見つけ出すと、食い入るようにしてこちらを疑いにかかった。

 俺は早速出まかせを捲し立てようとしたが、そもそも妄想が相手なのだ。勝てる道理なんぞある訳がない。

 

「な、何を言って」

 

「さっきからそうだ! 途中から司令は、テキトーに話を合わせてるだけじゃんか! 本当に、本当に覚えてるのか!? 司令は、この俺との思い出を覚えてるのか!? 覚えているなら! 覚えているというのなら! 今ここで言ってみろ! 早く言ってみてくれ! 言って、この俺を安心させてみな!」

 

 彼女はそれこそ押し倒す勢いで食ってかかった。その瞳は悲壮な感情で満ちていて、今にでも泣きだしてしまいそうなくらい、怯えてもいた。

 しかし、俺に出来る事は何もないのだ。俺は知らない。彼女とスキーに行った覚えはないし、どこかの海に出かけた思い出も、温泉に行った記憶もない。長野だって、彼女との会話で初めて聞いたワードだ。

 とある信頼出来る、草創期からこの鎮守府にいる艦娘が、嵐のこの症状に対してとある仮説を立てた。

 曰く、彼女は海に眠る想念が実体化した訳でも、深海棲艦のガワを剥いだ訳でもない。彼女は元々何処かの鎮守府に在籍していた者で、それが何らかの理由で大破行方不明(MIA)になり、記憶を失った彼女が巡り巡って俺の元に辿り着いたのではないかと――――つまり、彼女が騙る思い出は俺とのものではなく、何処かの何某との思い出という訳だ。

 成程、記憶を失い同型艦に割り振られた識別番号さえも思い出せないというのなら、彼女がかつてどこかの鎮守府に在籍していたかを知る方法は何一つない。何らかの拍子で表層に浮かび上がった記憶が、何故だか俺という名の虚像に結びついてしまっている現状に、俺は哀れみ以外の感情の持ちようがなかった。

 俺は、誰かの代役に過ぎないのだ。俺では、彼女を救う事が出来ない。それが歯がゆくもあり、忌々しくもあり、何より誰も救われなかった。

 上からの話だ。とある鎮守府が襲撃を受け、若い提督が壮絶な死を遂げた。幾人かの艦娘は、その際に行方不明になったらしい。

 行方不明になった中には、駆逐艦嵐がいた。関わりさえ生まれなければ、それで終わる筈の話だった。

 

「……すまない」

 

「……え?」

 

「…………覚えて、いないんだ。……教えてくれないか。もしかしたら、思い出すかも、しれない」

 

 その時、空気が死んだ。もはや何度目かも分からない死の臭いだ。鼻腔を刺す死臭は瞬く間に場を支配すると、俺の罪状を事細かに晒しあげた。

 無能、ここに極まれり。嵐は茫然自失とした表情の後、無理やりに笑みを浮かべたが、すぐにそれは崩れ去った。砂上の楼閣はヒステリックに喚き散らす事もなく、ただただ水中深くへと沈んでいってしまった。

 

「そ、そうか。おぼ、覚えてないのか。へ、へへっ、そ、そうか。……ぐっ、俺は、別に、気にしてないぞ。そ、そういうごども、ん、ある、だろうしさ。へ、へへへ、な、何だよじれぇ。泣いてなんか、ないぞ? 変な奴だ、な!」

 

 顔を手で覆いながら泣き腫らす彼女は、俺の罪を無自覚に暴き立てる。

 彼女に罪はない。罪はないのだ。彼女は、何も悪くない。

 だが、俺に彼女を抱きしめてやる資格はないのだ。なぜなら、本来彼女の信頼や感情は、俺ではない誰かへと向けられていたのだから。俺は代役に過ぎない。代役が主役の座を奪い取る事は、許されてはいない。彼女の心に踏み入るには、まだ俺にも決心がつかなかった。

 

「……嵐……教えてくれ」

 

「………………上高地で」

 

 それは何てことのない旅行記であった。休暇中の子連れが、老夫婦が、或いは海外からの観光客か。そうした普通の人々が、普通に赴くような観光地。

 そこで生まれたであろう喜びや楽しさを、俺は共有する事が出来ない。彼女が語る思い出に、俺は頷く事しかできなかった。

 

「一緒にさ、山を登ったんだ。暑い日だった。川の水が、キラキラと輝いてた。山道には木陰が差していて、歩きやすかったけど、途中からどんどん岩がごろごろしていって――――」

 

 知らない話だ。

 

「上から見た景色、凄かったよ。どこまでも広がっていて、向こう側には、違う山々が見えて、海とはまた違う、魅力があった。司令が、司令が見せてくれたんだ。俺、とっても楽しかったんだぜ? それに――――」

 

 聞き覚えのない話だ。

 

「帰りに、覚えてるかい? 二人で、ソースカツ丼を食べたんだ。美味しかった、な。ああ、とっても美味しかったんだ」

 

「……そうか」

 

 全て、俺とはかかわりのない話だ。-

 もし彼女と、最初から建造という形で出会っていたなら? もし彼女が、不幸な戦闘に巡り合わず、元の鎮守府で元の提督と日常を謳歌していたなら? ……全て意味のないイフに過ぎない。

 彼女は狂気にとらわれていた。彼女が欲しいものは失われてしまっていて、もはや二度と手に入る事はない。

 しかし幸いな事に、彼女は簡単に正気を取り戻す事が出来た。それは傍目から見れば酷く滑稽に映る荒療治ではあったが、思わず手を出したくなるくらいには、明快過ぎて希望になり得た。

 それは、麻薬にも似た中毒性と即効性を帯びていた。俺はいつも通りに魔法の言葉を口にすれば、それで良かった。

 馬鹿を演じて、気持ちを上げろ。

 

「…………嵐」

 

「っ、な、なんだよ、じれぇ」

 

「……………………いや、今さら言うのもアレなんだがな! 本当に申し訳ないんだが、うん、その、だ! 思い出したんだ! 確かに俺はお前と一緒に長野に行ってたな! いやはや、本当にすまない!」

 

「…………………………え?」

 

 下手くそな嘘が露見した時の、でまかせみたいに。

 彼女が語った言葉をオウム返しするだけで、彼女はすっかり俺の事を信じた。

 

「一緒に、山を登ったんだったな。酷く暑い日だった。川の水が、キラキラと輝いてた。山道には木陰が差していて歩きやすかったけど、途中からどんどん岩ばかりになっていっったな。まああそこは岩陵帯でもあるから当然か。でも、山道は晴れ続きだったものだから比較的苦労はしなかったのを覚えてるぞ。テント場で一泊したけど、雨が降らなかったのは幸いだったな。上高地からの道すがら、子どもたちがぞろぞろ歩いているのはあそこらへん一体恒例の光景だな。嵐、というか艦娘は人気があるからすれ違うたびに凄い群がってきて。そうそう、テント場から北穂高に登って上から見た景色、凄かったよ。どこまでも広がっていて、向こう側には、違う山々が見えて、海とはまた違う、魅力があった。槍も見えたしな。西穂にも登ったが、あそこからジャンダルムに行くのは大変そうだったよな。そうだ、嵐と、嵐と行ったからあんなに楽しめたんだ。俺は楽しかったぞ、嵐。ああ、それに、帰りだったか。二人で、ソースカツ丼を食べたんだったな。美味しかった。ああ、美味かったな、なあ嵐」

 

「う、あ?」

 

 嵐は状況を理解していないようだった。目を白黒とさせて事態を測りかねている。

 やがて現実に帰還すると、震える声色で確かめるように、

 

「し、司令。思い出したのか? 嵐のこと、思い出してくれたのか?」

 

「ああ、勿論だ! いや、本当にすまなかったな。ここまで! 正に喉の所まででかかっていたんだがな……ああ、しかし、本当に楽しい一時だった! 嵐、今度休暇を取れたらまた行かないか? きっと楽しい日になる!」

 

「………………あ、ああ。あ、ああ! そうだな、司令! そうだ、きっと楽しくなる! 嬉しい! 嬉しいぜ司令! 思い出して、思い出してくれたんだな!」

 

「ああ、思い出したぞ、嵐! もう、絶対に忘れない!」

 

 忘れないのは当然だ。彼女が執務室を去ったのち、急いで録音を回収し、それを諳んじて言えるようになるまで復習するのだから。

 そうとも知らず、嵐は非常に喜んでいるように見えた。目に浮かべた涙は、一転して嬉し涙へと転じた。

 彼女の喜びとは裏腹に、俺の行為はただの偽善や応急処置に過ぎなかった。根本的な問題には目を向けず、彼女が彼女のままである事を望んでしまっている。

 それは、歪んだ独占欲かもしれなかった。彼女は、俺が『覚えていてさえすれば』、どんな時でも気持ちの良い笑みを浮かべた。

 それはひとえに、コミュニケーションの放棄でもあった。何故なら――――そう、何故なら、俺は彼女に気を遣う必要性がまるでない。俺が覚えてさえいれば、どんな時でも機嫌が良くなるのだ。どれだけ彼女の機嫌を損なおうと、妄想に話を合わせれば途端に機嫌が良くなる。

 彼女には何も思惑がないのだ。彼女の視線は、俺ではない別の誰かに向けられている。それが何故だか、酷く心地よかった。彼女に罪はないが同時に、俺にも責任はない。彼女を助ける義務はあっても、こうなってしまった責任は、俺にはないのだ。

 

 俺のせいではない。

 それだけで、仄暗い心地よさが心を占領した。

 

 スキー、温泉、山、焼きそば、600円、カブトムシ、花火、スイカ、スキー、温泉、旅行、山、海、浜辺、パラソル、料理、クラムチャウダー、ブイヤベース、エビ、イカ、水族館、パンダ、動物園、スキー、温泉、山、焼きそば、600円…………

 

 何度も書き綴ったメモ帳は、もう必要ない。ずらりと並んだ文字列は脳に刻み込まれ、嵐との会話の度に最大限の効力を発揮した。

 思えば、嵐の存在は大きく俺の中を占領しつつあった。無論、誰彼を優先するつもりは毛頭ない。しかし、必然的な形で彼女に多くの時間を割く事になったのも事実だ。朝起きれば彼女との話の中身を思い出し、復唱し、夜になってもそれは続く。

 ある意味において、俺は嵐に拘束されていると言えるのかもしれない。だが、それでも構わなかった。これは単なる上官としての義務に過ぎない。甘い蜜と背徳によって爛れた、俺だけの楽しみなのだ。

 嵐が笑う。俺もつられて笑った。

 

「へへへっ、嬉しいぜ、司令」

 

「何がそんなに嬉しいんだ、嵐?」

 

「俺の話をずっと信じて、ずっと聞いてくれて、ずっと覚えてくれているからさ――――俺のために、な。俺が司令の事を、ずっと信じて、ずっと考えているようにな。へへっ、司令、司令は、司令は覚えているかい? 俺の事を、本当に、覚えているのか? 思い出して、くれるのか? 俺の頭の中は、ずっと司令の事だけで、一杯なんだぜ?」

 

 ちぐはぐとした違和感が俺を襲う。それを俺は、彼女が抱く錯覚の好意のせいであると切り捨てた。

 

「おいおい、自分の部下の事なんだから覚えていて当然だろ? 所で、来週の予定についてなんだが、野分たちと一緒にだな」

 

「…………野分?」

 

「おいおい、忘れたのか? しょうがない、最初から説明するぞ――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 珍しい二人が食堂にいる。

 二人は黙々と食事を続けていたが、片方が意を決して口を開いた。

 

「――――で、結局。提督殿が忘れてしまっているだけなのか、それとも嵐殿が狂ってしまっただけなのか。どっちが正しいのでありますか」

 

 あきつ丸が言葉を口にすると、もう一方の女はしばらく食事を続けていたが、やがて首を傾げて問い返す。あまり気乗りしない様子のようだった。

 

「――――あんたに関係あるの?」

 

「確かに、関係はないであります。直接的には。しかし、そうでありますなぁ。興味本位、といった所であります」

 

 言葉とは裏腹に、あきつ丸はどこか苛立っているように見えた。何に苛立っているのか定かでなかったが、言葉の節々にその一端が垣間見える。

 あきつ丸のいら立ちを尻目に、もう一方の女はゆっくりとした所作で食事を続けた。口は食べ物を受け入れるばかりで、一向に言葉を吐き出さない。

 あきつ丸の我慢が限界を迎えたのと、女――叢雲が食事を終えたのはほぼ同じだった。叢雲は愉快気に口元を歪めると、相席するあきつ丸に向かって笑みを浮かべる。

 

「――――ふふふ。どっちだと思う?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


























提督「萩風」

嵐「……?」

提督「舞風」

嵐「……?」

提督「野分」

嵐「……?」

提督「俺は?」

嵐「司令!」

てか、お前が(よくヤンデレssである長セリフを)喋るのか……




※追記 うう、吐きそう……18話から前後篇なのに全く違う話を上げてしまった……


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