悪徳の都に浸かる (晃甫)
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001 悪徳の街に彼らは立った


 BLACK LAGOONの二次小説が少ない。だったら自分で書けばいいじゃない。


 世界にこんなにも荒んだ場所があるなんてことを、俺は知らなかった。

 日本で生まれ育ち、そしてその生涯を終えられた事がどれほど幸福だったのかを、俺は知らなかった。

 

 ――――波野(なみの )理一(りいち)

 それが、俺の前世から受け継いできた名前だ。

 

 前世から受け継いできた、と言うように俺には前世での記憶がある。所謂『転生者』というやつだ。

 とは言ってもよくあるテンプレ的な神様との対話だとか、不慮の事故で天命を全うすることなく死んだとかいうことは全くない。ごく普通の一般家庭に生まれ、ごく普通の大学を出て、ごく普通の会社で働きながら愛する人を見つけて一緒になった。ごく有りふれた人生をそれなりに楽しんで、最期は家族全員に看取られて老衰で逝った。どこに居る人間でも体験するような、そんな普通の人生だった。

 ああ、これで先立った妻に会いに行ける。そう考えていた事まで鮮明に思い出すことが出来る。

 

 だからこそ、初めは自分の置かれている現状を正確に理解することが出来なかった。

 

 気が付くと、全く見覚えのない土地に立っていた。

 映画やドラマで急に場面が切り替わるかのように、七十九年の生涯を閉じたと思った瞬間だ。たった一瞬で、全く見知らぬ土地に放り出されていた。

 その時の自身の心境を一言で表すなら『これなんて夢?』である。漫画なんかでよくあるように頬を抓ってみても痛みはしっかりと感じる。空一面に広がる青空はとても夢や幻なんかには見えない程に綺麗で美しい。風に乗って感じる草木の匂いも、この現状が紛うことのない現実であることを示していた。

 通常、こんな意味不明の事態に陥ってしまえば半狂乱になりそうなものだが、不思議なことにそうはならなかった。

 理由は大体分かっている。俺は一度、死んでいるからだ。前世で一度死を経験している者にとってみれば、今更何が起ころうがそう取り乱したりはしないらしい。この世で最も忌み嫌われるものを経験しているからだろうか。自分の場合は寿命なので、受け入れざるを得なかったという方が正しいが。

 兎も角、前世のあの時点で俺は既に死んでいる。何がどうしてこの状況になったかはさっぱりだが、これはロスタイムや延長戦のようなものだと思えた。

 本来であればそこで終わっていた筈の命が、どういう訳かこうしてまだ続いている。

 

 よくよく自分の身体を確認してみれば肉体もよれよれのジジイではなく、若々しい張りのある肉体だった。正確な年齢までは分からないが、恐らくは二十代前半から半ば辺りだろう。鏡がないので確認できないが、触っただけでもはっきりと分かる豊富な毛髪がいい証拠だ。まだ禿げていない。これは大事なことだ。

 神様なんてものの存在はこれっぽっちも信じちゃいなかったが、これは生涯真面目に働いて生きてきた俺への神様からのご褒美なのかもしれない。

 ふさふさと風に靡く髪の毛を弄りつつ、居るかどうかも定かでない神とやらに心の内で感謝した。

 どうせなら、楽しく過ごしていきたいものだ。

 

 

 

 ――――そう思っていた時期が、俺にもありました。

 

 

 

 オカシイ。

 異変に気付いたのは、この見覚えのない地に立っていた日から何日か経ってからのことだった。

 まず前世で有ったものが存在しない。スマホや電気自動車なんてものはその概念すら存在していないらしい。あるのは画面の存在しない最初期の携帯電話と市街地の至るところに設置された見慣れない形の公衆電話。それに排気ガスを撒き散らす年代物のディーゼル車。公衆電話なんてとっくに絶滅したと思い込んでいた俺は唖然とした。

 そして地名。こちらも俺が前世で記憶しているものとは微妙に異なっていた。仕事とは関係なく世界の地名にも明るかった俺でも聞いたことのないような地名が幾つかあったのだ。

 

 この時点で自身が見ず知らずの外国の地に立っていることは理解できていた。

 何せ街を歩く人間は黒人白人ばかりで日本人らしき人間は全く見当たらない。話す言語も基本的に英語。日本語は全く通じなかった。英語が話せたことが救いで、なんとかこの街の名称などの基本的なことを聞くことが出来たのだ。

 その話によればこの街の名は――――ロアナプラ。

 

 …………。 

 無意識のうちに頬を冷や汗が伝った。

 この名称、どこぞの漫画で読んだことがあった。確かそう、主人公の日本人がとある事情から海賊紛いの仕事を一緒にこなすようになるという話のガンアクション。アニメ化もされていたあの漫画。

 つうか、『BLACK LAGOON』だ。

 読んだのはまだ若かった頃なので詳しい記憶は曖昧だが、間違いないのは平然と殺人なんかが行われる裏の世界を描いた漫画だったということだ。登場キャラたちは皆一癖も二癖もあるような連中ばかりで、必ず銃を携帯している程の危険地帯。それが物語の中心地、ロアナプラだったのである。

 やべ、そう考えたら周りの連中が全員殺人者に見えてきた。というか皆俺の方を見ている。当たり前か、今の俺の格好はサラリーマン時代に着用していたスーツというこの場に酷く合わないものなのだ。このままではいつ強面の奴らに声を掛けられるかたまったもんじゃない。

 

 取り敢えず今はこの場を離れることが先決だ。

 なんで漫画の世界に転生してしまったのだとか、神様特典的なものは何一つないのかとか、言いたいことは色々とあるがそれもこの先命が続けばの話。このまま何もすることなく生きていけば間違いなく近いうちに死ぬ。此処はそういう場所なのだ。延長戦で与えられた命にまだどこか違和感を感じるが、ただ死ぬのは嫌だ。折角漫画の世界に来たというなら、原作キャラの一人や二人に会ってみたいとも思うし。

 

 取り急ぐべくは寝床と金だ。

 この二つが無ければ始まらない。 

 

 寝床に関しては最悪の場合野宿でも構わない。治安最悪のこの街の外で夜を明かすというのは正直非常に不安だが、女子供というわけでもない。変なチンピラたちに絡まれたりしない限りは大丈夫だろう。それよりも問題なのは金銭である。タイの通貨なんてものを持っている筈もなく、おまけに良心的な人間なんてものもこの街に居るとは思えない。

 これはまずい。そこいらの路地裏で野垂れ死んでいる未来が容易に想像できた。

 何も持たない、正真正銘手ぶらからのスタート。

 俺こと波野理一という青年は、本当に何もないまっさらな状態でこの世界で生きていくことを余儀なくされた。

 

 さて、前置きが少しばかり長くなってしまったが、これが俺がこの世界にやって来た経緯である。

 今一度言っておこう。

 俺の前世での名前は波野理一。この世界での呼び名は――――。

 

 

 

 

 

 1

 

 

 

 

 

 ロアナプラという街は、一言で言えば犯罪都市。

 そうロックは黒人の大男に言われていた。

 

 度重なる不運。彼は今の自分の置かれた立場をそう思うことしか出来ないでいた。特別何かに秀でていたわけではない。父や兄が官僚だったこともあって一浪の末に国立大学に入学。その後一流企業に就職したが毎日をただ怠惰に過ごしていた。これといった目的があって入社したわけでもない。ただ、体裁を保つため。

 それがいけなかったのだろうか。

 ロックこと岡島緑郎は考える。

 

 視界いっぱいに広がる大海原をぼけーっと眺めながら、彼は渡された煙草を吸った。

 

「……って、やっぱりおかしいだろこんなの!」

「騒ぐなよロック。今更どうしようもねぇんだ」

「大体あの女が俺を人質にするとか言い出すから!」

「オーケー、だったらレヴィに今すぐ引き返せと言ってきな。風通しが良くなるぜ」

 

 にやりと笑うその大男にロックは言い返すことが出来なかった。

 風通しが良くなる、という言葉が冗談でないことを既に体験しているからだ。あの女なら平然とやるだろう。人を殺すという行為に何の躊躇いも持っていないようなあの女なら、いとも容易く。

 

「…………」

「分かったら港に着くまで大人しくしてな。何もしやしねぇよ、仕事さえ無事に終われば後は関係ねぇ。晴れて俺たちともオサラバさ」

「はあ……、なんでこんなことになっちまったんだ……」

 

 そもそもの発端は、時を少しばかり遡る――――。

 

 旭日重工。

 その資材部東南アジア課。それがロック、岡島緑郎が勤めていた職場だった。日本でも大企業と呼ばれる一流企業の一つだ。

 特に何のやりがいもなく働いていた彼のその日与えられた仕事は、支社長であるボルネオという男性に一枚のディスクを届けること。目的地である支社へは船を使わなくてはならなかった為、彼は何の疑いも抱くことなく、用意された船へと乗り込んだ。

 

 その数時間後、彼の乗った船は海賊紛いの二人組にあっさりとジャックされた。

 今思い返してみても、その手際は見事としか言えない。どうやら船の側面に小型のボートをつけていたらしいその二人は流れるような動作で乗組員たちを拘束して集めた。当然、その中には自身も含まれていた。

 そしてどうやら、二人の目当てのブツは自分自身が持っているらしい。

 

「ヘイ日本人(ジャパニーズ )。テメエが旭日重工の社員か?」

 

 英語で話しかけられたが、仕事柄英語を始めとする言語には堪能だった岡島はどもりながらも眼前の女へと返答した。

 

「あ、あぁ。そうだけど……」

 

 チャッ、と。

 目の前の女はごく自然な動作で、ホルスタから銃を抜いて岡島へと突き付けた。

 

「オーケィ。ディスクか何か持ってんだろ、出しな」

「な、何でお前らに渡さなくちゃいけな――――」

 

 最後まで言葉を言い切る前に、冷たく固いものが額に宛がわれた。ゴリ、と捩じるようにしながら女は言う。

 

「日本人、悪いがこれはお願いでも提案でもねぇ。命令だ、do you understand?」

 

 日本に居たままでは決して見ることは叶わなかったであろうその武器を前に冷や汗が止まらない。

 彼にしてみれば自分はただ与えられた仕事をこなそうとしたに過ぎない。だというのにどうしてこんな目に遭わなくてはいけないのか。正常な思考が定まらないまま、岡島は命惜しさに厳重に保管していた一枚のディスクを手渡した。誰しも命は惜しい。たとえこの失態によって職を失おうが、我が身が一番大切である。

 女は渡されたソレを一瞥し、銀に光る銃をホルスタへと戻した。

 

 ホッ、と胸を撫で下ろす岡島だが、次の瞬間には甲板を勢いよく転がっていた。

 銃弾をぶち込まれたわけではない。女の拳が鼻っ面に叩き込まれたことによる衝撃だと理解したのは、鼻から垂れる血が甲板を汚してからだった。

 鉛玉を食らわなかっただけマシなのかもしれないと思ったのは、このすぐ後のことだ。

 

「おいダッチ。コイツどうする?」

「どうしたもこうしたもねぇ。他の乗組員と一緒に縛って放置だ。運が良けりゃフィリピン海軍かなんかが助けてくれるだろうさ」

「態々縛り直すのも面倒だ。膝の辺りを撃っちまった方が早い」

「必要ねぇ。これだけありゃあ十分だ」

 

 どうやら他の乗組員たちを縛り終えたらしい黒人の大男が女の手からディスクを受け取る。

 ダッチと呼ばれたサングラスの大男は乗組員たちに追跡はするなと告げると、そのままそそくさと自らの船へ戻っていった。

 ああ、ようやくこの悪夢から解放される。今度こそ安堵した岡島だったが、どうも彼の不幸はこんなところで終わってはくれないらしい。

 

 ぐいっと。

 先程収められていた筈の女の銃口が、彼の首元に突き付けられていた。

 

「……え、」

「何呆けた声を出してやがる。お前も一緒に来るんだよ」

 

 そんなわけで無理矢理船に連行されて以下略。

 

「……何で拐われなきゃいけないんだ……」

「まだ言ってんのかロック。男なら潔く受け入れやがれ」

 

 時は戻り、再び甲板の上。

 三本目の煙草に火を付けたダッチを横目に、ロックというあだ名を付けられた青年は途方に暮れていた。これからどうなるのだろうか。旭日重工が自身を擁護してくれるとは思えない。会社のためにトカゲの尻尾切りにされるなんてことは容易に想像出来た。

 事実、先程繋がった通信では上司に直接『南シナ海に散ってくれ』と告げられたのだ。この時点でロックに人質としての価値は失われた為、ガンマンの女、レヴィが始末しようとした所をダッチが宥めて今に至る。

 

「くそ、くそ……。あいつら、俺のことなんて何とも思っちゃいない」

「スケープゴートにされたのは同情するがなロック。今は取り敢えず落ち着けよ」

「落ち着く? これが落ち着いていられるかよ! 俺のこの先の人生が全く見えなくなっちまったんだぞ! 死んだことにされるんだ!」

 

 今思い返してもショックで受け入れることが出来ないでいるロックに、ダッチは数秒沈黙して。

 

「良し、飲むぞ」

 

 …………。

 

「へ?」

「ムカつくことがあったってんなら飲んで忘れるのが一番だ。こうして出会ったのも何かの縁。酒くらいは奢ってやる」

 

 いつの間にか酒を飲む流れになっていた。

 いや、ロックとしてもこの何とも言えない気持ちを流すためにも飲むという選択肢は大いにアリだが、如何せん周りの連中が胡散臭すぎる。

 大男の黒人に超絶短気な女ガンマン。おまけに自称天才ハッカーときたもんだ。

 正直、こんな面子に囲まれて飲む酒の味が分かるかどうか怪しかった。

 

「……もうどうにでもなれ」

 

 半ばヤケを起こしながら、ロックは諦めの溜息を吐きだした。

 こうなってしまったことはもう仕方がない。まずは腰を落ち着けてこれからの事を考えよう。そう結論づけて、ロックはカモメの飛び回る空を見上げる。

 こうして彼を乗せたままの魚雷艇は、犯罪都市ロアナプラへと戻っていったのだった。

 

 

 

 

 

 

 2

 

 

 

 

 

「で、何しに来たんだよ」

「あら、随分と機嫌が悪そうね」

「お前が来るとロクなことにならないからだ」

 

 ロアナプラの一角に佇む小さなオフィス。その室内に置かれた椅子に座る俺の前には、数人の人間が立っていた。

 目の前で妖艶に微笑む女に、俺は不機嫌な表情を崩さないまま答える。

 この無法都市に放り出されて早十年。なりふり構わず生きてきた結果、この街でそれなりの地位を手に入れていた。

 いや、うん。俺には行き過ぎた扱いだとは思うのだけれど、この街では地位が高くて困ることはない。貰えるものは貰っておくのが信条である俺としては、例えそれが偽りの評価であっても受け入れておくべきだと考えてのことだ。バレた時が怖いけど。

 

 さて、今俺の目の前に立つこの女は俺の友人というかビジネスパートナーというか、いつのまにかこうして仕事を依頼されるようになった。それ以前は鉛玉を相手にブチ込むために本気の殺し合いなんかもしたが、ほんとどうしてこうなったんだろうか。

 堂々とした振る舞いを崩さない女。名をソーフィヤ・イリーノスカヤ・バブロヴナ。

 この街での通称は、バラライカ。

 そう、あの『火傷顔(フライフェイス )』である。

 

 彼女との出会いは俺がこっちの世界に来た十年ほど前に遡るが、それを今説明したところで何の意味もないので割愛させてもらう。

 とにもかくにも、俺はこうしてこのロアナプラを牛耳る人間の一人とコネクションを持つことに成功した。これは非常に幸運なことで、彼女の後ろ盾があるというだけでこの街ではかなり過ごしやすくなるのだ。

 おんぶにだっことか言うんじゃねえぞ。

 

 綺麗な金髪を靡かせながら、バラライカはさっさと本題を切り出した。

 

「旭日重工の件は知っているかしら」

「まあな。一応耳には届いているよ」

 

 俺の返答に、彼女は満足げに頷いて。

 

「流石、それなら話は早いわ。どうも連中、E・O社を雇って機密保持を目論んでるみたいなの。このままだとダッチたちが心配だわ」

「……それで、俺にどうしろってんだ?」

「言わなければ判らない程バカではないでしょう?」

 

 ブルーグレイの瞳が、俺を真っ直ぐに見据える。

 俺なんかが対処するよりも、彼女が出張る方が余程早く片がつくんじゃないかと思うんだが、どうやら彼女もそこまでして派手に動きたくはないらしい。旭日重工との商談もこのあとに控えているそうなので、あまり派手にやりすぎると面倒事になるのだとか。

 

「アナタなら上手くやるでしょう?」

 

 ニコッと。

 何も知らない人間が見れば見惚れてしまうような笑みを浮かべるバラライカ。

 しかし彼女の本性を知っている人間が見れば、その笑みの裏で何かを企てていることは明白だった。かと言って、ここで無理だと依頼を断ることも出来ない。彼女の信頼を失うということは、そのままロアナプラでの信用を失うことに直結するからだ。

 

「分かったよ。ダッチには俺から話をつけておく。必要があればE・O社を迎撃する。それで異存は?」

「無いわ。貴方に限ってミスを犯すなんてこともないでしょうし」

「随分と買ってくれてるみたいだな」

「当然でしょう? 私と互角に遣り合える人間なんて、この街には片手の指にも満たないもの」

 

 それだけ言い終えると、彼女は同志数名を引き連れてこのオフィスから出て行った。

 E・O社、エクストラ・オーダー社と言えば傭兵の派遣を行っている会社だ。あまりこの街に関わる事案には首を突っ込んではこなかったのだが、今回は旭日重工からの依頼ということで詳細は聞かされていないのだろう。E・O社の中には生粋のジャンキーも少なくないので、自ら首を突っ込んできたという可能性もあるにはあるが。

 

 煙草を一本懐から取り出して咥える。

 肺いっぱいに取り込んだ煙を吐き出しながら、椅子に掛けてあったグレーのジャケットを手にとって立ち上がる。先ずはダッチに会いに行こう。この時間なら多分イエローフラッグにいるだろうし。そこで話をつけておけばいいだろう。久しぶりに俺も飲みたい気分だしな。

 

 そういやあ、この件があった時って主人公サマがこの街にやって来るんじゃなかったか?

 参ったな。何年もこの世界に浸ってるとそこらへんの知識も曖昧になってくる。

 十年という年月の長さを改めて実感しつつ、軽い足取りでオフィスの階段を下りていった。

 

 

 

 

 

 3

 

 

 

 

 

「ひどい」

 

 そう溢したのは、本日めでたくロアナプラ初上陸となった日本人、ロックだった。

 ダッチに連れられるがままやってきたイエローフラッグという名の酒場。飲む、と聞いて単純に居酒屋なんかを想像していたロックにしてみれば、目の前の光景はその居酒屋からはかけ離れすぎていた。

 まるで西部劇に出てくる荒れ果てた酒場みたいだ、とはロックの率直な感想である。

 

「ひどいぞこの酒場は。まるで地の果てだ」

 

 そんなロックの言葉に反応したのは、彼の隣の席でグラスを傾けていたダッチだ。

 

「地の果て、ね。うまい喩えだなロック。ここは元は南ベトナムの敗残兵が始めた店でな、逃亡兵なんぞを囲ってるうちに気がつきゃ悪の吹き溜まりだよ」

 

 拳銃装備がデフォな酒場なんてのは聞いたことがないロックにすれば、何の装備も持たない自分が急に怖くなってきた。

 例えるならライオンの檻に迷い込んだハムスター状態だ。

 

「居酒屋のほうがいいや……」

「まあそう言うな。ついでだ、ちっとばかしこの街について教えておいてやろう」

 

 バーカウンターに腰掛ける二人の前に、新たなボトルが置かれる。それを片手で器用に開けつつ、ダッチは正面を向いたまま口を開いた。

 

「なに、難しい話は一個もねえ。教えるのはこの街で絶対に怒らせちゃいけねえ人間たちだ」

「それって、この街を取り仕切ってる奴らとかか?」

「いい線は行ってるが、そういうわけでもねえ。まぁ聞け」

 

 ダッチのボトルから注がれた液体を口に含んでロックは彼の方へと視線を向ける。その際、あまりの度数の高さに驚愕したのは秘密だ。

 

「先ずはバラライカ。このロアナプラの実質的支配者と言ってもいい。ホテル・モスクワの大幹部だ」

「ホテル・モスクワ……?」

「表向きはブーゲンビリア貿易って名前なんだがな。早い話がロシアンマフィアだよ」

「っ!?」

 

 マフィアなどというものに当然馴染みのないロックにはバラライカという人物を想像することは出来ないが、ダッチが怒らせるなと言うくらいだ。この街に滞在する僅かな間であっても、決して鉢合わせないようにしようと固く心に誓った。

 

「次にシスターヨランダ」

「シスター?」

 

 先程までマフィアが中心だった話で唐突に出てきたそのワードに、ロックは首を傾げた。

 シスターとは教会に仕える修道女だ。神に仕える身の人間が、この街で怒らせてはいけない人間に分類されていることに違和感を感じる。だがロックの予想とは異なり、この街のシスターという輩はそこいらの神の使いではないらしい。

 

「暴力教会なんて呼ばれている教会の大シスターだ。この街で唯一武器の販売を許された教会でもある」

「ぶ、武器の販売!?」

 

 教会がそんなものを取り扱っているなんていう事実に驚きを隠せないロック。ロシアンマフィアの次は危険極まりないシスターたちである。平和の国日本で人生の大半を過ごしてきたロックには想像できない世界だった。

 しかし彼の驚愕は、更に続くことになる。

 

「後は、そうだな。三合会ってのもあるが……、今言った奴らはまぁこの街の人間なら誰もが知ってる常識さ」

 

 グラスを呷って、ダッチはそこで言葉を切った。

 おもむろにロックへと顔を向けて、右手の人差し指をピンと立てる。

 

「一人だ。本当の意味で怒らせちゃいけねぇのはな」

 

 言葉の意味が分からず、ロックは首を傾げる。

 先程ダッチの口から語られたロシアンマフィアや暴力教会に、一人という単位は当て嵌らない。バラライカやシスターヨランダのことを言っているというのなら一応の筋は通るが、彼の口ぶりからするに彼女たちのことを言っているのではないのだろう。

 今日足を踏み入れたばかりのロックですら、この街が常識はずれな場所であることは理解している。通り過ぎる人間の全てが犯罪者に見えてしまっているくらいだ。

 そんな街で過ごすダッチをして、怒らせてはいけないという人物。ロックは無意識のうちに生唾を飲み込んでいた。

 

「一人……?」

 

 戦々恐々としながらのロックの問いかけに、ダッチは小さく頷いた。

 

「ああ、たった一人だ。この街を牛耳ってるマフィアどもよりも恐ろしいのはな。こいつさえ怒らせなけりゃ、とりあえずはロアナプラで生きていける」

 

 グラスに残った酒を飲み干して、ダッチは告げた。

 

「――――ウェイバー。そいつはそう呼ばれてる」

 

 

 

 

 

 

 

 



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002 本名不詳の男

 一話を投稿したところ、予想外に好意的な感想をいただきました。ありがとうございます。
 とりあえず二話です。


 

 4

 

 

 

 日本の見慣れた居酒屋とは似ても似つかない酒場のカウンター席。

 今日この日、全くもって理不尽な解雇通告を受け取った日本人ロックはなんとはなしにその名前をオウム返しのように呟いた。

 

「ウェイバー?」

 

 酒を飲んでいたこともあり、いつもよりも少しばかり声が大きくなっていたこともあったのかもしれない。

 しかしそれ以上に、その名前はイエローフラッグの中によく響き渡った。

 理由は簡単。今までバカ騒ぎしていた店内の連中が、嘘のように静かになってしまったからだ。そのことに疑問を覚えるロックに、ダッチがその解答を示した。

 

「その名前、あまり大声で言わない方がいいぜ。言ったら呪い殺されるわけじゃねえが、この街に来て日が浅い連中はソイツの逸話に震えあがっちまうからよ」

 

 そう言い新しいボトルを開けるダッチは、口にしているにも関わらずそういった負の感情は抱いていない様子だった。

 ますます分からない。ロックは徐に店内を見渡した。

 どう見たってカタギの人間には見えない。店内に設置された丸テーブルに着いているのは全身刺青の黒人だったり顔中ピアスだらけの強面、その隣に着く女たちも一般人とは思えない派手で露出の高い衣服を纏っている。テーブルの上のカードやグラス、財布なんかと平然と肩を並べて鎮座している拳銃が、しかしながら不自然と思えない程に使い手の連中が恐ろしいのだ。

 そんな連中が名前を聞いただけで思わず口を閉じる程の人間。店の中央で乱闘紛いの殴り合いを起こしていた男たちまでがその手を止め、こちらを見ていた。

 恐怖の象徴のような存在なのかと思えば、ダッチは気安くその名を口にしている。一体どんな人物なのか、ロックの中でウェイバーと呼ばれる人間の人物像が全く定まらない。

 

「気になるのかい? ウェイバーのことが」

「あ、えっと」

「ベニーだよ。反対側で飲んでるタフで知的な変人のお仲間さ」

 

 ベニーと名乗る金髪髭面の青年は、ダッチやレヴィとは異なる雰囲気を醸し出していた。

 どちらかと言えば、ロック自身に近いものを感じる。明白な戦闘タイプでないというだけなのかもしれないが。

 それを伝えると、ベニーは小さく笑った。

 

「ボクは情報系統が担当だからね、二人みたいに敵本陣に突っ込んでドンパチやるなんてことはしないよ」

「……あんたはどうしてこの街に?」

「二年くらい前かな。以前はフロリダの大学に通ってたんだけど火遊びが過ぎてね、当時のマフィアとFBIを同時に怒らせちゃったんだ」

 

 何でもないように話すベニーだが、ロックは思わず持っていたグラスを落としそうになった。

 マフィアとFBIから同時に追われるなど異常だ。日本で言えばヤクザと特殊警察から追われるようなものである。一体どんなことをすればそんな事態に陥るのか。

 

「暫く逃げてたんだけどやっぱり捕まっちゃって、スーツケースの重石代わりに詰められそうになっていたのをレヴィに助けてもらったんだ」

「レヴィってあの女ガンマンか」

 

 ちらりとロックは後方の丸テーブルに目をやった。

 机上に置かれたバカルディをロックでもなくストレートで豪快に呷る彼女の姿は、どうしても人助けをするようには見えない。ふと視線が合えば、今にも噛み付いてきそうな険呑さだ。

 

「あれでも彼女、かなり大人しくなったらしいんだけど」

「は、あれで?」

「彼女ね、ラグーン商会に入る前は一時期ウェイバーの所にいたんだよ」

 

 またウェイバー。姿さえ知らない人間が、この街の多くの人間に関わっている。

 

「ボクもそれ以前の彼女は知らないけど、今じゃすっかり丸くなったってウェイバーが言ってたよ」

「ベニーはそのウェイバーって人には会ったことあるのか?」

「勿論、ラグーン商会とも馴染みがあるよ」

 

 そう答えてベニーはウォッカの入ったグラスに口を付ける。アルコール度数はそれなりに高い筈だが、ベニーはまるでジュースでも飲むようにそれを飲み干してみせた。

 この街の人間は総じて酒が強いのだろうか。そうロックが思ってしまう程、この酒場の酒の種類は偏っていた。特例でミルクなども出してくれるようだが、基本的にビール、次いで度数の高い酒がカウンターの奥に並んでいる。高級酒は少ないようだが、大衆酒場などこのくらいのものだろう。

 ロックの手元にもダッチに注がれた酒が残っている。カクテルなんて気が利いたものがあれば酔いもある程度コントロールできるが、この場にそんな洒落た酒があるわけがない。どころかソーダも見当たらない。皆ストレートかロックが基本だ。

 

「っと、すまねえ電話だ。ベニー、少し出てくる」

「誰からだい?」

「ウェイバー」

 

 ぶふぅッ、とロックは口に含んだ液体を吐き出しそうになった。それをなんとか寸でのところで堪えて、口と鼻を押さえながらダッチを見る。

 携帯を耳に押し当てて店の奥に消えていくダッチの声からは、先程までの陽気さは消えていた。

 

「どうしたんだろう」

「さぁ、でも彼が電話をかけてくるときは決まって仕事絡みだから、大方今日の件と関係してるんじゃないかな」

「今日の件って、俺から奪い取ったあのディスクのことか?」

 

 昼間のことを思い出して顔を青褪める。銃口を突き付けられたことを鮮明に思い出してしまった。あれに勝る恐怖は、もしかすると今後訪れないのではないだろうか。そうロックに思わせるほどの恐怖だったのだ。

 因みに、聞けばベニーはその時魚雷艇内部で通信役を担っていたらしい。時折ダッチが耳元の無線に話しかけていたが、その相手はベニーだったのだ。

 

「そう。詳しい依頼内容はダッチしか知らないからボクもさっぱりだけど、ホテル・モスクワからの依頼だし後ろに大きな獲物でも掛かってるんじゃないかな」

「ホテル・モスクワって、さっき言ってたこの街の……」

「ロシアン・マフィアだね。この街が一応街としての形態を保っていられるのは彼らのおかげでもあるんだよ」

「……? どういうことだ?」

「こと戦闘に関してホテル・モスクワは随一だ。それがロアナプラで抑止力になってるってこと。じゃなきゃ今頃世紀末だ」

 

 日本人なら知ってるだろう? 北(ピー)の拳さ。ベニーは楽しそうに呟いた。なんでも日本の漫画やアニメは大のお気に入りなんだそうだ。

 そういった方向には詳しくないロックだったが、流石に北斗の(ピー)は知っている。適当に相槌を打ったロック、それがベニーは嬉しかったらしい。日本の漫画などこの街で理解できる人間などいないからか、彼の口からは洪水のように次々とアニメや漫画の話が溢れてくる。

 

「おうベニーボーイ。そこらへんにしといてやれ、ロックが引いてるぜ」

「お帰りダッチ、電話はもう済んだのかい?」

 

 ダッチが電話から戻ってきたことで、ベニーのアニメ論は終わりを迎えた。そのことに内心で安堵しつつ、しかしダッチの次の言葉で再び身体を強ばらせることになる。

 

「ちいとばかり面倒なことになった。なんでも連中、傭兵派遣会社を――――」

 

 ダッチの言葉は、最後まで紡がれることはなかった。

 瞬間、店内で閃光と共に爆発が巻き起こった。次いで轟く銃声。これが奇襲であることに気がついたのは、ラグーン商会の面々だけだ。他の人間はそのことに気がつく前に蜂の巣にされるか、爆発に飲み込まれて焼死体になっている。

 爆発の寸前にシャツの襟を引っ掴まれカウンターへと放り込まれたロックは、なんとかその命を取り留めていた。見れば隣には飄々とした表情のレヴィ、反対にはやれやれと肩を竦めるベニーの姿がある。

 

「な、なんなんだ一体!?」

「大方ディスクを奪われたお前んとこの会社が雇ったんだろうよ。いきなり手榴弾とかやってくれるじゃねえか」

 

 言いながらレヴィはホルスタに収められていた二丁の拳銃を引き抜く。弾倉を確認し、その口元を獰猛に歪める。その瞳が黒く、そして濁っていくような錯覚を覚えてロックは背筋を震わせた。

 だが戦闘態勢に移行していく彼女に、一言物申したい人間がいたらしい。同じくカウンターに身を隠していたこのイエローフラッグの店主、バオである。

 

「やいレヴィ! またてめーらか! 一体何度この店壊しゃあ気が済むんだ!? 後で修理代請求すっからな!」

「あいよー」

「軽い! 全く誠意を感じねえよコンチクショウ! おいダッチ! しっかり耳揃えて払ってもらうからな!!」

「あいよ」

「ダメだこいつら死ねばいいのに!!」

 

 バオの叫びも銃声の中に消えていく。

 カウンターには防弾整備が施されているらしいので今は平気だが、このままでは埒が明かない。早急にこの状況を打開したいダッチは両手に拳銃、ベレッタM92FSlnoxを構えたレヴィへ声を荒げて。

 

「行けレヴィ!  二挺拳銃(トゥーハンド)の名は伊達じゃねえってところ見せてやれ!」

 

 その直後、レヴィが動いた。

 一瞬にしてカウンターから飛び出し、空中で相手を確認、挨拶がわりとばかりに鉛玉をブチ込む。相手は手榴弾爆発による粉塵のせいか照準が定まっていないようだ。そんな相手に容赦無く発砲。いくつもの血飛沫が酒場の壁を彩っていく。

 ここでようやく向こうも只者ではないと気がついたのか、イエローフラッグの正面に構えていたらしい人間たちの一斉射撃が起こる。外観が変わるほどの銃弾の嵐を凌ぐべく、レヴィは再びカウンター裏へと飛び込んだ。即座に空になったマガジンを引き落とし、新しいものを装填する。

 

「へいダッチ、アイツら一体なんなんだ」

「おそらくアイツらがディスクを奪い返そうとする連中が雇った奴らだ」

「掃除していいんだよな?」

「愚問だ。だがここじゃ分が悪い、ウェイバーにゃあ悪いが一先ずこの場を離れよう」

「サンセー」

 

 ダッチの提案にベニーが右手を挙げる。

 レヴィも特に異論は無いようで、ロックの首根っこを引っ掴んだまま店の裏口から抜け出す。尚も銃撃は止まないが、それらを一切無視して適当な車に四人は乗り込んだ。運転席にベニー、助手席にダッチ、後部座席にロックとレヴィを乗せた年代物のディーゼル車は、敵の追撃を掻い潜りながら大通りへと走り出した。

 

 

 

 5

 

 

 

 黄金夜会、と呼ばれる勢力がロアナプラには存在する。

 この悪徳の都と呼ばれる悪の巣窟の、実質的な支配者たちと言っていい連中たちのことだ。

 まずホテル・モスクワ。タイ支部の頭目であるバラライカを筆頭に部下も含めた全員が一線級の実力者たち。

 次に三合会。こちらは香港マフィアで、タイ支部のボスの名前は 張維新(チャン・ウァイサン )という。黒服にサングラスという出で立ちのおっさんだが、俺も人のことは言えない。

 そしてコーサ・ノストラとマニサレラ・カルテル。イタリアンマフィアとコロンビアマフィアの組織である。

 他にも幾つか傘下の組織はあるものの、これらの四つを総称して『黄金夜会』という認識で問題はない。この黄金夜会はロアナプラという地で多くの権利を有している。具体的にはその地位と利潤、この街で発生する収益には、全て黄金夜会が一枚噛んでいる。

 それぞれが圧倒的な規模の組織であることは言うまでもなく、この東南アジアの中でも重要な拠点となるであろうロアナプラを支配したいとの思惑から集まった。

 だが衝突したところでメリットはないと、こうして一時停戦のような形で纏まっているのだ。当然ながら共存意識などはこいつらに存在しない。隙あらば咬み殺す所存である。

 

 弱肉強食。いつの世も変わらぬ不変の真理だ。

 弱者は淘汰され、強者だけが生き残る。そうして形成されていったロアナプラのシステムとも言うべき黄金夜会。

 その中の一人に、どういうわけか俺は数えられているわけだが。

 

「……どうしてこうなったんだ」

 

 そのせいでここ数年、俺へ突っかかってくるような人間はすっかりいなくなってしまった。いや、不要な荒事を避けるという意味では全く以って助かるんだけれど。

 なんでもこの街の若者の間では、俺に楯突くとその場で殺されるという与太話が実しやかに囁かれているらしい。とんでもない誤解だ、幾ら何でも即射殺なんてしない。

 それもこれも、恐らくはバラライカや張と密接に関わってしまった故のことだと考えている。

 黄金夜会の一大勢力、そのトップたちだ。関係を持っている人間なんてのはそう多くない。直通の番号を知っている人間なんてのは極少数だ。俺はそれを知っている。昔殺し合った仲ではあるが、今ではどちらともビジネスパートナーだ。ホテル・モスクワや三合会に比べれば俺の経営する仕事なんてのはちっぽけだが、それでも二人は対等に扱ってくれている。

 言ってしまえば俺はきっと二人の紐みたいなものなのだ。今与えられている地位なんかもお零れを頂戴しているだけで、決して俺一人の力で掴み取ったものではない。

 

 とは言えだ。例えどんな経緯があろうと、今こうして俺がこの悪徳の都である程度の地位を有していることには違いないわけで。

 折角所有している諸々の権利をそのままにしておくのもどうかと思うのである。身に余ることくらいは承知しているが、宝の持ち腐れとするには惜しいものだ。

 そこで数年前の俺が思い至ったのが個人経営の万事屋の真似事だ。

 この街にやってきてから築いた人脈を使い、依頼された仕事をこなしていく。その幅も今ではすっかり広がって、当初は郵便配達や逃げた妻探しだったのが今では逃げ込んできたミャンマーの過激派部隊の殲滅なんてものが飛び込んできたりするのだ。

 流石に一人で現役軍人たちを相手にしたときは死ぬかと思った。今思い出しても肝を冷やす。なんだか知らないうちに相手が全滅していたのが幸いだろう。特に何かを仕掛けた覚えはないんだが、何故か張には褒めそやされた。

 

「と、一応電話くらいしておいたほうがいいか」

 

 イエローフラッグへ向かう道すがら、ふと足を止めた。

 このまま直行しても問題はないが、いざ行ってみてその場にダッチが居なかった場合を考えると探すのが面倒だ。そう思い、ポケットに突っ込んであった最初期の携帯電話を取り出して耳に押し当てる。

 通話はすぐに繋がった。

 

『もしもし』

「ああダッチ。俺だよ」

『一体どうしたってんだ』

 

 唐突に俺から電話が掛かってきたことを疑問に思っているであろう彼に、俺はさっさと本題を切り出すことにした。

 

「今バラライカから依頼受けてるだろう?」

『何で知ってんだ?』

「本人から聞いたんだ。それでだ、どうも旭日重工は極秘にE・O社を雇って証拠隠滅を目論んでるらしい。まだそのディスク持ってんだろう? なら早いうちに届けることをおすすめするぜ、いつ襲撃されるかわからないからな」

『そいつはご丁寧にどうも。俺だっていつまでもこんな爆弾抱えたくはねえ、直ぐにでもバラライカに渡しに向かうさ』

「それなんだけどな、俺今イエローフラッグに向かってるから、なんなら代わりに渡しておいてやろうか?」

 

 これは単なる親切心だ。

 しかし、ダッチはその提案に首を横に振る。

 

『申し出は有り難いがこれはラグーン商会が受けた仕事だ。こんなんでもプロなんでな、最後まできっちりやり通すさ』

「ご立派だな」

『アンタに言われてもな』

 

 その後二言三言適当に言葉を交わし通話を終える。

 これでバラライカに依頼されたうちの一つは片付いたことになる。あと残るのはE・O社の迎撃だが。

 

「レヴィだっているし、俺必要ないんじゃねえかなぁ」

 

 表通りを再び歩き出した俺はそう独りごちる。

 彼女と共に過ごしたのは三年程だけだったが、恐ろしいスピードで強く逞しくなっていった。精神的に成長したことが大きな要因なのだろう。俺はただ寝床と簡単な依頼の世話をやいてやったくらいなので全く以て大したことはしていない。

 始めは寝込みを襲われそうになったり(物理)、背後から刺されそうになったり(物理)したが、今ではすっかり大人しくなった。

 なんとなく生前の自分の娘や孫と重ね合わせてしまって放っておけなかったのが彼女を家に寄せた理由なのだが、結果的には良かったと納得している。

 あれだけ犬歯を剥き出しにして警戒していたのに、今では会うたびに身を寄せてくるのだ。たまに犬の耳と尻尾が幻視できそうになる。普段の冷徹な彼女からは信じられないだろう。俺だって信じられないもの。

 

 昔のことを思い出していたからか、俺は通りの向こうが騒がしいことに今更ながら気が付いた。

 多くの野次馬が集まってきているようで人だかりが出来ているが、その先にあるのは目的地でもあるイエローフラッグの筈だ。

 首を傾げながらも、俺はその野次馬の群れの元へと向かう。

 

「……うわぁ」

 

 視界に広がった光景は、思わず額に手を当てたくなるようなものだった。

 このロアナプラきっての大衆酒場、イエローフラッグは消滅していた。より正確に言うならば、全壊していた。

 こりゃまだバオが怒り心頭だろうなと店主の形相を想像する。実に鮮明に映し出されてしまった。

 詳しい状況は未だ判断できないが、恐らくは危惧していたことが起こったのだろう。周囲に見られる銃痕や装甲車のタイヤの跡などからそう当たりを付ける。

 確認の意味も込めて、俺は近くにいた野次馬の一人に声を掛けた。

 

「なあ」

「あん? なんだよ――――って、ううウェイバーッ!?」

 

 青年が振り返り、俺を視界に収めたのと同時の驚愕の声に、周囲の野次馬たちの視線がイエローフラッグから俺へと一斉に切り替わった。

 皆が皆どう表現したらいいのか分からない、酷く色褪せた表情を浮かべている。なんだどうした、別に取って食ったりしないぞ俺は。声をかけた青年に至っては既に涙目なんだが。

 

「これ、なにがあったか見てたか?」

「いいい、いいえ! 俺も爆発音がしたから覗きにきただけで! なんにもお伝えできるようなことは!」

「そうか。ありがとうな」

 

 ジャケットのポケットから煙草を取り出し、口に咥えて火を点ける。

 まずったな、これじゃ迎撃するにも追わなくちゃならん。なんとかラグーン商会だけで切り抜けてはくれないだろうか。

 尚も俺の周りから動こうとはしない野次馬たちを不思議に思いながらも、面倒なことになったと内心で頭を抱えそうになる。吐き出された煙は、星の見え始めた仄かな夜空へと消えていった。

 

 

 

 

 6

 

 

 

 

 青年はこの瞬間、初めて恐怖というものを身近に感じた。

 拳銃で撃ち合ったことはある。ナイフで斬り合ったこともある。しかし、人に声を掛けられただけでここまで濃密な死を思い描いたのは生まれて初めてだった。

 声を掛けてきたのは、この街において絶対に怒らせてはいけないという男。本名不明、通称ウェイバー。東アジアの国を思わせる顔つきに黒髪、黒のパンツにグレーのジャケットという出で立ちの男は、この野次馬があふれる衆人観衆の中、誰にも気付かれることなくここにやって来たのだ。

 実際、声をかけられるまで誰もこの男が居るなど気がつかなかった。気配を一切感じないのだ。だからこそ、恐怖は倍増する。

 青年は聞かされていた。ウェイバーに関する様々な逸話を。

 

 曰く、彼のジャケットのボタンが掛けられていないときは決して正面に立ってはいけない。

 曰く、完全武装した他国の軍隊をたった一人で制圧した。

 曰く、ロアナプラを裏で牛耳っているのは彼である。

 曰く、半径三メートル以内で不穏な動きを見せれば射殺される。

 

 などなど。

 こういった話を挙げていけばきりがない。

 そしてそれがただのデマでないことは、青年が今身を以て実証していた。

 脚が無意識のうちに震え、奥歯が噛み合わない。何を質問されたのかすら覚えていない。実際の言葉を交わしたのほんの僅か。時間にしても十秒にも満たないだろう。

 たったそれだけの時間にも関わらず、その場にいた野次馬たちは完全に男の発している気に圧されていた。周囲の人間たちも彼の逸話は耳にしていることだろう。だから動かない、動けない。今ここで僅かでも動けば撃たれる。そう誰もが本気で思っていたのだ。

 加えて今のウェイバーのジャケットはボタンが掛けられていない。噂が本当であるならば、シャツとジャケットの間に吊るされたショルダーホルスタには彼の愛銃が眠っている筈だ。それを目覚めさせてはいけない。この場にいる全員の総意であった。

 

 青年は必死に恐怖を堪えながら、ウェイバーがこの場を離れるのを待った。

 彼は懐から取り出した煙草に火を点けて煙を燻らせると、そのままどこかへと立ち去った。

 彼の姿が完全に見えなくなった瞬間、青年は地面に倒れるようにして座り込む。

 あれが、この街の頂点に君臨する人間の一人。

 汗も滲むほどの暑さだというのに、どうしてか身体の震えは止まらなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 未だロックと会えない主人公さん。


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003 隻眼の修道女

 日間ランキング一位になってました。
 なにこれ一体どういうことなの(戦慄)


 1

 

 

 

 結論から言えば、ダッチたちラグーン商会は無事にE・O社の傭兵どもを撃滅することに成功したそうだ。

 そうだ、と俺の主観でないのは、これがバラライカから聞いた話であるためだ。

 何でもE・O社の戦闘ヘリ(ガンシップ )までもが出張ってくる事態に発展したそうだが、居合わせた東洋人によるギャンブラーもびっくりとんでも大作戦によってその戦闘ヘリを木っ端微塵にしてやったのだとか。バラライカもその現場を生で見ていたわけではないので詳細な状況説明はなされなかったが、どうもその東洋人とやらを彼女はいたく気に入ったようである。受話器越しに聞こえる彼女の声音はいつもより半音程高かった。

 何度も言うようではあるが、バラライカはこの街の実質的支配者にして生粋の軍人だ。彼女の御眼鏡に適う人間自体それほど多くない。

 昨日今日この街にやってきたばかりの人間がそれをやってのけてしまうのだから、やはり原作の主人公というのは侮れないものだと染み染み思う。俺もそんな不思議と周りに認められるような人望が欲しかったよ。代わりに手に入ったのは不思議と周りから避けられる畏怖だからな。

 なんだよこれ、ちっとも欲しくねえや。

 それにしても何て無謀な作戦を思いつくのだろうか。普通魚雷を戦闘ヘリに当てて堕とすなんて考えは頭の片隅にすら浮かばない。いくら追い込まれていたとは言えだ。

 聞く分には面白いからいいんだけれど。

 

 とまぁ、この話はこのくらいにして。

 (くだん) の事件から一夜明けた翌日。俺が営む万事屋の極々小さなオフィスに、ラグーン商会の面々が雁首揃えて立っていた。

 只でさえ大きくないオフィスだ。そこに俺を含めて五人も居座れば、当然暑苦しさや息苦しさなんてものを感じてしまう。俺は後ろの窓を全開にして、少しでも空気を入れ替えようと試みる。しかしながら今日は全くの無風であった。照り込む日差しがジリジリと首筋を熱していく。少しの気休めにもならなかった。

 諦めてデスクの椅子に座り直し、改めて正面のラグーン商会を見つめる。

 一番右からサングラスのせいで表情が読めない仏頂面の筋肉野郎ダッチ。いい加減髭の手入れくらいしろと思わなくもない金髪ベニー。今にもこちらに駆け出してきそうな、お預けでもくらってんのかと疑いたくなる程落ち着きのないレヴィ。そしてそして、妙に表情の堅い初対面の東洋人が一人。

 

「で? 直接ここに顔出した理由はなんだ」

 

 いつまで経っても会話が始まらない様子だったので、俺の方から口火を切った。

 これ幸いとダッチが頭を掻きながら口を開く。

 

「昨日の事の顛末はもうアンタのことだから知ってるとは思うが、一応礼を言っておきたくてな。ありがとよ、あの電話がなけりゃ、俺たちゃイエローフラッグで愉快な死体になってたかもしれねえ」

「冗談止せよ。あんな銃撃くらいでくたばる様なタマじゃないだろう?」

 

 実際銃弾くらいなら平気で跳ね返しそうな肉体をしているダッチである。確かにベニーやロックは当たり所が悪ければ死ぬ可能性は低くないが、レヴィが死ぬなんて今となっては考えにすら浮かばない。

 

「あのタイミングで電話を掛けてきたってことは、奇襲の時間帯まで予測してたのか?」

「まさか。偶然だよ。俺が予知能力者にでも見えるのか?」

「……アンタなら例えそうだとしても驚かねえよ」

 

 俺のジョークにしかし、ダッチは小さく息を吐きながらも真顔で答えた。おかしい、これはロアナプラジョークだというのに。予知能力なんてものは所詮空想の世界にしか存在しないのだ。そんなもの持っていれば今頃俺は一滴の血も流すことなくこの街を支配できただろう。

 ダッチと同じようにベニーも肩を竦めていることに釈然としないものを感じるが、ここで会話を止めるつもりはない。

 おそらくは今日のもう一つの用件であろう彼、黒髪の東洋人へと視線を向けた。

 

「それで? 彼のことは紹介してくれるんだろうな」

「おっとそうだった。こいつ、ロックって言うんだがな。昨日付でラグーン商会が雇うことにした」

「へぇ」

 

 ダッチの親指が指し示す先で、ロックはがちがちに緊張しているようだった。

 まさか俺の根も葉もない噂を真に受けているのではあるまいな。普通に考えれば有り得ないって分かるだろう。

 ほらロック、挨拶しろとダッチに促され、ロックは一歩前に出る。

 

「は、初めみゃ!」

 

 噛んだ。リテイク。

 

「は、初めまして。ロックといいます」

「おう、よろしくなロック。俺はウェイバー、しがない個人経営者だ」

 

 俺が差し出したその手を、ロックは幾許かの逡巡ののち取ってみせた。

 なんだろう。やはり日本人同士感じるものでもあるのか、どことなく落ち着く。実家で母親の作った味噌汁を飲む、そんな気分だ。

 

「あ、あの」

「ん、済まない」

 

 そんなほっこりとした気分に浸かっていたら、ロックが不安そうな声を上げた。どうもそのまま手を握り続けてしまっていたらしい。

 しかし許して欲しい。ああした安らぎはこの街では金塊以上に貴重なのだ。外へ出ればいつ鉛玉が飛んでくるか分からない危険度上限を振り切っているロアナプラでは、こんなにも暖かな気持ちを得ることはまず出来ない。返り血で物理的に温かくなることはあれども。

 ロックの言葉に反射的に手を離して、俺は一言謝罪した。

 少し口元をヒクつかせながらも愛想笑いを浮かべ、元の立ち位置へと戻るロック。それに代わるように、いや、押しのけるように前へ飛び出してきたのは案の定レヴィだった。人目も憚らず俺の方へ飛んだかと思えばデスクを越えて俺の胸へと豪快なダイブを決めて見せた。背中へと両腕を回され、顔をぐりぐりと押し付けられる。ご機嫌に左右に揺れている尻尾は、果たして俺の幻覚なのだろうか。

 

「会いたかったぜボォス! 何で最近は顔出しに来てくれないんだよぉ!」

「レヴィ、レヴィ。分かったから一旦離れろ、暑いしお前を見てるロックの顎が外れそうだぞ」

「知らねえよロックの顎なんか。勝手に外しときゃいいんだ。それよりもボス、今からマーケット行こうぜ」

「待て待てレヴィ、ひっ付き過ぎだ。それに今日は野暮用があってな、昼まで時間は取れそうにない」

「ええぇ?」

 

 ピンと立っていた犬耳がしゅんと垂れたような気がした。心なしか尻尾にも先程までの元気がない。

 一体いつからこうなってしまったのだろうか。気が付けばとしか言い様がないのが本当のところだが。他人には一切触れることを許さない研ぎ澄まされた刃のような鋭さを持つ彼女が、どうしてこうも俺にべったりになってしまったのか。

 一緒に過ごした三年間、それを思い返すことでその理由に近づくことができるかもしれないが、今はそれをしている時間はない。

 

「レヴィ、あんましウェイバーを困らせるなよ」

「チッ、分かってるってダッチ」

 

 そう言って渋々、かなり名残惜しそうに俺の膝の上から降りるレヴィ。ちらちらと向けられる彼女の視線は大変愛らしいが、この後に控えている野暮用をすっぽかすわけにもいかないのだ。

 

「新入りの顔見せも済んだし、俺たちはそろそろ退散させてもらう。この後も仕事が入ってるんでな」

「そうか、態々足を向けて貰って済まないな」

「アンタに足を運んでもらうほうが気が進まねえよ」

 

 小さく手を挙げたダッチは、俺に背を向けてオフィスから出て行く。それに続いて残りの三人もそそくさと部屋から出て行った。

 唯一レヴィだけが最後まで俺から視線を外さなかったが、ダッチに腕を引っ張られでもしたんだろう。四人分の階段を降りていく音が聞こえなくなったのを確認して、時計を確認する。午前十時。時間にしては些か早い気がしなくもないが、間違いなく起きてはいるだろうし大丈夫だろう。

 無造作に引っ掛けてあったジャケットに袖を通して外へ出る。

 まだ朝だというのに、今日もロアナプラは蒸し暑い。出来るだけ影の伸びているところを移動していこうか、少しでも気休めになればそれでいい。子供のようなことを考えながら俺が今日向かう先、そこはここロアナプラの中でも一等特別な場所である。

 

「行きますか。暴力教会」

 

 

 

 2

 

 

 

 ウェイバーの経営しているオフィスへ行くことをロックが聞いたのは、出発の僅か五分前のことだった。

 昨日この悪徳の都へ初めて足を踏み入れた青年は晴れてラグーン商会の一員となったわけだが、どうやらウェイバーなる人物に顔見せを行わなくてはいけないらしい。

 ダッチやレヴィ、ベニーはさして緊張している様子はない。何せ何度も顔を合わせているとのことだ。今更会うくらいどうってことないのだろう。

 だがロックは違う。勿論ウェイバーとはこれが初対面になるわけで、昨日のこの街の若者たちの表情を見るにそれはもう恐ろしい男なのではないかと想像してしまうのだ。

 そんなことはないとダッチやベニーに言われてもロックの恐怖は払拭されない。あのレヴィと行動を共に出来るだけでぶっ飛んでいる人間であることに違いはないのだ。まさか会って早々撃たれたりはしないだろうか、そんな不安が脳裏を過ぎる。

 

「心配すんな、アイツは自分のオフィスん中じゃ撃ったりしねえ。片付けが面倒なんだとよ」

「外なら撃つのか!? 片付けが無ければ撃つのか!?」

「ぎゃーぎゃー喚くな。とっとと乗れ」

 

 顔を引き攣らせたままのロックを車の後部座席に押し込み、全員が乗ったのを確認してベニーが緩やかに車を発進させた。

 ウェイバーのオフィスはここから車で十分程の場所にあるらしい。至って普通の建物だそうだ。

 

「お、俺の紹介のためだけにいくのか?」

 

 顔を青くしたロックが助手席に座るダッチに尋ねた。

 

「それもあるが本題は昨日の件だ。ウェイバーがあのタイミングで連絡をくれたおかげで俺たちは蜂の巣にされずに済んだからな。その礼を言いに行くんだよ」

「わざわざ? 電話じゃなくて?」

「アイツは仁義ってもんを大切にしてるんだ。お互い顔の見える場所で感謝を述べるってのは、大事なことだぜロック」

 

 そういうものなのか、とロックは思う。

 ダッチの話を聞く限り、ウェイバーという人間はそこまで恐ろしい人間では無いような気がする。

 しかし、ならあの酒場での人間たちの反応は何なのだ。何も無ければあんな異常な反応が起こる訳が無い。やはり彼の人間像がブレている。直接会ってしまえば、その人間像もきちんと定まるのだろうか。

 

「ねえダッチ。やっぱり彼は全部分かっててあのタイミングで連絡を寄越したのかな」

 

 正面を見て運転したままのベニーが呟いた。その問いに、ダッチは腕を組んで。

 

「だろうな、幾ら何でもタイミングが良すぎる。大方奇襲の時間帯まで予測してたんだろう、俺に連絡を入れるだけなら奴のオフィスでも出来る。道すがら連絡を入れるなんて面倒なこと普通はしねえ」

「やっぱり? 彼には予知能力でもあるんじゃないかい?」

「ま、聞いたって偶然だとか言ってはぐらかされるんだろうがな。いつものことだ」

 

 四人を乗せた車は、朝のロアナプラを北へ進んでいく。

 この時間になれば多くの人間たちは活動を開始するようで、いくつかのマーケットには多くの住人たちの姿が見受けられた。

 と、ここでようやくロックは今まで触れようか触れまいか悩んでいたことを前の二人に質問することにした。先程までとは別の意味で顔を引き攣らせたロックが、おずおずと手を挙げる。

 

「あのー」

「どうしたロック」

「さっきからレヴィが変なんだ」

「ああ、いつものことだ気にすんな」

 

 さらっと。そう返してダッチは顔を正面に戻した。

 いつものことなのか、へえそっか。と安易に納得できればそれで良かったのだが、生憎ロックは隣の女ガンマンの変貌っぷりに戸惑っていた。昨日までの彼女と180度違うのだ。どこまでも黒く、底知れない冷たさを帯びた瞳は、今は爛々と輝いている。大好きなおもちゃを前にした子供のようだ。大きく開かれていた股は女性らしくぴっちりと閉じられ、そわそわと落ち着きのないレヴィは隣のロックなど眼中に無いようである。

 そういえば、ベニーがレヴィは以前ウェイバーのところで厄介になっていたと言っていた。その所為なのだろうか。

 ロックの目には、今一瞬レヴィの頭に犬耳がついていたような気がした。

 

「着いたぜ、ここだ」

 

 車を路上に止めて降りれば、二階建ての白っぽい建物が飛び込んできた。これがロアナプラで絶対に怒らせてはいけない人物が住むオフィスだそうだ。無意識のうちにロックは生唾を飲み込む。ダッチたちに続いて、オフィスへと続く階段を昇っていく。一階は倉庫になっているらしく、彼の住処は主に二階の部屋なのだそうだ。

 階段を昇って一番奥の部屋の扉を、ダッチが軽く叩く。

 

「ウェイバー、いるか。俺だ」

 

 返事は直ぐに返って来た。

 

「開いてるぞ」

 

 ドアノブを回し、室内へと入る。

 ロックの目に飛び込んできたのは、どこにでもあるような応接用のソファとデスク、そしてその椅子に腰掛ける男の姿だった。

 

(黒髪……日本人か……?)

 

 ウェイバーなんて呼ばれているのだからてっきり屈強なアメリカ人あたりを想像していたロックである。まさか自分と同じ東洋人であるなど想像もしていなかった。

 見たところ別段際立った身体的特徴は見られない。言ってしまえばどこにでもいる普通のオジサンといった感じだ。ガタイで言えばダッチの方が全然大きい。

 本当にこの男が? そう疑問を持ってしまうのも仕方のないことだった。

 

「おはようダッチ。なんだラグーンの面子全員いるじゃないか」

 

 ウェイバーは前に並んだラグーン商会の面々を一通り眺める。

 やはりというか、その仕草に恐怖を感じるような部分は無かった。

 この時点で、ロックの中でウェイバーという男はそこまで警戒するような人間ではないと結論を出そうとしていた。彼に関する話をダッチから聞く限り別段恐れる部分は無いし、ロアナプラの若者が恐怖しているというのも噂だけが一人歩きしているのだろうと当たりをつける。

 ダッチとウェイバーが会話している横でそう考え事をしていたロックは、唐突にその会話の矛先が自身に飛んできたことで危うく心臓が飛び出しかける。

 

「彼のことは紹介してくれるんだろうな?」

「おっとそうだった。ロック、」

 

 ダッチに言われるがまま、ロックは一歩前に出た。

 なんとなく面接官を前にした就活生のような感覚を思い出す。

 自己紹介をすべく、一度落とした視線を正面に戻した瞬間、ロックは本気で息が止まるかと思った。

 

「ッ!?」

 

 ウェイバーが自身へ向ける視線が、最初と全く異なっていた。

 値踏みするような視線。ともすれば心の内側まで見透かされているような気がしてくる。どこまでも黒く、底の見えない瞳は一切の揺らぎを見せることなくロックを捉えていた。戦闘に移る際のレヴィも同じような瞳をしていたが、彼の場合はより深く、言い知れぬ恐怖を抱かせる。

 心臓の鼓動が早くなる。その音はロック自身にもはっきりと聞こえていた。張り詰めた緊張の中、意を決して口を開く。

 

「は、初めみゃ!」

 

 噛んだ。死にたくなった。

 

「は、初めまして。ロックと言います」

 

 今度はなんとか噛むことなく名乗ることが出来た。

 ウェイバーの視線は、未だ自身を捉えて離さない。と、そこで彼は一度瞼を閉じた。ほんの一瞬、ロックから視線が外れる。

 再び彼の瞼が持ち上がったときには、先程までの重圧が嘘のように霧散していた。

 

「おう、よろしくなロック。俺はウェイバー、しがない個人経営者だ」

 

 後ろに立つダッチの「なにがしがないだ」という呟きは、ウェイバーには聞こえていなかったらしい。

 極々自然に差し出された彼の手をロックは取った。ロアナプラにおいて多くの逸話を持つ彼の掌は、予想外にも至って普通だった。所々にマメはあるが、ゴツゴツしているわけでもない。

 そうロックが感じているように、ウェイバーも握手を通して何かを感じているようだった。握られた手がいつまでも離されない。肉体の接触によって、何かを読み取っているかのようだった。

 

「あ、あの」

「ん、済まない」

 

 声を掛ければ、彼はすんなりと握っていた手を離した。

 握られていた手は、いつまでも熱を帯びていて冷める気配がない。

 底が知れない。率直にロックはそう思った。同じ東洋人ということで初めはどこか親しみを覚えていたが、今はそうした親近感はどこかへ消し飛んでしまっていた。なんといっても悪徳の都の住人である。つい昨日まで陽の当たる場所で生きてきた自分とは、そもそも価値観から違うのだろう。

 彼のような人間が多数存在するというこの街で果たして生きていけるのだろうか。いきなり先行きが不安になってきた。

 

(ま、まあダッチやベニーも一緒だし、それにレヴィだって……)

 

 ラグーン商会のエースアタッカーである女ガンマンの方へ視線を移す。

 そこに、彼女の姿は無かった。

 ロックが彼女の姿を見失うのとほぼ同時に、ドスンという物音。

 音のしたほうへ視線を向けると、ウェイバーにしがみついているラグーン商会のエースの姿があった。

 

「会いたかったぜぇボォスっ!!」

 

 腕と脚をがっちりウェイバーの背中に回して、彼の胸板にぐりぐりと頭を擦り付ける。その動きに合わせて揺れる彼女のポニーテールが、ロックには犬の尻尾のように見えてしまった。

 車内でも彼女の様子がおかしいことには気が付いていたが、これは予想の斜め上すぎる。なんだこの光景は、あれが昨日見事なまでの腕を披露したガンマンなのだろうか。

 

「まーた始まった」

 

 ダッチにしてみれば見慣れた光景なのか、後頭部に手を当ててぼやくだけである。横に並ぶベニーも苦笑いだ。

 

「ダ、ダッチ。あれは一体どういうことなんだ?」

「なに、ありゃあいつものことだ。レヴィにとってウェイバーは父親みてえなもんだからな、甘えてんのさ」

「恋人じゃないってところがまたなんとも言えないよね」

「レヴィが唯一懐いてる人間だ。どっちかっつーと犬と飼い主みてえだけどな」

 

 そう言いながら笑うダッチとベニー。

 あの狂犬を飼い慣らせる人間がこの世に存在するとは思っていなかった。開いた口が塞がらない。

 ロックの驚愕など全く意に介さず、レヴィは嬉しそうにウェイバーに語りかけている。

 あんな表情もするのかと、ロックは半ば呆然と思うのだった。

 

 

 

 3

 

 

 

 リップオフ教会。

 ロアナプラで唯一武器の販売を許可されている、『暴力教会』と呼ばれている教会だ。

 俺は年期の入ったセダンから降りて、その入口にまでやって来ていた。

 目的は特に無いのだが、月に一、二度こうしてこの教会を訪れては大シスターと美味い紅茶を飲みながら世間話に花を咲かせるのだ。こういう関わりを無駄だと切り捨ててしまう人間は、様々な方面への伝手が乏しい人間だと思う。常日頃から各地の人間との関わりを持つことは極めて重要。そこで思いもよらぬ情報を手に入れたりすることもある。情報は鮮度と確実性が命なのだ。

 そしてこの暴力教会は、その情報が真っ先に転がり込んでくる場所でもあるのだ。

 正面に聳える礼拝堂には目もくれず、その奥に建てられた寄宿舎のような建物へと向かう。

 

 扉を数度叩けば、中からシスターらしからぬ女が出てきた。

 

「おはようエダ」

「おう。シスターなら奥で待ってるよ」

 

 シスターエダ。

 修道服にフォックススタイルのサングラス、口内にはガムと服装を除けばどう見ても修道女には見えない女だ。しかしこの教会の大シスターの右腕でもある。人は見た目によらないというか、悪徳の街のシスターらしい女だ。

 彼女に案内されて一室に足を踏み入れれば、大きめのソファに腰掛ける修道女の姿があった。

 隻眼でアイパッチをしたこの老女こそが暴力教会の大シスター、ヨランダである。

 

「久しぶりだね、ウェイバーの坊や」

「最後に来たのは先月だったかな。久しぶりヨランダ」

「今日はW&Mのいい茶葉が手に入ってね。飲んでいきな」

「じゃ、お言葉に甘えて」

 

 ヨランダの対面に座り、出されたティーカップに口をつける。

 鼻に抜けていく強い香りが良質な茶葉であることを思わせた。

 

「何か変わったことは?」

「さてねぇ。この街はいつも変なことだらけさ」

「そりゃそうだけど」

「んん、そういえば昨日だか一昨日だか、ベネズエラのヘロイン工場が潰されたとかなんとか」

 

 ベネズエラは南アメリカ北部の社会主義国家だ。

 どうしてそこの情報を知っているのかなんてことは聞かない。聞くだけ野暮だし藪蛇はごめんだ。

 

「マニサレラ・カルテルが動いたらしいけど、私にゃ関係ない話だしね」

「そうかい。ま、また何かあれば教えてくれよ」

 

 カップに残った紅茶を飲み干して、ゆっくりと席を立つ。

 ヨランダとのお茶会は毎回五分程で終わりを迎える。お互いが腹に何を抱えているのか分かったものじゃないと思っているからだろう。核心をつく発言は避け、あくまで匂わせる程度に留める。一見何の変哲もない会話の中に、とんでもない情報が紛れていたりする。教会を出て、乗り付けてあった車へと乗り込む。

 帰りの道すがら、取り出した煙草を咥えてヨランダと話した会話を心の内で反芻する。

 ベネズエラ、ヘロイン、マニサレラ・カルテル。

 何か良くないことがこの街で起こりそうな予感が胸中を渦巻く。

 そのざわつく予感を体内から吐き捨てるように、白煙と共に吐き出した。

 

 

 

 4

 

 

 

「良かったんですかい?」

「なにがだいエダ」

「さっきのヘロイン工場のこと。まだ他には漏らしてないんでしょ?」

 

 エダの発言を受けて、ヨランダはくつくつと笑った。

 

「あの坊やにはね、ある程度の情報(エサ )を与えといたほうが都合がいいのさ。そうやって縛り付けておかないと何しでかすか分かったもんじゃない」

「そりゃ経験談ってやつですか」

「そうさね。昔みたいに暴走されちゃこっちも困るんだよ。あの子が本気で銃を抜くようなことにはしちゃいけない」

 

 アンタだって困るだろう? そうヨランダはエダへと言葉を投げる。

 

「……全くです」

 

 サングラスを外して、エダは妖しく微笑んだ。

 先程までの修道女らしからぬ姿はなりを潜め、言葉遣いも淑女然としたものへと変化する。

 

「あの男の存在は我々にとっても非常に重要なものですから。ま、もう正体バレてるみたいですけど」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 原作を知らない人にも分かりやすように。
 原作を知っている人には散りばめた伏線でニヤリとしていただけるように構成……できたらいいなぁ。

 次回、冥土参上。


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004 二挺拳銃と呼ばれるに至るまで

 今回主人公視点が一切ありませんが仕様です。
 おかしい。冥土さんメインになるはずだったのに。


 -1

 

 夢を見る。周りには何もない真っ黒な空間の中、そこだけ切り取ったように四角い画面が目の前にあった。宛ら映画館のようである。そんな周囲の光景を確認して、彼女は額を押さえた。

 ああ、またこの夢だ。

 レヴィはそう嘆息した。起きた時には何も覚えていないというのに、いつだって同じ夢を繰り返し見続けているのだ。それは酷い不快感となって、起きた後の彼女にべったりとへばりついて中々離れない。

 今も忘れることのできない、最悪の人生の始まりが場面を切り取って、彼女の周りを流れていく。

 

 下卑た笑い、怒声、血走った(まなこ )

 思い出すだけで身震いを起こす、おぞましい記憶の断片。

 レヴィには母親が居なかった。物心ついた時には既に父親しかおらず、生死さえも分からないまま、残った父親に育てられた。

 彼女は男手一つで育ててくれる父に感謝していたし、父もまたレヴィを愛してくれた。貧困地域にありながら、最低限の生活は保っていた。

 幸せな家庭が、そこには確かに存在していた。有りふれた幸福が、求めるものが在ったのだ。

 

 父親が急変したのは、勤める小さな工場が多額の負債を抱えて倒産してからだった。

 新しい仕事も探さず、日々酒に飲まれる生活を送る父に、彼女は次第に不安を覚えるようになっていった。

 ある日、レヴィは言ったのだ。

 このままでいいのか、働かなくてはいけないのではないのか。

 その言葉がこれまで父が溜め込んでいたストレスを爆発させたのだろう。

 その日、初めてレヴィは暴力を受けた。それは次第にエスカレートしていって、ついには性的暴行にまで発展する。初潮を終え、二次性徴を迎えようとする娘の身体を、父親は狂ったように貪った。

 少女は涙しながら懇願した。しかし、その願いは聞き届けられることは無かった。

 目の前で腰を振る男は本当に父親なのか、これは本当に自分の身体なのか。

 余りにも疑問が多すぎた。多すぎて、そして彼女は考えることを止めた。自らの精神を守るために。

 

 そしてその日はやってくる。

 

 いつものように娘を暴行し、睡魔に身を任せて眠りこける父の寝室へと向かう。

 静かに部屋の扉を開ければ、大の字で鼾をかく父親の姿があった。足音を殺し、ゆっくりと父親の前に立つ。左手には自身が使用している羽毛枕。右手には護身用として父が所有する拳銃が握られている。

 そっと枕を父親の顔に当てて、その中心に銃口を押し付ける。

 

 躊躇いは、無かった。

 

 部屋に漂う血と硝煙の匂い。

 手に持つ拳銃が、酷く重たく感じられた。

 帰る家を失った。不思議と、気分は落ち着いていた。今日この日から、彼女は貧困街(スラム )の一員となった。

 

 ここで場面が切り替わる。

 そこはニューヨーク市警察が管理する刑務所の中だった。

 レヴィは服役囚として、監獄の中での生活にも慣れを感じ始めていた。犯罪に手を染め、刑期を終えて出所してはまた罪を犯すの繰り返し。父親をこの手で殺めたその日から、きっと彼女の精神は酷く歪んでしまった。

 ぐるり。場面が変化する。

 刑務所内の独房だった。

 中には手と足を拘束されたレヴィと、二人の警察官。

 三人ともが、下半身には何の衣類も纏っていなかった。独房内に漂う性臭が、この場で何が起きたのかを語っている。

 

 ああ、こいつらもだ。

 この警察官たちも、父親と同じような眼をしている。

 醜く濁った、ドブのような腐った眼だ。

 そして恐らくは、自身も同じような眼をしているのだろう。焦点の定まらない視界の先で笑う警察官たちを見て、自嘲気味な笑いが漏れる。それが気に入らなかったのだろう。二人は時間ギリギリまで、レヴィのことを嬲り続けた。

 

 再度、暗転。

 レヴィの少女時代の出来事が、それぞれ場面ごとに周りを流れていく。

 神に祈った。

 無実の罪で警察官に半殺しにされた夜から、神は祈る対象ではなく呪う対象へと変化した。

 神を呪った。

 金を持たない小娘には、人権さえも与えられない事実を知って、呪う神すらいないのだと悟った。

 

 気が付けば、ニューヨークを追い出され、東南アジアの辺境の地に流れ着いていた。

 自身と同じかそれよりも酷い悪の吹き溜まりだと言われただけのことはあった。ここは死人にも見劣りしない人間が死に場所を求めて徘徊する肥溜めだ。

 何もない。

 もう少女には、何も残されていなかった。

 人間、堕ちることはいとも容易い。最下層にまで、彼女は堕ちていった。

 毎晩悪夢を見る。その夢に魘されて眼を覚ますというのに、その内容は一切覚えていない。それがどうしようもなく気持ち悪くて、眠ることすら躊躇うようになっていった。

 ロアナプラの刑務所に放り込まれ、出所し、また出戻りを繰り返す。やっていることはここでもニューヨークでも同じだった。結局どこにいようと彼女がすることは決まっていて、それがまるで他人に決められているようで、彼女の神経を逆撫でする。

 

 いつの間にか、肩には刺青が走っていた。

 ボサボサに伸ばされた髪の毛は、肩口を越えていた。

 身体は、もう汚れきっていた。

 

 レヴィのこれまでの記憶に、温かなものは存在しない。幼少の父親との生活ですら、この時の彼女には色褪せ、黒ずんだものになってしまっていた。冷え切った、殺風景な記憶。その中に、小さな光が生まれるようになっていく。

 それは、この悪徳の都でとある男と出会ってからだった。

 

 ロアナプラでは珍しい、雨の降る夜のことだった。

 帰る家など何処にもないレヴィは、いつものように建物と建物の間でボロ切れを纏い身体を丸めていた。大通りを歩く人間の中に、彼女に視線を向ける者などいない。関われば噛み付かれる狂犬だと噂されるくらいには、この街で彼女は有名になっていたからだ。

 それでいい、とレヴィは思う。

 所詮は他人でしかなく、本人の気持ちは本人にしか理解することは出来ない。真の理解者など存在しないし、欲しくもない。

 黒々とした不快感は、彼女の大部分を覆い尽くそうとしていた。

 

 そんな彼女を打つ雨が、唐突になりを潜めた。

 怪訝に思って落としていた視線を上げれば、自身に向かって傘を差し出している男の姿。

 

 ――――風邪ひくぞ。

 

 ――――うるせぇ、消えろ。

 

 始まりの会話は、そんな風に殺伐としたものだった。

 他人への親切など所詮は見返りを求めての行動でしかない。そんな安い同情紛いのものは要らなかった。

 

 ――――お前、家は?

 

 ――――此処がアタシの家だ。

 

 ――――一畳も無いだろうここ。

 

 男はしゃがみこんで、レヴィと視線を合わせる。

 

 ――――うちに来い。一階なら空いてる。

 

 いよいよ馬鹿らしくなってきて、レヴィはその申し出を鼻で哂った。

 馬鹿か、そこらでのたくってるガキどもに、皆同じことを言って回っているのかと声を荒げる。

 まさか、と男は答えた。

 

 ――――たまたま眼についたのがお前だった。なんだかほっとくと死んじまいそうだったからな。

 

 だったらそのまま放っておいてくれと告げて、レヴィは最初の体勢に戻る。

 しかし、差し出された傘は動かない。

 いい加減苛立ち始めた彼女は、懐に潜ませていた拳銃を男の額に突きつけた。怒気を孕ませた低い声で、レヴィは呟く。

 

 ――――失せろ。額で煙草を吸いたくはねえだろう? アタシの銃の引鉄は軽いんだ。

 

 ――――そうかい。

 

 男はそれだけ言うと、一度レヴィから視線を外して。

 

 ――――それじゃ、俺が額で吸うコツを教えてやろう。

 

 一瞬、男が何を言っているのか分からなかった。 

 銃を抜いてから、視線を外した覚えはない。男の一挙手一投足を目にしていたつもりだ。見落とすはずがない。

 ならば、今自身の額に押し当てられているのは一体なんなのだろうか。考えるまでもなく、それは拳銃だった。恐らくは懐にあるホルスタから抜いたものなのだろう。だが幾ら何でも早すぎる。右手には尚も差し出されている傘を握っている。左手一本で銃に手を伸ばし、引き抜き、額にあてがう。これだけの動作を、知覚させずに行える人間など果たしてこの世に存在するのだろうか。

 

 ――――てめぇ、何モンだ。

 

 ――――教えてやるさ、お前がここから動く気になったらな。

 

 銃口から伝わる冷たい感触が、彼女に決断を迫る。

 男の瞳を見れば判る。この拳銃は脅しで抜かれた訳ではない。それを理解できる程度には、彼女もこの街でその腕を上げていた。

 数秒して、レヴィが男の額から銃を下ろす。それに続いて男も素早く拳銃をホルスタに収めた。

 

 ――――お前、名前は?

 

 ――――人に物尋ねるときは自分からだって教わらなかったのかよ。

 

 ――――ああ、失敬。

 

 男はレヴィに傘を渡して、雨の降るロアナプラを歩き始める。

 

 ――――ウェイバー。そう呼ばれている。

 

 光景が切り替わる。

 レヴィとウェイバー。はじめは一晩だけのつもりだった彼女だが、いつしかそこに住み着くようになった。

 かといってそれは彼女の本意ではない。できることなら今すぐにでも出ていきたい所存である。ではどうしてそうしないのか。それは(ひとえ)に男のせいであった。

 

 ――――決めた。お前うちに居ろ。逃げても探し出して連れ戻すから。

 

 とんでもない暴論だ。

 元より一晩だけのつもりで家に上がり込んだのだが、ウェイバーと名乗る男はこの先もずっと住まわせる腹積もりのようだ。

 

 ――――フザけんなよ糞野郎。あたしがどこで何をしてようがテメエには関係ねぇ。

 

 ――――でもお前、家が無いんだろ? 

 

 レヴィにはどうにも理解できなかった。

 どうして赤の他人の面倒をここまで見ようとするのか。この街の人間とは思えない。ロアナプラの殆どの人間は、路肩で野垂れ死にが居ても視線すら向けない。それが日常茶飯事、ありふれた光景であるからだ。どんな理由でくたばろうが自己責任、その尻拭いを別の人間が行うことはしない。

 この街で生き抜くためには、一人で全ての責任を負えることが最低条件なのだ。

 だからレヴィはこれまで他人を一切頼らなかった。

 頼れる人間など元より存在しないが、他人に関与されることを彼女はとことん嫌っていたからだ。

 ニューヨークでもロアナプラでも、結局最後にモノを言うのは自身の力だ。そこに異論は挟ませない。

 

 ――――そんなに世話焼きてえならジジイどもの尻でも拭ってろ。あたしよりは世話のしがいがあるだろうさ。

 

 そう吐き捨てて、レヴィは彼のオフィスから出ていこうと身を翻す。

 しかしそれをウェイバーは是としない。

 彼に背を向けたレヴィがその殺気に気づき、振り向きざまに拳銃に手をかけた時には、既に彼の銃口はレヴィの後頭部に押し当てられていた。一切の躊躇もなく、ウェイバーは引鉄に指を添える。

 

 ――――そうだな、よし。レヴィ、じゃあお前が俺から一本取れたら好きにしていいぞ。

 

 ――――あぁ? んな面倒な勝負に乗るとでも思ってんのか?

 

 ――――乗らないなら別に構わないが、いつまでもここに住んでもらうぞ。因みに食事づくりは当番制だ。

 

 押し付けられた銃口と彼の言葉を受け、忌々しげに舌を打つ。

 非常に不本意ながら、この勝負に乗らざるを得ないようだ。掴んでいた銃をホルスタへと戻し、レヴィは両手を上げる。

 オーケイ、と面倒そうに呟いて。

 

 ――――一本だな。せいぜい寝首掻かれて死なねえように気をつけな。

 

 そこからの日々は、レヴィにとって全く新しいものだった。

 一本を取るとウェイバーは言ったが、その定義まではしなかった。故に、殺してしまっても問題はないだろうと決め付けて深夜の彼の部屋に侵入。寝込みを襲ったことがあった。

 また彼の料理中にサイレンサーを取り付けた拳銃で背後から撃ったこともあった。

 シャワーを浴びているウェイバーの浴室に突撃して、無防備な彼を蜂の巣にしようとしたこともあった。

 仕事に出掛けるという彼の車に安物の爆弾を仕掛け、爆殺しようとしたこともあった。

 だが、そのどれもが失敗に終わった。

 いつ、どのタイミングで奇襲をかけてもあの男には通用しなかったのだ。

 寝込みを襲ったときは何故かベッドにおらず、逆に背後を取られた。

 後ろからサイレンサーで狙い撃ちした時は、調味料を探す振りをしてコンマ数ミリで躱された。

 セダンに爆弾を仕掛けた時は、見透かされていたのかその時に限って徒歩で仕事へ向かった。

 掌で踊らされているかのようだった。

 

 しかしながらそんな日々が、いつしか心のどこかで気に入ってしまっていた。

 この街に来てからずっと一人で気を張っていたせいもあってか、ウェイバーと話をしていると落ち着いている自身がいるのだ。

 不思議な感覚だ、と思わず首を傾げる。あれほど最初は嫌っていたというのに、殺し合いの中で生まれる情もあるというのだろうか。

 その後もレヴィの暗殺作戦は続けられた。

 その回数が五十を超え、百を超え、三百に達しようとする頃には、彼女はすっかりウェイバーの家の住人となっていた。

 いつからか、あの不快感しか感じない悪夢は見なくなっていた。

 

 なにをしてるんだ。自分以外の人間なんてどうでもいいはずだろう。

 そう思いはするものの、彼と居て感じる心地よさに縋り始めている自身がいることに気が付いていた。

 心が、弱くなっていくかのような錯覚に陥る。

 周囲の全てを切り捨ててここまでやってきた筈だ。

 なのに今更、どうして。

 ウェイバーという男は一風変わり者だ。この街で多くの利権を有しているというのに、他のマフィアどものように高級な住居を構えたり、大規模な組織を従えたりはしない。

 一匹狼という点では、彼はレヴィと同じだった。

 ただし、彼の場合は周囲の人間が彼に一目置いている。自身では決して持ち得ないような他者からの人望や地位を、彼は当然のように有していた。その違いをふとした時に感じて、レヴィは思う。

 嗚呼、やはり住む世界が違うのだと。

 一日、また一日と日々が過ぎていく中で、生まれていた温かな気持ちの中に再び粘ついた黒い不快感が点となって浮き上がってくる。

 

 その感情が嫉妬だと気づきながら。お門違いの八つ当たりだと理解しながら。レヴィはしかしその行き場の無い感情を持て余すようになっていった。

 

 一時期は見なくなっていたあの得体の知れない悪夢に、再び魘されるようになった。

 それがきっかけになったのかは、当時の自身は余り覚えていない。

 ただ、その時は一刻も早くこの場所から離れるべきだと思った。でなければ、本当にあの男を殺しそうになってしまうから。これまで失敗してきた勝負事とは違う、本当に互いの命を懸けたやり取りにまで発展してしまいそうになったから。

 きっかけは彼の勝手なお節介とは言え、これまで世話を焼いてくれたことには感謝している。恩人だと素直に思える程度には、彼女の心にも余裕が出来ていた。

 だからこそ。恩人と濁った眼で殺し合うことなどしたくは無かった。このままではそうなってしまうのはそう遠くない。レヴィはある晩、ウェイバーが寝室に入ったのを確認して、簡単な荷物だけを纏めて家を出ようとした。

 

 ――――イエローフラッグにでも飲みにいくのか?

 

 扉に手を掛けたレヴィの動きがピタリと止まる。

 その声が誰のものであるかなど、今更確認するまでもない。

 彼女は振り向かず、ただ小さく「ああ」と答えた。

 

 ――――なんだか今日は飲み足りねぇからさ、ちょっくらバオんとこでひっかけてくるわ。

 

 ――――そうか。……朝までには帰ってこいよ。今日は珍しく冷えるみたいだからな。

 

 帰ってこい。その言葉を飲み込めずに、レヴィは奥歯に噛み砕かんばかりの力を込めた。

 ここで振り返れば恐らく、もう我慢できない。それでは今まで必死になって押し込めていた感情が爆発することになってしまう。その感情をウェイバーにぶつけることだけはしたくなかった。

 

 ――――おやすみ。

 

 そう言って、ウェイバーはただポンとレヴィの肩に手を置いた。

 それが、決壊の合図だった。

 寝室に戻るために階段を昇っていくウェイバーの背中に、ホルスタから抜いた拳銃を突き付ける。彼の足が止まる。しかし、何も言わない。それがどうにも神経を逆撫でして、彼女は感情のままに言葉を吐き出した。

 

 ――――なんでだ、なんでだよ! なんでアンタはそこまであたしに構うんだ! 他人だろ!? 放っておけよ、そこらで死んでたって何の関係もねぇじゃねぇか!!

 

 ――――人を構うのに、理由なんているのか?

 

 ――――いるね、当然だろ! この世界にゃ神サマなんてご大層なもんはいない。そんなもんに祈ってるわけでもねぇアンタがアタシを構う理由はなんだ!? 金か? 身体か? はっきりしろよ糞野郎!!

 

 やめろ。

 

 ――――いらない世話焼かれてこっちゃ迷惑してんだよ!

 

 本当は感謝しているんだ。だからやめろ。

 

 ――――何考えてんのか分かんねえアンタを見てると苛々すんだ!!

 

 子供の癇癪みたいに恩人を罵倒するのはやめろよ。

 そう心の何処かで思っているのに、まるで自分のものではないかのように口は勝手に言葉を吐き出し続ける。

 その罵倒を、彼は背中越しに黙って聞いていた。

 

 ――――俺には、家族と呼べる人間がこの世界に存在しない。

 

 レヴィが一通り言葉を吐き出し終えるのを待っていたのか、彼は唐突にそう口にした。

 

 ――――だから、ああ、そうだな。

 

 レヴィから彼の表情は窺い知ることは出来ないが、どこか恥ずかしそうに彼は言った。

 

 ――――きっと、家族が欲しかったんだろうなぁ。

 

 ウェイバーのその言葉は、レヴィの心に驚く程すとんと落ちた。

 レヴィと同じように、彼にも家族がいない。天涯孤独の身。だから人肌を、温もりを求めていたのか。

 はじめは勿論誰でも良かったのだろう。それがたまたま自身であっただけに過ぎない。しかし日が経つにつれて、彼の中にも自分と同じような思いが芽生えていたというのか。

 これまでの家族ごっこを、楽しんでいたというのか。

 

 ――――……んだよ、それ。

 

 彼の背に突き付けていた拳銃は、力なく下ろされた。

 まだまだ言いたいことは沢山あったはずなのに、頭の整理がつかないせいか上手く纏まらない。

 ぐちゃぐちゃになったままの頭を必死に働かせて、やっとの思いで出た言葉は、彼女自身最も意外なものだった。

 

 ――――家族か。……あたしでも、なれるかな。

 

 一度は全てを失った。

 でもそれはきっと、失って終わりではない。

 

 ――――なぁ、あたし、ずっとここに居てもいいのかな。

 

 作り上げることが出来るのだ。

 背中に縋るように顔を埋めてきた彼女を、ウェイバーは振り返って優しく抱きしめた。

 粘着く黒い不快感は、完全に無くなっていた。

 

 

 

 0

 

 

 

「なぁウェイバー! あたしにも銃の上手くなる方法教えてくれ! あんたみたいになりてぇ!」

「は? ならまずもっとマトモな拳銃使うこったな。そんな安物じゃすぐにブッ壊れちまうぞ」

「しょうがねえだろ金が無ぇんだよ!」

「ったく、しょうがねえな。これでまともなの買ってこい」

「あんたが今使ってるのくれてもいいんだぜ?」

「馬鹿野郎これはやれねえよ」

 

 ぶつん、と光景が一旦途切れる。

 次の光景が四角く切り抜かれた空間に映し出される。

 

「中々サマになってきたじゃないか」

「ったりめぇよ。ウェイバーの旦那の顔に泥塗るわけにはいかねえ」

「んじゃ、次の仕事だ」

「あいよ」

 

 懐かしいな、と思う。

 思い出すと心がじんわりと温かくなる、そんな日々がそこには映されていた。

 

「お前はもう一人前だよ、レヴィ」

「よしてくれ。ボスの腕には程遠いよ」

「明日にはダッチが顔を見せにくるだろうが、その前にお前に渡しときたいものがある」

「ん? なんだこれ……って!」

「いつまでも使い捨てのボロい拳銃(モン )使ってんな。そいつはバレルを六インチに延長した特注品だ。エンブレムは俺の趣味」

「これ、貰っていいのか?」

「お前のために作らせたんだよ。折角持ってる権力だ、こういう時に使わないとな」

「何か間違ってる気もするけど、ありがとよボス」

 

 今の彼女を形成しているのは、間違いなくこの時の彼との二人の暮らしだ。

 これが無ければ今頃彼女の精神は酷く歪に、そして醜く捻じ曲がってしまっていたままだったろう。

 悪徳の街の溢れている死人たちのように、泥の棺桶でくたばっていくだけの何の意味もない人生を送っていたに違いない。

 最終的に行き着く先は、きっと変わらない。天国か地獄かと言われれば間違いなく地獄に行くような人間だ。父を殺し、生き残るために多くの屍を踏み台にしてきた。

 でもそんな自分にも、生きる意味はあったのだ。

 ウェイバーという男が求めてくれる限り、決して死ぬことはない。死ぬことは許されない。償いではなく、罪悪感からの行動でもない。

 ただ、そうしたいから。

 

 雨降るあの日、あの男に出会ったことでレヴィの人生は大きく変化した。

 

 

 

 1

 

 

「……ヴィ、レヴィ!」

「んあ?」

 

 身体を揺り動かす感覚に引っ張られて、重たい瞼を持ち上げる。何度か瞬きをしてぼやけていた視界を安定させれば、目の前には自身の肩を持つ日本人ロックの姿があった。どうやらラグーン号の船内で眠りこけてしまっていたらしい。横たえていた身体を起こして、頭を横に数回振るって眠気を飛ばす。

 

「珍しいな、レヴィが仕事中に居眠りするなんて」

 

 どんな夢を見てたんだ? そう言うロックの問いかけに、レヴィはぼんやりと。

 

「さぁな、ただ……とてつもなく良い夢を見てた気がする」

 

 

 

 2

 

 

 

 ガラガラと、大きめのスーツケースを引く女だった。

 ロアナプラという街において、滅多にお目にかかれない服装をしていることもまた周囲の眼を引いた。

 その女はどこかの屋敷にでも仕えているのか、メイドの格好をしていたのだ。彼女は先程市場で聞いた酒場を目指して歩いていた。なんでもこの辺りのヤクザやマフィアが好んで溜まり場にしている場所らしい。名前はイエローフラッグ。立地は良いので、すぐにでも見つかるとのことだった。

 市場の若者の言葉の通り、目当ての酒場は直ぐに見つけることが出来た。無表情のまま、その扉に手を掛けて店内に入る。

 

 店内は、異様な程に静まり返っていた。

 聞こえるのは酒を飲む音とグラスがテーブルに置かれる音、そして店主と思わしき男がカウンターを動き回る音だけだ。

 荒くれ者どもが集まると聞いていたのだ。もっと騒がしく下品な場所だと思っていたが、どうやらそれは勘違いだったらしい。女はそんなことを思いながらスーツケースを引いて、正面のカウンターに腰を下ろした。

 店主、バオは女の格好に一瞬眼を開いたが、すぐに持っていたグラス磨きの作業に戻り。

 

「ミルクはねえぞ」

「では、お水を」

 

 女の言葉に帰ってきたのは、無言で置かれたビールのジョッキだった。

 

「ここは酒場だ。酒を頼め」

 

 目の前に置かれたジョッキを見つめ、一度店主へと視線を移す。その眼光が、細く鋭くなっていく。

 

「バオ、そこまで言うことないだろう」

 

 その声は、女の二つ隣のカウンターに座る男のものだった。その男の手元には高級そうなビンとグラスが置かれている。

 

「下戸かもしれない」

「下戸が酒場に来るかよ」

 

 女、ロベルタはバオに向けていた視線をその男に向ける。

 彼女はこの悪徳の街について殆ど知らないが、直感で理解した。この酒場がこれほどまでに静寂に包まれているのは、横の男のせいなのだと。

 臭う。この男は危険だと、本能が警鐘を鳴らしている。

 そんなロベルタの内心を知ってか知らずか、男は席を一つ移動して真横にやって来た。

 

「こんにちはお嬢さん。変わった格好してるけど、こんな真昼間からここに何の用?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




◆おまけ◆

「なんだこれ」

 ロック、十七歳。高校生。学ラン。

「こういう設定なんだろ? んなことよりお前ちゃんと飯食ったか?」

 レヴィ、十七歳。高校生。セーラー服。チャカ持参。

「こんな物騒なやつがいる高校なんてごめんだぞ」
「お前あれ見てもそんなこと言えんの?」

「はい出席ぃ。三つ数えるうちに席に着かないと5.45ミリ弾ブチ込むわよー」

 バラライカ、○○歳。教師。威圧感ex。権力、バラライカ>校長。

「あん? なんだ岡島」
「いえ、まんまだなと」

「ベニー。っち、またあのクソガキ欠席かしら」

 ベニー、十七歳。ひきこもり。

「そういえばダッチやウェイバーさんはどうなってるんだ?」
「ダッチならあっこにいるぜ、ほら」
「なんで麦わら帽子被って花壇の世話をしてるんだあのオッサンは」

 ダッチ、三十三歳。校務員。最近の悩み、三日に一度花壇に風穴が開いている。

「んでボスは多分校長室だな」
「校長先生なのか?」
「いんや」

「全くどうなってるんですかこの学校は! うちの娘に何かあったらどうするんです!」
「は、はあ。しかしですね、むしろお宅の娘さんが……」
「うちの娘に何か問題でも!?」

 ウェイバー、三十五歳。モンスターペアレント。レヴィ命。


 ※年齢は適当です。

 原作ではレヴィのカトラスはコピー品ですが、こちらでは正規品の扱いとなります。


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005 ラブレス家の女中

 メイド編を一話で終わらせるのは無理だと判断したため、きりのいいところで五話として投稿です。


 3

 

 

 

 ――――べちゃり。

 何か水っぽいものが弾けたような音が船室(キャビン)に響いた。その音の正体はカップのアイスクリームで、たった今レヴィの顔面を甘ったるく彩ったところだった。

 たらたらと滴るアイスクリームを掌で拭う。彼女の視線は正面の少年に向けられたまま、どこまでも無表情だった。船室の壁にもたれかかるロックの胃がキリキリと悲鳴を上げている。このままではいつ彼女のカトラスが抜かれるか分からない。そうなる前に彼女を羽交い絞めにしたほうがいいのだろうか。そんな思考を巡らせていたら、先手をレヴィに取られてしまった。

 

「……オーライ、お前がとびっきりの死にたがりだってことはよく分かったよ」

 

 言いながら、レヴィはショルダーホルスタに収められたカトラスへと手を伸ばす。それを見て慌てて彼女を拘束するロックだが、どうやらアイスクリームを投げ付けた張本人はレヴィの動きにも全く恐怖を抱いていないようだった。レヴィから視線を逸らさず、まっすぐに見据えている。

 

「ふん、騙されないぞ僕は! さっさと船から降ろせよ悪党!」

「口だけは達者なようだなぁお坊ちゃん。その口から無様に悲鳴が上がるまで、あたしは的当てすればいいのか?」

「待て待てレヴィ! 子供相手だ、本気になるな!」

 

 銃口を少年に突き付ける寸前でロックは彼女を後ろから羽交い絞めにした。その際鼻をくすぐった甘い匂いは果たしてアイスクリームなのか彼女の匂いなのか。

 そんなどうでもいいことを考えていたから、ロックはレヴィの言葉を捉えるのに遅れた。

 

「……ロック、ロック。冗談だよ、離せって」

「あ、あぁ」

「いくらあたしでもこんなガキ相手に顔真っ赤にしたりしねぇよ。ボスに笑われちまう」

 

 手に持っていたカトラスを慣れた手つきでくるくると回転させ、カウボーイよろしくホルスタに収める。

 拳銃を収めたレヴィを見てほっと胸を撫で下ろすロックだが、正面に座る少年の警戒は未だ解かれる気配はないようだ。

 それも当然かと、ロックは朝方受けた依頼の内容を思い出して腕を組む。

 一言で言えば、今回の仕事はこの少年を依頼主のところまで届けることだった。依頼主はマニサレラ・カルテル。ロアナプラで多くの利権を有する『黄金夜会』の一角を担うコロンビア・マフィアだ。そんな大きな組織が少年一人を目的にしていることに違和感を感じないでもないが、所詮ラグーン商会はただの運び屋。余計な詮索をするべきでないことくらいは、悪党見習いのロックも十分に理解していた。

 

「ロック、あたしは顔洗ってくるからコイツを見張ってろ」

 

 そう言ってレヴィは船室を出て行く。

 残されたのは少年とロックの二人きり。運び屋とその商品というなんとも居た堪れないコンビになってしまった。

 どうしたものかと思案しながら煙草を取り出すロックに、少年は先程までとは声のトーンを変えて話しかけた。

 

「あんた、他の連中とは感じが違うね。普通の人みたいだ」

 

 中々鋭い感性をしている。それともまだ馴染めていないだけなのだろうか。

 ロックは少年の言葉に首肯した。

 

「だろうね。俺はまだ悪党見習いってとこなんだ」

「悪党に見習いなんてないと思うけど。悪に手を出した瞬間から、紛うことなき悪党さ」

「手厳しいな」

 

 肺に取り込んだ煙を上に向かって吐き出す。

 

「俺はロック。君の名前は?」

「悪党に教える名前なんか無いよ」

「かもね。でも相互理解は必要だと思うんだ。一時的とは言えこうして同じ船に乗ってるんだから」

「……ガルシア。ガルシア・ラブレス」

 

 ラブレス。

 そのファミリーネームにロックは聞き覚えがあった。

 ラブレス家と言えば、南米十三家族にも数えられる大家だ。

 

「偽名とは関心しないな。つくならもっとマシな嘘をつくべきだ。君は孤児だと聞いているよ」

「マニサレラ・カルテルの連中がそう言ったの? それこそとんでもない大嘘さ。僕は正真正銘、ラブレス家十一代目当主ディエゴ・ラブレスの息子だよ」

 

 他人の言葉を簡単に信用してはいけない。それはロックがこの街にやってきてはじめに覚えたことでもある。

 だから今ガルシアと名乗る少年の言葉も真に受けているわけではない。

 しかし、ただの少年が南米十三家族の中でも最も落ち目な貴族のことなど知っているだろうか。当主やその息子の名前まで。

 嘘をついているのだとすればこの少年は賢い。落ち目の貴族を選んだほうが知名度からいっても真実味が増すからだ。

 

「……信じてないって顔してるね」

「そりゃあね。いきなり自分は貴族ですなんて言われて素直に納得できる筈がない」

「じゃあどうすれば信じてくれるのさ」

 

 不貞腐れたように膝を抱える少年に、ロックは幾つかの質問をすることにした。

 

「どうして自分が誘拐されたのか理解しているのかい?」

「カルテルの連中から聞いてるんでしょ?」

「俺の口から話すことは契約違反だからね。君の口から聞かせて欲しい」

「それを話すには僕の家のことから話さなくちゃいけなくなるけど」

「是非」

 

 ロックに促されて、少年はポツポツと語り始める。

 自身がこの場に居るに至る。その経緯を。

 

「ラブレス家はね、確かに裕福じゃなかったさ。でも父や愛犬、それに使用人と協力してなんとかやってきたんだ」

 

 その頃の楽しさを思い出しているのか、少年の表情に曇りは無い。

 ロックは咥えていた煙草の火を消して、静かに少年の話に耳を傾ける。

 

「でもあるとき、あのマフィアたちがやってきたんだ。強引に土地を買い取るためにね」

「何かしたのか?」

「何も。地質調査で希土類(レアアース)が出るって判ったからだよ」

 

 希土類。その言葉が少年の口から出てきたことで、ロックの中で話の信憑性が跳ね上がった。

 ラブレス家周辺の土地から、セラミックの定着媒体には欠かせないルテチウムという希土類が出ることをロックは知っていたのだ。そして今の少年の話は、自身の持っている情報とは矛盾しない。

 だが、まだ足りない。

 横に座る少年が本当にあのラブレスの家の人間であると断定するには、些か情報が少ない。

 

「希土類か。一体どこでそんな言葉覚えたんだ」

「今はそれは置いておいて。とにかく、それが出るって知った途端奴らは強引に農場を買い取ろうとしたんだ。それでも父は首を縦には振らなかった。だから今僕がここにいる」

「成程、話としてはよく出来てる。よく調べたな」

 

 ロックの言葉に、少年は不服そうに目を細めた。

 

「まだ信じてくれないんだ」

「完全に信じるなんて不可能だよ。君の言う話だけじゃね」

 

 だからロックは質問を続ける。少年がもしも本当のことを話しているのなら、きっと次の質問にも答えられるだろうと予想して。

 

「希土類について他に知っていることは?」

 

 その質問に、少年は間断無く答えた。

 

「うちで出たのはルテチウム。元素番号七十一、セラミックの定着媒体に使われるんだ」

「……もう一つ質問だ。ラブレス家には一匹の犬が飼われてる。それについて知っていることは?」

 

 この質問にも答えられるようであれば、彼がラブレス家の人間であると判断していいとロックは思っていた。

 ラブレスの家の場所や当主の名、採掘される希土類は優秀な人間であれば調べることは可能だ。だがその犬の名前はネットに掲載していない。身内の人間しか知らない情報なのだ。因みにロックもその名前までは知らない。いつから飼っているのかと、その犬種のみである。

 そんなロックの質問に、少年は。

 

「疑り深いな、そんなの簡単さ。六年前に家族になった僕の犬の名はラザロ。白い体毛のヴォルピーノ・イタリアーノだ」

 

 

 

 4

 

 

 

「……妙だな」

 

 ロックの言葉を聞いて、ダッチは眉根を寄せた。

 同じく船内に居たベニーとシャワーを浴びてきたレヴィも一様に難しい表情を浮かべている。

 そんな彼らに、ロックは続けた。

 

「ダッチ、一度港に戻ったほうが良いのかもしれない。カルテルたちは嘘をついている可能性がある」

 

 それはつまるところ、何か良からぬトラブルを抱えている可能性を示唆している。それはダッチも承知していることだろう。判断に迷っているのか、腕を組んで考えているようだ。

 嘘をついてまでしてこの少年を手元に置きたがる理由。直ぐに思いつくのは二、三であるが、その中でも特に可能性として高いのは少年が言ったとおり人質としての価値があるからなのだろう。

 余計な詮索はしないのが原則だが、依頼主が偽っているというのなら話はまた変わってくる。これは信用の問題であり、カルテルの連中が踏み躙ろうとしているのであればこちらとしてもそれなりの態度を取る必要がある。

 

「ロック、あのガキから聞き出した話は本当なんだな?」

 

 一分程沈黙を貫いていたダッチが、不意にそう口にした。

 その問いかけにロックは一つ頷いて。

 

「旭日重工にいた頃は資材調達部だったんだ。希土類や希石類はよく知ってる。ラブレスの家のことも全部正しい。南米課の交際資料に家族構成なんかも載ってるから」

 

 それを聞いてダッチは顎に指を添え、再び考え込む仕草を見せた。後方ではベニーも何やら考え事をしているらしいが、唯一レヴィはそんな中でも煙草を燻らせてカトラスを器用に回していた。

 カルテルが嘘をついているのだとしても、それがどうしたと言わんばかりに彼女は言う。

 

「ロック、もしカルテルの奴らが嘘をついていたとして、それが何だってんだ? あたしらは運び屋だ、それなりのプライドはあってもあのガキに向ける同情なんて持ち合わせちゃいないのさ」

「……同情が無いなんて言ったら嘘になる。でも依頼主の嘘が気になるってのは本当なんだ。何か良くないことが起こるような気がする」

 

 ロックが少年へと向ける憐憫をくだらないと吐き捨ててしまうことは容易い。しかし、レヴィはそれをしなかった。彼の姿に、無意識のうちに自身を拾ったあの男を重ねていたのかもしれない。それを否定することなど、今の彼女には出来るはずもなかった。

 口を閉ざすレヴィに代わって、方針が決まったのかダッチがポケットから携帯を取り出した。

 

「一先ずは港へ引き返す。それと保険の意味も兼ねてバラライカに連絡を入れる」

 

 ラグーン号の方向を変えて、ロアナプラへと進路を取る。

 緩やかに速度を上げ始めたところで、はたとロックは気が付いた。いや、思い出した。

 そういえば一つ、ダッチに伝え忘れていたことがあったのだ。

 

「ダッチ、もう一ついいかな」

「ん、なんだロック」

「ラブレスの家のことなんだけど」

 

 そこで一旦言葉を切って、ロックは続きを口にする。

 

「そこの女中、なんでも相当強いらしいんだ」

 

 

 

 4

 

 

 

「分かったわダッチ。うちでもマニサレラ絡みで一つ仕事があったの、タイミングが良かったわね」

『すまねえな。なるべく事を荒立てないようにしてくれ』

「それは無理な相談だわ。それにこの件については私たちだけじゃないの。ウェイバーも一枚噛んでるのよ」

『……マジか』

「そ。だから下手するとハリケーンみたいに荒立つかもね」

 

 それだけ言って通話を終えると、バラライカは手元に揃えてあった資料に視線を落とした。その資料に同じ室内にいた部下である男も目を通す。

 葉巻を咥えるバラライカの表情は、先程までのダッチとの会話の時とは打って変わって険しいものだった。眉間に皺が寄っていくのを自覚してしまうほどに。 

 その資料は今しがた、部下に調べさせたラブレスの家に関連するものだ。

 家族構成や貴族としての功績などが一面に記載されている。だがバラライカが見つめているのはそれらではない。一枚の写真だ。そこにはラブレスの家の人間たちであろう数名の人間たちが写っている。

 その中の一人を、彼女はじっと見つめていた。

 

「気に入らんな」

 

 煙を吐き出して、バラライカは呟く。

 

「同志軍曹、コイツをどう思う」

 

 問われた男は一度その人間、もっと言えばその目を見て答えた。

 

「……兵隊(サルダート)ですな」

「正解だ軍曹。しかもこいつはとびきりの狂犬ときてる」

「それを知っていてあの男はこの件に出張ってきたのでしょうか」

 

 軍曹の言うあの男とは言うまでもなくウェイバーのことだ。

 ウェイバーはいつもふらりと重要な案件の重要な場面に現れる。偶然を装い、事も無げに核心を突いて事態の収拾を図るのだ。今回のマニサレラ・カルテルの一件も、どこから聞きつけたのかは知らないが一人息子を救おうとでも考えているのだろうか。

 この街に居る以上はウェイバーも立派な悪党だ。それはもう一等の。

 しかし、彼は何処かに甘さを残している。レヴィを手元に置いた時のような、冷酷な反面人としての優しさとでも言うのか。

 そこまで考えて、いや違うな、とバラライカは首を振る。

 

「それさえもそう見せている、か」

「大尉?」

「独り言だ。アイツの動きは私も予想がつかん、何を仕出かすか分かったものじゃない」

 

 もう一度バラライカは手元の写真に視線を落とす。

 件の女の目は、冷酷なウェイバーが向けるときのものと酷似していた。

 

 

 

 5

 

 

 

 このロアナプラの街に、俺が行きつけだと言える酒場はほんの僅かしか存在しない。

 別に俺は酒に煩いわけでも無ければ店内で好き好んで暴れまわる様なアウトローでもないつもりだが、どういうわけか殆どの酒場の店主たちは鬼でも見るかのような目で頑なに首を横に振るのだ。出入り禁止にはなっていないものの、そんな店主たちの顔を見るのが気まずく自然とそうした酒場に足を運ぶ機会は少なくなっていった。

 そうした中で、俺に気兼ねなく接してくれるバオの営むイエローフラッグは数少ない行きつけの酒場の一つだった。いや、最初は他の店主のように顔を引き攣らせたりもしていたが、レヴィや俺なんかが酒場を壊滅状態に追い込んでいるうちに自然とああした態度へと変わっていったのだ。

 俺としてもお堅い雰囲気は好きではないのでそれは助かる。あの酒場の静かな雰囲気は嫌いではないが、酒場ならある程度の活気はあって然るべきだ。

 

 今日も今日とて静かなイエローフラッグで、俺はバオに出された酒を飲む。銘柄なんて気にしないので、カウンターに置いてある適当な瓶をグラスと一緒に貰うのだ。ラベルにはアルコールの度数がそれなりに高いことが書かれているようだが、肝臓には自信があるし酔いも顔には出ない。酔わないわけではないが、レヴィやエダなんかよりは飲めると自負している。

 因みに今俺の手元にあるのはノッキーン・ポチーンだ。氷の入ったグラスに注いで、そのまま一息に飲み干す。

 

「……常々思うんだがよ、それ一瓶数十分で空けんのお前さんだけだぞ」

「そうか? 飲み易いしオススメだぞ?」

「度数九十の酒平然と呷ってるお前の言葉なんざ信じられるか」

 

 酒場の店主がそんなこと言うのかと思わないでもないが、とりあえずは酒をとグラスを呷る。 

 いやはや仕事終わりの酒はどうしてこんなにも美味いのだろうか。今日は大した仕事はしていないけれど。

 呆れ顔のバオは放っておいて、一人黙々とグラスを傾ける。

 手元の瓶の中身が半分程となり、そろそろ新しい瓶を選び出そうかと視線をカウンターの奥に向け始めた時だった。

 イエローフラッグの入口から、カラカラとスーツケースを運ぶ音が聞こえてきた。

 他の客たちは入ってきた人物を眺めているようだったが、カウンター席は入口の正面にあるため、背中を向けた俺からではその人物を窺い知ることは出来ない。今となってはもう実感することは殆ど無い日本人の美徳とでもいうのだろうか、不躾にならないようそのままの体勢で酒を飲み続ける。

 

 入ってきた人物は俺の二つ隣のカウンターに座った。

 ここへきてようやく、俺はそれが女であることを知った。

 まず目を引くのがメイド服。この街ではまずお目にかかることのない服装だ。肌の色からしてヒスパニック系だろうか、アイスブルーの瞳と三つ編みにした黒髪、そして眼鏡が特徴的な女だ。

 なんだろう、どこかで見たことがあるような気がする。消えかけの原作の中に出てきたキャラクターだったりするのだろうか。今となっては思い出すことも難しくなってしまったあの物語の中の人物であれば、俺の記憶の片隅に残っていても不思議ではないが。

 その女はカウンター席に着いたまま、何も注文しようとはしない。

 それを見兼ねたバオがグラス磨きをしたまま告げる。

 

「ミルクはねえぞ」

「では、お水を」

 

 ぴくりとバオの蟀谷が動いたのが見えた。表情は取り繕っているが苛立っているのが分かる。

 そのバオは無言でジョッキを取り出してビールを注ぐと、それを女の目の前に突き出した。

 

「ここは酒場だ。酒を頼め」

 

 このままではしばらくバオの気は収まらないだろうと判断して、女を気遣うためにも声をかける。

 

「バオ、そこまで言うことないだろう。下戸かもしれない」

「下戸が酒場に来るかよ」

 

 言われてみれば確かにそうだ。

 と、今までバオに向けられていた女の視線が俺に向けられた。彼女の顔を正面から見る。やはり何処かで見たような気がする。が、遥か昔の原作の中ではないような気がする。この街に来てから、悪徳の都に住むようになってから彼女の顔を見たような気がするのだ。一体どこだっただろうか。目を凝らしてみてもその答えは出てこない。

 

 視線が合っているというのにいつまでも互いに無言なのは失礼だと思い、俺は挨拶も兼ねて彼女に声を掛ける。

 それはもう親切味が漂うように。

 

「こんにちはお嬢さん。変わった格好してるけど、こんな真昼間からここに何の用?」

 

 俺の質問に、彼女は静かに答えた。

 

「……人を、探しているんです」

「人? 人探ししてんの?」

「はい。ここには今日着いたばかりでして、右も左も分かりません」

 

 誰を探しているのかは知らないが、普通の人間はこの街には寄り付こうとはしないし、考えもしないだろう。

 それだけで彼女がワケありの人間なのだと理解することが出来た。少ない言葉の中から必要な情報を取り出すのは、この街で生き残るために必須技能でもある。因みにレヴィは習得していないが生き残っていたりする。

 

「コロンビアの友人を頼ってきたんです。ご存知ありませんか」

「コロンビアね……」

 

 コロンビアと言われてこの街の人間たちがまず思い浮かべるのは黄金夜会の一角である巨大マフィア、マニサレラ・カルテルだ。

 しかしながらこのメイドさんとコロンビアマフィアが関係しているとは考え難い。コロンビアの人間は他にもいるが、しかしそのどれもが荒っぽい連中ばかりである。もしかするとこのメイドさんもそんなバリバリの戦闘タイプだったりするのだろうか。

 ん、メイド? 戦闘?

 何かが繋がりそうな気がする。

 先程俺が思い出そうとした記憶と、大昔の原作の記憶が呼び起こされ、二つの点が繋がって線になろうとしている。

 

 思い出せ。今日のことを。

 バラライカとの会話にあったラブレスの家の女中。

 先日のシスターヨランダの言っていたベネズエラのヘロイン工場。

 この二つが繋がっているのだとしたら。

 さらに前、何年も前。

 確かそう、仕事の依頼で南アメリカへ行ったときだ。

 あれはコロンビア革命軍の排除でコロンビアだかベネズエラだかに飛んだとき。

 俺は彼女のような人間を見たような気が、

 

「……あ」

 

 ここでようやく、俺の中で目の前のメイドが何者であるのかを思い出した。

 というか何で忘れていたんだ。いや、忘れていたわけではないのだ。ただ俺の中の二人が同一人物として繋がっていなかっただけ。

 ベネズエラで俺と撃ち合いをしたあの狂犬と、今目の前にいるメイドが同一人物であるなどと誰が想像できようか。変わりすぎだろ。

 彼女の本当の名前もやっと思い出すことが出来た。

 

「――――ロザリタ」

「ッ!?」

 

 途端、彼女の表情が一変した。

 何かを言おうと口を開く。だがその声は、勢いよく開かれた扉の音にかき消されてしまった。

 何事かと振り向けば、入口付近には派手なシャツやジャケットを纏った褐色肌の男が十人ほど。ってあれマニサレラの連中じゃないか。基本的にこの酒場は俺や張が縄張りにしている節があるのでこいつらは近寄らない筈だが、何かあったのだろうか。

 先頭に立っていた男は俺の存在に気が付いた途端苦い表情を浮かべたが、横のメイド、もとい現在はロベルタを見つけるや大股で詰め寄っていく。

 

「女、てめえに用がある」

 

 ロベルタはカウンター側を向いたまま動かない。

 

「今朝から俺たちのことを嗅ぎまわってるおかしなメイドが居るって聞いてきてみたが、てめえで間違いなさそうだな。一体何が目的だ?」

 

 付けていたサングラスを外して、先頭の男はロベルタへとさらに一歩近づいた。

 ああそこもうキリングゾーンなんじゃないの、ロベルタの。

 なんてことを思っていたら、ロベルタがゆっくりと立ち上がり、くるりと身を翻した。

 

「……見つけていただくことが本意にございます。失礼、マニサレラ・カルテルの方々でございますね。私めはラブレスの家の使用人にございます」

 

 右手に傘、左手にスーツケースを持ち、彼女は静かに言葉を重ねた。

 

「お聞きしたいことが幾つか。ご無礼をはたらくことになるかもしれません」

 

 それと、とロベルタは言って俺に視線だけを向けて。

 

「貴方にもお聞きしたいことがございますので」

「……ははっ」

 

 その笑いは、俺から漏れたものではない。

 マニサレラの連中から出たものだった。

 

「ご無礼だってよこのアマ!」

「お笑いだぜ! いったいどうしようってんだ、なぁ!?」

 

 その言葉が引鉄となった。

 彼女が右手に持つ傘に力を込めたのを捉えて、俺は咄嗟にマニサレラの連中とは逆方向、つまりはカウンターの裏へと飛び込む。俺の行動の意味が理解できていないままのバオの首根っこを引っ掴んで床に伏せさせたとほぼ同時、平坦な声が酒場に響いた。

 

「――――では、ご堪能くださいまし」

 

 次の瞬間。

 風穴を開けられた人体が、血飛沫を上げながら宙を舞った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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006 四者四様デッドチェイス

 6

 

 

 

「女中ねぇ。おいガキ、もういっぺん言ってみな」

「何度でも言ってやるさ。ロベルタはお前なんかよりよっぽど強いぞ」

 

 ラグーン号を降りて、イエローフラッグへと向かうロックたち。その先頭を歩くレヴィとガルシアの二人の口論は、ロックの心配を他所に少しずつヒートアップしていた。

 今日は厄日か何かなのだろうかと頭を抱えずにはいられない。いつどこでガルシアの額に穴が開けられるか気が気でないのだ。レヴィは理屈よりも本能を重要視する人種である。そんな彼女と理論建てた話し方をするガルシアとは相性最悪で、ロックやダッチといった緩衝材が無ければとっくにカトラスが使用されていたに違いない。

 しかもダッチとベニーは二人のお守りをロックに放り投げ、もとい一任したらしく口を挟む様子がない。

 いよいよ以てロックの胃に風穴が開きそうである。

 そんな彼の精神的ストレスなど全く気にしない二人は、尚も口論を止める気配がないようで。

 

「面白え冗談だ。そいつが本当だってんならイエス様がルート66をチョッパー乗って吹っ飛ばしたっつっても信じるぜ」

「ふん、言いたいだけ言えばいいさ。ロベルタは本当に強いんだ、お前なんかすぐにやられちゃうさ」

「……ほぉ、是非とも拝見させていただきたいもんだなぁおぼっちゃま」

 

 レヴィの挑発に、ガルシアは小さく鼻を鳴らすだけだった。それが気に入らないのか、彼女の眉間には徐々に皺が寄っていく。こんなところで拳銃を抜かせるわけにはいかないとなんとか場を丸く収めようとするロックは、視線の先にようやく目的の酒場が見えてきたことに安堵した。酒場に入ってしまえばレヴィとて遠慮なしにブッ放したりはしないだろうと判断したからだ。

 普段通りであればロックの考えは間違っていない。イエローフラッグをこれまで幾度となく壊してきたレヴィとはいえ、その修繕費をウェイバーが賄っていることは承知していた。彼が関係している件であれば仕方ないと割り切れもするが、関係のないところで師匠たるウェイバーに迷惑をかけるのはレヴィにしても本意ではない。

 そう、普段通りであればなのだ。

 はじめにその違和感に気がついたのは、ロックの後ろを歩くダッチだった。

 

「おい、なんか様子がおかしくねぇか」

 

 次いでレヴィとベニーが、それぞれ視線を細める。

 ダッチに言われたことでロックもイエローフラッグをまじまじと見つめる。と、ここで入口から少し離れたところに倒れている男がいることに気が付いた。さらに酒場の壁にも弾痕らしきものが一面に刻み込まれている。周囲に人が集まっていないことから、ああなったのは今しがたのことのようだ。またどこかの酔った馬鹿が泥酔状態で乱闘騒ぎでも起こしたのだろう。そう考えていたロックだったが、どうもその倒れている人間の様子がおかしい。

 近づいてみれば、男の腹部には幾つもの風穴が開いていた。思わず口元を手で押さえる。身体から溢れ出す血液が地面を濡らしていく。凝固具合を見ると、やはりたった今撃たれたようだった。

 ということは、店内にはまだこれを撃った人間が居る可能性が非常に高い。

 

「ダッチ」

「こいつはよろしくねぇな。何が起きてんのかは知らねえが、こいつはマニサレラの構成員だ。俺たちが連れてるこのガキと無関係たあ思えねえ」

「僕もその意見には賛成だ。一刻も早くこの場を離れたほうがいい気がする」

 

 この悪徳の街に住まう人間は総じて危機察知能力が高い。それがここで生きていくに必要な能力だからだ。ロアナプラに来て日の浅いロックですらそれがいかに重要かは身を以て知っている。

 そんな彼らが警鐘を鳴らす。現在のイエローフラッグは超が付く程の危険地帯だと。

 ロックもベニーの意見に全面的に賛成だった。非戦闘員である自身が鉄火場のど真ん中に放り出されて生き残る未来は全く見えない。

 それに今はガルシアを連れている。倒れている男がダッチの言う通りマニサレラの人間なら、まず間違いなくこちらにも火種が飛んでくるだろう。もしかすると少年の言っていたロベルタというメイドが彼を救出しにやってきたのかもしれない。

 ガルシアの言葉を鵜呑みにするつもりはなかったが、この現場を目の当たりにして少しだけ真実味を帯びたように思う。

 だがダッチとベニーが踵を返し、船へと引き返そうとする中にあってただ一人。レヴィだけが酒場へと視線を向け続けていた。

 

「レヴィ、ここは一旦出直したほうがいい」

「…………」

「おいレヴィ」

 

 ロックの言葉にレヴィは答えない。鋭く細められた眼光がまっすぐにイエローフラッグへと向けられたままだ。

 訝しむロックに代わって、ダッチが声を荒げた。

 

「レヴィ! こっからずらかるぞ!」

 

 それが端を発したのかは定かでない。

 ダッチやベニーが感じる危機感を象徴するように、彼女はゆっくりとホルスタから愛銃を引き抜いた。

 次いでイエローフラッグの内部から複数の銃声が響き渡る。

 

「レヴィ!? 何してるんだ早くダッチたちのところへ!」

「……無駄さ」

 

 マガジンを確認し、両手にカトラスを握ってゆっくりと酒場の入口に向かって歩き出す。

 

「どこへ向かったって、この嵐からは逃げられそうにねえぜロック」

 

 直後、爆炎がイエローフラッグを飲み込んだ。

 

 

 

 7

 

 

 

「おいウェイバー。一から十まで説明してくれるんだろうな、ええ?」

「そう怒るなよバオ。今だって助けてやったろ」

「もちっとスマートに助けろよ! おかげで床にキスする羽目になったろうがッ!」

「鉛玉じゃないだけましだよ」

 

 イエローフラッグのカウンター内、頭を低くした状態で、俺はバオとそんな会話に勤しんでいた。

 一つ壁の向こうではマニサレラの連中とロベルタが絶賛交戦中。いや交戦というよりは一方的な蹂躙に近いかもしれないが。そもそもあの武装はなんなんだ、仕込み傘で許されるレベルじゃないだろアレ。散弾銃のくせに威力が対物ライフルクラスとかどんな改造すればそうなるんだ。しかも片手で軽々と撃ってやがるし。

 いや、そういえば昔も対物ライフル二挺振り回してたっけか。なんなのアイツ戦闘人形かなにかなの。

 こうしている今もマニサレラの構成員たちは散弾銃で身体を吹き飛ばされていく。どう見ても三メートル以上吹っ飛んでるよなぁ、アレ。

 この場に留まっていてもなんらメリットはないため、本当ならすぐにでも外に出たいところだが、残念ながら正面の入口が戦場になってしまっているために使用できない。ならば裏口かと考えたが、どうやら裏口は外に待機しているマニサレラの連中が固めてしまっているようだ。ここで出ていけば面倒な事態になるのは想像に難しくない。

 

「どうしたもんか」

「お前さんなら大手を振って堂々と出ていけるだろうが」

「いや死ぬからな。あの銃弾の中だぞ」

「吐かせ。バラライカの兵隊どもとやり合って無事だった奴がくたばるかよ」

 

 流石というかなんというか、こんな状況だというのにバオは拳銃片手に煙草をふかし始めた。イエローフラッグが破壊された数は伊達じゃないということか。ベトナム戦争に従事していたらしいので、肝はそれなりにでかいのかもしれない。

 斯く言う俺も懐から煙草を取り出して火を点ける。こんな状況であっても焦燥は何も生み出さない。必要なのは自然体でいることだ。肺に取り込んだ煙をゆっくりと吐き出し、ジャケットの内側に手を伸ばす。

 途端、バオが目の色を変えた。

 

「オイオイ、まさか」

「やるしかないでしょ、気は進まんがね。射撃のセンスは壊滅的なんだ」

 

 ホルスタに収められていた拳銃を、ゆっくりと引き抜く。

 現れるのは、銀一色の拳銃。

 

 スタームルガー・レッドホークのカスタム品。

 スタームルガー・シルバーイーグル。通称ウェイバーモデル。

 

 この拳銃は1979年にアメリカが生み出したダブルアクションのマグナムリボルバーだ。全長194ミリ、重量約1.5キロで、何年も前にバラライカに仲介してもらい腕利きの職人に作ってもらったものだ。

 一般のレッドホークとは違い、銃身からグリップまで全て銀一色になっているのが特徴の一つで、グリップには俺を模したのだというバラライカ考案のシンボルが彫られている。因みに何を表しているのかは俺も知らない。聞いても教えてくれないのだ。

 射撃の際にハンマーを起こさなくてはならないシングルアクションではなく、ハンマーが起きなくても引鉄を引く力でハンマーが連動し起きるダブルアクションのリボルバーで装弾数は六発。現在普及している他の拳銃には倍以上の装弾数を誇るものもあるが、リボルバーであれば極々一般的だと言えるだろう。

 

 ここで俺がどうして自動式ではなく、回転式のリボルバーを使用しているのかの説明をしておこうと思う。

 自動式拳銃は反動も少なく装弾数も多い。弾倉交換も簡単に行えるため素人にも扱いやすく、ロアナプラの住人の多くはこの自動式を携帯している。専用のロングマガジンを使えば装弾数は最大で三十三発にもなるというのだから連射にも向いているだろう。

 それに比べ、リボルバーはその構造上どうしても装弾数が少なくなってしまう。しかも慣れていなければ再装填に時間がかかる。命のやり取りの最中でその時間は致命的だ。

 だが何も悪いことばかりではない。 

 自動式に比べて単純な構造をしているが故に信頼性は高い。不発が起こっても引鉄を引くだけで次弾をすぐに装填することができるのだ。これは拳銃素人な俺にとってはとても有難いことだった。動作不良を起こしていて命を落としたなんて笑い話にもなりやしない。

 

 と、言うのが一応の建前である。

 如何にもなことを宣っているが実際のところは拳銃を選定する時点でそこまで深く考えていたわけではないのだ。何せこちとらロアナプラに来るまでは本物の銃器に触れたことなどなかったのだから、そんな詳細な情報を持っている訳が無い。

 ではどうしてオートマチックではなくリボルバーなのか。

 決まっている。リボルバーの方が格好良いからだ。男にそれ以上の理由は必要ない。見た目が格好良い、たったそれだけの理由で俺はリボルバーを選択したのである。

 切欠は生前、ルパン三世に出てくる次元がコンバットマグナムを使用しているのを見たからだ。彼の渋さと格好良さは憧憬を抱くレベルである。

 当然このことは他人には一切口外していない。こんな理由でリボルバーを選んだとバラライカあたりに知られれば、鼻で笑われるのは目に見えていた。

 

 そういった理由から俺の愛銃となったスタームルガー・シルバーイーグル。

 それが二挺(・・ )

 

 両の手に銀のリボルバーを構え、ゆっくりと腰を持ち上げる。

 

「少しはやれるといいんだけどな」

 

 あんな化物と正面切って戦うなんて俺には到底不可能だと思うんだが。

 以前やり合ったときは何百メートルも離れていたし、密林地帯だったこともあって遮蔽物にも困らなかった。彼女と一対一でやり合う状況でなかったことも今思えば幸いしていた。

 だが今は違う。防弾仕様のカウンターを除けばそれらしい遮蔽物は存在せず、ロベルタとの距離は目と鼻の先。それに加えてマニサレラの連中は既に虫の息である。

 

「頼むぜウェイバー、うちを破壊するなとはもう言わねえ。せめて土地は残してくれ」

「酷い言われようだな」

「てめえが暴れたあとにゃあデカイクレーターしか残らねえってもっぱらの噂なんだよ」

 

 バオの軽口に小さく口元を綻ばせながら、俺は銃声の止んだ店内で静かに立ち上がった。

 視線の先には変わらずロベルタが立っている。散弾銃を仕込んであった傘は穴が開いて傘としての役目を放棄していたが、それ以外に外見上の傷は見られない。なにこいつホントに人形かなにかなの。

 周囲に倒れ臥しているマニサレラの構成員たちを見るに、勝敗は決したと見ていいだろう。

 俺が立ち上がっていることに気が付いたロベルタは、視線が合うや否や大きく目を見開いた。

 

「……やはり、あの時の……!」

 

 犬歯を剥き出しにして睨みつけてくる彼女を前に内心で冷や汗が止まらない。

 だがここでそれを表情に出すわけにはいかないのだ。ワザとやる分には問題ないが、本能的に感じた恐怖や焦燥を表に出して場が好転することは先ずない。したがってここはどれだけ強かろうが無表情を貫く。この十年で面の皮が厚くなったのか、今となっては表情筋がピクリともしなくなった。

 しかしまぁ、この状況だと戦闘は回避できそうにない。出来れば穏便にこの場を去りたかったのだが、まさかの最初の敵がラスボス級という有様だ。

 今一度気を引き締め直し、握ったシルバーイーグルをくるりと回す。

 

「ここにレヴィたちがいなくて良かった」

 

 流れ弾に当たりでもしたら大変だ。俺命中精度下限振り切ってるし。

 それくらいでアイツ等がくたばるとは思わないけれど。

 

 

 

 8

 

 

 

 襲い来るコロンビア・マフィアたちを事も無げに薙ぎ払いながら、ロベルタは今もカウンター裏で息を潜めているであろう男のことを考えていた。

 ロザリタ。それは自身の本名であり、過去に捨てた忌むべきものだ。今の彼女はラブレス家の女中ロベルタであり、それ以外の何者でもない。それ以外であってはならない。

 本当なら今こうして武器を振り回すことも本意ではない。万が一ガルシアに知られれば、あの温かい日だまりのような場所には居られなくなってしまうだろうから。

 だが、その日だまりに影を差そうとする人間たちが相手であれば話は別だ。彼女の大切な人たちを守るためであれば、捨て去りたい過去であっても受け入れよう。ロベルタではなく、ロザリタ・チスネロスとして全ての悪を葬り去ろう。

 既に汚れきっている自身には、もうそれくらいしかあの家に恩を返す方法が思いつかなかった。

 

 カウンターに座っていた男の横顔を思い浮かべる。

 マニサレラの人間たちが押しかけたときは何の反応も見せなかった。

 しかし己が仕込み傘に手をかけ力を込めたその瞬間、咄嗟にカウンター裏へと飛び込んだのだ。一般人であればまず見落とすであろう僅かな動作を、あの男は見逃さなかった。その時の男の鋭い眼光。直接見たわけではないが、FARC時代に遭遇した敵とどこか通じるものを感じたのだ。

 ゲリラとして活動していた何年も昔、唯一息の根を止めることが出来なかった敵。そのときの任務が別の施設の破壊工作であったためにそれ以上深追いすることは無かったものの、あの時の正確無比な射撃は今も鮮明に覚えている。数メートル先の視界もままならない豪雨の中、百メートル離れた自身を寸分違わず撃ち抜いたあの男。

 まさか、とは思う。

 だが自身の本名を知っていたあの男がただのゴロツキだとは思えない。

 少なくとも己の過去を知っているのであればただで帰すわけにはいかない。

 

 傘に仕込んだフランキ・スパス12で大方掃除を終えた頃、背後で何かが動く気配を感じ取った。

 振り向けば、そこにはやはり例の男が立っていた。

 その手に握られた二挺の拳銃に、思わずロベルタの視線が引きつけられる。

 忘れもしない。自身を撃ち抜いた拳銃だった。

 

「……やはり、あの時の……!」

 

 男、ウェイバーは動かない。その表情には一切の変化が無かった。まるで自身の怒気など全く意に介していないかのように、どこまでも自然体のようであった。

 この時点でロベルタの目的が一つ増える。

 一つにガルシアの保護。この街にやってきた最大の目的であり必ず遂行しなくてはならない彼女にとって最も重要度の高い目的だ。

 そして目の前の男の抹殺。

 自身の過去を知るものはこれまでその手で消去してきた。そしてこの男も、その例には漏れない。

 当然簡単にはいかないだろう。以前の撃ち合いは数分程のものだったが、男の腕を知るには十分すぎる時間だった。

 だからこそ一部の隙も見せない、作らない。

 

 最大限の警戒を見せるロベルタを前にしかし、男は飄々としたままだった。

 右手のリボルバーを器用に二回転させて、ぽつりと呟く。

 

「ここにレヴィたちがいなくて良かった」

 

 レヴィ、というのが誰なのかロベルタに知る術はない。

 だが今の言葉のニュアンスからだろうか、彼女には口にしていない彼の言葉の続きが聞こえたような気がした。

 

 ――――こんな姿、とても見せられねえからよ。

 

 放たれた殺気にほとんど反射的に反応したロベルタは真横に飛んだ。そのコンマ数秒後、数発の銃声とともに先程まで立っていた場所に鉛玉が叩き込まれる。恐らくは行動を制限させるために足を狙ったものなのだろう。殺気に反応しなければ両膝を撃ち抜かれていたと確信させるほどの銃撃だ。

 思考を巡らせながら、ロベルタは傘を持つ手とは逆の手に持っていたトランクを開け放つ。中から顔を出したのはミニミ軽機関銃。決して片手で使用するような類のものではないが、平然と彼女はそれをウェイバーへ向け、火を放った。

 毎分約八百発の弾丸が降り注ぐ。ウェイバーはそれを再びカウンター裏へ跳躍することで防いだ。

 無数の弾痕がカウンターに刻まれるが、防弾仕様の壁を貫通させるには至らなかった。

 尚もミニミを撃ち続けるロベルタに、カウンターの向こうからウェイバーが腕だけを出して発砲する。鏡でも使用しているのか、直接見てもいないのに恐るべき正確さでロベルタの四肢を狙ってくる。

 

(……成程。二挺の拳銃は連射性を損なわないためということ)

 

 リボルバーはどうしても自動式に比べて連射性に劣る。装弾数も少なく再装填に時間もかかることからそれは明らかだ。

 しかしウェイバーの射撃技術と二挺という条件が加われば、必ずしもそうとは限らないのだ。

 連射は二挺交互に行うことで、再装填はその命中精度で敵を警戒させることで強引に時間を作りやってのけているのだと思われる。当然再装填にはスピードローダーを使用しているだろう。

 伊達や酔狂で二挺所持しているわけではない。それは分かった。

 

「……わたくしも急いでおりますので、少々強引な手段を取らせていただきます」

 

 トランクから顔を出すミニミ軽機関銃を適当に放り投げ、スカートの裾を膝下まで持ち上げる。

 ゴトリと音を立てて床に転がったのは、いくつものグレネード。至近距離で浴びれば大怪我は免れない。死ななければ幸運だったと言える程の量である。

 そんな物騒な代物が半壊したイエローフラッグの床を無造作に転がる。それを見たウェイバーが何かを言おうとするよりも早く、爆発とともにイエローフラッグを深紅の業火が包み込んだ。

 

 

 

 9

 

 

 

「状況を報告せよ」

『イエローフラッグは全壊。猟犬、ラグーン船員、ウェイバーも消失(ロスト )

 

 チッ、とバラライカは舌を打った。

 苛立たしさを感じているわけではない。ウェイバーに先を越されたことに悔しさを感じているのだ。

 いつもいつも騒動の中心にいるのはあの男である。ウェイバーがこの街にやってきてからロアナプラの勢力図は大きく変わってしまった。そしてこうしている今も、彼の手によって騒動はさらに動きを見せようとしている。

 

「居場所は掴めているか」

『十分前にメインストリートを南へ向かうプリマス、そしてバイクを見たとの報告が』

「そこを離れるな伍長。引き続き情報収集を継続せよ」

『了解、主人(バオ )には何と?』

「修繕費は全額ウェイバーが負担するから心配無用と伝えておけ。これより部隊を連れて港へ向かう」

 

 定時報告をするようにだけ伝えて、バラライカは通話を切る。

 持っていた端末を斜め後ろにぴったりついて歩くボリスに渡し、葉巻の先を落として火を点ける。煙を吐き出したのを見計らいボリスが声を掛けた。

 

大尉殿(カピターン )、久しぶりに戦争ですか」

「さあ、用心に越したことはなかろう」

「マフィアごっこは身体が鈍っていけませんな。もっともここ数年は彼のおかげで退屈しませんでしたが」

 

 それを聞いてバラライカは小さく頷く。ボリスの言葉には彼女も全面的に同意見だった。

 マフィアの真似事など身体を鈍らせるだけだとバラライカも考えていたし、必要があったために行っているに過ぎなかった。

 選りすぐりの精鋭たちであっても戦場を長く離れれば感覚は鈍る。

 だがそれはあの男が現れるまでのこと。

 

「奴にとっては本意ではないだろうが、ウェイバーには感謝せねばならんな。我々と対等の相手であり、こうして火種を大きくしてくれるのだから」

「そのようですな」

「ダッチにも借りがある。放っておくわけにもいくまいよ」

 

 半分程の長さになった葉巻を地面に落とし、バラライカは後に続く私兵たちに告げる。

 

「――――行こうか諸君。撃鉄を起こせ」

 

 

 

 

 

 

 

 




 ・ウェイバーの拳銃をウェイバーモデルとするかウェイバーカスタムとするかで悩みましたが、略すとウェイバーカスタムはWCでトイレになってしまうためにウェイバーモデルになったなんて理由があったりします。
 リボルバーなどに私は余り詳しくありませんので、間違いなどがあればご指摘くださると幸いです。
 
 ・次元さんの渋さと主人公の渋さはベクトルが反対方向な気がしますが、気にしないでください。

 ・メイド編は次回で終わりです。
 
 


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007 猟犬の結末

 


 

 10

 

 

 

 メインストリートを南下する一台のプリマスには、ラグーン商会の三人とガルシアが押し込まれるようにして乗り込んでいた。出せる限りのスピードで通りを抜けていく車の後方には一人のメイド。これは一体何かの間違いなんじゃないかと、ロックは何度も後部座席から後ろを確認する。

 だが彼の予想に反し、しっかりと後方には件の人物が追走していた。背中に嫌な汗が噴き出すのを自覚しつつ、ロックは頭を抱えた。

 どうしてこうなったんだと、今しがたの出来事を再確認すべく頭を働かせる。

 イエローフラッグの様子がおかしいことは彼にも分かっていた。だからダッチやベニーの意見に賛成したし、レヴィを連れて場を離れようとしていたのだ。

 だがレヴィにはロックに見えない別の何かが見えていたのか、無言でカトラスを引き抜き真っ直ぐに酒場へと歩いていった。その瞬間だ。イエローフラッグの中から、閃光とともに爆発が巻き起こったのは。突然の熱波と炎に尻餅を着くロックと、酒場の内部へと視線を向けたままのレヴィ。

 やがて二人の視界に、燃え盛る炎の内側から揺らめく人影が写りこんだ。

 

「なん、だ?」

 

 無意識のうちに声が上擦っていたのは仕方がなかった。その姿は、あまりにも衝撃的すぎた。

 炎の中から現れたのは、無表情の女中だった。

 豪炎をものともせず、ただ無表情に歩いてくるその女中を視界に収めた瞬間、ロックは得体の知れない悪寒を感じた。この女は危険だ、一刻も早くこの場を離れろとロックの身体が全力で叫んでいる。

 

「……マジかよ、信じられねえな」

 

 呆然と呟いたダッチの言葉は、その場にいるラグーン商会全員の心境そのものだった。

 ロックは急いでレヴィの肩を掴む。既にダッチとベニーは車に乗り込んでおり残すはロックとレヴィ、そしてガルシア。

 事態の深刻さを現在進行形で痛感しているロックに肩を揺すられるレヴィはしかし、その場から一歩も動こうとしない。焼け崩れたイエローフラッグから現れた女中の正面に立ち、両手に握ったカトラスをゆっくりと持ち上げた。

 

「よお。アンタが噂のメイドさんかい」

 

 言葉の軽さとは裏腹に、レヴィの表情に軽薄さは一切無い。

 ロックは言葉を失っているガルシアを女中の視線に入らぬよう背後へ匿い、臨戦態勢に入っているレヴィから手を離し、一歩後退した。

 レヴィの言葉に、女中は何も答えない。

 

「何だよ、口が利けねえってわけじゃねえだろう? 聞きたいことがあんだよ」

 

 カトラスの銃口を女中に向けたままレヴィは尋ねる。何よりも先んじて確認しなければならない、彼女にとっての最優先事項を。

 

「……お前、ボスと撃ち合ったな?」

 

 スッ、と女中の眼が細められた。ボス、というのが誰のことを指しているのか知りはしないだろう。だが、先ほどイエローフラッグ店内で銃撃戦を行ったというのは事実であるらしい。それだけ判ればレヴィには十分だった。

 

「ああ、もういい。今の反応で分かった。テメエだな、ボスに銃口向けたのは」

「……ボス、というのはあの男のことを言っているのでございましょうか」

 

 その質問に、レヴィは答えなかった。先ほど女中が無言を貫いたように、口を真一文字に締めてカトラスの撃鉄を起こす。

 この段階で、レヴィの脳内では既にイエローフラッグ店内での出来事がある程度推測できていた。聞こえた銃声の中に、ウェイバーが使用しているスタームルガーの発砲音が混ざっていたのだ。それも数発。基本的に銃を抜くこと自体が珍しいウェイバーが発砲することはそれだけで並のことではない。加えて言えば、この街で彼に銃を抜かせるような人間はほんの一握りしか存在しない。その一握りの人間たちでさえ、余程の事がない限りそうした事態にはさせたくないと考えているだろう。

 故に考えられるのはこの街の人間ではなく、尚且つ相当の手練れ。

 ここの来る途中に話していたガルシアの言葉を鵜呑みにするわけではないが、既にレヴィから慢心や油断といったものは消え去っていた。

 

「ボスが銃口向けたってことはテメエはボスの敵。ボスの敵ってことはそれはつまりアタシの敵だ」

 

 それだけで銃を向けるには十分だと、レヴィは告げる。

 対して、女中は一度瞼を下ろして。

 

「……ご容赦はできかねます」

 

 瞬間、懐から二挺のガバメントを取り出した。

 慌てて車内に転がり込むロックとガルシアを他所に、二人の銃撃戦が至近距離で開始される。

 周囲に遮蔽物になりそうなものは存在しない。強いて言えば道路の脇道に立てられた看板などはあるが、それらが二人の盾として機能することはない。

 レヴィもそして女中ロベルタも、相手の弾丸が自身を傷つけることなど微塵も考慮していないが故に、守勢に回ることなどハナから頭に無いのだ。

 

「オイオイどーなってんだ! 早いとこレヴィを拾ってズラかるぞ!」

「あー、そりゃ無理そうだよダッチ。彼女ウェイバーが絡むと性格変わっちゃうから」

「……変わるっつうより元に戻るって感じだがなありゃ」

 

 運転席と助手席で諦めの溜息を零す二人の後ろで、ロックは肩を震わせるガルシアに寄り添う。

 前を見ようとはせず、俯いたまま瞳に涙を溜めるガルシアにロックは静かに言葉を掛ける。

 

「……彼女が、ラブレス家のメイドなんだね」

「僕、僕知らなかった。知らなかったんだ……」

 

 涙声でそう語るガルシアに、ロックは掛ける言葉を失った。

 きっとここで自身がどう慰めの言葉を掛けた所で、今目の前に広がる光景を受け入れられるだけの心のゆとりは生まれないだろう。

 ならば、と。ロックはベニーに視線を向けて。

 

「出してくれベニー。今すぐここから離れよう」

「え、でもレヴィは」

「彼女が簡単にくたばる筈ないって、俺よりもよっぽどよく知ってるだろう?」

 

 ここでようやくベニーがハンドルを確りと握った。

 向かう場所はロックも未だ決めきれていないが、出来るだけ遠く。ラグーン号に戻ることが出来ればベストだろう。四人を乗せたプリマスは、急発進で港へと走り出した。

 そのプリマスの後部座席から、ちらりとガルシアは後方を覗いた。荒くれ者のガンマンとラブレス家の女中が銃撃戦を行っているであろう、その方向を。

 

「――――っ」

 

 途端、ガルシアが息を呑む。

 眼を見開き、口元を両手で押さえつけて悲鳴が漏れるのを必死に堪えているようだった。その尋常でない様子を見て、ロックは慌てて彼に問いかけた。どうしたんだ、何かあったのかと。

 その問いかけに、ガルシアは声を震わせて答えた。

 

「……目が、合ったんだ。ロベルタと、あの撃ち合いの中で……」

 

 車内の三人が、同時に言葉を失った。

 

「……若様」

 

 同じ時間、ロベルタは遠ざかっていく車の後部座席に釘付けとなっていた。

 見つけた、ようやく見つけた。彼女が探し求めていた人物が、ようやく視界に収められるところにまでやってきたのだ。必然、両の手に握る拳銃のグリップにも力が込められる。レヴィとの銃撃戦によって片方の銃には小さくない罅が走っているが、そんな些細なことを今は気にしている場合ではない。目の前に立ちはだかる女を始末するよりも先に、ガルシアを救出しなければならない。

 そう瞬時に判断したロベルタは一旦レヴィから距離を取り、銃身に罅の走った拳銃を適当に放り捨てた。

 

「失礼。わたくしこれにておいとまさせていただきます」

「ああ!? そう簡単に行かせると思ってんのかクソメガネ!」

「先を急ぎますゆえ……必要とあらば、殺してでも」

 

 レヴィはカトラスを構え直し、ロベルタも身を屈める。

 そんな殺気を撒き散らす二人に待ったをかけるように、消し炭になりつつあるイエローフラッグから這い出てくる人間がいた。先ほど店内でロベルタを探していたというマニサレラ・カルテルの構成員の一人だ。身体のあちこちに傷が見られるものの、どうやら致命傷だけは避けていたらしい。拳銃片手に覚束ない足取りで二人の近くにまでやってきた男は、それをロベルタへと向けながら口内に溜まっていた血を吐き出して。

 

「思い出したぜ畜生。その(ツラ)、その人間離れした戦闘能力。フローレンシアの猟犬、まさかてめえが生きてるとはな」

 

 視線だけを男に向けるロベルタは、無言のまま動かない。

 

「カルテルはてめえの首に四十万ドルの賞金まで用意してんだ。 生死は問わず(デッド・オア・アライヴ)でよ、こりゃあ俺にもツキが回ってきたってことかあ?」

 

 男は気付かない。ロベルタの眼光が細く、鋭く研ぎ澄まされながら、どす黒く変貌していくことに。

 だがそのロベルタが行動を起こすよりも早く動いたのは、相対していたレヴィだった。何の容赦もなく、手にしていたカトラスで男の眉間を撃ち抜いたのだ。何が起こったのか頭で理解する間も無くその場で崩れ落ちる男。亡骸となった男を、レヴィは冷めた目で見つめるだけだった。

 

「どういうつもりですか」

「あん? 人様の喧嘩に顔突っ込んできた無粋な糞野郎を掃除したってだけの話だ。それに言ったろ、アタシはテメエがボスに銃口向けたって理由でここに立ってんだ。過去なんざどうでもいいんだよ」

 

 人を殺すことに今更何の感情も抱かない。レヴィの目はどこまでも暗く、黒く、濁っていく。

 そんな彼女を前にして、ようやくロベルタは動きを見せる。

 

「――――生者のために施しを、死者のためには花束を」

「……んだそりゃ」

 

 訝しげに眉を顰めるレヴィを一切無視して、ロベルタは言葉を紡ぎ続ける。

 

「正義のため剣を持ち、悪漢共には死の制裁を。しかして我ら、聖者の列に加わらん」

 

 ロベルタが言葉を紡ぐ間、レヴィを襲ったのは全身を駆け巡る悪寒だった。無意識のうちに額に汗が滲み、奥歯を噛み締める。油断や慢心など欠片もしていないと考えていたレヴィが、それを改めざるを得ないと結論付けるほどの濃密な殺意が周囲に広がっていく。

 言葉の最後に、ロベルタはこう締め括った。

 

「――――サンタ・マリアの名に誓い、全ての不義に鉄槌を!」

 

 両者の間で、再び銃声が弾けた。

 

 

 

 11

 

 

 

「で、あれは一体どうなってんだ?」

 

 火事で全壊したイエローフラッグから少し離れた通りの陰で、俺とバオは顔を見合わせる。

 ロベルタがイエローフラッグを大炎上させる直前にバオの首根っこを再び掴んで外に放り投げ、自分もそれに続いた形で脱出したまではいいのだ。問題はどうしてロベルタとレヴィが銃口を突き付けあっているのかである。ラグーン商会のほうにはガルシアという商品をマニサレラ・カルテルに送り届けることしか知らされていない筈だ。

 一応バラライカのほうに何かあれば手伝ってやってくれと頼んではおいたが、まさか事の真相まで教えてはいないだろう。

 となればレヴィたちが自力でその真相に辿り着いたという可能性が高くなるわけだが、レヴィに限ってそこまでのことは考えていないに違いない。彼女はどこまでも本能に忠実だ。大方態度が気に入らないとかの理由でカトラスを抜いたんだろう。

 

「ったく何なんだあのメイドは。俺の店をめちゃくちゃにしやがって」

「悪いな。あとできちんと弁償させてもらうから」

「あったりめえだ畜生。お前さんに関わると碌でもねえことしか起こらねえぞ。何だ、お前疫病神かなんかなのか?」

「ツいてる男だからな俺は」

「死ね」

 

 バオに軽口を叩きつつ、通りでドンパチを繰広げる二人に視線を向ける。

 先ほどガルシアを乗せたプリマスが走り去るのをロベルタも見ているはずなので、恐らくはその車を追うことを最優先しているだろう。となれば先回りしてガルシアを手元に置いておきたい所ではある。それは何故か、数分前のようにおいそれと銃口を向けられたくないからだ。

 この一件に関して俺はそこまで首を突っ込んでいないため、大事にはならないだろう。イエローフラッグが全壊したことについてはバオには悪いがいつものことだと片付けさせてもらう。

 そもそも。

 マニサレラ・カルテルが事を荒立てたのが問題なわけだ。ガルシアの誘拐などと浅はかな真似をしなければ少なくともロベルタが動くことはなかったのだし、バラライカが表立って動くこともなかった。

 故に俺が何か責任を負わなくてはならない、などということはない。

 ないのだが。

 

「このまま放っておくわけにもいかんでしょ、シルバー抜いた以上はきちんと収拾つけんと」

「頼むから他所でやってくれよ。これ以上ウチを破壊しないでくれ」

「分かってるよ」

 

 そう言って、周囲を見渡す。

 とりあえず移動の足を確保したいところだ。幾らなんでも車に走って追いつける筈がない。

 そう考えながら視線を彷徨わせていると、ふとあるものが視界に飛び込んできた。ここらじゃ見ない形である。大方自慢したがりのチンピラが輸入品を手に入れたんだろうとあたりをつける。

 幸いにして鍵はそのまま、所有者らしき人間も見当たらない。

 

「カワサキ、バルカン750、ね」

 

 側面にそう記載されたオートバイに近づいて、俺は何の躊躇いもなく跨った。当然ヘルメットなど無い。

 エンジンをかけてハンドルを取る。ま、問題なく乗れるでしょう。持ち主には悪いが、暫くの間借りさせてもらおう。豪快なエンジン音とともに通りへと車体を滑らせる。

 と、その直後甲高い衝突音が響く。

 何事かと音のした方向を見れば、ロベルタと対峙していたレヴィが吹飛ばされていた。

 車体を傾けて通りを曲がり、レヴィの元へと駆け寄る。幸いにして意識ははっきりしているようだった。

 

「レヴィ、おいレヴィ」

「っつ、ボス……」

 

 右肩を撃ち抜かれたらしく出血が見られるが、弾自体は貫通しているようだ。

 バイクを降りて膝を折り、ジャケットのポケットから大きめのハンカチを取り出す。

 

「ほら、これで傷口縛っとけ」

「クッソ、あのアマやってくれやがって……!」

 

 苛立ちを顕にしながらも、レヴィは俺からハンカチを受け取っていそいそと止血を施す。

 彼女に限って油断していた、なんてことはないだろう。レヴィくらいのレベルになれば対峙した人間の力量はなんとなく読めるはずだ。単純にロベルタのほうが一枚上手だった、ということだろう。

 それを根っこで理解しているからこそ、レヴィは犬歯を剥き出しにして怒るのだ。

 

「銃口向けたこと、ぜってえ後悔させてやる……!」

「それなんだがなレヴィ、こっちの事情もあって一先ず保留にしてくれ」

 

 俺の言葉に、レヴィは目を見開いた。

 

「冗談だろボス。このままじゃアタシはとても我慢できないね」

 

 レヴィがそう言う事は想定の内だ。昔から血の気が多かったし、やられたらやり返すを地で行く人種であることは俺も重々承知している。

 だがレヴィとロベルタが争う事に意味は無い。言ってしまえば、これは不毛な争いだ。

 故に俺はレヴィに声を投げる。こんなことでお前が血を流す必要はないのだと。

 

「レヴィ」

「……ッ、分かった、分かったよボス。アタシはボスの言うことには逆らわない」

 

 俺の言葉が届いたのか、レヴィはカトラスを握っていた両手を上げて小さく息を吐いた。なんだかんだ彼女は俺の意向をきちんと汲んでくれる。昔は問答無用で噛み付かれたものだが、今となってはいい思い出だ。

 しぶしぶといった感じでカトラスをホルスタに収めるレヴィ。となれば、後はもう先を走る車とロベルタを追うだけだ。

 

「うし、レヴィ。後ろに乗れ」

「あれ。ボスバイクなんか運転できたのか?」

 

 単純に疑問を口にしたのだろうレヴィの問いかけに、俺は間髪入れずにこう答えた。

 

「ハンドル回して前を向く。必要なのはたったこれだけだ」

 

 

 

 12

 

 

 

 ラグーン商会の三人とガルシアの乗るプリマスの数メートル背後を、メイド服を纏った女中が追走する。

 移動を開始した際、大通りを避けて狭い裏路地を通っていたことが裏目に出てしまった。未来からやってきた殺人ロボットにみすみす追いつかれてしまったのだから。

 常人では考えられないスピードで女中、ロベルタは前を走るプリマスに追い縋る。車とロベルタとの差がみるみる縮まっていくことに、後部座席に座るロックは恐怖と焦燥が隠せないでいた。

 

「ベニー! このままじゃ追いつかれる、もっと速く!」

「やってるよ! 大通りったって一本道じゃないんだ、そうそうトップスピードにまで持っていけない!」

 

 額に大粒の汗を滲ませながらハンドルを切るベニー。彼の運転技術はそこいらのドライバーよりも余程上等だが、今回ばかりは相手が悪すぎる。

 

「クソ、このままじゃジリ貧だ。どっかであのメイドを撒けねえもんか」

 

 吐き捨てるように言うダッチだったが、それがどれほど困難を極めるか理解していた。ミラー越しに後ろを見る。徐々にメイドの姿が大きくなっていく。いよいよもってまずいことになってきたと、ダッチは額に手を当てる。

 

「とにかく港だ、ラグーン号まで突っ走れ!」

「……っ、ダッチ横だ!!」

 

 一瞬だった。

 車内に乗る全員が気がついたときには、既にそれは起きていた。

 ドア一枚を隔てた向こうに、ロベルタは無表情で存在していた。

 

「う、おおぉぉおおおおッ!?」

 

 窓ガラスが粉々に砕けるのも構わず、ダッチがロベルタへと発砲する。

 超至近距離からの発砲も、しかしロベルタの歩みを止めるには至らない。窓ガラスが割れたドアを掴み、そのまま車へと飛び掛った。

 軽業師のように車の天井部分に飛び移ったロベルタは、拳銃を取り出して運転席と助手席付近に鉛弾を撃ち込む。

 対抗するようにダッチも天井目掛けて発砲するが、視界が確保できていないために手ごたえは一切感じられなかった。

 ロックは隣に座るガルシアを庇う様に覆い被さる。ガルシアはロックの腕の中で、ただただ震えていた。

 

「っ!」

「ベニー!」

 

 ロベルタの放った銃弾の一発がベニーの頭部を掠めた。その際の衝撃でハンドルが無意識に切られ、目的地までの最短ルートから外れてしまう。

 しかも不運なことに、入り込んでしまった道に先は無い。港の倉庫街に続く一本道は、しばらく進むと行き止まりだ。

 

「畜生、しっかり掴まってろよ!」

 

 そんなダッチの叫びが車内に響いた数秒後、プリマスはコンテナへと激突した。

 

 前部分が大きくひしゃげたプリマスは、煙を上げた状態で停止していた。

 天井に飛び乗っていたロベルタはその衝撃で前に飛ばされ、コンテナに人型をつくってめり込んでいる。

 フロントガラスに頭を打ち付けたダッチだったが、幸いにして意識を持っていかれるようなことは無かった。ヒビの入ったサングラスを掛けなおし、ゆっくりと上体を起こす。

 

「……ああ、生きてるやつは返事しろ」

「なんとか無事だ」

「生きてるよー、不思議なことに」

「そいつは僥倖」

 

 三人は一先ずの無事を確認し、安堵の息を漏らす。

 しかし、それも束の間。

 タンッ、と軽い着地音が三人の耳に届く。

 

「……オイオイ冗談だろ」

「あの女、一体何でできてるんだ?」

 

 ロベルタも当然無傷ではない。丸眼鏡は罅割れ、メイド服のあちこちは破れて薄汚れてしまっている。

 だが止まらない。彼女は足を止めない。

 

「おいロック、あのメイドなんとか説得して来い。ガキ渡せば見逃してくれるかもしれねえ」

「無茶言うなよ! みすみす殺されにいくようなもんじゃないか!」

「骨は拾ってやる」

「ダッチ!!」

 

 本気とも冗談とも取れないトーンで言うダッチに、ロックは本気で声を荒げる。あんな人間の前に出て行くなんて冗談じゃない。一歩たりとも車の外に出てはならないと全身が警鐘を鳴らしているのだ。

 そうこうしている間にもロベルタは一歩、また一歩と車に近づいて来る。

 

 そしてその差が二メートルほどになったとき、それはやって来た。

 最初に気がついたのはベニーだった。港に似つかない、豪快なエンジン音が近づいてくる。

 その音の正体を最初に視界に納めたのはロックだった。ガルシアを両手に抱いたまま、港の入り口に視線を向けていた彼がまっさきにそれを目撃したのだ。

 港に入ってきたのは、一台のバイクだった。

 運転しているのはロックもよく知るこの街の住人。その後ろにはラグーン商会の女ガンマンの姿もある。

 

「……信心深けえ甲斐もあったってもんだ。神様は俺たちを見捨てちゃいなかったみたいだ」

 

 そう呟くダッチの言葉に、ベニーとロックは全面的に同意する。

 今この場であのメイドに太刀打ちできるのは恐らくあの男だけだ。レヴィの右肩に手当てがされているところを見るに、メイドに一発もらったのだろう。ラグーン商会のエースでさえ手を焼く相手だ、そんな化物と渡り合えるのは、同じく化物しかいない。

 ロベルタはバイクから降りた男、ウェイバーを見て身体の向きを近づいていた車からそちらへと変えた。

 レヴィはどうやら傍観を決め込んだらしく、取り出したタバコに火を点けて真上に吐き出している。

 

「さっきぶりだな」

「……まさか死にはすまいと思っておりました」

「お蔭様でな、この通りピンピンしてるよ」

 

 おどけてみせるウェイバーだったが、ロベルタは彼の言葉を一切無視して銃を構えた。

 

「おっかねえなぁ」

 

 そう零すウェイバーの手には、愛銃は握られていない。

 

「抜かないのですか」

「生憎と、俺は射撃のセンスが皆無でね。狙ったところに飛んでいったためしがない」

 

 だからまぁ、と彼は言葉を続けて。

 

「お前の相手にゃなんねえよ」

 

 直後。

 拳銃を握るロベルタの手の甲を、一発の弾丸が撃ち抜いた。

 

「……ッ!?」

 

 突然の痛みに、何が起こったのか理解するのがコンマ数秒遅れる。

 そして気がついた。

 ウェイバーの手に、 いつの間にか( ・・・・・・)銀のリボルバーが握られていることに。

 だがロベルタが驚愕したのはその早撃ちではない。

 彼が放った弾丸は、 真横(・・)から飛んできたのだ。

 

(跳弾……。周囲のコンテナを利用して、銃を持つ手の甲を正確に……)

 

 まぐれで出来るような芸当ではない。対象物との距離、跳弾させる位置、角度、それらのすべてを緻密に計算した上での絶技。

 やはり以前の密林での射撃は偶然ではなかったのだ。あの程度のことを片手間でやってのけるのが、今目の前に立っている男、ウェイバー。

 そんな彼の射撃を呆然と見つめていたのが車内のロックだった。開いた口が塞がらないとは正にこのことである。

 一方ダッチやベニーはというと、ロックほどの驚きはみせていなかった。ダッチは小さく口角を持ち上げ、ベニーは口笛を鳴らす程度である。まるでこの程度のことは日常茶飯事だとでも言いたげな表情ですらある。

 

「だ、ダッチ。今のウェイバーさんのって、」

「ありゃ狙ったんだよ、当然な」

「そんなことが出来るのか!?」

「実際目の前でやってんだろ。本人は偶々だとか言ってどうやってんのか教えちゃくんねえがな」

 

 底が知れねえ、だからおっかねえんだ。そうダッチは言葉を締めくくる。

 今一度ロックはウェイバーへと視線を向ける。

 いつ銃を抜いたのかすら、ロックには分からなかった。これまで彼の中でガンマン最強はレヴィだった。彼女とカトラスこそが最強だと思っていたが、それは大きな勘違いだったようだ。

 

「そりゃそうさ。レヴィの 二挺拳銃(トゥーハンド)っていう名だって、もともとは彼のものだったんだから」

「ええっ!?」

「レヴィがウェイバーのもとを離れるときに餞別として受け継いだのさ」

 

 レヴィの師匠のような存在だと聞いてはいた。聞いてはいたが、いざこうして目の前に見せ付けられると唖然とするほかない。

 この悪徳の街で絶対に怒らせてはいけない人間だと以前ダッチに言われたが、初めてロックはそれを実感した。

 そんな話を車内でしていたからだろう。

 ガルシアの顔色はみるみる悪くなっていった。

 ラブレスの家に仕えるメイド、ロベルタが平気で人を殺してしまうような人間であると今このときも彼は信じられない。そんなロベルタの目の前に立っているのがこの街でも一等の悪党であると聞かされて、黙っていることなどできなかった。尚も震えたままの足に鞭を打って、ロックの腕を振り払い車外に飛び出す。

 ガルシアが車外に出てきたことに気がついたロベルタは目を丸くする。

 ウェイバーは動かない。ただガルシアの行動を見つめていた。

 

「ロベルタ……、もういい、もういいんだよ。僕はこの通り怪我もしてない。さあ、一緒に帰ろう……?」

「若様……。しかし……」

「――――自身の正体を知っている人間を、生かしておくわけにはいかないか?」

 

 凛としたその声が響いた途端、ロベルタとウェイバーの二人に眩い光が浴びせられた。

 

「動くなよ。ここら一帯は既に我々の 支配域(テリトリー)だ」

 

 現れたのは、顔の右半分に酷い火傷痕を持った女だった。

 バラライカ。ロアナプラの実質的な支配者と言っても過言ではない人物だ。見れば周囲のコンテナの陰や上部には彼女の部下たちが銃を構えていつでも攻撃ができるよう準備が整えられている。

 それらを見渡して、ウェイバーは小さく息を吐いた。

 まるで楽しいのはこれからだったのに、とでも言いたげだ。

 周囲を完全に囲まれていると理解し、奥歯を噛み締めるロベルタに、バラライカは目の前にまでやってきて朗らかに笑った。

 

「良いことを教えてあげるわメイドさん。私たちホテル・モスクワはね、はじめからマニサレラ・カルテルと戦争をする気でいたのよ。今頃ベネズエラの本拠地も壊滅してるんじゃないかしらね」

「…………」

「だからすべてはノー・プロブレム。ガルシア君が攫われた件もすべてチャラ。もう戦う理由はないはずよ?」

 

 バラライカの言葉を受け、安堵の表情を浮かべるガルシア。これでもうロベルタが戦う理由はなくなった。安心して祖国に帰ることができる。そう思ったのだ。そんなガルシアの表情に反して、ロベルタは険しい表情のままだった。

 彼女の中で、ここで片付けなければならない案件がまだ残っているのだ。

 すなわち自身の正体を知る男、ウェイバーの抹殺。

 

 しかしバラライカはロベルタの考えていることなどお見通しのように、マシン・ピストルを引き抜いてロベルタへと突き付ける。

 

「勘違いしないでね。これはお願いじゃない、命令なのよ 猟犬(・・)

「……!!」

 

 最後の言葉を受けて、ロベルタの顔が一層険しさを増す。

 

「猟犬……?」

「おや、ご存知ない? こいつは」

「黙れえッ!!」

「吠えるな、静かにしてろ猟犬」

 

 銃口を額に突き付けて、バラライカは話を続ける。

 

「コイツは使用人なんかじゃないの。ロザリタ・チスネロス。フローレンシアの猟犬と呼ばれるFARCの元ゲリラ。国際指名手配中の筋金入りのテロリストよ」

「……本当なの? ロベルタ……」

 

 信じられない、とガルシアは思う反面、納得もしていた。これまでの戦闘を見ていれば、どんな素人でも彼女が只者でないことは理解できる。

 すべてをガルシアに知られたロベルタは、両の手を地面について顔を伏せた。懺悔の如く、ぽつりぽつりと呟く。

 

「若様を……欺くつもりはございませんでした」

 

 ガルシアは彼女の話を、なにも言わず受け止める。

 

「しかし若様、世の中には……知らずともよろしいこともございます……」

 

 ゆっくりと立ち上がったロベルタの表情は、ガルシアもこれまで見たことのない、憂いに満ちた表情だった。

 

「私は信じていたのです。……いつか来る、革命の朝を。そのために私は……」

「ロベルタ」

 

 言葉を遮ったのは、無言で話を聞いていたガルシアだった。

 そこから先を言う必要は無いと、その瞳が語っている。

 

「いいんだ、いいんだよロベルタ。ロベルタが過去に何をしてきたかなんて、僕には関係のないことなんだ。君は僕の家族だ。大事なのは、それだけだろう?」

「若様……」

「だから帰ろうよ、ロベルタ。猟犬なんて知らないよ、そんなものはたった今ここで死んだことにしちゃえばいいさ」

 

 歩み寄ってくるガルシアを、ロベルタはゆっくりと抱き締める。

 猟犬などという殺人者には到底できないような暖かな笑みを、ロベルタは確かに浮かべていた。

 

 

 

 13

 

 

 

 明朝。一台の高級車に乗る二人の間で、こんな会話が交わされていた。

 

「大尉殿、ベネズエラのマニサレラ・カルテルの本拠地、制圧完了したとの報告が」

「ふん。なんとも骨の無い連中だったな。あの程度の夜襲にも対応できんのか」

 

 胸ポケットから取り出したタバコを咥えると、間髪要れずにボリスが火を差し出す。

 

「しかし良かったのですか」

「何か気にかかるか軍曹」

「猟犬、あの場で始末しても問題なかったのでは。後々噛み付かれるやもしれません」

 

 その意見に、バラライカはクツクツと笑いを漏らした。

 

「あそこでもしも猟犬を殺していたら、ウェイバーが黙っていなかっただろう。ガルシアの家族を屠ったとなれば、あの男がどうするかなど聞くまでも無い」

「……愚問でしたな」

「あの場面で最も避けねばならなかったのは我々と猟犬、そしてウェイバーの三つ巴となることだ。あの男と本気でやり合えばどうなるか、忘れたわけではないだろう」

 

 ロアナプラの勢力図が大きく変貌する可能性も決して低くない。

 ウェイバーと敵対するということはそういうことだ。

 

「カルテルは潰した。しばらくは表立って動くことは無いだろう。その間にタイでの仕事を済ませる」

「すぐに手配を」

 

 二人を乗せた高級車は、明け方のロアナプラを北上していく。

 

 

 

 

 

 

「着いたよ」

「着いたわね」

「ここが悪徳の都」

「ここが今度のお仕事の場所」

「楽しみだね」

「楽しみだわ」

「どうやって殺そうか」

「どうやって壊そうか」

 

「「本当に楽しみ」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 ◆ウェイバーが銃を抜くのが早い理由◆

ウェ「……違うな、もっとこう、スタイリッシュに、次元っぽく……」

 鏡の前でホルスタから銃を抜き、構えるまでの動作、それのみに没頭したのだ……!
 毎日一万回、感謝の正拳t()



 というわけで第一次メイド大戦はこれにて終幕。
 終わり方に思うところはあるかもしれませんが、メイドさんは嫌でも今後出てきますし、ここでウェイバーさん全開にさせるとリアルグラウンド・ゼロが起こりそうな面子が揃ってしまっていたので、今回はこういった結末とまりました。

 
 
 次回より双子編に突入です。


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008 泥の妖精

 今回よりヘングレ編です。


 

 

 

 ――――ぐちゅ、くち、ぐちゃり。

 水分を多量に含んだ柔らかい物体が、強い圧力を受けて潰されたような音が室内に響き渡る。照明の点いていない薄暗い室内を目を凝らして見渡してみれば、その音の正体に気がつくだろう。

 それは、赤黒い肉塊だった。元は人間の一部だっただろうそれは、幾つものパーツに切り刻まれ、無惨にも室内に散らかされていた。

 鼻をつく血の臭いが充満するその室内にある死体は一つではない。少なくとも複数人の死体が、まるでおままごとの延長線のように切り刻まれていた。

 

 この凄惨な現場を作り出したであろう張本人たちは、返り血にその身を染めながら悦に浸った表情を浮かべていた。

 

「楽しいわ、兄様」

「楽しいね、姉様。昨日は殺せなかったから」

「中々しぶとかったものね、あのロシア人たち」

「あれで部下だっていうんだから、きっと目的のロシア人はもっと強いんだろうね」

「じゃあもう片方の東洋人もかしら」

「きっとそうだよ」

 

 今し方殺戮の限りを尽くしたとは到底思えない、無邪気な二つの声が室内に響く。

 プラチナブロンドの髪の毛をした二人は、あどけなさを未だ残した子供だった。

 喪服のような真黒な衣服に身を包み、見るからに手に余る凶器を握って口角を持ち上げている。

 

「でもこの人たち、貰ったリストには載っていなかったわね」

「気にすることじゃないよ姉様。この人たちも僕らの命の一部になれてきっと満足しているはずさ」

「ええ、そうね兄様」

 

 そう言って、二人は静かに唇を重ねる。

 相手を慈しむキスをしながら、互いの細くしなやかな指を絡める。

 血生臭い殺戮現場にそぐわないその行動は、背徳的な美しさを纏っていた。

 

「僕らは永遠の命(ネバーダイ)

「殺した分だけ、私たちは生き続けるの」

 

 悪徳の都の一角で、邪悪な芽が育つ。

 

 

 

 2

 

 

 

「ダウト」

「チッ、バレてたか」

 

 夜の帳が広がりつつある夕暮れのロアナプラ。ラグーン商会が拠点としている建物で、俺は商会の面々とカードゲームに勤しんでいた。

 四角い机の中心には無造作に散らばったトランプ。たった今ダッチが切ったカードは俺の手元にあったため、なんの躊躇いもなくコールしたところである。

 不満そうな顔をして机上のカードを手持ちに加えるダッチを、横のベニーが面白そうに眺めている。

 

「ほんとカードゲーム弱いねダッチ」

「俺が弱いんじゃねえ。ウェイバーやお前が強すぎるんだよ。俺とロックの二人負けじゃねえか」

「顔に出過ぎなんだよお前ら。百面相してんじゃないんだから」

 

 このカードゲームを始めてもうすぐ一時間。戦況は俺とベニーの二人勝ち。ダッチとロックは見るも無残に大敗状態だ。一応言っておくと現在レヴィはじゃんけんに負けて買出し係に任命されているためにこの場にはいない。つまるところ、このゲームはレヴィが戻ってくるまでの暇潰し目的で始められたのだ。

 掛け金なんて皆無に等しいお遊びのレートで、レヴィが戻ってくるまでの余興として。

 最初はそのつもりだったのである。……が。

 

「もう一回、もう一回だウェイバー」

 

 ご覧のとおり、ダッチが鼻息荒く再戦を申し出てきた。これでもうリベンジマッチは二桁目に突入である。普段はクールなマッチョマンだというのに、どうしてこう一度熱くなると止まらなくなってしまうのだろうか。しかもこんなカードゲームで。

 

「俺としては望むところだけど、ロックはいいのか?」

「俺としては遠慮したいんですけど。もう所持金が底を付きそうだ」

「おいおいロック。男なら負けっぱなしで終われるか」

 

 そう言うダッチは既にカードをシャッフルし、俺たちの前に素早く配り始めている。

 

「でもダッチ、このカードゲームはウェイバーさんに有利すぎる」

「彼は顔に一切出ないからねえ」

「うぐ……」

 

 言葉を詰まらせるダッチ。

 元より気付いてはいるだろうが、俺はこうした心理戦には滅法強いきらいがある。それはひとえにこの十年で面の皮が厚くなっただけのことであるが、これが存外役に立つ。

 こうしたカードゲーム然り、命を賭けた銃撃戦然り。相手に自分の心情を読ませないというのは、それだけ重要なことなのだ。

 そして意外なことに、心理戦になると途端に弱くなるのがラグーン号の船長ダッチだった。普段の仏頂面はどこへやら、サングラス越しでもその喜怒哀楽が見て取れるほどだ。

 ベニーなんかは終始へらへらしているため、表情からは読みづらい。ロックは良くも悪くも純粋なのか、微妙な所作に現れている。

 

 というかいい加減このゲームお開きにしたい。

 そもそも俺が今ここにいるのもとある予定までの時間潰しなのだ。目的の時間まではもう暫く余裕があるものの、ダッチの様子を見るにまだ続きそうだ。頃合いを見て離れるのがいいだろう。

 未だ買い出しから戻らないレヴィに挨拶も無しに場を離れるのは少し気が引けるが、彼女のことだ。気にすることもないはずだ。

 ダッチの配ったカードが俺の前に置かれるがそれを手に取ることはせず、ソファから腰を持ち上げる。

 

「悪いなダッチ。時間切れだ」

「なんだよ、もう一回くれえやれるんじゃねえか?」

「あの会合に遅刻してみろ。周りから罵詈雑言の嵐だぞ」

「周りの声なんか気にしねえくせによく言うぜ」

 

 煙草を咥えながらそう言うダッチに軽く手を挙げ、ソファに掛けてあったジャケットを肩に掛ける。

 

「続きはまた今度な」

 

 

 

 3

 

 

 

 ラグーン商会のオフィスを出て向かったのは、メインストリートから一本外れた場所に居を構える一軒のクラブだ。

 ここは幾つかある黄金夜会の会合に使用される場所の一つで、仕切っているのは確かコーサ・ノストラだったと記憶している。

 会合の時間までは十五分程あるが、周囲に停められた高級車を見るに殆ど集まっているようだ。まぁ徒歩でやって来ているのは俺くらいだろうし、そもそも個人で参加してるのがおかしいと言われればそれまでなんだが。

 クラブの入り口に立つ警備の人間らしき人間に手だけで挨拶をし、開かれた扉の内部へと足を踏み入れる。

 

 やはりというか、俺以外の主要な面子は勢揃いしていた。

 何人かは俺の姿を視界に収めた瞬間に顔を強張らせているが、支部長たちはどこ吹く風と飄々としている。

 

「調子はどうだ、ウェイバー」

「この鬱屈した空気はどうにかなんねえのか張」

「言ってくれるな。今ロアナプラで起きてることを考えりゃあこんな空気にもなるだろう」

 

 高級そうな椅子に背中を預けたまま、俺に声を掛けてきたのは張維新。ロアナプラで多くの利権を有する黄金夜会の一角、三合会のタイ支部のボスを務める男だ。

 オールバックにした黒髪にサングラス、黒のジャケットと全身が黒で統一されたこの男と俺は知り合ってもう十年になる。付き合いの長さだけで言えばバラライカよりも長いくらいだ。

 彼の後ろにはやや長い黒髪をした張の腹心、(ビウ)の姿もある。

 

 と、俺と張がそんな会話に勤しんでいる所に割って入ってくる声があった。

 

「よぉウェイバー、相変わらずちまちまと小遣い稼ぎをやってんのか?」

 

 タバコを加えたままやって来たのはコーサ・ノストラのタイ支部ボス、ヴェロッキオだ。ブランド物のコートと人を見下したような目付きが特徴的なこの男は、こうして俺に事あるごとに突っかかってくる。

 

「俺に大金なんて必要ないからな。生きてく金さえありゃ十分だ」

「かっ、夢が無えなぁオメエはよ。欲ってもんが足りねえ」

 

 その欲に溺れて死んでいった人間が、この街に一体何百人いると思っているんだか。

 

「全く、目先の金しか見えないなんて可哀想ねヴェロッキオ」

「ああ?」

 

 カツン、とヒールを鳴らし奥から姿を見せたのはバラライカ。後ろには当然のようにボリスが控えている。彼女は俺に視線だけで挨拶を済ませると、再びヴェロッキオへと向き直る。

 

「言うじゃねえか焼傷顔。田舎者のロシア人(イワン )風情がよ」

「イタ公ってのはどうしてこう短慮なのかしら。同じ人間とは思えないわ」

 

 なんで会合が始まる前からこんなに険悪な雰囲気なんだ。いや、これまでだって決して良好な仲だったわけではないし、そもそも同盟なんて結んでいないけれど。それにしたって今回はどこもかしこも殺気立ちすぎてやいないだろうか。

 

「よさないか二人とも。何の為に今日こうして集まったと思ってる」

 

 張の制止の声に、ヴェロッキオは口角を吊り上げて。

 

「少なくともこのロシア人の顔拝むためじゃねえな」

「ヴェロッキオ、そこまでだ」

 

 俺の声に、尚も軽薄な態度を崩さないヴェロッキオは視線を向けて。

 

「何だウェイバー。オメエはこのロシア人の肩を持つってのか?」

「話が始まんねえだろうが、ちっとばかしそのうるせえ口を閉じてろ。それとも何か、喋り足りねえなら俺が顔に幾つか穴開けてやるぜ」

「……チッ」

 

 苛立たしげに後頭部を掻いて俺から距離を取るヴェロッキオ。

 今の脅しは口から出任せを言っただけだったが、案外効果はあったようだ。これで退いてくれなければ俺にはもうどうしようもなかった。タイ支部を預かる身とあって、そこらへんの線引きはきっちりしているのかもしれない。いや、ないか。あいつのところのマフィアはやることが派手でうるさいと住民から苦情が殺到しているらしいから。

 一先ず話し合いの場が整ったことで、黄金夜会に名を連ねる組織のトップたちが一つのテーブルに集まり、そのままソファに腰を下ろす。その後ろには一人から二人の側近が控えているのだが、当然俺の周りには誰ひとりいない。

 ……別に寂しくなんてない。たまにボリスや彪のような優秀な人材が欲しいとか思ったりもするが、全然寂しくなんかないのだ。

 

「さて、話を始めよう。といっても、既に君らには情報が回っていると思うが」

「情報もクソもあるか。身内の手配師が殺られてんだぞ」

 

 口火を切った張に、すかさずヴェロッキオが眉根を寄せた。

 

「こっちも会計士が襲われたわ。うちはツーマンセルで行動させていたから殺されるようなことはなかったけど」

 

 うおう。バラライカが言外に『お前のところは警戒が微温いんじゃないか』と言っているような気がする。ヴェロッキオも言葉の端々に挑発の匂いを感じたのだろう。額にうっすらと青筋が浮かんでいる。それでも先程のように口論に発展しないのは、今回場を持たれた連絡会の本題の最中だからだろうか。

 

「……ミス・バラライカ。こいつは初耳だろうが、三合会(こっち)の手の者も殺された。組員と直属の幹部が一名、ラチャダ・ストリートの売春窟でだ。昨日の夜のことだ」

 

 張、バラライカ、ヴェロッキオ。三人の言うことが本当ならば、この街そのものに喧嘩を売るような愚行だ。

 黄金夜会という勢力がロアナプラでどういった立ち位置にあるのか、ここに住む人間であれば老若男女を問わず皆知っている。

 尚も行われる会話を流し聞く程度に抑えながら、はてと考える。

 黄金夜会を狙う。ソイツの目的は何なのだろうか。名を上げたい、金目当て。ポツポツと思い浮かぶだけでも幾つかあるが、それらと黄金夜会とを天秤に掛けて果たして名声や金を選ぶ馬鹿がいるだろうか。少しでも張やバラライカのことを知っているなら、そんな自殺行為には走らない。名声や金欲しさであっても、黄金夜会を狙うには余りにもデメリットが大きすぎるからだ。

 となると、この街の流儀を知らない余所者の線が高くなる。

 もしくは、その余所者を雇って黄金夜会で保たれている均衡を崩そうとしているこの街の人間かもしれない。今の話を聞いていると、都合よく構成員が襲われていない組織があるようだし。

 そこまで考えた俺と、どうやら同じ結論に辿り着いたらしいバラライカは。

 

「天秤を動かそうとしている奴がいる。……私を見ろアブレーゴ」

 

 びく、と肩を震わせた男の名はアブレーゴ。つい先日ガルシアの誘拐をラグーン商会に依頼した、マニサレラ・カルテルのタイ支部ボスだ。褐色の肌に口髭、サングラスに派手な柄のシャツなんて着てるもんだからたまに陽気なおっさんにしか見えなくなる時がある。

 

「冗談よしてくれバラライカ。確かに俺たちゃアンタと揉めたが、もう手打ちは済んでる筈じゃねえか」

「どうだか。この間の報復という可能性だってあるんじゃない?」

「兵隊の数も揃わねえのにドンパチなぞぶり返すかよ」

 

 もっともな意見だ。

 この間の一件でマニサレラ・カルテルの本拠地はほぼ壊滅状態となってしまっている。構成員は激減、各支部は総出で復旧に当たっていると小耳に挟んでいたのを思い出す。誰から聞いたんだったか、ああそうだ、ヨランダとこの前お茶会をしたときだ。

 そんな状態にも関わらず、このタイミングで兵を動かすなど確かに有り得ない。カルテルの連中が殺されていないのは偶然だった、ということなのだろう。

 

「ま、外部勢力ってことなんじゃねえの」

 

 後頭部で指を絡め、天井を見上げて呟く。

 俺のその意見にはヴェロッキオも賛同しているようで。

 

「ウェイバーの言うとおりだ。張、こいつは流れ者の仕業だよ。ココの仕組みを知らねぇ奴だ」

「つうかよバラライカ。お前んとこの会計士生きてんだろ? 人相とか分かんねえの?」

「生きてはいるけど二人共顔削がれちゃっててね。まともに口をきけるような状態じゃないの。少なくとも三週間はミイラ男よ」

 

 顔削ぐって。どんだけグロテスクなんだ。猟奇的殺人者みたいなのは勘弁してほしいんだが。夜飲みに行く時に異常に警戒してしまいそうだ。

 

「……ではこの件は外部勢力と断定し、連絡会は連携して犯人を狩る。共同で布告も出す、誤解による流血を防ぐためだ。異存は?」

 

 張が話を纏めるためにそうした案を出した。

 外部勢力ってのは俺もほぼ間違いないとは思う。が、何か引っかかるものを感じているのも事実だった。いきなり黄金夜会のみを狙って人殺しを行う人間が現れた、何の脈絡もなしにだ。それがただ犯人単独の犯行だと断定するには証拠が少なすぎる。裏で誰かが糸を引いているという可能性だって大いに有り得るのだ。

 まあそれにしたって、これといった証拠がないので俺個人の勝手な憶測に過ぎないが。

 そんな中で、そろそろ終わりを迎えようという場の空気をぶち壊しにかかる女が一人。

 

「くだらないわね」

「なんだとテメエ」

「軽率な行動は控えてくれバラライカ」

「張、私たちは親睦会をするためにわざわざやってきたんじゃない。そしてそれは多分、ウェイバーも同じでしょう」

 

 ボリスから軍服にも似たジャケットを受け取り、バラライカは席を立つ。

 

「我々がここに来たのはな、立場を明確にするためだ」

 

 切れ長の瞳が、より一層鋭くなる。

 

「ホテル・モスクワは、行く手を遮る全てを容赦しない。それを排除し、撃滅する。どこの馬の骨か知らんが、突き立てた牙ごとへし折ってやるまでだ」

 

 それだけ言って、バラライカと彼女の部下数人は身を翻してその場を後にする。

 残された張はやれやれと息を吐き、ヴェロッキオは忌々しげに彼女の後ろ姿を睨んでいる。俺はといえば特になんのアクションも取ることなく連絡会が終了してしまったので、若干手持ち無沙汰な感があった。

 一応連絡会は終了という形になったので、俺は席を立ち張のもとへと歩み寄った。

 

「張、これから一杯付き合わねえ?」

「悪いな、これから帰って本部に通達と資料の受け渡しだ」

「なんだよつれねえな。そんなんだから酒強くなんねえんだ」

「お前が強すぎるんだ」

 

 懐から煙草を取り出し、慣れた手つきで火を点ける。

 本当なら張と久しぶりに飲みに行きたいところだったが、振られてしまった。今日も一人寂しく飲むことになるんだろう。まぁそれはいいのだ。いつもひとりだし。

 さて、問題はどこで飲むかである。

 昨日新築で生まれ変わったイエローフラッグは店主バオから立ち入り禁止令が出されてしまっているので(三日間)候補から除外。となると後に残るのは……おかしいな、ロアナプラには酒場なんて腐る程あるはずなのに、行ける酒場が片手の指で足りてしまう。

 

 となれば仕方がない。

 今日は久しぶりにあのバーで飲むことにしよう。

 そう決めた俺は、足取り軽くクラブから出て行った。

 

 

 

 4

 

 

 

 カリビアン・バー、というバーがある。

 メインストリートを西へ進んだブランストリートの交差点横に建てられた、この街にしては珍しく小奇麗なバーだ。

 このバーはバラライカ率いるホテル・モスクワの系列の店舗だが、そんな事知るかとばかりに俺は使わせてもらっている。というかイエローフラッグとここを除けば本当に常連と言えるような酒場が存在しないのだ。

 時間は深夜二時とそこそこ深い時間だが、店内の明かりが外に漏れているのでとりあえず営業はしているだろう。

 ここの店主は気分で閉店時間を変えるから厄介なんだ。

 木製のドアを押せば、上部に取り付けてあった小さなベルが鳴る。その音に気がついてこちらを見たマスターは、きょとんとした表情を浮かべ、そしてすぐに声を掛けてきた。

 

「こりゃまた珍しい来客だ」

「久しぶりだなメリー」

「アンタだけだかんね、あだ名で呼ばせてやってんの」

 

 バーカウンターの奥でグラスを磨いていた店主の正面の席に座り、とりあえずはとウォッカをボトルで頼む。

 

「大方バオんとこ追い出されたんだろ?」

「なにお前エスパー?」

 

 笑いながらグラスを磨く店主に対して目を丸くする。

 

「アンタがここ来るのって決まって出禁になってるときでしょうが」

 

 ああ、納得です。

 

「はいよ、ウォッカ。ベーコンはおねーさんのサービスだ」

「何がおねーさんだよ俺より年下のくせに」

 

 出されたベーコンを摘んでそう返す。

 このカリビアン・バーの店主、今俺の目の前に立っている女、メリッサは二十そこそこのアメリカ人だ。

 いや、年齢のことを言えば俺より実年齢が年上のやつなんて多分この世にいないんだろうが。

 

「アンタにゃわかんないかなあー、この溢れ出る色気ってやつが」

 

 そういって首と腰に手を回すメリー。確かに彼女はスタイルがいい。仕事のためか後ろで纏めてある金髪は綺麗だし、仕事服であるにもかかわらず給仕服がコスプレの衣装に見えてくる。

 だがしかし、俺にとってはお子様も同然、欲情なんて間違ってもしないのである。

 

「(……ニブチンが)」

「あん? 何か言った?」

「なーんも」

 

 んべっ、と舌を出して、メリーは再びグラス磨きの作業に戻る。

 なんとはなしに店内を見てみれば、どうやら客は俺ひとりのようだった。

 

「悪いな、もう店閉めようとしてたか?」

「いいよ。アンタが来なくても今日はホテル・モスクワが集金に来る予定だったから」

 

 空になったグラスに、ボトルに残っていたウォッカを注ぐ。溢れそうになってしまったため、慌ててグラスに口を付ける羽目になってしまった。

 しかし美味いな。イエローフラッグは良くも悪くも大衆酒場というイメージが強いせいか、こういった高級な酒は中々置いていない。逆にここはどちらかといえば高級感があり、揃えてある酒も安物ではなく有名どころをきちんと押さえて置いてあるのだ。故に客層もそこいらのチンピラでなく、金に余裕のある人間がやってくることが多い。

 

「そういえばさーウェイバー」

 

 グラスを磨き終えて暇になったのか、メリーが口を開いた。

 

「聞いた? 他所者がこの街で暴れまわってるって」

「まあな、さっきもそれで会合があったんだ。三合会とコーサ・ノストラからも死人が出てるみたいでな」

「え、ねえそれ私が聞いてもいい話なの?」

「知らん。まあ口外しなきゃいいだろ、多分」

「アンタほんとそういう適当なところ治さないといつか痛い目見るわよー」

 

 まあアンタにそんなこと出来るやついないでしょうけど、とメリーは笑う。

 俺も彼女もこの話題をさして引っ張ることなく、他愛のない会話へと移る。ウォッカが空いたので次は大吟醸に手を出すことにしよう。ロアナプラで大吟醸が飲めるところなんてここくらいなんじゃないだろうか。まぁ俺がバラライカ経由で入れてもらってるんだけど。

 出されたのは菊理媛。

 大吟醸を十年以上寝かせて熟成させたものだ。これが美味い、とにかく美味い。なんならラッパ飲みできそうな勢いだ。

 やはり日本人の血が流れているからなのだろうか。洋酒もいいが、やっぱりこうした日本の酒のほうが美味いと感じる。

 

 店内にたった二人、俺とメリーだけの酒盛りはその後暫く続いた。

 

 

 

 5

 

 

 

 ギイ、と木製のドアが軋む音が明け方の店内に響く。

 次いでベルの音。

 カウンターには寝てしまったのかグレーのジャケットを着た男と、在庫の確認に忙しいのかカウンターと奥とを行ったり来たりする女店主。

 現れたのは、二人の人間だった。

 

「メリッサ、景気はどうだ?」

「ああサハロフさん。今日はこのおにーさんが沢山飲んでくれたからね、上々ってとこかな」

「ウェイバーさんがここで飲んでるってことは、イエローフラッグは出禁中なのか」

「ご名答~」

 

 どうやら彼らの中ではこの場に居る=イエローフラッグは出禁、という図式が既に完成しているらしい。一体これまで何度出禁になったのか聞いてみたいような気もするが、彼がこのカリビアン・バーもかなりの常連だという時点でその回数はお察しである。

 やってきた二人と女店主は、ちょっとした世間話に興じ始める。カウンターで突っ伏した男は動く気配がない。彼の周りに空になったボトルが無数に散らばっているところを見ると、しばらくは寝たままだろう。

 

「っと、すまない。電話だ」

「ついでだ、大尉殿にも集金回収の連絡を入れておいてくれメニショフ」

「了解した」

 

 会話に華を咲かせていたところに突然の着信音。メニショフと呼ばれた男は携帯を取り出し、一度店の外へと出て行った。

 数分して、再びドアが開かれる。先程サハロフたちがやってきた時のように、軋む音を立てながら上部のベルが小さく鳴る。

 ただ、やけにそれはゆっくりに見えた。

 

「こちらは終わったぞメニショフ。連絡は――――」

 

 サハロフは、二の句が告げなかった。

 眼前に飛び込んできた光景のあまりの衝撃に、一瞬何が起きたのかすら理解することが遅れる。

 

 開いた扉の先は、血の海だった。

 扉の先には、メニショフだと思われる首を掴んだ幼い少年が立っていた。

 左手に同志の生首を持ち、右手には戦斧らしきものを握っている。

 

 声にならない叫びを上げるメリッサと、瞬時に懐から銃を抜き構えるサハロフ。

 黒い衣服を返り血で赤く染め上げた少年は、サハロフを視界に捉えて無邪気に笑う。

 

 

 

「ねえおじさん。――――遊ぼうよ」

 

 

 

 

 

 

 

 




レヴィ「なんかここんとこアタシ影薄くね?」
ロック「俺なんか原作主人公なのに」

ウェイバー「あ、ロック君。君の出番もう無いから」

 
 というわけでヘングレ編です。感想いただく中にも双子生存希望! とかウェイバーの秘書に! とかいろいろ希望や予想していただいていたのですが。
 こ の 展 開 は 読 め た か ? (ゲス顔)

 残り二、三話で終了予定です。


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009 第一の分岐点

 6

 

 

 

 修羅場、死線と呼ばれるものを、サハロフは幾度となくくぐり抜けて来た。

 バラライカをトップとした第318後方撹乱旅団・第11支隊にその身を預けていたときも、この街にやってきて遊撃隊(ヴィソトニキ)と呼ばれるようになってからも。一般人であればまず間違いなく死んでいただろうという窮地を、その身一つで乗り越えてきた。

 だからこそ彼らはロアナプラの実質的支配者と呼ばれているのであり、統率された彼らに恐れるものなどないと言わしめる程に畏怖されているのだ。

 サハロフは優秀な戦士である。

 そして、メニショフもまたサハロフと同じくとても優秀な戦士であった。

 

 ――――その優秀な戦士の生首が、幼い少年の白い手にあった。

 無造作に髪の毛を引っ掴まれ、切り落しただろう断面からは今も粘ついた液体が間断無く垂れ流れている。開ききった彼の両眼に、一切の光はない。

 

 銃口を入口に立つ少年へ向けたまま、サハロフはその場から動けないでいた。

 彼の後ろには足が竦んでしまっているのか動けないメリッサと、こんな状況であるにも関わらず身じろぎ一つしないウェイバー。出来ることならウェイバーに起きてもらいたいが、深酒をしているらしい彼が自発的に目覚めることはおそらくない。

 かといってここで大声を出して彼を目覚めさせようとすれば、その声に反応して周囲から一般人が集まってきてしまい余計な混乱を招く恐れがある。

 

(……やるしかない)

 

 不幸なことに、携帯電話はメニショフが持っていた。あれはバラライカがツーマンセルで行動させる際に一組ずつ支給したものだ。中にはバラライカへの直通の連絡先が登録されているが、それを持っていたメニショフの胴体は見当たらない。彼女へこの事態を知らせることができれば、あるいはこの状況を打破することもできたのかもしれないが。

 サハロフは銃を握る手に力を込める。

 まさかこんな年端もいかない子供が、と思った時だった。

 

「ダメよ兄様、独り占めはいけないわ」

 

 少年の後方、ドアの向こうから別の声が聞こえてきたのだ。

 まさか、とサハロフは思う。

 

「ごめんよ姉様。このおじさんが強かったから、思わず楽しくなっちゃって」

「いけない子ね兄様、私を仲間はずれにするなんて」

 

 少年の後ろから現れたのは、少年と全く同じ顔をした少女だった。少年が髪の毛を同じくらいにまで伸ばせば、見分けもつかなくなってしまうのではないかと思うほどによく似た二人だ。

 

(二人組、だと――――!)

 

 バラライカが提案したツーマンセルは、対個人を想定してのものだった。しかし、相手は二人。ツーマンセルでは不十分、万全を期するのであれば、少なくともスリーマンセル以上で行動させなければならなかった。

 

「今度は私にやらせて、いいでしょ兄様」

「わかったよ姉様。おじさんを天国へ導いてあげてね」

「もちろんよ」

 

 少女はその両手に長い物体を抱えていた。キーホルダーのついていた細長い布を取り外すと、そこから姿を見せたのはBAR。ブローニングM1918自動小銃だった。

 自身の持っている拳銃などでは太刀打ち不可能な代物を前に、サハロフは瞬時に攻撃よりも回避を選択。尚も硬直しているメリッサを抱え込むような形でカウンターの中へと飛び込む。

 直後、連続した銃声が店内に反響する。頭上の酒瓶に当たったのか割れて落下してきた破片が頭部を直撃する。額にぬめりを感じるのも構わず、サハロフはメリッサの盾となるようにしながらじりじりとカウンターの中を移動する。

 

「ああ、ダメよ。逃げたりしてはいけないの」

 

 少女の銃撃は止まらない。

 店内に銃弾の嵐が降り注ぐ。

 BARを持つ少女を前に、戦斧を握る少年は微笑を浮かべたまま動かない。先程の言葉通り、サハロフを手にかけるのを少女に譲るつもりなのだろう。完全に舐められている、サハロフはカウンターの床を這うようにしながらそう思った。

 そして同時に思い至る。

 この店内にはもう一人、男が居なかっただろうか。

 カウンターに突っ伏して惰眠を貪る、あの男が。

 

(しまったっ!)

 

 咄嗟に身体を起こしてカウンターの様子を窺おうとするも、真横を銃弾が飛んでいったために慌てて上体を屈める。

 自身とメリッサ、そしてもう一人。ウェイバーがこの店内には残っていたのだ。突然の銃撃で、すっかりそのことが頭から抜け落ちてしまっていた。

 いくら百戦錬磨の彼とは言え、眠ったままの無防備な状態であの一斉掃射を回避できるわけがない。意識がないままに回避行動を取れる人間なんてのは聞いたことがない。

 少女のBARは、店内を隈無く蜂の巣にしていた。ということは、必然的に彼のいるカウンターも銃撃されている。

 黄金夜会に名を連ねる人間が、こうもあっさりと殺されてしまうのか。サハロフは奥歯を噛み締めた。

 しばらくして、銃声が途切れる。彼の動きは迅速だった。抱きかかえていたメリッサを店の奥へと避難させ、壁伝いに移動してなんとかカウンターの様子を視界に捉えられる位置に移動する。顔の前まで拳銃を持ち上げ、いつでも撃てる状態のまま、サハロフはゆっくりと顔を覗かせた。

 

 彼の視界に飛び込んできたのは、信じられないような光景だった。

 そして瞬時に理解する。少女の銃声が途切れたのは、弾切れを起こしたからではない。

 彼が、彼の存在が、その全てを物語っていた。

 

 辺り一面に銃痕が刻みつけられた店内で、ウェイバーは少女の真正面に立っていた。彼我の差は三メートル程。サハロフの視界からはウェイバーは背を向けているため、どんな表情をしているのかは分からない。

 ただ、彼の右手には特注のリボルバーが握られていた。シルバーイーグルだ。

 一体いつ眠りから目覚め、あの銃弾の嵐を回避したのかはサハロフには分からない。だがいかにウェイバーと言えど、余裕では無かった筈だ。その証拠に、彼のジャケットの至るところには銃弾が掠めた痕跡が見て取れた。 

 きっと少女の殺気に気が付き、紙一重で躱していたのだろう。相変わらずの危機察知能力だと舌を巻く。

 以前彼とやり合った時もそうだった。三百メートルも離れて狙撃銃を構える自身がその引鉄を引こうとした瞬間、彼はこちらを見て笑ってみせたのだ。どれほどの手練だろうと、三百メートル離れている人間の殺気など感じ取れるものではない。

 そんな常人離れしたウェイバーだからこそ、単独で黄金夜会に名を連ねているのだろうが。

 

 ウェイバーを前に、少女はBARを構えたまま微笑む。

 

「あらおじさん、私と踊ってくれるのかしら」

 

 彼は答えない。リボルバーを握ったまま、まっすぐに少女を見つめているようだ。

 

「おじさん強いのね。あれだけの銃弾を撃ち込んだのに、一発も食らっていないんですもの。一体何者なのかしら」

「……こんなに穴だらけにしやがって」

 

 小さな声でウェイバーは呟く。

 ゆっくりとリボルバーを握る手を持ち上げて、少女に話しかけるように。

 

「銃ってのはな、撃った数じゃねえんだよ」

 

 銃声が轟いた。

 

「……おじさん、コントロールがなってないわ。照準も合わせずに撃つなんて」

 

 少女の言う通り、ウェイバーが放った弾丸は少女に当たることなく、大きく逸れて上方へと飛んでいってしまった。

 一撃必中の彼らしくもない、とサハロフも心中で疑問に思う。

 目が覚めたばかりで手元が狂ったのか? そんな風に考えたサハロフだったが、彼の予想はあっさりと裏切られることとなる。

 次の瞬間、ガラスが砕けるような音が店内に響き渡った。

 サハロフはその光景を、目を丸くしながら見ていた。

 

(天井に吊るされた照明を、ピンポイントで……!)

 

 このカリビアン・バーには天井に幾つかの電灯が吊るされている。

 そのうちの一つ、丁度少女の直上にあったものを彼がリボルバーで撃ち抜いたのだ。一センチほどのコードで吊るされていた照明を、寸分の狂いもなく撃ち抜く技術にサハロフは驚愕する他なかった。

 撃ち抜かれた照明は、完全に油断しきっていた少女の頭部を直撃する。

 いきなりの事態に上手く状況を飲み込めていないのか、少女は照明の直撃を受けた頭部を押さえながら、恨めしそうにウェイバーを見つめていた。

 

「……そうだわ、思い出した。どうして今まで忘れていたのかしら」

 

 落としかけていたBARを握り直し少女、グレーテルは小さく嗤う。

 

「ウェイバーって、おじさんのことだったのね」

 

 言った途端、少女の表情が一変した。

 先程までサハロフに向けていたものとは明らかに違う、狩人が獲物を見つけた時に浮かべるような表情に変貌する。

 

「私はおじさんがこの街でどんなことをしてるのか知らないけれど、お仕事なの。だからおじさん――――死んでちょうだい?」

 

 不敵に嗤う少女を眼前にして、ウェイバーはリボルバーを構えたまま動かない。

 先程の一発は確かにグレーテルの意表をつくものだったが、攻撃性はかなり低いものだった。あれだけのコントロールがあれば、狙える場所は他にもたくさんあったはずだ。それこそBARの間を縫って、身体に直接鉛玉をブチ込むことだって可能だろう。

 それをしなかった、あるいは出来なかった。そこにどういった事情があるのかは知らないが、万全でない男を一人始末することなど造作もないことだと結論づける。

 雇い主はウェイバーについてこう言っていた。

 

 絶対に一対一で戦うな。一個大隊を相手取るよりも無謀なことだと。

 

(過大評価ではないかしら。このおじさんにそこまでの脅威は感じないもの)

 

 そう思考を巡らせているときだった。

 不意に、ウェイバーの口が開く。

 

「……何だよ。鉛玉が食いたきゃ、そう言いな」

「っ!?」

 

 己の心中に返答するように、彼はごく自然にそう言った。

 次いでリボルバーを握る手が動く。直後銃声。

 驚くべきことに、銃声は一発分しか聞こえなかったにも関わらず、弾丸は二発発射されたらしかった。それに気がついたのは、グレーテルの持つBARのマガジンと銃身に一発ずつ弾痕が刻まれていたからだ。

 

 慌てて距離を取ろうとする少女に、今度はウェイバーが不敵に笑って見せる。

 

「おっさん嘗めんじゃねーぞ」

 

 

 

 7

 

 

 

 心地いい浮遊感を感じる。このまま瞼を下ろせば永眠してしまいそうなほどに温かく、気持ちの良い空間だった。

 周囲一帯は淡い桃色で埋め尽くされ、鼻をくすぐる香りはこの世のものとは思えないほどだった。

 ああ、このままずっとこうしていられたらどれだけ幸せなのだろうか。

 いっそこのままこうしているのもアリかもしれない。どういった経緯でここにやってきたのかは定かでないが、確実にロアナプラよりも住み心地はいいだろう。死の危険性だって無いに等しい。

 しかしなんだ、ここは無重力空間か何かなのだろうか。やけに身体が軽い。自分のものではないみたいだ。上に飛ぶのも左右に転がるのも後方にバク転するのも自由自在だった。俺バク転とかできないのに。

 地面も何だか柔らかい。思い切り足を踏み込むと穴が空いてしまうほどだ。雲みたいだとなんとなく思う。それが面白くて、何度か地面に腕を突き立ててみた。その結果突き立てた数だけの穴が周囲に形成される。

 こんなに穴だらけにしやがって、と雲のような地面の立場になって言ってみる。まだ酒が回っているのか、少しばかり行動がアホっぽくなっているみたいだ。

 

 と、唐突に前方の空間が歪んだ。

 空気が形を作っていき、やがて目の前に現れたのは俺が尊敬してやまないあの人物。

 

 次元大介だった。

 

 うわちょっとやばい俺鼻血とか出てないだろうな。まさかこんなところであの次元に会えるなんて。彼はいつもの服装のまま、顎鬚を揺らしながら笑っていた。

 どうして彼がここにいるのだとか、漫画のキャラクターだとかどうでもいい。今こうして目の前に次元がいる。その事実だけが俺を突き動かしていた。

 次元大介と言えば、俺は彼の言った台詞の中で気に入っているものがあるのだ。その言葉を聞いたとき、自動小銃などにも恐れを見せない彼の真髄が見えたような気がした。

 

『銃ってのはな、撃った数じゃねえんだよ』

 

 渋すぎる。これぞ男というやつだ。思わず声にして言いたくなってしまう台詞である。

 この際だ。彼に銃のレクチャーをしてもらおうじゃないか。彼の銃さばきに憧れてリボルバーを選んだ俺である。偉大な大先輩を前に緊張しているのを自覚しつつ、彼に近づいて教えを乞う。

 

 俺のお願いに、彼はすんなりと首を縦に振ってくれた。

 愛銃を懐から取り出し、構え方から丁寧に教えてくれる。

 成程、簡単に構えているように見えて、実は銃口の向け方や視線に幾つものフェイクを混ぜているのか。その上での早撃ち。しかもリロードも早い。これは相手にしてみたら地獄だろう。正確無比な一撃が間断無く襲いかかってくるのだから。

 彼の教えに倣って、俺も銃を構える。視線や銃口に様々なフェイクを織り交ぜ、相手のタイミングを外したと確信してから素早く引鉄を引いた。

 ……ぶれ過ぎて遥か上空へ飛んでいってしまった。まあ、始めはこんなものだ。どんな人間でも最初から完璧にできるわけではない。こういうのは反復練習が大切なのだ。また家で練習しよう。抜いてから構えるまでの練習を散々繰り返した昔のように。

 

 ん? なんと。どうやら彼が名台詞を言ってくれるらしい。

 そういうことなら俺は是非とも生で聞きたい台詞が二つほどある。

 そう言うと、彼は俺にも銃を構えさせた。どうやら一緒に言うということらしい。彼は俺の横に立って、愛銃をゆっくりと構えた。タイミングを合わせ、一息に言う。

 

『鉛玉が食いたきゃそう言いな』

 

 お前の胃袋に直接ご馳走してやるからよ、と。渋い、そしてかっこいい。こういった言い回しに憧れるのだ。若干ながら真似したこともあるが、周囲の反応は俺の予想したものとは違って盛り上がったりはしなかった。まだまだ努力が足りないということなんだろう。精進せねばなるまい。

 ラストの台詞だ。俺はもう一度彼と呼吸を合わせる。

 

『おっさん嘗めんじゃねーぞ』

 

 言い終わると同時に発砲。一発で済ませない。右手に持つシルバーイーグルを全弾撃ち終わった瞬間、すかさず左手で懐からもう一挺のシルバーを取り出す。間断なしの超速射撃。相手はかなりの強者を想定し、いくつか躱されることを意識しつつ、決定的な一撃を撃ち込めるよう隙を作らせる。

 うん、イメージトレーニングは完璧だ。次元も納得なのか、一度頷いてからゆっくりとその姿を空気の中へと溶かしていった。ああ残念だ、まだまだ教えてもらいたいことは沢山あったのに。

 そう思いながら、俺はリボルバーをそれぞれのホルスタに収める。

 すると睡魔が急に襲いかかってきた。それに抗うことができずに瞼をおろす。俺の意識は、そのまま落ちていった――――。

 

 

 

「…………あ?」

 

 ぱちぱちと瞼を瞬かせる。

 なんだ、何か途轍もなく良い夢を見ていたような気がするんだが一向に思い出せない。いや、なんとなくリボルバーを握って何かしていたような気はするんだが、手には何も握られていない。いつもはこんなことないんだが、深酒の弊害だろうか。

 というか何で俺は普通に立ってるんだ? 立ったまま寝落ちとかカッコ悪すぎるだろう。

 なんとはなしに周囲を見渡して、目が点になる。銃弾の嵐でも過ぎ去ったのかと思うくらい、店内は散々な荒れようだった。壁や机は全面に弾痕が刻まれ、照明の一つは落下して無残に砕け散っている。

 何がどうなっているのか理解が追いつかないままに店内を見回していると、カウンター壁に寄りかかる顔見知りを発見した。ホテル・モスクワの構成員であるサハロフだ。頭部からの出血が見られるが、そう深い傷ではないようだ。一先ず俺は彼の元に近づき、現状報告をしてもらおうとした。

 

「……助かりました。礼を言わせてください。きっと私一人なら、奴らに殺されていた」

 

 が、突然礼を言われてしまった。

 ますますもって分からない。誰かここ一時間ほどの俺の記憶を返してください。

 ここでなんのこと? とか聞き返すのはどうかとも思ったので、俺はそのまま無言で小さく頷いた。ていうかいつからいたんだお前。俺が飲んでた時はいなかったよな。

 そういえばバラライカがホテル・モスクワはツーマンセルで行動していると言っていたが、そうなると彼のパートナーはどこへ行ったんだろうか。

 

「……メニショフ、すまない。俺の力が足りなかったせいで……」

 

 話の流れから推測するに、どうやらメニショフは何者かによって殺害されてしまったらしい。

 店の入口付近の血溜まりは、彼のものだったのだろう。

 空気的にサハロフに質問を投げかけられそうになかったので、俺は黙ったまま思考を巡らせる。酒がまだ体内に残っているのか少しばかり頭の回転が鈍いが、大まかな全体像は理解できそうだ。

 多分メニショフを襲ったのは今巷で問題になっている外部勢力とやらだ。俺が寝落ちしている間にソイツはこのバーにやってきて、ホテル・モスクワの構成員を殺していった。

 さっきのサハロフの言葉を察するに俺が彼を助けた風にも聞こえたが、当の本人にその記憶が全くない。なにしたんだ俺。酔拳でも使ったのか? 中国スターじゃあるまいし。

 ともかく、なんとかその外部勢力を撃退することには成功したんだろう。この場に今もソイツが留まっていたのなら、こんな悠長に考え事などしていられない。

 

「悪かったな」

 

 ホテル・モスクワが管理するバーをこんなに穴だらけにしてしまって。いずれ賠償はさせてもらうから。

 

「いえ、ウェイバーさんがいなきゃ全滅でしたよ。私も、メリッサも」

 

 ん? そこはかとなく会話が食い違っていないか。そういうことじゃないんだと口を挟もうとして、しかし奥から飛び出してきたメリーが俺の胸元に飛び込んできたことで会話が中断されてしまう。

 

「ウェイバぁぁ」

「おー、よしよし」

 

 ぐしぐしと鼻をすすりながら俺のジャケットを握り胸に顔を埋めてくる。普段はお姉さんぶっていても根っこの部分はまだ二十の女の子だ。いきなり店内でドンパチやられたらそりゃ恐怖するだろう。そこいらのチンピラたちが定期的に起こすいざこざのレベルなら彼女も笑っていられたろうが、店内の様子を見る限りそんなレベルでは済まなかったようだし。

 

「ウェイバーさん。私はこのまま大尉殿に報告へ向かいます。メリッサのことはお願いします」

 

 そう言うサハロフは自身の傷の手当も碌に行わず店を出て行った。残されたのはこの店の店主と寝起きの俺。

 なに、俺にこの子をどうしろっての。

 あ、ちょっとそんなに鼻水垂らしてお前は。もういいや陽が昇ったらクリーニング出そう。好きなだけ濡らしたまえ。

 

 

 

 8

 

 

 

 明け方の事件の後、直ぐ様ホテル・モスクワは犯人の特定を開始した。それと共に賞金も懸け周りからの情報も求める。

 ホテル・モスクワの構成員が殺された。これは由々しき事態だ。これまで二人の構成員が襲われたが、両名とも重傷を負ったもののその命は取り留めていた。だが今回は違う。メニショフは首を切断され、しかも彼の胴体は今尚発見されていない。恐らく犯人が持ち去ったのだろう。

 この事実は名ばかりの情報規制をくぐり抜け、ロアナプラの住人たちの耳にも届けられた。

 その結果。

 

「見ろよ、皆銃をぶら下げてる」

 

 陽の落ちたロアナプラ、イエローフラッグのカウンターに肩を並べるラグーン商会の一人ロックが呟いた。

 

「当然だろロック、ボスに銃を向けた挙句姉御んとこのモンに手ェ出したイカレ野郎がうろついてんだからよ」

 

 言いながらレヴィは持っていたグラスを一息に呷る。

 

「今ロアナプラはポップコーンだ。十分に火が通って破裂するタイミングを待ってんのさ」

 

 ったく、ムカつくぜ。そう付け加えてレヴィはカウンターを叩く。

 

「おいレヴィ! 直ったばっかの店ぶっ壊すような真似すんじゃねえよ!」

「うっせーなバオ。どうせボスの金で直してんだろーが。ちったあボスに感謝しやがれ」

「建直しの理由の八割以上がアイツだろうが! んで二割はてめえだレヴィ!」

 

 バオの大声もレヴィは聞いちゃいないのか、眉間に皺を寄せたままバカルディの入ったボトルを手に取る。

 明け方の事件を聞いてから、どうも彼女の機嫌が悪い。ロックはなんとなくその理由を察しながらも、決して触れないようにしていた。

 が、そんな彼の気遣いを無視した筋肉野郎が会話に割り込んでくる。

 

「そうイラつくなレヴィ」

「イラついちゃいねーよダッチ」

「ウェイバーが絡むと途端にこれだ」

 

 はあ、と溜息を一つ。横に座るベニーは苦笑いである。

 

「どんな奴だったか教えてくれたっていいじゃねえか……。覚えてねえなんて嘘言わずに」

 

 事件の話を聞いたレヴィは直ぐ様ウェイバーの事務所へと駆けつけた。事のあらましが本当なのかを確認するためと、銃口を向けたイカレ野郎を始末するためだ。

 しかし彼の口からは情報を漏らさないようにするためなのか覚えていないの一点張り。三年も一緒に住んでいたレヴィは、こうなったウェイバーに口を割らせるのは不可能だと判断してすごすごと帰ったのだ。

 自身を危険に巻き込みたくなかったのかもしれない。昔から自分の引いた線の内側に居ることを許した人間にはとことん甘いウェイバーである。今回の件が危険だと判断し、遠ざけるために嘘を付いた可能性が高い。

 でも話して欲しかった。もう守られるだけの女じゃないと、肩を並べられる女だと判断し、話して欲しかった。

 

「……結局、アタシはまだボスに守られっぱなしだ」

 

 ポツリと零れた彼女の言葉は、騒々しい酒場の空気に溶けて消えていった。

 

 

 

 9

 

 

 

「……酷い失態だ」

 

 ホテル・モスクワのタイ支部の拠点となる建物の一室。革張りのソファに腰掛けるバラライカは、手に持った葉巻を握り潰してそう言った。

 

「二人一組で行動させておけば問題ないと思っていた。私の兵がやられるはずがないと。……思い込んでいた」

「サハロフたちは虚を突かれたのです大尉殿。まさか刺客が子供だったとは」

 

 ボリスの言葉に、彼女は小さく首を横に振った。

 

「バンジシールを思い出せ。敵の大半は子供だった」

「……そうでした」

「ウェイバーにはまた一つ借りを作ってしまったな。サハロフの命を救ってくれたことは大きすぎる借りだ」

「メニショフを手にかけた子供、彼に限って油断などしていなかったでしょう」

「アイツが本当に油断しているところなど、私は見たことがない」

 

 額に手を添え、一度瞳を閉じる。

 

「同志軍曹、これ以上の戦力低下は好ましくない。捜索班はモスクワ直下の連中で組織しろ」

「は」

「……あの共同墓地から戦死はこれで七名だ。何人死んでも慣れはせん」

「あの日の誓いより、戦死は覚悟の上であります」

「もう殺らせんよ軍曹。同志メニショフの命はガキ共の血で償わせてもらう。――――憎悪を込めて殺してやる」

 

 

 

 10

 

 

 

 酷く不快な臭いが室内に充満していた。

 部屋の中にはこれといった家具はない。精々がベッドの机、そして一脚の椅子。

 その椅子に縛られた、首から上のない遺体があった。身体のあちこちに太い釘が刺され、さながら人間ピンボールのようになっている。

 遺体から流れた血が椅子を伝い、木製の床に真っ赤な血溜まりを作っていく。

 

「ねえ姉様。あのおじさん強かったね」

「そうね。まさかBARを壊されるとは思わなかったわ。予備があって良かった」

「あれだけの早撃ち。どうやったら出来るようになるのかな」

「あら、気になるの兄様」

「少しだけ」

 

 くすくすと二人は嗤う。

 真っ赤に染まった遺体の太腿に二人して寄りかかり、まるで恋人のように近い距離で会話は続く。

 

「イワンをもう一人殺せなかったのは残念だけど、あのおじさんを殺せば問題ないね」

「そうね兄様。あのおじさんは私たちの命何個分になってくれるかしら」

「そういえば姉様、あいつら( ・・・・)はどうしようか」

「そうね。手始めにあいつらからにしましょうか」

 

 少年の問いかけに、少女は微笑む。

 

 

 

 

「ボルシチとスシはメインディッシュ。はじめはマカロニから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 
 ウェイバーは日本人だと特定されておらず、周囲からは東洋人という認識ですが東洋人=アジア=寿司という屁理屈によりこうなってます。

 ごめんよロック。君の出番はこれで終わりなんだ……。


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010 開戦の狼煙

11

 

 

 

「クソッ、どうなってやがる!?」

 

 ダンッ、と自らのデスクを叩き、ヴェロッキオはその額に青筋を浮かべていた。余りにも激しい彼の怒りに、同じ室内にいた部下の顔色は見る見るうちに悪くなっていく。ここで余計な口を叩こうものなら容赦ない制裁が待っていると分かっている手前、返答することすら儘ならない状況である。

 ヴェロッキオの怒りの原因は、彼がこの街に放った二人の殺し屋にあった。

 ヘンゼルとグレーテル。童話の名を冠する二人の子供である。だが子供だからと侮ってはならない。幼少の頃から殺しを仕込まれた彼等に美学はなく、拘りもない。故にどこまでも純粋に、単純に、二人は殺人という行為に没頭する。

 二人をロアナプラに放って約五日。既に犠牲者は十に達しようとしている。加えて言えば、その犠牲となった人間はそこいらのチンピラではない。黄金夜会直系の構成員、生粋の武闘派たちですらその手にかかっているのだ。

 そしてヴェロッキオが憤慨しているのは、正にこのことだった。

 

「俺はロシア人(イワン )東洋人( アジアン)を一人ずつ始末しろと言ったんだぞ! だってのに何だこの状況は!?」

 

 ヘンゼルとグレーテルはホテル・モスクワのバラライカとウェイバーを抹殺するために秘密裏に雇った殺し屋である。

 悪徳の都で多くの利権を有する黄金夜会の一角。一等の大悪党である二人を、どうしてヴェロッキオは狙っているのか。それはとても簡単な理由で、ロアナプラでの勢力を拡大させたいが為だった。

 過去幾度とない抗争の末に、黄金夜会と呼ばれる集団は誕生した。戦力の拮抗した状態で争い続けても得るものは疲弊ぐらいのものだ。それならばいっそ手を組んで、この街で得られる利潤を分配しようと考えられた。当然本当に協力体制を敷こうとしている人間など黄金夜会のメンバーの中には誰一人としていない。彼らに揃って下されている指令はロアナプラでの地位を確立させることであり、現在のこの状況は停滞に他ならないからだ。

 しかし、だからといって一つの組織が単独で行動を起こす訳にもいかない。

 そうなれば残りのメンバーはこれを口実にその組織を袋叩きにするだろう。利益の分配率が高くなる。それだけの理由で。

 

 ヴェロッキオは焦っていた。

 コーサ・ノストラの本部に居る大幹部から、一刻も早くロアナプラを落とせと圧力をかけられていたからだ。本部でのうのうと高級なソファに腰を下ろす大幹部どもは、今のロアナプラの状況というものを全くもって理解していなかったのだ。

 下手に行動を起こすことは出来ない。けれど本部からの命令に背くわけにもいかない。

 そして板挟みにあうヴェロッキオは、ヘンゼルとグレーテルという双子の殺し屋を秘密裏に雇い黄金夜会の一角を切り崩すという苦渋の決断を下したのだった。

 ターゲットとして選んだのはホテル・モスクワのバラライカとウェイバー。両者ともロアナプラきっての武闘派であり、その影響力は黄金夜会の中でも頭一つ抜けていた。二人を抹殺することに成功すれば、今よりも格段にこの街で動きやすくなると考えたのだ。

 そうして裏で行動を起こしたヴェロッキオは、無事双子をこの街に招き入れるところまでは成功した。

 が、蓋を開けてみればご覧の有様。

 

「誰が部下の胴体持ち帰ってオモチャにしろと言ったんだッ!? しかも見ろ! もう(ツラ)まで割れちまってる!」

 

 乱暴にデスクに叩きつけたのは二枚の手配書。ヘンゼルとグレーテルの顔が印刷されたものだ。どこかのスナッフビデオの映像を切り取っているのか、鮮明に表情が見えるわけではないが、正体を暴かれた時点で作戦は瓦解したも同然だった。それもこれも、ヘンゼルとグレーテルがウェイバーを殺しそこね、あまつさえ目撃者のホテル・モスクワの構成員を取り逃がしたせいである。

 

「だからあれほど言ったんだ! ウェイバーには細心の注意と最高の警戒であたれと! なのにタイマン張っただと!? ふざけてんのかあの糞ガキども!!」

 

 部下からの報告を耳にしたときは唖然とするしかなかった。

 あのウェイバーに単独で挑むなどこの街の住人はおろか黄金夜会の人間ですらしない愚行である。いくら余所者とは言え、相対すればその力量くらいは感じ取れるものだろう。感じ取れなければその程度だと割り切るしかないが、理解した上で挑みかかったのだとしたらただの自殺志願者だ。

 怒りの収まらないヴェロッキオの胸中に渦巻くのは多大な憤怒とそれ以上の焦り。コーサ・ノストラの大親分はこの街のことをいたく気にかけている、それこそ本拠地であるイタリアと重要度で並ぶ程に。

 この街に来た以上、生半可な成果では本部の連中は納得しない。下手をすれば次の最高幹部会で海の藻屑にされるかもしれない。

 それを回避するためには、既に瓦解したも同然な作戦を遂行しなくてはならない。ここまで来た以上、引くという選択肢は存在しなかった。

 と、ここで部下の一人がヴェロッキオの間近にまでやって来た。何かに怯えるような素振りを見せながらも、入口付近に視線を向けて口を開く。

 

「あの、ボス……」

「ああ!? なんだこんな時に!」

「いえ、あの……双子が、ここに」

「……なんだと?」

 

 部下の言葉を受けて怪訝そうに向ける視線の先に、二人は立っていた。子供らしい柔らかな笑みを携えて立つ二人を見て、ヴェロッキオが苛立たしげにソファから立ち上がる。

 

「ここには出入りをするなと言った筈だぞ、一体何しにきやがった」

「ふふ、二人で話し合って決めたのよ」

「そう、ボルシチとスシはメインディッシュって」

「あぁ?」

 

 口調を荒げるヴェロッキオを前にして、二人は笑みを浮かべたまま言った。

 

「最初はマカロニからって」

 

 それが合図となった。

 ヴェロッキオファミリーのオフィス内で、凄惨な殺戮の幕が開く。

 

 

 

 12

 

 

 

「……成程な。これでハッキリした」

「ヘンゼルとグレーテル、ですか」

 

 ホテル・モスクワの所有する施設内、一台のブラウン管テレビを見つめているのはバラライカとボリス。テレビに映し出されているのは一本の殺人(スナッフ )ビデオ。二人の幼い子供が鈍器や銃器、鋭利な刃物を手にし、前方に並べられた人間たちを殺していくという内容のものだ。時折背後に映る撮影者やスタッフらしき男たちは、子供の凶行を楽しそうに眺め口元を歪めている。

 

「大尉殿の勘が当たりましたな」

「違和感は始めから感じていた。奴らは生粋の殺し屋ではない、誰かが興味本位に仕込んだものだろう」

 

 バラライカの予想はずばり的中していた。サハロフから伝えられた情報を元に人相を特定、その話し言葉から出身地を割り出した。裏の界隈で流通しているビデオを隅々までチェックしていった結果、双子がルーマニアの出身であり、殺人ビデオをきっかけとして殺戮人形へと変貌した事実を突き止めたのだ。

 

「なんとも皮肉な話だ。人口増加のための政策が、人殺しを生み出すことになるとはな」

「チャウシェスクの落し子、ですか」

 

 ルーマニアで定められた法律の中に、妊娠した女性が中絶することを禁止するという項目が追加された。国の人口を増加させるために政府が打ち出したのだ。この政策の結果、確かに国の人口は増加した。だが今度は育児放棄によって孤児院に引き取られる子供たちが急増する。この子供たちのことを、チャウシェスクの落し子と言った。

 

「それだけガキが増えれば施設の運営なんてのはすぐに破綻する。そうした施設から闇へと売られていったガキ、それが双子の正体だ」

 

 葉巻を咥え、彼女は小さく息を吐く。

 

「奴らは自分が生き残るために必死になって変態どもが喜ぶ殺し方を覚えた。……そして、いつしか全てを受け入れた」

「こちら側、ですな」

「そうだ。青空を拝むことを諦めて漆黒の闇へと堕ちていった。ビデオの元締めの下でピエロになることを選んだのよ」

「……これからどう動くおつもりで」

「張に連絡しろ。奴にもこの情報を与えておく」

 

 

 

 

 

 

 

『成程な、チャウシェスクの落し子か。酷い話もあったもんだ』

「どの口が言ってるのかしらね張」

『そう噛み付くな。俺はなバラライカ、どうも道徳や正義ってのは肌に合わん。そのガキどもに同情する気なんて更々無い』

 

 電話越しでそう言う張は、どことなく寂しそうに笑っているようだった。

 

『相手がどこの誰だろうと関係ない。俺やお前んとこのモンに手を出した。理由はそれだけで十分だ』

「そうね、私たちに正義なんて必要無いわ。いるのは利益と信頼だけ」

『それで? 販売元は割れてるんだろう?』

「ええ、管理していたのはイタリアン・マフィア。ここまで言えば後は分かるわよね」

『確かに、身内から死人が出りゃ立派なアリバイだ』

「イタ公には奴らの躾が出来なかった。その煽りを食らったのよ」

 

 イタリアン・マフィア、コーサ・ノストラ。この組織の幹部であるヴェロッキオが今回双子をこの街に放った張本人だ。大方ロアナプラでの権利拡大を狙っているのだろう。順調に事が運んでいないのは純粋にヴェロッキオの力不足だとバラライカは嘲笑した。

 

『理由はどうであれ、けじめは付けさせてもらうさ。さて、そろそろ本題といこう。俺に何を望んでいるんだバラライカ』

「そうね。……そろそろ街の色を変えるべきじゃないかしら」

『昔のように戦争するつもりか?』

「まさか。あのレベルの戦争を引き起こすのはデメリットしかないわ。ホテル・モスクワと三合会、ウェイバー。三つ巴なんて冗談じゃない」

『……俺だって土手っ腹に鉛玉食らうのはもうたくさんだ』

「だからこれは戦争じゃないわ。正当な理由による粛清よ」

『連絡会の意味が無くなるな。ウェイバーには何て説明するんだ』

「必要無いんじゃない? そういう場面(・・・・・・ )になれば放っといたって出てくるわよ。そういう男ですもの」

 

 それもそうか、と受話器越しに張は笑った。

 ウェイバーという男はいつも変わらない。自身が守るべきだと判断した人間は何があっても守りきる。これだけ聞けば到底この街の人間とは思えない善人だ。

 しかし忘れてはならない。彼はこの街でも一等の悪党。ウェイバーという人間は守るべき人間は守りきる。その逆もまた然りなのだ。殺すべきだと判断した人間に、一切の容赦はしない。

 今回ヘンゼルとグレーテルに襲撃されたにも関わらず動きを見せていないということは、恐らくは彼の中で双子は殺すべき人間ではないと判断されたのだろう。そこにどういった基準があるのかは定かではないが、ウェイバーとはそういう男だ。

 だが、例えウェイバーはそうであってもホテル・モスクワにとっては同胞の仇。死をもって償わせる他に道はない。

 

「後は貴方次第。組むか、忘れるか」

『……まぁ、本部に申し奉るまでもないか。剛力のみが俺たちの流儀にして唯一の戒律だ』

「久しぶりにガンマン姿が見られるかしら?」

『鉄火場に立つのは嫌いじゃないが、生憎とウェイバーみたいなのを期待されても困るな。俺は人間を辞めたつもりはないんでね』

「ほんと、どの口が言ってるのかしら」

『行動を開始するときは連絡をくれ。同時に始めるよ』

 

 そう言って通話を終える。受話器を置いたバラライカは、そのまま席を立ち別室へと向かう。

 これで三合会はこちら側となった。共闘態勢である。黄金夜会の筆頭であるホテル・モスクワと三合会が手を組み動く。ロアナプラで特大の花火が打ち上がること必至だった。

 

「軍曹、同志戦友たちに連絡しろ。一八〇五より準備待機。想定、教則217ケース5だ」

「街区支配戦域における 要人略取(スナッチミッション )ですか」

「そうだ。混乱が予想される、周囲区画には管轄の部下を配置しておけ。この街上げてのカーニバルだ」

「賑やかなのはいいことです大尉殿」

「ああ、……行くぞ」

 

 

 

 13

 

 

 

 ――――午後六時十五分。

 ヴェロッキオ・ファミリーの所有するオフィスの周囲には、黒塗りの高級車が何台も並べられていた。それらの全てが三合会が所有する車であり、既に建物の全方位は張の部下によって包囲されている。あとは彼の指示に従い、内部に突入するだけとなっていた。

 入口の正面に停車された車の後部座席から、張がゆっくりと外に出る。確か三階がヴェロッキオの部屋だったと記憶しているが、その部屋には今も明かりが点いていた。どうやら内部に人がいることは確実らしい。

 周囲の部下たちがそれぞれの武器を手に入口に視線を向けている中、張だけはサングラス越しにヴェロッキオの部屋を見ていた。眼を細め、何かを見極めようとしているようにも見える。

 

「張大哥。ビルの周りは完全に固めました。あとは大哥が号令を」

 

 黒服の部下にそう言われるも、張は上方から眼を逸らさない。

 そしてそのまま、彼は隣の部下に呟く。

 

「周、頭を低くしといたほうがいいぞ」

 

 その言葉の意味が分からなかった部下だったが、次の瞬間には全てを理解する。

 バリンッ! と窓ガラスが砕け散る音と共に、男が車の屋根に落下してきたのだ。肩から腹にかけて斜めに切り裂かれ息絶えている男はヴェロッキオ・ファミリーの一人だろう。そんな男をちらりと見て、張は親指で頭の横を押さえた。

 

「……こりゃ仕事は人狩り(マンハント)に変更だな」

 

 すぐにホテル・モスクワに連絡をするよう指示を出し、懐から愛銃を引き抜く。

 とうとう親にまで噛み付いてしまったのだろう。ヴェロッキオごときでは、あの双子を飼い慣らすことなど出来はしなかったのだ。

 

「ったく、ついてないな」

 

 

 

 ――――午後六時十八分。

 ホテル・モスクワの所有する建物の一区画。小さな戦争が起こせそうなほどの武器弾薬が貯蔵された部屋の中心に、バラライカと彼女直属の部下たちの姿はあった。部下の全員が同じ軍服に身を包み、手に銃を携えている。

 

「同志諸君。ヴェロッキオ・ファミリーが襲撃を受けた。だが予定に変更はない、現刻より状況を開始する」

 

 三合会からの連絡を受けても、彼女らの行動は止まらない。

 

「勇敢なる同志諸君。我らにとってメニショフ伍長はかけがえのない戦友だった」

 

 銃を持つ部下の中には、現場に居たサハロフの姿もある。彼もまた他の部下と同様に口を真一文字に結び、バラライカの言葉に耳を傾けていた。

 

「鎮魂の灯明は我々こそが灯すべきもの。亡き戦友の魂で、我らの銃は復讐の女神となる」

 

 バラライカの表情は険しい。亡き戦友メニショフを思ってか、またはこれから起こるであろう粛清を思ってか。隣に立つボリスは、ただ彼女を見たまま動かない。

 一度言葉を切ったバラライカは、最後に部下たちに告げる。

 

「カラシニコフの裁きのもと、5.45ミリ弾で奴らの(あぎと )を食いちぎれ!!」

 

 

 

 ――――午後六時二十分。

 ヴェロッキオ・ファミリーのビルの前は戦場と化していた。

 並べられた黒塗りのセダンは何台もひっくり返され、蜂の巣にされて爆発炎上していく。辺りの地面は多くの薬莢と血溜まりで彩られていた。

 BARによる掃射をセダンの陰に身を潜めて避ける張は、件の双子が一人しかいないことに気が付いていた。

 

(どこだ……? もう一人は一体どこにいる)

 

 両手にベレッタM76のカスタムモデル、天帝双龍(ティンダイションロン)を構えたまま張は周囲を見渡す。

 このビルの周囲は三合会の部下たちによって完全に包囲されている。襲撃が起こっているのはこの入口前だけなのを考えると、もう一人はまだ建物内部に残っている可能性が高いのではないだろうか。

 だが建物内部には既に多数の部下を向かわせている。対象と接触すれば直ぐに連絡が入るはずだ。その連絡もないことを考えると、何処にいるのか見当が付かなくなってしまう。

 

「あはは! おじさんやるぅ!」

 

 BARを乱射する少女が楽しそうに嗤う。

 この時点で部下を何名か殺られているが、今はそれを気にしている場合ではないようだった。セダンの陰から飛び出し、二挺を少女へと向けて容赦なく発砲する。そのまま近くにあったセダンに転がり込むようにして飛び込み、鉛の雨を回避する。先程からこれの繰り返しだ。

 

「この前のおじさんとどっちが強いかしら。殺してみれば分かるでしょうね」

 

 でも残念、と少女は張のほうを見て。

 

「今はおじさんと遊んでいられないの。時間稼ぎはもう終わったみたいだから」

 

 直後、ビルの三階が爆発した。

 破壊された窓ガラスが降り注ぐ。炎が内側からビルを飲み込んでいく。

 爆発の際に一瞬眼を閉じていた張が再び眼を開くと、そこに少女の姿は無かった。今の爆発で出来た一瞬の隙に乗じて移動したのだろう。恐らくはビルを爆破したもう一人と共に。

 パラパラと降るガラス片を手で払いながら、張はセダンにもたれ掛かる。

 

「ああ、……まったくほっとする」

 

 

 

 14

 

 

 

「どうやら始まったみてえだな」

「なにがだいダッチ」

「ホテル・モスクワの大捕物だよ」

 

 缶ビール片手に窓から外を眺めるダッチの隣にロックがやって来る。

 既に太陽は西の彼方に沈み、深い青の夜空が広がっている。普段であればイエローフラッグでアルコールを呷っているだろう時間だが、ダッチたちは自分たちのオフィスの中に居た。

 

「今日ばかりは無闇矢鱈に出歩くわけにもいかねえ。風穴開けられたくねえからな」

 

 ホテル・モスクワが大々的に動く。

 その報せは瞬く間にロアナプラを駆け巡った。故に殆どの人間は夜間外出を控え、ダッチたちのように閉じこもっているのだ。もしもふらふらと通りを歩いていれば、行く手を遮る全てを排除するバラライカの手によって肉塊へと変えられてしまうかもしれない。まあ、懸賞金目当ての自殺志願者たちは話が別だが。

 

遊撃隊(ヴィソトニキ)を出すなんて只事じゃねえ。昨日の朝のことにそうとうお冠みてえだ」

「遊撃隊?」

「ロックが知らねぇのも当然か。バラライカの子飼いの部下のことを纏めてそう呼ぶのさ。ホテル・モスクワ以前からの連中のことだ」

「大尉って呼ばれてるだろ、彼女」

 

 ロックとダッチの会話に、冷蔵庫から取り出した缶ビールのプルタブを開けながらベニーが加わる。

 

空挺( パラ)だったか 特殊部隊(スペシャルフォース)だったか、その手の部隊にいたらしい。直系の部下たちは第三次大戦に臨めるだけの戦場と技量を積んだ百戦錬磨のアフガン帰還兵」

「他のマフィアと違うのはそこだな。とにかく統率が取れて容赦がねえ。バラライカを頭とした一個の殺戮機械だ」

 

 ダッチやベニーの言葉を聞く限り、とても勝てる気がしない。

 それに加えウェイバーまで殺し屋はターゲットにしていると聞く。正気の沙汰とは思えなかった。

 

「ウェイバーさんも動くんだろうか」

「さあな。アイツの動きは誰にも予測できねえ、それでいていつも大事なとこには必ず現れやがる」

 

 ダッチは残っていたビールを飲み干して、新たなビールを冷蔵庫に取りに向かう。

 

「バラライカにウェイバー。はっきり言ってこの街で一番敵対しちゃいけねえ二人だ。通り魔たちの気が知れねえ」

「バラライカさんはともかく、ウェイバーさんは確かに強いけど、何も後ろ盾はないだろ? 殺すことは難しいかもしれないけど、バラライカさんよりは難易度が下がるんじゃないか?」

「お前は何も分かってねえなロック」

 

 ロックの発言に、ダッチはすかさずそう返した。

 

「何も後ろ盾がない状態であの地位にいるアイツが如何にバケモンか」

「しょうがないよダッチ。ロックはウェイバーの昔のことを知らないんだから」

「昔のこと?」

 

 ベニーが切り出した話題に反応すると、その続きはダッチの口から紡がれた。

 

「アイツはな、昔ホテル・モスクワと三合会を敵に回して生き残った男だ。当然、単独でな」

「………………」

 

 唖然とするほか無かった。

 本当に同じ人間なのかと疑いたくなってくる。ホテル・モスクワと三合会、この二つがどういった組織なのかくらいはここに来て日の浅いロックでも理解している。下手に盾突けば汚い路地裏に転がることになるだろう。そんな組織を纏めて相手にして生還する彼は、どんなサイボーグなんだとツッコミたくなる。

 

「ま、ウェイバーに関しちゃ深く考えるだけ無駄だ。ウェイバーだから、そう思ってねえとついていけねえ」

「だね。前も視界塞がれた状態で敵十人の眉間に正確に撃ち込んだりしていたし」

「たった一人のくせに戦力過多って言われてるくらいだからな」

 

 ダッチとベニーはもうウェイバーの異常性に慣れてしまっているのか、いかにも軽い口ぶりだった。

 いつかは自身もこういう風に考えるようになってしまうのだろうかと思うと、冷や汗が止まらなくなる。

 

「……そういやレヴィはどうした」

「そういえば。さっきまで部屋にいたと思うけど」

 

 ウェイバーの話題を出せば間違いなく会話に参加してきた女ガンマンの姿が見えない。それに最初に気がついたのはダッチだった。

 部屋の中を見渡しても彼女の姿はなく、また寝室にも居なかった。今日のような日に外をほっつき歩いているのだろうか、まさか飲みに行っているわけではないだろう。

 

「……オイオイ、なんか嫌な予感がするぞ」

「奇遇だねダッチ。僕もだよ」

 

 それにはロックも全面同意だった。

 基本的に自分の欲望に忠実なレヴィだが、この街のルールを破るような真似はしない。姉御と呼ぶバラライカが外に出ることを控えるように言えば、最終的には従うくらいの理性は持ち合わせている。

 もしもそれを破るようなことがあれば、まず間違いなくウェイバーが絡んでいると言える。

 

「まさか、ウェイバーさんのところに……?」

 

 

 

 15

 

 

 

 静まり返る夜のロアナプラ。露店の殆どは早々に店をしまい、酒場にも客の姿が無い。

 昨日イエローフラッグでレヴィが言っていた『今のロアナプラはポップコーンだ』という発言は正しい。今正に至るところで破裂が始まっているのだ。ヴェロッキオ・ファミリーのビルを皮切りに、それは各地へ伝播していく。

 そして、此処にも。

 

「……こんばんは、お姉さん」

 

 二階建ての白い建物を前に少女、グレーテルは微笑む。

 この建物には当初からターゲットになっていた男、ウェイバーが居る。依頼主のヴェロッキオを殺してしまった今そんな依頼は無効になってしまうのかもしれないが、そんなことは彼女にはどうでも良かった。ただ殺したい。そんな欲求に素直に従い、グレーテルは此処にいるのである。

 そんなある意味で純粋な少女の前に立ちはだかる、一人のガンマン。右手に持っていた手配書を適当に放り投げ、代わりにショルダーホルスタへと手を伸ばす。

 ソードカトラスと名付けたベレッタM92lnoxを抜き、夜よりも暗い漆黒の瞳を少女へと向けた。

 

「やぁね、そんな怖い顔をして。何か嫌なことでもあったのかしら」

「……一つだけ聞く」

 

 グレーテルの問いかけに、レヴィは犬歯を剥き出しにして。

 

「ボスを狙ってんのは、てめえだな」

「ええ、そうよ」

「……そうか」

 

 まるで悪意を感じさせない少女の言葉に、思わずレヴィは引鉄を引きそうになる。

 それを寸でのところで堪え、ひどく低い声でレヴィは告げた。

 

 

 

 

「――――楽に死ねると思うなよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 ロックさん、出番アッタネ!
 次回双子編完結です。


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011 片翼の妖精は笑う

16

 

 

 

「……寝すぎたな」

 

 ベッド代わりにしていたソファから重たい上体を起こし、左右に首を鳴らす。

 遮光カーテンも閉めずに眠りこけてしまっていたらしく、窓の外は既に暗い群青色の空が広がっていた。

 腕時計に視線を落とす。午前四時。いや、寝過ぎだろう俺。かれこれ十時間以上寝てるじゃないか。

 これだけ深い眠りになってしまったのには当然ながら理由があった。先日のカリビアン・バー襲撃時、メリーに縋られそのまま彼女の寝床で昼過ぎまで眠った俺はその足で仕事に向かい、用件を済ませると再びカリビアン・バーに舞い戻った。これは襲撃された際に破損した店内の損害額を見積もってもらい、その分を弁償するためだった。

 が、どういうわけか俺はニコニコ顔のメリーにカウンター席に座らされ、またしても酒を呷る羽目になったのだ。

 いやいや今日はそういうんじゃない、と彼女に言っても全く聞いてもらえない。どころか嬉々としてボトルを開けだす始末。店が襲撃されてまだ一日も経っていないというのに、この街の女どもはどこまで強かなのだろうか。

 そういうわけで深夜まで大量のアルコールを摂取し続けた俺は強い睡魔に襲われ、またもやメリーの部屋に一泊。俺が彼女の部屋に上がった際にやけにベッド付近が整えられていたのは一体何の意味があったのだろうか。余りの眠さに彼女に一言告げて直ぐにベッドに倒れ込んだために、その辺りまでしか部屋での記憶はない。

 陽が昇ってメリーの家を後にし、昨日と同じように依頼を一件こなし夕方に自分のオフィスへと帰ってきた。覚えているのはここまでだ。恐らくは酒と疲労のせいでここまで眠ってしまっていたんだろう。流石に二日続けての深酒は身体の方が保たなかったみたいだ。

 

「あー、酒ヤケで喉痛え」

 

 いつもとは違う喉の違和感を不快に感じつつ、洗面所で顔を洗う。

 近くにあった適当なタオルで顔を拭いていると、不意にポケットが震えた。バイブ設定にしてあった携帯だ。タオルを脱衣カゴに放り投げて、携帯を耳に押し当てる。

 

「もしもし」

『やっと繋がったか、まさか寝てたんじゃないだろうな』

「だったら何だよ」

『いや、一先ず連絡が付いて良かった。彼女には放っておけと言われたが、やはりお前の耳にも入れておこうと思ってな』

 

 声の主は三合会タイ支部統括、張維新。

 正直言ってコイツが俺に連絡を寄越すときは決まって厄介事を引っさげているので、非常に嫌な予感がしてならない。

 そんな俺の内心を知ってか知らずか、張は平然と爆弾を投下してきた。

 

『バラライカが遊撃隊を率いて人狩りに出た』

「……は?」

『今から十時間ほど前にヴェロッキオ・ファミリーが襲撃を受けてな。奴らのオフィスは壊滅、ヴェロッキオも三枚に卸されてたよ。お前なら既に勘づいてるだろうが一応言っておけば、今回の一件の元締めはイタリアン・マフィアだった』

 

 魚かよ、というツッコミはしない。

 

『バラライカは直属の部下を殺されたことにいたくご立腹だ。三合会はホテル・モスクワと共同歩調を取ることに合意したが、お前はどうするつもりだ?』

「どうするって言ってもなぁ」

 

 張の言葉から推測するに、バラライカは部下を殺したイカれた殺人者を粛清するということなのだろう。聞けば今現在のロアナプラは外もおちおち歩けない程の緊張状態らしい。ていうか俺が寝ている間にそんな大それた事になっていたとは。

 

『お前が見逃したってことは見所のある奴なんだろう。俺も一度銃を交えたがありゃきちんと育てりゃ相当の手練になる。でもな、バラライカはそれを認めない』

「…………」

 

 いや、サハロフにも言えなかったけど俺はその襲撃者とやらを一切見ていない。故に見逃すとか粛清するとか以前に誰かすら知らないのである。張やバラライカが話しているステージに、俺はまだ立ってさえいないのだ。こんな状態でどうする気だと聞かれても返答に困るのは当然だろう。

 しかし俺の無言をどう受け取ったのか、張は受話器越しに大きな溜息を吐き出した。

 

『バラライカは立ち塞がる者全てを排除すると言った。ウェイバー、例えお前でもだ』

「……そうかい」

 

 バラライカの前に立ち塞がるとか冗談じゃない。おまけに遊撃隊も動いてるって状況でだぞ、どんな死にたがりだよそりゃ。

 

『声音から察するにもう行動指針は決まってるようだが、俺から一つ言わせてもらう。……もう以前のような戦争はゴメンだぞ』

 

 そら決まっている。一晩中ここで大人しくしているさ。無闇矢鱈と首を突っ込んでトバッチリを食らうのはゴメンだ。自分の身くらい自分で守る。

 張の言う戦争は恐らく十年前の俺と張、そしてバラライカのいざこざのことを言っているんだろう

 当時の俺はロアナプラにやって来たばかりで右も左も分からず、張とバラライカはこの街で勢力を拡大しようと血気盛んだった。その頃は黄金夜会なんてシステムは存在せず、力ある人間だけが生き残る弱肉強食が最高にして唯一のルールだった。現在の黄金夜会のメンバーたちが法の通用しない無法地帯で啀み合っているとなればどうなるかは簡単に想像出来るだろう。血腥い殺し合いだ。

 正直俺はそんなものには微塵も興味が無かったので安全地帯で暮らそうと画策していたのだが、どういうわけか最前線へと送り込まれていたのを今でも覚えている。

 何か見えない力でも働いてんじゃないのかと疑うほどにあっけなく、簡単に、俺は張とバラライカの前に立ってしまったのである。

 そこから先は命の取り合い。俺は必死に自分の身を守るために走り、隠れ、時には無謀なことも行いなんとか生き延びることに成功したのだ。

 俺に言わせればあれは戦争ではなく、俺に対する一方的なリンチでしかないと思う。

 ここでいやあれはリンチだろ、と言えればいいのだが、張の声色にそういった類のものは含まれていないようだった。なので調子を合わせ、軽口でも叩くように返す。

 

「だったらそうならないようにきちんと手綱握っとけよ」

『お前のか? 馬鹿言うな、こっちの腕が千切れちまうよ』

「バラライカは今どうしてる」

『聞いた話だとサウスストリート南西の噴水広場。そこでアイツらを仕留めるようだ』

「そうか」

『……くれぐれも暴れてくれるなよ』

「愚問だな」

 

 そんな危険なことする筈ないだろう。

 バラライカの恨みを買っても困るだけだ。

 張との通話を終えて、携帯をソファに放る。

 窓の外から見えるロアナプラは、酷く閑散としていた。出歩く人間も周囲には見られない。この分だと街全体がそうなっているのかもしれないな、誰だってホテル・モスクワの怒りを買うような真似はしたくないだろう。俺だってそうなのだから。

 となれば大人しく朝が来るのを待とう。そう決めて再びソファに寝転がった時、唐突にそれは俺の耳に届いた。

 

 カツン。

 

「…………?」

 

 カツン。

 もう一度。今度は俺の聞き間違いではない。誰かがこの建物の階段を昇ってくる。

 今のこの街の状態で、こんな夜更けに? 幾ら何でもおかしい。ソファから立ち上がり、オフィスの入口をじっと見据える。

 一定の間隔で聞こえていた足音はやがて止まる。

 ――――そして、扉がゆっくりと開かれた。

 

 

 

 17

 

 

 

「愚問だな、か」

 

 通話を終えた携帯電話を懐にしまいながら、張は静かにウェイバーの言葉を繰り返していた。

 ホテル・モスクワが行動を開始して約六時間。これまで全く動きを見せないウェイバーの動向を掴むために連絡してみたが、どうやら彼は彼の方で既に行動指針を決めていたようだ。

 

「バラライカと対立するのも構わないか。アイツらしいと言えばアイツらしい」

 

 バラライカの部下であるメニショフを殺したあの双子に、どうあっても生存の道は無いだろう。彼女は彼女の身内が殺されることを決して看過しない。それ相応の復讐でもって彼らを殺すだろう。本気になった彼女と遊撃隊なら、その程度のことは片手間でもやってのける。

 一方でウェイバーはその双子を一度見逃していた。その現場で殺されたのがメニショフなのだが、ウェイバーが居合わせなければサハロフも死体として転がっていただろうと張は予想する。

 どんな理由からウェイバーが双子を見逃したのかは分からない。一見して善人にも見えるウェイバーだが、その内側は張も顔負けする真黒さである。

 ウェイバーは線引きをしている。自分が親愛を向ける人間と、それ以外の人間。彼の中にはこの二種類しか存在しない。そして彼が親愛を向ける人間なんていうのは片手の指で数えられる程しか存在しないだろう。

 彼は決して自分の内側を見せようとはしない。戦闘になった際、微塵も表情を変化させないのがその象徴だ。人の生き死にに関して、ウェイバーは驚く程ドライな思考を持っている。

 しかしそんな思考に反して、彼の引鉄は驚く程に重い。

 まず銃を抜くというシチュエーションになること自体が稀である。

 だがもしもそうなった場合、彼はほぼ例外なく相手を屠ってきた。因みにその例外なのが張とバラライカなのであるが、今回新たにこの例外に件の双子がカテゴリされることとなった。

 

 解せない。単純に張は思う。

 一度目の襲撃でウェイバーが双子を殺していれば、ここまで大きな事態にはならなかった筈だ。バラライカは復讐の矛先を失うことになるが、それでも手を下したのがウェイバーだとすれば最終的に納得するはずである。そもそもメニショフが死亡することすら未然に防げたかもしれないのだ。

 

(いや、仮定の話を幾らしたところで詮無いことか)

 

 過ぎたことを考えても意味はない。

 重要なのは、このままではウェイバーとバラライカが衝突するかもしれないということだ。

 ウェイバーは言った。愚問だ、と。それはつまり張が危惧していた事態に発展する可能性があることを示唆していた。

 

(奴は俺の質問の意味を正確に理解した上でああ返した。ということは、俺の忠告は無駄になりそうだな)

 

 わざわざバラライカの居場所まで聞いてきたのだ。彼がその場へと向かうのは容易に想像できる。

 実際のところはウェイバーは『ああ良かった。このオフィスからは遠いしトバッチリ食らうこともないだろ』と安堵の息を漏らしていたりするのだが、今の張が知る由もない。

 ともかく、ウェイバーが動くのであればどうするべきか。

 ホテル・モスクワと三合会は共同歩調を取ることに合意している。よってバラライカの邪魔をすることは出来ない。かと言って、ウェイバーと対立するような真似も張はしたくなかった。

 

「なあ彪。お前ならバラライカとウェイバー、どっちとやり合う」

「どっちも御免です」

「だよな、俺もだ」

 

 こりゃ今回は高みの見物決め込んだ方が身のためだなと呟いて、張は煙草に火を点けた。

 

 

 

 18

 

 

 

 俺の目の前に現れたのは、血濡れの少女だった。

 プラチナブロンドの銀髪と喪服のように真黒な服は所々紅く染まり、額からは出血しているようだ。

 さて、ここは病院ではないんだが、緊急なら近くの医者に駆け込んだほうがいいだろう。そんな風に考える俺だったが、くすりと嗤う少女の次の言葉に思考が止まる。

 

「また会えて嬉しいわ、おじさん。この前の続きをしましょう?」

 

 この前とは一体いつのことを言っているのか、てんで見当がつかない。

 明らかに初対面の筈だが、どうやら向こうは俺のことを知っているようで、気安い口調で言葉を紡ぐ。

 

「おじさんを殺せば、一体何人分の命になるのかしら。ああ、今からゾクゾクしちゃう」

 

 背後から姿を現したのは少女が持つには余りにも似つかないBAR。

 まさか、と思うのも束の間。少女はその銃口を俺に向けて。

 

「さぁ、私と踊りましょう?」

 

 銃弾がオフィス内で爆ぜる。

 ソファを盾に転がるように身を屈める。窓ガラスは砕け、机やソファには弾痕が次々に刻まれていく。

 事ここに至って俺はようやく理解する。バラライカの追っている殺し屋、それがこの少女だと。子供が殺し屋なんて、などとは思わない。年端も行かぬ小さな子供がアサルトライフル片手に紛争地域に送り込まれるくらいなのだ。殺人に年齢は関係ない。

 

「……はぁ、全く嫌になる」

 

 ロアナプラで過ごした十年で、殺人というものに慣れてしまった俺でも流石に子供を殺すことには思う部分もある。

 それこそレヴィを家に置いた時のように、生前の子供や孫と重ねてしまうことだって一度や二度では無かった。

 だが、そんな甘さが通用するほどこの街は優しくない。背を向ければいつ撃たれるか分からない、生と死が常に隣り合わせている場所がこのロアナプラなのだ。この街に流れ、殺人を犯している以上は目の前の少女もまた俺の敵以外になりはしない。

 ジャケットのボタンを外し、いつでも銃を抜ける状態をつくる。

 

「なぁ、お嬢ちゃん」

 

 銃撃は止まない。

 そんな中にあって、口を開く。

 

「お嬢ちゃんは、何の為に人を殺すんだ?」

 

 銃声の中で呟かれた言葉に、しかし少女は反応した。

 

「何の為に、ですって?」

「ああ、お嬢ちゃんを雇ったヴェロッキオはもう居ない。ターゲットを狙う理由なんてのはもうないだろう?」

 

 蜂の巣にされひっくり返ったソファの陰に身を潜めたまま問い掛ける。

 俺の問いに、少女はくつくつと嗤いを漏らして。

 

「おかしなことを聞くのねおじさん。そんなの決まってるわ、そうしたいからよ。他にはなぁんにもないの、そうしたいからそうするのよ」

「…………そうかい」

 

 これまでの俺の経験上、子供が殺人者になるには二通りのパターンがある。

 生まれながらの生粋の殺し屋か、大人がそうなるように仕込んだかだ。出会った中には生粋の殺し屋もいるが、子供達の大半は陽の当たらない暗い闇の底で大人たちによって殺しを仕込まれていた。

 そして今の返答を聞いて確信する。この子もまた、醜い大人たちの玩具にされ変えられた被害者であるということを。

 

「殺したいから殺すのか……」

「ええ、そうよ。だって私たちは永遠の命(ネバーダイ)なんですもの。殺した分だけ、私たちは生きることができるのよ」

「私、たち?」

「あの時の酒場にもうひとりいたでしょ? 私の兄様が」

 

 どうやら殺し屋は二人いるらしい。張め、そうならそうと教えてくれれば良かったのに。

 

「その兄様とやらは、一緒じゃないのかい」

「ターゲットは二人ですもの。二手に分かれたほうが効率的でしょう?」

「そりゃご尤も」

 

 となると兄様とやらはバラライカの方に向かったのか。場所は先程張に聞いているが、行く気は更々無い。お冠なバラライカの近くになど寄りたくはないし。

 

「さぁおじさん、かくれんぼは終わりよ。このままだとあの女も戻ってくるわ」

「あの女?」

「肩に刺青のある口が悪いお姉さん」

 

 レヴィかよ。なんであいつがこんな所をウロチョロしてるんだ。

 

「おじさんの家の前で待ち伏せしてたの。私を追ってきた人たちをそのまま彼女に押し付けたから、今頃この近くを走り回ってるんじゃないかしら」

 

 追ってきた人、というのは十中八九遊撃隊のことだろう。バラライカに立ち塞がる全てを排除せよと命令されているので、大方この少女の近くにいたレヴィまで標的にされたのか。まぁレヴィのことだから、そう簡単にくたばるとは思っていないが。

 

「不思議ね。あれだけ追いかけられたのに、この建物の中に入ったら追撃がピタリと止まったわ」

「ま、黄金夜会のメンバーのオフィスを襲撃とかしねーだろうよ」

 

 流石にその辺の常識は持ち合わせているだろう。

 いや、よく考えたら遊撃隊なら普通に入ってきそうだな。なんで侵入してこないんだ、標的が目の前にいるってのに。

 そこまで考えたところで、BARの銃弾が俺の真横を飛んでいった。盾として使っていたソファは風通しが良くなってもう使い物になりそうにない。

 室内に遮蔽物は無いに等しく、少女との距離は約五メートル。

 ……普通に、詰んでないかコレ。

 

 内心で軽く絶望するが、少女はそれさえも待ってはくれないようで。

 

「おじさんを殺したら、そうね。まずは全身を綺麗に洗って、一晩中愛でてあげる。結構顔は好みよ、それから皮膚を上から順番に剥いでいくの」

 

 顔の皮膚でマスクを作ってみようかしら、などと少女は無邪気に嗤う。内容は一ミリたりとも笑えないが。

 状況はかなり追い込まれていると言ってもいい。

 が、それを顔には出さない。一切出すことなく、俺は粗大ゴミと化したソファの後ろから立ち上がる。悠々と、さもそれが当然であるかのように、ある種尊大に振舞ってみせる。

 これが虚勢だと悟られぬよう、小さく口元を綻ばせる。

 

「おじさん舐めてると痛い目みるぞ。やるなら本気で来なお嬢ちゃん」

「前回の失敗からよおく学んだわ。全力で殺してあげる」

「そりゃ有難い」

 

 直後、俺は両手にリボルバーを握った。これまで何年もかけて練習しただけあって、銃を抜く早さに関してはこの街の中でも随一だと自負している。

 その余りの早さに眼を丸くする少女に向かって、声のトーンを一つ落として呟く。

 

「無抵抗な子供殺すのだけは、気が引けるからよ――――」

 

 

 

 19

 

 

 

「そうか。いや、今は手を出すな。ウェイバーか標的が出てくるまで待機せよ。無闇に火種を大きくすることはない」

 

 バラライカは煙草を加えながら、噴水の脇に腰掛けていた。

 腕時計に視線を落とせば午前四時半。直に夜も明けるだろう。それまでにこの件に決着をつける。彼女はその場から微動だにせず、ただその時がやってくるのを待つ。

 バラライカの座る地点から半径二百メートルの範囲に渡り、彼女の部下がそれぞれの狙撃位置で待機している。狙撃手は既に体勢を整え、いつ敵が現れても狙撃できるようスコープ越しにバラライカを収めていた。

 と、そのスコープに人影を捉える。思わず狙撃手の指にも力が篭る。が、無用な力みは作戦の失敗に繋がるとすぐに思い直し、指にかかる力を抜いた。

 現れたのは、銀髪黒服姿の少年だった。

 噴水を囲むように植えられた木々の合間から現れた少年は、ゆっくりとバラライカの元へと向かっていく。

 

「流石だねおばさん。気付いてたんだ」

「隠れる必要なんてないわよ。私は逃げも隠れもしない」

 

 少年、ヘンゼルはにこやかに微笑み、バラライカは無表情のまま煙草の煙を吐き出した。

 

「部下だって優秀なわけだ。追いかけっこしてた割には一人も殺せなかったよ」

「一つ、聞いておきたいことがあるわ」

「なあに、おばさん」

「メニショフ伍長を殺したのはどっちだ」

 

 その問いに、ヘンゼルは事も無げに答えた。

 

「僕さ。もう一人は姉様が殺そうとしたけど、あのおじさんに邪魔されちゃったからね」

「……そうか」

 

 一つ息を吐いて、バラライカは静かに瞼を下ろす。

 それの意味が分からないまま、ヘンゼルはまた一歩彼女へと近付く。

 

「さあ、どうしようかおばさん。折角だし何かお話でもする? 僕が殺したあの男の話とか」

「…………」

「普通なら死んでるところだけど、あの男は随分もってたね。ゆっくりと首に斧を入れていったんだ。喉が切れて血のあぶくを吹きながら最後まで叫んでたよ。『大尉! 大尉!』って」

「……ふうん、そう」

 

 その反応が意外だったのか、ヘンゼルはきょとんとした表情を浮かべる。

 

「冷たいんだね、おばさん」

 

 言って、背後にしまっていたらしい戦斧を取り出し真横に振るう。

 

「でもね、おばさんもじきあの男のようになるよ。時間が余り無いのが残念だけど」

 

 微笑を浮かべたままのヘンゼルに対し、バラライカは表情を崩すことなく淡々と告げる。

 

「本当に残念だわ。坊やには悪いけど、貴方、ここでお終いなのよ」

 

 脚を組替え、平坦な声で言う。

 対し、ヘンゼルは意味が分からないとでも言いたげな表情だ。

 

「でもその前においたのことは謝ってもらわないと。もう一人のせいでウェイバーに大きな借りを作ることにもなったし、坊やから纏めていただこうかしら」

 

 真っ直ぐにヘンゼルを見つめたまま、バラライカは続けた。

 

「ねえ坊や。取り敢えず、そこに跪きなさいな」

「……そんなこと言って――――」

「跪け」

 

 直後。数百メートル離れた建物の屋上から放たれた一発の弾丸が、正確にヘンゼルの右膝を撃ち抜いた。

 突然の銃撃に理解が追いつかないまま、力を失った右脚は縺れ、支えを失ったヘンゼルは地べたに這い蹲るように頭を垂れる。

 

「それでいい」

 

 新しい煙草を咥えたバラライカに、ヘンゼルは右手に握っていた戦斧を大きく振りかざす。

 が、その腕もまた狙撃によって吹き飛ばされる。ガラン、と音を立てて近くの地面に落下する斧と、それに付着するかのような右手首。少年の右半身は、完全にその機能を失いつつあった。

 

「おしまいなんだよ、坊や」

 

 右手と右脚を潰された痛みからか、ヘンゼルはバラライカを見ようとしない。

 それをさして気にもせず、彼女は言葉を続けた。

 

「もう少し理性が働けば気付いたはずだ。自分が餌場に飛び込んだこと、盾突く相手を間違えたことに」

 

 出血は止まらない。このまま放っておけば間違いなく失血死するだろう。濃い血溜まりが少年を中心に広がっていく。

 

「始まりは強制的に仕込まれたのかもしれん。だがな、その場所(・・・・)に居ることを受け入れた人間に、与える慈悲など有りはしない。結局、お前はどうしようもなく壊れたクソガキのままここで死ぬんだよ」

「……うふ、うふふ」

 

 唐突に嗤いを漏らすヘンゼルに、バラライカは僅かに眉を顰める。

 

「おばさん、おかしいや。何言ってるの? 僕は死なないよ。死なないんだ」

 

 その嗤いは徐々に大きくなっていき、少年は血に塗れた顔を上げる。

 

「こんなにも人を殺してきたんだ。いっぱいいっぱい殺してきてる」

「…………」

「僕らはそれだけ生きることができるんだ。命を、命を増やせるの。だって僕らは永遠の命、永遠なんだ」

「それがお前の宗教か。素晴らしい考え方だ」

 

 煙を燻らせ、彼女はヘンゼルを見下ろした。

 

「だが正解は歌にもあるとおり、『永遠に生きる者なし(ノーワン・リヴズ・フォーエバー)』。そういうことだ」

 

 さて、とバラライカは腰掛けていた噴水の脇からゆっくりと立ち上がる。

 コツ、コツとヒールを鳴らし、ヘンゼルの目の前にまで近付く。

 

「私はお前の死を同志への手向けとする。故に殺し方には拘らない。このままお前が死ぬのをただ眺めるのもいいだろう」

 

 メニショフを殺したこの少年を生かしておくなどバラライカは考えていない。そんな微温い考えなら、遊撃隊を引っ張り出したりはしないのだから。

 

「だが、そうすることであの男が動くのも困るのでな。早々に事を切り上げさせてもらおう」

 

 言ってバラライカは懐からマシンピストルを取り出し、その銃口をヘンゼルの額に向けた。

 

「……ん、……っく、うえぇ……」

「泣くな、この馬鹿もんが」

 

 吹き抜ける風が周囲の木々を撫ぜる中、一発の銃弾は少年の命を刈取った。

 

 夜が明ける。

 東の空が白み、地平線の彼方で陽の光が見え始めていた。

 しばしその場に立っていたバラライカは、無線を取って連絡を入れた。

 

「軍曹、こちらは片が付いた。三合会に連絡を」

『了解。ですが、肝が冷えますよ大尉。引き金に指がかかりっぱなしだ』

「すまん。私の我儘に付き合わせてしまったな。片割れのほうはどうだ」

『依然動きはありません。二階の窓ガラスが割れているので交戦しているのだとは思いますが、数分前から銃声が途絶えたそうです』

「引き続き監視を続けろ。片割れだけが出てくるようなら即座に殺せ」

『了解、大尉はどうしますか』

「護衛を付けて事務所に戻る」

 

 無線を切り、眼下に横たわる骸に視線を移す。

 息絶えた少年の亡骸を見つめたまま、バラライカはポツリと呟く。

 

「……全く、因果な世界だよ」

 

 

 

 20

 

 

 

 ウェイバーが所有するオフィス内は、銃撃によって無残な姿に変貌していた。壁や窓ガラスは砕け、デスクとソファ、書類棚なんかも全て蜂の巣にされている。

 だが、そんな室内にあって一人、一切の傷を負っていない人間がいた。シルバーイーグルを両手に握るウェイバーである。彼の皮膚に銃創はなく、衣服に空いた穴もない。襲撃前の姿のまま、彼はグレーテルの前に立っていた。

 一方で、少女は信じられないものを見たような表情をしていた。

 両手に握るBARの弾丸は予備のものも含めて全て吐き出し、隠し持っていたナイフも使った。だが、ウェイバーには一つの傷も付けることが出来ていなかった。

 そんな男を目の前に、グレーテルはただ呆然としていた。

 

「弾丸を弾丸で弾くなんて、そんなこと出来るものなの……?」

「やってやれないことはない。不可能なんて言葉はやろうとしない奴の逃げ口上だ」

 

 いやその理屈はおかしい、と安易につっこむことも出来なかった。

 グレーテルの持つBARは自動小銃だ。当然リボルバーとは速射性能が違う。ウェイバーの持つリボルバーの装弾数は六発。二挺合わせても十二発。対してこちらは二十発、銃口初速も秒速八百メートルを超える。弾装の交換だってこちらのほうが遥かに早く行えるだろう。

 であるにも関わらず、ウェイバーは平然とその上をいってみせた。

 まず恐るべきは正確無比な早撃ち。そしてリロードの早さだ。通常リボルバーの装填にはスピードローダーなどを使用しなければ一発ずつ弾丸を込めなくてはならない。ウェイバーはその手のものを持っていなかったらしく、手込めで装填していた。が、その速度が異常だった。一挺を打ち切れば、もう一挺で撃っている間に片手でリロードを済ませてしまうのだ。器用に親指と小指でグリップを握り、残りの指三本で。

 聞けばすごく練習したなどという答えが返って来たが、それにもどう反応すればいいのか少女には分からなかった。

 

 そしてもう一つ、グレーテルには理解できない点があった。

 

「……どうして私を狙わないの? ずっと弾丸ばかりを狙って」

「…………」

「私はどれだけ撃たれたって大丈夫よ、だって永遠の命ですもの。たくさんたくさん殺してきたもの、殺した分だけ、私たちは生きることが出来る」

「……なぁ、永遠に生きられるってのは、そんなにいいものなのかなあ」

 

 不意に呟いたウェイバーは、グレーテルの顔を見ながら。

 

「永遠に生きてたら、知らなくていい、見なくていいもんまで見ちまうことだってある。それはお嬢ちゃんにとって、決してプラスにはならないだろう」

「おかしなことを言うのねおじさん。おじさんだって、死ぬのはイヤでしょう?」

 

 くすくすと嗤うグレーテルに、ウェイバーは至って真面目に答えた。

 

「満足して死ぬってのは、悪いもんじゃない」

 

 言葉の真意を測りかねて、グレーテルは首を傾げた。

 まるで一度死んだかのような口ぶりだったためだ。

 

「お嬢ちゃんにとって殺しってのは生きるための手段なんだろう。それ以外を知らない奴に何を言ったところで殺しは止められない。自ら望んで堕ちるってのはそういうことだ」

 

 ちくり、と少女の胸の奥で何かが痛んだ。

 その正体に本人が気づかないまま、彼は話を続行する。

 

「殺すな、なんて虫の良いことは言わない。殺し屋だもんな。だからまぁ、――――先ずは俺を殺してみろよ」

 

 やれるもんならな、とウェイバーは笑った。

 意味が分からない。理解が追いつかない。目の前の男は、なんだって笑っているのだろうか。自分は彼を殺そうとしていた。今だって隙さえあれば靴底に隠した極薄のナイフで頚動脈を切ってやろうと考えている。

 なのにどうして、そんな相手に対してそんな表情を浮かべることが出来るのだろうか。

 

 チクッ、とまた少女の奥底で何かが痛む。

 グレーテルは生まれてこの方、純粋な善意というものをその身に受けたことがない。記憶の始まりは灰色の世界。そこに暖かなものなど存在しはしなかった。

 だから理解できない。ウェイバーが言う言葉の意味が。自身のことを思っての言葉だということが。

 

「殺し屋なんだろ? 俺が標的だってんなら、依頼はきちんとこなしてみせろよ」

「……もう手持ちの武器がないの」

「今じゃなくたっていい。これから先いつだって、俺の命を脅かすチャンスはあるだろうよ」

 

 その言葉に何か言い返そうとして、しかし携帯のバイブ音にそれを遮られた。

 ウェイバーは床に転がっていた携帯を拾い上げ、耳に押し当てる。

 

「もしもし。……ああ、居るが……そうか。いや、どうもその気になれなくてな、しばらく預かろうかと思ってる。……分かってるさ、あ? 借り? チャラ? よく分からんが、そういうことにしといてくれ」

 

 どうやら話が一段落ついたのか、ウェイバーは通話を終えると携帯をポケットにしまいこんだ。

 グレーテルへと視線を戻し、彼は少女へと事実だけを伝える。

 

「お嬢ちゃんのお兄さんは、死んだ」

「……そう、兄様が……」

 

 永遠の命だと謳っていた割に、グレーテルは大きな動揺を見せなかった。

 本当は知っている。分かっている。人間は永遠に生きられない。寿命で死ぬにせよ、他人に殺されるにせよ、最終的に人間は死ぬ。そんなことは分かっていた。

 だが永遠の命だと言い張らなければ、二人でそう思い込まなければ。少女たちは壊れてしまっていただろう。受け入れざるを得ない、受け入れた世界で生きていくには、心の支えとなるものが必要だった。それが永遠の命。

 殺した数だけ生きることが出来るという大義名分が存在すれば、殺すという行為に罪悪感を抱かなくて済む。自分たちが生きるためなのだから仕方がないと割り切ることができる。この世は弱肉強食、そうして世界は回っているのだと、双子は思うことに決めていたのだ。

 そうやって共に過ごしてきた唯一の肉親が死んだ。

 

「……泣いてるのか」

「え……?」

 

 言われて、グレーテルは顔を上げる。恐る恐る自らの目元に指を添えると、透明な雫が零れていることに気が付いた。

 無意識のうちに溢れ出した涙は、自覚したと同時に止めどなく流れる。グレーテル自身戸惑っている。どうして涙を流しているのか、理解できないからだ。

 それが悲しいという感情であることすら、今の少女には理解が出来ない。

 その事実に心を痛めているのか、ウェイバーは唇を噛んだ。

 

「おじさん、どうして私は泣いているのかしら」

「…………」

「分からないの。兄様が死ぬ筈ないのに、ねえ、どうしてかしら」

 

 涙の理由は分からない。

 分からないのに、体の奥底から溢れ出す謎の感情が涙となって頬を伝う。

 小さく頭を振る。涙の理由を振り払うかのように。それに合わせて揺れていた少女のウィッグがズレ、そして床に静かに落ちた。

 ウィッグを外した少女の髪の毛は肩に届く程の長さしかなく、幼さを一層強調させた。

 

「教えて、おじさん。教えてよ」

「……それは、お嬢ちゃんが悲しんでるからだ」

「悲しい?」

 

 分からない。悲しいという感情を理解出来ない。

 闇に堕ちることを受け入れてしまった少女には、そういった感情の一切が抜け落ちてしまっているようだった。

 尚も呆然とするグレーテルを、ウェイバーは膝を折って優しく抱き締めた。

 人の温もりが肌を通じて感じられる。その事が、少女を不思議と穏やかにさせた。

 

「……温かい」

 

 BARを床に落とし、空いた両手をウェイバーの背中へと回す。

 

「人間って、温かいのね」

 

 消え入りそうな声で囁かれた声は、凄惨なオフィスに溶けて消えた。

 

 

 

 21

 

 

 

「おじさん、起きて。朝よ」

「ん、んん……」

 

 ゆさゆさと身体を揺すられる感覚に、重たい瞼を持ち上げる。

 視界一杯に映し出されたのはとある少女の笑顔。

 数日前に俺を殺しにやって来た少女グレーテルである。因みに俺はグレイと呼んでいる。グレーテルって少し呼びづらいのだ。

 紆余曲折を経て俺の事務所に住まうことになった彼女であるが、どういうわけか毎朝俺を起こしにやってくる。というのも俺を殺しに来ているだけなんだが、律儀に起こしてから殺しにかかるあたり根は真面目な子なんじゃないかと思ったりもする。

 

「さあ、今日も元気に逝ってみましょうおじさん」

「字が違うんじゃないか」

 

 黒のワンピースを纏ったグレイは『そんなことないわ』と笑う。

 そんな笑顔を見て孫が出来た時のことを思い出す。レヴィの時とはまた少し違ったその感覚に、自然俺は頬が緩んでいた。

 

 バラライカと三合会が共謀した件は、グレイの兄を始末することで一応の決着を見せた。

 バラライカにしてみればグレイも殺したかったに違いないが、俺がサハロフを助けた時の借りをチャラにすることで今回は引き下がってくれた。

 そういう経緯もあって、兄を失い雇用主であるヴェロッキオ・ファミリーも壊滅状態の今グレイに行く宛などなく、俺を殺すという大義名分のもとこうして事務所に居候する形となったのだ。

 本音を言えばいつ殺されるのか気が気でなかったりするんだが。

 

 兄を失った悲しみを、グレイはまだ実感することが出来ない。

 感情というものを正しく認識することが出来ていないからだ。無理もない、幼少からこれまで血腥い暗闇に身を置いていたのだ。いきなりこれまで封じ込めていたものが表に出てくる筈もない。

 今はまだそれでいいと思う。

 いつか、少女が殺し屋からただの少女へと戻れる、そんな日が来るのであれば。

 その時は、きっと――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 これにて双子編終了です。
 原作との相違点は本文の通りです。ヘンゼルはメニショフを手にかけていたために殺され、サハロフを結果的に殺していなかったグレーテルはウェイバーの貸しもあり生存となりました。
 というわけでウェイバー宅に居候が増えました。
 次回は小話集です。




◆一方その頃明け方のレヴィさん◆

「くっそなんでアタシが遊撃隊に追い回されなきゃいけないんだーッ!!」
「大尉殿、ラグーン商会のガンマンですがどう対処しますか?」
『構わん。そのまま走らせておけ、そいつウェイバーが絡むと面倒なんだ』


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012 束の間の日常

 小話集。三本構成です。


 1.人生意気に感ず

 

 ――――とある日の夜。ロアナプラで損壊率ナンバーワンを誇る大衆酒場、イエローフラッグはこれまでにない異様な雰囲気に支配されていた。

 いつものようにジョッキやグラスを片手に大声で叫び散らすチンピラも、テーブルの上に置いてある拳銃にすぐ手が伸びてしまう短気な若者も、いつもの騒ぎっぷりが嘘のようになりを潜めてしまっている。

 店内に響くのは椅子が動く音とグラスをテーブルに置く音、そして店主のバオが動き回る音だけ。酒場とは思えない静けさに包まれている。

 チンピラどもが一様に大人しくしている原因は、カウンター席に並んで座る二人にあった。

 どういうわけか十席以上あるカウンター席にはその二人しか座っておらず、近くのテーブル席に着いていた男たちは心なしか顔色が悪い。

 カウンターに座っているのはグレーのジャケットを羽織った東洋人と、右目の上から左頬にかけて斜めに走る傷を持つ大男。

 

 ウェイバーとボリス。

 この街にある程度住む人間なら知らぬ人間はいない、特一級の危険人物たちである。

 

 そんな二人がどうしてこの酒場に居るのか。いや、百歩譲ってウェイバーだけがいるのならまだ分かる。彼は基本的に酒を飲む際はイエローフラッグかカリビアン・バーだ。この店の常連ともなれば彼が出没するのは知っているし、遭遇してしまった時の心構えも出来ている。

 だが彼の横に座る男、ボリスが此処に居るのはどう考えてもおかしい。

 彼はホテル・モスクワの幹部、バラライカの側近でありタイ支部の実質ナンバーツーだ。そんな彼がイエローフラッグで酒を飲んでいる所など、街の人間は今まで見たことがない。

 これから一体なにが起ころうとしているのか。まさかこんな所で戦争が始まったりしないだろうなと、店内のチンピラたちは気が気でない。

 ウェイバーとホテル・モスクワは黄金夜会に名を連ねるメンバーである。故においそれと対立などしないだろうが、古くからロアナプラに住んでいる輩は十年前の大抗争を知っている。街の五分の一を壊滅に追いやったあの戦争を知るからこそ、何が起きるか不安で仕方がないのだ。出来ることなら今すぐにでもこの場から離れたかった。

 

 と、そんな周囲の心配を他所に、当の本人たちは思い思いの酒を手元に話に華を咲かせていた。

 

「それにしても良かったのか? こんな大衆酒場なんかで」

「私は貴方がよく行くという酒場に行ってみたかったのですよ」

 

 ウェイバーの手元にはウォッカ、ボリスにはスコッチウィスキーが其々置かれている。

 

「悪かったな、こんな酒場でよ」

「そう睨むなよバオ。常連客の小粋なジョークだ」

「オメエ今度店ぶっ壊したら向こう三年は出禁にすっからな」

 

 修復されて間もないイエローフラッグはまだどこにも銃痕が無い。そのうち多くなっていくだろうが、ウェイバーが関わると一瞬で半壊以上の被害が出るのだからバオからすれば溜まったものじゃない。もうこれ以上は破壊されないようにと、今までカウンター席の壁のみだった防弾仕様が店内の壁全面に施されている。

 

「まあまあ、今日はそんな話するために来たんじゃねえんだよバオ」

「そりゃバラライカんとこの右腕連れてくるくらいだからな。何だ、まさかここで戦争おっぱじめる気か?」

 

 だったら今すぐ出て行け、と告げるバオに苦笑を浮かべるウェイバー。

 一方で周囲の男たちはカウンターで行われる会話に耳を傾けていた。どんな会話が行われるのか非常に気になるのだ。

 

「て言っても特にこれといった話があるわけでもなくてな。たまたま通りで見かけたから飲みに誘っただけだ」

「私を飲みに誘うなんてウェイバーさんくらいですがね」

 

 そりゃそうだろ、と周囲のチンピラたちの心の声が一つになる。

 

「バラライカと飲むとなるとグルジアワイン持ってかにゃならんしな」

「大尉はあのワインが好きですから」

「飲みすぎなんだよあいつ。ワインセラーに一年単位で置いてあんだろ。自分のがあるのに持ってこさせるんだからな」

「貴方と飲むのを楽しみにしているのだと思いますよ。大尉と一対一で酒を飲むなんて他の人間には不可能だ」

「そんなことないだろう」

 

 言ってウェイバーはグラスに残った酒を一息に飲み干す。

 それを見てボリスはボトルを傾け、空いたグラス半分まで注ぐ。

 

「ウェイバーさん。いい機会ですから、一つお願いを聞いていただけないでしょうか」

「ん? お願い? 依頼じゃなくて」

「そこまで堅苦しいものではないのです」

 

 テーブルの上で指を組み、ボリスは口を開く。

 

「近々我々はロアナプラを離れます。その際、同行してはもらえないだろうか」

「日程は?」

「二週間ほど先です」

「悪いな。その時期は丁度俺も街を離れてる、依頼が入ってんだ」

「そうですか。すみません、この件は忘れてもらって構いません」

 

 ロアナプラを離れ何処へ行くのか、それが周りの人間たちは気になったが、ウェイバーもボリスもそのことに触れようとはしない。組織の仕事に関係しているのだからそれも当然だ。こんな人の目がある所で不用意にする話でもない。それをボリスも自覚しているのか、それ以上この話を続ける気は無かった。

 

「しかし、こうして二人で酒を飲むなど昔は思いもしませんでしたな」

「俺もだよ」

「十年前は命を取り合ったというのに、分からないものだ」

「取り合ってねえよ一方的にお前らが取りに来てたんだろーが」

「我々がこの街で総力を上げて潰しにかかったのは、あの時だけです」

 

 潰すどころか跳ね返されましたが、とボリスは小さく笑う。

 

「大体お前ら頭おかしいだろ。しがない男一人に遊撃隊(ヴィソトニキ) とかレベル1の勇者がスタート地点で魔王と遭遇するようなもんだぞ」

「我々が勇者ですかな」

「分かってて言ってんだろお前」

「俺からすりゃどっちも魔王だよクソッタレ」

 

 グラスを磨きながら呆れるバオの意見に、これまた全面同意の周囲一同。ここまで気持ちが一つになるのは後にも先にもこれっきりかもしれなかった。

 スコッチウイスキーを飲み終えたボリスはバオにラムを注文。次いでウェイバーがバーボンを注文する。手際よく棚からボトルを取り出しテーブルに置いたバオに一言礼を言って、二人はそれを新たなグラスに注いでいった。

 

「ま、夜は長いんだ。積もる話もあるだろうし、今日は朝まで付き合ってもらうぞ」

「勿論です。私も聞きたいことがありますから」

 

 どうやら二人は朝まで飲み明かすつもりらしい。

 これは今日は早めに切り上げたほうが身のためだろう。そう思い至った周囲の男どもは、手元にあったアルコールを飲み干してこそこそとイエローフラッグを後にする。

 そんな背後の動きを一切気にすることなく、ウェイバーとボリスの二人は他愛のない話を肴に酒を呷り続けた。

 

 

 

 

 

 2.雉も鳴かずば打たれまい

 

「……とうとう辿り着いた。ここが、この街が、世界屈指の悪の都。世界中の大悪党が軒を連ねる無法地帯、ロアナプラ……!」

 

 港の一角に停止した小型のボートから勢いよく飛び降りて、男は目の前に広がる街を見渡した。

 

「本当に良いのか? ここは警察だって迂闊に手を出せない正真正銘の悪の巣窟だぞ。言っちゃ悪いがお前さんみたいな一般人が足を踏み入れていい場所じゃねえ」

 

 小型ボートの操縦士がそう言うものの、男は手を挙げて口元を吊り上げる。

 

「心配すんなおっちゃん、俺は堅気じゃねえ。後ここまで送ってくれてありがとよ」

 

 そう言って、足元に置いた荷物を肩に掛ける。

 そのまま街に向かって歩き出す男の背中を見つめながら、操縦士は怪訝そうな表情を浮かべた。

 

「……ホントに分かってんのか? ここは、あの(・・)ロアナプラなんだぞ」

 

 操縦士の呟きなど、当然男の耳には届いていない。

 男は周囲の風景をきょろきょろと見ながら歩いていく。周囲の人間が見ればそれだけでこの男が余所者であることが分かるだろう。幸いにして街の外れにあるこの港付近にはたまたま居なかったので、観光客のような行動を見られずに済んだが。

 男は足取り軽く、鋪装されていない悪路を歩いていく。

 今にも歌いだしそうなほどに上機嫌な男の名は、英一と言った。

 日本生まれ日本育ちの彼は今年で二十四歳。犯罪歴は強盗、放火、殺人未遂の前科三犯。札付きの悪党だ。それは本人も自覚していた。元は関東地方に拠点を置く組に所属していたが、トカゲの尻尾切りにあい国外へと追われたのだ。

 だがそのことを英一は特に気にしてはいなかった。

 組に裏切られたのは腹立たしいが、この街でまた一旗上げればいいと気楽に考えていたのだ。

 よく言えば前向き、悪く言えば単純な思考回路を持つ彼は、この悪党集うロアナプラで高い地位を手に入れようと考えていた。

 悪党と言えども当然その程度はピンからキリまで存在している。同じ犯罪という括りにあっても万引きと殺人の罪が違うように、悪党と言われる人間の中にも品質が存在するのだ。

 

 ナイフや拳銃の使い方は熟知している。

 使う武器が同じなら、後は使用者の腕次第。

 ロアナプラという街は弱肉強食の世界。弱者は淘汰され、真に強い人間だけが生き残る。そう聞いていた英一は、少しの不安と大きな期待を胸に歩を進める。

 例え凶悪な殺人犯であっても、英一は相手にできる自信があった。海外ドラマで見るようなスラムの殺伐とした殺し合いや西部劇に出てくるような撃ち合いを想像して、彼は逸る鼓動を抑えることが出来ないでいた。

 

「……やっぱ外人ばっかだな。黒人白人勢揃いってか」

 

 メインストリートに近づくにつれ、ちらほらと露店や人間の姿が見られるようになる。

 道の脇でよく分からない果実を並べる老婆から、明らかに凶器となるだろうナイフを売る怪しい男、屈強そうな大男など、その人種は実に様々。

 映画やドラマのワンシーンの中のようだと思った。

 ここで一度英一は思考をリセットさせ、改めてこれからどうするかを考える。

 

(先ずは拠点を作らなくちゃな、いやそれよりも先に情報収集か。新鮮な情報は生きてくための生命線だ。なるべく多く人間が集まる場所で話を聞きたい。となると酒場か、こんな昼間からやってっかな)

 

 考えごとをしながら歩いていると、視線の先に酒場らしきものを発見した。

 距離が少し離れているにも関わらず、店内からは賑やかな声が聞こえてくる。英一は軽い足取りそのままに、その酒場へと向かっていった。

 ガラン、と入口の扉が前後に揺れる。

 店内に足を踏み入れた英一は、飛び込んできた光景に思わず生唾を飲み込んだ。

 テーブルの上に無造作に置かれた拳銃、突き立てられたナイフ。その所有者たちだろう男たちは、皆一様に『俺たち凶悪犯』ですという顔付きをしていた。

 日本の極道と呼ばれる人間たちは、基本的に衆人環視の前で得物を抜くことはない。

 が、ここに居る人間たちはそれがさも当たり前かのように、堂々と自らの得物を晒していた。

 英一が酒場に入ってきたことで、店内の男たちの視線が一斉に彼へと向けられる。

 

(いかんいかん。こんなことで緊張してたらこの先やっていけねーぞ俺。ポーカーフェイス、クールに行こう。こいつらの視線なんか気にしたら負けだ)

 

 男たちの視線を掻い潜り、なんとか英一はカウンターに座ることに成功した。カウンターを選んだのは店の人間からこの街のことを聞くためであり、決して背後の男たちが怖かったからではない。多分。

 店主は英一に一度だけ視線を向け、僅かに眉を顰めた。

 

「……見ねえ顔だな。東洋人か、まさかウェイバーの関係者じゃあねえだろうな」

 

 流暢な英語に、英一も英語で返す。

 

「日本人だ。それと、ウェイバーって?」

「あん? ウェイバーを知らねえってことはオメエ余所者だな」

 

 一発で余所者だと見抜かれたことに内心で驚く。それほどウェイバーなる人物はこの街で有名なのだろうか。

 

「この街にはさっき着いたんだ。一旗上げてやろうと思ってね」

「ハッ、やめとけ小僧。オメエなんかがこの街でのし上がろうなんざ無理な話だ」

「なんでだよ、俺だって悪党だぜ。弱肉強食、それがこの街の真理なんだろ?」

「人間を撃ったことはあんのか?」

「あるよ、五人とか」

「話にならねえ」

 

 頼んでもいないビールを英一の目の前に乱暴に置いて、浅黒い肌の店主は続けた。

 

「ここじゃ人殺しなんざ毎日だ、人間相手に的当てした数なんか十や二十じゃ足りねえよ。そこいらのチンピラでだ」

「……なら、人を撃ちまくればいいのか?」

「馬鹿か。んなことしたら黄金夜会が動いてオメエ一晩でお陀仏だぞ」

「黄金夜会?」

「ここを仕切ってるマフィアどもだよ」

 

 マフィア、という言葉に英一は考える。極道の海外版という考えしか浮かばなかったが、ロアナプラを仕切っているというのだからきっと大規模な組織なのだろう。ならば手始めに、そのマフィアたちと懇意になるところから始めるのはどうだろう。ロアナプラでそれなりの地位につくためには、その黄金夜会とやらとの接触は避けては通れない。どうせ避けられないのならばこちらから接触し、コネクションを作るのだ。

 おお、俺冴えてんな、と英一は内心で舞い上がる。

 

「なあ、その黄金夜会って奴らにはどこで会える?」

「……何考えてんのかは知らねえが、うちはそのメンバーの一人が常連だ。待ってりゃそのうち来るんじゃねえか」

「そっか。なら待たせてもらおうか」

「グラスが空いたら次を頼め。そうすりゃ長居も許してやる」

 

 そんな訳で酒場で待つこと数時間。

 唐突に酒場の空気が変わったのを、背中を向けたままの英一も感じ取った。

 

(……? なんだ、今までバカ騒ぎしてた連中が急に静かになりやがった)

 

 訝る英一の心情を察してか、店主が溜息を吐きつつ説明してくれる。

 

「アイツが来るといつもこうなんだ。気にすんな」

「あいつ?」

 

 疑問を口にする英一の二つ隣に、自身と同じ顔立ちをした男が座る。

 その男を横目に見て、無意識のうちに目を見開いていた。日本人だ、この街で初めて見る自分以外の日本人。完全アウェーのような状態の中にあって、見ず知らずとは言え同じ日本人がこの空間の中にいてくれることは英一にとって何よりも心強かった。

 自然、彼は席を一つ横にずらし男の隣へと移動する。

 

 ざわり、と背後でどよめきが起こった。

 そのことを大して気にも留めず、英一は日本人らしき男に話しかける。

 

「なあアンタ。日本人だろ?」

 

 敢えて日本語で話しかけてみる。

 ざわざわ! と先程よりも更に大きなどよめき。店主も鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。

 英一の話す日本語に、男は顔を向けて反応した。

 

「驚いたな。日本人か」

「ああ、あんたと同じ日本人さ。いやー良かった、実はさっきこの街に着いたんだけど、周りは強面の外人ばっかで正直アウェー感が半端なくてよー」

「確かにな。でも外見だけで判断するのは早計だ、根は良い奴だって中にはいる」

 

 そんな男の意見に、英一はオイオイと肩を竦めた。

 

「あんた本気で言ってんのか? ここはロアナプラだぜ? 世界でも一級の危険地帯。そんな場所に好き好んでのさばってる連中が善人なわけないだろう」

 

 まあ、斯く言う俺もそこそこの悪党なんだけどな、と付け加える。

 その言葉に、男は苦笑を浮かべるだけだった。

 

「そうだ、なあアンタ。良かったら俺と組まないか? 見たとこ一人みたいだし、同じ日本人同士仲良くやろうぜ」

「ん? ああ、悪いな。俺は鉄火場に立つのは好きじゃないんだ」

「そうなのか? ならここで生きてくのは大変だろ、聞けば人殺しなんて毎日らしいじゃん」

 

 それでこそ悪徳の都か、と英一は思う。

 隣の男はこの街に長いこと居るようだが、本人も言うように殺し合いは苦手なのだろう。見てくれは普通の男性でしかないし、きっと望まずロアナプラに流れてきたのだろうと推測する。

 

「ていうかさ、多分アンタが来た途端後ろの連中が大人しくなったんだけど、一体どうなったんの?」

「そうか? ここはいつも静かだぞ」

 

 首を傾げる男は、テーブルに置かれたビールを一気に三分の二ほど飲み、つまみのナッツを口に運んでいる。

 

「アンタ、ここに来て長いの?」

「それなりに」

「だったらさ、黄金夜会っての知ってるよな」

「まあな」

「そいつらのとこに俺を連れてってくれねえ?」

 

 ピタリと、ナッツを口に運ぶ男の手が止まる。

 

「……どうしてだ?」

「いやさ、俺この街でのし上がりたいんだ。俺を切りやがった組への当て付けもあるけど、やっぱ男に生まれたからには自分の力を試してみてーじゃん?」

 

 アルコールが少しずつ回ってきたのか、英一の口からはぽつぽつと本音が溢れ出す。

 

「犯罪都市、かっけーよ。俺もそんな中でビッグになりてえ。そのためには先ずトップとコネを作んなくちゃダメだと思うんだ。なあ、そう思わねー?」

「――――俺は」

 

 男の言葉は、最後まで紡がれる事は無かった。

 英一の声しか存在しなかった店内に、蹴破らんばかりの勢いで扉の奥からやってきたのは二メートルはあろうかというスキンヘッドの大男。その後ろには同じくガタイの良い二人の男が続く。

 乱暴な扉の開け方に、店主が怒号を放つ。

 

「やいテメエ! もうちっと丁重に扱いやがれ! 先週直ったばっかりなんだぞ!」

 

 だが入ってきた男はそんな店主の言葉など聞かず、店内を見渡して。

 

「ここにウェイバーっつう男が居るって聞いたんだが、どこのどいつだ?」

 

 その言葉に、元からいた店内の殆どの人間が硬直する。

 因みに硬直していないのは英一、店主、英一の隣の男だけである。

 数秒後、男の言葉を受けて店内が俄かにざわつき始める。

『なんだアイツ他所モンか?』『死んだな』『たまに居るんだああいう自殺志願者が』『オイこっから離れたほうがいいんじゃねえか』などと各テーブルで口々に言い合い始める。

 そんな周囲の反応が気に食わなかったのか、スキンヘッドの男は無言でホルスタから拳銃を抜き、天井に向かって発砲した。

 ざわめきが消える。

 

「もう一度聞くぞ。ウェイバーってのはどこのどいつだ」

「なあオイ、ウェイバーって東洋人なんだろ。あのカウンターに座ってるのそうなんじゃねえか」

 

 後ろに立っていた男の一人が、カウンターに座る英一へと視線を向ける。

 おいおいマジかよ、と内心で冷や汗が止まらない英一。いきなり発砲するような男を前に完全に萎縮してしまっていた。そんな彼の目の前に、大男はやって来る。

 

「お前がウェイバーか?」

「え、あ、いや……」

「オイこいつブルってんぞ。こんなのがあのウェイバーなわきゃねえよ」

「違いねえ」

 

 目の前で笑われるも、英一は懐に隠した拳銃を抜くことが出来なかった。

 単純な話、一対三で戦って勝てると思わない。それに加え、身体の大きさからして違う相手を前に少なからず恐怖していることもあった。

 情けない。あれだけの事を言っておいて、いざ実際にこうした場面に遭遇した途端にこれだ。人を撃ったことはある。だがそれは急所以外を狙った、謂わば不殺の発砲。目の前の男たちのように命を奪うための銃を握ったことが無い英一は、手を動かすことが出来ないでいた。それが両者の大きな差だ。

 どうする。この場面で、どう動けばいい。

 軽いパニック状態に陥る英一。そんな彼と男たちとの間に、するりと割って入る男の姿があった。

 

「あんまり弱い者虐めをするなよ。程度が知れるぞ」

 

 そう言ったのは、今しがたまで横で酒を呷っていた日本人の男。

 思わず英一は声を荒げる。

 

「バカ、やめろ! アンタこういうの苦手なんだろ!」

 

 後ろに下がらせようと男の腕を掴む。

 そして感じる違和感。

 

「っ!?」

 

 男の腕は、鋼のように鍛え上げられていた。

 ぎょっとする英一を尻目に、三人の男たちは薄ら笑いを浮かべている。

 

「おいおいまた東洋人か、仲間を助けようってか? 泣かせるじゃねえか」

 

 その言葉に反応はせず、男は徐にジャケットのボタンを外した。

 瞬間、誰かが息を呑む音がやけに大きく響いた。どういう訳か他の客たちは頭を守るように頭上で指を組み、店主はカウンターの奥へと消えていく。

 そして。

 気が付けば、男の抜いた拳銃がスキンヘッドの男の顎に押し当てられていた。

 

「っ!?」

 

 驚愕したのは英一と三人の男たち。

 何が起こったのか理解が追いつかない。瞬きの間に、日本人の男は全てを終えていた。

 銃口を突き付けたまま、流暢な英語で彼は言う。

 

「鉄火場は好きじゃないが、苦手なわけじゃない」

 

 お前の眼には俺の動きが見えたか? そう彼は問い掛ける。

 

「お、お前が……」

「俺のこと捜してたんだろ。で、どうするんだ。まだやる気があるならこのまま鉛玉をくれてやる。この状態なら、どうやったって俺のほうが早いだろうぜ」

「わ、分かった。大人しく引下がる。もうこんな真似はしねえ」

「お前ら新参者だろ。郷に入っては郷に従え、この街の鉄則だ」

 

 それだけ言うと日本人の男、ウェイバーはリボルバーをくるくると回しながらホルスタに戻した。

 三人の大男たちは逃げるように酒場から出て行く。

 そんな光景を眼前にして唖然とする英一は、だらしなく口を開けたままウェイバーの方を見ていた。

 

「終わったか?」

「ああ、悪いなバオ」

「今回は店が無事だっただけ良しとしてやる。天板も防弾仕様にしといて良かったぜ全く」

「入口のドアも鋼鉄製にしとくか?」

「重くて開けられねえよバカ」

 

 カウンターの奥から出てきたバオの言葉を皮切りに、店内の客たちも静けさはそのままに酒盛りを再開する。

 

「あ、アンタ、もしかして強い人?」

「あん? オメエ何も知らないでウェイバーに話しかけてやがったのか? 黄金夜会がどうとか言ってっから、てっきりゴマすりしてんのかと思ってたが」

「……?」

 

 いまいち要領を得ない英一に、バオは至って平静に告げた。

 

「こいつはウェイバー。オメエが探してる黄金夜会のメンバーだよ」

「…………はあぁぁああああッ!?」

「今ので分かったろうが。ここで成り上がるにゃあウェイバー並の技量がいる。オメエじゃ無理だ」

「おいそこまで言うことないだろ。彼にだって秘められた才能が」

「無えよ。さっきの半端者三人にブルってんだぞ」

 

 ウェイバーとバオの会話など、英一は聞いちゃいなかった。

 確かに驚いた。ウェイバーという名前で日本人だということにも驚いたが、まざまざと見せ付けられたあの銃捌き。これまで憧れの人間など存在しなかった英一だったが、今この瞬間。憧憬を向ける人物を見つけた。

 ロアナプラにやって来たのは間違いではなかった。こうして彼と出会うことが出来たのだから。

 黄金夜会に取り入ることなど最早念頭にない。どうすれば彼のようになれるのか、頭にあるのはただそれだけだ。

 単純な思考回路を持つ英一が出した結論は至極単純なもの。それは。

 

「ウェ、ウェイバーさん! 俺を弟子にして下さい!」

「悪いな。俺弟子とか取らないから」

 

 即座に断られた。

 

「オメエ今家に銀髪置いてんだろ」

「あれは弟子じゃない。俺を狙う殺し屋だ」

「変わんねえよどうせ殺せやしねえんだから」

「バオさ、俺のことサイボーグか何かと勘違いしてないか。撃たれりゃ痛えし出血が酷けりゃ死ぬんだけど」

「考えたこともねえ」

 

 傍らで続く会話を他所に、英一はぐっと拳を握った。

 諦めてなるものか。何がなんでもウェイバーに弟子入りし、自分の力を磨くのだ。ただこの街で上に行くことだけを考えていた英一に、ここではっきりとしたビジョンが浮かび上がる。

 そのために、どんな手を使ってでも彼の弟子になる。

 

 そんな決意を固めた英一が後日ウェイバーのオフィスに向かうも、事務所には誰も居なかった。

 

 

 

 

 

 3.鬼面人を嚇す

 

「…………」

「…………」

 

 重い。ただひたすらに、空気が重い。

 ラグーン商会の事務所に、目に見えないどんよりとした重苦しい空気が滞留していた。

 その空気の発生源は事務所中央に対面に置かれた二人がけのソファ。一方にはレヴィが、反対側にはウェイバーとグレイが座っている。

 正面で向き合ったまま一言も言葉を発さない三人に、同じ室内の隅に固まる男三人は恐怖を隠せないでいた。

 

「ダ、ダッチ。レヴィの顔がまるでジャパニーズハンニャみたいに……」

「焦るなベニーボーイ。まだ慌てる時間じゃない」

「脚震えてるよダッチ」

「そう言うロックもね」

 

 ちらり、と三人はソファの方を見る。そして途端に後悔する。ああ、見なけりゃ良かったと。

 レヴィの横顔はこの世のものとは思えない程にドス黒いものへと変貌していた。

 と、ここでようやくウェイバーが口火を切る。

 

「ま、そういうことでこの子は暫くこっちで預かることにした」

「…………」

「銃を向け合った間柄だってのは承知してるが、折り合いを付けてくれると助かる。何も水に流せと言ってるわけじゃないからな」

「…………」

「レ、レヴィ? 何か反応が欲しいんだが」

 

 ウェイバーの言葉に、ついにレヴィは咥えていた煙草を噛み千切って。

 

「ボスッ! こんな奴置いとくことねえ! 直ぐに殺して捨てちまえばいいんだよ!」

 

 立ち上がり、グレイを指差してレヴィは続ける。

 

「こいつはボスに銃を向けた! それはあたしの中で越えちゃいけねえ最大の禁忌(タブー)だ! やっちゃならねえことをやったんだよこの女は!」

 

 今にも飛び掛らんばかりの勢いで捲し立てる。

 が、当の本人はどこ吹く風とばかりにすまし顔を崩さない。

 

「まあ怖い。こんなおねーさんなんか放っておいて、帰ってご飯を食べましょうおじさん」

 

 ビキリ、とレヴィの額に青筋が浮かぶ。

 

「ご飯のあとは昨日みたいに全身をマッサージしてあげる。隅々まで隈無くね」

「てんめえボスの身体に勝手に触ってんじゃねえぇぇええええ!!」

 

 いや、まずマッサージって殺し合いのことなんだけど、とウェイバーが口を挟む隙もない。

 グレイもそんな例え方をしなくてもいいだろうに、煽り耐性の低いレヴィは少女の術中にまんまと嵌ってしまっているようだ。

 

「あたしはなぁ、ボスと一緒にシャワーを浴びたことがあんだぞ!」

「それお前が奇襲かけた時だろ」

「あら、私はおじさんと一緒にお風呂に入ったのよ」

「俺を溺死させようとかなり前からバスタブの底に潜ってたな」

「なん……だと……」

「おい打ちひしがれんなレヴィ。違うからな」

 

 当初の重苦しい空気はいつの間にか払拭され、ウェイバーとどれだけ親密なのかを自慢する流れになっていた。ウェイバーからすれば死ぬほど恥ずかしい話も含まれていたりするが、ロックを始めとするラグーン商会の男衆にとっては有難かった。 

 

「ボスは途轍もなく硬派な男なんだ! 夜あたしが全裸でベッドに忍び込んでも何もしなかったからな!」

「私もおじさんが寝てる間に色々いたずらしたけど何も無かったわね」

「おいバカやめろ何の話をしてるんだお前ら」

 

 ウェイバー本人を目の前にしたまま、二人の戦いはその後小一時間続いた。

 最終的にはレヴィも条件付きで渋々グレイの居候を認め、グレイもレヴィの出す条件を呑んだそうだ。

 その際隣のウェイバーが目も当てられない状態になっていたが、ロックたちは全力で見なかったことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




  以下詳細。


1.人生意気に感ず
 普段絡みのないボリスさんとおっさんのサシ飲み。たまたま居合わせたイエローフラッグの客はたまったもんじゃない。
 ロアナプラの人間視点を少し意識してます。

2.雉も鳴かずば打たれまい
 ロアナプラの外からやってきた青年視点。今後彼の登場は未定。
 この手の絡まれ方を月一、二くらいでされるウェイバー。
 最後事務所に誰もいなかったのは原作軸に沿っているため。

3.鬼面人を嚇す
 ブラクラで数少ないギャグ時空。反省はしている。


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013 GO THE EAST

「ねぇおじさん。そう言えば私、おじさんのこと全然知らないわ」

 

 始まりはそんなグレイの発言だった。

 俺が彼女を自宅に居候させるようになり、先日レヴィとの和解(?)も終えて数日経ったある日の夜。

 いつものように酒を飲みに街へと繰り出した俺の後ろを付いてきたグレイが、酒場の席に着くなりそう言ったのだ。確か今日は連絡会があったような気がしなくもないのだが、どうせ定時連絡だけのつまらない会合だ。そんなことよりも酒が大事である。

 新品同然の木製のカウンター席に並んで座る俺とグレイの前には、忙しなく動き回るメリーの姿があった。ついこの間殺されかけた相手が目の前に居ることに当初は怯えを隠せなかった彼女だが、俺が引き取った旨を話すと意外な程あっさりと納得してくれた。なんでも俺が傍に居れば問題ないらしい。ボディガードか何かと勘違いしてるんじゃないかメリーよ。

 俺の前にジンを、グレイの前にオレンジジュースを手際よく置いたメリーは、今しがたのグレイの発言に乗っかる気満々のようで。

 

「そういや私も昔のことって知らないわね。ここに来たのが四年前だし」

「別に話す程のことなんかないぞ」

 

 ジンの注がれたグラスを傾け、半分程をするりと喉に通す。

 ちらりと隣を見やれば、爛々と瞳を輝かせた銀髪の少女。正面に視線を移せば仕事をないがしろにした金髪のアメリカ人。どうも完全に包囲されたらしい。これは話さないと延々とゴネられるパターンだ。

 

「おじさんはどうしてこの街にいるの?」

「気付いたら立ってたんだ」

「記憶喪失?」

 

 いや記憶喪失でも冗談でもなく。

 

「そういえばウェイバーってさ、いつから黄金夜会に入ってんの?」

「ん? 発足当時からだけど」

「え」

 

 目を丸くしているメリーに、何か変かと返す。が、返ってきたのは間の抜けた生返事だけだった。

 ふむ。別段隠し立てするほどの事でもない。赤の他人にするような話でもないが、メリーやグレイが相手なら俺の口から語るのもいいだろう。

 過去十年間を遡り、ロアナプラでの出来事をゆっくりと思い出していく。

 そうだ、そうだったな。俺が『ウェイバー』となり、黄金夜会の一角にまで数えられるようになるには、幾つもの事柄を経ているのだ。それらの冒頭部分を少し、掻い摘んで彼女たちに聞かせよう。

 今から話すのは、二度目の人生を歩むこととなった俺の十年間の軌跡、その根源。陽の当たる表の世界から欲望渦巻く裏の世界へと、静かに沈んでいく物語。

 全ての歯車が微妙に噛み合わないままに築き上げられた、今の地位に至るまでの悪徳の都での物語だ。

 

 

 

 1

 

 

 

 東南アジア、タイの外れに存在する街ロアナプラ。

 この街は悪の巣窟などと呼ばれ、世界中の人からは忌避され、世界中の悪党からは愛される無法地帯だ。

 俺がそうこの街のことを説明されたのは、いつの間にやらこの地に立っていたあの日から数日経った頃だった。この街にしては珍しい優しそうなオッサンが教えてくれたのだ。どうやら俺のことを観光客か何かと勘違いしていたらしいのだが、今のロアナプラに来るなんて自殺志願者か何かかと笑われた。いや、俺としては全く笑えない。

 何でも今ロアナプラでは各勢力がこの地での利権を巡って血で血を洗う戦いの真っ最中なのだとか。それはもう、天下統一を目指してしのぎを削った戦国時代も真っ青の荒れ具合だ。夜中なのに炎で昼間のように明るいのは日常茶飯事。昨日までそこにあったはずの建物が無くなっていることも多かった。

 これは死ぬ。近い将来必ず死んでしまう。

 そう断言できるほど、当時のロアナプラは荒れに荒れていた。ホテル・モスクワ、三合会、コーサ・ノストラ、マニサレラ・カルテル。今後発足することとなる黄金夜会に名を連ねる大組織が一様に争っていたのだ。戦火は瞬く間に街中に広まり、安息の地など何処にも無くなった。

 

 そんな街の中で俺はといえば、なんとか寝床の確保に成功していた。数日前まで二階建ての事務所として機能していた建造物である。その二階が襲撃によって破壊され、天井や壁がスッキリしてしまったために破棄されたのだろう。誰も居なくなったその建物の一階、二階や一階の入口付近と比べ比較的破壊の少ない部屋を使用させてもらっている。雨風さえ凌げれば問題ないので、俺にとっては十分だった。

 だが、俺の寝床は僅か数日で消滅することとなる。

 元の持ち主であったコロンビア・マフィアたちが、この建物を焼き払ったのだ。

 どうも文書などの重要書類を消し去るために火を点けたらしいが、それだけ重要なものなら持ち出しておけよと声を大にして言いたい。眠っている最中に火を点けられたものだから慌てて飛び起き、そのまま脱出。飛び出した先には火を放ったコロンビア・マフィアたちがおり、目を丸くしていたが、こちらには構っている暇などない。何やら大声で叫んでいるのを華麗にスルーして、その場から一目散に走り去った。

 

 その辺りからだろう。

 どういうわけか、俺の周囲がどんどん騒々しくなっていったのは。

 どうやら俺はそのコロンビア・マフィア、マニサレラ・カルテルの連中に目を付けられてしまったらしく、武装した構成員たちに街中を追い掛け回されるようになってしまったのだ。当時の俺にはそんな奴らに対抗できる武器も持っておらず、また徒手格闘で圧倒出来るほど対人格闘に精通しているわけでもなかった。となると俺に出来ることなど逃げ回ることくらいで、奴らの監視網から逃れるために東へ西へと駆け回ったのだった。

 当然無傷というわけにもいかず、初めて銃弾が肩を掠めたときはその焼けるような痛みに思わず叫びそうになったほどだ。流石に声で相手に居場所を特定されるわけにはいかないと必死に声を押し殺したが、あれ以来銃で撃たれても当たらないよう回避術を必死で練習したりもした。実際にうまくいった試しはないが。

 そんな逃亡劇を一ヶ月程続けていると、今度はイタリアン・マフィアに目を付けられた。

 コーサ・ノストラはマニサレラ・カルテルと抗争を続けているイタリアン・マフィアだが、敵対しているマフィアがたった一人の人間を始末できないという噂を聞きつけたらしい。その話を聞きつけたコーサ・ノストラの上層部が、カルテルの連中に不可能なことをやってのけてやろうと完全に間違った方向に動き始めたのだ。まず第一に俺は逃げ続けていただけでカルテルの連中には一切手出ししていない。だというのに噂にはいいように尾ひれがつけられ、構成員五十人を返り討ちにしたことになっていた。更に俺にとって悪いことに、この噂をカルテルの連中は否定しなかったのだ。そこにどういった意図があったのかは知る由もないが、結果的に俺はコロンビア・マフィアの構成員五十名をたった一人で殲滅した凶悪人物と認定されてしまったのだ。

 

 そういう噂が流れれば、当然相手もそれなりに警戒するわけで。

 コーサ・ノストラの構成員たちは、明らかに人に向けていい武器じゃないものを携え俺を殺しにやって来た。カルテルの連中が握っていた拳銃が可愛く見えてしまうライフルやショットガン。それらの銃弾を必死に掻い潜り、俺はひたすらにロアナプラを駆け回る。

 不幸中の幸いというべきか、カルテルの連中に追い回されたことで街の地形は大方把握できていた。この道をどう進みどこを曲がればどの通りに出て、逆にここを直進すれば行き止まりになる。そんな風に頭を働かせ、時には相手を袋小路に、時には足場の悪い場所へ誘導して逃げ続けたのだった。

 

 コーサ・ノストラの構成員からただひたすらに逃げ続けて二週間。

 俺の噂に新たな項目が追加された。

 イタリアン・マフィアの構成員三十人を無力化した、というものだ。

 当然のことながら、俺には一切心当たりがない。

 一体全体どうしてそんな噂が流れたのか定かでないが、この噂もまたカルテルと同様にコーサ・ノストラは否定しなかった。マフィアというのは体面をとても気にする人種だ。根も葉もない噂を立てられれば顔を真っ赤にして否定するのが普通だろう。

 しかしながらそんな素振りを全く見せないのは、抗争相手に下手に焦燥を伝えたくないからなのだろうか。

 マフィア事情などこれっぽっちも知らない俺は、そんな風に考えていた。

 この街を牛耳ろうとしている二つのマフィアから逃げおおせたことで、住人たちにもその噂は届いているようだった。曰く、たった一人で二つの組織を潰した東洋人。

 いや潰してねえし、そうばっさりと言ってしまいたいが、そうすると俺がその東洋人ですと白状しているようなものだ。ロアナプラには決して少なくない数の東洋人が暮らしている。マフィア連中には顔バレしているが、住人たちの多くはその東洋人の顔を知らないのだ。こんな所で不要なリスクを背負うこともないと、傍らで囁かれる噂の全てを聞かなかったことにした。

 

 

 

 2

 

 

 

「おい、ウェイバーの奴はどうした」

「知らんね、どうせどこかの酒場だろう」

「ウェイバーには言うだけ無駄なことよ。自由奔放を絵に書いたような人間ですもの」

 

 三合会所有のバーに、黄金夜会のメンバーたちが一同に会していた。だがその中にヴェロッキオ、そしてウェイバーの姿はない。ホテル・モスクワと三合会、そしてマニサレラ・カルテルの支部長、その腹心のみだった。

 

「ま、今日は定時連絡だけだ。強制参加などと銘打っちゃいない以上不参加でも問題はないがな」

「普通は来るだろう、この連絡会には牽制の意味合いだってあるんだぞ」

 

 張の言葉に、アブレーゴが首を横に振る。

 この連絡会はこの街の安定化という意図の他に、自分たち以外の勢力が無闇に動かないよう牽制するという目的を持つ。それを守らず行動を起こしたヴェロッキオがどうなったのかを見れば、この連絡会の重要性が理解できるだろう。

 しかしながらこの場にウェイバーは居ない。抑も彼以外に兵力が存在しないというのにそれを一勢力として見ていいのか甚だ疑問であるが、それに関しては全会一致で彼を一つの勢力と認識している。

 

「アイツにとっちゃ俺たちの動向なんてどうでもいいのさ。関係ないことは放っておく、邪魔立てすれば排除する。ただそれだけ、お前も分かってるだろう、アブレーゴ」

 

 そう告げられたアブレーゴは、苦々しく舌打ちして。

 

「あの時のことを言ってんのか。確かにな、分かってるさ。何せ武器も持たねえ奴に、構成員五十人がやられちまったんだ」

「カルテルの程度が知れるわね」

「吐かせバラライカ。ウェイバーの異常性はお前もよく知ってるだろう」

 

 バラライカの嘲笑に、アブレーゴは憤りはするものの否定はしなかった。彼の部下たち五十人は、確かにウェイバーたった一人に行動不能にされたのだから。

 

「アイツはこの街の地理を隅々まで理解してやがる。それはつまり死角になる場所を知り尽くしてるってことだ。部下たちは皆そこでやられた。壁や足場を崩されたりしてな」

 

 今尚忘れることの出来ない、ウェイバーと初めて対峙した時の記憶。あの男は何の武装も無いまま、多くのマフィアを沈めて見せたのだ。

 

「お前んとこだってそうだろうが。部下総動員した割にゃあ、ウェイバーの奴を仕留めるに至らなかった」

「よせアブレーゴ。昔のことを掘り返す必要がどこにある」

「飄々としてるが張、お前だってあいつに煮え湯を飲まされてんだろ」

 

 ホテル・モスクワ、三合会、マニサレラ・カルテル。ロアナプラにおいて突出した戦力と権力を有する彼らは、皆一様に過去ウェイバーと対峙した経験を持っている。

 そして三者は、ウェイバーを相手に勝利を収めることが出来なかった。負けてはいない、だが勝ったというには余りにも痛手を受けすぎていた。張とバラライカは一対一で、アブレーゴは背後に複数の部下を連れていたにも関わらず、ウェイバーを殺すことが出来なかったのである。

 

「だからこそウェイバーは黄金夜会に名を連ねてる。こいつは鎖と同じだよアブレーゴ」

 

 懐から取り出した煙草に部下が火を点け、張はサングラスの奥で目を細める。

 

「放っておくと何を仕出かすか分からない猛獣。制御するには同じ土俵に上げちまうのが一番いいのさ」

 

 その為の黄金夜会でもある、そう張は言葉を締め括った。

 黄金夜会と呼ばれる組織がロアナプラの中に生まれたのは、利権を巡って抗争を続けた組織たちが無駄な争いを生まぬための利潤の分配、そして互いが互いを監視できるようにするためだった。幾つかの組織がそこに名を連ねることで互いの動きを牽制し、この不安定な街を安定させるための基盤となるための装置。

 普通に考えれば、そこに何の組織にも属していない男が紛れ込んでいるのがおかしい。

 しかしながら今この場にいる三人の共通見解として、まず真っ先にこの街の安定化を図るにはウェイバーの行動を把握することだと認識している。たかが一人と侮ることなど出来はしない。過去そう思い彼に臨んだ結果、手痛いしっぺ返しを食らっているのだから。

 

「俺はもう鉛玉を喰らうのはゴメンだ。奴の弾は効き過ぎる」

 

 

 

 3

 

 

 

 ロアナプラの利権を掛けて争う組織たちの中で、最近勢力を伸ばしてきている組織が二つあった。

 名前はホテル・モスクワと三合会。聞けばロシアと香港のマフィアらしい。どこの国にもマフィアは居るもんなんだな、となんとはなしに思う俺は新しく見つけた住居で静かに果物を齧っていた。見たことない種類の果物だが、安いし味はそこそこだしで助かっている。因みに新しい住居というのは港の近くに集められたコンテナ群の中の一つである。たまたま側面に穴(恐らくは弾痕)を見つけ、そこから中に侵入したのだ。昼間は蒸し暑くとても居られないが、夜に寝床とする分には問題ないだろうとの考えからだ。

 だが俺は、ロアナプラの熱帯夜というものを些か舐めすぎていたらしい。

 開けられた穴以外に風の通る道のないコンテナの内部は、蒸し風呂のようになってしまうのだ。とてもじゃないが寝られない。

 この時はコーサ・ノストラから追い掛け回されることも無くなり、割と平穏に生活できていた。故に俺の警戒心は幾ばくか緩まっており、だから血腥い現場に出会してしまうことを全く考慮していなかった。

 

 寝苦しい夜が続くある日、満月が綺麗な深夜のことだったと記憶している。

 蒸し暑いコンテナを離れ、海岸線に沿って散歩をしている時のこと。

 突然俺の目の前にサングラスを掛けた男が転がるようにしてどこからともなく飛び込んできたのだ。いきなり、本当にいきなりだ。突然の出来事に俺の動きが一瞬止まるが、相手はそんな俺のことなど一切無視して転がってきた方向へと視線を向けている。

 その方向からやって来たのは、得体の知れない雰囲気を纏った女だった。顔の半分程を火傷で爛れさせた女は、ヒールを鳴らしながらこちらへと歩いてくる。

 あ、これ完全に遭遇してはいけない現場だ。そう俺は直感した。どう見てもカタギの人間には見えない二人。しかも片方は怪我をしているのか左肩の辺りから血を流している。

 

「中々しぶといわね。香港マフィアは逃げ回るのが得意なのかしら」

「ロシア人は余程罠を張るのが下手糞らしい。俺一人始末できないなんて程度が知れる」

「言ってくれるわね張維新。……それで、そっちの東洋人はお前の仲間という扱いでいいのか?」

 

 ギロリ、と女の視線が俺に向けられる。底冷えした視線を向けられる俺の背中には嫌な汗が噴き出していた。

 

「この辺りは包囲したと思っていたけれど、一体どこから入り込んできたのかしら」

「何を勘違いしてるのかは知らんが、この男は俺の知り合いじゃあない。お前の差金なんじゃないのか」

「……第三者の介入」

 

 二人の視線が俺に突き刺さる。

 完全に誤解されている。俺は二人の争いに干渉する気なんてこれっぽっちもないし、この場にいたのだって偶然なのだ。変に勘繰られても困る。

 

「騒がれても面倒だ、ここで消しておいた方がいいわ」

「それには同意だ」

 

 女は懐から、男は背中のベルト部分から拳銃を取り出し、俺へ銃口を突き付ける。

 そして、二発の弾丸が発射された。

 

 

 

 4

 

 

 

「それでそれで?」

「そこで撃たれて死んでしまったのねおじさん」

「いや何でだ、生きてるだろうが俺」

 

 俺の話す内容に耳を傾けていたグレイとメリーは、続きを早くと急かしてくる。

 だが残念なことに、そもそろ店を出なくてはいけない時間である。気が付けばそろそろ夜が明ける。今日は朝一番でロアナプラを出なくてはいけないのだ。そのための準備などは既に済ませてあるが、流石に一度事務所に戻ってシャワーを浴びたい。

 

「悪いな、もう帰らないといけない時間だ」

「なんでよ、いつもなら閉店しても残ってんじゃない」

「今日から仕事で少しこの街を離れるからな、身支度も済ませにゃならんのさ」

「え、おじさん居なくなるの?」

 

 眉尻を下げるグレイの問い掛けに、俺は小さく微笑み。

 

「おう、当然グレイにも付いてきてもらうぞ」

 

 途端、少女の表情が晴れやかなものへと変化する。

 

「当たり前よね、おじさんを殺すタイミングがいつやって来るかわからないもの」

 

 出来ればそんなタイミングは一生来て欲しくはない。

 尚もブー垂れるメリーに少し多めの代金を支払い、白み始めた空を見上げながら帰路につく。

 

「ねえおじさん、一体どこに向かうの?」

 

 俺の隣をとことこと歩く少女に歩幅を合わせながら、俺は懐かしさを感じるその言葉を口にした。

 

「――――日本だよ」

 

 

 

 5

 

 

 

 同日、早朝。

 ラグーン商会のオフィスに、一本の電話が入る。

 深酒して爆睡のダッチとレヴィ、自室に篭るベニーに代わって受話器を取ったのはロック。寝起きなのがはっきりと分かる顔のまま、慣れた口調で話す。

 

「はい、こちらラグーン商会」

『あら、その声は日本人(ヤポンスキ)ね。丁度良かったわ、貴方に仕事を頼みたいのよ』

「はあ、俺にですか?」

 

 眉を顰めるロック。自慢じゃないが、バラライカに頼られる部分など持ち合わせているつもりはなかった。そんなロックの謙遜を、バラライカは柔らかな笑いで包み込む。

 

『そんなに謙遜しないでちょうだい。貴方はウェイバーと同じ日本人なんですもの』

 

 あの人と同列にされても困る。そんな言葉をしかしロックは口には出さなかった。

 

『今回の仕事で日本へ行くことになってね、貴方には私と取引先との通訳をお願いしたいのよ』

「それこそウェイバーさんに依頼したほうがいいのでは?」

『私とウェイバー、二人共がこの火薬庫みたいな街を離れるわけにはいかないわ』

「成程」

『それで? 私の依頼は受けて貰えるかしら』

「条件が一つ」

『言ってみなさい』

「レヴィを同行させてください」

『理由は?』

「護衛ですよ俺の」

 

 バラライカさんが関わる仕事なら荒事になる可能性だってあるでしょう? そうロックは言った。

 ロックの条件を、バラライカは間断無く受け入れる。

 

『いいわ。お願いしているのはこちらだもの、二挺拳銃(トゥーハンド)も連れていらっしゃい。二時間後、港で待ってるわ』

 

 通話が切れる。

 耳に押し付けていた受話器を戻して、ロックは一度息を吐いた。

 日本。彼にとっての生まれ故郷であり、同時に捨て去った過去の場所でもある。日本で生まれ育った岡島緑郎という人間はもう存在しない。ロックとしてロアナプラで生きていくことを決めた彼にとって、二度と戻ることはないだろうと思っていた場所、それが日本だった。

 

「……まさか、もう一度あそこへ戻ることになるなんてな」

 

 自嘲気味に笑う。

 心のどこかで期待してしまっている自分に嫌気がさしたからだ。

 岡島緑郎という人間はもうどこにもいないのに、その母親が気になってしまっていた。何も言わずに日本を離れたことをどう思っているのだろうか。そもそも自分の戸籍はまだ残っているのだろうか。E・O社襲撃の際、とっくに死亡記録が作成されているのではないだろうか。

 だったら会うだけ無駄だ。母親たちの知る青年は、この世から去ってしまっているのだから。

 そう思うのに、僅かな期待が消えないでいた。

 もしかしたら、まだ。

 

「……弱いな、俺は」

 

 この自分の弱さが、ロックはどうしようもなく嫌いだった。

 思考を切り替える。いい機会だ。今心の中に残っているこの未練は、今回で綺麗さっぱり消し去ろう。ロックがロックであるために。決別の時がやって来たのだ。

 そう決めたロックは表情を引き締め、女ガンマンの部屋の扉をノックする。当然のように反応はない。

 彼の最初の仕事は、寝起きの悪い彼女を穏便に起こすことだった。

 

 

 

 舞台は整う。

 悪徳の都を一旦離れ、東の島国へと彼らは集う。

 鉄と火薬の臭いを引き連れて、狂宴が始まる――――。

 

 

 

 

 

 

 

 




 ウェイバーの過去を触り程度に。
 張、バラライカと会ったのはこのときが初めてです。
 次回より日本編。シェンホア? 竹中? イブラハ? 彼らは犠牲となったのだ。


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014 異国の地にて彼らは集う

日本編開始。


 

 1

 

 

 

 どんよりとした重たい曇空から、しとしとと雪が降る。

 ロアナプラにいる時は気付かなかったが、今の日本は四季で言うところの冬に該当しているらしい。道行く人々は一様に暖かそうな防寒着に身を包み、白い息を吐きながら往来を通り抜けていく。斯く言う俺も普段着用しているグレーのジャケットの上に黒のロングコートを羽織り、首元にも同色のマフラーを巻いていた。

 

「寒いのね、日本て」

 

 隣に立つグレイが白い吐息を眺めながらそう呟いた。グレイも普段通りの姿ではなく、上に黒いダッフルコートを着ている。彼女の銀髪が珍しいのか前を歩いていく人はちらりと視線を向けていくが、話しかけるような勇気を持つ輩はいないようだ。隣に俺がいるからなのか、単純にグレイが幼いからなのかは定かでないが。

 渋谷。

 俺たちが今立っている場所の地名だ。生前の記憶とは大分違うようではあるが、名称等はそのままだ。

 急ぎ足で多くのサラリーマンが移動していく中、俺とグレイの二人は待ち人がやって来るのを待っていた。予定の時刻まで残り五分、煙草の一本でも吸おうかとポケットから箱を取り出し、直ぐにこの場が禁煙指定されている看板を見つけてポケットへと戻した。全く、住みにくい世の中になったものだ。

 

「ねえおじさん。どうして私のBARは持ってきちゃいけなかったの?」

 

 唐突なグレイの質問に、俺は苦笑する他なかった。

 

「俺のイーグルくらいの大きさならまだしも、BARなんてデカブツ持ち込むのは苦労するんだ。バラライカなんかはホテル・モスクワ経由で簡単にやっちまうみたいだけど、生憎と俺にはそんな後ろ盾はないんでな。それで我慢してくれ」

 

 グレイは多少不満気な表情を浮かべながらも、ダッフルコートの内側に隠し持った 武器(エモノ)をコートの上から触れる。

 今回俺がグレイに持たせたのはドイツ原産のPDW、H&K社のMP7だ。全長340ミリ、装弾数最大40発。特筆すべきはその重量。1.6キロと隠匿性と携行性に特化したこの銃は要人警護の現場なんかでは好んで使用されている。

 因みに今回パスポートなどの渡航に必要なものは全て偽造品を使用している。張に頼んで作ってもらったのだ。

 

「まあBAR(あの子)と比べると少し物足りないけれど、仕方ないわね」

「そもそもそんな物、使わないに越したことはないんだけどな」

 

 だがそうも言っていられない状況になる可能性は否定出来ない。今回の依頼主と内容が内容だ。平和ボケした日本で血腥い荒事を起こしたくはないが、俺の思惑なんか無視してそういった厄介事はやって来る。本当に俺は何かに呪われているんじゃないかと疑いたくなるほどだ。

 どうか今回は何事も起こらず、平穏無事に仕事が片付きますように。

 そんな叶うはずもない願いを浮かべていると、俺たちに近づいてくる人物が二人。どう見てもヤの付く人たちの格好をしたまだ若い男二人だった。二人は依頼主から俺の特徴を聞いていたのか、別段迷うこともなくまっすぐと俺の目の前にまでやって来る。

 

「失礼、おたくがウェイバーさんですかい」

「ああ」

「失礼ですが、隣のお嬢さんは?」

「助手だ」

 

 俺の言葉に男はちらりとグレイに視線を向けるが、特に何かを言うことなく再び俺へと視線を戻した。どうやら今俺と話をしている短髪角刈りの男が後ろに控えている茶髪ロン毛よりも地位が高いようだ。こうしている今も茶髪の男は二歩ほど下がった所で不動を貫いている。

 角刈りの三十代程だろう男は、俺に一度頭を下げて。

 

「この寒い中お待たせしてしまい申し訳ない。自分は若頭をやらしてもらってる東堂言います。続きの話は車内でさせてもらっていいやろうか」

「構わない。グレイは寒さには慣れてなくてね」

「そうですかい。なら直ぐに車を着けさせます。オイ哲」

 

 哲と呼ばれた茶髪の男は返事の後、踵を返してどこかへ走っていった。

 

「そこのパーキングに車があります。今こちらに寄越しますんで」

 

 数分後、黒塗りの高級車が俺たちの前に停まる。

 後部座席のドアを東堂が開き、グレイを押し込んでから俺も車内のシートに腰を下ろした。助手席に東堂が乗ったところで緩やかに車が発進する。

 

「これからどこへ?」

 

 俺の問い掛けに、東堂はミラー越しに答える。

 

「自分らのとこで組長(オヤジ)に会ってもらいます。まぁ、香砂会の屋敷でさ」

 

 

 

 2

 

 

 

『ロックかい? 頼んでた基盤は手に入りそう?』

「ああベニー。明日足を伸ばしてみるよ、今日は一日バラライカさんと一緒なんだ」

『通訳に使うなら知った人間の方が気が休まるってことなんだろうね。楽しんできなよ』

「そうするよ」

 

 公衆電話の受話器を片手に、ロックは電話ボックスの外へと視線を移す。

 下がってきていた鉛色の空から、雪が降り始めていた。どうりで寒いわけだとロックは納得する。

 

『レヴィはどうしてる?』

「文句ばかり言ってるよ。カトラスを持ち込めなかったのが気に入らないみたいだ」

『ウェイバーから貰ったものだからね。片時も手放したくないんだろう』

「だと思う。……そろそろ時間だ。また電話するよ」

 

 そう言って受話器を置く。

 外へ出ると刺すように冷たい空気が全身を襲った。身震いしながらレヴィのところへと戻る。彼女はいつものように露出の多い服装ではなく、日本に合わせた冬服を着用している。フード付きのジャケットに黒タイツとチェックのスカート。頭には黒のニット帽姿の女ガンマンの姿は、ロックの目にはとても新鮮に写った。

 そんな彼の視線に気がついたのか、レヴィは戻ってきたロックのほうをちらりと見る。

 

「降ってきたな、雪。NYじゃもっと酷い降り方してた。まぁでも懐かしいな、雪を見るのはあの街を出て以来久しぶりだ」

「日本はどうだ?」

「何人かにナンパされた。しゃべり返すと変な顔して「ガイジン」を連発しやがる。ムカつく国だ」

「日本語話せるだろレヴィ」

「ありゃボスと話すために覚えたもんだ。ボス以外と話す時にゃ使わねえ」

 

 歌舞伎町。それが今ロックとレヴィの居る場所だった。

 この町の一角に居を構えるクラブ。そこでバラライカと相手方とが顔を合わせる手筈となっている。ロックはバラライカの言葉を通訳するために日本へ連れてこられたのだ。レヴィはその護衛としての付き人である。

 

 午後八時。定刻通りに顔合わせは始まった。

 丸テーブルを囲むように設置された五人掛けのソファが二つ。一方にはホテル・モスクワが、もう一方には話を持ちかけた関東の極道、鷲峰組が着いている。

 鷲峰組の席の真ん中に座る男、坂東が口火を切った。

 

「今日が初顔合わせですな。遠いところをよくお越しで、こっちがうちの組員です。お名前は、えーと」

 

 言葉を詰まらせる坂東に、ロックはすかさず助け舟を出した。バラライカへと言葉を伝え、彼女の言葉を日本語で坂東へと聞かせる。

 

「バラライカで結構です。ラプチェフ氏よりお話は伺っています。我々は長らく東京に拠点を置きたいと考えていました。ご協力感謝します」

 

 葉巻を持ちながら優雅な笑みを浮かべるバラライカに、坂東も口角を吊り上げる。

 

「おたくんとことうちらが組んだら怖いもん無しだ。関東和平会はとにかく外人を閉め出したがっててね、ラプチェフさんもそうやって追い出された口だ。一つ鷲峰組が助け舟を出そうと思いましてな」

 

 そう言って坂東は目の前に置かれたグラスを呷る。

 バラライカは僅かに眼を細めて。

 

「鷲峰組も、関東和平会の筈ですが?」

「……極道ってのは何よりも義理と人情を大事にする。ただね、それにも限度ってもんがあるんですよ」

 

 背凭れに預けていた背を起こし、煙草を灰皿へと押し付ける。

 

「親の香砂会にゃあ大層な額の上納金を入れてる。和平会にも随分尽くしてきたつもりですよ。それがいつまでも義理場で末席じゃああんまりでしょうが」

「利害は一致していますよ坂東さん。貴方がたは我々の力を背景に勢力の拡大を図る。我々はこの街に一つ、新たな灯を点す」

 

 すんなりと話が進んだことに一瞬呆けた表情を浮かべた坂東だったが、言葉の意味を理解して不敵に笑う。

 

「話が早くて助かる。おたくらの力で香砂会を抑えてくれりゃあ、和平会もイヤとは言えねえ。うちの代紋も株も上がるぜ。おたくら、ロシアの連中の中でも一等鉄火場に慣れてるらしいが」

 

 坂東の言葉を英語に訳し伝えるロック。その言葉を受けて、バラライカはボリスに視線を向けた。その視線の意味するところを正確に理解しているボリスは、無言で内ポケットから携帯を取り出してそれをバラライカへと手渡す。

 

「我々の力、ですか」

 

 折り畳み式の携帯電話を開き、片手で器用にキーを押しながらバラライカは続けた。

 

「我々の力はこの国のそれと比べ物になりません。我々は軍隊なのですよ坂東さん。それを今からお見せしましょう」

 

 携帯を耳に宛てがい、彼女はロシア語で何かを話し始める。何らかの指示を出している、ということはロシア語を理解できないロック、そして坂東も感じ取ることが出来た。

 指示を出し終えたのか、バラライカは携帯を耳から離し、それを顔の前でパタンと閉じた。

 直後。爆発音と地響きがクラブを襲う。地震でも起きたかのような揺れが数秒続き、次いで外から悲鳴が聞こえてくる。坂東は正面に座るバラライカから視線を外さぬまま、低い声で呟いた。

 

「……あんたらの仕業かい」

「そう。香砂会の持つクラブを一件、手始めに吹き飛ばしました」

「吹っ飛ばしたぁ!? てめえ何考えてやがる!」

 

 坂東の隣に着いていたパンチパーマの男が声を荒げる。まさかいきなりこんな荒事を起こすとは思いもしなかったのだろう。その顔には若干の焦りが浮かんでいる。

 しかしそんな男の声にも、バラライカは表情一つ崩さない。

 

「拳銃で威嚇などお話になりません。初陣で力を見せつけます。これが我々ホテル・モスクワの示威行動です」

 

 バラライカの口から紡がれる言葉を、ロックは内心で畏怖しながら日本語へと訳す。

 

「――――我々は、立ち塞がる全てを殲滅する。そのためにここに来たのですよ?」

 

 日本の極道とは根本から思想が違う。仁義も何も存在しない。あるのはただ一つ、邪魔者はすべからく排除する。自分たちの行先に立ち塞がる障害は、どんな手を使ってでも。

 ホテル・モスクワのやり方に言葉を詰まらせるパンチパーマの男に代わって、坂東が小さく笑いを漏らした。

 

「は、はは。いいじゃねえか。鷲峰組の喧嘩始めにゃ一等の大花火だ、気に入ったよバラライカさん」

 

 

 

 3

 

 

 

 渋谷の街中を抜けてやって来たのは、見るからに大きな屋敷だった。

 香砂会。その会長である香砂政巳が住むこの屋敷には、その構成員の一部約百名が腰を据えている。純和風の門の前で停車した高級車から降り、目の前の扉がゆっくりと開かれる。

 

「こりゃ大層なお出迎えだ」

 

 門の先には、通り道を挟み構成員たちがずらりと並んで立っていた。

 俺や隣のグレイに視線を向け、腕を後ろに組んだまま直立不動を貫いている。いや、これ視線向けられてるというよりはガン飛ばされてるって方が表現としては正しいか。なんだ、一応こっちが依頼されてる側なんだぞ、だってのに依頼側の部下がこんなのでいいのか。躾も碌に出来ないようじゃあ、香砂会の底が知れるってもんだ。

 そんな俺の思いを知ってか知らずか、同乗していた東堂が俺たちを先導するように歩き始める。

 あ、東堂には頭下げるのな。そこらへんの上下関係はしっかりしてんのかよ。

 

「こちらです、どうぞ」

 

 そう言われ、俺とグレイは左右に並ぶ構成員たちの視線を一切無視しながら屋敷の中へと入っていった。

 

 案内された一室へ入ると、そこには和服姿の男がソファに腰掛けていた。

 和室に不釣り合いなソファに背を預けるこの男が、今回俺へと依頼を取り付けた香砂会の組長、香砂政巳なのだろう。俺が入ってきたのを見るなり立ち上がり、握手を求めてきたこの男の後ろにはボディガードらしきスーツ姿の男が控えている。

 

「どうもお初にお目にかかります。香砂会組長の香砂政巳と言います、遠いところをよくお越しで」

「どうも香砂さん。ウェイバーです、こっちは助手のグレイ」

「こんにちはおじさん」

 

 組長に勧められ、俺とグレイは対面のソファへと座った。俺たちをこの部屋まで案内した東堂は部屋の外で待機しているのか、麩越しに立つ姿が見える。 

 

「さて、早速ですが話を伺っても? 今回こちらに依頼した仕事というのは」

「ああ、それなんですがね。おたくはこの辺りの情勢については?」

「全く」

「じゃあそこから説明しましょう。関東和平会って組織がありましてね、まあこれはうちみたいな組がいくつも集まって作られてるもんなんだが、その組の中で不穏な動きを見せてる組があるんですよ」

 

 取り出した煙草の煙を上に吐き出しながら、香砂政巳は続ける。

 

「うちは和平会の中でも位が上でね、いくつかの組織を束ねてるんですわ。その中の一つに鷲峰組ってのがあるんですが、どうもそこが裏切りを企ててるみたいでねえ」

「裏切りというと?」

「早い話が親に噛み付いて稼ぎ奪おうってことですわ。極道ってのは義理人情が何よりも大事だ、今まで世話してきてやった親裏切って勢力拡大しようと考えてるんなら、仕置が必要でしょうよ」

 

 そこでおたくの出番だ、と香砂政巳は俺を見て。

 

「おたく、これまで一人で鉄火場を渡り歩いてきたんだろう? 自慢じゃあねえが香砂会はここらじゃ一番大きな組織だ。うちがおたくのバックに付かせてもらうよ、そうすりゃこの国でも仕事がしやすくなるし、何かと横流しもしてやれる。悪い話じゃないと思うんだが」

「その代わりに、その鷲峰組を潰せと?」

「そこまでは求めちゃいないさ、ただ歯向かうような真似をしないよう圧力をかけてくれればいい。おたくはロアナプラの中でも指折りの強者(つわもの)なんだろう?」

 

 つまり香砂政巳はこう言いたいらしい。

 香砂会が俺のバックに付いてやる代わりに、鷲峰組を粛清して欲しいと。

 子分の動きを迅速に察知しているのは流石と言うべきだろうか。しかしそもそもの疑問として、どうして俺に依頼を寄越してきたのかということである。子分を締め上げるなんて、親の香砂会なら造作もないことだろう。規模からして違うのだ。構成人数に何倍もの開きがあるのだから、何を躊躇することがあるというのか。

 

「自ら直接行えばいいのでは?」

 

 俺の質問に、香砂政巳は後頭部を掻いた。

 

「それなんですがね、どうも向こうはロシア人に助太刀を頼んだようなんですわ」

「……ロシア人?」

 

 ぴくりと眉が動く。俺の中でロシア人と言われて真っ先に思い浮かぶのは、あの女しかいない。

 

「何でもそいつらはおたくと同じロアナプラの奴ららしくてね。対抗するには同じロアナプラの人間、それも一等鉄火場に慣れてる人材が必要だったわけです」

「それで俺に依頼を寄越したと」

「そういうことです」

 

 ここまでの話を聞く限り、非常に嫌な予感がする。

 まさか日本に来てまであいつらとドンパチするような事にならないだろうな。

 

「……そのロシア人とやらの名前は分かりますか?」

「いやそこまでは分からねえが、なんでもロシアン・マフィアだとか」

 

 うわ終わった。

 

組長(オヤジ)、ちょっと」

 

 と、愕然としている俺の前を先程まで外で待機していたはずの東堂が横切る。そのまま香砂政巳の横まで行くと、何かを耳打ちして即座に出て行った。

 耳打ちされた香砂政巳の表情は険しく、眉間には何本も皺が寄っている。

 

「何かあったんですか」

「ああ、いや。うちのクラブが一件爆破された。おそらくは連中の仕業だろう」

 

 爆破。日本の人間ではまず使わない手段だろう。猟奇的犯行を好む狂人ならともかく、基本的に日本の極道や暴力団は初手から強力な手札を切らない。拳銃やナイフで脅しをかけるところから始まるのだ。開幕早々こんなことを仕出かすのは海外のマフィア連中、しかも周囲に気づかれることなく準備を終える手際の良さとなると、十中八九バラライカたちの仕業だろう。あいつら本気で東京を戦場にするつもりか。

 頭が痛くなってきた俺とは対照的に、隣に座るグレイはやけに嬉しそうだ。

 

「どうした?」

「日本ってロアナプラみたいなのね」

「違うからな。絶対違うからな」

 

 

 

 4

 

 

 

「ヤクザの連中よ、全員腰抜かしてやがったな」

「久しぶりに戻ってきたのにあんまりだ。俺の国を戦場にしないで欲しいよ」

 

 都心を走るタクシーの後部座席に二人並んで座るロックとレヴィ。自分の故郷を戦場に変えられるロックは心なしか顔が青い。対してレヴィはそこそこ機嫌がいいのか、いつもよりも幾分か口調が柔らかかった。

 

「姉御、上機嫌だったぜ。ここ最近はロアナプラで大したドンパチやってなかったからな」

「どうかしてるよ」

「ウォーマニアックスなんだ。アフガンで大事なところのネジを落としちまってんのさ」

 

 ゆっくりと走行するタクシーの窓ガラスから外を眺めるレヴィは、ふと気になるものを発見した。

 視線はそちらへ向けたまま、ロックの袖をちょいちょいと摘む。

 

「なぁロック、ありゃなんだ?」

「ん、ああ。縁日が出てるな、年始だからね」

「カーニバルか、観覧車が見えねえな」

「そんな大それたもんじゃないよ」

「面白そうだ、行ってみようぜ」

 

 言うやいなや、レヴィは運転手に英語で停るように告げる。慌ててロックがその旨を伝えると、運転手はすぐに車を停めた。

 タクシーから降りて神社の敷地内へと足を踏み入れる。

 しばらく歩くと脇にいくつもの露店が出ており、少ないながらも参拝客の姿が見られた。どこか懐かしさを感じながら露店を一つずつ眺めるロックを置き去りにして、レヴィはとある露店へと駆け寄った。

 置いてあった銃を手に取り、店主に小銭を放り投げる。的屋だ。

 ロックは向かいの露店でたこ焼きを買い、それを口に含みながら彼女のもとへと歩み寄る。見れば既に幾つかの的は倒されレヴィの手元にあった。

 

「二挺拳銃《トゥーハンド》の面目躍如ってとこだな」

「あたぼうよ。あたしを誰だと思ってンだ。銃を持たせりゃ天下無双のレベッカ姉さんだぜ」

 

 言いながら玉を放つ。これで四つ目だ。

 

「カトラスがありゃあ三秒で店仕舞いにできるのによ」

「勘弁してやってくれよ。店のおじさんが泣いちゃうだろ」

「しょうがねえ。この国じゃそうそう暴れられねえからな」

 

 最後の玉を放ち、一番大きな景品へ吸い込まれるように命中する。重りでも仕込んでいたのか明らかに倒れないようにされていた筈のその景品はしかし、レヴィの命中精度の前には意味がなかった。ぐらぐらと前後に揺れたあと、糸が切れたように下へと落ちる。あんぐりと口を開けたままの店主に向かって、レヴィはニヤリと笑って見せた。

 

 獲得した戦利品を抱えながら、レヴィは屋台で買ったフランクフルトを頬張る。

 

「これが五ドルたあぼったくりもいいトコだな」

「そういうものなんだよ、露店っていうのは」

 

 設置されていた長椅子に腰を下ろし、豚汁を持ったロックは笑う。

 そんな彼と背中合わせで座るレヴィは、先程までよりも声のトーンを落として彼に問う。

 

「……いいのか?」

「なにが」

「何がじゃねえよ。ここはお前の国なんだろ? 誰かいるんじゃねえのか、お前の家族とか会いたい奴がよ」

「……詮索屋は嫌われるんじゃないのか?」

 

 ロックの言葉に、レヴィはぶっきらぼうに答える。

 

「別に。何か考え事してたみたいだからよ、どう思ってンのかってな」

 

 背中合わせのまま、ロックは無言で空を見上げた。いつの間にか雪は止み、雲の切れ間から僅かな月明かりが漏れている。

 

「……あの船の上でレヴィに銃を向けられてから、もう一年だ。どういうわけかな、俺のよく知る場所の筈なのに、ここが全く知らない場所みたいな気がしてね」

 

 実は日本に来る前に考えてたんだ、とロックは打ち明ける。

 

「俺のどこかにまだ残っている未練。こいつを断ち切らなきゃ、俺はこの先一生中途半端な人間で終わるような気がする。だから戻ったらこうしよう、ああしようって色々考えてた」

「…………」

「なのにいざ来てみたら、驚く程簡単にその未練が無くなったんだ。会える家族が目と鼻の先にいるのに、そんな気が起きない。案外俺は、どうでもいいと思ってたのかもしれないな」

 

 ロックの独白を、レヴィは彼の向かいで聞いている。口を挟むことはせず、彼女もまた上空へと視線を投げる。

 

「俺には ロアナプラ(向こう)の生活の方が性に合ってるんだろうな。余計な(しがらみ)の無いあっちの世界が」

「……未練は無えんだな?」

「ああ」

「だったらもう聞かねえよ。お前が決めたことだ、あたしが一々口出しすることもねえ」

 

 この話をこれ以上続ける気は二人になく、そこから暫く無言のまま動かなかった。

 背中合わせのまま座る二人だったが、不意にレヴィが立ち上がる。

 

「レヴィ?」

 

 唐突に立ち上がったレヴィを見れば、先程までの表情を一変させて境内の入口のほうを睨み付けている。

 一体何があるのかとロックも同じ方向を見てみれば、視線の先にはサングラスを掛けた男と学生らしき少女が並んで歩いている姿。特におかしなところはない。

 だがレヴィはその二人、正確に言えば男の方を見続けている。

 向こうもこちらの存在に気がついたのか、睨み付けるようなレヴィを男はただ見つめていた。ロックは何が何だか分からないまま目を白黒させているが、件の二人の距離は次第に縮まり、やがて目の前にまでやって来た。

 男の横に居た少女もオロオロしているが、残念なことにロックにはどうする事も出来ない。

 

I know this stench well.(知ってる匂いだ)

 

 不意にレヴィが口を開く。その顔は獰猛に歪められている。

 男は恐らく英語が理解できていない。故にレヴィがどんなことを言ったのか分からないだろう。だが、その言葉の意味は理解できずとも、互いの身を置く場所が同じであるということは本能の部分が嗅ぎ取ったようだ。

 

「何を言ってんのかぁ分かんねえが、お前さん、堅気じゃアねぇな」

 

 一気に剣呑な空気が渦巻く。

 それに焦ったのはロックと少女である。どうにかして知人を諌めようと、あの手この手を考える。

 その結果、二人はほぼ同時にとある結論へと辿りついた。

 

「「あの、甘酒飲みませんか」」

 

 

 

 5

 

 

 

 香砂政巳の屋敷を離れ、タクシーで宿泊ホテルへと向かう俺とグレイ。

 だったんだが、途中で縁日を見つけたらしいグレイが見ていきたいと駄々をこね始めた。

 確かにそういったものに興味を持つ年頃ではあるが、今までのグレイの所業を考えると些か浮いてしまうような気がしなくもない。まぁ、それこそこれまで血腥い世界に居たのだから、今日くらいは平凡な世界を満喫してもいいのではないだろうか。

 とかなんとか考えている間にグレイは扉を開けてタクシーから出て行ってしまった。

 俺は運転手にここで待っていてくれと伝え、グレイの後を追って境内へと入っていく。

 

「見ておじさん。たくさん食べ物が置いてあるわ」

「それ売り物だからな、買ってやるから勝手に取るなよ」

 

 楽しそうにあちこちを見回すグレイの数歩後ろを付いていく。

 少し長めの階段を登りきると、そこにも幾つもの露店が顔を出していた。射的や焼きそばという代表的なものから、この時期に誰が食うんだと突っ込みたくなるかき氷なんてものまで実に様々だ。

 俺としては寒さを和らげるためにおでんなんていいと思うんだが、グレイはさっきから目の前でくるくると作られる綿菓子に夢中のようである。

 

「ねえおじさん! この白いのはなあに?」

「綿菓子だな、甘いぞ」

「私これが食べたいわ」

 

 そう言うグレイのために綿菓子を購入し、彼女に手渡す。

 初めての食感と味に最初は驚いたようだが、気に入ったらしくぱくぱくと食べ進めていく。何だか餌付けしている気分だ。

 綿菓子片手にご機嫌なグレイとともに更に境内を進んでいくと、甘酒の店を発見した。おでんもいいが甘酒も捨てがたい。これでアルコールが入っていれば尚の事いいんだが、流石にそこまでは望まない。

 甘酒を買おうと歩を進めるうち、俺は店の近くに屯する四人を見つけた。

 …………いや、俺の見間違いだろう。まさかそんな筈はない。

 ごしごしと目を擦ってもう一度見てみる。

 ……どうしてあいつらが此処に居るんだ。

 そこに居たのはロアナプラに居るはずのレヴィ、そしてロック。グレイも二人の存在に気がついたのか、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている。

 

 と、どうやら向こうもこちらの存在に気がついたようである。

 満面の笑みを浮かべたと思ったらグレイを見て突如言い表せない複雑な表情を浮かべるレヴィ。そして飲んでいた甘酒を盛大に噴き出すロック。

 俺の一日は、まだ終わりそうにない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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015 犇めく悪党達は交わる

 6

 

 

 

 ウェイバーやバラライカがロアナプラを離れ日本へと赴いている頃、悪徳の都の一角。三合会の私有地に建てられたビルのワンフロアにあるプライベートプールの片隅で、バスローブ姿の男がデッキチェアに横になっていた。

 張維新。

 香港マフィア三合会のタイ支部長である。

 彼は横のテーブルに置かれた洒落たカクテルに手を伸ばしながら、今頃は日本に到着したであろう男の顔を思い浮かべる。

 ウェイバー、黄金夜会の一角たるロアナプラ筆頭の悪党。その男を日本へ向かうように仕向けたのは、何を隠そう張だった。

 元々香砂会は和平会経由で三合会に依頼を出していた。しかし対立先にホテル・モスクワがいることを知った三合会の上層部はこの依頼を受けなかった。尤もな判断だ。何が悲しくて日本などという島国で啀み合わなければいけないのか。

 だがこれに待ったをかけたのが香砂会である。

 ロアナプラという街がどれほど深い闇を抱えているのか、日本に居ながら多少は聞きかじっている彼らは、敵対者にその悪党がいることに酷く狼狽えていた。故に何としてでも同じ土俵に上がりたい香砂会は、三合会を更に経由してロアナプラ内でホテル・モスクワと渡り合えるだけの戦力を欲したのだ。

 その結果白羽の矢が立てられたのがウェイバーだったというわけだ。

 当然のことながら、張はこれらの情報をウェイバーには意図的に伏せている。敵対する組織がホテル・モスクワに助力を求めたことも、香砂会がホテル・モスクワ共々粛清しようと考えていることもだ。ウェイバーに伝えてあるのは日本のとある組織の手伝いをして欲しいということだけだ。よくもまぁこれだけの情報で彼も依頼を受けたなと思うが、基本的に彼は頼まれた依頼は断らない。それこそ十年前は近所の猫探しから飲食店のヘルプまで幅広く依頼を受けていたのだ。今更それを言ったところでどうしようもない。

 ウェイバーの手綱を握っている、という認識を張はこれっぽっちも持っていない。

 実際この程度で彼を制御できるというのであればどれだけ気が楽だっただろう。自身が定めたレールの上を、ウェイバーが完走したことなど一度もない。必ずどこかで脇道に逸れる。その理由は様々だが、大抵は無意味な人助けだ。彼の思考がどこで切り替わっているかは定かでないが、どうもウェイバーにはそういう余計な部分を好む傾向があるらしい。

 それでいて最終的には定めたゴールに到着するのだからタチが悪く、結果的に依頼はきちんとこなしてみせるのだ。

 思考が読めない。故に彼の行動も読めない。

 そんな奴は、香港にだっていなかった。そう張は独りごち、小さく笑う。

 ウェイバーを日本へ向かわせたのにはもう一つ理由がある。ホテル・モスクワへの牽制だ。

 ここ最近、バラライカはロアナプラで少々事を大きくし過ぎている。ヴェロッキオの時然り、今回の日本での行動然り。黄金夜会の中でどこかが突出するというのは現状好ましくない。だからこその人選だ。

 バラライカはウェイバーとの衝突を避けている節がある。その理由をよく知っている張は、無言の圧力という意味でウェイバーを選んだのだ。

 恐らくバラライカは直ぐに張の意図に気付くだろう。ウェイバーが敵対している組織の側にいて、且つそれを手引きしたのが三合会となれば、この二つの情報だけで正確にその意味を理解するはずだ。

 

「困るんだよバラライカ。今ここでお前たちに先を行かれるのは」

 

 空になったグラスを置いて、静かに零す。

 ウェイバーとバラライカ、二人が居ないことでどことなく平穏を感じさせるロアナプラの景色が、窓の外に広がっていた。

 

 

 

 7

 

 

 

「おいクソチビ。さっきからボスにくっ付きすぎなんだよ、もっと離れろブッ殺すぞ」

「嫌だわキャンキャン吠えて。私はおじさんの助手ですもの、傍に居るのは当然のことよ?」

「何が助手だフザけんな。それと今週分のブツがまだ来てねえぞどぉなってんだ」

「あらゴメンなさい。そう言えばまだだったわね、はいコレ」

「…………今日の所は勘弁してやる」

 

 俺の視界の隅っこで行われるやり取りはさておき、取り敢えず一言言わせていただきたい。

 一体これはどういう事なんだと。

 俺の心情を察してか、隣に座り甘酒を啜るロックの表情は居た堪れないものだった。

 

「まさかロックがバラライカの通訳として帯同してるとはな」

「お、俺もまさかウェイバーさんが日本に来てるなんて知りませんでしたよ。どうしてここに? しかも助手まで連れて」

「ん、まあ俺の仕事でな」

 

 言って、正面の出店で買ったまだ温かい甘酒を流し込む。

 当たり前だが、ロックには俺が香砂会に仕事を依頼されているなどと話していない。守秘義務があるのだから当然だが、なんせロックは俺からしてみれば敵対している組織側に付いている人間だ。不要な情報を与えたくないのは本当だが、話を拗れさせたくないというのもあった。

 

「バラライカさんはウェイバーさんが日本に来てるのを知らないと思いますよ」

「そうなのか?」

「はい。日本に来る前にそんなことを言ってましたから」

 

 張め、バラライカには伝えてなかったんだな。確かに敵対しますなど堂々と言えたもんじゃないが。

 

「ま、お前らにはお前らの仕事があるんだろ? 俺もこの仕事片付けたらすぐに向こうに戻るつもりだ。それまでは精々祖国を楽しんでおけよ」

「ウェイバーさんは、どこの出身なんですか? 俺は東京ですけど」

「奇遇だな、俺もだよ」

 

 ま、生きてた時代は違うだろうがな。

 

「ところでだ」

 

 そこで一度言葉を切って、俺は背中合わせで甘酒を飲む少女とその横に鎮座する強面の男に視線を移して。

 

「お嬢さんがたはロックたちの知り合いか?」

「あ、いえ。この人たちとはここで知り合ったんです」

 

 俺の質問にロックが答える。

 

「そっか。お嬢さんも高市を見に?」

「あ、そうなんです。一応知人が的屋をやっていて、それのお手伝いにと思ってたんですけど」

「悪いな、あの眼付悪いのが揉め事起こしたみたいで」

「いえ、銀さんもいましたし」

 

 最初に少女を見、そして視線だけを横の男へと向ける。

 ……臭うな。第六感とでもいう部分が警鐘を鳴らす。無言で座る男からは、ロアナプラで嗅ぎ慣れた臭いが漂っていた。

 男は俺の視線に気付いたのか、くるりと首を回して俺の顔を覗き込んだ。ここで初めて正面から男の顔を見る。刈り上げられた短髪にサングラス。如何にもな風貌な男は、俺を見るなりその表情を一変させた。眼を見開き、次いでゆっくりと細めていく。

 男は何かを言おうと口を開きかけ、しかし言葉を発することは叶わなかった。

 俺の横合いから、レヴィが飛び込んできたからだ。

 

「にしてもよぉボス! こっちに来るんなら教えてくれりゃ良かったじゃねえか。そうしたら一緒のホテルにも泊まれるしさ」

「俺にゃ高級ホテルは合わないよ、安物のモーテルのが性に合ってる」

「んなこと言わねえでさぁ」

 

 ロックを押しのけ隣に陣取ったレヴィは、ズボンの裾をぐいぐいと引っ張りながら下から覗き込んでくる。

 レヴィの懇願も、俺が香砂会に雇われていると知らないからこそのものだろう。鷲峰組と衝突している組に雇われたと知ったらこんな真似はきっとしない。代わりにレヴィが鷲峰のほうを抜けてくるかもしれないが。いや、それこそまさかか。バラライカがそれを良しとする筈が無い。

 

「悪いなレヴィ。俺もグレイもそろそろ戻るよ、明日も忙しいからな。お嬢さんも、気をつけて帰りな」

 

 尚も渋るレヴィを引き剥がし、綿菓子を堪能し終えたグレイの手を取ってゆっくりと歩き出す。

 そして待たせていたタクシーに乗り込んだところでふと思い出す。

 そういえば、あの二人には名前を聞いていなかったなと。

 ま、いいか。

 

 

 

 8

 

 

 

「行っちゃったな、ウェイバーさん」

「クソッ、ボスが来てるって知ってりゃおんなじホテルを選んだのによ」

 

 ウェイバーとグレイの後ろ姿が見えなくり、ロックとレヴィもベンチから立ち上がる。バラライカの通訳として日本に来ている以上、彼女が仕事を遂行しているうちは片時も彼女から離れることは出来ない。朝から通訳が必要だと言われれば、ロックに断る権利はないのだ。

 飲み終えた紙コップをゴミ箱に放り投げ、いざ立ち上がろうとした所でロックは声を掛けられる。

 

「さっきの旦那、あんたの知り合いかい」

 

 少女の横に座る男からの質問に、ロックは肯定の言葉を返す。

 

「ええ、そうですけど」

「……そうですかい」

 

 言って男も立ち上がる。

 

「お嬢、冷えると身体に障ります。そろそろ行きやしょう」

「あ、はい」

 

 次いで少女も立ち上がり、ロックとレヴィに頭を下げて男の隣を歩き出す。

 ロックはその後ろ姿を、なんとはなしに見つめていた。

 

「……どうしたんですか?」

 

 神社を後にし月明かりが仄かに照らす夜道を歩く少女、雪緒が尋ねる。 

 その質問の答えに困っているのか、隣を少女と同じ歩幅で歩く男の表情は優れない。そんな表情を滅多に見せないものだから、尚の事雪緒は気になってしまった。

 

「銀さんがそんな顔をするなんて」

「いえ、お嬢が気にするようなことでは……」

「言いたくないなら、別にいいんですけど」

 

 そう言われてしまっては男、松崎銀次にはどうすることも出来なかった。

 本来ならきっと、少女にするような話ではない。極道の娘とは言えまだ高校生、二十にも満たない少女にするには刺激の強すぎる話だと理解している。だが少女は欲している。自身の悩みを聞き出そうとしているだけなのかもしれない。そんな軽い気持ちで答えを待つ彼女は、動揺してしまうかもしれない。

 だが、銀次の全ては彼女のためにある。

 

「……さっきのあの男」

「ええと、それは最初に会った?」

「いえ、銀髪の嬢ちゃんを連れてた方です」

 

 ああ、と雪緒が納得の声を漏らす。

 

「あの旦那、気を付けたほうがいい」

 

 どう伝えればいいものかと悩んで、結局はこう言うしかなかった。

 あの男と視線が合った瞬間、銀次は驚愕していた。まさかこんな所であんな眼をした人間と遭遇するとは露程も思っていなかったからだ。最初に遭遇した女もかなり血腥い経歴を持っていそうだったが、あの男はその桁が違う。男そのものが深く暗い闇の底のように、得体の知れない悍ましさを感じさせた。

 同類、それも手練なんて言葉で一纏めにはできない相当の。

 そんな男を前にして、銀次が抱いた感情は狂喜だった。理性が正常に働いていなければ、あの場に雪緒が居なければ。即座に斬りかかっていたかもしれない。

 どんなに外面を取り繕ったところで所詮は己も獣。強敵がいれば戦ってみたいと思ってしまうのは仕方のないことだった。

 

「どうして?」

「……危ねえ臭いがしやがるんです」 

 

 ありゃ化物の類だ。その言葉を飲み込んで、銀次は大きく息を吐いた。

 

 

 

 9

 

 

 

 ホテルの一階に設けられた食事スペースの一席に、三人のロシア人が顔を突き合わせる。

 一人はバラライカ。一人はボリス。そしてもう一人は同じホテル・モスクワの幹部、ヴァシリーという口髭を生やした男だった。

 バラライカの前には軽めの朝食、ヴァシリーの前には肉厚のステーキが用意されているが、ボリスの前には数枚の書類があるだけで飲み物すら置かれていない。

 

「食べないのか軍曹」

「自分は結構です」

「朝は抜くな、身体に悪い」

 

 紅茶に口を付けるバラライカは、カップを置いて。

 

「さて、状況の推移を聞こう」

「は。昨夜から襲撃対象を地下賭博場(カジノ)へ変更。二件を壊滅、損害なし。傷痕は消毒済です」

「完璧だ軍曹。別動班は」

「〇二三〇時香砂会系事務所を襲撃、殺害十二。損耗なし、負傷なし。〇二三七時までに総員撤収」

 

 その報告に一つ頷いて、彼女はボリスへと視線を投げた。

 

警察(第三勢力)の介入は」

「〇三〇五時より各作戦地区にて封鎖を開始。現状まで非常警戒態勢を継続中です」

「平和ボケした奴らには我々の尻尾を掴むことすらできんだろうな」

「警察無線の詳しい内容は鷲峰組員に記述させました。詳細はロックの翻訳を待たなければなりませんが」

「情報の確度は生死を分ける。迅速に翻訳をさせろ」

 

 と、ここまでのやり取りをテーブルに肘を付き、黙って静観していたヴァシリーが満足げに口角を持ち上げた。

 

「ふん、流石だなバラライカ。スレヴィニン頭目も一目置くわけだ、仕事も話も早い」

 

 ピタリ、とバラライカの動きが止まる。視線をヴァシリーへと向けた彼女は、汚物でも見るかのような瞳で正面に座る能無しを睨み付けた。

 

「一体誰の尻拭いをしていると思っているのかしらね、ヴァシリー」

「なんだと?」

「こんな遊び場の制圧すら碌に出来ないなんて、あなたは組織の面汚しだわ」

 

 バラライカからすれば、日本の制圧など片手間で出来るママゴトに過ぎない。アフガンを経験し、悪党犇めくロアナプラで生きる彼女は、そもそも立つステージが違うのだ。

 

「私は早くこの仕事を片付けてロアナプラに戻りたいの。あそこは火薬だらけでね、いつまでも放っておけないのよ」

 

 それだけ言って席を立ち、ボリスから上着を受け取る。

 対して面白くないのがヴァシリーだ。元来短気な彼は、好き放題言われて閉口するような男ではなかった。

 

「……調子に乗るんじゃねえぞバラライカ。俺だってな、ロシアに戻りゃあ立派な頭目の一人なんだ」

「あら御免なさい。腕より金で昇った人は印象が薄くてね。忘れないよう、ドル札に名前を書いておかなきゃ」

 

 ヴァシリーの言葉など意に介さないバラライカは、嘲笑を浮かべてそう告げた。

 事実だけに言い返せない。ヴァシリーは唇を噛み締める。彼はバラライカのように生粋の武闘派ではない。どちらかと言えばデスクワーク中心のマフィアだ。武功を立てることの出来ない彼は裏で金を使い今いる地位にまで上り詰めた。

 だからこそヴァシリーは目の前の女のことが気に食わない。

 自分に無いものを全て持っているようなこの女が。

 

「……軍人崩れの雌犬(スーカ)が」

 

 その言葉に、歩き始めていたバラライカの歩が止まる。ちらりとヴァシリーへ視線を送り、小さく溜息を吐き出した。

 

「……これ以上貴様と話すのは時間の無駄だが、忠告だけはしておいてやる。私にはこの世で我慢ならんものが二つある。一つは冷えたブリヌイ、そして間抜けなKGB(チェーカー)崩れの糞野郎だ」

 

 ヴァシリーに反論を許さぬまま、バラライカは吐き捨てる。

 

「弾にだけは当たらんよう、頭は低くして生きていけ」

 

 

 

 10

 

 

 

「すんませんなぁ、ウェイバーさん。朝早くから呼び出してしもうて」

「気にしないで下さい東堂さん」

 

 午前九時。俺は都内の小さな喫茶店でサンドウィッチを頬張っていた。助手という扱いで同行していたグレイはホテルで留守番だ。

 テーブルの向かいに座るのは香砂会若頭の東堂。薄いグレーのスーツに黒シャツ、赤ネクタイと喫茶店には少々派手な服装の彼は、少々落ち着きがないようだった。まぁ、それも無理からぬことだろう。

 聞けば深夜に香砂会系列の事務所が襲撃され、十二人が殺害されたというのだから。しかもその手口は驚く程鮮やかで、警察によれば犯行時間は僅か五分弱との見立てが出されている。加えて犯人を辿れるような痕跡は一切残されていないらしい。

 十中八九遊撃隊(ヴィソトニキ)の仕業だろう。バラライカの奴は東京を恐怖の渦に叩き込みでもしたいのだろうか。

 

「それで、組長さんはなんと」

「親父は鷲峰組の犯行だと断定して動くよう指示を出してます。警察の介入は極力避けたいとこですが、今回ばかりは事を荒立てるのも致し方なしやと」

「徹底抗戦の構えですか」

 

 昨日会った香砂政巳の印象からして、まずそうするだろうなとは思っていた。あれはかなりプライドが高そうだ。そういう人間ほど目の前の事態を軽視しがちである。

 それに比べ、この東堂という男は中々できそうだ。どうやら香砂政巳には内密に今回俺と接触したらしいが、このままでは香砂会の存続が危ういと察しての行動なんだろう。

 

「ウェイバーさん。あんたぁ向こうでロシアどもとやり合ったことがあるそうで」

「昔の話ですよ」

 

 どこから聞きつけたのか、東堂はそんな話を切り出した。

 

「聞かせてもらいたいんやが、このままうちの組がやり合ってロシア人どもを突っぱねることはできるんやろうか」

「無理でしょうね」

 

 サンドウィッチと共に出されたホットコーヒーに手を伸ばしながら断言する。

 香砂政巳をはじめとした香砂会、そして恐らくはバラライカを頼った鷲峰組もだが、彼らは根本から勘違いをしている。拳銃所持すら法で禁止された日本と悪の吹き溜まりロアナプラ。思想から違うのだ。極道だか何だか知らないが、日本刀やピストルをぶら下げて粋がるような人間の集まりと常に生と死が隣り合う場所を生きる人間とでは、価値観そのものが違いすぎる。香砂会も鷲峰組も、これから起こるだろう抗争の規模を履き違えている。一般人に被害が出ないように、なんて温い考えは直ぐに捨てるべきだ。喧嘩を売った相手が誰なのかを直ぐ様理解すべきだろう。

 

「向こうが雇ったホテル・モスクワってのは本物の軍隊だ。言っちゃ悪いがアンタらみたいな極道とはそもそもの質が違う。正面切って相対すれば、ものの数分で殲滅されるでしょうよ」

「……そこまでですかい」

「失礼ですが、ロアナプラについては」

「悪いが海の向こう側については全くだ」

 

 まぁ、そんなことだろうとは思っていた。

 香砂会がどんなルートを辿って俺にまで行き着いたのかは不明だが、張が関わっているからにはどこかで三合会、つまりは香港マフィアを経由している筈だ。ということは少なからず香砂会はそうした国外のマフィアと繋がりがあるということになる。聞いた話によれば所持している武器も海外から仕入れたものが殆どであるらしいので、規模だけで言えば成程国内に限ればそこそこのものなんだろう。

 それ故の驕りか、彼らはどこか俺たちロアナプラの人間を侮っているきらいがある。

 俺はともかく、バラライカやその私兵たちが弾丸ぶち込まれたくらいで膝をつくと思ったら大間違いだ。

 

「アイツ等と本気でやり合おうって考えてるなら、少なくともこの国の軍隊を総動員するべきでしょう、訓練も受けていない人間が束になったところで敵う相手じゃない」

 

 対等に戦える相手なんてのは同じ黄金夜会の三合会、コーサ・ノストラ、マニサレラ・カルテルくらいだ。勿論俺は除外だ、バラライカとやり合うなんて冗談でも笑えない。

 

「……おたくはロアナプラでも一等の悪党だと聞いてるが」

「俺が? まさか」

 

 東堂の言葉に、思わず笑いが漏れてしまう。俺が悪党だったら、あの街の人間は漏れなく全員大悪党になっているだろう。いやロックやメリーは違うか。

 俺は聖人君子なんかじゃないが、張やバラライカ程の悪党にまでなった覚えはない。奴らは既に悪のカリスマとでも言うべき人間だ。それに比べれば、俺なんて可愛いものだろうな。

 そんな意味合いを込めて、東堂へと言葉を投げる。

 

「俺はそんなカテゴリにゃ入んないよ」

「…………」

 

 カップに残ったコーヒーを飲み干して、ナプキンで口元を拭う。

 東堂は何を考えているのか、俯いたまま俺と視線を合わせようとしない。店内は暖房が効いて暖かいというのに、心なしか震えているようにも見える。

 冷え性なんだろうか。

 

 

 

 11

 

 

 

 香砂会系列の事務所が襲撃された。その報せはすぐに香砂会組長、香砂政巳へと届けられた。

 香砂政巳は自尊心が高い。自身が所有する事務所を襲撃され、構成員まで殺害されたとなれば顔を真っ赤にして憤慨するのは組員であれば誰でも予想できることであった。

 このままではまずい。そう直感した東堂は、朝早くにウェイバーを近くの喫茶店へと呼び出した。

 根拠や確信があったわけではない。ただ今ここで彼に事情を話さず事を進めてしまった場合、取り返しのつかない事態にまで発展するかもしれないと思ったのだ。

 待ち合わせの時間ぴったりにやって来た彼は、昨日の服装そのままだった。グレーのジャケットに黒のパンツ、上に羽織ったコートを横の椅子に掛けて正面から見る男は、東堂からはどこにでもいる一般人にしか見えなかった。

 本当にこの男がロアナプラという街に君臨する悪党の一人なのだろうか、と疑問を抱いてしまうほどに普通。

 頼んだサンドウィッチを頬張る姿も、視線の動きや動作も。少しでも裏に通ずる人間であれば無意識のうちに周囲を警戒してしまう癖すらも見られない。

 だからつい本当かどうか確かめたくて、東堂はこう質問した。

 

「おたくはロアナプラでも一等の悪党だと聞いてるが」

 

 その質問に残りのサンドウィッチを齧っていたウェイバーは、鼻で笑った。

 

「俺が? まさか」

 

 質問そのものが馬鹿馬鹿しいとでも言わんばかりの反応に、思わず東堂の表情が険しくなる。

 馬鹿にされている、と思ったのだ。そう質問することが、自身の無知さを曝け出しているのだと暗に言われているような気がした。

 だが次のウェイバーの言葉に、東堂は戦慄する。

 

「――――俺はそんなカテゴリにゃ入んないよ」

 

 悪党なんて小さな枠組みに嵌め込まれるなんて冗談じゃない、と。ウェイバーはそう言ったのだ。

 その瞬間東堂の全身を悪寒が駆け巡る。背中に太い氷柱を差し込まれたような寒気が止まらない。

 一般人にしか見えない? そう見せているだけのことだったのだ。能ある鷹は爪を隠す。それを体現していただけのこと。気が付かなかったのはウェイバーと自分にそれだけの力量差があっただけに過ぎない。

 確信が生まれる。この男は間違いなく出会った中で一番の悪党、いや極悪人だ。そう認識した瞬間ウェイバーの正面に座っていることが恐ろしく命知らずなことに思えて、東堂は視線を合わせないよう下を向いた。

 そして同時に思う。

 彼なら、この男なら。鷲峰のロシア人どもにも引けを取らないと。

 

 

 

 12

 

 

 

「うちの系列の事務所がやられた。そのことはもう知ってるとは思いますが」

「ええ、東堂さんの方から聞いてますよ」

 

 午前十一時。

 東堂との用件を済ませた俺は一旦ホテルへと戻り、グレイを連れて六本木にあるクラブにやって来ていた。

 俺とグレイの正面に座るのは香砂政巳とそのボディガードだと言う両角、そして東堂だ。

 

「だったら話は早い。うちもやられっぱなしじゃいられねえ。いっちょその腕前、見せてもらえねえだろうか」

「……俺の腕、ですか」

「ああ、ロシア人とも張れる実力だって聞いてる。是非とも力を貸してもらいたい」

 

 力ねぇ。そんな大層なものを持っているわけでもないんだが、しかし一度は受けた依頼である。断ると張の面子にも関わってくるだろうし。

 ここは適当に流すのが本当は正解なんだろうが、俺の隣で若干ウズウズしている助手(殺し屋)をこのままにしておくのも憚られる。

 

「香砂さん。俺たちの力を見たいとのことですが、それは全てを見せろということですか?」

「全て?」

「そう全て。俺が持つ戦力全てを行使し鷲峰組を壊滅させろ、そう捉えて構わないということでしょうか」

「親父」

 

 俺のその言葉に東堂が割って入る。

 何かを香砂政巳へ耳打ちして、彼はすぐに元の立ち位置へと戻った。

 

「……いや、壊滅させちまうとこっちとしても都合が悪い。あくまで奴らに身の程を教えてやる程度に収めて欲しいんだ」

「ふむ、そうですか」

 

 となるとどういった手段に出るのが最も合理的か。

 数秒考えて、結論が出る。横に座るグレイも俺と同じ結論に行き着いたようで。

 

「誘拐だな」

「誘拐ね」

 

 誘拐。どこの国のどんな場所でも通用する合理的な手段だ。

 

「誘拐ですか」

「そうです。狙いはそうだな、鷲峰組にとっての最重要人物。組長もしくはその家族がいいでしょう」

「向こうの組長はもうおらん。おるのはその娘だけだ」

「ではその娘を標的にしましょう。向こうのように系列の事務所を襲撃など回りくどいことをしなくても、上手くいけばこれで全ての問題を解決できますよ」

 

 トントン拍子に進んでいく会話の流れに向こうは眼を白黒させているようだが、こちらとしては一般人を巻き込んでの乱戦よりも余程良い手段を提示したつもりだ。警察も動き出しているだろうし、更に火種を大きくするような事はなるべくしたくはない。

 

「その娘の写真や情報はありますか?」

「すぐに用意させよう」

 

 十分程して、俺の手元に一枚の写真と個人情報が記載された資料が届けられる。

 それを目にした瞬間、俺は溜息とともに瞼を下ろす。

 まさかあの時の子が、鷲峰組の人間だったなんてな。同時に横に居た男にも納得だ。あれは何人も斬ってるだろう、血の臭いがこびり付いて離れない程に。

 

「ねえおじさん。この人」

「ああ、……あの時のお嬢ちゃんだよ」

 

 全く、ままならないもんだ。

 悪党の皮被って生きていくということが、俺にはやはり合っているのかもしれない

 あの時少し話しただけの少女を誘拐するということに、全く罪悪感を感じない(・・・・)のだから。

 写真に映る少女を眺めながら、そう嘆息した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 日本編はウェイバー視点、バラライカ視点、ロック視点、香砂会視点、鷲峰組視点、雪緒視点と目まぐるしく視点が変化するので大変ですね。
 なるべく読み手に負担にならないよう意識はしていますが、多少読みづらい場合があるやもしれません。

【朗報】
バラライカ、未だウェイバーの存在を知らず。


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016 蠢く悪意と良心の狭間で

 13

 

 

 

「銀公。景気はどないや」

「……若頭(カシラ)。何しに来たんで」

 

 冷え込んだ空気も一時的に和らぐ昼下がり。境内の一角、立ち並ぶ出店の一つの前に坂東の姿があった。

 昔ながらの、という表現が正しいだろうキャラクターのお面が並べられているが、購入するような客は滅多にいないだろうと簡単に予想がつく。実際、今日の売上は僅かに二つだけだ。

 そんな出店の前に座る銀次の隣に、坂東も腰を下ろした。

 

「そう邪険にすな、我の面ぁ見に来たんや」

 

 懐から取り出した煙草を咥え、肺に流した煙をゆっくりと吐き出す。

 

「……今日びのジャリぁよこんなモン()うたりせんよなぁ、ピコピコのほうがええんやろ」

「……そういう時代なんでしょうよ」

「のぉ銀公。何時までこないな商売(シノギ)続けるつもりや」

 

 視線の先を通っていく参拝客を眺めながら、坂東は問い掛ける。

 

「テキ屋はこいつが仕事でしょう」

「組ン中じゃ我のシノギは尻から勘定したほうが早いんやぞ。そこンとこわかっとんのかい」

 

 銀次は坂東と顔を合わせないまま、静かに口を開いた。

 

「……シャブ売ったり女売ったりするよりは、なんぼかマシじゃぁねェですかい」

 

 一瞬、坂東の動きが止まる。半分程の長さになった煙草を、地面に落として靴裏で火を消した。

 

「銀公。儂が好きでこんな商売をやっとる、そう吐かすんかい」

「…………」

組長(オヤジ)が死んでからよ、左前はずっと左前や。上納金(アガリ)も碌に収められんこんな組を残してたんは、組長が香砂んとこの先代と兄弟盃交わしてたからや。それがのうなった今、香砂会にウチの面倒見る義理はあらへん」

 

 空になった煙草の箱を、くしゃりと握り潰して。

 

「潰しとォて堪らんのよ。組長不在のまま三年も経っとるちゅうのによ、誰の就任も許さへん。代行人を抑えとるんも、もう限界や」

 

 銀次は口を挟まない。ただ坂東の話を、微動だにせず聞いている。

 

「組長に恩義があるンは儂かておんなじや。だからよ、何があっても看板だけは守らなあかん、何があっても(・・・・・・)や」

「何があっても、ですかい」

「そうや。その為にゃなんだってせなアカンやろがィ。売れるモンは何だって売る。そうして初めて立つ瀬があるってもんや」

「……組長は、そうは言ってねえ」

 

 サングラスの奥で、男の瞳が微かに揺れる。

 

「銀公、外道に手ェ出すんは極道の恥や言うてたな。けどよ、それも看板あっての話やないか? それがのうなりゃ外道も糞も関係あらへん」

「踏み込んじゃいけねえ一線ってのがある。若頭なら分かってる筈だ」

「……なぁ銀公。儂ぁ今デカイ仕事を打ってるンや。ロシア人と組んで親を刺す。そういう話よ」

「……若頭、己の言ってること、分かってるんですかい」

 

 子分が親に反逆する。それは極道の世界ではあってはならない大罪だ。

 しかしそれは坂東とて十分に理解している。そうせざるを得ないという状況に陥っている。それほどまでに逼迫しているのだ。

 

「子分潰す言うンはあっちが先や。何を遠慮することがある。ただな、ロシア人はどこまでいってもロシア人や。義侠なんて考え、連中欠片も持ってへん。だからこっちも手練使てな、締めるとこは締めなあかん」

 

 数秒の沈黙。

 冬特有の突き刺すような寒さの風が二人のコートを撫でていく。

 

「……一体、何が言いたいンで」

「己に、もういっぺん白鞘を持って欲しいんや。『人斬り銀次』をよ、見せちゃあくれねえか」

 

 数年前、ここらの界隈では人斬り銀次と言えば震え上がらない極道者はいないとされるほどだった。

 その存在故に当時の鷲峰組にはおいそれと手は出せず、組は安泰だったのだ。だが組長が死に人斬り銀次の居なくなった鷲峰組など恐るるに足らず、こうして香砂会からの圧力を受け続けるほどに弱体化した。

 それをなんとかするためにロシア人を頼ったが、やはり最後にものを言うのは同じ組の人間同士の繋がりである。

 坂東はそのために銀次を必要としていた。

 が、銀次の返答は拒絶だった。

 

「若頭、お嬢の教育費やらなんやら面倒見てくれてるのは感謝してます。言ってることも分かりやす。でもね」

 

 ここで初めて銀次は坂東へと視線を向ける。

 

「アンタの言ってることにゃ一ッ欠片も仁義が無え。あっしが組長んとこで白鞘握ってたのは、それがあったからですよ」

 

 その答えを聞いて、坂東はゆっくりと息を吐いた。

 この答え自体は予想されたものだ。松崎銀次がどういう男なのかは、坂東はよく知っている。

 

「……ほォか。しゃあない、また来るわ」

 

 言って立ち上がる坂東に、銀次が声を掛ける。

 

「若頭、そのロシア人。通訳は自前ですかい」

「ああ、そうやが。なんどいや?」

「どんな野郎で」

「ああ? 普通のあんちゃんやで。嬢ちゃん連れたな」

 

 

 

 14

 

 

 

「ねェねェもっさん。昨日の二人組何モンなんすか?」

「ん、ありゃ組長が雇った殺し屋みたいなもんだ。ほら聞いたことねえか、ロアナプラっつう街」

「へぇ、ってことはあっちの可愛い子も出来るんすねー」

 

 香砂会の屋敷。

 その厨房に立つ男たちは、昨日屋敷を訪れた二人組の話をしながら昼食の準備を進めていた。

 一人はパンチパーマにガタイの良い四十程の男、もう一人は金髪を背中まで垂らしたホスト風の青年だ。

 

「……オイ千尋。分かってるとは思うが手ぇ出すんじゃねえぞ。うちの大事なお客さんだかんな」

「わかってますよォもっさん」

「どうだかな、おめえのロリ好きは筋金入りだ。間違っても問題なんか起こすんじゃねえぞ」

 

 その言葉に、千尋は笑いを返すだけだった。

 

「でもいいっすよねぇ。俺まだ外人のガキとはヤったことないんすよ、向こうから寄ってきてくんねえかなぁ」

「ほんとおめえ顔はいいくせに性根が腐ってやがるな」

「よく言われるっすー」

 

 ほら早く味噌汁にネギ入れろ、と男に急かされ、千尋は切ったネギを鍋の中に入れていく。

 食事の準備を進める中で、しかし彼の胸中に渦巻いていたのは件の少女をキズモノにしたいという欲求だった。

 彼は世間で言うところのペドフィリアである。これまで何十人もの年端も行かぬ少女たちを壊してきた。しかしながら日本人ばかりでは流石に飽きてくる。そんな折現れたのが整った顔立ちをした銀髪の少女。しかも殺しを知っているときた。これまでの純真無垢な少女たちもいいが、そうした裏側を知っている少女を力づくで屈服させることにも強い関心を持っていた。

 香砂会の客だとは言うが、上手く誤魔化せばいいだけだろうと考える。もともと香砂会にもそうした少女たちを調達しやすいからと入ったのだ。他の連中のような恩義など千尋は持ち合わせていない。

 今日は六本木で会合だと言っていたからこの屋敷には来ないだろうが、次に出会った時は唾をつけておいてもいいかもしれない。

 

「しっかし鷲峰組も随分なことしやがる。親の香砂会に盾突くたぁな」

「鷲峰ってうちの子分なんすよね。なんでこんなことしてんすか」

「俺が知るかよ。でもま、向こうの組長が死んで面倒見る必要もなくなったからよ、潰されるとでも思ったんじゃねえの」

「潰しちゃうんすか?」

「上納金もここんとこずっと無いみたいだし、そこらへんがしっかりしてなきゃ潰されても文句は言えねえだろうな」

 

 ふーん、と千尋は聞いているのかいないのか分かりづらい返事を投げる。

 そういえば鷲峰の娘はまだ高校生ではなかっただろうか。高校生、十六、七歳あたりだろうか。

 

「無いな。年食い過ぎてるわ」

 

 

 

 15

 

 

 

 仄かな照明しか点けられていない薄暗い部屋に、鷲峰組とホテル・モスクワが顔を合わせていた。定例報告会である。

 彼らの近くでは露出の激しい服を着た女たちがポールを使用して艶かしく踊ってみせているが、そちらには誰も眼を向けない。

 

「すまねえな姐さんこんな場所で。女のあんたにゃ面白くもねえ場所だろう」

「場所も女の裸も大した問題ではありません。大事なのは仕事です。話を進めましょう。我々は順調に当初の攻略目標をクリアしています」

 

 しかし、とバラライカは言葉を続けた。

 

「祝杯を上げるにはまだ足りない。第二次段階へ移行するため、攻撃目標の転換を始めます」

「転換?」

「そう。我々は迅速な解決を求めています。前段階として資金源となる店舗、風俗店、産廃屋に対し合法的な封じ込めを」

 

 彼女の言葉に、坂東は一つ咳払いをしてから。

 

「……連中も素人じゃない。ある程度やり込めたら流石に気付く」

「勿論、これは揺さぶりにすぎません。本目標は別にあります」

「……話が見えへんな。どういうことや」

「誘拐ですよ坂東さん。目標は香砂会会長、香砂政巳の家族です。我々は既に所在も掴んでいる。実行に移すのは実に容易い」

 

 平然とそう言ってのけるバラライカ。だが坂東をはじめとした鷲峰組の表情は険しい。

 

「バラライカさん。水を差すようやが、それだけはあかん」

 

 季節外れな額に滲む汗を拭うこともせず、坂東は続ける。

 

「おたくらに求めとるんは香砂会からの圧力を緩めるようにする、そういう喧嘩や。適当に暴れてくれりゃあ後は口八丁でどうにでもなる。余計なことせんでくれ」

 

 そう言った坂東の言葉をロックが通訳し、バラライカへと伝えた。

 すると彼女は口元を歪め、堪えきれないとばかりに笑いを漏らした。一頻り笑った後、背後に控えているボリスへと顔を向け、口角を歪めたまま彼女は言う。

 

「聞いたか軍曹。こいつらまるでわかってないぞ」

「どうやら認識の齟齬があるようですな」

「いいロック、しっかり訳してね」

 

 一拍置いて、バラライカは坂東を見据える。射抜くようなその視線に、思わず坂東がたじろいだ。

 

「バンドウさん。最初に申した筈です。我々は立ち塞がる全てを殲滅する、と」

「…………っ!」

「我々は無条件の力を行使し利潤を追求する。それがマフィアというものだ。その上で我々はリスクの多くを負担している」

 

 つまり、とバラライカは述べて。

 

「全ての決定権は貴方がたではなく、我々にある」

「……しかしやな、」

 

 言い淀む坂東の言葉を遮るように、唐突に室内に携帯電話の着信音が鳴り響く。

 緊迫した場にそぐわない、酷く軽薄なその着信音の出処らしい携帯電話を取り出した男は、何の躊躇いもなく通話ボタンを押した。

 

「あ、もしもしチッピー? んだよこの時間帯はかけてくんなっつったじゃぁん。 あ? わぁってるって直ぐにガキ用意してやっから。そんかしこっちの面倒も頼むぜ」

「チャカ坊! てめえ何やってやがんだこの野郎!」

 

 金髪にピアスという出で立ちの青年に、パンチパーマの男吉田が声を荒げる。

 

「え? あー悪いっすー。だからかけてくんなっつったのによォ」

「あっち行っとけアホ!」

「吉田! ええわい」

 

 尚も怒りの収まらない吉田を手で制し、坂東はバラライカの方へと向き直る。

 

「お騒がせして申し訳ない。話の続きやが、今の件は直ぐには決断できん。少し時間をくれへんか」

「勿論。作戦計画に支障のない範囲でならお待ちします。祝杯は互いのためにあげられるよう」

 

 妖艶に微笑むバラライカと、険しい表情を浮かべたままの坂東。

 そんな二人を、室内の壁に寄りかかる形で金髪の男は眺めていた。しかし実際に彼が視界に捉えているのは兄貴分たちである鷲峰組ではなく、その向こう。顔に火傷の痕を残す女とその後ろに立つ煙草を咥えた女の二人である。

 

「ねえタカさん。あの女、なんなんすか?」

「あん? 馬鹿野郎チャカおめえ懲りてねえのか。誰のせいで藤島がムショ食らったと思ってんだ」

「いやそーゆんじゃなくって」

 

 チャカ坊、と鷲峰組の幹部連中から呼ばれているその男は、煙草の煙を立ち上らせながらバラライカとレヴィの両名に視線を固定していた。

 

「何だお前、今まで話聞いてたのか?」

「聞いてましたよー。でも坂東さん(・・・・)がロシア人にコネあるなんて知らなかったっす」

「若頭がコネ持ってたわけじゃねえよ。ラプチェフとかいうここらを占めたがってるロシア人に話を持ちかけただけだ。したら向こうで勝手にあのロシア人を呼び寄せたのよ」

「その後ろの女は?」

「ありゃロシア人の横に座ってるトッポイ通訳の用心棒だ。ロシア人やらと一緒にロアナプラから来たっつってたなぁ」

「へえ……! ロアナプラねえ」

 

 ロアナプラ。タイの南に位置する港湾都市。世界中から凶悪な犯罪組織が集結し、武力と暴力によって不安定な均衡が保たれている悪徳の都。

 噂には聞いたことがあるが、実際にその街の住人だという人間を目にするのは初めてだった。

 女の身でありながら命の取り合いが出来る。その事実がチャカを昂ぶらせる。

 彼は世間一般で言うところの女という生き物が好きではない。当然仕事の上では相手もするし、必要があれば寝たりもする。だがあの媚びるような仕草や他人を蹴落とし己を良く見せようとする思考、甘ったるい香水の匂いを受け入れられなかった。男とは違う生き物なのだと思わされてしまう。

 男とは違う生き物。つまりチャカは女をこれまで人間と捉えていなかった。家畜と同じレベルだ。脆弱な女は、人としてすら扱ってもらえないのだ。

 

 しかし今チャカの前に居る二人は違う。 

 ロアナプラという犯罪都市に身を置き、他の男と対等にやり合える実力を持っている。

 その手並みを是非拝見したい。そうチャカが考えるのは必然だった。これまで女との性交を渇望したことのない彼が、あの二人となら寝てみたいと思う程に芽生えた感情は膨れ上がっていく。

 そんな感情が自然と表情に出ていたのか、横に立つ男は目を細めてチャカへと躙り寄る。

 

「マジで余計なことすんじゃねえぞチャカ。問題起こされっとたまんねえんだからよ」

「……分かってますよタカさん」

 

 でもやれるんなら見たいじゃないっすか。その言葉を心の内で呟いて、チャカはにへらと笑って見せた。

 

 

 

 16

 

 

 

「で、おじさん。具体的にはこれからどうするつもりなの?」

 

 香砂会との会合を終えて昼間の東京を宛もなくぶらぶらと歩いていると、横からグレイがそう問いかけてきた。

 俺もクラブを出てからずっとそのことを考えていた。鷲峰組組長の娘、鷲峰雪緒。高市で遭遇したあのときの少女を、どうやって攫うか。

 誘拐、と一口に言ってもその手段は多岐にわたる。ホテル・モスクワのように多くの人手があればそれに物を言わせて力づくで実行できるだろうが、俺は単独。グレイを含めてもたった二人しか居ない。街中を歩く彼女を強引に誘拐する、という方法はあまり現実的ではないだろう。そもそも今言った手段は誘拐と言うよりは拉致だ。

 

「グレイはどう考えてる」

「何も、誘拐なんて顔に麻袋被せて手足縛って簀巻きにすれば終わりでしょう?」

「こえーよ」

 

 何でこの子の知識はこうまで偏っているのか。テロ組織じゃないんだから。

 

「どうしたもんかね」

 

 余り派手に動き回るのはよろしくない。誘拐事件なんかのエキスパートである警察特殊班なんかに出張られると面倒だ。まぁそんな状況になるってことはこの誘拐が何処かで破綻して周りに漏れるってことと同義だから、そうなれば直ぐ様トンズラするが。流石に香砂会の依頼よりも自分の身の安全が優先だ。

 

「やっぱりここは穏便に話し合いで済ませるのが手だろうな」

「誘拐するのに話し合いなの?」

 

 意味が分からない、とでも言いたげにグレイは首を傾げる。

 

「グレイ、誘拐の定義って知ってるか?」

「さあ」

「日本じゃ詐欺や誘惑を手段として他人の身柄を自己の実力的支配内に移すことを言うんだが、これは誘拐する側の主観だ」

「……?」

 

 内容が出来ていないらしく、眉を寄せて口を尖らせるグレイに苦笑しつつ、噛み砕いて説明をすることに。

 

「要はアレだ、俺があの子と話し合いするだろ。その時にあることないこと言って傍に置いとけば、それはもう誘拐ってカテゴリに入るんだよ」

 

 かなり歪曲な捉え方のような気がしなくもないが、俺が誘拐だと捉えればそれはもう誘拐なのだ。

 そこに、誘拐される側の人間の捉え方は関与しない。

 

「つまりどういうことなの?」

「あの子に自分が誘拐されてると思わせなきゃいいんだよ、自覚させなければいい。そこらへんの話術に関しちゃ少しばかり自信がある、思考の逸らし方や論点のすり替えなんかはロアナプラじゃ必要なスキルだからな」

 

 鷲峰雪緒を誘拐する。

 しかし何も向こうにこれが誘拐であると教えてやる必要は何処にもない。

 世間が想像するような誘拐を行う必要など無いのだ。誘拐目的であるその少女にすらこれが誘拐であると気づかせないまま、俺は目的を達成しよう。仕事はスマートかつ正確に、何事も順調に進むのが一番だ。

 

「私は何をすればいいの?」

「グレイは俺の横に居てくれるだけでいい。見知らぬ男だけなら警戒もされるだろうが、横に子供が一人居るだけで不思議と警戒心は薄くなる」

 

 人間ってのは自分より弱い者には警戒心を抱かない、そう言って少しだけ口角を緩める。

 だからこそ子供を利用した犯罪ってのが無くならないわけだが、俺はどうも好きになれない。

 

「さて、となると問題なのは決行する時間と隣に張り付いてたサングラスの男だな」

 

 鷲峰組の人間であろうあの男は、ロアナプラに充満している嗅ぎ慣れた臭いをその身に纏っていた。用心棒、と考えるのが妥当なところだが、組で一番大切な人間を守護する役目を負っているということはそれだけでかなりの手練であると想像出来る。

 学校の中までは流石に同行しないだろうが、こんなおっさんが校内で彷徨いていれば通報されるのは目に見えている。かと言ってそれ以外ではあの男が離れず付いているだろう。

 いや、待てよ。

 

「そういや香砂会の情報で予備校に通ってるとか書いてあったな……」

「予備校?」

「頭の良い子供が大勢いるところさ」

 

 グレイの質問に答えながら思考を巡らせる。予備校に通っているのであれば、高校が終わって予備校へ向かうまでのルートが使えるかもしれない。どの程度距離があるかは詳しく調べなければ分からないが、少しの距離であるなら男は帯同していない可能性がある。友達なんかと一緒に通っているのであれば男も割って入るような真似はしないだろうし。

 

「その友達が一緒だったらどうするの?」

「それは問題ない。上手いこと言いくるめてその友達だけ帰すから」

 

 それよりも問題なのはバラライカだ。殲滅対象である香砂会が鷲峰組の娘を誘拐したと知れば、これ幸いとばかりに一斉砲火を仕掛けてくる可能性が高い。日本に来てまでドンパチはゴメンだ、東京都心に血腥い硝煙の臭いは必要ない。

 バラライカに勘付かれてはいけない。いや最悪気付かれても、その頃には全てを終わらせておかなければならない。

 割と難易度が高かったことに軽く絶望しそうになるが、これで大まかな計画は立てられた。後はホテルに戻って穴の無いように煮詰めていこう。

 そう決めて、宿泊しているホテルへ戻るために東京の街中を歩いていく。

 

「そういえば昼飯まだだったな、何か食べたいものあるか?」

「綿菓子がいいわ」

 

 腹膨れねえよ。

 

 

 

 17

 

 

 

「ロック、姉御はまだいるのか?」

「ああ、これから先は社交の時間だってさ」

 

 定例報告会を終え、クラブの廊下の壁にレヴィは背を預けていた。彼女に一言告げて、ロックは目先のトイレへ用を足しに向かう。レヴィは火を点けただけの煙草を口元で揺らしながら、天井の蛍光灯をぼんやりと眺める。

 

「くだらねえ、社交なんざ時間の無駄だ」

 

 と、蛍光灯へと向けられていたレヴィの視線が、一瞬だけ廊下へと向けられる。カツカツと革靴が鳴らす足音が、彼女へと近づいてくる。

 

「いたいた」

 

 やって来たのは金髪に耳、鼻にピアスを付けた青年だった。高級そうなスーツを着たその男、チャカはレヴィの前まで来ると顔を近づけてヤニで黄色くなった歯を見せる。

 

「あのさぁ、聞いたんだけど君ロアナプラから来たんだって? ガンマンなんでしょ?」

「…………」

 

 レヴィは男を睨みつけたまま、何も喋らない。

 

「刑務所よりもワルが多い街だって噂だけど、実際んトコどうなの? 噂はやっぱり噂? あ、人撃ったことあんの? 俺もあるよ、十人とか」

 

 ここで目の前の男を殺すことは容易い。緩みきった顔に鉛玉をぶち込んだところで、レヴィはなんとも思わない。

 だが今この男はバラライカと協力体制にある組織の人間だ。無闇矢鱈に死体を並べても事態がややこしくなるだけである。

 尚も何かを喋り続ける男の言葉をシャットアウトして無視を決め込んでいると、トイレから戻ってきたロックがこの状況に気がついたらしい。早足でこちらにまでやって来た。

 

「レヴィ、行こう。バラライカさんが待ってる」

 

 そう言ってレヴィの手を取ろうとしたロックを、男の脚が遮った。

 

「通訳さん、見てわかんねっすか? 今話し中、割り込まんでくださいや」

 

 睨みを利かせる男にしかし、ロックは動揺を見せなかった。この程度の怒気なら、向こうで散々浴びている。

 

「すみません、僕らはこれから用事があるので失礼します」

 

 そう言い回り込もうとするロックを見て、チャカは額に青筋を浮かべた。

 プチッ、と何かの切れる音がして拳を握り締める。

 

「何様だてめえそん態度……!」

 

 突き出されようとした拳はしかし、レヴィが咥えていた煙草をチャカへと吐き捨てたことで緩められる。

 

「うわっち!?」

「……さっきからピーピーうるせえんだよ、ホントにボスと同じ日本人か?」

「……へえ、そういう眼するんだ。いいね、いいよ」

 

 引こうとしないチャカにレヴィは冷めた視線をぶつけるが、啀み合いもここまでとなる。

 

「チャカ! 何やっとんじゃ!!」

 

 吉田を先頭に事態に気づいた鷲峰組の連中がやって来る。

 チャカを取り押さえたことで、レヴィはロックへと歩み寄った。

 

「えらく強気だったじゃねえかロック」

「あの程度の睨み、ウェイバーさんやバラライカさんに比べれば屁でもないさ」

「へっ、ダイヤの魂が入ってきたな」

 

 ロックの発言に、レヴィはニヤリと笑う。

 

「兄ちゃん、えらいすまんな。厳しく言っておくさかいに」

 

 チャカの脇を抜けて、坂東がロックに謝罪の言葉を口にした。

 直接危害を加えられたわけでもないので、ロックもそれを受け入れる。

 そんな様子を、後からやってきたバラライカは眺めていた。斜め後ろに控えているボリスと、ロシア語で言葉を交わす。

 

「命令無視の兵隊に御しきれない無能な上官。たまらんな、軍曹」

「戦場でないのが残念ですな。直ぐに厄介払いできたものを」

「今後の方針を固める。ホテルへ戻ったら準備をしておけ」

「了解」

 

 そんなホテル・モスクワの会話に気がつかないロックとレヴィは、こちらもこちらで大きな火種となるような会話を行っていた。

 

「なあレヴィ、やっぱりバラライカさんにウェイバーさんが日本に来てることを言ったほうがいいんじゃないかな」

「言ったからってどうにかなるわけでもねえだろロック」

「そうだけど、バラライカさんはウェイバーさんがロアナプラに居るから向こうを離れたんだ。報告だけでもしておくべきじゃないか?」

「あたしは反対だ。ボスも姉御も仕事で来てんだ、互いの存在を確認し合う必要がどこにある?」

 

 そう言われ、ロックは言葉を詰まらせる。

 

「例えばの話だ。もしもボスが姉御のついてる鷲峰組と敵対してる組織を援助する仕事を受けてたとしたらどうする。ボスと姉御の因縁は知ってんだろ、お前の故郷で全てのピースが揃っちまう。そうなったらもう戦争は回避できねえ」

「そんなこと……」

 

 無い、とは言い切れない。

 ロックはウェイバーがどのような依頼を受けて日本にやってきたのか知らない。同じ日時、同じ場所で出会ったのだから近い場所で仕事をしているのだろう。それが香砂会側の仕事である可能性を否定出来ない。

 

「余計な火種を増やさねえことだぜロック、そうすりゃ世はこともなしだ」

「……ああ、」

 

 バラライカへは報告しないという意見で纏まった二人は、社交の時間が終わるまで別室で待機することとなった。新しい煙草を咥えるレヴィとロックは、並んで廊下を進んでいく。

 

 ――――その傍らで小さな火種が幾つも発生していることに、彼らはまだ気がつかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 以下要点。

・銀さん早速食い違う。
・ロリコン登場。
・チャカ登場。
・ウェイバー、雪緒誘拐計画。
・レヴィ神回避。

◆もしもロックがロアナプラで前線担当となるほどの猛者になっていた場合◆

チャカ「何様だてめえそん態度……!」
ロック「当たらないなそんな拳。俺には通じない」
チャカ「ぐはあッ!?」
レヴィ「あ、あれは、デンプシーロールっ!」




 


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017 TOKYO SHOCK

 18

 

 

 

 鷲峰組の台所に、まな板の上で食材を素早く刻んでいく男の姿があった。

 松崎銀次だ。高市の時のようなロングコートは当然脱いでおり、板前のような格好で台所に立っている。その隣には若頭、坂東の姿もあった。どうやら二人は鍋物を作っているようで、ぐつぐつと煮え立つ出汁の中へ白菜や豆腐、鶏肉なんかを順に投入している。

 そんな中、スーパーの袋を漁る坂東が口を開く。

 

「……銀公よ。あのロシア人ども、悪党どころか怪物や」

「なんだってあんな連中を引き込みなすったんで、若頭(カシラ)

 

 鍋の火加減を確かめながら、銀次はそう返す。坂東も視線は前を向いたまま会話を続けた。

 

「香砂会を黙らすには力が足りん。いくら和平会の決定に反するとは言え、既成事実を作ってしまえば手打ち金やらで片はつく」

「……外の連中は信用ならねえ。よっくわかってた筈でしょうや」

 

 坂東の決定を、銀次は未だ認めてはいない。

 このまま現状が変わらなければ鷲峰組は香砂会に潰される。そんなことは銀次も良く分かっていた。

 しかしここで反旗を翻せば、雪緒をも危険に巻き込む可能性がある。前組長の娘を、銀次は決してこんな泥沼の世界に引き摺り込みたくは無かった。

 その考えは坂東にも理解できる。しかしここで手を拱いている場合ではなかった。事態は既にそこで悩むような段階では無かったのだ。手段になど拘っていればあっという間に組は崩壊する。それが分かってしまったからこそ、動かざるを得なかった。

 坂東も銀次も、互いの考えは痛いほどに理解していた。 

 ただ、重きを置く視点が違っただけのこと。

 

「……ほんなら座して死を待つか? 香砂会はワシらが必死で拓いてきた縄張り(シマ)、根こそぎかっ浚うつもりやで」

 

 組を守ろうとする坂東と、雪緒を守ろうとする銀次。二人が守ろうとするものはどちらも大切で、どちらもたった一つしか存在しない掛け替えのないものだ。

 故に彼らは譲れない。それが結果的に組に反すると知っていながら、それでも尚戦うことを諦めない。

 

「香砂ンとこの組長就任会。あれでハッキリ分かった。盃はもう、保証にはならへん」

「……若頭、味醂を取っていただけやすか」

「おいよ。……正直参るわなぁ、香砂会を潰したところで上におるのは関東和平会。関八州の任侠組織が結集して作られた連絡会や、逆らう極道はどこにもおれへん」

「香砂会に楯突きゃあいずれはそうなる。分かってたことじゃあねえですかい」

 

 言われ、坂東は小さく息を吐いた。

 

「当然や。しかしな、そういうのを気にせん連中もおる。例えばあのロシア人どもや、えらいこっちゃで」

 

 ホテル・モスクワ。

 ロシアに本拠地を持ち世界各地に支部を持つ巨大マフィア。

 バラライカをこの地へ招いたことは、もしかしたら失敗だったのかもしれない。そう思いはするが、坂東は決して口には出さなかった。口に出してしまえば、もう二度と後戻りはできないような気がしてならなかった。

 

 

 

 19

 

 

 

「ベニーかい。必要なものは大体買い揃えたよ。他に何か足りないものは?」

『ありがとう、助かったよ。バンコクの泥棒市場まで足を伸ばすのはどうにも億劫でね』

 

 代々木駅のホームに設置された公衆電話で、ロックはロアナプラに居るベニーと連絡を取っていた。彼に頼まれていた基盤を始めとした品は昨日までに殆ど買い揃えてあり、先程ケンシロウとトキのフィギュアを購入したことで全てを揃えたところだ。

 

「ああ、そうだベニー。レヴィからの頼まれものがあるんだ」

『なんだい?』

「ソード・カトラスを送ってくれ、と。ブーゲンビリア貿易に渡しておけば、海兵隊特急便(レイザーネックエクスプレス)でこっちに着くはずだ」

『穏やかじゃないな。嵐が吹きそうかい』

「そうでなきゃいいんだけどね」

『同感だ、カトラスの方は手配しておくよ。じゃあまた』

 

 通話を終えて受話器を戻す。

 駅構内にはこの雪で運転を見合わせる旨のアナウンスが先程から流れている。その放送を耳にして、ロックは溜息と共に白い息を吐き出した。この雪では恐らくタクシーも碌に機能していないだろう。電車の運転再開を待つしかないが、再開時間が未定のままこの場に留まるには些か寒すぎる。

 一度出て近くの喫茶店にでも入ろうか。そう考えている時だった。前方から歩いてくる一人の少女と目が合う。向こうもそれでこちらの存在に気がついたようで、二人揃って呆けた声を口に出していた。

 

「あっ、あの、この間……!」

「ああ、夜店の! 偶然だね!」

 

 名前も知らない少女との再会を果たしたロックは、それを素直に喜んでいた。

 

「びっくりしちゃった。お仕事ですか?」

「今日は買い物で秋葉原。えーと、」

「あ、名前まだ教えていませんでしたね。雪緒です、今日は予備校なんです」

「僕は岡島、岡島緑郎です」

 

 互いの自己紹介を済ませた二人は、流れ続けるアナウンスに耳を傾ける。

 

「まだかかるみたいですね、困るなぁ」

「あのさ、ここの駅前、喫茶店とかあるのかな。もし良かったら」

 

 ロックのその提案に、雪緒は数秒考えてから。

 

「……うん、それもいいかな。じゃあご案内します」

 

 そう言ってにっこりと微笑んだ。

 代々木駅を出ると、空から降る雪が目を引いた。この調子だとしばらく止みそうにない。ロックは雪緒に先導されながら、駅前の交差点近くの喫茶店へと入っていく。

 喫茶店特有の香ばしいコーヒーの香りが鼻を擽る。店員に案内され、二人は窓際のテーブル席へと腰を下ろした。

 ロックはホットブレンド、雪緒はホットココアをそれぞれ注文して、店内の暖かさにホッと息をつく。

 

「こんなに雪を見たのは久しぶりだよ、寒いのも」

「そうなんですか?」

「日本に来る前はタイにいたんだ」

「亜熱帯ですものね、滅多に雪は降らないでしょう。日本は久しぶりなんですか?」

「そうだね、一年ぶりくらいかな」

 

 ロックがロアナプラへとやって来て一年。随分早いものだと感じる。小学生時代の夏休みが過ぎていくスピードのようだ。それが濃密な日々を過ごしていたからなのだろうことは、ロックにもなんとなく予想がついていた。

 

「ご実家には帰られたんですか?」

「……いや、戻ってないよ。戻る気もないんだ」

 

 その言葉に、雪緒は眉を下げる。

 

「一年間も音沙汰無しだったからね、どの面下げて会いに行けばいいか分からないってのもある」

「でも、顔を見ればきっと喜ぶと思いますよ」

「そうかもしれない。でも本当の理由は、俺が会う必要を感じないからなんだ」

 

 ウェイトレスが運んできたコーヒーを一口飲んで、ロックはそう言った。

 

「日本に戻るまで、俺は家にどうやって顔を出すかを考えてた。でもいざ日本に戻ってみれば、そんな気が毛ほども起きないんだ。親不孝ものだよ、俺は」

「……嫌いなんですか? 家のことが」

「どうかな。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「昔の私みたいですね、岡島さん」

「君と同じ?」

 

 雪緒の言葉に顔を上げて、ロックは彼女と視線を合わせる。

 

「私も昔、家のことが嫌いでした。でも、父が死んでから気付いたんです。私がこうしていられるのは育ててくれた家があったから。だから帰るべき場所はそこなんだって。今は私、父のことも家のことも愛してますよ」

 

 父の死を受け入れ、家のことを愛しているとまで言い切る少女が、ロックはどうしようもなく眩しく見えた。

 裏側を望んだ自身とは違い、彼女はどこまでも表側の人間なんだなと思う。その純粋さがロックには眩しく、そして尊く見えたのだ。

 ロアナプラでの人生を選んだことに後悔はない。雪緒と出会った日、あの場所でレヴィに伝えたことは紛れもない本心だ。今更未練など無いし、完全に断ち切ったつもりである。

 自身はもうそちらへは戻らない。だからせめて、彼女にはいつまでもそちらの世界で笑っていて欲しいと思う。身勝手なエゴだとは理解しているが、そう思わずにはいられなかった。

 

「岡島さん。人ってね、サイコロと同じだってあるフランス人が言ったんです」

「サイコロ?」

「はい。自分で自分を投げるんです。自分が決めた方向に。それが出来るから人は自由なんですって」

 

 中身が半分程になったカップに視線を落としながら、雪緒は穏やかに話を続ける。

 

「皆境遇は違ってて、でもそんなに小さな選択でも、自分を投げ込むことだけは出来る。それは偶然とか成り行きとかじゃないんですよ。自分で選んだ結果、そうですよね?」

「……ああ、そうだね。今俺がここにこうして居るのも、幾つかの選択をしてきた結果なんだ」

 

 そこには偶然も成り行きも介在せず。

 ただ己の選択が反映された結果しか存在しない。

 

「あ、少し待ってもらえますか」

 

 横に置いていた学生鞄の中から漏れる着信音に気がついて、雪緒はそそくさと携帯電話を取り出した。待受画面に表示されている名前を確認し、通話ボタンを押す。

 

「はい雪緒です。銀さんどうしたの?」

 

 ロックは彼女の通話が終わるのを残ったコーヒーを飲みながら待つことにした。

 人生は選択の連続、全くその通りだと納得する。日本に思い残すことも未練も無いと思っていたが、彼女のその言葉で完全に吹っ切れたようだった。

 

「……うん分かってます、電車が動くようになったら直ぐに帰るから。今は岡島さんという方と一緒に雪やどりです」

 

 電話の向こうに居る人間はさぞ雪緒のことを心配しているのだろう。彼女の仕草からもそれを伺うことが出来る。

 

「ほら、この間高市でお会いした、そう日本人の。え、ただお話していただけですよ。……そう、坂東さんがいらしているの。じゃあ早く帰らないと」

 

 ピタリと、ロックのカップを持つ手が止まる。

 今、彼女は何と言った? 坂東、と口にしなかっただろうか。

 昔は家のことも父のことも嫌いだった。しかし今はその両方を愛している。坂東という名前。確か鷲峰組は数年前に組長を亡くしている。家のことも、極道という一般人とは違う道を歩んでいれば嫌うのも道理ではないか。

 ロックの中で、散りばめられていたピースが急速に埋め合わされていく。

 出来れば思い過ごしであってくれ、そう思わずにはいられなかった。

 通話を終えたらしい雪緒は携帯電話を鞄に戻すと、帰宅の準備を始めた。

 

「すみません岡島さん。私そろそろ行きますね、雪も止んだみたいだし」

「……雪緒ちゃん、すまない。君の名字が思い出せないんだけど、何て言ったっけ」

 

 ロックの質問に、雪緒はさして疑問を抱くこともなく答える。

 それは、ロックが最も聞きたくはなかった名字だった。

 

「はい、鷲峰です。鷲峰雪緒、いかめしい名字でしょう?」

 

 

 

 20

 

 

 

「ありゃ、何であの子とロックが一緒に居るんだ」

 

 代々木駅前のコンビニで鷲峰の娘である雪緒を待っていたら、どういうわけかロックを引き連れて喫茶店へと入っていった。

 ううむ、本当なら駅から出てきた彼女に声を掛けて喫茶店にでも誘う予定だったんだが。折角都合良く雪も降って電車も運転見合わせになっていたというのに。これじゃコンビニで時間を潰していた意味が無くなってしまう。

 

「どうするのおじさん、あそこに割って入る?」

「いや、流石にロックの前で彼女と接触するのはまずい。ロックはバラライカ側の人間だし、あの子が鷲峰の娘だって知ってる可能性も高い」

 

 俺がどんな依頼を受けて日本に来ているかは向こうは知らないだろうが、出来ることなら敵対組織側に付いているという情報は知られない方が良い。もっともあの夜にロックとレヴィと出会ってしまった時点でバラライカに情報が伝わっている可能性もあるんだが、恐らくそれはないのだろうと予想する。

 バラライカと俺は直通の連絡先を持っている。もしも俺が日本に来ていると彼女が知れば、真っ先に連絡を寄越すだろう。それが無いということは、今のところは向こう側に情報が行っていないということになる。ロックが独断でそうしているのか、レヴィの提案なのかは定かでないが。どちらにせよ好都合だ、このまま何事もなく事が進められればそれが一番。

 そんな俺の希望に反していずれはバラライカに漏れると思うが、せめてそれが終盤であってほしいものだ。

 

「折角待ち伏せしてたのに」

「お前はコンビニのホットスナック買い食いしてただけだろうが」

 

 当然のように俺の財布持ってやがるし。

 とりあえずその両手に持った肉まんとホットドッグを食べ終わってから話しなさい。

 

「あの子も喫茶店を出れば家へ帰るだけだろうし、今日の所は諦めたほうが良さそうだな」

 

 香砂会の方には今日誘拐を実行すると言ってあるが、こうなってしまっては致し方ない。ここで無理に動いて事態を悪化させるわけにもいかないだろう。香砂政巳には上手く言っておく他あるまい。

 

「香砂会の屋敷へ向かうか。今日の話だけしておかないとな」

「そうね」

 

 雪の弱まった街中を、俺とグレイの二人は歩き出した。

 道路を挟んだ向かい側ではロックと雪緒の二人も喫茶店を出て帰路につくようだが、彼らが俺たちに気がつくことはなかった。

 

 

 

 

 

「……それで、おいそれと帰ってきたと」

「まあそういうわけです」

 

 香砂会の屋敷へと到着し、通された和室で香砂政巳は眉間に皺を寄せた。隣に座っているボディガード、両角も不機嫌さを隠そうともしていない。

 そんな二人に対し、俺はどこまでも無表情を。グレイは少女らしい笑みを浮かべたまま視線を交える。

 時刻は既に午後六時を回っており、外は完全に宵闇に支配されていた。

 

「……ウェイバーさん、あんた自分で言ったよな。誘拐することが一番効率が良く鷲峰を落とせると」

「言いましたね」

「……こっちもそう時間があるわけじゃねえ。この揉め事を和平会に持ち込むわけにゃあいかねえんだ。出来ることならすぐにでも実行に移してもらいたいんだが」

 

 依頼する側、ということを考えてなんとか平静は保っているようだが、香砂会もそこまで余裕があるわけでもないのだろうか。

 和平会にまで規模が広がるのは確かにまずいだろう。面子もあるだろうし、何より子分の躾も出来ていないと吐露するようなことはしたくない筈だ。

 

「ですから、今日のところはタイミングが悪かったんですよ。彼女も一人じゃありませんでしたし、駅前は人目に付きすぎる」

「そのくらいどうにかできるんじゃねえのかよ」

 

 そう低い声で言ったのは両角だった。どうもこの男に俺は毛嫌いされているらしい。いや、向こうの好感度などどうでもいいが。

 

「できますよ。ですが貴方がたはそれを望まなかったではないですか。前回俺は言いました、俺が持つ戦力全てを行使し鷲峰組を壊滅する、それでいいのかと。それを香砂会は拒んだのです」

「それは確かにそうだが……」

「だったら今この場で見せてみろよ、その戦力とやらをよォ!」

 

 両角のその安い挑発に、俺は心底呆れたという意味を込めて溜息を吐き出した。

 正直言ってそんな戦力俺は持っていないし、鷲峰を壊滅させるための策を用意しているわけでもない。グレイに限って言えば十分な戦力になるけれど。

 ここでリボルバーを抜いて二人の眉間に突き立ててやれば向こうの疑念も晴れるのかもしれないが、そんな気すらも起こらない。

 何だ、極道の輩は総じて交渉事が下手糞なのか。自身の感情制御も出来ないようじゃこの場に立つ資格すら無い。その点だけで言えば香砂政巳の方はギリギリ及第点と言ったところか。厳しい目付きは相変わらずだが、両角のような暴走はしていない。

 

「両角、やめねえか。こっちは依頼してる立場なんだぞ」

「しかし組長(オヤジ)……」

 

 そんな二人を前にして、くすくすと笑いが漏れる。

 

「……何がおかしい? お嬢ちゃん」

 

 その出処は俺の隣、グレイだった。今の今まで無言を貫いていた少女は香砂政巳と両角の二人を見つめたまま、少女らしからぬ妖艶な笑みを浮かべている。

 

「ふふ、ごめんなさい。ついおかしくて」

 

 だってそうでしょう? とグレイは言葉を続ける。

 

「――――目の前の相手から一瞬でも視線を逸らすなんて、殺してくれと言っているようなものだわ」

 

 瞬間。両角の額に銃口が向けられた。

 グレイがコートの内側に隠し持っていたMP7だ。その早業に、両角と香砂政巳の息を呑む音が聞こえる。

 

「大丈夫よ、撃ったりしないから」

「……このジャリィ……!」

「グレイ」

 

 俺の一言で、グレイがMP7を下ろす。

 本来ならグレイを叱りつける場面なんだろうが、両角の態度は俺からしても些か目に余る。彼の態度は良く言えば素直、悪く言うならば考えなしの馬鹿だ。内心でグレイ良くやったなどと考えつつ、俺は正面を見据えたまま動かない。

 両角は尚も怒り冷めやらぬといった感じでグレイを睨み付けていたが、香砂政巳がそれを手で制した。

 

「ウェイバーさん。隣りのお嬢ちゃんの今の動きだけでもアンタらが只者じゃねえのは分かる。三日だ、三日後までに鷲峰の娘を攫ってくれ」

「善処しましょう」

 

 香砂政巳の提案に、俺は柔かに頷いた。

 

 

 

 21

 

 

 

 香砂会組長とその依頼者たちが会合を終えて和室を出てくる。

 日本人の男と銀髪の少女が廊下を歩いていく姿を捉え、それをこっそりと眺めている男の姿があった。屋敷の台所から観察を続ける男の名は千尋、金髪ホスト風の青年だ。

 彼の視線は来客の二人、もっと言えば少女の方へ向けられている。どこか熱の篭ったその視線には、己の欲望がこれでもかと詰め込まれていた。

 

(うわ近くで見ると益々イケてんなあの子。こりゃマジで目っけもんだ、どうにかしてヤれねえかな。チャカにも連絡して場所取って貰うか)

 

 肩まで伸びた美しい銀髪。遠目からでも分かる整った顔立ち。小柄な体躯。そのどれもが千尋の性的衝動を駆り立てる。

 出来ることなら今すぐにでも後ろから襲ってしまいたい。横の男が居なければ実際に行動に移していただろう。屋敷の中でなら強姦など幾らでも揉み消すことが出来るし、後始末も楽だ。

 その事を想像して、千尋は粘ついた笑みを浮かべる。

 まだ、まだだ。

 今はこの衝動に耐えて、耐えて、そして一気に爆発させる。あれほどの上物、一回で使い捨てるには勿体無い。先ずは必要なモノを手元に揃えておかなくては。拘束具にシャブは必需品だ、あとはそうだな。千尋の思考はそちらへと向かい、男と少女の二人が玄関を出て行ったことに気が付かなかった。

 彼は気が付かなかったのだ。

 少女が出て行く間際、台所を見ながら小さく嗤っていたことに。

 

「組長、どうしますか」

 

 ウェイバーとグレイが出て行った後の和室で、香砂政巳と両角は腕を組んで再びソファに腰を下ろした。

 

「あのお嬢ちゃんの実力は相当のモンだろう、それを飼い慣らしてる奴も只者じゃあねえな」 

 

 実を言えば、香砂政巳はウェイバーの実力をそこまで信用してはいなかった。

 たった一人で軍隊ともやり合えるという前情報からして胡散臭い。おまけに誘拐という手段を提示したにも関わらず今日の成果は無し。いよいよ以てこれは掴まされたかと考えたが、先程の少女の動きを見てその考えを改めた。

 あの少女を飼い慣らしているということは、少なくともウェイバーという男はそれ以上の実力を備えているということだろう。ならば何も問題はない。こちらが望む方向へと、あの二人ならば導いてくれるに違いない。

 

「ま、もしもあの二人が使いモンにならなかったらそん時ゃそん時よ。なに心配すんな、ちゃんと手は打ってある」

 

 それも極上のな、香砂政巳はそう言って笑う。

 万が一ウェイバーが失敗し、鷲峰組が派手に動き回るようなことが続いても問題はない。抑え込むだけの布石は整えてあるのだから。

 

「奴らの襲撃には注意するよう各事務所に言っておけ。またいつ起こるかわからん」

「へい」

 

 香砂政巳はこの時点で二つの誤解をしていた。

 一つはウェイバーという男の存在。彼は極道程度が手綱を握れる程小さな人間ではない。もしも張がこの場に居れば間違いなく口を挟んだだろう。あの男を掌握することなどまず不可能だと。

 もう一つは布石が既に完成していると思っていたこと。布石はあくまで布石でしかなく、確定されたものではない。香砂政巳の予見が的中するとは限らない以上、この布石は効果を発揮しない可能性も十分に有り得たのだ。

 この誤解は、現段階ではまだ小さな綻びを生む程度のものでしかない。

 しかし状況が進み、何度かの分岐点を経た後、この誤解は取り返しのつかない程大きなモノへと変貌する。

 

 

 

 22

 

 

 

「鷲峰組からは何か?」

「いえ、まだ検討中かと思われます」

 

 ロックたちが宿泊するホテルの一階、幾つものテーブルが設置されたフロアの一角に、バラライカやロックを含めた四人が腰を据えていた。

 夕食時ということもありロックとレヴィはホテルのフレンチを、バラライカはロシアンティーを手元に置いている。今回もボリスの手元には何もないが、彼は既に携帯食料で補給を済ませた後だった。

 

「時間の無駄だな、他の動きは」

「香砂会組長宅と事務所へ機動隊を張り付け襲撃に備える模様。○六○○時に鷲峰組組事務所に捜査課の警官が事情聴取へ」

 

 ボリスの報告に、バラライカは顎に指を添えて。

 

「露見は時間の問題だな。本隊をマリアザレスカ号に移した方がいいかもしれん」

「それともう一つ、大尉殿の耳に入れておきたいことが」

「何だ軍曹、言ってみろ」

 

 先程までとは表情の違うボリスと視線が交錯する。

 ロックとレヴィは二人の会話を流し聞き程度で耳に入れていたが、次の瞬間全身をハンマーで殴られたような衝撃が襲う。

 

「香砂会組長宅の偵察班が、ウェイバーと思われる東洋人が敷地内から出てくるのを確認したそうです」

 

 途端に動きが止まり、スッとバラライカの目が細められる。

 彼女が次に呟いた言葉のトーンは、ロックがこれまで聞いたこともない程底冷えしたものだった。

 

「…………何だと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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018 交錯する思惑の先に重なる決意

 23

 

 

 ――――深夜三時。使用者もまばらな地下駐車場。そこにバラライカとロック、そして板東の姿があった。

 周囲はコンクリートの壁に囲まれ、逃げ場など存在しない監獄のような印象を抱かせる。この場にバラライカを呼び出したのは板東だ。鷲峰組で意見を固めたため、その会合を行いたいと連絡を寄越した。バラライカは夜更けであることなど気にも留めず、ロックを引き連れてこの場へと赴いた。

 

サシ(・・)の会議にしては面白い場所を選んだものね。方針とやらはお決めになって?」

「姐さん、もう一度聞きまっせ。肩ァ並べて一緒にやってく気にはならへんのか」

 

 その言葉に、バラライカは表情一つ変えない。

 

「それは私に問うことではありません。貴方がたが問われることです。そして加えるならば、現状そう悠長に事を構えてもいられない」

「……どういうことや」

 

 懐から取り出したパーラメントに火を点け、バラライカは告げる。それは彼女にとっても、そして鷲峰組にとっても凶報に違いないものだった。

 

「香砂会も我々と同じロアナプラの人間を雇っていたようです。それもとびきりの猛獣を」

 

 ピクリと板東の眉が動く。

 

「……なんやと」

「ハッキリ言いますが、その男はその気になればこの街を火の海にすることも可能です。我々軍隊が為す事と同レベルの事を、奴は単身でやってのける」

 

 ウェイバー、そう男は呼ばれているのだとバラライカは板東に伝えた。

 俄かには信じ難いことである。ホテル・モスクワと同等の事をたった一人で遂行してしまう人間がこの世に存在しているなど。

 だがバラライカ、そしてロックの顔色を見るに冗談や酔狂の類ではなさそうだ。

 馬鹿げている、と吐き捨てたい気分だった。一体奴らは東京をどうしようというのか、焦土にでも変えようとしているのではないだろうな。そんな考えが思考の片隅でちらつく。

 

「板東さん。ウェイバーがこの件に関わってくるとなると、我々も本腰を入れなくてはなりません。早急に香砂会組長とその家族を誘拐しなければ」

「……そいつは出来ん相談や」

「貴方はあの男の恐ろしさを知らない。生半可な覚悟では、鷲峰組は消えて無くなることも有り得る」

「やとしてもや」

「……残念、本当に残念ですよ板東さん。もう少しだけこの関係が続いていれば、私も気が楽だったのですが。まあいいでしょう、瑣末なことだ」

 

 言って咥えていた煙草を路上に吐き捨て、バラライカは踵を返す。話すことなどこれ以上ないと言外に伝えるように。

 ロックもそれに慌てて続くが、そんな行動を許さない人間が居た。板東だ。彼はコートの内側に隠し持ってきていた白鞘を流麗な動作で抜き、背中を見せたままのバラライカへと突進する。

 

「待たんかい。まだ始末が残っとるんやぞ、この外道ォッ!!」

 

 バラライカの心臓を目掛けて、鋭利な刃が突き出される。

 しかしその刃が彼女の皮膚を切り裂くことは無かった。何処を狙われるのか予め分かっていたかのような動作で身体を横にずらして板東の一突きを躱すと、振り向きざまに顔面へと肘を叩き込む。

 ベキリと骨の折れる粉砕音が地下駐車場に響く。バラライカは追撃の手を緩めない。残った手で板東のコートの襟を掴みそのまま引き寄せ、白鞘を握っていた右腕を血塗れた手で握る。自由の利かなくなった坂東の右腕を、一切の容赦無く叩き折った。くぐもった悲鳴が漏れる。

 痛みに顔を歪める板東の背後へと周り首を締める。

 完全にバラライカの一人舞台だった。

 

 ギリギリと板東の首に力を込めながら、彼女は板東の耳元で囁く。

 

「白兵戦は久しぶりだが、身体は覚えているものだな。さてロック、私が今から言うことを訳せ。なるべく強い言葉でだ」

「で、でも……」

「訳せ」

 

 有無を言わせぬバラライカの威圧感に、ロックは従う他無かった。

 

「今夜は特別だ、本当のことを話してやろう」

 

 顔を血に染めながらも戦意を失わない板東に敬意を表すように、彼女は言葉を続ける。

 

「肩を並べてやっていく。成程確かにそんな選択肢もあるだろう。だがそれは事務屋の仕事だ、私には必要がない」

 

 分かるか? そうバラライカは板東へと問い掛けた。

 

「私がこの国で望んでいるのは破壊と制圧。他の一切には興味がない、妥協もない。私はな、地獄の釜の底でどこまで踊れるのか、それ以外に興味がないんだよ」

「……ッ!」

「しかも相手はウェイバーだ。私と共に地獄の最下層で踊る極悪人。相手としてこれ以上適している人間も居まい」

 

 鷲峰組と香砂会。其々がホテル・モスクワとウェイバーを日本へ呼び寄せた時点で、あるいはこの未来は確定していたのかもしれない。彼を、彼女を日本へ招くことが無ければここまで大きな事態には発展しなかっただろう。

 だがそれは過ぎた事。今更何を思った所で、この現実は変わらない。

 

「賽は投げられた。そういうことだ、バンドウ」

「……ク、ガッ……!」

 

 締める力が更に強まる。

 

「それでは時間もない。……また、いずれ」

 

 そう言った直後、バギンッと一際大きな破砕音。板東の首の骨がへし折られる音だった。

 力の完全に抜けた骸を地面に放り捨て、バラライカは携帯を取り出す。連絡先は恐らくボリスだろう。

 彼女が通話する様子を、ロックはただ呆然と眺めていることしか出来なかった。

 

「私だ、状況は終了した。大きめのトランクを一つ持って迎えに来い」

 

 

 

 24

 

 

 

「……ック、ロック!」

 

 耳元で名前を叫ばれ、ロックは鉛のように重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。視界いっぱいに広がるのは眉尻を下げるレヴィ。

 どうやら自分はホテルに戻り、テーブルで酒を呷ったまま眠りに落ちてしまっていたらしい。シャワーも浴びずにいたからか身体が汗ばんで酷く気持ち悪い。テーブルの上には灰皿とウイスキーボトル、倒れたグラスがそのままになっている。

 まだ酒が抜けていないのか霞がかった頭を覚醒させるために数度頭を横に振る。

 

「大丈夫か、ひでえ汗だぜ」

「寝てたのか、俺……」

「一、二時間てとこだ。なんだかうなされてたぜ、古いビュイックみてえな息してよ」

 

 ロックの向かいに置かれていた一人掛けのソファにレヴィも腰を下ろす。

 横になっていたグラスを手に取り、半分程空いたボトルウイスキーを注ぐ。

 

「なんだか悪い夢を見てたみたいだ」

「深酒はいけねえな、シャワーでも浴びてきたらどうだ。これから慌ただしくなる、そう呑気に構えてもいられねえぞ」

 

 ストレートウイスキーを一息に呷り、レヴィはロックを見据えた。

 

「状況が変わった。姉御は後継と補充兵を迎えに行くってんでついて来いとよ。こっちに居る遊撃隊は大使館と貨物船に分かれる。補充兵はみんな渋谷配備だ」

「……ウェイバーさんか」

「ああ。姉御はやる気だ、ボスが相手となりゃあ遊撃隊も今までみてえなヌルい戦法は使わねえ。ハナから全開だ」

 

 ウェイバーとバラライカ。

 ロアナプラ筆頭の悪党二人が互いの存在に気付き、そして対立の構図を取っている。これはもう悪夢以外の何物でもない、ロックは額に手を当てた。

 

「出来ることならバラライカさんには気付いて欲しくなかった」

「そりゃ同感だがよ、こうなっちまった以上切り替えるしかねえ。ボスと姉御が本気でやり合うとなると、あたしたちは身の振り方を考えなきゃいけねえしよ」

「……レヴィはウェイバーさん側に付くと思ってたけど」

「本心を言えば今すぐにでも向こうに行きたいね。ただあたしはロックの用心棒としてここへ来た。依頼は最後までやり遂げるぜ、ロックが姉御側に付いたままだってんならあたしもそうだ」

 

 受けた依頼は必ず完遂しろ、そうボスに言われてるからよ。レヴィはそう言って小さく笑った。

 

「……やっぱり争いごとになるのか」

「そりゃなるさ。ホテル・モスクワはやる気だ。嵐が来るぜロック、血と鉄の嵐だ」

 

 

 

 25

 

 

 

 午後十時。鷲峰組の屋敷の一室。畳張りのその部屋の中央に、銀次と吉田が向かい合わせになって座っていた。

 室内には二人以外の姿はない。雪緒には少し席を外してもらっている。他の組員たちも同様だ。

 重苦しい雰囲気の中、俯いたままの吉田がようやく口を開いた。

 

「……若頭(カシラ)が殺られた」

「……何時で」

「今朝方や。事務所ン前にトランクが一つおっ放り出されて……」

 

 吉田の目尻には涙が溜まっている。銀次はその報告を聞き、ただ静かに拳を握った。恐れていた事態が起こってしまった。それをただ静観することしか出来なかった己の無力さが腹立たしい。

 

「……葬儀は、どないなんねや銀の字」

「まだ表沙汰にゃ出来ません。若頭にゃ申し訳ねえが、浄土に行くなァ今しばらく待ってもらうことになりやす」

「畜生……! あのロシア人どもッ……!」

 

 サングラスをずらして涙を拭う吉田の肩に、銀次はそっと手を置いた。

 

「吉田、若頭は臆病者でも頭が弱かったわけでもねえ。誰がやっても早晩ここに行き着いた」

 

 銀次自身、どうにかしなくてはならないと考えてはいた。だが雪緒の今後を思うと、どうにも後一歩が踏み出せなかった。その一歩を、板東は何の躊躇いもなく踏み込んだのだ。己の命を賭して、鷲峰という家を守るために。

 

「……香砂の言いがかりはどうにかしなきゃいけねえ、若頭はァ頭が回りすぎた。何も間違っちゃいねえ」

「せや……、兄貴は頭の切れるお方やった。これから一体どうなるんや、ワシらのこの先は……」

「心配しなさんな吉田」

 

 吉田の言葉に、銀次は一つ頷いた。

 板東の死を以て、ようやく男は覚悟を決めた。いつまでも意気地のない御託を並べるのはもう終いだ。自分だけがいつまでも夕闇でのうのうと過ごすわけにもいかない。

 雪緒がこちら側へ来てしまう可能性はある。それだけが気がかりだ。だがこれ以上、板東の思いを踏みにじるわけにはいかなかった。鷲峰組の兄貴分がその命を賭けてまで守ろうとしたこの組を脅かす奴らを、これ以上のさばらせておくわけにはいかない。

 銀次は瞳の奥に固い決意を滲ませて言う。

 

「……後の事ァ、任せておけ」

 

 そんな男たち二人の会話を、雪緒は部屋の外で聞いていた。

 板東が死んだ。未だにその事実に実感が湧かない。昨日まで一緒に食事を取っていたあの人がもうこの世界には居ないなど、どうにも雪緒には信じられなかった。

 そういう世界に関わっているということは理解しているつもりだった。いつ道端で野垂れ死んでいても不思議ではない、そんな暗闇の世界なんだと分かった気になっていた。

 だがいざそのことを目の当たりにすると、どうにも脳がそれを受け入れようとしない。それを受け入れてしまった時、自分が自分で無くなってしまうような気がして。

 結局、雪緒という少女は心の何処かで表側の世界に住まうことを望んでいたのだ。父が死に、鷲峰組を愛することができるようになったとしても、彼女は全身を暗闇に浸かることを避けていた、拒んでいた。

 

 それではいけない。雪緒は口を噤んで考える。人生の全ては選択の連続。ならば、どの道を選ぶのか。

 鷲峰の娘として、今自身に何が出来るのか。しばしその場で考え込んで、彼女はやがて心を決めた。

 襖の取手に手をかけて、銀次と吉田の居る部屋の中へと入っていく。

 

「お嬢……」

 

 少女の神妙な顔付きに、吉田は不安そうな顔色を浮かべた。

 

「銀さん、吉田さん。私、考えたんです」

 

 二人の前に正座し、真っ直ぐに二人を見つめる。銀次も吉田も、雪緒から目を逸らさない。

 

「香砂会の取り決め、覚えておいでですか。私であれば対等の条件で引き立てるという、あの件です」

「お嬢それはっ……!」

 

 雪緒の発言に、思わず吉田が声を荒らげる。

 彼女が言ったのは鷲峰組組長就任の件。前組長と血の繋がりのある雪緒であれば、香砂会は組長の就任を認めるというものだ。

 しかしそこに、対等な立場など存在していない。

 

「……お嬢、そいつはいけねえ。あんなものァ香砂のチンピラの因縁だ。真に受けなすっちゃァ……」

「でも、他にはもうないのでしょう? 鷲峰組に残る最後の道標が私なら、それはもう仕方のないことなんです」

 

 銀次と吉田の反対は簡単に予想できた。二人は雪緒のことを本当の娘のように慕い、可愛がっている。そんな少女が自分たちと同じ泥沼の殺伐とした世界へ足を踏み入れるというのを、そう簡単に容認できるわけがなかった。

 それでも、雪緒は自分の考えを変えない。

 鷲峰組を守るために最も現実的な手段は自身が組長に就任することだ。ならば、何を迷う必要がある。

 

「もしも私だけが日の当たる路を歩むのなら、引換にあなたたちは冥い野辺を彷徨うことになる。一家を護り一家に殉じた百十余名の人生と、私の人生とを引換に」

 

 私はそれを認めるわけにはいかないんです、そう言う雪緒の決意は固かった。

 そんな少女の姿を見て、銀次は言葉を詰まらせる。

 

「……お嬢、あっしは……」

 

 こうなることだけは避けたかった、そんな銀次の想いが言葉の端々から感じ取られる。

 

「お嬢が人の道を歩んで、真っ当な幸せを掴んでいただく。それだけが、それだけが願いだった……」

 

 ズボンに皺が出来るのも構わず、銀次は力の限り握り締める。

 

「俺はそのために、そのためだけに今日まで生きてきたんだ……!」

 

 これでは今まで何の為に坂東と衝突してまで過ごしてきたのか。それすら意味のないことだったというのか。

 このままでは坂東の死は、ただの犬死になってしまうではないか。

 

「俺はァ憎くて堪らねえ、香砂のドブ鼠もロシアの悪党も。どいつもこいつも俺たちを滅茶苦茶にしようとしやがる……!」

 

 歯を食縛る銀次の顔を、雪緒はじっと見つめたまま。

 

「――――ねえ、銀次さん」

 

 優しい声音で、雪緒は次いで外へと視線を向ける。

 

「雪の夜は、綺麗なんですね。私今まで雪の夜は嫌いでした。吸い込まれそうで、すごく怖かった。でも今は不思議とそう感じない、どうしてでしょうか」

 

 ハッと、銀次は顔を上げた。

 目の前に座る少女の瞳はどこまでも真っ直ぐで、迷いがない。

 恐怖は感じているだろう。後悔はなくとも、自身の境遇を呪ったことだってあるはずだ。それでも彼女は、振り向くことだけは決してしない。

 その少女が意を決して言う。おそらくは彼女にとって、最初で最後のわがままを。

 

「銀次さんは、私を護ってくださいますか」

 

 その言葉に銀次も、そして吉田も姿勢を正し、彼女の前に頭を垂れる。

 年端もいかない少女の大きな決意を、自分たちが無碍にするわけにはいかない。何に変えても、この少女を護りぬくと誓う。銀次と吉田の二人の心境は、語らずとも一致していた。

 

「――――不肖、鷲峰組若頭代行松崎銀次。七生を以て御身御守護を勤めさせていただきます」

 

 今この瞬間。鷲峰組の方針が固まる。

 それは無数にある選択肢のうち、最も険しく困難な茨の道。少女と男たちはその道を進む。引き返すことはない。例えその命を散らすこととなろうとも、その全ては雪緒と共にある。

 

 

 

 26

 

 

 

「そうですか。分かりました、手筈通りに」

 

 そう言って通話を終える。持っていた携帯電話をベッドへ放り投げ、俺は天井を仰ぎながら溜息を吐き出した。

 ベッドの上でMP7の手入れを行っていたグレイがそんな俺を不思議そうに眺めている。

 

「どうしたの、おじさん」

「どうも事態はややこしくなりつつあるみたいだ」

 

 今の電話は香砂会からのものだ。何でもつい先程鷲峰組の方から連絡があったらしく、鷲峰雪緒が組長に就任するとの旨を報告してきたのだそうだ。香砂会の出した条件を呑み、全ての始末を付けるために。

 当然香砂会は口先だけの約束など守るつもりはないだろう。難癖つけて雪緒を就任させまいとするはずだ。そこで俺の出番となるわけである。

 電話を寄越した東堂が言うには鷲峰との会談は明日の夜。場所は香砂会屋敷だ。その会談にもしも雪緒が現れなかった場合、全ての約束を反故にすると伝えたらしい。

 つまりはそれまでに雪緒を誘拐し、香砂会の屋敷へと向かわせないようにしろということだ。

 

「別に干渉するわけじゃないが、どうもキナ臭くなってきたな」

 

 依頼として引き受けた以上は最後まで完遂するが、香砂会の黒々とした思惑が透けて見えるようであまり良い気分ではない。

 あの雪緒という少女。高市で一度話しただけの少女だが、纏う雰囲気は間違いなく表の人間のそれだ。横の男が纏うような血腥い臭いは微塵も感じられなかった。周囲の人間がこれまで守ってきていたのだろう。それほどまでに大切にされてきた少女が、組長に就任すると言い出した。これは鷲峰のほうで何かそうせざるを得ない状況に陥ったと考えるのが妥当だ。

 鷲峰の事を考えたところで俺に関係が無いことくらいは承知しているが、全体像も見えないままに動くというのも憚られる。

 また東堂の方へ連絡を入れてみるか。そう考えて手を伸ばした携帯が、タイミング良く震えた。いつもとは違う着信音が室内に響く。この着信音が鳴るよう設定してあるのは今のところ三人だけだ。そしてほぼ間違いなく今電話を繋ごうとしているのはあの女だろう。

 画面に表示される名前を見て、やっぱりなと苦笑する。

 

「もしもし」

『用件は言わなくても分かるわよね?』

 

 携帯越しに聞こえてきたバラライカの声に、ああと返す。

 

「鷲峰組と香砂会の件だろう」

『ええ、貴方香砂会の方に付いているみたいだけれど、私たちは鷲峰組の方に付いているわ』

「どうせ協力体制なんざ言葉だけだろう」

『当然ね。日本のヤクザなんかと同じ歩幅で歩けるものか』

 

 だろうな、と内心で頷く。

 バラライカという女はとにかく戦争を好む。研鑽された己とその軍隊の全てが発揮される戦場さえあれば、他には何も望まないような人種だ。ウォーマニアックスだとかレヴィは言っていたが、そんなレベルじゃない。この女は最早ジャンキーだ。酒よりも、金よりも。破壊と制圧を望む生粋のバトルジャンキー。

 

『ウェイバー。私が今こうしてお前と話しているのは最後通告だ、戦況を見ればどんな状況なのかは分かっているだろう』

「分かってるよ、承知の上だ」

『退く気はない、ということか』

「確かにお前にゃ義理も恩もあるが、あいにく仕事(ソレ)プライベート(コレ)とは話が別だ」

 

 正直な所を言えばバラライカと正面衝突なんて冗談じゃないが、ここで俺が依頼を蹴ってしまえば間違いなく香砂会は潰される。鷲峰組もろともだ。俺としては依頼主からきっかり料金を貰うまでは生きていて貰わなくてはならない。死ぬならせめてその後にしてくれ。

 それに雪緒という少女も気にかかる。彼女が死のうが死ぬまいがどうでもいいが、俺たちのような悪党に利用されて捨てられるような人生を送るようならまた話は変わってくる。

 

『……そうか。精々周囲に気を配ることだ。我々ホテル・モスクワは立ち塞がる全てを殲滅するぞ』

「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」

 

 内心の動揺を悟られぬよう、敢えて強気に笑う。

 火蓋は切られた。これから先はバラライカをも相手取らなければならない。面倒なことになった、とは思わない。自身がそうなるように仕向けた節もある。

 

「おじさん、これからどうするの?」

 

 通話内容を耳聡く聞いていたらしいグレイが俺にそう尋ねる。

 そうだな、先ずは。

 

「身辺整理から始めよう。香砂会が何を考えてるのかは知らないが、俺を利用してるつもりだってんなら少しばかり痛い目見せてやる」

 

 

 

 27

 

 

 

「組長、ロシア人どもと連絡がつきやした」

「そうか、日時はこっちが指定した時間で大丈夫だろうな」

「はい、問題ないと」

 

 香砂会屋敷。その一室に香砂政巳、両角、そして東堂の姿があった。

 相変わらず和の雰囲気に不釣り合いなソファが存在感を放つ部屋だ。そのソファに背中を預け、香砂政巳はニヤリと笑う。

 

「これで向こうとの繋がりは確保できた。仮にウェイバーがしくじったとしても問題はねえ。そっちとは手を切って向こうと組めばいいだけの話だ」

 

 香砂政巳はやはりウェイバーを信用していなかった。しかしそれは彼自身の能力が低いと断じているからではない。単純な戦力比だ。鷲峰組についたロシア人は少なくとも数十人、対してこちらはたったの二人。どちらが優っているかなど、わざわざ議論するまでもない。数は質に勝る。それが香砂政巳の持論だった。

 しかも鷲峰組とロシア人たちの間には亀裂が走っており、共同歩調など無いも同然だという。渡りに船とは正にこのこと。

 

「鷲峰も潰せてうちも甘い汁を吸える。こんな良い方法はねえだろ、なあ両角」

「へい組長」

「…………」

 

 香砂政巳に言われ笑う両角とは対照的に、東堂の顔色は優れない。喉の奥のつっかえが取れない、そんな表情を浮かべている。

 

「どうした東堂、えらく顔色が悪いじゃねえか」

「……組長、ウェイバーさんと手を切るってのは、あまり得策じゃねえかと思いやす」

「言ったろ、それはもしもの話だ。あの男が約束通り嬢ちゃんを浚ってこりゃあ文句はねえよ。だがな、ドンパチやるってなった時にどう見たって向こうの戦力に歯が立つとは思えねえ」

 

 ここまで香砂政巳が強気に出るのにはそれなりの理由があった。

 ひとつは自身の身の安全がほぼ保障されているということ。これまでの襲撃事件を経て、警察はこの香砂会の屋敷の周囲を常時警戒している。狙撃ポイントを除けば、その警戒網は見事という他ないほどだ。

 もうひとつは香砂会が所有している武器の数。関東極道の中でもその量は随一であり、海外からも取り寄せたことがあるほどだ。

 この二つが香砂政巳を強気にさせていた。

 だが、それを知っている東堂の顔色は尚も優れない。

 

「あの人はまずい、本当に怒らせちゃいけねえ人種ってのは、きっと……」

「東堂、お前はあの男を買い被りすぎなんだよ」

 

 東堂の言葉に被せるように、両角が鼻で笑う。

 

「ロアナプラだかなんだか知らねえがいけ好かねえ。あんな男のどこに警戒する必要がある」

 

 そう言って笑う両角。彼はどうもあのウェイバーという男が気に入らなかった。どこか自分たちを見下したようなあの態度。全て見透かしているかのような視線。馬鹿にされているようで腹が立つ。

 

「両角の言う通りだ。ま、例え俺たちに歯向かってきた所で、うちの武器の数を前にゃあ何もできねえだろうがよ」

「――――何も出来ない、ね。どう思うグレイ」

「何もしなかった、というのが正しいわおじさん」

 

 突如聞こえてきた話し声に、思わず三人の動きが止まる。その声は部屋の外から聞こえてくるものだった。男と幼い女の声は、少しずつこちらへと近付いてくる。

 

「全く、舐められたもんだよ俺も」

 

 音もなく、襖が開かれる。

 三人の瞳に写ったのは彼らが雇った男と、その助手だという少女。

 

「ど、どうやって入ってきた。周囲には警察の包囲網が……!」

「そんなものは知らん」

「他の人たちなら皆仲良く送ってあげたわ」

 

 地獄へ、と少女は妖艶に微笑む。

 その横に立つ男、ウェイバーは一歩室内へと足を踏み入れる。それに応じて三人がそれぞれ銃を抜くが、ウェイバーは全く表情を崩さない。

 

「馬鹿な、銃声なんて聞こえなかったぞ……!」

「サプレッサーだよ。俺のには取り付けてないが」

 

 さて、とウェイバーは懐から銀一色のリボルバーを取り出して。

 

「面倒事は先に片付けよう。香砂会は今日で店仕舞いだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 ウェイバー香砂会襲撃の理由と詳細は次回。


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019 そして四者は動き出す

 28

 

 

 

「――――成程、そういうことか」

 

 リロイから受け取ったデータをパソコンに取り込んで画面に表示させる。それをしげしげと眺めながら、俺は小さく息を吐いた。

 画面上に表示されているのは現在の香砂会の勢力図と鷲峰組の勢力図。こうして図で見ると改めてその勢力差が分かる。鷲峰組の縄張りなんてものはほぼ無いに等しい。前組長の時の八分の一以下にまで規模が縮小されていた。 

 比べて香砂会は前組長の弟、香砂政巳が組長となってから縄張りの拡大が著しい。余程勢力拡大に意欲的なのか、傘下の組から半ば横取るようにして規模を広げている。

 関東和平会に名を連ねる香砂会である。東京中を支配下に置いて、和平会での発言力を得ようと目論んでいるのだろう。鷲峰組の造反は、向こうにとっても願ったり叶ったりの事態だったに違いない。

 こうした情報を知れば知るほど、俺の中で香砂会という組織が胸糞悪い連中の集まりなのだと感じてしまう。

 子分に手を出してまでして得る地位に、一体何の意味があるというのだろう。

 感情的になるのはらしくもないが、これは些か度が過ぎる。

 鷲峰組がバラライカたちと手を組んだのも、元を辿れば香砂政巳が組長就任の妨害を行ったことが発端だ。それさえなければ二つの組織は今ほど関係が拗れることもなく、俺やホテル・モスクワが日本の地を踏みしめることも無かっただろう。無駄な血を流すこともなく、ここまで大きな事態には発展しなかった筈だ。

 

「おじさん、怖い顔してるわ」

 

 グレイにそう言われ、一旦パソコンの画面から視線を外す。腰掛けていた椅子の背凭れに背中を預けて、小さく息を吐く。

 

 俺は雇われの身の何でも屋だ。報酬を受け取っている以上、依頼はきちんと完遂する。これは俺の仕事をこなす上での信条だ。故に今回、例え個人的には気に入らない香砂会からの依頼であったとしても、自身の感情に左右されて仕事を放棄するようなことは絶対にしない。

 鷲峰雪緒は拐う。それは絶対だ。

 

「ま、でもそれは依頼主が生きていればの話だけどな」

 

 言いながらテーブルの上に置いてあった煙草を手に取り、口に咥えて火を点ける。

 香砂会から言い渡された期限は三日。しかし何も期限ギリギリまで引っ張る必要はない。何事も迅速に対応したほうが後の処理が楽になる。

 香砂政巳の依頼を反故にはしない。が、依頼主が死んだとなれば話は別だ。バラライカなんかはそんなのお構いなしに動くのだろうが、俺の場合はそうではない。俺を動かす人間が死んだとなれば、いつまでも報酬の出ないタダ働きに付き合う義理はない。つまりはそういうことだ。

 ベッドの上ではグレイが仰向けになって枕を抱いている。ここまで彼女にはこれといった仕事をさせてこなかったが、そろそろ出番となりそうだ。そんな俺の視線の意図に気が付いたのか、目の合ったグレイは口元を歪めて嗤う。

 

「ねえおじさん。私、今度は的当て(・・・)がしたいわ」

 

 白い枕をぎゅっと抱きしめながらそう言うグレイに、俺も笑って言葉を返す。

 

「任せろ、とびっきりの場所を用意してやる」

 

 俺は悪党だ。

 ならば、どこまでもその身を黒く、暗く染めてゆこう。たとえ行き着く先が、虚無の地獄だとしても。

 

 

 

 29

 

 

 

「ダメですボス、バラライカにも他のメンバーにも連絡が取れません」

「チッ、もう一度だ。繋がるまで掛け直せ」

 

 純白のクロスが敷かれた四角いテーブルの上に、高級料理が所狭しと並べられる。

 手前に置かれたステーキにナイフを入れながら、ホテル・モスクワ幹部の一人、ヴァシリーは苛立たしげに舌を打った。

 先刻前からバラライカたちと連絡が一切取れない。これまでであれば必ず五コール以内にバラライカ、もしくはその部下からの応答があったというのに。

 肉厚のステーキを咀嚼しながら額に青筋を浮かべるヴァシリーに、正面に立っていた部下の一人が進言した。

 

「ホテルも引き払っているし移動したところも見ていない。ここは一度モスクワに指示を仰いだほうが……」

 

 その言葉はしかし、ヴァシリーの持つナイフが男の手の甲を貫いたことで途切れてしまう。突然の凶行に男がくぐもった悲鳴を漏らす。ヴァシリーはナイフを突き立てたまま、男の鼻先にまで顔を近付けて。

 

「指示を仰ぐ、なんてスカした言葉を使ってんじゃねえ。俺がやれと言ったらやるんだよ、いつから俺に意見できるようになったんだマカリュシカ」

 

 垂直に突き立てられたナイフが、マカリュシカの手甲を抉る。鮮血が白いテーブルクロスを真っ赤に染めていく。

 痛みに顔を歪める男を他所に、ヴァシリーの顔には焦燥の色が浮かんでいた。

 

「ックソ、あの女焚き付けやがったな。でなきゃ大頭目が俺を裏切るわけがねえ……!」

 

 ようやっとナイフを抜いたマカリュシカの手当を施しながら、別の男が口を開いた。

 

「頭目、あの女がどうして俺たちをハメるんで?」

「アイツはKGBを憎んでるんだよ。KGBだけじゃねえ、GRUも高級党員層もだ」

 

 バラライカの根幹にあるものは絶対的な力への信頼。それ以外で築かれた権力には何の意味も権限も無いと、彼女は真顔で言ってのける。

 

「アフガンだ、あの女はアフガンにとり憑かれてやがる。ロアナプラに行ってからは一層それが際立ってやがるんだよ、あの女にとっちゃ戦いこそが至上なんだ」

 

 クソッタレが、とヴァシリーは吐き捨てるように言い放つ。整髪料によって整えられていた彼の髪の毛は、その焦りからか崩れ疲弊しきっているようだった。

 

「……大頭目はこのことは」

 

 部下の一人が尚も口を挟もうとするが、しかしその言葉は最後まで紡がれる事は無かった。

 最も早く気が付いたのはヴァシリーだ。店の外、窓の向こう側でゆっくりと停車した数台の黒塗りのセダン。それらの窓が開き、中からマシンガンの銃口が現れる。

 

「ッ、伏せろ!」

 

 声を荒げた時にはもう遅い。店内の窓ガラスをぶち破って、鉛色の嵐が降り注ぐ。

 この時点でヴァシリーの部下の半分程が行動不能に陥る。残った半数とヴァシリーは転がるようにして弾丸を回避し、テーブルの陰で身を低くして銃を構えた。

 窓ガラスの破片が辺り一面に散乱する店内へと足を踏み入れてきたのは、サングラスを掛け白鞘を手に持つ男だった。鷲峰組若頭代行、松崎銀次である。

 銀次はすらりと刀身を抜き、その鋒をヴァシリーらへと向けて。

 

「曽我の助六が遊びに来やしたよ……。さァ、」

 

 ――――遊びやしょう。それが開戦の合図となった。

 

「奴の獲物はソードだけだ! とっとと殺せッ!!」

 

 ヴァシリーの怒号に合わせるように、部下たちが一斉に銀次目掛けて弾丸を発射する。

 銀次は回避行動を取らない。ただ弾丸目掛けて、細く強靭な刃を振り翳す。

 キンッ、と。驚く程軽い音と共に、発射された弾丸の一発が真っ二つになった。銀次は動きを止めず、唖然としたままの男たちの懐に瞬時に潜り込み一閃。派手な血飛沫が上がる。

 周囲を取り囲まれているにも関わらず、銀次は流麗な動きで次々と相手を切り捨てていく。数分と経たないうちに、店内で息のある人間は銀次とヴァシリーだけとなった。

 白鞘に付着した血液を払いながら、銀次は床に座り込むヴァシリーを見下ろして。

 

「おたくにゃあ聞きてェことが幾つか。先ずはそうだな、女親分とその通訳について話してもらいやしょうか」

「Подождите, я я был установлен!」

「……あァ、言葉が通じねえのか」

 

 この男には聞きたいことがあった。鷲峰組若頭板東を殺したと思われるバラライカ。そしてその通訳の高市で出会った男。銀次の進む先にまず間違いなく立ち塞がるであろう二人だ。

 だが残念なことに、目の前の男は日本語を話すことが出来ないらしい。当然銀次はロシア語など話せないし聞き取れない。握った白鞘をゆっくりと持ち上げて、心底落胆したように銀次は言った。

 

「使えねェな、アンタ」

 

 

 

 30

 

 

 

 小さな粉雪が舞う夜道を、俺とグレイの二人は並んで歩いていた。普段であれば辺り一面を照らすのは道路脇の街頭と月明かりくらいのものだろうが、この近辺に至ってはそうではない。無数の赤灯が視界の先に飛び込んでくる。警察車両だ。

 今俺たちが向かっている香砂会の屋敷の周囲は、現状完全に包囲されていた。非常警戒態勢というものらしい。屋敷に出入りできるのは香砂会の関係者のみ。それ以外の怪しい人間には必ず警察が声を掛けるように指示が出されているようだ。

 目の前の角を曲がって真っ直ぐ進めば屋敷の入口という場所で一旦立ち止まり、ちらりと屋敷の入口の方へと視線を向ける。視認する限り今常駐している警察官は一人、周囲には多数の警官が配備されているだろうが、この場にいない人間の事を考えても仕方がない。

 いつまでもここで立ち止まっていては、もし目撃された場合に怪しまれかねない。警察がどこまでこの件を認知しているのか定かでないが、国捜なんかが出てくると面倒だ。そう思い歩き出す。角を曲がると先程見かけた警官がこちらの存在に気が付いた。

 但し、こちらを訝しむような様子は見られない。寧ろ柔和な笑みを携え、足取り軽くこちらへ近づいてきた。

 

「どうも波野さん、今日は冷えますね」

「こんばんは高木さん、ご苦労さまです」

 

 そう言うと警官、高木は仕事ですからと表情を引き締める。

 高木というこの男は一年目の新米警官だ。一年目にも関わらずこんな危険な現場に配備されるということはそれだけ優秀なのか、はたまた新人を使わなくてはならない程に警察内部が逼迫しているのか。

 因みに波野というのは俺の昔の苗字だ。レヴィやバラライカにすら教えたことはないが、流石にウェイバーなどと名乗る訳にもいかないのでそうしている。

 

「今日は遅いお帰りですね」

「急に買い出しが必要になりまして」

 

 言って、片手にぶら下げていたコンビニ袋を高木に見せる。理由付けのために予め用意しておいたものだ。中にはグレイが食べるお菓子しか入っていない。

 

「物騒ですから、夜は十分注意してくださいね」

「大丈夫ですよ、高木さんのような優秀な警官の方が見張ってくれていますから」

「万全の警戒網を敷いているつもりですが、何が起こるかも分かりませんから」

 

 そうですね、と相槌を打っておく。

 高木とのやり取りからも分かるように、俺とこの男は知り合いである。と言っても旧知の仲だとか言うものでなく、知り合ったのはつい先日。警察が香砂会屋敷の周辺を警戒するようになってからだ。香砂政巳との面会を行うために何度か香砂会の屋敷を出入りした結果、どうやら俺たちのことを香砂会の組員であると勘違いしているらしい。

 別に誤解を解く必要性も感じないし、これ幸いとばかりに利用させてもらっているのが今の現状だ。勘違いする方が悪い。

 俺とグレイがこれから何をするのか全く知らない高木は、いつものように俺たちを見送った。彼に背を向けて、屋敷の門をくぐる。

 時刻は午後九時。

 

「グレイ、用意は出来てるな」

「いつでもいけるわ」

 

 言いながらグレイはコートの内側からMP7を取り出す。その銃口にはサプレッサーが取り付けられている。マガジンは四十連が既にリロード済だ。

 サプレッサーを付けただけでも消音にそれなりの効果があるが、如何せん外は警察が彷徨いている。出来るだけ外に大きな音を漏らしたくないため、弾丸も通常弾ではなく弾頭の重量を増加させた亜音速弾を使用させている。弾道が不安定になりがちなデメリットはあるが、長距離狙撃をするわけでもなし、グレイの腕なら歯牙にもかけないだろう。

 グレイが口角を釣り上げながら銃を構えるのを横目に見て、俺も懐からシルバーイーグルを取り出す。俺のリボルバーには何の消音対策も施されていないので発砲すれば即座に気付かれるだろうが、発砲しなければいいだけの話だ。早い話が威嚇の道具である。

 

「さて、じゃあ始めようか」

 

 そう言って、歩みを進める。丁寧に手入れされた庭先を抜けて、正面玄関から堂々と屋内に侵入する。

 

「あん? あんた何しに来たん……」

 

 玄関をくぐった先に居合わせた組員の男が最後まで言葉を言い切ることなく、グレイが頭部を撃ち抜いた。

 やはり完全に音を消すことは出来ないが、この程度の音であれば誤魔化しはいくらでも利く。床に崩れ落ちる男を跨いで、更に奥へ。目指すは会談でも使用した香砂政巳の私室、この時間帯なら間違いなく居るはずだ。

 

「あはっ」

 

 無邪気な嗤いを漏らしながら、グレイは手当たり次第に組員たちを絶命させていく。

 俺はそんな少女の後ろに付いて、撃ち漏らしがないかを確認しつつ歩く。殺し損ねた人間が外の警察に逃げ込まれると面倒なので、座敷やトイレなんかのチェックも怠らない。

 数分のうちに屋敷内は凄惨な殺戮現場へと変貌した。俺たちの後ろに築かれた死体の山は宛ら道標のようだ。一人に対して何発も撃ち込んだわけではないので血の海と形容する程ではないが、床や壁を彩る鮮血は一般人には刺激が強すぎるものだろう。

 ここら一帯でも有数の敷地面積を誇る香砂会屋敷だが、片付けも含め五分程で目的の場所の前にまで到着した。

 中から話し声が聞こえる。香砂政巳たちのものだ。

 

「あの人はまずい、本当に怒らせちゃいけねえ人種ってのは、きっと……」

「おじさん、あの人に何かしたの?」

 

 東堂らしき声が部屋の内部から聞こえてきて、グレイが俺を見上げた。

 何もしていない、というか俺は東堂にはきちんと説明したはずだ。バラライカたちなどと同格に扱われては困る、もっと可愛げのあるレベルだと。

 

「どうも俺は勘違いされてしまうきらいがあるらしい」

「わざとやってるようにしか見えないわ」

 

 辛辣だな、と苦笑する。

 

「ロアナプラだか何だか知らねえがいけ好かねえ。あんな男のどこに警戒する必要がある」

 

 今度は両角の声だ。つい先日グレイに銃口を突き付けられたばかりだというのに、その思い上がりは一体どこから来るのだろうか。

 

「両角の言う通りだ。ま、例え俺たちに歯向かってきた所で、うちの武器の数を前にゃあ何もできねえだろうがよ」

 

 香砂政巳の声。そう言えば他の組と比べて武器の所有量が段違いだとか言っていたな。ハワイのマフィアからマシンガンも買ったことがあるとか息巻いていたが、見せてもらったのは粗悪品も良いところのコピー品。今グレイの持っているMP7の足元にも及ばない代物だった。

 さて、いつまでも聞き耳を立てているわけにもいかないので、中にも聞こえるような声量で俺は発する。

 

「何も出来ないね。どう思うグレイ」

 

 俺の意図を正確に理解したグレイが、ニッコリと微笑みながら続く。

 

「何もしなかった、というのが正しいわおじさん」

 

 私にばかり掃除させて、と小声でそう付け足すグレイ。俺が出ると獲物を横取りされたような不満げな表情をするくせに何を言ってるんだと思わなくもない。

 一度小さく息を吐いて、友人宅を訪れたような気安さで襖を開く。中に居た三人は全員が呆然としていたが、一歩踏み込むと同時にそれぞれが銃を抜いた。

 が、そんな反応じゃあ遅すぎる。ロアナプラだったら抜く前に撃たれて終わりだ。

 

「馬鹿な、銃声なんて聞こえなかったぞ……」

 

 俺のリボルバーとグレイのMP7を交互に見て香砂政巳が呟く。そりゃ俺は一発も撃っていないからな。グレイの方にも出来るだけの消音対策は施してあるし、何も銃だけを使用したわけではない。余りにも距離の近い人間は小型のナイフを使用して首筋を的確に切り裂いてきた。勿論グレイが。本当に俺は歩いていただけなのだ。

 

「さて、面倒事は先に片付けてしまおう」

 

 言ってリボルバーを向ける。当然撃つつもりはない。ここで発砲してしまえば今まで何の為にグレイにばかり撃たせていたのか分からない。

 

「……どうしていきなりこんなことをしやがる」

 

 銃口を突きつける両角が苦々しく言う。

 ここで本当の事を言ってしまってもいいが、俺は敢えてそれらしいことを告げる。

 

「香砂さん、アンタ、ホテル・モスクワと繋がってるな」

「っ!?」

 

 香砂政巳の表情が変わる。それだけで十分だ。

 

「敵対組織と協調しようとする。それは俺たちに対する裏切りだ、それは理解してるんでしょうね」

「待ってくれ、それは」

「言い訳を聞きにきたわけではない」

 

 香砂政巳の言葉を遮って、高圧的な口調で言い放つ。状況の有利を保ったまま進めるには相手に言いたいことを言わせず、こちらの言い分を押し付けることが最も効率的だ。

 内心でバラライカのような口調を意識しながら、笑ってみせる。

 

「我々も舐められたものだ、たかが任侠ごときが噛み付こうというのだから」

「っんだとてめえ!」

 

 頭に血の上った両角が引鉄に手を掛ける。

 しかしそれよりも早く、グレイが動いていた。

 

「いけないわおじさん。口を開く暇があったら先ずは手を動かさなくちゃ」

 

 そう言い終わる頃には、既に両角の心臓に弾丸が撃ち込まれていた。何が起こったのか理解できないまま、畳の床へと崩れ落ちる。彼を中心にして広がる鉄臭い液体が、何が起きたのかを雄弁に語っていた。

 

「ああ、警察の応援は期待しないほうがいい。既に我々の支配下だ」

 

 警官の中に知り合いがいるだけだけどな、と内心でのみ呟く。

 

「言いたいことはあるだろうが、それはいずれ地獄でしかと聞いてやる。今は先に堕ちていけ」

 

 それが引鉄を引く合図となった。

 香砂政巳と東堂が動き出すよりも早く、二人に向かってグレイが正確に射撃する。

 断末魔すら響かせることなく、静かに香砂会は壊滅した。

 

 

 

 31

 

 

 

「では、ロシア大使館の方以外の電話は取り次がない形でよろしいのですね。ええと、ミス・ヴラディレーナ?」

「ハイ、ドモアリガト」

 

 ホテルの青年に紙幣を何枚か握らせて、バラライカは扉を閉めた。途端に表情が外向きのものから戦場でのものへと変貌する。

 

「可愛い盛りだな、あれくらいの子は」

「必要なら何人か用意させますが」

「いらん、相手とするには物足りんさ。さて軍曹」

 

 バラライカに視線を向けられ、ボリスは届けられた書類に視線を落とした。

 

「はい大尉。偵察班より報告が。結集地の一部に変更の必要あり、と。襲撃ポイント2は状況赤です」

「詳細を」

「数時間前に香砂会の屋敷を何者かが襲撃、会長である香砂政巳をはじめとした組員の大半が殺害された模様。周囲は警察が厳戒態勢を敷いていましたが、犯行はその状況下にも関わらず行われたようです」

 

 ボリスの報告を耳にして、バラライカはフッと小さく笑う。

 

「奴の仕業だな、まず間違いない」

「自分も同意見です大尉。日本の警察は非常に優秀だ。偵察班の報告にもありますが、狙撃ポイントを除けば周囲は完全に防御されていました。それをいとも容易く突破してみせる人間など、彼以外有り得ない」

「ウェイバーめ、先手を打ってきたか」

 

 こちらの行動を予測して先手を打ってきた。そう言うバラライカの表情はしかし愉しげだ。

 

「奴め、我々が香砂会と手を組むことを知っていたのか。それとも予見していたか、どちらにせよ行動の早い男だ」

「しかし作戦に支障はありません」

「当然だ、ウェイバーが関わってくる以上、数十の策を用意している。ところでニュースは見たか軍曹」

「ええ。同志ラプチェフは実に良く働いてくれましたな」

「邪魔者も排除でき相手の戦力も測ることができる。実に効率的だ」

 

 さて、とバラライカは一旦言葉を切る。

 

「香砂会が壊滅し、鷲峰組とも対立関係となった。だが我々の行動指針に変更はない、先ずは鷲峰組の血縁者、新たに組長に就任するという女を拐え」

 

 

 

 32

 

 

 

 考える。岡島緑郎ではなく、ロックは考える。

 今自分たちが置かれている状況のまずさを。そして鷲峰雪緒という少女の危うさを。

 タクシー内でカトラスを受け取りに向かったレヴィを待つ間、ロックはひたすらに思考を巡らせていた。

 当初共同歩調を取っていたホテル・モスクワと鷲峰組は、バラライカが板東を殺したことで完全に敵対関係となった。雪緒が鷲峰組の関係者である以上、渦中に巻き込まれるのは火を見るよりも明らかだった。

 ホテル・モスクワのやり方は絶対に変わらない。たった一年しかロアナプラに居ないロックですら、彼女たちのやり方は染み付いている。全ての事柄に暴力での解決を求める、いや暴力を用いた手段しか取らないバラライカのことだ。このまま事が進めば間違いなく鷲峰組は壊滅する。

 

 日本という限りなく安全な地で、平穏に暮らしていた少女は絶対に関わってはいけない領域だ。

 裏側の人間であるとロックは自身を認識している。だからこそ彼は表の人間が他者の手によってこちらへ落ちてくることを容認しない、出来ない。

 どうすればいい。自分はどうするべきなんだ。

 心の中の本心を言えば、雪緒を助けたい。こんな血腥い世界に足を踏み入れてしまう前に、彼女を陽の当たる世界へと返してあげたい。

 しかし状況がそれを許してはくれない。バラライカとウェイバーがこの件に関わっている以上、火種が益々大きくなることは確実だ。そうなってはもう後には退けない。行動に移すなら今、このタイミングしかない。

 

「悪いロック、待たせたな」

 

 タクシーの後部座席が開かれ、カトラスを受け取ったレヴィが戻ってくる。

 

「やっとこさトカレフともおさらばだ。こいつがねえと一歩も外を歩けねえ。……どうした?」

 

 訝るレヴィをよそに、ロックは流れてくるラジオのニュースに耳を傾けていた。

 

『今夜未明、香砂会の屋敷が襲撃されました。犯人はその場から逃走。警察は非常警戒態勢の中捜査に当たっています』

「……始まった」

「ああ、姉御は笑いが止まんねえな。ボスとお望み通りの戦争だ」

 

 煙草を咥えながら頬杖を突くレヴィ。

 そんな彼女に向かって、ロックはゆっくりと口を開いた。

 

「レヴィ、やっぱりあの子のことを放ってはおけない。俺と一緒にあの子のところへ行ってくれないか」

「…………」

 

 レヴィは答えない。ロックは尚も言葉を重ねる。

 

「彼女が鷲峰の関係者なら巻き込まれるのは確実だ。バラライカさんのやり方を見てきた今なら尚の事」

「ロック」

 

 彼の言葉を最後まで待たず、レヴィは外を眺めたまま言った。

 

「あたしはあんたの護衛でここへ来た。あんたがそうしたいって言うなら止めたりはしねえよ。でもな、守れる命ってのにも限度がある。自分から死に行っちまうような馬鹿を、あたしは一体どうやって守ればいいんだ?」

 

 暗にレヴィは首を突っ込むのはやめろと言っている。それはロックにも理解できた。

 しかし理解することと納得することは、全く別の話だ。

 

「でもあの子は俺たちとは違う、普通の子なんだ……!」

「違わねえよロック。あいつはもうこっち側の人間で、姉御はロアナプラの流儀でここを片付ける。それはボスもおんなじだ、違いなんてねえ」

「だけど……」

「勘違いするなよロック。最初に言ったろ、そうしたいって言うなら止めたりしねえ。あたしに出来る最大限のサポートだってしてやるさ。だが状況は厳しいなんてもんじゃねえ。ロアナプラでだってお目にかかれねえような戦争になる可能性だってある」

 

 レヴィは語るように、ロックを見つめたまま告げる。

 

「覚悟を決めなロック。ボスと姉御、あの二人に割って入ってまであの女を助けようってんなら、全てを擲ってでもやり遂げる覚悟をな」

 

 

 

 

 

 

 




 以下要点。

・銀さん始動。
・ウェイバー、グレイ始動。
・香砂会がログアウトしました。
・姉御テンション上昇。
・ロック、レヴィ始動準備。

※本作は微勘違いものですから(小声)


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020 彼らは戦地へ赴く

 33

 

 

 

 ――――静寂に包まれた冬の夜。ちらつく雪が幻想的な雰囲気を醸し出していた。しかしそれらをかき消すように回る無数の赤色灯が、事態の深刻さを物語っている。忙しなく動き回る警察関係者、現場周辺は完全に遮断され、一般人の立ち入りを固く拒んでいた。

 その中心地、香砂会の屋敷は凄惨な殺戮現場と化していた。敷地内へと足を踏み入れ、玄関の扉を開いた警官の目に飛び込んできたのは血の海に沈む大量の構成員たち。そして最奥の私室では、香砂会組長の香砂政巳とそのボディガード、更に若頭である東堂が死に絶えていた。

 血痕の凝固具合と死体の状態から、死亡推定時刻は午後九時前後であるとの推測が出された。

 しかしその時間帯は周囲に警察官が配備され、鼠一匹の侵入も許さない警戒網が敷かれていたのだ。それをいとも簡単に突破し、警戒中の警官に気づかれずに犯行に及ぶことができる人間など果たして存在するのだろうか。

 事件発覚後緊急で召集された検視官は並べられた死体を一人一人確認し、驚愕に目を丸くする。

 

「銃痕はほぼ一発、額か心臓。そうでない場合は切り口からして刃渡り二十センチほどのナイフで頚動脈を正確に切り裂いている。短時間でこれだけの人数を、これだけの正確さで……? 俄かには信じられない、もしもこれが単独犯だというのなら、人間業ではない」

 

 日本ではまずお目に掛かることなど出来ないであろう、殺人に対して不適当かもしれないが芸術的なまでに無駄のない手口。検視官は言う、どんな連続殺人犯でもここまでの事は成し得ないと。

 それを聞いた警察官、石黒という眼鏡を掛けた短髪の男は眉根を寄せた。

 これだけ大規模な殺害事件だ。周囲の警戒は万全を期していた。にも関わらず堂々と行われた犯行、しかも犯人の手がかりとなりそうなものは何一つ残されていない。犯行に使用されたであろう銃やナイフも弾痕や切り口から推測するしかなく、凶器の類は一切残されていないのだ。

 石黒は真っ先にヤクザ同士の抗争の線を考えたが、だとすれば双方に死傷者が出ているはずだ。現場を見る限り香砂会の人間が一方的に殺されており、関係者以外の死者は確認されていない。

 香砂会のみを狙った犯行であることは間違いない。なら、その目的は何なのか。

 石黒はキャリア十五年を越えるベテランだ。殺人事件を担当したことも百を越える。これまでの殺人には、良くも悪くも犯人の性格や感情が残されていた。だが目の前の殺人にはそれが一切存在しない。まるで機械が無差別に人間を殺したかのような無機質さ。彼は背筋に冷たいものを感じていた。

 違う。この一件はこれまでと同列のものではない。

 全国に指名手配されている連続殺人犯、いや国際指名手配されている人間の犯行であることを十分可能性に入れて石黒は捜査を開始する。

 ICPOのデータ照合も視野に入れて動き出す警察。そんな厳戒態勢が敷かれた香砂会の屋敷から少し離れた路地裏に、背中まで届く良く手入れされた金髪の男の姿があった。高級なスーツを着たホスト風の青年は、携帯を耳に押し当てながら香砂会の屋敷とは反対方向に向かって歩いている。

 

「あーうん、そーだよ香砂会全滅。現状見たわけじゃないから多分だけど。あ、俺以外ね。いやマジでやばいってあの子。ちょっと本気でヤりたくなってきた」

 

 携帯の向こう側から笑い声が聞こえてくる。

 千尋もそれに合わせるように口角も吊り上げた。

 

「とりあえずそっちで匿ってくんね。そっちでも楽しいことすんだろ? 俺も混ぜろよ」

『いいけどチッピー俺の獲物には手ェ出すなよ?』

「十五越えた女にゃ興味ねえから安心しろって」

 

 歩みを止めないままに千尋は会話を続ける。

 今千尋がこうして生きていられるのは、彼が襲撃時に屋敷に居なかったからだ。勿論偶然などではない。

 彼は都内で自由に使える街のチンピラたちを何十人も持っている。千尋は彼らを渋谷区内のあらゆるホテルに張り付かせ、グレイの居場所を割り出したのだ。これは一戦交えるためだったが、数時間前に宿泊ホテルに張り付かせていたチンピラからどうも香砂会屋敷へと向かっているようだという報せを受け取り直ぐ様屋敷を離れたのである。結果的にそれは千尋を生き長らえさせる結果となった。

 周囲の警察に捕まると面倒なことになると判断した千尋は屋敷へは戻らず、このまま知り合いと合流する道を選んだのだ。何でも向こうも行動を起こすらしく、近くのボーリング場で落ち合うことになった。

 

『んじゃ待ってっから』

「おうよ」

 

 通話を切った千尋はそのまま携帯をズボンのポケットへと滑り込ませ、軽快な足取りでボーリング場へと向かった。

 

 

 

 34

 

 

 

 ちょっとした物音で目が覚めたのは、警戒心の現れだったのだろうか。夜も更けた深夜、自室で眠りについていた雪緒はこれまでにない違和感を感じて瞼を持ち上げた。

 現在、この屋敷には雪緒と吉田、そして数名の組員しか居ないはずだ。銀次は白鞘を手に出掛けたまま未だ戻っていない。

 だが雪緒の耳に届く足音は、どうも屋敷に居るはずの組員たちの数と合わない。余りにも多すぎる。十や二十ではない。それ以上の人間の足音が屋敷内を徘徊しているようだった。

 一体何が、と思う雪緒が身体を起こすのと、襖の向こう側から声が聞こえてきたのはほぼ同時だった。

 

「なんやねんチャカ坊。こいつらお前が連れてきた助っ人か?」

「助っ人ね、あァまーそんな感じっすわ。俺が連れてきたんすよ。なんせ緊急事態みたいですし」

 

 直後、銃声が轟く。数瞬遅れて、吉田のくぐもった悲鳴が上がった。雪緒は喉の奥からせり上がる恐怖心を押しとどめようと両手で口を塞いだ。

 吉田を撃ったであろうチャカは、酷く平坦な声音で口にする。

 

「吉田さん。前から思ってたけどアンタ人が好すぎるわ。そんなんだからこうなるンすよ」

「チャカ坊……っ、てめェ……!」

「あー別にどう思われようが関係ないんで、ちゃっちゃと死んでくださいよ」

 

 二発、三発と銃声が響く。それ以降吉田の声は一切聞こえなくなった。

 何が起こっているのか詳細は不明だが、チャカが吉田を殺したということだけは雪緒も理解できた。突然の状況に脳の処理が追いつかないが、身体の方は危険を察知して逃げ出すように動き始めていた。布団の中からゆっくりと這い出て、物音を立てないよう襖の方へと向かう。

 冷たい空気が肌を刺す。寝巻き一枚で暖房の効いていないこの場に居るのは些か厳しいが、そんな悠長なことを考えている場合ではない。

 どういった理由からかチャカが組を裏切るような行動を取った。ということはいずれ矛先は自身にも向かうだろう。先の吉田への行為から考えるに、捕まればどんな未来が待っているのかは想像に難しくない。

 とにかく、まずはこの場から離れなければ。

 そう結論づけた雪緒が襖の取手に手を伸ばす。

 

「あれ、どこ行くんすか?」

 

 しかし、雪緒が手をかけるよりも先に襖は開かれた。震える彼女の前に立つのは、リボルバー片手に軽薄な笑みを浮かべる金髪の男。

 

「チャカ、さん……」

「ダメじゃないっすかァ。今日は冷えるんだから、そんな薄着のまま彷徨いてちゃ」

「……吉田さんは」

「あ? あァあのパンチね。そっか銃声で起きちゃったのか、失敗失敗。このまま寝ててくれればこっちもラクだったんだけどなァ」

 

 ため息混じりに話すチャカに、得体の知れない悍ましさを感じて雪緒は自身の肩を抱いた。

 身の危険を感じていると知らせるその仕草を前にして、チャカは舌舐りをして。

 

「イイねその目。これからどう濁っていくのか楽しみだわ」

 

 下卑た嗤いを漏らしながら、チャカは雪緒の腕を強引に掴んで部屋の外へと引き摺り出した。抵抗は試みるものの、女子高生と一般男性では力の差が大きすぎる。結局は何も出来ないままに、雪緒は明りの点いた屋敷の一室に放り込まれた。銀次や吉田と話をしたあの部屋だ。

 乱暴に投げ込まれた雪緒の視界に飛び込んできたのは、金属バットや拳銃を所持した大勢の若い男たち。三十人程はいるだろうか。先程の足音はこの男たちのものだったのだ。

 

「こいつらね、俺が面倒見てる連中なんすわ。ほら極道が後ろに付いてっと何かと融通きくでしょ。甘い汁吸わせてやってんすよ」

「人使いは荒いっすけどねチャカさん」

「うっせそれ以上に楽しんでんだろ」

「確かにそーっすね」

 

 ぎゃはは、と男たちは笑う。

 雪緒はそんな彼らに取り囲まれ、身動きが取れなくなってしまっていた。

 

「ま、もうすぐチッピーが合流するんで、そしたらこんな古臭ぇトコともおさらばよ雪ちゃん」

 

 雪緒の顔に自身の顔を近付けて、チャカは言う。

 

「変な真似しないでね。キレて殺しちゃうかもしんねーから」

 

 

 

35

 

 

 

 深夜二時。ロックとレヴィはタクシーに乗り込み鷲峰組の屋敷に向かっていた。

 後部座席に座る二人は互いに窓の外の流れていく景色を眺めたまま会話を交わす。

 

「……いいんだなロック。本当に後戻りできなくなるんだぜ」

「構わない。俺は、彼女にこちら側に来て欲しくない」

 

 頬杖をついて窓の外を眺めたままのレヴィに視線を向けて、ロックは神妙な顔付きで続ける。

 

「彼女はこちら側の世界へ足を踏み入れることを望んじゃいなかった。周囲の状況がそうせざるを得なくさせたんだ。まだ戻れる、選択を間違えさえしなければ、彼女はまた陽の当たる世界で暮らせるんだ」

「……ここが分水嶺だ、ここを渡ればもう引き返すところはどこにもねえ。それでも、いいんだな」

 

 レヴィの問い掛けに、ロックは一つ頷く。彼の決意が固いことを確認して、レヴィは小さく息を吐いた。

 

「オーケィ。だったらもう止めねえよ、好きなようにしな。何かあってもあたしが全力で守ってやるよ」

「……ありがとう、レヴィ」

 

 やがて停車したタクシーから降り、二人は眼前の入口を見据えた。

 時間は既に日を跨いでいるからか、物音は一切聞こえてこない。そのことを差して気にしないロックとは対照的に、レヴィは眉間に皺を寄せ門の向こう側を警戒しているようだった。咥えていた煙草を落とし、瞳を細めていく。

 

「レヴィ?」

「ロック、出入り口はここだけか(・・・・・・・・・・)?」

 

 その質問を、ロックは裏口から侵入しようという提案なのだと考えた。

 

「僕らは招かれざる来訪者だ。裏口は却って……」

「違う、そうじゃねえ。気づかねェかロック」

 

 ロックの言葉を遮って、レヴィは自身の懐へと手を伸ばした。ホルスタに収められていた愛銃ソードカトラスを両手に握り、レヴィは一歩を踏み出す。

 

「嗅ぎ慣れた臭いしかしやがらねえんだよッ……、ここは!」

 

 レヴィの言うところを今度こそ正確に理解したロックは瞬く間に顔を強ばらせる。懸念していた事が起こってしまったと察して、レヴィと共に正面入口から屋敷内へと侵入した。庭先を駆け抜けて玄関の戸に手をかける。何の問題もなく開いた戸が彼の不安を増大させる。土足のまま二人は邸内へ踏み込み、やがて明りの漏れている部屋を発見した。カトラスを構えたレヴィが戸を蹴破り、次いでロックが中へと駆け込む。

 そこには、誰も居なかった。

 

「誰も、居ない……?」

「今はな、下を見ろ。あたしらと同じ土足で踏み込んでたクソ野郎が居たみてェだ」

 

 レヴィに言われ、畳へと視線を落とす。男性のものだと思われる靴跡が縦横無尽に残されていた。何かがあった、それは確実のようだ。

 

「っ、そうだ雪緒ちゃんは!」

 

 ロックは室内に彼女の姿が無いと気付くやすぐに邸内の捜索を開始。どうか無事でいてくれと願いながら、一部屋ずつ回っていく。

 その途中で彼は見た。見つけてしまった。廊下に血塗れで倒れ伏す吉田の骸を。

 ロックの後ろを歩いていたレヴィがそのまま吉田へと近付き脈を確認する。当然のように脈は無かった。後頭部に穿たれた銃創が直接の死因だろう、見れば腹部や腕にも銃創が存在していた。

 

「……どうやら姉御じゃあねえみたいだな」

 

 後頭部の銃創を見下ろしながらレヴィは言う。

 

「姉御はスチェッキンだ。他の連中ならバリヤグとか弾数の多い軍用オートとかだな」

「それ以前に、ホテル・モスクワの仕業ならきっとあの子もここに転がってる筈だ。捕虜になるだけの価値は彼女にない」

「同感だ、それに見ろよロック。AKもそうだが、薬莢が落ちてねえのは一体どういうわけだ?」

 

 そう言われ周囲の床を見渡してみる。吉田の周囲にはレヴィの言う通り薬莢が無かった。証拠隠滅のために撃った人間がわざわざ拾っていくとも思えない。銃創からどんな銃を使用したかは大体把握できるためだ。となれば、吉田を撃ったのは薬莢が落ちない銃ということになる。

 

「……リボルバーだ」

「ヤー、そいつだ。ヨシダも不幸だな、随分と風通しがよくなっちまって」

 

 リボルバーと聞いて、ロックが真っ先に思い浮かべたのはウェイバーだった。まず彼の知り合いの中でリボルバーを愛用しているのがウェイバーを含め二人しか存在しないというのもあるが。もう一人はラグーン商会のボスであるダッチ。彼は米国S&W社のM29を使用している。ホテル・モスクワ内部でリボルバーを好んで使う人間をロックは知らない。故に自然と思考がウェイバーへと傾いていくのは無理からぬことだった。

 しかし、その思考はレヴィによって遮られる。

 

「言っとくけどなロック、こいつはボスの仕業でもねえよ」

「え、」

「まずボスだったら銃創は間違いなく一発、眉間にしかねえ。腕だの腹だのに無駄弾使うなんざ三流もイイとこだ」

「確かに……」

 

 それに見ろ、とレヴィは吉田の後頭部を転がして。

 

「穴がデケェ、大口径だ。ボスのリボルバーとは違う。こんな銃を喜んで持つのは大概見栄っ張りの底無しバカと相場が決まってる」

 

 レヴィは口元で人差し指を立てながら。

 

「あたしは一人、心当たりがあるんだけどね」

 

 言われ、ロックもすぐにその心当たりに辿り着く。以前レヴィに執拗に絡んできた金髪の鼻と耳にピアスを付けた男。

 

「アイツだ……! でもどうして裏切りを……」

「そこまでは知らねぇよ。でもあのガキを攫ったってんなら、それはつまりそういうことだろうよ」

 

 ギリッ、と奥歯を噛み締める。考えが甘かった。これは香砂会と鷲峰組、そしてウェイバーとホテル・モスクワという対立の構図だと思い込んでいた。

 実際は違ったのだ。鷲峰組も一枚岩では無かった。組が崩壊の危機ともなれば、他へ乗り換える連中だって当然出てくるだろう。

 

「アイツは、何処へ向かったと思う」

「さァな、だが雪緒(手土産)ぶら下げて向かうとこなんざ大体見当がつく」

「……香砂会か、ホテル・モスクワ」

「おそらくな」

 

 これからどう動くべきか、ロックは思考を巡らせる。

 雪緒を救出しに行くことにはレヴィも異論はないだろう。元よりそのつもりでこの場に乗り込んだのだから。ただ今は状況が変化している。加えてウェイバーとバラライカ、双方の行動も把握していなければならない。バラライカの方はスケジュールを知っているが、その通りに動くなど考えられない。鷲峰組と敵対すると決定した以上、ロックに伝えていない身内だけの予定があって当然だ。ウェイバーについては見当すらつかない。

 考え事をしていたロックは、それ故に気がつかなかったのだ。

 白鞘を抜き放ち一直線にこちらへ飛び込んでくる、銀次の存在に。

 いち早く銀次の存在に気が付いたレヴィは、白鞘を振り下ろさんとする銀次の喉元へとカトラスを突き付けた。銀次も切っ先をレヴィの首筋へと当てたまま、両者は数秒間動かなかった。

 先に動きを見せたのは銀次の方だった。

 

「……解せねえ」

 

 ポツリと、サングラスの向こうの瞳をギラつかせながら。

 

「おめえさんの銃からは火薬の臭いがしやがらねェ」

「Get it. Jumbo? My gun had nothing to do with how Yoshida bought the farm.」

「銀次さん、これは俺たちじゃない。ホテル・モスクワもまだここにはたどり着いていない。信頼してくれ、殲滅した敵地のど真ん中で二人揃ってぼんやりしてると思うか?」

 

 吉田を殺し、邸内を荒らし回ったのが二人でないと判断した銀次は白鞘をレヴィから離し、懐へと収める。それを確認してからレヴィもカトラスをホルスタへと戻した。

 

「……何でおたくが此処に居るんで」

「俺はホテル・モスクワの通訳として日本へ来た。でも今は雪緒ちゃんを戦いから遠ざけるためにここに居る」

「通訳……? じゃあ、あの時の旦那は」

 

 聞かれ口にするか一瞬迷ったロックだったが、結局は銀次へ伝えることにした。

 

「香砂会に雇われてる。鷲峰組がホテル・モスクワに協力を求めたように、向こうも外部勢力を雇っていたんだ」

「……成程、ようやく合点がいった」

 

 そう言って踵を返す銀次を、ロックは引き止める。

 

「待ってくれ、まだ話は終わっていない。アンタ、ここに飛び込んできたときは一人だったな」

 

 ピタリと銀次の足が止まる。

 ロックは背中を向けたままの銀次へ尚も言葉を投げた。

 

「残りの人は皆事務所なのか? 手勢が一人でもいれば慌てて出て行く必要も無いはずだ」

「おたくらにゃあ関係の無ェ事だ」

「関係ならある。俺たちは事の中心に居る。このまま黙って見過ごすわけにはいかない」

 

 レヴィは一切口を挟まない。煙草に火を点け、静かに行く末を見守るだけだ。

 

「それに徒歩でどこへ行こうっていうんだ。外は轍の跡がいっぱいだった。ここに残ってる足跡の数から考えても離れた場所から大人数で移動してきたことになる。追いつくには時間が足りない」

 

 そこで一旦言葉を切り、ロックは銀次の正面へと回り込む。口を真一文字に引き結んだ銀次が今何を考えているのかは分からない。ただ自身と銀次の目的は一致している。それだけは断言できた。

 

「ここで論じてる時間はない。吉田さんを殺したのはここの身内だ。そいつはそんな時間を許しちゃくれないし、銀次さんが雪緒ちゃんを取り戻しにやって来るのを分かってる」

 

 直ぐにでも行動に移さなくてはいけない。それは銀次も分かっていたことだ。

 犯人の目星はとうについていた。昔から何かを企んでいるような男だったが、ここまでの強硬手段に出るとは思っていなかった。

 雪緒を戦いから遠ざけるためにやって来たと通訳の男は言った。

 

 だが、もう遅い。

 もう少し、あと少しだけ早ければあるいは別の道があったのかもしれない。しかしそれはたらればの話、それで現在が変わるわけではない。

 

「どうしてお嬢を。肩入れする理由がわからねェ」

「あの子はこちら側の世界に居ていい人間じゃない。そう思ったんだ」

 

 ああ、本当に。あとほんの少しだけ早ければ。

 

「……誰かが赦してくれるンなら、それも良かったんでしょうや。誰かが赦してくれるンならね」

 

 言って銀次はロックの横を通り過ぎる。

 

「……場所の目星は付いてる。車を回してもらえますかィ」

 

 

 

 36

 

 

 

「悪いなリロイ。報酬の方は色をつけておくよ」

『頼むよ旦那。足がつかないように大量のサーバを経由させんのってかなり大変なんだ』

 

 深夜二時過ぎ。ホテルへと戻ってきた俺は携帯に着信が来ていたことを思い出して電話をかけ直していた。通話の相手はリッチー・リロイ。ロアナプラではかなり名の知れた情報屋で、「インサイド・ツーリスト」なんて通り名まで持つ男だ。先日俺が香砂会と鷲峰組の勢力推移を調べるよう依頼したのもこのリロイである。リロイの提供する情報に国境は存在せず、必要とあらばペンタゴンにまで侵入してみせると豪語するこの男の腕は確かなもので、事あるごとに必要な情報を用意してもらっている。

 今回彼に頼んだのは香砂会組員の唐沢千尋と鷲峰組の繋がり、そして都内の暴走族やチーマーとの関係性の洗い出しだ。依頼をしたのは香砂会襲撃前だが、たったの数時間で調べ終わったらしい。相変わらずとんでもない手腕だ。

 

『急ぎとのことだから紙に起こしてないんだ。口頭でいいかい』

「ああ、盗聴対策はしてある」

『それじゃ。香砂会の唐沢は鷲峰組のチャカって呼ばれてる男と親しいみたいだ。何度も二人だけで接触してるのが目撃されてる。造反を企ててるみたいだね。チャカって方はホテル・モスクワに取り入ろうとしてるみたいだ。その鷲峰雪緒ってのを手土産にしようとしてるんじゃないかな。二人共都内のチンピラを子分扱いしてるようだから割と顔も広い。根城にしてるのは何箇所かあるが、これはまあ地図を送っておくよ』

「頼む」

『それと唐沢の方は一等のペドフィリアみたいだ。今までに八十七人の少女、幼女を壊してる』

 

 その報告を受けてそういうことかと納得する。今までグレイへ向けられていた不快な視線の正体がこれでハッキリしたわけだ。要するにただの変態だったのか。そんなのにグレイを近付けるのは些か心配ではある。グレイが何かよからぬ性的嗜好に目覚めてしまわないかという点で。

 口頭での情報を受け取って通話を終える。

 数分後送信されてきた地図を確認。幾つか紅く塗りつぶされた箇所があるが、これらが根城のある地点なのだろう。

 

「多いわね」

 

 横から携帯の画面を覗き込んできたグレイがそう零す。返り血を落とすためにシャワーを浴びてきたグレイの髪の毛はまだしっとりと濡れており、毛先から滴る水が現在進行形で俺のズボンを濡らしている。というか下着姿でうろつくんじゃない。服を着なさい。

 

「これ全部回るの?」

「出来るだけ絞る。あの千尋とかいうのは絶対に鷲峰組と合流するだろう。となると鷲峰雪緒はそいつの手に落ちる可能性が高いからな」

 

 唐沢千尋、そして鷲峰組のチャカという男。この二人が裏で繋がっていたのはこうした不測の事態に陥った際に直ぐ身の安全を確保出来るようにするためだろう。今回で言えば香砂会が壊滅し後ろ盾を失った千尋がチャカに助けを求めた形となるが、状況が違えば全く逆にもなったはずだ。

 そしてその鷲峰組も半ば壊滅状態と言っていい。香砂会と鷲峰組。両者が使えないと判断された時に二人が行き着く先はどこか。ホテル・モスクワだ。恐らく雪緒はホテル・モスクワへの手土産とされるだろう。殺さない場合のメリットなどその程度しか考えられない。

 それに唐沢千尋はロリコンだと言うし。女子高生ならストライクだろう。

 そうなると俺は既に誘拐されている可能性のある鷲峰雪緒を再び誘拐することになるわけだ。

 

「おばさんよりも先にあのお姉さんを手に入れたいのね」

「争いの火種を前もって消しておきたいだけさ」

 

 香砂会を壊滅させた以上、俺が依頼を遂行する理由は無くなった。だがそれは俺に限った話で、バラライカがそうするとは限らない。というか絶対に依頼主など関係なく火種をぶち込んでくるだろう。あいつはそういう女だ。東京を焼け野原にでもするつもりなのか知らないが、鷲峰雪緒がその犠牲となろうとしているのであれば見過ごせない。俺たちのような悪党の食物にされていいのは同じ悪党だけであり、彼女のような善人は陽の当たる世界で過ごすべきだ。

 鷲峰組と敵対した以上、おそらくバラライカも鷲峰雪緒を狙ってくるだろう。ホテル・モスクワよりも先に彼女を手元に置く必要がある。

 

「そんなことしなくても、戦っちゃえばいいのに」

「交渉の材料ってのが必要になる可能性がある。戦わないに越したことはないからな」

 

 ぶー垂れるグレイの髪をドライヤーで乾かしながら言う。

 バラライカを始めとしたロアナプラの中でも一等の悪党どもと渡り合うには単純な戦力だけでは不十分だ。必要なのは幾つもの手札とそれを最高のタイミングで切れるセンス。そして相手に考えを読ませないことだ。俺は戦力と手数に関して絶望的なのでとにかく思考を読ませないことを徹底してきた。その結果手に入れたのが内心とは裏腹に一切変化しない顔色だ。どれだけ怖かろうがそれが全く顔に出ないことはかなり有難い。実際このおかげで何度か死線をくぐり抜けたこともある。

 グレイの髪の毛を乾かし終わり、再び地図へと視線を落とす。

 印の付いた地点は十以上あるが、香砂会と鷲峰組の屋敷の双方から近く、また車で移動でき、周囲に人の集まるような場所がない地点は多くない。すぐに一つが目に付いた。

 

「……ここか」

 

 ヒラノボウル、というボーリング場。俺の勘が正しければ、そこに千尋とチャカ、そして鷲峰雪緒が居るはずだ。

 大前提として千尋がチャカという男と合流し、鷲峰組を裏切ってホテル・モスクワに寝返ろうとしているという部分が合っていなければならないが、リロイの情報が間違っていたことは今まで一度たりともない。そこから導き出した予想が外れるはずがないのだ。

 故に俺は何の心配も抱かずジャケットを手に取り部屋を出る。勿論グレイも後に続く。

 

「的当ては楽しかったか?」

「そうね、中々楽しめたわ」

 

 ホテルのエレベータへ乗り込み一階へと降りる。

 グレイの言葉を受けて、俺は少しだけ楽しそうに。

 

「なら次は、俺も参加しようか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




以下要点。
・警官、手口に唖然。
・ちっぴー寝返る、チャカも裏切る。
・ロック、レヴィ屋敷侵入。
・銀さん通訳の勘違いに気が付く。
・ウェイバー出動。


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021 HELL PARADE

 

 37

 

 

 

「――――大尉殿。鷲峰組に動きがあったようです」

「詳細を」

「鷲峰組の屋敷を警戒していた部下よりの連絡です。一時間ほど前に邸内で騒動があった模様。その後数台の車が走り去っています」

 

 ボリスの報告を受けて、ソファに浅く腰掛けていたバラライカは背中を背もたれへと預け、身体をやや深く沈めた。

 

「造反か」

「おそらくは」

「無能な上官の下には同類しか集まらんというわけだ」

 

 滑稽な演目でも眺めるかのように、バラライカは嘲笑を浮かべる。

 バラライカが懐から取り出した煙草に火を点けるのを待って、ボリスは報告を続けた。

 

「その十五分後にロックとトゥーハンドが邸内へと侵入。十分後に鷲峰組所有のクラウンで移動を開始した模様」

 

 ピクリと眉尻を動かしたものの、バラライカはその報告に口を挟まなかった。視線だけでボリスに続きを促す。

 

「報告によれば鷲峰雪緒は拉致されたとのこと。車の移動先も九割方割り出しは完了しています。動くのであれば即座に状況を開始できますが」

 

 ボリスの提案に、しかしバラライカは首を振った。

 

「放っておけ。我々の目的はあくまでもこの地での戦争。勝手に崩壊する組織の事情になど興味はない。それに二挺拳銃とロックが首を突っ込んでいるのなら今だけは傍観してやろうじゃないか。奴らが地獄の釜の入口でどう踊るのか、そちらには少しばかり興味がある」

 

 口角を吊り上げ、火傷顔(フライフェイス)は邪悪に微笑む。

 

「見せてみろ、我々と共に踊る資格があるのかどうか」

 

 

 

 38

 

 

 

「つうかよ、その話まじなわけ?」

「嘘ついてどうなるわけでもねえだろ。香砂会はオシマイだよ、全員漏れ無くスプラッタにされたんだ」

 

 ピンを弾く独特の甲高い音が響き、上部に設置されたモニタのスコアが更新される。

 寂れた印象を抱かせるこのボウリング場には現在数十人のチンピラと、一人の少女だけが居た。そんな中にあって中央のレーンで呑気にボールを投げる千尋は、座席に座るチャカを見ないまま口を開く。

 

「てかよ、なんでその女連れてきたんだ」

「手土産だよ。何かいっこくらい渡さねえと向こうも納得しねえべ」

 

 言ってチャカは隣の少女へと腕を回す。途端に顔を顰める雪緒に、しかしチャカは上機嫌なまま。

 

「そんな顔すんなって雪ちゃん。別に殺そうってわけじゃねえんだし」

「触らないで」

 

 髪に触れようとしたチャカの手を払い除ける。自身を拒絶されたことが癪に障ったのか、先程までの取り繕われた笑顔が一変して眉間に皺が寄っていく。そのまま無言で雪緒の顔を打つ。その衝撃で少女の身体はよろめくが、チャカは雪緒の腕を掴んで離さない。そのまま二度、三度と少女を平手で打った。

 口内が切れたのか血を垂らす雪緒を睨み付けて、チャカは下卑た笑みを浮かべた。

 

「そうやって粋がってられんのも今のうちだ。すぐにあのロシア人どもに明け渡すのもなんだし、まずは知り合いの変態んとこに回してやっからよ。そいつチッピー以上のド変態でな、薬漬けしてからじゃねーと勃たねーんだよ」

「おーい聞こえてんぞチャカー」

 

 チャカの言葉の一切を聞き流し、雪緒は己の愚かさを悔いていた。

 どうして気が付かなかったのか。予兆はあった、目の前の男の行動の至るところに裏切りを示唆するようなものが滲み出ていた。それに気が付かなかった。鷲峰組という組織の存亡が掛かったこの局面になるまで、この男は本性を隠していたのだ。長いものに巻かれるなどという可愛いものではない。利用価値がある側に付く、そこに義理や恩情は介在しない。それがチャカという男だった。

 香砂会、そしてホテル・モスクワを相手取ると心に決めた。その時から自身の末路が碌なものでないことくらいは承知しているはずだった。銀次や吉田を始めとした鷲峰組の組員たちが命懸けで戦っているというのに、その中心にいる己がのうのうと生き続けることなど許されはしない。

 自身が生きるも死ぬも、彼ら組員たちと共に。

 そう心に誓い、いざ行動を起こそうとした途端にこれだ。たった一人の組員の裏切りにも自分ひとりでは対処することが出来ない。吉田という右腕のような存在を失い、嫌でも己の無力さを痛感する。

 結局どこまで言っても雪緒は少女でしかなく、鷲峰組組長としての矜持はあっても戦う術を持っていなかったのだ。

 

(このままこの男たちのいいようにされるというのなら、いっそのこと……)

 

 鉄の味が混じった生唾を飲み込み、雪緒は舌に歯をあてがう。

 この先生き恥を晒すくらいなら、この場で潔く死んだほうが。そう思って徐々に顎に力を込めていく雪緒だったが、その動きを目敏く察知したチャカが彼女の口に猿轡を嵌め込んだ。

 

「あ、それ俺が持ってきたやつじゃねえか」

「助かったわチッピー。ここで死なれちゃわざわざ拐った意味がねえもん」

 

 千尋が用意したのだという猿轡を口に押し込まれ、彼女の自決は敢え無く失敗した。

 雪緒が無駄な抵抗を諦めたと見て、チャカは席を立ちボウリング球を構える。放たれた球は寸分の狂い無くトップピンのやや横へ吸い込まれ、そのまま十本全てのピンを薙ぎ倒した。

 

「これからどうするつもりだよチャカ。お前考えがあるんだろ? 香砂会も鷲峰組も壊滅状態でどこへ行こうってんだ」

 

 全容を聞かされていなかったらしい千尋が、フィルタ付近まで吸いきった煙草を灰皿に押し付けながら尋ねた。

 

「最終的にはうちの組と関わってたあのロシア人んとこに転がり込む。雪ちゃん土産に渡してやりゃあ悪いようにはされねえっしょ。ま、その前に強面のボディガードが雪ちゃん助けにくるだろうからさ、それ始末してからになんだろうけど」

「まあ、俺はあの銀髪幼女とヤれればそれでいいんだけどよ」

「香砂会で雇ってたっつうロアナプラのガキか。俺もこっちで見つけたんだよなァ、女でヤれるガンマン」

 

 ホテル・モスクワ側が用意した通訳。その用心棒としてこの地を訪れていた黒髪の女を思い浮かべて、チャカは己の欲望が限界付近まで溜まっているのを感じた。出来ることなら今すぐにでも一戦交えてみたいものだ。現在の状況が状況だけにそんな悠長なことをしていられないが、もしもそれが許されるようであれば彼は迷わず行動に移すだろう。

 

「ここで待ってりゃあ向こうから来てくれる。それ始末したらとっととずらかるぜ。こんだけ頭数揃えたんだ、逃げ場なんざどこにもねーよ」

 

 周囲に屯するチンピラたちを見渡して満足そうに笑う。

 しかしこの場に居る全てのチンピラたちがチャカに協力的かどうかを問われれば、それは首を傾げざるを得ない。

 実際ボウリング場の片隅で拳銃を渡された男たちの何人かは、チャカや千尋に聞かれない声量で困ったことになったと会話を続けていた。

 

「こんなもんどうしろってんだよ……」

 

 手に持った拳銃に視線を落として、男の一人が呟いた。

 

「マジな話、俺ら超シャバくねェ? 撃ち方とか知んねえぞ」

「つーかこんなんなるとは思わねえだろ普通。ヤクザの娘拉致るとかどう収拾つけるつもりなんだよ」

「……あのよ、乱闘(ゴチャマン)始まったらバックレねぇ?」

 

 次第にこの場から離れることに会話の流れが傾いていく。

 集まった男たちが銃を持ちながらそんな会話を進めていることに気が付いたチャカは、徐にボウリングの球を掴み男たちへとぶん投げた。それなりの速度で放たれた球は男たちの一人の頭部に直撃、その男は頭蓋を陥没させて地面へと沈んだ。

 恐怖に顔を引き攣らせる男たちの元へ、チャカは無表情で近づいていく。

 

「オメーらさ、散々世話してやったの忘れたの? あんだけ甘い汁吸っといてな、土壇場でケツまくるとか有り得ねえっしょ」

 

 既に死に体の男の腹部に蹴りを入れて、震える男たちを睨み付ける。

 

「楽しいパーティーが始まんだからさ、盛り下げるような真似してんじゃねえよ」

 

 

 

 39

 

 

 

 緩やかに停止したクラウンから降りて、レヴィは眼前の建造物を見上げた。空は雲で覆われ月や星の光は殆ど届かない。周囲に光源となるような建造物も無いため、ここら一帯が闇に飲み込まれたかのような錯覚を覚える。

 

「へッ、まるで暗黒の塔(ダークタワー)だな。姫を救う騎士様のご到着ってわけだ」

 

 レヴィに続いて助手席に座っていた銀次、そして運転席からロックが降りる。ロックも目先のボウリング場を視界に捉え、否応無しに緊張が高まっていくのを感じていた。

 銀次の予想が正しければ、このヒラノボウルというボウリング場に雪緒と誘拐犯であるチャカたちが居るはずだ。向こうもこちらがやって来ることは予想済みだろうから、相応の武装をしていることは容易に想像がつく。

 こと戦闘面に関して言えば、それほど心配はしていない。こちらにはレヴィと銀次がいるのだ。二人の実力の高さは理解している。例え何十人も相手がいようが関係なく制圧するだろう。それよりも心配なのが雪緒の安否だ。誘拐したということはそこに人質としての価値を認めているからだ。それ故にすぐ様殺してしまうということは無いだろう。だが状況が逼迫し追い詰められた時、あの男は何を仕出かすか分からない。そうなる前に雪緒を保護することが先決だ。

 チャカと共に居るであろう雪緒を奴の元からなんとか引き剥がし、陽の当たる世界へと帰す。それがロックの望みであり、銀次が諦めた夢でもあった。

 

「ロック、あたしたちは正面から仕掛けにいく。あんたは裏から回ってくれ」

「分かった、俺は何を――――」

 

 カトラスを抜いて構えるレヴィに問い返そうとして、ロックは途中で言葉を失った。

 彼がその視界に捉えたのは、この場に限っては最も居てはならない人物。

 

 まさか。

 いや、きっと目の錯覚だろう。

 ここに、この場所に。あの人が居るわけがない。

 

 暗闇のせいで視界が悪く、きっと通行人か何かを見間違ったのだろう。周囲には民家もなく通行人など通るはずもないのだが、ロックは逃避気味にそんなことを考えた。もう一度目をこすり、先程の場所を目を凝らして見つめてみる。

 幸か不幸か、ロックのそれは見間違いではなかった。

 彼の視界の先にははっきりとグレーのジャケットを着た男と、真黒なコートを着た銀髪の少女の姿がある。決して近い距離ではないが、どういうわけかロックはその二人をはっきりと捉えることが出来た。二人が放つ得も言われぬ雰囲気を感じ取っているのかもしれない。

 そんな二人の存在に、レヴィと銀次もほぼ同時に気が付いた。普段であればウェイバーを視界に捉えた瞬間に駆け出すレヴィは、今回に限ってはそうした行動は取らなかった。現在の状況が状況だけにそうおおっぴらに動くことを躊躇ったのだろうか。カトラスを握ったまま、じっとウェイバーの方を見つめている。

 一方の銀次は切れ長の瞳がより一層鋭くなっていた。腰に下げた白鞘に手を掛け、いつでも抜刀できる状態を作り出している。ウェイバーに対しての警戒度がかなり高い。これにはロックも驚いた。

 

 そんな二人を他所に、当の二人はこちらの存在に気付いていないかのようにボウリング場の入口目指して歩いていく。

 こちらの存在に気づいていない訳が無い。レヴィはともかく、銀次に至ってはロックですら一歩下がるような殺気を醸し出している。百戦錬磨のウェイバーとその助手であるグレイが気付かないはずが無い。

 ロックのその予想を裏付けるかのように、一度グレイがこちらに顔を向け、柔らかに微笑んだ。その表情だけを見ればそれは天使と形容しても差し支えのないもので、しかしその手に構えた重量感のある銃が色々と台無しにしていた。

 そのままボウリング場内部へと消えていこうとする二人を前に、ロックは本能の部分で行動を起こしていた。

 

「ウェイバーさん!」

 

 このまま二人だけを先に行かせてはならないと、彼の第六感が告げていた。

 その声が耳に届いたのか、ここでようやくウェイバーがその足を止めた。ゆっくりとこちらに振り返る。

 

「……ッ!」

 

 ウェイバーの瞳を見て、ロックはぞっとした。背骨を全て氷柱と差し替えられたような寒気が襲う。

 彼の瞳に、自分たちは一切写っていなかった。真黒。漆黒。底の見えない暗闇のように、ウェイバーの瞳には光が無い。よく臨戦態勢時のレヴィが似たような瞳をすることがあるが、それとは次元が違った。人間はここまで冷たい瞳をすることが出来るのかと、ロックは驚愕と恐怖を禁じ得ない。

 

「……ロックか」

 

 ウェイバーからの返事があったことでなんとか平静を保つ事に成功したロックは、彼の元へと近づいていく。その後ろからレヴィと銀次も続いた。

 目の前にやって来て、ロックはウェイバーの瞳に光が戻っていることに気が付いた。先程までの底冷えするような冷たさは感じない。ロアナプラで出会ったときそのままの彼が立っている。そのことに疑問を抱くが、今はそれを解消している暇はない。

 直ぐに本題へと入ることにした。

 

「ウェイバーさん、どうして貴方がここに?」

 

 尤もな疑問だ。ウェイバーがどうしてこの場にいるのか。鷲峰組が襲撃されたのは小一時間ほど前。幾ら何でも情報が早すぎる。

 そして仮にこちらの状況を全て把握しているのだとすれば、ウェイバーは何を目的としてこの場にやってきたのか。

 事と次第によっては、ウェイバーと敵対しなければならない可能性も出てくる。先日レヴィに言われた時、既に覚悟は決めた。例えここで黄金夜会の一角を敵に回すことになろうとも、雪緒という少女を陽の当たる世界へ帰すのだと。

 だがいざ当人を目の前にすると、流石に若干の後悔は拭えない。単騎で過剰戦力とまで言わしめるウェイバーを相手にするなど自殺行為だと自覚もしている。

 しかし、それでも。

 男には退いてはならない場面がある。

 

 様々な思いが渦巻くロックに、ウェイバーは事も無げに答えた。

 

「……鷲峰雪緒を拐いに来た」

 

 瞬間。銀次とグレイが同時に動く。

 銀次の抜いた白鞘がウェイバーの首筋ギリギリに宛てがわれ、グレイの構えたMP7が銀次の額に突き付けられる。一瞬の出来事にロックは呆然とするほかなかったが、レヴィはニヤリと笑うのみで、ウェイバーに至っては刃を向けられているというのに微動だにしない。

 ウェイバーと銀次の視線が交錯する。

 

「……アンタ、香砂に雇われてんだってなァ。お嬢拐ってどうするつもりですかい」

「お前にそれを伝える必要があるか?」

「生憎とあっしらもお嬢を捜してましてね。渡すわけにゃァいかんのですよ」

 

 白鞘を向けられたままのウェイバーは数秒沈黙して。

 

「アンタら鷲峰を押し潰そうとしてた香砂会はもう無いぞ」

「私たちが掃除しちゃったもの」

 

 その言葉に思わずロックが口を挟んだ。

 

「ちょ、ちょっと待って下さい。もう無い? 香砂会が? それって一体……」

「言葉通りの意味よ、お兄さん。私たちがみィんな片付けてあげたわ」

 

 銀次へと突き付けた銃口はそのままに、グレイは口角を持ち上げた。

 

「それってつまり、香砂会は壊滅したってことですか?」

「……そんな話、信じると思ってンですかい」

「真実が知りたきゃニュース番組でもラジオでも点けてみろ。今頃トップニュースで報じてるだろうよ」

 

 言われ、ロックは携帯電話を取り出してネットを開く。そこには確かに関東香砂会屋敷が襲撃されたと報じられていた。

 香砂会をたった二人が壊滅させた。一般人に聞かせれば到底信じられる話ではない。但し、その二人の化物じみた強さを知っている人間であれば話は別だ。その身一つで悪徳の都の頂点にまで登りつめた男と、その街で手練を何人も屠ってみせた少女。

 この二人であればやりかねない、そうロックは納得してしまった。

 だがそうなると分からないのは、どうして香砂会を壊滅させたかだ。ウェイバーは香砂会に雇われていた。それはつまりウェイバーにとって香砂会は依頼主ということである。いつかレヴィは言っていた、一度受けた依頼は必ず遂行しろとウェイバーに教わったと。であれば今の彼の行動は、その教えに反しているのではないか。

 

(いや、待てよ)

 

 そこまで考えてロックは思考を切り替えた。

 一度受けた依頼は必ず遂行する。つまりウェイバーは香砂会から雪緒を誘拐しろと依頼されていたのではないか。何が原因で衝突することとなったのかまでは推測が難しいが、ウェイバーが香砂会から受けた依頼を尚も遂行しようとしているのならまだいくらかやりようはある。敵対も止むなしと考えてはいるが、味方に付けられればこれほど頼もしい存在もいないのだから。

 

「ウェイバーさん。雪緒ちゃんの誘拐は、貴方の意思ですか?」

 

 ロックの質問に、ウェイバーは間断無く答えた。

 

「そうだ」

「香砂会からの依頼ではないんですか?」

 

 ウェイバーが口を閉ざす。

 ここだ。ロックは直感する。今これからウェイバーと交わす言葉の二つ三つで、おそらく今後の流れが決定付けられる。彼を味方にするも敵に回すも、全ては自分の出方次第。ロックは内心で慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと切り出した。

 

「ウェイバーさん、僕たちは雪緒ちゃんを元の居場所へ帰してあげたい。彼女は望んでこちら側の世界へ来たわけじゃない。周囲がそうさせてしまったんだ。でも今ならまだ間に合う、今ならまだ引き返せる」

「…………」

「貴方も本当は彼女を解放しようとしているんじゃないですか? 誘拐なんて大義名分を掲げちゃいるが、実際のところは……」

「ロック」

 

 特に声を荒げたわけでも無かったウェイバーの言葉は、どうしてかロックにはいやに大きく聞こえた。

 ウェイバーは一つ息を吐いて。

 

「勘違いしちゃいけないぜ。元の居場所? 向こう側の世界? そんなもんの線引きは存在しないんだよ」

 

 銀次が持つ白鞘の刃の部分を指でなぞりながら、ウェイバーは続ける。

 

「仮にロックが言うあっちとこっちの世界があったとして、こっち側の世界の住人であるお前が彼女を助ける必要がどこにある」

「それは……」

「俺たちは悪党なんだぜロック。人助けなんて柄じゃないのはお前も分かってるだろう?」

 

 それは悪党としては紛れもない正論だった。

 ロックは自身が悪党であることを受け入れている。だが、その感情までも完璧に抑え込むことは出来なかった。

 

「あの子には未来がある! 真っ暗な闇の底に堕ちることを止められるなら、俺はそのために立ち上がりたい!」

「で、結局はレヴィやサングラスに頼るんだろう?」

 

 笑わせてくれるな、とウェイバーは呟いて。

 

「お前は正義を語っちゃいるが正義の味方なんかじゃない。自分の力を行使せずに他力本願で何かを望む、随分な正義もあったもんだ」

「……っ」

 

 ウェイバーの言葉に反論の言葉を見つけられないロックは、ただ歯噛みするしかない。

 

「お前は正しいんだろうさロック。でも強くない。自分の意見を押し通そうってんなら最低限の強さが必要だ。正義は必ず勝つんじゃない、勝った奴だけが正義を語れるのさ」

 

 ウェイバーは視線だけをグレイに向ける。その意味するところを正確に理解したグレイは、躊躇いもなく銀次から銃を下ろした。それに伴って銀次も白鞘を収める。

 尚も食い下がろうと言葉を探すロックを前に、ウェイバーは一度頭を掻いた。

 

「なんだか説教臭くなっちまったな。でもそういうことだ、別に俺を憎んだって構わないぜ。俺は悪党だからな、全ての憎悪を背負って生きてるつもりだ」

「……ウェイバーさんは、雪緒ちゃんがどうなってもいいんですか」

「そこに俺の意思が介在する意味はない」

「ボス」

 

 会話を終えて歩きだそうとするウェイバーに、レヴィが声を掛けた。

 

「ボスの目的は雪緒(あいつ)なんだろ? 目当てはあたしらもおんなじだ。この中にゃ糞野郎どもが蠢いてやがる、足元を這い回る屑ども蹴散らして目的のモンを手に入れる。やることは一緒じゃねえか」

「ま、そうだな」

 

 気軽に答えたウェイバーに対して、レヴィは獰猛な笑みを浮かべてみせた。

 

「だったら共同戦線といこうぜボス。賞品は早いもん勝ちだが、ゴミ掃除にゃ人手は多い方がいい」

 

 レヴィの提案に、ウェイバーはふむと一つ考えて。

 

「その方が効率的か。時間が経てば警察も来るだろうし、時間短縮出来るに越したことはないな」

 

 協調を図ることの利点を瞬時に判断し、レヴィの提案に乗ることにしたらしいウェイバー。レヴィはそれを聞いて一つ息を吐き、静かにロックの肩に手を置いた。彼にしか聞こえない程小さな声で耳打ちする。

 

「ここでボスと敵対するか協調するか、どっちが良いかくらいは分かるだろロック。敵対するにしても今じゃねェ、そこンとこを見誤るなよ」

 

 ファインプレーとも呼べるレヴィの行動には内心ロックもかなり助かっていた。

 自分ではどうしてもウェイバーとの敵対の構図を取ってしまうことになる。例え目的が違うのだとしても、その道中まで啀み合う必要は無い。レヴィの対応はこの状況下で限りなく正解に近いものであり、またロックが当初思い描いていた展開に酷似したものだった。

 それにな、と彼女は付け加えて。

 

「ボスが説教臭くなる時は決まって裏で何か企んでる時だ。あのガキのことも悪いようにはしねェだろうさ」

 

 そう言って僅かに頬を緩めるレヴィの言葉が真であることをロックは祈るしかなかった。

 ウェイバーが協調する、ということは必然的にその助手であるグレイも帯同することとなる。その少女はレヴィへと一歩近づいて。

 

「おじさんの援護は任せて、おねーさん」

 

 意地の悪い笑みを浮かべてそう言った。

 ピキリ、とレヴィの額に青筋が浮かぶ。

 

「ボスに援護なんざ必要ねーんだよクソガキ。邪魔にならねェよう隅っこで燥いでろ」

「効率の問題だわ。手数は多いに越したことはないじゃない」

 

 このままだといつまで経っても中へ入れない。そう悟ったロックは二人の間に割って入ることでこれ以上の火種の拡大を防いだ。

 それを眺めていたウェイバーは、レヴィとグレイの二人が大人しくなったのを見届けてから身を翻す。

 

「じゃ、行くとしようか」

 

 途端にロックを除いた四人の纏う空気が豹変する。

 瞳は鋭く、より黒く。流れる血が冷たくなっていくような感覚に陥るロックを尻目に、四人は正面入口から堂々と敵の中枢へ踏み込んだ。

 

 

 

 40

 

 

 

 ボウリング場内部は閑散としたものだった。正面入口を抜けて直ぐに設置された受付に座る老人をレヴィがカトラスを突きつけることで黙らせ、四人は碌に清掃もされていない廊下を奥へと進んでいく。

 少し進むと、通路の奥に一枚の扉が現れた。その前では数人の男が地面に腰を下ろして談笑している。一応見張り役なのだろう。周囲に全く警戒している様子がないところを見ると、都内のチンピラたちの一部だと予想された。

 どうするの、と視線でウェイバーに問い掛けるグレイ。ウェイバーはそれには答えず、無言でリボルバーを抜いた。

 直後銃声。扉の前に座っていた男たちが例外なく崩れ落ちる。銃声は一発、しかし男たちには平等にマグナム弾が撃ち込まれていた。相変わらずの銃捌きにレヴィとグレイは静かに嗤い、銀次はサングラスの奥で驚きの表情を浮かべていた。

 そんな三人のことなど気にすることなく、ウェイバーは血に塗れた男たちの間をくぐり抜けて扉を開く。後に続いた三人が扉の中へと足を踏み入れると、そこにはチンピラたちを従えた金髪の男二人の姿があった。

 

「おや、チャンバラ野郎だけかと思ったらレヴィちゃんまで付いてきた」

「おいおいグレイちゃんが居るじゃねえか。なんでここに? いやどうでもいいや俺はもう我慢の限界」

 

 銀次はチャカのことなど視界に入っていなかった。彼の視線はチャカの真横、汚れた手で肩を抱かれた雪緒にのみ向けられている。雪緒の顔が腫れ、衣服のあちこちが破けているのを確認するや否や、銀次は怒りに身を染める。流麗な動作で白鞘を抜き、激昂のままに言葉を口にする。

 

「……やりやがったな……!」

 

 銀次が臨戦態勢に入ったのを見て、レヴィも獰猛に口元を歪めた。

 

「ダンスパーティだ、踊るぜ」

「おねーさんだけ楽しむのは無しよ、私だって退屈してたんですもの」

 

 レヴィがカトラスを、グレイがMP7を構えたことで状況は一気に緊迫する。

 そして。

 

「……とっとと済ませよう」

 

 撃鉄が落ちる。

 己の命を掛けた、死の舞踏会の幕が開く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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022 亡霊たちの行進

 41

 

 

 

 ヒラノボウル、と大きく書かれた寂れた看板が見えたことで、俺は目的地に到着したことを確認する。見上げた空には分厚い雪雲が覆われており、月や星の光は一切地上に届いていない。周囲に明かりになりそうな街灯なんかも見当たらないため、ここら一帯が闇そのもののようだ。そんな中にあるためだろう、ヒラノボウルとペンキで書いたその看板だけがうっすらと光を放っており、そこだけが別の空間のように感じる。

 雪は今のところ降ってはいないが、この空模様ではいつ降り出しても不思議ではないだろう。コートを羽織っていても突き刺すような肌寒さは拭えず、白い吐息は空気中へと消えていく。

 

「ところでおじさん、作戦は用意してあるの?」

 

 俺の隣りを歩くグレイが不意にそう問い掛けてきた。

 よくよく考えてみれば俺は彼女に大まかな概要しか説明していなかったなと思い至る。具体的な作戦内容は一切口にしていないので、当然グレイはどう動いていいのか疑問に思っていることだろう。

 

「まぁ、無ければ好きに動くだけだけど」

 

 前言撤回。疑問に思うどころか自らの行動指針を既に固めていやがった。

 

「この中には少なく見積もっても三十人の武装した人間が居るだろう。俺たちの目標は鷲峰雪緒のみ、それ以外はどうなっても構わない。乱戦になるのは確定事項だな」

「あのお姉さんは無傷のほうがいいのかしら」

「それが出来れば一番いいんだが、状況が状況だけに無傷ってのは難しいかもしれないな」

 

 彼女の身柄を確保することが今回の最優先事項である。俺としては彼女にはきちんと自分の気持ちと向き合って行く末を決めてもらいたい。簡単に悪の吹き溜まりへと堕ちるなど冗談じゃない。現在の立場を彼女が本心から望んでいるというのなら俺も止めはしない。他人の決めたことに口を挟むほど無粋ではないつもりだ。

 しかし仮に、現状が彼女の望むものではないのだとすれば。

 元は陽の当たる世界の住人である少女一人を帰してやる手助けくらい、してやってもいいのではないかと思う。自分にはこの道しか残されていないのだと決め付けてしまっている一人の少女に、別の道を提示するくらいのことはしてやってもいいのではないかと思うのだ。バラライカに言わせれば偽善者などと言われるのかもしれない。俺もその自覚はある。放っておいても一切の関係はないのだから。

 結局のところ、これは俺の自己満足でしかないのだ。

 日本でバラライカと敵対することになったのは完全に予定外であり、俺としてもある程度のリスクは背負わなければならない。その原因を作った香砂会と鷲峰組への八つ当たりという側面もある。

 だから、まあ。

 

「せいぜい好き勝手にやらせてもらうさ」

 

 そう口にして、グレイと共に正面入口へと向かっていく。

 と、そんな時だった。

 

「ウェイバーさん!」

 

 何処か聞き覚えのある男の声が俺の名を呼んだ。その声に反応して振り返るが、辺りに光源となるものが乏しいことと少しばかり距離があったことで相手の顔がよく見えない。いかんな、最近は視力が落ちてきたかもしれない。そんなことを考えながら、俺は眉間に皺を寄せて声の主をじっと見つめた。ここでようやくその人物の顔を認識する。

 

「ロックか」

 

 そこに居たのはロックだった。後ろにはレヴィと、鷲峰組の松崎銀次の姿もある。どうしてロックたちと銀次が行動を共にしているのか疑問を覚えるが、ロックが俺の目の前にまでやって来たことで一度その思考を打ち切る。

 

「ウェイバーさん、どうして貴方がここに?」

 

 ふむ、と内心で一つ考える。ロックとレヴィは現時点でバラライカ側、鷲峰組側の人間だ。壊滅したとは言え香砂会側である俺と繋がっているのは色々と問題がある。

 俺はこの場に仕事を遂行しに来た。そう答えてしまうのが両者にとって無難なものだと断じて、ロックに視線を向け口を開く。

 

「鷲峰雪緒を拐いに来た」

 

 俺の本心までを教えてやる必要はない。俺には俺の、ロックたちにはロックたちの目的があるのだろうし、ここで無理に協調する必要はない。

 そんな風に考えていると、ロックの背後に立っていた銀次がやや身を低くし、次いで一瞬のうちに白鞘を抜き放った。そのまま寸分の狂い無く俺の首元へ添えられる白刃。正直な話、その姿が五右衛門と一瞬被って見とれてしまっていた。不甲斐ない話ではあるが、横のグレイが瞬時に反応して銀次に銃を突き付けていたので俺の首が飛ぶことは無かった。いや助かった、流石に刃を迎え撃つなんてこと出来はしないだろうし。

 この銀次の行動が目線や抜刀までの速度から牽制の意味合いが込められたものであることは分かっていたが、そうであっても心臓に悪い。レヴィやロックの前で無様な姿を見せたくはなかったので、お得意のポーカーフェイスで無表情を貫いていた。

 

「……アンタ、香砂会に雇われてんだってなァ。お嬢拐ってどうするつもりですかい」

 

 事と次第によっちゃァ切り捨てる。そんな意思が銀次の瞳から見え隠れしている。

 まぁ、ロックにも言わなかった俺の狙いを更に繋がりの薄い人間に言うはずもないんだが。銀次と至近距離で睨み合い、無表情のまま告げる。

 

「お前にそれを伝える必要があるか?」

「生憎とあっしらもお嬢を捜してましてね。渡すわけにゃァいかんのですよ」

 

 それは鷲峰組としてか、松崎銀次個人としてか。俺にしてみればどちらでもいい話だが、一応向こうの不安要素などは取り除いておくべきだろう。香砂会からの圧力を弱めることを目的として行動しているというのであれば、それはもう骨折り損にしかならないのだから。

 

「アンタらを押し潰そうとしてた香砂会はもう無いぞ」

「ちょっと待って下さい。もう無い? 香砂会が? それって……」

 

 会話に入ってきたロックが要領を得ないと言わんばかりの表情で問い掛けてきた。もう何時間も前のことだ、既に情報発信されていてもおかしくないはずだが、警察が情報規制でも敷いているのだろうか。

 ロックの質問に、MP7を銀次に突き付けたままのグレイが答えた。

 

「言葉通りの意味よ、お兄さん。私たちがみィんな片付けてあげたわ」

 

 私たち、というよりはほぼグレイ個人の所業であったりするが、そこには口を挟まない。子供にばかり仕事をさせる鬼畜な男だと思われたくはないのだ。

 

「香砂会の屋敷が襲撃されたことはラジオで聞きました。でもまさか壊滅だなんて……」

 

 やはりラジオなんかでは情報が流れているらしい。しかしその詳細までを報道してはいないらしく、ロックの言葉を聞く限りかなり曖昧な表現で誤魔化しているようだった。確かにあの現場の様子を事細かに報道した場合、その殆どが規制されるべき言葉で埋め尽くされてしまう。

 

「……ウェイバーさん。雪緒ちゃんの誘拐は、貴方の意思ですか?」

 

 どう報道すれば規制に引っかからずに正確な情報を伝えられるのか、なんてどうでも良いことを上の空で考えていると、不意にロックがそう尋ねた。彼の瞳にはある種の確信があるようにも感じられる。レヴィめ、何か吹き込んだか?

 

「そうだ」

「香砂会からの依頼では無いんですか?」

 

 ああ、そうか。一度受けた依頼は必ず完遂しろって部分をレヴィから聞かされているんだな。口を酸っぱくして言ってきたことを、教えた人間である俺が破るわけがないと。そうロックは考えているんだろう。壊滅させたとは言え一度は受けた依頼である。それを無碍にするわけにもいかないと、そう俺が考えていると判断したのだろう。

 中々に見事な推理力である。が、ロックは根っこの部分で勘違いをしている。

 俺は香砂会の依頼を完遂するためにここに来たのではない。そうしないために来たのだ。屋敷を襲撃したのも依頼の遂行のためでなく、依頼そのものを無かったことにするためだ。

 俺とロックでは考えが少しばかり食い違っている。しかしそれをわざわざ訂正してやる必要も感じない。

 

「ウェイバーさん、僕たちは雪緒ちゃんを元の居場所へ帰してあげたい。彼女は望んでこちら側の世界へ来たわけじゃない。周囲がそうさせてしまったんだ。でも今ならまだ間に合う、今ならまだ引き返せる」

「…………」

 

 これには少しばかり驚いた。薄々そうではないかと感じてはいたが、ロックは鷲峰雪緒を救い出すつもりでいたらしい。つまりは俺と似た(・・)目的だったというわけだ。なんだろうか、日本人てのは皆同じような思考をするようになっているのだろうか。

 

「貴方も本当は彼女を解放しようとしているんじゃないですか? 誘拐なんて大義名分を掲げちゃいるが、実際のところは……」

「ロック」

 

 最後まで言わせず、俺はロックの言葉を遮った。

 やはり俺とロックでは、考えが少しばかり違うようだ。その違いはほんの僅かなものだが、この世界で生きていく上では谷よりも深い差となって現れる。この違いが目的の違いによるものなのだということは言うまでもない。ロックは彼女を元の居場所へ帰してやりたいと言った。そこに、鷲峰雪緒という少女の意思は介在しない。

 そもそも。

 

「勘違いしちゃいけないぜ。元の居場所、向こう側の世界。そんなものの線引きは存在しない」

 

 俺の言葉にロックは尚も言葉を重ねようとするが、それよりも早く俺は続けた。

 

「仮にロックの言う『こちら側』と『あちら側』の世界があったとして、こっち側の世界の住人であるお前が彼女を助ける必要がどこにある」

 

 ロックという男は、未だ悪党であるという自覚が薄い。ロアナプラより見てきた俺の個人的な意見だ。レヴィやダッチなんかはその辺りの自覚がある分、こういった表側へ深く関わろうとはしない。悪党とはそういう生き物なのだと理解しているからだ。

 俺だって当然そうである。今でこそ雪緒の返答次第でロックと似たようなことをしようと考えていたりするが、それにしたって何の見返りもない慈善事業ではない。動くには相応の対価が必要であり、だからこそ悪党たらしめる。

 

「俺たちは悪党なんだよロック。人助けなんて柄じゃない」

 

 悪党であることを認めることと納得することは別問題。そんなことは分かっている。だがロックは悪党というには些か善性が強すぎる。このままでは必ず何処かで破綻する。そうならないためにも、ロックは今のうちに受け入れなければならない。

 悪党とは世間からは決して認められない、醜悪な存在であるということを。

 現時点でそれを受け入れられないのだろうロックは、握った拳を震わせて悲痛に叫ぶ。

 

「あの子には未来がある! 真っ暗な闇の底に堕ちることを止められるなら、俺はそのために立ち上がりたい!」

 

 言うことは立派だ。言葉だけを聞けば正しく聖人君子のそれだろう。

 自らの力のみを行使するのだとしたら、と付け加えるが。

 

「結局はレヴィやサングラスに頼るんだろう? お前は正義を語っちゃいるが正義の味方なんかじゃない。自分の力を行使せずに他力本願で何かを望む。随分な正義もあったもんだ」

「……っ」

 

 ロックには純粋な戦闘能力が決定的に欠けている。良く言えば軍師タイプだろうが、頭脳戦だけで生きていけるほど甘くはない。

 

「お前は正しいことを言っているんだろうさロック。人助けしたい、立派なことだ。でもお前は強くない、自分の意思を押し通そうってんなら、少なくともやり遂げるだけの強さが必要だ。正義は必ず勝つんじゃない、勝ったやつだけが正義を語れるのさ」

 

 悪党が何を宣ってんだかと内心で自嘲する。だが強さが必要だというのは間違いない。いかなる状況にあっても唯一信頼できるものが己の強さであり、剛力こそが全てと言って過言ではない。

 こうした思考の部分が、俺とロックの目的の違いに反映されているのだろうなと思う。悪徳の都に浸かり切った俺と、そうでないロック。あんな犯罪都市で過ごしていれば、それも当然かと納得する。

 

「なんだか説教臭くなっちまったが、まぁそういうことだ。別に俺を憎んだって構わない、俺は悪党だからな、全ての憎悪を背負って生きてるのさ」

「……ウェイバーさんは、雪緒ちゃんがどうなってもいいんですか」

「そこに俺の意思が介在する必要はない」

 

 必要なのは俺ではなく鷲峰雪緒の意思だけだ。

 

「ボス」

 

 話は終わりだと判断して歩きだそうとしたところ、唐突にレヴィが俺へ声を掛けた。何事かと彼女へ視線を向ければ、軽い調子でレヴィは言う。

 

「ボスの目的はアイツなんだろ? 目当てはあたしらもおんなじだ。ゴミ掃除にゃあ人手は多い方がいいだろう?」

 

 共同戦線と行こうぜボス、とレヴィは口角を吊り上げる。

 単純に効率だけを考えれば人手は多いに越したことはない。ここに居るのはロックを除けば一定以上の実力者ばかりだし、時間もかなり短縮できるだろう。デメリット以上にメリットの方が大きいという結論に至って、小さく頷いた。

 俺の傍を離れたグレイが何やらレヴィと口論になっているが、二人の表情から察するにいつもの啀み合いだろう。

 いつまでもこの場に留まっているわけにもいかないので、一度小さく息を吐き、瞼を下ろす。

 

「じゃ、行くとしようか」

 

 

 

 42

 

 

 

 これは正しく荒れ狂う暴風だ。裏口から回ったロックがこの光景を目にしていたら、そんな言葉を口にするに違いない。

 飛び交う弾丸が人体の各所に撃ち込まれ、真っ赤な液体を噴出させる。床一面に広がっていく血溜まりは、一体何人分のものなのだろうか。

 

「ハハッ、やべえな! こりゃ本気いれねーとやべーわ!」

 

 片手で雪緒の腕を掴み、残った手でリボルバーを握るチャカは、眼前の光景に興奮を隠せないでいた。普通に日本で生活してただけならまずお目にかかれないであろう乱戦。相手は百戦錬磨とでも表現するような猛者ばかりである。そんな人間どもを相手にすることが出来ると思うと、ヤニで黄色くなった歯を見せずにはいられなかった。

 

「オラお前らも隠れてねーで男見せろや!」

「で、でもチャカさん! あいつらマジでやべーっすよ!」

「んなの見りゃわかんだろーが。それともここで蜂の巣にされっか?」

 

 チャカにリボルバーを向けられ、涙目になりながら男は四人に向かって銃を闇雲に撃ち続ける。狙いもロクに定めず放った弾丸が四人を撃ち抜く筈もなく、周囲にいた仲間である男たちの何人かに命中するだけだった。

 

「そんなんじゃダメよ、よぉく狙わないと」

 

 ワルツでも踊るような上品さを漂わせながら、銀髪の少女は嗤う。

 その直後に一斉掃射。涙目になっていた男を含め、その付近に立っていた男たちが問答無用で血達磨にされる。

 

「おいガキ! あたしに当たったらどうすんだ!」

「あら、それならそれで構わないのだけど」

 

 MP7の掃射地点の近くに居たレヴィが声を荒げるも、当の本人はどこ吹く風とばかりに反省の色が見られない。

 

「チッ、どいつもこいつも共闘なんて柄じゃねェのは分かってたけどよ」

 

 言いながらレヴィは襲いかかってきた男三人に鉛玉をブチ込む。背後でナイフを振りかざしていた別の男は更に後ろに立っていた銀次の白鞘によって胴体を分断された。

 その様子を横目に見ながら小さく口笛を吹く。銃しか使用しないレヴィにも、銀次の突出した腕は理解できた。ウェイバーに刃を向けたことに関しては極刑ものだが、本人が気にした素振りを一切見せていないためにそのことに関して咎めはしない。今は精々その腕前を見せてもらおうじゃないかと、男の背中に視線を向ける。

 そしてその銀次の視線は、ウェイバーへと向けられていた。

 ウェイバーはレヴィやグレイのように派手に動き回ってはいなかった。ただ向かってくる敵を迎撃しているだけ。しかし、その速度が異常だった。

 

(動作が目で追えねェってのは、一体どういうことだ……?)

 

 ウェイバーの握るリボルバーはダブルアクションのようで、連射性能に優れていることはなんとなく分かる。だがいつ照準を合わせ発砲しているのかが分からない。気付いた時には相手は床に転がっているのだ。銃声は聞こえる。故に発砲したことは確かなのだ。なのに、引鉄を引く瞬間が見えない。早業などという表現では生温い、達人の域をも越えた神業。今は共闘体制故にその銃口が自身に向くことはないだろうが、もしも敵対したらと思うと背筋が震えた。

 その震えは恐怖から来るものではない。

 狂気にも似た歓喜から来るものだった。

 銀次の内側に流れる血が騒ぐ。肌がざわつき、否応無しに口元が吊り上がる。

 もしも状況が許してくれるのであれば今すぐにでも刃を交えたいところではあるが、今はそれどころではない。己の命よりも大切な少女を奪還すべく、銀次は己の野生を押し殺して白鞘を振るう。返り血がコートを汚すことも厭わず、ただ真っ直ぐに少女の元へと。

 

「く、来るな! 来るんじゃねえ!」

「ちょ、ちょっと待った! ギブだギブ!」

 

 耳障りな男たちの声がレヴィの鼓膜を震わせる。酷く不快に感じるその声の出処を始末すべく、レヴィはカトラスを構えたまま笑みを浮かべて歩み寄る。

 

「ハッ、ギブだってよ。何かくれんのか?」

 

 男の話に付き合うはずもなく、眉間に鉛玉を食らわせる。

 気が付けば場内のチンピラたちは粗方掃除し終えており、背中を向けて逃走を図る男たちが十人ほど残っているだけだった。そんな男たちの背中を眺めながら、レヴィは軽い調子で言う。

 

「まるで鴨撃ち(ダックハント)だ。てんで歯ごたえがねえ」

 

 床を彩る鮮血など気にもせず、レヴィはぐるりと辺りを見渡した。ウェイバーとグレイ、そして銀次も無傷のまま殲滅をほぼ終えている。敵勢力は九割九分壊滅したと言っていいだろう。ただし、雪緒の誘拐を企てた張本人とその連れの男の姿が見当たらない。雪緒を連れて奥へと向かったのだろうと推測された。

 

「……さて、お互いの利害が一致しているのはここまでだ。ここからは勝手にやらせてもらうが、構わないな?」

「オーケーボス。こっちもこっちで勝手にやらせてもらうさ」

 

 ウェイバーの発言に手をひらひらと振って答えるレヴィ。その様子を確認して、ウェイバーとグレイは奥へと進んでいく。当然、銀次も奥へと向かう。

 両者の目的は同じようで異なっている。どちらが先に雪緒を発見するかで、彼女の今後は大きく左右されることとなるだろう。

 全てに決着をつけるべく、ウェイバーと銀次は捜索を開始した。

 

「…………」

 

 と、ウェイバーの後ろに着いていたグレイの歩みが唐突に停止した。数秒沈黙を保ったグレイは、やがてある一点へと視線を向ける。

 ウェイバーの後に続いていたグレイが不意にその足を止めたのには、当然ながら理由があった。一直線の長い廊下の壁に設置された自販機に背中を預ける金髪の男が、下卑た笑いを浮かべている。元香砂会組員、千尋。背中にまで届く金髪を揺らして、彼はグレイの方へと身体を向けた。それを遠目から確認していたグレイは別段警戒するでもなく、散歩でもしているかのような気軽さで彼の元へと近付いていく。

 

「やぁ、待ってたよ」

 

 彼我の差五メートルとなって、千尋は興奮を隠せずそう零した。

 グレイという少女をこの目で見てから、どう壊してやるかということばかりを考えてきた。薬、道具、シチュエーション。顔立ちの整った幼気な少女を己の手で壊す。そう考えただけで千尋は絶頂が止まらない。ズボンのポケットから取り出した注射器をグレイに見せつけるようにしながら、千尋は上擦った声で呟いた。

 

「君みたいな女の子とヤれるのを待ってたんだ……。先ずは薬漬けにして、それから秘所を開発しよう。大丈夫、痛いのはきっと最初だけだから。次は四肢を切り落として……最後は磨り潰して犬の餌にしてあげるよ」

 

 言って、注射器の入っていたポケットとは逆のポケットから真黒なロープを取り出した。

 

「ま、なんにせよ捕獲するところから始めよう。こいつはチタン製だ、ちょっとやそっとじゃ千切れないぜ」

 

 下衆と表現するに相応しい男を前にして、グレイはその表情を一切変化させなかった。恐怖は勿論、怒りなどの感情も見られない。ただ無表情に、正面の男を見つめている。

 やがて、グレイは首を傾げた。

 

「お兄さんは私をどうしたいのかしら」

「決まってんだろ。俺好みのおもちゃにして遊ぶんだよ」

「へえ、玩具(オモチャ)

 

 クスリ、とグレイは嗤う。その嗤いの意味するところが理解できない千尋は怪訝そうに眉を顰めるが、銀髪の少女はMP7を抱えたまま愉しそうに。

 

「――――じゃあ、私がお手本を見せてあげるわ」

 

 

 

 43

 

 

 

 背後でグレイが立ち止まったのは分かっていたが、それには何も言わず先を急ぐ。ちらりと後ろを見れば先程まで居た銀次の姿も見当たらない。大方別のルートで鷲峰雪緒の捜索に当たっているのだろう。敵は粗方始末したので、これといった障害も無さそうである。

 一階と二階とを繋ぐ停止したエスカレータを昇り、二階フロアへと足を踏み入れる。一階はボウリング場の他にもプールやゲームセンターといったレジャー施設が軒を連ねていたが、打って変わって二階は従業員用のスペースとして使用されているようだった。華美な装飾などは一切なく、薄暗い照明と無機質な廊下が先に続いている。幾つもある扉の一つを開けば、そこは古ぼけたロッカールームだった。埃の被り具合から考えて、数年は使用されていないのだろう。黄ばんだシャツなんかが無造作に投げ捨てられている。

 さて、ここで俺がどうして一階ではなく二階の捜索を行っているのかを説明しておこう。

 基本的に自尊心の高い人間というのは高い場所を好む。他人を見下ろして優越感に浸りたいが為だ。先程見たところ、雪緒の腕を掴んでいた金髪の男は正にそのタイプだと言えよう。前世から数えて約九十年。他の人間と比べて出会っている人間の絶対数が多い俺は、人間を見抜く観察力には並々ならぬ自信があった。実際この観察力のおかげで死線を乗り越えたことも一度や二度ではない。その上であの金髪の男のことを判断するならば、まず真っ先に上へと向かうだろうと考えたのだ。

 そしてどうやら俺のその見立ては正しかったらしい。

 数メートル先にある扉の向こう側から、男女の声が聞こえてくる。口論にでも発展しているのか女の声は荒々しい。対して男の方は落ち着いているような印象を抱かせた。油断しているのか、はたまた隠し玉を持っていて本当に余裕なのかは定かでない。が、そのどちらだとしても俺がやることに変わりはない。イーグルに銃弾が装填されていることを確認し、声の漏れる部屋の前に立つ。

 そして何の躊躇いもなく、その扉を蹴破った。

 

「……んだテメェ。レヴィちゃんにくっついていたおっさんじゃねえか」

 

 まず視界に飛び込んできたのは殴られでもしたのか、下で見たときよりも大きなあざを頬に付けた鷲峰雪緒。そして俺と彼女の間に立つようにして額に青筋を浮かべる金髪の男だった。確か仲間にチャカとか何とか呼ばれていたような気もするが、名前などどうでも良い。どうせ直ぐに顔も思い出せなくなるだろう。

 男は俺が雪緒を救出しに来たのだと思ったのだろう、苛立たしげに拳銃を構え、俺を撃ち抜こうと引鉄に手を掛ける。

 

「とりあえず死んどけよ」

 

 が、その動作は余りにも緩慢だった。

 直後、銃声。男の奥で発砲音の大きさに瞼を閉じる雪緒の姿が見えた。

 

「…………あ?」

 

 銃声は一発。ただしそれは男が発砲したものではなく、俺のイーグルから放たれたものだ。弾丸は男の右肩に命中し、握っていたリボルバーを落とす。おかしいな、狙ったのは足だったんだが。まぁいい、武器を落とすために肩を狙ったということにしておこう。

 

「っ痛ェええ! こんの糞野郎がぁああああ!!」

 

 出血に伴い赤く染まっていく肩を押さえながら男は蹲るように床に膝を着く。俺に見下ろされていることが気に入らないのか、蹲りながらも睨み付けるあたりは流石の自尊心だと言わざるを得ない。こういう男には徹底的に屈辱を与えてやるのが効果的だ。それによって更に激情に駆られ、行動はより単純になっていく。一歩男に近付いて、嘲笑と侮蔑を表に出す。

 

「お前もスタームルガー使ってるんだな。初心者にはオススメしないぞ、こいつは意外とデリケートだ」

「テメェ……!」

 

 激痛に顔を顰める男は、怒りに満ちた瞳で俺を睨み付ける。残念ながらその程度の怒りの形相では俺の表情を崩すには至らない。伊達に悪の巣窟で十年も過ごしてはいないのだ。

 尚も食い下がろうとする男の顎を蹴り飛ばして部屋の隅へと転がす。そんな俺の様子を、雪緒は信じられないものでも見たかのような表情で呆然と眺めていた。

 

「貴方は、一体何者なんですか……?」

 

 恐怖かはたまた戦慄からか、半ば無意識のうちに呟かれた少女の言葉に、俺はどこまでも無機質な声音で返答する。

 

「悪党だよ」

 

 

 

 44

 

 

 

「……何やってんだお前」

「あら、もう向こうの片付けは終わったのかしら」

 

 彼女にしては珍しく、げんなりとした溜息を吐き出した。ボウリング場に残っていたチンピラどもを殲滅し、ゆっくりとした足取りでウェイバーと銀次の後を追うレヴィが目撃したのは、罅割れた自動販売機に磔にされた金髪ロン毛の男と、その正面で柔かに微笑むグレイの姿だった。何か黒魔術的な儀式でも行ったのではないかと思わせるほど、辺りには血痕がびっしりと散らばっている。一体何をどうすればこんな惨状に繋がるのか、そう思わずにはいられない程に凄惨で異常な光景がレヴィの目の前に広がっていた。

 

「お兄さんが玩具になりたいって言うから、手伝ってあげてるの」

「いや絶対ェそんなことは言ってなかっただろ」

 

 上機嫌なグレイの両手には男から奪ったらしい拳銃と自前のナイフ。どうやらその二つで男に拷問を行っている最中らしい。周囲の血痕から考えて既に死んでいてもおかしくない筈だが、どういうわけかまだ息があった。消え入りそうな程小さな呼吸音が、自動販売機の稼動音の中に混じって聞こえてくる。

 男、千尋の全身は血に塗れていた。

 両の掌にはナイフを突き立てられ、両膝と足の甲は拳銃で撃ち抜かれている。首にはチタン製だという真黒なロープを巻かれ、窒息しないギリギリのラインで締め付けられていた。

 そんな瀕死の男を前に、グレイは艶やかな笑みを浮かべる。

 

「さぁ、次はどうしましょうか。簡単に壊してしまうのは勿体ないわ。そうだ、どこまでなら肉を削いでも精神を保っていられるか試してみましょう。昔の刑罰にあったわね、なんて言ったかしら」

 

 ナイフを器用にくるくると回しながら、グレイは男の身体を上から下まで見渡して。

 

「よし、まずは太腿からね。大丈夫よ、私スライスするのは得意なの」

「ーーーーッ!!」

 

 男の声にならない悲鳴が通路に轟く。しかしそれはグレイを悦ばせることにしかならず、クスリと微笑んだまま少女はナイフの刃を男の太ももに斜めに宛てがった。数瞬後、ぼとりと男の肉が鉄臭い液体とともに床に落ちる。

 

「あはっ」

 

 痛みに顔を歪める男を見て、少女の嗜虐心が大きくくすぐられる。もっと、もっと。血に濡れた刃を、今度は逆の足へと走らせた。先程よりも大きめに削いだからか、男は口から泡を吹き出してショック状態に陥ってしまった。

 

「しまったわ、ギリギリの所で遊ぶのが楽しかったのに」

 

 男の意識が無くなった途端、グレイは興味そのものが失われてしまったかのように冷酷な表情を見せる。散々痛めつけてきた男に対し、最期は何の躊躇もなく額へと弾丸を撃ち込んだ。完全に動かなくなった男にグレイは見向きもせず歩き始める。

 そんな少女の後ろ姿を眺めながら、レヴィはその悪趣味度合いに若干、いやかなり引いていた。

 

 

 

 45

 

 

 

 銀次がそれを発見した瞬間、思考を埋め尽くしたのは安堵と危惧という相反する二つの感情だった。

 雪緒を見つけることが出来た。そのことに安堵する。しかし雪緒の目の前にはウェイバーが立っており、何やら手を差し出している。更に少女の頬には先程見たときよりも大きな痣が出来ていた。細かい事情は分からない、知らない。そんなことはどうでも良いのだ。自身が危険だと判断した男が護るべき人の目の前に存在している。それだけで、男が刃を振るうに足る理由となる。

 部屋の入口から一気にウェイバーの元へと跳躍し、居合切りの構えから白鞘が抜き放たれる。

 

「っ、銀さん!」

 

 甲高い衝突音が、狭い室内に反響した。

 銀白のリボルバーと白鞘が、互いを喰らうべく激突する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・チッピー←脱落
 チャカ←未だ生存


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023 狂乱の始まりは小さな息吹と共に

 

 46

 

 

 

 

 悪党だよ。そう簡単に言ってのけた男を前にして、雪緒は言いようのない不安を感じていた。チャカなど霞んでしまうほどの強さを持つことは今しがたの攻防でなんとなく理解している。そんな男を前にしているのだ、敵か味方かも不明な以上、漠然とした不安を感じるのは無理からぬことだった。先程チャカに殴られた頬は未だ熱を持っているが、それと反比例するかのように全身に悪寒が駆け巡る。思わず自身の肩を抱く雪緒を見て、ウェイバーは苦笑気味に呟いた。

 

「何を考えてんのかは知らないが、別に取って食ったりはしない」

「……そう簡単に信用出来ません」

「そりゃまぁ確かにな」

 

 鷲峰雪緒は目の前の男が香砂会に雇われていた人間であることを知らない。しかし彼のことは明確に覚えていた。高市で初めて出会った時、銀次が言っていた事がずっと頭の片隅に残って離れない。危ない臭いがすると言っていたあの時の銀次の表情は、付き合いの長い雪緒であっても見たことのないようなものだった。

 その張本人が目の前に立っている。これで警戒するなという方が無理な話で、少女の顔には猜疑心がありありと浮かんでいた。

 部屋の片隅で身動きが取れなくなっているチャカには目もくれず、ウェイバーは何を思ったか唐突にジャケットを脱ぎ始めた。そのまま脱いだジャケットを雪緒の前に差し出して。

 

「一先ずこれを羽織った方が良い。あちこち破けてるぞ」

「……っ!」

 

 言われ、ようやく現在の自身の服装を思い出したのだろう。警戒する人物に施しを受けるのは気が引けたが、背に腹は代えられないと無言で彼のジャケットを受け取り、袖は通さず肩から羽織った。

 ジャケットを渡したウェイバーはズボンのポケットに突っ込んであった煙草を取り出し、慣れた手つきで火を点ける。

 

「ここ、禁煙ですよ」

「固いこと言うな。それに今更だろう」

 

 雪緒の指摘など意に介さず、ウェイバーは肺に取り込んだ煙を天井に向かってゆっくりと吐き出した。部屋の隅にはパイプ椅子が幾つか畳まれた状態で置かれており、その一つを引っ張ってきたウェイバーは雪緒の正面に広げ、どっかりと腰を下ろした。一分程でフィルタ付近まで短くなった煙草を靴の裏で消して、ウェイバーは雪緒と同じ高さの目線で正面から向かい合う。

 

「さて」

 

 びくっ、と雪緒の身体が震える。これから一体何をされるのかまるで想像がつかないのだ。話に応じてくれるだけの人間味はあるようだが、その実内心では何を考えているのか全く分からない。チャカを一瞬で無力化したことといいその佇まいといい、只者でないのは雪緒にも分かる。そんな男と一対一で正面から相対することは、少女に多大な緊張と恐怖を与えた。

 ウェイバーの瞳は日本人特有の黒さを持つものだったが、決定的に自分たちとは違うと雪緒は感じていた。黒い、余りにも黒すぎる、ドス黒いだとか漆黒だとか、そんな安易な表現では言い表せないような黒さ。気を抜けば吸い込まれてしまいそうなその視線は、雪緒という一人の少女にのみ向けられている。

 

「時間もそう無い。回りくどい話は止めておこう。どうして君は飛び込んだ?」

 

 どこへ、などとは口にしなかったウェイバーだったが、その言葉の意味するところを雪緒は完璧に理解していた。理解した上で、少女はこう返す。

 

「……何故、そんなことを聞くんですか?」

「鷲峰組の現状は知ってる、香砂会との関係も含めてだ。その上で言わせてもらうが、他の選択肢もあったんじゃないか」

 

 言外に、自身以外が総代を継承する道があったのではないかと聞かれているような気がして、雪緒は小さく首を横に振った。

 

「盃の復権には親族以外の継承は認めない。そうあったんですよ」

 

 自嘲気味に笑う雪緒を、ウェイバーは無言で見つめる。

 

「分かっています。どう考えたってこれは言い掛かりの難癖、義理や人情なんて存在しません。でもね、私たちはその中で筋を通すことしかできないんです」

 

 それに、と雪緒は付け加えて。

 

「これ以上、組の人たちが倒れていく姿を見ていられなかった」

「……組の人間を守るため、自分自身が矢面に立ったってことか」

 

 はぁ、と目の前の男は溜息を吐き出した。

 そういえば、どうして誰とも分からぬ男にここまで内情を話しているのだろうと雪緒は思う。男に対する警戒心は未だ消えない。にも関わらず、心の何処かで全てを吐露したいと思っている自分がいることに気が付いた。天然の人誑しなのだろうか、そんなことを考えずにはいられない。

 

「つまり、君はこの場所に望んで立った訳じゃないんだな」

「いいえ。これは私が自ら望んだことです」

 

 ウェイバーの言葉を、雪緒は即座に否定した。

 だがその言葉を、ウェイバーは更に否定する。

 

「それしか選ぶ道が無い上での選択を選んだとは言わない。君はそう思いたいだけだ」

 

 部屋の隅ではチャカが割れた顎でモゴモゴと何かを呟いているようだが、そんなことは雪緒は全く気にならなかった。正面に座るウェイバーの真っ黒な瞳が、一切の揺らぎなく自身を見つめているからだ。

 

「君は望んだんじゃない。望まざるを得なかった」

「……例え私が総代を継承しなかったとしても、いずれはこうなっていました」

「だろうな。香砂会の連中は徹底的に鷲峰組を潰すつもりだった、早いか遅いかの違いしかないだろうよ」

 

 そう簡単に言うウェイバーの軽薄さに雪緒はムッとする。自然、語気が荒くなる。

 

「だったらこうするしかないじゃないですか。もう誰も傷付けたくないんです。少しでも傷つく人が減るなら、私はその道を選びます」

「あのサングラスや他の組の連中は、君をこんな戦いから遠ざける為に身を粉にして戦ってたんじゃないのか」

「……だったら、」

 

 無意識のうちに瞳に溜まっていた涙が一筋、頬を伝って零れ落ちる。

 

「だったら、どうしろって言うんですか! 私にはこんなことしか出来ません! 銀さんや他の人たちの陰に隠れてのうのうと生きていられるほど私は強くない!」

 

 慟哭にも似た叫びが室内に反響する。羽織ったジャケットの裾を握り締め、心の内側に溜まっていた想いが溢れ出す。感情のままに、癇癪を起こした子供のように雪緒は言葉をぶつけ続ける。

 

「私はここへ来るしかなかったんです! 自分で望んで、選んでこの場所へやって来たと思わなきゃ、とても覚悟を決められない!」

「それで君は全てを背負ってこちら側へと堕ちるって言うのか?」

「そうです! 私がこうすることで皆が助かるなら、それで良いって決めたんです!」

 

 少女の言葉を受けて、ウェイバーは小さく息を吐いた。彼は言葉を選んでいるのか数秒逡巡した後、右手で後頭部を掻いて。

 

「……君はホテル・モスクワと香砂会に復讐をするつもりなのか」

「引き返すつもりはありません。私たちは私たちの方法で強大な勢力と相対します」

「仮に君の掲げる目的を果たしたとして、その先に何を望むんだ?」

「そんなこと、わかりません」

 

 分かるわけがないじゃないですかと、雪緒は消え入りそうな声音で呟いた。彼女は聡明だ、自分たち鷲峰組とホテル・モスクワ、そして香砂会との戦力差が歴然であることなど百も承知だった。しかしそれでも尚、引鉄を引かねばならない状況なのだ。このまま黙っていれば押し潰されることは明白、それならばいっそ、と。少女はそう考えていた。

 裏世界に身を投げる。口で言うのは簡単だが、年端もいかない少女が実際に飛び込むにはかなりの恐怖と戸惑いがあったに違いない。そこまでしてでも、雪緒は鷲峰という組を守りたかったのだ。例え自分自身がどうなったとしても。

 分かるわけがないのだ、この先どうなるかさえ分からないというのに、先の未来に明確なビジョンを思い描ける筈がない。

 

「……そういう貴方は、どうなんですか?」

 

 訝しげにウェイバーの眉が動く。それに構わず、雪緒は男を見据えて告げる。

 

「こんな世界で、貴方は何を望むんですか」

「望み、ね」

 

 雪緒から視線を外し、蛍光灯を見上げる。

 胡乱気に揺れた真黒な瞳が何を見ているのか、雪緒には全く分からない。

 

「……そんなもの無いよ」

 

 やがて呟かれた言葉は短く、言い聞かせるような口調だった。

 

「無い……?」

「俺にはそんなご大層な望みはない。精々死なないように生きていくってくらいだ」

 

 とても冗談を言っているようには見えなかった。目の前の男は本心からそう思っている。裏の世界に身を置いているということは少なくともそこに至るまでの経緯があるはずだ。そうなってしまった理由、そこに居場所を置く理由がなければおかしい。嵌められたにしろ自ら飛び込んだにしろ、結果だけが存在することは無い。必ずそれまでの経緯、過程が存在する。

 しかしウェイバーはそんな過程を全てすっ飛ばして結果だけを告げた。望みなど無いと。

 いよいよ以て本格的にウェイバーという男が分からなくなった。雪緒は無意識のうちに身を攀じる。本能的に彼から距離を取ろうとしたのだ。人間は理解できないものを恐れる。目の前の男が正に雪緒にとってのそれだった。

 

「……だから、あんなことが言えるんですね」

 

 かろうじて呟いた声は、震えていた。

 

「望みがないってことは、貴方は現状に満足しているからなんでしょう?」

「…………」

「貴方はそこに留まることを選んだだけです。私はそれが出来ない状況にあった、たったそれだけの違いしかないんですよ!」

 

 八つ当たりにも等しい行為だ。それは雪緒にも分かっていた。だがこうして言葉にしなければ、今一度自分の選んだ事を確認しなければ固めた筈の決意が揺らいでしまいそうで。降りかかる理不尽に感じるやり場のない怒りを、目の前の男にぶつけてしまっていた。

 いつの間にかポケットから取り出していた煙草を咥え、少女の言葉を最後まで聞いていたウェイバーは、やがて静かにこう切り出す。

 

「君はいつでも正しくあろうとするんだな」

 

 子供に言い聞かせるような優しい声音だった。

 

「あぁ、くそ。そういやさっきも似たような事言ったんだった。柄じゃねえな全く」

「……?」

「いや悪いこっちの話だ、話を戻そう。君のやろうとしていることは正しいよ。当主が体を張って下の人間を守る。ご立派なことだ」

 

 でもな、そうウェイバーは続けて。

 

「正しいだけじゃあこっちの世界じゃ通用しない。何事にも一定の力が必要になる。権力でも単純な戦闘能力でも何でもいい。とにかく、自分の意思を押し通せるだけの力が要るんだよ」

 

 その言葉に、雪緒は言葉を詰まらせた。

 分かっている。そんなことは分かっているのだ。父や板東が居なくなった今の鷲峰組には発言を通せるだけの権力はなく、銀次を始めとした武闘派も少ない。綺麗事だけで切り抜けられはしない。

 

「じゃあ、どうすれば良いっていうんですか……。私にはもう、こうするしか……!」

 

 茨の道だと知りながらも進まねばならない。その心境は如何程のものだろうか。それはきっと雪緒自身にしか理解できないもので、ウェイバーには理解できるものではない。

 それを知ってか知らずか、唐突にウェイバーは話を切り替えた。

 

「これは君には関係無い話だが、俺の雇い主が不慮の事故で死んでしまってね。依頼料も受け取っていないんだ」

 

 困ったような表情を浮かべて、雪緒へと視線を合わせる。

 

「いや困った。このままじゃ国へ帰れない。その依頼料でチケット代を払うつもりだったからな、日本には知り合いも居ないしこのままじゃ寒空の下で凍え死んじまうかもしれない」

「……何が言いたいんですか?」

「いや、これは相談なんだが」

 

 そう言って、ウェイバーはパイプ椅子から立ち上がる。そのまま数歩前へ進み、雪緒の前にまでやって来た彼はゆっくりと右手を差し出して。

 

「――――俺を雇ってくれないか?」

 

 

 

 47

 

 

 

 恐ろしい速度で鞘から抜き放たれた白刃が、俺の命を刈り取るべく振るわれる。雪緒へ雇用提案をしていた所へやって来た銀次が、血相を変えて飛び掛ってきた。いやいや、これ絶対何か勘違いしてるよね。まさか俺が雪緒をここまで痛め付けたとか思っているんじゃないだろうな。とんでもない誤解だ。やった張本人は部屋の隅に転がってるだろうが、お前も何か言ってくれ。あ、だめだ顎砕いたから碌に喋れないな。

 というか向こうは俺がこのまま雪緒を連れ去ろうとしていると思っているんだった。自分で蒔いた種だったことを思い出して自嘲する。 

 取り敢えずこのまま斬り殺されるのは御免なので、イーグルを白鞘の刃に合わせるように突き出す。刃にそのまま突き出せば拳銃なぞ真っ二つにされるだろうが、切っ先から少し接触点をずらしてやれば問題ない。弾く様にして白鞘を上へと跳ね上げる。

 それを前にして銀次が驚愕の表情を浮かべる。俺も初めてやったので成功して内心驚いていたりするが、それを表情にはおくびにも出さない。こんなの朝飯前だぜとでも言うように口元を吊り上げておく。

 

「銀さんっ!」

「お嬢、よくぞ御無事で……」

 

 俺を挟んで行われる会話。それは一向に構わないが、殺気を浴びせ続けるのは止して欲しいものだ。サングラスの奥で光る野獣のような瞳が先程から俺を捉えて離さない。

 

「お嬢、離れていて下せェ。コイツは今ここで斬っておかなきゃいけねェ人種だ」

「止めておけよ、此処(・・)でやり合うのは愚策だ」

 

 狭い空間の中だ、跳弾の危険だって低くない。俺にそのつもりはなくとも彼女を傷つけてしまう可能性があるのだ。それを分からない男ではないだろう。

 銀次は逡巡しているのか、無言のまま動かない。これで止まらないようであれば致し方ない。不本意ではあるが、ここで戦闘となるだろう。正直やり合いたくはないので、離脱前提での戦いになるが。

 なんてことを考えていると、俺の背後で雪緒が立ち上がった。

 

「待って下さい銀さん。この人は、先程私が鷲峰組総代として雇用しました」

「お嬢……!? 一体何を……」

「この人の強さは銀さんも知っている通りです。ホテル・モスクワ、香砂会と相対するにはこの人の力が必要だと判断しました」

 

 雪緒の言葉を聞き眼を見開いた銀次は、次いで俺へと視線を移す。

 

「おめェさん、一体何を考えてやがる」

「利害の一致ってやつだよ。彼女は力を欲してる。俺は後ろ盾を欲してる」

 

 後ろ盾なんてご大層に言ってはみたが、実際の所は金銭面での援助という名目だ。それも結局のところ少女一人の手助けをするという隠れ蓑でしかないわけだが、それをここで明かしたところで何の意味もない。

 

「おめェさんの力なんて必要ねェ」

「本当にそうか? ホテル・モスクワと今の鷲峰がぶつかって勝算があると、本当に思ってるのか?」

 

 銀次の返答を待たずして、俺は更に言葉を重ねる。

 

「どんな流血も辞さず、加減も秩序も存在しない。己の利潤のみを追求する暴力性、反社会性を持つ大組織に、アンタらだけで対抗できると思ってんのか」

「……おめェさん一人の存在でロシアの連中どもに対抗できるようになるわけでもあるまいよ」

 

 銀次の言葉は尤もだ。たった一人の存在が大局を左右することなど有り得ない。多大な物量に押し潰されるのがオチだ。

 しかしそれはただの一般人だった場合の話である。幸か不幸か、俺には身に余る地位と権力がある。流石にホテル・モスクワを上回るなんてことは言えないが、少なくとも今の鷲峰組よりは動かせるモノは多いだろう。黄金夜会なんてものの存在を日本人が知っている筈もないので、いくら俺が口で説明したところで半信半疑だろう。

 故に俺は提示するのだ。

 表情に一切の気負いを見せず、まるでそれが容易いことであるかのように思わせながら。

 

「だったら見せてやるよ。たった一人の存在が大局を左右する瞬間ってやつを」

 

 

 

 48

 

 

 

 鷲峰雪緒がウェイバーを雇った。

 この事実を聞いて、ロックは二の句が告げなかった。思わず天を仰ぎ見る。こうなってしまってはもう、彼女を陽の当たる世界に帰すなんてことは出来なくなってしまうだろう。ウェイバー、そしてバラライカ。あの二人と関わってのうのうと陽のもとを歩けるなどとは間違っても言えない。

 完全に敵対の構図が出来上がってしまった。

 鷲峰組と離反したホテル・モスクワ。鷲峰組に雇われたウェイバー。ロアナプラで絶対に争わせてはいけない二人が極東の島国で銃口を向け合う形になってしまった。悪い夢なら覚めてくれ、そうロックは思わずにはいられない。

 しかし当の本人であるウェイバーは特に気にした様子もなく、いつもどおりの飄々とした態度だった。

 

「直に夜も明ける。早いとこ離れた方がいい、そのうち警察もやって来るだろうしな」

 

 ウェイバーの横にはやけにニコニコしたグレイが立っており、そんな少女をロックの隣に立つレヴィはげんなりしながら見つめていた。何があったのかは聞かない方が身の為だ、そうロックは判断して、視線を正面に立つウェイバー、そして雪緒と銀次へと向ける。

 

「雪緒ちゃん……」

「岡島さん、これは私が決めたことです。この人がどんな人なのか、きっと岡島さんの方が詳しいんでしょう。でもそれはもう些細なこと、これより鷲峰組は徹底抗戦に入ります」

 

 少女の瞳に、揺らぎはない。

 死と隣り合わせの現状、恐怖していない訳が無い。それでも雪緒は動じることなく、はっきりと言い切ってみせた。

 

「私は貴方の敵です。出来ればもう二度と、お会いすることが無いことを願っています」

 

 ロックはその言葉に何か返そうとして、結局それを飲み込んだ。今更何を言ったところでどうにもならないと悟ったのだ。ボウリング場に入る前にウェイバーに言われたことを思い出す。自分は強くない、己の意思を押し通せるだけの力も無ければ権力も無い。そんな状態でいくら綺麗事を並べたところで、状況が好転することは無い。

 

「ボス、これから姉御とやり合おうってのか?」

「状況は逼迫してる。バラライカのことだ、今日にでも鷲峰系列の事務所を襲撃してくるだろう。俺とグレイでどこまでやれるかは分からんが、利害が一致している限りはこっち側で動くさ」

「……あたしは」

「レヴィ。お前はお前の思うように動け、ロックの護衛で日本へ来たんだろ? ならそれがお前の為すべき仕事だよ」

 

 ロックとレヴィはバラライカ側の人間だ。ロックはバラライカの通訳として、レヴィはロックの護衛として日本へやって来た。それはどこまで行っても変わらない。このまま行けば雪緒やウェイバーと対立し、血で血を洗う戦場を目の当たりにすることになるだろう。

 本当に、それでいいのか? 

 ロックは思考を巡らせる。両者の激突は、本当に避けられないものなのだろうか。もしかすると、まだ何か見落としている部分があって、それを見つけることが出来ればこの争いを止めることが出来るのではないだろうか。

 再びウェイバーに言われた言葉が脳裏を過ぎる。

 

『自分の力を行使せずに他力本願で何かを望む、随分な正義もあったもんだ』

 

 分かっている。自分が甘いことを言っているくらい。

 

『正義は必ず勝つんじゃない。勝った奴だけが正義を語れるのさ』

 

 必要なのは結果。そこに至るまでの過程に意味はない。

 だったら、ああ、そうだ。

 

 ――――必要なリスクは自分で背負え。過程はどうでもいい、求める結果だけを手に入れろ。

 

 背を向けて歩き出すウェイバー、雪緒、そして銀次を見つめながら、ロックは静かに拳を握る。

 東の空が僅かに白み始める。最早一刻の猶予も残されてはいない。レヴィにはまた小言をぶつけられるかもしれないが、考えうる限り一番現実的な方法だ。動くなら今、このタイミングをおいて他にはない。意を決して、ロックはレヴィへと告げる。

 

「レヴィ、」

 

 ロックの表情を見て、レヴィは瞬時に彼の心境を悟ったのだろう。やれやれだ、とでも言うように溜息を吐き出して、彼の言葉を待った。

 

「――――マリアザレスカ号に、一緒に付いてきて欲しい」

 

 

 

 49

 

 

 

「鷲峰組屋敷を監視していた同士より連絡、鷲峰雪緒とウェイバーが接触した模様」

「……成程、そう来たかウェイバー」

 

 ボリスからの報告を受け、自然と口元を緩ませる。

 ウェイバーはこちらの行動を先読みしているのだろう。鷲峰雪緒を拐うと予想し、先んじて目標を手中に収めた。どんな手口を使ったのかは定かでないが、元は敵対していたはずの人間が組織の中枢にまで潜り込んでいる。

 

「相変わらず読めない男だよ、お前は」

「楽しそうですな」

「当然だ。我らと円舞曲(ワルツ)を踊れる数少ない男だ、心躍らずにはいられんよ」

 

 船室の窓から明るくなり始めた空を見つめ、緩んでいた口角を獰猛に歪める。

 

「ウェイバーの動きは考えた所でどうにもならん。我々は我々の任務を全うする。準備は出来ているな」

「既に二個分隊が行動を開始しています」

「では明朝○七五○より行動を開始する。鷲峰組の戦力はこれを徹底的に削げ。第三勢力(警察)介入の際は速やかに撤収、次の機会を待つ」

「ハッ」

「日本の連中に、戦の作法を教え込め」

 

 悪徳の都に君臨する大悪党が激突する。その瞬間は刻々と迫っていた。

 そんな中にあって、停泊するマリアザレスカ号の前に立つ青年が一人。その表情は何かを決心したようにこれまでとは違っていた。ロックは意を決して船内へと踏み込んでいく。

 リスクを背負い、不安要素を全て排除し、純粋なギャンブルに勝利しろ。自らの望む結末へ向かうために。護衛のガンマンとたった二人の、小さな戦いが始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 以下要点
・雪緒、ウェイバー雇用
・ロック、悪党への第一歩
・姉御本格始動
・さらっと生き延びているチャカ←

 ロックさん貴方今までどこで何やってたの
→一階を必死こいて捜索してました。

 レヴィ、グレイが合流する前に話ついとるやないの。
→あの場に四人揃うと瞬く間に世紀末ですから。


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024 悪党達の輪舞曲

 50

 

 

 

 ――――東の空は淡く白み始め、日の出を今か今かと待っている。数時間前まで空一面を覆っていた雪雲は遠くの空へと流れていき、このまま行けば快晴になるだろうことは想像に難しくなかった。

 そんな空の下、ロックとレヴィは港に停泊している一隻の船舶の前に立っていた。マリアザレスカ号。ホテル・モスクワの所有する小型客船の皮を被った移動要塞である。扱いとしては貨客船に分類されるこの船舶だが、大国ロシアを裏側から牛耳るマフィアの所有船舶である。当然、只浮くだけの代物ではない。これ一隻で戦禍へと身を投じられるだけの武器弾薬が保管され、外壁には幾つもの銃口が埋め込まれている。敵が近付こうものなら容赦無く蜂の巣に出来るだけの武装が施されているのだ。

 そんな完全武装が施されたマリア・ザレスカ号の船内に、まずはロックが足を踏み入れる。次いでレヴィもその後に続いた。

 船内は異様な静けさに包まれていた。明け方とは言え、常時数人の見張りを配置しているバラライカの周囲にしては不気味な程に静かすぎる。ロックとレヴィの二人はその違和感に気が付いていた。

 

「レヴィ」

「ああ、姉御にしちゃあ警備が薄すぎる(・・・・)。滅多なことじゃこんな態勢は取らねえだろうさ」

 

 ということは、今がその滅多な状況である可能性が高い。

 ロックの頭に真っ先に浮かんできたのは、鷲峰組、ひいてはウェイバーとの徹底抗戦の下準備。既に行動に起こせる段階にまで進んでいるのだとすれば、時間は一刻の猶予も無い。

 

「……急ごう」

 

 ロックは今一度気を引き締め、バラライカが居るはずの特別室へと向かった。

 

 扉の前にまでやって来たロックは何度か深呼吸を繰り返し、意を決して扉をノックする。船内の静けさに反して、返事は直ぐに返って来た。

 

「入りなさい」

 

 言われるがままロックは扉を開き、その後ろをレヴィも追従する。

 室内には備え付けのデスクに着くバラライカと、その背後で直立不動を貫くボリスの姿があった。二人の様子は別段いつもと変わらない。しかしそれを嵐の前の静けさだと感じてしまう。杞憂であればそれで良い、だがそうでなければ。ロックは胸中に渦巻く不安を必死に押し留め、一歩前へ出る。

 

「昨晩は一体何処へ行っていたのかしらロック。油を売っている時間は無いのよ」

「……バラライカさん、俺は」

「ロック。質問しているのは私よ、先ずは私の質問に答えなさい」

 

 有無を言わせぬその発言に、ロックは奥歯を噛み締めた。

 

「ヘイ、ヘイ。姉御、どうせそっちでもう調べはついてんだろ? だったら今更聞くようなことでもねえよ」

「私はロックの口から直接聞きたいのよ二挺拳銃(トゥーハンド)

 

 レヴィの言葉も受け付けず、バラライカは真っ直ぐロックを見据える。切れ長の瞳に見つめられ、心臓を鷲掴みにでもされたかのような息苦しさを感じた。彼女はまだ何もしていない。だというのに、この暴力的なまでの威圧感。無意識のうちに頬を冷や汗が伝う。その汗を袖口で拭い、言葉を吟味しながら舌に乗せる。

 

「昨晩は鷲峰組の屋敷へ向かった後、ヒラノボウルへ向かいました」

「それは何故?」

「……鷲峰組の一人娘が、誘拐されたからです」

 

 煙草を咥えたまま、バラライカは口を挟まない。続きを促されているのだと判断し、ロックは言葉を重ねていく。

 

「誘拐したのは同じ鷲峰組の男でした。銀さ……、鷲峰組若頭と一緒に鷲峰雪緒を奪還するため、レヴィと二人でヒラノボウルへ向かったんです」

「……成程。部下から受けた情報と相違無いようだ」

 

 室内の空気が若干緩和する。それを感じ取ったロックが内心で安堵の息を漏らした。が、それも一瞬のこと。次いで彼女の口から出た言葉に、ロックは再び身を強ばらせる。

 

「ロック、その場に居たのはお前たちだけではないな」

「…………っ」

 

 弛緩していた空気が瞬く間に張り詰める。

 

「ウェイバー。奴もその場にいただろう」

「…………」

「不可解、実に不可解だ。奴が香砂会を襲撃した件についてはこちらも把握している。間違ってもしくじることなど無い男だ、香砂会はあの時点で壊滅したと考えていい。なら、どうして奴はその場に居た? 鷲峰組と裏で繋がっていた訳でもない。肩入れする理由もない。なぁ、ロック」

 

 煙草を灰皿に押し付け、バラライカは問い掛ける。

 

「お前が呼び寄せたのか? あの場に。奴が日本に居ることは既に知っていたようだしな」

 

 背中にドッと嫌な汗が噴き出すのを自覚する。

 バラライカは思い違いをしている。あの場にウェイバーが居合わせたことは全くの偶然であり、そこにロックの思惑は一切介在していない。何せ香砂会を壊滅させたことすら本人の口から告げられるまで知り得なかったのだ。ウェイバーの行動を誘導出来るだけの策があったわけでもない。昨夜の一件に彼が絡んできたことは、完全にロックの意思とは無関係のものであった。

 しかし客観的にこの件を見た場合、その毛色はまた変わってくることにロックは気が付いた。

 ウェイバーがグレイを引き連れてやって来たこと。ロックはその狙いが鷲峰雪緒の誘拐であるということを知っている。だが、バラライカ側からすればどうだろうか。そんな彼の狙いなど知らない彼女たちからすれば、まるで予め打ち合わせでもしていたかのように思うのではないだろうか。時間もほぼ同時、互いに日本に居ることは知っていた。そしてロックはバラライカが鷲峰雪緒を誘拐しようとしていることをも知っていた。少女を助けたいロックがその旨をウェイバーに話し、彼を動かしたのではないか。バラライカがそうした結論に辿り着いてもなんら不思議ではないことに、ロックは今になって気が付いたのだ。

 

 研ぎ澄まされた刃のように張り詰めた空気の中、やけに自身の心音が大きく聞こえる。

 恐らくはこの後の二、三の問答で行く末が決まる。昨夜は選択を間違えた。その時はレヴィが上手くフォローしてくれたが、今回もそれに期待するわけにはいかない。

 決して間違えることの出来ない、外すことの出来ないギャンブルだ。下りることは許されず、ベットするのは多数の命。何人もの命が己の背に預けられている。それを感じて、ロックは小さく震えた。それは多大な恐怖と、ほんの少しの武者震いからくるものだった。

 運以外のあらゆる事象を塗り潰し、僅かな隙間も逃さず埋めろ。そうして運だけが純粋に残った時、それは、最高の賭けとなる。

 彼の所有する手札は僅かに二枚。その切り所を、ロックは慎重に吟味する。

 

「バラライカさん」

 

 ゆっくりと、ロックは言った。

 

「俺は、思い違いをしていた」

 

 バラライカの眉が怪訝そうに動く。何を言い出すのか、とでも言いたげな表情だ。

 

「俺には俺の信じる正義があって、バラライカさんやウェイバーさんも根っこの部分には己の信じる正義がある。そう思ってました。でも違うんだ、俺が今こうしてこの場に立っているのも、バラライカさんが鷲峰組を攻撃しようとしているのも、全ては自己満足でしかない」

「ほう?」

「ウェイバーさんに言われました。俺の考えは正しい、でも強くない。何をするにも強さが必要で、それが伴わない正義なんて薄っぺらいただの紛い物でしかない」

「そうね、他力本願で誰かを貶める。血溜まりの匂いが鼻につくわ」

「だから結局は、自分の自己満足でしかないんですよ」

 

 頬杖をつき目を細めるバラライカに、ロックは言葉を重ねる。

 

「俺が鷲峰組の新組長を助けたいと思うのも、アンタ(・・・)がこの街でドンパチおっ始めようとしてるのも、突き詰めればそこに行き着く」

「言いたいことがあるならハッキリ言うべきだわロック」

「ホテル・モスクワが暴れられるのは鷲峰組からの依頼という大義名分があったからだ。板東さんを殺し完全に敵対した今、それはもう無い」

「些細な問題ね。我々には我々の為すべき事がある」

 

 ここだ。今、この瞬間。

 ロックはたった二枚しか持たない手札の一枚を切る。

 

「ウェイバーさんと鷲峰組が正式に契約を交わしたと知ってもですか」

「なに?」

 

 ここで初めて、バラライカの表情が明確に変化した。

 この期を逃すまいと、ロックは捲し立てるように言い放つ。

 

「今ここで引鉄を引けばウェイバーさんと争うことになる。そうなれば血で血を洗うことになるのは明白だ。それでもアンタは地獄へ進むことを選ぶのか」

「……そうか。ウェイバーめ、始めからそのつもりで……」

 

 バラライカの呟きは目と鼻の先に立つロックにすら聞き取れぬほど小さなものだった。この時のロックは当然ながら知らぬことだが、今この瞬間、バラライカの中でウェイバーの目的がはっきりと浮き彫りになった。香砂会に雇われ、それをわざわざ撃滅したことも、敢えてロックたちの前に姿を現すことでロックの行動を誘導したことも、そしてそれらの行動がやがて自身の耳に届くであろうことも。その全てはこの為の布石。

 それを理解して、堪えきれないとばかりにバラライカはくつくつと笑いを漏らした。

 

「面白い、やってくれたなウェイバー。我々の行動まで掌握するつもりか」

「何を言って……」

「ロック、さっきの問いに答えてやろう。地獄へ進むか、愚問だな。板東を殺した夜にも言ったはずだ。私は地獄の釜でどこまで踊れるのか、それだけにしか興味が無いと」

 

 外した。

 ロックはまたもや選択を間違えた。板東と対峙した日のことは今でも鮮明に覚えている。忘れられる筈がない。その時確かに彼女はそう言っていた。バラライカにとって戦争こそが生きがいであり、暴力こそが至上であり、殲滅こそが至高なのだ。

 それを知っていながら、ロックは安易な質問をぶつけてしまった。答えの分かりきった質問を投げてしまった。

 

 彼は賭けに敗北した。またしても選択を間違えた――――訳では無かった。

 

 ロックはその夜のことを覚えている。つまりは、こう返答されることを予め知っていた(・・・・・)

 ここまでは彼の予想に違うことなく進んでいる。一枚目のカードを切るタイミングは、間違ってはいなかった。この時点で彼は最初の賭けに勝利する。もしもこの段階で道を誤っていれば、今頃はバラライカに首を掴まれ地面に寝かされていたかもしれない。

 最初に間違えたのがウェイバーの前で良かった、とロックは内心で自嘲する。

 履き違えてはいけない。これはあくまでの己の欲求を満たす為だけの行いであり、それは決して他者に見返りを求められるようなものではないと。

 それに気付かされたのはつい数時間前の事。今ならば分かる。あの時ウェイバーの言っていたことが。ああ、確かに。これはただのエゴでしかない。天国と地獄の境界に片足一本で立ち、そのどちらにも傾き得る緊張感。肌のひりつく純粋なギャンブルを心のどこかで楽しんでいる自分が居ることに、ロックはなんとなく気付いていた。

 

 一つ目の関門は突破した。重要なのはここからだ。

 ロックの目的はあくまでも鷲峰雪緒という少女を救うこと。それは今でも変わらない。但しそのためにはバラライカとウェイバーが睨み合うこの構図をどうにかしなくてはならない。破裂寸前の風船のようなこの現状を切り抜けるために必要なこと、それをロックは分かっていた。

 

「……今ここで戦うことにメリットはない。その事に気付いていますか」

「勘違いしてはいけないわロック。貴方はあくまで私の通訳、意見することを許してはいないのよ」

 

 静かだが、しかし反抗することを許さぬ物言いにロックは冬だというのに額に汗を滲ませる。今目の前に居るのは大国ロシアを裏で牛耳る巨大マフィアの大幹部。普通であればおいそれと会話をすることすら許されない超大物だ。

 それを承知で、ロックは尚も口を開く。

 

「……勘違いしてるのはアンタの方だ、バラライカさん」

 

 ロックは呟き、拳を握る。

 

「さっきも言ったはずですよ、これは俺の自己満足でしかない。鷲峰の組長を助けようとアンタの前に立ってるのも、結局は自分の欲を満たす為でしかない。言ってしまえばこれは、そう趣味だ。根本のところはアンタと同じですよ」

「……趣味か。イイ面構えをするようになったじゃないか、ロック」

 

 鋭い眼光はそのままに、バラライカは続けた。

 

「ならば止めてみろ。私が矛を収めるに足る理由と根拠をこの場で示せ。それが出来ないのであれば、我々はこの歩みを止めることはない」

 

 温度を感じさせない冷たい瞳がロックを射抜く。気を抜いてしまえば瞬時に殺されるような錯覚を味わいながらロックは告げる。彼に残された最後の一枚の手札を切る。

 

「ICPOが動いています」

 

 ICPO。国際刑事警察機構の略称である。

 これは国際犯罪の防止を目的として組織された国際組織で、国際連合に次いで加盟国の多い組織だ。その名前から勘違いされがちであるが、この組織に属している人間が世界各地を奔走しているわけではなく、各国の主権に属しその国の人間が捜査を行っている。故に犯罪者の身柄を拘束するのはその国の警察であり、外交特権を所有する一部の特例を除いてICPOは身柄確保までの道筋を立てる事が多い。

 その組織が動いているとロックは言う。

 目的など言うまでもなく、バラライカを筆頭として日本に足を踏み入れたホテル・モスクワだ。

 

「ウェイバーさんが言ってました。警視庁に大きな動きがあったと。これは恐らく自分たちが派手に動き回ったからだとも」

 

 思考を巡らせている様子のバラライカに一歩近付いてロックは言葉を重ねる。

 

「昨夜の事も既に大きな騒ぎになってる。ウェイバーさんの銃弾は日本じゃそう出回らないものだし、あそこまでの銃撃戦なんて普通じゃない。警察上層部は感付き始めてる。日本に留まらない、もっと大きな騒乱だと」

 

 騒ぎが大きくなるのは本意ではないでしょう、そうロックは投げかけた。

 

「ウェイバーさんやアンタは国際指名手配されてるんでしょう。だったらこんな島国で手を拱いている場合じゃない、直ぐにでもココを発つべきだ」

「……成程、確かに一理ある話だ。それが本当だとすれば(・・・・・・・)だが」

 

 ドクンとロックの心臓が跳ねる。

 確証があってバラライカがそう言ったのかは定かではない。しかし彼女の言葉はロックの内心を揺さぶるには十分だった。

 それもそのはず、ロックの今のICPOがどうのといった話は、その全てが口から出任せを言っただけなのだから。警察上層部が慌ただしいというのも、ICPOが動いているというのも全て真っ赤な嘘。全てはバラライカの行動を制限させるための出任せだ。

 但し、その全てが根拠のない話ではなかった。

 ウェイバーの使用している弾丸が日本であまり流通していないものだというのは真実であるし、ボウリング場での一件が大きく取り沙汰されているのも事実だ。

 嘘を突き通すにはひと握りの真実を混ぜておくこと、以前ウェイバーが言っていたことだった。

 

 この嘘は突き通す。ロックは内心の焦燥を露程も表に出すことなく、至って平静に対応する。

 

「この場面で平然と嘘を付けるほど俺は肝が据わってない。なんせ実力を持たない小悪党なんでね」

「……ふ、ふはは」

 

 ロックの言葉をそう受け取ったのか、沈黙を保ったままだったバラライカが不意に小さく笑いを漏らした。その笑いが何に対するものなのか、ロックには判断出来ない。

 

「良いわロック。貴方の無謀なギャンブルに免じて、今回だけは引下がることにしましょう」

 

 それに、とバラライカはニヤリと口角を歪めて。

 

「今貴方が言ったこと、口から出任せのつもりだろうけどあながち間違ってもいないのよね」

「え……?」

「ICPOに出張られると面倒なのも事実だし、ウェイバーもロックのこの行動と私の対応も織り込み済みね。鷲峰なんて隠れ蓑使わなきゃ逃げられないほど追い詰められてもいないでしょうに」

「え、ちょ、それって……」

 

 狼狽するロックを他所に、バラライカは席を立って。

 

「明日にはここを離れるわ。準備だけはしておきなさい」

 

 

 

 51

 

 

 

「これでよかったでしょうか」

「ん、上出来だ」

 

 チャカ一派が起こした騒動により至るところが破損した鷲峰組屋敷の一室。なんとか被害を免れた奥の茶室に雪緒と銀次、その二人の正面に俺が腰を下ろしていた。因みにグレイは別室で眠りこけている。襲い来る睡魔には抗えなかったようだ。

 東から昇る太陽の柔らかな日差しが障子を淡く照らしている。先程テレビで流れていた予報では、今日は一日青空が広がるそうだ。屋敷内の中庭、その日陰部分や一般道の路肩には溶け切らない雪が点在しているものの、陽が出ているだけでぐっと暖かく感じる。何も無ければ厳冬の最中の貴重な一日となったに違いない。何も無ければ、である。

 

 昨夜の一件で、俺は香砂会から鷲峰組へと身を置く組織を乗り換えた。こうすることがこの一件を終結させる為に最善だと判断したからだ。

 まず第一に鷲峰組と香砂会の諍い。これは俺とグレイ(主にグレイ)が香砂会を壊滅させたことで九割方終息している。香砂会系列の組は都内にまだ幾つか残されているものの、本家以上の戦力を保有しているとは考え難い。香砂政巳の死は既にその手の人間たちの耳には届いているだろうから、後は向こうの出方を見て対処するだけだ。

 となると残る問題は鷲峰組が協力を依頼したホテル・モスクワ。あのウォーマニアックスであるバラライカにどう対応するか。それを今この場で話し合っているわけなのである。

 

「ウェイバーさんが仰る通りに都内の鷲峰組系列の事務所に連絡して、その全ての人たちをこの屋敷に招集しました。でも本当にこれだけであの人たちに対抗できるんでしょうか」

「対抗云々はともかく、君が望むように少しでも被害を減らそうとするならこれは必須事項だ。ホテル・モスクワは立ち塞がる全てを殲滅する。そこに例外は存在しない。俺が君と繋がったことは多分ロックたちから伝わってるだろう。となると向こうが最初に取る行動はこちらの周辺戦力を削ぐこと、つまりは系列事務所の襲撃だ」

「……岡島さんとはお知り合いなのでしょう? 貴方が私たちに雇われたと伝えていない可能性もあるのでは?」

「レヴィやロックのことは信頼も信用もしてるが、ソレとコレとは別問題だ。常に最悪を想定してないと戦場じゃ一瞬であの世逝きだよ」

 

 バラライカのことだ。どうせ鷲峰や香砂の周辺に監視網を形成している。例えロックの口から漏れなかったとしても、俺の行動など筒抜けだろう。だがそれはこちらにも言えることだ、伊達にロアナプラで十年も銃口を突きつけ合ってはいない。ある程度の行動予測なら行えるくらいには、俺もバラライカの事を理解していた。全く誇れることではないけれども。

 状況は芳しくないが、最悪という程でもない。まだ幾らか選択の余地が残されている分気も楽というものだ。

 

「集めた組員には現状説明を。ここはもう特一級の危険地帯だ。組に残り武器を取るか静かに去るかの意を計った方がいい」

「……分かりました」

 

 言って雪緒は立ち上がり、静かに部屋から退出する。室内には俺と銀次の二人が残された。

 しばし無言の時が流れる。

 その静寂を切り裂いて口を開いたのは、銀次だった。

 

「……お前ェさん、一体何を考えてやがる?」

 

 ボウリング場で斬りかかってきた時と全く同じ言葉を銀次は俺にぶつけてきた。サングラスの奥に光る瞳は、俺の一挙手一投足を見逃すまいとしているようだ。

 何だかえらく警戒されているようである。それも無理のない事で、突然雪緒が俺を雇用すると言い出したのだ。何か入れ知恵でもしたのかと疑われているんだろう。忠義心の厚い銀次のこと、雪緒の様子が以前とは少しばかり異なっていることは既に気付いている。

 

「勘繰るなよ。別に大それた事を考えてるわけじゃない。メリットを提示した上で最善策を打ち出しただけだ」

「解せねェな。うちについたところで御宅にゃァメリットなんざ無ェだろう」

「親切心からの行動、って言って納得できねえか」

「馬鹿言いなせェ。アンタらみてえな人種は自分の利益が一番大事でしょうよ」

「違いない」

 

 口先だけの言葉であると直ぐに看破されて、俺は苦笑を浮かべるほか無かった。

 結局、銀次は俺のことを信用しきれていないのだ。それを言えば雪緒にも同じ事が言えるのだろうが、彼女に限って言えば毒を食らわば皿までといったスタンスである。俺という得体の知れない悪党に全てを任せるなど大博打以外の何物でもない。ここまで状況が逼迫していなければ、きっと選択肢にすら浮かばない道だ。死を待つしか無かった彼女の藁にも縋る思いを利用した俺の言えたことではないが、中々どうして肝が据わっている。

 

「お嬢が決めたことに異論はねェ。ただね、アンタの考えが読めねェんだ。今の鷲峰に付いたところで得られるモンなんざ高が知れてる。それよりも顔見知りのロシア連中ンとこ行ったほうが賢明だ」

「ま、俺だけが助かろうとするならそれが一番良いんだろうな」

 

 しかし、それでは鷲峰雪緒は死ぬ。

 今まで見てきた死の中の一つ。そう考えて見捨ててしまうことは簡単だ。正直俺の身の安全だけを考えるならそれが最善。バラライカと正面切ってやり合うなんてのは自殺行為にも等しい愚行であり、その危険性は過去何度にもわたって経験し理解していた。

 だからこそ俺は鷲峰組に回った。ホテル・モスクワの残虐性を真に理解している故に、鷲峰雪緒がこのままでは死ぬと予想出来てしまったから。少し前までの俺は、それで構わないと思っていた。幼気な少女とは言え自ら裏の世界へ足を踏み入れたのだ。強要されたものでない以上、全ての行動は自己責任である。

 しかし、昨日少女の言葉を受けて気が変わった。

 鷲峰雪緒は自分でこの道を進むと決めた訳ではない。そう思い込もうと必死になってはいるが、周囲の環境がそうせざるを得なくさせていたのだ。自分で選んで歩いた道は、実は元より決められたレールの上だった。心の奥底ではそれを理解していながらもそれを受け入れられない少女をこのまま放っておくことは、俺の寝覚めを悪くするには十分なものだった。

 

「慈善事業でやってるわけじゃない。きっかり仕事分のお代はいただくさ。その方が分かり易いだろ」

「アンタみてェな鬼を飼い慣らすのはお嬢には荷が重いでしょうや」

「人聞きが悪いな。俺は人間だよ」

 

 バラライカや張なんかと比べればまだまだ可愛げがあるってもんだ。アイツらと名目上肩を並べていることもよくよく考えれば信じ難いことだし。過ぎた評価はそろそろ身を滅ぼしかねないところまで来ているんじゃないだろうか。

 

「……まァ、一応の感謝はしてますよ。このままお嬢が苦しんでいるのを見るのは辛かった」

「お前が止めれば良かったんじゃないのか」

「お嬢の決めた事には従う。何があってもだ」

 

 任侠者の考えていることなど俺には到底理解出来ない。

 本当なら腕づくでも止めたい筈だ。まだ二十にも満たない少女が自ら進んで死地に進むその姿を目の当たりにして、この男が何も思わない訳が無い。

 ああ、本当にあの少女とこの男は似ている。 

 自分の気持ちをただ押し殺し、それが組の為ならばと自らを犠牲にしようとしている所が特に。

 

「ま、その話はこの辺にしておこう。これからについてだが」

 

 これ以上余計な詮索をするのも憚られたので、俺は話題を本題へと切り替える。

 

「バラライカのことだ。まず間違いなく国際担当が動き出したことには気が付いてる。だとすれば今までみたいに派手に動き回ることはないだろう」

「国際担当……?」

「ああ、ICPOが情報を流してる日本の警察のことだよ。コイツらがまた厄介でな、意外としつこいんだ」

「アンタ、そんな輩からも追われてるんですかい」

「誠に不本意ながらな。こっちにも色々と事情があるんだよ」

 

 ホント、どうして俺が国際指名手配されなければならないのだ。テロだのハイジャックだのそんな悪事は一切働いていないというのに。まぁこの話は今は置いておこう。

 

「こいつらが出張ってくるとなると残された時間はそう多くない。そうだな、あと二、三日。早ければ明日にでもホテル・モスクワはこの地を離れる筈だ」

「つまりはそれまで持ち堪えることができればいいと」

「そういうことだ」

 

 もしも此処がロシアの地であれば国際担当なんてホテル・モスクワは握り潰すことが出来ただろう。だが生憎とこの地は平和の国日本。マフィアだのなんだのといった武闘派にとっては生きづらい国だ。ロシアからの援護が望めない以上、バラライカも長居することはない。……と、思いたい。

 この状況にも関わらず戦争ふっかけてくるような女ならもう俺にはどうすることも出来ないが、そこまで脳味噌がイッていないと信じたい。

 

「……御宅の作戦は分かった。確かにウチの組が生き残るにゃあどうしたってロシア人どもを追い払わなきゃァならねェ」

 

 合理的だ、そう銀次は零す。

 

「……ただね、この世界じゃあ落とし前つけるってのも大事なんだ」

「そんなもん組の存続に比べれば些細なモンだろうが」

「アンタに言わせりゃ下らねェことかもしれやせん。でもね、侠に生き仁を貫くことが何よりも大事なあっしらにゃァ看過できねェもんなんで」

 

 俺の正面に座り背筋を正す男の瞳には、その決意がありありと浮かんでいた。

 

「……鷲峰雪緒はお前の独断を許したりはしないだろう」

「だからこの事は内密に。他の連中にも手配は既に。刃を振り翳す覚悟のある人間だけを連れていきやす」

「俺がハイそうですかと見送るとでも思ってんのか?」

 

 そんな言葉を受けて、銀次は小さく笑った。

 まるで俺がそんな事をするわけがないとでも確信しているかのように。

 

「アンタはお嬢に雇われた人間だ。お嬢を守るのがお役目でしょうよ。それにね」

 

 ゆっくりと立ち上がった銀次は、俺に背を向けて。

 

「……お嬢には自分(てめえ)の獣みてェな姿、見せたくねェんですよ」

 

 それだけを告げて、銀次は部屋から出て行った。その後ろ姿が死地へと赴く戦争兵のように見えてしまって、俺はどうしたものかと頭を掻く。

 銀次とそれに続く何人かの組員たちはホテル・モスクワに特攻を仕掛ける気だ。板東の仇討ちという名目の元。放っておけばバラライカたちは勝手に目の前から消えるというのに、どうしてむざむざ死にに行くような真似をするのだろう。

 きっとそれは極道者にしか分からない世界の話なんだろう。俺みたいな半端者には到底理解の及ばない部分の話なのだ。

 

「……ホント、どうしたもんかね」

 

 銀次を止める理由は俺には無い。敬愛する雪緒にまで黙って行動を起こそうとしている銀次の覚悟は本物だ。極道者の考えなど理解できずとも男としての覚悟くらいは俺にも理解出来る。

 それはきっと決死の覚悟だ。ホテル・モスクワの脅威は知っている筈、それに少人数で挑んだところで結果は目に見えている。

 それでも戦わなければならないのだろう。忠義に生きる人間故に、敗北が濃厚だったとしても武器を手に取らなくてはならないのだ。

 

「不器用な男だよ、お前は」

 

 一度は銃と刃を交えた間柄だ。

 それと男の覚悟に免じて、この事は雪緒には黙っていよう。後で何を言われるかたまったものじゃないが、今回ばかりはこういう役回りなのだと納得する他なさそうだ。

 

 

 

 52

 

 

 

「組織犯罪対策本部って何階?」

「えーっと、ご用件をお伺いしても?」

 

 受付の女性は内心で動揺していた。今目の前で机に頬杖を突きそう尋ねてきた男は、ここがどういった場所なのか本当に理解しているのだろうかと勘繰ってしまう。ここは東京都千代田区に聳え立つ警察の頂点、警察庁である。組織犯罪対策本部などという単語が出てきたことから関係者だろうことは予想がつくものの、こんな単語はネットの海を漁れば幾らでも調べられるものだ。信頼には値しない。

 まず服装がこの場にそぐわない。真っ赤なシャツに黒のスーツなどどこのホストだと思ってしまうのだ。しかもそれが外国人特有の雰囲気に見事に合っているものだから余計に。

 

 そんな訝しげな視線を送ってくる女性に、男は胸ポケットをまさぐって縦長の手帳を取り出して見せる。手帳の中心には地球に刺さる剣と天秤をモチーフにしたマークが刻印されていた。

 そのマークの正体に気が付き唖然とする女性に、男は柔かに微笑んでこう言った。

 

「インターポールのヨアンだ。ここ数日の足立区と渋谷区の事件について詳しく聞きたいんだけど」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 日本編は次回完結。

 以下要点
・ロック命懸けのギャンブル(かろうじて勝利)
・銀次ウェイバーに雪緒を任せる(自分は騒乱の中心地へ)
・とっつぁん登場(美形)


 冒頭で船内の警備が薄かったのは原作同様鷲峰系列の事務所を襲撃するために人員を割いていたからです。
 因みにそれはウェイバーに想定され組員を屋敷に避難させていたので空振りに終わりますが。

 
 


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025 FUJIYAMA GANGSTA ADVANCE

 53

 

 

 

 ――――国際刑事警察機構。通称ICPOは、フランスのリヨンに本部を置く国際犯罪防止を目的とした国際組織である。

 加盟国の数は国際連合に次ぐ190カ国であり、名実ともに世界最大の犯罪抑止力であることに異論はない。

 そんなICPOであるが、主な活動は各国の警察と連携を図り情報伝達ルートを確立させることである。国際犯罪者に関する情報のデータ化とフィードバックが主な役割で、司法警察権は各国の主権事項に属すため、個人が世界各地を飛び回るようなことは基本的に無い。逮捕権を有していないのだからそれも当然と言えば当然だ。

 

 しかし、そんなICPOの中には極一部の例外が存在する。

 その一人が今警察庁受付で飄々と立つ男、ヨアンだ。

 国外での逮捕権を持たない通常ICPO職員とは異なり、内政干渉を許された例外中の例外。本部所属の数人にしか与えられていないこの外交特権を越える権利を、金髪の男は有していた。

 

 ICPOの手帳を見せられた受付の女性は目の色を変え、直ぐ様内線を繋ぐ。受話器の向こうでも突然のICPOの訪問に驚いているのか、慌てるような声が受話器越しにヨアンの耳に届いた。ヨアンはそんな光景を目にしても表情を一切変えず、穏やかな笑みを浮かべたまま警察側の対応を待っている。

 程なくして受話器を置いた受付女性が立ち上がり、エレベータ前へと案内する。

 

「六階が組織犯罪対策本部になります。担当の石黒がその後対応させて頂きます」

「そう、ありがとう」

 

 女性に一言礼を述べて、ヨアンはエレベータへと乗り込んだ。

 扉が完全に閉まり上昇時特有の浮遊感を感じ始めたところで、これまでと打って変わって眉間に皺を寄せ、盛大に溜息を吐き出す。

 

「はぁ、どうしてこう日本人はどいつもこいつも能天気なツラしてんだろうな」

 

 平和の国日本などと呼ばれているようだが、ヨアンからすれば危機意識が極端に低いだけの猿の集まりにしか見えない。そもそも許可が無ければ銃の所持が認められていない事がおかしいのだ。日本であっても犯罪は毎日尽きることなく発生しているというのに、どうして一般人には自分の身を守る武器の所持が認められていないのか。

 

「ま、他所の国の事情にとやかく言う気は無いけどよ」

 

 言いながらヨアンはスーツの内ポケットから折りたたまれた数枚の書類を取り出す。それはICPOが取り上げた国際的犯罪者のリスト。簡潔に言えばブラックリストだ。ICPOのデータベースでは世界中の凶悪犯罪者たちが毎日ピックアップされており、そこに掲載された人間は高額な懸賞金と共に各国で指名手配されるのだ。

 国際的犯罪者と一口に言っても、その中には明確な序列が存在している。世界各地でテロ活動を行う人間と、国内で幾つかの犯罪を犯して国境を越えた人間とでは悪党としての質が全く違うのだ。

 ICPOではそうした犯罪者たちを幾つかのランクに区分けして登録している。

 やむを得ず国を出ることとなった犯罪者。国内の捜査の眼を掻い潜って高飛びを成功させた人間たちがCランク。ブラックリストに登録されている犯罪者の六割がこのランクにカテゴリされる。

 また国際規模となる犯罪、テロ活動などに加担した犯罪者はCよりも危険度が高いと判断されBランクにカテゴリされる。これは全体の二割程度だ。

 そして国際的犯罪の中心核、また国際的犯罪組織の重鎮はAランクの危険人物としてブラックリストに掲載される。このAランクにカテゴリされる人間は世界で二桁に収まる程少なく、滅多に表舞台に出てくることは無い。

 

 エレベータが停止したことを確認し、左右に開かれた扉を出てまっすぐに目的の部屋へと向かう。どうやらこの階には組織犯罪対策本部の部署しか設置されていないようで、木版に大きく書かれた日本語がヨアンの眼を引いた。

 と、そこで突き当たりからグレーのスーツを着た中年の男と若い男が出てきた。二人はヨアンの姿を確認するなりこちらに早足で向かってくる。

 ヨアンの前にまでやって来た二人はそこで足を止め、中年の男が口を開いた。

 

「えーと、ボンジュール?」

「日本語で構わない、幸い言語には明るくてね」

「そ、そうですか。私はこの組織犯罪対策本部副室長、石黒と言います。こっちは高木です」

 

 石黒と名乗る頭髪の薄い男に紹介され、隣の若い男が敬礼と共に声を上げた。

 

「対策本部の高木と言います! ICPO本部の方にお会い出来て光栄です!」

「ヨアンです、よろしく。早速ですがお聞きしたいことが幾つか。ここ数日東京都内が慌ただしいことはご存じですよね」

「ええ、ボウリング場の乱射事件や香砂会襲撃事件など過激な案件が多いですから」

「結構」

 

 言ってヨアンは先程の資料を取り出す。数枚あるものの一番最後の資料を、石黒と高木の二人に見せる。

 

「この男をどこかで見ていませんか? 例えば事件現場の周辺とか」

 

 資料に掲載された一枚の写真。かなり遠距離で撮影されたものなのか無理やり拡大され輪郭もボヤけてしまっているが、どうもそれは日本人のようだった。

 グレーのジャケットに黒色のパンツ。周囲の対比物を見るに身長もそれなりに高そうだ。そんな男の写真を眺める二人に向かって、ヨアンは静かに告げる。

 

「男の通称はウェイバー。世界各地で起こる大規模事件の渦中に必ずと言っていいほど現れる死神。ICPOのブラックリストに九人しか存在しないランクSの大悪党です」

 

 

 

 54

 

 

 

 松崎銀次は鷲峰組に対して、俺が思う以上の恩を感じていたんだろう。いや、正確には鷲峰組ではなく、板東という男個人に対してか。

 雪緒の話によればこの辺りを縄張りにするゴロツキだった銀次を先代の組長と板東が拾ったことが始まりだったようだ。以来白鞘を握り、組のため、ひいては二人のために戦い続けてきた。

 そんな銀次を間近で見てきたからこそ、雪緒はきっと銀次に身を任せようと思ったのだ。男の俺から見たってあの生き様は素直に格好良いと思えるものである。あそこまで自分の芯を貫き通せる人間は多くない。自身よりも他人に重きを置ける人間が、この世界に何人いるだろうか。口にするだけなら簡単だが、それを実際に行動に移し、成し遂げてきた人間がどれだけいるだろうか。

 その点で言えば、松崎銀次は俺なんかよりも余程強く気高い人間だった。

 自らの忠義を守り通すために、その全てを擲つ覚悟を持っていた。

 

「ま、だからこそ頑なになっちまうんだろうけどな」

「? 何の話をしているのおじさん」

「男ってのはどうしようもなく頑固だって話さ」

 

 鷲峰組屋敷の縁側に腰掛け正面を向いたまま答える俺に、グレイは不思議そうな顔色を浮かべる。少女に関してはまず頑固者という言葉の意味を知っているのかどうかすら怪しいところではあるが、少女の関心はそんなところにはないらしく、ぷらぷらと黒のストッキングに覆われた両足を揺らして「ふーん」と返すだけだった。起きたばかりだから意識が完全に覚醒していないのかもしれないが、今この場面だけを見ればこの少女が大量殺人者などと誰も思わないだろう。なんの気なしに横に置かれたMP7がそれを台無しにしているが。

 

「サングラスのおじさん、行っちゃったのね」

 

 不意にそう呟くグレイに、俺は無表情のままに答える。

 

「ああ、アイツを止める権利は俺には無かったからな」

「どういうこと?」

「アイツは自分の筋を貫き通す道を選んだんだ。半端者な俺なんかとは違って」

 

 結局、今回の一件に関しても俺は非情に徹することが出来なかったのだから。

 いやまぁ、其々の利用価値を天秤に掛けての行動と言ってしまえばそれで説明はつくんだが。しかし銀次をそのまま行かせてしまったことも雪緒の事を考えれば止めるべきだったのだろうし、双方の板挟みにあってしまっている感は否めなかった。

 雪緒の意思と銀次の覚悟、そのどちらを優先させるか考えた結果、済崩し的に俺は銀次を優先させたわけだ。総代となった少女には未だ男が何処へ言ったのか説明していない。

 言えば間違いなく詰め寄られるだろうな。もしかしたら自分もとか吐かしてバラライカの元へと向かうかもしれない。それだけは止めなければならない。銀次の覚悟をそんな形で無駄にしたくはない。

 

「これからどうするの?」

「そうだな、今日の夜には日本を発つ予定だ。張に言って飛行機の手配はしてもらってある。チケットもきっかり人数分な」

 

 わざわざ火中の栗を拾うような真似をするつもりはない。俺は俺らしく、ひっそりとこの地を後にしようと決めた。

 しかしながら雪緒には何て説明をしたものか。そう考えて、すぐに思考を切り捨てる。こういうのは幾ら理屈を並べたところで納得できるものじゃないのだ。なら大人しく、潔く。

 

「……ビンタの一発を受けるとするか」

 

 澄み切った青空を見上げて、そう零した。

 

 

 

 55

 

 

 

 香砂会襲撃事件。ボウリング場乱射事件。

 ここ数日都内を賑わせた事件を挙げろと言われて真っ先に出てくるのがこの二つの事件だろう。それぞれの事件で死傷者は二十名以上、現場は未だ封鎖され、警察の捜査が尚も続けられている。

 それらの事件現場の写真、より詳細を述べれば殺害された人間たちの亡骸が撮られた資料を何枚もホワイトボードに貼付け、ヨアンはそれを無言で眺めていた。

 そんな思考を巡らせるフランス人の様子を後ろで訝しげに観察しているのが対策本部の石黒と高木だった。腕を組んだまま動かないヨアンの背後で、ひそひそと顔を近づけ会話を交えている。

 

「石黒さん、さっきからあの人全く動かないんスけど」

「あのウェイバーとかいうのを知らないって言ったのがまずかったかな。でもあんな奴見たことないしなぁ」

「俺もですよ。そんな凶悪犯なら一目見れば絶対分かる筈ですし」

 

 そう言う高木は実はその凶悪犯と仲睦まじく会話していたことに全く気付いていないのだった。

 

「……違うな」

 

 と、ここでようやく真一文字に引き結んでいたヨアンが口を開いた。

 

「違う、といいますと?」

「こっちの香砂会襲撃事件。少なくともこいつはウェイバーの仕業じゃない」

 

 断定するようなその口ぶりに、思わず高木が問い掛ける。

 

「どうしてそう言い切れるんですか?」

「ウェイバーが愛用してるのはリボルバーだ。だが使用された弾丸は別のもの、更に言えば奴は刃物なんて使わない。別の人間の犯行だな、周囲の状況を見るに警戒網を敷いていたようだがあっさりそれを突破していやがる。コイツもコイツでそれなりの手練みたいだ」

 

 逆に、とヨアンは続ける。

 

「こっちのボウリング場乱射事件。これにはウェイバーが絡んでる可能性が高い。殺害された人間の中にリボルバーの銃痕がある。その全てが頭部と心臓、恐ろしく正確な腕を持ってる」

 

 リボルバーの使い手でここまでの所業をやってのける人間を俺は一人しか知らない。そうヨアンは言う。

 

「なら直ぐにそのウェイバーという男の捜査手配を……」

「馬鹿言うな。何の為に俺がフランスから来たと思ってる」

 

 石黒の提案をヨアンは即座に切り捨てた。どうも要領を得ない石黒と高木は眉を顰めるも、ヨアンはそんな二人を一切気にかけることなく一息に言い切る。

 

「アンタらが束になったところで捕まえられねェよ。なんせ奴は米国の特殊部隊の包囲網をいとも容易く突破するような人間なんだからな」

 

 

 

 56

 

 

 

「……お前ェさんがどうしてこんな所にいやがる」

 

 人通りの滅多にない寂れた通りを抜けた広場で銀次は立ち止まり、静かに問い掛ける。

 松崎銀次と鷲峰組構成員数名は、皆一様に正面に立ちはだかる包帯だらけの男を睨み付けていた。

 鷲峰組からの視線に晒されながら、しかし包帯だらけの男に怯んだ様子はない。どころか額に青筋を浮かべて奥歯を噛み砕かんばかりの勢いで口元を歪めている。

 顔面にまで包帯を巻き、腕や足をギプスで固めた男、チャカは恨めしそうに銀次を睨みつけて。

 

「てめェをぶっ殺しゅひゃめにきみゃってんだろォがぁッ!!」

 

 顎を砕かれまともに話すこともままならない状態で、チャカは懐に忍ばせていた拳銃を抜く。その動作に銀次の背後に立つ組員が臨戦態勢に入るも、銀次がそれを手で制した。

 

「……やっぱりお前ェは、あっし自ら引導を渡してやらねェといけねェな」

 

 するりと白鞘を抜き放ち、徐に右脚を一歩踏み出す。研ぎ澄まされた白刃をチャカへと向け、銀次は短く一言。

 

「好きなように抜きな」

 

 それが引鉄を引く合図となった。

 激情に駆られるまま引鉄に指をかけるチャカに対し、銀次は眼前で白鞘を一閃。数瞬後、真っ二つとなった弾丸が銀次の左右に落ちる。

 

「なっ……」

 

 呆気に取られたチャカの懐に一足飛びに潜り込んだ銀次は、そのまま白鞘で斜めに切り上げる。

 血飛沫が舞う。

 拳銃を握っていた右腕の感覚が消失していることにチャカが気が付いた時には、既に切り返された刃の次撃が振り下ろされる。

 血染めの包帯が解かれ地に落ちる。

 左肩から右腹部にかけて切り裂かれ、地面に大きな血溜まりを作っていく。立っていられなくなったチャカは膝を突き荒い息を吐き、銀次をジロリと睨み付けている。

 

「先に地獄で待ってな、続きは後でいくらでもしてやらァ」

 

 それがチャカの聞いた最後の言葉となった。

 真横に振るわれた白鞘が、チャカの首を切り落とす。

 予め用意しておいた手ぬぐいで刃に付着した血を拭い、チャカの切断した首に掛けるように落とした。

 

「急ぎやしょう、ここもいずれ騒ぎになる」

 

 目的の港までそう距離はない。

 マリア・ザレスカ号。ホテル・モスクワが根城とする貨客船。そこに居るであろうバラライカを討ち取る。それだけが銀次の、鷲峰組組員たちの目的であり使命。例えこの戦いで命を落とすこととなろうとも、その全ては組の為に。

 修羅の道を突き進む男たちに、引き返すという選択肢は存在しない。

 銀次はサングラスの奥に光る瞳をより鋭くし、ただ真っ直ぐに目的地へと向かう。

 

 

 

 57

 

 

 

 東京という街にはどれほどの人間が詰め込まれているのだろうか。警察庁を出たヨアンは目の前を行く人々を見ながらそんなことを考えていた。

 始めからあまり期待はしていなかったが、日本の警察というのはヨアンが思っていた以上に無能だった。先程会った石黒と高木という二人もその例に漏れない。極秘情報であるICPOのブラックリストまで持ち出して説明してやったというのに、どうしてあそこまで脳天気に構えていられるのだろうか。

 思い出して苛立ちを感じ始めたヨアンだが、そこでポケットに突っ込んでいた携帯が震えていることに気が付いた。乱暴な手つきで携帯を手に取り、通話ボタンを押す。

 

『やーっと出た。何回電話したと思ってるのよ』

 

 怒っている。携帯電話を持つ女性が笑顔を貼り付けたまま内心で激怒していることを一瞬で見抜いたヨアンは、固まったまま額に大粒の汗を滲ませた。

 

「ほら、あれだ。フランスと日本って距離があるから中々電波が……」

『これ衛星繋いでるんだけどね』

「…………」

 

 無言になったヨアンに対して、フランスに居る筈の女性は大きく溜息を吐き出した。

 

『まぁこのことについては後でとっちめるとして、どう? 何か有力な情報は掴めた?』

「おう、そうだクラリス。少し当たって欲しいデータがあるんだが」

 

 ヨアンは対策本部で閲覧した資料写真を思い出しながら、その情報を正確に口頭で伝える。

 

「ブラックリストもしくはここ数年の犯罪データでMP7と長物を使用した殺人者を捜して欲しい。もしかするとウェイバーと繋がってる可能性がある」

『ちょっと、MP7なんて世界中に出回ってるじゃない』

「だから長物所持って条件も付けてるだろ。世界最高のWHHであるクラリスにとっちゃ朝飯前だと思うんだが」

『おだてたってダメよ。今度フルコースご馳走してもらうからね』

 

 そうは言う彼女であるが、通話口の向こうでは既に作業に取り掛かっているらしい。キーボードを叩く音がヨアンにも聞こえてくる。

 作業は続けたまま、クラリスと呼ばれる女性は会話を続行させる。

 

『それで、ウェイバーは日本に居そう?』

「居るな。まず間違いなく都内に。日本の警察には空港の警備を厳重にするよう進言したが、期待はしていない」

『デルタから逃げ切った彼を極東島国の民警が捕まえられるとは思わないわよ』

 

 数年前に発生した国際テロ事件を思い出しているらしく、クラリスの口調はどこか苦々しい。ヨアンもその事件は今も鮮明に覚えていた。隣国をも巻き込んだテロ騒動の渦中、唐突に現れたウェイバーは最高警戒状態のデルタフォースをたった一人で相手にし、あまつさえ生き残り行方を眩ませたというのだ。神出鬼没どころの話ではない。ICPO上層部の中には、ウェイバーのことを煙のように掴めないという意味合いを込めてヒューメと呼ぶ人間も少なくない。

 そんな人間をヨアンが追っている理由。

 正義感に突き動かされて、という単純なものでは当然ない。

 

「俺はこれから事件現場に向かう。また何か分かったら連絡してくれ」

『その時はワンコールで出ること』

「わかったよ」

 

 そう言ってヨアンは携帯をポケットへと押し込み、突き刺すような寒さの中を歩き始めるた。

 始めは香砂会屋敷、続いて足立区のボウリング場。ウェイバーに関する情報を集めるために、ICPO本部が戦禍の直ぐ傍で動き始める。

 

 

 

 58

 

 

 

 ソレが鷲峰組の玄関に届けられたのは、陽も沈みかけた午後五時頃のことだった。

 何度か玄関の戸を叩かれたことで雪緒が小走りで向かい、何の警戒もすることなくその戸を開いた。

 開かれた戸の先に立っていたのは、大柄なロシア人だった。遅れて玄関までやってきたウェイバーはその男に見覚えがあった。帽子を被り変装しているが、バラライカの部下でありホテル・モスクワの構成員だ。その男はウェイバーの存在に気付くと一度帽子を被り直して。

 

「大尉殿が渡すようにと、獰猛な獣は中々楽しめたとのことです」

 

 そう告げて、男は持っていたソレを雪緒に渡して踵を返し立ち去る。

 受け取ったソレに視線を落として、雪緒は言葉を失った。丁重に布で覆われた細長くずっしりとした重さを持つソレは、間違いなく銀次が使用していた白鞘だったからだ。

 刃は半ばから折れ、握りの部分には赤黒い血がべっとりと付着している。

 雪緒が言葉にならない絶叫と共に膝から崩れ落ちる。その雪緒の叫びを耳にしてやって来たグレイは、少女の背中をただ黙って見ているだけだった。

 

 覚悟していた。していた筈だった。

 この道を進むと決めた時より、いつ命を落とすかも分からないことくらい、承知している筈だった。

 止めどなく流れる涙で視界を滲ませながら、雪緒はその覚悟が半端なものでしかなかったことを悟る。

 他人の死がこれほどまでに痛みを伴うものだと知らなかった。組員の多くが殺されてしまっていたにも関わらず、銀次という家族以上の絆で繋がる人間が死亡したことで、初めて雪緒は本当の死というものを理解した。

 

 どうして。

 どうして。

 

 何故銀次を始めとした組員たちが殺されなければならないのか。

 自業自得と切り捨ててしまうには、余りにも理不尽に感じられる。

 雪緒はこれほどまでに己の無力さに腹を立てたことは無かった。総代を継承し、組の命運を背負ったつもりでいた。しかしそれは名ばかりのハリボテでしかなく、実際に全ての責任を背負っていたのは松崎銀次に他ならなかった。

 それを嫌でも痛感して、雪緒の瞳から大粒の涙が溢れ出す。

 雪緒を見つめるウェイバーは、何も語らない。あるいはこうなることを予想していたのかもしれない。

 ただの鉄屑に成り下がったかつての白鞘を抱き締めながら、少女はその場で泣き続けた。

 

「……お茶でも淹れよう」

 

 そんな風にウェイバーが口を開いたのは、雪緒の涙も枯れ果てた頃だった。

 雪緒はもうどのくらいの時間この場で泣き続けていたのかすら分からない状態であったが、多少の冷静さを取り戻す程度の時間が経過していたのは不幸中の幸いだった。男の言葉に何かを反論することなく、折れた白鞘を両手で抱いたままゆっくりと立ち上がる。

 

 御盆に三つの湯呑をのせたウェイバーが茶室に戻ってきた時には、雪緒もある程度心の内で整理がつき始めていた。

 自身の手前に置かれた湯呑に視線を落として、少女は目の前の男に問い掛ける。

 

「……貴方は、銀さんがバラライカのところへ向かったことを知っていたんですか」

「知ってたよ」

 

 男は迷う素振りすら見せず、そう言い切った。

 

「今朝あの男には予めこの事を聞かされていた。君には伝えないで欲しいとも。こうなる事が分かっていたから、最後まで君には知られたくなかったんだろうな」

 

 制服のスカートの裾をぎゅっと握り締め、雪緒は俯いたまま更に問を投げた。

 

「……銀さんは、なんと言っていましたか」

「侠に生きる自分たちには仁を貫くことが何よりも大切なんだとさ」

 

 成程、銀次らしい。素直に雪緒はそう思った。

 板東の仇討ち、彼の行動の根幹はきっとそれだろうと当たりもつける。雪緒の生まれた頃から鷲峰組の為に動いてきた男だ。そんな人が、板東を殺した人間をむざむざ放っておくような真似は決してしないだろう。例えその相手が大国ロシアが生んだ恐るべき軍隊だったとしても。

 

「君に伝えなかったのはあの男の最後の願いだったからだ。この事を知れば必ず君は同行しようとする。それを良しとしなかった」

 

 淡々と、ウェイバーはありのままを話しているようだった。ボウリング場で感じた得体の知れない恐怖も、今は感じない。

 

「君には生きて欲しかったんだと思う」

「……勝手ですよ」

 

 結局最後まで肩を並べて戦うことは叶わなかった。銀次に背中を守られたまま、少女はのうのうと生き延びようとしている。

 

「銀さんも居ない、組のみんなも大勢失ってしまった。もう私には、何も残ってない……」

 

 当初の目的であったバラライカへの復讐でさえも、最早どうでもよくなってしまっていた。銀次に同行したかった。義の世界に生きる者として、最後まで気高くその意志を貫き通し死んで行きたかった。

 諦めにも似た複雑な感情が雪緒の胸中で渦巻き、それは泣けばいいのか怒ればいいのかも分からない、無理に作った泣き笑いのような表情を雪緒にさせていた。

 

 と、ここで口を開いたのは雪緒の正面に座るウェイバー。ではなかった。

 今の今まで無言を貫いていた、銀髪の少女である。

 

「お姉さん、死にたいの?」

 

 純粋に疑問を抱いているような声音だった。

 思わず雪緒は視線をグレイへと向ける。

 

「じゃあ、私が殺してあげるわ」

 

 すっ、と。驚く程なめらかな動作で懐から銃が抜かれ、その銃口が雪緒の顔へと向けられる。

 表面上、雪緒は何の抵抗も見せなかった。しかしグレイはその瞳の奥にある僅かな恐怖を敏感に感じ取って、僅かに口元を吊り上げる。

 

「なぁんだ。お姉さん、死にたくないんじゃない」

「私は」

 

 反論しようとして、出来なかった。

 生への執着がこの期に及んでも消えていないことに、雪緒は愕然とする。仲間がその命を組の為に擲っても、己は生にしがみつこうとしている。

 こんな今の自分のどこに総代と名乗る資格があるだろう。そこらに屯する女子校生となんら変わらない、口先だけの子供だ。

 無意識のうちに下唇を噛み締める雪緒を、黙って見つめていたウェイバーだったが、唐突にこう切り出した。

 

「君が今からでもバラライカの所へ向かうってんなら俺は止めない。俺は君に雇われてるだけの身で、意見できるような立場じゃないからな。雇用主の方針に逆らうような真似はしない。復讐だって立派な理由だ、復讐に囚われずに生きろなんて綺麗事は言わない」

 

 ただね、と男は付け加えて。

 

「前の夜にも言ったが、君には力が無い。先代から続く鷲峰組も松崎銀次も君自身の力には成り得ない。何の力も持たない奴があの女の元へ行ったって、悪戯に殺されるだけだ」

 

 そんな事、口にされるまでも無く理解していた。

 死を恐れている自分が情けない。何の力も持たないただの女一人では、現状を打破する打開策すら見えてこない。前にも後ろにも進むことが出来ない。それが何よりも辛く、悔しかった。

 そんな事を思っていたから、雪緒は次いで放たれたウェイバーの言葉に反応するのが遅れた。

 

「だからまぁ、うちで力を付けな」

「…………え?」

 

 呆けた声が出てしまった雪緒に、ウェイバーは続ける。

 

「松崎銀次が亡くなった、組員も残っているのは非戦闘員が三十名程。鷲峰組は事実上壊滅したと言っていい。このままバラライカに特攻仕掛けて散るなら止めたりしないが、あの男の意思を少しでも尊重してやりたいってんなら今は退くべきだ」

 

 幸いバラライカたちも直に日本を離れるだろうし、ウェイバーはそう言う。

 雪緒は始めウェイバーが何を言おうとしているのか理解出来なかった。

 

「……どういう、意味ですか……?」

「君さえ良ければ、うちに来ないかと言ってるんだ。どのみち日本には居られないと思うぜ、ICPOが動いてるんだ。もしも君の身元が割れれば奴のことだ、間違いなく重要参考人として拘束される」

「ICPO、ですか」

「俺のことをえらく目の敵にしてるのがいてな、他所へ行くたびに追い掛け回される。まぁ、そんなことはいいんだ」

 

 ウェイバーは一度姿勢を正し、雪緒をまっすぐに見据えて。

 

「アンタはもうこっち側の人間だ。望む望まないに関わらずな。だったら力が要るだろう。一先ずの目的はそうだな、松崎銀次の仇討ちってことで」

 

 ああ、そうか。

 雪緒は内心で悟る。目の前の男は銀次の意思と自分の身、その両方を守ろうとしているのだ。

 松崎銀次の願いは鷲峰雪緒という少女の身の安全。それはきっとウェイバーという男の元にいることで保障される。

 同時に少女に復讐という名目の元、生きる理由を与えようとしているのだ。闇雲にその命を捨ててしまわないように、一時的なもので構わない。生きて成し遂げようとする目的があれば、きっと少女は生への執着を捨てずにいられると。

 雇用関係はたった一日だというのに、ここまで己の内心を見透かされているのかと雪緒は驚く。

 それと同時に、少しだけ嬉しかった。どんな人であれ、自身と関わりを持とうとしてくれることが。

 

 銀次の死は、そう簡単に乗り越えられるものではない。きっと長きに渡り、少女の胸の内側を締め付け続けることだろう。

 だがそれを当の銀次は望んでいなかった。全く勝手だと思うが、侠に生きる銀次らしい、頑ななまでに真っ直ぐな想いが込められていることは知っている。

 

 まさかここまでの展開を全て見越していたのではないかと疑いたくなる程だった。

 以前銀次の言っていた底が知れないという言葉を、雪緒は身を以て実感する。

 

「本当に、貴方は何者なんですか」

 

 目の下を赤く腫らしながら苦笑を浮かべる雪緒に、ウェイバーは少しだけ笑みを作ってこう答える。

 それは奇しくも、ボウリング場で聞いた答えと全く同じものだった。

 

「悪党だよ」

 

 

 

 59

 

 

 

『ラグーン商会だ。ロックか、もう一万年も会ってない気がするぜ』

「予定超えして悪かったなダッチ。今日の夜にはロアナプラに戻るよ」

 

 空港内に設置された数台の公衆電話のうちの一台を利用して、ロックはダッチと連絡を取っていた。ロックの後ろには壁に寄りかかるレヴィの姿もある。

 

『戻ったら直ぐ仕事が入ってる、UPOがまたぞろ銃を欲しがってんのさ。ベニーが会計をやってるがやっぱり手が足りねぇ』

「帰ったらすぐに取り掛かるよ、ベニーには済まないと伝えておいてくれ」

『オーライ、冷えたバリハイがお前を待ってる。楽しみにしてな』

 

 受話器を戻して一息つくロックのもとに、レヴィが軽い足取りでやって来る。

 

「フライトの時刻だぜ相棒」

「ああ、今行くよ」

「これで日本も見収めだな、サヨナラフジヤマだ」

 

 横に置いてあったスーツケースを引いて、ロックはレヴィの隣を歩き出す。

 彼らの横をすり抜けていく人々を見ながら、ロックは思う。ああ、彼らは自分たちとは違う世界を生きる人間なのだと。明確な線引きなど存在しない。ただ自覚があるかどうかの違いだ、そうウェイバーは言った。全く以てその通りだ。

 

「……俺には自覚が足りなかったんだろうな」

「ん? 何か言ったかロック」

 

 小さく呟かれた言葉にレヴィが反応するが、ロックは僅かに首を横に振る。

 

「いや……。帰ろうか、俺たちの場所へ」

 

 

 

 60

 

 

 

「くそっ、また空振りだ」

『いつものことじゃない』

 

 苛立たしげに言うヨアンに、クラリスは至って冷静にそう返した。

 香砂会屋敷、足立区のボウリング場といった事件現場に足を運んだヨアンであったが、これといった情報を手に入れることは出来なかった。まぁあの男が易々と手がかりを残しているとも思えないのだが。

 

「やっぱ外に出てくるのを待ってるだけじゃダメなんじゃねえかなぁ」

『……ちょっと、それ意味分かって言ってる? あの場所(・・・・)にはAランクの悪党がうようよしてるのよ?』

 

 そんなことは分かっている。あの街には把握しているだけでも十数名のAクラスの犯罪者たちが跋扈している。

 世界中から犯罪者たちが集まる悪党どもの吹き溜まり。

 

 タイの港街、ロアナプラ。

 

「いつまでも後手に回るわけにもいかないだろう。何のための本部権限だ」

『ヨアンみたいなのに権限渡した本部は間違ってると思うわ私』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 日本編完結。
 
以下要点。
・銀次特攻
・雪緒、悪党への第一歩
・ウェイバー三人家族になる。
・悪徳の街にICPO参戦フラグ。



・WHH
ホワイト・ハット・ハッカー
 ハッキング技術を役立つことに使用する人のことらしい。クラリスさん(カリオストロー)

 次回は小話集。四本構成です。


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026 やがて来る嵐の前に

 小話集。予定変更で三本構成。


1. 水は方円の器に随う

 

 神様と呼ばれるモノの存在が確かに存在するというのであれば、万人に平等を与える筈だ。世界中に生きとし生ける人々は誰もが自由と平和を愛し、笑顔が絶えない世界を短い人生目一杯使って謳歌する。戦争なんて存在しないし、そもそも隣国と啀み合うこともない。天然資源は周辺諸国に平等に分配され、発展途上国には先進国から技術提供が積極的に行われる。貧困地域には食料の配給が、富裕層には多くの納税が。もしも本当に神様なんて存在が居るのだとすれば、そんな風に誰もが等しく平等な世界を作り上げている筈なのだ。

 そうでなければおかしい。

 そうでないのだとすれば。

 

「神様なんて居ない」

 

 吐き捨てるように炎天下の日差しの下で少女が呟いた。ジリジリと肌を焼く日差しを見上げて、直ぐにその眩しさに目を細める。

 カラカス。そう呼ばれる地域の 貧困街(バリオ) にその少女は立っていた。ベネズエラの首都であり世界的都市であるこのカラカスだが、富裕層と貧困層の差が大きなことでも有名だ。身に付けている衣服も片やブランド物のスーツ、片や薄汚れた布切れと言えばその差が理解できることだろう。治安も悪く、人口当たりの殺人事件の発生率は日本の東京の百倍である。

 少女は無造作に伸ばされたボサボサの黒髪を鬱陶しげにかきあげて、往来を歩く大人たちに視線を向ける。

 皆一様に生気のない、死んだような眼をしていた。

 この貧困街と呼ばれる場所は、言うなればベネズエラの肥溜めだ。表向きは世界的先進国を謳っておきながら、弱者に救済の手を差し伸べることは決してない政府が長い年月をかけて作り上げた亡者の街。国の汚点と言えるこの場所を、政府はあまり表沙汰にしたくはないのだろう。故にカラカスにありながらほぼ隔離されたような状態にあり、一般人は寄り付こうともしない場所となっていた。

 

 少女はそんな場所に生まれ、これまでの十数年を生きてきた。

 父親は熱心なカトリック教信者だった。母親はそこまで宗教に固執するようなタイプではなかったが、何かあると神様とやらを持ち出して少女に言い聞かせていた。

 そんな両親たちの言葉を鵜呑みにして無邪気に信じていた数年前の自分を、少女は殴り飛ばしてやりたい気持ちになる。

 

 神様なんて居ない。この世界のどこを探しても。

 

 神様が本当に居るなら、あれほど熱心に毎日祈りを捧げていた父が通り魔なんかに刺されて死ぬはずがない。

 神様が本当に居るなら、情緒不安定になってしまった母が自分たちを残して蒸発するはずがない。

 神様が本当に居るのなら、神様はそんな不幸な自分たちを救わないはずがない。

 

「……バカバカしい」

 

 少女はそこで思考を止め、盛大な溜息と共にそんな言葉を吐き出した。

 結局、この世界はどこまでいっても残酷なのだ。少女を含め、残された五人の子供たちがこの場所で生きていくにはなりふり構っていられない。命懸けの盗みを幾度となく繰り返し、逃げ切れずに捕まったことも一度や二度ではない。その度に少女は手痛い仕打ちを受け、身体中に痣を作った。

 全ては生きるため。

 掃溜めみたいなこの場所でどれだけ悪態をつこうと、此処で生きていくしか少女に道はないのだ。

 

 そう、思っていた。

 

 継ぎ接ぎだらけの家を離れ、少女はバリオを出てカラカスの中心部へと向かう。

 目的は言うまでもなく窃盗だ。世界的都市を宣言しているだけあり、そこかしこに観光客と思しき人間が見られる。少女が狙うのは決まってそうした人たちだった。カラカスに住む人間たちはバリオの存在を知っているために警戒心が強い。それに対して他所からやってくる観光客というのは恐ろしく警戒心が低かった。財布をポケットに入れたままにするなんて、現地の人間はまずしない。

 こうした観光客たちは、少女からすれば鴨が葱を背負っているようにしか見えないのだ。

 

 大きな通りから一本外れた通りに入った少女は、こちらに向かって歩いてくる男に目を付けた。暑さ故かグレーのジャケットを肩に引っ掛け、ズボンのポケットには黒の長財布の先が見えているその男はどう見てもこの国の人間ではない。顔立ちからしてアジア系だろうか。額に汗を滲ませて歩くその男に、少女はごく自然に近付いていく。

 これまでの経験上、最も警戒心が低いのがアジア系、更に言えば日本という島国の人間だ。それに照らして考えると、視線の先に居る男は当たりだった。

 すれ違いざまに素早く財布を抜き取ろうと考え、少女は気だるげに歩く男に近寄っていく。

 

 そして、交錯の瞬間。

 財布を取ろうと伸ばした少女の腕が、男にがっちりと掴まれた。

 

「……え」

「は?」

 

 予想もしていなかった男の行動に、眼を丸くして掴まれた腕に視線を落とす少女。

 自慢する程でもないが、少女は自身の素早さを自覚していた。平和ボケした東洋人にその動きを見切られるほどトロくはないつもりである。にも関わらず、完璧なタイミングで腕を取られた。まるで最初から財布を狙われていることを知っていたかのように。

 未だ掴まれたままの腕から男へと視線を移す。

 何を考えているのか全く分からない真黒な瞳が、ただ無感情に少女を見下ろしている。背中に流れる冷や汗を感じながら、少女はあくまでも強い口調で言い放った。

 

「腕、離してよ」

「ああ、悪いな」

 

 間断無く返って来た言葉に、少女は内心で驚愕していた。

 少女が口にしたのはベネズエラで広く使用されているスペイン語だ。どこからどう見てもアジア人なこの男は、そのスペイン語を理解するどころか平然と口にしている。違う、今まで目にしてきたアジア人とは、その性質が異なっている。少女はそう直感する。

 解放された腕を数度さすり、少女は男に訝しげな眼を向ける。

 

「この辺りじゃ見ない格好だな、貧困街の子か?」

 

 その言葉に再度驚く。

 現地の人間でも無ければ貧困街など口にしない。先も言ったように政府は貧困街の存在をひた隠しにしようとしている節があるため、一般の観光客の眼にはまず触れないし耳にも入らない。

 ますますもってこの男の存在が不可解になる中、少女は率直な疑問をぶつけた。

 

「アンタ、何者?」

「何者って言われてもね、しがない只のおじさんだよ」

「只のおじさんがスペイン語話したり貧困街なんて単語口にしたりしないよ」

 

 そう言われて困ったように後頭部を掻く男は、数秒の沈黙の後にこう言った。

 

「ウェイバー、ちょっと治安の悪い街に暮らしてるダンディなおじさんだ」

 

 これが少女、ファビオラ・イグレシアスとウェイバー。二人の邂逅の瞬間だった。

 

 

 

 2. 雲集霧散

 

 ここ数日のロアナプラは、何処か騒々しい。

 街に住む人間の多くは落ち着きがなく、口々に噂話を言い合う。それらの噂話のほぼ全てが黄金夜会の一角、ウェイバーに関するものだった。

 そんな噂話で賑わっているのはロアナプラを代表する大衆酒場、イエローフラッグであっても例外ではなく。

 

「おい聞いたかよあの話」

「ああ、何でもまた一人女を囲ったんだろ」

「おいおいアイツぁ弟子取ったりしないんじゃなかったのか?」

「こないだの銀髪のガキん時もそうだったが、俺にはあの人が何考えてんのか全く分からねえよ」

 

 様々な憶測を多分に含んだ噂話が悪徳の街を駆け巡ったのがほんの二、三日前の事。今や街中その話で持ちきりだった。

 そんな話を耳にして、眉間に皺を寄せる男が一人。最近常連としてようやくバオに名前を覚えてもらったその男は、数ヶ月前にロアナプラにやってきた日本人、英一。

 

「俺はその女を生で見たがよ、あの風貌は東洋人だぜ」

「うげッ、ウェイバーや張と同類かよおっかねえ」

「わかんねえぜ? そこの英一みたいなのかもしれねえ」

「ウェイバーんとこの人間に限ってそれは無ェよ」

 

 自身のすぐ傍で行われる会話のやり取りを無視して、英一は無言でグラスを呷った。注文してから手をつけていなかったジンを一息で飲み干して、酒臭い息を大きく吐き出す。

 英一も当然ながらウェイバーが女を連れて戻ってきたことは知っていた。真っ先にその光景を目にしたと言っていい。何故なら彼はウェイバーの帰りをずっと港で待ち続けていたのだから。

 

 数ヶ月前、初めてこの悪の巣窟に足を踏み入れた英一。意気揚々と乗り込んだ彼に待ち構えていたのは、洗礼とでも言うべき血腥い揉め事。日本の悪党とは根本から異なるこの街の人間たちに気圧され足の竦んでいるところを助けてくれたのが、今街中で噂となっている男ウェイバーだった。

 ウェイバーが黄金夜会の一角を担う超大物であると知ったのは、彼に助けてもらった直後のこと。この街で一旗上げてやろうと勇んでいた当初の目的を結果的に果たしたことにはなるが、そんなことよりも英一はウェイバーのその強さに惹かれ、憧れた。世界中から忌避されるこの悪徳の街で、多くの人間から畏れられるその人間性。

 同じ男として、単純にあの人のようになりたいと思ったのだ。故に、英一は即座に彼に弟子入りを嘆願した。彼の近くに居ることで、彼の持つ強さに近づきたいと思ったのだ。

 しかし、英一のその嘆願はすげなく断られてしまった。生憎弟子を取る気はないらしい。彼の事務所に十二、三歳程の銀髪の少女が住んでいることを後から知った英一は自身が弱いから弟子入りを断られたのだと思ったが、街の人間たちの話を聞くにどうもそう簡単な話ではないらしいことに気がついた。

 

 酒場の人間たち曰く、

 

「あのガキはウェイバーを狙ってる命知らずだよ、最近は大人しくなったみてェだけどな」

「バラライカんとこの人間に喧嘩吹っ掛けて生き残ってる子供だ。関わり合いにゃあなりたくねえな」

「毎日ウェイバーの命を狙ってるって話だ」

「自分を狙ってる殺し屋を手元に置くなんざアイツは頭がイカれてるよ」

「おいあんま大声出すんじゃねえよ。もし聞かれたら殺されるぞ」

 

 自身の命を狙っている殺し屋を手元に置く。この言葉だけを聞けば、頭の狂ったイカレ野郎にしか思えない。しかしウェイバーという男についてそれなりの知識を獲得していた英一は、ウェイバーの真意に気が付いていた。

 

(流石はウェイバーさんだ。どこから襲われるか分からないよりも分かった方がいいもんな。殺し屋の一人くらい返り討ちにすることわけないだろうに、器がデケェぜ)

 

 認識の齟齬はあるようだが、英一の考えていることもそこまで的外れという訳ではなかった。 

 ウェイバーの考えを読める(それが正解だとは言っていない)英一であるが、今回の噂の件に関しては全く理解出来なかった。

 

 数日前、情報屋が仕入れた情報によりウェイバーがロアナプラに戻ってくることを知った英一は、直ぐ様港へと向かった。船の到着時刻など聞いていなかったために夜通し待つことになってしまったが、それでも一向に構わなかった。

 そんな英一の前に一隻の船が飛び込んできたのが港にやってきてから十一時間後のこと。

 直接会うことが憚られた英一はコンテナ街の影からウェイバーが降りてくるのを待った。そしてようやくウェイバーの姿を発見したと思ったら、どういうわけかその後ろに見覚えのない女が続いていたのである。

 

 面白くない。これが現在イエローフラッグで酒を呷る英一の率直な想いだった。

 自身があれだけ頼み込んでも断られ続けたというのに、噂の女はさも平然とウェイバーの事務所に出入りしている。それがどうしようもなく気に入らなかった。

 

「オイお前飲み過ぎじゃねえのか」

「別に平気っすよこんくらい」

 

 バオの言葉にも適当に答え、豪快にジョッキを傾ける。中身を一息で飲み干すと、酒臭い息が口から漏れた。

 アルコールが回っている。そのことに気がつかないくらいには出来上がってきた英一は、普段であれば考えられないような大胆なことを思いつく。

 

「……そうだ、直接聞いて確かめよう」

 

 ゲップと共に呟かれた言葉に、それをカウンターで耳にしたバオが顔を顰める。

 

「やめとけ、関わり合いになるもんじゃねえよ」

「だってよーバオさん。俺あんなに弟子入りお願いしてるのにさー、なのによー、あの女は自分とこに置いてよー」

 

 陽は沈みかけているとは言え、時間帯で言えばまだ泥酔する輩が続出するような時間でもない。

 英一も本来そこまで酒に弱くはないが、今回に限れば様々な想いが渦巻いた結果酒の回りを加速させているようだった。

 

「ウェイバーにも何か考えがあんだろうよ。おめェが詮索するようなことじゃねえ」

「でもよー」

「でもじゃねえ、ほらよ」

 

 ぶー垂れる英一の前に新しいジョッキが乱暴に置かれた。それを一口含んで、鬱屈とした溜息を吐き出す。

 この街で名を挙げてやろうと息巻いていた頃と比べて幾らか落ち着いた彼ではあるが、やはり当初の野望が完全に消えた訳ではない。男たるものというスタンスでこれまで過ごしてきたのだ、そうそう諦められるものでもなかった。

 ジョッキ片手にそろそろ本気でウェイバーの事務所に突撃してみようか、そんなことを思っていた時。

 それは突然やって来た。

 人相の悪い厳つい男たちの声がピタリと止む。椅子を引く音やグラスを置く音すら消え失せた。

 イエローフラッグと通りを数本挟んだ場所にあるカリビアン・バーでしか起こらないこの現象を、英一はよく知っている。

 入口の扉が滑らかに開かれる。先月破壊された際に立て付けを良くしたために、これまでのように軋んだ音は一切出なかった。

 

 英一はカウンターに腰を下ろしたまま、扉の方を振り返りはしなかった。誰がやってきたのかなど店内の反応を見れば分かる。悪態ばかりのチンピラどもが縮こまる相手など、この街には片手の指程しかいないのだから。そしてその中に、この酒場を行きつけにしている人間は一人しかいない。

 即ち、ウェイバーである。

 英一が憧憬すら抱く程心酔する、一等の大悪党。

 

「…………?」

 

 事ここに至ってようやく、英一は店内の空気がいつもとは微妙に異なっていることに気が付いた。

 背後に聞こえる足音は一つではない。少なくとも三人以上の足音がカウンターへと近づいてくる。ウェイバーと行動を共にする人物を考え、そして直ぐにその結論に辿り着く。

 

(あの女か)

 

 二つ隣の席に着いたウェイバーたちを、グラスを傾けながらなんとはなしに見やる。

 途端、英一はビールを豪快に噴き出した。

 そして瞬時に理解する。後ろのテーブルの客たちが一様に大人しくなってしまったその理由を。イエローフラッグ内は、未だ嘗てない緊張感に包まれていた。長年ウェイバーと関わってきたバオでさえ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。

 店内の異様な静けさをしかし、件の人間たちは全く気に留めていなかった。

 

「バオ、とりあえずビールをくれ」

「私オレンジジュース」

「あ、私も同じものを」

 

 ウェイバーの隣に座る銀髪と黒髪の少女は、この異様な空気に気がついていないのか平然としていた。いや、もしかすると気づいていて敢えて無視しているのかもしれないが。

 いや。いやいや。

 そんなことよりも。

 笑顔でオレンジジュースを飲む銀髪の少女も、静かにグラスを傾ける黒髪の少女にも。確かにそれなりの興味関心はある。しかし、今はそれよりも英一ならびに店内の悪漢どもの視線を独占する人間の存在があった。イエローフラッグが爆発一歩手前の爆弾を前にしたような緊張感に包まれているのは、ウェイバーとその人間が同じ場所に居るからだ。

 少女二人とウェイバーを挟む形で腰掛けたその人物は、カウンターに頬杖をついて事も無げに言った。

 

「随分と寂れた店ね」

 

 他の人間がこんなことを言えば、額に青筋を浮かべたバオから間違いなく怒声が飛んでくる。

 

「そう言うな、この店の静かな雰囲気が気に入ってるんだよ」

「普段はもう少し活気があるんじゃないかしら」

「いつもこんな感じだよ、なあバオ」

 

 誰もその会話に割って入ることが出来ない。

 直ぐ傍に座る英一はおろか、店主であるバオでさえも。

 

 黄金夜会の一角、ホテル・モスクワの大幹部バラライカ。

 とんでもない大物の登場に、バオは店が壊滅する様を幻視した。

 

「それで? どこから話を始めればいいかしら」

「そう急くなよ。酒場に来たんだからまずは酒だろ?」

「私の満足する酒が出てくるとは思えないけれど。それにこれだけ人が多いと会話の内容に気を遣うわね」

 

 空気が一瞬で張り詰める。周囲の人間たちはこの重苦しい空気に窒息しそうだった。小さな物音すら立てまいと、先程からグラスに口を付けたまま微動だにしない男までいる始末である。

 ウェイバーとバラライカ。二人の因縁じみた過去はこの街に長く住む人間なら誰もが知っている。まさかここでその続きが始まるのではないか、店内の男たちの顔から瞬く間に血の気が引いていく。

 

「それにしても、まさかこの街で顔を合わせることになるとは思わなかったわ、ミス鷲峰」

「私も、まさかこんなに早く貴方とお会いするとは思っていませんでした」

 

 ウェイバーを間に挟んで行われるバラライカと黒髪の少女の会話は、英一には聞こえなかった。ただあのバラライカと対等に会話をしているという時点で只者ではないということだけは理解することが出来た。大量に摂取したはずのアルコールはいつの間にか抜け、妙な緊張感だけが英一の体内に残る。

 憧れの存在たるウェイバーがすぐ近くに居るというのに、彼はその場から動くことが出来なかった。

 彼の周囲を囲む人間たちの規格外さを目の当たりにして萎縮してしまっていた。

 

(……ああ、)

 

 中身が半分程になったジョッキを片手に、英一はぼんやりと思考する。

 

(ウェイバーさんに近づくには、バラライカとタメ口で話せるようにならないとダメなんだな)

 

 どこか間違った思考のまま、英一はビールを流し込む。

 彼がウェイバーに弟子入りする日は、まだまだ遠そうだ。

 

 

 

 3. 泥中の蓮

 

「起きてください」

「……まだ六時なんだけど」

 

 肩を揺すられる感覚に目を覚ます。途端、視界いっぱいに少女の顔が飛び込んできた。おう、なんだこの状況。

 若干状況理解が追いつかなかったものの、それも一瞬のこと。すぐに俺自身が事務所のソファで寝落ちしてしまったのだと理解する。無造作にハネた髪の毛を掻きながらゆっくりと上体を起こすと、少女は小さく溜息を零した。

 

「昨日も言ったじゃないですか、寝るならきちんとベッドで寝てください。事務所のソファをベッド代わりにしないって」

「いやさ、わざわざ自室まで戻るのが面倒でな」

「ほらジャケットもシワだらけじゃないですか。アイロン掛けるので脱いで下さい。ついでにシャワーも」

 

 少女、鷲峰雪緒に言われるがまま、俺はジャケットを脱いで彼女に手渡す。欠伸を噛み殺しながらブラインドを上げて陽の光を室内へと取り入れると、ようやく眠気が取れていく。

 昨日、というかつい数時間前までカリビアン・バーで飲んでいたため若干身体が酒臭い。二日酔いにはなっていないが、体内にはまだいくらかのアルコールが残っているようだ。重たい足取りのまま自室へ戻り、バスタオルと着替えを手にシャワールームへと向かう。

 熱めのシャワーを頭から浴びることで完全に眠気を吹き飛ばし、酒臭さも流していく。

 

「おはようおじさん」

「おはようグレイ、あと使用中だ戻れ」

 

 なんで普通に入ってきてるんだこの娘っ子は。誰か入っているとシャワー音から簡単に分かるだろうが。ニコニコ顔で入ってきたグレイを即座に叩き出す。ぶー垂れているようだがそんなことは関係ないのだ。この狭い空間の中で命を狙われるとか冗談じゃない。レヴィを置いていた時もここで殺されそうになったことがあったのだ。あの時はどういうわけか顎を強打したらしいレヴィが失神したが。

 命の危険を回避し、迅速にシャワーを済ませて事務所の奥にある生活スペースへと戻る。

 

「あ、朝ごはんの準備できてますよ」

 

 扉を開けたら四人がけのテーブルの上に簡単な朝食が人数分並べられていた。

 普段料理を全くしない俺からすれば、こんな朝から食事を摂ること自体が珍しいことだった。グレイも朝は得意な方ではないため、起きてくるのは昼過ぎだ。

 しかしながら雪緒がこのロアナプラに来てからというもの、これまでの生活リズムは一変した。炊事や洗濯といった家事全般を請け負った雪緒は、俺やグレイの生活リズムの改善を半ば強制的に行ったのである。食事は毎日三食きっちり摂る。脱いだ物は脱衣カゴへ入れる。三日に一度は部屋の掃除をするなど。まるで母親のようだった。事実グレイとのやり取りを見る限り完全に母と子の構図である。

 

 シャワーを終えたグレイもテーブルに着いて、三人揃って食事を始める。

 

「ニンジンが入ってる……」

「好き嫌いはしちゃダメよグレイちゃん」

 

 なんてほのぼのとしたやり取りをしているが、この二人は其々これまでにかなり難しい人生を送ってきている。

 グレイは幼い頃より殺しを仕込まれてきた子供ながらの殺人鬼。度重なる殺人を経てそれを何とも思わないほどに感覚が麻痺してしまっている。

 そしてつい四日前にこの邪悪な都に足を踏み入れた鷲峰雪緒。

 日本の極道一家、鷲峰組の総代である彼女はホテル・モスクワと兄貴分である極道、香砂会を相手取って壊滅状態に陥った。組の中枢たる若頭と側近は殉職。残った組員たちは日本の各地へと住まいを移すこととなった。総代たる雪緒は死亡した仲間たちの仇討ちのため、この街で力を蓄える道を選んだのだ。

 

 そんな過去を持つ二人であるが、目の前ののほほんとした光景を見せられてはとてもそんな悲惨な経歴の持ち主だとは思えない。既に街中で雪緒の噂が流れているようだが、本人もそんな噂を気にした様子はないようだった。

 

「ウェイバーさんの今日の予定は?」

「ん、特にないな。仕事は昨日片付けたし」

「じゃあマーケットに買い物に行きませんか。グレイちゃんも一緒に三人で」

 

 グレイの口にニンジンを強引に突っ込みながら、雪緒はそう提案した。

 

「……そうだな、それもいいか」

 

 むーむー唸るグレイを視界の隅に追いやって、雪緒の提案を受け入れる。

 朗らかに笑う彼女のぎこちない笑顔に、触れることはしなかった。

 

 ロアナプラのメインストリート近くに軒を連ねる露店の多くは、早朝より商いを開始している。売り物は果実だったり焼き物だったり様々だが、今俺たちがやって来ているマーケットは基本的に食材が多く売られているエリアだった。無論、今までこの辺りのマーケットを利用したことはない。あるのは何本か向こうの料理街とブラックマーケットだけだ。

 通りの左右に設置されている露店が、高市の出店と同じように見えたのかもしれない。どこか懐かしむような視線を向ける雪緒の前に立って、ゆっくりと歩き始める。

 

「……なんだかざわついてませんか?」

「さあな、この辺りのマーケットは滅多に来ないんだ。このくらいの活気が普通じゃないのか?」

「いえ、あの。明らかに私たちを見てるみたいなんですけど」

「ま、この街じゃ俺はそこそこの有名人だしな」

 

 そのくらいの自負はある。黄金夜会の一角として数えられているのだから。流石にバラライカや張なんかの知名度に比べれば霞んでしまう程のものだろうが。

 

「ねえおじさん、私あれが食べてみたいわ」

 

 つい、とジャケットの裾を引っ張られる感覚に視線を落とすと、グレイが一軒の露店を指差していた。その先にあるものを見て、俺は即座に首を横に振る。

 

「やめとけ。あれ前にロックに貰って食べたことあるが食えたモンじゃなかったぞ」

「そう言われると余計に気になるわ」

「犬っコロの餌の方がまだマシだよ」

 

 白い果実を思い出し、あの不快な味が蘇る。できれば二度と口にはしたくない。

 なんてことを考えているうちに、雪緒とグレイはかなり先へと進んでいた。多くの人間たちが集まる場所だ、逸れると些か面倒である。二人の後ろ姿を見失わぬよう、早足で二人の後を追った。

 

 その後約二時間程かけてマーケットを回り、少し早めの昼食を格安料理屋で摂ろうと店内に足を踏み入れた瞬間、唐突に声を掛けられた。

 

「あら、珍しいわねウェイバー。この辺りに顔を出すなんて」

 

 屈強な男たちを背後に並べ、葉巻を咥える女。顔に大きな火傷の痕を持つ彼女は、この悪徳の街の実質的支配者。

 即ちバラライカだ。そういえばここら一帯はホテル・モスクワが取り仕切っているんだったと今になって思い出す。

 バラライカは直ぐに俺から後ろに居た雪緒へ視線を移し、小さく口角を持ち上げた。

 

「また会ったわねミス鷲峰。ウェイバーが手元に置いたという話は本当だったか」

「…………」

 

 雪緒は何も答えない。それを気にすることもなく、再びバラライカは俺へと視線を向けて。

 

「そうだウェイバー。貴方この前軍曹と酒を飲んだんでしょう? 夕方には私も時間が取れる。その酒場に案内してもらえるかしら」

 

 唐突なその発言に真意を測りかねていると、

 

「別に何も企んじゃいないわ。ただこの前の事の顛末とそこの小娘の経緯を聞きたいだけよ。たまには外で飲むのも悪くないでしょう?」

「……分かったよ、但し後ろに居る部下は連れてくるなよ。バオが失神しちまう」

 

 その言葉を聞いて満足そうに微笑んだバラライカは踵を返し、雑踏の中へと消えていった。

 ふと視線を雪緒へ向ければ、俯いたまま静かに拳を握り締めている。

 乗り越えなければならないと分かっているのだろう。だが、人はそう簡単に思考を切り替えられるものではない。多大な怒りと追随する恐怖。それらがいっぺんに押し寄せてきている筈だ。バラライカとは雪緒にとっての仇に他ならない。この街の絶対的な力の象徴であり、そして今の雪緒では決して届かない高みの人物。

 少女の内に渦巻く感情を、俺は完璧に理解することなど出来ない。

 親しかった人物を殺された少女が殺した張本人と対面した時の感情など、分かる筈も無かった。

 

「……ウェイバーさん」

 

 程なくして、雪緒の口から言葉が漏れる。

 

「私も、その酒場に行ってもいいですか?」

 

 どうして、などとは聞かない。顔を上げた少女の顔には、ある種の決意が滲んでいたのだから。

 

「……いつまでも過去にしがみついているわけにはいきませんから」

 

 強がりだろう。そんなことは俺だけでなくグレイも見抜いているに違いなかった。あの日、半ばから折れた白鞘を抱いて泣き崩れた日のことを、そう簡単に忘れられるわけがない。

 ただ、その事を自身のどこかに必死に落とし込もうと少女は努力している。

 ならば、それなら。

 彼女を引き取った自分の責任として、それを後押ししてやるくらいのことはしてやるべきだ。

 少女の傷も被った泥も、その全てを受け入れてやるくらいの器量はあるつもりである。でなければそもそもグレイを住まわせたりはしない。

 

 雪緒の取り繕ったような笑みは未だ消えない。

 だが今はそれでもいい。雪緒もグレイも、いつか本心から笑える日が来るのであれば、今は。

 

 自分のことを悪党だなんだと言っているにも関わらず柄にもないことを考えていたが、そろそろお腹が限界らしいグレイが俺のジャケットをぐいぐい引っ張って料理店の中に引きずりこんだことで意識を外へと戻す。

 まあ、たまにはこういうのも悪くない。

 三人揃って丸テーブルに着いたところでそう思う。

 

 世界中の悪党が集まるこの悪の吹き溜まりで、今日も硝煙の匂いに塗れた一日が過ぎていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 




 次回よりカット予定だった偽札編。二話予定。



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027 迷い込んだ哀れな子羊たちへ送る鎮魂歌 1

 

 ――――タイの港街。巨悪と混沌渦巻く悪の都、ロアナプラ。その街の一角に建てられた安宿の一室。空はまだ暗く、夜明けは遠い。

 内の感情を表すように荒々しい複数の足音が室内へと雪崩込むように入り込んでくる。派手なスーツやシャツを着込んだ、いかにもな男たちだった。

 室内に居たのは褐色肌のインド人の女と、頭にタオルを巻いた青年の二人。その二人が逃げられないよう入口を塞ぎ、小さく溜息を吐いたのは煙草を咥えた男だった。

 

「……今日こそはブツを渡してもらおうか」

 

 口調は穏やかだが、その表情には苛立ちがはっきりと見て取れた。その静かな苛立ちを背後に控える部下らしき男たちは敏感に感じ取っているようで、何人かは視線を泳がせている。

 そんな部下の様子に反して、室内のデスクに座っていた女は一枚の紙幣を取り出して。

 

「ダメね、こんなんじゃ半端すぎる」

 

 ピクリと、男のこめかみがヒクつく。

 

「こんなものを表に出すなんて冗談じゃないわ、もう少し時間をちょうだい」

「……あまり俺を困らせるなよお嬢ちゃん。別に本物を作れなんて言っちゃいないんだ、それなりのものでいいんだよ」

「馬鹿言わないで。やるからには仕事は完璧にこなしてみせるわ」

 

 その言葉に、男は再度溜息を煙と共に吐き出した。室内に備え付けの木製チェアに腰を下ろし、女を睨み付ける。

 

「確かに出来がいいに越したことはない。だがな、どんなものにも期限はある。株取引にもファックにもだ」

 

 三分の一程の長さになった煙草を床に落とし、男は続けた。

 

「今日はいったい何月何日だ? 俺たちが仕事を依頼してからもう四ヶ月、期限は二ヶ月前に過ぎ、予定の予算を二十万ドルもオーバー。そろそろうちの幹部連中も我慢の限界だ」

 

 沈黙が流れる。女もそれは痛いほど理解していた。

 元々二人が受けた仕事は偽札のデザイン。精度はそこそこ、一般市場に出回るだけのクオリティがありさえすれば良かったのだ。だがこの女はそのクオリティに異様にこだわった。その結果が度重なる予算の上積みと期限超過。反論のしようもなかった。

 

「っ、でも私は……」

「お嬢ちゃん。口で言って分からないようだから目で見て分からせてやろう」

 

 言って、男は背後の部下一人に眼で合図する。それを受けた部下は懐から銃を取り出し、それを女ではなくパソコンに向かう青年へと向けた。突然の出来事に呆然とする青年へ向かって、無慈悲な弾丸が発射される。一瞬で、凄惨な殺戮現場が出来上がる。

 

「レオ! なんてことを、これじゃ……ッ」

「喚くな。こうなりたくなきゃ、四十八時間以内にいい仕事をしてくれよ」

 

 恐怖と焦燥に顔を引き攣らせる女に、男は平坦な声音でそう告げた。

 

 

 

 1

 

 

 

 カラン、とグラス内の氷が溶けて音を立てる。気温の高さから結露の滲んだそのグラスを片手に、女ガンマンは鬱屈とした溜息を吐き出した。

 

「暑ッぢい……」

「んなこた言われなくても分かってんだよこのエテ公」

 

 礼拝堂の中央にこさえられた木製のテーブルに両足を投げ出し、グラスとうちわを手にエダが答える。テーブルの上にはウォッカの瓶と溶けて殆ど水になってしまった氷が詰め込まれていただろうボックス。無造作に散らばったカードは、先程まで二人がポーカーに興じていた故である。

 今日のロアナプラはいつにも増して日差しが強く、それに比例して気温も高かった。常であればレヴィも好き好んでこの教会に足を運ぶこともないが、生憎とラグーン商会に備え付けのエアコンは故障中。ならばとこの暴力教会に涼みにやって来たものの、礼拝堂のエアコンも数日前に天寿を全うしたらしい。

 最悪だ、温くなったウォッカを口に含んで、レヴィはもう一度溜息を吐き出した。

 

「そういやさ、どうだった。日本は」

 

 ぱたぱたとうちわを扇ぎながら、エダがレヴィへ問い掛けた。

 

「どうもこうもねえよ。姉御とボスの間で板挟み、下手すりゃ路地裏でくたばってた」

「どんな状況だよそりゃあ」

「もう二度と行きたくねえよあんな国」

 

 数週間前の日本での出来事を思い出しているのか、レヴィの眉間には皺が寄せられていた。

 バラライカとウェイバーに板挟みにあうことなど想像したくもないエダは深く踏み込むつもりも無いようで、適当に相槌を打って話を早々に切り上げた。

 しばらくの間互いに口を開くこともなく、静かにグラスを呷り続けていた。

 そんな静寂を破ったのは、礼拝堂の扉を唐突に叩く音。基本的に暴力教会の礼拝堂は扉が開いている。それが閉じているということは即ち今日は祈りを捧げることは出来ないということであり、世間一般でいうなら休館日のようなものである。普通の教会に休館日なんか存在するか、と言いたくなるがそこは悪徳の街に建てられた教会。風習や伝統なんぞ糞くらえのスタンスだ。

 そんな訳で本日は見事に扉が閉まっているのだが、そんな事知るかとばかりに扉を叩く音は途絶えることなく響いている。

 

「ハロー! ハロー! 誰かいませんかッ!?」

 

 最初のうちはそんな声を無視していたレヴィとエダの二人だったが、数分経ってもなお止まない扉を叩き続ける音に流石に嫌気が差したのか。

 

「……呼んでんぞ」

 

 礼拝堂の扉の方を指差し、鬱陶しげにレヴィが呟く。

 

「営業時間外だよクソッタレ」

 

 にべもない一言。エダは簡潔にそう言ってグラスの残りを一息に飲み干した。完全に居留守の構えである。

 

「追われてるのよ! 開けて! ねえ誰かいるんでしょう!?」

「……追われてんだとよ」

「どうせそこらの野良犬だ、取り合うだけ時間の無駄だよ」

「それでもシスターかお前」

 

 扉を叩く音はその大きさを増していく。

 しかし二人は動かない。この街に於いて他人に助けを求めるような人間など碌な輩でないことを経験則で知っているからだ。付け加えて言えば、その人間が抱えているトラブルに巻き込まれるのも御免なのである。

 聞こえないフリを通す二人を他所に、どうやら扉の向こうではその追手とやらがやって来たらしい。車のエンジン音が聞こえる。音からして一台や二台ではない。それなりの人数に声の主は追われているようだ。

 他人事のようにそんなことを考えるレヴィとエダだったが、次の瞬間二人の表情が一変する。 

 

 聞こえたのは、一発の銃声だった。

 

 発射された弾丸は閉じられていた礼拝堂の扉を貫通し、テーブルに置かれていたウォッカの瓶を粉砕した。ガラスの砕ける音とともに中身が机の上に広がっていく。

 

「…………」

 

 最初に立ち上がったのは、果たしてどちらだったか。

 無言のままそれぞれのエモノを抜いた二人は、全速力で扉の方へと走り出した。

 

 

 

 2

 

 

 

「……なんか礼拝堂の方騒がしくないか?」

「そうかい? 最近耳が遠くてねぇ。リコ、ちょっと見てきな」

「了解ッス」

 

 ヨランダの言葉を受けた褐色肌の青年が、そそくさと部屋を出て行った。その際部屋の片隅に置いてあったM60機関銃を持っていったことについては、おそらく言及しない方がいいんだろう。

 

「さて、話の続きといこうかね」

 

 言いながらティーカップに口を付けるのは暴力教会の大シスター、ヨランダ。今日も有名どころの紅茶を淹れ、俺と彼女の二つ分を用意してくれている。そんな彼女の対面に座っているわけだが、どうにも先程から礼拝堂の方が騒がしい。この部屋と礼拝堂は隣り合わせで建っている故に多少の音は漏れてくるが、幾ら何でも銃声が聞こえるのはおかしいと思う。

 しかしそんな程度では全く動じないのがヨランダであり、また俺だったりもするわけだ。ヨランダに至っては面倒事は御免とばかりに気付かないフリをするスタンスである。

 

 さて、俺がこうして暴力教会にやって来ているのはただお茶をしに来たわけではない。日本に行っている間のこの街の状況を聞きに来たのだ。この手の話を聞くならヨランダかリロイが手っ取り早いが、リロイの場合は代金を請求されるので無償の上に美味い紅茶まで出てくるヨランダの方が良いだろう。

 

「あらましはそんなとこだよ。特に何か大きな揉め事があったわけじゃない。張の坊やが上手いことやったんだろうね」

「ホテル・モスクワがいないってだけでここの治安は最悪を通り越すからな」

「あんたが居なかったってのもあるんだけどね」

 

 そんな馬鹿な、とは返さない。魑魅魍魎が跋扈するこの亡者たちの吹き溜まりで、俺がそれなりの地位に居ることは周知の事実だ。それが行き過ぎた評価から来たものであっても、持っておいて損にはならない。バラライカ擁するホテル・モスクワとは比べるまでもないが、俺もまたそこそこの抑止力としては機能している。ということらしい。実感はこれっぽちも無いが。

 

「……にしても騒がしいね」

 

 ばっちり聞こえてるじゃねえか、と内心で呟く。

 礼拝堂の方へと視線を向けるヨランダに合わせて、俺もそちらへ顔を向ける。どうやらリコが持ち去った機関銃が派手に暴れ回っているようで、激しい連射音が耳に届く。

 

「全く、これじゃゆっくり話も出来やしない。坊や、ちょっと席を外すよ」

 

 言いながら立ち上がるヨランダに軽く手を振って、フィルタ付近まで短くなった煙草を灰皿に押し付ける。

 暴力教会に喧嘩売るなんてどこの田舎者なんだか。少なくともこの街の人間ではないだろう。少しでもこの街に関わりのある人間なら、この教会と敵対しようなどと思わない筈だ。

 他人事のようにそう考えながら高級そうな紅茶の注がれたティーカップに手を伸ばす。

 直後、礼拝堂の方向から特大の爆発音が轟いた。

 

 

 

 3

 

 

 

「連中はヌエヴォ・ラレド・カルテル。フロリダが本拠地のジェローラモ・ファミリアの下部組織よ。私はそいつらに旧ドルの偽造を依頼されてたの」

 

 無数の弾痕が刻まれ、数分前よりも幾分風通しのよくなった礼拝堂。等間隔で設置されている木製の会衆席の隅に腰を下ろす俺からは多少離れた中央通路に椅子を並べて、褐色肌の女はそう切り出した。女の正面には同じくどこからか引っ張ってきた椅子に跨るレヴィとエダ。そしてその横の会衆席にヨランダとリコが座っている。

 耳に飛び込んできた爆発音を受け、様子を見に来てみれば高級セダンが爆発炎上していたのが今から数分前のこと。その時は四人が礼拝堂の入口に並んで余所者らしき人間たちを蜂の巣にしている所だった。そんな中、銃弾の嵐に巻き込まれぬようにと頭を抱えて縮こまっていたのが今話をしているあのインド人だ。話を聞くに、どうも雇用主との契約を破ってここまで逃げてきたらしい。

 因みに俺がレヴィやヨランダたちと若干の距離を開けているのは、こんなアホくさい問題には関与しないという無言のアピールである。

 

「要するにだ、お嬢ちゃんは契約違反を犯した。粛清が怖くて逃げ出した。こういうことだろう?」

 

 どこからか取り出した煙草に火を点け、ヨランダは簡潔にそう言った。

 しかし女は首を横に振る。

 

「違うわ、連中に堪え性が無かっただけよ」

「テメエが時間にルーズってだけの話だろ」

 

 くだらないとでも言いたそうな表情で、レヴィが女の発言に被せるように吐き捨てる。

 

「同感だ、そりゃお前さんが悪い」

 

 椅子の背もたれに腕を引っ掛け、エダもレヴィの意見に同意した。これに関しては俺も全くの同感だ。相手は端くれとはいえアメリカン・マフィア。命の危険があることくらい小学生でも分かる。

 先程俺がアホくさいと言ったのはこれが原因だ。子供が行き過ぎた火遊びをするとこうなるという正にその典型例を目の当たりにしているかのようである。

 

「……っ、ええ、どうせ誰も理解なんてしてくれないでしょうね!」

「まぁ待ちなお嬢ちゃん。神のお導きだ、実に運が良い」

 

 ヒステリック気味に声を荒げる女に対して、ヨランダの声音はひどく穏やかだった。オイタをした子供を諭す母親のような口調で、ヨランダは言葉を重なる。

 

「今お嬢ちゃんの目の前に居る娘は逃がし屋だ。そしてあの隅っこで腕組んでる坊やはこの街でも有数の何でも屋。この二人ならお嬢ちゃんを無事に逃がしてやることくらい容易いだろうね」

「おい」

「どうする? お嬢ちゃんが今手に持ってるその原版で手を打ってもいいんだけどねぇ」

 

 無視してんじゃねーぞババア。俺の無言のアピールにはしっかり気が付いた上でぶち壊すようなことしてくれてんじゃねえ。

 が、そんな俺の言葉はさらりと聞き流してヨランダは女に問い掛ける。というか完全に原版が目当てだ。

 

「不完全なものを渡したくはないけど……、三万ドルでどう?」

「別の神様を探すんだね」

 

 そんな言葉を聞いてアンタ神に仕える身だろうが、と突っ込むのは野暮なんだろう。そして今更だ。本当に神を崇拝しているなら教会を隠れ蓑にして武器の販売なんてするわけが無い。

 

「……分かったわよ。でも本当に助けてくれるんでしょうね」

「そいつはこの娘っ子とあそこの坊やに聞いてみな」

 

 なんということでしょう。

 関与する気が全くなかったこの案件にいつの間にか放り込まれている。何だ、巻き込まれ体質とかそんなわけの分からないものを備えているわけじゃあるまいな。そしてレヴィ、こっちをそんな眼で見るんじゃない。

 

「……はぁ、」

 

 ヨランダの意向となると無碍にすることもできない。四方を完全に囲まれ逃げ場の無いこの状況に、盛大に溜息を吐き出した。

 

 

 

 4

 

 

 

 ヌエヴォ・ラレド・カルテルの幹部、エルヴィスは病院の安っぽいベッドの上で拳を震わせていた。

 ジェーンを追って教会へ追い込んだまでは良かった。想定外だったのは、その教会の修道女たちが当然のように銃をぶっ放してきたことか。乗ってきたセダンは爆発炎上。右腕と脇腹を撃たれ、あわや失血死のところだった。そんな身体の至るところに包帯が巻かれ、怒りに顔を歪めるエルヴィスの横には、サングラスをかけハットを被ったカウボーイのような男が毅然と立っていた。

 

「お呼びですかボス」

「ラッセル。ジェーンの居場所が割れた。ロボスの代わりにお前が行け」

 

 ロボス、というのはロアナプラの地元マフィアであり、エルヴィスと同郷の人間だ。ロアナプラの情勢についても詳しく、逃げたジェーンを追い暴力教会にまで案内したのがこのロボスという男だった。ロボスは暴力教会に銃口を向けることを酷く拒んでいたが、ロアナプラの流儀を全く知らないエルヴィスにしてみれば単なるチキン野郎としか思えない男だ。ジェーンの居場所が判明するまではロボスの助けを借りていたが、彼女の所在が割れた今、そんな男の言葉に従う必要もない。

 そうした意思の元招集されたのが、今エルヴィスの前に立つラッセルという男だった。

 

「いいか、ラッセル。ここらの連中はとんだ野蛮人だ。ブランド品を身につけたチンパンジーだ。信じられるか? 教会の尼まで銃をブッ放してくるんだぞ!」

 

 話しているうちに熱が入ってきたのか、上体を起こし、拳を握りしめてエルヴィスは怒鳴り散らす。

 

「どうなってんだこの街は!? どいつもこいつもイカレてやがる! 文明的なフロリダに今すぐにでも帰りてえ!」

「イエス、ボス。その望みすぐにでも叶えて差し上げますよ。このトラブル・バスター、ラッセルにお任せ下さい」

 

 

 

 5

 

 

 

 世界中の悪党犇めく最下層の都、ロアナプラに於いて、絶対安全圏と呼ばれる場所が存在していることを知っているだろうか。

 そう呼ばれる場所は何も一つだけではない。例えば暴力教会、例えばホテル・モスクワの事務所。襲撃することが憚られる場所というのが、ロアナプラには少ないながらも存在しているのだ。

 その中の一つに、地獄一番地(ピーサ・ヌン・ティユ)と呼ばれる通りがある。通りそのものが恐れられているわけではない。多くの人間がこの通りを地獄一番地と呼ぶのは、白い壁の二階建て事務所が聳えているからだ。

 黄金夜会。その一角を担う大悪党、本名不詳、通称ウェイバー。そんな男が居を構える事務所である。

 この街に於いて絶対に怒らせてはいけないとされる男。そんな人間が住む場所を、誰が好き好んで訪れるというのだろう。

 故にこの通りは他と比べて極端に人通りが少なく、追手を振り切る為に逃げ込む場所としてはこの上なく適した場所だと言える。ただし、そこに住まう化物に見つからなければの話である。

 

「そんなわけであのエテ公はウェイバーの旦那ンとこに転がりこんでんのさ。アタシらの金ヅルと一緒にね」

「そりゃ確かにあそこならこの街の連中は絶対に近寄らないだろうけど、相手は余所者なんだろう? ここの流儀を知らない輩じゃないか」

「だァからこそだよロックゥ」

 

 渋い顔をするロックに対して、エダは陽気に答える。

 イエローフラッグのカウンター席に並びで座る二人は、周囲の喧騒の中会話を続ける。

 

「ここいらの連中じゃあウェイバーの旦那を怖がって敵対なんてしねぇだろう? だからリロイにもレヴィが付いてるって情報しか売らなかったんだ。あとはあのジェーンって女が逃げた大まかな方角だけ」

 

 リロイというのはこの街の隅々にまで情報網を持つ凄腕の情報屋だ。得意客であるウェイバー曰く、その気になれば米国大統領が今日履いているパンツの銘柄まで調べることが出来るらしい。真相は定かではないが。

 エダの発言に、ロックは小さな溜息と共に酒を呷る。その態度が気になったのか、エダがずいっと詰め寄って。

 

「なんだいロック。こォんな美女と酒が飲めるってのにそんな浮かないツラして」

「……分の悪い賭けは嫌いなんだよ」

 

 その言葉にエダを無言で眼を丸くした。少し前までの彼からなら、まず出てこなかっただろう言葉だ。

 ロックという男は良くも悪くもこの街で浮いていた。表の世界の名残を残していたからだろうが、彼の胸の内には必ずと言っていいほどに善と悪の境目が存在していたのだ。

 それが、無くなっている。直感でエダはそう思った。

 

(……こりゃレヴィにもっと詳しく日本での話を聞いとくべきだったかね)

 

 だがエダはそんな想いを表にはおくびにも出さず、ロックに反論する。

 

「そりゃ勘違いだよロック。むしろこれは100パーセント勝てる出来レースさ」

「どういう意味だ?」

「カジノのスロットと同じさ。ちょいとゾロ目を揃えてやりゃあ、ドバドバ銭をバラ撒くって寸法よ」

 

 ニヤリと笑うエダに、ロックは苦笑を返すしかなかった。

 要するにエダはウェイバーとレヴィを利用して金を巻き上げようとしているのだ。ウェイバーを利用する、なんて考えは正気じゃないとも思うが、エダが言うにこちらの思惑は既に看過されているとのこと。

 

「昼間にウェイバーの旦那もあたしらの話を礼拝堂で聞いてたのさ。隅っこで腕組んで黙りこくってたけど、あの格好は無言の肯定なんだよ」

 

 言いながら自分のグラスを取り、中身に口を付ける。

 

「ホントなら近くのホテルに泊まらせてラグーン商会の魚雷艇まで走らせるつもりだったんだけどね、結果オーライってやつさ」

「ダッチが聞いたら怒るよきっと」

 

 エダの当初の計画では、リロイに流した情報を元にやってきた追手がジェーンの泊まるホテルを襲撃。その逃げる手助けを自分たちが請負い、最後はラグーンの船に乗せる予定だった。

 しかしそこにウェイバーというジョーカーが現れた。これを利用しない手はない。更に言えばラグーン商会の魚雷艇は現在別の仕事でこの街を離れているためドックにはなく、渡りに船とは正にこのこと。神を味方につけたような気分だった。

 

「そうさね、取り敢えずロックには車を出してもらいたい。大丈夫、ちゃんとあんたにも取り分はやるからさ」

「ウェイバーさんが絡むと碌なことにならない気がするんだよな……」

 

 ロックの呟きは幸いにも店内の騒がしさに呑まれて消えていった。もしも誰かが今の発言を耳にしていたなら、店内はすぐさま静まり返るに違いない。

 この街にやって来て間もない頃のロックだったなら、あるいは店内の客たちと同じような反応をしていたかもしれない。だが何度かの死線をくぐったロックは、昔と比べて胆が据わっていた。

 意気揚々と席を立ち店の外へと出て行くエダの後に続き、二人してイエローフラッグを出る。

 

 そんな中、イエローフラッグの角に並べられた丸テーブルを三つ程合わせて、会議じみた事が行われていた。

 

 集まっているのは大小様々なこの街の住人。皆一様に真ん中のテーブルに座るカウボーイのような男に視線を向けていた。

 そうした視線に晒されている男、ラッセルは集まった十人程のメンバーに向かって一枚の写真を見せる。

 

「いいか、コイツがお前らが生かしてとっ捕まえる女だ。今はここから北東へ進んだ通りに身を潜めてるらしい。一人頭1000ドル、そこらのガキでも出来るような仕事だ」

 

 ともすれば挑発とも取られかねないラッセルの言葉に反論したのは、長い黒髪の糸目の女だった。

 

「ばかちんが、こんなはした金、暇じゃなかったら誰が付き合うか」

 

 ぴきり、とラッセルの額に青筋が浮かぶ。

 

「シェンホアの言うとおりだぜカウボーイ。昨日今日ここに来た野郎が偉そうに指図するんじゃねえ」

「これだからここの流儀をわかってねえ奴は」

「ロボスの野郎を呼んでこいよ、てめえじゃ話にならねえ」

 

 次々と浴びせられる罵声に思わず拳を握るラッセルだったが、一つ息を吐き冷静に話を進める。こういう点は上司であるエルヴィスよりもマシであった。

 

「いいかてめえら。これはビジネスだ、てめえらもプロだってんなら私情は捨てろ。分かったらさっさと行動開始だ」

 

 パンパンと手を叩き席を立とうとするラッセルだったが、ここで思わぬ水を差される。

 口を開いたのは、この街ではそう見ないパンクなファッションをした女だった。女は喉に何か機械を当て、そのスイッチを入れる。その声はひどく機械的なものだった。

 

「……あっチの彼、見たコトないワ……」

「いや、俺もあんた見たことないんだが」

 

 女の横に座っていたオールバックの男が怪訝そうに眉を顰める。が、どうやら彼女は普段マスクにゴーグルという格好で仕事をしている掃除屋らしく、単に素顔が知られていなかっただけのようだ。

 

「とりあえずアンタら名前は? まさかソーヤーみたいに普段は顔隠してるとかじゃねーよな」

「クロード・トーチ・ウィーバー。この街に来たのは今回が初めてだよ」

「……ロットン・ザ・ウィザード。同じく」

 

 そう答えたのは中肉中背の眼鏡を掛けた男と、サングラスを掛けたホスト風の優男。彼らはこの街の住人ではなく、エルヴィスに雇われた殺し屋らしい。

 ようやく顔見せが済んだことでラッセルは苛立ちながらも席を立つ。それに続き集められた殺し屋たちもイエローフラッグを出て行くが、そのうちの一人がふと疑問に思ったことを口に出した。

 

「あン? こっから北東の通り……? 地獄一番地がある方向じゃねーか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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028 迷い込んだ哀れな子羊たちへ送る鎮魂歌 2

 6

 

 

 

 ロアナプラ北東。メインストリートを抜け、緩やかな坂道を進むとやがて小さな市場が姿を表す。路肩に簡素な露店が幾つか並んでいるだけのそれらを抜けしばらく進むと、パタリと人足が無くなる場所がある。まるで見えない結界でも張ってあるかのように、本当に人気が一切無くなるのだ。

 不気味な程に人の気配が消えるその通りには、曲がり角の殆どにカーブミラーのようなものが設置されている。とは言っても日本のような凸面鏡ではなく、どこか安っぽいくすんだ平面鏡が殆どだが。突然現れるそのミラーが、地獄一番地と呼ばれる通りにだけ無数に佇んでいる。何故か。

 その理由を、街に住む人間は例外無く知っている。その通りに聳える、一見何の変哲もない白い建造物。そこに住まう男がやって来るのをいち早く察知するためだ。誰もが彼の存在を畏れ、その敷居どころか近くにさえ寄り付こうとはしない。周囲の壁には弾痕や血痕がこれでもかとこびり付いているというのに、男の住む建物にだけはそうした汚れが一切付着していなかった。風化に伴う多少の汚れや崩れはあるが、それだけだ。人為的に付けられたものは無い。銃口を向けることすら憚られるのだ。 

 

「エルヴィス、分かるだろう? ここはお前さんの知ってるような街じゃないんだ」

 

 夜の帳が下りたロアナプラ。街の外れに建てられた病院の一室で、ロボスは言い聞かせるように告げた。彼の視線の先にはベッドに腰掛けるエルヴィスの姿があり、苛立ちを隠そうともせずロボスを睨み付けている。

 馬鹿にされている、そうエルヴィスが思うのも無理からぬことだった。たった一人で軍隊と渡り合う、視認すら許さぬ早撃ちをしてみせる。どちらも荒唐無稽、とても信じられる話ではない。ロボスは至って真面目な表情で話してはいるが、その実負傷した己を小馬鹿にしているのだろう。そう思うと咥えた煙草を噛みちぎりそうになる。

 

「なぁロボス。てめえは俺にケツまくって逃げろ、そう言いたいのか?」

「そういうわけじゃない。ただこの街にはこの街の――――」

「さっきから何遍も同じこと言うんじゃねえよ腰抜けが。てめえの言う黄金夜会がどんだけ幅利かせてんのか知らねぇけどな、ウチの組織相手取って勝てると思ってんのか?」

 

 フンッ、と鼻を鳴らすエルヴィスを前に、ロボスは内心で諦めの篭った溜息を吐いた。

 この男はロアナプラのことを微塵も理解しちゃいない。何が文明的なフロリダだ、これまでは同郷の好で面倒を見てきてやったがそれももう限界である。これ以上関われば自分までもが黄金夜会に目を付けられかねない。そうなればもうこの街で生きていくことなど不可能だ。翌日には海の藻屑となっているだろう。

 同郷の人間との友好関係と己の命。わざわざ天秤に掛けるまでもない。

 

「……エルヴィス」

「あん? なんだ――――」

 

 苛立ったままのエルヴィスが視線をロボスへ向け、途端絶句する。 

 そこにはマシンピストルの銃口をこちらに向けた旧友の姿があった。

 

「……ロボス、てめえ……」

「悪いなエルヴィス。これ以上は付き合ってられないよ、俺も自分の命は惜しい」

「俺を殺せばフロリダの連中が黙ってねえぞ!」

 

 その叫びに、しかしロボスは首を横に振る。

 

「流儀を守らない奴は流儀に守られない。なあエルヴィス、お前は今まで自分(テメエ)だけの流儀で一体何人殺してきたんだ?」

「ッ……!」

 

 どこか諭すような口調で、ロボスは静かに告げた。

 

「あばよ、親友」

 

 一発の銃声が轟き、やがて完全な静寂がその場を支配した。

 

 

 

 7

 

 

 

「最っ悪だわ」

「俺も全く同意見だよクソッタレ」

 

 仏頂面で詰め寄ってくるインド人を一蹴する。

 事務所のデスクに腰を下ろす俺に、尚も何か言いたげなジェーンは眉間に皺を寄せたまま無言で背後を指差した。

 

「あの子! なんとかしてよ! 私のパソコン蜂の巣にされたんだけど!?」

 

 ジェーンが指差す先には楽しげに笑うグレイの姿。彼女の足元には無残にも破壊されたパソコンの残骸が散らばり、雪緒がそれをせっせと片付けている。何でもジェーンが大事そうに抱えていたところをグレイがスリも真っ青な早業で奪い去ったのだそうだ。中身がどんなものかも知らず、ただの暇潰しで的当てに興じたらしい。グレイは暇を潰せて満足げだが、持ち主のジェーンにすれば堪ったものではないらしく、こうして俺に詰め寄ってきているというわけだ(なんとかバックアップメモリだけは死守したらしい)。

 が、俺だって好きでこの女を事務所に避難させているわけではない。ヨランダの口添えが無ければ誰がこんな禍の種を抱え込むものか。

 

「はぁ……、何だってこうも……」

 

 礼拝堂の時から俺は関わらないぞアピールしていたのに、どうしてヨランダやエダに嬉々として時限爆弾みたいなこの小娘を押し付けられているのか。

 彼女たちの言い分は尤もらしいが、その実体の良い避難場所にされただけである。しかもその言い分はこの街の人間にのみ該当するものであり、余所者には当て嵌らない。今俺の居るこの事務所周辺の通りが何て呼ばれているのかも、きっと追手の連中は知らないのだろう。

 もう一度、小さく息を吐く。

 

「ボス、『何で俺がこんな事に付き合わされてんだ糞が』って溜息が漏れてるぜ」

「すげェなお前」

 

 俺の溜息の原因までもレヴィは分かるらしい。まぁ原因を辿ればレヴィも一枚噛んでいるが、俺の事を気にかけてくれるだけ他の連中に比べればマシだ。そういうことにしておこう。

 

「昼間お前も言ってたけどな、あのインド人の自業自得だろう。俺が匿う意味が分からない」

「そりゃご尤もだけどよ、あのクソ尼が何か企んでんだ。乗ってみるのもアリなんじゃねえの」

「エダが考えてることなんか碌な事じゃないだろうが」

 

 懐から取り出した煙草を咥え、レヴィから差し出されたライターで火を点ける。

 天井に向かって煙を吐き出し、未だ部屋の隅でグレイと口論(一方的)をしているジェーンに視線を移す。

 まるで身の危険を感じていない、間の抜けたツラをしていた。

 

「……オイ、女」

 

 それが自分のことを呼んでいるのだと理解したジェーンは、ムッとした顔でこちらに近付いてくる。

 

「なによ、これからの算段でもついたのかしら」

「それは後回しだ。今のお前には全く危機感が感じられないから、忠告だけはしておいてやる」

 

 一瞬の間をおいて。

 

ロアナプラ(ココ)じゃお前みたいな奴から死んでいく。それが嫌ならもう少し周りを見ろ」

 

 主に俺が迷惑をしているということに気付け。確かに前金は幾らか貰っているが、人間一人の命の値段にしては少なすぎる。まぁ、原版が手に入ればきっちり払ってくれるそうだが。

 とにかく、俺にしてみればいい迷惑なわけで。それが少しでも伝わってくれればと、そう言ってはみたのだが。

 

「……流石だぜ、ボス。アタシも今気付いたとこだ」

「なに? 一体どういうこと?」

 

 どういう訳かレヴィが口元を吊り上げ、ジェーンは首を傾げていた。備え付けのソファへと視線を移してみれば、先程まではしゃいでいたグレイも静かに窓の外を見つめている。雪緒はそんなグレイの変貌っぷりに目を丸くしているが、内心俺も全く同じ思いだった。

 なんとなくレヴィとグレイの二人が外の様子を気にしているということは分かったので、そこから俺なりの推測を立てていく。

 今までの会話の流れと、俺の内心。そしてレヴィたちの様子から鑑みる。

 

 ああ、成程。そういうことか。

 合点がいき、内心でポンと手を打つ。

 

 二人が何を考えているのか大体のアタりが付いたため、ニヤリと口元を歪ませる。

 要するに、二人はジェーンにもっと危機意識を持つようにと言いたいのだろう。先の俺の周りを見ろという言葉を受け、この街の危険性を説こうとしてくれているのだ。ロアナプラには悪党が掃いて捨てる程のさばっている。そんな中に放り込まれたのだから、少しはこの街の危険性を感じろ、と。

 何だ、意外と親切なところもあるんだな。

 そんな事を考えながら、革張りの椅子からゆっくりと腰を持ち上げる。

 事の言い出しっぺは俺なのだから、二人にだけ押し付ける訳にもいくまい。レヴィたちが尚も視線を向け続ける窓の前に立ち、先日防弾仕様となった窓を音もなく開ける。既に夜の帳は下り、酒場なんかが密集する中央通り意外は真っ暗な闇が一面に広がっている。当然この事務所の周囲も碌に街灯なんて設置されちゃいないから、室内の蛍光灯くらいしか光源になるようなものは存在しない。

 

「何を言ってんのか理解出来てないみたいだから、俺が教えてやるよジェーン」

 

 悪党らしい笑みを浮かべ、懐から愛銃を引き抜く。

 

「ロアナプラって街はな、お前が思ってるような肥溜めじゃない」

 

 肥溜めが天国に思える程酷い街だ。窓の外、眼下に広がる悪路へ銃口を向ける。元々の視界が悪いのと、最近視力が低下してきたこともあって碌に周囲が見渡せないが、ここらの通りは人通りなんて皆無だから心配ないだろう。万が一通行人なんかいたら面倒だから、少しだけ照準を上にしておく。

 理解が追いついていないジェーンにも分かりやすく、かつ明確に、それらしい雰囲気を演出しつつ口を開く。

 

「イカレた亡霊どもがそこら中を彷徨う穢れた別天地(エルスウェア)だ」

 

 装填されていた六発全ての弾丸を、適当な場所へと撃ち込んでいく。早撃ちではなく、ジェーンにも見えるようにゆっくりと。

 全てを撃ち終わったところでジャケットのポケットに乱雑に仕舞い込んであった弾を取り出し、リボルバーに一発ずつ装填していく。

 半分程の長さになった煙草をそのまま窓の外に吐き捨て、できる限りジェーンの恐怖心を煽るような声音で。

 

「――――気を抜けば一瞬で呑み込まれるぞ」

 

 

 

 8

 

 

 

「本当にそんなに上手くいくのか?」

「まーそう心配なさんな色男。アタシの計画に失敗の二文字は存在しないのさ」

「不安だ。酷く不安だ……」

 

 室内の明りが僅かに漏れてくるだけの路地裏。そこに停めた車の中で、ロックはハンドルに額を当てて俯いた。

 そんな彼を隣りに座るエダは何でもないように笑い飛ばすが、ロックの聞く限り彼女の計画は些か穴が多すぎるように感じる。

 まず大前提として、ウェイバーがエダの予想通りに動くという保障がない。

 そのことを指摘してみれば、

 

「ああ、んなこた百も承知だよロック。アタシだってこの街は長いんだ、あの男がどれだけバケモンで規格外なのかはよォく知ってる」

「だったら……」

「だからあのインド女を放り込んだのさ。ウェイバーは請け負った仕事は絶対にこなす。無理やりにでも押し付けちまえば、一先ずあの女の身の安全は保証される」

 

 死なれちゃ原版も手に入らないしねと、エダは頬杖をついて続けた。

 

「ま、確かにロックの言い分も一理ある。旦那の手綱握るなんざどんな人間にも不可能だ」

「…………」

「だからこそ最高のギャンブルになる。そう思わないかいロック」

 

 ロックを正面から見据えて、エダは意地の悪い笑みを浮かべる。

 これまでの彼なら、僅かでも分の悪い賭けには絶対に乗らなかっただろう。エダはロックという男の性分をかなり正確に把握していた。故に先の発言は発破をかけるという意味ではなかったのだ。

 

 だからこそ、ロックが不敵に微笑んだのを見てエダは目一瞬言葉を失った。

 

「……そうかもな」

 

 本当に、日本で一体何があったのか。

 次レヴィに会ったら必ず吐かせようとエダは内心で誓う。

 

「それで? 俺たちはこんな路地裏に車を回してどうするんだ?」

 

 周囲に人影は一切ない路地裏のど真ん中に留められた車は、傍から見ればかなり浮いて見える。夜であることが幸いした形だ。

 

「アタシの読みが正しけりゃ今夜あたりウェイバーの旦那ンとこに襲撃がある。もしそうなったらここに来いってレヴィに伝えてあんのさ。その後は追手をブチのめして優雅に船旅と洒落込む寸法よ」

 

 エダが言うには既に一隻の船を港に停泊させているらしい。ラグーン号が出払っていることも想定しての行動だそうだ。どうやら荒事の殆どをウェイバーにぶん投げる腹積もりらしい。

 ロックとエダが動くのは襲撃が実際に行われてからである。ウェイバーやジェーンを含めた何人かとここで落合い港まで一気に走り抜ける。ジェーンを追ってきたというマフィアをまとめて片付けるにも分かり易い餌を見せておく必要がある。それがジェーンというわけだった。

 その傍には劇物に等しい男が付いているわけだが、そんな事情を追手連中が知るはずもない。

 

(何だかエダが頭を抱える未来しか見えないなぁ……)

 

 そもそも本当に起こるかも怪しい襲撃を待ちながら、ロックはぼんやりと考える。

 雲の切れ間から僅かに顔を覗かせる月を見上げ、やがて始まるであろう開戦の合図を、ただじっと待ち続ける。

 

 

 

 9

 

 

 

 最初にその違和感に気が付いたのは、やはりロアナプラに住む人間だった。

 ラッセルという男の話を聞いた時点でおかしいとは思っていた。イエローフラッグから北東へ進む通りはそれほど多くない。その内の一つを進んでいけばやがてたどり着くだろう場所は、この街の人間なら誰もが知っている。

 まさかな、とその男は思った。幾ら何でも、流石にあの通りが目的地ではないだろうと。

 しかしその予想に反して、先導するラッセルはまっすぐに地獄一番地と呼ばれる通りへと向かっていくではないか。そして小さな露店が並ぶ道を抜けた時点で車を停めたラッセルを見て、嫌な予感が的中したことを男は悟った。まずい、これは非常にまずい。ほぼ無意識のうちに、男はラッセルの肩を掴んでいた。

 

「おいカウボーイ。なんでこんな所で車を降りやがった。まさかとは思うが、この先の通りに用があるってわけじゃねえよな?」

「あん? 用が無きゃ降りるわけねぇだろ。この先の通りに女が居るって情報だ。何してる、さっさと行くぞ」

 

 肩に置かれた手を振り払い、ラッセルはさも当然と歩き始める。

 それに異を唱えたのは、長い黒髪を靡かせた糸目の本省人だった。

 

「本気でソレ言ってるか? だとしたら私たちここで降りるよ」

 

 切れ長の瞳に何処か緊張感を滲ませながら、シェンホアはラッセルにそう言い放った。そんな彼女の意見に全面的に賛成なのか、ロアナプラの殺し屋たちは口を開かない。唯一新顔と称されたトーチとロットンだけが、理解が及ばずに首を傾げていた。

 そんな彼らの様子に、ラッセルは眉間に皺を寄せる。

 

「オイオイお前らここまで来て何を言ってやがる。酒場での威勢はどこいっちまったんだ、あ? とんだ腰抜け野郎じゃねえかよ」

「何とでも言うよいな。私たち鬼に得物向ける程死にたがりじゃない言うことよ」

「鬼? てめえら一体何の話してやがる!?」

 

この付近に近づいた途端に及び腰となったロアナプラの殺し屋どもを見て、ラッセルは語気を荒げた。何だ、何にこいつらはここまで恐怖しているのだと、同時に疑問も浮上する。

 

「よいかカウボーイ。この先の通りには魔物住んでるます、この街でも一等の怪物よ。そんなの相手にしてたら命幾つあっても足りないね」

「てめえはこの街が初めてだから知らねぇだろうがな、絶対に怒らせちゃいけねえ人が住んでんだよ。その敷地にすら入ることを躊躇っちまうほどのな」

 

 そんな話を聞いて、尚ラッセルはそれを鼻で笑い飛ばした。

 

「要はビビってるだけなんだろ? だったら一人頭5000ドルにしてや――――」

 

 ラッセルの言葉は、最後まで続かなかった。

 懐から得物を抜いたシェンホアが、ラッセルの真横へソレを投げつけたからだ。紐付きのククリ刀が、車の側面に突き刺さる。

 

「カウボーイ、ここはノーフロリダね、ロアナプラよ。あの人相手にするなら100万ドルでもまだ足りない」

 

 にわかにざわつく殺し屋たちは、皆一様に焦燥の色を浮かべていた。

 

「冗談じゃねえぞオイ、鹿狩りが鬼狩りに変わっちまった」

「いやこのままだと狩られるのは俺たちだ。早いとこ離れたほうがいい」

 

 最早女を生け捕りにすることなど頭に無いらしい。そんな状態を見て、雇い主たるラッセルの怒りはいよいよ限界に達しようとしていた。

 が、そんなラッセルが何かを言い出すよりも早く、行動を起こした人間がいた。

 その男はゆっくりと、しかし確実に先の通りへと進んでいく。地獄一番地と呼ばれる、ウェイバーが住まう事務所の聳える通りへ。

 

「オイ正気かあの優男」

 

 他の殺し屋たちが立ち止まっている中、美丈夫はサングラスを小さく持ち上げて。

 

「鬼狩りね……、僕にぴったりの仕事じゃないか」

 

 魔術師。ロットン・ザ・ウィザードは、小さく口元を歪ませた。

 ジャケットの内側に忍ばせていた二挺のモーゼルM712を引き抜き、通りのど真ん中を進んでいく。

 

「おいトーチ! てめえも行かねえか!」

「了解」

 

 ラッセルの怒声に、小太りの男も歩き出す。背中に背負ったタンクからノズルを引き、ロットンの後を追う。

 二人に続いてラッセルも地獄一番地へと足を踏み入れる。最早腰抜けの現地人などに用はない。女を一人捕まえるだけの仕事である。自身を含めて三人も居れば問題ないだろうと判断しての行動だ。仮に本当にそんな化物が居るのだとしても、数の利はこちらにある。

 

 そう考えていたラッセルの考えがあっさりと覆されるのは、それから数秒後のことだった。

 

 突如として銃声が轟いた。

 一発、また一発と。一定の間隔で銃声が響き渡る。

 合計で六発。その音をラッセルが耳にしたのと、激痛が身体を襲ったのはほぼ同時だった。

 

「――――ッ!!?」

 

 激しい痛みを伴う自身の右肩を見てみれば、真っ白なシャツの内側から鉄臭い液体が溢れ出している。

 撃たれたのだ、と理解した時には、眼前を歩いていたトーチは既に崩れ落ちていた。撃たれた右肩を押さえながら駆け寄ると、眉間と火炎放射器のノズルを握っていた右手に弾痕が刻まれていた。恐らくトーチは何が起こったのか理解も出来ぬままこの世を去っただろう。

 一体何処から。そんな疑問がラッセルの脳裏を過ぎる。

 

「……あのミラーだ」

 

 先頭を歩いていたロットンが、消え入りそうな声で呟く。

 

「あのミラーを使って、跳弾させている……。どこから撃っているのか分からないように、しているんだ……」

「お前、まさか今のが見えてたのか!?」

 

 驚愕するラッセルに、しかしロットンは首を横に振る。

 

「そんな気が、しただけだ……」

 

 やけに渋い声でそう告げ、ロットンも路面に崩れ落ちる。どうやら彼も銃弾をその身に受けていたらしい。それはそうだ。一番前を歩いていたのである。被弾の確率は彼が最も高い。

 

 たった数秒で二人が崩れ落ちたことに驚愕しているのは、何もラッセルだけではなかった。

 その後方で踵を返そうとしていた殺し屋も、またその光景に唖然としていた。ミラーを使用しての跳弾に、ではない。

 既にこちらの存在に気付かれているという事実にだ。

 ウェイバーという男に、容赦の二文字は存在しない。己の縄張りに敵意を持って足を踏み入れる輩に、くれてやる慈悲など持ち合わせてはいないのだ。

 故に、ウェイバーが戦闘の意思を見せていることは大きな問題だった。このままでは巻き添えを喰らう。そう判断し、慌ててこの場を離れようとする。

 が、既に手遅れだった。

 

 ロットンとトーチの転がる通りの向こうから、確かな足音が二つ。

 この暗闇のせいでその姿をはっきりと捉えたのは、彼女たちの射線に入ってしまってからだった。

 肩に刺青を走らせ、鈍い光を放つカトラスを握る女ガンマンと、闇夜に同化する衣服を纏った銀髪の少女。

 

「珍しいわね。ここにこんなにたくさん人がいるなんて」

「ボスに歯向かうたァ、その度胸だけは認めてやるよド阿呆共」

 

 一切の容赦ない弾丸の嵐が、殺し屋たちへと降り注いだ。

 

 

 

 10

 

 

 

「あーあー、先走りやがってアイツら……」

 

 二階の窓から飛び出していったレヴィとグレイの後ろ姿を眺めながら、やれやれと溜息を吐く。

 そこまでしてくれなくても良かったというのに。先程の俺たちの演技でジェーンは十分この街の恐ろしさを理解してくれたようだし、後は適当に流せばいいと思っていた矢先のことだ。それぞれの獲物を抜いたレヴィとグレイは、俺が弾丸を放った方角へと向かって飛び出してしまった。

 万が一にでもこの瞬間に襲撃されたらどうするんだ。俺ひとりでインド女と雪緒を庇いながら戦うのは勘弁だぞ。

 

「ウェイバーさん。二人は……」

 

 二人が消えていった方角を見ながら尋ねる雪緒。ここでジェーンに警戒させるための演技だと明かすのは意味がないので、もうしばらくこの状態を維持しておこう。

 リボルバーをくるくると回して、俺も窓の外を眺めながら。

 

「始まったんだよ」

「始まったって、まさか奴らが!?」

 

 俺の言葉に、ジェーンが声を荒げる。狙った通りの反応をどうもありがとう。これで少しでも周囲に気を配れるようになってくれるなら、俺としても非常に助かるんだけれど。

 

「雪緒、この女と一緒に奥の部屋に行ってな」

「ウェイバーさんは?」

「二人にだけ任せるわけにもいかんだろう。不本意だが、仕事はきっちりこなしてみせるさ」

 

 どこまで行ってしまったのかは知らんが、通りを抜けた辺りで銃声が聞こえてくるのですぐに居場所は把握できるだろう。実弾撃つまでしてくれなくても良かったんだけどな。まぁその方が危険地帯感みたいなものは増すが。

 事務所の階段を降りて、半分程顔を出した月が照らす夜道を歩き出す。

 一応襲撃にも警戒はしておこう。来ないに越したことはないが、そうとも言い切れないのが現状だ。となると通りの目立った所はあまり歩くべきではないな。いくら夜で視界が悪いとは言え、暗視ゴーグルを使われれば関係無くなる。そう思い、建物と建物の間の脇道へと入っていく。

 

 やけに銃声の数が多い気がするが、また何処かの馬鹿が酔った勢いで乱射でもしているのだろうか。

 

 

 

 11

 

 

 

 間断無く放たれる弾丸の雨を掻い潜り、ラッセルは路地裏へと逃げ込んでいた。最初に撃たれた右肩の他に、左足からも出血が見られる。

 尚もあの通りでは銃撃戦が繰り広げられている。通りに着いた時点では逃げ腰だったロアナプラの殺し屋達も腹を括ったらしく、二人の女へ向かって銃撃を行っている。先程の話を聞くに立ち向かうことすら憚られる人間が居るとのことだったが、銃撃戦を行っているところを見るにやって来た女たちはその鬼とやらとは別人なのかもしれなかった。

 しかしその応戦も虚しく、次々とこちらが雇った人間たちは蜂の巣にされてしまっている。たった二人に、いいように殺されてしまっている。

 

「クソッタレ、冗談じゃねえぞ……! なんだってんだあの(アマ)ども……!」

 

 人を殺すことになど慣れていたつもりだった。フロリダでくぐり抜けてきた死線の数がそのまま自信となって、ラッセルという男を形作っていたはずだった。

 しかし、そんな自信には何の価値も無いと言うように、二人の女は全てを破壊し尽くさんとしている。

 銃声の間で僅かに聞き取れる会話が、ラッセルの耳に飛び込んでくる。

 

「シェンホアてめえいい度胸してんじゃねえか! ボスに盾突くとはよォ!!」

「誤解ですだよアバズレ! 私ウェイバーの旦那がこの件に一枚噛んでる知らなかったね!」

「言い訳は殺した後に聞いてやるよシェンホアぁ!!」

 

 あの戦いの中に割って入っていくことなど、ラッセルにできるはずも無かった。

 ともかく、これは非常にまずいことになった。たった一人の女を捕まえるだけの仕事だったはずが、いつの間にかとんでもない輩を引っ張り出してしまった。

 ボスであるエルヴィスに連絡をとも思ったが、この事態を知られれば自分も粛清の対象にされるかもしれない。それだけは避けたかったラッセルは、奥歯を噛み締めて携帯電話を地面に叩きつけた。

 

(こうなったら俺だけでも女を探し出して……)

 

 通りの様子を窺いながら、なんとかこの場を脱することが出来れば。

 

「あはは、どうしたの? おじさんたち、もっと私と踊りましょう?」

「ま、待て……」

「ギャッ!」

 

 …………。

 満面の笑みでBARをぶっ放す少女を視界に捉えて、ラッセルは踏み出しかけていた右脚をそっと戻した。

 

「何してんだお前」

「うおゥ!?」

 

 突然背後から声を掛けられたことで、ラッセルの肩が大きく揺れる。

 慌てて振り返ってみれば、そこには煙草を咥えたジャケットの男が立っていた。こちらの様子を見て怪訝そうに首を傾げているあたり、ただの一般人だろうと推測する。

 

「お前血出てるぞ、大丈夫かそれ」

 

 ラッセルの右肩と左足を順に見て、男はそんなことを言った。

 この街でまさか心配されると思っていなかったラッセルは僅かに口元を綻ばせて。

 

「……ヘッ、このくらいどうってことねえよ。それよりも兄ちゃん、ここは危ねぇぞ。とっとと消えな」

 

 精一杯の強がりで、ラッセルは目の前の男に諭すように告げた。

 

「と、その前に。なぁ兄ちゃん、こんな女を知らねえか? 俺はコイツを探してるんだが」

 

 ここに姿を現したということは、少なくともこの辺りには詳しいはずだ。そう予想して、ラッセルは胸ポケットから一枚の写真を取り出した。そこにはインド人の女が写っていたが、その女を見た途端、目の前の男の表情が一変した。

 

「……この女を探してんのかい?」

「ああ、そうだ」

「アンタこの辺じゃ見ない顔だが」

「仕事でな、フロリダから来たんだよ」

「……そうかい」

 

 瞬間。

 ラッセルの額に、白銀のリボルバーが突き付けられた。

 

「――――!?」

 

 いきなりの事態に声を出すことも出来ず目を白黒させるラッセルを尻目に男、ウェイバーは引鉄に手をかけて。

 

「運が無かったな」

 

 ウェイバーの瞳を正面から見て、ラッセルは思い至る。

 こんな、こんなドス黒い眼を出来る人間が居るのか。まさか、この男が。

 

「てめえ、まさか鬼――――」

 

 その声を遮るように、一発の銃声が轟いた。

 眉間部分に穴の開いたハットが、力なく宙を舞った。

 

 

 

 12

 

 

 

「いやはやまさか只のタクシー扱いになっちまうとはねえ」

「エダてめえボスをパシろうとしてたんだってな。ロックから聞いたぜ、覚悟は出来てンだろうな」

 

 早朝。ロックの運転する車には俺とレヴィ、エダが乗り合わせていた。

 既にジェーンは俺たちの手を離れ、予め用意されていた小型船舶に乗って故郷へと帰っていった。これでようやく俺の元に安寧が戻ってきたわけである。

 

「だから言ったじゃないかエダ。ロクなことにならないって」

「そう言うなよロックゥ。アタシだって色々考えてたんだぜぇ? なのに旦那が全部片付けちまうんだもんよお」

 

 エダの予定であれば、襲撃後にジェーンを連れたウェイバーたちが合流、そのまま追手たちを引き付けながら港へと向かう予定だった。

 それが蓋を開けてみればその場で制圧完了。明け方になってウェイバーとレヴィがジェーンを連れ揚々と歩いてきたのである。因みにグレイは就寝中とのこと。

 

「ま、原版も手に入ったし結果オーライだな」

「エダ。君ギャンブルは向いてないんじゃないかな」

 

 ロックの言葉も原版を手に入れご機嫌なエダには聞こえない。

 そのことに一つ溜息をついて、ロックはちらりと後部座席に座るウェイバーをミラー越しに覗き見る。

 腕を組んで瞼を閉じた彼が何を考えているのか、ロックには想像することも出来ない。レヴィの話によればいち早く敵の存在に気付き銃を抜いたとのこと。しかもミラーで弾丸の軌道を変えて相手の眉間を撃ち抜いたそうだ。相変わらずの規格外さに苦笑しか出てこない。

 

「折角だ、このままのんびり朝酒と行こうぜレヴィ」

「当然奢りなんだろうな」

「ったりめーよ。久々に旦那と飲み比べだぜ」

 

 東から昇る朝陽を背に、四人を乗せたセダンはイエローフラッグへと進路をとった。

 

 

 

 13

 

 

 

「…………」

 

 むくりと、仰向けに倒れていた美丈夫が起き上がる。

 サングラスをしていても朝陽は眩しいのか、わずかに眼を細めて周囲を見渡した。

 

「おう、生きてたか。悪運強いね」

 

 声がした方をロットンが見やれば、壁に寄りかかるようにして脇腹を押さえるシェンホアの姿があった。ロットンはゆっくりと立ち上がり、彼女のほうへ近付いていく。

 

「大丈夫か?」

「それこっちの台詞よ、一番最初に殺られた思ったけど」

コレ(・・)のおかげだ」

 

 言いながらジャケットを脱ぐ。柄シャツの内側には防弾チョッキが見え隠れしていた。

 

「君も着けておくことを勧めるよ」

「武器が武器よ、かさばるもの着るしてる方が危険ですだよ」

 

 そう言うシェンホアの腹部からは赤黒い血が溢れていた。レヴィのカトラスに風穴を開けられた結果である。

 このままでは失血死の危険が伴う。そう判断したロットンは、右手をシェンホアへと差し出した。

 

「医者の所へ連れて行こう」

 

 その手をしばし見つめていたシェンホアだったが、やがて苦笑いを浮かべて。

 

「この街で人助けしても得ないよ」

「目の前で女の子を死なすのは僕の主義に反する」

「……お宅、人殺しには向かないね」

 

 差し出された手を取って、シェンホアは重たい身体を持ち上げる。ロットンの肩に腕を回した状態で歩きだそうとして、彼がどこかを見ていることに気が付いた。

 

「何見てるますか」

「……彼女も生きているだろうか」

 

 ロットンの視線の先には、膝を抱えて横たわるゴスパンクの衣服を着た女。

 掃除屋ソーヤーと呼ばれるイギリス人だった。

 

「あんな格好で死ぬの焼死体だけよ。あれも運がいいね」

 

 ソーヤーを抱え、両肩に女性二人を担いで歩くロットンを横目に見ながら、シェンホアは冗談のように言うのだった。

 

「運がいいのが三人も揃ったね。そのうち組んで仕事でもするか?」

 

 そんな言葉に、ロットンは一つ頷いて。

 

「……悪くない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 次回よりロベルタReturnsです。


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029 舞台は整い、役者は集う

 今話よりロベルタ再来編。


 ――――冷たい雨が降る。どこまでも暗く、静かに。

 

「どうしてこんな……」

「あんなに優しい人が」

「爆弾テロだなんて、一体誰が……」

 

 言葉の端々に感じられる哀しみも、その表情から感じられる悲嘆も、女の耳には届いていなかった。

 

「ガルシア様はまだお若いというのに……」

「……ご当主様……」

 

 丘の上に建てられた一つの墓を囲うようにして、喪服に身を包んだ人間たちが無言で神父の言葉に耳を傾けていた。粛々と聖書を片手に告げる神父の表情も、心なしか痛ましげである。

 神に仕える身である神父ですらその死を悲しむ程、殺害されたディエゴ・ホセ・サン・フェルナンド・ラブレスは愛されていた。南米十三家族に名を連ねるラブレス家の十一代目当主として、紳士の鑑というべき男であった。

 

「……父さん」

 

 徐々に激しさを増す雨の中、消え入りそうな声でポツリと呟く。

 女に背中から抱かれるような状態で、少年は俯いたまま言葉を重ねた。

 

「父さんは、悪いことなんて何もしてない……。してないのに……」

 

 女のメイド服の袖を弱々しく握り少年、ガルシアは目尻に涙を溜めた。

 いつも優しく、時に厳しくガルシアを育ててくれた敬愛する父は、今は冷たい土の中で眠っている。彼くらいの年齢の子供であれば、場所を選ばず泣きじゃくっていても何ら不思議ではない。事実、ガルシアの瞳は揺れ、溜まった涙が零れないよう、必死に声を押し殺している。

 少年が寸前の所で涙の決壊を抑えられているのは、己が南米十三家族の人間であるという誇りと、男としてのちっぽけな意地だった。

 そんな少年の胸の内に渦巻く哀しみが、抱きすくめる女には手に取るように分かる。分かってしまう。きっとガルシアはこの哀しみを押し殺し、今後自身が当主として振舞うべき姿を作り上げていくのだろう。悲しむ暇など与えてはもらえない。父が残したラブレス家を、ここで根絶させるわけにはいかない。そう考えるに決まっている。

 ガルシアのことはよく知っているのだから。

 これまで一番近くで見てきたのだから。

 

 だが、それでは少年は救われない。

 

 押し込めた哀しみは消える訳ではない。負の感情は、いつまでも心の内側にへばりついて離れない。

 なんと報われない。没落したと言われたラブレスの家を、やっとの思いでここまで立て直したというのに。

 これから少年を苛むだろう苦痛を思い、女は僅かに唇を噛んだ。

 

「……ご当主様は、とても立派な方にございました……」

 

 ガルシアを抱く腕に力を込め、女は語り掛ける。視線はガルシアの父が眠る墓地へ向けたまま、優しい声音で。

 

「若様は、あのご当主様の血筋です。何も不安に思うことはありません。我々も全てを以て、若様をお助け致します」

「……ありがとう、ロベルタ」

 

 掠れた声が雨音に溶けて消えていく。

 少年のその声を聞き、ロベルタはギシリと歯を噛み締める。ともすれば噛み砕かん程の力を込めて、しかし今の表情を決してガルシアに見られないよう、少年から顔を背けて。

 

「……絶対に、絶対に」

 

 大人になることを急かされる少年は、このままでは絶対に救われない。心のどこかに暗い感情を押し込めたまま、これから先の未来を歩んでいくことになる。

 そんな姿を見たくない。そんな人生を歩ませるわけにはいかない。彼にはまだ、輝かしい未来を歩めるだけの可能性が残されているのだから。

 

(――――その為ならば、私は)

 

 どこまでも。どこまででも。

 この身を深く、暗い闇の底へと堕としていこう。全ての泥は己が被ろう。どんな罪も罰も、この身に背負う覚悟を持って。

 元より先代に救われた命。ラブレス家の為に、ガルシアの為に使うことが出来るなら、微塵も惜しくはない。

 

 ガルシアを優しく抱いたまま、ロベルタは決意する。

 体内の血液が急速に冷えていく。やがて彼女は表情すら失い、ドス黒い瞳を灰色の空へと向けた。

 

 ――――冷たい雨が降る。

 徐々に勢いを増す雨は、大きな嵐を予感させた。

 

 

 

 1

 

 

 

「……っだぁぁ、クソッタレ。まだ頭ン中でシンバルが鳴ってやがる」

「珍しいな。そんなに飲んだのか?」

「ボスと飲むと毎度のこった。カリビアン・バーにゃ高級な酒がずらりと並んでやがるが、その分度数がハンパじゃねえ」

 

 迎え酒がしてえ、とぼやいて額を押さえるレヴィを横目に、ロックはチャルクワンの市場を目指して歩く。隣を歩くレヴィは二日酔いのせいか足取りが重たいが、それでもロックの横から離れることは無かった。

 

「ベニーに頼まれた買い物をするだけだから、別に事務所に居てもよかったのに」

「なんとなくだよ、気分転換てヤツさ」

 

 言いながら煙草を咥える。ん、と不躾に目の前に差し出された火を前に、ロックも胸ポケットから取り出した煙草を咥えた。

 二人して煙を燻らせ、目的のパーツ屋へと歩を進める。ロアナプラで手に入るPCパーツなど以前東京で手に入れたものとは比べるべくもないが、無いよりはマシだと安物のパーツを買い漁っているのだ。替えはいくらあっても足りないとはベニーの言である。

 

 他愛のない会話を交わしながら、二人は中央通りへと繋がる道を歩いていく。

 澄み渡った空を見上げながらロックは思う。ここ最近のロアナプラは平和だと。

 暴行や強盗なんかがすぐ近くで発生することに慣れてしまったロックの平和の基準が若干ズレてきていることは確かであるが、それでもここ数週間のロアナプラは平穏と表現していいものだった。

 組織間の抗争もナリを潜め、勘違いしたイカレ野郎が黄金夜会に噛み付くようなこともない。ラグーン商会に舞い込んでくる仕事もキナ臭いものはなく、極々普通の荷物運搬である。

 全くもって平和、ともすればここが悪党の巣窟だということを忘れてしまいそうになる。

 

「……嫌な予感がするな」

「あ? 何か言ったかロック」

「いや……、何でもないよ」

 

 この平穏がまるで何かが起こる前触れのような気がして、思わずロックはそう零した。

 

「早いとこ用事を済ませよう。トゥンナンの炒飯が売り切れる前に」

 

 胸の内で燻る思いを掻き消すように(かぶり)を振り、ロックは歩く速度を少しだけ早めた。

 

 

 

 2

 

 

 

 タイの南部、その港街と言われ、現地の人間が真っ先に思い浮かべるのはロアナプラに違いない。他にも幾つかの港街はあるものの、良い噂など一つも聞かないロアナプラが知名度としては頭一つ抜けていた。

 そのあまりの噂の恐ろしさ故に、観光客はおろか現地人含めて殆どの人間は近づこうともしない。そんな街に行きたがるのは余程の凶悪犯か頭の狂った死にたがりくらいのものだろう。

 だからこそ、そんな港街へ向かう船に乗り込んだ小さな少女に周りの男たちは訝しげな視線を向けていた。

 

 ロアナプラへ向かうことを知らないわけではない。何故ならその少女はこの船が出向する直前、行き先を聞いてきた。ロアナプラへ行くのはこの船かと、確かに船長にそう問い掛けたのだ。

 それ故に男たちは疑問の視線を向ける。年端も行かぬこんな子供が、どうしてトランク一つであんな物騒な都へと赴こうとしているのか。

 

 だがそんな周囲の男たちの視線を一切気にすることなく、少女はただ甲板からずっと遠くを見つめていた。

 その視線の向かう先には、悪徳の都、ロアナプラがある。

 

(……婦長様)

 

 瞼を下ろし、優しい笑みを浮かべた女性を思い浮かべる。

 少女、ファビオラ・イグレシアスは小さく息を吐いた。急いたところで状況が好転することはないと己に言い聞かせ、静かに心を落ち着ける。

 これから足を踏み入れようとしているのは世界中から悪人が集う悪虐の街。警戒を怠るなど間違ってもあってはならない。何の為に自身が先んじてあの街へと乗り込もうとしているのか。それを胸の内で反芻し、ファビオラは閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。

 

「待っていて下さい。必ず、必ず私と若様で……」

 

 決意に満ちた瞳は、遠く海の向こうに霞む港街をはっきりと見据えていた。

 

 

 

 3

 

 

 

「……今何て言った?」

「え? いえ、街の人たちが言ってるんですよ」

 

 買い出しを終え紙袋を抱えた雪緒が帰ってきたと同時に放った言葉は、俺に少なくない衝撃を与えるものだった。思わず沈み込むように背を預けていた椅子から姿勢を正すくらいには。

 

「メイド服の女を見たって」

 

 それがどうかしたんですか、と続ける雪緒に曖昧な返事をして、再び背もたれに体重を預ける。

 ロアナプラに住む人間たちにとって、メイドという単語は一種のタブーだ。約一年程前にやって来たあの女中を誰もが思い浮かべるだろう。俺だってそうだ、出来れば二度と会いたくはない。厄介事をカルガモの親子のようにぶら下げてくる女である。誰が好んで関わろうとするのか。

 

「メイドねぇ……」

「知り合いなんですか?」

「いや、顔見知りってだけだよ」

 

 ともすればこの街の人間以上に、俺と彼女との関わりは深い。

 初めて顔を合わせた、戦場で出会ったのはこの街が初めてではないのだから。昔の記憶なので細かな所は忘れているが、俺は間違いなく過去ロベルタと銃口を突きつけ合っている。コロンビア革命軍の拠点のひとつを潰してきてくれと張に頼まれ、ベネズエラへ飛ばされたときのことだ。熱帯地方特有のスコールに巻き込まれ、数メートル先の視界も確保できないほどの最悪な天候の中で俺と彼女は撃ち合った。その正確無比は狙撃は今でも覚えている。持っていた武器(エモノ)からして違うので無理からぬことだが、リボルバーなんかで百メートル以離れた相手に当てられる筈もなく、周囲の木々を盾にしながら無闇矢鱈に撃ちまくっただけだったが。

 それでもこうして俺が生きていられるのは、向こうも視界が悪かったことと、俺の逃げ足が早かったからだろう。

 前回遭遇した時も思ったが、アレは本気で化物だ。いやバラライカの方がおっかないけれど。

 

 そんなメイドが、再びこの街に現れた。 

 現時点ではメイド服の女というだけで、同一人物でない可能性もある。しかしこの街でタブーと化しているメイド服を好き好んで着る輩なぞいるだろうか。

 

「一応探りだけはいれておこうか」

 

 そう言って携帯電話を取り出し、登録されている連絡先の中から一つを選択する。

 

「……もしもし、俺だ。ちょっと調べて欲しいことがあるんだが」

 

 この街一と言って過言でない情報屋を相手に、俺はそう切り出した。

 

 

 

 4

 

 

 

『で? 今何処にいるわけ?』

「バンコク。ここからはバスか何かで移動することになるな。あ、トゥクトゥクでもいいけど。経費で落ちんのかなコレ」

 

 目の前を走る三輪タクシーを目で追いながら、ヨアンは能天気にそう受話器越しに呟く。

 タイ、バンコクに建てられたドンムアン空港を出て道なりに歩くヨアンは、周囲にタクシーやバスなどを探しながら口を開いた。

 

「それで? どうだったクラリス」

『ダメね。五年前のデータまで洗ったけどMP7と長物両方を使用する殺人者はヒットしなかった。というか範囲が広すぎるのよ、調べるのに四日もかかったじゃない』

「四日で調べちまうお前はやっぱ規格外だよ」

 

 本部の一室で五台のパソコンを前にしているであろう彼女、クラリス・ベルトワーズに対して、ヨアンは素直に賞賛を送った。彼女はヨアンの知る限り世界最高のハッカーである。基本的に本部に在中している彼女がヨアンと同じく他国の内政に干渉する権利を有していると聞けば、ICPO内の最上層に位置する人間であることは理解出来ることだろう。それは(ひとえ)に彼女のクラッキング技術の高さ故だ。クラリスにとってはEUの最重要機密が保管された最高峰ネットワークセキュリティすら片手間で突破できる程度のものでしかない。

 逆に彼女が一から構築したICPOのセキュリティは、どんなクラッカーでも突破不可能と謳われる要塞と化していた。

 この世界に調べられないモノなど殆ど存在しないと豪語してみせるそんな彼女が掴んだ情報を元に、ヨアンはタイを訪れたのだった。

 その情報というのは。

 

「しっかしあの星条旗の連中(スターズ・アンド・ストライプス)まで出張ってくるとはねぇ」

 

 拾った三輪タクシーを南へと向かわせながら、ヨアンは気怠そうに呟いた。

 

「その情報は確かなんだろうな」

『あら、私の腕を疑うの?』

「まさか」

 

 世界でお前の情報より確かなモノはないよ、と思っても口には出さない。出せば調子に乗ると分かりきっているからだ。

 暑さからシャツのボタンを二つ程外しながら、先程クラリスより告げられた情報を思い返す。

 

「ベネズエラで起こった政治活動妨害工作。それがこんな辺境の地にまで拡大してくるとはね」

『向こうも相当揉めてるでしょうね。多分秘密裏に独断で行われた作戦だもの』

「巨大組織ってのはいつでも主権争いに必死なのさ」

ICPO(私たち)みたいに?』

 

 そんなクラリスの言葉に、ヨアンは小さく笑う。

 

「全く、現場組は辛いね」

『好きで飛び回ってるくせによく言うわよ』

 

 呆れを多分に含んだ声が届く。

 それに苦笑しつつも、内心は思考を巡らせていた。

 ベネズエラで発生した爆弾テロ。そしてそれに関連している合衆国。それぞれの点が重なり、線となって最後に到達する場所は。

 

「悪徳の都、ロアナプラ」

 

 世界中の悪党どもが巣食う穢れた別天地。悪意に満ちた地獄の入口。ICPOが所有するブラックリストに掲載されているBランク以上の犯罪者の実に三割が、何らかの形でこの街と関わりを持っている。

 そしてヨアンの追う男、ウェイバーもその街に居る。

 

 集う。集う。

 悪党が。合衆国が。ICPOが。

 黄金夜会の牛耳る縄張りへ。

 

 全ての点は、たった一つに集約される。

 その全てが重なる時、待っているのは――――。

 

 

 

 5

 

 

 

 ――――何のつもりですか?

 

 ――――ハッ、何の為にこの村でその(ガキ)だけ生かしておいたと思ってるんだ。

 

 ――――今更西部の男パラディンでも気取るつもりですか?

 

 ――――ねぇ、ガチョウ(アビー・グース)少尉殿。

 

 聞くだけで虫唾が走る男の声が脳内を埋め尽くしていく。

 その不快感に耐え切ることが出来ず、シェーン・J・キャクストンは目を覚ました。

 ベタついた汗は肌着はおろかシーツすらも濡らしており、全身を酷い倦怠感が襲う。掌で額を押さえ、ゆっくりと上体を起こした。

 ブラインドの向こうから差し込む光に僅かに目を細め、汗を吸って重たくなった肌着を脱ぎ捨てる。鍛え抜かれた屈強な肉体が外気に晒されるが気にせず、キャクストンは寝室を出る。

 

「おはようございます少佐。今コーヒーを淹れましょう」

「ああ、ありがとう」

 

 簡素なリビングの中央に設置された丸テーブルに掛けていた口髭の男が立ち上がる。台所から戻ってきた男の淹れたコーヒーを受け取って、キャクストンは静かにテーブルに着いた。

 

「……嫌な夢を見た」

「夢ですか」

「ああ、ヴェトナム(ナム)に居た頃の夢だよレイ」

「…………」

 

 キャクストンの呟きに、レイと呼ばれた男は僅かに俯いた。

 その頃の話は、彼ら二人にとって血腥い忌まわしき記憶でしかない。出来ることなら一生思い出したくはないほどの。

 ここ数年はこの事を夢で見ることなど無かった。だというのに、突然どうして。キャクストンは目覚めてからずっとその理由を探していた。

 半分程になったコーヒーに映り込む自身の表情を見つめながら、やがて彼は思い至る。

 

「……似ているんだな」

「はい?」

「この街だよレイ。あの頃のあの街にそっくりなんだ」

 

 顔を上げ、ブラインドの隙間から窓の外を見渡して、キャクストンは言った。

 その言葉に、レイも同調する。

 

「俺もそう思いますよ少佐。ココはあの頃のサイゴンと瓜二つだ」

「なんと言ったかな、この街は」

「ロアナプラです少佐」

 

 窓の外は、一見して何の変哲もない港街のようにも見える。

 しかし、二人にはとてもそんな風には見えなかった。視界には捉えることのできないナニカが蠢いている。そう感じてしまうほど、ロアナプラという街は彼らに不気味に映っていた。

 

「そういえばレイ、続報は?」

「よくありませんね。もうしばらくココに留まることになるかもしれません」

「当初の作戦計画からかなりズレが出ているぞ。このままでは」

「ええ、分かっています少佐。しかし現状待機以外には……」

 

 渋面をつくるレイに、キャクストンは小さな溜息を零した。

 キャクストン率いる部隊がこのロアナプラに潜入して数日。これといった進展のないまま、だらだらと時間だけが過ぎ去っていた。同じ地に長居することを良しとしない彼らの部隊は、一刻も早く任務を遂げなくてはならいのである。

 が、現実とは非情なもので、上層部から待機命令が出て以降、音沙汰が全く無い。

 このままでは作戦の中止も視野に入れなければならない。そんな所まで来ていた。

 

 もう一度、キャクストンは天井を見上げて溜息を吐き出す。

 

「勘弁してくれ。「鷹の爪作戦(オペレーション・イーグルクロウ)」や「空白の四秒(デッド・フォー)」のような二の舞は御免だぞ」

「イランとパナマですか」

「ああ。酷い作戦だった、今思い返しても」

「私は戦線に出ていませんでしたが、「空白の四秒」の噂なら聞いていましたよ」

 

 冷めたコーヒーを一口含んで、レイはこう呟いた。

 

「完璧な包囲網の中、煙のように現れて消えた人間が居たって――――」

 

 

 

 6

 

 

 

 人は何を思って人を殺すのか。

 そこに何の意味があって、意義があって、意思があって。

 他者は他者を殺めるのだろうか。

 凶悪な連続殺人鬼は、あるいは一時の激情に駆られた人間は。殺める瞬間、何を思っているのだろうか。

 

 ……思うことなど、何一つとして無い。

 

 感傷も、感情も、感想も無い。

 彼らはただ無感情に殺すのだ。

 何故ならそれが彼らにとっての常であり、世の理も同然なのだから。

 

 居るよりは居ない方が何処かの誰かにとって都合が良い。そんな理由で、人間はいとも容易く他者を殺めることが出来る。

 これまでその人が歩んできた人生を、積み重ねてきた実績を。金銭か、欲望か、そんなものと引換に否定する。

 そんなことが出来てしまうのだ。人間という生き物は醜悪だ。

 それを、彼女(・・)はよく知っていた。

 

「――――生者のために施しを、死者のためには花束を」

 

 憎悪に染まった瞳が怪しく揺らめき、その奥で漆黒の炎が燃え上がる。

 

「正義のために剣を持ち、悪漢共には死の制裁を」

 

 これは復讐ではない。仇討ちなどと言うつもりもない。

 そんなことを言える資格は、持ち合わせてはいないのだから。

 

「しかして我ら、聖者の列に加わらん。サンタ・マリアの名に誓い、」

 

 

 

 ――――全ての不義に、鉄槌を……!!

 

 

 

 亡者の彷徨う大地を踏みしめ、ロベルタは歩き始めた。

 目指すは以前、あの男と出会った酒場。

 

 やけに生暖かい風が、街中を駆け巡った。

 

 

 

 

 




 導入話のため若干短め。
 ウェイバーの過去もこの辺で詳細を書き切る予定です。


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030 紙一重の交錯は更なる混沌を運ぶ

 7

 

 

 

 ファビオラ・イグレシアスという少女は、南米十三家族にも数えられる大家、ラブレス家に仕える雑役女中である。ガルシアの父、つまりは先代当主が存命だった頃は、身の回りの世話から屋敷の雑事全般まで幅広く仕事をこなしていた。そんなファビオラを先代当主、ディエゴはとても好ましく思っていたし、その息子であるガルシアも頑張り屋な彼女に厚い信頼を寄せていた。

 ラブレスの家に仕える女中はロベルタを筆頭に十名程居るが、そのロベルタからも彼女はよくしてもらっていた。女中の基本たる礼儀作法に始まり果ては戦闘術まで。いつでもその身を盾と、刃と出来るよう、少女はロベルタに仕込まれた。

 そのおかげもあり、今では戦闘面に於いて少女の右に出るものは居ないとまで言われるようになった。当然、ロベルタはその対象には含まれないが。

 しかしその事実を、ガルシアは知らない。知る必要はないとファビオラは思っていたし、ロベルタもその考えには同意していた。こんな血腥い世界、知らないに越したことはない。

 ともかく、女中としてファビオラ・イグレシアスは満たされた生活を送っていた。敬愛する当主の元で、少女は何一つ不自由のない人生を歩んでいた。

 

 だが、何も最初から全てが上手く行っていたわけではない。

 元々ファビオラは貧困街の出身である。普通であれば、ラブレス家との接点など持てるはずもない。

 それがどのような経緯を経て、今に至ったのか。

 

 ファビオラは今でも決して忘れる事はない。

 全ての始まりにして、それまでの生活に終わりを齎した、あの東洋人のことを。

 

 その男との出会いは、お世辞にも良いものとは言えなかった。それも当然で、何せスリを働こうとした相手なのだ。当時のファビオラにとってその男は数あるカモのうちの一人でしかなかったし、まさか自身の未来をあっさりと変えてしまう人間だなどとは思ってもみなかったのである。

 ファビオラはその日もいつものように貧困街を出て、多くの観光客で賑わうカラカスの中心部へと繰り出していた。無論、金銭をかっ攫うためだ。生き長らえる為に、手段など選んではいられない。

 彼女が狙うのは現地の人間ではなく、警戒心の薄い観光客。現地の人間は貧困街の存在を知っているが故に警戒心が強く、間違っても財布をポケットや手に持ったまま移動しない。

 対して、異国からやって来た人間はどこまでも無防備で無警戒だった。金目のものを盗ってくださいと言わんばかりにぶら下げている。

 あの男もそうだった。財布を無造作にポケットに突っ込み、他の観光客と同じように周りを見渡しながらゆっくりと歩いていたのだ。

 

 今にして思えば、それらの動作全てが偽りであったのだと気付くことが出来たかもしれない。

 只の観光客がスペイン語を流暢に話し、貧困街なんて単語を口にするだろうか。

 周囲を見回してゆっくり歩いていたのは、一般の観光客に違和感なく溶け込みながら警戒を続けていたからではないのか。

 

 あの時はそこまで冷静な分析が出来るような精神状態ではなかった、と言い訳の一つもしたくなる。何せいつものように擦れ違いざまに財布を抜き取ろうとして、その瞬間に腕を掴まれたのだから。異国の人間でそんなことをされたのは初めてだった。警戒の強い現地の人間であれば貧困街の人間を見るだけで猜疑の目を向けてくるが、財布を抜き取ろうとする瞬間までその男からは一切警戒の色が見えなかった。

 

 そんなこと、有り得るだろうか。

 

「腕、離してよ」

 

 悪いのは明らかにこちらだったが、それにしても随分な言い草だったと今更ながら思う。その言葉に反応して腕を放す男も大概だったが。

 彼は、自身をウェイバーと名乗った。それが本名なのか偽名なのかは問題ではない。 

 

 ファビオラにとってウェイバーは腐りきった己の人生に一筋の光明を齎してくれた、恩人(・・)なのだから――――。

 

 

 

 8

 

 

 

「ただいま」

「お帰りロック。頼んでたものは手に入ったかい?」

 

 ラグーン商会のオフィスへと戻ったロックとレヴィを、ソファに寝そべって雑誌を読み耽っていたベニーが出迎えた。奥のデスクには煙草を咥えたダッチの姿もある。

 ロックはベニーに頼まれていたパーツの入った小袋を手渡すと、徐にダッチの方へと近付いていった。

 

「どうかしたのか? 顔色が悪そうだ」

「そうかロック。今の俺の顔は何色だ?」

「ブラックコーヒーよりも真黒だ」

「そいつぁ重畳。通常運転だ」

 

 僅かに口元を緩ませるダッチだったが、しかしすぐに彼は眉間に皺を寄せて黙り込んでしまう。

 その様子に違和感を覚えたロックは、ベニーへと視線を向ける。その視線の意味するところを正確に理解したベニーは、壁に設置されている固定電話に親指を立てて。

 

「二人が出かけてから今までに六件。キナ臭い電話が掛かってきてる」

「キナ臭い?」

「『変わった客を扱ってないか』、そう切り出してくるんだ。変わった客なんて五万といるから、普通ならなんて答えるべきか悩むところだけどね」

「普通なら……?」

 

 そう尋ねたロックに、ベニーは一つ頷いて。

 

「『メイド服を着た女』――――。連中は皆揃ってそう言うのさ」

「メイド……」

 

 ベニーが口にした言葉を舌の上で転がすように反芻する。

 ロックに、いや、ロアナプラに住む人間たちにとってのメイドとは、昨年この地を訪れたラブレス家の女中に他ならない。ダッチをして未来から来たサイボーグとまで言わしめた戦闘能力は凄まじく、ラグーン商会のエース足るレヴィをも凌ぐ実力者。バラライカ率いる遊撃隊、果てはウェイバーまでもが戦線へ現れる事態へと発展したことは未だ脳裏に焼き付いて離れない。

 そんなメイドを客として扱ってはいないか。

 電話を寄越した連中は、口々にそう言うのだ。

 

「ロック、君は何か聞いてないかい?」

「……心当たりが無いわけじゃない」

 

 ベニーの問いかけに、ロックは眉尻を下げた。

 そこにようやく酔いが覚めたレヴィが加わる。

 

「さっき市場で妙な噂話を聞いた。サータナム・ストリートのサンカン・パレス・ホテルの廊下で見たっつうんだ」

「見た? 何を」

「メイドさ」

 

 ダッチとベニーの二人が無言で顔を見合わせる。そんな、まさかとでも言いたげな表情だ。

 

「そういう噂が出回ってるって段階だ。俺だって何も一から百まで信じてるわけじゃない」

「大体あのクソアマがここに来る理由が無ェ。本当に来てるってんなら是非もう一度お会い申し上げてェもんだ」

「ま、確かにその通りだ。しかし火が無ぇのに煙は立たねぇ」

 

 笑い飛ばすレヴィを横目にダッチの表情は険しいままだ。立て続けにメイド関連の電話が入り、そんな噂まで出回っているとなれば、それは既に看過できるようなレベルを超えている。

 

「ブラックユーモアにしちゃセンスが無ぇ、与太話だと笑い飛ばすにゃ些か度が過ぎてる」

「おいおいダッチ、こんな話信じてんのかよ?」

「本当に只の与太話だってんなら歯牙にもかけねえ。俺が気にしてんのはなレヴィ、ヨタを選別する脳味噌を持った連中までもがこの話気にかけてるってとこなのさ」

 

 サングラスを掛け直して、ダッチはそう述べた。

 ベニーもそれに同調するように口を開く。

 

「イザック、キャスティバ、RR。三人ともリロイ程じゃないが名の知れた情報屋だ。三人ともから同じ質問を受けてる。つまりはそういう確度の情報なんだ」

 

 これには流石にレヴィも閉口した。リロイには及ばないにしろ、ベニーの言った三人はロアナプラでは名の通った情報屋だ。ラグーン商会としても何度も世話になっている。レヴィの知る限り、この三人はそこいらのおつむの薬が必要な連中とは違う。そういう人種だ。そんな人間たちもがこの情報に関して頭を突っ込んでいる。それをダッチは気にしているのだ。

 

「……本当にあの女中がこの街にやって来ているとして、その目的は何だと思う」

「結論なんか出ねえよロック。俺たちにあの殺戮機械(キリング・マシーン)の思考が読める筈が無ぇ」

「ご子息殿がまた攫われたって線はどうだい?」

「あのクソアマが同じミスを二度もするたァ思えねェな」

 

 レヴィの言う通り、彼女が二度も主人が攫われるような失態を犯すとは考え難い。

 この街にはあの戦闘能力を以てしても一筋縄ではいかない人間たちが居ることも知っている筈だ。

 では、何故。

 一体なにが彼女をこの地まで突き動かしているのか。

 

 ロックは女中、ロベルタの過去の経歴を知らない。知らないが故に、ラブレス家絡みではないかと思考が傾いていくのは極自然のことだった。

 ベネズエラの屋敷を離れ、仕える当主の元すらも離れ、この悪の肥溜めのような場所を訪れる理由。

 

「……当主……、ベニー、ちょっと調べて欲しいことがある」

「何か思い当たったのかい?」

「確証はない。だから確かめるんだ、もしも俺の予想が当たっていたらと思うと、冷や汗が止まらないけど」

 

 

 

 9

 

 

 

 ウェイバー家に居候中の少女、グレイはロアナプラではちょっとした有名人である。

 その容姿が目を引くということも理由の一つとして挙げられるだろう。襟足までしかなかったプラチナブロンドの髪は今は腰辺りまで伸び、黒のワンピースとカーディガンによく映える。無邪気に笑う姿を何も知らない一般人が見れば、天使のようだと言うかもしれない。

 しかし、少女の名を轟かせている最大の理由はウェイバーに銃を向けて未だ生きているということにあった。

 ロアナプラに住む人間たちはウェイバーのこれまでの所業を知っている。ジャケットのボタンが外れていたら近付くな、リボルバーを見たら即座に逃げろ、銃口が向いたら来世を願え。ウェイバーと真っ向から撃ち合って生き残っている人間など、この街ではバラライカと張くらいのものだ。この三竦みの過去の戦争を聞いた、見た者が大勢居るために、現在のウェイバーに関する噂が広まったのである。本人曰くかなりの誇張が入っているそうだが、大勢の意見ばかりが真実扱いされるのはどこでも同じなのだ。

 

 黄金夜会のメンバーしかこれまでウェイバーとまともにやり合える人間は居なかった。バラライカにしても張にしても、正真正銘の怪物たちである。そんな枠組みの中に、グレイはすっぽりと収まっているのだ。周囲から注目を浴びるのも無理からぬことだった。

 加えて、グレイはバラライカの私兵を手にかけている。正確に言えば彼女ではなく双子の兄の仕業であるが、身内の死に対して苛烈なまでに憤るバラライカがグレイを殺していないという事実も少女の知名度を高めていた。

 簡潔にまとめてしまえば。

 ウェイバーとバラライカの双方に影響を及ぼしうる人物、それがグレイに対する周囲の認識だった。

 

 故に、間違っても手を出そうなどと考える輩は現れない。手を出したが最後、想像しうる最悪な死に方を二回り以上上回る凄惨な死に方をするのは目に見えている。

 一度イカレたロリコン野郎がグレイに手を出そうとしたことがあったが、その時はドス黒い肉塊が三つほど出来上がった。勿論グレイの所業だ。

 ウェイバーとバラライカとの繋がりを持ち、本人の戦闘能力も高いとなれば、誰が喧嘩なぞ吹っ掛けるのか。そんなわけで、この街でグレイはすくすくと(?)成長していたのだった。

 

「帰ったらお姉さんにお料理を教えてもらいましょう。そうね、毒の匂いが分からなくなるように匂いの強い料理がいいわ」

 

 因みに、少女は未だウェイバーの抹殺を諦めていなかったりする。

 ともすれば忘れそうになるが、少女は元々ウェイバーとバラライカの抹殺の為にロアナプラへとやって来た殺人鬼である。依頼主だったイタリアン・マフィアは殺害したものの、件の二人の息の根を止めることは一年経った今でも出来ていない。バラライカに関しては現在少女の標的ではないため、余程の事が無い限り銃口を向けることはない。向けたところで火傷顔(フライフェイス)率いる遊撃隊に制圧されるのは目に見えている。

 ではウェイバーに対してはどうか。

 同じ屋根の下で生活しているのだ、命を狙う機会など幾らでもあるだろう。

 ウェイバーの命を狙う事に関しては先駆者とも言える女ガンマン、レヴィは以前グレイの行動に対して簡潔にこう語っていた。

 

「まるで昔のアタシを見てるみたいだ」

 

 シャワールームへの突撃も。

 料理中の背後からの銃撃も。

 真夜中に寝込みを襲うことも。

 

 その結果がどうであったかは、ウェイバーが今現在生存していることで理解出来るだろう。

 ここ最近はそれが本気の命のやり取りというよりも過剰なスキンシップのようになってきてしまい、ウェイバーが頭を悩ませているというのは雪緒の言である。

 

 特に行く宛も無く街を歩き回ったグレイは、通りかかった市場の露店で幾つか果物をサービスでもらい、上機嫌で事務所への帰り道を歩いていた。

 

「……あら?」

 

 何かに気が付いたグレイは、小首を傾げてそう零した。

 ロアナプラではまず見掛けない、真黒な衣服に身を包んだ女が前方をゆっくりと歩いていたからだ。右手には古そうな革張りのトランクを持ち、人通りの少ない路地へと進んでいく。

 この街では見ない顔だ。グレイは最初にそう思った。ロアナプラでの生活も約一年。どこにどんな人間が住んでいるのか大雑把に把握してきたグレイだが、今目先を歩く女をロアナプラで見かけたことは無かった。

 度々視線を周囲に彷徨わせていることから、旅の人なのだろうと適当にアタリを付ける。グレイは特に何の警戒もすることなく、その女の元へと駆け寄っていった。

 

「お姉さん、探し物?」

 

 背後から掛けられたその声に、女は立ち止まって無言で振り返る。そこに立っていたのが子供であることに多少驚いたのか、僅かに目が見開かれた。

 

「……酒場を探しておりますの」

「酒場? どんな?」

「イエローフラッグという名の。一度来たことはありますが、どうにも記憶が曖昧で」

「ああ。その酒場なら私知っているわ、案内してあげましょう」

 

 言うやいなやグレイは女の手を取って踵を返す。これは只の親切である。打算の無い、少女の無垢な思いやりからの行動だった。それは互いにとって幸いだった。

 もしもこの時グレイが殺気を含んで近付いていたら。もしもグレイが女の様子がオカシイことに気付いていたら。

 ギリギリのラインで辛うじて踏み止まっていることに互いは気づかぬまま、イエローフラッグへの道を歩いていく。そんな二人を道行く人間たちは信じられないような表情を浮かべて見ていた。何がどうなればそのコンビが誕生するんだと、声を大にして叫び出す輩まで現れる始末である。

 そんな周囲の雑踏と奇異の視線に紛れて、二人を流し見する男が一人。

 

「……メイドと、子供……?」

 

 訝しげにヨアンは呟いた。

 

『何か言った?』

「いや、何でもない」

 

 受話器越しのクラリスの声に、視線を二人の後ろ姿から正面へと戻す。

 

『それで? 無事悪党の巣窟に足を踏み入れた感想は?』

「言われるだけのことはあるな」

 

 携帯電話を耳に当てながら、ヨアンはぐるりと周囲を見渡した。一見して何か揉め事が発生しているわけではない。ただ、そこら中にその痕跡は残されていた。外壁に刻まれた銃痕、血痕。その数が尋常ではないのだ。

 

「手配書の上位層が巣食ってるのも納得だな。こんな街、奴らにしてみりゃ格好の隠れ蓑だろう」

『多国籍企業を騙ったマフィアなんかも多いって聞くけど』

「十中八九アタリだろうな。どんな大物が釣れるかは知らんが、あの男に繋がってさえいりゃそれでいい」

 

 ヨアンの目的はウェイバーの逮捕。他の悪党など二の次である。周囲に蔓延る有象無象になど構っている暇はないのだ。

 

「よォ兄ちゃん。見ねえ顔だな」

 

 と、唐突に真正面から声を掛けられる。分厚い筋肉に覆われた大男と、その後ろに続く五人ほどのチンピラ。

 眉を潜めつつも、一先ずヨアンは無視を決め込むことにして男たちの間を通過しようとする。当然それを許してくれるはずもなく、大男の腕によって行く手を遮られてしまった。

 

「無視とはいけねえなあ。アンタこの街がロアナプラだって分かってんのか?」

『なになに? もしかして絡まれちゃったりしてる?』

「あー、どうやらそうらしい」

『ちょっとそれ大丈夫なわけ? だって――――』

「後で掛け直す」

 

 それだけ言って、ヨアンはクラリスとの通話を強制的に終了した。携帯電話をズボンのポケットに突っ込み、正面の男たちを見据える。

 

「で、なんの用だ?」

「……いい度胸してんじゃねえか兄ちゃん。この人数前にしてその態度かよ」

 

 いい加減無視を続けられて大男も限界が近かったのだろう。額に浮かぶ青筋が、男の怒りを如実に表していた。

 金目のものでも盗られるんだろうか。はたまた血達磨にでもされるのか。そんなことを考えながら、ヨアンは男たちに囲まれ薄暗い路地裏へと連れ込まれる。既にヨアン以外の全員が拳銃かナイフを手に持ち、威嚇じみた視線を投げ付けてくる。

 そんな彼らを前に、しかしヨアンの態度は一切変わらなかった。

 

 そして。

 

「――――――――ああ、もしもし。クラリスか、悪いな切っちまって」

『それはいいけど、大丈夫なの?』

「問題ない」

『いやアンタじゃなくて、絡んできた方よ』

 

 ヨアンの足元に広まっていたのは、赤い血溜まりと動かなくなった六人の男たちだった。最初に声を掛けてきた大男の上に腰を下ろし、ヨアンは事も無げに告げる。

 

「殺しちゃいないよ。いや失血死って可能性はあるのか」

 

 携帯を持っていない方の手で愛銃をくるくると回しながら、下で倒れ臥している男を眺める。

 

「こんなのがゴロゴロ居るんだ。上層部だって正当防衛ってことで片付けてくれるでしょ」

『ヨアンの場合過剰防衛だからね』

「命を守るためだ、止むに止まれぬってやつだよ」

『どうだか』

 

 呆れを多分に含ませたクラリスの言葉を耳にしながら、ヨアンは緩やかな動作で腰を持ち上げる。手馴れた動作で拳銃をショルダーホルスタへと戻し、何事も無かったように通りへと戻っていく。

 

「一先ず人が多い場所を回ることにするよ。もしかするといきなり当たりを引けるかもしれない」

 

 それなりに人間が集まる場所など、この街でなくても大体は同じである。宛は幾つかあるが、ヨアンはその全てを回っていくつもりだった。

 

 ロアナプラに紛れ込んだ異物たち。

 それらはこの街を内側から静かに、しかし確実に侵食していく。

 

 

 

10

 

 

 

 バオが俺の事務所に怒りの電話を入れてきたのは、陽が傾き始めた頃だった。

 雪緒の話を受け、何だか嫌な胸騒ぎを覚えていた正にその時である。

 まさかバオからの電話だなどと夢にも思わない俺はなんとはなしに受話器を取り、次いで飛び出した怒声に思い切り顔を顰めた。

 

『てんめえウェイバーこれは一体どういうことだァッ!?』

 

 受話器越しのバオが一体今どんな表情(カオ)をしているのか一発で理解できてしまえるほどの怒声だった。

 が、俺は今日に限って言えば彼を怒らせるような真似をした覚えはない。

 

「何の話だバオ、いきなりがなられても意味が分からん」

『お前ンとこのチビッ子だよクソッタレ!! あのガキよりにもよってとんでもねえモン連れて来やがったッ!!』

「落ち着けよバオ、最初から全部話してくれ」

『落ち着けだ!? てめえ俺の金玉がチタンで出来てると思ってんのか!?』

 

 ダメだ、どういう経緯(いきさつ)があったのかは知らないが、受話器越しで会話をしていても埒が明かない。グレイがどうとか言っていたし、今ここに帰ってきていないことも含めて何か関係があるんだろう。静かに息を吐いて、宥めるようにバオに言う。

 

「分かった、今からそっちへ向かう。詳細はそこで聞かせてくれ」

『ああ聞かせてやるさクソッタレな事の顛末をよ!』

 

 それだけ言ってバオは一方的に受話器を叩き付けたのだろう。ブツンと回線が切れ、無言の電話だけがそこに残った。

 

「何か揉めてたようですけど、大丈夫ですか?」

 

 キッチンの方から顔を覗かせる雪緒に問題ないとだけ告げて、椅子に引っ掛けてあったジャケットに袖を通す。

 何を言われるんだろうか。グレイのことだから、店内のテーブルやら椅子なんかを撃ちまくったのかもしれない。そうなるとまたバオに弁償しないといけなくなるな。いや、金額で言えば俺やレヴィの方が圧倒的なんだけれども。

 直接話を聞かなければ始まらない、とイエローフラッグを目指して歩き出す。大分影も伸び始め、あと一時間もすれば夜の帳が下りるだろう。

 俺の事務所からイエローフラッグまではそこまで距離があるわけでもないので、基本的には徒歩で移動している。メリーの働くカリビアン・バーには専ら車を使用しているが、大通りに建つカリビアン・バーとは違いイエローフラッグは大通りからは一本外れた場所に建っているため、車を使うよりも徒歩で移動した方が都合がいいのだ。主に車を擦らないという点で。俺の運転技術はお世辞にも良いとは言えないのだ。

 

 取り留めのない事ばかりを考えていると、イエローフラッグが見えてきた。

 既に開店はしているのか、内側からは電灯の明りが漏れている。

 扉を押して、店内に入ってみれば。

 

「あン? レヴィとロックか」

 

 時間が早いため人の数はまばらだが、カウンターに見知った二人を見つけた。ラグーン商会の二人だ。カウンターの奥には顰めっ面のバオの姿もあり、射殺さんばかりの眼付きで俺を睨んでいる。

 取り敢えずロックの隣りに座り、適当に酒を注文する。

 

「どうしたんだよボス、飲むにしちゃあ早いじゃねェか」

「バオに呼び出されてな、嫌々出てきたんだよ」

「バオに?」

 

 そりゃまたどうして、とレヴィが尋ねるよりも早く、バカルディを乱暴に置いたバオがカウンター越しに詰め寄ってきた。

 

「やいウェイバー、てめえ今度は一体どんな爆弾引っさげて来やがった」

 

 先程の電話の時よりは幾分か落ち着きを取り戻したみたいだが、それでも語気がかなり荒い。

 取り敢えずバカルディをグラスに注ぎ一息に呷る。空になったグラスを置いて、二杯目を注ぎながら。

 

「だからよバオ。俺には何を言ってるのかてんで見当がつかない。一から説明してくれ」

「おう耳の穴かっぽじってよく聞きやがれ。今日の俺は機嫌が良かった、久しぶりに賭けでデカイ当たりを引いたからな。だから鼻歌歌いながらここの開店準備に精を出してた。一時間ぐれえ前のことだ」

 

 俺だけでなく、ロックやレヴィもバオの話を興味深げに聞いている。

 まだ話の全体像が見えてこないので、無言でバオに続きを促した。

 

「そんな時だ、準備中だってのに扉が開いた。俺はどんな先走り野郎がやってきたのかと思って振り返ったんだ。そしたらどうだ、そこにゃ――――」

 

 不自然に途切れたバオの言葉を不思議に思ってグラスに向けていた視線をバオに向けると、目を見開いて固まってしまっていた。

 

「おいバオ?」

「……オイ、こいつは一体何の冗談だ?」

 

 僅かに震えた声音でそう呟いたバオの視線の先を追って、身体は正面を向けたまま首を僅かに回して背後を見やる。レヴィ、ロックも俺の動きに続くように身を捻って入口の方へ顔を向けた。

 そして、二人の動きもぴたりと止まる。

 

「……事務所の方へ連絡を入れたのですが、ご不在のようでしたので」

 

 その声は、未だ幼さを残す少女のものだった。

 黒を基調とした給仕服を身に付ける少女は、一度目礼してから。

 

「皆様がこちらをよくご利用されることは若様から聞いておりましたので、こうして出向かせていただいた次第にございます」

「……君は、ラブレスの関係者かい?」

「ああ、これは失礼しました。わたくし、ラブレス荘園にて雑役女中を勤めさせていただいております。ファビオラ・イグレシアスと申します」

 

 ロックの問い掛けに少女、ファビオラは丁寧にそう答えたのだった。

 

 

 

 

 

 




 以下要点。

・ファビオラ勘違いの伏線。
・グレイ、核弾頭と接触。
・ヨアンニアミス。
・ウェイバー事情を知らぬまま核心へ。


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031 巨影に潜むモノ

 11

 

 

 

「――――張大哥、コロンビアの連中が動いたようです」

「仔細を」

戦闘車両(テクニカル)が三台、シッタラードの幹線道路を港湾方面へ向かったとのことです」

「……何か嗅ぎ付けたか」

 

 腹心、(ビウ)の事務的な報告を受けて張は僅かに眉根を寄せた。

 三合会の所有するオフィスの一室。白を基調とした部屋の中心に置かれた長椅子に背を預け、張は天井を仰ぎ見る。今彼の頭を悩ませている案件は、下手をすればこの街全体を巻き込みうる程に凶悪なものだった。

 一言で述べてしまえば、メイド絡み。無知な人間が聞けば一体何をと思うだろうが、黄金夜会の一角たる三合会支部長の頭痛の種となる程度には、それは厄介なものだった。

 テーブルに置いてあった煙草を取ってそれを咥える。すかさず彪が差し出した火に煙草を近づけ、ゆっくりと煙を吐き出した。

 

「女中の裏付けはとれたか?」

「こちらに」

 

 静かに置かれた紙の束を手にとって、張は一枚ずつ捲っていく。数分かけて最後の一枚にまで目を通すと、紙束を無造作にテーブルに放った。

 

「面倒な事になっちまった」

「全くです」

あの時(・・・)はコロンビアの連中に攫われた子息の奪還が火種の発端だった。その時は関わる義理も道理も利益も無い、だから静観を決め込んでた」

 

 だが、と張はそこで言葉を一旦切ってから。

 

「今回に限っちゃあ話は別だ」

 

 三分の一程の長さになった煙草を乱雑に灰皿に擦り付け、指を絡めて思考を巡らせる。

 

「彪、お前はどう思う」

「と言いますと?」

「女中の事だ。俺にはあの女が何処(・・)を見ているのか分からない。まるでウェイバーを相手にしているようだ」

「あの人に関しちゃこっちの物差を向けるだけ無駄だと思いますがね」

 

 自身の判断基準に収まるような人間ではないのだと笑う彪の意見に、張は小さく首を振った。

 

「お前の言う通りだ。そして今回、それは女中にも当て嵌る」

「……どういうことです」

 

 彪の疑問に、張はテーブル上の散らばった紙に視線を落として。

 

「彪、奴の仇討ちは当主様が爆弾テロで木っ端微塵に吹き飛ばされたのが原因だったな」

「ええ、その資料に書いてある通りです」

「そこまではいい。こんな情報は少し潜ればそこらの情報屋でも容易に手に入れられる」

 

 険しい表情を崩さないまま、張は続ける。

 

「見えてこないんだよ。一番肝心な、敵の姿ってやつが」

 

 ここまで言って、ようやく彪も張の思考に追い付く。

 南米大陸で発生した爆弾テロ事件。それに巻き込まれ、女中が仕える当主は死亡した。そしてその女中は海を越えて、現在このロアナプラに潜伏している。

 

 それは一体何故か。

 この街に敵が居るからだ。

 

 ラブレス家のメイド、ロベルタは非常に鼻が利く。ならばこそ、彼女は獲物の臭いを嗅ぎつけてこの港街に足を踏み入れたのだろう。張はそう予想していた。

 そしてこの予想が正しいのだとすると、その敵という存在が今、確かにこの街に居るはずなのだ。

 しかしその姿が一向に見えてこない。その影すらもだ。

 それが堪らなくもどかしく、張の苛立ちを加速させる。

 

「俺はな彪、あの元ゲリラの女中がこの街で誰を探して殺そうが構わんよ。こちらに害の無い限りはな」

 

 だがこちらに累が及ぶような事態に発展する可能性があるのであれば話は別だ。どんな手段を使ってでも止めねばなるまい。張はそこまで考えていた。

 

「俺でも把握することができない誰かがこの街に潜んでいやがる。しかもどこの馬の骨とも分からないソイツは、テロ現場にいた何百人かのうち壇上に居る奴らのケツのみを正確に蹴り上げてる。そういう(・・・・)技術を持った野郎だ」

 

 暗にそこらのゴロツキとは次元が違うと言う張の言葉に、彪も眉根を寄せた。

 

「しかし大哥、そんな腕を持ってる奴ならいやでも耳に入る。新参者だろうが古参だろうがお構いなしに」

「……名を売る必要が無いとしたらどうだ」

 

 絡めていた指を解き、張は窓の外に見える港街に視線を向けて。

 

「この悪の都にソイツは息を潜めてる。欲もなく、金も必要とせず、ただ力と技術を持った連中だ。その連中は一体何を求めてこの街へやって来た?」

「…………」

「推測の域を出ない話だが、今後は街の利益に関与しない人間も含めて洗った方がいい」

 

 そう言うと張はソファから腰を上げ、引っ掛けてあったジャケットを手に取った。

 

「どちらへ」

「紙束に書いてある事が確かなら、まずは関わってる人間に聞きに行くのが手っ取り早い」

 

 僅かに口角を吊り上げて、彪の肩に手を置いた。

 

「ちょっと付き合え。挨拶は先に済ませておいた方がいい」

 

 

 

 12

 

 

 

 ロアナプラはクソッタレな悪党どもを掻き混ぜて出来上がった穢れた別天地だと、以前誰かが言っていたことをぼんやりと思い出す。

 拳銃を見せびらかして通りを歩けばその手の輩が大量に釣れることからも分かるように、この街はそこかしこが爆心地になりうる可能性を秘めているのである。いつどこで血腥い殺し合いが起こるか分からない。夜中の港でも、真昼間の大通りでも、条件さえ満たしてしまえばたちまち戦争が始まってしまう。

 まあ、何が言いたいのかといえばだ。

 

 その条件さえ満たしてしまえば、このイエローフラッグだって十分戦場と化す可能性を秘めているということなのである。

 というか現在進行形で俺の後ろで面倒ごとが発生している気がしてならない。

 頭は殆ど動かさないまま、ちらりと背後に視線を向ける。

 立っていたのは真黒な衣服に白のエプロンを着けた黒髪の少女。グレイよりは年上だろうが、しかし雪緒よりは年下に見える。ロックが口を開いたところを見るに、どうやらラグーン商会に用があってこの酒場を訪れたようである。

 となれば好都合。何か厄介事の臭いが漂い始めたここで無闇に首を突っ込むべきではない。触らぬ神に祟りなし、火の粉が降りかからないのであればそれに越したことはない。

 無言でグラスを傾ける俺に、形容し難い表情をしたバオがずいっと顔を寄せてきた。

 

「おいウェイバー、てめえまたこの店ぶっ壊す気じゃねえだろうな」

「よく見ろバオ。俺はあのお嬢ちゃんに面識はねえし会話してんのはロックだ。ぶっ壊すならレヴィたちだろ」

「そういうことじゃねえんだよアンポンタン。オメエが居るだけで店が何度吹き飛んだと思ってんだ」

 

 小声で怒鳴るという器用な真似をしながら顔を顰めるバオ。

 心外だ、俺のせいでイエローフラッグが消し飛んだことなど片手の指で済んでしまう程度である。レヴィに比べれば大したことはない。

 止みそうにないバオの愚痴を一先ず黙らせ、何事かを話し込んでいるロックたちに意識を向ける。

 

「初めまして、セニョールロック。お会いしとうございました」

「俺の事を知ってるのかい?」

「若様よりお話は伺っております。詳しいことはホテルにてご説明申し上げますので、移動をお願いできますか?」

 

 当主、とは言うまでもなくガルシアの事を言っているのだろう。先程あの少女は自分のことをラブレス家の女中だと言ったのだ。というかあの佇まいからして只者ではなさそうである。何だ、ラブレス家のメイドってのはみんながみんな戦闘人形か何かなのか。

 

「…………」

 

 特に口を挟む必要もないので、無言で酒を呷る。

 出来ることなら呼び出された用件をさっさと聞いてお暇させてほしいものである。この場に留まっていると厄介事が転がり込んできそうな気がしてならない。

 視界の端でレヴィがロックへと何か耳打ちしているようだが、小声なこともあって内容までは聞き取れなかった。

 と、そんな折。

 店の向こうから乗用車では決して出せないような重低音とエンジン音が近づいて来ている事に気が付いた。

 

 今度は何だ、と思いつつも、視線は目の前の酒から離さない。

 しばらくしてそのエンジン音も停止し、無数の足音が店内へと雪崩込んできた。

 

「おお居た居た。へェ、ほんとにあのクソアマとおんなじ格好をしてやがる」

 

 部下らしい男たち数十人を連れて店内に入ってきたのは、どうやらマニサレラ・カルテルの連中らしかった。

 

「よォグスターボ、ぞろぞろと部下引き連れてどうしたのさ」

 

 酒瓶を片手にレヴィが先頭の男へと問い掛ける。

 ああ、何だかどんどんこの場から離れ難い状況が出来上がりつつある気がする。

 グラスに酒を注ぎながら、レヴィたちの会話に耳を傾ける。

 

「なに、ちょいとこのお嬢ちゃんに用があってな。国から送られてきたFAXの格好と一緒だ、関係者に違いねえ」

「なんだよセニョール、アンタもあのクソアマを追ってんのか?」

「ま、そんなトコだ」

 

 レヴィにそう返して、グスターボは少女を上から下まで値踏みするように睨めつける。この間も俺は無言でグラスを呷り続けている。連れられた部下たちの殆どが俺から数メートル程距離を取っているが、ただ酒を呑んでいるだけの俺に対して些か行き過ぎた警戒だろう。別に無差別に人間を撃つような真似はしないというのに。

 ちらりと背後を見る。あ、グスターボと眼が合った。

 途端、グスターボが両手を身体の前で大きく振った。

 

「待て待てウェイバー! 俺たちゃアンタとやり合うつもりはねェぞ!」

「…………」

 

 答えるのも面倒だったので、持っていた酒を呑むことで肯定の意を示す。俺だって銃撃戦なんてまっぴら御免だ。

 なにやら更にグスターボの顔色が悪くなったような気がするが、無視して視線をカウンターに戻す。

 

「……ウェイバー?」

 

 消え入りそうな程に小さな声で、少女が俺の名を呟いた。

 

「あの、すみません、そこの……」

「兄貴、コイツが例のメイドで?」

 

 何事かを言いかけた少女の言葉を遮って、野太い声が発せられた。背を向けたままの状態なので俺の後ろで何が起こっているのかは定かではない。いちいち振り向くのも何だか格好悪いので、もうこのまま酒と不機嫌そうなバオの顔だけ見ていよう。

 氷だけになったグラスになみなみと酒を注ぎ、ぼんやりと後ろでのやり取りに意識を向ける。

 

「いや、コイツじゃねえが……。どうやら俺たちはツイてる、このおちびちゃんと一緒にいりゃあのメイドに辿り着けるかもしれねえ」

 

 メイドって。なんだ、カルテルの連中もロベルタを追っているのか。アブレーゴまで動いてるとなると、いよいよもってこの話の信憑性が確実になってきたわけか。あのコロンビア野郎はいけ好かないが、裏付けの取れていない案件に首を突っ込んだりすることはない。リスクとリターンの勘定が出来る人間だ。そのアブレーゴがこうして部下を動かしているということは、つまりはそういうことなのだろう。

 

 昼間に雪緒から聞いた話が気になってリロイに連絡を取ってみたが、どうやらロベルタはベネズエラを離れここロアナプラへとやって来ているらしい。

 どこに潜伏しているのかまでは掴めていないようだったが、グスターボの発言を聞くにそれはコロンビアの連中も同じなようだ。

 そんな状況にあって現れた少女である。逃したくないと考えるのは当然のことだろう。

 

「あ、ちょっと返してください!」

「悪いなおちびちゃん。ちょいとばかし中身を確認させてもらうぜ」

 

 会話を聞くに手持ちのトランクでも開けているのだろう。その直後にカルテルの連中から笑い声が巻き起こるが、中身を見ていない俺には何が何だかさっぱりである。

 

「なんだありゃ」

「棒付きキャンディとランチボックスにしか見えないけど」

 

 レヴィとロックの会話でようやく中身の詳細を知ることが出来た。

 というかそこそこの大きさがあったトランクの中身がそれだけってどうなんだ。衣類とか入っていないのだろうか。

 

「お分かりいただけましたか? そろそろ離してもらえると有難いのですが」

「まァ待てよ。俺たちはお宅の婦長様の大ファンでよ、是非ともお会いしてェんだが」

「婦長様の居場所は存じ上げません」

「じゃあ一緒に探そうぜ、見たところレヴィたちに用があるんだろう? 俺たちもついていくさ」

 

 少女とは言えあの年頃である。下着なんかは見られたくないと思うんだが。

 ああ、だからトランクには入っていなかったのか。きっと先んじてホテルにでも置いてきたのだろう。

 

「……はぁ」

「どうしたよおちびちゃん」

「いえ、自分の迂闊さを嘆いていただけです。ええ、本当に。若様にあれだけ言われていたにも関わらず」

「あ? 一体なに言ってやがる」

 

 衣類と言えば、そろそろグレイもブラジャーとか必要になってくるのだろうか。その辺り男の俺は門外漢だし、今度こっそり雪緒にでも聞いてみようか。出来ることなら彼女に一任したいな、流石に男がランジェリーショップに入るのは気が引ける。

 

「もし私が助力を拒んだ場合、どうされるおつもりですか?」

「そうだな、お花畑にでも連れてってやるぜ」

「……成程、よく分かりました」

 

 ああ、でももしグレイが衣類なんかに興味を持ち出して大量に買い込んできたりしたら置き場所に困ってしまうな。雪緒にしたって数枚のシャツしか用意が無いようだし、そろそろ新しいモノが欲しいだろう。

 となると。

 

「……衣類がスッキリ収まるクローゼットとか必要だな」

 

 ぼそっと呟く。

 その直後のことだ。

 やけにイイ笑顔を浮かべたレヴィが、空になった俺のボトルを払い除ける。そのボトルが落下し、床に当たって粉々に砕けたのとほぼ同時。

 

 甲高い衝突音と共に、謎の煙が店内で炸裂した。

 

 

 

 13

 

 

 

「むう」

 

 白い頬を小さく膨らませて、グレイは僅かに眼を細めた。いわゆるジト目と呼ばれるやつである。

 

「待っててって言ったのに」

 

 両手に持った二つの包みに視線を落として、先程までそこに居たはずのメイドが居なくなっている事を残念がった。

 ほんの少し目を離した隙に(実際にはグレイが露店に駆け込んでいった為である)、黒髪のメイドは忽然と姿を消してしまった。二人でイエローフラッグへと赴き、何やら用事があるらしい店の名前を聞き、いざ向かおうとしていた道すがらだ。

 包みの一つを開けて中身を頬張る。厚めの皮の中からあふれる肉汁に自然と顔も綻んだ。

 本来なら二人で一緒に食べようとしていたものだったが、こうなってしまっては仕方がない。一つ目の包みの中身を素早く完食し、もう一つの包みを開ける。

 

「それにしてもあのお姉さん、なんだか様子が変だったわ」

 

 

 

 14

 

 

 

 ファビオラがイエローフラッグへと足を運んだのは、ガルシアの言葉を受けての事だった。

 少年は以前誘拐されたことがあり、その時に助けてくれた人がこの酒場をよく利用しているというのだ。その当時のことを彼はあまり話してはくれないが、その一件以降ガルシアとロベルタの仲が縮まっていることはファビオラのみならず他の女中の眼から見ても明らかだった。

 年の差はあれど、二人は相思相愛のようだった。少なくとも、ファビオラにはそう見えていた。

 

 しかし、ある日ロベルタは姿を消した。誰に何を言うでもなく。

 ガルシアの父がテロ活動に巻き込まれてから一週間程経った日のことだった。

 そんな彼女を追ってやって来たのがこのタイの港街だ。ガルシアはここに来る前、この街のことを亡者の街だと言った。その意味をファビオラは今まさに全身で理解する。どいつもこいつも、皆腐りきった眼をしている。

 ただ唯一、目の前の男以外は。

 彼は以前ガルシアを助けるために協力してくれた人間の一人だ。今回もまた助力を得るためにファビオラはこの酒場にまで足を伸ばしたのである。

 

「初めましてセニョールロック。お会いしとうございました」

「俺の事を知ってるのかい?」

「若様よりお話は伺っております。詳しいことはホテルにてご説明申し上げますので、移動をお願いできますか?」

 

 小さく頭を下げる目の前の少女を見つめて、ロックはしばし思考を巡らせる。

 ガルシアに呼び出される案件など一つしか思い浮かばない。今自分たちも直面しているメイド絡み、つまりはロベルタの事だ。現状これといった情報を持ち合わせていないロックたちからすれば、少女の提案を断る理由など無かった。

 一先ずはファビオラという少女に同行することにしよう。そう結論を出したロックが返事をしようとしたところで、隣に座っていたレヴィに横腹を肘で小突かれた。

 何事かと視線をレヴィへと合わせれば、やけに顔を近付けてロックの向こう、もっと言うなれば奥のウェイバーを見ている。

 

「どうしたんだレヴィ?」

「……嵐が来るぜ、ロック」

「え?」

 

 小声で告げられた突然の言葉に、素っ頓狂な声が漏れる。

 

「ボスを見ろ。ああやって無言でハイペースで酒を呑んでる時はな、大抵その後に碌でもねェことが起こる。預言者もビックリの的中率でだ」

 

 レヴィ曰く、ウェイバーがああもハイペースで酒を呷るのは途中で酒飲みを邪魔されたくないからだと言う。

 というか碌でもないこととは何だ。ウェイバーの第六感がどうなっているのか非常に気になるところである。

 そして至って真面目な口調でそう言うレヴィの言葉を裏付けるかのように、ソレはやって来た。

 戦車のように分厚い装甲を施された大型車両、それが三台。イエローフラッグの目の前まで来て停車した。ぞろぞろと中から這い出るようにして現れたのは、ロックも見覚えのある連中だった。

 

「よォグスターボ。ぞろぞろと部下引き連れてどうしたのさ」

 

 先んじて声を掛けたレヴィに、グスターボは真っ白な歯を見せて笑う。

 

「なに、ちょいとそこのお嬢ちゃんに用があってな」

 

 ああ、成程とロックは納得した。

 グスターボ率いるマニサレラ・カルテルの連中がメイド絡みで動いているということに、ではない。

 ウェイバーの行動の後に起こるという碌でもない事態がこのことだと悟ったのだ。

 グスターボはウェイバーの存在には気が付いているようだが、声を掛けるような真似はしなかった。背中からでもはっきりと分かる威圧感に呑まれてしまっているのだろう。視線を小柄な少女に向けて、頭から爪先までじっとりと見つめた。周りを囲む部下たちも決してウェイバーの半径三メートルには近づこうとしない。そこだけぽっかりと空間が出来てしまっていた。

 手出しすることなど出来ないが、マフィアのプライドは持ち合わせていたのだろう。無言でウェイバーの背中を睨み続ける部下一同。

 そんな彼らの視線に気付いていたのか、ウェイバーは無言でグスターボを睨み付けた。

 それだけでウェイバーの視線の意図を理解したのだろう。慌ててグスターボは部下を下がらせて。

 

「待て待てウェイバー! 俺たちゃアンタとやり合うつもりはねえ!」

「…………」

 

 言葉を返さず、ウェイバーはグスターボから視線を外して背中を向けた。

 まるでお前たちなど背中を向けたままで十分だ、とでも言わんばかりの態度に、しかしマニサレラ・カルテルの構成員たちは動けなかった。ここで無闇矢鱈に銃撃戦を仕掛ければどうなるか、その結末は目に見えていた。ウェイバーが静観してくれているのであればカルテルとしても好都合である。

 背中を伝う嫌な汗を感じながらも、グスターボは必死に口角を吊り上げた。

 

 そんな男の言葉に反応したのは、渦中の少女だった。

 背中を向けたままの男に視線を固定し、無意識のうちに口から言葉が溢れる。

 

「……ウェイバー?」

 

 それは、その名前は。

 あの人(・・・)と同じ名前ではないか。

 思わず背中を向けたままの男に手を伸ばしそうになって、慌ててファビオラはその手を押し留める。

 

 そんな筈はない。

 

 あの人と出会ったのはもう何年も前、しかもこの地から遠く離れたベネズエラだ。それが偶然に再会することなど、どれほどの確率だろうか。

 落ち着いて考えてみればウェイバーなどという名前はそこまで珍しいものでもない。同名の人物と出会ったとしても、何らおかしくはない。

 

 でも、だけれど。

 あの背中に、どこか見覚えを感じるのはどうしてだろうか。

 あの時に見た背中と同じに見えてしまうのは、ファビオラ自身がそうであったらと望んでいるからなのだろうか。

 

「あの、すみません、そこの……」

 

 確かめたいと、純粋に少女は思った。

 今目の前で背を向ける男があの人である可能性は低いのだろう。だとしても、確認せずにはいられなかった。

 だが、そんな少女の行動を制限するかのように口髭を生やした大男に襟首を掴まれてしまった。

 

「兄貴、こいつが例のメイドで?」

「いや、コイツじゃねえ。だが俺たちはついてる。このおちびちゃんといればあのメイドに辿り着けるかもしれねえ」

 

 襟首を掴まれたまま、少女は周囲の男たちを眼球の動きだけで見渡した。

 これは穏やかではない。それぞれの手には黒光りする拳銃が握られていた。

 

「俺たちゃお宅ンとこの婦長様の大ファンでよ、是非ともお会いしてェんだが」

 

 褐色肌の香水臭い男たちに囲まれて、ファビオラは眉を潜めて息を吐いた。

 ガルシアにあれほど言われていたというのに、あの人のことを思い出して周囲の警戒を怠ってしまった。背後を取られるなど、普通であれば有り得ないことである。

 

「……はぁ」

「どうしたよおちびちゃん」

「いえ」

 

 己の迂闊さが恨めしい。

 ファビオラは再度小さく溜息を吐いて、男達に気付かれないようメイド服の内側に仕込んであるモノを確認する。

 傍から見ればそれはほんの僅かな身体の動きだったが、カウンター席に座っていたレヴィには少女が何をしようとしているのかが理解できたようだった。その口元を大きく歪め、面白いものでも見つけたような表情を浮かべている。

 

(さて、抜くのは銃かはたまた剣か)

 

 いずれにしても、ロックはカウンターの中に押し込んでおいた方が良さそうだとレヴィは隣のロックを見ながら思った。

 そんなロックの奥で無言で酒を呷り続けているウェイバーをちらりと見る。

 そして、ウェイバーとレヴィの視線が交錯した。

 これまで無言を貫いていた男は、視線を正面に戻して。

 

「……いるいがす……」

 

 その言葉を受けて、レヴィの表情が変化する。

 なんということだ。ウェイバーは僅かに聞こえる衣擦れの音だけで、ファビオラが取り出そうとしているモノの正体を見抜いたのである。それはレヴィの予想には含まれていなかったもの。

 

(催涙ガスか!)

 

 となればこのまま傍観を決め込むのは得策とは言えない。こちらまで被害を受けることになりかねないからだ。

 空になった酒瓶を床にわざと落として、レヴィはロックをカウンターの中に放り投げた。次いで自身もカウンターへ飛び込み身を屈め、目当てのブツを漁る。

 

 直後、ウェイバーの言ったように白煙がイエローフラッグ内部を覆い尽くした。

 

 

 

 15

 

 

 

「……歓迎ムードじゃあなさそうだな」

 

 扉を開けた途端突き付けられた二本の槍を交互に見ながら、張は額を掻いた。

 既に銃を抜き応戦状態の背後に立つ彪を手で制して、部屋のソファに腰掛けていた少年へと一歩近付く。

 更にもう一歩踏み出そうとして、しかしその行く手は二本の槍によって阻まれてしまった。

 

「こいつは驚きだ。ラブレスの家の女中ってのはみんな戦闘狂なのかい」

「……貴方は?」

 

 疑問の声をぶつける少年、ガルシアに対して、張はどこまでも平坦な声で。

 

「張維新。この街に探し物があるんだろう? その件で話がしたいんだ。ラブレス家十二代目当主、ガルシア・フェルナンド・ラブレス」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




以下要点。

・張行動開始。
・グレイ早速はぐれる。
・ウェイバー勘違い節(久々)
・ファビオラ戦闘開始。




今更Twitter始めました(小声)

@kohsuke11136


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032 騒乱の中心部へ

 

 16

 

 

 

 突如として炸裂した白い粉塵は、瞬く間にイエローフラッグを飲み込んだ。床に叩きつけた音からして閃光弾や煙幕の類かと思ったが、どうやらそれは俺の思い違いであったらしい。

 何故そんなことが分かるのかと言われれば。

 

「眼が、眼がァッ!?」

「なんだこりゃ痛ェ! とんでもなく眼が痛ェ!!」

「涙が止まらねえしなんも見えねえぞオイ!」

 

 イエローフラッグの至るところから、野太い男どもの泣き叫ぶような声が聞こえてくるからである。

 あのメイド少女が使用したのは催涙ガスだったようだ。マニサレラ・カルテルの連中はそれをモロに食らってしまったようで、まともに身動きが取れなくなってしまっているのだろう。

 

「いやホント、おっかねえことするなァあのチビッ子」

「呑気に宣ってんじゃねえよこの野郎」

 

 カウンター内部に身を滑り込ませて一息付けば、隣で身を屈めていたバオにそんなことを言われてしまう。

 バオの向こうにはレヴィとロックの姿もあった。咄嗟に避難を完了(ロックに関しては投げ込まれた)させる辺り、かなりイエローフラッグでの厄介事への対処がスムーズになってきている。

 

「というか何なんだあのチビッ子、ロックの知り合いなのか?」

「い、いえ。俺も初対面ですよ。ただあの子、ガルシア君の家のメイドみたいで」

「あのクソアマの同類ってこったよボス」

 

 因みに今現在、俺を含めた四人は皆一様に防毒マスクを着用している。カウンターの裏に用意されているものを使用しているのだ。

 何故こんな物が酒場に用意されているのかといえば、何年か前にイエローフラッグ内で毒ガスをぶち撒かれたことがあったからである。そこには偶然俺も居合わせていたが酷い有様で、何人かはその毒にやられて三途の川を渡ってしまった。それ以降緊急時の対応として複数の防毒マスクが置かれるようになったのだ。店内の装甲板しかり防毒マスクしかり、年々イエローフラッグが要塞のようになってきているのはきっと俺の気のせいではないだろう。この酒場は一体どこに向かっているのだろうか。

 というわけで催涙ガスの被害を受けることは免れたのだが、どうもカウンターの向こうでは銃撃戦が始まったようだ。無数の銃声と怒声が耳に届く。

 

「そうだレヴィ! テメエ仕掛けやがったな!?」

「面白くなっただろ? それにボスが目で「やれ」って言うもんだからよ」

 

 いや言ってねえ。断じて言ってないぞそんな事は。

 

「……彼女を助けたのか?」

「あのジャリがくたばっちまえば用向きも聞けなくなる。それじゃつまんねェだろ?」

 

 ロックの問い掛けにもレヴィは飄々とそう答える。

 基本的に好戦的なレヴィである。目の前でドンパチを起こされて参戦しないことなど少ないのだが、どうやら今回は見に徹するスタンスらしい。催涙ガスがようやく晴れて視界が確保された店内で、酒瓶とグラスを手に口元を歪ませている。

 俺もレヴィに続いて防毒マスクを外そうかと思ったが、完全にガスが流れるまではやめておこう。少しでも目を痛めるリスクは排除しておきたい。隣のバオやロックなんかはやれやれといった面持ちでマスクを外していたが。

 

 尚もカウンターの向こうでは銃声が止まない。

 どころかより一層その激しさを増しているようである。

 あ? なんだこりゃマシンガンか? 50口径くらいありそうだぞ。

 スコールのような弾丸の嵐が真横から降り注ぐ。恐らくは店外に停めてあった戦闘車両に装備されていた機関銃だろう。イエローフラッグが蜂の巣にされていく光景を他人事のようにぼんやりと眺める。

 

「おいテメエこのイカレメキシコ野郎(スピック)!! 何考えてやがるッ!!」

 

 自分の城を現在進行形で無残に破壊されているバオにしてみれば堪ったものではなく、カウンターから身を乗り出してカルテルの連中に怒声を浴びせていた。

 

「うっせえぞバオ! それよりもあのガキは粉微塵に吹っ飛んだかッ!?」

「それよりもだぁ!? テメエ俺の店をオープンカフェにでもしようってのかクソッタレ!!」

 

 そんな二人の口論を、レヴィはケラケラと笑いながら眺めていた。その横ではロックが頭を抱えている。出来ることなら俺も同じように頭を抱えて蹲りたいものだ。が、そんなことをして視界を塞げばどこから弾が飛んでくるか分からない。そんな自殺行為をするわけにはいかなかった。

 バオとの口論に嫌気が差したのか、懐から拳銃を抜いてグスターボも少女に向かって飛び出していく。

 開戦当初と比べ、カウンターの向こうから聞こえる銃声の数は徐々に減ってきているようだった。あの小さなメイドがカルテルの連中を確実に殲滅しているということだ。仮に少女がくたばっているようなら、今もこうして銃声が轟いているはずがない。

 防毒マスクを装着したままの状態で、ゆっくりとカウンターから顔を出す。

 銃声が断続的に響くのは変わらずだが、その数が明らかに減ってきていることで事態が沈静化しつつあることを確信した。

 果たして俺の予想の通りに、視界の先には倒れ臥したカルテルの連中と肩で息をする少女の姿があった。グスターボも足を撃たれたのか、膝の辺りを押さえて蹲っている。店の外に待機していた戦闘車両の銃口も破壊されており、操縦者も血濡れで微動だにしない。この様子だと少女以外は戦闘不能になったと見ていいだろう。

 カウンター内部に身を潜めているレヴィとロックに視線を送り、銃撃戦が終了したことを伝える。

 

「はぁ……。本当に最低なところ」

 

 溜息と共に少女はそう零す。

 

「セニョールロック! まだこの世におられますか!?」

 

 店の内部に向かって声を張る少女の問い掛けに応じて、ロックはよろよろとカウンターから立ち上がった。

 

「不思議なことに生きてるよ」

「ああ、それは良うございました。貴方方に死なれてしまうとその分お屋敷が遠のきますので」

 

 安堵した様子でそう呟く少女の元へとロックとレヴィは歩いていく。

 そんな二人を他所に、俺とバオは薬莢が散蒔かれた床に腰を下ろし、ぼんやりと天井を見上げていた。

 

「…………オイ」

「分かってるよ。バーツか? ドルか?」

「50口径でも貫通しねえ壁に造り変える。あと窓も防弾だ」

 

 憔悴しきった表情を浮かべるバオの肩を無言で優しく叩いて、俺もカウンターの向こうへと踏み出した。

 

「……そちらの方は?」

 

 途端、少女から訝しげな視線を向けられる。いやまぁ、マスクを付けたままの男を見たら大抵はこういう反応をされるのだろうが。しかし完全にガスが霧散するまでは外すわけにはいかない。最近視力が落ちてきているのだ。これ以上眼にダメージを与えるわけにはいかない。せめて店外に出るまではこの格好を通させてもらう。

 俺の出で立ちに関して、レヴィやロックは何も言わない。俺がこの頃眼を大切にしていると知っていたのだろうか。誰かに話した記憶はないが、大した問題でもないので蒸し返す必要もない。

 見れば少女も早々に話を進めたいようだったので、会話の先を促して俺は聞き役に徹することにしよう。

 

「ファビオラちゃん、今ダッチ……うちのボスと連絡がついた。直ぐに車を寄越してくれるみたいだから、それを待っての移動でいいかな」

「ええ、私もご一緒させていただきます」

「それとボスもな」

 

 くいっと親指を俺の方へ向けて口角を吊り上げるレヴィ。

 マスクの下で俺は「ん?」と小さく零した。どうしてそんな流れになるのか。

 

「そのマスクの方は部外者では?」

「オイオイちびっ子、この街について何もお勉強してこなかったのか?」

 

 懐疑的なファビオラを嘲るように、レヴィは俺を指差したまま。

 

「最強の矛が舞い込んだのさ。有り難く頂戴しなロリータ」

 

 

 

 17

 

 

 

「バオにゃあ同情するぜ。ありゃこれまで見た中でも一等ひでぇ壊れ方だった」

「僕はそれよりも後ろの彼女に驚かされたけどね」

 

 ミラー越しに映る小さな少女を視界に収めて、そうベニーが呟いた。

 店の七割が損壊したイエローフラッグにダッチとベニーが駆け付けたのが今から十分程前のこと。六人を乗せた車は現在ガルシアが待つというサンカン・パレス・ホテルへ向かって走行中だった。助手席にダッチ、その後ろにウェイバー(マスク着用)、真ん中にロック、その隣りにレヴィ、その膝上にファビオラという車内図である。

 

「全くだベニーボーイ。お前は何だ、あいつの娘かなにかか?」

「私も婦長様もそんな年齢ではありません。……それよりも、その」

 

 僅かに言い淀むファビオラはエプロンの裾を握りしめて。

 

「こ、この座席位置はどうにかならなかったんですか?」

「この車は五人乗りだよお嬢さん。嫌ならトランクが空いてる」

「ヘイロリータ。背中から擲弾筒(グレネード)が飛び出してるぜ」

「やめなよレヴィ」

「…………」

 

 後部座席の喧騒に頭を抱えるダッチだったが、その中で無言を貫くウェイバーが気にかかった。

 

「なぁウェイバー。アンタいつまでそのマスク着けてるつもりだ?」

「…………」

「よせよダッチ、ボスにゃあ考えがあるんだろうさ。聞くだけ野暮ってもんだぜ」

 

 そう言われてしまうと反論は出来なかった。これまでウェイバーの一見無意味にしか見えない行いは、後々必ずどこかで役に立ってきた。今回もそうなのだと言われると、ダッチとしても二の句を次ぐことは出来なかった。

 ダッチを黙らせたレヴィの言葉。それに反応したのはダッチでもロックでもなく、膝上に乗っかる小柄な少女だった。

 

「……ウェイバー?」

 

 先程も酒場で同じ名前を聞いた。カルテルの男たちが口にしていた名だ。

 無意識のうちにエプロンを握る手に力が込もる。それは、その名は。少女にとってかけがえのない人物の名だ。それをこんな野蛮で粗暴な人間たちに、平然と口にして欲しくはなかった。自然、ファビオラの視線は尚もマスクを着用したままの男へと向けられる。

 

(……こんな男が、あの人と同じ名前だなんて)

 

 怒りにも似た感情を抱きながらも、ファビオラはそれを必死に押しとどめた。

 先程酒場でその名を耳にした時は咄嗟に本人かどうかを確かめてみたいとも思ったが、よく考えてみればあの人がこんな肥溜めのような街にいるはずがない。

 そも、同じ名前の人間が居たとしても何ら不思議ではないのだ。それこそウェイバーという名だ、特に珍しい名前でもない。

 故に現在ファビオラが気になっているのは、先程レヴィがマスクの男について『最強の矛』と評した点である。

 どう見てもただの変人にしか見えないのだ。先程の酒場での騒動を無傷で切り抜けているところを見るにそこそこ場馴れしていそうではあるが、今自身を膝に乗せているレヴィや助手席に座る黒人の大男と比較するとどうしたって見劣りしてしまう。

 

 一体何をどうすれば今も肘を着いて窓の外を眺めている男が最強の矛とまで言われるようになるのだろうか。

 おちょくられているのでは、とファビオラが勘繰るのも無理からぬことだった。

 

「あの、本当にこのマスクを着けた方が婦長様を探す手がかりになるのですか?」

「なんだよちびっ子。アタシの言うことが信じられねェか?」

「どう見ても頼りになるとは思えません」

「その点に関しては問題ないよ」

 

 ファビオラの言葉に、レヴィに代わりロックが返答する。

 

「この人はこの街でも指折りの実力者だ。ロシアン・マフィアだっておいそれと手出しは出来ないし、君の所の婦長とも過去にやり合ってる」

「そんな、婦長様と……!?」

 

 途端にファビオラの目が驚愕で大きく見開かれる。ロベルタの強さを知っているが故の反応だった。

 信じられないと目を丸くするファビオラに、ロックは続ける。

 

「ウェイバーさんなら間違いなく君たちの助けになってくれると思うよ」

「……この方が、ですか」

 

 ロベルタとやり合ったという話を聞いても半信半疑のファビオラに、頭の上からレヴィが問いを投げた。

 

「なぁ、ラブレスのメイドってのはイランの大使館に乗り込んで人質取り返してくるような奴だらけなのか?」

「……ラブレス家には現在私を含め六人の女中が在籍しておりますが、以前より武器の扱いが出来たのは婦長様と私だけです」

「以前ってことは、今は」

「そうですセニョールロック。現在は全員が何かしらの武器、武術の心得があります」

 

 ヒュー、とベニーの口から口笛が漏れた。

 メイド全員が武装兵士という事実に、ロックも口元が引き攣った。レヴィだけは面白そうに少女を見下ろしていたが。

 

「ま、なんにせよサンカン・パレスはそこの交差点を曲がれば直ぐだ。詳しい話は着いてからにしよう」

 

 ダッチの言葉に、ロックもレヴィも開いていた口を閉じた。

 ロアナプラという港街で比較的小奇麗な建物が並ぶ地区。その中でも一際豪奢な建造物が、交差点を曲がってすぐに姿を現した。

 

 

 

 18

 

 

 

「あら、お帰りグレイちゃん」

「ただいまお姉さん」

 

 事務所の扉を開いて戻ってきたグレイを、部屋の掃除をしていた雪緒が笑顔で出迎えた。が、そんな笑顔も一瞬のこと。グレイの口元に付着した小麦粉の皮を発見した瞬間、雪緒の表情が氷点下にまで低下した。

 

「グレイちゃん?」

「なぁにお姉さん」

「何を買ったのかしら」

「な、何も食べてなんかいないわ」 

「へえ、食べ物を買ったのね?」

「はッ!?」

 

 墓穴を掘ったグレイに、逃げる術は残されていなかった。

 約十分間のお説教が終わり、涙目で痺れた足を擦るグレイがここでようやく家の主が居ないということに気付く。

 

「お姉さん、おじさんは?」

「さぁ、なんだか電話で呼び出されていたみたいだったけど」

「ふぅん……」

 

 適当に相槌を打って、革張りのソファへとダイブ。くるりと身体を反転させ天井を見上げ、少女は思考を巡らせる。ついさっきまで一緒に行動していた、真黒なメイドのことだ。忽然と姿を消してしまったがためにその後を追うことは不可能であったが、何もグレイは思いつきで行動を共にしていた訳ではなかった。

 いつだったか、ウェイバーに言われていたのだ。

 

 ――――いいかグレイ。この街で知らない顔を見たらまず疑ってかかれ。

 

 どうして?

 

 ――――基本的にロアナプラってのは閉じた街だ。余所者が入る余地がないほどに狭く深い場所で辛うじて成り立ってる不安定な街。そんなところに知らない顔があれば誰だって警戒する。お前が来た時だってそうだっただろう?

 

 確かにそうだったわ。

 

 ――――だからさ。知らない人間がこの街を堂々と歩いていたらそいつは何かを企んでいる可能性が高い。もしもそんな奴を見かけたら、用心しろよ。

 

 ウェイバーが話していた事をしっかりと覚えていた結果、グレイは行動を共にすることを選んだわけである。正体不明の女が何を企んでいるのか興味もあったが、それ以上にあのメイドからは底知れぬ怨嗟の念を感じたのだ。

 グレイが撒かれてしまったのは単純に相手の技量によるものだったが、少女はさして気にしていなかった。

 あのメイドではいずれまたどこかで再会することになる。そんな確信にも似た予感がする。小さく、グレイは口元を歪ませて。

 

「……楽しみだわぁ」

 

 

 

 19

 

 

 

 復讐の連鎖は、怨嗟は、どこまで行けば終わりを迎えるのだろうか。

 復讐にのみ生きる己は、一体どこまでその身を堕とせば報われるのだろうか。

 

「……フフ」

 

 狂喜じみた笑いが無意識のうちに溢れる。

 その答えは、とうの昔に出ている。

 復讐の連鎖に終わりなど存在しない。例え全身を鮮血に染め、敵対する全てを殲滅したとしても、己が報われることは永遠にない。

 

 踏み込んだのは、再び舞い戻ったのは。出口などないドス黒い感情が渦巻く死霊蔓延る世界なのだから。

 自らに救いなどない。報われることもない。

 ただ、それでも。命を賭してでも、必ずや。

 

 外壁が所々剥がれ落ち、安物のペンキで塗られた看板も錆び付いた小さなホテルの一室で、ロベルタは己の顔と向き合っていた。洗面台の周囲には様々な薬品が散乱し、空き瓶が転がっている。明らかに常軌を逸した量だと分かるそれらをまとめて口に放り込んでは噛み砕き、嚥下していく。薬物中毒者も真っ青なその量を、ロベルタは無表情のまま飲み込んでいった。

 震える指先を静めるように、胸元のロザリオを握り締める。

 

「……ロザリタ(・・・・)

 

 それは聞き覚えのあるような声だった。

 

「君の行おうとしているそれは、本当に復讐か?」

 

 ロベルタは洗面台の鏡を凝視したまま動かない。

 

「復讐とは単なる動機でしかない。今の君は、何か別のものを見ているのではないか」

「…………」

「今の君の瞳は、あの頃と同じ色をしているよ」

 

 声の主はベッドに腰を下ろして、ロベルタの後ろ姿を見つめていた。

 

「……私の罪は、私だけが背負うもの。だから……」

「贖罪のつもりか。だがそれは叶わない、自分が一番よく分かっているだろう」

 

 男の顔は、過去にその手で殺めた男そっくりだった。あるいは男本人なのかもしれない。

 

「なぁロザリタ、君は戻りつつある。密林であの男と銃撃戦を演じたあの日、革命を夢見ていたあの頃の君に」

「黙れ」

 

 言葉と同時に拳銃が引き抜かれた。発砲音と共に、ベッドの男の眉間に風穴が開く。

 一度瞼を閉じて再び持ち上げると、既にそこには男の姿は無くなっていた。

 幻覚を見ている、という自覚はある。あの量の薬物を毎日摂取しているのだ、人体のどこかに支障をきたすのも当然と言えば当然だ。しかしそうでもしなければ、ロベルタは自身の怒りを鎮めることは出来なかった。今にも飛び出してしまいそうなこの怒りと欲望を抑え込むためには、こうする他なかったのである。

 

 情緒が不安定になりつつある。そう自覚したロベルタは、最低限の武器だけを持って部屋を出た。気分転換というつもりはなかったが、少しでも先程の男の幻影を振り払いたかったのだ。

 だからこそ、これは本当に偶然だった。様々な要因と偶然が重なり合い、その邂逅を許してしまった。

 ホテルを出て裏路地へと入ったロベルタの視線の先に、異質な雰囲気を纏う男が立っていた。ロアナプラにしては珍しい、一目で上質だと分かるシャツを着た茶髪の男。

 

「あん? アンタどっかで見たことある(ツラ)してるな」

 

 会話すらも億劫に感じたロベルタは、無言のまま高速で銃を引き抜いた。幻覚で現れた男と同様に、眉間を撃ち抜いてやるつもりだった。

 

「……いきなり発砲か。ホントこの街の連中は血の気が多くていけねえ」

 

 しかし、ロベルタが放った銃弾は男を捉えることは無かった。

 男が放った銃弾が、ロベルタの弾丸を撃ち落としたのだ。

 銃弾撃ち(ビリヤード)。曲芸じみた技術を実際に行える人物など、ロベルタはウェイバーしか知らない。つまり今目の前にいるこの男は、少なくともウェイバーに近い実力を有しているということである。即座にロベルタの視線が鋭くなる。

 そんなロベルタの瞳を見て、ようやく男も合点がいったらしい。右手で拳銃をくるくると回しながら。

 

「ああ、お前、ICPOのリストで見たな。確かそうだ……Aランクの猟犬」

 

 男、ヨアンは犬歯を剥き出しにして獰猛に笑う。

 

「メインディッシュ前の運動にゃあ丁度良い。首輪嵌めて刑務所に放り込んでやるよ」

「……行く手を阻むというのであれば、容赦はしない」

 

 最早二人に言葉は意味を成さなかった。

 仄暗い路地裏で、二匹の狂犬が牙を剥く。

 

 

 

 20

 

 

 

 サンカン・パレス・ホテルへと足を踏み入れ、通されたのは最上階のスイートルームだった。ロアナプラという土地柄利用客は殆どおらず、俺もこうして足を踏み入れるのは初めてのことである。

 ダッチを先頭にラグーン商会の面々にちっこいメイド、そして俺と続く。廊下に真っ赤な絨毯が敷き詰められていることから察しはついていたが、やはり室内もインテリアを始め中々高級な品が使用されているようだった。マスクをしているせいであまり良くは見えないが。

 部屋の奥にはこれまた高そうなテーブルとソファが幾つか並んでおり、そこには見知った顔が二つ(・・)並んでいる。

 一人はラブレス家の現当主、ガルシア。そしてもうひとりは黄金夜会の一角、三合会のタイ支部長、張維新だ。どうしてこの男がここに居るのかは知らないが、基本的に張が行動を起こすのはロアナプラ全体に被害が出る恐れがある場合なので、事態は案外切羽詰っているのかもしれない。

 

 いつまでも扉の前に突っ立っているのもあれなので室内へ足を踏み入れようと一歩を踏み出……そうとしたところでピタリと足の動きを止める。アクション映画やスパイ映画でよくあるパターンだ。入口付近に罠なんかが仕掛けてあって、警戒もなしに足を踏み入れると瞬く間にあの世逝きという。いや、前を歩いていくレヴィたちが普通に中へ入っていくから何も問題は無いのだろうが、一応こういう時は気をつけたほうがいいのである。

 というわけでここで一旦立ち止まり、今まで着用していた防毒マスクを外す。イエローフラッグを出る時点で本当は外したかったのだが、外すタイミングを失いここまで来てしまったのだ。移動の車内でその話題が出たときに外そうとも考えたが、レヴィにああ言われてしまってはなんだか外してはいけないような気にさせられてしまう。

 外したマスクと部屋を交互に見て、なんの気なしに室内に放り込んでみる。

 

 途端、防毒マスクに二本の槍が突き刺さった。

 

「ハハッ、やっぱりウェイバーには通じないよな。これでさっき俺が言ったことは信じてもらえるかい? 女中さん方」

 

 愉快そうに笑う張の言葉を受けて、室内の壁に張り付くようにして身を潜めていた二人の女が俺の前にゆっくりと姿を現した。そっくりな顔をした女たちだ。ロベルタや小さな子と同じ格好をしているところを見るに恐らくは二人もラブレス家の女中なのだろう。どうしてこんな罠を仕掛けていたのかは知らないが、取り敢えず助かったことは確かなようだ。

 

「……確かに」

「婦長様を圧倒したというのは、あながち嘘でもなさそうです」

「マナ、ルナ。先ずは話を進めよう。戻ってきてくれるかい」

 

 ガルシアにそう促され、二人は槍を下げて当主の背後へと付いた。直立不動、人形のように動かなくなる。

 

「張、これは一体何の真似だ?」

「なに、お前の実力に疑いを持ってるようだったからな。ちょいとばかし試してもらったのさ」

「命が幾つあっても足りないぞ」

「そいつぁお前のじゃなくて奴さんのだろう?」

 

 いや俺のだよ、というツッコミは心の内に留めておく。こういう時、自分の面の皮の厚さに感謝する。普通なら槍が目の前に飛び出した時点で声を上げているに違いない。実際ロックは驚きで声も出ないようだった。ダッチやレヴィ、ベニーは何故か全く動揺していなかったが。

 室内へ入りソファの前までやってきた所で、酒場で一騒動起こした少女が口をパクパクさせていることに気が付いた。

 うん? 俺の顔に何か付いているのか?

 頬や口元を触ってみても何かが付着している様子はない。

 首を捻る俺に対して、少女はわなわなと声を震わせて。

 

「ウェ、ウェイバーさん……っ!?」

「何だウェイバー、知り合いか?」

「いや、初対面の筈だが」

 

 メイドの知り合いなんて俺には居ない。ロベルタは知り合い以前の問題だ。

 何やら俯いてしまった少女は一先ず置いておくとして、張に促されるままに俺もソファに腰を下ろした。

 

「マナ、ルナ。彼らにお茶を」

「かしこまりました」

 

 即座にテーブルにティーカップが用意される。先程まで酒を飲んでいたこともあって実は喉が干上がりそうなほどに乾いていた。出来ればすぐにでも飲み干したい。

 が、それを手に取ることはせず、張へと視線を向けた。

 まさかこれ、毒入りじゃないよな、という意味を込めて。先程の奇襲のこともある。慎重になるのも仕方ないだろう。

 

「分かってる、そう急くなよ」

 

 一つ頷いて張が口を開く。

 なんだ、わざわざ聞いてくれるのか。それとも自ら毒見役を買って出てくれるのか。

 

「さて、早速だが本題に入ろう。この街で今、何が起ころうとしているのか」

 

 いや、違うそうじゃない。

 

 

 

 




以下要点
・おっさんマスク装備→偶然にもそのおかげで奇襲回避。
・ファビオラウェイバー本人を認識。
・猟犬VS警察犬(凶暴)


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033 黄金夜会

 21

 

 

 ガルシアの口から告げられた内容は、張、ウェイバー、そしてラグーン商会それぞれの喉の閊えを完全に取り除くことは出来なかった。

 ベネズエラで発生した爆弾テロ。その会場に居合わせたラブレス家の先代当主ディエゴは、その爆発に巻き込まれ帰らぬ人となった。現地警察や世間はそれを右翼連中の爆破テロだと断定し、捜査線上に浮上した組織に属する容疑者を軒並み拘留したのである。

 部屋の壁に背を預けていたダッチが、一つ息を吐いた。

 

「左派党の台頭が面白くねえ右翼連中の爆破テロか。気持ちいい程筋が通るな」

「だからこそ引っ掛かる。そうだろう?」

 

 張の視線に、ガルシアも頷いた。

 面白い程に筋が通る今回の犯行だ。少し裏を洗えば右翼と左翼の抗争などいくらでも出てくる。そんな中にあって今回の爆破テロ。三流ゴシップ記者でも辿り着きそうな真相が、果たして本当に真実であると言えるのだろうか。

 どうもキナ臭いのだ。まだ何か裏に潜んでいる、そう感じざるを得ない。張の警戒網を持ってすら特定できないレベルの獣たちが、息を潜めてその牙を磨いでいる可能性がある。

 この事件には何か裏がある。姿形を捉えられない程巨大な何かが、足元で蠢いているような感覚を覚える。

 ガルシア、そしてロベルタもそれを確かに感じたのだ。幾ら何でも出来すぎていると。

 

「ロベルタは言っていました。右翼派組織(彼ら)にあの爆破テロを行える技術はないと」

 

 だが幾らガルシアたちが疑問の声を上げたところで、所詮は一般人の戯言でしかない。現地警察は容疑者を逮捕した後、事件終了を宣言し全く動きを見せなくなってしまったのだ。これ以上声を荒げたところでどうすることもできない。深い失望感の中、諦めかけていた折。唐突に訪問者はやって来た。

 

「彼は空挺部隊の将校でした。彼らもまた事件に疑問を感じ、独自に調査を進めていたんです。彼はベネズエラ国防総省とも繋がっていて、調査過程で判明したことを伝えてくれました」

 

 訪問者がガルシアへ齎したのは二つの事実と一枚の写真。

 一つは式典に参加したスタッフが偽装されていたということ。加えて偽装していた六名はステージの警備担当だった。

 そしてもう一つは彼らが国軍対外諜報部(DGIM)に所属する人間だということ。ガルシアに手渡された写真には、一つのテーブルを囲む彼らの姿があった。それを懐から取り出して、ガルシアはテーブルの上に静かに置いた。そして右端に映る男を指差して。

 

「この男がマルコス・ホセ・ルシエンデス。対外諜報部少佐です。現場に居た五名は、全員が彼の部下だった」

 

 写真に映るヒスパニック系の男を、張とウェイバーが見つめる。

 

「ウェイバー、この男に見覚えはあるか?」

「あるかよ。流石に諜報部はお手上げだ」

 

 単身でベネズエラに乗り込んだ経験もあるウェイバーだが、流石に諜報部の各個人までは把握してはいなかったようだ。ウェイバーならあるいは、とも思って質問を投げた張だったが、そもそも不要な殺生を嫌う男である。鉛玉をブチ込む最低限の人間しか記憶していないのだろうと思い至った。

 そんなウェイバーと張のやり取りを視界に収めつつ、神妙な面持ちを崩さないガルシアは続ける。

 

「それを知った翌日……ロベルタは……」

「姿を消したってか。ハッ、分かり易くていいじゃねえかよ。つまりテメエんとこの婦長様はその六人がアタリだと決め付けて噛み殺しに行った。それだけの話だ」

 

 ダッチとロックに挟まれる形でソファに背を預けていたレヴィが、面白くもなさそうにそう言い切った。

 レヴィの言うことは最もである。話を纏めてしまえばそれだけの話。先代当主を爆破テロに見せかけて殺害した組織の人間を突き止めた猟犬が、その牙を剥いた。

 たったそれだけの話なのである。

 ここで終われば、ではあるが。

 

 ガルシアの表情から、張とレヴィを除くラグーン商会の面々はここで話は終わらないと悟っていた。でなければ、ガルシアがロアナプラに来る理由がない。これほどまでに辛そうな表情を浮かべる筈がない。

 果たして、ガルシアから告げられた言葉は張たちの予想と(たが)わなかった。

 

「この写真に写っている六人のうち、二人が遺体で発見されました。一人はホセ・ルシエンデス。もう一人は白人の男、サイモン・ディケンズです」

 

 テーブルに置かれた写真の左端に写る太り気味の男を指差して、淡々と事実だけを述べていく。

 

「彼はカラカス郊外の安宿で焼死体となって発見されました。そして彼の肩書きは……」

 

 ぐっと唇を噛んで、消え入りそうな声で少年は語る。

 

「――――アメリカ合衆国国家安全保障局(NSA)責任将校。……現役の、合衆国陸軍将校です」

 

 

 

 22

 

 

 

 ガルシアから語られた言葉に、俺は耳を疑った。

 ロベルタが殺害した人間が現役の合衆国陸軍の将校。それは即ち、大国アメリカに真正面から唾を吐き捨てることを意味している。

 自他共に認める世界最強の兵力を有するアメリカに単身で喧嘩を吹っ掛ける。そんな無謀をロベルタは現在進行形で起こしているのだ。馬鹿馬鹿しいといっそ大声で笑い出したい気分である。

 

「……現役の軍人というのは確かか?」

「間違いありません。彼は大使館付き駐在武官のひとりでした」

「ウェイバー」

 

 サングラスの奥で鋭くなった瞳が俺に向けられる。

 張よ、このタイミングで俺の名を呼ばれる意味が理解できないんだが。何だ、他に聞くことなんて有りはしないぞ。

 が、そう易々と軽口を叩ける空気ではなさそうだった。見ればラグーンの連中やガルシア、お付のメイドたちまでもが揃って俺を見ている。やめろ、視線で俺に穴を開ける気か。

 特に何かを考えていたわけでもなかったので、すらすらと言葉が出てくる訳もない。かといって全員に見つめられるようなこんな状況も俺の胃によろしくない。

 

「……よろしくないな」

 

 普通に声に出してしまっていた。

 内心でハッとするが、どういうわけか張は俺の独り言を聞いて頷いていた。

 

「ああ、よろしくない。これは俺にとっても、この街にとってもな」

「議題がズレてねえか張さん。俺たちゃここに呼ばれた理由を聞きに来た筈だぜ」

 

 テカリのある頭を掻いて、ダッチが張へと言葉を投げた。

 そうなのだ。元を辿れば俺やダッチらラグーンの連中がこのホテルへやって来たのは、ガルシアが呼び立てたからなのである。いや、正確には俺は半ば強引に同伴させられただけだが。

 そうしてこの場へやって来たものの、今までのガルシアの話す内容からラグーン商会を名指しで呼び立てるという結論にはどうしても辿り着かないのだ。以前ガルシアがこの地を訪れた際に知り合い、ある程度素性を知っているからなどと単純な理由ではないだろうし。

 

「ハッキリさせようや坊ちゃん。ウチらに頼みてェ仕事ってのは一体なんだ?」

「……それは、」

 

 回りくどい事が嫌いなレヴィが痺れを切らしたのか、苛立たしげにガルシアへと問い掛ける。

 口篭る彼に代わって声を発したのは今まで動かなかった小さな少女だった。

 

「……若様は、婦長様の仇討ち行為に大変ご憂慮なさっておいでなのです。出来ることならば今すぐにでも荘園へと連れ戻したいほど。しかしここは異郷の地、土地勘の無い我々では探すものも見つかりません」

 

 ここまで聞いて、ようやく心の内で合点がいった。先程俺が思い浮かべた単純な理由とは、当たらずとも遠からずといったところだったようだ。

 ラグーン商会へ依頼したい案件。先程までガルシアが話した内容。張がわざわざ表舞台へと上がってきたその理由。点と点が繋がる。ああ、成程。これは確かに厄介だ。張が出張ってくるのにも納得である。ともすればこの街の存続すらも危ぶまれる事態へと発展する可能性があるのだ、神経質になるのも当然だろう。

 見ればダッチやレヴィ、ベニーも少女が言わんとするところをほぼ確信しているようだった。

 

「この地で助力を求められそうなのは貴方、いえ……日本人の貴方がたしかおられないとの由」

 

 そう言って、少女はロックと俺を真っ直ぐに見つめた。

 ん? あれ、どういうことだ。てっきりロックへ助力を求めるものだとばかり思っていたんだが。何故俺まで頭数に含まれているのか。ロックにちらりと視線を向ければ、彼はまだ事のあらましを把握できていないようだった。呆けた顔をして、口が半開きになってしまっている。同じ日本人としてその顔はいただけない、バカ丸出しといった表情である。一言声を掛けて口を閉じさせた方がいいだろうか。

 

「どうか、婦長様の捜索にご助力を願えませんか」

 

 ガルシアの後ろに立つ少女は俺とロックの二人を見つめたまま、そう述べた。

 ロベルタの捜索。これだけであれば只の人探し依頼だ。ラグーン商会に普段回ってくる仕事と大差はない。その目当ての人物がとんでもない殺戮人形というのが些か目を引くが、それだけだ。

 問題なのは、ロベルタが既にアメリカの現役軍人に手を掛けたということにある。いくら先代当主を殺害した可能性の高い人間たちだとしても、たった一人で世界最強の軍事力を有するアメリカの不正規戦部隊と命の取り合いなど正気の沙汰ではない。

 

「……ロック」

「っ! な、なんですかウェイバーさん」

 

 声を掛けただけだというのに、大きく肩を揺らすロック。なんだ、そんなに俺の顔を凝視して。阿呆面にしか見えないからその口を閉じろと忠告しようとしただけだというのに。

 

「ちょっと待ってくれウェイバー。ここから先は俺が話す」

 

 そうこうしているうちにダッチが会話に割って入ってきた。サングラスの奥で鈍く光る瞳には、幾分かの焦燥のようなものが見て取れた。

 

「張さん、アンタが神経質になる理由が分かったぜ。こいつは水爆よりも危険なパンドラの匣だ、誰が好き好んでそいつに手を出す」

「それで、何が言いたいダッチ」

「俺たちは降りさせてもらう。これは銭金の問題じゃねえ」

「ッ、そんな、どうして!」

 

 ダッチの発言に、思わず少女が声を荒げた。ロックを、次いで俺を見つめて、不安そうな表情を浮かべている。

 ラグーン商会のボスであるダッチはこの一件に関わろうとしないのは、至極真っ当な選択と言える。なにせ相手が相手である。さして親しくもない人間たちの為に国を相手にしようなどと、どこの馬鹿が思うだろうか。

 

「分かんねえかロリータ。テメエんとこの婦長様はな、皆の友達イーグル・サムと素手ゴロやる気なんだよ」

「その通り。彼女が相手にしようとしているのは合衆国の不正規軍隊だ。いや、ひょっとしたら、その先までを見据えているかもしれない」

 

 いよいよ以て、俺たちが介入できるレベルを超えているような気がしてきた。

 合衆国など相手にしていいような連中ではない。過去二回程あの自由の国で銃を交えたことがあるが、奴らは「本物」の軍隊だ。空挺崩れのバラライカたちや、以前ロベルタが所属していたFARCとも異なる。とにかく奴らは効率的で、一切の無駄がない。出来ることなら二度とお目にかかりたくない存在である。

 俺が呼ばれた理由はどうやらロベルタ探しのようだが、そんな事で俺が動く筈も無かった。昔であればいざ知らず、それなりの地位に収まることとなった俺が、おいそれと簡単に動くわけにもいかないのである。

 さてどうやって断ろうか、と思考を巡らせ始めたところで、小さな拳を握り締めたガルシアがそっと呟いた。

 

「……だとするなら尚の事、彼女を止めなければ」

 

 言葉の端々から、ガルシアがロベルタのことをどれだけ大切に思っているのかが感じ取れる。

 

「彼女は、僕の家族だ。彼女を守れるのは、僕しかいない……」

 

 父を失い、残る家族もその行方を眩ませた。望まぬ形で当主となり、家族まで居なくなった少年の心中は、決して穏やかではないはずだ。だというのに、ガルシアは俺や張の前で涙を見せるようなことはしなかった。

 前回会った時とは、まるで別人のようである。いや、そうならざるを得なかったということか。

 

「ロック、俺としちゃあこんな年端もいかない子供とその女中さん方をこんな街に放り出すのは心苦しい。出来ることなら後のことは俺たちに任せてベネズエラにお帰り願いたいってのが俺の本心だ」

 

 嘘つけよ。微塵もそんなこと思っていないだろうに。ジロリと睨み付けてやると、張は口元を緩めて肩を竦めた。

 

「らしくねぇな張さん。そんなこと微塵も思っちゃいねえだろう」

「芝居が過ぎたか? だがこの件に関しちゃ見過ごすわけにもいかねえのさダッチ。セニョール・ガルシアと同様、コロンビアの連中も女中を追ってる。遅かれ早かれカチ合うことになるのは確実だ」

 

 コロンビアの連中、というのはマニサレラ・カルテルのことだろうか。ひょっとすると、ロベルタの旧所属であるFARCという可能性も無くはないが。どちらにせよ面白くない話だ。連中がこんな火薬庫みたいな街で暴れては、跡形もなく消し飛ぶ可能性だってある。

 

「あの女中は特別だ。火傷顔(フライフェイス)やここに居るウェイバーが直々に動いたことは街の人間なら皆知ってる。それ故に街じゃ不安が溢れ返ってやがる」

 

 腕を組みそう述べる張は一度俺をちらりと見て、再び視線を正面に戻した。

 

「そういう不安の種は潰しておきたいのさ、分かるだろうダッチ」

「俺たちが関わるような案件じゃねえ。アンタが動いたらどうだ張さん」

「よせよ。三合会(俺たち)がそう易々と動けねえのは知ってるだろう。地位と権力は大きけりゃ大きいほど自由を奪われる、それはウェイバーも同じことだ」

 

 無言のままの俺を見やることなく、張はそう言い切った。

 正直な所、俺もここまで不確定要素の多い案件に関わる気は皆無だった。図らずも張に助け舟を出された形である。

 

 香港三合会。

 ロシアンマフィア、ホテル・モスクワ。

 イタリアのコーサ・ノストラ。

 コロンビア・カルテル。

 黄金夜会に在籍するこれらの組織は例外なく大組織である。その大きさは彼らの行動一つでロアナプラの情勢が傾いてしまうほどの影響力を持つといえば想像できるだろう。

 そんな一角に席を置く俺は他の連中とは違い、そんな大きな組織を有しているわけではない。精々が手のかかる娘っ子に年端もいかない少女がいるくらいだ。

 が、黄金夜会という名前は俺の想像以上の影響力を持っている。その影響力は俺が単体で行動していても付いて回るのである。何が言いたいのかと言えば、そう無闇矢鱈に俺も動き回れないということだ。前回のロベルタの一件は出会いからして完全に偶然であり、また銃を交えることになったのも意図してのことではなかった。日本での事も張という黄金夜会からの依頼であったためなし崩し的に受けただけだ。昔はそれこそ依頼があれば何でも受けて回っていたが、今となっては俺の手元に来る依頼などひと握りである。

 地位や権力なんてものに執着はないが、俺の意思とは無関係にこれらは俺の動きを制限してしまう。難儀なものだ。

 

「……ウェイバー、分かっているとは思うが」

「お前に言われなくても分かってるさ張」

 

 今回はロックたちに任せるよ、流石に米国とドンパチやるのは御免だ。

 心配しなくとも俺は関知しないさ。そんな意味を込めて笑ってみせる。ロックとガルシア、そのお付きのメイド三人の顔が一瞬強ばった。何だ、先程のロックみたいな阿呆面は晒していないはずだが。

 

「……さて、話を戻すが、そういう理由からウェイバーを動かすことは出来ん。残すところは一人なわけだが」

「張さん」

「まあそう急くなよダッチ。この悪の都に精通し且つ立場上立ち入れる場所も多く、そして中立的な立場に居る人間。お嬢さんのご指名は正鵠だ、なぁ? ロック」

 

 言葉を投げられ、ロックの表情が僅かに曇る。

 

「勿論無理にとは言わん。受けるかどうかを決めるのはお前だ」

「……もし俺が断れば、」

「その時は俺たちが独自のルートで捜し出すってだけの話だ。セニョールたちについても勝手にやってくれて構わんよ。ただ何か問題が発生しても俺たちはそちらには手出し出来ない。体面ってモンがあるからな」

 

 言葉を交える度、ロックの退路を絶っていく張。こういう心理戦や舌戦は三合会支部長の独壇場である。ダッチやベニーが渋面をつくる。

 何か逡巡するような仕草を見せるロックだったが、一度小さく息を吐くと、真っ直ぐに張を見つめた。

 

「……兵隊たちとメイドが顔を合わせる前に追い付く。それがご所望ですか、ミスター張」

「ま、そうなればそれが一番街にとっては都合がイイ」

「待てよ張さん、まだ片付いてねえことがあるぜ。その兵隊についてだ」

 

 ダッチからそう言われ、張はぽりぽりと額を掻いた。

 

「そうだな。お前らにも考える時間は必要だろう。纏まった段階で報告をくれ」

 

 そう言ってソファから張が立ち上がり、後ろに控えていた腹心がコートを手渡す。

 そのまま出て行くのかと思われたが、張は俺の肩に手を置いて人差し指で二回タップした。

 

「…………」

「明晩だ」

 

 それだけを告げて、二人は部屋から出て行った。

 先程の人差し指のタップ。それは黄金夜会が集う連絡会への招集の合図だ。こうした公の場ではこうした暗号を用いるケースが多い。普段なら組織の回線で連絡を回すが、どうやら今回は緊急の案件であるらしい。といっても、間違いなくこのメイド絡みの案件なのだろうが。

 ああ、また面倒な奴らの顔を見なくてはならないのか。只の定時報告会であれば度々バックれているんだが、今回ばかりはそうはいかないようだし。グレイの一件以降この街の担当になったコーサ・ノストラの幹部ロニーや、前回のメイド事件の火種となったカルテルのアブレーゴたちと顔を合わせるとほぼ罵倒しか飛んでこないのだ。そんな場所に誰が進んで出向くと言うのか。

 鬱屈とした溜息を吐き出して、俺もゆっくりと立ち上がる。

 

「ウェイバー」

「悪いなダッチ。これに関しちゃあ俺も大々的には動けない。そっちはそっちで処理してくれ」

 

 押し黙るラグーン商会とガルシアたちに背を向けて、サンカン・パレス・ホテルを後にする。窓の外に見える空は、この先を暗示しているかのように鉛色の曇が広がっていた。

 

 

 

 23

 

 

 

 周囲一帯の壁、地面に刻まれた弾痕が、事態の激しさを如実に表していた。

 硝煙の臭いと散らばる薬莢、遠くに聞こえるざわめきを耳にしつつ、ヨアンは姿を晦ました猟犬を思い返して舌を打った。己としたことがA級首の犯罪者を取り逃がしてしまうとはとんだ失態である。目立った外傷を受けることはなかったものの、相手にもダメージとなるような傷を負わせることは出来なかった。

 苛立たしげに携帯電話を取り出して、本部への直通回線を開く。

 

『はいはーい』

「俺だ」

『なに、また面倒事?』

「まあ事後報告にはなっちまうが、ロザリタって名前知ってるか?」

 

 ヨアンの問い掛けに、クラリスは間髪いれずにこう返した。

 

『リストにあったねそんな名前。確かAランク該当だったっけ』

「そいつとロアナプラでカチ合った」

『え』

「ひょっとすると、俺たちが思ってる以上にあの野郎の周りには大物が集まってんのかもしれねえ」

 

 世界中の戦禍を渡り歩く消息不明の男、ウェイバー。

 アメリカ合衆国の不正規戦闘部隊。

 そして元コロンビア革命軍。猟犬ロザリタ・チスネロス。

 時間軸も場所も違う独立した事件、人間が今。この悪徳の都に集結している。自身もその中に居ることを確信して、ヨアンは獰猛に哂った。

 

「アイツ諸共、一網打尽だ」

 

 

 

 24

 

 

 

「拡大集会、ですか?」

 

 事務所へと戻ってきた俺が告げた言葉を、雪緒はオウム返しのように呟いた。聞き覚えがないのも無理はない。少なくとも雪緒がこの地にやって来てからは行われていないのだから。

 事務所のソファに座る雪緒と、その横で寝転がっているグレイを正面に見据えて、俺は一つ頷いた。

 

「俺が黄金夜会って組織に席を置いているのは前にも言ったよな」

「はい。バラライカもその一員なんですよね」

「ああ」

 

 因縁浅からぬ仲であるバラライカには、やはり今も思う部分はあるのだろう。顔には出さぬよう振舞っているが、長年人間を観察してきた俺の目は誤魔化せない。

 

「定期的に開催される連絡会は各組織のトップと精々がその部下一人くらいを連れて行うものなんだが、拡大集会は傘下の代表までを含んだ大集会だ。連れてくる部下の数もそれなりに多くなる」

「どうしてそんな集会が……?」

「雪緒とグレイが来る前の話でもあるんだがな、メイド絡みでこの街にとってよくない案件があったんだ。それが今、再び起ころうとしている」

 

 定期的に開催される連絡会を待っていては手遅れになりかねない。そしてその規模は傘下代表の耳に入れておかねばならないほど拡大する可能性がある。つまりはそういうことだ。

 

「それが開催されることは分かりました。でも、どうして私たちにそんな話を?」

「二人にも、その会場へ付いてきてもらう」

「え……?」

 

 彼女にしては珍しく、呆けた顔を浮かべて言葉が出てこないようだった。グレイは寝転んだまま、俺を見て薄く笑っている。

 

「どうして私たちも?」

「この件に関しちゃあ二人も無関係ではいられない可能性がある。聞いておいて損はないだろう」

 

 というのが俺の偽らざる本音なわけだが、実を言うと拡大集会は各組織何十人も部下を連れてくるので俺だけ場違い感が半端ない。それを少しでも和らげたかったというのも理由の一つだ。幸いグレイも雪緒も肝が据わっている。現場で縮こまってしまうということもないだろう。

 それに、蚊帳の外ではいられないというのはほぼ間違いないだろうから。

 そんな風に考えている俺の前に座る少女は、やがて口を真一文字に引き結んで、首を縦に振った。

 

 

 

 25

 

 

 

 香港三合会、ラグーン商会、そしてウェイバーが立ち去ったホテルの一室。残されたガルシアとメイド三人は、息苦しさから解放されてようやく落ち着くことが出来た。特にファビオラと双子に関しては先程までのウェイバーの気に当てられてしまっており、身体の硬直が溶けたのも今しがたである。

 

「……ファビオラ、どうしてあの人を加えたんだい? 前の話ではロックさんに助力を請う予定だったじゃないか」

「すみません、若様。私の勝手な行動のせいで……」

「いや、責めてるんじゃないんだ。ただ、教えて欲しい。君は、ウェイバーさんを知っていたのかい?」

 

 ガルシアの問い掛けに、ファビオラは黙り込んでしまう。

 実際のところ、ファビオラとて未だ自身の心の整理が済んでいないのである。昔、自分を地の底から這い上がるきっかけをくれた恩人が、こんな街のトップカーストに位置している人間だったなんて。

 信じたくない、というのが本当の所だった。彼はあの頃と殆ど変わらない風貌で、まるで自分のことなんて忘れてしまっているかのように振舞った。もしかすると本当に気がついていないのかもしれない。この数年間で成長したファビオラと、あの頃の荒んだ少女を同一人物として捉えることは難しいかもしれない。

 同姓同名の別人物という可能性もあった。しかしそれはマスクを外した彼の顔を見た瞬間に消滅した。間違いない、間違えるはずがない。彼は、ウェイバーは。あの時カラカスで出会った人物と同じだ。

 

「……あの人は、私にラブレス家に仕える仕事を紹介してくれた恩人なのです」

「あの人が? そんなまさか」

「本当です。私は確かに、あの人からこの仕事を紹介されました」

「……一体何がどうなってるんだ」

 

 ガルシアの呟きは、ファビオラの内心と同じものだった。

 この街は最低な肥溜めだ。巣食う人間は極一部の例外を除いて屑ばかり。それは恐らく、ウェイバーとて例外ではないのだろう。

 先程ウェイバーが浮かべた笑みは、到底善人が浮かべていいような笑みではなかった。今思い出しても背筋が凍るような感覚に苛まれる。それはマナ、ルナの二人も同じようで、口にこそ出さないものの硬いままの表情を見れば分かる。

 

 ファビオラに手を差し伸べてくれた時の彼と、この街に君臨する悪党としての彼。一体どちらが本物なのか。

 

 想定外の再会は、小さな少女の心を徐々に蝕んでいく。

 

 

 

 26

 

 

 

 ロアナプラ北西に、三合会所有の巨大なクラブが居を構えている。名を「ゴールデン・スイギン・ナイトクラブ」と言い、通常営業時は少々値の張る高級クラブだ。

 午後八時。店の外壁に取り付けられた数多くのネオンが、周囲を淡く照らし出している。そんな周囲の道路には、見るからに高級車だと分かる黒塗りのセダンが何十台と停車していた。店の入口には警棒やナイフ、拳銃なんかをこれみよがしに見せつけるスーツ姿の大男たちの姿が見受けられる。

 いやはや、確かにこれはこれまでの連絡会とは比べ物にならないほどの厳戒態勢である。張の奴がメイドの一件をどれだけ危惧しているかが窺える。

 

 張に用意してもらったセダンから降りると、周囲に集まっていた人間たちが俄かに騒がしくなる。

 

「よ、ようこそミスターウェイバー、チェックを。得物は全てこちらに」

 

 言われ、用意されたケースに銀のリボルバー二挺を無造作に放り込む。他に隠し武器がないかのチェックを受けつつ、ちらりと後ろに視線を向ける。雪緒については一切武器を所持していないので、ほぼ形式だけのチェックで済むだろう。問題はもうひとりの方である。

 

「……こちらも一時預からせていただきます。ミス・グレイ」

「あは、見つかっちゃった」

 

 出るわ出るわ。衣服の中からナイフや拳銃が、泉のように溢れ出してくる。一体どんな収納の仕方をすればあれだけの武器を違和感なく隠しておけるのか。

 結局拳銃四丁とナイフ二本を没収されて解放されたグレイが俺の元へと小走りでやって来る。

 

「全部持って行かれちゃったわ」

「連絡会は基本的に武器の持ち込みは禁止だからな。終わるまでは我慢しろ」

 

 三人全員がチェックを終えたところで、ようやく入口を塞いでいた男たちが頭を下げる。

 

「失礼致しました。では、こちらへ」

 

 案内人に促され、俺を先頭にして店内へと足を踏み入れる。

 一筋縄ではいかない怪物どもが巣食う会合が、始まる。

 

 

 

 

 

 




以下要点。
・ロック始動
・ファビオラ動揺。
・グレイ、雪緒(ついに)参戦。

次回連絡会は(いろんな意味で)荒れる。


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034 跳梁跋扈の別天地

 

 26

 

 

 

 ゴールデン・スイギン・ナイトクラブの店内へ一歩足を踏み入れると、タバコや葉巻から漂う独特の臭いが鼻をついた。換気扇は回っているはずだが、殆どの人間が口に咥えているからだろう。薄暗い廊下であっても目視できるほどの大量の煙が充満している。

 廊下に立っていた男たちの皆が皆、俺を視界に捉えるやいなや姿勢を正して手元の煙草の火を消した。別にそこまで畏まる必要もないのだが、自分たちのボスと同列の人間への対応なんてきっとこういうものなのだろう。

 頭まで下げようとする輩を手で制して、案内人の後を続く。俺の後ろを歩く雪緒とグレイはこの煙草の臭いが苦手なのか、顔を顰めたり鼻を摘んだりしている。そんな二人に苦笑を浮かべていると、前を歩く男がその歩みを止め、身体を横へと移して道を開けた。

 

「ではお入りくださいミスター。皆様既にお揃いでございます」

 

 うげ、全員揃ってるのかよ。バラライカや張はともかく、ロニーなんかは絶対に小言を吐かしてくるぞ。無駄なおしゃべりが嫌いな俺としては一番嫌いなタイプだ。

 心の内では鬱屈とした溜息を吐き出しながら、しかし表面上はそれを噯(おくび)にも出さず、装飾が施された煌びやかな扉の取手に手をかけて室内へ踏み込む。

 案内人の男が言っていたように、中央の丸テーブルには既に主要メンバーが勢揃いしていた。それぞれが俺たちを視界に収め、値踏みするような視線を向けてくる。

 

「おいおいウェイバー、ここは妾を連れ込んでいいような場所じゃねえぜ。隣のモーテルにでも行ったらどうだ?」

「俺ンとこの部下だよロニー。どうした、随分と二人に反応するじゃねえか。溜まってんなら娼館に行ってこいよ」

 

 ジャブ程度の皮肉を適当にあしらって、空いていた席へと着く。雪緒とグレイは他の部下たちのように、ソファの背後に直立した状態で動きを止めた。取り敢えず一服、と煙草を取り出す俺の背後で、雪緒がじっとバラライカを見つめていることに気が付いた。

 一瞬、バラライカと雪緒の視線が交錯する。一触即発のような空気ではないものの、やはり雪緒にとってホテル・モスクワは組の仇以外には成りえないのだ。外見上の反応を見せなかっただけ、雪緒も成長したということだろう。

 

「そこのちっこいのに痛い目に合ってるから警戒してるのよ。イタ公ってのは小心者だから」

「ンだとこのアマ。ウォッカ漬けで頭がイカレちまってんじゃねえのか?」

「よせよトマーゾ。姉さんはロシアの田舎もんだ。社交ってもんを理解してねえのさ」

「イタ公の漫談を聞かされるのが今日の趣旨なのかしら? 寒さに耐えられそうにないわ。帰っていいかしら」

 

 おおう。議題が発表される前から既にこの有様である。互いが互いを毛嫌いしているもんだから、必然口汚くなっていく。

 このままではいつまで経っても話が進みそうに無かったので、少々強引にでも話を進ませよう。そう思い立って、テーブルの上に置かれていた灰皿へと咥えていた煙草を吐き捨てる。吐き捨てられた煙草は、綺麗な放物線を描いてガラス製の灰皿へと着地した。テーブルに着くメンバーたちの視線が一気に俺に集まる。うおう、目力すげえなこいつら。

 

「……こんな戯言を交わすために、ここに集まったわけじゃないだろう」

「なんだよウェイバー。らしくねえなぁ、何時もは黙りこくってるかばっくれるってのに、今日はやけに饒舌じゃねえか」

「お前程じゃねえよロニー。まさか本当にグレイ見てビビっちまってんのか?」

「安い挑発にゃ乗らねえよ。それに俺はちびっ子から直接被害を受けちゃいないからな。こんな辺鄙な所に飛ばされたことに関しちゃ確かにムカツクが、それだけだ」

 

 矯正器具が取り付けられた歯をかちかちと鳴らして、ロニーはいやらしい笑みを浮かべた。こいつが内心で何を考え、企んでいるのかまでは分からない。どうせ碌でもないことなのだろうけれど。

 

「ヘイ、アミーゴ。俺たちも暇じゃねえ。さっさと本題に入るってのには賛成だ」

 

 これまで口を閉ざしていたマニサレラ・カルテルのタイ支部ボス、アブレーゴがそう述べる。

 

「ああ、これは可及的速やかに処理すべき問題だ。話に入ろう」

 

 指を絡めて一際低い声音で張が呟く。 

 ここでようやく、俺たち黄金夜会が傘下を含めて召集された理由が明かされることになる。

 

「集まってもらったのは他でもない。以前この街で騒ぎを起こした女中についての続報だ」

 

 既に話を耳にしていた俺の他に、顔色を変えなかったのはバラライカとアブレーゴの二人。前者については恐らく独自の情報網を通して、後者については本国絡みで既に情報を手にしていたのだろう。唯一ロニーだけが前回の事件を知らないため、訝しげに眉を顰めている。

 

「端的に言おう。その女中の目的は爆殺された当主の仇討ちだ。そして、その敵はこの街に居る」

 

 張の言葉に対しての反応は様々だった。

 口を閉ざし、張の次の言葉を待つ者。部下と母国語で何事かを交わしている者。余裕を崩すことなく、口角を歪めている者。

 そんな中、俺はと言えば。

 

「ええと、すみませんウェイバーさん。ちょっと聞き取れなかったんですけど……」

「ああ、殺人メイドがこの街に潜伏してるって話さ」

 

 流暢に話される英語の通訳を雪緒相手に行っていた。俺と雪緒が話す際は基本的に日本語である。雪緒も日常会話程度の英語を話すことは出来るが、ネイティブな話し言葉となるとまだ完全に理解することは出来ないのである。

 因みに、俺と雪緒が事務所で日本語を使用している影響からか最近グレイも少しずつ日本語を話すようになった。こちらについては雪緒が先生役となって暇を見つけては教えている。

 

「おじさん」

 

 ぽつりと、俺の座るソファの後ろから声が掛けられる。それも日本語でだ。視線だけをそちらへ向ければ、グレイが艶やかに微笑んでいた。

 何事かと思っていると、彼女は小さな声音で。

 

「私、そのメイドさんに会ったわ」

 

 オイ。一体何時だ。

 思わず頭を抱えたくなる衝動を何とか堪え、僅かに眉を顰めるのみに留める。グレイとロベルタが遭遇とか、色々な意味でカオスな空間が出来上がってしまう未来しか見えないんだが。幸か不幸か辺り一面がグロテスクな現場が発見された、という情報は入っていないので戦闘には発展していないのだろうが、それでもかなり危険な邂逅である。

 

「どうしたウェイバー」

「いや、話を続けてくれ」

 

 唐突なグレイの告白を一旦頭からもみ消して、何食わぬ表情で張に先を促した。この娘っ子に聞きたいことは色々とあるが、この場でそれをするわけにもいかない。

 雪緒の方も「メイド」という単語に思い当たる節はあるだろう。何せ俺にその情報を最初に齎したのが彼女なのだから。その正体がとんだ殺戮人形ということは知らなくとも、テーブルの雰囲気から物騒な類であることは簡単に想像することができるはずだ。

 

「奴はこの街で爆殺された主人の仇討ちをしようとしてる。つまりはそういうことだ」

「成程な、そいつを解決すりゃあいいんだろうミスター張。簡単な話さ」

 

 場にそぐわない程陽気な声と共に、ロニーがパンと手を叩いた。

 

「ここにいる面子主催でそのメイドと奴さんの仲直りパーティーを開いてやろう。クリームたっぷりのケーキにどでかいチキン、高級シャンパンを用意して盛大にな」

 

 危機意識など全く感じないロニーの口から飛び出したのは、そんな絵空事だった。

 当然、他の連中がそんな戯言に付き合う筈もなく。俺の斜め前に座るバラライカから、呆れと侮蔑を大いに含んだ溜息が吐き出される。

 

幹部会(クーポラ)はコメディーの興行も始めたのかしら。薄ら寒いイタリアン・コントに付き合う気はないのだけれど」

「ハッ、イワンのおのぼりさんにゃあ余興の一つも出してやる余裕が無ェと見える。寒空の下裸でウォッカを浴びるだけが芸じゃねえぜ」

 

 ロニーの言葉に、バラライカの瞳が不快そうに細められる。

 一触即発の空気が徐々に場を埋め尽くしていく。おい止めてくれ、ちっとも話が進まない。そんな俺の内心など露知らず、飛び交う言葉には刺々しさが増していく。

 

「成程、確かに人を不快にさせるという点ではヴェロッキオよりは格上のようだ」

「俺をそこのお嬢ちゃんに喰われた惨めな同胞と一緒にしてくれるなよ」

 

 肩を竦めながらそう宣うロニーの視線は、俺の後ろに佇むグレイへと向けられていた。挑発でもしているつもりなのか、愉快そうに口元を歪めている。

 そんなロニーの視線に晒されているグレイは、クスリと小さく嗤って。

 

「おじさんじゃあ、口直しのロゼッタにもなりはしないわ」

「……なんだとこのガキ」

 

 グレイの挑発に、ロニーの部下であるトマーゾが一歩前へ出ようとする。

 が、それをロニーは手で制した。口元は弧を描いたまま、声のトーンは一切変わらない。

 

「よせトマーゾ。お前が挑発に乗ってどうする、下らねえ真似するなよ」

「っ……。すみません」

 

 黒髪をオールバックにした白人の大男が、顔を下げて元の立ち位置へと戻る。

 嫌な雰囲気だ。剣呑な空気が漂っている。これじゃおちおち口を開くことも出来やしない。

 もういっそのこと、知らん顔して寝たフリでもしてしまおうか。緊急招集による拡大集会なんて場では間違ってもするような真似ではないが、いい加減罵り合いには飽きてきた。いつまで経っても本題が進まない連絡会に意味など無いに等しい。見たくもないツラを拝みに来た訳ではないのだ。

 

「娘子供に言い負けるなんて、組の程度が知れるわね」

「そう言うなよ火傷顔(フライフェイス)。テメエの兵隊だって頭と胴体がお別れしたんだろ? 程度は変わらねえさ」

「……随分とよく喋る。口と拳が釣り合っていれば、長生きできるかもしれんぞ」

 

 尚も止まない罵り合いに若干の苛立ちを感じつつ、俺はゆっくりと瞼を下ろした。

 ……ううむ。どうもポジショニングが悪い。簡潔に言えば座り難い。ケツの収まりが悪いというか、ソファの丁度窪みの部分から外れてしまっている。寝落ちした体で行こうというのに、じりじり動くのも格好が悪い。ここは一旦脚を組替えて、そのタイミングで微調整することにしよう。

 瞳を閉じたまま、出来るだけスタイリッシュに右脚を振り上げ、左脚へと引っ掛けようとイメージする。

 

 イメージは完璧、いざ実行である。

 脳内に再生される己の姿を再現するため、敵の顎を蹴り上げるような勢いで右脚を振り上げる。

 その瞬間右脚に感じた違和感。何かを蹴り上げたような感触が、革靴越しに伝わってくる。

 

 数秒後、鈍い衝突音とガラスの破砕音が室内に響き渡った。

 

 

 

 

 27

 

 

 

 

 黄金夜会のメンバーが一堂に会する拡大集会が行われている夜のロアナプラ。心なしか街の喧騒も普段より小さく感じるのは、傘下の連中までをも巻き込んだ拡大集会のせいだろうか。

 そんな悪徳の都の一角。街の外れに聳える教会の礼拝堂に、二人の姿はあった。

 最前列の開けた場所に木製のテーブルが置かれ、その上には使い古されたカードが散らばっている。その横には無造作に置かれた紙幣が数枚。対面する二人の表情は対照的だった。

 

「……ツーペア」

「フルハウス。いやー相変わらず賭け事にゃあ向かねえなぁレヴィ」

「っだぁくそ! もう一回だクソアマ!」

 

 叩きつけられた紙幣をいそいそと回収して、エダは全身から不機嫌オーラを吹き出しまくっている女ガンマンを見やる。彼女の機嫌が悪いのはいつものことであるが、今日はそれに拍車がかかっているように見えた。

 

「どうしたよ、いつにも増して突っかかるじゃねえの」

 

 ぶすっとした表情のまま、レヴィは配られたカードを拾う。

 張からの依頼については既にエダも聞かされていた。メイドを探すのを手伝う、なんのことはない仕事の筈だ。一時は没落したとはいえ、南米十三家族に名を連ねるラブレス家直々の依頼である。報酬は勿論のこと、名を挙げるには絶好の機会だろう。

 だからこそ、エダはここまでレヴィが不機嫌になる理由が分からなかった。

 

「ミスター張の依頼絡みか? いいじゃねえの、断るのも難しいし、名も挙がるってもんだ」

「馬鹿野郎。そういう問題じゃあねえんだよ」

「だったら何だってんだ。まさかウェイバーの旦那絡みじゃねえだろうな」

「そっちのほうが遥かにマシだ。下手に突っつきゃ仲良く火の粉を被る羽目になる」

 

 レヴィの言い回しに引っ掛かるものを感じて、エダは眉を顰めた。

 

「……お前さんの銃は、一体ドコ(・・)を向いてんだ?」

「アタシのじゃねえよ。クソ眼鏡が向けてんのさ」

「その奴さんは何したのさ」

「メイドの主人を月の裏まで吹っ飛ばした。やったのはサムおじさんと愉快な仲間たちだ」

 

 ぴたりと、カードを切ろうとしたエダの動きが止まる。そのまま視線だけをレヴィへと向け、確かめるように問い掛ける。

 

「……合衆国の、軍隊が?」

 

 先程までのおちゃらけた様子はナリを潜め、声のトーンが明らかに変化する。

 他人事のように同意してみせるレヴィに、静かに「そうか」とだけ返したエダだったが、その内心は穏やかではなかった。

 

 知らない(・・・・)

 アメリカ合衆国が所持する軍隊が動いているのであれば、それはエダの耳に届いていなければならない。

 何故ならば彼女の本業は修道女などではなく、CIAの工作員なのだから。

 彼女の任務はロアナプラを始めとする東南アジアに情勢が不安定となるような種を持ち込み、アメリカ本国の利益となるよう誘導することである。その為にわざわざ暴力教会を隠れ蓑にし、影からこの街の動向を監視してきたのである。

 本国が関わる案件はこれまで必ず彼女に伝達されていた。そうでなければエダがこの街に留まる意味がない。短期的にアジア地域に不安定を持ち込めるわけもなく、長期的に情勢を把握しなければ工作活動は始まらないのである。

 故に、エダがアメリカ絡みの一件を耳にしていないという事実は見過ごすことのできないものだった。

 必然、エダの視線は鋭くなっていく。

 

「そういうこった。メイドは真っ赤、ご当主様の仇討ちをこの街でやろうとしてんのさ」

「……この件にウェイバーの旦那は何て言ってんだ?」

「大々的にゃ動けねえとよ。尤も、ボスがその気になりゃあ肥溜めのシガラミなんてあってないようなモンだけどな」

 

 言いながら酒が並々と注がれたグラスを呷る。

 手持ちのカードに視線を落として、レヴィは苛立たしげに舌を打った。

 エダの視線は、そんなレヴィへと固定されたまま動かない。

 

「それで? 合衆国の軍隊がこんな街に何の用だ」

「アタシが知るかよ。張の旦那は何か勘づいてる風だったが、素直に教えてくれるたあ思えねえ。一つ言えるのは、政府が横槍入れてきていいことなんざあるわけがねェ」

「そりゃご尤もだ」

 

 世界最強を謳うアメリカ合衆国だが、当然一枚岩という訳ではなかった。

 エダの所属するCIAの縄張りを踏み荒らすような真似をする連中など、本国に幾らでものさばっている。そんな無数にある組織のうちの一つが、今回無断で作戦を指揮している。そうエダは推測していた。

 面白くない。実に面白くない。

 敵は外側だけに留まらないという当たり前の事実が、エダには不愉快でしか無かった。

 

「レヴィ」

「ああ?」

「本当に星条旗の連中(スターズ・アンド・ストライプス)が相手だってんなら、こいつは笑い話じゃ済まねえぜ」

 

 カードを無造作に切る彼女の瞳に、普段のおちゃらけた雰囲気は無い。

 

「黄金夜会が動いてんのは知ってンだろ。今回の件は深くてデカイ(・・・・・・)。張の旦那に火傷顔、おまけにウェイバー(アンチェイン)。そこにメイドと合衆国の軍隊なんぞ混ぜ込んでみろ、ポップコーンみたいにこの街は弾け飛ぶ」

 

 最悪の場合、タイの港街が地図から消えるなんてことも考えられる。それほどまでに事態は切迫しているとエダは見ていた。

 張やウェイバーが考えなしに行動を起こすとは考え難い。それぞれが何らかの思惑のもと動いていることはなんとなく予想がつく。いや、ウェイバーに関して言えばそれ以上のことはてんで分からないが。

 今頃行われているであろう連絡会で、街の方針くらいは決定されるだろうか。罵詈雑言の飛び交うあの場所で、順調に話が進むとは思えないが。

 一先ず今は街の動向を監視することが先決だと断じて、手持ちのカードを一枚捨てる。

 山から引いてきたカードを見て、エダはカードをテーブルに広げた。

 

「ストレートフラッシュ。五十ドル寄越しな」

 

 

 

 28

 

 

 

 それは、一瞬の出来事だった。

 黄金夜会に名を連ねる組織の代表と部下、そして傘下の組織までも招集した拡大集会の場において、男の取った行動は自殺行為と言われても仕方のないものだ。夜会筆頭の四組織の代表が着くテーブルを無言で蹴り飛ばすなど、一体誰が出来ようか。仮に出来たとして、数秒後に命が刈り取られることなど容易に想像がつく。そんな命知らずな真似、普通の人間であれば絶対にしない。

 テーブルの上にあったグラスや灰皿、酒瓶は見事に宙を舞い、重力に従って床へと落下。幾つもの破砕音が室内に響き渡る。

 もう一度言うが、この場においてその行動は自殺行為に他ならない。

 しかし、この男にだけはそれは当て嵌らなかった。

 

 ウェイバー。黄金夜会にただ一人単身で名を連ねる大悪党。

 彼は振り抜いた右脚をゆっくりと左脚に乗せて、閉じていた瞼を持ち上げる。

 瞬間、何人かの息を呑む音が聞こえた。研がれた刃のように鋭く、それでいて光すらも吸収してしまいそうな程暗く黒い瞳に見据えられては、それも無理のないことだった。

 だがその程度の睨みで動じるほど、黄金夜会とは安い組織ではない。多少の動揺はあったものの、大多数の人間はそれを表に出すことはせずウェイバーへと視線を向けた。

 

「オイオイなんのつもりだウェイバー。俺はアンタと円舞曲(ワルツ)を踊る気はねェぞ」

「……本当におしゃべりだな、ロニー。いつからお前はサメからウッドペッカーになったんだ?」

 

 口を開いたロニーへ、鬱陶しそうにウェイバーが返す。

 不愉快そうに眉を顰めるロニーだったが、それ以上の口出しをすることは無かった。ヴェロッキオの後任ということもあり、ロニーはこの街に来て日が浅い。にも関わらず組織をある程度制御出来ているのは、ひとえに彼の能力の高さ故である。

 ロニーはウェイバーに関する噂の類を実際に目の当たりにしたことはない。が、本能的に察している。

 ホテル・モスクワよりも、三合会よりも。敵対してはいけないのは目の前にいるたった一人の男だと。

 

 件の男、ウェイバーは一度息を吐いて、周囲をぐるりと見回した。

 

「なぁ、俺がどうしてこの二人を連れてきたか分かるか」

 

 二人、とは言うまでもなく銀髪の殺人鬼と日本から連れてきた女のことだろう。

 普段であれば一人で来るかばっくれるウェイバーが、わざわざ二人をこの場に連れてきた理由。周囲を囲む男たちが、一斉に思考を巡らせる。 

 突発的な行動には定評のあるウェイバーである。後先考えず連れてきたという可能性も、無いわけではない。だが、こうして敢えて口に出す程だ。何か裏があってのことだと勘繰るのは必然。そしてそれは、ソファに腰を下ろす各支部長たちも同じだった。

 

「ヘイセニョール、そいつは俺のグラスをおしゃかにした理由になるのか」

 

 アブレーゴのドスの効いた声にも、ウェイバーは一切表情を変えることなく言い放つ。

 

「おしゃかになったのがグラスで良かったなアブレーゴ」

「なんだとっ」

「……やめろグスターボ。俺の顔に泥塗るつもりか」

 

 部下の頭を押さえつけるようにしながらも、アブレーゴはウェイバーから視線を外さない。

 その視線の意図を知ってか知らずか、ウェイバーは底冷えしそうな平坦な声で告げた。

 

「下らねえ罵り合いを聞かせにきたわけじゃない。無関係じゃいられないからだ」

 

 背後に立つグレイと雪緒を見やり、ウェイバーは続ける。

 

「グレイは既に女中と接触してる。噂を嗅ぎ付けたのは雪緒だ。分かるか? 俺の知らない(・・・・)所で、縄張が踏み荒らされてる。俺はそれが我慢ならない」

 

 切れ長の瞳で値踏みするように睨めつけられては、グスターボも口を閉ざすしかなかった。

 

「これは既に夜会の上層で食い止められるような話じゃない。下手を打てばこの街全てが戦場になる、そういう話だ。分かったら円滑に話を進めてくれよ、血を見るのは趣味じゃない」

 

 そう言ってウェイバーはソファに座り直し、再び瞼を下ろした。

 室内に居る人間たちは、ウェイバーの語った内容そのものよりも、ここまで長々と語ったことそのものに危機感を抱いた。

 普段のウェイバーであれば、話を振られない限り殆ど口を開くことはない。沈黙は金なんて言葉を体現しているかのようである。そんな男が、ここまで饒舌に話したのだ。この一件は既に他人事ではないと示しているようなものだった。

 二人を連れてきたのも、巻き込まれる可能性が高いから。そう傘下の人間たちは思い至る。敵には一切の容赦をしないウェイバーだが、味方には甘い一面もあると聞く。渦中に放り込まれる可能性がある二人にも、事のあらましを伝えておきたかったのだろう。

 

 そう考えているのは、あくまでも室内に居るだけの人間たちだった。

 ホテル・モスクワ。三合会。コーサ・ノストラ。マニサレラ・カルテル。これらの組織の人間は、ウェイバーが裏で何か企んでいることを行動と言葉の流れから察していた。テーブルを蹴り上げてまでして話したかったことが、あんな極々当然の事である筈がない。 

 そもそも、今回の件の概要を説明するだけならウェイバー一人で事足りる。ガルシアと張、ラグーン商会が集まったサンカン・パレス・ホテルにはウェイバーも居たのだから。

 つまり、ウェイバーの狙いは二人に話を聞かせることではなく、この場に立たせることそのものにあった。

 その狙いなど聞くまでもない。黄金夜会に対する牽制だ。

 根っこの部分を掘り返していけばマニサレラ・カルテルが発端となった一件を話し合う場に、ホテル・モスクワとコーサ・ノストラの構成員を喰い漁った死神。そして三合会からの依頼をこなす中で拾うこととなった裏世界の少女を連れてきた。

 牽制というよりは、警告という方が正しいのかもしれない。

 

 マフィア同士睨み合うなら好きにしろ。その間に咬み殺されるのは一体誰か。

 

 そんな言葉が聞こえた気がした。実際に口にはしていなくとも、ウェイバーの表情がそう語っていた。

 

「……爆破事件と俺たちは無関係だ。米国(グリンゴ)の兵隊についてもな」

 

 重苦しい空気の中で切り出したのはアブレーゴだった。新しいグラスに酒を注ぎ、それを一息に飲み干す。

 

「あの女中は未だにFARCの中じゃ一等のお尋ね者でな。ボスからは見つけ次第殺せと命令を受けてた。米国の特殊部隊についちゃ関わる気はねえが、女中については狩らせてもらう」

「……フフ、いいじゃないか。意外に骨はあるようだな」

 

 バラライカは葉巻を咥えたまま口角を歪め、愉快そうに目を細めた。

 

「女中をどう料理しようが我々は一向に構わん。ウェイバーもそのつもりだったんだろう?」

「…………」

「オイオイ勝手に話を進めんじゃねェよ野蛮人ども。俺たち文明人は金にならない殺しはしねェんだ」

 

 不満げに声を上げたロニーへ、バラライカは冷ややかな視線を向けて。

 

「イタ公、戦争が嫌ならコメディーの練習でもしていろ。我々の相手は女中などではなく、その相手の方だ」

「特殊部隊相手にするってのか? 正気じゃねえウォッカの飲み過ぎでおかしくなったんじゃねえのか」

「ヘイ、よしな。さっきも言ったが俺たちはアメリカと事を構えるつもりはねえ」

 

 ウェイバーの警告もあって、内輪揉めの様相は縮小していた。

 次いで問題となるのは対外的にどこを相手とするかだ。

 マニサレラ・カルテルはFARCと協力関係にあるため、連携を円滑にするためにも女中の首を持ち帰りたい。

 ホテル・モスクワは麻薬撲滅作戦、もしくはこの街に潜むシンジケートの誰かを始末するためにやって来た合衆国の軍隊を撃滅し街の安定化を図る。

 コーサ・ノストラは利益とならない殺しには手を出さないとして、静観を決め込む腹積もりでいる。

 三者三様、腹に抱えた目的のため、標的となるものが違っていた。

 

 ちらりと、張は横目でウェイバーを捉える。

 依然として口を噤んだまま、会話に入ってくる素振りはない。恐らくは先程で必要な仕込みは終えているのだろう。何を考えているのかは全く予想できないが、彼に限っては街に不利益となるような行動を起こすことは無いはずだ。

 となれば残された問題は。

 

「……この悪徳の都が表沙汰にならないのは、集う全ての人間たちの思惑が一致していたからだ」

 

 持っていた煙草を床に捨てて踏み潰し、張は続ける。

 

「相互利益のため、刺激的な仕事を世間の目から背けるため。俺たちが禍根を乗り越え協力してきたからこそ、今のこの街がある」

 

 騙し合い、奪い合いながら。しかしそれでもロアナプラが世間でニュースとならないのは、悪党どもの認識が一致していたからだ。

 たった一度でも表側の人間の介入を許してしまえば、それだけでこの街は朽ち果てていく。それほどまでに危険なバランスで、辛うじて体裁を保っているのがこの街、「現代の海賊共和国(リベルタリア)」と呼ばれるロアナプラだ。

 

「三合会としての見解を述べよう。女中、並びに合衆国軍隊との直接対決は最後の瞬間まで避けるべきだ。俺たちは街の存続を第一に行動する」

「腑抜けたことを言うじゃないか張。鉛弾を食らって随分と小さくなったな」

「俺は戦闘狂じゃないんだミス・バラライカ。……いいか、己の利益を優先して動くのは結構。だがこれだけは言わせてもらう」

 

 サングラスの奥の瞳が、鈍く光る。

 

「そうなったが最後、ここには誰もいなくなる。誰も(・・)だ」

 

 

 

 29

 

 

 

「は? なんだって」

『この戦闘狂が』

「そこじゃねえよその前だ」

 

 大通りから中へ一本入った路地を歩きながら、ヨアンはそう言い放った。彼の手には携帯電話が握られており、通話口からは僅かに向こうの声が漏れている。

 

『今日の昼過ぎ、ああタイ時間のね。コロンビアからバンコクまで旅客機ナンバーの航空機が二台飛んでる。正規ルートを通ってないし、多分ナンバーも偽装されてるよ。ちょっと調べればわかると思うけど』

「コロンビアっていやあ」

『FARC。ロザリタ・チスネロスが所属していた組織ね、私には無関係とは思えないけど?』

「……だな」

 

 クラリスからの報告は、ヨアンの警戒度を更に高めるものだった。

 合衆国。コロンビア革命軍。ロザリタ・チスネロス。そしてこの街に巣食う、極大な悪党たち。

 それら全てが今、この街に集結せんとしているのだ。

 

「まあ第一目標はウェイバー。それに変更はねーけど」

『そのウェイバーは見つかったの?』

「いんやサッパリ。誰に聞いても話そうとしねえんだ。酒場の店主も無言を貫きやがる」

 

 しかし逆を言えば、誰も知らないと口にしていないのだ。

 あの男について気安く口にできないような何かがあることは、これまでの経験で十分把握している。 

 居る。確実にこの街にウェイバーは潜んでいる。自然、ヨアンの口元は歪んでいた。

 通話を終えた携帯電話をしまい、大通りへと向かう。

 

(……どこぞのVIPでも来てんのかね)

 

 やたらと目に付く黒服の男たちが周囲を囲む建物を横目に、そんなことを考えながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・連絡会後

「すごかったわねおじさん。テーブルを蹴り上げた後の睨みなんて私鳥肌立っちゃった」
(爪先痛くて涙ぐむの堪えてたなんて言えねえ……)


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035 我々の戦

 

 30

 

 

 

「馬鹿じゃないの?」

「……随分な言われようだな」

 

 少女の刺々しい物言いに、男は眉尻を下げて苦笑を漏らした。

 ベネズエラの首都カラカス。大通りから一本内に入った薄暗い路地の壁に背を預ける二人の手には、近くの自販機で購入した炭酸飲料が握られている。グレーのジャケットを肩に掛けた男、ウェイバーが購入したものだ。

 当初は警戒心を剥き出しにしていたファビオラであったが、男の方に敵意が無いことを理解すると渋々といった面持ちで差し出される缶を受け取った。

 カラカスではあまり見ることのない、スペイン語を流暢に話す東洋人だった。そのウェイバーが只者ではないということは、盗みを未然に防いだことから理解できる。出来るだけ自然体と偶然を装って近づいたというのに、目当ての財布に触れることすら出来なかったのは、横で呑気に缶を傾けているこの男が初めてだった。

 

 そんな事があったからか、ファビオラは内心で彼に興味を抱いていた。断っておくが、決して男女のあれこれではない。素性の知れない男の正体を知りたいという、単純な好奇心だった。

 故に少女は問い掛けたのだ。どうしてこんな街に居るのか。

 そして返って来た言葉を受けて、ファビオラは冒頭の言葉を浴びせたのである。もう一度言っておこう。

 

「馬鹿じゃないの?」

「流石に何度も言われると傷付くんだけど」

「FARCって言えば南米でも特一級の革命組織じゃない。私でもそれくらい知ってるわよ。それを排除? たった一人で? 自殺願望でも持ってるわけ?」

 

 ウェイバーが口にした事の経緯は、FARCの鎮圧から始まるというとんでもないものだった。

 FARC、コロンビア革命軍は中南米最大の反政府武装組織である。その規模は実に五千人。最近麻薬密売組織とも繋がりを持つようになったことで、その勢力が急速に拡大しているという話を大人たちがしているのを聞いたことがあった。自らの掲げる思想のためならば人の命をゴミ同然に踏み躙る、過激派組織の筆頭だ。

 そんな組織の鎮圧をしに来たのだと、この男は宣うのだ。

 しかも驚くべきことに、その仕事を粗方終えた後だと言う。

 これはもしかして話しかけてはいけないような危ない人間なのではないか。そう危惧したファビオラから向けられる疑念の視線に居た堪れなくなったのか、ウェイバーは一旦咳払いして。

 

「あのな、そんな可哀想な人間を見る目で俺を見るなよ」

「いやクスリで頭の中がおかしくなってるのかと思って」

「生憎と頭がおかしいのは俺の周りの輩だけでね」

 

 酷く疲れた様子で溜息を吐き出すウェイバー。

 彼が何を思ったのかは定かでないが、その様子は完全に憔悴しきった中年のサラリーマンだった。

 

「それで?」

 

 空になった缶を片手で握り潰して、ファビオラへ視線を向ける。

 

「いつまでこんな事続けるつもりなんだ?」

「……いつまでもよ」

 

 中身が半分程残った缶を両手で握り締めて、ファビオラは続ける。

 

「この街で生きていくにはこうするしかないのよ」

「犯罪だって、分かってるのにか?」

「今更この街で法を守る人間なんていないわよ。アンタだって不法入国してるじゃない」

「いや、俺は正規の手順踏んでるけど」

 

 ほら、と取り出されたパスポートを見て、ファビオラは無言で男の足を踏み付けた。

 そこはかとない理不尽を感じつつ、ウェイバーは暴れる少女を諌めにかかる。

 

「言い方が悪かったな。……このままで、いいのか?」

「っ……」

「今みたいな生き方をしていれば、いつか必ずしっぺ返しを喰らう。単なる暴力なんかじゃ済まないような」

 

 そんな事、男に言われるまでもなく分かっている。

 治安が最悪なこの街の警官は、薄汚い連中から流される賄賂で汚れきっている。ここは権力と暴力に身を任せた屑どもが跋扈する悪の肥溜めだ。そんな街に、いつまでも子供だけで生き延びることなど出来はしない。

 ……そんな事、自分が一番分かっているのだ。

 ギリッ、と奥歯を噛み締める。ふらりと現れた何も知らない男に、まるで全てを知っているかのように諭される。

 それが何より気に食わない。どこまでもファビオラの神経を逆撫でした。

 

「……だから何? 上から目線で説教でも垂れようっていうの?」

「まさか。俺にそんな資格はねェし、する気もねェよ」

 

 飄々とした態度のままそう答えるウェイバーに、ファビオラの苛立ちは加速する。

 

「だったら、今日会ったばかりの人間が私の生き方にケチつけないで」

 

 何も知らない癖に、と吐き捨てて、ファビオラは憤りそのままに歩き出そうと壁から背を離した。

 今日会ったばかりの男に知った風な口をきかれたそのこと自体が腹立たしいのではない。少女に苛立ちを感じさせたのは、その自然なまでの上から目線の会話だった。話を聞く限り、男は決して陽の当たる世界の人間ではない。謂わば同じ穴の狢である。そんな同列の人間に、同情にも似た感情を乗せて言葉を投げられる。

 ちっぽけな少女のプライドを傷付けるには、それだけで十分だった。

 かと言って、ここでその苛立ちを表に出して喚き立てる程ファビオラは子供ではなかった。そのくらいの分別を弁えられる程度には大人だったのである。

 ある程度の感情制御が出来るからこそ、少女はこの場を離れようとした。これ以上ウェイバーと会話をしていたら、いつ罵詈雑言を浴びせてしまうかわからなかったから。

 

 しかし。

 

「まぁ待てよお嬢ちゃん」

 

 足早に立ち去ろうとしたファビオラの腕を、ウェイバーはがっちりと掴んでいた。

 

「……離してよ」

「そう邪険にするなよ。別に取って食おうってわけじゃないんだ」

「アンタみたいなのと話してるとバカが感染(うつ)る」

 

 腕を掴んだままのウェイバーはファビオラの要求には応えずに、ズボンのポケットから四つ折りにされた一枚の紙を取り出した。

 雨に濡れでもしたのか全体は皺が走り、所々には土や砂が付着した形跡もある。要するに汚らしい紙だった。

 折られたその紙を片手で器用に開いていき、ファビオラへと差し出す。

 

「……なによコレ」

「ここに書いてある屋敷へ行ってみろ」

 

 差し出された紙に視線を向けると、そこには写真付きの屋敷の説明が書かれていた。その内容が南米十三家族のうちの一つであることにファビオラは気が付いた。

 どうしてこの男が、ここまで詳細な家族構成や生活習慣を把握しているのか。没落していった背景や小さな諍いの事まで事細かに書かれているそれとウェイバーを交互に見て、少女は怪訝な声を上げた。

 

「この情報、どうやって調べたの?」

「さあ、俺にも分からん」

 

 返って来たのは肩を竦める仕草だけだった。

 いつの間にか、男の腕は少女から離れていた。

 

「そこにも書いてあるが、現在その屋敷には使用人は双子の姉妹たった二人しかいない。屋敷の見取り図を見れば分かると思うが、どう考えたって人手が足りてないんだ」

「だから?」

「お前、そこで女中として働いたらどうだ」

「は?」

 

 さらりと告げたウェイバーの言葉の意味を理解するのに、たっぷり三秒ほど時間を使う。

 使って、それでもファビオラはウェイバーの言っている事が理解出来なかった。

 

「アンタ何言ってんの?」

「だから、その屋敷でお前が働――――」

「そういうことを言ってるんじゃない。私が、この屋敷で? 何の接点も持たない私が、働けるはずないじゃない」 

 

 キッ、と鋭い視線でウェイバーを睨み付ける。

 ウェイバーはと言えば、ジャケットの内側から煙草を取り出して火を点けている最中だった。肺にまで取り込んだ煙をゆっくりと吐き出し、少女と向き合う。

 

「そこに書いてあるラブレス家ってのは、今じゃ十三家族の中で一番衰退した家だ。最近地質調査で希土類(レアアース)が出ると判って地元マフィアと揉めてる。マフィアなんかと関わる家に、誰が近付きたがる?」

 

 顔の周りで煙を燻らせるウェイバーは、そこで口を閉ざした。

 まるでここから先の事は、口にせずとも分かっているだろうと言いたげな表情を浮かべている。

 そしてファビオラは、ウェイバーの言わんとしている事を八割方把握していた。

 

「……猫の手も借りたい今の状況なら、この屋敷で働けるってこと?」

「確証はない。事実だけを言えばお前は立派な犯罪者だ。前科持ちをわざわざ手元に置きたがる酔狂な人間でもない限り、望み薄なことに違いはない」

 

 でもな、とウェイバーは一旦言葉を切って。

 

「こんな糞とゴミを掻き混ぜたような街でいつまでも燻ってんのが、お前の望むものなのか?」

 

 思わず、ファビオラは目を見開いた。

 こちらの事情など殆ど分かっていないような男の言葉なのに。

 今日会ったばかりのどこの馬の骨とも分からない男の言葉なのに。

 

「暴力だけでのし上がるってのは難しい。それは俺が身をもって知ってる。だからお前みたいなちっこいのは、まずは自分の足元を固めるこった」

 

 どういうわけか、その言葉は少女の心の奥底に染み込んでいく。

 

「……どうして、ここまでするの?」

「言ったろ。確証はない、善意なんて高尚なもんじゃねえんだ。結局は俺の自己満足だよ」

 

 フィルタ付近まで短くなった煙草をコンクリートの壁に押し付けて、ウェイバーは大通りの方へと歩き始める。

 ファビオラの真横を通り過ぎる際、ぽんと肩に手を置いた男は、なんとはなしにこう言った。

 

「縁があればまた会おうぜ、そん時はもう少しマシな身なりでな」

 

 

 

 31

 

 

 

「――――ラ、ファビオラ」

「っ!」

 

 横からのガルシアの声によって、ファビオラは思考の渦から引き戻される。

 このような状況だというのに他事に気を取られていたことを内心で恥じて、少女は取り繕うように苦笑を浮かべた。

 

「申し訳ございません若様、少し考え事をしていました」

「大丈夫かい? 昨日から少し調子が悪いみたいだけど」

「お気遣いありがとうございます。でも平気です、こんな事で立ち止まっているわけにはいきません」

 

 一つ息を吐いて、ファビオラは目の前で申し訳なさそうにしている優男を睨み付けた。

 ラグーン商会のロックである。その隣には原色そのままのジュースを飲むベニーの姿もある。

 ファビオラは頭を掻くロックに一歩近付くと、見上げるようにして問い掛けた。

 

「それで? これは一体全体どういうことなのでしょうか」

 

 事の発端は、朝にまで遡る。

 そもそもの話、ラグーン商会としてガルシアのメイド探しに付き合う気など更々なかったのだ。ロベルタの戦闘能力は昨年、嫌というほど目にしている。レヴィに至っては辛酸を舐めさせられた相手である。明らかに地雷だと分かるものを、自ら踏み抜きに行く馬鹿などいない。

 故にダッチはサンカン・パレス・ホテルから帰る道中、車内でロックに釘を刺した。

 ラグーン商会としてでなく、ロック個人に向けられた依頼である以上、ダッチ個人がその依頼を突っぱねることは出来ない。だからそれはラグーン商会のボスとして、同じくクルーの一人である仲間に向けての言葉だった。

 

 あの女中に追い付くのが向こうの方が早ければ、その時点で絶対に手を引け。

 

 有無を言わせぬダッチの物言いに、ロックは無言で首を縦に振るだけだった。

 

 その翌日。朝一番で再びホテルを訪れたロックとベニーは、女中を目撃したという街の人間を順に尋ねていくことをガルシアたちに提案した。因みにベニーは運転手としての同行だ。ガルシアと共にこの地へ足を踏み入れている双子のメイドは、荷物番の名目の元ホテルに待機してもらっていた。

 ここで話は先程のファビオラとのやり取りに戻るわけである。太陽は既に傾き始め、あと二時間もすれば夜の帳が下りてくるだろう。

 

「情報を持っているというお店八軒。その全てに居留守を使われました。これはどういうことでしょう?」

 

 ずずいっ、と更にもう一歩ファビオラはロックへと詰め寄った。

 困り顔を浮かべるロックに助け舟を出したのは、ジュースを飲み干したベニーだ。

 

「無理もないよ。この街じゃ『メイド』は最早タブー扱いだ。昨日行われた連絡会じゃ、ウェイバーまで戦線に出るっていう話が上がってるらしい。あの(・・)ウェイバーがだ。夜会の連中が囲ってる件に首を突っ込もうとする人間なんていないよ」

「ちょっと待ってくれベニー、俺はそんな話聞いてないぞ。あの人は大々的に動かないって話だったろ?」

「君までそんな事を言うのかいロック。ウェイバーがその気になれば行方を晦まして暗躍するなんて造作もないことじゃないか」

「ああ……」

 

 思い当たる節があったのか、ロックは眉尻を下げて溜息を吐き出した。

 そんな二人のやり取りを目の前で見せられて、ファビオラは先程までの思考が蘇る。ウェイバーとの出会いは最初こそ最悪と言っていいものではあったが、今となっては恩人であるとはっきり言える。自らをどん底から救い出してくれた彼がこんな街の上層にいることは、未だにファビオラには認められない事実だった。

 

「あの、そのウェイバーという方のことなのですが……」

 

 その言葉は、ほぼ無意識のうちに口をついて紡がれていた。

 

「あの方は一体、どんな方なのでしょうか」

「大悪党かな」

「地球上で怒らせちゃいけない人間ナンバーワンさ」

 

 ロックとベニー。二人の言葉に、ファビオラは二の句が継げなかった。二人の言葉からは、あの時のウェイバーの無骨な優しさは微塵も感じられない。

 内心の動揺を必死に押し留める少女に対して、ベニーはその詳細を口にする。

 

「余所者の君たちが知らないのは当然だけどね、たった一人で夜会の連中と肩を並べているってだけでもう異常事態なのさ」

「……そうですね。以前彼の腕前を目の当たりにしましたが、人間業じゃない」

 

 昨年ロアナプラへやって来た時のことを思い出して、少年は神妙な顔付きでそう呟いた。ガルシアが最も強いと信じて疑わないあのロベルタですら警戒する相手である。コンテナが立ち並ぶ港で跳弾を利用し、ロベルタの手の甲を撃ち抜いたあの絶技を忘れることなど出来はしない。

 

「彼の実績について語りだすとキリがない。それこそ戦場のど真ん中を横断してきたって話もあるくらいだからね」

 

 真偽のほどは定かではない。だがあの男ならばあるいは。

 そう思わせること自体が、もしかするとウェイバーの作戦なのかもしれない。

 要するに、あの男については深く考えるだけ無駄なのだ。

 

「君たち二人にこの街でやっていくための魔法の言葉を教えてあげよう。『ウェイバーなら仕方ない』、どんな理不尽も受け入れてしまえる合言葉さ」

「いやベニー。俺はそんな言葉聞いたことないぞ」

「そうかい? ダッチはいつも言ってるけどね。レヴィ風に言い換えると『流石だぜボス』かな」

「ああ……。言ってるな、確かに」

 

 げんなりとした様子のロックを横目で眺めて笑うベニー。

 質問を投げ掛けた立場ではあるが、ファビオラはそんな二人の緩い空気に嫌気がさしていた。今回の件はこちら側が依頼したものだ。当然、ガルシアやファビオラは彼ら二人にお願いする立場にある。それは分かっているが、ガルシアたちにも時間的な猶予はそれほど残されてはいないのだ。本当なら今この瞬間もロベルタ捜索に駆け回りたい気持ちである。しかしアテのない人探しなど無意味。現状頼れるのがラグーン商会の彼らしかいない以上、その二人に縋るしかない。

 

「そのウェイバーという方のことは、わかりました。それで、これからどうするおつもりですか?」

 

 少女の問い掛けに、ロックは腕を組んで考え込む。

 

「……今日のところは引き上げよう。明日の朝一番に、今度はレヴィを連れてもう一度情報にあった店を回る」

「おいおい大丈夫かい? レヴィがこの件に協力してくれるとは思えない」

「拝み倒してみるさ。俺も、今更後へは退けないしね」

 

 そう答えるロックの瞳は、何処かここではない遠くを見ているかのようだった。

 

 

 

 32

 

 

 

 多大な存在感を放っていた太陽は既に水平線の彼方へと沈み、見上げれば深い藍色の空が広がっている。荒くれ共が集う酒場やクラブからは喧騒のような会話が飛び交い、そこかしこで小さな諍いが発生していた。

 そんなロアナプラの一角、この街唯一の教会である暴力教会の一室に、修道服に身を包んだ女たちの姿はあった。

 正面に座る若い女から告げられた事実を吟味するように、咥えていた煙草をゆっくりと吸いこむ。

 やがて吐き出された煙と共に、アイパッチを着けた大シスターは言葉を投げた。

 

「……そりゃ確かな情報かい」

 

 ヨランダに見据えられ、緩やかなウェーブを描く金髪の女はこくりと頷く。

 

「ラブレス関係者からの情報です。経緯は確かかと」

「成程ね、それで? お前のとこのボスは何て言ってるんだい」

 

 無造作に煙草の灰を振り落として、ヨランダがエダへと問い掛ける。

 彼女はサングラスを外し、普段の粗暴な言動を控えて格式張った英語で続きを口にする。それは今の彼女が暴力教会のシスターとしてではなく、合衆国の工作員としてこの場に居ることを意味していた。

 

国防総省(DOD)の独断先行。情報機関共同体(AIC)の承認が下りているなら、我々の耳を通らない筈はありませんから」

「世知辛いねェ。内部でショバ争いってわけかい、大所帯になるとどこも(・・・)大変だ」

 

 実際のところ、ヨランダにとって合衆国内での組織対立になど微塵も興味はない。彼女にとって重要なのはこちら側に利益を持ち込めるのかどうか。エダの所属するCIAが動くことで教会が儲かるのであればそれでいい。逆に不利益を被るようであれば、どんな手を使ってでもそれを回避する必要があった。

 

「今回の火種となったベネズエラでの破壊工作も我々の預かり知らぬところで立案、実行されました。CIAの専門分野に手を出し、あまつさえ取って代わろうとしている」

 

 言葉尻に感じる怒気を察して、ヨランダは無言で煙草を灰皿に押し付けた。

 

「それだけじゃないだろう。NSAも確かにアンタにとっちゃ邪魔な存在だろうが、もっと厄介なのが潜り込んでる」

「ICPO。外交特権を持つヘルベチアのハイエナどものことですね」

「アイツらは鼻が利く。放っておくと横から持ってかれちまうよ」

 

 合衆国が所有する軍隊とは違い、ICPOの人間は組織的な連携を嫌う傾向にある。それは(ひとえ)に単体での戦力が大きいという理由からであった。中でも突出した戦闘能力を持つ人間には外交特権を与え、世界各国を回る権利をも与えている。

 そんな外交特権を持つ人間の一人が今、この悪徳の街に足を踏み入れている。目撃情報やこれまでの形跡を辿って確認しているため、まず間違いない。

 

「狙いはおたくらか、はたまた街の重鎮か」

「現状不明です。何日か前に猟犬と思わしき女と銃撃戦を繰り広げる姿が目撃されていますが、その後消息を絶っています」

「エダの追跡網を振り切ったのかい。やるじゃないか、そのハイエナとやらは」

「確かにICPOの動きも無視できるものではありませんが、最優先で対処すべきはNSAです。奴らにこちらの分野に土足で踏み込まれるのは不愉快極まりない」

 

 同じ合衆国の内部組織が最優先で処理すべき相手であると明言して、エダは背筋を正したままソファから立ち上がった。

 

「用心しなよエダ。相手は勝手知ったる同郷の士、ウェイバーみたいに突然現れると思いな」

 

 視線は正面に固定したままそう告げるヨランダに対して、エダもまた振り返ることなく扉に手を掛けた。そのまま扉を押し開き。

 

「ヤー、シスター」

 

 そう短く返して、エダは廊下へと姿を消した。

 

 

 

 33

 

 

 

 目の前に置かれたバカルディを一息に飲み干して、空になったグラスを無言でテーブルに置いた。対面に座る雪緒は、そんな俺の様子をやはり無言で見つめている。俺が先に口火を切るのを待っているのだ。

 所有する事務所の一室、部屋の中央に置かれたガラス製のテーブルを挟む形で置かれたソファに座る俺と雪緒の間には、ここ数分間会話が無い。予め用意しておいた酒と二つのグラスをテーブルに置き、俺が酒を呷る音だけが室内に響いていた。

 

「……飲まないのか」

 

 沈黙を破ったのは、そんな俺の言葉。多少の気を利かせたつもりではあったが、少女は困ったように眉尻を下げて。

 

「私、まだ未成年ですよ」

「ここじゃ年齢なんて大した問題じゃない」

 

 捉えようによってはとんでもないことを口走ってしまったことに、この時の俺は全く気付いていなかったりする。

 数秒の間逡巡していた雪緒だったが、やがておずおずとグラスに手を伸ばし、それを手にとった。ボトルを傾け、透明度の高い液体を半分程注ぐ。自分のグラスにも波々と注いで、小さくグラスをぶつけ合う。

 ぐいっと一息で飲み干す。喉を通った後に感じる熱さが心地良い。

 雪緒はグラスの中身を一飲みしてしまった俺と自身が持つグラスを何度か交互に見て、意を決したように一気にグラスを傾けた。

 

「っ!! ……ッ!!」

「ははっ、これそういう飲み方するものじゃねえぞ」

 

 水なんて気の利いたものは置いていないから、自分でなんとかするしかない。口の中に溜め込むからそんなことになるんだ。

 ハムスターみたいに頬を膨らませたまま顔を真っ赤にする雪緒に、そのまま喉へと流し込むようジェスチャーする。

 

「……っ、はぁ。な、なんてもの飲ませるんですかっ」

「いやまさか雪緒がそんな飲み方するとは思わなくてよ」

「お酒の飲み方なんて知りませんよ!」

 

 そんな飲み方、とか言っておきながらアイスも水も用意していない俺である。

 仕方ないだろう。俺は酒は何でもストレートが基本なのだ。本来の味を楽しむには何も混ぜずに飲むのが一番である。とはいえ、流石に初心者が四十度のバカルディをストレートで飲むのは厳しかったか。グレイに飲ませるときは何か割れるものを用意しておいてやろう。

 

「……ウェイバーさん、そろそろ私だけを呼んだ理由を教えて貰えますか」

「たまには一緒に飲みたくなった、じゃダメか?」

「騙されませんよ。ウェイバーさんは悪党ですから」

 

 にっこりと笑う雪緒を見て、無意識のうちに口角が緩んでいた。強かになったものだ。ロアナプラに来たばかりの頃とは比べ物にならない。

 だからこそ、こうして夜更けに呼んだのだ。強くなったと判断したからこそ、あの極悪人が集う連絡会にも帯同させたのである。

 今の彼女であれば、俺の力になってくれる、なれると判断した。グレイについてはどうせ俺が言わなくとも今回の件に首を突っ込んでくるだろう。というか既に首どころか半身を突っ込んでいるようなものだ。あの娘っ子については今は置いておくとして、雪緒の考えを今は聞くことにしよう。

 

「……本当ならもう少し早く今回の件について話しておくべきだった」

「それは、昨日話にあったメイドの件ですか」

「そうだ。連絡会でも言っていたが、この件に関しちゃコロンビアマフィアと合衆国の軍隊も絡んでる。下手を打てばこの街全てが戦場になる可能性も少なくない。そういうレベルの話だ」

 

 視線を俺へと固定したまま話を聞く彼女に分かるよう、出来るだけ噛み砕いて説明を続ける。

 

「メイドが仕える当主はロックへ捜索の依頼を出した。俺や張なんかは身分や地位が邪魔をしてろくすっぽ動けないからな」

「そのメイドというのは、街全体が危機感を抱く程の危険人物なんですか?」

「奴の狙いは先代当主の仇討ちだ。爆破テロに見せかけて殺された現当主の父親。その仇を取ろうとしてるのさ」

 

 そこで一度言葉を切り、テーブルに置いてあった煙草を手に取る。

 口に咥えて火を点け、天井に向かって煙を吐き出す。煙草の葉独特の臭いが、室内に漂う。

 

「メイドの正体は元革命軍の幹部。戦闘能力だけで言えば遊撃隊(ヴィソトニキ)にも劣らねえバケモンだ」

 

 一個人と軍隊を比べるというのはおかしいような気もするが、もしもロベルタが複数人いたらと思うとゾッとする。あんなサイボーグは一人だけで十分だ。

 バラライカの私兵どもとも渡り合える実力を持つと聞いて、普通なら顔を青くするところだ。

 しかしどういうわけか、雪緒はどこかほっとしたような表情を浮かべた。そして一言。

 

「なんだ、なら大丈夫じゃないですか」

 

 要領を得ない俺に向けて、雪緒はにこやかに微笑んで。

 

「だって、それならウェイバーさんの方が強いんですから」

「……そりゃ買い被りってもんだ」

「そうですか? 少なくとも私はそう思ってますよ」

 

 邪気のない笑顔でそう言われてしまっては、返す言葉が見つからない。咥えた煙草から灰が落ちるのも構わず、小さく後頭部を掻いた。

 

「本題だ。俺としちゃあ面倒な仕事なんて丸めて投げ捨てたいところなんだが、生憎とそういうわけにもいかん。住処が無くなるのは困るんでな」

「私に何をさせたいんですか?」

「お前は頭が良い。俺やここの住人たちより余程考え方もスマートだ。だからこれから与える情報全てを加味して、ロベルタの居場所を突き止めて欲しい」

「難しいことを平然と言いますね」

「無理か?」

 

 挑発を多分に含んだ俺の言葉を受けて、少女の口角は弧を描く。

 

「任せてください」

 

 力強く、雪緒はそう宣言した。

 

 

 

 34

 

 

 

 翌日。午後二時。

 最初にその異変に気が付いたのは、街中を歩いていたキャクストンの部下だった。彼は街中に漂う違和感の正体を探りながら、しかし決して目立つような動作をすることなく、部隊が隠れ家としているボロアパートの一室へと急ぐ。

 部下が感じた違和感。それは辺り一面に張り巡らされた異様な緊張感だった。そう言えば、昨日までとは人通りの数が違う気がする。今日部屋を出てからこれまで、一体何人の住人を見かけた? 

 何かよくないことが水面下で起こっている。確信にも似た予感を胸に抱き急ぐ部下の隣を、赤いシャツを着た白人の男が通り過ぎた。

 

 その男は周囲の様子がいつもと違うことに気付きながら、その場所から離れることなく観察を続けている。

 

(昨日までより明らかに人の数が少ない。露店は全部閉まってるし、工事をしているわけでもねえのに通行止めの場所がちょっと見ただけで四ヶ所)

 

 これまでとは明らかに異なる状況に、ヨアンは目付きが鋭くなっていく。

 

「匂うなァ……。ひょっとすると、ようやくアタリを引けるかもしれねェ」

 

 

 

「どうするあの赤いの? 殺しちゃっていいかな」

「放っておけ。それは仕事の範囲外だ」

 

 安宿の屋上に双眼鏡越しに赤シャツの男を眺める青年と、全身黒づくめの髭面の男が立っていた。

 片手で双眼鏡を持ったままの青年は、残った手で懐からビスケットを取り出して徐に口にする。

 

「にしても変な依頼だねミスター・ブレン。槍よりも盾をご所望とは」

「槍は自前なんだとよ。他人にやらせたくねェ理由があんだろ」

「ま、それならそれで構わないさ。僕ら組合の利益にさえなればね」

 

 

 

『分かってるだろうなアブレーゴ。この件に関して失敗は絶対に許されない』

「勿論です、首領」

『いいか、アメリカ人には絶対に手を出すな。猟犬の首だけを、きっちり落として俺の目の前へ持ってこい』

「ええ、無論です。……しかし、奴らが信用できるので?」

『FARCが寄越した精鋭部隊のリーダーはキューバの特殊海兵だ。腕は確かだよ』

 

 受話器の向こうから伝わる焦燥が、アブレーゴに伝播する。

 

『いいかアブレーゴ、今回アメリカ人どもの事は一切連中には知らせていない』

「なっ……」

『もしもの事があれば、後腐れのないようお前の手で始末をつけろ。それがお前の本当の仕事だ』

 

 

 

「定時報告。南東D4より勢力らしき集団近接しつつあり」

「同発準備完了。状況はブルー」

 

 無線機を飛び交う部下たちの報告を耳にして、キャクストンはその腰を持ち上げた。

 彼を含む部隊員全員が既に手筈を整えており、その手には拳銃やライフルが握られている。部下たちの顔をぐるりと見回して、キャクストンは一つ頷く。

 

「――――仕事だ。さあ始めよう、紳士諸君」

 

 誰が敵で誰が味方か。

 それすらも判別が付かない混戦へ、身を投じるのだ。

 

 




 更新遅れまして申し訳ないです。
 ネット環境が整っていないので、しばらく更新は不定期になりそうです。

以下要点。

・おっさんと少女の出会い。
・ロック空振り。
・エダ暗躍開始。
・雪緒、参・戦ッ。
・大混戦三秒前。


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036 JAPANESE AWAKE

 35

 

 

 

 鷲峰雪緒という少女は、日本という国において一般人とは少々異なる世界で生きてきた。

 鷲峰組。関東に根を張る極道一家、その総代だったのだ。義理や仁義を何よりも重んじる彼ら極道は、しかし盃を交わした身内の手によって壊滅状態にまで追い込まれる。雪緒はその命を、組と共に散らすつもりだった。銀次や組の仲間たちが消えてしまった世界に、彼女は価値を見い出せなかったからだ。大勢のチンピラたちに誘拐された時、他人事のように雪緒は思った。

 

 ああ、ここで私の人生は終わるのだ。

 

 諦観を多分に含んだ彼女の予想は、唐突に現れた煙草を咥えた男の手によって覆されることとなる。

 ウェイバー。立ち塞がる悪漢たちを瞬く間に殲滅した男は、自らを悪党だと告げてから雪緒に問い掛ける。

 気が付かないように、思い起こさないようにしていた。心の奥底に封じ込めた筈の想いが、ウェイバーの言葉を引鉄にして湯水のように内側から溢れ出す。

 建前として用意していた言葉は彼に切って落とされ、本心を無様に吐き散らす。そんな少女を、彼は決して否定したりはしなかった。全てを聞いた上で、八方塞がりな状況を打破する案を出してくれた。一割以下になってしまった組員を日本各地へ逃がし、ロアナプラという新しい居場所を与えてくれた。

 こうして思い返してみると、ウェイバーには何もかも貰ってばかりだと雪緒は苦笑する。本人にその事を言っても、絶対にお礼を受け取ったりはしないのだろうけれど。

 

 この悪徳の都に住むようになって分かったことだが、ウェイバーはこの街随一の腕の持ち主であるらしい。それは日本での行動を見ても明らかだったが、まさかあのホテル・モスクワと本当に対等の立場だとは思わなかった。その影響力は押して図るべし。市場でウェイバーの名前を出そうものなら、露店の店主のみならず近くを歩いていた人間までもが顔を土気色にするレベルである。過去に一体何があったのか非常に気になるが、藪をつついて蛇を出す必要もない。ウェイバーが自身の過去を余り口にしないのは、きっと自分たちに聞かせる必要がないと判断しているからだ。

 基本的に仕事は一人で片付けてしまうウェイバーである。そんな彼が今回、雪緒に協力を仰いだのだ。その意味を、雪緒はきちんと理解していた。

 

(それだけ今回の一件が、この街にとって重要だということ)

 

 自室のデスクに着く雪緒は、手元に広げられた資料に視線を落とす。

 五十枚にも及ぶ紙の束。ウェイバーが現時点で有している情報の全てがここにあった。

 時刻は既に午前一時を回っている。ウェイバーと一緒に飲んだ酒はアルコール度数の高いものだったが、彼女の脳は普段以上に働いていた。どうやら酒に対してある程度の耐性はあるらしい。自らの体質に少しばかり感謝して、雪緒は壁に貼り付けたこの街の地図へと視線を向けた。掛けていた眼鏡を外して、眉間を指で揉みほぐす。

 

「ふぅ……」

 

 四隅を画鋲で留められたロアナプラの地図には、赤と黒の文字がびっしりと書き連ねられていた。元々まっさらな地図だったものに、ここまで雪緒が書き加えたのだ。それらは全て、ロベルタの居場所を割り出すための重要な情報たちである。ウェイバーから受け取った情報を地図と照合し、街の勢力図と比較しているのだ。日本語で書かれた文字は地図の上に留まらず、真っ白な壁にまで侵食している。

 

「最初にロベルタが目撃されたのは南東の大通り……、次がイエローフラッグ。その日の深夜に男と銃撃戦を繰り広げるも、その後の目撃情報は無し……。これだけの位置情報で進路を決定付けることは難しい……」

 

 ならばどうするのか。

 簡単だ、ロベルタだけを見ているから視野狭窄に陥る。この街に入り込んでいるのは、何も彼女だけではないのだ。

 

「アメリカ合衆国の不正規戦部隊グレイ・フォックス。それを追うロベルタ、彼女を追うラブレス家と、コロンビアマフィアが寄越す特殊部隊。外堀は黄金夜会の派閥ががっちりと固めているから、街の外へ逃げることは不可能」

 

 現在この街に存在するグループは大きく分けて二つ。

 追う者と、追いながらも追われる者。

 先程雪緒が口にした中では、追う者に分類されるのはカルテルが用意した特殊部隊と夜会、そしてラブレス家がこれに当たる。

 だが、この一件に関わっているのは何も先に上げた者たちだけではない。

 

 ヘルベチアの狗、ICPO。

 一体どのような意図があって行動しているのかは定かではないが、外交特権を持つ化物が一人、この街で確認されていた。しかもその男はロベルタと撃ち合っている。もしも男の目的がロベルタの逮捕だとするならば、合衆国軍以外の勢力全てがロベルタの行方を追っているということになる。

 

(誰も彼もがロベルタを追っている。所有している情報は恐らくどこも大差ない。だとすれば、そこから先は捜索者の力量)

 

 木製の椅子から立ち上がり、ペン立てに置かれていたマーカーペンを手に取る。そのまま地図が貼られた壁の目の前に立って、書き記した情報を今一度吟味する。

 ロアナプラという悪の栄える街に於いて、その代名詞とも言える存在が黄金夜会である。東西南北のそれぞれに縄張りを持つ四つのマフィアに加え、ウェイバーというたった一人の男。その事務所がある地点が、真っ先に赤いマーカーでチェックされていた。各事務所の周囲は警戒の目も厳しく、そうそう余所者が入り込めるような場所ではない。区画内の施設は軒並み夜会の所有するものだ。見たことのない人間が居れば即座に発見される。これはロベルタにも、合衆国軍にも言えることだった。

 

(まず各事務所の半径五キロ。ここは捜索範囲から除外する)

 

 次に考えなければならないのはこの街への侵入経路である。

 船を使い海路からやってきたのか、それとも空路を利用しやって来たのかで侵入した方角が異なるからだ。

 船を使用したのならば必ず街の南側、つまりは港側からの侵入となり、逆に航空機であればバンコクを経由しその後は陸路で街の北から侵入することになる。この点については、既にウェイバーから齎された情報に記載があった。

 ベネズエラでロベルタが失踪した日の二日後、カラカスからマイアミ経由でバンコクへと向かう航空券を持った彼女が犯行現場のすぐ近くで目撃されているのだ。

 ロベルタの侵入経路は北から。まずこれが確定する。

 しかし同時に解せない点が浮上する。

 

(ロアナプラの北、サータナム・ストリートにはホテル・モスクワの事務所がある。馬鹿正直に街を横断するとは考え難い)

 

 もしも何の警戒も無いままに足を踏み入れていれば、今頃バラライカ率いる遊撃隊に蜂の巣にされているはずだ。

 そうでないということはつまり。

 

「街の地形をなぞる様に迂回した……。そう、だからイエローフラッグの近くでグレイちゃんが彼女を見つけたんだ」

 

 イエローフラッグはロアナプラの南東に位置している。

 仮にロベルタが街の北からぐるりと迂回してイエローフラッグへと向かった場合、ウェイバーの事務所が聳える『地獄一番地(ピーサ・ヌン・ティユ)』を通ることになるが、極端に人通りの少ないこの通りはともすれば隠れ蓑にうってつけだっただろう。

 これまでの全ては、雪緒の想像でしかない。

 だが、確実に目標の足音を捉えようとしていた。

 

 イエローフラッグ店主であるバオの証言によれば、ロベルタは戦争を行うために必要な道具を揃えようとしていたと言う。恐怖のままに紹介したという三軒の店には、既に地図上に赤い丸が付けられている。

 そして次にロベルタが目撃されたのは、その三軒の店から然程遠くない小さな通り。その地点には幾つかの安宿が立ち並んでおり、その時まではどれかを使用していたのだろうと考えられた。

 しかしこれ以降、ロベルタはぱったりと姿を眩ませてしまう。ウェイバーからの情報にも、これより後の情報は全く記されていなかった。

 

 ここで手詰まりか。

 否、と雪緒は首を横に振るう。

 

 この街にはまだ、合衆国軍が息を潜めている。

 彼らこそがロベルタの標的とする人間たちであり、猟犬は遠からずグレイ・フォックスの影を捉えるだろう。つまり、この軍隊の居場所を割り出してしまえば、いずれはロベルタの居場所も割れるということだ。

 では、そんな彼らは今どこで身を潜めているか。当然ながら、黄金夜会が縄張りとする区画にはいないだろう。そもそもアメリカがバックについているのだ、街の情勢を知らされていない方がおかしい。

 

「グレイ・フォックスのこの街への潜入経路が分かればいいんだけれど……」

 

 残念ながら、そこまでの情報はウェイバーであっても入手していなかった。判明しているのは彼らが『グレイ・フォックス』と呼ばれていること。その目的がシュエ・ヤンという男の身柄を拘束し、アメリカの最高裁へ出廷させることだ。

 この男についての情報は既にウェイバーが手に入れており、三合会が持つヘロイン生成プラントと密接に関わりを持つ人間とのことだ。シュエ・ヤンの居場所を特定することが出来れば、こちらとしても対策の取りようがあるのだが。

 

(……いけない。これじゃ堂々巡りだわ)

 

 誰かを探すために別の誰かを探す。これではいつまで経っても目当ての人物に辿り着くことはできない。

 雪緒は今一度地図を見つめ、不要な場所だけを脳内で切り取っていく。

 

(ホテル・モスクワ、三合会、コーサ・ノストラ、マニサレラ・カルテルの事務所周囲と、人通りが極端に多い場所は除外。シッタラードの中央幹線道路から東側にはこの事務所があるから、街の東側は考えなくてもいいはず。とすれば……)

 

 ロアナプラの西側。且つ黄金夜会系の事務所から距離があり、人通りがそれなり(・・・・)に多い場所。

 

(メイン・ストリートは……ダメね。すぐ南には三合会の事務所がある。北西にはコーサ・ノストラの事務所。それらを外しつつ人通りもそれなり、隠れ家となる建物も多いとなれば)

 

 キュッ、と乾いた音を立てて、地図の上に赤い丸が付けられる。

 ロアナプラの中心より僅かに南西。ブランストリートとチャルクワン・ストリートが交差する歓楽街。

 ここなら街の住人以外の人間がいてもそう目立ちはしないだろう。元より様々な人種が集まる荒んだ街だ、隠密・潜入する術に長けた軍隊が溶け込めぬはずはない。

 

 確証はない。

 雪緒に渡されたのはそれぞれの人間たちの背景と僅かな状況証拠のみで、見当違いな場所を指し示している可能性の方が高い。せめてもう少し時間の猶予があれば、今よりも確度の高い位置まで絞り込めるのだろうが。

 今の彼女にはこれが精一杯であり、ウェイバーに話せることの全てだった。

 確信のない情報を渡すことに、申し訳なさを感じてしまうのは仕方のないことだろう。彼の期待に応えることが出来なかった、そう思うと悔しさが内から湧き上がる。

 

 しかし、こんな不確かな情報であっても、彼は微塵も逡巡することなくこう言うのだ。

 

「――――よし、行くぞ」

 

 早朝。

 目の下に隈をつくった雪緒からの報告を受けて、ウェイバーはするりとジャケットに袖を通して立ち上がった。

 雪緒の導き出した居場所が間違っている可能性もあるというのに、ウェイバーはそれを一切気にしていないようである。無償の信頼を受けているようで内心嬉しくはあるが、今回の件は小さなミスが命取りとなる程のデリケートな案件だ。不安を感じてしまうのも仕方のないことだった。

 もしも間違えていたら。そう思い僅かに俯く雪緒の頭を乱暴に撫でて、男はなんの気なしに言う。

 

「あとの事は、俺に任せろ」

「俺たちに、でしょ? おじさん」

 

 ウェイバーのその言葉が切欠となったのか、急激に襲い来る睡魔に抗えず、雪緒はそのままソファに腰を下ろして横になる。

 霞んだ視界の先で二つの影が事務所を出て行くのを見届け、少女は夢の世界へと旅立った。

 

 

 

 36

 

 

 

「で? お前はアタシにどうしろってんだ?」

「…………」

「一人でけェ顔して出て行ったと思ったらこれだ。昨日の今日で音ェ上げるなんざ考えなしにも程がある」

 

 レヴィの口から吐かれる罵詈雑言の数々が、ロックの決して強くはない精神にぐさぐさと突き刺さる。

 かれこれ数時間、ロックはレヴィの私室に設置された安物のベッドに腰掛け、彼女の言葉を受け止めていた。窓の向こうから覗く水平線の彼方は既に白み始め、直夜が明けるだろう。

 レヴィはロックの後ろで寝そべり、天井を見上げたまま。

 

「理由を言えよロック。どうしてそこまで肩入れする?」

「……子供が困っていれば手を差し伸べる。ここじゃともかく、それが普通だ」

「普通、普通ね。優等生なおぼっちゃまの回答だ」

 

 レヴィは言って寝返りをうち、ロックの背中を見つめる。

 ギシ、とベッドが軋んだ。

 

「そんな建前を聞きてェわけじゃねェんだよロック。アタシがテメエの口から聞きたいのはな、もっと本質的な部分だ」

 

 照明の落ちた部屋に、数秒の沈黙が流れる。

 

「……随分と心配してくれるんだな」

「勘違いすんな。寝覚めが悪いのは御免だって言ってんだ」

「俺はさレヴィ。実を言うと、ウェイバーさんにちょっと憧れてた」

 

 ギシリ。二人分の重さに耐えられないのか、再びベッドが僅かに軋む。

 

「俺と同じ日本人で、腕っ節だけでこの街の頂点に君臨した。もし俺が十年この街で過ごしても、バラライカさんたちと対等な立場になれるとは思えない」

 

 始まりは純粋に、憧れた。

 その強さに、こんな街でも決して揺らぐことのない、その在り方に。

 本当にこんな人間が世界には居るのだと、ロックは高揚感を隠しきれなかったほどだ。

 

「こんなクソッタレな街にありながら、周りからは畏敬と憧憬を向けられるオンリーワン。痺れたよ、あの人のようになれたらと、思わない日は無かった」

 

 男なら誰しもが一度は憧れる、最強無敵のヒーロー。その理想像に最も近かったのが、ウェイバーだった。

 リボルバー二挺で立ち塞がる敵は容赦無く殲滅。そして自愛を向ける対象は何があっても守りぬく。ロックの思い描く理想の姿が、そこにはあった。

 

「……あンたとボスは違うだろ、ロック」

「ああ、そうさ。おんなじな訳がない、俺には何もかもが欠けている。腕っ節の強さも、悪党たるプライドも」

 

 抱いていた憧れに変化が現れたのは、日本で彼の姿を目撃してからだ。

 己の我を貫く、圧倒的な暴力。有象無象を蹴散らすその姿。そして彼に言われた言葉に、ロックの抱いていた理想は砕けた。

 

 ――――正義が必ず勝つんじゃない。勝った奴だけが正義を語れる。

 

 ――――他力本願で何かを望む。随分な正義があったもんだ。

 

「……ああ、だから、そうさ」

 

 ギシリ。ロックがベッドから立ち上がり、その拳を強く握る。

 

「俺は悪党だよ、レヴィ。自分の目的のためにガルシア君たちを利用しようとしてる。趣味のためだけに」

「趣味だ?」

「そう、趣味さ。俺は俺のやり方で、どこまでウェイバーさんたちと渡り合えるのかを知りたい。憧れの対象なんかじゃない、一人の人間として」

 

 その兆候はあった。

 ロックという日本人が、いよいよ以てその全身をこの街に浸そうとしている。そんな兆候は確かにあった。レヴィもはっきりと覚えている。日本であの女を救おうとして、ウェイバーに事実を突き付けられたあの日。そしてエダとウェイバー、二人に続いてインド人の女を逃がす手伝いをしたあの日。

 これまでとは異なるロックの性質に、レヴィだけが気付いていた。

 

 ――――嗚呼、コイツもだ。

 

 レヴィは白シャツの背中をぼんやりと眺めながら、過去の自分と重ね合わせていた。

 一度踏み込んでしまえば、もう後戻りは出来ない。

 自らの意思でその道を進もうとしている男を止めることなど、出来はしなかった。

 

 その生き方を肯定はしない。やはりこの男には陽の当たる世界が似合っていると、今でも思っているから。

 そして同時に否定もしない。男が一度決めた事に口を出すのは無粋であると、彼女は既に知っているから。

 

「……どうするつもりだ?」

 

 その言葉を受けて、ようやくロックはレヴィの方へと振り返った。

 どこか黒さを感じさせる瞳は、ウェイバーを彷彿とさせる。

 

「付いて来てくれるか」

 

 返事は、決まりきっていた。

 

 

 

 37

 

 

 

 至るところが腐りかけている木製の扉を開いて、リッチー・リロイは室内へと足を踏み入れた。

 部屋に設置されていたベッドの上には多くの重火器が無造作に広げられ、それを女が自らの身体周りに収納している最中だった。リロイは部屋の壁に背を預け、女へと告げる。

 

「中々サマになってるじゃねえか」

「…………」

「ブレンの方は人数を確保したようだ。アンタの注文通りにな」

「結構」

 

 黒い髪を一度横に靡かせて、ロベルタは何か言いたげなリロイに無言で先を促した。

 

「だが、お目当ての連中は市内のモーテルのいくつかに分散してる。元々はブレンの手駒とアンタで本陣だけをやるって話だったが」

「本陣の潜むモーテルの割り出しは」

「終わってるよ。こいつがその住所だ」

 

 ポケットに突っ込んであったらしい紙切れをロベルタへと渡して、リロイは尚も続けた。

 

「俺は情報屋だ。だからアンタの要望通りの情報をくれてやるし、始末屋の仲介もしてやる。だがな、ここにゃバケモンが住んでるってことは忘れんな」

 

 そんな言葉を聞いているのかいないのか、受け取った紙切れを適当に放り捨て、大きなケースを二つ持ってロベルタは部屋を出て行った。

 ひとり残されたリロイは、音の無くなった部屋で静かに溜息を吐き出す。

 建物たちの間から見える太陽が、不気味な程に輝いていた。 

 

 

 

 38

 

 

 

「解せんな」

 

 たった一言。吐き捨てるようにバラライカはそう言った。彼女の隣に立つ張には一切視線を向けず、煙草の煙を燻らせる。

 路南浦停泊場。海上に突き出す形で作られた木製のデッキの先端に、二人は立っていた。バラライカは海を、張は内陸をと外的に視線を向けている方向は違っているが、両者共に捉えている目標は同一だ。

 落水防止用の木柵に肘を預け上空を仰ぐ張へ、再度バラライカが言葉を投げる。

 

「我々の行動はお前が望んでいるものではないはずだ」

「……確かにな」

「その情報を我々に渡してどうするつもりだ。真意が読めん」

「真意、ね」

 

 コートの内ポケットから取り出した煙草を咥えながら、張は先に述べた情報を再度口にする。

 

「メイドは直『グレイ・フォックス』に辿り着く。あの猟犬はこの街の中で片をつけようとするだろう」

 

 それは限りなく変え難い事実だった。このままでは、ロアナプラは火の海などという甘口の比喩では済まないような状況になる。ひた隠しにしてきたこの街の全てが表沙汰になる可能性すらある。それはロアナプラに住む全ての人間にとって、何としてでも避けねばならない事だった。

 

「この街が砂の楼閣と化す前に、俺たちは同じ道を進まなきゃならない」

「それが先程言っていたことか」

「そうだ。この街での争乱を食い止め、美国人(アメリカンズ)を生かしてこの街から脱出させる」

 

 ここで初めて、バラライカは横目で張を見やった。

 相も変わらず、何を考えているのか表情からは全く窺い知ることは出来ない。サングラスの奥に鈍く光る瞳が何を見据えているのか、あるいはどんな未来を見ているのか。

 

「この街から出て行った後にメイドにゃあ始末をさせればいい。するとどうだ、誰の懐も痛まない。万事快調ってやつだ」

「下らないわね。何かと思えばそんな世迷言を言うために態々私を呼び出したのかしら」

 

 その殆どが灰になった煙草を海へと投げ捨てて、バラライカは毅然と言い放つ。

 

「お断りだ。我々の計画に変更はない」

 

 張に何と言われようが、バラライカは当初の予定を変更するつもりは毛頭なかった。

 これで話は終わりだと言わんばかりに歩き出すバラライカの背中へ、張は。

 

「それが、お前らの生き方か?」

 

 歩みを止めようとしないバラライカへ、張は言葉を投げ付ける。

 

「軍人として死のうってのか、くだらねェ」

「…………」

 

 ピタリと、バラライカの歩みが止まる。張へ振り返ることはせず、ただその場に立ち尽くしているのみだった。

 

「合衆国の軍隊がそんなに眩しく見えるのか。お前たちが成っていたかもしれない(・・・・・・・・・・・)姿が」

「……勘違いするなよ、張」

 

 張の言葉に被せるように、バラライカはそう切り出した。

 

「軍人として死ぬつもりなど無い。我々には軍人としての矜持すら捨ててでも獲りたい首がある」

「ハッ、それは俺も同意見だ」

 

 獲りたい首が誰のものであるかなど、言うまでもない。

 

「……あの日、俺はどてっ腹と右手に三発の鉛弾を食らった」

「私は四発だ」

「本当なら俺たちはあの日ここでくたばっていた。奴に殺意があれば、今頃は海の底だ」

 

 今思いだしてもゾッとする。視認すら出来ないほどの早撃ち。当時縄張り争いをしていた張とバラライカの銃撃戦に割って入ってきたその男は、有無を言わさぬその絶技で二人を地に這い蹲らせたのだ。

 

「お前は俺を嗤うかもしれんがなバラライカ。俺にもたった一つだけ、譲れねえモンがある」

 

 どうしようもなく、古傷が疼くのだ。

 

「この場所で、この街で。奴に借りを返せないこと。そいつは俺の流儀に反する。それだけだ」

「借り、ね。確かに私も奴には大きな借りがある」

「熟慮する時間はもう残されていない。選ぶなら今だ。……お前たちはどうする」

 

 その問いかけに、バラライカは薄く笑ってみせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 以下要点。
・名探偵ユキオ
・ロック覚醒の時。
・ロベ公発進。
・姉御決断。

 今回は繋ぎ回。はっきりわかんだね。


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037 SHOW MUST GO ON!!

 


 39

 

 

 

 

「ここンとこなんか騒々しいッスね」

「あん? なんだオメエこの店への当て付けか?」

 

 イエローフラッグと呼ばれる酒場が、ロアナプラの南東に居を構えている。全壊する度により強固になって蘇ることから『街の筋繊維』だの『不朽要塞』だの『ウェイバー収容所』だの好き勝手に呼ばれているが、店主であるバオからすればそんな通称は不名誉以外の何物でもなかった。

 今ではもうどこを建て替えればいいのか分からないような有様だ。RPGくらいなら店の扉で防げる自信がある。全く以て不要な自信だった。

 

「そういやこないだもここでドンパチされたんでしたっけ」

「良かったな英一、あの場にいなくてよ」

 

 でなきゃ今頃あの世逝きだぜ、そう言いながらバオは英一の前に替えのジョッキを置いた。その中身の三分の一程を飲み干して、英一は問い掛ける。

 

「メイドだっけ。そのせいで街が浮き足立ってんでしょ? それくらい俺だって分かってますよ」

「お前さんが想像してるようなメイドじゃねえってことだけは断言できるがな」

「はい?」

「袖からガバメント取り出したりスパスをぶっ放すようなメイドを見たことあるか? 催涙ガスを遠慮なく店内で使いやがるメイドとかよ」

「なんスかそれ、武装女中(バトル・メイド)?」

殺戮女中(キリング・メイド)だよクソッタレ」

 

 先日の惨劇を思い出しているのか、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるバオ。

 英一は件のメイドとやらを直接見たことはない。街中を流れる噂話を耳にした程度である。

 

 曰くホテル・モスクワの遊撃隊と渡り合った。

 曰く戦闘車両に撥ねられたくらいでは止まらない。

 曰くウェイバーと過去に因縁がある。

 

 どれもこれもが現実離れしているせいか全く真実味が感じられないが、残念なことにそれが真実であると知らないのは店内では英一ただ一人だった。

 話半分にバオの愚痴を聞きながら、英一は明るくなり始めた店外に視線を向けた。上空を流れる雲は薄く緩やかで、今日も快晴であることを窺わせる。

 店の中にはバオと英一を除けば二、三人の客しかおらず、この店にしては珍しく静かな朝を迎えている。というのも先日のメイドの一件が客の足を遠のかせているだけだが。

 そんな訳でウェイバーが居座っている時ほどではないにしろ、それなりに落ち着いているイエローフラッグである。

 その扉が唐突に開かれたのは、英一以外の最後の客が店を出ていったすぐ後のことだった。

 

「いやぁ、まだ開いてる店があって助かったよ。情報(エサ)の一つも無いままじゃおめおめホテルにも戻れない」

 

 コツコツと高級そうな革靴を鳴らして現れたのは、真紅のシャツを着た長身の男だった。

 見覚えのない顔付きに、バオの眉が怪訝そうに顰められる。男はそんな不躾な視線を一切気にすることなくカウンターまでやって来ると、英一の隣の席に腰を下ろした。

 

「見ねえ顔だな。どっから来た」

「少し眠くてね。眠気覚ましになるような酒をもらえるかい」

 

 店主の言葉には答えず貼り付けたような微笑を浮かべる男に、バオは舌打ちのあと無言でバカルディのボトルを叩きつけた。受け取った男は栓を抜き、そのまま一気に呷る。数秒でボトルの半分程が消えていた。

 

「……アンタ、この街の人間じゃないよな」

 

 ボトルを持つ男の動作が止まり、隣の席へと視線が向けられる。

 頬杖をついた英一は、訝しげな眼差しをその見知らぬ男へと向けていた。

 

「まぁ、そうだな」

「余所者がこんな時間に一人で外出歩いて何してたんだ?」

「……詮索屋は嫌われるぞ」

「生憎と性分なもんでね」

 

 英一はこの街に来て日が浅い。月日で言えば一年程度である。だが、元よりそれなりの世界に身を置いていた彼は、他の人間よりも鼻が利いた。

 そんな幾つかの死線をくぐってきた英一の嗅覚が警鐘を鳴らしている。

 今、この瞬間。目の前に座る男は、特一級の危険人物であると。

 

 警戒心を剥き出しにする英一を横目に、赤シャツの男は僅かに口角を持ち上げた。

 

「そう警戒するなよ。別に取って食おうってわけじゃない」

「どうだか」

「この店に立ち寄ったのは本当に偶然だ。偶々目に付いたのがこの酒場だった。それだけの話だ」

 

 男は英一の敵愾心など露程も気にせず、ボトルの残りを飲み干した。

 

「少しばかり聞きたいことがある」

 

 空になったボトルをテーブルへ置き、男はそう切り出した。

 バオと英一。二人の視線を浴びながら男、ヨアンはその名を口にする。

 

「……ウェイバーって名前に聞き覚えはあるか?」

 

 途端、二人の表情が僅かに変化する。

 それを見て、ヨアンの口角が一層吊り上がった。

 

「どうやら、ようやく俺は奴の尻尾を掴めそうだ」

「テメエ……、アイツとはどういう関係だ」

 

 バオの問い掛けに、ヨアンは一拍おいて答えた。底冷えするような低い声で、全ての怨嗟を吐き出すように。

 

「商売敵ってトコだ。俺にとっても奴にとっても、目障りで仕方ない目の上の瘤だ」

 

 その言葉が紡がれた直後、横に座っていた英一が懐へと手を伸ばす。それを見てバオは即座にカウンターの下へと身を隠した。

 一瞬のうちに行動を起こした二人は、流石に場馴れしていると言えるだろう。

 しかし、そんな二人よりもヨアンは更に早かった。

 

「…………っ」

 

 英一の額に、冷たい銃口が突き付けられる。懐に手を伸ばしたまま固まる英一を見るヨアンの瞳は、どこまでも黒ずんでいた。ウェイバーの瞳とは似て非なる瞳。どこかが決定的に食い違っているような、歯車が噛み合っていないような、そんな違和感を感じさせる双眸だった。

 ヨアンは先程までの愉快そうな表情の一切を消して、ただ無表情に目の前の男に尋ねる。

 

「答えろ。奴は今、どこにいる」

 

 

 

 40

 

 

 

 真上に輝く太陽は、今日も変わらず地上を歩く人間たちをジリジリと焼いている。陽の光を遮ってくれる雲も近くには見当たらず、空は見渡す限りの青が広がっていた。ああ、暑い。ジャケットなんて着てくるんじゃなかったと心底思うが、まさかショルダーホルスタをそのままぶら下げておくわけにもいかない。拳銃を裸で晒すなんて真似、余程の馬鹿か見栄っ張りしかしない。

 メインストリートを南下し、チャルクワンを目指して年代物のセダンを走らせる。助手席には先程露店で購入した棒付き飴を頬張るグレイが乗っており、全開にした窓から入り込む風に絹のような髪を靡かせている。

 

 雪緒が示した地点はチャルクワン・ストリートに軒を連ねるホテル街の一角。彼女なりの根拠のもとに示されたその地点へと向かっているわけだが、そこが正解であるという確信は俺も持ってはいない。

 というより、そこが仮にハズレであったとしても、それはそれで構わないのだ。当然俺が真っ先にアタリを引くに越したことはないが、そうでなかったとしても直に張、バラライカは猟犬の居場所を突き止めるだろう。張はあくまでも街の存続を第一に考えている。バラライカはロベルタの追う合衆国の尻尾を捕まえようとしているみたいだが、結局のところ両者の行動が行き着く先は俺と同じだ。

 

 街の脅威となるもの全てを排除し、この街に仮初の平穏を齎す。

 例え本人にその気がなかったとしても、得られる結果は同質のもの。

 バラライカが米国の軍隊を手にかけるという可能性は否定出来ないが、元軍人のあの女にとってグレイフォックスはどちらかといえば羨望の対象だ。手ずから血祭りにするとは考えられなかった。それでもそんな事態になるのであればそれは俺の思慮が足りなかったというだけの話で、夜会で張が言っていたようにこの街の全てが消えてなくなるという結末を迎えることとなる。

 砂の城のように繊細で不安定なのが今のロアナプラだ。ちょっとした食い違いで取り返しのつかない事態にまで発展する。街の至るところに特大の火薬が敷き詰められているようなものだ。そんな街中を、余所者たちが我が物顔で闊歩している。

 

「……我慢ならねェな」

「同感だわ」

 

 返答を期待して呟いた言葉では無かったが、俺の言葉にグレイは反応を示した。視線は窓の外に向けたまま、彼女は口にする。

 

「あのお姉さんも、アメリカの軍隊も、ヘルベチアの狗とやらも。勝手に暴れられちゃ困るもの」

「珍しいな、俺と意見が合うなんて」

 

 自由奔放を地で行くこの娘っ子と俺の意見が合致することなど早々ないんだが。

 

「だって私の楽しむ分が無くなっちゃうじゃない」

 

 訂正。

 全く以て合致していなかった。いや、表面上は合致しているようにも見えるが、その動機が不純すぎる。こいつただ自分が暴れたいだけだ。

 

「グレイ。分かってるとは思うが、くれぐれもやりすぎるなよ。デルタだのパラミリだのに追われることになるのはもう御免だからな」

「でも目の前に銃口を突き付けられたら排除するしかないわ。そうでしょう?」

「できればその事態を回避したいんだけどな」

「きっと無理ね。だっておじさんが動くんですもの」

 

 おいそりゃどういう意味だ。

 不服だと言わんばかりに助手席へ視線を向ければ、グレイは鼻唄を唄いながら愛銃の手入れを行っていた。どうやら今しがたまでの会話からはすっかり興味が失せてしまったらしい。

 目的であるチャルクワンが目と鼻の先にまで迫ってきたため、適当なところで車を停めて外へと出る。

 途端、周囲がざわつき始める。メインストリートにも繋がる通りであるためか人や露店の数も多いが、その殆どが俺たちを見た途端にその場から退散していく。化物でも見たかのような反応に心の内で少しだけ傷つきつつ、目当てのホテルを目指して歩き出す。いやホント、数分の内に視界から綺麗さっぱり人が消えやがったな。

 

「……ま、余計な死人を出さなくて済むと思うことにするか」

「ねぇおじさん。このりんご貰ってもいいかしら」

「君ちょっと自由過ぎない?」

 

 無人になった露店の前にしゃがみこみ果実を物色するグレイは、それはもうイイ笑顔で品定めを開始した。こんな治安の街で言うのも何だが犯罪ですよお嬢さん。本当に今更だが。

 溜息を一つ零して、ぐるりと周囲を見回す。一帯に人の影はない。建物の中に引っ込んでしまっている人間がどの程度いるのかは分からないが、この感じだと俺たちが居なくなるまで姿を見せることは無さそうだ。

 目線の先に座り込むグレイがあんな調子なので忘れそうになるが、ここはもう一級の危険地帯である。雪緒の予測した地点が正しければ近くに合衆国軍隊、そしてロベルタが潜伏している。俺にはソイツらの気配を探るなんて芸当は出来ないが、なんとなく周囲に重苦しい空気が立ち込めているのは分かる。

 ついついレヴィのように野性的な勘があればと思ってしまう。

 そうすればこんな風に、

 

「――――見られてるな」

 

 それっぽい建物の屋上を見つめて、渋くキメることも出来るというのに。

 

「おじさん」

 

 いつの間にかりんご品評会を終えていたグレイが俺の隣に立っていた。彼女の視線は今しがた俺が眺めていた安宿の屋上に向けられている。あの安っぽい手書きの看板が気にでもなるのだろうか。確かにこの街じゃ珍しい日本語表記の看板だけれど。 

 一点を見つめたままのグレイは手にしていたBARの砲身を優しく撫で、次いで酷薄な笑みを浮かべた。

 

「行きましょう? 余り時間は無いみたいだから」

 

 上機嫌なまま歩き出した少女の後に続いて、俺も再び歩き出した。

 

 

 

 41

 

 

 

「……信じられない」

 

 男は一人、誰にも聞こえない程小さな声でそう呟いた。

 スコープが捉える二人の人間の背中から視線を外さないまま、狙撃銃を握る手に力を込める。

 

「この距離だぞ……。一体何ヤード離れていると思ってる……」

 

 アメリカ合衆国不正規戦部隊、『グレイフォックス・襲撃群(コマンドグループ)』。

 国防総省(ペンタゴン)の特殊作戦軍に所属する彼らは、極めて高度な作戦に従事することを旨とする部隊である。部隊に所属する人間誰もが各地の戦線で戦果を上げてきた強者。これまでの任務の達成率が、その証明でもある。

 今こうしてレミントンM700を構える男も、部隊に恥じない働きをしてきた。ベトナム戦争にも参加し、祖国に貢献すべく戦った。

 そんな男が今、嘗てない衝撃を受けていた。

 

 生粋の軍人であるその男に衝撃を与えたのは、道のど真ん中を歩く男と幼げな少女である。

 異変に気が付いたのはその数分前の事だった。一台のセダンが停車し中から男が現れた途端、周囲に居た人間たちは蜘蛛の子を散らすようにその場から居なくなってしまったのだ。

 怪訝に思いスコープ越しにその二人をしばらく観察していると、唐突に男がこちらへと顔を向けて。

 

 ――――見られてるな。

 

 実際にその言葉が聞こえた訳ではない。唇がそう動いたのを確認出来た訳でもない。

 ただ幾多の戦場を乗り越えてきた軍人としての本能が、理解するよりも早く男にそう感じさせた。

 そしてその本能が正しかったことを告げるように、数秒遅れて少女とも視線がぶつかる。

 

「……ッ!」

 

 少女は哂っていた。

 どこまでも冷たい、凍てつく様な笑みをその顔に貼り付けていた。

 背筋に嫌な汗が流れるのを自覚する。少なくとも二人とは千メートル以上離れている。通常であれば間違っても居場所を悟られるような距離ではない。

 だが、悟られた。確実に。

 額に滲んだ汗が頬を伝い、太陽光で熱されたコンクリートへと滴り落ちる。

 その後二人が通りを右へと曲がり姿が完全に見えなくなったのを確認して、男はようやく構えを解いた。と同時に立ち上がり、潜伏先にしている宿へと急ぐ。

 

 一刻も早く、あの二人のことを少佐へとお伝えしなければ。

 

 周囲を最大限に警戒しながら、狙撃手は全力で走り出す。

 

 

 

 42

 

 

 

 隣を歩くグレイをちらりと一瞥し、視線を正面へと戻す。

 メインストリートとも交差しているチャルクワンの通りは、ロアナプラの中でも多くの建物が軒を連ねる地点である。当然それに比例して人の数も多い。普通は、だが。

 セダンを降りてからかれこれ十分程歩いているが、未だに人と遭遇していない。

 

「おじさんは皆に怖がられているのね」

 

 俺の思考を読み取ったのかそんな風に言ってくるグレイ。

 いや、しかし。明らかにこれは異様だ。ロアナプラの人間が全て俺のことを忌み嫌っているかと言われればそうではない。バオやメリーのように気兼ねなく接してくる住人がいるように、大体の人間は遠巻きに眺める程度の行動で済むはずなのだ。先程セダンから降りたときのような周囲のリアクションが稀なのである。

 

 何か引っ掛かるものを感じながらも目的のホテルへと向かって歩みを進める。するとメインストリートからチャルクワン、及びマンタイへとのびる通路の一角を、複数名の工事夫たちが塞いでいるのが目に付いた。ご丁寧に通路をまるまる塞ぐバリケートまで並べている彼らの元へと近付いていく。

 

「よう、どっかの馬鹿が何か仕出かしたのか?」

 

 俺に背中を向けていた工事夫の一人にそう問い掛ける。声に反応して振り返った男は一瞬目を見開いたが、それ以降事務的な返答をするのみに留まった。

 本来であればこの道を通って向かうのが最短のルートだったが、通行止めということであれば仕方ない。ここからそう遠い距離でもなし、元より車は既に降りているため、グレイを連れ立って再度歩き出した。

 

「おじさん」

 

 顔は正面を向いたままそう呟くグレイに「ああ」と返して。

 

「工事をしたいわけじゃあ無さそうだな。隠そうとはしてたみたいだが、左の脇が膨らんで(・・・・)やがった」

「何処かの回し者かしら」

「十中八九な」

 

 合衆国軍がこの街の人間を買収するとは考え難い。となるとそれ以外の勢力の何れかの行動だろう。いよいよ本格的に爆心地へと足を踏み入れようとしているのだ。

 

「それで?」

「うん?」

「おじさんはどう動くつもりなの?」

 

 可愛らしく小首を傾げるグレイ。ああ、そういえばまた行動予定を伝えていなかったと思い至る。

 俺はグレイへと視線を向けて、ジャケットのポケットの部分を二、三度軽く叩いてみせる。

 その音だけで何が入っているのか理解したグレイは、その顔に喜びの色を浮かべた。

 

「なんだ、私にやりすぎるなって言うんですもの。てっきり隠密行動でもするのかと思っちゃった」

「俺にそんなスキルがあるならそうしたいところだがな。生憎とそう小難しいのは苦手だ」

「イイわ。すごくイイ。あれこれ考えて動くよりもよっぽど分かり易くてスマートだわ」

「いや、あのな。これだって俺なりの考えってやつがあるんだが……」

 

 そんな風に言ってはみるものの、やはりというかグレイは既に俺の言葉なんて聞いちゃいないようだった。BARを心置きなく使用できるという状況に狂喜乱舞しているように見える。

 一つ息を吐く。ポケットに忍ばせてある隠し玉もそうだが、ここから先は出たとこ勝負で状況に合わせた使い方が重要だ。合衆国軍、それを追うロベルタ。さらにそれを追う俺や張にバラライカ。そしてガルシアが率いるロックたち。それに加えてICPOまでが出張る可能性があるというのだから、今のこの状況は混沌以外の何物でもないだろう。

 

 視界の先、チャルクワンストリートに立ち並ぶ歓楽街を確認する。

 雪緒の推理が正しければトカイーナホテルに合衆国軍が居るはずだ。現時点でロベルタが彼らの居場所を突き止めているのかは定かでない。

 

 俺や張の共通目的として、外部勢力をこの街から排除することが挙げられる。その外部勢力として真っ先に挙がるのがグレイフォックスとロベルタの二者だ。合衆国軍をロアナプラから追い出すことが出来れば、それを追ってロベルタもこの街から姿を消すだろう。だがそうなる前に、ロアナプラは街としての機能を失うかもしれない。

 張はロックに言っていた。

 合衆国軍とロベルタが接触する前に追い付き、ガルシアと引き合わせること。それこそ我々の勝利条件だと。

 

 俺は張の街の存続を第一にする考えには概ね同意している。ただ一点、その勝利条件を除けば。

 先代当主を手にかけた犯人を目前にして、ロベルタは止まるのか。恐らく、いや確実に止まらない。その程度の決意であれば、ベネズエラを発つ前にガルシアが止められたはずだ。

 その程度の意思ではないのだ。その程度の執念ではないのだ。ロベルタは、獲物を前にして引き返すような温い猟犬ではない。

 

 ならばどうするのか。

 片方だけを先に排除するのでは足りない。

 排除するなら、同時(・・)に。

 

 となるとロベルタの今現在の動向が気にかかるが、目線の先に立ち並ぶ建物たちが無傷であるのを見るとまだこの辺りにはいないようだ。或いは雪緒の推理は全くの見当違いで、別の場所でドンパチが始まっているのかもしれないが。それならそれで俺に情報が回ってくるはずだ。その連絡もない以上、まだ両者がかち合っていないだろうことは予測できる。

 

 排除は同時が好ましい。

 だが二者は未だ同地点にない。

 

 時間が経てばいずれ必ずロベルタは合衆国軍の尻尾を掴み、復讐の引鉄を引くだろう。だが、それでは遅いのだ。

 もっと手っ取り早く、簡単に両者を引き合わせることが出来ればそれが恐らくはベストである。

 そこで出番となるのが、先程グレイに伝えたポケットに忍ばせておいた代物だ。グレイの手前は俺なりに考えがあるだのなんだの吐かしていたが、本音を言えば小難しく考えることが面倒になっただけだ。複数の勢力の思考を先読みしてそこに罠を仕掛けるなんてことができない以上、アレコレ考えたところで無駄だと気付いた。

 こんな街だ。なるようにしかならないだろう。

 ポケットに詰め込んだ代物の役割は二つ。合衆国軍を建物内部からあぶり出して姿を確認することと、この居場所をロベルタへと伝えること。

 

 ――――まぁ、だから。

 

 俺はポケットからソレら(・・・)を取り出し、歓楽街へ向かって大きく振りかぶる。

 

「――――正面突破だ」

 

 安全装置を外された二つの手榴弾は、綺麗な弧を描き通りのど真ん中と建物の影に落下。

 

 数秒後、轟音と共に爆炎が立ち上った。

 

 

 

 43

 

 

 

「チャルクワンストリート? そこに彼女がいるんですね!?」

「ああ、トカイーナ・ホテル。そこがあたしらの終着点だ」

 

 後部座席から顔を覗かせるガルシアに落ち着くよう手で制し、レヴィは煙草を咥えた。その隣ではロックがハンドルを握っているが、切れ長の瞳は視界の遥か先を見据えているようである。

 ロックとガルシア、そしてファビオラだけではなんの収穫も無かった前日とは打って変わって、レヴィを加えた四人はいとも容易く情報の幾つかを手に入れることができた。その情報を照合し合った結果判明したのがロベルタの目的地である。

 逸る気持ちがそのまま顔に出ているガルシアとは違い、レヴィの表情は優れない。

 

「どうした、レヴィ」

「さっきRRンとこに寄った時に聞いた。厄介事が増えやがった、この件にゃブレン・ザ・”ブラック・デス”も噛んでやがる」

「……知らないな」

「当然だ。表には滅多に出てこねェ殺人代行組合の元締だ。RRの話じゃあクソ眼鏡の助っ人に奴の手下が入ってる」

 

 半分程の長さになった煙草を外へと吐き捨て、とあるモノを見つけたレヴィはロックへと停止の声を掛ける。

 緩やかに停止した車から降りて電話ボックスへと向かうレヴィの背中に向かって、ロックが疑問の声を上げた。

 

「どこに掛ける気だ?」

「間違いなく混戦になる。そうなりゃあたしだけじゃ手が足りねェ。使えるもんは何だって使わねェとな」

 

 硬貨数枚を電話機へとつっこみ、数回のコール音。

 

『もしもし』

「シェンホアか。仕事やるから今すぐ来いよ、好き放題切り刻めるぜ」

『……雇うはお前か?』

「あたしじゃねえ南米のお坊ちゃんだ。金は持ってる」

『生憎とこれから別の仕事よ』

 

 思わず舌を打ったレヴィだったが、幸いにしてシェンホアには届いていなかったらしい。

 

「だったら他にいねェのか。誰でもいい、今はとにかく人手が要るんだよ」

『……誰でもよいか?』

「構わねェ。そいつに十分後チャルクワンストリートまで来いって伝えてくれ」

 

 それだけを言って乱暴に受話器を戻す。その雰囲気から上手くいかなかったんだなと察したロックは、何も言わずに車を発進させた。

 

「――――――――で?」

 

 十分後、シェンホアが用意した人間を無事に回収した車内で、レヴィは苛立たしげに呟いた。

 後部座席にはガルシアとファビオラ。そしてその二人に挟まれる形で座る、漆黒のロングコートを着用した白髪の男。

 

「よりにもよってテメエかよ」

「まぁまぁレヴィ。人手は多い方がいいだろ」

「こいつを勘定に入れられるか疑問だがな」

 

 そんな前方席二人のやり取りを耳にして、男は掛けたサングラスを僅かに持ち上げた。

 

「……問題ない」

「問題しかねーだろーがロットンよォ」

 

 自称魔術師は、返す言葉を持ち合わせていなかった。

 何せこの男、ジェーンの偽札騒動以降事あるごとにウェイバーに決闘を申し込んでいるのである。最初はそれを嫌々あしらうだけだったレヴィも、流石にその回数が三十を超えたあたりで堪忍袋の緒が切れた。

 以来レヴィとロットンはこんな間柄である。

 

 尚も止まらぬ嫌味の嵐にそろそろロットンが限界を迎えそうになってきた頃、唐突にそれはやって来た。

 

 地面を揺らす轟音。

 次いで上がる赤黒い炎。

 

 ロックらが目指すチャルクワンストリートが、一瞬にして戦場へと変貌した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・以下要点
ヨアン本格参戦。
まさかのロットンのみ回収。
大乱闘ス○ッシュブラザーズ開始。

 活動報告の方にのっけたアンケ的なのにご回答いただいた皆様、ありがとうございました。ご意見は参考にさせていただきます。

 だがしかし。
 どうしてウェイバーが主人公であることが前提の意見がこうも多いのか……


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038 オールイン

 44

 

 

 

 『グレイフォックス襲撃群(コマンドグループ)』は、シェーン・J・キャクストン少佐をチームリーダーとするアメリカ合衆国の不正規戦部隊である。ベトナム、イラク、パナマといった各地の戦場を渡り歩き、国益の為にその命を賭して戦う正真正銘の兵士たちの集まりだ。

 部隊員の其々が相応のプロ意識を有し、時には己の身すらも差し出して任務を遂行する彼らの精神力は常人とはかけ離れていた。目の前に銃口を突きつけられようが、表情に一切の変化はなく。目の前で親しい友が無残に殺されようが、心に一切の波紋を呼ばず。

 そんな鋼鉄の魂を持つ部隊員たちのことを、キャクストンは誇りに思っていた。

 

 だからこそ、そんな隊員の一人である狙撃手が人目も憚らず全速力で部屋へと駆け込んで来たときは、一体何のジョークかと思ってしまった。

 留め具が外れかけた木製の扉を乱暴に開けた狙撃手は、キャクストンの顔を見るなりその目の前にまで近づいて。

 

「っ、少佐。問題が発生しました」

 

 本来であればあるべき前置きなど一切なく、狙撃手はそう述べた。

 キャクストンの片眉が、怪訝そうに顰められる。

 

「どうしたサンチェス軍曹。いつもの君らしからぬ行動だ、まさか隊の規律を忘れたわけではあるまい」

 

 隊律を重んじるサンチェスらしからぬ行動と物言いに、キャクストンは反射的にそう声を発していた。

狙撃手サンチェスは一度呼吸を整え姿勢を正すも、顔に浮かばせた焦燥は消えない。全速力でこの場所まで走ってきたことで僅かに上下していた肩も落ち着きを取り戻したところで、サンチェスはそのことを口にした。

 彼が目にした、信じ難い事実を。

 

「……それは、事実なんだな?」

 

 話の内容を耳にしたキャクストンは、事実に相違ないことを確認する。狙撃手は黙って首肯した。

 只でさえ芳しくないこの状況下である。そうでなくとも上官に対して嘘を吐くような人間でないことは重々承知しているが、現状に加え新たな火種の追加にキャクストンは口を真一文字に引き結んだ。

 

「千メートル以上離れた狙撃手の存在に気付くか……。パナマを彷彿とさせるな」

「『空白の四秒(デッドフォー)』ですか、少佐」

 

 呟かれた言葉に髭を生やした男、レイが表情を変えずに述べた。

 思い出すことすら憚られるのか、キャクストンは二度頭を振る。

 

「もしあの時の男と同等の人間なら、我々も相応のリスクを覚悟せねばなるまい。尤も、この部隊にいる者は皆覚悟などとうの昔に出来ているとは思うが」

 

 そう言って、キャクストンは僅かに口角を持ち上げた。室内に立つ部下をぐるりと見回して、その表情に一片の曇りもないことを確認した上でこう切り出す。

 

「諸君。聞いたとおり悪い報せだ。軍曹の証言が事実であった場合、パナマで伝説となった男と同等の人間が立ち塞がる可能性が高い。我が国の精鋭たちを軒並み壊滅させた男と同等だ。しかもどうやら敵はそれだけではない」

 

 視線だけで部下の一人に合図を送ると、視線を受けた部下が一歩前に出た。

 

「街区外れの200ヤード圏内に監視者と尾行者合わせて十六。電話には盗聴と思われる雑音。何者かは分かりませんが、作戦を妨害しようとしている連中がいることは確実です」

「聞いた通りだ諸君。不明勢力(アンノウン)と報告にあった男が通じているかは不明だが、早々にここを立ち去ったほうが賢明だな」

 

 キャクストンはそこで一旦言葉を切って、隣に立つレイへと顔を向けた。部隊長に顔を向けられたレイはそれだけで言わんとすることを察し、床に置いていた無線機へと手を伸ばした。

 

「セーフハウス『マリブ』と『モンタナ』へ。コードは10-34(緊急合流)で?」

「いや、CTS(街路掃討戦)の可能性有。チャンネル・オープンで準備待機せよ。主力分隊が――――」

 

 キャクストンの指示は、最後まで口にされることは無かった。

 彼の背後、部屋に設置された窓の向こう。その往来のど真ん中で、耳を劈く轟音と赤黒い爆炎が立ち上ったからだ。

 一瞬の出来事だった。

 にも関わらず、グレイフォックスの全員が身体を硬直させることなく、両手に携えた銃を構えて臨戦態勢へと移行していた。

 そんな部隊員の中心で、隊長たるキャクストンは至って平静に告げる。

 

「行こうか紳士諸君。仕事の時間だ」

 

 

 

 45

 

 

 

「おいおい、おいおいおい。聞いてないぞこんなの! なんでウェイバーが最前線に出てくるんだよ!」

 

 グレイフォックスが姿を隠していたホテルの丁度向かい側。その二棟程奥の雑居ビル屋上に座り込む小太りの金髪が、脂汗を滲ませながら戦慄いた。手にしている双眼鏡も心なしか震え、まるで幽霊でも目の当たりにしたような反応を見せている。

 そんな彼がレンズ越しの視界に捉えているのは、グレーのジャケットを着用した黒髪の男。モグリでなければ、その風貌から一瞬で男の名前に辿り着くことが出来る程の知名度を持つ東洋人である。

 

 悪徳の街を牛耳る黄金夜会の一翼を担う超大物、ウェイバーが隣に銀髪の少女を連れて現れた。

 この事実は金髪の男、フィラーノに多大な衝撃と動揺を与えた。

 そして動揺を覚えたのは、フィラーノの隣に立つ黒づくめの男とて例外では無い。

 

 ブレン・ザ"ブラック・デス"。そう黒づくめの男は呼ばれている。ロアナプラの闇を住処とする殺人代行組合の元締めだ。

 今回組合に持ち込まれた仕事は依頼人の()を用意すること。普段の仕事と別段変わらない、片手間で片付く程度のものだった。槍ではなく盾を所望していることに多少の違和感を覚えないでもなかったが、他人の手にかけたくない理由でもあるのだろうと断じ、ブレンはそれ以上深くは考えなかった。

 他人の便器を覗き込むような真似はしない。ロアナプラに於いて遵守すべき不文律である。

 しかし今回に限っては、それが仇となった。

 

 ブレンを長とする殺人代行組合は、この一件に関してだけは徹底して依頼主の素性を洗うべきだった。

 昨年噂になったウェイバーとも関係があるかもしれないメイド。そんな程度の認識で、行動を起こすべきではなかったのだ。依頼主たるロベルタの素性を仔細に洗い出せば、彼女が元FARCのゲリラだったことに辿り着いただろう。リロイやRR並の情報屋が身内にいれば、ウェイバーと密林で相対していたことまで判明したかもしれない。

 そうなれば二人の過去から推測できた筈なのだ。

 浅からぬ因縁を持つ両者が、戦場で見える可能性が決して低くはないと。

 

 焦燥をふんだんに含んだ言葉を吐き出し続けるフィラーノとは違い、ブレンは無言のままウェイバーを見つめ続ける。

 と、ここでウェイバーらの歩みが唐突に止まる。

 怪訝そうに片眉を顰めたブレンが次の瞬間に目撃したのは、二つの手榴弾が綺麗な放物線を描いてホテルの一角に吸い込まれていく様だった。

 

「ッ、おいおいマジかよ! 本当に最前線にまで出張ってきたっていうのか!?」

 

 ホテル街の一角から立ち上る黒煙を目の当たりにしてフィラーノが叫ぶ。

 ウェイバーが戦線に立つ。その事の大きさを、ほぼ正確に理解しているがこその叫びだった。

 

 悪徳の都ロアナプラを縄張りとする黄金夜会は幾つかの組織で構成されるが、それぞれの長たる人間が鉄火場へと直接出向くことは多くない。最後に大々的に夜会陣営が動いたのは双子の殺し屋が暴れ回った一件だ。その当時はマニサレラ・カルテルを除いた三組織、加えてウェイバーが戦線へ出る異常事態となり、街全体を巻き込む程の規模となった。

 ホテル・モスクワのバラライカはまだしも、三合会の張は基本的に表には出てこない。ウェイバーなど双子の件を除けば数年銃を抜いていないと言われていたのだ。

 

 そんな男が、自ら宣戦布告じみた真似をした。

 手榴弾など普段であれば使用しないであろう兵器を持ち出して、自らの意思で最前線に立っている。

 

 割に合わない。

 ブレンは直ぐ様その結論に至った。

 依頼された仕事に対する報酬と被るリスクが全く釣り合っていないのである。誰が好き好んで怪物に立ち向かうというのだ。頭のイカレた猟奇殺人者でもなければあの男に盾突こうとは思わない。

 そういう男であることを、ブレンは過去の経験(・・・・・)から良く知っていた。

 組合として一度引き受けた仕事を放り投げるような真似はしたくなかったが、相手があのウェイバーであるならそれも仕方が無い。必要な人員は確保したのだし、最低限の面目は保てるはずだ。

 

「……退くぞフィラーノ。ウェイバーが噛んでるとなると状況は絶望的だ。依頼主には悪いがここは自分の命を最優先させてもらう」

「大々的に賛成だよブレン。あんなのと戦ってたら身体が幾つあっても足りやしない」

 

 言いながら小型の電話機を操作しようとするフィラーノの動きを、ブレンは無言で制した。

 

「とは言え、何の餌も無しに逃げ切れるほど甘い男じゃない。人員は有効に活用しよう」

「……ああ、そういうこと」

 

 ブレンの言わんとするところを正確に理解したフィラーノは、持っていた電話機をフーディーのポケットへと滑り込ませた。

 フィラーノの持っていたものと同じタイプの電話機を、この街で掻き集めたチンピラの一人が持っている。依頼主が求めた盾としての機能を期待されていた、命知らずな若者たちだ。当然ながら、彼らはこの一件にロベルタやウェイバー、ましてや合衆国軍が絡んでいることを知らない。

 そしてブレンは、その事実を教えるつもりなど毛頭なかった。

 

 突然の爆発によって、不測の事態が発生したということは理解しているだろう。

 しかしそれ以上の情報を若者たちは持ち得ない。ロベルタとの仲介役を担っているブレンからの連絡が無ければ、事前に決められた予定で行動を起こすしかないのだ。例え進む先が猛獣が跋扈する檻であろうと、後退することは許されない。

 くるりと身を翻してウェイバーに背を向けたブレンに続いて、フィラーノも慌てて立ち上がる。

 背後で響き出した銃声を耳にしながら、二人はその場を後にした。

 

 

 

 46

 

 

 

 狙った所へ寸分違わず飛んでいった手榴弾は、俺の目論見通りにホテル前の通りと一階部分を爆破した。

 

 ……などと都合のいい解釈をしているが、実の所はそんなわけもなく。

 二個も手榴弾を詰めていればそれだけでポケットはパンパンに膨れてしまう。一つずつ取り出して投げるのならばいいが、それだとピンを抜くタイミングがずれて爆発に時差が生まれてしまう。

 それだと格好が付かない。どうせ投げるのならば二個同時に、ピンを抜くアクションですらスタイリッシュにやってみせたい。それが男という生き物なのである。

 故に無理やりにでも二個を同時にポケットから取り出し、右手の指三本を使って二本の安全ピンを器用に外した。ここまでは良かったのだ。

 だが悲しいかな。手榴弾なんて滅多に使わないものだから、どう投げればいいのかサッパリ分からない。そうこうしている間に時間が来てしまったため、闇雲に前方に向かってオーバースローをかました結果がコレである。

 

 こういうのを正しく結果オーライと言うのだろう。

 見当違いな方向に飛んでいったらと内心冷や汗ものだったが、なんとか体裁は保てたようだ。隣でグレイが満足そうに微笑んでいるのを横目で確認して、小さく安堵の息を吐いた。

 

「正面入口に面した通りと一階部分の爆破。差し詰め屋上か裏口への誘導が狙いなのかしら。いいえ、見取り図だと裏口は一階の一箇所だけだったから、上へ追い詰めようとしているのね」

 

 全然そんなことは考えていなかったなどと言える訳も無く、苦し紛れだと思いつつも無言で建物へと歩き出す。

 やけに嬉しそうなグレイを伴い、建物の前でその歩みを止めた。下から上へ、ホテルの壁面をゆっくりと見上げる。建物の一階内部は大きく損壊しており、上階も爆発の影響を少なからず受けているようである。中から悲鳴のようなものは聞こえないので、一般人(・・・)はこのホテル内部にはいないのだろう。そういうことにしておく。爆発があった後のホテルに残っている輩なんてのは大概訳アリだ。銃口を突き付けてから一々確認などしていられない。

 

 よって、これから俺が銃口を向ける相手は全て敵対勢力だ。

 ここから先は、悪党だけの戦場だと認識する。

 

「行きましょうおじさん。早くしないと逃げられてしまうわ」

 

 そう言いながら先を急ごうとするグレイの肩を掴む。どうどう。

 まだこの建物がアタリだと決まったわけではない。そう逸っても余計な危険を招くだけだ。いや、グレイなら普通に撃退してしまいそうだけれど。

 

「そう急くなよ」

 

 言いつつ俺の一歩先に立っていたグレイの更に一歩前に立ち、懐からリボルバーを抜く。

 

「おじさん?」

 

 俺の意図が分からないグレイが小首を傾げるが、それを敢えて無視して引鉄を引く。正面、上下、左右。装弾していた弾丸が切れるともう一挺も取り出して、残弾が無くなるまで撃ち続けた。

 そうして数秒後、発砲音の消えた一階に静寂が舞い戻る。

 

「見通しの……」

 

 ――――悪い場所ではまず敵が潜伏していないか確認することが必要だ。例えそれが自分の居場所を敵に知らせるような真似であったとしても。

 そう言おうとしていたのだが、俺の言葉は二階へと続く階段の影から転げ落ちてくる男によって遮られてしまった。ゴロゴロと無抵抗に転がり落ちてきた男へと近づいて行く。ふむ、合衆国軍でもロベルタの関係者でもない。ただのチンピラのようだ。

 

「となると殺人代行組合が雇った捨駒ってところか」

 

 俺が無闇矢鱈に撃ったうちの一発に運悪く当たってしまったのだろう。眉間に弾痕が刻まれている。跳弾でもしたんだろうか。

 

「もう、おじさん。やるならやるって先に言ってよ」

「いや、まぁ、うん。悪い」

 

 小さく頬を膨らませるグレイに謝って、階段へと視線を向ける。

 このチンピラが上から落ちてきた時点で、雪緒の予想は的中していると確信した。となると俺の今の発砲は間違いなく上の連中に聞こえているだろう。何処かに潜伏しているロベルタには、先の手榴弾とも合わせて気付いてもらいたいものだが。あの猟犬のことだ、間違いなく勘付いてここへやって来るだろう。

 その前に、余計な輩は排除しておく必要がある。

 耳を澄ませば上階から複数の足音が聞こえる。段々と大きくなるその音を聞くに、どうやら一階へと降りてくるようだ。

 

 リボルバーへの装填を素早く済ませ、くるりと回す。

 

「おじさん、オーダーは?」

 

 つい十分程前の車内では彼女にやりすぎるなと言ったが、こうなってはもう仕方がない。

 

「アメリカ人だけは殺すなよ」

「うふふ」

 

 口角を持ち上げたグレイがBARを構える。

 やがて姿を見せた複数人のチンピラたちに向かって、無慈悲な弾丸が発射された。

 

 

 

 47

 

 

 

「クソッ、どうなってやがる!? 下から銃撃なんて聞いてねえぞ、標的は三階の部屋じゃなかったのかよ!!」

「俺が知るかよ! チクショウもう五人も殺られてる!」

 

 ブレンが元締めである殺人代行組合に、盾としての機能を期待されて雇われた男たちは総勢二十人。その四分の一が、一階からの銃撃によって瞬く間に死体へと変貌した。一階と二階を繋ぐ階段の踊り場に身を潜めていた五人である。その報告を受けたリーダーらしき男は持っていた電話機を何度も使おうとするも、どういうわけか一向に相手に繋がらない。男たちの大多数が集まっているのは三階廊下へと続く階段の終わりで、通路の影に身を潜めている状態だ。

 尚も下からの銃声は止まず、少しずつ上へと近づいてきているのが男の耳にもはっきりと分かった。分かってしまったからこそ、焦燥は加速する。

 

「オイ、どうするよ!?」

「ここで引き下がるわけにはいかねえだろうが! ちゃっちゃとやっちまうぞ!」

 

 電話機を投げ捨てた男は周囲にいた数人の男たちに指示を出し、三階廊下にまで一気に躍り出た。そのまま目的の部屋の前にまで辿り着くと、扉横の壁に張り付いて拳銃を構える。十五名がそれぞれの武器を構えて、室内の様子を窺うよう耳を澄ませる。

 リーダーの男が突撃前のカウントを始めようと口が開いた、その瞬間。

 

 静かな銃撃が、壁の向こうから押し寄せてきた。

 

「っ!?」

「ギャアッ!」

 

 リーダーの男を含めた全員が銃撃に合い蜂の巣にされ、赤い血溜まりの中に沈む。

 消えかけた意識の中、チンピラたちが最期に見たのは、憮然とした表情を崩さない軍人たちの姿だった。

 

 

 

 

 

「状況、クリア」

 

 サイレンサーを取り付けていた部隊員の言葉を受け、部屋の中央にいたキャクストンは僅かに頷く。

 

「上出来だ、最上階までのルートを最短で駆け上がる」

「了解」

 

 指示を受けた隊員たちの行動は迅速かつ的確だった。先頭の二人が銃を構えたまま廊下へと出て敵対勢力の確認を行い、安全と判断されると直ぐ様階段の確保へ向かう。それに残りの隊員たちも続いた。

 屋上へ向かう階段を駆け上がりながら、キャクストンは今しがたの銃撃を思い返す。

 明らかに誰かを狙っている、そう思わせるような銃撃だった。

 

(その場合の誰か、とは我々のことなのだろうな)

 

 最初の爆発で、ホテル正面の通りと一階が爆破された。これによって下から逃げるというルートは潰された。さらには追って発生した銃声。明らかにこちらを上へと誘導している。

 現状敵の掌の上で踊っているような気がしてならないが、取れる手立ては他に残されていなかった。勢力の大きさが不明な敵と正面から衝突するなど愚の骨頂である。

 一先ずは屋上へ辿り着くことだ。そうすれば近くの建物へと移動することも出来る。

 幸いにして、このホテルは四階建てで階段は東西に一つずつ設置されている。東側の階段が使用不能になってしまったとしても、西側はまだ生きている可能性が高い。階段にさえ到達できれば、屋上までの距離はそう長くはないのだ。

 

 先に行かせた部下から階段を押さえたとの無線を受け、キャクストンも周囲を最大限警戒しながら階段へと続く廊下を走る。視線の先にある突き当たりを右へ曲がれば、すぐに上へと続く階段を視界に収めることができるはずだ。

 キャクストンの後ろには殿を務める部下が二人。彼らも背後の敵を警戒しつつ、先を行く隊員たちに続こうと階段を目指している。二人の殿とキャクストンとの差は五メートル程。

 

 その五メートルが、命運を分けた。

 

 階段を昇り始めたキャクストンの背後から、自軍が使用しているライフルの銃声が轟いた。その銃声の中に、聞き慣れない音も混ざっている。

 殿を務めていた隊員の一人から、即座に無線が入る。

 

『少佐! 敵対勢力と遭遇! 数は一、交戦します!』

「深追いはするな、状況を見て追いついてこい!」

『了解!』

 

 無数の銃声を聞きながら、キャクストンは屋上へと向かう。

 通話状態が保たれたままの無線機から、微かに声が聞こえた。

 

『……残念だわぁ、本当に、残念……』

 

 

 

 

 

 マニサレラ・カルテルとFARCの相互利益のために送り込まれたスマサス旅団。その目的は、ロザリタ・チスネロスの首をベネズエラへと持って帰ることであった。

 「フローレンシアの猟犬」、「第二のカルロス・ザ・ジャッカル」と呼ばれ、革命の朝日を夢見て消えた元同胞。

 そんな獣を討伐するために招集された旅団を纏め上げる男の名を、アルベルト・カラマサと言った。彼はキューバの特殊海兵団員で、ロベルタの過去を知る人間の一人である。

 

 カラマサを始めとした旅団員は現在、部隊を三つに分けてチャルクワン・ストリートの周囲を完全に包囲していた。

 何処にロベルタが潜伏しているかは不明だが、匿名の情報屋によればこの辺りで姿を目撃しているとのこと。完全にその情報を信用することはできないが、周囲の立地や人の気配からあの猟犬が潜んでいる可能性は高いとカラマサは踏んでいた。

 

 そして、その予想は的中する。

 ザザ、と無線から音が漏れ、次いで団員の声がカラマサの耳へと届く。

 

『猟犬だ! 猟犬を目視で確認! トカイーナ・ホテル向かいのビルです!』

 

 一報を受け、カラマサの口角が僅かに上がる。

 

「第二分隊、仕事だ。移動を開始しろ。第一分隊は継続して奴を監視、決して見失うなよ」

『了解』

 

 静かに、そして速やかに。 

 中米の兵士たちが包囲網を狭めていく。

 

 

 

 

 

「少佐、対岸に何者かが!」

 

 屋上へ飛び出したキャクストンが最初に目撃したのは、大声を張り上げる副官レイの姿だった。

 次いで視界に飛び込んだのは、上空に輝く太陽を背に立つ何者か。何かを手にしているように見えるが、逆光のせいかその特定にまでは至らない。

 

「何だ……、何を持って……」

 

 その疑問は、対岸に立つ者の動作で解消される。

 ジャカッ、とボルトアクション。そしてその大きさを目の当たりにして、キャクストンを始めとした部隊の面々は即座に理解した。

 奴が手にしているのは、対物ライフルだ。

  

 轟砲が、火を吹いた。

 

 即座に身を屈めて地面にうつ伏せになる。コンクリートすら容易に破壊する対物ライフルだ。一発の威力は恐ろしく、屋上の地面が次々と抉られ、転落防止のためかやや高く作られていた四方の壁が吹き飛ばされていく。

 

「ライト! ホーナー! 制圧射撃! 分隊は迅速に貯水槽側へ移動しろ!!」

「少佐、奴は!」

「頭を出すなレイ。撃ち抜かれるぞ」

 

 言いながらキャクストンは匍匐前進で出来るだけ敵から距離を取る。

 正体不明の敵対勢力がまた一つ増えてしまった。思わず頭を抱えそうになる。

 

「屋上伝いに集結地点へと脱出するつもりだったが、このままだとフォークランドの二の舞になるぞ」

「……超遠距離狙撃(オーバーロングレンジ)……!」

「ああ、問題はあの破壊力じゃない。奴の銃なら合流地点の50ヤード先すら射程圏内だ」

 

 尚も止まない弾丸の雨の中、レイ以下数名の部下にキャクストンは直ぐ様指示を飛ばした。

 

「ここに釘付けはまずい。遮蔽物を利用しながら移動しよう。スモークとロープの用意を」

 

 

 

 

 

 ベニー所有のセダンを急停止させて、運転席以外の扉が乱暴に開かれる。

 

「クソッ、完全に出遅れたな。ヴィンテージ物の鉄火場が出来上がってやがる」

 

 数百メートル先で黒煙と銃声を撒き散らすトカイーナ・ホテルを目の当たりにして、レヴィは大きく舌を打った。その隣に立って同じ方向を向くファビオラは、胸の前で両の指を絡めて。

 

「戦っているということは、まだ婦長様は生きておられます!」

「……良い風が吹いている。戦場に相応しい、荒涼とした風だ」

「埃っぽいだけだろうがよ」

 

 ロットンの後頭部を叩いて、レヴィは車内へと視線を戻す。

 運転席でハンドルに両肘をつくロックは、どこかここではない遠くを見つめているようだった。

 

「ロック」

「……あぁ、ここが分水嶺だ」

 

 咥えた煙草が灰になっていくのも構わず、淡々と告げる。

 

「ここで引いても状況は変わらない。悪化はしても、好転することはない。ガルシア君」

 

 くるりと首を回して、後部座席で俯いたままの少年へと問い掛ける。

 

「決めるのは君だ。君はどうしたい」

「……僕は逃げません。あの場所にロベルタがいるというのなら、僕が迎えにいかなければ」

「決まりだな」

 

 ホルスタからカトラスを抜き、レヴィは目的地を今一度見やる。

 

「ヘッ、見ろよ。昼間っから大盛況だ。ぐつぐつ煮立って地獄の釜みてェになってやがる」

「時間はそれほど無さそうだ、早急に片を付けよう」

「簡単に言うけどよロットン、問題はそのクソメイドがランボーも真っ青の殺人機械ってこった」

「婦長様は殺人機械などではありません!」

「そんだけ吠える元気がありゃ上等だ、せいぜいお坊っちゃまが流れ弾で死なねえように頑張れや」

 

 レヴィを先頭に、四人はホテルへ向かって歩き出す。

 頂点を過ぎた太陽が、不気味な程に輝いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 
以下要点。
・盾役のチンピラ退場。
・ロベルタ→米軍←グレイ、ウェイバー
・地獄だよ、全員集合。


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039 死の舞踏、序章

 48

 

 

 

「……一瞬で見えなくなっちまった」

 

 踊るように階段を駆けて行ったグレイの後ろ姿が完全に見えなくなり、さてどうしたものかと思考を巡らせる。

 グレイにはそれはもう口を酸っぱくして米軍は殺すなと伝えてあるので大丈夫だとは思うが、だとすると上の階から聞こえてくる無数の銃声は一体誰を狙ってのものなのだろうか。チンピラたちの残党であると信じたいところだ。

 

 グレイが先行して突撃をかました事もあり、俺は一先ず建物の外へと出る。風に乗った戦場特有の鉄と硝煙の匂いが鼻をついた。

 出来るだけ目立たぬよう外壁に背中を付け、真上を見るように建物上層の様子を窺う。

 

「……鼻が利きすぎるってのも困りものだな」

 

 思わずそう言葉を漏らす。

 ホテル屋上から降り注ぐ無数の瓦礫片を尻目に断続的に響くライフル音の出処へと視線を移すと、そこには太陽を背に片手で対物ライフルをぶっ放すターミネーターの姿があった。

 いやいや、対物ライフルって片手で扱えるような代物じゃなかったような気がするんだが。しかも縁に乗り出してるからほぼ片足で踏ん張ってるような体勢だぞあの女。相変わらず常識ってものが通用しないな。もしかして本当に近未来から来た殺戮人形なんじゃなかろうか。

 

 そんな殺戮メイド、もといロベルタが銃口を向ける先。つまりは俺が手榴弾を投げ込んだトカイーナ・ホテルの屋上からも無数の銃弾がロベルタに向かって飛来していた。誰が発砲しているのかは真下であるこの位置からでは把握できないが、少なくとも無闇矢鱈に撃ち散らかしているのでないことは分かる。

 

「数人がローテーションで射撃してるのか。とするとアレが合衆国の軍隊ってことか?」

 

 可能性としては最も高いだろう。もう少しホテルから離れて屋上を見上げれば正体がハッキリするかもしれないが、そうなるとロベルタの視界にも入ってしまう。現状それは出来れば回避したい。主に俺が蜂の巣にされる未来しか見えないという理由によって。

 

「……待てよ。てことはあのままグレイが突き進むと、米軍とかち合うってことじゃないのか」

 

 大丈夫だよな。流石にやっていいことと悪いことの区別ぐらいは付けられる筈である。酷く不安で仕方ないが。

 今更考えても仕方ない。戦場に不測の事態は付物だ。もしアメリカに手を出してしまえばこの街が消滅するかもしれない。それだけの話。

 何度か頭を振るって、思考を無理やり切り替える。グレイは自由気ままに動き回っているが、俺はと言えばそうもいかない。タイミングを見極め、ロベルタと合衆国軍隊をこの街から排除しなければならないのだから。

 

 屋上で銃撃戦が行われている二棟の間の路地に入り、懐から煙草を取り出す。慣れた動作で火を点けると、細長い煙を地面に向かって吐き出した。

 

「ま、まずは周りから掃除していこうじゃないか」

 

 煙草を咥えたままそんな事を呟いて、リボルバーを無造作に構える。

 

「……何だよ、しっかり気付いてんじゃねぇか」

 

 唐突に。突然に。

 俺の耳に、聞き慣れない筈の男の声が飛び込んできた。

 リボルバーの銃口が向けられた先。手榴弾の爆発によって地面が抉られた表通りと路地の境に、やたらと見覚えのある男が立っていた。

 真っ赤なシャツ。高級そうな革靴。そしてよく手入れされているのだろう、陽光を受けて輝くゴールドブラウンの髪。

 出来れば二度と拝みたくない面を携えて、その男は犬歯を剥き出しに笑ってみせた。

 

「薄々そんなような気はしてたんだ。テメエみたいな怪物が、法の敷かれた場所でのうのうと生きられるわけがない。自然、行き着く場所は絞られる。そのうちの一つがここロアナプラだ。ICPOの上層部はこの街に迂闊に干渉するべきじゃないってスタンスを取ってるが、それっておかしいよなァ」

 

 俺の向けた銃口に一切動じず、男は更に口角を歪ませた。

 

「犯罪者がこの街に集ってるって分かってンなら、街ごと消滅させるつもりでゴミ共を根絶やしにするのが俺たちの仕事だろ?」

 

 ああ、全く。面倒な男と鉢合わせになってしまったものだ。

 この街にやって来ているとの情報は掴んでいたが、まさかこんなタイミングで出会わすことになるとは思っていなかった。

 正面に立つ男、ヨアンは一歩俺へと近付いて。

 

「ようやくテメエの尻尾を掴んだ。絶対に逃がさねえぞ……。あの日受けた俺の屈辱を、その身を以て思い知れ……!」

 

 ヨアンは憤怒の表情を浮かべ、腰のベルトに装着していたホルスタから拳銃を抜き放つ。

 俺とヨアンの間に遮蔽物になりそうなものは無い。路地に入っているため、左右にも逃げ場が無いような状況だ。いやコレ普通に詰んでないか。リボルバーを構えたまま必死で活路を見出そうとするも、思い浮かぶのは到底不可能な絵空事ばかりだ。壁蹴って銃弾回避とか出来たら良かったんだけどな。弾丸見切る動体視力とか。

 

 などと考えている俺に対して、ヨアンは何故か銃を構えたまま発砲しようとはしなかった。俺に視線を固定しながらも周囲を警戒しているようである。

 何を警戒しているのかは知らないが、俺としては好都合である。出来れば妙案を思い付くまでこのまま膠着状態を維持したいところだ。とは言えこのまま危険な綱渡りをするわけにもいかないので、思わせぶりな仕草や態度で相手の混乱を狙ってみる。

 

 取り敢えず、鼻で笑ってみた。

 

「……何がおかしい」

 

 ヨアンは表情を変えなかったが、反応を得ることには成功した。やや眉間に皺が寄っているようにも見える。幾分かの効果はあったようだ。

 では次。右脚を大きく横にズラしてみる。なるべく砂埃を巻き上げるように。

 

「…………」

「妙な真似はするな」

 

 右靴の数センチ横を撃たれた。いや撃つの早ェよ。眼で追えなかったぞ今。表情に出さないようにしているが、背中の冷や汗が止まらない。身動きは余り得策とは言えないようだ。

 となれば。

 手足は一切動かさず。発砲することもなく。

 

 ただ俺は、視線をヨアンの奥へと向けた。

 なんかそれっぽい企みをしていそうな感じを演出しつつ。これでヨアンが後ろへ視線を向けてくれれば、こちらにも手の打ちようがあるんだが。

 

 そんな風に思考を巡らせていると。

 

 ――――まるで示し合わせたかのように、二人のメイドがヨアンの背後に飛び出した。

 

 

 

 49

 

 

 

「そういやチビッ子、坊ちゃまについてた双子のメイドはどうした」

 

 トカイーナ・ホテルの裏口に辿り着き、内部の様子を確かめるロットンの背後に立っていたレヴィが唐突にそう呟いた。

 

「マナとルナのことですか。彼女たちには別のルートで婦長様を探してもらっていましたが、先の報告を受けて彼女たちもこのホテルへ向かうよう伝えてあります。もう暫くしたら、ここに合流できると思います」

「そりゃいい。手練は多いに越したことはねェからな。あの双子、そこそこデキるだろ」

「……婦長様の訓練を受けておりましたので」

「なんだ、ラブレス家ってのはメイド全員に武芸を仕込む(ならわし)でもあんのか?」

「違います!」

 

 仕える家のことを馬鹿にされ怒るファビオラを見てケラケラと笑うレヴィだったが、前方のロットンが安全確認を終えたことでその笑みを即座に消した。

 その瞳が一瞬で鋭く、黒くなっていく。その豹変ぶりを間近で見ていたファビオラは、思わず息を飲んだ。

 

 

「おいチビッ子。こっから先はいよいよ地獄の一丁目だ。用意はいいか」

「……はい!」

「お前の仕事は坊ちゃまを守りながら目の前の錆びた看板どもを撃ち抜くことだ」

 

 看板という言葉が引っ掛かったのか、ファビオラは両手に銃を構えたままレヴィへと言葉を返した。

 

「人は人です、物では……」

「だったらオメエ、坊ちゃまがその看板に殺されそうになっても引鉄を引かねェのか」

「…………」

「イエローフラッグの時もそうだったなチビッ子。人を撃つことには抵抗が無ェくせに、殺すことには躊躇いがある」

 

 その言葉に、僅かにファビオラの肩が揺れた。

 

「命さえ奪わなければ良いってか? 今のイカれた婦長様にそうなった自分の姿を重ねちまったか? いいか、お前のそれは只の甘えだ。そんな心構えじゃこっから先は生き残れねェ。予想じゃねェ、事実だ」

 

 戦場であることも忘れて、俯いてしまったファビオラ。そんな少女の肩に手を添えたのは、この場で唯一何の武器も持たないガルシアだった。

 

「……分かっています、ミス・レベッカ。ここから先、生半可な覚悟では生き残れないということは」

 

 それでも、と。少年はレヴィのドス黒い瞳を真っ直ぐに見据えて。

 

「僕らは必ず皆で一緒に帰ります。絶対に、何があっても」

「……行くぞ、アタシとロットンが前衛。チビッ子は後衛でサポートしな」

 

 それ以上の言葉は不要とばかりに、レヴィとロットンが扉を蹴破ってホテルの一階部分へと侵入した。慌ててファビオラ、そしてガルシアも二人の後を追いかける。

 即座に階段まで辿り着き、上から聞こえてくる足音の数を把握する。

 

「十二、いや十四か? 一気に二階に上がる、廊下に出たらぶっ放せ!」

「……承知した」

 

 掛けていたサングラスを軽く持ち上げ、漆黒のコートを靡かせた美丈夫が舞う。

 素早く階段を駆け上り廊下へと躍り出ると、見覚えのない隊服を身に纏った褐色肌の軍人たちと遭遇した。

 ロットンはすかさず二挺のモーゼルM712を抜き、

 

「この愛銃は、狙う獲物を区別なく破砕する。神は御座し、只見守るのみ。ならば、天に代わ」

「ぐだぐだ言ってないで手ェ動かせクソナルシスト!!」

 

 背後から出てきたレヴィに背中を蹴られつんのめるロットン。と同時に先程までロットンの頭部があった場所を数発の弾丸が飛んでいった。

 数秒遅れて、ファビオラとガルシアも二階へと到達した。階段途中で横たわる無数の死体や、廊下に転がった穴だらけの骸を前に、ガルシアは咄嗟に口を手で覆った。

 

「若様、大丈夫ですか?」

「ああ……、大丈夫さ」

「ドンパチやってんのは屋上だ! 一気に抜けるぞ!」

 

 行く手を阻む見慣れぬ集団に向かって鉛玉を吐き出し続けるレヴィ。ロットンは左手に持った銃に視線を落としたままぶつぶつと何事かを呟き続けており、今のところ戦闘に参加する様子は見られない。どうして連れてきてしまったのかと頭を抱えたくなる有様である。

 

 耳を塞ぎたくなるような銃声のパレードが二階で行われる中、上層の戦闘も激化の一途を辿っていた。

 

 

 

「D1、接敵!」

『奴に逃げ場はない。火力旺盛の場合は北東へ追い詰めろ。第三分隊がサポートに回る』

 

 FARCより遣わされたスマサス旅団の第二分隊は、ロベルタの背後を取ることに成功していた。隣接するホテルへ向かって対物ライフルを撃ち続ける猟犬は傍目に見ても化物と称するに相応しいものだったが、その程度で彼ら旅団員が怯む筈もない。隊員全員が速やかに配置に付き、その銃口をロベルタへと向けようとした、その瞬間。

 ぐるり、と。

 ロベルタの身体が百八十度回転。対物ライフルの銃口が彼ら旅団員へと向けられる。

 そしてそれは、刹那の事。

 遮蔽物すら紙同然とする威力を持った一撃が、間断無く旅団員へと降り注いだ。人間の頭部や腹部といったパーツが、赤黒い液体と共に周囲に散りばめられる。

 

「六名損耗、遮蔽物が効かない!」

『狙撃地点まで奴を追い込む。第三分隊、標的を補足次第制圧射撃を開始しろ。奴は今どこに』

「奴は……ッ」

 

 旅団員の一人が視界の端でロベルタを捉えたとき、彼女は既に行動に移っていた。屋上に設置されていた数メートルの配管を力づくで引き剥がし、僅かに助走。棒高跳びの要領で隣のホテルの縁に突き立て、猟犬は宙を舞った。

 着地と同時に振り向き。再び発砲。

 その旅団員が頭部を吹き飛ばされる寸前に見たのは、人間とは思えぬ表情を浮かべた女の姿だった。

 

 辛うじてロベルタの狙撃から身を守ることに成功した旅団員の一人が、落ちていた無線機を手にとって報告する。

 

「飛んだっ、奴は向かいのビルに飛び移りました!」

『……奴は、追い詰められて逃げたのか?』

「いえ、むしろ追い込まれていたのはこちらで……」

 

 無線機からの報告を耳にして、カラマサは顎に指を添えた。

 あの場面でロベルタが逃走する必要性が感じられない。あの女であればあの程度の人数歯牙にもかけずに葬ることができた筈だ。

 それをしなかったのは何故か。

 

「ホテル内部とその通りで銃声が聞こえているのと、無関係とは思えん」

 

 可能性として考えられるのは二つ。ロベルタを逃走させるだけの脅威をこちらが与えていたか、逃走ではなく、何者かを追走しているのか。カラマサとしては後者だろうと考えている。あの状況下で脅威を与えることなど出来ていなかった。精鋭と呼ばれた旅団員をああもアッサリと無力化するような女だ。とてもではないが脅威など感じるわけがない。

 であれば、ロベルタは一体ナニを追っているのか。

 

「……妙だとは思っていたが、やはりゴロツキは信用ならんな」

 

 マニサレラ・カルテルは、何かを隠している。

 カラマサはそう確信した。近くに控えていた部下を呼び寄せ、

 

「アブレーゴに連絡を取れ。奴は我々に何かを隠してる」

 

 

 

 トカイーナ・ホテルを中心にして響き渡る銃声の嵐を、ロックは運転席から聞いていた。咥えていた煙草は殆どが灰になって煙すら出ていないが、そんな些細なことは気にならないのか、彼の視線は前方へと固定されている。

 この位置からではホテルの全体像を見ることは出来ず、建物の隙間から顔を覗かせる屋上部分が辛うじて視界に入る程度だ。だがその部分だけを切り取ってみても、これまで以上の戦場になっていることは理解することが出来た。

 

(ガルシア君、ロベルタ、アメリカ軍。……そしてウェイバーさん)

 

 サンカンパレスホテルの最上階で、張はロックに言った。

 合衆国軍とロベルタがかち合う前にガルシアと会わせ、ベネズエラへと帰すことこそが至上命題だと。

 現状は芳しくない。ロックたちが現場へ到着した時には、既に銃声は轟いていた。それがロベルタが米軍へ向けて発砲したものなのかは分からない。

 こうなってしまっては、もう後戻りは出来ない。

 引き返すことの出来る地点はとうに過ぎてしまった。ここから先はチキンレースだ。

 ロベルタが米軍を捉えるのが先か。ガルシアがロベルタを捉えるのが先か。

 

(はたまた、ウェイバーさんがどちらかを止めるのが先か)

 

 ウェイバーは張と同じ黄金夜会の一角を担うこの街の重鎮だ。組織を持たないとはいえ、単身でホイホイ戦場に出ていいような人間ではない。

 ガルシアと再会したホテルで、張は言っていた。ウェイバーも大々的には動けない。権力が邪魔をすると。

 

 だからこそロックは、ウェイバーならば動くと読んでいた。

 予想というよりは確信に近い。バラライカですら行動を読めないウェイバーだが、彼ならこの戦場に現れるだろうと思ったのだ。

 根拠と言える程確りした理由はない。幾つかの小さな可能性を繋ぎ合わせて、辿り着いた予測である。

 予測ではあるが、ロックは確信に近いものを感じていた。ウェイバーに憧れ、追い求め、そしてこれまで見てきたからこそ思い至ったものかもしれない。

 

 あのウェイバーが、自分の街でこうも好き勝手されて面白い訳が無い。

 いつだか張は言っていた。ウェイバーはいつも戦場の中心に現れて、好き勝手に暴れていくハリケーンだと。

 ならば、この戦場にも現れる筈だ。とびっきりの、ハリケーンが。

 

 前方で新たな銃声が轟く。

 どこか聞いたことのあるその銃声に、ロックはパズルのピースが填まったような感覚を覚えた。

 

 

 

 50

 

 

 

 ヨアンは一切の油断をしていなかった。

 目の前に立つ男が想定の埒外に居る人間だと認識し、一分の気の緩みも無く臨戦態勢を整えた。

 これまで全く行方を追えなかった男が今、手の届く場所に立っている。それを思えば多少気分は高揚したが、鋼鉄の理性で直ぐさま平静を取り戻した。一瞬の油断が、僅かな思考の隙間が。命取りになることをヨアンは身を以て知っている。

 

 だからこそ、この好機を逃さぬ為に慎重になった。

 ウェイバーが何をするのか予想することは不可能に近い。加えて既に向こうは銃をこちらへと向けていた。こちらも銃を抜き構えているとは言え、そう簡単に発砲することは出来なかった。軽率な行動が最悪の結果に結びつくことは少なくない。今ここで、そんな悪手を打つ訳にはいかなかったのだ。

 

 と、そんな時だった。

 視界に捉えて離さない目の前の男が、己を見ながら小馬鹿にするように鼻で哂ったのは。

 

「……何がおかしい」

 

 決して表情には出さぬよう配慮していたが、それでも声が強張ることは避けられなかった。

 どうして今、この状況で。ウェイバーは嘲る様な哂いを見せたのか。

 自身の内心が見透かされているのでは、と考えてしまう。そんな筈は無い。人間の心を読むことなど、出来はしないのだから。そう言い聞かせ、ヨアンは一際鋭い視線をウェイバーへと向けた。

 たった一つの所作すら見逃すまいと、ウェイバーを含めた周囲全体を警戒する。

 

 それが奏功した。

 

 ウェイバーが右脚を動かした瞬間。その動作に超人的な反応を見せたヨアンは、牽制の意味も込めて右靴の数センチ横を撃ち抜いた。着弾した地面は抉れ、僅かに砂埃が舞い上がる。

 

「妙な真似はするな」

 

 宿敵の右脚を撃ち抜く事は容易だったが、敢えてそれをしなかった。そしてその事に、ウェイバーならば間違いなく気付く。こちらにはそれほどの余裕があるのだと思わせることが重要なのだ。

 視線をウェイバーの足元から正面へと戻す。と同時、ヨアンは瞠目した。

 数センチ着弾地点がズレていれば己の身体を傷付けられていたというのに、その表情には一切の動揺は見られない。どころか、余裕すら感じさせる飄々とした態度である。まるでこちらの目論見などお見通しだと言わんばかりのその表情を前に、ヨアンは無言で奥歯を噛み締めた。

 

 と、ここでヨアンは知らず身体が強張っていたことを自覚する。

 ウェイバーを前にするといつもそうだ。無意識のうちに向こうの術中に嵌り、こちらにペースを握らせない。それを極自然に、まるで息を吐くようにやってのけてしまうから、この怪物は恐ろしいのだ。

 ウェイバーのペースにさせてはならない。そう結論付けて、ヨアンは今一度宿敵を睨み付けた。

 

 黒髪の男はヨアンと視線を交えたのち、不意にその奥へと視線を投げる。

 何を見ているのか、とヨアンが疑問に思うよりも早く、ソレは背後から現れた。

 

「ッ……!?」

 

 敏く気配を察知したヨアンは、ウェイバーへ向けていた銃口を即座に背後へと切り替える。

 突然の事態ではあったが、ヨアンはそれほど心を乱されてはいなかった。背後を取られて奇襲を受けるなど過去に幾度も体験していることだ。決して油断していた訳ではなかったが、それだけの相手ということなのだろう。

 ヨアンの視界が捉えたのは、同じ顔をした二人の少女だった。身の丈ほどもあるかという長槍を、ヨアン目掛けて上から振り下ろす。

 

 土くれの地面を砕く破砕音が轟いた。

 

 舞い上がった大量の土や埃に腕で顔を覆ったヨアンだったが、ほんの数瞬ウェイバーから眼を離したことを後悔することとなる。

 粉塵が晴れた先には、誰も居なかった。ウェイバーはおろか、突然現れた二人のメイドも周囲には見当たらない。

 

「……逃げられたか……!」

 

 獲物を逃したことに対する苛立ちが込み上げてくるが、ヨアンはそれよりも、と思考を馳せた。

 あの二人が飛び出したのは、十中八九ウェイバーが合図をしたからだろう。ウェイバーが視線を自身の後ろへと向けた瞬間、あれこそが奇襲の合図だったのだ。ウェイバーは一人路地裏に居たのではない。影に二人の手駒を用意し、こちらを誘き出さんと画策していたのである。

 それはつまり、こちらの動きが読まれていたことを意味する。

 ウェイバーを追ってロアナプラへやって来たことも、イエローフラッグで情報を入手していたことも。全てあの男は想定済みだったのだろう。その上でこうして罠を張った。立ち塞がる敵を殲滅するために。

 

「……どこまで人の神経逆撫ですれば気が済むんだ、あの野郎……!」

 

 ぐるりと周りを見渡してみても、それらしき人影は見当たらない。完全に見失ってしまったようだ。

 まだそう遠くへは行っていない筈だ。いくらウェイバーが超人的な身体能力を有しているとは言え、たった数十秒で何十キロも移動できる訳が無い。何処か近くで息を潜めているか、現在もこの場所から距離を取るべく移動している最中だろう。

 

「逃がさねェぞ、ウェイバー!!」

 

 男の咆哮が、戦場の一角で木霊した。

 

 

 

 51

 

 

 

「しっかり聞こえてるっつーの」

 

 ヨアンの叫びを背後に聞きながら、チャルクワン・ストリートを南西へと移動する。トカイーナ・ホテルの建つ地点からは遠ざかってしまっているが、奴を撒くためには仕方ない。あのまま一戦交えるのは御免だ。

 それはともかくとして、だ。

 俺はチラリと視線を横に向ける。そこには無表情に並走する双子メイドの姿。なんだったか、マナとルナとか言っていたような気がするが。

 

「あー、まぁ、一応礼は言っておく。助かった」

「いえ」

「お気になさらず」

 

 視線は前方に固定したままそう二人は返してきた。というか、さっき振り回してた槍が忽然と姿を消しているのは一体どんな手品を使っているんだ。

 

「気配は消していたつもりでしたが、やはり貴方は私たちの存在に気付いていましたか」

 

 茶髪を後ろで一つに結った少女、おそらくはマナが俺を見てそう呟いた。

 いや全然気づいていませんでした、なんて軽口を言える雰囲気ではなさそうである。

 

「よく俺があの場にいると分かったな」

「ファビオラから連絡がありました。婦長様があの近くのホテルに現れると」

「要するに偶然か」

 

 ファビオラというとイエローフラッグで派手に暴れたあのチビッ子か。察するに向こうも自力でここまで辿り着いていたらしい。レヴィはそこまで頭が回るとも思えないし、ガルシアはこの辺りの情勢には疎い。となればロックかそこらがここを見つけ出したのだろうか。もしくはリロイやRRあたりの情報屋にでも聞いたのかもしれない。

 

「私たちに視線を飛ばしたのは、奇襲であの場から脱するためだったのですか?」

 

 取り留めもないことを考えていると、マナの横を走るルナが口を開いた。因みに同じ顔をしている二人だが、マナと違ってルナは髪をサイドで結っている。サイドポニーというやつだ。これ髪型をお互いが交換したら見分けは付かなくなるだろうな。少なくとも俺には同じ顔にしか見えない。

 

「貴方なら、あの相手を屠ることも出来たはずでしょう」

「そう簡単にいく相手じゃねェんだよ、あの赤シャツは」

 

 ICPOの中でもひと握り、外交特権を所有する化物だ。本来なら俺単身で挑んでいいような相手ではない。出来ることならこのまま遭遇しないのが一番いいのだが。

 

「……そういう訳にもいかんだろうな。狙いが奴の言う通り俺だってんなら被害の拡大はここで止まるが、米軍やロベルタにまで飛び火する可能性も少なくない」

「婦長様を脅かす敵は」

「誰であろうと排除します」

 

 言いながらスカートの内側から折り畳まれた金属を取り出し、上下に軽く振るう。すると手元には先程目にした長槍がすっぽりと収まっていた。折り畳み式なのかソレ。

 

「一旦婦長サマから離れちまうが勘弁してくれ。戦火を広げるのは本意じゃないが、今回ばかりはあそこは狭すぎる」

 

 今後の行動予定を立てながら、二人のメイドを連れて走る。

 黄金夜会のメンバーが表立って動いていないことに、僅かな違和感を覚えながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




以下要点。
・スマサス旅団vsロベ公vs米軍
・レヴィ一行vsスマサス旅団
・ウェイバーvsヨアン
・マナルナ合流。


現在の脱落者
・チンピラ集団
・スマサス旅団八名←new!!


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040 死の舞踏、一章

 52

 

 

 

 グレイは抱きかかえるようにして持つBARで、久方ぶりの的当てに興じていた。ウェイバーからの許可も得ているため、公認の殺戮である。少女は己の口角が吊り上っているのを自覚していた。

 階段を駆け上がる最中に遭遇した男どもを自慢の愛銃で吹き飛ばしていく。複数人の男たちがこちらの存在に気付いて応戦しようと銃を構えたが、それよりもグレイの射撃は早かった。敵のひとりひとりに照準を定めて引鉄を引くのではなく、銃口で敵をなぞりながら、重なり合った瞬間に引鉄を引く。以前ウェイバーに教わった射撃技術だ。

 どこぞの国へ出向いた折に相手兵士から目で見て盗んだらしいが、グレイがその背景までを詮索することは無かった。興味が無かった訳ではないが、ウェイバーは過去のことを余り話したがらない。それを無視して詳細を聞くほど、グレイは無神経ではないのである。

 頭部を吹き飛ばした男の血が頬に付着するのも厭わず、グレイは軽い足取りで三階の廊下へと踏み込んだ。

 

「あら?」

 

 踏み込んだ先は、血の海だった。

 壁面には無数の弾痕が刻まれ、床には血塗れの男たちが臥している。当然、これはグレイの仕業ではない。彼女が三階へ到達するよりも前、誰か(・・)がこの男たちを始末したのだ。銃声は聞こえなかった。否、BARの銃声の中に紛れてしまっていたのかもしれない。血の凝固具合を見るに撃たれてから間もない。となれば、まだこの惨状を作り上げた人間、あるいは人間たちは近くに居る可能性が高い。

 

「……アハッ」

 

 BARの銃身を白い指先でなぞり、グレイは嗤う。

 耳を澄ますと、曲がり角の向こうに複数の足音が聞こえた。一般人ではない。極力足音を消すことに慣れた人間たちの脚運びである。

 その足音を追うように、グレイは駆け出した。

 この建物の構造は「J」の字型になっており、二度突き当たりを曲がるともう一つの階段が姿を現すようになっている。

 直線の廊下を駆け抜けて、一つ目の突き当たりを曲がる。

 

 そこに、少女の獲物たちの姿があった。

 

 脇にライフルを携えた、屈強な男が二人。背後を警戒していたところを見るに、殿を任されていた人間たちだろう。その二人は曲がり角から突如現れたグレイに一瞬驚きの表情を浮べるも、即座に眼を細めて警戒心を剥き出しにした。銃口を突き付け、油断無くグレイを見据える。

 

「……君は何者だ。どうしてこんな所に居る」

 

 普段であれば即座に射殺してしまうような場面にあって尚、男がそう口にしたのは(ひとえ)にその容姿があどけない少女のものだったからだ。たとえその細い腕に無骨な銃を抱えていようと、衣服の至る所に黒ずんだ血を付着させていたとしても。十二、三歳ほどの少女に対して、無条件で発砲することは男には出来なかった。

 二人の男は口を真一文字に引き結び、少女の返答を待つ。

 

「……ウフフ」

 

 返ってきたのは、小さな嗤いだった。

 そして。

 

 少女の持つ銃から、無数の弾丸が発射された。

 

「ッ! 応戦!」

「少佐! 敵対勢力と遭遇、数は一。交戦しますッ!」

 

 少女が行動に出てからの二人の判断は迅速だった。瞬間的に飛び退き、二つ目の曲がり角へと転がり込む。数十センチ先を飛んでいく弾丸を横目に、兵士たちもその引鉄をようやく引いた。

 銀の髪を靡かせる少女は、まるでワルツでも踊るかのように弾丸を回避する。その動きはどう見ても一般人のそれでは無かった。兵士二人の警戒度が、また一段高くなる。

 

「あ、そうだわ」

 

 買い忘れた商品を思い出したかのような口調で、発砲を続ける少女は口を開いた。

 

「おじさんたち、アメリカの軍人さんかしら」

 

 少女が浮べるには余りにも艶やかなその表情に、二人の背筋を悪寒が駆け抜ける。その質問の答えが自身の命運を分ける。そう感じさせる程の狂気的な笑みだった。

 銃を構え最大警戒で少女の前に立つ兵士たちは、数秒の時間を置いて、ゆっくりと口を開く。

 

「……そうだ」

 

 途端、銀髪の少女はガックリと肩を落とした。抱えていたBARも下げ、見るからに落胆した様子で眉尻を下げる。その表情に、先程までの猟奇的な色は無い。年相応に幼げな少女が立っているだけだった。

 

「残念だわ……、本当に残念」

 

 頬に付着していた血を指でなぞり、舐めるように舌を這わせる。

 

「言い付けは守らなくちゃ。おじさんたちがジョン・ブルー(英人)マリアンヌ(仏人)だったなら、楽しいダンスパーティが開けたのに」

 

 少女の言う所のダンスパーティが何を意味しているのか、聞くまでも無く二人は本能の部分で理解していた。

 銀の少女からどうやら戦意が霧散したと見て、男の一人が小さく息を吐いた。張り詰めた緊張感からの解放。それにより生じたほんの僅かな隙。それを、目の前の少女は見逃さなかった。

 

 コンマ数秒で、男の喉元に黒光りする銃口が突き付けられる。

 

「だめよおじさん。油断なんて」

 

 愕然とする兵士に向かって、愉快そうにそう呟く。

 白く細い指先が冷たい引鉄を引くことはなく、そっと銃口は男から離され床へ向いた。

 

「見つけたのが私で良かったわねおじさん。これ以上追い掛け回したりしないもの」

 

 言外にこれ以上の交戦の意思は無いと伝えて、少女は弾痕と血で埋め尽くされた壁に背を預ける。そのままずるずると腰を下ろして床に座り込むと、抱えていたBARを置いて小さく欠伸を漏らした。

 その姿に毒気を抜かれる、ということはなく。つい数秒前に喉元へと突き付けられた銃の感触を、兵士が忘れる筈も無い。一見すればただの子供にしか見えない少女が、その実人を殺す行為に何の躊躇もないサイコキラーであることを直感で理解していた。

 少女から視線を外さないまま、二人の兵士は摺足で少しずつ廊下の突き当たりへと後退する。

 その場から少女が動かないことを確認し、突き当たりへと到達した瞬間に二人は階段へと全速力で駆け出した。

 

 

 

 53

 

 

 

 双子の少女がその屋敷で働くこととなったのは、言ってしまえばただの偶然であった。

 物心付いた時から親は居らず、住むべき家もない。双子はファビオラとは別の貧民街の出身だった。

 カラカス程治安は悪くはなかったものの、それでも息を吸うように身の回りで犯罪が発生するような肥溜めだ。生きるためには致し方なしと、窃盗や暴行が至る所で繰り返された。犯罪の温床のような場所だった。

 そんな場所で食い物にされるのは力のない老人や子供たちで、当時の双子らはそんな犯罪者たちの格好の標的となった。

 金目のモノは全て奪われた。身体のありとあらゆる部分を蹂躙された。

 

 この世界に救いなど無いと絶望し、このまま薄汚い街の片隅で死んでいく。

 

 ――――そんな諦観と悲嘆に暮れる双子に、救いの手を差し伸べたのがラブレス家先代当主、ディエゴだった。

 

「…………」

 

 手にした長槍をぎゅっと握り締めて、マナは遠い過去に思いを馳せる。

 あの日、あの時。ディエゴがあの場所から連れ出してくれなければ、今頃はどうなっていただろう。悪漢たちの食い物にされた挙句、きっとゴミのように捨てられ野垂死んでいた筈だ。それほどまでに劣悪な環境だった。

 住む家をくれた。綺麗な衣服をくれた。帰るべき場所を、守るべき家族を。先代当主は、マナたちに幸福と呼べる全てのものを与えてくれた。

 親の顔すら覚えていないマナとルナにしてみれば、ディエゴが実の父のような存在だったのだ。雇用主に対して抱く感情にしては些か私情が含まれているかもしれないが、ディエゴもその感情を無碍にするようなことはしなかった。公私の区別がつけられるようになったのは、屋敷で働き始めて一年程経ってからだった。

 マナとルナの二人にとって、ディエゴはそれほどまでに大きな存在だったのだ。

 

 そんなディエゴが、遺体すら残らぬ殺され方をした。

 許せる筈が無かった。そう簡単に受け入れられるはずがなかった。

 

 自然、奥歯を強く噛み締める。握り締めた槍が、小さく軋んだ。

 

「そう怖い顔するな。何も戦場から尻尾巻いて逃げ出してるってわけじゃない」

 

 無意識のうちに眉間に皺を寄せていたマナに声を掛けたのは、僅かに先を走る黒髪の東洋人。

 ウェイバー。男はこの街でそう呼ばれている。過去にあのロベルタをも退けたことがあるという、ロアナプラ随一の腕を持つガンマン。その実力の片鱗は数日前のサンカン・パレス・ホテル、そして先程の路地で垣間見ている。成程確かに、この街にのさばるだけの悪党とは違う。眼前で見せたあの動きと察知能力は、一朝一夕でモノに出来るような代物ではないだろう。

 

 だが、それだけだ。

 ウェイバーという男からは、それ以上の何かは感じられない。

 あるいはロベルタが纏うような有無を言わせぬ威圧感があったなら、マナも素直にウェイバーのことを認めていたかもしれないが。

 当然ながらそんな威圧感など微塵も纏わない東洋人は、周囲を警戒しながら街を南下していく。

 

「……どこへ向かっているのですか」

「港だ」

 

 簡潔にそう述べたウェイバーの表情に、焦燥の色は微塵もない。この行動も想定の内、ということなのだろう。

 向かう先であるその港に何を用意しているのかは定かではない。というか、ウェイバーが一体何を目論んでいるのかすらマナには分からなかった。

 サンカン・パレス・ホテルの一室でガルシアと顔を合わせた際、張維新は言った。夜会のメンバーたちは皆、大々的には動けないと。ウェイバーもそのメンバーだった筈である。張の言った言葉をそのまま信じるのであれば、今この場にこの男が立っていること自体が抑もおかしい。組織の長たる人間に付き纏う余計な柵などないのだろうか。こんな状況にも関わらず、ついそんなことを考えてしまう。

 

「……婦長様からは、離れているようですが」

「言ったろ。一旦距離を取るのは仕方ない。こっちにも色々と事情があるんだよ」

 

 どのような事情があるのかマナには理解出来ない。興味もない。只彼女が望むのは、ラブレス家にとっての幸福だけ。

 そのためであれば。

 

 長槍を握り直して前を見据えるポニーテールの少女に、ウェイバーは横目を向けて。

 

「良くない目をしてるな」

 

 そんな事を言い放った。

 

「そういう目をした奴をこれまで何人も見てきた。大体が復讐目的だったがな。そんな輩の大半は浮かばれねェ」

「何が言いたいのですか」

 

 ギロリと睨み付けるマナに対し、ウェイバーは肩を竦めるだけだった。

 

「思うところがあるような表情(カオ)をしていますが」

「思ってるだけだ。別に講釈垂れようってわけじゃねェよ。不快に思ったなら謝る」

「いえ……、先を急ぎましょう」

 

 マナの言葉に僅かに頷いて、ウェイバーは走る速度を上げた。

 ついさっきまで頂点付近にあった太陽はいつの間にか傾き、水平線の彼方へ沈みつつある。

 

 夜が、近付いてきていた。

 

 

 

 54

 

 

 

 助手席へと放り投げてそのままにしてあった携帯電話が、着信音を鳴らしている。ロックは煙草を咥えたまま数秒携帯を見つめていたが、やがて観念したかのようにそれを手にとった。

 通話口から聞こえる声は、ロックが予想していた人物である。

 

『よォロック。景気はどうだ』

 

 三合会タイ支部長、張維新は現状にそぐわない陽気な声音でそう切り出した。

 

『状況は把握してる。ここからでも狼煙が上がってるのが見えてるからな』

「……何のつもりですか」

『言わせるつもりかロック。賭けは終了、店仕舞いだ。近くで見てる分、お前の方が分かってると思うが?』

 

 抑揚の無い平坦な声でそう告げられて尚、ロックは引下がろうとはしなかった。否、引下がる必要など無いと判断していた。

 

「張さん、まだ幕は引いちゃいない」

『分水嶺ならとうに過ぎた。合衆国軍と猟犬の邂逅を防げなかった時点で、お前の役目はもう終わっている』

「分水嶺が一つだと、誰が決めたんです」

 

 にべもなく切り捨てようとする張の言葉に、ロックは静かに切り返す。携帯電話を持つ手に、力がこもる。

 

「役者は皆まだ舞台に残ってる。なら、俺が勝手に舞台を降りるわけにはいかない」

『一つ、お前の考えを正そうか。ロック』

「正す……?」

『確かに役者は舞台に立ったままだろう。だが俺たちは役者じゃない、イイとこ演出家だ。始めから舞台に立っちゃいねェのさ』

 

 意見の相違、と言うにはそれは余りにも大きな食い違いだった。

 張は組織の大きさ、行動に伴う二次的被害の規模などからしておおっぴらに行動することが出来ないでいる。そこで白羽の矢を立てられたのがロックだ。彼は役者たちと同じ舞台にまで上がり、己の危険すらも省みず最前線へと躍り出た。

 張に言わせれば、その時点で間違っている。

 

『俺やお前にとって、ラブレスの若当主や猟犬はただの(ポーン)にすぎない。お前は王手(チェックメイト)が打てるといい、俺はそれにオッズを張った。俺たちの役割は前線で鉛玉をブチ込むことではなく、場をセッティングすることだ』

 

 しかしだ、と張は言葉を続ける。

 

『今の状況を見ろ。猟犬と合衆国軍の遭遇は防げず、燻ってた火種は大きく燃え上がった。こうなっちまったらもう、お前にはどうにも出来んだろう。なァ、ロック』

「張さん」

 

 張の言葉を遮るようにして、ロックは正面を見据えたまま静かに呟く。その瞳には、一切の諦めの色は無い。

 

「俺にはどうすることも出来ないってのはそうでしょうね。銃もナイフも使えない俺じゃ、戦場へ出たところでくたばる未来しか見えない。ああ、そうだ。俺は間に合わなかったよ張さん」

『そこまで分かっていながら』

「ウェイバーさんは間に合った」

 

 その名が出た途端、通話口の向こうで息を飲む音が聞こえた。

 

「ホテルじゃあんなこと言ってたが、俺はあの人なら戦場へ出てくると確信していた。背負う柵なんか無視して、街の存続の為に動くと」

『ロック。奴を駒として扱うにゃ、些か経験値が足りないな。ウェイバーはお前が掌で転がせるような人間じゃない』

 

 身に余る愚行だ、と言外に告げられたような気がした。

 しかし、ロックはそれを意に介さない。

 

「身の程は弁えているつもりですよ、ミスター張。だから俺はあの人を思い通りに動かそうなんて思っちゃいない。俺が賭けたのは、この戦場に現れるかどうかだ」

『その賭けに、一体何の意味がある?』

「簡単なことですよ」

 

 張の問い掛けに、ロックは当然のように答える。まるでそれが、最初から分かりきっていたことのように。

 

「ウェイバーさんが現れた。街の存続を望むあの人が、わざわざ(・・・・)戦線に出張ってきた。その意味を、アンタはよく知ってる筈だ」

『…………』

「あの人が出てきた以上、一つ目の分水嶺に余り意味はない。重要なのはこの先、二つ目の分水嶺だ」

 

 その分水嶺こそが重要なのだと、ロックは半ば確信していた。

 ラブレス家の女中、合衆国の軍隊、ロアナプラの住人。その他いくつかの不明勢力がいるようだが、それら全ては未だ舞台に立ったまま。

 ならば、まだこの賭けは終わっていない。終わる筈もない。

 

「そう簡単に、終わらせやしない」

『…………日本人てのは、こんな奴らばっかりなのかね』

 

 数秒の沈黙の後に、張は苦笑混じりに呟く。

 

『全く、どいつもこいつも』

 

 街の存続を掲げながらもどこか楽しげなその声の主が誰のことを言っているのかなど、聞くまでもないことだった。

 

 

 

 55

 

 

 

「あら」

「ああ?」

 

 トカイーナ・ホテルの三階へと続く階段を上がろうとしたところで、レヴィは踏み出しかけた右脚をピタリと停止させた。黒い双眸が射抜く先には、黒の衣服を纏った銀髪の少女が立っている。

 BARを両手で抱えるように持つグレイの頬には、赤黒い液体が付着していた。上の階で何があったのか、聞かずともレヴィは理解する。道理で上階からも銃声が聞こえていたわけである。ということは、二階にまで降りてきていた敵はグレイが逃した敵ということになる。やるならきちんとやれと、声を大にして叫びたい気分だった。

 そんな苛立ちを舌打ちに込めて霧散させ、レヴィはグレイへ一歩詰め寄る。

 

「どうしてテメエがここにいやがる」

「それはこっちの台詞だわ。どうしてお姉さんたちがここに居るのかしら」

 

 レヴィの後に続いてやって来たロットン、ファビオラ、ガルシアを順に見て、グレイは不思議そうに小首を傾げた。

 周囲に他の人間の気配は感じない。この近くにウェイバーがいる、ということは無さそうだ。無意識のうちに肩を落とすレヴィだったが、その所作はグレイにばっちりと見抜かれていたらしく。

 

「おじさんならここには居ないわ。残念だったわね」

「んなこと言ってねェだろうが!」

「顔に出てたもの。垂れた犬耳まで見えたわ」

「よし先ずこのクソガキからぶっ殺すか」

 

 両の手にそれぞれ持っていたカトラスを持ち上げ、額に青筋を浮かべたレヴィを諌める人間はこの場にはいない。通常それはロックの役目だが、生憎と彼はこの場におらず、また怒気を撒き散らすレヴィを止めることの出来る人間も居なかった。

 怒髪天を衝く勢いのレヴィに対して、あくまでもグレイは通常運転のようで、非力な少女が持つには過ぎた代物に違いない鈍く光るBARの残弾を確認し始めた。

 

「……チッ、テメエが上から来たってことは、もう上には敵はいねェってことか」

「そういうことになるわ。深緑の軍服で顔を隠した人たちが大勢屋上から押し掛けてきたけど、半分は私が撃っちゃったから」

「その残り半分がこの階まで降りてきてんだよクソガキ。テメエのケツくらいテメエで拭け」

「あの、ということは婦長様は……」

 

 また睨み合いを始める二人に、ファビオラが割って入る。グレイの言葉を信じるのであれば、この先の屋上に目的の人物は居ない。合衆国軍も既に現場を離れた後ということになる。

 

「そう慌てんなロリータ。こういうこともあろうかと、何人かは生かしてある」

「絶対に偶然だろう。明らかに額を狙っていたぞ」

「うるせェぞロットン」

 

 くるりと踵を返して、二階廊下の血溜まりに沈む男たちを見やる。幸いというべきか、その中の一人はまだかろうじて息があるようだった。腹部から大量の出血があるその男の襟首を掴み、無理やり壁に背を預けさせる。レヴィはその男の前にしゃがみこんで。

 

「おいロリータ、通訳しろ」

「ちょっと、乱暴にしないでっ」

「こいつがどうなろうがお前にゃ関係ねェだろうが。時間がねェ、早くしろ。お前たちがロザ……ロベルタを追ってることは知ってる。奴はどこだ」

 

 立ち上がり煙草を咥えながらそう話すレヴィの言葉を、ファビオラは手負いの兵士に伝えていく。

 数分して、ファビオラは兵士からそっと離れる。

 

「婦長様は米軍部隊を追って西の交差点へ。建物に沿って向かっていると」

「西だな、オーライ」

「あの、この人を病院まで運びたいんですが」

「あはっ」

 

 ファビオラの提案に、何を思ったのかグレイが嗤った。同姓すら魅了しそうな妖艶な笑みを浮かべながら、銀髪の少女はゆっくりと負傷兵の元へと近付いていく。

 

「――――こうすれば、その必要もないでしょう?」

 

 一瞬、ファビオラは目の前の少女が何を言っているのか分からなかった。

 グレイの言葉に何か反応を示すよりも早く、白く細い指が、凶器の引鉄を引いた。

 

 銃声が轟く。

 

「――――ッ!!?」

 

 眼前の凶行に、ファビオラは絶句する。

 虫の息ではあったが、確かに数秒前まで生きていた兵士は、頭部を蜂の巣にされ赤黒い脳漿を壁一面にぶち撒けていた。

 

「急ぎましょう。おじさんとはぐれちゃうわ」

「もうはぐれてんだろお前」

 

 そんな軽口を叩き合う二人に、ファビオラは言い様のない憤りを感じていた。

 英語ではなかったためその言葉はファビオラと、そしてガルシアにしか届いていなかったが、兵士は助けを求めていた。救いを求めていた。

 それなのに。どうして。これが彼を救うということなのだろうか。そんな筈はない。こんな追い打ちをかけるような真似、許される筈がない。

 

「ランサップとナンクワイの交差点だ。取り敢えずそこを目指そう。ボスのことだ、先回りしてロベルタとやり合ってるかもしれねェ」

「……に、してんだよ」

「おいロリータ何してる、さっさと行くぞ」

 

 ぶちん、と。

 ファビオラの頭の中で何かが爆ぜた。

 

 懐に仕舞い込んでいた拳銃に手を伸ばし、即座にその銃口を向けようと――――

 

「やめたほうがいい」

 

 したところで、銃を持った腕をサングラスの美丈夫に掴まれた。

 

「君の怒りは、この街では何の意味も持たない」

「ッ、なんで、どうして!」

 

 少女の突然の大声に、前を歩いていたレヴィとグレイが視線だけを背後へ向けてくる。しかしロットンが腕を掴んでいるのを確認すると、興味なさげに視線を前方へと戻してしまった。

 

「銃を放してくれるか。僕はフェミニストだ、女性相手に手荒な真似はしたくない」

「彼は救いを求めてた! 本気で、それなのに……ッ」

「殺しとは究極の理不尽だ、少女よ。それは相手もこちらも同じこと。敵対している以上、息の根を止める以外に解決策は無い」

「そんな、そんなこと……っ」

 

 ロットンの言葉に、ファビオラはきつく歯噛みする。

 悪徳の街において、人を殺すという行為の軽さを改めて痛感することとなった。街中で擦れ違いざまに肩がぶつかっただけで、たまたま視線が合っただけで。それだけでこの街の住人は気安く銃の引鉄を引けるのだ。

 世間一般的にはどう考えてもこの街の常識の方が間違っている筈なのに。あたかもこちらが間違っているかのように錯覚させられる。

 ロットンもそれ以上何かを言うことはなく、ずれたサングラスをかけ直してレヴィの後に続いた。

 

「……ファビオラ」

 

 俯く少女の肩に、ガルシアの手が添えられる。

 

「僕たちは僕たちが信じる道を進もう。家族皆で一緒に帰るために。それだけが、僕たちの願いだろう」

「若様……」

「この街の異様さは前に来た時から分かってる。それでも、僕たちはその闇に呑まれちゃいけない」

 

 その真っ直ぐな瞳を間近で見て、ファビオラも顔を上げる。

 自分たちの目的を果たすために、利用できるものはなんでも利用する。それがプロのトラブルバスターであっても。

 少しずつ、しかし確実にロベルタへと近づいていることを感じながら、二人は前を行くレヴィたちを追いかけた。

 

 

 

 56

 

 

 

『そろそろ掛けてくる頃じゃないかと思っていたわ』

「なにお前、予知能力者か何かなの」

『貴方が戦線に出ていることは部下の報告から分かっていたことだから』

「何だよ、遊撃隊(ヴィソトニキ)まで配置してんのか」

『当然でしょう。米軍特殊部隊、またとない好敵手だもの。そう簡単に逃すとでも?』

「……手っ取り早く本題に入ろう。用意して欲しいものがある」

『それは我々に利益があることかしら』

「安心しろ、お互いにメリットしかねェよ」

 

 

 

 57

 

 

 

「総員、懸垂降下(ラベリング)完了。損耗、障害ともに無し」

「上出来だ。これよりポイント・ダガーまで雑居ビル、並びに裏路地を脱出経路とする。法則性を作るな、奴の対物ライフルを無用の長物にしてやれ」

 

 向かい側の建造物からの襲撃を交わしたグレイ・フォックスの面々は、現在ストリートの裏路地を集団で移動していた。

 上下前後左右の全てが警戒の対象となる現状、散らばって行動するよりも頭数を揃えて行動した方が対処し易い。

 ライフルを構え、最大限の警戒のもと移動を続ける。

 

 そんな彼らの数百メートル後方に、一つの影。

 既に沈み始めた太陽を背に、女は建物の屋上から単身で飛び降りた。

 獣のような眼が、獲物を逃すことはない。

 

 

 

「答えろアブレーゴ。ロザリタは、一体誰を追っている?」

『…………』

「事前情報が全く役に立っていないぞ。何もかもが食い違っている。これは一体どういうことだ?」

 

 カラマサの詰問に、通話口の向こうに居るアブレーゴは眉間に皺を寄せ苦々しく答えた。

 

『お前たちには関係ねェ。そいつらに手を出すなカラマサ。取り返しのつかないことになる』

「我々はロザリタに通ずる全ての障害を排除する。例えそれが米帝主義者でもだ。我々の作戦にマフィアごときが口を出すな」

 

 それだけ告げて、カラマサは一方的に通話を終了させた。電話機をポケットへと滑り込ませ、現状の把握を再度行う。

 

「ロザリタの居場所の特定を最優先だ。全ての情報を洗い出せ」

 

 

 

「止まれ」

 

 先頭を歩いていたレヴィが、建物の壁に背を当てて立ち止まる。

 ゆっくりと視線を建物の向こう側へと向ければ、先程相対した兵士たちと同じ軍服を纏った男たちが集団になって歩いている。薄暗い路地だ、まだ向こうはこちらの存在には気付いていないようだった。

 

「どうする」

「どうもこうもねェ。スペイン語しか分からねえ連中にどうしろってんだ」

「君は相変わらず血の気が多いな」

「見敵必殺。ボスから教わった常識だ」

「ウェイバーの……成程確かにその通りだ」

「次に呼び捨てで呼んだらテメエからブチ抜くぞ」

 

 言いながらレヴィにグレイ、そしてロットンはそれぞれの得物を構える。それに数秒遅れて、ファビオラも顔の高さにまで銃を持ち上げた。

 ガルシアを除く全員が臨戦態勢へ移行したのを確認して、レヴィは手近にあったペール缶を思い切り蹴り飛ばす。

 ひしゃげた音が周囲に響き、兵士たちの視線がレヴィたち五人へと注がれる。

 

「新手か! どこの連中だ!?」

「全員敵だ、撃っちまえ!」

 

 瞬く間に路地裏が戦場へと切り替わる。射線から外れるためにガルシアだけは建物の影に身を潜めているが、それ以外の四人は真正面から兵士たちへと向かっていった。

 

 戦場とは刻一刻と変化するものだ。

 戦うのが人間である以上、固定化された戦場など存在しない。人の移動に合わせて戦場は移動し、数の比重で戦況は変化する。戦争とは水物であり、場と状況は一瞬で変貌するものである。

 レヴィやグレイたちの鉄火場も、彼女たちの行動に合わせて僅かに場所を移動していた。

 銃声と悲鳴、そして鮮血が散らばる戦場は、ガルシアから少しばかり遠ざかっていたのだ。とは言えそれによってガルシアが安全かと言えばそうではなく、流れ弾は先程から何十発と飛来している。屋外に居る限り、その危険は消えないだろう。

 だからガルシアは今この一時の危険をやり過ごすため、一番近くにあった雑居ビルへと足を踏み入れた。

 

 そして少年は後悔することとなる。

 

「――――あン、なんだってこんなトコに子供がいるんだ」

 

 そこは二匹の猛獣が巣食う場所。

 望まぬ形の再会が、すぐそこにまで迫っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





以下要点
・グレイVS米軍(不戦勝)
・おっさん、双子を引き連れ港へ。
・ロックの舌戦。
・レヴィグレイ合流、第二ラウンドへ。

おっさん、姉御からすると今回は完全に溜回。



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041 死の舞踏、二章

 58

 

 

 

 ホテル・モスクワ。ロアナプラという悪徳の街に根を張る、過激派筆頭のロシアン・マフィアだ。

 黄金夜会の一翼を担う程の権力を有する彼女たちは、当然ながらその地位に見合う戦力を所持していた。

 元空挺であった女とその部下で構成される遊撃隊(ヴィソトニキ)のことを知らない人間はロアナプラには居ない。ウェイバー、ヨランダと並んで敵に回してはいけない勢力である。

 その遊撃隊を束ねるホテル・モスクワの幹部、バラライカは通話を終えた受話器を静かに戻した。室内には彼女の他に顔面に傷のある大男が一人、直立不動でバラライカの正面に立っている。

 

「聞こえていたか?」

「勿論です大尉殿」

「ウェイバーめ、つくづく喰えん男だ」

 

 くつくつと、彼女にしては珍しく口角を緩めて笑ってみせる。余程電話の内容が有意義なものだったのか、ボリスですら余り見ない程の上機嫌さである。

 

「我々への牽制、ということですかな」

「クク……。まさか当人直々に手を下すとは思っていなかった」

「あの男をこちらの物差しで測ることは出来ないと」

「全く、こちらに付き纏う柵が馬鹿馬鹿しく思えてくる自由奔放さだ。アンチェインとはよく言ったものだな」

 

 ギ、と木製高級椅子の背もたれに背を預け、机上に置いてあった葉巻を手に取った。

 電話を掛けてきた男、ウェイバーが通話中に述べていたことを思い出し、堪えきれないとばかりに口角を歪ませる。

 

「ブーゲンビリア貿易名義で船を一隻用意しろ、か。成程良く考えたものだ」

 

 ボリスに差し出された火に葉巻を寄せ、一息に吸い込む。葉特有の香りが、鼻腔からゆっくりと抜けていく。

 

「私ならばその意図に気付くと、そう確信していたなウェイバー」

 

 今しがたの会話の中に、今回の一件に関するワードは一つとして上がっていない。

 ウェイバーが掛けてきた電話の内容は、船を一隻手配してほしいというものだった。それだけを聞けば、既知の間柄であるバラライカへの単なる依頼だ。実際、過去にも何度かウェイバーは彼女に船を出してもらっている。他の人間がその会話を耳にしても、何一つ疑問に思わないだろう。

 それ故に、バラライカはウェイバーの言葉の意図に気が付いた。そして恐らく、ウェイバーはバラライカならばそれに気付くだろうと確信して会話をしていた。

 伝えたい事があるにも関わらず、どうしてそんな回りくどい真似をするのか。

 

「盗聴対策、でしょうな」

「私との直通回線ではなく敢えて一般回線を使っているところなどあの男らしい。盗聴されている前提であの口の利き方だ、余程他の有象無象が気に入らんらしい」

 

 一般回線を敢えて使用してきたのは撹乱のためだろうと想像出来る。船が入用となる港はこの街の東から南にかけて伸びているが、ウェイバーが所有しているドックなど存在しない。かと言ってホテル・モスクワが所有するドックもこのロアナプラには設置されていない。盗聴者は着地点の見えない会話に疑問を浮かべている頃だろう。

 半分程の長さになった葉巻を灰皿に押し当てて、一つ息を吐く。

 会話の内容を脳内で反芻し、ウェイバーの真意を読み解いていく。

 

「奴は船が欲しいと言ったな」

「ええ、確かに」

「南か。ウェイバーは全てをこの街から排除する腹積もりのようだ」

「米軍に猟犬、FARCからも刺客が潜り込んでいるようですが」

 

 そんなボリスの言葉にも、バラライカは薄い笑みを崩さない。

 

「言うまでもない、ということだろうさ」

 

 ウェイバーは船が欲しいと言った。

 つまり、船を使用しなければならない場所へ移動しようとしている。もしくは誰かをその船へ乗せようとしている。船が必要になる場所などこのロアナプラには南東に伸びる港しかなく、且つブーゲンビリア貿易の名で使用する船は南に固められていた。因みにブーゲンビリア貿易名義で所有する船舶には所有者の分かるようなものは一切刻まれておらず、関係者以外にはその停泊場所すら知られていない。ホテル・モスクワとして所有している船舶が街に無いのは、ブーゲンビリア貿易という名義を使用しているからだ。

 ブーゲンビリア貿易、船。たった二つの単語で、ウェイバーはバラライカにしか分からないように目的地を伝えたのだ。

 

 一体何のために。

 

 ボリスは先程、牽制のためかと言った。確かにその可能性は高いだろう。夜会であれだけ堂々と米軍を狩ると宣言したのだ。未だ大きな動きを見せていないホテル・モスクワに釘を刺すため。そう考えるのがもっとも自然で合理的である。バラライカもボリスの言葉を真っ向から否定する気はなかった。

 だが同時に、こうも思うのだ。

 

「……この機を逃すな、か」

 

 薄い笑みが、徐々に獰猛なものへと変化していく。

 試されている。そうバラライカは解釈していた。

 この場面、この局面。連絡を取る必要など一切ないこの状況で、敢えてこちらへ連絡を寄越してくる。何か狙いがあるのは確実である。

 

 それは身動きを封じるための楔かもしれない。

 必要とあらば戦力の投入を惜しまないホテル・モスクワへ対する牽制。街の存続を第一に考えるウェイバーからすれば至極当然の行動だ。

 

 そしてそれは同時に、傑物たちが集う戦禍への招待状かもしれない。

 そんな場所で静観を決め込んでいていいのか、とウェイバーが哂っているような気がした。

 

 バラライカの沈黙は、数秒に満たないものだった。

 閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げ、それと同時に立ち上がる。カツカツとヒールを鳴らして扉の前に立った彼女は、ボリスから受け取ったコートを羽織り、ドアノブに手を掛けて。

 

「――――いい加減、奴への借りは返しておこう」

 

 その言葉が何を意味しているのか、ボリスは聞かずとも分かっていた。

 

 

 

 59

 

 

 

 ファビオラに複数人の対人戦闘経験は皆無である。

 ラブレスの家で秘密裏に行われていた訓練は基本的に一対一を想定してのもので、ガルシアという対象を守る訓練がその大半を占めていた。一対多という戦闘を経験したのはイエローフラッグで催涙弾を使用した時が初めてだ。それを思えば今現在、彼女は十分に奮闘していると言えた。ロアナプラという土地勘の無い場所、しかも路地裏というある種閉塞された空間の中で、多少の傷を負いながらも相手を行動不能に陥らせているのだから。

 当然のように無傷で他を圧倒するレヴィとグレイ、独り言を呟きながら時折意味不明なポーズを取りつつ敵を殲滅するロットンはさておき、迷彩柄の軍服に身を包んだ敵部隊の多くは血濡れで地面に沈んでいる。そのうちの何人かは、ファビオラの放つ凶弾が原因で鮮血を散らしていた。

 

 己が人を殺している。

 その事実が、少女に重く伸し掛る。

 

 覚悟はしていた。こうなることは分かっていた。それでも、愛すべき、守るべき家族のために。

 そんな想いを抱く少女を、しかし現実は非情で以て出迎えた。

 眼前で繰り広げられる光景に、あるいは自身がそれに加担している現実に。少女が秘めていたはずの決意と覚悟は、呆気なく崩れ去ろうとしていた。

 ファビオラの崩壊を寸でのところで食い止めていたのは、ガルシアの存在に他ならない。少年の存在があるからこそ、ファビオラはそれを心の支えとして戦った。戦えた。

 

 それが支えではなく、単なる免罪符でしかないことに少女は気づかぬまま。

 

 対複数の戦闘の経験がこれまでにないファビオラが現状に呑まれるのは仕方ないことだった。只でさえ味方パーティが猛犬、狂猫、中二病である。これでまともな戦闘が展開できているというのだから恐ろしい。

 慣れない戦闘によって生じる精神的な疲労は大きく、周囲を飛び交う弾丸を避けながら移動を繰り返すのがファビオラには精一杯だった。

 それ故ガルシアとの距離が開いたときも直ぐに合流することが出来ず、声を張り上げて物陰に隠れるよう言ったのだ。万が一にでも被弾してはいけない、そう思いながら。

 そして、現在。

 

「……若様……?」

 

 ファビオラは、完全にガルシアの姿を見失っていた。

 

 

 

 60

 

 

 

「ヘンなガキを拾った」

『は? 何言ってんの?』

 

 雑居ビル一階。腐りかけた木製の床に座り込んだ金髪の少年を見下ろして、赤シャツの男は端的に事実だけを告げた。そんな男の言葉に通話口の向こうからはそれはもう大きな溜息が吐き出される。

 

『ヨアン、あんたの立っているそこはどこ?』

「ロアナプラ」

『街中が地雷原みたいな場所で、子供一人で何してるっていうのよ』

「俺が知るわけないだろ。服装から察するにこの街の人間じゃなさそうだが、今起きてるドンパチと無関係ってわけでもなさそうなんでな」

 

 携帯電話を耳に押し当てながら、ヨアンは今一度少年へと視線を向ける。

 年端も行かぬ少年の瞳に浮かぶのは動揺と困惑、そして僅かな敵意。面白い、とヨアンは素直にそう思った。

 こんな街である。周囲全てが嘘と罠で埋め尽くされているような屑の中にあって、少年の瞳はどこまでも気高くあろうとしていた。何か強い決意が秘められている。そんな目をしているとヨアンは直感した。

 

『一般人を巻き込むのは御法度よ』

「分かってるよ、クラリスに言われるまでもねェ」

『一番信用ならない男の口から言われてもね』

 

 まだ何かお小言が聞こえてきそうだったため、ヨアンは早々に通話を切り上げることにした。強引に終話ボタンを押して、ポケットへと携帯電話をねじ込む。

 

「さて、」

 

 言葉と共に向けられた視線に、少年の肩が微かに揺れる。

 

「聞かせてくれよ少年。どうしてお前はこんな場所に居た?」

 

 

 

 

 

 コンコン、と。ガラスを小気味よく叩く音が聞こえて、ロックは音のした方へと顔を向けた。

 視界の先には、修道服を身に纏った金髪サングラスの女。修道女からは全く連想できないバイクに跨り、ロックへ笑いかけるエダの姿があった。

 ハンドルを回して窓を下げる。途端、エダの陽気な声が飛び込んできた。

 

「よーうロックぅ、調子はどうだい?」

 

 あちこちで上がる狼煙を気にした素振りも見せず、白い歯を剥き出しにして笑いかける。

 

「……あんたも狩りに?」

 

 ロックはエダの質問には答えず、静かにそう問い掛ける。

 

「うんにゃ、山猿(レヴィ)の助太刀に来たんだけどね。ちいとばかし出遅れちまった」

 

 煙草を取り出して口に咥えたエダの様子を見て、ロックは無言で火を差し出す。一言礼を言って火に煙草を近づけるエダの表情は、言葉の割に楽しそうに見えた。

 

「……ここにしちゃァ珍しく今晩は冷えそうだ。そう思わないかいロック」

「感傷なんて柄じゃないだろう」

 

 そう述べるロックを見て、エダは口角を吊り上げる。

 含みを持たせたその笑みに、ロックは無言で眼を細めた。

 

「柄じゃない、ねェ。なァロック、柄じゃないことしようとしてんのはアタシとあんた、一体どっちなんだろうねェ」

「…………」

「あァ、その眼だ。あの男も時々そんな眼をするんだよロック。まるで全てを飲み込んじまいそうな、黒すぎる眼だ」

 

 灰を地面に落としつつ、エダはロックの眼に別の東洋人を重ねていた。

 誰を重ねているのか、そんなことはロックにも分かっている。自身が知る限り、そんな眼をするのはウェイバー以外に有り得ない。

 

「あんたが俺のことをどう思ってるか、なんてのはこの場では全く意味が無いことさ」

「ま、確かにそーさね。……だからさ、ロック。これはアタシからの忠告だ」

 

 つい数秒前までの陽気な空気を霧散させ、サングラスの奥で切れ長の瞳が鈍く光る。一段声のトーンを落としたエダは、真正面からロックを見据えて口を開く。

 

「――――ウェイバーの真似事(・・・)なんてやめときな」

「…………」

「あんたとアイツは全くの別物だ。あの男になろうなンて烏滸がましいってモンだよロック」

「……ハハッ、」

 

 真剣味を帯びたエダの忠告に、しかしロックが浮かべたのは嘲笑に似た薄い笑みだった。

 運転席に座ったまま、バイクに跨るエダを横目に見やる。その黒い瞳に射抜かれて、エダは思わず口を噤んだ。

 

「勘違いしてるよエダ。俺は別にウェイバーさんになろうなんてしちゃいない。なれるわけがない。そんなこと、とっくに分かってる」

 

 それはどこか達観した口調だった。

 

「俺はあの人には成れない。そもそもの立ち位置、いや……役割が違うんだ」

「役割ね……。あんたの役割は一体なんだってのさ」

「舞台を整え、最後まで見届けることさ。俺の脚本(シナリオ)通りに」

 

 その言葉を聞いて、エダはロックがこれまでと明らかに異なっているということを実感する。

 兆候はあった。バラライカの通訳として日本へ赴いた辺りから、ロックという男の根幹に変化が生じていることには気が付いていた。その変化はジェーンを発端とした騒動で徐々に大きくなり、今回の一件で明らかとなった。

 ロックは。この男は。

 

「……悪い顔をしてるねェ、ロック」

 

 この街に、意図的に(・・・・)染まろうとしている。

 

「君ほどじゃないさ」

「ハッ、言うねェこの色男」

「態々俺が一人のタイミングを見計らってやって来たんだ。何も世間話をするためじゃないだろう?」

「……ホント、変わったねあんた」

 

 頭の回転は元よりそれなりだったが、今はそれに輪をかけてスマートだ。最初は変化の大きさにやや困惑したエダだったが、こうもとんとん拍子に話が進むのであればそれはそれで好都合。ニヤリと笑い、上体を車体へと傾ける。

 

仕事(ビジネス)の話といこうじゃないのさ。あんたもアタシもハッピーになれる、そんな上手い話があんだよ」

 

 

 

 61

 

 

 

「「船ですか?」」

 

 既に夜の帳が下りたロアナプラ。細い路地が入り組んだ南側の一角で、メイド服を纏った双子の女中が口を揃えてそう言った。

 時刻は午後八時。この時間帯にしては周囲に人の気配はなく、遠くから微かに聞こえる銃声と鼻につく硝煙の匂いが街の現状を如実に現している。近未来SF作品などであれば、第一種非常警戒態勢とかいう宣言が発令されそうな勢いである。

 フィルタ付近まで吸った煙草を無造作に投げ捨て、靴裏ですり潰す。そうしてから先程声を発した二人へと視線を向けて。

 

「そう、船だ」

「まさかとは思いますが、逃げるおつもりですか?」

 

 長槍を手にしたままのマナが、両の眼を細めて問い掛ける。その横では同じく長槍を握るルナが無言で俺を見つめていた。視線で穴が開くってのはきっとこういうことを言うんだろうな、などと割とどうでもいいことを考えながら、そういうわけじゃないと前置きを入れる。

 

「現状この街は至るところに起爆スイッチが散蒔かれたデスゾーンだ。その理解は出来ているか?」

「婦長様と婦長様の追う合衆国の軍隊。そして先程の赤いシャツの男ですか」

「それだけじゃない。ロベルタを追ってFARCからも精鋭部隊が送り込まれてる。ついでに言うとウチの連中も参戦してるが」

 

 そして口には出さないものの黄金夜会の各組織。街への影響という点では間違いなくその筆頭である。名目上は俺もそこに属しているわけだが、ほぼ個人参加のようなものなので除外しておく。

 こうして挙げただけでも、国籍様々な戦力がこの街に集結している。このままではロアナプラ全体が戦場になるのも時間の問題だった。

 それを良しとしないのは夜会メンバーでは俺と、そして張率いる三合会。街の存続を第一に考える俺たちとしては、敵味方の区別すら付かなくなるような乱戦は避けねばならない。

 

 そこで俺が考えたのが、ホテル・モスクワへの一般回線での連絡だった。

 

 バラライカへの個人的な連絡であればわざわざ一般回線を使用する必要もない。個人用の秘匿回線を使えば済む話である。

 それをしないのは、今も街中で盗聴に勤しんでいるであろう余所者たちを一箇所へと誘導するためだ。ぶっちゃけた話、ロベルタの居場所を掴んだところでそれ以外の勢力が散らばっていると非常に面倒なのだ。最終的にロベルタとガルシアを再会させ、合衆国軍隊とその他の勢力をこの街から排斥する。その為の一手が、バラライカへの連絡だ。

 

 連絡会の場で、俺や他のメンバーを前に堂々と米軍を狩ると宣言したのは彼女のみ。そして口にした言葉は必ず実行してきたのがあの女である。それがこのタイミングになっても大きな動きを見せていない。その理由として考えられるのは二つ。

 米軍の動きを把握できていないか。或いは把握していて泳がせているのか。

 戦闘狂のあの女のことである、敢えて自由にさせているという可能性もあるにはあるが、今回に限っては恐らく敵を補足出来てない。先の連絡の際に遊撃隊を周囲に配置していると言っていたのは、そういう理由からだろう。

 ホテル・モスクワが、未だ標的の正確な位置情報を把握出来ていない。逆を言えば、グレイフォックスはバラライカたちにすら尻尾を掴ませない程洗練された兵士たちの集まりということである。

 

 そんなグレイフォックス、次いでロベルタの居場所を俺は知っている。これに関してはほぼ徹夜で調べてくれた雪緒のおかげでしか無いが、実際に両者が戦闘を行っている現場に出会している。

 現在の詳細な居場所までは追えていないものの、これは他の組織に対して決して小さくないアドバンテージと成りうるものだ。それを利用しない手はない。

 

 かと言って一般回線を使用している以上おいそれと重要な単語を並べ立てるわけにもいかない。

 表向きはブーゲンビリア貿易を名乗っているのだから、物騒な単語を羅列してホテル・モスクワの裏の顔を露にするのは街にとっても本意ではないことだ。

 直接的な単語は避けつつ、それでいて盗聴している人間たちにもある程度の推測が成り立つような説明を。

 そういう経緯で俺の無い頭から振り絞られたのが、「ブーゲンビリア貿易名義で船を一隻用意してほしい」というものだったのだ。これならば裏の事情を知っている人間ならホテル・モスクワへの依頼であると判断でき、船を必要としているのなら港だろうとアタリを付けることが出来る。我ながら中々の出来である。周りに誰も褒めてくれるような人間がいないのが少しばかり寂しいが。

 

「仕込みはさっき済ませた。あいつの事だ、直ぐにでも動いてくれるだろうさ」

「その仕込みとやらは、先程の連絡のことを言っているのですか?」

「そうだ」

 

 俺がバラライカに話したことは少ない。というか仕事依頼の内容だけだ。正直な所、会話の内容など然したる問題ではない。俺がバラライカに連絡を付けた。その事実を街中が認識するところに意味があるのだ。

 米軍を狩ろうと動いているバラライカに、俺が連絡を付ける。米軍を南側で補足したと盗聴している連中が予測し、こちら側へと集まってくれることを期待しているわけだ。ロベルタ、ガルシアの本命にまでこの通信が傍受されているかは分からないが、少なくとも米軍には届いていると確信している。というか米軍の受信機にも声が乗るように細工までしたのである。いや、細工したのはリロイだけれども。

 そうなれば米軍は街から出るために都合よく用意された船の元へとやって来るだろう。それがどんなに上手い話で裏があるかもしれないと勘繰っても、目先の脅威を退けるためには船が必要だからだ。そして米軍が動けば、それを追って必ずロベルタも動く。

 とすれば残るは、

 

「……ガルシアだな」

 

 ポツリと、最後のピースを埋める少年の名を呟く。

 その他の敵勢力が残るが、それは本丸を街から取り除けば後からどうにでも出来る。

 取り急ぎ、ガルシアと行動を共にしているであろうレヴィに連絡を取ろうとして、その直前で相手をロックに切り替えた。レヴィに電話をすると耳元で騒がれてまともな会話にならないのだ。

 幸いなことに、電話は直ぐに繋がった。

 

『……もしもし』

「ようロック、今時間あるかい」

 

 極めて軽妙に、電話の向こう側へと言葉を投げる。

 

『珍しいですね、ウェイバーさんが俺に連絡を寄越すなんて』

「状況が状況なんでな。お前だって、それは分かってる筈だろう?」

 

 ロックは俺が電話を寄越したことに驚いているようだったが、今はそれを気にしているほど時間の余裕はない。さっさと本題をと、口を開く。

 

「ガルシアを連れて、港まで来い」

『…………』

 

 無言のまま、ロックは何事かを考えているようだった。

 彼がガルシアのために奔走していたことは知っている。もしかしたら最後まで責任を持って送り届けたいと思っているのかもしれない。ラグーン商会なら魚雷艇を所有しており、街からガルシアたちを脱出させることも可能だ。

 俺としてはロアナプラが元の形に収まるのであればそれでも構わないが、それではロックに掛かる負担が些か大きすぎるのではないだろうか。

 

「ロック」

 

 語りかけるように、声を紡ぐ。

 あまり無理はするなよと。俺にも出来ることがあるなら協力すると。そう意図して。

 

「――――身の程ってのは大事だぜ」

 

 通話口の向こうで、何かが軋むような音が聞こえた。

 

『……そうですね、ウェイバーさん』

 

 数秒、あるいは十数秒経って、ようやくロックからの返答があった。

 その声は先程よりも幾分低く、硬いものだった。

 

『俺は俺の、俺にしか出来ない仕事をしますよ。この盤上で、全ての駒を駆使して』

 

 それだけを告げると、ロックの方から通話を切られてしまった。

 無言になった手の中の携帯電話を一度見つめて、それからポケットへとねじ込む。

 

「お話は終わったのですか」

「ああ、そりゃもうバッチリだ」

「とてもそうは聞こえなかったのですが、まあいいでしょう。貴方の考えがこちらの埒外にあるということは何となく分かってきましたから」

「私もマナに同意です」

 

 唐突に始まる口撃に僅かに眉を顰めるも、反論することはしなかった。

 以前張にも似たようなことを言われた事があったからだ。

 

「……貴方は、一体どこまで……」

 

 少し考える素振りを見せて俯いたマナが何かを言おうとしたが、それは突如聞こえた銃声によってかき消される。

 おうおう。もう少し時間が掛かると思っていたが、案外行動が早いじゃないか。

 そう思いながらリボルバーを引き抜いた俺を見て、双子メイドも構えを取った。

 

「街の残党か、はたまた外部勢力か。どっちにしても好都合だ。先に掃除出来るってんだから」

 

 闇に紛れてしまっている視線の先からやって来るであろう敵を想像し、引鉄に指を掛ける。

 こんなもの、威嚇射撃にもなりやしないだろうけれど。

 

「無いよりはマシ、ってやつだな」

 

 自嘲気味に笑って。

 無駄弾になるだろう弾丸を、闇へ向かって発射した。

 

 

 

 62

 

 

 

「聞こえていたか」

「ええ、少佐。しかしこれは……」

「罠かもしれん。しかし現状、我々には海を越える手段はない」

 

 数十分前、傍受した通信を思い返し、キャクストンは口を真一文字に引き結ぶ。

 状況は芳しくない。自隊の後ろをピッタリと付いて離れない何者かは今もこちらを的確に追跡している。哨戒班の陽動も目に見える戦果を上げることが出来ていない。

 加えて陽が落ちてしまったこともグレイフォックスにとっては悪い方向に作用してしまっていた。

 彼らに地の利は無いに等しい。高々数日間を過ごしただけの街である。如何に周囲を地図上で把握していようと、実際の行動に即座に反映されるわけではない。

 

「何者なのだ。我々は、一体何と戦っている……?」

 

 正体の見えない敵との戦いは、部隊に確かな疲弊をもたらしつつあった。彼らとて多くの戦場を駆け抜けてきた戦士たちだ。そう簡単にやられるようなタマではない。

 だが、それはどうやら相手にも言えることのようだった。

 

「どうするシェーン。先ずは後ろの敵を叩くか?」

 

 レイの提案に、キャクストンは静かに首を横に振った。

 

「対決は我々の任務ではない。本筋を見失ってはいけない。とにかく部隊が損耗する前に奴を振り払うことだ」

 

 肩に掛けていた銃を今一度掛け直して、キャクストンは部隊全員に聞こえるよう言い放つ。

 

「南へ向かうぞ。合流地点の変更を各分隊に伝えろ」

 

 

 

 63

 

 

 

 当然のことながら、ウェイバーがバラライカに向けて発信した会話を傍受したのはグレイフォックスだけではない。

 ほぼリアルタイムでその会話内容を聞いていた人間たちが居る。

 そのうちの一人が、ヨアンだった。当然、その傍に居たガルシアもその内容を耳にしている。

 

「船ときたかあの野郎。っつーことは南東か? いや、アイツがそんな見え透いた罠張るわけが……」

「南ですよ。ヨアンさん」

 

 余りにも確信めいた表情でガルシアがそう言うので、ヨアンは一瞬言葉を失った。

 

「根拠はあるか?」

「ブーゲンビリア貿易はホテル・モスクワの表の顔です。そして所有している船舶は全て、南の専用ドックに保管されている」

 

 ガルシアを保護できたことは、ヨアンにとっての僥倖だった。

 少年は以前にも一度この街を訪れており、その時にこの街の構図をある程度把握していたのだ。当然、その中にはバラライカを頭とするホテル・モスクワも含まれる。

 ヨアンはしばし考えたが、少年に嘘を言っている様子はないことを確認すると、正方形の木箱から腰を上げた。

 

「んじゃ、その南へ向かうとするか。いつまでもこんな黴臭いビルに居るわけにもいかねェし。外じゃまだ花火大会やってるみたいだが、俺がいればまァ何とかなるだろ」

 

 愛銃をくるくると回しながら、ヨアンは特に警戒した素振りも見せず部屋の扉を開けて廊下へと出て行く。その様子に慌ててガルシアも廊下へと出る。

 

 と。

 

「……あァ、臭うな」

 

 その異変に真っ先に気付いたのはヨアンだった。

 鼻を刺激する濃密な臭い。死を連想させるもっとも代表的な赤黒い液体が放つその臭いが、どういうわけか漂っている。つい先程までそんな臭いは全く無かったはずだ。少なくともヨアンがガルシアを保護してから今までは。

 指先で回していた愛銃をパシンと止めて、正面へと銃口を向ける。

 ヨアンの視界の先、曲がり角の向こうから、階段を歩く足音が聞こえてくる。下りているのか、上がっているのかは定かでないが、その足音は確実にこちらに近付いてきていた。

 

 そして。

 

「――――ロ、」

 

 言葉にしようとして、叶わなかった。

 その人は。彼女は。これまで少年が見てきた姿と余りにもかけ離れ過ぎていた。

 俯く女の全身には夥しい量の血液が付着し、強烈な刺激臭を放っている。

 右手には拳銃が。そして左手には、かつて人間だったであろう赤桃色の肉塊が引き摺られていた。その肉塊から流れる血が、女の足跡のように床に刻まれていく。

 

 ガルシアは、込み上げる嘔吐感を抑えることが出来なかった。

 

「オイオイ、こりゃ前ン時とは別人じゃねェの。『猟犬』とはよく言ったもんだぜ」

 

 ヨアンの額に、一筋の汗が垂れる。

 以前路地裏で遭遇した時とは、明らかに身に纏う空気が違う。

 

 正面に立ち尽くす二人に女は気がついていないのか、人肉をずりずりと引きながら真っ直ぐに歩いてくる。

 その肉塊が身に付けていた軍服に見覚えのあったヨアンは、ここで女が相手取っていた組織に辿り着く。

 

「その首元の部隊章……、キューバの海軍特殊作戦班(FEN)か」

 

 呟かれた言葉も、間近に迫った女には聞こえない、届かない。俯いたままの彼女には、二人の存在など無いに等しい。そこらのダストボックスと同じ扱いだ。

 

 だから、そう。

 

 ダストボックスが敬愛するあの少年に見えてしまうのは、きっと夢のせいだ。

 

 有り得ない。

 彼がこんな場所に居るはずがない。

 今もあの荘園で、残してきたメイドたちと安らかに生活している筈なのだから。

 

 実に不愉快な夢だ。既に放棄した思考の片隅で、女はぼんやりとそんなことを思った。

 幾ら夢と言えど、少年が眼前に居るのは我慢ならないことだった。彼にだけは、ガルシアにだけは。こんな醜い己の姿を見せたくはない。

 

 ならば。

 

「…………キシッ、」

 

 女の口角が、獰猛に吊り上がる。

 夢ならば。そんな少年は居なかったのだと。

 そういう風に、書き換えてしまえばいい。

 

 掴んでいた肉塊を投げ捨て、姿勢を低くする。

 夢の中の少年は手で口元を押さえたまま蹲り、ぴくりとも動こうとしない。命を刈り取るのは容易いことだろう。

 

 

 

 絶望が、押し寄せる――――。

 

 

 

 

 

 




磯野フネボイスで以下要点。 船だけに(小声)

・姉御出動(重要)
・ガルシア迷子。
・ロック、エダと舌戦のち協調。
・おっさん勘違い発動。
・ロベ公発進。

あと三話。


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042 死の舞踏は悪夢の夜へと

64

 

 

 

 猟犬(エル・サブエソ)

 そう呼ばれることに、何時から抵抗を感じなくなったのだろうか。

 昔の記憶を掘り起こそうとしても、霞がかったように抽象的な事象しか出てこない。余りにも遠い過去のことだ。忘れてしまっていても無理はない。そうロベルタは思うことにした。薬による副作用であるとは、微塵も疑っていない。

 

「年月を経ても腕は衰えていないようだな、猟犬」

 

 不意にそんな言葉がどこからか飛び込んできて、ロベルタは反射的に腕を振るった。握った拳銃のグリップ底で頭部を破砕するつもりで、凶悪なまでの一撃を容赦無く放つ。

 しかし、頭蓋の割れる音は聞こえなかった。代わって響いたのは、鈍い衝突音。ロベルタが真横に振るった腕と、男の腕が接触した音だ。

 間を置かず、ロベルタは右脚を振るう。容易に膝を潰す鋭いその一手も、男は瞬時に反応してガードしてみせた。これまで屠ってきた有象無象とは違う。ロベルタは即座にそう判断する。見れば男の首元に付けられた部隊章は、見覚えのあるものだった。

 

海軍特殊作戦班(FEN)ハバナ(キューバ)……」

「覚えているか。血に飢えた獣のような目をしている割に、存外理性は残っているらしい」

 

 無言で予備動作に移るロベルタに先んじて男、カマラサは拳を鳩尾へと叩き込んだ。ロベルタの身体が僅かに折れ曲がる。その隙を見逃さず、カマラサはロベルタを地面へと組み伏せた。握られていた拳銃を蹴り飛ばし、両手を拘束する。

 

「…………」

「不審か? 顔に出ているぞ猟犬」

 

 カマラサに銃口を向けられても、ロベルタは一切動じない。

 ただ無言で、男の濁った瞳を見つめている。

 

「お前を撃つ機会ならいくらでもあった。それをしなかったのは、お前と同じ理由だ」

 

 ゴリッ、と銃口をロベルタの頬に押し込む。

 

「お前が格闘戦に持ち込んだのは、米帝に発砲音を聞かれたくなかったからだろう。俺もそうだ、余計な第三者の介入は望むところではない」

 

 温度を感じさせない鋭利な瞳で、カマラサはロベルタを見据える。

 ロベルタも、目の前の男から視線を外すようなことはしない。

 両者の視線が、至近距離で交錯する。

 

司令官(コマンダンテ)は貴様の首を絶対に獲るつもりのようだが、俺や参謀の考えは違う」

「……FENは頑強な一枚岩。そう言われている筈だけれど?」

「世の中に絶対などない、つまりはそういうことだ猟犬。今やゲリラは世界連携の時代。お前のような人材は組織にとって必要だ」

 

 カマラサはロベルタの鼻先数センチの距離まで顔を近付け、有無を言わせぬ口ぶりで告げる。

 

「俺と戻れ。田舎屋敷の女中とこちら。どちらがお前の立つべき場所かなど、聞くまでもないだろう」

 

 頬に押し当てていた銃口を横にスライドし、ロベルタの口腔内へと突き入れる。

 断ればこのまま発砲する。男の眼はそう告げていた。

 二人の間に、沈黙が下りる。しかしそれも数秒のこと。口内に銃口を突き入れられたままのロベルタは、小さく息を吐いた。

 

「……ええ、確かに」

 

 その一言を耳にして、僅かにカマラサから力が抜ける。常人では知覚すら出来ないほどの、ほんの僅かな隙。それを、猟犬は見逃さない。

 次の瞬間、硬質な破砕音が響き渡る。

 驚愕に眼を見開いたのは、組み伏せていたはずのカマラサだった。

 

「なッ……」

 

 二の句が継げないカマラサの顎に、無慈悲な掌底が叩き込まれた。再び破砕音。ただし、二度目の音には粘着質な音も混ざっていた。

 数メートル程吹き飛ばされたカマラサは、口元を押さえながらも体勢を立て直す。手で押さえた口からは夥しい量の血液が流れ、血溜まりの中にはへし折られた歯が何本も転がっていた。

 

「ばッ、ガハッ。りょ、猟犬ンン!」

 

 ロベルタは男の正面に立ち、その顔を狂喜に歪めていた。

 プッ、と吐き出した先には、歪にひん曲がった鉄屑。拳銃の砲身部分である。

 一度目の破砕音は、ロベルタが突き入れられた拳銃の先端を噛み砕く音であった。

 

「……私が立つべき場所はお前の下でも、ましてやあの荘園でもない」

 

 怒りか、あるいは悲しみか。

 複雑な感情が綯い交ぜとなり、本人ですらどんな感情を抱いているのか判断がつかない。ただ一つ確かなことは、目の前の敵に対して明確な殺意を抱いているということ。

 ロベルタの相貌が、血塗れのカマラサを射抜く。

 

 視線の交錯は一瞬。

 即座に両者は床を蹴った。

 この時点で、カマラサは判断を誤った。彼はロベルタを迎え撃つため、数メートル先に落とされた己のナイフへと手を伸ばしていた。

 だがロベルタは予めその動きを読んでいた。自身のバックルに手をかけ、小さなスイッチを捻る。バカンッ、と小気味の良い音を立てて開放されたバックルの裏側から、極小の金属矢が大量に射出された。

 

 カマラサは判断を誤った。

 ナイフになど目もくれず、ロベルタの射線から外れることを最優先すべきだった。

 それをしなかった結果、男の皮膚に無数の金属矢が突き刺さる。顔に、首に、腕に。

 火薬でも仕込んでいたらしいバックルから発射された数百もの金属矢は、カマラサを瞬く間に血達磨へと仕立て上げた。

 

 顎を破壊され、身体中を貫かれた男の眼には尚も戦闘の意思が消えてはいない。

 だが、その瞳に宿る意思も数秒のこと。

 音も無く眼前に接近したロベルタが右腕を振り上げる。キツく握り締められた拳が、男の顔面へと叩き込まれた。鮮血が爆ぜる。

 カマラサの喉からくぐもった声が漏れたが、ドス黒い笑みを携えたロベルタは粘着質な液体に塗れた拳を再度振り上げる。即座に振り下ろす。骨が砕ける音と共に、血飛沫が周囲を染めた。

 

 拳を振り上げる。振り下ろす。

 そんな動作をまるで機械のように行い続け、数分が経過しただろうか。

 消え入りそうな程に小さかった呼吸音はいつの間にか失せ、辺りには静寂だけが広がっていた。男だった肉体に頭部は残されておらず、辺り一面に赤黒い血液が撒き散らされている。濃密な死の香りが部屋を満たすその空間で、ロベルタは静かに嗤った。

 

「私が身を置く此処は復讐の螺旋、その最下層。あの方たちとは最も遠く、貴様らと決して交わることはない」

 

 頭の中に残っていた僅かな意識が小さな明滅を繰り返し、やがて――――。

 

 

 

 65

 

 

 

 ガルシアの姿が見えない。

 その事実に気が付いたファビオラは、その動揺を隠せないでいた。

 つい数分前までの戦闘の余韻が未だ残る身体に鞭を打ち、ファビオラは周囲一帯を駆け回る。ガルシアが姿を消してからそう長くは経っていない。ともすれば近くの廃ビルに身を隠しているだけかもしれないと、少女は必死で当主の姿を探す。

 ガルシアが姿を消したのは、ファビオラが身を隠せと告げたことに起因している。

 それ自体には彼女は後悔していない。あの至近距離で銃弾飛び交う戦場にいつまでも姿を晒しているのは愚策であったし、結果的に彼の安全を守れたことは誇らしくすらある。だが、本末転倒という言葉が同時に脳裏を過ぎる。

 他に何か手立てがあったのではないかと思わずにはいられない。こちらには十分な戦力があった。レヴィ、グレイに加えロットンと名乗る男もかなりの手練であることは今しがたの戦闘ではっきりした。であればこの場は三人に任せ、ガルシアと共に先を急ぐことも出来たかもしれないのだ。

 結果論であると断ずることは容易だ。割り切ることも出来なくはない。しかしそれは、ファビオラにはまだ難しいことだった。

 

「若様! 若様ーッ!」

「騒ぐんじゃねェよロリータ。ここらは声がよく通る。テメエの声を拾ってくれんのが坊ちゃまとは限らねェ」

「ッ、でも……!」

「目に見える敵だけが全てじゃねェ。この街で生き残りたいなら、もっと用心するこった」

 

 二挺のカトラスを肩の位置で構えながら、レヴィは静かにそう呟いた。その視線はファビオラではなく、遥か先を見据えている。それはグレイも、ロットンも同じだった。

 

「……付近に敵はいねェみたいだな。このまま突っ切る。ロットン、先行しろ」

「委細承知」

 

 二丁のモーゼルM712を構えて、ロットンが素早く前に出る。

 両手に銃を構えているくせに実は先程から一丁しか発砲していないこの男だが、その実力は折り紙つきである。この街に一年近く滞在しているという事実と、これまでの戦闘がそれを物語っている。

 漆黒のロングコートをはためかせ、美丈夫は地を蹴る。

 目の前でばっさばっさとはためく裾にレヴィは鬱陶しげな視線を向けるも、男は一切気にすることなく暗くなった路地を走り抜ける。ロットンに続いてレヴィ、そしてグレイが駆け出したのを見て、ファビオラも大きな逡巡の後走り出す。

 出来ることなら今すぐガルシアの捜索に向かいたい。

 だが今レヴィらと別行動を取れば、最悪の場合ガルシアとロベルタ双方を見失う可能性もある。

 私見を抜きにすれば、どちらを取ればいいのか考えるまでもない。少女は噛み砕かんばかりの力で奥歯を噛み、一度だけ後方を見る。

 

 暗く冷たい路地に、生者の気配は存在しなかった。

 

 

 

 66

 

 

 

仕事(ビジネス)の話、ね。君は修道女だろ? そんな目先の銭金に惑わされちゃいけないんじゃないのか」

 

 皮肉げに告げるロックに、しかしエダは笑みを崩さない。

 跨ったバイクのハンドル上で腕を組み、視線は正面に向けたまま顎を乗せた。修道服を身に付けた修道女だというのに、その姿はやけにサマになっている。

 サングラスの奥で、切れ長の瞳が東洋人を射抜いた。

 

「硬いことは言いっこ無しといこうじゃないのさ。今の(・・)アンタになら話が出来る。そう判断したまでのことさ」

 

 表情は飄々としたものだったが、その実彼女の瞳は一切笑っていない。

 言葉ではああ言っているが、エダの中では未だロックという男の価値を計っている最中なのだろう。それはロック自身もなんとなく察していた。

 どうでもいいのだ。彼女の中での自身の評価など、ロックにとって大した価値を持たないものだ。それよりも重要なのは今、このタイミングで彼女が自身に話を持ちかけてきたということ。

 これまで目立った動きを見せてこなかった暴力教会が。否、エダがこうして前線にまで出張ってきたという事実が、盤上を一気に傾け得るものなのではないかとロックは直感した。

 そもそも可笑しな話だ。元より今回の一件に関わる気があったのなら、もっと早いタイミングで動いたはずだ。最善なのはガルシアとロベルタを生きたままこの街から脱出させること。そこに米軍だのホテル・モスクワだのウェイバーだのを関わらせてはいけない。そんなこと、火を見るよりも明らかだ。

 暴力教会であれば様々な武器の入手手段がある。必要な移動手段もすぐに手配出来るだろう。最短でロベルタを見つけ出し、ガルシアと引き合わせることなど造作もない筈だ。

 それをしなかった、或いはこのタイミングまで出来なかったということは、少なくともリップオフ教会総出で事に当たっているわけではない。もしもシスターヨランダが絡んでいれば、事態はもう少しスマートに進んでいただろう。あの修道女はウェイバーに勝るとも劣らぬ策略家だ。ロックよりも余程慎重に、かつ上手く盤上を操ることが出来る。

 と、いうことは。

 

 エダは個人、もしくは別組織と絡んでいる。

 これが現時点でのロックの見立てであった。

 

「お前さんは今の状況をどう見るロック。片は、つきそうかい?」

「まだだ」

 

 エダの問いに、ロックは間を置かずそう答えた。

 

「まだ終われない、終わらない。この舞台から誰かが滑り落ちるまでは」

「終われない、ね。こうしてる今にもどっかの誰かが滑り落ちてるかもしれないぜ」

「いや、こちら側の人間に関しちゃ今のところ心配はしてないよ。心配なんていらないんだ」

「……?」

 

 訝しげに片眉を顰めたエダに向かって、ロックは軽い調子で言った。

 

「だって、ウェイバーさんが最前線に出てる」

 

 瞬間、これまで鋭利だったエダの瞳が真ん丸に見開かれる。

 

「あの人の戦闘能力はこの街でも随一だ。レヴィたちだってそこらの連中に遅れを取るほど弱くない。だから、大丈夫なのさ」

「……肝心な部分がだいぶおざなりじゃないかい」

「そういうもんだろ、ギャンブルってのはさ」

 

 懐から取り出した煙草に火を点けて、ニヤリと笑う。

 

「ここに張ると決めたら後は純粋な運の勝負だ。それ以外のありとあらゆる部分を埋め尽くして最後に残る部分。そこにこそ、楽しみがある」

 

 そうして浮べた笑みは、どこまでもあの東洋人に重なって見えた。

 エダは思わず口を引き結び、幾度か頭を振るう。このままの調子で会話を続けていると、ウェイバーとのやり取りを思い出してしまって苦い顔をしてしまいそうだった。

 完璧な隠蔽工作を行なった上でロアナプラに潜入していた数年前の自身に向かって、初対面でいきなり諜報員がこの辺りに潜んでいると吐かしたのだ。唐突なその宣言に、当時のエダは冷や汗が止まらなかった。その時点ではエダの素性を把握していたのはシスターヨランダのみ。当然、あの大シスターがおいそれと情報を売るような真似はしないだろう。では、どこから気付かれていたのか。

 あの男からは今も直接的な部分について問われたことはない。だが、確実に素性は割れている。ウェイバーに先回りされたことは一度や二度ではない。そうしたことがある度に、エダはウェイバーの底知れなさを感じるのだ。

 

 そして、それと似たような感覚を今抱いている。

 引き結んだ口元が、自然と綻んでいくのを自覚した。

 

「……アンタはいい悪党になるよロック。アタシが保障する」

 

 

 

 67

 

 

 

 車の助手席に放り投げたままの携帯電話が震えたのは、ロックがエダとの会談を終えてすぐのことだった。

 図ったかのようなタイミングに、ロックの身体が僅かに硬直する。が、それも数秒のこと。ロックは自身の携帯電話を拾い上げ、ゆっくりと通話ボタンに手を掛けた。

 途端、通話口の向こうから聞こえてきたのは、現状に似つかない陽気な男の声。

 

『ようロック、今時間あるかい』

 

 聞き間違えるはずもない。この悪徳の都を牛耳る超大物の一人、ウェイバーである。

 何故このタイミングで自分に連絡を寄越してくるのかという疑問が真っ先に浮かんだが、一先ずロックは会話を続けることにした。

 

「……珍しいですね。ウェイバーさんが俺に連絡を寄越すなんて」

『状況が状況なんでな。お前だって、それは分かってる筈だろう?』

 

 咥えていた煙草の灰が、ポトリと落ちる。

 

『ガルシアを連れて、港まで来い』

「……ッ!」

 

 その言葉はロックに小さくない衝撃をもたらした。

 どうして。

 

(どうしてウェイバーさんは、俺が港へ向かうと知っている……?)

 

 知らない筈だ。ロックが何を企てているのかなど、ウェイバーには一言たりとも話してはいない。先ほどエダに話したことですらほんの一部分。核心に触れるような部分は避けて会話を行なっていた。

 そんなロックの行動を嘲笑うかのように、ウェイバーは迂遠な言い回しを切り捨てて淡々と告げた。「ガルシアを連れて、港まで来い」と。

(この人は、一体どこまで……)

 

 まるで手のひらの上で踊らされているようだ。

 ウェイバーという男は、ロックの遥か先を行っている。それを否応なく突き付けられたような気分だった。

 

 彼は多くを語らない。その必要が無いからだ。彼にとって言葉とはオマケであり、口を開くよりも武力で以て殲滅することが先に立つ。そういうことが出来てしまう男だ。

 そんな男から、まるで釘でも刺されたかのように行動を制限された。

 たった数秒の間に、ロックの思考は高速で回転する。

 

 ウェイバーの思惑から外れて港と逆方向へ向かうか。

 ――――否。わざわざ窮地へ飛び込むような馬鹿な真似はするべきではない。

 

 表面上は取り繕って、こちらの思惑を悟らせないように立ち回るか。

 ――――否。ロベルタや米軍といった外部勢力を誘導することで精一杯だ。そこに思考を割く余裕はない。

 

 なら、ならば、或いは。

 幾つもの考えが浮かんでは消えていくロックの脳内。その思考を中断させたのは、やはりウェイバーの一言だった。

 

『ロック』

 

 特に声を荒げたわけでもない。普段呼び掛けるときのような、穏やかな声音だった。

 

『身の程ってのは大事だぜ』

 

 今度こそ、ロックは思考すら止まる。たっぷりと三秒ほど瞬きすらも忘れて硬直した後、思い出したかのように背中に冷たい汗が噴き出した。

 読まれている。読み切られている。ウェイバーには恐らく、大凡考え尽くであろう全ての策が読めている。こちらがどう動こうとしているのか、どういった思考をしているのか。この男には全て見えている。

 

 恐ろしい、と素直にロックは思った。

 そして同時に、それでこそウェイバーだとも。

 

 断っておくが、ロックは決してウェイバーに対して反旗を翻そうとしているわけではない。

 ロックの目的はこの街に集う役者たちを使って純粋なギャンブルに興じることだ。その中にガルシアやロベルタなどの生存が条件として加えられている。

 

 はじめは純粋に、憧れた。

 彼のようになれたらと、思わない日はないほどに。

 しかしある時気付くのだ。あの男と自分は、どうあっても同じ位置に立つことは出来ないと。

 だから役割を認識した。ウェイバーと自分自身では、この街で与えられた役割が違うのだと。最前線で銃を握るガンマンがウェイバーなら、自身は宛ら盤を指揮するコンダクターであろうと。

 

 そうすることで、この街に意図的に浸かろうとした。

 結論だけを言えば、ウェイバーはアタッカーもコンダクターも出来てしまう化物だった。それを今、痛感しているというだけの話だ。

 だがその事自体は、とうの昔に分かり切っていたことである。

 ウェイバーが化物なのは今に始まったことではない。それこそこの街に行き着いたその日から、耳にタコが出来るほど彼の逸話を聞かされた。

 

「……そうですね」

 

 しばし無言だったロックはようやく口を開く。その声色に、一切の緊張は無い。先ほどまで背中を伝っていた気持ちの悪い汗も、いつの間にか引いていた。

 

「俺は俺の、俺にしか出来ない仕事をしますよ。この盤上で、全ての駒を駆使して」

 

 そう言って、ロックは終話ボタンを押した。あの怪物がどう動こうが関係ない。結局先を読まれてしまうというのなら、どれだけ考えても無駄なことだ。ならば当初の予定通り、演者を指揮する役割を全うすることにしよう。

 恐らくウェイバーには自身とエダが裏で繋がっていることすら見透かされている。確信ではないが、かなりの高確率で。

 

 あの男の先を行くことは難しい。並び立つことすら。

 しかし、それでも。

 

「……背中は見えたぞ、ウェイバーさん」

 

 ロックは一人、そう呟く。

 今一度状況を整理すべく、頭を働かせる。徐々に周囲の喧騒が遠ざかっていく。

 

 ウェイバーは船を欲している。そのためにバラライカへと連絡を取った。敢えて、一般回線を使って。

 その理由は恐らく街全域にこの事実を知らしめるためだろう。目当ての人物となるのは、

 

「……合衆国軍隊」

 

 米軍とて万全の準備を整えているわけではない。ロアナプラに滞在することとなった目的があるはずで、この街でこれほどまでの戦闘になることは想定していなかっただろう。

 彼らの目的はあくまでも与えられた任務を遂行することだ。そして現状、任務遂行に立ちはだかる最大の障害が存在する。

 

「ロベルタ」

 

 レヴィですら単騎で渡り合えば勝敗が見えない程の女。ウェイバーと銃を交えて生き残っている数少ない人間の一人でもある。

 彼女の素性まで米軍は掴んでいないだろうが、接触した現在であれば相応の手練が背後に迫っていることくらいは認識しているはずだ。遂行すべき目的があるにも関わらず、その動きを阻害するかのように迫る猟犬。そんな状況下で聞こえてきた、船というワード。

 

「……食いつかないわけにはいかない。例え罠であったとしても、前にしか道は無いのだから」

 

 明らかに怪しい餌であっても、周囲が食いつかざるを得ない状況に仕立てている。

 何と戦っているのかも曖昧な状況下で見えた小さな出口に、向かうしか道は残されていない。優秀な米軍はおそらく長考し、その結論に辿り着く。

 そして合衆国軍隊であればその結論に辿り着き港を目指すと、ウェイバーは確信している。

 でなければあのような真似をするはずがない。自らが持つ情報をわざと明かすような愚行、何か考えがあってのことに違いなかった。

 

「……そう、そうだ。だからこその俺への発言」

 

 たっぷりと肺にまで含んだ煙を吐き出して、ロックは先のウェイバーの言葉を胸の内で反芻する。

 

「ガルシア君を連れて()まで辿り着く。米軍の後に張り付いているであろう、ロベルタよりも先に。それが第一チェックポイントだ」

 

 ウェイバーは言った。港まで来いと。

 何処の港かまでは指定せずに。

 ふと、唐突にロックの頭に彼の顔が浮かび上がる。

 

『俺の背中に追い縋ろうってんなら、これくらいやってもらわなきゃ話にならん』、そんな東洋人の声が聞こえた気がした。

 

 

 

 68

 

 

 

「いきなり鉛玉をぶっ放すとはとんだご挨拶だな、ウェイバー」

「ジョークだよ、アメリカンジョーク」

 

 ロアナプラの南に伸びる海岸線の一角に築かれた港で、黒髪サングラスのおっさんと顔を付き合わせる。相も変わらずその表情は飄々としていて、相手に何を考えているのかを一切悟らせない。この男のこういうところが俺は苦手だったりする。以前そんな事を言ったらお前にだけは言われたくないと即答されたが。

 

「俺たちに銃口を向けたってことは、そういう事(・・・・・)だと解釈してもいいのか?」

 

 三合会タイ支部ボス、張維新は言葉を投げる。

 彼の周囲には三合会傘下の人間たちが何十人と集まっており、俺とマナ、ルナを囲むように位置取っている。俺の背後はすぐに海。一斉に攻め込まれたら死ぬな、間違いなく。

 ぶっちゃけ街のチンピラたちだと思って引鉄を引いたのだが、この状況で人違いですと言うわけにもいかない。張が発する雰囲気が、この場で不用意に発言することを躊躇させた。

 

「……いや、」

 

 取り敢えず、何か口にしなければと咄嗟に言葉を吐き出す。

 誤解だ、張だと知っていて撃ったわけじゃない。そう言おうとしたのだが。

 

「ぎょこいだ……」

 

 噛んだ。いつぞやのロックの気持ちが今なら痛いほど分かる。

 そんな風に内心で羞恥に悶える俺の正面で、しかし張は口元を緩める。

 

「僥倖ね。その言動から察するに、ホテル・モスクワが動き出したことはもう耳に入ってるみたいだな」

「……まあな」

 

 初耳な、加えてかなり重要な情報がさらりと飛び込んできたが、一先ず話を合わせておく。張が煙草を取り出したのに合わせ、俺もジャケットから煙草を一本取り出して火を点ける。葉が燃える独特の香りが、夜の港に広がる。

 

「ま、俺だってお前と本気で事を構えようなんざ思ってない。ドテッ腹に穴を開けられるのは一度で十分だ」

「……ああ、確かに僥倖だ。張、ここに辿り着いたのがお前で良かった」

 

 張の皮肉には取り合わず、現状整理を即座に行う。

 これは確かに僥倖だ。誤解はあれども、予期せぬ幸運である。

 ホテル・モスクワが動き出したということは、先程の俺の発言に乗ったということだろう。それの意味するところは、米軍との衝突。元より米軍を相手取ると夜会で宣言した女である。それを今更取り下げるようなことはないだろう。両者が出逢えば激突は必至。街は火の海と化す。十年前の悪夢が再び蘇ることになる。

 

 そうしないためにも、今この場にバラライカよりも先に張が辿り着いたという事実を生かさなければならない。

 

 十数秒もの間煙草を咥えたまま動かない俺を見て何を思ったのか、張は先程までの空気を霧散させて陽気に告げる。

 

「案ずるな、もう手は回してある」

 

 脳内にクエスチョンマークを浮かべる俺に向かって、ニヒルな笑みを浮かべて見せた。

 

 

 

 69

 

 

 

「状況を報告しろ」

『標的を補足。チャルクワンストリートを南西の方角へ進行中』

『こちら監視一班、配置完了』

『索敵範囲各交差路には三合会傘下の黒服多数。障害となる可能性アリ』

『こちらバトゥリン、観測所開設、所定完結』

「――――別動班、全て所定完結しました。大尉(カピターン)

「よろしい」

 

 空と海との境界線すら曖昧になる闇夜の中。火傷顔の女が静かに呟く。

 ロアナプラにしては珍しい冷たい風が吹き抜ける中、息を殺し、身動ぎ一つすることなく。皮切りとなる言葉を待つ。

 

「始めよう諸君。奴ら(・・)の手並み、拝見といこうじゃないか」

 

 やって来る。

 軍神(マルス)に仕えたイワンの兵隊が軍靴(マーチ)を響かせやって来る。

 

 やって来る。

 悪徳の都を混沌へと誘う悪夢の夜がやって来る。

 

 

 

 

 

 




 
以下要点。

地☆獄だよ、全員集合!!


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043 そして狂宴が始まる

 

 70

 

 

 

 猟犬は視界に写り込む虚像を消し去るべく床を蹴る。犬歯を剥き出しにして嗤うロベルタの正面に立つは、彼女が守りたかった筈の当主、ガルシア。

 そして。

 

「――――ったく、ちょいとばかし血気盛んに過ぎるんじゃねェか」

 

 ICPOに所属する赤シャツの男、ヨアン。

 彼は即座にベルトに着けたホルスタから拳銃を引き抜き、突貫してくる女へと発砲する。

 ヨアンの愛銃、デザートイーグル50AEが噴いた。

 抜群の射撃技術を駆使して放たれた弾丸は、寸分の狂いもなくロベルタの額と四肢に向かって突き進む。自動拳銃として最大クラスの威力を持つ弾薬は、当たりさえすれば甚大なダメージを与えるだろう。

 だが、それをロベルタが身を捩ることで回避する。中国雑技団も真っ青なアクロバットを決め、それでも猟犬の突貫速度は緩まない。

 

 理性ある獣。

 今の彼女を表現するのであれば、恐らく一番しっくりくる表現だ。

 

「流石にA級首ってことか。単純な銃撃なんざ通用しねえか」

 

 吐き捨てるようにそう言って、ヨアンは拳銃をホルスタへと戻す。次いで近くに座り込んでいたガルシアを適当な部屋へと押し込み、ロベルタの視界から外した。

 シャツのボタンを上から更に二つ程外して、ヨアンは姿勢をやや低くする。

 一度深く息を吸い込み、正面に視線を固定。人間とは思えない速度で向かってくるロベルタに向かって、ヨアンは床を蹴って踏み込んだ。

 

「武器がダメなら徒手格闘、ICPO舐めんなよ」

 

 人間とは思えない速度で振り抜かれたヨアンの拳が、ロベルタの髪の毛を掠める。

 超人並の身体能力で接近戦を挑んだヨアンの攻撃を、同じく化物じみた身体能力で躱してみせたロベルタ。彼我の差、およそ十センチ。

 突き出した腕の運動能力を利用して、ヨアンは身体をぐるりと回す。ロベルタはその動きに瞬時に反応、次の瞬間に上部から振り下ろされたヨアンの右脚を片腕一本で受け止めた。

 

「うげ、女に腕一本で止められたのは初めてだ」

「……邪魔を、」

 

 ギチッ、とロベルタの奥歯が軋む。

 ヨアンの脚を受け止めた腕に、爆発的に力が込もる。

 

「――――するなッ!!」

 

 浮き上がった血管から、赤い液体が爆ぜる。脚を掴んだまま、ロベルタは無造作にヨアンを木製の壁へ叩きつけた。その衝撃で木材は割れ、ヨアンは無人の部屋へと吹き飛ばされる。

 腕力のみで大の男を吹き飛ばしたロベルタは、ガルシアが押し込まれた隣の部屋へ向かって進みだす。

 

「……オイオイ」

 

 直後、一発の銃声。

 銃声のした方向を瞬時に察知したロベルタは咄嗟に回避行動を取る。

 しかし。

 

「簡単に俺を殺せると思うなよ、犬っころ」

 

 ヨアンの銃弾は、それよりも早かった。

 鉛玉が、ロベルタのふくらはぎを撃ち抜いた。

 

「ッ……!!」

 

 時間にすれば一秒にも満たない間、ロベルタの動きが止まる。その隙をヨアンは見逃さない。

 背中から感じる激痛を無視してガルシアを押し込んだ部屋へと飛び込み、そのまま部屋の隅で丸まっていた少年を引っ掴む。

 

「ひとつ聞くぞ少年」

 

 ガルシアを抱えたまま走り出したヨアンが向かう先は廊下へと続く出口ではなく、その逆方向。

 

「紐無しバンジーは好きか?」

 

 その問い掛けに、答える余裕などあるはずもなく。

 ガルシアの答えを聞く前に、ヨアンは三階の窓ガラスを割って夜空へと飛び出した。

 

 

 

 71

 

 

 

 メイド服のポケットにつっこんであった大きめの携帯電話から無骨な着信音が鳴り響いて、慌ててファビオラはそれを耳に押し当てた。

 彼女が所持する電話の番号を知っている人間など片手で数える程しか居ない。そして真っ先に浮かぶのは、ラブレス家に属する人間。

 

「もしもし、若さ」

『良かった、繋がった』

 

 聞こえてきたのは、少年の声ではなく青年の声だった。

 一瞬の期待は無残にも砕かれ、無意識にファビオラは電話を強く握った。

 

「……なんでしょうか、セニョール・ロック」

『状況確認がしたい。君たちは今どこに居る?』

 

 ロックがファビオラへと連絡を取ったのは、数分前のウェイバーとのやり取りがあったからである。ロックはウェイバーの意図を正確に汲み取り、この盤上を動かそうとしていた。

 この案件に終止符を打つために必要な駒は二つ。ガルシアと、ロベルタだ。この二人が生きてこの街を出ること。更に付け加えれば、米軍と黄金夜会に被害を出さずに。

 一先ずはファビオラたちと行動をしているガルシアの保護をしつつ、こちらの目的地である港まで向かわせる。ロックはそう考えていた。

 しかし。

 

「おいロリータ、ロックからか?」

 

 通話に気が付いたレヴィがファビオラから電話をぶん取る。

 

「ロック。ちょいとばかし面倒なことになった」

『……何?』

「銃撃戦の最中で若様とはぐれた。今残党を殲滅しながら探してる」

 

 レヴィの報告に、ロックは額を手で覆った。

 ということは今、ガルシアはこの最悪の街の最悪な夜にたった一人で行動しているということになる。流れ弾に当たって死んだなんてことになったら目も当てられない。これまでの苦労が水の泡だ。

 ロックはハンドルに額をつき、どうするべきかを考える。

 陽の落ちたロアナプラで子供一人を捜し出すのにかかる時間と、ロベルタが米軍に追い付くまでの時間。天秤に掛けるまでもない。そしてそうなってしまったが最後、この戦争は止められなくなる。

 

「……考えろ、どうする。ウェイバーさんなら、どう動く……」

 

 勝利条件となる駒の一つが、掌から落下したように錯覚する。

 ロックの背後には、ドス黒い戦禍がすぐそこにまで迫っている。

 

 どうする。

 どうする。

 どうする。

 

「オイッ!!」

 

 それは突然の事だった。

 聞き慣れない男の声と共に、車のウィンドウが勢いよく叩かれる。

 すわ何事かと反射的に声と音のした方を見てみれば、額から血を流す赤いシャツを着た男が立っていた。

 

 次いでロックがその事(・・・)を認識した瞬間、瞳が大きく見開かれる。握っていた携帯電話に、自然と力が篭った。

 

「丁度イイ所に居合わせてくれたな。訳ありなんだ、乗せてくれ」

 

 そう言って、男は小脇に抱えた少年を見えるように僅かに動かした。

 自然、ロックは口元が薄く歪む。

 

 是非もない。

 ロックは後部座席のドアを開け、二人を乗せてキーを回す。

 

「出来るだけ早くここを離れてくれ。面倒な犬っころが追ってくる」

 

 男の言葉が何を意味しているのか即座に理解したロックだったが、同時に疑問も浮かぶ。

 ロベルタの目的が見えなくなっているのだ。彼女の目的は前当主を殺害した米軍への復讐の筈ではなかったか。それがどうして、ガルシアと男の二人を追うような事態になっているのか。

 バックミラー越しに後部座席に座る男を流し見て、ロックは思案する。

 身代金目当ての誘拐、というわけではなさそうだ。そもそもガルシアの素性を知っているのかも定かではないが、身辺調査を済ませているのならこの車に乗り込んでくるのはおかしい。ガルシアとラグーン商会に繋がりがあることくらい洗えばすぐに得られる情報だ。

 顔立ちからしてヨーロッパの人間だろうか。明るい茶髪に派手なシャツは、どこかウェイバーとは正反対な印象を抱かせた。

 

 三人を乗せたセダンは暗闇の中を走り出す。

 裏路地に停めていたため、街灯の類も設置されていない。エンジン音だけが、不気味な程大きく聞こえた。

 

「アンタ、さっきからこのガキを見てるが知り合いか何かか?」

 

 車を走らせ始めてすぐの事。

 後ろから声を掛けられて、ロックはわずかな逡巡の後答える。

 

「その子は知り合いの息子なんだ。訳あって今はこの街に滞在している」

「訳あって、ね。どんな訳があれば奴に追われる羽目になるのかね」

「……貴方こそ、この街では見ない顔だ」

「だろうな」

 

 ロックの言葉に、男は間髪いれずにそう答えた。

 

「誰が好き好んでこんな街に来るかよ。アイツが根城にしてるっつうから様子を見に来ただけだったんだが、まさかA級首と遭遇するとは思わなかった」

 

 アイツ。A級首。

 言葉の端々からただならぬ雰囲気を醸し出す男であるが、どこかおしゃべりなようである。寡黙なウェイバーとはやはり正反対だと感じた。

 そんなやや懐疑的な視線に気が付いたのか、顔に付着した血を拭っていた男はロックと視線を合わせる。

 

「ま、こうして会ったのも何かの縁だ。自己紹介くらいはしておく、ヨアンだ」

「……俺は。俺の名は、ロック」

「ロックね。見たところ東洋人みたいだが」

「この街には昔の名前を捨てた人間なんて吐いて捨てる程いる。それだけのことですよ」

 

 そんな言葉を受けて、ヨアンは小さく肩を竦めた。

 

「野暮だったな。忘れてくれ」

「いえ、構いません。俺は俺だ。それだけが分かっていればいい」

 

 視線は前に固定したまま、ロックはそう告げた。

 運転席に座る東洋人の瞳が何処かあの男を彷彿させることに、ヨアンは気が付いていなかった。今この場に限っては、その余裕が無かったという方が正しいのかもしれない。

 何故なら。

 

「……ハッ、だよなぁ。脚の一本潰したくらいじゃ、テメエは止まらねェ」

 

 背もたれに腕を乗せて上体を捻り、猛スピードで迫るソレに視線を固定する。

 

「ロック、もっとアクセルを踏めッ!」

 

 ヨアンのその言葉の意味をまたしても一瞬にして理解したロックは、ちらりとバックミラーを見やる。

 光源の無い裏路地、その奥から感じる強烈な圧迫感。

 その正体を認識した瞬間、ロックはアクセルを限界まで踏み込んだ。

 

「しつけェ女だ、面倒臭ェな!!」

 

 身体のあちこちを血に染めた猟犬が、再びその姿を現した。

 

 

 

 72

 

 

 

「ふむ、どうやらお前の棒読みの演技も無駄では無かったようだぞ」

 

 

 既に陽は落ち切り、星は分厚い雲に覆われ暗い夜空が上空に広がっている。

 そんな空の下、埠頭に立つ張が、そんな事を俺に言った。どうやら部下からの連絡があったようだ。

 なんのことだと一瞬思ったが、直ぐにそれがバラライカへの通信だということに思い当たる。演技でも何でも無かったのだが、どういうわけか張にはヤラセ臭い演技に聞こえていたようである。

 

「悪かったな棒読みで。そしてあれは演技じゃねェ」

「冗談も休み休み言えよウェイバー。一般回線まで使って俺に聞かせたかったんだろう? こんな回りくどい真似しなくても良かっただろうに。……ま、権力が邪魔をしてるってのは理解できるがな」

「…………」

 

 得意げに語る張に視線だけは向けながら思う。

 いや、何を言ってるんだこのおっさんはと。

 俺がわざわざ一般回線を使用したのは米軍にまで先の会話を聞かせるためだ。ついでに盗聴に勤しむ有象無象の排除。ロベルタと米軍を分断し、両者を速やかにこの街から脱出させるための一手である。断じて張をこの港に呼び出すためのものではなかった。

 

「お前の目論見通り、合衆国軍隊はこの港に向かって進んでいる。あと十五分もすれば到着するだろう」

「……そうか」

 

 全く見当違いの事を宣っているかと思えば、どんぴしゃで俺の考えに被せてきた。こういうところが食えないのだ。だから三合会とはなるべく敵対したくない。 

 

「米軍に関しちゃ一先ず目処が立った。残るはガルシア、猟犬、そしてホテル・モスクワだ。どう片を付けるつもりだ? ウェイバー」

 

 疑問形の言葉とは裏腹に、張の表情はどこか楽しげだ。

 何か策を用意しているんだろ、とでも言いたそうである。そしてそんな策は用意していない。

 

「……ガルシアに関しては問題ない。ロックへ港に連れてくるように伝えてある」

「ハッ、手回しが早いな」

 

 裏から手を回すことにかけてはこの街随一の男にそんな事を言われるも、俺は無言で一つ頷くに留めた。まだ二つ、対処しなければならない問題が残っている。

 

「猟犬に関しちゃ心配はいらなさそうだぞ」

 

 そんな俺の思いを汲み取ってか、張が言った。

 

「合衆国軍を追っていた筈だが、上手く分断できたようだな。今はロックたちと一緒にラグーン商会のドックへと向かってる。今しがた入った情報だ、間違いない」

 

 一緒に、という部分にそこはかとない違和感を覚えたが、一先ずそれは置いておくことにしよう。

 これでロベルタについてもある程度の目算は立った。米軍と分断出来たのなら万々歳だ。彼らを付け狙う輩が減ったのだから。

 

「…………フッ」

 

 思わず小さな笑いが溢れた。

 ああ、一番厄介な相手が最後まで残ってしまった。出来ることならこのまま闇夜に紛れて事務所に帰りたい。

 しかしながらそうさせてくれないのが今回の相手である。この十年、何度となく銃口を向け合ってきた宿敵とも言える相手。

 

「そんなに火傷顔と戦えるのが嬉しいか? ウェイバー」

 

 そんな訳あるかよ、と吐き捨てたい気持ちでいっぱいである。

 ここでそんな戯言を口にしてしまえば四方八方から鉛玉をお見舞いされそうなので、決して口にはしないけれど。

 

「お前はどうするつもりだ、張」

 

 話題転換のつもりで、黒づくめの男にそう問い掛ける。張だってバラライカとは浅からぬ因縁がある。命を取り合うには十分すぎる理由を持っていた。

 

「俺たち三合会の総意はあくまでもこの街の存続だ。事件解決の目処が立った以上、余計な真似は本意じゃない」

 

 張はコートの内ポケットから煙草を取り出して、慣れた手つきで火を付けた。

 肺にまで取り込まれた煙が、ゆっくりと鼻腔から抜けていく。

 

「……だが個人的には、こんな夜に火遊びするのも悪くない」

 

 ニヤリ、と三合会支部長の口元が歪んだ。

 

「思い出すな、あの日の夜を」

 

 煙草を咥えたまま、光源のない夜空を見上げる。

 張が思い出しているのは、一体いつの夜のことなのだろうか。思い当たる節がありすぎて判断が出来ない。

 

「……ハッ、」

 

 いつのことを言っているのかさっぱりなので、取り敢えずそれっぽく笑うことにした。

 このシリアスな空気を壊すのはなんだか憚られたのだ。俺は空気が読める男なのである。

 しかしそんな俺の笑いをどう受け取ったのか、その口角を更に歪めてみせた。

 

「だろうな。この状況、実に誂え向きじゃないか。米軍が此処に到着するまでというリミットはあるが、久方ぶりのダンスパーティだ」

 

 そう言って張は傍に控えていた腹心、彪へと指示を飛ばした。

 

 ああ、どうやら俺は選択を間違えたらしい。

 そう気が付いたのは、張が三合会の構成員を各所に配置し、全ての手筈を整えていたからだ。

 張維新という男は、ホテル・モスクワと正面切って事を構えるつもりだ。

 

「馬鹿言うな、米軍を無事ここから送り出すまでの時間稼ぎだよ」

 

 平然と宣うサングラスの男に、俺は盛大な溜息を吐き出すことしか出来なかった。

 この場を離れようにも既に三合会は配置に付き、今も接近しているであろう遊撃隊たちを迎え撃たんとしている。というか今俺が立っているこの場所が最前線のようなものだ。どうしてこうなった。

 

 はぁ、ともう一つ大きな溜息。

 ちらりと視線を後ろに向ければ、これまで傍観を決め込んでいた双子メイドと目が合った。

 

「今の話は聞いてたな?」

「ええ」

「確りと」

 

 長槍を両手で握り締め、二人の少女は短く答えた。

 出来ることなら二人にはロックたちの向かっている港へ合流してもらいたいところだが、生憎とそこへ向かうルートは完全に夜会に包囲されているだろう。幼気な少女二人だけであの地雷原を抜けるのは至難の業だ。ついでに言えば二人にはこの街の土地勘が無い。この闇夜の中を進むのは困難だ。

 となれば、誰かが彼女たちを護衛兼案内しなければならないのだが。

 

「こっちは任せとけ。きっちり仕事はこなしてやるよ」

 

 ひらひらと手を振って、張は軽い調子で言った。この男、押し付ける気満々である。

 

「船の手配はどうなってる」

「うちの傘下の民間船を使う。通常ルートからは外れるが、潮の影響だとでも言い張るさ」

 

 どうやら米軍についてはほぼ心配無さそうだ。唯一の懸案としてはバラライカたちが先に米軍と遭遇してしまう点だが、三合会が出張っているのであればその可能性はそう高くない筈だ。火傷顔率いる遊撃隊と同様に、張を支部長とする香港マフィアの練度もかなりのもの。容易く崩れる均衡ではない。

 成り行きというのは本当に恐ろしい。既に周囲には俺が出陣するような空気が出来上がっている。まだ明言などしていないというのに。

 

「将来有望な女性の案内だ。燃えるだろ」

「枯れ切ったオヤジに言うような台詞じゃあねェな」

 

 軽口を叩き合い、互いに背を向けて歩き出す。

 正直こんな夜更けにあの女と命の取り合いをするとか正気の沙汰ではないが、ここまで来てしまったらもう引き下がることは出来なかった。日本人は今も昔も押しに弱いのである。

 

「マナ、ルナ。これからお前たちをガルシアの元へと送り届ける」

 

 歩みは止めることなく、俺の後ろを付いてくる二人へ言葉を投げる。

 

「走れば一時間はかからない。……何事も無ければだがな」

 

 マナとルナ、二人の長槍を握る力が自然と強くなる。

 その様子を後ろ目で見て、僅かに頷いた。

 

「その緊張を途切れさせるなよ。ここから先は、一線級の戦場だ」

 

 そして俺も、懐から愛銃を引き抜く。

 一挺ではなく、二挺。

 

 あの軍隊を相手に拳銃一挺とか、自殺行為以外の何物でもない。

 

 

 

 

 

「行ったか」

 

 闇夜の中へと消えていった男の背中を見送って、張は呟いた。

 ウェイバーは背中を向けたまま、最後までこちらを振り返ることは無かった。

 俺の背中は任せたぞ、まるでそう言っているかのようだった。

 きっと今ウェイバーの胸の内には、歓喜に満ちていることだろう。あの日の夜、三人で鉛玉を喰いあったあの夜の続きが出来るのだから。

 獰猛に嗤おうとする表情を殺して小さく嗤ったウェイバーの瞳を見て、張は背筋に冷たいものを感じていた。

 

「……全く、今日お前が敵でなくて良かったよ」

 

 これ以上ドテッ腹に風穴を開けられるのは御免だ。

 街の喧騒とは正反対に穏やかな海を眺めながら、つくづくそう思うのだった。

 

「大兄」

 

 思考に耽っていた張を、彪が呼び戻した。

 

金三角(ゴールデントライアングル)へは通達を取りました」

「ご苦労。ウェイバーは予定通り美国人(アメリカンズ)を海まで引きずり出した。後はこっちの領分だ」

「……火傷顔は、遊撃隊はあの男の元へ向かうでしょうか」

 

 腹心の言葉に、張は間髪入れずに答えた。

 

「間違いない」

 

 そう断言する張に、要領を得ない様子の彪は首を捻る。

 その疑問に答えるように、張はいかにも楽しそうに続けた。

 

「あの男の周りには常に戦争がある。厄介事は際限なくウェイバーに吸い寄せられるのさ。となれば当然、あの女も吸い寄せられる」

 

 その戦争への招待状は、既に渡されている。

 一般回線を通して告げられた言葉の端々に、それを匂わせる単語は散りばめられていた。

 

「バルカン半島も真っ青な火薬庫だよ、あいつは」

 

 

 

 73

 

 

 

 その異変に気が付いたのは、やはりというかレヴィだった。

 先頭を走るロットンの首根っこを引っ掴んで強制停止させ、大通りへ出ようとしていた流れを強引に断ち切る。

 ぐえっ、と美丈夫の喉あたりから潰れたような音が聞こえたが一切無視して、レヴィは建物の陰から大通りの方を観察する。

 

「……やべェな」

 

 軽く舌を打ち、レヴィがカトラスを握り直した。

 

「な、何があったんですか」

 

 最後方を走っていたファビオラは、未だその詳細を掴めていないようだった。前に居る三人が、一様に纏う空気を一変させたことに驚愕するばかりである。

 

「静かにしてろお嬢ちゃん(チキータ)。生きて若様に会いてェならな」

 

 酷く平坦な言葉を連ねるレヴィの視線の先。

 何棟か向こうのビルの屋上に仁王立ちする女がはっきりと視認できた。

 いつもの高級スーツではなく、軍服に身を包んだその姿を目の当たりにして、動きを止めざるを得なかったのだ。

 

『聞こえるか、二挺拳銃(トゥーハンド)

 

 唐突にバラライカがレヴィたちの潜む細い路地へと視線を向けた。恐らくは周辺に配置した部下たちの報告であろう。既にこちらの居場所は割れている。

 バラライカの声は、目の前の大通りに設置された公衆電話から聞こえている。どういうわけか受話器は既に外され、コードがだらしなく伸びている。

 数秒思考したレヴィだったが、カトラスは構えたまま大通りへと足を踏み出し、その受話器を手に取る。

 

『長話は嫌いだ、手短にすます』

 

 よくよく周囲を観察すれば、周囲一帯に多数の気配がある。恐らくはこちらに銃口を向けたままその体勢を維持している。指示があれば直ぐ様攻撃に移れるよう、その引鉄に指をかけたまま。

 

『今夜の戦争は我々だけ(・・・・)のものだ。貴様、招待状は受け取っているか』

 

 何の話だ、と口を挟むことすら許されなかった。周囲の空気が急速に張り詰めていく。

 

『分からなければそれでいい。これは我々だけが愉しむための戦いだ。穢すことは、断じて許さん』

 

 それだけを話すと、通話が一方的に切られた。これ以上交わす言葉などないと、言外に告げていた。

 

 フザけるな、と数年前のレヴィであれば憤慨しているかもしれない。

 あるいは罵詈雑言を並べ立て、年甲斐もなく喚き散らしていたかもしれない。

 

 だがそうしたところで何も物事は進展しないのだと、レヴィは既に学んでいた。

 

 手にしていた受話器を戻し、小さく息を吐く。

 周囲を確認したところ、未だ複数の人間がこちらの様子を窺っている視線を察知した。大人しく家へ帰るまでは、この視線が消えることはないのだろう。

 何事も無いかのように路地へと向かいながら、レヴィは高速で思考する。

 

 あのバラライカが自分たちだけの戦争とまで言わしめる相手など、この街には数える程しかいない。その中でも、レヴィは半ば確信していた。

 

 ウェイバーが、動いている。

 

 表立って動けないとホテルでは口にしていたが、言葉通りの行動だったことなど一度としてない男である。当然この件にも関わってくるとは考えていたが、まさかこのタイミングとは。

 

(いや、ボスのことだ。今このタイミングで姉御を引っ張り出さなきゃならなかった理由があるに違いねェ)

 

 なら今、自分に出来ることは。

 ガルシアの存在など記憶の彼方へと消し飛ばし、ウェイバー最優先で辿り着いた結論。

 

(姉御と戦うってんなら、少しでも戦力は削いだ方がいい。こっちを監視する目は、多いに越したことねェ)

 

 相手は一人一人がウェイバーに迫る屈強な軍人。

 それがどうした。

 

 アタシはあのボスの元で経験を積んだ。

 

 細い路地に入る手前で、レヴィは立ち止まる。

 そして。

 銀色に煌くベレッタを、勢いよく引き抜いた。

 

 

 

 

 

 





あと一話。(場合によっては二話)

以下要点。
・ロック、銭形(赤)と合流。
・おっさん同盟。
・姉御VS刺青女、開戦。

ホテル・モスクワと三合会と猟犬と米軍と忠犬と銀髪少女とおっさんがいる戦場(白目)


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044 夜は未だ明けず

 74

 

 

 

 即座の判断。否応無しに発射される弾丸が、漆黒の闇夜の中を突き進む。開戦の合図とも取れるその発砲音は、ウェイバーたちの耳にも確りと届いていた。

 ちらり、とマナは一メートル程先を走る男の背中を見る。

 最初の発砲音を皮切りに、轟くような銃声と重い砲撃音が市街地の中心部から聞こえてきている。

 それはつまり、敵対勢力同士が衝突したということだ。

 戦場と化しているであろう場所は現在三人が向かっている方角。ロアナプラの東港へと続く市街地だ。事前に共有された情報とは位置が異なるが、ロベルタと米軍がカチ合ったという可能性もゼロではない。

 

 そんなマナの一抹の不安を感じ取ったのか、ウェイバーは前を向いたまま、静かに告げた。

 

「こりゃレヴィだな」

 

 ややげんなりとした雰囲気が男の背中から伝わってきた。

 レヴィと言うと、サンカン・パレス・ホテルで会った刺青女ガンマンのことだったか。走る速度は緩めず、マナはレヴィの顔をぼんやりと思い出す。

 

「どうしてわかるのですか?」

 

 マナの半歩後ろを走っていたルナが、不思議そうに尋ねた。

 その質問に、ウェイバーは当然のように答える。

 

「あの銃声の中にカトラスが混じってる。……おいおい、BARまで聞こえてんぞ。ちったァ大人しくしてられねえのかうちの娘っ子どもは」

 

 はァ、と大きく溜息を吐き出して、ウェイバーは暗い路地を進んでいく。

 銃声から身元を割り出すというとんでもない男の耳に、マナは驚愕するほか無い。どれだけの銃声を聞き続ければ、そんな芸当を可能にしてしまうのか。恐らく目の前を走る男は、自身が思う以上に過酷で凄惨な戦場を渡り歩いてきたのだ。数十、或いは数百かもしれない。身のこなし一つ取ってみても、ウェイバーには隙と呼べるものが存在しない。ある程度の実力を持っていると自負のある双子ですら、ウェイバーの底を推し量ることが出来ないでいた。

 

 マナとルナは知り得ない。

 レヴィとバラライカが衝突した事実に、内心でウェイバーが悲鳴を上げていることを。

 

「どうするおつもりですか」

 

 マナのその問い掛けに、ウェイバーは数秒間沈黙して。

 

「……やむを得ん。ルートを一部変更する」

 

 流石に看過できない事態であったのか、ウェイバーはやたらと重い溜息を吐き出した後にそう告げた。

 多少のルート変更に、マナとルナに異論はない。元より土地勘のない場所だ。加えてこの暗闇の中、ウェイバーの道案内が無ければ港まで辿り着けるかも怪しい状況である。

 

「マナ、ルナ。この先の戦闘次第で、二人の道案内が交代になる可能性がある」

 

 その言葉に、二人は無言で頷いた。

 先にある戦場は、ウェイバーで無ければ対処出来ないものである可能性が高いということなのだろう。レヴィという女ガンマンの実力が如何ほどかは知らないが、少なくとも個人で応戦できるような銃声の数ではない。

 

 マナとルナは知り得ない。

 単純に乱戦と化した戦場で、レヴィに道案内を擦り付けようと悪知恵を働かせている男が目の前にいるということを。そしてそのままの流れであわよくばフェードアウトまで狙っていることを。

 

 そして微妙に食い違う思考を巡らせる三人は、ついに爆心地となった戦場へと躍り出た。

 

 

 

 75

 

 

 

 その男の姿を視界に捉えて、真っ先に心中を支配したのは歓喜という感情だった。

 待っていた。今、この瞬間。全ての柵から解放され、ただ一時の快楽のためだけに銃を抜ける、この瞬間を。

 そしてそれは恐らく、その男も同じだったのだろう。

 「アンチェイン」などと呼ばれても、黄金夜会という組織に名を置く以上は短絡的な行動など取れるはずもない。男はきっと、待っていたのだ。この十年間、全ての始まりであるあの夜の狂宴の続きを。

 

 大通りに音もなく現れた男を両の眼でしっかりと捉えて、火傷顔(フライフェイス)は口の端を吊り上げる。

 一見無防備にも見えるその立ち姿。しかし両手に握られた銀のリボルバーが、男が既に臨戦態勢であることを物語っていた。

 彼のジャケットのボタンは既に外され、くるくるとリボルバーを回して周囲を一瞥。そして、ばっちりと視線が交錯した。

 

「そう逸るなよ、バラライカ」

「古傷が疼くのよ、ウェイバー。あの夜に貰った、四発の銀の弾丸のね」

 

 バラライカにはもう、レヴィやグレイのことなど一切頭には無かった。彼女たちは謂わば前菜。主食には程遠い、時間稼ぎの品でしかない。

 そしてそんな扱いだからこそ、辛くもレヴィたちは生き存えていた。遊撃隊(ヴィソトニキ)が本気になって行動を起こせば、たかだか四人のパーティなど物量戦で押し潰して終わりである。

 

「レヴィ」

 

 ウェイバーは背後に立つ女ガンマンに向かって、振り返ることなく言葉を放つ。

 

「お前はこの二人を連れて港へ向かえ。ロックともう話はついている。そこでガルシアと合流できる筈だ」

 

 それだけを告げると、話は終わりだと言わんばかりにリボルバーを握り直し、やや腰を落とす。

 本気でバラライカとやり合う気だということは、言うまでもなく理解出来た。そしてその戦場に、自身の居場所がないということも。レヴィは奥歯を噛み締めて、一度だけコンクリートの外壁に拳を叩き付けた。

 

「……おいそこのメイドども、付いて来な」

 

 酷く声が低かったのは、感情を押し殺したからに他ならない。

 自身はまだ正面からホテル・モスクワと事を構えられるほど強くない。その事実を受け止めるには、湧き上がる怒りを押さえ込むしかなかった。

 

 レヴィの言葉を受け、マナとルナはファビオラと合流。お互いの無事を数秒の間喜び、レヴィを先頭にして暗闇の中を走り出す。

 

 そして残ったのは。

 

「……オイ、お前らも向こう組だぞ」

「やぁねオジサン。だって私はおじさんの事務所に住んでいるのよ。となれば当然こっち側じゃない」

「我が友の窮地なれば、そこに馳せ参じるのは同志の務め」

 

 銀髪の少女と同じく銀の髪の美丈夫が、ウェイバーの隣に立っていた。

 それぞれがBARとモーゼルを手に、準備万端といった風にバラライカへと視線を向けている。

 

「……レヴィみたいに聞き分けがよくなるには、もう少し時間がかかりそうだな」

「レディはいつだって我儘なものよ、おじさん」

 

 片目でにこやかにウインクしてみせたグレイは、夜風に銀髪を靡かせながらBARを持ち上げる。

 そんな動作を横目で見て、これはもう何を言っても無駄だと察したのだろう。ウェイバーはこの日何十度目かの大きな溜息を吐いて、グレイへと指示を出した。

 

「遠慮は無しだ。グレイ、ぶっ放せ」

 

 次の瞬間、しばし停止していた戦場が、一気に活性化する。

 銃弾の嵐が、大通りのど真ん中で吹き荒れた。

 

 

 

 76

 

 

 

 ロックはバックミラー越しに迫るロベルタを視界の端に捉えつつ、全力でアクセルを踏んだ。

 狭い路地裏を抜けそこそこ幅のある通りに出たため時速八十キロは出ているが、それでもあの女中を引き離せない。後部座席に座るヨアンが威嚇射撃を継続して行ってはいるが、威嚇にすらなっていないようである。

 

「クソッタレ、あの女サイボーグか何かか? ふくらはぎ撃ち抜いてやったってのにピンピンしてやがる」

「撃ち抜いた……? ロベルタを?」

 

 ヨアンが吐き捨てた言葉の中に俄かには信じ難い事実が紛れ込んでいて、思わずロックは声に出していた。ロックの記憶の中で、あのロベルタに明確な手傷を負わせたのはホテル・モスクワとウェイバーだけである。個人戦力に絞ればウェイバー以外に存在しない。ロベルタとはそれほどまでに強く、また恐ろしい女だ。

 

「ああ、まぁトチ狂ってたのもあるが、俺は膝をブチ抜くつもりだったぜ。だが奴は反射的に身を捩って急所を避けやがったのさ、つくづくA級以上は化物揃いだよ全く」

 

 事も無げに宣うヨアンに、ロックは得体の知れない恐ろしさを感じていた。現状敵には成りえない筈だが、もしそうなった時の事を考えると、冷や汗が止まらない。

 未だ気を失ったままのガルシアの頭をくしゃくしゃと撫でながら、ヨアンはロベルタから前方へと視線を戻す。

 

「目的地まではあとどのくらいだ?」

「このまま飛ばせば十分もかからない。それまでにロベルタをどうにかしないと」

「そりゃ殺すってことか?」

「いや、さっきも言ったように彼女はガルシア君の探し人なんだ。殺す事はできない」

 

 正気に戻すことが出来れば一番いいのだが、今の彼女は復讐に燃える殺戮機械に成り下がっている。

 せめて彼女に拮抗出来るだけの戦力、もしくは手札が揃えばいいのだが。

 

(ロベルタと拮抗出来る戦力、真っ先に思い浮かぶのは……)

 

 ロックの脳内にまず最初に浮かんだのは、グレーのジャケットを着た日本人。レヴィが持つ二挺拳銃という二つ名の前の持ち主であり、底の知れない怪物。

 だが彼がこの場に現れることはない。そう確信していた。

 理由はたった一つ。数時間前の一本の電話である。

 

 ガルシアを連れて港まで来い。簡潔にそう言い切ったウェイバーは、ロック自身の行動まで予想していることだろう。だからこそ、こうして今自身がロベルタとガルシアをある意味セットで港まで運んでいることも想定済みのはずだ。

 だとすれば、わざわざその道中で横槍を入れるような真似はしない。

 加えて、彼にはホテル・モスクワと米軍を引き付けるという役割がある。どのような手口で両者を相手取るのかまでは分からないが、あの男のことだ。きっと思いもしない方法でやってのけてしまうだろう。

 

(ウェイバーさんが助太刀にきてくれることは期待できない。ただ何の保険もかけていないというのも考え難い。だとすれば……)

 

 そこまでロックが考えたところで、助手席に放り投げてあった携帯電話が鳴った。

 反射的に手に取ったそれを耳に押し当てると、飛び込んできたのは聞き慣れた女ガンマンの声だった。

 

『ヘイ、ロック。そっちの首尾はどうだ?』

「レヴィ!」

 

 思わず声が出てしまうほど、今この状況でのレヴィの登場は有難いものだった。ロベルタと拮抗できる戦力として、彼女ならばとの思い故である。

 

「ロベルタの居場所は突き止めた。今ガルシア君と一緒にラグーン商会のドックに向かってるッ」

『オーライ、ボスの言ってた通りだな。ロック、アタシたちはもうドックに到着してる。さっさとあの婦長様を連れてきな』

 

 レヴィの話し声の奥からは、ファビオラと双子のメイドがガルシアを心配するような声が聞こえてくる。

 

 算段は整った。つまりはそういうことなのだろう。

 レヴィがロベルタのストッパーとして港にやって来ることも。ファビオラとガルシア、そして双子のメイドというラブレス家の関係者が全員欠けることなく一ヶ所に集うことも。

 きっとあの男は、全て読み切っていたに違いない。

 

「本当に敵わないな、あの人にはッ!」

 

 終話ボタンを押して電話を助手席に放り投げたロックは、強引にアクセルを踏み込んだ。

 

「いいねェロック! あのサイボーグと少しだが距離が取れた!」

「このくらいの距離じゃ気休めにもなりやしない! 一秒でも早く湾岸沿いに出ないと!」

 

 夜のロアナプラを、青いセダンが疾走する。

 大通りを走り始めて五分程、直に海が見えてくるはずだ。そうなればラグーン商会の所有するドックは目と鼻の先、一連の争乱の、終着点が見えてくる。

 

 しかし。

 そんな幕の引き方を、件の猟犬が認める筈がなかった。

 

 短距離選手のようなストライドで、ロベルタが少しずつロックの運転するセダンに迫る。

 このままでは車がドックに到着するよりも、僅かにロベルタが追いつく方が早い。そうなってしまっては、その場での戦いは避けられない。今この場に居る戦闘員はヨアンのみ。ロックが出張ったところで赤黒い肉袋にされるのは目に見えている。

 どうする。そう考えていた矢先、突然ヨアンが後部座席のドアを開けた。

 

「ヨアンさん!?」

「このままじゃ追いつかれる。それは本意じゃねェんだろう?」

 

 ガルシアの髪の毛を一度だけクシャリと撫でて、青年は不敵に笑う。

 

「元はといえば俺がしっかり足止めしとかなかったのが悪い。つうことで、時間稼ぎはしてやるよ。無料でな」

 

 一度だけロベルタへと視線を投げて、ヨアンは軽い調子で続けた。

 

「大丈夫、殺しゃしねェよ。少し遊んだらそっちに送ってやる。そのまま俺も街を離れさせてもらうさ」

「…………、」

「ったく。俺の追いかけてる獲物は見つからねェし、A級首は見逃さなきゃいけねェし。帰ったらクラリスにどやされるな」

 

 トンッと、事も無げに。

 ヨアンは時速八十キロで走行するセダンから飛び降りた。

 体勢を崩すことなく着地したヨアンの手には、既に愛銃が握られている。

 

 そんなヨアンを視界に収めながらも、ロベルタは速度を緩める気配を見せない。歯牙にもかけない。そう言わんばかりの態度だ。

 

「……ハッ、舐められたもんだな」

 

 接近する猟犬を前に、ヨアンは口元をほんの少しだけ緩めた。

 

「悪党の首に輪っかを掛けられねェストレス、ちっとは発散させてもらうぜ」

 

 デザートイーグル50AEを構える。

 引鉄を引く。

 発砲音と鈍い衝突音が、ロックの耳にやけに大きく響いた。

 

 

 

 77

 

 

 

 戦線はウェイバーを中心に、徐々に縮小を見せていた。

 物量差で押潰す場合の定石と言えば定石だ。獲物をぐるりと取り囲みながら、少しずつその円を狭めていく。逃げ場を封じ、反撃させる暇を奪い、戦う手立てが途絶えるのを待つ。バラライカ率いる遊撃隊が選んだのは、そんな戦法――――――――ではない。

 

 そんな教科書にでも乗っているような戦法が、あの男に通じる筈が無い。

 

 これは一方的な狩りに非ず。

 生と死の境で行われる本物の戦争だ。

 

 戦線が縮小し始めているのは、(ひとえ)にウェイバーの行動故である。

 

「的を絞らせないつもりか、……他に何を狙っている」

 

 ウェイバーとその他二人は、打ち合わせでもしていたのか揃って狭い路地へと入り込んでいく。

 通常であれば道幅の狭い路地裏など挟撃の格好の餌食だが、生憎とこの街全ての地図が頭に入っているらしいウェイバーであればその限りではない。

 敢えて挟撃のし易いポイントへ誘導し、フレンドリーファイアを誘っている節まである。

 

「大尉殿、目標は依然として北上。別動班を東側より向かわせていますが、このままだと殺傷地域より離脱される可能性があります」

「無駄な懸念だな軍曹。あの男が我々に背中を見せて逃げるとでもいうのか」

 

 状況だけを見れば膠着した中で、バラライカは実に愉しそうに目を細めた。

 

「又と無い機会だ。滾らない筈がない。そうだろう? ウェイバー」

 

 

 

 

 

「――――そこは左だ、建物屋上からの狙撃に注意しろ」

 

 暗闇を走りながら、やや前方を走るグレイへと指示を出す。

 開戦の合図となったBARの一斉掃射の後、ロットンとグレイを従えた状態で来た道を引き返すように路地裏へと飛び込んだ。既に周囲一帯の交差路には遊撃隊の各分隊が配置されていることだろう。しかしそれを抜きにしても、あんなだだっ広い通りでドンパチ構える程俺は阿呆ではない。 

 あんな360度見渡す限り遊撃隊しかいない戦場で、たった三人で太刀打ちできるわけがないのだ。

 

「私は正面切ってのダンスパーティでもよかったのよ?」

 

 こんな事を宣う娘っ子は無視して、俺の背後を走るロットンへと視線を向ける。

 

「……ヒュー、……ヒュー……」

「お前壊滅的に体力無いな」

「いや、これは、鎖帷子が、重くて、だな」

「本末転倒じゃねーか」

 

 サングラスに指を添えながら格好良く決めようとしても無理がある。言っては何だが背中が隙だらけだ。

 何の気休めにもならないが、ロットンの後方へ向けて何発か発砲。この音で居場所が割れるかもしれないが、そもそもバラライカが敷いた包囲網をそう易々と突破できるはずがないのだ。考えるだけ無駄だと切り捨て、更に二発発砲。丁度全弾撃ち切ったところで、素早く弾丸を込め直す。

 

「よし」

 

 やはり弾がしっかり補填されると安心感が違う。

 

「流石ねおじさん。私、最初の発砲まで気が付かなかったわ」

「ん?」

「フッ、クールだな」

「は?」

 

 何やら得心したと頷く二人の様子に、俺は疑問符を浮かべざるを得なかった。

 やたらと上機嫌なグレイにそのあたり聞きたいが、事態が事態だけに自重する。話し込んで蜂の巣にされるのは御免だ。

 

「このまま北に向かえばいいの?」

 

 月明かりも届き難い路地裏を駆けながら、グレイが口を開いた。

 

「ああ、俺の仕事はホテル・モスクワと米軍を接触させないこと。米軍に関しちゃ張に一任してるからな、あとはこっちの問題だ」

 

 こっちの問題。そう、後はこの場をなんとかして切り抜けるだけだ。張からの連絡が来れば、この一連の騒動は終結する。その時間までホテル・モスクワを引き付けること、それさえ出来れば全て丸く収まる筈だ。

 

「ま、そう簡単には行かないだろうがな」

 

 なんと言ってもこの戦力差だ。こっちは自分を含めてたったの三人。対してバラライカは一個師団クラスの戦力を引っ張り出し、この街の至る所に配置している。

 幸いにして周囲には入り組んだ路地が広がっているため遮蔽物には困らないが、いつまでも同じ地点に留まっていればあっという間に挟み撃ちに合う。そうならないために移動し続け、的を絞らせないよう細心の注意を払う。

 毛ほどの油断も出来ない。一瞬の隙が命取りとなることを、この街で散々思い知らされたのだ。

 

 ポケットに仕舞い込んだ携帯電話は、未だ鳴らず。

 

「……おじさん。後ろから足音が近付いてくるわ。数は四、五人というところかしら」

「バラライカの奴、囲い込みを止めて直接獲りにきやがったか」

「……どうする、つもりだ……?」

 

 軽い調子で会話を行う俺とグレイとは対照的に、苦悶の表情を隠しきれていないロットンが問い掛ける。

 何が切欠となったかは定かでないが、こうして直接戦闘を仕掛けてくるようであれば応戦する他ない。統制された軍人らが陣形を作って向かってくる以上、逃げ果せることなど不可能と言っていい。

 ちらりと、暗闇に溶け込んだ周囲を観察する。

 左右はコンクリートの外壁。前後には二十メートル程の直線が伸びており、追う側からすればさぞや目標を捉え易いことだろう。月明かりの届きにくい場所を選んで移動しているというのにこうもぴったりと背後に付かれてしまっているということは、暗視ゴーグルでも使用しているのかもしれない。

 

「……しょうがねェなァ」

 

 一言そう呟いて、リボルバーを握る両手に力を込める。

 直線に伸びた一本道が有利に働くのは、何も遊撃隊だけではない。

 射撃センスが致命的な俺であっても、真っ直ぐ撃つだけなら造作もないこと。そう腹を括ってくるりと半回転、足音の聞こえる方角へ銃口を向ける。

 

(……まぁ、当たるわけもないんだろうけど)

 

 一般的な身体能力の枠を出ない俺とは違い、バラライカ率いる遊撃隊はデルタも真っ青な人間の集まりである。そんな人間たちに、俺の放った弾が当たるとも思えないが。

 

「時間稼ぎくらいにはなるか」

 

 言って、発砲。

 一瞬にして放たれた左右合わせて四発の弾丸が、それぞれあらぬ方向へと飛んでいく。

 

 おかしいな、一応正面を狙って撃ったつもりだったんだが。どうして左右に綺麗に散らばっていくのか。

 俺が思い描いていたものとは大分違う軌道を描いて、弾丸はコンクリート壁へと着弾。音からして壁に穴でも開いただろうか。それにしてはやけに軽い音のような気もしたが、暗闇のせいで着弾地点までは見えない。

 

 そんな事を考えていたら、数瞬遅れて甲高い破砕音が耳に届いた。音の出処は俺の正面。

 銃を構えたまま、俺は内心で首を捻っていた。こちらが発砲すれば即座に応戦してくると踏んでいたが、その気配は感じられない。

 数秒の間沈黙が流れ、ようやく口を開いたのはグレイだった。

 

「おじさん、どこまで(・・・・)視えてるの?」

「ん、全く」

「視る必要などないということか」

 

 何やら感嘆の声を漏らす二人に、俺は更に疑問符を浮かべた。

 なんだ、何か盛大に食い違っているような気がしないでもないぞ。

 

「そういえば以前にも似たような事をしたと聞いたことがある。その時は確かコンテナの溝を利用したんだったか。絶技だな」

「何言ってる。こんなもの、技の内にも入りゃしねェよ」

 

 まともに狙ってすらいない発砲が、技な筈がないだろう。

 

「そうよお兄さん。おじさんの本気はこんなもんじゃないもの。その気になれば弾丸撃ち(ビリヤード)だって朝飯前よ」

 

 得意げに語るグレイには言いたいことが山程あるが、一先ずそれは置いておくことにしよう。

 前方の様子が気になるところだが、やはり俺の視力では真っ暗な闇が広がるのみ。

 

「先を急ぎましょうおじさん。追ってきてる四人が新しい武装を整える前に少しでも距離を離さなくちゃ」

「いや、どちらかと言えば付かず離れずの方がいいんじゃないか。離れすぎると標的を変更される恐れがある」

「それは杞憂よお兄さん。あのロシア人たちはおじさんと踊ることしか考えていないわ。目の前に極上の獲物(りょうり)があるのに、手を出さない筈はないでしょう?」

 

 確信めいた口調でそう告げるグレイに、ロットンもややあって。

 

「……それもそうだ」

 

 要領を得ないままの俺を置いて走り出す二人の後に慌てて着いていく。会話の内容から察するに、後ろから迫ってきていた追手の足止めには成功したらしい。適当に放った俺の弾でも、少しは役に立ったのだろうか。

 

 狭い路地をジグザグに進みながら、ちらりと腕に巻かれた腕時計に視線を落とす。

 真夜中と言っていい時間帯も、そろそろ終わりを告げようとしている。あと数時間もすれば、水平線の向こうから陽が昇るだろう。

 その頃にはきっと、全てが終わっている。

 

 その時、果たして何人が立っていられるか。

 

 

 

 

 

 遠ざかる足音を耳にしながら、四人は声を失っていた。

 皆一様に構えていた武器に視線を落とし、信じられないものを目の当たりにしたように目を見開いている。

 

「……彼は、暗視ゴーグルを装着していたか?」

 

 やっとのことで絞り出されたのは、そんな疑問だった。

 

「いえ。標的は二挺のリボルバーのみです。ゴーグルを装着していたのは、我々だけです」

「……そうか。いや、彼なら当然と言ったところか」

 

 この四人編成の長であるサハロフは、手に握るライフルだった(・・・)ものを地面に放り投げた。銃身に弾丸を撃ち込まれては、もう使い物にならない。

 他の三人が所持していた銃も、似たような有様だった。皆一様に、スクラップにされている。

 暗視ゴーグルを装着していたため、ウェイバーが振り返ったことは分かっていた。気がつけば発砲されていたことには驚いたが、十分に対処可能な範囲だった。

 

 発射された四発の弾丸全てが、別々の方向から飛来することが無ければ。

 

「跳弾なんてレベルじゃないなアレは。弾丸に意思が宿っているかのようだ」

 

 今思えば、彼は走りながらも周囲の遮蔽物をしきりに確認していたようだった。あれは跳弾させるための条件が揃う場所を探していたのだ。正面から撃ち合えばいくらウェイバーと言えども限界がある。ならば搦手を使うまで。周囲全てを把握しているからこそできるその絶技に、サハロフは苦笑するしか無かった。

 

「追いますか軍曹。武器の補充は完了しています」

「当然だ。大尉殿もそれを望んでいる。我々に後退の二文字はない」

 

 素早く隊列を組み直し、先を行くウェイバーたちを追う。

 各所に配置された班からの無線で、大凡の場所は把握している。

 

「……直に夜も明ける」

 

 近付く刻限を意識して、遊撃隊は再び行動を開始した。

 

 

 

 78

 

 

 

 既にラグーン商会のドックに到着していたレヴィたちがその車を視界に収めたのは、真黒な空がやや明るみを帯び始めた頃だった。

 

「ッ!! あの車は!!」

 

 いの一番にドックから駆け出したファビオラにつられて、マナとルナも外へと駆け出す。

 その三人を無言で見つめていたレヴィも、やがて外へと踏み出した。

 

 乱暴に停車したセダンからロックが降りてくる。

 その表情は、どこか満足げなものだった。

 

「セニョールロック! 若様は、若様はご無事ですか!?」

「今は気を失ってるけど命に別状はない。五体満足だよ」

 

 後部座席で横たわるガルシアをマナと二人で運び出し、ドックの二階へと連れて行く。

 

 周囲には、どこか弛緩した空気が流れていた。

 

「ロック」

 

 そんな空気を裂く、冷たい一声。

 

「あのクソメイドは、きっちり引っ張ってきたんだろうな」

「ああ」

 

 レヴィの問いに、ロックは。

 

「彼は立派に餌の役目を勤めてくれた。これで、王手(チェックメイト)だ」

 

 漂ってくる血の臭いが、嫌でも彼女の存在を想起させる。

 

「よくやったロック。こっからは、アタシの仕事だ」

 

 ホルスタからソードカトラスを引き抜き、視線を正面からやって来る血濡れの女に固定する。

 猟犬は犬歯を剥き出しにして、焦点の合っていない両の眼をこれでもかと開いてみせた。

 

「若様、若様。ああ、そこにおられるのですね。今、私が」

「何ブツブツ言ってやがる。今のテメエじゃ、あのガキには会えねェな」

「……邪魔を、」

「なあそうだろ。物事はシンプルが一番、欲しいモンがあンなら、」

 

 二人の視線が交錯したのは、たったの一瞬。コンマ一秒の事。

 だがそれだけで、両者は本能の部分で理解した。

 目の前に立ち塞がるニンゲンは、己にとっての障害であると。

 

「――――するなッ!!!」

「力づくで奪ってみろよッ!!!」

 

 銃声が轟く。

 放たれた弾丸が、両者の間で縦横無尽に駆け巡る。

 

 そんな戦場の片隅。

 廃コンテナの影で、とある男は無表情ながらに頭を抱えていた。

 

(出る場所間違えた……)

 

 最悪の追手を引き連れて、渦中の男ウェイバーが奇しくも爆心地へ到達した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回ロベ公編ラストです。

以下要点。
・おっさん×幼女×厨二×忠犬×猟犬×遊撃隊×その他不安要素


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045 誰にでも平等に、朝陽は昇る

 79

 

 

 

 其処にその男が居ることを、一体誰が予測出来ただろう。

 今この時、この瞬間。まるで全てを見透かしていたかのようなタイミングで現れたその男は、全くの無表情のままコンテナ街を抜け、港の中心部へと歩いてくる。

 レヴィとロベルタが正に衝突せんとしている、戦場のど真ん中に向かってである。そこらの通りを歩くように平然と、一定のペースで二人の間を横切らんと歩みを進めている。

 

 ロベルタは当然のことながら、レヴィも既に臨戦態勢に入っている。故に指を掛けた引鉄は、ほぼ反射的に引かれていた。

 正面から接近するロベルタと、彼女を視界から覆い隠すようにして現れた男に向かって、数発の弾丸が当人の意思とは無関係に発射される。

 

 レヴィの頬を一筋の汗が伝った。それは紛れもなく、冷や汗だった。

 敬愛と尊敬を向ける男へ銃口を突き付け、剰え発砲してしまった。

 

 ――――からではない。

 

 何らかの意図があってこの戦場へと乗り込んできた男の邪魔をしてしまったと、直感的に悟ったからだ。

 数時間前、レヴィは面と向かって言われていた。二人を連れて港へ向かえと、そこでガルシアと合流しろと。

 

 指示された内容は、ガルシアと合流しろという部分まで。そこから先は、レヴィの仕事内容には含まれていない。想定していなかったという事はない。ウェイバーは敢えて(・・・)言わなかったのだ。ロベルタとの戦闘はお前の仕事ではないと、言外に伝えていたのである。

 そしてこのタイミングで図ったように現れた。

 それはつまり、そういうこと(・・・・・・)なのだろう。

 

 猟犬の相手は、ウェイバーがするつもりなのだ。

 

 瞬きすら許されない時間の狭間で、レヴィは確かにウェイバーと視線が交錯したのを認識した。

 

『ここから先は、俺の仕事だ』

 

 直後。レヴィの放った弾丸はウェイバーが放った弾丸の直撃を受けてその進路を大きく歪めた。

 いつ発砲したのか認識すらままならない程の早撃ち。くるくると気軽に銃を回すウェイバーはいつ狙いを定めたのか、超至近距離の弾丸を弾いてみせた。相手が撃ってから合わせていたのでは到底間に合わない。恐らくウェイバーは、ロベルタとの衝突を視界に捉えた瞬間にリボルバーの引鉄を引いていたのだ。

 その状態のまま間に割って入り、発砲のタイミングを意図的に合わせてこの戦場を硬直させた。

 

 ウェイバーがこの場に現れた。

 そう認識してからのレヴィの動きは迅速だった。

 即座にウェイバーから距離を取り、ドックの入口にまで後退する。

 

「いい判断だレヴィ。ガルシアの安否確認は終えてるな?」

「ああ、今しがた双子メイドが二階へ運んでいった」

 

 その報告を受けて、ウェイバーは僅かに口角を緩めた。

 依頼主の安否を優先させるのは当然のこと、何せ死なれては報酬が貰えない。慈善事業をしているわけではないのだから、今更言うまでもないだろうが。

 何を考えているのか、ウェイバーはロベルタと向き合ったまま動かない。動けない、のではない。動かないのだ。先程の乱入で場の主導権はウェイバーが掴んでいる。ウェイバーの正面に立つロベルタも、憎々し気な表情を浮かべるもののその場から動こうとしない。

 動けば即座に撃たれる。そう感じているのだろう。

 先程までとは打って変わって、静寂がその場を支配していた。

 

「……何処まで、」

「あ?」

 

 そんな静寂の中、そんな言葉を零したのはロベルタだった。

 

「何処まで、私の邪魔をすれば気が済むのですかッ!!」

 

 激しい慟哭。

 ウェイバーは黙ったまま、微動だにしない。

 

「邪魔をするな、私の、邪魔を、するなッ!!」

 

 喉を引き裂かんばかりの絶叫と共に、ロベルタは手持ちの拳銃を投げ捨て、空いた手を背中へと伸ばす。

 瞬時に構えたソレは、今の時代から考えれば骨董品と言われても仕方のない代物。

 だが単純な構造であるが故に、サボットさえあればどんな弾丸でも発射することが可能な銃。

 ――――マスケット。

 

 閃光が弾けた。

 

 

 

 80

 

 

 

「……ん、んん」

 

 霞がかった視界を何度か瞬きすることで明瞭にしていく。

 真っ先に飛び込んできたのは安っぽい蛍光灯が取り付けられた天井。そして見覚えのある三人の少女たちだった。

 

「ファビオラ。それに、マナとルナ……」

「若様……! ご無事で本当に良かった……! 私の不注意で危険に晒してしまい、申し訳ございません!」

 

 横になっていたソファから身体を起こすや否やそう頭を下げるファビオラに、ガルシアは静かに首を横に振った。

 

「あれは僕が悪いんだ、ファビオラ。君の言いつけを守っていたつもりだったけど、甘かった」

 

 やや表情を曇らせるガルシアへ、次いで双子が声を掛けた。

 

「若様、ご無事で何より」

「切り傷が何箇所かありましたが、何かございましたか」

「ん? ああ、いや。紐無しバンジーをちょっとね……」

 

 言葉の真意を測りかねた二人は首を傾げているが、ガルシアは思い出したくない記憶なのかそれ以上この話を続けることはしなかった。

 代わって話題に上がったのは、ラブレス家にとっての本題。

 

「ファビオラ。ロベルタは、今どこに……?」

「外を見てごらん」

 

 口を開こうとしたファビオラに代わって告げたのは、ロックだった。

 彼は冷蔵庫から取り出したサンミゲルを呷って、ガルシアの目の前まで距離を詰める。

 未だソファに座ったままのガルシアと目線を合わせるため、中腰になってロックは告げた。

 

「君が求めたものが、そこにはある」

 

 ハッとして、ガルシアは勢いよく立ち上がり窓の外を見やる。

 やや薄暗い空の下で、二人の怪物が鉛玉を喰い合っていた。

 

「あれは……」

「見えるかい、ガルシア君。彼女こそ君が探してやまなかった人物だ」

 

 ガルシアは愕然とした。

 これまでの彼女は見る影もなく、そこに居たのは返り血に染まった殺戮人形(キリングマシーン)。遠目からは分からないが、身体のあちこちを損傷しているのだろう。返り血だけではない己の血も垂れ流しにしている。ロベルタの血が、コンクリートの地面を彩っていた。少量ではない。このままでは失血死の可能性も否めない程の量だ。

 

「ロベ……」

「いけません若様!」

 

 反射的に外へ出ようとしたガルシアの腕を、ファビオラが掴んで引き止める。

 

「どうして止めるんだファビオラ!」

「婦長様は正気を失っています! そんな状態の婦長様の元へ、若様をお連れするわけにはいきません!!」

 

 ファビオラの叫びは、この場に居る女中全員の総意だった。マナもルナも、ガルシアが外へ出ることのないよう扉の前に直立している。

 彼女たちとてガルシアの気持ちは痛いほどに理解できる。ロベルタをただ取り戻すためだけに海を渡ってきたのである。生半可な覚悟でないことくらい承知の上だ。しかし、それでも。今の状態のロベルタとガルシアを直接会わせるわけにはいかない。理性を失ったロベルタがガルシアに牙を突き立てる可能性が払拭されない限りは。

 

「ロベルタを救えるのは僕たち家族だけだっ、そうだろう!?」

「若様ッ、それでも!」

 

 どちらも譲らない押し問答。

 そこに割って入る声があった。

 

「――――行かせてあげなよ」

 

 空になったアルミ缶を潰して、ロックは簡潔にそう言った。

 

「男が女の元へ行きたいと言っているんだ。主人の男気は立てるものだと思うけどね」

「ですが!」

 

 声を荒げるファビオラに、ロックはやれやれと首を横に振る。まるで聞き分けのない子供を見るような目でファビオラを見つめて。

 

「彼だけだ」

「……何を、」

 

 言っているのか。そう二の句を継ごうとして、しかしそれよりもロックが言葉を投げる方が早かった。

 

「彼だけが、この場を丸く収めることができる」

 

 胸ポケットから煙草を取り出し、火を点ける。一息に吸い込んでから、ロックはゆっくりと煙を上へ吐き出した。

 

「俺は一度賭けに失敗した。だが君は生きていて、彼女もまた生きている。手筈は全てウェイバーさんが整えてくれた。後はその一点、ピンポイントにベットするだけだ」

「ギャンブルのつもりですかセニョール・ロック。この事態を、人の命を、チップにして楽しんでいるとでも!?」

「少し違う。きっとあの人はこうなることをかなり初期の段階から読んでいた。だからこそのあの電話、そして現在の状況。ガルシア君を連れてきた理由は、そこにある」

 

 人差指と中指で煙草を挟み、水平に腕を持ち上げる。

 ロックの瞳が、明け始めた空とは対照的に暗く沈んでいく。

 

「次は外さない」

 

 ロックの発言が、ファビオラは我慢ならなかった。

 

「冗談じゃない! 私たちはアンタの駒じゃない! 思い通りに動かせると思うな!」

「ならどうする? このまま君たちの家族がウェイバーさんに殺されるのをただ見てるつもりか? 祈るだけで事が解決するのなら、イエス様はさぞ暇を持て余してるんだろうね」

「それは……ッ!」

「君たちはこの街の脅威を正確には把握していないみたいだから教えておく。うちのガンマンより、ホテル・モスクワより気をつけなくちゃいけないのは、あの人だ」

 

 ロックの言葉に思う所があるのか、双子のメイドはやや俯いて手持ちの槍をきゅっと握った。その様子を見て、ファビオラは下唇を噛む。

 いけない。このままでは、ガルシアが外へと飛び出してしまう。ロックの言葉を真に受けてはいけない。見た目はいくらかまともであっても、やはりこの悪徳の街の人間だ。人の死をなんとも思っていない。そんな男の口車に乗せられてはいけない。

 

「ファビオラ」

 

 必死に思考を巡らせる少女の耳に、ひどく優しい声が届いた。

 ふと見れば、ガルシアの腕を掴むファビオラの手に、そっと手が重ねられている。

 

「ありがとう、ファビオラ。僕のことを心配してくれて」

「若、様……」

「僕は行くよ。これはきっと、僕にしかできないことだから」

 

 その表情は、少年が浮かべるにはあまりに重く、美しいものだった。

 死を覚悟した者にしか、出来ない笑みだ。

 そんな表情を間近で見てしまってはもう、彼を止めることなど出来はしなかった。ずるずると、力が抜けたかのようにファビオラは床にへたり込む。

 

「ガルシア君」

 

 言いながら、ロックは黒い塊を放り投げた。

 

「持っていくといい。無いよりは役に立つ筈だ」

 

 ガルシアは投げ渡された黒い塊に視線を落とす。たった一発の弾丸で命を容易くむしり取る、その兵器を数秒見つめて。

 

「……これは、お返しします。これを使ってしまえば、僕は貴方たちと同じ(・・・・・・・)になってしまう」

「そうかい。じゃあ、健闘を祈るよ。祈る神とやらが居るのなら」

 

 ガルシアはもう、口を開かなかった。

 ロックに背を向け、扉の前に立つ双子の脇を抜け、ドアノブに手を掛ける。

 そして少年は一人、戦禍へとその身を投じた。

 

 その後ろ姿が遠くへと消えていくことが恐ろしくて、ファビオラは己の身体に力を込めた。

 彼を一人にしてはいけない。その使命感だけで立ち上がり、少女もまた外へと飛び出していく。

 

 ロックはただ、その光景を愉しそうに眺めていた。

 

 

 

 81

 

 

 

 誰か助けてください死んでしまいます。

 そんな言葉を、声を大にして叫びたい気分だった。

 どうして遊撃隊の連中から逃げ続けた結果ロベルタの前に出ることになるのか。俺は方向音痴ではなかった筈である。背後から追手の気配を感じたのでヤケクソ気味にレヴィとの間に割って入ったが、やっちまった感がすごい。

 程なくすればグレイやロットンもこの場に到着するだろう。先陣切って闇雲に走り回った結果がこれなのだから笑えない。

 

 年代物のマスケットと刃渡り三十センチ程のナイフを振り回すロベルタと適当に距離を取りつつ様子を窺う。身体の至るところから出血しているロベルタだが、アドレナリンが全開なのか然して痛がる素振りはない。薬でもキメて痛覚がぶっ飛んでいるのだろうか。だとしたら腕や脚の一本吹き飛ばしたところで止まらないだろう。さて、どうしたものか。

 

「あら?」

 

 なんて考え事をしていると、起爆剤がさらに一つ追加された。言わずもがな、グレイである。

 

「あらあら、うふふ。やけにじぐざぐと走り回っていると思ったら、こういうことだったのねおじさん」

 

 何も言っていないのに勝手に納得したらしいグレイは、にっこりと笑みを浮かべたままロベルタに向かってBARを掃射した。

 おい危ないだろうが、俺まで掃射範囲にばっちり入ってるぞ。

 

「こんなのに当たるおじさんじゃないでしょう?」

「お前は俺をなんだと思ってるんだ」

 

 当たれば痛いし、死ぬぞ。

 人の目で追いきれない速度の弾丸を避けるなんて芸当、早々出来るもんじゃない。

 

「後ろの兵隊さんたちも到着したわ。サングラスのお兄さんが何発かイイのを貰っていたけど、鎖帷子のおかげでピンピンしてるわよ」

「いや、お前の後ろで顔面蒼白になってるぞロットン」

 

 脇腹を押さえながらひょっこりと顔を出したロットンが、やや覚束無い足取りで港へと入ってきた。出血らしきものは少ないが、被弾の衝撃でやられてしまったのか、顔面蒼白といった面持ちである。

 まぁあの遊撃隊を相手にしながら致命傷を避けているだけでも大したものだが。

 戦力としては頭数に入れられそうにないロットンを一瞥して、グレイは水平線へと視線を移した。

 数時間前までは光源のない夜空が広がっていたというのに、いつの間にか海の向こう側は仄かに白みを帯び始めている。

 

「ねえおじさん、あとどれくらい(・・・・・)かしら」

 

 ふむ。どのくらいときたか。

 陽が昇るまでの時間は正確には分からないが、恐らくはあと十分もすれば太陽の頭が見えるだろう。ロアナプラの日の出は思いの外早い。時期がもう少しズレていれば、この時間帯でも太陽の三分の一程が顔を出していることもあるくらいだ。

 俺はロベルタを視線で制したまま、徐に口を開く。

 

「そうだな、十分てところだ」

「そう。なら、それまではこのダンスパーティを楽しみましょうか」

 

 抱えていたBARを構え直し、グレイは艶やかに微笑んだ。

 ちらりとロットンの現れた方へ視線を向ければ、遊撃隊の面々がこの戦場へと雪崩込んで来るのが飛び込んできた。いよいよ以て乱戦模様だ。フレンドリーファイアにだけは気を付けるとしよう。

 

「背中は任せる」

「っ、ええ、ええ。任せて頂戴。絶対に、その背中を傷付けさせたりはしないわ」

 

 何やらぶるりと身体を震わせたグレイは俺の背後へと回り込む。

 準備万端な様子の少女を視界の端に捉えつつ、俺も両の手に握った銀のリボルバーを構える。

 張からの連絡は未だ無いが、そう長くはないはずだ。用意周到なあの男のこと、既に船と渡航ルートの確保は終えている筈。であれば俺の携帯が鳴るのも時間の問題だ。あとはこの混沌を掻き混ぜたような空間で、五体満足で生き残るだけである。いや、それが一番難しそうなんだけれども。

 

「ああ、久しいな」

 

 ここまで死を身近に感じることも、めっきり少なくなった。出来れば金輪際感じたくはない感覚であるが。ともかく。

 こういった場面で最も重要なのは相手にその動揺を悟らせぬことだ。このレベルの人間たちを相手取る際には、その一瞬の動揺が命取りとなる。だからこそ、俺は表情に一切のマイナス感情を示さない。寧ろ逆だ。猛っていると相手に思わせるように、内心とは裏腹に口角を吊り上げて見せる。

 

「精々、足掻くとしよう」

 

 一段落としたトーンで呟く。

 狙いなんて碌に定めない無茶苦茶な腕のひと振りと共に、左右計十二発の弾丸が発射される。

 やはりというか、それらの弾丸はロベルタ、遊撃隊の連中には命中しなかった。だがそれは俺にとって想定内だ。射撃センスが壊滅的な俺の弾丸なぞ、止まっている的にだって命中するか怪しいところである。

 故に弾丸の行方など然して気にせず、懐から取り出した弾丸を素早く込め直す。リボルバーは握ったまま、親指とグリップで弾丸を掴み、即座にリロード。そのまま間髪置かずに発砲。全弾撃ち終わってから再発砲まで凡そ二秒。練習の賜物だ。

 

 相手に応戦の隙を与えない。戦闘に於いて重要なのは攻撃することではなく、攻撃をさせないことだ。

 下手な鉄砲もなんとやら、ほぼ間断無く撃ち続けることで何発かは相手に命中する。俺一人だけなら何処かで弾切れを起こしたろうが、今回は後ろにグレイがいる。更にその後ろにはラグーン商会のドック。ストックは十分と言えた。

 

 このまま膠着状態が続けば理想だが、相手は百戦錬磨の遊撃隊と理性の吹き飛んだ獣。そう上手くはいくまい。

 俺の放つ弾丸を人間とは思えない反射神経で回避し続けるロベルタと、隊列を組んでじわじわと距離を詰めてくる遊撃隊を両の目で確り捉えつつ、リボルバーから鉛玉を吐き出し続ける。

 流石にこの人数差は埋まらないようで、遊撃隊から無数の銃弾が飛来する。銃口がこちらを向いた瞬間には身を屈め、積み上げられたドラム缶の影に飛び込んだ。数瞬遅れて甲高い衝突音が響き渡る。

 

「この人数差は如何ともし難いな。物量差で押し潰されそうだ」

「そんな愉しそうな表情で言われても説得力が無いわおじさん」

 

 失礼な。これは表情を取り繕っているだけだ。誰がこんな鉛玉の食い合いを愉しむものか。

 ドラム缶の陰から発砲を続けるが、積み立てられたドラム缶は次々と吹き飛ばされていく。障害物として使えそうなものが徐々に減少していき、やや焦燥に駆られて周囲に視線を飛ばした。

 

「……ん?」

 

 ドック二階の扉が開き、室内から金髪の少年が飛び出すのが見えた。その少年の後を追うようにして、小さな少女もほぼ同時に外へと出てくる。

 

「あらあら」

「おいおい、正気か?」

 

 ファビオラはともかく、ガルシアは戦争のど素人だ。しかも見る限り武装はしていない、完全な丸腰。殺してくださいと看板を引っさげているようなものだ。

 

「……レヴィが嗾けでもしたか。いや、」

 

 或いはロックが、とも思ったが流石にその線は無いか。あの日本人はやや悪党に憧憬を抱いている部分はあるが普通の日本人だ。根が善人なのである。そんな男がガルシアを送り出すような真似はすまい。

 

「どうするの、おじさん」

 

 俺の真横でBARを掃射するグレイが問い掛ける。

 今の状態のロベルタと彼を対面させるのは余りにも危険だ。一方的に虐殺されるなんて展開になりかねない。加えてホテル・モスクワが出張ってきているこの戦況だ。いや、これは俺が敢えて引き連れてきたような構図になってしまったが、他意はなかったと明言しておく。こんなカオスにするつもりは無かったのだ。

 

「…………チッ」

 

 無意識的に舌打ちをして、ドラム缶の陰から飛び出そうとする。

 その瞬間だった。

 

 俺のポケットに仕舞い込んでいた、携帯電話が鳴り響いた。

 

 

 

 82

 

 

 

 戦場に現れたその少年の存在を、ロベルタは驚愕と疑念を以て出迎えた。

 最初に浮かんだのは驚愕。何故、どうして。敬愛するラブレス家当主が、こんなタイの辺境の街に居るのか。次いで湧いたのが疑念。これは服用した薬が見せている幻覚なのではないか。そうでなければ、彼がこの場にいることの説明がつかない。

 先程まで飛び交っていた銃弾の嵐は、いつの間にか止んでいる。

 そこだけが静止したような空間に、少年が入り込んできた。

 

「ロベルタッ!」

 

 ガルシアの言葉に、ロベルタの肩が僅かに震える。

 少年はロベルタと五メートル程の距離で足を止め、ひどく優しい声音で続けた。

 

「やっと追い付いたよ。本当に、やっとだ」

「若、様……」

 

 少年は内から湧き上がる衝動を必死に堪えこの場に立つ。その横に並ぶファビオラは、顔に緊張が表れている。

 

「……私にはもう、貴方が本当にそこにいるのかもわからない。フフ、あの日から、ずっとそう」

 

 ねえ、若様。

 ロベルタはこれまでとは異なる口調で、正面に立つ少年を見つめながら。

 

「これが終われば、あのお屋敷に帰れます。あの、カナイマの咲く、ラブレスのお屋敷に……」

「ロベルタ」

 

 彼女の言葉を、ガルシアは強い口調で遮った。

 

「僕たちは今、復讐という名の螺旋に囚われている。君はそれを、破壊しようとしてくれていたんだね」

 

 君はとても、優しいから。

 右の拳を力いっぱいに握り締めて、ガルシアはロベルタに語り掛ける。

 

「君の過ちを正すことはできる。そして君が望むように命じることも。でもね」

 

 その場に立つ少年は、最早これまで泣いて喚くだけの子供ではなかった。

 そのことを隣に立つファビオラは、そして正面に立つロベルタは。痛いほどに感じた。

 

「――――その一切が、どうでもいいことなんだ」

 

 少年が何を口にしたのか、ロベルタは一瞬理解が出来なかった。言葉の意味を理解するのに数秒をかけ、やがてロベルタはわなわなと口を震わせる。

 

「……どうして。どうでもいい筈ないでしょう!? 貴方のお父様が殺された! 私たちの暮らしが奪われた! どうでもいい筈ない! 許せる筈がないでしょう!!」

「確かに父が殺されたことに対して何も感じないなんてことはないさ。悲しいし、今でも憤りは感じてるよ」

「それが当然の感情です! だから、ですから! お願いですから! 私にただ一言仰ってください! 『誅せよ』と! そうすれば、私は……ッ!!」

「ロベルタ」

 

 もう一度、少年は彼女の名を呼ぶ。

 

「君が屋敷から居なくなって、今こうして再び会うまで、何を言おうかずっと考えていたよ」

 

 一歩。ガルシアはロベルタへと踏み出す。

 

「この街に蔓延する血の臭いがどうしようもなく僕を不安にさせるんだよ。君がもし、その中に身を堕としてしまったらと、気が気じゃなかった」

 

 更に一歩。ロベルタとの距離が縮まる。

 ロベルタは何かを言いたそうに表情を歪めるが、言葉が口を突くことはなかった。その間も、ガルシアはゆっくりと彼女の元へと歩み寄っていく。

 

「でも、安心したよ。君はまだ、僕を心配してくれていた。だとすれば、君ならこの血膿が匂うこの舞踏を終わりに出来る」

 

 だから、ねえ。

 二人の距離は、数十センチにまで縮まっていた。

 手を伸ばせば届く距離に、求めていたものがある。

 

 ガルシアに、躊躇はなかった。

 何も持っていない両の手を広げ、そのまま彼女を抱き寄せる。

 

「……ッ!!?」

 

 突然の行為に顔を強ばらせるロベルタの耳元で、ガルシアは優しく、しかし芯の通った声で言った。

 

「君の罪が消えることはない。それは僕の痛みも同じことだ。だからロベルタ、これからは君の背負ったものを一緒に背負うよ。これまで君がしてくれたように、僕は君の支えになる。それを伝えたかった。それだけを伝えるために、僕はこうしてやって来たんだ」

 

 

 

 83

 

 

 

「よォウェイバー、まだ生きてるとは驚きだな」

『勝手に殺すなよ張。確かに生きた心地はしなかったがな』

「ハッ、なに言ってやがる。どうせギラギラ笑って迎え撃ってたんだろうが」

 

 通話口の向こうから聞こえてくる恨めしげな声に、張はくつくつと笑いを漏らした。

 あの男のことだ、恐らくこちらの連絡のタイミングまで予測していたに違いない。聞けば敢えてラグーン商会のドックにまで出たというではないか。

 確かにあの場にガルシアが居るということが分かっているのだからその場で合流させるのが最も合理的だ。だがその後ろには遊撃隊、そして正気を失った猟犬が居る。その二つを分断せずに相手取ってしまうとは、つくづく規格外だと思わざるを得ない。

 

(まあホテル・モスクワがウェイバーっつう餌に食いついてくれたお蔭で、こちらはスムーズに仕事を遂行できたわけだが)

 

 もともとグレイフォックス襲撃群(コマンドグループ)の目的は「黄金の三角地帯」でシュエ・ヤンの身柄を確保することだ。

 だがそれは三合会としては面白い話ではない。あの場所で製造されている麻薬は、三合会と強い結びつきがあるからだ。

 故に、このグレイフォックスが三合会に助けを求めるという構図に持ち込めたことは僥倖だった。目先の脅威はロベルタだ。その危険因子を放っておくわけにはいかなかった。故に張はグレイフォックスの送り先をフィリピンを経由しアメリカ本国とすることで、済し崩し的に彼らの任務を放棄、失敗へと誘導した。

 

『遊撃隊の銃撃が止んだのはお前の仕業か?』

 

 ウェイバーの声に、張の思考が戻ってくる。

 

「ああ、こちらの仕事は完了した。楽しいパーティは終わりだとな」

 

 街の存続よりも己の欲望を優先するきらいのある女だが、今宵の闘争は満足のいくものであったらしい。受話器越しの声のトーンがやや高かったのを、張は聞き逃さなかった。

 

『そうか。ガルシアとロベルタについてはダッチに任せることにした。足がつくと面倒だから幾らか経由することにはなるだろうが、そこは仕方ないだろうな』

 

 聞きながら、張は水平線から昇る朝陽に視線を移す。

 海から流れるやや塩気を含んだ風に吹かれ、彼は静かに微笑んだ。

 

 

 

 84

 

 

 

『ちょ、それ大丈夫なわけ!?』

 

 現状報告を終えた途端に飛んできたのは、心配とも説教とも取れるそんな言葉だった。

 

「大丈夫なわけあるか、こっちはドテッ腹に鉛玉二発食らってんだぞ」

『アンタの心配してんじゃないわよ。S級首獲りに独断で海渡った挙句A級首まで討ち漏らしたことの皺寄せがこっちにくることを心配してんの!』

「あ、そっちね」

 

 昇る朝陽を見ながら路地の外壁に背を預け、ヨアンは苦笑を漏らした。

 幸いにして弾丸は貫通しているが、逆を言えばそれだけだ。血は今も止まることなく流れ続け、激痛が全身を絶え間なく襲う。

 

「ま、収穫はあった。あの野郎の尻尾こそ掴めなかったが、足跡は確かにあった。この街に間違いなく、奴はいる」

『S級首一人にご執心だねぇアンタも。まぁあんなことされれば無理もないんだろうけど』

「今回は一旦そっちに戻ることにする。報告書は飛行機ン中で纏めるわ」

『はいはい。治療は必要? 必要なら部屋取っておくけど』

「いらねェ」

『言うと思った』

 

 通話を切って、男は笑う。

 この街に来て良かったと、心底思う。

 会いたくて会いたくて仕方がないあの男の影を、ようやく踏むことができたような気がした。

 

 

 

 85

 

 

 

 夜明けを告げる太陽が水平線の向こうからゆっくりと昇ってくる。柔らかな光を受け、礼拝堂のステンドグラスが煌びやかに輝き始める。差し込む光に色が付き、なんとも幻想的な雰囲気が室内を満たした。

 そんな礼拝堂の中で、修道服を来た女は両足を前の席に乗せて煙草の煙を燻らせていた。

 

 彼女の背後で扉が開く音がして、外から褐色肌の男が入ってくる。

 

「終わったみたいですよ姐さん」

「……姐さんって呼ぶなって言ってんだろリコ」

 

 リコと呼ばれた男は爽やかに笑い、彼女の横に腰を下ろした。

 

「姐さんの狙い通りってやつですかね。米軍は任務放棄で帰国。三合会と繋がりの深い麻薬製造プラントは無傷で、ラブレス家の人間も死者無し。おまけにホテル・モスクワとあのウェイバーを前線に引っ張り出して情勢の不安定化を誘った。いったいどんだけ儲けてんだか」

「リコ」

 

 尚も言葉を続けようとしたリコの言葉を打ち切って、エダは煙草の先を突きつける。

 

「うちらのお仕事、金言その一は?」

「他人の便器を覗かない」

「そういうこった。わかったらさっさとシスターに報告してきな」

 

 へいへい、と腰を上げるリコを横目で見ながら、エダは短くなった煙草を灰皿へと押し付ける。

 

「……ああ、それから、あたしゃ暫く此処を空ける。夜会連中には目を光らせときな」 

 

 

 

 87

 

 

 

 早朝の市街地を抜けて事務所に辿り着くと、いつから待っていたのか、雪緒が玄関先で出迎えてくれた。

 

「お帰りなさい」

 

 微笑みながら両手を差し出す彼女にコートとホルスタを預け、デスクの椅子にどっかりと腰を落とした。

 

「ああ、疲れた」

「ねえねえおじさん。私は今日頑張ったと思うの」

「あー、そうだな」

 

 一晩極限の緊張感の中に居たからか、その疲れが今になってどっと出てきた。あれか、歳には勝てないということなのか。いや待て俺はまだ三十代。後半だとしても三十代だ、まだ加齢臭を漂わせるには早いんじゃないか。

 などとどうでもいい思考を巡らせていたからか、グレイが何事かを膝の上で呟いているがよく聞き取れない。というかナチュラルに俺の膝に乗ってくんなよ。流石に重いぞ。言ったら撃たれるんだろうけど。

 

「汗もかいちゃったし。だからねおじさん、一緒にシャワーを浴びましょう?」

「馬鹿か」

「ご褒美があってもいいと思うの。ほら私、今日頑張ったのだし」

「雪緒ー、ちょっとこいつに説教してくんない?」

 

 あんな命のやり取りをしたばかりだというのに、どこまでもグレイはマイペースだった。どこかで育て方を間違えてやしないだろうか。ああ、どっちかつうと最初からだわ。

 尚も膝の上でぶーぶー言うグレイが雪緒に引きずられていくのを見送る。やがてやって来た眠気に身体を預け、俺は幾ばくかの微睡みの後、瞼を閉じる。

 ブラインドの隙間から僅かに入ってくる陽の光の暖かさに包まれながら、しばしの眠りにつくのだった。

 

 

 

 悪徳の都に、陽が昇る。

 平穏とは程遠い男の二度目の人生は、まだ終わらない。

 

 

 

 

 




「悪徳の都に浸かる」、これにて本編完結。


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046 RIOT BEGINS WITH SILENCE

 

 

「マジでか」

「マジもマジ、大マジです」

 

 海岸線から太陽が昇り始めた早朝、所有するオフィスの一角にて。

 雪緒からの一報を受けた俺は、朝っぱらから頭を抱える羽目になった。

 目の前に山積みにされたブツと雪緒を交互に見て、大きな溜息を吐き出す。

 

「コレも出そうと思ってたんだが……」

 

 肩に引っ掛けていたグレーのジャケットを摘まんで、再び溜息。

 俺の手にあるジャケットの大部分が本来の色を失っていることに気が付いた雪緒は、思い切り眉根を寄せた。

 真っ赤。つい一時間ほど前まで行っていた仕事で受けた返り血が、俺の一張羅を鉄臭く染め上げていた。

 

「これはまた派手にやりましたね……」

「ぎっちり詰まっててなァ。というか、俺のだとは思ったりしないのか」

「本当にそうであれば心配もしますけど、そんな事あるはず無いですし」

 

 声音から本気でそう思っていることが窺えて、思わず苦笑を漏らす。

 

「あー、手洗いしないと落ちないですよそれ、その後クリーニングですね」

 

 全くもう、と言いながら手を差し出す雪緒に汚れたジャケットを手渡す。年頃の少女であればどこの馬の骨のものとも分からない分泌液で汚れた衣類など触りたくもない筈だが、雪緒は平然とジャケットを広げ、どこに洗剤を塗り込んでいくか検討を始めていた。

 そんな彼女の足元には、雪緒ともう一人の少女のものであろう衣類がぎっちりと大きめのバスケットに詰め込まれている。

 

「いや多くないか?」

「女の子はこんなものですよ」

 

 普段のこの時間帯であれば既に洗濯されベランダに干されているであろうそれらが、未だこうしてバスケット内に残っているのには理由がある。そう、つまりは。

 

「まさか洗濯機がぶっ壊れるとは……」

 

 我が家の洗濯機、まさかの故障である。

 確かにグレイや雪緒を引き取ってから、うちの洗濯機はかなり酷使されてきた。これまで男一人分で済んでいたが、そこに女性二人分の洗濯物が追加されたのだ。しかもやたらと幅を取るグレイの衣服と、日本から持ち込んだらしい沢山の洋服を所持する雪緒の洗濯物である。そこらの電気屋で当時一番値が張る品を、店主の心遣いで無料にしてもらった洗濯機だ。スペックはそこそこ良かったはずだが、やはり一人用の洗濯機に三人分を突っ込み続けるのには無理があったということなのだろう。

 

「買い替えるにしても今日は夜会の会合があるしな……」

「一日くらいは替えの洋服もありますし大丈夫ですよ。買いに行くときは私も一緒に行きますね」

「金渡すから選んできてもいいぞ」

 

 現在うちの財布を握っているのは基本的に雪緒である。普段の買い物は彼女にほぼ任せている。というか俺が買い物に出ると店の人間が出てきてくれないから取り次ぎが面倒なのだ。

 なので今回も彼女に一任しようかと考えて、特に深い意味はなくそんな事を呟いたのだが。

 

「…………むう」

 

 雪緒は半目になってジトっとした視線を俺へと向けてきた。

 

「たまには一緒に買い物してくれてもいいんじゃないですか。ほら大荷物になりますし」

「俺が行くとスムーズに進まないぞ」

「それもまた良しです。荷物持ちは必要ですよ、とびきりのボディガードとか」

「左様で」

 

 俺を荷物持ちと言えるのはこの街を探しても彼女くらいだろうな、なんてどうでもいい事を考え、次いで己の身体の至る所に返り血が付いていたことを思い出す。

 

「明日なら空いてる、雪緒はどうだ」

 

 やや汗ばんでいるシャツを脱ぎ捨て、シャワールームへと向かいがてら彼女へと確認を取る。

 

「ええ、私も大丈夫です。楽しみにしてますね」

「洗濯機買いに行くだけだけどな」

「それでも、です」

 

 柔らかに微笑む少女に背を向けて、オフィスの隣に備えられたシャワールームへと入っていく。

 頭から熱めのシャワーを浴び、ごしごしと血の付着した部分を洗い流しながら。

 

「……このまま血と一緒に面倒な夜会もお流れになってくれねェかな」

 

 ああ、ダメだ。

 そういえば前回の会合も面倒臭がってフけたんだった。流石に今回は顔を出しておかなくては張やバラライカから小言を言われてしまう。

 

「しょうがねェ、替えのジャケット出しとくか」

 

 

 

 

 1

 

 

 

「…………」

「…………」

 

 カラン、と。グラス内の氷が音を立てる。

 今日のイエローフラッグは普段の喧騒など嘘のように静まり返っていた。ウェイバーが店内に居ると必然的に無音の空間が生成されるが、今回に限っては彼が原因ではない。

 無頼漢共すら声を出すことを躊躇う原因、その出処へとロックは視線を移した。

 

「…………」

「…………」

 

 片やニコニコ、片やイライラ。

 擬音で二人の感情を表わすのであれば、きっとこんなところだろう。犬猿の仲と表現して相違ない彼女たちは、イエローフラッグのカウンターで顔を突き合わせて一触即発の空気を醸し出していた。

 この空気はよろしくない。ロックは直感的に悟った。自分の隣に座るベニーなんかはいつでも退避出来るようにふくらはぎのストレッチを始める始末である。

 そんな終末的空気を作り出している張本人、レヴィとグレイは周囲の視線など微塵も気にすることなく、対面の女にのみ意識を集中させていた。

 

「クソジャリ、ここはテメエみたいなお子様が来る場所じゃねェ。とっとと失せろ」

「まあ口が悪いわお姉さん。レディはもっと御淑やかにするものよ」

「ハッ、色気もヘッタクレも無ェガキがレディとは笑わせるぜ。片割れのメガネ女の方がまだマシだ」

「むっ」

 

 視線の交錯は一瞬。

 グレイは肩に下げていたBARを、レヴィはホルスタからカトラスを抜いて互いの眉間へ照準を合わせる。既に引鉄には指がかかり、セーフティも外れている。二人揃って獰猛な笑みを浮かべていた。

 と、流石に店内でのドンパチを看過出来なかったのか、それまで我関せずでグラスを磨いていたバオが声を荒げた。

 

「やいテメエ等いい加減にしろよ! うちはテーマパークじゃねえんだ他所でやれ!!」

「邪魔すんなバオ、アタシはコイツを地獄に叩き落さなきゃ気がすまないんだ」

「同感だわ、私もよお姉さん」

 

 バオの忠告を右から左へと聞き流し、銃口を突き付け合ったままの二人。そんな聞く耳を持たない二人へ、額に青筋を浮かべた店主は。

 

「……ウェイバーにチクるぞ」

 

 反応は劇的だった。

 それまで睨み合っていた両者はそそくさと得物を仕舞い、何事も無かったように席に座り直す。

 そのあまりの変わり身の早さに、隣で様子を見守っていたロックは頬を引き攣らせるしか無かった。

 

「ボスに迷惑は掛けられねェ、今日の所は勘弁しといてやるよクソジャリ」

「おじさんが困る顔は見たくないわ、命拾いしたわねお姉さん」

 

 張り詰めた空気が霧散したことで、店内は徐々に普段の喧騒を取り戻していく。

 これまでまるでそこに居ないかのように息を殺していた悪漢たちも、いつもの調子を取り戻したようだ。

 

「そういえば、お兄さんたちはどうしてここに?」

 

 グラスに注がれた真っ白な液体をゆっくりと嚥下していたグレイが、上唇を白く染めながらロックへと問い掛けた。

 二人の間に座っていたレヴィは一旦ダッチへ連絡を取ると言って席を外している。逆隣のベニーも携帯片手に誰かと電話中だ。そんな中の少女の質問だった。

 時間はすでに午後八時を回っているため、ただ酒を飲みに来ただけという可能性もある。にも関わらず、グレイはそんな発言をした。おそらくは普段と異なる雰囲気に本能の部分で気付いているのだろう。

 その質問に、ロックは軽い調子で答える。特に隠すような内容でも無いからだ。

 

「人をね、待ってるんだ」

「お仕事なの?」

「ああ。と言っても、待ち人が合流すれば俺はお役御免てところなんだけど」

「残念だわ。この間のお兄さん、中々カッコよかったのに」

 

 ――――あの真っ黒な目なんか特に。

 グレイは少女とは思えない艶やかな笑みを浮かべてそう言った。

 

 ロックは表情を変えないまま、手元のバカルディを一息に呷る。喉元を熱が通り過ぎていくのが分かった。

 

「……そう言う君は、どうしてここに? イエローフラッグにはあまり来ないイメージだ」

「そうね。私はお鬚のおじさんより金髪のお姉さんの方が好き」

「ああ、カリビアン・バーか」

 

 自分と同じ年くらいだろうかという金髪女性の店主の姿を思い返す。確かあの酒場はグレイがひと悶着起こした場所だったと思うのだが。

 

(というかあそこはホテル・モスクワ管轄の酒場じゃなかったか。大丈夫なのか色々と)

 

 ロックの懸念は尤もである。

 グレイたちが中心となって起こした騒動は、血腥い凄惨なものだった。今こうして少女が生きていることが奇跡だと思える程に。

 その渦中に居たのはホテル・モスクワと三合会、コーサ・ノストラ、そして。

 

「おじさんがね、今日は連れていけないからここで待ってろって」

 

 不満げに頬を膨らませて、グレイは空になったグラスをバオへと手渡した。

 

「ウェイバーさんが?」

 

 周囲に聞こえないよう出来るだけ小声で、ロックは身体を寄せてグレイの耳元で問い掛けた。

 

「ええ、何でも今日は連絡会に出ないと行けないんですって」

「何だって?」

 

 少女の口から告げられた言葉に、ほぼ無意識のうちにロックは聞き返していた。

 

「出なくちゃいけないと言ったのか? あの人が?」

「そうよ、理由は教えてくれなかったけれど。私を置いていっちゃうなんてひどいわ」

 

 尚も愚痴が止まらない少女の隣で、ロックは思考を巡らせ始める。

 連絡会に出なくてはいけない。本当にあのウェイバーがそう言ったのだとしたら。

 

(あの人が出張らなくてはならない程の案件が今、この街で根を張っている……?)

 

 グレイの言葉が真実であれば、彼女にすら聞かせられない程の案件だ。

 先日のロベルタと米軍が絡んだ一件では連絡会にグレイと雪緒を同行させていたと聞いている。ということは少なくとも、危険度は今回の方が上ということなのではないか。

 

「……他に何か言っていたことは無かったかい?」

「んん、そうね……。洗濯機がどうとか言っていたかしら」

「せ、洗濯機……?」

 

 

 

 2

 

 

 

 今回の連絡会はコーサ・ノストラ所有のクラブ「ロッソ・シュプレーモ」で行われる。イエローフラッグからは割と近い位置に建っているので、グレイはそこに置いてきた。以前連れて来たときに思ったが、年若い少女にはこの副流煙で埋め尽くされた空間は毒にしかならない。成長を妨げる要素は出来るだけ排除してやりたいのだ。おっさんの気遣いというやつである。

 

「よ、ようこそミスター。得物はこちらに」

「ん、丁重に扱えよ」

 

 得物をコーサ・ノストラの構成員へと渡し、掲示された部屋へと向かう。廊下まで充満している香水の匂いに鼻を摘み、装飾の施された木製の扉をゆっくりと開く。

 

「お、今日は来たかウェイバー」

「まあな」

 

 赤を基調とした室内には既に張とバラライカ、アブレーゴの姿があった。

 

「オイオイ、ウェイバーが来るなんざ聞いてねえぜ。今日はどんなハリケーンを起こそうってんだ」

「人を災害みたいに言うんじゃねえよアブレーゴ。しがない小市民に何て言い草だ」

「小市民とは面白い冗談ねウェイバー。私にもそれくらいのジョークセンスが欲しいものだわ」

 

 いや冗談で言ったつもりは無いんだけどな。利権だけが先走っており、気分はいつまで経っても一般市民である。

 部屋の中央に置かれた丸テーブル、それを囲うように設置された高級ソファの一角にどっかりと腰を下ろす。

 と、そこでまだ人数が揃っていないことに気付く。

 

「あ? ロニーの奴はまだ来ていないのか」

 

 時間に五月蠅いあのシャークボーイが定刻五分前に来ていないのは珍しい。何かデカいトラブルでも舞い込んでいるのか、それとも。

 そこまで考えたところで、部屋の扉が開かれ件の男が入ってきた。

 ふむ、パッと見た所特段焦燥に駆られているような様子は無い。

 

「珍しいじゃないかロニー。お前が最後だ」

「珍しさで言えばウェイバーが来ていることの方が上だろォが、後が閊えてる。さっさと始めるぞ」

 

 この不機嫌さはいつもの事、ではないな。

 本人は隠しているつもりだろうが、俺にはお見通しである。伊達に十年もコイツらに演技をしてきていない。面の皮の厚さで俺に勝てると思うなよ。

 

「それで? 今日の会の趣旨は何なのかしら」

 

 脚を組み替えながらバラライカが問い掛ける。視線はロニー、次いで張へと走る。

 

「特に無いってんなら俺たちは帰らせてもらうぜ。こんなクソッタレな顔が並ぶ空間には一分一秒だって居たくねェ」

 

 開幕早々なんて言い草だこの褐色サングラス野郎は。

 まあ俺も用が無いってんならとっとと帰りたいんだが。

 

「まあそう急くなよアブレーゴ。俺から一つ、諸君らの耳に入れておきたい情報がある」

 

 咥えていた煙草を灰皿に押し付け、張がぐるりと俺たちを見回す。

 

中国軍(奴さん)がどうもこちらを嗅ぎ回っているようだ。俺には思い当たる節が無いんだが、何か知っている者は?」

 

 ふむ。中国人民解放軍とな。ここ数年はあまり関わりの無かった組織である。五年ほど前に参謀本部の副長を葬ったことがあるが、それだけだ。弁解させてもらえば、あれは向こうから吹っ掛けてきたのである。正当防衛を主張したい。いやまァ、ビル一棟を丸々使って土葬したことについてはやり過ぎたかとも思うが。

 

「中国ね、私よりも余程そちらの事情に詳しいのではないかしら、張」

「よせよバラライカ。中国と香港を一緒くたにしないでくれ」

「そういう事ではないのだけれど、まあいいわ。ウェイバーはどうなのかしら」

 

 新しい煙草を取り出していたところにそんな言葉が飛んできた。唐突に俺に話を振らないでもらいたいものだが。

 

「中国の事情なんて知らん」

「フフ、そうよね。表情一つ変えずに参謀本部の将校を圧死させるくらいですものね」

「思い出させてくれるなよ、色々と事後処理が面倒だったんだぞ」

 

 愉快そうに笑うバラライカに、掌を額に当てて溜息を吐き出す張。いや笑い事じゃないからな、この一件で俺はICPOから一層狙われるようになったんだぞ。

 

「俺たちカルテルは東アジア圏(そっち方面)はさっぱりだ」

「俺が知ってると思うか? 極東の猿の動きなんざ一々把握してねェよ」

 

 アブレーゴ、ロニー共に中国軍の動きは初耳らしい。その返答に張はフムと一つ頷き。

 

「そうか、いや、ならいいんだ。どこの組織も関与していないというのであれば、それはそれで都合がいい。完全な外部組織の介入として万が一の場合は制圧すればいいだけの話だ」

 

 そこで話を切るあたり、張もそこまで大事になるとは思っていないらしい。直接的な動きが表になっていないということもあるのだろうが、以前のロベルタやグレイのような一件にはならないという見解のようだ。

 あんな事がしょっちゅう発生しても困るが。

 

「俺からのトピックは以上だ。他に何かある者は?」

 

 その問い掛けに、誰も彼も口を閉ざして返答する気配がない。

 重いんだよ、空気が。始まるまではそれなりの雰囲気だっただろうが。どうしてこう全員が揃うとこんな一触即発の空気が生成されちまうんだ。非常に居心地が悪い。

 ……ここでボケとか入れてみたら和やかになるだろうか。即座に蜂の巣にされそうだな。ああでも、この場には武器の類は持ち込み禁止だ。

 バラライカや張などはともかく、どうも俺は他人から勘違いされるきらいがある。ここでユーモアな一面を見せて、警戒心を和らげておくことも必要かもしれない。そうだな、何だかそんな気がしてきた。

 

「張」

「ん、どうしたウェイバー」

「いや、この場で言う程の事でもないんだがな」

「…………言ってみろ」

 

 俺の言葉を受け、途端にサングラスの奥で瞳を細める張。いや怖えよ。俺はその眉間の皺をほぐそうとしてんだぞ。なんでより深くなってんだよ。

 まあいい。本番はここからだ。

 

「ああ、実は――――洗濯機がイカレちまってな」

 

 

 

 3

 

 

 

「ふむ、洗濯機(・・・)ね。そりゃあ大変だ、一刻も早く修理しないとな」

「ああ、近いうちに買い替える予定なんだ。どうせもう今使ってるのはダメだろうからな」

「ウチから卸してあげましょうか? 最新のを回してあげるわよ」

 

 室内で交わされるそんな会話を耳にしながら、人喰いジョニーとの異名を取る男は大きな衝撃に襲われていた。

 どういうことだ、どうしてあの男が洗濯機の事を知っている。

 

(内部から情報が漏れたのか? いや、うちの連中でそんな自殺行為をしでかすようなマヌケはいねェ。だとしたらどこから……)

 

 ロニーの機嫌がすこぶる悪いのも、元を辿ればこの一件が原因だ。

 

「ミスタロナルド、どう思う?」

「ああ?」

「洗濯機だよ、次はどこのを買おうかと思ってね」

 

 さも自然にロニーへと話を振るウェイバーへ内心で舌を打つ。

 今このタイミングで「洗濯機」という単語が出たことからも、おそらくウェイバーはこちらの内情を察知している。問題はその程度と意図だ。

 

(何を狙っていやがる……)

 

 苛立たし気にカチカチと歯を鳴らして、ロニーは手にしていた煙草を握り潰した。

 

「……イタリア産をお薦めするよミスタ。間違っても中国の紛いモノなんて買うなよ」

「そうか? 最近の中国製品は意外に高品質だぞ?」

 

 一見するとただ新しい洗濯機を買おうと考えているだけにしか見えない。

 が、当然この場に居る者たちはこれまでの発言を額面通りには受け取らなかった。

 

 真面目にカタログを取り寄せるかどうかを話し始めたウェイバーの隣で、張は思考する。

 黄金夜会の連絡会という場で、態々ウェイバーが持ち出した話題。何もない訳がない。これまでの彼の所業を思えば、何も無いと楽観視できる筈もない。

 そもそもウェイバーが今日連絡会に来た時点である程度の予測をしておくべきだった。今隣で洗濯機の性能について力説している男は歩く災害だ。これまでにも同様の事があったのを失念していた。ちらりと対面を見ればアブレーゴも頭を抱える素振りを一瞬だが見せていた。どうやら似たようなことを考えているらしい。

 ただ一人、バラライカだけは愉しそうに笑っているが。

 

(洗濯機、パッと思いつくのはいくつかあるが……)

 

 ウェイバーが会話の端々で口にしている単語を記憶し、吟味していく。

 彼が何を思って一見無意味に見える会話を続けているのか。その裏を読み解く必要がある。

 

 こりゃ面倒なことになりそうだ。

 張の溜息が、煙草の煙と共にゆっくりと吐き出された。

 

 

 

 4

 

 

 

「彼女、もうすぐこっちに着くみたいだ」

 

 十分ほど電話を続けていたベニーが携帯電話を仕舞ってロックへと向き直った。

 

「というか、いつの間にそんなに仲良くなってたんだ?」

「うん? 恐怖している女性に優しくするのは男として当然のことさ、そうだろう?」

「ああ、ウェイバーさんにトラウマ植え付けられてたもんな……」

 

 あんな現場と表情を見せられてしまっては無理からぬことだろう。ロックは苦笑を浮かべるしかなかった。

 血溜まりの路面を平然と歩ける一般人が居るというのなら見てみたいものだ。

 

「彼女って?」

「君がパソコンをぶっ壊した女性だよ、グレイちゃん」

「ああ、あのお姉さん」

 

 長電話のせいで温くなったスコッチを流し込んで、ベニーがそう教えた。

 グレイはと言うと関心が薄いのか、平坦に答えるだけだった。

 

「まあそのおかげで僕たちは仲良くなれたんだけどね。壊れたパーツを搔き集めてパソコンを作り直したんだ」

「そうだったのか?」

「ああ、送り届ける最中にアドレスを」

 

 ベニーの言葉が最後まで言い切られることはなく。

 悪漢たちの喧騒の中にあってもよく響く声と、朗らかな笑みを携えて彼女が酒場へと足を踏み入れて。

 

「ああ、会いたかったわ私のスウィートちゃん!!」

 

 褐色肌のインド人、ジャネット・バーイーが現れた。

 

 と、ベニーへと愛の言葉を並べ立てていたのも一瞬の事。

 すぐ横に座っている銀髪の少女を視界に収めると、顔を真っ赤にして声を荒げ始める。

 どうしてコイツがここにいるのやら、私のパソコンの修理代金を寄越せやら喚き散らしているが、グレイはその言葉の尽くを聞き流し、すまし顔でミルクを飲んでいる。

 

「まーまー落ち着いてくれよチョコパイ。彼女は偶々ここに居合わせただけなんだ。僕らとはここでオサラバだよ」

 

 尚もフーフーと荒い息を吐くジャネットを何とか席に着かせて落ち着くように促す。

 三分ほどの時間をかけてようやっと平静を取り戻した彼女は、今度は思い出したようにベニーへと抱き着いた。

 

「忙しないな君は」

「だって半年間も会えなかったのよベーグルちゃん! 貴方も寂しかったでしょう!?」

 

 ベニーの腰に抱き着いて腹部に顔を擦り付ける。流石に見過ごせなかったのか、バオが柳眉を吊り上げてカウンターから顔を出してきた。

 

「おい、どうせ盛るなら上でやれ。30ドルで貸してやる」

「あら、部屋を貸してくれるなんて存外親切ね。どうする?」

「やめておいた方が賢明だよハニー。バオがただの親切で部屋を貸してくれるわけないだろう?」

 

 仮にこのまま二人がバオの所有する一室で熱い一夜を過ごした場合、その翌日には一部始終が録画されたビデオが叩き売られることとなる。

 

「それにだ、まだ待ち人が到着していない」

「あら、待ち人ってこのお姉さんのことじゃないの?」

 

 今度は興味を惹かれたのか、不思議そうに問い掛けてくるグレイにロックは一つ頷いて。

 

「彼女の仕事仲間を待ってるんだ。待ち合わせの時間はもう過ぎてるんだけどね」

 

 待ち合わせの時刻は八時半、時計の針はすでに九時を回っている。ジェーンも遅刻は遅刻なのだが、彼女には罪悪感など一切無いようである。

 

「そろそろ到着していい時間の筈だ」

「迷ってるんじゃないかい? この街は一見さんがホイホイ歩き回れるような場所じゃない」

 

 ベニーの膝の上に乗っかったジェーンはうーんと唸って。

 

「ま、大丈夫でしょ。子供じゃないんだから地図さえあれば来れるわよ」

「ジェーン、さては何も考えてないね?」

 

 やや呆れた様子でベニーが息を吐く。

 この街の危険性は彼女が直に感じた筈だが。

 

「その人が時間にルーズじゃないのなら良くない兆候だ。何かトラブルに巻き込まれてるかもしれない」

「まっさかぁ。いくらなんでもそこらにホイホイ厄介事が転がってるわけ……」

「甘い」

 

 やや押され気味なジェーンへ釘を刺すように、ロックは毅然と言い切った。

 

「君がどんな目にあったか忘れた訳じゃないだろう?」

「組織に所属してねェアホンダラがどんだけこの街にいると思ってる。そいつらが皆健気に日銭を稼いでると思ったら大間違いだぞ」

 

 ロックの目の前にショットグラスを置いたバオも会話に加わってきた。どうやら厨房は英一に押し付けてきたらしく、奥から大量の仕事を目の当たりにした青年の泣き言が聞こえた気がした。

 

「とにかく、一度探しに……」

 

 ロックが待ち人の捜索を進言しようとした、その瞬間のことである。

 

 唐突に、静寂が押し寄せた。先ほどまでの喧騒が嘘のように、店内から音が消える。

 悪漢たちの声が再び消えたことを実感するよりも数舜速く、ロックは悟った。

 そして思考がやや遅れて追いついてくる。グレイがこの酒場に居たこと、その理由と合わせて。この静寂の原因に辿り着く。

 

 やけに鈍い金属音を響かせて、革靴が床を鳴らす。

 と、そこに続くもう一つ足音があることに気が付く。

 

 ゆっくりと身体を反転させ、入り口の方へと視線を移せば。

 

 

 

 ウェイバーともう一人、見知らぬ黒髪の女性が立っていた。

 

 

 

 ――――これは一波乱ありそうだ。

 ロックはなんとなく、そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 




>「……ウェイバーにチクるぞ」
バオだけが使える魔法の言葉。


>……ここでボケとか入れてみたら和やかになるだろうか。
おっさんがおっさんたる所以。


>やけに鈍い金属音を響かせて、革靴が床を鳴らす。
ウェイバーもこの扉が何製なのかは把握していない模様。


>ウェイバーともう一人、見知らぬ黒髪の女性が立っていた。
原作で言うとまだ20ページくらいしか進んでいないという衝撃の事実。


> ――――これは一波乱ありそうだ。ロックはなんとなく、そう思った。
直感EX


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047 Welcome to the Black Party

 

 目的の港町に到着して、女がまず抱いた印象は”血生臭い”であった。

 自身が住んでいた中国の片田舎にも似たような貧困街は存在したが、この地はそれを遥かに上回る殺伐とした雰囲気を滲ませている。誰も彼もが肌身離さず凶器の類を所持し、安っぽい看板が乱立する通りには男たちの罵声が飛び交う。

 嗚呼、最悪だ。

 いくら仕事とは言え、こんな東南アジアの港町で何日も過ごさなければならないことを思うと早くも気が滅入る。

 

 意を決して足を踏み出し、目的地である指定の酒場へと向かう。ガラガラと引かれるスーツケースの車輪の音も、そこいらのチンピラの騒ぎ声で掻き消される。女はその喧騒に思わず顔を顰め、次いでポケットからコピーされた地図を取り出した。

 幸いなことにこの街はそれほど入り組んだ作りはしていないらしく、何本か通りを抜ければ目的地は視界に入ってくるようだ。

 

「イエローフラッグ、ね」

 

 女は酒場の名を中国語でポツリと呟く。

 事前に聞いた情報によればこの街でもかなり有名な部類の酒場であるらしい。何を以てして有名なのかは不明だが。

 高級な酒をいくつも揃えているのか、はたまた美人な女を並べているのか。

 そんな他愛の無い事を考えながら歩いていたからか、女は前方に立つ複数の男たちの存在に気付くのが遅れた。

 

「よォ姉ちゃん。ここらじゃ見ねェ顔だな」

 

 アロハシャツを着た恰幅のいい黒人のロン毛が、女の行く手を遮ってそう声を掛けた。

 その声でようやく男たちの存在に気が付いた女は、ハッと地図から顔を上げる。そこには気味の悪い笑みを浮かべた三人の男の姿。

 女を取り囲むように位置を移すと、ずいっと顔を寄せて。

 

「随分と重そうなケースを引き摺ってるじゃねえか。俺らが持ってってやろうか?」

「結構。急いでるの、そこを通してもらえるかしら」

 

 毅然とした態度を崩さず、男たちの間を通り抜けようと一歩を踏み出した女であったが、その肩を男の手が押し留める。たたらを踏んでその場に留まることとなった女は、目の前の男をキッと睨み付けた。

 

「おー怖っ」

「気が強い女は嫌いじゃねえぜ」

「おいおい今日はそういうんじゃねェだろ」

 

 内輪で会話を始める男たちを尚も睨みながら、どうにかしてこの場を切り抜けられないか考える。

 手荷物を渡すわけにはいかない。持ってきたPCには重要なデータがいくつも眠っている。万が一失ってしまえば、これからの仕事に支障をきたすというレベルでは済まされない。

 

「さて、じゃあ姉ちゃん。痛い目見たくなかったらさっさと金目のモノ出してくれ。こんな所で冷たくなりたくはないだろう?」

 

 黒人の大男はそう言うと、懐から刃渡り十五センチ程のナイフを取り出した。その切っ先をそっと女の首筋へ突き付ける。

 刃物が出たことで、女の身体が一気に強張る。首に添えられたナイフがあと数センチ押し付けられてしまえば。

 ドッ、と恐怖が押し寄せる。慌てて周囲に視線を巡らせるも、助けてくれそうな素振りを見せる人間はいない。それどころか関わり合いになりたくないとばかりに視線を逸らし、早足にその場を離れる人間たちばかりである。

 

「俺としちゃ別に殺したって構わないんだぜ、それから荷物を奪えばいいだけだからよ」

 

 その言葉が止めとなった。命あっての物種、ここで無残な屍を晒すくらいなら。

 女は俯いて下唇を強く噛み締め、徐々にスーツケースを握る力を緩めていく。 

 その様子を認めた男たちは、一層笑みを深くした。

 

 油断しきった男たちは、故に気が付かなかった。

 どこからどう見てもこの街の人間ではない女が一人で歩いていた場面に出会して、重要な事を見落としていた。

 一体どうして、周囲の人間たちは我関せずを貫いていたのか。

 

 ロアナプラの住人の中でも一介のチンピラに過ぎない男たちが、美味そうなカモに喰い付くのを放置していたのか。横取りしようと思えば出来た筈である。少なくとも、この街にはそんな思考の野蛮人どもが吐いて捨てる程のさばっている。

 では何故そうはならなかったのか。

 答えは女の風貌にあった。

 

 ――――黒だった。染物ではない、おそらくは地毛であろう黒髪だった。

 

 加えてその人相である。東洋の人間であることを窺わせる顔立ちと、理知的な印象を抱かせる細身の眼鏡。

 黒髪、女、眼鏡。

 この三つが揃う女に碌な奴はいない、というのがこの街では共通認識となりつつあった。原因は言わずもがな、どこぞのメイドと任侠娘である。

 

 さらに言えば、これらが揃う人間は十中八九あの男と繋がっているということもあった。

 ロアナプラで敵対はおろか近づくことすら躊躇う国籍不明、本名不詳の男。

 

 件のその男は、いつの間にか男たち三人の背後に立っていた。

 

「困るな、面倒事を起こされるのは好きじゃないんだ」

「…………っ!!?」

 

 決して声を張り上げた訳ではないというのに、その男の声はいやによく響いた。

 声がした方へ振り返り、次いでその存在に気付いた男たちの顔から、即座に表情が抜け落ちる。

 女は突然の事態に状況を飲み込めないのか、口を半開きにして現れた男を見つめていた。

 中国人ではない。東アジア圏の人間は中国、韓国、日本それぞれの顔立ちを見分けることがある程度可能だ。女が見た限り、日本人に最も近い印象を受けた。

 

 グレーのジャケットを羽織ったその男は、三人の男たちを順番に見て、それから女へと視線を移した。

 

「怪我は?」

「い、いえ……」

「それは良かった」

 

 その男は簡潔にそれだけ言うと、改めて三人を見据える。

 

「俺も暇じゃないんだが」

「ま、待ってくれ! いや待ってください! アンタの知り合いだったなんて知らなかったんだ!」

「命だけは、命だけは!」

 

 男は一つ息を吐いた。

 

「……仕事が控えてる。深紅のジャケットを仕立てるつもりは無いが、俺の気が変わらん内に消えることを勧める」

 

 ジャケットの内側へと手を伸ばす男を前に、三人はこの世の終わりと言わんばかりの表情を浮かべたが、告げられた言葉と取り出された煙草を見て猛ダッシュ。女の横を走り抜け、暗い路地裏へと消えていった。

 取り残された女はそんな目の前の光景をどこか他人事のように眺めながら、美味そうに煙草を吸う男をぼんやりと見つめていた。

 その視線に気づいた男は、煙をゆっくりと吐き出して。

 

「ようこそお嬢さん、ロアナプラへ」

 

 

 

 5

 

 

 

「……くたばってただと? ザミドの野郎が?」

「ええ、マルタでクルーズ中に事故(・・)にあったとか」

 

 イタリアンマフィア、コーサ・ノストラ。 

 ロアナプラに建つ支部のオフィスに戻って早々聞かされたのは、面倒な臭いを漂わせた事故報告だった。ロニーは舌を打って革張りの椅子に腰を下ろす。

 

「その情報の出処は」

「ヤードですボス、ロンドン(スコットランド)警視庁(ヤード)

 

 ロニーの表情があからさまに苛立ちを見せる。

 

「面倒な事をしてくれやがってあの魚糞野郎が、ヤードの動きはどうなってる」

「今の所不幸な海難事故として処理されているようです。その背景までは手が伸びていません」

「オーケー、あの口座に辿り着かれる前にさっさと本題を片付けちまった方がいい」

 

 言って、ロニーはオフィスの隅で転がされている血達磨へと視線を向けた。

 既に虫の息の血袋と化した男は、しかしロニーの視線がこちらへ向いていることに気付いて力の限り声を振り絞った。

 

「俺が、俺が悪がっだ……! 権利書の場所も教える……!」

 

 周囲を高級そうなスーツを着込んだ男たちに囲まれたその男は、血反吐を吐きながらも懇願する。

 

「頼むロニー、助げてぐれ……」

「チッ、」

 

 そんな男を見下ろすロニーの瞳は、目の前の人間を人間として見ていなかった。

 囲んでいた構成員たちをジロリと睨み、苛立たし気に舌を打つ。

 

「いつまで遊んでいやがる、ホームパーティはとっくにお開きの時間だ」

「しかしボス、サミーは権利書の在処を」

「いいんだよクソッタレ。ザミドがくたばった以上、もうそんなレベル(・・・・・・)の話じゃなくなった。とっとと殺せ」

 

 その言葉が引鉄となり、室内に数発の発砲音が轟く。

 組織に盾突いた愚か者は始末した。しかし、ロニーの顔色は晴れない。彼にはまだ解決しなければならない厄介事が残されているからだ。それも、二つ(・・)

 

「それでだ、カミッロ。行方は分かったのか」

「それが、分からねェんですボス。ザミドの野郎は慎重だ。そう足の付く動きをするような奴じゃない。安全な場所へ移してるはずなんですが……」

「それが問題だろォが」

 

 部下からの報告を遮って、ロニーは拳を握り締める。

 

「例のブツがザミドだけが知ってるその安全な場所とやらにあるとしてだ、一体どこのどいつがそれを掘り出せるってんだ?」

「……ッ」

「ドン・モンテヴェルティもこの件に関しちゃ神経を尖らせてる。アルバニア人たちは期限を切ってきやがった」

「……黙らせますか?」

 

 馬鹿野郎が、と部下を一蹴。

 

「俺たちはロシア人じゃねえ、そんな力づくってわけにもいかねェよ。それにだ」

 

 そこで一度言葉を切って、ロニーは静かに口を開いた。

 

「ウェイバーが勘付いていやがる」

「そんな、まさか!?」

 

 途端室内に広がる動揺を、ロニーは視線だけで黙らせた。

 

「今日の連絡会で奴は釘を刺してきやがった。『洗濯機』なんて単語、何の意味も無く出てくるわけが無ェ」

 

 他の夜会連中には気付かれることがないよう、裏で完璧な根回しをしてきたはずだ。

 事実張やバラライカはコーサ・ノストラがアルバニア・マフィアと繋がりを持ったことには気付いていないだろう。そのように動いてきたし、ロニー自身細心の注意を払ってきた。

 だが、あの男は気付いた。

 洗濯機、と口にした以上こちらが何をしているのかまで把握しているのだろう。

 

「……奴はこの街の均衡が崩れるのを嫌う、自分の事は棚上げしていやがるがな。こうなった以上猶予は無ェ。帳簿を弄れる人間を探し出せ、今すぐにだ」

 

 

 

 6

 

 

 

「私知ってるわ、こういうのを日本じゃ一石二鳥って言うんでしょう?」

「いや、そんなポジティブな状況じゃないような気が……」

「じゃあ盆と正月がいっぺんに来たってやつかい?」

「馬鹿野郎そんな目出度い状況に見えるか? 俺には二発の核弾頭にしか見えねえぞ」

 

 それはもう、言いたい放題であった。

 イエローフラッグへと足を踏み入れた途端にこの言われようである。流石におっさんの心も傷つく。いやまあ、実際は微塵も気にしてはいないのだが。慣れとは恐ろしいものである。

 僅かに苦笑を漏らして、後ろを付いてきた女とともにいつものカウンターへと向かう。相変わらず静かな店だ。外の喧騒とは打って変わって、グレイたちの話声しか聞こえない。

 

「悪いなグレイ、待ったか」

「大丈夫よおじさん。お兄さんがお話相手になってくれたの」

「そうか、悪いなロック。子守りを押し付けちまった」

 

 言いながらグレイの隣に着き、バオにウイスキーを注文。予め用意していたのか、すぐに足元から新品のボトルが取り出されテーブルへと置かれた。

 

「用意がいいな」

「いい加減オメエの好みも分かるってもんだ。全く嬉しくねえがな」

「同感だ」

 

 おっさんに俺の好みを把握されても微塵も嬉しくない。

 

「さて」

 

 くるりと回転式の席を半回転。これまで俺の後ろにくっついていた女へと向き直る。

 ちらりと横目で見れば、いつだかのインド女も件の女へと視線を向けていた。というかベニーとやたら距離が近いような気がする。まあ、今はそれは置いておくとしてだ。

 

「ここいらじゃ見ない顔だから声を掛けたわけだが、俺も別に慈善事業を営んでいる訳じゃない。ここに来た理由くらいは教えてもらえるか」

 

 尤も、と付け加えて。

 

「そこのインド女が居る時点で大体の察しは付くが」

 

 嘘である。

 大体も糞も一ミリも繋がりなどあるか分からない。ロアナプラ流おっさんジョークである。ここでロックあたりに「違いますよやだなあウェイバーさん」、なんて突っ込んでもらって黒髪女の緊張を解いてやろうと思ったのだ。何やらチンピラに絡まれてからずっと表情が硬かったようだし、怖い思いをしたのだろう。人生経験だけは無駄に豊富なおっさんなりの気遣いである。

 

「……相変わらず気持ち悪いくらいの洞察力だこと。ダーリン、あいつにこの事言ったりしてない?」

「あー、チョコパイ。ウェイバーに関しちゃ勘繰るだけ無駄だ。彼と頭脳戦なんてしたら数分で電子レンジに放り込まれた生卵みたいになる」

 

 おい、ボケにボケ被せるなよ。ロックもそんな顔するな。

 

「……先ほどは助けていただきありがとうございました、ミスター」

 

 律儀に礼を述べる彼女に、気にするなと手を振る。

 尚も硬い表情を崩さない彼女は一度小さく息を吐いて、インド女(そういやジェーンとか言う名前だったか)へと向きを直して。

 

「では、改めてご挨拶を。(フォン)亦菲(イッファイ)と申します。お初にお目にかかりますミスター、そしてボス。フォーラムでは『ヴァイオレット・スピア』と名乗っていました」

「はあいスピアちゃん。アタシのことは知ってると思うから、こっちの自己紹介は省略させてもらうわ」

 

 軽い調子でそう述べるジェーンに、馮は真剣な表情を崩さないまま。

 

「この地を訪れた目的はただ一つ。是非、私を貴方のグループのメンバーに」

「何だお前、まだ偽札作りなんてやってるのか」

「失礼ね、アタシだって同じ轍を二度踏んだりしないわよ」

 

 俺が零した言葉に即座に反応するジェーン。

 何やら徒党を組んで動いているようだが、流石に以前のような馬鹿はしていないらしい。一度痛い目を見て反省したのか、口先だけでまだ似たようなことをしているかは分からないが。

 と、いうかだ。

 

ラグーン商会(お前ら)の仕事内容、聞かない方がいいってンなら席を外すが」

 

 一口分残っていたウイスキーを喉に流し込み、空き瓶をバオへ返却。視線をロックへ向ける。幾許か逡巡する素振りを見せたロックだったが、どうやら部外者が聞いても問題はないと判断したらしい。俺への信頼なのか不用心なのか判断が難しいところだが、一先ず席を立つ必要は無さそうである。

 

「いえ、そこまで内密な話でもないですし構わないですよ。それに今更だ、筒抜けになっているのに隠そうとする意味も無い」

「同感だ。それにいざという時もウェイバーが居れば安心だしね」

「俺はお前らの用心棒じゃねェぞ。そういうのはレヴィやダッチの役目だ」

 

 そう、レヴィと言えばだ。先ほどから姿が見えないのが気になる。聞けば先刻までグレイと口喧嘩をしていたというし、どこで油を売っているんだか。

 

「ああ、レヴィなら別件です。ジョアンナに呼び出されていつものクラブに」

「ジョアンナ、というと代役か用心棒だな」

 

 レヴィと馴染みのある金髪の女を思い浮かべてそう口にする。

 ラチャダ・ストリートにある風俗バーで働いているジョアンナは、度々ショーのピンチヒッターや迷惑な客の掃除をレヴィに依頼している。この時間帯に呼び出すということは、今回もそのどちらかなのだろう。

 あの店はローワンが経営していることもあってかなりハードな見世物が売りだ。一度足を運んだことがあるが、どうもああいう雰囲気は好きになれない。

 

「ねえねえおじさん。犬のお姉さんが居るその場所、私も行ってみたいわ」

「お前にはまだ早ェ」

 

 バオに注文しておいたアイスミルクをグレイの前に置きながら即答。ぶー垂れても連れて行かんぞ。そういうのはもっと大人になってからだ。

 と、話が逸れた。

 

「私としても人手が多いに越したことはないわ。でもねスピアちゃん、こっちの仕事は足が付きやすい」

 

 いい? とジェーンは馮を見つめる。

 

「アンタは知らないかもしれないけれど、この街には危険がいっぱい。それこそ一歩踏み違えれば一瞬で地獄行きよ」

 

 どの口が言うんだ、とは思っても口には出さなかった。

 

「……ええ、先の一件で認識しています」

「それは結構。いいかしら、アタシらとしてはね、アンタが単なるスクリプト・キディだった場合を危惧しているわけ」

「…………」

「というわけで一つ、簡単な仕事をしてもらうわ。なぁにアンタの言う経歴が本物なら造作もない筈よ。それをクリアできれば晴れてアタシのチームに迎える。どう?」

「ええ。それで構いません」

 

 ジェーンは恐らく気付いていない。

 馮がチラリと俺を一瞥したことを。

 彼女とて馬鹿ではない、ということを。

 

 

 

 7

 

 

 

「君はツいてるな」

 

 イエローフラッグを後にした馮は、仕事場として利用すべくラグーン商会のドックを訪れていた。ベニーとジェーンは別件だというので、ロック一人が付添人である。

 扉を開けて室内へ入り、空調のスイッチを入れる。小さな冷蔵庫から缶ビールを取り出すロックのその言葉に、馮は片方の眉を顰めた。

 

「ツいてる? 逆じゃないかしら。到着早々追剥に会ったのよ?」

「普通の人間ならそこで荷物を剥がれるか殺されるかだ。でも君はここぞというタイミングでジョーカーを引いた。相当な強運の持ち主だ」

 

 冷えた缶ビールの一本を馮へと手渡して、ロックは笑う。

 

「……そう、やっぱり只者じゃないのね。あの人」

 

 気の良い音を立てて開けた缶ビールを一口呷ると、馮はそう呟いた。その言葉を聞いたロックは僅かに口元を緩ませて、彼女と同じように缶ビールを大きく呷る。

 

「教えてくれないかしら、あの人のこと」

「……それが君の仕事に関係あるのか?」

 

 いくら知己の間柄とは言え、ホイホイと他人の情報を流すものではない。

 その辺りの事はロックもしっかりと認識していた。いたずらに寿命を縮めるような愚を犯したくはないのだ。

 

「無いわ。直接的には何も」

「余計な詮索はこの街じゃ御法度だ。肝に銘じておくといい」

 

 ネクタイを外してシャツのボタンを二つ程外し、ロックは馮へとそう言葉を投げた。

 

「貴方、親切なのね」

 

 想定の外からの言葉だった。

 ロックは目を丸くし、それからソファに腰掛ける彼女へと顔を向ける。

 当人はいたずらが成功した子供のような笑みを浮かべていた。

 

「だってそうでしょう? こんな女にご丁寧に忠告してくれるんですもの」

「……よしてくれ。そんなんじゃない」

 

 性分じゃないと眉を顰め、ロックはビールの残りを一息に飲み干す。

 それに合わせるように、馮も残りを流し込んだ。

 

「女の勘」

 

 空になった缶を潰して、ポツリと呟く。

 

「あの人が私の今後を左右する、そんな気がした」

「…………」

「笑うかしら?」

 

 その問いにロックは一瞬呆け、それから口角を吊り上げた。

 

「……いいや、良い勘をしてる」

 

 

 

 8

 

 

 

「怪しいですね」

 

 事務所へと帰宅し、事のあらましを聞かせた雪緒の第一声はにべもないものだった。

 

「グレイはどう思う?」

 

 革張りのソファに寝転がって天井を見上げていたグレイへと声を掛ける。雪緒とは違い、グレイは実際に馮本人を目の当たりにしている。裏の匂いは感じなかったが、この少女にはいったい彼女はどのように映っただろうか。

 

「嘘は言っていなかったと思うわ。でもホントの事も言っていない、そんな感じかしら」

 

 あまり興味をそそられなかったのか、グレイは天井を見上げたまま素っ気なく答えた。

 いや、というより風俗バーへの興味が勝っているだけだなこれは。帰り道もやたらとその話をしてきたし。この年頃の子供は何にでも興味を示すものだから扱いに困るのだ。何度も言うがあんな刺激の強い場所へは連れていかんぞ。ただでさえグレイは何本か頭のネジがぶっ飛んでいるというのに。

 などと考えながら雪緒が淹れてきたコーヒーを受け取り、酔い覚ましに口に含む。

 グレイにはココアを渡してソファに着いた雪緒は、尚も馮の事が気にかかるらしい。

 

「話を聞く限り、ジェーンさんの居るチームに参加することが目的のようですけど」

「そう言っていたな。事前にコンタクトは取っていたようだ」

「インターネット上で繋がれるのに、直接顔を合わせるメリットってありますか?」

 

 顎に指を添え、雪緒は思考を巡らせているようだ。銀縁の眼鏡がきらりと光って名探偵の思考シーンのようである。

 雪緒の言う事も尤もではある。

 距離の離れた相手とも連絡の取れるインターネットで通じ合ったというのに、そのメリットを破棄しているようにも見える。十中八九この街を指定したのはジェーンなのだろうが、彼女にとってもトラウマになり得るこの街を態々指定した理由が分からない。いやまぁ、ベニーとの逢瀬に丁度良かった、という理由は多少なりともあるのだろうが。

 ……何だか急に考えるのが阿呆らしくなってきたな。

 

「いえ、ウェイバーさんが助けたんですから、それなりの理由があるんだとは思いますけど……どうせ教えてはくれないし……」

 

 思考を早々に放棄した俺とは対照的に、雪緒は未だ思考の海に沈んでいた。

 無意識なのか横で寝転んでいたグレイを膝の上に引き寄せ、その頬をこねくり回している。なんとか逃れようと身体をくねらせるグレイだが、雪緒の拘束から逃れることは出来ないようだ。

 

「……あ、そういえばウェイバーさん。明日、忘れてないですよね?」

「買い物だろ。覚えてるよ」

「なら良かったです。グレイちゃんも一緒に行きましょうね?」

「ひゃかっふぁふぁ」

 

 流石に洗濯機が壊れたことを忘れる程ボケてはいない。

 夜会でも連中に話してしまうくらいだからな、そういえばロニーの野郎はイタリア製がオススメだとか吐かしていたが、ロアナプラにも卸しているのだろうか。

 ……明日良いものがなければ、今度会ったときに聞いてみるか。

 

 

 

 9

 

 

 

 喧騒渦巻く中心街から幾許か離れ、人も明かりもまばらな路地の一角。

 おんぼろモーテルや廃ビルなどの遮蔽物で月明かりすら届かないその路地に、真っ黒なコートを纏った大男の姿があった。その隣にはもう一人、やせ型の男の姿。

 辺りに二人以外の人気は無く、不気味な程の静寂に満ちている。

 

「……これが消したいっていう女かい」

 

 男から手渡された一枚の写真に視線を落とし男、ブレン”ザ・ブラック・デス”は問い掛ける。

 写真を渡した男は一つ頷き、

 

「ああ。馮亦菲という。この女を可及的速やかに処理してもらいたい」

「速やかに、か。余程お困りと見えるな」

「……やってくれるな?」

 

 受け取った写真を懐へと仕舞い、ブレンは一つ息を吐く。

 

「丁度手頃なのが居る。ソイツらを向かわせよう。腕に関しちゃ文句なしの四人だ」

 

 だが、とブレンは依頼人を見据えて。

 

「あの男が出張ってきた場合、俺たちは問答無用で撤退する」

「あの男……? そいつはいったい誰のことだ?」

 

 依頼人である男は困惑した。

 今目の前に立つ男は、この街で暗躍する殺人代行組合、その総元締である。

 彼に依頼した仕事の達成率は99%以上であると聞き及んでいる。悪徳の都と言われるこの街でも随一の殺し屋だ。そんな彼が、たったひとりの男を前に戦うことすらせず敗走を決め込もうとしている。

 冗談を言っている風には見えない。声のトーンと彼から発せられる雰囲気からもそれは察することが出来た。

 故に依頼人の男は口を開く。

 そこまで警戒する男とは、一体誰なのか。

 

「…………奴の名は」

 

 

 

 10

 

 

 

「ウェイバーめ、やってくれる」

 

 三合会タイ支部。

 部下からの報告を受けた張は、先の会合を思い返しボヤかずにはいられなかった。

 同じ室内に控えていた腹心、彪は要領を得ないのか怪訝そうに張を見つめている。

 そんな腹心の様子を気にも留めず、張は大きな溜息を吐き出す。

 

「何事です?」

「何事、ね。ああ、そうだな。アイツにとっちゃあこれが通常運転だ。可もなく不可もなく、こっちの都合はお構いなく」

 

 部下から受けた報告の内容は、ウェイバーが見慣れない東洋人と行動を共にしていたというもの。

 つい数時間ほど前行っていた会合の話題を、まさか忘れているわけではないだろうに。

 

 "中国軍がこの辺りを嗅ぎ回っている。"

 

 あの場で、張は確かにそう言ったのだ。

 ウェイバーが連れていた女が中国人ではない可能性もある。

 だが、タイミングが良すぎやしないか。

 

 こうなってくるとウェイバーの会合での一挙手一投足が気にかかる。あの場で、ウェイバーは何をしていた。何を話していた。

 

「洗濯機」

 

 唐突に出てきた単語だった。会合の場で咄嗟にその意味を吟味したが、ついぞ真意に辿り着くことはできなかった単語である。何かの暗喩であろうことは想像がつく。が、それが具体的に何を指しているのかが掴めない。

 

「この間みたいな綱渡りは御免だぞ、ったく」

 

 それは、諦観を多分に含んだ言葉だった。

 

 

 

 

 

 宵闇は薄っすらと溶けていき、水平線の彼方から徐々に空が白み始める。

 ――――数多の思惑を混ぜ込んで、ドス黒く変貌を遂げた一日が始まる。

 

 

 

 

 

 




三か月以内だからセーフ()


■以下要点

レヴィ「オラもっといい声で鳴きやがれ!」
ローワン「ぶひいィィ!!」




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048 悪意と殺意と真意

 夜明け前のロアナプラ。安宿の一室。

 ハードなトレーニングを終え汗だくになったベニーは、額に貼り付いた前髪を掻き分け、彼女が発した言葉に驚愕を示した。

 

「それじゃ君は、最初から彼女のことを疑っていたのかい?」

 

 目を丸くするベニーの顔を見つめて、ジェーンは得意げに一つ頷いた。

 シーツを取り換えたベッドに横たわり、ベニーの腕に頭を乗せた彼女はこれまでの経緯を語り出す。

 

「本格的に疑いを持ったのはここ最近の話よ。フォーラムで彼女の腕前を何度か見させてもらったことがあったの。その時の彼女のやり口が、最近アメリカを中心に好き勝手やってるサイバーグループにそっくりだった」

 

 つつ、とベニーの胸板に指を這わせ、彼女は続ける。

 

「調べてみたら案の定、アメリカに留学していた頃の彼女のデータが出てきたわ。目を付けた相手の手管を盗んで利益を掻っ攫う。そして相手はスケープゴートにって寸法ね。ざっと調べただけでも十四件、あの女が絡んでる」

「すごいな、そこらのクラッカーより余程タチが悪い」

「ええ、ただまぁ、私たちを狙ったのがあの子にとっての運の尽きよ。踏んで来た場数が違うわ」

 

 こちらも慈善事業ではない、とでも言うようにジェーンは笑う。

 随分とまあ強かになったものだとベニーはしみじみ思った。いつぞやの泣き顔を晒していた人物と同じとは到底思えない。これもウェイバーが齎した影響の一端だろうか。

 

「さて、と」

「仕事かい?」

「ええ、うちのチームの一人が彼女の仕事を監視しているの。そろそろ連絡が入る筈だわ」

 

 バスローブを羽織り、ジェーンはデスクへと向かう。

 

「ああ、哀れなミス北京ダック。無様に毛を毟られるその前に、せめて私たちに多大な利益を」

 

 

 

 11

 

 

 

 PC特有の稼働音と、キーボードを小気味よく叩く音のみが室内に響く。

 馮が仕事に取り掛かり早一時間。その間ロックはソファに横になって彼女の後ろ姿をぼんやりと眺めていた。

 

 華奢な身体だ。ロックは率直にそう思った。

 普段見慣れている女性がレヴィやバラライカ、印象に残っているのがロベルタだからかもしれない。デスクワークが主な業務なのだろう。首筋から背中にかけて大きな筋肉は付いていない。女性らしい、と表現していいものなのかは微妙な所であるが、成程よくよく思い返してみれば一般女性とはこういうものなのかもしれない。

 

「……私の背中に何か付いてる?」

 

 そんな男の視線に女は敏感なのか、馮は絶え間なく動かしていた指を止めてくるりと振り返る。 

 当のロックはというと、特に焦る様子もなくゆっくりと身体を起こして。

 

「不快に思ったのならすまない。女性の身体はこういうものだったな、と感慨に耽ってた」

「…………?」

 

 ロックの言っている意味が分からないのか、馮は眉を顰めて首を傾げている。

 

「それより、仕事の進捗はどうなんだ?」

「ええ、おかげさまで順調よ。あと数十分もあればボスからのミッションも完遂出来るわ」

「そうか。それは何より」

 

 窓の外に視線を向ければ、海岸線の向こうは徐々に白み始めている。腕時計を確認すれば午前五時半。もう後三十分もすれば市場にも活気が出てくるだろう。そこで何か朝食を摂ることにしよう。ロックは酒の抜け切らない頭でそんな事を考えていた。

 

「ん、終わり」

 

 腕を上へと突き上げて背筋を伸ばす。

 馮は最後にエンターキーを叩いて、開いていた幾つかのウィンドウを閉じた。

 

「あとはボスが私の腕をどう判断するかね」

「顔には自信満々と書いてあるように見えるけど」

「あら、ご明察」

 

 くすりと彼女は笑みを零す。

 先程までの手並みを後ろから見ていたロックは、彼女の腕前が相当のモノであると素人ながらに気が付いていた。それこそベニーにも劣らないレベルなのでは、と思う程に。

 

「……なぁ、君は本当にジェーンのチームに入る必要があるのか?」

 

 単純な疑問だった。

 それ程の腕があるのなら、ジェーンに指示を受けずともやっていけるのでないだろうか。

 ロックの質問に、馮は苦笑を浮かべて肩を竦めた。

 

「一人でやっていくっていうのにも限界はあるの。特にこういったグレーな部分を生業にしようとするとね」

「チームメイトを作るのが目的だっていうのか?」

 

 たったそれだけの為に態々この街に足を運んだというのだろうか。

 一歩踏み間違えてしまえば命を失うかもしれない、こんな危険な街に。リスクとメリットがまるで釣り合っていない。

 

「そうね、仲間を作るというのも目的の一つ。リスクを分散出来るというのはそれだけでメリットだもの」

「繋がらないな、それでも……いや、やっぱり止めておく」

 

 何か思うところがあったのだろう。ロックは言葉を続けようとして、しかし既の所でそれを飲み込んだ。

 不思議そうに馮が尋ねる。

 

「あら、どうしたの?」

「他人の便器を覗かない。それがこの街の暗黙のルールだ」

 

 聞いて、馮は思わず吹き出した。

 肩を上下に揺らして笑うその姿が、ロックには初めて見る年相応のものに見えた。

 

「やっぱり優しいわね貴方。この街じゃ歪に見えてしまうけれど」

「そういう見方が出来るのは君の美徳だろうな。でも、俺の中身はそんな綺麗なモンじゃない」

 

 自嘲気味に呟いたロックの言葉に、馮はあっけらかんと答える。

 

「誰だって腹の中には一物抱えてるわよ。それが人間、私だって人に言えない秘密の一つや二つあるわ」

 

 言って、彼女は窓から差し込み始めた光に目を細める。

 

「そういうのも全部ひっくるめて、貴方は何だか信用できそうよ」

「……それも、女の勘ってやつかい?」

 

 ロックの問い掛けに、彼女は無言で片目を閉じて見せた。

 

 

 

 

 12

 

 

 

 

「…………」

「おはようおじさん、もう朝ご飯の時間よ」

「……ああ」

 

 にこにこと微笑むグレイの顔を目の前にして、俺は中々に最悪な目覚めを迎えていた。

 孫にも近い子供が起こしにきてくれるという、シチュエーションだけなら微笑ましいものなのだが、俺の顔の数センチ横に突き立てられたミリタリーナイフがそのすべてを台無しにしている。ベッドに空いた穴もこれで幾つになったか分からない。

 

「ああ、今日も殺せなかった。分かってはいるけれど、もどかしくて堪らないわ」

「いい加減諦めたらどうだ」

「ふふ、それは嫌よ。だってそれだけが楽しみで、私はおじさんと一緒に居るんですもの」

 

 いやまぁ、今日に関しては寝返りを打っていなかったら串刺しになっていたわけだが。

 完全にラッキー、命拾いというやつである。背中から嫌な汗がどっと噴き出している。

 背中は一面水浸しだが、表情にはおくびにも出さず、ベッドから起き上がってシャワールームへと向かう。

 

 すたすた。

 とことこ。

 

「いや付いてくるなよ」

「私もシャワーを浴びたいと思っていたの」

「ならその両手に抱えた手榴弾を戻してこい馬鹿野郎」

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、おはようございますウェイバーさん」

 

 グレイを撃退してシャワーを浴びた後、事務所の一角に設けられた部屋のドアを開くと、ガラス製のダイニングテーブルに朝食を並べる雪緒と目が合った。ここはキッチンと併設されたフロアであり、リビングとして使用することが多い。俺がいつも使用している部屋の隣である。

 

「ああ、おはよう」

「今コーヒーを淹れますね。何にしますか?」

「今日はマンデリンにしてくれ」

 

 引かれた椅子に腰を下ろすと、間もなくして淹れたてのコーヒーが置かれた。

 そのまま口に含んで一息。これで英字の経済新聞か何かを読んでいれば、モダンなジェントルマンの朝の風景に見えるだろう。

 

「そういえばウェイバーさん、グレイちゃんを知りませんか。ウェイバーさんを起こしに行くと言って出ていったきり戻ってこないんですけど」

「起こす所か息の根を止められそうになったぞ」

「まあ、いつもの事じゃないですか」

 

 親子のスキンシップですね、とまるで見当違いな事を述べながら雪緒も席に着く。なんというか、雪緒もこの街に着実に染められている。日本に居た頃は血を見るだけで怯えを見せていたというのに、こうも変わるものかと驚きを隠せない。表情には出さないが。

 

「さっぱりしたわあ」

 

 などと考えていると、タオルを首に巻いたグレイが扉を開いてやってきた。どうやらシャワーを浴びたいというのは本当だったらしく、だぼっとした黒いTシャツに着替えている。というかそれ俺の寝間着じゃねえか。

 

「こら、ちゃんと髪の毛は乾かさないとダメでしょう?」

「うええ」

 

 髪の毛から水が滴っている状況を雪緒が見逃す筈もなく。

 敢え無く捕獲されたグレイは、一旦洗面台へと連れて行かれた。ドナドナされるグレイは最早見慣れた光景ではあるが、本当に髪の毛の手入れはしっかりしておいた方がいい。若いうちは気付かないのだ。後退が始まってからではもう遅い。これは経験談である。ぶっちゃけ銃の手入れと同じくらい髪の毛には気を遣っている。

 

 十五分ほどして戻ってきた雪緒たちと食事を摂りながら、今日の予定を確認していく。

 

「午前中は洗濯機を見て回る、でいいのか?」

「はい、と言っても電化製品を置いている店は多くないので、すぐに済むと思います」

 

 電化製品があると言えばマップラオ辺りか、あの辺りは俺よりもレヴィの方が詳しいかもしれない。もし暇なら案内でも頼んでみようか。

 

「私お昼はパスタが食べたいわあ」

「パスタなぁ」

 

 この街で美味いと言えるパスタを出す店は少ない。そもそも質より量というスタンスの店が多いからか、きちんとした食事を摂れる場所が驚くほど少ないのだ。そこらの適当な店に入るくらいなら、カリビアン・バーの食事の方が美味いのである。

 

 そういう訳で、この街で量より質でパスタを提供している場所は限られる。俺の知る限りではカリビアン・バー以外では一か所だけだ。

 

「なら昼は美味いパスタにしよう。味は俺が保証する」

 

 

 

 

 13

 

 

 

 じりじりと刺すような陽の光が肌を刺激する。ロックは手で日除けをつくり、爛々と輝く太陽を恨めしそうに見上げた。

 ロアナプラを南北に走る大通り。その通りには道沿いに多くの屋台、商店が軒を連ねている。時刻は午前十時を回っており、通りには老若男女問わず多くの住民が集まり賑わいを見せていた。

 

「ここが?」

「ああ、マップラオ市場。ここに来れば大体のモノは揃う。食事も家具も、武器もだ」

 

 馮の問いに、ロックはそう答えた。

 結局あの後ドックでひと眠りしてしまい、目を覚ませばこの時間であった。それは馮も同じで、流石に夜通しの作業は堪えたのかシャワーを浴びた後ベッドへと倒れ込んだ。

 

「この辺りだとパッタイとかが有名なのかしら」

「タイの中心ならそうなのかもしれないけど、ここはタイの最南端。人種も国籍も混ざり合って出来ている街だ、寿司からボルシチまで一通りのものは揃ってる」

「……何でもありね」

 

 ややげんなりする馮に苦笑して、ロックは目に留まった屋台でハンバーガーを二つ購入。ついでに薄いコーヒーも。それらを一つずつ彼女へと手渡す。

 

「これなら食べ慣れてるわ」

「そうなのかい? てっきり中華料理ばかりだと」

「中国人が中華料理しか食べないと思ってるわけ?」

 

 目を細める馮の問いには答えず、ロックはハンバーガーを齧った。

 その様子を見て、馮も渡されたハンバーガーを口にする。パサついた肉としなびたレタスが色々と台無しにしていた。

 要するに美味しくなかった。

 

「美味い店の見分け方は前に教えてもらったんだけどな」

「全く役に立ってないわよ」

 

 幸いにしてコーヒーは一般的なものだったので、一緒に流し込んでいく。

 

「それでだ」

 

 市場の通りを歩きながら、ロックは前方を向いたまま口を開いた。

 

「君の仕事ぶりをジェーンが評価するのは分かった。けど具体的に結果はいつ分かるんだ?」

 

 ロックの隣を歩く馮は軽く肩を竦めて。

 

「ボスが律儀な人なら、今頃私に連絡が来ているでしょうね」

「あー、うん、察したよ」

 

 ジェーンの時間に対する感覚は一般人と比べてかなりルーズなものだ。

 それは前回の一件でよく理解していた。

 だが馮はそのことを特に気にしていないらしく、別段苛立った様子は無い。

 

「こちらがお願いしている立場だもの。このくらいでどうこうしたりしないわよ」

 

 カップに残ったコーヒーを飲み干して、馮はそう言った。

 

 ……本当に、そうなのだろうか。

 ロックは表面上彼女の話を聞きながらも、拭い去れない違和感を覚えていた。

 何かが食い違っている、だがそれが何かまでは分からない。

 他人の事情に口を挟むつもりは毛頭無いが、こちらにまで被害が及ぶというのであればそれはまた別の話である。

 

「……っと、ねえ、ちょっと」

 

 思考に没頭しかけていた所で、馮の声がそれを遮った。

 

「あれ」

 

 言われるがまま彼女の視線の先を追えば、見慣れた後ろ姿が飛び込んできた。

 黒髪の男女が銀髪の少女を挟み、三人並んで歩いている。そして男の右隣にはロックのよく知る肩に刺青を走らせたラグーン商会のエースの姿。

 瞬間的に周囲を見渡せば、先ほどまで人でごった返していた筈の市場から殆どの人気が消えていた。

 あの四人が揃っている光景を目の当たりにしてしまえば、周囲の人間の行動も尤もだろう。

 

「あの人を見た人たちが一目散に離れていったんだけど、どういうこと?」

「ああ、まあ、いつも通りだよ」

 

 こんな異常事態に慣れてしまっている自身が可笑しくて、ロックは苦笑を漏らした。

 

「ふぅん。あ、こっちに気が付いたみたいよ」

 

 こちらの存在に気が付いたらしいグレイがたた、と駆けてくる。その奥ではウェイバーが軽く手を挙げ、雪緒が律儀に頭を下げている。レヴィだけは煙草を咥えたまま動きを見せなかったが。

 

「こんな所で会うなんて珍しいわねお兄さん。ああ、こっちのお姉さんも一緒なの」

 

 小走りでやって来たグレイが、ロックを見上げてそう言った。

 

「ま、仕事みたいなものだよ。君たちはどうしてここに?」

「洗濯機を買ってパスタを食べに行くの」

 

 洗濯機。

 昨日もグレイが言っていた言葉である。

 言葉の意味をそのまま受け取ってしまえば、これから洗濯機を買って昼食としてパスタを食べに行くのだろう。あの面子であれば、家族の団欒として特に違和感は無い。

 

 ぐいぐいと腕を引っ張るグレイに連れられ、ウェイバーの元へと向かう。馮もロックを追う形で後を付いてくる。

 

「ちょ、引っ張らないでくれ」

「うふふ。おじさんが言っていたのよ。お兄さんたちをこっちに連れてこいって」

「ウェイバーさんが?」

 

 一体どうして、とロックが口にしようとした瞬間。

 先程まで立っていた場所に、弾丸の雨が降り注いだ。

 

「はぁ!?」

 

 突然の事態に驚くロックを余所に、グレイはにんまりと笑みを浮かべた。

 

「ほォら来た♪」

 

 ぐいっとロックの腕を引っ張って自身の後ろへと投げやり、グレイはスカートの中から愛銃を取り出す。そのまま流れるように一斉掃射。周囲の露店が吹き飛ぶのも構わず、辺り一面に銃弾をぶちまけていく。

 

 グレイに後方へ投げ飛ばされたロックと付いてきた馮は、突然の事態を未だ飲み込めておらず目を白黒とさせている。

 そんな二人に持参していたらしいペットボトルを手渡したのは雪緒だった。

 

「大丈夫ですか?」

「ゴホッ、ありがとう雪緒ちゃん」

「ったく、そんなへっぴり腰でどうすんだロック」

 

 受け取ったペットボトルの中身を流し込んで幾分か落ち着いたロックへ、苛立たし気なレヴィの声が響く。

 

「レヴィ、これは一体どういう状況なんだ」

「見れば分かンだろロック。そこの中国人(チンキィ)の命が狙われてる。そンだけのこった」

「なんだって?」

 

 目まぐるしく変化する周囲の状況に付いていけないロックだが、こちらに降り注ぐ銃弾の嵐は待ってくれない。グレイ一人では手が足りないと判断したのか、ホルスタからカトラスを引き抜いたレヴィも前線へと駆け出した。

 

「ロック、彼女をそこの路地へ連れていけ。流れ弾に当たって死なれちゃ敵わん。雪緒も行け」

「こっちです」

 

 ロックと馮の手を引いて雪緒が前線とは反対方向へと走り出す。彼女に手を引かれ路地へと入り、一先ずの危機を脱したロックは、改めて現状の整理を開始。

 

「な、何だっていうの……?」

 

 一方、突然の弾雨に晒された馮は未だ荒い息が整わないでいた。

 無理もない、西部劇も真っ青な銃撃戦が予告も無く始まったのだ。今息をしているだけで儲けものだろう。

 

「レヴィは君を始末しに来た殺し屋だと言っていた。身に覚えは?」

「あ、あるわけないでしょう!?」

 

 馮の表情は真に迫ったものだった。嘘とは思えない。が。

 

「雪緒ちゃん。ウェイバーさんはこうなることを想定していたのか?」

「直接は何も言われていません。ただお二人を見つけた瞬間にはグレイちゃんを向かわせましたから、ひょっとすると」

 

 十中八九ウェイバーはこうなることを予測していたのだろう。

 そして彼は恐らく、今自分が引っ掛かりを覚えている違和感の正体を知っている。

 何だ、馮は一体何を隠している?

 

「……ウェイバーさんは、どうして彼女を助けたんだ?」

 

 ウェイバーは善人ではない。普段の振る舞いもあってロックは忘れがちだが、あの男も間違いなくこの悪徳の街に根を張る悪党の一角である。以前グレイや雪緒を手元に置いたのも決して慈善事業でないことをロックは過去の経緯から知っていた。

 何かあるのだ。

 馮には、ウェイバーが手を出す程の何かが。

 

 間断なく響き渡る銃声と薬莢が落ちる音を聞きながら、ロックは静かに彼女を見つめた。

 

 

 

 14

 

 

 

「ひゅう! すげェや兄ちゃん! あの女かなりの腕だ!!」

「あっちのガキもかなり手慣れてるな。こりゃあ一時撤退も視野に入れるのが得策か?」

 

 果物屋台の荷台の陰に身を潜め、韓国人と思われるタンクトップの大男が歓喜の声を上げる。

 それに浅黒い肌のサングラスをかけた男が応える。視線の先では銀髪の少女と刺青の女がそれぞれの得物をこちらに向けている。

 

「モンテロ兄ちゃん、ありゃ写真にあった『銀の魔女』じゃねェか?」

 

 もう一人、カウボーイハットを被った金髪の男がマガジンを交換しながら目を細めた。

 

「ふむ。用心棒って感じじゃあ無さそうだが」

「あのガキが居るってこたァつまり」

「後ろのジャケットの男、あれがこの街の核弾頭(ウェイバー)か」

 

 黒人の大男、モンテロは遮蔽物に身を隠しながら東洋人らしき男を両の視界に収める。

 依頼主である男から口を酸っぱくして言われていた事を思い出す。

 

「……ブレンの旦那があそこまで言うだけの事はある。ガセの類でも無さそうだ」

 

 一見すれば隙だらけだ。

 ここで一発撃てば命中するのではと思わせる程、ウェイバーは自然体だった。煙草の煙を周囲に燻らせ、鈍い銀の輝きを放つリボルバーをくるくると回して遊んでいる。

 だが、それが間違いであるとモンテロは既に認識していた。

 

「……こうも正確に撃ち込んでくるとはな」

 

 リボルバーの有効射程距離などせいぜい50メートル程だ。そしてウェイバーとこちらの距離はどう少なく見積もっても100メートルは離れている。

 だというのに、モンテロが姿を隠す建物、それも丁度眉間のある位置に弾痕が刻まれていた。

 元よりあったものではない。女二人が吐き散らす弾丸でもない。これは、ウェイバーが明確な敵意を以て撃ち込んできた弾丸だ。

 

 あわよくば、と狙いを付けて発砲しようとした瞬間だった。

 くるくると回されていたリボルバーが火を噴いた。反射的なものだったのだろう。自身を狙う敵意に反応して先手を打ってきたのである。

 それが出来るからこそ、ああまで自然体でいられるのだ。

 

「成程、確かに化け物だ。パクスン! ここは退くぞ車を回せ!」

「あいよ兄ちゃん!」

「ロブ! 女ガンマンといちゃつくのはお預けだ!」

「チッ、イイトコだったのになあ」

 

 周囲は銃弾の嵐で見るも無残に荒れ果てていたが、男たち三人に傷らしい傷は見当たらない。

 レヴィとグレイ。この街でも指折りの実力者である彼女たちと命の奪い合いに興じ、五体満足でいられる時点でそれなり(・・・・)の腕であることは想像に難くない。

 

「……チッ、殺し損ねたクソッタレ」

 

 その場を後にするジープの後ろ姿を忌々し気に睨み付けながら、レヴィは小さく舌を打った。

 隣に視線を移せば、不完全燃焼とでも言いたげな表情を浮かべるグレイがいそいそとBARを衣服の中に仕舞っている。

 

「どうなってんだそれ」

「あら? 私の身体に興味があるのかしら」

「ぶっ殺すぞ」

 

 クスクスと嗤うグレイの頭を小気味良く叩いて、ポケットから皺くちゃになった煙草を取り出す。

 

「どうするボス。このままあのジープとカーチェイスってンなら付き合うぜ」

 

 煙草に火を点けながら、レヴィは後方で援護に徹していたウェイバーへと問い掛ける。

 

「いや、その必要は無い」

「でしょうね。きっとあのおじさんたちはまた現れるもの」

 

 簡潔に答えたウェイバーにグレイも同意する。

 ロアナプラでは見ない顔の三人組による襲撃。外部組織の介入などこの街では珍しくも無い。以前のグレイとヘンゼルの事件のように、外部から殺し屋を雇ってロアナプラの均衡を崩そうと動く組織に心当たりなど腐るほどあるのだから。

 だが。

 

「今回に関しちゃあ、あそこの中国人(チンキイ)に聞くのが手っ取り早ェとアタシは見るが。どうだいボス」

 

 レヴィは建物の陰に身を潜めていたロックらへ視線を向けて、ゆっくりと口角を吊り上げた。

 

 

 

 15

 

 

 

 いや唐突過ぎて頭が付いていかねーわ。

 途中でレヴィと合流し市場を歩いていたらロックと昨日の中国人を見つけたので、昼食でも一緒にどうだと声を掛けに向かったらいつの間にか銃撃戦が始まっていた。

 咄嗟に雪緒たちを射線上から引き離すことは出来たが、そちらに気を取られて俺自身の退避が遅れてしまうという失態。幸いにもレヴィとグレイが最前線で対応してくれたため事なきを得たが、一歩間違えれば流れ弾で普通に死んでいる。

 黒人と思わしき男が俺への視線を一向に切らないのでカウンター気味に一発撃ってしまったが、やはりというか命中はしなかった。相変わらずの射撃センスの無さに内心で泣きそうだ。

 

 というか後から見ればリボルバーには弾丸が一発しか込められていなかった。

 交換用の弾は常備しているとは言えこれはいただけない。無意識の内に気が緩んでいたのかもしれない。

 

「私も刺青のお姉さんに賛成よおじさん。場所を移してあのお姉さんからお話を聞くのはどうかしら」

 

 その意見には俺も全面的に賛成だ。

 命を付け狙われる理由が何にしろ、こちらに害が及ぶというのであれば見過ごすことは出来ない。実際こうして銃撃戦に巻き込まれているのだ。リスクは出来うる限り予め除去しておく。それがこの街で生き残るための秘訣である。

 そうと決まればさっさと場所を移そう。

 全く、本来であれば洗濯機を買って昼食にパスタを食べる筈だったのだが。

 

「……先にこっちを片付けるか」

 

 

 

 16

 

 

 

 弾痕が至る所に刻まれた市場から一旦離れ、一同は開店前のカリビアン・バーへと足を運んでいた。

 開店準備に勤しむメリーにウェイバーが無理を言って押し入った形である。

 

「悪いなメリー、助かるよ」

「まあ他ならぬウェイバーの頼みだしね。おねーさんとしても無碍には出来ないよ」

 

 但し貸し一つね、とウインクするメリッサに、ウェイバーは小さく微笑む。

 そんな光景を横目に見て、ロックは何とも言えない大人な雰囲気を感じていた。

 

「おめーにゃ無理だぜロック。あの女(メリッサ)はボスにぞっこんだ」

「な、そういうわけじゃ」

「それよりも、だ」

 

 カラン、とグラスに入った氷が割れる。

 レヴィは隣に座る中国人の顔の横顔に視線を移して。

 

「さっきの一件について洗いざらい吐いてもらおうじゃねェか中国人」

「わ、私は本当に心当たりが無いのよ!」

 

 レヴィの問い掛けに、馮はテーブルを叩いて立ち上がった。

 やはり嘘をついているようには見えない、そうロックは考えた。

 

「ウェイバーさんは襲撃されることが分かっていましたよね? 彼女の事も把握しているんじゃないですか?」

「俺は予知能力者じゃないぞ雪緒。だがまぁ、そうだな」

 

 手にしていたグラスを一息に呷って、ウェイバーは静かに口を開く。

 

「お前の目的は分かってるよ、馮。でなきゃ態々こんな街に来るかい」

 

 確信めいた言葉が紡がれる。

 そんなウェイバーの言葉を聞いて、馮は目を大きく見開いた。

 

「……何のことかサッパリなのだけど」

「隠さなくていい。こう見えても俺は情報通でな、幾つかの情報を掛け合わせれば、自ずと答えは見えてくる」

 

 やはりか、とロックは納得した。

 やはり、やはり。ウェイバーはこの件の真意に気が付いている。

 自身がこれまで彼女に感じていた違和感の正体に。

 

「ヘイ、ボス。そいつは一体どういうこった」

「……俺に聞くより、彼女の口から直接聞いた方が早いだろう。当人が居るんだ」

 

 数秒の沈黙。その後。

 

「…………噂通りの化物ね、やっぱり」

 

 馮は観念したように、大きく息を吐いた。

 そんな彼女の一挙手一投足を、ウェイバーを始めとした面々が目で追っている。

 張り詰めた空気を裂いたのは、それを作り出した張本人である馮だ。

 

 

 

「私がこの街に来た本当の目的はね、――――――――貴方を殺すことよ、ウェイバー」

 

 

 

 

 17

 

 

 

 

(え、マジで? 全然思ってたのと違うんだが)

 

 

 

 

 

 

 

 




次回で「ウェイバー洗濯機を買う」編は完結です。


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049 Opening of WAR

明けましておめでとうございます()
前回投稿から期間が空いてしまいましたので、よく分かるあらすじを載せておきます。

【前回までのあらすじ】
洗濯機を買いに行ったら殺人予告をされたおっさん。


「――――――――まさか、よりにもよって彼女に情報が漏れてしまうとはな」

 

 中国人民解放軍、司令部の一室。

 軍服に身を包んだ荘厳な雰囲気を滲ませる壮年の男は、手にしていた葉巻を灰皿に擦り付けながら呟いた。

 

「よろしかったのですか? (リュウ)副参謀総長」

 

 柳が背を預ける革張りの椅子の後方に控えていた秘書官の女性が、手にした書類に視線を落としながらそう問いかけた。書類に記載されているのは中国人民解放軍、その技術偵察部に籍を置く女性の個人情報だった。女性は再び視線を目の前の男に戻すと、出自やこれまでの経歴などが事細かに記載されたその書類を柳の目の前に差し出した。

 その書類を受け取り、柳は僅かに目を細める。

 

「……親が親なら娘も娘だ。いつも私の邪魔をしてくれる」

 

 彼女、()欣林(シンリン)は知ってしまった。

 中国人民解放軍が決して外部に漏らすことなく、秘匿してきた機密事項を。

 思えば、彼女はいくらか優秀過ぎたのかもしれない。そもそもの入軍理由も、偽りを並べ立てただけだったのかもしれない。

 全ては、父の死の真相を探る為。

 

「彼女の父、李副参謀総長は勇敢で清く、そして正しい男だった。だが悲しいかな、正し過ぎたのだ」

 

 血は争えんか、と柳は続けた。

 ロアナプラでは(フォン)亦菲(イッファイ)と名乗っている下級士官を思い返し、男は革張りの椅子に深く背を預ける。

 ギ、と椅子が鳴る。

 

「あの男は我々が内々で進めていた軍事計画に勘付いた。表に出れば確実に国際条約に反する、非人道的な計画だ」

 

 さらりと、柳は国を揺るがす事実を口にした。

 当然ながら表に出すことなど出来ない計画を聞いてもしかし、背後に控える女性に驚愕の色は無い。彼女もその計画の一端を担っているのだから、それも当然のことだった。

 

「随分熱心に説得を試みていたと聞いております。私にはそのようなことはありませんでしたが」

「私はあの男に面と向かって説教されたよ。君にまで行かなかったのは、まさか秘書官にまで通じているとは思っていなかったのだろうな。全く、こうなることが分かっていたから席から外したというのに。嗅覚の鋭さはまるで警察犬だ」

 

 当時の事を思い返して、柳は僅かに眉を顰める。

 

「その正義感が我々にとって邪魔だった。故に葬ったのだよ、決して足が付かぬよう外部に依頼をして。いやはや、あれは見事だったな。施設が瞬く間に倒壊する様は爽快ですらあった」

 

 人民の命を守る軍上層部の人間の言葉とは、到底思えない言葉だった。

 柳は顎に指を添え、小さく息を吐く。

 あの一切の証拠を残さない手管で依頼を実行した男は誰だったか。確か香港経由でとある港町の殺し屋に依頼を出した筈だが。

 依頼主である中国軍にすら名前以外の詳細情報は無い。柳は当時を思い返し、件の男を記憶から掘り起こしていく。

 

「何と言ったかな。……ああ。そうだ。眼つきがやけに印象的なあの男、確か名は――――――――」

 

 そして呟かれた、男の名は。

 

 

 

 18

 

 

 

 最初に動いたのは、果たしてどちらだっただろうか。

 コンマ数秒の差など肉眼で捉えられる筈もなく、つまるところ、その行動はほぼ同時だった。

 

 ガチリ、と。

 気付けば馮の口腔と蟀谷に銃口が突き付けられていた。

 その事実を馮が頭で理解する前に、一切の温度を感じさせない声音が店内に静かに反響する。

 

「中々面白ェジョークを宣うじゃねェか中国人。今日がエイプリルフールだってンなら、アタシも腹ァ抱えて笑っただろうさ」

 

 口腔内にねじ込んだカトラスを更に押し込んで、レヴィはどす黒い瞳を馮へと向けて言い放った。

 突然口内に金属物がねじ込まれたことで目を丸くする馮に、次いで言葉を掛けたのは蟀谷にBARを押し付ける銀髪の少女だった。優し気な微笑みを浮かべながらも瞳は一切笑っていない少女、グレイはそっと馮の耳に口を近づけて。

 

「ねえ知ってる? 人間ってね、脳味噌を撃ち抜かれてもすぐには死ねないのよ。十秒以上痙攣して、カエルみたいな呻き声を出しながらゆっくり瞳孔が開いていくの。お姉さんは一体どんな表情(カオ)を見せてくれるかしら……?」

 

 ぞわりと、全身が粟立つのを馮は感じた。

 本気だ。目の前の女二人は、本気で自身を殺そうとしている。

 

 と、身の危険を今更ながらに感じている馮はさておき。

 ウェイバーとその取り巻きを前にしてあのような発言をすれば、結果としてこうなることは火を見るより明らかだった。事実メリッサは馮の身の安全よりも血飛沫で床やテーブルが汚れることを危惧している。彼女自身の優先順位がウェイバー寄りなのは置いておいて、だ。

 幸いにして店内に他の客の姿はない。しかしながら、これは馮にとって不幸だった。

 もしも他に多数の客が居たなら、先ほどの発言で一斉に店外へ飛び出す客たちに紛れて逃げることも出来たかもしれないのだが。

 

「さァて、最期に言い残すことはあるか。寝惚けた戯言抜かしたンだ、眠いンだろ? アタシが手ずからイエス様の元に送ってやるよ。生憎と片道切符だがな」

 

 動けない。僅かでも顔を動かせば目の前の二人は一切の躊躇なく自身を撃ち抜くだろう。故に視線だけを動かして、少し離れたカウンター席に座る男を見る。

 

 渦中の男、ウェイバーは口を真一文字に引き結んだまま動かない。

 一体何を考えているのか、その真っ黒な瞳からは窺い知ることは出来ない。

 と、ウェイバーの視線が馮を射抜いた。無意識のうちに身体が強張る。

 そして徐に口を開き。

 

「レヴィ、グレイ」

 

 今にも発砲しそうな二人に向けて、ウェイバーは静かに口にする。

 

「銃を下ろしてやれ。そのままの恰好じゃ会話もままならん」

「ヘイ、ヘイ。コイツが何を口走ったかまさか忘れたわけじゃねェよなボス」

「そりゃ忘れてねェが、逆に聞くぞレヴィ。そのお嬢さんが本当に俺を殺せると思ってるのか?」

 

 ウェイバーの言葉に、レヴィは吐き捨てるように声を荒げた。

 

「なわけねェだろ! そういうレベルの話じゃねェんだよボス。こいつは踏み越えちゃいけねェラインを越えやがった。余所者がオイタ(・・・)をするとどうなるか、アタシが手ずから刻み込ンでやる」

「……グレイ」

「はーい」

 

 怒り心頭とばかりに犬歯を剥き出しにするレヴィとは対照的に、グレイは馮の蟀谷に突き付けていたBARの銃口を下ろした。

 自身の命を脅かす凶器の一つが無くなったことでやや安堵の表情を浮かべた馮だったが、グレイが顔を近づけてきたことで再び身体が硬直する。

 

「……本当は撃っても良かったけど、そうするとおじさんを怒らせてしまうわ。ああ、残念。貴方の血で満たされたバスタブに浸かりたかったのに」

 

 ドッと、馮の背中から冷や汗が噴き出す。

 数センチにまで迫っていたグレイはそれだけを告げると満足したのか、銃を衣服の中へとしまい込んでウェイバーの隣へと戻って行った。

 

「雪緒」

「はい、ウェイバーさんが考えている通りだと思います」

「……そうか」

 

 何事かを確かめるように告げたウェイバーは、雪緒の答えを受けて瞼を下ろした。何かを吟味しているような、そんな印象を抱かせる様子である。

 ウェイバーは自身の狙いに初めから気付いていたのではないか。そんな考えが馮の脳裏を過る。真の目的を告げた時も一切の動揺を見せなかったことからも、その可能性は高いように思われた。

 だとすれば。

 

「レヴィ」

 

 再び、端的な言葉が飛ぶ。

 

「ボス、いくらボスの言う事でも――――」

「そのお嬢さんの標的は俺だ。ならお前が横槍を入れるのはお門違いだろう」

「…………」

「履き違えるなよレヴィ。テメエの始末はテメエでつける。当然の事だろう」

 

 数秒の沈黙。

 いっそ痛い程の静寂を破ったのは、レヴィの大きな大きな溜息だった。

 

「……オーライ、悪かったよボス」

 

 口腔内に突っ込まれていたカトラスが引き抜かれると、堪らず馮は背中を丸めて咳き込んだ。そんな彼女を横目にカトラスをホルスタへ戻したレヴィは、やや離れたテーブル席にどっかりと座り込んだ。

 機嫌は最悪ながら一旦は静観の姿勢を取ることにしたらしい二挺拳銃を一瞥し、ウェイバーはようやく落ち着きを取り戻した馮へと視線を飛ばした。

 

「さて、吐いてもらおうかお嬢さん。洗い浚いすべてだ、俺の予想と合っているか答え合わせとこうじゃないか」

 

 つい数分前に殺人宣言されたことなど歯牙にもかけない様子で、悪党はそう口火を切った。

 

 

 

 19

 

 

 

 突然の「お前殺す発言」には内心驚いたものだが、その驚きも次の瞬間には吹き飛んでしまっていた。レヴィもグレイも短気が過ぎる。グレイに関してはマジ切れのレヴィに同調して楽しんでいる様子だったが、止めるのがあと少し遅ければ馮の顔面が蜂の巣になっていたことだろう。

 

 というかである。

 ちょっとばかし状況を整理させて欲しい。

 俺を殺すとは一体どういうことなのか。面と向かって殺害宣言など数年ぶりの出来事だ。それに馮とはこれまで面識は無い。情報がまばら過ぎて話が繋がらない。

 

 なので雪緒にそのあたりの整理を頼もうとしたのだが、何故か俺が考えている通りとの返答をいただいてしまった。いや何も考えがまとまっていないから聞いたんだが。

 

 彼女をたまたま助けた際に聞いた話では、クラッキングの技術を会得する為にジェーンのチームに入ることを望んでいた筈だ。

 それがどんな化学反応を起こすと、俺を殺すという目的に変化するのか。新手の薬物でもキメてんのか。

 

 何処かで恨みでも買っていただろうか?

 ……思い当たる節が多すぎて何とも言えん。

 

 ただ俺個人を特定していることから、そこそこ大きな案件である可能性が高い。基本的に俺の受けた仕事は張やバラライカがケツ持ちをしてくれるため個人の情報が残ることは少ない。それこそ軍や組織依頼の案件が向こう側にデータとして残っていた、なんて事がない限りロアナプラにすら辿り着けない筈だ。

 そういえば、中国近辺での仕事も過去に幾つかあったような気がする。

 広東省で中国マフィアの持つ賭場を潰した件か、それとも雲南省の雪山でミャンマーのゲリラ軍と交戦した件あたりが関係しているかもしれない。

 

「……その顔、全部お見通しって顔ね」

 

 そんな事を考えていると、馮が俺を睨み付けながら忌々しそうに告げた。

 お見通しもクソもないわけだが、面の皮の厚さには定評のある俺である。あたかもそうであるかのように見せることなど造作も無い。

 

「お前の目的は、」

「あ、ねえちょっとウェイバー。これお姉さんが聞いててもいい話? 後で夜道で襲われたりしない?」

 

 訳知り顔で切り出そうとしたところ、カウンターからひょっこりと顔を出したメリッサがそれを遮る。

 頭のてっぺんでアホ毛が不安そうに揺れているが、ここはホテル・モスクワ管理の酒場である。必要であれば遊撃隊の護衛を付けることも出来るだろう。SPよりも屈強な男たちである。そこらのチンピラなど相手にもならない。故に、

 

「大丈夫だ」

「そ、そうよね。ウェイバーが居るし」

「……ん? ああ」

 

 木製のトレーを胸に抱いて安堵の息を吐いたメリッサ。

 なんとなく食い違っているような気もするが、今はそれは置いておくことにする。

 メリッサから再び馮へ視線を戻し、懐から取り出した煙草に火を点ける。

 

 肺いっぱいに取り込んだ煙を天井に向かって吐き出し、ひとまず当たり障りのない質問を投げ掛ける。

 

「俺に辿り着いたのはいつ頃だ」

 

 ぶっちゃけいつ頃の案件かも分かっていないので、この返答である程度の予測を付けようという魂胆である。

 

「……貴方の名前に辿り着いたのは、つい数か月前のことよ。軍のデータベース内にやけに厳重に隠されているフォルダがあることに気が付いたの」

 

 観念したように語り出す彼女に、嘘をついているような様子は無い。

 というか、データベースに残ってたのか。契約上すべて破棄される筈なんだが、あとで張あたりを問い詰めることにしよう。

 

「軍の情報だもの、人目に触れてはいけないような情報なんて五万とある。だから本当にたまたまよ……私が軍に入ってまで欲しかった情報が出てきたのはね」

「……ん、ちょっと待て。お前まさか、逆なのか?」

 

 馮の口ぶりから察するに、そういうことになるのではないか。

 軍に入り、網軍(サイバー軍) 設立のためにジェーンに取り入ろうと画策し、その中でたまたまこの街で俺と出会った。そう考えていたが。

 

「ええ、私はね、父の死の真相を知るために軍に入ったの。そして、貴方を殺す為にこの街にやって来た」

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 

 これまで口を閉ざしていたロックが会話に割り込んでくる。

 

「ウェイバーさんを殺す為に? その為にこの街にってどういうことなんだ? 君は中国軍で新設される部隊の技術躍進の為にこの街を訪れた筈だ!」

「そうね」

「話が繋がらない。一体どうしてウェイバーさんの命を狙うんだ!?」

「簡単な話よ。この男が私の父の仇だから」

 

 両の眼で俺を見据えて、はっきりと馮は口にした。

 つまるところ、復讐というわけだ。

 

「私の父、()麗孝(リキョウ)は中国軍の副参謀総長だった。そして――――――――軍と貴方に殺されたのよ、ウェイバー」

 

 告げられた言葉に、ロックは大きく目を見開く。

 ウェイバーやレヴィ、雪緒は既に見当が付いていたのか驚く素振りは無く、そんな様子が馮の苛立ちを加速させる。

 

「ええ、ええ。貴方にとっては取るに足らない仕事の一つだったんでしょうね、当時建設途中だった軍の施設が不幸にも(・・・・)倒壊して、不幸にも(・・・・)視察でその場に居合わせた父が瓦礫の下敷きになってしまった。悲惨な事故と中国全土で報道されたわ」

 

 でも、と拳を握り締める彼女は続ける。

 

「不審な点がいくつかあった。副参謀総長は軍のNo.2よ、通常視察でも十人単位の護衛が付くのが普通なの。なのにその日、父には二人の秘書しか帯同していなかった。そしてその二人も建物内部の視察には付いていかず、車内待機とされていたわ」

「それは、」

「偶然と思う? その秘書二人が今の副参謀総長の傍付きになっているとしても? ちなみにその副参謀総長は当時の父と対立していた男だったわ」

「…………」

「ハッ、Dead men tell no tales.(死人に口無し)、ってトコか? 大方お前の父親は知りすぎたのさ。身の程知らずにも虎の尾を踏みやがったンだ」

 

 口を閉ざすロックの代わりとばかりに揶揄うようなレヴィの言葉に、馮は唇を噛み締めた。

 数秒して絞り出されたのは、レヴィの言葉への肯定。

 

「……そうよ。父は当時軍が秘密裏に開発を進めていた細菌兵器の使用計画を知ってしまった。山間部の農村に住む500人を実験材料にするなんていう、非人道的な計画をね」

「は?」

「オイオイ、中国軍てのは一体何と戦おうとしてンだ? 星条旗の連中(スターズ・アンド・ストライプス)

とケツの叩き合いをしてェってンなら余所でやってくれ」

 

 呆れを多分に含ませたレヴィの言葉。

 使い方次第では核にも引けを取らない兵器の登場に驚愕する。いや、顔には出さないが。

 

「父はその計画の中止を求めて上層部に進言を続けていた。きっと、それが軍には邪魔だった。だから貴方という外部勢力を使って排除したのよ」

 

 父の死後、生物兵器の研究は加速したというレポートが上がっていたわ。そう言って彼女は自嘲気味に笑った。

 

「父の死の真相を知った時、真っ先に上層部を告発しようと考えたわ。でもそれはきっと父と同じように握り潰される。だったらせめて軍にとっての不利益を、そう考えるのはおかしい事?」

「いいや、別に可笑しな事じゃない」

 

 間髪入れずにそう答えた俺に、馮は眉を顰めた。

 

「復讐上等。この街にゃそんな話がゴロゴロしてる、いかにもな安っぽい話だ」

「ッ……!」

 

 俺の言葉が癇に障ったのか椅子を倒して立ち上がり、懐に忍ばせていたらしいトカレフを突き付ける。ありゃ54式か。きっちりセーフティを外しているあたりは流石軍人といった所だ。

 が、まだまだ青い。

 銃口を突き付けて満足しているようではここロアナプラじゃすぐにあの世逝きだ。

 拳銃を掴み、構え、引鉄を引く。ここまででワンセンテンスだ。因みに0コンマ5秒を切れてようやくスタートラインである。

 

 だからまあ、そんな顔をしても無駄だ。

 彼女に殺意が無い(・・・・・)ことは瞳を見れば分かる。

 

「ふむ、よォく狙えよ。お嬢ちゃん」

「っ、私が貴方を殺せないと思ってる?」

「おしゃべりだな。銃を構えたら言葉は要らない、軍学校じゃ教えてくれなかったのか?」

 

 少し離れた席で再びレヴィが犬歯を剥き出しにしているが、視線だけを向けて動きを制する。

 雪緒とグレイは全く心配していないのか、二人してカフェオレを飲んでいるが。

 

「余所見とは余裕じゃない。目の前で銃口突き付けられているってのに」

「余所見?」

 

 馮の悪態に疑問形で答える。

 

「――――――――そりゃお前のことだな、お嬢ちゃん」

 

 ゴリ、と。

 ジャケットの内から引き抜いた鈍い光を放つリボルバーを、彼女の額に押し当てる。

 

「っ!!?」

「何だ、気付きもしなかったのか」

 

 互いが銃口を突き付け合い、視線が交錯する。

 いや、馮は最低限俺がこの程度の腕を持っていることは知っている筈だ。何せ彼女に絡んでいたチンピラ共を追い払ってやったのは俺なのだから。あの時も似たような事をした。銃を抜くだけなら早いんだよ、俺は。誇れるような事でもないが。

 

「……知っていたわよ、当然。貴方がこの街でも指折りの怪物だってことくらい」

 

 微かに震えた声で、馮が呟く。

 

「それでも我慢ならなかった。だから軍も、貴方も、父の死に関わった全てを壊す覚悟をしてこの街に来た。例え、そこらの路地裏で打捨てられたとしても」

 

 ……ああ、面倒だ。

 曲がりなりにも死を覚悟した人間に、安い脅しは通用しない。

 それに恐らくだが、コイツ、まだ何か隠しているな?

 

 仮に今この場で馮を殺したとしても、先の襲撃犯が引き返してくれる保証は無い。加えて彼女の所属する中国軍にこの事実が知れれば……ああ、そうか。これも逆な訳か。

 馮の所業は既に軍に勘付かれていた。それ故に、口封じの為に刺客を送り込んで来た。ということは十中八九あの襲撃犯と中国軍は裏で繋がっている。過去に俺というロアナプラの人間を使った際のルートがまだ残っていたということなんだろう。

 

 ったく、本当なら今ごろ洗濯機を買って帰ってる頃だってのに。

 

 

「気が滅入るな……」

 

 

 

 

 20

 

 

 

 

「……(気が滅)居るな」

 

 馮へシルバーイーグルを突き付けたままの態勢で、ウェイバーがポツリと呟いた。

 視線だけをぐるりと店内に巡らせ、小さく息を吐き出す。

 

 その一言で状況を察したのはレヴィとグレイ、そして雪緒だった。そして彼女ら三人から数瞬遅れて、ロックも置かれた状況を理解する。

 ロックがウェイバーに視線を向けられたことで咄嗟に飛び出し、馮を抱えカウンターの内側へ飛び込んだのと、天井から銃弾の嵐が降り注いだのはほぼ同時だった。

 

 耳を劈くような銃声が連続して轟く。

 天井に吊るされた電灯を粉々にしながら掃射される弾丸の雨が、ウェイバーらに襲い掛かる。

 さらに店の外からも銃撃が始まる。こちらは機関銃では無いのか間断無い銃撃ではないようだ、六発ずつの弾丸が一定の間隔で襲い掛かる。

 

 ウェイバーと雪緒は手近にあったテーブルに飛び込み、レヴィとグレイは笑みを浮かべて宙を舞った。

 まるでこれが通常運転とばかりに、その動作には一切の淀みがない。

 

「ちょっと!? 何天井穴だらけにしてくれてんのさッ!?」

「そんなこと言ってる場合じゃないだろもっと頭下げてくれッ!!」

 

 カウンターの内側で憤るメリッサの頭を押さえつけながらロックが叫ぶ。メリッサは瞬間的に頭を抱えて蹲っていた。流石にこの街で自殺行為だと言われるバーを営むだけある。危機管理能力は一級品のようだ。

 一方で突然の強襲は本日二度目となる馮であるが、流石に一度経験したらといって慣れるようなものでもないらしい。バクバクと心臓を鳴らして両腕を抱くように縮こまっていた。

 イエローフラッグ程ではないが、このカリビアン・バーもいくらか重厚に造られている。カウンターには20ミリの鉄板が仕込まれているため、そう簡単に銃弾が貫通することは無い筈だ。流石にイエローフラッグとは違い天井まではコーティングされていなかったが。

 

「ヘイロック! あの中国人のお守はお前の仕事だ、死なすンじゃねェぞ!」 

 

 カウンターの外では既に銃撃戦が始まっていた。

 カトラスを両手に縦横無尽に駆け回るレヴィの怒号に近い命令に、ロックは顔を青くする。戦闘能力皆無なサラリーマンには難易度が些か高いミッションだった。

 

 数秒、あるいは十数秒して銃弾の嵐が止む。

 もはや天井など無いに等しい店の様相にメリッサは額に青筋を浮かべていたが、そんな彼女の神経を更に逆撫でする男の声が響く。

 

「ハッハァ! 最高じゃねェか! コイツら俺の速射(クイックドロウ)でぶち抜けなかったぜ! さっきの市場と言いますます気に入ったァ!」

 

 無遠慮に入口の扉を開いて店内に踏み入ってくるのはカウボーイハットを被った白人の男。

 男の射線を遮るように身を隠すウェイバーらは、それぞれの得物を手に静かに神経を研ぎ澄ませていく。

 先ほどの襲撃犯であることを口走るその男は気分が高揚しているのか、諸手を挙げて声高に叫ぶ。

 

「なあオイ降りて来いよパクスン! ちまちま上から撃ってたってコイツらにゃ当たンねェ!」

「それもそうだな、ロブ兄貴」

 

 バンッ、と穴だらけの天井裏から飛び降りてきた短髪黒髪の東アジア系の大男。その手には軽機関銃が握られ、先の弾幕がこの男の仕業であることを暗に告げていた。

 

「ヘイ、ロアナプラの核弾頭(ミスターアンタッチャブル)! アンタも早撃ちが得意なんだろう!? コロラドNo.1のオイラと勝負しようぜェ!!」

 

 ピクリ、と()の眉が上下する。

 

「さっき見たのが確かなら、アンタもリボルバーだろ。奇遇だなァオイラもそうさ!」

 

 くるくるとブラックホークを回転させながら笑う男、ロバートはウェイバーへの挑発を止めない。

 ロバート自身、あの男と撃ち合ってみたいという欲望が無い訳ではない。が、それはあくまで仕事を抜きにした場合の話。この場に仕事で来ている以上、報酬分はきっちり働かねばなるまい。即ち、馮の殺害。

 

 この安い挑発にあの男が乗ってくるのであればそれも又良し。

 そうでなくとも女の隠れ場所をパクスンが探す為の時間稼ぎくらいにはなる。機関銃の弾薬も無限にある訳ではない。一度目の掃射で女を殺せなかったのは今となっては少々誤算だった。それだけ周囲のボディガードが優秀だった、ということなのだろうが。

 

 などと思考を巡らせていると、木製テーブルの陰から黒髪の女が姿を見せた。機関銃の掃射があるかもしれないというのに、その足取りには迷いが無い。一直線にロバートの元へと向かってくる。

 

「あん? おお、アンタはさっきの凄腕姉ちゃんじゃねェの。オイラはあの怪物と早撃ち勝負がしたかったんだけどねェ」

「ピーチクパーチクと喚くじゃねェか赤っ首野郎(レッドネック)。ボスと勝負なンざ100年早いってンだ」

 

 両手にカトラスを握ったまま告げるレヴィに、ロブは思わず噴き出した。

 

「ッハハ! なんだよあの野郎とんだ腰抜けじゃねェの! 女の後ろに隠れてビビっちまってんのかァ!?」

 

 ピクリ、と少女(・・)の眉が上下する。

 

「お姉さん、後ろのオジサンは私がお相手するわ。だからそっちのオジサンのこと、よろしく(・・・・)ね?」

 

 弧を描く口元とは対照的に、一切笑っていない両の瞳を大男へと向け、グレイはBARを構える。

 

「お? なんだチビガキ。こっちはさっさとあの女殺していけ好かねェ中国人からたんまり金貰ってよォ、売春窟で腰が抜けるまでやりまくる予定なんだ。邪魔すんな」

 

 軽機関銃を肩に担いでグレイを睨み付けるパクスン。

 普通の少女であれば萎縮してしまうような大男を前にして、グレイは艶やかに嗤い、上唇を薄く舐める。

 

「もォっとイイものをあげるわゴリラのオジサン。忘れられなくなるくらい刺激的なやつを」

 

 続く大男の言葉は、BARの掃射音に掻き消された。

 

「雪緒ちゃん!」

 

 弾丸飛び交うカリビアン・バーのカウンター裏。

 雪緒と合流を済ませたロックは、馮の安全を確保するため、状況の把握に勤しんでいた。

 

「レヴィたちが戦っているのはさっきの襲撃犯ってことでいいんだよな!?」

 

 発砲音と建物の破壊音に掻き消されないよう、ロックは声を張り上げる。

 

「はい、今しがた確認が終わりました。彼らの通称は四重奏(ウム・カルティエート)。殺人代行組合のブレン・ザ・ブラックデスが最近飼い始めた殺し屋です」

 

 常日頃から携帯しているらしい小型のパソコンに襲撃犯の顔写真が表示される。

 四重奏、という名の割に画面に写された殺し屋は三名なのが気になるところではあるが。

 いや、というかである。いつの間に彼女はここまでの情報を手に入れたのか。

 驚きが顔に出たのか、雪緒はロックを見てニコリと笑って。

 

「秘密、ですっ」

 

 笑顔が本来攻撃的な代物であることを身を以て実感したロックだった。

 

「人種はまちまちみたいですが兄弟みたいですね。レヴィさんと撃ち合ってるのはアメリカ国籍の次男ロバート。さっき自分でも言っていましたが早撃ちが得意みたいです。合衆国内で服役経験有り」

 

 早撃ちとはまあ、何とも相性の悪い。

 ロックは自殺志願者でも見るような眼つきで、カウンターの向こう側で撃ち合う男を見た。

 レヴィが怒り狂うのも納得だ。なにせ『早撃ち』とはこの街では特別な意味を持つ。オンリーワンの称号であると言い換えてもいい。

 

 その称号を持つ男は何をしているのか、カウンターの陰から店内を見渡して、そしてロックは気が付く。

 

 いない。

 ウェイバーが、いない。

 

「ああ、ウェイバーさんならさっき裏から出ていきましたよ。一服して用を足してくると言ってました」

「はあ!?」

「まあまあ、ウェイバーさんですから。何も心配は要りませんよ」

 

 恐らくですが、と雪緒は前置きして。

 

「残党狩りってところだと思います」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・馮の父の死(土葬)
046に伏線を仕込んでおくスタイル。

・元祖早撃ち(ウェイバー)の弟子 VS コロラドNo.1の早撃ち
・美(少)女 と 野獣
ファイッ!!

・忽然と消えるウェイバー
ロック「ファッ!?」


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050 クイックドロウ

 錆びた鉄のような臭いが鼻腔を刺激する。

 この街に足を踏み入れてから既に一年以上が経過し、ロックにとってはすっかり馴染みとなってしまった刺激臭だが、その臭いに慣れるかどうかは人によるらしい。

 多少感じるところはあるものの平静を保っているロックや雪緒とは対照的に、メリッサは目の前の光景に耐え切れずトイレへと駆けて行った。馮は顔を青くし口元を手で押さえ辛うじて堪えることには成功したようだが、見るからに決壊寸前である。

 

 無理もない、とロックは内心で呟いた。

 カウンターの裏に身を隠していたロックたちがゆっくりと顔を出したのは、これまで間断なく聞こえていた銃声が止まって暫くしてからのこと。

 

 なんとなく状況を察していたロックと雪緒はともかく、馮とメリッサは何の警戒も無しにカウンターの向こう側へ視線を向けた。

 そして飛び込んできた光景に絶句する。

 

 辺り一面を彩る赤黒い液体と、先ほどまで人間だったであろう物体。

 スプラッタ映画も裸足で逃げ出す現場を前に、比較的常人に近い感性を持つ彼女らが耐えられる筈も無かった。

 

 小さく息を吐いたロックは血溜まりに沈む肉塊を一瞥して、この惨状を作り上げた張本人の元へと歩を進める。

 

「薔薇の花束だってここまでじゃないぞ」

「ッチ、嗚呼おいロック。何か拭くモン持ってねェか? 返り血が付いちまって気持ち悪いったりゃねェ」

 

 今この場に立っているのは、ロックと雪緒を除けば二人。

 そのうちの一人であるレヴィは辛うじて原形を留めていた木製のテーブルに腰掛け、自身に付着した血液を鬱陶しげに見下ろしていた。

 

「昨日のウェイバーさんもジャケットを真っ赤にしていましたよ。お揃いですね」

「お、そうか? だったらまァ悪くねェ。この赤っ首野郎にも多少の価値はあったってこった」

 

 にこやかに笑う雪緒の言葉に機嫌を良くしたレヴィは、足元に転がっている穴だらけの血達磨を踏み付けてカラカラと嗤った。

 

「しかし派手にやったな」

「上のはあのチビだ。それにボスと同じ型の得物を持って吹っ掛けやがったのはコイツだ。ただの自殺志願者ってだけじゃねェよロック。こいつは飛び切りの大間抜け(ダンス)野郎だ」

 

 ポケットからクシャクシャに歪んだ煙草を取り出して、一本を口に咥える。

 半ば無意識のうちにライターを差し出したロックから火を貰って、レヴィは満足げに煙を燻らせた。

 

 

 

 21

 

 

 

 時は数分前に遡る。

 レヴィとロバート、グレイとパクスンという組み合わせで開始された銃撃戦のうち、レヴィらの撃合いは戦前の挑発と乱射が嘘のように静かに開始された。

 

 頭に引っ掛けたカウボーイハットを放り投げ、ロバートはホルスタに収納したブラックホークをいつでも引き抜けるように態勢を整えた。

 対してレヴィは両肩に掛けたホルスタにカトラスを戻した後は、これといった臨戦態勢に入らない。完全に脱力した状態で腕を下ろし、どす黒い瞳だけが目の前の撃ち倒すべき男を見据えている。

 宛ら西部開拓時代、ガンスリンガー同士の決闘のようだ。

 

「……おっかねえなあ、その眼」

「…………」

 

 リボルバーをいつでも抜けるように態勢は維持したまま、ロバートは軽い調子で宣った。

 

「そんな眼をした奴はコロラドにだっていなかったぜ姉ちゃん。そいつは人間を道端の石ころとでも思ってるっつう眼だ、しびれるねェ」

 

 レヴィは動かない。視線を男から外さない。

 両腕をだらんと下ろしたまま、ただ静かに眼前の男だけを捉える。

 

「もっと楽しみたいところだが、後の仕事が閊えてる」

「……奇遇だな赤っ首野郎(レッドネック)。こっちも後ろが詰まってンだ、すぐに殺してやる」

 

 言い終わると同時、レヴィは咥えていた煙草を吐き捨てる。

 火が点いたままの煙草はくるくると宙を舞い、やがて重力に負けて落下を始める。

 

 ソレが地面を叩いた瞬間が合図だと、ロバートも察する。

 

 辺りから音が消え失せ、二人の視線が消えかけの煙草へと向く。

 そして。

 

 ジ、と煙草が床を叩いた、その刹那。発砲音が炸裂した。

 

「…………」

「…………ヘッ、」

 

 一瞬の静寂ののち、呆けた声が口をつく。

 

「速すぎだぜ、姉ちゃん……」

 

 眉間に弾丸を撃ち込まれたロバートは、ホルスタに収められたままのリボルバーを握ったまま崩れ落ちる。

 リボルバーを抜くことすら出来なかった哀れな男を見下ろして、レヴィはカトラスをくるくると回転させながらホルスタへと差し込む。

 

「馬鹿が、ボスはもっと速ェ。撃たれたことすら気付かせねェんだからな」

「あら、もう終わってしまったの?」

「あ? クソジャリ、てめえも――――」

 

 背後から聞こえてきた声に反応し悪態を吐こうとして、レヴィは目を丸くする。

 

「……オメエそれはやりすぎなんじゃねェのか?」

「そうかしら? おじさんの事を馬鹿にするような輩には足りないくらいだと思うけれど」

 

 頬や真っ黒な洋服を血に染めた少女、グレイが跡形も無くなってしまった入口から戻ってくる。

 左手で下半身の無くなった大男を引き摺って。

 

「どういう殺し方すりゃンな死体が出来上がンだ」

「あら、お姉さんの身体で再現してあげましょうか? 蛙みたいにピクピク痙攣するのはとても面白いのよ」

「完全に快楽殺人者(シリアルキラー)じゃねェか」

 

 よっこいしょ、と反動をつけて上半身のみとなった死体をグレイが放る。レヴィが殺したロバートの上に重なると共に、赤黒い血液が宙を舞った。その血液が、間近に居たレヴィのタンクトップと頬に付着する。

 

「あ、てめ!」

「あと二人、どこから来るのかしら」

「シカトこいてンじゃねェぞ……。あー、それだがなクソジャリ。おそらく追撃は来ねェよ」

 

 肩に掛けたBARの手入れを始めるグレイに、レヴィはライターを探しながら告げる。

 

「さっきボスが出て行った。ッつうことはまァ、そういうこった」

 

 

 

 22

 

 

 

「……ロックさん、少しいいですか?」

 

 襲撃者二名を撃退し、表向きは一服しに外に出て行ったウェイバーが戻ってくるまでの間、比較的被害の軽微なカウンターに腰を下ろす雪緒がロックへと問い掛ける。

 

「なんだい雪緒ちゃん」

「ずっと考えていたんです。どうしてウェイバーさんが彼女に手を貸すような真似をしたのか」

「それは、最初に彼女を見かけたときにチンピラに絡まれていたから……」

「本当に、そうでしょうか」

 

 ロックの言葉を、雪緒が遮った。

 

「この街に馴染みの無い顔の女性がチンピラに絡まれていたとして、誰彼構わず手を差し伸べるでしょうか」

「それは、いやでも……」

「私の場合は相互メリットが目に見える形でありました。慈善事業じゃありませんよ」

 

 自身を引き合いに出して告げる彼女に、ロックは後頭部を掻いて口を引き結んだ。

 

「私は、ウェイバーさんが最初から彼女を利用する気だったんじゃないかと思うんです」

「彼女を……? 一体どうして」

「覚えていますか? あの日、グレイちゃんがどうしてイエローフラッグに居たのか」

「そりゃあね、あの子があの酒場に居ることは珍しいし。…………待てよ」

 

 そこまで言われて何か引っかかりを覚えたロックは、顎に指を添えて情報を整理する。

 あの日、グレイはウェイバーの帰りを待っていた。夜会に参加している彼の帰りを。

 ウェイバーが夜会の参加に不定期なのはこの街の住人であれば周知の事実だ。それ故に「アンチェイン」などとも呼ばれているが、当の本人は全く気にする様子は無い。そしてその夜会にロベルタの件以降グレイが参加するようになったのもまた、多くの人間が知っていることだった。

 

 そんな中、あの日ウェイバーは夜会に参加し、グレイには留守番を言い渡した。

 

「私もあの日の夜会の内容は聞けていません。きっと聞いても教えてくれませんし。だからこれはあくまでも私の推測になりますが」

 

 雪緒はロックを見つめ、言葉を続けた。

 

 

 

 ――――黄金夜会に名を連ねるマフィア、その一翼に彼女の護衛、あるいは保護を依頼されたのでないかと思うんです。

 

 

 

「いや、待ってくれ。最初の話と矛盾する。最初に君はウェイバーさんが彼女を利用する気なのだと言った。だとするなら、相手が保護を依頼するのはおかしいんじゃないか?」

「いえ、ウェイバーさんが彼女を利用することと、どこかのマフィアが彼女の保護を依頼することは必ずしも矛盾しないんです」

 

 ロックの指摘にも、雪緒は平然と答えた。

 

「ウェイバーさんが彼女を利用しようとするのには何らかの思惑がある筈です。そしてウェイバーさんと取引をしたマフィアにも、彼女の身柄が保障されることで手に入れられるメリットがある」

「……大筋は通る、のか……? 自分の命を狙ってきた女を守るなんて素っ頓狂な真似、依頼でもなければしないだろうけど」

 

 だが、だとすれば。

 

「どこの組織が、何の為に、だ」

「どこの組織までかはハッキリとは。なんとなくの見当は付けられますが。でも何の為にというのは、貴方も察しが付いているのでは?」

 

 彼女の問い掛けに、一呼吸おいてロックが答える。彼にも思い当たる節はあった。

 

「彼女のクラッキング技術か」

「おそらく」

「……洗濯機。ああ、そうだ、洗濯機だ」

 

 思い返す。あの日、グレイはなんと言っていた。

 少女は言っていた、洗濯機という単語を。

 それはとある作業の隠語としても使用される。

 

 即ち、資金洗浄(マネーロンダリング)

 

「その最中で何かがあった。だから、彼女の技術を必要としている……?」

「私も同意見です。恐らくウェイバーさんはその事実を知っていて、だからこそ彼女の持つ技術と引き換えに何らかの報酬を得ようとしている」

 

 現時点の情報だけで決めつけるのは早計だ。だが、可能性は高いと思われた。

 

「でも、だったらどうして君やグレイちゃんに伝えないんだ。君たちに隠しておくメリットが無い」

「デメリットがあったんじゃないですか。例えば、過去に私たちとその組織で衝突があった、とか」

 

 雪緒やグレイがその情報を知ったところで直接的な被害が出ることはないだろう。だがウェイバーのことだ、少しでも可能性があるのであればその芽を摘んでおく。何手も先を読んでいるあの男だ、きっと雪緒がこうして一つの結論に達することも見越しているに違いない。それでも尚黙っていたということは。

 

「随分と大切にされているんだな。君も、グレイちゃんも」

「さあ、どうでしょう。あの人はそういうことを口にしませんから」

「でも、そうか。だとするとウェイバーさんへ依頼を出したのは」

「十中八九、ホテル・モスクワかコーサ・ノストラのどちらかだと思います」

 

 いやはや、何というか。

 ロックは十近く年下な筈の眼前の少女を見て、小さく息を吐く。

 

「……随分とたくましくなったね、雪緒ちゃん」

 

 ロックの言葉に、雪緒は小さく笑みを浮かべて。

 

「私もだいぶ、この街の色に染まってきたでしょう?」

 

 

 

 

 23

 

 

 

 

「ったく、派手にやってンなァあいつら」

 

 直ぐ後ろから聞こえてくる銃声と破砕音を背に、煙草を咥えて火を点ける。

 ゆっくりと肺にまで取り込んで、これまたゆっくりと口から紫煙を吐き出す。

 

 ああ、今日もいい天気だ。

 洗濯機を買いに街に出た筈なのに、どうして俺はこんな戦禍のど真ん中に突っ立っているんだろうか。軽い現実逃避に走りたくなる気持ちをどうか分かって欲しい。

 突然何年も前の仕事で殺した人間の関係者が鼻息荒くして目の前に現れたのだ、それも殺し屋を背負って。

 面倒事が結託して俺の事を殺そうとしている気がしてならない。

 

「……っと、小便小便」

 

 半分ほどになった煙草を吐き捨てて、周囲をぐるりと見渡す。

 本当ならバーで済ませておきたかったんだが、生憎と先の銃撃で便器は粉々に砕け散ってしまっていた。そこらで適当に立小便することも考えたが、最近年のせいか尿のキレが悪い。何度も腰を上下させる様を往来でするのは憚られた。

 

 と、いうわけで。トイレを探そう。

 雪緒には一服と用足しだと伝えてあるし、レヴィもグレイも簡単にくたばるような女じゃない。

 男一人が用を足す時間くらいはあるだろう。

 

 だが立地が悪かったのか、あるのは小さなモーテルや住居ばかり。流石にトイレだけを借りるのは気が引けるので、諦めてもう少し足を伸ばす。

 その後も数分探してみたが発見には至らず。たかだかトイレ一つ見つけるのにどれだけの時間を掛けるのかと自分でも馬鹿らしくなってくる。

 

 仕方無い。適当な建物に入ろう。廃ビルなら最悪立小便をしても目撃されることは無いはずだ。そこそこバーから離れてしまったし、これ以上は戻るのも面倒になる。

 と、そろそろ限界が近い。あまり振動を与えると決壊の恐れがあるため、すり足のようにしてなるべく音を立てずに目についた廃ビルに入る。パッと見一階にはトイレはなさそうなので二階へ。

 ……二階にも無し、三階へ。

 

 ……三階にも無し。

 四階にはあったが、掃除されなくなってかなり経つのかとんでもない事になっていたため断念。五階へ。というかもうこれ先は屋上なんじゃないか。勘弁してくれ。

 やはりというか案の定屋上に繋がっていた階段を上がっていくと、錆び付いた扉が目についた。屋上の隅であればそう人目にも付かないだろう。というかそろそろ限界なので、さっさと済ませてしまいたい。

 

 しかしまァ、本当に年は取りたくないもんだ。

 

「――――()()っていけねェ」

 

 ギイ、と錆び付いた扉を開きながら、自嘲気味に呟いた。

 

 

 

 24

 

 

 

 四人兄弟の殺し屋、「四重奏(ウム・カルティエート)」はそれぞれが明確な役割を持って仕事に従事している。

 数分前にカリビアン・バーへと突撃した次男と三男が前衛、四男は撹乱と暗殺、そして長男は後方支援である。

 

 長男であるブラジル人、モンテロはバーから500メートル程離れた廃ビルの屋上でうつ伏せになり、サコー狙撃銃を構えていた。

 これまでにも複数のカルテルで雇われガンマンをしていたモンテロの狙撃技術は本物だ。狙撃銃を使用した場合の射程距離ギリギリまで離れたこの距離からでも、ターゲットの蟀谷に鉛玉を撃ち込める自信があった。

 

「チッ、アイツらむやみやたらに建物を破壊しやがって、砂埃と破片の山でどうなってるか分からねェ。あの女はどこにいる?」

 

 最終的には仕事はこなすが、その過程があまりにも雑な二人の仕事っぷりに悪態をつきながら、モンテロはスコープ越しに建物内部を見る。

 ここからでは内部の詳細な状況までは把握できないが、目に見える破壊が発生していない所を見ると戦闘は終了したらしい。ロバートあたりは殺した女と遊ぶ悪い癖がある為、今頃は勤しんでいるのかもしれない。

 

「まああの女の首さえ持ち帰れば何をしようが構やしないが……」

 

 と、そんな事を口にした時だ。

 

 モンテロの耳に、開く筈の無い扉の軋む音が飛び込んで来たのは。

 

「――――()()っていけねェ」

 

 そして続く男の声。

 モンテロはすぐさま身体を起こしその場から飛び退いた。

 

 錆び付いた扉の向こうから現れたのは、先ほどまでカリビアン・バーに居た筈の東洋人だった。

 

 馬鹿な、とモンテロは内心で呟く。

 扉が開くまで一切の気配が感じられなかった。この屋上に来るまでに一体何段階段を上らなくてはならないと思っている。大の男が移動する気配を感じられない筈が無い。それが出来なければ殺し屋としてやっていけないレベルだ。

 

 だというのに。

 目の前の男は実際に現れるまで、一切の気配をこちらに悟らせなかった。

 

(そんなことが可能なのか? 人間の技術じゃない……)

 

 背中から冷たい汗が噴き出すのを止められないモンテロを尻目に、現れた男は自然体のまま暗い瞳をこちらに向けている。

 

「ホント、近くて困るぜ」

 

 近い、と再び口にする。まるで拍子抜けだとでも言うような表情だ。

 その男、ウェイバーは一歩踏み出す。するりと。全く足音が立たなかった。

 

 まるでこれが答えだとでも見せつけるかのように。

 そしてその事に気付くと同時、ウェイバーの発言にも一つの答えが浮かぶ。

 

(近い……この距離でか!? 狙撃可能な射程ギリギリだぞ!?)

 

 いや、射程距離ギリギリだからこそ、だとしたら。

 狙撃銃の射程距離はモノにもよるが最大でも600メートル程と言われている。ターゲットは馮亦菲(フォンイッファイ)であることは前回の襲撃で把握している筈。そしてこちらの素性も恐らく割れている。

 ということは、彼女を中心に半径600メートル程の位置に建つある程度高さがある建物に狙撃手が居る可能性が高いことに気が付く。加えてこの地は奴らのホーム。適した建物などいくらでもピックアップすることが出来るだろう。あとは順番に潰していけばいい。

 

「500メートルでは不足、ということか……!」

「ん? ああ、狙撃な。知り合いにゃあ1キロ狙撃を片手でやってのけるバケモンが居るんだ。500メートル(ハーフ)なんざ狙撃のうちに入らねェよ、俺でも出来る」

 

 ウェイバーはモンテロが手にしていた狙撃銃に視線を移して嗤った。

 モンテロにはその笑みが死神のように見えた。

 

 尚、実際には下腹部の決壊が近い為に顔が引き攣り始めているだけである。

 500メートルの狙撃もリボルバーで出来る訳が無い。完全なハッタリだ。

 

 だが市場での射撃を目の当たりにしているモンテロは、それをハッタリだと簡単には切り捨てられない。

 

「ああ、お前昼間の襲撃犯の一味か」

 

 白々しく呟くウェイバーは、空いた両手をズボンのポケットに突っ込んだまま。

 ナニを押さえているなどと夢にも思わないモンテロは、どうにかして目の前の男を殺せないかと思考を巡らせる。

 

 幸いにも手にしている狙撃銃は既に引鉄を引くだけの状態。立ったままでは反動で照準がぶれるが、それでもこの距離なら身体に当たらないということはないだろう。

 丸腰状態のウェイバーよりも、こちらの方が早い。

 

 モンテロはそう判断した。

 その基準の中には彼の弟、ロバートの早撃ちがあった。例えロバート程の早さであっても、こちらが事を終える方が早い。

 

「残念だよ、ロアナプラの爆心地(ミスターアンタッチャブル)。出来れば最小限の犠牲で済ませたかったのだが」

「いいのか? お前の狙撃銃(ソレ)、ボルトアクションだろ」

 

 ウェイバーは突き付けられた銃口に微塵も怯むことなく、あまつさえ二発目以降の事を考えているようだった。

 

「無用な心配だよミスター。この一発目を当てさえすれば、余裕を持って次弾を装填できる」

「そうか」

 

 短い言葉だった。

 

 そして――――銃声は、意識の外からやって来た。

 

「…………ッッ!!?」

 

 どこからか聞こえてきた銃声。それが目の前の男が握るリボルバーから放たれたものだと気づいたモンテロに、コンマ数秒遅れて激痛が襲い掛かる。

 上体が傾いだ。痛みに耐え切れず、モンテロは膝を突く。その両膝は血に塗れていた。

 

(撃たれた……? 馬鹿な、俺は奴から視線を外さなかった! それに銃声は一発分だったんだぞ、それがどうして俺の両膝を撃ち抜く結果になる!?)

 

 身体中を駆け巡る激痛に脂汗を滲ませ、頭を垂れるように塞ぎ込むモンテロはウェイバーを見上げる。

 右手に握られた銀のリボルバーからは僅かに硝煙の香りが漂い、今の銃撃が彼のものであることを物語っていた。

 

「ここらが限界だよ狙撃手(スナイパー)。そもそも後方支援がここまで踏み込まれた時点で勝負は見えてた」

 

 その言葉に続くように、数発の銃声。

 事切れる寸前のモンテロが最期に見たのは、リボルバーを懐に仕舞う化物の姿だった。

 

 

 

 

 




副題:トイレに行きたいだけなのに。


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051 FINE LINE

間が空いたので前回のあらすじ

トイレ借りにちょっとそこまで。


 

 25

 

 

 

「なんだ、もう終わってたのか」

 

 用を済ませ半壊したカリビアン・バーに戻ってくると、レヴィとグレイの手によるものであろう愉快な死体が二つ、赤黒くなって転がっていた。

 俺の姿を認めた途端に恐怖からか懐へと飛び込んできたメリッサを抱き留め、視線を周囲に向ける。取り敢えず、これ以上の追撃は無さそうだ。四重奏とか呼ばれているくらいだ、もう一人くらいその辺に潜んでいるんじゃないかと勘繰ったが、どうやら俺のアテは外れたらしい。

 

「お帰りなさいウェイバーさん。随分と長いトイレでしたね?」

「ん? あー、まあ何だ。たまたまここを狙ってた狙撃手を見つけてな」

「そうですか、()()()()ですか」

 

 磁石のようにくっついて離れようとしないメリッサを何とか引き剥がしたところで、訳知り顔でニコニコと笑みを浮かべた雪緒が奥から姿を現した。

 何となく勘違いが発生している気がするが、トイレに行くことをどう勘違いしているのか見当もつかない。ということで、一旦そのことは置いておき、木片が散らばるカウンターの一席に腰を下ろして一息。

 

「そういや、レヴィはどうした」

「服に血が付着してしまったので、着替えに。メリッサさんがシャツを貸してくれるそうで隣の住居に行っています」

 

 血気盛んなラグーン商会のガンマンの姿が見えないことに気が付いて問いかけてみれば、雪緒からそんな返答があった。

 ……血ねェ。再び、床に転がる血達磨を一瞥。

 いやいや、やりすぎだろアイツら。特に大男の方、下半身どこに置いてきたんだ? 

 

「グレイ、お前やりすぎだぞ」

「当然の報いだわ」

 

 隣のカウンターに座るグレイを見てぼやくと、少女は頬を膨らませてすげなく言い放った。

 BARの整備の為か銃身の解体を始めていたグレイは、どうにも溜飲が下がらない様子。余程トサカにくることがあったのだろうか。今も掃除のため手を動かしながら、不機嫌そうに足を交互にゆらゆらと揺らしている。

 

「おじさんだって昨日の朝血塗れで帰ってきたでしょう?」

「胴体真っ二つにした返り血じゃねェぞあれは」

 

 事務所へ戻る道中、街の奴らからは幽霊でも見るような目で見られたが。

 

「お前はその遊び癖をもう少し治すべきだな。いつか痛い目を見るぞ」

「おじさん相手にこんな事しないわ。はじめから全力で殺しにいくもの」

 

 俺の寝首を搔こうとするんじゃねェよ。

 最近はグレイからの襲撃も目に見えて減ってちょっと安心してたんだが、その実虎視眈々と獲物を狙っていたらしい。

 そういや今朝も枕元にナイフが突き刺さってたっけか。これっぽっちも安心できる要素が無かったな。

 

「ウェイバーさん、この後のことですが」

「ん、ああ。目先の脅威は去ったと判断していいだろう。後はカウンターの裏で縮こまってるそこのお嬢ちゃんの扱いだが」

 

 カウンターの向かい側、両手で頭を抱えて丸まっている中国人に視線を向ければ、彼女は目尻に涙を浮かべて金魚のように口をパクパクと動かしていた。グレイたちの銃撃戦が余程衝撃だったのか、中々その場から立ち上がれないようだ。

 

「ヘイ、そんなトコで丸まってないで出てきたらどうだ。(やっこ)さんはもう居ないぞ」

「お、終わったの……?」

「ああ、後片付けはまだだがB級スプラッタ映画じゃよくある光景だ。気にするな」

「おえ……」

 

 そろそろと顔を上げてカウンター越しに俺の後ろの光景を目にした馮は、口元を押さえ再び蹲ってしまった。

 ふむ、少しばかり刺激が強かったか。

 

「こんな光景見慣れてる方がどうかしてますよ」

「そうだな、お前もな」

 

 溜息を吐き出しながらぼやく雪緒に、俺は小さく笑ってそう答えた。

 出来ることなら馮の回復を待ってやりたいところだが、追撃が無いとも限らない。

 

「馮、吐きながらでもいいが聞け。今お前が置かれている状況を端的に説明すると、あと一本剣をぶっ刺せば吹き飛ぶ黒ひげ危機一髪ってとこだ」

「……死ぬ一歩手前って理解で合ってるかしら?」

「おじさんに盾突いた時点で死んでいるのだから、少しばかり状況は好転してるわね眼鏡のお姉さん」

「グレイ」

 

 茶々を入れてくるグレイを諫める。

 ようやく胃の中を空にしたらしい馮はよろよろと立ち上がり、原形を留めていた手近な椅子に腰を下ろした。

 

「さっきの三人が何故お前を狙っていたのか分かるか?」

「……口封じってところでしょうね。ああ、成程。知りすぎた私も父と同じように始末しようとしてたってこと」

 

 まあ、まず間違いないだろう。

 以前も張経由で俺に依頼を持ちかけてきたくらいだ。今もこの街と繋がりを持っていても何ら不思議ではない。

 

「加えて言えば、恐らくお前の身辺整理は既に終わっている筈だ」

「それじゃ……」

「戸籍上、お前はもう死人てことだ」

「……そう」

 

 取り乱す様子もなく、馮は小さく呟いた。

 俺を手に掛けようとこの街に足を踏み入れた時点で、或いは彼女は既にこの未来を予測していたのかもしれない。

 

「それで? 貴方は私をどうするつもり? 殺すの、それとも娼館にでも売り捌く?」

 

 覚悟は出来ているとでも言うように、馮は気丈にも言い放った。それが強がりだということはその眼を見れば分かるが、どことなく昔のレヴィに似ている。

 

「ンなことしても俺にメリットが無い。それに命を狙われるのなンざ、俺にとっちゃガソリンスタンドでスピリタスを溢す程度の可愛いハプニングだよ」

 

 実際この十年余りで命を狙われすぎて感覚が麻痺しているので間違ってはいない。

 

「かと言ってだ。俺の命を狙ったお前をこのままホイホイと解放する気も無い」

 

 俺はロックと違って親切でも何でもない。

 このままはいサヨナラでは俺の為に激昂したレヴィやグレイにも示しがつかん。

 

 だからまあ、()()()()()()にでもなってもらおう。

 普通にこのままロニーの所で洗濯機を買おうとすると、いくらぼったくられるか分かったもんじゃないしな。

 

中国(ふるさと)に帰ることは出来ない。俺もお前をただで帰す気は無い。この街で何の後ろ盾も無く生きていくなんてアンタにゃ不可能。なら、どうする?」

「私に、何をさせようって言うの」

 

 たじろぐ馮から視線を外さず、間髪入れずに告げる。

 

「洗濯するのにお前の腕が入用だ。精々俺の役に立て」

 

 

 

 26

 

 

 

「そういうことか」

「みたいですね」

 

 ウェイバーと馮のやり取りを耳にして、ロックと雪緒は大方の事情を理解した。

 おそらくウェイバーは、最初からこうするつもりだったのだろう。

 襲撃犯に敢えて襲わせ、中国軍が彼女を狙っていることに気付かせる。

 ロック自身と同様にスケープゴートにされたのだ、今更故郷の地を踏める筈もない。かといってウェイバーが言うように、彼女一人でこの街を生き抜くことなど出来る筈もない。

 

 そういう状況にした上で、彼女自身に今後の身の振り方を選ばせる。その実選択肢などあってないようなものだとしても、その裏に悪党の思惑があったとしても、馮は生きるためには選ばざるを得ないのだ。

 

「ホテル・モスクワかコーサ・ノストラかはまだ分からないけれど、彼女を保護するのは洗濯機のメンテナンスのためと見て間違いないだろう」

「随分回りくどいやり方をしますね」

「組織が大きくなると小回りが利かなくなる。社会じゃよくあることさ」

「ウェイバーさんは個人ですよ」

「…………よくあることさ」

 

 

 

 27

 

 

 

「お、戻ってたのかボス」

「レヴィ」

 

 馮の今後について一通り話終えた頃、衣服を取り換えたらしいレヴィが、黒のTシャツを着てバーへと戻ってきた。

 メリッサが言うに客が忘れて行ったものだそうで、明らかにサイズが大きい。ダッチが横に二人並べそうなくらいの大きさである。首回りも大きいのか、肩の半分程まで見えてしまっている。

 

「また派手にやったなァ、レヴィ」

 

 そんなレヴィに、ウェイバーは軽い調子で言った。

 

「ケッ、似合いの末路だ。早撃ちでボスに勝とうなンざ一億年早ェってンだよ」

「早撃ち?」

 

 首を傾げるウェイバーに、隣から雪緒の声が飛ぶ。

 

「レヴィさんが相手をしたカウボーイハットの男ですよ。コロラドNo.1を自称していましたけど」

「ほォ……」

「思い出したらまたムカついてきた。おいロック、適当に棚からウイスキーを取ってくれ」

「あ、ああ」

 

 レヴィもグレイと同様怒り心頭らしく、乱暴にカウンターに腰を下ろすと棚付近に立っていたロックへ酒を要請。

 苛立ち紛れに足を踏み鳴らすレヴィを横目に見て、ウェイバーはゆっくりと腰を上げた。

 

「早撃ちねェ」

 

 今朝の朝食を思い出しているかのような、そんな調子で。

 

「そいつァ、こォいうのを言うんだぜ」

 

 ――――銀色のリボルバーから、一発の銃声が轟いた。

 

 弾数にして三発。

 レヴィの頭、首、心臓の三か所に、正確無比に鉛玉が撃ち込まれる。

 

「ちょ、ウェイバーさん!?」

 

 突然の凶行にロックは動揺の声を飛ばした。

 だが当のウェイバーは表情を一切変えず、気だるげにリボルバーを仕舞うと。

 

「慌てンなよロック。こいつを見ろ」

 

 血塗れで斃れ伏したレヴィの顎を掴み、そのまま一気に顔面の顔を剥いだ。

 接着剤か何かで固定されていたらしい人工皮膚が、べりべりと剥がれていく。

 

「これは……!?」

 

 人工皮膚の下から表れた顔はレヴィではなく、見たこともないアジア人のものだった。

 

「こいつも馮を狙った襲撃犯の一人だろう。四重奏とか言ってたからな。これで全員だ」

「成程。変装しているから本当の顔も分からず、リストにも顔写真が載っていなかったんですね」

 

 得心した様子で雪緒が頷く。

 

「じゃ、じゃあ本物のレヴィは!?」

「てっめえクソジャリ! あたしのブーツとデニムと替えのTシャツどこに隠しやがった!?」

 

 ロックの声は、直後の大きなレヴィの怒声で掻き消される。バーの隣に建つメリッサの住まいからそのまま走ってきたらしいレヴィがパンツ一枚で駆け込んで来た。

 

「……どうして偽物だって分かったんですか? 見た目だけなら同じでしたよ、私の目から見ても」

 

 雪緒と同じ疑問をロックも抱く。

 ここ一年生活を共にする彼の目から見ても、先ほどまでのレヴィは本物にしか見えなかった。

 レヴィに化けていた襲撃犯の観察を粗方終えたらしいウェイバーは、物言わぬ死体を指差しながら。

 

「身体のラインが隠れる服装をした奴らが、内側に何か隠してるのは常識だ。あからさますぎてギャグかと思ったがな」

 

 死体が着ていた黒シャツをまくりあげると、デザートイーグルとコンバットナイフが姿を現した。

 

「もう少し言うなら、アイツは俺がやったカトラスだけは肌身離さず持ってやがるのさ。黒シャツで上手く隠そうとしてたみたいだが、重心と腕の振り方からホルスタを付けていないのが分かった。それだけだよ」

「……じゃあ、もしも万が一、本当にレヴィさんがホルスタを忘れていただけだったら?」

「あの程度の早撃ち、レヴィなら普通に反応出来る。簡単な踏み絵みたいなモンさ」

 

 どこか呆れたような表情を浮かべる雪緒に、ウェイバーは口角を吊り上げて笑った。

 

 

 

 

 28

 

 

 

 

 言葉にならない騒めきが、一行の歩みに合わせて周囲に伝播していく。

 誰も彼もが眉を顰め明らかな怒気を隠そうともしないが、真一文字に引き結ばれた口から怒声や罵声が飛ぶことはない。言ったが最期、眉間で煙草を吸う事になる事を理解しているからだ。

 

 周囲に屯する男たちの人数を鑑みれば、いっそ不気味な程の静けさが場を支配していた。

 この場に於いて気兼ねなく口を開ける人間など、思考回路がぶっ飛んでいるイカレ野郎くらいのものだ。

 

「ここは」

 

 目的の建物入口まで歩を進めてきたロックは目の前に聳え立つその建造物を見上げ、無意識のうちに呟いていた。

 

「ヘイ、ロック。何を呆けてやがる。ボスが行っちまうぞ」

 

 煙草を咥えたレヴィが、扉を開いて内部へと入っていくウェイバーの背中を指差す。その背中に続いて雪緒とグレイ、馮も足を踏み入れており、レヴィとロックを残すのみとなっていた。

 

「コーサ・ノストラの方だったか……」

「ヘッ、あのガキんちょにとっちゃあ懐かしい場所じゃねェか。ま、あン時とは建物が変わっちまってるが」

 

 ニヤリと口元を歪めるレヴィは煙草を吐き捨て、ブーツの裏で磨り潰して建物内部へと入っていく。それに続く形で慌ててロックも扉を潜ると、浴びせられる視線の数が一層増した。

 表の通りに居た時点でそれなりの数の構成員から睨み付けられていたウェイバーたちであるが、内部へ足を踏み入れたことでその視線に鋭さが増したように感じられた。

 端的に言ってしまえば居心地が最悪レベルである。同行を申し出た数十分前の己を殴りたい衝動に駆られるロックだった。

 

 そんなロックの内心など露知らず、先頭を歩くウェイバーは周囲の視線を歯牙にもかけず先へ進んでいく。隣を歩くグレイは心なしか得意げである。その僅か後ろを歩く馮は初めて目にするイタリアン・マフィアの強面っぷりにおっかなびっくりといった様子だったが。

 

「ふふ、みんなおじさんを怖がってるみたい」

「お前も人の事言えねェぞ、グレイ」

 

 くすくすと嗤うグレイに、ウェイバーは小さな溜息を溢した。ロックとしてもその意見には全面的に同意である。

 今となっては過去の話になりつつあるが、ロックの数歩先を歩く銀髪の少女は当時のコーサ・ノストラの三分の一を壊滅させた殺し屋だ。当時の支部長だったヴェロッキオはオフィスデスクの上で縦に五等分の輪切りにされていた。それだけでこの少女の戦闘力、残虐性が知れるというものだ。

 

 まあ、そんな怪物を飼い慣らしてしまう正真正銘の化物がその隣に居る訳だが。

 

 その化物、もといウェイバーはお目当ての部屋のまでやって来ると、躊躇なくその扉を開いた。

 

「なッ、ウェイバー!?」

「久しぶりだなエミ―リオ。その奥の部屋に用がある、ちょっと通るぞ」

 

 室内に居たコーサ・ノストラのタイ支部幹部の一人がウェイバーの突然の登場に目を丸くする。次いで慌てて腰掛けていた革張りの椅子から立ち上がり、ウェイバーの進路を塞ごうと歩み寄ってきた。

 が、当然ウェイバーが止まる筈も無い。

 エミーリオの静止の声を無視し、ずかずかと深紅のカーペットの上を進んでいく。

 

「どういうつもりだ!? アンタと揉めるような案件は無い筈だ!」

「そういうンじゃねェよ。言ったろ、ちょいと奥の部屋に用があるだけだ」

「今ボスは虫の居所が悪い! せめて日を改めてくれ!」

「アイツが上機嫌の日なんて無ェだろうが」

 

 エミーリオの言葉には一切耳を貸さず、ウェイバーは目的の部屋である支部長室の扉を乱雑に押し開ける。

 

 室内に居たロニーは苛立たし気に通話をしていたが、ウェイバーらを見て柳眉を吊り上げると、受話器を叩き付けるように戻した。

 

「オイオイ、他人様(ひとさま)の家に上がるときのルールも知らねえのか東洋人(イエローモンキー)ども」

「ノックはしたぜ」

「馬鹿野郎、返事が無ェならそりゃ拒絶の合図だクソッタレ」

 

 一触即発の空気が漂う。

 黄金夜会の一翼を担う勢力同士が正面切って対峙しているのだ。

 周囲を囲む構成員たちの表情も心なしか固い。

 

「……で、だ。ウェイバー。ぞろぞろと後ろにゴミ共をぶら下げて一体全体何の用だ? 見ての通り俺ァ今気が立ってる。お仲間の誕生パーティを祝ってやれる余裕は無ェ」

 

 ロニーのその言葉に疑問を抱いたのは雪緒だった。

 彼女の推測ではコーサ・ノストラとウェイバーの間で馮の身柄に関する取引が行われているはず。だとするならば、ロニーの反応は些か不自然である。

 

(……いえ、そうか)

 

 そこまで考えた所で雪緒は勘付く。

 今この場にはグレイと自分が居る。ここでその取引の話をしてしまうと、態々夜会でサシの取引に持ち込んだ意味が無い。コーサ・ノストラとしてはウェイバーに、ましてや過去自らの組織を半壊させた人間が居る所に依頼など出したくもなかった筈だ。プライドの高いイタリアン・マフィアのことだ、腸が煮えくり返るほどの思いに違いない。

 その屈辱を押し殺してでもウェイバーへと依頼を出した理由。

 馮のクラッキング技術がどうしても必要なのだ。それも彼の様子を見るに状況はかなり切迫している。

 

「ああ、こないだ話した件なんだが」

 

 ウェイバーも直接的にその話を口にすることはない。あくまでも日常の会話を装う。

 

「言ってたろお前、イタリア製を勧めるってよ。ちょっくら手配を頼みたい」

「……なんだと?」

「そう怖い顔すンな。洗濯機(・・・)の話だよ」

 

 ピクリと、ロニーの蟀谷がひくつく。

 一瞬にして険悪な雰囲気が場を支配した。

 右の肘を高級そうな机に置き、ロニーは身体を前傾させる。そこらのチンピラであれば恐怖のあまりデカい方をひり出してしまいそうな程の形相である。

 

「ウェイバー。テメエがどこで情報を掴んだのかは知らねェが、他人様(ヒトサマ)の家に土足で入り込むのは感心しねェな。この街じゃガキでも守るルールだ」

「オイオイ何を勘違いしてやがるンだシャークボーイ。言ったろ、洗濯機さ」

 

 宣戦布告。

 ロニーはそう判断しようとして、しかしゆっくりと息を吐き出しその思考を中断する。

 ウェイバーが態々敵の真っ只中にやってきて、そんな自殺行為をすることなどあるだろうか。

 

 答えは否。

 この男が何の企みも無く動くことなど有り得ない。何かある。

 そのロニーの思考を裏付けるように、ウェイバーは続けて口を開いた。

 

「だがまあ、残念ながら俺は家電系(そっち)にはまるで疎くてな」

「……資金洗浄(そっち)か、まあ個人じゃどうしたって限界がある」

「だからお前に選んで欲しいんだよロニー。勿論、タダでとは言わねえ」

 

 まるで詰将棋のようだ。

 ウェイバーの後ろで会話を聞くロックはそう思った。

 

「その女が何だってンだ」

「コイツは元中国人民解放軍参謀部の人間でな、システムセキュリティにも明るい」

 

 とりあえず以前のイエローフラッグで聞いた事を並べていくウェイバー。

 

「……てめえ」

使()()()だろう?」

「些か俺たちに都合が良すぎる話だ、何を企んでやがる?」

「言ったろ、洗濯機を選んでくれればそれでいい」

 

 まさかロニーも目の前の男が本気で洗濯機と人間を物々交換しようとしているなどとは思わない。

 

 アルバニア人どもの資金洗浄が滞ったところでウェイバー個人には何のデメリットもない。そしてコーサ・ノストラを手助けするメリットも無い。

 おそらく、この件だけに収まらない企てがウェイバーにはあるのだ。

 例えば、ヨーロッパに何か伝手が必要なのではないか。何せあそこには、ウェイバーですら対処を面倒がるICPOの本部がある。

 

 ウェイバーに借りを作るのは甚だ不本意ではあるが、このままではアルバニア人の決めた期日に間に合わない。そうなればドン・モンテヴェルティからどんな制裁を受けることになるか。

 己のプライドと組織を天秤にかける。

 拮抗などするはずも無かった。

 

「……オイ、中国女」

 

 十数秒の間沈黙を保っていたロニーが、ようやっと口を開く。

 

「何かしら」

「俺は嘘が嫌いだ。だから俺から嘘を吐くことは無ェし、お前が俺たちの役に立つ限りは仲間として敬意を払おう」

「そうね、パートナーシップは大切だわ」

 

 瞬間、ロニーは馮の胸倉を掴み、目の前にまで引き寄せる。 

 突然の行動に咳き込む馮に構わず、コーサ・ノストラの支部長は冷たく言い放つ。

 

「だがな、もしもお前が嘘を吐いたら、俺はレディ・ファーストを反故にする。この意味が分かるな? 親愛なる同士(アミーカ)

「っ、ええ、分かったわ」

「よし。早速仕事に取り掛かれ……と言いたいところだが、その前に隣で昼食を食ってこい。最高のパスタ・コン・サルデを出してやる」

 

 掴んでいた胸倉から手を離し、胸を押さえる馮にロニーは告げる。

 

「ああ、それ俺たちも食わせてくれ。丁度いい時間だしな」

「……勝手にしろ」

 

 

 

 

 29

 

 

 

 

「貴方には色々と世話になったわね」

 

 数日後。

 ラグーン商会のドック、その一室。

 持ち込んだ荷物を整理しながら、馮はソファでバドワイザーを呷るロックに告げた。

 

「止してくれ。俺は何もしちゃいない」

「この街に完全には染まり切っていない貴方は、私の精神安定剤だったわ」

「そんな人を抗うつ剤みたいに言わないでくれ」

 

 眉尻を下げるロックを見て馮は笑い、隣に腰を下ろす。

 

「とりあえずは一件落着ってところかい?」

「ええ、そうね。もう一つの件が片付けば」

「もう一つ?」

 

 思い当たる節の無いロックは首を傾げ、それを見た馮はまた薄く笑った。

 

()()()のことよ」

「あの女……ってジェーンのことか?」

「そ。あの性悪女のことよ」

 

 ロックが持っていたバドワイザーを奪い取り、喉へと流し込んでいく。

 

「私がこの街で最初にあの女の依頼を受けたのは覚えてるでしょう? あの依頼、私を嵌める為の罠だったのよ」

「罠?」

「そ、あの女は私の過去の経歴まで洗ってたみたいね。その過程で私がアメリカに留学経験があること、私のやり口がアメリカで一時期猛威を振るったサイバーテログループのものとソックリであることに気が付いた」

「そうなのか?」

 

 ロックの問い掛けに、馮はニヤリと口角を持ち上げる。

 

「まさか。全部でっち上げよ、向こうが私を隠れ蓑にして情報を抜き取ろうとしていることには気付いてたし」

 

 空になった缶を握り潰して、馮は笑う。

 

「でもいい気にさせておくのもここまで。そろそろお灸を据えてやらなくちゃね」

 

 クツクツと嗤う馮を見て、ロックは思う。

 

「……君も中々、染まり易いみたいだな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目の前のディスプレイに表示される情報に我が目を疑った。

 錯覚か、はたまた幻覚でも見ているのではないかと、ジェーンは自身の(まなこ)を何度か擦り、改めてディスプレイ上の数字の羅列へと目を向ける。

 

「嘘、嘘ウソうそ……ッ!? 一体何がどうなってるの!?」

 

 見計らったかのように掛かってくる電話を乱暴に取ると、やや焦燥に駆られたチームメイトの声が鼓膜を刺激した。

 

『ジェーン、俺だ。ロドニーからメールが来てるだろう、何か報告していない事はないか?』

「あるわけないでしょう!? それに何よこの金は、ザミドって誰よ!」

『知っていたら君に電話などしていない。ロドニーは俺たちの窓口だ。その彼がこのメールの件でお前の居場所を教えてくれと催促してきている』

 

ジェーンが開いたメールは、ザミドという男から振り込まれた巨額の不明金を示すものだった。

 

『端的に言おう、我々フォーラムは君の事を疑っている』

「ふざけないで! 私にだって何が何だか分からないのよ!?」

『ならそう担当者に釈明してくれ。ほとぼりが冷めるまで我々は君との連絡を絶つことにするよ』

「ちょ、そんな無茶苦茶な」

 

 最後まで言い切ることも出来ず、通話は一方的に打ち切られる。

 女の絶叫が海上で響き渡った。

 

 

 

 

 30

 

 

 

 

「よいしょっと」

 

 衣類が山積の洗濯カゴを持ち上げベランダへ向かう雪緒の姿を視界に収めながら、起き抜けの一杯となるブラックコーヒーを啜る。久々に自分で淹れてみたが、うん、不味いな。雪緒が淹れるコーヒーや紅茶に慣れてしまったことが大きいのだろうが、表現し難い渋みを感じる。

 

「新しい洗濯機の使い心地はどうだ」

 

 テキパキと洗濯物を干していく雪緒に問い掛ける。

 彼女はその手を止めることなく、俺の問いに答えた。

 

「いいですね。容量も大きくなりましたし、ダメージも入りづらいです。流石は最新のイタリア製」

「ロニーが態々イタリア本国から取り寄せた品らしいからな」

 

 そうなのだ。

 色々と面倒事はあったが、ようやく我が家の洗濯機が生まれ変わったのだ。

 ロニーと取引をした際の交換条件として俺が提示したのだが、我ながら良い判断をしたものだと思う。洗濯機と告げた時のロニーの鳩が豆鉄砲食らったような顔も爆笑ものだった。普段いけ好かない表情ばかりの男の素っ頓狂な顔だ、グレイも隣で噴き出していた。

 後日納品された洗濯機の内部にユーロ札が大量に放り込まれていたことには驚いたが。

 

「馮さんはこれからが大変ですね」

 

 思い出し笑いをしていると、洗濯物を干し終えた雪緒が俺の対面に腰を下ろしながら言った。

 

「元を辿れば自業自得だ。この先どうなるかはアイツの腕次第だな」

 

 中国軍への対応は張へぶん投げた。

 これも元を辿れば軍のデータベースに情報が残っていたことが発端だ。事後処理を抜かったあいつが悪い。今頃悪態をつきながら仕事に追われていることだろう。

 

「雪緒、コーヒー淹れてくれるか」

「ふふ、わかりました」

 

 空になったコップを渡すと、雪緒は柔らかく微笑んだ。

 

 今日は仕事も入っていないし、久しぶりに羽を伸ばせそうだ。

 などと考えていると。

 

「…………」

 

 テーブルに置かれた固定電話が鳴る。

 

「チッ」

 

 そこはかとなく嫌な予感に駆られながらも、受話器に手を伸ばす。

 

「俺だ」

 

 ああ、クソッタレ。

 嫌な予感てのは、総じて当たっちまうモンらしい。

 息つく間もなく舞い込んでくる厄介事に、思わず大きな溜息を吐き出す。

 

「了解、二時間後にイエローフラッグで落ち合おう」

 

 受話器を戻し、再度息を吐く。

 全く、今週はてきめんに酷い週だ。

 窓からロアナプラの街並みを一瞥して、しかしそれもまた良いかと薄く笑う。

 

 嗚呼、どうにも俺は、中々にこの街に浸かっちまってるらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 








次回は後日談3の予定。


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Other
後日談 1


 1、好奇心は猫も殺す

 

 既に夜の帳が降りたロアナプラに、悪漢たちの声が舞う。アルコールを含んだ悪辣な人間たちが集い、街を彩る喧騒の一端となって金を落としていく酒場がそこかしこに乱立し、ある種お祭り騒ぎのようになっている。こんな光景が、昼夜を問わず見られるのがこの街の特色とも言えた。

 そんな酒場の一つに、イエローフラッグという酒場がある。通称ウェイバーの玩具箱。事あるごとに破壊と再生を繰り返すこの酒場は、度重なる修復と改築を経て今や鉄の要塞へと変貌を遂げていた。実は様々な武装の効果を試したいがためにわざと店を破壊しているのではないかと周囲が噂をし始めたのが通称の発端である。

 建築された当初は木製だったイエローフラッグも、今やその面影は微塵もない。

 入口の扉からテーブル、椅子に至るまで全て特殊な鉄と合金で出来ている。ショットガンですら貫通を許さない強度を誇る代物だ。にも関わらず既に二度修理されているが、そこには触れないのが店主のためだろう。彼の胃はそろそろ本気で潰れそうである。

 

 ともあれ、そんな大変身を果たしたイエローフラッグであっても集まる人種に変化はない。

 どこを見ても悪党と称するに相応しい糞野郎ばかりだ。見える位置に置かれたナイフや拳銃の自己主張が激しいことこの上ない。腕っ節に自信のある連中も、頭のキレる連中も、すべからく己の力量を誇示したいのだろう。

 

「ほんと、目先のモンしか見えてねェ連中ってのは救えないね」

「オラ手ェ止めんじゃねえよボケナス!」

 

 ジョッキグラスを磨いていた男、英一の呟きに店主が即座に反応した。

 

「今度手ェ止めやがったら給料半分にすっからな!」

「ひどくないッ!? そんなんだから他の店員が三日持たずに辞めてくんだろ!」

「うっせー軟弱者はこの店にゃあいらねェんだよッ!!」

 

 店主の怒号も、店内の喧騒によってかき消されていく。

 あの男がいないこの酒場は、大体こんな感じであった。

 店主のあんまりな対応にぶー垂れながらも、店員である男はグラス磨きを再開する。

 

「しっかしまぁ、ほんとあの人が居る時と雰囲気違うよなぁ」

「ったりめえだろ。アイツが居たんじゃおちおち会話も出来やしねェ」

「言うほど悪い人には見えないけどなぁウェイバーさん」

「バカッ! その名前を易々と口にするんじゃねェ!!」

 

 店主、バオの叫びも虚しく、店内は一瞬にして静寂に包まれた。店内の男たちの視線が、一斉にカウンターに立つ英一へと集まる。

 彼の名を口にすると、例外なくこの反応が返ってくる。昔からの付き合いであるバオの話によると、これまでの彼の行いがそうさせているのだと言うが、この街に来て日の浅い英一にはそこまで強烈な事件は耳にしていなかった。

 

(いやさ、この街に来た最初の日のこととか、この間の黄金夜会同士の衝突のことは確かに衝撃的だったけど)

 

 この悪徳の街に上陸した日のイエローフラッグでの事を思い出して、今でも肌が粟立つのを抑えられない。それ程までに、あの男の悪党としての在り方は英一を魅了していたのだ。

 己の力をこれみよがしに示したりはしない。無益な争いは好まない。だが決して戦いが苦手な訳ではない。最小限の労力で、最大限の利益を得る。言葉にすれば簡単だが、実行するには難易度の高いそれをいとも容易くこなしてしまうそのスマートさに憧れた。何度も弟子入りを志願したが、彼にはついぞ受け入れられなかった。聞けば今彼の元に居る二人も、自身を狙う殺し屋と日本での資金源を確保するための人質であるらしい。弟子は取らない主義らしく、そう説明されては納得するほかなかった。

 

 しばらくして英一の呟き、もといウェイバーの呪縛から解放された店内の悪漢たちは、それぞれが話題を切り出して再び喧騒を取り戻していく。

 そんな喧騒の中、一つの丸テーブルに着く男たちの話題に件の男が上がった。

 常であれば間違いなくその話題を口にしたりはしなかっただろう。しかし先日の大規模抗争と今しがたの英一の呟きにより、無意識のうちに避けていた話題が口をついた。

 

「しっかし聞いたかよ。あの抗争の話」

 

 かなり酒が回っているのか、男の口調は覚束無い。

 

「あん? おめえまさかあの人の話をしようとしてんじゃねえだろうな」

「オイオイやめとけよ。この街で、しかもこの店でその人の話は迂遠な自殺だぜ」

「ハッ、そうは言いつつもおめえらだって気になってんだろ? 黄金夜会総出のあの事件をよ」

 

 興味が無い、と言えばそれは嘘である。

 黄金夜会、具体的に言えば三合会が証拠隠滅に奔走したとはいえ、流石にあれだけの規模の戦闘である。人の目にもつく。箝口令を敷いたところで、この街の住人には意味がなかった。

 

 ホテル・モスクワ。

 三合会。

 マニサレラ・カルテル。

 コーサ・ノストラ。

 そしてウェイバー。

 

 黄金夜会に名を連ねるこの街のトップがロアナプラ全域で繰り広げた大規模抗争。不確定な情報ではあるが、そこに外部勢力まで加わっていたという。想像するだに恐ろしい面子の集まりである。その場に居合わせなくて良かったと、街の住人は心の底から思ったに違いない。

 普段であれば口を閉ざすような話題だが、事の大きさ故に誰もが気になっていた話題でもある。

 酒の影響もあり、必然その話題は周囲にも伝播していく。はじめは躊躇っていた連中も、徐々にその話題に食い付くようになっていった。

 

「何でもあの一件、南米の大富豪が絡んでるって話じゃねェか。ウェイバーに依頼をするなんざ余程の金持ちだとは思ってたが、こりゃしこたま貰ってんだろうなァ」

「金だけじゃねェ。お付きの女中もかなりのモンだって話だぞ」

「馬鹿あの人のところにはもう日本人の嬢ちゃんがいるだろうが」

 

 憶測飛び交うそんな店内の会話を聞きながら、店主はただ顔を顰める。

 今店内にいる連中は知らないのだ。その女中がとんでもない戦闘マシーンだということを。色気もへったくれもないようなチビッ子だということを。

 

「どしたんすかマスター、そんな変な顔して」

「オメエは買い出しで丁度居合わせなかったんだよな。ラッキーな野郎だぜ全く」

 

 グラスを片付け終えた英一に、バオは心底恨めし気な溜息を吐き出した。

 

「うちが窓やらテーブルを特殊合金に作り替える切っ掛けになったのが今ボンクラ共が話してるメイドだってこった」

「ああ! ウェイバーさんがうちのマスクを使ったっていう!」

「まさか酒場で防毒マスクを使う日が来るたァ思ってなかったがよ」

 

 本当にまさかの事態である。普通の酒場でそんな特殊な状況になることなど考えない。何を思って改修の際にウェイバーがマスクを設置したのかは分からないが、あんな事態を想定していたわけではあるまい。……ないはずだ。

 

 普段のイエローフラッグであればまず挙がることのないウェイバーに関する話題。常連客がいたのであれば即座に止めたであろうその話題が店内に溢れ返る。

 新参者が多いのか、果てには。

 

「実際ンとこよォ、ウェイバーって大したことないんじゃねェの?」

「噂に尾鰭が付くことなんざ珍しくねェし」

「いやでもこの間の抗争を単体で切り抜けたってのは事実だろ」

「逃げ回ってただけじゃねェのか?」

 

 また馬鹿が妙な勘繰りを始めやがった。バオはカウンターでビールを注ぎながらそんな風に思った。たまに出るのだ。ああいう馬鹿な手合いが。自らの力を過信しているのか、はたまたウェイバーの事を過小評価しているのか。どちらにせよこの街でそう長くは持つまい。真っ先に死んでいくのは決まってああいう手合いなのだから。

 

「そういう点で言やァ、オメエの方がまだマシだな、英一よォ」

 

 皮肉るように笑うバオに、英一は僅かに眉を顰めた。

 この街に流れ着いた当時のことを思い出して羞恥が内心で渦巻く。あの時の彼は、過ぎた野心に身を滅ぼす寸前だった。奇しくもウェイバーという男と早々に出会うことで、何とか破滅することは免れたが。

 

「……まぁこの店で働かされてる時点で、何か間違えたように思えるんだよなぁ」

「なんか言ったかボケナス」

「いえ何もー」

 

 バオから向けられる視線を意図的に無視して、英一は店内に飛び交うウェイバーに関する憶測に耳を傾ける。どれもこれも、好き勝手に脚色しているとしか思えない程くだらない戯言ばかりだ。

 

「この店ってあの野郎のお気に入りなんだろ? 次会ったら俺がドタマかち割ってやるよ!」

「そうすりゃ黄金夜会の仲間入りってかァ」

「火傷顔や張の野郎に正面切って喧嘩売れるってんならそれも悪くねェなァ」

「ギャハハ! 確かにあの面子に囲まれちゃあ生きた心地はしねェな!」

 

 下品な笑い声が店内に反響する。今この場に居る連中は皆ホテル・モスクワや三合会の恐ろしさは耳にしている。そんな連中に間に挟まれるなど、想像すらしたくはないだろう。先日の一件により、黄金夜会への畏怖は一層増していた。

 ただしその畏怖は、黄金夜会という組織に対して向けられたものだった。

 ウェイバーという個人に対して、この地に来て日の浅い連中は恐怖を感じていない。

 昔からこの街に住む人間たちが面白半分に吹聴しているだけの噂話に踊らされるほど、悪漢どもの肝は小さくなかったということだろうか。

 そんな男どもを、バオはカウンターから可哀そうなものを見る目で眺めていた。

 

「そういやァ聞いたかよ、あの野郎ンとこの銀髪のガキ、何でも元殺し屋だっていうじゃねえか。しかもウェイバーの首を狙ってたんだとよ」

「ああ? あんなちんまいガキが殺し屋だあ?」

「なんでもマニサレラの連中がウェイバーの首を獲るために送り込んだのを手籠めにしたんだとか」

「ハッ、とんだペド野郎だなウェイバーは」

「まあでも外見は整ってやがるからな、俺も一発ヤってみてえ」

「オメエのはデカすぎて裂けちまうよ」

 

 聞くに堪えない。英一は率直にそう思った。

 きっと彼らは知らないのだ。あの少女の苛烈さを、それを飼い慣らす、ウェイバーの異常さを。

 単身で黄金夜会に身を置くということの異質さを、この男たちは正しく理解していない。

 

 尚も下種な勘ぐりをする男たちの声が徐々に大きくなり始めた頃。

 特殊合金で製造された入り口の扉が静かに開いた。 

 店内へと入ってきたのは、四人の男女。彼らはまっすぐにバオの立つカウンターへと向かうと、揃ってカウンターテーブルへと腰を下ろした。

 

「今日はやけに騒がしいじゃねえかバオ」

「たまに出るんだああいうバカが。気にすることじゃねえよダッチ」

 

 黒人の大男にバカルディをボトルごと放り投げて、バオは機嫌悪そうに言った。

 手慣れた所作で栓を開け、ダッチはそのまま豪快に呷る。その隣ではベニーとロックがラムをグラスに注いでいる。

 

「やあエーイチ、調子はどうだい」

「ぼちぼちですよベニーさん。人使いの荒い店主にこき使われてますけどね」

「君みたいな従業員が居てくれてバオも助かってると思うよ。この店は特によく壊れるから」

 

 何でもないことのように笑うベニー。壊れるのレベルがお察しなのは言わずもがなである。

 これにはロックも苦笑するしかない。何度かその現場に居合わせている身としては、あれはもう災害と同義だ。発生したら最後、手を合わせて祈ることしかできない。

 

「……後ろの人たち、ここいらじゃあまり見ない顔だ」

 

 背後でバカ騒ぎを続ける男たちの集団をちらりと見ながらロックが言う。先ほどから何度も飛び交っている「ウェイバー」という単語に、実は先ほどからレヴィがいつ飛び出してしまわないかと気が気でないのだ。

 ああ、これはタイミングが悪かったなと思わざるを得ない。

 ロックたちがこの酒場にやってきたタイミングが、ではない。レヴィの居る店内で軽々しくウェイバーを乏す発言をしてしまったことが、である。

 

「何ちらちら見てんだよロック」

 

 ドキリ。ロックの肩が小さく跳ねる。

 恐る恐る横を見れば、手に持ったグラスに割れんばかりの力を込める女ガンマンの姿。言葉の平静さとは裏腹に、その瞳には殺意がありありと浮かんでいた。

 

「レヴィ」

「分かってる。ボスにも言われてるからな、そうそうココを血の海にはしねェよ」

 

 ただまあ、そうだなとレヴィは続ける。

 

「――――暗い夜道にゃ気をつけるこった。真っ黒な死神が、いつどこで鎌を振り下ろすかも分からねえんだからな」

 

 残弾の確認を始めるレヴィを横目に、ロックは無言でグラスを傾けた。

 

 

 

 2、犬兎の争い

 

「――――以上が今回の件の概要です。必要があれば別途資料を送付しますが」

「いや、構わんよ。しかし、つくづくこの男は規格外だな。手綱を握ることも出来んとは」

「犬や虎ならともかく、ハリケーンに手綱なんて意味がありませんよ課長」

「自然災害か、うまい喩えだ。デッド・フォーを彷彿とさせるな」

 

 バージニア州マクレーン。

 白を基調とした清潔感のある巨大な建造物の一角。静謐な空気が漂う執務室に彼女は立っていた。

 普段の粗暴な印象を抱かせるサングラスやガム、修道服ではなくシックなレディーススーツに銀縁の眼鏡姿である。

 

「結局シュエ・ヤンの捕縛は叶わなかった。ウェイバーを中心とした大規模抗争の副次利益を考えればNSA(奴ら)にとっちゃ百害あって一利なしといったところか」

「彼らの所業は墓荒しと大差ありません。我々の縄張りに勝手に踏み込んだ罰ですよ」

「言うねえイディス」

 

 朗らかに笑う金髪オールバックの男、レヴンクロフトは受け取った報告書をデスクに置いて。

 

「東南アジアの情勢は非常に不安定だ。ともすればたった一人の行動で天秤が傾いてしまう。黄金夜会、中でもウェイバーからは目を離すな」

「ヤー、ミスター」

「しかしあれだな、彼ほんとに何者なんだ。国籍不明じゃなかったらウチにスカウトしたいくらいなんだけど」

 

 先ほどまでのお堅い空気を霧散させて、レヴンクロフトは小さく息を吐いた。

 

「課長のそういうなりふり構わない所は魅力的ですよ」

「彼が関わってきた案件を並べてみれば誰だってそう思うだろうな。時代が時代なら一国の英雄だ。パナマにソマリア、ウガンダ、スロベニア。世界中の紛争、戦争に表れては爪痕を残して消えていく。どんな思惑があるのかは知らんが、ICPOが付け狙うのも納得の経歴だな」

 

 リボルバー二挺で戦場を蹂躙する男。風の噂では単騎で戦車大隊を壊滅させたとかなんとか。

 おっかないねとぼやきつつ、レヴンクロフトは砂糖とミルクがたっぷり入れられたコーヒーを美味そうに啜る。

 

「ま、とにかくそっちは君に任せる。なぁんか中国がまた良からぬ事を企ててるみたいだし、現状維持に努めたまえ」

 

 

 

 3、兵強ければ即ち、

 

 喧騒に包まれる夜のロアナプラ。街の中心からは離れた事務所の一室で、明かりも点けずに女はワイングラスに口を付ける。月明かりが僅かに差し込む部屋には、彼女の他には誰もいない。

 無頼漢たちの騒ぎ声も遠く、室内にはグラスにワインを注ぐ音のみが断続的に発生する。

 

「……フハッ」

 

 十日も前のことだというのに、身体の奥に疼く熱は一向に収まる気配を見せない。

 互いに万全の状態ではなかった。しかしそれでも、あの男との闘いに己の昂ぶりを感じずにはいられない。

 

「張め、余計な事をしてくれる。あの横槍さえ無ければ、存分にその力を振るえたというのに」

 

 ウェイバーとは別の方面で掴みどころの無い男を思い出し、そんなことを口にする。だが言葉の割に、彼女の表情は穏やかなものだった。彼女も理解はしているのだ。この街の存続こそが、黄金夜会という組織の重要な役割であるということを。

 適材適所ではないが、彼女は張程頭脳戦に秀でているわけではない。当然ながら部隊の長たるだけの能力は持ち合わせているが、あの男と比較するとやや見劣りする感は否めない。

 それでいいと思っている。

 同じ系統の組織がいくつもあったところで、潰し合うのは目に見えている。

 

「組織の柵に囚われているのは私も同じか。難儀なものだな、いや、あの男はそうではなかったな」

 

 銀色に煌めくリボルバーを両手に携える男の事を思い出して、女は口元を歪めた。

 ウェイバー。あの男と最初に出会ったあの日。張との銃撃戦に突如として乱入してきたあの男に風穴を開けられてから、彼女の胸中には一つの感情が芽生えていた。

 

 いつかまた、あの男と血飛沫舞い踊る共演を。

 

 遊撃隊を率いて街中を戦場へと変貌させた今回の一件とも異なる、一対一の決闘。誰の邪魔も入らない純粋な殺し合いを彼女、バラライカは望んでいる。

 その願いが叶う日は、きっと。

 

 

 

 4、その男、悪徳の街にて

 

「あれ、何か静かだな」

 

 夜も更けた頃。イエローフラッグを訪れると、珍しいことにそこには数人の客しか見当たらなかった。いつもであればテーブルは満席、話す時間も惜しいと皆無言で酒を浴びるように飲んでいるというのに。

 

「あ、ウェイバーさん。いらっしゃいませ」

「よう、とりあえずスコッチをくれ」

 

 まあ空いているならそれはそれで過ごしやすいので問題ない。

 今日は仕事を二つ程こなして疲れも溜まっているし、知らない人間がいない穏やかな空間で飲むというのも悪くないだろう。

 

「おうおう元凶が来やがったなこの野郎」

 

 カウンターの奥から姿を現したバオが開口一番にそんなことを言う。酷い言いがかりである。

 

「いきなりな物言いだなバオ。客が入らないからって八つ当たりするなよ」

「さっきまでは満席だったってんだよクソッタレ。トゥーハンドの野郎が軒並み外に連れ出しちまってこの有様だ」

「レヴィが?」

 

 また喧嘩でも吹っ掛けられたのだろうか。この頃は沸点も上がっていた筈だが、謂れのない罵倒でも受けたのか。イエローフラッグの中で暴れるとバオが泣きながらキレるのでやめろと言っておいたが、きちんと言いつけを守っているようで一安心である。

 

「今日はお連れの方は一緒じゃないんですか?」

 

 グラスを磨きながら問いかけてくる英一。コイツも最初の頃よりこの街が板についてきたようだ。カリビアン・バーでなくこのイエローフラッグを選ぶあたり店選びのセンスはないが。

 

「ああ、グレイと雪緒は留守番だ。たまには一人で飲みたい日もある」

 

 最近グレイだけでなく雪緒も俺に対して遠慮がなくなってきたからなぁ。いや、いい兆候なんだろうが、如何せん女二人が結託してしまうとおっさんには為す術が無くなってしまうのだ。煙草を取り上げるのは勘弁してもらいたいところである。鼻をつまみながらクサイと言われようとも、これだけは譲れない嗜好品なのだ。

 そんなわけで煙草をジャケットから取り出し火を点ける。肺にまで目一杯取り込んで、天井に向かってゆっくりと鼻から煙を吐く。ああ、これだよこれ。

 

「おいウェイバー、そろそろうちのガラスを張替えようと思ってんだが、セラミックスとダイヤモンドを混ぜ込んだコイツとかどうだ」

「いやどこに向かってんだよこの店は」

「オメエのせいだよ!!」

 

 他愛の無い会話を楽しみつつ、悪徳の街の夜は更けていく。

 やがて来る騒乱など、当然ながら知る由もなく。

 

 

 

 




完結したと言ったな、ならば後日談だ!()

・イエローフラッグ
通称ウェイバーのおもちゃ箱
とうとう合金の硬度をも超えてダイヤモンドに手を出す。

・あと二話くらい書きたい予定。
→具体的には数年後の話。


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後日談 2

 世界中の悪党どもを集めて掻き混ぜたような、混沌とした街があるという。

 世界の警察アメリカであってもおいそれと手を出せないような、悪徳の都があるという。

 その街に巣食う人間たちの多くは、各国では名の知れた犯罪者たちなのだとか。

 表立って動くことはない巨大な組織が幾つも根を張り、一個の生命体のように蠢いている。

 犯罪に縁のない者たちにとっては、そこは恐怖と侮蔑の対象である。

 しかし少しでも人の道理を外れた者たちからすれば、悪のカリスマが集う穢れた別天地。

 常人には理解出来よう筈もない、常軌を逸したナニカを求めて、今日も悪党はその地を訪れる。一度踏み込んでしまえば、もう後戻りは出来ないと知っていながら。

 

 その街には、どうしようもなく悪党どもを突き動かす狂気じみた魅力がある。

 ロアナプラ。西暦2000年を迎えてなお世界各地で語り継がれる、怪物たちの巣窟だ。

 

 

 

 1

 

 

 

 東南アジア独特の焦がすような太陽光が降り注ぐ。

 無防備に晒された肌は熱を持ち、身体の内側から根こそぎ水分を奪っていくかのようだった。

 上空には真っ青な空が広がり、この空の色だけは世界どこへ行っても共通なのだなとしみじみ思わされた。異国の地にあっても故郷と何ら変わらぬ空の色に、僅かばかり安堵した。

 

「しっかしよォ兄ちゃん、ホントにいいのか? たんまりと金は貰ってるから目的地には連れてってやるが、あの街に行こうなんて自殺志願者か身の程知らずの馬鹿しかいねェぞ」

 

 唐突に背後から声を掛けられて、青年は振り返る。

 アロハシャツを着たガタイの良い髭面の男が、操舵席の窓から顔を出していた。

 

「心配してくださってありがとうございます。でも俺は、あの街に行かなければいけないので」

「ハッ。どう見てもカタギにしか見えねえが、実はやれんのかい?」

 

 小型の漁船を操縦しながら、髭面の男は怪訝そうに眉を顰めた。

 船首に近い場所に立つその男は、素人目に見てもあの街に馴染むような人間には見えなかった。黒い髪の色からして、日本か中国の人間だろうか。小奇麗なワイシャツに袖を通し、スラックスを履いたその身なりだけを見ればどこぞの企業に勤めるサラリーマンにしか見えない。

 

 髭面の男の質問に、青年は困ったように笑った。

 

「いえ、全く。見ての通りの一般人ですよ、俺は」

「だってんならなんでまた……いや、すまねえ。深く詮索はしねェって条件だったな」

 

 込み入った事情があることくらいは直ぐに理解できたが、それ以上踏み込むことは契約違反になると髭面の男は口を閉ざした。無闇に藪をつついてはいけない、何が飛び出すか分からないのだから。

 

 青年は髭面の男が船の操縦に注意を戻したところで、ポケットから一枚の紙切れを取り出した。

 ノートの切れ端でも利用したのか、紙の端は繊維が見え隠れしている。

 そんな紙切れの真ん中には、ボールペンで走り書いたような文字が並んでいる。その文字の羅列に一通り目を通して、青年は視界を紙切れから外した。眼前には青い海、その先に見える陸地が、徐々に大きくなっている。

 

「あそこが、ロアナプラ……」

 

 話を聞くところによれば、悪党どもの肥溜め。汚れ切った悪の都。良い話など全く聞くことができなかった、最低最悪の街だ。

 

「……はぁ」

 

 どうしてそんな街に自分は赴くこととなったのか。

 今でも信じられない。

 ロアナプラに向かっていること自体にではない。こうして今でも生きていることに、である。

 

 青年は数日前の雨の日、死んでいた筈だったのだ。

 

 

 

 2

 

 

 

 その青年の名は、波佐美涼と言った。

 これといった特徴のない、言ってしまえば何処にでもいるような日本人だ。いや、日本人だった。

 両親とは既に死別していた彼は、東京で一人ひっそりと暮らしていた。可もなく不可もなく流されるがままに日々を過ごし、そんな主体性のない日常も、いつの間にか受け入れていた。

 

 それがいけなかったのだろうか。

 どうやら神様は、そんな青年のことが許せなかったらしい。

 

 全ての始まりは、東京駅で声を掛けられた事だった。

 改札を出て帰路につこうとしたところ、肩に手を置かれたのである。新手のキャッチか何かだと思い、男の顔も見ずに振り払おうとするも、どういうわけか男の手は一向に肩から離れない。

 仕方なしに振り返ってみれば、そこには一組の男女の姿があった。どこか精悍さと渋さを感じさせる男と、清楚さと妖艶さの同居した美女の組み合わせである。

 

「ほら、やっぱりこの人じゃないですか」

 

 波佐美の顔を確認して、女性はやや嬉しそうに男に言った。

 発言からして波佐美の事を知っているようだったが、彼にはその女性の顔に一切の見覚えがない。

 脳内でクエスチョンマークが浮かぶ波佐美に、次に声を掛けたのは女性の隣に立つ長身の男だった。

 

「話がある。少し時間を貰えるか」

 

 その言葉に、波佐美は首を縦に振るしか出来なかった。

 有無を言わせぬ物言いというのが実際に存在するのだと、波佐美が実感した瞬間である。

 

 そんなこんなで以下略の末、波佐美はロアナプラの地に降り立ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「……いやいや、待て待て。おかしいよな、おかしいだろ。何がどうしてこうなった?」

 

 波佐美を乗せて港に船を着けてくれた髭面の男は、仕事を終えた途端脱兎の如く沖へと逃げ出した。それ程までに近付きたくない土地なのだろう。日本を発つ前に、女性の方から口を酸っぱくして言われた言葉を思い出す。

 

『真っ直ぐに3Wという場所を目指してください。迷った場合の事も考えて最寄りの酒場も書いておきます。いいですか、絶対に他に寄り道なんてしないでくださいね』

 

 そう言いながら手渡された紙切れを再度取り出し、視線を落とす。紙面上に書かれているのは港から事務所までの大まかな地図と、「3W」、「YF」、「CB」という文字。

 事務所らしき場所の上に3Wと書かれているところを見るに、それが事務所の名前なのだろうか。ということは残る二つは酒場ということになるか。そんな事を考えながら、波佐美はようやく歩き出す。このままいつまでも立ち呆けていたら、いつ襲われるか気が気でなかったのだ。

 

 コンクリートで粗雑に舗装された道を、碌に荷物も持たずに歩く。波佐美が現在所持しているのはメモ書きされた紙切れと、出国前に渡された携帯電話と千ドルだけ。足がつきそうなものは事前に全て破棄されていた。

 

「……しかし、思ったよりも普通、なのか?」

 

 まだ歩き始めて五分程しか経っていないが、事前情報にあった銃声の絶えない日常なんてブッ飛んだ光景は見当たらない。人の数もまばらで、道の端でよく分からない果実を売る老婆や荷を運ぶ老人ばかりが目に付いた。

 女性に前もって教えられていたロアナプラとは全く違った印象を受ける、のどかな田舎町そのもののようだ。自身を怖がらせるためのトラッシュトークだったのだろうかと、つい頭の片隅で考える。頭上に輝く太陽の光はより力強さを増して、波佐美の肌をジリジリと焼いた。

 東南アジアのような湿度も気温も高い気候に身体が慣れていないせいもあったのかもしれないが、波佐美は唐突な喉の渇きに襲われた。

 しかしながら先にも述べたように彼には手持ちの飲み物など無い。幸いにして金なら手持ちがあるが、高校英語までしか勉強していない波佐美がまともに注文を行えるかと問われれば、首を傾げざるを得なかった。

 

 喉の渇きと格闘すること十五分。

 やはり人間、欲望には勝てなかった。

 

 港から事務所へと向かう過程に建つ「CB」という酒場を目指し、波佐美は歩を早めた。

 

 

 

 

 

「人は見た目によらないってのは本当らしいな。あんなナリでも情報戦にゃあ特化してるときた」

「岡島さんみたいな人だと思いませんか?」

「アイツとはまた別系統の悪党だな。金の為とは言えヤクザの裏情報なんかに手を出してる。そこそこ肝は据わってるらしい」

「ああいう手合いはどうしたって必要になります。近頃の組は頭も使わないと」

「お前が居れば問題ないような気もするんだがな」

「ダメですよ、私だけじゃとても手が足りません。ウェイバーさんも、最後まで付き合ってもらいますからね」

「ヘイヘイ」

 

 雪の散らつく島国で、男女はそんな風な会話をしていたとか。

 

 

 

 

 

「クローズド? そりゃそうか、まだ真昼間だもんな……」

 

 入口に立てかけられた看板の「CLOSED」の文字を見て崩れ落ちる波佐美。見た感じ清潔感を漂わせるバーのようで彼的には大当たりの酒場だったのだが、そもそも開店していないのでは話にならない。喉の渇きを意識してからそれなりの時間が経過している。ぶっちゃけそこらの露店に駆け込みたいが、住民の話を聞いた感じ英語の訛りが強すぎて何を言っているかよく分からない。

 

「諦めて3Wに行くか? 寄り道すんなって言われたし……、でもなあ喉渇いたしなぁ……」

「人の店の前で何してんのさアンタ」

 

 唐突に横から声を掛けられて、反射的に波佐美は声のした方へ顔を向けた。

 

「……映画の撮影か何かですか?」

「は?」

 

 そこに立っていたのは、給仕服を纏ったブロンド美人さんだった。後ろで纏められた金髪に太陽光が反射して輝いている。エデンはここにあったのだ。

 

「おーい。私の話聞いてる? うちは夜八時からオープンなんだけど」

「あ、ああ。スミマセン、この紙に書かれていたので」

「どれどれ。……うん?」

 

 波佐美が取り出した紙切れを見て、怪訝そうに眉を顰める金髪美女。是非ともお名前を伺いたい。

 

「これ、ウェイバーの字だね。事務所にも印ついてるし、3Wなんて書くのアイツくらいだ」

 

 紙切れを一頻り眺めた彼女は次いで波佐美の顔をまじまじと見つめて。

 

「そういやアンタ、この辺の人種じゃないね。ウェイバー、いやロックと同じ国の人かな。どっちにしろ関係者ってことね。それならそうと言ってくれればいいのにさ」

 

 何やら納得したのかブロンドの美女は頷いて、くいくいと手招きする。

 

「いいよ、入りな。そろそろあの子もくる頃だし、丁度良いでしょ」

 

 

 

 3

 

 

 

 店内に入ると、懐かしい木の匂いがした。

 海外映画で観たような雰囲気そのままのバーが、彼の視界に飛び込んでくる。

 

「適当にカウンターに座って。今何か出してあげるから」

「あ、いえ。水を一杯いただければ」

「ダメよ。ウェイバーのお客さんなんでしょ。今コーヒーでも淹れてあげる」

 

 なんだこの人天使かよ。

 波佐美は緩む口元を押さえながら、カウンターでせっせと用意をする女性を眺める。事前に聞いていた話とは良い意味で全然違う。いいじゃないかロアナプラ、この街に住むのも悪くないかも。

 

「はいブレンド。そういえばまだアンタの名前聞いてなかったね」

「波佐美といいます」

 

 出されたコーヒーを手に取りながら波佐美は答える。

 

「ハザミね、私はメリッサよ。よろしくね」

 

 にっこりと笑う彼女に、自然と波佐美の顔も綻ぶ。

 この時だけは、昨日までのクソッタレな現実を忘れられそうだった。

 

 しかしながら。

 現実とはそう甘く簡単なものではないのである。

 

 からんからん、と。木製のドアの上部に取り付けられていた小さなベルが鳴る。ドアが開くと同時に店内に入ってきたのは、メリッサとは対照的な銀の髪をした美少女だった。年はざっくりだが十五から十八くらいだろうか。

 

(俺よりも年下、か? 外人は見た目じゃ分かり難いよなぁ)

 

 なんてことを思っていると、少女は波佐美の隣に座ってメリッサへと言葉を投げる。

 

「こんにちはメリッサ。今日は暑いわね」

「そんな恰好してるからだと思うわよグレイ。この間着てたワンピースはどうしたの?」

「あれはおじさんがくれたものだもの、あの人が居ない所では着ないわ」

 

 出されたアイスココアに口を付けて、グレイと呼ばれた少女は艶やかな笑みを浮かべた。控えめに言って超エロイと思いました。

 

「それで? いつもはこの時間お客様はいない筈だけど」

 

 言いながらグレイは隣に座っている男へと視線を向ける。どことなくウェイバーに似た雰囲気を感じるのは、彼が黄色人種の黒髪だからだろうか。

 

「ああ、ウェイバーのお客らしい。ハザミ、さっきの紙切れ見せてあげて」

 

 言われるがままに少女へと紙切れを手渡す。グレイはそれを受け取って、書かれた内容を見つめて笑った。

 

「確かにおじさんの字だわ。それに3Wですって」

「ね、ウェイバーくらいよね。そこが『4W』じゃないのって」

「? あの、一体どういうことですか」

 

 いまいち話の内容が掴めない波佐美へ、グレイは楽し気に笑って。

 

「ここにある事務所の通称のことよお兄さん。WAVER、WITCH、WHITEの頭三つを取って3W。でもね、この街の皆は最初にもう一つWを付けて4Wと呼ぶの」

 

 美しい少女は続ける。この街がこの街たる所以の一端、それを余所者へと知らしめるかのように楽し気に、愉し気に。

 

「――――WARNING。あの事務所はね、この街のアンタッチャブルの一つなのよ」

 

 

 

 4

 

 

 

「へェ、おじさん日本で二人に会ったのね。運が良いわ、普通なら死んでるもの」

 

 アイスココアを飲み終えたグレイは店を出て何処かへと歩き始めた。メリッサに言われるがまま、波佐美もそれに同行する形である。彼女の数歩後ろを歩いているのだが、その背中に背負われている真っ黒なケースはいったい何なのだろうか。

 

「な、なあ。これはどこへ向かってるんだ? 紙だと事務所は反対方向なんだけど……」

「お仕事よ。いつも始める前にあのバーでココアをいただいてから出掛けることにしているの。ルーティーンというやつね」

 

 満足そうに告げるグレイだが、波佐美の額には大粒の汗が滲んでいる。当然、冷や汗である。

 なにせ彼女、どんどん人気の無い方へと進んでいくのだ。バーが建っていた場所はまだ人も居てそこまで無法地帯の雰囲気を感じなかったが、路地を何本か裏に入ってしまえばもうアウトロー感がすごいことになっている。壁に付着した正体不明の飛沫なんかが当然のように姿を現す。至る所に散らばっているのは薬莢だろうか。

 

「お兄さんがこの街に来たのは、きっとお姉さんの為ね」

「お姉さん?」

「おじさんの隣に居た黒髪のお姉さんよ。会ったのでしょう?」

「ああ、あの人か」

 

 日本でのことを思い出し、合点がいく。柔和な笑みが印象的なこれまた美人さんだった。

 

「あの人、ヤクザ? とかいう組織のボスだったのよ」

「は、ええ!?」

「確か鷲峰組とか言ったかしら」

 

 聞いたことがあった。

 何年も前の話であるが、海外マフィアまで巻き込んだ大規模な抗争が東京のど真ん中で勃発したのだとか。その時に争っていたのが関東和平会の一翼を担う香砂会と鷲峰組。それぞれが独自の伝手を使ってマフィアを雇い、相手の組を潰そうと画策した。

 結果的には香砂会、鷲峰組双方の長は凶弾に倒れこの事件は幕を引いた。共倒れの構図だったと記憶している。

 

「楽しかったわあ、この子ではなかったけれど、的当てがたくさん出来たんですもの」

 

 背中のケースを撫でながら、グレイはにっこりと笑う。

 え、いや。まさかね。その抗争に参加していたとか言わないよね。波佐美の冷や汗は尚も止まらない。

 

「鷲峰組は事実上壊滅したと聞いていたけど……」

「ええ、事実上はね。おじさんがお姉さんをこの街に逃がしたのよ。時期が来るまで、力を蓄えるために」

 

 時期とは、つまり。

 

「お姉さんは組を復活させるわ。その為に、お兄さんの力が必要なんじゃないかしら?」

 

 思えばあの二人は、最初からこちらの存在を知っているようだった。

 詳しい話はあの場ではそこまで聞くことができなかったが、こちらの素性を掴んでいたことは確かだろう。

 であれば、自身が組の間で多重スパイの真似事をしていたことも当然知っているということだ。

 戦闘方面はからっきしだが、情報戦においてはそれなりの才能があったらしい。まあ、事がバレて双方から殺されかけたわけだが。

 

「ついたわ。ここよお兄さん」

 

 平然と告げるグレイ。しかし後ろに立つ波佐美には、目の前の建物がやばい連中のアジトにしか見えなかった。恐る恐る、確認の意味も込めて少女へと尋ねる。

 

「な、なあ。そのお仕事の内容、聞いてもいいか?」

「あら、言ってなかったかしら。いつもと変わらないわ」

 

 そう言って、少女は微笑む。

 

「不穏分子の排除、この子で天に還すだけよ」

 

 背負っていたケースから得物を引き抜く。姿を現したのは、少女が持つにはあまりにも不釣り合いな黒光りする銃器だった。

 

「時間だわ、さあイきましょう」

 

 躊躇なく、グレイは扉を開いて屋内へと入っていく。波佐美は中に入る勇気こそなかったが、目や耳を塞ぐといった愚行を犯すことはなかった。

 故に、それらは鮮明に彼の目に、耳に飛び込んでくる。

 

 何かが爆ぜ、潰れる異音。人間だったものの絶叫、咆哮。そしてそれらすべてを掻き消す、間断ない銃声。

 時間にしてみれば五分と経っていないはずだ。

 実際事を終えて建物から出てきた少女の顔に、疲労の色はない。

 屋内がどのような惨状になっているのか、想像すらしたくない。少女の衣服に微かに付着した血の匂いが、どうしようもなく吐き気を催す。

 

「どうしたのお兄さん、具合が悪そうだわ」

「…………いや、大丈夫だ」

 

 慣れるしかないのか。そう思わずにはいられない。

 確かにあの二人には命を救ってもらった恩がある。それに報いる覚悟もあった。

 だがこれは、少々刺激的過ぎやしないだろうか。

 

「事務所に戻りましょう。おじさんたちが帰ってくるまでまだ日があるけど、その間のお世話は私に任せてくださいな。あ、でも今日は会合があるのよね。代わりに出ろって言われてるし。夜ご飯どうしましょう」

 

 慣れた所作で銃器をケースに仕舞いながら、グレイは歩き始める。

 

「そうだわ、お兄さんにも一緒に出てもらって帰りにどこかで食べることにしましょう。そうね、それがいいわ」

 

 当人の希望を聞くことをしないグレイの中で、とんとん拍子に話が進んでいく。

 波佐美にしてみれば会合に出席すること自体はいい。いいのだが。

 

「なあ、俺って結局どうすればいいんだ?」

「さあ。おじさんの考えなんて私にはわからないもの。日本に戻すつもりなのか、この街に浸からせるつもりなのか。帰ってきたら聞いてみるといいわ」

 

 あの雨の日に死んでいた筈の命である。今更怖くは、まああるが。目の前の少女を見ていると、この街が他の都市とは一線を画す悪の都なのだと感じずにはいられない。

 

「あら、知らなかったの?」

 

 そんな感想を聞いて、グレイは妖艶に笑って見せる。

 

「ここはロアナプラ、悪党たちの肥溜めよ」

 

 

 

 5

 

 

 

「お、なんだ今日はお嬢さん一人かい」

「ええ、おじさんは今お仕事でここを離れているの」

「ここは小便臭いガキの来るところじゃねーぜお嬢ちゃん」

「鼻につく葉巻の匂いを纏っている貴方よりはマシだと思うわおじさん」

「言うねえ。流石はウェイバーんトコの娘っ子だ」

「フン、よくもまあ顔を出せたものだな」

「あらおばさん、ごきげんよう」

 

 煙草や葉巻の煙が充満する室内。その中央に設置されたガラステーブルと高級ソファに腰を下ろす、一癖も二癖もありそうな凶悪な悪党たち。

 そんな空間に当然のように居座るグレイの背後に立ちながら、波佐美は率直にこう思った。

 

(あ、これダメなやつだ)

 

 

 

 

 

 




 次話の投稿は未定だと言ったな、あれは嘘だ!!

・波佐美
日本版ベニーのようなことをしていたら殺されそうになったところをウェイバーたちに救出される。のちの雪緒が立ち上げる新鷲峰組の中核をなる(予定)
二代目ロックのような恰好をしているが、ロックのダウングレードではない、決して、いいね?

・グレイ
この時十七歳。髪の毛がついに膝まで伸びた。

・雪緒(とウェイバー)
地盤を固めるために日本へ。詳細は次話(まじで未定)にて。



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前日譚 1

 

 黒髪の東洋人が、あの黄金夜会に名を連ねたらしい。

 そんな噂が実しやかに囁かれ始めたのは、件の男がロアナプラで生活を始めて半年程経った頃だった。当初はそんな与太話を誰が信じるものかと鼻で嗤う者たちが大半であったが、黄金夜会の一翼を担う三合会の支部長、張維新がその男の加入を公言したことで一度大きな波紋をロアナプラに起こすこととなった。

 

 黄金夜会は、ロアナプラでの利権拡大を目指すマフィアたちが互いの動きを牽制し、また得られる利潤を分配するために形成された組織だ。

 ホテル・モスクワ、三合会、コーサ・ノストラ、マニサレラ・カルテル。いずれも各国に強大な地盤を持つ一大組織であると言っていい。その構成員の数は末端まで含めれば数千にのぼる。それほどの組織が正面から衝突し、このロアナプラの利権を巡って争い始めて数年。一向に鎮静の色を見せなかったその情勢だが、ある日を境に徐々に戦禍が小さくなっていった。その後つくられたのが黄金夜会という街の情勢安定を司る機関。

 そんな組織に、一人の男が単身身を置いているのだという。

 

 奇妙な話だ、と街に住まう悪漢どもは思った。

 聞けばその男は夜会に所属する組織たちにかなりの打撃を与えたらしいが、聞くだに全く信じられない類のものばかり。終いにはあの火傷顔と三合会の若頭を相手に大立ち回りを演じ、それぞれに銀の弾丸を見舞ったというのである。全く以て疑わしい。

 

 これは何か表沙汰に出来ないような事情があるのではないかと、少し頭のキレる人間たちが勘繰るのは当然の事と言えた。もしかすると、その男から芋づる式に黄金夜会の情報を手に入れられるかもしれない。そうなれば甘い汁を吸うのは何も夜会に属する組織だけではなく、自分たちにもそのチャンスが巡ってくるのではないだろうか。

 確証はない。しかし、その足掛かりとなる材料は揃っていた。

 何処の誰が言い始めたのかは定かではない。いつしかロアナプラには、あの男を殺せば黄金夜会に加わることが出来るという噂が蔓延するようになった。

 そしてこの街の悪党どもは、ぶら下がる獲物は決して逃さない。

 

 

 

 1

 

 

 

「ったく、本当にいい迷惑だ」

「随分な物言いじゃないか、ウェイバー」

 

 黄金夜会の一角、三合会が所有する娼館の一室で不機嫌さを隠そうともせずにそう言い放った。

 俺の周囲には張、バラライカ、アブレーゴにヴェロッキオといった各組織の頭目たちが勢揃いしており、奴らを囲うように周りには部下たちが立ち並んでいる。円形のガラステーブルとそれを覆うように設置された革張りのソファに腰を下ろしている俺は、苛立ちと共に何とも言えない居心地の悪さも感じていた。360度全てが敵で埋め尽くされている空間に一人で放り出される気持ちが分かるだろうか。全裸で南極に放り出された方がまだマシなレベルだ。

 

「何をそうカリカリしてやがる、糞の切れでも悪かったか?」

 

 ニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべるヴェロッキオが、ウィスキーの入ったグラスを傾けながら問い掛けてきた。本当になんでこうコイツは人の神経を逆撫でするのが上手いのだろうか。ある種才能の域だと思う。

 

「イタ公の戯言に付き合う必要はないぞウェイバー。臓物にまで豚の匂いが染み付いてしまう」

「あァ? 軍人崩れの雌犬(スーカ)が吠えるじゃねェか」

「待て待て二人とも、今日の会合の趣旨は罵詈雑言を突き付け合うことじゃあないだろう」

 

 視線だけで人を殺せそうな形相のバラライカとヴェロッキオを、張が宥める。そう言うコイツも数か月前まで血眼で鉛弾を喰い合っていたわけだが、そのあたりの事は完全に棚上げしているらしい。食えない奴だ。今更ながらにそんな事を思う。

 

「この組織が創設されて半年。ようやくその役割が街全体に浸透しつつある」

 

 部下から差し出された火に煙草を近づけて、張は煙を燻らせる。

 

「街の情勢が安定してるってのはいい事だ。我々も些事に気を取られている暇は無い。労せず成果を上げられるのなら、これ程好ましいこともない」

「フン、随分と丸くなったものね張。ウェイバーにしてやられたのがそんなに痛かったかしら」

「よしてくれバラライカ。あの夜の事は今引き合いに出すような代物じゃない。君だってよく分っている筈だ」

 

 ちらり、と二人の視線が俺に向けられる。

 いや、おい待て。そんな意味あり気な視線を向けられても何も気の利いた事は言えないからな。あの夜の事は言うなれば事故だ。たまたまで偶然な出来事が二つか三つ重なっただけの事故なのである。そうでなければ今俺はこんな場所に座っていない。良いトコ海の藻屑だろう。

 

「ま、俺としちゃ金になるなら問題は無ェ。そこの雌犬や東洋人共は確かに気に食わねェしブッ殺してやりてェが、今はそれより先に片づける仕事があるからな」

「その通りだヴェロッキオ。今俺たちの前には、可及的速やかに解決すべき案件が転がっている」

 

 何やら二人が悪い貌をしている。ああ、元からか。

 何てことを考えていると、張とヴェロッキオの二人がこちらに顔を向けて。

 

「此処の所、ウェイバーを殺せば黄金夜会に参加出来るという噂が広まっていることは周知だ。良くない傾向だ、そう思わないかウェイバー」

「…………」

 

 そりゃそうだろう、とは言わなかった。

 思っても口にしないことが吉なのは往々にして良くあることだ。ここで簡単に肯定してしまえばお前が片を付けてこいと言われるのは目に見えている。そんな厄介事を引き受けるのは御免だ。何ならこの機に乗じて雲隠れしたいまである。

 尚も視線を外さない張に対して、俺は無言でグラスを傾ける。

 

「ハッ、聞くまでも無ェってか。言わずともその眼が語ってやがるぜウェイバー」

「あ?」

「無粋な事を聞くものじゃないわミスター張。この男が黙って見ているとでも思って?」

「んん?」

「悪い冗談だ、ウェイバーが動くってんならカルテルは暫く様子を見させてもらうぜ」

「……オイオイ」

 

 当事者を置いてけぼりにして進む会話に中々割って入ることが出来ない。だってコイツら怖いんだよ。挨拶代わりに銃口突き付け合うような連中と気楽なお喋りなんて出来る訳がない。

 だがしかし、ここはハッキリと言わねばなるまい。このタイミングを逃せば恐らくもう後戻りは出来ない。無茶苦茶な仕事を振られるに決まっている。具体的には先月バラライカから受けたモンゴルの国境付近に潜伏する反ソ連ゲリラを殲滅しろみたいな。本当に、いい迷惑だ。

 

 出来る限り神妙な面持ちで、最大限申し訳無さそうに掌を合わせて。あ、昨日指立て伏せして筋肉痛で指までしかくっつかねえ。しかしながら一度動き出した手を止める訳にもいかず、なんとも不格好な「ごめんなさい」となってしまった。

 

「……あのなァ、」

 

 頭も少しは下げておいた方がいいだろう。手の位置よりも下にするのは格好悪いので、顔と掌の高さが同じになる程度にしておく。必然的に肘が膝に付いて前のめりになってしまうが、この辺りは容赦願いたい。あんまりコイツらの顔を見てると気分が悪くなりそうなのだ。主に胃痛で。

 視線は下に向けたまま、気弱さを演出するために絞り出すように告げる。

 

「今の俺を見れば分かンだろ……、察しろよ」

 

 俺を殺しても黄金夜会には入れないだろうし、寧ろ欲しいなら喜んでくれてやる。目の前の金銭、利益よりも今ある命が大事だ。死というものに忌避感を持っていないとは言え、自殺と他殺では痛みも捉え方も違う。この立場に居ることで命の危機があるというのなら、俺は自らこの立場を放棄する。

 だから察してくれないか、俺にはこの立場は荷が重いのだと。

 無意識のうちに吐き出されていた溜息に気が付いて、自嘲気味に苦笑する。

 

「……ま、分かっちゃいたがね」

 

 頭上から聞こえてきた声の主である張の表情は俯いている俺からは見えない。こんな腰抜けだったのかと、落胆しているだろうか。そうなると今この場に居ることすら危険な事に今更ながらに気付いた。顔色を窺うのが恐ろしいので、今暫くはこの姿勢を続けさせてもらうことにしよう。

 

「ケッ、こんな話続けるだけ無駄だぜ張。コイツの性格を考えりゃあどうなるかなんざ分かりきってる。見ろよこの姿を、グラッパの飲みすぎでもなけりゃこの先を想像するのは難しくねェ」

 

 吐き捨てるようにヴェロッキオが告げた。相当お冠なのか、捲し立てるように言って部屋から出て行ってしまったようだ。

 

「そういうことだ張。カルテルとして今回の件には金輪際関わらねェ。テメエ等の好きにしな」

 

 ヴェロッキオが去ったのとほぼ同じタイミングでアブレーゴもこの場を後にするようだ。複数人の足音が室内に鳴り響き、やがて静寂が訪れる。

 

「……考えを変える気はないのか、ウェイバー」

 

 声の主はホテル・モスクワの頭目が一人、バラライカ。言葉尻にどことなく怒りを感じさせる音で、彼女は俺へと問い掛けた。

 正直なところ顔を上げれば一瞬で撃ち殺されそうなので、俺は視線を下げたまま首肯する。

 とんだ腰抜けだと言われるかもしれないが、ここらが潮時とも考えられる。やはり俺には過ぎた地位だったのだ、化けの皮が剥がれないように細心の注意を払ってきたが、それとていつまでも続けられるものではない。

 

「どうも俺は堪え性が無いらしい。分かっちゃいたが、今この状況を見過ごせる程甘くは無ェ」

「…………」

「今の俺を見ろよバラライカ。もう、限界さ」

「……そうだな、貴様はそういう男だった」

 

 先程までとは違いどこか愉快気に呟く彼女の様子にやや疑問が浮かんだが、ここで余計な口を挟むような事はしなかった。それが賢明だと、ロアナプラで半年生活してきた俺の直感が告げている。

 

「いいだろう。我々も暫くは様子を見る。この舞台をどう料理するのか、精々見させてもらうぞウェイバー」

 

 俺の頭上から投げられたその言葉は、人の少なくなったこの部屋によく響く。

 どういうわけか、三日月のように口元を歪めたバラライカの顔が頭の片隅に浮かんでいた。

 

 

 

 2

 

 

 

「あのなァ」

 

 ゾッとするほどに低く、そして平坦な声だった。

 普段からして心境が読めない男は、この場に限っては確かに怒りを抱いていた。飄々としている男のその明らかな怒気は、周囲の空気を瞬く間に凍てつかせる。

 彼の言葉に充てられたのか、今の今まで喧しかったヴェロッキオすらもが言葉を詰まらせていた。当然、取り巻きの部下は直立の姿勢を崩せない。

 

 事の発端は、どこからともなくウェイバーを殺せば黄金夜会へ加入できるという噂が独り歩きを始めたことだ。

 一体どこの馬の骨がそんな世迷言を吐き出したのかは定かではないが、事実としてこのロアナプラにはそんな類の話が蔓延していた。

 馬鹿馬鹿しい、と張維新はそんな噂を一蹴する。

 黄金夜会とは、たった一人の人間を殺したところで加入できるようなちんけな組織ではない。各国に強力な地盤を持つ国際マフィアどもが数年の抗争を経て辿り着いた一つの到達点だ。何の後ろ盾も無い一個人ごときが肩を並べられるようなものではない。

 

 普通であれば。

 

 先の言葉と矛盾する、何の後ろ盾も持たない一個人が己の武力のみで黄金夜会に身を置く例外中の例外。それこそが今張の目の前で怒気を滲ませる男、ウェイバーである。

 

 そもそも、この噂は前提からして破綻している。

 ウェイバーを殺すことなど、出来る筈がないのだ。この場に居る夜会の中心メンバー、そして部下を総動員しても息の根を止めることが出来なかった男。それがウェイバーだ。殺すことが出来ないのであれば、こちらに牙を向けないようコントロールするしかない。この男を夜会へ加入させたのには、そうした意図もあった。もっとも、直ぐにそんな事は不可能であると思い知らされたわけだが。

 

「今の俺を見れば分かンだろ。察しろよ」

 

 そんな彼に対して今後の対応を尋ねるなど、愚問でしか無かった。

 考えてみれば当然の事である。自身を殺せば代わりにその椅子が貰えると街中で噂されて、良い気分でいる人間などいない。ウェイバーはどちらかと言えば好戦的な方ではないが、それはあくまでもどちらかと言えばの話。荒事が苦手という訳ではない。それは張自身よく理解していた。

 ウェイバーは溜息を吐き出した後、夜会のメンバーには悟られぬよう口角を吊り上げた。立ち位置的に張だけがその表情を垣間見て、同時に背筋を凍らせる。

 殲滅。唐突にその二文字が頭を過る。

 

「……ま、分かっちゃいたがね」

「こんな話続けるだけ無駄だぜ張。コイツの性格を考えりゃあどうなるかなんざ分かりきってる。見ろよこの姿を、グラッパの飲みすぎでもなけりゃこの先を想像するのは難しくねェ」

 

 同意見だ。張は僅かに息を吐いた。

 張り詰めたこの場の空気に耐え切れなくなったのか、ヴェロッキオとアブレーゴが部下を率いて足早に部屋を後にする。ウェイバーはそんな二人には目もくれず、一見静かに怒りを立ち昇らせていた。

 

「考えを変える気は無いのか、ウェイバー」

 

 バラライカの質問の意味を張が正確に汲み取れたのは、彼女の性格を概ね把握出来ていたからだった。とどのつまり、這い寄ってくる獲物を独り占めするつもりなのかということだろう。

 火傷顔は生粋の戦争狂いだ。そこに一握りでも火種があれば、瞬く間に業火へと変貌させる術を彼女は有している。

 そして彼女の質問を正確に理解していたのは、ウェイバーも同じだった。

 

「今の俺を見ろよバラライカ。もう、限界さ」

 

 件の噂が街中をさ迷い始めて数週間。よく我慢した方だと言えなくもない。聞けばウェイバーの事務所には命知らずな特攻が日夜行われているそうで、その相手をすることに辟易していたそうだ。最近は自分の事務所に戻ることすら億劫だとぼやいていた。

 そんなウェイバーの現状を、バラライカも把握していたのだろう。

 彼女にしては珍しく、目の前にぶら下がる火種をこれ以上大きくする気はないようだった。

 いや、或いは。

 

 ウェイバーであれば想像以上の炎を立ち昇らせると期待しているのだろうか。

 

「……いいだろう、我々も暫くは様子を見る。この舞台をどう料理するのか、精々見させてもらうぞウェイバー」

 

 踵を返した火傷顔はボリスら部下を引き連れて部屋から立ち去る。

 残されたのは張維新とその腹心数名、そしてウェイバー。

 

「でだ、ウェイバー。どのくらい時間は必要だ」

 

 尚も顔を上げない男へ、隣に腰を下ろした張が問い掛ける。

 この男が本気で動くというのであれば、周辺地域へそれなりの規制を敷いておかなければならないからだ。

 

「……そうだな。纏まった荷物を片付けるのに、ざっと計算して二日ってとこか」

 

 サングラスの奥で、張は目を丸くした。

 この噂が出回り始めてそこそこの日が経つ。過信と慢心を振り翳しウェイバーの首を狙う人間は数十やそこらでは無い筈だ。そんな人間を纏めて片付けるのにたった二日しか必要ないという。

 

「……オイオイ、どんな片付け方をしようってんだウェイバー」

 

 そこでようやくウェイバーは顔を上げ、小さく笑う。

 

「片付けってのにはコツがあるんだ張。隅の埃を叩いた所で意味が無ェ。肝心なのは出処の()()()ヤツから叩く事だ」

 

 どうやら既にウェイバーはこの噂の出処を掴んでいるらしい。リロイあたりから情報を仕入れていたのだろうか、相変わらず動き出しが早い。

 

「ま、目途が付いているんなら俺からは何も言わん。綺麗サッパリ片付けてくれよ、この街の威信にも関わる」

 

 懐から取り出した煙草を咥えて、張は席を立つ。ウェイバーはまだこの場所を離れる気がないのか、手に持ったグラスに新しい酒を注ぎ始めた。緊張感の欠片もないその姿を横目に見て、三合会のメンバーは部屋を後にした。

 

「……いいんですかい」

 

 部屋を出て真っ先に口を開いたのは彪である。

 

「何がだ」

「あの男、この街を火の海にでもしようとしてるんじゃ」

「ハハ、そう心配するな。ウェイバーが二日と言ったんだ。だとすればこの噂も二日で消えて無くなる、そういうことだ」

 

 彪の懸念を吹飛ばすように、張は豪快に笑った。

 

「こうなると俺たちに出来るのはな彪、歩く戦禍(ウォーキング・ウォー)の被害を受けないように立ち回ることだけなのさ」

 

 

 

 3

 

 

 

 悪徳の街。そう世間からロアナプラが呼ばれるようになったのは、一体いつの頃からだったか。

 表舞台から爪弾きにされたロクデナシ共が集い、いつしか一つの都を形成するに至ったのはもう何十年も昔の話だ。その頃から続いてきた利権争いの抗争が、とある組織の設立を期に表向き決着を見せた。

 その名は。

 

「黄金夜会、ねェ……」

 

 透明なグラスの飲み口を掴み、それを視線の高さでゆらゆらと揺らしながら、銀髪の男が呟いた。注がれたリシャールを胡乱な瞳でじっと見つめて、鼻から小さく息を吐く。

 男の座るL字型のソファの対面には、同じタイプのソファがもう一つ置かれていた。そして二つが噛み合うように設置されたソファの内側には、リシャールのボトルとグラスがもう二つ。

 

「どう思う? ゴラン」

「腑抜けた蠅共の集まりだぜヴァスコ。エイシッドでもキメてんじゃねえか」

 

 ゴラン、と呼ばれた丸刈りの大男は機嫌悪そうにそう言ってリシャールのボトルに手をかけた。どうやらそのまま飲むつもりらしく、用意されていたグラスには目も向けない。

 

「奴らはそこまで馬鹿じゃない。あれだけ利権争いに躍起になっていた連中が揃いも揃って休戦協定なんて有り得ない。……普通なら」

「普通じゃねえ事態になってるってのか? ここ数年日常茶飯事な気がするが」

「それ以上ってことさゴラン。……例えばそう、黄金夜会に加わったとかいう東洋人の男」

 

 ここ最近のロアナプラは、その男の噂で持ち切りだ。

 曰く、張維新と火傷顔を同時に相手取って制圧した。

 曰く、マニサレラとコーサ・ノストラの構成員を銃器すら使わず戦闘不能にした。

 曰く、目で追えない速度で銃を扱うことが出来る。

 

 その男を殺せば、黄金夜会へと加入することが出来る。

 

「ケッ、馬鹿馬鹿しい。見りゃただの細っちい東洋人じゃねえか。こいつのどこにそんなイカレた要素があるってんだ」

 

 テーブルの上に置かれた写真を取り上げて、ゴランは目を細める。どう見たって戦闘慣れしているようには見えない。そこらのチンピラの方がまだ強そうである。

 

「確かにな。だが、そう見せているだけかもしれない」

「ああ?」

「東洋の諺にな、能ある鷹は爪を隠すというものがある」

「どういう意味だ?」

「態と弱そうに見せているってことさゴラン」

 

 手に持っていたグラスをゆっくりとテーブルに置いて、ヴァスコはゴランから写真を奪い取る。

 そこに写っているのは、安っぽいジャケットを着た黒髪の東洋人。

 

 ヴァスコは気付いていた。

 そもそもこの写真は、望遠カメラで撮影されたものだ。

 にも関わらず、写真の男の視線はしっかりとレンズに向けられている。

 気付いていたのだ、この男は。数百メートルも離れた場所からの撮影に、その気配に。

 面白い、とヴァスコは嗤う。

 

「そろそろこの街の順位ってやつを覆してやろうと思っていたところだ」

 

 その為にウェイバーを殺せば夜会入りできるなどという嘘八百を流布したのである。

 

「特に気に入らねえしなァコーサ・ノストラの糞共は。俺達シュチパリアから散々せしめてきた癖して黄金夜会に入った途端切り捨てやがった」

 

 苛立たし気に舌を打つゴラン。

 彼の気性の荒さを知っているヴァスコは、窘めるように言った。

 

「そう焦るな、準備はしている。そうだな、二日もあればすべて整う算段だ。それまで待てよ。コーサ・ノストラを堕とすのは、ウェイバーの首を獲ってからだ」

 

 ヴァスコ、ゴラン。

 彼らはアルバニアからこの街に派遣されたマフィアである。

 元々はロアナプラの利権を巡って三合会やホテル・モスクワと対立していた組織だ。しかしながらその争いの中で兵力の殆どを食い潰され、今では巷のチンピラを取り仕切るチンピラ擬きに成り下がっている。

 こんな状態では国に戻ることも出来ず、かと言って利権の確保が出来る程この街で縄張りを広げられていない。

 

 そんな折、たった一人の男が黄金夜会に名を連ねたという情報を掴んだ。

 これを利用しない手は無いと踏んだヴァスコは、街の若者に信憑性の無い噂を流したのだ。即ち、たった一人の男を殺せば一攫千金だと。

 そこにウェイバーに関する詳細な情報は一つも含まれていない。だがこの街の悪漢たちは目先にぶら下がる獲物を無視できない。例えその獲物が自らの手に余る巨悪だとしても。

 

 邪悪に嗤うヴァスコを見て、ゴランは冷や汗が噴き出すのを抑えられなかった。

 この銀髪の男は順調に行けば組織の幹部にまで上り詰めていたであろう傑物だ。その頭脳も然ることながら、戦闘面に関しても一角のもの。人心掌握は最早魔法のレベルである。故に、ゴランはこの男に付いていこうと決めたのだ。

 だから。だからこそ。

 

「…………は?」

 

 ゴランは聞いた事が無いその声音に眉を顰めたのだ。

 出入口の扉に固定されたヴァスコの視線を辿って、ゴランもそちらに顔を向ける。

 

 

 

「あん? 場所間違えたか?」

 

 

 

 果たして、そこには件の東洋人が立っていた。

 

 

 

 

 




おっさん:もう夜会やめて荷物まとめて出ていくゥ!!
グラサン:よっしゃ二日で片付くんやな
姉御  :任せるわちゃんとせえよ

そこらのマフィア:よっしゃこの東洋人の首手土産にして夜会復帰するで
その首     :ちーっす


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前日譚 2

 ロアナプラに住む人間にとって、他人の便器を覗かないというのは最早不文律である。余程の好き者でもない限り、他人様の事情に首を突っ込みたがる人間はいない。下手に横槍を入れればどんな末路となるか、火を見るよりも明らかだからだ。この街の至る所に転がる火種には決して近づかない。その火種に、誰の意思が介在しているか分からないから。

 特にこの街を根城とする黄金夜会が絡んでいるとなれば、脳味噌にオートミールが詰まっていそうなそこらのチンピラであっても絶対に近寄ることはない。例え上司からの命令であったとしても、頑として首を縦には振らないだろう。

 以前の大規模な抗争が脳裏を過るのか、未だに青い顔をして膝を震わせる男たちも居る程である。

 

「だからこそ解せんな」

 

 会合からの帰路、バラライカはそう零した。

 高級外車の後部座席、左から右へと流れていく混沌とした街並みを眺めながら、彼女は会合の内容を思い返す。

 

黄金夜会(我々)に盾突く事がどういう意味を持つのか、理解していない愚か者共はこの街にそう多くない。先の抗争を知っていれば尚更だ」

「……外部組織の介入だと?」

「そこまで断言は出来ん。そう思わせることが狙いで、我々を後手に回そうとしている可能性も有る。回りくどいやり方だ、矮小な組織が好んで使いそうだな」

 

 バラライカの言葉に、隣に座っていた大男は首肯した。

 バラライカは脚を組み替えて葉巻を口にする。途端横から差し出されるライターから火を受け取り、天井へと煙を吐き出した。

 

「何処の馬の骨かは知らんが、裏で手を引いている奴が居る」

「我々をよく知る、ですか」

「正解だ軍曹。大方利権争いに敗れた有象無象の一種だろう」

 

 パッと思い浮かぶだけでもこの街の利権を狙っていた組織など両の指ではきかない。組織の大小はあれど、皆一様にこの街に目を付けていたのだ。

 香港、コロンビア、イタリア。現在の夜会を見渡しても博覧会状態である。これまでに淘汰されてきた組織を思えば、世界中の組織が関与していたと言っても過言でないかもしれない。

 

「この事をあの男には?」

「言わんさ、その必要もない。あの目は既に獲物に狙いを付けている目だった」

 

 フッと。先ほどまでと違い、バラライカは口元に薄い笑みを浮かべた。

 

「リロイ辺りにでも頼んでいたのか、それともあの男の嗅覚か。奴は直ぐにでも動き出すぞ軍曹。どんな火の手が上がるか、楽しみじゃないか」

 

 ウェイバーがどの程度の情報を仕入れているのかは分からない。だがあの会合での口ぶりを思うに、ほぼ敵の絞り込みは完了していると見ていいだろう。渦中にある男が直接動くのだ。その結果この街で広がるだろう戦禍を想像して、火傷顔は口角を吊り上げる。

 

 あの男は死神だ。

 地獄への片道切符は、とうに切られている。

 

 

 

 4

 

 

 

「っつーわけでよ、ここいらで終わりにしようかと思うんだよ」

「ハッ、せーせーするぜこっちはよ。いい加減その手の話にゃ飽き飽きしてんだ。出来るわけもねえのによ」

 

 俺の言葉に、バオは鼻から息を吐き出して磨いていたジョッキグラスを置いた。

 会合からの帰りに一杯ひっかけようとやって来たのは、街の中心部に居を構える酒場イエローフラッグ。西部劇にでも出てきそうな木製扉とテーブル、カウンターが特徴のこの酒場は、俺がこっちの世界にやってきてから頻繁に出入りするようになった場所だ。

 

 そんな酒場のカウンターに腰掛ける俺の横には、中身の無くなった酒瓶が転がっていた。

 既に空にしたボトルは二桁に届くだろうか。普段であればここまでの量を飲むこともないのだが、今日はこの酒場で酒を飲む最後の日。これまで世話になった礼も含めて、少しくらい羽目を外すのもいいかと手あたり次第に注文した結果だった。

 

「ひでーな、結構なお得意様だろ俺って。もう少しなんか無いのかよ」

 

 やけに静かな店内で、苦笑を含んだ俺の声が響く。

 

「オメエが落としてる金以上に店の修理費が積み上がってんだが?」

 

 不機嫌さを隠そうともせず、バオは新しいボトルを俺の前に乱暴に置く。

 

「大体な、見ろこの店の状況を。キリストの葬式やってんじゃねえんだぞ」

 

 ゆっくりと首を回して店内を見てみれば、ことごとく俯いている屈強な男たち。誰もが口を開かず、黙々と目の前の酒を喉に流し込んでいた。まるで酒に酔いでもしないとやっていられないかのように。

 酒場の雰囲気としては少々特殊だが、俺は静かなこの店のことを気に入っている。

 

「いいじゃないか静かで、これでジャズでも流れてりゃ言うことなしだ」

「洒落たバーが良いってンならカリビアンバーにでも行けこのボケ」

 

 カリビアンバーも酒場としてはかなり好ましい部類に入るが、いかんせん値段設定がイエローフラッグよりもお高めである。店主のオカマ野郎はあれで案外良い奴なので、たまに飲む分には申し分ないのだが。

 

「酒入るとアイツ俺のケツばっかり触ってくるんだ」

「ディッキーだからな、諦めろ」

 

 なんて他愛の無い事を話していたら、十二本目のスピリタスが空になった。

 

「お前、マジで肝臓どうなってんだ……?」

 

 バオの変人を見る目が辛い。人より多少酒に強いというだけだ。

 

「最後だからな、多少の羽目外しは大目に見てくれよ」

 

 流石の俺も今回は少しばかり酔いが回っている。ほろ酔い特有のふわふわとした気持ちの良い浮遊感が身体を支配していた。

 

「コイツとももうお別れかもなァ」

 

 ジャケットから鈍い光を放つリボルバーを取り出し、しげしげと眺める。

 黄金夜会へ加入した際、相応の武器が必要だろうとのことでバラライカに武器商を紹介してもらって作らせた特注品。スタームルガー・シルバーイーグル。

 最初はベレッタやシグなんかを進められたが、やっぱ男ならリボルバーだろとコイツを選んだ。

 ぶっちゃけルパン三世に影響されただけである。ルパンのワルサーも中々に捨て難いが、次元のあの滲み出る渋さには一歩及ばなかった。

 勿論そんなことを真正直に言えないので、構造が単純で手入れが楽だからと説明しておいた。連射性に難があるということだったので、じゃあ二挺でいいだろと安直な発想で二挺持ちである。

 

 最初の頃は二挺持ちだと再装填が死ぬほど面倒で全く使い物にならなかったのだが、そこは夜な夜なの特訓で乗り越えた。今では片手でそれぞれのリボルバーへ再装填が可能だ。

 

 まあそんな努力も、今日までになるわけだが。

 くるくるとリボルバーを縦に回す。普段ならこんな威嚇行為と取られるような真似は絶対にしないのだが、イエローフラッグで飲む最後の夜ということ、そして若干の酔いが俺の気を大きくしていた。

 静まり返った店内でリボルバーを回しながら、鼻唄なんかを奏でる。

 

「静かな夜だ」

 

 知らない人間に声を掛けるなんて普段なら絶対にしないのだが、やや感傷的になっていた俺は背後に座る悪漢たちへ無意識のうちに声を掛けていた。

 

「銃声が聞こえないってのを寂しく感じる日が来るなんてな」

 

 くるくる、くるくる。

 リボルバーを回しながら、そんな事を呟く。

 

 酔いが回って指先の感覚が鈍くなっていたことに、俺は全く気が付かなかった。いつでも応戦できるように弾丸はしっかり装填していたことなど、思考の外に飛んでいた。

 そしてそんな様々な事実が重なり合った結果。

 

 やけに聞き慣れた銃声が、イエローフラッグの店内で轟いた。

 

 

 

 5

 

 

 

 その男は、酒場に似つかない静謐な空気に困惑していた。

 上からの命令はウェイバーという男の首を獲ってくること。アルバニア・マフィアからの依頼を受けた男は、海を渡ってロアナプラへと上陸した。幸いにしてウェイバーという男の居場所はすぐに突き止めることが出来た。というか、この男は隠れるといった行為をしていないようだった。

 

 ウェイバーが居るという酒場へと足を踏み入れる。すぐにカウンターに座るウェイバーらしき男を発見したが、ここで男は違和感を抱いた。

 

(……何故、誰も言葉を発しない……?)

 

 酒場特有の喧々諤々とした雰囲気が微塵も感じられなかったのだ。それは通常の酒場では考えられない事態だった。見るからに柄の悪そうな男たちが、整然と並べられたテーブルにお行儀良く着いて酒を飲んでいるのである。

 

 脳内に幾つもの「?」マークを浮かべる男がそのまま店内に入り、ウェイバーからは離れたカウンター席に着こうと足を踏み出そうとした瞬間。男の腕はがっちりと掴まれた。自身の腕に視線を落とせば、青い顔をしてこちらを見上げるモヒカンの大男。

 その大男はやけに小声で、男にこう告げた。

 

「やめとけ、まだ死にたくはねえだろう」

「…………」

「ウェイバーだ。夜会の一翼を担うバケモンだぞ」

 

 数瞬思考を巡らせた男だったが、ひとまず情報収集が必要かと思い至りモヒカン男のテーブルに座る。カウンターの向こうに居たマスターらしき男が注文も聞かずに持ってきたバカルディには手をつけず、モヒカンの大男へと問い掛ける。

 

「何をそんなに怯えている?」

 

 返ってきたのは言葉ではなく、走り書きされた紙切れだった。

 

『ここはウェイバーのお気に入りの酒場だ。声を荒げれば殺される』

 

 そんな馬鹿な、と男は思った。声を大にしただけで殺されるなど冗談じゃない。そこまでイカレた男であるなど事前情報には無かった。

 ちらりとウェイバーへ視線を向ければ、何やら店主と会話に興じているようだった。横に置かれた酒瓶の数を見るに、かなりのアルコールを摂取しているようだ。

 

 これは、今が好機なのでは?

 そんな思考が頭を過る。

 酒が絡んで命を落とした大物の数など数えきれない。この酒場の雰囲気は予想外であったが、男の持参した銃にはサイレンサーが取り付けられている。こちらに背を向けている男であれば、何の問題もなく処理することが出来るだろう。

 懐から音もなく拳銃を取り出した男を見て、モヒカンが目を見開く。なにやら必死で無音の説得を試みているようだが、男は聞く耳を持たない。椅子を引き、ゆっくりと立ち上がろうとして。

 

「静かな夜だ」

 

 唐突に、件の男がそう零した。

 ほぼ無音の店内に、その一言はやけに大きく響いた気がした。

 

 つう、と。男の頬に一筋の汗が伝う。

 何故、今、このタイミングで。

 ウェイバーはそんな独り言を呟いたのか。

 

(こちらの存在に気が付いている? こちらを一瞥もしていないのだぞあの男は!)

 

 まさか。そんな筈はない。

 男の予想はしかし、悪い意味で外れることとなる。

 

「銃声が聞こえないってのを、まさか寂しく感じる日が来るなんてな」

 

 気付いている。気づいた上で、殺し屋である自身を挑発している。ようやくその事実に辿り着いた男は、直感的に不味いと悟った。

 ここは一旦引くべきと警鐘を鳴らす直感に従って、急いでこの場を後にしようと踵を返した、まさにその瞬間だ。

 

 やけに渇いた一発の銃声が轟いた。

 その音をどこか他人事のように、遠くに聞いていた男は、視界が横倒しになり始めたところでようやく自身が撃たれたのだと理解した。

 くるくると銃を回していただけだった筈だ。いつ、どうやって照準を定めた? いや、それ以上に。いつからこちらの存在に気付いていたのだ。

 いくつもの理解できない事象が重なったまま、男は絶命した。数秒して、後頭部の弾痕から真っ赤な液体が溢れ出す。

 

 ウェイバーは最後まで、男に視線を向けることは無かった。

 

 

 

 6

 

 

 

 ……やっちまったなあ。

 くるくると回していたリボルバーを即座にホルスタへ戻し、自嘲気味に溜息を吐き出した。

 弾を込めていたことを完全に忘れていた。危険物で遊べばそらそうなるわ。怖くて後ろを振り向けない。

 幸いにして、背後から悲鳴らしきものは聞こえてこない。突然の発砲に驚いたのか椅子をひっくり返したような音は聞こえてきたが、それだけだ。俺の背後が良く見えている筈のバオも無言でモップを取り出しただけの所を見るに、酒が零れた程度で済んだらしい。

 いや良かったよ、人に当てるような事態にならなくて。

 

「……くそ、酔いが覚めちまった」

 

 背後を振り返るのも憚られたので、テーブルに金を置いて正面奥にある裏口へと向かう。

 

「何だ、もう用は済んだってか?」

「酔いも覚めた。次へ行く」

 

 バオが何やら言っているようだったが気にせず店を出る。月明かりと下品な看板や照明に照らされた路面を歩きながら、どこか飲み直すことができそうな酒場を探す。残念なことに大抵の場所はほぼ出入り禁止みたいになってしまっているので、出来れば新しめな店があると有難いのだが。

 

「大通りはダメだな。前に粗方回ったし。バラライカと飲みに行った所は……そういやこないだ全壊したんだったか」

 

 思いつく限りの酒場を並べて見るも、今いる場所の近くで入れそうな店は思い当たらない。

 一先ずは裏通りへ入って適当に物色してみることにする。裏通りはそこまで頻繁に出入りすることもないため、まだ俺の知らない店なんかがあるかもしれない。

 裏路地に住まう人間たちから(おそらく)奇異の視線を向けられながら歩く事十分程。

 古びたアパートメントが視界に止まる。見れば二階部分に小さな看板が下げられていた。

 以前この辺りを訪れた時にはあんな看板は無かった筈なので、ここ数か月程で新しく出来た店なのかもしれない。であればまだ出入り禁止にもなっていないので、飲み直すには持ってこいだ。先程までの酔いにまだ引っ張られているのか、俺の足取りは驚くほどに軽い。

 るんるん気分で階段を上がり、外から看板が下げられていたであろう部屋へ向かう。

 

「……うん?」

 

 階段を上がって二階へやってきたは良いものの、酒場らしき看板が出されていない。

 

「営業時間外なのか?」

 

 いやいやまだ23時だぞ。大方出し忘れただけなんだろう。新人マスターなのかもしれない。この場所に店を構えたばかりであれば、そういった事を忘れてしまっても仕方ないかもしれない。

 なんて事を考えながら、俺はやけに固い店の扉を開いた。

 

 

 

 7

 

 

 

「あん? 場所間違えたか?」

 

 やけに間延びした、退屈そうな男の声。

 黒髪にグレーのジャケットを着た東洋人が、目の前に立っていた。

 その事実に、ヴァスコとゴランの二人は身体を硬直させる。

 

「……いいや、間違えてはいない。よく此処が分かったな、ウェイバー」

 

 その硬直からいち早く逃れ、そう発したのはヴァスコであった。

 座っていたソファから立ち上がり、次いでゴランへと視線を走らせる。その意図を正確に汲み取ったゴランも立ち上がり、ウェイバーと対峙する構図を取った。

 

「そうか、まあ合ってて良かったよ。他を探すのは面倒だ」

「……成程、既にある程度の場所は割っていたというわけか」

「ま、この辺の地理にはそこそこ詳しくてな」

 

 一触即発の空気が漂う。

 だというのに、目の前の男はどこまでも自然体だった。

 まるでこの程度、何でもないとでも言うように。

 

 大柄の男、ゴランはじりじりと移動し、ソファの下へ隠していた拳銃をヴァスコの足元へと蹴り飛ばした。薄暗い室内だ。ソファでゴランの足元は隠れているため、おそらくウェイバーには気付かれていない。

 この状況下だが、ヴァスコはある程度の冷静さを取り戻していた。ウェイバーが只者ではないということは分かっていたのだ。まさかいきなり本拠地に単身攻め込んでくるとは思っていなかったが、遊撃隊や張の子飼いを連れてきていないということはこれは黄金夜会としての粛清ではなく、ウェイバー個人での対応なのだろう。

 であれば問題ない。

 元よりウェイバーの首を土産にするつもりでいるのだ。計画が前倒しになる。それだけのこと。

 室内の至る所には人間一人を殺すには行き過ぎた重火器の数々が保管してある。それらを用いれば、ウェイバーなどすぐに排除することが出来るだろう。

 脳内でウェイバー殺害の手順を着々と構築していくヴァスコに呼応するように、ゴランもある程度の落ち着きを取り戻していた。逆上しやすい性質のゴランではあるが、常に冷静な相方を見て現状の危険は無いと判断した。

 背後に隠し持っていた拳銃へと手を伸ばし、ゴランはヴァスコの合図を待つ。

 

「ようこそ、歓迎するよウェイバー」

「そうかい」

 

 ウェイバーはまるで緊張する様子もなく店内に踏み入ると、室内全体をぐるりと見回した。仄かな明かりしかない室内では十分な視界を得ることは出来ない筈だが、ウェイバーはそれだけで全てを把握したようにフンと小さく鼻を鳴らした。

 

「じゃ、さっさと出して貰えるか」

 

 丸腰のまま、ウェイバーがそう言った。

 ヴァスコの視線が、ゴランへと向けられる。

 

「ええ、ええ。――――直ぐにでも」

 

 合図を受けた直後、ゴランが取り出した拳銃の銃口をウェイバーへと突き付ける。

 そして躊躇なく発砲。

 銃声が室内に反響した。

 

「……は?」

 

 ヴァスコの口から、呆けた声が漏れた。

 隣に立っていた筈のゴランがカーペットの床へと崩れ落ち、そのまま動かなくなる。

 何だ、一体どうなっている?

 物言わぬ死体へと成り下がったゴランからウェイバーへ視線を移動させれば、そこにはリボルバーの再装填を行うウェイバーの姿があった。

 

「あー、そっちが銃口向けるから反射的に撃っちまったじゃねェか」

 

 淡々と述べるウェイバーだが、ヴァスコにはいつリボルバーを抜いたのかも分からなかった。

 気付いた時には既に終わっている。そんな感覚を実際に体験することになるとは思わないだろう。

 

「そこらに隠してある武器からして、ただのチンピラで済ませる訳にもいかなそうだ」

 

 ついにはここまでの下準備を、チンピラ程度と比較される始末。

 黄金夜会の一角を引き摺り下ろし、その後釜となるべくこれまで水面下で準備を進めてきた。それが、たったの数分で崩れ去ろうとしている。

 

「悪い冗談だと思いたいが、」

「俺に銃を向けた事実は変わらねェよ」

 

 その言葉が引鉄となった。

 ヴァスコが足元の銃を拾うよりも早くウェイバーが発砲。正確にヴァスコの両膝を撃ち抜く。

 

「ガッ!?」

 

 耐え切れず膝を折るヴァスコへ向けて、ウェイバーは続けて二発。今度は両腕だ。

 頭を垂れるような態勢となったヴァスコの元へ、ウェイバーが静かに立った。

 

「目的は何だ」

「…………」

「だんまりか、俺は拷問とか得意じゃねェんだよなァ」

 

 だからまァ、とウェイバーは続けて。

 

「お前はこのままホテル・モスクワに引き渡す。楽に死ねると思うなよ」

 

 

 

 8

 

 

 

「な、俺が言った通りだろう?」

「二日どころか即日解決とは……」

 

 三合会が所有するホテルの一室。革張りのソファに腰掛けた張が楽しそうに腹心へと言った。

 ウェイバーが噂の出処を叩いてから数日。ロアナプラはこれまでの仮初の平穏を取り戻していた。

 ウェイバーを殺せば黄金夜会へ加入できるというデマもナリを潜めている。どうやらイエローフラッグでウェイバーが仕出かしたようなのだが、その場に居合わせた人間に聞いても頑なに口を閉ざしているため詳細は掴めていない。

 

「捕えた男はどうなったんで?」

「ん? ああ、バラライカの所に渡った時点でお察しだよ。今頃はアンダマン海で魚の餌だ」

 

 愉し気に張は嗤う。

 

「内の問題はこれで大方片付いた。となれば後は外だ」

「受けてくれますかね」

「受けるさ。アイツは戦禍が最も似合う。そしてそれを望んでる」

 

 手始めに、そうだな。

 

「ミャンマーに飛んでもらおうか」

 

 

 

 

 9

 

 

 

 

「ご苦労様。その場に居られなかったのは残念だけど、粗方必要な情報は手に入ったわ。聞いていく?」

「いんや。どうせ聞いても俺には荷が重すぎるだろうしな」

「あらそう? 新しい火種になるかもしれないわよ?」

「皆が皆お前らみたいな戦闘狂だと思うなよ」

 

 数日前にひっ捕らえた銀髪の男は、アルバニアに拠点を持つマフィアだったらしい。どうやら以前ロアナプラでの利権争いに敗れ、復権の為に俺を殺せば夜会加入が叶うといった噂を流布していたようだ。なんともお粗末な話である。俺を殺した程度で夜会に入れるというのであればこの街は夜会の人間で溢れ返ることになる。

 俺があの時踏み入れたのは酒場の皮を被った本拠地だったということになる。そんな偶然もあるんだなと言ってみれば、バラライカには笑われてしまったが。

 

「雨が降りそうだわ。帰るなら車を出してあげましょうか?」

「傘持ってるから要らねェ。それにここの車は目立つんだよ」

 

 そこらの商店で買い叩いた安物の傘を掲げて見せ、ホテル・モスクワのオフィスを出る。空を見上げてみれば、この街には珍しい雨雲が一面に広がっていた。

 

「こりゃ降りそうだな……、って言ったそばから」

 

 ポツポツと降り始めた雨は、即座に打ちつけるような土砂降りへと変貌した。宛らスコールのようである。一瞬でスラックスの裾から下がびしょ濡れになる。

 これはもう傘があろうが関係ないな、なんて諦観を抱きながら通りを歩く。この雨だからか通りには人の姿が無い。まさか俺が歩いてるからじゃないよな。そうだと信じたい。

 

「あん?」

 

 唐突に歩みを止めて、今しがた通り過ぎた路地裏を確認するために数歩下がる。土砂降りの為視界が悪く断言は出来ないが、

 

「子供か……?」

 

 薄汚い布切れを頭から被って、建物の陰で縮こまって雨風を凌いでいる子供らしき姿があった。

 幾許か考えて、俺はその子の元へと歩みを進めた。

 大人と子供の間であろうその少女は、どす黒い瞳を俺に向けたまま動かない。

 そんな彼女へ、俺は傘を差し出しながら。

 

「風邪ひくぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




(きっと皆さん分かってただろうけど)かませなアルバニアマフィアのお二人でした。
最初は3,000文字くらい戦闘シーンあったんですけどね、削っていったら秒殺でしたね。


「風邪引くぞ」、からのくだりは004をご覧ください。


こうしておっさんの噂は広がっていくのでした、という話。


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