Chaos;an onion HEAD (変わり身)
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序章

―――西條拓巳、という一人の少年が居た。

 

 

「三次元に興味は無いよ」と言い切り、老朽化し始めたビルの屋上に設置された基地(ベース)と呼ぶコンテナハウスで、大量の美少女フィギュアに囲まれながら生活する、引きこもり一歩手前の高校二年生。

人との直接的なコミュニケーションを嫌い、最低限の外出しかしないネット依存症の少年。

 

「疾風迅雷のナイトハルト」というハンドルネームで一日中ネットゲーム―――エンスパイア・スウィーパー・オンライン、通称「エンスー」―――をプレイし、学校は出席日数を計算して必要以上に出席しない。

引っ込み思案で、人と話せば必ずと言って良いほどに呂律が回らず、それが女性だった場合には最悪パニック状態に陥ってしまうほど。

周囲からは引きこもり、もしくはキモオタと認識されているが、引きこもりの部分だけは本人的には違うらしく、それを否定している。

 

強い妄想癖があり思い込みも激しく、しばしばネガティブな方向へと思考が暴走し被害妄想に陥ってしまうが、逆に辛い現実から逃避し只管自分に都合のいい妄想をしてそれに浸ることもあり、常に情緒が安定しない。

その妄想力の強さたるや、自分の好きなアニメ作品―――ブラッドチューン・THE ANIMATION。通称「ブラチュー」―――のキャラクター、自称「僕の嫁」の【星来オルジェル】を脳内に投影し、その自立した人格との会話が可能というレベルにまで達していた。

所謂、空気嫁、もしくは脳内嫁である。

 

他人から見れば、情けないキモオタ。

自らの意に沿わない現実に直面するとすぐに逃げ出し、しかもその原因を他人の所為として責任転嫁するダメ人間。

 

 

……それが、西條拓巳という少年―――その、【設定】だった。

 

 

 

 

「―――あなたは、おにぃ」

 

 

 

 

しかし、そんな彼にも一つの転機が訪れる

 

 

―――【ニュージェネレーションの狂気】……通称、ニュージェネ。

 

 

彼の住む渋谷で起こった、連続猟奇殺人事件。

西條拓巳は自らの意思とは何ら関係なく、その吐き気すらをも催す程の狂気に巻き込まれる事となったのだ。

 

……否、巻き込まれたのでは無い。

【西條拓巳】がその事件に関わることは、最初から決まっていたのだ。

 

―――彼が【ニシジョウタクミ】としてこの世界に産まれた時から、既に。

 

 

 

 

「―――あなたは、にしじょうくん」

 

 

 

 

彼が狂気に触れる発端となったのは、エンスーのプレイヤー間で行われているチャットだった。

 

親しい友人であった【グリム】との会話中、突然チャットに参加してきた【将軍】というハンドルネーム。

その【将軍】から、成人男性が壁に十字の杭で張り付けられて殺されている画像が送られてきたのだ。

 

 

……後に、ネットで「張り付け」と呼称される事となるニュージェネ第三の事件。

この時点では未だ起きていない事件であり、誰も知りえるはずも無い殺害現場。犯行予告とも取れる画像。

 

それが、拓巳の日常が非日常へと姿を変えた、きっかけ。

 

 

―――この時に初めて【西條拓巳】は、【将軍】という存在を知ったのだ。

 

 

 

 

「―――きみは、たくみ」

 

 

 

 

自分の過ごしている日常が、足元から徐々に崩れていく錯覚、少しづつ深まっていく不安。

鬱々とした気分で学校から下校していた最中、近道にと通った路地裏で―――彼は目撃してしまう。

 

 

【将軍】から送られてきた画像に瓜二つの殺害現場。そして、血塗れでその死体を見つめる少女の姿を。

 

 

産まれて始めて見た、人間の死体。

人間だと咄嗟に認識出来ないほどに杭で滅多刺しにされ、壁に張り付けられた凄惨な光景。

壁から地面まで飛び散った真っ赤な血液と、臓腑と、そして、その返り血を浴びながら、冷静のまま佇んでいる美しい少女―――

 

 

 

―――拓巳は、恐怖した。

 

 

 

悲鳴を上げ、脂汗を流し、現実から目を背け、その場から逃げ出した。

 

体力の続く限り足を動かし、粘つく唾液を飲み込み、パニックになりながらも必死に、只管に、只管に、ただ只管に走り続けて―――

拓巳はしばらくの間、死への恐怖に怯え続ける事となる。

 

 

 

 

「―――あなたは、たくみしゃん」

 

 

 

 

悪魔女―――事件現場で目撃した少女が、自分のことを追って来るのではないか? 殺しに来るのではないか? 途轍もなく残虐な方法で殺され、自分もまた「張り付け」にされてしまうのではないか―――?

……そんな恐怖に怯え続け、ネガティブな妄想により精神が疲弊していく中、拓巳は一人の少女と出会う。

 

少女の名は楠優愛。

拓巳と同じ翠明学園に通う三年生であり、キモオタである拓巳にも偏見無く接してくれる穏やかな少女。

 

彼女の存在に拓巳の心は救われて……短い時間ではあったが安らかな時間を共に過ごし、彼は彼女から様々な事を教わった。

 

 

拓巳は、優愛によって初めて人の優しさと言うものを知り、

拓巳は、優愛によって初めて他人と会話することの楽しさを知り、

拓巳は、優愛によって初めて信頼の尊さを……人との繋がりの大切さを知り、

 

拓巳は、優愛によって初めて人を好きになると言う事を知りかけて―――

 

 

―――そして拓巳は、優愛によって初めて人から裏切られる絶望を知った。

 

 

他人に対して心を開きかけていた拓巳の心は再び堅く閉ざされて、猜疑心と、疑心暗鬼と、被害妄想の闇に包まれ―――

 

 

―――物語は、加速を始める

 

 

 

 

「―――おまえは、にしじょう」

 

 

 

 

―――ゴシックバンド・ファンタズムのボーカルである岸本あやせとの出会い。

 

―――蒼井セナとの邂逅。

 

―――転校生である折原梢との【会話】。

 

―――妹である西條七海との触れ合い。

 

―――数少ない友人である三住大輔とのやり取り。

 

―――ニュージェネ事件を捜査している刑事、判安二と諏訪護の訪問。

 

 

 

 

―――そして、悪魔女こと咲畑梨深の突然の出現と、和解。

 

 

 

 

「―――あなたは、たく」

 

 

 

最初は、彼女に恐怖しか感じなかった。

あの現場を目撃した自分を殺しに来たのだ――拓巳はそう思い、梨深から距離をとろうと必死になっていた。

 

殺されたくない、殺されたくない、殺されたくない……!

 

……しかし、梨深はそんな拓巳の恐怖とは裏腹に、彼に優しく手を差し伸べてきてくれた。

 

最初、拓巳は何の罠かと思い、梨深に対して邪険な対応をし続けた。

しかし、彼女は気にせずに拓巳に優しく接し続け、その結果、優愛の一件で人間不信になっていた拓巳の心は、優しく解きほぐされていく。

 

拓巳は献身的な梨深に対して、徐々に心を許していった。

 

本当に辛い時、何も言わずに一緒に居てくれた、彼女。

怖くて怖くて仕方が無くて、心が擦り切れそうになった時、優しく抱きしめてくれた、彼女……

 

……最初に感じていた「恐怖」という感情は、梨深と接するうち徐々に鳴りを潜め、彼女が「張り付け」の現場に居たことは自分の妄想だったと思うようになり―――拓巳は、梨深に惹かれていったのだった。

 

 

 

だが、そんな拓巳の心とは裏腹に、事件は更に展開していく。

 

 

 

―――終わりを見せないニュージェネ事件による猟奇殺人。

 

―――「ヴァンパイ屋」の殺害現場に記された言葉、【その目誰の目?】

 

―――世界の可能性を殺した数式、【fun^10×int^40=Ir2】

 

―――嘗ての恩師が犠牲となった、「ノータリン」

 

―――岸本あやせ、蒼井セナ、折原梢による、妄想の剣【ディソード】の顕現。

 

―――渋谷を襲うセカンドメルト。

 

 

様々な出来事に巻き込まれていく中、拓巳は【ギガロマニアックス】という存在を知る。

 

妄想を現実化することの出来る、一種の超能力とも言うべき力を持つ人間達。

……心の壊れた少女達の扱う、常識の外側にある能力の存在を。

 

 

 

 

「―――ぼくはぼく」

 

 

 

 

妄想に次ぐ妄想と、狂気に満ちた現実と。

自分の心が妄想に犯されていく妄想に呑まれて。

妄想と現実の境界が曖昧となり、何が真実かも分からなくなって。

 

何も分からぬまま、拓巳は進んで行く。

望む望まざるに関係無く、拓巳はゆっくりと事件の真相に近づいて行く。

 

 

……そして、拓巳は辿り着いた。

 

 

 

―――【将軍】の正体に。

 

―――【将軍】の願いに。

 

―――【ノアⅡ】の存在に。

 

―――それによる、世界の危機に。

 

―――梨深の思惑に。

 

―――自分の、出自に。

 

 

 

 

――――――自分という存在の全ては、【西條拓巳】の妄想から生まれた【設定】だったと言う事に。

 

 

 

 

「―――ぼくは、妄想のそんざい」

 

 

 

絶望に打ちひしがれ、拓巳は自らの死を願う。

事故死する事を妄想し、他殺されることを祈り、自殺に失敗し、自暴自棄に陥った。

全てが色を失い、価値をなくし、自分の中に響く星来の声にさえ反応出来なくなっていく。

 

 

―――そんな最悪な状態の中で行われた、【将軍】との対話。

 

 

余命が幾許かも無い事を自覚している所為なのか、達観した印象を受ける皺だらけの少年。

拓巳は、暴徒と化した渋谷の住人達が渦巻く交差点で放つ彼の言葉を聞き、梨深が捕らわれた事を知り、自分の心と向き合い、そして……唯一つの解を得る。

 

 

 

 

―――僕は、梨深の事が好きなんだ

 

 

 

 

その気持ちを自覚した瞬間、彼は覚醒した。

一人のギガロマニアックスとして。【西條拓巳】として。

 

 

 

―――妄想の存在が恋をするなんて、キモ過ぎる

 

―――僕みたいなキモオタが梨深みたいな可愛い女の子を好きになるなんて、身の程知らずにも程があるよ

 

―――自分のキモさに、笑いしか浮かばない

 

―――……でも

 

 

―――でも、こんなキモオタでも、彼女のために出来ることがあるのなら―――

 

 

 

 

「―――僕は、存在する」

 

 

 

 

彼は、決意する。

【将軍】の願いとか、世界を救うとか……そんな物の為ではなく。

 

 

―――ただ、自分の好きな女の子を、梨深を助ける為だけに―――ノアⅡを破壊する。と。

 

 

 

 

「―――僕は、西條拓巳」

 

 

 

 

自らが掴み取ったディソードを構え、拓巳は疾走する。

 

 

ポーターを切り裂き、【グリム】の正体を白日の下に晒し、サードメルトを耐え抜いて。

 

あやせを助け、優愛を赦し、七海に背中を押されて。

 

セナの願いを不器用な形で聞き届け、梢の心を救い上げ、「張り付け」を妄想の渦に叩き込み、殺して。

 

妄想攻撃として襲い掛かる星来オルジェルを貫き、腕を叩き潰され、アバラを折られながらも、まっすぐに。

 

そしてノアⅡの眼前にて、事件の主犯、野呂瀬玄一と相対する事となった。

 

 

―――しかし、その差は圧倒的。

 

 

拓巳は満身創痍の身体を酷使し戦うも、胸を切り裂かれ、梨深を犯す妄想をぶち込まれ。

 

【三日間】にも及ぶ【一秒】の拷問を受け、自分の形を保てなくなり、意識と世界が混濁し、消え落ち、そして―――西條拓巳は、「人」という存在から外れる事になった。

 

 

 

……だが、

 

 

 

 

「―――僕は、」

 

 

 

 

―――六人のギガロマニアックスの、想い。

 

 

これまでに拓巳と関わってきた少女達の祈りを受け、拓巳は「自分」を取り戻すことができた。

そして野呂瀬から受けた妄想を取り込んで、人の身体を超越し、【妄想から産まれた人間】は【妄想から産まれた化物】と変貌した。

 

痛覚を遮断し、身体を両断されようとも、脳を潰されようとも身体の中から無尽蔵に湧き出る塵から無限に再生する、化け物。

他人の妄想を取り込み、自分の物とし、決して死ぬことの無い、反粒子すらをも自在に操るギガロマニアックスとしての最極地に至ったのだ。

 

 

……そうして

 

 

―――英雄なんて柄じゃないし、そもそもヒロインからして高嶺の花にも程がある。

 

 

西條拓巳は、一人の人間として、ただの一介のキモオタとして。

たった一人の、自分が想いを寄せる少女のために、ノアⅡを。

 

 

戦争の無い未来、争い事の存在しない楽園。

 

選ばれた少数により管理された、無味乾燥な乾いた未来を―――

 

 

 

 

 

 

「―――僕だ―――!」

 

 

 

 

―――野呂瀬諸共、破壊した。

 

 

 

 

そして、ノアⅡが破壊されたことによる爆発が収まった後、梨深は必死に拓巳の姿を探したが―――終ぞ、その姿を見つけることは出来ずに終わる。

 

 

そう―――――――――【西條拓巳】は、この世から、跡形も無く消え去ったのだ。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

******************

 

 

 

 

 

 

 

―――感じたのは、物凄い光。次いで、衝撃。

 

 

ガタガタと上下左右前後斜め縦横、全ての方向に身体が揺さぶられ、シェイクされる。

衝撃のほか、光さえもが圧力を持って僕をぐちゃぐちゃに押しこねるけれど、痛覚を遮断しているためか痛みは全く感じない。

……その代わり、耳鳴りが酷くて音が何にも聞こえないけど。

 

 

一体、何が起こったんだっけ?

 

 

……ああ、そうか。僕はノアⅡを破壊した後に起きた爆発に飲み込まれたんだ。きっと。

 

音も熱さも痛みも、何一つ感じることは出来ないけど、感覚的にそう感じる。

爆発に巻き込まれるなんて奇特な経験は「僕」にも「彼」の記憶にも無いんだけれどね。

 

 

……僕の攻撃は、ノアⅡを破壊することが出来たのかな。

 

 

こんなに凄い爆発が起こっているんだから、完全破壊には至らなくても、8割9割は破壊できたと思いたかった。

そうでなくちゃ、何のために命を捨てたのか分かったもんじゃない。

 

 

―――って、妄想に命があるとか、僕は何を考えてるんだ。

 

 

下らない事を考えた、と自嘲の笑みが浮かぶ―――いや、無理かな。

多分、今の僕の身体はそれはそれは酷い状況になってると思うから、顔もぐちゃぐちゃで表情なんて浮かべるべくも無い。

 

 

手も、足も、首も、目も、肺も……身体全体がぴくりとも動かすことが出来ず、ただあるのは身体が光の中に吹き飛び、散らばり、溶け、蒸発していく感覚だけ。

吹き飛んだ身体の断面から塵が溢れ出して欠損部分を再生させようとするけど……その塵自体が光に押し流されて、瞬時に吹き飛び光の中へと溶けていく。

 

 

―――再生が、追いつかない。

 

 

サードメルト時には渋谷を丸々廃墟に変えたほどのノアⅡだ、内蔵されているエネルギーは膨大なものなのだろう。

少なくとも、今の僕を消滅させられる程には。

 

 

…………でも、良かった。

 

 

僕がこのまま死んでいけば、梨深の大切な人である将軍の余命がほんの少し伸びる。

僕という負担が無くなれば、梨深は将軍ともっと長く一緒に居られる。

七海だって、この一年間本当の兄貴に会えなかった間の時間を、少しでも埋められるはずだ。

 

 

―――何より、この件が終わったら梨深に殺してもらうか、それか自殺しようと考えていただけに、思いのほか楽に死ねそうで助かった―――

 

 

……不意に、おかしくなった。

 

ディソードを手に入れて少しは変わったかなと思ったけど、僕のヘタレな本質はそう簡単には変わらないらしい。

 

少し自分が情けなくなったものの、心は穏やかに凪いでいた。

 

 

咲畑梨深。

僕の一番の友達で、僕の一番好きな人で、僕の大切な人。

 

 

……僕の、片思いの相手。

 

 

僕みたいな妄想の存在が、キモオタが。彼女のために何かを成して死んで逝ける。

これほど良い死に様、そうは無いんじゃないかな。

 

 

―――凄く、清清しい気分だ……

 

 

自分がこれから死に望む事も、そこに意味があると分かっているのなら―――恐怖なんてあんまり感じない。

 

 

七海の事は気がかりだけど―――きっと、将軍が何とかしてくれるだろう。

だって、七海は僕の妹である前に将軍の妹なんだ。何とかしないはずが無いさ。

 

僕がギガロマニアックスの力で痛覚を遮断できたのなら、きっと、将軍も同じようなことが出来る筈。

七海の手首をリアルブートする事も、造作も無いに違いない。

 

 

……そう、信じたい。

 

 

 

―――…………

 

 

 

……そろそろ、考えることを止めようか。

 

 

今の僕には、もう出来ることなんて何にも無い。

この化物染みた力も、あと数分もしないうちに使えなくなるだろう。

 

 

―――ならば、あとは静かに死を待つだけ。

 

 

これ以上考えを巡らしてしまえば、死への恐怖が蘇ってきてしまいそうで。

……始め、死にたくないって喚いていた時の事を思い出して、心中で苦笑。

 

 

 

(――――――……)

 

 

 

僕はゆっくりと、意識を沈めていく。

 

 

深く、深く、深く……。

 

 

そのうちに思考も白く染まっていき、何も考えられなくなって。

 

 

穏やかな気分の中、最後に梨深の姿が脳裏に浮かび―――

 

 

 

 

―――あれ? 梨深は、無事なのかな。

 

 

 

 

ふと、心配事が脳裏をよぎって、沈みかけた意識が浮上した。

 

そうだ、梨深もこの場に居るんだった。

 

 

……爆発に、巻き込まれていないかな?

せっかく野呂瀬から解放したのに、全てが終わってみれば命を落としてました―――なんて、そんなのは嫌だ。

 

 

そう思って、周囲を確認しようとした瞬間―――ぶつん、と。

視神経がぶち切れる感覚。視界が真っ白から真っ黒に塗り変わった。

 

 

 

……どうやら、僕の身体はもうそろそろ限界らしい。

でもそんな事情とは裏腹に、頭の中が梨深の事で一杯になっていく。

 

 

 

 

―――せめて、梨深に迷惑をかけずに居なくなりたい。

 

 

 

 

そう、思って。

 

 

 

 

―――僕は、妄想することにした。

 

 

 

 

 

梨深が助かることを、妄想。

 

 

この爆発は、梨深の元にまでは届かないって。

 

 

強く、強く妄想した。

 

 

将軍には負担をかけてしまうかも知れないけど、そこは許して欲しい。

 

 

僕の、最後の妄想だから。

 

 

光に溶けて行った僕の身体が、爆発の衝撃を押さえ込む。

 

 

梨深の元まで爆風を届けないように。

 

 

今の僕なら出来る。

 

 

そう、思い込んで。

 

 

人では無くなった、今の僕ならば。

 

 

身体が完全に消える前に。

 

 

妄想しろ。妄想しろ。

 

 

強く。

 

 

強く。

 

 

強く―――!

 

 

 

―――強く!!

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――妄想した。

 

――――――――――――ノアⅡから溢れでたエネルギーと、僕の身体が混ぜ合わさる感覚を。

 

 

――――――――――――妄想した。

 

――――――――――――【僕】というエネルギーを、無理矢理押さえ込む感覚を。

 

 

 

 

 

――――――――――――妄想した。

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――梨深が無事で居るという、世界を――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

妄想は、現実となる。

 

 

現実は、妄想に置き換わる。

 

 

エラーが、現実化する。

 

 

肉体は、消滅する。

 

 

意識が、裏返る。

 

 

再び、僕が僕で無くなる。

 

 

僕は、ノアⅡと同化し。

 

 

僕は、エネルギーに変換され。

 

 

僕は、妄想そのものとなり。

 

 

妄想は、器を求め。

 

 

―――そして、僕は逆流した。

 

 

僕に僅かに残っていた、繋がりを辿って。

 

 

僕は、【僕】へと流れ込む。

 

 

 

(―――ッ!!)

 

 

 

【きみ】の声が、僕の外に響いて。

 

 

【きみ】は、【僕】と同化して――――――――――――

 

 

 

 

 

―――僕は、【僕】の中で炸裂した。

 

 

 

 

 

 

……妄想の終わる、テレビの電源が切れるような感覚と共に。

 

僕の意識も、完全に闇に落ちていった―――

 

 

 

 

 

 

---……ブツン。

 

 

 

 

 

 




■ ■ ■

結構前に書いたSSの焼き直しです。
新しい短編書いたんでせっかくなのでこっちにも投稿する事にしました。

全話にとまでは言いませんが、なるべく挿絵機能も使ってみたいので、チョロっと描けたら上げる感じのゆったりペースになると思います。
早く読みたいって人がもし居ましたら、お手数ですがArcadia様の方でどうぞ。ゴメンネ!


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第1章  IF end → onion HEAD?

―――あーけーろー……! あーけーなーさーいー……!!

 

 

……ばんばんと、扉を叩く音がする。

 

 

―――いーいーかーげーんーにー……! 出ーてーきーなーさーいーよー……!!

 

 

それと同時に投げかけられる、くぐもった声。

その甲高い声は小さな女の子の物で、キンキンと耳の中で跳ね回る。

 

声は扉一枚隔てているにも関わらず相当な音量で、さっきからずっと耳を手で塞いでいるのに押し付けられた掌の壁は全く効果を成していない。

ぎゅっと、更に強く掌を押し付けるけど……鼓膜に圧力が掛かって痛いだけで、声の大きさは然程変化せず。

 

机の上にあるPCから流れる音楽と合わさって、不協和音。

はっきり言って不快な事この上ない。

 

 

「…………うっせ、よ」

 

 

……そっと、小さく呟くけれど。

僕の放ったその声は、扉を叩く音と女の子の声に打ち消されて、何処にも届くことなく消滅する。

 

 

―――くっそ!! さっきから煩いんだよ。 少し黙れよ!!

 

 

……心の中では大声で叫べるのに、現実ではそれが中々出来ないのが情けない。

僕も少しは成長したと思ってたけど、本当のところはこんなもんだ。

 

キモオタはキモオタのまま、何にも変わっていやしない。

 

 

「……欝だ」

 

 

―――聞ーいーてーるーんーでーしょー……!? こーらーぁ……!!

 

 

と、そんな事を考えている間にも騒音は途切れることなく続いていく。

 

何度も、何度も、執拗に。

木製の扉を叩く音が、この四畳半にも満たない小さな部屋の中に響き渡る。

 

 

ばんばん

 

あーけーろー!

 

ばんばん

 

あーけーなーさーいー!!

 

ばんばん

 

あーけー……

 

 

「……っああもう!」

 

 

電球照明の無い、真っ暗な室内。

光源は机の上に置かれた型遅れのノートPC……そのディスプレイから発せられる僅かな光のみだ。

僕はその光源に向き直り、机の引き出しを開けて中身を乱雑な手つきで漁る。

 

そしてこれまたPCと同じく型遅れ、何世代も前の無駄に巨大なヘッドフォンを取り出し、両耳に装着。

 

PCとは繋げられない。

一応音楽再生機能は付いているけど、ヘッドフォンの方が規格に合っていないんだ。

CDプレーヤーにも繋げられないし、もはやロートル乙としか言いようが無い。

 

……しかし耳をすっぽり覆うことが出来るため、耳栓としては中々に優秀。

本来の使い方ではないけどね。

 

 

「アーアーキコエナーイ……ふひひ」

 

 

女の子の声と、扉を叩く音が比べ物にならないくらい小さくなる。

 

完全に消えたわけではないけれど、それでもまぁ何とか無視できるレベル。

……最初からこうすれば良かった。

 

僕はそのまま、光の方へ―――PCの画面へと目を向けた。

 

そこに映っていたのは、とあるオンラインゲームのプレイ画面。

……残念なことにエンスーではなく、別のゲームだけど。

 

エンスーの世界は美麗な3Dグラフィックで表現されていたけど、このゲームの世界はチープな2Dで表現されている。……しかもキャラクターは全て二頭身だ。

PCのスペックの所為もあるんだろうけど、エンスーと比べて動きも何だかカクカクしていて処理落ちが酷い。

NPCは四種類の言葉しか話さないし、モンスターは行動がワンパターンだし、音楽もエフェクトもショボすぎる。

 

しかも、スキルの効果が高すぎるものと低すぎるものとの二種類しかない。

その結果、一部の廃プレイヤー達を除いて同じ職業のキャラクターが其処彼処を歩いてて、もう飽食状態。

 

 

―――何というクソゲー。如何にエンスーが優れたMMORPGだったか分かろうと言う物だ。

 

 

だから、疾風迅雷のナイトハルトの名前は使ってはいない。別の捨てハンを使ってる。

だってこんなダメダメなゲームにナイトハルトを存在させるなんて、ナイトハルトの名に泥を塗る行為じゃないか。

 

 

―――ナイトハルトの名前は、エンスーでこそ。八頭身のパラディンの姿でこそ相応しいんだ。

 

 

……まぁそれはともかくとして。

 

こんなにもクソゲー極まりないと言うのに、何故か巷ではこのゲームが数多くあるMMORPG内で一番のシェアを誇っている。

プレイヤー間の評判も良好で、動きが凄い滑らかとか、ゲームバランスが適度だとか、何処も彼処も賞賛ばっかり。

どこの掲示板に行っても神ゲー認定されていて、儲の数も馬鹿みたいに多い。

 

 

―――この程度で神ゲーとかさ、お前ら何考えてるの? 馬鹿なの? 死ぬの?

 

 

……そんな感じの感想をスレに書き込めば、そいつは直ぐさまアンチ認定されてゴミ箱行きだ。

アンチスレもあるにはあるんだけど……スレが立った当初はともかく、今では本スレの別館扱いに等しくなってる。

 

前にそれに気づかず否定的な意見を書き込んじゃって、それはもう盛大に叩かれた。

アンチスレなのにアンチを許さないとか、ホント何なんだよ……。

 

 

「……くそ」

 

 

その時の事を思い出して、イラっときた。

ゲーム性にも苛々させられるし、ホント色んな意味でクソゲーだ。クソゲーオブザイヤーに推薦してやる。

 

……でも、これ以外のゲームはこれよりも出来が酷くて、やる気が出る出ない以前の問題だ。

それら有象無象のゲームと比べれば、確かにこのゲームは神ゲーに等しい出来だろうね。

 

だけどエンスーに比べればクソだ。異論は認めない、絶対にだ。

 

 

「……な、なら、エンスーをやったら良いじゃないか、って? 無理なんだよバカ、ふひひっ」

 

 

―――だって、エンスーなんて無いんだもん。

 

 

自分で自分にそう突っ込んで、自分で意見を否定する。

……そのあまりの滑稽さに、気持ち悪い笑い声が口元から漏れ出た。

 

その笑い声のキモさに再びイラっと来て―――なんかもう、虚しくなった。

 

 

……何、やってるんだろう、僕は……。

 

 

―――あ……ろー……! この……クー!

 

 

うっすらと、僕の耳に届く声。僕はそれをガン無視した。

……アイツまだいんのかよ……。もういい加減諦めろよ……。

 

 

「………………」

 

 

ぎしり、と。

革張りの椅子の背もたれに深くもたれ掛かり、脱力。

その時にヘッドフォンがずれそうになったので、両手で押さえて固定する。

 

 

―――騒音が、完全に消えた。

 

 

「………………………」

 

 

……天井を見上げて、部屋の隅をじっと見つめる。

別に蜘蛛の巣が張っているわけでも、どこぞのホラー映画みたいに大量の髪の毛が湧き出ているわけでもない。

何の変哲も無い部屋の隅っこ部分だ。

 

―――視線も、感じない。

 

 

「……そらそうだろ、常考」

 

 

頭を、元に戻す。

脱力した姿勢のままPCを引き寄せ、新しくプラウザを開いてゲームのチャットルームを覗く。

 

 

 

 

 

 

……プラウザ一つ開くのに一体何百秒かけるつもりなんだよこの低スペマシン……!

苛々しながら待つこと数分、ようやく開いたチャットルームに入室して。

 

先に居た住人からの挨拶を適当に返し、そのまましばらくROMってみる。

 

…………………

 

……………………………

 

………………………………………

 

―――当然、何が起こるわけでもなし。

 

 

「………………、」

 

 

PCから手を離し、ぶらりと力を抜いた。

両腕がぷらんぷらんと振り子運動を繰り返し……直に、止まった。

 

苛々が、収まらない。

 

 

「……何、を―――」

 

 

してんだろ、僕。

そんなに詰まんないんなら、やらきゃいいのに。

 

何が楽しくて、こんな苦行を自分に課してるんだ。

前と同じく引きこもって。一日中つまんないゲームをプレイして。傍目から見ればイミフな行動とって。そんで苛々して。

 

 

「……ハハッワロス」

 

 

どこのM豚だよ、僕は。

そう呟いて自嘲する。

 

 

……理由は、はっきりしてるんだ。

唯それを認めたくないだけで。

 

―――僕は、将軍を探しているんだ。

 

大嫌いなあいつを、探してる。

だから、僕は初めて将軍と接触した時と似たような行動を繰り返しているんだ。

 

 

―――もしかしたら、またいきなり接触してきてくれるかも―――

 

 

……そんなありえない希望を抱いて。

ただ、今の状況を説明して欲しいから。将軍なら、何か知っているかもしれないから。

 

無駄だって、ありえないって。分かっているのに探してしまう。

そう、ありえない。ありえない、ありえないんだよ。【まだ】、不可能なんだ。

 

 

―――将軍と接触することなんてまだ出来ないんだって、分かっているのに。

 

 

「―――ふっ!」

 

 

息を吐いて、椅子の上に直立。周囲を見回した。

 

 

薄暗い室内、埃の積もった棚にダンボールの山。

ベットがあって、布団があって、達磨ストーブがあって、椅子があって……作業用の机の上には、光を放つPC。

 

 

―――それが、この部屋にある全て。

 

 

僕が集めた美少女フィギュアも、ゲーム機も、エロゲーも、エンスー専用モニタも高スペックの設置型PCも。

アニメのDVDも、小型の冷蔵庫も、エアコンも、ブラチューのポスターも。

床にはコーラのペットボトルやカップ麺のゴミも散乱してないし、ベットの上にはエロゲの箱なんて一個も無い。

 

 

―――星来たんのフィギュアも、何も、存在していない。

 

 

……ありえない。

 

ありえないけど、当たり前だ。

 

……そう、当たり前なんだ。

 

 

だって、だって。

 

 

 

……………………だって、この場所は。

 

この、世界は――――――

 

 

 

「――――――こぉんの……っ! バカタクーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」

 

 

 

―――バカァンッ!

 

 

「へっ、?」

 

 

突然の轟音。

鍵を閉めていたはずの扉が内側に向かって吹き飛び、宙を舞って、風を切る。

今まで思考していた事が、全部纏めて吹き飛んだ。

 

 

―――全てがスローモーション。

 

 

木製の扉がくるくると回転して、その裏に小さなシルエットが見えて。

……でも僕はそんな人影なんて気にも留めずに、ただただその扉を見つめ続ける。

 

―――ただ、呆然と見つめていたんだ。

その、扉の姿を―――

 

 

まるで回転鋸のように。

 

衝撃で砕けた細かい木の欠片を振りまき。

 

徐々にその姿を大きくしながら。

 

それは、一種幻想的な光景で。

 

暴虐の化身と化しながら。

 

 

―――僕のいる方角に向かって飛んで来る、その光景を。

 

 

 

……なんて厨二的な感想を述べてみたけどこれぶっちゃけ死亡イベントじゃね?

 

 

「―――いひぃぃぃぃゃあぁああああぁええええぁあぁ!?」

 

 

我に返った。

思わず情けない悲鳴を上げて僕は咄嗟にしゃがみ込み、今まで立っていた椅子の背もたれ部分の陰に隠れる。

 

 

―――そして、

 

 

「おぶぅわッ!?」

 

 

ちょうど僕が隠れた瞬間、その背もたれの裏側に激突。

衝撃でバランスが崩れて、後ろのPCとその電源コードを巻き込みながら転倒した。

 

 

―――ブチン

 

 

地面に叩きつけられたPCは、嫌な音を立てて……そのディスプレイから光を消した。

……ああ、多分内部データが幾つか破損したかもしれない。

 

まぁ、セカンドメルトの時の教訓を生かしてバックアップはこまめに取っていたから、幾らデータが消えようともそんなに痛くは無いんだけどね。

というかそれよりもまず転倒した身体の方が痛い。マジ痛い。ひじが痛い。泣きたい。

 

 

「あぎ……っちょ、おまっ……何? なん……なんなんだよ!?」

 

 

よろよろと、横倒しになった椅子に手を突いて立ち上がる。

足元にはもはや木片と化したドアの残骸が転がっているけれど、僕はそれをスルー。

僕のスルー検定も堂に入ったもんっすね。慣れてしまった自分が物悲しきかな。

 

そしてなけなしの根性―――あるのかどうか知らんけど―――を振り絞って、この凶行を成した人物を睨み付けた。

 

頑張れ僕。超頑張れ。僕は僕を応援してる。

 

 

「い、いき、いきなりなん、なんだ……! こんな、ご、強盗、みたいな事して、ゆ、許される、と、でも、思って……!」

 

「わたしが呼んでるのに無視するのが悪いんでしょうが! せめて返事くらいしなさいよっ!」

 

 

間髪居れずに返ってくる、勝気なおにゃのこの声。

僕はその剣幕に一瞬ひるむけど、何とか声を絞り出した。

 

 

「うる、さいな……! べ、別に、僕がき、君に返事を、か、返さなきゃいけない義理なんて、無い、じゃないか……!」

 

「ぎ……何? またそうやってよく分かんない言葉使ってごまかす!」

 

「低脳乙。自分の無知を、た、棚に上げて、人を責めるとか……マジ典型的スイーツ(笑)。ケータイ小説百回音読してから出直して来い」

 

「て……む、お菓子かっこわらい? ……あーもー! ホントあなたとお喋りするといーってなるっ!!」

 

 

たむたむ、と地団駄を踏む襲撃犯。

その小さな身体から生え出る細い足を踏み鳴らす度に、着ているローブと一緒に真っ赤なロングヘアがさらさらと揺れる。

 

五歳にも満たないけど、幼いながらも既に整ってる顔付き。その可愛らしい顔は、今は怒りによって頬が膨らみ、真っ赤に染まっている。

足を踏み鳴らす駄々っ子のような仕草と合わさって、三次元女子ながらも萌えを感じさせていた。

 

まぁ、僕から言わせれば、これは二次元以外ではちっちゃい子供のみが表現できる萌えだよね。ふひ。

この仕草を三次元の女子高生なんかがやってみなよ。キモいだけだから。

……あ、こずぴぃは別で。

 

思わずほっぺたを突っつきたくなるが、実行はしない……というか出来ない。だってやったらきっとフルボッコされる。

三次元とかそういうことじゃなくて、この子はマジ切れすると手が出る子なんだ。

デレの無いツンデレみたいなものだ。え? 何? 違う? 良いんだよこんな奴には適当で。

 

 

―――アンナ・ユーリエウナ・コロロウァ。略してアーニャ。

 

 

こんなキモオタで、排他的な性格をしている僕に根気強く付き合ってくれる、僕より一つ年上の……所謂、幼馴染。といった間柄の女の子だ。

……幼馴染。自分で言ってて違和感が拭えないけど、今は良い。

 

手には小さな星の飾りの付いた杖のような物を握っており、それで何時もの通り扉を無理矢理ぶち破ったんだろう。

 

 

―――何せ、ここには【魔法】なんて得体の知れないものがあるらしいから。何が起こっても不思議じゃない。

 

何そのB級ファンタジー設定。

 

 

「……で、何? ま、また今日も、僕に外池とか、言うつもり?」

 

 

僕の姉―――違和感―――から頼まれているのか、それとも委員長的な気質をしているからなのかは分からないけど。

この部屋に引きこもって、学校も無いから本格的ヒキニート生活をしている僕の部屋にたまに襲撃してきては、無理矢理外に遊びに連れ出そうとするんだ。

 

……正直、ほっといて欲しい。とは思う。

 

多分、何か一言……とてつもなく酷い言葉を浴びせかければ、僕に関わる事を止めてくれるだろう。

でも、そうしようとする度に―――七海の事が頭に浮かんで、結局流されてしまうのだ。

 

……まぁ、大抵は今日みたいな口論になるんだけど。関係は険悪ではない……と言っていいと思う。

面と向かっては言わないし態度にも出さない(出せない)けど、僕としてはまぁ感謝してやってもいいとも思ってる。

 

 

―――僕を、【タク】って呼んでくれるから。

 

 

「そうよ! ネカネお姉ちゃんから聞いたけど、タクったらまたずっと引きこもってるそうじゃない!」

 

「…。……べ、別に、君には関係な―――」

 

「うるさい! 引きこもってるんでしょ!?」

 

「……、……う……ひ、引き篭もる事の何が悪いんだよ。 引きこもれば勇者になれるって言葉、知らないの?」

 

「知らないわよそんなのっ! からだ動かさないとビョーキになるの! だから外で遊ばないとダメなんだから!」

 

 

そう言って、僕の腕を掴んでぐいぐいと引っ張るアーニャ。

ずっと引きこもり生活を続けていたためか、容易く彼女に力負けしてしまう。

 

背も僕よりアーニャの方が高いし、活発で動き回っている分力も僕より強い。

ひ弱で痩せっぽちの僕に、抵抗できる術なんて無いのである。

 

 

「ちょっおまっ……! い、痛い! ひじが痛いって! さっきぶっつけたとこぉ……っ!!」

 

「い・い・か・ら! 近所の子たちも集めてあるから、すぐそこの広場にいくの!!」

 

「っぎ……っい、いい、よ! いいって! 良いから! て、手ぇ! 手ぇ離してよぅ!」

 

 

―――外の人たちはDQN以上に嫌いだ。

……みんな僕を、失望した目で見るから。

 

 

でも、アーニャはそんな僕の心情と必死の嘆願を無視してずんずん進んでいく。

足をつっぱってみても、片方の手を家具に引っ掛けてみても、その勢いは止まらない。

 

ひ、人攫いー! 誰かー!

 

 

「は、働きたくないでござる! 絶対に働きたくないでござる!!」

 

「はぁ? 何言ってるのよ? 働くんじゃなくて、あーそーびーにーいーくーのー!!」

 

「ニュ、ニュアンスで理解しろよぉぉぉ……!!」

 

 

―――悲痛な叫びも虚しく。

 

僕は床に投げ出されたPCに後ろ髪を引かれつつ、部屋の外へと引きずられていったのだった。

 

 

―――僕が居たあの部屋は、長く慣れ親しんだコンテナとは違う。

 

 

太く頑丈な木で組み上げられた小屋―――といっても小屋って言うには大きすぎるけど―――その中にある一番狭い部屋。

四畳半ほどの大きさの、殆ど倉庫みたいな場所だ。

 

勿論、この場所はビルの屋上なんかじゃない―――というか渋谷でもないし、そもそも日本でもないんだ。

 

―――1996年。

エンスーも、ブラチューも、まだ生まれていない年代。

 

その時代のイギリス、辺鄙な山間にあるド田舎な村。

……しかも【魔法】なんてファンタジーが普及している訳の分からない場所に―――僕は居た。

 

 

 

僕の名前は西條拓巳。

 

とある一人の死に損ないの妄想から生まれた、ただのキモオタの高校二年生だ。

……いや、高校二年生……【だった】

 

今の僕は、まだ三歳のガキだ。ちょっと女顔したイケメンの卵。

【高校二年生の西條拓巳】の【設定】では無く――ネギ・スプリングフィールドなんていう妙ちきりんなDQNネームの西洋人として暮らしている。

 

なんかね、もうね、どうしてこうなった。

 

 

だから――将軍が、接触してきてくれるはずが無い。

 

 

土地がどうしたとか、人種がどうしただとか、そういう事の前に。

だって今はまだ1990年代で、2000年代にも入っていないんだ。

 

もし将軍が居たとしても、彼はまだ小学生にもなっていないはずだから。

彼はまだ、将軍にすらなってないんだ。

 

 

―――ほんと、どうしてこうなった。

 

 

アーニャにずるずると引きずられつつ、諦観の思いと共に踊りだしたくなった。

 

……僕は今、一体どこにいるんだ? 僕の身に、何が起こってるんだよ……?

 

誰か……誰か教えてよ……!

 

―――僕は、僕は今、どうなってるんだよぅ……!!

 

 

 

「さ、まずは鬼ごっこよ! もちろんあなたが鬼でね!」

 

「―――マジで、ほんとに、どうして、こうなった……!」

 

 

 

喉の奥から捻り出すような、僕の呟き。

……消滅はしなかった筈だけど、やっぱり誰にも届かなかった。

 

 

 

 

【挿絵表示】

 




■ ■ ■

なるべく修正しないつもりだけど、改めて見るのって悶えますね。


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第2章  幼馴染

―――物心付いた時には、僕は既に【西條拓巳】だった。

 

 

あまりに自然すぎて、違和感なんて無くって。

特別な事なんて何も無く、本当にふと気づいた瞬間に【西條拓巳】は【ネギ・スプリングフィールド】として、其処に居た。

ネギという身体に僕が憑依したという訳でも、転生したって訳でもない。

 

そんなネット小説みたいな経験はした事なんて無いけれど、心の深い部分……それこそ魂と言って良いかもしれない場所が―――魂?何をバカな―――そう言っている。

……まるで浮かび上がるように、当然の事みたいに、僕は最初からネギとして存在していたんだ。って。

 

ノアⅡを破壊した瞬間の事も覚えてるし、爆発に巻き込まれたことも覚えてる。

僕の記憶に欠けは無く、でもネギが赤ん坊だった頃の記憶も【西條拓巳】の記憶としておぼろげながら覚えてる。

 

……上手く説明できないけれど、つまり僕は、最初から僕だったんだ。

 

それこそ、そういう【設定】で突然其処に現れたように。

僕が【西條拓巳】の記憶を過去として【設定】されて居たように。

 

僕は、【ネギ・スプリングフィールド】として、当然のように此処に居て。

 

 

―――そしてまた、自分に一体何が起こったのか。という疑問や不安も、当然のように抱いていた。

 

 

本当に訳が分からなかった。

どうして僕が……死んで消滅したはずの自分が、突然何の脈絡も無くこんな環境に居るのか。

 

どう考えてもおかしい。どう考えても異常な事態だ。

 

それなのに、どこかで僕はその事を「当然だ」とも思っていて。

逆にそれを認められない自分が居た。

 

イギリスで生まれたのだから、イギリスに居て当然。

西條拓巳は日本人のはずだから、それはおかしい

 

時代が1990年代で当然。

僕は2000年代を生きていたはずなんだ、それはおかしい。

 

両親が居ないのが当然。

実際に会った事は無いけど【西條拓巳】には両親が居た、だからそれはおかしい

 

イギリス人なんだから、イギリス語が喋れて当然。

違う、英語はそこそこ喋れたけれど、イギリスで使われてる癖のある物なんてよく分からなかったし、喋れなかった。

 

姉が居るのが当然。

……違う、僕に居るのは妹だけだ。

 

幼馴染が居るのが当然。

……違う……! そんなの居ない……!

 

―――魔法なんてものが存在しているのも、当然

 

―――違う! 魔法なんて知らない!! そんなファンタジーが存在していたなんて僕は知らなかった!!

 

確かにギガロマニアックスの力も、ディソードとか、リアルブートとか、もはや超能力とかそんな感じの分野だったよ。

けど、脳科学や心理学とかで大体の説明が出来る分、まだ現実的な範疇だろう?

 

それに比べて魔法とか、何? 精霊? 魔力? 気? 属性? 契約? 魔道具?

 

 

―――どこのゲームの話だよ!!

 

 

ここはリアルだ、三次元だ、むしろ惨事なんだぞ。そんなメルヘンな事象がそう簡単に存在してたまるか! それが許されるのは二次元とか、エンスーの中だけだろ!?

 

 

―――そんなの、妄想だけにしとけよ……っ!

 

 

【僕】と【ネギ】がズレている。

常識と常識、二つの設定がぶつかり合って……気が狂いそうになって、泣きそうになった。

ポルナレフの真似をする精神的余裕なんて欠片も無く、ただただ泣きたくなったんだ。

 

 

―――何で? どうしてこんな状況になってるんだよ……っ!

 

 

理不尽。

僕が、西條拓巳が必死になって梨深を助けて。拷問を受けてまで世界を救って。

 

それでその後待っていたのは、賞賛でも死後の世界でも無に還る事でも無く―――こんな、頭のおかしくなりそうな状況。

 

別に賞賛を受けて英雄になりたいとか思っていた訳でも、天国に行きたいとも思ってた訳じゃない。

ただ好きな人を助けて、消え去りたかっただけなんだ。

 

なのに、ご覧の有様だ。

 

 

ネカネっていう【従姉】が、僕のことを気に掛けてくれる。

 

スタンって爺さんが、僕の【父親】のやんちゃ話を聞かせてくれる。

 

村の皆が、しきりに【魔法】の良さを語り、僕にそれを教えようとしてくる。

 

 

―――その全てが、怖くて怖くて仕方ない。

 

 

みんなは当然みたいに僕の周りに集まってくるけど、僕にとってそれは当然じゃないんだ。

彼らと接すれば接するほどに【僕】と【ネギ】のズレは大きくなっていく。

 

その感覚はまるで、僕が「エスパー少年」として晒し上げを食らった時みたいだった。

あの時と違う事は、僕に押し付けられた物が「狼少年」若しくは「英雄」か、「ネギ」かの違いだけ。

 

どれだけ否定しても。どれだけ説得しても。どれだけ僕は西條拓巳だって言い張っても。

周りの人間はそれを笑って一蹴して、僕をネギとして見るのを止めない。止めてくれない。

 

これは現実? それとも、妄想?

 

―――どっちだって嫌だ、こんな環境……!

 

そうして精神が擦り切れそうになった僕は、極力誰にも合わないように引き篭った。

村に来る商人から廃棄処理される寸前のノートPCを手に入れて、ネカネを言いくるめてネット環境を手に入れて。

 

……ギガロマニアックスの力を使って、パソコンでも何でもリアルブートした方がいいとも思ったけど、それは出来なかった。

 

だって、もしも僕がまだ将軍と繋がっていたらどうなる?

僕が妄想をしたら、その影響でまた将軍の寿命が縮まってしまうかもしれない。

 

 

―――もしそうなったとしたら、僕は梨深に顔向けできないじゃないか。

 

 

この時代にはまだ将軍は居ないし、僕の身体は【西條拓巳】じゃない。考えすぎなのかもしれない。

……でも、その「もし」を考えると……「もし」が起きたら、と考えるとゾッとする。

 

だから、妄想も、リアルブートも、断腸の思いで星来たんと話すことすらも封印した。魔法ってやつも忌避した。

魔力だか精霊だか知らないけど……妄想によって起こる事象と魔法によって起こる事象が、僕にはそれほど違いが無いように感じたから。

 

食事と排泄、入浴の時以外はネット世界に入り浸る生活。

 

例え誰に心配されようとも、誰から説教をかまされようとも僕は部屋から最低限しか出ないようにした。

ネカネが魔法学校とか何とか言う宗教学校みたいなとこに通っていて、たまの休みにしか顔を合わさない事も運が良かった。

 

スタンからは説教され、ネカネは心配して、村の住人からは失望され白い目で見られる事になったけど、そんなの知った事じゃない。

 

ひたすらにネットの海を回遊し―――ひたすら将軍を探し続けた。

 

僕が今どうなっているのか。どんな状況に置かれているのか。

……将軍は、その全てに答えてくれそうだったから。

 

見つけられる可能性は限りなく低い、と理解していた。

無駄なことをしてる、とも理解していた。でも、諦めたらそこで壊れそうだったんだ。

 

……だから、僕は部屋に篭り続けた。篭り続けて将軍を探して、

 

―――いや、将軍だけじゃなかった。

 

探して、

 

―――梨深を。

 

探して、

 

―――七海を。

 

探して、

 

―――三住くんを。

 

探して、

 

―――あやせも。

 

探して、

 

―――こずぴぃも。

 

探して、

 

―――気は進まなかったけど、セナと優愛も。

 

探して、

 

―――判刑事も、高科先生も、百瀬も。

 

探して、

 

―――この際、諏訪でも葉月でも野呂瀬だって。

 

探して、

 

――――――【西條拓巳】を知っている人に会いたくて。感情のベクトルはさておき、僕を見てくれていた人に会いたくて。

 

 

探して、探し続けていたんだ。

 

@ちゃんはまだ無かった時代だったから、幾つもの小さな掲示板を梯子して、入り浸って、日本のページを探し回って、目に付くチャットを片っ端から覗いていったり。

だけど彼らの情報なんて、何も、何一つ見つからなかった。

希テクノロジーの情報も、天成神光会の情報も、シンコーの情報も、フリージアの情報も―――挙句の果てには三百人委員会の噂や、あやせが居た精神病院の痕跡すらも存在しなかった。

 

……もう、頭がどうにかなりそうだった。

そして、その末に僕の神経はますます衰弱していって……怖かったけど、自殺する事も視野に入れ始めて―――

 

 

――――――そんな時だった。

アーニャが引き篭もったまま出て来ない僕に業を煮やして、扉を無理矢理ぶち割って進入して来たのは。

 

 

彼女の第一声は、直接的な罵倒だった。

 

 

何を言っていたのかは、正直詳しくは覚えていない。

……ていうか、今考えてみれば罵倒じゃなかったかもしれない。

 

馬鹿とは言われた気もするけど、でも心配かけるな、悩みがあったら言え、とか心配してくれた様な言葉も聞いた気がする。

でも僕はその時結構参ってた状態―――具体的に言うなら、妄想だった七海が粒子化して消えちゃった時レベル―――だったから、それが分からなかったんだろう。

 

ともかく、その時の僕はアーニャからの言葉を酷い罵倒だと思って。

しかもその姿に七海の姿を幻視してしまい、更に頭に血が上って、訳が分からなくなって―――それはもう醜い口論になったんだ。

 

精神年齢17歳の僕と、3、4歳だったアーニャ。

 

……どちらが優勢だったか、なんて。

そんなの言わなくても分かるでしょ。

 

詳細は省くけど、その口論の内容はまさに僕の完封勝利という言葉が相応しかった。

 

メシウマ状態! マジプギャーでザマ見ろビッチwww首吊って市ねよヴォケwww……もう誇張無しでこんな感じだった。大人気無いにも程がある。

 

そしてアーニャはもう完全にボロボロになって大泣きしながら、言論を封じられた末の帰結。

すなわち、暴力に走った。

 

 

―――それからの事は、もう本当に何も覚えていない

 

 

気づいたら僕は全身余すところ無くフルボッコにされて床に倒れていて。仁王立ちで僕を見下ろすアーニャがぎゃんぎゃんと怒鳴り散らしていた場面だった。

 

……頭の出来では僕が勝っていたけど、身体の出来ではアーニャが勝っていたらしい。

つまり論戦では僕が圧倒的だったが、喧嘩ではアーニャが圧倒的だった訳だ。顔に出来た引っかき傷が凄い痛かった事を覚えてる。

 

そして、どうやら僕は殴り合いの最中色々な事をぶちまけていたらしい。

僕の名前とか、記憶の齟齬とか、この理不尽な状況に対する文句とか、梨深に逢いたいって言う叫びとか、色々な事を。

 

……多分、アーニャはその殆どの事を理解できなかった筈だ。

だから、その時の彼女が僕の事を泣きながら睨みつけていたのは、ただ単に意味が分からない事に対しての腹立たしさからだったのだろう。

 

 

―――だから、彼女の言葉はそのまんまの意味での「子供の戯言」だったんだ。

 

 

 

『そんなにネギが嫌なら、望み通り【タクミ】って呼んであげるわよっ―――!!』

 

 

 

中身も無ければ、深くも無いし、意味も無い。

勢いに任せただけの、考えなしの買い言葉だ。

 

この台詞を言った時の状況が、夕焼けを見ながらとか頬を赤く染めてとかだったら、まだ心に響いたんだろうさ。

でも現実は眉を吊り上げて鼻水と涙でベトベトの顔で、倒れた僕の身体を893キックでマッハふみふみしながらという状況だ。

 

そんな情緒もへったくれも無い状況でかけられたスッカスカの言葉で心が救われるほど、僕は単純じゃない。

もしこれで救われていたら、僕は今頃将軍なんて探していないしね。

 

 

―――でも、ちょっとだけ、楽にはなっちゃったのは確かで。

 

タクミって呼ばれた瞬間、僕が僕として―――西條拓巳として、認められたような錯覚を受けたんだ。

 

 

100ぐらいあった精神的負荷が、60くらいの負荷に目減りしただけだけど。

むやみやたらに知ってる人を探すのは止めたものの、将軍はまだ未練たらたらで探し回ってるけど。

居もしない【幼馴染】や【姉】の事なんて、受け入れられる訳なんかないけど。

 

 

―――まぁ、妥協くらいはしてやっても良いよ、うん。

 

 

……僕は、心の中でそう嘯いて――――――気が付けば、僕は彼女に向かって「ありがとう」と言っていた。

 

 

顔はぼこぼこに腫れていて酷い有様だったから、くぐもっていて聞こえないだろうなと思ってた。

……でも、その直後に見たアーニャのぽかんとした顔を見た限り、聞こえていたんだろうなぁ。

 

これは僕の黒歴史であると同時に―――非常に不本意ながら、僕にとって大切な日となったのだ。

この日があったからこそ、僕は……ほんのちょこっとだけだけど、意識を【僕】に固定する事が出来たのだから。

 

まぁ、その直後に騒ぎを聞きつけ飛んで来たスタンから、僕らは物凄い拳骨と説教を食らった訳だけど。

 

 

―――そうして、この日を境にアーニャが僕の部屋に度々突撃してくるようになって。

 

 

―――僕は、この【設定】に付き合ってやる程度の余裕を取り戻すことが出来た。

……出来て、しまったんだ。

 

 

 

******************

 

 

 

冬。

アーニャに無理矢理引きずり出された僕は、二週間ぶりに村の住宅街にやってきた。

 

雪こそ降っていないから氷点下までには達していないけれど、それでも山間部にある場所の為か結構な寒さだ。

その所為かどうかは知らないけど村の中は閑散としており、外を出歩いている人はそう多くない。

真っ黒なインナーと厚手のズボン。その上から申し訳程度に羽織ったフード付きのローブ一枚という着の身着のままの状態では、ちょっと辛いものがある。

 

……くそ、何で僕がこんな目に……。

 

カチカチ、と寒さから歯を鳴らしつつ心中でそう愚痴る。

声に出したい所ではあるけど、歯の根が合わないため上手く喋れなさそうだったから止めておいた。

まぁ、言ったら言ったでアーニャからの説教が待っているに決まってるからね。わざわざ面倒事を起こす必要は無いんだ。

 

……というか、僕が外に出る事自体が既に面倒事な訳だけど。

 

何故かって?

―――だって僕は、この村じゃ嫌われ者だから。

 

 

「…………」

 

 

そんな事を思っていると、ちっちゃい右手て僕の左手を掴んだまま早歩きで歩くアーニャが、ちらりと僕の様子を伺ってきた。

そうして、寒さに震える僕を一瞥した後。

 

 

「……さ、まちあわせまで時間がないわ! タクも急ぎなさいよ!」

 

「……あ……」

 

 

そっと、一度手を離し、自分の羽織っていたコートを僕に向かって投げつけてきた。

ぱさり、と僕の頭の上に掛かる真っ赤な刺繍でアーニャの名前の入った厚手のコート……この刺繍は確か、アーニャの母親がしてくれた物だったはずだ。

前、何時もみたいに僕の部屋へと突撃してきた彼女が、その事を得意げに話していた事を思い出した。

 

 

「……あ、の。これ……」

 

「あげないわよ。それ貸してあげるから、速くしてよね!」

 

 

戸惑いながら前方のアーニャに話しかけるけど、返ってきたのはツンツンと素っ気無い返事だけ。

はいはいツンデレツンデレ。でも残念ながら三次元の皆様方は僕の趣味じゃないんだ。惨事のおまいらには次元を一つ差っぴいてからのお越しをお待ちしておりま……

……いや、嫌がらせか? コートをくれたのは有難いんだけど、左手掴まれてるからコートが着られない……。

 

 

「…………」

 

 

とりあえず、肩に羽織ってから前の部分を胸の前で留める。

コートは僕の身体をすっぽりと覆い、アーニャと僕の体格差を如実に表していた。

別に悔しいとか、そういった感情は沸かなかった。沸かなかったけど……。

 

……これってどう見ても幼児用、なんだよなぁ……。

まるで人形用みたいに小さい服が、それも女の子用のを余裕を持って着られる、と言う事に改めて自分の状況を認識させられ気が沈む。

 

 

「……、……あ、り。がとぅ……」

 

 

色々と言いたい事はあったけど、それを言ったらまた口論になりそうな気がする。

だから口を噤んで、お礼だけに留めて置いた。

 

……アーニャに聞こえるかどうか分からない程小さい声量だったけど、しっかり聞こえていたようだ。

先程よりも幾分薄着になった彼女は小さく鼻を鳴らして、振り向くことなく歩くスピードをまた一段階引き上げた。

引き上げたとは言っても子供のコンパスじゃ歩くスピードなんてたかが知れてるけど、今は僕も同じ子供の体型だから、僕も結構影響を受ける。

いきなり上がったスピードに、僕は足をつんのめらせて転びかけた。

 

明らかに照れ隠しです、本当にありがとうございました。

 

 

「っちょ! ……もうちょっと、ゆっくり……!」

 

「は・や・く・い・く・の!!」

 

 

僕の意見は却下され。

……なのに、何となく。僕の胸の内側があったかくなって―――

 

 

―――……英雄の、息子の癖に……

 

 

(……っ、……)

 

 

今さっき擦れ違った村人の冷たい呟きが、僕の耳に入り。

コートの暖かさと共に感じていた、それとは別の温もりが何処かへと飛んでいってしまった。

 

 

「…………」

 

 

ちょっとだけ振り返ってみてみるけれど、既にその青年は僕に背を向け、心なしか歩くスピードを速めて去っていく。

それはまるで嫌な物を見た、といった雰囲気で。ずんずんと大股に足を運んでいく。

 

……僕は、コートを胸の前で握り締めて、俯いた。

 

 

―――まったく、何をしてるんだか……

 

―――ナギさんに申し訳ないと思わないのか

 

―――これじゃあ折角の才能も腐っていくだけだな……

 

 

……それからも、アーニャによって引っ張られながら村の街道を進む僕を、すれ違う人たちが失望した様な目を向けてくる。

中には微笑ましい物を見るような目の人もいるけど、前者の視線の方が僅かに多かった。

 

 

(……僕を、見るな)

 

 

……これはあれだ、エスパー少年と蔑まれていた時の事を思い出すね。

彼らの視線が非常に鬱陶しくて、居心地が悪いよ。

僕の前をのしのし歩くアーニャもその視線に居心地悪さを感じているのか、さっきからそわそわと落ち着きが無い。

 

―――どうして皆が僕をそんな目で見るのか……理由は分かっているんだ。

 

今から十数年前にあったらしい、魔法世界―――なんてのがあるらしいよ、よく知らんけど―――で起こった世界大戦。

僕の【父親】は、その対戦で活躍した【英雄】だったらしい。

 

……馬鹿らしいにも程がある。

何だよ【英雄】って、何だよ魔法世界(笑)って、何だよ世界大戦(笑)って。何その厨二設定。

その話を聞いたとき、思わず僕はそんな事を呟いたよ。

 

彼はアル……何とかという組織に所属していて、何人かの仲間と何か凄いことをやったらしい。僕はその事について良く知らないけど。

二つ名とか功績とか逸話とか、それなんてチート?と言いたくなる様な有様で、そのあまりの厨二加減にまともに聞いてられなかったんだ。

 

で、この村にはそんな父親に心から憧れてる儲達が数多く集まっているそうな。

おそらく彼らは、僕を【英雄の息子】として相応しい魔法使いを目指す事を期待していたんだろう。

実際、一部のヤバそうな奴らはマギ……何たらになれってしつこく迫ってきてたし。

 

だけど、それがどうだ。

蓋を開けてみれば、肝心の【英雄の息子】はキモオタの引き篭もり。しかも魔法に関しては、触れる事も学ぶ事も避けていると来たもんだ。

彼らにとっては期待はずれもいいとこだったのだろう。

 

僕としてはザマァって感じだけどな。ふひひひ。

 

……とにかく、僕は彼らにとって期待外れのダメ息子とでも認識されているんだろう。

もしかしたら、彼らの目の前で彼らにとっての【英雄】の事を貶すような呟きをしたのも悪かったのかもしれない。

 

僕の事をそんな目で見ないのは、ネカネとスタンとアーニャ。アーニャの両親と、僕の事を孫みたいに可愛がってくれている村のご老人達くらいなものだ。

他の比較的若い村人達は、その殆どが僕の事をゴミでも見るような目で見てくる。

 

あと、どうやら僕には魔法学校で校長を務めてる祖父が居るらしいけど、会った事が無いからどう思ってるのかどうかはシラネ。

魔法学校の校長って時点で地雷臭しかしないし。赤ちゃんくらいの頃には抱き上げられた事もあるんだろうけど、それは記憶に残って無いし。

 

まぁ簡単に言えば、僕は村人の一部からは爪弾き物として認識されているって事。

 

 

「……だから出たくないって言ったのに……」

 

「……う~……!」

 

 

流石のアーニャたんも今まですれ違ってきた人の視線に晒されて怯んでいるのか、歩く速度はそのままだけど良く見れば眉が微妙に八の字型に垂れ下がっている。

幾ら僕のお姉さんぶっていても、まだ5歳にも満たない小さな女の子だ。自身には直接関係が無いとは言え、人から向けられる悪意に耐性が無いんだろう。

 

……やっぱり、僕は外が嫌いだ。

 

ふらふらと足を動かしつつ、そっとため息を吐いた。

そして隈のできた眼球をアーニャに向けて口を開く。

 

 

「や、やっぱり僕、か、帰る、よ。……僕が居たら、きっとみんなも、楽しめない、だろうし……嫌な気分に、なる」

 

「タク……!」

 

 

アーニャは責めるような声音で僕を睨むけど、否定の言葉は出なかった。

 

 

村の大人からの反応がこんなだから、当然その大人の背を見て育つ子供も同じような感じな訳で。

何人かは気さくに話しかけてくる子もいるけれど、村にいる大多数のガキどもはあからさまに僕の事を見下してくるんだ。

 

今回アーニャが集めたっていう子達は前者が多いんだろうけど、アーニャの反応からして後者の奴らも混じってるんだろう。

僕を馬鹿にしない子たちも、もしかしたら帰った後にモンペから何か言われるかも分からないし。

そもそも僕は身体を動かす事が苦手なんだ。何をして遊ぶにしても、どうせみんなに気を遣わせたり不快にさせたりしてしまうに違いない。

 

アーニャの気持ちには感謝してあげない事も無いけれど……でも、彼女がやろうとしている事は双方に何の利益も齎す事はないんだ。

 

 

―――つまり、僕が外に出る! それだけで周囲に不幸が訪れる事になるんだよ!

 

 

Ω ΩΩ<な、なんだってー!

……下らない事を呟いて、言葉を続ける。

 

 

「……も、もう良い。っ君に引っ張られて……ここまで、で、出てきたこと、で。少しは運動に、なったし」

 

「……なる訳ないでしょ! ああもうっ! いいからあなたは黙って付いてくればいいの!!」

 

 

でも、アーニャは僕の言葉に益々意地固になってしまったようだ。

 

 

―――そうして、僕の手を更に強く引っつかんで。

周囲からの不快な視線を振り切る様に、歩くスピードを速めた。

 

 

「っちょ! あ、アーニャ……! は、はやっ! 馬鹿速い! 速いってば!? きけ、聞けよクソッ!!」

 

 

僕はつんのめる様にして彼女に続く。

何度もバランスを崩しかけて転びそうになって、思わず口から汚い言葉が飛び出てしまう。

 

……ふと、そんな僕の暴言を聞いたら更に村人から嫌われるんだろうな。と思った。

 

アーニャは村の人気者だ。

 

性格は素直で、容姿も端麗。リーダーシップもあるし、同年代の子供達のまとめ役みたいな存在だ。

ネカネと同じく学校に通っている所為で月に数度しか帰って来ないが、それでも彼女を可愛がる人は少なくない。

……そして、僕と関わる事を止めるように言う人も少なくない様だ。アーニャはそれを無視してるっぽいけどさ。

 

だからみんな、

 

『そんな可愛いアーニャが、わざわざお前みたいなキモオタを気遣ってくれているというのに……その態度は一体何なんだ!』

 

とか思うに違いないね、きっと。

は? 被害妄想乙? うっせばーか消えろ市ね。

 

 

―――僕はそんな嫌な考えから気を逸らし、アーニャと繋いでいる手に意識を向けた。

 

 

ぷにぷにと柔らかく体温の高い、子供特有の感触。

僕の方は大して力を込めていないにも関わらず、彼女の手はしっかりと僕のそれを掴んだまま離さなかった。

 

……三次元の子供は嫌いだ。

 

虹の幼女はレモンの良い匂いがするらしいのに、惨事の幼女は牛乳臭くて気持ち悪い。

それにぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー煩いし、自分の非を認めないで他人の所為にするし、何よりその目が気に食わない。

可愛さ、素直さ、性格の良さ……全てにおいて二次元の方が勝ってると言わざるを得ないね。

 

……今日のお前が言うなスレは何処だって? 知らんがな。

 

とにかく、僕はそんなガキには触れられたくないと思ってる。

だってそうだろう? 今上げたことの他に、子供って汚いこととか平気でするでしょ?

だからもしかしたら鼻くそをほじって、そのままの手だったりするかもしれないじゃないか。

 

一度くらいは見たことあるだろ? 鼻くそとかコオロギとか食べてる奴。

 

ありえない、ありえないよ。

だから子供は嫌なんだ。もしそんなのに触れられでもしたら、嫌悪感で吐くかもね。僕。

 

とにかく、それくらい嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌いなんだ。

 

……嫌なんだ、というのに。

 

 

「―――ほら、ちゃっちゃと走りなさいよ! 時間に間に合わなくなるじゃない!!」

 

 

―――アーニャに触れられている僕は、そんな嫌悪感なんて微塵も感じていなくて。

むしろ何か、安らいでるような感じがして。

 

……なんだか、梨深の姿が脳裏に浮かんで。手酷い敗北感が去来した。

 

 

「……はひ、は、はひっ、ま、って。待って、いい、い、いくよ、っちゃぁ、ちゃんと、行くから、まっでよぅ……!!」

 

 

ぜい、ぜいと自身の息が切れる音を聞きながら。

僕はアーニャに連れられて、村の中を走り抜ける。

 

 

―――分かったよ、付き合う。君の気が済むまで付き合ってやるよぅ!!

 

 

……半ばヤケクソの境地。

僕はそんなことを思いつつ、ふら付く足を無理矢理動かし続ける。

 

 

―――ぎゅっと、大切なものが飛ばされないよう、右手に力を込めた。

 

 

……結果。

鬼ごっこは鬼のHPが始まる前から0だったので、一人も捕まえらずに終わった。という事だけ言っておくよ。あー、情けない。

 






昔の俺、行間空けすぎ。


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第3章  距離

ネカネ・スプリングフィールド。

 

両親のいない僕の面倒を見てくれて、また気にも掛けてくれる年上のお姉さん。

柔らかな雰囲気を備えつつも、涼やかに整った容姿。その流れる金髪はまるで糸のような繊細さで、多分櫛を通しても引っかかるところなんてきっと一つも無い。

体型は所謂スレンダー型なんだけど、それに反して胸のサイズはそれなりに大き目で、背も高過ぎず低過ぎずの絶妙な按配だ。

 

【僕】やアーニャとは、一回りは行かなかったと思うけど、結構歳は離れていて……多分アーニャと同じ学校に通っているんだと思う。

アーニャから良くネカネの成績の優秀さとか、ネカネに告白する奴らの玉砕話とか聞かされているから、おそらくそうだ。

 

 

つまり、ネカネは成績優秀にて眉目秀麗というエリートで、その上性格もいいというリア充な人であり、僕の描いていた【理想の姉】をそのまま体現したかのような女性なんだ。

 

 

……まぁ、年齢の事を除けばだけど。

彼女はまだ中学生くらいだからね、今がこれなら将来には乞うご期待だ。いやそのままでも好物ですけどねふひひひ。

 

強いて難点をあげるとすれば、精神面が若干脆い所だろうか?

彼女は何かショッキングな出来事があると直ぐに軽い貧血を起こしてしまう、癖?のような物を持ってるんだ。

 

まぁ、僕にしてみればそれも美点であるのだけれどもね。ふひひw

 

優しくて美しくて頭も良くて性格もいいお姉さま! しかし豆腐メンタル!!

立ち振る舞いに一点の隙も無いけど、それと同時に柔らかさも持ち合わせている【理想の姉】! しかし豆腐メンタル!!

 

―――だがそれがいい。そのギャップ。まさしく萌え、だ。

 

そしてファミリーネームからも分かると思うけど、血筋上彼女は【僕】の【従姉】と言うことになるらしい。

 

……まぁ、本当に血が繋がっているかどうかは怪しいところだけど。

 

だって【スプリングフィールド】なんて付いてはいるけど、僕の【父親】に兄弟が居たなんて聞いたことはないし、僕自身も会ったことは無い。

疑問に思ってスタンや村のご老人達に聞いても誰も何も教えてくれないし、何よりその全員がはぐらかす様な態度をとることも気に掛かる。

 

もしかしたら父親ではなく母親関係で何かあるのか、とも思ったけれど……やっぱり誰も教えてくれない。

むしろネカネの事以上に母親の事に対してはうろたえるので、ここらへんに何かはあるっぽいんだけど。

 

……いや、これ以上詳しくは聞かないけどね。

 

だって、何かもう厄介ごとのフラグ臭しかしないじゃないか。

もしかしたら愛人とか腹違いとか、そんな感じのドロドロした話かもしれないしね、藪を突付いて蛇を出すような事はしたくないんだ。

唯でさえ自分のことで一杯一杯なんだから。

 

 

……で、そのネカネの事だけど―――僕自身はあんまり好きじゃなかったりする。

 

 

いや、確かに美少女で優しくて、しかも萌えポイント完備の理想の姉ではある事は認めてやらんでもないさ。

 

こんな僕でも優しく、それこそ本当の弟のように―――彼女にとっては事実そうなのだろうが―――接してもくれている。

あの毒舌だった星来たんに聞いても、おそらく4割くらいは賞賛の言葉がうっかり混じってしまうに違いないほど良い子だよ。

 

 

―――でも僕はネカネの弟じゃない。

 

 

いや、正確には【ネギ・スプリングフィールド】としての記憶はあるけど、その前に僕は【西條拓巳】なんだ。

【西條拓巳】には妹はいるけど―――姉は、いないんだ。

 

……それなのに、いきなり【姉】なんて言われても困るしかないじゃないか。

 

 

今はアーニャのおかげ―――暫定、あくまで暫定な―――で大分マシになったけど、始めの頃はネカネに恐怖すら感じてた。

 

 

僕の記憶にはあるけど僕の記憶には無い、僕の知らない家族。

美少女で、スタイルも良くて、性格も良くて、面倒見も良いい完璧な姉。

……何度も言うけど、まるで僕の妄想の権化みたいな、彼女。

 

幾らお前は誰だって喚いても、お前なんか知らないって叫んでも、本人も周りの人も、周囲の奴ら全員が彼女のことを僕の姉だって言うんだ。

 

―――これは、相当な恐怖だよ。

 

誰とも知らない赤の他人が何時の間にか自分のテリトリーに入っていて、尚且つ僕の家族面して馴れ馴れしく接して来るんだ。

そいつが何か善からぬ事でも企んでいるんじゃないかって、疑ったり警戒したりするのは人間の本能として当然の事でしょ?

……しかも、それを言ってた奴らも―――周りの奴らも全員見覚えの無い奴らだったりしたら、尚更だ。

 

確かに僕の中にはネギとしての―――彼女の弟としての記憶はあるよ。でも、そんなの気持ち悪くて到底信じる気になんてなれなかったんだ。

何度も言うようだけど、僕は【西條拓巳】なんだから。

 

…………つか良く考えてみるとこれ、配置を変えればまんま梨深の時と一緒だよね……?

 

……まぁ、とにかく。

おかげでアーニャとのXデーが来るまで何時豹変して裏切られるのか、何時襲い掛かってくるか、何時五段活用問い詰めされるのかと戦々恐々とした日々を過ごしてたよ。

僕の二年足らずの人生経験から言って、こういう得体の知れない姉キャラは迂闊に信じると痛い目に会うからね。

優愛とかセナとか葉月とか、あと優愛とか優愛とか優愛とか優愛とか。彼女はもしかしたら妹キャラだったかもしれないけど。閑話休題。

 

酷い時には、彼女に話しかけられる度嘔吐していた時もあった。

……流石に、そこまで酷かったのはちょっと前までの話だけどね。

 

今では、まだ怖くはあるけど過剰な警戒は解いてる。

 

―――だって、少し余裕を持って見てみたら……彼女が【ネギ】に危害を加えようとするはずが無いって、直ぐに分かったから。

 

……とにかく、最初にそんな苦手意識を持っちゃった所為なのか、気が付けば僕はネカネのことが苦手になってたんだ。

苦手ってだけで、嫌いという事ではないんだけど……それでもあんまり、進んで関わりたいとは思えない。

 

 

「会話できないほどではないけれど、相対すると怖くなって身構えてしまう程の苦手意識」……それが、僕の【姉】に対する距離感だった。

 

 

……アーニャには仲直りしろとせっつかれているんだけれど、正直どうしたらいいのか分からない。

 

月に7・8日くらいしか帰ってこないけれど、その間は一緒に住む事になるんだ。仲良くしろっていう彼女の意見は分からないでもないよ。僕もちょっとはそう思ってるしね。

僕の感情はどうあれ(一応)身内だって事になってるし、(気味悪いけど)彼女と家族だった記憶もうっすらある。

 

……だけど、物凄く怖いんだ。

 

優しいとは思うんだけど、怖い。

良い人なんだろうけど、怖い。

僕を気に掛けてくれることが、堪らなく怖いんだ。

 

……それなのに、環境上仲良くしないといけないって言う二律背反。

 

―――ほんと、どうしたら良いんでしょう? わかりません><

 

 

 

 

******************************

 

 

 

 

イギリス、ウェールズの山間にある小さい村。

 

スタン達が住むその場所は、山間にある小さな村でありながら交易も盛んで生活にはあまり苦労をすることは無い、山間とは思えないほどに過ごしやすい場所だ。

水道や電気、下水と言った生活に必要不可欠なライフラインの他、望めばネット環境も手に入れることが出来、ラジオの電波もしっかりと入るため情報も簡単に得られる。

流石に宅配サービスを受けることは難しいが、村には定期的にやってくる商人に頼めば大抵の物資は手に入れることが出来るため、困る事はまず無いと言っていい。

 

―――村の存在する場所と文明のレベルが合っていないが、それはこの村が【魔法使いの隠れ里】という場所である故なのだろう。

 

強いて難点を挙げるとするならば、山間部にあるため気温が低くなりがちという事か。

特に冬などは雪が積もりやすく、それに応じて気温も氷点下にまで下がることがあるのだ。

 

そのため雪が降る冬の真っ只中にある今現在、いつも活気の絶えなかった村の中には人通りは少なく、人影は中央にある広場で何人かの子供達が遊んでいる程度。

上空から降り落ちてくる白と合わさり、閑散とした雰囲気を放っていた。

 

 

―――そんな村の、外れにて。

 

 

住宅街から少し外れた場所に立っている、普通の住宅よりも大きな木組みの家。

その居間に設置されている暖炉の前に置かれた椅子に、一人の少女が腰掛けていた。

大き目のテーブルに肘を突き、暖炉の中でゆらゆらと揺らめく炎をじっと見つめるその姿は、まるで絵画のような雰囲気を感じさせていて。

 

…パチパチ、と。木切れが熱に炙られ爆ぜる音が部屋の中に響く。

 

 

「……どうしたものかしら……」

 

 

鈴を鳴らしたような美声は、暖炉の炎の中に消え。

窓の外にしんしんと降り積もる雪を眺め、少女が小さくため息をつく。

件の少女―――ネカネは、物憂げに伏せられた瞼の上の長いまつげを揺らし、金色の粒子を辺りへと振り撒いた。

 

 

―――ネカネ・スプリングフィールドには、ある悩みがある。

それは年の離れた弟の事……ネギ・スプリングフィールドの事についてだ。

 

 

「…………はぁ」

 

 

ネカネは窓の外に目をやり、降り積もる雪を見つめる。

……どっさりと積もったそれが、まるで自分の悩みのように思えて更に憂鬱な気分になり、またもや自然にため息が漏れ出た。

 

 

ネカネにとってネギとは年のはなれた従弟であるが、実の弟のように可愛がっている。

その可愛がり方といったら、それこそまさに目の中に入れても痛くないとでも言った風情。

 

ネギが自分に残された、数少ない肉親だと言う事もそれに拍車をかけているのだろう。

 

―――小さな体躯。

 

―――くりくりとした大きな瞳。

 

―――ふとした時に行う仕草。

 

……その全てが、愛しくて愛しくてたまらないのだ。

 

出来る事なら何時もネギの傍に付いていて、常に助けてあげたいとまで思っている。

だが彼女は普段は村から離れた魔法学校に通っており、ここへ戻ってくる事も月に1・2回程度。合計にして10日未満程しかその機会を得る事が出来ない。今現在だって、明後日には学校のある町へと戻らなくてはならないのだ。

そのため、自分以外に身寄りのない弟はその間を必然的に一人で暮らす事となり、彼女は弟がちゃんと暮らせているのかどうかを常に気に掛けているのである。

 

一応スタンや村の人々には様子を見てくれるよう頼んであるが、それも常に張り付いている訳ではない。

自分の居ないうちに何か不測の事態でも起こっていないか、寂しがって泣いていないか。

 

そんな事を考えると居ても立っても居られず、最悪貧血を起こしてしまうほどなのだ。

 

……攻撃魔法はともかく、医療魔法関係においては学校随一の成績を誇る彼女であったが、流石に心労から来る貧血には対応出来ない様だった。

ともかく、それ程に彼女は大きな愛を弟に注いでおり、同時に常に弟の事についての悩みを抱えているのである。

 

 

―――まぁ、今彼女が悩んでいるのはそれとは別種の事であるのだが。

 

 

「……ネギ……」

 

 

……一言、弟の名を呟いて。

彼女はそっと、居間から続く廊下の先にある物置の扉を…アーニャが壊してしまったため、今は入り口に立て掛けてあるだけのそれを見る。

 

薄いベニヤ板で応急措置を施したその扉の中から、カタカタとキーボードを叩く音。

そして、「くそっ」「市ね!」「はい通報ー」等と言った呟き声―――英語ではないため、何を言っているのかは分からないが―――がうっすらと漏れ出てきている。

 

その声は年端も行かない子供の声で、呟きの内容……日本語が分かるものが聞けば、それとのギャップに酷く驚く事だろう。

 

―――彼女が愛する、弟の声だ。

 

四畳半にも満たない、人が暮らすには少々手狭な物置の部屋。

本来ならば不用品や使用頻度の低い道具を入れるべきであるその部屋は、件の弟が日々を過ごす鉄壁の居城として使用されている。

……まるで、自分自身が不用品だ。とでも言うかのように。

 

 

「…………よしっ」

 

 

……ふと、ネカネは今までの物憂げな姿勢を解き、椅子を引いて立ち上がった。

白い修道服のようなローブをはためかせつつ、その扉へと近づいていき……数秒ほど躊躇した素振りを見せた後、ノックを二回。

 

……そして、

 

 

「―――ねぇ、ちょっと……良い?」

 

 

恐る恐る、問いかけた。

 

 

 

―――っ!

 

 

すると部屋の内部でガタンと大きな物音が聞こえて……ネカネは緊張した面持ちで、応答を待つ。

それはまるで、想い人に告白をした乙女のようで―――ある意味間違ってはいないが―――遠目からでも緊張している事がありありと分かる事だろう。

 

……………………

 

…………

 

……

 

そうして30秒程の時間が流れ、そろそろ緊張もピークに達しようかといった所―――扉の向こう側から、声が響く。

 

 

「…………な、何? 何か用?」

 

 

先程までの呟きとは違う、少々ぎこちないイギリス英語。

部屋の扉を開けることなく投げかけられたその掠れた声は、どこか余所余所しく素っ気無い印象を感じさせた。

 

……ネカネは、扉が倒れないようにゆっくりとドアノブに手をかけ、回す。

 

見えてきたのは、真っ暗な室内の中、パソコンのディスプレイが発する光源を背景に、一人の少年が首だけこちらを向けている姿。

父親譲りの赤毛をボサボサに散らかし、僅か齢三つにして目の下に縁取る濃い隈がここ最近の特徴となってしまった少年。

ネカネが愛する愛弟の、ネギ・スプリングフィールドの姿だ。

 

……彼女はそんな弟の昔とは離れた姿に密かに心を痛めたが、表情に出すことなく続ける。

 

 

「え、えーっと、あのね? もし良かったら、お姉ちゃんと一緒にお茶でも飲まないかしら?」

 

 

自分でもちゃんと笑顔が作れているか不安だったが、今できる精一杯の笑顔をその整った顔に浮かべる。

……しかし、対するネギはそんなネカネとは決して目を合わせようとはせず、眼球が小刻みに痙攣。視線は部屋の中を不規則に揺らめいていた。

 

ネカネは気の所為と思いたかったが―――その瞳には、何故か「怯え」の感情が湛えられているように見えた。

 

 

「……え、遠慮、する……」

 

 

ネギはそんな―――彼女の勇気が込められた言葉を、にべも無く一蹴。

ネカネの知る彼は、紅茶と聞けば飛んでくるほどの紅茶好きだったはずだが、今はそうでもないようだ。

……いや、ただ単に部屋の外から出たくないか、彼女と長く顔をあわせたくないだけなのだろうが。

 

一瞬、泣きそうな表情を浮かべたネカネだったが、それは直ぐにまた笑顔に変わり。続ける。

 

 

「……あ、じゃあ……お散歩なんてどうかしら?」

 

「い、いや……いいから、それも。……雪、降ってるみたい、だし……」

 

 

二蹴。

 

 

「そ、そう……えと、それなら」

 

「……あ、あのさ。良いから、別に……僕にき、気とか、使わなくても……」

 

 

三蹴。

その声色は、やはり何かに怯えているかのようで。どもり、擦れた声はとても健常なものとは言えなくて。

 

 

「……ネギ……でも、私は―――」

 

 

だから彼女は、せめて自分はただ単に気を使っている訳ではなく、ネギを心配している事だけでも伝えようとして―――

 

 

「っ、ち、違う……! 何度も、いい、言ってるけど。僕はネ……ギ、なんかじゃない。に、西條拓巳……だから」

 

 

強い拒絶。

突然語気を荒らげたネギに話を続ける前に拒否されて、名前を呼ぶ事に関しても拒否されてしまう。

 

もしこれがアーニャだったならば、何時も通りに怒りを顕にして部屋の中に殴りこんでいくのだろう

もしこれがスタンだったならば、何時も通りに呆れた溜息をつき部屋の前で説教を垂れるのだろう。

もしこれが村の老人達だったならば、笑って軽く流すのだろう。

もしこれが村の青年達だったならば―――これは、あまり考えたくない。

 

―――しかし、ネカネは弟のそんなつっけんどんな態度に怒るでもなく、嘆くでもなく―――ただ、悲しくなった。

 

……一体、何が彼をここまで変えてしまったのだろう?

原因は、一体何処にあるのだろう……?

 

以前の、明るくて元気だったはずのネギに、一体何があったのだろうか?

 

昔のネギと、自分の名前すらをも嫌悪する今のネギ。

それには、あまりにも差がありすぎる。

 

 

「そ、そう……ならネ……タクミ? お姉ちゃん居間に居るから、何かして欲しい事があったら言ってね?」

 

 

そうして、震えそうになる声を押し殺し優しくネギに声をかける―――が。

 

 

「…………」

 

 

……返事は帰って来る事無く。彼はくるりと背を向けて、机の引き出しから大型のヘッドフォンを取り出し、すっぽりと耳を覆ってしまった。

 

それを見たネカネは目を瞑り、ゆっくりと扉を閉めた。

そうしてそのまま暫く部屋の前に立っていたが、それ以上扉の向こうからは何の反応も返ってこない。

 

……ネカネはそっと濡れた目尻を拭い、扉の前を後にした。

そして、廊下の行き止まり。居間へと続く扉に手をかけて―――

 

 

「……ご、め………。…………」

 

 

―――ふと、そんな声が後ろから聞こえてきた気がしたが。

それが本当に聞こえた言葉だったのか、それとも自分の都合のいい妄想だったのか……。

 

ネカネには、判別する事は出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ネカネ・スプリングフィールドには、ある悩みがある。

それは、どうしたら自分の愛する弟が前のような明るさを取り戻してくれるのか、と言う事だ。

 

彼女が案じる弟は、以前はあのような排他的な性格ではなかったはずなのだ。

 

腕白で、明るくて、元気で……。

父親の英雄譚に心を躍らせ、魔法に強い憧れを抱く、魔法使いとしてはごく一般的な子供に過ぎなかったはず。

 

……だが、今では先程のような暗い性格となってしまっている。

しかも外に出る事を極度に嫌がるようになり、物置の中を自分の世界と定めたように自分からは決してそこから出ようとしてくれなくなってしまったのだ。

 

―――何故?

 

ネカネには、その原因にまったく見当が付かなかった。

 

彼がああなってしまう前に、予兆は何一つ無く。

本当にふと気が付いたら昔のネギは今のネギとなっていたのである。

一体何が起こったのか、何があったのか。自分もアーニャもスタンも、この村に住む者の誰一人としてその理由を知るものは居なかった。

 

 

「……どうしたら、いいの……?」

 

 

再び、暖炉の前の椅子に座り直したネカネは溜息と共に呟く。

 

スタンや村のお年寄りからの話では、弟は毎日を寝ても覚めてもネット漬けの日々を送っているようだ。

ネカネにはパソコン機器の事は良く分からないが、それでも何となく健康に悪いと言う事は分かる。

そのため彼女は何度もそれを注意して、せめて自分が居る間だけでも一緒の部屋で暮らすよう提案しているのだが……一向に改善の兆しは見ることが出来ない。

 

彼女の可愛い妹分のアーニャはあの部屋から連れ出す事に成功しているが、それも月に1・2回。

自分と一緒にこの村に帰って来た時しかあの部屋から連れ出す事が出来ないため、それ以外は殆ど物置に引き篭もったままなのだと言う。

 

食事や入浴と言った、生活に必要な行為を行う時には自主的に外出を行うそうだが……果たしてそれを外出に含めていいものなのだろうか?

いくら精神が大人びているとは言え、まだネギは三歳なのだ。こんな不健康な生活を続けていれば、身体に何か影響が出てしまうかもしれない……。

 

無理矢理ネット環境を取り上げてしまう事も考えたが、それは逆効果でしかないだろう。

 

 

「…………」

 

 

ネカネは、ネギがパソコンをねだって来る前の、あの今にも死にそうな顔を思い出す。

 

目の焦点は常に合っておらず、理由を聞いても話す言葉は要領を得ず。自分が話し掛ける毎に嘔吐を繰り返す、異常な様子。

まるで全てが禍々しく歪んでいる世界に一人放り込まれたかのような、絶望に満ちた表情。

 

精神を安定させる魔法も、精神科医の言葉も通じず。家の中に引き篭もり、今にも狂いだしそうだった彼の様子。

 

それが、パソコンを与えた事により幾分か和らいだのだ。

それでも暫くは余裕の無い状態が続いていたようだが……最近のアーニャとの掛け合いを見る限り、今は違うようだ。

 

勿論それはパソコンだけではなく、アーニャのおかげでもあるだろう。しかし、ネギにとってパソコンが一種の精神安定剤になっている可能性も捨てきれない。

もしそれを引き剥がしたとして、さらにネギを追い詰めてしまう羽目になってしまったら―――本当に酷い事になりかねない。

 

それに、村中での評判についても問題がある。

村の中でも特に接点の深いスタンからネギの事について色々と聞いているが……それを初めて聞いた時は、思わず持病の貧血により倒れそうになってしまった。

何故ならスタンからの話によると、今現在ネギは村の若い衆……ネギの父、【英雄としてのナギ・スプリングフィールド】に憧れる村人達から落ちこぼれの扱いを受けていると言う話ではないか。

流石に表立ってのいじめ等は無い様だが、それでも三歳児にはあまりに辛すぎる状態だ。

 

考えれば考えるほど、まるで間欠泉のように問題が次から次へと沸いてくる。

 

 

「―――ああっ。」

 

 

ふらり、と。

椅子に座っている状態にも関わらず、貧血によりバランスを崩して椅子の手すりにもたれ掛かった。

 

……一体、どうしてこの様な状況になってしまったのだろうか?

ネカネはこめかみに指を押し当て、呼吸を整えながら考える。

 

 

―――やはり、幼いネギを一人きりにするのがいけなかったの?

 

―――それとも、両親の事について教えないままだった事?

 

―――もしかして、アーニャみたいにネギの事を【タク】って呼ばないから?

 

―――そう言えば、手料理の一つもなかなか作って上げられていないわ。コミュニケーションに食事は大切だって言うし、今度ネギの好物を作って……

 

―――……いえ、待って。そもそもネギの好物って何だったかしら……? 

 

 

「……うう……」

 

 

……ネギの好物さえも知らない自分の至らない点ばかりが次々と浮かんでは消え……て、行かずに積みあがり、自分が情けなくなってくる。

再びネカネの目じりに涙が浮かび、小さい嗚咽が漏れ落ちる。

 

そうして、ネカネは考える。

 

何時からだろう?

自分とネギとの距離がこんなに開いてしまったのは……。

 

少なくとも、少し前までは何の問題も無かったはずだ。

ネギも今とは違って、素直で明るい性格をしていたはず。

 

とことこと、ネカネが歩く後をカルガモのように付いて回っていたはずだし、寝る時も自分に抱きついてきて一緒に眠っていたはずだ。

村人たちとも仲が良かったはずだし、アーニャ以外の子供達とも良く遊んでいたはず。

 

そして、父親の英雄譚を聞くのが大好きだったはずで、それを興味深々で耳を傾けてきたはずで―――

 

 

「…………?」

 

 

―――はず?

 

ふと、気づく。

 

……何故、自分は先程から思い浮かべている、ネギと過ごした昔の記憶を正確に断定できていないのだろう?

その出来事をはっきりと覚えているのならば、「はず」なんて曖昧な末尾は付かないと言うのに。

 

自分ははっきりと覚えているのだ。

昔のネギは、今と違って明るくて、素直で、父親に憧れを持って――――――持って……?

 

 

「……あ、れ……?」

 

 

ネカネの口から疑問の声が漏れる。

そして自分の指で眉間を押さえ、目を瞑って集中。

 

―――そうして、自らの記憶を確かめる。

 

 

ネギと過ごした「はず」の、まだ彼があのような性格ではなかった時の出来事を。

 

ネギが浮かべていた「はず」の、あの明るい笑顔を。

 

ネギと村の子供達が追いかけっこをして、それを村人達と一緒に見ていた「はず」だった、楽しかった思い出を。

 

 

それらの記憶を思い出そうとして、集中して、集中して、集中して、集中―――

 

 

「―――何で……?」

 

 

思い出せない。

あれ程深く浸っていた、楽しかった頃の……美しかった記憶がはっきりと確定しない。

 

―――昔って、何時の事……?

半年前? 一年前? 二年前? それとも三年前……いや、まさか赤ん坊の時という訳では無いだろう。

 

思い出そうとするけれど、あたまに靄が掛かったかのように記憶がはっきりとしない。

いや、むしろ思い出そうとするたびに、その記憶が遠くに行ってしまうような感覚を受けるのだ。

 

 

「いえ……待って」

 

 

―――そもそも、ネギは、本当に明るい性格だったっけ……?

 

―――そう、私の後をにこにこ笑顔で付いて回って……いた、の? いえ、違くて、一緒に歩いた事なんて……。

 

―――仲の良かった村の人や子供って、誰だったかしら?

 

 

そういう出来事があった、という記憶は存在しているのに、その時に何をしたのか……と言った事がどうしても思い出せない。

……例えて言うなら文字と絵。ネカネの脳裏には、そんな事があったという「記述」はあっても、その「情景」が浮かんでこないのだ。

 

 

「……あ、う……ぐ」

 

 

必死になって記憶を穿り返し、その時の映像を思い出そうとするが何一つ思い出せず。

……それどころか思い出そうとする度に頭痛がして、しかも思考を続ける毎にそれが酷くなってくる。

 

―――頭が、割れそうに痛む。

 

 

「う……」

 

 

痛みに耐え切れず、思考を散らす。

ズキズキと痛の増してくる頭を抑え、たまらず頭を抑える腕に力を入れて、ゆっくり息を吐いた。

 

自分はただ、昔の事を思い出そうとしているだけなのに、何故こんなにも酷い痛みを伴っているのだろう?

 

 

「……疲れてるのかしら」

 

 

徐々に痛みの治まっていく頭を振って、そんな事を思う。

 

ネギとの事を思い出せ無いなんて……悩みすぎて知恵熱でも出たのだろうか。

それとも、今が辛すぎて昔の事を思い出そうとするのを脳が避けているとか。

 

もしかしたら、誰かに記憶操作の魔法を受けていたり―――と、そんな訳はないか。

スタンや他の村人達も自分と同じ事を覚えているのに、記憶操作も何も無いだろう。被害妄想も甚だしい。

 

 

「……ダメね」

 

 

どうやら自分は本格的に疲れているようだ。

ネカネはそう結論付け、とりあえず頭痛薬の一つでも飲んで置こうと重くなった頭を抱えて立ち上がり、薬箱のある棚へ向かって振り返って―――

 

 

「…ぁ」

 

 

―――廊下の影から、ネギが複雑な表情を浮かべてネカネの様子を伺っていた。

 

 

「……………」

 

「……………」

 

 

思わず体が凝固した。

そうして暫く何とも言えない雰囲気が周りを包みこみ、無言の時が流れる。

 

ネギの様子はやはり先程と同じで、ネカネとは視線を合わせないよう伏せられて。

居間には入ってこないまま、廊下とを繋ぐ柱の影に隠れていた。

 

彼女の視線を避けるように、時折その小さな身体をぴくぴくと痙攣させ、柱の影に微妙に出たり入ったりを繰り返す。

それはまるで小動物がする仕草のようで……ネカネは上手く働かない頭の中で、場違いにも「可愛いなぁ」という感想を抱く。

思わず抱きしめたくなって、無意識の内に足を動かそうとして―――

 

 

「……(……はっ!)」

 

 

はた、と思考力を取り戻す。

 

そうだ、昔はともかく今はそんな事をしてはいけない。

ネギは自分に怯えているようなのに、そんな事をしてはますます怖がられるだけではないか。

 

ちょっとした自虐を交えつつ、彼女は冷静さを取り戻し―――そして、やっとの思いで口を開いた。

 

 

「あ……どうしたの? お姉ちゃんに何か……」

 

「い、いや……なんか、トイレ行って……したら、変な声、聞こえたから。気になって……そ、そん、だけ……」

 

 

「変な声」の部分でネカネを震える指で指し示し、若干答えにくそうにネギはそう言って。さらに身を縮こまらせた。

 

彼の言う変な声とはおそらく、頭痛に苛まれていた時のうめき声の事だろうが……そんなに変な声を上げていただろうか?

自分では抑えていたつもりだったが、完全には堪えられていなかったのかもしれない。

……弟に妙な声を聞かれてしまった事に対し、少し赤面。

 

だが、それと同時に気づいた。

 

この部屋とトイレの位置は、廊下をの進んだ突き当り。つまりは、ネギの部屋を挟んで反対側の位置にある。

ネギがトイレに言った後にこの部屋に来たと言うのならば、それはつまり通りがかったわけではなく、自分の意思で来たわけで。

 

その事と……自分を指差した事。そして、「気になって」という発言を合わせたら―――

 

 

「……もしかして、心配……してくれたの?」

 

「……っ……、……」

 

 

ネカネがそう言った瞬間、ネギは脱兎の如く逃げ出した。

脱兎、とは言っても走り出したわけではなく、顔を伏せ早歩きで歩き出しただけだが……それでも、その行動が答えを如実に表していた。

 

 

―――ネギが、私のことを心配してくれた……?

 

 

何時も自分のことを怯えた瞳で見ていたあの子が?

ここ最近、まともに会話を交わしてくれなかったあの子が?

 

……私の、ことを……?

 

その事が嬉しくて、あのネギが自分のことを気に掛けてくれたことが嬉しくて。

ネカネは思わず頭痛の事も忘れてしまう程に舞い上がり、頭が真っ白に染まって―――

 

 

「ま、待って!!」

 

「!……」

 

 

この場から立ち去ろうとする彼の背に、気づけば声をかけていた。

ネギはその声量に肩を跳ねさせたが―――こちらを振り向かないまま、歩みを止めた。

 

 

……沈黙。

 

 

「………あ………う……」

 

 

咄嗟に声をかけたは良いが、何を言ったらいいのか分からない。

何か言葉を掛けなければいけない。何かを言わなくてはならない……そんな思いに駆られ、口をパクパクと開閉させる。

 

……しかし、やはり何も言葉が浮かんでこなくて、「ありがとう」の一言さえもが浮かばなくて。

 

頭の中がぐるぐると回転し、無意識のうちに口が開いて―――

 

 

「え、っと……良かったら、一緒にお茶……どう?」

 

 

咄嗟に口をついたのはそんな言葉。

我に返って、ネカネは激しく後悔した。

 

―――それはさっき断られたじゃない!

 

誰!? ちょっと前に言った台詞も覚えていないお馬鹿さんは!? 私よ!!

 

そして目に見えるほどにうろたえて、俯いたまま顔を上げない背中に弁解の言葉を投げかけようとするが……先程よりも焦っている為か今度は言葉すら出せない状態。

……これは、もう、ダメだ。ネカネはがっくりと項垂れる。

 

―――せっかく、ネギとまともに会話できるチャンスだったのに……

 

これでは、再び断られて、部屋に篭られてお終いだ。

 

そう悲嘆にくれるネカネの視線の先で、ぎこちなくネギが振り返り、口を開いた。

そうして投げかれられたのは、やはり拒否の言葉であり―――

 

 

「……………………………ぐ………………ぎ…ぃ………………っ、や、やっぱぁ………………っも、らうぅ……!!」

 

「そ、そうよね。なら――――――っぇ!?」

 

 

そう思っていたけれど、返ってきたのはそんな言葉で。

思わず彼女は変な叫び声を上げてしまった。

 

―――彼の視線は定まらず、腰も引けていた。

青白く不健康な肌の色をしたその部分はさらに青く染まっていて、食いしばった口元は小刻みに震えていて。

 

もう、明らかに無理をしている事が伺えたが―――驚きと喜びで頭が真っ白になっているネカネには、それが分からなかった。

 

 

「ちょっと、ちょっと待ってて! 今すぐに用意するからっ」

 

 

そして今まで考えていた事も、頭痛も。それら全てが脳裏から吹き飛んだように、慌ててキッチンへと走っていく。

その際椅子に足を引っ掛け大きな音が響き、それに驚いたネギが身を竦めたがそれに気づかずに早足で。

 

カチャカチャと食器が擦れる音を響かせつつ、慌しくお茶の用意を始めたのだった。

 

 

「そ、そうそう! 実はこの前商人のおじさんから美味しいって評判のお菓子を貰ったのよ? それも一緒にいただきましょう!」

 

 

そうして、ネカネは弾む声音でそう言って。

棚から取り出した薬缶に水を入れ、火に掛けた。

 

 

 

 

 

―――ひたひたと、こちらに向かってく裸足の音を聞きながら、ネカネは思う。

 

 

ネギが自分と一緒にお茶をしてくれる……少なくとも自分はネギに完全に嫌われているわけではない、と思っていいのだろう。

……まぁ、明らかに無理をしている様子ではあるのだが、浮かれたネカネはそれに気づかない。

 

あれほど頑なだったネギが、あれ程自分に怯えていたネギが、自分に歩み寄ってきてくれた。

たったそれだけの事なのに、こんなにも浮かれてしまう。

 

だが、これはネカネにとってこれ以上無い吉兆とも感じられたのだ。

 

以前は周りのものを皆拒絶していたネギが、身内との触れ合いを受容―――もしかしたら妥協かもしれないが―――してくれた。

ならば、このままの調子で接していけば、元の明るかった「はず」のネギに……とは行かないまでも、それに近い彼に戻ってくれるのではないか?

 

その事を考えると、今まで沈んでいた気持ちが急速浮上。

ようやく光明を見つけた気がして、これから頑張るぞと言う気持ちになってきたのだ。

 

 

「♪~……」

 

「……………くそ、素数だ。……そ、素数を。素数をぉ……!!」

 

 

そして、ネギが居間の机に座った気配を感じつつ、ネカネは上機嫌に鼻歌を歌う。

まな板の上に置かれたケーキ風のお菓子に包丁を入れて―――ふと、思う。

 

 

―――どうせなら、アーニャも呼びたいところだけれど……

 

 

……ちら、と。

背後に視線をやり、椅子に座ったまま落ち着き無く貧乏ゆすりをしているネギを見て。

 

 

―――今日くらいは、二人きりでもいいわよね。

 

 

こっそり舌を出して、心の中で妹分に手を合わせて。

ネギにとって……拓巳にとっては、無常とも言える結論を下したのだった。

 

 

 

―――この時には、もう既に。

頭痛と同時に抱えた違和感の事など、頭の中から綺麗さっぱり消えていた――――――

 

 

 

【挿絵表示】

 




■ ■ ■

少しでも皆様の暇潰しになれば幸いです。


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第4章  茨の睡蓮

―――月曜日。

 

それは週における始まりの一日で、多くの人間にとっても始まりの一日だ。

 

休みが終わって仕事や学校に行かなくちゃならない、憂鬱な曜日。

ゲームで言えば、章の始め。タイトル画面からスタートボタンを押して直ぐ。

 

本当は日曜日が一週間における第一日らしいんだけど、僕はそんな印象は持っていない。

 

というか、殆どの人は日曜日って週末だと認識してると思う。

日曜日は土曜に続いて休日だからね、何となくセットで週末ってイメージがあるから。

 

イギリスではどうなのか分らないけど、少なくとも僕はそう思って生活してる。

だって引き篭もって学校にも保育園にも行ってないし、仕事も無いからそんな常識なんて必要ないからね。ふひひ。

 

ともかく月曜日とは始まりの日であり―――……そして、僕はそんな月曜に毎週絶対に欠かさず行っていたことがあった。

 

―――自己確認・自己肯定の作業だ。

 

簡単に言うと【西條拓巳】を自分に再確認させる儀式のようなもの。

……やってることは、PCのテキストに書き出された自分の置かれた状況を唯眺めてるだけなんだけどさ。

でもこれをやらないと、僕は不安で不安で堪らなくなっていたんだ。

 

……何でかって?

だって、そうしないと僕は【ネギ】を受け入れてしまうかもしれなかったから。

 

……くそ。

 

僕がこの環境に置かれた当初は、その基地外じみた自分の状態に困惑し、恐れ、憤り、発狂しかけて壊れかけた。

食べ物も碌に喉を通らず胃は常に空っぽのまま。ストレスによって胃液が過剰分泌され、お腹はいっつもキリキリ痛んで、それが更にストレスを増大させるという悪循環。

 

もう【ネギ】って呼ばれる度に嘔吐感がこみ上げて来て、胃液だけの吐瀉物を撒き散らしたのだって一度や二度じゃない。

……でも、それでも皆は僕のことを【ネギ】って呼んで。僕を【ネギ】にしようとして。

 

昔はそんな状態だったため、当然僕は【ネギ】に強い嫌悪感を抱いていて。

そして絶対に受け入れることは無い筈だったんだ。

 

勿論今だってその感情は変わらない。

前ほど酷くはないけれど、やっぱり自身を【ネギ】と呼ばれると少なくない嫌悪感と共に吐き気も押し寄せる。

僕があまり外に出たがらないのだって、対人恐怖症の他、アーニャ以外の……他のDQN達が【ネギ】と呼ぶのを聞きたくないからだ。

 

ネカネやスタン、他の老人達やその家族といった比較的僕に友好的な奴らは一回言えば―――話す度毎回だけど―――ネギって呼ぶのは止めてくれる。

でも、若い奴ら……理想に燃えている様な頭の固い奴らはそうじゃない。

 

僕の心情や感情なんか知ったことじゃない、と言った風情で僕に【ネギ】を強要して来るんだ。

幾ら僕がネギと呼ぶなって言っても、DQNどもは『ナギさんから貰った名前を否定するのは良くない』とかうざい事言って聞きやしない。

その度にネカネやスタンが取り成してくれて一応は引き下がってはくれるんだけど、絶対に呼び名を改めようとしないんだ。……ほんと何なんだあのDQNども、終いにはアジフライ投げつけんぞ。

 

……とにかく、その時から多少落ち着いたとはいえ、僕は【ネギ】が大嫌いなのには変わり無い。

 

変わりは無いんだ。

変わりは無い……無いんだけど――――――だけど、今は少し余裕が出てきてしまった訳で。

 

言わずもかな、アーニャの所為な訳なんだけどね。

 

勿論、僕が【ネギ】と呼ばれることを受容したって訳じゃない。

そんな事したくもないし、する気も今後一切ありえない。

 

……でも、ほんのちょっと。

 

僕は、この【設定】に―――【ネギ】に付き合ってやってもいい、と思ってしまっている事も確かで。

 

―――それに気づいた時、僕はまたもや恐怖した。

 

このまま絆されて行ってしまったら、僕は【ネギ】を受け入れてしまうかもしれない。

一年や五年でそうなる事はまず無いだろうけど、十年や二十年先の事は分からない。

感じている嫌悪感も無くなっていくかもしれない。違和感を感じなくなっていくかもしれない。

 

そうして最後には―――【西條拓巳】と【ネギ】の配分が入れ替わって、僕は完全にネギになってしまうかもしれない。

 

……十年も二十年もこのままなんて考えたくは無いけど、何をどうすれば【西條拓巳】に戻れるのかすら分らないんだ。

 

僕は、もう元の場所―――梨深達が居たあの場所へ帰れないかもしれない。

でも、それでも【西條拓巳】であった事は……ある事だけは捨てたくなかったんだ。

 

―――だから僕は、自分に言い聞かせる意味を込めて【僕】の記憶を記録として書き出した。

 

 

毎週定期的に自分の置かれた状況を確認して、僕が【西條拓巳】だって事を確認する。

 

自分の記憶とこの状況との相違点を粗方書き出して、今が異常である事を確認する。

 

僕が今までやってきた事を思い出して、僕は僕だと確認する。

 

【ネギ】と呼ばれる事に対する嫌悪感を思い出して、周りの雰囲気に流されないようにする。

 

……意味の無い行動かもしれないけど、将軍を探す事と同じ。

それでも、やらずには居られないんだ。

 

 

―――……いや、やらずには【居られなかった】、が正しいね。

最近、僕はそれを行う事が億劫になってきてるから。

 

 

……理由は、僕のディソードにある。

 

 

僕が【ネギ】になった後、初めてディソードを見つけてから。

ふと見上げた空に浮かんでいた、何の変哲も無い雲だった筈のそれを見つけた時……僕の頭の片隅に、ほんの一片の疑惑が生まれてしまって。

 

……それから、【西條拓巳】の記録を見る事に苛々するようになったんだ。

 

苛々して、ムカついて、足元が揺らぐ錯覚。

 

そこに書かれた僕は、本当に【僕】なのか。

まだ100%僕はそれを【西條拓巳】と断言できてはいるけど、先の事に関しては自信がなくなってしまったんだ。

 

 

―――僕が【僕】だって思う事に、何か良く分からない感情のざわめきが伴うようになったから。

 

 

……だから、僕はアーニャに【タク】って呼ばれるたびにひっそりと安堵していたりするんだ。本人には絶対に言わないけど。

 

 

―――それと、ディソードの件は僕がリアルブートを忌避している理由の一つにも加えられた。

 

 

ここ最近に出来た後付の理由。山の如く積まれた問題点の一番上、最新の出来事。

元々ギガロマニアックスに関する力は使うつもりは無かったけれど、これで絶対に使いたくなくなったんだ。

 

僕はディソードを通さなくてもリアルブートが使えちゃうみたいだから、意味の無い想いかもしれない。

でも、使うと使わないでは雲泥の差がある筈だ。

 

 

……ディソードに触れたくないし、見たくも無い。

それが、ギガロマニアックスの力を使いたくない二つ目の理由になったんだ。

 

 

 

*****************************

 

 

 

カーテンの隙間から、うっすらと朝日が差し込む。

 

それは目の前にあるPCの人工的な明かりとは違って、僕の網膜を柔らかく焼く優しい光。

何か、種類の知らない鳥が鳴いている声が鼓膜を震わせ―――そこで僕は外が既に朝になっていることに気が付いた。

 

時計を見ると、朝の7時。

……昨日の夜からぶっ続けで、あのダメダメオンラインゲームをプレイし続けて8時間。

始めた頃はまだ外は真っ暗だったのに、もう日の出の時間帯だ。

 

 

「……さむ」

 

 

僕の居る場所―――ウェールズとか言う場所は今は冬を迎えているらしく、とても寒い。

それが朝早くなら尚更だ。

 

部屋の隅に置いてある達磨ストーブが赤く発光して熱を発しているけれど、まだ少し肌寒い。

それなのに外の気温とは結構差があるらしく、その気温差でガラスが結露している。木の壁が湿って、何とも言えない木の香りが部屋の中に充満しちゃってるよ。

臭いって訳じゃないんだけど……何か、妙な匂いだ。

 

 

「……木組みの小屋は、こういう所がイヤなんだ」

 

 

コンクリとか金属とかと違って、匂いは強いし直ぐカビが生える。

今のこの部屋がベースと違って汚れていないのだって、それがあるからだ。少しでも気を抜いて食料の食べ零しを床とかに撒いておくと、際限なく虫が沸いてくるんだ。本当に嫌になる。

 

……冬なんだから冬眠するか死んでろよ。

 

 

「…………ぁっ、ふ……」

 

 

そのまま何となくぼんやりしていると、僕の口から欠伸が漏れ出てきた。

瞼が重くて重くてしょうがない、脳が睡眠を求めてるんだ。

 

……本当、不便な事極まりないよ。

 

17歳だった時は一日30時間は余裕でエンスれたのに、今じゃ8時間程度でこのザマだ。

目がしょぼしょぼして、頭が痛くなって。無理な酷使に子供の身体が悲鳴を上げている。

 

 

……この程度じゃ一流の廃プレイヤーなんて自称できないっていうのに。

 

 

「……疾風迅雷のナイトハルトが、聞いて呆れるよ……」

 

 

まぁ、今使ってるハンドルネームはリーゼロッテの方だけどね。

別に他の全く新しいハンドルネームを使っても良かったんだけど、それだと将軍が分かってくれないかもしれないって危惧があった。

でも、だからと言ってナイトハルトの名に汚点を残したくもなかったんだ。

 

……僕にとっての「ナイトハルト」の名は、僕が【僕】として生きてきた―――彼のものとは違う、正真正銘の僕自身―――西條拓巳として歩んできた、その証みたいなものだから。

決して、そんざいに扱う事なんて出来なかったんだ。

 

―――だから、そんな訳でのリーゼロッテ。

折衷案、とも言うね。

 

 

何せ彼が意識を取り戻してからずっと、僕は思考盗撮されてたみたいだから。

彼なら、この名前でも僕の事だって分かってくれるはず。

 

 

「…………」

 

 

……自分でも分かってるよ。無意味な事してるっていうのは。

彼が僕の事に気づいてくれるって事に、ネトゲのハンドルネームなんて全然関係無い。

 

だけどしょうがないんだ。

―――これを止めたら、きっと僕は―――……。

 

 

「……くっそ、ムカつく……!」

 

 

いろいろな意味で自分が昔とは違うって事を改めて自覚して、イラッと来た。

そして、その衝動のまま耳栓代わりのヘッドフォンを外して床に向かって投げつけたけど、全力で投げつけた割には弱弱しくて頼りない音しか響かない。

 

―――それがまた、僕を苛立たせる。

 

それもこれも全部、このゲームがクソ過ぎるのが悪いんだ。

 

もしこのゲームがエンスーだったら……いや、そこまでは言わないけどもうちょっとマシな出来だったら。

僕はこんな苛々せずに、少しはゲーム自体を楽しめたかもしれないね。余計な事を考える暇も無かった筈だ。

 

……幼児の時って時間が進むのが遅く感じるとか言うけど、きっと17歳の身体でも同じ感じだったよ。

このゲームをプレイしている最中は、一分一秒経つのが待ち遠しかった。

 

やってたことはソロプレイでのアイテム収集だったけど、フィールドの切り替えに30秒もかかるし、キーのタイピングとキャラの動きにズレがあるし、まともに動くことすら難しい。

エンスーの快適なゲームシステムに慣れ過ぎた僕には、このゲームにはどこもかしこも不満点しか見当たらない。

 

あとPCも古杉。

 

キーボードは海外仕様で使いづらいし、読み込み遅いし、煩いし、何より容量少なすぎ。PCがデータを処理できなくてフリーズとか、テラワロス。

その度に苛々がたまって、早く時間が過ぎてくれって思わずにいられなかったね。何でこんな苦行を強いられなくちゃなんないんだ、って。

 

ほんっとクソゲーだ、ほんっと使えないPCだ。

ゲームはもうしょうがないにしても、PCに関してはもう少し容量が欲しい。贅沢は言わないから、せめてもう500GB。

 

 

「…………」

 

 

そんな恨み辛みを心中で愚痴りつつ、進行状況をセーブ。

表示されたセーブデータを見てみると、プレイ時間は既に三桁台の終盤に突入している。

 

……よくもまぁ、こんなゲームにここまで時間をつぎ込めたもんだ、と我ながら呆れた。

身体能力に制限があるからエンスー時代のデータには遠く及ばないけど、それでも結構な数字だ。

 

これだけやれば当然、リーゼロッテの名前もゲーム内じゃそこそこ有名になってる。

 

何せ彼女はナイトハルトとみたいなガッチガチの前衛職ではなく、サポート中心の中衛職だからね。

このゲームには基本高火力で敵を叩き潰すか、逆に叩き潰されるかの二択しか選択肢のない脳筋が多いから、サポートに優れた高レベルPCはあちこちのパーティに引っ張りだこだ。

それ故彼よりも人を助ける機会が多くて、その人達から情報が広まるのも速い。

 

BBSでは「俺らの聖女」「リーゼロッテたんマジ天使」「リアルのリーゼロッテは病院に入院している薄幸の美少女」とか言われてる。

 

オタってちょろいね。

 

この頃のネカマプレイしてる連中は、まだイライザみたいな自分の利益を優先させるクソプレイヤーばっかで、純粋に「ネカマ」を楽しんでる奴は意外と少ないらしい。

 

あからさまなぶりっ子を演じて女に扮し、僕らみたいな純粋な男心を持つ奴らを惑わして、貢がせるだけ貢がせる。

そうしてお目当てのレアアイテムを手に入れたら、パーティメンバーから切ってそのままオサラバ、ってパターンが多いみたいだ。イライザ死ね。

 

だからあまり露骨に女って主張をせずに、礼儀正しく控えめに相手を立てる古き良き清楚キャラを演じていれば、この頃の男プレイヤー達は何も言わなくても勝手にリア女だって勘違いしてくれるらしいよ。

ソースは@ちゃん。前にネトゲ板で自称ネット黎明期からの最古参プレイヤーがそう言ってた。

 

 

「……ふひひっ。げ、現実はこんなキモオタだけどな」

 

 

まぁ、それでも今のこの姿を―――女顔のショタがリーゼロッテの正体って知られれば、一部の層では逆にファンが増えそうではあるんだけど。

 

……改めて思うけど、3歳児の時点で女顔とかイケメンとか分かるってありえないよね。どんだけ将来有望株なんだよ。

体のスペックも魔力保有量?やら何やらが凄いらしいし、親が英雄とか美人の姉とか幼馴染ありとか、これ何てテンプレ厨二主人公?

これで悲しい過去(笑)とかあったら完璧だね。オプーナを買う権利が貰えるレベル。

 

ちょっと前ならこれでリア充になれるとか喜んでたかもしれないけど、実際なってみると気味悪さが勝るよ。

……こんな事になるくらいだったら、あの油っぽいキモオタフェイスのままで十分だった。

 

つらつらと、そんなく下らない事を考えつつゲーム画面を閉じ、別のプラウザ……何時も巡回してるチャットルームのページを開いた。

 

 

「…………」

 

 

そしてチャットルームが開くまでの間僕は朝食をとろうかと考えて、食料を取りに部屋の外へと出るべく棚の上に無造作に投げ捨てられたコートを着込む。

このPCじゃプラウザが開くまでに最悪数分近くかかるからね、時間の効率的活用ってやつさ。

 

クリスマスのプレゼントに貰った、裾に緑色の糸で「ネギ」って刺繍が施されたちょっとくすんだ白色のコート。

僕はそれを肩に羽織って、扉の近くに置いてあったブーツを履き壊れかけの扉を押す。

 

ぎぎぎ……と鈍い音が響いて、その際に細かい木屑がパラパラと床に落ちて扉が倒れるんじゃないかと不安になった。

早くスタンの爺さんに言って直してもらわないと……とは思うんだけど、中々踏ん切りがつかないで居る。

 

……もしかしたら、ネカネが既に頼んでくれているかもしれないけど。

 

 

「っひ……」

 

 

そうして、部屋から廊下へと一歩踏み出した瞬間―――今までとは比ではないくらいの冷気が僕を包み込み、思わず変な悲鳴を上げてしまった。

咄嗟に口を押さえたけれど、今この家にいるのは僕一人だった事を思い出して安心する。

 

……ネカネとアーニャは、もうこの村にはいない。昨日の夜に魔法学校へと帰って行ったんだ。

 

だから、次の休みの日……少なくともあと一カ月近くはこの家には僕一人だけ。

これでやたらと気を使われることも、無理矢理外に出される事もなくなった訳だ。

 

 

「……………」

 

 

……訳なんだけど、何故かあんまり嬉しくない。

恐怖と面倒。二つの大きなストレスからは解放されたはずなのに、何故か精神が安定しないんだ。

 

……何でかな。歩きながら考える。

 

………………………………………………………………………………………、

 

…………………………………………………………、

 

……………………………、

 

 

「……そ、そんな事より、今は食べ物だ……」

 

 

―――何かこれ以上深く考えると、色々取り返しがつかなくなりそうだったからやめた。

 

 

ああ、あと何時もは後ろ髪を引かれるような表情のネカネが、その日に限って期限がよさそうにニコニコ笑ってたのが気になったよ。

 

アーニャも不思議に思っていたみたいだし、何か良い事でもあったのかもしれない。

……もしかしたら、僕と一緒にお茶をした事が原因かな。わかんないけど。

 

 

まぁそれはそれとして。

 

 

居間へ続く扉を開いて、今は沈黙している暖炉を通り過ぎる。

暖炉の中にはまだ新しい木切れが燃えやすいよう、キャンプファイヤーの時に燃やすアレみたいにかっちり組まれていて、直ぐに使えるようにしてあった。

 

……多分、ネカネかアーニャが気を使ってくれんだろう。

この組み方から見る限り、これを用意してくれたのはネカネの方かな。アーニャの組み方はただ木切れを投げ入れてるだけだし。

 

 

「……意味、ないのに」

 

 

使いやすいように配慮してくれているのかどうか知らないけど、僕は基本あの物置部屋から出ないから暖炉なんて使わないし、使えない。

火を起こす事なんて、僕は直接やった事ないからね。人力でも、機械でも。

 

だから、こんな事をしても全くの無意味だっていうのに。

 

 

「…………」

 

 

何か妙な罪悪感を覚えつつ、キッチンへ向かう。

何時もは埃が積もってて酷い有様な場所だけど、昨日までネカネが使っていたおかげか、そこにはまだ生活感が漂っていた。

 

そして部屋の隅にに設置されている大き目の冷蔵庫の取っ手を背伸びして掴む。身体を振り子みたいに前後に揺らして、勢いをつけたところで一気に力を入れて引く。

いちいち面倒くさい工程だけど、今の僕は背が低いからそうしないと上手く扉を開けられないんだ。

 

……まさか、こんな具合に大人と子供の身体機能の違いを実感する羽目になるなんて夢にも思わなかったよ。

 

 

「……よ、よっ…ぐ…」

 

 

そうして苦労して開けた扉を使ってよじ登り、冷蔵庫の中身を覗くような姿勢で見る。

 

昨日ネカネが作ってくれた手料理が1・2日分と、ハムが少し。トマトとチーズがそれぞれ一袋ずつに、あとはペットボトルのコーラが三本と紙パックの牛乳が一本入ってる。

冷凍室と野菜室には何も入っていないから、実質この中にあるものだけがこの家にある食料の全てだ。

 

……これなら最低3・4日なら食料を補充しに行く心配は無い、かな。

冷蔵庫の中に入っている量は良くて二日分くらいだけど、今の僕は小食だから一食分を二食に分けても十分足りるんだ。

僕は三つのサンドイッチをが乗った皿を手にとって、その内の一枚を小さく千切って抜き取った。

 

―――ネカネの作る料理は、それなりに美味しい。

 

僕は当初、色々な所で言われている通りイギリスの料理なんて不味いと思っていて、大して期待はしていなかったんだけど……そんな事は無かった。

味付けは確かに日本人好みの物とは離れているけど、イコール不味いって訳じゃない。好みにもよるんだろうけど、僕は美味しいと感じた。

スコーンとか、スープとか。そういったものばかりだったけどね。

 

何ていうか……ほっとする味、とでも言えばいいのかな。月並みな言葉だけど、まずそれが思い浮かんだよ。

 

……悪いけど、僕は味に関するボキャブラリーはあんまり引き出しが多くないからこれくらいしか言う事は無い。

菓子とインスタントを主食としてきた僕に、女性の手料理をレビューしろなんて無理ゲーもいい所だ。

 

……まぁ、どうでも良い話かもしれないけど。

 

そして扉の部分に置いてあったコーラを一本取り出して、身を引いて地面に着地。

未だ開いたままの扉、その下部分に手を引っ掛けて手前側に引き寄せた。

 

ゆっくり扉が閉まっていく様を何となく見ていると、扉の部分に仕舞われている牛乳パックの色が少しおかしく見えて。

カビでも生えたかな、とちょっと疑問に思って良く見てみると―――茨が絡みついた剣に、

 

 

 

「――――――ッ!!」

 

 

 

―――バン!

 

叩きつけるようにして、扉を閉めた。

 

 

「……っ、くっそ、くそっ……!」

 

 

……嫌なものを、見た。

 

僕は胸のざわつきを抑えながら、そう呟いて。

冷蔵庫から視線を外せないまま、じりじりと後ろへと後ずさる。

 

 

―――扉を閉める間際。

 

 

それこそ、一瞬にも満たない時間。

扉が完全に閉まる瞬間―――視界の端に映った牛乳パックが、剣の形に見えた気がした。

 

 

「…………」

 

 

……なんだか、胸が苦しい。

 

胸の部分の服を握り締めつつ、そのままゆっくりと冷蔵庫から距離をとる。

何の変哲も無い冷蔵庫が、さっき自分で中身を確かめたはずの冷蔵庫が―――何か、得体の知れないものを内包しているように見えて。

 

……それなのに。「見たくない」と頭が悲鳴を上げているのに、視線を逸らす事が出来ない。

目を逸らしたその瞬間―――また、別のものが剣の形に見えるんじゃないかって思って……それが、たまらなく嫌なんだ。

 

―――【剣】を見たくない。

 

見たくないからこそ、目を逸らせない。逸らさない。

冷蔵庫に緊張しながら向かい合っている様は端から見たらとても滑稽な姿に映るんだろうけど、そんなこと考えてる余裕なんて無い。

 

後ろ歩きの姿勢のまま、下がり続ける。

 

 

「……さ、さい、最悪だ……!!」

 

 

見て。

 

―――眼球が、痙攣する。

 

見て。

 

―――僕は今、何も見ては居なかった。

 

見て。

 

―――何にも、何にも、見ていない。

 

見て。

 

―――きっと目の錯覚だ、それか勘違い。絶対に認めない。

 

見て。

 

―――あれを見続けたら、僕が本当に僕であるのか分からなくなるじゃないか。

 

……背ける。

 

 

「……っ!!」

 

 

ぐっ、と。苛つきを飲み込んで。

直ぐ背後まで迫ってきていた扉を振り向き様体当たりするように押し開き、自分の部屋に向かって駆け出した。

腕の中のサンドイッチはぐしゃぐしゃになってコートに張り付いていたけど、今は気にならなかった。

 

……無性に「タク」っていう台詞が恋しくなって、たまらない。

 

 

「っぐ!!」

 

 

壊れかけの扉を押し倒して、ベットの上に転がり込む。倒れた扉がけたたましい音を立てるけど、どうだっていい。

僕は横になったまま目をきつく閉じて、今見たものを忘れようとしたんだ。

 

 

 

―――あの、僕の細く直線的なフォルムをしたディソードに絡みついた、気味の悪い茨の姿を。

 

僕が僕である限り変わらない形状を保つ筈のディソード。……それが変化していると言う、意味を。

 




■ ■ ■

この作品は過去編が主軸となります。ゴメンネ!


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第5章  好々爺

―――ディソード。

 

 

ギガロマニアックスがギガロマニアックスたる所以、健常な精神を持つ者には見る事も触れる事すらも適わない、妄想で出来た剣。

それは単なる誇大妄想狂が―――メガロマニアックス達が、ギガロマニアックスへと覚醒するための鍵みたいな存在だ。

 

普段はリアルブートと呼ばれる、妄想を現実化させる力を行使しない限りは同じギガロマニアックスでも触れる事は出来なくて、どんな物体も素通りしてしまう単なる見掛け倒しでアイタタタ系の妄想に過ぎない。

けど、一旦現実にリアルブートしてしまえば全てを切り裂く最強の殺戮兵器に早代わり。

燃える様に真紅の光を放つ刀身で、人体だろうがコンクリだろうがどんな物体も豆腐より簡単に両断できる物騒な代物となってしまう。

 

……その切れ味は、凄まじい一言に尽きるよ。

切る、と言うよりは、圧倒的な熱を持って焼き切る、と言う表現の方が相応しい気もするけどね。

 

ポーターと呼ばれるノアⅡの使いっ走りが背負っていた金属製の大きな端末や、そこそこ厚かった筈のベースの扉も一太刀で真っ二つ。

僕に至っては野呂瀬からの攻撃で胸部を肋骨ごと纏めてざっくり裁断された事もあるし、その攻撃力の高さは身を持って知ってる。

たぶん、物理的に存在する物で切れないものなんて無いんじゃないかな。

 

……多分。

 

 

で、そんな感じでまるでどこぞの厨二武器みたいに圧倒的な武器性能を誇っているディソードだけど―――本当はそんなチャンバラとかの暴力的な事に使うべきものじゃないらしい。

 

本来はディラックの海って言う反粒子の溜まり場に干渉し、リアルブートみたいなギガロマニアックスの力を補助するって事がメインの役割なんだ。

話によるとリアルブートのほかにも、思考盗撮や妄想攻撃、妄想シンクロといった力もディソードの有無でその威力や効果が大きく変わってくるそうだ。

 

僕はこれがなくてもディラックの海に干渉し、妄想をリアルブートする事ができていたけど―――それは多分、野呂瀬曰く「世界最強のギガロマニアックス」である「彼」の力を継いでいるからなんだろう。

……ひょっとすると。僕が妄想から生まれた人間である、という事も少しは関係してたかもしれない。

 

僕が妄想からリアルブートされたって事は、ディラックの海から【西條拓巳】の体を構成する部品を取り出したって事になる。

だったら、僕の身体―――細胞の一つ一つがディラックの海と何らかの繋がりを保持、若しくは高い親和性を有していて、そこに干渉し易くなっていた可能性も全く無いとは言い切れないはずだ。

もしかしたら、僕はある意味ディソードに近い性質を持っていた存在だったのかもしれない―――なんて。まぁ、妄想だけどさ。

 

……話が逸れた。

 

ともかく、ディソードという存在は分かりやすく言えば、ゲームにおけるショートカットキーみたいなもの。

格ゲー的に表現すると→↓←↑→↓←↑→HSとかの面倒なコマンド技を【L2】HSで出せるようになる。そんな感じだ。……逆に分かり難いって? 違うね、それはおまいらの錬度が足りんのだ。

まぁ、僕の知ってるギガロマニアックスの連中は、そんな事お構い無しにぶんぶか振り回していた訳だけど。

 

主にセナとこずぴぃのDQNメルヘンコンビな。

僕にその事を教えてくれたのは彼女達だった筈なのに、どうもあいつらにはその辺の意識が足りて無かった気がするよ。

 

セナは街中でもお構いなくディソードを構えて闊歩し、夜な夜なポーター狩りを行ってた通り魔。僕は人違い(とも言えないけど)で殺されかけた事もあった。

こずぴぃは一見無害な小動物系に見えるけど、その実気に入らない奴がいれば躊躇無く【ドカバキグシャーッ】に踏み切る危険思想の持ち主でもある。

 

彼女達にも色々と事情があったって事は思考盗撮で把握しているけれど、それでも二人から殺されかけたり殺害宣告を受けてる僕としては、お前が言うなよと言わざるを得ない訳で。

……はいはい、初めてディソード引き抜いた途端に俺tueeeeeeee的行為へと及んだキモオタが立てた本日のお前が言うなスレはここでございますとも。

 

とにかく、ディソードとは剣の形をしたまったく別のものであって、決して剣の役割を担った武器ではない。

それはあくまで副次的な能力であって、本来は前述の通りギガロマニアックスとしての力を補助するための端末なんだ。

……だったら何で剣の形をして、実際に武器として使えるのか。何でディソードなんていかにもな名前なのか。

僕も、そこら辺の事が矛盾していると常々思ってる。補助端末だって言うんなら戦う機能なんていらないし、もっとそれに相応しい別の姿があった筈なんじゃないか……とかね。

 

 

―――でもその一方で、ディソードを手に入れる条件を考えるとディソードが剣の形で、且つ戦うための力を有しているのは当然の事なんじゃないかとも思う。

 

 

ディソードを手に入れる条件―――それは、想像を絶する程の肉体的、精神的苦痛に耐え抜く事。

身体と心と……外側と内側の両方を痛めつけて、追い詰めて。そうして壊れる寸前にまで至って、やっとディソードが視認できるようになるんだ。

 

それはつまり、ギガロマニアックスに覚醒した人間の周囲には何かしら……自分を傷つける【敵】がいるって言う事で。

……だから、ディソードがそんな力を有しているのは、そいつらから身を守るために人の心が生み出した自衛の手段なのかもしれない。

だからこそ、剣の形と戦うための力を有しているのかも知れない。……腐るほどあった時間の中で考えるうち、僕はそう思うようになったよ。

 

その所為かどうかは知らないけど、ディソードの姿もギガロマニアックスで共通という事はなく、その人の傷つき歪んだ心を表すかのように、個人でそれぞれ違う特徴的な姿をもってる。

……そりゃそうだよね、全く同じ妄想をする人間なんて同時に存在する訳無いし。

 

 

梨深のディソードは鳥の翼のように展開する特殊な形状となっていて、また中央から分離させる事もできる、僕の知るギガロマニアックスの中で唯一の二刀流が可能な剣だ。……ぱっと見、弓に近い形だったと思う。

展開する前は円盤状の形をしていて、展開した後も剣と聞かれると首を傾げざるを得ない。まぁ、有る意味梨深らしいディソードと言えるんじゃないかな、変人的な意味で。

 

セナのディソードは二股に別れた刀身が特徴の大型の剣で、おそらく僕が一番見た回数の多いディソードだ。

あんなに大きな剣が彼女の細腕で軽々と振り回される姿はまさに圧巻で、リアルブートされる度に女性の悲鳴のような甲高い音を立てていたことが印象に残ってるよ。

 

優愛のディソードは持ち手に金色の装飾が付いている細身の剣。リアルブートされた時に花びらみたいな光が舞っていて、飾りとあわせてバラの花を連想させたよ。

……まぁ、彼女も僕と同じくニュージェネ中にギガロマニアックスに覚醒した口で、しかも僕の居ない場所での覚醒だったため思考盗撮でしかその活躍を見たことがない。それにそれ以降使用された事も無かったから、形以外にどんな特徴を持っていたのかは分からないんだけど。

 

こずぴぃのディソードは……大きくて、薄くて、平べったくて。剣というよりむしろ板に近い物だったね。ロリ体型の彼女がびくびくした顔で、身の丈ほども有る武器を両手で抱えつつ街中を歩く姿はとてもシュールだったよ。

今考えるとセナとこずぴぃは良いコンビだったのかもね、凶暴具合と剣のでかさ的な意味で。

…………ところで前々から気になってたんだけど、DQNパズルの被害者をフルボッコにしたのは彼女だったのかな、それとも僕だったのかな。

 

あやせのディソードは直線的な部分の無い、刀身から柄の部分まで内側の部分がぐねぐねと曲がった流線型の剣。

彼女の性格と、トンネル内でディソードの話を聞いた時にスク水姿の分身を僕に見せてくれた事を考えると、妄想攻撃に特化した性能を持っているのかもしれない。僕の推測だけどさ。

 

七海のディソードは―――……正直、情報が少なすぎてどんな物なのか全く分からない。最後に思考盗撮で見たときにあいつが持っていたものは、刀身だけでなく柄にまで刃や棘が並んだ禍々しい十字架型の剣だったけど……。

……でも、どんな物であれ、七海が覚醒した経緯を考えれば……あんまり歓迎できる能力は持ってないと思う。

 

野呂瀬のディソードは、僕や彼女たちのディソードとは全く違う―――重機と生き物が融合したような物だった。

人を一人張り付けに出来るほどに巨大な剣……その中央には黄色い目玉がぎょろりと蠢いてて、大鋏へと変形する際の機械的なギミックと合わせてとても不気味な雰囲気を持っていたよ。

 

将軍のディソードに関しては、七海以上に全く分からない。

……僕の中にある彼の記憶は【過去の西條拓巳】の記憶と【妄想の西條拓巳】の設定が混ぜ合わさっているものだから、【ギガロマニアックスの西條拓巳】の記憶は持っていないんだ。

だから、彼のディソードがどんな形状でどんな機能を持っていたのか……僕はそれを知り得る事は無かったし、これからも知る事は永遠に無いだろうね。

 

……もしかしたら、彼が【西條拓巳】である以上、僕のディソードと似た―――いや、僕の剣の元になった形をしている可能性も無くは無いかもしれないけど。

 

で、僕のディソード。

 

信じられない程に真っ直ぐな一切の無駄を廃した細く直線的なフォルムが特徴で、柄の部分には炎の形をした意匠が刻まれている。

余計な曲線も、装飾も、突起も無い、鍔さえも存在しない直線。特徴的な姿をした梨深達のディソードとは対照的だけど、決して地味って訳でもなく。自分で言うのもなんだけど中々スタイリッシュなデザインをしていたはずだったと思う。

……何? 萌えや劣等感や妄想で混沌とした心から、どうやったらこんなヲサレな剣が生まれるんだって? うっせばーか。

 

 

―――まぁでも、そんなカッコいいディソードも今となっては気味の悪い変容をきたしてしまった訳だけど。

 

 

僕がこのディソードを初めて使用したのは、サードメルトが起こった後。ノアⅡと一緒に吹き飛ぶまでの半日にも満たない時間だけだった。

……七海が人質に取られ、それを助けに行った時にもディソードを使用するチャンスはあったけど―――まぁ、黒歴史だ。うん。

 

―――でも、僕ははっきりと覚えてる。

 

あの時、梨深の事を助けたいと思って掴み取った金属に似た感触を。

まるで重さは感じなかったけど、掌に確かに感じたあの手応えを。

ポーターや星来、野呂瀬と戦った時に振るわれた、ギガロマニアックスの力の脈動を。

 

それらは全て変わらずに、最後まで僕の手の中にあった。

 

……だから。だから、決して。

 

 

―――僕のディソードには―――茨なんて、絶対に巻き付いていなかったはずんだ。

 

 

(…………)

 

 

……それは、表面から覗く葉脈のような半透明のガラス部分を脈動させ、赤い明滅を繰り返し。

 

金属のようにも、有機物の様にも見える繊細さと。

 

思わず息を呑んで見惚れてしまうほどの美しさを持ち合わせていて。

 

……なのにそれを見ていると、僕はどうしようもない苛立ちと不安感に襲われる。

 

 

―――もう一度言うけど、ディソードは妄想の剣だ。

その姿はギガロマニアックスで共通という事はなくて、その人の傷つき歪んだ心を表すかのように、個人でそれぞれ違う特徴的な姿をもってる。

 

 

―――だから、その姿が変わった時。

 

 

それは、持ち主の心や精神に何らかの変化、若しくは異常が起こってしまった。という事じゃ――――――?

 

……僕は、将軍やセナみたいにギガロマニアックスについて深い知識がある訳じゃない。今まで語ってきたディソードについての事だって、全部その二人と野呂瀬からの受け売りだ。

だけど、それでも。今の僕のディソードがまともな状態じゃない事くらいは僕にだって分かるよ。

 

 

―――嫌だ。

 

 

柄から、刀身から。上から下まで余すところ無く茨でびっしりと埋め尽くされ、隙間なんて殆ど無い。

そのシルエットや僅かに覗く青色から、辛うじて原型は留めているんだろうって事が分かるだけだ。

 

どうして茨なんてものが巻き付いているのか、僕が【ネギ】になっている事と何か関係があるのか。それとも、この茨の部分が【ネギ】としての【僕】なのか?

……核心の部分は、何も分からない。

 

 

―――嫌だ。

 

 

茨に隠れている部分がどうなっているのか……触れて確かめられれば良いんだろうけど、そんな勇気なんてとてもじゃないけど起きない。

確かに形を見る限り一見大きな変化は無さそうに見えるよ。でも、細かい部分がどうなっているのかは分からないじゃないか。

 

 

―――嫌だ……!

 

 

……もし。

 

もしも、その茨の下が―――自分の知らない形に変容していたとしたら?

その時、僕は僕のままでいられるの? 【西條拓巳】のままでいられるの?

 

 

―――嫌だ!!

 

 

僕の主観では、僕は僕のままで居る筈だ。

 

でも、それは単に自覚が無いだけだったとしたら?

 

自覚の無いままに僕じゃなくなっているのだとしたら?

 

僕の心が、知らないうちに別のものへと変化しているのだとしたら―――?

 

 

その疑念が、たまらなく怖くて。

その猜疑が、たまらなく不快で。

 

―――だから僕は、ディソードから目を背け続けるんだ。

 

これ以上、僕の心が変わらないように。

決してそれを受け入れないようにして、僕が僕であり続けられるために。

僕が僕でなくなっているかもしれないという事に気づかないよう、自覚しないように―――。

 

 

……ディソードの姿が変わっている時点で、もう手遅れなのかもしれないんだけど、ね。

 

 

 

***********************

 

 

 

「……これはまた、派手にやりおってからに……」

 

 

 

……そんな、溜息交じりの声で目が覚めた。

その声は年老いた老人のもので、吐き出された溜息からは酒の臭いが漂ってきた。

 

 

「……う……ぐ……?」

 

 

……誰だろう?

声の主を疑問に思って、意識を自覚した瞬間――――――僕の身体に重圧がかかっている事に気がついた。

 

そして、唐突に覚える息苦しさ。

何か重いものが圧し掛かっている感覚と、口と鼻を何かで塞がれているかのような感覚。

しかも身体を動かそうとしても上手く動かせない。

 

……どうやら僕は、何か幅の広い布のようなもので包まれるように縛られているようだ。

相当無理な体勢で縛られているのか、肩の方に回された左腕と背中に折り曲げられた右足とがギチギチと悲鳴を上げてる。

 

―――……いて、いてててて。痛い、痛いな。窒息しちゃうって……。

 

 

「んん……ぅー……」

 

 

何なの、七海? 七海の悪戯かなんか?

 

……ほんと、やめてよこういうの。 僕今ちょっとそういうのに付き合ってる余裕無いんだ。

僕のディソードが何か、変な感じになってて。

 

苛々してて、ベットに倒れこんで、震えながらやっと眠れたんだから。もうちょっと、眠らせて欲しいんだよ。

だってほらぁ……僕、三歳だから。体力とか、足りてない……………

 

 

なぁー………………………………………ねぇー…………………………………

 

………………………ぅぁー…………………………………

 

……………………………

 

……………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

えっ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……!? っぎぃ……!?」

 

 

一気に目が覚めた。七海なんて居る訳ない!!

 

 

僕はいきなり訪れた理不尽な状況にうろたえて、冷静な思考を奪われて。

拘束から逃れようと、蓑虫状態のまま必死にじたばたと手足を振って暴れまわる。

 

手足の筋が引っ張られ鈍い痛みが体中に走って、その度に身体がビクビクと痙攣する。

くやしぃ……っ! でも(ビクンビクン!

 

 

「んぐぅ……! うぅんぐッ!?」

 

 

痛みと混乱から目尻に涙が浮かんで、流れ落ちる。

 

何!? どういう事!? 何で僕縛られてるの!?

希の残党か!? それとも神光!? いや優愛かッ!? 全部嫌だ!!

 

 

―――だれかー! 誰か助けてー……ッ!!

 

 

心と声、両方で助けを求める叫び声を上げながら身体をねじり、よじり、ひねり。

その度に身体を突き抜ける筋肉が引きつる痛みにびったんびったん跳ね回りながら、どうにかして身体の自由を手に入れようと抵抗を続けて―――……。

 

 

「……何しとるんじゃ、お前さんは」

 

「―――えっ」

 

 

さっきも聞いた老人の声が耳朶を打って、巻きついていた布のようなものが取り払われて。それにより毛布によって引っ張られていた手足がベットに投げ出され、ぽふんと気の抜けた音を立てる。

咄嗟に頭を上げて、声のした方向を見上げると―――そこには。

 

 

「毛布に包まって、随分と楽しそうじゃの」

 

 

―――僕のベットの横に立ち、毛布を片手にニヤニヤとした笑みを浮かべた老人―――スタンが居て。

 

 

ぱらり、と。

彼が投げ捨てた毛布が僕の身体にかかり、端の部分がベットのシーツの上に広がった。

 

……どうやら僕の事を拘束していたのは、この毛布だったらしい。寝ているうち、いつのまにか僕の身体にきつく巻きついてしまっていたみたいだった。

毛布は結構厚みがあって、三歳の筋力の無い身体だったから、僕には重く感じられるんだ。

 

 

「…………………」

 

 

僕は呆然、後、赤面。

 

端から見れば馬鹿みたいな行動を糞真面目に取っていた事に思い当たり、羞恥心が胸元を駆け巡る。

スタンはそんな僕を意地の悪い目つきで見つめて。

 

 

「……こらまた、随分と愉快な寝相をしとるんじゃのぅ」

 

「………………」

 

 

僕とスタンの間に、何とも言えない雰囲気が充満する。

 

 

「………………………」

 

「………………」

 

「……………………ぷひょっ」

 

 

 

 

―――そして、ゲラゲラと笑う声が狭い部屋の中に響いた。

 

 

僕が、自身のディソードから逃げる勢いで毛布に入った3時間後。午前9時30分。

僕の記憶にまた1ページ、新たな黒歴史が刻まれたのだった。

 

……欝だ。

 

 

 

***************************

 

 

 

「ひ、ひっひ……! い、いや何、ネカネに扉を直してやってくれと頼まれてのぅ? 」

 

 

何でいるんだ、との僕の問いかけに、彼は笑いながらそう答えた。

つばの広いとんがり帽子に味わい深い色合いの木製パイプ、そして口に蓄えた豊かな髭と、口調で示すあざとい程の老人アピール。

まるで絵に描いたような、いかにも魔法使いと言った風情のこの老人。

 

―――彼の名はスタンの爺さん。

 

昼間からお酒を飲んだくれていたり、口より先に手が出たり……何かにつけて説教を垂れれば、「昔は良かった」としか言わない典型的な懐古厨。

話を聞く限り、僕の【父親】の面倒も良く見てくれていたらしく、その縁か【父親】の忘れ形見である僕やネカネの面倒を良く見てくれる、所謂保護者の立ち位置に居る爺さんだ。

 

 

「もうそろそろ冬も終わりとはいえまだ寒いからの、速い方が良かれと思うて来たのじゃが―――ワシの判断は正しかったようじゃの? あのままだったらぼーず、窒息してお陀仏じゃったぞ? ひっひっひ」

 

「……っざぁ…………!」

 

 

……端から見ればタチの悪いDQN老人にしか見えないんだけど、面倒見は結構良くて、僕の一人暮らし生活の手助けをしてくれている。

偶に食料を持ってきてくれたり、今回みたいに家具が壊れてしまった際に修理しに来てくれたり……。

 

あと僕が他の村の住人から必要以上の干渉を受けないのだって、スタンが周りに睨みを利かせているからだそうだ。

昔、僕に暴力とかを振るう奴等や、無理矢理外に引きずり出そうとする奴らが居たらしいんだけど、そいつらは皆スタンからの鉄拳説教コースを受ける羽目になったって話だ。

その事があってから、村のDQN連中は僕に良くない感情を向けることはあっても具体的な行動には出て来ない……というか、出てこれないって事みたいだ。もしかしたら、同じ老人体でも「彼」より元気かも知れないね。

 

そう説明してくれたアーニャは恩着せがましく「だからちょっとは感謝して、ちゃんとおじいちゃんって呼んだげなさいよ!」なんて言ってたけど、僕は彼のことをそう呼ぶつもりはない。

だってそうでしょ? 僕みたいなねっとりしたキモオタが「おじいちゃん(はぁと」とかさ…………これは僕きんもー☆と言わざるを得ない。

 

そしてやっぱりと言うべきか、その性格に反して魔法使いとしての腕は確かだそうで、村の自警団の団長みたいなものを務めているって話を聞いた事がある。

 

……何ていうか、お約束だよね。「普段はだらしの無いヘンクツ爺さんが、実は相当な実力者だった」っていうキャラ設定。

もしステータスを確認できたら、きっとスタンの特殊技能には「おもいだす」のコマンドがあるね。三万までなら賭けてもいい。

 

……さて、色々と言ったけど―――まぁネカネに比べれば、僕はスタンの事は苦手じゃなかったりする。

 

理由は簡単だ。

いくら彼が僕の保護者的な立場に居るといっても、やっぱり「赤の他人」というカテゴリからは抜け出せないからね。

 

―――【血の繋がった知らない人】よりも、【赤の他人の知らない人】の方が自然だし、当然のことだって安心も出来るでしょ? ……つまりは、そういう事だよ。

 

 

「おおそうじゃ、何なら今度からワシが添い寝でもしてやろうか? また今回のような事が起きたら困るしのぅ? ひょっひょっひょ」

 

「……っい、いい加減、しつっこいよ……!」

 

 

……まぁ、実際はネカネよりも馴れ馴れしいんだけどね。このDQN爺。

 

説教とか締めるところは締めてるんだけど、それ以外の事には極端に大らかになるんだ。さっきから笑うたびに漏れ出てくる酒臭い吐息がその証拠。

僕は外国の文化にはあまり明るくないけど、朝っぱらから息が酒臭くなるほどアルコールを摂取するのが一般的なわけが無い。

 

……と、一通り笑った後、彼は嫌らしい笑みを浮かべたまま懐から銀色の水筒を取り出して口元に当てた。

美味そうに飲むその中身は、言わなくたって明確だ。思った傍からこの所業、僕に喧嘩売ってんのかこの爺。

 

 

「……こ、この……ふ、不良老人……が」

 

「引き篭りには言われとうないわ、蓑虫ぼーず」

 

 

僕のそんな悪口なんて気にもせず、こちらの羞恥心を的確に抉る言葉を吐き捨てて水筒を呷り続ける。

だめだこいつ……早く何とか―――あ、手遅れですかそうですか。

 

 

「ふ、ふひひ……! せ、せいぜい肝臓癌にでもなって、にょ、尿管結石で苦しめばいいさ」

 

「ふん、ワシには魔法があるから苦しくないもん。石ころなんざ杖の一振りで木っ端微塵じゃて」

 

「……………………」

 

 

もう膀胱ごと爆散すれば良いよ。

 

 

「…………もう、いい。さ、さっさと直して、帰ってよ……」

 

 

とりあえず、酔っ払いには何言っても無駄だってことが分かった。

僕はベッドの上から降りて、のろのろとPC前の椅子に向かって歩き出す。

 

足元にはアーニャが壊した扉の残骸が散らばっており、細かい木片が広範囲に渡ってばら撒かれてて、割と酷い有様だ。

一見何も落ちてない場所に見えても、靴を一歩踏み出す度に木の欠片が砕け散る音が響くあたり、その拡散具合が分かるだろう。

 

 

「あー待て待て、破片を踏み荒らすでない。 直しにくくなるじゃろうが」

 

 

するとスタンが慌てて水筒から口を離し、今度は袖口から30センチほどの棒を取り出して、一振り。

小さな声で何某か呟き、僕にその先っぽを向けて―――

 

 

「ほいっとな」

 

「っ、うわ……!!」

 

 

―――杖の先から、何か風をイメージさせる緑色の光が走り、僕の身体を空中へと持ち上げる。

そうして彼の持つ杖の動きに合わせて宙を進んで、机に置かれたPCの前へ―――クッションの敷かれた椅子の上へと降ろされた。股の間が、ひゅっとしたよ。

 

 

「わーったわい。お望み通りすーぐ直してやるからに、ちょっとそこで大人しくしとれ」

 

「……っよ、よこ、予告もなしに、これ、やめ、止めてくれよぉ……!」

 

「ひょっひょっひょ」

 

 

スタンは悪びれもせずそう笑って、蓋をした水筒を僕の方へと投げ捨てた。

いきなり飛んできたそれを、僕は驚きつつも何とかキャッチ。

 

突然何するんだよ、って。抗議を籠めた視線をじっとりと向けてやるけど、その時には既にスタンはこちらに背を向けてなにやら呪文を唱え始めていたところだった。

 

 

「~~~、~~~、~~~~……」

 

「……に、日本語で、おk」

 

 

……多分、扉を直すための……ま……魔法を使おうとしてるんだと思うけど、正直何を言っているのかさっぱり分からない。

 

最初に韻の踏んだ英語っぽい言葉を言ってるのはかろうじて聞き取れるんだけど、それ以降は全然ダメだ。

発音がネイティブ過ぎるのかとも思ったけど、それなら【ネギ】の記憶を持つ僕が聞き取れないのはおかしいし……別の言語なのかな、ううむ。

 

……まぁ別に、そんなに興味があるわけじゃないから別にいいんだけど、何か引っかかる。

どこかで聞いた事のあるような言葉な気がするんだけどなぁ……。

 

……と、そんなことを悩んでいると、呪文みたいなのの詠唱が終わったのか、さっきと同じ緑色の光がスタンのいる方角から部屋の中に広がっていく。

そして部屋中に散らばった扉の破片を緑の帯が包み込み、スタンが拾っておいたらしい出入り口に立てかけてある扉に向かって収束。

折れ曲がった木枠や、ひび割れ等が発光し、見る見るうちに修復されていくよ。

 

 

「……………」

 

 

……僕は、その光景から静かに目を背けた。

今回のほかに、偶にネカネやアーニャが使ってるのを見たことがあるけど……やっぱりダメだ。

 

こういう派手派手なエフェクトを見るたび、【魔法】が如何に非現実的なものであるのか思い知らされる。

 

現実感が、薄れていく錯覚を受けるんだ。

 

 

「……ふむ、こんなもんじゃろ」

 

「……………………」

 

 

……そんな事を思う内に、どうやら修復が終わったみたいだ。

 

一息ついたスタンの声に背けていた背けていた目を戻すと、そこにはドアが破壊される前と寸分変わらない姿で存在していた。

部屋の中にあった木片とか、木屑とかも全部跡形も無く消えていて、さっきまで散らかっていたとはとてもじゃないけど思えないよ。

 

―――本当、エフェクトの派手さを除けば起こる事象はリアルブートにそっくりだ。

 

 

「これで良いじゃろ? 蓑虫ぼーずよい」

 

 

……ほんと、人をおちょくるのが好きだね。この爺さんは……!

 

椅子の背もたれに額をつけて憤っている僕を尻目に、スタンは最後の仕上げとばかりに開かれたままの扉を足で蹴り閉めて、こちらを振り向いて肩をすくめた。

そうして僕のベットに腰掛けて、掌を僕に向かって差し出して来る。

 

……何を求めているのか察した僕は、知らずに握り締めていた水筒をスタンに向かって力を込めてぶん投げた。

 

 

「っとっと……なんじゃい、せっかく直してやったんじゃから、もーちっと労わったらどうじゃ」

 

「……こ、こわしたの、アーニャ……だし、っぼ、僕は、何もしてない。……労わったり、礼を言う、義理なんて、な、無いね」

 

 

……本当は僕が押し倒した事による影響も少なからずあるんだろうけど、いちいち言わない。

アーニャがこの扉を壊したのは紛れもない事実だし、それにいっつもウザい程お姉さんぶってるんだからその責は全て背負ってもらおうじゃないか。ふひひ。

 

 

「……ホントかのぅ? 何やらネカネに聞いておった状況よか、幾分酷かった気がするんじゃがの?」

 

「あ、あんたの方が耄碌してただけだろ? さ、酒とか、タバコとか、やりすぎでさ、ああ、あ、頭、スッカスカになってんじゃね? ふひひっ、白痴乙」

 

「―――ひょっひょっひょ、言うようになったのう? こんの糞ぼーずが」

 

「んふひひひ、ふひひっ、ふひ、ひ―――ギッ!!」

 

 

良い拳骨を貰ったけど、反省も後悔もしていない。

 

 

「ったく、少しは他のガキどもみたいに外で遊んでこんか、引き篭もりめ。ワシがぼーず位の頃は、そりゃあ元気に外で遊んどったもんで―――」

 

「……ぐ、ぐくっ。そ、で、結果出来上がった惨状が、このド糞(ドキュソ)爺でございます、ふひっ」

 

 

拳骨の音がもう一回、僕の部屋の中に響いた。

 

 

「が……かかか……っぐ……」

 

「ふん……じゃがのうぼーず、真面目な話、いい加減外に出た方がええぞい」

 

 

ズキズキと痛む頭頂部をさすりながら視線を上げると、拳骨を下した手を振りながらこっちを見下ろす目が二つ。

生え放題の眉毛に隠れたスタンの瞳が何時ものだらしの無い姿からは想像も出来ないような鋭い光を湛え、僕を見ていた。

 

その真っ直ぐ見つめる瞳から逃げるように、僕は彼から目を逸らす。

 

 

「ぼーず、アーニャが帰ってきたときしか外出せんじゃろ? それまでの一月近くは村に降りてこんかったしの」

 

「………………」

 

「食いもんの補充やら洗濯やら……ぜーんぶ時折来るワシや他の老人達にまかせっきりと言う話じゃろ?」

 

「………………」

 

「……別に毎日村の方に来い、とは言わんさ。じゃがの? せめて週に一度はワシの所に―――酒場にでも顔を出してくれんかと…………」

 

 

クドクドと説教が続く。

 

……また始まった、スタン印の説教地獄。

この老人、いつもは「面倒じゃ、面倒じゃ」とか言いながらしょっちゅう人の精神を逆なでするような言動をしてるのに、こと説教となると趣味なんじゃないかって疑うレベルで長話を始めるんだ。

 

普段ネカネやアーニャに何を言われても受け流している僕だけど、この状態のスタンから受ける説教は無下にすることは出来ない。

文句をつけようにも、言葉の端々に心配するようなニュアンスが伺えるから、口が挟みにくいんだ。卑怯なことこの上ないね。

 

年寄りはこれだから嫌なんだ。拳骨だけで終わらせろよ、と舌打ち一つ。

 

 

「………………」

 

「ホレ、良く見たらぼーずのコート。何か分からんがベッタベタに汚れとるじゃないか。少しは綺麗に使うようにしてじゃなぁ…………」

 

「………………」

 

「確かに村の連中の中にはぼーずに辛く当たる輩も居るのは確かじゃわい。じゃが、それでも心配しておる者も居って…………」

 

「………………」

 

「ネカネやアーニャは元より、ウェストやエルザ、コンのとこの娘っ子もぼーずの事を心配しとるようじゃぞ? それにワシも…………」

 

「…………誰だよ」

 

 

やっぱり痴呆でも始まっているのか、所々僕とは面識の無い「筈」の人物の名前を挙げながら、したりげな雰囲気で説教を続けるスタン。

僕は頭の中を走り抜ける頭痛をこめかみに指を当てて抑えつつ、睡眠が足りなかったかと溜息をつく。

 

―――説教、長くなりそうだなぁ

 

まぁ、おかげでディソードの事から意識を逸らせるのはありがたいけどね。

とりあえず僕はそう妥協する事にして、何時眠ってもいいように椅子の背もたれに頭をくっつける。

 

……なんだかんだ言っても三時間しか寝ていないんだ、説教を子守唄にして意識が落ちても不思議じゃない。

 

 

「本来ならば三歳児にする説教ではないのかも知れんが、ぼーずは中々聡いようじゃし別に構わんじゃろ? その聡明さを別の部分に振り分けてくれればワシらもちっとは…………」

 

「……………」

 

 

―――徐々に視界が空ろになって行き、頭に霞がかかって行く中―――僕はふと自分が着ているコートの端に目が行った。

ネカネの作ってくれたサンドイッチ、その中身のソースがべったりとこびり付いた、そのコートの裾の部分にかかれた刺繍――【ネギ】

 

 

「……………………」

 

 

僕は何故、これを抵抗無く着られているんだろう?

そう、思って。混濁しそうになる意識の中で、もう少し深く思考しようとして―――

 

 

「こりゃ、聞いとるんかバカタレ」

 

「ごが……っ!」

 

 

――脳天に落とされた拳骨で、疑問が拡散していった。

……説教は、まだ続くみたいだ。

 

 

 

【挿絵表示】

 




■ ■ ■

じわじわ進んでいく感じ。


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第6章  追加現実

―――――――――夢を、見ている。

 

 

「…………」

 

 

……気づけば僕は、青と白の世界にいた。

 

何処までも続くような、広く、高い、青い空。そしてそれをくすみの無い白い雲が彩りを加えていて。

暖かな太陽は優しい光を放ち、頬をなでる風はとても穏やかで、眠くなるような心地よさを運んでくる。

 

 

「―――……」

 

 

足元に広がるのは、まるで鏡面のように澄んだ湖。

僕の足を中心に波紋を広げるそれは天空の青と白とを映し出して、それが無ければどちらが空なのか分からないほどだ。

 

上を見上げても、下を向いても空、空、空―――……

 

見渡す限りの青空。何時までも続く穏やかな空間に僕は立っていた。

ここは何処で、どうして僕がここに居るのか。そんな疑問は一切浮かぶ事は無く、ここに居るのが当然だと思っていて。

 

何も不安に思う事は無く。

 

何も期待する事は無く。

 

何も負うべき義務は無く。

 

何者にも侵される事も無く。

 

そしうして何をするでもなく、僕はただそこに立ち続ける。

 

目を閉じて、穏やかな空気を感じ続けるんだ。

……安息だけが、そこにはあった。

 

――――――――――――夢を、見ている。

 

 

「…………」

 

 

ふと背後に気配を感じて、僕は閉じていた目をゆっくりと開き、その気配へと振り向く。

……すると僕が振り向いたその先には―――剣が、水面に突き刺さっている姿があった。

 

―――剣、なのかな。

 

突起も、飾りも、余計なものは一切付いてないシンプルなシルエットと―――そして、それに隙間無く巻きつく茨の姿。

 

もはや剣とは呼べないかもしれない姿をしたそれは、表面から覗く葉脈のような半透明のガラス部分を脈動させ、赤い明滅を繰り返し。

金属のようにも、有機物の様にも見える繊細さと。思わず息を呑んで見惚れてしまうほどの美しさを持ち合わせていた。

 

それに覚えるべき苛立ちは、今の僕には無い。

 

それに関する記憶も、今の僕には無い。

 

それに対する理解も、今の僕には無い。

 

……だから、それに内包されている意味も、今の僕には分からない。

 

 

「…………?」

 

 

……それを見ているうち、僕は右腕に違和感を覚えて。

 

腕を持ち上げてみると、肘の先から二の腕にかけて……直ぐ其処にあるものと同種のものらしき茨が、何時の間にか巻き付いていた。

その茨が続く先には例の剣が在り―――僕のほかにも三つ、合計四本の茨が剣を中心に+の字に伸びているのが分かるよ。

 

……いや、伸びていた、のが正しいね。

だって、その三本の内の一本は千切られたように根元の部分から無くなっているから。

 

それはまるで水をやり忘れた植物のように光彩を失って、見事なまでに枯れていた。

他の茨が金属の如き質感を持っているのに反し、それはカビだらけの紙のよう。触れただけでパラパラと風に乗って散っていく。

 

この青空に埋め尽くされた清清しい空間にはあまりにも不釣合いだ。

 

――――この茨の先に居た奴は、一体何処に行ったんだろう?

 

 

「…………」

 

 

……剣の方へ目を向ける。

 

僕の茨と、その千切れた物を除いた二本の茨は、それぞれ対極の方角に伸びていた。

その茨の蔓は、僕のそれを加えてTの形に展開されていて、空の向こう―――水平線の彼方へと続いている。

それぞれの先に何が在るのか……あまりにも遠すぎて僕の視力では伺う事が出来なかったよ。

 

―――その光景はまるで二つに分かたれた道筋のようで、中間に居る僕に進むべき道を選べと言っているみたいだった。

 

 

「…………立て看板、とか」

 

 

それならせめて、どっちに行けば何があるのか位は書いていて欲しい。そう思うけど、やっぱり別に関係ないかもしれない。

どちらを選ぶか、なんて。それを決める時は、今じゃない気がしたから。

 

 

「…………、」

 

 

そうして剣を見つめたまま何をするでもなく突っ立っていると、右腕の茨が脈動し始める。

 

最初は弱弱しく、次に激しく。まるで、息を吹き返した心臓が再び動き出すように。

 

その脈動は僕の腕を締め上げる勢いで激しさを増し、同時に赤い光もその輝きを強めて行くけど……何故か、痛みは一切無かった。

かなりきつく締め続けられているはずなのに、痛みどころか圧迫感も感じない。

 

 

「…………」

 

 

また、疑問。

 

僕以外の物も同じなのかな、と光を追って再び視線を剣の方角に向けると―――やはりと言うべきか、そこには同種の光景が繰り広げられていて―――

 

 

「…………?」

 

 

……いや、違う。少しだけど、一本だけ赤い光が脈動するタイミングがずれている。

 

その光景はまるで、茨の先にある何かが僕と【もう一人】に何かを送り込んでいるようにも見えて。

 

現金な話だけど、それを意識した瞬間、僕はその赤い光が脈動する度に、自分の中に送られている何かの感覚を理解した。

 

その感覚はとても独特なもので、説明が難しいけれど―――【僕】の中に、【ぼく】が追加されている。あえて言葉にするなら、そんな感じだ。

 

……普通ならば、嫌悪するべき出来事のはずなんだろうけど―――

 

 

「……く、ふ……ひひ……!」

 

 

―――だけどそれを理解した僕は、その感覚に何の疑問も抱かなかった。むしろ妙な安心感を抱いて、安堵の溜息をついたよ。

 

 

新しい【ぼく】が出来上がっていく事を、【僕】が認識出来ている。それだけで、【僕】が【僕】であることが磐石となるんだ。

 

加えて流れ込んでくるぼくの中には、何の感情も付属されていなくて。

攻撃も、侵食もされることも無く。

強く強く、どこまでも強固な一線が僕たちの間には存在しているんだ。

……だから、自分が脅かされる事が無いと確信できて―――その事に、酷く安心する。

 

そうして、【僕】と【僕】の妄想と、不特定多数の【彼ら】の妄想を、彼―――或いは彼女は。ただ、並べ続けていく。

 

感情は無く、言葉も無く。意思も無く。あるのは唯、事務的な意識だけ。

 

それがそいつにとって幸せな事なのかどうか……僕には、判断する事は出来ないけど。でも、僕にはどうする事も出来やしない。

だって、あの茨の先にあるものは―――……

 

 

「…………?」

 

 

―――……あるものは……?

 

我に返った瞬間、僕は自分が何を理解していたのかを理解できなくなっていた。

自分が何を思っていたのか、安心していたのか。その全てが砂のように崩れ落ち、風化し、消え去って。

 

そして、自分が理解していたという事すらも。僕が、【どちら】だったのか、さえも。

 

全部全部、跡形も無く僕の中から消え去って。

 

―――――――――全ては、一瞬の邂逅。

 

そうして、世界は、再び元に戻る。

 

 

 

 

―――――――――僕は、夢を見ている。

 

 

……気づけば僕は、青と白の世界にいた。

 

 

何処までも続くような、広く、高い、青い空。そしてそれをくすみの無い白い雲が彩り、暖かな太陽が優しい光を放ち。

頬をなでる風はとても穏やかで、眠くなるような心地よさを運んでくる。

 

足元に広がるのは、まるで鏡面のように澄んだ湖。

僕の足を中心に波紋を広げるそれは天空の青と白とを映し出して、波紋が無ければどちらが空なのか分からないほどだ。

 

上を見上げても、下を向いても空、空、空―――……

 

見渡す限りの青空。何時までも続く穏やかな空間に僕は立っていた。

どうして僕がここに居るのか、そんな疑問は一切浮かぶ事は無く、ここに居るのが当然だと思っていて。

 

何も不安に思う事は無く。

 

何も疑う事は無く。

 

何も負うべき義務は無く。

 

何者にも侵されることも無く。

 

そうして何をするでもなく、僕はただそこに立ち続ける。

目を閉じて、穏やかな空気を感じ続けるんだ。

 

……安息だけが、そこにはあった。

 

―――――――――いや、彼は、

 

 

「…………」

 

 

ふと背後に気配を感じて、僕は閉じていた目をゆっくりと開き、その気配へと振り向く。

……すると僕が振り向いたその先には―――剣が、水面に突き刺さっている姿があった。

 

―――剣、なのかな。

 

突起も、飾りも、余計なものは一切付いてないシンプルなシルエットと―――そして、それに隙間無く巻きつく茨の姿。

 

もはや剣とは呼べないかもしれない姿をしたそれは、表面から覗く葉脈のような半透明のガラス部分を脈動させ、赤い明滅を繰り返し。

 

金属のようにも、有機物の様にも見える繊細さと。思わず息を呑んで見惚れてしまうほどの美しさを持ち合わせていた。

 

……その姿に覚えるべき苛立ちは――――――

 

 

―――――――――――彼は夢を、見続ける。

 

―――――――――――それは、無限に繰り返す。

 

―――――――――――記憶も何も、引き継がずに。

 

―――――――――――彼が、その手に【妄想】を受け入れるまで、ずっとずっと、続いていく。

 

―――――――――――そう、それを手に取るまで、永遠に。

 

 

その世界は、ずっと―――――――――――――――

 

 

【挿絵表示】

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 

―――ピリリリ、リリリ。

 

 

電子音。

 

 

「…………」

 

 

―――ピリリリ、リリリ。

 

―――ピリリリ、リリリ

 

 

電子音。

電子音。

単調なリズムを刻む、電子音。

 

 

「……………………」

 

 

何時も通り、電球の光も外からの光も無い、カーテンを閉め切った真っ暗な部屋の中。

机の上に置かれたPCのディスプレイに灯る唯一の光源に顔を焼かれながら、僕はその音を聞いていた。

 

何の変哲も無い、ただ適当に高音を組み合わせただけの音。機械にしか発する事の出来ない無機質な音。

 

だけど無意味という訳じゃなくて、それは確かな意味を持って鳴り続けていた。

そして、微かな安堵と大きな苛立ちとを持って、僕の耳朶を打ち続ける。

 

―――Call、Call、Call……

 

その音が鳴り響くたび、そんな文字と、とある人名とが発信源から浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返して。

オレンジ色の光をチカチカと明滅させながら、まるで僕を呼んでいるみたいに。

 

―――そう、まるで自分の事を手にとってくれ、と言わんばかりにその音を鳴らし続けていた。

 

 

「…………誰だよ…………」

 

 

……まぁ、つまりは電話の呼び出し音な訳だけど。

 

電話に関しては碌でもない記憶しか無いから、呼び出し音を聞いていると苛々してくる。

僕は机に置かれたPCに向かい合った体勢のまま、直ぐ隣に置かれている喧しい音を鳴らしている電話の子機を見つめて。

 

 

「―――っげ……」

 

 

そのオレンジに光る画面に映っている送信者の名前を見て、思わず小さくうめき声を上げた。

 

―――着信:ネカネ。ネカネ・スプリングフィールド。

 

……僕の最も苦手とする人間の名前が、そこには表示されていたから。

 

 

「…………」

 

 

……この時代、社会人でも携帯電話を持っている人間は少なかったはずなんだ。多分向こうは公衆電話か、噂の魔法学校にでも備え付けてある電話でも使ってるんだろうね。

個人所有の電話で無い以上、この電話にネカネの名前が表示される訳は無いんだけど……でも何故か、しっかりくっきり黒いドットで表示されている。

もしかしたら、持ち主の魔力とか何だかを感知して色々しているのかもしれない。だってほら、電話の裏側に刻まれてる如何にもな魔方陣が淡い金色に光ってるし。

 

魔法使い……ふむ。生活用品に魔法を使うのはありえない事じゃないだろう。

……でも、でもさぁ。こういう電子機器にまで魔法とか、何か違くね? 少しは自重しろといいたい。僕の精神的な平穏のためにも。

まさかこのPCにも魔法的な何かがあったりとかしないよね? PCを撫で回して確認。

 

 

「……な、なるほど、分からん」

 

 

まぁそれはともかくとして、電話だ。

 

―――取るべきか、取らざるべきか。

 

 

「……はぁ……」

 

 

当然僕としては迷わずこのまま居留守を使う道を推奨したい……のだ、が。今後のことを考えると取って置いた方がいいかも知れないとも思う。

後で居留守(今思ったけど僕は基本的に引き篭もってるから留守の場合が無い。それなのに居留守って。馬鹿か)を使ってたことがばれて、またネカネに泣かれるのも困る。

……以前なら幾らネカネが泣こうとも我関せずを貫いて居たんだろうけど……。

 

が、かといって。彼女からの電話を取るのも躊躇せざるを得ない。恐怖的な意味で。

 

何か用件があるならそれを早く済ませてくれればいいのに、どうもネカネは僕と長く喋りたがってるみたいで、どんな些細な事からでも会話を膨らませようとして来るんだ。

……こっちはあんたの一挙手一投足にびくびくしているって言うのに、何を話せと。この前のお茶の時だって相当無理してたのに。

 

 

「………………………ぅ……………」

 

 

―――ピリリリ、リリリ。

 

―――ピリリリ、リリリ。

 

僕がそんな事をうじうじうだうだあーだこーだ悩んでいる間にも、喧しく電話は鳴り続けてる。

早く留守電にでもなればいいのに、そういう設定でもしてあるのか一向に留守電サービスに変わる気配が無い。

 

……いい加減諦めて切っても良さそうな物なのに、中々に執念深くて本当嫌になるね。

どうせ話す内容なんて、何月の何日には帰ってくるとか、ちゃんとご飯食べてるかとか、そんな事ぐらいしか話題無いのになぁ……。

 

ベースには電話なんて設置されてなかったし、七海に(強引に)勧められるまで携帯電話すら持って無かった僕。

外部の人間(ネットの向こうの奴等)からの連絡は主にメールが中心だった僕。

そんな人間との会話のキャッチボールなんて弾むわけ無いんだし、それを期待する方が間違ってると思うんだけど。

 

 

「……そこんとこ、どう、思います……?」

 

 

―――ピリリリ、リリリ。

 

―――ピリリリ、リリリ。

 

魔導電話(仮)に尋ねてみるけど、返ってくるのは当然ながら電子音。でも心なしか「はよ取れや」と切れ気味な感じに聞こえてきたのは気のせいでしょうか。

だってほら、電話の裏側に刻まれてる如何にもな魔方陣が濃い赤色に変わったし。

 

―――ピリリリ、リリリ。

 

―――ピリリリ、リリリ。

 

―――ピリリリ、リリリ。

 

―――ピリリリ、リリリ。

 

 

「……ああ、もう……!」

 

 

……分かった、無駄な時間稼ぎはもう止めるよ。取る。取るよ。取ればいいんだろ!

止むことの無い電子音にいい加減苛々が限界だよ。集中してPCに向かう事もできやしない。

 

僕は微細に震える右手を、胸中から湧き出るヤケクソの感情で押さえ込んで、ゆっくりと伸ばす。

そうして充電器に設置されていた電話をそれに輪をかけてゆっくりと握り締め、深呼吸。浅くなる呼吸を整えながら、じっくりと指を這わせていく。

 

 

「……はぁー……っ、は、ぁー……っ」

 

 

まずは♯のボタンに親指が触れ、次に9、それから5、そして1。保留のボタンに指の腹が引っかかり、その進行が一瞬止まってまた再開。

僕の指が通話ボタンへと近づくごとに、徐々に視界に映り込んで来るそれが異様な雰囲気を放っているような感覚が強くなって、血の気が引いていき親指に血が通わなくなっていくよ。

 

……あ、ちょっと気分が悪くなってきた。

 

 

「……っぐ、ぎ、ぎ……ぎ」

 

 

視界が歪み、脂汗が湧き出る。眼球はふらふらと焦点を失い揺れ動き、涎が粘つく。

噛み締めた下唇から血が滲み、口内に鉄の味が広がっていって。口の中が生臭くて不快指数が10%増しだ。

電話に出ようとするだけでこの有様。七海のアレやらセカンドメルトのソレやらが余程深いトラウマになってるみたいだ。

……もうメールでいいじゃんかよぅ……この際魔法とかメルヘン技術使ってやってもいいからぁ……!

 

 

「……ん、ぎ……ぃぃ……!!」

 

 

そんな呪詛を心の中で吐きつつ僕は通話ボタンに指を乗せ、その手の形を維持したままスピーカーを右耳に押し当てた。

……未だに続いてる電子音が鼓膜の傍で鳴り響いて、その煩さに軽く頭痛がするよ。

さらに、口元のマイクに反射する僕の吐息の音が電子音と合わさって不快な旋律を奏でてる。不快指数20%増し。

 

―――そうして、そんな不協和音をBGMにして、

 

 

 

「……ぅ、ぉぉお。ぉおぉぁあッ!!」

 

 

 

―――擦れた声

 

萎縮しそうになる声帯から無理矢理声をひねり出し、自身を鼓舞して―――

 

 

「――――――ッ!!」

 

 

僕は、勢いを込めて通話ボタンを押し込

 

 

 

 

『早く電話にでなさいよバカァァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!』

 

 

 

 

「――――――ッツェァアァーーーーーーーーーーーッ!?」

 

 

轟いたのはアーニャの怒声。

 

通話ボタンを押し込んだ瞬間右の鼓膜から左の鼓膜まで突き抜けるソプラノヴォイスが貫通。ぶち破れる鼓膜とぶっ壊れるカタツムリ。

僕の聴覚機能を根こそぎ抉り取ったその声は、狭い室内に反響して僕の平衡感覚をも完全に破壊した。

 

僕は堪らずもんどりうって椅子ごと左方向へと倒れこみ、どたんばたんと喧しい騒音を奏でる。僕自身には聞こえなかったけどさ。

……今度はPCを巻き込まないで済んだみたいだけど、その代わりなのか何なのか左肩を変な風に床に打ち付けたみたいだ。左肩周辺に鈍い痛みが走ってるよ。

 

 

「お……おご、おご、ご、ご……!」

 

『さっきからずーっとまってたのに! 何で出ないのよっ! あなたどうせ部屋から出ないでしょっ!?』

 

 

耳と、肩と、頭の奥。三つの痛みに耐えている僕に、頭の横に転がった電話の子機からアーニャの文句が垂れ流されてくる。

頭を動かし涙の滲む瞳でその方角を見てみると、こちらの方角を向いた子機の表示画面に、デフォルメされたSDサイズのアーニャが怒っている姿が映し出されていたよ。

 

……もちろん黒いドット絵で。

 

 

「な、なん……でぇ、ッカネの、筈じゃ……」

 

『わたしも一緒にいたのよ! でもネカネおねえちゃん、タクが電話に出てくれないって泣きそうだったからっ! あなたに文句いいたくて代わってもらったの!』

 

 

搾り出すような声、かなり小さな声量だった筈けどアーニャの耳には届いたらしく、ぷんすかと可愛い擬音の付きそうな声でそう反論してくる。

ドット絵の方も両手を上下に振り回して、怒っている事をあざといほどにアピールしてるよ。

 

……なるほど、あの魔方陣の赤い色は電話機ではなくアーニャの怒りを表していたという訳でしたか。

最悪なコンディションの中、僕の冷静な部分が感情を無視して納得。こんな事になるんだったらはやく出てれば良かったよ、くそ。

 

 

「……ぐ、く」

 

 

とりあえず火病を起こしてるアーニャの事は一旦さて置き、僕はまだふら付いてる頭を抑えて左右に振って。

倒れた椅子を頼りに立ち上がり、その途中に手を伸ばし電話を回収する。何か手の中からぎゃんぎゃん叫び声がひっきりなしに響いてくるけど、僕はそれをスルー。

そして椅子を起こそうと背もたれの部分に指を引っ掛けようとしたけど……片手が電話で塞がってる事に気づいて、手を引っ込めた。

 

……三歳児の筋力では椅子を持ち上げるのにも結構な力が要るんだ、片手だけでどうにかできるとは思えないね。

 

しょうがないから椅子はそのままに放置。小さく聞こえるアーニャの喧しい説教を聞き流しつつ部屋の隅に置いてあるベットに向かい、仰向けに寝っ転がった。

……まだバランス感覚がおかしい。見上げる天井がゆらゆらと揺らめき、車酔いに近い感覚を受けるよ。

 

 

『―――だから、ねぇちょっと! わたしの話きいてるの!?』

 

「……き、聞い、てるよ……」

 

 

     *      *

  *     +  うそです

     n ∧_∧ n

 + (ヨ(* ´∀`)E)

      Y     Y    *

 

 

『……ほんとにぃ? じゃあさっきわたしが何て言ったか』

 

「そ……それはもう、良いから。……ネ……ッ、ネカネ、から。何か話あるん……っじゃないの?」

 

『ネカネ【お・ね・え・ちゃ・ん】!!』

 

 

僕のネカネへの呼称にまたも噛み付き、大声を出す。

別にお前には関係ないじゃないか、と口をついて出そうになるけど、それを堪える。だって言い返したらまた面倒くさい事になるのは目に見えて以下略。

 

 

『もー……!!』

 

 

……アーニャへの返答を無言のままで避けていると…………やがて諦めたのか、通話口の向こうで溜息の音が聞こえた。

ちらりと電話の表示画面へ目を向けてみると、SDアーニャも溜息を吐く様な動作をしていたのが目に付いたよ。

 

 

『……帰ったとき、おぼえてなさいよね』

 

 

最後に不貞腐れた声音でそう言って、アーニャの声が途絶えた。忘れた。

ノイズのような音が混じり、次にアーニャと誰かが会話する声がうっすらと聞こえて―――電話の裏側の魔方陣が放つ光が淡い金色へと戻る。

 

 

「え、あ、ちょっ―――!」

 

 

そして―――

 

 

『あ……えーと……ネ―――』

 

 

―――ザリッ

 

そうして一瞬アーニャより少しだけ大人びた声が―――ネカネの声が聞こえた気がしたけど、直ぐにまたノイズが走り彼女の声が遠くなり。くぐもって聞こえてくるのは、アーニャとネカネが何事かを言い合う声。

ぎこちない動作で電話を見れば―――やっぱりというべきか、SDサイズのネカネが映っていたよ。何か画面外から物言いみたいなエフェクトが出てて、それに耳を傾けている感じだ。

 

……来た。来てしまった。

 

憂鬱な気分で溜息をひとつ。凝固した身体が弛緩する。

アーニャと何を話しているのは分からないけど、とりあえず深呼吸。どっくんどっくん煩い程に脈動してる心臓を感じながら、今のうちに精神だけでも落ち着けておく事にする。

 

……僕がネカネと話す時は何時もこんな感じだ。

 

自分でも怖がりすぎと思わないでもないけど、これでも随分と良くなったほうだと思う。だって吐いたりしてないし。

というか、これは電話越しっていう事も結構関係しているんじゃないかな。……うん、多分。

僕は思考を明後日の方角へと散らしつつ、深呼吸を続ける。そして―――

 

 

『え、と……タクミ? お姉ちゃんだけど……聞こえてるかしら?』

 

「……う、ん。……き、きこ……聞こえる……」 

 

 

アーニャとの話が終わったのか、ネカネの声が再び耳に届いた。

……今度は大丈夫。必要以上にテンパる事も無く、僕基準では落ち着いた感じでの会話が出来た。

ちょっとぎこちない感じがあるのはまぁ……仕方が無いと割り切るべきだろう。

これ以上離れようとすればネカネが追ってくるし、近づこうとすれば僕の恐怖心が邪魔をする。

 

―――僕とネカネの関係は、こんな感じでぎこちなさが目立つくらいが、歩み寄れる/逃げ出さない限界点なんだ。

 

 

『その……げ、元気? 風邪とか、ひいてない?』

 

「う……うん。まぁ、……な……っんとか……」

 

『そう……? なら、良いのだけれど…………』

 

「……………ん……」

 

『…う、ん………と…………』

 

「…………っちは?」

 

『えっ?』

 

「っそ…………そ、っち……は……」

 

『!……あ、ぅ、ええっ、私……お姉ちゃんのほうは大丈夫! ちゃんと気を付けてるし……えと、アーニャも元気だし……!』

 

「…………………そ、そう。…………なら…………」

 

『ええ、わた……お姉ちゃん達なら、心配ないから…………ありがとう、ね?』

 

「…………ん…………」

 

『……えと、それで……その」

 

「…………う、ん」

 

『…………その…………』

 

「…………………」

 

『ご、ご飯とか……ちゃんと食べてるの? その、欠食……えと、朝昼晩って、食べてる?』

 

「……っい、いち、一応……は。……うん…………偶、に……抜くこと、ある、けど」

 

『……そ、そう……ちゃんと食べなきゃダメよ? 身体とか……壊しちゃうから……』

 

「……………ん」

 

『ええ…………。…………えーっと…………』

 

「………………………………ぅ…………………」

 

『……あ、お姉ちゃんとアーニャ、近いうちに帰れると思うのだけれど……その時に、何か……』

 

「………………ぇ…………」

 

『……えと……何か、欲しい物とか、買っていけるかな、って………………、何か、ある……?』

 

「……ぇ……ぅ………ぁ、ッコー……ラ……」

 

『え? …………あの、何て?』

 

「……コーラ、っが、良い…………買って、くるん、っなら」

 

『あ……うん。……ちゃんと、買っていくわね』

 

「…………ぅ……ん………」

 

『……………………………』

 

「……………………………」

 

『………………その、他には……?』

 

「…………特に、無い……」

 

『そ、そう…………』

 

「…………ん…………」

 

『…………その………えっと…………………』

 

「…………っぅ……」

 

『……その……………………』

 

「………………………………………」

 

『………………………………………………』

 

「………………………………………………………」

 

『……………………………………………………………』

 

 

…………これはひどい。

 

明確に壁を感じる会話。僕とネカネの両方が、お互い違う感情からどもり、上手く話す事ができない。

会話の内容を選択するのに時間がかかって、沈黙の時間が多くて気まずい雰囲気が半端じゃないよ。

 

 

「………………………………………」

 

『………………………………………』

 

 

何時までも続く沈黙。直接顔をあわせての会話よりも間が持たない。

 

……僕の電話への苦手意識も大概だけど、どうやらネカネも電話……というか、機械関係が苦手みたいだ。

 

そう言えばPCを買って貰った時も、機種の指定からプロバイダの設定まで全部商人の人に任せきりだったね。

本人的には色々調べて頑張ってたみたいだったけど、どうしても分からなかったみたいだったよ。涙目でカタログ読み込んでたネカネテラモエス(現在主観)

 

……最終的に型遅れのPCが届いた時に、僕は激怒して割と酷いこと言っちゃった記憶があるけど……今となっては悪い事したと思ってる。

基地外じみた言動して、気を遣ってくれてるのに酷い事言って、物をねだったと思ったら届いた物に文句を言う。まるでDQNじゃないか。

 

 

「………………………………………」

 

『………………………………………』

 

 

……というか、なんで電話なんかして来るんだろう。お互いに電話が苦手だっていうんなら、手紙でも良いじゃないか。

 

多分電話してくるのは、僕の声を聞きたいとかそんなこっ恥ずかしい理由なんだろうけど……それなら確か、手紙に魔法をかけた奴でも同じ様な事が出来るって話だし。

何でも、自分が喋る姿を立体映像にして手紙に籠めるとか何とか……ホログラムみたいなやつかな? 酔っ払ったスタンから聞いた話だから良くワカンネ。

とにかくそんな便利な物があるんなら、無理して電話なんて使わなくても―――

 

 

「…………あれ?」

 

『!…………な、なにかしら?』

 

 

ふと、声が漏れた。

それに反応してネカネが問いかけてくるけど、僕はそれを無視して考えを巡らせる。

 

 

(……この部屋に電話?)

 

 

疑問。

 

何で? 電話が苦手な僕の部屋に? 機会が苦手なネカネの家に? あるのはラジオだけで、テレビも無いのに。

……置く? わざわざ? それ了承したの? 僕が?

 

……それは無い。もし僕の部屋に電話を置こうとすれば、絶対僕は拒否するね。PC以外の外部からの被アクセス方法を僕が自分の空間に置くはず無いよ。

 

 

 

************

 

 

 

薄暗い室内、埃の積もった棚にダンボールの山。

ベットがあって、布団があって、達磨ストーブがあって、椅子があって……作業用の机の上には、光を放つPC。

 

 

―――それが、この部屋にある全て。

 

 

 

************

 

 

 

―――なら、今実際に握ってるこの電話機は?

 

―――この電話、何時置かれたっけ?

 

 

 

「……ね、ぇ」

 

『あ……タ、タクミ、どうしたの? さっきの「あれ?」って―――』

 

「……こ、この……家に……さ。……っで、電話なんて、あった…………っけ……?」

 

『……? ……え、ええ。でなければ、今こうしてお話できてないし―――っ』

 

 

―――耳に当てた電話機から聞こえるネカネの声が、一瞬何か痛みを孕んだ物に聞こえた気がした。

 

 

「……な、何……、何か……あ、ったの……?」

 

『……いえ、何でもないわ。ちょっとこめかみがピリッとしただけだから』

 

「…………そ、そう…………」

 

『それで……その、何で今になって電話のことなんか……?』

 

「…………ん……ちょっと、きに、気に……なって……」

 

『……?』

 

 

疑問の雰囲気を出すネカネをよそに、僕は首を曲げてPC横の電話の充電器を見る。

 

四角形をしたプラスチック製の置物、その真ん中に子機を置く溝があって、中にあるのは銀色の金属の突起。側面の一部に穴があって、そこから黒いコードが延びていた。

それを目で追っていくと―――机の上から床に落ち、部屋を斜めに横切る形でベットの裏に回り込み、コンセントへと向かってる。

 

 

「……………………」

 

 

……床に、落ち?

 

コードなんて、床に這ってたっけ……?

 

 

************

 

 

僕はベッドの上から降りて、のろのろとPC前の椅子に向かって歩き出す。

 

足元にはアーニャが壊した扉の残骸が散らばっており、細かい木片が広範囲に渡ってばら撒かれてて、割と酷い有様だ。

一見何も落ちてない場所に見えても、靴を一歩踏み出す度に木の欠片が砕け散る音が響くあたり、その拡散具合が分かるだろう。

 

 

************

 

 

 

「……………………」

 

 

いくら思い起こしても、僕はこの部屋に電話を置いた記憶が無い。

それどころか電話の姿を見た記憶も無ければ、それを使った記憶すらも無くて―――

 

 

「……っ」

 

 

……いや、ある。あるよ。やっぱりある。

 

ネギの記憶には、僕が魔法学校にいるアーニャやネカネ、スタンと電話で会話してて、こう、今と同じくこの部屋で、子機を握り締めて―――

 

 

――――――ザリッ

 

 

 

「……っぎ……!」

 

『……タクミ……?』

 

 

―――いや、やっぱり無いよ。

 

だって子機が設置されてたのって、この部屋じゃないか。

ここ、元は―――僕が引き篭もる前は物置だったんだ。わざわざ物置に電話を置く奴なんている訳が、

 

 

――――――ザリッ

 

 

……いや。

 

 

「あ……え……ぇ」

 

 

違う、やっぱり使ってたのは子機じゃなくて、親の方だった。

そうだ、居間の、暖炉の横に置いてあった電話機で―――

 

 

 

************

 

 

居間へ続く扉を開いて、今は沈黙している暖炉を通り過ぎる。

暖炉の中にはまだ新しい木切れが燃えやすいよう、キャンプファイヤーの時に燃やすアレみたいにかっちり組まれていて、直ぐに使えるようにしてあった。

 

 

************

 

 

「……あれぇ……?」

 

 

……あったっけ? 確か無かった気がするけど。

 

 

―――記憶の混乱。

 

頭の中がごちゃごちゃになってぐるぐる回り、訳が分からなくなる。

僕の記憶と、ネギの記憶に―――いや、【僕の覚えているネギの記憶】と、【今覚えているネギの記憶】にズレがある。

今までに体験してきた出来事と昔に体験していた出来事の辻褄が合わないんだ。情報量が増えている。

 

―――増えているのに、昔の事が―――ネギの記憶が、しっかりと思い出せないのは、何でだろう?

 

 

「…………」

 

 

……それは例えるならば、文字と映像の関係に似ているよ。

【電話をしていた】という記述はあるんだけど、【何処でしていたのか】という場面が思い出せないんだ。

 

……それはまるで、僕の【設定】としての過去を思い出そうとした時みたいだった。

 

 

「……何、で」

 

 

―――何で、この部屋に電話があるんだ?

 

―――ネギの記憶には電話を使ってた記憶はあるけど、僕が覚えてる限り記憶にはそんな情報は無かったはずだ。

 

―――僕が覚えてるネギの姿と、今記憶されてるネギの情報が、違う。

 

―――なのに、どうして僕は今までそれを疑問に思っていなかったんだ?

 

 

『ネギ? もしもし? 何かあったの?』

 

『(ちがうってばおねえちゃん、ネギじゃなくて、タークーミー!)』

 

「…………」

 

 

耳元から二人の声が聞こえてくるけど、僕はやっぱり無視をして。ベットに寝転がった体勢のまま、天井の木目を眺める。

 

……普通なら、普通の僕なら、記憶の混乱を不気味に思って、グダグダと考え込んだり思いつめたりするんだろう。

僕がニュージェネに巻き込まれたときの様に、僕が梨深から自分の秘密を知ったときの様に。

 

―――僕が【ネギ】となってしまった直後の様に、ね。

 

 

「…………」

 

 

……でも実際は、心は穏やかに凪いでいた。

 

確かに混乱はしている。自分の記憶に違和感を抱き、訳が分からなくて頭の中はぐちゃぐちゃ。

思考能力が低下して、まともに物を考えられなくなってるよ。

……だけど僕は、その違和感を不快には感じていなくて―――むしろ、その違和感を認識している事に大きな安心感を抱いていて。

 

 

「…………何、で?」

 

『え? ……えと、何で。って……何がかしら?』

 

 

……何でだろう?

 

ネギとしての立場には、僕のディソードについてはあんなにも激しい拒否感を抱いているのに。

どうして僕は、記憶のズレって言う本来忌避すべきはずの、僕の存在を揺らがせるような事態を受け入れていられるのだろう?

 

過去、僕が妄想だった事が分かった時には、自分が崩れていく様に感じて発狂さえしかけたというのに……あの時とは違って、自身の存在が脅かされるという恐怖は感じていないんだ。

 

―――違和感が生じている事に、違和感を感じていない。

 

……矛盾してるじゃないか、そんなの。

 

 

「…………イミフ、なんですけど」

 

『!!…………』

 

 

……頭痛がする。

 

昔の事を、ネギの事を思い出そうとする度に僕の頭を鈍い痛みが走り抜ける。

ズキズキと、ジクジクと。ネットをやりすぎた日の痛みとは別の鈍痛だ。まるで【ネギ】の過去の事を思い出そうとするのを【何者か】が阻止しようとしているみたいだよ。

 

僕は目を閉じて、何時かのネカネの様にこめかみに左手を当てる。

目を閉じた事で、より痛みがはっきり認識できるようになったよ。

 

 

「…………」

 

 

どくん、どくん、と心臓に合わせるように脈打つ痛み―――だけど、その痛みを好ましく思っていて。

 

そうして僕はその痛みを感じ続ける。

仰向けのまま、目を閉じて。安らかな気分に浸りながら、しんみりと。

右腕の電話のことなんか忘れて、ネカネの事も忘れて。

 

 

―――僕はただ、心地良さを感じていたんだ。

 

 

 

 

……数秒後。

 

僕の「イミフ」の一言に傷ついて泣いちゃったらしいネカネを見たアーニャがまた大声で叫んで、今度こそ僕の三半規管を完膚なきまでに叩き壊すその時までね。

難聴になったらどうしてくれるんだよ、くそ。




■ ■ ■

じーわじわ。


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第7章  帰還

* 本編に絡まないけどフレーバー的別作品クロス注意。


———メルディアナ魔法学校。

 

そこは拓巳らの住む山間の村より離れたウェールズの街中にある、その名の通り魔法使いのための学校である。

 

木造の校舎と、石造りの廊下。そして入学式や卒業式の行われる大聖堂。

それぞれ学年別に分かれた教室のほか、図書館や運動場。更には寮施設まで揃い踏み。しかし校舎自体は然程大きくは無く、周囲に張られた認識阻害の結界と合わさりウェールズの街中にごく自然に馴染んでいる。

更に加えるならば、魔法の授業を行う際に起こるであろう不測の事態を予測して、内外からの衝撃・魔法による効果を無効化する結界も同時に張られているため、外に魔法関係の機密が漏れる可能性も限りなく低い。

おそらく、一般人でその場所を魔法学校……いや、何か特別な学校だとすら見破る者は皆無に等しいだろう。

 

しかし旧世界に住む魔法使い達……地球に住む魔法関係者にとってはこの学校ほど有名な魔法学校は存在せず、毎年多くの見習い魔法使い達がこの学校に入学しようと願書や紹介状を手に訪れているのである。

それにはやはり、この魔法学校に通っていた魔法使いの中に、【英雄】ナギ・スプリングフィールドの名があるという事が大きいのだろう。

 

……事実としては【通っていた】というだけで【卒業した】という訳ではないのだが……まぁ校長自体も【スプリングフィールド】の血族に連なる実力者であり、設備も教師の質も魔法学校としては結構な上位に位置している。

卒業生に実力が付くのは間違いが無いため、ミーハーな者達が興味本位で入学したとしても特に後悔はしないだろう。

学校側としても特に何か対策をする気も無いらしく、生徒が増えるのならばそれで良しと放置している状態だ。

 

さて、そんなメルディアナ魔法学校だが———その人気とは裏腹に倍率は低く、むしろどんな境遇にある者でもやる気さえあれば入学は可能である。

入試試験は基本的な学力と人間性を調べるのみ。点数による合否判定は無し。犯罪歴があろうとも【魔法を学びたい】という気持ちがあれば、色々と制約は付くものの十代後半の年齢でも原則OK。

さらに遠方からの生徒のための寮設備を始めとして、金銭に余裕の無い生徒に対しては奨学金制度や生活支援、教材の貸し出し。果てはバイト先の斡旋まで請け負っている。

 

———魔法とは、一歩間違えれば命に関わる技術である。

 

独り善がりな鍛錬を続けたところでそれが実を結ぶことは稀であり、最悪周りを巻き込んで暴走。甚大な被害を出してしまうかもしれない。

そのため魔法についての知識を請う事は、魔法を使うものにとって最早義務でもある。魔法を使う際の心得、制御技術、呪文……。

 

……良い所の名家などではその家独自の特殊な魔法体系を築き、一子相伝に近い事を行っている場合もあるが、多くの魔法使い達はそうではない。

 

個人の才能に左右される魔法という技術を、個人で完璧に制御できるまで修める事はほぼ不可能に近い。

だからこそ魔法学校という場所が存在し、暴走の危険を少しでも減らすために魔法を学ばせるのである。

そこに集う多種多様の魔法教師達が、同じく多種多様の生徒達に対応する。生徒達は自分にあった師を見つけ、自分に最適な魔法を学んで行く。

 

全ては「魔法」を正しく使用する人間を育てるため。「魔法」を正しく理解する人間を育てるため。

 

———魔法使いに「魔法」を教える。メルディアナ魔法学校は、その意識が他の魔法学校より少しだけ高いのだ。

どんな境遇の者でも、努力すれば皆等しく魔法についての知識を修めることが出来る学校———それが、メルディアナ魔法学校校長の目指す学校だった。

……その代わり、努力の足りない人間が授業についていくことが出来ずに中退。他の魔法学校へと転校して行くというケースがままあるのだが。それはさて置き。

 

そうして入学した魔法生徒達は、大まかに分けて三つのグループに区分けすることが出来る。

———【才能のある者】【普通に学校生活を楽しむ者】【サボり落ちぶれていく者】の三つだ。

 

そして、【才能のある者】の内、努力をする精神も兼ね備えて居るものは、より早く魔法社会に飛び込めるよう修学期間を縮めることが出来る。

 

———ネカネ・スプリングフィールドは、その【才能のある者】の内、努力をする精神も兼ね備えた少女であった。

 

ネカネは入学当初より優秀で、将来を有望視されており教師の信頼も厚かった。

その為以前から修学期間の短縮を勧められていたが、当時所属していたクラスの委員長であった為に、責任感の強い彼女はそれを辞退していたのである。

 

……しかし、弟に異変が起きた事を契機として彼女は修学期間の短縮を決意。

現在は普通のクラスとは別に学年や年齢を無視した特進クラスに纏められ、密度の濃い授業を受けていた。

 

故郷の村の外れにある離れにて、一人で引き篭もっている弟に出来る限り寂しい思いをさせたくないから。

追い詰められた様子の彼の傍に居てやりたいと思っているから。

……そして何より、自分自身が弟と一緒に居たいと強く思っているから。

 

———勉強して、勉強して、勉強して。

 

一分一秒でも早く卒業し、弟と一緒に過ごすため。

一分一秒でも長く休暇を取り、弟の傍に行きたいとの思いで。

 

———勉強して、勉強して、偶にネギ分を取り、また勉強。

 

そう———全ては彼女の愛する弟のため。だからこそ、彼女は才能に胡坐をかく事無く努力し続けられるのだ。

 

……まぁ、【才能のある者】には癖のある者が多い。

教師すらをも凌駕する才を持つ代わり、良識と言う物をどこかに投げ捨てているような連中ばかりなのだが……そんな中でやっていけるのも、弟への想いの深さ故なのだろう。

 

科目は医療魔法や付与魔法といったサポート中心の物に絞り、魔道具の製作や錬金術についても学び。

卒業後は修行を経て弟と二人暮し、医療魔法使いとして村で活動しながら、自作した魔道具や錬金アイテムを商人に売却しつつ穏やかに暮らしていく事が当面の彼女の夢である。

 

未だ十代の前半である少女の思考としては似つかわしくないのかもしれないが、それだけ弟の事を———ネギの事を想っているという証左であろう。

 

…………

……………………

………………………………まぁ、ちょっと度が過ぎている感じもしなくは無いが。

 

———嗚呼、早くネギに会いたい。

 

———早くネギの顔を見たい……!

 

 

彼女の頭を覗き見る機会があるならば、中身はおそらくこんなもの。

 

以前ならば、ネギがネカネを完膚なきまでに避けていたために(断腸の思いで)自重していたのだが、最近は彼が歩み寄りの姿勢を見せているような気がするため、彼女のボルテージは天井知らず。

勉強にもより一層の力が入るというものである。

 

と、言うか。このブーストの所為で彼女の実力は既にどえらい領域にまで至っていたりなんかして。

既に錬金魔法と医療魔法の系統においてはネカネに適う者など学校内所か世界中の魔法使いを含めても存在しないレベルにまでその年にして既に達している始末。

その為ネカネは学校が認める限度を越えたより一層の修学期間の短縮を希望しており、さっさと見習いの修行に行かせろと実の祖父をせっついていたのであった。

 

——————ネカネ・スプリングフィールド。

 

とどのつまり、一言で言えば。筋金入りのブラコンなのだった。

 

 

 

……ちなみに。

同じくアーニャもネカネを見習い頑張っては居るのだが……如何せん入学して未だ一年目。

その頭角を現すには、もう少しの時間がかかるのかもしれない……。

 

 

 

*********************

 

 

 

———冬も終わりに近づいた2月の半ば。ウェールズの町には未だ寒さが残っていた。

 

街道には雪が溶けずに残ったまま。街中を歩く人々は皆がコートやマフラーなどの防寒具を身に付け、歩道に積もった雪を踏みしめ歩いていく。

建物の隙間を縫う風も冷たさを含み、首筋を撫でるそれらに人々は襟元を正さずにいられない。

 

……おそらく昨夜にでも雪が降っていたのだろう、ふと見上げれば街灯の上にも雪が積もっており、照明部分を覆い隠していた。

そして日差しに炙られ柔らかくなったのか、積もった雪がずるりと滑り下に落ち。街道の雪と混ざって僅かにその総量を増していく———

 

———そうした冬の残滓が強い時期にあって、メルディアナ魔法学院はそれとは逆に浮かれた空気に包まれていた。

 

2限目の終盤、あと何分もしないうちに正午の鐘が鳴るだろうという時間帯。

生徒達は皆が皆、大なり小なりそわそわと身じろぎを繰り返し、落ち着き無く過ごしていた。

教室にある丸時計に注視して、午前中最後の授業が終わるのを今か今かと待ちわびているのだ。

 

ある者は机に向かいながらも目線だけは時計に注ぎ。

ある者はさり気なさを装いつつも、チラチラと目線を時計に彷徨わせ。

そしてまたある者は、未だ授業中にも拘らず既に勉強道具を仕舞いつつ、強い視線を時計に向かって照射中。

 

それには授業を行っている魔法教師も微笑ましげに苦笑を零し、中には少し早めに授業を切り上げる者も居た。

 

カチ、カチ、カチ……

 

時計の長針がゆっくりと時間を刻み、短針がそれに輪をかけた速度で12の数字に向かっていく。

生徒達はそれを目を皿にして見守り、教師達はそれをみて呆れたように肩をすくめて。

そして———

 

カーン……カーン……カーン……!

 

———鐘が鳴り、教師からの号令を終えた瞬間、生徒達は歓声を上げたのだった。

 

 

 

時は2月の半ば、即ち———春季休暇の始まる月。

今日というこの日はメルディアナ魔法学校の終業日であり、夏休みと冬休みに続く記念すべき長期休暇の幕開けの日なのである。

 

終業式や卒業式などの学校行事があるため、春休み中でも何日かは登校が強制されるのだが休みは休みに変わりはない。

幾ら「立派な魔法使い」を目指すべく集まった者たちといえども、やはり学生。甘美なる長期休暇の前にはどうしても浮かれざるを得ないのだ。

 

遊びの予定、帰省の予定、魔法修行の予定、大掛かりな魔道具の製作への取り組み……。

生徒達は教師達の連絡事項や諸注意などを聞き流しつつ、休暇中の予定に思いを馳せて。

友人達と予定を話し合い、或いはスケジュールの書かれた手帳とにらめっこしつつ、思い思いの過ごし方を夢想する。

 

それは全ての学科、学年変わりなく。優等生も、落ちこぼれも。

 

———そして、ネカネやアーニャにとっても変わりないのであった。

 

 

 

「———ああ、ネカネ君。君は今日の放課後は開いているかな? 暇であるかな?」

 

「はい?」

 

 

特進クラスの教室内。

例に漏れず浮かれた雰囲気の充満した室内で帰宅の用意をしていたネカネは、クラスメイトの男子生徒にそう声をかけられた。

 

如何にも英国紳士といった風貌のその級友は、クラスの中でも比較的まともな部類に入る人間だ。

 

色々とおかしな生徒ばかりの特進クラスにおいて、彼は弟関連の事を除けば極めて常識人であるネカネとは相性の良い存在である。

年は少し離れている物の、彼自身は気さくで紳士的。

他の級友連中の濃いキャラクターに振り回されている彼女の中では、彼は仲の良い友人と位置づけられている生徒であった。

男子生徒は手に持ったステッキをくるりと回し、話を続ける。

 

 

「うむ、せっかく春休みに入ったことであるし、級友全員でどこかに遊びにでも出かけようとね。そう、皆で遊びに行こうかという計画があるのだよ。

 出来れば君にはその話し合いに参加して貰いたいと。加わって貰いたいと思ってね。」

 

 

もはや癖になっているのか、もってまわった言い回しで彼はネカネにそう提案する。

……クラスメイトの中には、今学期いっぱいで卒業してしまう者も居る。この計画はおそらく、そんな彼らへの思い出作りを目的としているのだろう。

彼女としても、その様な計画があるのならば喜んで力になりたいとは思うが———

 

 

「……ごめんなさい。私、今日中に実家に帰るってネギに———弟に言ってありまして。だから放課後に残るとなると、バスが……」

 

 

……そう、既に以前電話した時、今日この日にネギの下へと帰ると約束してしまったのだ。

ネカネの故郷は山中にあるため、帰るために出るバスの本数が少なく、一本逃せば最悪到着時間が深夜になってしまう。

 

確かに深夜であろうと「今日中」は「今日中」であろうが、時間が遅くなればそれだけ弟に心配をかけてしまうかもしれない。心配をかけてしまうかもしれない(二回目)。

最近は少しづつ態度が軟化してきた弟だが、そういう屁理屈を捏ねればまた硬化してしまうかもしれない。約束を破るなど勿論論外だ。

自他共に認めるブラザーコンプレックスであるネカネがそのような不手際を許せるだろうか否許せるわけが無い(一人反語)。

 

そのため大変申し訳ないとは思うが、長引く恐れのある話し合いに参加することは出来ないと答えた。

 

 

「……ふむ、そうかね。まぁそれならば仕方無し。ああ、仕方が無いとも。私としても無理強いはしたくは無いのでね」

 

 

まぁ出来れば、彼らを纏めるのを手伝ってもらいたかったのだが。

男子生徒はネカネに聞こえないようにそう呟いて、春休みに入った事で騒がしいクラスの中をぐるりと見回した。

ネカネもそれに釣られて、彼の目線を追いかける。

 

とある筋骨隆々の男子生徒は、小柄な男子生徒と殺し合いにも似た喧嘩を繰り広げ。

とある色黒の男子生徒は、腐乱死体の生徒と【あふあふ】。

とある四本腕の男子生徒は、それぞれの手に持ったジャパニーズ・ニホントウに打ち粉を塗し。

とある男子生徒は、小学生にしか見えない女子生徒にちょっかいをかけて吹き飛ばされ。

それらを戒めるはずの自称クラス委員長は、机の上をお立ち台としてエレキギターを掻き鳴らし、耳の長い女子生徒に引っぱたかれて先程の男子生徒と共に窓の外へと吹き飛んでいった。

 

惨状。

これで全員が全員成績優秀者であり、その能力においては教師すらをも上回っているというのだから救われない。

もう魔法使いの世界も長くないのでは無かろうか。

 

 

「…………ごめんなさい」

 

「……いや、なに。気にする事は無い。気にする事はないとも」

 

 

ふっ……と、ニヒルな笑みを浮かべ男子生徒はサムズアップ。

ネカネは心の底から申し訳なく思ったが、やはり弟の事が第一だ。

今日の話し合いは無理だが、それ以外の段取りは誠心誠意手伝わせてもらうと男子生徒に告げ、荷造りの終わったカバンを手に立ち上がる。

 

そして最後にもう一度謝罪の言葉をかけ、寮に帰省用の荷物を取り行くべく教室の出口へと向かい———

 

 

「———ああ、そうだ。少し待ちたまえ」

 

 

ふと、何かを思い出したかのように呼び止める男子生徒の声を受け、足を止める。

振り返ってみると、男子生徒は懐をごそごそとまさぐり、何かを取り出そうとしてるようだった。

 

 

「? なんですか?」

 

「うむ、以前に君が言っていた弟君の名前の事なのだが———」

 

「!!」

 

 

ネカネの顔つきが、真剣な物へと変わる。

 

そう。確かに以前、彼女はこの男子生徒に一つの頼み事をした。

これまでにあったネギとのあれやこれやですっかり記憶の彼方に置き去りにしていたが、彼の言葉でその事を思い出す。

 

ネカネ自身も書店や図書館等で調べてはいたのだが、アナログな方法では如何せん限界があった。

そのためクラスの中で一番親しく、よくPCゲームで遊んでおりネットに詳しそうなこの男子生徒に軽くでもいいから調べてもらうよう頼んだのである。

別に村人に頼んでも良かったのだが、滞在期間を考えると学校に居る人間の方が何かと都合が良かった、と言う事もあった。

 

完全に男子生徒の方角へと向き直り、その一挙手一投足をそわそわと見守るネカネ。

男子生徒はその光景に苦笑一つ漏らし、懐から紙の束を取り出し———彼女へと手渡した。

 

パソコンから印刷されたと思しきその書類の表紙には、題がしっかりと黒文字で表記されている。

 

 

「———此処と向こう、二つのネットで検索した物を纏めた物だ。せっかくだ、バスの中でゆっくりと。そう、ゆっくりと読み解くといい」

 

 

———その紙に書かれた題は、「ニシジョウタクミという名についての情報」

 

それは、彼女の愛する弟がある日を境に突然名乗り出した名前の調査書であった。

 

 

 

*********************

 

 

 

———故郷へと向かうバスの中。

その後部にある座席に、ネカネとアーニャは二人並んで腰掛けていた。

 

レトロな雰囲気を漂わせるバスは、山中にあるにしてはそれなりに舗装されている道路を進み。

時折石か何かを轢いているのか不規則に車内を揺らしながら、目的地へとひた走る。

窓の外に見えるのは、青の少ない枯れた木ばかり。よくよく見れば枝の先に芽が生えてきた事が分かるだろうが、その景色は結構なスピードで流れさって行き、それを確かめることは出来なかった。

 

バスの内部に居るのは、運転手とネカネたちを含めた三人だけだ。

流石に故郷がこんな辺鄙な山の中にある者は少ないらしく、また社会人にとっては今日が平日だった事も幸いしてかバスの中は寂しいものである。

 

 

「はてさて、タクの奴は元気にしてるかな〜」

 

 

バスの窓際の席に座るアーニャは、春休みに入った事と自分の家に帰れる事が嬉しいのか、上機嫌で窓の外を眺めつつ鼻歌を口ずさみ、タクミ———ネギの事に思いを馳せる。

彼女はまるで出来の悪い弟を案じる姉のような表情で、いつも彼に対して浮かべている怒りの表情はなりを潜めていた。

顔をあわせれば喧嘩ばかりのアーニャだが、それでも一応ネギの事は気にかけているらしい。

彼女は本当はクラス全体での予定があり、もう少し後の日にちに帰郷する筈だったのだが、それを蹴って帰郷を優先させた事からもその事が伺える。

 

……しかし幾ら窓の外を眺めていても、見える物は枯れ木ばかり。

アーニャはやがて飽きたのか、隣に座るネカネに何かお話をしてもらおうと考える……が、ネカネは何やら難しい顔で書類に目を通しており、我がままを言うのも気が引けた。

 

 

「……タクってば、どうせまたインターネットのゲームでオカマやってるんだろうな〜」

 

 

チラッ

 

……そう擬音が付きそうな素振りでもって、ネカネにとってちょっと看過できないであろう発言をするが———当の本人は男子生徒から預かった書類を読む事に夢中になっているらしく、何の反応も返ってはこない。

アーニャはその様子を構って欲しげな横目で見つめるものの、真剣に読み物をしているネカネの邪魔をするのも申し訳ないので、再び窓の外を眺める事にした。景色は、やっぱり木ばっかりでつまらない物だったけれど。

……時には我慢する事も、正しきツンデレに必要な事柄である。

 

 

 

———ニシジョウタクミ。

 

それはネギの様子がおかしくなったと同時、彼が名乗りだした正体不明の名前だ。

推測するに、日本風の名前。ネギの発音から「ニシジョウ」までが名前で、「タクミ」がその姓だと考えられ———いや、日本風だから逆の可能性のが高いか。

 

まぁとにかくその名前はある日突然何の脈絡も現れ、ネギは何処からその名前を仕入れてきたのかが全くもって分からないのである。

 

家に置いてある本の中で日本を取り扱った物はないはずだし、animeもmangaも家には置いてない。

ラジオで日本関係の特集をやっていたのかとも思ったけれど、ネギは基本ラジオを聞かないのでその可能性もゼロに近い。

テレビはまだ家には無いし、村の中に日本人や日本かぶれの住人が居るわけでもない。

 

———本当に、何も無い場所から突如現れたその名前。

何故かそれが今のネギにとって大切な物になっているのだ。

 

ネギに直接聞いても「……ぼ、僕の、なま、名前だよ、……そそ、それ以上でも以下でも、ない」としか返ってこず、要領を得ない。

 

アーニャにそれとなく聞いても「えーと、何だっけ……確か【僕は彼じゃないけど、僕はにしじょうたくみなんだよ】とか言って泣いてたような……わかんない」と曖昧で。

 

スタンに聞いても「【聞けばどうせアンタも僕を狂人扱いするだろうから言いたくない】……だそうじゃ」とお手上げ侍。

 

 

「……………………うーん」

 

 

最初は、ネギが考えた創作の登場人物か何かの名前かもしれないと思った。

何かの影響で自分がその人物だと思い込んでいるのだ、とも。

 

しかし、それにしたって疑問が残る。

 

昔のネギは活発で、明るくて、英雄に憧れていたヒーロー願望のある子供だった『筈』なのだ。

そんな子供が、今のネギのような暗くて引き篭もりがちの人物を夢想するだろうか?

勿論憧れが原因ではなく、何かの事件により負の感情が大きくなりネガティブな人物に自分を重ね合わせた。という可能性もある。

しかし、その場合はどんな事件が起きたのかという疑問が生まれる。

 

昔のネギが今のネギになったとき、それには何の兆候も無かった『筈』だ。

彼の遊び友達や面倒を見てくれていた村の人たちもそう言っているし、何より自分の記憶にも思い当たる節は無い。

 

……無い、『筈』だ。

 

 

「……いたたた」

 

 

貧血の予兆か、ズキズキと痛みを発し始めたこめかみに指を当て、ネカネは嘆息。

 

—八方塞、理由が全く見当たらない。

書店で日本関係の本を立ち読みし(お小遣いが足りなかった)、町の図書館で調べてみたりもしたが、結果は芳しくなく。

結局、日本で使われているあまりメジャーでは無い人名という事以上は分からなかったのだ。

……そして、男子生徒から渡された旧世界編の書類にもそれ以上深い情報は無かった。

 

 

「…………はぁ」

 

 

書類に書かれているのは、ニシジョウタクミという名の著名人のデータだけ。

やれ音楽家だ、やれ漫画家だ、やれ芸能人だ、犯罪者だ……。

 

それぞれ名前の漢字表記は違っているが同じ読みを持つ人物がずらりと並ぶ。

並ぶ、とは言っても実際の数はそれ程多くなく、精精十数人程度であり———その中にネギと関連付けられる物は無かった。

 

……しかしそれでも無駄に細かくデータが記載されており、男子生徒の細やかな配慮が書類の端々に垣間見える。

 

これは後で何かお礼をしなければなるまい。

ありがたいやら申し訳ないやらで何とも言えない気持ちになりつつ、ネカネは表紙に「旧世界編」と書かれたその書類をそっと閉じた。

そして足元においてある鞄にそれを仕舞いこみ———そして、もう一方の書類を取り出した。

 

表紙に書いてある文字は「新世界編」。

「新世界」とは男子生徒の言う「向こう側」の別称———所謂、魔法世界の事だ。

 

……実はネカネは、この書類にこそ期待していた。

旧世界の事は散々調べつくした感のあるネカネだったが、まだ魔法世界の事に関しては少しも調べては居なかったのだ。

 

いや、一応は魔法世界に居た事のある村の人や魔法学校関係者にそれとなく聞いた事はあったが、結果は芳しくなかったのである。

渡界に制限があり、こまめに行き来して調べられない、という事や雑誌や本の類をこの旧世界に持ち込む事が禁止されている、という事も調べ難い理由として挙げられた。

 

……ネカネが【まほネット】という魔法使い専用の魔法世界インターネットを使えないほどの機械オンチだった事が最たる理由だったというのは、此処だけの秘密。

 

まぁとにかく。

 

 

「……さてと」

 

 

溜息一つ。

ネカネは気分を入れ替えて、書類を開き目を通し始めた——————

 

 

 

*****************************

 

 

 

「———よーっし! やっとついたーーーっ!!」

 

 

曲がり角の多い細い道を抜け、幾つもの山を乗り越える事数時間。ようやくもってバスが辿り着いた先。

アーニャとネカネの生まれ故郷である、山間に存在する小さな村。その地に二人は降り立つ。

 

もう一ヶ月近くは帰って来ていないはずなのに、バス停のある場所から眺める景色は二人の目には何ら変わっていない様に見えた。

しんしんと空を覆う雪の欠片も、それが降り積もり真っ白に染まっている地面も、同じく白く化粧をした森の木々達も。

記憶にある景色と一つも変わり無い。

 

ふと見ると、アーニャは余程バスの中が退屈だったのか雪の結晶が舞い降りる空の下を走り回り、地面に積もった雪に足跡をつけて遊んでいる。

……この光景も、昔に見た記憶がある。

何時もは大人ぶっているけれど、こういう所を見るとまだまだ小さな子供なのだなぁ。……ネカネは懐かしさと共に、そう思う。

 

 

「———ほら、アーニャ。遊んでないで早く行きましょう?」

 

「あ、はーいっ」

 

 

ネカネのやんわりとした諌め言に帰ってくるのは元気な返事。

自分の物と、アーニャの分。二つの鞄を持って歩き出したネカネの背を追いかけて、アーニャがとてとてと可愛らしい足音を立てて追い縋って来る。

そしてアーニャがちゃんと自分の隣に追いついた事を確認した後で———ネカネは、どんよりとした厚い雲が覆う空を見上げた。

 

———ニシジョウタクミ。

 

……ネカネは空を見上げたまま、バスの中で読んだ書類の情報を思い出す。

 

 

(———確かに、それならネギが名乗ってもおかしくはないと思うけれど……)

 

 

もしあの書類に書かれていた事が事実ならば、確かに「ニシジョウタクミ」という名をネギが名乗る事に一応の説明をつけることが出来る。

子供が思いつきそうな妄想を予測し、本末転倒ではあるが【今の】ネギの言動を無視すれば、結論にこじつける事が出来る。

 

……だが、それでは「どうしてその名前を知っていたのか」という疑問がまた生まれる事になる。

書類に記載されている事を見る限り、どうやったってネギがその名前を知り得るはずがないのだ。結局頭の中の靄は晴れる事は無いだろう。

 

……彼女は、目の前に垂れる仮初の答えには飛びつかない事にした。

その理由としては、彼女の聡明な頭脳がまだ矛盾点があると判断した事。

且つ、自分達の側が納得できる理由付けだけで安易な答えを出す事を善しとしなかった事。

 

 

———そして何より、【昔】のネギの型に当てはめて【今】のネギの言動を全て無視する、という選択肢をネカネは取りたくなかった。という事があった

 

 

……昔のネギと、今のネギ———確かに別人と言えるほどに、その差異は非常に大きい。

村人は勿論、ネカネやスタンでさえ一時は何者かの変装であることを、何者かが魔法でネギに憑依、又は精神を攻撃した事を疑った程だ。

 

結果を言えば、前二つの疑念はネギが以前の記憶を持っている事と、ふとした瞬間に漏れ出る無意識の仕草にネカネとスタンが「ネギ」を見た事で払拭され。

もう一つ残った疑念は、その当時に村の中に不審な人物が存在した痕跡が無かった事。そもそも村を覆う結界を越える程に強力な精神攻撃魔法が存在しない事から、その可能性を却下された訳だが。

 

とにかく、そのような騒動が発狂しかけていた拓巳の知らない所で起っていた頃———彼女は、昔のネギに戻って欲しいと願っていた。

【今】の様な、暗くて引き篭もりがちなネギではなく、【昔】の明るくて元気だったネギに———「ニシジョウタクミ」ではなく、「ネギ・スプリングフィールド」に戻って欲しいと、切実に。

 

……拓巳は、ネカネが自分の事を必ず一回は「ネギ」と呼ぶ理由を彼女の天然から来たものだと思っている。

 

だが真実はそれとは違う。

彼女の望む「ネギ」ではなく「タクミ」として振舞う弟への、ネカネにとって精一杯の反抗であったのだ。

 

———今は頑なに「ネギ」を拒んでいる「タクミ」だが、「ネギ」の名を呼び続ければ何時かは「ネギ」に戻ってくれるかもしれない。

 

彼女はその想いを胸に、敢えて彼の事を「ネギ」と呼んでいる。

ネギとなった拓巳の惨状を知っているが為、その身を案じて自分の気持ちを抑えているだけで、本当は常に彼の事を「ネギ」と呼んでいたかった。

 

———「タクミ」という存在を認めたくなかった。

 

……そう、拓巳の側に立って見れば彼女もまた、持っている感情の種類は違えど村人と同じように拓巳に「ネギ」を押し付ける人間の一人だったのである。

 

だが今の彼女はその想いが薄れてきていた。

否、「ネギ」に戻ってきて欲しいと言う願い自体は変わらないのだが———ある時を境に、彼女にも「タクミ」を見る余裕が生まれたのだ。

 

大人ぶっているくせに、子供であるアーニャと本気の喧嘩をする「タクミ」。結局は肉体言語に屈し、悔しそうに負け惜しみを言う「タクミ」。

小さなことですぐに腹を立て、背伸びをした怒り方をする「タクミ」。酔っ払ったスタンに絡まれ、迷惑そうに嫌味を言う「タクミ」。

そして言い過ぎて拳骨を貰って、涙目で文句を言う「タクミ」。

……そして、ぎこちなくではあるが、自分と距離を詰めようしてくれている、「タクミ」。

 

……そのような姿を見るうちに、気付けばネカネは「タクミ」という「ネギ」を否定する事は無くなっていた。

その全ては、今隣を歩いている可愛い妹分———アーニャのおかげと言えるだろう。

触れれば壊れそうで、自分達では開ける事の出来なかった、弟の心を覆うボロボロの扉———それを問答無用に無理矢理蹴り壊し、自分達の居る場所へと繋げてくれた彼女のおかげ。

 

アーニャが居たからこそ、ネギは「タクミ」のまま僅かにではあるが「ネギ」を受け入れる余裕が出来た。

それは「タクミ」を消そうとしていた自分達には出来なかった事。「ネギ」しか望んでいなかった自分達には出来なかった事だった。

 

 

「? なに? ネカネお姉ちゃん」

 

「……ううん、なんでも」

 

 

……本当に、この子には感謝しても仕切れない。

弟と同じく、赤い色素を持った彼女の髪の毛を撫でながら、本当にそう思う。

 

もし彼女が居なければ、自分達は「タクミ」だけではなく「ネギ」すらをも殺していたかもしれない。

そしてその理由を理解しないまま、どうしてと泣き叫び、「ネギ」の事だけを後悔し続けていたかもしれない。

 

……ネカネは、アーニャと触れ合う「タクミ」の姿を見るうちにそう思い始め———そして自分へと歩み寄ってくれたあの些細な出来事を契機に悟ったのだった。

 

———【今】のネギは「ネギ」では無いけれど、「タクミ」は間違いなくネギで。

———【昔】のネギは「タクミ」では無いけれど、「ネギ」は今もネギなのだ。

 

だからこそ、思う。

答えを出すためには自分は彼の姉として、彼の家族として、もっとネギの事を———否、「タクミ」の事を理解しなければいけないのかもしれない……と。

 

……そんな訳で、「ニシジョウタクミ」についての答えを出すのは先送り。

男子生徒から齎されたその情報を結論にはせず、唯の一情報として扱おうと結論付ける事にする。

彼女の調査は、まだ終わらないと言う訳だ。

 

 

「……はぁ」

 

 

……というか、もう調べられる場所が残っていない気がするのですが。

流石に頑張ってこれだけ調べた甲斐あって「ニシジョウタクミ」の情報はそれなりに集まったが———何か、大事な部分がすっぽりと抜けている。

 

「ニシジョウタクミ」とは一体何者なのか、男性なのか、それとも男性っぽい名前の女性なのか、そもそも実在する人物なのかどうか。

何故「タクミ」は「ネギ」を嫌い、「ニシジョウタクミ」を名乗るのか。

そして「ネギ」がどうやって「ニシジョウタクミ」を知ったのか、どうして「ニシジョウタクミ」と言う名にあそこまで固執するのか。

……いや、そもそもネギの言う「ニシジョウタクミ」と、この書類に書かれた「ニシジョウタクミ」が同一人物である保証もないわけで。

 

———ふしぎ! 何か返って答えへの道のりが長くなった気がするわ!

やったねネカネちゃん、解かなきゃいけない謎が増えたよ! もうやめて!

 

 

「……あっ」

 

「ぁわっ!? わっ、わっ!?」

 

 

ふらり、と。

新たに襲い掛かる心労に軽い貧血を起こし、僅かにバランスを崩し。それを見たアーニャが慌てて手を突っ張ってネカネの身体を支える。

流石に軽いとはいえ二倍以上もある身長差は如何ともしがたいのか、アーニャは顔を真っ赤にして踏ん張る踏ん張る。

 

……もういいかなぁ。

このまま素直に「タクミ」と打ち解けていけば、その内教えてもらえるかなぁ。

アーニャに支えられたまま、そんな事を思うネカネだった。

 

 

「む、ぐ、ぐぐ……ぁーーーーーーっ、……あっ」

 

 

がっくん、と。

 

一方アーニャ

支える手の力を一瞬抜いてしまったのかネカネの頭が傾いてしまい、更に慌てて変な具合に力を入れてしまったらしく腕の筋肉からビキビキと不穏な音を立てていた。

真っ赤 → 真っ青 → 真っ緑と、女の子とは思えない表情をしたアーニャの顔色が面白いように変わっていく。それでもネカネを離さないアーニャの優しさに敬礼。

 

そんな、二人でのコント染みたやり取り。

ネカネは貧血により(アーニャにとって)絶望的な状況に気が付かず、虚ろな視線で空を見上げたままで———。

 

 

「…………?」

 

「むぅぁぁぁぁ……! お、おも……くないーっ。 ぜんっぜん……重くないったらーっ」

 

 

見ていた視線が、その一点で止まる。

どんよりとした厚い雲。チラチラと降り注ぐ雪の結晶。

———未だ止まぬその雪空の中を、幾百もの黒点が浮かんでいるのを発見したのだ。

 

 

———ネカネは、最初はそれを鳥だと思った。

 

———次に飛行機だと思った。

 

———そして最後に、魔法で飛んでいる人間だと思って。

 

 

「———ッ!?」

 

 

それらが視認できる距離にまで近づいた時。

そのどれもが見当外れだったという事を認識し———彼女の顔色は、貧血とは別の理由で真っ青になった。

 

 

「———アーニャ! ごめんなさいっ!!」

 

「え? あ、ちょっ、ちょっと!?」

 

 

空の向こうからやってくるその姿が何なのかを理解した瞬間、ネカネは貧血だった事も忘れて身体を起こし、自分の鞄だけを捨ててアーニャを抱え走り出した。

急に持ち上げられ、投げ捨てられるネカネの鞄を見たアーニャが声を上げるが———ネカネはそれを気にする事無く、懐から杖を取り出し呪文を呟く。

 

———肉体強化!!

 

踏み込んだ地面が、爆ぜる。

そして呟きと共に舞い散る光の粒子はネカネの身体を舞い流れ———端から見れば、彼女自身が発光しているようにも見える事だろう。

 

医療魔法を学び、魔法の制御法方精通し、人体構造への理解が深い彼女だからこそできる、これ以上無いほどに効率化された強化魔法。

筋肉の繊維と全身に張り巡らされている神経系、その一つ一つに微妙に異なるベクトルを持つ魔力を幾重にも流し、少女の身体で出せる極限の膂力とバネを彼女は纏う。

今の彼女は貧血気味の虚弱な身体を大きく超越し、その気になれば音速に近い速度で飛ぶ対艦ミサイルすら視認し、生身で殴り落とせる化物と化していた。

 

魔法完了までの時間は、瞬きするよりも速く。疾く。閃く。

これ程の短時間でここまで精巧な魔力制御を用いた魔法を完成させる者は、魔法学校の教師にも数人いるかどうかだろう。

 

その代わり攻撃系統の魔法は初歩の基本的なものしか使う事は出来ないが———それを補って余りある能力。

医療魔法と付与魔法、そしてそれに関連する系統においては他の追随を許さないを能力を、ネカネはその年にして既に会得しているのである。

 

———彼女は、紛れも無く天才だった。

 

勿論、腕の中に抱えるアーニャへ空気抵抗を軽減する魔法をかける事も忘れない。

そうしてアーニャと彼女の鞄を抱えたままネカネは獣もかくやというスピードで走り、村へと向かって全力疾走。

先程のバスなど目ではない速度。周りの景色が勢い良く流れ、閃き、後方へと消えていく。

 

 

「ね、ネカネおねぇちゃん……?」

 

 

抱えられているアーニャは事ここに至り、ようやく何かがおかしいと気付いた。

自分を抱えて走るネカネの顔はさっきまでの間の抜けた……もとい。穏やかな物とはかけ離れていて、彼女はその様子に恐怖を抱いたのだ。

 

……何を、見たのだろう?

疑問に思ったアーニャは、抱えられた体勢のまま首を捩り、ネカネが見上げていた空を視界に捉えて———

 

 

———目に映ったのは、黒。

 

黒。

 

黒。黒。

 

黒。黒。黒。

 

黒。黒。黒。黒。

 

黒。黒。黒。黒。黒。

 

黒。黒。黒。黒。黒。黒。

 

黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。

 

黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。

 

黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。

 

黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。

黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒——————

 

 

———黒。

 

 

それは角を生やし。

それは黒い翼を持ち。

それは黒い肌を持ち。

それは丸太のような腕を持ち。

それは鋭い牙を持ち。

それは大きな爪を持ち———

 

———そして、その者達の目には、何処までも深い凶気が宿っていて。

 

 

「———〜〜〜〜〜〜〜ッ!?」

 

 

――自分達の後ろから、村の方角へと押し寄せる悪魔の大群。

その光景を目にしたアーニャは、本能の感じる恐怖のままに大きな金切り声を上げ。

……ぐるり、と。黒の視線が彼女達を捉えた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

 

……誰もいなくなったバス停。

投げ捨てられた時に留め金が外れたのか、持ち主のいなくなった鞄がその口を開けて中身を外気に晒す。

 

そして降り積もる白に徐々に覆われていく中———それから逃げ出すように、書類が一枚。

冷たい風に乗って、空高くへと飛んでいく———。

 

 

『———紅き翼リーダー、サウザンドマスターことナギ・スプリングフィールドが、大戦後から皇女処刑事件までの極めて短い期間にだけ「ニシジョウタクミ」なる人物の情報を求めていたという証言が———』

 




■ ■ ■

当時はね、スパロボUXにデモンベインが参戦したって浮かれてたの。てへっ。


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第8章  一人は、世界にとっての救世主

――――彼が最期に見た世界は、自身の望んだ『争いの無い管理された世界』だった。



 

―――その日、僕は朝から言い知れない不快感を抱いていた。

 

 

「……………………」

 

 

何時もと変わらない、くそ寒い冬空。

 

カーテンから漏れ出る光は鈍色で、外は曇りか雨―――いや、この寒さだと雪になってたかな。まぁ天気が悪い事には変わりは無かったはずだ。

わざわざ窓の外を見に行く気は起きなかったから正確には分からなかったけど、布の隙間から見える景色には雪が降ってたから、多分そう。

 

そして狭い倉庫の中には、発露に濡れる木材の匂いが充満してて変な感じだ。

決して臭い訳ではないけど特徴的ではある香り。程よく湿度を含んだその空気が、僕の鼻腔の内側に一呼吸ごと張り付いてくるよ。

濃い木の香りと、僅かなカビの臭い……。

 

……部屋の隅に設置されてる達磨ストーブがフル稼働してるから、その所為もあるんだろうね。

ストーブの上には水の入った薬缶……に似た金属製の水差しが置かれていて、しゅんしゅんと音を立てて水蒸気を上げているから。

 

ついでに部屋の中の湿度が高いせいか、何か部屋の隅っこ辺りからカサカサと虫が蠢く音がして。

その音の大きさから、結構でっかい虫―――G様でない事を祈る―――だと言う事が自然と知れて、げんなりした。

 

―――ただ、それだけの朝。

 

 

「……………………」

 

 

何時も通りの朝、何時も通りの日常。

何処もかしこも何時もと同じ、何一つ違和感の無い普通の日。

一般人にとっては、これから何の変哲も無い一日が始まるはずの。

僕にとってはそろそろ仮眠を取るはずの時間帯。無色透明の朝の一幕だ。

 

……にもかかわらず、僕の心はざわざわと波を立てていて。何故か非常に、落ち着かない。

 

 

「…………ちっ…………」

 

 

朝が過ぎて、昼ごろになってもそれは収まらなかった。

 

PCをしていても、ネットのページが閲覧できる様になるまでのラグに何時も以上に苛々して通常の数倍はストレスが溜まるし。

ネットゲームをやっても、画面の切り替わりは勿論、キーを叩く音にも一々苛々して集中できずに連続あぼん。パーティを組んだ奴に「今日は生理?www」なんて最低なからかいを受けた。

何にもやる気が起きなくなって仮眠しようかとベッドに横になっても、カチカチと時を刻む時計の音が焦りにも似た不安を煽り、上手く寝付けないんだ。

 

何かに気が付かなきゃいけない、何かをやらなくちゃいけない。……そう、何かを見落としている。

そんな焦燥感溢れる感情が僕の中で渦巻いて。けど、具体的に何をしたらいいのかも分からなくて。

その日の僕は、起動もしてないPCの前で呆けたり、部屋の中をうろつき回ったり、意味も無く小屋の中を歩き回ったり……なんの意味の無い無駄な行動を繰り返していたんだ。

 

……例えるならばその不安は、ニュージェネの起っていた最中に僕を付け回していたそれに良く似ていたよ。

何か行動を起こさないといけないって言う強迫観念。放って置いたら良くないものが近づいてくる、という被害妄想。常に胸を圧迫する吐き気。

部屋の隅を見てみても視線は感じられなかったけど―――僕の内側をかりかりと引っ掻く不安はまるで思考盗撮を受けていた時の感覚に似ていて。確かめずにはいられなかったよ。

 

―――誰かの悪意が、近づいてくる。

 

何一つの根拠も無く、僕はそんな危機感を感じていたんだ。

 

 

「…………くそ、くそ。な、何なんだ。……くそっ」

 

 

そうして心の感じる苛々のまま頭から毛布をひっ被った僕は、ベットの隅で身を縮めていた。

背後を警戒して部屋の角に背を密着させて、左右の視界も背後から続いてくる壁で限定させて。前方だけを見据えられるようにした。

逆に言えば逃げ場のない場所に収まってしまったとも言えるけれど、それよりも後ろを向いたら何かが居そうな感じがして怖かったんだ。

 

ふと振り向いたら、そこには刃物を持った殺人鬼が瞳孔を光らせていたり、とか。

PCの画面が暗転したら、画面に何かが映っているんじゃないか、とか。

いきなり腹から刃物が飛び出してきて……苦しみつつ背後に首を傾けてみたら、そこには僕に刃物を突き刺した優愛が目の配色を反転させて微笑んでいたとか。

そういうネガティブな妄想が止まらない。妄想はしちゃいけないとは分かってるんだけど、それでも止められないんだ。

 

……他の人から見れば笑い話にしか映らないんだろうけど、僕にとっては物凄い恐怖を煽る光景なんだよ。

あの頃―――ニュージェネ事件の序盤も序盤。事件の概要も将軍の正体も何も分からなかった頃は、よくそんなネガティブな種類の妄想トリガーを引いていたんだからね。

まぁ、その時の登場人物は優愛とか梨深とかだった訳なんだけど。

……ニュージェネの時の事は今でも偶に夢に見る。

それは妄想と思い込みがごっちゃになった、タチの悪い悪夢だ。

 

優愛がまた変な勘違いをして、包丁を持って五段活用しながら迫ってくる悪夢とか。

 

梨深を悪魔女と呼んでた頃によく見てた、体中に杭を打ち込まれて死ぬ悪夢とか。

 

……最後の最後に受けた、あの拷問の時の事とか―――

 

 

「……ぁぁぁああぁぁぁあぁぁ……!」

 

 

―――思い出すうちに凄く怖くなってきた。一旦考え出すと際限なく記憶が蘇って来る。

 

 

「……くそ……」

 

 

だめだ、だめだってば。もう何も考えるな。

これ以上考えを巡らせていたら、昔みたいにまた妄想への引き金を引いてしまう―――

 

僕は目をきつく瞑って頭をぐしゃぐしゃと掻き毟り、被っていた毛布をさらに目深に引っ張った。そうして、思考をあさっての方向に逸らして、気を紛らわせようとした。

……この前サンドイッチの具材塗れになったこの毛布だけど、今はもう綺麗になってる。

以前に扉を直しに来たスタンの爺さんが、説教を終えた後にま……魔法。で、汚れを落としてくれたんだ。

 

 

「……………………っ」

 

 

何なんだ、何なんだよこのどうしようもない不安感は。

別にはっきり目に見えるような不安の影がある訳じゃないのに、何でこんなにも情緒が不安定になるんだ。訳が分からない。

 

確かに僕は「ネギ」の事で慢性的な不安感・不快感を持ってるよ。酷かった頃は追い詰められすぎて発狂間際まで行った事もある。

……でも最近はそれもある程度は落ち着いてきてるし、何より僕が今もってる感情はそういう自己を揺らがせるような不安感じゃない。

 

内部からじゃなく、外部からの要素。

緩やかに崩壊していく自分への恐怖ではなく、他者から与えられる悪意への恐怖。

野呂瀬や諏訪と相対していた時に感じていたものと同種の感情だ。

……今回のそれは、相対する「敵」が見えていないから余計に怖く感じているんだ。

 

 

「くそっ……梨深ぃ……っ!」

 

 

……目を閉じてもさっぱり消えてくれない不安感。

僕の感じて居るそれは最早妄想を伴った恐怖となり、精神を圧迫する。

 

あの時抱きしめられた梨深の温もりを思い出して、何も考えないよう必死になって妄想を散らしてはいるけれど……次から次に新しい妄想が湧き出てしまう。

そして、もしかしたらそれらがリアルブートされてしまうんじゃないかって更に不安になって、二重の意味で恐怖が増大されていく。

 

―――恐怖が現実化してしまう。

 

―――将軍への負担が更に大きくなってしまう。

 

力が使えるって確証は無いよ。

……でも、例の茨が僕の目には見えているんだ。何らかの力が残っている可能性は、0%じゃない筈なんだ。

 

それらの事を考える度、ネガティブな妄想が輪をかけて肥大していく。

……そうやって頭を抱えて居る内に、僕の目の前に何か人の気配があるような気がして。

扉を開けた音も何もなかったから、誰も居るはずが無いって事は分かってる。その感覚は単なる被害妄想に過ぎないんだ。

そう理性は判断しているのに、感情が恐怖に戦きそれを「現実」にしようとする。【思い込み】を【妄想】に昇華させ、【現実】へと染み込ませようとしてくる。

 

 

「……っだ、駄目だ! 駄目だ、だめ……だぁ……!」

 

 

僕はそんな自分の感情により一層の焦燥を抱いて。

心の中で必死に自分を否定したんだ。

 

 

(リアルブートだけは、ギガロマニアックスの力だけは使っちゃいけない……!!)

 

 

……そう強く思って、僕は自分の妄想を押しつぶす。

 

目の前には、誰も居ない。

 

この部屋には僕一人きりだ。

 

僕が今感じている不安や恐怖は、全部が全部勘違いなんだ―――

 

 

何度も何度もそう自分に言い聞かせ、目を開いてそれを確実にしようと決心をして。

そうして、僕は意を決して瞼を開き――――――そして、

 

 

「――――――何が駄目なんじゃい、蓑虫ぼーずが」

 

 

―――目を開けた先。

 

顔より数センチ先の至近距離に浮かんだ鷲鼻の糞爺の御尊顔に、僕は恐怖も忘れ。純粋な驚愕を持って絶叫した―――

 

……不安は、未だ消えず。

 

 

*****************************

 

 

「いやぁのぅ? 前にこの扉を直した時にの、こっそり転移魔方陣を埋め込んどいたんじゃ―――」

 

 

……僕の心臓を止めかけたもかかわらず、何ら悪びれた様子の無い爺―――酔っ払い糞爺ことスタンは、笑いながら僕にそう言ったよ。

何時も通りに口にはパイプ、頭にトンガリ帽子を被った魔法老人スタイル。

珍しく今日は酒の匂いをさせていなかったけど、その胡散臭い雰囲気に変わりはなかった。

 

そして先程の悲鳴が面白かったのか、彼はニヤニヤとした意地の悪い笑顔を僕に向けてきたよ。

PC前の椅子に腰掛けて、四つある足のうちの二本だけでバランスを取りながらその顔を浮かべている姿は、僕に羞恥心と殺意(配分3:7)を抱かせるには十分な光景だったね。

……何かさ、スタンとは会う度にこんな感じになってる気がするよね。もう鬼門と言って良いレベルなんじゃないかな。

 

―――いや、それよりも。

 

「……ひ、人の部屋の、ドアに、な、何てことし、しし、しでかしてくれてるんだよ! ば、バカじゃないの!?」

 

「えー、だってぼーずの様子を見に来るのにこんな村外れまで歩いてくるのしんどいんじゃもん」

 

「もん、じゃねーよ! こ、っこれ、っ立派な、ははは、は、犯罪ぃ……っ!!」

 

 

僕は魔法世界()の法律は知らないけど、それでも人ん家のドアに勝手にそんな物を仕込むのは犯罪だと思う。それもかなり悪質の。

抗議の意味も込めてスタンを睨み付けるけど、彼はそれを鼻で笑って一蹴。

手に持ったパイプに口をつけ、煙を肺の中に吸い込み―――そして僕を呆れたような瞳で見下ろしながら深く吐き出した。

部屋の中に充満する煙はタバコとは違う何か独特の香りがして、部屋の中の木材の匂いを打ち消していくよ。

 

……何時もは酔っ払ってる糞爺だけど、流石に魔法使いとしての年季が違う所為か魔法に関しての知識はかなり深いものを持ってるらしい。

 

特に日々の生活に使えるような極めて小規模でマイナーな魔法を多く覚えてるみたいで、本人からの自慢話で良く聞かされるよ。

道端に落ちてる大き目の小石だけを狙って除く魔法とか、服に雪がくっ付かなくなる魔法とか。

幾ら酒を飲んでも一瞬で酔いを醒まさせる魔法(要約するとゲロを吐かせる魔法)とか、地味に役立つ物から本気で下らない物までその種類は豊富だ。

 

この前、部屋の扉を直してくれた魔法もその一つ。

あんなの魔法使いを名乗るんなら誰でも出来そうなもんだと思うけど、アーニャやネカネに聞く話だと、物を修復する魔法はこの村ではスタンしか出来ない超高等技術らしい。

事前にそれなりの設備が必要な錬金魔法?とは違って、呪文一つで構成物質を結合させたり組み替えるのは普通は不可能……とか何とかネカネは言ってたけど、良くワカンネ。

つまりはスタン爺さんは凄いって事らしいよ。うっそ臭ェー。

 

 

「嫌じゃったらちっとは村に顔見せに来んかい。そうしたらすぐにとっぱらったるわい」

 

 

魔法使いの癖に何言ってるんだろう。

僕が村まで降りたがらない事を知っていてのこの台詞、何て自己中心的な糞爺だろうか。

確かに村からこの家まで結構な距離があり老人にはキツイ距離ではあるよ。

 

でも、彼らは魔法使いなんだ。

空飛ぶ箒とか、絨毯とか。体力に拠らない移動手段なんて腐るほどあるに決まってるのに……!

 

 

「じゃからほれ、魔法を使った移動手段を―――」

 

「……そういう事じゃ、ないよぅ……」

 

 

僕はぐったりとしながらそう呟く。

 

……何か、疲れる。

普段の僕ならば、この流れのまま拳骨を貰うまでスタンに反発し続けるんだろうけど―――とてもじゃないけど今はそんな気分になれない。

彼とのギャグシーンを続けるには、今の僕には心の余裕が足りないんだ。

 

 

「……?」

 

 

スタンもそんな僕の様子を見て、訝しげな表情を浮かべたよ。

何か物足りなさを感じているような、或いは自分の当てが外れたかの様な。そんな感じだ。

 

そう、まるで。

他愛も無い話で僕ともっとじゃれあって居たかったかのような―――

 

……?

 

 

(……何だろう?)

 

 

違和感がある。

具体的にどうって訳じゃない。無いんだけれど。

何となく、スタンの様子に変な感じがある……気が、する。

 

……気のせい、だろうか。

 

 

「……っ、って、いうか、さ。な、何? 何しに来たんだよ」

 

 

僕は頭の片隅に浮かんだ違和感を投げ捨てて、彼にそう問いかけた。

……自分から会話を求めるなんて、やっぱり普段の僕にはあんまり似つかわしくない行動だったかもしれないけど、仕方が無い事とも言える。

さっきまで感じてた―――いや、今も感じてる不安感を紛らわせるために、この人との会話を長引かせたかったんだ。

 

 

「予想では、さ。もっと、ああ、後だと思ったんだけど。……来るの、は」

 

 

実のところ、僕とスタンがこうやって顔をあわせる頻度というのはそんなに多くない。

ネトゲ廃人の習性上、僕は寝る時間と起きてる時間が日によって違うからね。起きてる時間とスタンが訪れる時間とがマッチングしない事が多々あるんだ。

 

スタンは食料とか洗濯物とかのアレコレがあるから最低でも週に3回くらいは来てくれてるみたいだけど、訪れる時間は彼の気まぐれ。朝早くに来てくれる事もあれば、夜遅くに来ることもある。

僕の眠りが深いのかスタンが気を遣ってくれてるのかは分からないけど、僕が目を覚ましたらパイプの煙の残り香が漂ってた。なんて事はしょっちゅうだ。

 

ランダムエンカウント方式のレア、といった所かな。

この前の遭遇も運が良かった(悪かった)様な物で、今回のように二回連続でエンカウントするなんて相当珍しい事といえるだろうね。

……しかも今回は、ワープっぽい魔法まで使ってと来た。

もしかすると何回か様子を見つつ、僕が起きてる時間を狙ってきた可能性もある―――

 

……なんて、まぁ。

 

 

(もしそうだとしても、僕に会いに来た理由なんてきっとしょうもない理由だろうけどさ)

 

 

まさか僕のSOSを察知した、なんて事は無いはずだ。結果的に僕の不安と恐怖を多少なりとも和らげてくれた事には感謝してあげてもいいけれども。

どうせ酒の肴としてからかいに来たとか、そんな理由に違いない。

 

―――そう、思ってたんだけど。

 

 

 

「……ふんむ……」

 

 

しかし、そんな軽い気持ちで投げかけた僕の問いに、彼はからかいの言葉を返すでも無く溜息一つ。

そして先程とは違いしっかりと椅子に腰掛けて、足を組んだ姿勢で僕を見つめてきた。

 

 

「……な、なん、だよ……」

 

 

急に変わった場の雰囲気に僕は困惑。

……おふざけの雰囲気がなりを潜めたその瞳―――説教するときの目とは違う類の物みたいだったけど、居心地は良くは無い。

僕は殴られた頭頂部を毛布の上から摩りながら、視界に映るスタンの頭部分を隠す様に毛布の端っこの位置を調整。

更に、その下の目を明後日の方向に逸らした。

 

 

「……いや、まぁ、のう……」

 

 

そして彼は何やら喉の奥に物が引っかかった様に。

何時もの良く喋る口をモゴつかせていて、毛布の下からは長い髭が小刻みに揺れている事が伺えた。

 

……? なんだろう。

今までスタンの口から精神的にクる程のド直球な言葉しか聞いたことの無い僕の目には、そのまごつきがとても珍しく映ったよ。

そして、さっきまで感じていた不安や恐怖、この雰囲気と合わせて何か妙な違和感が僕を包み込んだ。

 

 

「―――」

 

 

……毛布に隠れて顔は見えなかったけど、その言葉を告げられた時に何故かスタンの不安が伝わってきたような気がしたよ。

迷い、とでも言ったらいいのかな。

これを告げることによって今の状態が壊れてしまうんじゃないのか―――とか。そんな、現状が壊れてしまうかもしれない事に対する不安。

唯の妄想なのかもしれないけど、僕は間違いなくその感情を感じ取ったんだ。

 

 

「……それより、の。先のぼーずは何をそんなに怖がっておったんじゃ?」

 

 

何から切り出した物か―――そう悩んでいるようにも感じた彼は、僕に告げようとした答えを飲み込んだように、逆に質問を返してきた。

 

 

「…………」

 

 

……明らかに話題逸らしだ。とは思うけれど。

 

別に聞きただすほどの勇気も興味も無いし、その理由も無い僕にはその話題逸らしに乗ってやる以外の選択肢は無かった。

こんな微妙な空気の中で自発的に発言するなんて僕のキャラじゃないしね。それはナイトハルトかリーゼロッテに任せてればいいんだ。

まぁ何に怖がっていたのか、なんて。そんなの僕にも分からないから答えようが無くて、結果、「なんでもないよ」としか言えなかった訳だけれど。

 

……『姿の見えない何かに怯えてました』とかまるっきりヤク中の言葉だし。言える訳、ねーっす。

 

 

「何でも無い訳なかろうよ。あんなにも『駄目だァ、駄目だァ~』なんと、なっさけなく頭を振っておったじゃろ」

 

 

スタンはそう言って情けない表情と声音を作り、ワザとらしく首を振り始めた。何時から見てたんだよ、この糞爺め。

僕の真似と思しきその仕草に米神がヒク付いたけど、自身の情けなさを身にしみて自覚している僕としては何となく怒り切れない。

……実際、さっきの醜態以上の事もしでかしたし、エスパー少年事変以降はもっと酷くからかわれた事もあるんだよ。

だからそんな中途半端にからかわれても、不快感はあれど怒鳴るほどに僕の琴線は揺れなかったんだ。

 

 

「………………」

 

「………………」

 

 

で、痴呆の様に首を振るスタンを前に僕は黙り込む事しか出来なくて、何とも言えない空気が更に深くこの場を包み込む事になった。

……さっきまで確か似合ったはずの軽い空気は既に無くて―――何となく、お互いが噛み合わない

 

 

「………………」

 

「……ふぅぅぅ……」

 

 

しばらくそんな感じでお互い黙り込んでいたら、スタンは何かを観念したように溜息をついた。

毛布の下からこっそり覗いたその顔は―――さっきまでとは違って鋭い物で、僕は反射的に毛布を被りなおしたよ。

……そうして徐々に張り詰めた物になっていく雰囲気の中、水差しの中で沸騰するお湯の音がやけに大きく響いた。

 

それは生死をかけた時のぴりぴりした緊張って訳じゃなくて。

 

例えるならば、優愛が本性を現した時。

例えるならば、夕焼けの中で梨深が僕という存在のネタばらしをした時。

 

そんな、僕の知らない「僕」が暴かれる直前の様な。胃の奥を掻き毟る様な感覚―――。

 

 

「……まぁ、そろそろ潮時じゃろ」

 

 

―――おちゃらけて流すのも、気付かない振りをするのも。

スタンはそう言って、意を決したように鋭い目を僕に突き刺した。

僕は感覚でそれを感じ取り、咄嗟に耳を押さえようとしたけど、間に合わず。

彼の言葉は不気味な程に鮮やかに、僕の耳へと入り込み――――――

 

 

――――――聞こう。ネギ・スプリングフィールドとは、一体『何』なんじゃ?

 

 

スタンの背景に、茨の姿が混じった。

 

 

************************************

 

 

「最初に気付いたのは……あー、何時だったか。まぁ、そんなに昔の事ではないのぅ」

 

 

……彼は、訥々と語る。

 

 

「村の酒場で昔馴染みと飲んでおった時に、ぼーずの昔の話になっての。それはもう盛り上がっておった」

 

 

僕は、腕を中途半端に上げた姿勢で固まったまま、その話を聞いている。

別に、何かショッキングな結論を聞かされたって訳じゃないのに、どうしてか身体が動かないんだ。

恐怖で身体が強張ってる訳でもない、ただ純粋に―――酷く、緊張している。

そして、そんな僕の事をスタンは目を逸らさず真っ直ぐに見つめているのが分かった。

その目に込められているものは―――不安と、警戒と、ほんの少しの敵意。

 

……何故かは分からないけど、僕は感情でそれを理解し、感じ取ったんだ。

 

 

「やれ昔のお前さんは明るかっただの、ネカネが可哀想だの、アーニャはぼーずには勿体無いだの。そらもう悪しように堕とし放題でな。

 そんな事を話してる内―――ワシはぼーずの昔話に、違和感を覚えた」

 

 

スタンは話を一旦そこで切り、パイプに薬草を詰め足して、一服。

そうして疲れたように吐き出した煙が部屋の中を漂った。

雲の様に、靄の様に。

決まった形を持たないそれは千変万化を繰り返し、僕の鼻腔に何とも言えない香りを運んでくる。

 

……こめかみが、ジクジクと熱を持った。

 

 

 

「……お前さんがどこどこを走り回っておった、どこどこで怪我をした、池に落っこちた、笑った、泣いた―――他愛も無い、何処にでもあるような思い出話。

 ぼーずが大人になった時にでもからかいのネタになるじゃろう、微笑ましい悪戯の記憶じゃ。

 ……その時ともに飲んでた奴等は皆ワシと同じ老いぼれ共での、8・9人程度じゃったかのぅ……?

 まぁ、ともかく全員がその話を覚えとっての、共に懐かしみ、盛り上がった訳じゃよ」

 

「……な、何、が。おお、おか、おかしいん、だよ。そんなの、何処にでもある、った、ただの、飲み会の話じゃないか……っ!」

 

 

スタンは怒鳴る僕の様子を伺いながらも、溜息を一つ吐き。パイプで唇を突付く。

……頭が、痛い。なのに心は安定していく。そんな矛盾した認識。

 

 

「―――おかしいのは、ワシら9人が全員その昔話を『同じ視点』で覚えとった事じゃ」

 

 

彼の言葉が耳に届く度、僕は中途半端のままの腕を更に上げて両のこめかみを押さえるように頭を抱え込んだ。

その所為で毛布がひらりとベッドの上に滑り落ちるけれど、僕はそれを気にも留めず。

 

 

―――変わらず鋭い眼でそんな僕を見つめつつ、トントンとこめかみを叩くスタンの姿を赤みがかった視界の中に捉えた。

 

彼は、言った。

 

 

「お前さんが走り回ってた姿を、笑って泣いてはしゃいどった全ての記憶を―――寸分違わず、ワシらは『同じ場所から』『同じ視点で』共有していたんじゃよ」

 

 

……彼が何を言っているのか理解出来ない僕の脳裏に、『ネギ』の記憶が走馬灯の様に流れ行く。

それはもう―――酷い頭痛と共に。

 

 

「……何度も確認した。ワシらがボケてるのかとも思って、魔法を使って互いの記憶も確認した。……しかし、結果は同じじゃ」

 

 

スタンが一言一言を発する度、僕の心は冷静さを取り戻していく。

今より幼いネカネが、僕の手をとり笑っている。

近づいてくる悪意は消えた訳じゃないのに。

アーニャが僕の頭を叩いて、それに『ネギ』が抗議して。

それ所か加速度的に近づいてきているのに。

 

 

「皆が覚えている『ネギ』に関する記憶は全て同一の物。会話の内容も、ぼーずと二人きりでした秘密の約束とやらも、みーんな同じものなのじゃよ」

 

 

―――……そして、この頭痛も皆共通。

……おそらく、彼は今僕と同じ種類の痛みに襲われているのだろう。

一際強くこめかみを押し込み、痛みに耐えるような表情で、彼は言った。

 

 

「……前々から何となく、お前さんについての違和感はあった。

 しかし、その違和感を追おうとすれば、それ以上深く考えようとすると例外なく頭痛が襲ってきよる。

 まるで、お前さんには触れて欲しくないとでもいう様にな」

 

 

その言葉に思い出すのは、かつての記憶。

以前ネカネが家に帰ってきた時に、リビングで頭を抑えて苦しんでいた彼女の姿。

その時は何時もみたいに貧血で苦しんでいた物と思っていた。

 

……でも。

 

でも、もしかしたら。

 

 

「……それが、どういう意味を持つか。分かるかの?」

 

 

スタンは僕にそう問いかけてきたけど、僕にはそれを理解する余裕なんて無かった。

 

だって頭が痛い。何も理解できない。

泥遊びをして笑う僕。

でも、不安は。

転んで泣き喚く僕。

頭が、焼ける様に痛む。

さっきまでの不安は、嘘の様に消えていく。

友達と遊んでいる僕。

矛盾。僕に侵食する。

誰かにいたずらをしている僕。

心が、安定する。

それを見守る誰かが笑う。

矛盾。悪意が直ぐそこまで近づいていて。

誰かが、誰かが、思い出せない。

もう少しで。ノイズ。

笑っている。怒っている。軋む。

 

『……やった』

 

……矛盾? 誰、か。 

誰が、誰……誰が。視界に、悪意が、眼球を這う血管が浮かぶ。頭が、軋む、ノイズ。記憶が、誰かが、痛い、ネギは、割れる、誰が? だれ、だ、だ、れがgggggggggggggg―――……

 

……彼は、そんな僕から目を逸らすようにして、言った。

 

 

「つまり―――」

 

 

……止めろ。

言って。

言うな。

止めないで。言って。

言って、止めろ、止めて、言って、言って、言って―――

 

―――『言って、あげて』

 

 

 

――――『ネギ』とワシらとの記憶。

過去にあった思い出の全ては、作られた物という可能性が高い――――――

 

 

 

―――唐突に、頭痛が消えた。

 

そうしてそれと同時に、スタンの背後にある茨が―――そして僕の頭の中の何者かが。キチキチと異音を立てる。

それに触れろと、触れるなと。『二人』が『二人』、僕に対して相反する意識を叩きつけてくるんだ。

 

……僕は頭を抑えていた手を外し、目を逸らしたままこちらの様子に気付かないスタンの背後に手を伸ばした。

 

 

「……そんな事はワシも、仲間らも信じたくは無い。しかし、ぼーずの―――……」

 

 

まだスタンが何か言っていたけど、その時の僕は彼の言葉なんて耳に入らない。

まるで誰かに誘導されているかのように手を伸ばし続けていたんだ。

 

あれほど触れたくないと、見たくないと思っていた茨に自分から触れに行くなんて、判断能力を欠いていたとしか思えないよ。

 

―――でも、僕は止まらない。

 

彼の背後にある茨からは、やっぱり不快感を感じるけど。

そんな事は全く気にする事は無く、僕は判断能力を欠いている状態のまま、手を伸ばし続けて。

 

もう少しで手が届くんだと。もう少しで会話できるんだと。

 

僕と繋がる『彼』は、僕の意思を一時的に乗っ取って、唯只管に茨へと触れようとするんだ。

 

そして、その指先が触れかけた――――瞬間。

 

 

――――――ズドォォォン……!!

 

 

「―――!!」

 

「……ぁ……ッ!?」

 

 

我に返った。

 

家の外から響く爆音。

地面が揺れ、パラパラと天井から埃が落ちる。

 

 

「…………は、ぃえ……?」

 

 

自分が今何をしようとしていたのか、何がしたかったのか。そして今何が起こっているのか。

全てが分からないまま、僕は僕に戻っていた。

手を伸ばした姿勢のまま、ゆっくりと茨の塊を見たけれど―――やはり、そこには確かな嫌悪感があって。

 

 

「……ぼーずや」

 

 

そのままぼうっとしていると、スタンの声が耳朶を打つ。

のろのろとした動作で、彼に向かって顔を向け―――ぽすん、と。頭に何かを乗せられた。

……いや、乗せられた。というか、被せられた、が正しいかもしれない。

 

 

「え……な……!?」

 

 

突然視界が真っ暗になり慌てた僕は、焦りでおぼつかない手つきで持って「それ」から頭を引き抜いた。

その内側に篭っていた濃い香りにふらつきつつ見てみると、それは彼が何時も被っているトンガリ帽子だったよ。

……さて、篭ってたのは整髪剤の香りか加齢臭。どっちかな。

 

 

「それを被ったまま、ここで大人しくしとれ」

 

 

後者だったら嫌だなぁ、とゲンナリしている僕をよそに、スタンは懐から杖を取り出し呪文を一つ。

杖の先から光の粒子が迸り、僕の部屋のドアの中に入り込み―――その中心から光の魔方陣が浮かび上がらせる。

もしかしてこれがさっき言ってたワープ魔法って奴だろうか。

いや、そんな事より。

 

 

「な、ちょ、ちょっと!! なん、何なんだよ、あんた! 『ネギ』の記憶が、とか、この帽子、とかぁ! な、なんん、何なんだよ!」

 

 

そうだ、スタンの話はまだ途中じゃないか。

途中僕は色々とおかしくなっていたけど、話自体は一応聞いていたんだ。

さっきの爆発音も気にはなるけど、それよりもまず―――

 

僕―――じゃない、ネギの記憶が作られたってどういうことだよ。

 

 

「ねぇ! ちょっと……!!」

 

 

そう叫びつつ追いすがる僕の姿にスタンは苦笑を一つ。

何やら安心したかのように先程まで纏っていたピリピリとした雰囲気を解き、帽子の下に隠していたオールバックの髪を撫で付けた。

 

 

「―――続きは、全てが終わってからじゃなぁ」

 

 

その言葉を最後に、スタンは魔方陣へと一歩飛び込み―――光に飲み込まれるようにしてその姿を消した。

彼の動きは流れるように滑らかで全く隙の無い、言ってみれば、戦いに向かう者の動きだったと思う。

僕も慌てて魔方陣に手を突っ込もうとしたけど、その時には光は消失済み。

木の板を叩く感触だけが伝わってきて、危うくつき指をするところだった。ファック。

 

 

「……な、ん。なんだ……」

 

 

そうして、僕一人きりとなった狭い部屋の中で。

スタンの言った言葉が、僕自身の行動が、漠然とした恐怖が僕の頭の中をぐるぐると回っていた。

 

朝から感じていた悪意。

作られた記憶。

茨に触れようとした僕。

一つしかないネギの姿。

消えた嫌悪感。

 

そして僕は何が起こったのか何一つ分からないまま、彼が開いたと思われるカーテンの外側、スタンが見ていた町の方角に目を向けて―――

 




■ ■ ■

次回は結構遅れるかも。


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第9章  一つは、世界にとっての願望機

――――それが最期に見た世界は、『自身以外の誰かが望んだ世界』だった。



 

 

しんしんと雪の降り積もるイギリス、ウェールズの片田舎。

そのさらに外れにある深い森の中、そこかしこに溢れる木々に隠れるようにして存在する一つの村がある。

 

人口わずか数百人程の極々小さな村であり、現代において未だ行商人が訪れるほどの閑散とした……しかし決して過疎と言う訳ではない穏やかな村だ。

大人も、子供も、老人も……数百人という人口から見れば、どの世代も極めて適正値に近い人数が住んでおり、その男女比もまた同様。

世間に溢れる、後継者不足に悩むような土地柄とは一線を画す、極めて「健康的」な村だった。

 

何故ならば、この地こそ魔法使いにとっての隠れ里。

とある人物を慕い集まった、一定以上の実力を持つ魔法使いたちによって作られた村なのだ。

 

高い実力を持つ彼らの中には、生活に役立つ魔法を習得するものや、様々な場所へとパイプを持つ者たちが居る。

それら使える力を全て用いて、この村は外敵から身を守るための結界、ライフラインや交通手段など「魔法使い」が住みやすい場所へと整えられているのである。

 

それは言わば、魔法使いのための村。

現代に生きる魔法使い達にとっては、これ以上は無いであろう最適な場所であったのだ―――

 

―――だが、しかし、その姿も今や見る影も無い。

 

家は燃え、地は割れ、人々の怒号が辺りへと響き。

空を覆い尽くす程の無数の黒い大群が―――悪魔が村中を蹂躙し、人を傷つけていく。

 

そして魔法使いたる村の住人達がそれを黙って見ている訳も無く、各々が持つ魔法の杖や武器を駆使し応戦する。

 

戦いに慣れた老人達は、一人でも多くの村人を守ろうと立ち上がり。

血気盛んな若者達は、一匹でも多くの悪魔を撃退しようと村中を駆け回り。

そして村の女性達は、未だ戦う術を持たない子供達を抱きしめる。

 

そうして破壊された建物から上がる炎が空を紅く照らし、傷つきながらも戦う村人の声と悪魔の断末魔がひっきりなしに響き渡るその空間……

 

……それはまさに地獄絵図、という言葉が相応しい様相を呈していた。

 

 

―――そんな、黒の大群が次々と降り行く村より少し離れた場所にあるバス停の付近。

 

そこかしこに木々が生い茂り、枯れ枝と雪が降り積もる冬の森の中で、一つの戦闘が行われていた。

 

 

*******************************

 

 

「光の精霊1柱―――魔法の射手!!」

 

―――凛、と。

鈴の音の様に澄んだ声と同時、彼の背から一筋の細い光が迸った。

 

『グ……?』

 

放たれるのは、何が起こったのか理解出来ていないかのような濁った声。

その悪魔は目の前に佇む標的を害そうと手を伸ばした姿勢のまま、違和感の生じる自らの胸を見下ろした。

 

視界に映るのは、黒い肌。強靭な筋肉と凱骨格に覆われた、正に筋骨隆々と呼ぶに相応しい異形の身体。

凹凸のハッキリした逞しいそれは、拳打、銃撃、斬撃全てを弾き返す剛の肉。

生半可な攻撃では傷一つ付かない筈のその胸筋に――ぽっかりと、小さな空洞が開いていた。

生命活動を続けるにおいて致命的な位置に存在する、穴。それは左胸から背面の肩甲骨までを一直線に貫いており、向こう側の景色をくり抜いていたのだ。

 

もし背中側より穴越しにそれを成した人物の姿を覗き見る者が居たのならば、その悉くが驚愕の声を上げるに違いない。

 

――何故ならば。その穴に腕を突き入れていたのは、未だ14にも満たないであろう可憐な少女だったのだから。

 

「はっ……はっ……」

 

緊張か、疲労か。

その少女は乱れた息を荒らげながら、鋭い目つきで目前に立つ巨漢の悪魔を睨みつけ。

雪に埋もれた枯れ木を踏みしめ、綺麗に五指を揃えた手刀を、僅かに煙を噴き上げる穴に向かって突きつけていた。

 

そう、少女――――ネカネ・スプリングフィールドは、その指先より放った魔法攻撃により、偽りとはいえ生の脈動を刻む彼の「それ」を寸分の欠片も残さず完全に吹き飛ばしたのだ。

 

【挿絵表示】

 

 

『ゴ……プ』

 

 

筋肉と凱骨格の隙間を縫い、糸を通すが如き精密さで放たれた一撃が自分の命を刈り取った――

 

それを悪魔が理解すると同時。彼は喉奥から血液と声にならない吐息を流し、思い出したかのように呆気なく絶命。

ネカネは彼が倒れる事を確認する前にその穴から手刀を引き抜き、魔力によって強化された筋肉で持って跳躍。その亡骸を力の限り蹴り飛ばした。

 

「―――りゃぁあッ!!」

 

ぼぐん、と。

肉を打つ鈍い音が響く。

 

衝撃を受けた亡骸は軌道上に存在した悪魔の一匹を巻き込みつつも地面と水平に吹き飛び、辺りの木々を折り砕き。

その角に急所でも貫かれたのだろうか。巻き込まれた悪魔もそれと一緒に、地に落ちる事無く空気に溶けるようにして霧散した。

 

……言葉尻だけ見てみれば幻想的な最期に見えなくも無いが、実際は血と肉の欠片を振りまいた、それはそれは醜悪なものであった。

加えるならば、今しがた殺害した悪魔は自分の故郷を襲う無頼漢が召喚したものだ。例えどのようなことがあっても幻想的だなどと思うことは絶対に無いだろう。

 

『キ、キサマァァァ……!』

 

「―――ッッ!!」

 

脳内に鳴り響く警鐘。

殺気とも言えるそれを感じ取った彼女は、蹴った勢いそのままに空中で身体を瞬時に反転。

彼女の背後から襲い掛かる、仲間が殺されてご立腹らしい別の悪魔が放つ大岩のような拳を紙一重で受け流した。

 

―――力を受け流すよう大きく身体を捻りながら、迫り来る拳の先に左肩を着け。

―――未だささやかな胸を、その手首に密着させ。

―――そして、流れ行く肘の部分に先程とは逆方向の肩を接地させる。

 

(く……っ!!)

 

―――悪魔と視線を交わしつつ、上腕部分に自らの背面を沿わせ。

―――そして、肩に手をかけ一気に身体を引いて―――

 

まるでスローモーションの様に、引き伸ばされる知覚。

ネカネの身体は悪魔の丸太の如く太い腕に沿い、その黒い皮膚に触れつつ回転。悪魔の巨体の上を勢い良く転がり上がり、擦れ違う。

それは、受身とは程遠い泥臭い動きであり、受け流しきれない力の流れが展開している魔法障壁をすり抜け、ネカネの陶磁器のような肌とそれを覆う服に幾筋もの小さい擦り傷を作る。

 

―――しかし、彼女はそれを気にも留めない。

 

『ナ……ッ!?』

 

自分の攻撃が受け流された事に驚いた悪魔が素っ頓狂な声を上げるが、その行動は中断させる事が出来ず。

ネカネは回転する勢いのまま、擦れ違い様に悪魔の首へと両足を伸ばし、露になった白く柔らかな太ももでその頭を挟み込み―――

 

「―――やぁッ!!」

 

―――ボキンッ!

 

……鋼の様に厚い肌や打撃の効き難い硬い筋肉も、曲げられる力には意外に弱いものだ。

しかもそれが、元々稼動できる方向であったのなら―――少し力を乗せてやれば、骨を折り外す事など造作も無い。

カウンターによる勢いと、彼女の細い筋肉に宿った極限まで効率化された魔力の流れによる強化。

加えて悪魔の身体から離れる瞬間の力も乗ったその一撃は、ネカネの胴ほどもあるだろうその首を180度、いとも容易く折り曲げた。

 

「……っ」

 

足に伝わるその感触に吐き気を覚えるが、ぐっと堪え。

そして彼女の身体は悪魔の首を折った慣性のまま宙空を回転。華麗に地面へ着地する。

この凄惨な光景と対比するかのように、その小柄な体躯にリボンの如く巻きつく金色の髪と、風にはためくローブとが一種幻想的な光景を生み出していた。

 

―――今度こそは、間違いなく。

 

『……カ、カカ……ガ』

 

頭部が背後を向いたその悪魔は、二・三歩正面に向かって(彼にとっては背後かもしれないが)歩き出した後―――彼女を憎憎しげに睨み付け、膝を折る。

流石は悪魔といったところだろうか、首が折れても意識を失わないその耐久力は見上げた物ではある……が、しかし。彼はそれ以上指一本動かす事も出来ない。

それは言わば「死なない」のではなく、「まだ死ねない」といった風情であり。

 

「せぇぇぇえええええええいっ!!」

 

その隙を逃さずに、自らの頭部を力いっぱい蹴飛ばしにかかるネカネの姿を、その悪魔はただ見ている事しか出来なかった―――

 

 

***************************

 

 

―――悪魔。

 

モンスター、或いは鬼。国や地域によって各々個別の呼び方はあれど名指す物はほぼ同じ。

本来ならばこの世界に存在しない、異界より引き出された人や動物と異なる異形の者だ。

 

鋼の様に強靭な肉体。頭に鎮座する硬い角。背から生え出る大きな翼。

並大抵の物ならば容易く噛み千切る牙に、如何なる物をも切り裂く鋭い爪。

固体による差は多少あれども、その姿と質は正しく化物としての体裁を誇っている。

しかし彼らの身体は純粋な肉体ではなく召喚主の魔力と依代により構成されている。肉体を一定以上破壊されてしまう程のダメージを食らってしまうと、召喚主との契約が力尽くで破棄されてしまい、彼らは異界へと還ってしまうのだ。

特殊な契約を結んだものや、強大な力を持つ上級悪魔はその限りではないのだが、それはさておき。

 

戦場における兵士に当たる、強力な使い捨ての駒。

それが彼らにとっての―――少なくとも、この旧世界に生きる魔法使いにとっての悪魔という存在であり―――

 

―――今現在、ネカネの故郷のあるこの地域は、その悪魔の襲撃を受けていた。

 

 

「……はっ……はっ……!」

 

ネカネは悪魔の頭部を蹴り飛ばした姿勢から戻し、拳を構え、足を半歩開いた戦闘姿勢へと移行。息を荒らげつつ周囲を警戒する。

その戦闘姿勢は、彼女が参考にした少しイかれた友人達のそれよりも遥かに不恰好な物で、お世辞にも様になっているとは言い難がったが―――その気迫だけならば凶悪な相貌を持つ悪魔にも負けては居ない事だろう。

 

……否、気迫だけではない。

端から見れば年端も行かぬ少女ではあるが、彼女が纏うオーラも見た目と同じ儚げな物ではなく。

 

全身の筋肉繊維と神経系に沿う様に施した強化魔法。身体の上を這い回る一本一本が異なるベクトルを持つ極細の魔力糸。

三桁は優に超えるであろうそれらが放つ圧力が、僅かながらに周りの空間を歪ませ彼女の気迫に確かな視覚効果を与えているのだ。

 

一見か弱い少女にしか見えない誰もが未熟と評するだろう彼女のその姿は、今この時に限っては達人のそれにも匹敵する存在感を放っていた。

 

「敵は……いない、わね」

 

筋肉と同じく限界まで高められた視覚と聴覚。

数百メートル先まで感知できるそれらが探るのは、周囲に存在する悪魔の気配。

少なくとも直ぐ様エンカウントする範囲内には居ない事を確認し、ネカネは警戒を解く。

 

勿論、身体強化の魔法は持続させたままだ。

この状況において一瞬の油断が最悪の結果をもたらすであろう事は、いくら戦闘に疎い彼女といえども理解できていた。

そして、もし一度強化魔法を解いてしまえば、その瞬間自分は立ち上がれなくなるであろう事も。

 

……今のネカネの身体は、実のところ割といっぱいっぱいだった。

 

魔力の節約のため、且つ隠密性を重視し、仕方なしに行っている魔力ブーストのかかった激しい肉体運動による疲労、神経の酷使や意識の加速。

悪魔の襲撃による恐怖や、その殺害に対する精神の負荷に加え、心臓のクロック数を上げ貧血を無理矢理押さえ込んでいるこの状態。

 

一旦魔法を解き緊張を緩めてしまえば―――後はもう、想像に難くない。

襲い掛かるのは極度の疲労。悪魔を手にかけた事による罪悪感、吐き気。そして貧血。

少なくとも、一秒すら持たずに気絶できる自信が彼女にはあった。

 

……今、その様な愚を犯すわけには行かない。

ネギを助けに行くため、自分が殺されないために、そして何より―――

 

「―――アーニャ、一先ずは大丈夫よ」

 

―――そう、今この場には、自分が守るべき妹分が居るのだから。

 

「……ね、ネカネおねえちゃん……!」

 

戦いに巻き込まないよう認識阻害魔法をかけていた枯れ木の影から、戦場の気配に怯えつつもそれを支えにして立ち上がるアーニャ。

その姿はまるで警戒心強い猫のようで、恐怖からか身体は小刻みに震え、目の端には涙が溜まっており今にも泣き出してしまいそうだ。

彼女は何時もの気丈な姿とは正反対の―――か弱い少女という印象を周囲に与えていた。

 

……それもその筈、彼女は今、生まれて初めて命のやり取りをする場に立ち、その瞬間を目撃してしまっているのだ。

加えるならば未だ4歳の女の子が、である。

普通の子供ならば、錯乱して泣き叫んだり、それを行った張本人であるネカネに怯えてしまっても不思議ではない筈であるが―――

 

「だ、大丈夫……? おねえちゃん、傷だらけじゃない……!」

 

しかしアーニャは恐怖により震え泣きそうではあれども、それら最後の一線は踏み留まり、あまつさえネカネの心配までしてのけているではないか。

流石に少し怖がっている様子ではあったものの、その目には彼女に対する信頼と憧れが強く湛えられており、何時もの気丈さをほんの一欠片ではあるが感じさせている。

 

……ネカネはその姿を嬉しく思い、安心させるよう「大丈夫」と一言だけ告げ。優しく頭を撫でた。

 

彼女のアレンジした強化魔法は微弱ながら回復効果も付いている。

身体欠損や大きな裂傷となればそうは行かないが、骨折や小さな擦り傷ぐらいならば、短時間で勝手に治療されて行くのだ。

……まぁ、後日に筋肉痛やら成長痛やら肌の引きつりやらで大変な事になるのだが、それは言わぬが花である。

 

(それよりも……問題はこれから)

 

多少なりとも安心し緊張が削がれたのか、ネカネに抱きつき腹部に頭を擦り付けてくるアーニャをあやしつつ、故郷の方角の空に目を向ける。

 

上空。村があるはずの場所の真上には幾百もの黒い影が―――悪魔が滞空し、輪を描き。次々と地上へと降下して行く。

ネカネとアーニャがいる、村より少しばかり離れた森の中からでも、木々の間を縫い煌々と上がる赤い火の手と黒煙が灰色の空を照らしている事が確認でき……村で何が起こっているのかは一目瞭然だ。

結界の張ってある村まで辿り着ければ、スタン達と合流して何とかなると思っていたのだが―――現実はそう甘くは無かったらしい。

 

「…………」

 

思わず、アーニャを抱きしめた手に力が入る。

村人達を心配する気持ち、非常時に置かれて居る事による混乱、現在進行形で故郷を焼かれている事への憎しみ。

様々な異なる感情が彼女の胸裏で渦を巻き、その裡を乱し焦がしていくが―――何よりも。

 

(……ネギ、タクミ……!!)

 

―――何よりも最も気になるのは、最愛の弟の安否。

もし、ネギに何かがあったらと考えるだけで、後先何も考えずに村へと走り出しそうになる。

 

自らの安全も、アーニャを連れたまま悪魔の集団の中に飛び込む事が如何に危険な事かも顧みず。

ただ、ただ、真っ直ぐに。ひたすらに。

そう……彼女の実の肉親である、最愛の弟の下へと―――

 

……しかし、ネカネの身に掛かる魔法が彼女の心を強制的に沈静化させる。

頭に上った血を貧血にならない程度に押さえ、脳内の分泌物を細かく操作。

加速された意識の中、無理矢理に思考を健常な方向へと纏め上げた。

 

(……大丈夫、ネギの傍にはスタンさんが居るはず。だから、すぐにどうにかなるとは思えない)

 

そう、ネギの事を気にかけるのは自分だけではない。

村にはスタンを始めとして、自分より腕利きの魔法使いが多数在住しているし、その他の村人達だって決して弱くはない。

怪我人の治療ならともかく、戦いに関しては自分よりも優れている者も多数居るはずだ。

 

だから、必要以上に慌てる心配など無い―――

……自分に言い聞かせるように胸中で繰り返し、逸る心を落ち着かせる。

 

(今、私がするべきことは……アーニャを守ること)

 

ネギの事も非常に気にかかるが、アーニャが居る今の状態で悪魔が襲撃を行っている村まで戻る事は自殺行為―――否、むしろ心中行為に等しい。

 

こうして森の中で息を潜めている間にも、悪魔達は続々と村へと降り立っているのだ。ならば先程倒した悪魔のように、森を徘徊している悪魔達も数多く居るはずだろう。

スタンと合流するためには、その悪魔の徘徊する森中をアーニャを守ったまま移動し、さらに村中を襲う数多くの悪魔から逃げ切りスタン達の下へと到着する必要がある。と言う事だ。

 

……ネカネには、それら全ての目標を自分が達成できるとはどうしても思えなかった。

 

先の戦闘では難なく悪魔を撃退することが出来たネカネであるが―――実際の彼女自身は戦いを生業とする戦士では無い、ただ魔法が使えるだけの少女であるのだ。

戦場と化している村へと突っ込んでいって、目標を達成できるだけの適切な判断と行動を選択できる自信は無かった。

自分一人だけならば、肉体強化の魔法でもって相当の無茶をすれば、スタンの元へと到達することが出来ただろう。

しかし、今アーニャが傍にいるのだ。彼女を守りながら行動しなければならない以上、その無茶も出来はしない。

 

―――ならば優先するべきは、護衛と逃走。

 

胸の中で泣いている少女を悪魔達から守りきり、山の麓にある町に――祖父の治めるマギステル・マギの陣地内まで戻り、助けを請う。

それが、現状の彼女が出来る精一杯であるのだろう。

 

「……っ」

 

……私がもっと強ければ、ネギの元へと駆けつけられたのに。

もう少し戦闘に関して学んでおけばよかった、戦いに役立つ魔法を覚えておけばよかった、級友達から敵と戦う術を教えてもらっていれば―――!!

 

(…………)

 

そんな後悔が激情となって溢れ出そうになるが、それら全てを彼女は飲み込む。

 

――今はただ、この状況から逃れることだけを考えろ。

 

「――ごめんなさい……!」

 

「きゃ!?」

 

心が決まれば後は行動に移すのみ。一刻の猶予も無い現状では尚更だ。

ネカネは抱きついているアーニャをそのまま抱え上げ、落とさない様しっかりと抱きしめつつ森の中を走り出す。

後ろ髪を引く慙愧の腕を振り払い、込み上げる涙を抑え、ただ只管に。

行く手を阻む木々を軽やかにかわしながら足を踏み込み、一気に加速。アーニャに負担が掛からない様に、それと周囲の動向に細心の注意を払いつつ、金の閃光となり森の中を駆け抜けていく。

 

「お、お姉ちゃん! こっちは違うよ……!」

 

途中、自分たちが村から離れている事に気付いたらしいアーニャが焦った声を上げる。

……しかしネカネは立ち止まる事無く、目線だけを腕の中に向けた。

 

「……ごめんなさい、ここまで連れて来たのは私なのに……。でも、あれ以上先に進む事は出来ないの」

 

「な、なんで!? だって、さっきも黒い奴とか、ばーって倒したよ!? なら……」

 

潤んだ目で見上げ、必死に村に戻って欲しいと訴えるアーニャ。

 

それも当然の事なのだろう、村にはネギは勿論、彼女の両親や親しい友人なども在住しているのだ。

ネカネ以上に現状の理解が出来て居ない彼女だが、それでも悪魔――曰く、黒い奴――に村が襲われており、彼らが危ないと言う事くらいは察している。

そんな中で、襲い掛かってきた悪魔を難なく討ち倒したネカネの姿。

その勇姿は、彼女に「お姉ちゃんなら、あの黒い奴を何とかできる」と希望を抱かせるのに十分だった。

 

――――なのに、なんで逃げるの……?

 

……だからこそ、ネカネが逃走を選択した事が理解できない。

ネカネならば、お姉ちゃんならば。きっと皆のところに行ける筈なのに、なんで戻ろうとするの? 何で、何で……!

 

「戻ろう? ね、お姉ちゃん! だって、パパとママが、タクだって、おじいちゃんもぉ……!」

 

「……アーニャ……っ!」

 

「お、お願いだから、おねがい……!」

 

流れ行く景色の中、ローブに顔を埋めたまま放たれる悲痛な懇願。その掠れた声は、ネカネの胸を容赦なく穿ち、精神をぐら付かせる。

 

「…………ッ!!」

 

……きっと、自分は後でアーニャに責められるのだろう。詰られるのだろう。

何故両親の元に行ってくれなかったのか、何故逃げ出したのか、何故自分達だけが安全圏に居るのか。涙と鼻水を垂れ流した顔で縋り付かれるのだろう。

 

先程まで抱かれていた信頼も、希望も、何一つ無かった事になってしまう。それどころか憎まれる事になるかもしれない。

現状の把握できない子供だから仕方が無い……そう片付けるのは簡単だが、それでも結果的にネギを見捨ててしまう選択をした今のネカネにとって、たった一人。自分に残された守るべき者からそう思われるのは、とても悲しく辛いものだった。

 

――そうなる位だったら、今からでも……?

 

「は、……っは……っ!」

 

息が上がり、足が、鈍る。

ネガティブな予想に目の端が震え、吐き気が込み上げて――!

 

「……っ」

 

再び、精神状態を操作。

ふるふる、と頭を振り、乾いた唇を噛み締める。ぷつり、と小さな音がして口内に鉄の味が広がった。

 

……駄目だ。余計な事を考えるな。今は助かる事だけを。

取らぬ狸の皮算用――とは大分違うかもしれないが、今助かった後のことを考えて頭を悩ませても仕方が無い。

アーニャの気持ちを受け止める事も、悔やむことも、自身への責めも、全てが終わった後にすればいい。

この状況から逃げだせなければ、そもそも「後」など無いのだから。

 

(だから、だから、私はっ……!!)

 

胸の中からすすり泣く声が聞こえ、もがく振動が伝わる。

戻って欲しい、逃げないで欲しいと。その小さな身体から切実な思いが伝わってくる。

 

……ネカネはそれを強く抱きすくめ、袖の内側に隠してある杖に触れる。

そうして身体強化魔法と認識阻害魔法を重ね掛け、ともすれば千々に乱れる思考を一つに収束させる。

これ以上の強化は身体にかなりの負担を強いる行為となるが、自らを追い込む意味を込めて強行。

魔力と体力の消費がより一層激しくなり、悪魔を退けながら村に向かうだけの余裕が無くなってしまった。これでもう、自分は逃げる事に全力を注ぎ込む事しかできない。

 

「はっ……はぁっ……」

 

自分が動く事ができる時間は、感覚からしてあと一時間弱といった所か。何時終わるかも分からない悪魔との戦いに身を投じれば必ず途中で力尽き、アーニャ共々餌食になってしまうだろう。

しかし逃げるだけならばどうだ。一時間休む事無く、肉体強化が成されたこの状態のまま、この速度のままで走り続ければ、森を抜けた山の麓までは何とか辿り着く事ができる筈だ。

 

――それは正しく彼女にとってのタイムリミット。

 

村に向かう事も、自ら戦いに赴く事も。ネカネはノイズとなる選択肢全てを、強制的に潰したのだ。

 

「ぁ、く、ううう……!!」

 

筋肉が、骨が、肌が。キチキチとした異音と激痛を奏で始めた。体温が上昇し、肌の色が薄桃色に上気する。

 

それは自らの身体の限界を無視して詰め込まれた魔力が放つ不協和音。オーバーフローした魔力糸が行き場を求め唸りを上げて宙を舞い、後方へと流れる景色に絡みいて空間を歪ませる。

そうして地面を蹴り出す音が激しさと重みを増し、土塊が散弾の様に打ち出され、これまで以上に走る速度を増していく。

 

彼女の軌跡に続き、残像の様に歪んでいく景色。その光景は異様極まりなく、どれだけの力がその華奢な体躯に宿っているかを伺わせる事だろう。

 

――そして、どれだけの負担がその身にかかっているのかも。

 

「はっ、っあ」

 

だが、ネカネは止まらない。

ネギの事、村の事、アーニャの気持ち、自分の気持ち。既に様々なものを無視して居るのだ。今更身体の事を無視したとして、何の問題があるだろう?

 

「お、お姉ちゃん……?」

 

アーニャが只ならぬネカネの様子に不安げな声をかけるが、最早その声はネカネには届かずに。

只管に、足を動かし続ける。

 

――自棄。

 

冷静にさせた脳が自らの状態をそう判断し対処を訴えるが――ならば、どうすれば良い?

ネギを助けに行けば、自分とアーニャの願いのままに行動すれば良いのか? 絶対に無事では済まないと分かっているのに?

 

何度も生まれ続けるそれは悪魔の誘いのようにも思え。心中が甘く蝕まれそうになる度、精神状態を操作しその感情に蓋をする。

何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。

それを繰り返す度に、少しずつネカネの視界が色を失っていく。

自らの感情を押さえ込む度、心とも言うべき場所が磨耗していく。

 

(逃げる、逃げる、逃げる……ッ!)

 

自分自身に言い聞かせる様に心中で繰り返し、余計な思考をする余地を無くすように努めた。

最低限、周囲の気配を把握し、走る事に全能力を集中させる。

そうして更に加速すべく足に力を込め、踏み出して――――

 

――――そして、疲弊した精神は、それを見落としてしまった。

 

 

『――おやおやぁ? 自分達だけ助かろうナンテ、ズイブン薄情な人間さんデスネー?』

 

 

「――――、っ!?」

 

足元。響いてきたのは小さな女の子の声、そして、水音。

ぱしゃり、と。何処と無く間抜けな音が辺りに響き渡り、踏み込んだ筈の地面が大きく波打つ。

そうして足元に広がる溶けかけの雪が飛沫を上げて舞い上がり、流体化。驚くネカネ達を包み込んだ。

 

「きゃ……ごぼっ!!」

 

悲鳴を上げかけるアーニャの口に水が流れ込み、強引に声を潰す。

一時的に超人を凌駕した身体能力を持っていたネカネも、両手が塞がり、加えて地面が液状化しバランスを崩してしまった状態ではどうする事もできず。許されたのは、ただアーニャを抱きしめる事だけだった。

 

(――トラップ……!!)

 

身体を包み込む冷水に脈を乱しながら、ネカネは歯噛みする。森に入った時には何も無かった為、油断していた……!

この状況でとるべきだったのは、慎重さ。決して強行突破を考えるべきではなかった――そう後悔するが、それももう後の祭り。

 

「……っ」

 

上下左右、身体全体を包む液体の中で流され、平衡感覚を失った中。

胸の中に感じる温もりを守るように、或いは縋るように。ネカネはそれを抱きしめて――

 

…………

 

……

 

 

……全ては、5秒にも満たない一瞬の出来事。

後に残るのは遠くから響く喧騒の音と、枯れ木の間を風が吹き抜けていく音。それだけだった。

 

 

――人の気配が消え失せた、その場所。

白化粧が施されたその地面には、小さな水溜りが凍りつく事も無く広がっていた。

 

 

*******************

 

 

もう、嫌だ。

どうして僕がこんな目に合わなきゃいけないんだ。

 

最早描写し飽きた感のある小部屋の中。

その部屋の隅っこ。ぐしゃぐしゃにシーツの乱れたベッドの上で、僕は頭皮を掻き毟る。

 

「く、くそ、くそ……!」

 

指に伝わるのは、頭皮ではない硬い布の感触。頭の上に乗せているスタンから貰ったトンガリ帽子のものだ。

 

僕の頭全体を丸ごと覆ってしまうサイズのそれが、僕の指の動きに合わせてシワを形作り、歪む。

借り物なんだから少しは大事にしないと。なんて声が心のどこかから聞こえたけど、僕はそれを華麗にシカト。

恐怖、不安、混乱、そのほか諸々。頭の中を渦巻く激情のまま、より一層の力を込めて帽子に爪を立ててかき回した。

 

八つ当たりだろうがなんだろうが、そんなの知ったこっちゃ無い。こんな状況で帽子だけ寄こして消えた糞爺の持ち物に気を遣う必要なんて無いじゃないか。

引っかき、引っ張り、押し込み、捻り、絞り。そうしてしわくちゃになった帽子がポトリと床に落ちて、立てた爪が今度こそ頭皮を引っかいた。

 

「っ…………」

 

……駄目だ、落ち着け。落ち着けよ、僕。大丈夫だ、まだ慌てるような時間じゃない。

 

そのピリッとした痛みに少しだけ我を取り戻した僕は、震える横隔膜を押さえながら深く、息を吐き出した。

胸の奥はムカムカするし、性質の悪い吐き気もする。でも逃げてばかりじゃいられない。

ギガロマニアックスである事を見ない振りしている僕にとって、目の前に立ちはだかる現実は何処まで行っても現実のままなのだから。

 

「り、梨深ぃ……!」

 

ともすれば錯乱しそうになる意識を抑える意味を込め、愛しい少女の名を呟いて、震える眼球を無理矢理動かし外を見た。

 

窓の外、大きな雪の粒を振りまく冬の空。

そこにはどんよりと鈍色に濁ったぶ厚い曇が空一面を覆っていて、その隙間から白い欠片が舞っていた。

 

一つ一つが僕の拳位もあるそれらは、ボサボサと音を立てて降り積もり。見える限りの全てのものを白一色に染め上げる。

自重に耐え切れなくなったのか、時折屋根の上に積もっていた雪が地面にずり落ちる音が聞こえて。僕はその度に深まる寒気を予感して、ぶるりと肩を震わせた。

 

外国の片田舎が作り出した美しき大自然、いやぁこれからはそういう事も考えて暮らして行きましょうねぇ。なんて。

……まぁ、雪の間に変なものが混じってなかったら、そんな感じで締められたかもしれないね。

 

「…………」

 

カーテンの隙間から見える、その景色。

 

丁度村の真上辺りだろうか。空を舞う白い雪の乱舞に、ポツポツと……どころかワラワラゾロゾロザクザクドバドバと混じる黒いものがある。

それらは絶え間なく天から地へと螺旋を描き――遠目から見てみれば、まるで黒い竜巻が踊っているかのようだった。

 

……それは良く見れば、蝙蝠に似た羽や尻尾の様な物が付いた生物の形をしていて。その手足は身体に不釣合いなほどに太く、頭から細長い角が生えていた。

人間とはかけ離れた容姿をしているしているにも拘らず、ギャーギャーと微かに聞こえる叫び声は耳を澄ませば人語に聞こえないことも無くて――それは正しく化物、と呼ぶべき存在だった。

 

しかもダイナミック急降下を敢行する彼らは皆が皆村に対して攻撃の意思を持っているいるらしく、建物に突っ込んだり口からレーザーを出したりして破壊活動を行っているんだ。

 

しかし村の奴らもされるがままって訳じゃないみたいで、時たま地上から空に向かってレーザーっぽいのが放たれ、空を飛んでる黒い奴らを吹き飛ばしてる。

一本、二本、三本と。光の筋が黒竜巻を貫通する度に、何やら小さい物体がその中から弾き出され宙に向かってぶち撒けられていて――まぁ、それに関してはあんまり想像しない方が良いんだろうな。きっと。

 

 

―――化物と、魔法使い達の戦い。

 

 

現在、僕たちの居るこの場所はそんなポッター的な戦場となっているんだ。嘘だろ。

 

「……ひ、ひひ、ひ」

 

思わず、気持ち悪い笑い声が唇の端から漏れる。

だってそうでしょ? 

なんかデーモン系の敵キャラっぽいやつが自由に空を飛び回って、それで攻撃してきて。

 

爆音が一つ轟く度、空から地上にレーザーもどきが放たれる度。

雲を紅く照らす炎の光と共に遠目に見える建物が一つ、また一つと煙と音を上げながら瓦礫の山に変わっていくんだ。

そして、それに立ち向かう魔法使いの村人達。まるでCG満載のファンタジー映画を見てるような気分になるじゃないか。

 

朝から感じていた恐怖と、さっきのスタンとのやり取りでおかしくなっていた僕は、その光景を前にもう、何ていうか、笑うしかなかった。

それぐらいなら梨深だって許してくれるよね? ね?

 

「……ふひ、ひひひ……」

 

で、実際、これ、何なん? 何が起こってるのか、全くもって理解不能なんだけど。

 

あ、もしかして公式大型クエスト? 防衛イベ? ならPTコールしてくださればどのギルドにも行きますよ? 今僕フリーなもんで。

疾風迅雷のナイトハルトの名は伊達じゃないんだ、僕が加入したPTからは一人も戦死者を出さない自信はあるね。約束しても良い。

まぁ例外としてイライザの居るPTには入らないけどね。汚いネカマは大人しくおっ死んどけば良いんじゃない? ふひ、ふひひっひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ…………

 

……ひひ、ひひひ、ひ、ひ――――!

 

「……ぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁ…………ッ!」

 

何なんだ! 何なんだよこれ!!

もう本当に嫌だ! ネギになってからと言うもの、禄でもない事ばっかりだ!

 

「くそっ! くっそぉ……!!」

 

僕はベッドの端に落ちていたトンガリ帽子を乱暴に引っ掴み、再び頭部から首元まですっぽり被る。

一呼吸ごとに濃い匂いが鼻腔に張り付いてくるけどそんな事は気にも留めず、身体に毛布をぐるぐると巻きつけた。

端から見ればどこぞのザコモンスターのような出で立ちだけど、その時の僕にはそんな事を気にしている余裕は無かった。

 

――この小屋の外に渦巻く、悪意。容赦なく叩きつけられる圧迫感。

そして朝から感じていた不安感も相まって情緒が不安定になっている僕は、もう色んな意味でギリギリだったんだ。

それこそ、スタンの加齢臭だかコロンだかの香りに縋り付き精神の安定を図るなんてキモい事をするくらいに。

 

「……ぐ、っくくくく……!」

 

貧乏ゆすりが止まらない。

あいつらが、村を襲ってる化物たちがこっちにやって来るかもしれない……そんな事を考えると、心の奥底から恐怖が込みあがって来る。

 

だって、いくらここが村から離れた場所にあるって言ってもそんな数十キロも離れてるって訳じゃない。空から見渡されれば簡単に見つかってしまうはずなんだ。

まだ見つかっていないのだって、デーモン達が村にかかり切りだからだろうし、攻撃が一段落したらまず間違いなくこっちまでやって来る。

 

……村の奴らがあいつらを撃退してくれる――なんて希望は、あの光景を見る限り抱く事ができないよ。

だってデーモンの数は村の住民の数を大きく凌駕してる。エンスーでの防衛イベントだって数十、数百のギルドが協力し合ってようやく達成できるんだ、あんな少数でどうにかできるなんて到底思えない。

 

――あの村は、まず間違いなく壊滅するだろう。そして、その次は僕だ。

 

「…………」

 

……村の奴らを心配する余裕なんて無かった。それよりも、自分の方が心配だったんだ

 

だって、あいつらは魔法やらなんやらが使えるんだろ? だったら相手を倒しきれなくても最低限逃げる事くらいは可能な筈じゃないか。

話を聞く限りじゃ治癒魔法なんてのもあるらしいし、怪我したってケアルとかザオリクとか回復L3とかでなんとかなるだろJK。ファンタジー的に考えて。

 

――けど、僕には何も出来ない。

 

この雪の中を逃げる体力も、襲われた時に戦う術も無い。精神的な問題でディソードも論外。出来る事があるのならば、それは見つからないよう居るかどうかも分からない神様に祈る事だけだ。

だってこちとら三歳児、人に頼らなきゃ生きる事もままならない弱い存在なのである。救いの目のある村人より、どうしようもない僕の現状を憂いたって良いだろう?

何より、あの村には良い思い出が無かったからね。

ネカネやアーニャも今は居ないし、もしも僕に被害が及ぶ可能性が無ければばザマァwwwとか言って笑ってたかもしれないよ。

 

……まぁ、死亡フラグを立てていった酔いどれ老害の事は少しだけ気になるけど。

 

記憶が作られたとか何とか意味深な事ばっかり言って、それで最後は『―――続きは、全てが終わってからじゃなぁ』なんてさ。『この戦いが終わったら俺結婚するんだ』と同レベルのフラグ強度だ。

村の奴らを逃がす為に敵を引き連れてマジカルに自爆、たった一人の死亡者となって真実は永久に語られる事は無かった、とか。超ありそうで怖いんですけど。

 

「く、くそ、くそ……!」

 

この様子から言って、どうせスタンもあそこで戦ってるに違いないんだ。あんな数の敵と、加えて嫌な奴らばっかりの村を助ける為に戦いに行くなんて、どっかおかしいんじゃないの? 

どうせなら他のご老人たちも呼び寄せて、村なんてほっといてここで僕の事を守っていて欲しかったよ。そうすれば少なくとも何を伝えたかったのかは分かったはずなのに。

 

さっき向けてきた敵意といい僕に気を揉ませる事といい、本当に糞爺極まりないな……!

帽子の下の部分から手を差し込み、柔らかい親指の爪を齧りながらそんな事を呟いて――

 

――――部屋の扉が輝き始めたのは、そんな時だった。

 

「……?」

 

帽子の内側、ベージュ色の生地が透過する光が一段と強くなった気がして、僕はトンガリ帽子の先端を引っ張って目が露出するまで帽子を引き上げた。

すると開けた視界に刺す様に強い輝きが入り込み、思わず目を眇めてしまう。

 

それは先程見た光。スタンが帰る為に使用した、扉に埋め込まれている(らしい)魔方陣が発する物だった。

 

「ふ…ふひひ…ひひ……!」

 

噂をすれば影が差す、とはよく言ったものだ。そのタイミング良さにキモい笑い声が漏れた。

……彼が、生きて帰ってきた。その事実が安心感となって僕の心に入り込み、ストレスに苛まれていた精神が少々の落ち着きを取り戻した。

 

……ん? 

あ、いや、嘘。全然落ち着いてないよ。マジでマジで。

 

「……ひ、ひ、な、何だよ。も、もう終わった、のか……」

 

勿論、敗北&エスケープ的な意味で。

僕は何度も「やっぱり」と呟きながら薄ら笑いを浮かべ、部屋の中を見渡し逃げ出す時に持っていく物を軽く一考する。

逃亡の為に戻ってきたと決め付けるのは少し早合点な気もするけど、多分そういう事で合ってると思う。

 

扉に向けていた目線を窓の外にスライドさせてみたけど、黒い竜巻は未だ村の上空に駐留したまま消える気配は無いんだ。

だったら、少なくとも敵をどうにか出来たって報告じゃない訳で。まぁ、あからさまな負けイベントであった事は明白だもんね、しょうがないね。

 

――加えて。

 

・戦況は多分極めて不利っぽい。

・ここには戦う為の物資とか、そんな物は何にも無い。

・あると言えば冷蔵庫の中身くらい。それか、僕。

 

それらの要素を踏まえた上で僕の所に来る理由――そんなの、ニア『逃げ出すために僕を連れてく』位しか思いつかないじゃないか。

 

「……ぱ、パソコン、くらいか……」

 

僕は身体に纏わせた毛布をたどたどしい手つきで脱ぎ捨てた。歪んだトンガリ帽子は何か頭の形に引っかかっていい感じにフィットしてたので、そのままで。

長い事貧乏ゆすりをしていた所為か痙攣する足を無理矢理動かして、ベッドの上を這いずる様にして机の方角に向かう。

 

この部屋の中で持っていくべきものは、愛用のノートPCだけだった。今の僕の手には余る重さだけど、置いて行くなんて事は考えられない。

 

(さて、どんな台詞で煽ってやろうか)

 

敗残兵たるスタンをどんな言葉で迎えてやるべきか。そんな事をつらつらと考えつつ、PC周りのコード類を取り外していく。

そうして電源コードだけをポケットに突っ込んで……後は、まぁ。口惜しいけど諦める事にしよう。ルーターとかごちゃっとしたコード類とか持って行けんし。

まぁ、最低限今やってるネトゲのオフが出来れば何とでもなる。

 

「よ……と」

 

PCを落とさないようしっかり両手で抱え込み……思い直して腹と服の間に滑り込ませて、ズボンの腰紐で固定する。

そしてその上からコートを着込み、僕がPCを所持している事を隠しておく。持っていることがバレてしまうと置いて行けと言われるかもしれないからね。

 

僕は重い腹を引きずりながら、輝きを強める扉の前に移動した。

この位置からは見えないけど、窓の外からはまだ轟音が堪える事無く響いてくる。あまり余裕の無い状態なのは確かだろうし、少しでも扉に近い位置に居た方が良いだろうと思ったんだ。

 

僕はもうさっさとこんな戦地からはおさらばしたいのだ、だから早く僕を連れ出して!

 

「……早く来い、早く……!」

 

僕は鼓膜を小さく揺らす音に怯えながら、扉の表面に浮き上がった魔法陣から草臥れた老人が出てくるのを待った。

一秒ごとに強さを増すその光は圧力を持って網膜を焼き、焦燥感をも煽っていく。

 

――早く来てよ、あいつらが来ないうちに、早く!

 

「…………」

 

何も言わずに、彼を待つ。

カタカタ、と。貧乏揺すりに合わせて腹部に仕込んだPCが音を刻んだ。

 

「…………」

 

カタカタ。

 

「…………」

 

カタカタ。

 

 

「…………」

 

カタカタ。

 

「…………」

 

カタカタ。

 

「…………」

 

中々姿を見せないスタンに苛立ちを募らせながらも、ただ、ひたすらに待つ。

……焦らしプレイは得意じゃないんだ! 来るなら来るでさっさと来いよ!

 

貧乏揺すりは地団駄に変わり、苛立ちのままに床板に靴底を叩き付け。

……もしかしたら魔方陣の先は洒落にならない状況なのかもしれない。それもここを緊急避難場所とするぐらいに……?

そんな事をチラッと思ったけど、僕の脳内は既に脱出ムード一色だったので、見ない振りしてどっかに放り投げた。

 

「く、くそ。早くしてくれよぉ……!」

 

滾る焦燥感を抑えきれず、ウロウロと落ち着き無く歩き回る。扉に目線をやったまま、早歩きで円を描くように、ぐるぐると。

……ずっと貧乏揺すりをしていた所為か、何か足痛くなってきた。ヒキオタの体力の無さを舐めんな。

 

とりあえず、ベッドに座ってようかな。そんな事を考えつつ、僕は扉に背を向けて――――

 

――――――――光。

 

「っうぇ!?」

 

カッ!

……なんて擬音が轟いたと錯覚するほどに、一際大きく扉の魔方陣が輝いた。

 

「え? え?」

 

……スタン?

突如背後から出現した強力な圧力に、僕は思わず振り向いた。すると僕の目に先程とは比較にならない程の痛み――つまりは、光が突き刺さる。

視神経を直接焼き切るような鋭い痛みに咄嗟に俯き、小さく呻いて両目を小さな手で押さえた。

 

これがバルスか! なんて冗談言ってられる余裕なんて無い。

だってそれに加えて、更にはピシピシと扉に罅が入るような音も聞こえ始めていて――

 

――これ、なんか違う!!

 

その様子に只ならぬ気配を感じた僕は、まだよく見えない目を擦りながらベッドの影に隠れようと走り出した。

胸に沸き起こる恐怖と共に、只ひたすらに真っ直ぐに。その際にベッドの端に足を引っ掛けたけど、その時の痛みも無視をした。

……でも、少し遅かったみたいだ。

 

「――っぐぁ!?」

 

轟音と共に背後の扉が粉々に砕け散った。

そして巻き起こる風が僕を吹き飛ばし、同時に背中に何かが物凄い勢いでぶち当たる。

 

僕はその衝撃に耐え切れず、近くにあった椅子を巻き込んで床の上にバウンドしながら転がって、回転。机の足の部分に背中を強く打ち付けてしまった。

ごり、という音と、何か背中の真ん中がずれた様な感覚。打ったのは背中なのに、何故か全身がキリキリと変な痛みを訴える。背骨とかに問題が起こってませんように……!

 

――何だ? 何が起こったんだ!?

 

「っが……っほ、ぐ、は……!」

 

「……けほっ、けほっ! おぇ……」

 

そうしてそのあまりの痛みに息が出来なくなり、涙と涎を撒き散らしながら喘ぐ僕の耳にもう一つ。自分の物ではない咳き込む音が聞こえた。

キャパシティを超えた混乱と痛覚によりノイズの走る思考の中、僕の涙でぼやける視界は無意識にその姿を――先程背中にぶつかってきた物体Xを追い、認識。

 

――まず映ったのは、赤い色素の混じった長い髪。

 

――次に映ったのは、水の濡れたローブが張り付いた、小柄な身体。

 

――そして最後に気管にでも水が入ったのか、必死になって咳をして水を吐き出し続ける幼い少女の歪んだ表情が映る。

 

「っ……た、たく……?」

 

――――僕の精神的な妹分にして身体的な姉貴分。自称幼馴染のアーニャの姿が、そこにはあった。

 




■ ■ ■

だが私は謝らない。


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第10章  一人は、人にとっての救世主

――――僕が最期に見た世界は、自身の罪が存在しない『あったはずの世界』だった。


気が付けば、彼女は暗い激流の中にいた。

 

「――――!!」

 

自らの周囲を巡るのは、身を切るような冷水。

未だ凍り付くまでは行かずとも、生命を凍死させるのには十分であろう寒の極。

それまるで意思を持っているかのように蠢き、身体全てを包み込み。容赦なくその少女の体温を奪っていく。

 

……否、体温だけではない。

手を、足を、舌を、目を、五感を、臓器を。身体の自由だけでは無く、彼女の持つ命の全て。

彼女が彼女たる全てのものを、それは奪わんとしていた。

 

「――……!」

 

ぐるぐる、と世界が回り、冷水に揉まれる身体は前に後ろに回転。少女を乱暴に振り回す。

そこから抜け出そうともがき、何度も足を蹴り出し身体の制御を取り戻そうとするが、それも叶わず。

身体が衝撃を受ける度に必死に息を止めようと閉じていた口と、それを抑える手が外れ。そうして口腔へと少々の粘性を持つ冷水がねじ込まれ、食道と気道が凍て付くそれで満たされる。

 

「が。……っぼ」

 

意識を犯す唐突な吐き気。脳の一部が焼きつき、硬く閉じた瞼の裏が紅く染まり血管の模様を浮かび上がらせた。

体内に異物が入り込んだ事により、条件反射で咳き込み冷水を吐き出すが――しかし、彼女の身を包んでいるのは今し方吐き出した物と同じそれ。

咳き込む傍から体外に吐き出した以上の冷水が体内に雪崩れ込み、肺の中身を押し出していく。

 

――もう、駄目かな。

 

内外から襲う寒気に思考さえも麻痺してきた彼女の脳裏に、そんな諦めの言葉が過ぎり――――その全身から力が抜け落ちた。

 

これ以上温度を奪われまいと。これ以上死へと近づくまいと筋肉を固めていた意思が霧散し、手足が弛緩する。

彼女を襲うのは甘い痺れ。鈍い寒さと共に全身に巡って行くそれは、間違いなく死への足音だった。

うっすらと開いた彼女の視界が、徐々に白く染まっていく。

その白が視界全体を覆い尽くした時、自分は物言わぬ躯となるのだろう。彼女はそう理解した。

 

――ごめん、なさい……。

 

走馬灯。人が死ぬ間際に見るというそれすらも流れず、彼女の意識は遠のき始め。

流す大粒の涙は水に混じり、消え。彼女は守れなかった事に謝罪をして―――――

 

――――謝罪?

 

ふと、苦しみと諦めで混沌に濁った脳裏を疑問が過ぎった。

今、自分は誰に謝ったのだろうか? 守れなかったとは、誰のことだ?

酸素が足りずぼんやりと鈍る思考の中、彼女は焦りを覚えた。

 

私は何を守っていた?

私はどうしてここに居る?

私は何故死にかけている?

私は、私は、私は――――?

 

回らない、回らない、回らない。

何を考えるべきなのか、何を考えたら良いのか。このまま諦めて本当にいいのか。

答えを出す事の出来ない自分の頭に苛付きが止まらない。

 

――果てしなく、焦れったい。

 

まるで部品の外れた歯車の様に。繋がらない思考と意識がカラカラと乾いた音を立てて空転する。

 

回らない、回らない、回らない……!!

早くしなければ、早く至らなければいけないのに! 何故、何故!

 

それは、怒りと呼ぶには余りにも小さい灯火。

しかしその感情の猛りは確実に彼女の身体に力を取り戻させる。

白く染まりかけた視界がゆっくりとその範囲を減らし、凍て付いた全身を少しずつ。本当に少しずつ、暖め、溶かして。

 

「…………!」

 

未だ酸素は足りず、脳内の血管は絶えず悲鳴を上げている。少しでも気を抜けば意識など一瞬で飛んでいくだろう。

しかし、自分はここで終わるわけにはいかないと言う使命感にも似た感情がそれを無理矢理押さえ込み、堪えさせ。

 

それに付随し、手足の感覚が。水の冷たさを伝える温感が。身体を刺し続ける痛覚が。触れる者を抱きしめる指先の感覚が戻って行き――――

 

――――そして、その腕の中に『彼女』が居ない事に気が付いた。

 

(……!?)

 

胸から噴出すのは、焦り。

未だ霞んだままの視界の中、彼女は感覚の戻らない首を回して辺りを見回した。

……しかし、目に入るのは一切の光が入らない、どことも知れぬ水の中。

その身を激流に振り回され、その上数センチ先すらも見通せないこの空間の中で。只闇雲に首を巡らせた所で直ぐに見つかる筈も無く。

 

「――ッ!」

 

……否、見つけた。

余りにも呆気なく激流に流されていくそれは、小柄な人影。

自分の半分程の身長、紅い色素の混じった頭髪。だらりと伸びた手足は力なく水中を漂い、少なくとも意識は無い様に見えた。

母からのプレゼントだと喜びながら見せびらかしてきたローブを、冷水に濡れた身に纏ったその人物は――――!!

 

『――アーニャッ!!』

 

瞬間。

少女――――ネカネの意識が、弾けた。

 

白くぼやけていた視界は一気に焦点を取り戻し、開きかけていた瞳孔が強い光を宿し、締まる。

酸素を求め焼け付いていた脳内は興奮により更に叫びを強め、より一層の苦しみを彼女に与えるが――しかしそれすらも燃料とし、意思の炉にくべた。

 

「――――――ッッ!!」

 

ネカネの肌が、うっすらと光を帯びる。

身体を巡る幾百もの魔法糸が唸りを上げて回転し、ネカネの感じる苦痛のままに猛り狂っているのだ。

 

彼女の身体が、意思が、心が。自信の感じる苦痛とアーニャへの想いに溢れ、スパークする。脳神経とシナプスの箍が外れ、極度の興奮状態へと陥った。

それは生存本能の上げる叫び。未だ完全には戻らない朦朧とした意識を呼び戻す努力すらなく、ただ感じたままに魔力を行使。

 

全身の筋肉が膨れ上がり、只でさえ酸素の足りない身体が絶叫を上げた。視界が黒くちらつき、表情が大きく歪む。

そんな極限状態の中、それも魔力のブーストを受け白熱した脳内に響くのは、たった一つの言葉だけ。

 

――――即ち。

 

『アーニャを、助けろ――――!!』

 

ぽん、と。間の抜けた音が水中を震わせた。纏わり付く冷水の圧力の中ネカネが勢い良く振り上げた右腕、その指先が遠心力に耐え切れず破裂したのだ。

 

二重に施された強化魔法と、興奮により外れた脳のリミッター。

それらの要素はネカネが振るう事の出来る力の上限を大きく超えており、ただ腕を振り上げる動作だけでも彼女に大きな負担が圧し掛かる。

肉と皮の欠片、それと血液と油とが冷水に混じり、激流に流され消えていくが――ネカネはそれらを全てを認識して居なかった。

 

(ゥ、あぁぁああっ!!)

 

痛みさえも無視をして。ただ見据えるのはアーニャの姿、その一点。

ネカネは振り上げた腕に魔力を纏わせ、先程以上の勢いで持って振り下ろした――!

 

『ノ、ノノ? ちょ、ま、ワアアアアアア!?』

 

――轟、と。水が猛る。

 

残像すら見えない、その軌跡。それは激流を割り、渦を作り出す。

響いてくるのは、水中に落とされる直前に聞いたものと同じ声。

何者かに管理されていた筈の水の世界は音を立てて荒れ狂い、踊り、歪み。新たな流れを産み出して。

 

そうして自身とアーニャの身体もまたその流れに巻き込まれ、異なる方向へと離れ離れに流されて――新たに産み出された大渦に近づいていく。

傍から見れば自身の首を絞める行為だったが、しかしネカネは止まらずに。振り下ろしたボロボロの右腕より纏わせていた魔力糸を解放した。

 

(――――ッ!!)

 

金色に輝く魔力の糸。淡い光を放つそれらは開いたネカネの五指に沿って打ち出され、空間内を奔る。

金の軌跡を残す何本もの閃光は乱雑に流れ行く激流の中を物ともせずに駆け抜け、放射線状に、螺旋状に、時には直角にと縦横無尽に舞い踊り――――

 

――――そして、世界に侵食した。

 

『あガッ!? ゥア……!』

 

小さな女の子の声が、響く。

そして水の中を空間に潜り込むようにして金糸が消え、自分とアーニャの周辺を取り巻く水がぐにゃりと歪む。

ネカネは自分達を包み込む冷水が何者かが制御する魔法術式である事を本能で察知し、自らの放つ魔力糸によって干渉を試みたのだ。

 

相手が制御出来ないほどに場を荒らし、その際に生じた隙に自身の魔力を無理矢理ねじ込むというその手法。意識が朦朧としたまま、本能で行動する獣となった今の彼女が行うには余りに複雑にすぎる技術だ。

しかし、彼女はそれを行使する。

 

『に、人間……! やめ、入ってくルナ……!?』

 

――――術式解析。

――――魔力解析。

――――方陣解析。

――――呪文解析。

――――構成解析。

 

魔力糸と繋がった自身の脳に、この水で出来た極寒の世界の情報が解析され送り込まれてくるが、今はそれも無意味な代物。

津波の如く押し寄せる情報を整理する事も理解する事もなく、ただ吸収し、魔法糸より反映させるのみ。

 

――――攻性結界の要素を発見。術式一部削除。

――――捕縛魔法の要素を発見。術式一部削除。

――――転移魔法の要素を発見。

――――転移魔法【現在、転移中】

 

術式。

自らの魔力を呪文に乗せて詠唱し、異界より『術式』と呼ばれる式を引き出し、自身の望む効果を齎す様に組み立てる。

そうして綿密に組まれたそれを魔法使い達は『魔法術式』と呼び、魔術媒体を通して現実へと投射するのだ。

 

当然大規模な力を発現する魔法にはそれ相応の魔力の組み上げが必要になる。それが三種類以上にも及ぶ効果を発揮するこの水中世界に関しては言わずもかな。

ネカネが行ったのは、式の一部分を無理矢理自分の色に染める事。

彼女は組み上げられた既存の術式の基礎部分に干渉し、自らの魔力を流し込んで内部から破壊。その制御を乗っ取った。

 

「……っは、ぁ!」

 

身体を覆う寒気と動きを阻害していた圧力が嘘の様に消え、水の中にも拘らず息が出来るようになる。急激に脳へと酸素が送り込まれ、少々の思考能力を取り戻し。鈍い頭痛と共に紅く血走った目に涙が滲んだ。

彼女たちにとって害となる要素を魔法の中から排除し、術式を書き換え自分にとって都合の良い物へと変化させたのだ。

 

「……か、ふ。げぇ……っ!」

 

途端に大きく咳き込み、肺の中に溜まった水を吐き出すネカネ。しかし先程とは違い、幾ら口を開いてもその中に冷水が流れ込んでくる事はない。

こちらに危害を加える攻性結界の要素を排し、水中でも呼吸が出来るように環境が書き換えた為だ。

アーニャの方に目も向ければ、彼女もまた咳き込み酸素を肺に取り込んでいるようだったが――ネカネは未だ、止まらない。

 

――――転移魔法、転移先。【同パターン2、付近に敵性反応、複数の気配あり】

――――転移魔法【完了まで推定6秒】

 

「ぐぅ……っ!」

 

震える身体を押さえつけ、息を整え思考する。残り一つ、転移魔法を書き換える時間的余裕がない。

既に転移が始まっている状態で下手に弄れば、それこそ転移した先でバラバラ死体になる恐れもある。せめてもう少し時間があれば、転移自体を中断させる事が出来たのに――彼女は奥歯に苦いものを感じ、噛み締めた。

 

(これじゃあ、アーニャを抱き寄せている暇すらも……!)

 

この水中の世界は、村の外に逃げ出そうとする人間を捕らえ、弱らせた上で何処かに――おそらく、悪魔の決めた転移場所へと連れて行く代物であるとネカネは推測した。

加えて送られてくる情報から、転移する先には何匹もの悪魔が居ると察する事が出来る。

ならばこのまま大人しく転移させられてしまえばどうなるか。そんな事は考えるまでもない。

鋭い痛みを訴え始めた右腕が、ミチリと嫌な音を立てた。

 

「…………」

 

限界まで加速された思考の中、遠目に見えるのはアーニャの姿。

どうやら彼女は今どのような状態に置かれているのかが分かっていないようで、肺の水を吐き出そうとひたすら咳き込み続けていた。

 

……転移した先、悪魔の蔓延る地に置いて、自分はどれだけの事が出来るだろう。

彼女を守りながらスタンや他の村人を探し出し合流する事が出来るか。彼女を守りながらネギの下に辿り着く事が出来るか。

少なくとも、今の壊れかけの自分ではどちらも不可能だ。何れにせよ待っているのは失敗の二文字だと確信を持って言える。

 

――――ならば、いっその事。

 

「ラス・テル。マ・スキル――!」

 

放たれるのは魔法の呪文。ネカネの腕から新たに数本の魔力糸が飛び、彼女とアーニャの周辺へと接続される。

どうせ転移した先では同じ場所に出るのだろうが、今は距離が離れすぎている。そのため別個での魔法行使が必要となっているのだ。

……彼女を助ける為とは言え、些か場を乱しすぎただろうか。自身の暴走を省みつつ。へこみつつ。

 

そして術式の大部分はそのままに、転移先に設定されていた転移陣だけを直ぐさま破壊。外界へ繋ぐ事の出来る他の陣を検索し――ネカネの耳に小さな女の子の絶叫が響き渡った。

おそらく魔族の子供だろう。この魔法を操っているらしきその子に何故か致命的なダメージを与えてしまったらしいが、そんな事を気にしている暇は無い。と罪悪感の一つすら無く切り捨てる。

 

目的は一つ、転移する先の変更だ。

転移陣は主に壁や床に埋め込まれて使用され、そこに飛ぶ為にはそれに対応した転移魔法を必要としている。

魔法と陣。どちらが欠けても発動せず、基本的に二つセットで使用されているのだ。

 

その正規の転移陣ではない、別の場所にある陣に出口を移す。そんな事が果たして可能なのかは分からないが、付近に使用されていない転移陣さえ存在すれば理論的には可能なはずだ。

幾ら小さいとは言えここは魔法使いの村の近辺、転移陣の一つや二つくらい存在すると信じたい。無かった場合は……そこは、まぁ。気合で何とか。

 

――つまる所は、粉う事なき大博打。

 

術式自体は余り弄っていない為バラバラ死体にはならないだろうが、何処に出るかは分からない。

不安の残る対処だが、このまま手を拱いている時間は無いし、拱いて手に入れられる未来も無いのだ。

少なくとも、このまま悪魔達のど真ん中に出るよりかは少しは生き残る目も高いだろうとネカネは判断した。

ならば、例え博打であろうが出来る事をするしかない――!

 

『ぃぎ……い、イ……!』

 

「……っ」

 

ずきり、と。魔力糸から異なる魔力が逆流してくる感覚。

この水の世界を作り上げた何者かの妨害か。どうやら死に損なっていたらしく、脳内にちりちりとした違和感が走る。

奪われた制御を取り戻し、なんとしても目的の場所へと自分達を送りたいようだ。

 

――残りは、4秒。

 

「く……!」

 

自分とアーニャ、二つの転移術式ともう二つ。攻性結界と捕縛魔法。相手の攻撃から全ての制御を維持したまま、転移陣の書き換えは不可能。

そして攻性結界と捕縛魔法の制御は手放す事等出来ない。奪取され復活させられてしまえば致命的な妨害をされる恐れがあるからだ。

――例えコンマ一秒以下の刹那だったとしても、部分的な術式一つ乱されてしまえばそれで終わりなのだから。

 

「なら――!」

 

ネカネは咄嗟の判断で自分を切り捨て、自身に向けていたリソースをその迎撃に回しアーニャだけでも他の場所に転移させる事にした。

せめて敵性反応の無い場所に。突然危険に陥る事の無い場所に、彼女だけでも。

 

「……ふ、ふふふ」

 

思わず自嘲の意味を込めた笑みが漏れ出た。

何が「守る」だ。何が「自分が出来る事」だ。あれほど意気込んだにも拘らず、この様だ。結果的には自ら手放し無事を祈る事しか出来ないのだから。

ネカネは奥歯を砕かんばかりに噛み締め自らの無力感に苛まれるが、今はそんな場合では無いと魔力を操作する事に集中する。

 

残り、2秒。

 

「…………!!」

 

――――あった!

 

どうやら殆どの転移陣は破壊されてしまい役割を果たせない状態だったらしく、検索結果に上がってくるものは悉く機能停止状態に陥っていた。

しかしたった一つだけ。無傷のまま待機状態となっている物がある。

 

ネカネは間髪入れずにその転移陣に魔力を繋ぎ、火を入れる。

相当な無茶をする事になる為に一回使えば完膚なきまでに粉砕されてしまうだろうが、そこはそれ、緊急事態だということで許して欲しい。

 

『ぎ、ぎぎぎィ……お前、ダケでもッ!!』

 

「アーニャ、お願いだから無事で――」

 

――――そうして、ネカネがその転移陣にアーニャを押し込んだ事と。彼女がこの水中から外界へと飛ばされたのは、ほぼ同時だった。

 

 

 

 

悪魔の襲来する村の中。

激しい戦いの音が聞こえる住宅街から少し離れた広場の中に、無数の影があった。

それは黒。それは角。それは牙。それは羽。それは爪……。

群がるそのどれもがまともな人とは言い難い姿形を持った、正しく悪魔と呼ぶべき者達。

 

彼らは皆が皆楽しげに語らい合い、笑い合い。戦火の空気を楽しむように思い思いに寛いで。

その者達の傍には、精巧な石像が幾つも積み上げられていた。

 

恐怖。

悔しさ。

憎悪。

怯え。

 

村人を模して作られたと思しきそれは、そのどれもこれもが負の感情に醜く歪み。

それから漂う悲壮感は作り物を越え。命あるものが放つ生々しさを形作っていた。

 

『ぐ、あぅうううウウウ……!』

 

『あめ子!? おイ、どーしたんだヨ、オイ!』

 

『……おなか、痛いノ?』

 

そして、石像の影から響く小さな女の子の声。

強気、冷静、暢気と三つの異なる雰囲気を纏うその少女たちは、明らかに人ではない容貌をしていた。

身長は人間にあり得ない程に小さく、肌は色無くガラスの様に透き通り。ぷるぷると柔らかくその輪郭を震わせているその姿。

 

――スライム、それが彼女達の種族の名。

本来は不定形の生物である彼女達は、液体状の身体を魔法術式によって纏め、少女の姿を形作っているのだ。

油断させる為なのか、それともただ単にその姿が気に入っているのか。少なくとも相手の心に何とも言えぬ萌芽を芽生えさせる事は出来るだろう愛くるしい容姿。

その内、眼鏡をかけた少女の姿をした固体が腹を押さえ蹲り、残りの二体が心配そうに介抱をしていた。

 

しかし呻き声を上げる彼女の表情は苦悶に満ちたままであり、只ならぬ状況にある事が察せられ――――

 

『す、こし……トチッちゃいマ――――』

 

ぱしゃん。

……それが、彼女の辞世の句。

最後まで言葉を紡ぐ事無く、あめ子と呼ばれたスライムの身体が一瞬だけ醜く膨れ上がり、勢い良く弾け。消える。彼女の飛沫は地面に飛び散り、地面に大きな染みを作った。

その色は無色透明、ただの水に良く似た液体に見えたが――事この場に限り、それは大きな血だまりにも見えて。

 

――自己崩壊。

 

魔法生物であるスライムは、高位の存在となればその身に様々な魔法を宿している場合が多い。

使用する際に詠唱を必要としないそれらは、彼女達にとっての武器でもあり……しかし、それと同時に生命線でもある。

魔法と身体その物とが深く結合している為、陣や術式を破壊されればそれだけで魔力が暴走。抑えきれ無い場合、内側から弾け飛んでしまうのだ。

 

彼女の死に様は、崩壊に至った者のそれだった。

 

「ぐ……ッ!!」

 

――――そして、それと同時に一つの人影が彼女の腹より飛び出し、空中に放り出された。

彼女が死を迎える原因を作ったらしきその人影は、空中で1回転。バランスを崩しながらも地面へと着地し、ぜいぜいと息を乱しながら蹲る。

 

金色の頭髪と、ピンク色に上気した肌。

『一つの切り傷すらない』白魚のような指先に小さな杖を握ったその影は、小さく幼い少女のものだった。

 

「はぁー……っ、はぁー……っ」

 

彼女が熱い吐息を一つ吐き出す度に、華奢な体躯には大粒の水を滴らせる衣服が纏わりつき、その年にしてはメリハリの付いたスタイルが浮かび上がる。

体温が相当高くなっているのか。その丸めた背からは幾つもの金色の糸が立ち昇り、濡れていた服が小さな音を立てて水蒸気を上げていた。

 

威圧感。

ただの人間でしかない筈の彼女の周りには、周囲の悪魔に負けず劣らず。とてつもなく大きな気配が渦巻いていた。

 

『あ、あああああアァ!』

 

『……おまエ、カ……!』

 

残った二体のスライム。どうやら彼女達と今し方死亡した固体には深い友情が結ばれていたようだ。

眼鏡の少女が消えた事に強い怒りを感じた彼女達は、その人影に対し戦闘態勢をとる。

しかし注意を向けられた『彼女』は、その視線を気にも留めず。幽鬼の様にふらり、ふらりと身体を揺らしつつ立ち上がり。

そしてゆっくりと顔を上げ、首をめぐらせ――――見る。

 

――守るべき少女を抱いていない己の腕を。

――戦火によって崩壊した村の光景を。

――スライム達の声でこちらに気付いたのか、徐々に自分を取り囲む悪鬼達を。

――そして、その悪魔達の椅子代わりとなっている石像――石にされた村人達の姿を。

 

人間である彼女にとって、見渡す限り絶望しかないこの状況。普通であれば気が狂ってもおかしくない筈の光景。

 

「ふ、ふふふ、ふ……」

 

――しかし、彼女は口角を吊り上げ、愉快そうに笑う。

 

自棄になったように。

すべき事を見つけたかのように。

願いが叶ったかのように。

 

破壊された村の中で自分は一人、助けは遠く間に合わない。

そして鋭い爪や長い牙、一振りで大木すら折り飛ばせるような肉体を持った悪魔達が、敵意を持って包囲網を形成している。

 

……そんな絶望的な状況下に合って笑うその姿に、悪魔達は警戒した。

「恐怖の余りおかしくなったか」――本来であればそう嘲笑し、仲間を殺したちっぽけな人間を縊り殺す所だ。

しかし、彼女の放つ気配がその殺意を押し留めさせる。

 

――――そうして、悪魔の視線を一身に受ける少女は、顔を天に向け大きく口を開いた。

 

 

「               」

 

 

轟くは、絶叫。

喉が張り裂けんばかりに叫び、喚き。辺り一帯を震わせるのは、切なる想い。

人の名の様にも聞こえたそれは『彼女』にとっての鬨の声であったのか。

彼女は同時に深く身を沈みこませ、足のバネに力を溜め込み。

 

 

――――自らの体の何処かが壊れる音を聞きながら、それを解き放った。

 

 

*********************************

 

 

――修羅場。

その時の僕たちを表現するならば、それが一番適切な単語だった。

 

「は! な! し! て! よー……!!」

 

「む、む、りぃ……っだ、っよぉ……!!」

 

ぐいぐい、ぐいぐい。

小汚く狭い小部屋の中、何とかして外に出ようとしているアーニャ。そして彼女の腰の部分に抱きついて必死に押し留める僕。

その姿はまるで金色夜叉における貫一とお宮の名シーンの様。いや別に僕自身に不義理があって許しを乞うている訳じゃ無いけど、雰囲気としてはそんな感じだ。

 

振りほどかれまいと腕に力を込める度に、アーニャに纏わり付いている濡れたままのローブが僕の顔に引っ付いて息を塞ぐ。最初はひんやりとした冷気しか感じなかったんだけど、長く抱きついていたからか人肌程度にまで温まっていて凄く気持ち悪い。

 

「だっ、てっ……! い、か、な、きゃ、だ、め、な、ん、だ……からぁっ!!」

 

「外……出てっ……らぁ! し、死んじゃうって、ってんだろぉ……!!」

 

ずるずる、ずるずる。

さっきまで光っていた魔方陣の影響か、それともアーニャの専用デモなのか。何時もの如く砕け散った部屋の扉を抜け、彼女は僕を引きずったままうっすらと埃の覆った廊下へと進撃。

殆ど床板に倒れ込んでる体勢の僕は、まるでモップの様に進行ルートにある埃と木屑を絡め取る。ついでに隠したままのノートPCがまだ腹筋の無いやわらかな腹部へと食い込んで、とても痛い。

 

しかし絶対に手を離す事はせず、唯一自由に使える足先を廊下の壁や取っ掛かりに引っ掛けて抵抗する。

まぁ結局は一秒も持たずに引き剥がされる訳なんだけど、それでも何もしないでただ引っ張られるよりはマシだろう。

 

「おねえちゃん、も、あそこに居るはず、なのにぃ……っ!!」

 

「むり、むりむりっ……むっむ、っむぅ、りぃ……!」

 

がごんっ、ぎりぎり、ぎりぎり。

廊下の出入口、木製のドアを開けてリビングへと出ようとするアーニャ。僕はその入り口に足を広げて引っ掛けて最後の抵抗。

如何に子供のコンパスが短いって言ったって、ドアの横幅は90センチあるかないかのサイズだからね。本気で足を広げれば脛の辺りでつっかえさせられるんだ。

 

……その代わり股関節と脛が大変な事になって、下半身に物凄い痛みが走る。くそ、後で関節症とか変な事になりませんように!

 

「む、ぅーーー……っ!」

 

「あ、ぎ、ぃ……ッ!!」

 

ぐいぐい、ぐいぐい……。

力任せに僕を引き離そうとするアーニャと、そうはさせぬと何とも情けない格好で踏ん張る僕。

端から見れば「何やってんだこいつら」と写メられてトゥイッタられてしまう様な光景だけど、やってる本人達は大真面目だ

 

「く、く、ぅう……」

 

ちらり、と。

痛みに涙が滲んだ瞳で、リビングの窓から見える景色を見た。

それはここに来てから見飽きた光景。

視界一杯に入る白。痩せた枯れ木が立ち並び、雪の降り積もるそこはまさに銀世界。

舞い散る雪は相変わらず寒そうで、僕は何時もの小部屋から外に出ない決心を強める……なんて。普段の僕ならそう言うんだろうけど、今はそうも言っていられない。

 

――――何故なら遠くに見える空の下。スタン達が住む村の周りには真っ黒な化物がぶんぶか空を飛びまわってて、村に対してのを破壊活動を行っているんだ。

 

朝から続くそれはまだ終わる気配を見せず、薄く轟いてくるのは建物の破砕音や、人の悲鳴らしきもの。そして何かの叫び声……。

アーニャはそんな死線の渦巻く化物達の坩堝へと単身向かおうとしてるんだ。そりゃ必死になって止めざるを得ないよ。

……排他的なキモオタの僕に相応しくない行為だとは自覚してる。でも、それを無視できる様な器用な人間だったなら、僕はエスパー少年なんて呼ばれてなかった筈なんだ。

 

「……くっ! し・つ・こ・いぃぃ……!」

 

「ぉ。ぉぉぅ、あ……っぎぃ……!!」

 

食い縛る歯がギギギと嫌な音を立てた。

ドアの角に押し付けられた脛と、限界まで開いた股関節。ついでに力を入れすぎてピンと反り返った爪先が引きつり、激痛を訴える。

多分今の僕の顔は、目の前で布を振られる猛牛の様に真っ赤に染まっている事だろう。鼻の穴とかも限界まで開かれているに違いない。

 

(くそ、何で僕がこんな目に!)

 

何で。どうして、どうしてこんな。僕が何をしたって言うんだ。畜生……!

頭の中でそんな悪態が浮かぶけど、直ぐに痛みに流されて思考の彼方に消えていく。

 

――そうして次に流れてくるのは、アーニャが扉を粉砕して僕の小部屋へ転がり込んできた時の事。

 

 

――なんであなたがここに居るの!?

 

びしょびしょに濡れた衣服を身に纏ったまま咳を続けていたアーニャは、息が整ったと同時に僕にそう詰め寄ってきたんだ。

何時もの通りキンキン声でがなり立てながら、僕の襟首を掴んで、揺さぶって。

ここは僕の部屋だからです。揺れで増幅された全身を覆う激痛に海老反ってた僕には、そんな突っ込みは入れられなかった。

 

――どうしよう、どうしよう……!

 

そうして彼女はしばらく僕を揺さぶっていたけど、やがて自力で状況を把握したのか僕を投げ捨ててよろめいた。そして、体温を奪う濡れたローブごと小刻みに振るえる身体を抱きしめ、キョロキョロと辺りを見回した。

それは何か失くしてしまったものを探すかの様に、逸れてしまった母を探す幼子の様に。切羽詰った様子の彼女は随分と混乱していたみたいで、その真紅に透き通った瞳を涙で揺らめかせていたよ。

 

「なんでここに居るの」はこっちの台詞だ、君は魔法学校()に居るんじゃなかったのか。今日帰ってくるなんて聞いてないぞ。背中が痛い、後遺症が残ったらどうしてくれるんだ。逃げる為の手段をぶっ壊しやがって。

 

最初はそんな罵倒の言葉しか浮かばなかった僕も、そんなアーニャの様子を見ているうちに何か異様な雰囲気を感じた。

いつも勝ち気でツンツンしてるアーニャが、あんな不安そうに弱弱しい態度を取っているんだ。そんなあからさまなACTがあって何も気付けない程僕はギャルゲー(ソフ倫)をやり込んでない。

 

化物が襲撃してるっていう今の状況からすれば何らおかしな事ではないけど、それでも彼女なら虚勢の一つぐらいは張る筈だ。断言してもいい。

「全然怖くないもん!」とか「あなたはわたしが守るんだから!」とか。そんな感じでさ。

けれどそれをせずに、アーニャはただ怯えて周囲を見回しているだけで――そうして、その震える真紅が窓を。正確にはその外の光景を捉えた。

 

――!! タクはここに居てっ。

 

瞬間。彼女は勢い良く駆け出したんだ。

化物達が跋扈する外界。そこに自分の探すものがあると確信しているかの如く、全力で。

当然、そんな様子を観察していた僕は彼女が何処に行こうとしているのかを察する事が出来た。そしてそれが成された場合に彼女がどうなってしまうのかも。

 

手を差し出したのは、殆ど無意識だったよ。

アーニャが化物どもに突っ込んで行く――その答えが脳裏を掠めた刹那、僕の身体は激痛を無視して彼女の足首を掴んでいたんだ。

 

――むぎゅっ!?

 

当たり前だけど、彼女はそれはもう見事に転倒した。砕けた扉の破片が転がる床に顔を打ち付けて、無様な悲鳴を上げていたよ。

直ぐに身体を起こしてこっちを睨みつけてきたけど、その小ぶりな鼻は赤くはなれど血は垂れていなかった。リアルLUK高めですね。

 

――何するのよ、バカタクっ!

 

そう言って掴んだ手を振り解こうとする彼女に、僕は精一杯外の危険を訴えた。「絶対に死ぬ」「ここで助けを待ってろ」って。

でも彼女はそんな絶叫に似た訴えに耳を貸さないばかりか、更に激しく抵抗し始めた。一秒間に何連射してたかな、とにかく物凄いスタンピングの豪雨が顔面と腕にどしゃぶった。

……そんなになっても手を離さなかった僕ってマジ凄くね? 褒めてくれても良いのよ?

アーニャは何時もと違って嫌にしぶとい僕に業を煮やしたのか、無理矢理立ち上がって僕を装備したまま歩き始めた。僕は僕でそれに慌てて追いすがり、ナイアさん宜しく這い寄ってその腰元に抱きついて――――

 

「ふんぬーーーーーーっ!!」

 

「ごげ、ごげげげげ……!」

 

結果ご覧の有様だYO!! 腰が千切れる! 誰かたっけて!!

 

「何で、じゃまするのっ! わたしは、わたしはっ!!」

 

「ぎ、ひぃっ……なん、っでぇ! なんでぇ!!」

 

アーニャの腰。柳の様に柔らかく細いそれに、僕は自分の腕同士を引っ掴むようにして抱え込んでいるんだけど、彼女の強い力に振り解かれそう。何か二の腕に突き立ててる爪がミチミチと変な音を立ててる。

そして引っ張られる事によって、脇腹とその内側にある内蔵を断続的に激痛(Ver.α)が襲ってきて。ついでに背骨の辺りに留まる激痛(Ver.γ)が変な感じに混ざり合って、僕の思考をかき乱す。

腹部に仕舞ってあるPCの重さがまた良い感じのアクセントになって、なんかもう吐き気がしてきた。

しかしアーニャはそんな僕の惨状に気付く事無く、更に力と声を強める。

 

「だって、おねえちゃんが! おねえちゃんが居ないと!」

 

「おね……ッカネ!? ネ、カネがぁっ! な、何だっていうんだよぉ!?」

 

「わかんない! わかんないけど、おねえちゃんが居れば大丈夫なのっ!!」

 

どうやら、彼女はかなりの錯乱状態にあるらしい。

ネカネが居れば大丈夫? いや、あの貧弱な姉に何が出来るって言うんだ。どうせどっかで貧血でぶっ倒れてるに違いないだろ。

 

「……ぎ、……ふひっ……」

 

……少し、嫌な予測が脳裏を掠めたけど、僕はそれを敢えて考えないようにした。とにかく、今はこのお転婆の事だから。

ここに飛ばされてくる前にネカネ関係で何かがあったのか、只管に彼女の事を口にしながらアーニャは自由な両手を振り回す。

その度に身体が大きく揺られ、腕が外れかけた。というか、もうそろそろ筋肉の限界が近い。指の感覚がなくなってるんですけど。

 

「ネカネがっ、居たところで! 何も、出来ないって、っばぁ!! だから、っらぁ……!!」

 

「そんなことないっ! 黒いやつ、たおしてたっ! なら! みんな、タクも、わたしも、パパもママもたすけてくれるもんっ!」

 

「意味ワカンネッ! 日本語で、オゲッ!?」

 

びきり。全身を稲妻が貫いた。

……無理!! もう、無理ッ!!

頭が、指が、腕が、腰が、足が、関節が。身体の至る所が絶叫を上げていて。少しづつ、少しづつ。アーニャの身体から僕の指が引き離されていく。

 

彼女が身動ぎをする度に、五指のHPが一本、また一本と0になって行くんだ。

 

「あー……! あー! あー! あー……ッ!!」

 

「おねえちゃんが、居れば……! おねえちゃんが――――」

 

――そして、ついに限界を迎えた。

 

僕の指はアーニャの勢いに耐え切れず弾け飛び、半ば宙に浮いていた体が墜落。床に腹部から叩きつけられ、PCが胃の奥深くにめり込んだ。息が出来なくなって視界がチカチカと明滅したよ。

 

アーニャの方はいきなり身体が自由になった事で勢いのまま進行方向の先にあったテーブルに激突。周りに置いてあった椅子を巻き込んで床に転げ倒れた。

僕だったらしばらく蹲って立ち上がれない程の事故。しかし彼女は直ぐに立ち上がって、僕の方に視線を向けたんだ。

 

「ひっく……っぅ、う」

 

聞こえたのは、幼いしゃくり声。

痛みの所為か、それとも他の要因の所為か。その水晶の様に美しい紅色の瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていた。

真紅の湖面は揺らめき、波うち。今の彼女の精神状態を如実に表しているようで。落ちる雫は彼女の柔らかな頬を伝い、床に幾つもの染みを作り出す。

 

――全身の痛みで意識が朦朧としていた僕は、不覚にもその不思議な色合いに見蕩れてしまった。

 

「だ、大丈夫、だから。待ってて。おねえちゃんが居れば、きっと、きっと……」

 

アーニャはそうやって僕が呆けているのを他所に、転がる椅子を押しのけてふら付きながら立ち上がった。

そうしてうわ言の様にぶつぶつと何某かを呟きながら、駆け出していった。倒れこんだままの僕を残して。

 

「……! ……っ!!」

 

その姿に咄嗟に我に帰った僕は、彼女を呼び止めようと大声を出した――つもりだった。だけど漏れ出るのは声にならない声だけで。

さっきの墜落で上手く呼吸が出来ないままだった僕は、浜辺に打ち上げられた魚介類の様に唇をぱく付かせる事しか出来なかったんだ。

 

禄に動かない身体で、僕は必死に手を伸ばす。

あの時よりも小さくて短い手足を蠢かせて、行かないでくれと。行っちゃ駄目だと、ただ、それだけを考えて。

でも、当然ながら伸ばした指は掠る事すら無く。彼女の纏う暗色のローブがはためき、僕の視界を擽った。

 

そうやって二つ縛りにした髪を振り乱して、手の届かない場所へ去っていってしまう後姿に、僕は最愛の人の姿を幻視して。

 

「…………」

 

声の戻らない声帯が、去って行く彼女の名前を形作る。

呟いたのはどちらの名前だったのか、なんて。そんなの、僕にも判断がつかなかった。

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

そうして僕一人しか居なくなった部屋に、乱暴にドアが開閉される音が聞こえてきた。

きっと、アーニャが玄関から外に飛び出していったんだろう。

 

「……もう、知るもんか……」

 

ズキズキと痛む全身から力を抜いて、呼吸が出来るようになった口腔から細長い息を吐き出し僕はゆっくりと目を閉じた。

強い倦怠感と疲労感が体中を包み込み、指の先から足の先まで鈍い痺れが走る。

……もう、いい。勝手にすれば良い。一人で化物達に特攻してって、一人で勝手に死ねばいいんだ。

こんなになるまで必死になって止めたんだ、だったら最低限の義理は果たした筈だろう。後に何が起ころうが、それは僕の所為じゃない。彼女自身の責任だ。

 

「…………」

 

大体、何で僕はあそこまで必死になっていたんだ。所詮あいつも『見覚えの無い知り合い』の一人だった筈だろう?

ネギとしての記憶の欠片。僕の記憶に無い記憶の登場人物の一人。西条拓巳としての僕とは何の関わりも無いただのガキ、そんな奴にお節介を焼く必要・理由共に全く無かったんだ。

 

もうちょっと頭良くスマートに生きようよ、僕。疾風迅雷のナイトハルトはINTだって最高値だったんだからさ。

 

「…………」

 

アーニャ……いや、アンナって呼んでやる。だって待っててって言ってたじゃないか。なら、無理して引きとめる必要も無かったんだ。少なくとも帰ってくるつもりはあったんだから。

別に帰ってこなかったとしても、どうせ、あれだよ。あいつが求めてた「ネカネおねえちゃん」と無事再会できたんだって。

 

……いや、違うな、死んだとしても構わないね。あんな自分勝手で我侭なガキ、死んだ方が清々するさ。

自分の我を通して、相手がそれに沿わなかったら暴力を振るってくるバカ。そんなガキは後顧の為に居なくなっておいた方が良い。

やったじゃないか、世界の未来はまた一つ綺麗になったよ。

 

「…………」

 

そうさ、そうだった。あの子は何時だってそうだったよ、僕の為だとか何とか言って無理矢理やりたくも無い事をやらせようとして来てた。

糞寒い中外に連れ出そうとしたり、僕を馬鹿にする奴らと遊ばせようとしてきたり。ああ、そう言えば殴られたり蹴られたりした事もあったっけね。

 

あの時は本当に痛かった、頬の辺りに小さいひっかき傷が痕になって残ってるよ。

 

「……っ……」

 

口を開けば僕を小馬鹿にするような事しか言わないし、何かとネカネと親しくなるよう命令するし。だから怖いって言ってんだろ。

少しでも文句をつけたら拳が飛んで、意見を言えば脚が飛ぶ。ああいうのを鬼女って言うんだ。

やる事成す事マイナスばかり。僕の益になった事なんてただの一つも在りはしない。

 

それにツンデレって事も減点ポイントだ。二次元ならともかくとして、三次元でのツンデレなんてゴミもいいとこだよ、本当。

 

 

「…………っぐ」

 

 

何がタクって呼んでやるわよ、だ。勝手に彼女と同じ呼称で僕を呼ぶなよ。

その所為で、これだ。彼女に嫌悪感が抱けなくて、そんで無意味に頑張って、傷ついて。

 

ああそうだ、僕が彼女を気にかける様になったのだって、元はといえばそれが原因だったんだ。

あの子が僕の事を「タク」って呼ぶから、僕を情けない奴って叱り続けてくれたから。僕は僕のまま、情けないキモオタのままで居られて。

 

――――本当、迷惑かけられっぱなしだ。

 

「……っあ……ぎ……!」

 

今だってそうだ。君を墜としまくってる思考とは裏腹に、僕の身体は壁伝いに立ち上がろうとしている。君を追いかけようとしている。

オタクにとっての生命線たるPCを服の下から無造作に放り出すなんて暴挙に出て、雪の降り積もる外界に着の身着のままで飛び出そうとしてるんだ。

 

分かってるのか? 僕があれだけ引き止めた化物だらけの世界に、僕自身が飛び込もうとしてるんだよ。君の所為で。

バカじゃないの、バカじゃないの? 大事な事なので以下省略。

 

「っは……っは……!」

 

何の説明も無いまま僕の下から離れてく、その行動。何となく彼女と被るんだよ。

善意の行動なのかもしれないけど、結果的に僕が迷惑を被る事になるんだ。止めてくれよ、マジで。

 

突っ込んでった先で敵にとっ捕まってヒロインを気取り、多大なる苦難を僕に振りまいてくれた彼女。

まぁ実際僕にとってのヒロインだった訳だけど、僕が主人公で無かった以上大切な部分が致命的にズレていた。

結果彼女を助けに行った脇役は死んで、僕という道具を使った真の主人公たる彼がラストバトル終了後に彼女と妹と幸せになりましたとさ。見届けてないけど、きっとそうなってるに違いないんだ。

 

そんで肝心の僕はご覧の通り死んだ先で島流し。どうですかこれ、彼女の独断行動による皺寄せが全部僕に来てますがな。

 

「はぁ、はぁ――くっ……!」

 

僕自身はその結果にこれ以上なく納得しているけど、現状にはこれ以上なく憤慨しているんだ。

もう嫌なんだよそういうの。色んな事が手遅れにならないうちに、引き戻してやるんだ。

 

――だから勘違いとかするなよな。君を追いかけるのは、君の為じゃない。僕の為なんだから。

 

……理由が苦しい? ツンデレ乙? 

うるせぇリアルツンデレは市ねが僕の持論だっつってんだろバカ消えろ氏ね。

 

「…………は、ぁ」

 

そうだね、連れ戻したらどうしてくれようか。

とりあえずローターか何か使ってそのちっぱいでも虐める? 勿論星来たんの――いや、年齢的にエリンたんのコスが良いかな。

僕のマイサンは未だ休眠中だけど、その記憶さえあれば10年後に幸せになれるからさ。未来への先行投資、ナイスです僕! ふひ、ふひひひひひ。

 

……だから現実のガキは嫌いだっつってんだろバカ消えろ氏ねッ!!

 

「…………」

 

……本当に、死ぬほど面倒だけど。

……本当に、死ぬほど嫌だけど。

……本当に、死ぬほど死にたくないけど。

……本当に、死ぬほど良くないけど。何かもう、良いよ、もう。

 

 

「――死んだら、絶対に恨んでやるから」

 

 

■ ■ ■

 

 

――彼女の頭の中は、混沌に満ちていた。

 

「はぁ、はぁ……っ!」

 

大粒の雪が降り積もる白銀の野原に、一つの小さな息遣いが響き渡る。

それは未だ年端も行かない幼い少女のもので。息と共に吐き出される声は小さく震え、凍えていた。

 

先端が凍てついた赤毛に、雫を垂らすほどに水を吸った暗色のローブ。それらを身に纏う彼女は、何も持たない両腕で自らの肩をかき抱き、襲い掛かる寒さを堪えていた。

そうして、おそらく走っているつもりなのだろう。ともすれば転倒しそうになる身体を往なし、細い足首を何度も雪原に埋めていく。

 

……しかし、踏み出す一歩はまるで牛歩の様に重く、遅く。

頼りない身体を覆うローブにも風に吹かれて舞い踊る雪が張り付き、手足の動きを阻害し動きを更に鈍らせて。

そして服の下の肌にその冷たさが伝わり、彼女の体温を更に奪って行く。

 

直前まで命の危機に瀕し、体力、精神共に大きく減退していた彼女にとって、それは余りにも辛すぎるものだった。

 

「は……っあ……」

 

ぼやけた意識の中、言う事を聞いてくれない体が震え、引き攣った吐息が放たれる。

このままでは、彼女が目的とする故郷の村にまで辿り着くなど夢のまた夢。数刻もしない内に意識を失い倒れてしまう事だろう。

 

しかし、そんな状況にあっても彼女は未だ歩みを止める様子は無く。

 

「……ぇ、ちゃん……」

 

掠れた声。寒さに根の合わない歯が、姉貴分の少女への妄信とも言える信頼を吐き出した。

 

幼い少女――アーニャの脳裏には、未だその雄姿が強く焼きついている。

あの空一面を覆い尽くす程の黒の大群。おぞましい気配を放つ彼らから、自分を抱えて守ってくれた姉。

こちらを補足して襲いかかろうとする黒い化物を森を影にしてやり過ごし、時には純粋な身体能力で逃げ切り。

それでも追い縋って来た者や不意に遭遇した者達と戦い、難なく屠った彼女。

 

それは普段の優しくて柔らかい彼女の姿とは正反対で、アーニャはその姿に憧れにも似た感情を抱いた。

そして「大丈夫」と言って抱きしめてくれる彼女の腕の中で、アーニャの信頼と憧れはそれまで感じていた恐怖や不安と融合し、肥大化していったのだ。

 

――おねえちゃんは、本当は凄かったんだ。強かったんだ。

 

化物との戦いの後、傷だらけの身体だった事を心配したけど、それも目の前で直ぐに治っていった。

それはつまり、絶対に負けないという事。どんな化物でも打ち倒す、自分たちを助けてくれるヒーローなんだ。

 

だから、彼女と居ればあの黒い奴らが幾ら来ようとも恐れる事は無い――。

 

……それは子供が描く絵空事。縋るものを見つけたアーニャの心が錯覚した、虚像の英雄。

突然の危機に不安定になっていたアーニャには、言葉の裏側に張られた虚勢を見抜く事が出来なかったのだ。

 

度を越えた信頼。

彼女に根付きかけていたそれは危うさとなり、村に向かう事無く逃げ出そうとした姉自身に向けられる事となる。

 

――そして失望へと変わる瞬間に、それは弾けた。

即ち、命を脅かされた上で姉と離れ離れになった事によって。

 

「……おねぇ、ちゃん……」

 

突如放り込まれた苦痛の世界。アーニャにはその時何が起こったのか分からなかった。

 

姉に抱かれていたと思ったら突然苦しくなって、寒くなって。気が付いた時には彼女の姿は何処にも見えなくて。

そうして、目の前には自分が守ってあげなければならない存在が寝転がっていたのだ。

 

――彼女の頭は、混沌にかき混ぜられた。

 

おねえちゃんが居ない。皆を助けてくれる存在が居ない。

わたしが守らなきゃいけない男の子が目の前に居る。でも、わたしじゃ何も出来ない。おねえちゃんじゃないと守れない。

 

どうしていないの? どうしてわたしはここに居るの? どうして、どうして、どうして……!

 

今までに絶対的な信頼を向けてきた存在が傍にいない。その事実は容易く彼女の心を食い破り、焦りと恐怖を植えつけた。

本当なら、その場で泣き喚きたかった。ただ座り込んで、喉が裂けるまで彼女の名前を叫んでいたかった。

 

しかし目の前に彼が居る以上、そんな事は許されない。

今まで彼に年上として接してきたアーニャのちっぽけなプライド。それが最後の一線を踏み留まらせたのだ。

そうして不安感から辺りを見回し、濛々と黒煙を上げる村の姿を視界に納めた時、彼女は思い至る。

自分の都合のいい妄想を元に作り上げた、紛う事なき真実の光景。その時の彼女は、それを間違いなく幻視し、そして確信した。

 

――あの村の中。化物達の世界の中で彼女は戦っている。と。

 

瞬間、彼女は走り出した。

妄想に歪んだ思考の中で、たった一つ。図らずも現実と合致していた、自分が信じた答えへと向かって。

 

身に危険が及ぶなど考えもしなかった。何故ならば姉があそこで戦っている以上、こちらに化物が向かってくる事などありはしないのだから。

そう、姉の――ネカネのところに行けば、全てが解決する。黒い化物達も、壊れた村も、全部。全部。全部――――

……自分でも違和感は感じたが、それを妄信するしか彼女には出来なかった。

 

「……あ、う……」

 

どさり、と。

身体を芯から冷やす寒さにとうとう耐え切れなくなり、雪原の上に膝をつく。腿の辺りまで雪の中に埋まり急激に体温が低下するが、彼女の感覚は最早それを痛みと認識していた。

地面に手を突いて必死に立ち上がろうとするものの、下半身に力が入らない有様では動く事すら侭ならず。そんな自分の醜態に涙を流した。

 

「っく、う、う……」

 

それは寒さの為でも、恐怖の為でも、悔しさの為でもない。

彼女自身にも良く分からない感情が渦を巻いて胸を焼き、熱く濁った涙が足元の雪を溶かしていく。

……早く、行かなければ。早くネカネの下に行って、そして……。

 

「…………?」

 

そして、どうすればいいんだろう?

ネカネがヒーローであるならば、自分が何もしなくとも皆を助けてくれる筈なのだ。わざわざ呼びに行かずともいい筈で。

ならば、わたしは何をしている? 違う、わたしはタクを、おねえちゃんを。

 

「……ぁ……ぅ……?」

 

そうして気が付けば、雪に顔をつけていた。

中途半端に開いた口から雪の欠片が潜り込み、口内を冷やす。その気持ち悪い感触に耐え切れず、彼女はゆっくりと上体を起こした。

身体の震えが止まらない。寒さに思考がやられたのか、考えをうまく纏める事が出来なくなっている。脳の奥底からジンジンとした鈍い痺れが走り、視界がぐらつく。

 

―――わたしは、何をしているのだろう?

 

そんな疑問が鎌首をもたげた瞬間――彼女のぼやけた意識の中に、一つの黒点が産まれた。

 

それは何処までも黒く。暗く。冥く。

ぐるぐると淀むその黒色はまるでスライムの様に蠢き、引き伸ばされ。徐々に一つの明確な姿へと変貌を遂げていく。

四方へと伸びきったそれは捩れ、歪み、絡みつき。人間の四肢と頭を組み上げる。ミチリミチリと肉が鬩ぎ合う音が彼女に耳に届いた。

 

幻聴、なのだろうか。

 

湿り気のある音を立てながら黒点は幾重にも組み合わさり。やがてはっきりとした筋肉となって。その体積を増していく。

見るにおぞましい光景ではあったが、アーニャは悲鳴の一つも上げる事は無く。ただぼんやりとそれを観察しているだけで。

 

――――そうして、筋骨隆々の黒い化物の形を成したそれは、確かな現実感を伴って彼女の眼前へと降り立った。

 

「ぁー……」

 

妄想か、現実か。感じている世界が曖昧になっていく。

目の前に居る黒い化物は、彼女が感じていた疑問が形を成した物なのか、それとも実際に目の前に立っているのか。ぼやけた意識ではそれを判別する事など出来はしない。

 

――身体が震えているにも拘らず、寒さは既に彼女の中から消えていた。

 

「…………」

 

呆けたように雪中へ座り込むアーニャに向かい、その黒い化物は大きく拳を引き絞る。

硬く握り込まれたそれはまるで重機の様に大きく、重く。彼女の細い身体を叩き潰さんと血管を浮かび上がらせた。

 

……しかし、アーニャはそれに何の反応も返さない。

寒さで鈍った思考は彼女から恐怖という感情を奪い去り、只の人形へと仕立て上げていたのだ。

今の彼女の意識にあるのは唯一つ――即ち、ネカネへの妄想にも似た信頼。

この期に及んでも彼女は未だに信じていたのだ。ネカネが助けに来てくれると。目の前の化物を排除してくれると。

 

『――――』

 

小さな呼気と共に、引き絞られた漆黒の豪腕が唸りを上げた。

それは正にバリスタの如く。矢の様に鋭いそれは風を裂き、雪の欠片を砕き。血と臓腑の花を咲かせんとアーニャに向かい、迫る。

 

当然、ネカネが駆けつけてくるはずも無い。これより先に待っているのは己の死、ただそれだけ。

しかし彼女は霞んだ視界の中、身動ぎ一つせず目の前の化物の死を確信していた。

あの時の様に、ネカネが化物の首を飛ばしてくれる。殺してくれる。最早避けようの無い死の間際、そんな妄想をぼんやりと考えていて――

 

「――ぅあっ?」

 

―――だからこそ、自らの身体に走ったその衝撃はこれ以上無い不意打ちだった。

 

「あ――っぐ」

 

その衝撃は体重の軽い彼女の身体を突き飛ばし、まだ踏み荒らされていない雪の中へと飛び込ませる。

地面に背中を打ちつけ、その勢いにより大きく首が振られて後頭部が雪深くに埋まった。固い土の上で無かっただけ、不幸中の幸いなのだろうか。

 

――何? 何が起こったの?

 

先程とはまた別種の混乱の中で彼女は無意識に首を上げ、自分を突き飛ばした原因を視界に捉えた。

 

――自分と同じ紅い色素の入った、ボサボサの頭髪。

――自分の着ている物とは対照的な、明るいベージュ色のローブ。

――そして、自分より一回り小さく華奢なその身体。

 

彼はアーニャを突き飛ばした手を伸ばした姿勢のまま、バランスを崩して地に膝を突いていて。

その表情は笑みとも恐怖ともつかない形に歪んでおり、充血した大きな瞳からは大粒の涙を流し――その他諸々。顔面の穴という穴から体液を撒き散らしていた。

 

「――――」

 

涎塗れの口元から何某かの言葉が漏れるが、その想いは誰に伝わる事も敵わず、只一滴の露と消え。

 

その言葉を最期に、アーニャに注がれていた視線は首ごと左に注がれた。彼女の居た場所に放たれる暴力の塊に向かって。

 

自らに迫る、その圧力を伴った気配を認識した瞬間、彼の表情は更に大きく歪み。後悔と自身への怒り、そして死への恐怖に彩られた。

 

一瞬が永遠に引き伸ばされた。音すらも意味を亡くした末期の世界で、彼の右腕――こちらに向かって伸ばされたままの手の指が、微かに動く。

 

その指先は嫌悪感を湛え、悲しみを湛え、嫉妬を湛え。ありとあらゆる悪感情を纏わせていて。

 

しかしそれを振り切るように。生への執着という極めて原始的な本能のまま、彼は目には見えない『それ』を握り込んだ。

 

そして彼の腕、ベージュ色のローブに覆われた二の腕が何かに巻付かれた様な痕跡を生み――――

 

「――ぎ、」

 

――――それら全て。黒い塊が、彼の一切を押し潰した。

 

「ぁえ……?」

 

びちゃり、と。熱い飛沫が彼女の頬に飛び散り、その意識を覚醒させる。

 

ネカネの事も、寒さの事も。全て纏めて吹き飛んだ。彼の血液の熱が、凍えきった体に少しの活力を与えたのだ。

 

「……え? え?」

 

未だ現実を認識できない彼女を他所に、黒い塊――化物の豪腕を叩きつけられた彼の身体は醜くたわみ。その反対側が大きく膨れ、一瞬遅れて破裂する。

 

身体一杯に詰まっていた血液と、砕けた骨と、破裂した臓腑。人を構成する全ての部品が千々に乱れて散らばって。そうして破けた皮とその中身が寒空の下にぶちまけられた。

 

未だ熱を持ったままの彼の破片は、辺り一帯の雪を赤黒く染め上げ、溶かし。グロテスクな絵画を描き。

そうして後に残ったのは、中身が全て吹き飛んだ『彼だったもの』と、遠くに落ちる千切れた四肢。それだけだった。

 

 

余りにも簡単に、そして呆気なく行われた残酷な光景は、呆けていたアーニャを強制的に現実に引き戻すには十分なものであり――――

 

 

「……あ、あ……あ――――――!!」

 

 

――――『彼』が無残な最期を遂げた。

その事を理解した瞬間、少女の金切り声が曇天の空に木霊した。

 

 

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…………――――――、ブツン。


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第11章  一人は、人にとっての願望機

――――そして、僕が最期に見た世界は。
最愛の人が傷つく事の無い、ささやかな幸せのある世界だった。



曇天。

 

今にも泣き出しそうな鈍色に濁った雲が、病室の窓から見える景色を覆っている。

おそらくもう少しもすれば雨が降り出すのだろう、雨の日特有の気だるい雰囲気が一足早く訪れて、病室全体を包み込んでいた。

 

『…………』

 

窓の外に見えるのは、倒壊したビルの群れ。

根元から折れ曲がり、周囲を巻き込むようにして崩壊しているその姿は、まるで世界の終わりを表現しているかのようで。

 

僕の好きだった、夕暮れの光を受けて輝いていた景色の面影なんて何処にも無かった。

無残にも砕け落ちた瓦礫の山が噴煙を上げ、割れたアスファルトからは水が溢れ出して。潰れた家屋の隙間から炎がその姿を覗かせていた。

そこかしこで上がる悲鳴が窓ガラスを透過して僕の耳に届き、より一層の罪の意識を自覚させたよ。

 

――これが、お前の罪だ。お前の所為でこの惨状がある。

 

僕の壊れかけた耳に、そんな声が木霊した。

それは僕の『敵』の声に良く似ていて、邪悪な気配が鼓膜を突き破って脳に侵食していく様な錯覚を受けたよ。

そうして、すぐに外に飛び出して、あそこで苦しんでいる人達を一人でも良いから助けたい、と強く思った。だって、僕にはその義務と力があるんだから。

 

……でも、それは出来ない。してはいけない。

今ならば、全てが収束へと向かっている今ならば、『敵』の事なんて気にせずに自由に外を出歩けるのだろう。

擦れ違う人達に偽装を施す事も、僕の隙を伺っている人達の目を誤魔化す事もしなくていい。それは、とても楽な事だった。

皮肉にも、今のこの惨状が僕にとって最も動きやすい状況となっているんだよ。

 

だけど、身体がもう動かない。車椅子に乗る体力すら、今の僕には無かったんだ。

頭も、手も、足も。逸る気持ちとは裏腹に、満足に動いてくれなくて、ただ横になっている事しか出来なくなっていたんだよ。

満足に動けない身体に不満を持つ事には慣れているつもりだった。でも、これ程の気持ちを抱いたのは久しぶりだ。

もし、君の力を保つという役目が無ければ、僕は発狂していたかも分からないね。

 

『……お兄ちゃん……』

 

傍らに座る妹が、そんな僕を心配そうな瞳で見つめていた。

 

先程まであの瓦礫の山に身を置いていた彼女は、血と砂埃に塗れた手で僕の干乾びた腕を握ってくれた。

愛しむように、慈しむように。強く握ればそれだけで崩れてしまいそうな程に弱弱しいそれを、優しく、力強く。

まるで触れ合う部分から、彼女の想いが僕に流れ込んで来ているようで。常に強い負荷がかけられている僕の身体に、ほんの少しの活力を与えてくれるんだ。

 

『……あ……』

 

そうして両方の手で握ろうとして――彼女の片腕は空を切った。

……僕と繋いでいる左手とは反対側の腕。彼女の右腕には、手首から先が存在しなかったから。

今に至るまでの事件の中で、彼女の右手は失われていたんだ。

 

『……ご、ごめんね。私ったら……』

 

その事を今まで失念していたのか、彼女は悲しげな表情を浮かべた後に決まり悪げにぎこちなく笑い、差し出しかけた右腕を引っ込める。

そして失われた右手の分も込めるかのように、僕の手を握る力を僅かに強めた。

 

僕はそんな妹の様子に、酷く悲しい気持ちになった。

感じたのは、彼女を巻き込んでしまった事による後悔の念。そして、守りきれなかった事に対する憤り。

僕が君を生む前に彼女の記憶を消したのは、『敵』の目を欺きたかったからだけじゃない。僕という重荷から解放されて、幸せに暮らして欲しいという思いからだった。

こんな寝たきりの僕を健気に看病してくれた、妹。とても優しくて大好きだった彼女を、歪んだ妄想が渦を巻く世界に巻き込みたく無かったんだよ。

 

……しかし、結果はこの通り。

妹は本人の意思とは関係なく幸せを奪われ、右手を切り落とされた。そして覚醒してしまった以上、彼女はとても辛い過去から逃げる事すら出来なくなったんだ。

勘違いしないで欲しいけど、その責任を君に求めようなんて気持ちは一切無い。

君がどれ程彼女の事を想ってくれたか、どれだけ頑張って彼女を救い出そうとしてくれたのか。僕は全部見ていて理解しているから。むしろ感謝すらしているんだよ。

 

――悪いのは、僕だ。

 

全ては、見通しの甘かった僕の責。妹に危機が迫っている事を知りながら、手を打つことの出来なかった僕の罪なんだ。

だから、君が罪悪感や引け目なんて持つ必要なんて無いんだ。叶う事ならば、全てが終わった後も、君は彼女の兄で居てほしい。

 

……そんな事を願うのは、傲慢、なのかな。

そう思考しながら妹と手を繋いでいると――

 

『……ぁ……?』

 

ぐん、と。

僕の身体にかかる負荷がより一層強さを増し、必死に繋ぎとめていた意識が持って行かれそうになった。

そして今まで感じていた苦痛が全て無かったかのように消え去り、ただ酷い倦怠感だけが僕の全てを包み込む。

それは、君が力を振るう度に感じていたもの。君が君としてあろうとする度に受け取ってきた、君の存在。その証。

 

――――そうか、もう、終わるんだね。

 

唐突に、そう理解する。

君が力を振るえるように思考盗撮すら控えていたから、細かい状況は分からない。けれど、繋がりを通して感じる君の激情は、間違いなく僕の心に響いているんだ。

 

――流れ込んでくる。『彼女』を想う君の気持ちが。

――流れ込んでくる。人から外れた大きな力が。

――流れ込んでくる。『敵』の上に立っているという優越感が。

――流れ込んでくる。世界の敵となる事を決めた、君の決意が――

 

『――、――! ――? ――――っ!』

 

霞む視界の中、妹が何かを呼びかけている姿が映る。

しかし、残念だけど、その声は僕に届く事は無い。もはやこの身体は、彼女の意思を受け止める事のできる全ての機能を失くしていたんだ。

声だけじゃない。彼女が握る手の暖かさも、頬に落ちる雫の冷たさも。僕は何一つ感じる事が出来なくなって。

人間として生きられる時間が、彼女の兄でいられる時間が、もう殆ど残っていない事を悟ったよ。

 

『……――――』

 

だから僕は、ひび割れた唇を動かし、彼女に最後の言葉を伝えた。

勿論、声なんて出る訳が無い。僕の肺は既に機能を止めている。

しかし、僕達にはギガロマニアックスと呼ばれる力があった。現実を書き換え、不可能を可能にする、おぞましい力が。

 

『――――?』

 

そして彼女は、僕が直接脳に送った声に従い、断たれた断面に白いハンカチが巻かれている右手を僕の目の前に差し出した。

鋭利な刃物で断たれたらしいその綺麗な断面は完全に出血が止まっていないらしく、今現在もハンカチを赤く濡らし続けていて。

 

――その痛々しい傷跡に、僕は自らのディソードを差し向けた。

 

『――!』

 

妹は驚き、目を丸く瞬かせる。

それも当然の事だろう。何も無かった筈の空間に、突然茨のようなものが出現したのだから。

 

――僕のディソード。

 

金属のようにも、有機物のようにも見える繊細さを持つそれは、彼女の傷跡へと――失われた右手の先へ、巻き付いていく。

蛇の様に蠢き、くねり。シュルシュルと音を立てて、ゆっくりと。まるでそこに右手があるかのように何も無い虚空へと絡み付き、彼女の失われた形を再現する。

それは遠めに見れば義手の様に見えたはずだと思う。茨の趣味の悪さに目を瞑れば、の話だけれど。

 

『…………』

 

傍から見れば不気味な光景である筈のそれを前にして、妹は身動ぎ一つしなかった。それどころか、愛しいものを見るかのような優しげな瞳で、そっと頬を付けてくれた。

……きっと、僕を信頼してくれているのだろう。そう思うと、心が暖かくなったよ。

 

――そうして、茨が彼女の右手の形に整った後。その表面から覗く葉脈のような半透明のガラス部分が脈動し、赤い明滅を始めた。

それは、僕の命の灯火。

地獄に落ちる前にやらなければいけない事、その姿。

 

――――妄想を、した。

 

『――――……』

 

そして力を使った負荷が僕の身体を蝕み、必死に繋ぎ止めていた意識が更に深く沈みこむ。

視界の端が真っ白に染まっていき、心臓の鼓動が遅くなっていくのが分かった。

 

――死への、足音。僕の行動は、それをより早めたんだ。

 

君には悪いと思ったけど、そこは許して欲しい。僕の、最後の妄想だから。

 

『  …  …―― 』

 

大粒の涙を流す妹の顔が、白い闇に覆われていく。

身体が鉛を吸ったかのように重たくなって、指先から熱が失われていく。

動きを止めた心臓が、重力に引かれて背中側へと落ちていく。

僕の身体が、骸となって果てていく。その感覚。

 

――――けれど、凄く穏やかな気分だった。

 

自分がこれから死に望む事も、歩んできた道程に意味があったと分かっているなら――恐怖なんてあまり感じない。

後悔も、罪悪も。それこそ山ほど残している。

僕さえ居なければ色んな人が不幸になる事も無かったんだって、何時も心の何処かで思っていた。

 

――でも、最後に僕は君を生み出すことが出来た。『敵』の野望を打ち砕く事が出来た。

 

取り返しの付かない過ちを犯した僕が、それを正す為の礎となって死んで逝ける。

これは、とても幸せな事なんじゃないかと思う。

妹や、『彼女』の事は気がかりだけど、僕は君が見ていてくれると信じているよ。

だって君は、正真正銘。彼女たちにとっての大切な人なのだから。

 

――そうして、何も見えなくなって。何も聞こえなくなって。

 

『――』

 

僕は、意味の無い夢を見た。

 

夢の中の僕は何の力も持たない只の子供で、普通に遠足に行く事が出来て。

学校に行って、勉強を頑張って、運動を楽しんで。普通に女の子を好きになって。

彼女達だって、そうだ。『敵』に捕まって拷問を受けたり、研究材料にされたりなんて事は無くて、皆幸せに生きていて。

そして高校生になった皆は、青空の下で笑い合うんだ。僕も、彼女も、誰も彼もが。

 

――そんな、幸せな夢を。見た。

 

そうして、僕は。感覚のなくなった筈の掌を『両手で』握り締めてくれる誰かの温もりを確かに感じながら。

永遠に、その意識を失った――

 

 

 

 

 

 

――――――――筈、だった。

 

 

『――――ッ!?』

 

今まさに生命活動を終えようとしていた僕の身体が、跳ねる。

君との繋がり。未だ断たれぬそれを伝って流れ込んでくるのは、凄まじいほどの力の奔流。

 

轟音を上げ、閃光を放ち。痛みすらをも伴い僕の全身を舐め上げて、ガラクタとなった身体に無理矢理エネルギーを送り込む。

いや、送り込むなんて生易しいものじゃない。それは正に蹂躙という言葉が相応しい程の物。

 

『あ……ッ、あぁああああああッ!!』

 

『どうしたの!? ねぇ!!』

 

突然の僕の変貌に妹は驚き、身を乗り出して僕の身体に抱きついた。

しかし全身を痙攣させる僕はそれに気付かず、機能を失ったはずの肺が空気を求め、声帯を大きく震わせる。

身体の至る場所に血管が浮き出て、ひび割れた肌の隙間からどろりとした血液が流れ出た。

 

……ここ数年は大声なんて出した事が無かったから、喉を傷つけてしまったかもしれない、なんて。どこか冷静なままだった思考が、そんなどうでも良い事を考えたよ。

そうして肩を捻り、足を振り回し、寝ていたベッドの上を打ち上げられた魚の様に跳ね回る。

身体を抑える事なんて出来なかったよ。僕の意思とは無関係に行われるそれは、目的も無い単なる反射の様なものだったから。

 

僕を蹂躙する『力』に、身体が耐え切れない。プチプチと妙な音を立てる脳が、そう判断した。

 

『あ――あ――あぁああああああああああああああああああ――――!!』

 

『きゃあ!?』

 

僕は身体が訴える本能のまま、血塗れの腕を病室の天井に向かって突き出した。

それに一泊遅れて服の下から茨が射出され、天井に激突。着弾地点を中心として、放射状に広がり部屋全体を覆い尽くす。

赤く明滅していた葉脈は、これ以上無いほどにその輝きを増していて。光の圧力に耐え切れず、ガラス部分に無数の罅が入っていったよ。

 

『敵』と戦っていた時だって、これ程の力を発した事は無い。その時に行使していた力は、そう断言できる程に凄まじい物だったけれど――――まだ、足りなかったみたいだ。

 

――バリン、と。一際大きな異音が辺りに響き渡った。

 

それは、僕のディソードが自壊する音。

病室を覆い尽くしていた茨は、自らの内に絶え間なく流れ込む力を往なす事が出来なかったんだ。

瞬く間。砂の様に崩れ去ったその欠片が病室の中を漂って、まるで粉雪の様に光を反射し輝いた。

 

『っぁ、ああっ……あ、あ、あ……!!』

 

声にならない声を漏らしながら、僕は両手で肩を抱き寄せて、亀の様にベッド上に丸まった。

背中を揺さぶる妹の手も、肩に食い込んだ爪も、唇を噛み締めた歯も。全く気にならなくて。

そうして自分の荒い息が耳の中を木霊する中、僕は僕の中に何か、別の存在が混じっている事を理解したんだ。

 

――――傲慢と、無感情と、そして、君。

 

異なる妄想は、反発し合い、主張し合い。僕の中を自分勝手に掻き乱す。

僕は私となり、私は『それ』になり、『それ』は僕となり、そして僕は僕となる。

入れ替わり、立ち代り。上書きに次ぐ上書き。思考の果ての僕は、次の思考の果てを経て、思考の果ての僕は、思考の次の僕に至る。

ドクドクと鼓動を刻む心臓がやけに耳障りで、思考を邪魔するそれを砕いてしまいたい衝動に駆られる――俺が、貴様が、夢を、梨深を。私を。

 

夢見るは世界、管理された世界、幸せな世界、あったはずの世界、誰かの世界を、並べて、並べて、並べて。

情報が足りない、知識が足りない。何が起こっているのか僕にも分からなくて、器を求めて逆流する。

僕は彼であり、俺は彼でありたくない。『それ』はどうしてここに居る? 分からない、分からない、分からない、分からない。情報を。梨深、梨深。

 

嫌だ、死にたくない。死ぬ訳には行かない。世界の為に、夢の為に。その為に全てを捧げて来たというのに。ざけんな、氏ねよボケナス。ひ、ひ。

なのに、私は、何で、こんな、化物に、子供に、童貞に、凄いんだ、ざまあみろ、ふひひ、ひひ、ひ。

 

それが望み。妄想された世界。それが、望みなら。管理された世界を、幸せな世界を、あったはずの世界を、小さな世界を、現実として。

 

エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー。不可能。

 

引きこもれば良い、妄想力は凄いんだ、自閉しろ。私はまだ思考できる。寄こせ、肉体を。エラー、実現の為の情報を。っ深ぃ、僕は、ぁ、ぁ、ぁ、ぁ――――――。

 

世界を、梨深の――誰かの――私の――あったはずの、それを――――!!

 

 

 

――――そうやって、膨れ上がり、混ざり合った妄想が、僕の中で炸裂した。

 

 

 

『――――――――ッッ!!』

 

食い縛った歯の隙間から、獣のような絶叫が迸る。

行き場をなくした『力』が僕の中で荒れ狂い、唸り、猛り。

未だ顕現させたままだった茨の中を無理矢理圧し通り、唯一繋がる外界へと。それが抱く望みを果たせる可能性のある、唯一つの場所に向かって進んでいく。

 

例えるならば、細いホースの中をサッカーボールが通り抜けるような感じ、だろうか。

それは僕の身体の中身を頭からくり抜かれる様な苦しみで、今まで感じていた苦痛とは比較にならない程のものだった。

そうして限界を超えた痛みに耐え切れなくなった僕の視界は、先程とは逆に真っ黒に染まっていく。

 

『……ぁ……』

 

――――ぷつん、と。

 

急速に掠れていく意識の中、僕の中で暴れていた力が、唯一つの繋がりを除いて跡形も無く消え去った。

凄まじい喪失感と、安堵。二つの相反する感覚が僕を包み込み、途轍もない疲労感が襲い来る。

脱力し、瞬き一つ出来ない身体が、糸の切られたマリオネットの様にシーツの上に広がった。

 

『――――』

 

耳元で叫ばれているそれは、妹の声だろうか。耳鳴りが酷くて判別する事が出来ない。

熱を持ち、ギチギチと細動する筋肉が。激流の様に全身を巡る血液が。激しい生命の鼓動が僕の脳に刺さり、ノイズを撒き散らしてくるんだ。

それは長らく感じていなかった、生の証。遠い昔に失っていた筈の、僕の夢。

取り戻す事を諦めていたそれが、僕の身体の上で疼いていたんだよ。

 

――そしてその代わりに、僕はとても大切なものを、永遠に、失ったんだ。

 

けれど、それを嘆く間も喜ぶ暇も無く。

妄想の終わる、テレビの電源が切れるような感覚と共に。

僕の意識は、完全に闇に落ちていった――――…………

 

 

■ ■ ■

 

 

「…………」

 

暗い世界の中で。チャンネルを、回す。

 

 

■ ■ ■

 

 

病室の中に、二つの影があった。

 

一つは、ベッドの上から上体だけ起こした、今にも折れそうな痩身の男――つまりは、僕。

そしてもう一つは、長い黒髪を腰まで垂らしたモデル体型の女性だ。

決して友好的とは言い難い関係の僕達は、お互いを挟んでピリピリとした雰囲気を放っており、何ともいたたまれない空気が病室の中を漂っていた。

彼女が抱くのは、僕に対する強大な敵意。愛する家族を失った原因を作った仇への、強烈な憎悪。

それは確かな圧力を持って。暗く光る眼光という形で、僕の心を責め立てる。

 

――お前の所為で。

――お前の所為で!

――お前の所為でッ!!

 

彼女の心に宿る、深く濁った感情が直接精神に叩きつけられて、心が折れそうになる。

でも僕には、その視線から逃げられる権利は持っていない。そう憎まれるだけの事を、僕は彼女達に施したんだ。

 

『……正直に言って、私はお前をこの手で殺したいと思っている』

 

そうやって僕を睨み付ける彼女の口から、険の篭った声が放たれた。

『私達を奪う原因を作ったお前を、世界の可能性を殺したお前を。「これ」でズタズタに引き裂いてやりたかった』

 

吐き捨てるように言い放ち、彼女は自らの右手を振り上げ、僕の頭へと突きつける。

その手の指は、見えない何かを握り込むかのように丸められ。そうして伸ばされた腕は、まるで大剣を掲げているようにも見えたよ。

……いや、彼女は実際に大剣を持ち、僕の頭に突きつけているのだろう。

 

彼女がほんの少しでも力を込めれば、ほんの少しそう思えば。僕の命はその瞬間に散らされるんだ。

 

――目には見えない青い刃が、眉間を深く貫いている。

彼女の握る掌の先、何も視認できない空間に、僕はそんな光景を幻視した。

 

『…………』

 

『……フン』

 

しかし何も反応を返さない僕に、彼女は鼻を一つ鳴らし、突きつけていた腕を大きく振るい、下に降ろす。

そうして不機嫌そうに、病室に備え付けられていた椅子に乱暴に腰を下ろし、足を組んだ。勿論、僕を睨みつけたまま。

 

彼女が纏っている高校の制服。そのスカートがヒラリとはためき、白い太ももが一瞬だけ露になった。

 

『だが、残念ながらそれは出来なくなった。何故か分かるか』

 

『……彼の為、だね』

 

『――ああ、そうだ』

 

終始憎々しげだった彼女の表情に、ほんの一片。暖かいものが混じる。

それは出来の悪い弟を見るような、愛する人を想う乙女のような……とても、複雑な表情で。僕はそれに少しだけ見蕩れてしまった。

 

『アイツは、私との約束を守ってくれた。あの男の妄想を殺し、全てに決着をつけてくれた』

 

『…………』

 

『……それなのに、私がアイツの守ったものを殺してしまっては、恩知らずも良い所だろう』

 

彼女はそれを最後に片手で顔を覆い、背中を丸めて俯いた。

その姿は、涙を抑えているようにも、衝動的な行動に走ろうとする身体を無理矢理押さえつけている様にも見えて。

 

……彼女は一体何を思って、どんな葛藤を抱いているのだろう。

知りたい、とは思ったけれど。僕にはもうその術は無い。

 

『…………』

 

そうやって暫く俯いていた彼女だったけど、ある程度は心の整理が付いたみたいだ。

大きな溜息と共に、覆った手の隙間に見える片目を開き、その鋭い瞳を僕に向け、告げる。

彼女が僕の下に来た、その理由。

 

 

――――アイツは今、何処に居る。

 

 

その凛とした声色には僅かな陰りも無く、病室の白い壁に反射した。

 

 

■ ■ ■

 

 

「……………………」

 

チャンネルを回す。

 

 

■ ■ ■

 

 

『――――早く教えてくれなーいーとー、も~~~っとドカバキグシャー、しちゃうのらー♪』

 

楽しそうな、それで居て怒りを滲ませるという矛盾した声が、ベッドから転げ落ちた僕の耳に届いた。

 

『……う、ぁ』

 

殴られた頬が、じくじくと鈍い痛みを発する。

病室の硬い床に打ち付けた後頭部が、未だ生え揃わない頭髪と擦れて小さな音を立てたよ。

 

――殴られたんだ、僕は。それも、力の限り全力で。

 

『ぐ……』

 

突然の衝撃に朦朧とした意識を、頭を振ってハッキリさせて、震える腕をつっかえ棒に上体を持ち上げベッドの端に縋り付く。

まるで崖を上るかのような体勢になって、弱ったままの筋肉がミチリと嫌な音を発したよ。

 

そうして苦労して目線を向けた先には、明るい髪色をツインテールに縛った小柄な少女の姿があった。

彼女は思い切り僕を殴った拳を摩りながら、ニコニコと楽しそうに笑っていた。

しかし、その表情に温度は無く。冷たい笑顔と言うのは、ああいう表情の事を言うのだろうか。ぼんやりと濁った思考の中で、そんな事を思ったよ。

 

『き、みは……そうか、彼女からか……』

 

『知りたかったーら、貴方に聞けって言われたのら』

 

僕がその事を皆に知らせる前に、どうして彼女がそれを知っているのか。一瞬疑問に思ったけど、彼女と関わりの深い女性の事を思い出して、納得。

自分で伝えないのは、おそらく僕に対する嫌がらせの様なものなのだろう。殴られる事まで予想していたのか分からないけれど。

 

――嫌われてるなぁ。

 

溜息を一つ吐き。腕に力を込め、自身の身体を引き上げる。

まだ立ち上がる事さえ困難な身体に鞭を打ち、必死の思いでベッドの上に体重を乗せる。そしてシーツを皺になるまで握り締め、しがみつき。荒い息を立てながら這い蹲った。

 

『……っ、ごめん、僕は――』

 

『……聞きたくないのら』

 

息を整え、縺れる口を必死に動かして最初に謝罪を告げようとしたけれど。にべもなく一蹴されて、遮られ。

彼女は僕の声を聞きたくもない、と言った風情で耳に手を押し当て、イヤイヤと首を振った。

 

――笑顔を消し、涙で濡れた目で僕を睨みつける。

 

『帰ってきたら、い~~~っぱいスキスキしたかったのに。い~~~っぱいありがとうしたかったのに』

 

『…………』

 

『なのに、帰ってきたのは、貴方のほう』

 

苦しんでいた自分を救ってくれた、君。

苦しむ原因を間接的に作り出した、僕。

全てが終わった後で帰ってきたのは、彼女が望んだ君では無くて。

 

『そんなのの言葉なんて、絶っっっ対に、聞きたくないのら……っ!』

 

――君を、返してくれ。君に、会わせてくれ。

 

言葉と態度の節々に、そんな痛々しい程に大きな君への想いが見え隠れして、心が締め付けられる。

今にも涙を流しそうな彼女の様子に、何かを言わなければならない衝動に駆られたけど――でも、何と言えばいい?

 

こんな筈ではなかった、本当は僕が居なくなる筈だった。

言い訳にも似た後悔は幾らでも口に出来るけど、彼女達が望んでいるのはそんな言葉ではないのだろう。

求めているのは、情報だけ。僕自身の言葉なんて、彼女にとっては塵芥以下なんだ。

 

『……彼が今、何処にいるか。だったね』

 

『うぴぃ』

 

言葉から一切の感情を消し、ただ情報を伝えるだけに努める。

 

『……これは、僕の感覚と知識、そして聞かされた情報に基づいて妄想した、ただの推測だ。まずは、それを理解して欲しい』

 

『妄想なーら、慣れてーるよ』

 

彼女は頷きを一つ返し、間延びした口調で応じる。

しかしその軽い空気とは裏腹に、目には真剣な光が宿っていて。僕は小さく身動ぎして姿勢を直し、口を開く――――

 

 

■ ■ ■

 

 

「……」

 

彼が殴られたシーンは面白かったけれど、それだけだ。不快な事に変わりは無い。

チャンネルを、回す。

 

 

■ ■ ■

 

 

『まず、あの時に彼に何が起きたのか。君は何処まで聞いているのかな』

 

『え? えっと……』

 

ベッドのすぐ横に備え付けられている安楽椅子。

重病者用の個室だからこそ置く事の出来る上質な椅子に腰掛け、その細い眉をハの字に垂らしながら、彼女はかけている眼鏡の弦に指を当てた。

 

それはおそらく、考え事をする際の癖の様なものなのだろう。

彼女が纏う高校制服、きちんと校則通りに整えられているそれと合わせて、何やらお嬢様と言った印象を受けたよ。

 

『確か……ノアⅡ? っていう機械を壊して、ニュージェネを起こしていた真犯人を、その……倒しちゃったんですよね?』

 

『うん、そうだね』

 

順序が逆ではあるけれど、わざわざ訂正するほどの事ではないので、流しておく。

彼女はニュージェネの真相からは比較的遠い位置にいたからね、正確に事件を把握していなかったとしても何らおかしな事じゃない。

 

『それで…………その、爆発に巻き込まれてしまって――』

 

『――彼は、行方不明になった』

 

途中で彼女の声が震える気配を感じ、君を「死んだ」と表現される前に咄嗟に言葉を遮る。

それを確たる言葉として発せられるのは、お互いの為にならない気がしたから。

 

『……行方不明、ですか』

 

『そう、行方不明』

 

『私、どうしても分からないんですよね。どうして皆がそれを断言できるのかが』

 

彼女はそんな僕の様子に、納得のいかない表情を浮かべ。目を逸らしながらそう告げたよ。

それも当然の事。爆発に巻き込まれた人間が消えたんだ、ならばその被害者は死亡し、木っ端微塵に吹き飛んだと考えるのが普通だろう。

「行方不明」と言い張る僕らの方が、本当は間違っているんだ。

 

『別に、断言してる訳じゃないよ。ただ、その可能性があると言うだけで。居合わせた当人も、最初からそう思ってた訳じゃないしね』

 

『……まぁ、確かに涙とか鼻水が凄い事になってましたけど』

 

……その可能性を示唆されるまでは、妹と一緒に号泣して手が付けられなかった。

良く分からない理由で互いに殺し合おうともしたし、諌めるまでにどれ程の寿命が縮んだ事やら。

彼女の様子を思い出して、げんなり。凄まじい疲労感が湧き上がり、また以前のような皺だらけの老人に戻りそうになった。

 

『……皆、信じたいんだ。彼が生きている可能性を。彼が存在している世界を』

 

『ええ、それは分かります。だって、私も――――』

 

 

■ ■ ■

 

 

これ以上彼女の言葉を聞きたくなくて、無理矢理チャンネルを回した。

 

「……やめてよ、そういうの」

 

君は。あれだけ僕の事を疑っておいて、犯罪者扱いしておいて、今更何を言うつもりなんだ。弁えてくれよ、最低限、僕の気持ちを汲み取って。

確かに僕は最後の時には君の事を許したけど、何。それで好感度爆上がりとか言うつもり? 本当にやめて欲しいよ。どんだけチョロいんだよ。

他の奴らだってそうだ、今更好意なんて見せられてもどうすれば良いんだよ。

 

「……遅、すぎたんだ。腐ってやがる……!」

 

 

■ ■ ■

 

 

『ノアⅡが破壊された時、周囲には膨大なエネルギーが撒き散らされた。周りの建物全てを瓦礫の山にして、大きなクレーターを作るほどのものが』

 

『…………』

 

『それは人の身体から外れ、ギガロマニアックスとしての最極地に至った彼でさえどうにも出来なかった。ただ呑み込まれ、衝撃に翻弄されたまま、消え行く事しか出来なかったんだ』

 

目を瞑ったままの彼女は、その言葉に僅かに眉を顰め、持っているチョコレートを齧る。

折れた茶色の板からふわり、と病室の中に甘い香りが漂い、しかし留まる事は無く。空調の風に流されていく。

 

『そうして薄れ行く意識の中で、彼は一つの妄想をしたんだ。……それが何か、分かるかい?』

 

『……邪神に囚われし黒騎士の、無事』

 

『そう。彼の愛しい想い人、爆発の現場に居合わせてしまった彼女の事だ』

 

君がノアⅡを破壊すると決心した、最大の要因。

消え行く間際に伝わってきた幾つもの妄想のうち、一番大きな物が彼女を案じるそれだった。

 

『…………』

 

彼女は、顰めたままの眉に不機嫌さを加え、ゆっくりと瞼を開きこちらを見た。

その目はあからさまな嫉妬心を込めた物だったけど、それは僕に重なる君に向けられたもので。僕自身を見る視線に温度は無かったよ。

 

(人気者だね、君も)

 

「続きを言って」彼女は一言たりとも言葉にはしなかったけど、そう思っている事は明白に感じられる。

僕はそれに苦笑を一つ、ベッドのリクライニングを少し倒して話がしやすいように環境を整え。そして、続けた。

 

『君も知っている通り、彼の想いは彼女を無事に生還させたよ。……けれど、その妄想が、彼を行方知れずにさせたのさ』

 

『…………』

 

『彼が彼女を助ける為に行ったこと――――結果から言えば、それは「ノアⅡから溢れでたエネルギーと身体とを混ぜ合わせる」という物だった』

 

きっと、エネルギーに溶かされていく身体から、そういう妄想に至ったんだろう。僕には、それが残念でならなかった。

 

『幸運だったのか、それとも不幸だったのか。その妄想は成功し、彼は反粒子の塊となっていた身体をノアⅡと同化させ、膨大に猛るそれを全て押さえ込んだ』

 

『…………』

 

『流石に物理的な衝撃や、それ以前に撒き散らされた物はどうにもならなかったみたいだけどね』

 

そう言って、一息。

僕はベッドに背と後頭部を預け、長いため息を吐いた。

 

『……そうして、彼は「彼ら」になったんだ』

 

『……?』

 

ポツリと漏れたその言葉。

あの時、「彼ら」が逆流してきた時の苦痛を思い出し、一瞬だけ手が痙攣を起こす。

 

反粒子の蓄積による自己崩壊の苦しみには慣れていたけど、あの時のそれは今までの物とは一線を画していた。

生の終着点が遠のき、以前よりも色付いた世界を生きている僕にとって、その記憶はトラウマに近いものとして刻まれていたんだよ。

恐怖をごまかすように身体を起こし、彼女に視線を向けて、続ける。

 

『そもそも、押さえ込まれたエネルギー……ノアⅡから放たれたそれは、一体何だったのだろう?』

 

『――それは、

 

 

■ ■ ■

 

 

チャンネルを回す。

 

……不快、不快、不快!

もう良いだろ、僕はもう消えるんだ。だったらそれで終わりじゃないか、今更掘り起こして何の意味があるんだよ。

 

確かに僕は自分に何が起こっていたのかを知りたかった。でも、もう、終わったんだよ。

ネギだった僕はアーニャを助ける為に殴られそうになってて、どうせ殺されるんだ。だったら、何を知ったところで無意味極まりないじゃないか。

それとも、走馬灯ってやつ? だとしたら悪趣味な記憶をお持ちだね、君は!

何で、今になって、こんな。何だ。何なんだよ。何でこんなのを見せるんだ。止めてよ。止めてくれよ……っ。

 

 

■ ■ ■

 

 

『……ノアⅡ、それは人工的に作られた、機械仕掛けのギガロマニアックス。ある男を除き触れる事も出来ず。Ir2の電磁波にその男の妄想を乗せて、ただ発信するだけの存在。それに意思は無く、感情も無く。あるのは命令を遂行しようとするプログラムだけ。

 生体では無い故に事故崩壊の危険が無く、パーツを取り替え続ければ何百年だって存在し得る。永久機関すらをも備えた、望まれる限り永遠に稼動し続ける悪夢の具象化だ』

 

『その程度の事は知っている、私も随分と調べ回ったからな』

 

嘲る様にそう言い放ち、苦々しく口元を歪ませた。その名を聞くだけでも苦痛なのだろう。

それもその筈だ。彼女の愛する家族は、ノアⅡ完成の為の礎として犠牲にされているのだから。

 

『……けれど、僕は思うんだ、ノアⅡは本当は生きていたんじゃないかって』

 

『……どうやら、お前は滞留した反粒子と一緒に脳細胞も吹き飛ばされたらしい。いい医者を紹介してやろう』

 

――脳の問題なら、彼以上にお似合いの医者は居ないんじゃないか? なぁ?

 

そう挑発し、僕を睨みつける。

……あの人を引き合いに出された事に少しだけ腹が立ったけど、それに反論をする権利は僕には無い。聞かなかった振りをして、続ける。

 

『確かに、ノアⅡの身体は無機物で出来ているし、ギガロマニアックスとしての能力は、電磁波とプログラムで作られた紛い物。思考誘導による洗脳装置がその正体だ』

 

『そこまで分かっているのなら――――』

 

『――だけど、それが引き起こす現象は、僕らの妄想とそう変わらないんだ。ただ、そこに至る経緯が違うだけで』

 

彼女の言葉を遮って言い切った。

 

 

■ ■ ■

 

 

チャンネルを回す。

 

何度も何度も記憶が前後し、流れが理解できなくなっていく。

 

 

■ ■ ■

 

 

『えっ、と……?』

 

『ノアⅡは妄想が出来たんだ。自分自身のそれじゃない、「敵」の――野呂瀬達の妄想をそのまま、という形だったけれど、紛れも無く自身の「意識」でもって妄想を行っていた』

 

『……自意識が、あったと?』

 

『少なくとも、それに似た物はあったと確信を持って言えるよ』

 

人間であるギガロマニアックスを模したノアⅡは、人間の脳の機構を擬似的な回路で再現していた。

それが電磁波とプログラムで組み上げられた、意思も感情も無いただの人形のようなものだったとしても、与えられた命令――妄想――を現実に反映させられるだけの思考能力は生成できていた筈なんだ。

 

――その程度の事さえ出来ないのならば、機械の塊がギガロマニアックスとして存在するなど不可能なのだから。

 

『でも、例えそうだったとして、それが何になるんですか? にし――――』

 

はた、と。

彼女は何かに気付いたかのように言葉を止め、こちらを伺うように、恐る恐る視線を向けてきた。

 

『あの、もしかして……』

 

『そう、あの時発せられたエネルギーの正体――それはノアⅡが行っていた、リアルブート寸前の妄想。そして、彼はそれと混ざってしまったんだ』

 

 

■ ■ ■

 

 

チャンネルを回す。

 

 

■ ■ ■

 

 

『ノアⅡを破壊した時に、彼はとあるモノを武器にした』

 

『……邪神の、使途……』

 

『そう、この世界で唯一ノアⅡに接触できる男――――野呂瀬 玄一。ディソードから放たれた反粒子の「巳」に貫かれた彼は、その身を剣としてノアⅡに突き立った』

 

ノアⅡを守る為の防御機構が、逆にトドメの一撃となった。なんと言う皮肉だろうか。

 

『分かるかい? この時、ディソードを通じて何人もの意識が――妄想が、一つに繋がったんだ』

 

『……グラジオール、邪神の使途、そして……私の ■ 』

 

『――それと、彼と繋がっていた僕自身。だ』

 

 

■ ■ ■

 

 

チャンネルを。

 

 

■ ■ ■

 

 

『最初に、ノアⅡと接触できる唯一の存在だった野呂瀬の妄想が流れ込んだ。死を前にした彼は、屈辱と共に自らの夢見た世界を妄想したんだ。こんな筈じゃなかった、こんな結末は認めない……ってね』

 

『その妄執ともいえる強い思いを受けたノアⅡは、主の妄想を叶えるべくリアルブートしようとしたんだ』

 

『うん、図らずも彼らの最終目的を実行に移してしまったんだよ』

 

『当然、それが成功するはずも無い。ポーターの数や事前の準備といった要因とは別に、その直後にノアⅡそのものが破壊されてしまったんだから』

               ■

 

■ ■ ■

 

 

……もう、止めてくれ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

『でも、一度放たれた妄想――Ir2の電磁波は止まらなかった。永久機関が仇になったんだろうね』

 

『完全に壊れ切るまでの僅かな間で組み上げられたそれは、最早止められる段階には無く――暴発し、件のエネルギーとなって撒き散らされた』

 

『そうして本来ならばサードメルト以上の惨状を引き起こす筈だったエネルギーは、先程話した通り、彼の最後の妄想によって防がれる事になる』

『しかし、リアルブートの流れは止まらない。何故なら、彼もまた野呂瀬とは別の世界の創造を妄想していたから』

 

『――最愛の人が傷つく事の無い、ささやかな幸せのある世界を』

 

 

■ ■ ■

 

 

もう、

 

          ■

 

■ ■ ■

 

 

 

『猛る力を押さえ付けられ、行き場の無くなった妄想は、リアルブートできる道を探した』

 

『そして、見つけたんだ。そう、彼と僕との繋がりだ』

 

『それを辿って逆流してきた妄想は、自らをリアルブートする為に僕のディソードに流れ込んだ。身体の許容量なんて無視してね』  ■

 

『世界最高峰の二人のギガロマニアックスがその命を賭して描いた妄想と、世界全土に影響を齎すノアⅡのエネルギー。幾ら僕でも、そんなのに耐え切れる訳が無かったんだよ』

 

 

■ ■

 

 

『僕は内側で暴れるそれを制御できず――全部、持って行かれ■た』

              ■

 

■ ■ ■

 

 

■    嫌だ。

                ■    ■

 

■ ■ ■

 

     ■            ■

                                        ■

『描いていた妄想』

 

『僕自身と現実とのズレ』

 

『ギガロマニアックスとしての力』       ■                               ■■

 

『そして、身体に滞留していた反粒子。良いものも、悪いものも、全部。押し寄せてきた妄想に巻き込まれ、ディソードを通って何処かに消えてしまったんだ』

 

『……何処か、それは、現実世界の他の場所って意味じゃない』

 

■   ■■■

                      ■                      ■

『僕の身体はもう、世界を作るなんて大掛かりな妄想をリアルブートする事には耐え切れないし、そもそもギガロマニアックスの力を失った時点でそれも不可能になっている』

 

■   ■

 

『だから、その前の段階――――つまり、ディソードがディラックの海に干渉した時点で、僕はその反動の大きさに耐え切れず、全てを放棄してしまったんだ』

 

    『……よく分かんねぇけど、あいつが、俺のダチが居なくなったのはテメェの所為って事かよ!?』

■ ■

      ■           『……すまない、何度殴っても良い。ただ、今は、■』  止めてよ

 

『では、その妄想は何処に行ったのか』 ■

■     ■    ■ 聞きたくない

■■■ ■          ■ ■■                   ■ ■■       ■            ■          ■ ■  『奇しくも、世界を望む妄想が三つ、揃ってしまったんだよ』■■■     ■   ■ ■■■■            ■ ■  ■             ■■  ■            ■ ■ ■

   止めてくれ

  ■       ■■             ■ ■  

■■   ■■『そんなの、現実世界では無理だろうね。でも、ディラックの海の中なら■■■ ■  ■   ■   ■ 『争いの無い、管理された世界』

聞きたくない、そんな真実なんて   ■■ 『あったはずの世界』■■  ■

 ■ ■■  ■   『ささやかな幸せのある世界』  ■幾らなんでも世界その物は無理だろうけど、心象世界                           ■ ■ ■  ■妄想なら ■ ■   ■  界を構成するための知識なら、日々ディラックの海に干渉してくるギガ■ロマニアックス達から得れば良  ■  ■

    ■  止めてよ、止めてくれよ                    ■■    ■■      ■ ■ ■■思考盗撮    ■ ■■   ■ ■■ ■■  嫌だ、嫌だよ■■■   ■■    ■

■  象世界なら、どうかな               ■    ■   ■      ■      ■■

■          ■■   ■■■       ■         ■■     ■   ■■■■  ■     ■■■    ■■■       あ  ■  ■■ ■■  ■■    ■■やめて                     ■    あ

■■ ■ ■ ■    <負担も少ない所か、無いに等しい                 ■     ■■■           ■    あ    ■ ■■■■■■ あ    あ      あ  ■     ■■■あ    最低限、妄想できる機関があれば   あ

   ■■■   ■  ■ ■■

■■■     ああ     あ   あ           ■   ■■   あ      ■■■         ■■          ■

■■■    ■■       ■  ■■    ■   ■■■■■案外、ディ ■ 海の中には ■ 誰か ■ の脳髄やノアⅡ ■ 機 ■ が、漂っているのかもしれな

     あ■

 

 

 

『――――そう、彼は今、ディラックの海の中に浮かんだ妄想の世界。三人と一基のギガロマニアックスが作り出した心象世界に居るんだよ』

 

 

 

                  あ、

 

 

 

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ――――――!!」

 

 

――振りぬいた茨だらけの睡蓮が、風を切り、空間を切り。彼の世界を裁断した。

 

 





「――ぁッああああああ!! あああああああ!! ぁぁああああぁぁっ、ぁぁぁ、あぁ、ぁぁあぁ、ぁ……ッ!!」

……そうして、気づけば僕は、青と白の世界にいた。
何処までも続くような、広く、高い、青い空。そしてそれをくすみの無い白い雲が彩りを加えていて。
暖かな太陽は優しい光を放ち、頬をなでる風はとても穏やかで、眠くなるような心地よさを運んでくる。

「―――……っはぁ、はぁっ……!!」

足元に広がるのは、まるで鏡面のように澄んだ湖。
僕の足を中心に波紋を広げるそれは天空の青と白とを映し出して、それが無ければどちらが空なのか分からないほどだ。

上を見上げても、下を向いても空、空、空―――……

見渡す限りの青空。何時までも続く穏やかな空間に僕は立っていた。
三歳児のちんちくりんな身体じゃない。僕は僕の身体のまま――西條拓巳の身体で。

「はぁっ……は、ぁ……っぐ、ぉえ、ぇ……っ!!」

そんな平穏な世界にあって、僕を襲うのは死の恐怖への残滓、そして先程の記憶から来る強烈な嘔吐感。
ぐるぐると視界が回り、立って居られなくなって湖に膝を付いて四つん這い。大きく口を開いて胃の中身を吐き出そうとした。
……でも、口からは涎と声以外何も出ては来ず、ただ僕のえづく声が辺りに響き渡るだけで。

「……っは、っは、っは……」

右腕に違和感を覚え、ふと腕を見てみれば、肘の先から二の腕にかけて、気味の悪い茨が何時の間にか巻き付いていたよ。

そして、茨の続く先。固く握り締めた右手の中に見えるのは、茨だらけの長剣の姿。
それは金属のようにも見え、有機物の様にも見える繊細さと。思わず息を呑んで見惚れてしまうほどの美しさを持ち合わせて……いねぇよボケ! 氏ね!!

「……くそ、くそっ!!」

何で僕はこんな気持ち悪いものを手にしているんだ。
腕を振って投げ捨てようとするけど、長剣はともかく茨の方が固く絡み付いていて、とても引き離せそうに無い。

――――そんな最悪な気分の中、僕はゆっくりと顔を上げた。

この世界は何なのか、何処に何があるのか。そんなのは嫌というほど知っている。
あんな胸糞悪い記憶を見せられた事は無いけど、どうせこの剣を持つ事がトリガーになってたとか、そんな感じに決まってる。

つかアレを見せて僕にどうしろって言うんだよ、意味ワカンネ。

「……っぐ、は……」

荒い息を整えつつ、手中の剣より更に茨を辿り見る。
目に映るのは、二本の茨と一本の枯れた蔓。今まで何回も夢見た景色が、今度は僕の身体から直接続いているんだ。

――僕は覚えている。毎夜この世界に訪れていた事を。
――僕は覚えている。茨塗れの長剣から対の方角に伸びる、二本の蔓の事を。
――僕は覚えている。この茨から送られてきた記憶を。
――僕は覚えている。覚えている。覚えている――――

「……ストーカーかっつーのぉ……ッ!!」

キモイ、キモイ、マジでキモ過ぎる。
本当に、何回も何回も。ああ、ああ、覚えてる。覚えてる。覚えてるよ。
僕がこの剣に触れるまで、ずっと同じ事やってたのかよ、君は。

「っ当に、呆れた執念だよ、ねぇ――――」

そうして、僕は剣から続く茨の一本。左方向に伸びていくそれを目で追って、その先に居る人物を視界に納めた。

以前は見通す事が出来なかった景色だったけど、今はしっかりと見ることが出来る。

ガリガリに痩せ細った体躯。それに着せられた、ぶかぶかの入院服。
そして、未だ髪の毛の生え揃っていない、薄青の坊主頭。

粘ついた唾液の絡みついた舌で呟かれたのは、僕の大嫌いな男の渾名。


「――――将軍……ッ」


――――皺だらけじゃない、年相応の容姿をした彼の姿が、そこにはあった。

……夢は、もう見ていない。

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第12章  Re;

迫り来る恐怖に負けて茨を手に取った事を。僕はきっと、一生後悔し続けるんだろう。



死の間際、野呂瀬玄一は自らの野望が成就した世界を視た。

死の間際、西條拓巳は咲畑梨深が生きている世界を視た。

死の間際、ニシジョウタクミはIr2の式が無い世界を視た。

そして、ノアⅡの無意識――感情を持たないそれが、三つの世界を観測し、認識していた。

 

全ては死にかけた奴らが描いた、くだらない妄想。ただ、それだけの話だったんだ。

 

「ふ、ひひ……! ひひひひひ……っ」

 

凄いよね。アインシュタインをも超えた僕と、アインシュタインと並び立った彼。そして、アインシュタインの一歩手前に留まった男。

世界で見ても確実に五本指に入るような上位ギガロマニアックス三人が、委細は違えど同じタイミング、それも死の直前と言う人が最も念を濃くする場面で、世界を渇望したんだから。

 

「ひひひひひひっ、ふひ、ふひひひひひひ……」

 

最初にノアⅡが受けたのは、自身の主にして鍵たる野呂瀬の妄想。そして次に僕。相反する二色の妄想が混ざり、猛り。思念の激流を産み出した。

それはノアⅡの身体が失われた後も、彼、或いは彼女の意識を動かし続けるには十分すぎるものだったんだ。

幸か不幸か、僕は全てを纏めて取り込んだみたいだからね。ノアⅡの放つ電磁波もそのままの状態で混ざりこんだんだろうさ。

 

そうして繋がりを辿っていった先。唯一身体とディソードを持ったままの彼の力を利用して、炸裂。僕達二人の妄想が混ざった世界をリアルブートしようとしたんだ。

可能不可能関係なく、ただ愚直に動き続けるそれは、もしかしたら一種の暴走状態だったのかもしれないよ。

 

……でも、駄目だった。将軍が僕達の炸裂に耐え切れず、ギガロマニアックスとしての力を放り出してしまったんだ。

その衝撃は将軍からギガロマニアックスとして得てきたもの、失ってきたもの、全てを巻き込み、一切合財奪い取り。

僕達は――ディソードを通してディラックの海に干渉していたその妄想は担い手を失い、現実世界に辿り着く寸前で置き去りにされたんだ。蜘蛛の糸を掴んだカンダタの様にね。

 

「ひぃひひひひひひっひっひっひ、ひ、ひ、ひぃひひひひ……!」

 

そうして放り出された妄想は、本当なら何も成せないまま消えて行く筈だった。反粒子の波の中に呑み込まれて、二度と浮き上がって来ない筈だった。

 

まぁ、当たり前だ。世界をリアルブートするなんて、人間に可能な範囲を大きく飛び越してる。

僕らがどんな化物であったとしても、どんな強い想いを持っていたとしても。人間程度の妄想じゃそんな大それた事なんて出来やしないんだ。

ノアⅡだって同じだ。それが出来るのは人々を洗脳した上で未来に望む世界を作り出すだけで、現在に望む世界を創り出せる訳じゃないんだよ。

 

……ところが、ここで想定外の事態が起こった。

リアルブートされる寸前の密度を増した妄想の一部が、ディラックの海の中で周囲共通認識を発生させてしまったんだ。

 

「ひ、っひっ、ひひぃ……ふひひひひひひひっ……!」

 

何度も言っている通り、あの時存在した妄想の塊は、僕、将軍、野呂瀬、ついでにノアⅡ。この四つのものが混ざってた。

将軍は、ただ妄想を巻き込まれただけだから除外。野呂瀬も同じような感じだから除外する。

意識と呼べる程に確立していたのは、人間を辞めてジョジョってた僕と、強迫観念にも似た妄想に動かされていたノアⅡのそれ。意識モドキだとしても、それが二人分あれば周囲共通認識は発生する。

 

じゃあ、その共通認識で妄想がリアルブートされるとしたら、一体それは何処に顕現されるだろうか。

 

「ひ、ひ――――!!」

 

――――答えは、妄想が混在する混沌の渦中、だ。

 

それは、まるでマトリョーシカ。

僕達は、ディラックの海の中に浮かぶ妄想の中にまた違う妄想をリアルブートするなんて、物凄く器用な事をやらかしてしまったんだよ。

 

おまけに何をまかり間違ったのか、僕の意識と呼ぶべき妄想の欠片がその世界に放り込まれた訳だ。

……何て、下らない真相。

 

「ふひひひひひひひひひひひひひひひ、ぃぃひっひひひひひひひひっひいいっひひ!!」

 

反粒子の詰まった空間の中で、器の手を離れた妄想が存在し続けられるのか。という疑問はあるよ。

 

けれど、脳みそを破壊されても蘇り続けた反粒子の塊である僕が混ざっていて、尚且つ身体が無いから自己崩壊を起こす心配も無かったんだ。相性はこれ以上無いほどに良い筈だろう?

それを考えれば、決して不可能とは言い切れない。海の一部として馴染んでしまったとしてもおかしくなんて無いんだ。

そして、今もノアⅡの妄想は続いてる。野呂瀬の要素を持った僕達からの妄想を遂行すべく、世界を構築し続ける。妄想の世界の中で、妄想を産み出し続けてるんだ。

 

構成に足りない知識と情報は、全て外から補える。

 

――思考盗撮。

 

ディラックの海は、時間や場所の影響を受けない、独立した虚数空間だ。それはつまり、干渉してくるギガロマニアックス達には現在過去未来の区切りが存在しないと言う事で。

ノアⅡは、そんな幾千幾万のギガロマニアックス達のディソードを介して、そいつらの知っている事、知っているつもりだった事を読み取ったんだよ。

 

木も、空も、雪も、建物も、アーニャも、ネカネも、スタンも、村の人間たちも、ネギと言う人間も。それどころか、この世界に存在する全ての人間も、全部そう。僕と同じ、妄想で出来た作り物。

僕らのご同輩には、アインシュタインを始めとした歴史に名を連ねる偉人達が沢山居たらしいからね。情報には事欠かなかっただろうさ。

 

魔法とか何やら、ファンタジーの存在だってその一部分に過ぎないんじゃないかな。

不特定多数のそいつらの中には、英雄の存在と、それを信奉する人間達を視ていた奴が居たんだろう。

魔法の存在を信じ込んでいた奴も、魔法世界()が存在すると思い込んでいた奴も、化物が存在すると洗脳されていた奴だって。

神を狂信してた奴も、裏世界()の存在を疑っていた厨二病患者も。ひょっとしたら宇宙人とか火星人を本気で居ると思ってた奴も居たかもしれない。

 

そんなくだらない妄想に犯された、人間失格の連中が思い浮かべている絵空事を、ノアⅡは全て「知識」として受け取って。正しい事も間違っている事も関係なく、全てを世界の公式として取り込んだ。

人間ならリアルブートが不可能だったそれらも、思考がぶれる事も反粒子の負担も感じる事も無いノアⅡの無意識なら。加えて心象世界なんて閉じた世界でなら不可能じゃなくなるんだよ。

 

――――『世界五分前仮説』

 

バートランド・なんちゃらが提唱した、「世界が五分前に、全ての実在しない過去を住民が覚えていた形で出現した」という仮説からなる哲学的思考実験の一つ。

今回起こった出来事は、図らずもそれを実現したんだ。流石に、五分前って事は無いだろうけど。

 

「ぴひひひひ、ひ、ひ、ひ……!」

 

あの世界に希テクノロジーや紳光、三百人委員会が存在しなかったのは、将軍が『自身の罪の無い世界』を望んだからだ。

だって彼らが居なければ、将軍が後悔し続ける事態なんて起きないんだからね。

ついでに、僕の望んだ『梨深が生きている幸せな世界』もそれに付随する未来に達成されるんだ。存在させる理由なんて一つも無い。

 

懸念されるのは野呂瀬の望んだ『争いの無い管理された世界』だけど――――それはもう、何らかの理由で潰えているんだろうね。

僕の腕から伸びる茨のうち、枯れている一本を見る限り、きっとその筈だ。

 

はてさて、今の僕は、ディラックの海に浮かんでいる筈の僕達は、一体どんな姿形に成っているんだろうね?

妄想だけの実体の無い姿? それとも僕の最期の時の様な塵の姿かな?

将軍が言ってた通り、反粒子の中に脳みそと心臓が浮かんでいるのかな、若しくは永久機関を積んだノアⅡの機構かも知れないね。

 

――――そんなの、知りたくも無いし知る機会も無いけど。

 

上位のギガロマニアックスの一致した妄想、感情の無い意識、反粒子の塊になってた僕、僕と繋がっていた将軍、将軍が力を放り出したタイミング。あり得ない程の異常な現象が重なって起きた、この現状。

それだけの要素を揃えるなんて、殆ど奇跡に近いよ。きっと二度と同じ事なんて起こらないだろうね。

 

「ひひひひぃ! ひひぃ! ひ、ひ、ふひひひひひひひ――――!!」

 

ああ、そうだ。僕が「ネギ」になったのも、そんな馬鹿どもの妄想と、それに混入した僕が合わさってしまった結果なんだろうね。

「優しい姉と、彼女候補の幼馴染がいる、イケメンの僕」、考えてみれば、どこかで聞いた事のある設定だ。具体的に言うなら妄想の七海が消え去った直後ぐらいに。

それに魔法やら何やらが肉付けされてリアルブートされれば――ねぇ? 1996年時に三歳ならば、2010年時の西條拓巳の年齢的にも一致するし、まだ登場してない「物分りのいい妹」だって、出来ててもおかしくない。

 

見なよ。あれだけぐだぐだ悩み続けて、僕は誰だ自己の安定がどーしただとか哲学的な感じで彼是して苦しんでたのが、「全部妄想でしたー」で終了っすよ。

 

 

――――もう、笑いが止まらない。馬鹿らしくて、アホらしくて、冗談みたいで、糞みたいで。惨め過ぎて、本当、嫌になる……!

 

 

「――ひ、ひ――――んっだよぉ! 何なんだよぉ! 今更、馬鹿じゃないの!? ねぇ、氏ねよぉ! 市ねっ! 死ねぇ!!」

 

彼の心象世界。青と白の空間の中。

青い空を映す湖面、動く度に水の音を上げるそれに背中から倒れこんで、顔中から体液を流して笑い転げていた僕は、胸糞悪い薄笑いを浮かべたまま立っている将軍に支離滅裂な罵声を浴びせた。

 

『――――――――』

 

何かブツブツと言葉を話してるみたいだけど、今の僕にはそれに耳を傾ける余裕なんて無い。

涙を飛ばし、涎を飛ばし。笑いすぎて掠れた声を無理矢理絞り出して、感じたまま、浮かんだままの悪意を無加工で投げつけるのに精一杯。

 

本当はもっと酷い言葉とか嫌味とかを言ってやりたかったけど、僕の頭はもう破裂寸前でまともに動こうとしていなかった。

 

――今まで居た場所が、会話してた人達が。みんな僕と同じ、妄想から出来た存在だった。

 

木材の湿った匂いも。

冬の寒さも。

ストーブの暖かさも。

美味しかったサンドイッチも。

アーニャの糞ガキっぷりも。

ネカネの優しさも。

スタンの説教も。

村人も、ネトゲで触れ合った奴らも、あの化物達も、僕を殺そうとした黒い奴も全部全部。全てがみんな、嘘っぱち。

 

そんなの、僕は絶対に認めたくなかったんだ。将軍の妄想だと。推測だと。全てを力いっぱい否定したかった。

……けれど、無理矢理に記憶をぶち込まれた僕の妄想が、あるのかどうかも分からない脳が。これを真実だって認めていて。

 

心と理性とがズレている。僕はそれを自覚していたけれど、何もする事が出来ず。ただ延々と喚き続ける事しか出来なかったんだよ。

どうしたら良いのか。何を思えば良いのか。それすらも、今の僕には分からなかった。

 

「だって、こんなっ! これっ……! そん、そんなの、そんな、して、何になるんだよ! お、おか、おかしいじゃない、っか、こんなのぉ……!!」

 

どうせなら、僕が「ネギ」としてリアルブートされた瞬間に教えて欲しかった。皆と言葉を交わす前に教えて欲しかったよ。そうすれば、ここまで乱れる事は無かったんだ。

ディソードに触れて「自覚しなかった」僕が悪いんだろうけど、そう将軍に当たらずには居られない。

 

僕は土下座の姿勢で蹲り、涙を流して嗚咽を漏らす。しかし顔の形は先程と同じ笑みのままで、情緒が全くといっていいほど安定していないのが如実に分かる有様だ。

――千々に裂かれた心が、大きな悲鳴を上げている。それがはっきりと自覚できた。

 

「んの為に! 何の為に! ぼく、僕は、っあ、あんな、あんなぁ……っ!!」

 

僕が居た事に、成した事に。あの世界に存在した事に、一体何の意味があった?

感じていた苦しみに、過ごして来た時間に何の意味があった?

最後の最後でアーニャを助けた事に、何の意味があったんだ?

 

全部全部、妄想だったって言うんなら、そんなの。

 

「な、何の、何の意味も、無かったじゃないか……!!」

 

ニュージェネの時や梨深の時とは違う、正真正銘に無価値だった時間と、その結末。

滑稽なピエロだったにも程がある。

 

――凄まじいまでの、虚無感。

 

「……っぐ、っぞぉ……! しね。しね、よぅ……ッ!!」

 

……そうやって泣いていると、腕から垂れる枯れた茨が、涙に歪む視界の中に入った。

無残な姿を晒すそれは野呂瀬の残滓。果たされなかった世界の残骸だ。

多分、僕もあと少しもすればこの枯れた茨と同じ末路を辿るんだろう。打ち砕かれた妄想は消滅し、そしてノアⅡと将軍だけが世界に残るんだ。

 

……どうせなら、何にも知らないまま。アーニャを助けられた少しの安堵を胸に、死への恐怖に塗れたまま居なくなりたかったよ。

そうすれば、少なくともこんな場所に来て、彼の記憶を見る事も無かったんだからね。

 

――けれど、現実/妄想はこれだ。

 

ほんの少し「生きたい」なんて思ってしまったばっかりに。生への執着を抑制できずディソードを掴んで、将軍を自覚してしまったばっかりに。

知りたくも無かった真実とやらを突きつけられて、絶望と混乱の中で死んでいく事を強制された。

 

「……くっそ、くそ……! な、にが、何が、したかったんだよ、きみ、っはぁ……!!」

 

そうして、やり場の無くなった感情。

憤りや憎しみ、嫉妬や悔恨。その八つ当たりにも似た負の感情は、僕の意識をここに呼んだ張本人。未だ一人で何かを話し続けている将軍へと向けられた。

 

僕を生み出した親にして、全ての元凶。

憎むべき存在だった彼の居る場所に向かって、震える足、力の入らない腕に力を込め、立ち上がり。茨で繋がったディソードを引き摺ったまま、ゆっくりと近づいていく。

一歩、また一歩。足を踏み出す度、長い事忘れていた青年の足の長さに四苦八苦。何度もよたよたとバランスを崩しかけて、それがまた僕を苛立たせた。

 

「そんな、あんな記憶、僕はいらなかった! 必要なかったんだよ!!」

 

『……――で、僕は、君にしてあげられる事が余りに少ない事に気が付いた』

 

「素直に死なせてくれれば良かった! 君には、現実を生きている君には、何の関係も、無い、無かったんだからな!」

 

『僕には、おぼろげに君の存在を感知できるだけで、君が何をしているのか察知する事は出来ないんだ。だから――』

 

噛み合わない会話。

 

前のめりに倒れそうになる身体を必死に往なし、将軍に向かって叫び続けるけど。僕の言葉は彼に届いていないようだった。

どんなに大声を張り上げても、どんなに泣き喚いても。将軍はその薄ら笑いを止めず、視線も何処かあさっての方向に向けられたまま喋り続けるだけで。

 

それは、無視や聞き流してるのとは違うように思えたよ。

何というか、予め記録されている言葉をただ再生されているだけの様な。映像や動くマネキンを相手取っている様な違和感だ。

 

――不愉快、極まりない。

 

僕の姿が目に入っていないかのように、聞きたくも無い声を吐き出し続けるその姿が、目障りな事この上ないんだ。

 

「こ、の……ッ!! っぐ!」

 

暴れる感情のまま走り出そうとして、失敗。足を縺れさせて、頭から湖面に突っ込んだ。

バシャンと水が弾ける音が周囲に響き、遅れて打ちあがった飛沫が着水。雨音にも似た響きが僕の鼓膜を揺らす。

水の冷たさも、痛みも感じない。今の僕にあるのは、もどかしさと情けなさ。大きな喪失感と、虚無感。それと、将軍への憤りだ。

 

『――僕は既にギガロマニアックスの力を失って――――君には感謝しても仕切れない――――例えそれが偶発的なものであっても――――』

 

僕には、彼が何を考えているのかが分からない。

毎夜毎夜、この将軍の心象世界の夢を見させて、ディソードを取るように仕向けて。

結局、僕は最期まで気付か無かった訳だけど、何のためにそんな事をしてたんだ?

 

自分の記憶を見せる為? 僕の現状を教える為? それとも感謝を伝えたかった? 

……どれにしてもありがた迷惑の余計なお世話だ、反吐が出る!

 

湧き上がる怒りのまま、僕は将軍の言葉を聞かない事に決めた。

どうせあと数刻もしない内に僕は消えるし、向こうは向こうで僕の話を聞く気も無いんだ。だったら耳を傾ける義理も意味も無いだろう?

 

「ぎ……ひひっひひひ、ひ。っし、っし、ょう軍ん……ッ!!」

 

そうして消える前に、せめて一発。

僕が抱いている負の感情の全てを乗せた一撃をお見舞いしてやりたい、と強く思って。

 

血走る目をギョロ付かせ、蜘蛛の様に四つん這い。バランスも何かも無視をして、格好悪く走り出す体勢をとった。

何処の東映版マーベルヒーローだよ、なんて思考の冷静だった部分がそう告げたけど。それすら僕は無視をして。腕と足に力を溜め込んだ。

 

『……だから、僕は、君にあげられる唯一のものをあげようと思う』

 

未だに何かぐだぐだ言ってるけど、もうそんなん知らん。

ただ――殴りたいんだよ、僕は!

 

『それは多分、君が一番望んでいたもの。君が欲しがって止まない物だった筈だ』

 

軽く吐息を吐き、歯を食い縛る。口の端から涎が垂れたけど、既に顔はぐちゃぐちゃなんだ。気にする程の事じゃない。

そうして、力いっぱい湖面を蹴りだそうとして――――

 

 

『――そう―――』

 

 

ふと、将軍の視線が。僕を貫いた気がした。

 

 

彼は、言う。

 

 

『――そう、ニシジョウタクミの身体と――西條拓巳としての人生を、僕は君に捧げたいんだよ』

 

 

――――――――がぎ、り。

 

僕の思考が、鈍い音を立てて止まった。

 

 

********************************

 

 

「――は、……え?」

 

思わず、呆けた声を漏らした。

今正に走り出そうとしていた身体は溜め込んでいた力を失い、再び土下座に似た四つん這いの姿勢へと形を戻して。

僕はただ、先程から変わらず飄々とした様子の将軍を見続けることしか出来なかった。

 

そしてやはり認識していないのだろう。そんな僕の様子に目を向ける事も気付く事すらもなく、彼は続ける。

 

『さっきも言ったと思うけど、僕はもうギガロマニアックスとしての力の大部分を失っている。あるのは、君との繋がりだけ。そっちの存在は感じられるけど、こちらから自由に意思を伝える事は出来なくなってるんだ。そうだね、精々夢として記憶を見せるくらいだ。出来てるって確証は、無いけれど』

 

「ぁ……あ、え」

 

『今こうやって話している事も、本当に君に伝わっているのか、凄く不安だ。……傍から見れば、僕は誰も居ない病室で独り言を言ってるように見えるかな? 誰も見てないと良いな』

 

将軍は、そう言ってくすりと笑う。

以前と比べて表情が豊かになったように感じるのは、余裕が持てるようになったのか、それとも皺が無くなったからか。判断がつかない。

 

『……とにかく、もし、この声が届いているのなら、その世界から妄想を切り離し、繋がりを辿って僕の下に来て欲しい。

 そしてギガロマニアックスの力で脳細胞を作り変えて、「君」をインストールすればそれで終わり。僕は僕じゃない、君に成るんだ』

 

 

――君は西條拓巳として、誰でもない一つの個として生きる事が出来るんだよ。

 

 

その一言は、僕の心深くに染み込んだ。

 

『だから、こんな貧弱な身体だけど、どうか君に――――』

 

ザリ、と。

それを全て言い切る事無く、大きな雑音と共に彼は突然動きを止め――その身体中にノイズを走らせた。

まるでテレビの砂嵐みたいに、アニメでよく見るホログラムの様に。彼の姿が激しくぶれて、掠れて。人の形を無くしていって。

 

そうしてそのまま数十秒した後、突然将軍の姿が正常に戻り――再び僕の脳内に彼の記憶が送り込まれてくる。

流れるのは、崩壊した渋谷を眺めている光景、七海の右手をリアルブートした時の記憶。

どうやら、将軍は同じ記憶を何度もリピートしているらしい。既に一度見た景色が、頭の中に広がって行くよ。

 

「…………」

 

そんな最中にあって、僕は何の反応も返す事無く、ただ凍りついていた。

先程まで感じていた怒りも、嘆きも、絶望も。綺麗さっぱりなくなって。酷い困惑が頭の中を埋め尽くしてるんだ。

そうして、先程の言葉が延々と木霊する。

 

――僕が、現実に帰れる?

 

「…………」

 

それも、彼に産み出された妄想人間として、じゃなく。

自然に産み出された人間としての身体で。設定じゃない、正真正銘の一として。

 

西條拓巳として、会いたかった、僕を知っている人たちの所へ――――?

 

「…………」

 

……それは正に、悪魔の誘惑だった。

この世界。最早死を待つしかないこの状況から、皆の居る現実世界に帰ることが出来る。

それだけじゃない、将軍に成り代わるって事は、たった一人の、正真正銘の西條拓巳として、梨深の傍に居られる権利を得られるって事で。

 

「…………」

 

そうだよ、それに七海だって、僕を本当の兄貴に見てくれるようになる。

血の繋がりの無い妹というのも捨て難いけれど――胸を張って「本当の家族」という関係になれるんだよ。

 

――皆の所に帰れて、大切な存在の隣に堂々と居られる。

 

それは僕がネギとして存在していた時に、何度も願った夢。これ以上無い位に強く欲した場所だった。

 

「…………」

 

……半ば、無意識の内に。

ずるずる、と。四つん這いの状態のまま、身体を将軍の下に引きずっていく。

 

暗闇の中、彼の記憶に染まった景色の中、一つだけ。人の形に揺らめく光に向かって。

それは街灯によって来る害虫の様に、屍骸に群がる意地の汚い獣の様に。みっともなく、浅ましく。

 

その姿には、たった一片の誠実さすらも無かった。

 

「…………」

 

――――セナの声が、聞こえる。

 

 

『アイツは、私との約束を守ってくれた。あの男の妄想を殺し、全てに決着をつけてくれた』

 

 

「……ふ、ひひ……」

 

――――こずぴぃの声が、聞こえる。

 

 

『帰ってきたら、い~~~っぱいスキスキしたかったのに。い~~~っぱいありがとうしたかったのに』

 

 

「……そ、そうだ……僕は……」

 

――――優愛の声が、聞こえる。

 

 

『ええ、それは分かります。だって、私も――――それを、望んでいますから』

 

 

「……っぼ、僕は、っあ。のぞ、望まれてるんだ……!」

 

――――あやせの声が、聞こえる

 

 

『……グラジオール、邪神の使途、そして……私の拓巳』

 

 

「っし、将軍よりも、誰よりも……! 帰ってきて欲しいって、ね、願わ、れて、るんだ……!」

 

――――三住くんの声が、聞こえる。

 

 

『……よく分かんねぇけど、あいつが、俺のダチが居なくなったのはテメェの所為って事かよ!?』

 

 

「ひ、ひひ……ふひひひひひ……!」

 

視界が開き、再び白と青の世界に戻る。

そして感じたのは、不謹慎な優越感。

脳内を流れた、僕を想ってくれてる彼女達の姿。それは自身の行動を正当化するには十分な光景で。

一センチ前に進む度、腕の力が増していく。早く将軍の下に辿り着こうと、精神が昂ぶって行く。

 

そうして、徐々に将軍へと近づいて行くんだ。

涙を流したまま、涎を垂らしたまま。だらしの無い笑みを浮かべた表情に、どろりと濁った光を湛えた目で。

 

僕は見た。彼らの隣で笑っている自分の姿を、楽しげに談笑している、僕の幸せを。

僕じゃ掴めなかった光景。彼だけが掴む事の出来た光景。

いつか夢見た現実/妄想に、何度も望んだ願望に。今なら、触れることが出来るんだ。

 

「……っあ、あ」

 

茨の巻きついた右腕をゆっくりと持ち上げて。引っ張られた胸筋に肺が押し潰されて、声が漏れた。

未だバランス感覚は取り戻せなかったけれど、そんなの、最早些細な事だ。

あれ程難しかった立つという動作を、歩くという動作を。僕は全て吹き飛ばして。

 

――そして、気が付けば、僕は将軍の前に腕を伸ばした姿勢のままで立って居て。

 

「……は、はは……」

 

帰ったら、まず何をしようか。

梨深に会って、七海に会って、三住くんに会って。その他大勢に会って。僕は何を伝えよう。

好きだって言おうか、ありがとうって言おうか、僕と友達で居てくれた事を感謝しようか。

言いたい事が、言ってほしい事が山ほどある。

そんな、幸せな、夢。

胸に溢れる幸福感に、指先が震える。

 

さぁ、帰るんだ。

 

僕には、帰りを待ってくれてる人が、沢山居るんだから。

 

そうして、伸ばした腕が、指が。未だあさっての方向に喋り続けている彼の姿に重なって――――

 

 

 

 

 

 

『――――タクッ!』

 

 

 

 

 

 

――――最後に、その声を聞いた。

 

 

「っ、」

 

ぴたり。将軍に触れかけていた指が止まる。

 

僕の耳朶を打ったのは、聞きなれた少女の声。

聞いているだけで安心するような、鈴が転がるように綺麗なその音は――――果たして、誰の物だったろうか?

僕の名を呼んだのが、一体『どちら』だったのか。何故か判別できなかったんだ。

 

「――――」

 

そうして呟いたのは、一人の少女の名前。

口の中ではっきりと呟いた筈のそれは、やはり自分でも聞き取る事ができなくて。

昂ぶっていた心がざわざわと漣立ち、小さな苛立ちが僕の心の中で摩擦を生む。

 

……体が、動かない。

 

目の前の将軍に触れれば、それだけで終わりなのに。皆の所に帰る事ができるのに。

心の底から望んでいる筈のその一歩が、どうしても踏み出すことが出来なくなっていた。

 

「……、……っぐ、ひ……」

 

『……――までで、僕は、君にしてあげられる事が余りに少ない事に気が付いた――』

 

ふらり、と。喋り続ける将軍から距離を取るように。一歩、二歩。バランスを崩しながら後ろに下がり。

そうして立っていられなくなった僕は、水面に音を立てて尻餅をついた。

 

後に生まれたのは、もう何度目かも分からない雨。

それは湖面に幾つもの小さい波紋を描いて、そこに映る僕の姿を乱し、隠して。

 

――そして、波紋が止んだ後、そこに映っていた顔は。

 

「……ふ、ひひひ、ひひ、ひ……」

 

全身から力が抜け、糸が切れたかのように頭が下を向き。呻き声にも似た小さな笑い声が、口の端から垂れていく。

それは今の僕の心情を表すかのように墜落し、垂れる僕の体液と一緒に湖面の中に沈んでいって。其処に映っている情けない笑い顔にぶち当たる。

 

即ち――泣き笑いをしている三歳のガキの、顔に。

 

「ぃ、ぇっひぇっひぇっひぇ、ぃひ、ひぃぃ……!」

 

横隔膜が引き攣って、気味の悪い声が無意識に発せられた。

それは、笑い声だったのか、それとも悲鳴だったのか。きっと、どっちも合っているんだろうし、どっちも間違っているんだろう。

 

――僕の心は、顔と同じでもうぐちゃぐちゃだ。

 

自分が何を感じているのか、何を思っているのかは勿論。

何をどうすれば良いのか、どうして何を成せば良いのか。回すべき思考も、下すべき判断も。何もかもが出来なくなってる。

胸に溢れた幸福感も、見ていた筈の夢も。全ては飛沫と共に弾け、消え。

 

「……っあ、ああ、あぶ、危なかった……よ……! そ、そんっ。っな……君、の。君の思う、通りに、なんて。さ、させるもん、かよ」

 

だから、これから喋るのは、何の意味も無い、戯言なんだ。

正常な判断とは程遠い、理屈も道理も何も無い、惨めで卑怯なキモオタの、嫉妬に塗れたプライドの発露。

 

――ただ感じるままに、何一つ思考せず。感情の迸りを、口に出す。

 

……水面に映る小さな手から続く大きな手が、湖面を握り締めるように指に力を入れた。

 

「そう、そうやって。ぼぼ、僕を、嵌める気。なんだろ? 自分、自分が。っぐ。罪滅ぼし、とか、そんな感じで。気持ち良くなろうとし、ってる。だけの。オナニーを、手伝わせる、気、なんだろ」

 

ホモォとか、マジキモイ。粘つく口内が、そんな言葉を転がした。

そうして未だふら付く足を酷使して立ち上がろうとするけど、上手く行かなくて。まるで生まれ立ての小鹿のような有様を晒してしまう。

 

立とうとしてはずっこけて、立とうとしてはずっこけて。

そんな事をグダグダやっていると、三週目に入ったのか、三度崩壊した渋谷と七海の姿が目の前に広がった。

 

「ほ、ほらこうやって。なんか、し、死にかけで、「かわいそうな僕」、っを、演出して。見せて。ゆう、誘導してるんだ。都合の良い、ようにさ」

 

バランスを取ろうと手を振り回していると、指先に何かトゲトゲしたものが引っかかって。掴み。

そして不思議と痛みを感じないそれを見ないまま、その先っぽを湖面に突き刺して、杖代わりに利用した。

 

握った掌から度を越えた嫌悪感が僕に襲い掛かるけど、今更そんなものを感じた所でどうなる訳でもない。僕の心は既に、それに反応できる段階じゃなくなっているんだから。

 

「ぼ、僕を、君の所に、行かせる様に。僕を、コントロール、っす、る。為に……! あんな、さく、っさ、サクラも使って、準備の良い、事だよねぇ……!!」

 

次々に僕の事を想ってる風な発言をしてくるイカレポンチどもをそう切って捨て、ぐるぐると回る視界の中に、将軍の姿を映し込む。

彼は未だにぶちぶちと意味の無い発言を繰り返していて、見てるだけで心象的不快指数MAX。

 

「っで、も。僕は、騙されない。騙されるもんか。ふひ。だって、だって。そうだろ? もし、僕が、それ、誘いに乗ったり、したら。将軍を、消して、殺してしまったら――」

 

 

――そんなの、梨深が、七海が。泣くじゃないか。

 

 

それは、僕が一番望まない事だった。

君を大切に思ってくれる人、君が生きている事を喜んでくれた筈の人。僕が君を殺すのは、彼女達に対する禁忌にも等しい裏切りなんだよ。

 

「本末転倒、だろ。そんなん……! ぼぼ、っくはぁ! 死ぬ、前に! っいぃぃひひひぃ、っい、言ってやるぞ、死ぬ! 死ぬ! 死ぬ! 前にっ! 梨深がぁっ、梨深を、想って!!」

 

四週目。崩壊した渋谷と七海の姿が広がる。

 

「――っせぇんだよぉ! 消えろよぉ!!」

 

世界が暗闇に包まれていく中、僕は棒を握った腕を大きく振り回し。将軍が飽きずに送りつけてくる記憶を切り裂いた。

後に戻るのは、この世界だ。彼と梨深の思い出の場所、青と白の心象世界。

 

「っそ! くそっ!! ひ、ふ、ひひひ、ひひっ! り、梨深の、出てくる記憶を見せなかったのは、そう言う事、だろ? 僕に、余計な躊躇いを、与えなくする。為ぇ! ひひひ、ひひっ! ひ!」

 

そうして振り回した勢いのまま、僕の身体はグルグルと回転する。

雨の中、傘を持たない女の子が踊る様に、ぐるぐる、ぐるぐる。涙と涎を振り散らしながら、笑い声を響かせながら。

 

足を縺れさせ、歪な回転を描いて。

くるくると、くるくると。

 

「ざ、残念だったねぇ!! し、し、疾風迅雷のっナイトハルトがっ! そんな、そんな、幼稚な策に嵌ると思うてか! いひひひぃ! ぃひぃっぃぇっひぇっひぇ!!」

 

――そして、僕は回転を止め。先程以上にふら付いた足取りで、彼の姿を睨み付けた。

 

覚悟なんて無い。決心なんて無い。

ただ心の感じるまま、勢いに任せて。君の言う事を聞きたくない、なんて情けない我侭を通して。

子供の様に、駄々を捏ねてるだけなんだ。

 

「――だから、僕は、僕は……っ!! っし、らない! 戻るなんて、シラネ! 此処に、妄想だらけの、世界にっ、い、居る、まま……で……ッ!!」

 

……良い、なんて。口が裂けても言えやしない。

 

今すぐ前言を撤回して、現実世界に、梨深の、七海の、三住君の。皆の居る世界に戻りたいと強く願ってる。

……けれど、僕が将軍を犠牲にして向こうに戻って、それで梨深は喜んでくれるの? 笑ってくれるの?

 

――――僕には、とてもそうは思えない。

 

例え笑顔を見せてくれたとしても、それは作り笑顔だと確信を持って言える。

当たり前だ。自分の大切な人を奪って、尚且つそのガワを使っている人間に、親愛の情を持ってくれる訳が無いんだ。

 

……だったら。

 

彼女の悲しそうな顔を見るよりは。

 

彼女の涙を見るよりは。

 

彼女が本当の笑顔を向けてくれない世界で生きていくよりも、僕は――――

 

「……ふひ、ふひひ。き、君の、残ってる力は、僕が全部、貰っといてあげるよ。こ、このまま、君を残すのも、腹が立つしね」

 

ぼたぼたと落ちる涙を気にも留めず、僕は右手で握った棒を――――ディソードをしっかりと握り直し、将軍へと向ける。

 

いや、正確には、その右腕から伸びている茨。

金属の様にも、無機物のようにも見える繊細さを持つ、将軍の妄想、ギガロマニアックスとしての力の欠片。

 

「も、もうこんな、ふざけた事、出来なくしてやるんだ。僕はもう、君の顔なんか、見たくない。声も、聞きたくない……! 僕の残した負債を抱えて、エスパー少年として、恥を晒しながら生きていけば良いんだ……!!」

 

そうして、僕の意思に応じて。ディソードを覆っていた茨が、動き、蠢き、開き、奔り。

まるで薔薇のように、中心の剣の部分を核として――ディソードが、咲いた。

 

「…………っ!!」

 

嫌悪感の漂う茨の中から出てきたそれは、剣と呼ぶにはあまりに長く。

 

今にも折れそうな繊細さと。

 

夢幻なる気品に満ちて。

 

絢爛さは露ほどもなく。

 

魂が吸い取られるかのような、清純なる悪意と。

 

畏怖を感じさせるかのような流麗さを持ち合わせ。

 

僕の高揚する心とリンクして、柄の部分に宿る禍々しい炎の意匠が――真っ赤に、揺らめく。

 

「……お、お別れだよ、永遠に」

 

僕は、それを高く掲げた。

力を誇示するように、見せしめとするように。高く、高く、高く――。

 

「……、っ……ぅ?」

 

……ふと、呼ばれたような気がして。背後へと、僕と将軍の居る場所とは反対側へと、首を傾けた。

 

見えたのは、一本だけ続いている茨。枯れている訳でも、明滅している訳でもない、極めてフラットな蔓。

ある筈の物も、人の脳髄も、機械の塊も。何も何も、見える事は無くて。

でも、ほんの一瞬だけ、誰かの影が見えた気がしたのは確かだ。

それが誰だったか、なんて。僕には分からなかったけれど。少なくとも、赤い髪をしていたようにも思えて。

 

――自覚しないまま、口の端が歪んだ。

 

「っ……つ、伝えといて、よ。暴力女1号に、ガルガリ君ソーダは、これ以上無いほど不味いよねって」

 

意識を、将軍に戻す。

そうして、湖面に映る、蒼い睡蓮を振り上げた『僕』が、同じように口を動かした。

それは、僕から彼に送る最後にして最大の嫌がらせだ。

 

「痛々しい暴力女2号に、ぶちゅぶちゅさんって正直センス最悪だよねって」

 

「メンヘラ女に、チョコレートほど邪心に染まり切ったものなんて無いよねって」

 

こんな事をしたって、何がどうなる訳でもないって分かってる。けれど、それでも。

やはり僕は彼の事が大嫌いなんだ。僕だけが貧乏くじを引くなんて許さない。君だけがハッピーエンドに至るなんて許せない。

 

「ヤンデレ眼鏡に、あれ? 君って誰だったっけ? って」

 

「キモウトに、これから引きこもるよ僕って」

 

――――だから、精々。皆から総スカンされて、フルボッコにされれば良いんだよ。

 

そうして、それを最後に、僕は一旦口を閉じて。

大きな躊躇いと共に、最後の言葉を紡いだんだ。

 

 

「――僕の、好きだった彼女に――」

 

 

――僕はきっと、この選択を死ぬまで後悔し続ける。

 

――何であの時帰らなかったんだ。何であの時将軍を殺さなかったんだって。

 

――悔やんで、悔やんで、悔やみ続けて。

 

――手に入ったはずの夢を見ながら、隣に居られた筈の彼女の姿を思い浮かべながら。ずっとずっと、泣き続けるんだ。

 

――だから、せめて。彼女には、伝えて欲しいんだ。

 

――僕の言葉を、西條拓巳としての最後の言葉を。あの日言えなかった、感謝の言葉を。

 

 

「――――あ、ありがとう、って……ッ!!」

 

 

そうして、僕は。全身を震わせて、泣きながら、憤りながら。勢い良く剣を振り下ろし――――

 

 

 

 

 

 

 

茨の欠片が、宙を舞った。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

                   ――――――――――――――……、ブツン。

 




■ ■ ■

次回は少し遅れるかも。


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第13章  Empty bottom of the ;chaos

アーニャにとって、ネギことタクは最初から情けない存在だった。

 

女の自分より強い男の子の癖に運動は苦手だし、すぐ泣くし、背は小さいし。何をするにも文句を一通り言ってから、しかもこっちが無理矢理急かさなければ行動しない。

頭は凄く良いみたいで、時々自分でも分からないような言葉を使ってくる。けれど、それに説得力が全く無い。

 

やること成すこと喋ること、人を小馬鹿にしてるようにしか思えず、だと言うのに一人では何も出来ない口だけ男。

誰かしっかりした人――例えばそう、学校でクラス委員をやっている自分とか――が付いていなければ、すぐに駄目になってしまう、手間のかかる弟。そんな感じ。

 

村の人達は皆何故か、タクの事を「昔とは違う」「根暗になってしまった」等と言うけれど、そんな事は無い。

何時頃からの付き合いだったかはハッキリしないし、物心が付く前の記憶はあやふやだ。

けれど彼女にとっては、タクは始めからタクだった。男の子の癖に頼りない、守ってあげなきゃいけない子であったのだ。

 

――アーニャは、『拓巳』を『不調』として認識してはいなかった。

 

彼がわんぱく小僧だった頃の記憶もなく、明るかった頃の記憶もなく。にも拘らずネギの事を知っていて、それに疑問を持っていなかった。

どんよりと濁った雰囲気で、気持ち悪い笑い声を上げる拓巳――ネギの事を、当然の事だと受け入れていたのだ。

それは幼さ故なのか、それともその単純で純粋な性格の所為なのか。はたまた、彼を思う何者かの所為だったのか。今となっては知る術は無い。

ただ、彼女はネギをネギのまま――拓巳のままで認識していた事だけは確かだった。

 

……だからこそ、彼女は現状に違和感を覚えていた。

彼女自身は何がどうとは言葉に出して説明は出来なかったけど、今の彼を取り巻く状況がおかしい事は何となく察していたのだ。

 

そして、それを何とかしようと頑張った。

それは、ネギを弟分と認識している姉貴分としての義務。年上である自分がやらなきゃいけない責務であると思い。

元よりガキ大将気質、まとめ役としての素質を持っていたのも災い(幸い? いや判断に困る)したのだろう。彼女は、それはもう燃えに燃えた。

 

周囲の大人達に言い縋り、彼の姉であるネカネや、村で一番偉い(と、思っている)スタンに相談したり。

何やら沈んでいるネギに発破をかけ、しっかりしなさいと何度も呼びかけたりもした。悪口を言う同級生を諌めたりもした。彼女はその小さな身体で、可能な限りの出来る事をしたのだ。

 

……しかし、結果は芳しくは無く。

幾ら彼女が彼は以前からああだった、変わっていないと伝えても、大人達は皆首を振るばかりで信じようとしてくれない。皆一様にして、「以前のネギに戻って欲しい」と呟くばかり。

それ以外の答えを認めようとせず、決まった型に――設定に、彼を押し込めようとして。

そうして、彼女の与り知らぬ所で発狂寸前まで錯乱していたネギは、自室と言う名の物置に引きこもって出て来なくなってしまったのである。

 

……最初こそは、そこまで追い詰められてしまった彼に同情し、村の住民たちへの憤りを強くした。

村人に抗議したり、彼らがネギに会いに行こうとするのを妨害したりもしたが――――ネギの行動を見ている内に、その怒りは彼自身に向けられる事となった。

 

元より友好的とは言い難かった態度だったが、ここ最近は更に悪化したらしく。我侭も言い放題の、好きなことをし放題。

ネカネに当たり、スタンに当たり。訪れてくれた医者や老人たちにも酷い事を言って追い出した。結果、少なかったとは言え彼を助けようとしてくれた存在が一人、また一人と離れていった。

 

様々な物を強請り、色々なものを欲しがり。そうして遂には、パソコンなんて高価なものまで買わせてしまったという話ではないか。自分だってまだ持ってないのに。

そのくせ届いたそれに対して喜ぶでもなく感謝するでもなく。それどころか文句と罵声を飛ばして、方々を駆け回り苦労したネカネを更に傷つけたと来たもので。

 

……そして、ある日。リビングでひっそり泣くネカネの姿を目撃したアーニャは、溜まりに溜まったフラストレーションを爆発させた。

確かに周囲を取り巻く環境も悪かったかもしれない。多くの原因は村人達のほうにあるのだと、うっすら理解できている。

 

けれど、自分を真剣に想って頑張ってくれたネカネやスタンに対して、その対応は余りにも酷過ぎるんじゃないか。

せめて彼女達には、もう少し優しく接して欲しいと強く思って。

密かに憧れているネカネの為に義憤に駆られた彼女は、ネカネがスタンが話し合いに外出している中、ネギの住む小部屋の前に仁王立ち。

閉ざされた扉を何度も殴りつけながら、ネギに向かって大声を張り上げた。

ここを開けろと、姿を見せろと。言いたい事があるから顔を見せろと。

 

……しかし、返事はキーボードのタイプ音。ただそれだけで。声どころか、他の反応の何一つも返される事は無く。

いい加減意地になっていたアーニャも、それにムキになって扉を叩き続けた。彼の名を呼び続けた。

 

……一体どれほどそれを続けたのだろうか。

彼女の小さく柔らかい手が赤く腫れ、叫びすぎて喉が痛み。そうして疲れ果て、涙さえ滲みかけていた所に――彼の呟き声が聞こえたのだ。

 

 

『……用意出来るのは、紐か、包丁。だけ、か……』

 

 

――――朧気に。その意味を察した瞬間、彼女はとうとうぶちぎれた。

 

 

『――この、馬鹿ぁぁぁぁッ!!』

 

怒りのまま猛った魔力を足に纏わせ、炎へと変換。

あらん限りの力を籠めて扉を蹴り飛ばし、強引に部屋の中へと押し入った。

 

そうして、衝撃音を気にも留めずに、どんよりとパソコンを眺めていたネギの下に歩み寄り。首根っこを掴んで怒鳴りつけたのだ。

 

いい加減にしろ、皆がどれだけあなたの事を考えているのか、わたしだって心配してるのに、どうしてその気持ちを無視するのか。

もっとしっかりしなさい、嫌な事がったら言え、悩みがあったら相談しろ。ネカネおねえちゃんを大事にしなさい。

あらん限りの叫びを、その未だ少ない語彙に乗せ。何度もつっかえながらも、彼に対する想いを吐き出し。叩きつけ。

 

――そして、何の前触れもなく、彼の目が血走った。

 

『――っる、さいんだよぉ! 何時も、いつもぉ……っ!!』

 

何が気に障ったのか突然アーニャを遮り絶叫したネギは、彼女の想いの全てを屁理屈で論破し、無に帰した。

心配も、優しさも、何もかもを解体し、打ち捨て、踏みにじり、侮蔑して。それだけに収まらず、ネカネやスタンの事まで悪し様に落とす始末だ。

 

何時もの鬱々としたどもり様とは比べ物にならない程に速く、流暢に。

ネットスラングから故事成語まで、幅広い表現を流用し相手に反論の機会を与えないそれは、正しく罵倒の嵐と表現するに相応しく。

 

……アーニャは、ネギの言っていた事を半分も理解できなかった。

単語の意味、言葉の中に出てきた人の名前らしきもの、言葉の裏に隠された感情。それを読み取り理解するには、彼女は未だ幼すぎたのだ。

 

故に、彼の叫びの中で分かり易かった部分――つまりは、罵倒からなる悪意しか受け取れず。彼女はそれに大きなショックを受け、感情のコントロールが出来なくなった。

そして多くのものを否定され、怒りと悲しみに満ちた心の中。アーニャは荒れ狂う激情に任せネギの頬を引っぱたき――――

 

――後は当然、大喧嘩。騒ぎに駆けつけてきたスタンの説教を二人並んで受ける事になったのだ。

 

それからだ、彼女がこれまで以上にネギに――タクに干渉し、あからさまな姉貴面をするようになったのは。

喧嘩の禍根は殆ど無かった。それは、お互いの胸中を吐き出し合った事が良かったのか、それとも最後にタクの感謝の言葉で締まった所為か。

酷い暴言を吐いた気まずさも、暴力を振るってしまった罪悪感も。互いにそれ程大きくはなく。結果的にその喧嘩が、アーニャとタクの距離を大きく縮めるきっかけとなったのだ。

 

以降、アーニャは事あるごとにタクの部屋にまで突撃して行くようになり、彼の手を掴んで振り回す様になった。

少しでもタクがしっかりシャッキリする様に彼是と口を出し、ネカネやスタンとの仲を取り持とうともしたり、色々と彼の世話を焼くようになった。

何度も彼に文句を言われ、何度もそれに怒鳴り返し。論破され、殴り返し。嫌味を言われ、蹴り返し。

傍から見れば、決して「仲良し」には見られない光景だったが、それは本人達なりのコミュニケーションだったのだろう。何となく、その関係は楽しそうに見えて。

 

――そんなアーニャだからこそ、タクの事は何でも知っていると思っていた。

 

ネカネよりも、スタンよりも。彼と一緒の時間を長く過ごしてきた分、自分の方がより深く理解できていると自負していた。

 

情けない事も、臆病な事も、性格が悪い事も。運動が出来ない事も。

喋るのが苦手な事も、笑い方が気持ち悪い事も、こっそりと人の不幸を喜んでいる事も。

現実の女の子を嫌っていて、パソコンの中の女の子に夢中な事も。ゲームでは女の子の振りをしてオカマをしている事も。

表に出すのはもっぱら悪感情だけで、その他の明るい感情は心の奥底に仕舞いこんで中々出してこない事も。

そして、偶に感謝の言葉を言ったと思えば、それに余計な贅肉がくっ付いていて凄く分かり辛くて。それを見逃すと不機嫌になったり。

 

本当、人間としては駄目駄目で。なのに、何処かあったかくて。

 

――――全部、全部。彼の沢山の悪い所と、ほんの少しのいい所を。全て知り尽くしていると思っていた。

 

 

****************************

 

 

――ぼんやりと。思考に霧が掛かっていた。

 

 

「――は、ぁ」

 

曇天。

遠くに破壊音の鳴り響く、雪の降り積もる雪原の中。寒さに震える声帯が、無意識に意味の無い音を漏す。

口元から吐き出される息が白くたなびき、空気中に溶けて、消え。

それと共により一層体温が下がっていく錯覚を受け、ひときわ大きく体を震わせた。

 

「……はっ、はっ……」

 

身体の半身以上を冷たい雪の中に埋めたアーニャは、そんな大きく震える体を引き摺って、周囲一帯に飛び散った肉片を集めていた。

赤黒く溶けた雪を掘り起こし、その下に隠された『部品』を持ち上げて。器状に広げた、お気に入りのローブの中に放り込み。

霜焼けと凍傷で、まともに動かす事すら敵わない両腕を使い。服が穢れていく事も気に留めずに。

 

それはナメクジの様に遅く。正確さの欠けた緩慢な動きで。

寒気に晒され、冷たく固まった筋肉を。

砕かれ潰されミンチ状になった肉と、黄ばんだ油の纏わり付いた骨を。

折れた骨片が薄い皮膜を貫いて、どろりとした中身が零れ出る破裂した内臓を。

 

何故集めるのか、それをどうしようというのか。目的も、意味も。何一つ把握せず。

ただ衝動のまま、只管に。光の消えた目から感情の欠片を流しつつ、それらを腹に掻き抱き。頭を潰された虫の様に蠢き続ける。

 

――肺のような物を、拾った。

 

「…………」

 

にちゃり、くちゅり。

手を動かす度に湿った音が響き、指の間を何か白い糸が引いて。

本来ならば激しい不快感を感じるはずのその粘性の感覚すら、今の彼女には感じる事が出来なかった。

否、むしろ。これが彼のものだと思えば、もっと触れていたいとさえ思う。

 

……壊れたのは、感覚か。それとも心か。自身に判断する術は無く。

 

未だすぐ近くに居るはずの化物も、村が襲われている事も。何もかもが、今の彼女にとって思考するに値しないものだった。

そして彼女の胸を穿つのは、途轍もなく大きな喪失感だけ。

自らの半身を失ったかのような、取り返しの付かない罪を犯した、その痛み。

 

――腸のような物を、拾った。

 

「……ぅ、くぅ……」

 

そして、そのむせ返るほどの強い臭気に思わずえづき、必死に吐き気を堪えて。

噛み締めた唇がプツリと切れ、暖かい血液が溢れ出す。

それは顎を伝って肉片に降り落ち、直ぐに混ざり合い、同化し。どこまでが自分の物で、どこまでが彼の物だったのか。判別が付かなくなった。

 

……わたしは、何をしていたのだろう。何がしたかったのだろう。

 

もう何度目かも分からない、その疑問。

幾ら考えても答えの出ないそれが、回らない思考の中で空転を続けていた。

 

つい先程まで抱いていたネカネへの憧憬は、彼と共に木っ端微塵に砕かれていた。

ヒーローなど居なかった。憧れていた筈の姉は、決して超人ではなかった。そんな当たり前の事に、全てが手遅れになった今になって気付き、思い知らされ。

 

……ならば一体、どうすれば良かったのだろう?

 

彼と共に、あの小屋で隠れて居ればよかったのだろうか。何もしないのが正解だったのだろうか。

そうすれば、少なくとも彼が血の華になる事は無かったはずだ。

 

悔恨、憤り。そういった負の感情が心に瞬間的に湧き上がるが、直ぐに罅から外に漏れて行く。

そして、そんな事を思っている間にも、身体は自動的に動き続けたままで。

 

――折れた脊髄を、拾った。

 

「…………」

 

殺されたいと、そう思い。

未だ近くに存在する筈の、タクを殺した黒い化物。憎むべきそれの放つ剛拳で、自分も彼と同じように成りたい。

そう思って、周囲を観察しようとする。何故化物が未だ自分を生かしているのか、無防備を晒す自分を殺さないのか。という事も、少しばかり気になったのもあった。

 

……しかし、どうした物だろう。そろそろ限界を迎えていた身体が、新たな命令を受け付けてくれない。

首が回らず、身体も薄すぎる意思を反映してくれず。惰性のままに蠢き続けるだけ。

 

心身の、不一致。

まるで、頭と身体が別々の生き物になった様だった。

 

「…………」

 

――そうして、彼女は。その方角に視線だけを回した。

――そうして、彼女は。新たに見つけた、雪に埋まる『部品』に、意思の無いままその手を伸ばした。

 

特に何の意図も無く自然に行われたそれは、余りにも気安い物で。

特に何の意図も無く自動で行われたそれは、余りにも軽い物で。

 

憎悪も、悲しみも、願いも。何一つ感情を映さないその目が、少し離れた場所に立つ人影を視界に納める。

憎悪も、悲しみも、願いも。何一つ感情を湛えないその指が、少し深く埋まり込んでいるそれに、触れる。

 

そして彼女の眼球は、化物が居るはずの其処に立つ、蒼い剣を携えた彼の姿を捉え――――

そして彼女の腫れ上がった掌が、何の変哲も無い子供だった彼にある筈の無い、中ほどで折れている長い角の欠片を掴み――――

 

 

 

「――え?」

 

 

 

――――瞳孔が、音を立てて収縮する。

 

 

 

「――――ぅあッ!?」

 

 

――――甲高い、音。

それらを認識した瞬間世界がひび割れ、砕け散り。目には見えないガラス片となって、周囲一帯へと飛散した。

色の無い風が、音の無い衝撃が。見る事も触れる事も出来ないそれらを乗せ、髪の間をすり抜けて背後へと過ぎ去って行く。

 

「え……」

 

雪が、空が、空気が、寒気が。

彼女が認識できるありとあらゆる全てが捲り上がり、裏返り。その内部から現れる現実を新たに認識した。

周囲を彩っていた赤黒い血の痕跡が、掻き抱いていた肉片が。肌とローブを穢していた粘液と血液とが――全て、黒に染まる。

それは、既に先程まで求めていた彼の肉片ではなかった。

 

ローブの中に納まるそれは、何処までも黒く、暗く、冥く。おぞましくも醜悪な気配を放つそれは。

彼女の身体に張り付いた部分から凄まじいまでの悪意を伝えてくる、その存在は。

 

「……――!!」

 

アーニャの罅だらけの心に、突発的な嫌悪感が湧き上がる。

間欠泉の様に、噴火の様に。

緩慢だった体が、何も感じなかった心が、何一つ考える事の出来なかった思考が。悪意の拒絶という極めて原始的な防衛本能に従い、熱を持ち、廻り。

抱えていたローブを振り払い、その中に入っていた『部品』を全て。空中へと投げ出した。

 

――それは、黒い塊だった。

 

骨も、内臓も。全て。途方も無い嫌悪を湛えた漆黒となり。その存在の根本から、全て別の存在へと――黒い化物のそれへと変わっていたのだ。

 

「――ゃ、やぁっ! やぁああああああっ!!」

 

自分が今まで集めていた物が、唾棄すべき存在の物だった。それに思い至った瞬間、彼女は大きな悲鳴を上げた。

先程まで抱いていた執着は、既に微塵も無い。今はただ、一刻も早くこの汚らわしい物を手放したかった。

そうして宙に放り投げたそれらが順に雪の上に落ち、埋まって行くのを尻目に。彼女は必死の形相で自身の手を――黒い血と粘液に塗れた指を、雪に擦り付ける。

 

――気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……!

 

凍傷を引き起こし、指が紅紫色に腫れ上がっている事も気にも留めず、ただ只管に。爪の間にまで入り込んでいるそれを擦り落とそうとして――――

 

「……!?」

 

ふわりと。黒が、溶けた。

 

べっとりと指先にへばり付いていた化物の血が、爪の間に入り込んでいた粘液が。まるで空中に溶けるようにして消えていく。

否、それだけではない。服に付いた物も、周囲の雪に染み込んでいた物も。そして先程投げ捨てた臓器や骨も、全てが始めから無かったかの様に消えていって。

 

……その現実感の無い光景にしばし目を奪われていたアーニャは、やがてゆっくりと顔を上げた。

 

大きく目を見開いたまま、先とは違った理由で思考を停止させたまま。

自分の認識が改められる前に、もう一つ。決してある筈の無い姿があった、その場所に。

 

「…………」

 

――彼女の目に、僅かながらの期待と希望が灯る。

 

それは逃避にも似た、感情の光。

自分が見た物に間違いが無かったら。

今まで集めていた『部品』が、彼の物ではないのならば。

殴られ、破裂した痕跡が全て消えてしまったのなら――それは、つまり。

 

「――――!!」

 

――そして、彼女は見つけた。

 

驚愕はあった、嬉しさもあった。

罅だらけの心に温かいものが流れ込み、世界が急速に色付いていく。

 

――しかし、それ以上に。彼女は、目を奪われたのだ。

駆け寄る事も、その名を叫ぶ事も。したい事、やるべき事は幾らでもあった筈なのに、金縛りのように身体が凍り付いて動かない。

 

「……タ、ク……?」

 

――彼女は、『タク』の事を何でも知っていると思っていた。

 

基本的にクズな事も。本当は優しいという事も。良い所も悪い所も、全部。

それは幼い心が描く、独占欲にも似た優越感。彼が、自らの掌で包み込める大きさだと勘違いした――しかし、確かに想いの伴っていた、強い思い込み。

 

――彼女は、知らなかった。

 

極寒の白の中を事も無げに佇む、怯え一つ無い無機質な彼の姿を。

夢幻なる気品に満ちた、身の丈の何倍もある蒼い長剣の姿を。

今までに見た事も無いような、どこまでも痛々しいその表情を。

 

知っていた彼の、知らなかったその姿に。

アーニャは強烈に惹き付けられて、気付けば目を離す事が出来なくなっていたのだ。

 

 

******************************

 

 

――――あの青と白の世界から、この妄想だらけの世界に帰ってきた僕が感じたのは、途轍もなく大きな喪失感だった。

 

それは、上半身に大穴が開いたような。脳の真ん中を刳り貫かれたような。最早痛みをを感じる隙も無い致命傷。

穴から流れ出るのは、彼女と会えるチャンスを永遠に不意にした後悔と、それを善しとした自分への憤り。

そんなドロリと濁った負の感情が、思考の中を流れていくけど――僕自身は、何も感じる事が出来なかった。

 

脛まで埋まった雪の冷たさも、アーニャを追いかけた事による疲れも。化物に感じた恐怖や焦りも、今や全ては意識の外だ。

感情が虚脱した状態のまま、指一本動かす気力も湧いて来ない。

……化物の末路と、近くにいる筈のアーニャの姿を探す気にもなれなかった。

 

「…………」

 

今となっては、あのまま化物に殴られて死ぬべきだったかな、と思う。そうすれば、後腐れ無く生き恥を晒す必要も無かったんだから。

……けれど、それだけはどうしても嫌で。絶対に死にたくないと思ってしまった。

 

理由は簡単、将軍への嫉妬。ただそれだけだよ。

何で将軍が生きているのに、僕だけが死ななければならない。

向こう側で彼は梨深と七海とキャッキャウフフしてるというのに、どうして僕だけむっさい筋肉お化けに殴り殺されなきゃいけないんだ。不公平だろ、そんなの。

 

ここに意識が戻った瞬間。一秒未満の刹那の中でそう思って。気付けば、ディソードを使用した後だった。

我ながら、何処までも現金で、ガキで、クズで、意地汚くて。救いようの無い駄目男だと自覚せざるを得ないね。

 

「…………」

 

僕がやったのは、諏訪と殺し合った時と同じ事。

肉体に受ける筈だった暴力を、傷を。第三者の認識を通して反転。妄想攻撃として、結果だけをそのまま返してやったんだ。

……代償として、かなりショッキングな光景をアーニャには見せてしまったみたいだけれど、それは勘弁願うしかない。

あの時、化物の拳は既に軽く鼻先に触れていたんだ。あれ以外の方法では僕は助かる事は無かったし、それに付随して彼女だって死んでいた。

 

僕が野呂瀬との殺し合いで持っていた不死塵の能力は、既に世界に吸収されて失っている。

正真正銘、連コ不可。他の奴らと同じ、残り一機しか僕は持っていないんだよ。

そうして、僕が死んだ後で次に狙われるターゲットが誰か。そんなの、考えなくたって分かるだろ。

 

……ああ、そうか。そう考えれば、僕はちゃんと彼女を助ける事が出来たんだね。

もしディソードを掴む事が無かったら、僕はあのまま死んで居て、化物は生きているままだった筈で。

あの世界に行って将軍を自覚したからこそ、僕は再びギガロマニアックスとなってアーニャを助ける事が出来た。だから、彼の提案を蹴った事には少しばかりは意味があったんだ。

……妄想の世界に、そんな価値があるのか分からないけどね。

 

でも、まぁ。そう思えば、少しだけ気が楽になった気が――

 

「…………」

 

――いや、ごめん嘘。やっぱだめだった。

 

何を考えても、何を思おうとしても。全然心に波風が立たない。

後悔の感情はある。憤りの感情もある。けれど、それが心と繋がらないんだ。

どこかの配線が千切れているのかな。意識が無色を保ったまま、何物にも染まろうとしない。

 

心が、死んでしまったのだろうか。

……もし、そうだったら楽でいいよね。そう思った。

 

――――……タク……?

 

「……?」

 

そうして、ただただぼーっと突っ立っていると、風に乗って声が聞こえてきた気がして。

殆ど無意識に、顔をそちらに向けた。

 

――アーニャだ。

 

僕が生死を賭してまで助けたかった彼女が、其処に居た。

 

「……ぁ……ぇ……」

 

何故か少し離れた場所に居た彼女は、半ば雪に埋もれつつペタンと女の子座りをしていて。唯でさえ大きな瞳をせいいっぱい大きく見開いて、僕を凝視していたよ。

信じられない物を見るように、ありえないものを見るように。微かに熱の宿った真紅の目で、寒さの所為か赤く腫れた手や耳も気にせず、唯ひたすらに。

何時もの気の強い彼女なんて、何処にも居なかった。其処に居たのは、ただ一人の。寒さと恐怖に震えているだけの女の子で。

 

「…………」

 

アーニャの顔は、涙と鼻水の跡で酷い物だったよ。しかも寒気の所為で所々凍りついて、正直見てられない状態になってた。

けれど、僕はそれを汚いと感じなかった。それどころか、僕のために泣いてくれたのかもと思って。少し、嬉さを感じた。

 

……彼女がそんな有様になっているのも、人間の身体が破裂した妄想を見た事で取り乱したからだって分かってるさ。

あの光景は完全にCERO Zを飛び越してたからね。僕がどうこうじゃない、単純にグロ画像を見せられてパニックになっただけなんだ。

 

――でも、彼女が逃げずにここに居てくれた。たったそれだけの事が、胸に開いた大穴をほんの少し、埋めてくれて。埋まってしまって。

 

「…………、」

 

きっと、沢山泣いたんだろう。怖がったんだろう。誰か助けてと泣き叫んで、恐怖に塗れた顔をしていたんだろう

そうして、ただ腰を抜かしていただけかもしれない。呆然としていただけかもしれない。逃げそびれていただけかもしれない。

 

マイナスの理由は幾らでも考えられるけど、それでも僕は嬉しかったんだ。アーニャが傍に居てくれた事に、戻ってきて、一人きりじゃなかった事に。

……あの時僕の名を呼んでくれた彼女が、僕を見てくれている事に。

 

――暖かい感情が、僕の心に色を齎してくれたんだ。

 

「……違、う……」

 

ぽつり、そう呟いて。空を見上げた。

見えるのは、天高くから舞い降りる大きな雪片。それは鈍色の空を斑模様に染め上げて、何とも言えない風情を作り出し。

侘び寂びとか、僕は良く知らないけど。何となくそんな単語が脳内を過ぎって――――

 

 

「――違う」

 

 

瞬間、僕の思考が、熱を帯びた。

 

 

「違う、違う、違う……!」

 

左手で頭皮を掴み、がりがりと掻き毟る。

アーニャがこっちを見ている事なんて、頭の中から消えていた。

 

さっき抱いてしまった感情が。アーニャから貰った暖かな気持ちが。胸の大穴に『火』となってくべられて。

そうして活性化した粘つく黒い感情が音を立てて流れ出し、僕を飲み込んだ。

無色透明だった僕の心が、激しく泡立つ黒い粘液に犯され、塗りつぶされ。

 

「何で、なんっでぇ……!!」

 

それは悔恨。

それは憤怒。

それは嫌悪。

それは自傷。

猛り、荒れ狂うそれは最早痛みさえも伴って、身体の内側を蹂躙し、嬲り。

 

「――違うのに! ぼ、僕は、違くて! こんな、こんな筈じゃ、無かったのに!!」

 

そう叫んで、一筋。

爪が頭皮を切り裂いたのか、赤い線が額から垂れ。頭を掻き毟り続ける掌に伸ばされて、肌に血化粧を施した。

 

……いい感じに締めてごまかそうとするなよ。僕が望んだのは、こんな結末じゃないだろ。

アーニャを助けた事に小さな満足感を抱いて、この世界をちょっとだけ綺麗に思うとか、そんなんじゃないんだよ。

 

「あ、ぁぁ、ぁ、ぁ、ぁああ、あぁぁ、……っぁ、ぁ、ぁ」

 

――なんて事をしてしまったんだ。僕は。

 

こんな事になるつもりなんて微塵も無かった。

僕はただ、将軍の思い通りになることが嫌だっただけで、この世界に居続けたいなんて思ってなかったんだ。

 

本当は、プライドも何もかも捨て去って、皆の所に帰りたかった。

梨深の所に、七海や三住くんの所に、どんな形でも良いから戻りたかった。

誰が泣くとか、泣かないとか。そんなのも、どうだって良かったんだ。良かった筈だったんだよ。

なのに、心のどこかでは「これで良かったんだ」なんてバカボンに考えてる僕も居て。それが気の狂いそうな程に腹立たしくて、辛くて。

 

「か、帰れたかもしれないのに! 考えれば、かんっ、みん、みんなの、とこ……っ!! 僕は! ぼくが……っ!」

 

もう少しよく考えれば、もう少し冷静になれば。もしかしたら、将軍を殺さずに下の世界へ帰る方法が見つかったかもしれない。

将軍の脳を二つに増やしたりとか、二重人格とか、色々と手があったように思えてならない。

確かに、彼と身体をシェアリングするなんて真似は絶対に御免被りたいとは思うさ。

でも、今となっては、現実に帰れるのならそれでも良かった。未来に不幸と障害と早死にしか訪れない外法だったとしても、それで構わなかったんだ。

 

――確かに存在したはずの、最初で最後だったあのチャンス。

 

現実に帰るためなら、どんなクズになっても。どんな化物になっても良かったと。今になって思うんだ。

……そもそも茨を断ち切る必要も、将軍とのリンクを亡くす必要も無かった。ただ僕がその不快感を我慢できればよかったんだ。

そうすれば、少なくとも帰れる機会はいくらでも継続してた筈なんだから。

 

それを、一時の感情とくだらないプライドでふいにして。こんな結果になって。全部が手遅れになった後で、考えを翻して、今更嘆いている。

 

――ほら、やっぱり後悔しただろ? 分かってたんだよ、そんな事……!

 

「っく、くくっ。くふ、ひ、ひ、ひ……ッ!!」

 

唇を引き攣らせて、愚かな自分を笑おうとするけど、上手く行かず。

どうやら知らない内に口内を噛み切ってたみたいだ。吐き出した吐息と共に血の混じった唾液が飛んだよ。

さっきまで感じていた虚脱感なんて、最早見る影も無かった。

心の中に、この結果に満足している僕がいて。後悔している僕がいて。相反する感情が鬩ぎ合い、荒れ狂い。

 

どうすれば正解だったんだ?

何処のフラグを立てればよかった?

何をすれば、トゥルーエンドに到達できたんだ?

分からない、分からない。分からない、分からない……ッ!

 

頭の中がこんがらがって、強い後悔と憤りに押し潰されそうになって。僕は混乱の衝動のまま、反射的に腕を振った。左手で、髪の毛を掴んでいた事を忘れたまま。

 

「、っぐぅ!! ……く、ぐ、っ……?」

 

ブチブチ、と。激痛と一緒に小気味の良い音がして。無理矢理髪の毛が引き抜かれた。

そうして、その鋭い痛みに一瞬だけ視界が真っ白に染まり、飽和状態だった頭の中がリセット。多少なりとも冷静さを取り戻せた。

禿げるかな、なんて。くだらない心配事が脳裏を過ぎったよ。

……さっきの引っかいた傷が広がったのか、額に垂れる血液が量を増した気がする。鬱陶しい事この上ない。

 

「……っく、は……ぁ」

 

僕は荒い息をつきながら、ゆっくりと腕を下ろして。感情の猛りに震える身体を抱きしめた。

それは、寒さの為じゃない。負の感情に翻弄されて、ともすれば崩れ落ちそうになる身体を必死の思いで支えてるんだ。

 

――これから僕は、何をすればいいんだろう? 

 

まともに働かない頭で、そう思考したけれど……当然、それに答えなんて出る筈も無い。

つい先程自分がやった事に後悔してる最中なのに、次に行う行動なんて考えられる訳が無いだろう?

しかし、その時の僕にはそんな簡単な事すら分からなくて。唯ひたすらに思考を回し続けて。

何度後悔に押し潰されそうになる度、何度憤りに叩き潰されそうになる度。

僕は血を流す唇を強く噛み、噛み切って。その痛みでさっきみたいに無理矢理思考を戻して、同じ事を考えようとして、また失敗する。その繰り返し。

 

……そして、ローブを掴んだ指。

繰り返していく度に緩んでいくその隙間から、零れ落ちた髪の毛が一本。寒風に吹かれて雪の間をすり抜けていって――――。

 

――――丁度、その時だ。僕達の耳に、何かの羽ばたく音が聞こえてきたのは。

 

『――――』

『――――、――――!』

 

黒い翼を震わせて、村のある方角から意気揚々と飛んできた、その黒い化物。

恐竜のような、人間のような。よく分からない姿をしたそいつらは、どうやら空中で僕達を見つけたらしく、一直線にこっちに向かってくるみたいだ。

互いに何某かの言葉を掛け合いながら、楽しそうな雰囲気を滲ませている。

 

――何をしに来たのかなんて、考えるまでも無い。

 

「……ぁ、ぁ……」

 

アーニャの悲鳴にも似た呻き声が聞こえ――ドスン、と。

怯える彼女の事なんて関係なく、奴らは僕達の直ぐ目の前に音を立てて降り立った。その衝撃で砂埃ならぬ雪埃が吹き付けて、思わず目を眇めたよ。

 

「…………」

 

そうして立っていたのは、見上げるほどの巨体。

漆黒の肌に、鋭く尖った顎と角。筋骨隆々の上半身。素っ裸な筈なのに下半身には性器が無くて、その代わりに尻尾が生えていた。

丸っきり、ゲームとかに出てくるモンスターそのままだ。

 

『――、――?』

『――――! ――――』

 

そいつらは僕達子供を目の前にして、舌なめずりにも似た仕草を浮かべた。

まるでご馳走を前にしたピザの様に、彼らは愉快そうに談笑しながら僕達に嫌な色合いの視線を向けてきて。

 

……何て喋ってたかなんて、一々覚えていないよ。

でも、別に良いだろ? 覚えておく価値も意味も、何一つ無いんだから。

 

「――ぅ、やぁぁ……!」

 

でも、どうやらアーニャは彼らの言葉をちゃんと聞いていたようだ。

禄でも無い事を喋ってたみたいで、恐怖に慄く表情で弱弱しく顔を振って拒絶の意思を見せていた。

余程話している内容が下種な物だったのか。それとも、ただ単に黒い化物にトラウマを持ったのかな。よく、分からなかった。

 

そうして、僕が見蕩れた真紅の瞳が、助けを求めるようにこちらを向いて――――

 

 

――――――いい加減に、僕も限界を迎えた。

 

 

『まぁ、精々楽しませ――――』

 

――ずるり。

 

何故か、僕の意識に強く残ったその言葉。

辞世の句とも断末魔とも呼べない意味の無いそれは、最後まで紡がれる事は無く。

 

――愉しそうにアーニャに向かって手を伸ばしていた化物の身体が、音も無く、ズレた。

 

『――――、?』

 

本人には、何が起こったか分からなかったみたいだ。

呆けた表情のまま、斜めに切られた上半身が、重力にしたがって下半身から離れていく。

そうしてバランスを崩した上半身が、アーニャの方角へ倒れこんで――――

 

『お――ぶ』

 

――赤く脈動する茨が、鞭の様に撓り。それを細切れに裁断して。彼は彼女を押し潰す事無く、黒い血煙となって吹き飛んだ。

 

「え――?」

 

『ヌ……?』

 

アーニャと、もう片方の化物の呆けた声が、響いて。

後に残るのは、ゆっくりと空気に溶けていく下半身と、彼が降り立った足跡。それだけ。

 

――怨嗟の声が、静かに響く。

 

「…………お前ら、が」

 

……それは、間違いなくただの八つ当たりだったよ。

行き場の無い感情を、誰かに押し付けたかった。暴力的な形で発散したかった。

そして、それをしても構わない奴らが出てきたから、そうした。それだけの理由。

 

自分でも、最低な事をしてるって分かってたさ。でも、それを止める事なんて出来やしない。

だってそれは、一応正しい事だったから。こいつらを殺す事は、客観的に見て正義の行いだったから。

止めるべき理屈も、必要も。あるはずが無いんだ。

 

「お前ら、が。来たから……」

 

ぐるぐると、熱に浮かされた思考が回る。

僕の心が悪意に歪み、溶け落ちて。正しき行為への道筋を、間違った思考で黒く穢していく。

 

……そうだ、そうだよ。

本当なら、僕は今もぐだぐだ悩んでたままで居られた筈なんだ。

暖かいジメッとした部屋でネットをして、何時も通りネトゲをして。

本当の事なんて何も知らずに、ただ漠然と不安がってるだけで良かったんだ。

なのに、お前らが村を襲ったから、アーニャを襲ったから。こんな事になって。

スタンもネカネも居なくなって、僕が一人で何とかするしか無くなって。

お前らが僕を殺そうとしたから、茨を掴んで将軍と会う羽目に陥って。僕は世界の真実(笑)を知る事になって。

 

――お前らなんだよ。

 

僕が帰れなくなったのも。梨深達と永遠に会えなくなったのも。全部。

全部、全部、全部、全部全部、全部全部全部全部……!!

 

 

――――――――お前らの、所為だ……ッ!!

 

 

「――――ぁ、ぁ、ぁあああああああああああああああああああああッッ!!」

 

リアルブート。

噴き上がる怒りのままに、握り締めたディソードの意匠と柄に巻き付く茨のガラス部分とが、赤く、強烈に脈動し。

右腕より射出された茨の一本が、地中深くに潜り込み――そして、咲く。

 

地面の下でその数を増やした茨が、何十、何百と僕の背後の地面から飛び出して。土塊を撒き散らし。

それは互いに絡みつき、拠り合わせ。やがて無数の棘の鱗を持つ巨大な「巳」となって、僕を守るように滞空した。

 

――例えるならば、神話におけるヤマタノオロチの如く、ヒュドラの如く。

 

意思を持った生物の様に、憎むべきそいつを、殺されるべきゴミを。眼球の無い視線で睨み付け――

 

『……あ、ぶぎゅ、ぐ』

 

瞬間、そいつは喰われていた。

餌に殺到する何匹もの巨大な「巳」に呑み込まれ。意味ある言葉、血飛沫、何一つ残す事無く。

束ねられた茨の中で磨り潰されて、焼き尽くされて、千切られて。空気に溶ける暇も無く、完全に消滅したんだ。

罪悪感なんて、そんな下らない物は欠片も無かった。それどころか、まだ足りないとさえ思って。

 

……アーニャは、僕をどんな目で見たのかな。気にはなったけど、それを確かめる勇気は無かった。

 

「はーっ……! はぁー……っ!!」

 

そうして昂ぶる感情を抑えきれず、僕は呼吸を荒らげて。衝動に突き動かされるままに空を見上げる。

 

遠目に映るのは、当然舞い散る大粒の雪の中を飛び回る化物達の姿だ。

これまでに殺してきた三匹なんか物ではない数の、それ。

 

――あいつらは、まだまだあんなに居る。

沸騰し、泡立つ思考の中でそう考えて。

唇から血と涎を垂らしながら、搾り出すように大声を張り上げた。

 

「っく……ぅ……ぅぅぅぁぁぁあああああああ!!」

 

僕をこんな目に合わせた原因を作った奴に、僕と同じかそれ以上の苦しみを与えてやりたい。

その一念だけを持って、僕は右手の睡蓮を掲げ。指揮者の様にその場所を指し示し。

感じたのは、後ろ向きな優越感。ディソード越しに彼に命令を下しているような錯覚を受け、薄く、口角が釣りあがった。

 

――――行け!

 

そうして茨の巳は僕の命に従い、解けて。雪の舞い踊る空の下を奔った。

その光景は遠目に見れば巨大な噴水に見えた事だろう。何度も枝分かれを繰り返し、その度に細くなりながら。幾つもの閃光となって村の方角に飛んでいく。

いや、村だけじゃない。少しでも何かの意識を感じた場所に、その茨は雨の様に降り注ぐんだ。

 

森に、山に、湖に。それは望めば望んだだけ、何処までも伸びて。範囲を広げていく。

 

――そして、チャネルを開いた。

 

 

「ぐッ―――――!!」

 

 

――死にたくない。

――殺してやる。

――助けて。逃げるな。

――何処に行った。もう一匹残ってる。腕をやられた。死ね、死ね、死ね。

――奴は何処に、死ね、嫌だよ助けて、守るから、何なんだこの女は、死に掛けているはずなのに何故動ける、もう嫌だ俺は、増援がきやがった、もう少し楽しんでもいいだろう、少し齧っても。

助けて死にたくない俺が殿を糞が何で生きてやがる茨?中々骨のある老人だがしかし少し足りない首が飛んだ糞がやりやがる何が起こってる何もみえねぇぞ逃げるな少しここで待ってて直ぐ戻るから死ねよ村から出て行け猿かあの女は子供達の所へは行かせる物かここで果てろ封印の瓶を魔力が足りねぇ死にたくないよぉ母さん父さん足が石になっていく解呪もできやしねぇ何でそんなあなた逃げて逃げるんだよここからこのままでは計画が崩壊する俺が引きつけるぼーずワシはここで終わりのようじゃごめんなさい助けられない腱が切れたあぐぁ杖が美味いな喰うのは久しぶりタバコが煙いおいあいつの地下からドラム缶が嫌だ嫌だ石になりたくないちょっとぐらい喰っても死にはしねえだろ嬲って殺すほれもっと逃げろグギッ糞がいい気になりやがって悪魔がいきなり死んだ私の最後の魔法だ消えろ消えろ36匹抜き狂ってやがるうお何だこりゃ助かったのか数が減った補充せねば何で俺は死んだんだ?動かない今の内に血が一杯だ指一本死ね死ね死ね嫌だ死にたく無い――――

 

光景、思念、悪意、混沌。

拡散したディソートを通して流れ込んでくるのは、極限状態にある人々の悲痛な叫びと、それを愉しむ畜生どもの笑い声。

何人か見た顔が過ぎった気がするけど、この時の僕はそれを判別してる余裕なんて無かった。

 

「う、っぐ、くぅ……!」

 

あのスクランブル交差点の時の様に、渦巻く黒い感情に押し潰されそうになるけれど、僕はそれを必死に堪え。引っかかる悪意――化物の思念を見つけた傍から引き裂いて、消して行く。

 

ある化物は、単純に首を飛ばした。

ある化物は、胴体を半分に割った。

ある化物は、腕を潰した上で胸を切り裂いてやった。

ある化物は、股下から脳天まで貫いてやった。

ある化物は、妄想で精神その物を磨り潰してやった。

 

村人を助ける為じゃない。ただ、目障りだったから。見るに耐えない不愉快な悪意を間引くんだ。

いい気になってたそいつらを蹂躙し、陵辱し、苦しみを押し付ける。

……けれど、僕の気は晴れなくて。それどころか、ますます惨めな気になって。

 

――そして、最後に見つけたんだ。

この場に蔓延る、幾つもの悪意を結ぶ収束点。蜘蛛の巣の様に絡み合う糸を遡っていった先に存在した、複数の核。

 

「!!」

 

森の中に三つ、湖の畔に一つ、山中にある廃屋に一つ。合計五つ。

村より大分離れた場所に別々に存在したそれらは、人の形をしていた。人の姿をしていた。

角も爪も、羽すらなく。きちんと肌色をした、そこら中を暴れまわっている化物とは似ても似つかない正常な人型。

暗色のローブを被り手に杖を持ったその姿は正しく魔法使いと呼ぶべき物で、彼らは次々と数を減らしていく化物に慌てふためいている様だった。

そして、その足元には何やら光を放つ魔方陣のような物が幾つもあって。

 

――――それが心底、癪に障った。

 

「――――死、っぃねよぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」

 

絶叫。

僕の未来は、僕の幸せは。あんな陳腐な光によって閉ざされたのか。

あんな妄想の塊に、魔法なんてふざけた設定に奪われたのか。

白昼堂々と厨二病の格好をした気狂い達に、僕はこんな目に合わされているのか――――!

 

……事実と何一つ符合しない言い掛かりが僕の脳を焼き、視界が真っ赤に染まった。

 

「ぉぉおぉぁああああああぁぁぁあぁぁああぁぁあああッ――――!!」

 

八つ当たりによる責任転嫁、それしか出来ない濁った思考の中で。

涙とは違う熱が目の端から流れ落ちるのを気にも留めずに、思い切りディソードを振り抜いた。

 

それは決して子供の貧弱な筋力では不可能な速度で閃き、唸り。音速すらをも超え、蒼い帯を生み出して。

 

距離も、方角も、数も、雪も、木々も、森も。全てが消える。僕を邪魔する現実は、その全てが妄想に伴い捻じ切られ、無かった事になるんだ。

 

そうして開けた視界の中、紅の炎の意匠が、蒼い睡蓮の光が。空間その物を切り裂いて――――

 

 

――――白い大地に五つの大きな裂傷が刻まれ。その場に飛び散った血液と臓腑が、両断され光を失った魔方陣を、赤く、汚した。

 

 

*****************************

 

 

「……はぁっ、はぁっ……!」

 

パリン。と。

化け物の気配が次々と消えていくのを尻目に、役目を終えた茨がガラスの割れた時のような甲高い音を立てて砕け散る。

 

村に向かった物も、森と湖に飛んでった物も。僕のディソードを残して、全て元の形が分からない位に粉々に。

そうしてその一粒一粒が、曇天からうっすらと差し込む日差しと村から上がる炎に妖しく煌き、風に吹き散らされて雪に混じって消えていくんだ。

 

……幻想的、と言えなくも無い光景だったけど、将軍の欠片だと考えると嫌悪感しか浮かばない。

吸い込んだら呼吸器官がえらい事になるかな。と一瞬だけ思ったけれど、まさかこの状態になってまでリアルブートは維持出来てないだろうと思い直す。

 

「ひ……ひっ、ひっ! ひひっ!! っざ、ざぁ。ざまぁみろ! ざまぁ、ざ、ざ……!!」

 

それはどう見ても、息を引き攣らせた喘息患者にしか見えなかった。

握り締めたディソードには伝わらなかった、人肉を切り裂く感触を想像して笑おうとするけど、上手くいかないんだ。

 

人を切り殺した事に対して笑おうとか、我ながら屑だなぁと感じるけど、どうせ野呂瀬や諏訪を殺した時点で僕は殺人犯なんだ。

それに何より今さっき殺した奴だって妄想なんだからね。構う事なんて無い筈だろ? 

……そう、自分に思い聞かせて。碌に動こうとしない肺を膨らませ、横隔膜を震わせる。

 

「ひ、ひひっ! ひ、ひ、わら、笑えよクソッ!! 笑えよぉ!!」

 

けれど、駄目だった。

化物を撃退した爽快感なんて、微塵も沸かなかったんだ。

 

ディソードを振り回して、地団駄を踏んで。必死になって笑おうとしても、やっぱり無理で。

それどころか、どれだけ頑張っても笑顔を浮かべることのできない自分がとても惨めに思えて、表情が醜く歪んで行くんだ。笑顔とは、まるで逆の方向にね。

唇から流れ出た血が混じったのか、それとも本当に目から血が流れているのか。薄赤色の雫が、ぽたぽたと白い雪に桃色の点を付ける。

 

……分かっている。分かっているんだ。

 

確かに化物達も、その原因だった魔法使いモドキ達も。倒されるに相応しい惨状を引き起こした敵キャラさ。

村を壊しまくって、アーニャと僕を殺そうとして、その他にも酷い事を色々やってたんだろう。殺したところで誰も文句なんて言いやしない存在だ。

 

でも、それだけだ。もし彼らが襲ってさえこなければ、僕は将軍と会う事も無かっただろう。けど、最終的に判断を下したのは僕。

向こうの世界へ――梨深の所に帰らない選択肢を選んで、「梨深の泣く事をしたくない」とか変に格好をつけた事による自業自得。

 

――全部、僕が選んでやった事なんだよ。

 

「……くそ、くそぉ……!」

 

凄く情けなくて、馬鹿みたいだ。

もう喚く気力さえも無くなって。積もった雪の上に膝を付いた。

 

脛から膝頭までの広範囲に鋭い冷たさが広がるけど、そんな事はどうでも良かった。

ただ、酷い郷愁の念だけが、僕の心を覆っていたんだ。

 

――心が、濁る。

 

僕はこれからあと数十年もこんな場所で過ごさなきゃいけないのか。

妄想に塗れた、妄想しか存在しないこの場所で、僕は、ずっと。

西條拓巳として存在することも許されず、ネギの設定を押し付けられたままで。

僕の事を誰も知らない、知りようの無い世界で――――

 

「…………ひっ、くふ…………ああ――」

 

……そう、だね。もう、それでも良いのかもしれない。

呟いて、ゆっくりと手元に視線を向ける。

僕の右手に納まっているディソードが、蒼く、淡い光を発していた。

 

「…………」

 

考えてみれば、僕がこんなに苦しんでいるのは、僕が西條拓巳であり、ネギじゃなかったからなんだ。

僕でありたいという思いと、僕をネギにしようとする環境。

周囲の設定と『僕』が噛み合っていなかったが故、互いの間に不愉快な摩擦を起こしていた。

 

……なら、もう良いんじゃないかな。

 

元々僕は「何時か帰れるかもしれない」という可能性に縋ってここまで生きてきたんだよ。

だったら、将軍との繋がりを断ち、元の世界に帰る事も西條拓巳に成る事も出来なくなった現在。僕が僕に執着する必要なんてあるのだろうか。

 

残したくない物は、何一つ無いんだ。

これから先、苦しみしか得られないと分かってる道筋を、わざわざ進む事なんて無いんじゃないのかな。

 

「……ひ、ひひっ」

 

さっきとは違う、自然な笑い声を響かせながら。僕は蒼いままのディソードを両手で掴み直し、持ち上げて――その刃を首元に当てた。

勿論、リアルブートはしないままだ。そんな事をしてしまえば物理的に首が落っこちてしまうから。

……本当は逆手に持って由緒正しきハラキリスタイルにしたかったけど、刃と腕の長さ的な問題で諦める。

 

――そうさ、全ては僕だけが消えれば済む話だったんだ。

 

それは、肉体的な死という意味じゃない。言うなれば記憶の死、人格の死。

西條拓巳が消えて、ネギだけになれば。混じり込んでる僕の意識だけを取り除けば、在るべきものが在るべき場所にピタリと嵌って、全て上手く事が運ぶようになる。

梨深達に会えない事を嘆く必要も、寂しがる感情も。今受け取っている全てのストレスから僕は解放される。ネギとして違和感無く振舞えるようになる筈だ。

 

僕だけの精神だけを消す事が出来るのかどうか不安が残るし、そんな繊細な操作が素人ギガロマニアックスに可能なのかも分からない。

でも、それでもし失敗しても構わないんだ。どうせ廃人か無気力人間になるだけだろうし、死ぬ訳じゃないからね。現状を認識できなくなるなら、むしろ望む所とも言えるよ。

 

――これが成功すれば、以降の人生は異物たる『僕』ではなく、設定通りの『ネギ』が主観になって進む事になる。それは、極めて正しい道筋なんじゃないのかな。

 

……少なくとも、ヒキオタの僕よりはね。自分が脇役レベルなのは良く知っている事柄さ。

 

「……そ、そうだよ。っそ、れに。今まで、散々、その設定で苦しい思いをしてきたん、っだ……。だった、だったら」

 

これから訪れる絶望も、面倒事も。全て『ネギ』に押し付けさせて貰おうじゃないか。

村がこんなになって、化物たちが襲ってきて、住民の殆どが生死不明。更に魔法とか英雄の息子(?)なんて設定も絡んでいると来てるんだ。

これから僕が相当面倒くさい事になって行く事は想像に難くないよ。

 

……あぁ、その点に関しては、僕は化物たちに礼を言ってやっても良いかもしれないね。消えるきっかけを与えてくれて有難う。ってさ。

まぁ今更それを言っても、化物を殺しまくった恩知らずが何言ってるんだって事になっちゃうけど。

 

「……、……は、」

 

ディソードを持つ手がカタカタと震える。

首筋に当てた蒼い刃が、振動する度に微細に肉を透過して、よく分からない気持ち悪さが首筋に広がった。

 

……恐怖は感じていない筈だから、これはただ単に寒さに震えているだけだろう。

溢れる涙も、食いしばった唇も、合わない歯の根も全部そう。ただの生理的反応に過ぎない。

誰かの顔が浮かんだ事も、名を呼ばれた事も。全部気のせい。雪の寒さが見せた幻だ。

 

――そして、乱れそうになる思考を一つに纏めて強く念じる。僕という存在の消去を、ネギという存在の確立を。

 

……あれ程嫌っていたネギを確立させるって言うのも皮肉な話だけれど、今の僕にとってはそれが最善。これから続く苦しみから開放される、死以外の唯一の手段なんだ。

そう自分に強く言い聞かせて、固く目を瞑って。

 

そして、叫んだ。

 

 

「――――――――――――――――――っ!!」

 

 

それは意味の無い言葉の羅列だった筈だ。

獣の雄叫びのような、擬音のような、人には理解し得ない音。

掠れた声で放たれたその絶叫は不快音となって空に轟き、周囲の空間を揺らし続ける。

 

何を言ったのか。なんて。そんなのは覚えていない。

もしかしたら、聞くものによっては歓喜の声にも、助けを求める声にも聞こえたかもしれないね。

……少なくとも、このときの僕には自分がどういった意図で、どのような言葉を発したのか把握できていなかったんだ。

 

――――そうして、腕に力を込めて。胸に留まる何かを振り切るように、手首を勢い良く振った。

 

自分を殺し、ネギを産む。そんな強い想いを込めて。

 

何時の日か考えたものとは大分違うけど、自殺という最低な行為をする羽目になった事に嘲りの感情が心を過ぎり。しかし、それを深く考える時間は無く。

 

先程人を殺した蒼い軌跡が、今度は僕の首に吸い込まれていくんだ。

 

早く、速く、閃く。刃自体が意思を持ったかのように、鮮やかに、自動的に。

 

僕を、西條拓巳をこの世界から消去すべく、ただ、真っ直ぐに突き進み――――

 

 

 

 

 

「や、だぁ……!!」

 

 

 

 

 

――――どすん、と。

 

背中に勢いの付いた何かが圧し掛かり、中程まで首に埋まりこんでいた刃が、止まった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「ぁぐっ……!?」

 

背中を圧迫され、衝撃でうめき声が漏れる。見ていた景色が前後に揺れ、体が前方に吹き飛ばされそうになった。

何者かに組み付かれたみたいだ。もし地面に膝を付いていなければ倒れ込んでいたかもしれない。

そうして、突然の事に混乱していた僕の視界の端に、赤紫に腫れ上がった手が映り込んで。

 

僕の物よりも一回り大きいそれらは両手首を握り締め、刃をこれ以上動かないようにガッチリと固定していた。

 

「……、……だ……っ!」

 

……僕の背中、何かが押し付けられたその場所から、小さな呟き声が流れる。

それは嗅ぎ慣れた乳臭さと、ほんの少しの汗の匂いと一緒に、僕の嗅覚と聴覚を刺激して。一人の少女の姿を思い起こさせて。

 

――その人物の名なんて、言うまでも無い。

 

「……やだ、やだ……!!」

 

僕の手首を両腕で掴み、鼻先を肩甲骨に擦り付けていた彼女は、嘆願するようにずっとそう呟き続けていた。

冷たい体を震わせて、涙と鼻水を押し付け僕のローブを汚しながら、唯一途に、只管に。

近くで観察してみても、やっぱりいつもの気丈な彼女じゃなかった。弱弱しい嗚咽を漏らしながら首を振り続ける彼女は、まるで僕みたいに情けなく、無様で。

 

「……ぇ、なん……で。っ……?」

 

「ゃだ、やだ……やだ……」

 

――ディソードが、見えて、る?

 

僕はそう言葉にしたつもりだったけど、咄嗟のことに口が上手く回らなかったみたいだ。驚きと疑問の感情だけが先行し、具体的な言葉が何一つ発せない。

 

……まぁ、この様子を見る限りじゃ、もし口が回っていたとしても僕の言葉が伝わっていたのかは怪しい所だ。

彼女は僕の声に反応する事無く、さっきと同じ反応を繰り返すだけ。振り返っている僕に視線を合わせてくれる事すらないから。

 

そうして、そんな様子を眺めながら――――結局、僕は彼女を守り切れて居なかったのかな。なんて思った。

 

「やだ、やだやだや、だ……や、やぁ……」

 

「…………」

 

だって、そうじゃないか。

ディソードが見えているって事は、つまりはそういう事なんだろう?

何が「勘弁してもらおう」だよ。そもそも最初っから駄目駄目だったって事じゃないか。

 

肉体的には無事だったとしても、だって、そんなの。

 

「…………」

 

「ぃ、やぁ……やだ、からぁ……」

 

再び襲い掛かってきた無力感のまま、衝動的にぐいぐいと腕を引っ張ってみるけど、ディソードはピクリともしない。

細い――と言っても僕よりは太いんだけど――彼女の腕の何処にそんな力が秘められているのか、肘も手首も硬く固められていて貧弱な僕の力じゃ一センチたりとも動かなかったんだ。

 

……そして、尚もディソードを動かそうとするその行動に危機感を大きくさせたのか、彼女は更に深く僕の体に縋り付いてきた。

ゾンビのように背中を這い上がり、攀じ登り。腕に手を絡みつかせて背後から抱きつくような姿勢になって、肩口にその頭部を置いて。

感じたのは、湿った髪の感触と、互いの体液で濡れた頬が擦れ合う不快感。

涙と、血と、鼻水と、涎と。顔から流す事の出来る体液全てが交じり合って、ぬちりと粘性のある音を立てた。

 

――――居なくなっちゃ、やだ。

 

……そんな、切実な声が。すぐ近くから鼓膜に染込み、脳みそを犯していく。

 

「……なんで、邪魔、するんだよ」

 

「やだ、やぁ、ぁ……」

 

「……何も、知らないくせに。分からない、くせに……」

 

「お願い、やだ、居てよ、居て……よぉ……」

 

噛み合わない、整合性も無い、慮りも無い。ただお互いの思っている事を投げ合っているだけの、会話とも呼べない言葉の応酬。

そんな無駄で力の無い言い合いをしているうちに、圧し掛かる彼女と体を支えていた薄い腹筋が死に、バランスを崩してうつ伏せに倒れてしまった。

彼女の体が僕に覆い被さって、胸を圧迫。蛙が潰れたかの様な醜い呻き声が漏れた。

 

……背中にかかるその重さが、まるで何かを暗喩しているようで、妙な気分になったよ。

おまけにその衝撃で持っていたディソードが手から離れて、背景に溶けるようにして消えていく。

新しくディソードを引きずり出そうにも、僕の腕は未だガッチリ押さえつけられたままで動かないし、振り解こうにも奇襲からの<組み付き>だし何よりSTRとSIZの値が足りてないからロール自体自動失敗だし、何かもう、最悪だ。

言葉は、続く。

 

「君だって、その方がいい、だろ。僕なんかより、元気なネギの方が」

 

「やだ、やだ、やだ……」

 

「……だから、消えさせて、よ……そんな、」

 

 

「――やだっ! やだ、やぁっ!!」

 

 

一際大きい声が鼓膜を揺らし、耳鳴りが僕を襲った。

何の事は無い、ただのヒステリックな金切り声だ。

リア♀がよくやる、自分に都合の悪い発言を封じる汚い術。僕が汚泥の如くに嫌うそれ。

……だというのに、その大声と一緒に大切な何かを貰った錯覚を受けて。一瞬思考に空白が生まれた。生まれてしまった。

 

――呆然とした僕を他所に、続く。

 

「……やだ、死んじゃ、やだ……」

 

……思えば、何時だって彼女はそうだった気がするよ。

何も知らないはずなのに、根本的な事は何も察せていないはずなのに。正確にその人にとっての重要な何かを穿つんだ。

Xデーの時も、思考に煮詰まった時もそう。手遅れになる前に僕を蹴飛ばしてくれて。

 

「見てる、から……ちゃんと、今度は、みんな知る、から」

 

現状を正しく認識しないまま、自分の想いだけを伝えてきて。それを勢いに任せて無理やり押し付け、そのまま致命的な部分に突き刺してくる。

そうして何故か、その度に僕は何だかんだ色んな意味で酷い事になるんだ。

 

ベクトルが違うだけで、殆ど強盗殺人だよね。ああ、やだやだ。

 

「……おねがい、だから。居て、そばに……おねがい、おねがいだから……」

 

ほら、今回だってそうだ。僕を殺そうとしてきてる。

 

しかも何か耳に口を近づけて、何時ものぶち切れモードとは違う、必死な感情を込めて囁く様にと来た。

卑怯だよそんなの。僕の心がこれ以上無いほどに壊れかけてる今、そんな事をされたら。

何も理由が無いからこそ、僕が居る意味が無いからこそ僕は消えようとしていたのに。こんな、こんなの――――

 

 

「だから、おねがいだから、ね、居なくならないでよ、ねぇ――――――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――『タク』

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………………………………………………………………………………」

 

 

……力が、どっと抜け落ちた。

 

彼女を振り払う気力も、ディソードを追う気も。体を動かすための活力全てが無くなって、今度こそ完全に全身が弛緩。五体をぶらりと投げ出した。

そうして背中にかかる重みも、擦り付けられる彼女の体液も、僕は全部受け入れて。深い諦観の念と共に地面で頬を押し潰す。

 

「……………………」

 

「タク、やだ、やだぁ……」

 

……未だ耳のすぐ隣で聞こえるうわ言をBGMとして、僕はゆっくりと目を瞑る。

と言っても、何かを考えるためじゃない。何も考えないためだ。

後悔するのも、悲しむのも、自己嫌悪するのも。もう、何もかもが面倒臭くなったんだ。

 

勿論、まだ心には黒い淀みが澱となって沈殿してるし、消えたいって衝動も無くなってない。

いきなり全てを諦められるほど、僕は人間が出来ないんだ。

 

……でも、何と言うか、まぁ。

そういう複雑な事を考えるのは、後で良いかなと思って。

 

「…………」

 

きっと、そんな意味じゃ無かったんだろう。彼女はディソードの事を知らないから、唯単純に自殺を止めたつもりなんだ。

だから、居なくならないでって言葉も、死なないでって意味なんだ。僕が消えるとかネギが産まれるとか、そんなの考えもしなかったに違いないよ。

だと言うのに、君は何でそんなに的確なんだ。当てずっぽうだとしても命中率が高すぎない?

 

「……ひ、ひ。案外、ギ、ギガロマニアックスに、向いてるのかもね……」

 

「やだ、やだ、やだ……!」

 

どうやら僕達のご同輩にはなりたくないようだ、もう片足踏み込んでる癖に。

なんて本当に詰まらない野次を頭の中で飛ばしつつ、僕は溜息を一つ吐いて頭を右側に――肩口に在る彼女の頭部へと寄せた。

 

ぐじゅり、と。体液と雪で湿った髪が擦れ合い、絡み合う。それはさっきの頬のときと同じく不快としか表現しえない感触だったよ。

頭皮は痒くなるし、何か変に生暖かいし。正直、長く触れ合って居たくないと強く思う。

 

――けれど、何故か心が凪いでしまって。

 

「……君の、所為だからな……」

 

「……ゃ、ゃあ……や……」

 

「こ、これから僕が、っ感じる。嫌な事は、全部。君が引き止めた所為、なんだ……」

 

「やだ、や、っ……」

 

やっぱり会話は成立しないけど、それで良かった。

寒さの所為か、心労の所為か。徐々に薄れていく意識の中で、僕は彼女に恨み言を吐き出し続ける。

君の所為だと、君のおかげだと。憎しみとも感謝ともつかない中途半端なそれを、今度はこっちが耳元で囁いてやるんだ。

 

「……君が、望んだから。君が、ネギじゃ、無くて……僕が良いって、言う……から」

 

「……やだ、や、ぁ……」

 

「だ……から、仕方なく……僕は、僕のまま……」

 

段々と、僕達の声に力が無くなっていく。

いや、もしかしたら僕の耳が遠くなっただけかな。まぁ、どうでもいい事だ。

 

――これはただの雑音。見苦しくも下らない言い掛かりに過ぎないのだから。

 

「――あ――から――って、……――」

 

「――――だ、や――――……」

 

そうして最後には何もかも分からなくなって、僕の意識は暗闇に落ちていく。

 

それは不自然なほどに急速に、理不尽なほどに深く。僕を暗黒の世界へと誘うんだ。

本来ならば何かしらの恐怖を感じるべき場面なのかもしれないけど、それに抗うという発想すら浮かばなかった。

今日は色々な事があり過ぎた。背中の彼女の事も、凍死の危険性も。その時の僕には瑣末な事に過ぎなくて。

 

ただ、只管に眠かった。面倒な考え事から一刻も早く逃れたかった。

 

――――だって、明日もまた僕は僕のままで居なくちゃならないんだ。やってられないよ、全く。

 

「――――」

 

そして、最後。完全に意識を飛ばす寸前、僕は何某かの言葉を呟いた。

殆ど口の中で転がす様に、息遣いにしか聞こえない程の小ささで。囁き、呟き。

 

それはあの時と同じ言葉、気づけば彼女に放っていた、『彼女』に言えなかった想いの塊だ。

篭っていた感情が同じかどうかは知らない、でも、その重さは同じくらいだったと思う。

 

僕はそれを、届かなければ良いなと願って――――そこで、僕は完全に暗闇へと落ちた。

 

 

心臓が甘く痺れ、それが指先に広がって、背中の重みに圧されて全身が地面に埋まっていく。そんな錯覚。

嫌悪感は沸かなかったよ。むしろ、まるで僕と言う存在がこの世界に定着させられているかのようで、何となくいい気分になったんだ。

……後に何が起こったのか、彼女は反応を返してくれたのか、覚醒しかけた彼女の精神状態はどうなったのか。僕は何一つとして知り得なかったけど。

 

それでも、何だか悪い事にはならないような気がした。

 

「…………」

 

頬に落ちた雪の欠片が肌の上で溶け、滑り落ちていく感触が強く印象に残って。

 

僕の記憶は、そこでぷっつりと途切れた。

 

 

 

 

――――その時の僕の身体は。決して、笑顔は浮かべていなかった筈だ――――。

 




■ ■ ■

ぬぬぬんぬん。


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終章   result

身体が欲しいと願い、それが叶えられた。ただ、それだけの話なのだ。

 

 

 

――――記憶が、あった。

 

それは本当の自分とは違う、もう一人の自分。

決して知り得る事の無かった筈の、強固にして薄弱の意思。

夢のような、幻覚のような。不定形で不確かのそれは、自覚の無いままに強迫観念としてそれを蝕んでいった。

 

――――記憶が、あった。

 

それはもう一人の自分とは違う、本当の自分。

決して揺らぐ事の無かった筈の、固められた意思。

何時から存在したのかは分からない。けれど疑う余地も無いそれは、自らの指針であり行動原理でもあった。

 

……本来ならば、相反し、反発し合い。互いを犯し合っていく筈の二つの意思。

しかし、彼らは意外にも拒否反応を起こす事無く、自然に融合し受け入れ合っていた。

 

「世界に救済を」

 

そのたった一つの目的を果たす為に存在する彼らは、ある意味ではこれ以上無い程に似通った存在だったのだ。

侵食し合い、融合し合い。細かな差異はあれど、それは誤差の範囲であり。直ぐに馴染んで消えて行く。

互いが互いの思考回路に良し悪し問わず影響を与え、汚染した。

 

壊れぬ筈の物を壊し、生きる筈の者を殺し、死ぬ筈の者を生かし、産む筈の者を産まず。世界の結末を妄想により歪ませて行き……そうして、だからこそ彼らは致命的に失敗したのだ。

 

彼らが辿った道程は、枯れた茨のその向こう。

結果的に彼らはその目的を果たす事無く敗れ去り、どうしようもない巨悪として蓄積される事に相成った。

真意を明かしたものは皆消えさり、他人に新たに理解される事は無く。彼ら自身もただ惨めに消滅した。

 

彼らは叫んだ。互いの人格に引きずられ、憎悪と妄想に取り付かれた彼らにはそれしか出来なかった。

成功したはずの逃走も、説得も。何一つ行う事が出来ないまま叫び続けるしかできなかったのだ。

 

――またなのか。二度も自分は敗北するのか!!

 

途轍もなく大きな屈辱に貫かれながら、彼らは互いの敵の名を叫び続けた。

発狂し、冷静さを取り繕う事も無く、血に塗れ瀕死の身体を引き摺って。

それは喉が擦り切れ、命の灯火が消えるその瞬間まで止む事が無かった。

 

――――その憎悪の絶叫は、その場に居合わせた人間達の記憶に断末魔として強く刻まれて。後に救国の英雄と呼ばれた彼らの内、最も力の強い存在が興味を抱いた。

 

そうして、それが呼び水となったのだ。

 

妄想の中で漂い続けるだけだった、それ。ただ世界の外で認識し続けるだけだった彼が、強烈な憎悪と好奇心により引っ張られ、十数年という長い年月をかけ、ゆっくりと手繰り寄せられ。

彼の敵となる筈だった彼らの居ない世界の中に、異分子として混ざり込み、生れ落ちた。

 

 

好奇心を抱いた者は、とある鶏頭の英雄。

 

憎悪を抱いた者は、とある陳腐なラスボス。

 

 

――――全てはとうの昔に決着し、終了し、世界設定として定着した前日譚である。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

――――ごくり。

 

誰かが息を呑む音が、部屋の中を木霊した。

 

「…………」

 

「…………」

 

そこにあるのは、頬と指の先にガーゼを当てた僕。

そして、全身を余す所無く包帯でグルグル巻きにされた人間の姿だ。

 

――――沈黙が場を支配し、奇妙で微妙な空気が漂う密室空間。

僕達二人は、そんな緊迫してんだかしてないんだか良く分からん意味不明な空間に放置されていた。

 

「…………」

 

「…………」

 

……何と言うか、まぁ。いろいろと酷いの一言に尽きる。空気や状況もそうだけど、包帯人間が酷い。ほんと酷い。

 

彼女は頭の先から指の先まで、肌が露出している所なんて一箇所も無い。肘も膝も、曲がる場所なんてないんじゃないかってくらいガッチガチに固められてる。

強いて覗いている所を上げるとするなら、今朝ようやく血色の回復した唇くらいだろうか。いやそれを肌に含めていいのかは分からないけど。

そうして身体はベッドに括り付けられ、ギプスの嵌められた両腕と両足が横に備え付けられた木製のスタンドから吊り下げられていて。

加えて点滴袋と、良く分からない魔方陣の刻まれた容器から伸びた管が包帯の隙間に潜り込んで、中の薬品を体の中に送り込んでいるのが分かった。

 

……まるでギャグ漫画みたいなその光景。傍から見れば随分と不気味で間抜けな姿だけど、幾らオタクで不幸大好き@ちゃんねらーの僕でもまったく笑う気になれなかったよ。

まぁ当たり前だ。それが出来る程に心臓に毛が生えていたら、ある程度は当事者としてでもニュージェネを楽しめていたはずだしね。モニタの向こう側と現実は違うって事だ。

 

「…………」

 

「…………」

 

そして、僕はそんな彼女に対して銀製の道具を突きつけていた。

 

それは僕の手に馴染む細長い棒状。先っぽがくるりと丸められて器状になっていて、内側には僕が抱えている木製の器と同じく何やらどろりとした存在で満たされている。

液体とも固体とも付かないベージュ色の何かが、周りを覆う銀に反射しぬらぬらと妖しい光を放つんだ。

そうして僕は何の忌避感も無く、罪悪感も無く。それをしっかりと握り締め、彼女に向かって突き出していて――――――

 

……まぁ、単なるスプーンと摩り下ろしリンゴなんだけど。描写って大事ね。

ともかく、僕はそれを彼女の口元にゆっくりと近づけて行く。

 

「…………、…………」

 

「……………………」

 

互いに無言。

ここに運ばれて来た当初とは違い、水気と赤味の戻っている唇は、僕の指先と同じくプルプルと小刻みに震えている。

何故、どんな感情で震えているのか。正確に察することは出来なかったけど、部屋に漂う雰囲気から何となく僕と同じ感じだっていう事は分かった。

 

多分、彼女も緊張しているんだ。

僕達二人がこんな事をするなんて、以前では考えられなかった事だから。

 

――きっと僕を知る人物がこの光景を見ていたなら、ニヤニヤ笑いながら囃し立てて来るに違いあるまい。

……そんな事を考えている間に、スプーンの背が彼女の唇に触れた。

 

「! ッ……ぁぅぅぅ……ッ!!」

 

「ぁ……と。ご、ごめ……」

 

彼女はその冷たい感覚に驚いたらしく、びくりと全身を震わせて――体を襲う痛みに呻き声を上げたよ。

予め何か一声かけるべきだったかと罪悪感を抱いたけど、謝るとお互い萎縮し切ってしまう気がして、口にしかけた謝罪が止まった。

もしそうなったら、僕達は何も出来ないままになるかもしれない。

 

少し焦りつつどうした物かと悩んでいると、痛みが引いたのか彼女はフンスと(多分鼻息)包帯を揺らし、大きく口を開けた。くすみ一つ無い白く綺麗な歯並びと、唾液に濡れた柔らかそうな舌が覗く。

……ふむ。そこに入れろ、と。ふむ、ふむ。棒状のモノを。ふむ。どろっとした液体の滴るイチモツを。唾液の溜まる暖かな口腔に。ふむふむ、ふむ。ふひ。

 

まぁ、ともかく。

 

「……ぁ、あー……」

 

「……あー」

 

今度こそ妙な失敗を犯さないよう、細心の注意を持って再びスプーンを近づけていく。

片手に持っていた木の器を机に置き、静かに、ゆっくりと。中身をこぼさない様に、銀の部分が余計な所に触れないように、慎重に慎重を重ねて。

 

二人分。緊張に塗れた吐息が部屋の中に木霊した。

……いやはや、何をそんなにビクついてるんだろうね。自分でも少しおかしくなって。

そんな取りとめも無い事を考えて居る内に、スプーンの先端が彼女の口に入り込み――――そっと、舌の上に摩りリンゴを乗せた。

 

「んっ……」と。彼女は少し驚いた様だったけど、今度は身体を動かすほどに驚いた様子は無く。

口を閉じ、リンゴを味わうように僅かに顎を動かして居るのが分かったよ。

 

……そうして、どの位の時間が経っただろうか。

 

10秒か、20秒か。いや、もしかしたら分単位で過ぎていたかもしれない。気分は漫画界最強のツンデレの批評を待つ板前の気分だ。

そんな意味の分からない重圧の中、僕はベッドの横に置いてある椅子に座ったまま、身動ぎ一つ出来なかった。

 

――そうして、ごくりと彼女の細い喉が上下する。

 

「…………」

 

「…………」

 

しかし彼女は何の反応も反してくれる事は無く。沈黙が辺りを包み込んだ。

 

……心臓が、変な風に痛む。

何と言うか、重役相当の人の面接を受けているような胃と腸が爛れる種類の嫌な感じだ。そんなのした事ないけど。

そうしてそっと胃を押さえ。這い寄る緊張感を持て余していると――――蚊の鳴くような声で彼女が何か呟いた様な気がした。

 

「…………ぉ…………」

 

「……へ? な、何――」

 

場が動く兆候を逃す事無く、僕はつい反射的に彼女の声に返事を返し。

この重苦しい雰囲気が変わるのならば何でもいいと、身を乗り出して唇に耳を寄せ――――

 

 

「――――おりんご、美味しいよぅ……」

 

 

――――空気が死んだ音を、聞いた。

 

「は……、っあ!?」

 

そして、その直後、彼女の丁度目元の辺りからじんわりと薄紅色の染みが湧き出した。

 

涙腺の刺激と一緒に傷が開いたのだろうか。それは瞬く間に彼女を覆っている包帯を伝い、あちこちに伝染。目の部分から花が咲くようにして顔中をピンク色に染め上げていく。

……全身ミイラ女の顔が咲く。ちょっとしたグロ画像よりもアレな光景だよね、これ。

 

ともあれ、そんなブラクラを至近距離で目撃した僕は勿論の事混乱し、ベッドの上部に設置されていたナースコールを引っ掴んで一年半のゲーム経験に任せて連打した。

おそらく、今頃ナース室は大変な事になっているのではなかろうか。

 

「っちょ、おまっ。目、目が」

 

「うっ……く、タク、タクミの、ひっく。食べさせてっ、く、れた、おりんご……っう、おいし……っ!!」

 

「ぁあああああ、わ、わかった……! 分かったから、お、おお落ち、落ちつ、つっ……!」

 

そうして、僕とミイラ女は重篤患者用の個室に慌てた医者が飛び込んでくるまで騒ぎ続け。何故か僕だけが怒られるという理不尽な事態になったのだった。

 

 

――――化物の襲撃から今日で六日目。ミイラ女――今回一番の重症だったネカネが目を覚ました日の昼の出来事である。

 

 

****************

 

 

重軽傷者72名、内意識不明者24名、死者18名。

それがあの事件で出た犠牲者の数らしい。

 

……最初に聞いた時、この数字が騒動の規模に対して多いのか少ないのか、僕にはよく分からなかったよ。

サードメルト時の渋谷の惨状を体験していたから、感覚が麻痺していたのかもしれないね。

 

倒壊したビルや、地割れを起こしたアスファルト。そしてそれに押しつぶされて死んでいた大量の人間。それを目撃していた僕には、その数字は陳腐に過ぎた。

確かに魔法とか似非ファンタジーがある分視覚的には派手だったみたいだけど、数字で見るとどうしても「こんなものか」と見下してしまうんだ。

 

聞いた話では住民の殆どがこの病院のある町――ネカネ達が通っている学校のある、まぁまぁ都会的な町――に一時的に移り住んでると言う話だし。少なくとも壊滅的なダメージは負ったと予想できたさ。

でも、それでも。僕は村と住人達が蹂躙された事に関して悲しみも憤りも沸いてこなかった。

 

……単純に、僕が村に対してあまり深い思い入れを抱いていなかったからなのかもしれないけどね。

 

多分、死んだ村人の遺体やその遺族達を目の前にすれば何かが変わったとは思うよ。彼らの悲しみや憎しみを目の当たりにすれば、少しは実感も湧いたかもしれない。

しかし残念ながら、僕がこの病院で目を覚ましてから出歩いたのは、同じく運び込まれていたアーニャと先述のネカネの病室くらい。廊下ですれ違う奴らもみんなバタついていて、僕に構ってる暇なんて無さそうだった。

 

基本病室に引きこもっている僕を訪ねてくる奴も今の所スタン以外は居ないし、村人との接触は最低限に抑えられていたんだ。彼らの想いなんて、届くはずも無い。

 

……まぁ、うん。死亡者の欄にアーニャの両親や見知った老人達の名前が無かった事に少なからず安堵はしてやった。僕としてはそれで十分だと思うんだけど、どうだろうか。

 

ナイトハルト「大丈夫だ、問題ない」

 

ですよね。疾風迅雷のナイトハルトが言うんだから間違いないですよね。

……で、現状の話。

 

二度と元の世界に帰れない事に暴走し、勢いと八つ当たりで全てを薙ぎ払い、気絶した後。

雪原で倒れていたアーニャと僕は、その数十分後に探しに来てくれたらしい村の奴らに保護されて、あの場所から数時間かかるこの町の病院に送り込まれたそうだ。

 

僕は指先と耳先の凍傷、何時なったか分からない右目の毛細血管の破裂と比較的軽症だったけど――アーニャと、遅れて運び込まれてきたネカネはそうも行かなかったみたいだ。

元から村に居た僕よりも、たまたま帰ってきてた二人のほうが重傷だったとか、嫌な皮肉だよ。

 

アーニャは僕のものよりもっと酷い凍傷と、極度の体温の低下。

発見された時には、身体全体をがくがく震わせていてかなりヤバ気な状態だったらしい。

魔法的ご都合主義で何とかなったみたいだけど、一時期は指を切断する選択肢も出てたって話だ。僕にはそういう性癖は無かったから、何とかなって良かったよ。本当。

 

まぁそれだけなら軽症って事で済んだんだろうけど――――問題だったのは、心の方。

黒い化物に追われて、殺されかけて、挙句の果てに僕が破裂した光景を見てしまった彼女は、酷いトラウマを持ってしまったらしいんだ。

 

……そのため、現在は隔離病棟で療養中。高科先生に似た雰囲気を持つ医者にお世話になっている。

 

ネカネの方はさっきの様子を見れば分かると思うけど、凄まじいの一言に尽きる。

村の中心、化物達が蔓延っていた筈の場所で発見された彼女は、全身の骨という骨は砕け筋という筋はぶち切られ。内臓は凄まじい負荷を受けて内出血を起こして破裂する寸前の超瀕死状態。

あと少しでも発見が遅れていたら、死んでいてもおかしくなかったそうだ。何したらこんな事になるんだ、マジで。

 

両眼も辛うじて視神経が繋がっているだけで、その他の管は軒並み破裂し断裂状態。先程のやり取りも失明の危険があったらしく、その辺りの事を激しく怒られたよ。僕の所為じゃないのに。……無いよね?

 

幸い、魔法使いと医者の頑張りで何とか一命を取りとめ、彼女はあの全身ミイラ状態のまま五日間眠り続けた。

そうして六日目の朝――今日の朝、朝食の前に意識を取り戻したんだ。

 

……正直、一ヶ月近く昏睡状態で居てもおかしくない傷だよね。

何かもう『貧弱で病弱な姉』の姿がフェイクみたいに思えてきた。そんな目に合っても大して心の傷を負っていない事がその疑惑に拍車をかける。

 

あ、いや。あの怪我だらけの有様を見る限り貧弱なのは間違ってないのか? もうワカンネ。

まぁ、このまま魔法パワー全開での治療を続けていれば二ヶ月弱で歩けるまで回復するとの事で、とりあえずは一安心と表現してもいいんじゃないかな。

 

……え? 「らしい」とか「そうな」とか、伝聞系の表現が多いって?

そんなの当たり前だろ、実際殆ど人から貰った情報なんだから。

ああそうだよ、今までの事は全て又聞き。それも僕が尋ねた訳じゃない、無理やり聞かされた物だ。

 

ベッドの上でどんより縮こまってた所にアーニャよろしく押しかけてきて、嫌がる僕を他所に耳元で大声で叫ばれたんだ。鼓膜が破れたかと思ったね。

誰にって、彼女以外で僕にそんなことしてくる奴なんて、そんなの一人しかいないじゃないか。

 

――――目の前で呆れた表情を浮かべながら僕に拳を振り上げてる、クソ爺ことスタンその人だよ。

 

 

 

 

 

 

「――せっかくネカネが目ぇ覚ましたというに、何やっとんじゃお前さんは」

 

「ぐ、ぐぎぎぎ……ぎ、ち……ちが……! 僕の所為じゃ……ないのに……!!」

 

ネカネの病室から追い出された後。

有難い説教をかましてくれたヤブ医者の愚痴を言いながら廊下を歩いていた僕は、曲がり角でばったり会ったスタンに拳骨を食らって悶絶していた。

 

どうやら騒ぎを聞きつけていたらしい。僕の顔を見るなり「またお前かしゃーねーな」みたいな溜息を吐かれたのが最高にイラっと来たね。

 

「……く、くそ。せっかく、人が歩み寄りを見せれば、これだよ。よ、世の中クソだな」

 

「今までの態度が態度じゃからなぁ、ネカネにとっては夢のような話じゃったろうて」

 

――ただでさえ、色々あって心が弱ってたじゃろうしの。感極まってもおかしか無いじゃろ。

彼はそう言って、松葉杖を脇に挟み入院服の懐を弄り始める。多分、タバコか酒を探した無意識の仕草だったのだろう。

途中でここが禁煙禁酒の徹底されている病院であり、そもそも入院服にそんな物を仕込んでいなかった事に思い至ったのか、はたと気付いた様な顔で手を戻したよ。

 

そしてその動きのまま、「またそれかよしゃーねーな」みたいな呆れ顔で溜息を吐いていた僕の頭を流れる水の如く自然に引っぱたき。少し気まずげな様子で髭をいじくり始めた。

 

「確かにワシも見舞いに行ったれとは言ったが、流石に『あ~ん』とは。ネカネもぼーずも随分と積極的になったもんじゃ」

 

「……おい……お、おい……!」

 

今の一連の流れで僕が殴られる要素なんてあったか。

気まずいからって安易に暴力に走るなよ、こんなんだから老害って言われるんだよ。

僕は痛みに滲んで来た涙を拭き、左目でスタンを睨み付けようと顔を上げて―――「っ……」――彼の顔を直視した瞬間、直ぐに目を逸らした。

 

「……ん? 何じゃね」

 

「……、いや……」

 

その姿を不審に思ったらしいスタンが声をかけてきたけれど、僕は咄嗟に返事をする事が出来なかった。

彼の体罰に怯えた訳じゃない。そんなのは既に慣れっこだからね、今更臆する必要も無い。

 

……見ていられなかったのは、包帯の巻かれた彼の頭部。白の隙間から覗く、無機質な石となったその容貌。

それは耳の先から額の中程、鼻筋を通るようにして唇のすぐ上までを侵食し、彼の顔の右半分を石仮面へと変貌させていた。

そうして、敵を――おそらく化物を――睨み付けた険しい表情のまま、時が止まったかのように固められているんだ。

 

――彼もまた、事件で大怪我を負った一人だという事だ。アーニャやネカネとはまた違う方向性で、ね。

 

何でも石化魔法とやらの所為らしい。顔の他にも右手の中指とか右足の脛から先とかが石になっていて、ここが魔法使い専用の病院じゃなきゃとてもじゃないけど出歩けない様相だ。

とりあえずは時間をかければ大体は治るって話だから、大して心配はしていないんだけど――――包帯の隙間から僕を射抜く、敵を睨み付けた状態で固まっている灰色の眼光がまるで僕を責め立てているように感じて、どうしても気後れしてしまう。

 

……スタンは何時も通りで変わらないから、僕の被害妄想なんだろうけど。

 

「……べ、別に僕から言い出した訳じゃ、無い。ネ、ネカネの方から、言い出して来たんだ」

 

「……? ああ、『あ~ん』か、『あ~ん』をか?」

 

「れ、連呼すんなよぅ……!」

 

何時もとは違う、突っかかって来ない態度に彼は違和感を覚えたようだけど、特に何を言うでもなく。

今更ながら自分のやった事の恥ずかしさに赤面し始めた僕をからかう事に意識を向けたようだった。

ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、頭に肘を乗せて体重をかけながら寄りかかってくる。頭半分石化してるからクソ重いんですけど。

 

「ひょっひょっひょ、多分ネカネも冗談のつもりだったんじゃろうなぁ。お前さんが乗っかって引っ込みが付かなくなってしもうただけで」

 

「…………」

 

「せめてもーちっと段階踏んどけばなぁ、少しは違ったと思うんじゃがのぅ」

 

「…………」

 

「まぁ、何じゃ。あれじゃよ、身の程は弁えとけっちゅーこっちゃな。コミュ症が付け上がるから碌な、」

 

僕は勢い良くしゃがみ込んだ! スタンは松葉杖をつっかえ棒にして転倒を防いだ!

 

「お、とと……身体のバランスが崩れてるんに、酷い事するのぅ。倒れて砕けたらどーしてくれるんじゃ。ぷんぷん」

 

「……く、くそ……何だよ、僕が悪いのかよ……! 皆して説教しやがって……!」

 

善意の行動だったはずなのに、何なんだよこの結果は。

やはり自分のキャラに合わない事はするもんじゃないね、僕は僕らしく排他的であるのが一番だ。今回の事は星来たんが与えたもうた啓示と思って、さっさと忘れる事にしよう。

僕は胸に湧き上がる苛立ちのまま、スタンの横を通り過ぎ、すれ違い様に陳腐な報復としてつま先を右脛に当て擦った。コツン、と軽い音が響く。

 

……少しは取り乱す事を期待したけど、彼は少し眉を上げるだけで目立った反応は返さず。何故か残念そうに僕を見送るその視線にやたら腹が立った。

 

「お? ……何じゃ、もう終いか」

 

「も、もう、付き合ってられるか。僕は、お見舞いに行かせてもらう……!」

 

そうフラグを吐き捨てて早歩き、僕は振り返る事無く廊下の角を曲がろうとして――――

 

「――――聞かんのか?」

 

ぴたり、と。背後から投げかけられたその言葉に、足を止めた。

そうして首だけを傾げてスタンの方を見れば、何やら試すような視線で僕を射抜いていて。

 

「…………」

 

「…………」

 

……何を? なんて。聞き返す必要は無かった。だって、心当たりは幾らでもあったから。

あの事件は何だったのか、何故あんな事が起こったのか。化物達は何者だったのか、僕の殺した奴らは誰だったのか、そして――――あの日、スタンは何を言おうとしていたのか。

この約一週間、僕はその一切を誰にも尋ねていなかったんだ。スタンが聞かせてくれなかったら、被害状況すら知らないままだったかもしれないね。

 

「…………」

 

……もしかしたら、彼は僕の事を怪しんでいるのかもしれない。

 

僕は、あの時自分がやった事を誰にも伝えていなかった。当たり前だ。そんな事を言っても誰も信じてはくれないだろうし、信じたら信じたで面倒な方向へ話が転がっていくのは目に見えてるからね。態々地雷を踏みに行く趣味は無いよ。

 

唯一の目撃者であるアーニャも詳細は把握していないだろうし、今はそんな事を伝えられる状態じゃない。錯乱が収まったとしても『幻覚』の一言で片付けられてしまう可能性が高いだろう。

……おや、期せずして二人だけの秘密が発生してしまったようだ。ちっとも色気を感じないけど。

 

ともかく、そんな今の状況では、村人達には何が起こったかなんて知る術は無く、まったく理解していないはずなんだ。

突然襲ってきた化物達が、同じく突然現れた茨によって消し去られた。リアルブートされたディソードは誰にでも視認できるようになるから、おそらく村人の中ではそんな認識になってるんじゃないかな。

 

それに加えて、僕が殺した人間の死体。それが発見され事件の原因だと分かれば、当然魔法使い達も――スタン達も必死になって調べざるを得ない筈だ。どんな些細な綻びも見逃さないくらいにね。

 

思い返してみれば、最後に別れた時の様子からしてスタンは僕の事に何か気付いてた感があった。

その内容次第では、当事者にも拘らず事件に興味の薄い僕に何か疑いの目を持っていても不思議じゃ無い。

 

……まぁ、でも。正直、僕にとってそんなのはどうでも良いんだけど。

 

「……で?」

 

「……? で?」

 

だって、そうだろ?

 

「――それ、聞いた所で。何か意味あんの?」

 

きょとん、と。

スタンの残った左目、僕と同じ境遇のそれがぱちくりと瞬いた。

 

「……ん?」

 

「い、いやだから。僕みたいな、ガキに。で、出来る事なんて、泣き叫ぶか、引き篭るか。そのどちらかしか無いじゃないか。っそ、そ。そんなの、今までと何も変わらない。僕が、僕として暮らしてくのに、何も、何も。違わない」

 

……僕は、今回の出来事のあらましに興味を抱いていない。

それは村に思い入れがない事や、面倒事を避けたいという気持ちとは別に。今の僕に何も出来る事が無いという事も挙げられる。

まぁ、ぶっちゃけ体の良い言い訳なんだけど、残念ながらどうしようもない程に事実でもあるんだ。

 

……ギガロマニアックスの力で村の復興? 村人のケア? 僕が知るかよそんな事。少なくともあの黒い化物はどうにかしてやったんだ、だったらそれで最終イベントは終了だろう?

 

――今の僕の目の前にあるのは選択肢じゃなく、エピローグへの一本道。今更赤ミームを聞いて立てられるフラグは、もう何もない。

……ネカネとかに何か頼まれたらDLCに繋がるかもしれんけど。それはさておき。

 

「し、真実とか。秘密とか。謎、現実。そそんな、面倒な事を抱え込む……のは。そ、そうなんなきゃいけない奴が、その気になった時。且つ。よ、余裕を持ってる場合にすればいい。んだ……」

 

そう、それが一番いい。将軍との邂逅で、それを思い知ったよ。

あの時も、今回も。力が無かったにも関わらず知らないといけなくて、知らなきゃ幸せだった事が多すぎた。

 

――そして、その全ては既に手遅れに行き着いて。だから僕は、これ以上何も聞かない。聞きたくない。

 

このまま口を噤んでいれば、スタンがどう思おうともそれは疑い止まりにしかならないんだ。何もしなければ何も起こらない。

僕が何とかしなきゃいけなかったニュージェネの時とは違い、進んで事件に関わっていく必要なんて今の所無いんだからね。

 

――君子危うきに近寄らず、キモオタ現実に近寄らず。僕らしくて大変よろしい。

 

「……むぅん」

 

そうして何やら腑に落ちない様な表情で目を細め、長い顎鬚に指を埋めて、わしわしと引っかく。

何かを思い出すかのように、或いは何かを忘れようとするかのように。彼の眉間には深い皺が刻まれ、眉が逆八の字に歪んだ。

 

「もうちっと、真っ直ぐに向き合えんものかのぅ」

 

……そして、ぽつり。

 

『何かもう、ええわ』みたいな呆れた表情で僕を見つめ、おざなりに嘆息。

ひらひらと手を振りながら松葉杖に体重をかけて体を倒し、妙なバランス感覚でふらふらと身体を揺らし始めた。

その姿は不貞腐れた子供の様にだらしなく、彼の精神年齢が如何に低いかが如実に分かる事だろう。

 

「……そ、そっちは? 何も、無いの」

 

「さて……あった気もするが、忘れたの」

 

――ぼーずが情けないままであるなら、当分思い出す意味も無いじゃろなぁ。

 

彼は何故か皮肉めいた笑みを浮かべながら、そう呟いて。ばっちんと似合わないウィンクをしたよ。

……何となく気恥ずかしくなった僕はそれに一つ鼻を鳴らし、今度こそ振り向く事無く歩き出した。

勿論、挨拶なんてしないままだ。

 

「…………」

 

「……あー、馬鹿らし馬鹿らし……」

 

……でもまぁ、あれだけ言われたまま一矢報いずに去るのも癪である。

 

角を曲がった先、背後で未だぶちぶち言っているスタンが歩き去っていく音を確認し――――僕は廊下の壁面に設置されていた非常電話が変化した睡蓮の剣に軽く触れ、妄想した。

それに禁忌めいた縛りは存在しない。将軍との繋がりが絶たれた以上、彼の事を気にする必要も最早存在しないないのだから。

 

そうして思い浮かべるのは、唯一つ――――。

 

「――――おっひょぉう!?」

 

どんがらびったん。

 

『突然重心のバランスが崩れ』ずっこけて、床に『肉』を打ちつけたらしい彼の悲鳴を聞きながら、僕はひっそりとほくそ笑んだ。

 

 

**********

 

 

アーニャの居る病棟は、僕の病室から少し離れた場所にある。

 

受付を通って、幾つかの廊下を通り過ぎ、幾つもの扉を通った先。病院の中を何度もくねくねと曲がってようやく辿り着ける、簡単には外に出られないような奥まった場所。

持ち込むものや面会できる時間も厳しく制限された――言ってはなんだけど、精神が不安定になっている患者を押し込める牢獄と言ったところだ。

 

聞いた話では、怪我の治療をする医師や魔法使いは勿論の事、白魔法使い的な人や精神科医、カウンセラー等多くの専門医が詰めており、かなり充実した施設らしい。

……隔離病棟。精神科医。カウンセラー。

いや、うん。何かもう、まぁ、あれだ。ギガロマ的に凄まじく不吉な語群ではあるよね。

というか、魔法使い()が絡んでいる時点で野呂瀬達のあれやこれやよりも胡散臭さでは上では無かろうか。いや、あれはまた別のおぞましい何かか?

 

ともあれ、怪我と錯乱というデュアルショック状態のアーニャは、その一番景色の良い病室で眠っているんだ。

瞼の裏という『黒』の見える事の無いように、カーテンを大きく開け日差しをその小さな身に浴びながら。

部屋を漂う埃が日の光を反射したのか、キラキラとしたエフェクトもかかっているその姿はまるでどこぞの御伽噺に出てくる眠り姫のようだった。

 

……ただし、安眠できてない方の奴。

 

やはり、あの時の光景は彼女の心に大きな傷を付けていたらしい。閉じられた目の下には薄いながらも隈が出来ていて、ハの字に顰められた眉は眉間に皺を形作り。苦悶の一歩手前の表情で魘されていた。

 

「……じゃあ、静かにね」

 

「……ど、うも」

 

左目しか使えず、少しバランス感覚を崩している僕をここまで案内してくれた看護士に一言告げ、後ろ手にドアを閉める。勿論、音を立てないようにゆっくりと。

そうしてきちんと閉まったのを確認した後、僕は足音を立てないようにしてそっとアーニャに近寄っていく。

 

……普通はこんなにもデリケートな環境に三歳児を、しかも一人っきりで放り込むなんて馬鹿な真似はしないんだろうけど、そこはそれ。ギガロ☆マジカルで一発である。

こんな便利な力が使えなくなってしまった将軍はさぞかし不便な思いをするはずだろう。そう思わなきゃやってらんね。

 

少々うんざりとした気分になりながら、ベッド横の椅子を引いた。

 

「…………」

 

「ぅ……あ……」

 

なるべく音を立てないように気を付けたつもりだったけど、アーニャは人の気配を察知したみたいだ。

怯えるように、求めるように。掠れた声を漏らしながら、弱弱しく首を動かして身動ぎをする。

 

起きてしまうかと一瞬体が固まったけど、どうやら僅かに寝返りを打っただけだったようで、ほっと一安心。

何か碌でもない夢を見ているのか、閉ざされた瞼の裏で眼球がピクピクと痙攣しているのが分かったよ。

 

「……アーニャ」

 

僕はそんな彼女の姿に痛々しい気持ちを感じながら――――そっと、頬に手を伸ばした。

起こさないよう慎重に、皹だらけのガラスに触れるが如き繊細さをもって。僕の掌が子供特有の柔らかな肌を包み込む。

 

指先が目の横に触れた瞬間、彼女は一瞬だけ大きく身動ぎをしたけれど……やはりその目が開く事は無く。

悪夢に魘されたまま、不規則な寝息を立て続けていた。

 

――あの時の経験から、彼女は『黒い物』に対する強い恐怖を覚えている。

 

化物の黒。血の色の黒。

黒色を見る度にそれらを思い出し、錯乱。夜の帳にも怯えて碌に眠れなくなってしまったそうだ。

 

そうして遂には今みたいな明るい内に眠るようになって、昼夜が逆転。しかしそれでも完全に眠る事は出来ないみたいで、数時間毎の覚醒と睡眠を繰り返している。

 

そのため、僕は未だ覚醒状態のアーニャには会えていない。

会いに行っても今みたいに面会できる時間中は寝てるし、何より彼女付きの精神科医が対面するのはもう少し待ってあげて欲しいって言うんだ。

 

せめて錯乱の兆候が無くなってから。心に巣食う恐怖心がある程度薄れてからにしたほうが、彼女の精神に負荷を与えないで済むとのお達しだった。

一応、眠っている最中。短時間ならお見舞いに来ても良いとの事で、僕は眠っている彼女の顔を眺めに来るのが日課となっていたんだ。

 

……まるで質の悪いストーカーだ。そう考えて自嘲する。

 

「……、……」

 

そうして僕は彼女に謝罪の言葉をかけようとして、失敗。中途半端に口を開いたまま、何も言えずに口腔を閉じる。

 

……分からないんだ、彼女に何を言うべきなのか。

 

残酷な光景を見せてトラウマを負わせてしまった罪悪感はある。今だって自責の念は溢れ出てるし、申し訳ない気分でいっぱいさ。

けれど、それとは逆に僕は彼女を責めているんだ。お前が余計な事を言わなければ、僕は今頃消えられていたのに、って。

 

――傷つけてしまったという確固たる罪と、楽になれる道を奪ったという身勝手なエゴ。相反する二つの感情が、謝罪という正しき行為を邪魔していた。

 

「…………は」

 

「ぁ、ぁ……」

 

彼女を見つめたまま、僅かに吐息を漏らす。

それは溜息とも言えない様な、僅かな呼気。

こんな子供一人にすら満足に気持ちを伝えられない自分の情けなさにうんざりとした。

 

……いや、それだけじゃない。彼女を助けられる力を持っているのに、それを行使しようとしない臆病さ加減にもだ。

 

そう、僕にはアーニャを今すぐにでも回復させる手段がある。

妄想の力、心と現実を捻じ曲げるギガロマニアックスとしての力。

将軍が七海にやったように、その力を使って辛い記憶を消してしまえばそれだけで彼女は救われるんだ。

 

村が襲われた記憶も、僕が吹き飛んだ記憶も。何もかもを無かった事にすれば、また以前のような気丈な彼女が戻ってきてくれる。

こんな所に隔離される必要も無くなって、全部が全部元通りになるんだ。

 

……なのに、僕はそれを絶対にしたくないと思っている。

 

「…………」

 

思い出されるのは、僕が意識を失う寸前。

ぐちゃぐちゃに乱れきった思考の中で、アーニャが僕にかけてくれた言葉にも満たない短い単語。

 

――――『タク』

 

……何の事は無い、何時も呼ばれている僕の名前だ。

記憶を消したとしても、きっと同じく呼んでくれる筈の、それ。

たった二文字の言葉を放ってくれたという事実を、忘れて欲しくなかった。

 

勿論、状況が状況だったしアーニャがその事を覚えてくれているかは疑わしいよ。

でも、例えそうだったとしても。もし本当に記憶を消してしまったら、無かった事になってしまうんじゃないのか。彼女だけじゃなくて、僕も『以前の僕』に戻ってしまうんじゃないのか。

それを考えると、どうしてもその気に成れなくて。それどころか忌避感すらも沸いてしまうんだ。

 

――――アーニャの為じゃない、このキモオタは自分自身のためという最低な理由で彼女の治療を拒んでいるんだよ。情けなさ過ぎて涙が出てくる。

 

「……周囲共通認識は、二人以上の人間が揃って初めて出来る事柄なんだ」

 

「…………」

 

「だからあの時の事を覚えている君が居なければ、僕は僕で居られない。きっと、駄目になって消えてしまう」

 

「ん…………」

 

そうして感じている負の感情をごまかすように、小さな声で話しかける。

それはまるで、浮気のばれた恋人に言い訳をする駄目男。或いは非のある自分を正当化しようとしてる駄目人間

まぁ、実際はそんな色気のある関係ではないんだけれど、概ねは間違っていない筈だ。

 

「……あの時、君は言っていたよね。僕の事を見てるって。僕の事を知ってくれるって」

 

「……ぁ……」

 

「……だったら、頼むよ。お願いだから……」

 

彼女は僕の言葉に何も言わない。先程までと変わらず、ただ魘されているだけだ。

頬に当てた掌からは、柔らかい感触と一緒に高めの体温が送られてきて、それが何らかの意思を伝えて来るようにも感じられて――――

 

――――僕は目を閉じて、彼女と心=妄想をシンクロさせる。

 

「…………」

 

「ぅ…………?」

 

流れ込んでくるのは、僕やネカネが破裂して化け物に食われているイメージ。

いや、僕らだけじゃない。スタンをはじめとした村人達や両親。彼女の知っている全ての人々が、黒の化物に惨たらしく殺害されていくんだ

 

身体が醜く撓み、臓器が吹き飛び。一面の雪景色を醜く汚して。アーニャの視界を粘ついた血液の色――つまりは、赤の混じった黒へと染め上げて行き。

そうして徐々に世界が真っ黒に染まっていって、最後にはアーニャは一人孤独に発狂し、絶叫する。そんな夢だ。

 

――――それはあまりにも醜悪で、残酷で、陰惨な悪夢。

 

「っ…………」

 

……改めて僕が仕出かしてしまった事に大きな罪悪感を抱くけれど、唇を噛み締めて堪え。妄想を叩きつけてその光景を改変する。

アーニャを苛む悪夢そのものを削除し、新たな夢を構築。黒に犯される彼女の世界を浄化し、青と白の世界を――将軍と梨深の思い出の場所を創造するんだ。

そうして彼女の傍に僕やネカネ、ついでにスタンの姿を寄り添わせ、悪夢とは真逆の穏やかな世界を描き出し。彼女の心に重ねて。

 

「……ぁ……」

 

すると、彼女から安堵の溜息の様な物が聞こえた気がした。

左目を開けて確認してみると、先程までの魘されていた表情が嘘のように消え、安らかな寝息を立てていたよ。

 

「…………」

 

……それはただの気休めかもしれない、根本的な解決策とは程遠い一時凌ぎに過ぎないのかもしれない。

 

今日のアーニャにこうした所で、どうせ明日の彼女はまた同じように苦しむ事になる。今見た夢を忘れ、新しい悪夢に犯されるんだ。

場当たり手法、いたちごっこ、ミストさん。言い方は色々あるけど、根本的解決には程遠いって事は共通してる。

 

……けれど、今の僕にはそれしか出来ない。

もっと良い方法があるのは知っている。取れる手段があるのも分かってる。

でも、それでも、僕は。

 

「…………」

 

僕は深い眠りに落ちたらしいアーニャの頬から手を離し、パイプ椅子の背もたれに体重をかける。

そうして首だけを回し、病院の窓の外――憎らしいほどに晴れ渡る青い空と、その下に広がる鬱陶しい町並みを眺めた。

 

見えるのは、街中を歩く人々の姿。一人一人が考え、決断し、行動している光景だ。

 

「…………ひ」

 

それを見ているうちに無意識に口の端が歪み、お馴染みのキモい吐息が漏れ出る。

 

……将軍は、この世界を妄想によって作られた心象世界だと言った。

木々も、人も、歴史も、何もかも。見聞きでき、感じられる全てが妄想の産物だと。そう言った。

ギガロマニアックスに精通している君が言うんだ、きっと、それは正しい事実なんだろう。

どうしようも出来ない程に、どうにも成らない程に、ね。

 

――――けれども、まぁ。

 

「……ふぅ……」

 

僕は溜息を一つ付き、窓の外から目を逸らし、視線を天井に上げる。

そうして思い出すのは、僕の心の奥底に巣食う彼らの事だ。

 

――おりんご、美味しいよぅ……。

 

――まぁ、何じゃ。あれじゃよ、身の程は弁えとけっちゅーこっちゃな。コミュ症が付け上がるから碌な――。

 

思い思いに行動し、僕を焦らせ、僕を苛立たせる彼ら。

ノアⅡがどんな妄想と情報を捏ね合わせたのかは分からないけど、本物の人間と同じ位に面倒臭くて僕を振り回している事に変わりないじゃないか。

この世界だってそう。毎日毎日クッソ寒いし、願った所で突然暖かくも成らないし、村人は冷たいし、僕が僕として振舞う事さえ許されていなかった。

 

――そして、目の前の女の子の記憶一つすら好き勝手に弄れていない。

 

幾ら妄想から造られた心象世界だと言っても、これじゃあ煩わしい現実と余り変わらないじゃないか。妄想なら妄想らしく、もう少し融通を利かせてくれたって良いんじゃないのか。

 

「……く、クソゲー過ぎるでしょう、マジで……」

 

……まぁ、実際帰れなくなってここで暮らしていく事になった以上、僕にとってはここが現実とならざるを得ない訳だけど。

将軍との繋がりを絶ち、生きる事を選んだ僕にとって、この世界はもう元の場所に戻る為の繋ぎじゃなく無くなっているんだ。

故郷の村を失い、みんなは怪我だらけで、幼馴染は僕自身が傷つけて。面倒そうなフラグが乱立中。

そんなリセット必須のイベントだらけにも拘らず、逃げ出す事も許されていない現実世界となっていて。

 

……これから。こんなボロボロの現実で暮らしていかなきゃならないと思うと、僕は心底死にたくなったよ。選択を撤回して、マジで、本当に、クイックロードしたい。

 

「……ぁー」

 

納得したくない『現実』を認識し直した事による絶望感と共に、天井に向けていた視線をアーニャに戻し、彼女の顔の横に倒れ込む。

本当はベッドの端に額を乗せる程度の筈だったんだけど、片目の視力が極端に落ちてる所為で目算が狂ったのか、思っていたよりも彼女の近くに飛び込んでしまい、一瞬ヒヤリとしたよ。

しかし先程のシンクロの影響かアーニャは穏やかに眠ったままで、起きる様子は欠片も無く。

 

「…………」

 

彼女の顔が近くにあると言うこの状況に、あの時の様子を幻視し、再び口の端が歪み。同じようにゆっくりと目を瞑った。

……今ならば、謝れるかな。そんな事を思って。

僕は感情に任せたまま再び口を開き――――そして、やはり言葉が出てこない事に落ち込んだのだった。

 

――――そうして。

 

窓から差し込む日の光が僕の瞼の裏側を焼き、暖か過ぎない冬の陽光が僕達二人を呑み込んで。

僕は燻った心を持て余し、アーニャは久しぶりの安眠を貪り続ける。

 

……こんな何処までも噛み合わない僕達は、何時までこの関係で居られるのだろう。そんな事を考えかけて、直ぐに止める。今考えると、多分ドツボに嵌るだろうから。

 

時間は幾らでもあるんだ。だったら、面倒な考え事は明日以降に回せばいい。明日にもその気にならなかったら、また明後日。それが駄目ならまた次の日に。

 

蟠りも、謎も、憤りも、後悔も、懺悔も、全部誰かに押し付けて、先の未来に持ち越して。キモオタはキモオタらしく、後ろ向きに生きて行くんだ。余計な事を考えず、今はただ彼女に対する罪悪感だけを抱いてればそれでいい。

 

「…………はぁ」

 

溜息を付いて目を開き、顔を上げて眠る彼女の横顔を眺め。

そうして安らかな寝顔を見ているうちに、僕は予感した。

 

それは確信。

 

それは真実。

 

僕はこれから先もずっと。こうやって情けなさ極まる逃避を続けるのである――――――――。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 




■ ■ ■

無機質な、廊下。
外気の冷たさが染みこむ灰の通路に、二つの足音が響く。

「…………」

「…………」

一人は、俯き加減で壁伝いに歩く小柄な影。
そしてもう一人は、小さな花束を肩に担ぎ、大股で歩く大柄な影。

進む方角も、纏う雰囲気も、歩く速度も。何処までも正反対で、何処までも対照的な二つの人物。
彼らはお互いの姿を認識していないかのように通り過ぎ、すれ違い。別々の方向へと足を進めていく。

「――なぁ、ガキ」

「…………」

大柄な影が声をかけ、小柄な影が足を止める。
振り返る事も、首を傾げる事もせず。彼らは背中を向けたまま相対し。

――そして、声が飛んだ。


「お前、親とか欲しいか?」

……傍から見れば、唐突にして意味不明な言葉。
それは小柄な影にとっても同じだったようで、戸惑ったように首を捻り――しかし、確かな意思を持って口を開いた。

「……は、初めから居ないし、今更、いらない……」

「――ヘッ、言いやがる」

その掠れた声はとても小さなものだったが、はっきりと廊下に響き、残響し。空気に溶けて消えて行く。
大柄な影はその返答に後頭部を引っかき、溜息を一つ。そうして何処と無く楽しげな雰囲気を放ちながら、手を一つ振ると歩き出す。
その足取りは、先程よりも楽しげであると同時、どこか寂しそうにも見えた。

「…………」

残るのは、未だ立ち止まったままの小柄な人影だけ。
しかし、彼もやがては歩き出し、立ち去った影とは反対の方角へと消えて行く。後にはもう、何も無い。



――――これより先、彼らは二度と邂逅する事は無かった。


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エピローグ  ある少年の休日

 

 

 

【将軍(人物)】

 

――――――――――――――――

 

将軍(しょうぐん)は、日本のフィギュア原型師。年齢、性別、出身地共に非公開。

 

『ブラッドチューン The ANIMATION』の第一話放送直後、星来オルジェルの1/8スケールフィギュアを製作元である5pbに送付。

そのオリジナルとは思えない程の圧倒的な完成度の高さに製作スタッフが痛く感動し、公式ブログ内にて紹介された事から広く認知されるようになる[1]。

 

アニメのワンシーンを基にした、しかし実際には描かれていない構図や表情を造り出す事に定評があり、まるでファンの妄想を形にしたかの様な出来からアニメスタッフの間からは『妄想将軍』『分かってる将軍』の愛称で親しまれていた[2]。

先述の経緯からか後に正式にフィギュア原型師として採用され、星来オルジェル、エリンフレイ・オルジェル、セドナ三名のフィギュアが将軍名義で発売されている。

 

極端に露出が少なく、将軍というペンネームと熱狂的なブラッドチューンのファンという情報以外は一切不明であり、5pb側も情報を公開していないため謎の多い人物である[3]。

 

 

【代表作】

 

――――――――――――――――

 

・星来オルジェル(Nitroplus限定通販)

・星来オルジェル.覚醒後ver.アナザー(Nitroplus限定通販)

・エリンフレイ・オルジェル(Nitroplus限定通販)

・セドナ(Nitroplus限定通販)

・キラリ&ピンクうーぱ(Nitroplus限定通販)

・すーぱーそに子・サムライ☆コンデンサ装備ver.(Nitroplus限定通販)

・疾風迅雷のナイトハルト(個人製作)[4]

・大和天使リーゼロッテ(個人製作)[5]

 

 

【脚注】

 

――――――――――――――――

 

1.^ ファンブックのインタビューによると一話に付き一体が毎週欠かさず送付され、その数は話数と同じ全26体にも及んだとの事。そのため週刊将軍と呼んでスタッフ達も楽しみにしていた。

 

2.^ 現在では『俺たちの将軍』と呼ばれている。

 

3.^ 5pb/Nitroplusによるラジオ企画で広報担当者がゲストとして参加した際、将軍を「彼」「食べちゃいたいくらいイケメン」という発言をしていた事から男性である事が伺えるが、詳細は不明。

 

4.5.^ 元は大規模MMORPG『エンスパイア・スウィーパー・オンライン』の超有名プレイヤーの一人。本人達の発言では、立体化の許可は出しているとの事。将軍との関係は不明。

 

 

【関係リンク】

 

――――――――――――――――

 

・木島――――……

…………………………

………………

……

 

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 

――――何か、情けない夢を見た。様な気がした。

 

 

「……ふぁ、ふ……」

 

窓の外からちゅんちゅんとスズメの鳴き声が響く早朝。

ベッドに身体を縛り付けんとする睡魔を振り解いて上半身を起こした僕は、顎が外れるくらいに大きな欠伸を漏らしたよ。

 

時計を見れば、朝の七時。

何時もと同じ起床時間だったけど、今日は休日だしもう一時間位寝ていても良かったかな。何だか少し勿体無い気分になった。

……布団の暖かさが、穏やかな魔力を発している錯覚を受ける。

 

 

「……いや、やめよ」

 

 

このまま二度寝をしてしまいたい欲望に駆られたけど、それをしたら大幅に寝過ごしてしまう事になるだろう。

今日は友人達と出かける予定が入っているし、それは余り良くない。起きてしまったものは仕方が無いと諦め、大人しく起きる事にする。

 

 

「……ふんっ」

 

 

眠気を吹き飛ばすように、気合を一発。

被っていた布団を小さく跳ね上げ、まだぼんやりとしている重い頭を引き摺ってベッドから降りて、伸び。

喉の奥から呻き声に似た声が漏れ、幾らか思考がはっきりとした。

 

そうして、ひたひたと裸足の足音を立てて部屋の隅にあるクローゼットへ向かう。

乱雑に放り込まれた衣類の中から長袖のシャツとスラックスを取り出し、パジャマを脱ぎ捨て身に着けて。そして最後に冬の間愛用していた半纏を被り、部屋のドアを開けて廊下に出た。

暦上は既に春とはいえ、まだ少し肌寒いからね。僕は肉も薄いし、これくらいの厚着で丁度良いんだよ。

 

 

「……あ、おはよ。お兄ちゃん」

 

「うん、おはよう」

 

 

リビングに着くと、既に妹がソファに寝転がり寛いでいた。

背の中程まである長髪をそのままに、長袖のトレーナーとスウェット姿の彼女。

その目線の先にあるテレビには何か野菜のようなキャラクターが体液を撒き散らしながら暴れまわるアニメが映っていて、挨拶の時もそこから目線を外さなかったよ。

……この春から高校生二年生になるというのに、まったく色気の無い姿である。

 

 

「お父さんとお母さんは?」

 

「んー、お母さんは何か町内会の当番で出かけて、お父さんは仕事行ったー」

 

「仕事? 休みなのにこんな早く……」

 

「昨日の夜に言ってたじゃん」

 

 

何を? と聞きかけて、夕食の時の事を思い出す。

……そういえば、部下がヘマをしたとか何とかで愚痴ってた気がするね。

 

僕は得心を一つし、妹から意識を外し台所に向かう。

そしてお茶碗を取り出し、ご飯をよそり。戸棚から取り出したお茶漬けの素を振りかけリビングにとんぼ返り。朝食の準備だ。

 

 

「お母さん待たないの?」

 

「うん、今日はほら、友達と早くに出かける予定だから」

 

 

これまでも何度か同じ事があったけれど、母が帰ってくるのは決まって8時か9時位だったからね。それを待っていては友達との集合に遅れてしまうよ。

妹の疑問にそう返しつつポットからお湯を注ぎ、テーブルに着いてお茶碗を傾ける。

緑茶の香りの混じる熱い即席スープが舌先を潤し、後から梅の風味を纏った白米が僕の口内に流れ込んだ。

 

 

「え、お兄ちゃん、今日出かけるの? どこ? 109とか行く?」

 

「う、うん? まぁ、行くんじゃないかな。多分」

 

 

突然食いついてきた妹に面食らって、少しどもりつつも肯定する。

今日出かけるメンバー。僕と、幼馴染の少女と、あともう一人。三人で一緒に出かける時は、高い確率でそこに行くからね。だから今日もきっと――――

 

――……ん?

 

 

「……109?」

 

「ねえ、それナナも付いていって良い? ねぇねぇ」

 

 

何か違和感を覚え、首を捻る僕を他所に妹はそう提案してきた。

……提案、とは言ったけれど、彼女の目には活発な光が宿っていて、拒否は許さないと雰囲気が語っている。

 

 

「……まぁ、大丈夫じゃないかな。一緒に行くのも何時もの二人だし」

 

「やった! ナナもちょっと買い物したかったんだぁ」

 

 

そう言って、彼女はにっこりと笑った。

……買い物がしたいんなら一人で行けば良いんじゃないかな。

そう思ったけど、そこはきっと女の子ならではの彼是があるんだろう。と思考停止。

 

まぁ妹も二人とは仲が良いし、連れて行けば皆喜ぶだろう。悪い事なんて何も無い。そう結論付けた

 

 

「分かったよ。じゃあ遅れないように準備をしておいてね」

 

「えーっと、何時出発?」

 

「とりあえず九時……いや、八時半には出るかな。散歩がてらに歩きで」

 

「八時半か……じゃあまだまだ大丈夫だね」

 

 

妹は部屋の壁にかけられている時計を確認し、テレビへと向き直った。

そうやってのんびりするから、何時も出かける直前になってからバタバタするんだよ。

……なんて本音はおくびにも出さず、お茶漬けを啜りながら同じく番組に目を向ける。

 

画面の中では、主人公(どうやら侍らしい)がUFOみたいな変態機動を駆使して敵をボコボコにしていた。

基本アニメを見ない、しかもかわいい物好きな妹の趣味には合わなそうな番組だけど、彼女の視線はその雄姿に釘付けだ。

 

 

「……『ねぎぼうずのあさたろう』……? これ、面白いの?」

 

「んー、ナナも初めて見たからお話は良く分かんないけど、グリグリ動いて面白いよ。それに敵の侍さんも何か可愛いし、ゲロカエルんみたい」

 

「……そうかなぁ……?」

 

 

どう見てもちょっと気持ち悪い見た目で、加えて主人公に殴られまくっているのだけれど。相変わらず彼女の趣味は謎である。

何となく引っかかる物を感じながら、僕は静かに食事を続ける。

 

 

「……わー……」

 

「…………」

 

 

そうして、後は特に会話はなく。

結局、僕と妹は番組が終わるまで席を立つことは無かった。

 

 

*************

 

――東京都、渋谷区。

 

 

まだ冬の残り香が僅かに漂う肌寒いビル街の中を、僕達は歩いていた。

幾多のビルが立ち並び、あちらこちらで電光が輝く賑やかな道。

もうそろそろ花の咲き誇る季節になったにも拘らず、立ち並ぶ街路樹の先端で膨らんでいる花の蕾は、未だ咲く気配を見せず硬いまま。寒さを一層引き立てていた。

木の種類がそういう物なのかもしれないけれど、何となく寂しく思って。早く咲かないかなと待ち遠しい気分になる。

 

そうして周りに響くのは、多くの人々の雑踏。

休日の所為か、お昼時に近くなってきた所為か。家を出た頃にはまだ疎らだった人込みが密度を増し、それなりにくっ付いていなければ直ぐに離れ離れになってしまいそうだった。

目的地の近くにあるスクランブル交差点に近づくにつれ、それが顕著になっていたよ。

 

 

「……あ、FESだ」

 

「え!? ……って、んだよ掲示板かよ」

 

 

僕の隣をくっ付いて歩く妹が、無意識と言った風情で上げた声に、僕の友人――同じクラスの男子生徒が驚愕と共に反応し、そしてあからさまにがっかりした。

少し後ろを歩く彼の姿は見えなかったけれど、肩を落としているのが手に取るように分かったよ。

 

FESと言うのは、最近メジャーデビューした人気ゴシックバンド『ファンタズム』のボーカルの名前だ。

その圧倒的な歌唱力を誇る彼女はマイナー時代から相当な人気を誇っていて、彼はその時代からのファンなんだ。

……彼女の歌に惹かれているのか、それとも容姿に惹かれているのか。さて、どっちだろうね。

僕は立ち並ぶビルの一角に映る、容姿端麗な美少女が歌っている姿を眺めながら苦笑した。

 

 

「たはは、本当にFESの事好きだよね。この前もライブ行ってたし」

 

「ん、ああ。まぁ歌もそうだけどあんだけ美人だしな、俺がチェックを欠かす訳ねぇじゃんよ?」

 

「うーん……何だろう……何か上から目線な様な……」

 

 

そして、彼の隣を歩いていた僕の幼馴染の少女はその返事に呆れたように半眼。少量の軽蔑の混じった視線を向けた。

幼馴染は『そういう事』に対してはそれなりに硬い方だからね。可愛い女の子を見ればすぐさま目を付ける彼の姿勢に不満があるのだろう。

 

しかし彼はそんな事を気にも留めずに朗らかに笑い続けるだけで、後ろめたさを感じさせず。清清しい程のナンパ男ぶり。

白い歯輝く無駄なイケメンフェイス。丁度すれ違った双子の姉妹のうち、眼鏡をかけた方が目を奪われていたのに気付いて何となくイラっと来たよ。

 

 

「あ、勿論ナナちゃんもチェック対象の一人だぜ? どうよ、今度二人きりで遊ばね?」

 

「いやちょっとちょっと、実の兄の前で妹を口説かないでくれないかな」

 

「……ん? 私は?」

 

 

自分の名を呼ばれなかった幼馴染が首を傾げるのを横目に、僕は妹の間に身を乗り出して首を突っ込んできた彼を押し返し、犬を追い払うときのように手を顔の前で振った。

背が高い、格好良い、優しい。そんな三拍子揃っている彼だけれど、こと女性に関してはすこぶるだらしが無いのだ。

妹を任せるには少々の不安が残るため、兄としての権限で友人以上としての接触は禁じさせてもらいたい。

 

 

「まぁどうしてもと言うなら、その爛れきった女性関係を清算してから来てよ。そうすれば考えてあげない事も無いからさ」

 

「うわひっでぇ。それがダチに言うことかよオイ」

 

「んー……ナナもちょっと遠慮したいかな。先輩と仲良くしてると何か刺されそうだし」

 

「ねー、私はー?」

 

 

妹もそんな彼の事を良く分かっているため、満更でもないような様子を見せつつも困った顔で辞退した。

そうして「割かしマジなんだけどなぁ……」と呟きながら押し黙る彼を放置し、何となくFESの映る電光掲示板へと目を向けて――――

 

 

「……?」

 

 

何となく、既視感。今も画面の中で歌っている彼女に、何か懐かしいものを感じた。

それは以前彼女をテレビで見たとかそういう物じゃない、もっと身近で現実感を伴ったもの。

一度も会った事なんて無い筈なのに、彼女の一挙手一投足が僕の記憶を――あるはずの無いその扉を叩いて、鳴らし。こめかみに頭痛が迸る。

 

……そういえば、今日見た夢に彼女に似た人物が出てきたような気が――

 

 

「? どうかした?」

 

「……いや、何でもないよ」

 

 

……『四・五人の女性の地雷を踏み抜き、寄って集って殴られる』と言う情けない夢を思い出した僕は、無理やり目線を掲示板から離し前を向く。

そうして背後から僕を覗き込む幼馴染の不思議そうな視線に気付かない振りをして、勤めて平静を装った。

 

……のだ、が。

 

 

「……ははぁん? 分かった、お前も俺と同じでFESの事を……」

 

「…………んー?」

 

「いやいやいやいやいやいやいや」

 

 

スケコマシの頓珍漢な言葉を受けて、幼馴染からの視線の色が変わっていく事をひしひしと感じ、僕は物凄い勢いで首を振る。

別に幼馴染が怒っても、説教を受けるくらいで大きな被害は無い。無いのだけれど……何となく、彼女にそう言った誤解を受けるのは嫌な感じがして。

 

その様子に妹がくすくすと笑い声を上げるのを恨めしい気分で聞きながら、僕は必死になって幼馴染に言い訳を始めた。

――こめかみの痛みは、何時の間にやら消えていたんだ。

 

 

 

 

 

スクランブル交差点。

 

そこは様々な人々の思念が混じり合い、一瞬の混沌を作り出して。数多の人間が交差し、通り過ぎ、縁とも言えない様な薄い糸を摩り合わせる場所だ。

信号待ちをしている今でも、歩道で塞き止められている人を見れば、どれだけ多くの人数が集っているのかが簡単に分かったよ。

 

そうして人に囲まれて立っているまま少し視線を上げれば、僕達の目に飛び込んでくるのは周りの建物に切り取られるようにして一際目立っているビルと、それに書かれた109の文字。

今日の目的地。友人と妹が行きたがっていた巨大ファッションビルだ。

 

天高く聳え立つその建物の内部には、幾つもの服屋や雑貨屋。お洒落なカフェやレストランなど若年層に人気の店が詰めこまれており、渋谷を代表するスポットの一つになっている。

そのため『今時の女の子』をやっている妹や幼馴染、女の子と遊びたいが為に自分を磨いている友人は事ある毎にここに来たがるんだ。

 

……僕としてはファッションには余り興味を惹かれないんだけど、仲の良い友人達と一緒に店を見て回ったり、幼馴染や妹の艶姿を見るのは楽しく思う。

時々妙な衣服を進められる事もあるけれど、それもまた一興。僕は彼女達とここに来る事を毎回楽しみにしていた。

 

 

「…………」

 

 

……けれど、今日は何だか違和感がある。

それが一体何なのか。特にはっきりとした点を指せる訳じゃないけれど、何か前と違う気がして。

良く分からない疼きが胸奥を焦がし、何となく落ち着かない。

 

 

「……お兄ちゃん、調子でも悪いの?」

 

「え? ああ、何でもないよ。ただくしゃみが出そうだっただけ」

 

 

『109』の文字を見つめている僕を不審に感じたのか、妹が少し心配そうな顔でそう尋ねてきて。思わず間抜けな弁解をしてしまった。

……言ってしまった以上、くしゃみの演技の一つでもすべきだろうか。

 

鼻をひくひくさせながらそんな事を思っていると、肩に肘を置かれた感覚。

振り返ってみれば、友人が僕にもたれかかってニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべていた。好みの女の子を見つけた顔である。

 

 

「なぁ、見てみろよあの子。すっげー美少女」

 

 

そう言って彼が指差した先を見てみると、妹らしい小さな女の子と手を繋いだ黒髪の女性と、その隣を歩くツインテールの女の子の姿があった。

三人とも美少女といって差し支えない容姿をしていて、仲睦まじく談笑していたよ。

 

彼はそんな彼女達に声を掛けようか掛けまいか迷っているようだった。怪しい光を瞳に灯しながら、ブツブツと何かを呟いている。

 

 

「あの人は知ってるけど……隣の娘は始めて見るな、何処の学校だ?」

 

「もー、またそうやってナンパみたいな事するんだから。ビシィ!」

 

 

そしてやはり琴線に触れたらしい。幼馴染が最早癖となっている擬音を言いながら、チョップをぽこぽこと叩きつけて来た。

……彼と、彼が寄りかかる僕に向かって。理不尽であると言わざるを得ない。

 

 

「いやちょっ、何で僕まで、あたっ」

 

「はっはっはっは、まぁそう嫉妬すんなよ。いてっ、お前もあと少しで及第点に届……いてぇっ!」

 

「ビシ! ビシ! ビシィ!!」

 

 

止めとけば良いのに、無駄に彼女を煽る友人の所為でチョップの力が5割増くらいに上がった。とんだとばっちりだよ。

腕で頭をガードしつつ、他の通行人に被害を与えないよう最小限の動きで逃げ惑う。

 

 

「――あ、青になったよ」

 

 

そうして我関せずと一歩離れた位置で見守っていた妹の声を皮切りに、僕と友人は交差点へと飛び出した。

信号が変わり、次々と横断歩道に踏み出してくる通行人よりも一歩先に、チョップの嵐から逃れ早く対岸の歩道へと辿り着くべく全力で走る。

……勿論、向かいから歩いてくる人が近くなったら元に戻すつもりだけど。ぶつかったら危ないしね。

 

 

「……よっし、せっかくだから声かけてくるわ!」

 

「ええ!? ちょっと待っ」

 

 

どうやら決心がついたようだ。僕の少し前を走っていた友人がそんな事を宣言し、先程見かけた女の子の方に方向転換。スキップでもするかのような身軽さで走り去っていった。

……やはり彼には妹は任せられないね。今改めて確信したよ、まったくもう。

 

そして追いかけてきている筈の幼馴染の方を見てみると、突然明後日の方向に走り出した彼に一瞬驚いたようで。

しかしその意図が分かったのか、後ろを付いてくる妹に何某かを告げた後猛ダッシュで彼の背中を追いかけて行ったよ。

 

……どうやら僕に関しての危機は去ったようだ。彼の命運を祈る。

 

 

「はぁ……、あ」

 

 

後ろからのんびり歩いてくる妹の姿を眺めつつ、安堵を乗せた溜息を一つ吐き。

そして、自分が交差点を渡る集団から一人突出していた事に気がついた。

 

……………………。

 

……恥ずかしい。

交差点の中心付近に一人だけと言うこの状況。今更ながらに子供の様な事をしてしまったと羞恥心が湧き上がる。

 

 

「……うあああ」

 

 

何だか周りの人々が僕を注視しているような気がして、妙な呻き声を上げた。

僕は赤くなった顔を手の甲で隠しつつ小走り。早く対面に渡ってしまおうと109の方角に振り返って――――

 

 

 

 

 

 

――――彼らの姿に気付いたのは、その時だった。

 

 

 

 

 

 

「……ん……?」

 

 

ふと、周囲に感じる違和感が大きくなった。

特に何かが変わったという訳じゃない。前に見える通行人も、後ろを歩く妹たちも。何一つとして変わっていない筈なのに。何故か僕はどうしようもない『ズレ』を感じていて。

 

それはまるで、立ち入りを禁止された聖域に足を踏み入れてしまったかのような、罪悪感を伴った居心地の悪さ。

僕はここに居てはいけない、それに気づいてはいけない。そんな気分になったんだ。

 

 

――そうして、そんな歪な空間の中。彼らは、交差点の中心を歩いていた。

 

 

人数は二人。長身の男性と、外国人の小柄な少女だ。

年は多分、僕と同じ位だろうか。男性のほうはフードを目深に被っていたから顔は分からなかったけれど、少女のほうは遠目に見てもはっきりと分かるくらいに可愛らしい顔立ちをしていたよ。

 

少し険の入った釣り目勝ちの瞳には紅色の綺麗な光が宿り、西洋人特有の白い肌とすっと通った鼻筋。赤の色素が混じった髪の毛はツインテールに纏められ、小柄な身長と相まってまるで人形のようだ。

僕の友人たるスケコマシが居たら、間違いなく声をかけていただろうね。

 

少女は隣を歩く男性の腕に抱きついていて、白い頬をうっすらと赤く染めていた。表情は恥ずかし気に歪んでいて、まるでお化け屋敷の中を歩くカップルを連想させたよ。

その様子から彼らは恋人か若しくは仲のいい友人同士にある事が察せられたけれど――その姿に感じられるはずの甘い雰囲気が少ない事が、少しだけ気になった。

 

……例えるならば、共依存。だろうか。互いに互いを拠り所にしているような、そんな不安定な印象を受けたんだ。

まぁ、妄想なんだろうけど。

 

 

「…………」

 

 

二人はゆっくりと、しかし真っ直ぐに僕に向かって近づいてくる。

勿論、彼らが僕に用があるなんて思ってはいないよ。お互い逆の方向に進んでいくうちに、僅かな一瞬だけ袖が触れ合うだけだ。

 

そうは分かっているんだけれど、彼らが――特に男性の方が。僕を見つめているような気がして、場の空気もあり非常に落ち着かない。

フードで視線は隠されてるのに、自意識過剰も良いところだよ。

さっきまで忘れていた気恥ずかしさを思い出し、僕は進む速度を速めた

 

 

「……?」

 

 

そうして彼らとの距離が縮まるにつれ、男性のズボンのポケットから人形のような物が覗いている事に気がついた。

 

それはどうも美少女フィギュアのようだった。

肩から下はポケットで隠れていたけれど、きっとあざといポーズをとっているんだろう。黒いズボンの布地が歪な形に歪んでいたよ。

 

……なんでそんなの持ち歩いているんだろう? 気にはなったけど、初対面の人にそれを尋ねる理由もなく。

僕は彼の横を擦れ違おうと、一歩左に踏み出して――――

 

 

 

 

 

「――――――――」

 

 

 

 

 

 

――――擦れ違う寸前、何か声を掛けられた気がした。

 

 

 

「……え?」

 

 

 

怨嗟。

悲しみ。

羨望。

悔恨。

 

様々な負の感情を乗せた一言が、僕の耳朶を妖しく揺らし。

 

 

「え、あの、今――、ぁ?」

 

 

そして、慌てて振り返って確認しようとしたけれど――――そこにはもう、誰も居なかった。

 

先ほど擦れ違った男性も、彼に抱きついていた少女も。

確かに存在した筈の彼らが、まるで煙のように消え去っていて。

必死になって首を振り目を動かしても、見えるのは他の通行人だけ。彼らの痕跡すら見つける事が出来なかったよ。

 

 

「……な……えぇ?」

 

 

幽霊? それとも白昼夢?

僕は突然起きた非常識な事態に混乱し、立ち止まってうろたえた。恐怖や怯えという負の感情ではなく、純粋に驚愕していたから。

 

――そうして気付けば、辺りを包んでいた違和感も跡形も無くなっていて。いつもの見慣れた景色、見慣れた空気に戻っていたんだ。

 

 

「…………」

 

 

……一体、何だったんだ? 何が起こったんだ?

疑問と驚愕でうまく働かない頭のまま、ぼんやりと視線を戻し。何時もと変わらない『107』の文字を眺めて――――そして、僕の体は雑踏に飲み込まれていった。

 

どうやら、驚いている内に追いつかれたようだ。

周りを通り過ぎていく通行人に混じって、妹が僕に近づいてきた。

そうして立ち尽くしていた僕の服を引っ張って、一緒に歩き出す。

 

 

「何やってんの? こんな所で立ち止まってないで早く渡っちゃおうよ」

 

「え? いや……今、ここに居た二人は……?」

 

「? 誰も居なかったじゃん。お兄ちゃんが一人で何かわたわたやってただけだよ」

 

 

……嘘をついている様子の無い妹のその言葉に、僕はそれ以上何も言えなくなったよ。

 

彼らの姿も、かけられた声も、その感情も。僕ははっきりと覚えているのに。

状況が、妹が。彼らが最初から居ないと言っているんだ。

……本当に、訳が分からなかった。

 

 

「……ねぇ、それ……」

 

「え?」

 

 

そうして頭を抱えていると、妹が僕の手を指差して何とも微妙な表情をしている。

何だろう。そう思ってその視線を辿ってみれば――――

 

 

「……え? は!?」

 

 

僕の右手。何も持っていなかった筈のその掌の中に、一体の美少女フィギュアが握られていた。

それは、先ほど見た彼が持っていた物。

面積の少ない黒っぽい衣装を身に付け、片手には折れた武器らしき物を持ち。そして何故か全身に細かい傷が付いているその少女は、彼のポケットに入っていたそれと同じ物だったはずだ。

触った事も、見た事も無い。けれど見ていると何故か懐かしさを感じるような、不思議な雰囲気を持つ精巧な美少女。

 

――――それが何で、いつの間に僕の手に?

 

彼らから盗った覚えも、握らされた覚えも無いのに。どうして僕はこれをしっかりと握っていて、しかもその事に気付いてなかったんだろう?

まるでスリの逆バージョン。本当に、何が起こったと言うんだ。

消えた二人の事も含め分からない事が多すぎて、何か逆に冷静になってきた気さえもして――――

 

 

「………………………………………、ん?」

 

 

はた。と。

唐突に我に返り、今の状況に気が付いた。

 

――往来の最中。露出の激しい少女の人形むき出しのまま持って、歩きながらもそれをじっと眺めている僕。

 

……あれ、これはちょっと。まるで僕が『場を弁えない困った奴』のような……。

先程とは別種の混乱と焦りにだらだらと脂汗を流しながら、先ほどから無言の妹へ油の切れたブリキ人形の如く、ゆっくりと顔を向けた。

 

 

「……うひゃー……」

 

「え、いやあの」

 

 

予想通り、彼女はそんな僕を冷たい視線で射抜いていたよ。

じっとりと淀んだ視線が僕を嬲り、胃がきりきりとした痛みを訴え始めた。

 

そして摘んでいた服をそっと離し、スススと音も立てずに距離をとり始め。さっさと交差点を渡り切るべく足取りを速めて僕を置いて行ってしまった。

……心なしか、通り過ぎる通行人の方々も冷たい目をしているような気が。

僕は思わず焦り、取り乱し。必死の思いで彼女に追い縋った。縋らずを得なかった。

 

 

「いや、その、違うんだよ。これはそういうアレじゃなくて」 

 

「お兄ちゃん……ううん、そうだったのは良いんだけど、わざわざ外まで持って来るのは……」

 

「そうだったのって何がどう『そう』だったの!? いやもうほんとに違うんだってば……!」

 

 

しどろもどろ。右手にフィギュアを持ったまま、回らない舌で弁解をしようとするも上手く伝えられない。

 

そもそも一体、どう伝えればいいのだろうか。

幽霊の二人組みに会って、美少女フィギュアが出現しました? 白昼夢が正夢になりました? どっちも意味が分からないよ。

僕自身何がどうしてこうなっているのか原因からして分からないのに、気の利いた言い訳なんて出来る訳がないんだ。

 

……後から思えば、道の途中で拾った事にして道路の縁石の上にでも置きに行こう。とか言えば良かったのかも知れないけど、そんな事は欠片も思い浮かばなかった。

焦っていた事もある。余裕が無かったって事もある。しかし、それよりも。

 

――このフィギュアは、『もう』手放してはいけない。

 

そんな良く分からない執着心が僕の心を犯していて、捨てると言う選択肢を消し去っていたんだ。

 

 

「あの、あのさ、何ていうか、そう、よく知らないけど、きっと、何か、大切な――」

 

「そんな大切な物だったら、外で見ないでよ! 良いから早くしまって!」

 

「え? ――うわぁ!?」

 

 

彼女の言葉に僕は未だフィギュアを握り締めたままだった事を思い出し、慌ててショルダーバックの中に突っ込んで――――そして、過ちに気付く。

……仕舞えと言われて迷いなくバッグに入れてしまった以上、最早言い逃れは出来ない……!

 

 

「……うーん。これはちょっと報告、かなぁ」

 

「ほ、報告? え、誰に? ねぇちょっと」

 

 

パニックになり涙すらも滲んできた僕は、何やら物騒な発言をする妹にそれは止めてと縋り付き。

そうして、先程の名も知らぬ男性に囁かれた言葉が脳裏をよぎる

 

 

 

 

 

――――――――リア充、爆発しろ。(これは、きみがもってろよ)

 

 

 

 

 

全く意味の分からないその一言がグルグルと耳の中を残響して。

僕は友人達と合流するまでにどう妹の誤解を解くべきか、必死に脳を回転させた。

 

 

――――世界のどこかで、陰鬱な笑い声が響いた気がした。

 

 

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Chaos;an onion HEAD Chu☆りっぷ!
怪奇! ぶつくさ少女現る現る 編


アフターストーリー的小話系なサムシングだも。
悪の組織とか、でないも。


――私は、普通だ。

 

……私が自分にそう言い聞かせるようになったのは何時からだったろう。

少なくとも中学生になる前、小学校中学年の時には既に口癖となっていた気がする。

 

やたら自分を特別だと思いたがる子供が発するには、些かマセた言葉である事は否定しない。私自身もそう思うよ。

しかし、そう思わなければ当時の私は壊れてしまうかもしれなかったのだ。肉体的にでは無く、精神的に。

勘違いしないで欲しいが、別に虐待や虐めを苦にしての現実逃避を図っていた訳では無い。いや、むしろそうであったら逆に救われていただろう。

何故ならば、それは現実的な問題だからだ。この現代社会において当然のごとく唾棄される社会問題、万人が――私を含め皆が自然に認識できる、完膚なきまでの「異常」なのだから。

 

「…………」

 

……異常。そう、異常だ。

私という存在は、目の前に広がる「異常」という名の現実を他者と共感できない病に冒されているらしい。

簡単に言えば、皆が当然と思う事象を異常と感じ、無駄に大きく騒ぎ立ててしまうのだ。

まぁ、それだけならば単なるお騒がせと切り捨てる事ができるだろう。クラスに大抵一人は居るお調子者のポジションだ。

しかし私はそんな自分や理解を示さない周囲に憤り、酷く傷ついてしまう。こっちがズレていると表現するのは、とてもじゃないが納得できなかった。

何故私だけが気づく? 何故皆は分からない? 何故気にしない? 何故、何故、何故……。

 

そう落ち込み、悩んだ事は一回や二回では済まないと思う。それこそ小学生という身軽な立場でありながら、胃潰瘍で入院しかけた事もある程だ。

原因は勿論度を超えたストレス。レントゲンで写された胃には無数の黒い穴が開いていた……と言うのは流石に盛り過ぎであるが、血を吐いたのは確かである。

精神病、なのだろうか。そう思いたくはないけれど。

 

「……私は、普通だ」

 

で、まぁ。だからこその口癖って訳だ。

私は普通だ。おかしいのはお前らであって、決して私では無い――幼かった私はそう言い聞かせる事で精神の均衡を図ったのだ。

 

無論、口には出さない。出したとしても呟く程度に収め、人に聞かせるようにはしない。そうした所で無駄に突っかかられる事は、これまでの経験で容易く想像できていたから。

私は普通だ、私は普通だ、私は普通だ。何度も何度も呟き続ける内、私は自らの精神が平坦になっていく感覚に気がついた。

おそらくそれはある種の諦めであり、同時に驕りでもあったのだろう。周囲に理解を求めることを止め、ただ理解できない生物であると見下すようになったのだと思う。

 

まぁ、それが良くない事だというのは何となく分かってはいるよ。私が好きなマンガやアニメ作品でも、そんな奴は敵役として出てくるからな。

しかし、しょうがない。周囲に併合しようとした結果、体調を大きく崩すまでに至ったのだ。ならそれはもう無理って事だろう?

例え客観的にはこっちが間違っているのだとしても、それを私は認めない。多分、大人になっても、絶対に。

 

――私は普通なのだ、おかしいのは私じゃない。「異常」を「異常」として認識しないアホどもこそが本当の異常。

 

否、人だけじゃない。私が住む街も、国も、物理法則だって皆どこかが狂ってる。まともなのは私だけなんだ。そう、私だけ。

……もし私も――長谷川千雨も「異常」に染まれたのなら、どれ程気楽に生きられるだろう?

どこか。心の片隅でそう思いながら、私はゆっくりと窓の外を見る。

 

「…………」

 

私の住む街。そこに広がるモダンな町並み。その中央に鎮座する天を突く程に巨大な大樹――世界樹。

明らかに「異常」でありながら、世界から「普通」と目されている、それ。

 

……私の呟きは、今日も止まりそうになかった。

 

 

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■ ■ ■

 

 

「……あぁ、だっり」

 

冬の終わり、春の手前。

もう3月も近いというのに未だ寒さの残る街道を歩きながら、私は欠伸と共に呟いた。

涙に滲む視線の先には幾つもの大きな建物が聳え立ち、それぞれの目立つ場所に設置されている大時計が日光の光を反射し燦然と輝いている。

ヘタしたら県の五分の一程度を占めるほどに広大な敷地、その中における私の通う女子校エリアの校舎郡である。

 

――ここ、麻帆良学園都市はとてつもなく大きな街だ。

 

女子中等部だけではなく、幼稚園から大学まで。その生徒達を収める寮施設は勿論、数多くのグラウンドや商業施設等もあり、全て含めれば東京ドーム一個二個の面積では済まないだろう。

日本でも、いや、海外から見ても異常な程に広い世界最大級の学校施設。学生の学生による学生の為の街。そんな場所に私は居るのだ。

……何でだろう? まぁ家庭の事情としか言えんのだが、何となく憤りを感じざるを得ない。

 

「ふん……」

 

遠目に見える校舎の周囲には少なくない人影が集り始めており、皆一様にそれぞれの校舎へと向かっていた。

チラリと時刻を確認すれば投稿時間にはまだ余裕があったが、そろそろラッシュ組の第一陣が駅に乗り込んだ頃だろう。あの常軌を逸した混雑具合を思い出し、身震い一つ。自然と歩む速度が早くなる。

 

「もっと早く出らんねーのかね、あいつら」

 

自転車やバイクは勿論、スケボーやローラースケートを始め数多くの学生達がありとあらゆる移動手段を駆使する麻帆良名物「通学ラッシュ」。

果たしてその中にやむを得ない事情を持つ者は何人居るのだろう。お前らもう少し早起きしろよ。

「ふぃー」愚痴と一緒に口内で温まった吐息が吐出され、白い靄となり乾いた空へと立ち上る。その際眼鏡が曇り、逆に冷たい息で吹き冷やす。

ここ最近で随分と慣れた仕草だ。それだけ寒い日が多かったという事でもあろう。だから何だって話だが。

 

「さて、と」

 

まぁ、そんな事はどうでも良い。損を被るのは「普通」の私では無く「異常」なあいつらなのだから。

自分の通う女子中等部の校舎に到達し、ローファーから室内靴に履き替え思考も変える。ああ、思考に割いた脳細胞が無駄に疲弊したようだ。何と勿体無い事か。

 

「あ、おっはよー長谷川!」

 

「ん……ああ、おはよう」

 

そうして下駄箱を閉め終えた瞬間、肩口より喧しい声をかけられた。同じ2-Aに所属する明石裕奈だ。

明るく元気で気さくで活発。私の質とは正反対の大して親しくもない間柄だが、一年の時から同じクラスで過ごせば少しの馴染みにはなる。

個人的にも「普通」の範囲内に居る彼女は嫌いではない。ちらりと視線を向けた後、義務的に挨拶を返した。

 

「ふんふーん」

 

「…………」

 

……で、そのまま立ち去るつもりだったんだが、何故か明石は私の隣に付いて歩き始めた。まぁ向かう先は一緒な訳だから、人懐っこいコイツはそうするよな。

裕奈も特に要件のある様子でもないし、無言で居るのは(おそらく一方的に)何か気まずい。仕方なくこちらから適当な話題を振ってやる。

 

「あー、何かこの時間に一緒になるのって珍しいな。確かバスケ部だったよな、朝練あっただろうに」

 

「え? ああうん。今日もそうだったんだけどさ、何か早めに切り上げろってコーチから言われちゃって」

 

「ふぅん、何かやったのか?」

 

「や、今回は何もないって!」

 

裕奈の天真爛漫さならあり得ない話ではない。自然に喉から滑り出た言葉だったが、どうやら違ったようだ。

彼女は焦ったようにぶんぶか頭を振る。……今回は? いやまぁ、クラスメイトのよしみでスルーしてやろう。

 

「失敗とかじゃなくて、何かウチのクラスに重要な連絡行くから早めに戻っとけ、だってさ」

 

「重要な連絡?」

 

「私も知らないんだけど、何だろね。誰か賞とったとかかな」

 

そう言って裕奈は考えこむが、私としてはそんなポジティブな意味には捉える事は出来なかった。

 

確かに、私のクラスにはやたら優秀な奴らが多い。おそらく、クラスメイトの半数以上はどっかの大会で賞を取れる程の突出技能を持っていると思う。

……だが、それと同時に問題児集団でもある。むしろそちらの配分の方が大きく、教師からの説教や注意は褒められる事よりも多く日常茶飯事だ。

どうせ今回もその類だろうな。裕奈とは対照的に一層気分が重くなり、私は溜息を吐いた。

 

 

そうして辿り着いた教室。裕奈が率先して開いた扉をくぐれば、そこでは結構な数のクラスメイトが談笑していた。

バスケ部が早上がりならば、他の部活も同じという事だろう。何時もは遅刻ギリギリまで来ていない奴も居て、少し新鮮な気分だ。

私は裕奈に挨拶をして別れ、自分の机に着席。鞄からノートPCを取り出し日課である通販サイトやニュースサイト巡りを開始する。

本来ならば咎められるべき行動なのだろうが、この学校はパソコンの持込を禁止していない。ここだけは自由な校風(笑)に感謝である。

 

「……特に、なんもねぇか」

 

通販サイトには目欲しい物は無く、ニュースサイトもまた同様。やれ何処其処で事故があった。それ何処其処で人が死んだ。有名会社の汚職発覚、国会議員応援会の賄賂が云々……。

画面には社会的に結構な重大事が連なっていたが、私の興味を引くようなものは無い。まぁそれらを知る事は情報強者である為に必要ではあると思うが、何が悲しくて朝っぱらから鬱にならなきゃいかんのか。

そうして一つ一つサムネイルの画像を指さしつつ、面白そうな記事を探している――と。

 

「ん……?」

 

――ふと、画面の隅で何かが蠢いた。ように見えた。

単なる見間違いだろうか。一瞬しか見えなかった為良くは分からなかったが、ネズミのような何かがこちらに向かって手を振っていたような――

 

「――よーし! これで完璧!」

 

「!」

 

それを確認しようと目を凝らした瞬間、甲高い大声が鼓膜を揺らし反射的に視線が向く。

するとそこではクラスの問題児として名高い鳴滝風香、史伽姉妹と春日美空が満足気に頷いている姿が目に映る。何やってんだあいつら。

疑問のまま彼女らの視線の先に目をやれば、そこには教室の扉の隙間に黒板消しを挟む超古典的なブービートラップから始まるえげつない罠の連鎖が仕掛けられていた。

「……?」いや、ますます分からん。ホント何やってんだ。

 

「……きっと、新任の先生をイタズラで迎えようとしてるんでしょう」

 

「え?」

 

そうして頭の中でクエスチョンマークを増やしていると、首を傾げる私を見かねたのか隣席で読書をしていた綾瀬がそう囁いて来た。

ちらり、と光の薄い瞳がこちらを向く。

 

「新任の……先生?」

 

「ええ、結構噂になってるですよ」

 

ほら、と綾瀬が促すままに周囲へ耳を傾ければ、確かにあちらこちらから「クラスに新任の先生が来るらしい」との言葉が聞き受けられる。

これがオチャラケた奴らでの間だけだったならともかく、クラス内では真面目で通っている奴も口にしているのでそれなりに信憑性はあるのだろう。

 

「私、初めて聞いたぞ。それ」

 

「まぁ今朝早く神楽坂さんが話してただけですからね。何でも昔からの知り合いだそうです」

 

「へぇ、神楽坂のねぇ……」

 

綾瀬はそのまま読書に戻り、話を続ける気は無さそうだ。私は軽く礼を言い、何となく件の神楽坂を見た。

彼女は何時もと違い落ち着きのない様子であり、それをクラス委員長の雪広に咎められ何やら言い合いを…………、

 

「……いや、ちげぇだろ」

 

「普通」はトラップ仕掛けてる鳴滝姉妹達を止めるもんなんじゃないのか。仮にもその新任教師と知り合いだって言うんなら尚更さ。

やっぱあいつもどっかおかしいのかもしれない。そう思いつつ、私はPCへと目を戻そうとした。のだが。

 

「、っと」丁度良く始業のベルが鳴り、手早くPCを折りたたみ机の中へと突っ込み始業の準備。

……それと新任教師とやらも少しは気になり、先の違和も後回しにしてぼんやり扉の方角へと意識を向ける。ミーハーだと笑うか? いや、これは「普通」なこったろーよ。

 

「……んー」

 

そして、そこに仕掛けられたトラップを解くか否か、少々思案。

 

先生が引っかかれば空気が悪くなるかもしれないし、もし厳しい人であったら連帯責任か何かでこちらに被害が及ぶ可能性もある。

しかし目立ってまで真面目ぶるのも私のキャラじゃないしなぁ。はてさてどうしたものやら。

八割方「気づかなかった振り」の側に触れている天秤をちょっぴりぐらつかせつつ、軽く眼鏡を押し上げた。

 

「……あ! 来たみたいだよ!」

 

そうして迷っている(自分を正当化する振りだったかもしれない、多分)内に誰かが声を上げた。残念、タイムリミットだ。

 

(ひひひ、スタート!)

 

――ガラリ、と。鳴滝姉妹の小さな合図と共に、扉が滑り開く音を聞いた。

 

 

 

 

鳴滝姉妹のイタズラは、中学生の考えるものとは思えない程に狡猾である。

 

まず教室の扉を開くと黒板消しが落ちる。これは古今東西誰でも思いつくような使い古された案であるが、奴らはそこで思考を止めない。

むしろそのポピュラーさを利用し、相手を油断させ意識を逸らす為の布石として使用するのだ。

その本命は床近くに仕掛けられたロープであり、それに足を引っ掛ける事で転倒を誘い――追撃に水入りバケツと吸盤矢からなる悪辣なコンボを展開する。

……いや、どう考えてもイタズラの域を大きく越えてねぇ? やっぱ止めとくべきだったかな、これ。

 

(私は知らん、なーんも知らん)

 

逸らした目を閉じ、耳を塞ぎ。完全なる普通人である私には、せめて新任教師が穏やかな人であるよう祈りを捧げる事しか出来ず。

極めて健康に悪そうな早鐘の鼓動が、体の内側から鼓膜を揺らした。

 

「…………」

 

揺らして。

 

「…………」

 

揺らし……。

 

「…………?」

 

……しかし、待てども何も起きない。

罠に引っかかった教師の悲鳴も、それを見たクラスメイトの囃し立ても。何も聞こえず静かなものだ。

不発に終わったのだろうか? 私は恐る恐る目を開き、視線を元に戻した。

 

「…………」

 

――数瞬、目を奪われた。

 

理由は簡単。罠が仕掛けられた場所――開け放たれた扉の前に立っていたのは、世にも美しい女の人だったからだ。

多分他のクラスメイトも大なり小なり彼女に見惚れているんだろうな。何だ、キマシタワーの建築か?

 

「――ええと、その」

 

滑らかな金の髪に真っ白な肌、均整のとれたモデル体型。その容姿を見る限り明らかに日本人では無さそうだ。よく分からんがアメリカとかイギリスとかそっち系だろう。

彼女は扉の前で困ったような表情を浮かべながら、右手の黒板消しを掲げて私達と床のロープとで視線を往復させている。どうやら鳴滝姉妹の罠は敢え無く防がれ、その上看破されてしまったらしい。

 

「……まぁ、とりあえず入りましょうか。大丈夫?」

 

「え、えっと……はい。これくらいなら……」

 

女性はそのまま暫く迷った風だったが、その後ろに控えていたらしい指導教員のしずな先生の声を受け、ゆっくりと室内へと踏み込み――「……ん?」

 

(あれは……松葉杖、か?)

 

今気づいた。さっきは扉の影に隠れて見えなかったが、確かに機能的なデザインの松葉杖のようなものが左の肘に装着されている。

よくよく見ればロープを跨ぐ動きもどこかぎこちない気もするし、どうも女性は完全な健常者という訳では無いのかもしれない。……そんな人に罠を仕掛けた事に今更ながら気が咎めたのか、視界の端で鳴滝姉妹が青ざめているのが目についた。メシウマ。

そうして女性が教壇まで辿り着き「はい、注目」しずな先生が大きく手を打ち声を上げた。はた、と教室の空気が元に戻る。

 

「皆おはよう。もう知っている人も居るだろうけど、突然だけど今日からこのクラスを担当する先生が一人増える事になりました」

 

「あの! それって担任が変わるって事ですか!? 高畑先生は――」

 

「はいはい、その辺りも詳しく説明するから落ち着いて。……さ、どうぞ」

 

「は、はい」

 

途中上げられた生徒の声をいなしつつ、しずな先生はにこやかに女性を促した。

彼女は緊張した様子でかけている丸眼鏡を軽く押し上げ、一歩前進。私達『28人』を見渡し、流暢な日本語でこう告げた――――。

 

「――今日からこのクラスの副担任をさせて頂く事となりました、ネカネ・スプリングフィールドです。これからよろしくお願いします」

 

 

 






【本編では出ない変更点】

・紅き翼
ナギ、タカミチ、ゼクト生存。その他のメンバーはアリカ含め生死不明。ただ確実にガトウ含めた何名かは死亡済。

・完全なる世界
フェイト含め全滅。ナギが魔法世界を救うために頑張ってる模様。

・『28人』
まず超が居ないでしょ? よって茶々丸が居ないじゃない? エヴァンジェリンはナギについて回っている事にしよう。学園長の茶飲み友達? 出ないけどゼクトでも置いとこうぜ。

・ネカネ
流石に身体を酷使しすぎて傷害が残ってしまった模様。しかし魔法使えば普通に動く。黒薔薇男爵とか言って地元でブイブイいわせていたらしい。

・タカミチ
クッソ不味いラーメンを作ってはタクミとアーニャに振る舞うため二人からは蛇蝎の如く嫌われている。



申し訳ないのですが、こっちの方ではまたチョロっと描けたら上げるゆっくり投稿になると思います。
早く先読みたいって方がいらっしゃいましたら、お手数ですがArcadia様にある方をどうそ。
ゴメンネ!


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第一種接近遭遇 編

麻帆良女子中等部校舎、最上階。

 

好奇心旺盛な生徒達ですら滅多に訪れないその場所に、麻帆良学園長の執務室はあった。

広大なスペースに気品ある調度品。そこにある全ての物が上質な物ばかりであり、高貴な雰囲気が漂っていたが――女子中等部という位置的なミスマッチが本来あるべきその鋭さを削いでいる。

 

そして、そんなどこか緩んだ室内に二つの人影が立っていた。

一人は四十代程度に見える老け顔の男。そしてもう一つは最早人かどうかも怪しい風貌をした老人であった。

喩えるならば、日本妖怪の総大将ぬらりひょん。異常に長い後頭部と節ばった手足、蓄えられた豊かな髭と妙な貫禄がそれを想起させた。

その老人は男から某かの報告を受けているようで、濃い色の茶を啜りつつ耳を傾けている。

 

「――ふむ、ではネカネ君に関してはそう問題は無いようじゃの」

 

「ええ、むしろ僕以上に良くやってたと思いますよ。女の子ですし、いっその事担任を任せちゃっても良かったんじゃないですか?」

 

「これこれ、あのクラスの担任は高畑君じゃろうに」

 

高畑と呼ばれた男の冗談交じりの言葉を軽く咎め、老人は苦笑する。

しかし高畑の言い分も分からない訳ではない。彼は仕事上海外への出張が多く、クラス担任とは名ばかりと言っても過言ではなかった。

中等部全体の指導教員であるしずな先生のサポートを受けなければ、クラスその物を放置したままだったかもしれない。

その事が分かっているのか老人もそれ以上は何も言わず、咳払いを一つ。

 

「まぁ、それに彼女の本業は医療魔法士じゃ。あまり慣れない事をさせて支障を与える訳にもいかん」

 

「単なる付き添いという事もありますが、体の事もありますしね。余り重いのはいけませんか」

 

「うむ。何より儂の腰もお世話になっとるからの。ちと甘くともバチは当たらんて」

 

――魔法。成人をとうに越えた男性二人が話す話題としては不釣り合いなものであるが、感じるべき違和は極自然に受け入れられていた。

 

老人――――麻帆良学園都市学園長、近衛近右衛門は高名な魔法使いである。

日本における魔術師集団、関西呪術協会の長を代々務める近衛家に生まれながらも相反する西洋の魔法を極めた奇人であり、その流れを汲む関東魔法協会の頂にまで上り詰めた老獪。

かつて魔法世界で勃発した大戦にこそ参加しなかったものの、残した逸話は数知れず。日本や諸外国を始め、魔法世界にも影響力の及ぶ正真正銘の偉人である。

 

……そして当然ながら、そんな大物が学園長を務める麻帆良が極一般的な学校である訳も無し。

普通の生徒が普通の生活を送るその裏で、地球で活動する魔法使い達への支援も行う。麻帆良とは魔法世界側にとっての拠点の一つであった。

とは言っても一般生徒を軽んじている訳では無く、むしろ気づかれない範囲で魔法を利用しての生活支援も行っている。

 

魔法という常識外の存在の秘匿や多少の融通はあれど、驕りや傲慢は少ない。半ば一方的ではあるが、魔法世界と現実世界が共存した場所とも言えよう。

呪術的な防御結界も施され、物理的にも政治的にも簡単に手を出す事の出来ない一種の不可侵領域となっていた。

その多くは良識ある優秀な魔法使い達のおかげだが――彼らを集め、教えを説いたのはこの老人。

近衛近右衛門の名は、関係者の間では畏怖と信頼を持って轟いているのだ。

 

「いやー、にしても若い子の治療は良いのう。一層腰が元気になりよる」

 

「……それ、セクハラになりません?」

 

……まぁ、今現在においてはその貫禄は大分デチューンされているものの。さておき。

 

「ま、とにかくやってけそうなら何よりじゃ。高畑君も先輩教師として指導するのじゃぞ」

 

「すぐに追い抜かれそうですけどね。……それで、学園長。あの娘の事なんですが……」

 

先程までと打って変わり、真面目な様子で高畑は言い淀む。

その顔には困惑とも悲痛ともつかない表情が浮かんでおり、余り良い報告ではない事が伺えた

 

「……うむ、芳しくないかの。やはり」

 

「ええ、ちょっと……どころじゃないですね。かなり」

 

ポリポリ、と。高畑は後頭部を引っかきつつ、気まずげに目を逸らす。

学園長も予め想定はしていたようだが沈んだ様子であり、重苦しい雰囲気が室内へと充満。精神的に作用する重力が二人の心を押し潰した。

そうして暫く言葉の無いまま数刻が過ぎ。やがて高畑が大きく溜息を吐き、学園長へと向き直る。

 

「やっぱり、今からでもイギリスに戻してあげるべきなんじゃないですか。幾ら試練といえど流石に」

 

「そうは言ってものぅ。本人がやる気である以上、儂らに出来るのはそのサポートくらいの物。そして現時点ではこの状況が最善と言わざるを得んのじゃよ」

 

「……強がっては居ますが、二人とも絶対に離れないでしょうしね……」

 

もし引き離せば、壊れてしまう――高畑はそう呟いて再び大きく息を吐き、学園長の机に置かれた書類へと目を向ける。

そこには今しがた話題となっていたネカネ君――ネカネ・スプリングフィールドの写真が貼られた詳細情報が記載されており、その下にもう二枚別の書類が重ねられていた。

 

一枚は赤毛の少女の写真が貼られた物。そしてもう一枚は写真の貼られていない、先の二つに比べ随分と情報量の少ない物。高畑は学園長に断りを入れ、その二枚を手に取った。

最早何度読み返したか分からない物であるが、それから与えられる感情は何一つとして変わらず胸を刺し、色褪せる事もない。

 

「……出来る事なら、強くあって欲しい物です。彼女も、彼も」

 

「うむ、六年前の傷は未だ痛みを保っとるようじゃ。潰されぬよう、少しでも癒えるよう。我々で支えねばならんの」

 

二人はそう頷くと、心の裡で改めて決意を固める。

 

――アンナ・ユーリエウナ・コロロウァ。ネギ・スプリングフィールド。

そう名前の書かれた二枚の書類が、高畑の手の中でカサリと揺れた。

 

 

 

 

「よーし、じゃあ長谷川はこの飾り付けよろしくねー」

 

ぱさり。差し出した掌の上に、折り紙で作られた飾りが乗せられる。

まぁよく幼稚園児が作っているような輪っか状の紙を繋げたアレだ。よく見れば糊付けや紙の切り口等作りが甘く、ガキどもの作るそれと同じように手作り感満載の一品。

「……」一応物づくりが趣味の内に入っている私としては妙な憤りが込み上げるが、無駄に論争する意味もないのでグッと我慢。素直にクラスメイトからの指示に従う事にする。

 

(よくやるよな、こいつらも)

 

私が何をしているのかと聞かれれば、歓迎会の準備と答える。

今日から新しく赴任したネカネ・スプリングフィールド先生を快く迎えるため、ささやかながらパーティを開くのだそうな。

正直面倒臭い事この上ないが、クラスの殆どは乗り気であるようだ。祭り好きも良い加減にしろよ全く。

 

(……にしても、ネカネ先生ねぇ)

 

窓際に飾りをペタペタしつつ、今日の事を思い出す。

 

 

『――外国人の先生だああああ!』

 

『何人? 美人!? 日本語ペラペラ! 知的美人!』

 

『え、何歳ですか!? ってか包容力凄い感じるのに儚いよ! 何か力込めたら折れそうだよあの人!』

 

『え、あの、皆おちつ、』

 

……やめよう。自己紹介後に起こった喧しい質問責め情景を思い出し、軽く頭痛。

美形ではあったが男じゃないのにテンション高かったなぁ。まぁ騒げりゃ何でもいいんだろう、きっと。

しかしあいつらの騒ぐ気持ちも分からんでもない。容姿の事もそうだが、パッと見隙がないというか――優しさは感じるのだが柔らかすぎないというか。

ともかく不思議な雰囲気と魅力のある先生だと言う事だ。ううむ、上手く言えん。

 

「……ま、それでも普通っぽいから良いけどな」

 

「え? 何か言った?」

 

いいや別に。どこからか耳ざとく聞きつけてきたクラスメイトにそう返し、次の作業へと移る。

確かに外国人という事や、松葉杖を突くような身体障害があったりと「普通」では無い要素はある。

しかしそれは「異常」と呼ぶべきものではなく、まだ現実的な要素のはずだ。というか、それらを「異常」だなんて言ったらその方が「異常」だろうよ。

それに担任では無く影の薄い副担任。赴任時期的にもおかしい所はなく、私としてはそれ程気を割く必要性もない。

 

「……ふぅ、こんなもんか」

 

そうこう考えている内に飾り付けが終わり、手持ち無沙汰と相成った。

教室を見回しても特に手伝いを必要とするところは無いようで、これで仕事は終わりという事にして良いだろう。多分。

罪悪感に駆られているのか鳴滝姉妹と春日が人一倍ちょこまか動いているのを眺めつつ、手近な椅子に腰掛けホッと一息。休憩タイム。

頬杖を付きぼーっとする。

 

「…………」

 

ふと、今朝の事が気になった。

そう言えば先生の言がある前に、パソコンの画面に変なものを見たような気がしたんだっけ。

唐突に思い出した衝動のまま鞄からPCを取り出し確認してみたが、気になる物は見受けられない。サイトの新しいギミックだったのだろうか、まさかウイルスなんて事は無いだろうけど。

 

「……無いよな?」

 

や、別に変なサイトとか……見てなくもないが、じっくりとは見てないし。いやでも、迷惑メールとか結構来てるよな。

思えば入れておいた先生はちょっと前に期限が切れていた気もするな。安心とは言えんか。

次々と心当りのような物が浮かび、ちょっぴり不安になりPCをさする。ううむ、情報強者として情けない。

 

「どったの長谷川ー、何かソワソワしてるけど」

 

「ああいや、何でもな――」

 

焦りかけた私の様子に疑問を持ったらしい裕奈に返しかけ、止まる。……待てよ? これをきっかけにすればこの場から抜けられるんじゃないか?

別に私としてはネカネ先生と触れ合いたい訳でも歓迎会を楽しみたい訳でもなく、ただ周囲に迎合したまま手伝っていただけだ。

それを抜けられる免罪符を利用が出来たのなら、それを使わない手はあるまい。私は告げかけていた言葉を取り消し、裕奈の疑問にノッた。

 

「いや、少し心配事があってさ。ちょっと落ち着かないというか……」

 

「ふぅん、そうなんだ。……あ、じゃあ歓迎会どうする? 余裕て言うか、時間とか」

 

「そこら辺は大丈夫だと思うんだが――――、……いや、悪いけど一応ちょっと抜けさせて貰っていい? 空気読まずにスマンけどさ」

 

「多分平気だと思うけど……うーん、残念だけど切羽詰まってるんならしょうがないね。準備だけで終わるなんて災難ですにゃあ」

 

「本当だよ。まぁとりあえずネカネ先生によろしく頼む」

 

「おっけー! 余ったお菓子取り置きしとくよー!」

 

……上手に嘘をつくコツは、一旦相手の提案に乗りかけつつも残念がって断る事である。

いい具合に話の流れをコントロール出来たと私はほくそ笑み、こちらに手を振る裕奈への挨拶もそこそこに静かに教室から抜けだした。

そうして他のクラスメイトに捕まらなかった事に安堵していると、廊下の奥から二つの人影が向かってくるのが見えた。主賓を呼びに行く役の神楽坂と、件のネカネ先生だ。何やら会話をしていてこちらには気づいていないらしい。

 

危ない危ない、こりゃもう少ししたら時間切れだったな。私は彼女に見つからないよう身を縮こませ、足早に階段へと向かったのだった。

 

 

 

麻帆良にはそれなりに大きな商店街がある。

学生手帳に書かれた文言では「広大なスペースに立てられた購買棟」との事らしいが、街道に沿って様々な種類の店舗が立ち並ぶ光景を見ているととてもそうは思えない。

販売しているものも多岐に渡り、文房具やスーパーは勿論、本格的な飲食店やカフェを含んだ食堂棟、電気屋まで存在し、「学生に必要と思われる品」を販売してくれている。大抵の物はここで買い揃える事が出来るだろう。

 

「……さて、到着と」

 

で、まぁ。今回私が用があるのはとある電気屋。電球を始めとした生活用品からPC機器まで幅広い品を取り揃えている私行きつけの店だ。

 

……何を買い求めるのかって? これまでの流れからウィルス対策ソフト以外ねぇだろ。

本当は学外のそれ専門の店やネットで見繕った方が良いんだろうが、外出許可を得るには予めの申請が必要だし、通販は届くまでにラグがある。

一先ずはチェックが出来るソフトがあればそれでいいと妥協し、いそいそと店の扉を潜った。

 

「パソコン関係は確か二階だったよな……」

 

電球、掃除機、暖房器具。それらが並んだコーナーを抜け、エスカレーターに乗って上の階へ。

少しばかり探すのに手間取ったものの、会計ソフトやネトゲのパッケージが並んだ棚に目当ての物を発見。暫く値段と性能を見比べ睨めっこ。

スタンダードな先生か、それとも安価な別の奴か。うーむ、悩みどころである――――と。

 

「……?」

 

……何か、小さな違和感を感じた。

 

「ん、あ?」

 

何がと聞かれると非常に困るのだが、何だろう。私の気づかない何かが、気づかない内に変わったような雰囲気がしたのだ。

自分でも何がなんだか分からないし、「普通」ではないとも思う。しかし小骨が喉に引っかかったが如く些細でイラつく違和感が神経を逆なでし、物凄く気持ちが悪い。

何だ、何なんだこの感覚は……? 

無性に落ち着かない精神の中、私は何かを探すように周囲を見渡し――そして、気づいた。

 

――目の前にある棚の並びが、先程までとほんの少しだけ変わっている。

 

「…………?」

 

会計ソフトとウィルス対策ソフトの間にあった、とあるネトゲのパッケージが消えていた。

咄嗟に自分の持ったソフトのパッケージを確認するが、当然それは違うもの。床にも、棚の裏を覗いても落ちてはいない。

見間違えじゃない、さっき確かにあった事は確認していた。視界の背景でその存在を主張していた。他の客も周りにおらず、誰かが取った気配も感じなかったのに、消えている……。

…………は?

 

「……うーわ、キッモ」

 

悪寒が背筋を駆け上がる。

……取るに足らない。それこそ勘違いで済ませられるレベルの些細な出来事だ。

しかし「普通」を信条とする私にとっては、その小さな「異常」はこの上なく不気味な事象と映っていた。やっぱ精神病のケがあんのかな。

私は咄嗟に値段の安い方のソフトを棚に戻し、早くこの場を去ろうとレジに向かう。

 

「――――」

 

――そして、立ち去るその一瞬の間。何か蒼い棒が視界を過った気がして足を止めた。

 

「……?」けれど瞬きの後には既に跡形もなく消えており、何も見えない。

……こりゃ精神科じゃなく眼医者か? カツカツとローファーを鳴らしながら、気分の悪さに胃元を抑えた。

 

 

 

 

「ウイルス、無きゃ良いけどなぁ」

 

気を取り直しての夕方。

小学生から大学生。幅広い年代層の学生が歩く街道を進みながら、手に持ったビニール袋に目を落とす。

その中身は先程適当に選んでしまったウィルス対策ソフトだ。結局は使い慣れたものを買ってしまった訳だが、まぁ別にいいよな。値段より安全だ。

とりあえず心配事はなくなったと息を吐き、女子寮への道を辿った。

 

「…………」

 

……そうして静かに歩いていると、どうしても気になる物が目に入る。

走り込んでる部活人? 違う。

不良を武力で抑えこんでる指導教師? ツッコミたいが、違う。

いちゃこいてるカップル? 死ねとは思うが、違う。

 

――この麻帆良の象徴とも言える大木。東京タワーと同等かそれ以上に高く聳え立ち、今もなお夕陽の光を遮っている世界樹の事だ。

 

「……チッ」

 

気に入らない。ああ、気に入らない。

脈打つ木肌に、幾百幾千と別れる枝の先に咲く瑞々しい大葉。神秘的であると同時、極めて幻想的な存在だ。

私以外の殆どはこの木の事をすげーすげーと持て囃しているが、明らかにそんなレベルじゃない。世界遺産として厳重に管理されて然るべきモノの筈だろう。

 

それなのにこの街以外では大して知られておらず、ネットでの扱いもまるで誰かに隠匿されているかのよう小さく大きな噂になる事もない。年に何回かは一般にも麻帆良の門を開いているにもかかわらず、である。

 

――おかしいだろう、世界樹という奇異な存在に対しての反応が。もっと騒げよ、静か過ぎる。

 

否、それだけじゃない。この街は規模も常識も住んでいる人間の質でさえも、私の学んだ「普通」とはかけ離れている。

ネットで見る外の世界はもっと落ち着きがあった。もっと狭く現実的なものだった。こんなトンチキ塗れのノーテンキワールドじゃなかった筈なんだ。

つーかさっきの指導教員も何なんだよ普通に生徒殴ってんじゃねぇよそれよりカップル諌めろよ頭湧いてんのか。

何故皆は「普通」なんだ。何故皆は「異常」を疑問に思わないんだ。何故、何故、何故…………。

 

「んぐっ……」

 

ぎち、と。唇を噛み締め目を逸らす。さらりと揺れた明るい色の髪先が、瞼を軽く擽った。

……世界樹という大きな「異常」を見ていると、過去に無理やり押し込めた感情が熱を持つ。それも嫌いな部分だ。

 

私一人が騒いでもどうにもならない事は嫌という程知っている。何時ものように見ないふりして生きればいい。

唇の裏で鉄錆の味を感じつつ、私は最後に世界樹を睨みつけ――目を逸らし。以降は視界に入れないよう明後日の方向を見ながら早足で歩く。

 

あーやだやだ。常識人はつれーわー、マジでー。

……そんな愚にもつかない強がりで自分を慰める姿はさぞ滑稽な事だろう。何かもう逆に悲しくなり、大きな溜息が漏れだした。ちくしょー。

暫く鬱々とした気持ちを抱え、のたりぺったり足を引きずる。

 

「……あん?」

 

そうして商店街を抜け、人気も薄くなった折。

何時もはただ街路樹が整然と並んでいるだけの道に、出店のようなものがあるのに気がついた。

 

「…………」

 

……出店? いや、それ程上等なものじゃないな。

単なる木箱に白い布を被せた簡素な台の横に、やたら綺麗な字で「占います」と描かれた看板が置いてあるだけの店とも呼べないセットである。

看板を見る限り占い屋の一種だろうか。しかし店員らしき影は近くには見当たらない。無人占い機ってか? いやそんなバカな。

 

「……変なの」

 

まぁ気にはなるが、強い興味は引かれない。私はそのままそれらをスルーし、通り過ぎ。

 

「……、……、……」

 

「うおわっ!?」

 

――すれ違いざま、箱の影に隠れるようにしゃがみ込んでいる影を発見し思わず飛び退いた。

 

「な、何だ……?」

 

いやあんまりにも小さくて気付かなかったが、よくよく見れば外国人の少女のようだ。

ツインテールに纏められた赤い髪と少し尖った赤い瞳が特徴的で、着ている真っ赤なローブが神秘的な雰囲気を放っているように感じなくもない。おそらく、将来は相当な美人になるんじゃなかろうか。

 

『明るい、大丈夫、明るい、大丈夫、明るい、大丈夫、明るい……』

 

彼女は何かに怯えたように体を縮め、英語で某かの言葉を呟き続けながら必死に太陽を眺め続けていた。ぽろぽろと涙も零れており、明らかに尋常ではない様子。

「うーわ」何というか、言動や状況から色々と厄介事が透けて見えるわ。横の占い屋セットを見ながら声を漏らした。

こら駄目だ。「普通」ならば、このまま近寄らず知らんぷりするのが利口だろう。誰が好き好んで面倒を背負い込むかよ。鼻を鳴らして歩き去る。

 

『……大丈夫、大丈夫だもん……』

 

「…………」

 

……だが、なぁ。

相手は体を震わせ泣いている子供だ。それを見捨てるのが果たして「普通」の奴がする事か?

私としてはどうしてもそうは思えないし――思いたくはない。それに一人泣いてる女の子とか、見に覚えがありすぎてどうにも、ねぇ。

 

「……はぁ」私は足を止め、大きな溜息を一つ。身を翻して少女の前へと向かった。

まぁ最悪、巡回している指導教員に押し付ければ何とかなるだろう。頭をポリポリ引っかきつつ、柔らかさを意識して声をかける。

 

「あー、と。なぁ、どうしたんだ? どこか体調でも悪いのか?」

 

「!」

 

……どこが柔らかいって? うっせーこれでも頑張ってんだよ。

少女はどうやら私の存在に気づいていなかったらしく、声をかけられたことに驚き身体を跳ねさせた。

そして恐る恐る私に視線を向けると、その動きを止め――

 

『くろく、ない』

 

「んぁ?」

 

何て?

 

『――く、黒くないっ!』

 

「え!? うわ、ちょおッ!?」

 

突然瞳に活力を取り戻し、勢い良く抱きついてきた。

その力と言ったら子供とは思えない程に強く、押し付けられた少女の高めの体温が制服越しに皮膚を温める。いやそれはともかく。

 

「おいどうした!? マジでどこか悪いのか!? なぁ!?」

 

『もーやだぁ! どこ見回しても黒髪ばっかりぃ! ニッポン、アジアなんてもうやだぁ!』

 

「いや英語分かんねぇから! ちょっと落ち着け、服が濡れるッ!」

 

ぎゃーすかぎゃーすか、じたばたわちゃわちゃ。

半ば錯乱した少女を必死で宥めようとするが、聞く耳持たず離れようとしない。つかホントに力強ッ!

そしておしくら饅頭にも似たやり取りをしている中で――私は心の何処かで諦めの声を聞いた。

即ち――――ああ、やっぱり厄介事だった。

 

『ネカネお姉ちゃんはお仕事だし、タクと一緒じゃダメだし! ていうかどっちにも頼っちゃダメだしぃっ! ホント、ホント怖かったぁ……!』

 

「ネ、タク、何? ああもう良いから一旦離れろッ――――!!」

 

色鮮やかな夕焼けの中、少女の泣き声と私の怒鳴り声が空へと轟き消えていく。

それは延々と響き続け、暫くの間止むことがなかったそうな。ド畜生。

 

 

【挿絵表示】

 

 






次は挿絵ない予定なんで、早めに上げますん


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千雨ってツンデレの括りで良いのかな 編

――アンナ・コロロウァ。通称アーニャ。

 

一通り騒ぎ終え何とか平静を取り戻した少女は、流暢な日本語でそう名乗った。

 

「ん」

 

「……どうも」

 

件の場所からそう離れていない、道沿いに設置されたベンチ。

隣に座るアンナに近場の自販機で買ってきたオレンジジュースを差し出せば、彼女は存外に大人しく受け取った。

先程の取り乱し様が嘘のようだ。自分でも恥を晒した自覚はあるのだろう、必死に取り繕っているようだが頬の赤みまでは消せていない。

まぁそこを突っついてからかうような趣味はないので、私も買ってきたコーヒーを開け「……、……」ずに鞄に仕舞い込み、そっとベンチの影に隠しておく。

いや、何かヤな予感がして。分かんないけど。

 

「えっと。チサメ、だっけ。さっきはゴメンナサイ、色々失礼な事しちゃって」

 

「……や、まぁ、それは別に良いさ。何か被害被った訳じゃないしな」

 

精神的な疲労は兎も角として、怪我を負った訳でもないのだ。

むしろよく考えれば、直前まで背負っていた憂鬱な気分を誤魔化してくれた分利益があったと言ってもいいんじゃなかろうか。涙で濡れた制服と合わせても差し引きプラスだ。もうそんな感じで考えとこう、めんどくせぇ。

そう(自分にも)言い訳するとアンナはホッとしたように顔を綻ばせ、微妙な重さを持った空気が多少なりとも軽くなる。私も幾分気が楽になり、胸のつかえを吐息と共に吐き出した。

と言うかネカネ先生とかもそうだが、外国人が流暢に日本語喋るのって凄まじい違和感だな。アクセントまで完璧じゃねぇか。うちのクラスにも中国からの留学生が『一人』居るが、見習って欲しいもんだ。

 

それはともかく。

 

「……で、それより何であんなとこで蹲ってたんだ? 具合悪いんなら病院まで連れてってやるけど」

 

「別にそういうのじゃない……けど、その……」

 

「あー、良い良い。言いたくないんなら別に」

 

言いにくそうに言葉を詰まらせるアンナを手を振って制した。

気にならないといえば嘘になるが、あまり言いたくない事柄だとは嫌でも察せられる。私としても厄介事に率先して首を突っ込みたい訳ではないし、無理に聞き出す必要もない。

 

「とにかく、腹が痛いとか体弱いとかそういうのじゃ無いんだよな?」

 

「う、うん。違うわ。身体はなんともない」

 

「そか、それなら――……、……」

 

一人でも大丈夫か、という言葉が喉元で止まる。

気づけば無意識の内に指先が制服に向かい、先程アンナの涙で濡れた部分へと触れていた。まだ乾ききっていないそこはしっとりと湿り、冷たい感触を伝えてくる。

……いや、これダメじゃね。一人で残すの。

 

「……アンナ、お前ここから住んでる所近いのか?」

 

「え? うん、ここから十分くらいかしら」

 

「……分ーかった、なら家まで送ってく」

 

三十分以上なら指導教員に押し付けられたんだがな。

私はぶへぇと溜息を一つ。一先ず面倒を見てやることを決心し、後頭部をガシガシ掻き回しつつ立ち上がった。

あーもう、面倒臭いし厄介だとは思うが仕方ない。ここで見捨てたら後が気になって眠れなくなりそうだし、出来る限りは付き合ってやるよ畜生め。

 

「え……でも、私まだやらなきゃ……」

 

「何を。またさっきみたいに踞んのか」

 

「ぬぐ」

 

アンナは私の言葉に図星を突かれたようにたじろぎ、涙の跡が残る瞳でこちらを睨みつける。

まぁどうせこれっきりの縁だろうし、何を思われようが別にいい。私は無言のまま鼻を一つ鳴らし、ぶっきらぼうにアンナへ片手を差し出した。

出来る事なら取らないでくれると楽なんだけどな――そんな碌でもない事を考えながら。

 

「……むぅ……」

 

しかし、そんな願いは届く事は無く。アンナはしばし悩んだ後ぷいっと顔を背け、それでいておずおずと小さな手を私のそれと重ねあわせた。

可愛げがあるんだか無いんだか、良く分からんガキだよ。全く。

 

 

家まで十分くらい――初めは直ぐに送り届けられるだろうと高を括っていた私だったが、その予想は大きく外れる事となった。

 

「……なぁ、歩きにくいんだけど」

 

「お、送るって言ったのチサメなんだから、きちんとエスコートするのっ」

 

何か分からんがコイツ、他の通行人とすれ違う度に強く私に抱きつきやがるのだ。

当然その度に私の歩みは乱れ、必然的に牛歩となる訳で。しかも先の様なツンケンした態度とは裏腹に、抱きついている間はアンナは小さく震えて居るのが分かり、文句を言うにも言いにくい状態だ。

のたのたと、のたのたと。既に歩き始めてから十分はとうに越している。何なんだコイツは、強がってるくせに人見知りかっつーの。

 

「……私ね、ニッポンには修行に来たの」

 

そうしてアンナと二人手を繋ぎ、微妙に気まずい雰囲気の中で家路を歩くその道がすら。彼女は沈黙の多かった空気を入れ替えるためか、ポツリポツリとそんな話をし始めた。

……私としては無駄話するよりさっさと歩けと尻を蹴っ飛ばしたい所だったが――まぁそこはグッと堪え。気分を変える為にその話題に乗ってやる事にする。

 

「修行って、お前の年で? 何のだよ」

 

「占い師よ。私の通ってた学校は卒業した後課題が出るの。それでその課題が『暫くの間日本で占い師として修行する』って事で、さっきもそれをやってたの」

 

「…………」

 

やっぱあのセットってお前のだったのね――じゃねーよ。何じゃそら。

卒業課題って事は、コイツは既に小学校を出た中学生って事か? にしては子供っぽすぎるような。

ああいや、でも海外じゃ日本と教育制度が違うんだっけ? じゃあ日本に無い種類の学校があって、飛び級みたいなシステムってんなら……いやでもそもそも占い師ってなんだよ。客と話して詐術でもつけてこいってか? んなアホな。

見聞を広めさせる一環……後でレポートでも書かせる? 商売じゃなくストリートパフォーマンスの一種としてやらせれば合法かもしれんけども。

軽く混乱しつつもアンナの話を噛み砕き、「普通」の範囲に収めようと苦心している間にも話は続く。

 

「それで私の幼なじみのお爺ちゃん――学校の校長先生が気を利かせてくれて、やりやすいだろうってマホラを紹介してくれたのよ」

 

「……つまりコネか。卒業課題だってのに」

 

「むぐ……まぁ、言ってみればそうなんだけど――、っ!」

 

……と、そこまで語った時。向かいから歩いてきた通行人に反応し、アンナは例によって私の影に身を潜めた。またかよ。

通り過ぎる女子高生はその様子を微笑ましげに眺め、口元に笑みを浮かべて歩き去る。何か良からぬ誤解を受けた気がする。

何となく気恥ずかしさを感じ、誤魔化し混じりに大きく溜息を吐く。するとその意味を誤解したのか、アンナがビクリと肩を震わせた。

 

「……私。昔ちょっとあって、黒いのが苦手なの」

 

「あ?」

 

「黒いもの、ブラック、ヘイ、キライ」

 

「いや聞き取れなかったって訳じゃねーよ」

 

一体何の話だ――と胡乱に思ったが、そういえばと振り返ってみれば先程の女子高生は綺麗な黒髪をしていた。

……つまり何か。さっきから抱きついてきたのは黒髪に反応していたと言う事か? 私は明るい髪色だから安全圏と?

そのまま確認の意味を込めた視線を落としてみれば、アンナは気まずげな表情で目を逸らす。大体合っているというこったろう。

 

「……ゴキとかなら分かるけど、髪の毛も?」

 

「イ、イギリスでは少なかったし殆ど何とも無かったんだもん! ただこっちでは……」

 

「あー、まぁ一面真っ黒だよなぁ」

 

この街では割とカラフルな頭をした連中が多いとはいえ(麻帆良のこういうとこも嫌いだ、生物学的な常識はどこ行った)、日本――と言うかアジア圏である以上黒髪も相当数存在する。

一人二人なら我慢できるといえど、数が揃えば無理だったと。来る前に思い当たっとけ、とは酷な話かね。

 

「……占いも、本当はもっと人の多い所でやる筈だったんだけど……黒ばっかりで、無理で、わかんなくなって。結局あんな所で……」

 

「お前なんで日本に来た――って、ああそうか、課題な。それ他の場所に変えられなかったのか?」

 

どうせコネを使うんなら、そこら辺までコネれば良かったのに。私がそう言うとアンナは目を伏せ俯き、握る手に力を込めた。

 

「……ここが、一番安全だったから」

 

「……いや、どこがだよ。お前にとっては地獄じゃねーか」

 

「私の事じゃない。ついてきてくれたタクとお姉ちゃんにとって――……、っ……なんでもない」

 

言いかけた言葉を途中で飲み込み、会話が途切れた。どうも言ってはいけない事を口走った、という風情だ。

まぁ色々と事情があるという事だろう。私は「ふぅん」と気のない返事を返し、何となく納得っぽいものをする事にした。所詮場繋ぎの会話だしな。

しかし何故かアンナはそんな私を探るような目で観察し、少し警戒した様子を見せる。ちょっと居心地が悪い。

 

「……何だよ?」

 

「――いいえ、べっつにー」

 

そして何らかのお眼鏡に適ったのか、彼女は一転して気楽な様子だ。

「?」怪訝には思ったがわざわざ尋ねる程の事では無く、それきり会話は途切れ黙々と歩く。けれどそこには先程の微妙な空気は無い。

多少なりともお互いの質が分かった為だろう、随分と気が楽だ。私的にあんま認めたくないが、これがコミュニケーションの力って奴かね――――と。

 

「んで、ここを左でいいのか?」

 

「あ、うん。後はこの道を真っ直ぐよ」

 

人差し指でさし示し、改めて道筋を確認。アンナの手を引きその先へ行く。

その道は私が何時も登下校に使っている道であり、どうやら彼女の家は女子寮の近くにあるらしい。

これならアンナを送り届けた後は直ぐに帰れそうだ。私の心に乗っていた重りが数を減らし、少々気分が上昇志向。心なしか足取りも軽くなる。

 

「……なぁアンナ、お前占いってどんな事するんだ?」

 

「え? ええと、そうね。私はよくこの水晶を使うんだけど――」

 

今ならある程度の無駄話も許せそうな気がして、敢えて話題を振ってやり。私達は和やかな雰囲気のまま、夕陽に染まった道を進む。

背後を詰め襟の男子学生達が駄弁り、通り過ぎていった。

 

 

アンナの家は女子寮のすぐ近く、歩いて5分もしない場所にあった。というか、これは。

 

「……教員寮じゃねぇか……」

 

麻帆良に務める女性教師の寮は、生徒の寮のすぐ近くに建てられている。

それは夜遊びする生徒の監視か、それとも生徒と教師のコミュニケーション強化のためか。……まぁ生徒の質を見る限り後者だろうな。きっと。

とはいえ生徒側が自由に出入りできるという訳では無いので、私もここまで近くに来たのは初めてだ。別に悪いコトをした覚えもないのに、無意味に周囲を警戒してしまう。

 

「なぁ、本当にここなのか? 教師じゃないと入っちゃいけない場所だぞ?」

 

「間違ってないわよ。お姉ちゃんが先生で、一緒の部屋を使わせてもらってるの」

 

挙動不審気味な私にアンナは不思議そうな顔をしつつ、懐から一枚のカードを取り出した。教員寮で使われているカードキーだ。となれば間違いではないのだろう。

……外国人の女の子がお姉ちゃんと呼ぶような教師、ねぇ。心当たりがハッキリと浮かぶが、確信はないので踏み込まないで置く。

 

「じゃあチサメ、ここまで来たら大丈夫だから。……ついてきてくれてアリガトね」

 

「どっちかといえばついてきたのお前だけどな。まぁ礼は受け取っておくよ」

 

恥ずかしげに頭を下げるアンナに軽く手を上げて、「じゃあな」と別れの挨拶もそこそこに背を向ける。これにてお役目御免なり、なんつって。

さて、色々と面倒ではあったが、これで気兼ねは無くなった。

さっさと帰ってPCを見てやるか。私は安堵の息を吐き、この場を去ろうと気分よく歩き出し――――

 

「…………」

 

ガシ、と。背後からスカートを摘まれ、強制的に歩みが止まる。

振り向いてみれば、アンナが何やら必死な様子で上目遣いにこちらを見あげていた。

……まだ用があるの? うーむ、何か嫌な予感。

 

「……何だよ?」

 

「え、あ、あのね。私明日も占い師するんだけど……その……えっと……」

 

「…………」

 

摘んだ裾を擦り合わせつつむにゃむにゃ要領の得ない事を呟くアンナだったが、この時点で何となーく察した。

多分、明日占いやってる所を見に来てくれとかそんな感じの事を言いたいのだろう。どうも懐かれた――というか、目をつけられたようだ。黒髪じゃなきゃ何でも良いんか。

 

「そういうの、ついてきてくれたっていう『お姉ちゃん』とか……後もう一人の何とかって奴に頼めよ。私関係ないだろ」

 

「もう頼っちゃってるの! だけどこれ以上はイケナイから、だから……!」

 

涙を滲ませたアンナは無力感と共にその語気を強め、更にスカートを強く握りしめる。皺が寄ると振り払いたいがそんな雰囲気でも無い。

 

「と、とにかく! ずっと居ろって言うのじゃなくて、偶に来るだけでいいから常連になって欲しいの! お願い!」

 

「偶に来るだけなのに常連って矛盾してな、」

 

「ちゃんと占うから! お金も取らないし、サービスするから! ね!? ねっ!?」

 

占いでサービスって何すんだ。

最早悲壮感すら漂ってくるその様子に私はほとほと困り果て、うんざりと天を仰ぐ。

面倒くさいのに手を伸ばしちまったなぁ。こんな事なら見ない振りすりゃ良かった――とはやっぱり思えず、行き場のない憤りが胸を灼いた。

……蹲り、涙を零していたアンナの姿が脳裏を過る。

 

(これだからガキは、いやガキっつーか私……ああもう)

 

……仕方ない、子供にここまで請われて断れる奴は「普通」じゃない。

私は「普通」だ。もう何度目かも分からない溜息を吐き、諦観の念と共に彼女の頭に手を乗せる。サラサラの髪の毛が指先に絡まり、その心地良い感触にほんの少しだけ苛つきが引っ込んだ。

 

「……わーった。学校終わってからだけど、余裕があれば行ってやる。だから離せ」

 

「や、やった! 絶対だからね! 中央広場……は無理だから、その外れの道辺りに居るから! 居るんだからね!」」

 

まるで鬼の首を取ったかのように喜ぶアンナに辟易しつつも、どこかそれを微笑ましいと思う自分がいる。

ああヤダヤダ。私はそんな自分を非常に情けなく思い、肺の限界まで深く息を吸い込んで――――

 

――私とアンナ。これから長い付き合いとなる彼女との関係は、とても大きく、そして重たい溜息から始まったのである。

 







・何でアンナ?

ここまで変えたら多分アーニャとは呼べない。のでちょっとした意識的な差別化……の、つもり。


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にょっきり 編

「――ええと、長谷川さん? 少し良いかしら」

 

朝、SHRが終わってすぐ。

一時間目の授業の準備をしていた私の耳に、透き通った美しい声が落ちた。

顔を上げればそこにあったのは声に相応しい美貌。副担任のネカネ先生がこちらを見下ろしている所だった。

私は先の歓迎会に参加しておらず録に会話も交わしていないため、距離感をうまく掴みきれていないのだろう。どこか緊張した雰囲気が漂っている。

 

「……はい、何でしょうか」

 

「その……昨日の放課後、長谷川さんがアーニャを――アンナを家まで送ってくれた……のよ、ね?」

 

自信なさげに眉を寄せ、こちらの反応を伺うようにそう訪ねてくる。

……薄々分かってはいたが、やはりアンナとネカネ先生には何らかの関係があるらしい。

血縁にしては顔の作りに結構違いがあるように見えるので、少なくとも家族関係では無いだろう。となれば地元での知り合いか何かかね。

 

(ま、何でもいいや)別に今考える事でもなし。繋がりがあるという事だけを頭に入れ、素直にその通りですと頷いた。

すると先生はホッとした様子で胸に手を当て、「ああ、人違いじゃなくてよかった」と柔和な笑顔がふわりと浮かぶ。何食ったらそんな清楚な雰囲気出せんの? このクラスに居るとマジで疑問なんだが。

 

「あの子についていてくれてありがとう、長谷川さん。本当に助かったわ」

 

「はぁ。と言いましても、たまたま見かけて一緒に帰っただけですけど」

 

「それでもアーニャにとっては凄くありがたい事だったと思うの。ほら、あの子って強がってるけど脆い所があるから……」

 

先生は俯き、その先の言葉を濁したが――まぁ言わんとする事は分かる。おそらくアンナの黒色恐怖症の事を言っているんだろう。

……それを把握し心配してるんなら、もうちょい何かしたらどうだ。つーか帰らせた方が良いんじゃないか。そんな事を言いたい所ではあるが、これに関して触れない方が良いんだろうな。

単純に部外者という事もあるが、私程度が考えつく事なんて既に分かっているに決まってる。見る限りデリケートな問題であるようだし、下手な考えなんとやらだ。

 

「アーニャもお礼を言ってたわ、長谷川さんの事気に入ったみたい」

 

「……はぁ」

 

んな可愛げ見せてたっけ。記憶に無い。

 

「それで、もし良ければなんだけど……これからもアーニャの事、気にかけて貰えないかしら」

 

「…………」

 

「あ、勿論無理にって訳じゃないの。あの子今は人の少ない広場の外れで占い師やってるから、たまたま通りがかった時に手を振ってあげるだけでも――」

 

「や、あの。ダメとかいう事じゃなくて……」

 

私が少し不機嫌になったのを察したのか、おろおろと狼狽えるネカネ先生の言葉を遮り、うなじの辺りを軽く掻く。

まぁこれに関しては改めて先生に言われなくても、既に対応は決まっているのだ。

さーて何と言ったらいいものか。私は「あー」とか「うー」とか要領を得ない呻きを繰り返した後――興味津々な様子でこちらを伺うクラスメイト達に聞こえないように、呟くように声を捻り出した。

 

「えーと――もう、約束をしちゃってるんで。……す、よね」

 

……チラ、と。

 

恐る恐る目を上げると、きょとんとしたネカネ先生と目が合った。どうやら言葉の意味を測りかねているらしい。

どうせならこのまま分かんないままでもいいぞ。面倒だから、色々と。

しかしそう思ったのがいけなかったのだろう。途端にその意味を把握したのか、それはもう嬉しそうな笑顔が花開いたのであった。

……こういうの、私のキャラじゃねーだろ。先生の居る手前口内で鳴らした舌打ちが、食道の奥へと落ちていった。

 

 

「うすごす、ぷらむふ、だおろす、あすぐい。来たれ――おお、汝視界のヴェールを払い除け、彼方の実在を見せる者よ……――ちょっとだけ」

 

「……それ、絶対何か違くね?」

 

放課後の広場、その外れ。この辺りは大通りから外れているため人が少なく、注目を浴び辛い場所だ。

約束通りに様子を見に来た私は、せっかくだからとアンナの占いを受けてみる事にした。

少ないとはいえ、公の場で年端もいかぬ女の子に占われるというのは中々に恥ずかしい物があったが、それはそれ。間近で見るとその手法は割と本格的な物で、思わず感心してしまう。

 

(何だ、結構ちゃんとやれてるじゃないか)

 

目の前に置かれた水晶に手を当て、何やらそれっぽい詠唱を唱え。手相や爪の形、虹彩など細かい所までつぶさに観察し、真剣に占っている。

それが何の意味を齎すのかは素人の私には分からんものの、「ああ、占われている」という雰囲気だけは如実に感じる事が出来た。多分単純な人間ならころっと騙されるのではなかろうか。いやそれは語感が悪すぎるな。

とにかく、その姿には昨日の様な取り乱し様は見受けられず、少なくとも私が訪れる以前に問題は起きなかったと見てもよかろう。朝から感じていた胸の引っかかりが、少しだけ取れた気がした。

 

「――と、結果が出たわよ」

 

「! へぇ、どんな感じだ?」

 

そんな感じで何となく穏やかな気分のまま占いをぼんやり眺めていると、自信あり気ま声が聞こえた。

サービスしてくれると言っていたし、きっと日本で言う吉に相当する結果を出してくれて居るのだろう。

今までくじ引きでいい結果を引いた事なんて無かったからなぁ。私はちょっぴり浮かれ気分でいそいそと身を乗り出し――

 

「……とりあえず、魔除けとして以下の事を」

 

「受難か凶か、それとも不幸か? 出たのはどれだ。あ?」

 

どうやら碌でもない結果が出たようだ。軽く青筋を立て、気まずげに目を逸らしているアンナに詰め寄り「むにゅょえっ」その柔らかなほっぺを押し潰す。

勿論本気な訳がなく、ぷにゅぷにゅと。もにもにと。クソ、子供は何もしなくても綺麗な肌でいられるから楽でいいわなぁ。

半ば八つ当たりのままにもちもちやっていると、流石に怒ったのか強引に手を振り解かれた。

 

「何すんのよ! しょうがないじゃない、占いの結果でそう出ちゃったんだから!」

 

「サービスしてくれるって言ってたじゃねーか、だったらいい結果引き当ててくれよ」

 

「占いはジャパニーズ・オミクジじゃないの! ありのままの運命をありのままに視る物なのよ!」

 

ビシリ。何かが矜持を刺激したのか、ぷんすか怒りながら私の鼻先を指さしてくる。

ありのままの運命とか言われてもなぁ。胡乱な視線を水晶に向けじっくり観察するが、そこには私の顔が逆さまに映っていただけだ。特別なものは何も無い。

……やはりイマイチ腑に落ちん。まぁ私があんまり占いを信じていない所為なのかもしれんけど。

 

「……ま、いいさ。悪い結果なら信じなきゃ良いだけだしな。何も変わりゃしないか」

 

「その辺りが日本人の悪い所よね。悪い結果こそ受け入れていれば注意できるのに」

 

溜息と共に呟かれた私の言葉を聞き拾ったのか、アンナは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「朝に見た人達も皆そうよ。いい結果だと信じて喜んで、悪い結果だと信じないで忘れようとするの。腹立たしいったらありゃしない!」

 

「そりゃそうだろ。『普通』の人は大体そんなもんだ」

 

特に朝の星座占いや血液型占いが顕著な例だろう。あれは見てる人の殆どがそんな感覚の筈だ――

そう伝えればアンナは更に髪を逆立て、むーむーと唸り始め。占いは軽いものじゃないだの占星術の観点が云々だの、面倒極まりない事を語り始めた。いや知らんがな。

一体何が彼女をそうさせるのか。元々占い自体好きだったとかかね。私は水晶の前に頬杖をつき、ぼんやりとアンナの言葉を聞き流す。

……悪い結果こそ受け入れて注意しろ、ね。

 

「……なぁ、アンナ」

 

「だから――……ん、何よ。話聞いてる?」

 

「さっきお前が言いかけてた魔除けって何なんだ? そこまで言うんならとりあえずやっとくから、やっぱ教えてくれよ」

 

まぁ、そこまでの情熱があるなら無下にするのも収まりが悪いしな。

きまり悪げな気分を隠し何でもないような風にそう問いかけると、アンナは一瞬驚いたような表情を浮かべた後、ニンマリと意地の悪い笑みを浮かべた。ヤな顔。

 

「えー、どうしよっかぬぁー。チサメって占い信じてないみたいだすぃー、教えても意味ないんじゃぁ――」

 

「そっか、なら良いや。占いサンキュな私はこれで」

 

「わー! ウソウソ! チューリップ! チューリップが魔除けになるって出てたわ! ホントに!」

 

顔といい言葉といいあんまりにもムカついたんで席を立つ振りをすれば、アンナは慌てた様子で押し留めてくる。

そうそう、ガキは素直が一番だ。根性ひん曲がりすぎると私みたいになるぞ。うるせぇ。

まぁそれはさておきチューリップか、また変わったもんが出てきたな。花言葉は何だっけ?

 

「チューリップ……家の周りには咲いてないか。かと言ってこの年でわざわざ買うのも恥ずいしなぁ……」

 

「……!」

 

種ならなんとも思わないんだけども。言わせておいて悪いがこれは保留かな――そう呟いていると、アンナが何故かソワソワとしているのが目に付いた。

今度は何だ。私が尋ねるよりも早く身を乗り出し、どこか期待に満ちた顔を近づけてくる。

 

「ねぇ、良ければ私が代わりに買ってきてあげましょうか。チューリップ」

 

「……あん?」

 

何を言っているんだお前は。

半眼になってそう問うと、アンナは何故か焦った様子で身を引き視線だけをこちらへよこす。

 

「だから、私が買ってチサメに渡せば恥ずかしく無いでしょ?」

 

「いや。そりゃそうかもしれんが」

 

「まぁ私はもう少し占いやらなきゃだから、ちょっと待って貰わないといけなくなるけど……」

 

チラッチラッ。そんな擬音が聞こえてきそうな仕草を見て、気付いた。

コイツ単純に私を自分の近くから離したくないだけだ。チューリップの話をダシに、少しでも時間を稼ぐつもりなのだ。

多分一種の安定剤というか、支え的な物にされかかっているのだろう。全くもって傍迷惑な話である。

正直私としてはさっさと帰って『趣味』に興じたい所ではあるのだが――――

 

「……だ……ダメ……?」

 

(これだもんなぁ)

 

不安を帯びた目を潤ませての上目遣い。そんな顔をされちゃ断りづらい事この上無し。

はいはい分かった、分かりましたよ。

私は諦めたように手を振り占い屋のセットから離れると、向かいのベンチにどっしりと腰掛けた。ある程度は待ってやるというポーズだ。

 

「……!」

 

アンナはその様子に嬉しそうな顔をすると、張り切って客の呼び込みを始めた。とは言っても水晶に手を掲げて何やら神秘っぽい雰囲気を撒き散らすだけだが。

しかし放課後という時間帯もある所為か、ミーハーな女子学生を釣る事は出来るようだ。決して盛況とまでは行かないもののポツリポツリと客が来る。

まぁその殆どはアンナの容姿――「外国人の小さな女の子が占ってくれる」という部分に惹かれてるんだろうな。カワイーカワイーと連呼する奴らのまぁ煩いこと煩いこと。

すると今現在占われている黒髪の女子学生が身を乗り出し、怯んだアンナがこちらに助けを求める視線を送って来た。

無視するのもアレなのでチロチロと指を振って返しておくと、何やら裏切られたような表情を浮かべる。いや一人で頑張れやそれくらい。

 

私は溜息を吐くとそれから目線を外し、PCを取り出し立ち上げる。アンナを待っている間の暇つぶしだ。

 

「さて……」

 

麻帆良の各所にはLANケーブルの差し込み口が用意されている。最近では徐々に公衆無線LANスポットに取って代わられているようだが、この辺りはまだ有線規格のようだ。

ベンチの端に置かれている缶ジュースのゴミに擬態した差し込み口(何でこんなアホな形にしたんだ? マジで狂ってんのか)にPCのケーブルを繋ぎ、適当なサイトへとアクセスする――――

 

「――……っ」

 

……ふと、背後から視線を感じた気がした。

酷く湿った、陰鬱な物だ。それは確かな存在感を持って後頭部を抉り、不快な寒気が背筋を走る。

しかし振り向いてもそこには誰も居らず、ただ街路樹が並ぶのみだ。通り過ぎる人間も獣も、誰も居ない。

 

「……気のせい、か?」

 

実際、既に視線は感じない。あるのは不快な感覚の残滓だけ。

……気持ち悪い、気持ち悪い。

私は寒気を追い払うように首筋を擦り、温め。正面へと顔を戻す。

 

「……ん?」すると一瞬だけアンナが私を……というより後方を眺めていたように見えた。

客の対応に追われ、すぐに視線を外してしまった為その表情は把握できなかったが――――何かが、あった? 何かを見ていた?

 

「…………」

 

もう一度だけ、背後を向く。けれどやはりそこに気を引くものは無く、街路樹に下がる茨が風に揺れているだけで。

 

……心の中に不安の種が撒かれ、根を張った。そんな、気配がした。

 

 

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根っこがにょっきり。


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憧れとトラウマは紙一重 編

――カツカツ、と。靴底が擦れる音がする。

 

「…………」

 

平日の昼。午後3時を過ぎる少し前。

 

普段ならば社会人で溢れかえる筈のこの時間帯は、麻帆良という学生達の地において過疎の時間域である。

居るのは精々早退した学生や教師達程度のもので、街は静まり活気は無い。多くの学校が放課後を迎えるまでの限定された静の空間――そんな場所を、彼は歩いていた。

 

年齢はおそらく10に届くかどうかと言った所だろう。ベージュ色のローブを纏い、目深にまでフードを下ろしたとても小柄な少年だ。

大人よりも大分小さな歩幅を使い、ゆっくりと、ゆっくりと。気怠げに進んでいく。その足取りに覇気という物はあらず、ただ只管に憂鬱な雰囲気だけが漂っていた。

 

「…………」

 

信号を無視し、横断歩道を無視し、無断で店の敷地を通り抜け。現代社会における規則を全て無視。しかしそれを咎める者は何も無い。

そうして時間をかけて歩いた先、交差点の角を曲がった先にその店はあった。

 

そこは取り立てて目立つ所の無い、清潔な雰囲気のインターネットカフェだ。

麻帆良に在籍する学生達の中には個人用のPCを所持していない生徒達も多く、そう言った者達の為に学校側から用意された共同施設である。

 

放課後以降は賑わう場所であるが、今現在においては利用者は皆無。受付に立つ店員が暇そうに欠伸をしながら、何らかの作業を行っているだけだった。

 

「…………」

 

「……あ、いらっしゃいませー」

 

自動ドアをくぐり、店員から歓迎の言葉が飛ぶ。

 

しかしその中に疑念の影は何一つとして見受けられず、「平日の昼間に私服の少年が訪れた」という違和感は極自然に受け入れられている。

明らかに異常な事態ではあるものの、やはりそれを指摘する存在は居ない。平然と受付を済ませ、案内された個室に入り――ここに来て、ようやく少年はフードを取った。

 

赤の目立つ茶髪、同じく赤い色素の混じった虹彩。顔の作りも明らかに日本人の物では無い。

例え海外贔屓を差し引いたとしても、整っていると言って良い容姿だったが――その昏い目付きと、下瞼に引かれた濃い隈が全てを台無しにしていた。

 

卑屈にして陰鬱。世界自体を斜に捉えているようなその視線。

容姿の良さ、そして子供であるため幾分か和らいでいるものの、大多数の人間は彼を見て多少なりともこう思う事だろう。

 

――――気持ち悪い、と。

 

「……あぁ、やっぱり。個室は良い……」

 

弱々しく、糸のように細い声が室内を反響した。

少年は安堵したかのように大きく深呼吸。ふらふらとPCの設置された机に向かい、ソファへと腰掛け背を預け。疲れた様子で弛緩する。

 

よくよく見れば足が痙攣を起こしており、道中でそれなりに疲労していたようだ。

 

「……だ、大体、遠いんだよ。ここ。クソ、あの低スペPCさえ取り替えられれば来なくても良いのに……」

 

何やらブツブツと独り言を垂れ流しながら身を起こし、PCを起動。店で設定されたIDを打ち込み、デスクトップを表示させる。

おそらく何度か来た事があるのだろう。その手つきには淀み一つ無く、操作に慣れ切っている事が伺えた。

 

そうして完全に起動した事を確認した後、彼は持っていた鞄から小さなパッケージを取り出し、中身のディスクをPCに挿入する。

それは発売間もないネットゲームの物で、やがてディスプレイに鮮やかなゲーム画面が映し出され、荘厳なファンファーレが鳴り響く。

 

――現実では味わえない幻想世界での冒険、その扉が口を開けたのだ。

 

「…………」

 

しかし、少年は燦然と輝く「ゲームスタート」の項目には目もくれず、ゲームのチャットルームを開きメッセージを送る事無く待機。机の上に顎をのせた。

 

ズラズラとリアルタイムで更新されていく攻略情報。飛び交う質問、パーティへの誘い、断り……。少年は無言のまま、それら全てをガラス球のような目で眺め続ける。

30分が経ち、一時間が過ぎ。長い間続くそれは酷く空虚な雰囲気を湛え、とても頭に情報が入っているようには見えない。

 

既に結果が出された、一切の希望の無い惰性。喩えるならば、それ以上の表現は無かった。

 

「……、……」小さく、しかししっかりと。少年が何かを呟いた瞬間、幾つもの赤い光が室内を反射する。しかし光源となるものは部屋の中には視認できず、ただ少年がマウスを動かす姿があるだけだ。

……こう、こう。まるで心臓のように、脈動する赤が斑模様を作り出す。

 

「……そろそろ、だよな」

 

チラリ、と。少年は軽く時刻を確認すると、静かに目を瞑り何かに集中した様子を見せた。それは今までとは違い、確かな想いの篭ったものだ。

このネットカフェに来た意味の殆どは、今のためにあると言っていい。誰にも見られないこの場所ならば、少しは罪の意識を誤魔化せる。……見られていないと、安心できる。

 

「また、最低野郎だ。……い、いや。今回は違うし」

 

そう呟いて、苦々しい表情を浮かべ。

不安、心配、不信――類似する感情を胸裏に湛え、少年は第三の眼を開く。意識が思考に溶け込み、ここではないどこかへと流れ、重なる。

 

部屋を照らす赤い光が、より一層輝きを強めた――――

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

「……っ」

 

ちり、と。後頭部に妙な違和感を感じた。

まるで誰かに見られているような、精神を圧迫する感覚。以前も感じた、陰鬱な空気を伴った視線だ。

 

咄嗟に振り向いてみるが、やはりそこには何もない。こちらを見ている人も居らず、街路樹が静かに並んでいる。

……気のせいならぬ木のせい、ってか。ああ下らね。

 

「? どうしたの、チサメ」

 

「……いや、何でもない」

 

最早日課となったアンナとの時間。

占い屋としての活動を終え、セットを片付けながらこちらを見る彼女に私は何でもないと手を振った。

 

いや実際何でもないんだよ。ただの錯覚っぽいし、実害がある訳でもないし。ホント意味分かんねー。

自意識過剰? 被害妄想? ストレスでも溜まってんのかな、私。

 

「――さてと、これでおしまい!」

 

そうして周囲を見回している私を他所に、片付けを終えたらしいアンナが終了宣言を放つ。

 

と言っても土台にかけていた白い布をたたみ、分解した土台と看板と一緒に付近のベンチの下に突っ込んだだけであり、果たしてそれを片付けと呼んでいいのか疑問だ。

まぁアンナ曰くこの場所の管理人からの許可は得ているという話なので、問題は無いのだろう、多分。

 

「さ、一緒に帰りましょ!」

 

「……へいへい」

 

とりあえず視線の事は気にしても仕方ない。私は最後にもう一度だけ背後を振り向き異常が無い事を確認し、先を進むアンナの後を追った。

 

その際ボリュームのある髪が左右に揺れ、周囲に赤い粒子を振り巻く姿が目に映る。

……せっかくだ。気分転換に前々から気になっていた事を聞いてみよう。アンナの隣に立ち、その髪に手を這わせながら問いかける。

 

「お前、羨ましいくらい髪の毛サラッサラだよな。普段どんなケアしてるんだ?」

 

「え? そ、そう……?」

 

私の言葉に照れた様子を見せ、もじもじと毛先を弄くる。

誇張でも何でも無く彼女の髪は絹糸の様に滑らかであり、キューティクルも完璧。指通りも良いなんてもんじゃ無く、殆ど抵抗なく滑り抜けるのだ。

 

肌も白いわスベスベだわ、幾ら子供+西洋人補正がかかっているにしてもちょっと綺麗すぎやしねーか。私だって結構な気を使ってるっつーのに。

 

「そう言ってくれるのは嬉しいけど……私自身は別に何もしてないわ。殆どお姉ちゃんがやってくれてるもの」

 

「お姉ちゃん……っつーと、ネカネ先生か。あの人もおかしいくらい綺麗だよなぁ」

 

「でしょう? なんたって私の憧れなんだから!」

 

ネカネ先生が手入れしてるんならこの質も当たり前か。理由も無いのに思わず納得してしまった私の横で、アンナが無い胸を張る。

……発育的には私の勝ちだな。そこをガキと張り合って悲しくならんのかって? なってるに決まってんだろ馬鹿が。んな事は良いんだよ。

 

「優しいし、綺麗だし、強いし。私も将来あんな風になれたらイイなぁ……」

 

「……前2つは分かるけど、強い? 松葉杖突いてんのに?」

 

華奢で儚げな先生のイメージにそぐわないのだが、精神的にとかそういう話だろうか。

思わず疑問の声を上げると、アンナは今までの表情から一転。ビクリと肩を震わせ暗い雰囲気を滲ませる。ヤベ、地雷踏んだか?

 

単に身体が弱いから杖突いてるとかそんな理由だと思ってたんだが、見当違いだったようだ。

慌てて話を逸そうと頭を回転させるが、彼女はそれ程取り乱した様子は無く――そっと私の服の裾を握る。

 

……その手が震えていたため地雷を踏んだ事は確かだろうが、ある程度心の整理は付いていたようだ。不幸中の幸いなのかもしれんが、何処に爆発物があるか分かんねーよコイツ。

 

「……昔、事件があってね。沢山の悪……悪漢に襲われた事があったんだけど」

 

「悪漢てお前」

 

言葉のチョイス渋くね。いや海外の治安って悪い所は悪いって言うし、悪漢が出る場所もあるかもしれんけど。

 

「とにかく、その時にお姉ちゃん達が凄い頑張って戦って、私達の事を守ってくれたのよ。……それで、ちょっと無茶しちゃったの」

 

「へ、へぇ」

 

「私は震えてるだけだった。でもお姉ちゃんは傷だらけになってもへっちゃらで、クルクル回ったかと思えば敵の頭をグリンってやって。皆殴って、蹴っ飛ばして……」

 

「……ほ、ほぉう……」

 

……これは、どうなんだ?

 

真偽の程はさておいて、言葉尻を聞いてると色々と洒落にならない気配がプンプンするんだが、このまま進めても大丈夫なんだろうか。

多分反応からしてアンナの黒色恐怖症の件にも関わってくるっぽいし、余り話させない方が良い気がする。つーか絶対そうだよ。

 

私は努めて呆れた表情をすると、強くアンナの髪を掻き回し。敢えて大きな溜息をつくと見下すような口調で彼女の話を遮った。

 

「分かった分かった、綺麗で強いお姉ちゃんが凄いのは分かりました。いいから服を離せ、歩きにくいんだよ」

 

「むぐっ……あ、信じてないでしょ!?」

 

「信じてる信じてる、クルクルでグリンな。それより早く帰ろう、な」

 

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! んもー!」

 

裾を摘んだ手を振り払い早足で進むと、怒ったアンナが追いかけてくる。

その怒り顔には先程までの顔色の悪さは無く、どうやら気が紛れたようだ。私は悟られないようホッと息を吐いた。

 

(……こりゃあんまネカネ先生の話はしない方がいいかな)

 

お姉ちゃんは凄い、綺麗だ。……そんな話だけだったらいいが、どうも先生はアンナの憧れと同時、トラウマらしきものと密接に繋がっている恐れがある。

向こうが話題として振って来ない限りは話に出さず、例え出たとしても余計な質問はせず深入りしない方が良いだろう。

 

……何でわざわざガキ一人と話すのにこんな気を使わなきゃならんのだ。そう思わなくもないのだが、初日のアンナの様子を思い出すとにんともかんとも。

 

(にしても、今の話はマジなのかね)

 

大量の悪漢相手に大立ち回り、後遺症を負いつつもアンナを守り切ったネカネ先生。幾らかの誇張が入っているとしても、全くもって画が浮かばん。

あの美貌の下には金剛羅刹が隠れているのか、それとも窮地に陥った際の火事場の何とやらか。どちらにしろ今後先生を見る目が変わりそうだ。

 

挨拶代わりに押忍とか言ってみたりしたら意外としっくり来ちゃったり? そりゃねーか。

 

「まぁ、いずれにしろアレだな」

 

――アンナに施しているという髪と肌の手入れ法。『趣味』の為にも、それだけは何としても聞き出さねばなるまい。

「ホントよ、ホントなんだからー!」背中にポカポカと降る拳の雨から退散しつつ、私はそう決意したのである。

 







アニメの「ネギま!?」のタカミチって何であんなおかしくなってたんだろうね。


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右の瞼が震えるの 編

――この世には、絶対なる「美」という物が存在する。

 

 

宝石の如く輝く瞳。獣の如くしなやかな身体。華の如く綺羅びやかな笑顔。

地球上のありとあらゆる「美」の部分を掻き集め、人の形に当て嵌めたそれは正しく美麗美貌の体現者。

 

人類史上において空前絶後に容姿端麗であると同時に純情可憐で才色兼備かつ解語之花、沈魚落雁であり天香国色が明眸皓歯で傾城傾国才子佳人面向不背六六六六、ああもう何が何やら。

とにかく異性のみならず、同性にも支持される圧倒的美しさを誇る者。電子の海にて舞い降りた、この世ならざる純白の天使。

 

さぁ皆の者、五体倒地し復唱せよ! その美しき者の名は――――!!

 

 

 

「――――やっはろーーーー! 今日もちうはキュートにょろーーーーん!!」

 

 

 

……誰だ。今「うわっ」とか言った奴。怒らないから前に出ろ。さぁ。

 

 

 

 

私には、決して人に言えない類の趣味がある。

まぁあれだ、所謂「ネットアイドル」と呼ばれる活動である。

 

普段は余りしない化粧をして、高い服を着飾って。そうして用意したセットと共に撮った写真をちょいちょい加工し、ホームページに掲載する。

言葉にするとシンプルではあるが、不特定多数のネットユーザーを対象にする以上、動く数字はとても大きなものだ。当然人気になるには相応以上の努力も必要な訳で、片手間に出来る事じゃない。

 

容姿の良さは元より写真技術、衣装やセットの組み合わせ、構図やテーマの考案と凝り出したらキリなんてものは無く、そこは正しく魔境と表現すべき界隈だ。

……大げさだって? どっこいそうじゃないんだな、これが。まぁ情弱には分からんだろうがよ。ヘッ。

 

さて、そんな中において、私は「ちう」というハンドルネームを用いて一定の地位を築いている。

いや、一定どころじゃない。頂点だ。そう、私はネットアイドル界のNo1の座に君臨しているのだ。

 

アクセス数は軽ーく1000万超、有志によるネットアイドルランキングでもぶっちぎりの第一位だ。これを頂点と言わず何と言う。

ホームページに訪れてくれている奴らもほれ、この通り。

 

 

キジョー  > やっぱちうタンはカワイイなぁ!

 

ゴンベー  > 今日もちうタンは最高だぜ、可愛すぎてハゲそう。

 

ブラック百 > 俺なんて歯も抜けそう。

 

風     > じゃあ俺は魂だ!

 

 

「皆ありがとー! 何時もカワイイって言ってくれて嬉しいぴょーん!!」

 

うっひょーこれだから堪んねぇ。

多くの人が私の美貌を讃え、ひれ伏し、そして――私を認めて、共感してくれる。最高の気分だ。

 

「…………ふふ」

 

結局の所、それがネットアイドルを始めた一番の理由なのだろう。

周りに自分を理解してくれる奴が居なかった。だからネットを介した遠くの奴らに理解者を求め、そいつらを集めるために自分を磨く。そしてその結果、私にはNo1になれるだけの素養があった。そういう事だ。

 

……そんな事をしても信者しか集まらない? 大いに結構。これまでが――今でさえも周りは皆アホだらけだ。だったらネットの中で位、私に都合のいい奴を侍らせてもバチは当たらんだろう。

 

確かに、日々私が主張する「普通」とは少し外れるかもしれない。しかし考えてもみろ、ネットアイドルという存在に「異常」と言える要素なんてあると思うか?

もし数多居るネットアイドルの中に「東京タワーと同じくらい高い巨木」が混じっていたら是非ッとも教えて欲しいもんである。私は自らを「異常」であると宣言し、淫らな事でも何でもしてやろうじゃないか。

 

(ま、ぜってーあり得ないだろうけどな)

 

つまり私はまだ「普通」って訳さ。口内で呟き、マウスをカチリと押し込んだ。

最早作品とも言うべき私の美貌が電子の海へとアップロードされ、全世界に晒される。快感をも伴った一瞬だ。癖になるね、全く。

 

私は心なし頬を上気させつつ、早くもホームページの掲示板につき始めたコメントを流し読み、無意識の内に口角を釣り上げる。腹底で生まれた笑いが横隔膜を震わせ、鼻息が自然と荒くなった。

 

「はっは、やっぱ私は女王様よなぁ! ホーッホッホッホ!」

 

フッフッフ、新作写真もまた大盛況。私を讃美する声がズラリと並び、壮観な事この上なし。いやーん、ちうタンモテすぎて困っちゃ~う!

 

今回は何時ものファンシーな雰囲気とは違い、ゴスロリのコスチュームにSF感のある衣装を散りばめた冒険作だ。色々と不安はあったが、高評価で持って受け入れられたようで何よりである。

普段のストレスや最近のアンナ関連のアレやソレやが浄化されていくよう。気道の奥に絡まる何かが綺麗に解け、哄笑と共に溢れ出す。

 

「……と、いらっしゃーい」

 

……しかしまぁ当然ともいうべきか、その中には称賛とは真逆のコメント――所謂アンチや変態のコメントも少なくは無い。

「ぶりっ子乙」「カマトト女が、氏ね」「肉壷わっしょい」その他多数。中には「今夜●●の詰まったゴムを送るよ」なんて下品極まりないセクハラコメントも有り、中々にジャンル豊かだ。

 

通常それらは私のファンに寄って通報処理され、予め組んでおいた削除プログラムによって抹消される運命にある。一種の自浄作用と言ってもいいだろう。

いやはや。当初は私も結構傷ついたもんだったが、幾度と無く繰り返され対策する内にもう慣れ切った。今やどんなに酷いコメントでも微笑ましい気分で見られるね。

 

まぁファンの方もあんまりほっとくと炎上の元となるので、良いタイミングでの管理が必要な訳だが――――

 

「……ん」

 

ぴくり、と。流し読むコメントの中の一つに目が止まり、右の瞼が震えた。

 

それはアンチでもセクハラでもない、極普通のファンが残したコメントだ。

癖も面白みもない言葉だが、シンプルであるが故に私にとっての大きな原動力となる言葉。即ち――――「何時も見ています、これからも頑張ってください」

 

「…………」

 

ゆっくりと、背後を振り向く。

当然そこには誰も居らず、先ほど撮影に使ったセットとチューリップの鉢植えが有るだけだ。部屋には私一人、他に気配がある筈も無い。

 

何も、何も、何も――居ない。

 

「……考えすぎ、なんだよな。きっと」

 

小さくそう呟いて、掲示板の鑑賞へと戻る。

応援、馬鹿丸出しの暴言、ウィットに富んだ小粋なジョーク。様々なコメントを上機嫌に読み込み、気に入った物の幾つかに反応を返す。こういうこまめな返信が人気を持続させるコツなのだ。

 

ああ、自尊心の満たされる至福の時間。私は間違っていないと再確認でき、ささくれた心が癒やされる。

 

「…………」

 

「何時も見ています」「毎日拝見して頂いています」「いつも見てるぜ!」「毎日見ても飽きないなぁ」「何度だって見ちゃう!」「何時も」「いつも」「何時も」――――

 

……私は努めてその文言を意識から外し、くるくるとマウスホイールを回し続けた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

「あ、そういやそろそろ期末試験の時期だねー」

 

……そんな言葉が聞こえてきたのは、春の入り口。

冬の寒い日々を越え、太陽が暖かさを取り戻し始めた時期だった。

 

「うーわ嫌な事思い出させないでよー、せっかく忘れてたのに」

 

「えー? 大丈夫でしょ、適当にやってれば過ぎるんだからさ」

 

「…………」

 

暖房が徐々に効き始めた教室の中、PCから顔を上げその脳天気な声の主をチラリと見る。

柿崎、釘宮、椎名。いつも三人でつるんでいるクラスメイトだ。確か部活の他にチアリーディング活動をしていたんだったか、運動部の大会によく駆り出されているのを覚えていた。

 

彼女達はすぐそこまで迫った期末試験に憂鬱な様子だったが、特に勉強をする気は無いらしい。グダグダと愚痴を漏らしながら、気楽に笑い合っている。

 

(……お気楽な奴らだな、全く)

 

とは言っても、この件に関しては私も人の事は言えなかったりする。

成績としてはあいつらと同等……もしくは少し上程度であり、同じくやる気なんてものも存在しない。五十歩百歩も良いところだ。

 

何故ならば、別にどんなに悪い成績を取ろうがペナルティなんて無いからだ。赤点も無ければ留年なんてものも無し。あいつらの言う通り適当にやってれば過ぎていく。

特にこのクラスは私含めそんな考えの奴が多く、一年からずっとこちらクラス全体での校内順位は最下位をぶっちぎっている有り様だ。

 

個人個人を見れば学年トップクラスに頭の良い奴は何人か居るのだが、それ以上に数の多いバカが足を引っ張っている構図である。せちがらいね。

 

「そう言えば、例の噂聞いた?」

 

「噂って――ああ、あれ? 今度のテストで最下位のクラスは解散して小学生からやり直し、ってやつ」

 

「そーそ、それそれ。いやーマジなんかねぇ、それだとあたしらもヤバイんじゃ――」

 

……余りにも下らなすぎる話だったので、それ以上は聞く価値なしと判断しPCへと視線を戻した。

 

期末テストか。まぁいつも通りならそこそこの点数は取れるだろうし、特に頑張る必要もないよな。

私はあっさりとそう決めると、テストの件を忘れ趣味の事へと思いを馳せる。さて、次はどんなテーマのどんな衣装を用意しようか。考えるだけで胸が踊る。

 

そうしてネットで良さそうな資料や服を漁っていると――いつの間にか結構な時間が過ぎていたようだ。キーンコーンと始業のベルが鳴り響き、クラスメイト達が慌てて席につく。

私もPCを机に仕舞い込み、SHRに備えた。……のだが。

 

「……?」

 

改めて教室を見回してみると、席に歯抜けが目立つ。

その数は全部で6つ。私の隣席の綾瀬も居らず、風邪で休むには少し多いように思える。

 

……インフルエンザでも流行したか? 時期的には最盛期を越えたとはいえ、あり得ない話ではない。

おいおい止めてくれよ、テスト週間に登校禁止とかさ。流石に後日再試験は面倒くさすぎるぞ。

 

「――やぁ、皆おはよう」

 

帰りがけに消毒スプレーでも買って行こうかと思案していると、教室の扉が開き高畑先生が姿を見せた。何時も何時も出張ばかりしている彼にしては珍しい事だ。

しかし今回は代わりにネカネ先生の姿が見えず、待てども待てども教室内に入ってこない。

 

「あれ、今日は高畑先生だけですか? ネカネ先生は?」

 

「ああうん、今日はちょっとSHRを始める前にその事で連絡があってね。ネカネ君と今日休んでる子達にも関係する事なんだけど」

 

真っ先に質問した朝倉に答えつつ、高畑先生はチラリと視線をどこかに移した。

……宮崎と早乙女、か? 一瞬なのでよく分からなかったが、二人の様子を伺ってみると何やら気まずそうに肩を竦めているし、多分間違いないだろう。何かやったのだろうか。

 

「えー、ネカネ君の事なんだが、実は今居ない子達……神楽坂君達に特別勉強合宿をする事になったそうだ。突然の事で申し訳ないけどね」

 

「合宿ぅ!? ずるーい、何で明日菜達だけ――――あっ」

 

高畑先生の知らせに裕奈が抗議の声を上げたが――途中で何かを察したのか、慌てて口を噤んだ。

 

うん。あれだ。今居ない奴らは概ねそういう連中な訳だ。クラスでも有数のバで始まってカで終わる類の奴。

他の生徒達も大体理解したらしく、「バカレンジャー……」「バカだから……」「ああ、あの五人だもんね……」と口々に好き勝手言っている。暗喩にした意味ねーじゃねーか。

 

まぁ確かにあいつらのいっそ致命的な学力ならば、特別に勉強合宿が組まれてもおかしくはない。「納得」の二文字がクラスメイト全員の頭上に浮かぶ光景を幻視した。

 

「とにかくそういう事だから。しばらくネカネ君は来ないだろうけど、君達も勉強頑張ること」

 

高畑先生は最後にそう締めくくると、続けて通常のSHRに入る。

ここ最近でネカネ先生に慣れ切った所為か、男の声で出席を取られる事に違和感を感じる。短期間でそれ程までに馴染んだという事だろうか。

 

(けど……特別合宿だぁ? 神楽坂達の成績が悪すぎたのか、それとも……)

 

……2-Aの試験結果連続最下位の件が問題視されて、その対策とか?

 

ありえない、とは言い切れん。端から見れば私達は質の悪い落ちこぼれだ。流石に見かねた教師連中が何らかの手を回しても当然と言える。情けない事極まりないが。

もしそうであるならば、今の状況って結構ヤバかったりするのだろうか。テコ入れが必要なくらい切羽詰まってる?

 

 

――そう言えば、例の噂聞いた?

 

――噂って――ああ、あれ? 今度のテストで最下位のクラスは解散して小学生からやり直し、ってやつ。

 

――そーそ、それそれ。いやーマジなんかねぇ、それだとあたしらもヤバイんじゃ――

 

 

「……いやいや、まさかまさか」

 

唐突に先ほど聞いた会話が思い出され、思わず呟き首を振る。

ねーわ。流石にねーわ。それが本当ならば今の教育制度に全力で喧嘩売ってる。まともな学校なら絶対にそんな事は――――

 

(……でも、ここって麻帆良なんだぜ……?)

 

ウッソだろオメー。無いって確信できねーとかエヴィンだろオメー。私はぐったりと頭を抱え、項垂れる。

 

……どれだけの効果があるか分からんが、一応私もそれなりに勉強頑張った方が良いのか?

ああ畜生、もしダメだったとしても私だけは情状酌量されますように。切なる願いを心に湛えながら、高畑先生の点呼にのっそりと手を上げたのだった。






裏で原作イベント進行中。
遅くなってごめんね。でもこれからも俺は謝りつづける事になると思うよ、ゴメンネ!


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私を見るな 編

『ささぬへ。お姉ちゃんと一緒に少し出かけています、帰ってきたらまたよろしくお願いします。 アーニァ』

 

「……アイツ日本語話すのは上手いけど、書くのは苦手みたいだな……」

 

そんなこんなで学校が終わり、放課後。

何時も通りに広場の外れに赴いたものの、占い屋は休業状態。赤毛のツンツン娘の姿は影も形も無かった。

 

代わりにというべきか、ベンチの下の占い屋セットと一緒に一通の手紙――と言うよりメモだな。が置かれており、ヘッタクソな文字で上記の事が書かれていたのだ。ささぬとアーニァって誰だよ。

多分ネカネ先生と一緒にバカレンジャーの特別合宿に付き合っているんだろう。果たして連れて行く意味があるのかは疑問だが、泊まりがけなら保護者として当たり前かと考えなおす。

……そういやバカレンジャーと一緒に休んでた近衛とか綺麗な黒髪なんだが、大丈夫かな、アイツ。ネカネ先生が居る以上問題は無いだろうが、そこはかとなく不安である。

 

「……よし、帰っか」

 

アンナが居ないのならばこの場所に用は無い。私は鼻を一つ鳴らすと、手紙を鞄に放り込み歩き出した。

……しかし、何だ。最近は毎日のようにここでアンナの様子を眺めていたから、急に無くなると調子が狂うな。

私的には面倒事を回避でき、自由に使える時間が増えて嬉しい事の筈なのに。どことなく物足りなくて落ち着かない。多分多少なりとも情が移ったんだろうとは思うが、それが何となく気に入らない。

 

「ったく」私は大きく息を吐くと、ガリガリと後頭部を引っ掻きながら家路を辿る足を早めた。

 

「…………」

 

……後頭部。途中にあったバックミラーで背後を確認するが、当然誰も居ない。

だから考えすぎだって――そう笑い飛ばそうとしたが、どうしても笑顔を作れなかった。

 

 

 

 

そうして家に帰り、一心地。

何時もより相当に早く帰れたおかげか精神的な余裕があり、逆に何をすればいいのか迷う。

普段の私ならば迷いなく制服を脱ぎ捨て「ちう」モードに突入すべき所ではあるが、今は期末テストの直前だ。今朝の事もあり、流石にちょっと抵抗があった。小学生からやり直しは嫌だからなぁ。

 

「……しゃーねー。やるか、勉強」

 

二・三時間を試験勉強に当て、その後で「ちう」になろう。それならバランスが取れる筈。

 

私は鞄から教科書類を取り出し机に広げ、勉強の用意をする。気分を出すため制服のまま、科目は苦手な国語と日本史だ。

理数系に関してはクラスのトップ連中の足元くらいには及ぶのだが、文系がちょっと駄目なんだよな。特に日本史とか、数百年前の何時何時に何があったとか一々覚えてらんねーよ。

 

「現代ニュースなら詳しいんだけどなぁ……」

 

日本史と変わってそっちになんねーかな。なんねーよな、わーってるよちくしょー。

 

私は溜息を零し、用意した紅茶を飲みつつ日本史の教科書を開く。途端年号やら将軍の名前だかが目に飛び込んで来て、何かもう早くもイヤになる。

まぁやると決めた以上はそれなりに頑張るけども。ブツブツと愚痴を垂れ流しながら授業の復習を開始した。

 

「…………」

 

かち、こち。かち、こち。

 

無言の時が過ぎる中、壁かけ時計の秒針が妙に大きく部屋に響く。普段は気にもしない小さな音だが、静寂の中だと目立つものだ。

しかしそれは決して煩いものでは無く、今においてはむしろ集中を助ける種類の音だった。

単調なリズムが一種の催眠効果を促し、余分な思考が切り落とされ。徐々に、静かに。意識が直線化し、教科書の中へ引きこまれていく……。

 

「……………………」

 

かち、こち。かち、こち。

 

試験範囲のページに書かれている重要な文章にマーカーを引き、ノートに写し。口内で幾度か呟き脳みそへと定着させる。色々な場所でよく見る効率的な勉強法。で、あるらしい。

私としてはその効果を実感する機会は少ないのだが、ネットでの情報を見る限り確かな効果があるそうだ。何度もそれを繰り返し、教科書を捲る。時計の音の中に紙とシャーペンの芯が擦れる音が混じり、独特な空気が部屋の中に漂った。

 

……腹の底がどっしりと重くなり、無駄な事を考えられなくなるこの感覚。私は結構好きだったりする。

特に最近は――必要も無いのに気にしてしまうモノが多いから。尚更だ。

 

「………………………………、」

 

かち、こち。かちり。

 

時計の音は、只管に続く。一つ鳴る度、意識が沈む。二つ鳴る度、腹が据わる。音は延々と繰り返し、私を更なる深みへ誘った。

 

 

…………………………………………

 

 

「――ん、く」

 

……どれ程の時間が過ぎただろう。吸い込んだ息が無意識に漏れ、私は我を取り戻した。

疲労感に大きく伸びをすれば、丸めていた背骨がミリミリと音を発し頭蓋骨の中で反響する。

 

「……結構、やったなー」

 

気づけば試験範囲の部分は殆どノートに写されており、右手が微細に震え軽い痺れを訴えている。うーわ中指の第一関節あたりがペンの形に引っ込んでやがる。気持ちわりー。

そうして手首を振るついでに凝り固まった首を回しつつ、時計を確認してみると――「あ?」その長針の進み具合に思わず変な声が出た。

 

どうも私はかなりの時間集中して勉強していたらしい。自分でもビックリである。

 

「ここまでやれば、後は軽い見返しと再復習だけでいいだろ」

 

少なくとも、日本史に関してはそれで十分の筈だ。

所謂一夜漬けの手法ではあるが、何か基礎公式がある訳でも無し。私も日々授業だけはまじめに受けているのだし、テスト前の勉強としては概ね問題無いだろう。

 

さて、これからは自由時間だ。

私は疲れを溜息と共に吐き出し、「ちう」モードに入ろうと制服のボタンを外し纏めていた髪を解き――――

 

――――ちり。

 

「…………」

 

……ピク、と。右瞼が震えた。

 

見られている。

動悸が早まり、肺が萎縮し。髪留めを摘む指に力が入る。まただ、また、あの視線だ。陰鬱で、気持ちの悪い、あの視線……!

 

「――――ッ!!」

 

振り向く、しかし誰も居ない。視線の気配も一瞬の間に嘘のように消え失せ、後に残るのは静寂のみだ。

「~~ッ、ぁあッ! もう!」私は言い様の無い苛立ちにぐしゃぐしゃと髪を掻き回し、魔除けになるというチューリップの鉢植えを引き寄せ、抱きしめる。

 

……いい加減、頭がおかしくなりそうだ。

スルーしたい。勘違いだと断じたい。でも幾ら何でも限度ってもんがある。ここまで何度も何度も感じたのなら、それはもう気のせいなんかじゃ絶対無い。

 

 

――――見られていたんだ。姿の見えない、誰かから。

 

 

「……お、おい。誰か……居んのか?」

 

恐怖と不安に取り乱しそうになる衝動を理性で押し込め、隣室の奴らに聞こえないよう声を抑えて呼びかける。

 

常識的に考えてあり得ない事は分かっている。外ならともかく、ここは家の中だ。ちゃんと戸締まりもしていたし、隠れる場所も限られている。現に姿も気配も無かったんだ。居ないんだよ、現実として。

……なのに視線を感じた事が薄気味悪くて仕方ない。奥歯を噛み締め、怖気を耐える。

 

「くそっ……何なんだよ、一体」

 

そもそも、見られているとしてその理由は?

表は地味を演じているし、言いたか無いがボッチでもある。襲うのならば幾らでも隙はあった筈なのにそうせず、ただ見ているだけというのも不可解だ。

 

そう、全てにおいて意味が全く分からない。私にも心当りなどという物は――――…………。

 

「…………!」

 

バッ、と。思わず自宅用PCの画面を見た。

 

……心当りなら、ある。あった。

思い出すのは、「ちう」に向けられた応援の言葉。私が求めて止まなかった肯定の言葉。

 

 

――何時も、見ています。頑張ってください。

 

 

「……ハ、ハ。そんな筈、無いだろ……?」

 

私の正体はバレてないんだから――――……震える声で否定するが、目線はPC画面に絡みつき離れない。

認識が裏返る。心の均衡が崩れる。私が信じ、享受していたもの。それが持っていた意味が、全く別の醜悪な何かへと変化していく。

 

「…………」

 

「普通」に考えてそんな筈は無いんだ。しかし、それを信じ切れない自分が居る。

……暗い画面に反射し、映る私の顔。そこには疑念の感情が強く混じり、酷く歪んで見えた。

 

――私を、見るな。

 

 



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手を繋ごう 編

3学期の修了式が近づき、三年生への足音が間近に迫ったその日。私達の教室は妙な静けさに包まれていた。

 

「…………」

 

何というか、浮かれ気分を無理やり押し込めたようなソワソワした感じ。

あちらこちらで嬉しそうなヒソヒソ声が飛び交い、非常に落ち着かない。PCにも集中できず、無意味にマウスカーソルを彷徨かせる。

 

「……あ、先生が来た」

 

「…………」

 

そうこうしている内に教室の扉が開き、何かの箱を抱えたネカネ先生が入ってきた。

 

先生も先生ですました表情を浮かべ、何も言葉を発さない。クラスメイト全員の視線を受けながら先生は教卓の上へと箱を置き、私達を見回した。

一人ひとり、真剣な目で。……私はそっと、眼鏡の奥で視線を逸らす。

 

「ひっ」「あうっ」「ニン……」「あわわわ」「うう……」何故かバカレンジャーも視線に大きく肩を震わせたのだが、合宿中に何かあったんだろうか。「強い」というアンナの言葉を思い出す。

 

「……ん、こほん。えー……」

 

ともかく、そうしてタップリと良く分からん間を取った後、ネカネ先生は咳払いを一つ。

大きく息を吸い込んだかと思うと、勢い良く眼前の箱を開け放った――――!

 

 

「――皆、学年トップおめでとう――!!」

 

 

『――やったああああああああああああああ!!!』

 

 

ドッ、と。ネカネ先生が心からの笑顔を見せた瞬間、それに呼応し2-A全員が喜びの声を上げた。

「うるっせ……!」その威勢たるや教室全体を揺らすほどのもので、私は思わず耳を塞ぐ。

視界の端を何かがパラパラ落ちたかと思えば、それは天井からの埃だった。どんだけ煩いんだよお前ら。先生も意外とノリ良いし。

 

(まぁ……騒ぎたくなる気持ちも分かるけどもさ)

 

心の中でひっそりと呟きつつ、教卓の上へと目を向ける。

その天板の上には、先ほど箱から取り出された光り輝く一つの像が鎮座していた。つい先日行われた学期末試験――その学年一位を記念したトロフィーだ。

 

そう、何とこのバカ集団。何処をどうまかり間違ったのか総合成績学年トップに咲き誇りやがったのである。明日世界終わるんじゃねーか、これ。

 

「いやー、にしてもまさか一位取れるとはねー。精々ブービー位だと思ってたのに」

 

「全くです。それもこれもネカネ先生のおかげ、と言った所ですわね」

 

高畑先生はどうした。と言うのはまぁ置いといて。

未だガヤガヤと喧しい教室の中、聞こえてきたクラスメイトの誰かの言葉に私もこっそり同意する。

他の奴らはともかくとして、クラスの重りと言っても過言では無かったバカレンジャーの成績を引き上げるとは、並大抵の事じゃない。

私を含め多くのクラスメイトは自力で好成績を残した訳だが、それを抜きにしたって尊敬に値する。見ろ、あの何時も無表情なザジですらパチパチ拍手してんだぞ。

 

「ねぇ、そうだ! 今度皆で学年トップおめでとうパーティやろうよ!」

 

「そうです! 多分次回は元通りになりそうですから、今しかできないですー!」

 

「……? あれ、もしかして私達貶められてる?」

 

テンションの上がった鳴滝姉妹の提案に神楽坂が眉を顰めるが、殆どの奴らは賛成らしい。やろうやろうと盛り上がり、今後の予定を話しだした。

もうSHRの時間に入っているのにこんなに騒がしくて良いのだろうか。疑問に思いつつネカネ先生を見てみれば、ニコニコと穏やかに笑ったまま特に口を出す気は無いようだ。

次の時間は先生の担当する英語だし、今日くらいは自習って事で許してくれるのだろう。私は降って湧いた自由時間を有効利用するため、改めてPCへと視線を戻した。

 

まぁ、あれだ――とりあえず、話し合いもパーティもどうぞ勝手にやってくれ。正直私はそれどころじゃないんだよ。

 

「…………」

 

……落ち着き、意識を切り替えれば。冷たく戻った体温が周囲の熱気と摩擦し、幾らか気分が悪くなる。

しかし皮肉な事にこの騒がしい雰囲気が一種の安心感を与えてくれて、言い様の無い苛立ちが腹の底から湧き上がった。

 

「……ッチ」

 

――ストーカーの対処法。

あー、バカバカしい。ディスプレイに浮かんだその文字を見つめ、それと分からぬように舌打ちを鳴らす。

視界の端を、鼠のような何かが横切った気がした。

 

 

 

 

――ちり。

 

「……来やがったな」

 

「え? 何か言った?」

 

放課後、アンナの占い屋。

本日のストリートパフォーマンス時間が終わり、アンナと一緒に占い屋セットをかたしていた私は、後頭部を抉る例の感覚に掠れた声を絞り出した。

途端隣で水晶を磨いていた彼女が怪訝な声を上げるが、それに答えられる余裕は無い。何でもないと軽く手を振るだけに止め、努めて視線に気づかない振りをする。

 

最近気づいたのだが、どうもこの視線はアンナと一緒に居る時間に感じる事が多いような気がする。

もしかして狙いは私ではなくアンナなのではないか――そうも思ったものの、それだと先日家で感じた視線と矛盾してしまう。彼女が狙いなら、私の家を見る必要はなかった筈だ。

一番現実的なのは、全てが私の勘違いとする事だ。しかし残念ながら現在進行形で薄気味悪い感覚は続いており、これを錯覚だと断じるのは無理そうだった。

 

(どこだ……どこに居やがる……)

 

……見られている。作業の手はそのままに、目だけ動かして周囲を確認。どこかで見ている筈の誰かを探す。

こういう時眼鏡って便利だ、視線の在処をある程度隠す事が出来るから。絶対想定された機能じゃないけど。

木の影、ベンチの裏、道の向こう。ちりちりと感じる視線の元を追い、様々な場所にこっそり目を向けるが――しかし、やはりというべきか人影は無かった。

 

……いや、隠しカメラという可能性は残っているのか? でもそういうのから視線って感じるものなのだろうか。

私の部屋もあれから探し回ったが、結局見つからなかったんだ。完全に姿を隠せるカメラが有るとも考えにくいし、どういう事なんだ。マジで。

 

「……チサメ? もう片付け終わったけど、どうしたの?」

 

「! あ、ああ。何でもない、じゃあ帰るか」

 

気づけば、全ての部品をベンチの下へと押し込んでいたらしい。

不思議そうな目をするアンナを誤魔化しつつ、その手を取って歩き出す。彼女は少し驚いたようだったが、すぐに笑みを浮かべ手を握り返してきた。

そしてそのまま何時も通りに歩き出し――はた、と気付く。

 

(……?)

 

……何で私は、手ぇ握ったんだ?

殆ど、無意識の内の行動だった。らしくない。極めて私らしくない。アンナが泣いていたならともかくとして、今は元気いっぱいなんだから。一人で歩ける子供は歩かせた方が一番いいだろうに。

もしかして、自分でも分からない領域で相当に追い詰められてるとか? それはそれで極めてヤな話だ。畜生。

 

「……ねぇ、チサメ。やっぱり何か心配事でもあるの……?」

 

アンナも私に違和感を抱いたのか、心配そうな目でこちらを見上げてくる。その視線に射抜かれていると心の中の何かが緩んできそうだ。

こういう時こそ「何でもないよ」と言えれば良かったのに、それに気圧され「あー」だの「えー」だの口ごもってしまった自分の愚かさよ。視線の中に追求の念が混じり、思わずそっと目を逸らす。

……何と言ったらいいものか。ちう関係の事は説明すると私が死ぬ(社会的だ肉体的だ何だと関係なく、ただ、死ぬ)為出来ないし、さて。

 

「あー、その、だな。最近さ、妙な視線を感じないか?」

 

「……視線?」

 

「ああ、何かドロッとした感じのやつ。気のせいかもしれないが、それがどうにも気になってな」

 

「……、……」

 

本当なら子供にこんな話をするべきでは無いんだろうが、詳しく話さなければ大丈夫だろう。そう思い、大した事じゃない風情を装い軽い調子で打ち明けた。

……のだ、が。

 

「ぐ……むむむ……」

 

「オイ、どうした」

 

それを聞いたアンナは突然眦を釣り上げ、苛烈に周囲を威嚇し始めた。

鼻息荒く、頬を染め。キョロキョロと忙しなく辺り見回す。まるで警戒心の強い小動物のような、随分と可愛らしい仕草だ。

……もしかして、居るかも分からない下手人を捕まえようとでもしてくれてんのか?

うーん。嬉しいっちゃ嬉しいんだが、良く分からん微笑ましさがあって緊迫感がまるで無し。何ともはや微妙な気分である。

 

そしてそんなバレバレの行動をすればどうなるか――そんなのはこれまでから分かりきってる事だ。

 

(……消えた、な……)

 

……余計な事を、とは言うまいさ。どうせこのままじゃ視線の主の特定なんて出来そうもなかったんだ、消えてくれた方が有難い。

私は未だ周囲を警戒しているアンナの頭を乱暴に撫で、一応の感謝の意を伝えておく。

 

「……ありがとな。お前のお陰で視線は散ったよ、強い強い」

 

「え? べ、別にそんなんじゃ無いわよ。ただ……感じ取れない程の強さとか、私の鈍さとか、凄ーくムカついただけ」

 

「うん?」

 

「またって、そんなに信用無いのかしら……」アンナはブツブツと文句を呟いているが、こちらにはちんぷんかんぷんだ。

……視線の正体に心当たりがあるとか? いやまさかな。即座に否定しようとするが――それには少し、彼女の様子や言葉が引っかかる。

 

「……なぁ、もしかしてさ。視線の事何か知ってんのか?」

 

「うーん、知ってるっていうか何ていうか……」

 

疑問に思った私が問いかけると、アンナは困った様に片手をウロウロ中空に彷徨わせる。

その表情に焦りは見えども悪意は見えず。単純にどう説明したらいいのか迷っているだけみたいだ。……分かっていたとはいえ、少しホッとする。

そうして暫くそのまま唸っていたが、やがて「そうだ!」と声を上げると手を離し、懐から手帳とペンを取り出すと近くの壁を机にして何かを書き始めた。

 

「……手帳って。随分準備いいな」

 

「お姉ちゃんが持っておきなさいって渡してくれたの。イザって時に電話番号とか書いてあるからって――よし、出来た!」

 

流石ネカネ先生。その準備の良さに感心していると、何かを書き終えたアンナがそのページを破り取り、私に向かって差し出してきた。

 

受け取って見てみると、それは赤いインクで描かれた魔法陣の様に見えた。簡単な円の中に星とアルファベットを崩した文字(なのか?)が描かれており、いかにも「ザ・魔法陣!」といった感じ。

その他には何も描かれておらず、完全に単なるメモの切れ端だ。裏返しても透かしてみても変わった部分はナッシング。

 

何じゃこら。困惑しながらアンナへと目を向けると、彼女は自信満々な表情で無い胸を張った。

 

「もし私が居ない時に気持ち悪い視線を感じた時は、これを握って私を強く思って。本当は電話に付けるものだけど、想いはちゃんと届くから助けてあげられるわ」

 

「……誰が助けてくれんの」

 

「勿論私に決まってるでしょ? 攻撃に関しては負けないし、余計な事する気持ち悪い奴なんかこうよ、こう!」

 

シュッ! シュッ!

まるでシャドウボクシングの如く苛烈なパンチやキックを中空に繰り出すアンナ。

武道でも齧っているのか、その勢いたるや武術の素人の私が見ても堂に入ったものであり。拳の先に殴り飛ばされる誰かの姿が見えた気がした。

 

……こーりゃ頼りになるこって。どっと疲労感が押し寄せ、乾いた笑い声と一緒に溜息を吐く。

 

(ま、こんなもんだよな。「普通」)

 

多分アンナは、何かのアニメや漫画の話と混同しているんだろう。似たようなシチュエーションがあったとか、きっとそんな感じだ。

 

ああ、しかしこの紙はもしかすると占い的に意味のあるおまじないなのかもしれないが――どっちにしろ現実的な助けにはならなそうだな。即興書きの魔法陣を見て、軽く笑う。

まぁ嬉しい事には変わりなし。私は頼りになる魔法陣様を大切に鞄へ仕舞い入れ、アンナの頭をポンポンと叩いた。

 

「はは。じゃあ頼りにしてやるよ、イザって時は頼んだぞ」

 

「任せときなさい! 私の剣でチリチリパーマにしてやるわ!」

 

「ケン……拳でどうやって燃やすんだよ、全く」

 

やっぱガキだな。そうしてそのまま雑談しつつ、ゆっくりと家路を辿る。

 

……もし、この時の約束が無かったらどうなっていたのだろう?

後日全てを知った後、ふとそんな事を思う時もあるが――まぁ、今の私には関係の無い話である。

 

 

【挿絵表示】

 






助けてアンナマン。
何かいやらしい響き。


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だうとはーとだーくおーが 編

      「最近さ、ちうタン更新少ないね。忙しいのかな」

 

   「テストか何かじゃない? 多分中学生くらいだろうし」

 

            「いや、今の時期的に春休みだろ。旅行か何か行ってるんじゃねーの」

 

 「そんなイベントあったら何かメッセージ残してくと思うんだけどなぁ」

 

      「ま、詮索はよしとこうぜ。最低限のネチケットだ」

 

  「ちうタンの正体は栃木県宇都宮市の女子高生だよ、俺見たもん」

 

        「言ってる傍からこれでござる」

 

               「適当な事言うなって、本気にする奴居るんだから」

 

「きっと事故で見られた顔じゃ無くなったんだろ。いい気味だ」

 

           「もしくは特定されて●●されたのかもしれんぜwww」

 

  「引くわ」

 

     「ちうタンのキツキツ肉壷焼きおいちかったおwww」

 

「 スンマセン、

 直ぐに片付けます

     ∧_∧

    (´Д`)

 --=≡ /   ヘ

    || ||

 -=≡ /\\/\\

   / =ヽニ)∧ニ)∧

 -= / /\∥( ・ω・`)

 -//  /∥( つ旦O

 / /  / ∥と_)_)

 Lノ  (_◎ニ◎ニ◎ニ◎ 」

 

    「まーた何時ものお客さんかよ、削除先生お願いしやーす」

 

「通報ボタン十六連打、俺のマウス無事死亡」

 

           「削除先生『らめええええこわれちゃうにょほおおおおおお』」

 

  「儲サンちーっすwww今日も信仰ごくろうさんでーーーーっすwwww」

 

              「ホントうぜーバカが多くなってきたな」

 

   「有名になるって辛い事よね」

 

       「ネットに顔晒してるって事は、つまりヤられる覚悟できてるって事だろw」

 

  「見てろよ、絶対特定してやっからwwwスーパーハッカー友達だからwww俺www」

 

        「友人はスパハカ。そろそろ使い古されてきたよなー」

 

「そんでお前らに見せてやるよグチャグtっtっっっっっっっっっっっっっっっっっっt」

 

                      「お?」 「キタ?」

 

 

> 【☆まじかる♪でりーたー】「わるーいコメントは削除しちゃうゾ☆」BANG!【降臨☆】

 

 

「キターーーーー!」 「先生だーーー!!」 「先生ーー! 俺だー! 結婚してくれー!」

 

 

>(削除対象コメントです)

 

        「ザマァ」

 

     >(削除対象コメントです)

                >(削除対象コメントです)

  >(削除対象コメントです)

  

            「残念ながら見えまっすぇーんwww」

 

 「多分これ今PCの前で歯ぎしりしてんだろなw」

 

 

>【☆まじかる♪でりーたー】「いい加減やり過ぎなので天罰てきめん☆」【アク禁完了☆】

 

 

    「あ、切れたw」

                    「良かった、これで解決ですね」

 

         「でもまぁ、実際何もないと良いけどな」

 

       「こんな奴も結構居るからなぁ、ちょい不安だ。特定ダメ、ゼッタイ」

 

 「ちうたーん! 何時も見てるからなー! 負けないでくれよー!」

 

                「俺も見てるぞい、更新はよ」

 

   「ちう様ー! 我等鼠の七部衆もみておりますぞー!」

   

 「何だよ七部衆ってw」 「ハハッ」

 

            「ちうたーん! 俺だー! 結婚してくれ――――……

            

 

 

……………………

 

…………

 

……

 

 

 

 

「…………」

 

……しねーよ、と。そう一言だけ、呟いた。

 

 

 

 

――通常、麻帆良は凶悪犯罪の類とは殆ど無縁の街である。

 

傷害、窃盗、暴行、殺人――連日世間を騒がせている胸糞悪い出来事も、この学園都市では全くと言って良い程起こりえない。殺人は元より、それ以下の犯罪であってもだ。

学園都市に住む学生達に「そういった性質」を持っている者が少ないという事もあるのだろうが、最たる理由としてはセキリュティの強固さが挙げられるだろう

とは言っても、街中に監視カメラが張り巡らされていたり、学舎に入るのにも一々認証が必要なシステムがある等といったものでは無い。

無論それらも高いレベルにはあるが、もっと原始的な人力に寄るものの功績が大きい。

 

――学園広域指導員。学園警備の大半を担う教師達の事を、私達はそう呼んでいる。

 

西に困っている生徒がいれば急行し、東に泣いてる生徒が居たら駆けつける。北に悪事をしそうな生徒がいれば未然に防ぎ、南に暴走するメカがあれば問答無用に大撃破。

簡単に言えば物凄く強い見回り先生、と言った所か。自分でも何言ってんだかわからんけども、そうとしか表現できないので仕方ない。つーかメカって何だよマジでさぁ。

 

これって「普通」教師が兼任する仕事じゃなくね? 指導員に武力求めてそれが発揮される学校施設ってどんな世紀末よ?

……そう考えた事も一度や二度では済まないが、今更麻帆良に「普通」を求めるのが「異常」なのだと諦めた。

実際問題効果はあり、か弱い女子中学生である私にとってはありがたい事なので余り批判できないのが困り所だ。

そう、麻帆良の治安は極めて安定している。少なくとも私の知る範囲内では胸糞の悪い話は聞かないし、いじめ等も無い。

まぁ血気盛んな奴らがストリートファイトしたり抗争モドキをおっ始めたりもするが、それも五分あれば指導員に制圧されるのでノーカンだろう。

 

本当に、全くもって、概ね、安全なのだ。ここでは大体において悲惨な事件は起きない。

怯える対象なんて殆ど無い。安心して学生生活を送る事が出来る。実際に小学校からここに居る私が言うんだ、間違いない。

 

……間違いない、筈なのに。

 

「…………」

 

キョロキョロ、と。視線だけで周囲を伺いながら、買い物帰りの街道を歩く。

時は春休みの真っ最中。場所は商店街の真っ只中。それなりに広い道を小学生から大学生まで広い範囲の学生達が入り乱れ、密度の濃い人の奔流を作り出す。まるでどこかのテーマパークのようだ。

あちこちで浮かれた雰囲気が放たれていたりもして、皆が皆長期休暇を喜び堪能している事がありありと伺える。年代が違えど学生の本質は変わらないってこったろう。

 

しかし、そんな賑やかな場所において、むしろ私の警戒心は高まっていた。

 

(……無い、よな。視線)

 

友人と連れ添い歩く学生、イチャつきながら歩くカップル、それらを微笑ましげに見る指導員。その全てに含みがあるように見えて仕方が無い。

例の視線――あの陰鬱な視線の主がこの中に居るのではないか。そんな考えがどうしても捨てられないのだ。

無論、被害妄想だとは自覚している。現に今は見られていない訳だし、周囲には視線の主は居ない。これは確かだ。

 

「…………」

 

……だが、本当にそうなのか?

居ないから見ていないのではなく、近くに居ながら敢えて見ていない。そんな可能性はないのか……?

例えば、私に気付かれないように。例えば、私を油断させるために。例えば、それと分からぬ内に特定の場所へと誘導させるため、とか。

今現在私の周囲を歩いている多くの学生達が、本当は視線の主の仲間であり、それとなく私を囲い込んで進行方向を限定している。とか――……。

 

「……は……」

 

早まる鼓動が鼓膜を揺らし、眼球が微細に震える。

もしそうであったら、私はどうなる? もし連れて行かれたら、罠にハマったら、その先で私は何をされる……?

 

――「ちう」に向けられた、幾つものコメントが脳裏をよぎる。

 

「――っ」

 

体の芯から寒気が昇り、思わず両手で肩を抱く。持っていた紙袋が腹部に当たり、軽い音を立てた。

考え過ぎだ。ただの妄想だ。そう自分に言い聞かせるが、悪い想像を止められない。最悪に至るケースを否定出来ない。

 

――あの陰鬱な、気持ち悪い視線が忘れられない。

 

「…………」ゴクリ、と。硬い唾液を嚥下して。私は意を決して足を止め、人の流れを堰き止めた。

 

「おっとと……」

 

「…………」

 

すると周りの学生達は突然の事に驚き、目を丸くして数瞬こちらを眺め――特に何も言う事無く、歩き去っていく。

怪しい動きをする者は居ないか? 視線を這わせてみても、こちらを囲おうと動きを止める者は誰一人として居ない。人々は私を避けてぞろりと進み、新たな流れに変わっていった。

1秒が経ち、2秒が経ち、3秒が経ち、4、5、6――――10秒が過ぎても、何もない。……「普通」、だ。

 

「っ、はぁ」

 

だから、被害妄想なんだってば。

あー馬鹿な事をした。頬に上がる熱を感じながら、安堵混じりの溜息を吐いた。

……この頃何時もこの調子だ。常に心の何処かで視線の事を気にかけ続け、それを感じなかったら感じなかったで安心するどころか「何かの前触れなんじゃないか」と一層不安に陥ってしまう。ちょっと神経細すぎるだろう。

大丈夫だ、身バレもしてないし、街の治安はすこぶる良い。そうさ、大丈夫なんだ、安心しろ。何も起こる筈なんて無いのだから――――

 

「――あら? 長谷川さん?」

 

「!」

 

ビクリ。突然背後から声をかけられ、身が竦む。

恐る恐る振り返ってみれば、目に映るのは流れるような金髪と透き通るような青い瞳――ネカネ先生だった。

どうやら私と同じく買い物の途中だったらしく、杖を突く手とは逆の手に買い物袋が握られている。……その柔らかい雰囲気に、警戒心が弛緩していくのが分かった。

 

「ネカネ先生……? あ、っと、どうも。……偶然ですね、こんな所で」

 

「ええ、そうね。長谷川さんもお買い物?」

 

「まぁはい。服の買い出しに、ちょっと」

 

正確にはコスプレ用の小物素材なのだが、馬鹿正直に言う必要もあるまいさ。さり気なく紙袋を背に回し、適当に誤魔化しつつ流れに従いその隣を歩く。

流石に先生相手に「偶然ですねハイさようなら」は失礼だろうしな。何より身障者であるのだし、可能な限り付き添うのが「普通」だろう。

 

……別に現状1人が心細いとか、そんな理由では無い。無いったら無い。

 

「えっと……荷物持ちます? 別れるまでは持ちますけど……」

 

「え? ……ふふ、ありがとう。でもこのくらいなら大丈夫よ、軽いものばかりだもの」

 

私の提案をネカネ先生は笑って辞退し、軽く持っていたビニール袋を掲げてみせた。

その中に入っていたのは、小さな懐中電灯とそれに使うであろう電池だけ。確かにこれくらいなら私が持つまでもなさそうに見え、「分かりました」とだけ返しておく。

……にしても、懐中電灯ねぇ。先生目も悪いっぽいし、夜間用かな。

そう思いながらビニール袋を見ていると、私の視線に気がついたのか軽く補足説明をしてくれる。

 

「ほら、もうすぐ大停電があるでしょ? 混む前に早めの用意をしとこうかと思って」

 

「……あぁ、そう言えばプリント貰いましたね。もうすぐでしたっけ」

 

大停電。

麻帆良全域の電気供給が一部施設を除き強制的に止まり、短い時間都市としての機能がほぼ完全に停止する。毎年2回ずつある大規模メンテナンスの日だ。

正直それどころでは無かったので忘れていたが、そうか、そろそろだったっけか。

脳みその片隅に追いやられていた記憶が蘇り、めんどくせーと心の裡で呟いた。私も準備しないとなぁ。

蝋燭……いや、せっかくだしアロマキャンドルでも買ってみっかな。こんな時でもないと蝋燭なんて使わないし――――と。

 

「……あれ」

 

「どうかした?

 

「いえ、そう言えば先生蝋燭買って無いんですね。懐中電灯で代用するんですか?」

 

「……え、えーと……そ、そうなのよ……ね。あはは……」

 

特に深い意味の無い、思いつきが滑り出ただけだった。

しかしネカネ先生は気まずげに口篭ると、後ろめたい物があるかのようにそっと視線を逸らす。あれ、何かマズイ事言ったか私。

 

そうして訳が分からないまま先生を見ていると――やがて「長谷川さんなら、アーニャ知ってるし……」と呟き、観念したかのように喋り始めた。

……いや別に問い詰めてた訳じゃ無かったんだけどな。嘘がつけない質なんか、この人。

 

「……他の子達には内緒にして欲しいんだけど、私達停電の間は寮じゃなくて別の場所で過ごす事になってるの……」

 

「はぁ」

 

「それでその場所が……えっと、非常用の電気が通る所で……ね?」

 

「……あー、成程。アンナの件もありますもんね」

 

ネカネ先生の言葉を全て聞くまでも無く、大方察した。

停電とくれば当然大きな明かりが無くなる訳で、そうなると闇が濃くなり黒色恐怖症のアンナが酷い事になる。

おそらく学園長にでも頼み込み、特別な計らいを受けたという事だろう。もしかしたら学園長の方から提案があったのかもしれない。あの人スケベ爺って噂だし。

 

先生の足の件もあり私としては妥当な判断だと思うが――まぁあんまり吹聴する事でもないのか。事情を知らずに見れば贔屓とも受け取られかねんし、後ろめたさを感じるのも分からんでもない。

 

「皆には不便をかけるのに、私達だけズルい事して申し訳ないとは思うんだけど……」

 

「いえ、まぁ……私じゃなくても責める事は無いと思いますけど」

 

相応の理由もあるし、うちのクラスの連中なら恐縮せずとも大丈夫そうなもんだが。

そう言うと先生は少しだけ茶目っ気を出し「じゃあ大っぴらに自慢しちゃおうかしら」等と冗談を言う。いやぁ、それは流石に顰蹙買うと思います。あいつらでも。

 

「まぁ私は停電中殆どその部屋に居ないと思うから、大目に見てくれると嬉しいわ」

 

「居ない……? 仕事か何かあるんですか?」

 

「ええ、広域指導員の見回りをお手伝いしようかなって」

 

「え」

 

指導員の手伝い……? その身体で暗い中歩くの?

 

「いや……やめといた方が良いんじゃ無いですか。それよりアンナについてやった方が……」

 

「あら、私だって黒……じゃない、白薔薇男爵って呼ばれて地元では有名だったのよ? アーニャにはタクミが付いてるから、私は外を守らないと」

 

そう言って「むん」とやる気を露わにする先生だが、ちょっと意味が分からないですね。

つーかそもそも白薔薇男爵て何の事すか。アンナの『悪漢』といい、言葉のチョイスがどっか変だよな。日本語を勉強する過程で何かズレたのだろうか。いやそうじゃなくって。

どこから突っ込んだものやら――かける言葉を探る私の様子を見て、先生は穏やかな笑みを浮かべた。

 

「心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ、他の先生と一緒だし、すぐに『終わらせる』から」

 

「……はぁ、まぁそれなら何もいいませんけど」

 

『終わらせる』に言い知れぬ気迫を感じたのだが、気のせいかな。アンナの『強い』という評価が脳裏をよぎる。

ともかく、本人がそういうのなら大丈夫なのだろう。私は溜息を一つ吐き、一先ず納得する事にした。

 

(……?)

 

……ふと、違和感。

先程ネカネ先生は自分は外を守るだ何だと言っていたが、それだと物騒な意味が付随するように思える。

まるで、そう。何か『敵』となるようなものが居るかのような物言いだ。確かに夜歩きする不良くらいは居るだろうが、学生のノーテンキ加減を考えるとそこまで悪質なものではない気もするし、はて。

 

「――さて、じゃあここでお別れね。付き添ってくれてありがとう、長谷川さん」

 

「、え、あ、はい」

 

そうして考えこんでいる内に、どうやら分かれ道に当たったらしい。その道は教員寮に続くものとは別だったが、多分他に用事があるという事だろう。

先生はニッコリと微笑み手を振って、コツコツと杖を突きつつ静かに歩き去っていく。

 

「――、――」

 

「……ああ、はいはい」

 

……かと思いきや、少し進む度に何度もこちらを振り向きパタパタ手を振ってきたりして、どことなく子供っぽい印象を振りまいてくる。良いから前向いて歩けよ、転ぶぞその内。

ともあれ、私もそれに対して適当に手を振り返しつつ――先ほど途切れた考えを繋ぐ。

 

「…………」

 

……思えば、大停電で都市機能の殆どが停止するという事は、防犯機能も相応に低下する事を意味している。

つまりそれは一時的に治安が悪くなるって事だよな? 

内部はまだ良いさ。ここの学生はアホばかりだが、質の悪いアホは少ない。しかし外からの悪意に関しては――――

 

「……アッホくさ」

 

鼻で笑い、思考を打ち切る。

 

そんな筈があるものか。例え麻帆良だと言っても、子供を預かる教育機関である以上はそこら辺の警備に手は抜かないだろう。

ネカネ先生も言っていたが、指導教員だって見回りをするのだ。心配する事は無い。無いんだ。無いんだっつーのに。

 

「んっとに、最近ダメだな。どーも」

 

考える事考える事、全てネガティブな方面に向かってしまう。

被害妄想、自意識過剰。考え過ぎだと言い聞かせてもそれらは決して止まらない。今だって心の何処かをじわじわと侵食し、犯している。

「……くそ」そうこうしている内に視界からネカネ先生が消え、私は再び一人になって。焦りにも似た苛立ちを感じ、後頭部を掻き毟りながら足早に家への道を行く。

 

大停電。その単語が、脳裏に反響して離れない。

 

 






ネカネさんの出番おしまい。


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ちうタン、ファンに愛されちゃう 編

4月初頭。

春休みの時期が過ぎ、新年度を迎えて早数日。アーニャは何時もの広場の外れに陣取り、占い師としての活動を行っていた。

 

桜の咲き誇る街路樹の一つを背に控え、自作のセットに腰掛け客を待つ。時たま目の前に置かれた水晶に手を掲げ、それっぽい雰囲気作りも忘れずに。

 

……しかし周囲の鮮やかな景色や暖かくなってきた気候により、ともすれば眠り込んでしまいそうな穏やかな空気が漂っていた。

『それっぽい雰囲気』など作る端から消し飛んでいくこの有り様。アーニャもそれを分かっているのか、水晶に掲げる手つきもどこか適当な動きである。

 

「お客さん、来ないなぁ……」

 

くぁ、と。欠伸がてらにそう呟く。

 

雰囲気云々の件は置いておくにしろ、麻帆良という場所の性質上、学校が授業を行っている時間帯は客入りが酷く少なかった。

一時間に一人来れば良い方で、酷い時には三時間待っても誰も来ない時がある。そりゃやる気等出ようはずも無い。

もう少し広い場所。大通りや中央広場辺りにでも出れば違うのだろうが――今の状態でそこに行くのは自殺行為だろう。背筋を小さな寒気が昇り、頭を振って追い出した。

 

(……今日、チサメと会えるかな)

 

そうして暇する間に考えるのは、日本に来て初めて出来た友人――チサメの事だ。

 

普段は放課後の鐘の後そう時間を開けずにこの場所へとやって来る彼女だが、今日は早めに店を畳むつもりである為会えない可能性が高い。

一応時間の許す限りはここに居るつもりであるが――さて。チサメの学校が何かの間違いで早終わりになってくれる事を祈るばかりである。

 

(ニホンに来てから二ヶ月と少し。最初はとんでもない所だと思ったけど、チサメと知り合えたのは良かったわね)

 

あと、サクラもすごく綺麗。足をブラブラ振りつつ頭上を見上げ、そこに広がる桜色の雨を眺めた。

 

 

 

――元々、彼女は日本に来る筈では無かったのだ。

メルディアナ魔法学校を飛び級で卒業した後、ロンドンで占い師をする事。それが本来彼女に課された課題であったのだから。

 

しかし6年前の冬に起こったある事件により心に深い傷を負い、黒色に異常な程の恐怖感を抱くようになり――――加えて、幼なじみである少年と離れる事が出来なくなった。物理的にも、精神的にも。

一日二日顔を合わせない程度なら問題は無い。しかしそれ以上となると精神が不安定になり、酷い錯乱状態に陥ってしまう。これは少年の方も同様であり、ある意味では一心同体と表現する事も出来た。含む意味合いは全く違うものだったのだが。

 

――アーニャを1人でロンドンへと送り出す事は、即ち彼女と少年を間接的に殺す事。それを理解した大人達は大いに頭を悩ませる事となった。

 

卒業後に課題をこなす事は決定事項だ。それを成さねばアーニャの目指す『立派な魔法使い』にはなれず、一人前とは見なされない。

ならば少年もロンドンへと同行させればどうだろう――そのような意見も一部あったが、少年も少年で魔法関係者にとっての超重要人物であり、おいそれと外の世界に出せば敵対勢力から危害を加えられる危険性がある。

 

かと言って魔法学校付近では勝手知ったる土地故修行にならず、占い師から他の目的に変えたとしても意味は無い。半ば八方塞がりの状況。

そうして議論の末アーニャの卒業取り消しの話すら取り上げられたその時、メルディアナ魔法学校長が一つの案を提示した。

 

――日本の麻帆良学園都市、修行地をそこに変える事としよう。

 

……麻帆良学園都市は、物理的にも政治的にも手を出しにくい場所である。

確かにあの場所ならば、例えアーニャと少年が共にあったとしてもほぼ安全に修業を続ける事が出来るだろう。今回の場合においては一応の最適解と言えた。

ならば、何故すぐに挙げられなかったのか。それには既に麻帆良が孕んでいるとある姫巫女の事が関わっているのだが――まぁそれはそれとして。

最終的にアーニャと日本行きに乗り気だった少年、そして心配のあまり無理やり割り込んできたネカネ・スプリングフィールドは、英国の地を立ち麻帆良へと降り立ったのである。

 

――のだ、が。これには致命的な落とし穴があった。そう、日本人という人種は一般的に黒髪を持っていたという事だ。

 

先述の通り、アーニャは黒色恐怖症である。飛行機から降り立った直後には空港に溢れかえる黒の群れに錯乱し、すぐさま少年へと泣きついた。少年もネカネも大混乱である。

どうして誰も気付かなかったのか、それを責めるのは酷だろう。灯台下暗し、頭髪という余りにも身近な問題であった為多くの者が見逃していたのだ。さもありなん。

しかし他にこの案以上のものなどある筈もなく、アーニャとしてもこれ以上他所に迷惑をかける事は憚られ。精一杯の強がりを胸に麻帆良での修行を開始する。

外国人の身体的特徴、女の子の占い屋という特異性。周囲から目立つ要素を抱えながらも彼女は必死に頑張り、そして――大量の黒髪の学生に群がられ、心が折れた。それはもうポッキリと。

 

錯乱しかけた彼女は咄嗟に自らの持つ少々特殊な力を用い、学生達の認識を弄り。人の少ない場所へと逃げ込んだ。

そして明るい太陽を見つめながら、自分に暗示をかけて居た所――――彼女に、チサメに話しかけられたのである。

 

(……チサメが黒髪じゃなくて良かったなぁ。畳み掛けられてたら、きっとダメになってた)

 

これまでの経緯を思い出し、改めてそう思う。

勿論、チサメの事は外見だけでなく人間的にも大好きだ。ぶっきらぼうで無愛想だが何だかんだと優しいし、一緒に居て凄く楽しいと感じられる友人だ。

しかしもし彼女に何かしらの「黒」が配色されていたとしたら、おそらく今のような親交は無かっただろう。

 

それどころかアーニャの心は完全に挫け、強く拒絶した上で今頃は幼馴染のように引き篭もっていた可能性が高い。自分でも認めたくはないが、自分の事だからこそハッキリと分かる。

 

「あーあ。格好とか関係なくトモダチになりたかったなー……」

 

……本当に、嫌になる程根は深い。

アーニャが軽く溜息を吐くと、落ちる桜がふわりと舞った。くるくると不規則な軌道を描き、ゆっくりと空を流されていく。

それが何となく面白く、気晴らしに暫し花弁を吹き続ける。すぐに飽きた。

 

「……あ、もうこんな時間」

 

そうしてあーだこーだと暇を潰し、まばらな客に対応している内に時は過ぎ。気付けば店を畳む時間帯に差し掛かっていた。

何だか酷く無為な時間を過ごした気がする。修行とは何だったのか。

 

「…………」

 

……来ないかなー?

何時もチサメがやって来る方向に目をやれど、そこには彼女どころか学生の1人すら見受けられない。

残念、時間切れである。アーニャはがっかりしたように首を落とすと、いそいそと占い屋セットを片付け始め――「あ、そうだ」ふと思い立ち、メモ帳とペンを取り出す。

 

以前とあるトラブルで外泊する羽目になった時のように、書き置きだけ残しておく事にしよう。

一応予め知らせてはあった気もするが、所謂コンナコトモアロートモ、と言う奴だ。何か違うかな? まぁいいか。

 

「えーと、チ、サ、メ、へ……」

 

一文字一文字、丁寧に。前とは違い少しは字も上手くなったのだ、もう下手っぴなどとは呼ばせない。

アーニャは書いた文字を見直し、しっかりと書けている事を確認。満足気に頷き、占い屋セットと共にベンチの下へと隠しておいた。

メッセージの託し場所としては雑ではあるが、何時も一緒に片付けを手伝ってくれるしきっと気づいてくれるだろう。

 

「えへへ……じゃ、また明日ね」

 

最後に一言手紙に向かって笑いかけ、アーニャは足早に走り去る。

その足取りは軽く、明るく。変わらぬ明日が来るのだと、極自然に夜は明けるのだと。そう信じ切り、何の気負いも無いものだ。

……そうして、誰も居なくなった広場の外れ。

ちらり、と。舞い降りた桜の花弁がベンチの下に滑り込み、手紙に桜飾りを施した。

 

 

――ちさめへ。停電に備えて、今日は早めに帰ります。また明日会おうね。 アーニヵ。

 

 

 

 

「うーん、惜しい」

 

放課後。何時もの場所、何時もの時間。

ベンチの下から見つけた以前よりも少し読みやすくなった手紙に目を通した私は、その残念な間違いに苦笑いを零した。

もう少しで間違いゼロだったんだがなぁ。そう呟けば添えられていた桜の花弁が吐息に吹かれ、道に積もるそれらと混ざり消えていく。

 

一応は前日に早く帰るとは聞いていたものの、どうせ帰り道の途中なのだ。ついでに覗きに来てみたのだがまぁ正解だったらしい。手紙見なかったら見なかったで多分スネるしな、アイツ。

 

「……後で文字の書き方でも教えてやっかね」

 

正直僅か10歳前後にしてほぼ日本語をマスターしている奴に教える余地があるのかは微妙であるが、これを見る限りどうも小さい『ャ』が苦手なご様子だ。

前よりは上手くなっているとはいえ、その辺りの繊細な部分はまだまだという事だろう。間違いを指摘した際のアンナの様子を想像し、軽く口元が緩む。

 

「……さて」アンナが居ないのならば、長居する理由も無い。

私は肩に落ちていた桜の花弁を手紙に落とし、鞄に突っ込み歩き出す。とっとと帰ってゆっくりしよう。

 

「……停電、か」

 

……アンナの手紙にも記されていた、その単語。

それを思うだけで、アンナへの微笑ましい気持ちなんて消え失せる。心が何処か暗い場所へと沈んでいくような――そんな気がした。

 

 

 

本日午後八時から十二時まで。麻帆良のほぼ全域で電気が止まる。年に二度ある大停電、その一回目だ。

電化製品は使えない、真っ暗で何も見えない、ついでに停電中の外出は禁止されていたりと字面で見れば不便極まり無いのだが、それとは反対に街は明るい雰囲気を持っていた。

あちらこちらで笑い声が響き、時には「楽しみだ」「ワクワクする」等という声まで聞こえてくる。まぁ学生からしたら一種のイベントのように感じるんだろう。

うちのクラスでも友人の部屋でお泊り会だの蝋燭パーティだのと喧しかったし、何とも人生楽しそうな奴らである。……私? ボッチだって言った筈だが? あ?

ともかく、そんな浮かれポンチな街中にあって――私の心中はそれはもう落ち窪んだものだった。

 

「……クソ」

 

笑顔の奴らとすれ違う度、言い様のない苛立ちが心の奥底から湧き出てくる。

どうして彼らはあんなにも呑気に笑えるのだろう。何故停電というネガティブな現象を楽しめるのだろう。心の底から理解不能だ。

たった四時間という短い間とはいえテレビもPCも使えないし、電灯を始め明かりだって完全に消えてしまう。それだけならまだしも警備上に穴だって出来かねないんだ。

「普通」だったら楽しさよりも不便に対する苛立ちとか不安の方が大きい筈なのに。こうまで感性が違うとなると、最早別の生き物のように見えてくる気もするよ。

 

「…………」

 

カツカツ、と。短い間隔で道を叩くローファーが鬱陶しい音を奏でる。

 

向かいを歩く奴らとすれ違い、駄弁る学生達を追い抜いて。さり気なく周囲を警戒する事も忘れない。眼鏡を直す振りして視線を隠し、チラリと辺りを伺った。

不審な動きをする者は居ないか。こちらを囲むような集団は居ないか。春休み中にもそのような奴らには遭遇した覚えはないが、どうしても不安が拭えない。

……それに、例の視線も何時どこで来るか分からないのだ。せめて最低限の心の準備だけはしたいと思い、

 

――瞬間、首筋に寒気が走った。

 

「――――ッ!?」

 

誰かに見られているような気がした。

「……っくッ!」咄嗟に振り向き、目を走らせる。しかし近くの建物の窓ガラスやカーブミラーでこっそり確認してみても、怪しい存在は無い。

右も、左も。こっちを見てる奴など居らず、思い思いに歩き、そして去っていく。何一つ悪意の介在しない、ごく平和な麻帆良の日常風景だ。

 

……後頭部を灼くあの感覚は、無かった。それはつまり単なる思い違いと言う事なのか。私は一先ず警戒心はそのままに、腹に入れた力を抜いた。

そうさ、考えてみれば――いや、考えるまでもなく当然の事。「ちう」では無く「長谷川千雨」である今の私に価値は存在しないのだ、こちらに注意を払っている者なんて誰一人としている訳が無い。

今現在私を見てる奴なんて、ガラスに映る私自身しか居ないじゃないか。自意識過剰、自意識過剰――口元で何度も繰り返し、自分に言い聞かせ。逸る精神を落ち着かせる。

 

静かに、自然に、深呼吸……。

 

「…………」

 

……しかし、そうして気分が鎮まると嫌な事が頭に浮かんで来てしまう。

止めども止めどもキリがない。ネガティブな思考が脳を満たし、腐敗させ。ドロドロに溶けたそれが心へと降り落ち黒く穢した。

確かに「長谷川千雨」は無価値であるが、「ちう」の方には価値がある。もし、誰かに「ちう」だとバレていたら。誰かに特定されていたら。

そしてその誰かが私のシンパでは無く、アンチの内の誰かだったら。いや、シンパであっても、気持ちの悪いストーカじみた男だったら。あの視線の纏っていた陰鬱な空気が、「そういう」類のものであったら――

 

「……き、っしょ」

 

……客観的に見て、特定された可能性は凄まじく低い。それこそ砂漠の中で砂粒のコーティングをした顆粒砂糖の一粒を見つけ出すような、それ程の低確率。

あり得ない。絶対に、万が一でもない限りあり得ない。……そう、思っているのに。

大停電のこの日が、その万が一に当たるのではないか――? そんな考えが頭にベッタリとこびり付き、酷い悪臭を放っている。

 

「……これまでだって、平気だったろうが……!」

 

意識して呟き、思考を打ち切り。私は唇を噛み締めながら、強くローファーを打ち鳴らした。

 

 

 

 

そうして隠れるように街を歩き何とか無事に女子寮まで辿り着けたのだが、私の他に生徒の姿は見えなかった。

まぁ放課後になって一番に教室を飛び出してきたのだ。途中アンナの所に寄ったとはいえ、他の奴らはまだどこかで道草を食っているという事だろう。

一応は何人か他のクラスの奴らはうろついているが……今の私の精神状態では、それに安心を見出せ無かったようだ。逆に不安が大きくなり、足早に部屋へと走る。

 

私の部屋は女子寮の二階、階段を上がってすぐ近くの場所にある。もし何か非常事態に陥っても、逃げる事は容易だ。

……非常事態? 無論、火事や地震での建物の倒壊の事さ。それ以外の事など何も無い。そうだろう?

 

「……ただいま」

 

自室のドアを開けて呟くものの、当然ながら返事は無い。まぁ一人部屋なんで当然だけど。

本来、この寮ではルームメイト制度が推奨されている。何せ中学生だ、安全的にも生活的にも複数人で生活した方が良いという先生方の判断だろう。生徒手帳にもそんな感じの事が書いてあった。

しかし私に関しては部屋割りの際の抽選でペアが出来ず、一人部屋と相成ったのだ。当時は趣味の事もあり幸運だと喜んだものだが、今となってはどうなんだかな。むしろ不幸であったような気さえもする。

 

私はしっかりと扉に鍵をかけた事を確認し、ゆっくりと室内を進む。

「…………」他人の気配は無い。玄関の鍵は私が開けるまでかかったままだったから誰かが入り込んでいるとは考えにくいが、どうしても疑いは持ってしまう。

……結局どの部屋にも怪しい部分は見つからず、ようやく一心地だ。家ってもっと安心するもんじゃないっけ?

 

(停電になるまで残り四時間近く、か)

 

さて、何をして過ごすべきか。

 

何時もならそれだけの時間があれば「ちう」になってハッスルしてる所だが、最近はいまいちその気になれないでいる。……写真をアップするのに、多少の恐怖感が付随するようになったからだ。

おかげで更新頻度も激減し、多くの時間が取れた春休み中にも上げた写真は1・2枚程度。ネット界の女王としてあるまじき怠惰である。

 

……まぁそれでもネットアイドルランキングは堂々の一位のままなので、特に焦りなどは無いんだがな。ちう様の威光は凄いだろう、ハッハッハッハッハ。あーあ。

つーかわざわざ今日「ちう」の姿を晒すとか、んな事出来るか。そんなの自殺行為もいいとこで――――

 

「…………」

 

ゴン、と手近な壁に頭をぶつける。

……だから、何で襲われる事前提なんだよ。部屋の中なのに「晒す」って表現は違うだろう。思考がおかしい。さっきから私の意思とは無関係に疑心暗鬼が止まらない。

証拠も確証も何一つ無いのに。そんなに不安か、そんなに襲われたいのか。いい加減にしてくれよ、本当に。

 

「……シャワーでも浴びて、頭切り替えよ」

 

熱い湯か、冷たい水。どっちか浴びればリフレッシュにはなる筈だ。

大浴場が開くのは通常六時からだが、今日は停電の影響で少し早まると聞いている。今から行けば長く待たずに開くだろう――私は楽観的にそう考え、着替えの入ったタンスを漁り始めた。

 

 

 

――かち、こち。時計の針が刻む音。

 

「…………」

 

時間は、緩やかに過ぎる。

結局、頭が湯立ち皮がふやける程風呂を楽しんだとしても、何も変わらない。多少意識はスッキリしたが、私の心は腐った脳みそに塗れ異臭を放ったままだ。

八時に近づく度に焦りが生まれ、座する臀部を引っ掻いていく。このままここにいて良いのか? 私は安全なのか? 延々と自問自答が繰り返される。

 

……PCを起動し、お気入りのサイト巡りをしても気は晴れない。まぁニュースサイト巡りは半ば日課のような物だし、通販サイトも欲しい物が無ければ熱中するもんでも無し。

アニメや漫画も好きではあるが、どちらかと言えばコスプレの衣装の為という意識が大きい。改めて思えば、私ってネットアイドル以外に趣味ってあんま無いんだな。

いいとこДちゃんねるで顔も知らぬ誰かと雑談するくらいだろうか。あそこもあそこで決して褒められた場所ではないが、マイノリティが淘汰される類の「普通」があった。

それは私の精神構造と親しい物で、特に「異常」な事をしでかすアホを匿名の誰かと共に叩く快感は現実世界では得難いものがある。

 

――しかし、今日に限ってはその構図が何かと被る。伏せ字とかモザイクとか、直接表現しちゃいけない類の、何かに。

 

『――……です。30分後には電気の供給が一時的に止まります。蝋燭を始め火の取り扱いには細心の注意を払うようお願いします。生徒の皆さんは部屋に待機し、翌日まで――――』

 

そうして何もかもやる気が無くなり、PCを落とした途端――寮の廊下に設置されたスピーカーから放送が聞こえてきた。

時計を見ればもう七時半、何だかんだと時間は経っていたらしい。

隣の部屋からドタドタと慌ただしい音が聞こえ、廊下を通り何処かへと去っていく。どうやら隣室の住人がお泊り会の会場へと急ぎ去ったようだ。

気付けば反対側の部屋からも人の気配は無くなっており、不安感が増大する。

 

……二つ隣の部屋に、私の声は届くのか?

 

「…………」

 

鍵はかけた。カーテンは閉めきった。扉の隙間もピッチリ閉めた。

夕食はカロリーメイトで済ませてある。腹一杯にはならず、そのくせカロリーだけは取れるんだ。何があってもすぐ走れるし、満腹感からの眠気も無い。

準備は万全…………問題は、無い筈だ。

 

「……よっ」私はテーブルの中央に並べたアロマキャンドルの一つに火を点け、部屋の隅に移動し毛布を被った。

蝋燭を点けるにはまだ早いかもしれないが、十個以上は買ってあるし一晩分には事足りるだろう。

精神を落ち着ける作用のあるという森林の爽やかな香りがふわりと漂い、散っていく。勿論、それは何の意味も果たしてはくれないのだが。

 

……かち、こち。時計の音が大きく響く。

 

「……七時、四十二分」

 

後、十八分。

 

「…………七時、四十九分」

 

後、十一分。

 

「………………七時、五十五分」

 

五分。

 

「…………………………………………」

 

一分。そして。

 

「……っ」

 

ぶつん、と。何一つの予兆すら無く、寮から――いや、街から明かりが消える。

……たったの四時間、されど四時間。短くて、とても長い時間が始まった。

 

 

 

 

蝋燭の照らす闇の中は、嫌に静かだ。

冷蔵庫やテレビ。常に何らかの音を発している機械が完全に止まり、電池式の時計の音だけが続いている。

……いや、よく耳を澄ませば上階の方で騒いでいる連中の声が微かに聞こえない事も無い。ほんの僅かに鼓膜を擽る程度のものだが、今の私にとっては他人の存在が感じられて有りがたかった。

 

「私、も……」

 

もう少し歩み寄る気持ちがあれば、友人としてあの場に誘われていたのだろうか――――そんな事を考えかけ、首を振る。

努力はしていた。それこそ胃に穴が空く程に頑張っていた筈なんだ。しかしその結果が今の私という事は、どうしようもならなかったという事だろう。

……というか、「こっちが歩み寄る」んじゃなくて「あっちがマトモな感覚を身につける」、が正しいよな。アホなのはアイツらで、私は「普通」なんだから。

 

どうやら私は思った以上に心細さを感じているらしい。じっと蝋燭の火を見つめ、心に熱を取り込もうと試みる。まぁ、プラシーボ的な感じで。

 

「……あぁ、そうだ」

 

ふと友人という単語で思い出し、毛布を被ったまま壁伝いに移動。窓際に置いてあった鉢植えを抱え込む。

それは以前アンナと一緒に買ったチューリップだ。流石に時間が立った所為か赤い花弁は所々茶色く萎れていたものの、きちんと世話をしていたお陰かまだ最低限度の美しさは保っていた。

 

「よっ」私はその鉢に貼り付けてあった紙切れ――例の良く分からない魔法陣の書かれたそれを外し、ポケットの中へと放り込んでおく。

アンナ曰く魔除けとお助けアイテムらしいから、持っておかねばなるまいさ。彼女の得意げな笑顔を思い出し、軽く笑みが浮かんだ。

 

「…………」

 

かち、こち。かち、こち。

 

……三十分が経った。

一本目の蝋燭が四分の三くらいまで減少し、溶けた蝋が湖となり炎の明かりを反射する。

……少し早い時間だが、寝てしまえば不安感を感じなくて済むかもしれない。そうは思っても、眠気なんて欠片も感じていなかった。

蝋燭の火を灯したまま寝る事は出来ない。かと言って消してしまうのも怖い。アンナの黒を怖がる気持ちが少しだけ理解できた気がする。

 

何より、寝ている間に襲われたらどうすればいい……?

違和感を感じて目が覚めたら、手遅れの状態だったら。逃げ場を封鎖されるだけならまだ良い、もし……もし「好き勝手」されている最中、もしくはその後だったりしたら、

 

「っ、やめろ!」

 

二の腕に爪を立て、怖気の走る想像を打ち切る。

……単なる妄想だ。そんな事は分かっている、分かっているのに……!

 

「何度言い聞かせれば気が済むんだ……!」

 

いい加減、しつこいんだよ。

 

そりゃネットアイドルやってる以上は、その手の用心はしておくべきだろう。

その辺はよく心得ている。心得て実践もしている。伊達眼鏡をかけて、日常的に地味である事を意識してるんだ。どうだ、何も問題はない。

今まで何か起きたか? どれだけ不安に思おうが、結局取り越し苦労のまま終わったじゃないか。今回だってきっとそうなんだよ、こんな用心してたって無意味に終わるんだ。

そして後日に「何であんな馬鹿な風に考えてたんだ」とか羞恥に悶えるハメになる。ここ最近の私は未来の私に黒歴史として処分される事だろう。断言したっていいね。絶対。絶対――

 

『――本当に?』

 

「ッ!」

 

唐突に脳内へと声が響いた気がして、顔を上げる。

誰かに。侵入されたのか――大きな恐怖が身を灼くままに首を回すと、その音源はすぐに分かった。

……PCだ。暗がりの中、電源の切れたPCのモニターに映る私が、こちらを見て呟いている。

 

『何も無い、何も無い、何も無い――煩い程に繰り返してそう思い込もうとしているけれど、どうしてそう思えるんだ?』

 

……幻覚、なのだろうか?

モニターの中の「私」は酷く空虚な瞳を湛え、淡々と語り続けている。そこに悪意は無く、ただ事実を口にしているだけだと直感する。

「…………」声なんて出せるものかよ。私は驚愕とも恐怖とも付かない感情に貫かれ、目を逸らす事すら出来ない。……言葉を聞くだけしか、出来ない。

 

『実際、私は見られていた。陰鬱な、絡みつくような視線で見られていたじゃないか。一回二回なら気の所為だったかもしれない。だが、お前はそれを何回感じた?』

 

「……、……」

 

『三十には届いていない。だが、確実に十は越えてる。しかも一回は自宅でも感じた。……それがどういう意味か、分かってんだろ?』

 

そう吐き捨てたモニターの私の姿がチラつき、一瞬後には「ちう」の姿へと変わった。

映っている場所も変わり、何時か撮影したセットの物となっていてあざといポーズを決めている。そして、その周りには幾つもの眼球が浮かんでいるのだ。

アイドルに群がる観衆、或いは餌へと群がる羽虫。興奮したかのように血管を浮き上がらせ、黒い瞳孔に粘性ある淫情を孕むそれら。

 

――眼球達は、ゆっくりとその包囲網を狭めている。

 

「……お、おい。やめ、ろよ……」

 

『あーあー。もしかしてちうタン正体バレちゃったぴょーん? でもネットに晒されてないんだよね☆ これってどう言う事かにゃー?』

 

ネコミミ、スク水、バニー、学生服。「ちう」は次々と衣装とポーズを変えながら、笑い、嗤い、微笑う。しかし明るい声音に反し、瞳は先程と変わらず空虚な物だ。

……光が、無い。目が死んでいる。

 

『「普通」さー、アンチだったら晒すよねー? 晒してちうタンの生活めっちゃくちゃにして笑うよねー? でーもー、それが無いって事はぁ? 他に先駆けてナニかヤりたい事があるのにゃーん?』

 

ボコボコ、と。粘着質な音を立てて、「ちう」を取り囲む眼球から黒い粘液が溢れ出した。

……酷く、不快な現象だ。糸を引き、気泡を生み出すその液体は私の見ている前で盛り上がり、何かの形を成していく。

頭があり、胴があり、手足があり――おそらくそれは、人の形をしてるように見える。下腹の異様に膨れた、所謂肥満体型と呼ばれるものだ。

 

『例えば今日とか☆ 闇夜に紛れて迫るにはうってつけでぇ、バレにくくてぇ――』

 

そうしてその黒い人影は、ちょうど眼孔の部分に先程の眼球を二つ露出し、再び「ちう」を視界に捉え。べたり、べたりと。不安定で、緩慢な動きで彼女へと群がり――――

 

「や……やめろ! やめろって言ってんだろ……!!」

 

その先を映すな。

私は堪らず立ち上がり、モニターを遮ろうとPCへと走った。抱えていた鉢が転がる音が聞こえたが、今は気にしていられない。

電源は入っていないのだから、コンセントを抜いても意味は無い。女の私ではモニターを割る事も出来ない。

ならば取れる方法は一つだ。私は手近に脱ぎ捨ててあった衣服を掴み、モニターへと被せようと振りかぶる。

 

――――だが、少し、遅かった。

 

 

『――いやーん、ちうタンモテすぎて困っちゃ~う☆』

 

 

……先程までの声とは全く違う。言葉の明るさに反し、血に掠れ、絶望にしゃがれた声。

ザリ、と。今まさに黒い人影が「ちう」に触れようとしたその時、突然映像が乱れた。

目を逸らす暇も、何かを思う暇なんて無い。次の瞬間にそれは映し出され、私の眼球に認識を強制する――。

 

「……あ、ぐ、く……!」

 

路地裏。暗い、暗い、場所で。

それが動く。それは泣く。それは吐く。それは果てる。散る。失う。――死ぬ。

 

モニターに映る「ちう」は黒に貫かれ、白濁をぶち撒けられていた。穴という穴が埋め立てられ、湿った音と共に内側から押され膨らんでいた。

「ひ、あ」彼らには、煮詰められた情念だけしか感じない。希望など無い、極めて陰惨で、悲惨で、救われないもの。その光景は私の想像する最悪のケースの物で。

 

 

――そんな、理解を拒む世界の中。

「ちう」を囲み、崩れた笑みを浮かべる無数の黒が――――ぐるんと一斉にこちらを向く。

 

 

 

「ッ――――――ッ――――――――!!」

 

 

 

……叫んだ、のだろうか。その時の事は、正直な所全く覚えていない。

ただ――自分の喉から血の香りが立ち昇っていた事だけは、強く記憶に刻まれていた。

 

【挿絵表示】

 

 






ほのぼの、ほのぼの。
次回は少し待ってね(切腹)。


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咲き誇る炎の華 編

大停電。

施設の大規模メンテナンスにより、午後八時より十二時までの四時間の間、麻帆良のほぼ全域で通電が止まる日である。

 

住宅街、商店街、道路、校舎。何時もは夜でも明かりの灯っているそれらの場所から光が消え、闇の帳が深く落ちる。

しかし、当然ながら完全に機能が停止する訳では無い。幾つかの場所……動力室や救護室、学園長室を含む一部の部屋、その他数点。都市にとって重要である場所には非常用の電力が通り、通常機能するようになっている。

 

もし緊急を要する案件や、病人等が出た際にいち早く対応する為だ。幾ら麻帆良が魔法使いの為の街だとしても、やはり魔法では全てを補う事は出来ないという事だろう。

 

――そして、アーニャもまたその内の一部屋で夜を過ごしていた。

 

女子中等部校舎より程近い体育館だ。この建物は災害時に避難場所として使えるよう設計されており、独立した電気機構の他、寝具やシャワーなどの設備もある程度は揃えられている。

流石に一階部分は運動場としての役割が大きい為に少人数での宿泊には不向きであるが――二階部分には幾つかそれなりの広さを持つ個室もあり、アーニャ達は今日一日に限りこの場所で寝泊まりする事を許されたのだ。

 

……黒を怖がるアーニャと言えど、カーテンで夜暗を遮り複数の灯りを点けていれば錯乱には至らない。

夜間での使用も想定され、至る所に照明の設置されている体育館は、彼女にとってはむしろ普段の教員寮よりも夜という地獄をやり過ごすに最適な環境であった。

 

加えてその様子を見た学園長が気を利かせ、一階の大半を占める運動場部分の照明も点ける事を許してくれたおかげでアーニャの気分は上がり調子。

運動場を駆け回り、一緒に泊まり込む事となった幼馴染を振り回しスポーツを楽しんだりと、停電という事態にも反しおよそ六年ぶりとなる「楽しい夜」となっていた――――

 

――のであるが。

 

 

「――――こぉんの、エロタクゥゥゥーーーーーーーーッ!!」

 

「――――ッへぇンィぎギゃぁぁあぁぁああああああああッ!?」

 

カッキーン! と。

それはそれは爽快な音が体育館に轟き、ひとつの人影が勢い良く飛んで行く。

「ご、ぐひっ」赤い髪を振り乱し、口端から悲鳴を漏らしながら何度もバウンドしながら吹き飛び、転がり。衝撃波をまき散らしながら壁に激突、ズルズルと力無く地に落ちた。

その対面上には大きく足を振り抜いた姿勢のアーニャが屹立し、頭から怒気を吹き出している。

つり目がちの紅瞳を更に釣り上げ、ぜぇぜと息を切らし。そこには「楽しい夜」の残滓は欠片も無く、随分とお怒りの様子だ。

 

「……な、何。なんっ、でぇ……! いきなり、こんなぁ――――」

 

「なんでも何も無いわよ! これ見なさいよ、これ!」

 

蹴られた部分を抑え、よろめきつつ立ち上がる幼馴染――タクミの抗議の声をピシャリと遮り、アーニャは懐からPHSを取り出し掲げた。

その背面には鮮やかな紅による魔法陣型の彫り物が施されている。電話に刻む事で通信補助の効果を齎す魔法の一つだ。

 

魔力と電波を重ね合わせる事で通信状況を良くし、且つ通話相手の感情の機微を光の強弱で伝える。魔法使い達の間では生活に根付いたポピュラーな技法の一つである。

……本来は通話中にしか発揮されないその魔法陣だが、今現在においてはその相手を必要とせず燦然と輝いていた。

 

「……そ、それが。ぐ。何だって言うんだよ。ぼ、僕がっ、蹴られる理由には……」

 

おそらく内向的な性格なのだろう。タクミは無体を働いたアーニャに抗議の視線を向けようとしたが失敗し、明後日の方向を睨みながら文句をつける。

その情けない様子に呆れるでも無く、彼女は先程と同じ怒りを滲ませたままズンズンとタクミへと近づいていく。ビクリと彼の肩が跳ね上がった。

 

「え、あの……ちょ、ホント何……?」

 

「……魔法に疎いあんたは知らないかもしれないど、この魔法陣は持ってれば電話に付けなくてもちょっとだけ使えるの。想いが電波の代わりになるから」

 

「で、でっていう。つか想いとかクサ杉」

 

「それで、この魔方陣を渡した相手には――――チサメには、『視線を感じたら私を想って』って伝えてあるの。……で、今光ってんのよ、これが」

 

――どういう事か、分かる?

 

ついにタクミの目の前に立ち、仁王立ちでそう問いかけるアーニャ。

その迫力たるや6年前のXデーに感じたそれと同等以上のもので、ここに至りようやくタクミは彼女が単に癇癪を起こしただけでは無い事を悟った。

……ヤバイ。何かマジで怒っている。情けない悲鳴を上げ、尻餅をつく。

 

「し、しらない……僕は無罪だ! 弁護士を、成歩堂を要求――!」

 

「――あんたが! またチサメを覗き見してるって事でしょうがぁぁぁぁ!!」

 

「ぃいひいいいいいぉあああッ!?」

 

ズッドーン! と。

床板を踏み抜かんばかりに強く振り降ろされた足を必死に転がり回避し、そのままこの場からの逃亡を試みる――が、しかし。運動能力でタクミがアーニャに勝てる筈も無く、呆気無く襟首を捕まれ引き寄せられた。

お互い額をごっつんこ。女人の敵を見るかの如き苛烈な視線が至近距離から打ち込まれ、純粋な恐怖がタクミの身を炙る。まるで蛇に睨まれたカエルのようだ、誰かたしけて。

 

「……前は、わ、わたしが心配だったっていうから許したけど、今回は……!」

 

「ちょまぁッ、ま、待ってよ!? た、確かに前はみ、見てたけど! 今は何言ってんのか、ま、マジで意味ワカンネッ……!」

 

感情が昂ぶる余り涙まで滲み始めたアーニャに慌て、タクミはわたわたと手を振って宥めようと試みるが――やはり、前科がある以上信用を得る事は難しい。

どれだけ言い訳を弄そうとも彼女の目から疑念が晴れる事は無く、焦りは重なり積もって行く。

 

――タクミ。西條拓巳、或いはネギ・スプリングフィールドは、つい先日まで長谷川千雨を監視していた。

 

……と言っても、それは悪意あっての事では無い。ただ純粋にアーニャの事を心配しての事だった。

六年前に故郷を悪魔達に襲撃されてからこちら、彼女の心には未だ癒えぬ傷跡が残っている。黒に苦しみ、ふとした事で取り乱す様を一番近くで見てきた彼は、どうしてもアーニャを放って置けなかったのだ。

自らに宿る超能力めいた異能――ギガロマニアックスとしての力を使い、こまめにアーニャが占い師として活動する様を観察。すぐに駆け付けられるように気を配る。

 

捻くれたタクミの性格、そしてこれ以上周囲に頼らず修行を終えると意気込むアーニャの思いもあり、当初それは秘密裏に行うつもりであった。否、そもそもアーニャの感知能力の低さからして、彼の行動が公になる確率は必然的に0であったのだ。

 

……しかし、そんな中で誤算が一つ。そう、長谷川千雨とアーニャの出会いである。

 

初めは取るに足らない事だと思っていた。

嬉しそうに彼女の事を語るアーニャは鬱陶しかったものの、心の支えになる物があるというのはそう悪いものでは無い。むしろ心配事が減る分歓迎すべき事とも思えていた。

――これなら、そんなに心配しなくても済むかもしれない。

幾分か気も軽くなり、試しに長谷川千雨と戯れるアーニャの様子を覗いてみたのであるが――その時に何故か、一緒に居た千雨の方に視線を気取られてしまったのだ。うそーん。

 

(……まさかチート染みたこの僕が遅れを取るとは思わんだろ常考……!)

 

以降、長谷川千雨はタクミにとっての警戒対象となった。

ギガロマニアックスである彼の気配を読み取ったという事は、千雨も同じギガロマニアックスである可能性があったからだ。同族の力は同族にしか感知できない。つまりはそういう事である。

 

……基本的に、ギガロマニアックスに碌な奴は居ないと言って良い。

一度精神的に強い負荷を受けている事が覚醒条件となっている以上、どれだけまともに見えようともその精神構造には何かしら致命的なマイナス面が存在する為だ。

 

二重人格、メンヘラ、暴力癖、人の話を聞かない、身勝手な人類救済願望、その他色々。タクミの短い生で関わってきた者だけでも癖のあるものばかりであった。

もし千雨にもそれに準ずる何かが秘められているとしたら――……その推測が正しいとは限らないとはいえ、もしアーニャに害する類の物であったとすれば、何かが起こった後では後悔してもし切れない。

 

しかし千雨を友人として気に入っている彼女にそんな事を話せば、反感を買いフレイムキックで蹴っ飛ばされるに決まっている。さぁどうするか。

 

(――なら、バレないように監視するしか無い。そうして何か事が起こった場合に、止めるしか無い)

 

タクミは密かにそう決意(そこに至るまでの粘つく思考回路は割愛)し、アーニャの観察という目的に千雨の監視も加え、最近までそれを続けていたのである。多量の不審と微量の嫉妬を胸に、それはもうじっとりと。ねっとりと。

 

本当は思考盗撮が行えれば一番苦労が少なかったのだが、千雨はその気配に敏感出会った為に「監視」という名目では難しく――何よりタクミ自身がそれを忌避していた為に実行する事は無かった。

……まぁ、結局は千雨の告げ口によりアーニャに察知され、「心配してくれたのは嬉しいけどチサメのプライバシーが云々」と照れ隠しも交えこっ酷く説教されたのであるが。

 

「――いや、でも、もっ。もうホントに監視とか止めてる……っからぁ! ホントにぃ!!」

 

「……むぅー」

 

しかしながらその際に行われた肉体言語により完全に躾けられたタクミは、今現在はアーニャの言に従い千雨の監視を休止していた。

 

今更その事で彼女に文句を言われたとしても、それはもう過ぎた事だ。他に心当りがない以上は否定を続ける事しか出来ず。

その必死な形相にようやく信じる気になったのか、アーニャは襟首を掴む力を緩めタクミを地面へと下ろし。そうして律儀にその襟元を正しながら発光する魔法陣を突き付け、念を押すように問いかける。

 

「……ほんっとにあんたが何も知らないんなら、これはどういう事? ものすごーくピカピカしてるんだけど……!」

 

「だ、だから知らないって……何か、僕じゃない他の奴に見られてるとか、そんな感じじゃないのかよ……」

 

「…………」

 

一応は信じる方向に傾いたらしいアーニャに適当に返しながら、タクミは大きく溜息を吐いた。

 

全く、とんだとばっちりだ――自分の行動を棚に上げてブツブツと呟く彼を他所に、しかしアーニャの表情は晴れないままだ。

この魔方陣が光っている理由がタクミでは無いとしたら、一体何が理由で光っているのだろう? 鮮烈な赤い光に目を眇め、考える。

 

渡した紙切れを手に持ったまま、試しに私を思い浮かべてみた。若しくは自然と私を思い出してくれたとか。「……えへ」そうであったら嬉しいと少しだけ頬が緩みかけるが――脈動する光の激しさは、そのような穏やかなものでは無いように思えた。

 

太陽のように大きく発光したかと思えば、すぐに蝋燭の火よりも小さくなり、不安定に瞬いている。

それは見ているだけで不安になってくるような、切羽詰まった感情の発露だ。例えるならば――――そう、恐怖や焦りを想起させる信号。

……まさかタクミの言う通り他の誰かに見られており、私に助けを求めている。とか――?

「…………」そう考えた途端、決して小さくない不安が鎌首をもたげた。

 

「……ね、ねぇ、タク。あんた前にチサメの部屋まで『見た』のよね……?」

 

「んぐ、く……言っとくけどっ、ああ、あれは着替えが始まりそうになってすぐ止めたから、ノーカン……」

 

「じゃあ……その、ちょっとだけ、様子見てくれない……?」

 

「――は、はっ?」

 

それはつまり覗けという事か。今までの言葉とはまるで逆の頼みにタクミは素っ頓狂な声を上げ、思わずアーニャの顔を見る。

その顔色は血の気の引いた青とバツの悪さを湛えた赤の複雑な色に変わっており、軽く引いた。

 

「……い、いや、何で。それだと僕が蹴られた意味とか、よく分かんない事に」

 

「良いから! 後でチサメには私から謝るから、無事かどうかだけ! お願い!」

 

「…………な、何なんだよぅ……ホントにぃ……」

 

アーニャの必死な様子にただ事ではない何かを感じたのか、タクミは泣き言を漏らしながらも顔を上げ。

そうして何も無い中空へと小さな右手を這わせたかと思うと――それを掴み、ズルリと引き抜く。

 

――それは、剣と呼ぶにはあまりに長く。今にも折れそうな繊細さと、夢幻なる気品に満ちていた。

 

絢爛さは露ほどもなく、魂が吸い取られるかのような清純なる悪意と。畏怖を感じさせるかのような流麗さを持ち合わせていた。

 

唯一柄の部分に巻き付いた茨が不釣り合いに見えるものの、不思議とこれ以上無い程の――まるで完成されたパズルの如き調和を見せている。

……タクミのディソード。ギガロマニアックスがギガロマニアックスである証。妄想を行使する為の鍵が、今ここに顕現したのだ。

 

「…………」

 

身の丈の何倍もあるそれを握りしめ、タクミは心の裡へと意識を溶かし、沈める。茨の蕾が赤い光を放ち、体育館の中を斑に染める。

これまで行ってきた監視のお陰で千雨の家の位置は既に分かっていた。後はチャネルを開き、繋げ。第三の目の役割を持たせた茨の一本を顕現させるだけで良い。

 

タクミと「世界」との繋がりは未だ切れていないのだ。詳細な情報さえ把握できていれば、あらゆる物事を観測し続ける「世界」を利用し、この程度は容易いものであった。

 

そうして彼は以前のように茨を差し向け、千雨の部屋を覗き見る。視界を共有するため茨の一本をアーニャの腕に巻き付け――外が停電中である事を考慮し、彼女の視界にだけ薄緑のフィルターを掛け――心を重ねた。

 

「――開け」

 

長い睫毛が目元を擽るような感覚。粘着質な音と共に妄想の眼球が瞼を開き、焦点の定まらない視界がタクミの脳を突き刺して。

新たに繋がった存在しない視神経を辿り、虚数の情報が流れ込む。

 

「……? 誰も、居ない……」

 

「……どういう事? っていうか何これ、緑っ」

 

……しかし、開いた目に映ったのは無人の一室。千雨の姿は捉えられなかった。

どこかに隠れている様子は無かった。停電に伴い全ての灯りが消えており、人の気配は皆無。別室からも物音は何一つとして聞こえず、暗い静寂だけが部屋を満たしている。

 

目立つものといえば、乱雑に散らかった衣服や鉢植えとテーブルの上に並べられた蝋燭くらいの物だろう。その数はおよそ十個、中心にある半ばまで溶けた一つだけが僅かに白煙を立ち昇らせ、夜風に吹かれ揺れていた。

 

……夜風?

 

「……窓が、空いてる」

 

ふと見れば、居間の窓が一つだけ開いていた。緩やかにカーテンが揺れ、少量の風が吹き込んでいる事が分かる。

……この時間帯に不用心な。そう思いつつ何気なく観察し――――

 

「……!?」

 

その光景に息を呑む。

単なる閉め忘れだと思っていたそれは、しかし確かに閉まっていたのだ。窓枠はしっかりと噛み合い、鍵も固く閉じられている。

 

――開いていたのは、窓枠の中身。ガラス部分のみが広範囲に渡りくり抜かれ、夜街へと続く空洞が穿たれていた。

 

「これ、は……」

 

「――――」

 

……一目で分かるものではない。しかし把握してみれば、極めて異常な光景だ。

 

おそらく何か高温の物で無理やり焼き切ったのだろう。窓枠に僅かに残ったガラス片はその断面が泡立ち凝固し、金属部分にこびり付いている。

その他に目立った外傷は無く、焦げ跡もヒビ割れも無い。ガスバーナー等の器具では決して不可能な現象である。

しかも内外含め窓の周囲には切り取られたガラスの類が見当たらず、泥のような汚れが付着しているだけで綺麗なものだ。これを成した者が持ち去ったか、或いはガラスその物が全て溶け落ち消滅したとしか思えない。

……その理由を除外し、現実的に考えれば前者であるが……タクミには後者であるように思えてならなかった。

 

――リアルブートした、ディソード。高温の刃で全てを焼き切る彼の剣ならば、この状況を作り出す事も不可能ではないのだから。

 

そして、剣を持つ候補は現状一人しか居ない。タクミの抱いていた疑惑が確信へと変わった。

 

「……ねぇ、アーニャ。これ、何があった……のかな」

 

茨を通して同じ光景を見ている筈のアーニャに声をかける。

窓の穴から抜けだしたのか何なのか。少なくともこの部屋で何か物騒な事態があったのは確かだろう。けれど、それがどのような物なのかが予想できなかった。

しかし千雨と一番近くで接していた彼女ならば、もしかしたら現状に関する心当りの一つでもあるかもしれない――そう期待しての問いかけだった、のだが。

 

「…………?」

 

返事がない。彼女の性格であれば、どういう事だと詰め寄られてもおかしくない筈なのに。

疑問には思ったものの、まぁ静かなのは良い事だ。わざわざ視界を元の体育館の中に戻し確認する必要も感じられず、他に何か異常は無いかと茨を動かして。

 

「ッ!? あ、っづァッ!!」

 

――――瞬間、火花が散る。

 

突如現れた火柱がタクミの半身を炙り、その火傷する程の熱により強制的に意識が引き戻された。

第三の目が途切れた事による急激な現実回帰。眼球がグルグルと周り突発的な吐き気を催し、状況が把握できずに混乱する。

……何だ、何が起こった。タクミは酷く明滅する視界に耐えつつ、咄嗟にアーニャの方へと視線を向け、

 

「……へぁ?」と、間抜けな声が漏れる。

彼の隣。先程までアーニャが居た場所。

そこには既に誰も居らず、焼け焦げた茨の欠片がただ舞っているだけだった。

 

 

 

 

走る。

 

「はぁ、っぐ、……!」

 

走る、走る、走る。只管に、走る。

目指す物も辿り着きたい場所も無い。本能的に感じる恐怖と危機感のまま、全力で足を動かすのだ。

私はインドア派なんだよ。そう愚痴りたい所だったが、そんな文句など思い浮かびもしない。――ただ、逃げるだけ。

 

「く……は、っく、そっ……!」

 

痛い程に酸素を求める肺をいなし、背後を振り返る。

目に映るのは、夜の闇に包まれたモダンな町並み。それと身体を動かす毎に視界と擦れる洋服のフリルだ。それ以外には何も見えず、私の足音と荒い息遣いが建物の隙間に反響し、溶けていく。

 

……傍目には何も無いかもしれない。けれど、私には分かっていた。そこかしこに立ち並ぶ建物の影から、誰かがこちらを見ているのだ。

そう――「ちう」の衣装を身に纏った私を、無様に逃げ惑う私を。粘性を帯びた目でもって、襲う隙を伺っている。

 

「ひ……ッ!」

 

――ぎょろり、と。流れ去る塀の隙間から突然眼球が覗き、私の視線と一瞬だけかち合った。

その気持ち悪さに肩が跳ね、バランスを崩しかけ蹈鞴を踏む。慌てて壁に手をつき立て直し、擦れた指先に痛みを感じつつ走り去る。通りの角を曲がっても減速せず、少しでも前へと進むのだ。

……そうして脳裏をよぎるのは、つい先程自室のPCモニターに映ったおぞましい悪夢。醜く穢れ、画面越しにも分かる程の悪臭に溢れた、あの。あの――!

 

「……~~~~ッ!!」

 

……嫌だ。もし捕まればきっと私は次の「ちう」になる。

逃げろ、逃げるのだ。目的地など無くていい、あんな目には逢いたくないだろう。だったら走れ。あいつらの追ってこない場所まで、走れ。走れ走れ走れ――走れ!

「……っぐ!!」喘ぎを漏らし、硬い地面を踏みつけて。私は心の内側から響く声に従い、限界を無視して更に足を速めた。

 

――――おそらく、もうすぐ午後九時になるかどうかという時刻。私は「長谷川千雨」では無く「ちう」となり、真っ暗な麻帆良を走り回っていた。

 

いつの間に着替えたのか、どうやって部屋から出たのか。その一切を私は知らない。

件の映像を見た瞬間に意識が飛んで、気付いた時には既に千雨の仮面を脱ぎ捨てていた。モニターに映っていた「ちう」の姿そのままに、夜街を逃げ惑っていたのだ。

 

何故逃げるって?

そんなのは決まっている。追われている、追われているんだよ私は。誰かに――そう、あの「ちう」に群がっていた黒い男達に、何もかも把握しないままに追われている。

 

(くそっ、何で。何でこんなになってるんだよ……!)

 

どうして、何がどう作用すればこうなるんだ? 車の往来を無視して街道を横断しながら、そう毒突く。

訳も意味も分からず記憶も無い。明らかに「普通」ではない、あらゆる意味で「異常」な事態。あっていいのか、こんな事が。

幻覚や妄想の類では決して無い。「普通」の私が「異常」をきたすなんて許容できない。即ちこれは紛れも無い現実であり、だからこそ脳が混乱で満ち満ちる。

 

奴らは何者か? そんなものは知らない。その目的は? そんな事知る訳が無い。どこから出てきた? だから知らない!

 

しかし彼らのやりたい事だけはこれ以上ない程に理解している。そして、今できるのはそれに対する場当たり的な行動だけだ。

逃げるのだ。奴らの視線の届かない場所へ、手の届かない安全地帯に。一刻も早く、早く!

 

「……だ、誰かぁ! 誰か、はっ、たすけっ……!」

 

止まれば捕まる――そんな強迫観念にも似た焦燥の中、私は大声を上げた。息も絶え絶え、声は掠れて声量も足りなかったかもしれないけど、今の私に出せる全力の声量だ。

正直この「ちう」の格好を見られるのは自殺モノの羞恥だが、この際気にしていられない。

アンナ、ネカネ先生、高畑先生、裕奈、綾瀬、その他大勢。無意識に知っている奴らの顔を浮かべながら、誰でもいいから助けてくれと切実に願い。何度も、何度も、何度も、何度も。声を張り上げ、助けを求める。

 

……しかし。

 

(何で、誰も来ない……!?)

 

無機質な街並は闇の静けさに包まれたまま、人の気配すらも感じられなかった。通りすがりに建物の壁を叩き扉を引っ張っても皆施錠されており、反応も梨の礫。

確かに今までがむしゃらに走り回った所為か、私は現在位置がどこなのか把握出来ては居ない。西区か、東区か、それとも北区か。

 

雰囲気から言って寮のある居住区からはそう離れていない場所の筈なんだ。世界樹の位置から土地勘を得るなんて器用な事は出来ないものの、その程度は分かる。

 

幾ら停電といえど、外出禁止令が出されている以上は誰か居るに違いないのに。何故出てくれない、助けてくれない。このままでは私は、私は。

 

「……ッ!!」

 

……ベタリ、と。何処かで物音が響いた。

助けが来たのか。そんな希望に縋り咄嗟にその方向に目を向けたが――すぐに見なければ良かったと後悔する。

 

「……っぁ、何……?」

 

近場にあった倉庫のような建物。その扉の隙間から黒い粘液が漏れ、不快な音を立てて蠢いている。

最初はそれが何なのか見当すら付かなかった。しかしそれが大きく波打ち、震えだし――その中から大量の血走った眼球が姿を覗かせた事でその正体を悟った。

 

――あれは、人の形を成す前の黒い男だ。常識や物理法則を無視した事象にも関わらず、極自然に、疑いなく、決定的にそう確信していた。

 

……後から思えば、こんな思考ができた時点で私は既に「普通」では無かったのかもしれない。混乱や焦燥で言い訳できる範囲を超えているのだから。

しかし当時の私にとってはそれは紛れもない真実だった。恐怖に身体が震え、身が竦む。そうしてすぐにこの場から離れようとして――――瞬間、ギシリと一斉に周囲から何かが軋む音を聞いた。

 

「うわっ!?」それは決して大きな音では無かった。しかし全方位から響いたそれは私の頭を多方向に揺らし、数瞬の間思考能力が停止する。

……そして注意力の散漫の末に訪れるのは転倒であり。気付けば足が縺れた私の身体は投げ出され、地面に向かって飛び込んでいた。

 

「――っぐ! って、ぇ……!」

 

咄嗟に手を突いて衝撃は和らげられたものの、全力疾走中の出来事の為か完全にとは行かなかったようだ。身体を打ち付け、少しの距離を転がった。その際無意識に握りこんでいた掌から紙切れが落ちたが、気にする精神的余裕は無い。

……腕が痛い、掌が熱い。指の一本を動かす度に妙な感覚が神経を走る。折れ曲がっていないのが不思議な程だ。

私は慌てて身を起こしながらも、何があったのかと周囲に視線を振り回し――――

 

「……は、」

 

黒、だ。黒い粘液が私を取り囲もうとしている。

周囲の建物の扉から。今まさに入ろうとしていた通りの先から黒い粘液が溢れ、次々と盛り上がり、変形しているのだ。

みちり、みちりと。それらは私の見ている前で、筋肉の繊維が結ばれるような異音と共に人の形を作っていく。頭があり、胴があり、手足があり――出来上がるのは先程自室のモニターで見た光景と同じ、肥満体型の男の姿。

 

目玉から粘液が溢れたか、粘液から目玉が溢れたか。その程度の違いはあったが、きっと些細な事だろう。彼らは少しの間眼球をギョロ付かせているだけだったが、やがて私を捉えた順にゆっくりと近づいてくる。

気持ちが悪い。精神が犯され、嫌悪に陵辱されていく。

 

「か、ひゅ……はっ、は」

 

最早声すら失くした私は、必死に逃走を再開しようと足掻き、足掻き、足掻く。

しかし一度止まってしまった足は中々言う事を聞いてくれず、ただ酷い疲労に悲鳴を上げるだけだった。ガクガクと震え、壁に体重を預けなければ立つ事すら覚束ない。

 

いや、足だけじゃなく全身が悲鳴を上げている。滝のように流れる汗は睫毛を濡らし、痙攣する肺は酸素すら満足に吸い込めなかった。ともすれば吐瀉物を撒き散らしそうだ。

 

……限界なんだ。私は、既に。

 

「……や、だ。いやだっ……!」

 

けれど、止まる事はしたくない。

嫌なんだ、まだ14なのに、好きな人も出来てないのに、あいつら相手なんて絶対に嫌だ……!

 

私は唇を噛み締め、疲労とは別の意味で痙攣する身体を必死に押さえつけ。ズルズルと地面を這い進む。

可憐な衣装が擦り切れ、フリルが千切れボタンが飛んだ。一瞬勿体無い気分になるが、そんな思考はすぐに淘汰されていく。

 

――――ちうタンだ。ちうタン。何時も見てる。、液の詰まった。特定して。ちうタンの。見てる。俺は見て、見てい、ちう。見て。見。見見みみmm――……。

 

……誰かのメッセージが聞こえる。ノイズ混じりの酷く聞き取り辛いものだ。

それはつまり、声が聞こえる程の近さにまで黒い男達が迫ってきているという事だろう。しかし背後を確認する勇気は無く、私は反射的に目に付いた路地裏へとボロボロの体を引きずった。

暗く、細い道だ。先は見通せなかったが、よく目を凝らせば向こう側に道が繋がっているのが分かる。

幸運にもその先にはまだ奴らは見えず、逃げ道としては最適だ。一筋の光明が見えた――――そう、おもったのだ。が。

 

「……あ……?」

 

――路地、裏?

ふと、嫌な予感が背筋を走り。それ以上進む事を本能が拒否し、入り口から少し進んだ所で。牛歩の足が止まった。

そうだ、自室で見たあの映像。あれに映っていた場所は確か、このような暗い所では無かったか?

 

「ちう」のインパクトが強く、良くは覚えていない。だけど、確かにこの路地のだったような気がする。そして彼女が倒れていたのは、丁度この辺りで。

……私が「ちう」の格好をしている事、黒い男達に追われている事、路地裏に入った事……積み木を組み上げるかの如く、様々な予感が積み上がり一つの絵を描く。

 

――――この状況は、まるであの光景のリプレイじゃないか――――?

 

「――うぁッ!?」

 

その事に気づき、急ぎ路地を抜けようと踏み出した足が、動かない。

慌てて目を落とせば、いつの間にか這いよっていた黒い粘液が足首を拘束しその場へと固めていた。

無理矢理に動かそうとも粘液は外れる事は無く、むしろより深く足を飲み込んでいく。おそらく手で触れようものならより拘束は深まるだろう。

早く解かなければ捕まる。焦る気のまま背後を振り返れば、

 

「…………は…………」

 

――――無数の瞳と、目が合った。

 

黒が。あの粘液が。路地の入り口一杯に広がり、詰まり。そこに浮かぶ無数の眼球がこちらを見つめていた。

向こう側の景色なんて見えない。黒は私の身長を越え、建物の大きさを越え、見上げるままに天まで昇り、夜空へと融け合い一つのものとなっていて。

 

……否、もうそれは夜空じゃない。そこに浮かぶ星の一つ一つまでもが血線の走った眼球に変貌している。

20か、200か、2000か。多分「ちう」のホームページの訪問者数と同じ数。降り注ぐ視線の全てに情欲が宿り、私が、「ちう」が囚われる様を望み、見つめているのだ。

 

「は、はは……は」

 

もう、何の罵倒も悲鳴出ない。

笑うしか無いというのはこの事だろう。心に大量に絶望の泥が降り注ぎ、しかし反対に表情には笑顔が浮かぶ。

私には知る術は無かったが、それは奇しくも先の「ちう」が浮かべていた同じものだった。目から光が消え、感情が壊死し消えていく。

 

……おそらく、あの映像は今の光景を映していたんだ。この無数の眼球をカメラとし、「ちう」の、私の未来を撮っていた。

あり得ない。そう思っているのに、それを私の中で真実とする気力が沸かない。端的に言えば諦めたのだろう――誰かに助けられる事も、自力で助かる事も。「普通」すらも諦めた。もう、逃げられない。

 

「……あは、は」

 

広がる黒が小さく千切れ、男を産んで。その全てが私に向かって手を伸ばす。距離はもう目と鼻の先だ。

意思とは関係なく未だ足が抵抗を続けていたが、意識的に止めさせる事も出来無い。感情がぶっ壊れ、現実をモニター越しに眺めていた。

 

そうして無数の眼球の中に、怯えた私を――数刻前の自分自身の姿を見る。

幻覚か、妄想か。何れにせよ状況はループし、眼球を通じて現在と過去は繋がった。後の展開は決定事項であり。流れ作業にも等しい。

 

「……う、ぁぐっ」

 

足を、腕を、頭を、腿を、肩を、腹を。男の腕に掴まれ、地面に押さえ付けられる。彼らの一挙手一投足に粘着質な音が響き、不快感を強く煽った。

 

彼らが見下ろす。涎のように粘液が垂れる。止めろ、キモい、嫌だ。嫌だが、しかし――何かが出来る筈も無く。零れた涙が黒に溶け、消えた。

 

……さて、あの映像の「ちう」は最後に何と言い残していただろう。確か、明るい声で我が身の魅力を嘆いていたような気がするな。

ハハ、お気楽なこって。そうバカにしたかったが、今なら彼女の気持ちがよく分かる。それ以外にどうしろってんだ、こんなん。

 

「ぁは、ふ。ぃ、いや。ち、ちうタン……は、あはっ☆」

 

私は黒に浮かぶ眼球、その中に居る過去の自分達に向かい、空元気を振り絞った。

どうしてそんな事をしたのか、私にも分からない。だけどまぁしょうがないんじゃないのかな。私は奇妙な義務感を抱きながらも、「ちう」の言動をトレースしようと試みる。

……そうさ、ファンに愛されていると思えばそう悪い事でも無い。アンチも特定厨も居ない。「ちう」を求めてる時点で、どんな奴だろうがそれはファンなのだ。

自己愛による自己暗示。最早思考すらおぼつかない私は大きく、明るい笑顔を浮かべ――――嫌悪と諦観を置き去りにして、彼らの事を受け入れた。

 

 

――――――!!!!!!!!!

 

 

……すると、それが分かったのだろう。彼らは歓声のノイズを発し、まるで獣のように私の身体に群がっていく。

ああ、終わりだ。終わるのだ。虚ろな瞳で、私はそれをただ眺め続けるだけで。

 

――まず服が破られ、素肌が晒される。外気は冷たく、生理現象として肌がざらついた。

 

――腕を上げられ、二の腕から腋の窪みをなぞられる。擽ったさなど感じない、黒い粘液が肌に付着し悪寒が走った。

 

――足を開かれ、無数の腕が腿を這う。気持ちが悪い。気持ちが悪い。気持ちが悪い。

 

……そして、その手が徐々に位置を変えていく。同時に、腋を嬲っていた指先も。ゆっくりと、じりじりと焦らすように、蛇の舌をも連想させる手つきで移動し、そして――――

 

 

 

「―――――ォォォオオオオオオアアアアアアアアッ!!」

 

 

 

――――誰かの絶叫と、轟音。それらがその一切を吹き飛ばした。

 

 

 

「っ、きゃ、っうわぁッ!?」

 

ドン! と大きな衝撃と熱風が舞い踊り、男達の手が離れ。拘束が外れた私は当然それに耐えきれる筈も無く、呆気無く地面を転がった。

「っぐ」壁に背をぶつけ、声が漏れる。その際頭の中でスイッチが入ったような音が響き、世界が急速に色付き始め。腐った脳が一部機能を取り戻す。

……何だ、何が起こった。詰まった息を咳に変え、地面に手を突き顔を上げ、

 

「……、あ?」

 

……それを見た瞬間に晒した間抜け面は、生涯一のものだろう。

私は不快感を忘れた。男達を忘れた。恐怖を忘れた。諦観を忘れた。「ちう」を忘れた。忘れ、忘れ、忘れ忘れ忘れ―――そして、見惚れる。

 

――――煌々と、轟々と。激しく燃え盛り、赤い光と熱を撒き散らす炎の巨塔。先程まで黒のあった場所全てに、紅き灼熱が顕現していた。

 

「……な、ん」

 

……あれは何だと問いかけようとも、声は出ず。答えは火の粉として還る。

 

どうやらそれは天から落ちてきたらしい。黒と眼球の空には切り裂かれた延焼痕がハッキリと残り、焦げ滓となった眼球が粘液の中へと沈み、消える。

焦げ付く悪臭は殆ど無かった。未だ燃え続ける炎の渦が回転し、手近な男達を巻き込みながら大気をかき混ぜているのだ。彼は次々とその数を減らし、炎の燃料にくべられていく。

 

「は、はは……!」

 

吹き抜ける熱風が眼の表面を軽く焼く。熱い、しかしそれは不快な物ではない。眩い、ああ、ああ、歓迎すべき事だとも。何て、綺麗で温かい――。

……そうして暫しの間目を奪われていると、巨塔の根本に何か……そう、人のような影を見つけた。

 

「……?」

 

風に揺られる赤い髪が炎に混じり、違和感無く溶け込んでいた為気付くのが遅れたようだ。

それは……何と言ったらいいのだろう。真っ赤な籠手のような、剣のような、華のような。良く分からない武器らしきものを構え、俯いている小さなもの。

 

――それは、剣と呼ぶにはあまりに歪。今にも砕けそうな脆弱さと、灼熱なる血気に満ちていた。

 

絢爛豪華にその身を誇り。魂が燃え尽きるかのような、清澄なる善意と。赫怒を感じさせるかのような苛烈さを持ち合わせていた。

 

両手に握られたその二つは腕の外側を覆うように刃が流れ、肩の付近からガラス状の巨大な花弁を3枚ずつ咲かせている。どうやら炎はその隙間から溢れているようだ。

見様によっては、舞い散る火吹と合わせチューリップのような形にも――――

 

「……ちゅー、りっぷ?」

 

呟き、もしやと思い当たる。

「普通」の思考では無いし、到底信じられる事では無い。顔も服装も、火炎の逆光で良くは見えないのに、どうしてそうと決められよう。

 

……しかし、赤い髪と小柄な体格、そして彼女自身が語った言葉により、半ば確信を持って理解した。してしまった。

 

 

――――任せときなさい! 私の剣でチリチリパーマにしてやるわ!――――

 

 

「……アンナ、なのか?」

 

「……、……」

 

冗談だと。私を元気づけるための方便だと思っていた。しかし、切り捨てるには現状との一致が多すぎる。

……その恐る恐るの呟きが聞こえたのか、人影は――アンナはゆっくりと俯いていた顔を上げた。

 

「――……チ、サメぇ……!」

 

自らの吐き出す炎に照らされた彼女の顔は、泣きそうな程に弱々しく、錯乱しそうな程に脆く。凛々しさも笑顔も無かった。

 

ただ、どうしようもなく頼りない。それこそ怯える子供のような小さな声音で、私の名前を噛み解したのだ――――

 

 

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黒 編

――六年。それが、アーニャが耐え続けている時間だ。

 

あの雪夜の日。自らの故郷が焼かれ滅ぼされた日から、アーニャの心は黒に犯され続けている。

今でだって忘れない。空を埋め尽くす悪魔達、姉貴分と共に居た時の事、そして――タクミが肉袋となり弾けた光景。

黒とは、即ち記憶なのだ。寝ても覚めても日常的にアーニャの意識を喰らい、精神を苛み続ける悪夢の、悪魔達の色。

 

それらはふとした事で蘇り、強制的に追憶のトリガーを引かせる。中でも特に強い影響力を齎すものが視覚情報からの刺激――つまり、黒い物を見る事だった。

 

……当時に想い、体験した感情の全てが一斉に蘇り、一瞬の内に自身の心を食い潰す。それはとても怖い事で、彼女にはまだ耐える事の出来ない痛みだ。故に錯乱し、泣き叫ぶ。

現在においては少しは改善されたとはいえ、健常になったとは言い難い。日本に来た当初の様子からも、それは明らかの筈だった。

 

――だと、言うのに。

 

「ふーっ……ふーっ……!」

 

アーニャは今、その黒の中に居る。

夜闇の色、そして周りに並ぶ黒い男達。彼女にとって現状はこれ以上に無い程に最悪だ。事実その表情は苦悶と恐怖に満ち、衣服には吐瀉物の跡さえある。

この場所まで辿り着き多少なりとも耐えられているのは、千雨を助けたいという願いと――そして、自らの握る双剣から噴出する炎が辺りを照らすおかげだろう。

 

剣――即ち、ディソード。六年という時間は、彼女が自らの裡に秘める力を自覚するには十分な時間だったのだ。

 

「……ア、アンナ……?」

 

そうして前を見据えたアーニャの目に、千雨が映った。

可愛らしい服は無残に破れ、目を赤く泣き腫らし、驚いたようにこちらを見つめている彼女。その姿を見れば、一体どのような境遇にあったのか子供といえど薄々ながら察せられる。

 

「……ち、チサメ。チサメに……っ!!」

 

轟、と。眼の奥で炎が燃え荒ぶ。

それは確固たる怒りだ。噴き上がる激情がアーニャの意思を炙り、赫怒を司るディソードへと流れ一層に盛った。

 

「――チサメにっ……酷いことするなァァァッ――!!」

 

――地面を踏みしめ、未だ残る黒い男に刃を振るう。

 

距離も、狙いも定まらない。癇癪を起こした子供が苦し紛れに繰り出した拳のような、何もかもが滅茶苦茶な一閃だった。

しかし彼女にとっては関係ない。理屈も法則も全ては無意味、現実に対し望んだ結果を強制する。

 

――――ッ!!

 

悲鳴が聞こえた。両断され、焼却され、この世界から消え失せた男達の物だ。

アーニャが腕を振るう度、その目測とは全く違う場所で男が死ぬ。花弁より噴き出す焔華が舞い踊り、彼女にとっての「恐怖」を殺す。

 

その事に躊躇は無かった。義憤や箍の外れかけた理性の問題とは別に、アーニャは男達の正体を朧気に把握していたのだ。

 

――おそらく、彼らは肥大化した妄想の結晶だ。

 

(この粘ついた、黒い、黒っ! 同じ黒……!)

 

確信はできないが、この妄想の主はおそらく千雨自身なのだろう。

 

……思い出すのは、あの雪の日に見た光景。追い詰められた自分の意識に現れ、悪魔の形を取った粘着く黒点。あの個体だけは他の悪魔とは違うものだった。

ディソードを手に入れ、ギガロマニアックスとしての見地を得ている今だからこそ分かる。この男達は悪魔ではないが、あの時の黒と同じ黒なのだ。

 

きっと彼らもそれと同じ、何らかの理由で追い詰められた人間が生み出したもの。

そしてその可能性があるのは――タクミの証言から言って、「素養」を持つのであろう千雨である可能性が高い。……あの時の自分と同じだ。

 

「ぅ……ああああああああああッ!!」

 

自身の過去を焼き尽くすかのように、彼女は更なる雄叫びを上げる。両肩の先に開く六枚の花弁が大きく展開し、一際強大な炎が吹き出した。

 

赤く、紅く、明く。灼熱の風が鮮烈に周囲を照らし、黒を焼く。恐れる対象を退けているという事実が恐怖に屈しそうな心を鼓舞し、ほんの少しの活力を生み出すのだ。

 

同時に加速度的に体力と精神力が消耗していくが、止める訳にはいかなかった。もし止めればその瞬間に自分は終わると、そう理解できていた。

 

(もっと、あ、あかるくしなきゃ……今なら出来るんだ、私に……ッ!)

 

吐き気が昇り、涙が溢れるのが分かる。しかしアーニャはそれを抑える事もしない。

 

彼女はある種暴走状態にあると言ってもいい。度を越えた恐怖と嫌悪により視野狭窄に陥り、柔軟な物の考えが不可能となっていた。

本当に千雨を助けたいのならば、男達を殺すよりも彼女を連れて逃げ去る事を選ぶべきだった。しかしアーニャの頭にはその選択肢は無く、戦い続ける事を選んでいる。

 

……似ているのだ。六年前の環境と。

例えば、大量の黒い男達は悪魔、襲われてしまった千雨は過去の自分や村人達。他の細かい部分も含め、アーニャは様々な要素を過去の出来事と重ねてしまっていた。

 

それは一種の代替行為なのだろう。昔の無力な自分とは違い、今のアーニャは「黒」を――「悪魔」を倒し過去の自分を助け出せるだけの力がある。

だからこそ夜闇の中へも飛び込んだ。根拠の薄い情況証拠から自覚しない域で事実を予測し、鋭敏な恐怖心がそれを目聡く嗅ぎつけて。そして、トリガーを引いたのだ。

 

記憶の逆流に心を呑まれ、過去と現在、千雨と自分を重ね。思い込みという名の答え/妄想が花開く。理屈ではなく、トラウマ染みた義務感が今のアーニャを動かしていた。

 

……或いは、タクミへの贖罪の意味もあったのかもしれない。

妄想の中とはいえ、彼を殺したあの黒い悪魔がアーニャの心から生み出されたモノとするならば、それはつまりそういう事なのだから。

 

「――燃えろぉぉおおおおおおおッ!!」

 

力を込めた地面が爆ぜ飛び、アーニャの身体が空を舞う。

 

大きく薙いだ灼熱の刃が数十の男達を纏めて裁断し、追随する赤火が灰すら残さず蒸発させて。路地の壁面が真っ赤に染まり、深い焦げ跡を刻んだ。

六年前と同じ、暴走による最適解への到達。それを成した本人はやはり自覚の一つも無いまま、只管に殺戮を敷いていく。

 

今ならば、絶対に負けない。

かつて幻視したヒーローのように。自分を助けてくれたネカネや、青い剣を構えたタクミのように。今度は私がその役目に就いてみせる。

 

そう心が叫ぶままに剣を振り回し、焔華を舞い散らせ、そして――……そして、その果てに何が待つのか。狂乱と混乱と錯乱、その淵に立つアーニャは終ぞ気付く事は無い。

 

――――黒い男が全て無くなった時、自分は何を燃やせば良いのだろう?

 

……再び生まれた、自覚しない域での予測。それは恐怖と共に燃やされ尽くし、夜闇を照らす礎となっていった。

 

 

 

 

「……何だ、これ……」

 

ポツリ。小さく掠れた声が漏れる。

 

眼前で展開されている常軌を逸した光景。まるでどこかのアニメに出てくるようなド派手な殺陣を目の当たりにした私は、半ば思考停止の状態にあった。

今日一日でトンデモな目には遭ってはいたが、その中にあってもこれはピカイチだ。服の破れを抑える事さえ忘れ、ただ見入る。

 

「わぁぁぁああああああッ!!」

 

――――ッ!!!

 

アンナの絶叫と共に両腕の剣が振り抜かれ、その度に黒が散り。声無き声が悲鳴を上げる。

 

そこにはアクション映画のような美しい動作は無く、ただ力任せに身体をぶん回すだけの見苦しい類のものだ。何時かのような洗練さは微塵も感じられない。

……にも関わらず、様になっているように見えるのは何故だろう。縦横無尽に地や壁を蹴る彼女の輪郭に大きな威圧が帯を引き、まるで夜空に軌跡を刻んでいるようだ。

 

そしてそれに伴い撒き散らされる炎は私に火傷の一つも与えない。燃やされ、断たれていくのは黒い男だけで、むしろ炎自体が意思を持ったように私の周囲を避けているようにも思えた。

 

……多分、アンナは私の事を助けに来てくれたのだろう。数日前の約束通り、こんな暗い闇の中にも関わらず。何をどうやってか私の危険を察知して――――と。

 

「……ん」

 

ふと気付けば、無意識の内にポケットを弄り回していた自分に気付いた。

余りに突飛な出来事に動揺しているのか。最初はそうとも思ったが――――はた、と思い出した。そう言えば、ここにはアンナ特製お守り代わりの魔法陣が書かれた紙切れを突っ込んでいた気がする。

 

……もしかして、ソレか? ソレが鍵だったのか?

衣装が「ちう」のものに変わっているとはいえ、思い返せば某かの紙切れは握っていた気がする。

転倒したおかげで何処かへと行ってしまい確かめる術は無いが、その可能性は極めて高い。かもしれない。

 

正直、あんな落書きで何が起きるとも思えなかったものの――実際問題アンナに助けられている以上、それが如何に「普通」より逸脱した理論だろうが否定する事は出来ないのだろう。

何せ剣から炎を出したり、軽々と男をなます斬りにするような奴だ。他にどんな技を持っていたとしてもおかしくは無い。八面六臂の大立ち回りをする彼女を呆然と見ていると、心の底からそう思う。

 

「……は、ぁ」そうして彼女を見ていると知らず膝の力が抜け、ぺたりと座り込んだ。膝と尻を打ち付け、鈍い痛みが走る。

 

オイ、何だ。一体どうした。思わず焦り、無理やり足を動かそうとするが上手く力が入らない。

いや、それだけじゃない。腿も、腰も、背中も、頭も。どこもかしこも凄まじい倦怠感に包まれ、状況と裏腹に酷く安心した心境に――――

 

「……安心……?」

 

……安心、しているのだろうか。私は。こんな「異常」の真っ只中において随分とまぁ気楽なものだ。

 

つーかホント何なんだよ、これ。魔法か? エスパーか? どっちにしたって「普通」じゃない。いや、今更の話だけどもさ。

「う、く」張り詰めた精神が緩んだのか再び涙が流れ出し、同時に疑問も止め処なく溢れ出る。その一つとして満足の行く答えは出せそうになかったが、それでも良いと思えた。

 

 

――私は、私を散らさずに済んだのだ。その事実をようやっと自覚し、感情が弾けた。思考が掻き乱され、抑えが効かない……!

 

 

「……っぐ、……き」

 

けれど、最後の一線は越えさせてなるものか。血が出る程に唇を噛み、その痛みで強引に涙を止める。

 

それは単なるプライドだった。しかしここで取り乱してしまえば、僅かに残っている理性でさえもなし崩し的に砕けてしまうと予想できる。

そうなったら後はへたり込んで喚き散らす事しか出来ないだろう。

ただでさえ今まで散々な醜態を晒していたのだ、せめてハリボテだったとしても冷静さを取り繕っていたかった。

 

……鉄錆の香りを舌で転がし、嗚咽と一緒に飲み込んで。私は残った涙の筋を拭い、そうして改めてアンナの姿を睨んだ。

 

「ラ・ステル・マ・スキ……る、るあ、あああああっ! 遅い! 燃やさなきゃ、もっと、明るく……!!」

 

――――ッ!!!

 

一体、また一体と。次々と呆気無く男達が燃え上がり、夜闇を照らす。つくづく「異常」な光景だ。

 

あれ程、それこそ空や道を覆い尽くす程にあった男や眼球達は著しくその数を減らしている。この調子で行けば、完全に殺し切るのも時間の問題だろう。

 

……一体私がどれだけ必死に逃げ回っていたと思ってるんだ。

「異常」に対する理不尽さが胃の奥から湧き上がり、思わず舌打ちを鳴らしそうになる。無論、そんな恩知らずな事は「普通」じゃないのでやらないが。

 

(……でも、何だ。あまり良い空気……じゃない、よな)

 

私に「異常」の事は良く分からないが、それでもこの場が優勢にある事くらいは理解できる。

しかし男達が減っていく毎、アンナの表情は逆に切羽詰まったものへと変わっていくのだ。多少なりとも落ち着いて観察すると、それが顕著に分かった。

 

思い返せば、現れた時もそうだ。彼女の顔には勇ましさなど微塵も無く、恐怖に対する怯えが大部分を占めていた気がする。

おそらく黒、というか闇の中で行動するのが怖くて仕方ないのだと思う。しかし炎で照らせるのならば問題ないような……というのは素人考えなんだろう。精神がそんな単純な構造をしていない事は、私自身がよく知っている。

 

(……良いのか、このまま放っておいて)

 

良く分からない不安が心中をよぎるものの、だからと言って何が出来るのだろう。

あの炎の中に飛び込んで「止めて」とでも叫んでみるか? いやそんな理由も力も無いだろうが、何言ってんだお前。

 

どうするべきか。どうしたら良いのか。考えている間にも事態は進む。荒れ狂う炎により黒い男は既に殆どが駆逐され、残りは十人も居ない。

ざまぁみろ、いい気味だ、助かった。本来ならばそう歓迎し喜ぶべきなのだが――今の私には、消滅していく彼らの姿が何かのカウントダウンのように思えてならなかった。

 

(あと、八人――いや、七人、六、五……)

 

そうやって数えているうちにも、人数は次々と減っていく。

激しい炎がアンナの身体に巻きつきそのまま突貫。最早単なるカカシと成り下がっていた男達を貫通し、大きな風穴を開けた。……あと、四人。

 

――――!!!!

 

「…………ッらあァっ!」

 

地面に火炎くゆるブレーキ痕を残しながら着地し体制を整えるアンナに、それを好機と見たのか三人の男が手を伸ばす。

 

しかし瞬きする間に一人が縦に裂かれ、一人がサイコロ状に裁断され、一人が風船のように弾けて死んだ。

おそらく、彼らにも何が起きたのか理解できないままだっただろう。その死体は炎を吹き上げ、闇に溶け。残る「黒」は唯一人、新たに増える気配も感じられない。打ち止めなんだ、きっと。

 

「…………」……本当に、放置しておいて良いのか? 

あの黒い男達が私にしようとした事を考えれば、このままアンナに任せておくべきだ。見逃して後日また現れたなんて事になったら目も当てられない。

 

だが、この焦燥は何だ。私が把握していない領域で、心が何かを感じ取っている。共鳴、同調。そうとしか表現出来ない何かが、意識の隅を突いているのだ。

その刺激を送る者は、鼠の形をしているように思えた。流線型で、機械的。およそ生物とは思えない姿をした彼らは、その尻尾を赤く光らせながら何かを知らせようとしてくれているようで――――

 

――……赤? その色は、今まさに彼女が振るっている剣の、

 

「――もっと、明るくしてよおおおおお!!」

 

「!」

 

いつの間にか裡に埋没していた意識が、甲高い絶叫によって引き戻される。

ハッとして視線を向ければ、丁度アンナが刃を振りかざし、残る男に止めを刺そうとしている所だった。

 

炎により酷く嬲られたのか、男の手足は完全に燃え尽きダルマのようになっていた。何時もの心優しい彼女からは考えられない所業だ。

 

「――――」

 

――それを見た途端、私はアンナの下へと這いずっていた。

 

一度活が消えたおかげでバカになった身体を引きずり、届く筈の無い手を伸ばす。

……彼女を止めようとしていたのか、それとも他に何か目的があったのか。後の私は覚えておらず、何度考えても良く分からないままだ。

 

しかし心の中では、何か大切な物が回っていたような気がする。義務感のような、そうでないような何か。多分、不完全ながら意識的なシンクロを起こしていたのだろうと思う。

 

ともかく私は何事かを叫び、アンナの気を引いた。それは確かだった。

 

「っ」

 

するとアンナはそれに反応し、ピクリと肩を震わせたが――――でも、少し遅かったらしい。

 

――――ッ、――――ッ!!!!

 

その動きに過敏な反応を見せた焔華が一息に男の肥満体を包み込み、激しい熱風が吹き荒れる。

炎の中でみるみる内に男の身体が溶けていき、美麗な赤を作り出し。彼らの醜悪さとは裏腹の煌々とした灯りを振りまいた。

 

……聞くに堪えない断末魔のノイズさえ無ければ、ある種幻想的な光景にも見えなくもない。あくまで炎だけに限定すればの話だが。

 

「……あ、あ」

 

意識せず、情けない声が漏れた。私を脅かす「黒」は消えたにも関わらず、何か致命的な失敗を犯したような気がしてならない。

私はこれで追われる事も襲われる事も無くなったというのに、何故。

 

「…………」

 

それを成したアンナはどこか呆然とした様子で動きを止め、炎を眺め佇んでいた。先程までの苛烈さが嘘のような静けさだ

燃え尽きた。そのような表現が脳裏をよぎる。

 

五秒、十秒と時が過ぎ。私は歓声も彼女への礼も言わず、ただその姿を眺め続けているだけで――――。

 

「あ、や、やだ。やだ……!」

 

突然、アンナが弱々しい声を上げた。

 

ふらふらと覚束ない足取りで徐々に勢いを弱める炎へと近寄り、慌てて双剣を突き刺した。再び六枚の花弁が一斉に開き、溢れる焔華が切っ先に集う。

注ぎ火、とでも言えばいいのだろうか。どうやらアンナは男を燃料とした炎を消したくないようで、必死に火力を注ぎ込んでいる。

 

……しかし、注げども注げどもその勢いは回復しない。それも当然の事だろう、既に男の欠片は焼却しきっており、灰すらも残っていないのだから。

アンナもそれは分かっている筈なのに、炎を止める事は無い。――双剣の発する炎が、少しずつ弱くなっているにも関わらず、だ。

 

「……お、おい。アンナ?」

 

「やだ、やだよぉ。燃やしたのに、何で、なんで……」

 

これまでとは質の違う「異常」

 

流石に不審に思い、戸惑いつつも声をかけるが、どうやら聞こえていないようだ。泣きそうな声音で某かを呟きつつ、六枚の花弁を更に大きく開き炎を呼ぶ。

だがやはりその勢いは弱く、小さくなっている。荒れ狂う激しさは微塵も感じられず、ゆらり、ゆらりと不安定に明滅を繰り返すのだ。

 

そして、それに付随しアンナの様子も異常をきたし始めた。呼吸が段々と不規則になり、額には玉の脂汗。立っている事も難しいのか、足から力が抜けたかのように膝を屈する。

まるで双剣に生命力的な何かを吸い取られているようだ。その刃自体も軋むような異音を発しており、明らかにヤバそうな雰囲気。

 

まずい。良く分からないが、何かが確実にまずい――そう思った私は未だ抜けたままの腰を引っ張り、彼女の下へと急いだ。地面と擦れる膝が痛い。

 

「おい、大丈夫か? アンナ、アンナ!」

 

「な、何で暗く、全部倒したのに、やだ、暗い。くろいぃ……やだ、やだやだやだ」

 

「くっそ、やっぱ聞こえてねぇか……!」

 

声は変わらず届かない。ならば触れる事さえ出来れば。

彼我の距離はもう五メートルも無い、あと少し頑張ればその小さな背に指が届くのだ。私は最後のひと踏ん張りと、擦り傷の痛む手に力を込め――――

 

 

「――――いやだぁぁぁあああああああああああああああああっ!!」

 

 

――瞬間、絶叫が轟いた。

 

 

「ぅ、あっ!?」

 

パキン、と。ガラスの割れるような音が響き、色の無い衝撃が身体の中心を突き抜ける。

思わずバランスを崩しかけたが、元より倒れているような状態なので然程影響は無かった。不幸中の幸いとはこの事だろう。

 

くそ、今度は何だ……!?

もう大抵の事じゃ驚かねーぞ――――私はそんな悪態と口に入った砂埃とを唾液に絡めて吐き出し、咄嗟に閉じた目を、開け、て

 

「…………」

 

言葉を、失った。

 

「あーッ! あー! ああああっ、ぁあっああぁぁ、ああああぁぁぁッ――!!」

 

私の視線の先。そこにはアンナが大声を上げて錯乱していた。

 

怖いのだろう、嫌なのだろう。彼女は頭を抱え振り乱し、ダンゴ虫のように丸まって只管に叫び続けている。

いや、そこまでは予想の範囲内だった。模範的な錯乱とはかくあるべきという見本のような様子だったから。問題なのは、先程まで炎を噴いていた双剣の方。

 

 

――――あれ程美しく、明るく周囲を照らしていた光は最早無い。灼熱の紅は今や濁った黒へと変わり、真っ暗な闇を吐いていた。

 

 

「……黒い、火?」

 

……刃には、黒い血管のような筋が這い。六枚の花弁が限界を越えて開ききり、筋の切れた肉のように開閉機構を失っていた。

そうして隙間より溢れ出るのは暖かみの何一つ無い、嫌悪の凝縮された漆黒の炎。

 

アンナが蛇蝎の如く嫌う、その色。

剣はそれを自ら生み出し、彼女の心を炙っていた。

 






・ 魔法使わんの?
半錯乱&呪文唱えてる間に炎が消えちゃう! 怖い! 的な感じでどうかひとつ。
次回はちょっと待ってね。


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助けてそして助けられ 編

――剣の暴走。ふと、そんな言葉が浮かんだ。

 

 

「やだああああぁぁあああああぁああ!! やだぁぁぁぁあああぁぁあぁぁぁぁぁ!!」

 

黒い炎に巻かれ、アンナは更に大きな悲鳴を上げる。

 

否。声量に声帯が耐え切れないのか、掠れしゃがれたそれはもう悲鳴の枠に収まっては居なかった。

あの黒い男達が発したノイズのような、聞き苦しい事この上ない騒音だ。

 

身体を焼かれ苦しんでいるのかと思ったが、彼女の衣服には焦げ目すら付いていない。こちらにも熱風は届いておらず、熱を持たない「異常」な炎である事が伺える。

 

彼女は激しく身体を動かしながら黒い炎を振り払おうと試みているものの、しかし未だ双剣を持っている以上それが離れる訳が無い。

どうやら剣を投げ捨てるという発想が出来ない程に錯乱しきっているようだ。

 

(くそ、近づこうにも!)

 

振り回される刃は鋭く、加えて炎に阻まれ近づく事は出来そうになかった。かと言って呼びかけようにも、私の声はアンナの絶叫にかき消され届かない。

 

出来る事は何一つとして思い浮かばず、戸惑う内にも黒い炎は勢いを増しアンナの身体を包み込んでいく。

そこにはさっきまでの弱々しさは無く、音を立てて燃え盛る。

 

「……見てるしか、無いのか……?」

 

……いや、冷静に考えれば本当は見ている意味さえ無いのかもしれない。

 

アンナが助けたかった私は既に救われ、黒い男達は一人残さず全滅した。

あれが何者だったのかは分からないが、あそこまで徹底的に焼き尽くされればもう現れる事は無いだろう。楽観的な憶測であるが、鮮烈な殲滅風景がそんな確信を与えてくれている。

 

――つまり、私一人が助かるだけなら余計な首を突っ込む必要なんて無い。心の中で、悪魔にも似た何者かが囁いた。

 

(そうだ、何もやれないなら逃げたって、別に……)

 

確かにアンナがここに来た事に関しては、このような状況に陥った私に原因があるのかもしれないさ。

しかし私には今何が起こっているのか全く把握出来ていないんだぞ。何が正しいのか、間違っているのかも分からない。どうしろってんだ、マジで。

 

大体、このままこの場に留まって危険が及ばないとも限らないんだ。だったらアンナには悪いがさっさと逃げた方が身の為であり、彼女の成し遂げたかった事にも沿う筈だろう。

 

……いや、もしかしたらこれも何か意味があるのかもしれないぞ?

例えば……そうだ、あの黒い炎に包まれたらテレポートみたいな感じで家に帰れるとかどうよ。非常識この上ないが、もう何でもあり得るんじゃねーの? 分からんけど。

 

「……っぐ、く」

 

力を込め、壁に縋り付くようにして立ち上がる。

多少時間が経った所為か抜けた腰も半分くらいはハマり直し、震えは止まらないながらも何とか歩ける程度には回復していた。後は家に向かって歩くだけ。

 

帰り道は分からないが――まぁ、夜明けまでには見つかると思いたい。

 

とにかく、もう私を脅かす奴は居ないんだ。これにて私が体験した「異常」は終わりとしようじゃないか。

こんな「異常」だらけの状況なんて放り捨てて、大人しく部屋に帰って寝てしまえ。一晩の悪い夢として忘れちまえ――――それが利口な選択であり、力のない一般人が持つべき「普通」の思考。その筈だ。

 

……その筈、だよな?

 

「ぁぁぁぁ……ぁぁ、う、ぇ、ああぁぁあぁっ、あ、ぁ……!」

 

「…………」

 

アンナの苦しむ声が、聞こえる。

 

彼女の身体は激しく燃える黒に完全に包まれ、刃の振り方も大分緩慢になっていた。

その姿は見えないものの、僅かに声が聞こえてくる。しかしそれは今にも途切れてしまいそうな程に小さく、儚いものだ。聞き様によっては泣いているようにも感じられる事だろう。

 

「…………」

 

……違う、嘘をついた。聞きようなんて選ぶべくも無く、それは確実に泣き声だった。

 

怖くて不安で、半ば狂いかけながら必死に藻掻き、誰か助けてと泣いている子供の――――。

 

「――…………ッ」

 

――そうだよ。泣いているんだよ。アンナは。

 

ぎり、と。唇を強く噛む。先程噛み切った傷が開き小さくない痛みを発するが、それがどうしたと切り捨てた。

 

(……泣いている子供を見捨てて逃げるのが、『普通』か?)

 

いいや、違うね。

思い出すのはアンナと初めて会った時。私は「普通」だからこそ泣いていたアンナに手を差し出したんだ。

 

(助けて貰った恩を忘れて逃げ出すのが『普通』か?)

 

いーや、それも違うよな。

魔法陣に、そして今。これだけの事をされながら知らんぷりで自分だけ助かろうとするなんざ、とてもじゃないが「普通」とは呼べんだろう。常識的、人道的に考えて。

 

……さて、これらを踏まえて「普通」である私は何をするべきか。

 

「――決まってんだろ。手を差し伸べて、泣き止ませてやるんだよ……!」

 

呆れる程に簡単な自問。鼻で笑って自答すれば、カチリと何かが定まる音がした。

それは覚悟、若しくは決意と呼ぶべきものだろう。少なくとも私の中の戸惑いは消え去り、やるべき事が見えた。気がする。

 

「異常」への恐怖、困惑、嫌悪。それら全ての負の感情を腹の底に封じ込め、力を込めて鍵をかけ。私はアンナの下へと一歩踏み出し、壁伝いにゆっくりと近づいた。

 

「ぁぁああ、ぁぁぁぁっぁぁぁあぁぁ……」

 

既にアンナはすぐ近く。振られる剣の風圧と、それに乗る炎の嫌悪感が鼻先に飛ぶ。

……刃と炎、後者は熱を感じないとはいえ正直どっちも当たりたくは無い。しかし黒い男達にされそうになった事を考えれば、痛い方が幾らかマシだ。

 

私は挫けそうになる心を奮い立たせ、刃の動きを見極めて――――思い切り、壁を押し出し彼女の方角へと倒れ込んだ。

 

「――っ!!」

 

途端、私の身体を黒い炎が包み、衣服と肌を炙る。

この際火傷の一つくらいは覚悟はしていたが、幸いながら身体が焼け爛れるような事は無かった。やはりさっきも感じた通り、熱を持たない「異常」な炎であるようだ。

 

……が。

 

「、っぐ、おぇ」

 

その代わり度を越した嫌悪感が体中を駆け抜け、際限なく嘔吐感が駆け上る。鳩尾の辺りがヒクつき、気を抜いたらカロリーメイトを吐き出しそう。

 

肌では無く意思を焼く、全く持って趣味の悪いこった。アンナはこんなものに巻かれていたのかと腹が立ち、視界が遮られる中を必死になって手を這わせ。赤いローブの端が視界を擽り、咄嗟に掴む。

 

「ぐ……あ、アンナッ!」

 

「――ッ!! ぁぁぁぁぁっぁああああああああああああああ!!」

 

そうして双剣に当たらないよう細心の注意を払い抱きしめれば、アンナは肩を震わせ思いっきり泣き叫ぶ。

おそらく私の事も分からなくなっているんだろう。機敏な動きを取り戻し、必死に私を払い除けようと再び剣を振り回し始めた。

 

「ぐお、まっ、ちょぉい!!」もう私も必死だ。刃が髪の先を削ぎ、耳のすぐ横を掠める度に心臓が縮む。誰か助けて! マジで死ぬ!!

 

――だが、決して離すものか。少ない体力を根こそぎ使い腕を押さえつけ、彼女の耳元で呼びかけ続ける。

 

「アンナ! お、落ち着け! 黒はもう居ない――いや、周りは夜だけど! とにかく落ち着け!」

 

「やだぁあぁぁ!! 離して、離してぇ! やだ、やだやだやだやだやだやだぁぁああああ!!」

 

「大丈夫だから! ほ、ほら、私の髪を見ろ! 黒くないから安心し――――ぉわッ!?」

 

ブン、と子供らしからぬ力強さで私は弾き飛ばされ、背中を強く打ち付けた。一瞬息が止まり、目の中に星が散る。

くそ、女の子なんだからもっと非力であってくれよ……! そう毒づきながら、もう一度飛びつこうとすぐに身を起こし、て。

 

(あ、やば)

 

――――目前まで迫った刃の光が瞳を舐め上げ、私は己の迂闊さを呪った。

 

少しの間身を伏せ、様子を見てからにすりゃ良かった――そう思えども後の祭り。咄嗟にかわせる程の反射神経など私にある訳も無く、只々見ている事しか許されない。

 

……ゆっくりと。流れる時が遅くなり、体感時間が引き伸ばされた。

末期の時間と言う奴だろうか。迫り来る刃が嫌にハッキリと認識させられ、音を立てて血の気が引いていく。

 

もし刃と顔の間に腕を差し込めれば、骨で止まってくれるだろうか。そんな淡い期待を込めて腕を動かそうとするが、鉛のように重く動かせない。意識に身体がついて行かないのだ。

 

このままでは防御姿勢を取る暇も無く私の両目に一文字の傷が刻まれる事だろう。いや、あの男達を切り飛ばす鋭さを見る限り、それ以上の事も。

 

(なんで、なんで――)

 

焦りに煽られ思考が散る。無駄にクロック数の上がった脳が助かる道を模索するが、何も出ない。出る訳が無い。

 

まぁ、確かにある意味では現実的な話だ。善意の行動が裏目に出るなんて良くある事だし、ネットを漁れば救いようもない胸糞話は幾らだって転がってる。

「普通」な私にはぴったりな結末といえるだろう。……だけど、だけどもだ。

 

 

――――私は「普通」だ。だからこそアンナを助け、泣き止ませなきゃいけない。なのに、それを成す事も出来ず死ぬだって? 

 

 

おかしいだろう、そんなの。私は「普通」なのに、そうで在る為の行動が取れない等あってたまるか。だとしたら、私は「普通」じゃなくなってしまう。

つまり「異常」だってのか、私は。

 

……違う、そんな事があるものか。「普通」だからこそ今私は殺されようとしているんだ、「異常」である筈が無い――いや、だったらアンナを泣き止ませる事が出来る筈で。

 

(わたし 私は、何で――――)

 

分からない、纏まらない。思考が乖離し、矛盾する。

既に刃は睫毛の先に触れている、もう私の余命は幾ばくかも無いだろう。

 

ああ、嫌だ。死にたくない。アンナを、アンナを助けなきゃ、私は。

心臓の音が嫌に煩い。恐怖、混乱、焦燥。幾つもの荒ぶる波が私を揺さぶり、視界すらもが覚束なくなる。

 

――――刃に映り込む炎の黒が、ぐにゃりと歪んだ。

 

(……私は、『普通』で。だけど今、立場は……!)

 

そうして黒のあった場所に、何かを見た。

 

流線型であると同時に機械的。これまでも度々私の視界を擽って来た、鼠のような幻覚だ。

総勢7匹。無意識下の領域、私の気づかない/気づこうともしない場所に顕現した彼らは皆一様に熱り立ち、何やら慌てた様子でこちらに向かって手を振っていた。

 

……手招いて、いる?

 

(……そうだ、今の全部が『異常』に統一されているのなら。私の言う『普通』とは、つまり)

 

思考が、価値観が裏返り。私が忌避していたものと溶け合っていく。

それはとても不愉快で、気分の悪い現象だった。しかし、私が「普通」で在る為には――アンナの手を取る為に必要な事なのだと、本能に近い部分で理解していた。

 

(……は、は、は)

 

刃が眼球に触れ、粘膜が熱で溶かされ行く中。私は虚ろな意識で嗤い、刃の中の鼠達へと手を伸ばす。

無論、実際に出来る訳が無い。単なる比喩表現であり、そうするのは妄想の中の私自身。言い換えるならば一種の自己肯定、認識作業のようなものだ。

 

それに気付けば「異常」となり、しかし無視したままでは「普通」で居る事を許されない。何と嫌な矛盾だろうか。熱せられた瞳孔が収縮し、泡立つ脳に彼らの虚像を描き出す。

……本当は、ずっと前から知っていた。「普通」を口癖にしたあの日から……一度心が罅割れた時からずっと。彼らが「異常」であったが故に、認識する事を拒み続けていただけ。

 

――でも、今となっては抜かねばならない。掴まなければならない。「普通」の為に振るうべき「異常」を。心に仕舞いこんでいた矛盾の塊を――彼らを。

 

(……わ、私は。私は……)

 

しっかりと、誤魔化しの一つ無く鼠達を見定めろ。

認めるのだ。死にたくなければ宣言し、彼らの事を肯定しろ。アンナの手を取り、「普通」を成したいのならば――早く、速く、疾く!

 

(ああ、ああ。私は……そうだよ、ずっと前から私は――――)

 

 

 

――――「異常」を、その手に携えていたんだ。

 

 

 

……パキン、と。

それを認めた瞬間、私にとって大切な何かが圧し折れて。同時に、時の流れが正された。

 

 

 

 

――甲高い、極めて異質な音が耳元で弾け。私の鼓膜を破壊する。

 

 

「――ッ!?」

 

驚き、僅かに肩が竦んだ。

 

まるで高周波がぶつかり合ったかのような、若しくは共鳴しているかのような。極めて聞き取り辛く、しかし聞くに堪えない嫌な音。

それは一種の圧力を持って私とアンナの身体を強く撃ち、色の無い衝撃がその芯を突き抜ける。吹き飛ばされないのが不思議なくらいの代物だ。

 

その音は……そうだ、私の目前に止まる刃から放たれているようで――――

 

「……! っそ……!!」

 

全身が総毛立つ。今まさに眼球が両断されようとしていた事を思い出し、咄嗟に身体を背後に引く。剣の追撃は無く、身体も動いた。

刃の発する熱が目に伝わったのか、妙な違和感を感じる。

 

失明しかけたか? いや、強い痛みが無いのなら今はそんな事どうだっていい。それよりも……!

 

私は視力の低下を考慮に入れず目を擦り、朧気ながらもその視界を取り戻し――――そして、それを捉えた。

 

 

『うおおおー! ちう様がようやく我等を認め自覚して下さったー!』

 

      『我等妄想精霊郡千人長七部衆、今こそお役立ちの時なりぃー!』

 

         『我等の地味なロビー活動がようやく実を結んだのだぁ!』

 

『でもいきなり結構なピンチであるが!?』

 

    『我等ってば色々と軽いのが売りですのんが!?』

 

       『STR極振りの刃物食い止めるとかマジつらたんなのであるが!?』

 

     『ひぃぃぃちう様早く逃げちくり~~!!』

 

 

「……何だ、こりゃ」

 

――何、と言われても鼠であるとしか言えない。

 

流線型で、機械的。丁度拳程度の大きさだ。羽も無いのに飛行し、人語を解する彼らは余りに「異常」であったが、大体の造形はそう表現できるものだった。

 

おそらく私を助けようとしてくれているのだろう。鼠達は皆紅く発光する尻尾を黒い刃に擦り合わせ、例の甲高い音と小さい火花を散らしながら必死に逃げろと叫び続けている。

錯乱状態のアンナはそれに気づいていないようで、騒音に苦しみながらも剣を押し込み続けていた。危険はまだ、そこにある。

 

(えっと、何だ。何が、なに……?)

 

だが、私の頭は疑問ばかりが次々と湧き出て、うまく思考する事が出来ない。ええとつまり、何がどうなってんだこりゃ。

理解不能にして意味不明。私は混乱した頭のまま、無意識の内にそこから逃げるように後退り――――

 

「ぅ……ぁぁああああッ……!!」

 

「――うオぉっ!?」

 

ブン、と。音に耐え切れなくなったアンナが強引に身を捻り、鍔迫り合いを振り切った。

目の前を刃が掠り、弾き飛ばされた鼠達が私の身体にぶち当たり。堪らずもんどり打って倒れて込む。今日一日でもう何度身体を強打しただろう、一個二個の痣で済んだら御の字だ。

 

『やっぱ力押しはダメですたーー!!』『ぎゃー、ちう様に当たったー!!』『ごめんなさーーい!』『でもちょっと幸せー!!』

 

「っぐ、うるせ、どけっ!」

 

私の身体の上で騒ぐ正体不明の鼠を押しのけ、ほんの少しだけ身体を起こす。そうだあいつは、アンナはどうしてる。

 

「……ぉ、え……ぁ、……」

 

――そうしてぼやけた視界の先に、未だ苦しむ彼女の姿を見た。

 

黒に塗れて泣き叫び、吐瀉物を零し、恐怖に悶え。同じ女としては見ていられない程に、汚い惨状。

 

……ああ、さっきの衝撃で少しは頭がハッキリした。どんな「異常」が現れようと、私は何も成していない。事態はこれっぽっちも変わっていない。

「……っ」私は奥歯を噛みしめるとアンナから目を逸らし。鼠の形を取った「異常」達へと目を向けた。この場を何とか出来る可能性があるのなら、刃と拮抗できていたこいつらしか居ない。

 

疑問だ何だ、そんな事に思考を割くくらいなら、「普通」を成す事だけを考えろ……!

 

「……ね、鼠。お前らは、何が――」

 

『――あいや、皆まで言わずとも伝わっておりますとも』『我等はちう様の一部であり』『自衛する為の剣』『ちう様の望む事ならば』『何だって叶えてみせまするー!』

 

お前らは何だ、何が出来る。そんな端的な問いかけを遮り、彼らは自信満々に手を挙げる。

 

そんなアバウトな返しをされても何一つ伝わらねぇよ――……普段の私ならばそんなツッコミの一つも入れているのだろうが、この時の私は奇妙な確信を感じていた。

多分、色々起こりすぎて麻痺していたのだろう。鼠達の言葉全てを疑わず、額面通りに受け取って。アンナを助けられると、「普通」であれると。そう思ったのだ。

 

「…………」

 

私は鼠達に頷きを一つ返すと、徐ろに立ち上がった。

途中の動作なんて最早必要無い、私がそうであると願い/妄想したのであれば、それは須らく事実となり得る。震える二本足で地面を踏みしめ、アンナを見据えるのだ。

 

 

『逆に、我等自身の事も伝わっている筈です』『自己愛と、讃美』『それらは矛盾しないのです』『つまりはこれは自問自答』『我等の答えを、ちう様は全て知っている』

 

――妄想する。

 

鼠達が離す言葉の意味は、全く理解できていない。しかし心とも言うべき場所にストンと落ち、驚く程簡単にその全容を把握した。

 

 

【挿絵表示】

 

 

……ゆっくりと右手を掲げ、彼らの内の一匹を掴む。

鼠は私の指の感触に擽ったそうな様子を浮かべていたが――すぐにその身体を変化させ、鼠の形を捨て棒状の物となる。ガラスとも陶器とも付かない質感のそれは驚く程に手に馴染み、自然と強く握り込んだ。

 

「――――」

 

――妄想する。

 

言葉は無く、仕草もない。

しかし鼠達は私の意を正確に汲み取り、一斉に右手の先へと集っていく。そうしてそれぞれが個別の形状に変化し、組み合わさり。一振りの剣を形作るのだ。

 

……剣。そう、剣だ。アンナの持つそれと同じ、美しくも醜悪な「異常」の権化。

「普通」の私には致命的な程に似合わない、唾棄すべきそれを――――抜き、放つ。

 

「…………ッ!!」

 

不可視のガラスが音を立てて割れる。0と1の燐光が飛び散り、一種幻想的な光景を作り出し。私の掌にその存在を主張する。

 

 

――それは、剣と呼ぶには有機的に過ぎ。過度な虚飾に塗れると同時、絶対なる普遍さを湛えていた。

 

虚数の波を刃紋に刻み。魂すらをも偽るかのような、無垢な陶酔と。慈愛を感じさせるかのような然光を持ち合わせていた。

 

 

「…………」

 

その異様な雰囲気に私は思わず目を見張り――そして、すぐに眉を寄せる。

 

確かに纏う空気は異様なもので、目を奪われる程のものだ。しかし陳腐な飾り付けが全体に渡り施されており、どこか魔法少女のステッキを思い起こさせる。「ちう」の格好とも合わせて、まるでコスプレ小道具だ。

雰囲気と存在の矛盾。浮かされかけた思考に水を差され、イマイチ雰囲気に乗りきれない。

 

(……って、そんなのは良いんだよ)

 

頭を振って、意識を正す。

 

ともかくとして、私はこれで何をする。アンナを切るか? それとも彼女が持つ剣を? その気になれば成せるような気はするが、さっきの様子から言って下手に手を出せばやられるのはこっちだろう。

 

鼠は何も言わないまま、剣の姿でじっと沈黙しているだけ。何が正しいのか、何をするべきなのか、答えは誰も教えてくれない。

 

――だから、私は私の知る唯一の方法を取る事にする。

 

(言葉は届かない、多分喧嘩しても負ける。なら、手っ取り早い方法は)

 

――――妄想、するんだ……!

 

私はしっかりと地面を踏みしめ、構えた剣を下げつつ限界まで身を捻る。

破れた服から乳房が露出し揺れるが、どうせ見ている奴なんて誰も居ないんだ。好き勝手を思い切りやらせて貰う。

 

(さっき鼠達は、私の望む事を何だって叶えてくれると言っていた)

 

ならば、何だって出来る筈だ。どんな馬鹿げた事でも、きっと。頭の中の私が嗤うが、すっこんでろと蹴っ飛ばす。

今更「普通」ぶるんじゃねぇぞ。「異常」なら「異常」らしく、どんな荒唐無稽でも受け入れてみせろ――!

 

「う、ぉぉぉっおおおおおおあああああああああッ!!」

 

胸に燻る様々な火種を絶叫という形で開放し。下から上に、力の限り剣を振り上げ――そのまま空へとぶん投げた。

 

剣の用途としては明らかに間違っているんだろうが、私が知るかよそんな事。そうして投げ捨てられた剣は、非力な女子中学生の成した事とは思えない程に空高くへと飛んで行く。

物理法則も何もあったもんじゃない。世の理を無視した軌道で回転し、月の光を反射して。雲を裂き、高く高くへ舞い上がり。

 

「――いけッ!!」

 

――そして、弾けた。

 

私の声を合図として剣その物が分解し、無数の青い光となって花火のように宙に散る。

 

それは幾百幾千もの鼠達だ。剣になれたのならその逆も出来ない訳も無し、彼らは私の命に従い上空より周囲一帯に拡散。近隣の建物に、信号機に、自転車に。それこそ雨のように降り注ぐ。

 

見てくれだけなら美しいと表現できなくもないが、常識的に考えれば非常に不穏な光景だ。あのように高い場所から鼠が落ちて、惨い有様を晒さない筈が無いのだから。

しかし彼らはコンクリートや建物に叩きつけられる事は無く、溶け込むかのようにしてその中へと消えていく……。

 

「……ウンザリなんだよ、こんな『異常』。私だって泣きてーよ……!」

 

6つ、5つ、4つ、3、2、1――そして0。全ての青が地上へと落ち、後には静寂が残る。

後は合図を送るだけ。私は蹲るアンナに視線を戻し「だから」と一拍、大きく大きく手を広げ。様々な感情が迸るまま、思い切り柏手を打ち鳴らす――!

 

 

「――いい加減もう帰るぞ、アンナッ!!」

 

 

――――ズドン!

私の小さな掌が発する音を掻き消して、周囲に凄まじい炸裂音が響き渡った。

 

「ぁ――ぅ、きゃっ!?」

 

雷の様に、或いは爆発のように。とてつもない轟音が響き、腹の底を激しく揺らす。

流石にアンナの耳にも届いたらしく、随分と可愛らしい悲鳴が上がった。焦点がずれ瞳孔の開いていた瞳が締り、盛る黒炎が幾分かは散らされる。どうやら少しは我を取り戻したらしい。

 

「……ぇ、ぅ。なに、が……?」

 

そうしてふらふらと周囲に目をやり、再び暗闇を見て錯乱する――――何て事は、許さない。こちとら一体何の為に「異常」を自覚したと思ってやがる。

 

「――あ……」

 

 

――アンナの目に光が映る。それは道端に放置されていた自転車のライトだ。

 

 

――アンナの顔を光が照らす。それは電力が切れ置物と化していた外灯のもの。

 

 

――アンナの身体を光が包む。それは立ち並ぶ建物から漏れる電球の光。

 

 

その他にもテレビやPCの画面、電子レンジ、ゲーム機に暖房器具にペンライト。周囲に存在する光るもの全てが限界を無視して稼働し、溢れんばかりに発光する。

 

光、光、光、光光光――光。無数の灯りが彼女の全てを包み込み、纏わり付いた黒を祓っていくのだ。

 

……はぁ停電中。ほぅ動力が何だって? 

全ッ然聞こえないし知らないね、それはアンナを泣きやませるという「普通」に必要な理屈じゃないんだ。出来たんだから良いんだよこれで。

 

まぁあちらこちらから生徒達の騒ぐ悲鳴のような声が聞こえてくるが……幼気な少女の心を救う為、ちょっとばかし我慢してもらおう。私を助けてくれなかった報いとも言う。

 

「……あ、明るい……よ……!」

 

そうして光を認識したアンナの目から、一筋の涙が溢れる。

既に顔は色んな液体でグチャグチャになっていたから分かり辛かったが、光の反射でそれに気付いた。

 

周囲が明るくなった事で、完全とまでは言わずともある程度精神が安定したのだろう。彼女は呆然としたように光を見つめ、僅かに笑みを浮かべ。ふっと全身の力が抜けたように弛緩し、握りしめていた剣を取り落とす。

それはまるでミルクに溶いたチョコレートの一欠片のように空に溶け、光に紛れ消滅した。……穏やかな、表情だ。

 

「…………ハ」

 

私は溜息と笑みが混ざったような吐息を一つ。ともすれば崩れそうになる足を強引に押し出し、前に進む。

振り回される刃も行く手を阻む黒炎も無く、驚く程に何事も無くアンナの傍へと近づけた。あんなに苦労してたのが嘘みたい。泣けるわ。

 

「…………」

 

……路地の入口で惚けたままの彼女は、私が直ぐ隣に立っているのに気づかないようだ。

一心不乱に光を見つめ、ポロポロと涙を流し続けており――――

 

「おら」

 

「っ、きゃ」

 

コツン、と軽く拳骨を落とし、注意を引く。

 

アンナに助けられたとは言え、その後の事を鑑みればこれくらいやってもバチは当たらんだろう。

ともあれ、彼女はびっくりした様子で頭を抑えこちらを向くが……改めて見ると本当にひどい顔だ。土砂降りというか洪水というか、可愛らしい顔が台無し。

 

ハンカチ持ってなかったっけ。ポケットを探りかけ――だから今の私は「ちう」の格好してるんだって何度思い出せばさぁ。

……まぁどうせこの服私のじゃないし、破かれてズタズタだし、こっちでも良いか。私はあっさりとそう思い直し、ぶっきらぼうに手を差し出した。

 

「ぇ……チ、サメ?」

 

「ん」

 

「…………」

 

いきなり無言で差し出された手にアンナは戸惑った様子だったが、やがておずおずとその手を取り――――「わぷっ」思い切り彼女を引き寄せ、抱きしめる。

ちょうど腹の部分。布の破れていない場所に顔を押し付け、ゴシゴシと乱雑に体液を拭ってやった。ああ、ヘソに湿った感触が。

 

「むぐ、ちょっ……! なにすっ……、ぅ…………」

 

最初こそ藻掻き拘束から逃れようとしていたようだが、途中から大人しくなりされるがまま。むしろゆっくりと私の背に手を回し、強く抱き締め返してきた。

……私も私で彼女の背中をポンポンと叩き、その呼吸を整えてやる。

 

「……助けてくれて、ありがとうな」

 

「…………う、ん。……ご……ごめん、なさい……」

 

「何で謝んだよ。つーか泣くなって」

 

「……うん、うん……!」

 

せっかく色々捨てて頑張ったのに結局これかい。半ばウンザリしながらも、しかし悪い気分がしないのが困りモノだ。

……まぁいいや、しばらく好きにさせとこう。つーかそれよりも、今は。

 

(こっから、どうやって帰ろうかなぁ)

 

ここがどこだかも分からず、服は「ちう」だしヤバイ感じに事後状態。しかもこんな騒ぎを起こしてしまったとなれば、次第に外に人が出てくるだろう。

誰にも見られず帰り道を見つけて帰るなんて無理ゲーも良いところで、それに付随し起こるだろう騒ぎを考えるだけで憂鬱な事この上ない。

 

……だけども、まぁ、うん。

 

「ぅ、っく……ち、チサ、メぇ……!」

 

「ああはいはい、思う存分くっついとけ」

 

とりあえず今は良いか。そんな事。私は待ち受ける面倒事に関する思考を放棄し、アンナを宥める事に神経を注ぐと決めた。

だってそうだろう? 泣いている子供を泣き止ませる――私の目指した結果なのだから。

 

「……はぁ」

 

……疲労感に溜息が漏れる。

目を焼く程に強い光に包まれ、腕に少しばかりの力を込めて。私は万感の思いを持って、何時もの言葉を呟いた。

 

 

――やっと、「普通」だ。

 







白薔薇男爵「!! 私の愛する者達に危険が迫っていた気がする!!」
タカミチ(帰ってラーメン作ろう)

色々と思う所はあるかもしれませんが、本編はこれでおしまい。後はエピローグだけ。
バレバレとは思いますが、千雨のディソードは原作のアーティファクトをなぞってます。まぁカオへ原則の花モチーフじゃなくなったけど、まぁ二次創作ということで。

ついでに活動報告でも書きましたが、投稿した挿絵は俺の作者ページの左側にある画像一覧から纏めて見られますので、本文からのリンク発掘が面倒な方はそちらからどうぞー。


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エピローグ Chu☆りっぷ!

「…………」

 

ぎゃーぎゃー、と。周囲で誰かが騒ぐ声が聞こえる。

 

多分、電気が通っていないのにも関わらず、勝手に電子機器が暴走している事に混乱しているのだろう。

よくよく耳を澄ませばテレビの音や電子レンジが何かを温めた「チーン!」という音も聞こえてきたりして、まぁ中々のカオスっぷりだ。

 

しかもそれが複数、至る場所で聞こえてくるというのだから、もう街はお祭り状態。

人は走り、慌てふためき。怒鳴り声から笑い声までありとあらゆる感情が渦を巻き、夜とは思えない程に光と活気に満ちている。

 

……まさしく、私の狙った通りに。

 

「…………」

 

そうしてそんな過剰な光に照らされる街道を、アンナを背負った私がゆっくりと歩く。

 

流石に殺陣からの錯乱で心身ともに消耗しきったのか、アンナの足は生まれたての子鹿のように頼り無さ過ぎる状態となっていたからだ。

本人は「こんなの全然へっちゃらよ……!」と宣っておられたが、手を繋いで歩けば市中引き回しもかくやという無様な状態になった為、大人しくおんぶさせて貰った。

 

今では唇を尖らせながらも大人しく私に身体を預け、帰り道のナビをしてくれている。どんな方法で現在位置を把握しているのか……まぁ、聞くまい。

 

のたのた、てくてく。この慌ただしさの中では目立つ振る舞いではあるものの――しかし、街を駆けずり回る生徒達は、そんな私達には気づかないようだ。

混乱している事、慌てている事。それらも勿論あるのだろうが、その原因の殆どは、やはり私の背中で光を眺めるアンナの握る紅い双剣のおかげなのだろう。今だからこそ、素直にそう思えた。

 

「…………」

 

今の私は「ちう」では無く、制服姿の「長谷川千雨」である。

何をどうしたのか、再びアンナが剣を握った途端にいつの間にやら衣装が入れ替えられていたのだ。

 

……正直理解不能の極地ではあるが、助かったのは事実だ。流石に乳を放り出して街を歩くなんてコスプレどころの話じゃない。

改めて見ればアンナの服も吐瀉物の跡が消えていたり、道行く人も不自然にこちらを避けていたりしているようにも見える。……他にも何かしてるんだろうな、きっと。

 

――チラ、と自然に背後へ目が向いた。

 

「……な、なによ」

 

「いーや、別に」

 

するとアンナの視線とかち合い、見合う。

私の瞳から発せられる疑問光線を感じたのか、どこか落ち着かない様子だ。ある程度は状況も落ち着いたし、彼女も色々聞かれるのだろうと構えていたのかもしれない。

 

(……つか聞きてーよ。本当は)

 

アンナの持つ双剣、炎、私の鼠、視線、黒い男、今の状況、魔法陣、その他色々。

聞きたい事、問い詰めたい事はそれこそ山のようにある。おそらく一度封を破り詰問すれば、全てに納得がいくまで止まらないに違いない。

 

今だって平静を装っているが心の中は一杯一杯なんだ。一刻も早く何らかの結論を出したい――そうは思っているのだが。

 

(弱った子供に迫るとか、『普通』はしねーよな)

 

もう散々「異常」に染まりながら何を言っているんだという話だが、これが私なので仕方ない。

長年に渡り積み上げられた性分は、例え圧し折れようとも瓦礫となって残るのだ。そう簡単に何もかもが変わって堪るものか。

 

「……ねぇ、本当は沢山聞きたいんでしょ、チサメ」

 

「あ?」

 

――と、そう考えている内に、アンナの方からそんな言葉がかかった。

どこか弱々しく、不安げな声音だ。何を知っているのかは知らないが、そんな態度を取る程の都合の悪い情報があるとも受け取れる。

 

……嘘が吐けない奴だな、全く。私は軽く息を吐き、首を振った。

 

「……そりゃあるさ、むしろ聞きたい事ばっかりだよ」

 

「…………」

 

「でも、今は良いや。疲れそうな話は明日に回して、さっさと帰って寝ちまおう」

 

私もちょっと落ち着く時間が欲しいからな――――そう9割本音の混じった気遣い言葉を返すと、アンナは私の肩に頭を預けた。

もごもごと言いづらそうに何事かを呟き、猫のように髪の毛を擦りつけてくる。あざとい。

 

「……あの、ね。じゃあ一つだけ、言っとく」

 

「……何を」

 

「――チサメが前から感じてたっていう視線。それ、タクが……私の幼馴染がやってた事……なの」

 

 

――――…………。

 

 

ピタリ、と。一瞬歩みが止まりかけ、すぐに再開。何事も無かったかのように足を動かす。

同時に心の中に何かもう「わー」ってな感じに湧きだすものを感じたが、とりあえず抑えこみ。居心地悪そうに身じろぐアンナを努めて冷静に見返した。

 

「……あー、と。じゃあまぁ、こっちも一つだけ言うが…………何で、今それ言うんだ?」

 

「だ、だってこれから私の家――じゃない、体育館まで送ってくれるんでしょ……?」

 

「そうだけど」

 

そりゃ当然だ。このまま一人で帰らせるとか、サディスティック鬼畜生の行いだ。

 

「じゃあ、その……会うでしょ? チサメも剣持ってるみたいだし、そうなると多分キュピーンて分かっちゃうと思うから……」

 

「…………」

 

剣やらキュピーンやらの意味は分からんが、様々な意味で覚悟しておけと。つまりはそういう事だろうか。

むっつりと黙りこむ私に不穏なものを感じたのか、アンナは慌てたように言葉を繋ぐ。

 

「え、えっと、違うのよ? アイツはチサメにエッチな気持ち持ってたとかじゃなくて、私が心配なだけだったみたいで!」

 

「…………」

 

「それにその事についてはちゃんと私が懲らしめてあげたから! あ、でもチサメの気がすまないんなら、5・6発しばいても――」

 

「――はぁぁぁぁ……」

 

「!」

 

心に蟠る何かを吐き出すように、一際大きな溜息を一つ。ビクリとアンナが身を震わせる感覚が背中に伝わる。

 

……どうやって見てたんだとか、じゃあ黒い男達は何だったんだとか。言いたい事は色々あるが、今問い詰めてもしょうがないんだろうな。

このままアンナを送り届ければ自動的にそのタクとやらとご対面するそうだし、全てはその時当人にぶつけてやろう。

 

私はとりあえずそう結論づけ、力を入れてアンナを背負い直す。「わひゃあ」と小さな悲鳴が首筋に当たった。

 

「別に、そんな物騒な事はしねーよ。拳骨の一発は落とすかもしれないけど」

 

「……怒ってないの?」

 

……いや、怒ってない奴は拳骨を落とさないと思うんだが、アンナの中でそれはまだ優しい方なんだろうか。まぁさておいて。

 

「……確かに結構――つーか、かなり嫌な思いはしたけどさ。でもそれはお前の為だったんだろ?」

 

「……ホントかどうかは分からないけど、そう言ってたわ」

 

「なら……正直あんま良い気分はしないが『普通』の事なんだよ。それは」

 

タクが幼馴染であるのなら、アンナが黒色恐怖症である事は絶対に把握している筈だ。

そして彼女の事を大切に思って居るとするならば――まぁ、私を見ていた理由も何となく察せられる。

 

あのクッソ気持ちわりー視線やらその手段やらは別にしても、行動理由だけを見れば至極「普通」の事と納得してしまうのだ。私は。

 

「多分、今回起きた一連の出来事は、誰が悪いとかじゃねー。単なるボタンの掛け違いってやつなんだろうな」

 

「……どういう事?」

 

「簡単にいえば、私もお前もタクってのも全員運と間が悪かったって事だよ」

 

詳しい事は全く把握出来ていない私であるが、そう感じる。もし悪い奴が居たとするならば、それは不特定多数の「ちう」アンチ達だろう。

 

あいつらが貞操の不安を煽るような下品なコメントを残さなければ、私も視線の事と絡めず平穏無事な日々を……。

……いや、それであの黒い男達が出なくなっていたのかは知らんが、少なくとも不安による幻覚や恐慌状態になる事だけは避けられた筈だ。そうに違いない、つかそう決めた。

 

私がきっぱりとそう言い切るとアンナはホッとしたように息を吐き、コテンと一層深く私にもたれかかる。眠いのか、ぐしぐしと目を擦っている気配が感じられた。

 

「何だよ。私が幼馴染に酷い事しないか、そんな不安だったのか?」

 

「ううん、チサメはそんな事しないと思ってたけど……」

 

「……けど?」

 

「……タクの知ってる剣持ってる人達って、殺し合いになった人が多かったって聞いてた、から……」

 

「…………」

 

……一体どういう奴なんだ、その幼馴染。

 

というか今更だけど、アンナの言う「剣」って火を吹いていた双剣とかあの鼠達の事で合ってるよな。

魔法かそれとも超能力か、良く分からん力を持った得体の知れない武器である。いや武器か? まぁ武器か、アンナのは切れ味は良かったみたいだし。瞼を軽く擦り、思う。

 

……それで殺し合い? まさか漫画によく出る選ばれし者の聖剣とかそんな感じで、バトルロワイヤルが云々って少年誌的なもんじゃねーだろな。だとしたらゴメンだぞ、そんなの。

急激に不安になった私は、もののついでと詳しく聞こうと首を捻った。のだが。

 

「……ん……ぅ」

 

「…………」

 

当のアンナがうとうとと船を漕いでいるのを見て、開きかけた口を閉じる。

 

目は半開き、時折ふらつく頭を起こしているので完全には眠って居ないのだろうが、おそらく直に夢の世界へ旅立つ事だろう。

流石にそんな彼女に物騒な話を持ちかけたくはない。私は渋々と捻った首を前へと戻し、黙って歩くこと事にする。あぁモヤモヤする……!

 

「……あ、てか道案内……」

 

ふと気づくが、既にアンナの指先は垂れ下がり、地面を指さしている。

 

……彼女のナビに頼らず、私は目的地に辿り着けるのだろうか。雰囲気的には中等部近くに居るっぽいのだが、夜と街の混乱の件が合わさってまだよく場所を把握出来ていない。

案内図がどっかにあれば助かるんだけどな。私はキョロキョロと辺りを見回し、大型の看板が無いか捜索した。

 

――その、瞬間。

 

「――んむ」

 

「ん? っと」

 

ちゅ、と。頬の辺りで何か柔らかいものを感じた。

 

ぷにぷにとした、瑞々しい感覚だ。何だ何だと該当箇所に視線をやれば、そこにはアンナの気の抜けた舟漕ぎ顔があった。

どうやらアンナの顔と私の頬とがタイミングよく重なったらしい。所謂ほっぺにキスという奴だ。いやんラキスケ。

 

……まぁ実際はさっきの吐瀉物の匂いが微かに漂って来るので、そんなに可愛らしいものでもないのだが――と。

 

「…………」

 

……ああ、何だろう。凄く下らない事を思いついた。

 

アンナの持っていたあの双剣、最初それを見た時私は何と表現したっけ。

彼女の赤毛と、刃の曲線と花弁に当たる部分と、炎。そう、全て合わせたそれらはまるで――――。

 

 

 

「……チューリップの、ちゅうリップ。なんつって」

 

 

 

――…………………………………………………………………………、

 

 

……ひゅうと一陣の風が吹き、辺りの気温を1・2℃下げた。つま先から髪の先まで寒気が登る。

 

いやー、こんなにつまんねー事が言えるとは自分でもビックリだ。どうも私には噺家の才能は無いようだな。いや別に欲しかねーけど。

誰も聞いては居なかったとはいえ、みっともない恥を晒した事に顔から火が出る。一先ずこの場から離れとこうと、スタコラサッサと歩き去った。

 

「……いや、でもそう考えると、あながち占いは間違ってなかったんだよな……」

 

そうして、チラリと微睡むアンナを見る。

 

私がアンナと出会ってまだ間もない時、彼女は私に魔除けとしてチューリップを勧めてきていた筈だ。

その時は単なるおまじないだと思っていたが、中々どうして。全てが終わった後に見てみれば、何とも的を射た結果と言わざるを得ない。

 

まぁわざわざ買った鉢の方は正直役に立ったとは到底言えないが。しかし。

 

「……こっちのチューリップには、まぁ助けられたかな」

 

くしゃり。アンナの髪に頬を擦り、呟いた。

 

……さて、そうなるとさっきのキスも何かの加護があるように思えてくるから不思議だ。

交通安全か、危険回避か。幾分か心が軽くなった気がして、我ながら現金なもんだと呆れるね。基本的にそういうのは信じてない……つっても全体的に今更か。

 

無意識の内に苦笑が漏れ、意図せず肺が震えた。「……ぅあ」その際眠りかけのアンナが声を上げてずり落ち、慌てて背負い直してバランスをとる。

 

「……とりあえず、早く送ってってやるか」

 

最後にそう呟いて、夜闇を照らす街の中をより進む。

 

相も変わらず喧騒は消えず、人の声が耳を突く。アンナはよくこんな中で眠れるなとある種感心するが、逆に明るく騒がしいからこそ安心しているのだろう。

……私の背中だから、とは思い上がり過ぎかね。流石に。

 

「まぁ、だからさ――」

 

そうして最後に振り返り、さっきから視線を向ける誰かへと言葉を紡ぐ。

 

道行き慌てふためく生徒達は誰も私達を見ていない。しかし色々と「自覚」した所為なのか、奇妙な確信を持っていた。そして私の後頭部に例の感覚が無いとすると、その対象はつまり――。

 

「……へ」私は軽く鼻を鳴らし、生ぬるい温度を視線に乗せて。一言。

 

 

 

――心配しないで待ってろよ、と。

陰鬱気に舌打ちを鳴らすクソガキに、からかうようにそう告げた。

 

 

 

 









【挿絵表示】




おしまい!
ここまで来るのにずいぶん長くかかったものだと戦慄を禁じ得ない。
でも挿絵付きというやってみたいことは出来たので、俺的には大満足です。

とりあえずまたカオスヘッド関係で何かあってテンション上がれば続き書くかもしれないので、完結とはしないでおこうかな。気持ち的には。
「魔法先生ネカね!~白薔薇男爵京都事変~」とか。いやまぁ思いつきですけど。

ともあれ、ここまで読んで頂きありがとうございました。
これからも某か書いた時はよろしくお願いします。


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