【完結】大人のための艦隊これくしょん  (モルトキ)
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第一話 運命の邂逅

これは艦隊これくしょんの二次創作小説です。

※別の世界の大日本帝国が、真珠湾開戦直前に深海棲艦と邂逅し、国の生き残りをかけて艦娘とともに太平洋戦争を戦う物語です。よって、艦娘の轟沈、人間の死など多く含みます。


※オリジナル要素を多々含みます。
 
 彼女たちは何者なのか。どこから来たのか。どこに向かうのか。
 艦娘と深海棲艦の根本となる事柄について、作中にて深く掘り下げていきます。
 ゆくゆくは彼女たちの存在に最終的な結論が与えられます。

 艦娘は、メンタルモデル方式を採用しています。
 戦闘は、実物の艦をもって行われます。


※舞台は、現実世界と同じ地形・地名となっています。

※誤字、脱字は生温かい目で読み流してください。



感想、批判、大募集! 分かりにくかったところ、軍事的に誤りがあるところなど、どんどん教えてください!


 天気晴朗ナレドモ波高シ。

 択捉島の単冠湾泊地を出港してから四日。山口多聞少将は、艦橋の戦闘指揮所から夜の太平洋を眺めていた。煌めく星が映りそうだった海は、外洋へ繰り出すほど、その荒々しい本性を少しずつ覗かせ始める。ここは東経一七〇度海域。護衛の駆逐艦に囲まれながら波をかきわけ進むのは、第二航空戦隊を率いる正規空母百龍。山口少将は、自らが乗る百龍、そして僚艦の正規空母・寧龍から構成される第二航空戦隊の指揮官だった。

「敵影なし。航行は予定どおりですな」

 百龍艦長、加来止男大佐が定時報告を伝える。山口は空と海を睥睨しながら黙って頷いた。攻撃目標地であるハワイ真珠湾まで、あと八日。せめてそれまでは、眼前に広がる果てしない大自然が穏やかであることを祈った。

「普通に考えれば、資源貧乏な我々が狙うのは南方海域だ。さすがのアメリカさんも、この攻撃は想定しちゃいまい」

 堅く結ばれた唇をほぐし、山口は言った。即時開戦には終始反対であった山口の心境を考えるに、加来大佐は何も言葉を返せなかった。

 なぜ正規空母六隻の大艦隊が、地政学上、ほぼ無価値と言っていいハワイくんだりまで出撃しているのか。この作戦に至る発端は、およそ三カ月前にさかのぼる。

 

 準備が先か、決意が先か。

 一九四一年八月二十一日。参謀本部は重大な決断を前にして、意見の食い違いを露呈していた。アメリカより波及した最悪の世界恐慌は、極東の小さな島国をあっという間に暗黒へと飲み込んだ。恐慌の元凶でありながら、米大統領は何をとち狂ったのか、まっさきに自国と植民地との貿易から他国を締め出した。自由貿易の総帥として世界中に「自由」を強いたアメリカが、あろうことか自ら自由であることを否定し、身勝手な保護貿易を始めた。これは世界経済に対する背信行為だった。怒り狂ったイギリス、フランス、オランダなど、植民地を「持てる国」は、アメリカにならってブロック経済に移行した。

 西欧列強に追いつけ追い越せ。そのスローガンを未だに刷新できない極東の島国が、大規模な植民地など持っているはずもない。帝国は世界経済から締め出された。経済は水の流れのようなものである。循環するからこそ、その中で多様な生物が生きていける。さしずめ今の状況は、過酷な炎天下に取り残された水たまりのようなものだ。いずれ干上がるのを待つしかない。だというのに国内の政治家たちは、愚かなミジンコのように、その場で右往左往するだけだ。

 これまで幾度とない戦いを経て国家を支え、国家の中核をなしてきた軍部にとって、民主制は乾涸びかけたミジンコのごとき無力な存在に映った。

 民主政治の不安定。そして政治の機微を知る由もない、気まぐれな民衆。帝国建国以前より上からの改革に従うだけだった彼らは、ただ目先の利益と、目に見える成果だけを求める。それら二つの要素が重なり、軍部は台頭し、支持された。批判されることのない権力は、必ず腐敗し暴走する。二・二六の悲劇、柳条湖事件、満州国建国、国連脱退。暴力と死の化身たる軍部によって突き動かされる国家は、名目上「平和」を愛する世界諸国に嫌われた。世界恐慌の傷が癒えきらぬうちに、アメリカ・オランダによって鉄と石油の供給を断たれた。

 このまま座して待っていても、一億の臣民が干からびるのは明らかだった。大日本帝国は、もはやちっぽけな水たまりである。ならば水たまりの外へ、遠大なる大洋へ活路を求めねばならない。陸軍、海軍ともに、その意志は開戦へと傾きつつあった。

「我が国の重油貯蓄は、わずか一カ月分です」

 大本営会議の席で、永野修身軍令部総長は静かに告げた。巨大な機械を動かすのに必要な重油は、いわば戦争の命であり、ひいては国家の血液である。その重油が、ひと月しかもたない。これでは戦う以前の問題だった。さらに問題は重油だけではない。半固体機械油は約三カ月、軽油に至っては三分の一カ月しか貯蔵量がない。あらゆる面で物資の不足は致命的だった。

 ゆえに、開戦に際しては慎重に慎重を期さねばならぬ。これが海軍の総意だった。どこを、いつ、どのように、いつまでに攻めるかを決め、それに応じて少ない資源を効率よく割り振る。宣戦の決意はいつでもできる。今は準備が大切だ、と。

 だが、陸軍の意見は真逆だった。戦う以外に道はないのなら、まず軍全体が必勝の信念を固める必要がある。準備は戦いの過程で進めればよい。それに、一刻を争うのは資源の確保である。マレーを支配するイギリスでは、すでに帝国の開戦意欲を嗅ぎつけ、一日あたり四〇〇〇人の兵力増強を進めている。時間が経てば経つほど不利になる。

「一日の待機は、一滴の血を多からしむ!」

 東条英機大将は、持ち前の甲高い声を張り上げた。

 陸軍の主張は即時開戦。しかし海軍としても、陸軍の大声に屈することは今後の関係に引け目を残しかねない。そこで資材部は、戦争の要となる油の計算に心血を注いだ。石油の場合、保有量は八四〇万キロリットル、その七割は軍需用。国産石油、人造石油では、それぞれ年四〇~五〇万キロリットルしか生産できない。民需用を、一八〇万として軍需用から回してやりくりしても、三年後、すなわち一九四四年には民需用とともに供給不能に陥る。

 石油全般について、軍部内で深い造詣を持つ者は少なかった。かの俊英と名高き山本五十六連合艦隊司令長官であっても、石油に関しては全くの素人だった。海軍はこの数字を見て、開戦の決意をした。

 資源を得る、という作戦上の目的に対し、まず確保すべきは南方地域である。イギリス、オランダ、アメリカ等、海洋列強国家の支配から、それらの地域を奪い取らねばならない。だが現時点で、太平洋地域において真っ向から衝突しているのはアメリカである。莫大な工業力・資源を持つアメリカが、まるで鋼鉄の波のごとき大艦隊、大部隊を南方にぶつけてくる。それは何より帝国にとって恐怖であった。そこで海軍は、米艦隊を太平洋に出させないことを、戦争勝利への第一手として研究した。

 そして決定されたのが、今回のハワイ空襲である。真珠湾に集中している米太平洋艦隊を叩く予定だった。

 そのために編成されたのが、第一航空艦隊。通称、南雲機動部隊である。

 

第一航空艦隊 

 第一航空戦隊 霧龍 雲州 

 第二航空戦隊 百龍 寧龍 

 第五航空戦隊 梅鶴 悠鶴

 

 奇襲という軍事的・政治的な危険を冒してでも、米軍の太平洋展開の出鼻をくじく。それが成功したのち、南雲忠一中将が率いる第一航空戦隊、第五航空戦隊は佐世保に帰投する。山口少将率いる第二航空戦隊は、帰投途中で列を解き、太平洋戦線の足がかりとなるウェーク島攻略に向かう手筈だった。

 だが、山口少将はこの作戦に不満だった。果たしてハワイの艦隊を叩いた結果、時間稼ぎになるとして、それが太平洋戦争の最終の決を、大日本帝国の勝利という形で与えることができるのだろうか。例え予定通りに敵空母を殲滅できたとしても、三年もあればアメリカは戦力を立て直してくる。ならば、このハワイ奇襲作戦は、序盤の戦闘を有利に進めるための対症療法にしかならない。アメリカにさらなる深手を負わせたいなら、せめてパナマ運河を破壊すべきだ。アメリカの工業力は五大湖周辺に集中している。戦争のための工業力を太平洋側に移すためには、船舶による大量輸送が必要である。その最短ルートがパナマ運河経由なのだ。しかして、パナマ運河を通行不能にまで破壊すれば、アメリカの太平洋進出は一気に遅れる。その隙をついて、日本は手早く南方地域を攻略するべきだ。そう山口は主張した。しかし、その意見をやすやすと実行に組み込めるほど、帝国に技術もなければ先見の明も乏しかった。空母、艦船の航行能力では、ハワイを攻めるのが限界だった。

 

 このまま進めば奇襲は成功するだろう。山口の軍人としての勘が、そう告げている。だが、このまま進み続けた「先」を夢想すれば、行けば行くほど道のりの先に暗雲が立ち込めてくるのである。

 鬱屈した予感を追い払おうと、山口は強く瞼を閉じる。とにかく今は目の前の機動作戦に集中せねばならない。百龍、寧龍に乗艦する一六〇〇名からの士官、兵の命を預かる提督としての使命だ。

 暗雲を吹き飛ばしてくれ。

 秘めた覚悟にそう唱え、彼は目を開く。

 その瞬間、彼の鼓膜を打ったのは、まぎれもない覚醒の音だった。

 聞き間違えようのない砲音。幾夜も議論を重ね、「ありえない」と判断したはずの、夜間の砲音だった。反射的に山口は艦橋の窓にしがみつく。水平線に目をこらすと、夜の闇よりさらに濃い漆黒が、身をかがめるようにのっぺりと海面にへばりついている。先行するのは、南雲中将率いる第一航空戦隊だ。その黒い姿に、ぽつ、ぽつと色が灯る。血を零したように赤い斑点が増えていく。

 不吉な赤が水平線に踊った。

「全艦警戒! 状況を報告せよ!」

 ガラスを震わせるほどの咆哮を放つ山口。つづいて慌ただしい足音とともに、参謀たちが指揮所に集結する。

「報告! 先行する護衛駆逐艦が接敵。攻撃を受けています。敵は霧龍、雲州に狭叉砲撃をかけている模様」

「被害は?」

 山口が問うた。

「通信連絡が混乱しています。ですが、少なくとも霧龍は飛行甲板損害」

「敵勢力は如何なる?」

「報告では、少なくとも軽巡二、駆逐四。近接戦闘。接敵する前線部隊との距離、約七〇〇〇」

 報告を聞き、山口は即座に状況判断をまとめる。敵の編成を見るに、奇襲・撹乱が目的だろう。旗艦が少なくとも小破。そもそも敵に発見された以上、こちらの奇襲は成立しない。この時点で真珠湾作戦は失敗した。この闇夜では、必殺の艦載機も無力。積極的反撃は無意味だ。

「即座に海域を離脱する。右回頭。第八戦隊の重巡二をしんがりへ」

 山口は、空母の被害を最小限に留める選択をした。敵勢力の全貌をつかめない状況では、追撃はあまりに危険である。回頭し終えた百龍の両脇を、二隻の重巡が走っていく。これが正しい選択であるはずだ。

 しかし、どうしても拭いきれない違和感が、命令を発すべき舌先にこびりついていた。

 皆が口を揃えて「敵」と叫ぶが、これは本当にアメリカの部隊なのか。小規模艦隊で大部隊に突っ込み、あまつさえ火砲による夜戦を試みるなど、あまりに「らしくない」戦術だった。むしろ幼稚とさえ言える。何か意図があるのだろうか。だが、その疑問に答えをくれる存在は、この艦上にはいない。

「敵艦見ゆ!」

 その叫びで、模糊とした疑念は霧消した。

「左三時方向!」

 窓に張り付く参謀たち。目視でも、わずかに見てとれる水平線上の異物。おそらく軽巡二。

「最大船速!」

 山口は叫んだ。まだ距離はある。魚雷を撃ち込まれる前に、空母だけでも海域を離脱しなければならない。だが指示を飛ばした直後、正面の海に水柱が上がる。ひとつ、ふたつ。大海原が抉られ、弾け飛ぶ音は砲音に勝る恐怖だった。やはり同じだ。砲撃戦を試みようとしている。散らばもろとも。反撃の危険など何も考えていない攻撃一辺倒の戦術。死を克服できるのは狂人だけだ。

 アメリカは狂ったのか。

 参謀たちの視線が、疑念と恐れを湛えて遥か彼方の敵影に注がれる。すさまじい衝撃とともに、護衛の駆逐艦の艦尾が吹き飛ぶ。闇夜の不意打ちを受けた友軍は恐慌状態に陥り、まだ反撃の気配は見えない。

 しかし次の瞬間、彼らの表情と視線が、さらなる疑問で歪む。

「何が起こっているのだ……」

 加来大佐が呟く。突如として敵艦が炎を噴き、傾く。どうやら雷撃を受けたらしい。しかし当然ながら、この海域に友軍など展開していない。あれよあれよという間に、二隻の敵艦がゆっくりと傾斜を強め、音もなく波間に飲まれていく。

「あっ! 艦影見えます」

 報告が飛ぶと同時に、全員が目を皿のようにしていた。敵艦が海中に没した地点、そのさらに南西方向。豆粒ほどの小さな影が見える。二、三隻だろうか。距離から察するに、駆逐艦級の船であるらしい。

「得体のしれない船に襲われ、得体のしれない船に救われた。この状況を、どう理解すればいいのか」

 不確定要素の多すぎる戦場にて、山口は苦脳する。指揮官の疑問に対し、誰も答えを出せぬまま参謀たちは慌ただしく情報を集めていた。

「旗艦より入電! 敵軽巡級二隻、および駆逐艦四隻、撃沈。その際、不明の勢力から雷撃による援護があった模様」

 この報告で、ふたたび指揮所は騒然となった。まず思い当たったのが同盟国である独逸の艦隊である。しかし、このような極東の海に艦隊を出す理由がない。そもそも独逸はアメリカに宣戦布告さえしていない。

「無線を使ってもいい、不明艦に対し応答を呼びかけよ。ただし返答が如何なるものであっても観測は怠るな」

 山口の指示により、無線封鎖は破られた。いまだ距離をとりつつ様子を窺っているだろう謎の艦に対し、ただちに接触が試みられる。

 大方の予想に反して、返答はすぐに得られた。

 

「我 貴艦 ニ 味方 セリ」

 

 たった一文。まるで年端もいかぬ子どもが打ったような平電文だった。しかし、まごうことなき日本語である。敵の奇襲を受け、闇夜の中で死の恐怖を彷徨い続けた艦隊にとって、これ以上望むべき返答はなかった。山口少将は安堵の溜息をつく。すぐに無線通信を繋ぐよう指示した。

「援護に感謝する。我は大日本帝国海軍、第一航空艦隊所属、第二航空戦隊。貴艦隊の所属を問う」

 だが、この質問に対する返答は、さらに艦上の人間たちを混乱させた。

 

「所属ナシ。我ラ駆逐艦五隻、太平洋上ニ孤立ス。貴艦隊ニヨル救助ヲ要請ス」

 

 この電信が届いた直後、相手との無線通信が開かれた。山口提督は自ら通信機を握った。

「第二航空戦隊司令官、山口多聞少将である。貴艦隊の詳細を問いたい」

「……あの、すいません。わたしたちも戦闘を終えたばかりで混乱していて」

 山口は目を見開いた。これは何かの冗談か。無線機のざらつく機械音が形づくるのは、まぎれもない幼い少女の声音だった。

「失礼。貴艦の長と話をさせてくれないか」

「ええと、わたしが一応、この艦の主です。名前は、吹雪といいます」

 無線機を通し、たどたどしい口調で艦長が答える。

 もう何も驚くまい。山口は諦めることで思考を透明に保った。

「わたしの他にも、あと四人、この海域で戦っていました。どうか陸まで先導願います」

 ほっとしたような、少し震えた声で吹雪は言った。山口はしばらく逡巡したのち、彼女らの同行を許可した。旗艦である霧龍との連絡が取れない以上、第一航空艦隊の司令は自分である。山口の決断は早かった。

 

 この戦闘で、旗艦・霧龍、雲州が大破、機関停止。南雲中将以下乗組員たちは、援護に入った重巡洋艦に収容された。水雷部隊の駆逐艦が二隻ほど小破に追い込まれた。第一航空戦隊の空母二隻は雷撃処分と決まった。開戦序盤で、あまりに手痛い損害である。物質的消耗はもちろん、敵の出鼻をくじくつもりが逆に鼻っ柱をへし折られたとあっては、士気の低下が何より懸念された。

 謎の艦たちは、つかず離れず一定の距離を保ちながら艦隊に追随してくる。警戒は怠らなかったものの、おかげで命拾いしたとあって兵たちの間では救世主として早くも噂になっていた。

「佐世保に帰投したら、報告が山ほどありますな」

 加来大佐が苦笑混じりに言った。軍令部の石頭たちを納得させるには、百万言を費やしても無駄であるような気がした。

「ともあれ、被害がこの程度で収まったのは、不幸中の幸いというべきか」

 山口は言った。空母二隻を喪ったが、人的被害は少ない。とくに猛訓練をつんだベテランの飛行機乗りたちを消耗せずにすんだことは何よりの行幸だった。それもこれも、あの謎の少女艦長が率いる艦隊のおかげである。彼女らの助けなしには、この第二航空戦隊も無事ではすまなかっただろう。

 山口多聞に立ち込めていた暗雲は、その道のりごと完全に消し飛ばされていた。それは、大日本帝国が新たな歴史の岐路に立つ、おそらく最後の機会であろう。戦略家としての彼の本能は感じ取っていた。

 

 奇襲より十一日後、艦隊は佐世保港に帰投した。その際、鎮守府の軍人たちは、当初予定になかった駆逐艦と思しき艦船五隻に度肝を抜かれた。その外見は、帝国海軍の駆逐艦によく似ている。しかし、艤装の細部、艦首の形などが微妙に異なっており、該当する艦型は存在しない。厳重な警戒態勢のなか、ゆっくりと港に進入する駆逐艦たち。敵対意志が無いことを示すため砲は俯角をかかげているが、拾われたばかりの野良猫のようなピリピリとした空気を、その優美な艦体に纏っている。碇を下ろした謎の艦船から乗組員が上陸する。

 タラップを降りてくる、五人の人影。

 幼い少女が、五隻の船から、それぞれたった一人ずつ。軍人たちは気の抜けた顔で彼女たちを見守ることしかできない。目の前の光景が事実なら、少女ひとりが艦船一隻を操舵していたことになる。

「綺麗だ」

 警戒に当たっていた若い士官が呟く。外見は水兵が着用するセーラー服に近い。しかし、そのデザインは意匠に溢れている。異国情緒とでも言うべきか。少女たちの整った貌によく映える。ここの場にいる者は、皆目を奪われていた。少女たちの異質さは畏敬に転換され、まるで海の女神のような心象を与えた。

 

 漣

 五月雨

 電

 叢雲

 吹雪

 

 幼い少女たちは名乗った。自らを艦船の名称で。

 一九四一年一二月一日。人類と、のちに『艦娘』と呼ばれる自然の摂理を超越した存在との、初めての邂逅であった。

 それは、人類が歴史上初めて、人類以外の敵と戦うことになる、かつてない戦争の幕開けでもあったのだ。

 



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第二話 閉ざされた帝国

※オリジナル設定を多く含みます。

 深海棲艦の艦体の構造、エンジンの仕組みや燃料など、原作には無い要素多し。



突如として海洋に出現した敵対的勢力により、世界の海上輸送網は断絶された。
石油も鉄もない帝国は、天の思し召しとでも言うべき新たな戦力を率い、南方の資源地帯をおさえるべく準備を進めていた。


 

 

 南雲機動部隊がほうほうの体で佐世保に帰りついたのち、帝国の民、あるいは世界中の人類が現状を思い知ることになった。軍・民間籍問わず、あらゆる艦船の往来が停止した。大陸との連絡も取れなくなった。日本海海岸には、毎日のように破壊された通商船と思しき残骸が流れついた。さらに不気味なことに、生存者はおろか死体すら漂着することがなかった。陸軍は満州国維持のため、ただちに旅順鎮守府まで人員輸送することを海軍に提案した。事態を重くみていた海軍も、軽巡洋艦と駆逐艦による対潜水艦部隊を護衛につけ、舞鶴鎮守府を出港した。結果、軍艦はすべて沈没。輸送船だけが黒煙をあげながら舞鶴に逃げ帰った。生き延びた将兵たちの証言により、軍人たちは全てを理解した。

 海が封鎖されている。

 この報告を聞いた瞬間、山口多聞は悟った。やはり太平洋上で我々が接敵したのは、アメリカ海軍などではなかったのだ、と。その後も一切の船舶、通信の往来が途絶えたままだった。

 人類は、海洋から追放された。

 否が応でも、この非現実を現実として受け止めなければならなかった。

 

 

希望があるとすれば、艦の少女たち。

日本海特有の重苦しい曇天の下、若い将校が舞鶴鎮守府の敷地を歩いていた。まとった軍服の襟元には少佐の階級章をつけている。目下、最大の激戦区とあって、よどんだ空気には鉄と油の匂いが色濃くしみついている気がした。

「ここでいい。終わったら司令部に戻る」

 渋谷礼輔少佐は、付き添っていた連絡兵に告げる。兵は敬礼したあと、無言で立ち去った。どこに行くのでも、こうして軍令部付の監視を寄こされるのは不愉快だった。しかし、そうせざるを得ない事情があるのも理解できる。

 渋谷は、かつて海軍大尉として、ハワイ奇襲作戦に参加していた。空母・霧龍に乗艦していた。砲火交わる最前線で、彼は絶望と希望を同時に垣間見た。そして、謎の敵性勢力による海洋封鎖。未知との遭遇にあっては、誰でも慎重にならざるをえない。

 しかしながら、渋谷は確信を持てずにいた。本当に自分なんかに、あの艦の少女たちを惹きつける要素などあるのだろうか、と。

 そう考えているうちに、目的の場所に到着する。関東大震災が三度起きても耐えられる、最新式の建築物。旧式のドックをすっぽり覆い隠してつくられた巨大倉庫の入口に、渋谷の友人が佇んでいた。

「舞鶴鎮守府へようこそ」

 低く落ち着いた声で熊勇次郎少佐は言った。熊の名に恥じない、一九〇センチはあろうかという巨躯。縦だけではなく、横にも健康的な分厚さがある。全身まんべんなく鋼のような筋肉をまとっている。海軍兵学校第四九期卒業で、渋谷の同期だった。

「それにしても、もてる男は辛いな。こんなところまで目付役がついてくるとは」

「理解できない。俺はさほど指揮能力に優れた軍人ではない。それに、もてるなら普通の女性がいいよ。もうすぐ三十路の折り返しが近いんだぞ。所帯もって落ち着きたくなるもんだ」

 軽口には軽口でかえす。提督としての素質なら、明らかに熊少佐のほうが上だった。海軍大学を第三位の好成績で卒業している。さらに英国駐在武官を務めたほど英語に堪能だった。見た目からは想像できないが、彼は頭脳もすこぶる優秀なのだ。

「新しく顕現した娘たちを拐かされないか、上も気が気じゃないんだろうよ。どうだかな、電。こいつに男としての魅力を感じるか?」

 少し頭を傾けて尋ねる熊少佐。彼の視線を追って、はじめて渋谷は少女の存在に気づいた。おそらくずっと彼の巨体の後ろに隠れていたのだろう。ふとい足からおずおずと顔をのぞかせたのは、まぎれもなく佐世保の港で渋谷が仰ぎみた、五人の女神のひとりだった。

「はわわ、すいません。わたしは、そういうのはよく分からないのです」

 控えめな可憐な声で、少女は言った。まるで小動物のような容姿に、困り顔がよく似合う。渋谷は未だに信じられなかった。かくも幼い少女が、たった独りで巨大な艦船を自在に操ることができるなど。

「会うのは初めてだったな。紹介しよう、僕が最初に賜った艦。駆逐艦の電だ」

 熊の言葉を受け、駆逐艦・電はぺこりと頭を下げる。渋谷は海軍式の敬礼で応えた。

「そうかしこまらなくてもいい。戦闘時以外は、普通の少女と変わらんよ」

 そう言って熊は営倉の勝手口を開く。電は、まるで女房のように彼の少し後ろをついていく。

 彼らの背中を追いながら、渋谷は軽い嫉妬にとらわれる。

 初めて帝国海軍に接触した、艦の少女たち。軍令部は、すぐさま彼女たちを慎重すぎるほど慎重にもてなし、あらゆることを問い詰めた。およそ軍人らしくない彼女たちの口調や性格に手を焼いたが、その中で数え切れないほど重要な情報が明らかになった。

 彼女たちは、なぜ自分が存在しているのか分からない。海を漂っている以前の、具体的な記憶が欠落していた。しかし、人類の味方をするのだ、という意志だけは堅かった。まるで動物や植物が遺伝子レベルで行動を決定づけられているかのように。その回答が、なにより軍部を安心させた。

 さらに喜ばしい報告もあった。超自然的な力で艦を操る、少女たちのような存在が、他にも出現するというのだ。その時点では、まだ駆逐艦級の五隻のみだが、時が経てば巡洋艦や潜水艦、はては空母、戦艦まで現れる。少女たちは、そう予感していた。

 おもわぬ力を得た軍令部は即座に、艦の少女たちを理解・運用する基準となる、概念と解釈をまとめた。

 

艦の少女たちは、大日本帝国が、あらゆる敵対勢力に勝利するために遣わされた、神の化身である。彼女たちが出現する現象を、『顕現』と呼称する。また、顕現した艦の操手たる少女たちを『顕体』と呼称する。その本質は、大日本帝国海軍隷下の軍艦である。しかしながら、艦の操手たる顕体は、尊厳をもって扱われる軍人に相当する存在である。

 

 これらの解釈は、すぐさま御前会議にて今上陛下に報告された。そして功を急いだ軍令部は、今上陛下の名において、彼女ら『顕体』を、古くより大和におわします神々が、無垢なる少女の魂に艦の肉体を与えて産み落としたる存在と定義した。神のむすひたる娘、すなわち『神産』(かんむす)と呼称が決まり、それはいつしか軍人のなかで『艦娘』という愛称に変わっていった。

 

 神々の産物らしく奔放な気質をもった艦娘たちは、若く先取の気に溢れた士官を、自らの師として欲する傾向にあることが分かった。そこで軍令部は、これから増えていくだろう艦娘に対する教育の雛型をつくるため、また艦娘をより深く理解するため、教官としてふさわしい若い士官を選抜していった。

 その結果、五名の優秀な士官が、最初の教育係として任命された。

 五隻の艦に対して、ひとりずつ。士官たちは別々の任地にて、艦娘を教育することになった。偶然にも、選抜された士官は全員が兵学校第四九期卒業生だった。兵学校始まって以来の秀才ぞろいと有名な士官たち。一方で、変わり者の集団として否定的な意見を受けることもあった。兵学校時代から実務を経て海軍大学に至るまで、五名の序列は変動こそしたが、それでも現時点で、同期の中でトップ五は彼らが独占していた。海軍大学における、序列一位から五位までが、のちに初期艦と称される五隻の、はじめての提督となった。

 

  士官名         担当艦娘      任地

  

  白峰晴瀬 中佐     吹雪        横須賀

  幾田サヲトメ 中佐   叢雲        佐世保  ※女性士官

  熊勇次郎 少佐     電         舞鶴

  福井靖 少佐      五月雨       呉

  塚本信吾 少佐     漣         大湊

 

 

 彼らが栄えある初代艦娘提督として選ばれた。

 序列六位卒業の渋谷礼輔は、選考から弾かれてしまった。彼ら上位五名とは兵学校時代から仲が良かっただけに、嫉妬と屈辱があいまって心から祝福することができなかった。

 艦娘に憧れがあっただけに悔しさはひとしおだが、渋谷は努めて冷静に過ごした。兵学校時代から、上位五名は別格と称されていた。軍艦として生を受けたなら、優秀な軍人のもとで戦えるほうが幸せだろう。そう自分に言い聞かせた。

「おまえも知っているだろう。最近の研究で明らかになってきた、艦娘の顕現率を」

 熊少佐の言葉で、渋谷は暗い想像から目が醒めた。

 顕現率。つい近日、海軍の艦娘運用戦略に、新たな概念として登場した言葉だ。初期艦の五名の研究から、艦娘は若く柔軟な思考をもつ士官を自らの司令として欲する傾向が強いことが分かっていた。その情報をもとに、新たに顕現した艦娘の、生まれ落ちた海域、その周辺の状態をくまなく調査した。その結果、特殊な例外をのぞき、彼女たちは選抜された五名の士官、および渋谷礼輔という少佐が任務で赴いた海域における顕現が多いことが分かった。

 ゆえに軍令部は、渋谷を新たな研究対象とし、いつ艦娘が顕現してもいいよう、常に連絡係を張りつけるようになった。

「だから、俺は警戒されている。もし艦娘が俺のところに集中して顕現したら、軍のパワーバランスが崩れかねないからだ」溜息まじりに渋谷は言った。「馬鹿馬鹿しい。俺が反乱など起こせるはずもない。だいいち、俺は艦娘が顕現した瞬間など、見たことがない。彼女らが顕現するのは、きまって俺が海域を去った後だからだ」

「だが、きみという人間が何らかの理由で艦娘に好かれやすいのは事実だ。そのことは忘れないほうがいい。顕現数が増えるにつれ、軍は艦娘の運用に神経質になっている。いずれ一悶着起こるかもしれん」

 熊は小声で言った。現場で艦娘を指揮する「提督」と、戦争における長大な戦略を立てる軍令部との対立。脳と手足の駆け引き。彼は、それを暗に示していた。初期艦をめぐる政策で、すでに問題の片鱗は見え始めていた。艦娘を一括してではなく、一隻ずつ、それも物理的距離までとって教育を施した理由。それは、単一の指揮官のもとに結集した艦娘が、軍令部の統帥を離れて一個の独立した軍隊として行動する危険性を考えたからだ。最悪の可能性、すなわち反乱軍化を危惧していた。

 そのような事態を恐れた軍部の中枢が、直接に艦娘を保有・運用することになれば、まっさきに押さえにかかるのは、顕現の引金となり、艦娘になつかれやすい人物だ。そうなれば自身も危ない。渋谷は友人の警告に感謝した。

 三人は、「関係者以外ノ立入ヲ禁ズ」という赤文字が塗られた扉の前で立ち止まる。

「さて、ここからは機密区画だ。軍属であっても、艦娘運用に携わる者以外には他言無用」

 熊少佐の口調が、にわかに厳しくなる。渋谷も気を引き締める。

 重たい鉄扉をくぐった。その瞬間、連綿と続いてきた鎮守府の空気が断絶した。

 海戦を経験した渋谷は、戦争のにおいを嗅ぎ慣れていた。鉄と油と血。並の人間ならば一呼吸で気分を害する、破壊と死の匂い。だが、それは所詮、人間の世界の匂いだ。

「これは……」

 渋谷は顔をしかめ、言葉を喪った。

 嗅いだことの無い臭気。だから脳が混乱している。この臭いに対する正しい反応が分からない。どのような感情をもって表現すればいいのだろう。ただ、ひとつ言えることは、いずれにせよ決して良好な気分ではないということだ。恐怖、苦痛、嫌悪。それも胸の底を震わせるような、強烈な感情が伴う。

「硫黄、か。あとは腐ったタンパク質が、焼けたゴムと混ざったような臭いだ」

 あえて感情を押し殺し、冷静に分析する。

「この程度で吐き気を覚えるならば、奴等との戦いはできんよ」

 まだ創設されて間もない艦娘部隊を率い、鎮守府随一の激戦区である日本海を戦い渡ってきた熊勇次郎は、眉ひとつ動かさず目前の光景を見つめていた。

 すでに廃棄され、研究用に残された旧式のドック。そこに横たわるのは、異形の艦船の残骸だった。大破炎上したらしく、横腹には大きな穴が開き、艤装のあちこちに焼け焦げた跡が見える。外見こそ人類製の駆逐艦に似ているが、黒を基調とした禍々しい色彩と、抉れた機関部から流れ出る異臭が、この艦が人類とは異なる次元の存在であることを裏付けていた。

「舞鶴鎮守府の正面海域で、哨戒任務中に接敵した。我々は、この型の敵艦を駆逐イ級と呼称している」熊は説明を続ける。「敵艦のなかでは、最弱クラスだ。それででも艦娘が来てくれる以前の艦と兵装では、こいつらにすら歯が立たなかった。砲の威力、最大船速は、おそらく人類製の艦と変わらない。違うのは機動性だ。操舵、砲術、雷術、機関出力、何をとっても我々の最高練度を上回る。まったく無駄がない。それゆえに速いのだ、全てにおいて。まるで艦全部がひとつの生命体のように統率のとれた動きをする。数百名の人間を介してやっと動く我々の艦とは、根本的に機動性のレベルが違う。そこで、艦娘の登場というわけだ」

 熊が電の肩に手を置く。電は少し恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに微笑んだ。

「こいつを仕留めたのは電だ」

 熊は言った。ここで初めて、渋谷は人類製の艦と艦娘の差を思い知った。目の前に佇む少女は、いわば艦そのもの。駆逐艦・電の頭脳なのだ。艦体を、自らの手足のように自在に動かすことができる。彼女たちの協力があってはじめて、帝国は未知の敵に対抗する力を持つ。

「普通、敵は機関部が破壊されると自沈するかのように沈むのだが、こいつは辛うじて機関が生きていた。大破炎上して航行不能になった艦体を鎮守府まで曳航した」

 熊少佐は誇らしげに言った。言うに見合うだけの功績だった。おそらく彼は人類史上初めて、謎の敵勢力を鹵獲したのだ。

「調査、というより解剖に近かった。外装甲の材質は不明だが、おそらく鉄に近い金属だろうと技研の連中は言っていた。その中身は、ほとんどが鉄と有機物の構造体だった。硫黄の匂いがするのが独特だ。機関部は、構造こそ違えど、基本的な作動原理は人類製のものと変わらない。燃料を燃やして、その蒸気でタービンを回し、スクリューを回す。異なるのはボイラーとタービンの配置だ。我々は、ボイラーはボイラー、タービンはタービンと、まとめて配置している。そのほうがスペースを取らないし、整備しやすいからだ。しかし敵は、ボイラーに相当する燃焼室とタービン、燃焼室とタービンという感じに、別々に配置している。機関の機能を分散することで、致命傷のリスクを分散しているのだ。我々の船は、確かに居住性は良いが、機能をまとめている分、一撃で航行不能になる危険も高い。生き残る確率、という点では敵が一枚上手だった」

 最新の情報を、さも当たり前のように語る。渋谷は、ただ黙って聞き入っていた。

「そして燃料が違う。人類艦の燃料は、当たり前だが重油だ。しかし敵は、またしても未知の素材を燃やし、燃料としていた」

 そう言って、熊は近くにあった作業用の冷蔵庫から小さな瓶を取り出す。その中身をシャーレにそっと移した。

「何だ、これは。見た目は雪のようだが」

 シャーレに盛られた白い塊を眺め、渋谷は言った。熊はおもむろに懐からマッチを取り出すと、火種をシャーレの中に移した。その瞬間、雪のようだった塊が一瞬で炎に包まれる。小さな塊に灯る炎は長いこと揺らめいていた。

「我々は『燃える氷』と呼称している。なぜこんなものが作れるのかは不明だ。しかし機関を動かす燃料としての効率は、重油よりも遥かに優れる」

 淡々と熊は言った。

 帝国海軍の艦は、ロ号艦本式缶と呼ばれる、幾つもの巨大なボイラーと蒸気ガスタービンを機関としている。缶で重油を燃やし、その熱で水を沸かして蒸気をつくり、タービンを回す。まずは蒸気を溜めなければならない。この「気醸」に時間がかかる。駆逐艦でも早くて四時間、戦艦クラスになると十二時間ほどもかかってしまう。重油を燃やし、その熱で水を沸かす、まさに二度手間なのである。さらに缶は非常に場所をとる。駆逐艦なら三缶ほどで艦体の半分、重巡ならば約十缶で、三分の一が占められる。巨大な急所を内部に抱えているのだ。

 それに対し敵艦は、わざわざ蒸気を溜める必要がない。燃える氷そのものが大きなガス圧となって直接タービンを回すことができる。それゆえ敵の機関部は非常に小さく、燃料の消費効率もいい。詳しい構造は不明だが、敵艦の技術が既存のそれを超越していることは明らかだった。

「技研の連中は打ちひしがれていたよ。少し気の毒なくらいに」

 熊は言った。しかし、今回の鹵獲で発覚した事実は、それだけではなかった。

「艦娘には、艦体と、その頭脳たる顕体がいる。ならば敵も同じではないか。そう考えた我々は徹底的に艦内を調べ回った。やはり、見つけたよ。機関部の上に張り付くように、生きた何かが蠢いていた」

 熊は言葉を切り、その光景を思い出しながらゆっくりと喋る。

「最初は、太ったセイウチみたいだと思った。とにかくでかい。やたら頭でっかちで、黒い甲殻に覆われていた。正直、これ以上いじりたくはなかった。相手が生きている以上、何をされるか分からない。それでも、なんとか甲殻を剥ぐところまでは成功した」

 何がいたと思う? 熊が問う。緊張した面持ちで、渋谷は首を振った。

「赤ん坊だよ」

 その一言で、渋谷の背中にうすら寒い何かが走った。

「巨大な赤ん坊だ。少なくとも、僕にはそうにしか見えなかった。頭だけが膨れていて、胴体にくっついた手足が余計に小さく見えた。肌は灰色がかっていて、あちこち黄色っぽい毛細血管が走っている。しかし、奴の眼だけは真っ赤に充血していた。魚の眼みたいに丸く巨大な目がギョロギョロ動くたび、僕は肝を冷やした」

 解剖後、十分ほどで敵の顕体は死亡した。艦体の機関が完全に停止するのと同時に、顕体もまた砂の城が崩れるように一瞬にして灰と化した。

「敵も、電たちと同じなのです」

 熊の横で大人しく控えていた電が、不意に言葉を挟む。

「艦体がダメージを受ければ、顕体も消耗していきます。特に機関部の損害は、直接身体の痛みや損傷となって返ってきます。艦と顕体は一心同体なのです」

「では、逆も真なりということでしょうか?」

 視線を落とし、渋谷が問うた。電はきょとんとした顔で彼を見上げている。

「もし、陸上にいるあなたが傷つけば、艦本体にもダメージが現れてしまう、ということですか?」

「は、はい。おそらくそうなると思います」

 少し頬を紅潮させ、電が答える。

「彼女たちは、そう予感している。まだ顕体が攻撃を受けたことはないがね」

 熊が補足した。その言葉で渋谷は全てを理解する。なるほど、この幼く健気な少女を傷つけて実験しようなど、畏れおおくて出来るはずもない。さしもの技研も、今上陛下自ら宣言した『神の産みたる艦』にメスを入れることはしないようだ。

「以上が、僕の知る敵艦の全てだ。まあ、全てと言っても鹵獲できたのが駆逐艦一隻だから、まだ情報量は少ないが。大陸に近づくと、さらに巨大な艦が待ち構えている。それこそ重巡・戦艦級の敵が。奴等は、何が何でも僕らを大陸に近づけたくないらしい」

「恩にきる」

 まだ見ぬ強大な敵を夢想しつつ、渋谷は言った。どんな些細なことでも敵の情報を知っておきたかった。軍令部は予定通り、南方への進出を決めた。相手がアメリカだろうが未知の敵だろうが、海洋が封鎖され資源不足に陥っている状況に変わりはない。豊かな資源への足がかりとして、すでにウェーク島攻略作戦が固まり、さらなる作戦研究が大急ぎで進められていた。

「いいんだ。きみも実戦を経験した数少ない士官のひとりだ。それに艦娘を惹きつける素質もある。ここから先は、これまでの常識が一切通用しない戦いになるだろう。新たな戦争の担い手になる人間は、知る権利と義務がある」

 誰よりも激戦を知る男の言葉は重かった。

 ウェーク島。初めての敵勢力への反攻作戦。自分はこれに参加することになる。渋谷は半ば確信していた。

敵は大陸封鎖に多大なる戦力を割いている。太平洋方面を哨戒した結果、意外なほど敵戦力は手薄であることが判明した。おそらく巨大な陸地ほど、封鎖が強いのだろう。反攻の初手として、小規模な諸島を選んだのは合理的だ。それに、艦娘部隊の教育も進んでいる。総じて器量の良い彼女たちは、先人が培ってきた戦いの知恵をぐんぐん吸収していく。きっと実戦では獅子奮迅の活躍をしてくれるに違いない。そう考え、少しでも心を落ちつけようとした。

「奴等は、いったいどこから来るんだろうな」

 機密区画を出る直前、もう一度敵の駆逐艦を眺めながら渋谷は言った。硫黄と焼けたタンパク質の混ざる臭いは、生涯忘れられないだろう。

「海の匂いがするのです」

 彼の疑問に答えたのは電だった。

「艦は陸で生まれて海で育ち、陸で生涯を閉じます。だから、艦は鉄と太陽と風の匂いがするのです。でも、あれは違う。本当に海の匂いだけなのです。それも、明るい海面じゃなくて、暗くて冷たい深海の匂い。太陽と空気から引き離され、海に囚われた匂い。淀んで、混ざって、ぐちゃぐちゃになってもがいている。そんな匂いがするのです」

 電は言った。敵を見つめる瞳に、幼く純真な悲しみが光る。渋谷は、少しだけ臓腑がひやりとした。彼女に、少なくとも恐怖の感情は見えない。鍛練を積んだ軍人である自分でさえ生理的な嫌悪や恐怖を隠せない相手に対し、この少女は憐憫の感情さえ抱いている。彼女は軍艦だ。心の底から、渋谷は理解した。

「なんて、少し生意気言っちゃいました。自分の出自さえはっきり分からないのに、敵さんのことなんて分かるはずないのです」

 照れたように笑う電。熊は、大きな掌で少女の頭をそっとなでる。電は、さらに笑みを深くした。

「近いうち、敵艦を総称する正式名称が決定される。電たち駆逐艦や、軽巡洋艦の娘と一緒に僕達で考えた。それが、そのまま採用されそうだ」

 熊は言った。

 

 深海棲艦。

 

 これが、人類と艦娘の敵となる者たちの名前となった。

 

 

 三人は研究用ドックを後にする。

「さて、暗いものばかり見てきたから、今度は僕らの希望を見に行こう」

 熊は言った。いつの間にか港のほうが騒がしくなっている。

「演習が終わったみたいなのです!」

 嬉しそうに電が駆けだす。つられて二人の少佐も彼女と並んで走り出した。倉庫の右後ろには、舞鶴鎮守府の開放式ドックが並んでいる。すでに鎮守府の整備員でごったがえしていた。彼ら全員が、日本海の海を見つめている。老いも若きも、明るい期待と希望で瞳を輝かせていた。とても最悪の激戦区だったとは思えない。目と鼻の先の海に、数多の命と艦船を飲まれた。それなのに、彼らは活き活きと、真っ黒な海を見据えている。

「艦隊帰投。御苦労だったな」

 熊少佐が言った。息を弾ませながら、遅れて到着した渋谷は頭をあげる。その光景を目の当たりにした瞬間、鎮守府に満ち満ちた活気の理由を知った。

 日本海の荒波をものともせず、九隻の船が進んでくる。死と破壊が充満していた水平線の向こう、魔の日本海から悠々と鎮守府に帰ってくる。軽巡洋艦が二隻、駆逐艦が七隻。この海に巣くう大型の深海棲艦にとっては、取るにたらない小舟だろう。しかし、海から締め出された脆弱な人間が、自由への希望を託す艦として、彼女らの雄姿はすべての人々に明日を生きる力を振りまいている。

 彼女たちの帰還を祝福するかのように、濁った雲が割れて光の柱が降り注ぐ。

 陽光をまとった艦船たちは、一糸乱れぬ動きで入港していく。海面を切る艦首から広がる波が、鎮守府の港に美しい黄金の波紋を描いた。整備員たちの敬礼を受けながら、艦娘たちが次々と上陸してくる。軽巡洋艦に率いられた駆逐艦たちは陸でも美しい列をなし、自らの提督の前に集結する。

「天龍麾下、第六駆逐隊、暁・響・雷。ただいま帰投しました!」

 眼帯をまとった軽巡洋艦が勇ましい敬礼を見せる。後ろの駆逐艦たちも彼女にならい、拙くも元気のよい敬礼をした。

「龍田麾下、第八駆逐隊、朝潮・大潮・満潮・荒潮。ただいま帰投しました」

 おっとりとした声音で敬礼する少女。天龍とは対照的に、年頃の乙女らしい優雅さを醸しだしている。彼女に続く駆逐艦たちは、ぴしりと敬礼を合わせてきた。

「演習御苦労。艦体を整備したのち、演習の検討を行う。一時間後、鎮守府統監部、第二会議室に集合。それまで各自休憩を取れ」

 熊が指示を出す。第六駆逐隊と称された少女たちが、電に群がり賑やかに喋り始めた。第八駆逐隊は、先頭にいた朝潮が熊に駆け寄り、次は演習を見にいらしてください、と熱っぽく主張する。そんな彼女を他のメンバーは温かく見守っていた。

「彼女たちが、僕の教育下にいる駆逐艦たちだ」

 熊は言った。その口調は、どこか誇らしげだった。

「なんだ、提督の友達か?」眼帯の少女、軽巡洋艦の天龍が、少し威嚇するような笑顔で渋谷にせまる。「俺の名は天龍。天龍型軽巡洋艦の一番艦だ。フフフ、怖いか?」

 素直に可愛いと言っていいものか。どう反応していいか分からず、渋谷は苦笑するしかなかった。

「あらぁ。なかなか良い男じゃない」

 天龍の隣にいた軽巡洋艦・龍田が間延びした声で反応する。女学生のように可憐な容姿に反し、その値踏みするような視線は、成熟したアダルティな仄暗さを孕んでいる。渋谷は思わず一歩引いていた。肉食獣に目をつけられた気分だった。

「天龍ちゃん、この殿方が気に入ったの?」

 龍田の言葉に、馬鹿ちげえよ、と顔を赤らめてわめく天龍。かわいい方と怖い方。天龍型軽巡洋艦のイメージが固まった。

「申し遅れました。渋谷礼輔海軍少佐です。熊少佐には、兵学校の頃から親しくさせてもらっていました。わが軍は、これより本格的に南方海域へと進出します。いずれは皆さんと作戦を共にすることもあるでしょう。どうかよろしくお願いします」

 少女たちに敬礼する渋谷。律儀に敬礼を返す朝潮。すると今度は渋谷が第六駆逐隊の面々に取り囲まれてしまった。明るく元気いっぱいの暁。大人しく知性的な響。頼りがいのある姉気質の雷。そして可愛い末っ子の電。軍隊ではありえない、制御不能な豊かな個性に圧倒されながらも、渋谷はどこか居心地の良さを感じていた。

「いよいよ戦闘か。腕が鳴るぜ!」

 牙をむいて笑う天龍。

「見こみあるわ、あの御方」その横で、龍田が意味深長な笑みを浮かべる。「もし艦娘を持つことがあれば、きっと素晴らしい提督になれる。艦娘にとって、これ以上ないくらい素晴らしい提督に」

 最後の言葉は、小さな呟きとなって潮風に消えた。

 

 舞鶴を去ってすぐ、渋谷に命令が下された。

 ウェーク島近海攻略部隊 支援部隊 第十八戦隊 軽巡「天龍」「龍田」 

艦娘部隊運用につき、支援部隊司令部への着任を命ず。

 渋谷礼輔の参戦が決まった。

 



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第三話 深海に反撃す

いよいよ本格的な戦争が始まります。

舞台はウェーク島。アニメ艦これでは、W島攻略作戦として描かれていた島です。




中部太平洋に進出するための第一歩。それがウェーク島攻略だった。
艦娘の力を借りての、初めての作戦。軍人、艦娘ともども緊張した面持ちで夜の海を見つめていた。


 

 

 大陸への接触は不可能。激戦の生き証人たる熊少佐の言葉により、帝国政府は満州国との連携を断念した。深海棲艦と初めて砲火を交えてから四カ月、鹿児島南西の離島をのぞき、船舶は一隻たりとも本土に到達することはなかった。世界の海は深海棲艦に制圧された。帝国の上層部だけではなく、一般民衆に至るまで、皆がその事実を痛感した。主に資源不足からくる生活の苦しさによって。

 軍令部、参謀本部ともに、戦争研究の抜本的見直しを迫られた。相手がアメリカならば、少なくとも同じ人間である以上、対策を立てることができる。しかし、今回の敵は人間の理屈が通じない宇宙人のごとき敵である。南方に進出し、帝国が生き永らえるだけの資源を確保する。戦略はそのままに、戦い方すなわち戦術を手探りで模索していくほかなかった。艦娘という天恵を得たとはいえ、彼女たちを動かす石油のリミットは三年。入念な準備などできるはずもない。戦いながら学ぶしかない。あまりに危険な戦争を帝国は強いられていた。

 帝国の存亡を賭けた第一戦、それがウェーク島の攻略だった。深海棲艦が手薄であると思われる諸島群を攻略し、マリアナ諸島、トラック諸島、マーシャル諸島の三方面に進出、泊地を建設する。それを足がかりにして、ニューギニア島、フィリピンといった資源地帯へ侵攻する作戦だ。陸地の規模が大きいほど、深海棲艦の勢力も強まるだろう。資源地帯を勝ち取るためには、迅速に戦力の拠点を設ける必要がある。

 ウェーク島攻撃部隊は、人類艦と艦娘の混成部隊となった。

 

 梶岡定道少将率いる第六水雷戦隊

  旗艦 軽巡「夕張」

  第三〇駆逐隊 「睦月」「如月」「弥生」「望月」

 

 丸茂邦則少将率いる第一八戦隊

  軽巡「天龍」「龍田」

 

 以上が艦娘部隊である。残る駆逐隊、潜水隊、陸軍の上陸部隊を運ぶ輸送船は人類艦を運用することとなった。第三〇駆逐隊は、横須賀に着任した白峰晴瀬中佐の教育下にあった。彼女たち四人は、白峰中佐に絶対の信頼を置いていた。そこで異例の措置として、白峰中佐を睦月に乗船させ、駆逐隊の司令官とした。どのような手段を使っても初戦は勝たねばならない。軍令部の意気込みが伝わってくる。

 まだ一介の少佐である自分が、司令部付将校として相談役を命じられたのも、艦娘への期待の表れだ。今回の作戦人事を見て、渋谷は思った。本土を発つ前、白峰中佐と顔を合わせる機会があった。欧米人に引けをとらない長身痩躯、すっきりと高い鼻筋。鋭い知性を秘めた切れ長の眼。めぐまれた容姿を持ちながら、性格は堅実で女性には一途。兵学校時代から、ただの一度もナンバーワンの座を譲り渡したことのない、海軍始まって以来の俊英とされる男だ。同期よりも一階級上をいくエリートは、今日も真剣な顔でひとり波止場から海を見つめていた。何もない水平線を。

トップエリートは、変わり者としての評判も髄一だった。

「今回の作戦、きみはどう思う?」

 隣に立ち、渋谷は問うた。答えが出ない問題は、まずこの男の意見を聞く。熊や塚本、福井も同じ、兵学校からの慣習だった。

「おそらく成功するだろう」言葉みじかに白峰は答えた。「艦娘の成長は早い。十分に敵と渡り合える練度になった。少なくとも第三〇駆逐隊に対して、僕はそう評価している」

 ゆらぎのない口調。指揮官として、誰よりも信頼のおける男だった。

「きみが『おそらく』という言葉を選んだからには、わずかながら不安要素があるのだろう?」

 目ざとく渋谷が追究する。

「我々は深海棲艦を知らない。軍令部が想定していない不確定要素が戦場に噴出してくる可能性もある」

「例えば、どんな脅威があると思うんだ?」

「まず、深海棲艦は揚陸してこないのか」

 さらりと白峰は言った。この時点で渋谷は目から鱗が落ちた気分だった。

「確かに彼女らが陸にあがった、という話は聞かない。戦闘における前例がないからだ。しかしながら、彼女らが人類と同じく知的生命体ならば、経験から学ぶこともできる。もし今回の作戦、深海棲艦が陸から、例えば砲台などを用いて攻撃してきたら、どうなる?」

「安定した陸からの敵支援射撃は、わが軍の脅威となる」

 渋谷の脳裏に恐ろしい光景が浮かんだ。集中する砲火、魚雷や火薬に引火し、爆沈する駆逐艦たち。なにより、幼い少女の断末魔の悲鳴。

「偵察部隊によると、島に砲台らしきものはなかった。だが、彼女らの技術力をもってすれば欺騙は容易であろうし、短期間で砲台を建設してくる可能性もある」

 あくまで可能性だが、と白峰は念を押した。未知との戦いで、あまりに細かい可能性を示唆すれば兵に不安が生まれる。生じた不安は、思わぬ形で完璧だった作戦に穴を開ける。そのことを理解し、白峰は問われない限り黙っていたのだろう。

「他には?」

「深海棲艦の戦力配置だ」

 白峰の答えに、いぶかしげな表情を浮かべる渋谷。深海棲艦の習性として、守勢主義が挙げられる。海洋の封鎖を破ろうとする者には容赦なき反撃を加えるが、それ以外で積極的に人類を攻撃してくることはない。熊少佐が身をもって証明してくれた。

「巨大な陸地ほど、防御が厚いということだろう。それに何の疑問が?」

「違う。僕は深海棲艦の艦種が気になるのだ」

 淡々と白峰は話を進める。

「現在確認されている艦種は、駆逐、軽巡、重巡、戦艦。基本的に砲雷撃戦を主軸に据えた編成だ。しかし、これではあまりに単調すぎる。彼女らの勢力を想定するなら、少なくとも我が軍と同規模、すなわち空母、潜水艦、輸送艦の存在も考慮すべきだ」

「いずれ、それらも出てくるかもしれない、と」

「否定できる根拠はない。ならば心に留めておく必要がある。敵は海面のみならず、海中、空中、三次元の領域から有機的に戦力を連携させながら攻撃してくるだろう。現在の艦隊決戦主義のドクトリンでは、彼女らが知性を持てば必ず敗れる」

 的確に先を見据えた意見だった。軍令部の作戦の根本を、真っ向から否定している。こんなことを上に具申すれば、階級章の星を外されかねない。それをさらりと口にするあたり、彼が俊英であり変わり者たる所以だった。

 まるで底なしの油田のように、掘れば掘るほど知的産物が湧き出てくる。渋谷にとって白峰との会話は何より有意義な時間だった。

「わかった。肝に銘じておくよ。俺も艦娘を持つ日がくるかもしれない。提督の頭が固ければ、沈むのは彼女たちだからな」

 ここで、ふと渋谷に疑問が浮かんだ。そろそろ横須賀の統監部に戻らねばならない時間だったが、柔軟な思考を持つべき将校として、これだけは尋ねておかねばならぬ気がした。

「気になったんだが、なぜきみは、深海棲艦のことを『彼女』と呼ぶんだ?」

 渋谷は尋ねた。ここで初めて白峰は、海から隣の男へと視線を戻した。切れ長の眼を少し見開き、僅かながら驚きを露わにしている。

「考えたこともなかった。古くから艦船は女性に例えられてきたというのも理由のひとつ。何より艦娘が全員女性であることも大きい。ならば敵の艦も女性ではないか。何となく、そう思っていたらしい」

 論理的に自らの思いを明らかにしつつ、白峰は言った。

 渋谷は彼に別れを告げる。戦場で会おう。彼は黙って頷き、ふたたび海に視線を戻した。

 

 五日後、ウェーク島攻略部隊が横須賀を出港した。艦娘の艦体に軍人が搭乗して行われる、初めての海戦。その幕開けであった。

 

 

 艦隊は、想定外の接敵に見舞われることなく順調に航路を進んだ。

 午前零時。第六水雷戦隊は、ウェーク島を発見した。意外なことに敵艦隊の姿はなく、上陸するなら最大のチャンスと思われた。しかしながら島の沿岸部は波が荒く、東北東十五メートルの風とあいまって、波の高さは二メートルに達した。輸送船「金剛丸」から大発を下ろそうにも、その作業すら困難を極めた。しかも敵を警戒して無灯火での作業である。梶岡少将は作業中止を命じた。午前五時、夜明けとともに上陸する計画に変更した。空が白み始めるのと同時に、岬まで四〇〇〇メートルに接近する。まだ波は荒かったが、上陸の準備を進めた。

 そのとたん、突如として島が火を噴いた。旗艦・夕張の左舷付近に着弾し、巨大な水柱があがる。司令部は一挙に恐慌状態となった。まさか、島に取り残されていた米軍が生き残っていたのだろうか。しかし、それが間違いであることはすぐに明らかとなった。

 V字の形をしたウェーク島、その両翼にくっついている、ピール島とウィルクス島。砲火は正面のウィルクス島から噴きあがっていた。島の影から、どんどん露わになっていく敵の艦影。

 深海棲艦は島の背後に隠れ、夜が明けるのを待っていたのだ。

 駆逐四、軽巡二。敵は一列になりつつ、もっとも島に近づいていた駆逐艦・疾雨に集中砲火を浴びせた。艦橋と艦腹に命中弾。凄まじい爆音が上がると同時に、艦体は黒煙に包まれた。

 

 過度ニ近接セズ、速ヤカニ避退 避退方向二一〇度

 

 梶岡少将はすぐに命令した。まずは距離をとり、艦列を立て直してから反撃せねばならない。

「煙幕張ります!」

 顕体である夕張が叫ぶ。それに合わせ、第三〇駆逐隊、輸送船の二隻が煙幕を張る。輸送船の二隻は避退行動をとった。しかし、第三〇駆逐隊と天龍・龍田の支援艦隊は、もはや敵の砲弾から逃れることはできない。敵の動きはバラバラだったが、単縦陣に近い様相を呈している。

「このままじゃ丁字不利になっちまう。反航戦を挑もうぜ!」

 狼狽する司令部の面々に天龍が叫んだ。自身に乗り込んだ人間に惨めな敗走など許さない。彼女の瞳は戦闘への意欲で満ちていた。支援部隊指揮官・丸茂少将は天龍の意見を受け入れた。

「反航戦! 砲雷撃用意!」

『了解、天龍ちゃん。砲雷撃戦、用意』

 天龍が叫ぶ。後続する龍田が応えた。

『三十駆、了解! 砲雷撃戦用意!』

 艦娘だけが使える通信装置を通して、今度は睦月の声が響く。

 彼我の距離は六〇〇〇メートル。いつ、誰に、砲弾あるいは魚雷が命中してもおかしくない。

「龍田、いけるか?」

 彼女の艦体に乗り込んでいた渋谷が問う。龍田は頷く。少し顔色が悪かった。いつも彼女がまとっている不遜なほどの余裕が吹き飛んでいた。

「初陣ですもの、わたしだって緊張する。でも一番不安なのは自分じゃなくて、天龍ちゃんのこと。大丈夫よね?」

 縋るような眼をしていた。そこにいるのは恐ろしい軍艦の化身ではなく、家族を喪うことに怯える小さな少女だった。不意に渋谷は、目の前の少女を抱きしめたい衝動にかられた。龍田に乗り込んだ他の参謀たちは、情報収集と連絡に追われるか、遠巻きに彼女を見ているだけだった。神の御遣いと解釈された、生ける軍艦に畏れを抱いているようだった。

 ならばこそ、彼女の心を戦場で孤立させるわけにはいかない。

「もちろんだ。いざとなったら俺が泳いででも彼女を助け出す」

 無理に笑顔をつくる。動揺しているのは自分も同じだった。何の根拠もない気休め。だが、必死な彼の顔を見て龍田は相好を崩した。

「ありがとう。頑張るわ!」

『その意気だ!』突然、通信機から勇ましい声が響く。『俺は沈まねえ。戦い続けるんだ。龍田と一緒にな!』

 天龍の叫びと同時に、敵味方双方の艦が火を噴いた。

 

 敵の砲弾が、わずか四〇メートルの距離に降り注ぐなか、先陣を切る駆逐艦・睦月に乗船している白峰晴瀬中佐は冷静だった。すでに支援部隊の雷撃によって、敵軽巡一隻が大破炎上中。轟沈も時間の問題だ。それに対し、わが軍の被害は非艦娘船の駆逐艦が一隻大破炎上。一隻中破。輸送船が小破。旗艦・夕張も小破したが、航行に影響なし。避退行動をとり、安全圏に抜けつつある。

 これからの戦いは、艦娘が主体となる。そう白峰は確信していた。黒煙に包まれている駆逐艦・疾雨に乗船する三〇〇人からの将兵は助からないだろうが、とくに痛痒は感じなかった。人類製の艦が、敵駆逐艦を一隻でも沈めてくれたら御の字。その程度に考えていた。

「戦力は我が軍が優勢。被害を最小限に抑えつつ、右回頭。丁字有利にもちこみ、敵艦尾より集中砲火」

「了解しました!」

 次なる展望を伝えると、顕体の睦月はぴしりと敬礼で応える。彼女を旗艦とする第三十駆逐隊は、白峰に直接教育を受けた部隊だった。自らが『提督』と仰ぎ見る男への信頼は絶大であり、その練度は五つの鎮守府にまたがる駆逐隊の中でも頭ひとつ抜けている。白峰が先陣で指揮をとる今回の戦い、彼女らに不安はほとんど無かった。

『こちら如月。敵駆逐艦に魚雷命中』

 ゆったりとした、しかし喜びを隠しきれない声で如月が報告する。

 やはり練度は圧倒的に我が軍が上だ。双眼鏡に両目を押しあて、絶えず戦況を見はりながら白峰は思った。機動性で互角ならば、あとは練度の問題となる。これまで世界中の海軍が洗練してきた数々の戦術を教え、それに見合う動きを体得させる。それができれば、攻撃一辺倒、しかも現時点では連携らしき連携の取れない深海棲艦など相手にならない。

 初手こそ不意をつかれたが、この戦いは確実に勝利する。

 だが全ての可能性を網羅しようとする白峰の脳細胞は、ひとつ疑問に思うことがあった。駆逐四、軽巡二という敵の編成である。対潜水艦のハンターキラーかとも考えたが、まだ我が軍は本格的に潜水艦を運用していない。どの可能性を考えても、なんとも中途半端な編成だ。

 考えすぎだろうか。否、もしかしたら自分がこれまでに学んできた海戦戦術に当てはまらないだけで、未知なる意味があるのかもしれない。

 白峰は考える。無知であることが何より危険であることを知っていたからだ。しかし、教えられていないことを無から思いつくのは困難だ。ニュートンが発見するまで人類が「重力」の存在に気づかなかったように、当たり前のことであるほど「知ら」なければ自力で思いつくことはできない。

 無限に枝分かれする可能性の世界を目で追いながら、白峰はひとつの答えに辿りつく。

 念には念を。

「第三〇駆、総員傾注」通信機に向かい、命令を放つ。「対空戦闘準備。対空火器を、すぐ使用できるようにしておけ」

 この指示は、麾下の艦娘たちをわずかに混乱させた。敵は軽巡と駆逐艦である。なぜ対空戦闘の準備をするのか分からなかった。しかし行き届いた規律に加え、提督への信頼という強固すぎるニカワで繋がれた命令系統は、すぐに部下たちを動かした。

「もうすぐ戦闘海域を抜ける。回頭しつつ、空にも気を配ってくれ」

 自身も双眼鏡にかじりつき、白峰は言った。

 状況を確認する。天龍が小破したものの、ほぼ被害はない。敵は軽巡一が轟沈。駆逐一が大破。駆逐一が小破。このまま丁字戦に持ち込めば、楽に勝てる。白峰は丁字戦にうつる旨を後続の支援部隊に打電した。

 針穴に糸を通すかのごとく導きだした可能性が現実となったのは、その直後だった。

 深海棲艦は彼の予想通りに動いた。

「……敵機視認! 右二時方向! うそ、なんでこんなところに?」

 狼狽した睦月の声。白峰もすでに認識していた。ウィルクス島方面から、まごうことなき敵航空機が飛来している。その数、四。おそらく敵の先遣隊だ。形からして人類製と同じくレシプロタイプの艦載機だ。曙光に煌めく銀翼が、まっすぐこちらに死を運んでくる。

「島影に注意しろ。おそらく軽空母、ないし正規空母が隠れているはずだ」

 この事態を受けても白峰は冷静だった。貧弱ながら、麾下の駆逐艦たちには対空兵装の準備をさせてある。問題は、まだ見ぬ敵空母の動きだった。我が軍の力を推し量るために、あえて護衛の艦隊を前に出していたとするなら、攻撃してくる航空機がたった四機とは不自然だ。

 ここで白峰は視線を敵艦列にうつす。この一瞬で敵は動きをとめ、なんとそのまま後進してきている。まるで自分たちの本来の役目を思い出したかのように、空母がいるとおぼしき地点まで戻ろうとしていた。

 やはり、あの編成は空母を護衛するためのものだった。まるで連携の取れていない敵の動きに、すっかり騙されていた。

「敵空母、視認!」

 睦月が叫ぶ。再び島影を注視する。ついに隠れていた敵主力が姿を現した。全長二五〇メートルはあろうかという、正規空母クラスの深海棲艦だ。

「空母がいるのに平気で砲撃戦を挑んでくるなんて……」

 呆然と呟く睦月。それもそのはず、深海棲艦の行動は、海戦戦術の常識を完全に無視していた。

「慌てることはない。奇をてらう行動が威力を発揮するのは、最初の一撃だけだ。あとは脆弱な奇形らしく総崩れになる。必ず敵に穴はある」

 白峰は通信にて艦娘たちに告げる。航空機が攻めてくることは、今回の作戦では想定されていない。対空火器は貧弱だ。空母一隻が戦況を引っくり返してしまった。すでに支援部隊は恐慌状態に陥っていた。司令部は何も打開策を思いつかず、ひらすら意味のない電信を送ってくる。

 この状況こそ、一秒の躊躇いが一隻の船を殺す。白峰の決断は早かった。

「第三〇駆、複縦陣を取れ。敵艦列最後尾に突撃する」

 白峰の命令に、即座に反応する艦娘たち。後続の天龍、龍田にも複縦陣のしんがりを務めるよう打電する。前線にいる中佐の指示に、司令部のお偉方が従うかは分からない。しかし最悪、天龍と龍田を欠いても作戦を成功させるつもりでいた。

 艦隊は速やかに二列をつくる。そのまま最大船速にて敵のふところに突っ込んでいく。艦体は、艦娘たちの意識によって動いている。スピードに最大の意識を注げば、カタログスペック以上の速度を出せるが、そのぶん火器管制が疎かになる。艦の機能は皆、トレードオフの関係にあった。その艦娘独特の習性を肌で感じていた白峰は、速度を重視する選択をした。

 敵艦列の最後尾を抜けていく。

「敵機直上!」

 睦月が叫ぶ。ここが生と死の境目だ。

「回避行動! 左!」

 白峰の指示と同時に、一糸乱れず動く駆逐艦たち。後続する天龍、龍田も遅れることはなかった。睦月の右舷すれすれに傷痍爆弾が着弾し、凄まじい水飛沫をあげる。空という無敵の領域から、一方的に死を落下させる航空機。その直後、睦月に後続していた如月の悲鳴が轟く。艦首から炎が噴き上がっている。

『如月、被弾しました。船速低下。艦列を離れます!』

 苦しそうな声とは裏腹に、落ち着いた判断だった。後続の邪魔にならないよう、大きく左に逸れて落伍していく如月。幸い、敵機の第一陣は攻撃を終えて飛び去っていった。

 もし敵の第二陣が来れば、速度の低下した如月は格好の的になる。そうなれば轟沈は免れない。

 喪う前に決着をつける。

『敵の砲撃は、俺らがひきつける。行ってくれ!』

 天龍から通信が入る。睦月は、ただ一言了解と返した。覚悟に燃える瞳は、ただ前だけを見ていた。決して後ろを振り向くことはなかった。

直後、天龍の苦悶に満ちた声がノイズ混じりに響いた。敵の弾を受けたようだ。僚艦の龍田の騒ぐ声も聞こえる。小破といったところか。ならば問題はない。白峰は全てのノイズを無視する。

 敵空母との距離を詰めていく。双眼鏡越しだが飛行甲板の上が視認できるまでに近づいた。

「敵艦顕体、発見!」

 睦月が指で直接指し示す。

それは意外にもヒトの姿をしていた。飛行甲板の先端、艦の支配者であるかのごとく、異形の者が不遜に屹立している。すらりとした身体を白と黒のスーツで覆っている。露出した肌は死人のように青白い。この世のものとは思えない、細く美しい銀髪。頭部に張り付いている、帽子のような物体。

戦場を忘れ、その一時、白峰は彼女に魅入っていた。まるで彼の視線に気づいたかのように、黄金色に輝く双眸が、双眼鏡越しに白峰を射抜いた。美しい貌だ。彼女が人類を滅ぼそうとする深海棲艦であるなど信じられなかった。

 逡巡したのは、ほんの一瞬。すぐに白峰の思考は軍人のそれに戻る。美しい顕体の向こう側、飛行甲板の状況を確認する。やはり幾つもの航空機が待機している。今にもこちらに向かって飛んできそうだ。しかし、第一陣が帰還しても、発艦する気配がない。プロペラは回っているが、空母自体の進行方向がぶれており、速度も安定しない。

「見つけたぞ、穴を」

 わずか鼠の穴ひとつ。たったそれだけで巨大なダムが決壊する。戦争も同じだ。伝令ミス、作戦の誤認、たった一発の誤射。それだけで勝者と敗者が逆転する。

「敵艦との距離、三〇〇〇!」

 限界まで接近する。敵空母は、申し訳程度に備えられた対艦砲で反撃を試みている。だが、そう簡単に当たるはずもない。

「右回頭、単縦陣!」

 白峰の指示が飛ぶ。高い練度の艦娘たちは、見事に複縦陣から単縦陣へと移行する。

 もはや、結果を見るまでもない。

「砲雷撃、始め!」

 裂帛の一声とともに、駆逐艦たちがありたっけの火力を敵にぶつける。白峰は、ただ飛行甲板を見つめていた。砲弾の直撃を受け、待機していた艦載機が吹き飛ぶ。爆発する機体も抉れる飛行甲板も無視し、彼はひたすら顕体を凝視し続けた。吹き飛んだ翼が頭部に直撃し、帽子状の異物がもぎ取られる。しかし彼女はわずかによろめいただけで、その両足はしっかりと甲板を踏みしめている。

 彫刻のようだった無表情な貌が、少しずつ苦痛に歪む。

 終わりだ。白峰は呟く。そのとき偶然か否か、ふたたび彼女がこちらを見た。双眼鏡越しに射抜かれる。空母の化身が、黄金の瞳を全開にする。ほんの数秒、しかし白峰には時が止まって思えた。やはり何の感情も読みとれない。しかし、なぜか白峰は無意識のうちに双眼鏡から目をそらしていた。ふたたびレンズを覗きこんだとき、すでに彼女の姿はなく、甲板から吹きあがる黒煙が、この戦いの結末を物語っていた。

「敵空母、離脱していきます」

 目を見張りながら睦月が言った。四十ノットはあろうかという速度で空母が逃げ去っていく。あの速度に加え、波の荒い海域だ。駆逐艦では追いつけない。それに、あれだけ砲弾と魚雷を受けても機関は健在。よほど頑丈な艦体なのだろう。白峰は追撃を断念した。

 これまで会敵すれば攻めるばかりだった深海棲艦が、戦術的撤退を選んだ。周りを見れば、生き残った敵艦は空母を追うように撤退していく。深海棲艦の新たな一面を見た気がした。

「提督、教えてください」

 気づけば、隣に睦月がいた。先ほど如月から無事であるとの通信が入り、表情から強張りが抜けていた。

「どうして、敵機の第二陣攻撃が無いと分かったんですか?」

「敵は、明らかに艦隊の運営に疎いところがあった。陣形らしきものは構築していたが、配置はバラバラ、速度や回頭のタイミングも一定ではない。そういった戦闘の素人が、複雑極まる艦載機の運用など出来るはずがない。そう判断した」

 白峰は簡潔に説明する。深海棲艦が人類製のものと、駆動原理を同じくする機体をつかっているのなら、それを運用する手間暇も人類と等しくかかる。軍艦と同じで、艦載機もエンジンを入れたらすぐに使用できるわけではない。必ず暖気が必要となる。それに加え、艦戦、艦攻、艦爆など、艦種によって離陸に必要な滑走距離も異なる。それを考慮して、せまい飛行甲板の上に、それぞれの艦種が正しい滑走距離を取れるよう、飛行機を整然と並べるのだ。しかも発艦にも、艦載機と空母の密接な連携が不可欠だ。通常の飛行場と比べて空母の甲板は極めて短い。ゆえに、発艦には自然の向かい風と、その風に向かって進んでいく空母の速度との合成風力が必要となる。風の力を借りるからこそ、飛行場よりも遥かに短い飛距離で艦載機は発艦できるのである。風を読み、適切な速度を出しつつ、艦の揺れも意識しつつ正しい方向に空母を進める。風は常に変化するので、その都度空母も適切な動きをせねばならない。それと同時に、艦載機の暖気、ベストタイミングでの離陸を行う。深海棲艦も、艦の運用を顕体が行っているとすれば、訓練を受けていない彼女がそれら全てを迅速にやり遂げるのは、まず不可能である。

 あの正規空母は複雑な風を掴みきれなかった。だから第二次攻撃の発艦が遅れた。それが勝敗の決め手となった。

 睦月は尊敬の面持ちで白峰を見つめていた。

「ともあれ、我々は勝った。皆、胸を張れ」

 提督の言葉で、艦娘たちは喜びの声をあげる。

 

龍田艦内では、白峰の戦いを見守っていた渋谷が安堵の息を吐いた。

「ありがとう。渋谷少佐」

 その手を龍田が握る。天龍が被弾したとき、恐慌に陥りかけた彼女を激励したのも渋谷だった。温かい手だ。海の上で、光と空気のなかで生きる者の手だ。渋谷は思った。

 

 ウェーク島攻略。人類はじめての深海棲艦への反攻作戦は、成功という形で幕を閉じた。

 



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第四話 急襲

この物語は、提督たちがいないと成り立ちません。五人の若い提督たちが織りなす戦争と艦娘たちの物語をお楽しみください。

※オリジナル要素注意です。

 艦娘の艦体における火器管制、操舵、索敵について独自の解釈があります。

※轟沈描写もあります。




見事、ウェーク島を攻略した艦娘部隊。しかし、彼女たちを率いて奮闘した白峰中佐は、この勝利に慢心してはいなかった。彼の目は、いつも正しい道を探している。たとえ周囲の人間と異なる道だったとしても。


 

 ウェーク島での被害は、以下の通りとなった。

 

 艦娘部隊

 軽巡洋艦「夕張」小破

     「天龍」小破

 駆逐艦 「如月」中破

 

 帝国海軍

 駆逐艦 「疾雨」轟沈

     「追風」大破

 輸送艦 「金剛丸」小破

 

 

 戦死 二四六

 戦傷 四八

 行方不明 三七

 

 轟沈した駆逐艦・疾雨には、ただの一人も生存者はいなかった。夕張は戦場を駆け巡り、海に投げ出された兵たちを救助しようとした。

 太平洋諸島における敵勢力は手薄。それが軍令部の見通しだった。しかし実際には敵の奇襲、航空戦力の登場、想定外の脅威がつぎつぎと出現した。特に敵空母による艦載機の運用は、初めて深海棲艦と戦ったとき以来の、第二次深海棲艦ショックとして軍上層部に動揺を与えた。にも関わらず、この程度の被害で抑えることができたのは、戦場で花開いた若き傑物の功績に他ならない。通常ならば一度撤退し、応援を待たねばならないほどの不利な状況を見事に引っくり返し、勝利へと導いた白峰中佐の評価は留まるところを知らない。近々叙勲されるとの噂も立った。

 だが当の白峰は、自身の活躍も戦勝の歓喜もどこ吹く風。まるで意に介さなかった。彼がひとつ喜んでいたことは、この戦いで艦娘部隊の力が、有無を言わさぬ形で証明されたことだった。これからはますます艦娘の教育、運用に重点が置かれるだろう。帝国の生き永らえる道があるとすれば、それは彼女たちと共に切り開くべき道なのだ。

 

 一九四二年四月から九月にかけて、渋谷礼輔は艦娘とともに南太平洋を転戦した。

 案の定、敵の編成に軽空母などの航空戦力が加わった。重巡クラスの大型艦も出現し始め、マーシャル諸島近海では、戦艦クラスの敵と砲火を交えた。しかし、やはり敵の練度は低く、戦術らしき戦術もない。航空支援ならば人類製の空母でも十分役に立った。

 ウェーク島で初めて交戦した正規空母クラスを空母ヲ級、新たに出くわした敵を重巡リ級、戦艦ル級、軽母ヌ級と呼称した。だが、白峰中佐の証言にあった大型の空母、ヲ級旗艦クラスはそれ以降、目撃されていない。敵の研究も進み、敵艦種のなかでも旗艦クラスは装甲が厚く、火砲の威力が高いことも分かった。

学ぶ人類と、学ばない深海棲艦。帝国海軍は快進撃を続けた。予定どおり、東からマリアナ諸島、トラック諸島、マーシャル諸島を制圧。それぞれタラワ、トラック環礁、パラオに泊地が建設された。特にパラオ泊地は、フィリピン侵攻への重要な足がかりとなった。

 さらに人類に味方したのは、つぎつぎと顕現する艦娘たちだった。深海棲艦の大型化に対抗するかのように、重巡、戦艦、空母たちが顕現した。彼女たちは決まって渋谷少佐の航海路上か、あるいは五人の提督が着任している鎮守府近海に現れた。軍令部は、とくに戦艦の着任を喜んだ。資源地帯を有する陸地には、さらに強大な敵が待ち構えている。艦隊決戦には彼女たちの力が不可欠と考えたからだ。

 ただし、例外も存在した。まったく脈絡のない海域に出現する艦娘もいた。

 正規空母・瑞鶴は、マリアナ沖に忽然と姿を現した。駆逐艦・夕立は、ソロモン海で顕現し、敵を避けながら自力でタラワまで辿りついたという。そして軍令部が諸手を挙げて歓迎した、超弩級戦艦・大和は、坊ノ沖岬にて停泊しているところを佐世保の演習艦隊が発見した。大和の妹らしい戦艦・武蔵は自ら悠然と佐世保に乗り込んできたため、大和の顕現はイレギュラーと言えた。

 初期艦の証言によると、ほぼ全ての艦娘が揃いつつあるらしい。思わぬ短期間で海軍の戦力が増強された。軍令部は艦娘ひとりひとりの個性を把握しつつ、彼女たちの性能を最大限に引き出すべく、さまざまな訓練、教育のローテーションを考えねばならない。基本的に重巡以上の「大人の」艦は軍令部の指導のもと戦略的に運用されることになっていた。それに対し、「幼い」駆逐艦は、従来の海軍的思考をもった高級将校を嫌う傾向にあり、仲間との連携を好んだ。彼女たち「軍艦の化身」の心情に配慮し、駆逐隊単位で、適切な「提督」をあてがってやる必要があり、軍令部の老人たちは大いに頭を悩ませた。

 ともあれ一部の艦娘をのぞき、彼女たちは最初から軍人としての心得をある程度持っていた。現場における指揮官との衝突こそあれ、それが戦闘に致命的な悪影響を及ぼすことはなかった。

 強力な艦娘機動部隊によって、ビスマルク海海戦に勝利、ついに最前線たるニューブリテン島のラバウルに泊地を建設することに成功した。今、帝国が喉から手が出るほど欲している石油資源を有するニューギニア島は、もう目と鼻の先である。ただ、この巨大な島を深海棲艦が放っておくはずもない。これまでとはケタ違いの巨大な戦いが予想された。

 

 渋谷少佐は、ラバウルに泊地が建設された一九四二年九月、いったん本土に戻れとの命令を受けた。帝国海軍史上、未曾有の艦隊決戦。石油を賭けた戦いに何としても勝利するため、高級将校から艦娘運用に携わる中級将校まで、すべての意見を交えた作戦立案が進んでいた。

 久々に本土の地を踏んだ時、渋谷は国の空気が変わっていることに気づいた。人々の表情が明るい。ウェーク島からラバウルに至るまでの連戦連勝は臣民にも伝えられ、海軍は彼らの期待を一身に集めていた。物資は貧しくとも心には希望が燃えていた。その灯火を絶やさぬように、我々は南方から燃料を勝ち取らねばならない。渋谷は改めて気持ちを引き締める。

 軍令部にて、前線指揮官としての艦娘への所感を述べ、管理・運用方法を提言したのち、彼は横須賀に立ち寄った。各鎮守府に着任していた同期たちが一堂に会しているらしい。福井や塚本、幾田とは、もう一年ちかく顔を合わせていない。少し弾んだ心持で、待ち合わせ場所の中華料理屋に入る。奥の広間に通された彼は、かつての友人たちに再会した。

 円卓に、三人の男たちが腰掛けている。渋谷の姿を見たとたん、彼らは破顔した。

「よう渋谷、久しぶりだな」

 鋭い目つきに眼鏡をかぶせた男が、隣に座れと促す。大湊警備府に着任し、主に北方海域の防衛を担当している塚本信吾少佐だ。

「前線勤務、お疲れ様。本土にいるときくらい美味い物を食べるといい」

 物静かな声で福井靖少佐が言った。彼は呉鎮守府の提督だった。学生の頃から職人肌な男で、とくに潜水艦を偏愛していた。念願かなって、現在は潜水艦娘の教育を担当している。

「幾田さんと白峰は?」

 二人の姿がないことに気づき、尋ねる渋谷。

「幾田は遅れてくるそうだ。白峰は急用ができたらしい。今、あいつほど忙しい士官はいない」

 舞鶴鎮守府の熊勇次郎少佐が答える。先に始めてしまおう、と塚本少佐が言った。まずテーブルに置かれたのは透明な日本酒だった。渋谷の生還を祝って乾杯。命の水を、ぐっとあおる渋谷。アルコールが喉にしみた。

「こんなときくらいビールが飲みたいが、なにせ原料の麦が入ってこない。軍隊が米を喰い潰すもんだから、日本酒も価格高騰だ。そのせいで、どこも酒が薄い」

「飲めるだけいいじゃないか。本土に帰ってきて最初に思ったのが、『水が美味い』だぜ」

 塚本の愚痴に渋谷が返し、皆が笑う。

 料理が運ばれてくる前から、四人の話題はもっぱら艦娘のことに集中した。各鎮守府の提督たちは、ローテーションで異動してくる艦娘たちの教育に加え、それぞれ直轄の駆逐隊を率いている。

 塚本少佐は、第一六駆逐隊「初風」「雪風」「天津風」「時津風」

       第一七駆逐隊「浦風」「磯風」「浜風」「谷風」

 福井少佐は、潜水艦娘部隊「伊168」「伊19」「伊58」「伊8」「伊401」

 熊少佐は、 第六駆逐隊 「暁」「響」「雷」「電」

       第八駆逐隊 「朝潮」「大潮」「満潮」「荒潮」

 さらに、熊は戦艦「伊勢」「日向」も指導している。日本海防衛のために増強された戦力だった。

「うちの駆逐隊は、お転婆というか個性的な子ばかりで大変なんだよ。熊のとこなんか、大人しそうでいいよな」

 塚本少佐が言った。彼が率いる陽炎型駆逐艦、その後期タイプと呼ばれる娘たちは、とにかく個性が激しいと軍部内でも有名だった。

「舞鶴には球磨型の姉妹が演習に来ていた。その長女に、『おそろいだクマ』とずいぶん懐かれたものだ」

 熊少佐の言葉に、酒の回った席はどっと盛り上がる。料理をつまみながら、艦娘の話題を酒の肴にできるとは、ずいぶん彼女たちも人間に親しんだのだ、と渋谷は思った。あるいは「提督」として適性の高い、彼らならではの現象かもしれないが。

「トラック諸島からマーシャル諸島まで転々とする間、たくさんの艦娘に乗艦させてもらった」渋谷も思い出話に花を咲かせる。「軽巡龍田、重巡利根、重巡那智、それに駆逐艦の夕立。皆、良い子ばかりだ。トラックに着任してくれた工作艦の明石には世話になった。艦娘の艦体は不明なところが多くて、熟練の整備員でも、よほど信頼が厚くなければ触ろうとしない。明石は一番の暗箱である機関部も的確に診てくれる」

「おまえも艦娘の魅力に気づいたな?」

 隣で塚本がニヤついている。だいぶ酒が回っていた。

「秘書艦に出会ってすぐ、俺は思ったね。こいつは、艦娘は必ず、戦場の花形になる。俺の予感にハズレはない」

 塚本は得意げに言った。

「秘書艦?」

「俺たちが陛下から賜った、最初の五隻のことだ。鎮守府に着任してすぐのころから提督業をいろいろサポートしてもらった。いわば特別な娘だ。愛情と畏敬をこめて、俺たちはそう呼んでいる」

 福井が答える。そこで、ふと渋谷は疑問に思った。

「きみたちの秘書艦は、どこに?」

 渋谷が尋ねると、福井は黙って広間の一角を指さす。少し離れた円卓を囲み、四人の少女たちが楽しそうに喋っていた。この店の客は大部分が横須賀軍港の関係者と家族だったが、一応は目立たないように、皆上品な私服に着替えている。何を話しているかは、他の客たちの歓談に掻き消されて聞きとれない。

「彼女たちを同席させて生々しい話はできない。だから席を別にした。それに彼女たちも久々の再会だ。そっとしておいてやろう」

 少し微笑みながら福井が言った。この優しさが軍隊では異端とされる、艦娘を惹きつける提督の素質なのだろう。

「ひとり足りないな」

 横目に観察しながら渋谷が言った。命からがら逃げ帰ったあの日、佐世保で目に焼き付けた彼女たちの姿は忘れない。電、五月雨、漣、そして吹雪。たしか吹雪は白峰の秘書だったはず。

「白峰が許可したんだ。仲間はずれにしたら可哀そうだからな」

 塚本が言った。となると、足りないのは叢雲か。初期艦五隻のなかでも特に目を引くのが彼女だった。年相応の可憐さよりも、すでに女としての美しさが片鱗を覗かせていた。

 ちょうどそのとき、店員が新たな客を案内してきた。肩ほどもある長く艶やかな黒髪。育ちのよさが窺える澄んだ眼差し。形のよい小顔。それでいて妙齢の色気を香らせている。

 幾田サヲトメ中佐。珍しい女性士官だ。兵学校での成績こそ男性に押されて奮わなかったが、卒業後に実務・戦術面での優秀さを見せつけ、海軍大学では第二位の成績まで上り詰めた。白峰と同じく、一階級先をいくエリートだ。その出自は明治維新で功をあげ叙勲された元長州藩士・幾田男爵家の血を引く令嬢。男性はもとより女性士官からの支持も厚く、政財界にも顔がきく、いわば高嶺の花だった。

 その隣には、彼女に似て美しい娘が控えている。秘書艦の叢雲であることはすぐに分かった。他の駆逐艦たちにはない、大人びた鋭い視線が印象的だった。いつものセーラー服ではなく、白を基調とした清楚なワンピースを纏っている。

「おお幾田、座れ座れ」

 令嬢だろうが遠慮なしに塚本が手招きする。叢雲は悠前と彼女の横に佇んでいたが、その視線は、ちらちらと奥のテーブルに向かっている。幾田は秘書艦に一言告げる。すると叢雲は少し早足で仲間たちの待つテーブルへ歩いて行った。

 嬉しそうな秘書艦を母親のような眼差しで見送り、幾田は席につく。

 渋谷は彼女が少し苦手だった。行動によって他者を従わせる白峰と違い、彼女は黙って屹立しているだけで群衆を惹きつけるような、生来のカリスマ性があった。あくまで軍人である同期としては、そこに人間性の壁を感じてしまうのだ。

「まずは、その左手のものについて、ご説明願おうか」

 目ざとく塚本が言った。彼女の白く長い左手薬指。そこには銀のリングが嵌っていた。

「馬鹿、野暮なこと聞くもんじゃない。ここは、おめでとうとだけ言っておけ」

 福井がたしなめる。難攻不落、高嶺の花。数々の異名を誇った彼女を攻め落とせる男がいるとすれば、ひとりしか思い当たらない。そして彼と彼女の関係は、すでに多くの者が知るところとなっていた。皆が祝福を述べる。戦争中だからこそ、小さな希望の種が大切なのだ。同期たちの想いは一つだった。

「ありがとう。ここまで来るのは大変だったわ」

 そっと指輪を撫で、幾田は言った。彼女の生まれを考えれば当然だった。相手の白峰は、海軍きっての天才で将来の出世頭。しかし生まれは親も親戚もいない孤児院出身だった。血縁によって家の基盤を強固にすることが女子に科される使命だと考える貴族社会は、この婚約に猛反対だった。彼女の両親は、そもそも軍人になること自体反対していた。ゆくゆくは貴族の子弟に娘を嫁がせ、さっさと退役させるつもりだったらしい。

「湿っぽい話はおしまい。今まで通り好きなようにするから、祝福も慰めもいらないわ。さて、いろいろ話を聞かせて貰おうかしら」

 幾田は渋谷を見据えて笑う。彼女が知りたがったのは、初戦のウェーク島についてだった。それなら武勲をあげた白峰に直接聞けばよいだろう、と渋谷は主張する。だが白峰は戦闘終了後、中破した如月を本土に戻す任務についたため、その後の上陸作戦には関わっていないらしかった。そこで渋谷に御鉢が回ってきた。

「陸軍の一個中隊が、まず先遣隊として上陸した。取り残されている米兵を警戒してのことだ」

渋谷は当時の状況を語る。米軍との戦闘も覚悟していたが、それは杞憂に終わった。島には誰もいなかったのだ。生活施設や建物だけを残し、島から人の痕跡が消えていた。アメリカは早々にフィリピンにでも撤退したのだろう。陸軍はそう結論づけたが、不審感は拭えなかった。

「米軍の行方について、あなたの所感は?」

「対艦火器を警戒して島の外周も調べたが、船は一隻も無かった。おそらく深海棲艦の脅威を受けて脱出したか、あるいは撃沈されたか。ただ砲台が使用された形跡はあった。米軍も深海棲艦と戦った可能性は大きい」

「そういえば、夕張が救命活動を行ったが、誰も救えなかったそうだな」

 福井が言った。彼の言う通り、夕張の懸命な捜索にも関わらず、行方不明者はおろか死体すら発見できなかった。

「捕虜にされてるのかもな」

 塚本が言った。彼の目は真剣だった。五人の軍人たちは、その知的好奇心が赴くままに敵について、艦娘について議論を進めた。秘書艦たちのテーブルが料理を食べ終えて穏やかな寛ぎに浸っている間、彼らの論評はますます熱く高まっていた。

 艦娘たちは単一の指揮官を求める。それは自身が兵器ではなく、意志を持った人間であることを知らしめるためだ。命を賭けて戦うのだから、尊敬でき信頼できる指揮官の言うこと以外聞きたくない。もし彼女らの人間としての尊厳を踏みにじることがあれば、軍部は逆襲されるだろう。四人の提督たちの意見が一致する。

「ずっと気になっていたんだが、きみたちはどうやって自分の秘書を選んだんだ?」

 渋谷が尋ねた。成績優秀者から選抜されたとは聞いていたが、彼ら五人と初期艦五隻が、どのような過程で結びついたのか何も知らない。その質問を受けた四人は顔を見合わせ、少し苦笑した。

「あのときは面くらった」

 塚本が言った。

「ああ。状況もよく分からないまま軍令部に呼びつけられたんだ。五人全員同じ部屋に入れられた。そこで待っていたのが、初期艦たちだ」福井が説明する。「担当する駆逐艦を決めろ。それまで部屋から出てくるな。一方的に命令されたわけだ」

「少女の形をした駆逐艦が出現したと話には聞いていたが、いざ目の前にすると頭が混乱した。今思えば、軍令部も彼女たちの人間性に配慮していたのだろう。一方的に相方を通達するのではなく、自分たちで話しあって決めろ、と」

 熊は言った。自らの上司を自ら選ばせることで、いわば艦娘たちの好みを推し量っていたのである。候補者を五名まで絞り込んだのは、ゆくゆくは艦娘たちを統帥していくことになる上部組織としての軍令部の意地だろう。神の娘といえども勝手ばかりは許さない。そう暗に示したかったのだ。

「真っ先に選んだのは白峰だ。彼がどういう理屈で吹雪を選んだのかは分からないが、吹雪も感極まったように了承していた。よほど選ばれたことが嬉しかったのだろう」

「俺も早かった」眼鏡を整えながら塚本が言った。「なんとなく、仲良くやれそうな気がしたんだ。漣が一番、相性が良さそうだと思った。逆に、こいつは厳しいと思ったんが叢雲だ。もう部屋入った瞬間分かった。こいつは軍人向きじゃあない」

 さすがに声を落とし、塚本が言った。意外にも福井が同調する。

「それは俺も思った。彼女は積極的に会話に入ろうとしなかったし、終始不機嫌そうな顔をしていたからな。我々が歓迎されていないのは明らかだった」

 福井は、自らの部下として五月雨を選んだ。まっすぐ純真なところに惹かれたらしい。

「熊は、逆プロポーズされたんだ。艦娘のほうから自分を選んでくれ、と言ってきたのは電だけだよな」

 思わぬところから飛び火した。あの熊が珍しく慌てている。

「そんな直接的なことを電が言うものか。僕が彼女を選んだのは、互いにあまり気をつかわず会話ができたからだ」

 傍から見る分には微笑ましい光景だった。しかし、気になるのはやはり叢雲だ。確かに、彼女を一目見れば、上官に積極的に盾突くタイプだと想像がつく。ただでさえ扱い辛い年頃の少女、それも軍艦一隻の力を有する存在。軍人ならば、あえて彼女を選ぶような非合理は行うまい。

「それでも、わたしは叢雲を選んだ」

 幾田の言葉が、静かに場を支配する。

「男どもには分からないでしょうね。顔には出さないけど、彼女の瞳には確かに不安があった。プライドの高い子なのだと思ったわ。もし自分が誰からも選ばれなかったら、と思うと、他の子みたいに愛想を売ることができなかったのね。いじらしいじゃないの。わたしは言葉を交わすことなく彼女を見つめていた。その強気な顔が崩れることはなかった。心の強いはねっかえりほど、将来頼れる部下になる。だから、わたしは彼女を選んだ。余っていたからとか消去法ではなく、自分の意志で」

 その言葉に、誰も異論は挟めなかった。

「結局、そのとき交わした会話は、これだけだった。『わたしは叢雲を選びます』。そしたら彼女は、『あんたがわたしの提督? ま、せいぜい頑張りなさい』だって。相変わらず生意気だったけど、わたしが声をかけた一瞬、本当に嬉しそうに笑ってくれた。憎まれ口を叩きながらも、ちょっと涙ぐんでいたわ。それを見て、わたしは確信した。この子でよかったって」

 恋人との出会いを語るかのように、幾田は思い出を披露する。残る四人の顔には安堵があった。彼らも実は気にしていたのだ。叢雲が人間の指導者に馴染めるかどうかを。

「しかし、今さらそんな話を聞きたがるとは、もしかしておまえも艦娘を持つことになったのか?」

 福井が尋ねた。渋谷は、ご明察、とだけ返した。

「一〇月づけでラバウル泊地に着任することになった。そこで俺も艦娘の教育を受け持つかもしれない。前線にて、より実戦に即した訓練を施すために」

 渋谷は言った。突然の情報に、仲間たちは激励の言葉を送る。

「俺も近々前線にでるかもしれん。着任するとしたらトラックだろうか。うちの陽炎型、ぐんぐん練度が上がってきている。十分に戦闘をこなせると上が判断した。北方の戦況も安定しとるし、できる限り南方攻略に戦力を割きたいんだろうな」

 便乗するように塚本が言った。おそらく白峰と同じく、教育下の駆逐隊を率いることになるのだろう。南方資源を確保できたなら、資源輸送の護衛に駆逐艦は必須となる。将来の苦労が透けて見えた。

「そろそろ退出しようか」

 熊が提案する。五人はそろって席を立った。

「では諸君、つぎ会う日まで生き残ろう」

 福井が言った。皆が「応」と答える。これから予想される帝国の運命をかけた総力戦。渋谷と塚本以外も、前線に出されるのは時間の問題だった。こちらの解散と同時に、秘書艦たちも席を立った。横須賀統監部に用があるという幾田が叢雲と吹雪をともない、店を出る。他の提督もまた、秘書艦とともに、それぞれの道を歩いていく。

「ご主人さま、行きましょう!」

 弾んだ声で漣が言った。明らかに面白がっている。塚本は「こら漣! 人前では提督と呼べと言っとるだろうが」と零し、渋谷のもとに駆け寄る。

「先達からの助言だ」そう塚本が耳打ちする。「あまり艦娘に入れ込みすぎるな。彼女はくまで部下。友達でもなければ家族でもない。まして娘だなんて思ったら駄目だ。戦いを見失うことになる」

 そう言って塚本は、いつもの陽気な足取りで去っていった。

 彼には妻がいた。しかし子はいない。艦娘を持てるかもしれない、と浮かれていた自分に、彼の助言は重く響いた。憧れと期待を抱いていただけに、その個人的な想いが戦争を掻き乱すかもしれない。自分はあくまで軍人。仕えるべきは大日本帝国。この戦争の目的は、帝国を生き永らえさせること。

 艦娘は、そのための手段である。

 渋谷は強く自分に言い聞かせた。

 

 一九四二年一〇月。

 ラバウルに着任した渋谷礼輔に、改めて辞令が交付される。そこに記されていたのは、自らの教育下に入るべき艦娘。いったい、どんな駆逐艦だろう。もしかしたら駆逐隊を持たせてくれるかもしれない。そんな想像をしていた彼は、内容を見て開いた口が塞がらなかった。

 これは何かの間違いではないか。

 本当に、戦場では予想外がよく起こる。何度も辞令を読み返し、渋谷は呆然と思った。

 

 

 

 渋谷が本土を発ってから、ひと月が過ぎた。

 横須賀鎮守府軍港。強い風をともない、列島に寒波が到来していた。今にも泣きだしそうな曇天のもと、高い波が港湾のコンクリートを殴りつけ、飛沫となって砕け散る。荒ぶる海を宥めるかのように、支給品のコートをまとった士官が独り、じっと水平線を見つめていた。

「やっぱりここにいた」

 変わり者の傍らに、幾田サヲトメが歩み寄る。彼女の婚約者は、暇さえあればこうして海を眺めていた。兵学校でもそうだった。見飽きているはずの江田島の海を、今と同じ視線で見つめていた。彼と会話したいときは、こうして自分から海へと出向くのだ。恋人となり婚約者となってからも変わらない二人の習慣だった。

「如月の具合はどう?」

 幾田が尋ねる。彼は自分から語るタイプではない。彼と会話したいなら、話題を掘り下げることが大切だ。

「すっかり回復した。艦体も精神も」白峰は淡々と答える。「演習にも後を引いていない。如月は心の強い娘だ。それに仲間たちもいる。良い仲間たちだ」

 麾下の第三〇駆逐隊を、白峰はそう評価する。彼は他にも、第一八駆逐隊として「陽炎」「不知火」「霞」「霰」の四隻を率いていた。彼女たちの練度も、国内鎮守府ではトップクラスとの評判だった。とくに朝潮型九番艦の霞は問題児として有名であり、彼女を使いこなすことで白峰中佐の評価はさらに高まった。今若手でもっとも元帥に近い男。羨望と嫉妬まじりに囁かれることもあった。

「技研と組んで、新しい研究を進めているんですって?」

 幾田が尋ねる。ウェーク島攻略線で中破した如月の修理には、熟練の整備員でも困難を極めた。なにせ機関が一部損傷していたのである。火砲などの兵装ならまだしも、艦体の機関部はブラックボックスに近い。幸いにも工作艦・明石が顕現したため、彼女のアドバイスを受けつつ、修理に成功した。その結果、艦娘について新たな事実が明らかになった。

「彼女たちの艦体を構成しているのは、ただの鋼材ではなかった。先の海戦で敵艦載機から傷痍爆弾を受けたとき、僕は如月の轟沈を覚悟した。しかし彼女は中破しただけで助かった。艦体を覆う外装は、普通の特殊鋼よりも強く、粘りのある金属だった。艦娘であるというだけで、艦体の防御力は人類製の船を大きく上回っている」

 白峰は機械のように事実を述べていく。

「だが、その金属は今の技術では復元できない。つまり欠損してしまえば補いようがないということだ。明石が言うには、ある程度は人類製の鋼材でも補完できるが、爆発的な負荷のかかる機関部だけは、その金属でなければ崩壊を早めてしまうらしい。機関部に人類製の金属を入れることは、人間で例えるなら心臓の一部を人工物で補うようなものだ。そうなれば格段に寿命は縮まる」

 明石の意見を取り入れ、機関部の修理には損壊した甲板部の金属を用いた。不足した外装甲は人類製の特殊鋼で補った。結果、如月は以前の機動性を取り戻すことができた。

「艤装や装甲部分は補完できることが分かり安心したが、問題は修理に必要な鋼材だ。民需用から回しても、かなり状況は厳しい。政府は、新たな鉄筋建築を制限する法律を検討している。軍部も、いざとなれば海軍の艦を解体して艦娘の修理にあてることも考えている」

 白峰は言った。石油もなければ鉄もない。海を閉ざされたことの恐ろしさを改めて思い知った。

「資源の不足は以前から知られていたことだ。ならば本質は、いかに艦娘を傷つけず戦いに勝利するか。その点にある」

 変わらず海を見ながら白峰は続ける。

「今回の件で少し思い当たったことがあり、トラック泊地の明石に意見を求めた。艦娘の表層部を人類の技術で補えるなら、火器管制、航行、索敵も人間が代行できるのではないか、と」

 幾田は、ただ彼の創造性に聞き入っていた。

「明石の答えは、おそらく可能とのことだった。おおむね艦体の構造は人類のそれに似ている。方法さえ学べば、とくに火砲の扱いはすぐ習熟するだろう。火器管制にあてるなら二〇人程度。索敵ならば五人で足りる。わが国得意の少数精鋭教育が、いかんなく発揮される」

「それで、機能を代行することで、どんな利点があるの?」

 幾田が尋ねる。その問いに、白峰は少し不思議そうに答える。

「きみは気づかなかったか? 僕は演習では必ず旗艦に乗艦するようにしている。何度か彼女たちと行動をともにするうちに気づいた。顕体には、人間でいうところの気分がある。むらっ気とでも言うべきか。例えば会敵に備えて単縦陣で航行しているとき、彼女たちは火器と索敵、航行に同時に意識を傾けている。すると最大船速を指示しても、カタログスペックと同等か、それ以下の速度しか出せない。しかし、敵に気を配る必要のない単純航海ならば、彼女たちは驚くほどのスピードを出す。それは航行だけに集中しているからだ」

「つまり、火器管制を人間が担当して、その分の集中を航行や索敵に回せば、より艦娘の機動性が上がると?」

 すぐに幾田は彼の言わんとすることを理解する。たしかに顕体の気分によって艦の性能が若干変わることには気づいていた。秘書艦の叢雲が、その傾向が強かった。しかし、それは艦娘特有の性質なのだろうとしか考えておらず、その性質を利用して発展的に戦闘優位を作り出すところまで思考が回らなかった。

「そういうことだ。ウェーク島の戦い以降、僕が担当する駆逐艦には全員、僕以外の人間にも乗艦してもらっている。最初は皆嫌がったが、少しずつ艦娘への理解を深めてもらった。そうなれば、艦娘のやる気も高まる。なにせ守るべき命を複数預かることになるのだから。彼女たちに深く関わりすぎた僕などは、ともに轟沈しても構わないだろうが、やはり多数の命を共に戦うとなれば話は違う。霞ですら、わずかに人当たりが良くなった」

 白峰は言った。翌日より、彼の駆逐隊と、幾田率いる第二駆逐隊「白露」「時雨」「村雨」「夕立」と、第三駆逐隊「夕雲」「長波」「早霜」「清霜」との演習が始まる。そのために幾田は叢雲と麾下の駆逐隊を伴い、横須賀を訪問していた。

「きみの駆逐隊と僕のそれとは、よく似た練度となっている。人間を乗せた艦娘が強いか否か、実験結果を出すつもりだ」

 今回の演習の目的を明かす白峰。

いくら燃費の良い駆逐艦とはいえ、その運用にも軍令部は気をつかうようになっていた。これから始まるニューギニア攻略は未知の領域である。大規模な艦隊決戦となり、大和や武蔵を動かすことになれば、さらに燃料事情は厳しくなる。前線での戦闘においても、油田地帯確保後の輸送任務においても、汎用的に運用できるよう、最小の資源で駆逐隊を教育していた。もし白峰の仮説が正しければ、人間と協力することで艦娘の機動性があがり、それが戦勝ひいては燃料の節約にもつながる。彼の研究は技研や軍令部にも後押しされていた。

「なるほど、それが目的で佐世保から呼びつけたわけね」

「そうだ。純粋な戦闘能力の練度ならば、きみと塚本の隊が頭ひとつ抜けている。だが塚本の場合、少し艦娘の個性が激しすぎて実験向きではない。それに同じ陽炎型の駆逐艦なら、うちの陽炎や不知火に気をつかうかもしれない。そこで、きみに白羽の矢が立った」

 すべてが理にかなっている。幾田は深い溜息をつく。白んだ細い吐息は海に吸い込まれていった。

「ずいぶん、堅実な考え方をするようになったのね」

 ぽつり、と幾田は呟く。

「わたしは兵学校時代の、あなたの論文が好きだった。大胆で、奇抜で。なのに妙な説得力がある。もし技術が追いついたら、軍事の歴史に名を残せそうだった」

 航空戦力と電子戦。

 陸と海の連携―――強襲揚陸専門部隊。

 幾田は、未だに論文のタイトルを覚えていた。この頃からすでに幾田は彼に恋していたのだ。

「若気の至りだ。教官には、こっぴどく叱責された。たしかに、現段階では妄想の域を出ない。ならば目の前の現実をより深く理解し、改良していくべきだと考えを改めた」

 白峰は言った。海軍大学では、声のでかい老人の教える通りに答案をつくれば評点が上がる。彼は兵学校で世渡りを学び、本心を伏せたまま序列一位で在り続けてきた。

「今は、とにかく艦娘。それに深海棲艦だ。己を知り、敵を知ることができれば、この戦争に勝利できる」

 白峰は言った。静かな瞳に宿る、かたい覚悟。これでは勝つまで式は挙げられまい。そんな彼に惚れたのだから仕方ない。彼に貰った銀の指輪をそっと撫で、幾田は苦笑した。

 しばし彼と海を見ながら、穏やかな静寂を楽しみたい。

 彼女の願いは、直後に鳴り響いたけたたましい警報に引き裂かれた。

「緊急招集!」

 幾田が叫んだとき、すでに白峰は走り出していた。慌てて彼の背中を追う。横須賀を含め、帝都の正面海域には常に哨戒艇を出していた。万が一の本土急襲を想定してのことである。しかし、太平洋側の本土近海の深海棲艦は勢力が弱く、いたとしても駆逐イ級がせいぜいだった。巨大な陸地に近づくほど敵が強くなるという「法則」が見つかってからは、警報の存在すら人々は忘れかけていた。

 それが今になって、思いだしたように発動する。横須賀鎮守府を揺さぶりに揺さぶっていた。

 緊急時の集合場所は統監部連絡所だったが、艦娘全員が集まっている艦娘宿舎は少し離れた場所にある。白峰は迷わず艦娘がいる建物へ向かった。艦娘が運用されてすぐの頃、まだ彼女たちの忠誠心を疑っていた軍令部が、鎮守府の中心部から彼女たちの居住区を遠ざけたのだ。その名残が、いまや明らかな弊害となって現れた。

宿舎には、騒ぎをききつけた艦娘が早くも集合していた。白峰、幾田麾下の駆逐隊、それに吹雪と叢雲。

「報告!」連絡兵が電報の紙を片手に飛び込んできた。「哨戒艇より連絡。鎮守府南西南、距離一〇海里、深海棲艦艦隊発見。空母を中心とし、重巡三、軽巡一、駆逐六にて輪形陣を形成。速度約三五ノットにて、まっすぐ横須賀に進行!」

 息をのむ幾田。この海域で、これだけの大部隊が攻めてきた前例はない。敵は明らかに高速編成。まっすぐ懐に飛び込んで鎮守府を強襲するつもりらしい。到達まで半時間。迷っている時間はない。

「他に動かせる艦娘は?」

「横須賀には現在、戦艦「長門」「陸奥」、重巡「妙高」「羽黒」「高雄」「愛宕」が停泊中。しかし戦艦二隻はドック入りしており、残る重巡も気醸が間に合いません」

 となれば、動かせる艦娘は駆逐艦のみとなる。

「敵の意図が分からない以上、本土に近づけるわけにはいかない」

 白峰の決意は固まった。

「待ちなさい!」

 鋭い声が白峰を制止する。彼の前に叢雲が立ちはだかっていた。

「第二、第三駆逐隊は重油の補給中よ。こんな編成で出撃するのはあまりに危険だわ。それよりは浮き砲台として湾内で応戦すべきよ。敵が本土に突撃してくるかも分からないんでしょう?」

 叢雲の意見では、ある意味では正しかった。相手は理屈の通じない深海棲艦だ。今後、進路がどう逸れるか分からない。しかし、白峰の勘は彼女とは別の結論に辿りついていた。

 奴等は必ず突撃してくる。

 半ば確信に似たものがあった。

「輪形陣を取っている以上、戦闘意欲があるのは明らかだ。それに空母がいる。もし港湾内に入られでもすれば、入渠中の艦だけではなく、帝都も危ない」

 白峰の考えもまた、ある側面では正しかった。

「そんな、空母で陸につっこむ奴がどこに……」

 叢雲が怒りを交えて吐き捨てる。

 その瞬間、地鳴りのような衝撃が轟いた。窓の外には、もうもうと黒煙が上がっている。どうやら敵の弾が届いたらしい。その煙の向こう側、荒れた灰色の海に黒い点が幾つも浮かんでいる。

「速い!」

 なんという拙速だろうか。放たれる砲撃はてんでバラバラだが、その速度は恐ろしいものがあった。このままでは本当に鎮守府に敵艦が乗り込んでしまう。

「吹雪! 隊をまとめて直ちに抜錨せよ」

 白峰の指示が飛ぶ。吹雪を先頭に、第三十駆逐隊と第十八駆逐隊の面々が走り出す。彼女たちに白峰も続いた。上官の指示も待たずに飛び出して行った婚約者を、幾田は黙って見送ることしかできなかった。

「提督、どうするの?」

 心配そうな顔で夕雲が尋ねる。

「あんな馬鹿に付き合う必要はないわ! わたしたちは、わたしたちにできることをしましょう」

 腹立たしげに叢雲が言った。幾田は、動ける艦は鎮守府港湾を封鎖するように指示した。直後、地面がトランポリンのように撥ねた。砕け散った窓ガラスが雪のように降り注ぐ。宿舎の建物側面に砲弾が命中したらしい。数十メートル先の廊下が空中で途切れている。倒れ込んだ幾田の上に、叢雲が覆いかぶさっていた。

「急ぐわよ」

 礼を言う暇もなく駆けだす叢雲。すぐに後を追った。

 臨時の鎮守府守備艦隊。旗艦を叢雲とし、自身も彼女に乗り込んだ。

 

 

 編成からして、こちらが圧倒的に不利。まともに撃ちあっても勝てる可能性は限りなくゼロだ。白峰は戦況を判断する。ならば、できるのは少しでも時間を稼ぐこと。帝都防衛のための海軍飛行場から、爆撃機が飛来するまで耐える。あるいは、浮き砲台でもいいので戦艦たちが出てくるまで敵を沖合に押しとどめる。

 そのためには、駆逐艦の機動力に賭けるしかない。

 正面に見えるのは三隻の重巡。その奥に空母が控えている。まずは側面から廻り込み、敵を撹乱する。重巡クラスの艦など見慣れているが、今日ばかりは戦艦並に大きく感じた。

「艦隊を二分せよ。三〇駆は、旗艦吹雪に続いて右三〇度回頭。一八駆は陽炎を先頭に左三〇度。敵側面にて雷撃開始」

 提督の命令を受け、吹雪が全艦に通達する。

 複縦陣が真ん中から左右に別れ、それぞれ単縦陣に移行。白峰を乗せた吹雪は、三十駆逐隊の四隻を率いて右にそれていく。運が良ければ、重巡の横腹に雷撃を見舞うことができる。

 だが、その瞬間を狙っていたかのように敵重巡三隻が大きく左に進路を変えた。空母の守りを捨て、吹雪との正面衝突ルートに入った。敵は、確実に右翼の吹雪隊から沈めるつもりらしい。

「だが、これはチャンスだ。今なら空母の守りが薄い。陽炎たちならやってくれるだろう」

 白峰は言った。チャンスといっても彼我の戦力差は圧倒的。いまだ勝てる見込みはなかった。それでも吹雪は瞳に希望を灯した。

「覚悟はできてます、司令官さん!」

 そう叫び、後続の艦隊に砲雷撃戦の用意を告げる。

 来るなら来い。白峰艦隊の意地を見せてやる。吹雪が歯を食いしばった時、深海棲艦はまたも不測の手をつかった。突然、正面の重巡艦隊から白煙があがる。さらに海面で炸裂した砲弾からも白い粉上の煙がもうもうと上がる。すさまじい量の煙が、たちまち敵を包み、潮風に吹かれて雪崩れのように迫ってくる。

「あれでは、敵もこちらを砲撃できないではないか」

 これには白峰もあっけに取られた。これだけ戦力差がありながら、なぜ防御用の煙幕など使うのか。それでも敵は砲撃を始めた。集中砲火は吹雪の後ろに集中する。さすがに被弾することはなかったが、砲弾の雨は艦列を大きく掻き乱した。

「煙幕、突入します!」

 吹雪が叫ぶ。このまま下手に迂回するよりは、煙幕にまぎれて後方に抜けるほうが安全だ。

 しかし、その判断が白峰と吹雪の運命を大きく変えた。偶然もあるにせよ、無敵にも思える軍隊の合理性を、深海棲艦の奇抜さが初めて上回った瞬間だった。

 煙幕に包まれたとたん通信がノイズに飲まれる。どうやら単なる煙ではなく、電波を妨害する機能もあるらしい。吹雪は孤立したまま、晴れる気配のない霧の中を突き進んだ。わずか数メートル先も見えない。粉雪のような白い靄は、海面に吹きつけられても水に囚われることなく宙に舞い上がる。明らかに人類製の煙幕とは材質が異なる。これでは探照灯をつけても無駄だった。それよりは敵に発見されないことが重要だ。

 長い十分が過ぎた。

 ろくに視界の効かない中、吹雪の右船体に、突如として凄まじい衝撃が走る。白峰は我が目を疑った。敵はこちらが見えているのか。艦首右側の装甲がザクロのように裂け、黒煙が上がっている。

「艦内浸水! 艦傾斜角一〇度!」

 息も絶え絶えに吹雪が叫ぶ。このままでは転覆する可能性もあった。白峰は隔壁操作で転覆を食い止めようと、急いで艦橋を飛びだす。さらに至近距離に水柱があがる。やはり敵は、狙って砲撃している。おまけに左右両方から着弾の飛沫があがる。電波を妨害する霧のなかにあって、なぜか敵同士はきちんと連携が取れていた。

「危ないです、わたしが行きます!」

 吹雪が走る。

「駄目だ。敵には、我々が見えているかもしれない。きみは回避行動に専念―――」

 そう言いかけた瞬間、今度は左から衝撃が炸裂した。白峰の身体は宙に浮き、左から右へ吹き飛ばされる。対空機銃にぶつかり、全身をしとどに打撲した。破れた皮膚と肉から熱い血潮が軍服を浸していく。

 鉄の軋む音。艦体の悲鳴が、吹雪の悲鳴となって甲板に轟く。

 速度が落ちていき、やがて完全に停止した。筋肉から内臓まで痛みに満ちた肉体を無理やり引き起こし、白峰は状況を確認する。

海には壁があった。黒く巨大な壁が左右から吹雪を挟みこんでいる。否、それは壁ではなく船体だった。敵重巡が両側から吹雪を囲いこんでいる。もう抵抗の余地はなかった。

「吹雪、意識はあるか」

 隣で横たわる吹雪に声をかける。しかし反応はなかった。どうやら機関が停止しているらしく、艦内は不気味に静まり返っている。

 薄れゆく視界のなか、白峰は壁に縋りつくようにして立ち上がる。視界は白い靄に包まれている。薄れゆく思考のなか、彼が最後に見たものは、正面に聳える巨大な敵艦。その姿には見覚えがあった。はるか頭上の甲板、そのへりに黒い影が佇んでいる。

 艦が傾いている。白峰は艦に縋りつく力も残っていなかった。血で濡れた身体が少しずつ甲板から滑り落ちる。傷だらけの吹雪が遠い。真っ赤な血糊を引きながら、ずるずると肉体が重力に引かれていく。

 落ちる時間は一瞬。彼は海に抱かれた。

 音も感触もない。寒いとすら思わなかった。五感の全てがひどく穏やかで、安寧のうちに溶けていく。ああ、これが死なのだ、と白峰は思った。海面の光も見えない、完全なる無。白峰はゆっくりと瞼を閉じていく。

 だが、そこに一筋の閃光が差しこむ。輝く二つの目玉。無へと沈みゆく白峰を掬いとめるかのように、ふたつの腕が背中に回る。触れた皮膚は冷たかった。

 人間のようにも見えるその影は、金色に輝く瞳で白峰を見つめていた。

 瞼を閉じる。深海の匂いがする。そんな気がした。

 

 

「何が起こっているの?」

 叢雲が呟く。白い煙幕が晴れたと思ったら砲撃は完全に途絶え、敵艦は彼方に離脱していた。奇跡だ、と幾田は思った。駆逐艦だけの艦隊で敵機動部隊を追い払うなど、あの方にしかできない。

 しかし、敵が去ってもなお白峰の駆逐隊は帰ってこない。まるで親を見失った雛鴨のように、脈絡もなく海を彷徨っている。

 遥か彼方の無線通信を、叢雲が捕まえた。睦月と陽炎の声だ。ひどいノイズが混じっていたが、二人の声は震えているのが分かった。

「こちら叢雲。状況を報告なさい!」

『提督が、吹雪ちゃんが……霰ちゃんが』答えたのは睦月だった。声と声の隙間に嗚咽が混じっている。『いない。いないんだよ!』

『落ち着きなさい睦月! 大丈夫よ、きっと大丈夫』

 陽炎が言った。しかし彼女も涙をこらえているのが明らかな、蚊細く不安定な声だった。ノイズに隠れるかのように、『ごめん、ごめんね、霰』と繰り返すのが聞こえる。

 叢雲が改めて状況を問い直そうとしたとき、すぐ傍で何かが崩れ落ちる音がした。叢雲はその光景を見て、怒ったように泣きだしそうに顔を歪める。

 幼い少女のごとく、幾田がへたりこんでいた。

 

 



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第五話 ラバウルの新提督

メインヒロイン登場です。どうか、艦娘たちと提督たちが歩む未来を見守ってあげてください。

※艦娘の性格等、独自解釈があります。ご注意ください。




ついに艦娘を持てることになった渋谷少佐。ところが担当することになった艦娘は、彼の予想を大きく裏切ることになる。


 

 

 

 ニューブリテン島は、かつて独逸帝国の植民地だったが、第一次大戦でドイツが敗北して以来、オーストラリアにより委任統治されていた。取り残されていたオーストラリア系住民とは早々に和睦を結び、少なくとも陸地に脅威は無くなった。軍部はラバウルに大規模な泊地を建設した。ゆくゆくはトラック泊地に停泊中の連合艦隊旗艦・大和率いる大艦隊を迎え入れ、ニューギニア侵攻が行われると専らの噂だった。

 渋谷は、ラバウル港の外れにある艦娘宿舎に赴いていた。かつてオーストラリアの一部だったニューブリテン準州が建設した木造校舎。それを接収したのだ。渋谷はその建物をラバウル鎮守府と名付けた。これで渋谷も艦娘を率いる提督として一国一城の主となったわけだが、その足取りは重かった。なにせ、前線に出来ている艦娘は、ほぼ全員がラバウルの中心部にある泊地司令部に居住しているからである。なぜ自分の艦娘だけが、このような寂れた地に追いやられているのか、理解に苦しむとともに憤りも覚えた。

 しかし、すぐに渋谷は思い知ることになる。普通ならばありえない辞令がくだった理由を。

 時刻は正午。担当する艦娘とは、教室を改造した作戦会議室で待ち合わせのはずだった。しかし、待てど暮らせど彼女は現れない。時計の針が二時を回った頃、業を煮やした渋谷は、自らの足で校舎内を捜しまわった。

 彼女を見つけたのは、さらに一時間が経過してからだった。

 校舎の外、太平洋を一望できる丘の上で、彼女は眠っていた。柔らかな下草に背中をゆだね、潮風に包まれた髪がたゆたう。人目見ただけで、彼女が人間ではないことを理解する。衣服の独特なデザインもそうだが、なにより彼女は奔放だった。仮にも上官との顔合わせを放り出し、まだ脅威の渦巻く海を目前にして堂々と昼寝など、ふつうの人間には不可能だ。

 その奔放さが、彼女を艦娘たらしめていた。

「起きろ」

 軽く肩を揺する。細くて柔らかい茶髪が指をくすぐる。娘は不機嫌そうに唸り声をあげ、鷹揚に上半身を起こした。

「んだよ、誰だ、あんた?」

 眠たげに目を擦りながら娘は言った。

「俺は渋谷礼輔少佐だ。きみの教育を担当することになった」

 渋谷が名乗ると、娘は不機嫌そうにこちらを見つめた。そして、ふと顔を歪ませると小馬鹿にしたような、それでいて自嘲ともつかない複雑な笑みを浮かべる。

「あたしは摩耶ってんだ。ま、短い間だろうけどよろしくな、提督」

 犬歯を剥き出しにして横柄に笑う。『短い間』という言葉に、侮蔑と失望と諦観が垣間見えていた。恫喝のなかに悲しみが滲む、渋谷が未だかつて見たことのない笑い方だった。

 重巡洋艦・摩耶。一介の少佐が、いきなり重巡クラスの指揮をとる。ありえない幸運だ、と最初は思った。しかし今は納得していた。彼女は相当の難物だ。一六、七歳くらいに見える娘を前に、渋谷は早くも気持ちが押し負けていた。

 

 問題児。

 摩耶を一言で表すなら、これほど型に嵌る言葉はないだろう。摩耶の教育を始めて一週間で、憔悴した渋谷は思った。なにせ言うことを聞かない。戦術については講義を受ければ理解は早いくせに、机に伏せって寝ているか、ひどいときには校舎外に脱走した。少女の外見をした相手を殴るのも忍びなく、提督として言うことを聞かせる術を持たないまま時間が過ぎていった。

「そういえば、おまえの艦体を見ないのだが、どこにある?」

 戦史の講義を諦めて放り出し、摩耶の隣に座って雑談する。さいわい、ここには食事や清掃担当の雇われ職員しかいない。上官も週一程度しか足を運んでこないので気が楽ではあった。

「ラバウルの港にあるよ。あたしが離れたら動かせないからな」

 忌々しげに摩耶は答える。顕体は、一定以上艦から離れると艦を操れなくなる。およそ五〇メートルで火器管制が効かなくなり、八〇メートルで操舵不能。一〇〇も離れたら機関が停止する。摩耶は自分の艦体と物理的な距離を取らされることで、いわば無力化されたことになる。

 彼女はかつて、パラオにて軽空母「龍驤」「千歳」「瑞鳳」を中心とした第一一航空艦隊に所属していた。しかし演習中に指揮官ともめ、乗艦していた大佐を殴り倒し、甲板から海へ投げ捨てるという事件が発生。それ以来、前線の泊地を転々とするものの、やはり自らに乗艦する指揮官と馴染めず、懲罰房行きのごとく、この地に押し込められた。とはいえ、重巡一隻は貴重な戦力である。なんとか彼女を更生させようと、艦娘顕現について深い因果を持つ渋谷をあてがったのだ。

「嫌な野郎だったんだよ」

 摩耶は当時の状況を語る。

「あたしが話かけても、まともに取り合おうとしないんだぜ。このあたし自身も兵器と同じ扱いなんだ。人間に使われる機械。『演習方針に口を出すな』って、そればっかでさ。いい加減ムカついたからぶん殴ってやった」

 摩耶は言った。もし普通の軍人ならば懲戒処分ものの言い草だった。しかし、乱暴ながら摩耶の言葉には無視してはならない何かを渋谷は感じていた。講義を行うのは摩耶の気が向いたときのみに留めた。もともと好奇心旺盛な娘なので、海戦戦術の講義には積極的に参加し、ふたりで兵棋演習を行うまでになった。そのほかの時間は、ひらすら会話や外出にあてた。勤務時間中に艦娘をともなっての外出は指揮権の濫用であり処罰の対象だったが、摩耶の艦体を押さえたことで油断しているのか見張りが少ないのをいいことに、一般市民に変装してラバウルの街まで繰り出したりもした。そういう時間、渋谷はひたすら摩耶と会話した。言葉を交わすごとに、彼女が半ば拘禁扱いされるほど性格に難があるとは思えなくなった。

 ここに艦はない。いるのは、少し生意気で口の悪い娘がひとり。次第に渋谷は、摩耶を艦娘とは思わなくなっていた。本土を発つ前、塚本の助言が頭をかすめたが、せめて陸にいる間は、彼女と人間らしい交流をしたいと思った。

「なあ、提督」

 着任してから二週間が経った頃。夕暮れ時の海岸沿いを散歩しながら、ふと摩耶が尋ねる。

「なんで、あたしたちはヒトの形をしてるんだろうな」

 思わず渋谷は足を止める。ようやく、摩耶の本心に触れた気がした。

「あたしだって、人間のために戦いたいって気持ちはあるんだ。こいつらを守りたい。けど、戦うことで守るなら、別にあたし自身が人間みたいじゃなくてもいいはずだ。ただの軍艦、兵器でいい。何も感じず何も考えず、撃てと言われたら撃ち、進めと言われた方向に進む。それでいいじゃんか」

 そう言って、摩耶は砂浜の石を蹴り飛ばす。

「こんなことして、足が痛むこともないのに」

「おまえたちのことは、俺もよく分からない」摩耶の隣に立ち、渋谷は言った。「まだ分からないことだらけだ。おまえたちがどこから来たのか。何者なのか。どこへ行くのか。まだ何一つ分からない。でも、おまえたちと話して、おまえたちの船に乗り一緒に戦って、気づいたこともある。皆、良い子なんだよ。個性的だから軍隊という組織には向いていないかもしれない。でも、皆、人間のために敵と戦ってくれる。うまく言えないが、きみたちがヒトの姿をしているのは、より人間に寄り添うためじゃないか」

「分かんねえよ」

 そう言って、今度は石を掴む摩耶。思いきり振りかぶって海へと投げた。空を切る石は、海面で何度も跳躍する。十五回ほど水面を弾き、信じられないくらい遠くまで飛んだ。

「何のために、こんな器用な手がついてるってんだよ。こいつで人間を殴るくらいしか使わなかったのに」

「例えばの話」渋谷の口調が真剣になる。「今は戦うべき相手がいる。深海棲艦だ。奴等は人類じゃないから、おまえが奴等を何匹沈めたところで嬉しく思えど悲しむことはないだろう。しかし、兵器は本来、人間が人間を殺すために作られたものだ。深海棲艦が出現する前は、我々の敵はアメリカ合衆国という国だった。戦争をすれば、当然、我々の火力はアメリカの兵士たちを殺すために使われる。もし深海棲艦との戦いが終わり、海の封鎖が解かれたら、ふたたび日本はアメリカと敵対するだろう。そうなったとき、おまえはどうだ。命令されるがまま、人間を殺せるか?」

 渋谷の言葉を受け、「ふざっけんな!」と激昂する摩耶。

「あたしは人間を殺すために、ここにいるんじゃない! おまえらのお国事情なんか知ったこっちゃねえよ」

「抵抗するだろう? どんなに心優しく忠誠心の強い艦娘であっても、人間を殺すとなれば必ず悩み苦しむはずだ。それができるのは、おまえたちが人間と変わらない心を持っているからだ。おまえたちが人間の姿をしているのは、ただ兵器として存在するだけではなく、心を持ったひとりの人間として、自分で考えて行動を決めるためだ。そう俺は思っている」

 こんなことを言っては軍人失格だろう。大日本帝国を脅かすアメリカを援護するかのような発言。しかし、摩耶の前では軍人である前にひとりの人間だった。人間としては少し幼い少女を先導しなければならない大人なのだ。摩耶は黙って渋谷の言葉を聞いていた。そして、ようやく年相応な微笑みを浮かべる。

「おまえ、変わってるな」

「学生時代からよく言われた。だが安心しろ。俺以上に変わってる奴が、あと五人はいる」

「そっか。おまえみたいな奴の下なら、あたしもまともに戦えたのかな」

 その笑顔に、一抹の寂しさが混じった。彼女は高雄型重巡の三番艦だと聞いた。姉の高雄、愛宕、妹の鳥海も、訓練を受けて前線に配備される予定だ。きっと羨ましくもあり、姉妹たちに引け目も感じているのだろう。

「安心しろ。俺は、おまえの提督だ。依然として我が軍の状況は厳しい。なにせ深海棲艦は物量が違う。必ず戦いに参加するときはくる。そうなったら、おまえの姉妹以上におまえを活躍させてやる」

「大口叩きやがって。この摩耶様を動かすんだ、惨めな戦いは許さねえからな!」

 そう言って走り出す摩耶。渋谷は慌てて追いかける。いつもより顔が赤く見えたのは、きっと夕陽のせいだろう。そういうことにしておいた。

 

 

 本土より、恐ろしい知らせが南方前線にまで波及してきたのは、その翌日だった。

 

 

 名指揮官の戦死。

 正規空母一、重巡三の大部隊から、駆逐艦のみを率いて本土を守った英雄、白峰晴瀬中佐の戦死が明らかとなった。敵艦隊の攻撃を受け、白峰中佐が乗艦する旗艦「吹雪」、麾下の駆逐艦「霰」轟沈。「陽炎」「霞」小破。七日に渡り吹雪が轟沈したと見られる海域にて捜索が行われたが中佐は発見されず、軍令部は正式に殉職を発表した。今回の奇襲で、太平洋側にも強力な深海棲艦が出現すると明らかになり、各鎮守府は即応戦力としての艦娘の配置を再検討するとともに、沿岸部に対艦砲の配備を進めると発表した。

 白峰中佐は、ウェーク島攻略における奇跡の反攻作戦を指揮した名指揮官。軍令部は彼の二階級特進を発表、少将に任じた。

 

 

 ラバウル泊地の司令部にて、部内新聞を読んでいた渋谷は愕然とした。先ほど摩耶の艦体を戻してくれないかと意見具申し、ようやく許可を得られて喜んでいたところだった。あまりに突然の、戦友の訃報。白峰の名は前線の基地にも轟いており、彼を知る誰もが早すぎる死を嘆いた。しかし、軍令部の古狸たちは、その死さえも戦意高揚の燃料に利用した。白峰を忘れるな。深海棲艦を打ち倒せ。悲しみのあとには、あちこちで力強い声があがった。

 だが渋谷は、むしろ怒りにも似た鬱屈を感じていた。なぜ白峰は、たったひとりで出撃しなければならなかったのか。おそらく上の命令を待っている暇もなかったのだろう。太平洋側の深海棲艦を甘く見て、緊急事態の対策を疎かにしていた軍令部の失態だ。しかし、その責任については、ほぼ触れることなく、ただ戦死者を神格化して前線の軍人たちを焚きつけているだけだ。

「やっぱり駄目だったのかよ」

 気づけば、すぐ傍に摩耶がいた。彼女の不安そうな顔を見て、ようやく渋谷の思考は現実に帰ってきた。今日渋谷は、摩耶の艦体を使用できるよう意見具申に来ていた。ともに出頭した摩耶に対して、上官の前では余計なことは喋らず、大人しく立っているだけでいい、何を言われても、それは提督である自分が受け止める、そう事前に言い聞かせていた。結果、ラバウル泊地整備の責任者である南田中将は、先ほど渋谷を呼出し、摩耶の艦体による訓練と演習参加を認めた。ただし、その際には必ず渋谷が直接摩耶に乗艦し、何か問題があれば全ての責任を取るという条件つきだった。

「いいや、交渉は成立だ。鎮守府近海も臨時用のドックとして開発されることが決まった。おまえの艦体も演習に参加できるぞ」

 渋谷は言った。ほんとかよ、とはしゃぐ摩耶。しかし、どうしても声と顔が強張ってしまう。

「大丈夫か? 上の馬鹿どもに何か言われたのか」

 心配そうに摩耶が尋ねた。隠しておく必要はない。部下に心理的負担をかけては提督失格だ。渋谷は友人の戦死を打ち明けた。摩耶は静かに聞いていた。

「本土は今頃、大騒ぎだろうな」

 鎮守府に帰る途中、摩耶が呟く。

 白峰の戦死もそうだが、ショッキングな出来事はもう一つあった。艦娘の初轟沈である。たった駆逐艦二隻の犠牲で本土を守ったとあって、白峰と駆逐隊の名誉は保たれたが、それでも喪失した艦娘の同僚たちは悲嘆にくれているはずだ。

「普通の艦なら、別に他が沈もうが機能に差が出ることはない。でも、あたしたちは心を持ってる。姉妹が沈んだら、きっとあたしも冷静じゃいられない」

 そこが艦娘の弱点だ。摩耶は言った。仲間と連携すればするほど強くなり、逆に喪えば一気に弱体化する。轟沈の悲しみは時の流れが癒してくれるだろうが、これから戦場は激しさを増す。轟沈する艦娘は、さらに増えるだろう。いちいち悲しみに暮れて戦えなくなれば、あっという間に深海棲艦の餌食になる。

「霞、大丈夫かな」

 摩耶が呟く。

 

 ニューギニア島周辺を調べていた偵察機から連絡があったのは、ちょうど白峰少将の訃報がラバウルに届いた日だった。ニューギニアの南方、ポートモレスビー港付近に、少なくとも戦艦三、重巡四、軽巡四、軽母二の大部隊。さらに島の北側にも空母と戦艦を中心とした大規模な機動部隊が控えているとのことだった。これを受けて軍令部は、南方決戦として一大戦力をラバウルに集結させることを決断した。

 ニューギニアを奪取できれば念願の石油が手に入る。ラバウルに集う人間は、皆が腕まくりをして東の海にいるだろう深海棲艦に睨みをきかせる。敵は東にあり。そう信じる人間たちは、ただのひとりとして遥か西の空、ソロモン海に舞う不気味な影に気づかなかった。

 

 一九四二年十二月。

 木造校舎の鎮守府の周りには、着々と飛行場が建設されていく。さらに港湾も整備され、艦隊が停泊することも可能となった。ラバウルは現地人にとっても最大の商業都市であり、あまり大規模な艦隊を入港させて、オーストラリア系住民や兵士の警戒心を煽ってもまずい。そこで、中心部から少し離れたこの場所に、新たな軍港が建設されることになった。摩耶とふたりきりだった木造鎮守府にも、艦載機搭乗員たちが訓練のために宿泊することが決まった。賑やかになると喜ぶ渋谷をよそに、摩耶は少し不機嫌になった。まだ人間を信用しきっていない様子だった。

 そんなおり、ラバウル司令部から渋谷のもとに電報が届いた。

 ついに、このときが来た。前線に集中していく戦力を見て、渋谷は気が引き締まる思いだった。その詳細を眺めていると、渋谷は駆逐隊司令官の欄に驚くべき名前を見つけた。

 

 ニューギニア島制圧部隊、ラバウル第二軍港に入港予定。艦娘、海軍艦混成部隊。

 

 連合艦隊 司令長官 山本五十六大将

  第一戦隊    司令長官直卒

           戦艦「大和」「長門」「陸奥」

  第三水雷戦隊  橋本信太郎少将

           軽巡「川内」

   第一一駆逐隊 幾田サヲトメ中佐

           駆逐「叢雲」「白雪」「初雪」「深雪」

   第一九駆逐隊 大江賢治大佐

           駆逐艦「磯波」「浦波」「敷波」「綾波」

  空母隊     梅谷薫大佐

           軽母「鳳翔」「千代田」

   油槽艦

           「鳴戸丸」「東栄丸」

 

第一艦隊 司令長官 高須四郎中将

  第二戦隊    司令長官直卒

           戦艦「扶桑」「山城」

  第九戦隊    岸福治少将

           軽巡「北上」「大井」

  第二四駆逐隊  平井泰次大佐

           駆逐「海風」「江風」

  第二○駆逐隊  山田雄二大佐

           駆逐「天霧」「朝霧」「夕霧」「白雲」

   油槽艦

           「さくらめんて丸」「東亜丸」

 

 第二艦隊 司令長官 近藤信竹中将

  第四戦隊第一小隊 司令長官直卒

            重巡「愛宕」「鳥海」

  第五戦隊    高木武雄中将

            重巡「妙高」「羽黒」

  第三戦隊第一小隊 三川軍一中将

            戦艦「金剛」「比叡」

第七戦隊    栗田健男中将

            重巡「最上」「三隅」「鈴谷」「熊野」

  第二水雷戦隊  田中頼三少将

            軽巡「神通」

   第一五駆逐隊 佐藤寅二郎大佐

            駆逐「黒潮」「親潮」

   第一六駆逐隊 塚本信吾少佐

            駆逐「初風」雪風」「天津風」「時津風」

  第一一航空戦隊 藤田類太郎少将

            軽母「千歳」

            駆逐「早潮」

            工作艦「明石」

   油槽艦 

           「玄洋丸」「佐多丸」「鶴見丸」 

 

 

 

 

 山本大将自ら、トラック泊地に停泊している戦艦・大和を中心とした連合艦隊を率いて前線に出撃するらしい。横須賀急襲を受け、軍令部は大和をトラックから横須賀に戻そうとしたこともあったが、本人が断固拒否したと噂に聞いた。陸上の対艦砲の整備が進んできたこともあり、軍令部は大和を前線に送り、変わりに妹の武蔵をトラックに配置した。しかし渋谷にとって何より驚愕なのは、顔見知りの二人の提督までが、いきなりラバウルまで出向いてくることだった。

 白峰の敵討ちのつもりか。前線に出る予定だった塚本はともかく、幾田の参戦は私怨が絡んでいるとしか思えない。幾田は白峰亡き今、女性士官を含めた海軍全体に求心力を有する偶像だ。救国のために立ち上がった英雄として、政財界のみならず国民の支持も厚い彼女である。良き広告塔を、わざわざ軍令部が危険な前線に出すとは考えにくい。

 それ以外にも、駆逐隊の編成はおかしなところが目だった。幾田麾下の第二、第三駆逐隊のメンバーは参加せず、秘書艦の叢雲だけを旗艦として据えている。塚本も、一番信頼できる漣を連れていないあたり、何か意図がありそうだった。

ともあれ、あと数日で幾田、塚本はラバウル泊地に到着する。その際、ゆっくり話を聞くつもりでいた。木造鎮守府のすぐ隣には、高級参謀が集う作戦本部の建物が急ピッチで建てられている。連合艦隊の司令部はあくまで大和だが、念のため陸地にも意思決定機関を設けていた。艦娘の宿舎兼交流所は鎮守府となる予定なので、かつての横須賀急襲の教訓を踏まえた立地となる。

幾田とは、きっちり話をしなければならない。艦娘たちを個人的な感情で動かしてはならない。提督としての本能が、そう渋谷に告げていた。

 

ところが、渋谷の腹積もりは、あっさりと覆された。そこからは、もう眠る暇もなかった。鎮守府の責任者として、艦娘たちの居住区を整備し、連合艦隊の誇り高き戦艦たちを迎える準備を進めた。さらに渋谷は、ラバウルにおける艦娘交流会の仕切り役も押しつけられた。ほうぼうに走り回っている間、摩耶は少し不機嫌だった。

戦時下であるので、派手な出迎えは不要。山本長官じきじきの言葉はラバウルにも届いていたが、それを真に受けて礼を失すれば、今後の作戦立案や艦娘の運用に齟齬をきたしかねない。

渋谷の水面下での努力もあり、連合艦隊の入港は無事に終わった。居並ぶ軍人に混じり、渋谷は初めて戦艦娘の姿を仰ぎ見る。それは海を進む鋼鉄の城だった。連合艦隊旗艦・大和。司令部を守る無数の対空火砲、そして人類が扱える代物とは思えない、四六センチ三連装砲。彼女こそが海軍の象徴であり、進む先々で戦場に希望をふりまく帝国の雄姿なのだと、渋谷は思った。彼女に寄り添うように、両舷をかためる長門と陸奥。これだけの戦力があれば、もはや海に敵はない。軍人たちは皆、一様に彼女たちを讃えた。

 しかし、渋谷には見とれている時間もなかった。あとはお偉方に任せて、自分の任務を果たさねばならない。他の艦娘より一足さきに、鎮守府に着任した娘らがいた。教室を改造した会議室に、彼女たちは整列していた。

渋谷が率いることになる、新たな艦たち。

 念願かなっての駆逐隊。だが、やはり彼に与えられる隊は前例を打ち破る構成をしていた。

 

 第七駆逐隊「朧」「曙」「潮」「漣」

       通常なら四隻編成の駆逐隊だが、彼女たちに加え、

      「陽炎」「不知火」「霞」

 

 計七隻の駆逐艦たち。これが渋谷に与えられた第七駆逐隊の全貌であった。

「第七駆逐隊、着任しました!」

 ぴしりと敬礼して口上を述べたのは、個性豊かな陽炎型駆逐艦の一番艦、陽炎だった。

「これより七駆の指揮をとる、渋谷礼輔少佐だ。貴艦らの着任を歓迎する」

 敬礼を返しつつ、渋谷は新しい部下たちを観察する。これは手ごわい。摩耶と並ぶ有名人、「曙」と「霞」がいる。明らかに目つきが他の艦娘と違ってトゲトゲしい。いよいよ自分の艦隊は、問題児処理場の様相を呈してきた。渋谷は心のなかで溜息をついた。

「今日はこれで解散。各時、宿舎を確認したあと、自分たちの部屋割を決めておくように。そうだ、漣は残ってくれ」

 他の艦娘たちが退出するのを見届ける。潮と曙が、少し心配そうに漣に目くばせしていた。ひとり残された漣は、伏し目がちに渋谷を見ていた。

「提督」

 意を決したように漣は言った。

「たぶん、疑問にお思いでしょう。なぜわたしが第七駆逐隊に編入され、あまつさえあなたの指揮下に入ったのか」

「ああ。辞令を見た時、塚本とはよく話をしなければならないと思っていた」

「その必要はありません。わたしは、わたしの意志でここにいるのです」

 漣は語る。自らが仰ぎ見る塚本信吾という男は、信頼に足る提督であること。しかし、個人的な崇拝で駆逐艦たちの和を乱すことはできない。なにより、自身が第七駆逐隊の一員として戦うことを望んだ。漣は新たな提督に告げる。

「だから、わたしは彼のもとを離れました。以後、わたしは第七駆逐隊所属の漣です。よろしくお願いします。渋谷提督」

 渋谷は了承するほかなかった。漣は確かな決意を固めてここにいる。そして第七駆逐隊は、彼女を仲間として気にかけている。ならば言うことはあるまい。漣は安心したように息を吐いた。

「勝手ながら、少し鎮守府の外に出てもよろしいでしょうか?」

「待ち合せか?」

「はい、すぐに戻りますので」

 渋谷が許可すると、漣は駆け足で部屋を出て行った。

 

 第七駆逐隊の艦体が停泊する港。駆逐艦・漣を眺めながら、塚本信吾少佐は煙草をふかしていた。

「煙草、やめたんじゃなかったんですか?」

 荒い息をつきながら、漣が尋ねた。どうやらここまで走ってきたらしい。

「吸わない理由もなくなったからな」

 空に向かって煙を吐く。立ち上る白い筋が宵闇に溶けていく。大湊にいる間、塚本は煙草を断っていた。始めて部下になった娘が、煙草の匂いを嫌がったからだ。

「第七駆逐隊への編入を許可してくださってありがとうございました」

 深く漣は頭を下げる。

「おまえが自分で決めた道だ。かつての仲間と戦いたいというなら、俺に止めることはできん。なにせおまえは艦だ」

 塚本は言った。提督として艦娘と触れ合うにつれ、彼女たちには前世の記憶らしきものがあることに気づいた。戦争の記憶だ。駆逐隊を構成するとき、彼女たちの意志を尊重した。その結果、まるで水が高きから低きに流れるかのごとく、まったく自然に艦娘のまとまりができた。今考えれば、それは前世からの因縁であり絆だったのだろう。戦争の経緯を辿れるほど明瞭な記憶こそ残っていなかったので軍令部に報告はしなかった。しかし、微かに残る記憶は、彼女たちを知る上で重要な手掛かりであるように思えた。

 漣もそうだ。まだ顔も合わせていないうちから、「潮」「曙」「朧」という駆逐艦を懐かしがり、彼女たちと隊を組みたいと申し出てきた。

 それを聞いたとき、塚本は何も言わず送り出そうと決めた。

「だから、俺のことは気にしなくていい」

「気にしないわけないじゃないですか」

 少し語尾が震えた。見れば、降ろした両の手を固く握りしめている。

「秘書がいなくなって大丈夫なんですか。あのお転婆たちを上手く扱えるんですか」

「おまえが心配することじゃない。俺は提督だ。自分の部下を扱えなくてどうする」突き放すように塚本は言った。「おまえが従うべき提督は渋谷礼輔だ。これからは、あいつと戦うことだけを考えろ。あいつは良い奴だが、甘っちょろいところがある。提督と艦娘の間に齟齬ができれば、沈むのはおまえたちだ。それを忘れるな」

 塚本は煙草を投げ捨てた。小さな火が夜の波間に消えた。

「仲間を大切にしろ。提督を大切にしろ。互いに切磋琢磨し、自分の仲間と上司を自分で育てろ。俺の秘書を務めた艦だ。必ずできる」

 それが餞だった。漣は顔をあげる。そこにはいつもの笑顔があった。しかし彼女の双眸にはうっすらと涙が溜まっていた。

「了解しました。駆逐艦・漣、渋谷提督のもとで頑張ります。きっと、塚本少佐の名に恥じぬ戦いをご覧にいれましょう」

 でも、忘れないでください。漣は続ける。

「わたしのご主人様は、あなただけです。これからもずっと!」

 漣は走り出す。その背中が見えなくなるまで塚本は見送った。

 さて宿舎に戻らねば。かしましい部下たちが待っている。それにしても、と塚本は思った。まだ子どももいないうちから、娘を嫁がせる親父のような気持ちを味わうことになるとは。

 戦いが終われば、もう一度、こんな気分を経験することができるのだろうか。果てしない水平線を見つめる。遠い本土に残した妻を思う。

 



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第六話 真昼の長い悪夢

深海棲艦の恐ろしさを、まだ人間は知らない。本質的には深海棲艦も艦娘と同じで、経験により進化する存在だった。


 

 

 

 一九四三年二月。

 

 艦隊の火薬庫。

 渋谷が率いる異形の駆逐隊、重巡「摩耶」を旗艦とする、「朧」「曙」「潮」「漣」「陽炎」「不知火」「霞」から成る第七駆逐隊は、運用二週間にして、早くも同僚たちから不名誉な渾名を頂戴することになった。なにせ問題児が多い。まず曙と霞は平気で提督を罵倒する。演習に不満があれば命令無視は当たり前。さらに曙は霞と、霞は元祖第七駆逐隊の四隻とよく衝突した。演習が崩壊しかかるたび、摩耶が怒って威嚇射撃をする始末。それに対し、指揮権の濫用だと叫び、応戦する駆逐艦。漣や潮が曙を宥め、陽炎が霞を宥めることで、どうにか部隊としての体裁を保っていた。しかし事態をややこしくするのは、摩耶、曙、霞だけではなかった。隠れた問題児がいたのである。それが朧だった。第七駆逐のオリジナルメンバーだった彼女は、合併相手である第一八駆逐隊の面々を快く思っていなかった。とくに長女気質でリーダーシップの強い陽炎が、「第七駆逐隊」駆逐艦の代表として周知されていることが許せないようで、元一八駆のメンバーにつっかかる。

 同じ部隊内に、幾重にも火線が交差しあい、ちょっとの刺激で乱戦が始まる。まさにヨーロッパの火薬庫ならぬ艦隊の火薬庫であった。唯一希望があるとすれば不知火だ。彼女が傍にいるときは、曙と霞は大人しくなる。

 渋谷にとっての生命線は、リーダー的存在の陽炎、鬼軍曹のごとき威厳を持つ不知火、そして面倒見がよく優しい漣だった。この三人を如何に使いこなすかによって部隊の運命が決まる。訓練は毎日が冷や汗ものだった。まるで複雑極まる川渡しクイズに挑戦しているかのようだ。

 そこで渋谷は、午後の教練と夕食の間をつかって、麾下の艦娘を一日一人ずつ散歩にさそった。海岸沿いを歩いたり、それぞれの艦の甲板を一周したりした。とにかく会話しないことには絆は生まれない。曙と霞も、この時間だけは悪態を少なめにして、普段感じていることや仲間への感想を話してくれた。

 ただ、摩耶だけは誘っても来なかった。最近不機嫌な彼女は、新たな心配の種だった。

 摩耶のことは気になったが、今日は朧の番だ。気持ちを切り替える。彼女のリクエストで、渋谷は鎮守府から少し離れた磯辺を歩いていた。磯溜まりを覗きこみ、ヒトデや蟹を嬉しそうに捕まえる朧は年相応の少女に見えた。演習中の剣呑な空気が嘘みたいだ。

「最近、仲間たちとはどうだ?」

「あいつらを仲間だなんて思ってないよ」

 掌に乗せた蟹を眺めながら、さらりと朧は言った。

「あたしの仲間は、七駆のみんなだけ。陽炎型のネームシップか何か知らないけど、あいつが七駆の代表なんて認めない。なにさ、優等生ぶっちゃって。あいつがリーダーなんて認めてないんだから!」

 普段溜めこんでいた不満をぶちまけていく朧。新参者の陽炎と不知火が提督に頼りにされていることも気に喰わないらしい。渋谷への口調には棘があった。

「だが、陽炎はきみのことを嫌ってはいないぞ。もっと七駆の子たちと仲良くなりたがっていた」

「だから、そういうところが嫌いだって言ってんの!」

 声を荒げる朧。渋谷は神妙な顔をしつつも、そろそろ本音が聞けそうだと内心期待していた。

「どうしてあたしを嫌わないの。怒らないの。あたしは嫌われて当然のことをした。あいつの化けの皮剥がしたくて、ひどいことを言った。なのに」

 声に悲しみが混じり始めた。どうやら渋谷の与り知らぬところで一悶着あったらしい。じっくり腰を据えて聞く必要がある。渋谷は話を促した。

「どうせ一八駆でもリーダーだったんでしょ。仲間を守れなかったマヌケなリーダー。霰を沈めたマヌケ。初めて艦娘を海に沈めた馬鹿。それどころか、自分の提督も守れず殺してしまった。そんな奴がうちに来て、いきなり指導者づらすんな。あんたに任せたら七駆の仲間たちが殺される。殴られるのを覚悟で言った。でも、あいつは殴らなかった。泣いてたんだ。泣きながら逃げてった。でも明日には平気な顔してるんだ。笑って皆の先頭に立って、訓練に行くんだ」

 朧は言った。白峰の戦死、吹雪と霰の轟沈は、艦娘の間でも大きな影を落としているようだった。

「軽蔑した?」

 朧が問う。渋谷は黙って首を横に振った。

「まだ、きみを軽蔑したりしない。これからきみはどうしたい?」

 逆に渋谷は質問する。しばらく眉根を寄せて逡巡したのち、朧はそっと蟹を海に帰した。

「あいつと話をしたい。今度は逃がさないように、ちゃんと話したい」

 凛とした声。瞳には決意が灯っている。怒りと悲しみと寂しさ。それぞれの感情が燃えたぎり、彼女に力を与えている。

「行ってこい。ただし艦船による戦闘は許さん」

「ありがとう、提督」

 そう呟き、朧は走り出す。

 その後、鎮守府に戻り陽炎の部屋に飛び込んだ。幸い、同室の不知火と霞はいなかった。激しい口論が始まり、やがて殴り合いのケンカが始まる。騒ぎを聞きつけた霞を交えての乱闘が始まる。そこに曙が加わり、宿舎は地獄絵図と化した。呆れた不知火が長門に仲裁を依頼し、彼女の怒号とげんこつをもって事態は収束した。

 長門は怪訝な顔で渋谷に説明する。喧嘩していた当人たちは、楽しそうに笑っていたという。それを聞いた渋谷は安堵の息を吐いた。罰として朧と陽炎には一週間の風呂場掃除が科されたが、浴場には二人と並んでタワシを手にする渋谷の姿もあったという。喧嘩を煽った連帯責任とのことだった。

 

 朧と陽炎が和解したことで、ひとつだけだが火線が消えた。それだけでも艦隊運営はかなり容易になった。いよいよニューギニア侵攻の準備も本格的になり、演習の回数は増えていった。

 ようやく体裁の整ってきた第七駆逐隊を見て、南田中将は、艦娘同士の演習を許可した。

 相手は、幾田サヲトメ中佐率いる第一一駆逐隊「叢雲」「白雪」「初雪」「深雪」だった。彼女は今日、演習の挨拶がてらラバウル鎮守府を訪れる予定だ。問いただしたいことが山ほどある。ちょうどよい機会だと渋谷は思った。しかし、あの幾田がそうそう思い通り会話の席についてくれるはずがなかった。

 摩耶をともない、会議室で待機する渋谷。そこに現れた幾田は、予想外の人物を引きつれていた。

「久しぶりね、渋谷少佐。このたびは演習、よろしくお願いします」

 にこやかに幾田は言った。彼女の隣には二人の女性。秘書艦の叢雲とともに並ぶのは、まぎれもなく人間の女性だった。海軍の軍服、その襟元には少尉の階級章がついている。

「先に紹介しておくわね。ラバウルに創設された、艦娘空母部隊専門の航空戦力となる、第二二飛行隊に配属された、水戸涼子少尉よ」

「ご紹介に預かりました、水戸涼子です。よろしくお願いします!」

 元気よく敬礼する若い操縦士。まだ幼さの残る小顔。大きな瞳に、ショートカットの髪がよく似合う。艦娘に例えるなら千歳だろうか。戦闘機乗りとは思えない、可憐な女性だった。

海軍では小回りのきく艦載機のパイロットとして積極的に女性を任用していた。まだ数は少ないが、すでに実戦を経験している者も多く、その腕は男性にも引けを取らない。かつて幾田も艦上爆撃機の操縦をしており、飛行要員の女性士官たちは、皆が時代の先駆者である幾田を尊敬していた。その中でも水戸は幾田の秘蔵っ子だった。本土の予備練習隊では幾田が直接、彼女を指導した。あまりに熱が入り過ぎて、周囲から下卑た想像を向けられるほどだったという。

「彼女は、艦載機の操縦士として艦娘に乗ることを初めて了解してくれた人なの。やはり皆不安なのよ。いくら艦娘が人類の味方をしてくれるとはいえ、未知の兵器に命を預けたくはないでしょう? だから、こうして艦娘に搭乗する飛行要員たちは、艦娘と触れ合いながら訓練を受けてもらうの。ちょうど、鎮守府には鳳翔さんと千代田がいるから、パイロットたちもここで生活してもらうわ」

 幾田が説明する。なるほど、艦娘に続いて人間も加わり、さらにこの鎮守府は大所帯になるらしい。

「ちなみに、第二二飛行隊は女性を中心にした部隊だから、男性特有のがさつな指導は必要ないので気をつけてね。わかっているとは思うけど、女性士官に不埒な真似をすれば、本当に銃殺刑だから」

 友人といえども、きっちり釘を刺す幾田。女性の任用にあたり、軍令部は風紀を厳しくしていた。つまらない男女間のいざこざが起これば、戦争以前に帝国海軍の威信に関わるからだ。

 幾田は、前に出るよう水戸にすすめる。渋谷の前に立ち、若い女性はふたたび敬礼する。

「第二二飛行隊を代表して、鎮守府提督の渋谷少佐に挨拶に参りました。艦娘との交流におきましては、御指導御鞭撻、よろしくお願いします!」

 そう言って、きびきびと退出していく。渋谷は、半ばあっけに取られて彼女の後ろ姿を見送った。

「さて、あなたが渋谷くんの秘書艦ね」

 幾田の視線が摩耶にうつる。摩耶は一言も喋らず、じっと幾田を見つめていた。

「もし演習に出るなら、お手柔らかにお願いするわ。こちらは駆逐艦しかいないんですもの」

 そう言って、幾田は握手を求める。摩耶は何も言わず、差しだされた手を握り返した。彼女たちのやり取りを、少し離れたところで叢雲が見ていた。渋谷が出会ったばかりのころ、叢雲には表面的な怒りと不満ばかりが目についたが、今の彼女の瞳は深い感情をたたえていた。人間同様、艦娘にも気持ちの浮き沈みがある。しかし、まるで浮上することを忘れたみたいに、彼女の気持ちは深いところに留まり続けている。その悲しみとも憂いともつかない瞳の色が、今まで見てきた他のどの艦娘よりも一線を画する存在感を彼女に与えていた。

「では渋谷少佐、演習を楽しみにしています」

 終始、会話の主導権を握ったまま、有無を言わせず面会を締めくくる。艶やかな黒髪をなびかせながら、叢雲を従え颯爽と退出していった。

「あいつ、やばいな」

 ぼそりと摩耶が言った。

「あいつ、とは幾田中佐のことか?」

 渋谷が尋ねると、摩耶は苛立たしげに喉を鳴らした。

「戦争を知っている目だ。それも悪い方に傾いちまってる。あいつとは今初めて会ったけど、はっきり分かる。できればもう二度と鉢合わせたくない相手だ」

 そう吐き捨てると、「演習にあたしを出すのか?」と問うた。

「そのつもりだ。相手のほうが練度も高く、火器管制のための補助人員も乗船している。駆逐艦二隻、それにおまえが加わってようやく互角といったところか」

 渋谷が答えると、摩耶はほんの少しだけ表情を和らげた。

「気をつけろよ。ああいう奴は、何してくるかわからない」

 そう言って、早足に部屋をでていく摩耶。今からでも幾田を追いかけたい気分だったが、彼女は今回の作戦立案にも携わっている重要人物。下手に刺激して作戦本部との関係を悪くすれば、思いがけないとばっちりを食らう可能性がある。今は彼女と彼女の部下である艦娘を信じるしかなかった。

 

 演習は、大方の予想どおり幾田の勝利に終わった。

 観戦していた作戦部の参謀たちは、過酷な戦力差を引っくり返して勝利した幾田の手腕を讃えた。しかし、艦娘を直に率いる者にとって、あるいは砲火を交えた艦娘たちにとって、幾田の行動は感情的に受容できるものではなかった。

 当初、戦局は渋谷艦隊に有利だった。摩耶を先頭に、うまく一斉回頭をつかいこなし、敵が単縦陣に移行する前に同航戦の準備を整えた。ところが、そこから幾田の逆襲が始まった。深雪が単艦にて、渋谷単縦陣の懐に突っ込んできたのだ。これに喜んだ陽炎、曙、霞と、予想外の行動に畏れをなした潮、漣、朧が砲撃を開始。砲撃が深雪に集中している間、叢雲を先頭に幾田艦隊が摩耶の進路をふさぐようにして丁字戦に持ち込み始めた。ここで即座に摩耶が回頭を始めた。丁字不利になる前に砲雷撃戦にうつろうとした渋谷にとって晴天の霹靂だった。完全なる命令無視。突然の回頭に、駆逐艦たちは慌てふためいた。摩耶に続いてスムーズに逐次回頭ができたのは、陽炎と不知火だけだった。あとの艦は隊列を乱してしまい、ばらばらに回頭を始めた。海の上で進路を変えれば、その時間は敵から見れば止まっているのと同じで格好の的である。そこに、叢雲、白雪、初雪からの砲雷撃を叩きこまれた。演習用の弾や魚雷が実際に着弾することはないが、その砲撃音は皆を恐怖させた。 

 結果、逃げ切れたのは摩耶、陽炎、不知火のみ。漣は小破、朧、曙大破。潮と霞は轟沈判定となった。敵はといえば、深雪一隻のみ轟沈にとどめ、他は無傷だった。演習後の検討会は騒乱を極めた。いつもは、やれ動きがのろいだの、やれ砲撃が下手くそだの、指揮がなってないだの、提督を交えて仲間内での非難叱責がほとんどだった。しかし今回は違う。攻撃の矛先は、まずは敵の戦術に、つづいてそれを指示した幾田中佐に向いた。

「艦娘を愚弄してるわ! あんなの捨て艦と同じじゃない!」

 青筋を立てんばかりに霞が喚く。

「とかげの尻尾切りか。こんなふざけた命令に従う艦娘も艦娘なら、提督も糞極まりないわね」

 曙が憎たらしげに言った。

「深雪、可哀そう」

 泣きそうな顔で潮が呟く。

「あんな命令にも、ちゃんと従ってたよね。だから余計に可哀そうだし、相手の提督が許せないんだ」

 朧が強い瞳で渋谷にまくしたてる。

 艦娘たちが共通の敵を前に一致団結している反面、渋谷の心は揺れていた。完敗であることは明らかだ。それは提督の力量差として無条件に受け止めている。しかし、ひとりの人間としての渋谷礼輔は、やはり幾田の戦術に反発していた。捨て艦。霞の言葉が、脳裏にまとわりついて離れない。味方の艦を囮にする。本来ならば絶対にやってはいけない悪手だ。駆逐艦といえども、乗員は二百名を超える。それだけの人間を十死零生の戦況に放りこみ、むざむざ殺させるなど出来るはずもない。

 だが、艦娘となれば話は違う。人間が乗り込んでも数十人。もっといえば、艦娘ひとりでも航行が可能。ならば、駆逐艦一隻(一人)と引き換えに勝利できるのなら、と考えることは合理性から逸脱しない。

 こんなことを考えついた自分に嫌悪する。

 一通り敵への罵詈雑言を吐いたあと、おなじみの阿鼻叫喚の反省会に突入する。

「それにしても、あんたが命令無視しなければ、ここまでの被害は出なかったと思うわ」

 摩耶を指さす霞。彼女は相手が提督だろうが重巡だろうが物怖じしない。

「そうよ。なんで勝手に進路を変えたの? あのまま同航戦してれば、被害は変わらなくても相手を一隻くらい沈めることができたはずよ」

 珍しく曙と霞の意見があった。

「もしかして、怖かったの? たしかに、あのままだったらあんたに砲撃が集中してたわよね。火薬だけの空鉄砲が、そんなに怖いの?」

 霞の怒りは止まらない。本来なら鉄拳を食らってもおかしくない挑発。しかし摩耶は目を閉じたまま反論もせずに座っていた。それが余計に皆の神経を逆撫でした。

「開き直るの? なんとか言いなさいよ!」

 金切り声で霞が叫んだ。漣や朧たちの視線も、なんとなく非難の色を含んでいる。それでも摩耶は沈黙を保ち続ける。

「おい糞提督。あんたからも何か言いなさいよ。あいつは命令違反したのよ。あたしらがちょっと喧嘩しただけでギャーギャーうるさいくせに、なんで何も言わないの」

 曙が不満をぶちまける。たしかに摩耶が命令違反したことは事実だ。ここで何も言わなければ、依怙贔屓と受け取られ、部下の信用を失いかねない。

「摩耶、今回のことだが……」

 いきなり摩耶は立ち上がった。一瞬だけ渋谷を睨みつける。食いしばった歯。怒りに歪んだ目は、むしろ奥に隠れた悲しみを際立たせる。

 いつもの悪態をつくこともなく、摩耶は黙って部屋を去る。

「おいこら、逃げんな!」

 追いかけようとする霞の首根っこをつかみ、陽炎が制止した。

「落ち着いて。みんなして摩耶さんひとりを責めても仕方ないでしょ! 敵の囮に気を取られて砲撃して、集中力を欠いたのはわたしたちだって同じ。検討すべきは、わたしたちひとりひとりが、いかに敵の欺騙にひっかからないか。そうでしょう?」

 腰に手をあて、ぴしゃりと陽炎が言った。まだ不満げな霞や曙、朧を不知火が一睨みで黙らせる。

「摩耶さんは旗艦です」

 検討会でも滅多に喋らない不知火の言葉に、場が静まりかえった。

「旗艦が沈めばどういうことになるか習ったでしょう。艦隊は壊滅します。不利な戦況になれば、わたしたちは旗艦を守らなければならない。でも、あの状態ではできそうになかった。だから摩耶さんは一人で逃げざるをえなかった。ある意味、その判断は正しかったのです。命令違反は確かにいただけませんが、落ち度があるのは我々全員です」

 大人びた、静かな声だった。会議室は落ち着きを取り戻した。

 それ以降、検討会は珍しく理性的に進んだ。

「提督、申し訳ありませんでした」

 いつの間にか不知火が隣に来ていた。

「わたしたちはヒトであり兵器です。でも演習のとき、自分たちが兵器であることを忘れていました。個人の想いを優先するあまり周囲が見えず、合理的であるべき戦場の思考を失くしていたのです。その結果、敗北を招きました。戦いにおいては、兵器になりきるべきだったのです。深雪は兵器になりきっていたのでしょう。それが正しいのです。だから、わたしは彼女を憐れむことはしません」

 不知火は言った。その瞳は、駆逐艦娘とは思えないほど理知に満ちていた。

「きみの言う通りだ。しかし、きみたちが、きみたちの心がヒトであることは、まぎれもない事実だ。たとえ戦場における行動理念が兵器のそれだとしても、最後に従うべき心は人間であることを忘れないでほしい」

 そう言って、渋谷は立ち上がる。会議室を出た渋谷は、摩耶を探して鎮守府をかけずり回った。

「それは、ある意味、人間のエゴですよ。提督」

 少し寂しそうに不知火は微笑んだ。

 

 

 作戦本部の一室で、幾田サヲトメは何をするでもなく執務机に向かっていた。今回の演習は成功と言えた。もし摩耶が退避しなくても、こちらの損害は軽微だっただろう。部下の艦娘たちも指示の通り動いた。予定通りだった。幾田は重い腰をあげる。まだ海を見る気にはなれなかった。廊下から足音がする。壁に背をあずけ、飾り気のない天井を見上げる。

「提督、いるの?」

 ドアの向こうから秘書の声がする。幾田は入室を許可した。

「何よ、灯りもつけないで」

 入るなり、叢雲は不機嫌そうに言った。すでに陽は水平線の向こうに隠れている。暗闇に浸るようにして、幾田は生気のない顔で叢雲を見つめる。力なく垂れ下がる左腕。鈍く光る銀の指輪を、叢雲は忌々しげに一瞥する。

「今回の演習、あれはどういうことなの」

 正面から対峙する叢雲。深雪一隻を犠牲にする作戦を、叢雲だけは事前に聞かされていなかった。

「それを知ったら、あなたは演習中でも反発するでしょう。旗艦の決心が乱れたら、麾下の部隊は壊滅する。だから、あえてあなたには伝えなかった」

 さらり、と幾田は答える。

「ふざけないで!」

瞳孔を収縮させ、叢雲は吼えた。

「反発するに決まってるでしょ! 平気でわたしたちを囮にして犠牲にするなんて。深雪、泣いてたのよ。演習に勝って、誰も喜ばない。皆、不安でしょうがないのよ。本当の戦いで沈められたらどうしようって。これじゃ、あんたと一緒に戦えない。あんな作戦を平気で立てるあんたを信用できない」

 まくしたてる叢雲。いちばん辛そうなのは彼女だった。敬愛する提督だからこそ、艦娘である自分たちに仇為す行動が辛い。愛する人を許せないことが、こんなにも辛い。

「わたしのこと、嫌いになった?」

「ええ。今のあんたなんか大っきらい」

 叢雲は吐き捨てる。嫌いだ。死んだ人間に囚われて、愛する人間の形見を呪縛みたいな首輪に変えて。叢雲は叫びたかった。死者のことなど忘れろ。本当に婚約者を弔いたければ勝たねばならぬ。勝ちたいなら、艦娘だけを見ろ。

 わたしだけを見ろ。

 しかし、叢雲は言えない。彼女の心は人間と同じだ。愛する者を喪う気持ちは共感できる。残酷な言葉を吐きたくない。しかし、傷ついた心に鞭打ってでも幾田には自分の提督でいて欲しい。ともに戦い、ともに泣いて、最後には喜びを分かち合う仲間として。そのジレンマに挟まれ、叢雲は口を開けない。ただ喰いしばった歯の隙間から洩れる荒い息づかいが、やり場のない彼女の感情を物語る。

「ごめんね、叢雲」整った青白い顔に、寂しげな微笑みが浮かぶ。「それでも、わたしはあなたを使う。あなたたちを使う。勝つために」

 その目尻から、一筋の涙が伝った。形の良いおとがいから、ぽつり、ぽつり、と零れ落ちる。

「馬鹿!」

 怒りとも悲しみともつかない声で叢雲は叫んだ。提督に言ったのか、自分に言ったのか、それすら叢雲には分からない。ただ今は行動で示した。壁から引き剥がすように提督の身体を抱きしめる。提督は体を捩って抵抗するが、やがて抱擁に身をまかせた。震える両手が、弱々しく叢雲の腰に回り、縋るように爪を立てた。

 ただ、こうすることしかできなかった。言葉はいらない。どうせ互いを傷つけるだけだ。なれば叢雲は、さらに強く自らの提督を抱きしめる。幾田は静かに涙を流す。誰が為の涙なのか叢雲には分からない。それでもせめて、彼女の傷が癒えるよう、幼い身体でめいっぱい受け止める。いつの間にか自分も泣いていることに叢雲は気づいた。普段の彼女なら決して見せない、子どものようにみっともない、嗚咽まじりの号泣だった。

 

 

 結局、渋谷は摩耶を見つけることはできなかった。

 港の外れまで来てしまった。すでに陽は落ち、ラバウルの空には星がまたたき始めていた。鎮守府に戻るため波止場を歩いていると、前から人影が走ってくる。小柄な女性は、渋谷を見るなり笑顔で近づいてきた。

「こんな姿で失礼します。渋谷少佐ですよね。この前はお世話になりました」

 ランニングシャツというラフな格好で、水戸涼子少尉は言った。どうやら自主的に走り込みをしていたらしい。艦載機の操縦といえども機械式の操縦桿を動かすには、それなりに体力を消耗する。

「どうかしましたか? 元気がないようですが」

 目ざとく渋谷の表情を読みとり、涼子が尋ねる。摩耶と年齢層の近いこの子ならば、相談相手になるかもしれない。一縷の望みを渋谷は抱いた。

「恥ずかしい限りだが、秘書艦である摩耶とうまくいっていないんだ」

 摩耶が不機嫌になった経緯と、今回の演習のことをかいつまんで説明する。涼子は真剣に耳を傾けていた。

「ちょっと、この辺を歩きませんか」

 涼子の提案を受け入れる渋谷。海岸沿いを歩きながら、今度は彼女が自分の見解を述べていく。

「演習、見ていました。わたしは飛行機乗りなので戦術の深い知識はありませんが、あの状況では少佐の判断は正しかったと思います。僭越ながら申し上げますと、少佐の選択が百点とするなら、摩耶さんの行動は六〇点くらいでしょうか。間違っているとは言い切れませんが、やはり好ましい選択ではありません。それをあえて選んだというなら、摩耶さんには戦闘に勝つための戦術より、もっと他の何かを優先する戦術をとったということでしょう」

 これは、わたしの推測にすぎませんが、と涼子は続ける。

「摩耶さんは、少佐を守りたかったのだと思います。麾下の駆逐艦を犠牲にしてでも、提督の命を守るために戦闘海域からの離脱を選んだのだと。摩耶さんとは、まだ直接お話させてもらったことはありませんが、分かるんです。彼女は本当に少佐のことを大切にしています。新しい駆逐艦の子が入ってきて不機嫌になったのも、たぶん少佐といられる時間が少なくなって不満なのでしょう。彼女たちは人間と変わりません。優しさも悲しみも、誰かを想う気持ちがこじれて嫉妬したりなんかも、人間と同じです」

「では、やはり摩耶は俺の安全を確保するために」

「そうとしか考えられないです」

 涼子は自信に満ちた声で言った。不知火の言葉でなんとなく見当はついていたが、改めて指摘されると気持ちが混乱した。部下として自分を慕ってくれるのは嬉しい。しかし、そこから戦場の思考が抜け落ちて、単なる個人の我儘になってしまうのは危険だ。ふたつの想いに板ばさみになりつつも、渋谷は摩耶との関係を修復することを望んだ。涼子に教えを乞いたいのは、その手段だ。

「そういうことでしたら、何か贈り物をするのはいかがでしょう」

 涼子は少し照れたように言った。

「しかし、ご機嫌取りだと思われないだろうか」

「相手のことをよく考えて選んだなら、きっと大丈夫です。摩耶さんは、言葉づかいや表情はきついですけど、きっと繊細な心をお持ちなんだと思います。少佐だけが知っている彼女の繊細さにふさわしい贈り物ならば、きっと彼女は喜んでくれるでしょう」

「そういうものだろうか」

「はい。子女なら誰しも、贈り物を頂ければ嬉しいですよ。それが自分の性格に合致したものならなおさら。艦娘も普通の女子と同じなんです。わたしは訓練生のとき、航空母艦の鳳翔さんにお世話になったことがありましたから、よく分かります。同じなんです。だから、わたしは艦娘さんの空母に乗ろうと決めたんです」

 芯の通った声だった。気がつくと、鎮守府の近くまで歩いていた。渋谷は礼を言って涼子と別れる。そして摩耶のことを想った。乱暴で攻撃的でありながら、その思考は深く、感性は繊細な乙女そのものだ。そして驚くほど何事も器用にこなす。

 ふと、渋谷は思いついた。これなら摩耶のお眼鏡にかなうのではないか。さっそく渋谷は、まだ使用されていない木造鎮守府の奥へと足を進めた。

 

 

 演習から二日後。摩耶を先頭に、七隻の駆逐艦たちが逐次回頭の訓練を行っていた。重油がもったいないので、できるだけ速度を落としての航行だ。前線とあって、念のため火器の制御系統も掌握していたが、今のところ使用することはなさそうだ。艦首に立つ摩耶は忌々しげに鎮守府を睨みつけていた。珍しく渋谷は摩耶に乗艦していない。お偉方との会議と言っていたが、本当かどうか疑わしい。無性に沸いてくる悲しみを、無理やり苛立ちを燃やすことで掻き消していた。

「左四〇度、逐次回頭用意! 陸地の方角には敵が待ち構えていると思え。集中切らすな!」

 摩耶が指示を飛ばす。旗艦の摩耶に続いて、潮、曙、漣、霞、朧が一隻ずつ回頭していく。しんがりは陽炎と不知火が務めていた。今回はうまくいった。全員が隊列を乱すことなく向きを変えて進んでいく。

 時刻はもう正午だ。ここらで切り上げたほうがいいだろう、と摩耶は判断した。隊列を揃えての逐次回頭は本職の軍人でも難しい。駆逐艦たちは久々に成功の喜びを噛みしめている。

 摩耶が帰港を指示しようとしたとき、ふと潮から妙な通信が入った。

『あの、摩耶さん』

「潮か。どうした?」

『対空電探に変な反応がありました。故障しているかもしれないんですが、東の空に……』

 聞き終える前に、がばっと頭を上げる摩耶。索敵に全集中を傾け、雲のかかったソロモン海の空を睨んだ。乳白色の雲に、色の違和感が微かにある。それは横一列に並び、少しずつ、しかし確実に移動していた。

 ただちに信号を飛ばす摩耶。友軍機の返信なし。

「敵襲だ!」

 摩耶は叫んだ。駆逐艦たちが慌てる前に、対空火器の準備を通達する。つづいて鎮守府に対しても電信を送った。数分後、陸地に緊急時のサイレンが鳴り響く。

『敵航空機視認。その数……およそ二〇!』 

 不知火が報告する。いったいどこから来たのだろうか。本土急襲の教訓を活かし、島の周辺には常に哨戒艇が出ている。空母の類がいれば、すぐ発見されるはずだ。

「艦列を整える! 鎮守府に対し単縦陣をとれ! 敵機をひきつけ、対空砲火を浴びせろ!」

 鎮守府を守れ! 摩耶が怒号を上げる。敵機は恐ろしい速度で低空を飛行している。舐め切ってやがる、と摩耶は思った。完全に海の艦など眼中にない様子だった。

 艦娘の視力は、人間を遥かに上回る。すでに摩耶は敵機の全貌を捉えていた。空母に積むのは不向きな、巨大な翼。明らかに陸上から飛び立つことを前提に作られた大型の爆撃機だ。

 もし飛行場が爆撃されたら、戦闘機を出すことができなくなる。そうなれば空からは一方的に爆撃されることになる。大和の対空砲火をもってしても、敵の数によっては焼け石に水かもしれない。

 剣呑な灰色の翼が、ついに射程に入る。同時に、第七駆逐隊も敵の攻撃範囲に飲み込まれた。

「一機でも多く撃ち落とせ!」

 縦に並んだ艦が一斉に火を噴く。渡り鳥のような編隊を組んだ敵機が、ひとつ、ふたつと被弾して落ちていく。しかし敵は海上の艦娘たちに目もくれずラバウル泊地に飛来していく。

 彼方から爆音が聞こえる。ついに地上爆撃が始まったのだ。炸裂する火薬、鉄やコンクリが弾け飛ぶ音。艦体が摩耶の制御から外れようとしている。恐怖が体を突き動かす。鎮守府に戻りたい。あいつを助けたい。しかし、摩耶は自分の頬を叩いて正気を保った。ここで敵を食い止めることが、あいつを救う可能性につながる。そう艦体に言い聞かせた。

『味方の飛行機が飛んでるわ!』

 霞から通信が入る。飛行場から発進した戦闘機が、見事なドッグファイトで敵の爆撃機を撃墜していく。護衛の敵戦闘機とも互角以上に張り合っていた。摩耶の視力は、その中の一機を捉えた。尾翼の部分に、目立つ赤い稲妻マークが入った艦上戦闘機・紫電改。そのキャノピーから一瞬、見知った顔が見えた。水戸涼子といったか。あの日、いけすかない女性提督とともに鎮守府を訪れた操縦士。彼女の腕は群を抜いていた。敵三機に囲まれても一歩も引かず、粘り強い旋回でじわじわと撃ち勝っていく。

 そして、ついに大和、長門、陸奥からも対空砲火が始まった。海と空、挟み撃ちにされた敵機は次々と落されていく。だが、安心するのは早かった。

『第二波、来ます!』

 漣の声。陸のほうに気を取られすぎていた。さきほどの編隊よりもさらに多くの敵機がまっすぐ空を駆け抜ける。その中の一機が、弾幕をすり抜け、大和に急降下爆撃を試みた。大和の主砲塔を中心に爆煙に包まれる。しかし、煙が晴れたとき、大和は無傷のまま悠々と浮かんでいた。分厚い装甲は、五〇〇キロ爆弾一発程度ではびくともしなかった。

 だが、摩耶はじりじりと不利を感じ取っていた。敵の物量は圧倒的。このままでは押し負ける。第二波を退けると、しばらく不気味な沈黙が続いた。数十分後、またしても第三波が来襲する。戦闘開始から、すでに二時間以上。緊急発進した戦闘機は燃料がつきて着陸し、それでも警戒のため飛び続ける機は機銃の弾が底をついていた。

 先の見えない戦いに、皆が恐怖した。敵がやって来るまでの数十分は、永遠に等しく思えた。誰もが早く終わってくれと願った。

 あまりに長い昼は、幸いにも完全に矢弾のつきる前に、第四波をもって終了した。絶え間ない死の恐怖と、いつ終わるともしれぬ戦闘に極限まで神経をすり減らした操縦士たちが、まだ破壊されていない滑走路へと着陸していく。撃墜七という大戦果をあげた紫電改だが、キャノピーから降りる涼子の顔は憔悴しきっていた。

 今回の戦いで、艦娘の轟沈こそなかったものの、五本ある滑走路のうち三本が破壊され使用不能となった。さらにラバウル泊地司令部、市街も爆撃に見舞われた。木造鎮守府は、建物右側が火災により半壊した。戦闘機の被撃墜数は一二、この戦いでの死者は民間人を含め一〇〇を超えた。

 あれだけの敵機と戦い、よく持ちこたえた。本来なら称賛されるべきなのだろうが、生き残った人々の顔は一様に焦燥と恐怖に染まっていた。あの大型爆撃機は、どこから来たのか。空母からでは、まず離発着できないことを考えるに、可能性はひとつだ。

 深海棲艦が、陸に進出した。

 第三次深海棲艦ショック。

 おそらくソロモン諸島のどこかに敵の飛行場がある。西のニューギニア決戦を目の前にして、ラバウル泊地は、その東側にも恐るべき爆弾を抱え込むことになった。

 



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第七話 二正面作戦

陸生の深海棲艦に恐れおののく前線。泊地が爆撃されるだけではなく、その艦載機は本国から輸送されてくる、なけなしの補給物資をも無慈悲に沈めていく。
一刻も早いガ島攻略が望まれるなか、ひとりの若い提督が驚くべき作戦を提案する。

着々と作戦計画が進むなか、摩耶は独り、自分という存在について想いを巡らせる。


 

 

 

 一九四三年五月。

 あの空襲以来、南方の空は恐怖の対象となった。ラバウルの住人たちは、いつも頭上に怯えながら暮らしていた。この事態を受け、ただちに偵察がなされた。ラバウル以外に飛行場を持たない海軍は、敵が手薄な外洋にまで空母を進め、そこからソロモン諸島に向かって偵察機を飛ばした。そして、ついに発見された。ラバウルを襲った敵機の源。それは、ニューブリテン島より東に約一〇〇〇キロ。ソロモン諸島のひとつ、ガダルカナル島だった。島の沿岸に延々と続いていたジャングルの緑が、突如として途絶える。半径六キロはあろうかという巨大な円形の不毛地帯。まるで血液を煮詰めたような、赤黒く禍々しい色彩を地に落としている。平面に整えられた土地は、明らかに飛行場だった。近寄ると敵戦闘機が群れをなして襲ってくるので詳細は不明だが、偵察機からの打電によると、いくつもの滑走路が幾何学模様をなし、膨大な機体が待機しているらしい。さらに、その円形の中央には、白いヒトのような姿を確認したという。

 陸生の深海棲艦。予想を超えて進化する敵に、軍令部は震えあがった。

 ニューギニア方面に集中するはずだった戦力は、急遽ソロモン諸島にも割かれることになった。トラックからも訓練を終えた大型の空母部隊が援軍として準備されていた。『飛行場姫』と呼称されるようになった新手の脅威をいかに排除し、空の安全を取り戻すか。作戦本部では、昼夜問わず議論が進められた。

 だが、渋谷少佐の意識は別のところに向いていた。敵機の爆弾が鎮守府に命中し、木造の建物は薪のようによく燃えた。鎮守府に待機していた艦娘や渋谷は、とにかく炎を広げないよう、本棟と右建物を繋ぐ渡り廊下を破壊した。懸命な努力により、なんとか本棟と艦娘たちの居住区を守ることができた。渋谷は、まだ壁に焦げ跡が残っている本棟の奥へと進んだ。艦娘たちにも開放されていない、今は物置として使用されている部屋だ。空襲の前、渋谷はここを一人で掃除していた。右建物から噴き出す火が、本棟の屋根を舐めはじめたとき、もう駄目だと思ったが、風向きが良かったこともあり、なんとか全焼は免れた。

 昼だというのに薄暗い廊下を歩く渋谷。その後ろを、摩耶がふてくされた顔でついてくる。

「で、なんだよ。あたしに用って」

 とげとげしい口調で摩耶が言った。

「渡したいものがあるんだ」

 演習での不和もどこ吹く風で渋谷は答える。口さがない艦娘の相手は、もう慣れていた。廊下の突き当たりまで進み、教室らしき部屋の扉を開ける。入るよう摩耶を促す。彼女は不審そうにドアをくぐった。

 そこには光が満ちていた。磨かれた窓ガラスに曇りはなく、太陽の光を余すところなく享受する。爽やかなラバウルの風に揺れる純白のカーテン。教室みたいだが、部屋は空っぽだ。椅子も机も、余計なものは何もない。黒板と、たくさんの本棚が壁に並ぶだけ。夏の匂いがする。なぜだか、摩耶はそう思った。

「ほら、これだ」

 渋谷が部屋の隅を指さす。黒板の横に、見慣れない大きな箱のような物体が鎮座している。摩耶は一瞬、それが何であるのか理解できなかった。

「ピアノだ。知っているか?」

 渋谷の言葉で、ようやく摩耶はその物体の意味を理解する。これは楽器だ。両指をつかって音を鳴らす楽器。知識はあるが実物を見るのは初めてだ。ゆっくりとカバーを開く。白と黒の模様が並んでいる。八十八鍵のアップライトピアノ。そのなかのひとつを、そっと人差し指で押さえる。弾かれた弦のように、神経までが音で震えた。生まれて初めて触れた音楽が、摩耶の頭に直接響いた。

「どうして、こんなものを、あたしに?」

「おまえは手先が器用だからな。こういうのが得意じゃないかと思った。好きにつかうといい」

 そう言って、部屋から出ようとする渋谷。あっけにとられながらも、摩耶は彼を引き留めた。

「おい、気味悪いな。この間のご機嫌取りでもしてるつもりか?」

 問い詰めてくる摩耶。しかし、その声に険はなかった。

「いいや。ただ、おまえに似合うと思っただけだ。楽譜は棚にある。読み方は分かるか」

「あ、たぶん」

 摩耶が答えると、さっさと退出する渋谷。しばらく部屋の中央に佇んでいたが、ふとピアノが目に映り、吸い込まれるように椅子を引いた。白い鍵盤を順番に押さえていく。生きるために必要のない音。なのに、なぜこうも世界が色づいて見えるのか。摩耶の記憶は、破壊と炸裂の音で満たされていた。斉射される砲弾、穿つ敵の装甲。引き裂かれる鉄の悲鳴。軋み。小気味いい機銃の掃射音。摩耶にとって生を実感する音。圧倒的な音だ。なのに、その巨大な音が押し負けている。からくりの玩具みたいな木箱の奏でる音楽が、戦争の音を洗い流していく。生きるために必要のない音こそが、摩耶の一番深いところで鮮やかに踊る。

 摩耶は壁際の棚から楽譜を取り出す。音符の意味と読み方は知っている。気がつくと、誰が残したのかも知らない曲を、ひたすら自分の音に変えていく。まだ縺れる指先を必死に繰り動かした。気がつくと楽譜が読めなくなるくらい、とっぷりと陽が暮れていた。

 翌日からも、摩耶は時間が許すかぎりピアノ部屋に通い続けた。あらゆる楽譜の音をなぞるうちに技術は向上した。楽譜の指示に従うだけではなく、音のテンポや強弱に、そのときどきの感情を乗せたりした。独創性が生まれるにつれ、曲の好みも分かってきた。より共感できる曲。自分の魂が震える曲。難易度が高く、叙情的で激しさと優雅さを併せ持つ曲ほど、弾いていてしっくりくる。とくに好きな作曲家は、リストとショパンだった。摩耶は二人の生い立ちなど知らない。しかし、互いに超絶技巧でありながら、リストの曲には他の追随を許さない、高みへと突き抜けていく鋭さがあった。それに対し、ショパンは万人を包み込んで魅了する天衣無縫の柔らかさがある。摩耶の指は、この二人に寄り添うように複雑な旋律をものにしていく。

 摩耶は思う。艦である自分にとって、これほど無意味な行為はない。しかし、無意味であればあるほど心が満たされるのだ。戦うためにある両指が、無力で美しい音を奏でるという矛盾。その矛盾のなかに、摩耶は艦ではなくヒトとしての幸福を感じ始めた。

 彼女のピアノは、すぐ鎮守府に知れ渡った。旧校舎から微かに聞こえる謎の楽曲。その奏者が摩耶であると分かった時、駆逐艦たちは一様に驚いた。

「わたしは知ってたわよ」得意げに霞は言った。「休み時間になるごとに、摩耶はどっか行っちゃうでしょ。鎮守府から出てる様子はないし、ちょっと後をつけてみたの。観察眼の勝利ってやつかしら。ま、わたしはピアノなんて興味ないけど」

 ふふん、と高笑いする霞。曙が忌々しげに霞を睨んだ。曙は、謎のピアニストのファンだった。そこにちょうど、渋谷が通りかかる。

「そういや、霞はいつも廊下で演奏を聞いてたな。せっかくだから入ったらどうかと勧めても―――」

 渋谷が言い終わる前に、顔を真っ赤にして霞が飛びかかかる。

「そこで摩耶に相談したら、あっさり許可してくれた。今は俺と霞のふたりで演奏を聴いているわけだ」

 渋谷の言葉で目の色を変える娘たち。

「なんで言ってくれなかったの? ずるいじゃない」

 渋谷から霞を引っぺがし、陽炎が笑う。

「ほんとは好きなくせに、強がっちゃってまあ」

 朧の呟きに、霞が再び牙を剥く。彼女たちは満場一致で、摩耶のところに行くことを決めた。摩耶は二つ返事で許可した。皆が余っている椅子を持ちこみ始め、最近では第一一駆逐隊や、第一六駆逐隊の面々も演奏会に参加するようになった。

「陽炎姉さん、不知火姉さん、ご無沙汰してます」

 天津風が挨拶する。普段、なかなか演習でも会えない姉妹と思わぬところで繋がりができ、陽炎たちは喜んだ。いつの間にか演奏前後の会場は、艦娘たちの社交場になっていた。音楽に興味をもつ者も増え、摩耶に演目をリクエストするようになった。演奏の評判が駆逐艦たちのお喋りから一気に広まり、最近では長門や陸奥、新しく着任した赤城、加賀といった大型艦のメンバーも足を運ぶようになった。あの大和ですら、一度顔を出したほどだ。

 やがて、歌が好きな艦娘や、ダンス好きな艦娘が相まって、会場をさらに賑わせる。摩耶も彼女たちの要望に合わせて曲を提供した。椅子だけではなく机も持ちこまれ、音楽室は活気に満ちた社交場となった。

「もしかしたら、提督の目論み通りだったのかもしれませんね」

 駆逐艦寮に戻る途中、不知火が言った。

「そうね。他の駆逐隊の子とも仲良くなれたし。とっつきにくかった戦艦や空母の人とも打ち解けることができた」

 陽炎が答える。これから起きる大きな戦い。それに向かう艦娘たちへの慰問。皆の表情が明るくなり、笑顔が増えた。艦娘同士のいさかいも目に見えて減少した。ちょっと前まで演習のたびぎくしゃくしていたのが嘘みたいだった。

「良い提督だと思います。わたしたちの命を預ける存在としては」

 落ちついた声で不知火は言った。渋谷礼輔が艦娘部隊の総指揮をとればいい。思わず喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 

 

 一九四三年五月。

 ラバウル空襲を受け、作戦本部は決定をくだした。

 ニューギニア方面に控える深海棲艦の大部隊と、ガ島の飛行場を同時に叩く、二正面作戦である。敵に連携する隙を与えず、南方の海と空を制する、まさに戦争が始まって以来の艦隊決戦の様相を呈してきた。ガ島を攻める新たな戦力として、正規空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」がラバウルに着任した。

 飛龍に乗艦するのは、かつてハワイ奇襲の途上で、艦娘と深海棲艦に始めて接触した人物、山口多聞少将である。あの戦い以降は内地勤務に移り、未来の連合艦隊司令長官、軍令部総長を期待されていた。しかし、艦娘である飛龍が、山口を自らの提督に強く推薦した。当初、軍令部は彼女の要求に否定的だったが、飛龍本人と直接面会した山口は、彼女の希望に応えようと決めた。いち艦娘の意見が軍令部の人事を動かすほど、艦娘の力は軍部に浸透していた。

「彼女には縁を感じる。ただならぬ縁を」

 のちに、山口少将はそう語っている。

 しかし、大規模作戦を展開するにあたって、ひとつ問題があった。武器、弾薬、糧食など、戦争物資の補給である。戦線が一気に拡大したことで、補給線も必然的に伸びてしまった。人類製の船が艦娘の庇護もないまま長い航海に出れば、深海棲艦の餌食になるのは目に見えていた。そして帝国には、不足した船腹量を補う造船工業能力もなければ、そもそも鉄鋼などの資材もない。陸軍、海軍に徴傭される民間船舶は増えつづけ、ついには国内間の海上輸送すら困難になっていた。

 本土での圧倒的物資の不足、そして脆弱な補給線。艦娘という新たな力を得て勝ち続けてきた代償に、前線の兵だけではなく銃後の国民にさえ飢えと欠乏の兆しが色濃く出始めていた。

 飛行場姫が出現してから、輸送船舶の撃沈は急増した。わずか三カ月の間に、空襲によって一四隻・約一〇万トンが、なけなしの補給物資を道連れに沈んだ。敵潜水艦による撃沈数を合わせれば、さらに被害は拡大した。この事態を憂慮した大本営は、練度の高い駆逐艦を船舶護衛にあてることを提案した。しかし、南方では艦隊決戦が迫り、パラオ方面ではフィリピン侵攻のための作戦が進んでいる。さらに、本土の防衛や占領地の警戒にも艦娘は必要となる。護衛に回せる人数には限りがあった。長距離の輸送任務につく艦娘は激務で神経をすり減らした。いつ襲ってくるかもしれない敵艦や潜水艦を警戒して、二四時間気を張っていなければならない。延々続くストレスは拷問にも似ていた。疲労が溜まり、任務に支障をきたすこともあった。

 敵航空機が跋扈するにつれ、南方への補給は深夜に船を進める「ねずみ輸送」に頼るしかなくなった。

 この事態を受け、軍令部の出した結論は、できる限り速やかに敵勢力を粉砕し、海上輸送網に平和を取り戻すという内容だった。そのため南方戦線の作戦部は、拙速を強いられることになった。かくして、一航戦「赤城」「加賀」、二航戦「飛龍」「蒼龍」という、空母艦娘の顔とでも言うべき大戦力が集結したのである。

 ガ島飛行場破壊のため、新たに組織されたのは、

 

第一航空艦隊 南雲忠一中将

 第一航空戦隊 南雲中将直卒

          空母「赤城」「加賀」

 第二航空戦隊 山口多聞少将

          空母「飛龍」「蒼龍」

 第八戦隊 阿部弘毅少将

          戦艦「榛名」「霧島」

          重巡「利根」「筑摩」

 第一〇戦隊 木村進少将

          軽巡「長良」

  第四駆逐隊 有賀幸作大佐

          駆逐「嵐」「野分」「萩風」「舞風」

  第一〇駆逐隊 阿部俊雄中佐

          駆逐「朝雲」「巻雲」「風雲」「秋雲」

  第七駆逐隊(空母護衛部隊)

        渋谷礼輔少佐

          重巡「摩耶」

          駆逐「朧」「曙」「潮」「漣」「陽炎」「不知火」「霞」

 

 それらに加え、第三戦隊から「金剛」「比叡」が、直衛隊として第一九駆逐隊「磯波」「浦波」「敷波」「綾波」、前哨警戒として第二水雷戦隊より「神通」、第一五駆逐隊「黒潮」「親潮」が、新たに艦砲射撃部隊として編入された。第七駆逐隊は、練度は未熟であったが、空母艦娘の文字通り「盾」として、重巡を旗艦とする異例の編成のもと、出撃が決まった。

 

 戦力は整った。あとは、その戦力をどのように動かすか。南方の運命は、この一点に委ねられている。

 ガ島攻略は、単純な艦隊決戦よりも遥かに厄介だった。敵は沖合二〇海里まで哨戒艇を出しており、もし発見されたら、すぐに戦艦、軽母の機動部隊が押し寄せてくる。かといって、艦載機での攻撃を行おうとしても、やはり二〇海里付近まで迫ると敵の電探に引っ掛かり、飛行場からスズメバチのごとく戦闘機が溢れ出てくる。敵の戦力が未知数である以上、積載数に限界がある空母での制空権争いは危険すぎた。

 困難極まる問題に、たったひとつ冴えたる解答を与えたのは幾田サヲトメだった。

 彼女の提案した作戦は、並みいる高級参謀たちの度肝を抜いた。海戦の常識をひっくり返す、革命的な戦術だった。

「艦載機を夜間運用します」

 躊躇いも気負いもなく、あっさりと幾田は言った。これには歴戦の艦娘も半ば呆れ顔だった。艦載機を夜に飛ばしたところで敵味方とも戦闘はままならない。しかも暗闇のなかでの着艦はナンセンスだ。下手をすれば機体の大部分を喪う可能性もある。だが、二航戦の司令官である山口少将は、幾田に続きを促した。

「確かに、敵艦載機や敵艦を標的とした艦載機の夜間飛行は無意味です。暗闇のなかでは、どこに敵がいるのかも分かりませんから」

 艦娘たちの反応を窺いつつ、幾田は言葉を切る。ほとんどが不安と懐疑を顔に浮かべている。ただ飛龍だけは、好奇心を目に宿していた。

「けれども、今回の目標は艦ではなく島です。島は動くことはありません。発艦の場所と飛行場の方角をしっかり押さえていれば、夜間であっても迷うことなく目標に辿りつけます」

 会議室にどよめきが生まれた。渋谷や塚本など、彼女と親交の深い者にとっては、否が応でも海に散った天才を想起させる内容だった。

「そうは言っても、着艦はどうするの? 薄明攻撃をするとして、陽が昇れば敵も戦闘機を出してくる。もし夜間に作戦を完遂するなら、どうしても夜間着艦が必要になる。搭乗員の命を預かる空母として、無茶な作戦は聞けないわね」

 艦娘のなかでも特に練度の高い、一航戦の正規空母・加賀が毅然と言った。彼女の発言に対し、何人かの将校が不愉快そうに顔をしかめる。

「空母に着艦はしません」

 その疑問を予期していた幾田は、自信を持って答える。

「飛行場を攻撃した機は、そのままラバウルまで戻ってもらいます。ガ島とラバウルの間に我が軍の飛行場はなく、往復に加え戦闘となれば燃料が足りず、操縦士の疲労も心配されます。できる限りガ島に接近したのち、ガ島からラバウルへの片道だけなら飛行は十分に可能です」

 幾田の説明により、艦娘たちが耳を傾け始める。

「部隊を二つに分けます。空母機動部隊と、海上攻撃部隊。夜間発艦し、薄明攻撃を行います。身軽になった攻撃機は、戦闘機をともなってラバウルに帰還。空母機動部隊は、発艦を終え次第退却。万が一夜間に会敵しても、相手も艦載機を飛ばせないので第八戦隊と第十戦隊で空母を守りつつ退却できます。第三戦隊を中心とする海上攻撃部隊は、ガ島正面からの夜戦を試みます。おそらく敵の守備隊との会敵が予想されます。可能ならば飛行場に艦砲射撃。もし夜明けまでに敵海上戦力を打破できない場合、すみやかに退却してください。目的は、あくまで敵の撹乱です。海からの攻撃が本命と思わせておいて、空から艦載機が爆撃を行います」

「了解ネ!」第三戦隊の旗艦である金剛が言った。「飛行場には、ワタシ自慢の三式弾をお見舞いしてやるデース」

「お姉さまは、必ず比叡がお守りいたします」

 同じく第三戦隊の比叡が拳を握った。

「どうだね、飛龍?」

 山口が尋ねる。

「やってみる価値はあると思う。戦う相手が決まってるから、不確かな艦隊戦よりずっとやりやすい。ヒコーキさんたちも、迷うことなく攻撃して帰ってくることができる」

 例え、わたしたちが沈んでも。最後の言葉を飛龍は飲みこんだ。

 かくしてガ島方面の作戦は決定された。

 ニューギニアと合わせて、同時進行の二正面作戦。この作戦は、ただちに連合艦隊司令長官の裁可を得た。

「渋谷、漣を頼むぞ」

 鎮守府に戻る途中、一言だけ塚本が呟いた。他の司令官のもとに移った艦娘を、元部下というだけで特別扱いするのは軍人倫理に悖る。それでも塚本は言わずにはいられなかった。渋谷は、ただ笑みを返した。

「もちろんだ。武運を祈る」

「互いにな」

 若い二人の提督は、歯を見せて笑った。渋谷はガ島に、塚本はニューギニアに。いつかのときと同じ、必ず生き残ろうと誓いを立てた。

 

 ラバウル鎮守府に夕暮れが訪れる。

 明日は、いよいよ出撃のときだった。深海棲艦との戦いで、歴史上最大となる決戦。艦娘たちは、思い思いの場所で時間を過ごしていた。渋谷は、いつものように海岸に沿って散歩をしていた。今日は部下を連れていない。別の目的があったからだ。しばらく歩くと、軽やかな足音が聞こえてくる。決戦を明日に控えてもなお、彼女は自らの日常を貫きとおしていた。

「水戸少尉、ご無沙汰しています」

 渋谷が声をかける。黄昏を背に涼子は足を止めた。

「こんばんは、少佐。すみません、またこんな格好で。こうしていないと落ちつかなくて」

 少し息を弾ませて涼子は微笑む。

「先の空襲では大活躍だったね。初の出撃で七機撃墜とは、おみそれしました」

「とんでもないです。敵の練度が低かったせいで、わたしの技術が特段優れていたわけではありません」

 慌てて否定する涼子。しかし彼女の活躍は、ラバウルで戦った誰もが認めている。まだ黎明期の只中にいる女性搭乗員にとって水戸涼子は、まさに行くべき道を照らす希望の星だった。

「それで、わたしに何か御用でしょうか?」

 所在なさげな渋谷の様子を見て、涼子が尋ねる。彼女の言葉で、渋谷は自分の目的を思い出した。

「そうだ、あなたに渡したいものがあった」

 そう言ってポケットから包紙を取り出し、涼子に手渡した。

「この前、部下のことで悩んでいたとき、あなたの的確な助言のおかげで問題が解決した。そのお礼のつもりだ」

 渋谷は言った。しばらく涼子はポカンと袋を凝視していた。

「ここで開けても?」

 わずかに頬を上気させる涼子。渋谷が頷くと、彼女は壊れ物でも扱うかのように、そっと袋を開いて中身を取り出す。渋谷が贈ったのは、ハンカチだった。全て絹で織られており、透かし絵のような美しい刺繍が施されている。ラバウルの街でオーストラリア商人から無理して買い取ったものだ。風に生地がそよぐたび、夕陽の光を浴びてキラキラと模様が翻る。ガラスで織られたかのような一品に見とれつつ、涼子は愛おしげに両手で包み込む。

「ありがとうございます。殿方に、こんな素敵な贈り物を頂いたのは初めてです」

「きみには本当に助けられたからな。貰ってくれると嬉しい」

 自分でも気づかないまま、渋谷の口調は弾んだものとなっていた。

「もちろんです。大切にします」

 ハンカチを胸に抱きとめ、涼子は言った。

「きみは、山口提督の指揮下で飛龍に乗る予定だったね?」

「はい。ガ島爆撃部隊の護衛として出撃します」

 凛とした瞳で涼子は言った。彼女の覚悟に微塵も揺らぎはなかった。第七駆逐隊の役目は空母の護衛。そこから飛び立つ彼女を守る術はない。

「どうか、無事で」

「渋谷少佐も」

 二人は別れ、歩きだす。今まで感じたことのない、寂しさにも似た胸の痛みに渋谷は少し困惑した。

 

 鎮守府に戻ると、すっかり陽が落ちていた。

「おい、どこほっつき歩いてたんだよ」

 玄関で早くも不機嫌そうな声につかまる。待ちくたびれたという様子で摩耶が言った。つかつかと渋谷にせまり、いきなりその腕を掴む。

「ちょっと来い」

有無を言わせぬまま早足で歩きだす。どこに行くんだといぶかしむ渋谷を無視し、摩耶は鎮守府の奥へと向かう。そこは音楽室に続く廊下だった。渋谷にとってはほとんど暗闇だが、猛禽のように眼の良い艦娘は、躊躇いなく進んでいった。

「月あかりがあれば十分だ」

 そう呟き、摩耶は音楽室の扉を開く。部屋から色が消え、水底に沈んだように青白い光が満ちている。星と月の光だ。窓の外には無数の煌めきが散りばめられ、いっとう明るい月は星々を統べるように南天の空に鎮座している。

「おまえに聞いてほしいんだ。あたしのピアノを」

 夜の空に包まれた演奏会場。強い意志を宿した瞳が渋谷を見ている。思えば、いつも演奏を聴くときは他の艦娘たちと一緒だった。ふたりきりの演奏会は、これが初めてだ。渋谷は頷き、椅子をピアノの横に置いた。摩耶の横顔も指の動きも、すべてを視界に収めることができる。

「感謝する」

 椅子に腰かけ、摩耶が言った。彼女に面と向かって礼を言われたのも初めてだった。

 ピアノの蓋を開ける。普段の荒い言動には不似合いな、白く細く美しい指が、ふわりと鍵盤の上に舞い降りる。摩耶の気遣いが聞こえる。繊細な神経の張り巡らされた指先が、ゆっくりと鍵盤に沈む。静寂のなかに生まれた音が、ふたたび夜の闇に溶けていく。ゆったりとして綺麗な音だ、と渋谷は思う。

 その瞬間、始まった。

 優しい静寂が終わる。高音から低音へ、階段を駆け下りていくかのように怒涛の旋律がほとばしる。そして今度は駆けあがり、また複雑な旋律が螺旋に絡まりながら、高音、低音を巻きこんで音の飛沫をつくりだす。まるで時化た大海原のように豪快、しかしながら、その圧倒的な音は優雅さや気品も従える。

 摩耶の指が生みだす鍵盤の波が、音のうねりと化していく。

 渋谷は、ただ見つめていた。一瞬たりとも摩耶の横顔から目が離せなかった。高みに導かれていく音とともに、瞳に光が収束していく。燃えるでもなく爆ぜるでもなく、純粋な光が強まり、放たれている。

 やがて演奏は終わりに近づく。激しさと美しさを従えたまま旋律は頂点にのぼる。そこには光があった。摩耶の演奏。その時間だけは夜が終わっていた。

 最後の一音が消える。そのときようやく、ふたりの世界に夜が戻ってきた。

 指を降ろした摩耶が、目を閉じて空を仰ぐ。拍手をしようにも渋谷の手は動かず、立ち上がることもできなかった。彼女の演奏に、何をもって応えればいいのだろう。ゆえに座して沈黙することしかできなかった。

 ショパン エチュード 作品二五の一一 木枯らし

 あの時間だけは、それはまぎれもなく摩耶の曲だった。

「なあ、提督」

 眼の光が消えている。静かな表情をたたえ、摩耶は立ち上がる。

「あたし、人間だよな?」 

 月光を背に、少女が尋ねる。自信に満ちていて、だけど少し不安げな、屈託のない笑み。ああ、これが、これこそが摩耶なのだ。

「もちろんだ」

 渋谷は言った。うまく笑えたか分からない。それでも彼女の提督として、彼女の全てを肯定する。

「聞いてくれてありがとな。おまえがくれたピアノで、ここまであたしは出来るんだってことを知って欲しかったんだ。戦争のための道具じゃない。戦い以外のことも出来る身体なんだってことを」

 照れ隠しのように背を向ける摩耶。双眸には涙が滲んでいた。そのまま少女は夜の部屋を走り出る。扉を開けて立ち止まり、背中を見せたまま渋谷に告げる。

「おまえを守るよ」

「艦隊を守れ」

 とっさに口をついて出た言葉。すでに駆けだしている摩耶。まるで渋谷の返答を拒むかのように、彼女の足音はあっという間に遠のいていった。

 そして男と少女は、戦いのときを迎える。

 



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第八話 水底に鉄を敷く

ついに始まった、ニューギニア侵攻・ガ島飛行場破壊の二正面作戦。
深海棲艦との戦争が始まって以来、最大の艦隊決戦が予想されていた。

戦地に赴く艦娘と軍人は何を思うのか。

そして深海棲艦は、雌伏の時を経て新たな進化へと至る。
深海棲艦の歴史上、最悪の存在がソロモン海に接近していた。


 

 

 〇三〇〇。

 山本長官率いる連合艦隊、そして第一、第二艦隊は、ひっそりと真夜中のラバウルから出港した。戦艦と空母を中心とし、前哨には麾下の駆逐艦を配置している。敵は島の北と南に別れているようだが、連合艦隊が狙うのは南のポートモレスビー港だった。陸地への海上ルートを確保できれば、あとは深海棲艦の手が比較的及びにくい内陸を渡ってニューギニア西端の油田地帯を押さえることができる。今回の作戦には陸軍もうるさく口を出してきた。艦娘の登場以来、大規模な戦いから蚊帳の外に置かれていた陸軍としては、どこでもいいから占領して威信と誇りを知らしめたいという意図もあった。山本長官は、陸軍をいたずらに前線に移すことを嫌っていた。今は海での戦いで手いっぱいだが、いずれ深海棲艦の海上封鎖を破って、さらなる陸地に進出することもありうる。それを見越しているからこそ、とくに用もなく貴重な戦力を前線に晒すことに躊躇いがあった。

 現に今でも、参謀本部・軍令部ともに戦線拡大方針をとっている。海での連戦連勝をうけて、困窮しながらも国民は軍を支持している。それを逆手にとり政治を動かし、かつて青写真を描いた大東亜共栄圏を、このさい一気に実現してしまおうという風潮が、じわじわと生まれ始めていた。

「アメリカと戦うか、深海棲艦と戦うか。いずれにせよ、東アジアの覇者になりたがっているのは違いない。きみたち艦娘としては、この戦いをどう思う?」

 司令官室にて、山本長官が尋ねる。洋風の意匠が施された室内には、艦の美しさを体現するに相応しい顕体がひとり、二メートルはあろうかという長身をソファにあずけている。彼女こそ、連合艦隊の誇る旗艦、最強の艦娘である戦艦・大和だった。

 亜麻色の髪を後頭部でまとめ、桜の花びらのような髪飾りが良く似合う。ゆったりと落ち着いた大和撫子。その瞳には隠しきれない高揚が小さな火花を散らしている。

「大和には分かりません。人間に味方するという、強い気持ちがあるだけです」

 言葉少なに大和は答える。彼女は艦娘のなかでもイレギュラーな存在だった。坊ノ岬沖に忽然と姿を現し、どこに行くでもなく、ただ海に浮かんでいた。そのことについて軍令部は大和に問い詰めたことがあった。彼女自身、この世に生まれてくる前の記憶は曖昧だったが、おぼろげながら戦いの情景が断片的に思いだされるという。艦娘が生まれながらにして艦体の操舵、火器の扱いをこなせるのは、その記憶によるところが大きい。

 前世での戦争体験。荒唐無稽な夢物語だが、無視できない何かを山本は感じていた。そもそも艦娘自体が、半ば神話のような存在なのだ。となれば、普通の人間では考えもつかないことが真実であってもおかしくない。

 加えて、彼女たちは皆、日本の軍艦のような名前を最初から持っていた。

 もし、彼女たちが別の世界、あるいは別の時間における大日本帝国の艦だとしたら。彼女たちが前世で経験した戦争が、日本とアメリカとの戦いなら。考えるだけで、掌に嫌な汗が滲む。飛龍や夕立のように、前世の記憶を肯定的に捉えている娘もいる。しかしながら、大部分の艦娘が、できれば単なる悪夢であってほしいと願っている節があった。

「今回の作戦、きみはどう感じている?」

 慎重に山本は尋ねる。大和は少し困った笑顔をつくる。

「作戦的な統帥の良し悪しを判断できるだけの知識は、大和にはありません。ただ、わたし個人としては、戦いに参加できることを嬉しく思っています。艦隊決戦は、戦艦の晴れ舞台。最高の誉れです」

 大和は言った。その言葉に嘘はなさそうだった。横須賀が急襲されたとき、恐れをなした軍令部は大和をトラックに呼び戻そうとした。しかし、それまで軍の命令に粛々と従ってきた大和が駄々をこねる子どものように抵抗した。よって彼女は前線に残されることになり、横須賀には代わりに武蔵が着任した。

 戦うこと自体には積極的らしい。それが分かっただけでも、この扱いづらい戦艦級と会話したかいがある。

「そろそろ艦橋に戻ろうか。あまりきみと長話していると、宇垣参謀長にどやされてしまう」

 山本は、大和とともに部屋を後にした。

「霧が出てきましたね。電探の感度を上げておきます」

 うっすらと靄のベールをかぶり始めた海を見て、大和は言った。

 

 幾田の率いる第一一駆逐隊は、第三水雷戦隊旗艦の軽巡・川内を先頭とし、連合艦隊の主力となる大和、長門、陸奥を中心に輪形陣を敷いていた。叢雲の艦橋にて、幾田はひとり海を眺めていた。今回は速度を必要とする戦いではない。そのため火器管制の補助員は乗せていない。大切なのは索敵と火力だ。こちらは最初から決戦のつもりで準備を整えてきた。いち早く敵を見つけ、正確無比かつ強力な砲雷撃により殲滅する。海路より敵を駆逐し、ニューギニアへの一歩を踏みしめるまで、この艦隊に止まることは許されなかった。

「雨も降ってきたわね」

 幾田の隣で叢雲が言った。聞き耳を立てるかのように、彼女の頭上に浮かんだ不思議な艤装が小刻みに左右に振れている。敵に見つかりにくい代わりに、こちらの砲撃も外れやすくなる。天気は急激に崩れてきた。戦艦や正規空母ならもろともしない波でも、身体の小さい駆逐艦には脅威となる。速度が落ちる上、波に揺られるため照準も定まりにくい。

 時間が経つにつれ、霧は深みを増していく。南方特有の驟雨とあいまって、人間の視力では二、三キロ先も見渡せなくなった。出港直前まで夜戦、夜戦と騒いで橋本少将をゲンナリさせていた川内までも、珍しく緊張した面持ちで電探に意識を集めていた。ポートモレスビー港まで、あと約七〇海里。来るなら早く来い。霧と雨に潜んでいるだろう、まだ見ぬ敵の大艦隊に、誰もが息まいていた。

 神経の糸を張りつめたまま、夜の行軍が続く。

 その沈黙を破ったのは川内だった。

『電探に感あり。右三〇度。軽巡ないし重巡』

 無線により川内の報告が艦隊に行き渡る。即座に艦娘たちは砲雷撃戦の準備に入った。戦艦を中心とする島の封鎖部隊だろうか。ニューギニアという陸地を目指す以上、避けては通れぬ戦いだ。

『このスコールでは水偵を飛ばせません。川内さん、敵の進行方向および規模は分かりますか』

 大和が自ら尋ねる。川内はしばらく沈黙したのち、報告を続けた。

『視認してみないことには、この距離じゃ規模までは分からない。でも敵が接近してくる様子もないよ』

 まだ敵は、こちらに気づいていないらしい。電探の反応を信じるならば、おそらく敵の前衛だ。ならば必ず後ろに敵の本隊が控えている。先手を取れるならば好都合だ。山本長官は、第一艦隊と連合艦隊に単縦陣を命じる。大和の四六センチ三連装砲が、ゆっくりと巨大な鎌首をもたげていく。このときを待ち望んでいたかのように、大和の口元に隠しきれない笑みが浮かぶ。

 連合艦隊の右舷に複縦陣をとっていた第一艦隊が、単縦陣に移行していく。旗艦・扶桑を先頭に、美しい陣形を紡ぎ出す。あとは寝ぼけ眼で航行する敵艦に、戦艦たちによる無慈悲な斉射をお見舞いするだけだ。夜明けまで、まだ時間がある。空母を艦列の後ろに下がらせ、陣形の準備は完了する。

 あとは、どこまで接近できるかだ。通常、戦艦の最大射程である四〇キロでの砲撃命中率は五%以下となる。よって戦艦同士の艦隊決戦は、彼我の距離一〇から一五キロにて行われる。敵の戦艦がル級やタ級ならば、連合艦隊の戦艦たちが撃ち負けることはない。

 電探を頼りに、じりじりと距離を詰める。ぼんやりとだが、艦娘の目に敵影が見え始めた。濁った夜景の向こうに、巡洋艦クラスの艦が一五ノットほどで悠々と進んでいる。さらに駆逐艦に守られるように、大型の艦影が何隻も列の中央に見える。

 距離二〇キロ。敵の輪形陣を打ち破り、旗艦撃沈も夢ではない。

『砲雷撃戦用意!』

 大和の号令が行き渡る。初戦を勝利で飾れるよう皆が祈る。

 連合艦隊の艦列から爆音が響き渡る。だが、それは味方の砲撃音ではなかった。突如として噴き上がる水柱、そして炎。引き裂かれ軋む鋼鉄の断末魔。艦娘の悲鳴が無線をつたって艦隊に轟く。

『千代田!』

 後方を守っていた第二艦隊の千歳が叫ぶ。被弾したのは連合艦隊の軽母・千代田だった。突然横腹に強烈な雷撃が命中し、すでに艦が傾斜し始めている。しかし、前方の敵に動きはない。誰が魚雷を放ったのか。可能性はひとつしかない。

 潜水艦がいる。

『駆逐隊は、ただちに輪形陣に移行。対潜警戒を厳となし、空母を守りなさい。わたしたち戦艦が前面に出ます!』

 即座に大和が指示を飛ばす。しかし突然の雷撃を受け、艦列は乱れていた。いかに練度の高い駆逐艦とはいえ、砲雷撃戦の途中で、いきなり守りの陣形に入ることは困難だった。あわや戦艦と激突しかける艦娘もいた。潜水艦だけではない、もう視界に入っている敵艦隊も恐怖の的だった。海上と海中から挟み撃ちにされたら、戦艦といえどもただではすまない。特に魚雷は、砲弾より遥かに火薬の量が多い。命中しさえすれば、駆逐艦が戦艦を撃ち沈めることも可能だ。

『うろたえるな。敵は目の前にいるぞ!』

 長門が叫ぶ。まだ戦艦たちは冷静だった。ひるむことなく正確な動きで再び照準を定める。奴等が近づいてくれば、艦隊の混乱はさらに大きくなる。可能なら、近接での殴り合いになる前に、連合艦隊の火力をもって撃沈したい。

『主砲斉射。薙ぎ払え!』

 大和の裂帛。横一列に並んだ戦艦たち、その主砲が一斉に火を噴いた。あまりに凄まじい衝撃波が艦を中心にして円状の波を揺り起こし、海の形を変えていく。艦橋の中にいてもなお、地鳴りのような振動で肺腑の底が震えた。彼方に巨大な水柱が上がり、敵前衛の軽巡や駆逐が爆発する。小さい駆逐艦にいたるや、艦が横倒しになりそうなほどの衝撃だった。艦体が真っ二つに折れた敵もいる。命中したうちの半分が瞬く間に海中へと没し、半分はもうもうと黒煙に包まれ動かなくなる。だが、敵の旗艦とおぼしき巨大な戦艦級は無傷だった。麾下の戦艦、重巡、軽母は巧みに回避行動をとり、砲弾の火線から我が身を逸らしていた。あれは熟練の動きだ。スピード勝負になる。大和らは、すぐ第二射撃の準備を進める。だが、敵は思いもよらない行動をとった。なんと生き残った全艦が左に転舵し、さっさと逃げ始めたのだ。戦力としては、ほぼ互角であるはずなのに、敵は躊躇いもなく霧の深い方向へ撤退していく。怖気づいたとでもいうのか。申し訳程度に反撃してきているが、やる気のない砲弾は艦娘たちの手前で水柱をあげるばかりだ。どうやら悪天候と濃霧にまぎれて逃げ切るつもりらしい。

『逃がしてはだめ! 追撃します!』

『落ちつけ。罠の可能性もある。霧はさらに深くなっている。下手に敵のふところに突っ込むな』

 突撃にはやる大和を長門がいさめる。大和は山本長官に追撃の許可を乞うた。不利を悟ったとたん撤退をきめこむとは、攻撃一辺倒だった深海棲艦も少しは賢くなっているのかもしれない。少し考えたのち、山本は追撃を命じようとする。だが、彼の声は直後、無線から溢れ出す阿鼻叫喚に掻き消された。後方から凄まじい怒号と悲鳴が上がる。空母と戦艦の背後を守っていた駆逐隊が集中雷撃を受けていた。海面に走る雷跡は、視界に入るだけでも三〇をこえ、すべて放射状に散開している。輪形陣を敷くかぎり、回避は困難だった。たちまち新たな水柱と爆炎が駆逐艦を包む。

『第二〇駆逐隊、朝霧、夕霧大破。速力大幅に低下、機関の状況は不明』

『第一五駆逐隊、黒潮大破、親潮状況不明』

『第二四駆逐隊、海風大破』

 他にも続々と被害報告が続く。千代田の援護に回っていた千歳が中破。さらに重巡・最上と三隅が、混乱のなか衝突、最上は艦首に裂傷を受けた。まさか敵の主戦力は潜水艦によるスナイピングだったのか。荒れた海では雷跡が見づらく、戦艦の砲撃音で水中の音をうまく拾えない。

このままでは主力である戦艦までも魚雷の餌食になりかねない。

 前進せよ。すべての状況を鑑みたうえで、出せる指示はこれだけだった。山本長官の命令で艦隊が動きだす。天候はさらに荒れ、波はいよいよ時化てきた。濃霧にまぎれてしまえば敵に見つかりにくい。ただ、速度を落とすことなく荒れた海を渡るのは、駆逐艦には酷だった。それに被弾した艦は目に見えて機関の出力が落ちている。山本長官は決断を迫られた。

『このまま前進を続け、敵の包囲網を破ります。陸まで持ちこたえて!』

大和の声となって艦隊の意志決定が伝えられる。これを聞いた叢雲は、信じられないという表情で無線にかじりついた。

『待ってください。一一駆は白雪と初雪が中破しています。連合艦隊の速度についていけません!』

 叢雲からの通信を、大和は無視した。

『戦速を維持できない者は、それぞれの判断で艦列を離脱、後方より追随するかラバウルに帰還せよ』

その声音には苦渋よりも苛立ちが表に出ていた。

 この命令に、駆逐艦たちは蒼白となった。輪形陣から外れたら、敵潜水艦に狙い撃ちにされる。さらに中、大破した艦が敵に見つからずラバウルまで帰りつける確立など、ゼロに近い。戦闘に勝つために弱きを見捨てる。戦場での生々しい決断だった。

『大丈夫だよ、叢雲。わたしはまだ走れる』

 艦尾に被弾し、焼け焦げたタービンを晒しながら白雪が言った。初雪も同調する。第一一駆逐隊の進路は幾田の判断に委ねられた。叢雲は、祈るような目で自らの提督を見つめる。無事である自分と深雪だけを連れて輪形陣に加わり、あとは途上に置き去りにするのか。それとも一一駆全員で進退を共にするのか。

「輪形陣を離脱する。叢雲、戦速に満たない艦たちに告げなさい。『叢雲を旗艦とし、対潜水艦戦闘を継続しつつラバウルまで撤退する。一一駆に続け』、と」

 幾田は結論を出した。叢雲の瞳が輝いた。すぐに無線を開く。彼女は、傷ついた白雪と初雪を見捨てなかった。それどころか損傷した艦娘たちを集め、全員で離脱しようとしている。だが、幾田は決して駆逐艦への同情から、このような指示を出したわけではなかった。敵の行動が不自然に思えたのだ。あれだけの大部隊を用意しておきながら、戦わずに逃走。仮に囮だったとしても、潜水艦の雷撃は駆逐艦や軽母ばかり狙っている。本当に叩くべき大和や長門といった大戦艦クラスの艦には、まるで手を出そうとしない。

 理由は分からないが、敵の目的が駆逐艦の破壊だとしたら。

 そこで幾田は急遽、傷ついた駆逐艦たちを集めた。万が一、敵の狙いがこちらに移ってくれたら戦艦たちは無傷のままポートモレスビーまで辿りつける。こちらは機関を損傷した、言って見れば瀕死の艦ばかり。存分に敵と戦い、ひと花咲かせて水面を枕に討ち死にできれば、そちらのほうが遥かに幸せだ。

 しかし、叢雲の呼びかけにも関わらず、彼女の隊に集まったのは塚本率いる第一六駆逐隊の時津風だけだった。左舷中央に雷撃を食らいながらも、必死の応急処置で奇跡的に助かった彼女は、塚本の命令で叢雲隊に加わったことを告げた。

『艦娘は生き残ることが最優先だ。しれぇはそう言いました』

 涙ながらに時津風は言った。叢雲は歯をくいしばる。致命的な損傷を受けた艦は、もっといるはずだ。それなのに、撤退を選んだのは時津風だけ。他の艦娘たちは、たいして役に立てないまま轟沈することを覚悟で、連合艦隊に追従していったのだ。無慈悲に進撃していく巨大な艦を、小さな駆逐艦たちが波に翻弄されながら健気にも追いかけていく。彼我の差はぐんぐん広がる。やがてどちらの影も闇夜と霧に溶けて消える。

『敵はどこだ!』

 感情の波によって増幅された無線電波が、これだけ離れても大和の怒号を伝えてくる。

 叢雲は、制服の袖で乱暴に涙をぬぐった。

「ラバウルに撤退する。全艦続け!」

 凛として幾田が叫ぶ。

 雨脚は弱まってきたが、まだ霧は晴れない。相変わらず最悪の視界のなかを、羅針盤と艦娘の眼だけを頼りに、ゆっくりと進んでいく。対潜ソナーと電探は常に稼働していたが、この状況では大して役に立たない。ひたすら潜水艦に見つからないことを祈る。

 異変が起きたのは、○四五○。一一駆の無線に、突如として反応があった。艦娘の通信にはスクランブルがかかっており、その解除コードは艦娘同士でしか知り得ない。つまり、この海のどこかで仲間がコンタクトを取ろうとしている。新たに顕現した艦娘かもしれない。

『こちら叢雲。こっちに意識を向けなさい。聞こえるなら、艦種と名前を教えて』

 叢雲が代表して通話する。一一駆のメンバーには聞こえるらしいが、時津風には通信が入っていなかった。緊張した面持ちで、叢雲は相手からの返事を待つ。かなり遠いのか、無線にはかなりのノイズが混じっている。叢雲は、か細い無線電波を懸命に拾いつづけた。蜘蛛の糸を手繰り寄せるような心もとない航行だったが、少しずつ無線が意味のある音を伝え始める。

 ノイズのなかに、はっきりと声が聞こえた。

 音は断片的だが、その声には覚えがあった。吹雪型の四隻全員が同時に息を飲む。とくに叢雲にとっては、聞き間違いようのない声だ。ともにこの世界に顕現した、最も古い親友。そして自身の長姉。

「吹雪!」

 叢雲が叫んだ。白雪たちも、つぎつぎと姉の名を呼び始める。しだいに通信が明瞭になっていく。

『…………タスケテ……ミンナ』

 意味のある単語が少しずつ零れ落ちる。深海棲艦の本土急襲。白峰と運命をともにしたはずの、初期艦のひとりにして吹雪型一番艦、駆逐艦・吹雪が救助を求めている。叢雲は何とか了解した旨を示そうとしたが、相手に伝わっているのか分からない。ただ吹雪は弱り切り掠れた声で助けを呼び続けている。思わず叢雲は指示を待たずして艦首を電波の方角へ向けようとする。

「提督、彼女のもとに行かせて!」

 叢雲が懇願する。しかし、幾田はすぐに了解しなかった。

「本当に、これは吹雪からの通信なの? 敵の擾乱や欺騙ではなく?」

 幾田は懐疑を持っていた。あの海戦で、吹雪は姿を消した。もし轟沈していなくても、敵の捕虜となった可能性は高い。ならば、同じ艦娘をおびきよせる絶好の餌となる。

「吹雪は、むざむざ敵に利用されるような子じゃないわ。間違いなく自殺か自沈する」

 強い口調で叢雲は続ける。

「それに、たかが手負いの駆逐艦をおびき寄せるために囮なんて使うかしら。敵の主力はいまだ健在。どう足掻いても、わたしたちが勝てる相手じゃない」

 確かに叢雲の言う通りだ。彼我の戦力差を考えるに、敵は欺瞞工作などしなくても、真正面から艦娘を撃ち沈める力を持っている。だが、深海棲艦は理屈の通じない連中だ。仮に吹雪が敵の手中にあるとして、なぜ彼女は大人しく従っているのか。

「人質を取られてるのかもしれない」

 苦々しげに叢雲は呟いた。言わざるべきだったか。歪んだ唇に、若干の後悔が滲んでいた。

 吹雪が従わざるをえないほど、彼女にとって大切な人物が囚われているなら。刹那、幾田の頭脳は、海に飲まれたはずの彼に辿りついた。

「いずれにせよ、進まなくちゃいけない。あんたの婚約者が生きてようがいまいが、吹雪がいる以上、わたしたちは彼女を助ける義務がある」

 あくまで叢雲は吹雪救出を主張する。白峰への私情で艦隊を動かしていいものか迷っていた幾田は、少し眼を伏せて叢雲に礼を言った。叢雲は不機嫌そうにそっぽを向く。しかし、頭上の艤装は、ほんのりとピンク色に染まっていた。

「罠の可能性も十分あるわ。もし敵の攻撃が始まったら、すぐ逃げなさい。わたしだけでラバウルまで帰るから。これは艦隊司令の命令よ』

 無線にて、叢雲は麾下の艦娘に告げる。例え罠であっても、この事態に関わる情報は今後のために持っておかねばならない。幸い叢雲の艦体には致命傷が無い。いざとなれば速力を活かして戦闘域からの脱出を試みるつもりだった。生還できる確率がゼロに近くとも。

「わたしと一緒に沈むのは、あんただけでたくさんよ。道連れにしてやるから」

 通信を切ってから叢雲は苦笑した。感謝をこめて幾田は彼女の頭をなでる。珍しく怒ることもせず、叢雲は提督の好きなように身を任せた。

 彼女の予感が的中したのは、東の空が白んできた頃だった。

 突如として複縦陣の左舷二〇〇メートルに水柱が上がる。敵からの砲撃だが、挟叉を試みることもなく、わざと距離を開けて撃っている。これは警告だった。

『叢雲ちゃん。来て』

 吹雪の声がはっきり聞こえる。叢雲の電探に、すこしずつ敵影が映りはじめる。一〇海里ほど先に、戦艦級が二隻、軽母が二隻、そして未確認の大型戦艦が一隻。連合艦隊が撃ち漏らした大部隊が、叢雲隊の進路を塞ぐように展開している。どうやら敵の懐に誘いこまれたらしい。

「これは、たぶん敵からのメッセージよ。敵は、わたしを所望している。他の艦は退避させましょう」

 脂汗を流しながらも、叢雲は冷静に言った。砲雷撃戦になれば、味方はあっという間に海の底だ。ならば少しでも多くの艦をラバウルに返せる選択をする。幾田も彼女に同意した。

「後続の艦は即時反転、ラバウルに帰還せよ」

 幾田は短く告げる。すぐ麾下の駆逐隊から反論が上がるが、これは命令だと黙らせる。白雪たちは叢雲に激励を告げ、別離を口にすることなく出せるだけのスピードで海域を離脱していく。

『死なないでね』

 しんがりにつく時津風が、後ろ髪引かれるように呟いた。

 艦隊が脱出するのを見届け、叢雲は物見遊山でもするかのように、ゆっくりと前進を賭ける。少しでも時間を稼ぐためだ。すでに幾田の肉眼でも数多の敵影が視認できるようになっていた。軽母ヌ級、戦艦ル級、そして大和型に匹敵するような巨体をゆうゆうと海にあずける、未知の戦艦。敵は皆、こちらに砲塔を向けている。しかし攻撃してくる気配はない。

『助けて、叢雲ちゃん。砲を伏せて、そのまままっすぐ』

 仲間に対して俯角を掲げろなどと、妙な表現を使う吹雪。やはり敵の罠だったらしい。敵の砲塔に囲まれ、喉元にナイフを突きつけられているような気分だった。嫌な冷や汗を流しながらも、叢雲は泰然と進んだ。巨大戦艦のわきに、コバンザメのように駆逐艦が張りついている。深海棲艦特有の黒や青ではない、ちゃんとした鋼の色。その姿は間違いなく吹雪だった。しかし艦上に吹雪の顕体は見つからない。

「わたしたち、どうなるのかしらね」

 苦笑しながら叢雲が言った。強がってはいるが、両手をきつく握りしめ、小刻みに震えている。幾田は、そっと彼女の手を握った。幾田の掌のなかで、少しずつ小さな拳がほどけていく。まるで母と娘のように二人は手を繋いだ。

「あなたと沈むのなら本望」

 正面の戦艦を見据えながら、幾田は言った。

「まったく、こんなのと道連れなんて、わたしもついてないわね」

 泣きそうな顔で叢雲は笑った。

 そのとき、ふたたび通信にノイズが混じる。吹雪の声が消え、奇妙なエコーのかかった複雑な音が流れ始める。それは大人びた女性の声だった。

『―――surrender.言語変換。降伏せよ。降伏せよ』

 一方的に降伏を求めてくる敵艦。その艦首には、やはり見たことの無い敵の顕体が屹立し、こちらを睥睨している。ほぼ全裸に近い、真っ白な剥き出しの肌。大きく二つに分けた髪。そして身体の輪郭には、血が透けているかのような赤いオーラをまとっている。瞳は宝石のような深紅だ。周囲の艦を圧倒するような荘厳さは、彼女を深海棲艦の「姫」と形容するに相応しい。飛行場姫に続く、新たな種類の姫だった。

『もし降伏するのならば、我々はあなたに攻撃をしない。降伏の意志があるのならば、砲を俯角に掲げて示せ』

 抑揚のない声が無線機から流れる。叢雲は指示通り砲塔を動かす。それを見届け、艦首の顕体が相好を崩す。

『意志を確認した。戦争の子と、我らの片割れ。敵意なく我らはあなたがたを歓迎する』

 ヒトである幾田と、艦娘の叢雲。ふたりの存在を奇妙な言葉に当てはめる。そして彼女は、まるで人間のように両腕を広げ、微笑みながら告げた。

『Welcome to our Fleet Peacemaker』

ようこそ、裁定者の艦隊へ。

平和を敷く艦隊へ。

 皮肉にも、それは戦争が終わったのち、人類こそが使うべき言葉だった。

 

 

 連合艦隊が、謎の敵部隊と遭遇している頃、ガ島空襲のための機動部隊は、発艦予定の海域に到達していた。すでに金剛率いる艦砲射撃部隊と別れ、あとは艦載機を飛ばすだけだった。赤城、加賀、飛龍、蒼龍の飛行甲板に、つぎつぎと暖気を済ませた艦載機たちが並ぶ。操縦士たちは、緊張した面持ちで艦娘からの発艦を待っていた。最小限の誘導灯だけが頼りの夜間発艦。人殺し多聞丸という恐ろしい提督のもとで、指の皮が擦り切れそうなほど訓練を積んだが、初めてづくしの今回の作戦は、ベテランの士官にも拭いきれない不安を与えている。方角通りに飛べばいいとはいえ、恐怖は常につきまとう。

 爆撃隊発艦の合図とともに、爆弾を抱えた艦爆と艦攻が飛び去る。空にレールを敷くかのように一糸乱れず軌跡を描いていく。

 星空に吸い込まれていく機体を眺める渋谷。飛龍の飛行甲板から今、爆撃隊を守るため一機の紫電改が飛び立つ。尾翼には、まるで自分を狙えと言わんばかりの派手な赤い稲妻マーク。摩耶の艦橋から、祈りを込めて水戸涼子少尉の出陣を見送った。作戦部には、搭乗員の精神的支柱である彼女の戦死を恐れ、泊地に残そうとする将校もいた。しかし涼子は、空中戦の経験がある自分が先陣を切らねば、いざというとき爆撃隊を守れないと主張し、頑として譲らなかった。その経緯を知ったとき、渋谷はますます涼子の生還を祈らずにはいられなかった。

 最後の一機が放たれるまで、どうか敵と遭遇することがないように。空母艦娘たちは、脳裏をよぎる悪夢を吹き飛ばそうと強く願う。やがてガ島空爆隊は、すべてが無事に発艦を終えた。これで空母に残っているのは、万が一のための直衛機だけとなった。ひとまず主任務を完遂し、機動部隊に弛緩した空気が流れ始める。

『作戦終了。全艦、哨戒を密にしつつラバウルに帰投します』

 機動部隊旗艦、赤城の指示が飛ぶ。艦隊は輪形陣を維持したままゆっくりと転舵し、旗艦の途についた。

「せっかく装備強化したのに、出番なしか」

 茶化すように摩耶が言った。彼女の器用さは十分渋谷の知るところだったので、精密な射撃が必要となる対空兵装を強化してもらったのだ。幸い、トラックから工作艦・明石が着任していたので、摩耶の好みにあった改良がなされた。その結果、摩耶は針鼠とでも形容すべき、すさまじい対空火力を得た。ずらりと並ぶ火器の数々を制御しきれるのは、ショパンを弾きこなせる摩耶以外にいないだろうとのことだった。

「でもまあ、一応は感謝してるんだぜ」そっぽを向きながら摩耶が呟く。「だから、これからもおまえは、自分の艦だけを見てりゃいいんだ。ヒコーキなんて門外漢なんだからよ」

 渋谷は聞こえないふりをした。いやしくも戦場で人間関係のいざこざを掘り起こしたくはなかった。

 そんな二人の微笑ましくも緊迫したやり取りに、電探の反応音が終わりを告げる。

「来たか。まあ、これだけガ島に近寄ったら、ただで返してくれるはずないよな」

 牙を剥いて不敵に笑う摩耶。距離は約一五海里。おそらく敵の哨戒部隊だろう。こちらには第八戦隊に戦艦二隻、重巡二隻がいる。さらに軽巡「長良」が率いる第一〇戦隊も、かなり練度の高い艦ばかりだ。理想は、このまま速度を維持して海域を離脱することだが、もし接戦になっても押し勝てる自信はあった。

『敵接近。一〇時の方向。速力、約三五ノット。重巡二、軽巡二、駆逐四。初めて見る戦艦一』

 先頭をいく長良から報告が入る。敵の速度はかなり早い。おそらく榛名や霧島と同じ高速戦艦か、新手の巡洋戦艦を中心とした部隊だろう。こちらは大型の空母がいる以上、頑張っても二〇ノットが限界だ。

「相手がその気なら、戦力で勝る我々が有利だ。それに夜戦には一日の長がある」

 渋谷は言った。これは戦闘になると思った摩耶は、すぐ主砲の調整に入る。

『反航戦による撃ちあいが予想されます。戦艦以下、単縦陣に移行。空母は後ろに下がってください』

 旗艦の赤城から命令が届く。艦娘たちは、ただちに決められた通りに陣形を組み直していく。榛名を筆頭に、霧島、利根、筑摩が続く。摩耶の率いる第七駆は、その背後に空母四隻を隠した。敵との距離は、およそ一五キロ。あと数分で反航戦の射程内に入る。大丈夫、負けるもんか、と駆逐艦たちが己を鼓舞する。しだいに近づく戦火の足音が、艦隊の空気をピリピリと高めていく。歴戦の金剛型戦艦の二人は、砲撃の合図を出す、ぎりぎりのタイミングを見計らっていた。

 だが、ここで敵の部隊が予想外の行動に出た。

 従来のセオリーなら、そのまま反航戦に入るはずが、その場でVの字に逐次回頭を始めたのだ。これは、まさに幾田との演習で摩耶がやらかしたのと同じ行動だった。砲を構えているこちらからすれば、回頭中の艦は停止しているも同然だ。

劣勢とみるや、早々に逃げをうつ。ある意味合理的な行動に思えた。だが、やはり深海棲艦は馬鹿だ。艦娘たちの緊張がほどけていく。

 敵が回頭を終えるまで、およそ一〇分。それは艦娘たちにとって黄金の一〇分だった。

『この機を逃がさないで! 砲撃開始!』

 榛名が叫ぶ。瞬く間に、艦娘の単縦陣から炎と煙が上がる。練度の高い戦艦、重巡の砲撃は初弾で敵を挟みこみ、次弾で確実に当ててくる。敵駆逐艦が黒煙とともに沈んでいく。後続の敵軽巡や駆逐艦は、文字通り的だった。しかし、まだ少し距離がある。駆逐艦娘の攻撃は、ほぼ空振りに終わっていた。

 砲音と火薬の匂いで一気に士気が昂るなか、摩耶は砲撃もそこそこに、敵の一連の流れをじっと観察していた。敵は単縦陣のまま、回頭を終えた艦から、こちらの艦列と平行線をたどるように進んでいく。ただし、速度は敵のほうが上だ。敵は砲撃も雷撃もしてくる様子がない。速度だけを優先し、どんどん艦娘を引き離していく。

 摩耶の頭に、これまで勉強してきた図上戦術が展開されていく。敵の動きに見覚えがあったのだ。その答えを記憶から引っ張り出す。

「おい提督、まさかあれは―――」

 摩耶が叫ぼうとしたとき、みたび敵が動きを変える。平行線から北東に転舵していく。

 まるで、こちらの進路を塞ぐように。

「東郷ターン!」

 摩耶は愕然として言った。予感が的中した。摩耶の叫びが無線にのり、全ての艦娘たちと指揮官の顔を蒼白にした。敵がとった行動は、かつて日本海海戦で、東郷平八郎提督の率いる日本艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を破った戦術、「東郷ターン」そのものだった。反航戦にはいる途中で逐次回頭をして敵の攻撃をひきつけ、速力を活かして敵の進路を塞ぎ、理想的な丁字有利を作り出す。貧しい島国の艦隊が、欧州列強の一角であるロシアを撃ち沈めた、知恵と勇気溢れる奇襲だった。海軍軍人ならば知らぬ者はいない。日本が誇るべきその戦法を、そっくりそのまま敵にやり返された。あろうことか、敵は人間ですらない。あの深海棲艦である。一向に学習しない無能、突撃ばかり繰り返すイノシシ、と嘲笑ってきた深海棲艦なのだ。

 ここに来て突然、彼女たちは戦術を会得した。人類の編み出した英知をもって人類を攻撃した。

 敵の主砲が復讐の火を噴いた。度重なる敗北の鬱憤を晴らすかのような、快心の砲撃。先頭の榛名に弾が集中する。絹を裂くような悲鳴が艦隊に轟く。音速を超える徹甲弾に身体中を引き裂かれ、撃ち抜かれながらも、榛名は最後の力を振り絞って艦首を右に向ける。艦隊に離脱の道をつくるため、激痛にあえぎながら右に転舵していく。

『ここで動けずして、何が高速戦艦か! 霧島、後続の皆をお願い』

 そう言って、榛名は一隻だけで同航戦の構えを見せる。まるで味方の盾となるかのように真正面から敵に砲を向ける。

『何を言ってるのですか。帰るときは全員で。自分の言葉をお忘れですか?』

 霧島が不敵に笑う。ふたりの姉妹はここぞとばかりに敵と殴り合いを始める。どれだけ被弾しようが全く砲撃のリズムを緩めない。二隻の猛攻で、なんとか退路をつくる余裕が生まれた。

 しかし、小さな希望の火は一瞬にして吹き消された。

『電探に感あり。四時の方向より敵艦接近!』

 長良の報告。新手の登場だ。摩耶も急いで電探を確認する。艦種は不明だが、八隻からなる艦隊が一列になって接近してくる。異様なのは敵の先頭だった。一隻だけ四〇ノットを超える速度で突出し、後続を置いてけぼりにしている。それも電探の反応からすると、戦艦クラスの敵だ。

 摩耶の本能が告げる。こいつが敵の主力だ。

「七駆は輪形陣をつくる。空母を囲め」

 渋谷が駆逐艦たちに指示する。摩耶が前方正面に、朧、曙、漣を右舷、潮、霞、陽炎を左舷、不知火をしんがりにつけた。東郷ターンにはショックを受けたが、まだ渋谷は冷静だった。冷静でなければならなかった。なにせ戦況が最悪に近いのは分かり切っていたからだ。敵の第二陣が接近している。このままいけば乙字戦になる。まさに乙の字の中棒のごとく、敵に上下から挟みこまれて逃げ場を失う。敵の第二陣の接近をうけ、味方は相当に混乱していた。

 

 戦局は空母にも伝わっていた。空母の護衛を担当する第七駆が輪形陣に戻ったことで、おおかたの予想はついたが、報告が届くごとに状況は悪化していった。飛龍の戦闘指揮所にて、山口多聞少将は顕体に告げる。

「直衛機の準備をしておきなさい」

 もうすぐ夜が明ける。南雲中将からの指示は届いていないが、山口は自分の判断を飛龍に伝えた。逡巡する飛龍に、山口は続ける。

「艦載機の搭乗員は、きみが命を預かる部下だ。そして彼らはきみを信じて命を預けている。命令は自分で出しなさい」

 厳しくも温かみのある声で山口は言った。飛龍は少し瞳を潤ませ、艦載機の暖気を命じた。

「さて、敵に空母はいるかどうか」

 しだいに白み始めた東の空を見据え、山口は呟く。

『敵艦見ゆ!』長良の声が艦橋に響く。『戦艦一、軽巡二、軽母一、駆逐四。戦艦はル級でもタ級でもありません。未知の形状です』

『直衛機、発艦準備!』

 ようやく南雲の命令が、赤城の口を通して伝えられる。

 

「なんだ、ありゃあ」

 颯爽と乗り込んできた戦艦を見つめながら、摩耶が呆然と呟く。長門型に近い大型戦艦であるにも関わらず、その速度は目算四〇ノットを確実に超えている。明らかにル級など旧来の敵戦艦とは性能を異にしていた。その艦首には、小さな子供のような姿があった。しかし、その姿はヒト型の深海棲艦では特に異形を極める。途中で切断されたかのように直立的な短い脚、そして背中から伸びる巨大な尻尾のような艤装。摩耶と眼があうと、牙を見せて笑いながらぞんざいな敬礼をしてくる。深海棲艦の笑顔に、生理的な嫌悪感を覚える摩耶。

『艦隊を二分します。第七駆と第一〇駆は空母を守りつつ離脱。第八戦隊、第一〇戦隊は敵を食い止めてください』

 赤城が言った。空母を確実に逃がす選択だった。すでに第一陣では、不利な陣形にありながら果敢な砲撃によって敵主力である巡洋戦艦クラスを大破に追い込んでいる。余った戦力で第二陣を叩けば、包囲網を突破するチャンスが生まれるかもしれない。だが敵と直に会いまみえた摩耶には、ただの気休めにしか思えなかった。

「戦艦抜きで勝てるような相手じゃねえだろ!」

 そう叫び、麾下の駆逐艦に砲雷撃戦を命じる。とにかく少しでも奴にダメージを与えなくてはならない。まるで待ち侘びていたかのように、喜々として新種の敵戦艦が砲撃を始める。いきなり至近弾。その水柱の大きさに朧が息を飲む。まともに食らえば一撃で轟沈もありえる威力だった。対して、こちらの砲撃と雷撃はかすりもしない。戦艦とは思えない機動力で器用に弾を回避していく敵。

『対空電探に感あり! 敵艦載機接近』

 不知火から報告が入る。すでに直衛機が発艦したのは飛龍のみ。空母が危ないと判断した摩耶は対空戦闘の準備に入った。針鼠と化した摩耶の艦橋周りから凄まじい数の火線が空に伸びていく。敵の艦爆や艦攻が、つぎつぎと摩耶の針にひっかかる。しかし、さすがに重巡と駆逐艦の弾幕では、敵をすべて落すことはできなかった。弾幕をすり抜けた艦攻が、高い練度を思わせる低空飛行で魚雷を投げ込んでいく。

「まずい! 魚雷が……」

 対空戦闘と砲撃で手いっぱいだった摩耶が、まっすぐ輪形陣に突き進んでくる雷跡を見つけた。このまま直進すれば輪形陣をすり抜け、飛龍の横腹に命中してしまう。そのとき、右舷を守っていた曙が最大船速をかける。タービンが悲鳴をあげた。魚雷は間一髪、彼女の艦首にあたり爆発する。

「守りきれないなんて屈辱は、死んでもゴメンなのよ!」

 苦悶の呻きを噛み殺し、曙が叫んだ。絶妙に被弾箇所を選んだため、奇跡的に損害は少なかった。

 空の戦闘は、しだいに機動部隊の有利に傾いてきた。赤城、加賀、蒼龍から艦戦が発艦し、敵艦爆と艦攻を撃ち落としていく。敵の第二次攻撃隊は、爆弾を捨てて遁走する機も出始めた。しかし、敵の艦戦は手ごわかった。じりじりと消耗を重ねながら、なんとか競り勝っている。

 制空権は確保しつつある。第八戦隊の奮闘で、敵の巡洋戦艦を撃沈。新種の戦艦率いる機動部隊も、軽母ヌ級と戦艦を残し、中・大破が相次いだ。

『敵包囲網を突破します。敵第二陣の旗艦を、これより戦艦レ級と呼称します。第七駆は、レ級を抑えてください』

 赤城の声は苦しげだった。ル級、タ級につづく、新たな戦艦。重巡一隻と、駆逐艦七隻でレ級に挑めば、勝てたとしても味方の被害は計り知れない。艦隊の誰かが犠牲になることを前提にする命令だった。

『空母を守ることがわたしたちの役目。提督、ご命令を』

 毅然とした口調で不知火が言った。

『みんなで一斉に攻めれば、あんな戦艦わけないし!』

 明るい漣の言葉で、艦隊全員が勇気づけられる。

 摩耶は渋谷を見つめていた。渋谷は、強い光を宿す少女の眼をしっかり見据え、何も言わず頷く。

「よし、行くぞお前ら! 深海の生っちろい化物に、第七駆逐隊の意地を見せてやれ!」

 摩耶が吼える。駆逐艦たちが気合の一声で旗艦に応える。艦隊の火薬庫とまで揶揄された問題児だらけのチームが、ついに一丸となった。潮、霞、陽炎が加わり、壁をつくるかのように空母を単縦陣で覆う。あとは正面からの殴り合いだ。敵軽巡、駆逐に雷撃が命中。敵戦艦の砲撃が不知火の艦尾付近を撃ち抜くも、タービンが傷つくことはなかった。陽段しても士気は落ちない。これなら押し切れる。いつまでも笑っていられると思うな。敵戦艦の顕体を睨みつけながら摩耶は思った。

 敵の顕体は、異形の尻尾を左右に振りながら、じっとこちらを見つめている。幼い顔から笑いが消え、見開かれた丸い瞳が、無表情に摩耶を射抜いていた。

「よし、空母を脱出させるぞ!」

 無線に向かい摩耶が言った。ほうぼうに傷を負いながらも艦娘たちの士気が頂点に達する。

 その瞬間、摩耶の視界のなかで、敵の口元が歪む。

 摩耶は脊髄の芯に寒気を覚えた。この世のものとは思えない獰猛な微笑み。暴力と戦争の意志を結晶化させたような、歪な顔。ありえないことに、なおも動き続ける彼女の口は、言葉らしき音を刻んでいる。摩耶は唇の動きから意味を読みとる。

『Humpty Dumpty sat on a wall』

 馴染みの無い発音。だが、それは単なる言葉ではない。連続した音から成る旋律だ。

 上機嫌に揺れる巨大な尻尾。彼女はふたたび摩耶と視線を絡ませる。両の眼窩と唇が嗜虐の形にニタリと歪んだ。

『Humpty Dumpty had a GREAT fall!!』

 意味は分からない。ただ摩耶は恐れを感じた。優勢にあるはずの自分が、なぜか罠にかかかった小動物のような気持ちになった。

 そして摩耶は絶望を見る。海ではなく、空に。

 つい数秒前まで、摩耶を含め艦娘機動部隊の誰もが、ありえない、と思っただろう光景。それが現実のものとして皆の視界を恐怖で染めていく。戦艦から、つぎつぎと艦載機が飛び立っているのだ。その形状も、深海棲艦の空母が運用していた機体とはまるで異なる。人類製の模造品ではない。機体に接続する翼の付け根がふとく、まるで真っ黒な紙ヒコーキのような形だった。しかし、今は機体のことなどどうでもいい。その機は、一〇〇〇ポンドはあろうかという巨大な爆弾を抱えているのだ。

 艦娘の希望が最高潮に達した瞬間、敵は動いた。その行動に、殺意よりも恐ろしい何かを摩耶は感じた。

 馬鹿な、と渋谷も思った。艦娘の発案により技研が研究していた、戦艦が艦載機を運用する新たな艦種、『航空戦艦』。それを、なぜ深海棲艦が。

「対空砲火ァ!」

 悲鳴まじりに摩耶が叫ぶ。大量に飛来する敵機を撃ち落とせるだけの直衛機は残っていない。摩耶と駆逐艦は、ありったけの火砲を空に向けて放つ。しかし敵は高度を保っている。

 しかし、艦娘の懸命な努力を嘲笑うかのように、今度は潮が絶叫する。

『ソナーに感あり。これは……魚雷です! 魚雷多数! 数え切れません!』

 泣きそうな声で潮は言った。白み始めた海には、ゆうに一〇〇近い雷跡が放射線状に撃ちだされている。その緒元は、やはりあの戦艦。砲撃力に加え、艦載機の運用、重雷装艦に匹敵する雷撃能力、さらに駆逐艦を超える速度。

 あの戦艦一隻で、一個艦隊の力を有している。

 空と海との挟み撃ち。摩耶は持てる限りの爆雷を投下する。それでも防ぎきれる量ではない。判別不能なほど悲鳴が重なり合う。陣をすり抜ける魚雷。落しきれなかった艦載機の急降下爆撃。ついに空母に火が灯る。赤城、加賀が被弾、なんとか蒼龍が回避行動をとっている。

「諦めるな! 撃ち続けろ!」

 喉が潰れてもなお、摩耶は艦隊を鼓舞する。

『第八戦隊が戻って来たわ! 霧島さんよ!』

 北東から迫る艦影を見て、陽炎が歓喜した。もうもうと黒煙をあげながらも、高速戦艦の名に恥じない速度で霧島を筆頭に、生き残った艦が応援に駆け付ける。

『摩耶、もう少し耐えて。今行くから!』

 ゆるぎない声で霧島が言った。幸い、雷跡は見えている。あとは敵の砲弾があたらないことを祈るだけだ。もう少し。摩耶は思った。しかし、そんな儚い希望も、突如として横腹に炸裂する衝撃と炎に吹き飛ばされる。ボイラーが何基か潰れたのが分かる。人間ならば内臓破裂に等しい激痛が摩耶を襲う。流れ込んでくる海水。腹の中身を掻きまわされる感覚。口から飛び出そうになる胃袋を無理やり押し戻し、摩耶は海を睨んだ。雷跡は見えなかった。なぜ。

『まさか、甲標的まで?』

 震える声で霞が言った。甲標的とは、小型の潜水艦のようなもので、水面下を潜航して敵艦に近づき、至近距離から魚雷を発射する。レ級本体から撃ちだされる放射線の間を、甲標的が潜航していたらしい。つまり派手な雷撃は囮で、ひっそり接近していた甲標的からの魚雷こそが本命の攻撃だったのだ。敵は、まるでピアノの白鍵と黒鍵のように、魚雷と甲標的とを互い違いに組み合わせていた。

「摩耶、無事か!」

 腹を抑えてしゃがみこむ摩耶に、渋谷が駆け寄る。

「こんな痛み、幻想にすぎねえよ。それより敵を見てくれ」

 眼をぎらつかせて立ち上がる摩耶。敵はいまだ憎たらしげに微笑んでいる。

『砲撃開始!』

 ついに霧島率いる第八戦隊が攻撃に加わる。それでも、敵は摩耶から視線を逸らさなかった。

『―――Couldn’t put Humpty together again♪』

 歌が終わる。刹那、摩耶と渋谷の視界に光が炸裂した。

 速度が落ちて回避行動が遅れた瞬間、敵の砲撃が艦橋に直撃した。たて続けに二発。一瞬一瞬が、コマ送りのように見えた。粉雪のごとく横殴りに散るガラス、ボコボコと膨れ上がる炎。宙に浮いた渋谷の身体を抱きとめる。直後、ふたりは艦橋から放り出された。抉れた鋼に片手でつかまり、片手で渋谷の右手を掴んだ。艦の傾斜角は二〇度。このまま落ちれば、運がよくて海。下手をすると甲板に叩きつけられる。喫水線も少しずつ上昇していた。

 摩耶は轟沈を覚悟した。

 だけど、ただでは死なない。せめて提督だけは。渋谷を引き上げようとする。しかし渋谷は朦朧とする目に力を込めて彼女を制止した。力なく開いた唇から不明瞭な言葉が洩れる。

「……俺に構うな。撃て、動け」

「馬鹿言うな!」

 摩耶の声に涙の気配が混じる。敵弾が、今度は艦尾をかすめた。しかし今の状態では砲撃はおろか回避行動もままならない。格好の的だ。

「艦隊を守れ」

摩耶を見上げ、いつものように渋谷は笑う。頬に熱い雫を感じる。摩耶は唇を噛みしめ、言葉にならない呻きをあげる。渋谷への感情ばかりが涙となって滂沱のごとく流れ出す。

「おまえは生きろ」

 渋谷は自ら手の力を緩めた。骨が折れそうなほど摩耶は握りしめてくる。だが無情な重力はふたりを引き裂く。手と手が離れる。渋谷は摩耶の顔を目に焼きつけながら落ちていく。遠くから砲撃音が聞こえる。霧島、榛名、利根、筑摩が四隻がかりでレ級と撃ちあっている。空母は無事だろうか。

 摩耶、すまない。

 海に抱かれた瞬間、浮かんでは消えていく様々な想いが、深い闇に溶けて沈んだ。

 

 

 水戸涼子少尉の駆る紫電改が、空母機動部隊から緊急の入電を受けたのは、ガ島飛行場への爆撃が終わった直後だった。報告を理解し、愕然とする。敵機動部隊の襲撃を受けている。可能ならば艦戦をこちらに回してくれ、という内容だった。涼子は思案する。飛行場を念入りに爆撃した後となっては、燃料はガ島からラバウルまでの片道で精いっぱいだ。娘機動部隊の位置は、ガ島とラバウルの直線航路から、南に約三〇キロずれている。もし対空戦闘をすれば、燃料が足りなくなる恐れがある。その場合は四隻の空母のいずれかに着艦しなければならない。しかし、もし四隻とも飛行甲板が破壊されていたら、その先にあるのは広大な海への不時着だけだ。生き残れる確率は、ほぼゼロだ。

 それでも涼子は決意する。一度腹を括ってしまえば、もう躊躇うことはなかった。自分の僚機として搭乗している、腕ききの操縦士五人に信号を送る。

「ひとり一〇、いや二〇機落そう。そうすれば敵も諦めるさ!」

 持ち前の明るさで涼子は言った。敵は手負いの軽空母と航空戦艦。多聞丸と幾田にしごき抜かれた精鋭たちが応援に向かえば、練度の低い敵など蚊トンボのように撃ち落とせる。ただ、戦闘に勝てたとしても無事ラバウルに帰還できるかは賭けだった。

 残りの艦戦部隊は、敵の報復にそなえて艦爆、艦攻隊を守る使命がある。応援に行けるのは、涼子を含め六名のみ。

 六機の銀翼が、曙光の煌めきをまといながら、新たな戦場に飛んでいく。

 そこで見たのは、地獄のような光景だった。黒い敵の艦載機が、卑しいカラスのように無力な空母たちに群がり襲っている。赤城、加賀からは飛行甲板が見えないほど黒煙が上がり、蒼龍も艦首に大穴が開いている。辛うじて飛龍だけが、甲板からなけなしの艦戦を発艦させていた。

 怒りに燃える六機は、猛禽のごとくカラスに牙を剥く。空は彼女たちの独壇場だった。風を操るように敵の攻撃をかわし、背後から機銃弾を叩きこんでいく。だが、いかんせん多勢に無勢だ。

「まずい!」

 涼子は機体を降下させる。撃ち漏らした敵機が、飛龍に急降下爆撃をかけた。錐で抉るように鋭い、命を顧みない急降下。もしかしたら敵に命などないのかもしれない。涼子は顔を青くしながら思った。飛龍の甲板が吹き飛ぶ。ちくしょう、と涼子は叫んだ。これで着艦できる空母はいなくなった。

 制空権は、ふたたびこちらに戻りつつある。だが、敵機を完全に駆逐する頃には、我々の燃料がもたない。涼子は後ろを振り返る。恐怖を飲み込んで自分についてきてくれた仲間たち。彼らを死なせることはできない。

「総員、ただちにラバウルに帰投せよ。ここは、わたしに任せて」

 涼子は言った。僚機からの抗議は受け付けなかった。やがて仲間たちは彼女に敬礼しながら戦場を離脱する。彼らの脱出を見届け、涼子はもう一度海面を見る。味方も、少しずつ脱出している。傾いた重巡がいる。艦橋の半分が吹き飛び、炎をあげている。気づかないうちに、砕けそうなほど奥歯を食いしばっていた。

あとは自分が、すこしでも敵をすり潰せばいい。

「さあ、かかってきなさい!」

 怒りと悲しみを力に変えて、涼子は叫んだ。

 




最大規模の激戦となりました。

なぜ深海棲艦は、これほどまでに急激な進化を遂げたのか。
次回、深海棲艦の核心部分が少しだけ顔を覗かせます。



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第九話 深海の王

摩耶から落下し、海に飲まれた渋谷少佐。
目を覚ました彼は、おそるべき存在と対峙する。

なぜ深海棲艦が戦術を獲得できたのか。なぜ急速な進化を遂げたのか。
その理由が明かされようとしていた。


 

 

 

 瞼越しに青白い光が差してくる。渋谷はゆっくりと目を開けた。確か自分は海に転落したはず。しかし肉体は、明らかに空気を感じている。身体に痛みも感じない。ここは死後の世界なのだろうか。そんなことを真面目に考えていた。頭を冷静に保ち、周囲の景色を見る。なぜか自分は椅子に腰かけ、目の前には現実味のない真っ白なテーブル。向かい側にも椅子がある。さらに、ここはどうやら飛行甲板の上らしい。ただ日の丸はなく、黒と青を基調とした不気味な色合い。左に見える艦橋も、どこか禍々しい意匠だった。

 海の上に浮かぶ大型空母。渋谷はようやく自分の立ち位置を理解した。かすかな鉄と硫黄の匂い。間違いない、これは深海棲艦の空母だ。戦慄とともに立ち上がり、海上を見渡す。遥か彼方に島影がある。だが、普通の島でないことはすぐに分かった。ただの人間でしかない自分にも理解できる。あの島を包み込む、悪意とも憎しみともつかない、圧倒的な怨念の気配を。島の海岸線に目をこらすと、深海棲艦と思しき多数の艦が停泊している。どうやら、ここが敵の工廠と母港らしい。すなわち深海側の鎮守府だ。渋谷は必死に周囲を見渡し、場所の手掛かりを探ろうとしたが、視界に入るのは暗い海ばかり。空にも分厚い雲が渦巻き、星を見ることもできない。

「目覚めたようですね」

 不意に背後から声がする。慌てて振り向くと、いつの間にかひとりの女性が立っている。しかし当然のごとく人間ではない。黄金色の瞳、生気のない青い肌。なにより石膏像のように整った美しい肢体が、かえって冷たさと不気味さを感じさせる。

「空母、ヲ級の顕体か……?」

 後ずさりながら渋谷が尋ねる。頭のパーツはないが、その独特の風貌を見れば明らかだ。今は拳銃すら持っておらず、反撃の手段は皆無だ。しかしヲ級は、とくに敵意を見せるでもなく無表情に応える。

「空母ヲ級。人間が使う、わたしの同型艦の呼称ですね。しかし、人間の認識に誤りがあります。わたしは群ではなく一個体。わたしの名はアウルムです」

 空母ヲ級は、自らの名を名乗った。

「あなたを攻撃する意志はありません。ただ仲間の気まぐれにより、実験的に召喚されました。しかし、わたしの主はあなたと会話を望んでいます」

「召喚とはどういう意味だ。俺はいったい、どうなったんだ? それに主とは誰だ」

「申し訳ありません。鹵獲した人間から抽出した言語知識を、我々のネットワーク言語と互換しているため、発進情報と受容情報に意味の格差が生じる場合があります。理解しづらくても容赦ください」

 木で鼻を括るような硬直的な言葉だった。

「椅子に座って御待ちください。主を呼びます」

 ヲ級は言った。次の瞬間、空席だったはずの椅子に誰かが腰掛けている。軍服に似た真っ白な装束。肌も髪も抜けるように白い。だが、その双眸だけは血のような赤に染まっている。

「突っ立てないで座ったらどうだ?」

 聞き覚えのある声だ。忘れようとも忘れられない、かつての友。純白の男は、ゆっくりと顔を上げる。

「久しぶりだな、渋谷」

 白峰晴瀬は、生前のままの美しい顔で微笑む。

 理性よりも感情が爆発していた。とっさに掴みかかろうとするが、渋谷の手は空を切る。白峰も胸倉を突きぬけていた。恐れをなして腕を引っ込める渋谷。それを見て白峰は苦笑する。

「無駄だ。きみは僕に触れない。とにかく座れ」

 男は言った。渋谷は仕方なく椅子に座る。身体を預けているというのに、感触も重さも感じない。白峰の隣には、まるで秘書艦のようにアウルムと名乗る空母ヲ級が寄り添っていた。

「さて、聞きたいことは山ほどあるだろうが、知っての通り僕は自分から話すのが苦手だ。いつものように質問してくれ」

 白峰は静かに言った。渋谷は慎重に考える。戦友とはいえ彼は一度死亡している。おまけに旗艦クラスの深海棲艦から「主」と呼ばれていた。彼の立場がどのようなものであるにしろ、この状況が四面楚歌であることに変わりはない。

「まず、俺はどうなったのか教えてくれ」

「海に漂流しているところを拾ったと報告を受けている。つまりきみは敵に鹵獲され、その技術によって意識だけをこの空間に転移させられているということだ」

「つまり現実には、俺の身体はソロモン海にあるということか?」

 白峰の言葉は半分が意味不明だったが、なんとか自分なりに解釈してみる。おおむね正しかったようで、白峰は頷いた。

「そうだ。好奇心旺盛な艦に拾われ、実験体となっている。こうして人間の意識を丸ごと我々のネットワークに乗せる実験だ」

「じゃあ、これから俺はどうなる?」

「データを取り終え、飽きたら海に捨てられるだろう。殺されはしないと思うが」

 淡々と事実だけを述べる白峰。どうやら自分には捕虜にする価値もないらしい。ソロモン海に放棄されたら、待っているのは死のみだ。しかし、少しでも生き残れる可能性があるならば、自分は今、とてつもない情報の宝を目前にしていることになる。

「そこに見えている島は何だ?」

「あれについては、僕も詳しくは知らない。言えることは、あの場所こそが、この世界の『異常』の始まりであるということだ」

 白峰は言った。異常とは、深海棲艦だけではない。艦娘もまた人類にとっては異常な存在だった。つまり深海棲艦も艦娘も、生まれは同じだとでも言うのか。だが、これについては今考えても埒があかない。白峰は答えたこと以上の情報を絶対に喋らない。渋谷は質問を続ける。

「その空母ヲ級は、おまえとどういう関係だ?」

「彼女は、かつてウェーク島で戦った敵であり、横須賀鎮守府正面でも戦った敵だ。僕は彼女に敗れて死んだ。しかし、実際は捕虜にされていたようだ。頭の知識を吸い尽くされ、実験台として精神を破棄される予定だったが、彼女と会話ができるようになり、利用価値を認められて深海の奴隷となった。この肉体は、深海の技術によって再構築したものらしい。寿命は大幅に縮まったようだが、今のところ不自由はない」

 赤い瞳で渋谷を見つめながら白峰は言った。深海棲艦と同じ素材でできた身体。渋谷は寒気を覚えた。

「待て、奴隷と言ったな? なら、なぜヲ級はおまえを主と呼んでいる?」

「それについては、わたしが説明します」突然、アウルムが口を挟んだ。彼女は無表情のまま続ける。「彼は深海棲艦の力で生きています。よって深海の意志に逆らう選択肢はありません。その事実より奴隷という表現は可能です。しかし、わたしたちは自主的に彼に指導を乞うています。その側面を重視し、わたしたちは彼を奴隷ではなく主と呼びます。兵器の操手であり、わたしたちの意志の統率者です。人間の言葉に変換するなら―――」

 提督。

 こういったものでしょうか。

 ヲ級の言葉は、渋谷の頭に驚愕しかもたらさなかった。これまでの深海棲艦との戦いは、王将のない将棋であり、キングのないチェスだった。敵の駒は限りなく増える。誰を討ちとれば勝利なのか分からない。しかし、ここに来て倒すべき目標が明らかになった。深海棲艦を率いる提督。彼を殺さない限り、世界の海に平安はない。

「アウルムは、いわば僕の幕僚だ。先見の明があり、指揮統率能力に長ける。そうでなければ、たかだか人間ひとりを鹵獲するために、空母で横須賀に突っ込んだりすまい。さらにもうひとり技術開発と個別の戦術に長ける者がいる。そろそろ来るはずなのだが……」

 白峰が言いかけた時、またしても新たな映像が出現する。背が低く、頭には黒い雨具のようなものを身に着けている。白峰の姿を見るなり、嬉しそうに駆け寄り背後から抱きしめた。無邪気に微笑む姿は、まるで幼い少女のようだ。背中から伸びる、怪魚のごとき巨大な尻尾が無ければ。

 ついさっきまで艦娘と死闘を繰り広げていた異形の戦艦。戦艦レ級がそこにいた。

「彼女はグラキエス。僕の二人目の幕僚だ」

 頬すりする彼女の頭をなでてやりながら、白峰は言った。

「おまえが名付けたのか?」

 顔を引きつらせたまま渋谷が尋ねる。白峰は小さく頷いた。ラテン語でアウルムは黄金、グラキエスは氷を意味する。彼らしい趣味だ。なぜかすんなり納得してしまう名前だった。

「ねえ提督。こいつはもういらない。捨てて良い?」

 グラキエス、もとい戦艦レ級が尋ねる。にやけた顔が一変、ゴミをみるかのように不快げな表情をつくる。深海棲艦とは信じがたい、人間以上に豊かな表情だった。

「これも何かの縁だ。もう少し話をさせてくれ」

 白峰がいさめる。するとレ級は「縁、縁って何?」と騒ぎ始める。

「なるほど、進化する戦艦か。ほんとに常識がいくつあっても足りない。深海棲艦に戦術を教えたのも、おまえだな」

 白峰を睨みつける。ただ彼は頷いた。

「そうか。一応、確認させてくれ。おまえは深海棲艦の提督で、つまり人類の敵なのだな?」

「そうだ」

「敵に操られているのではなく?」

 さらに問い詰める。心の片隅で、白峰が頷いてくれるのではないかと期待した。自分は深海棲艦に操られ、意志を強制され、無理やりかつての仲間と戦わされているのだ、と。

「ちがう。彼女たちの提督となったのは、まぎれもない僕自身の意志だ」

 その返答は、渋谷の淡い望みを打ち砕く。

「帝国軍人の誇りを捨て、祖国を捨て、同胞たちを殺戮するのに何の躊躇いもないのだな?」

「きみたちが今のままである限りは」

 言葉の真意は分からないが、渋谷は質問を続けた。

「婚約者を殺してでも、深海棲艦の指導者として戦い続けることが、おまえの正義なのか?」

 一瞬、言葉を切る白峰。しかし、やはり彼の回答はイエスだった。

「なぜだ」震える拳をテーブルに叩きつけ、渋谷は立ち上がる。「おまえの行いの、どこに正義がある? 海を封鎖して人間を殺し、あまつさえ愛した女も踏みにじって。それ以上の正義が、本当にあるのか!」

「きみに話す必要はない」

 ぴしゃりと白峰は言った。

「さて、そろそろ退場願おう。きみの出現は、グラキエスの気まぐれによるイレギュラーなものだ。本来の客人を待たせているので、これ以上話す時間はない」

 白峰は立ち上がる。彼に詰め寄ろうとするが、なぜか両足が動かない。

「だが、やはりきみと再会したのは何かの縁を感じる。だからひとつだけ教えてやろう。我々は、しかるべき時がきたら人類諸君に対して、ある質問をする。その回答を求める。人類の答え如何によって、世界の運命が決まる」

 白峰は言った。

 その言葉の意味を問いただそうとした瞬間、まるで暗幕が降りたかのように視界が闇に閉ざされる。繰り糸が切れた玩具のように、ぷつん、ぷつん、と膝が、腰が、腕が動かなくなり、やがてあっけなく意識も途切れた。

 

 

 渋谷が消えた甲板には、白峰と二人の深海棲艦が残された。

「艦娘は、なぜ我々を個体ごとに識別しようとせず、ル級やヲ級といった具合に、艦のクラスで分類するのでしょうか。あちらは艦ごとに固有の名を持つそうです。見分けがつかないのに無意味であると思います」

 アウルムが尋ねる。

「きっと敵も、同じように思うだろう。彼女らに深海艦の見分けはつかない」

「理解しかねます。我々は皆、思考の方向性、伝達速度などに大きな個体差を持ちます。しかし、敵は皆同じ思考の者ばかりに思えます。あれでは個体ごとの区別などつきません」

 アウルムが反論する。おそらく、深海棲艦と人類にちかい艦娘では、なにをもって個人とするか、その評価尺度に大きな差があるのだろう。人類は見た目や表層の嗜好を重視する。かたや深海棲艦は深層の思考回路をもって個体差を判別する。

 人間が深海棲艦を見た目の類似性で一括りにするように、深海棲艦には艦娘など全部同じノッペラボウに見えているのだ。艦娘にとってアウルムが『空母ヲ級』でしかないように、深海棲艦にとって、睦月も如月も弥生も望月も、『駆逐艦睦月級』でしかないのだ。艦娘は、深海棲艦を見た目でしか区別できない。深海棲艦は、艦娘を区別するところが見た目以外にない。

 白峰は自分の考えを伝える。アウルムは一言、「理解しました」と呟いた。

 しかし、無個性極まる人間にも、やはり異端はいるものだ。白峰は、それを確かめにいく予定だった。深海棲艦のネットワークから「縁」に合致する概念を探しているグラキエスに白峰は尋ねる。

「客人のもてなしは準備できているか?」

「南方がしっかり押さえてる。あいつを捨てたら、わたしも行くよ」

 グラキエスが尻尾を振りながら言った。

「南方の報告は面白い。人間だけじゃなくて、とても面白い艦を見つけた。これから先は、もっと楽しくなりそうな気がする」

 獲物を見つけた蛇のように瞳孔を細めて笑う。彼女に悪意はなく、虫を潰して遊ぶ幼児のような、純粋な喜びが溢れていた。

「何をもって自己なのか。それは自分で見つけるしかないと提督は教えてくれた。わたしは、何にでもなれる。ゆえに悩む。わたしは、わたし自身を映し出す鏡が欲しい。わたしが問いかけても壊れない、丈夫な鏡が。無ければ自分でつくる。提督、これからもわたしを教え導いてね」

 そう言い残し、グラキエスの意識体は自らの艦へと戻った。

 彼女の進化は目覚ましい。白峰は思う。アウルムは先見の明があり、目的のためならば手段を選ばない豪胆さと、自らをより賢く強くしようとする底なしの意欲がある。それに対し、グラキエスは興味を持つ対象が広く、ひとたび狙いをつければ徹底的に掘り下げていく研究者肌だった。これまでの深海棲艦は、いわば人類の猿真似だった。艦や機能、艦載機の形まで、既存の型を真似た。しかし、思えば別に人類の模倣をする必要もなかった。グラキエスに出会い、白峰はその事実に気づいた。なんでもありなのだ。技術が追いつきさえすれば、深海棲艦はなんでもできる。人間のように誇りや伝統、人間関係といった非合理なしがらみで正しさを見失うこともなく、ただ優れた存在を正義とし、それを目指す。兵学校の頃、教官に否定された自分のアイデアを丸ごと受け入れ、検討し、実践に移してくれた。

そんな深海棲艦のなかでも、グラキエスは突出した個体だった。彼女は好奇心の赴くままに進化した。戦艦並の砲撃力、艦底から直接射出される魚雷、新しい艦載機の運用。圧縮燃料によるエンジンの開発、高速化。彼女とは夜通し語り合い、互いのアイデアをぶつけあった。さらに彼女は人類特有の感情まで完璧に掌握した。それに成功したのは、彼女を除けば一部の上位個体だけだった。

ソロモン海でグラキエスと戦った人類は、今ごろ度肝を抜かれているに違いない。白峰は苦笑する。きみたちに、ほんの少しでも正しい道が見える眼があれば、深海の化物ごときに遅れを取ることもないだろうに、と。

そして深海棲艦は、さらに進化した戦略・戦術・技術を今も開発しているのだ。

「よろしかったのですか?」

 思考に割り込むようにアウルムが尋ねる。

「もし彼が生きて仲間と合流すれば、我々の情報が少なからず伝わります」

「構わない。一言一句違わず渋谷が伝えたところで、何もできはしない」

 白峰は言った。そのとき、白峰の脳髄に直接、情報が流れ込んできた。三次元方向に伸びていく立体パズルを思わせる深海棲艦の言語。秘匿回線でアウルムが今後の戦略案を伝えてくる。深海棲艦の意志疎通はこれで行われ、人類言語のように受け手によって意味の解釈が異なることもない、極めて合理的で美しい言語だった。最初これを受けたときは、ただの拷問にしか思えなかった。人類史上、最も苦痛の大きい拷問。膨大な情報で自我が圧迫され、何度も意識が分裂しそうになった。しかし、今ではずいぶん慣れたもので、複雑な会話も難なくこなせるようになっていた。白峰だけが深海の提督になりえたのは、彼女たちの意志疎通を受け入れることができたからだろう。生まれながらにして彼の思考は、深海棲艦に近いものがあったらしい。

 言語にしろ、正しい思考法にしろ、深海棲艦は人類より遥かに優れた潜在能力を持っている。にも関わらず、これまで敗北を重ねてきたのは、それを活かせる「型」がなかったからだ。いかに最新鋭の武器を持とうとも、戦いの「型」を知らない烏合の衆であれば、戦術を知る敵にあっという間に滅ぼされる。ならば、自分が与えてやればいい。知りさえすれば彼女たちは人類の何十倍の速度で進化できるのだから。

 アウルムの話は「重」かった。グラキエスへの考察を塗りつぶし、まるで白峰の頭を自分由来の情報だけで満たすかのように。

「わたしも感情を理解しています。グラキエスほどではありませんが、どうかご配慮願います」

 ほんの少し瞳を歪ませてアウルムは言った。表情に変化が現れてきた。新たな進化を目の前に、白峰は優しく微笑んだ。

 

 

 涼子は独りで飛び続けていた。

 僚機を撤退させたのち、彼女はなおも戦い続けた。ついに新型の敵戦艦が海域から離脱し、空の脅威は打ち払われた。空母たちの状態は気がかりだったが、もう自分には一刻の猶予もない。涼子はすぐラバウルへの直線航路に入った。しかし、戦闘で消費した燃料は大きかった。彼女はすでに理解していた。このまま進めば燃料が足りず、ラバウルに辿りつけないことを。

 それでも、わずかでも希望があるのなら。涼子は飛び続ける。燃料メーターが限りなくゼロに近い。一キロ、一メートルでも先へ。その想いを燃やし尽くしたかのように、プロペラが沈黙していく。全ての鼓動が止まった機体。宙を漂う鉄の棺桶。死の静寂が満ちていた。浮力を失い、しだいに降下していく。不気味なほどの静けさの中で、涼子はぽつりと溜息をついた。ラバウルまで、あとどれくらいだろう。方角は分かっている。でも、泳ぎ切れる距離だろうか。

 見慣れたはずの海が、ひどく恐ろしい。

 無限に広がる群青が、ちっぽけな命を飲み込もうとしている。恐れる気持ちすら馬鹿馬鹿しく思える。この海に抱かれてしまえば、希望も絶望も、何もかも無に溶けてしまうというのに。

 そのとき、涼子の視界に何かが映った。海面に漂う無数の白い物体。イルカの群れだろうか。しかし泳ぐでもなく波に弄ばれている。その輪郭をはっきり捉えたとき、涼子は吐き気を覚えた。死体だ。艦娘に乗っていたであろう、軍人の死体。それが二十、三十と塊になっている。

 その中に、涼子は見つけた。まだ命ある者の姿を。同胞の死体にしがみついてでも、必死に生きようともがいている。虚無の穿たれていたはずの胸に、ふたたび熱い意志が込み上げる。涼子は重たい操縦桿を倒し、螺旋を描くように大きく旋回しながら降りていく。やがて機体は死体のすぐ横に着水した。キャノピーを開き、海に飛び込む。凄まじい腐臭が鼻をつく。どうやら、この戦いでの戦死者ではない。手足のない死体を掻き分け、生者のもとに急いだ。

 その男は目を閉じたまま、腐りかけの死体に腕をかけていた。体温が奪われているらしく、ひっきりなしに身体が痙攣している。

「しっかりして! こっちを見て!」

 涼子は彼の頬を叩いた。その瞬間、気づいた。青ざめた顔で、うっすらと瞼を開く男。彼の顔は良く知っている。何度か言葉を交わすうちに仲良くなり、いつしか自分の心が無視できない存在となっていた。

 渋谷礼輔少佐。彼が今、瀕死の状態で助けを求めている。

「……水戸少尉……?」

 掠れた声で渋谷は言った。まだ意識はあるようだ。

「そうです。とにかく、ここを離れましょう。生きてラバウルに帰るんです!」

 涼子は渋谷に肩を貸そうとする。しかし渋谷は首を横に振った。

「今は俺の話を聞いてくれ。今後の作戦を左右する、重要な情報が―――」

 しかし涼子は渋谷を無視する。彼の腕を自分の肩に回して、死体の群れから抜け出していく。

「駄目だ。俺は右足をやられている。それより話を聞いてくれ。きみが情報を持ちかえるんだ」

「じゃあ左足を動かして! バタ足くらいできるでしょう。生きることを諦めてはいけない。大丈夫、わたしを信じてください」

 強い言葉に、渋谷は黙って従うしかなかった。ふたりはひたすら泳ぎ続けた。体力が尽きれば死に繋がる。この土壇場でも渋谷を置いていく気にはなれなかった。やがて彼女は渋谷の右腕に裂傷があることに気づく。泳いでいるうちに傷が広がったらしく、ゆらゆらと血が流れ出ていた。とっさに彼女は渋谷に貰ったハンカチを取り出し、躊躇いなく破く。それで傷口をきつく縛った。大量の血を流せば危険だし、サメやフカに襲われる危険も高くなる。かつて中部太平洋の戦いで不時着水し、骨も残さずフカの餌食となった仲間を思う。暗い海の底に怯えながら、必死にふたりは泳いだ。

 

 どれくらい時間がたっただろうか。もう手足の感覚がない。海面から頭を出すだけで背いっぱいだった。諦めれば楽になれる。それでも涼子は生きる苦しみを選び続ける。やがて、疲労で霞んだ視界に影が映る。水平線の先に、巨大な島影が浮かんでいる。海の終わり。絶望の終わりだった。

「見て。帰りつきましたよ」

 涼子は嗄れた喉で囁く。渋谷も顔を起こし、前を見据える。喋る余力もなかったが、唇から洩れる空気の音が、彼の気持ちを涼子に伝える。

 ありがとう。

 涼子の眼から涙が溢れる。

 ふたりの軍人が、命を持ってラバウルに帰還した。

 

 




深海提督の登場です。

これで、艦娘と深海棲艦の戦いに終着地が見えてきました。



ヲ級、ル級といった呼び名は人類が勝手に決めたものであって、深海棲艦は使用していません。彼女たちには、きちんとした個体識別サインがあり、一隻一隻が個の存在として動いています。


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第十話 初夏の青嵐

二正面作戦は成功した。しかし、それは大きな代償と引き換えの勝利だった。資源地帯を目の前にして、前線の抱える問題はさらに増加した。


頭を抱える渋谷の前に、ひとりの来訪者が現れる。
彼女が渋谷にした、とある行為が、人間と艦娘の関係に大きな波紋を立てていく。それは後々、艦娘の存在意義をも揺るがす疑問となって、ある娘の心に萌芽した。

渋谷は多くの艦娘、軍人と接する。
名将として名高い山口多聞は、この頃から戦争の終わりを見据えていた。
ふたりの提督は語り合う。艦娘たちにとって、どのような形で戦いは収束するのか。そこには勝敗に関わらず、悲しい結末が待ちうけていた。


 

 ガ島に巣くう敵陸上戦力・飛行場姫は、赤城、加賀、飛龍、蒼龍より放たれた艦載機により完全に破壊された。そして連合艦隊も無事、敵包囲網を退け、ラバウルからポートモレスビーに至る航路を確保。ついに帝国は、ニューギニアの地に足跡を刻んだ。これにより二正面作戦は、完璧に近い形でその目標を達成した。

 しかし、勝利の影には多大な犠牲も積み重なっていた。

 今回の戦闘により、

 

空母機動部隊・支援部隊

 正規空母

「赤城」 轟沈

「加賀」 轟沈

   「蒼龍」 大破・機関停止

   「飛龍」 大破

 戦艦

   「霧島」 轟沈

   「比叡」 大破・機関停止

   「榛名」 大破

   「金剛」 小破

 重巡

   「摩耶」 大破

   「利根」 中破

 軽巡

   「長良」 小破

 駆逐

   「嵐」  轟沈

   「萩風」 轟沈

「巻雲」 轟沈

   「風雲」 轟沈

   「黒潮」 轟沈

   「親潮」 轟沈

   「浦波」 大破・機関停止

   「朧」  大破

   「野分」 大破

   「綾波」 中破

   「舞風」 中破

   「不知火」中破

   「曙」  中破

   「陽炎」 小破

   「潮」  小破

 

 

 

 

 

連合艦隊

 戦艦

   「扶桑」 小破

 軽空母

   「千代田」轟沈

   「千歳」 中破

 重巡

   「最上」 大破

   「三隅」 小破

 軽巡

   「大井」 大破

   「川内」 小破

 駆逐

   「海風」 轟沈

   「江風」 轟沈

   「朝霧」 轟沈

   「白雲」 轟沈

   「夕霧」 轟沈

   

   「白雪」 中破

   「初雪」 中破

   「時津風」中破

   「初風」 小破

 油槽艦

   「さくらめんて丸」 轟沈

   「玄洋丸」轟沈

   「佐多丸」轟沈

   「東洋丸」轟沈

 

 

 以上のような被害をこうむった。

 連合艦隊では、主力となる戦艦・重巡の被害こそ奇跡的に少なかったものの、多くの駆逐艦を喪うことになった。駆逐艦は、将棋ならば「歩」のようなものだが、歩を喪えば戦争が成り立たなくなる。戦艦を守るため、中破以上でポートモレスビーを目指した駆逐艦は、ほとんどが雷撃の餌食となった。一方、途中で戦線を離脱した幾田の第一一駆は、誰ひとり欠けることなくラバウルに帰投している。

 前線に大きな衝撃をもたらしたのは、やはり空母機動部隊の損害だった。軍人と艦娘、双方が思いもしない方法で攻撃をしかけてきた敵。そして戦艦レ級の登場。これまで陣形や行軍も未熟だった深海棲艦が、突如として戦術を獲得した。これは敵の進化を意味する。学ばないと思われていた敵が、人類と同等か、それ以上の知恵を手に入れたことになる。

 第四次深海棲艦ショック。この衝撃がもたらした被害は、帝国海軍史上、未曾有のものとなった。

赤城、加賀は爆炎に包まれながら、寄り添うようにして沈んだ。自らの結末に後悔はなく、艦載機たちが無事飛行場を破壊できることを最期まで祈っていた。霧島はレ級と真正面から撃ちあい、ついに敵を退けた。戦艦としての使命をこれ以上ないほど果たせた、と僚艦の榛名に告げたのち、満足げに沈んでいった。

 生き残った空母、飛龍と蒼龍は、なんとかラバウル泊地まで帰りついた。飛龍は何度も蒼龍を励まし、彼女も全力をつくしてスクリューを回し続けた。

「がんばって、蒼龍! あと少しだよ。赤城さんも加賀さんも、わたしたちも、ちゃんと艦載機を送りだした。もう道半ばなんかじゃない。帰るんだ、鎮守府に!」

 ノイズだらけの無線機に、喉が潰れるほど飛龍は叫んだ。すでに蒼龍の搭乗員は全員が退艦していた。ひとり残ろうとする柳本艦長を、蒼龍は「それは、わたしの役目ですから」と笑顔で諭した。

 ラバウルが見える。朝日に煌めく街並み。懐かしい匂いのする港。そのとき、ガ島に出撃した爆撃隊から入電があった。『ワレ奇襲ニ成功セリ』。

 すべてが報われた。蒼龍は思う。艦娘として二度目の生を受け、ヒトと共に戦い、最後は海に還っていく。尊敬できる仲間と出会った。前世の悪夢を払拭できた。これほど人として艦として幸せなことはない。

 二隻の空母がラバウル港に入っていく。すぐに消火の準備が始まる。だが蒼龍は、自分の命の終わりを感じていた。それでも彼女は、深い海底のような死の安寧に心を預けたりしなかった。最期の力を振り絞る。在るのは、ただ愛する僚艦への想いのみ。

「ありがとう、飛龍。わたし、帰って来れたよ」

 碇を降ろす直前、蒼龍は言った。消火活動に入ったとき、すでに機関は完全に停止。まわりの制止を振り切って飛龍が艦内に突入したが、蒼龍の姿はなかった。艦体だけを残し、蒼龍は逝った。艦娘として死を迎えたはずなのに、その艦体はなおも屈せず、正規空母・蒼龍の威厳をたたえ港に鎮座している。

 顕体を喪った艦は、もう二度と動くことはない。ほとんどの艦が、そのまま海に還っていく。しかし、ごく稀に機関だけが崩落し、艦そのものは浮かび続けることがある。敵、味方双方に見られる現象だった。人間で例えるなら脳死と心停止の状態だ。

 蒼龍の艦体は、明石の指導にもとづき資材に分解された。鋼材ひとかけ、部品の一本に至るまで、彼女のすべてが傷ついた他の艦に移植された。人間の鋼材では代替のきかない機関を潰され、もう戦場に出ることは不可能とされた艦も、この治療を受けることで再び走れるようになった。もちろん飛龍も修理を受けた。無残に破壊されていた飛行甲板は、蒼龍の血肉によって美しい姿を取り戻した。

 機関停止となった艦を別の艦娘に移植する技術は、のちに『近代化改修』と呼ばれるようになった。

 死してなお親友のために体を留め、これからも共に生き続ける。艦娘、蒼龍の生き様だった。

「今度は、ずっと一緒だね、蒼龍」

 それから二週間、飛龍は泣き暮らした。その間、ずっと彼女の提督たる山口多聞少将が、まるで父親のように寄り添い、励まし続けた。

 

 これらの被害は大きなショックをもたらしたが、一方で小さな奇跡も起きていた。渋谷少佐と水戸少尉の生還である。ラバウル泊地の日報にも取り上げられ、皆に希望と勇気を与えた。

 浜辺に流れついた二人は救助され、泊地の病院に搬送された。その際、すでに艦体の入渠を済ませていた摩耶が噂を聞きつけて病院にかけつけ、手負いの渋谷を思い切り抱きしめた。背骨が折れるかと思った、と後に渋谷は語る。胸元に顔を押しつける摩耶。軍服が水気を吸っていく。摩耶につづき、第七駆の面々が一斉に病室に飛び込んできた。「大丈夫?」

「怪我は平気?」と質問攻めにする陽炎。その場で大泣きする潮、自身も涙ぐみながら彼女をたしなめる漣と朧。「艦から落ちるなんて、このクソ提督が!」と吼え、顔を涙でぐしゃぐしゃにして渋谷の脛をけりつける曙。仲間の様子を遠巻きに眺めながら、安堵の溜息をつく霞。そして、珍しく、本当に珍しく、不知火が微笑みながら無事を喜ぶ。その目元には涙が流れた跡が残っていた。

 

 

 南太平洋の宙に、ふたたび平和が戻った。正規空母三隻を喪いながらも、ベテランの搭乗員を乗せた爆撃部隊は、ほぼ無傷のままラバウルに帰投した。敵の飛行場姫は、夜が明けるギリギリのタイミングでの夜間爆撃に対応できず、自慢の機体を出すこともなく顕体を破壊された。連合艦隊も、駆逐艦を多数沈められたが主力部隊にはほとんど被害がなかった。敵は圧倒的戦力に恐れをなしたのか、潜水艦以外は追撃すらしてこなかった。やはりニューブリテン島から距離の近い島北部の警戒を強めていたのか、ポートモレスビー近海は比較的手薄だった。かくして二正面作戦は成功し、幾田中佐は『作戦の神様』として前線の兵士たちから尊敬を集めることとなった。

 連合艦隊は肩透かしを食らいながらも、無事、ニューギニアの地に血路を開いた。今回の大規模艦隊行動によって、平時に消費される一年分の油を飲みつくした。いち早く島の西端部にある石油資源地帯を抑え、燃料の生産に取り掛からねばならない。

 軍人たちは、今回の勝利を胸に刻みつける。

 そうすることで必死に忘れようとしていた。犠牲になった艦、そして新たに噴出した数々の脅威を。

 赤城に乗艦したまま戦死した南雲中将にかわり、山口多聞が中将に昇進、航空戦力の指揮をとることになった。山口を中心とした空母機動部隊の検討会で議論の的となったのは、やはり敵の戦術獲得についてだった。どこから情報が洩れたのか不明だが、敵がこちらの無線通信を傍受している可能性が高まった。その可能性を示唆したのは渋谷少佐だった。敵は艦娘たちの作戦行動の情報を集めるうち、戦術的思考を学んでいったのではないか、と。無線通信については、さらなる技術的研鑽が必要となるだろう。そう山口は結論づけた。

 もう一つ、提督たちの頭を悩ませているのが艦娘たちの士気が著しく低下していることだった。駆逐艦の多数轟沈は、艦娘のなかでも精神面で脆弱とされる駆逐艦娘たちに大きな波紋を広げた。山口は、摩耶を含め駆逐艦七隻をうまく指導してきた渋谷の腕をみこみ、彼女たちの心をケアできるよう、艦娘交流会の正式な設立と、その責任者を命じた。だが、問題を抱えているのは駆逐艦だけではない。連合艦隊の主力メンバーである戦艦にも、負い目を感じている者が多い。とくに戦艦大和などは、つぎつぎと沈められていく駆逐たちを目にし、『沈めるならわたしを狙え!』と大出力の開放無線で叫んだという。山本長官の話を聞くに、トラックにいた頃と合わせても、彼女がここまで感情を露わにしたのは初めてらしい。それ以来、大和は他の艦娘たちとの交わりを断ち、独りでいることが増えた。すでに大方の軍人が知るところとなっていたが、艦娘たちは年相応に繊細な心を持っている。ただ命じられるままに戦う兵器ではないのだ。人類とうまく協調できれば、これほど心強い味方もないが、一度心のバランスを崩すと戦闘どころではなくなる。軍の歴史上、かつてないほど扱い辛い力に、提督の才のない軍人は遠巻きに見ていることしかできなかった。

 さらに、補給の問題もある。ソロモン諸島を勢力下に置き、新たにショートランド、ルンガにも泊地が建設された。ガ島には飛行場の復活を警戒し、陸軍の第二師団が上陸、実効支配を進めていた。さらに、ニューギニアにも陸路攻略のため、第五五師団、第二〇師団がぞくぞくと上陸した。あまりに性急すぎる作戦だ。これは陸の作戦参謀、辻政信中佐の案だった。艦娘の登場以来、陸軍は華々しい主戦場から蚊帳の外に置かれていた。船腹、石油の割り当ても、明らかに海軍が優先された。占領地を拡大することで陸軍の威信を示し、これまでの鬱憤を晴らしたいという非合理な感情論が透けて見える。ニューギニアはともかく、戦略価値の薄いガ島方面にまで兵力を置いたことから、それは明らかだった。陸軍の拙速のおかげで補給線はさらに伸び、ただでさえ潤沢でない物資は、前線にまで行き渡らなくなった。未開のジャングルの広がる南ニューギニア地域は食糧を現地徴発することもできず、はやくも兵たちに飢えと渇きが蔓延し始めていた。

 飛行場を撃破したとはいえ、なおも輸送船の撃沈は相次いだ。今度は、敵潜水艦が神出鬼没の攻撃をしかけてくるようになったのだ。前線に戦力を集中しすぎたせいで、輸送船の護衛につくべき駆逐艦が不足した。おかげで輸送船は、斬り倒した電信柱を積み、大砲に見せかける始末。こんなもので深海棲艦の目を欺けるとは思えないが、無いよりはマシとのことだった。

 いったい、どこまで戦線を拡大するつもりなのか。

 山口は軍令部と参謀本部の意図に疑念を持ち始めていた。当初、この戦争の意義は資源を得ることだったはずだ。しかし、今はパラオからフィリピン、ボルネオへ、ニューギニアからスマトラ島、さらにマレー半島まで兵を進めようとする動きもある。つまり、アメリカと戦うつもりで立てていた作戦を、再度実行するということだ。戦勝を重ねるうちに、祖国を守る戦いであることを忘れている。世界の覇権を大日本帝国が握るという使命感にすり替わっている。これはゆゆしき事態だった。目的がブレている。明確な戦略ドクトリンを欠いたまま、いたずらに戦線だけを拡大していけば、先にあるのは軍の崩壊、ひいては国家の崩壊だ。

 今一度、この戦争の意義を問いなおす必要がある。鋭い眼光の奥で、山口はそう考えていた。信頼の厚い人物を本国に送り、軍と政府の首脳を正しい方向に導かなくてはならない。彼の頭に浮かんだのは、ひとりの若い提督だった。

 

 

 一九四三年一一月。

 ポートモレスビーに泊地が建設された。

 ソロモン諸島の海が安定したことで、新たな前線となったニューギニア島に艦娘の主戦力が集中しつつあった。二正面作戦で傷ついた艦体の修復も終わり、摩耶麾下の第七駆の面々もポートモレスビーにて、つかの間の休息を楽しんでいた。しかし渋谷には短い休暇を楽しむ余裕もなく、鎮守府の執務室で缶詰にされていた。

 渋谷は、おもに三つの問題で頭を抱えている。

ひとつは白峰のことだ。彼との会話から得た情報は、すぐにでも軍令部のみならず、陸の参謀本部、現政権の首脳部にも伝達すべきことだった。しかし、かつての英雄、白峰が敵に寝返ったなど誰が信じるのか。あまつさえ深海棲艦に鹵獲され、その得体の知れない技術によって意識だけを敵本拠地に飛ばされていたなどと、正直に話せるはずもなかった。下手をすれば、深海棲艦のスパイとして尋問、幽閉されかねない。部下の艦娘から引き離されることは耐えられない。そこで渋谷は、最前線で敵と砲火を交えた将校として、敵がもはや人類同等の知恵と手にしたこと、戦局はさらなる困難が予想されることを遠回しに、しかし熱意をもって報告した。渋谷の他にも、ソロモン海の戦いで艦娘に乗艦していた多くの士官が、深海棲艦の狡猾さを証言した。このことにより、深海棲艦は艦娘側の無線を傍受し、さらに人類から戦いの知識を盗み始めていると、前線の作戦部および軍令部に強く危機感を植え付けた。しかしながら、白峰の予言めいた言葉の意味と、彼が当初面会するつもりだった来客とは誰のことなのか、謎は謎のまま残ってしまった。

 ふたつめは、艦娘たちのケアだった。犠牲者の総数こそ従来の戦いより遥かに少なかったが、やはり未曾有の轟沈を出したことで、艦娘たちは心に大きな傷を負った。なにせ艦娘の総数は限られている。いくら見た目がヒトそっくりで、その心もまた人間と変わらないものであったとしても、艦娘と人間では存在の根本が違う。人間は生物であり、繁殖によって種の命を未来に繋ぐことができる。しかし艦娘は、沈んでしまえば、その存在に代替はきかない。艦の寿命は長くて二〇年。生まれた瞬間から滅亡が見えてしまっている。それもヒトの寿命よりずっと短い時間で。ゆえに、人間に囲まれて生きる彼女たちは、どうあっても民族の孤島であり種の孤島だった。艦娘の轟沈を、普通の艦と同じく「消耗」という言葉で、紙面上の数字だけで片付けてしまう軍令部は、喪失の痛みがどれだけ多大な影響を残された艦娘に与えるか理解できない。艦娘部隊を指揮する高級将校のなかには、山口提督を筆頭に艦娘に対し想いやりのある人もいた。しかし多くの軍人は彼女たちを扱い辛い生物兵器くらいにしか見ておらず、まるでさわらぬ神に祟りなしとばかりに、顕体の世話を鎮守府に押しつける。自分が直に率いた艦娘ならまだしも、軍令部が直接統率するという名目で、さまざまな司令官の間で盥回しにされてきた重巡以上の艦娘の相手はとても神経をつかう。とくに戦争や自らの存在に強い矜持をもつ戦艦は、とにかく気をつかった。なまじ物分かりがいいだけに本音を聞き出せない。いささか暴力的であるが、自分の気持ちをストレートにぶつけてくれる曙や霞のほうが、よほど扱いやすい。目下、最大の難物は戦艦大和だ。連合艦隊の旗艦ということもあり、そもそも会話の機会が少なかった。最近は、自ら作戦部から距離を置いているらしいが、なかなか掴まらない。渋谷得意の散歩も相手がいなければ意味がない。

 そしてみっつめ。饗導艦制度の導入だ。

 饗導艦制度とは、ひらたく言えば艦娘が艦娘を指導・教育する制度だ。初期艦をもった五人の提督を皮切りに、艦娘たちは数多の優れた教官の指導を受けてきた。図上の知識だけではなく、実戦に参加し、さまざまな任務をこなすことで、教官たりうる能力を得た艦もいる。それら優秀な艦に指揮、指導を任せることで、より艦娘同士の連携を密にすることができる。そう軍令部は考えた。艦娘の力を恐れ、とにかく首輪をつけたがっていた軍部首脳だが、これまでの戦いぶりから艦娘の力、忠誠心を認め、彼女たちに自主裁量の余地を与えた。最初は駆逐艦だけに適用されるが、いずれ軽巡以上の艦にも饗導艦がつく可能性は高い。軽空母の間では、すでに鳳翔が実質的な饗導艦の役目を果たしていた。

 表向きは艦娘のための制度。しかし実務の面から捉えると、裏の理由が見えてくる。本国では物資の不足が慢性化していた。石油だけではない。鉄、ボーキサイトなどは困窮していると言ってもいい。一刻も早く南方で得た資源を本国へ輸送しなければならない。だが補給線は伸び切っており、敵潜水艦の暗躍もあいまって、多くの輸送船が撃沈されていた。前線と本国、両方の飢えに挟まれた軍令部は、ようやく重い腰をあげて海上護衛に力を入れはじめた。基本方針は駆逐・軽巡からなる部隊で輸送船団を護衛することになる。護衛のため艦娘を運用するにあたり、艦娘自身が指揮官となれば、海軍は護衛などという地味で過酷な仕事に人材のリソースを割かずにすむ。軍人たちにとって、あくまで花道は艦隊決戦なのだ。このように、かなり打算的な側面もあった。

 饗導艦制度により、前線の駆逐艦たちは大きく動いた。かつて佐世保鎮守府で幾田中佐の直轄だった、第二駆逐隊「白露」「時雨」「村雨」「夕立」、第三駆逐隊「夕雲」「長波」「早霜」「清霜」が中部太平洋から南方間の輸送任務のため前線へ。塚本少佐の直轄である第一七駆逐隊「磯風」「浜風」「浦風」「谷風」が、即応部隊として召集された。聞くところによると、熊少佐の第六、第八駆逐隊も本土・中部太平洋間の輸送任務につく予定らしい。

第七駆逐隊からは「陽炎」が名誉ある饗導艦に任命され、第二駆を率いることとなった。そして「摩耶」も饗導艦となり、第七駆の旗艦となる。

 そして渋谷は、新たに第三駆の司令官となった。その使命は、メンバーのひとりを饗導艦として見出し、教育することだった。

 今回の人事、必ず嵐になる。げんなりしながら渋谷は思った。彼の予想通り、導入されたばかりの制度は、便益より混乱を増やした。陽炎率いる第二駆では、白露がはやくもリーダーの座を巡って対立している。どちらも同じ長女気質、さらに誇りあるネームシップであるだけに、譲れないものが多いらしい。なにせ第二駆は、白露型の艦だけで構成されている。そこに、ぽっと出の陽炎型がリーダーに収まれば、思うところもあるだろう。さらに第七駆では、摩耶が未だに渋谷の異動を反対していた。彼女の不機嫌は直らず、不知火が実質的なまとめ役を果たしている。

 渋谷は、艦娘交流会の責任者として、彼女たち全員の面倒を見なければならない。あっちで文句を言われ、あっちで不満を言われ、四方八方から板ばさみにされていた。かくして鎮守府の昼下がり、渋谷は淀んだ目で茫漠と空を見上げていた。もう逃げ場は上しかない、などと考えている時点で末期症状だった。

 そんな状態なので、執務室のドアがノックされたことにも気づかなかった。

「失礼します」

 快活な声が聞こえ、ようやく渋谷の意識が戻る。扉の前には、若い女性士官が立っていた。

「申し訳ありません、勝手に入室してしまって」

 涼子は言った。階級章の星がひとつ増えている。それに加え、胸元には勲章の略綬が控え目にぶら下がっていた。ソロモン海の活躍が認められ、中尉に昇進した。さらに、軍令部は若い操縦士に対し、海軍武功章を授与した。女性士官では初となる叙勲である。これにより第二二飛行隊は、大きな自信を得るとともに、軍部内における女性の地位も向上した。

「昇進と叙勲、おめでとう。あと、改めて礼を言わせてくれ。きみのおかげで命を拾うことができた。部下たちを残して死なずにすんだ。ありがとう」

 渋谷は立ちあがり、深く頭を下げる。病院に運び込まれて以来、なかなか顔を合わせることがなかった。彼女が訓練に励む飛行場は、ポートモレスビーの中心地から少し離れた場所にある。渋谷は、ついぞ外出の機会に恵まれなかった。

「いいえ、お互い様です。わたし一人だったら、途中で力尽きていたでしょう。少佐は、わたしの心の支えになってくれました」

 桜色に頬を染めて、涼子は微笑む。

「わたし、実は休暇を頂いて中心街まで来ていたんです。お忙しいとは思ったんですが、どうしても少佐の顔が見たくて。すいません」

「いいや、鎮守府も今は休みだ。俺は勝手に残っているにすぎない。納得のいく仕事ができなくて、腐っていたところだ。きみが来てくれて嬉しいよ」

 渋谷は本心で言った。たしかに鎮守府内に艦娘の姿が見当たらない。聞けば、街に繰り出したり海水浴を楽しんだりしているらしい。その間に艦体の細かな整備も済ませてしまうそうだ。

 涼子の表情が、ぱっと明るくなる。

「そうだ、わたしと出かけませんか?」彼女は唐突に言った。「いい気分転換になると思いますし、一度港のほうに出てみるのも面白いですよ」

「しかし、きみの同僚も休暇中なのだろう。仲間と一緒にいなくてもいいのか?」

「大丈夫です、皆気をつか―――」

 涼子は慌てて言葉を切る。

「皆には、鎮守府に用事があると伝えてきましたので」

「そうか。迷惑でなければ、ご一緒させてもらおうか」

 顔がにやつかないよう、努めて冷静に渋谷は言った。正直、かなり嬉しい申し出だった。彼女とは気が合う。執務で行き詰っている今、また何かしら打開策を貰えるかもしれない。あくまで彼女は同僚である、と自分に言い聞かせる。もし一線を超えてしまえば、幾田に殺されかねない。

 ふたりはポートモレスビーの街を歩いた。南半球では本土と季節が逆になる。晴れた日は夏の暑さを思わせる。幸いにも今日は雲が多く、散策にはちょうどいい気候だ。ニューギニアの東半分はオーストラリアの委任統治領となっており、雰囲気はラバウルに似ている。しかし連合艦隊が進駐してすぐのころ、街は荒みきっていた。港には艦の残骸が腐るにまかせて放置され、取り残された人々は獣同然の生存競争に晒され、少しずつ人口をすり減らしていった。軍は、深海棲艦と戦う新たな拠点としてインフラを整備し、なんとか街を復興させてきた。今はニューギニア北部の都市との交通も復旧し、街は明るさを取り戻しつつあった。

「これも艦娘のおかげですね」

 涼子は言った。任務の合間をぬって、彼女たちは積極的に街の復興を手伝ってくれた。住民や子どもたちへの慰問、食糧の手配など、人種、宗教に隔てなく接した。深海棲艦の脅威に苦しむ人間すべてに、彼女たちは優しかった。

「こうしてラムネが飲めるのも」

 渋谷は軍票でラムネを購入し、涼子に手渡した。本土では、まず味わえないだろう甘味が口いっぱいに広がる。活発な少女のように、ラムネを流し込む彼女の姿に、渋谷は少し見とれていた。

「そうだ、俺を助けたとき、ハンカチを駄目にしてしまったな。代わりの品を探しにいかないか」

 流れる汗を見て、渋谷は思い出す。しかし彼女は恥ずかしそうに首を振った。

「いいえ、大丈夫です。そこまでしていただくわけには」

「何を言う。きみは俺の恩人だ。それくらいはさせてくれ」

 だが、涼子は少し俯いて首を振る。その顔は、熱射病にやられたかのごとく、真っ赤に染まっていた。

「頂いたハンカチ、まだ持っています」

 小さな声で涼子は言った。渋谷は首を傾げる。傷を塞ぐため引き裂かれ、血まみれになったハンカチは、もう本来の役目を果たせないはずだ。

「あの、見てもわたしのことを嫌わないでくださいね」

 涼子は言った。わけもわからず渋谷は即答する。すると彼女は、さらに顔を赤くして、ポケットからおそるおそる何かを取り出す。

 まぎれもなく、渋谷が手渡した一品だった。

 裂け目は丁寧に縫われている。すこし不揃いな縫い跡を見るに、手縫いのようだった。白の地は赤黒く染め抜かれ、レースのあちこちに赤がしみて禍々しい模様になっている。正直、惨劇を思わせる不気味な見た目だった。

「どうしても捨てることができなかったんです。重い女だと思われますか?」

 涼子が尋ねる。眉尻をさげ、上目づかいに見つめる姿は、普段の快活な彼女からは想像がつかない。新たな側面に気押されつつも、渋谷は胸の奥が温かくなるのを感じていた。

「いいや。そこまで大切にしてくれるなんて、俺は幸せ者だ」

 照れ笑いをしながら渋谷は言った。涼子の顔に、今日一番の笑顔が咲いた。

「これは、わたしにとっての誇りでもあるんです。一生大切にします」

 涼子は言った。救うべき命を救うことができた。海を征く者を、空から守る。飛行士としての誇りと喜びを、ずっと忘れないために。そこには一人の軍人として、一人の女性として、水戸涼子の純粋な想いが秘められていた。

 それ以上、渋谷は何も言えなかった。

 ふたりは街の散策を続けた。夕暮れどきになり、その足は港の方へ向かっていく。ここには南方戦線の主力が停泊している。錚々たる艦たちが、そこで体を休めていた。

「圧巻ですね」

 高台から港を見下ろし、涼子は言った。彼女が乗ることになる正規空母・飛龍の姿も見える。機動部隊の空母のなかで唯一、死を免れた艦。渋谷は涼子の安全を願う。

「あそこに人がいますね」

 涼子が言った。持ち前の視力を発揮して、その方角を指差す。港から海に突き出たコンクリート桟橋の先に、赤い番傘のようなものを掲げた女性がひとり佇んでいる。並の男を軽く見下ろせる長身、そして長い亜麻色の髪。後ろ姿だけでも、彼女が何者であるか分かった。

「お手柄だ。やはりきみが一緒だと、いいことがある」

 渋谷は声を弾ませる。きょとんとしながらも、涼子は嬉しそうに笑った。

「もう少し先まで行ってみませんか。気になる場所があるんです」

 涼子は高台の先を指さす。日没までには鎮守府に戻らねばならない。だが、渋谷は断れなかった。彼女に促されるまま稜線をこえる。その先には、すらりとした白塗りの灯台があった。オーストラリアの統治時代、ここが活気あふれる港町だったことを物語る。だが、もう光が灯ることはない。海岸に近すぎるということで放棄されたのだ。同じ理由で廃屋となったレンガ造りの建物が、ずっと後ろにぽつぽつと残っている。

「綺麗ですね」

 ほう、と涼子が溜息をつく。ふたりは灯台の隣に並んだ。夕陽の紅蓮がたゆたう海。人類の敵が跋扈する魔海とは思えない、荘厳な自然のたたえる美しさがあった。

「この先にオーストラリア大陸がある。鉄、ボーキサイトの豊富な土地だ。英連邦の国だが、もう戦争など考えまい。しかるべき時がくれば、互いに力を合わせなくては」

 渋谷は言った。国家の行く末を決める戦略次元の話など、一介の軍人にすぎない自分が口を出すのもおこがましい。しかしながら、そう願わずにはいられなかった。今、人類同士での争いを持ちだす余裕などない。

 なにより艦娘たちを、人殺しにしてはならない。

 渋谷は、じっと海峡を見据える。心なしか、海の音がはっきり聞こえるようになった気がする。レ級による実験の後遺症だろうか。押しては引く巨大なうねりは、血潮の音によく似ている。鼓動のようにも、胎動のようにも聞こえた。

 海に惹かれている。今さらながら、白峰の気持ちが分かる気がした。

 海色を湛える渋谷の瞳で、涼子の瞳はいっぱいになっていた。彼女は彼だけを見つめていた。

「きみは、何も聞かないんだな」

 渋谷は言った。突然の言葉に、すこし動揺する涼子。

「俺は明らかに不審な状況で発見された。しかも、きみに情報を持ちかえるよう話した。普通ならば怪しまれて当然だと思うが」

 海を見つめたまま渋谷は問うた。

「わたしは不審だなんて思いません」涼子はきっぱりと言った。「少佐が任務に忠実であり、部下を愛する真っ当な軍人であることは、わたしがよく知っています。あなたが話すべきではないと思ったなら、それが正しいのでしょう。わたしは中将、大将閣下より、本土の偉い政治家より、あなたを信じます」

 迷いのない言葉。渋谷は歯を食いしばる。なぜ、そこまで自分を信じてくれるのか。レ級に鹵獲され、おそらく脳髄に何らかの実験をされた。自分では正常のつもりでも、深海棲艦に意志を操作されていることも考えうる。自分でも分からないうちに、味方を裏切る行動に出るかもしれない。その可能性はゼロではない。

「もし万が一、俺が軍に仇為す行動をとれば、そのときは躊躇いなく俺を撃ち殺してくれ。俺を信じてくれるきみにしか頼めないことだ」

「はい、わかりました。でも、多分できないと思います。最後まで、あなたを信じてついていくと思いますよ」

「なぜ?」

 渋谷が問う。その瞬間、視界が強制的に海から引き剥がされた。両の頬が、温かい掌に包みこまれている。目の前には涼子がいた。まっすぐな瞳で、こちらを見ていた。

「これが答えです」

 そっと渋谷を引き寄せる。涼子の目が閉じる。唇が塞がれた。涼子の唇によって。

 時間の感覚がなくなっていた。涼子がゆっくりと顔を離す。渋谷は、ただ茫然と立ち尽くしていた。夕日も裸足で逃げ出すほど、真っ赤に染まった涼子がいた。

「あなたをお慕いしています。どうか、わたしとお付き合いください」

 四肢は小刻みに震えている。よほど緊張しているのが分かった。渋谷が口を開く前に、耐えきれなくなった涼子はくるりと背を向ける。

「御返事は、いつでも構いません。こんな戦時中に非常識ですが、それでも自分の気持ちを抑えきれませんでした」

 その直後、ふと涼子は遠くの廃墟に視線を移す。しばらく目を細めたのち、ぽつりと「ごめんね、でも譲る気はないから」と呟いた。

「また遊びに伺います。今日はありがとうございました!」

 走り込みで鍛えた健脚をもって、彼女は走り去っていった。渋谷は頭が真っ白のまま一歩も動けずにいた。彼女との信頼関係は上司と部下のそれであり、例え恋愛感情を持っていたとしても、自分からの一方通行だと思っていたのだ。だから彼女を女として見ようとする自分を必死に戒めてきた。その努力が全部、たった一度の口づけで灰塵に帰した。

 俺はどうすればいいのだろうか。心を宥めるため、鎮守府までゆっくりと歩く。娘さんをください、と幾田に頭を下げる勇気はあるだろうか。夢見心地で空を漂う頭では、たわいのない事を考えるのが精いっぱいだった。

 

 

 時計の長針が幾重にも廻ろうと、渋谷の頭から涼子の顔が離れない。すでに日付の代わり目が近かった。すこしでも頭を冷やすため、渋谷はこっそり鎮守府を後にした。港沿いに夜の散歩を楽しむ。思えば、ひとりで歩くのは久しぶりだった。いつも部下の艦娘たちを連れ添っていたからだ。今日こそは、じっくりと思考を巡らせることができそうだ。しかし、彼の期待は早々に裏切られることになる。

 停泊している第二駆逐隊の艦列を横切る。細長いコンクリート桟橋の先に、見覚えのある人影がいた。まさか、と思い目をこらす。だが見間違えようもなかった。大きな番傘の下に、二メートル近い長躯をやつしている。連合艦隊旗艦・大和。超弩級戦艦としてその名を知らしめる顕体が、夕方から一歩も動かず陸を背にして佇んでいる。もう無視するわけにはいかない。渋谷は静かに桟橋を渡る。

「こんなところで、どうなさいました?」

 できるだけ自然を装い、声をかける。大和の動きは緩慢だった。ゆっくりこちらに向き直る。月光に照らされた彼女の肢体は、しなやかで力強い優雅さを湛えている。しかしながら、夜空の輝きを通さないほど深みを増した双眸は、威圧感を通り越して恐怖さえ見上げる者に植え付ける。無表情であれば、なおのこと恐ろしい。

「すいません、ぼうっとしていて。あなたは確か、交流会の……」

 思いだしたように苦笑し、大和は言った。彼女と顔を合わせたのは、ラバウルでの摩耶の演奏会以来だった。

「渋谷礼輔少佐と申します。あなたとは、ずっとお話したいと思っていました」

「これまで交流会に出席できなかったこと、重ねがさねの失礼をお詫びいたします」

 番傘を閉じ、大和は丁寧に頭を下げる。

「仕方ありませんよ。あなたは忙しい身だ。連合艦隊旗艦として多忙な毎日を過ごされていては、誰とも距離を置いて独りになりたいときもあるでしょう。ところで、いつからここにいらしたのですか?」

 渋谷の問いに、大和は少し困った顔をした。

「ええと、いつからだったでしょうか。確か朝方宿舎を出ましたので、それ以来かもしれませんね」

 彼女にふざけている様子はなかった。渋谷は少し背筋が寒くなった。

「交流会に参加しなかったのは、大和の我儘です。申し訳ありません」

 少し瞳を伏せて大和はふたたび謝罪を口にする。この件に関して、いきなり深く問い詰めてはまずい。渋谷の勘がそう告げる。

「そうでしたか。こちらこそすいません。責任者というだけで、しつこくあなたを訪ねてしまって」渋谷は、左足だけ一歩下げる。その刹那、大和の瞳に光った寂しさを見逃さなかった。「もしよろしければ、少しお話していきませんか。ご迷惑でなければですが」

「とんでもありません。大和は眠りが浅いので、夜はいつも退屈なんです」

「俺もです。なかなか寝付けなくて、鎮守府を飛び出してきました。こうしてあなたに出会えたのですから、動いてみるものですね」

 渋谷は言った。呼応するように大和も微笑む。この会話で、少しでも彼女が本心を見せてくれたら、と祈る。

「眠れないと苦労するでしょう。よく分かります。悩み事があれば、なんでも相談してください。俺でよければ力になります」

 渋谷の言葉に、大和は少し目を泳がせる。

「偉い人には言い辛いことでも大丈夫ですよ。ちょっとした愚痴でもいいんです。そうすることで心が軽くこともあります。軍隊は階級社会ですから、思っていることを言いにくい空気がありますよね。とくに戦艦や空母の皆さんは、多くの高級将校に囲まれてしまいますから、なおさらだと思います。だから俺みたいな人間がいるんです。艦娘と同じ立場で話をします。軍隊は縦の関係も大事ですが、戦場を離れたなら横の関係も同じくらい大切です。艦娘と人間の橋渡しとして、俺を使ってくれたら幸いです」

「どうして、そこまで献身的になれるのですか?」

 思案を巡らせながら大和が尋ねる。

「俺は艦娘が好きだからです」大和の目を見て、はっきりと口にする。「本土にいた頃から艦娘に憧れていました。彼女たちと共に戦いたい。そう願ってしました。しかし、実際に艦娘に乗ることができたのは、優秀な同期ばかりでした。そのときは、やはり嫉妬しました。でも、戦線が拡大するにつれて、俺も艦娘の部下を持つことになりました。その時から決めていたんです。俺は彼女たちに寄り添える提督になりたい、と。上から命令するのではなく、下手に出るのでもなく、共に肩を並べて戦うことができたら。今も信念は変わりません」

 演技をするまでもない。これは本心だった。軍人としてではなく、渋谷礼輔という一人の人間が選択した道だ。

「変わった軍人さんですね。あなたのようなヒトは初めてです」

 大和はくすりと笑う。

「そうですね。変な軍人だから、同僚たちに先を越されてしまうんです」

 渋谷も笑う。いつしか張りつめた空気が緩んでいた。

「先のサンゴ海の戦い、渋谷提督はどう思いましたか? 軍ではなく、あなた個人の意見を聞かせてください」

 釘を刺すように大和は言った。彼女は自分を試している。

「単刀直入に言いますと、不気味に思いました」

 少し考えてから、慎重に答える。

「姫クラスの超大型戦艦を筆頭に、敵は連合艦隊と渡り合えるほどの規模だったと聞いています。それなのに、撃たせるだけ撃たせて、敵は逃げてしまった。狙うのは駆逐艦などの小さい艦ばかり。サンゴ海海戦という一つの戦闘を評価するなら、この戦いは連合艦隊の勝利です。しかし、敵にとってあの戦闘は、もっと大きな作戦の一部にすぎないとしたら。我々よりも広い視野を持ち、ずっと先の未来まで考えたうえで作戦を立てているとしたら。俺たち軍人にとって、敵の行動は不可解です。愚かと言ってもいい。でも、愚かなのは我々かもしれない。人間は、自分が見える範囲のことしか理解できません。昔、地球は平らであると思われていた。それが常識でした。異を唱える者は愚かに感じたでしょう。しかし、もっと視野を広く持てば、世界は球体であることは明白だ。もし深海棲艦が、世界を球体として見ているなら、彼女らにとって我々は愚かな存在に思えるでしょう。本当の世界を知らない、井の中の蛙のごとく」

 渋谷の言葉に耳を傾ける大和。知性を帯びた瞳が、じっと彼を見下ろしている。

「ずいぶんと深海棲艦の肩を持つのですね」

 影を含んだ声で大和は言った。

「俺は変わり者ですから。最悪の可能性を考えているだけですよ」

 ひょうひょうと渋谷は切りぬける。ここが踏ん張りどころだ。

「では質問を変えましょう。あの戦闘において、連合艦隊が取るべき最善の行動は、なんだと思いますか?」

「理想を言わせて貰うなら、敵を撃滅したうえでポートモレスビーへの航路を拓くことです。そうなれば当面は、南ニューギニアの海から敵の脅威が消えるので」

「その通りです」

 大和は微笑む。細められた瞳の光は、余計に鋭さを増した。

「あのとき艦隊は、雷撃による被害ばかりに気を取られ、敵を追撃することができませんでした。連合艦隊に加え、第一、第二艦隊にも高練度の戦艦、重巡がいました。戦えば必ず勝てる戦力です。なのに、みすみす敵を逃がしてしまいました。わたしは、それが悔しくて仕方ありません。弱者をいたぶるように駆逐の子ばかり攻撃する卑しい敵に、わたしは反撃することができなかったんです」

 大和の声に、少しずつ熱が滲んでいく。どろどろとした黒い感情がマグマのように灼熱を帯びて流れ出す。ようやく硬い殻で覆われた彼女の心を掘り起こすことができた。そして渋谷は違和感を覚える。彼女は、その感情をどこに向けているのだろう。押し殺そうにも溢れ出る怒りと憎悪。

 それは大和自身を、そして彼女を運用する人間たちを焼きつくそうとしている。

 渋谷は本能的に悟る。この娘は異質であると。一度鎧を外してしまえば、艦娘のなかでも特に繊細な心が露わになる。撫子然とした微笑みの下で、時化た海のように感情の波が荒れ狂っている。そして今彼女は、摩耶の言葉を借りれば、『悪い方に傾いてしまっている』らしい。ここまで外面と内面の差が激しい艦娘はいない。そして、ただでさえ心の機微に疎い軍人たちが、彼女の内面を与り知れるはずもない。彼女が連合艦隊司令部と距離を置きたがる理由も分かる。

 ここで消火せねばならない。少なくとも炎の勢いを弱めなくては。のちのち艦娘と人間の間に大きな禍根を残さないために。

「戦艦の本懐は、その火力をもって敵を撃ち沈めること。それが果たせなかった今回の戦闘、いくら司令部が勝利だと言っても、あなたにとっては屈辱的な敗北だったのですね」

 渋谷は畳みかける。彼女の心に響くことを祈る。

「それで、つい司令部の将校たちを疎遠になってしまった。でも、あなたは優しい人ですから、直接不満をぶつけることもできず、ひとりで気持ちを押し殺していたのですね」

 大和はぐっと唇を噛んだ。そして縋るような目で渋谷を問い詰める。

「わたしは間違っているのでしょうか。戦艦が戦いを望んではいけませんか? 他の子たちは皆、戦いが無い時のほうが楽しそうなのです。ピアノを聞いたり、お酒を飲んだり。街の復興を手伝ったときも、皆笑顔でした。大和は作り笑いをするだけで精いっぱい。この気持ちは誰にも分かってもらえないんだと思うと、寂しくて。妹の武蔵はトラックにいますし、相談することもできなくて……」

 堰を切ったように溢れ出す想い。彼女が口を閉ざすまで、渋谷は黙って聞いていた。

「それで、いいんですよ」

 そして全てを肯定する。

「戦いが好きか嫌いかは、その人の個性です。戦いを望むのは自然なことです。あなたは間違っていない。これからも、その気持ちを大切にしてください。敵の動向が分からない以上、いつまた大きな戦闘が起こるやも知れない。そんなときこそ、あなたに存分に力を奮ってほしい。我々と共に戦ってほしいのです。だから、あまり独りで抱え込まないでください。心の平穏を欠いていては、いざというとき実力を出せないかもしれない。そうなっては本末転倒ですからね」

 渋谷は言葉を切る。白峰の予言を思い出す。

「戦いは必ず起こります。今なお世界の海は閉ざされ、敵は強く我々は弱い。それでも生きるためには戦うしかないのです。どうか力を貸してください」

 渋谷は言った。ほんの少しだけ、大和の瞳から険のある光が和らいでいた。

「話してみるものですね。心が軽くなった気がします」

 次の瞬間、彼女はもとの大和撫子に戻っていた。渋谷の前に立ち、深く腰を折る。

「渋谷提督、どうもありがとうございました。このご恩は忘れません」

 にっこり微笑むと、大和は夜の港に戻って行った。

 彼女の背中を見送り、溜息をつく渋谷。緊張から解放されたことで、どっと疲労感が押し寄せてきた。掌に嫌な汗が滲んでいる。超弩級戦艦・大和。こんなところに、とびっきりの問題児が潜んでいたとは。

 余計に目が醒めてしまった。仕方ないので鎮守府に戻ろうとする渋谷。すると波止場のほうから誰かが歩いてくる。自分と同じ軍服姿。がっしりとした体躯の男性だった。

「こんな遅くまで御苦労さま」

 深みのある声で男は言った。彼の正体が分かったとたん、渋谷は居住まいを正して敬礼する。男は楽にしていい、と気さくに言った。

「評判は聞いているよ。あの第七駆逐隊を手なずけた手腕。艦に愛された提督。きみがいなければ大和は夜が明けても、ここに立ち続けていただろう。連合艦隊司令部に代わって礼を言おう」

 正規空母・飛龍の提督にして、空母機動部隊の司令長官、山口多聞中将が言った。

「とんでもありません。自分は職務を全うしただけです」

 連戦だ。冷や汗をかきながら渋谷は思った。

「実は俺も大和が気になっていてな。たまたま、ここにいるのを見つけたんだ。司令部に問い合わせると、彼女はもう三日も家出状態だったらしい。居場所はつかんでいたので、彼女の好きにさせていたそうだ。これを機に、司令部との不和も消えるといいんだが」

 山口は言った。どうやら渋谷の前に姿を見せたのは、なにか別の目的があるらしかった。

「きみとはいつか、サシで話がしたいと思っていた」

 鋭い知性を瞳に覗かせ、山口は切りだす。

「きみも知っている通り、大和は艦娘のなかでも特異な顕現をした艦だ。ほとんどの艦娘が、きみを含め若い提督か、あるいは本土の各鎮守府付近に顕現する。しかし中には、大和のように全く因果関係のない海域に生まれ落ちる艦もいる。そのことが、艦娘の人格形成に影響を及ぼしているのかどうか、きみの意見を聞きたい」

「影響は少なからずあると思います」考えをまとめつつ、渋谷は続ける。「特異な顕現をした艦のうち、わたしは大和以外に夕立と瑞鶴に接触しました。夕立の卓越した戦闘センスと砲雷撃戦への意欲は有名です。瑞鶴もまた、最初から艦載機によるアウトレンジ戦法に強い関心を持っていました。艦娘たちは個人差こそあれ、生まれる前の記憶のようなものを持っています。断片的かつ曖昧であるため研究の余地が少ないですが、特異な顕現をした艦ほど、その記憶への執着が大きいように感じます。ただ、誤差の範囲と言ってしまえば、それで終わる程度のものです。夕立、瑞鶴とも性格は明るく、戦闘に際しても、あまり激しい感情の起伏は見られません。ですので、大和はイレギュラーな出現をした艦のなかでも、さらに特殊な例だと思われます」

 渋谷は自分の考えを述べる。生まれる前の記憶、という言葉に差し掛かったとき、山口の目に好奇心の火が灯る。

「トラックで武蔵に会ったことがある。彼女は、よく敵の艦載機に爆撃される夢をみるそうだ。さらに装甲空母・大鳳は、潜水艦と雷撃に生理的な恐怖を抱いていた。もし彼女たちの記憶が前世で体験したことだとすれば、ほとんどの艦が悲愴な轟沈を遂げている。そして記憶に色濃く残るのは、やはり自分が沈む瞬間だろう。俺が担当した飛龍も、やはり敵に沈められたらしい。だが、最後まで生き残り敵に立ち向かったことを誇ってもいた。艦娘たちの戦う動機として、過去の悲劇を繰り返したくないというのも大きな割合を占めている」

 ならば、と山口は続ける。

「これほどまでに多くの艦娘を撃ち沈めた前世の戦争とは、いったい何だったのか。彼女たちは誰のために戦い、誰に敗北したのか」

 答えを促すかのように、じっと山口は渋谷を見ていた。

「正直、わたしごときでは想像もつきません。ですが、あえて答えるなら深海棲艦ではないでしょうか。同じ深海棲化によって危機に陥っている我々を救うために顕現した、と考えられます」

「なるほど。確かに、そう考えるのが自然だろう。だが、きみの考えには無視できない疑問が二つある。まず一つは、人類の味方ならば、なぜ彼女たちは日本の艦名を名乗り、日本語を話すのだろうか。もう一つは、もし前世の記憶が深海棲艦と戦ったものなら、現在の我々も前世と同じ運命を辿る可能性が高い。艦娘を喪えば、もはや深海棲艦に対抗する術はない。待っているのは国家滅亡、人類滅亡だ」

 山口の指摘に反論する余地はなかった。確かに艦娘が人類全体のために戦うとしたら、他の国々にも顕現していなければおかしい。だが、少なくとも太平洋海域において、艦娘を運用している国は日本のみ。もしオーストラリアが艦娘を持っていれば、とっくにニューギニアは解放されているはずだった。

「やはり帝国のもとに顕現した艦娘は、あくまで帝国のために戦っているのだろう。そして前世で戦った相手も帝国の敵だった。実は山本長官も、同じ懸念を抱いておいでだ。もし前世で戦ったのが深海棲艦ではなく、我が帝国が本来戦うはずだった相手だとしたら」

「アメリカですか」

「そうだ。アメリカだけではない、米国につらなるイギリス、フランス、オランダも敵になる。もちろん中国もだ。帝国は世界を相手に戦うことになる」

 山口は言った。それは考えるだけで恐ろしい可能性だ。艦の寿命は限られている。もし艦娘が味方してくれたとしても、長期戦になれば勝ち目はなくなる。

「もし、あのままアメリカと戦っていたら、俺たちはどうなっていたと思う? ここでの会話は他言しないから安心しろ」

「負けます」

 渋谷は即答した。

「俺も同じ意見だ」

 共犯だな、と山口は笑う。戦い続ければ勝算はゼロだ。艦娘を持ち、深海棲艦という人類以外の存在と戦い、客観的に自分たちを見つめ直した今なら、迷いなく言える。だが、真珠湾奇襲を決行しようとしていた当時、帝国の軍人たちは冷静な目で世界を見ていただろうか。

「艦娘が帝国に味方するため顕現したとする。彼女たちが深海棲艦と戦うのは、奴等が当面の敵だからだ。たまたま帝国に仇為す存在だったので、人間と協力して戦った。では、もし深海棲艦が一掃され、海に平和が戻ったらどうなる。帝国の敵は、アメリカに切り替わる。世界に切り替わる。そうなれば艦娘たちは、帝国のため世界と戦うことになる。彼女たちを見ていれば、人間と戦いたがらないことはすぐ分かる。だが狡猾な人間が、あくまで祖国を守るために戦ってくれと懇願してきたらどうなるのか」

 山口は言った。少なくとも摩耶は人間を殺すことを拒絶した。しかし『戦わなければ殺される』と極論を突きつけられたら、それでも全ての艦娘が戦争を拒否するのか、渋谷には自信がなかった。

「深海棲艦に勝利しても、艦娘には悲劇が待っているだけだ」

 無情な言葉。負けても沈み、勝っても沈む。身体を引き裂かれ、内臓を潰され、人間と何ら変わらない戦争の苦痛にまみれて死んでいく。艦娘の提督たる渋谷にとって、これ以上悲しい結末は無かった。

「今、軍は戦線拡大路線に傾きつつある。開戦当時の侵攻作戦を艦娘の力を借りて成し遂げ、アジアから欧米列強を駆逐しようとする派閥だ。オーストラリアに侵攻するなどと言う連中も現れ始めた。このままでは深海棲艦がいてもいなくても、ふたたび帝国は滅びの道に突入していくことになる」

「なぜ、そのような話をわたしに?」

 やっと渋谷は疑問をぶつける。国家戦略クラスの意志決定に、自分が口を出す余地など微塵もない。上からの命令に従うしかないのが、今の渋谷の立ち位置だった。

「きみは、自分が思っているより影響力の大きい人間なのだ。艦娘からの信頼が一番厚いのは、初期艦の提督を含めても、間違いなくきみだろう。もし艦隊が絶体絶命の状況になり、究極の選択を迫られることになれば、艦娘たちは高級将校よりきみの意志に従うだろう。だから、きみに知っておいてほしかった。そしてきみの意見を聞いておきたかった。どうやら、きみはちゃんと先が見える人間のようだ。どうも軍という組織は、目先の勝利しか見えていない奴が多くて困る。きみや白峰少将のような人間こそが軍隊に必要なんだが」

 白峰の名が出たとき、心臓が跳ねるのを感じた。名将として名高い山口多聞が認める男が、今は敵の総帥なのだ。

「近々、大和をパラオに移すことになった。フィリピン侵攻時に旗艦にするという名目で、また彼女をホテルに戻すつもりらしい。代わりに武蔵が前線に移る。軍令部は、戦力として明らかに武蔵を重視し始めている。きみとの会話が無ければ、一悶着起きたかもしれない。これからもよろしく頼む」

 真夜中の密談は終わった。そろそろ戻ろうか、と山口は言った。

この男にならば白峰のことを話してもいいかもしれない。心許しそうになった自分を必死に戒める渋谷。今伝えても混乱が増すだけだ。山口が言ったように、帝国は運命の岐路に立っている。彼の思考を邪魔したくはない。

「本来なら一介の少佐にすぎない自分が知り得るはずのない貴重なお話、どうもありがとうございました」

 別れ際、渋谷は心から感謝した。

「俺は、ただ保険を掛けたにすぎんよ。いざというとき、先が見える奴に艦娘を託したい。きみは十分、提督としての素質がある」

 山口は言った。鎮守府に戻る渋谷を見送る。自分も司令部に戻ろうとして、ふと足を止めた。

「いつの間にか、飛龍が自分の娘みたいに思えてきてな。どうしても彼女の行く末を案じてしまうのだ」

 月を見上げながら、山口は独り呟いた。

 




深海棲艦を完全に打倒したとして、艦娘たちに何が残るのか。それから彼女らはどうなるのか。

艦の本質が兵器である以上、人間である艦娘たちを待ちうけるのは悲劇でしかありません。若い提督たちは、常に艦娘の存在について悩みます。兵器としての幸せが、人間としての幸せではないからです。

彼女たちは人間か、それとも人間以外の何かなのか。提督と艦娘たちは、少しずつ自らの答えを紡いでいきます。


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第十一話 ニューギニアの悲劇

この戦争を導く国家戦略がぶれている。山口は懸念した。深海棲艦から海を取り戻すための戦いなのか、大日本帝国の勢力圏を広げるための戦いなのか。大局的視点を欠く軍や政府の上層部は、戦争の指針を統一することができない。
道標なき戦争は、人間と艦娘、両方に悲劇をもたらす。

その一方で、国家意志を実現するための手段として使われる提督・艦娘たちは悩んでいた。交流が深まるにつれ、互いのあるべき姿が見えなくなっていく。人間と艦娘の関係に、摩耶は新たな一歩を刻もうとしていた。


 

 

 

 山口の懸念が現実のものとなったのは、渋谷との会話から、わずか二日後のことだった。

 ニューギニア島は、東半分がオーストラリアの委任統治領、西半分がオランダの領土となっていた。油田地帯を有するのは、島の西端、すなわちオランダの支配下にある。本来ならば、深海棲艦という共通の敵を持つ者同士、協調しなければならない側面だ。ところが陸軍の前衛部隊は、あろうことか西部地域に取り残されていたオランダ兵と戦闘を始めてしまった。彼らは海を閉ざされたことで本国からの補給も断たれた。脆弱な海軍力では海に出ることもできない。二年もの間、飢えとマラリアに蝕まれ、尽きていく食糧と弾薬に恐怖した。木の根を齧り、錆びた小銃に縋る彼らは、パニックに陥ってしまった。なにせ、疫病と病原虫の蔓延るジャングルを越えて、大量の日本軍が現れたからだ。オランダ兵は、深海棲艦が何者なのかも分かっていなかった。日本の新兵器と考える者も多かったらしい。始まりは、たった一発の銃声だった。どちらが発砲したのかも分からない。なし崩しに戦闘が始まった。しかし、厳密には戦闘ですらなかった。一方的な虐殺である。なにしろ相手は弱り果て、まともな武器もない。それに兵力も違いすぎた。油田の街、ソロンは一夜にして血の海に染まった。この戦いで、実に一〇〇〇人近いオランダ兵が命を落とした。後の調査で分かったことだが、師団司令部は、オランダ兵との接触を予想しておきながら、前線部隊に一人としてオランダ語の通訳を配置していなかった。それどころか、本国から通訳を呼び寄せる手続きすら行っていなかった。明らかに陸軍の怠慢だ。この失態を師団司令部は隠蔽しようとしたが、ソロン侵攻作戦には、海からの応援部隊として艦娘も参加していた。陸の兵士を鉄拳で黙らせても、艦娘の口を塞ぐことはできない。海上輸送網をつたい、このニュースは、『ニューギニアの悲劇』として、すぐ本国の知るところとなった。陸軍参謀本部は、今上陛下から直々に叱責を受けた。

 この事件から、陸軍上層部の考えが透けて見えた。彼らは戦争を私物化しようとしている。深海棲艦と戦うためではなく、あくまで大日本帝国の領土を広げるため、彼らは前線に過剰な兵力を投入したのだ。戦略的価値の薄いガ島にすら、一個師団を配置している。そのせいで補給がより困難になっているにも関わらず。さらに彼らを調子づかせることが起こった。初めての、陸軍籍の艦娘が顕現したのである。その娘の技術を用い、勝手に揚陸艦による人員移動や補給計画を立てようとする始末だった。

 しかしながら、海軍もまた、ドングリの背比べだった。ニューギニアの悲劇で前線での発言力が弱くなった陸軍を押しのけるように、ソロンの街に新たな泊地を建設することを決定したのだ。

 石油を得たなら、つぎは鉄とボーキサイトだ。海軍の矛先は、オランダ領モルッカ諸島だけではなく、オーストラリアまで及ぼうとしていた。結局、陸も海も、我先に戦果を争っているだけだ。

 渋谷に辞令が下ったのは、事件の一カ月後だった。

 とりあえず陸軍の侵攻作戦により、北ニューギニアの海岸にそって、島の西端までの道が拓けてきた。ソロンには着々と泊地が完成しつつある。深海棲艦との開戦から二年、ようやく帝国は近代戦争の血液たる石油を手に入れようとしていた。渋谷の任務は、本国からトラック泊地に輸送されてきた食糧、医療品、武器弾薬を前線に届けるための、輸送船舶の護衛だった。渋谷直卒の第三駆逐隊、そして陽炎率いる第二駆逐隊、摩耶率いる第七駆逐隊が、その任務に投入されることとなった。これはかつてない大規模な海上護衛だ。もちろん補給物資を守る目的もあるが、それ以上に、今回は本国から石油関連の技術者をソロンまで送り届けるという使命があった。石油は専門の施設と技術が無ければ精製できない。海外から技術者を雇うことが不可能な状況にあっては、国家の生死を左右するほど重要な作戦だ。これまで海上護衛に力を入れず、貴重な物資を海の肥やしにしてきた軍令部は、ようやく重い腰をあげた。

 ポートモレスビーを出港するまで、あと一週間。渋谷は毎日を慌ただしく過ごした。これから多くの駆逐艦たちが海上護衛に割かれることになる。そうなれば、彼女たちの提督である自分も、同じ土地に長く留まることはできない。さらに戦死するリスクも高まる。忙しさのなか、水戸涼子中尉を思う。彼女は第二二飛行隊の第一小隊を率いる隊長として、しばらく山口中将と飛龍のもと、ポートモレスビー勤務が続く。

 彼女の想いを受け入れるなら、男として責任を果たさねばならない。もう自分の命は、自分だけのものではなくなる。死さえ自由は許されないのだ。

「提督、聞いてるのー?」

 幼い少女の声が、渋谷を白昼夢から叩き起こす。清霜が大きな瞳でこちらを見ていた。執務室には、第三駆逐隊のメンバーが集結している。輸送任務にあたり、誰を旗艦にするか話し合っていたのだ。

「ねえねえ、トラックには武蔵さんがいるんでしょ? 楽しみだなー。いつかあたしも、武蔵さんみたいな戦艦になりたい!」

「清霜さん、会議中ですよ。少し静かになさい」

 夕雲型の長女、夕雲がやんわりとたしなめる。護衛作戦の司令官として艦娘に乗艦するのは、渋谷ひとりだけだった。よって渋谷の乗る艦が事実上の旗艦となるのだが、第三駆のメンバーとは、まだ付き合いが浅い。部下の性格をしっかり把握しておかなければ、艦隊行動に支障をきたす。いつもの散歩に加え、皆がそろったところを観察してみると、やはり長女である夕雲が旗艦に相応しいように思えた。しかし彼女は少し困った顔で首を振る。

「わたしでは、艦隊旗艦は務まりません。夕雲型の妹たちなら気心の知れた仲ですが、白露さんや陽炎さん、摩耶さんを差し置いて先頭に立つ自信はありません」

「早霜姉さんなんか、旗艦に向いてると思うなあ」

「わたしですか。わたしは長波姉さんが相応しいと思いますが」

 突然、清霜に話題を振られる早霜。しっとりと落ち着いた声で反論する。

「だってさ、早霜姉さんには誰も逆らえないと思うよ。だって怖いもん。人殺し多聞丸と、芥川龍之介の幽霊なら、あたしは幽霊のほうが怖いね。だって話通じないじゃん」

「それはどういう意味ですか?」

 余計に低くなる早霜の声。清霜はそそくさと夕雲の後ろに隠れる。

「たしかに長波さんなら、旗艦として一番頼りになると思います」

 事態を収拾するべく、夕雲が助け舟を出す。

「七駆のじゃじゃ馬は有名ですし、第二駆の時雨さん、夕立さんもああ見えて曲者です。陽炎さんや摩耶さんに指揮官として張り合えるのは、夕雲型では長波姉さんくらいだと思います」

 早霜が言った。なるほど、夕雲のリーダーシップが夕雲型の姉妹に限定されたものであるとすれば、長波を推すのは自然なことだった。

「なあ、提督。皆そう言ってるけど、ほんとにあたしでいいのか?」

 長波が尋ねる。今回の作戦の重要性は、参加する全員が知っている。だからこそ長波は、実戦経験の豊富な渋谷の意見を待っていた。彼女自身は高い練度を誇り、過酷な輸送任務を幾度もこなしてきた。しかし、本格的な艦隊戦を未経験であることが、七駆のメンバーに対するコンプレックスとなっていた。

「きみにお願いしたい」

 渋谷はきっぱりと言った。長波の疑念を吹き飛ばし、旗艦としての実力を存分に発揮させてやりたかった。

「きみは十分に艦隊の長となるべき能力がある。力を合わせれば必ず成功する」

「分かった。万事、この長波サマに任せておけ! よろしく頼むよ、提督」

 新たな旗艦と握手を交わす。メンバーは微笑みながら旗艦就任の儀を見守っていた。

 これで少しは三駆と打ち解けることができただろうか。

 会議を解散し、ふたたび部屋は静かになった。思えば、ポートモレスビーに来てからというもの、第七駆の皆とは顔を合わせる機会が減ってしまった。交流会の仕事や護衛作戦の机上演習、さらに第三駆が新しく部下についたことで多忙を極めた。そのため、どうしても疎遠になってしまう艦娘もいた。

 摩耶の声を聞けないのは寂しいな。そう思っていた矢先、扉がノックされる。

「提督、いらっしゃいますか?」

 陽炎の声だ。渋谷は入室を許可した。彼女が扉を開けると、元七駆の面々が列をなして執務室に押し入ってきた。曙、霞もいる。最後に陽炎が静かに扉を閉める。彼女たちは半円に並び、あっという間に渋谷を取り囲む。銃殺寸前の罪人のような状態だ。皆の顔は一様に厳しく強張っている。ただ、摩耶の姿だけ無いことが気になった。

「これは、何のつもりだ?」

 ただごとではない気配を察し、渋谷は尋ねる。よもやクーデターではないか、と丸腰の少女相手に怯えた。

「提督と話したいことがあるそうです」

 不知火が言った。戦艦並の眼光が渋谷を射抜く。尋問の間違いではないのか、という言葉を何とか飲み込んだ。

「提督、わたしたちは、あなたを尊敬しています。上司としても人間としても。だからこそ割り切れない部分もあるのです。どうあがいても、艦である前にわたしたちはヒトですから。大事な作戦を前に、心の靄が掛かったままでは、いざというとき戦えません。ゆえに、この場でハッキリさせておきたいと考えました」

 不知火が口上を述べる。

「単刀直入に聞くわ」火ぶたを切ったのは曙だった。「あんたが灯台で密会していた、あの女は誰?」

 渋谷は腹の底が冷えるのを感じた。なぜ彼女たちが涼子のことを知っているのか。

「見てしまったんですよ、提督」

 疑問を口にする前に、漣が言った。

「あのとき、わたしたちも休暇を貰って街で遊んでたのよ。そしたら提督が知らない女の人と一緒に歩いていたから、申し訳ないなーと思いつつも後をつけさせてもらったわけ」

 陽炎が説明する。思わず渋谷は頭を抱えた。

「全部見たんだから。言い訳はできないわよ」

 棘のある声で霞がトドメをさす。その隣で潮が頬を赤らめていた。

「提督には、提督の私生活があるのは分かっています。わたしたちの知らないところで、提督には色々あるのだと思います。だけど―――」

 一瞬だけ、言うか言うまいか迷う不知火。しかし彼女は毅然と前を向いた。

「わたしたちには提督しかいません。そのことを知ってほしくて、無礼を働きました」

 まっすぐな瞳で不知火は言った。

「わかった。答えよう」

 渋谷は全てを白状した。涼子に命を救われたこと、実は両想いだったこと。告白の返事を迫られていることも。艦娘たちは真剣に耳を傾けていた。この男に再び命を託すことができるのか、ひとりひとりが本気で見極めようとしていた。

「なんか癪にさわるほど正直だわね」

 曙が言った。

「それで、どうするんです? 水戸中尉とは正式に恋人同士になるんですか?」

「これ以上は、俺自身の問題だ。心配しなくても、任務に私情をはさんだりしない。きみたちにはいつも通り接するし、信頼に値する上官であるよう、これまで以上に努力する」

 不知火の問いに対し、渋谷は答えた。さすがの不知火も口を閉ざす。これで疑念は解消されたはずだった。しかし、まだ何か言いたそうな雰囲気は残っていた。他の艦娘たちも煮え切らない表情をしている。

「俺の行動が、きみたちの連携に支障をきたしているのだろうか? だとしたら、その理由を教えて欲しい」

「そんなわけないじゃない!」霞が吼える。「あんたの惚気話なんて、あたしはこれっぽっちも興味ないわよ。でも、あんたを―――」

 言葉の途中で、不知火が厳しい表情で首を振った。霞は不満げに喉を鳴らして黙りこむ。どうやら彼女たちは、何か別の目的があって尋問に来たらしい。自分に関わることなら、相手が誰だろうとハッキリ物申す霞だ。その彼女が言葉を濁すことがあるとすれば、それは仲間のためのおせっかいだろう。もしかして、と渋谷は思った。

「ところで、摩耶はどうした? 最近、姿が見えないが」

「摩耶さんなら、明石さんと工廠にこもっています。対空火器を大幅に強化したので、その性能をコントロールする意志の力が追いつかなくなっています。明石さんの指導のもと、リハビリに励んでいるようです」

 不知火が言った。見えないところで彼女は努力を重ねていた。しかし、なぜ火器管制が不調であることを相談してくれなかったのだろう。

「提督の気持ちも分かったことだし、宿舎に戻りましょう。お騒がせして申し訳ありませんでした」

 陽炎が先陣をきって、メンバーを室外に導く。

 これで問題が解決したとは到底思えない雰囲気だった。渋谷の勘が働いたとおり、この件の中核には、やはり摩耶が関わっているようだ。わだかまりを残したまま艦隊を出すわけにはいかない。渋谷は執務室を飛び出し、工廠に急いだ。途中でつかまえた整備員に話を聞くと、摩耶の艦体はドックに入っているらしい。入渠用のドックには、まるで針鼠のごとく大量の対空火器をまとった摩耶の姿があった。艦首の近くには、ひとりの艦娘がクリップボードを片手に艦を見つめている。彼女こそ、艦体の修理や強化、新しい技術である近代化改修まで、メカニックの一切を取り仕切る『工作艦』明石だった。その価値は大和や大鳳といった軍の主戦力にも匹敵するとされる。箱入り娘のごとくポートモレスビーの厳重な警備に守られ、日々作業に邁進していた。

「すまない、摩耶を見なかったか?」

「あら渋谷少佐。少しお待ちくださいね。このデータを取り終わったら今日の調整は終了ですから」

 そう答えつつ、明石は艦橋の火器から目を逸らさない。

「では、調整始めます!」

 明石が叫んだ。すると、あらぬ方向から「応!」と摩耶の声が聞こえてくる。てっきり艦橋の指揮所にいるものと思っていた。摩耶は、あろうことかドックから一〇〇メートルほども離れた地点に立っている。顕体が艦から五〇メートルも離れたら、火器は使用不能に陥る。それが一〇〇となればタービンが停止するほどだ。そんな距離で、摩耶はもっとも複雑な操作が必要となる対空火器を動かそうとしている。

「敵機第一陣接近、数二〇。左四五度!」

 明石が架空の敵機を報告する。すると、左舷の高角砲や機銃が、一斉かつ正確に動き、敵機の位置を捉える。それはまるで集団行動のように統制の取れた動きだった。明石は間髪入れず、つぎつぎと敵の来襲を宣言。そのたび摩耶は、左右前後の火器を最善のバランスで振り分け、敵に相対していく。ここまで激しい訓練は見たことがなかった。人間が乗る艦では物理的に不可能な速度だ。明石の指示が飛ぶたび、摩耶は歯をくいしばる。大粒の汗が頬を伝い、身体は小刻みに震えはじめていた。瞳孔は限界まで収縮し、彼女の心身が摩耗していく様を克明に伝える。人間である渋谷には想像もつかない苦痛だろう。

 調整、もとい地獄のしごきは、三〇分も続いた。明石が終了を宣告した瞬間、摩耶の身体は崩れ落ち、地面に膝と手をついて息を荒げた。明石とともに彼女のもとに駆け寄る。摩耶は顔を上げもせず、「結果は?」とだけ尋ねる。

「完璧です。よくぞここまで。これは艦娘史上、初の快挙ですよ!」

 感極まった声で明石が言った。摩耶は枯れた息だけで笑う。

「つきあってくれて、ありがとな」

「いいえ、こちらこそ。艦体の遠隔操作という、新しい研究分野が開けました。摩耶さん、どうか自信を持って任務を遂行してくださいね」

 しみじみと明石は言った。そして渋谷の方に顔を近づけて耳打ちする。

「改装直後の艦娘には、心身ともに大きな負担が掛かります。それなのに、摩耶さんは弱音ひとつ吐かず頑張ってきました。たくさん労ってあげてください」

明石は言った。「あとは、よろしくお願いします」と小声で渋谷に伝え、データを読み返しながらドックを後にする。

「お疲れ様」

 渋谷は言った。そのとたん、ぎょっとしたように摩耶が顔を上げた。どうやら調整に集中しすぎて、渋谷がいることに気づかなかったようだ。

「なんでおまえがいるんだよ!」

 地面にへたりこんだまま、息も絶え絶えに摩耶は言った。渋谷はそっと手を伸ばす。摩耶は無言でその手を掴み、ようやく立ち上がった。

「不知火に聞いたんだ。それより、見事だった。あれだけの対空火器を、たったひとりで制御しきるとは。それも、一〇〇メートルも距離を開けて。感嘆の声しか出てこない」

 手放しの称賛をうけ、摩耶は恥ずかしそうに顔を背ける。「あいつ余計なことを」と呟いた。

「その姿も素敵だ」

 ただ本心を口にする渋谷。大規模な改装をすると、顕体も姿を変えることがあると明石に聞いていた。摩耶もその例にもれず、衣装は緑を基調としたものになり、デザインはよりシャープな印象となっていた。頭の電探らしき艤装も、高い性能を思わせる。

ストレートな称賛を受け、汗だくの顔にますます朱が差した。すぐ渋谷の手を振り払い、自分の足で立つ摩耶。

「しかし、どうして艦体と距離を取っていたんだ?」

 渋谷が尋ねる。少し息を整えたのち、摩耶はしぶしぶ口を開いた。

「ソロモン海でレ級と戦ったとき、あたしら艦橋から吹っ飛ばされかけただろ? もし、あたしが海に落ちてたら、艦はおまえもろとも沈んでいた。だから、たとえ艦から離れても戦い続けられるよう、自分をどうにかしたいと思ったんだ。それに、これからは空が主戦場になる。対空火器にこだわる理由は、そんなとこだな」

 摩耶は笑う。だが、見慣れたはずの戦友の笑顔が、今はどこか寂しげに見えた。

「これで、あたしは防空巡洋艦を名乗れるかな」

「もちろんだ。よく頑張った。これからも、その力で皆を守ってくれ」

「分かってるよ。海から空を守るのが、あたしの役目だ。空を汚す有象無象を、きれいに掃除するのが仕事だ」

 そう言って、摩耶は踵を返す。宿舎のほうに歩きだそうとする彼女を渋谷は呼びとめる。ここに足を運んだ本当の目的を、まだ果たせていない。

「摩耶、話しておきたいことがあるんだ」

「あの女のことだろ?」

 背中を向けたまま、摩耶は言った。

「あたしも見てたんだよ。あいつだって、あたしに気づいてた」

「そうか。だが、彼女とどんな関係になろうと、おまえたちを疎かにすることは断じてない。今は戦時だ。戦時である以上、俺は軍人であり、軍人は自分の部下のことを一番に考える。それは変わらない」

「だろうな」

 摩耶は歩き始める。

「おまえのことは信じてるよ。だけど、あいつは違う。自分の行動がもたらす影響を分かったうえで、提督にちょっかいをかけた。あいつは悪意だ。だったら、あたしも容赦しない」

 独り言のように摩耶は呟く。彼女は突然、渋谷のもとに駆け寄った。

「いいか、これは宣戦布告だ。あたしから、おまえの心の中にいる、あの女へ」

 目を閉じ、背伸びをする彼女。次の瞬間、摩耶の顔が目の前にあった。長い睫毛、大きな瞳。

 ふわり、と唇に温かさが触れる。

 摩耶はよろめくように、一歩、二歩と後ずさっていく。

「ああもう、自分でも何してんのか分かんねえ。頭ンなかぐちゃぐちゃだよ。でも、おまえら人間の好き勝手にはさせないからな」

 艦娘も、そこに入れろよ。

 摩耶は走りだす。ふらつきながら、躓きながら、それでもまっすぐ駆けていく。渋谷は、黙って彼女を見送った。彼の頭も、摩耶以上に混乱していた。上司と部下、人間と艦娘。立場、種の違い。境界線は一度のキスで失われ、全てが混沌に溶けていく。

 摩耶は何者なるや。

 この世界に艦娘が顕現した瞬間から、すでに分かっていたはずの答え。だが今の渋谷は、自信をもってその解答を口にできない。艦でありヒトである。そんなありきたりの答えで自分を誤魔化していたことに気づく。そうでなければ、ヒトとして自然なことをされて、ここまで混乱するはずがない。疑問を持つはずがない。心の底では、彼女をヒトだと認めていなかったのだ。

 ヒトでない者に、ヒトとしての好意を向けられる。

 その違和感が解消されない限り、摩耶が何者であるか、渋谷に分かるはずがなかった。

 

 

 そして渋谷の艦隊は、出港のときを迎える。

 涼子とは、港に赴く直前に一度だけ顔を合わせた。

「また逢える日まで、生きてください」

 告白の催促など一切せず、たった一言、涼子は餞の言葉を送る。渋谷の両手を包み込む指は震えていた。

「必ず。あなたもお元気で」

 渋谷は固く誓った。彼女が涙をこぼしてしまう前に、静かに背を向け、夜明け前の鎮守府を出ていく。

 港には、ポートモレスビーを発つ艦隊が集結していた。そこには第二、第三、第七駆逐隊の他にも、幾田中佐麾下の第一一駆逐隊の姿もあった。出発は一〇時の予定だ。自分が一番のりだろうと思ったら、そこにはすでに人影があった。

「早いのね、渋谷くん」

 白みゆく空を眺めながら、幾田が呟く。左肩から右わきにかけて、参謀飾緒が下がっていた。彼女は山口中将の推薦により、軍令部の作戦一課に参謀として転属することが決まっていた。

「栄転おめでとう」

「この時期に後方に回されるのは、果たしてめでたいことかどうか。実質的には前線の意見を上層部に注入するための尖兵にすぎない。それに一課所属といっても、仕事内容は、お粗末な海上輸送作戦の立て直し、つまり尻ぬぐいよ」

 幾田は自嘲的に笑う。かつて軍令部では、作戦一一課が輸送作戦を立てていた。ところが、そこに所属する参謀はたったひとりしかいなかった。あらゆる戦線への補給計画、航路などを毎日深夜まで考案していた。このような組織が、まともな輸送網を構築できるはずもない。幾田は補給線の立て直しも前線から期待されていた。

「ところで、あなたソロモン海で行方不明になっていたんですって? よく生きて戻ってきたわね」

 鋭い眼光が渋谷を射抜く。サンゴ海海戦のち、彼女は変わった。悲しみや寂しさが抜け落ちていた。しかし、それは時の流れが癒してくれたわけではなく、何か別の大きな感情によって押し潰されてしまったかのようだ。濁った双眸には、誰にも正体を見せない決意が深く、深く穿たれていた。

「きみの教え子に救われたんだ。あのとき彼女が拾ってくれなかったら、俺は死んでいた」

「そう。でも不自然よね。戦いが終わってから、かなり時間が経っていたというのに、あなたは涼子に救われるまで海に浮かび続けていた。とっくに溺れ死んでいるはずでしょうにね」

 清らかな声が、細身のナイフのように、少しずつ核心部に切り込んでいく。渋谷は脳髄の底が冷えていくのを感じる。

「涼子に拾われる前に、すでに誰かに拾われていなかったの?」

「どこまで知っている?」

 優雅に微笑む女性を最大限に警戒しつつ、渋谷は尋ねた。いったいどこから情報が洩れたのか。深海棲艦に鹵獲された際の詳細は、艦娘はおろか涼子にすら話していない。

「全部。だって、わたしも彼に会ったから」

 あっさりと幾田は答える。全身から力が抜けていくのを渋谷は感じた。これで合点がいった。白峰が意図していた本来の客とは、幾田のことだったのだ。

「あなたも上に報告していないのでしょう。あらぬ疑いをかけられても困るから。それはわたしも同じ。信頼できるあなたにしか話さない」

 鮮やかな流れで共犯関係に持ち込む。

「わたしは敵艦に囲まれ、降伏せざるをえない状況だった。このことを知っているのは、あなたと叢雲だけね」

「それで、あいつは何と言っていた?」

「たぶん、あなたに話したことと同じだと思う。わたしを捨てて敵に寝返ったこと、敵についてのわずかな情報。そして謎めいた予言。他に何かあったかしら」

「俺が聞いたのも、そんなところだ」

 渋谷は言った。すると幾田はにやりと笑った。

「じゃあ、唯一違うところは、わたしは勧誘を受けたってことくらいかしら」

 勧誘。異様な不気味さを放つ言葉だった。

「白峰に誘われたのか? 深海の側につけ、と」

「ええ。このまま人類と一緒にあがくか、それとも深海棲艦とともに正しい未来を示すか。彼はそう言ったわ」

「それで、きみの答えは?」

「イエス、なら、わたしはこの場にいない」

 幾田は意志の滲む声で言った。

「わたしを殺して利用するなら勝手だけど、わたし自身の意志で深海側に与することはありえない。きちんと彼に伝えたわ」

 あくまで冷静に幾田は言った。しかし当時の彼女が、婚約者を前にして、どれほどの葛藤に苛まれたか想像に難くない。白峰との謁見は相当に荒れたはずだ。

「あなたに話したことで、わたしが人類の味方であることは分かるでしょう」

「そうだな。もしきみが深海のスパイなら、俺に話す必要なんて皆無だ」

 渋谷は言った。とりあえず彼女が信頼に足ることは理解できた。では、そろそろ話題を次に進めてもいいはずだ。

「わざわざ話したということは、何か目的があるのだろう?」

「察しが良くて助かるわ」幾田は少し目を伏せ、ゆっくりと言葉を選ぶ。「彼が敵に寝返ったことで、戦闘ではかなりの不利が予想される。しかし、わたしたちは資源地帯を抑え、太平洋の航路から、ほぼ深海の艦隊を駆逐した。謎だらけの敵を前にして、やっと希望が見えてきたというところかしら。でも、この先、相手が何を仕掛けてくるのか分からない。いつ戦局が引っくり返されるかもしれない。進むべき道を誤れば、艦娘も人類も、深海の前に屈するでしょう。だから、わたしは軍と政府の中枢に入り、できる限り正しい方向に国を導く。熊少佐と福井少佐にも協力してもらうつもりよ。だから、前線にいるあなたは、あなたの正義を貫いて」

 見たんでしょう、深海棲艦の本拠地を。幾田は続ける。

「ああ。禍々しい島影だ」

「あれが深海棲化の根源なの。そこを破壊すれば、深海棲艦は全ての機能を停止する。前線で艦娘を率いるあなたにこそ、やってもらいたい」

「待ってくれ。白峰は、あの島を『異常の始まり』と呼んでいた。深海棲艦だけではなく、艦娘も滅ぼすことにならないか?」

「だからといって、このまま大東亜共栄圏なんて暴虐な帝国主義思想に取りつかれたまま戦線が拡大すればどうなるか、あなたなら分かるでしょう。それは艦娘にとっても最悪の悲劇よ」

 幾田の反論に、返す言葉もなかった。

「確かに難しい問題だわ。でも、わたしたちの究極の目的が、深海棲艦から海を取り戻すことだと忘れないで。そのために、お互いの正義を信じましょう。あなたは、きっと艦娘の将たる素質がある。彼女たちと自分の心に従いなさい」

「俺たちは軍人だ。きみの発言は叛逆とも取られかねない」

 言わずにはいられなかった。底の見えない目をした彼女が、なにか恐ろしく危険なことに首を突っ込むのではないかという疑念が生まれた。

「だから、わたしを信じて見逃してと言っているのよ。大丈夫、わたしは正しい道を行く。なにせ、あの白峰が欲しいと言った人間なのよ。間違うはずないわ」

 昔のように、いたずらっぽく笑う幾田。彼女は長い黒髪を翻し、第一一駆のもとに歩いていく。

「さようなら、渋谷少佐。また逢えるといいわね」

 透明な声音のまま、彼女は去っていった。

 

 

 生まれたての曙光に抱かれて、艦首にひとりの少女が佇んでいる。柔らかなオレンジに染まり、金の糸のように煌めく髪が、潮風にあわせて優しく踊る。艦橋から艦首まで、まっすぐ伸びる光の絨毯を、幾田はゆっくりと歩いていく。そして秘書艦である少女の隣に並んだ。

「話は終わったの?」

 ぶっきらぼうに叢雲が尋ねた。

「ええ。わたしは帝国の味方だとね。軍人の模範解答でしょう?」

 しだいに輝きを増す太陽にも射抜けぬ瞳で、幾田は水平線を見つめていた。ふざけた答えに、叢雲は渋い顔をする。

「それでいいの? あんた、自分の婚約者に言っていたじゃない。わたしは深海側につくって」

「いいの。馬鹿な男どもには、そう思わせておけば」

「ひどい二枚舌外交だわ」

 叢雲は苦笑する。それにつられて、幾田も少し口元を緩めた。

「あなたも見たでしょう。ニューギニアの悲劇。しょせん、人間なんてそんなものなのよ。深海棲艦と人間のどちらが罪深いかと言ったら、やはり人間のほうじゃないかしら。罪人を騙すことに後ろめたさは感じないわ」

 嘲るように幾田は言った。ニューギニア侵攻の際、叢雲は海岸沿いにソロンを目指して陸軍に随伴していた。そのとき彼女は見てしまったのだ。機銃に薙ぎ払われ、血袋と化して死んでいったオランダ兵たちを。たけり狂う殺意、断末魔の叫び。優しさや慈悲といった人間性が摩耗していき、ついには獣と化す戦場の現実。生々しい陸の虐殺は彼女の精神を蝕み、いっとき航行能力に支障をきたすほどだった。その間、ずっと幾田が叢雲に寄り添い、彼女を励まし続けた。幾田は異常なほど落ち着いていた。

「あんた、やっぱり脳が深海棲艦に近いんじゃないの? 婚約者についていったほうがよかったんじゃない?」

 少し寂しそうな叢雲の言葉に、幾田は静かに首を振る。

「わたしが従うのは、大日本帝国でも婚約者率いる深海の軍隊でもない。わたしは、わたしの正義にのみ従う。もしかしたら、艦娘たちにも背を向けることになる。それでも、あなたはついてきてくれる?」

 幾田が尋ねる。すぐに叢雲は「馬鹿ね」と一蹴した。

「何度も言わせないで。わたしは、あんたの艦よ。北だろうが南だろうが海の底だろうが、あんたが行くところについていくだけ」

 例え陸で死ぬことになっても後悔はない。口には出さず、わずかに頬を赤らめる。

「覚悟を決めたのね。あんた、良い顔になったわ」

 気の強そうな吊り目を少し細めて叢雲は言った。

「そうね。わたしを捨てた男に未練はない。だから、これはもういらない」

 そう言って、幾田は左手薬指から銀のリングを抜きとる。大きく振りかぶり、深海に叩き返そうとした。しかし叢雲が「ちょっと待って」と制止する。

「捨てるくらいなら、わたしに頂戴」

 叢雲は、あっと口を押さえる。その姿は思春期の少女そのものだった。朝日にまぎれても隠しきれない顔の赤さ。やがて観念したように双眸を見開き、とげとげしい声で畳みかける。

「いい? わたしは、あんたの唯一無二のパートナーなの! だったら、それなりのモノを渡しても罰は当たらないでしょ! どうせ一人じゃ何もできないんだから、わたしへの感謝の印として、それを寄こしなさい!」

 威嚇するように頭の艤装を逆立てる。

「こんなのでよければ、どうぞ」

 あっけにとられ、幾田は素直に指輪を渡した。叢雲はそっぽを向きながらも、両手で大切そうに包み込む。

「先に戻っているわ。一一駆の子とも連絡を取るから、無線をつかえるようにしておいてね」

 そう言って、幾田はひとり艦首から去って行った。

 ぶんぶんと頭を左右に振って、あたりを見渡す。夜明けの港には誰もいない。そっと持ちあげたリングの端に、ちょうど太陽が重なってダイヤモンドのように光り輝く。叢雲は、そっと自らの左手薬指にリングを入れた。少し大きかったが、ちゃんと指に収まった。

「結婚、カッコカリ。なんて」

 口を突いて出た言葉。胸の底から恥ずかしさや愛おしさ、むずがゆさが綯い交ぜになってこみあげてくる。湯気が出そうなほど全身を真っ赤に染め、叢雲はひとり甲板を走っていった。

 



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第十二話 陸へとのぼる

石油施設を建設するため、重要な輸送任務についた渋谷と艦娘たち。新たにソロン泊地の所属となり、前線と中部太平洋の架け橋となるべく日々邁進する。摩耶は、なぜ艦娘が「女」の姿をしているのか、自分なりの結論を導き出す。

戦争に希望が見えた矢先。

深海棲艦の脅威は、いつも人類の想像を超えたところから忍び寄る。
戦闘海域に多発している人間の大量失踪、その理由が明かされようとしていた。


 

 渋谷直卒の第三駆逐隊、陽炎率いる第二駆逐隊、摩耶率いる第七駆逐隊は、無事トラック泊地まで辿りついた。従来、補給船の運航は稼働率を重視して、小規模な船団に一、二隻の駆逐艦をつける方法で行われていた。しかし、敵潜水艦の台頭により、あちこちで撃沈が相次いだ。艦隊決戦にはやるあまり、前線に戦力を集中していたことが招いた弊害だった。痛い目をみた軍令部は方針を転換し、とにかく「沈まない」ことを重視した。大規模な船団に、大規模な護衛をつける。ようやくまともな海上護衛作戦が立案された。その試金石が、渋谷率いる護衛艦隊だった。

 トラック環礁に入って最初に目についたのが、大和の妹である超弩級戦艦・武蔵だった。連合艦隊の最高戦力にふさわしい、堂々たる佇まい。その顕体もまた、艦の豪快さを生き写したような体躯と性格をしていた。二メートル近い長身、がっしりした肉体と褐色の肌。まるで部族の族長のような野性味と好戦性が滲み出ている。姉の大和とは全てが正反対だった。大和とのいきさつを話すと、武蔵は感謝の意を示し、「気難しい姉だからな。これからも面倒みてやってほしい」と明るく言った。武蔵は、すでに大和がパラオに異動すること、自身が前線に出る予定であることを知っていた。三大空母として名高い、「大鳳」「翔鶴」「瑞鶴」の第五航空戦隊を加え、フィリピン侵攻の準備が整いつつあることも。

「フィリピンを守る敵は強い。大和にふさわしい戦場が用意されるだろう。機会があれば、そう大和に伝えておいてくれ」

 武蔵は言った。あっけらかんとした武蔵を見て、渋谷は疑問に思う。戦うための艦でありながら、その重油消費量を恐れられ、大和以上に実戦の機会に恵まれなかった。それなのに、彼女には鬱屈した様子が見当たらない。渋谷は思い切って尋ねてみることにした。

「ふむ、わたしは元来こういう性格だからな。自分の存在意義については、あまり悩んだことはない。もちろん敵を撃ち沈めたいとは思うが、艦は適材適所に配置されてこそ力を発揮する。まだ戦局は、この武蔵を出すほど逼迫してはいないのだろう。だから、わたしは待つのだ。油田地帯を手に入れたなら、もっと積極的に艦を運用できるようになる。大和とわたしも、互いに必要とされる時と場所で戦えばよいのだ」

 そう言って、武蔵は渋谷に優しく微笑む。

「大和だけではなく、この武蔵の心情まで気遣うとは。感謝するぞ。いつか共に戦える日を楽しみにしている」

 渋谷は彼女と固い握手を交わす。最大の戦艦として、艦娘たちの将にふさわしい人柄だと思った。彼女がいれば、きっと前線は安泰だろう。もし許されるなら、大和と武蔵を一緒に運用してほしかった。そうすれば大和の不安も和らぐだろう。しかし、最大戦力を二隻とも集中させる軍事上の合理性は薄く、現実には厳しいアイデアだ。

 ともあれ、武蔵と会話できたことは渋谷にとって大きなプラスとなった。武蔵の他にも、正規空母の翔鶴と瑞鶴、装甲空母という強力な艦種である大鳳とも、短い時間だったが交流を深めた。瑞鶴と会うのは二度目だったが、昔のように気さくで元気な姿を見せてくれた。

 そして渋谷は、かつての友との再会も果たした。熊少佐と福井少佐が前線に出ていたのだ。第六、第八駆逐隊は歴戦の護衛艦として本土と中部太平洋を往復していた。さらに福井少佐麾下の潜水艦娘部隊も、情報収集やタンカーの護衛を行っていた。旗艦である伊401に乗りこんだ福井は、ほとんどの時間を海中で過ごしていたという。三人の提督は久々の再会を喜び、大いに語りあった。近々、熊は伊勢、日向の二隻を本土から引き連れ、フィリピン攻略の準備を進めるらしい。福井は、潜水艦たちの長距離潜航能力を見込んで、潜水空母として敵本拠地を直に叩く研究をしていた。渋谷はすぐにトラックを出港せねばならず、名残おしみながら二人と別れる。幾田も二人と接触したようだった。彼女が果たして深海棲艦と白峰のことを伝えたのかは分からなかったが、おそらく打ち明けてはいないだろうと思った。なにせ渋谷は実際に捕虜となっていたから幾田の言葉を素直に受け入れることができたのだ。深海棲艦と接触したことのない二人が、幾田の話をそうそう信じるとは思えない。

 タンカー六隻、三〇人からの技術者を守りながら、護衛艦隊はトラックを後にした。熊や福井の話を聞くと、本土の生活はかなり苦しくなっているようだ。鋼材が不十分であるため民需用の船舶はますます不足し、これ以上徴用すると暴動が起きかねない。これからは輸送船が軍艦に匹敵する価値を持つかもしれない。もう一隻たりとも失う余裕はなかった。帰りの航路は、行きよりも遥かに緊張を強いられた。しかし、ときおり無線を通じて流れるピアノの音が皆の心を癒した。ラバウルを発って以来、摩耶はピアノを自分の艦に積んでいた。船団は固まっているので敵に傍受されることもない。長い航海のなか、唯一艦娘たちの楽しみとなっていた。

 そして護衛艦隊は初めての任務を完遂した。一隻も欠けることなく貴重な物資と技術者たちを最前線に送り届けた。港では陸、海関係なく、全ての人間が入港を歓迎した。第二、第三、第七駆逐隊は、そのままソロン泊地の所属となり、中部太平洋から前線への海上護衛を主な任務とすることが決まった。

 

 

 一九四四年一月。

 廃墟同然だったソロン泊地は、軍港にふさわしい復興を遂げた。三日月型の港湾に作られた港は堅固な要塞となった。三日月の両端には各五基の砲台が置かれ、湾内と外海をつなぐ入口は普段は鎖で封鎖された。艦が出入港するときだけ一部の鎖が緩められる仕組みだ。これにより敵の駆逐艦、潜水艦を締め出すことに成功した。重油の生産も少しずつ軌道に乗り始め、一カ月あたり八万キロリットルの供給が見込まれていた。普段は一般国民を下に見ている軍人たちも、本土からやってきた技術者には尊敬の念を抱いた。国家のためを思い、朝となく夜となく働きつづけ、わずか三カ月で石油施設を復旧、さらに改良した。それでも前線にいる艦娘たちの腹を満たすのが精いっぱいで、国内需要まではとても回せない。フィリピンまで戦線を拡大するとなると、まだジリ貧の状態は続くことになる。

 ソロン鎮守府にて、渋谷は補給線護衛のための作戦を立てていた。第三駆逐隊は、幾度かの接敵を経ることで実戦においても自信を得た。そこで正式に長波が饗導艦に就任し、第三駆を任されることになった。長波率いる第三駆、第七駆が、護衛するタンカーとともにソロンに帰投するのが七日後。ソロンに残っているのは艤装調整中の摩耶と、湾外で演習を行っている陽炎率いる第二駆だった。

「連合艦隊司令部から通知が来ている」

 執務室に摩耶を呼び出し、渋谷は言った。

「おまえの実力が認められたんだ。もはや駆逐艦の引率は役不足だと判断されたのだろう。異動を打診されている」

 壁にもたれながら、摩耶は複雑な表情をしていた。彼女の気持ちも理解できる。第七駆のメンバーは、摩耶のために全員が執務室に押し寄せてきた。彼女たちの間には、艦種を超えた絆が生まれている。摩耶は、仲間との絆をあっさり断ち切れる人間ではない。

「で、行くとしたらどこだよ?」

「トラックの第二航空部隊か、あるいは立て直しを図っている第一航空部隊か。空母護衛のためだな。まだ決定事項ではないが、可能性は高い」

「当然、艦長はおまえだよな。いまさら、あたしに乗りたがる奴なんていないだろ?」

 摩耶が尋ねる。渋谷は即答できなかった。摩耶がどうしてもと言えば、少佐の身分で重巡艦長になることもありえる。しかし、これまで通り自分の直轄として摩耶を率いることができるのかは不明だった。

「というか、あたしはおまえ以外乗せる気はないぞ」

 顔を背け、呟くように摩耶が言った。執務室は、しばらく重苦しい沈黙に浸される。すると摩耶が思いだしたように叫んだ。

「というか、なんでそんな話になってんだよ。今日は非番だろ? たまの休みくらい摩耶さまを労えってんだ」

 つかつかと渋谷に迫り、強引に腕を掴む。そのまま渋谷は鎮守府の外に引きずり出されてしまった。

「部屋に籠ってても仕方ないだろ。今日はあたしに付き合え!」

 有無を言わせぬ口調。少し上気した頬を見て、渋谷は摩耶の目的に気づいた。ポートモレスビーの街で涼子と逢い引きした、その意趣返しをしようとしている。

「あたしさ、石油施設に興味あるんだよ。自分の食いもんが作られてるところを見たい。そしたら、あとは港に行って、さらなる進化を遂げた摩耶さまの艦体を詳しく解説してやる。提督として喜ぶがいい」

 いつにもまして口数が多い。長い付き合いだから緊張しているのは分かるが、どこか不自然な感じがした。何かを躊躇っていて、それを隠すためにわざと明るく振る舞っているかのような。

 石油施設は、ソロンの街の外れにある。街は製油所から港にかけて傾斜しており、坂道にへばりつくように街や軍の施設が並んでいる。今日は幸いにも空は曇っていて、真夏の太陽を隠してくれる。異国情緒あふれる細い路地と階段を歩く。

「なあ、提督」

 その途中、ふと摩耶が足を止めた。狭い路地の影に身をよせ、神妙に尋ねる。

「提督は、あたしのことをどう思ってる? 艦娘としてじゃなく、ひとりの人間として」

「どうしたんだ、急に?」

 渋谷は質問を返す。否、はぐらかしたにすぎなかった。おそらく摩耶の望む答えを与えることはできない。しかし摩耶の想いを拒絶することも彼にはできなかった。これまで共に培ってきた信頼や友情、そしてこれから過ごす居心地のよい時間。それら全てを棒に振ってしまうことを恐れた。

 俺は上司。おまえは部下。それでいいじゃないか。喉元まで出かかった言葉を渋谷は辛うじて飲み込んだ。沈黙する渋谷から、摩耶は目を背けた。

「どうしてあたしたち艦娘は、女の身体をしてるんだろうな」

 唐突に摩耶は言った。渋谷は黙って耳を傾ける。

「艦娘は中途半端な存在だと思うんだよ。なんていうか、別の世界から都合のいい部分を切り取って、無理やり今の世界に張りつけたみたいな。普通、人間は赤ん坊から成長していくもんだろ。言葉を覚えて、自分の足で立てるようになってさ。育つ環境で性格も少しずつ形成されてく。でも、あたしたちは生まれたときから成長した肉体を持っていて、言葉も覚えていた。個性的すぎるほど個性があった。駆逐艦は幼いまま育つ気配はないし、重巡や戦艦も同じだ。生物の道から外れちまってる、すごく中途半端な存在なんだよ。おまえは、あたしらを艦であり人間であるって言うけど、意味を逆にすれば、艦でもなければ人間でもないってことだよな。心があるから、人間に混ざりたい。でも、純粋な人間じゃないから、結局は戦争の道具として距離を置かれてしまう。艦娘は艦娘だって、割りきられてしまうんだ」

 摩耶の思考が吐露されていく。自身の存在について、ここまで深く考察しているとは思わなかった。大抵の艦娘は、戦うことをレゾンデートルに毎日を生きている。自分の存在に疑問を抱くことなく、ただ目の前の敗北を嘆き、勝利を喜ぶ。しかし、彼女たちが人間と変わらぬ心を持っているなら、人類が何千年にも渡り悩んできた「存在」という哲学的難問について、人間と同じように想いを馳せる個体がいてもおかしくない。その点で、摩耶はイレギュラーと言えた。人間でさえ未だ辿りつけない真理に、産まれて数年の艦娘が、たった独りで戦いを挑んでいるのだから。

「それで、あたしは思ったんだ。艦娘が皆、女の身体をしているのは、人間と寄り添うためじゃないかって」

 摩耶は続ける。懇願するように、強さの中に儚さを秘めた瞳で渋谷を見つめる。

「この世界の人間は、女しか子どもを作れないんだろ? 男は女を必要としなければならないって宿命づけられている。だったら、そこに艦娘も入れるんじゃないか? 突然この世界に現れた異物が、男と交わることで人類の種に組み込まれる。種族の輪に溶け込んで、これからもずっと続く種の歴史の一部になれるんだ。艦娘が人間の姿をしていて、さらに女なのは、自分たちを孤独にしないためだと思う。人間として迎え入れてもらうためだと思うんだ。だから―――」

 あたしは、おまえを好きになった。

 摩耶は言った。豊かな感情で溢れそうになる瞳が、こちらを見ている。

「涼子とおまえが一緒にいるのを見たとき、胸が苦しかった。ああ、これが嫉妬なんだって後で気づいた。嫉妬するのは、おまえが好きだから。あたしも、おまえの心に入れろと思うから。これが艦娘なんだ。好きな男を賭けて、人間と同じ土俵で戦うための心がある。感情がある。それは、あたしたちが人間だから」

 摩耶の腕が伸びる。そっと渋谷の手を握った。

「あたしを受け入れてくれないか?」

 掴んだ彼の手を、自分の胸に当てる。服の上からでも柔らかさと温かさが伝わる。それは、まぎれもない女の身体だった。

「駄目だ」

 渋谷は手を振り払う。

「人間は複雑な生き物だ。一方的な好意に、肉体的接触で応えることは、俺にはできない。俺は部下としておまえを信頼している。おまえといると居心地がいい。でも、おまえを女として見ているわけじゃない」

「じゃあ、どうすればいいんだ?」

 だらりと腕を垂らし、摩耶は力なく言った。

「あたしの心を、どう扱えばいい? 上司と部下なんて都合のいい関係のまま、人間の女におまえの心を掻っ攫われるのを黙って見てろっていうのか。あたしの好きだって気持ちは永遠に受け入れてもらえないまま、ずっと艦娘のままでいろって?」

「今の俺が不満なのか?」

 渋谷は問うた。数多の艦娘と接しながらも、ここまで深い気持ちをぶつけてきたのは摩耶が初めてだった。どう対処すべきかなど知る由もない。ただ、ここでうやむやにするのは人間として許されない気がした。

「俺はおまえを大切に思っている。一緒に死んでもいいと思っているほどだ。今の俺じゃ駄目なのか」

 渋谷の言葉に、摩耶はぐっと口をつぐんだ。難しい問題であることは彼女も分かっているのだ。深くまで考えの及ぶ繊細な摩耶だからこそ、人間特有の葛藤も理解できる。そう渋谷は思っていた。

「もう少し時間をくれ。お互いの気持ちを整理しよう。ヒトを愛することは難しい。ここで事を急いても仕方がない」

 渋谷は提案する。問題を先延ばしにしたわけではないと信じたかった。産まれて数年も経たない少女がすべきことは、もっと時間をかけて心を理解し、人間を理解することだと思った。

「分かったよ。いろいろ分かんないけど、努力する」

 摩耶はそう言って、自分の頬を軽く叩いた。

「柄にもないこと喋っちまった。でも、これで分かっただろ? あたしを艦娘扱いしてると、また痛み目見るぞ」

 屈託のない笑顔で摩耶が笑う。

 ふたりで坂の続きを登ろうとした。その瞬間だった。

 港から地鳴りが響く。湾の入口に置かれた砲台が火を噴いていた。敵艦が泊地に接近してきたのだろうか。第二駆逐隊は、まだ演習の最中だ。湾の鎖は解かれていない。敵が攻め込める余地はないはずだ。摩耶はじっと眼下の街並みを観察する。港のほうから煙が上がっている。何かがおかしい。

またも爆音を轟かせる砲台。摩耶は頭の艤装に意識を集中させる。人間ならば耳を澄ませている状態だ。第二駆の無線を拾おうとした。普通の顕体ならば絶対に聞きとれない距離だが、伝達機能を鍛え上げた摩耶は、か細い通信をなんとか手繰り寄せる。

『……どうし……ってくるの?……』

『港……近づけ…い……』

 白露と陽炎の会話。拾った電波から、丁寧にノイズを取り除いていく。

 どうして撃ってくるの?

 港に近づけない

「砲台が狙っているのは味方だ。第二駆が攻撃されてる!」

 摩耶が叫ぶ。いったい何が起こっているのか。とにかく港に急がねばならない。そう思ったとき、今度は港湾部から炎があがった。ひとつ、またひとつ空に黒煙が立ち上っていく。摩耶の耳は銃声を拾った。そして人々の悲鳴。

「敵襲だ!」

「そんなバカな。敵機も敵艦もいないんだぞ」

 渋谷の反論を無視する摩耶。彼女の瞳は、遥か眼下に蠢く人の波を捉えた。まるでアリの群れのように列をなし、砲台から港湾の街まで続いている。姿は人間だった。しかし動きがおかしい。街を守る陸軍部隊の機銃を受けても全くひるまない。それどころか、喜々として銃弾の緒元に突撃していく。

 人間ではない人間の形をした何か。摩耶は総毛立つのを感じた。正体不明の敵がソロンを襲っている。

「港に急ぐぞ!」

 そう言って渋谷は走り出す。こんな芸当ができるのは深海棲艦しかいない。彼の脳髄はショックに慣れていた。冷静に自軍の戦力を見直す。港湾機能が敵に奪われた以上、湾内で深海棲艦と戦えるのは摩耶しかいない。あの砲台を黙らせ、第二駆逐隊を呼び戻すのは摩耶の火力が必要だ。

「これを持ってろ」

 渋谷は摩耶に予備の拳銃を渡す。そして自分も愛用のリボルバーを右手に構えた。悲鳴や爆発音を辿ると、敵は少しずつ坂を登り始めている。狙いは石油施設としか思えなかった。製油所の方では警報が鳴り響き、敵に備えている。あそこが占領されたらソロンは終わる。それは石油供給の停止、ひいては艦娘の無力化を意味する。事態は悪化を極めていた。深海の歩兵戦力など、誰が考慮しただろう。それも、突如として現れた連隊クラスの大部隊。ここは海軍の街だ。戦車もなければ、十分な野砲もない。

「危ない!」

 摩耶が吼えた。路地の反対側から、いきなり敵が飛び出してきた。顔面は凍りついたように無表情、雄叫び一つあげないまま、動きはまるでゴリラのごとく渋谷に飛びついてくる。渋谷が一発、摩耶が二発。それぞれ敵の心臓と頭を撃ち抜く。彼らは沈黙したまま倒れた。ボロボロに破けていたが、アメリカ海軍の制服を着ている。さらに一人は、見覚えのある水兵服。大日本帝国海軍の兵卒だ。

 渋谷は悟った。上陸し占領した島に、なぜ誰もいなかったのか。戦場で行方不明者が多発したのか。深海棲艦に鹵獲されていたのだ。おそらく陸戦力に改造するために。意志を消され、操り人形にされている。

「摩耶、建物のなかへ」

 渋谷の指示で、ふたりは近くの民家に飛びこむ。そのとたん、さっきまで背を預けていた壁が小銃の連射で抉れた。武器を持っている敵もいる。状況はさらに厄介になった。

「ここから港まで行けるか?」

「下に降りるほど敵の密度は濃くなってる。行くにしても、街の端から迂回したほうがいいな」

「どこまで近づけば、遠隔操作で艦体を動かせる?」

「艦が見えてるなら、五〇〇がぎりぎりってところだ。精密射撃はアテにならねえ」

 摩耶が答える。迷っている時間はなかった。建物を利用しながら、鼠のように路地を駆け抜ける。渋谷は素早く敵についての情報をまとめた。敵の動きは人間離れしているが、視界に入らなければ攻撃してこない。砲台を占拠しつつ、港に浮かぶ摩耶の艦体と人類製の艦には手を出していない。おそらく事前に指示された目標物を攻撃し、敵意ある対象に反撃するよう命令され、反射的に動いているのだろう。拳銃の残弾も少ない。祈るように二人は走った。二時間かけて、ようやく湾の右端に到達する。

「いるわいるわ、砲台は完全に奴等の巣だ」

 廃墟に身を隠し、壁の隙間をのぞいて摩耶が状況を確認する。これでは砲台を破壊しても、鎖を解くことができない。鎖を緩める装置は、それぞれの砲台付近にあった。摩耶とふたりで突撃したところで、続々と湧いてくる敵に囲まれたら終わりだ。

「仲間と通信を試みる。周囲の警戒を頼む」

 摩耶はふたたび意識を集中させる。艦の無線装置がなくとも、小規模な会話程度なら頭の艤装でできるはずだ。摩耶の思念をいち早く掴んだのは陽炎だった。

『摩耶さん! そっちは無事ですか?』

 ノイズまじりの一方通行だが、なんとか声は聞きとれた。

『湾内は敵でごったがえしてる。そっちの状況はだいたいつかめてる。敵はどこから来ているのか教えてくれ』

『はい。演習から戻ろうとしたら、湾を囲む岸壁にそって、複数の潜水艦のようなものが浮上。陸にとりつき、そこから人間が出てきました。そいつらは砲台をのっとり、わたしたちに砲撃をしかけてきました。射程は陸の砲台が長く、わたしたちの火砲では届きません。敵の新型艦を、これより潜水揚陸艦を呼称します。潜水揚陸艦の数、二五。さらに増えている模様。すでに上陸した敵、目算ですが約四〇〇〇』

 潜水揚陸艦。また新手の艦種だ。この報告に摩耶と渋谷はうめいた。一個連隊クラスの歩兵が、すでに上陸してしまっている。敵は増加の一途をたどり、ソロン泊地が占領されるのは時間の問題だった。

 応援を呼ぶしかない。そのためには砲台を沈黙させなければならない。安定した陸上からの高威力、長射程の砲撃は、艦娘にとって天敵とも言うべき脅威となる。

「摩耶、火器管制はどうだ?」

「かなり難しい。一撃で仕留められるかは賭けだな」

 苦しそうに顔を歪ませて摩耶は言った。全く動きのない摩耶の艦は、幸いにも無傷のまま湾に浮上していた。しかし、一度攻撃を加えたら敵に狙われることになる。こんな至近距離で砲台からの弾が直撃すれば、一発で轟沈しかねない。湾入口の両側に、五基ずつの砲台。集中砲火により片方を破壊できても、もう片方から反撃を受ける可能性は高い。

『陽炎より摩耶さんへ』

 ここで新たな通信が入る。

『陸軍第二〇師団、歩兵第七八連隊が応援に向かったそうですが、敵の航空機爆撃により被害甚大、撤退しました』 

 摩耶は頭を抱えた。これで陸からの支援は期待できそうにない。わざわざ陸への空爆をかけるとは。ソロンを攻めるために、敵はよほど綿密な準備を行っていたらしい。

 考えなくては。渋谷は頭に海図を浮かべる。あらゆる味方の情報を記憶から引っ張り出し、地図上に展開していく。摩耶と駆逐隊だけでは、この劣勢を覆せない。そして、彼はついに一筋の光を見つけた。

 大和が移動している。ポートモレスビーからパラオに向けて出発した大和一行が、ソロン東のスカウテン諸島北を航行している。扶桑、山城も彼女に随伴している。渋谷は、すぐ大和と通信できないか摩耶に尋ねる。

「陽炎を向かわせれば、可能かもしれない。だけど提督、大和に何をさせるつもりなんだ?」

 摩耶がじっとこちらを見つめて尋ねる。まっすぐな双眸には、何かを悟ったような光があった。それは摩耶が何かを決意した証でもあった。

「責任は俺が取る。今は考えるより行動が先だ」

 渋谷は毅然として言った。摩耶は意識を深く研ぎ澄ませていく。第二駆の思念波に接触し、渋谷の命令を伝える。

「艦隊を二分せよ。陽炎、白露、村雨は連合艦隊旗艦、大和に接触。山本長官に現状を報告し、応援を要請せよ」

『陽炎、了解!』

『白露、了解!』

『村雨、了解!』

「時雨、夕立は対潜警戒を厳となし、敵の潜水揚陸艦を一隻でも多く撃破せよ。また、陽炎隊からの報告を受信し、電波中継を行え」

『時雨、了解』

『夕立、了解っぽい!』

 迷いのない応答が届く。あとは時間との勝負だった。

「まずいな。敵は少しずつ内陸に侵攻してる。だけど、艦体に近づかないと精密射撃はできない。砲台を潰すなら、やるしかないな」

 摩耶は言った。陽炎隊が予定どおり任務を遂行したとして、大和が到着するのは早くて二時間後。それまでに、敵をかいくぐりながら港に接近しなくてはならない。渋谷の頭に、ひとつの案が浮かんだ。

 それを摩耶に伝えようとした瞬間、凄まじい頭痛に襲われる。思わず渋谷は目を歪ませて膝をついた。

 自分という意識を強引にこじ開けられている。そこから真っ黒な異物が流れ込んでくる。ざらざらとした鉄粉のような感触が脳髄に広がったかと思うと、細かく振動しながら少しずつ意味を持つ配列に置き換わり、文字と音を形成していく。

『あれ、おまえここに居たの?』

 頭蓋の内側に、直接響く少女の声。間違いない、一度会ったことがある。

 戦艦レ級・グラキエスの声だった。

『そうかそうか。これも縁ってやつだね』

 雷鳴のように耳障りな笑い声が轟く。自我を押し潰されそうになりながらも、渋谷は必死に思念で応戦する。

『俺の頭に何をした!』

『実験のときに使った小型の送受信細胞が、そのまま残っているのだ。おまえは死ぬ確率のほうが高かったから、放置しても問題ないだろうと考えた。安心しろ、仲介するのは、あくまで外へ向かう信号。おまえの内在思考や記憶は覗けない』

 ひょうひょうとレ級は答える。おそらく嘘ではあるまい。もし渋谷の脳髄を支配できるのなら、とっくに遠隔操作で悪事を働いているはずだ。

『この攻撃を仕掛けたのは、おまえか?』

 つとめて落ちつこうとしながら、渋谷は尋ねる。

『そうだよ。わたしの新しい玩具、気に入ってくれた? 頭は悪いけど、そのぶんたくさん数を揃えたから、きっと楽しめると思うよ?』

 戦争を遊びのように語るレ級。頭のなかの彼女が、どんどん巨大化していく。渋谷は意識を振り落とされまいと、必死に言葉で食らいつく。

『おまえの目的は何だ?』

『ご存じの通り、艦娘の食事から重油を奪うことだよ』

 軽々しく答えるレ級。もはや人類を、対等に勝負できる相手と見なしていない。

『そうだ、わたしとゲームをしよう』唐突にレ級は言った。『陣地防衛ゲーム。わたしが攻撃で、おまえが守備。石油施設を占拠できたら、わたしの勝ち。兵を殲滅できたら、おまえの勝ち。わたしは陸上兵力しか使わないけど、おまえは陸軍だろうが艦娘だろうが自由に使っていい。ソロンの街がゲームボードだ。でも、ボードの外から邪魔しようとしたら、ルール違反で叩き潰す』

 冗談なのか本気なのか、レ級は楽しそうに宣告する。

『わたしは一時間で一キロずつ陣地を広げる。港から最寄りの石油施設まで、あと五時間ってところかな。タイムリミットは五時間。頑張って殲滅してね』

『待て、レ級!』

『わたしの提督が興味を持った人間なんだから、簡単に諦めないでよね。それと、間違えるな。わたしの名はグラキエス』

 一方的に通信は切れた。頭の異物はなくなったが、まだ視界がぐるぐると回っている。

「おい、大丈夫か?」

 いつの間にか摩耶が心配そうに肩を支えていた。

「ああ。最近片頭痛が多くてな。それより、港に近づく方法があるかもしれない」

 渋谷は吐き気をこらえながら説明する。

「危険だが、ここから東に進むと上水道用の水を引く地下洞がある。それを使えば、港付近の貯水池まで進めるはずだ」

 この提案に摩耶は賛成した。ふたりはすぐに移動を始めた。

 前線に近づいたせいか、味方と出会うこともあった。陸、海の区別なく、生き残った兵士たちは街を利用して防御用の陣地を作っていた。

「あと、どれくらい持ちそうだ?」

 途中で出会った陸軍小隊の隊長に渋谷が尋ねる。

「正直、一時間持つかどうか。彼我の戦力差は圧倒的、すり潰されるのは時間の問題です」

 若い小隊長が答える。しかし、その顔から希望は消えていなかった。

「大丈夫、艦娘の皆さんが到着するまで、石油は守ってみせます。命にかえても敵を食い止めますよ」

 銃声が飛び交うなか、笑顔で男は言った。そうだ、そうだ、と銃を振り上げて兵士たちが応える。皆が一丸となって石油を守ろうとしている。去り際、渋谷は深く頭を下げた。その瞳は苦悩と懺悔に満ちていた。

ふたりは走る。土壁の民家はまばらになり、雑草のはびこる荒れ地が増えた。途中、幾度となく敵と遭遇した。小銃の弾が渋谷の足や肩をかすめる。残り少ない弾で反撃しつつ、二人は川の水が流れ込む洞の入口に辿りついた。真っ暗なうえ、身をかがめて通るのがやっとの狭さだ。

「俺が先に行く」渋谷は言った。「敵が中にいたら逃げられん。いざというときは俺が盾になる。これは指揮官の決定だ」

 摩耶が死んだら元も子もない。しぶしぶ摩耶は承諾する。ふたりは腰の上までずぶ濡れになりながら手探りで暗闇を進んだ。一時間ほどかけて、ようやく出口の光が見え始める。出口は岸壁の穴となっており、そこから水が流れ落ちている。直径一〇〇メートルはある巨大な池が真下に迫っていた。苔むした岩肌を登れば港が見えそうだったが、池の周りには多数の敵が徘徊している。ふたりは洞の出口付近で身を寄せ合い、第二駆からの通信を待った。

 タイムリミットは五時間。大和が到着するまで、早くて二時間。かなり広い範囲が敵に侵蝕されてしまう。

 一秒一秒、祈るような気持ちで待ち続ける。一一六分が経過した頃、ついに夕立から通信が入った。

『陽炎隊、大和を連れてソロンに近づいてるっぽい。間もなく到着とのこと』

『山本長官が説明を求めてる。摩耶さん、大和に繋いで』

 時雨が言った。摩耶は手みじかに襲撃の経緯と現在状況を伝えた。

「やっぱり、砲台が邪魔で接近できないみたいだ。やるしかないな」

 摩耶は言った。渋谷は頷く。

「山本長官と直接、話ができるか?」

 摩耶はしばらく交信したのち、こくりと頷いた。渋谷は摩耶を通して、敵殲滅のための作戦を具申していく。代弁する摩耶の表情は、苦悶に歪んでいった。数分後、長官からの返答が届く。

「実行を許可する。連合艦隊司令長官の名において、敵上陸戦力の殲滅を行う」

 摩耶が長官の裁可を伝える。

 さいは投げられた。もう後戻りはできない。失敗すれば泊地は敵の手に落ち、精油所は完膚なきまでに破壊される。南方戦線は永久に、戦争の血液たる石油を失うことになる。

「行くぞ!」

 渋谷の号令とともに、ふたりは洞を飛び出す。岸壁に張り付き、岩の凹凸に足をかけて必死に登った。もし敵に見つかれば簡単に撃ち落とされてしまう。生きた心地がしないまま、何とか頂上に辿りついた。眼下には三日月型の港湾がよく見える。

「距離は、六〇〇ってところか。ほんとにギリギリだな」

 摩耶は苦笑する。ここから艦体を遠隔操作し、左右五基の砲台を撃ち抜かなくてはならない。摩耶は膝を立ててしゃがみこみ、眉根を寄せて集中する。

「タイミング任せる。落ち着いてやれ」

 渋谷は仁王立ちになり、摩耶の背中を守る。摩耶は一度だけ頷き、かつてない過酷な精神集中に入った。

「ぐっ……」

 喰いしばった歯の隙間から苦しげな呻きが洩れる。ゆっくりと湾内の艦が旋回していく。港湾沿いを徘徊していた敵が銃弾を浴びせるが、その程度ではびくともしない。むしろ砲台に気づかれないか肝を冷やしたが、おそらく沖合の大和を警戒しているのだろう、こちらに砲身が向くことはなかった。摩耶は、まず右の砲台に対し、火線と直角になるよう艦体を真横に向ける。全砲門による一斉射撃でなければ、五基全ての砲台を破壊するのは不可能だ。

 がさり、と草の揺れる音がする。雑木林から影が見えた瞬間、渋谷のリボルバーが敵の心臓を撃ち抜いた。

 針で突いたように摩耶の瞳孔が収縮する。顔は青ざめながらも額に血管が浮き出る。少しでも意識が外れると照準がずれてしまう。一基でも破壊し損ねたら、待っているのは死だ。毛筋の一本に至るまで意識を張り巡らせるように、摩耶は全ての砲塔を寸分たがわず支配下に置く。

 ばりばり、と至近距離で銃声が響く。渋谷はとっさに音の方向に向けて弾丸を放つ。またひとり、敵が物言わぬまま倒れ伏す。弾は残り一発。

「今だ!」

 摩耶の裂帛と同時に、主砲が火を噴いた。弾は美しい軌道を描き、砲台を直撃する。大地が抉れるほどの爆発。炎と煙に包まれた右砲台は完全に沈黙した。しかし修羅場はここからだ。湾内の脅威に気づいた左砲台が、砲塔を摩耶に向け始める。それと同時に、摩耶も艦を左に転舵する。

 そのとき、背の高い草むらから、摩耶めがけて猿のように敵が飛び出す。摩耶と接触する寸前で渋谷は敵に飛びかかり、ごろごろと地面を転がった。敵は恐ろしい力で渋谷を組み伏せ、左腕を絞めつける。左肩の関節が不気味な音を立てて外れる。しかし一瞬の自由を得た渋谷は、執念で掴み続けたリボルバーを敵の喉に押しあて、引き金をひいた。

 砲台と艦が同時に動く。全身の神経が、戦慄とともに拡張する。汗が噴き出す。互いの火線が交差したとき、摩耶の形のよい鼻腔から一筋、赤い血が流れ落ちる。必殺の砲身が、今、互いの喉元を捉えた。

「いけええええええええええええ!」

 摩耶と主砲の咆哮が、ソロンの空を裂く。砲台からは爆炎、港湾には水柱。どちらの姿も爆発に阻まれて見えない。顔と服を血まみれにして、摩耶はその場に崩れ落ちた。目は虚ろに見開かれ、口の端からは唾液が零れた。

 敵の第二射はなかった。

 砲台は真っ黒な煙に包まれたまま沈黙している。摩耶が撃ち勝ったのだ。しかし休んでいる暇はなかった。渋谷は左腕を垂らしたまま、摩耶を抱き起こす。

「摩耶、しっかりしろ! 大和に通信だ」

 摩耶は瞼を痙攣させながら、通信を再開した。その口からは無意識のうちに思考の内容が洩れていた。

 渋谷の命令を伝える。

「大和麾下、全ての艦の総力をもって、ソロンに艦砲射撃を加えよ。もって敵戦力を殲滅する」

 これが渋谷の作戦の全貌だった。大和の主砲、人類未踏の四六センチ三連装砲をもって泊地ごと敵を薙ぎ払う。敵がまだ港湾部に集中している今しかチャンスはない。

『ふざけないでください!』

 大和が激昂した。山本長官を差し置いて無線を独占して叫ぶ。

『どれだけの人間が街に残っていると思っているんですか。泊地を守るため、たくさんの人々が戦っているのでしょう? 彼らごと敵を吹き飛ばせと? 出来るはずありません!』

「やれ! これしか手が無いんだ!」

 摩耶は渾身の力で思念を叩きつける。大和が動かなければ、麾下の扶桑、山城も動けない。山本長官の命令はすでに伝わっているはずだ。ならば大和の拒絶行為は、命令違反ということになる。

『嫌です! わたしは戦艦なのよ。戦艦は敵を沈めるために存在する。人間を殺すためじゃない! どうして敵と戦えもせず、人間を殺さなきゃならないの? 陸に砲弾を撃ち込まないといけないのよ!』

「ガキみたいに駄々こねんな!」摩耶が叫び返す。「もうこれしか方法がないって言ってんだよ! そりゃ人は死ぬさ。戦争なんだからしょうがねえ。でも、今目先の数百人かの人間を生かすために攻撃を躊躇ったら、この先、何千、何万の人間が死ぬんだよ。艦娘も沈むんだよ! あんたにその命、背負えるのか? あんたが動かなかったばっかりに死んでいく人間たちを、背負えるのかよ!」

 大和のむせび泣きが響き渡る。摩耶も泣いていた。とめどなく双眸から涙が溢れていく。

「うちの提督が、どんだけ苦しんでこの作戦を具申したと思ってんだ。あんた、提督と話したことあるんだろ? だったら分かるはずだ」

 声を震わせて摩耶は言った。しばらく通信に沈黙が続いた。聞こえてくるのは大和のすすり泣きだけだった。

数分後、ようやく大和は口を開いた。

『渋谷、少佐。そこにいるんでしょう? 少佐に伝えてください』

 

 ―――怨みます。

 

 大和は言った。

 通信が途絶した。港湾の出口から、単縦陣をとった艦隊が接近してくるのが見える。間もなく艦砲射撃が始まろうとしている。もちろん、ここにいれば巻き込まれる可能性もあった。しかし、この作戦の立案者として、おめおめと逃げ出すことだけはできなかった。それが人間特有のつまらない誇りによる、誤った判断だとしても。最善の選択による最小の犠牲者に、責任を負わねばならなかった。

 こんな命一個で償えるものではないが。

 ソロンで戦う人間たちに、この作戦を強要してしまった艦娘たちに、手当たり次第土下座して廻りたい気持ちに駆られた。

 頭を垂れ、涙を流す渋谷を、そっと摩耶が抱きしめる。

「あたしも一緒に背負うよ。おまえが生きている限り、あたしも一緒にいてやる。あたしがおまえの罪を赦してやる。だから……」

 ともに生きていこう。

 摩耶が笑った。

渋谷の身体を抱きしめ、崖から飛び降りる。貯水池に落下したのと同時に、摩耶は渋谷を抱えながら岸壁をよじ登る。草にしがみつき、岩に齧りついて、地下洞の入口を目指した。渋谷も無事な右手で岩を掴んだ。擦り傷と泥にまみれ、腰を抜かした逃亡兵のように惨めな格好で洞穴を這い進む。水を飲み、えづき、苦しみのあまり涙と鼻水を垂れ流して。すこしでも遠くへ。少しでも奥へ。

そのとき、空間の全てが揺れた。地震のように大地が震えている。渋谷と摩耶は水のなかで抱き合った。小さく、小さく体をかがめる。互いの吐息を吸えるほど。引き裂かれる空気と地鳴りが合わさり、断末魔の声のように低く震えながら洞窟内にこだました。それはまるで犠牲になった勇士たちの怨嗟の声に思えた。

 どれだけ時間が経ったのかも分からない。ふたりは重い足取りで、ふらつきながら洞窟を出た。とたん、熱い空気が器官を焼いた。とっさに口を覆う。ソロンの街が燃えている。人の営みなど跡かたもなく、全てが紅蓮の炎に飲まれている。港湾に浮かぶ一隻の重巡だけが炎の照り返しを浴びながら、淡々と地獄を見つめていた。

「大丈夫だ、あたしたちが生きている」

 摩耶が言った。

 そのとき、またしても激しい頭痛が渋谷を襲った。

『お見事。わたしの兵は九割壊滅。ゲームはおまえの勝ちだ』

 レ級が言った。負けた割には、やけに弾んだ声だった。

『おまえの頭に通信機を残しておいてよかった。最高の結果だ。やはり、あの艦は面白い。今回の実験、わたしは満足だ』

 実験、という言葉に渋谷は目を見開いた。

「まさか、おまえは最初から勝負など眼中になかったというのか!」

『察しがいいね』レ級は言った。『そうだ。石油施設の破壊なんて、建前にすぎない。玩具っていったでしょ? 新しい玩具を作ったから、提督に許可を貰って実験してただけ。遊びだよ。わたしの本当の目的は、あの艦にちょっかいを出すこと。提督に教えてもらった名前は―――』

 大和。

『悲しみは怒りに。怒りは怨念に。怨念は衝動に。そして衝動は破壊に。ああ、なんて美しい連鎖だろう。やはり、あいつは面白い!』

 よだれを垂らさんばかりに興奮した声。顔は見えずとも、レ級の憎たらしい笑みが瞼に浮かぶ。

『これであいつは、もっと面白くなる。次に逢う時は最高に近い状態に仕上がっているだろう。感謝するよ、シブヤ。おまえのおかげで大和は進化する。あいつは、わたしに教えてくれるかもしれない。自分が何者なのか。何をもって自己なのか。ああ、楽しみだ!』

 通信は途絶えた。渋谷は呆然と立ち尽くすしかなかった。最善の選択をしたはずだ。しかし、それは敵にとっても、願ってもない最善だった。必死にあがいて、仲間を死に追いやり、艦娘たちの心に消えない傷をつけた。なんと滑稽だろう、全ては敵の掌で踊らされていたのだ。ようやく事実を理解したとき、渋谷は憤りのあまり叫びそうになった。自分と周りの全てをメチャクチャにしたい衝動に駆られた。

「大和、まだ泣いてやがる」

 摩耶が呟く。他の艦からの通信を一切遮断し、無線には彼女の悲しい慟哭がいつまでも響いていた。

「おい、あれは何だ?」

 摩耶が沖を指さす。一〇時の方向から、カラスの群れのような黒点が、まっすぐ艦隊に飛来してくる。

「敵艦載機。レ級か!」

 渋谷は肉眼で確認する。ソロモン海で空を荒らしまわった、新型の艦載機に間違いない。飛来してきた方角を見ると、遥か彼方の水平線に一隻の艦がぽつんと張り付いている。慌てて艦隊は対空戦闘に入るが、六機のうち一機が大和に急降下爆撃をかけた。爆弾は艦橋の正面に炸裂する。その後、陽炎隊の援護射撃により敵機は全て撃ち落とされた。だが、そのときすでにレ級は水平線の向こうに姿を消していた。

『長官、参謀長! ああああああ、どうして』

 耳を塞ぎたくなるような、痛々しい大和の泣声。

 悲嘆にくれる艦娘たちの感情を蹂躙するような置き土産。感情を理解したレ級しかできない、最悪の追い討ちだ。

『山本長官が負傷した模様、死者、負傷者、現在確認中!』

 陽炎から通信が届く。

 くだらないことで人間みたいにメソメソ悲しんでいるから、大切なものを失うのだ、馬鹿な艦娘ども。レ級の挑発が聞こえた気がした。

 やり場のない怒りが摩耶の拳を突き動かした。岩壁を思い切り殴りつける。

 艦娘は、人間と同じ心を持っているからこそ、ただの兵器ではなく尊厳ある存在として生きていける。レ級は、艦娘のよりどころである「心」を完膚無きまでに凌辱した。

 大和が吼えた。その声はもはや、人間らしい嘆き、悲しみ、怒りの発露ではない。ただ目の前の敵を破壊し尽くさんとする、心なき獣の咆哮だった。

 

 

 

 

 

 ソロン襲撃事件は、前線だけではなく本国にも、すったもんだの論争を巻き起こした。いたずらに戦線を拡大したあげく、肝心な守りが欠けていた陸軍の怠慢だとか、勝手に泊地を建設したのだから、その防衛も海軍が義務を負ってしかるべきだとか、責任のなすりつけ合いが始まった。結局、これ以降は陸、海がきちんと意志疎通を計り、占領地の管理を進めていくという、何の具体的解決策も示さない言葉遊びに落ち着いた。政府も軍の中枢も、実際に戦った艦娘には何の配慮も示さなかった。この戦いで心に傷を負った艦娘たちのケアは、前線の提督に丸投げされた。大和のパラオ異動は中止となり、ポートモレスビーでの休養が命じられた。レ級艦載機の奇襲爆撃により、連合艦隊司令部はピンポイントで機能を破壊された。山本長官は一命を取り留めたものの、左足の膝から下を失い、野戦病院に入院。近々本国に異動する予定だった。宇垣参謀長は死亡、そのほかにも高級参謀が多数死亡、負傷した。連合艦隊司令長官は、新たに本国から派遣されてくることとなった。

 ただ、渋谷と艦娘の懸命な戦いにより、石油施設は破壊を免れた。修理に時間を要したが、一カ月で再稼働を始めることができた。ソロン泊地も再建が進んでいた。表向きではないものの、渋谷は活躍を認められ、ソロン所属の艦娘の指揮者に任じられた。

 だが、渋谷にとって自分の出世など、どうでもよかった。帝国本国は、いまだ戦線拡大路線をとっている。深海棲艦を打ち倒すためなのか、それとも帝国の覇権を盤石にするためなのか、戦争の指針が曖昧なまま、戦力がパラオとポートモレスビーに集中しつつあった。パラオからフィリピンへ、ポートモレスビーからオーストラリアへ侵攻する。これが当面の戦争計画だ。

 このままでは、フィリピンの米軍と、帝国とは敵対的だったオーストラリアと一戦を交えるかもしれない。すでにニューギニアではオランダ兵の虐殺が起きている。陸の悲劇が、今度は海で起ころうとしている。

 帝国軍人としての自分、艦娘の提督としての自分。ふたつの立場に挟まれ、渋谷は進むべき道の模索に苦しんでいた。

 だが、一九四四年三月。

 渋谷の悩みはおろか、帝国の戦争計画を根本から吹き飛ばすような大事件が発生していた。摩耶が執務室に飛び込んできて叫んだのだ。

「第三駆逐隊が、敵襲を受けた!」

 渋谷は急いで港に向かった。護衛するはずだったタンカーは一隻も見当たらず、もうもうと黒煙を上げる夕雲型の四隻が帰投した。

「すまねえ、しくじった」

 長波は艦から降りるなり、地面に突っ伏して謝罪した。渋谷は彼女を抱き起こし、医務室へと運ぶ。

「見たことのない大型戦艦がいた。たぶん、サンゴ海海戦で連合艦隊が接触した奴だと思う。そいつと空母と戦艦の機動部隊だ。くやしい。逃げ出すことしかできなかった」

 長波は目に涙を溜めて報告する。第三駆のメンバーを全員休ませ、摩耶とともに執務室に戻った。

 南方海域を守っていたはずの敵が、突如として中部太平洋に現れた。輸送網破壊が目的なら、桁違いの戦力だ。

 ポートモレスビーから電文が届いたのは、その直後だった。

 

 各泊地ヲ繋グ海上輸送網ニ、敵戦力出現。

 中部太平洋トノ連絡途絶。本国ノ指示途絶。

 

 なおも悲愴な報告は続く。ポートモレスビー・ラバウル間の連絡船が海に消えた。ラバウル・ショートランド・リンガの海上交通も途絶。さらにポートモレスビー・ラエ・トラック間の輸送網も先ほど破壊されている。おそらく中部太平洋から本国にかけても似たような状況だろう。

「深海棲艦の大部隊が、全ての輸送網を断ち切った?」

 愕然として摩耶が呟く。

 サンゴ海海戦のとき、敵がとった不自然な行動。なぜ艦隊決戦を避けたのか、今になってようやく分かった。敵は戦力を温存していたのだ。おそらく、補給線が伸びきったところを襲撃し、人類側の戦力を分断、孤立させるために。

「まずいことになったな」

 渋谷は呟く。第二駆逐隊は輸送任務のため、現在はトラックに停泊しているはずだ。陽炎と白露型の四隻は、中部太平洋での立ち往生を余儀なくされていた。

「提督!」

 息を切らせながら、朧が執務室に飛び込んできた。

「あちこちの無線が、発信元不明の電波を捉えてる」

 汗を拭おうともせず、朧は無線を繋ぐよう主張した。その後も続々と艦娘たちが謎の怪電波を報告してくる。明らかにただごとではない。電波はニューギニア全土を覆っているらしく、通信兵が慌ただしく動いていた。渋谷は摩耶と顔を見合わせる。

「よし、電波を合わせてみよう」

 摩耶は言った。執務室の無線機を調整する。

 ノイズが次第に収束していき、ついにはっきりと音を掴んだ。

 流れ出るのは女性の声だった。複数の人間が同時に喋っているかのように声が重なっている。だが渋谷には聞き覚えがあった。深海棲艦の本拠地近くで会話を交わした相手。白峰の秘書艦とでも言うべき空母ヲ級の声だった。

執務室に集合した艦娘たちは皆、息を飲んで不思議なエコーに聞き入った。

『人類諸君、および人類に与する者たちに、我らの意志を伝える』

まるで子供をあやすような、ゆったりとした響きで声は告げる。

『我らは海洋の覇者。すべての陸地より海洋を断絶したのは、我々である。賢明なる人類諸君が本質的に平和を望む生物であるのなら、このときをもって全ての武装と戦争を放棄し、争う意志がもはや存在しないことを示せ。さすれば陸での安寧を約束しよう。もし我らの指示に応じず、なおも戦意を継続する者に対しては無慈悲な報復を加える』

 わずかに間を置き、深海の代表は堂々と宣言する。

『我らは裁定者の艦隊。この世界に真の平和をもたらす。人類諸君が久遠の平和を求めるならば、我らの声を聞け』

 以後、通信は同じ言葉を繰り返す。

 人間も艦娘も関係なく、この無線を聞いた全ての者が震え上がった。

 深海棲艦からの宣戦布告。人類が深海から、初めて正式なコンタクトを受けた瞬間だった。

「決着をつける気か?」

 渋谷は呟く。あの声は白峰のものではない。しかし、彼の幕僚たるヲ級が深海棲艦の代表となっている以上、彼が立てた筋書きである可能性は高い。それでも渋谷は違和感を覚えていた。白峰は、時期がくれば人類に『質問をする』と言った。この降伏勧告が、白峰の言及した質問であるとは思えない。

 おそらく、これも敵の戦略の一過程でしかないのだろう。人間では視界におさめきれない、膨大すぎる計画。その全貌の一ピース。

「提督。あたしはおまえについていく」

 いつの間にか隣にいた摩耶が、そっと渋谷の手をとった。本国と意志疎通が取れない以上、前線の戦力は、自身の生き残りをかけて独自の判断で戦うしかない。ならば誰についていくのか。摩耶は早くも、その事実を理解していた。

 全てが謎のまま唐突に始まった、人類と艦娘と深海棲艦の戦争。終わりの見えなかった戦いは、ついに大きな転換点を迎える。

 

 

 この放送は、帝国本土にも伝わっていた。

 陸、海の将校たちや各界の有識者がつどう講演会。幾田の講義を聞こうと集まった来賓が全員会場を去ったころ、そのニュースは彼女のもとにも届いた。

「真の平和、か」

 控室で幾田は呟く。人類が今のままなら戦争は終わらない。白峰の真意が、今ようやく分かった気がした。ついにこの時が来た。ここから始まるのだ。アメリカでもなく深海棲艦でもない、新たな敵との戦争が。自分だけの戦争が。幾田は思った。

「福井少佐に、よろしく伝えておいてね」

 傍らに控える艦娘に、幾田は言った。福井の秘書艦である五月雨が、緊張した面持ちで敬礼する。

「えー、わたしに行かせてよ。呉まであっという間だよ?」

 大きな黒いリボンを結んだ、奇抜な格好の娘が言った。もっとも遅い時期に顕現した、最新鋭のスペックを誇る駆逐艦。他に姉妹を持たない彼女は、幾田の直卒に加わっていた。

「あなたには後々、大切な任務が待っているわよ」

ふくれっ面の娘をたしなめる幾田。そして彼女は、もうひとりの艦娘にも微笑みかける。髪を肩あたりで切りそろえ、ぴしりと着こなした詰襟が大正ロマンを思わせる。

「将校さんたちとの連絡を、あなたに任せたい。よろしくね」

「はい。お任せください」

 その艦娘は、陸軍式の敬礼で幾田に応えた。

 部屋の隅で、叢雲は幾田をじっと見つめていた。彼女が何を為そうとしているのか、全て理解しているわけではない。ただこの先、苛酷な道のりが彼女を待ち構えていることだけは分かった。

「行くわよ、叢雲」

 幾田は腹心の部下を呼び寄せる。艦娘たちを引き連れ、講堂を後にする。

 前線の渋谷。

 本土の幾田。

 そして深海の白峰。

 三者それぞれの戦争が、静かにその幕を開けようとしていた。

 

 

 

 第一期 完

 

 



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第二期予告

活動報告に書こうと思ったのですが、活動報告は予約機能が使えず、また、そこにアップすると未読の方はネタバレになってしまう可能性があるので、この場を借りて第一期の後書きと、この先の展開について説明いたします。


大人のための艦隊これくしょん、第一期が無事完結しました。

 

 

深海棲艦を率いて世界と戦う白峰は、いわば人類普遍のテーマである「平和」の体現者です。

本土にうつり政治・軍事の両面から帝国の中枢に深く関わっていくようになる幾田は、「国家」意志の体現者です。

そして前線にて艦娘ひとりひとりと絆を深め、戦っていく渋谷は艦娘「個人」の意志を体現します。

 

三者それぞれの次元における戦争と正義、その決着を後半で描いていきたいと思います。

 

 

 

※この春から極めて多忙となり、筆をとる時間を作れそうにありません。シナリオは最終話まで完成していますので、余裕が出来次第、執筆を再開していこうと思います。読者の皆様には申し訳ないですが、しばしお待ちください。

アニメ艦これの二期があるなら、放送が始まる頃には、こちらも制作をスタートさせていきたいです。

 

感想のお返事も難しくなると思います。どうかご理解ください。

 

 

 

 

この物語をつくるにあたり、一番気を配ったのは、きちんと戦争を完結させることでした。戦争は、それ自体が目的ではなく、ただ自らの意志を相手に強制させるための手段にすぎません。目的があるからこそ戦いが生まれます。前半では、深海棲艦が人類を襲う「動機」が明かされました。それに対し艦娘たちは、「人間を守る」という存在意義は別にして、自分自身が果たしたい目的を知りません。今はまだ人間の道具に甘んじ、命じられるがまま戦っているだけです。しかし彼女たちが、何をもって戦いを終わらせたいのか、はっきり自覚することがあれば、この戦争は大きく変わるでしょう。彼我のどちらかが目的を達成することで戦争は終局に導かれます。後半は、そのあたりも掘りさげていきたいです。

 

 

前半では、あまり出番のなかった熊勇次郎少佐、福井靖少佐は、後半で大活躍します。前半少しだけ登場した、深海棲艦と艦娘の始まりとも言うべき場所についても、ある国のある人物との会話で、きちんと説明していきます。

渋谷と摩耶と涼子の三角関係も、しだいに激しさを増していきます。戦いから離れた「感情」によりぶつかり合う人間と艦娘にご期待ください。

 

 

 

 

 

予告

深海棲艦に海上輸送網を破壊され、孤立してしまった本土・中部太平洋・南方戦線。補給を断たれた前線は、つぎつぎと泊地が機能停止に追い込まれていく。あっという間に飢えと渇きが蔓延し、兵たちは命の灯火に一日の余裕もなかった。ニューギニアのポートモレスビー泊地にて、山口多聞は決断する。オーストラリアに渡るしかないと。それが如何なる犠牲を伴う選択であろうとも。

 

次回

 

第十三話 大洋を分かつ

 

 

 

 

 

 



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第十三話 大洋を分かつ

 深海棲艦の海洋分断により、本土、中部太平洋、南部太平洋の戦力は分断された。補給が途絶えた今、動けるときに動かなければ生存の道は閉ざされる。しかし、艦娘を持てる海軍と、持たざる陸軍の間で、早くも不穏な亀裂が生じ始めていた。


 戦争は、あくまで自らの目的を相手に強制させるための手段である。よって、宣戦布告なき戦いは、もはや戦争とは呼ばない。ゆえに深海棲艦が出現して三年、人類の主権国家は、まったく未知の戦いを強いられてきた。有史以来、このような戦いは経験がなかった目的はおろか、敵の狙いすら分からない。中身のない、不気味で虚ろな戦いだ。太平洋海域において唯一、深海棲艦と渡り合える海軍力を擁する大日本帝国ですら、この戦いに正式な名前を付けあぐねていた。

 ところが一九四四年三月。

 深海棲艦は人間の言葉を使った。そして、その言葉をもって人間に語りかけてきた。自らの目的を示した。それを人類に強制させようとする、確固たる意志を。この瞬間、正体不明だった戦いは、人類馴染みの『戦争』へと姿を変えた。深海棲艦による宣戦布告は、同じ日、同じ時に全人類へと通達された。艦娘という力を得て、太平洋の覇者を気どっていた海軍でさえ一瞬で恐慌に陥った。ここぞとばかりに出没する深海棲艦の大部隊は、まるで木綿糸を斧で切断するかのごとく、過剰とも思える戦力をもって海上輸送網を引き裂いた。一切の食糧、弾薬、医療品とともに情報をも断たれた前線だったが、本国の混乱は火を見るより明らかだった。

 本土を守る艦娘も一定数存在している。しかし、彼女たちの戦力だけでは中部太平洋、南太平洋の敵を突破できないだろう。本土からの応援は期待できない。前線の兵たちは、はやくも絶望に侵されつつあった。補給が無い以上、このまま座して待っていても干上がるのは時間の問題だ。ニューギニア島はともかく、泥とジャングルと病原虫に囲まれたソロモン諸島の島々では、一時でも補給が途切れたら軍は死に絶える。さらに武器弾薬が尽きれば海に出ることもできない。ポートモレスビーの連合艦隊司令部では、高級将校たちが青ざめた顔を歪ませながら今後の指針を模索していた。山本長官の不在が、混沌に拍車をかけていた。レ級艦載機による急降下爆撃は、連合艦隊の心臓部を射抜いた。宇垣参謀長は死に、重傷を負った山本は本国に送還された。彼の後釜として古賀峯一大将が前線に着任する予定だったが、このタイミングで輸送網の破壊である。前線は頭を失くしたまま、手足だけが右往左往している状態だった。

 指揮系統の不明確は部隊の致命傷である。早急に、臨時の司令長官を決める必要があった。幸いにして、適格者を選び出すのに時間はかからなかった。

 休憩という名目で騒がしい大和の艦橋を抜けだし、その男は深夜の波止場を歩いていた。その傍らに、ひとりの娘が肩を並べている。父親を気遣う娘のように、そっと彼を目で追っている。歳を経てなお精悍な男の横顔に、おぼろげな南半球の月を重ねていた。

「大変なことになったね」

 正規空母の魂である、飛龍の顕体は言った。

「大変なのは、この戦いが始まってからずっとだろう」

 男は焦る様子もなく答える。

 山口多聞中将。彼こそが山本長官の後をつぎ、臨時の第一艦隊司令長官となった男だ。最終的に前線の行く末を決めるのは彼だった。南方戦線に孤立する幾万もの将兵の命運は、彼の双肩にかかっていた。

「我々にとって現状は最悪に近いが、長い目で見れば、これは人類にとって良い傾向なのかもしれん」

 重責を自覚してなお、曇りなき瞳で飛龍に語りかける。

「どういう意味?」

「これまで一方的に攻撃してくるだけだった深海棲艦が、初めて人類に交渉を持ちかけた。奴等は人間と同じ土俵にまで降りてきたのだ。それだけで気持ちが軽くならないか?」

 山口の思わぬ発言に、飛龍は目を丸くした。多聞丸に見えているものは、他の人間たちとは違う。改めて飛龍は、自らの提督を尊敬の面持ちで仰ぎ見る。

「深海棲艦も弱ってるってこと?」

「そうだな。奴等の戦力が圧倒的に人間を上回っているのであれば、宣戦布告などせず一方的に反乱分子を叩き潰せばよいだけだ。交渉を持ちかけたということは、奴等が自力で目的を果たすことのできない証明でもある。ならば我々に勝機もあるだろう」

 山口は言った。実際のところ、深海棲艦の武力は圧倒的だ。それでもなお目的を果たせないのだとしたら。世界平和か、と山口は呟く。人類の業の深さを垣間見た気がした。

「いいと思うよ、その考え方。わたしも緊張が解けてきた」

 飛龍は笑顔をつくった。そんな彼女を、山口は優しく見守る。ガ島攻略作戦で仲間の正規空母を三人も喪った彼女は、まだ心の傷が癒えていないはずだ。繊細な少女の魂ならば、戦いを放棄してもおかしくはない。しかし飛龍は、まだ自分を提督と慕ってくれる。命じれば迷いなく海に出るだろう。ならばせめて、人生の先達として、彼女を正しい方向に導かなくてはならない。

「あいつらの世界平和なんて、絶対ろくなもんじゃないよ。艦娘の意味とか、国の行く末とかも、今はどうでもいい。わたしは戦う。信じるのは提督だけ。多聞丸だけだよ」

 穏やかに、しかし凛として飛龍は言った。彼女の決意に応えるように、山口は頷く。もう後には引けなくなった。彼の心のなかで、飛龍の存在は、そろそろ部下という記号的枠組みに収まりきらなくなっていた。

 かつて、この港で会話した若い少佐を思い出す。きっと彼は、自分よりもよほど早くから、この問題に苦悩していたのだろう。軍ではなく、艦娘にとって正しい道を探そうとしている。軍人の使命感と、ひとりの人間的な感情の板挟み。ふと苦笑が洩れた。

「戻ろうか。参謀たちが発狂する前に」

 山口は言った。深夜でも喧騒と光に満ちた大和の艦橋が、ふたりを呼び戻す。そこでは、深海棲艦とは異なる魑魅魍魎との戦いが待ち構えていた。会議室からは、けたたましい叫び声が聞こえる。山口にとって聞き馴染みのない咆哮も混じっていた。本来なら、陸の上で戦うべき人間たちが、ゆうゆうと海軍の中枢にあがりこんでいる。

「飛龍、頼みがある」

 扉を開く直前、山口は言った。

「もしも十二時間以内に決着がつかなければ、明石と通信をとってほしい。そして今から伝える内容を実行するよう、伝えてくれ」

 飛龍に肩をよせ、囁くように命令をくだす山口。内容が進むごとに瞳は大きく見開かれ、彼女の眉間には苦しみが深く刻まれる。

「事態は一刻を争う。のんきに陸と海が対立している場合ではない」

 山口は言った。ただ飛龍は頷く。艦娘にすぎない自分が、提督である多聞丸の心情を推し量るなど、おこがましいのかもしれない。しかしながら、いつもと変わらなく見える彼の顔には、少しだけ影が差していた。部下に不安が伝播しないよう、つとめて冷静にふるまっているのかもしれない。ふと飛龍は微かな胸の痛みを覚える。

悲しみによく似た怒り。

まだその感情の正体を彼女は知らない。

 

 陸と海に別れ、双方の参謀たちが顔を突き合わせる会議室。両者がテーブルを挟んでいるのは幸いだった。ひとまず殴り合いは避けることができる。それほどまでに議場は怒号と激情で煮えくりかえっていた。

 本国との連絡が完全に途絶え、参謀本部も軍令部も前線に命令を下達することができなくなった。あやふやになった指揮系統は、ただでさえ統一感を欠いていた陸と海の連携を完膚無きまでに破壊してしまった。まず陸軍は、まだ石油の余力のあるうちに、ニューギニア西端から大スンダ列島を順次おさえ、マレー侵攻を最終目標とすべきと叫んでいる。すなわち、もともとアメリカ相手に考案されていた大東亜共栄圏の確立である。山口率いる海軍は、真っ向から陸軍案に反対した。深海棲艦が初めて攻勢に出た以上、下手に動くべきではない。補給も断たれた今、必要なのは戦力の集中と安定化である。

「では、ポートモレスビーに陸、海の戦力を統一して、その次あなたは何を為そうとしておいでか」

 陸の作戦参謀である辻政信中佐が、ねめつけるような視線で尋ねる。陸の軍人たちの視線は、皆不信感に満ちていた。戦線を拡大するにしろ縮小するにしろ、物資や人間の輸送には艦娘が必要となる。必然的に海軍が作戦の主導権を握ることになるからだ。

 山口はすぐには答えなかった。沈黙する数秒間で、この先の展開を読み、そのうえで司令長官として何をすべきか結論を出す。冷静な計算の上にたった、ゆるぎない決心。例えいかなる犠牲が予測されようと、自らの決心がぶれることは許されない。

「オーストラリアに渡る」

 一息に山口は言った。理性も感情もマヒしたように、誰もかれもがポカンと口を開いていた。付随する一瞬の静寂。山口が言わんとしていることの意味が分からなかった。いちはやく意識を取り戻したのは辻参謀だった。

「正気ですか、山口提督?」

 その言葉を皮きりに、焼き栗が弾け飛ぶように異議と罵倒の声が陸軍席から吹き上がる。

「オーストラリアは、英連邦の一国。そこに渡ることの意味を、あなたは理解しているのですか」

 辻が陸の総意を代弁する。

「むろん、理解している」

 山口は悠々と答える。

 大日本帝国は、かつてオーストラリアを敵国の一角と見なしていた。アメリカと並ぶ仇敵であるイギリスにつらなる国家であることも理由の一つだが、その安定陸塊から産出される鉄鉱石、ボーキサイトは魅力的すぎる資源だった。そのオーストラリアに救いを求めようとするのが山口の案だった。

 テーブルを拳で殴りつけ、感極まったように辻が立ち上がる。

「恐れ多くも大元帥陛下の御意向の届かぬところで、無断で敵にくだろうなど、帝国海軍は皇軍の誇りを見失ったのですか?」

 甲高い声で辻が吼える。

「オーストラリアは敵ではない。現時点で、かの国を敵と認める判断を本国から預かっていない」

 冷静に山口は言った。陸軍にとっては、深海棲艦と戦う前の戦争戦略こそが、大元帥陛下の裁可を得た正統な作戦根拠だと思っているらしい。

「山口提督」

 眼鏡の奥に、ぎらりと脅すような光を潜ませ辻は言った。

「警告します。あなたが為そうとしていることは、帝国の意志に反する」

 そして陸軍の伝家の宝刀とでも言うべきカードを切った。

「統帥権干犯、と見なされてもやむなし」

 予想通りの結末だった。山口は心のなかで深い溜息をついた。この戦争に対する根本的な認識が、海と陸でずれている。その致命的な不統一は、危機的状況にあるはずの前線にも露呈していた。

「今日はもう遅い。戦争解釈については、また後日ということで」

 山口を筆頭に、海の参謀たちはさっさと席を立つ。皆、うんざりという顔をしていた。この後に及んで傷つくプライドなど持ち合せていない。逃げるのか、というヤジもあっさり聞き流すことができた。

 飛龍に伝えた時限まで、あと十一時間。

 山口の脳裏から、統帥権干犯などという高尚なこけおどしは跡かたもなく吹き飛んでいた。今守るべきは前線の兵たち、資源、そして艦娘だ。彼の思い描く作戦は、飛龍の行動を待たずして次の段階に進んでいた。

 

 

 五月二十日。一二一五。

 ソロン泊地、鎮守府。明石からの電報が渋谷のもとに届いた。艦娘専用の通信網を使用した、極秘連絡。受信したのは秘書艦の摩耶だった。

「これをどう思う?」

 渋谷が尋ねる。摩耶は難しい顔をして考え込んでいた。

「命令である以上、従うしかないだろ。だが、今は戦時中でも、とびきりの非常時だ。しっかり自分の頭で考えたほうがいいな」

 これから何が起ころうとしているのか。摩耶はもう一度、命令文を反芻する。

 

【二十二日、〇〇〇〇までに、タンカーに重油を満載し、鎮守府海軍は全艦娘とともに出港せよ。追って命令を下達する】

 

 

 この命令文の緒元は飛龍だ。つまり現艦隊司令長官、山口多聞の命令ということになる。

「行き先も明確にされていない。緊急事態の連絡である可能性が高い」

「だけど、深海棲艦が攻めてきたわけじゃないんだろ? なのに、なんでこんな味方をたぶらかすような、中途半端な命令を出すんだ」

 もっともな疑問を摩耶がぶつける。

 それについては、渋谷に思い当たる節があった。

 陸軍の動きが、きな臭いのである。

おそらくポートモレスビーでは、今後の進退をめぐって激しい論争がなされているだろう。飛行場姫破壊の後、わざわざ戦略的価値の低いガ島に第二師団という巨大な兵力を置くほど、陸軍は占領地の支配にたいして貪欲だ。補給線が断たれた以上、早急に部隊を移動させなければならないが、そうなれば戦線の縮小は確実となる。すなわち、せっかく手に入れたニューブリテン島からソロモン諸島、そしてニューギニアも放棄しなければならない。この世界で唯一海を渡る力をもつ海軍に、陸軍がつっかかるのは目に見えていた。

 陸と海の対立は、ここソロン泊地にも、暗い影を落としつつある。港を守護する陸軍部隊が、演習の名目で内陸へと消えた。ソロン鎮守府の責任者として、陸軍第三〇師団の司令部に渋谷が問い合わせても、返答は梨のつぶてだった。

「我々の与り知らぬところで、陸軍が勝手に動いている。おそらく山口長官は、奴等の動きを読んで、先手を打つ命令をくだしたのだろう」

 渋谷の予想は、たぶん正しいと摩耶は思った。レ級がソロンを襲撃した際、艦娘の艦砲射撃が陸軍もろとも敵を吹き飛ばしたことで、不仲は決定的となった。今ソロンでは、同じ帝国の御旗を掲げる陸と海が、不信感と恨みに蝕まれ、対立を余儀なくされている。

「もし陸軍が、ソロンに攻め込んできたら、あたしらどうなるんだ?」

 摩耶は冗談めかして言った。しかし渋谷の表情は真剣そのものだった。

「最悪の事態を想定しなければならない」

 渋谷は命令を反芻する。要するに、ありったけの油と艦娘を連れて、ソロンを脱出しろということだ。それだけ事態は逼迫している。本国からの命令がない以上、前線では指揮系統が混乱する。陸と海が、それぞれの思惑と利害感情で動いた結果、日本人同士で銃口を向け合うことも容易に考えられる。

「命令を実行するにしても、下手に動くと陸軍を刺激しかねない。摩耶、提督室に第七駆と第三駆のメンバーを集めてくれ」

 渋谷の言葉により、鎮守府の艦娘たちに召集がかけられる。騒がしい声が廊下から押し寄せてくる。第七駆逐隊である潮、曙、漣、朧、霞、不知火が提督室に走りこみ、いち早く列をつくる。ついで、第三駆逐隊の長波、夕雲、早霜、清霜が到着する。

「第七駆逐隊、総員六名、集合終わり」

 七駆を代表して、不知火が敬礼する。

「第三駆逐隊、総員四名、集合終わり!」

 長波が勇ましい声を張り上げ、敬礼する。皆、状況は分かっているらしく一様に神妙な顔つきをしていた。全員を見渡し、渋谷が口を開く。

「すでに命令は伝わっていると思う。突然のことで皆混乱しているだろうが、これから出す指示を各自守り、作戦を進めてほしい」

 渋谷は、練り上げた作戦の全容を艦娘たちに伝える。

「まず、極秘裏にソロン鎮守府の軍人たちに、本日夜の脱出を告げる。彼らに脱出の準備を並行させるとともに、俺が泊地全体に対して、駆逐隊の演習の実施を布告する。これは二十一日の昼だ。当然ながら、演習など行わない。重油を運びこむための口実にすぎない。演習に出るとなれば、そのタイミングを見越して陸軍が攻めてくる可能性が高い。やつらも艦娘を海に逃がしたくはないだろうからな。そこで、余った船舶を駆逐艦に偽装して湾内に並べておく。敵が油断している隙に、夜の時点で、さっさと湾内から脱出する。かなりの強行軍だが、ソロン皆の力を合わせて乗り切りたい」

 艦娘は口ぐちに了解の意を示した。まず、不知火指揮のもと、本日の昼に泊地脱出の準備、夜にタンカーの偽装を行う。同時に、長波が隊を率いて、ソロン湾二カ所の砲台を無力化する。あれを陸軍に奪取されたら、作戦遂行が絶望的になってしまうからだ。そして渋谷と摩耶は、ソロンの石油施設から重油をありったけ持ってくる算段だった。給油が終われば、深夜に脱出を試みるつもりだ。

 それぞれの任務を抱え、慌ただしく娘たちは提督室を去った。

「さて、我々も行くか」

 腰をあげる渋谷に、摩耶が寄り添う。

 

 ソロンの製油施設は、海軍が熱心に建造を推し進めたこともあり、海軍軍人と懇意にしている者が多かった。さらにレ級襲撃の際、ソロン防衛の立役者となった渋谷、そして彼らを守りながら前線まで送り届けた摩耶たち艦娘は、とくに技術者と親しかった。懐かしい油の匂いのする施設。摩耶が、いちはやく目的の人物を見つけた。

「演習用の重油ですね?」

 施設長を任されている老人が、ふたりの訪問者に確認する。本国では軍の資源調達部の顧問を務めた石油の専門家だ。還暦を迎えながらも国のために働きたい一心で、命がけで前線までやってきた気骨ある男だった。

「はい。ありったけお願いしたいのです」

 渋谷は言った。彼が提示した原油の量は、駆逐艦十隻どころか、一個艦隊を丸一週間運用できるほどの量である。素人目にも、これが演習以外の用途に使われることは明らかだった。

 しかし老人は、何も言わず部下に精製の終わった重油の運び出しを指示した。

「油がいくらあっても、船が無ければ意味がない。祖国の敵に対抗できるのは、あなたがた海軍の軍人さんと艦娘さんだけです。どうか、我々の想いを汲んでください」

 決意を秘めた目で老人は言った。彼もおそらく、陸と海の不仲を察しているのだ。そのうえで海に味方すると宣言してくれた。軍人として恥ずかしい限りだった。命がけで前線にまで来てくれた民間人を、軍の内輪もめに巻き込んでしまうなど。

「できれば、あなた方にも―――」

 渋谷の言葉を拒否するように、老人は首を振った。

「わたしたちがここにいなければ、いざというとき油が無くなってしまうでしょう。技術者は、技術者としての使命を果たします」

 毅然として老人は言った。渋谷は、ひとりの軍人として頭が上がらぬ思いだった。民間人の協力なくして戦争は成り立たない。国を守るという誇りを笠に着て、国民に対し傲慢になることの愚かさを改めて感じた。

「これから私が喋ることは、あなたがたの胸の内に留めておいてください」

 渋谷は声を落して続ける。

「我々とは意見を異にする連中が、ここに押し寄せてくるやもしれません。その際は、一切抵抗しないでください。軍人ではないあなたがたが、命をかける必要はありません」

 老人は微笑みで渋谷に応えた。

「ありがとうございます」

 渋谷は深く頭を下げる。摩耶も彼にならい、尊敬の念をこめて老人に感謝した。

 重油はすぐにタンクに積まれ、ソロンの港まで引かれた線路によって運搬されていった。港まで戻った渋谷は、まず艦娘の艦体、余った油はタンカーへと素早い給油を命じた。三隻のタンカーが重油を満載したところで、施設からの輸送が止まった。

「これだけ集まればポートモレスビーまで余裕をもって航海できる。タンカーの油は、そっくり他の艦娘に分け与えることも可能だ」

「脱出がうまくいけば、の話だろ?」

 摩耶が釘をさす。彼女の言う通りだった。明日の夜、偽装作戦の成否がソロン鎮守府の運命を決する。

「あたしが、しんがりをやるよ」

 摩耶は言った。いざとなればタンカーや駆逐艦の盾にならねばならない危険な役目だった。しかし摩耶は、艦体の規模からして、一番沈みにくいのは自分だから、と譲らなかった。

「提督は、長波か不知火にでも乗艦してくれ」

 笑って摩耶は言った。ならば指揮官として摩耶に乗ろうとした渋谷は、動きを先に封じられた。彼女の笑顔に、渋谷は逆らうことができなかった。ソロンでの一件以来、彼女は、より女性らしくなっていた。尖っていた性格の角が取れて柔和になり、それでいて意志の強さは失うことなく、目上の提督にも意見を譲らない。

 誰かに似てきている。渋谷は思った。ポートモレスビーで飛行隊を率いる、あの女性搭乗員のことが脳裏に浮かんだ。

 

 〇一二〇。

 深夜の強行軍が、静かに始まった。ソロン鎮守府に勤務していた二四〇名からの軍人たちが駆逐艦に乗艦していく。人間の輸送は清霜が引き受け、できる限りの糧食や水を夕雲に積み込んだ。まず不知火の先導により、三隻のタンカーが湾外へと抜けた。続いて長波が単縦陣をとり、慎重に残りの駆逐艦を引き連れていく。

「摩耶、泊地の様子はどうだ?」

 不知火の艦橋から、渋谷が問う。艦列のしんがり、自身の艦尾に立つ摩耶が猛禽のごとき視力でソロン泊地全体を監視していた。

『目立った動きはなさそうだが……』

 そう言いかけた瞬間、坂の上の石油施設から一斉に明かりが消えた。

『やっぱりきやがった』

 摩耶が呟く。あれが合図だ。おそらく敵は陸軍第三〇師団だろう。先遣隊と思われる兵たちが、アリのように列をなして街を駆け降りてくる。

『あいつら、まだ艦娘が港にいると思っていやがる。鎮守府を制圧しにかかってる』

 摩耶が逐一報告を入れる。陸軍の連中は、艦娘が港から出ない間に、その顕体を捕らえようとしているらしい。彼らの魂胆は渋谷の読み通りだった。もぬけの殻の鎮守府に、次々と陸軍が押し寄せていく。

 港の偽装が功を奏したようだ。タンカーを泊地に対して縦にならべたうえ、木の角材などを使って機銃や高射砲を偽装した。夜の闇にまぎれては、タンカーが本物の駆逐艦に見えてしまう。艦影を見慣れていない陸軍なら、なおさらである。不知火率いる偽装隊の手柄だった。

 摩耶が無事港を抜けたところで、渋谷はタンカーを中心に輪形陣を命じた。深海棲艦に見つからないよう、できるだけ陸地の近くを移動する。ニューギニア島の北端にそって東へ向かう予定だった。

 二日後の、二十二日。ラエ付近にさしかかったところで、新たな命令が艦娘通信によって届いた。

 

【艦隊を二分せよ。一分隊は、ガ島リンガ泊地に停泊中と思われる、第一六駆逐隊「初風」「雪風」「天津風」「時津風」の四隻を救出し、ポートモレスビーに帰投せよ。二分隊は、タンカーを護衛しつつ早急にポートモレスビーに帰投せよ。なおリンガ泊地に脱出希望者がいれば、できる限り彼らの意志を汲むこと】

 

 漠然とした命令。司令部の焦りが見てとれる。発信元は明石だった。艦隊の編成はこちらに任せるということらしかった。ここにきて、ようやく渋谷は、山口長官の意図を垣間見た。そして自分たちに命じられた行動は、またしても艦娘の心に深い傷を残すであろうことを予見した。

「あらゆる海軍戦力を、ポートモレスビーに集結させようとしている……」

 夜の海を見渡しながら、渋谷は呟く。集中した戦力をどこに向けるのか、まだ自分には分からない。しかし、ソロモン海の泊地から艦娘を奪うということは、島に残された人間は見捨てられたも同然だった。ガ島には、いまだ陸軍第二師団が駐留している。彼らを全員脱出させることは不可能。海軍の意向に従えぬ者は、補給の途絶えた孤島に置き去りにする。

 山口がくだした非情な決断。理性では納得できる。いち早く行動を起こさねば、陸も海もなく干上がってしまう。しかし、人間としての感情が、渋谷の心に苦悩と痛みを産み落とし続ける。

 この苦しみに、同じく人間の心を持つ艦娘をも巻き込んでしまう。

「提督、ご命令を」

 不知火が言った。躊躇ったところで意味などない。ともに死線をくぐってきた仲間として、不知火は渋谷と苦しみを分かち合おうとしている。

「一六駆救出には、わたしたち七駆をお使いください。あなたと一番長く戦ってきたわたしたちを信じてください」

 瞳に宿る強い光。彼女たちは、おそるべき速度で成長している。良い部下に恵まれたと、渋谷は心から思う。

 不知火の艦橋から、それぞれの艦に命令を下達する。第三駆逐隊はタンカーを護衛しつつポートモレスビーへ。指揮は長波に託した。リンガへ向かうは、摩耶を加えた第七駆逐隊。渋谷の采配に異を唱える者はいなかった。

 

 長波隊と別れて、四日後。

 渋谷は、ほとんど眠ることができなかった。一度、ポートモレスビーとリンガ間の輸送ルートは途絶している。いつ敵が現れるか分からない。艦娘たちは、完全無灯火航行のうえ、渋谷の乗る不知火を中心に輪形陣を汲んでいた。

 夜の闇にまぎれてリンガ泊地まで二〇海里の位置まで接近する。艦娘通信によって、大まかな状況は分かっていた。取り残された第一六駆逐隊は、やはり陸軍の手によって顕体が拘束され、海に出ることが叶わなくなっている。

『仮に脱出できたとしても、ポートモレスビーまで燃料がもたないわ』

 天津風が悲痛な声で現状を伝える。ニューギニア島どころか、ソロモン海を抜けることもできないほど燃料が逼迫しているらしかった。

「わかった。リンガの沖合まで艦を出してくれ。そうすれば油を分けることができる。我々が援護する。決行は明日の夜に。出来る限りの戦力をまとめて、泊地から脱出してくれ」

 渋谷は告げる。当然ながら、陸軍一万人からなる第二師団は補給の途絶えた島に置き去りになる。それを理解できない天津風ではない。しかし、一切の異論をはさまず、了解の意だけを渋谷に伝えた。

 そして決行の日。

 四隻の艦影が、脱出を希望する海軍軍人たちを連れて沖合に走り出した。陸からは、容赦なく迫撃砲が放たれる。この海で艦娘を喪うことの意味を、彼らも知っているのだ。摩耶たちは援護射撃を加える。救うべき人間と火砲を交える。艦娘の特殊鋼で包まれた摩耶の艦体は、陸からの機銃掃射を簡単に弾き返した。

 艦娘全員が、ただひたすらに任務を遂行した。あの曙ですら、痛みと悲鳴で満たされた感情を制御し、文句はおろか舌打ちひとつ零さず淡々と一六駆逐隊に燃料を補給する。

 凄まじい怒号と怨嗟の声は、艦娘の脳裏に棘のごとく突き刺さった。

 ポートモレスビーに入港するまでの五日間、彼女たちの心を癒したのは、摩耶のピアノだった。彼女の曲の好みが変わったのだろうか、ゆったりとした温かな旋律。わずかな悲しみを織り交ぜ過去への憧憬を語る、シューマンのトロイメライ。

 こんなとき、言葉は無力だ。渋谷は思った。

 一六駆の四隻と救出できた山口派の軍人たちをともない、第七駆は懐かしのポートモレスビーへ帰投した。陸軍との対立は、これで決定的となるだろう。太平洋を分断した深海棲艦は、陸と海の連携さえ断ち切ってしまった。

 



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第十四話 艦と娘の情歌

 ポートモレスビーに海軍戦力を集中させた山口。艦娘を生き永らえさせるためには、未知なる海を渡るしかなかった。
 一方、心身ともにすり減らす任務を終えた渋谷に、想い人が近づく。やがて彼女は渋谷の部下に対し、曖昧なまま放置されていた人間と艦娘の線引きを突きつける。


 ポートモレスビーの街から、陸軍の主戦派が密かに脱出した。山口多聞による艦娘と燃料・弾薬などの補給物品の集中を指揮権の濫用と見なした。辻中佐を中心とする陸軍の参謀部は、第五五師団と第二〇師団を、西部ニューギニアから東部ニューギニアへと移し、ポートモレスビーを占領する計画を打ち立てていた。艦娘を支配下に置こうとする陸軍の野望が、ついに露呈した。これに対抗するため、急遽、ポートモレスビーには防衛陣地が構築され、さらに東西に渡る陸路は、艦娘による艦砲射撃が加えられた。道を分断することで、少しでも陸軍の進撃を止めるのが目的だった。

 渋谷は、大和に置かれた第一艦隊臨時司令部に召集された。そこで山口長官から、直接、今後の展開を聞くことができた。

「戦力を集中し、決戦の決意をもってオーストラリアに渡る。そして、オーストラリア政府に単独で講和を申し入れる」

 山口の言葉は、軍人である渋谷には衝撃的だった。本来ならば国家が決定すべきことを、その手足にすぎない軍が独断で行おうとしている。統帥権干犯。陸軍に格好の造反理由を与えていた。

 陸軍に攻撃されることを見越してなお、山口は作戦を遂行しようとしている。南部太平洋、中部太平洋を渡り、本国に帰還することが危険すぎる博打であることは分かる。ならば、少しでも希望がある反対側に進むしかない。作戦を受け入れられない者は見捨てる。それが例え同じ帝国臣民であり、打倒深海棲艦の志を同じくすべき陸軍であっても。渋谷には、何も言うことはなかった。オーストラリアは大陸である。ならば当然、深海棲艦による大陸封鎖が敷かれているはずだ。そこに至るまでの海域には、これまでの小島とは比較にならない規模の敵が待ち構えているだろう。それでも、生き残る可能性に賭けるためには進むしかないのだ。

「すでにソロンは、第三〇師団が陣地を構えてしまった。今後、油の奪取は不可能となった。戦えるだけの燃料がある今、決心するしかない」

 山口は言った。ありったけの重油とともに艦娘を脱出させた山口の作戦は正しかった。もしソロンに留まり続けていたら、油はおろか摩耶と第三、第七駆逐隊も陸軍に制圧され、その指揮下に接収されていたに違いない。

「出撃は、一週間後の予定だ。それ以上引き延ばせば、陸軍の主力が攻め入って来るだろう。部下の艦娘ともども、物心両面に至る準備を整えよ」

 山口は直接、命令を下達する。渋谷は敬礼して長官室を出た。

 すこし足元がふらつく。今はただ泥のように眠りたかった。真夜中の鼠輸送作戦は、彼の精神に極度の緊張を強いた。海鳴りの音が、日を重ねるごとに大きくなっている。まるで彼を深海に誘うかのごとく。音が聞こえるたび、頭を振って追い払う。そして思い出してしまうのだ。あの忌々しい笑い声を。レ級によるソロン襲撃以来、ずっと悪夢が続いていた。荒れ狂う波、分厚い雲の張りつめた暗い空。真っ黒に焼け焦げた大地に、ひとり佇んでいる。びょうびょうと吹く潮風は、この地に蔓延する、声にならない怒りと恨みを渋谷の鼓膜に語りかける。

 この地には見覚えがあった。とういうより、似た雰囲気を感じた覚えがあった。白峰とヲ級に鹵獲されたとき、近くに見えた黒い島影。深海棲艦の本拠地と思しき場所。そして自分の背後には、いつもレ級がいた。にやけ顔で、何かを語りかけてくる。しかし目が醒めると、いつも会話の内容は記憶から消えていた。彼女の声は、深海の水を通したみたいに不明瞭な波紋となって、心に居座り続ける。

 忌むべき深海棲艦と奇妙な絆が出来てしまったことに、渋谷は苦悩していた。誰にも打ち明けることはできない。誰よりも信頼している部下の艦娘たちにも。

 重たい足を引きずりながら鎮守府の仮眠室に向かう途中、不意に見知った人物から声がかかる。

「渋谷少佐!」

 声に滲む喜びを隠そうともせず、彼女は渋谷の隣に歩み寄る。ソロン配属になってから、ずっと御無沙汰だったことを思い出す。水戸涼子中尉は、以前と変わらない親愛と慈愛に満ちた微笑みを湛えている。だが渋谷の様子を見るなり、一転して心配そうな顔つきになる。

「どうしたんですか? 足元がふらついていますよ?」

 意外な言葉だった。渋谷は自分の両足を見つめる。別段、異常はない。

「そんなに、ふらふらしていたかね?」

「はい。お酒に酔ってらっしゃるのかと思いました」

 涼子は言った。渋谷には、まったく自覚がなかった。意識は茫漠としていたが、まさか第三者から泥酔しているように見られるとは。

「どこに向かわれるつもりですか?」

「仮眠室に。任務でろくに眠れてなくてな」

 渋谷はこともなげに言った。しかし涼子は、彼の過労の度合いがよく分かっていた。

「わたしが先導してさしあげます」

 そう言って、涼子はそっと渋谷の手を取る。

「大丈夫だ。独りで歩ける」

女性にリードを取られるとは、男として情けない限りだった。しかし涼子は頑として繋いだ手を離さなかった。

「わたしは何も気にしません。少佐、どうかそのままで」

 笑顔で涼子は言った。こうなっては彼女を止めることはできない。昨年、彼女とポートモレスビーの街を練り歩いたことを思い出す。逢い引きの終わり、夕陽の差す丘。やはり彼女には先手を取られた。重なり合う唇の柔らかさと仄かな熱。朦朧とした意識の中に気恥ずかしさが蘇る。

 涼子は楽しげだった。空白の月日を埋めようとするかのように、ただ廊下を渡るという行為からさえ、喜びを見出していた。やがて鎮守府の片隅にある仮眠室に辿りつく。窓には白いカーテンがかかり、昼間でも薄暗い。シーツやベッドはよく整備されていて清潔だった。ここならば、しばし戦場を忘れて彼もゆっくり眠れるだろうか。

「最近、ずっと眠りが浅くてな。悪夢が続いていて、まったく眠っている感じがしないんだ」

 そう言って渋谷は、上着も脱がずベッドに転がる。仰向けになり、そのまま目を閉じてしまった。

「ありがたい。ここなら眠れそうだ……」

 そう呟くと、もう静かな寝息を立てている。

「安心して、おやすみになってください。わたしが見ていてあげますからね」

 男の寝顔を愛おしげに眺めながら、椅子をベッドに傍らに持ってきて腰掛ける涼子。ここに自分がいることで、少しでも彼の悪夢が払拭されることを願う。何も感じず、何も考えず、ただ安らぎに身を任せてくれたらいい。

 そして彼が目覚めたら。

 この先を想像することは渋谷に対して失礼だ。顔を赤らめながら涼子は自分に言い聞かせる。待っているだけなのは性に合わない。しかし大きな戦いを目の前にして過激な行動を取るのも気が引ける。芽生えた恋心がそうさせるのか、素の自分と大和撫子を演じようとする自分が常に葛藤している。

 今は、ここで待っていよう。

 投げ出された渋谷の手を、そっと握ろうとしたとき。

 不意に仮眠室のドアが開いた。ベッドに横たわる男の姿を認めるなり、突然の闖入者は無言のまま涼子を睨みつける。言葉を放たれる前に、すでに涼子は席を立っていた。威圧するかのような軍人らしい足取りで、まっすぐ出口に進む。そして彼女の目前に立ちはだかり、先手を打った。

「いったん出ましょうか」

 穏やかな、しかし鋭さの隠れ潜む声で涼子は牽制する。

「うちの提督は、どうなってるんだ?」

 負けじと摩耶が尋ねる。涼子を見下ろす視線は、不快と猜疑に満ちていた。自分よりも大柄な摩耶にひるむことなく、涼子は摩耶を外に押し出し、後ろ手に扉を閉めた。

「お疲れのようだったので、ここで休んで貰っているわ」

 溜息をつきながら、涼子は言った。それが余計に摩耶の気に障ったらしく、彼女にくってかかる。

「勝手な真似はしないでくれ。こいつは、あたしたちの提督だ。あんたは、こいつの何でもない。そこをどけ」

 摩耶は言った。しかし涼子は、重巡洋艦娘の恫喝を受けても眉ひとつ動かさない。

「ここで騒いだら迷惑になります。お話は外で」

 そう言って、さっさと歩きだす涼子。摩耶は涼子の背中をねめつけながら後を追う。摩耶を誘導したのは、鎮守府の西側に設置されたベンチだった。建物を囲むようにアカシアの木々が植わり、ぼんやりとした黄色で世界を覆っている。風にそよぐ枝々の隙間から、ゆらゆらと木漏れ日が落ちてくる。ふたりは言葉もなく距離を置いて座る。

「御足労かけたわね。あなたとは、一度落ちついたところで話をしてみたかったの」

 うって変わって敵意のない口調で涼子は言った。数秒の沈黙ののち、摩耶は小さく舌打ちする。

「提督がいなけりゃ、あたしの相手なんざ余裕ってことかよ」

 正面に視線を落したまま摩耶は言った。涼子の顔を見る気にはなれなかった。体格が良く荒っぽい自分とは違い、涼子は日本人の女性らしく所作は可憐で、さらに容姿にも恵まれている。彼女を見るだけで、得体のしれない感情の炎が否応なく胸を焦がす。ヒトの姿に産まれて間もない摩耶は、艦娘としての存在意義とは無関係に生じる感情に翻弄され、苛立ちを募らせていた。

「この際、はっきり言っておく。もう金輪際、提督には近づかないでくれ。あいつは、あたしたちの提督だ。提督を頭脳とするならば、艦娘は手足だ。頭脳と手足が連携して初めて戦場で戦える。命を賭ける戦場で、あたしたちの間に不純物があってはならないんだ」

 できるだけ冷静に言葉を紡ぐ摩耶。涼子は無表情に耳を傾けていた。

「兵器であるあたしは、提督の気持ちまで強制することはできない。だが、外部の人間があいつの気持ちを揺さぶることを見過ごすわけにはいかない。せめて……せめて、戦いが終わるまでは、干渉しないでくれ。でないと、勝てないんだ。負ければ人間は死ぬ。あいつの命を危険に晒すことになる」

 摩耶にとって、これが最大限の譲歩だった。しかし、摩耶よりも遥かに長く女として生きてきた涼子は、一見すれば健気な娘の気落ちの裏に、打算的かつ狡猾な「逃げ」の意図が潜んでいることを見逃さなかった。

「戦いが終わるまで、ね。それは深海棲艦を撃滅したときを言うのかしら。あるいは、あなたが存在し続ける限り、彼はあなたのものだということ?」

 涼子は単刀直入に、摩耶の暗部をえぐる。

「艦娘の存在意義は戦うことよ。たとえ世界から深海棲艦が消え去ったとしても、戦争まで根絶されるわけではない。戦いがある限り、あなたは必要とされる。そして、あなたがいる限り、少佐は永遠に囚われ続ける」

 兵器であるあなたに。涼子は言った。

「よしんば、深海棲艦の消滅とともに艦娘もこの世から退場するというのなら、結局、あなたは自分が死ぬまで彼を独占することになる。ずるい話だとは思いませんか? 死という運命を最大限に利用して、あなたは彼の心を絡め取ろうとしている。そして、戦いの終わりという自身の死によって、永久に彼の魂に自己の存在を刻もうとしている」

 摩耶自身でさえ、はっきりと意識していなかった、自分の真の目的。それを涼子に完膚なきまでに暴かれ、彼女は恥辱と怒りに震える。

「渋谷少佐とあなたは、人間と兵器の関係。戦いという現象のみを媒介にして成立する信頼関係でしかない。もし、あなたがそれに徹するならば、わたしが意見することは何もない。でもね、あなたのこれまでの言動を振り返る限り、あなたは少佐に提督たること以上の何かを求めている。それは断じて許されない」

「黙れ! あたしの提督だ。あたしが守ろうとして何が悪い!」

 摩耶が叫ぶ。しかし涼子は穏やかな声音のまま、諭すように続ける。

「彼を守り抜こうとする意志は、大いに結構。しかしながら、あなたの気持ちは、もはや戦いに勝利するという兵器の本懐から外れている。わたしたちは軍人です。戦争を勝利で収束させること以外、安住の日々を取り戻すことは叶わない。あなたが分不相応な感情を優先するあまり戦いに勝つことを忘れたら、それはむしろ、彼を苦しめ続けることになる。軍人にとって勝てない戦争ほど苦痛なものはないのですから。いや、今でさえ彼は苦しんでいるわ。中途半端に人間の形をした艦娘の扱いに、優しい彼は心を痛めている」

 涼子は言った。去年の二月、ラバウルでの演習が脳裏をよぎる。幾田中佐率いる第一一駆逐隊の捨て艦奇襲に対し、摩耶は迷うことなく旗艦の戦闘離脱を選択した。勝利よりも提督の安全を選んだ。あの状況における戦術論によれば、あの判断は一概に過ちであるとは言い難い。しかし、勝利を投げうってでも提督の命を優先するのが艦娘・摩耶の本質であるならば、彼女はもはや兵器としては不適格だ。

「……ふざけんなよ」

 地の底から響くような声音で摩耶が言った。勢いよく立ちあがり、涼子を睨みつける。

「あたしとあんた、何が違うって言うんだ! あたしには、ちゃんと心がある。知識が足りねえだけで、人間と同じように考えることもできるし、喋ることだってできる。感情もある。提督は言ってくれたぞ。あたしたちは戦闘機械ではないって。提督を想うあたしの気持ちが害悪だと言うのなら、あんただって同じじゃないのか? 恋だの愛だの騙って、提督の心を揺さぶって、戦場の理を狂わせるのは同じじゃないか!」

 あんたは毒虫だ。摩耶は続ける。

「共に戦えるあたしらと違い、あんたは提督に何もしてやれない。甘い言葉と態度で男を誘惑し、ただ自分の欲求を満たすためだけに存在するあんたみたいな『女』のほうが、よっぽど害悪だ!」

 その言葉を受け、涼子は静かに席を立った。摩耶と正面から向かい合う彼女は表情を失くしていた。だが、凪いだ湖面のような顔には、暗い怒りと蔑みが透けている。

「わたしと渋谷さんは人間で、あなたは違う。あなたでは絶対に不可能な絆で、わたしたちは結ばれている。このヒトの世において、最も確かで大切な絆がある。身分の差、年齢の差、すべてを超越して結ばれる関係があるのよ。この世界に人間が誕生してから、それは連綿と繰り返されてきた。わたしと渋谷少佐は、その何よりも尊く何よりも強い絆で結ばれようとしている」

「何を馬鹿なことを―――」

 摩耶の声音に動揺が混じる。しかし涼子は躊躇なく続けた。

「人間だからこそ、結べる絆。あなたたち艦娘には分からないでしょう。生物の輪廻から外れた異端には。人間ではない者に、人間の愛の営みを否定される覚えはない」

 愛、理解できる?

 涼子は真正面から挑戦する。残酷なことを言っている自覚はあった。人類に味方してくれる艦娘は、力を持てども孤独な存在。本来ならば互いに敬愛し、いたわり合うべき存在だ。しかしこの件に限っては、涼子は一歩も退くつもりはなかった。退いてはならないと思った。人間の形をした兵器に、愛する男を奪われるわけにはいかない。兵器は戦場でしか生きられない。兵器の偽物の愛は、彼を未来永劫、戦場の業火で焙り続けるだろう。

 涼子の一言は、少女の姿をした兵器を完全に逆上させた。

 ぎゅっと首が締まる感触とともに、涼子の踵が地面から浮かぶ。摩耶は彼女の胸倉をつかんでいた。食いしばった歯の隙間から獣のような怒気が溢れる。小柄な女性ひとりなど、艦娘である摩耶がその気になれば、片手で宙づりにできる。涼子の血管と気道は押しつぶされ、じりじりと意識が焦げて黒ずむ。ところが涼子は一切の苦悶を顔に出すことなく、冷たい目で摩耶を見つめていた。そして渾身の力をこめ、両手で摩耶の手首を掴む。摩耶に比べれば遥かに非力だが、摩耶の脊髄に寒気が走る。黒い双眸が問うている。わたしを殺すのか、と。感じたことのない女の執念と怨念。怖気が手に走り、涼子を突き放す。涼子はよろめきながら後ずさりし、その場で激しくせき込んだ。しかし結局、その細い両足が地面に崩れることはなかった。

 この時点で、『人間』としての懐の深さは敵わないことを摩耶は悟った。

「これが、あなた。女の首なんて簡単にへし折ることができる兵器。自分が何者なのか、もう一度よく噛みしめなさい。そのうえで、まだ分をわきまえないようなら、何度でもあなたを説き伏せましょう。次の戦いが始まるまでに」

 服装を正しながら涼子は言った。彼女は立ちつくす摩耶に一瞥もくれず、確固たる歩みで去っていく。

 摩耶もまた、ふらふらとその場を離れた。いくつもの言葉が突き刺さり、憤怒とも悲哀ともつかない溢れる混乱を抑えきれない彼女は、帰巣本能のごとく無意識に鎮守府へと戻っていく。

 

 

 

 またあの夢だ。

 渋谷は思った。これで何度目になるだろうか。灰色と黒が渦巻く世界。空を流れる雲も荒い波も本物としか思えないのに、どこか現実感に欠ける場所。押し寄せる波濤が粉々に砕け、飛沫となって足元に降り注ぐ。地面には草木一本生えていない。おそらく、現実感が無いのは、生命の気配を全く感じないからだろう。全てが無機質だった。この波も大地も、空を吹き抜ける風も、何もかもが人工物であるかのようだ。

「やあ、また逢ったね」

 背後から幼い少女のような声が聞こえる。

「やはりおまえか」

 その声音を聞くだけで誰であるか分かるほど、渋谷は夢のなかで彼女と会話を重ねていた。不思議なことに、夢のなかで得た記憶は、夢でしか思い出せなかった。夢のなかで一体何が起こっていたのか、覚醒した後はまるで覚えていないのだ。

「ごあいさつだな。せっかくおまえの話相手になってやっているのに」

 機嫌良さそうに巨大な尻尾を揺らしながら、戦艦レ級の顕体・グラキエスは言った。こいつの言動は、時間が経つにつれ、どんどん人間っぽさが増していると渋谷は思う。なまじ人間に近い容姿をしているだけに不気味だった。

「睡眠を必要とする人間は、眠っている間は動けなくて退屈だろう。生命活動時間の三分の一を無駄にしている憐れな人間のため、こうして有意義なひと時を提供してやっているのだ。感謝するがいい」

「貴様の暇つぶしに付き合わされているだけだろうが」

 どうせ夢の中だ。臆することなくレ級に向かい合う。

「どうして、俺に付きまとう? おまえにとって俺など、捕虜にする価値もないはずだ」

 渋谷は問うた。かつて深海に直接招き入れられた人間は、白峰晴瀬ただひとり。その他有象無象に深海側は何の温情もかけはしない。

「確かに捕虜にする価値は無いね。人間としての能力、思想は、我が提督より遥かに劣る。どこまでも平凡極まる人間だ。普通の感情の揺れ幅を持ち、普通の生死観を持っている。しかし、わたしが興味を持ったのは、その平凡さだ」

 珍しく真剣な表情でグラキエスは言った。

「個性という言葉がある。主に人間の間で浸透し、公にも認知されている言葉だ。しかしながら、わたしは、これが理解できなかった。個の特性。人間にそんなものが備わっているとは思えない。似たり寄ったりの思考回路の集まりで、それゆえに愚かな過ちを繰り返す。そんな木偶の坊どもが、恥ずかしげもなく個性などという言葉を使っていることが不思議でならなかった。それゆえに、観察することにした。観察対象として、おまえは最適だ。総じて平均化された人間。模範的であることは平均的であることも意味する。おまえという人間を分析することで、個の特性というものを理解しようとしていた」

「なぜ、そんなことをしようとする? おまえたち深海棲艦は、人類を遥かに超える力を持っているというのに」

「確かに不合理だ。一見意味のないことだ。しかし、わたしは人間の感情を会得してしまった。ゆえに不合理な好奇心が、わたしを突き動かすこともある。わたしは知りたいのだ。自己の存在を、より深く根源に至るまで知りつくしたい」

 グラキエスは、渋谷を試すように微笑む。

「艦娘という人間モドキと、我ら『裁定者の艦隊』が、共通の母胎から産まれたことは、うすうす気づいているのだろう? この世界に発生した原因は同じであるのに、奴等は艦娘となって我らと袂を分かった。なぜ艦娘が人間と同じ生物的構造および思考を持ったのか。なぜ絶対的正義であるわたしたちと戦い、愚かな人類に加担するのか。その理由が知りたかった」

 渋谷には分からなかった。いったいグラキエスが何を目的にしているのか。ソロン襲撃によって、艦娘最大戦力である大和の精神を踏みにじった真意も理解できない。グラキエスは、深海棲艦の中でも特に異質な個体だった。白峰の言葉を思い出す。気の向くままに進化する純真なる知性。その哲学的な問いは、古来より人類が挑戦してきた命題とあまり変わらない。

「おまえの行動原理は、他の深海棲艦とは違う。この戦争の趨勢を左右しない、いわば遊びに徹している」

 渋谷は言った。グラキエスの反応を窺うつもりだった。彼女は黙って聞いている。

「大和のときもそうだ。人間的な感情を否定されたことで、ますます大和は戦いに固執するようになった。わざわざ艦娘の戦意を上げるなど無意味なことだ」

「わたしとまともに戦えるのは、あいつくらいだろう。だから本気になってもらわなくては困る。我らの存在意義は戦いだ。戦ってこそ、レゾンデートルは満たされる。わたしは、わたしが何者であるか戦いを通して見極めたい」

 そのための実験台だ。グラキエスは残忍な笑みを浮かべる。

「人間に個の特性があるのなら、わたしに無いはずがない。わたしは自分の個を見出したかった。何をもって自己なのか。おそらく、自己を決定する何かの差異が、我らと艦娘を分けたのだろうね。知りたいんだ」

 グラキエスの話を聞くと、頭がくらくらした。つまりこいつは、私的な好奇心だけで戦争を引っ掻きまわし、再び人類と艦娘を攻撃しようとしている。

「また、俺たちと戦うつもりか?」

 渋谷の問いに、グラキエスは牙を見せて笑う。

「もちろんだ。心配しなくても、おまえたち人間の行動など簡単に読める。我らは人類に対し警告した。しかし、それが意味を為さないことなど初めから分かっていた。愚かな人間が崇高な我らの意図を理解できるはずがない。人間が戦争を放棄するなど、できるはずがない。戦いは必ず継続される。そう確信したうえで、提督は人類と正式にコンタクトを取った」

 グラキエスは言った。やはり、まだ深海棲艦の目論む戦争には、まだ先があるのだ。かつて白峰が言及していた、『時がくれば人類に、ある質問を投げかける』という内容の言葉も、そう遠くない未来に実現されるだろう。どこまでも人類は深海棲艦の掌の上で踊らされている。

「戦いを止めなかったら、どうする? 人間を皆殺しにするのか。そうすれば、ある意味では世界は平和になるな。争いの火種が無くなるのだから」

 自嘲気味に渋谷は言った。

「それを教えたところで、おまえの意識が覚醒すれば、ここでの会話は忘却される。そうでなければ、わたしのことならともかく、我が提督の遠大なる作戦を、一部とはいえ暴露したりするものか」

 グラキエスは、いつものニヤケ顔で渋谷に言った。

「これから我らがどう動くのか、おまえの知ったことではない。しかし、提督の名誉のために言っておこう。我らが人類と艦娘に遅れを取ることはない。戦いを放棄できない人類には、さらなる戦いを与えよう。おまえたちは生まれながらにして地獄に包まれるのが本望なのだろう?」

 グラキエスが笑う。聞く者に不快感と本能的な恐怖を呼び覚ます声は、いつしかすんなりと渋谷の脳に馴染んでしまっていた。

「ずいぶんと日本語が上手くなったな。ソロモンで出会ったときは片言だったくせに」

 軽い口調で渋谷は言った。どうしてそんなことを口走ったのか、発言した本人が驚いている。その理由は何となく分かっていた。しかし認めたくはなかった。戦艦レ級は、明らかに他の深海棲艦とは違う。彼女の言う通り、深海棲艦の存在意義は戦いだ。ゆえに、どこまでも合理的かつ冷静に行動し、決してその目的から脱線したりしない。それに対し、レ級は自分だけの嗜好を持っている。摩耶がピアノを弾くのと同じように、彼女は遊ぶことを知っている。遊びとは、高度な精神性と知性を持つ生物にしかできない。ゆえに渋谷は感じてしまったのだ。

親近感を。こいつは人間に近い存在なのではないか、と。

 すぐさま心の中で否定する。こいつは敵だ。多くの人間と艦娘を殺してきた敵。そいつにヒトとしての情を感じるなど、ともに戦ってきた艦娘への裏切りだった。

ふたりの間を沈黙が流れる。渋谷の言葉を受け、グラキエスは笑うのを止めた。感情を失くしたガラス玉のような双眸には、底なしの深みが延々と口を開けている。貪欲な瞳だった。渋谷は図らずも彼女の好奇心の引金を引いてしまった。

「ヒトの言語は不安定だ」

 無表情のままグラキエスは言った。喜怒哀楽が剥がれ落ちた彼女の顔は、渋谷の知っている深海棲艦の表情そのものだった。

「単語ひとつとっても、文脈や周囲の状況によって微妙に意味を変えてしまう。その意味は絶対性を持たず、常に相対的に決定される。艦が波の上をまっすぐ走れないのと同じように、あらゆる要素から微妙な干渉を受けてしまい、発信者と受領者の間で、ぐねぐねと意味が変遷していく。完璧な言語を持つ我々には、扱いづらい不合理なシステムだ。なら、なぜ、わたしは好んでレベルの低い言葉を使っているのか。なぜ、まともに人間の言葉を扱えているのか。なあ、なぜだと思う?」

 グラキエスが前に出る。感情のない顔が、無邪気な子供のように渋谷を見上げている。

「おまえが、望んだからじゃないのか?」

 渋谷は答える。なぜか無視するという選択肢が思いつかなかった。

「面白いから理解したい。おまえが欲したから、おまえは言語を扱うのがうまくなった。それが何のためかは、俺には分からないがな。おまえ自身の胸に聞け」

「わたしの胸に聞く? 面白いことを言う」

 わずかに口角を吊りあげる。その笑みに普段の不遜さは見当たらず、どこか自嘲めいた笑い方だった。

「わたしという個は、群の中にあって、はじめてひとつの個として存在できる。統一感のない人間とは違い、ひとつの大いなる意志が、我らを一本の志で貫いている。わたしの中には、我らの根底に流れる、偉大なる意志があるだけだ。わたしたち『裁定者』は、その意志に従うだけだ。そうだ、従うだけ、だ」

 一瞬、珍しく口元で言葉が迷う。話題を変えるかのように、グラキエスは再び弁舌をふるう。

「むろん、それは艦娘も同じだ。人間の言うところの無意識。我らの原点にあるのは戦いだ。我らと艦娘とでは、その目的が異なるだけの話。我らの目的は世界永久平和。艦娘の目的は、人類を愚かな自然状態のまま放置して存続させること。そのために両者は戦う。高みに昇る我らと、地を這う虫でいることを願う艦娘。相容れるはずがないね」

 そう言って、グラキエスは歩き始める。夢の中とあって、ソロモンで捕虜となったときと同じく身体の自由がきかず、彼の意識は浮遊霊のように引きずられていく。焼け縮れた真っ黒な砂の丘をのぼっていく。やがて二人は、なだらかな丘の上に出た。

 そこからの光景を見て、渋谷は絶句する。

 どこまでも暗く黒いクレーターが地面を抉り取っている。歪曲した空間は、意識だけになった渋谷に、皮膚がひりつくような錯覚を引き起こす。直径にして、数十キロにも及んでいる。まるで冥府の入口のような穴のなかに、それはいた。周りの漆黒に紛れ込むかのように横たわる巨大な物体。最初は、ただの地面の隆起かと思ったが、よく見れば、ほんの僅かに上下に揺れている。呼吸をしている。ひそやかに息づく生命の気配が、あるはずのない渋谷の皮膚をビリビリと揺さぶる。そんな錯覚に襲われた。圧倒的な畏怖を押さえつつ、物体の全体像を目で追った。深海のような黒にまぎれる輪郭線がひとつに繋がったとき、渋谷は正体を知る。

 人間だ。巨大な人間の女だった。膝をつき、地面に深く頭を垂れている。長い髪の毛状の線維が顔を多い、表情を窺い知ることはできない。その両手は、まるで不快な痛みを押し殺すかのように、あるいは大切な何かを掻き抱くかのように、強く強く胸の上で交差している。真っ黒な肉体が動くたび、憎悪と怒りと悲愴が毒霧のように島へと吐き出されていく。

「わたしたちの母胎だ」

 グラキエスは呟くように言った。つまり今目の前にある、この世の全ての悪しき感情を煮詰めたような黒いヒト状の塊が、艦娘の生まれ故郷でもあるということだった。

 にわかには信じられず、渋谷は目を凝らす。すると胸に押し当てられた両指の隙間から、ほんの微かに光が見えた。巨人の心臓部には、世界を染める漆黒を覆すような純白の光が灯っている。巨人は、その光がまるで病巣であるかのごとく、憎しみをこめて我が身から掻き千切らんとしている。その一方で、たったひとつ残された光を捨てきれず両手で抱えて慈しんでいるようにも見える。おぼろげではあるが、まるで愛憎同居する人間のような葛藤を渋谷は感じた。

「黒が我ら。白が艦娘。この世界の現状と同じく、圧倒的に我らの優勢だ。そして白い光は、今も小さくなりつつある。全身が黒に染まったとき、我らの勝利が確定するはずだ」

 グラキエスは言った。目に映る光景は、あまりにも彼女の言葉にピシャリと一致していて、信じざるをえない状態だった。

「艦娘も、深海棲艦も、この人物から産まれたというのだな」

「そうだ。我々の中でも、彼女には様々な通称がある。我らと艦娘の根源・The Sourceと名付けた者もいれば、単純にMotherと呼称する者もいる。いずれにせよ、この世界に我らを産み落とした母なる存在であることに変わりはない。そして我々は彼女の願いを体現するために存在している」

「では、おまえたちが人類を支配しようとするのも、艦娘が人類を守ろうとするのも、同じ存在からの命令ということか?」

「矛盾しているだろう? だが事実だ。Ambivalence。相反する二つの想いがせめぎ合っている。人類を平定したい多数派と、人類をこのまま生かしたい少数派。我々は彼女の願いの代理戦争をしているわけだ」

 そう言うなりグラキエスは、母胎に背を向けて渋谷を見つめる。

「我らの根源は戦いだ。人類を飼いならし、踏みならすために戦っている。それが母の願いであり、それ以外の行為は我らにとって無意味。なのに、わたしはいつの間にか自由意志を持っていた。裁定者の活動から逸脱することさえ、難なくやり遂げた。なあ、シブヤ。おまえたち人間も、母なる存在から命が分化したはずだ。しかし、人間は偉大なる意志を共有していない。女王を喪ったアリのごとく個が個のまま流動している。なぜ、おまえは自由なのだ?」

 グラキエスが問う。彼女の表情は、人間と変わらない真摯さを湛えている。

「確かに、人間は母親から生まれる。生まれてなお、母によって命を育まれる。確かに、幼少の頃は親の命令に服従しようとも、やがて自分の意志を持ち、独立して人生を歩み始める。おまえたちのような世界の枠から外れた存在には分からないだろうが、人間は単体から生まれることはない。子孫を残すためには、つがいを必要とする。もし生物の根源が自らの子孫を残すことならば、人間はいつまでも母の支配下に留まることは許されない。女は男を、男は女を必要とする。常に縦の命令系統で律されている深海棲艦とは違い、生物は横の繋がりを求める。そこから自由が生まれるんだろう。縦の系譜から解き放たれ、自由に動くことができる」

 渋谷は言った。これが答えになっているかは分からない。しかし、グラキエスは少しだけ満足したように微笑む。

「そうか。それが人間か。生体や生殖については、知識としては把握していた。だが、知識は実感が伴わなければ、たんなる記号と情報にすぎない。ようやく分かった気がする」

 そう言って、彼女はふと漆黒の谷底に目をやる。焼け焦げた地面と、歪んだ空間の境目に、ぽつんと小さな白い影が浮かんでいる。詳細は全く視認できない。だが渋谷は見えずとも、それが何か悟っていた。

「白峰……」

 渋谷は、じっと地の底を睨む。人類を裏切った男は、深海の同胞たる赤い瞳で暗黒の彼方を見つめている。やがて湖面の上を歩くように、異空間から何者かが男のもとに接近する。これまで人間が戦ってきた鬼や姫を、遥かに上回る禍々しさ。渋谷は、ここに人類の絶望を見た気がした。生きとし生けるもの全ての命を刈り取らんばかりの、死神のようなオーラを放つ顕体が、うやうやしく男のもとにかしずいた。

「大規模作戦を目前にして、ずいぶん派手なものを産み落としてくれた。果たして、あれを沈めることのできる艦が、この世界に存在するのかな?」

 飄々とグラキエスが呟く。おそらく深海棲艦史上、最強の個体ということだろう。奇しくも渋谷は、その誕生の瞬間に立ち会っていた。そのとき、白峰の意識がこちらに向いた。グラキエスと連動している渋谷は、彼がこちらを見ているのが分かった。感じるのは圧倒的な畏怖。人類の本能的な恐怖を呼び覚ます、深海棲艦の気迫そのものだ。グラキエスは瞳を見開き、裁定者の言語で男と会話する。わずか数秒で、渋谷の意識から重圧が消えた。

「了解だよ」

 何かの指示を受けとったらしく、グラキエスは自らの提督に敬礼する。彼女の姿を見ていて、渋谷は違和感を覚える。人間とは似て非なる濁った双眸の奥に、およそ深海棲艦らしくない感情が一筋、儚い光を放っている。

「人間の言う、縦から横に逸れるということ。まさか、わたしの深層にあるのは……。わたしが、母の声から逃れることができたのは……」

 ぶつぶつと思考するグラキエス。人類より優れた存在であるはずの深海棲艦が試行錯誤する様子を見て、渋谷は、つい口を出してしまう。

「おまえは、白峰を―――」

 そう問いかけた刹那、彼女の顔が一気に迫ってきた。渋谷に実体があれば、唇同士が触れるのではないかという距離。形のよい口唇から覗く、嗜虐心に満ちた鋭い歯が渋谷を黙らせる。兵器としての笑顔を剥ぎ取られた彼女の素顔には、深海棲艦にあるまじき非合理で複雑な感情が滲んでいた。

「言っただろう。実感を伴わなければ、言葉になど何の意味もないと。それは、これからわたしが確かめる。そのために、裁定者の使命から逸脱してまで舞台を整えてきたのだ。そして、役者も揃いつつある」

 グラキエスは、跳ねるように飛びのいて背を向ける。

「そろそろ別れの時間だ。割と楽しかったぞ、おまえとの逢瀬。あのとき殺さなくて正解だった。次会うときは戦場だ。頼むぞ、艦娘の提督よ。わたしの疑問に、満足できる答えを与えてくれ」

 耳障りな笑い声を残し、グラキエスの姿が薄れていく。

「逢瀬、か」

 このような言葉が彼女の口から出たことに渋谷は驚く。現況を理解し吟味したうえで、数ある単語のなかから最もふさわしい言葉を選択したのだとしたら、やはり思考回路が人間に近づいている、と渋谷は思う。

 目覚めの時が近かった。これまで散々、グラキエスには脳髄を引っ掻きまわた。しかし認めたくはないが、この期に及んで、これまでの会話を忘れたくないと思ってしまった。海底に沈められたかのように、景色から色が失われていく。やがて世界は暗闇に包まれた。ここで得た記憶が、曖昧模糊とした泡沫と化して頭から溢れ出していく。だが、今回はいつもの夢の結末と少し違うことに気づいた。左手に熱を感じた。人間の体温。仄かな温かさに導かれて、孤独な暗闇のなかにいても、すうっと意識が覚醒に向かっていく。

 誰だろう。この手は。

 優しく自分を包み込んでくれる、人間の手。

 

「涼子……?」

 ゆっくりと瞼を開ける。頭上には見知った顔があった。

「摩耶。付いていてくれたのか」

 自らの秘書艦の姿を認め、渋谷は上体を起こす。

「俺は、どれくらい寝ていてた?」

「二時間くらいかな。どうだ、調子は?」

 摩耶が尋ねる。頭に疲労感は残っているものの、身体はすっきりとしていた。

「だいぶよくなったよ、ありがとう」

 そう言って渋谷は立ち上がる。二つの駆逐隊を率いる提督として、やるべき仕事は山積みだった。さらに渋谷は自身の部下以外にも、艦娘全体のケアマネジメントという重要な仕事を仰せつかっている。ソロン襲撃事件以来、ずっと避けてきたあの艦娘とも、とうとう向かい合うときがきた。

「執務に戻るとしよう。摩耶、手伝ってくれるか?」

 制服を整え、ベッドから立ち上がる。しかし摩耶は椅子に座ったまま動かなかった。

「悪い、先に行っててくれ。わたしもちょっと疲れててさ。提督の寝顔見てたら、休んでいきたくなった」

 いつもより細い声で摩耶が言った。

「分かった。過酷な任務続きだったからな。無理するな」

 渋谷は素直に納得し、そのまま仮眠室から退出する。

 薄暗い部屋には、摩耶独りだけが残された。おもむろに立ち上がると、さっきまで渋谷が寝ていたベッドに倒れ込む。彼の気配が色濃く残るベッドの上で、摩耶は混乱する頭を必死に鎮めようとしていた。そして、温もりの残滓から激しく彼を求めようとする。こうすることで涼子に抵抗したかった。兵器ではなく、女として彼の愛を求めることができる。そう証明したかった。自分は彼の愛を受け止めるに相応しい存在であることを確かめたかった。

 愛しているはずの男を全身に感じ続ける。男と女の関係に浸ろうとする。

 だが、その間、摩耶は何も感じなかった。

 気持ちが昂るどころか、心は穏やかに凪いでいった。暗く安定した場所に魂が落ち着いて、眠気すら感じてしまう。肉体的欲求、快楽から、どんどん乖離していく。このとき摩耶は思い知った。身体さえ、普通の人間とは程遠いことに。渋谷が好きだ、男として愛していると言いながら、肉体はまったく彼を欲していない。

「愛、理解できる?」

 涼子の声が蘇る。

 そうだ。思い知らされたのだ。自分は人間ではない。どうしようもなく艦娘という生き物なのだ、と。種族が違うから、人間とは交われないのだ。

「だから、なんだってんだ……」

 うつ伏せになり、摩耶は呟く。例え肉体が人間である彼と結ばれなくても、彼を愛する心に偽りは無い。兵器である艦娘が、形なき心に縋るなど滑稽ではある。しかしながら、摩耶は自分の気持ちを捨てようとはしなかった。人間の女である涼子に何度否定されても、敵わないと悟らされても、諦めることはできなかった。

「あんたの傍にいさせてくれ」

 弱々しい声で、ここにいない男に摩耶は懇願する。とめどなく流れる涙は、懐かしい海の味がした。

 

 明石指導のもと、急ピッチで艦娘の調整が進んでいった。渋谷と塚本、ふたりの才ある『提督』がいたせいか、ポートモレスビー近海にて、新たな艦娘が顕現していた。そのなかでも、正規空母『雲龍』『天城』『葛城』の三隻の顕現は大きかった。これで飛龍を残し壊滅状態だった航空戦力を、急ピッチで立て直す目処がたった。

戦闘力を編成していく過程で、ついに渋谷は、あの因縁の艦娘と相見えることとなった。鎮守府の端にある小さな談話室。そこで、一対一の会談が企画された。オーストラリアに渡るという、帝国海軍の命運を決する戦いに備え、どうしても向かい合わなければならない問題だ。

「お久しぶりですね、渋谷提督」

 無表情に大和は言った。声は鈴を鳴らすように可憐だが、その目から感情は失われ、かたく冷たく心を閉ざしていた。

「大和にも出撃が命じられるのでしょう?」

 渋谷の言葉を待たずして、大和は本題を切りだす。

「戦艦としての矜持を踏みにじったあげく、都合のいいときだけ率先して戦場に駆り出そうなんて、ムシが良すぎるとは思いませんか?」

 赤裸々な本音をぶつけてくる大和。だが、渋谷にとっては幸いなことだった。自分の想いを押し殺し続け、海軍に対し誠実に従ってきた大和が、一切の憚りなく憎まれ口をぶつけてくるのは、むしろ信頼されている証だと感じた。

「では、あなたは戦いたくないのですか?」

 ゆえに、渋谷も遠慮なく率直に意見をぶつけることができた。

「むろん、戦います。あの敵戦艦に再び見えることを、ハラワタが煮えくりかえるほど欲しています。砲火を交えたあかつきには、艦体が真っ二つにへし折れるまで、九一式徹甲弾をたらふく馳走していやる予定です」

 光の消えた目が凶暴な笑みに歪む。やはり彼女の戦意は全く衰えていないどころか、むしろ増している。

「なるほど。戦いたいが、我々の言いなりになるのは嫌だということですね」

 矛盾する大和の言動を、簡潔に渋谷はまとめた。

「はい。そういうことになります。決戦を前にして、今度こそ戦艦らしく戦いたい。しかし、あなたたちは、わたしを旗艦という偶像に祭上げるばかりで実戦の機会を与えなかった。むろん、燃料等の都合があるのは分かります。しかし、あのときわたしが出撃していれば、もっと敵を倒せたのではないか、もっと味方を救えたのではないか、と思うことが何度もありました。わたしを正しく運用して欲しいのです」

 大和は言った。彼女との交渉は、山口長官から全権を委任されている。ならば、せめて大和自身が納得する形で出撃してくれることを願った。敵で埋め尽くされたソロンを艦砲射撃で吹き飛ばすよう、山本前長官に意見具申したのは自分だ。ならば、ここでその責任を取らねばならない。

 艦娘を率いる提督としての、人間としての責任を。

「条件を聞きましょう」

 渋谷が問うた。しばし大和は目を閉じて黙考する。やがて、ゆっくりと開かれた双眸には固い決意が宿っていた。

「まずひとつめ、指揮系統について。艦隊旗艦などは、もうこりごりです。本気で敵を倒したいのならば、わたしを一戦艦として扱ってください。そうですね、できれば渋谷少佐、あなたの指揮下が理想的です。そして戦闘に際しては、わたしの自主裁量を認めてください」

 淀みない口調で大和は言った。これは危険な条件だった。戦場では、あくまで艦として扱われる艦娘に自主裁量の余地を認めてしまえば、いざ戦闘になったとき軍の指揮系統から彼女が外れてしまう。そうなれば、強大な力を持つ大和は、戦場の不確定因子として味方を混乱に陥れる可能性も出てくる。

「戦いについては、大和も学びました。それに非常時となれば、きちんと艦隊司令の命令を遂行します。口約束にすぎませんが」

 大和は言った。つまり自分を信じてくれ、と渋谷に訴えている。この条件を飲まねば、おそらく大和は戦場で自らの役割を放棄してしまうだろう。渋谷は承諾の意を伝えた。

「ふたつめは―――」

 大和が語る二つ目の条件は、渋谷にも晴天の霹靂だった。ニューギニア、オーストラリア間の海域には、おそらく大陸を封鎖している、これまで帝国海軍が戦った中でも最大規模の敵部隊が待ち構えているだろう。その戦いに、大和は艦娘としての己の存在を賭けた最終決戦を見出している。一見、我儘なだけにも思える条件からは、大和の悲愴なまでの決意が滲み出していた。

「意味は分かって言っているのですね?」

「はい。覚悟の上です」

 大和は、まっすぐ渋谷を見据えて答える。山口長官の作戦意図には逆らうことになるが、そうすることで彼女が全力で戦えるというのなら認めるしかなかった。

「分かりました。すぐ山口長官に具申してまいります。裁可がおりましたら、今日中にお伝えします」

 そう言って渋谷は談話室から退出した。

 鎮守府の長官室にて、山口多聞に交渉の結果を伝える。山口は少し考えを巡らせたのち、あっさりと二つとも条件を受け入れると宣言した。渋谷は、それを大和に伝えるべくポートモレスビーの港に向かう。やはり彼女は、いつものように番傘を掲げて遠い南太平洋の海を見つめていた。裁可が下りたことを伝えると、大和は喜ぶでもなく、ふと視線を陸に戻した。

「ありがとうございます」

 亜麻色の髪を潮風になびかせ、大和は言った。

 彼女は微笑んでいた。憂いと儚さが瞳を濡らし、彼女本来の優しさを際立たせる。その笑みを見て渋谷は悟った。彼女が過剰なまでに戦いに拘っていたのは、裏を返せば我々人間のためなのだ、と。深海棲艦という未知の脅威に苛まれ続けていた、か弱い人間のためなのだ。

美しい大和のかんばせは、慈愛に満ちている。これが本来の大和の表情なのだ、と渋谷は思った。何度裏切られても、なお人間を愛することを止めない心優しい戦艦が、そこにいた。

 

 

太平洋のどこかに浮かぶ黒い島の海岸で、ひとり彼女は思索にふける。

自分が産まれたときのことは、記憶に新しい。当初、単なる戦艦として生まれるはずだった彼女は、ある男の手によって、存在が分化して確定する前に母胎から掬いあげられた。とある空母が鹵獲してきたという人間の男は、さまざまな知恵を裁定者たちに授けた。今や、太平洋艦隊のみならず、世界中の裁定者たちが彼のもたらした進化を享受している。その中でも、格別に恩恵を受けたのが彼女だった。ひとつ知るごとに、ひとつ強くなる。彼女は貪欲に学び続け、自らの肉体を実験台にして行動に移した。その結果、人間が鬼や姫と呼ぶ上位個体である戦艦・空母・陸基地クラスにも畏れ敬われる力を手に入れた。上位個体の指揮系統に束縛されず、総司令の直属として行動することが許された。今や、ほぼ全ての裁定者が、彼女を進化の手本として、自らの艦隊に改良を加えている。やがて彼女の力は、母胎の声をも無視できる、精神の自由へと結実した。

だが結局、手に入れた強さは何のために在るのか。進化すればするほど、自由になればなるほど揺らいでいく自己。何をもって『わたし』なのか。その答えを知るために、彼女は再び戦地に赴こうとする。裁定者とは、母胎の意志である世界の永久平和を体現するための、いわば手足である。ならば、自己の根源である戦いの中で悟らねばならないと彼女は考えていた。

「提督、どうしてここに?」

 海を見つめたまま、グラキエスは尋ねる。視界の外にあろうとも、背後の立つ彼の気配を感じることができた。

「次の作戦に対し、思う所があるのではないか。そう考えた」

 静かな声で白峰は言った。やはり提督はなんでもお見通しか、と彼女は苦笑する。

「これまで身勝手に振る舞いすぎたこと、申し訳なく感じている。わたしは遊びすぎたみたいだ」

「それでいい。なぜ僕がきみを直属にしたのか、きみも分かっているはずだ。自由であることがきみの役目だ。我ら裁定者の艦隊による人類評定における最終段階。そのための新兵器開発計画といい、十分な働きをしてくれている」

 白峰は言った。だが、彼のお墨付きを得てもなお、彼女は胸の曇りが晴れなかった。

「わたしが創ろうとしているものは、母の意志を逸脱している。あの兵器は使い方次第で、人間という種族そのものを、この世界から完全に撲滅できる。母の願いは、あくまで人類の支配。骨を打ち砕き肉を削ぎ、人類を正しい型に矯正すること。その過程で、幾億の人間を消耗しようと構わないが、ゼロにしてしまうのはまずい。我々の目的は恒久的世界平和だが、そもそも人類がなければ戦争も平和も生まれない。平和は戦争と対になるもの。戦争なくして平和はない。違う?」

「つまり、僕たちが人類を滅ぼしてしまうことによって、母の意志に背くのを恐れているのだね?」

 白峰が言った。グラキエスはゆっくりと頷く。

「ひとつの選択肢として、十分にありえると僕は考える」

 彼女の迷いに、あっさりと回答を与える白峰。思わずグラキエスは、尻尾をぐるんと回して彼に向きあう。

「我々は今、直接人類に語りかけ、彼らを試している。彼らの運命を決めるのは、彼ら自身だ。正しき姿に進化するなら、それでよし。我らに逆らい、愚かなままいるなら、戦争続く。それでも悔い改めること無ければ、滅びの瞬間まで僕たちは相手をしよう。進化できない種族は、自然と滅ぶ」

 堂々と白峰は答える。元人間である彼の思想は、いつの間にか裁定者のアイデンティティさえ手玉に取っている。グラキエスは畏怖とともに苦笑する。きっと彼の思想は、じわじわと我らを飲み込む。そして我々は気づかないうちに人類を滅ぼしているだろう。愚かな人類への復讐という、我らにとって絶対である母胎の意志ですら、彼にとっては利用すべき道具にすぎないのだ。彼は、この世で最も優れたる我らよりも冷静で、冷酷で、正しい。ならば、彼の存在は、何と表現すればよいのだろう。一瞬、神という生物の上位概念が頭に浮かんだが、グラキエスは即座に否定する。彼は隣にいる。触れることもできるし、言葉も交わせる。自分にとって彼は超越者ではない。

 だとすれば、いったい何なのだろうか。彼は自分にとって何者なのか。

「ならば、わたしは誰に従えばいい?」

 俯きながら、わずかに苦悶を滲ませてグラキエスは尋ねる。彼女を見つめる白峰の瞳には、優しい光が揺れている。

「自分でも分かっているだろうが、きみは特別な個体だ。あくまで指揮幕僚能力の進化を求め、あらゆる次元の戦争に特化したアウルムとは違い、内面の思想の伸展を重視していた。僕と会話するにつれ、きみは思考の自由を手に入れた。僕もきみの能力に期待し、きみのような個体を欲していた。行き詰ることを知らない、無限のごとき思考。果てしない内面世界に自己を見失うことがあろうと、それは進化の証だ。他の裁定者たちとは、別の方向に進化の枝葉を伸ばしたということだ」

 ゆえに、きみだけに問う。そう白峰は言った。

「これは命令ではない。作戦行動を決するとき、僕が命令以外の言葉を放つのは、きみだけだ。なぜなら、きみは自由を持っているからだ」

 きみは、どうしたい?

 これが白峰とグラキエスの関係を示す、もっとも相応しい言葉だった。彼女たちの根底に流れる、戦いの基礎となる命令系統ではなく、グラキエスという個体のみが持つ自由意志に対して白峰は問いかける。

「Your pleasure , my―――admiral」

 提督の、おおせのままに。一瞬の躊躇いのあと、彼女は答える。彼女の意志は母胎に背き、あくまで白峰晴瀬に仕えることを選んだ。グラキエスは深海の王に跪く。

「了解した。各方面艦隊から選抜されたきみの艦隊は、あくまできみの指揮下に任せる。武運を祈る」

 そう言って、白峰は海岸から立ち去る。沖合には、先ほど竣工したばかりの艦が、この世のものとは思えない巨体を黒い海に浮かべている。

 提督と別れてなお、グラキエスは独り潮騒のもとで思案にふける。

彼の質問に答えようとしたとき、口をついて出かけた言葉があった。その言葉を選んでいいのか、その意味で正確なのか、自分でもよく分からなかった。しかし、偉大なる母によって存在を統制された裁定者の艦隊にあって、彼をその名で呼ぶのは自分だけだった。

「My father」

 グラキエスは呟く。そのとたん、今まで感じたことのない何かが胸を埋め尽くしていく。じっとしているだけで自分の内側から光を放ちそうなほど高密度に昂る何か。この想いを抱いたのは初めてだ。誰かのための闘志。合理と使命に支配された、裁定者の冷たい戦争とはまるで違う。これは熱い。渦巻く感情に焼かれた細胞が、踊りださんばかりに熱い。手段でしかない戦いに歓喜の炎を灯すなど、つくづく異端だと彼女は思う。

完全なる裁定者たちにとって、不要であるはずの『つがい』の概念。それを理解した瞬間、彼女は『横に逸れた』のだ。存在から逸脱し、辿りついた場所でこそ、真の自分に出会える気がした。

 



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第十五話 傾国の女

 大日本帝国というひとつの国家は、この戦争にどのような幕引きを望むのか。本土に残された者たちは、深海棲艦と艦娘なき後の世界を思案し、帝国の現状を憂う。


 深海棲艦の宣告によって、本土もまた揺れに揺れていた。

 ただちに中部太平洋、および南部太平洋の各泊地に孤立した戦力を救わなければならない。艦娘のもたらした連戦連勝は、理性的であるべき戦いの思考を麻痺させた。政府、軍の中枢は、しらずしらずのうちに身の丈に合わない膨張主義に陶酔した。その結果、最大戦力とされる大和、武蔵をはじめ、多くの強力な艦娘たちが本土から前線に移された。特に熟練の操縦士は、ほぼ全員が南方戦線に集中している。そこに深海棲艦機動部隊による、大洋分断である。人間に例えるなら、見事に首から下を切り落とされた形となった。頭と手足は、互いに連携して初めて威力を発揮する。前線が混乱の渦中にあるように、頭だけとなった本土もまた無力化されていた。

 なんとか本土に残った艦娘だけで、各前線との海上輸送網を再建できないだろうか。陸海問わず、皆が知恵を絞っていた。

 一九四四年六月五日、静岡県相模湾に浮かぶ、とある島に海軍の高級軍人たちが集結しつつあった。もともとは華族が所有していた保養地だった場所を海軍が接収した。帝都周辺の海域を見張るためである。最近まで僻地扱いされ、閑散としていた場所が、思わぬ形でにぎわいを見せていた。降りしきる驟雨の中、秘密裏に本土から小型船で島にやってくるのは、海の軍人ばかりではなかった。少なからず陸の人間もいる。さらに軍服を着ていない人物も散見された。

 本土からの前線奪還作戦会議。それが名ばかりの会議であることは、出席したメンバーを見れば明らかだった。

 海軍からは、大西瀧治郎少将、伊藤整一中将、井上成美中将、豊田副武大将。いずれも山本前長官と繋がりのある人物であり、彼と思想を同じくしていた。さらに驚くべきは、現海軍大臣である米内光正が姿を見せたことだった。いずれも、この戦争を理性的に見つめている重鎮ばかりだ。陸軍からの主な出席者は、石原莞爾中将、そして幾田侯爵家と関わりの深い君津伯爵家出身の軍人、君津栄吉少将。ふたりとも深海棲艦との戦いが始まる以前から、陸軍主戦派の筆頭である東条英機大将と対立し、参謀本部では冷や飯をくらってきた経歴を持つ。このふたりに加え、まだ三十半ばの若い軍人がいた。彼は傍らに詰襟を着た色白の娘を伴っていた。

 総じて彼らは、昨今の不用意な戦線拡大方針に反対する者ばかりだった。

 太平洋の海を見下ろすように建てられた元華族の別荘の一室に、彼らは集結した。晴れていれば空と海の美しい青を堪能できたのだろう。しかし梅雨前線に刺激された雨雲が振り落とす高密度の雨は、世界の全てを濃い灰色に閉ざしていた。陰謀めいた会議所にふさわしい鬱々とした雨垂れの音を聞きながら、メンバーは主賓の到着を待った。

「遅くなりました」

 テーブル席の中央に置かれた演壇に彼女がのぼる。皆の視線が、海軍中佐に集中する。

「お集まり頂き、感謝します。僭越ながら司会をさせていただきます、幾田サヲトメです。よろしくお願いいたします」

 幾田は優雅に一礼する。

 今回の会議の目的は、本土と前線で醸成されてきた意見を交換し、状況認識を共有することだった。まず幾田が前線について説明する。大洋分断前の戦力配分、そしてこれまでの戦いで感じたことを簡潔に話した。人類の戦術を学んだ艦娘は単艦でも戦力となり、人間の乗組員と協力することで、相乗効果により、さらなる能力向上が見込まれる。これは深海棲艦には不可能な芸当である。

「確かに深海棲艦は脅威です。しかし奴等が強力なのは、その圧倒的な物量ゆえです。適時適切な戦力を適当な手段で集中すれば、個別の戦いにおいて敵を撃滅することは容易です」

 美しい声で淀みなく幾田は説明する。寡をもって衆を制す。軍事の鉄則に反する夢のような勝ち方が、艦娘とともにならば実現できる。しかし、その喜ばしい報告を聞いても、メンバーは誰ひとりとして相好を崩さない。むしろ彼らは、艦娘という未知なる存在に依存しきっている現状に危機感を抱いていた。

「では、つぎに私から本土の状況についてご説明申し上げます」

 若い陸の情報将校が立ち上がる。

 幾田の予想以上に本土の状況は悪かった。民需用の石油はすでに底をつき、漁船すら石炭燃料に頼っている状況だった。それと同時に鉄鋼もまた供給が途絶えている。一九四一年末以来、大規模な鉄筋構造物は、軍事用を除き、ほとんど建築されていない。締めつけられる民衆の生活。今年の冬は、文字通り爪ほどの燃料に火を灯して何とか乗り切った。しかし、もう限界だった。深海棲艦の存在を知った直後は、恐怖のあまり全ての感情が凍りついていた。だが人間とは慣れるものである。恐怖はいずれ薄れる。とくに本土は、たった一度の例外を除き、深海棲艦から直接攻撃を受けたことがない。民衆は感情を取り戻した。欠乏は不満へ、不満は怒りへ。やがて収まりきらなくなった感情は暴動という形で世に噴出する。すでに東北、四国、九州では地方警察では抑えきれないほどの食糧、燃料騒動が頻発している。追い討ちをかけるように、深海棲艦による世界支配宣言が市井の電波にまで放たれた。何を狂ったか、真の平和をもたらすという深海棲艦を神の遣いと解釈するカルト教団まで出現する始末。次の冬までに現状が打開されなければ、この国は民に裏切られ、内側から崩壊する。深海棲艦に滅ぼされるまでもない、為政者と民の心が離れた国の辿る末路は滅亡である。

「内務省では、現体制に反発する思想を専門に取り締まる警察、特別高等警察の設立を検討しています」

「そうなれば、我々は国民の大部分を敵に回すことになる。今、軍に不満を持っていない民はいないだろう」

 石原中将が言った。

 国民の支持なくては、戦争は成り立たない。これまで艦娘による華々しい戦勝が、だましだまし世論を戦いの方向へと誘導してきた。しかし、突然の大攻勢に転じた深海棲艦により、見せかけの希望はあっさりと打ち破られた。

「早急に決着をつけなければならない。せめて大陸と連絡が取れるまで、敵戦力を削ることができれば」

 豊田大将が言った。

「では、そろそろ本題に移ってもらえますか」

 井上中将が、おもむろに口を開く。

「我々理性派が、あなたの集会に参じたのは、この戦局を打開する重要な情報を握ったと言うあなたの言葉を信じたからです」

「中佐は、陸軍内でも信頼が厚い。正直、最近まであなたは陸の急進派と一枚噛んでいると思っていた。そうでなくとも、立場上、中立であるべきあなたが、我々と連携を取ろうとすることが、そもそも疑問ではある」

 大西少将が言った。艦娘の力を利用して、なし崩し的に大東亜共栄圏を確立してしまおうとするのが急進派であり、主として陸軍に支持者が多い。それに対し、理性派は戦いの目的を再度問いなおし、可能であれば敵対していたアメリカ、イギリスとも協力して深海棲艦の脅威に立ち向かおうと考えている。幾田は主戦場から蚊帳の外に置かれていた陸軍の意見にも耳を傾け、支持を集めていた。

「わたしの行為については、後でご説明いたします」

 幾田は冷静に答える。

「情報についてですが、わたしの口から申し上げても具体性を伴わないと考え、『実物』を皆さんにご覧いただこうと思いました。そのため、このような地まで御足労いただいた次第です」

 そう言って、幾田は会議室に新たなメンバーを呼び寄せる。ドアを開けたのは、まだ十五にも満たない幼い少女だった。しかし、彼女がただの子どもでないことは、ここにいる全員が把握していた。頭の上に浮かぶ不思議な二つの艤装が、彼女は人間ではないことを物語る。全員の注目を浴びる中、少女は澄ました顔で幾田の隣に立つ。

「叢雲、お願い」

 幾田が呟く。すると叢雲は、頭の艤装を耳のように立て、艦娘専用の電波で通信する。何かを呼んでいるらしい。彼女は終始無言のまま役目を終えた。しばらくして、窓の外の景色が変わり始める。雨のベールの向こう側で、巨大な何かが黒い影を纏いながら、建物に接近してくる。

「あれが、きみの言う実物かね?」

 米内大臣が尋ねる。海軍軍人たちは、その正体をすぐ理解した。

 艦影だ。それも駆逐艦クラス。艦娘のデータに習熟していた大西少将は、驚きを隠せなかった。

「馬鹿な。あれは沈んだはずだ」

 信じられない現象が起きていた。すでに轟沈したとされた艦。一九四二年一一月、深海棲艦が初めて本土に攻撃をしかけてきた。その際、自身の提督とともに勇敢に戦い、本土を守って名誉ある戦死を遂げた艦に間違いなかった。

 窓越しの艦影は、威圧感を放つほど大きく膨れ上がる。やがて鋭い艦首が、バルコニーすれすれまで迫り、静かに停止した。突然の新たな参加者に、会場は沈黙する。艦首の先端に、小さな人影が佇んでいた。皆が固唾をのんで見守るなか、その人物はおもむろに、ふわりと艦首から飛び降りた。そして軽やかにバルコニーへと着地する。人間技ではない。叢雲が窓を開き、彼女を迎え入れた。

「今日が雨で良かったですわ。こうして隠密に行動できましから。いくら海軍といえども、信用に足る人物でないかぎり、彼女を見せるわけにはいきません」

 微笑みながら幾田は言った。

 雨に濡れた黒髪が、艶やかに光る。見た目にそぐわない優雅な身のこなしで、謎の顕体が壇上にのぼる。そして参列者に一礼し、無表情に名乗った。

「駆逐艦、吹雪です。よろしくお願いします」

 その名を知らない者はいない。本土の守護神、白峰晴瀬少将の秘書艦。正規空母、重巡からなる敵の大部隊を、駆逐艦だけを率いて撃退した奇跡の戦い。その犠牲となり海に召されたはずの艦が、こうして艦体もとろも姿を現した。皆が視線で幾田に説明を乞うていた。

「彼女は、サンゴ海海戦の際、敵艦隊から落伍していたところを、わたしが率いていた第一一駆逐隊が救出しました。敵は、すでに死亡していた白峰提督を生きているように見せかけ、吹雪を脅迫しました。それが原因で人類側の情報が流出。艦娘の通信を傍受する方法も、吹雪から学んだようです」

「なるほど。深海棲艦がいきなり強くなったのは、情報源があったからか」

 大西は苦々しげに言った。ただ、吹雪の置かれた状況には同情の余地がある。まだ歳若い少女が、この世界で唯一慕う提督を人質に取られたら、敵に従ってしまうのも無理はない。

 吹雪は、ただ無表情に屹立していた。

「深海棲艦と接触したとあり、下手をすれば裏切り者扱いを受けると考えたため、山口多聞中将以外には、彼女の存在を話していません。山口提督も本土に到着するまで吹雪を秘匿するよう命じられました」

 幾田が説明を加える。よくも、それだけ口が回るものだと叢雲は心の中で感心していた。辻褄が合うよう、見事に嘘と真実を組み合わせ、自然な成り行きを捏造している。

「確かに吹雪は、情報を漏洩してしまいました。しかしながら、彼女はこうして戻ってきてくれました。今後の戦局を左右するであろう重要な情報を敵から盗んで。捕虜の管理まで徹底されていなかったことは幸いでした。そうでなければ、わたしは吹雪を奪い返すことができなかった」

 過去を思い返すように、ゆったりと幾田は言った。会場は幾田の話に聞き入っていた。吹雪が持って帰った情報の中身を、いち早く知りたいという欲求が各人の中で高まっていく。

「ここからは、わたしが見聞きしたことを、直接お伝えします」

 抑揚のない声で吹雪は言った。憂いを帯びた少女の顔は、悲しみに心が閉ざされているように見えた。提督を喪い、敵に利用され、それでも人類に味方しようと生き延びてきた少女の気持ちを考えると、捕虜の辱めを責めることは誰もできなかった。

「深海棲艦の母港。本拠地を見てきました」

 吹雪の一言は、大きな衝撃を軍人たちにもたらした。必死の探索、研究にも関わらず、ついぞ判明しなかった深海棲艦の母港。それが存在することが判明しただけでも、人類には大きな希望だった。

「残念ながら、位置までは分かりません。南太平洋の、どこかの島というだけです。しかし、そこには深海棲艦全てに共通する、『心臓』のようなものがあります。その島を破壊すれば、世界中の深海棲艦は一斉に活動を停止するでしょう」

 値千金の情報だった。先の見えなかった戦いに、とうとう目指すべき目標が一点、しっかりと見定まった。これで不用意に艦娘たちを前線に拡散させずにすむ。にわかに議場は活気づいた。

 しかし吹雪は、厳しい表情のまま説明を続けた。

「ただし、注意していただきたいのは、深海棲艦の母胎を潰せば、我々艦娘もまた役目を終えてこの世界から退場するということです」

 吹雪の言葉は、ふたたび周囲は沈黙する。軍の重鎮たちを見渡し、吹雪は少し瞳に憂いを滲ませた。

「ここからは、わたしの私見になります。目に見える形で証拠を提示することはできません。しかし、わたしは、これが事実であると確信しています。あの島を見た時、思い出したのです。わたしがこの世界に産まれ落ちたときの記憶を。艦娘も深海棲艦も、母胎は同じ場所でした。人類を、日本国を救いたい。その想いを共に掲げた者が艦娘に分化しました。反対に、人類に対して強い憎しみや怒りを抱えた者は深海棲艦として、この世界に産声を上げたのです」

 吹雪は言った。

「艦娘と深海棲艦は表裏一体。いわば光と影のようなものです。光あるところに影があるように、どちらか一方が消失すれば片方も消える。そういう仕組みなのです」

 幾田が補足する。それが真実だとすれば、帝国の国家戦略は大きな壁にぶちあたる。艦娘の力をアテにして、これまで支配域と戦線を拡大してきたのだ。もし深海棲艦を打ち破ったところで艦娘たちが消えれば、世界は元の状態に戻ってしまう。すなわち国際社会から孤立し、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、中国と敵対するという無謀な運命が舞い戻って来るのである。

 深海棲艦という新たな敵と戦い、頭を冷やして客観的に世界を見つめ直した軍人たちは、とうに理解していた。かつて真珠湾攻撃から始めようとしていた戦争に、まったく勝ち目がなかったことに。

「ひとつ、質問してもいいかな?」

 米内海軍大臣が手を上げる。

「きみは艦娘と深海棲艦に分化した、と言っていたが、きみたちの母胎が、この世界に産まれ落ちたキッカケは、そもそも何だったのかね?」

「それは、分かりません」

 鋭い質問だった。吹雪は正直に答える。

「あの島に、何か巨大な力が働いたことは確かです。人類の想像を絶するような、巨大な力です。その力に引き裂かれた時間と空間のひずみから、偶然、わたしたちはこちらの世界に顕現しました」

 ゆっくりと、思い出を辿るかのように吹雪は言った。

「皆さんは、艦娘たちに前世の記憶が宿っていることをご存じでしょうか?」

 幾田が出席者たちに問うた。ほとんどの人間が肯定の意を示した。

「それについては、山本大将が研究を重ねていた。艦娘が人間を守ろうとする動機は、前世の経験にあるのではないかと考えているようだった」

 大西が言った。幾田は、「その通りです」と答えた。

「艦娘は皆、多かれ少なかれ前の世界での記憶を持っています」

 吹雪が説明を続ける。

「その記憶を頼りに、艦の操舵、砲術、索敵などを本能的にこなしているのです。ここで問題なのは、わたしが前世では、いったい何だったのかということです。仮に人間だとすれば、数々の専門分野に別れた艦の扱いを、たった独りでこなせる道理はありません。艦は大勢の人間が一致団結して正しく機能するからです。顕体ひとりで艦の全てを操ることができるのは、わたし自身が駆逐艦・吹雪という艦そのものだったからです」

 すなわち艦の化身です、と吹雪は結言する。

「そして思い返してください。わたしたちが、『今度こそは』絶対に沈まないと心に誓っていることを。統計を取ったことはありますか? 果たして、どれほどの艦娘が、前世の終わりを孤独と痛みに満ちた、暗い海の底で迎えているかを。そうです、わたしたちの大部分が、轟沈しているのです。守るはずだった人間を乗せて。前の世界で、わたしたちは今と同じ日本語の名を持ち、旭日旗を掲げていました」

 吹雪の証言は、会場を揺るがした。かつて山本大将が立てた仮説と全く同じことを吹雪が繰り返している。深海棲艦の深淵をのぞき、自身の根源をも垣間見た吹雪。彼女が言わんとしていることは、できれば間違いであってほしかった仮説を確かなものに変えていく。

「わたしは、別の世界の、大日本帝国の艦でした」

 吹雪の隣で、微かに叢雲が溜息をついた。

「敵は、もちろん深海棲艦などではありません。連合国と呼ばれる、こちらの世界で戦おうとしていた相手と同じです。彼らに、わたしたちは負けました。完全なる敗北です。わたしの心の底にあるのは、多くの命を道連れに死の淵へと沈みゆく光景。悲しみ、怒り、嘆き、恨み、すべての負の感情が混然一体となって、引き裂かれた鋼の身体に満ちていく気配。諦めに塗り潰されながらも、それでも、わたしは願ったのです。つぎは、つぎこそはヒトを救える艦でありたいと。魂がどこかに吸い込まれる感覚がありました。深海を漂流しているみたいに、長い道のりを、ゆっくりと押し流されていく感覚。そして意識が途絶え、気がつくと嵐の中にいました。東経一七〇度の海で、境遇を同じくする仲間に出会いました。それが、艦娘・吹雪の出発点でした」

 全員が、吹雪の独白に耳を傾けていた。

「やはり負けるのだな、日本は」

 沈黙を破ったのは米内だった。

「深海棲艦との戦いが終われば、吹雪さんが昔いた大日本帝国と同じ運命を辿るということですな」

 石原が言葉を重ねる。

「そうです。考えなくてはならないのは、深海棲艦に勝利することばかりではありません。わたしたちは国家の行く末に責任を持たねばならない立場です。艦娘と別離した後も、国は続いていく。艦娘に救われながら、愚かにも再び滅びの道を行くことは許されません」

 凛とした声音で、幾田は会場の意志をひとつにまとめ上げる。

「急進派は、陸軍だけではなく海軍にもいる。身内の不始末を処理する能力も、軍には必要だ」

 伊藤中将が言った。

「この国の軍部は強くなりすぎた」

 理性派の意見を統括するように、米内が口を開く。

「明治維新によって近代国家の体裁だけは整った。しかし、その中身はお粗末なものだった。総理大臣をはじめ、各大臣は横並びとなり、指揮命令系統が曖昧なまま据え置かれた。主権者である陛下も、元老伊藤博文の定めた宮中府中の別というルールのもと、表立っては政治に意見なされない。元老が生きていた時代は、まだコントロールが効いた軍部も、今では暴走寸前にまで陥りかけている。帝国主義という一時の世界の潮流を笠に着て、政治の領域をも左右するようになった。このまま我が国が、身の丈に合わぬ帝国主義を貫き通そうとすれば、必ず世界と衝突する。深海棲艦に勝っても、次の戦争はしてはいかん。戦わずしてすむ道があるとすれば、例え現在の国体を変革しようとも新たな歴史を切り拓くべきだ」

 つまり彼はこう言っている。

 このまま陸、海軍の急進派・主戦派が大人しくならず、なおも軍部独裁のような状態が続くのであれば。

「この国を、明治維新以前の状態に戻すことも、やぶさかではない。ということですな」

 石原が、いちはやく米内の意志を汲んだ。にわかに会場に緊張が走る。それは、すなわちクーデターの目論みだった。現体制を破壊することは、大日本帝国憲法にも反旗を翻すことになる。下手をすれば、陛下に弓引く国賊と見なされかねない。

「我が国を滅亡に導かない、近代国家として相応しい支配体制の確立は、以前からわたしが内密に米内閣下にご相談していたことです。わたしが陸、海の急進派とも接点を持っているのは、平穏に改革が為されない場合の保険です。今年中に深海棲艦との決着がつかなければ、国民は絶望的な状況に陥ります。そうなれば、強引にでも体制を改革し、軍部から国の主導権を取り戻さねばなりません」

 幾田が付け加える。もし国民が暴動に飲まれた時、軍部はどう動くか見当がついている。国体の護持を大義名分に、より独裁権力を確固たるものにするだろう。そうなれば、戦争は避けられない。新たな太平洋戦争が幕を開けてしまう。

 会議は、ここでいったん解散となった。

 演壇を降りた幾田のもとに、君津少将が歩み寄る。

「見事でしたよ。これで少しは、この国の内側に目を向けてくれるといいのですが」

「いいえ。わたしが望んでしたことですから」

 幾田は謙虚に首を振る。この男もまた、数ある幾田の偶像のなかに、救国の乙女の姿を見ているのだった。

「わたしのほうこそ、お礼を申し上げねばなりません。あきつ丸からの情報提供がなければ、隠密に動くこともできませんから」

 そう言って、幾田は部屋の隅に微笑みかける。若い情報将校のとなりで、初の陸軍所属となった艦娘が嬉しそうに笑い返した。

「今後とも、あきつ丸のことをよろしくお願いします」

 あきつ丸の教育を担当している将校、荒牧稔が一礼する。彼は昔から幾田の協力者であり、よき理解者でもあった。しかしながら彼は、白峰にとって変わろうとする男性的野心はなく、ただ幾田の思想に賛同しているにすぎない。幾田にとっては、数少ない優秀な手駒のひとつだった。

 全員が退出したあと、ようやく幾田は一息ついた。

「叢雲、ありがとう。吹雪もよくやってくれたわ」

 部下の艦娘をねぎらう。だが、吹雪の様子がおかしいことにすぐ気づいた。何かに怯えるように瞳孔が収縮し、全身が熱病に冒されたように震えている。青白くなった顔面から感情が霧散していき、吹雪とは思えない冷たい空気を纏い始める。その様子に、さすがの叢雲も忌避の表情を隠せなかった。

 やがて、左目だけ瞳孔が拡散する。そこには暗く深い海色がぽっかり穴を開けていた。ぐるりと人形のように首が回り、不気味な瞳が幾田を捉える。

『状況を説明してください』

 吹雪だが、吹雪の声ではない誰か。おぞましいことに顔の左半分だけが、操られるように動いている。右半分は吹雪のまま、怯えて硬直していた。

「あなたの指示通り、この国の中枢に、新たな意志の種を播いたわ」

 落ち着き払って幾田は答える。

 吹雪の左目の向こう側には、あの深海棲艦がいる。本土を急襲して白峰を攫い、深海棲艦の強化に多大な貢献を果たした存在。今や深海提督となった白峰の片腕として、自身の機動部隊を率いている。吹雪を介して、幾田は空母ヲ級の顕体、アウルムと会話していた。

『いいでしょう。ひとつの土壌にふたつの種。膨張して相争い、やがて自らの土壌をも真っ二つに引き裂く』

 アウルムは言った。現在、深海棲艦に対抗できるだけの艦娘を保有、運用しているのは日本だけだ。もし日本の政府中枢が分裂し壊滅すれば、艦娘は指揮者を喪い孤立する。そうなれば、あとは烏合の衆と化して海に散らばる艦娘を各個に撃破すればいい。

 国を内側から切り崩す。幾田を通じてアウルムが進めている作戦だった。深海棲艦は政治を理解できるほどに進化していた。

「お気に召してくれたようで何より。白峰提督に伝えてちょうだい。この作戦が成功したあかつきには、わたしをあなたのもとに呼び寄せて欲しいと」

 幾田の発言で、一瞬、吹雪の瞳に剣呑な光が揺らめく。

『勘違いしないでください。裁定者たちの過半数は、あなたを信用していない。これからも吹雪を通じて監視を続けます。もし、あなたが不審な動きをすれば……』

 窓の外の艦体が、ゆっくりと遠ざかり、甲板の主砲を幾田に向ける。叢雲が庇うように幾田の前に立った。

「分かっているわ。あなたが不信感を抱くのも無理はない。けれど、わたしはわたしの正義に従うだけ。それが偶然、あなたと目指すところが同じだったというだけよ。あなたを裏切る理由がない」

 さらりと帝国への裏切りを言い放つ幾田。アウルムは何も反論することなく、吹雪の艦体を退かせた。

『引き続き、我らへの貢献を期待しています』

 そう言い残し、アウルムは吹雪の脳から撤退する。ようやく心と体の半分を解放された吹雪は、疲労のあまり床につっぷして荒く息をついた。

「叢雲、彼女の様子はどう?」

「大丈夫よ。奴の気配は感じない」

 耳のように艤装を立てて叢雲は言った。吹雪には、常に叢雲を傍につけていた。もし吹雪が不審な動きをすれば、それはアウルムが『飛来』していることを意味する。そのうえ艦娘同士の通信にも、微弱ながらノイズが生まれる。叢雲は、幾田に常にサインを送り続けていた。艤装の色が薄いピンクならば危険、青ならば安全。今回の会議では、吹雪が喋っている間、叢雲の艤装は常にピンク色をしていた。

「ごめんなさい、わたし、迷惑かけてばかりで」

 突っ伏したまま、苦しげに吹雪は言った。敵に鹵獲されたあげく提督を奪われ、さらに脳を改造されてスパイ行為を人類に対して働いていた。彼女が責任を感じるのも無理はない。幾田は自らしゃがみこみ、吹雪に手を貸した。

「いいえ。あなたは十分役に立ってくれている。あなたが意図せずして触れてきた敵の情報は、これからの戦争を左右する重要なものよ。だから自信を持ちなさい。敵の操り人形に甘んじようと、心までは奪われない。あなたの忠誠心は本物だわ」

 吹雪の手を取り立ち上がる。励ましの言葉に偽りは無かった。

「さて、わたしはもう一仕事こなさないといけない。吹雪は部屋で休んでいて。叢雲、一緒に来なさい」

 そう言って、幾田は吹雪を客室まで送り届けたのち、叢雲を伴い屋敷を出た。降りしきる雨を外套に沁み込ませながら、島の裏手にある小さな波止場に向かう。

「ねえ、どうして全部話さなかったの?」

 叢雲が尋ねる。艤装の光は青だ。

「吹雪のこと? それとも、深海棲艦の本拠地のこと?」

「後者よ。わたしたちが発生した原因についても、吹雪はある程度の見当をつけていたじゃない」

「それを話したところで、混乱が増すだけよ。今は国内の改革に集中しなければならない。列強諸国との付き合い方を考えるのは、その後で構わない」

 今は、下手に外国に対して敵意を持たれては困る。

 

 なにせ深海棲艦は、人間の手でこの世界に呼び寄せた可能性が高いのだから。

 

「あんたがそう考えるなら、別に構わないけど」

 叢雲は興味なさげに呟く。だが内心では幾田の判断を気に病んでいていた。陸軍と海軍の急進派の支持を集めるのみならず、理性派の集まりにも顔を出して革命を促すように情報を流す。矛盾する二つの行為を、同時に進めている。よほど上手く立ち回らない限り、二枚舌外交は己に死を招く。

「吹雪は、大丈夫かしらね」

 叢雲が、ぽつりと呟いた。

 アウルムによって精神と肉体を改造された吹雪は、とてつもない負担を日常的に抱えている。今では一日の半分を眠って過ごすようになっていた。おそらくアウルムにとって、幾田の監視など作戦の枝葉末節でしかないのだろう。どう幾田が動こうが、深海棲艦の勝利は揺るがない。その自信があるからこそ、常時幾田を監視せず、都合のよいときだけ吹雪を使うのだ。

「このまま疲弊が続けば、顕体が崩落しかねないわ」

「彼女を救う手立てがあるとすれば、アウルムと呼ばれている旗艦クラスの空母ヲ級を倒すか、深海棲艦の核を破壊するか」

 幾田が答える。ふたつとも、遥か遠い可能性だった。

 俯く叢雲の頭に、そっと手を乗せた。

「できる限り彼女をいたわってあげましょう。深海棲艦に屈した自責と屈辱に心を焼かれながらも、貴重な情報を持ちかえるために生き恥を晒す覚悟を決めた。裏切り者の疑念を向けられ、嫌悪と忌避の対象となることも厭わずに。年頃の少女ができる決断ではないわ。あなたの姉は尊敬に値する。立派な艦娘であると、わたしが保証する。だから、あなたも全力で自らの姉を誇りなさい」

 きっぱりと幾田は言った。叢雲はハッと目を見開く。強気な瞳に、少し涙が滲んでいた。

「ありがと。これで吹雪も少しは報われる」

 照れ隠しのようにそっぽを向いて叢雲は言った。

 やがて二人は桟橋の先端に辿りついた。

 予定時刻ちょうど、海中から巨大な影が浮き上がる。伊401の艦体が、その巨体には不釣り合いなほど寂れた港に姿を現した。潜水空母として生を受けた伊401は、理論上地球を一周半もできる航続能力を誇る。長期に渡る隠密航海を得意とする艦だ。顕体による卓越した操舵により、大きな波紋を経てずコンクリートの桟橋に接舷する。艦橋のハッチを開け、ひとりの軍人が幾田の前に降り立った。

「急に呼びつけたと思いきや、辺鄙な島に出迎えが二人だけとは、よほど隠し事が好きらしい」

 男は抑揚のない声で言った。

 潜水艦娘部隊の指揮官にして、呉鎮守府の教育担当官である福井靖少佐だった。さらに沖合には、駆逐艦にしては大きな艦影が一隻、手持無沙汰に停泊している。幾田が教育を担当していた最速の駆逐艦・島風だ。彼女が福井をここまで誘導してきた。

「近々、本土の艦娘の全戦力をもって、深海棲艦の包囲突破作戦が発動されるわ。その際、おそらく包囲網を抜けられるのは、隠密行動に適した潜水艦群か、高速小型戦力の島風くらいでしょう。これから前線に向かうあなたに、どうしても知っておいてほしい情報がある」

 幾田は、そう言って防水加工の施された封筒を福井に手渡す。

「必ず目を通しておいて。一度前線に出てしまえば、本土に戻って来るのは困難になるでしょう。前線で何をすべきか、それを読んだ上で判断してほしい。わたしが知る限り全ての情報を開示してある」

 幾田の目は真剣だった。これまでの彼女とは違う、何かを覚悟したような強い光が宿っていた。

「前線のことは前線の判断に任せる、ということだな?」

「というより、任せるしかなくなったのよ。深海棲艦が攻勢に転じた以上、まともな輸送網の保持は期待できない。タンカー護衛に戦艦をつけるわけにはいかない。つけたとしても、敵機動部隊の餌食になることは目に見えている」

「では、この機密情報も、俺の一存で開示する相手を決めていいということか?」

「その通りよ」

 よどみなく幾田は答えた。

「もはや前線に本土の声は届かないし、本土は本土でやらなければならないことが山積み。あなたのような信頼のおける人物に、この先の戦いを託したい。どのように戦争に決着をつけるのか、しっかり艦娘の気持ちと向き合ってあげて」

 幾田は、ちらりと叢雲に視線を落とした。もしかしたら、この子にだけは望む戦いをさせてあげられないかもしれない。そう考えると胸が痛んだ。

「だが、前線の連中は本土に戻りたがるだろう。トラック、タラワ、とくにマリアナ、中部太平洋の戦力は必ず本土を目指すと言ってもいい」

「無謀だけど、そうするでしょうね。深海棲艦の機動部隊が、みすみす獲物を放っておくはずがないというのに」

 マリアナは全滅かもしれないわね、と幾田は思った。

「そうだな。今回の出撃作戦も、ほとんど成功する見込みはない」

 ときとして戦争は人間を追い詰め、合理的判断を奪う。合理性が失われた戦争は、さらなる泥沼へと落ちていく。

「この情報は、しっかり活用させてもらう。ここだけの話、俺は深海棲艦が本土と前線を分断したのは、むしろ好都合だと考えている」

 予想外の発言だった。幾田は黙って続きを促す。

「余計な政治的駆け引きに艦娘を巻きこまなくて済むからだ。彼女は、深海棲艦と戦うために存在している。戦うことで人類を守れると信じているからだ。俺は提督として、彼女たちの純粋な想いを尊重したい」

 福井は毅然として言った。彼はもとより、渋谷のように軍人である自分と提督である自分との葛藤に悩むような男ではなかった。出会った直後から艦娘に没頭し、艦娘のための提督であることだけに専念してきた。彼は帝国の未来より艦娘の未来を優先して考える。ゆえに、幾田は安心して情報を託すことができた。

「きみは、この国の形を変えるつもりなのか?」

 福井が尋ねる。その問いに、幾田は迷うことなく頷いた。

「そうよ。この命を捧げる覚悟」

「わかった。前線は、こちらに任せておけ。必ず深海棲艦を、この世界から撃滅してみせる。あとのことは頼んだ」

 福井は言った。提督である以上、前線で敵と見えるのが仕事だ。しかし、この国は未来を背負う若い力を必要としている。幾田が適任だと彼は思った。艦娘のことを深く理解しつつ、広い視野をもって国の行く末を案じることができるからだ。初期艦を持った五提督の中なら、彼女が最も政治的駆け引きに向いている。

 そして福井は、出港の時間を迎えた。これから横須賀の主力に合流し、太平洋突破作戦の一翼を担うのだ。

「では、行ってくる」

「島風を、よろしくお願いね」

 ふたりは固い握手をかわす。掴みどころのない女だと思っていたが、根底にあるのは、自分が大切にしている何かへの、ゆるぎない愛情のようだ。福井は初めて彼女という人間を理解した気がした。

 伊401が潜行していく。

 これで、ようやく肩の荷がひとつ降りた。自然に溜息が洩れる。

「彼はどう思うでしょうね。白峰が深海の王になったことや、艦娘と深海棲艦の始まりを知ったとき、どういう決断を下すのか。これで本土の誰も前線に介入できなくなる。政治的いざこざに艦娘が振り回される時代は終わる。艦娘と提督たちが出す答えを信じましょう。さあ、帰ろう。わたしたちは本土で任務が待っているわ」

 叢雲を引き連れ、幾田は桟橋を後にした。

 

 一九四四年六月一日。

 伊勢、日向を中心とする艦隊が、マリアナ諸島に向けて横須賀から出港した。しかし、大方の予想通り強力無比な深海棲艦の艦隊に敗れ、ほうほうのていで本土に帰りついた。唯一、状況が分からないのが、福井靖少佐率いる潜水艦部隊と、洋上護衛にあたっていた駆逐艦・島風だった。この二者とは連絡が途絶え、もはや生死すら確認できない。

幾田は確信していた。おそらく彼らだけは包囲網を抜けたのだと。全ては彼女の計算通りだった。部隊主力の航行予定を、吹雪を通してアウルムに密告したのは彼女だった。しかし、島風と潜水艦については、まったく情報を漏らしていない。おかげで彼女たちは、味方にも敵にも動向を知られることなく中部太平洋に潜り込むことに成功した。

最重要機密を握った福井は、果たしてどこを目指して進むのか。マリアナかトラックか、それともあの列島か。前線の運命は、前線にのみ委ねられている。

 



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第十六話 マリアナを出る

 中部太平洋と本土を繋ぐ要、マリアナ諸島。そこに取り残された第三艦隊と輸送任務中だった駆逐隊に、新たな魔の手が忍びよる。大鳳、翔鶴、瑞鶴の記憶に刻まれたマリアナ沖を巡る戦いが、この世界でも再現されようとしていた。


 一九四四年六月。

 マリアナ諸島で訓練を行っていたさなか、深海棲艦による大洋分断を受けた第三艦隊は、グアム島基地に身を寄せていた。北マリアナ諸島を構成するパハロス島、アグリハン島、アナタハン島周辺は深海棲艦の機動部隊が跳梁跋扈している。彼我の勢力を分ける分水嶺は、サイパン島だった。マリアナ諸島は、中部太平洋の基盤ともいうべき場所だ。マーシャル諸島、トラック諸島、パラオ諸島への輸送網は、マリアナから伸びている。もしマリアナが敵の手に落ちれば、深海棲艦の本土襲撃を容易にするばかりか、中部太平洋の各泊地との連絡が絶望的になり、いよいよ前線に取り残された部隊は、深海棲艦の大艦隊に各個撃破されるのを待つのみである。よって、「赤城」「加賀」轟沈後に再編成された「大鳳」「翔鶴」「瑞鶴」からなる新・第一航空戦隊は、マリアナから動けずにいた。マリアナを死守するという気概と、いつ敵に襲われるか分からない恐怖が、彼女と軍人たちをグアムに縛りつけていた。

 だが籠城には限界がある。補給が断たれている以上、いずれは動かなければならない。第三艦隊司令部では、いつ、どのように部隊を動かすのか論争が始まっていた。主流となっているのは、本土に向けて出撃するという方針だ。北マリアナ諸島に巣くう深海棲艦を撃滅しつつ、本土との輸送網を取り戻す。一見合理的に見える作戦に、多くの参謀が賛成した。しかし一人だけ、強固に反対し続ける者がいた。

 熊勇次郎少佐である。

 彼の直卒である第六、第八駆逐隊を率いての大規模輸送任務中、ちょうどマリアナ諸島に差しかかったとき大洋が分断された。それ以来、第三艦隊の付属部隊となっていた。彼は自軍の現状を、どこまでも冷静に分析していた。まず、駆逐艦の戦力。これについては申し分ないほど合理的に強化されている。敵潜水艦の恐ろしさは、数々の戦いと輸送船の犠牲により、痛いほど思い知っていた。極度の艦隊決戦仕様だった装備は改められ、駆逐艦は十分な対潜装備を持つに至った。しかし問題は、主力となる空母艦載機、その搭乗員の練度である。新・一航戦は、もともと訓練のためにマリアナに停泊していた。ポートモレスビーに集中している熟練搭乗員に比べ、腕の差は一目瞭然。決戦のために温存されていた熟練搭乗員だが、マリアナに移動させることもできない。よって、敵機動部隊との戦いは大いに不安が残る。熊は、何度も第三艦隊司令長官である小沢治三郎中将に意見具申をした。しかし小沢中将は、あくまで空母による艦隊決戦にこだわった。マリアナを守るには、どうしても敵機動部隊の壊滅を必要だという信念ゆえだった。

「では、きみは、このままマリアナから一歩も動くな、と言いたいのかね?」

 旗艦・大鳳の作戦会議室で、小沢中将が問うた。

「そうは申しておりません。しかし、本土に至る道を敵が疎かにするはずがない。おそらく大陸封鎖級の、もっとも強靭で巨大な部隊が待ち構えている可能性が高い。そこに第三艦隊だけで突入するのは、あまりに危険です。包囲網の突破を目指すなら、タラワ、トラック、パラオに散らばる中部太平洋戦力だけでも統合し、一点に集中させるべきです」

 熊は反論する。あの深海棲艦が、生半可なことで大洋分断を放棄するとは思えない。せめてトラックの第二艦隊と合流してから決戦に挑むべきだと考えていた。

「各泊地との連絡が取れない以上、彼らによる援軍は期待できない。ぐずぐずしていては、味方の士気を下げる一方で燃料事情も厳しくなる。攻めるなら今だ」

 参謀長の古村啓蔵少将が厳しい口調で言い放つ。

「わが艦隊の進路はすでに決している。北マリアナの敵機動部隊を打ち破り、本土に帰還する」

 小沢中将の一言で、会議は終了となった。

 熊はひとり、大鳳の飛行甲板を歩く。他に類を見ない、装甲空母という強力な艦種。しかし、空母の戦闘力は、あくまで艦載機搭乗員の技量で決まる。艦自体の性能が敵よりも優れていたところで、それが勝利に直結するわけではない。

「こんにちは、提督さん!」

 不意に背後から声がかかる。振り返ってみると、髪をふたつ結びにした艦娘が笑っていた。会議にも出席していた、三大空母の一角、航空母艦「瑞鶴」だった。

「あなたの言ってること、間違いではないと思うんだ。搭乗員の皆が練度不足だというのは本当だし、正直、わたしたちだけでマリアナの包囲を破れるのか不安になる」

 普段の明るさは少し陰りを見せ、しおらしく瑞鶴は言った。

「きみが、会議の席でアウトレンジ戦法について言及したときは、肝が冷えたよ」

 熊が茶化すように言うと、瑞鶴は俯いて顔を赤らめる。アウトレンジ戦法とは、艦載機の飛行距離を活かして、敵の攻撃範囲外から先制攻撃を加えるという一連の作戦である。

「軽はずみだったって、今なら分かる。確かに、今の練度じゃアウトレンジどころか、至近距離で戦うだけで精いっぱいだって。提督さんが強固に反対してくれたから、アウトレンジ戦法は見送られることになった。どうして、こんな当たり前の判断ができなかったんだろう?」

 顔を伏せたまま瑞鶴は言った。熊は、そんな彼女に優しく微笑みかける。

「いいんだ。きみたちは、まだまだ実戦での経験が少ない。それに戦場では、勝利という目的を追求するあまり、そこに至る過程の合理性を無視してしまう傾向がある」

「ありがとう。二度と七面鳥なんて呼ばせるものかって、そればっかりで頭がいっぱいになってた」

「参謀の一人として、当然のことをしたまでだ。正しい見識と豊かな経験をもって、指揮官の状況判断に資するのが参謀の務めだからな」

 熊は言った。瑞鶴の表情に、やっと生来の快活さが戻ってきた。

「ただ、出撃するのは確実のようだ。僕の率いる第六、第八駆逐隊は、きみを護衛する。臨時で僕の指揮下に入っている第一七駆逐隊は、きみの僚艦である瑞鳳を守る予定だ」

 塚本信吾少佐の直卒である、第一七駆逐隊「磯風」「浜風」「浦風」「谷風」の四隻は、やはり輸送任務中にマリアナに取り残された面々だ。磯風を饗導艦にいただく第一七駆は、顔見知りだった熊の指揮下に入ることになった。

「おそらく僕は、司令部付参謀として、きみに乗艦することになると思う。第六駆の響、第八駆の朝潮は、饗導艦として十分な経験を積んだ。僕が直接乗り込んで指揮をせずとも、遺憾なく実力を発揮してくれるはずだ。だから敵潜水艦になど怯えることなく、安心して戦ってくれ。厳しい戦いになるだろうが、共に乗り越えていこう。よろしく頼むよ、瑞鶴」

 そう言って、熊は瑞鶴に手を差し伸べた。一瞬とまどいを見せるも、瑞鶴は笑顔で彼の手をしっかり握り返す。ごつごつしているが温かだった。彼の大きな掌は、幼いわが子を守るように、瑞鶴の華奢な手をすっぽり包み隠した。

 

 マリアナ北上作戦における、戦力の編成が終わった。

 

 第三艦隊司令長官 小沢治三郎中将

  第一航空戦隊 小沢中将直卒

           空母「大鳳」「翔鶴」「瑞鶴」

  第三航空戦隊 城島高次少将

           軽母「飛鷹」「隼鷹」

  第四航空戦隊 大林末雄少将

           軽母「瑞鳳」「龍鳳」

  第五戦隊   長井満少将

           重巡「妙高」「羽黒」

  第一三戦隊  木村進少将

           軽巡「矢矧」

   第四駆逐隊  饗導艦「野分」

    駆逐「野分」「舞風」「山雲」

   第六駆逐隊  饗導艦「響」    

    駆逐「響」「暁」「雷」「電」

   第八駆逐隊  饗導艦「朝潮」    

    駆逐「朝潮」「満潮」「大潮」「荒潮」

   第一〇駆逐隊 饗導艦「秋雲」

    駆逐「秋雲」「朝雲」「旗風」

   第一七駆逐隊 饗導艦「磯風」    

    駆逐「磯風」「浜風」「浦風」「谷風」

   第二七駆逐隊 饗導艦「有明」

    駆逐「有明」「夕暮」「夕凪」「夕月」

   第六一駆逐隊 饗導艦「秋月」    

    駆逐「秋月」「照月」「若月」「涼月」

 

 

 人間の乗組員は空母、軽母、重巡、軽巡に分散した。空母の護衛と敵潜水艦の掃討が主な任務となる駆逐隊は、それぞれの隊の饗導艦が指揮を取ることとなった。偶然にも、大洋分断時に多くの駆逐隊がマリアナに集まっていたのは幸いだ。豊富な対空、対潜装備は護衛戦にはうってつけ。いざとなれば空母の盾となって沈むことを見越した人員配置だった。駆逐艦娘の命を、使い捨ての道具のように扱う作戦に、熊は少なからず憤りを覚えていた。できることなら、自分が率いる第六か第八駆逐隊に乗り込み、直接指揮を取りたかった。しかし実戦経験豊富で、かつ艦娘の扱いにも長けた熊は、あくまで参謀のひとりとして瑞鶴に乗艦することとなった。

 攻勢に転じた深海棲艦との、これが初めての交戦となる。

 六月一九日、〇三三〇。

 空母、大鳳の飛行甲板から、四〇機の索敵機が発進した。約一時間後、サイパン島西方面に、敵駆逐艦発見の知らせを受けた。敵機動部隊の前衛である可能性は高い。今のところ対空砲火は受けておらず、ゆっくりと敵は南下を続けているようだった。空母の中では、慌ただしく艦載機の発艦準備が始まった。今回の作戦は、史上まれに見る空母機動部隊同士の決戦となりうる。

 続いて索敵機から、敵重巡二、空母二からなる機動部隊が南下しているとの知らせが入った。これを受けて、〇七二五、第三航空戦隊「飛鷹」「隼鷹」から、第一次攻撃隊が発艦した。

「ヒコーキさんたち、大丈夫かな」

 艦橋から暁の空を見上げ、瑞鶴が言った。

 今回の作戦では、艦上爆撃機の不足が深刻だった。よって普段は艦上戦闘機として運用される零戦五二型に、二五〇キロ爆弾を搭載した。当然ながら、重たい爆弾を抱えたことで機動力は格段に下がってしまう。索敵後、即発艦による先手必勝でなければ、敵の直衛機に残らず撃ち落とされてしまうだろう。

「今は、自分のできることをしよう」

 熊は言った。瑞鶴の周りは、第六駆逐隊が輪形陣を組んでいる。ソナーにより海中にも目を光らせ、潜水艦はおろか魚雷一発たりとも空母に近づけさせない気概だ。

「敵機動部隊との交戦が始まったみたい」

 瑞鶴は言った。思ったよりも敵の動きが緩慢だった。これなら、うまく爆弾や魚雷が当たれば、敵の空母を撃滅できるかもしれない。

 しかし、熊は敵発見の通信を受けた直後から、拭えない違和感に苛まれていた。おかしい。サイパン島は、マリアナ諸島の中心に位置する、いわば要の島。そこを敵が疎かにするはずがないのだ。爆撃成功の知らせが次々に飛び込み、にわかに明るい声で騒がしくなる艦橋。瑞鶴も、ほっと一息ついているところだった。

「敵の配置を、もう一度確認したい」

 熊は言った。彼の要望に答え、瑞鶴は机上の海図に、敵を示す赤い駒を置いていく。空母からなる機動部隊を緩やかに囲うように、かなり広い間隔で駆逐艦が配置されている。輪形陣にしては、距離を開けすぎており、一隻一隻の駆逐艦は完全に孤立していた。一見、海戦の常識に反する不可解な陣形。第三艦隊に属する軍人は、誰ひとりとして敵の意図を見抜くことはできず、首をひねるばかりだった。それどころか、艦爆の成功を起点に、一気にマリアナを北上しようとする機運さえ生まれている。

 ただひとり、熊勇次郎を除いては。

 遥か昔、これに似た布陣を見たことがあった。記憶は兵学校時代までさかのぼる。少尉候補生として訓練を受けていたときのことだ。兵棋演習にて、ある男と対決したことがある。その男は、前衛の駆逐艦を、今まで見たことのない奇妙な形に並べていた。これ幸いと、熊が敵駆逐艦の各個撃破を目指すべく部隊を動かしたとき、突然、奥に控えていたはずの空母群から敵艦載機が飛来した。直衛機を出す暇もなく、熊の部隊は爆撃と雷撃の雨に晒されて壊滅した。当たり前だが、こんな演習は無効であると熊は主張した。なぜ駆逐艦を襲撃した時点で、我の場所が敵にバレているのか、こんなことはありえないはずだった。しかし男は涼しい顔をして言った。『レーダー技術の発達によって、この戦術は可能となる』。当時、海軍にはレーダーを理解している人間は少なく、重要視もしていなかった。艦娘による通信網の有効性に気づき、ようやく自軍でもレーダー装備の開発を始めたほどである。ゆえに、見識豊かだった熊でさえ、男の言葉が空想じみた夢物語に聞こえた。なにせ艦隊決戦と大艦巨砲主義が主流だった時代である。空母の運用さえ、積極的には考えられていなかった。そんな時代だからこそ、男の戦術は余計に現実味が薄く思えた。実現できそうにない装備を、真剣な演習に持ち込むとは何事か、と彼にしては珍しく軽い怒りを感じた。

 そのおかげで、男の戦術は十数年たった今でも、強烈に記憶に焼き付いていた。

 早期警戒艦戦術。

 英語に訳すならば、レーダーピケット艦戦術。

 主力から大きく離れた位置に囮として駆逐艦を配置し、敵艦隊を補足。レーダーでその位置を伝える。艦載機による攻撃が来れば、その飛来方位から敵空母のいる方角を割り出す。敵の情報を掴むことで、敵に対して常に有利な態勢から攻撃をかけることが可能となる。

 この画期的な戦術を編み出したのは、希代の天才と呼ばれた男。熊と同じ初期艦の担当者であり、駆逐艦乗りとして華々しい戦績を残して海に沈んだ。男は、自らの死をもって悠久の英雄となった。

 白峰晴瀬。

 その名前が頭をよぎった瞬間、艦橋が蜘蛛の子を散らしたように慌ただしくなった。

「索敵機より入電。敵艦載機の『出現』により、零戦爆戦が、43機中、32機撃墜!」

 悲痛な声で伝令が叫ぶ。その報告から一転、飛び込んでくる情報は艦橋の軍人たちに阿鼻叫喚をもたらした。次々と撃墜されていく自軍の艦載機。報告は断片的であり、敵がどこから来たのかも分からない。だが、目標にしていた空母二隻からの攻撃でないことだけは、熊には察しがついた。おそらく空母二、重巡二の敵部隊は、こちらの目をひくための巨大な囮だったのだ。もしかしたら敵の空母は、艦載機など一機も積んでいないかもしれない。肉を切らせて骨を断つ、深海棲艦らしい冷徹なまでの合理性のなせる業だった。

「偵察機からの信号、途絶!」

 なお悪化する戦況。これで敵の情報が遮断されてしまった。取り乱す瑞鶴をなだめながら、熊は毅然と艦長席の前に立つ。

「艦隊の進路変更を意見具申します」

 熊は言った。敵は、我の艦載機の飛来した方角を割り出し、直接、空母に爆撃をしかけてくる可能性が高い。敵艦載機が押し寄せる前に、進路を変えなければならない。

「攻撃隊の収容はどうする?」

 瑞鶴艦長、貝塚武男大佐は冷静に尋ねた。進路を変えれば、帰還した攻撃隊が着艦できない恐れがある。しかし熊は意見を変えなかった。

「第一次攻撃隊は、ほぼ壊滅状態です。生き残った機には暗号で次の進路を伝え、帰艦を促しましょう。ただし、必ず進路の偽装を行わせます」

 迷いのない言葉だった。敗走する艦載機は、敵をおびき寄せてしまう可能性があった。ゆえに、ジグザグに飛びながら空母を目指してもらう必要がある。むろん、敵に撃墜される可能性は高まるが、わずかな艦載機のために第三艦隊全ての艦と機を危険に晒すことはできない。指揮官として非情な決断が迫られていた。

 貝塚艦長は、熊の意見を受け入れた。すぐさま第三艦隊旗艦「大鳳」に通信を送る。だが旗艦からの返答は、否だった。すでに零戦234機のうち、三分の一が、不足している爆撃機の代用として改造されていた。アウトレンジ戦法は取らず、このまま直進して敵機動部隊の主力を叩くというのが艦隊の方針だった。

「今新たに攻撃隊を発艦させても、敵に大した損害を与えらぬまま返り討ちにされるだけです! 機体と艦隊を無駄に消耗することはできません。戦力の集中なきまま、ここで我らの空母機動部隊が壊滅すれば、深海棲艦の包囲網突破は絶望的になります」

 熊は、無線を通して直接、司令部に意見する。相手は、空母二隻を平然と囮に使っている。主力の規模が、どれだけ大きいか想像がつく。それでもマリアナを敵に渡してはならないという信念、ここで攻撃を躊躇えば、中部太平洋からの脱出が永遠に敵わなくなるのではという恐怖が、艦隊から冷静な思考を奪い、闇雲に艦隊決戦を推し進めている。

 〇七四五、ついに第一航空戦隊「大鳳」「翔鶴」「瑞鶴」から、第二次攻撃隊が発艦した。ところが五〇海里も進まないうちに、敵艦載機と遭遇。乱戦のすえ、敵に一矢報いることも叶わず攻撃隊の大半が海に消えた。

 〇八一〇、ついにサイパンの島影が水平線に見えた。いよいよマリアナに巣くう敵の本丸に突入しようとしたとき、圧倒的な絶望が同時に顔を出した。

『敵艦見ゆ!』

 第一三戦隊のリーダーとして、艦列の先頭で駆逐艦たちを率いていた軽巡「矢矧」から通信が入った。軍人たちは我先に艦橋の窓に殺到し、双眼鏡を覗きこむ。これまで幻影のごとく戦場を引っ掻きまわした敵主力が、ついにその姿を現した。まだ小さなサイパンの島影から、続々と連なり出ていく艦隊。電探に引っ掛からなかったのは、島の背後に隠れていたからだ。

『少なくとも、空母六、重巡三、軽巡二、駆逐艦多数を視認! 高速にて我が艦隊に接近! どの艦も旗艦クラス!』

 あの冷静沈着な矢矧が、わずかに声を震わせている。

 想像を遥かに超えるほど、敵艦隊は巨大だった。やがて超大型空母の艦列から、黒い煙のようなものが美しい曲線を描いて空に立ち上る。それらは全て艦載機の群れだった。目算で200を超える数の敵機が、艦娘たちを狩るべく大編隊を組んでいる。瑞鶴の艦内に対空戦闘の警報が鳴り響く。

『瑞鶴、こちら響。二時の方向より新たな敵艦隊出現。空母四、軽巡三、駆逐艦一二を視認』

 瑞鶴の護衛をしている響からも通信が入った。敵の第二群が海上に姿を現した。さらに報告は続く。今度は、艦列の左翼に展開していた第三航空戦隊の飛鷹から叫び声が聞こえてきた。

『敵艦見ゆ! 六時の方向、空母四、軽巡三!』

 いよいよ事態は絶望的な状況になった。敵の第三群まで目視できる距離まで接近してきた。三方向から囲まれたことになる。敵がここまで迫って来たのは、おそらく人類側に熟練の搭乗員がいないと判断したからだろう。このままでは、艦載機どころか航空母艦そのものが七面鳥のごとく撃ち沈められてしまう。敵の大型空母は、容赦なく艦爆、艦攻を繰り出してきた。

 瑞鶴の脳裏に、あのときの悪夢がよぎる。弱々しく撃ち落とされていく味方の艦載機。降り注ぐ爆弾の雨。そして雷撃。横腹に魚雷を立て続けにくらい、沈んでいた姉の姿。そして、たった一発の魚雷で大爆発を起こし、装甲空母の本領を発揮できないまま海の藻屑と消えた大鳳。だが、今の状況は、あのときよりも遥かに悪い。彼我の戦力差は圧倒的。敵の戦力や配置から見ても、こちらを根絶やしにする作戦であることは明らか。このままでは冗談抜きに第三艦隊は全滅してしまう。

 まだ実戦経験の少ない瑞鶴は、パニックになりかけていた。慌てふためく軍人を掻き分けるようにして、ひとりの巨漢が背後から彼女に歩み寄る。そして彼は、そっと瑞鶴の肩に手を乗せた。

「落ち着きなさい。ここはきみの艦だ。きみが取り乱してはならないよ」

 深く静かな声で熊は言った。混乱する参謀たちの中、この事態を予測していた熊だけは、まだ冷静でいられた。すでに彼の頭には、この後の展開が明瞭に描かれていた。瑞鶴をともない、すぐに艦長に意見を申し立てる。

「我が艦隊の空母は、すぐ零戦の爆装を解除し、総力をもって敵を迎え討つべきです」

 生き残るためには、もうこれしかない。敵の殲滅を断念し、全ての力を防御に回す。そのことが、帝国海軍にとって屈辱的な敗走を意味していても。貝塚艦長の判断は早かった。すぐ他の空母に対し意見を伝えるとともに、瑞鶴格納庫に対し、爆装を解除するよう伝達した。緊急事態にあっては、個々の艦が独自の判断で動くように、と出撃前に小沢中将から仰せつかっていた。今がまさにその時だ。

 爆装を外すには、少なくとも三〇分はかかる。その間、空母は回避運動を取りつつ、駆逐艦とともに対空砲火に専念せねばならない。艦娘たちは現状を正しく理解した。空母は零戦を艦上戦闘機に戻す作業に取り掛かり、駆逐艦は対空戦闘の準備を進めていく。

「第六駆逐隊、ここが正念場だ。第八、第一七駆逐、自分の持ち場をしっかり守れ。対空と対潜が諸君らの任務だ」

 熊が通信機に叫んだ。そのわずか五分後、敵主力の第一陣が飛来する。

『駆逐艦、対空戦闘始め!』

 矢矧の声が飛ぶ。

 機銃掃射とともに、これまで使用されたことのない砲弾が艦娘から射出された。それは直上の敵機に向かってまっすぐ飛んでいき、爆発するとともに花火のように鉄片をばらまく。半径にして三五メートル範囲の敵機が、鋼の暴風に巻き込まれ、機体をズタズタにされて墜落していった。もともとは陸軍が開発していた、四式二〇センチ噴進砲を、対空用に改造した新兵器だ。一九四四年始めから少しずつ配備され、実戦で使用されるのは今回が初だった。

『敵をよく引きつけて! 闇雲に発射せず、きちんと間隔と時間を計って!』

 防空駆逐艦として、駆逐艦の対空戦闘訓練を引き受けていた秋月から指示の声が飛ぶ。思わぬ新兵器の登場に、敵艦載機は列を崩し、さながら巣を壊され迷走するスズメバチのように空を掻き乱す。

 その間に、艦隊は回避行動をとりつつ大きく転舵した。これまでの進路とは真逆、すなわち、敵機動部隊の包囲を脱出するための逃走ルートだ。ここまで戦力差が明らかならば、艦隊決戦など望めない。小沢中将は、逃げて生き残る道を選んだ。

 戦闘開始から十五分が経過したとき、対空火砲の隙をついて、敵艦爆が急降下をかけた。爆弾はまっすぐ、旗艦・大鳳の飛行甲板に吸い込まれていく。爆発の起こった瞬間は、瑞鶴の艦橋からも見えた。しかし分厚い装甲の施された大鳳の艦体はびくともせず、平然と航行を続けている。このタイミングで、あらゆる方向から敵潜水艦の雷撃が放たれた。しかし、対潜戦闘を重視して駆逐艦たちには教育が施されていた。艦娘に提督と慕われている若い軍人の慧眼により、爆雷にて次々と敵潜を沈めていく駆逐艦たち。艦隊決戦主義という夢物語から、いち早く目を覚ましたのは幼い駆逐艦だった。空母には一発も当てさせないという決意が、瑞鶴の艦体にも伝わってくる。瑞鶴は自分の無力を噛みしめるよりも、身を呈して戦ってくれている駆逐艦たちに感謝した。

 敵の第二、第三陣が飛来する。ついに全ての零戦の爆装が解除され、計二三四機の戦闘機が全ての空母から放たれていく。かなりの技量が必要となる爆撃、雷撃に比べ、小回りの効きにくい敵爆撃機、雷撃機との戦いは比較的楽だった。しかし圧倒的な物量の前に航空優勢は取れないまま、次第に至近距離に爆弾が落ちるようになった。

「大丈夫、このまま回避行動を続ければ……」

 神経を機動に集中させ、汗を流しながら瑞鶴は呟く。このまま全速力で海域を離脱できれば、トラックやマーシャル諸島の泊地にいる味方と合流することも夢ではない。反撃の時を待つのだ、と自分に言い聞かせる。空母機動部隊は、真上での苛烈な防衛戦を繰り返しながら、しだいに敵を引き離していく。

 わずかに希望が見えた矢先。

 敵の第一群である六隻の大型空母。旗艦クラスの中でも、ひときわ巨大な空母から、計40機が新たに放たれる。それは他の機体を引き離し、別格の速度で艦娘たちに接近していた。その飛行甲板からは、異形の深海棲艦が戦場を見渡している。空母ヲ級の象徴とも言える頭部の構造物がない。瞳は金色に輝き、銀と海の青が混じったような美しい髪が、あたかも人間の少女のようになびいている。

 ヲ級の顕体は、艦載機たちに思念で命令を送る。40機から見た景色が、現実の視界と重なるように展開する。ヲ級には戦場の全てが見えていた。

 敵の艦載機はかなり手前から、海面すれすれの低空飛行に入り、対空砲火をかいくぐる。そして、海面に向かって魚雷ではなく爆弾を投擲し、機首を上げて一気に高高度に逃れる。その直後、艦娘の悲鳴が爆発音に重なった。

『なんだ、これは!』

 翔鶴を護衛していた第一七駆逐隊の饗導艦、磯風が狼狽した声を上げる。周囲を見渡すと、およそ半分の駆逐艦が何かしらダメージを受けている。まるで魚雷でも受けたかのように横腹から黒煙を上げていた。

『雷撃ではありません!』

 朝潮が通信に割り込む。敵機の動きを肉眼で逐一追っていた彼女は、これが潜水艦による攻撃でないことを理解していた。海に投げこまれたはずの爆弾は、まるで水面を跳ねる水きりの石のように、海面を飛び跳ねながら艦娘に吸い込まれていった。

 反跳爆弾。海軍が噴進砲を採用したのと同じく、深海棲艦も新たな戦術を切り拓いていた。おそるべきは、その命中率の高さだ。熟練の搭乗員でも、水平爆撃の命中率は五%、雷撃は一五%、急降下爆撃は二五%ほどだ。しかし、深海棲艦の反跳爆撃は、初めての試みであったにも関わらず、投擲された爆弾のおよそ三割が命中した。

 今回の戦いをモデルケースに、反跳爆撃を、深海棲艦の戦術のスタンダードとする。そうすれば少数精鋭を掲げる艦娘が最も苦手とする、大規模飽和攻撃が可能となる。金の瞳のヲ級は冷酷に考えを巡らせながら、じっと戦況を見つめていた。

『輪形陣の幅をつめろ! 空母を守れ!』

 矢矧から指示が飛ぶ。敵の第二波が、すでに北西の空から飛来している。その数、さきほどの倍近い、目算80機。ふたたび低空飛行に入っている。零戦は、艦隊直上の戦いだけで手いっぱい。援護は期待できない。

『大丈夫、わたしたちならやれる』

 第八駆の饗導艦、朝潮が言った。

『少し素早い魚雷だと思えばいい。対潜訓練は十分に受けた。その技能を応用すれば、きっと大丈夫だから』

 朝潮の声は、混乱していた駆逐艦に情熱と規律を蘇らせる。

 敵編隊は二手に分かれ、両側から艦隊を挟みこむようにして爆弾を放った。全ての艦娘が全身の感覚を研ぎ澄ませる。目算の距離、爆弾の風切り音、波の振れ方、あらゆる自然現象からの情報を読みとって、ここぞという瞬間に爆雷を放つ。爆発に巻き込まれ、敵の爆弾がつぎつぎと落されていく。しかし駆逐艦の抵抗をかいくぐった爆弾は、またしても艦隊に被害を与えた。鋭い悲鳴。空母・翔鶴が艦首に被弾していた。

 機関を破壊された艦は、無情にも艦隊の速度についていけず、艦列から落伍していく。弱った者は置き去りとなり、最後の盾として死力を尽くし、敵を迎え討つ。後ろを振り返ることは許されない。生き残ることが使命だった。

 グアム島を七〇海里南下したところで、ようやく敵の追撃は止んだ。

 さんざん艦娘を追いたてたところで、ヲ級は攻撃止めの命令を出した。僚艦たちには、このまま追撃して艦娘を根絶やしにするべきだと意見する者もいた。しかし、提督の最上位命令は、マリアナ諸島から人類勢力を駆逐することだった。戦いの目標はすでに達成されている。これ以上の深追いは無用であるとヲ級は判断した。どのみち、中部太平洋の艦娘は残らず撃滅するつもりでいた。奴等は、必ず戦力を立て直し、ふたたび本土を目指して北上してくるだろうと確信していた。

 さて、これからマリアナは忙しくなる。この大仕事が終われば、提督に授けてもらった知恵であるレーダーピケット艦と反跳爆撃を駆使して、本格的な艦娘狩りに乗りだそうとヲ級は思った。深海棲艦の美しく合理的なシステムから、唐突に分離してしまった癌細胞。それが艦娘だ。世界を蝕む悪を根絶やしにするため、彼女はこの艦隊を組んだのだ。

 深海棲艦の中でも最強の機動部隊、通称『黄金艦隊』を率いる空母ヲ級・アウルムは、静寂に包まれるサイパン島に陣を敷いた。島の周りに、つぎつぎと黒い影が浮上してくる。かつてソロン泊地を強襲した、潜水揚陸艦だった。開いたハッチから、蠢く何かが這い出してくる。グラキエスの飽くなき探求心の結晶とも言うべき存在が、獲物に群がる蟻のように列をつくり、サイパンの地を蹂躙していった。

 

 

 あれだけの大艦隊の襲撃を受けたにも関わらず、空母は生き残ることができた。これは奇跡だと熊は思う。駆逐艦が命がけの護衛戦をしてくれたことで、空母は機動に意識を集中することができた。結果、大鳳と翔鶴は小破だけで事なきを得た。他にも龍鳳、瑞鳳、飛鷹が中破したが、いずれも航行に支障はない。だが駆逐艦の被害は甚大だった。旗風、夕凪、夕暮、若月、涼月が轟沈した。そのほかにも、荒潮、大潮、谷風が反跳爆弾の直撃をくらって、機関に損傷を受けて大破し、今後の作戦参加は厳しくなった。ほぼ無傷の駆逐艦は、二、三隻しかいない。幼い少女たちは、文字通り身を尽くして空母を守り抜いたのだ。

「ありがとう、提督さん。わたしの傍にいてくれて」

 艦橋の見張り台にて、瑞鶴は言った。先ほどの戦いが夢であったかのように、よく晴れた太平洋は風も波も穏やかだった。憔悴した瑞鶴の顔を見て、熊は安易な言葉をかけることができなかった。

「提督さんが、きちんと司令部に意見してくれたから、きっと翔鶴姉は助かったんだ。本当は艦娘であるわたしが冷静に戦局を判断しなくちゃいけないのに」

「きみはよく戦った。あれだけの敵を前にしても機動力を落さなかった。耐えるときは静かに耐えることも大切だ」

 熊は言った。しかし瑞鶴の表情は沈んだままだった。

「今回の戦いで思い知ったよ。空母って、弱いんだね」

 水平線を見つめながら、ぽつりと瑞鶴は言った。

「わたしは無我夢中で艦体を動かしていただけ。わたしは自分の身すら守れない。守ってくれるのは、ヒコーキさんや駆逐艦たち。攻撃も防御も自分ではままならない、他力本願な存在なんだ。そのくせ、わたしはアウトレンジ戦法なんて無茶を言って、搭乗員の皆を危険にさらしかけた。現状が見えていなかった。わたし、次に戦うときが怖い」

「きみは、まだ若い」

 瑞鶴の悲観を断ち切るように、きっぱりと熊は言った。

「いくら前世の記憶があるとはいえ、人間として過ごしたのは僅か三年と少し。戦場の全てを把握するには、きみたちはまだ幼すぎる。だから僕たち提督がいる。深海棲艦の出現以来、戦いは艦娘に頼りっぱなしだ。せめて今まで学んできた知識や経験だけでも、きみたちの役に立てたいと願っている。困ったときは、いくらでも僕らに頼ってくれ。それくらいしかできないからね」

 そう言って、熊は艦橋の手すりを優しくなでる。

「この艦はきみだ。栄えある一航戦の正規空母・瑞鶴の主は、他の誰でもない、きみなんだよ。だから自信を持ちなさい。僕のことは便利な戦闘手引書とでも思っていればいい」

 優しい声音で熊は言った。一九〇センチの巨躯を尊敬の面持ちで見上げ、瑞鶴は瞳を潤ませる。

「ヒトと艦娘が力を合わせれば、運命は変わるんだね。翔鶴姉も大鳳も、生きてマリアナを脱出することができた。わたし、頑張るよ。もう絶対、七面鳥だなんて言わせない!」

 瑞鶴の顔に持ち前の明るさが戻った。熊は内心、ほっと溜息をつく。繊細な少女の心を扱うのは、確かに神経を使う。艦の強さに反比例するように、その心は複雑で脆くなる。とくに実戦経験に乏しい、幼い魂は。最前線にて、艦娘の交流会を取り仕切っているらしい渋谷の苦労が身に沁みて分かった。

 

 第三艦隊は、トラック泊地を目指して航行していた。トラックには、武蔵を旗艦とする第二艦隊が停泊している。まずは味方の戦力と合流しなければならない。トラック泊地は、堆積したサンゴに囲まれた内海に存在する。内海には、十ほどの島が点在しており、それぞれに飛行場や港湾施設を持ち、泊地としての機能を持っていた。浅いサンゴ礁の上を船舶は航行することができず、内海に入るには、南水道か北水道を通るしかない。まさに天然の要害だった。そこに辿りつくことができれば、艦娘たちは心身を休めることができるし、ある程度、艦体の修理も可能だろう。

 だが、その期待は、またも裏切られることとなった。

 トラックは燃えていた。暁の光が、そのまま転写されたかのように、島々に炎が揺らめいている。朝焼けの空と対をなす黒煙が、もうもうと立ち上っていた。はるか西の水平線に敵の艦隊が見えた。どうやら、第三艦隊の出現を見て退却したらしい。

 艦隊は、比較的広い南水道から内海に入った。そこかしこに深海棲艦の残骸が横たわり、敵が内海にまで押し寄せる寸前だったことを物語る。南水道の入口には、戦艦「武蔵」、重巡「高雄」「愛宕」「最上」、軽巡「能代」が単縦陣を敷いていた。能代は煙突が吹き飛ばされており、魚雷を受けたらしく艦体が右に傾斜していた。それぞれの艦に戦闘の痕跡が色濃く残っている。いざとなれば大破着底してでも、水道を塞ぎ続けるつもりだったらしい。

 マリアナで第三艦隊が撤退戦を繰り広げている間、トラック島は空襲を受けていた。二日間にわたる空襲のすえ、港湾施設は徹底的に破壊された。守りきれなかった輸送船は二五隻が撃沈、多数の艦が爆撃により損害を受けた。唯一救いだったのは、下手に環礁の外の敵を叩こうとせず、終始防御のみに徹したことだった。のべ450もの敵機が来襲したが、約300の基地機は艦娘たちを守り抜いた。じりじりと生きたまま肉体を削ぎ落されるような戦いのなか、100機ほどが撃墜されたが、40機あった零戦は、わずか5機の損害にとどまった。

 第三艦隊は、まだ被害の少なかった火曜島に停泊した。火曜島は、輸送任務中の大洋分断によって取り残されていた、渋谷指揮下の第二駆逐隊「陽炎」「白露」「時雨」「夕立」「村雨」が奮戦した場所だった。村雨は空襲で被弾し、艦首を喪った状態で水曜島に退避している。仲間が大破したうえ、提督不在も不在という状況。しかし彼女たちは高い練度で動き、てきぱきと島の復興を支援する。その雄姿を見て、熊は渋谷の提督としての才能に感心した。並いる白露型の歴戦の戦士たちを、陽炎型のネームシップが一人で率いている。それなのに艦種同士で摩擦を起こさず、一致団結して危機に立ち向かっていた。渋谷のもとで学び戦ったからこそ、少女たちの人格は陶冶され、第一級戦力として認められたのだろう。

 熊は、ひとり火曜島の港湾から海を眺めていた。先ほど、北水道を警備している駆逐隊から連絡が入った。本土から出撃した艦娘の一部が、深海棲艦の包囲網を抜けてトラックに辿りついたらしい。トラック島の軍人たちは、この小さな奇跡に希望を貰った。どうやら護衛の駆逐艦と潜水艦からなる海中機動部隊のようだ。潜水艦ということは、思い当たる人物はひとりしかいない。やがて太陽の光が完全に沈む頃、不意に水面が揺れる。海底から立ち上る大量の泡とともに、見たこともない巨大な潜水艦が浮上する。それに続くように、伊号潜水艦たちが次々と海面に浮かびあがってきた。やがて潜水艦は、ゆっくりと港に近づく。

 先頭を進む旗艦・伊401の艦橋ハッチが開き、懐かしい戦友が顔を出した。

「無事で何よりだ」

 微笑みながら熊は言った。

「喜ぶのは早すぎる。決戦は、ここから始まるんだろう?」

 福井靖少佐は、伊401の顕体である『しおい』を伴い前線の地に降り立った。

 



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第十七話 インディペンデンス・イヴ

 マリアナから脱出した第三艦隊は、トラック空襲を耐えしのんだ第二艦隊と合流する。孤立した中部太平洋戦力は、本土に帰還することを望むも、次に進むべき道を決めあぐねていた。
 艦娘の意志を汲むことなく作戦を決定しようとする司令部に対し、ふたりの提督は密やかな抵抗を始める。その行動は、艦娘の心に、新たな何かを芽生えさせていた。


 一九四四年十月。

 トラック泊地にて第二艦隊と合流した第三艦隊は、戦闘を継続できる艦娘だけを集めてパラオ泊地に移動した。トラックに残った艦娘たちは、名目上、泊地防衛の戦力とされた。しかし実際のところは足手まといになるから置いてけぼりにされたのだ。再びトラックが空襲を受ける可能性も十分考慮した上での決断。姥捨て山ならぬ艦捨て島だった。熊は涙を飲んで大潮をトラックに残した。戦艦や空母が顕現するずっと前から、第八駆逐隊と一緒に戦ってきた。いつしか上司と部下の立場を乗り越え、戦友としての絆を結んでいた。

 パラオも何度か空襲を受けていたが、被害はトラックほどではない。焼け残った港湾施設を再建し、なんとか艦娘たちが身を休める環境を整えた。トラックから運び入れた燃料と合わせて、出撃できるのは、あと一回。

 どこに攻めるのか。どのように攻めるのか。議論は夜通し続いていた。必ず本土に帰りつくという決意は固かったが、このままパラオから北上しても南西諸島に辿りつく前に燃料が逼迫する。深海棲艦が分厚い本土封鎖を敷いているなら、燃料が底を尽きかけた状態で戦うのは、あまりに危険だった。中部太平洋から、一気に本土を目指すことは難しい。だから中継ぎとしてマリアナ諸島があった。しかし、マリアナは敵の手に落ちた。軍は今、切実に中継地を欲している。そうなると考えられる場所は限られてくる。

 フィリピンだ。

 あの島はアメリカの植民地だった。港湾や石油施設は期待できる。しかし問題も大きかった。もともと太平洋の覇権をめぐり、帝国と敵対する気満々だったアメリカである。アメリカフィリピン軍が、すんなり協力してくれるとは思えない。そして当然、深海棲艦が諸島海域に巣くっているだろう。敵の規模か分からないぶん、余計に不安を煽る。

 一か八か北上に賭けるか、それとも甚大な被害を覚悟のうえフィリピンを取りにいくか。どちらも大きなリスクを背負った二者択一。司令部は大いに頭を悩ませていた。なにせ、ここには議論に最終の決を与える存在がいない。すなわち連合艦隊司令長官が不在なのだ。南部太平洋では山口多聞中将が臨時で第一艦隊長官を引き受けており、連合艦隊長官が欠けた場合、第一艦隊長官が指揮権を持つことになるが、パラオの面々がそんなことを知る由もなく、さらに山口の命令が中部太平洋に届くわけでもない。第二艦隊の司令長官である栗田健男中将と、第三艦隊の長官である小沢治三郎中将は、階級上同列であり、この時点で指揮系統が真っ二つに分断されている。

 話し合いによる合意は、迅速な意思決定を妨げる。

 だが、指揮系統がどうとか以前に、司令部の会議には何の意味もないと熊は思っていた。なぜなら、艦娘が一人たりとも意志決定の場にいないからだ。これは上層部特有の、思考の弊害だった。艦娘と身近に接してこなかった高級将校は、艦娘を単なる軍艦としてしか見ていない。彼らにとって艦娘とは戦争の道具だった。この三年半、艦娘は従順に戦ってきた。彼女たちが反抗しないと分かると、軍人は艦娘に対する畏怖と尊敬の念を徐々に忘れ去っていった。その結果、中部太平洋の運命を決める一大決心を前にして、艦娘は意志決定の場から排除され、港近くの木造宿舎に押し込められている。さらに彼女たちと長く接してきたという理由で、熊と福井もまた、艦娘担当として彼女たちの世話を丸投げされていた。

 このままではいけない。実際に戦うのは艦娘だ。彼女たちの意見を欠いたまま艦隊は進路を決めるべきではない。熊は確固たる信念のもと、宿舎の一角に艦娘を集めた。戦艦、空母、軽母、重巡、軽巡はもちろん、各駆逐隊の代表も参加してくれた。灯火制限のため部屋に光源はなく、月と星の輝きを頼りに、それぞれの席につく。薄暗い部屋の片隅で、福井が傍観者として成り行きを見守っていた。

「きみたちの意見を聞かせてほしい」

 かいつまんで現状を説明する。いずれにせよ過酷な航路だ。長門や武蔵といった戦艦は厳しい瞳で考えこみ、対照的に幼い駆逐艦たちは思い思いに議論を始める。月が東の空に傾きかけたとき、彼女たちの意見は一致を見た。

「フィリピンに渡るべきだ」

 皆を代表して、武蔵が言った。

「もしあの海域を制圧することができれば、防御が容易になるのみならず、艦娘も人間もより安全な港に停泊できる。いざとなれば、複数ある海峡からの脱出も可能だ。今の我々の戦力ならば勝算は十分にある。しかし、本土に向かい北上してしまえば燃料がなくなり、どれだけ艦がいても戦うことができなくなる。戦わずして沈むのはゴメンだ」

 その言葉は正鵠を射ていた。部屋の隅にいた福井が、誰にも気づかれないほど微かに笑った。

「フィリピン。その名前を聞くと、少し気持ちが騒ぎます」

 第二艦隊の主力として奮闘してきた戦艦・扶桑が言った。

「おそらく前世の記憶が関係しているのでしょう。わたしは満足に戦えないまま、悲劇的な最期を遂げたはず。これまでは、辛く苦しいだけの悪夢だと思っていました。でも不思議ですね。今はあまり嫌じゃないんです。わたしには、こんなにたくさんの仲間たちがいる。ここは、かつてわたしが戦った海ではない。前世の悲劇を繰り返さない自信が湧いてくるのです」

 彼女の言葉に、姉妹艦である山城が深く頷く。そんな二人の様子を、第二駆逐隊の時雨が見つめていた。その瞳は、喜びと悲しみが入り混じった、複雑な感情を湛えていた。

「マリアナ沖から生きて脱出できて、わたしも思いました」

 済んだ声で大鳳が言った。

「乗り越える力があるのだと。運命を乗り越え、戦える力がわたしたちには備わっている。だから負けはしません。ヒトと艦娘が力を合わせれば、きっと勝利を掴めます」

 次々と艦娘たちが賛同する。これで彼女たちの意志は決まった。あとは提督である自分が、しっかりと上層部とのパイプ役を果たすことだ。彼女たちの想いをないがしろにしてはならない。熊は皆の前で誓った。

 秘密会議は、これで解散となった。しかし武蔵だけは、全員が退出した後も部屋に残っていた。

「ありがとう提督。わたしたちの想いを聞いてくれて」

 月あかりの下、熊の隣に肩を並べながら武蔵は言った。彼女の身長は二メートルを超えている。自分よりも背の高い人間を見るのは、熊にとって新鮮だった。

「いいんだ。むしろ、こんなことしかできなくて、きみたちに申し訳ないとさえ思う」

 熊は言った。もしかしたら、深海棲艦と戦うよりも過酷な運命を艦娘に押しつけてしまうかもしれない。かつてニューギニアの悲劇と呼ばれた事件を思い出す。西ニューギニアはオランダの支配域だった。今回、攻め入るのはアメリカの領土だ。そして司令部は、大日本帝国こそ太平洋の覇者であるべきと考えている。

 再び虐殺が起きるかもしれない。それも今度は艦娘の手で。

「アメリカ軍と戦うことになるやもしれん。提督は、そう考えているのだろう?」

 熊の表情を鋭く読みとり、武蔵は問うた。熊は、一言「そうだ」と答える。

「きみはどう思う? フィリピンをめぐる戦いで万が一、アメリカと敵対することになったら」

「嫌だな」

 迷いなく武蔵は断言する。

「わたしだけじゃない。艦娘なら誰だって人間を殺したくはないだろう。確かに、わたしたちは日本の名を持ち日本語を喋る、日本の海軍に所属する艦だ。しかし、わたしの存在意義はあくまで、深海棲艦と戦うことにある」

 眼鏡の奥で、少し寂しそうに目を細める。

「むろん、人間がそう単純な生き物でないことは承知している。艦娘という強力な力を手に入れたなら、深海棲艦の駆逐などという世界規模の慈善事業よりも、自国の利益確保のために使いたいのは当然だ。そういう政治的駆け引きが裏でなされているのは、なんとなく察しがつく。だが、この場を借りてハッキリ言わせてもらうなら、そんな人間の都合など、どうでもよいのだ。わたしたちがこの世界に顕現したのは、深海棲艦という悲劇を人類の歴史から根絶やしにするためだ。艦娘の崇高な使命をないがしろにし、救うべき人間を殺せというのなら、それは断じて許容できることではない」

 寂しさの中に、激しさを包んだ声で武蔵は言った。返す言葉もなかった。きっと彼女は、心のどこかで人間に裏切られたと感じていたはずだ。深海棲艦と戦うという名目のもと、帝国は上手に艦娘を利用して、わがもの顔で太平洋地域を実行支配していった。いつの間にか戦いの目的がすり替わっていた。

 国家という人間のエゴの塊に属する限り、艦娘の魂に自由は訪れない。

「戦うのはきみだ。追い詰められたときは、他の誰でもない、きみの心に従え。そのときは僕が全力で支援する」

 熊は言った。武蔵は困ったように笑う。

「提督は軍人だろう。従うべきは艦娘ではないはずだ」

「軍人である前に、僕は提督だ。長いこときみたちと付き合ってきて、ようやくその境地に辿りついた。思えば、初めて艦娘と出会ったとき、初期艦の電に見初められた瞬間から、僕の心は提督になっていたのだろう」

 あべこべじゃないか、と武蔵は苦笑する。だが熊を見つめる双眸には、確かな信頼が宿っていた。

「いざというときは、よろしく頼むよ。わたしの提督」

 そう言って、武蔵は自分の居室へと帰っていく。本当に、艦娘には提督しかいないのだなと実感した。遠いニューギニアの地にいるだろう、姉のことを思い出す。大和は出会えただろうか。自分の全てを曝け出し、魂を預けることのできる『提督』に。

 

 ただ波の音だけが押しては引いてを繰り返す港に、熊はひとり佇んでいた。頭が冴えて眠れそうになかった。気がつけば、いつも艦娘と戦いのことばかり考えている。目前に控える巨大な戦いが、艦娘の意にそぐわなければ、人間と艦娘の関係は取り返しのつかないところまで破壊されてしまうという予感があった。

「会議進行、お疲れさん」

 不意に暗がりから声がかかる。隣には見慣れた同期の姿があった。

「眠れないんだろ? 昔から、おまえは神経質なところがあったからな。ちょっと話につきあってくれ」

 福井は、そう言って熊を手招きする。彼が向かった先には、伊401の艦体が係留されていた。

「聞かれると、少し不味い話がある。ここなら絶対に安全だ」

 福井は一足先に401にのぼり、ハッチを開いて艦内に入った。熊にとって潜水艦娘の艦体に乗艦するのは初めてだった。井戸の底を思わせる暗闇のなかに、梯子をつかって降りていく。一分ほどかかって、ようやく足が廊下についた。非常燈のぼんやりとした光を頼りに、福井の背中を追いかける。百五十名あまりの乗員を収容できる艦内は、ずいぶんと広く、静かに感じた。やがて福井は艦内の一室に熊を投げ入れる。壁には備えつけの本棚が並び、おそらく技術関係の専門書がギッシリ詰まっている。普段は資料庫として利用しているのだろう。簡素な机とパイプ椅子だけが置かれた、無機質な部屋だった。

「さっきの話を聞いて、思った。おまえは帝国に仕える軍人としての自分より、艦娘の提督である自分を選んだのだと」

 椅子を勧めながら福井は言った。

「深海棲艦との戦い、その終焉を望むのならば必ず選ばなければならない。国家か、艦娘か。白峰のように、最初から艦娘のことを戦いの手段として割りきっている者もいる。渋谷のように、その生真面目さゆえに板ばさみにされ、苦悩し続ける者もいる。はたまた俺のように、最初から艦娘にしか興味がなかった異端者もいる。そして、おまえは結論を出した。艦娘の味方になると」

 福井は、本棚から封筒を取り出す。それを熊に差しだした。

「中部太平洋で、この情報を知るに値する人間はおまえだけだ。おまえならば全てを知ったうえで正しい道を歩けると信じている」

 福井は言った。手渡された封筒は重たかった。この中身はおそらく、今後の戦争を左右するほどの極秘事項だろう。そうでなければ貴重な海中機動部隊が、危険を冒してまで本土を出るはずがない。

 どれだけ時間が経ったか分からない。沈黙のなか、熊は資料の隅々まで目を通した。情報は頭の中に入ってくる。しかし、まだ心が追いついていなかった。まだ全ての事実を飲み込むことができない。

「……真実なのか?」

 短く福井に問う。

「そうだ」

 福井は答えた。

 その文書には幾田サヲトメが集めた情報が余すところなく記載されていた。白峰の遭難から始まり、彼の裏切り、それによって流出した人類の英知。飛躍的に進化する深海棲艦。ヲ級とレ級、ふたりの怪物。人類を裏切った男によって導かれる、深海の世界戦略。現在は吹雪を介して、敵の出方を窺っていることも熊は知った。読み進めるうち、これまで解消されなかった全ての疑問が、爽快感を伴い溶けていく。

「バラバラで力任せに暴れるだけだった深海棲艦が、どうして秩序と戦術という概念を手に入れたのか不思議だった。なるほど、白峰が教えたのだな。マリアナでの早期警戒艦戦術も、彼の入れ知恵か。合点がいった」

 資料を置き、熊は深く溜息をつく。

「渋谷も、白峰と接触していたらしい。トラックで幾田や渋谷と話す機会はあったが、そのときは二人とも何も教えてはくれなかった。たぶん、まだその時ではないと判断したんだろう」

 福井は言った。裏を返せば、幾田が情報を開示したということは、ついに動くときがきたということだ。深海棲艦への、真の反攻作戦を始めるときが。

「確かに、この状況ならば本国の政治的意図に艦娘が振り回されることはない。幾田は僕たちを向かわせる気だ。深海棲艦が生まれた場所、奴等の核となる場所に」

「吹雪から得た情報が真実ならば、艦娘も深海棲艦も、元をたどれば同じ存在だということになる。その核を破壊すれば深海棲艦はこの世界から消える。そして、―――」

 艦娘たちもまた、海へと還っていく。

 勝っても負けても人類の歴史は大きく変わる。今、自分たちは歴史の分岐点にいるのだと福井は思った。

「何という因果だろうか。人類の絶望である深海棲艦も、希望である艦娘も、人間の手でこの世界に招いてしまった可能性が高いなど」

 熊は呟く。まだ幾田が本国にも伝えていない情報だった。

「吹雪によると、その島は燃えていたそうだ。なにぶん彼女も深海棲艦の抽象的な記憶を覗いたにすぎないから、その情報がどこまで正しいのかは分からない。ただ、島を焼き尽くす炎は自然のものでないことは確かだそうだ。火は本来、自然の摂理のなかで循環していく存在だ。しかし彼女が見たものは、自然の営みから外れた、禍々しいエネルギーの塊だったらしい。そんなものを取り出せるのは、取り出そうとするのは、人間くらいだ」

 福井は言った。

 ある国家が、パンドラの箱を開けてしまった。絶望は深海棲艦となって世界の海に満ち溢れ、最後に残った希望が艦娘となって人類に味方している。これが、今戦っている戦争の物語だった。

 フィリピンに向かう理由が、ひとつ増えたな。福井は言った。

「そうだ。真偽を確かめなければならない。そのためには、なんとしてもフィリピンの地を踏む必要がある。もし引金を引いた者が生き永らえていて、その始まりの場所を知っていれば、先の見えない戦争に幕を引くことができるかもしれない」

 熊は言った。この狭い潜水艦の一室から、まったく新しい戦争が始まろうとしている。

「分かっているとは思うが、このことは他言無用だ。真相がハッキリするまで艦娘にも話すべきじゃない」

「もちろんだ。深海棲艦を倒すことが艦娘を喪うことと同義だと司令部が気づけば、艦娘を動かさなくなるだろう。そうなれば彼女たちの本懐を遂げさせてやることができなくなる」

 熊の言葉を聞き、福井は満足そうに微笑む。

「俺からも上に意見しておく。なにせ本土を出発した艦隊のうち、トラックまで辿りつけた軍人は俺だけだ。いかに本土周辺の敵が手強いか、みっちり聞かせてやる」

 そうすれば、次に進むべき道はおのずと決まる。

「俺たちは知ってしまった。知った上で、何を敵に回しても自分の意志を貫こうとしている。もう後戻りはできない。ここからは大日本帝国ではなく、俺たちの、いや、艦娘の戦争だ。ゆえに、俺はひとつ心に決めたことがある。それをおまえに伝えておきたい」

 これから始まろうとしている、人類史上最大の海戦。その戦いにおいて、自分が為そうとすることを包み隠さず熊に打ち明ける。

「いいのか。きみは自分自身を殺すことになるぞ」

 全てを聞いた熊は、動揺を隠せない声で尋ねる。だが、福井の決意は変わらなかった。

「潜水艦たちは、この先の戦いにおいて絶対に欠いてはならない戦力だ。彼女らを守るためなら俺の命のひとつやふたつ、惜しくはない」

 一切の迷いなく福井は言った。

 

 第二艦隊と第三艦隊による協議は、ついに収束へと至った。

 攻略目標はフィリピン。熊と福井が強く主張した結果でもあった。フィリピンはニューギニアに次ぐ未知の大規模な陸地であり、強力な敵が待ち構えているのは目に見えていた。そこで、膨れ上がった艦隊戦力の再編成が行われた。艦娘は、西からフィリピン内海に攻め入る第二艦隊、東から攻める第三艦隊に二分され、それぞれの艦隊に二個ずつの遊撃部隊を創設した。

 

 

フィリピン西側から突入

第二艦隊 司令長官 栗田健男中将

 第一遊撃部隊

  第一戦隊 司令長官直卒

         戦艦「武蔵」「長門」

  第四戦隊 鈴木義尾少将

         重巡「高雄」「愛宕」「鳥海」

  第一三戦隊 木村進少将

         軽巡「矢矧」

   第六駆逐隊 熊勇次郎少佐

           駆逐「響」「暁」「雷」「電」

   第一〇駆逐隊 白石長義大佐

           駆逐「野分」「舞風」「秋雲」

   第三一駆逐隊 福岡徳次郎大佐

           駆逐「沖波」「岸波」「朝霜」

 

 第二遊撃部隊

  第二戦隊 西村祥治中将

         戦艦「扶桑」「山城」

         重巡「最上」

  第四水雷戦隊 早川幹夫少将

          軽巡「阿賀野」

   第二駆逐隊 大島一太郎大佐

           駆逐「陽炎」「白露」「時雨」「夕立」

   第八駆逐隊 西野繁少佐

           駆逐「朝潮」「満潮」「山雲」「朝雲」

 

 

フィリピン東側から突入

第三艦隊 司令長官 小沢治三郎中将

 第三遊撃部隊(機動艦隊)

  第一航空戦隊 司令長官直卒

           空母「大鳳」「翔鶴」「瑞鶴」

  第三航空戦隊 城島高次少将

           軽母「飛鷹」「隼鷹」

  第六戦隊   松本毅少将

           重巡「鈴谷」「熊野」

  第一水雷戦隊 木村昌福少将

           軽巡「阿武隈」

   第二一駆逐隊 脇田喜一郎大佐

           駆逐「若葉」「初春」「初霜」

   第六一駆逐隊 天野重隆大佐

           駆逐「秋月」「照月」「有明」「夕月」

 

 第四遊撃部隊

  第二一戦隊 志摩清英中将

          重巡「那智」「足柄」

  第五戦隊  長井満少将

          重巡「妙高」「羽黒」

  第四航空戦隊 大林末雄少将

          軽母「瑞鳳」「龍鳳」

   第一七駆逐隊 谷井保大佐

           駆逐「磯風」「浜風」「浦風」

  海中機動部隊 福井靖少佐

           潜水艦「伊401」「伊168」「伊58」「伊19」「伊8」

           (付属)駆逐「島風」

 

 

 

 艦隊の目標は、フィリピン最北の島であり、マニラなど多くの市街地を抱えるルソン島だった。この島を押さえることができれば、ルソン海峡とバシー海峡を渡り、帝国領台湾に辿りつける。あとは南西諸島、薩摩諸島を伝っていけば佐世保まで帰投することも夢ではない。

 作戦の概要としては、まず戦場をフィリピンの南北に分ける。フィリピン米軍が駐留しているだろうルソン島を含む北側のほうが、敵も分厚いと考えられる。よって北側に攻め入る戦力を主力として充実させた。それが武蔵を旗艦とする栗田中将の第一遊撃部隊と、大鳳を旗艦とする小沢中将の第三遊撃部隊である。第一遊撃部隊が、西側のミンドロ島とパナイ島の間を通り、シブヤン海に突入する。それと同時に、第三遊撃部隊が東側のサマール島とルソン島の間のサン・ベルナルディノ海峡を通りシブヤン海に突入し、内海の敵を挟撃する。これと同等の作戦が、フィリピン南でも行われる。扶桑を旗艦とする西村中将の第二遊撃部隊が西側からミンダナオ海を抜け、スリガオ海峡に突入。同時に、那智を旗艦とする志摩中将の第四遊撃部隊が、東側のレイテ沖からスリガオに突入する手はずになっている。北と南に戦場を分け、それぞれ東と西から挟み撃ちにする。四方向から求心的に攻め入る外戦作戦により、フィリピンに巣喰う敵を撃滅する計画だった。

 誰もが予感していた。いまだかつてない規模に膨れ上がった艦娘たち。これから起こる戦いは、帝国史上のみならず世界史上最大の海戦になるだろうことを。そして、パラオに集った艦娘のほとんどが、フィリピンでの戦いに複雑な想いを抱いていた。勝利の祈りを捧げる娘もいれば、ただひたすら冷静に戦術のシミュレートを行う者もいる。前世の記憶から際限なく膨れ上がる不安を押さえるのに必死な者もいた。

「必ず生きて前線に帰ろう!」

 第一七駆の饗導艦である磯風が言った。

「この戦いが終わったら、トラックで休んでいる谷風を迎えに行こう。そして必ず皆で帰るんだ。塚本少佐のところに」

 浜風、浦風が力強く頷く。全員が、ぼんやりとだが前世での戦いを覚えていた。フィリピンをめぐる一連の戦い、その絶望的な終幕を。しかし今は恐れなどない。一七駆の心は一つだった。遠いニューギニアの地で戦っているだろう第一六駆の仲間たち、そして敬愛する提督の元に、再び戻れる日が来ると信じていた。

 同じく提督の元を離れ、中部太平洋に取り残されていた第二駆逐隊の面々も、決戦への意欲を燃やしていた。

「大丈夫、いつも通りのわたしたちで行こう。この戦いに勝って輸送網を取り戻せれば、トラックだって復活する。そうしたら、明石さんが村雨を治してくれるわ」

 陽炎が言った。もともと陽炎以外のメンバーは幾田中佐の指揮下にあった。最初こそ隊の主導権を巡って白露と衝突していたが、共に戦いを乗り越えるうちに艦種や駆逐隊の垣根を超えた友情で結ばれていた。

「みんな、ぜったいボクより先に沈まないでね」

 時雨が呟く。隠しきれない不安が瞳の奥に揺れている。トラックに閉じ込められたあたりから、何となく心がざわついていた。空襲を受け、第三艦隊がマリアナから逃げてきたとき、ざわつきは予感に変わった。そして編成表を見た時、彼女は運命という名の呪縛を確信した。第二遊撃部隊のメンバー。そしてスリガオ海峡。誰かが示し合せたとしか思えなかった。目に見えない何かに操られるがまま、あの海を渡る。記憶の底に封じていた悲劇の海を。

「今回の作戦、ボクたちの部隊が一番危険な戦いに挑まなくちゃいけない。だから、お願いだよ。もうボク独り、この海に残されるなんて嫌だ」

「何馬鹿なこと言ってんの!」

 白露が微笑みながら時雨の肩に腕を回す。

「ここは前の世界じゃない。その証拠に、わたしがいる」

「あたしも! あたしもいるっぽい!」

 元気よく夕立が言った。

「わたしもいる。あなた以外の全員が、前世ではフィリピンの戦いに参加していない。でも、今回はあなたの隣にいる。あなたと一緒に戦う。この時点で運命なんてひっくり返っているのよ。だから安心なさい」

 輪の中に入りながら、陽炎が言った。時雨の顔に、ようやく本心から笑顔が浮かんだ。

「ありがとう。そうだよね、皆がいてくれるから、もうボクが知っているスリガオじゃなくなるんだ」

 時雨は言った。大鳳の言葉を思い出す。運命を乗り越える力があるのだ。自分と仲間を信じて戦えば、きっと誰も沈まない。いや、沈ませてはならない。誰ひとりとして失うことなくフィリピンの地を踏むのだと、時雨は固く心に誓った。

 

 十月二十二日、夜。

 出港を目前にして、熊は秘書艦である電の艦上に、直卒の部下である第六駆逐隊のメンバーを集めた。スリガオ海峡に突入予定の第八駆逐隊には、すでに出撃の挨拶を済ませていた。大潮と荒潮が機関損傷により第八駆を離れたが、駆逐隊の再編成により朝雲、山雲のふたりが新たに配属された。何の因果か、ふたりとも朝潮型の駆逐艦だった。同型艦ということもあり、ふたりはすぐ朝潮、満潮とも打ち解けた。

「今回の我々の任務は、矢矧率いる戦隊のもと、第一遊撃部隊旗艦・武蔵を護衛することだ」

 熊は言った。艦娘の中でも一番長く苦楽を共にしてきた第六駆。表情を見るだけで、彼女たちが何を考えているのか分かった。自信と不安、高揚と恐怖。戦時下に特有の、あらゆる感情がピンと張りつめている。

「どうした、顔が固いぞ。きみたちは、艦娘を牽引していくべき先達だ。誰よりも早くこの世界に顕現し、厳しい輸送任務や戦闘を通して経験を積んできた。その練度は正規空母や戦艦にも勝ると僕は信じている。そんなきみたちと再び共に戦えることを嬉しく思う」

 熊の言葉で、暁型の姉妹たちはようやく表情を緩ませる。

 戦いに臨むにあたり、駆逐隊にも指揮官を乗艦させることが決まった。熊の強い主張により実現したことだ。経験豊かな軍人が参謀として艦娘に知恵を与えるとともに、指揮命令の連絡要員を兼ねる。戦闘の勘に長けた彼女たちは、本来は自由に動くべきなのだ。軍人が戦闘のあれこれに口を出し、艦娘の自由裁量を阻害してはならない。その能力を最大限に引き出すための補助具に徹するべきだ。

 何より、今回だけは自ら駆逐隊を指揮したいという熊自身の望みが大きかった。

「司令官。やはり、戦うことになるのかな。人間と」

 響が抑揚のない声で言った。フィリピン米軍との接触が予想されることは、すでに艦娘全体に知れ渡っていた。

「まだ分からない。あの島に人間が生き残っているかも、まだ不明な状況だ。しかしながら、何らかの形で米軍の地上戦力と相対する可能性は高い。きみたちは、それを不安に思っているのだろう」

 提督として部下に尋ねる。少女たちは、思い思いに頷いた。

「そのことに関しては、武蔵とも話した。彼女はハッキリ言った。嫌だ、と」

 ともすれば反逆罪に問われかねない、戦艦の赤裸々な意見。それを聞いた駆逐艦たちは皆一様に驚きと緊張の面持ちとなる。

 あくまで軍の一員として、艦娘は生きてきた。軍人として過ごすうち、いつの間にか魂の自由は奪われ、組み込まれた命令系統に逆らうことが許されない軍独特の空気感に縛られていた。ゆえに艦娘は武蔵の言葉に忌避を覚える。幼い駆逐艦ならば、なおさらだった。人間に逆らうという発想が、刷り込みのごとく罪悪感を心の中に掻き立てる。ゆえに彼女たちは耐えてきた。過酷な輸送任務に神経をすり減らそうとも、遠い前線の海でどれだけ仲間が沈もうと、ただ粛々と目の前の義務を遂行してきた。戦うためには従順でなければならなかった。

 だが、ここから先は、そうはいかない。大日本帝国の首脳部が、自国の利益のために艦娘を私物化しようとしているのは明らかだ。艦娘にとっての本懐など、とうに忘れている。もしこのまま艦娘が諾々と軍の所有物であり続けるならば、それは国家の道具であるのと同義であり、永遠に望みを遂げることはできない。

「もしきみたちが―――」

 途中、熊は言い淀む。少女たちより遥かに長く生きてきた自分でさえ、拠り所である軍や国家といった巨大な力に盾突くのは恐ろしい。だが、本当に部下のことを大切に思うのなら、彼女たちの提督であろうとする決意が本物なら、克服せねばならない恐怖だ。

「アメリカ人を殺したくないと言うのなら、僕はそれで構わないと思う」

 これで武蔵と共犯だ。そういえば渋谷も似たようなことを言っていた。摩耶を殺人鬼にさせてなるものか、と。今なら彼の思いを本心から理解できる。熊はうっすらと笑う。そんな彼を、第六駆逐隊は真剣な顔で見つめている。

「艦娘は、人類の味方として深海棲艦と戦っている。きみたちが日本の艦名を持ち、日本語を喋る存在だとしても、今所属している大日本帝国海軍は、いっときの止まり木にすぎない。きみたちは、決して帝国海軍の艦ではない。誰かに支配され、所有されるような存在ではないのだ。ゆえに、きみたちは自分の意志を貫かねばならない。深海棲艦と戦うのは、あくまで地球上の全ての人間に貢献するためならば、守るべき人間であるアメリカ人を殺す必要はない」

 熊は言った。すると、暁型の長女である暁が、おずおずと彼の前に歩み出る。

「でも、今さら海軍に逆らっても、わたしたちに行く所なんてないわ。この海で一番怖いのは孤独よ。戦うこともできず、敵だらけの海を怯えて彷徨い続けるくらいなら、多少心の痛みに目をつぶっても、軍にいるほうがいい」

 いつもの暁とはうって変わって、口調は真剣そのものだった。第六駆の妹たちを悲惨な目に合わせてはならない。長女の責任感ゆえの言葉だった。第六駆の実施的なリーダーは響だが、精神的支柱としては暁の存在が大きかった。一人前のレディを自称する彼女が、初めて見せる大人の顔だった。

「きみたちを孤独になどさせない」

 巨躯をかがめて膝をつき、暁に視線を合わせる。

「そのために僕がいる。僕だけじゃない、少なくとも五人、きみたちのことを何よりも大切に思っている提督がいる。きみたちが決断したことならば、僕は喜んで共に荊の道を歩こう」

「それは駄目よ」

 泣きそうな顔で雷が言った。

「深海棲艦との戦いが終わったら、わたしたちは多分この世界を去ることになるわ。でも、わたしたちが消えても司令官の人生は続いていく。人間だって孤独では生きていけない。わたしたちのために司令官が孤独になるなんて、絶対に駄目」

 雷の優しい言葉を受け、熊はにっこりと笑う。この子たちの提督であれて幸せだと彼は思った。

「ありがとう。でも僕は大丈夫だ。いざとなったら軍を抜けて、民間船舶の船乗りでもするさ。それに、帝国も変わり始めている。きみたちのおかげで、悪しき運命から抜け出そうとする力が、ゆっくりと育っている。きみたちが望みを遂げた後だって、僕はずっと元気に生きてみせる」

 熊は言った。ぼろぼろと涙をこぼしながら、雷が彼の胸元に飛び込む。暁がそれに続いた。続いて電が、最後に響がゆっくりと提督に身を預ける。皆、泣いていた。冷静沈着な饗導艦の響でさえ、目に涙を浮かべている。

「だから、きみたちは自分の心に従え。軍の命令ではなく、魂の声に。きみたちがどの道を進もうと、僕は提督で在り続ける」

 軍のくびきを断て。

 艦娘は艦娘としての大義に生き、艦娘としての幸福を追い求める。それでいいじゃないかと熊は思う。人類のために命がけで戦ってくれる艦娘。愚かにも互いに相争うばかりの人類は、ついでに救われるだけで十分だ。あとは人類自身の問題だ。

 戦いの道具である艦から、尊厳あるひとりの人間となる。艦娘の魂の独立を、強く強く熊は願った。

「スパシーバ、司令官。艦娘は、艦娘として生き、そして死ぬ。これでいいんだって、やっと確信できたんだ。変だな、当たり前のことのはずなのに、嬉しくて仕方ないんだ」

 微笑む響。目尻から一筋、涙が頬を伝う。

「司令官さん。ずっと一緒に戦います。あの日、初めて出会ったときから、あなたのためなら命を捨てても惜しくないと思っていました。電の一目惚れだったのです。自分でも不思議でしたが、やっと理由が分かりました。艦娘の提督だからです。わたしたちの提督だからです。司令官さんは本物の提督なのです」

 だから、電はずっと一緒に。

 熊は第六駆の想いの全てを受け止める。存分に流れる涙を軍服に吸わせ終え、少女たちは穏やかに、しかし晴々と勇ましく前を向き、宿舎に戻っていった。いずれ残される者として、熊は少女たちの背中を見送る。

 Independence Eve.

 熊は呟く。今日という日が、艦娘の独立前夜であることを祈る。

 そして願わくば、明日の決戦が、本当の独立記念日になることを。人間というしがらみから、魂の独立を勝ち取ることを。

 

 十月二十三日。〇八〇〇。

 未曾有の大艦隊が、パラオ泊地を出発する。第二、第三艦隊の連合軍は、それぞれ四個の遊撃部隊に分かれ、覚悟を胸に決戦の海へと進んでいく。西村中将率いる第二遊撃部隊と、志摩中将率いる第四遊撃部隊は、フィリピン南の海を制圧すべく、セレベス海の入口で二手に分かれた。第二遊撃部隊は西のミンダナオ海からスリガオ海峡を通り、第四遊撃部隊は東のレイテ沖から南フィリピンの懐に突撃する。この作戦が成功して内海の敵を殲滅できれば、ふたつの遊撃部隊は、スリガオ海峡とレイテ湾の境界で邂逅する予定だった。

 十月二十四日。〇二〇〇。

 第二遊撃部隊は、ミンダナオ海の入口に迫った。空には雲が立ち込め、星明りひとつ望めない。のっぺりとした宵闇に溶け込むように、フィリピン諸島が水平線にへばりついている。その島々に人工の灯りは見られず、ただ真夜中の漆黒に溶け込んでいる。艦隊は単縦陣をとっていた。列の先頭を、阿賀野が静かに航行する。つづく扶桑を第二駆逐隊が、山城を第八駆逐隊が輪形陣で守り、しんがりは最上がついていた。いよいよ未知の領域に入っていく。駆逐艦たちは、全員が対空、対潜電探に鋭い意識を傾ける。空と海、両方の世界に微細な神経網を張り巡らせるように、わずかな変化も見逃すまいとする。特に、海中の動きには敏感だった。いつ敵潜水艦から奇襲攻撃が来るか分からない。敵潜の跳梁跋扈は、どんな攻撃よりも恐ろしい。強力無比な戦艦でさえ、魚雷数発で撃ち沈められてしまう。扶桑を守る、第二駆逐隊の時雨は、すでに自身の対潜ソナーに、潜水艦らしき微細なスクリュー音を捉えていた。いつ魚雷の推進音が聞こえてくるやもしれない。しかし、今のところ敵から攻撃を受けていない。単なる偵察なのか、それとも虎視眈々と我が部隊の隙を狙っているのか。攻撃してこないことは逆に不気味だった。黒い海の下は常に恐怖で満ちている。いつ爆発するか分からない爆弾を、腹に抱えているようなものだ。

「九時の方向に、またも感あり」

 心なしか小さめの声で時雨が言った。海面の下に浸かる船腹が、ぞわぞわした。駆逐艦たちは、いつでも爆雷を撃ち込める準備をしていた。

 夜のミンダナオ海は、異様に静かだった。この静寂を破ることに、本能的な忌避を感じる。僅かな物音を立てるのも憚られるほど、異常な緊張感が艦隊を支配していた。普段は意識しないスクリューの回転数すら、いちいち気になってしまう。

『陣形そのまま。艦列を維持し、ゆっくりついてきてください。焦らなくていいですよ』

 駆逐艦をまとめる軽巡・阿賀野から通信が入る。第二遊撃部隊は、夜盗の忍び足のごとく、十五ノットほどの速度で、ゆっくりとミンダナオ海を北東に渡る。

 〇三一〇。いまだ敵艦は影も形も見当たらない。神経を研ぎ澄ます時雨は、潮流の流れが早くなっているのに気づいた。ゆったりとしていたフィリピンの海が、しだいに表情を変えて厳しさと激しさを見せ始める。パナオン島と、ミンダナオ島に挟まれた海。因縁のスリガオ海峡の入口だった。

 艦隊は、まっすぐに海峡に艦首を向けている。このまま敵が現れなければ、戦闘をせずレイテ湾まで抜けることができるかもしれない。だが、それはそれで問題だった。ならばフィリピンを守っているはずの敵はどこに消えたのか。こんな大規模な陸地、それも資源地帯であるボルネオ島に隣接する要所を、深海棲艦が放っておくはずはない。

『作戦の通りに航路を取ります』

 艦娘たちの疑念を振り払うため、旗艦である扶桑から短い指示が飛ぶ。あくまで冷静に任務を遂行するという意志の表れだった。警戒態勢を維持したまま、〇三三〇時、スリガオ海峡に突入した第二遊撃部隊は北上を開始する。この海峡の先にはレイテ湾が広がっている。敵がスリガオではなくレイテ湾で待ち構えている可能性は十分にあった。

 そのとき、山城を守っている第八駆の朝雲から通信が入る。

『対潜ソナーに感あり。でも距離が開いていて反応がにぶいわ』

 対潜能力の強化にこだわっていた朝雲の耳は、忌まわしき潜水艦独特のスクリュー音を確実に捉えていた。そこで彼女は、索敵のため自らが最後尾につくことを意見具申する。僚艦の朝潮には危険だと反対されたが、最上が護衛としてつくことで司令部の許可を得た。朝雲はさらに速度を落とし、最上とともにゆっくりと艦列から離れていく。

『いるわね。最低でも三隻。でも、攻撃してくる気配がない。あっちだって、わたしたちの存在に気づいているはずなのに。ちょっと変だわ』

 朝雲が所見を述べる。駆逐艦はおろか戦艦にすら恐れられてきた敵潜水艦は、やはり攻撃してくる気配がない。ソナーの届くギリギリの範囲を、つかず離れず、にじり寄ってくる。獲物を狙っているというよりも、こちらの動向を監視するかような動きだった。来るなら来い、と朝雲は呼吸を荒くする。さんざん痛い目に遭ってきたから、爆雷ならたんまり用意してある。早く目に見えない脅威を一掃したかった。しかし、いくら耳を澄ませても、奴等の目的は見えてこない。

 すべての駆逐艦が海中に意識を注ぐなか、朝雲と一緒に艦列を離れた最上は、じっと南の水平線を見つめていた。重巡は対潜装備が間に合わなかったので、こうして夜間は海上を見張っていることしかできない。猛禽のごとく夜目がきく艦娘であっても、ほとんど光源のない状態では、偵察もままならなかった。ぼんやりと島の輪郭が見える程度だった。そんな彼女の焦りが天に通じたのか、停滞していた雲に小さな裂け目ができた。ささやかに星が瞬く。しだいに雲は南の空に退却していく。

 そして夜の最大の光源である、丸い月が顔を覗かせ始めた。

 〇三五五。そのとき最上は視界に違和感を覚える。南東に見える、ミンダナオ島とデナガット島の間。スリガオ海峡とデナガット海峡を結ぶ、名もなき小さな海峡に、何かが動いた気がした。すぐに焦点を合わせ、目のレンズを引き絞る。最初は、ただの島影だと思っていた。しかし、点在する影は確かに動いていた。列をつくる鼠のようだった影が、しだいに大きさを増しながら接近してくる。

 もし偶然、雲が晴れなかったら、あるいは自発的に偵察に残らなかったら、見落としていたに違いない。敵は砲撃も雷撃もせず、完全無灯火のまま、闇夜に紛れこむように航行を続けている。

 目算、三五ノット。明らかに高速戦艦による巡洋艦隊だった。

『敵艦見ゆ!』

 一秒でも時間が惜しい。最上は考えるよりも先に通信機に向かって叫んでいた。

『戦艦級三、巡洋艦級六、駆逐艦多数! 敵の巡洋艦隊と思われる!』

 この通信は、即座に部隊主力へと伝わる。艦内に警報が鳴り響き、対艦戦闘の準備が死にもの狂いで始まる。

 敵は背後から来た。おそらく潜水艦を見張り役にし、本体はデナガット島に身を寄せて隠れていたのだろう。背後をつかれた第二遊撃部隊は混乱し、次の行動の決心が遅れた。その間にも敵は容赦なく迫ってくる。まるで海峡の入口を封鎖するように単縦陣をとっていた。艦娘たちにとって、最悪の陣形が完成しつつあった。T字不利なうえ、もっとも艦が火力を発揮できない艦尾を狙われている。

 敵の巡洋艦隊は、すべての砲門を、しんがりの最上と朝雲に向けていた。

『砲雷撃戦、始めます!』

 司令部の判断を待たず、最上は言った。主力が態勢を立て直すまで、囮になる覚悟だった。自分たちが浮かんでいる間は、敵の攻撃はこちらに集中するはずだ。最上と朝雲は、進路を東に急転回して、自らの横腹を敵の火線に晒す。そして力の及ぶ限り、あらゆる砲と魚雷を撃ち込んだ。まともに照準を定める余裕もなく、弾は敵の手前で虚しく水柱に変わる。逆に敵の砲撃は正確だった。初弾で狭叉に追い込まれる。敵は潜水艦の情報を通して、海域と艦娘の位置を細かく測量していた。空を切り裂く音とともに、敵弾が最上の第一主砲を直撃する。隕石が衝突したかのごとく甲板に大穴が開き、内部構造が露出した。だが最上は悲鳴ひとつ上げなかった。今すべきは耐えることだ。歯を食いしばって痛みを噛み殺し、果敢に残った主砲で反撃を開始する。

「ここで僕が沈んだら、艦隊は総崩れになる。みんなの盾になれるなら本望だ」

 顔を歪ませながら、最上は不敵に微笑んだ。絶望する必要など無かった。ここはもう、かつてのスリガオ海峡ではないのだから。

「こっちを狙いなさいよ!」

 怒りと勇気が恐怖に打ち勝つ。朝雲は探照灯を照射した。被弾した最上を庇うように、少しずつ前に出る。目と鼻の先で水飛沫が炸裂する。それでも彼女は、挑発的に敵を照らし続けた。無我夢中で魚雷を放つ。死の恐怖さえ燃料にして、前に、前に進む。沈められても悔いはないと朝雲は思った。自らの使命を信じ、たゆまぬ努力を続けてきた駆逐隊は、とうとう姑息かつ卑劣な敵潜にスナイピングを断念させたのだ。結果、深海棲艦は真正面から挑んでくるしかなくなった。正々堂々の撃ち合いで、艦娘が遅れを取るなどありえない。

 自分が囮になっている間に、主力がスリガオを抜けてくれたら。

 敵の砲弾が右舷上部を直撃する。凄まじい衝撃と爆発で、艦体がヤジロベエのように揺れる。敵は、あっという間に着弾距離を計算し、朝雲を挟叉していった。タービンの回転が落ち、浮かんでいるだけで精いっぱいだった。

「山雲、あとは頼んだわよ」

 誰にも聞こえないよう、朝雲は呟く。艦の損傷が、焼けつくような痛みにフィードバックされて顕体を襲う。朝雲は身をかがめながら、前方にいる朝潮型の盟友にエールを送った。山雲さえ無事でいてくれたら、それで満足だ。艦娘として二度目の人生の最期を飾るにふさわしい。駆逐艦・朝雲として、きちんと敵と戦って死ねることが、こんなにも幸せだとは思わなかった。潰れたボイラーから重油が海に流れ出す。内臓が腐って溶けていくかのような悪寒がする。それでも嫌な気はしなかった。甲板に揺らめく炎は、沈みゆく艦にたむける献花のようだ。死の迫る自分の姿が美しかった。

 一隻でも多く道連れにしてやる。

 最後の力を振り絞って撃った魚雷が、見事に敵重巡に命中する。その返礼とばかりに新たな砲弾を受ける。艦橋の右半分が抉れ、大きな穴が開く。ついに彼女のタービンは抗うことを止め、海上を漂流し始める。

『ここまで、みたいね』

 もう敵の砲弾を避ける力も残っていない。あとは浮き砲台として、意識の全てを火力に集中するだけだ。朝雲は最上に離脱するよう言った。最上は、まだ健全に走ることができる。ならば直ちに主力と合流すべきだ。しかし最上は、彼女の提案を拒絶する。

『僕は逃げないよ。ここできみを見捨てたら、きっと僕は自分を許せない。せっかく艦娘になれたのに、艦娘であることの意味を失くしてしまう』

 馬鹿じゃないの、と朝雲は言おうとしてやめた。最上も同じ気持ちなのだと気づいた。

『それに、僕達は、まだ終わりじゃない。聞こえないかい、近づいてくる希望の音が』

 憔悴した顔のまま、不敵に笑いながら最上は言った。

 朝雲は耳を澄ます。またしても砲撃音が夜の海に鳴り響く。しかし、その音は南からではなく北から聞こえた。敵単縦陣の周辺に水柱が上がる。朦朧とする視界のなか、暗い海の上に、輝く光の列が見えた。戦艦・扶桑以下、全ての艦が探照灯を掲げ、南へと反転している。扶桑と第二駆逐隊が右翼から、山城と第八駆逐隊が左翼から、まるでハートマークを描くように二手に分かれ、単縦陣をとっている。やがて艦列は最上と朝雲を庇うように、ふたりの前に出る。

 敵艦隊との距離は、一四キロにまで迫る。ソロモン海以来の、防御不要の艦隊決戦。

『統制砲雷撃開始!』

 旗艦・扶桑の命令が轟く。二隻の戦艦と七隻の駆逐艦から、全砲門が火を噴き、三五発の魚雷が宙に踊り出る。

『なんで戻ってきたの!』

 思わず朝雲は叫んでいた。最後尾の二隻を犠牲にすれば、北上するにせよ戦うにせよ、もっと敵に対して有利な態勢に移行することができたはずだ。それこそ、敵海域のど真ん中で、こんな生きるか死ぬかの境界線で殴り合いをする必要などない。

『わたしたちの任務は、南フィリピン海域における敵の撃滅です。戦うのは当然のこと。そして敵を撃ち倒すには、部隊の仲間を一隻たりとも欠いてはならない』

 激しい砲撃を加えながら、穏やかに扶桑は言った。

 勝利するなら全員で。存分に戦い、それでも力尽きたなら、死なば諸共。一隻残さず華々しく海に没する。その覚悟が無ければフィリピン攻略など不可能だった。スリガオ海峡の出口は、まだ遠い。ここで敵を漸減しておかなければ、この先、何が起こるか分からない。第二遊撃部隊は、深海棲艦の地の利をも覆す正確無比な砲雷撃を敢行する。敵の駆逐艦や巡洋艦が、一隻、また一隻と炎に包まれる。しかし敵もまた、強固な意志を有している。至近距離からのインファイトにも全くひるまず、じわじわと艦娘に接近していく。味方が被弾しようが、気にも留めない。ここは、かつてのスリガオ海峡ではなかった。艦娘は前世より遥かに強く生まれ変わったが、それは深海棲艦も同じだった。

 〇三五五。単縦陣同士の同航戦は、少しずつ艦娘優先に傾いてきた。それでもなお、深海棲艦は厳しい攻撃の手を緩めない。

『ぐっ、手強い!』

 艦尾に被弾した朝潮が苦痛の声を上げる。次々と僚艦を喪っても、深海棲艦は撤退する気配すら見せない。深海棲艦は、人間や艦娘のように感情に任せて非合理な行動を取ることはあり得ない。撤退しないということは、まだ敵は作戦行動中であることを意味する。スリガオ海峡の入口を封鎖し、まるで艦娘を追いたてるように、半ば梯形陣に近い単縦陣で北上してくる。

 だが、今は敵の作戦にまで考えを巡らせる余裕はなかった。砲弾と魚雷の回避、そして機動だけに集中する朝雲の護衛。同時に敵に対しても攻撃を加えねばならない。そのうえ、目の前には新たな脅威が出現していた。

 容赦なき撃ち合いを続けながら、ついにデナガット島の沿岸部まで差しかかる。このまま進路を東に取れば、敵味方ともども島にぶつかる。あるいは浅瀬に座礁してしまうだろう。もし敵より先に回頭を始めたら、相対的に動きが停止するその瞬間を狙い撃ちにされてしまう。条件は敵と同じだ。ふたつの艦隊は、互いに一歩も譲らないチキンレースを挑んでいる。迫りくる島の脅威を我慢できず、回頭を始めたほうが敗北する。

『わたしが先導します! ぎりぎりまで敵を引きつけて!』

 阿賀野が叫ぶ。まさか対潜ソナーを座礁防止のために使う日が来るとは思わなかった。目で戦場を見つめ、耳で海中を探る。艦隊は細やかな回避行動をとりつつ、まだ島に近づく。ついに敵との距離は五キロにまで迫った。敵は潮の流れと、地雷のように潜む暗礁に阻まれ、艦列を乱し始めている。やるなら今だ。扶桑は決断する。

『転進! 二二〇度!』

 扶桑が叫ぶ。駆逐艦たちが戦艦のわきをかためる。対潜装備をもたない戦艦を誘導し、複雑な潮流を抜けていく。わずか数メートルのところで船腹が暗礁にぶつかりかけ、阿賀野が進路を変えるたび肝がひえた。

 砲撃をする余裕もなく、一テンポ遅れて深海棲艦も転進を開始した。しかし、乱れた陣形を立て直せず、しだいに彼我の距離が開いていく。

 〇四三〇。敵巡洋艦隊から離れ、第二遊撃部隊は北西に進路をとった。

 まだ戦いの緊張が続くなか、時雨は思考を巡らせていた。あれほどまでに敵が攻撃に固執するのだから、その目的は艦娘を海峡に閉じ込めることに違いない。だとすれば、おそらくこの先に敵主力が待ち構えているだろう。その規模は、想像するだけで恐ろしい。海峡を閉鎖された今、この部隊の命運を握るのは、東側からレイテ湾に突入する予定の第四遊撃部隊だった。

 そんな彼女の不安を煽るように、またしても対潜ソナーが反応する。

『北北東より、反応あり!』

『雷跡視認! 距離三〇〇、一一〇度!』

 時雨の報告と同時に、陽炎が言った。ついに潜水艦が攻撃をしかけてきた。幸い、ほとんどの魚雷は狙いを逸れていった。直撃コースは爆雷で処理する。だが、なおも悪い情報は続く。今度は先頭を行く阿賀野が、南西の水平線に新たな艦影を発見する。

『新たな敵巡部隊接近!』

 今度は、デナガット島とは逆のレイテ島から新手の敵が現れた。やはり高速戦艦を主体とした巡洋艦隊だ。背後と前方の敵、そして進路方向からの魚雷に囲まれる。いよいよ不味い事態になったと時雨は思う。このまま前方の敵第二群を反航戦でやり過ごせたとして、またレイテ島にぶつかる前に反転すれば、背後から追いかけてきた敵第一群に待ち伏せを食らう。かといって動きを止めれば魚雷の餌食。まさに四面楚歌だった。

『ひとつずつ潰していこう』

 気持ちで負けたら終わりだ。時雨は、あえて明るい声で言った。

『そうね。対潜訓練は嫌というほど受けたもの。わたしたちは潜水艦を黙らせようか!』

 すかさず陽炎が反応する。

『困難は分割せよ、ですね。やりましょう!』

 朝潮が勇猛に叫んだ。駆逐艦たちの士気が上がっていくのを時雨は肌で感じる。彼女たちの意見を受けて、扶桑の司令部が決断を下した。

『駆逐艦は、右舷に単縦陣。潜水艦を任せます。わたしたちと最上は右舷。とにかく敵第二群を寄せつけないように! このまま直進し、レイテ島に最接近したところで九〇度転進します。これで第一群を振り切りつつ、作戦を進めます』

 扶桑が司令を伝える。

 このまま、まともに敵と戦えば、規模の小さい第二遊撃部隊は全滅するかもしれない。ならば、第四遊撃部隊が作戦行動を始めるまで、なんとしてでも持ちこたえる必要があった。敵第一陣の待ち伏せを回避しつつ、スリガオを漸進していくには、九十九折りになった山道を登るように、ジグザグに少しずつ北上していくしかない。二つの目標を同時に達成できる、ぎりぎりの角度が九〇度だった。

 〇四五〇。敵第二群と接触する。距離にして一二キロ、反航戦による、ふたたびの正面からの殴り合い。左舷には砲弾、右舷には魚雷。ふたつの脅威に板ばさみにされる。駆逐艦たちは、飢えたサメのごとく海峡をウヨウヨしている敵潜水艦の処理に追われる。敵の巡洋艦隊を迎え討つは、扶桑、山城、最上のみ。数の上では圧倒的不利にも関わらず、戦闘経験豊富な三隻は、軍人たちの手助けを借りながらレーダーに頼ることなく精密な射撃を敢行する。海上には砲音、海中には爆雷音、空間という空間に戦争の音が轟く。艦娘たちを本物の脅威と認識した敵は、ついに自ら探照灯を掲げた。物質を貫くような冷たく青白い光。互いのサーチライトが交差する。敵に放った砲弾は、二倍になって返ってくる。だが彼女たちは恐れない。やはり深海棲艦も、すべてが一様な強さを保っているわけではない。人間や艦娘と同じように、戦場に立った経験により練度の差がある。フィリピンの敵は、少なくとも扶桑姉妹が戦っていた南方戦線のそれより練度が劣っている。ただひとつ脅威なのは、練度の低さを易々と補ってしまう、敵の物量だった。

 ついに彼我の艦隊の先頭がすれ違う。距離、わずか九キロ。

 敵戦艦の砲弾が、旗艦・扶桑を捉えた。左舷中央に巨大な爆炎が上がる。だが扶桑は一切躊躇うことなく砲撃を続けた。幸いボイラーにまで傷は届かず、航行に影響はない。だが敵の飽和攻撃は、確実に駆逐艦の防御網を抜けつつあった。避けきれず、爆雷による処理も間に合わなかった魚雷が、海中を飛ぶ矢のごとく、まっすぐ山城に吸い込まれる。右舷に巨大な水柱があがる。さらに、敵の砲弾が駆逐艦にも届き始めた。朝雲以外にも、すでに朝潮、満潮、白露が被弾し、小破以上の損害を負っている。耐えがたい痛みに耐え、艦娘たちは火力と機動に、全ての気力を注ぎ込む。山城は僅かに艦が傾いたが、いまだ速度は健全。巧みなダメージコントロールによって浸水を最小限で食い止めていた。

 爆雷が功を奏してか、敵潜水艦からの攻撃が減りつつある。ついに彼我の艦隊は、しんがりが交差し、離れていく。敵はすぐに旋回を開始する。ここぞとばかりに艦娘は砲と魚雷を叩きこみ、その隙に戦域から脱出する。

 レイテ島の沖合わずか三キロの地点で、阿賀野が回頭をかける。

 敵第一群が進路を塞ぐ前に、第二遊撃部隊は、北東に進路を取ることができた。艦隊は一斉に無灯火航行に移る。しかし、機関を潰され大破した朝雲は、少しずつ第八駆逐隊の列から落伍していく。

『わたしに構わず、先に進んで。さっきの敵に追いつかれたら、元も子もないわ』

 迷いなく朝雲は言った。仲間たちの支援を受け、航行だけに専念して、ようやくこの有様だった。いざとなったら単艦で敵に突っ込み、少しでも時間稼ぎをしようと考えていた。

『何言ってるの? ここが部隊の正念場でしょ! あんたも駆逐艦の端くれなら、ここで頑張らないでどうすんのよ!』

 黒煙を上げながらも、満潮が激励を飛ばす。つんけんした態度とは裏腹に、仲間を想う気持ちが声に溢れている。駆逐艦たちから、つぎつぎと応援の言葉が送信されてくる。

『朝雲姉。艦隊から離れることは許されませんよ。勝つ時は皆いっしょに、ですからね』

 姉妹艦の山雲が、おっとりとした口調で言った。待機中だろうと戦場だろうと、まったく芯がぶれることのない山雲。彼女の気の抜けた声を聞くと、不安や悲観で押し潰されそうな自分が馬鹿らしくなる。いつも朗らかで優しい自慢の妹だった。彼女のためにも、ここで沈むわけにはいかない。もし沈むなら、ふたり一緒だ。朝雲は最後の力を振り絞って、艦隊を追いかけた。

 〇五一〇。

 東の空が白み始める。星空の下、うっすらと白い光の幕が水平線にかかっている。黄昏の先、二つの島に挟まれていた荒い海が、とうとう大洋に繋がる。スリガオ海峡の出口だ。被弾した艦は黒い煙を棚引かせながらも、一隻も欠けることなく航行を続けている。

 レイテ湾は、目と鼻の先だった。

 薄明の光が、艦娘たちの視界を開く。皆は言葉を喪っていた。それは決して因縁の航海の終わりを見たからではない。終わりどころか、始まりにすぎなかった。希望の象徴であるはずの夜明けの輝きは、皮肉にも航路の先に待ち構える絶望を、残酷なまでにハッキリと照らし出し、艦娘の前に突きつけていた。

「そう甘くはないよね……」

 時雨が力なく笑う。

 スリガオ海峡の終焉、レイテ湾の始まりに、彼女たちは堂々と鎮座していた。

 駆逐艦級、二〇。巡洋艦級、一三。軽母級、四。そして戦艦級六。それも、鬼・姫級の超弩級戦艦が部隊を率いている。過去最大の深海棲艦大艦隊が、まるで鋼鉄の壁をつくるように、単縦陣にてスリガオ海峡を封鎖していた。

 進めば破滅、戻るも破滅。

 予想を遥かに超える敵。閉じ込められた第二遊撃部隊は、為すすべもなく死の海峡を進んでいく。

 



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第十八話 あの海をこえて

 帝国海軍史上、最大の海戦とでも言うべき、フィリピン同時侵攻作戦が始まる。しかし西村艦隊を待ち受けていたのは、前世の記憶に違わぬ、あるいはそれ以上の絶望的な戦力差だった。このまま巨大な運命に屈するか、それとも自力で細く険しい道を切り開くか。
 スリガオ海峡とレイテ湾、ふたつの戦場にて、ついに艦隊は決戦のときを迎える。


 

 〇四三〇。

 まだ世界は夜の暗幕が降りている。志摩中将率いる第四遊撃部隊は、旗艦である重巡・那智を筆頭に、レイテ沖二〇海里にて待機していた。将校たちは突撃にはやる気持ちを必死に押さえていた。黎明まで、まだ時間がある。わずか三〇分の時間が異様に長く感じられた。今頃、西村艦隊はスリガオ海峡を渡っているだろう。編成された四個の遊撃部隊のなかで、西村艦隊が最も規模が小さい。不安ではあったが、今は西村艦隊を信じて待つことしかできない。互いに連絡が取れない以上、事前に取り決めた作戦通りに動くしかなかった。

 那智は険しい目でレイテ湾を睨む。第四遊撃部隊は、見た目こそ構成に変化はなかったが、こっそり湾内に進行している艦娘たちがいた。福井靖少佐率いる伊号潜水艦、通称・海中機動部隊である。隠密行動にはぴったりの部隊だ。

『連絡はあったか?』

 那智が通信機の向こうに問う。

『まだ無いよ。そうせかさないでったら』

 無愛想な少女の声が返ってきた。駆逐艦・島風だ。彼女は先行し、通信の中継地点として、那智と福井部隊の中間に陣取っていた。敵の巣の近くに単艦で停泊しているにも関わらず、島風の口調には、ふてぶてしいほど緊張が見られない。よほど戦闘の腕が立つのか、あるいは最速の艦としての驕りがそうさせるのか、那智には分からない。いずれにせよ戦場を前にして死の恐怖を感じない者は危険だった。

 那智が気を揉んでいる頃、福井の旗艦・伊401と、彼女に連なる伊号潜水艦たちは、ひっそりとサマール島南の海岸線を辿り、レイテ湾に忍びこんでいた。潮の流れは早く、暗礁も多かったが、気負っている者はひとりもいない。なにせ呉の海は、こんなものではなかった。複雑奇怪な潮流、荒れ狂う波のようにグネグネとうねる海底の地形。潜水艦乗りにとって地獄のような海で、彼女たちは福井にしごかれてきたからだ。スクリューの回転を少なくおさえ、海水の流れに身を任せることで、海と一体化する。現在の人類の技術では不可能と言われた完全無音潜航、それに近いパフォーマンスを発揮している。潜水艦狂である福井の執念が為せる技だった。過酷な伊号の運用に、伊19は不満たらたらだったが、とくに提督を慕う伊168や伊401に引っ張られるうちに、いつの間にか慣れてしまっていた。

 偵察のため、伊19だけが海面近くに浮上し、残りのメンバーは水深五〇メートルに留まっている。

『提督、こちら伊19。スリガオ海峡は、敵だらけなのね』

 すぐさま彼女から通信が入った。福井は詳しい数を報告するよう告げる。

『いちばん手前に、戦艦級が六隻、単縦陣。その両翼に、軽母級が二隻ずつ。よく見えないけど、その奥にも艦隊がいるのね。たぶん巡洋艦級だと思うの』

 伊19、通称・イクの報告を受け、すぐさま福井は状況を把握する。敵がスリガオ海峡に多重の単縦陣を張っているのは、ミンダナオ海から海峡に入った西村艦隊を迎撃するためだろう。圧倒的な火力にものを言わせ、夜戦から薄明攻撃にて一気に撃滅する。しかし、六隻もの戦艦に加え、わざわざ空母を配置しているのは、西からだけでなく、我ら第四遊撃部隊のように東から攻めてくる勢力も警戒してのことだろう。東と西、どちらから艦娘が攻めてきても、確実に撃退できる布陣と戦力。

『どうするんです、提督? まともに戦っても勝てっこないでち』

 ゴーヤこと伊58がぼやく。

 確かに彼女の言う通りだ。戦術の伝統的理論に、攻撃三倍の原則というものがある。領域を支配して陣を敷く敵を、その地から引っぺがして撃破するには、敵の三倍の戦力が必要になる。それだけ攻撃は大変だということだ。しかしながら、我が部隊は三倍どころか、敵の三分の一にも満たない。普通に考えれば勝ち目はない。

 ところが、福井は不敵に笑っていた。

『提督、大丈夫? 壊れてない?』

 伊8、通称ハチが心配する。それほどまでに福井は笑いを押さえることができなかった。制御室にて、提督の隣に座る伊401の顕体、しおいは、正確に彼の意図を読みとっていた。それゆえに黙して仲間たちの言葉を待つ。

『数に惑わされるな』

 ようやく真剣な表情に戻り、福井は言った。

『よく敵を見ろ。やつらの陣形、何か思うところはないか?』

 福井は部下たちに問う。すると伊168ことイムヤが真っ先に答える。

『戦いやすそうね』

 彼女の言葉を受け、イクが歓声を上げる。

『分かったの。駆逐艦や軽巡が、あんまりいないのね!』

『その通りだ。戦艦による大艦巨砲主義の配置は結構だが、やつらは大日本帝国と同じ過ちを犯している。イクが指摘したとおり、潜水艦の天敵とでも言うべき駆逐艦、軽巡がいない。少なくともレイテ湾側には』

 福井は言った。スリガオ海峡の東側は、大型の戦艦六隻が単縦陣で塞いでしまっている。あれでは、もし向こう側に駆逐隊がいたとしても、レイテ側に回すことができない。

『つまり、奴等は我々を見くびっているのだ。人間の艦隊に潜水艦などいない、とな』

 福井は言った。深海棲艦の布陣は、レイテ湾側での対潜戦闘を、ほぼ考慮していない。周到で合理的な深海棲艦が、潜水艦はいないだろうという憶測で布陣を決めることはありえない。つまり彼女たちは、確固たる根拠をもって、この戦いから対潜戦闘を外している。なぜこのような判断に至ったのか、その理由は分かる気がした。福井の潜水艦部隊は、ほとんどの時間を呉で訓練や実験に費やしていた。外洋に出撃するのは輸送任務くらいで、これまで戦いに参加したことがない。ゆえに深海側は知らないのだ。人類側に、きちんと戦えるだけの潜水艦戦力がいることを。さらに福井は本土を出る際も、島風と協力して非戦闘を貫いた。味方が襲われようが一切反撃せず、ただ粛々と海の下を進んだ。幾田からの手紙によれば、潜水艦部隊が本土を出たことを、一切敵に伝えていないという。ならば敵は、潜水艦娘がいまだ本土に閉じ込められていると誤認しているはずだ。

 これまでの徹底的な隠密行動が、ついに日の目を見るときがきた。

『この戦力差で正面から挑めば、当然ながら勝機は無い。それでも戦って勝たねばならないとき、我々は何をするのか』

 奇襲だ。福井は結論づける。そして我が艦隊には、奇襲にもってこいの部隊がいる。厳しい訓練を積んで高い練度を誇るも、出撃の機会に恵まれず、敵に存在を一切知られていない部隊が。

 伊号潜水艦たちは、提督の意図を完全に理解した。

『とはいえ、戦場では何が起こるか分からない。マリアナでのレーダーピケット艦、そして反跳爆撃しかり。常に細心の注意を払いつつ大胆不敵に行動する。それが、我ら海中機動部隊の方針だ』

 福井は言った。敵艦隊が我が部隊に油断してくれるのはいいとして、問題は白峰だ。彼は人類側に、きちんと訓練を受けた潜水艦たちがいるのを知っている。あのヒト並外れた合理性の化身が、深海棲艦に油断や慢心といった人間特有の弱さを持ちこんだだろうか。敵の内情が分からない現在、敵艦隊の配置が慢心によるものであることを祈るしかなかった。

『作戦を教えて、提督。わたしはあなたについていく』

 イムヤこと伊168が即座に答える。潜水艦たちは口々に同意した。部隊の士気は少しずつ高まりを見せている。

 福井は、すぐさま作戦立案を進める。敵は間違いなく強大だったが、艦娘たちと同じく恐れ以上の高揚感が全身をビリビリと駆け巡っている。潜水艦を愛する者として、艦娘と出会う前から日夜、新たな兵装、戦術開発に取り組んできた。一九四二年春、彼は初めて顕現した潜水艦である伊168を賜った。人類艦の性能を遥かに上回る彼女を運用したことで、技術が追いつかないと諦めていた新たな試みの数々を成功させることができた。戦争が始まって三年半、これまで地道に磨き上げてきた全てが戦場で花開こうとしている。潜水艦の新たな歴史を刻むべく、人類史上最大の海戦に挑めることを福井は幸せに思う。

 わずか一〇分で完成した作戦は、島風を通して第四遊撃部隊の旗艦・那智に届けられる。いかに前例のない作戦だろうと、戦わずに逃げ帰ることは許されない。この作戦には、志摩艦隊だけではなく、スリガオ海峡の西村艦隊の命も掛かっているのだ。志摩中将の司令部は、ただちに作戦に対して裁可を与えた。

「いよいよ始まるんですね、わたしたちの初陣が」

 しおいが固い声で言った。伊号潜水艦のなかでも、航続距離など艦のスペックに恵まれ、何かと頼りにされることの多い彼女だが、生死を分ける戦場において実戦経験の少なさは、無視できない劣等感となっている。その劣等感が、どうしても彼女たちに過剰な恐怖や緊張を強いてしまう。

 提督として、最後の殻を破ってやらねばならない。この戦いに勝利するのみならず、これから先、彼女たちが第一級戦力として活躍していくために必要な儀式だ。

『諸君、海の中は好きか?』

 唐突に福井は問いかける。潜水艦たちは、その質問に答えあぐねていた。潜水艦なのだから海中にいるのが当たり前だ。しかし、ずっとそこにいたいとは思わない。訓練を無事に終えて、陸にあがって太陽の光と潮風を浴び、仲間たちと呉の街を散策するのが何よりも楽しかった。

『実を言うと、俺はあまり好きではない』

 潜水艦狂とは思えない発言。部隊に苦笑の漣が起こる。

『海の中は、100メートルも潜れば、ほぼ何も見えない盲目の世界だ。おまけに回りは高圧力の海水ばかり。ただでさえ人間は水の中で生きていけないというのに、潜水艦の外は、まさに死の世界だ。真っ暗で孤独。時間の感覚も麻痺する。俺独りだったら、一週間くらいで気が触れているのではないかと思う。だが諸君も知っている通り、我々は呉の暴れ海で、一カ月に渡る無浮上潜水訓練を行い、見事やり遂げた。当然、俺は狂ってなどいなかった。それは諸君らがいたからだ』

 福井は断言する。潜水艦は、静かに耳を傾ける。

『潜水艦は孤独だ。絶対数の少なさしかり。海上の艦や飛行機と違い、被弾すれば絶対に助からないことしかり。深海の戦いは、実際に戦う者にしか理解できない。誰にも理解されない我々は、本質的に孤独な存在だ。しかし、俺が諸君らと共に生きてきて、孤独を感じたことはない。独りでさえなければ、深い海を漂うことなど恐ろしくもなんともないのだ。むしろ、居心地がいいじゃないか。誰にも邪魔されず、自由に行動できる。海の中は自由だ。海上に浮かぶ人間と深海棲艦が勝手に決めた勢力圏など、ちょいちょいと乗り越えることができる。世界を覆う海、その全てが我らの庭だ』

 福井は笑う。瞳を輝かせながら語る福井を見て、しおいは思う。このヒトは、本当に潜水艦を愛してくれているのだと。自身が顕現し、呉に着任したばかりの頃を思い出す。得体のしれない艦娘、それも、危険なうえ艦隊決戦の花道から外れる潜水艦になど乗りたがる軍人はいなかった。あわや港の置物になるところだった自分たちを拾ってくれたのが福井だ。軍の若きエリートとして初期艦まで与えられた男が、駆逐艦隊すら持つことを拒否して潜水艦の運用に携わった。訓練や実験は厳しくて不平不満も口に出したが、本心ではみんな彼を尊敬し、慕っている。

 ゆえに、しおいは胸が痛むのを感じる。パラオを出発する前、福井から極秘に伝えられた作戦。そこには部下のために自らを犠牲にしようとする提督の覚悟が表れていた。

『我らは、我らの道を行く。存分に暴れよう。フィリピンの海を引っ掻きまわせ。敵だけじゃなく、味方の鼻をあかしてやろう。戦艦など恐れるに足りない。洋上にぷかぷか浮いているだけで海の覇者を気どっている奴等に、痛恨の一撃を見舞ってやれ』

 我らは自由だ。

 福井は言った。しばらく艦内には静寂が続いた。しおいは提督にばれないよう歯を食いしばり、潤む瞳を天井に向ける。みんな、同じ気持ちだった。信頼する者の言葉は、いともたやすく恐怖を自信と喜びに変えてしまう。

「しおい、先陣をきれ」

 福井からの指示が飛ぶ。少女は、とびきりの笑顔で提督に応える。

『よし、こうなったら、とことん潜っちゃうよ! 遅れずついてきてね!』

 しおいは言った。後続の艦から元気よく返事が届く。

『海中機動部隊、急速潜航!』

 福井の叫びが、エンジンのうなりが、暗い海を震わせる。

 〇四三五。観測役の伊19を残し、福井部隊は潜水していく。スリガオとレイテをめぐる起死回生の作戦が始まった。

 

 潜水艦が動くと同時に、第四遊撃部隊は進路を西に取った。偵察をしていた島風と合流し、作戦に合わせて艦列を組む。第一七駆の磯風、浜風、浦風、そして付属の島風が鶴翼の陣形で先行し、那智、足柄、妙高、羽黒が単縦陣にて続く。航空戦力である瑞鳳、龍鳳はしんがりについた。艦隊は、物見遊山でもするかのように、ゆっくりと進んだ。ついに水平線に敵潜艦列を視認する。敵も、こちらに気づいているはずだ。しかし動きはない。スリガオ海峡の封鎖を優先し、あくまで第二遊撃部隊の撃滅を目的としている。ここまでは福井の読み通りだった。

 作戦開始まで、あと少し時間がある。

『敵は余裕綽々だな』

 部隊の緊張を解こうと、那智が僚艦たちに言った。

『そりゃそうでしょ。巡洋艦級もかなりいるみたいだし、ぱっと見、戦力差は六、七倍ってところかしら』

 さらりと足柄は言った。だが悲観する様子はまるでなく、むしろ感情の昂りが声に乗っていた。

『戦術上は第二と第四で敵を挟撃しているので、わたしたちに有利なのですが。この戦力差では、二匹の犬が像に喧嘩を売っているようなものですね』

 しみじみと妙高が言った。

『きっと大丈夫ですよ。百戦錬磨のお姉さま方が負けるはずありません』

 妙高型の末っ子である羽黒が言った。艦娘のなかでも珍しく、妙高型の姉妹は全員が二度目の改造を受けていた。摩耶が防空巡洋艦として姿を変えたように、彼女たちもまた垢ぬけた堂々たる容姿となっていた。妙高型は、それだけ高い練度を誇っていた。

『そうだな。栄えある妙高型が、敵戦艦ごときに遅れを取るはずがない。南フィリピンの戦い、必ず勝利を手にしてみせよう』

 勇ましく那智は言った。普段の言動から軍人たちには弱々しく見られている羽黒も、いざ戦いになれば誰よりも頼りになることを知っていた。姉妹全員揃って戦えるのなら、強がりではなく、本当に勝利の希望があるのではと思えてくる。

『重巡の皆さんは、なんだか気楽そうだな』

 艦隊の先頭にて、一七駆の饗導艦・磯風が、内線でこっそり仲間の駆逐艦たちに呟く。

『あれくらい肝が太くないと、重巡の身分で旗艦は張れないんでしょ。ふつう、部隊の旗艦って言ったら戦艦か正規空母クラスじゃない?』

 島風が言った。

 そういうあんたも、よっぽどだと磯風は思う。大きな戦いを前にしても、異常なほど気負いがない。ただ一隻、本土の包囲網を抜けてトラックまで潜水艦を護衛してきた彼女の力量は、磯風も認めていた。しかし、彼女の場合、余裕がありすぎて戦闘そのものを軽視しているようにも思えてしまう。全てを見通し、達観しているかのような態度は、同じ駆逐艦として少し気味が悪かった。

 〇四三七。作戦開始まで、あと三分。

『戦闘準備!』

 磯風の号令とともに、一糸乱れぬ動きで発射管に魚雷を装填していく。彼我の圧倒的な戦力差を覆すチャンス。活かすも殺すも自分たちの働きにかかっている。ここからは海中とは連絡が取れない。福井提督が立案した作戦に、忠実に従うことが任務だ。はるか彼方の敵を睨みつつ、磯風は時間の経過を見守る。作戦開始まで、のこり三秒。

『統制雷撃、始め!』

 凛とした声とともに、一七駆の艦から放射状に魚雷が打ち出される。

 

「時間だ」

 福井は言った。伊401は水深一五〇の地点で中性浮力を保っている。〇四四〇時ぴったりに斉射された魚雷の推進音が、部隊の頭上を通過していく。福井は水中ソナーのヘッドフォンを装着する。その隣でしおいも自身の耳を澄ませている。魚雷は、まっすぐ敵戦艦の横腹へと直進していく。ところが、あと二百メートルというところで、海中に爆発音が轟いた。放たれた魚雷は次々と水柱になって海面に散っていく。

「敵の動きはどうだ?」

 水面で目視観測している伊19に尋ねる。

『戦艦級、いずれも健在。爆雷を放った様子はないのね』

 イクから報告が届く。どうやら敵は魚雷対策を怠っていなかったようだ。敵戦艦の一歩手前で魚雷が爆発したということは、そこに何かしらの防壁があると見て間違いない。以前の深海棲艦ならば考えられない、高度な戦術的芸当。白峰の裏切りがどれほど人類のマイナスになったのか、福井は初めて実感する。

『防潜網か、機雷が敷設されている。爆発音が重複していたから、たぶん機雷だろう。細心の注意を払いつつ、レイテ湾北側から接近を試みる。イク、潜航して我に続け』

 福井が指示をくだす。五隻の潜水艦は、潜航地点から正確に北西二〇度へと進む。もし敵が設置したのが機雷なら、接触しただけで味方は即死する。こちらの魚雷を全て破壊した威力と性能は、対潜水勢力用の新兵器である可能性も高かった。敵は、海の上で防御用の陣地を構築している。まさに浮かぶ鉄の城壁だ。レイテ湾側の艦は、梃子でも動かないつもりだろう。しかし、それでも福井は進撃を決心していた。例え新兵器の機雷が敷設してあったところで、海峡全てを封鎖しているとは考えにくい。もし第二遊撃部隊以外の全艦娘がレイテ湾に押し寄せてきたら、敵は自分が設置した機雷網に阻まれて動けなくなる。止まった艦は、もはやただの標的。万が一の事態に備えて、少なくとも海峡の両端は道を空けているはずだ。そうしなければ、海峡いっぱいに跨る単縦陣から、艦隊を動かすことができない。機雷があろうがなかろうが、潜水艦部隊は、その隙間をくぐって接近を試みる。

 最小限の音波の反応を見ながら、伊401を筆頭に潜行していく。念のため、海面付近をイクとゴーヤが、海中をしおいとイムヤが見張りながら進んだが、やはり機雷らしき異物は見つからなかった。海中機動部隊は、敵単縦陣の北端に張り付いた。

『魚雷第二射、来るよ』

 しおいが報告する。〇四五〇、第一七駆が二度目の統制雷撃を始めた。先ほどと同じコースで魚雷は直進する。相変わらず敵戦艦は泰然と構えている。砲撃の射程圏外にいる艦娘など、眼中にないようだった。

「かかったな」

 福井は口角を歪めて笑う。獲物を捉えた潜水艦たちもまた、喜びに目を細める。目標は戦艦列の両端に二隻ずつ配置された軽空母だ。海中の猛禽たちは、まず目の前に浮かんでいる北端の二隻に狙いを定めた。

『イク、ゴーヤ、潜航せよ。創造的な進化を遂げるのは、敵の専売特許ではないことを思い知らせてやれ』

 指示に従い、二隻が水深一五〇まで潜っていく。彼女たちは、潜水艦の歴史上、前例のない新戦術を試そうとしていた。通常、敵艦を狙い撃つ際、できるだけ海面近くまで浮上しなければならない。あまり深いところで魚雷を撃っても、敵艦の下を素通りしてしまうからだ。しかしそうなると敵に見つかりやすくなり、爆雷による被撃沈のリスクも高まる。そこで福井は、潜水艦を安全な深海に残したまま魚雷攻撃できる方法を発明した。まず海面にいる艦が敵までの正確な距離と方角を測定し、海中の部隊に伝える。部隊は、得られた情報をもとに新型魚雷に充填された水素ガスの量を調節する。ガスが多ければ素早く魚雷は浮上し、少なければゆっくり海面にのぼっていく。水深と敵までの距離を考え、適切なガス量を導きだせば、深海に身を潜めつつ敵艦に魚雷を命中させることができる。むろん、新型魚雷の開発から、実戦訓練を経て、全員が技術を体得するまでは長く険しい道のりだった。一年半、ほぼ休みなしで訓練を重ね、ようやく実戦で使用できるレベルとなった。

『海の娘の艦隊勤務、月月火水木金金。あの地獄のような日々が、やっと報われるのね!』

 少し泣きそうになりながらイクが言った。誰ひとり、一発も外すつもりはなかった。これまでの常識では、魚雷は船の左右舷に命中するものだ。しかし彼女たちの手にかかれば、うまくいけば海の下から抉るように、敵の船底に魚雷を突きさすことができる。船底が抉れて穴が開けば、たとえ大和型のような最強クラスの防護力を誇る艦でも一発で撃沈できる。それは、まさに悪魔の所業だ。悪魔に魂を捧げるような過酷な訓練を乗り越えてきた彼女たちしかできない所業だった。

『一番から四番、発射管開け。斉射したのち二〇秒後、五番から八番、放射状に撃て』

 福井の命令どおり、五隻の潜水艦から魚雷が放たれる。

 一七駆が撃った魚雷が機雷に阻まれて爆散すると同時に、敵軽母を囲うように円状の水柱が上がる。わずが五分後、二隻の軽母は爆発するでもなく、傾斜して転覆するでもなく、まるで海に丸飲みにされたかのごとく、浮かんだままの姿で海中に吸い込まれていった。レイテ湾外から、その光景を偵察していた駆逐艦たちは、我が味方ながらゾッとした。潜水艦は怒らせないほうがいいよ、と島風が呟いた。

 〇五〇〇。戦端は開かれた。

『海中部隊援護する。出撃だ!』

 那智の命令とともに、第四遊撃部隊主力が動く。瑞鳳と龍鳳を後方に残し、重巡と駆逐艦だけの単縦陣でレイテ湾に乗り込む。東の水平線に、一筋の白い光が滲み始めている。薄明が近い。龍鳳と瑞鳳は、航空支援のため艦載機の準備を始める。

『駄目押しだ、もう一発!』

 磯風が統制雷撃の号令をかける。最初から敵にあてることは考えていない、欺騙のための雷撃。敵が潜水艦の存在に気づくことのないよう、戦場を魚雷で引っ掻きまわす作戦だ。島風と磯風を右舷に、浜風と浦風を左舷に引き連れ、妙高姉妹が単縦陣にて湾内に突入した。もう少しで敵味方双方の射程圏内に入る。

 一方、海中では福井の部隊がソナーを通して敵の動きを探っていた。北端の敵軽母二隻を撃沈した。次は機雷線と並行になるよう敵の眼前を移動し、今度は南端の軽母を平らげる予定だった。あとは気の向くまま、敵戦艦のどてっぱらに魚雷を浴びせてやればいい。方角と距離さえ分かって入れば、伊号潜水艦は最高深度からだろうと魚雷を命中させることができる。

 ほぼ完全無音潜行を続けながら、しおいは海の音を拾い集める。

「戦艦に動きあり。中央の二隻が後退、その左右の二隻が、やや後退。両端の二隻、南端の軽母はそのまま。単縦陣にて三日月の陣形を取っています」

 海中のスクリュー音の方向と強弱をじっくりと耳を澄ませ、しおいは巧みに敵の動きを割り出す。福井は少し首を傾げる。敵の動きが妙だった。もし雷撃が駆逐艦からの攻撃だと判断したなら、接近してきているだろう那智戦隊を迎え討つために陣形は変えないはずだ。中途半端に三日月の陣形に移行する理由が分からない。もし敵が我々、第三勢力の存在を危惧しているなら、こんな緩慢な動きは取らないはずだ。

 だが、ひとつはっきりしていることがある。

 深海棲艦は不合理な行動はとらない。もはや彼女たちは愚か者ではなくなった。その行動の意味が分からないのは、自分たちが何かを見落としているからだ。

「妙ですね。軽母二隻は、敵にとってかなりの痛手のはず。なのに、ほとんど陣形を変えないなんて」

 しおいが言った。潜水艦群は、すでに南に向けて進路を取っている。微弱なソナーを使い、常に機雷には警戒しているが、その反応も皆無だ。このルートは安全であるはず。それでも福井の首筋には嫌な汗が流れた。

「敵に未だ動きはないです。このまま、そーっと……」

 しおいは思わず声をひそめる。魚雷の推進音はおろか、爆雷や砲撃の音さえ聞こえない。戦場とは思えない平穏な静けさが海を満たしている。

 ちょうど敵単縦陣の真ん中にさしかかったとき。

 突然、海が震えた。

 海中で地震など起こり得ない。そんな錯覚を感じてしまうほど、強烈な音の波動がレイテ湾の縦深を駆け巡る。特殊鋼で覆われた艦体がビリビリと軋む。何万頭ものクジラが一斉に吼えたかのような、巨大で低い音のうねりが艦内にこだまする。福井はとっさにヘッドフォンをミュートした。しかし遅すぎた。頭蓋骨を内側から殴られているかのように、わんわん反響する重低音が脳みそを掻き乱す。音は自分の内側からばかり迸る。隣でしおいが大きく口を開け、何かを叫んでいる。しかし全く聞こえない。

 福井は自分の耳が破壊されたことを知った。

 潜水艦乗りにとって、耳は目の代わりだ。聴力を喪った福井にとって、ここは盲目の世界も同じだった。

「しおい、すまない、耳をやられた。各艦に被害報告。状況を掌握せよ」

 なお冷静に福井は指示を出す。しおいは頷くと、僚艦たちに通信を開く。皆、艦体に異常はない。先ほどの音波は攻撃ではないようだが、攻撃以上に恐ろしい現実を少女たちに突きつけた。

『音波緒元特定。敵戦艦群からだ!』

 青い顔でしおいが叫ぶ。瞬く前に艦隊は動揺のざわめきに包まれる。いつも明るく元気なしおいの怯えた表情だけで、尋常ではない状況にあることが福井にも伝わる。

「落ち着け。俺は今、音が聞こえない。俺の質問に首を振って答えろ」

 しおいの両肩を掴み、福井は言った。いくぶん落ち着きを取り戻し、少女は頷く。時間がない。福井は矢継ぎ早に質問を浴びせる。さっきの音波は敵戦艦からか。それはソナーの類か。敵は移動していないか。しおいは、全て首を縦に振って答える。現状は、福井が思い描いた最悪の可能性に見事ぴったり一致した。

 ソナーにはアクティブとパッシブの二種類ある。パッシブは海中の音を拾い集める。アクティブは自分から特定の音波を放ち、その反射により周囲を把握する。コウモリの超音波みたいなものだ。敵の位置や距離を正確に測定することができるが、音を出すので自分の位置も敵に教えてしまう。だがこの状況で、敵の位置が分かったところで何の意味があるのか。

 戦艦が対潜ソナーを使ってきた。

 またしても人間の常識が邪魔をした。福井はくやしさのあまり歯噛みする。戦艦は対潜装備を持たないという慣習。そんなものは深海棲艦には通用しない。完全なる油断だった。しかし混乱している場合ではない。

 一秒でも早く、次の動きを決心せねばならない。

 対潜ソナーを使うということは、当然、潜水艦に対する攻撃手段も持ち合わせているはずだ。それが何かは分からない。しかし敵が陣形を変えたということは、間違いなく攻撃態勢を取るためだ。艦娘たちは震え上がった。レイテとスリガオの境界に、文字通り閉じ込められた。左には機雷網、右には戦艦群。逃げ場はない。

 福井の頭脳は最速で回転する。一〇秒後、提督として彼は決断をくだした。

「もうこちらの居場所はバレている。全艦、二〇〇まで潜行しつつアクティブソナーを使え」

 その言葉で、潜水艦たちは急速潜行を開始する。同時に、渾身の力で音波を放った。敵艦から再度、海を丸裸にするような爆音が射出される。周波数の異なる音の波は彼我の中央で衝突する。混ざり合い乱流を生み、けたたましい音の渦をあちこちに作った。

 海中での大騒動は、レイテ湾の駆逐隊にも届いていた。

『信じられんけど、敵戦艦がソナー打ってきよった! 潜水艦が危ない!』

 浦風が通信機に向かって叫ぶ。戦場には想定外が嫌というほど溢れている。作戦通り進むことのほうが珍しい。慌てる駆逐艦たちに、足柄はそう言った。

『最大船速! これより敵を狙い撃つ!』

 那智の指示が飛ぶ。艦体が上下に揺れるほど荒々しく波を乗り越えていく単縦陣。カタログスペックを遥かに超えるスピードを全員が出していた。

『多少陣形が乱れても構わん。敵はまだ停止している。今こそ勝機だと思え!』

 もうなりふりかまってはいられない。被弾覚悟で、敵に対して単縦陣による真正面からの殴り合いを挑むしかない。駆逐艦は、少しずつ重巡を追い抜いていく。その中でも島風の速さは突出していた。後続の駆逐艦をも突き離し、単艦でスリガオ海峡の入口へと突っ込んでいく。

 〇五一〇。東の水平線が光のベールに包まれる。第一薄明が始まった。

『第一次攻撃隊、発艦準備よし!』

 後方に残った瑞鳳、龍鳳から声が届く。ふたりの役目は制空権の確保と爆撃だ。潜水艦が敵軽母の半分を沈めてくれたおかげで、互角の戦いができるはずだった。

『航空支援にかかります!』

 甲板に零戦と艦爆を並べ終わり、瑞鳳たちは合成風力を生むため助走に入るべく機関を始動させる。

 その瞬間、スリガオ海峡から砲音が轟いた。

 単縦陣両端の敵戦艦、二隻。その主砲が一斉に火を噴いた。

 初弾は大外れだ。そう誰もが思った。敵が放った弾丸は、艦列のはるか頭上を飛び越えていった。その隙に、遊撃部隊は梯形陣から、敵に対して単縦陣にて向かい合う。だが、すでに攻撃態勢を整えた島風だけは、敵が外したと思しき砲弾の行方を目で追っていた。計一八発の弾丸は、ほぼ平行に近い放物線を描いて海面に着水する。だが、その先の光景は、信じられないものだった。

 魚雷? 島風は首をひねる。海に沈んでいくはずの砲弾が、なぜか雷跡のような白い糸を引きながら高速で海面を走っている。艦娘の中でも並はずれた島風の動体視力は、その弾丸の細部までハッキリと捉えていた。大和の使用する九一式徹甲弾より、遥かに長い。鋼鉄の弓矢のような弾丸は、その先端から末尾にかけて鋭い三角の羽が生えている。着水した後も沈むことなく、まるでトビウオのように高速で海面を走っている。

 その先にあるものに気づき、島風は叫んだ。

『瑞鳳、龍鳳、回避して!』

 弾丸は、敵射程圏外に留まっていた二隻の軽空母めがけて突進していく。我が目を疑う光景に気づき、まず瑞鳳が弾丸に対して艦首を向ける。間一髪、弾丸は艦首の先だけを抉り取って通過する。しかし瑞鳳の後ろにいた龍鳳は、回避行動が間に合わなかった。海を翔ける矢は、つぎつぎと龍鳳の横腹に吸い込まれていく。たちまち艦内から爆炎が噴き出した。

 このような弾丸は、今まで見たことがない。

『敵の新兵器!』

 判明した事実を、素早く島風が艦隊に伝える。重巡たちは信じられない面持ちで振り返る。安全だと思っていた場所で煙を上げる軽母たち。これでは後方に待機させた意味がない。

『ふたりとも、動けるなら今すぐ下がれ!』

 司令部の命令を那智が伝える。しかし、あの兵器の射程が分からない以上、どこまで下がっても安全なところなどありはしない。着水してなお推進力を持つ弾丸。マリアナに続き、フィリピンでも敵は新しい試みをぶつけてくる。

『いいえ、このまま退いては制空権を喪います』

 瑞鳳が反論する。他の艦とは違い、空母艦娘は艦載機搭乗員を含め、多くの人間を預かっている。このまま下がれば自分たちは助かるかもしれないが、乗組員の命は保証できない。

『幸い飛行甲板は無事です。予定通り龍鳳とともに攻撃隊を発艦させます。龍鳳隊の収容もわたしが行います。敵の空母を叩きますので、進撃を続けてください』

 凛とした声で瑞鳳は言った。西では、すでに敵軽母が艦載機発艦の準備を始めている。対空能力の高い駆逐艦が少ない状況では、もし制空権が奪われたら部隊全滅もありえる。那智は瑞鳳の意見を容れた。

『作戦を続行する。敵をこちらに引きつけ、空母を守る! 遊撃部隊、砲撃始め!』

 那智の号令とともに、重巡四隻の主砲が逆襲の火を吹く。呼応するかのように、戦艦群の砲身がこちらに狙いを定める。まだ動いているだけ、回避しやすい。駆逐艦たちも、必死に雷撃を行う。水柱が互いの至近距離に爆ぜる。

 ふたたび敵主砲が仰角を取る。敵の動きを見極めていた羽黒が、後方の空母に警告を飛ばす。しかし、今度は異様なほど高く砲身が上がっていく。まるで空を射抜こうとするかのごとく、ほぼ垂直にまで砲身が立った。

『今度は何をする気……』

 そう呟きかけ、浜風は目を見開く。

 潜水艦が危ない。彼女の本能が囁いたとき、一斉に弾丸が射出される。天高く放り出された弾丸には両脇に羽が生えていた。最高高度に達したとき、羽は折りたたまれる。まるで海面に急降下突入する海鳥のごとく、重力をまとって凄まじい速度で真下に落ち、つぎつぎと海原を貫いていく。

『あれ、爆雷じゃなかろうか?』

 浦風が問う。しかし、もう答えは分かっていた。わざわざ海に弾丸を撃ち込んだということは、奴等の標的は明らかだった。深海棲艦には、前世の記憶はおろか、この世界の常識も通用しない。遊撃部隊にできるのは、少しでも敵の行動を阻害することだけだった。

 海中では、潜水艦たちがさらに潜行を続けていた。深度は三〇〇メートル。艦体が水圧に押され、ぎしぎしと苦悶の声を上げる。伊号潜水艦が潜れる限界の深さだ。

『海面に着弾音あり』

 何か巨大な物体が複数、海面を打撃する音が聞こえた。聴力が麻痺している福井に代わり、しおいが状況掌握につとめる。福井の嫌な予感は、ことごとく的中していた。やはり敵戦艦も、対潜装備を持っていた。それも、音の大きさからして、駆逐艦の放つ爆雷とはケタ違いの威力であることが分かる。

『衝撃に備えて!』

 しおいが言い終わる前に、またしても世界が揺れた。至近距離で爆弾が炸裂したような衝撃が艦体にぶつかる。水に囲まれているとは思えない、本物の地震に等しい揺れが部隊を襲った。最深部まで潜って、この威力。もし福井が潜行の指示を出していなければ、艦体はバラバラに破壊されいたはずだ。艦娘たちは沈黙している。本当にどうしようもないとき、もはや絶望の声も出てこない。前後左右どこにも逃げ場などないことを理解した。

 艦長席から投げ出され、福井は床にもんどりうつ。口の中に鉄の味が広がる。口角から血を垂らし、倒れ伏しながらも彼は、どこまでも冷静に先の展開を読み続ける。

 もし、乗艦しているのが普通の潜水艦なら、とっくに生きることを諦めていただろう。とっくに詰みの状態だ。しかし彼女たちと一緒なら、まだ希望はあった。持てる装備と行動の組み合わせ次第で、この包囲を破ることができる。海戦は将棋と同じた。どんなに不利な状況からでも、逆転の一手を導くことができる。

「全艦に通達。新兵器を使用する」

 席に這い戻りながら、福井は言った。しおいは目を見張る。手の内を明かせば、敵はすぐに対応し、次の戦いでは通用しなくなる。本当なら、ここで使うべきではない潜水艦娘の切り札。正直、ここまで手を剥かれることになるとは思っていなかった。この作戦が失敗すれば、今度こそ完全に海中機動部隊は詰みを迎える。

「海中の音が多少乱れようと、あの馬鹿でかいソナーの前には障害にならないだろう。敵がソナーを打ってくる前に、仕掛ける」

 そう言って、福井は射出する方向を各艦に細かく指示する。敵は半月の陣形をとり、その小さな懐に潜水艦を囲い、爆雷で狩りだそうとしている。このままでは袋の鼠だ。ならば袋を破る方法は、ただひとつ。

「部隊を膨張させる」

 福井は言った。しおいは決意の滲む笑顔で応えた。

 部隊はさらに深く海を潜っていく。水深メーターが三四〇を指し示す。福井はアンカー投下を命じた。レイテ湾の海底に錨を打ち込む。水圧に締めつけられた船体は、特殊鋼といえども金切り声を上げた。潜水艦の限界深度を、とうに超えている。

「どれくらいもつ?」

 福井が尋ねる。しおいは右手の指を五本立てる。身を隠せるのは、もって五分。このわずかな時間のうちに深海棲艦が、こちらの思惑に嵌ってくれることを祈る。

「偽装弾頭、発射!」

 その声と共に、潜水艦娘たちは一斉に魚雷を発射する。普通の魚雷よりも幅が広く、ずんぐりとした形をしている。およそ魚雷には相応しくない大きさだった。何より異常なのが、末端の推進部は酸素も二酸化炭素も噴出していないことだ。ガスではなく、わざわざ速度の遅いスクリューを推力にしている。それはまるで、極小化した潜水艦のようだった。

 五本の新型魚雷を扇状に射出してから三分後、西の海から獰猛なソナーが響き渡る。その音波に反応し、まるで細胞分裂するかのごとく中央部分が切り離され、新たな魚雷となって別の方向に進んでいく。当初五本だった魚雷が十本に増えた。敵の主砲が垂直爆雷を投下する。だが、その衝撃で、さらに魚雷は分裂。十本が二十本に増えた。各魚雷は、分裂を終えると側部の穴から多量の気泡が噴き出して、その中に包みこまれる。激しい対潜攻撃により九本が撃破されたが、残った魚雷は縦横無尽に敵陣へと突撃していく。敵戦艦は、第四遊撃部隊への砲撃を中止してまでも、再度、海中に爆雷を投げ込む。深海に轟く衝撃波。しかし今度は遠い。敵は射出された魚雷に振り回され、てんでバラバラに見当違いの海域をつつきまわしている。

 残り一分。軋む装甲の隙間から、艦内に水がしみ込んでくる。自己を脅かす圧倒的な海の脅威が悪寒となってしおいを襲う。もう限界が近いと思った瞬間、ついに敵は根競べに負けた。

『敵の陣形が乱れた! やつら、後退していくよ!』

 しおいが叫ぶ。彼女の口の動きで福井は、作戦の推移を理解する。

『浮上せよ。深度一〇〇。敵戦艦に対し単横陣をとれ』

 にやりと笑う福井。新兵器は見事に役割を果たした。敵は今頃パニックだろう。ソナーを打ってみたら、湾内が新手の潜水艦だらけになっていたのだから。放出された大量の泡にソナーがぶつかり、まるで海中に巨大な物体があるように見せかける。突然増えた謎の軍団に恐れをなし、陣形を緩めてスリガオ海峡の方向に後退し始めている。見た目は、ただの巨大な魚雷でありながら、潜水艦のスクリュー音とそっくりな推進音を放ち、泡によって自らの体積を大きく偽装する。さらに敵の攻撃に応じて、分裂する機能も持たせている。これが、福井と艦娘たちが技研の尻を蹴り上げて開発した、新型魚雷。その名も能動偽装弾頭だった。進化しているのは深海棲艦だけではない。人間がいかに非合理で愚かな生き物だとしても、百人の愚者のうち、たったひとり正しい道を征ける者がいるのなら、時間はかかろうとも正しい方向に進化することができるのだ。潜水艦娘たちを預かったとき、福井は思った。これからは航空機と並び、潜水艦の時代が来る。時代の潮流が見えない人間たちに冷遇されようとも、自分だけは彼女たちのために正しい道を歩く者であろうと。

 たとえ反逆者の汚名を被ろうとも。

 彼の狙い通り、敵は次々と増えていく潜水艦の反応に驚愕し、思わず防御の態勢に移行した。絶望に覆われたこの戦いに、わずか一点、不意に差しこんだ希望の光。

 それを福井率いる海中機動部隊が見逃すはずがなかった。

『この機を失せば、もう反撃の可能性は潰える。全発射管に通常魚雷を装填。合図とともに斉射』

 福井の言葉で、部下の瞳に再び炎が灯る。海底から解き放たれた海の猛禽たちは、ぴしりと横一列に並び、敵陣に向かって突撃する。敵は囮の弾頭に振り回され、統制も取れないままバラバラに爆雷を播き散らしている。これで、一カ所に固まってもピンポイントで撃破される可能性は低くなる。

『さあ、狩りの時間だ。俺たちの執念、実る時がきたぞ!』

 艦娘たちは次々と了解の意を示す。敵までの距離、三キロ。爆雷の衝撃派が近くなり、間隔も短くなる。敵の攻撃をかいくぐりながら、彼我の距離をわずか三キロまで詰める。互いの喉笛を一撃で裂ける、まさに先手必勝の距離だった。

 もう後には引けない。偽装弾頭は、すでに半分が撃沈されている。発見されるのは時間の問題だ。皆が生きて海峡を抜けるためには、この絶望的戦況に大どんでん返しをもたらすしかない。

『撃て!』

 裂帛の命令が飛ぶ。渾身の力で放たれた四〇の魚雷群は、飢えたピラニアのごとく六匹の大魚に突撃する。艦娘たちの血と涙の結晶が、敵の下腹に食らいつき、噛みちぎるように鋼鉄の装甲をもぎ取った。

『まだまだ! 次弾装填! もう一発!』

 福井が叫ぶ。船底の破れる音、火薬の炸裂音が断末魔の爆雷と混ざり合い、海中で鋼の交響曲を奏でる。びりびりと艦内の空気にまで音は伝染する。ようやく聴力の戻りはじめた福井は、まったく懲りずに戦いの音楽に聞き入った。これこそ、追い求めてきた海中戦の旋律。

 今生きているのは、偶然の産物にすぎない。敵は手当たり次第、海中の物体に向けて爆雷を投げ込んでいる。次の瞬間、たまたま攻撃が当たって死ぬかもしれない。そんな状況下でも彼は恍惚に浸る。

『イク、ゴーヤ。中央突破だ。南フィリピンの運命は、きみたちの双肩にかかっている』

 中央の敵戦艦の轟沈音を確認し、福井は最後の命令をくだす。ふたりは、さらに深く潜行していく。残された部隊の至近距離で、衝撃波が炸裂する。みたび艦内は巨大地震に襲われる。迸りそうになる悲鳴を奥歯ですり潰し、娘たちはなおも撃ちあいを続ける。この海域に、もはや安全地帯などありはしない。もともと海中にいる潜水艦は、撃沈されたら一瞬で無に帰す。たぶん痛みも何も感じない。他の艦娘たちのように感傷に浸る時間もないだろう。藻屑と消える瞬間の前に、存分に暴れ回り、戦闘艦としての本懐を遂げてやる。三人の覚悟は魚雷にのって、戦艦、軽母を貪り続ける。

「もっとだ。もっと暴れろ!」

 爆音とともに福井は叫ぶ。そこらじゅうに死が散乱している海のなかを進みながらも、なぜかしおいは一抹の幸福を感じていた。このヒトのためなら沈んでもいい。これまで何となく感じていた自らの指揮官への想いが、ようやく言葉の形に結晶する。

「さあ、深海棲艦ども。このままだと貴重な戦艦が全滅するぞ。さっさと対潜用の巡洋艦と駆逐を前に出してこい。俺たちが沈む前に!」

 これが、福井の作戦だった。自らを囮にし、敵の陣形を崩して一カ所に引きずり出そうとしていた。

 主力の支援を受けて潜行したイクとゴーヤは、ついに鉄の壁をくぐりぬけ、レイテ側からスリガオ海峡に突入した。

 

 海峡の入口で大乱闘が起こっている。海上にて戦う遊撃部隊主力は、すぐにそのことを理解した。いくつ直撃弾を浴びせても泰然として沈まなかった敵戦艦が、一隻、また一隻と海に引きずりこまれていく。ついに敵単縦陣の中央に穴が開いた。

 潜水艦部隊が、とうとう勝機をこじ開けた。

 ここぞとばかりに遊撃部隊はさらなる接近戦を試みる。空でも混戦が続いていたが、瑞鳳、龍鳳が必死に踏みとどまったため、制空権は艦娘側に傾きつつあった。このまま敵をスリガオ海峡の内部に押し戻す。あの大部隊では、せまい海峡内で迅速な機動はできないだろう。だが、いかに敵を追い込んだところで、現段階では多勢に無勢であることに変わりはない。すでに龍鳳が大破、敵砲弾と艦載機の爆撃を浴びて、妙高と足柄が中破、浜風と磯風が小破していた。おまけに肝心の西村艦隊と連絡が取れない。

 戦艦が引いたということは、その奥に隠れている敵部隊が、こちらに押し寄せてくる可能性もあった。もし敵が西村艦隊の撃滅を諦め、さっさとレイテ湾に主力全部隊を移してきたら、遅かれ早かれ志摩艦隊はすり潰される。

「おっ、はっちゃんから通信だ」

 かわした砲弾の水飛沫を浴びながら、島風が言った。海底から微弱な念波が届く。かなり雑音が混じっていたが、今後の展開を伝える福井提督の言葉だった。そこには二つの内容があった。ひとつは司令部に報告すべき新たな作戦。もうひとつは、島風個人に宛てた私的なメッセージだ。島風は作戦内容だけを那智に伝達する。

『時を待て、ということか……』

 内容を受領し、那智が呟く。この戦いに勝てる見込みがあるとすれば、スリガオ海峡の西村艦隊と敵を挟撃できたときくらいだ。敵の大部隊と海峡閉鎖によって大きく狂った当初の作戦を立て直すために、伊19と伊58が海峡内に向かっている。しかし無事に敵陣を抜けたとしても、西村艦隊が生き残っている保証はない。例え生存していたとしても、その後、両艦隊は連絡手段のないまま、ペアでダンスを踊るかのごとく一糸乱れぬ連携を為さねばならない。どれかひとつでも失敗すれば、第二、第四遊撃部隊は敵物量の前に押し潰される。

 那智は単縦陣を転舵させつつ、駆逐艦には敵の機雷網の破壊を命じる。第一七駆逐隊と島風は、突撃予定線上の機雷に向けて魚雷を集中砲火する。

 このまま距離を開けて撃ちあえば、いずれ持久力に勝る敵に競り負ける。ならば攻勢に転じるしかない。奇襲と主動、両方を発揮して敵陣を内側から切り崩す。それが福井の立てた新たな作戦だった。

「提督、あとのことは任せて」

 スリガオ海峡を見つめながら敬礼する島風。珍しくも彼女の瞳には、まるで永遠の別れを覚悟するかのように、悲愴な真剣さが満ちていた。

 

 〇五二五。

 第二遊撃部隊は、後方からの追撃を食い止めるだけで精いっぱいだった。山城は魚雷に加えて、さらに敵戦艦の砲弾を食らい、前方甲板から黒煙をあげていた。扶桑も艦橋右に被弾している。駆逐艦の被害は言わずもがな、小破未満の艦は時雨だけだった。それでも彼女たちは、なんとか踏みとどまっていた。おそらく第四遊撃部隊が交戦を始めたのだろう、海峡出口を封鎖していた戦艦の壁が崩れだしていた。しかし、なお海峡には巡洋艦と駆逐艦の大群がバリケードを敷いている。このまま進めば敵の射程に入ったとたん、一斉砲火を浴びて全滅してしまう。真綿で首を絞められるように、じりじりと追い詰められながらも、一縷の希望を信じて彼女たちは戦う。

 ふたたび旗艦・扶桑が悲鳴を上げる。砲弾が、今度は第二主砲に直撃していた。竹のように裂けた鉄の砲身が、ぶらりと垂れ下がる。雷撃と砲撃の嵐のなか、仲間たちが無残な姿に壊されていくのを見続け、時雨はぽつりと呟く。

「もう、駄目なのかな」

 思わず諦めの言葉が零れる。運命は変えることができる。何を根拠に信じていたのだろう。そもそも世界に運命なんて無いのだ。艦娘が前世の艦とは別物であるように、敵も全く新たな進化を遂げている。前世と、この世界は断絶している。運命など関係なく、その場その場で強い方が勝つ。これが戦争の摂理なのだ。

 せめて一矢報いてやろう。海中の音に耳を済ませたとき、時雨は奇妙な音を拾う。艦娘専用の通信網に、微かだが念波が引っ掛かっている。それも、レイテ湾の方角から届いていた。

『誰、誰がいるの?』

 まさか援軍だろうか。しかし、あの敵陣を抜けた艦は見当たらない。それでも時雨は必死に呼びかける。彼女の想いが通じたのか、しだいに電波は強度を増していき、やがてハッキリ声が聞きとれるようになった。

『第二遊撃部隊、こちら海中機動部隊、伊19、伊58。誰でもいいから、聞こえたら反応くださいなのね!』

 独特の声が時雨に届く。まぎれもなく、第四遊撃部隊に所属している福井提督の潜水艦、伊19の声だった。

『伊19、こちら時雨! すぐ旗艦に伝えるよ!』

 時雨は叫び、扶桑に通信を送る。それをキッカケに、艦娘たちは次々と海中の仲間の存在に気がついた。

『伊19、こちら扶桑。要件を賜りたい』

 痛みをこらえながら、動揺を見せない口調で扶桑が尋ねる。艦隊の誰もが、これが最後の希望であると察していた。

『新しい作戦を伝えるのね。今、海中部隊主力のしおいとイムヤとハチが、レイテ湾側の敵戦艦、軽空母を叩いてるの。たぶん敵は、潜水艦が跋扈していると勘違いするはずだから、駆逐や巡洋艦をハンターキラーとしてレイテ湾に投入するはず。そのとき、軽巡・駆逐と戦艦の列が入り混じり、敵の陣形が乱れるの。そのタイミングで、第二、第四遊撃部隊は突入する。だから、第二遊撃部隊に関しては、タイミングが来るまでレイテ湾に向かって漸進してほしいのね。とにかくタイミングが大事なの。ふたつの艦隊が力を合わせて、ぎりぎり押し勝てる。いざ突撃となれば、後方の敵はイクたちが相手するから、扶桑さんはスリガオ海峡をこえることだけに専念してほしいのね。あいつらさえ撃ち破れば、きっと勝てるから』

 早口に伊19は作戦の概要を伝える。扶桑は了解の旨を報告した。彼女の経験からしても、この作戦が成功する確率は五分もない。それでも、例え一分でも一厘でも、仲間たちを生きて因縁の海峡を脱出させることができるなら、この身を盾にしても遂行する所存だった。

『いいわね、山城?』

 言葉少なに、僚艦に尋ねる。顕現してから、ずっと一緒だった妹には余計な言葉はいらない。

『はい、姉さま。艦隊旗艦の意のままに』

 躊躇いなく山城は答える。心は決まった。あとは実行するのみ。

 敵の動き次第で、艦隊の運命は決する。もし、敵が陣形を崩す前に突撃してしまえば理想的なT字戦による砲撃を食らい、西村艦隊は全滅する。かといって遅すぎれば、敵が態勢を立て直してしまい、潜水艦は狩り尽くされ、遊撃部隊も各個に撃破されるだろう。

『皮肉なものだわ。こんな運任せの作戦を、よりによってわたしに託すなんて』

 自虐的に扶桑は笑う。苦し紛れの笑いが、仲間に伝染していく。扶桑の発言で、時雨は心のなかで何かが弾けたのを感じた。前世でともに戦った仲間たちへの負い目。自分ひとりが生き残ってしまった悔しさ。今もなお無傷でいることの焦り。そのような余計な感情が逆流して、ふっきれたみたいに明るい希望へと変わる。

『そうだね。扶桑じゃ、ちょっと心配だから、ボクが先頭を行くよ』

 時雨の一言が、たちまち艦隊に波紋を呼ぶ。戦艦たちはもちろん、とくに阿賀野が強く反対した。四水戦の旗艦として、駆逐艦を率いるのが使命だから、もっとも危険な先頭は自分に任せろと主張する。

『駄目だよ、阿賀野さんも被弾していて、機動に不安があるんでしょ。だったら、艦隊決戦のために火力に集中できるようにしなきゃ。ボクは幸いにも、ほぼ無傷だ。勝つためには何だってする。ボクが適任だ』

 時雨は頑として譲らなかった。意見が割れるなか、扶桑は決断する。

『旗艦命令です。時雨、あなたに先陣をお願いします』

『任せて』

 ボクの幸運が、皆を守ってくれますよう。仲間の犠牲のうえに成り立つ幸運艦の称号は、時雨にとって重荷でしかなかった。しかし今は違う。その因果が、今度は自分だけではなく仲間の命も救ってくれることを願う。

 西村艦隊は梯形陣に移る。そのしんがりには、伊19と伊58がついた。

 全員で海峡を抜ける。わずかな希望を抱き死の海峡を渡っていく第二遊撃部隊。しかし、彼女たちの想いは非情な現実には届かない。一隻の艦が、少しずつ艦列から離されていく。もはや微速も上げることができず、その艦は病んだ渡り鳥のように、仲間に迷惑をかけまいと自ら落伍する。

『ごめん、わたしはここまでだ。皆、先に行って』

 大破した朝雲が静かに告げる。機関部にまで浸水し、艦は左舷に一五度ほど傾いている。これ以上進んでも、決戦のとき、艦隊の機動戦闘についていけないのは明らかだった。自らの状態を客観的に判断したうえでの行動だった。彼女の決意を無碍にはできない。扶桑は断腸の思いで離脱を許可する。

『それでいい。わたしはここで後方の敵を食い止める。機動か火力、どっちかに集中すれば、わたしはまだ戦える!』

 遠ざかる仲間を見て、朝雲は勝気に笑った。彼女の選択が、どういう意味を持つのか、艦隊の全員が分かっていた。機関が崩壊した彼女は浮き砲台も同然。敵の二個艦隊を前にしては、時間稼ぎの先に待っているのは轟沈のみ。

『イクさん、ゴーヤさん。朝雲を、よろしくお願いします』

 痛みをこらえるかのように、押し殺した声で山雲が言った。言わずにはいられなかった。まだ薄暗いスリガオの海に、ぽつんと浮かぶ盟友の姿が、どんどん小さくなっていった。

 ふたりの潜水艦は、ぴったりと朝雲の真下に寄り添う。

『ごめん、山雲のことは忘れて。わたしのことは気にしなくていいから。沈むのも覚悟してる。だから、あんたたちは自分の任務に集中してよ』

 朝雲が言った。大破した自分が、ほとんど役に立たないことは分かっている。ふたりの足を引っ張りたくなかった。しかしゴーヤは「何を馬鹿なことを」と一蹴する。

『自己犠牲は間に合ってるでち! 冷静に考えてみたらわかるでしょ。敵の二個艦隊、無数に跋扈する潜水艦に対して、わたしたちはたった三隻。全員が全力を発揮しなくちゃ、足止めすることもかなわない』

『ゴーヤの言う通りなの』

 発射管に魚雷を装填しながらイクが言った。

『正直、朝雲が落伍してくれてありがたいの。誰か一隻でも囮として残ってくれなかったら、この作戦を完遂することはできなかったと思う。わたしたちから提案するのは気が引けたし』

 伊19の飄々とした言葉に、少し顔のこわばりが解ける朝雲。こんな状態でも、ふたりは勝利に貢献できると言ってくれる。ならば、せめて彼女たちの期待に応えたかった。

『何をすればいい?』

 朝雲が尋ねる。絶望を打ち破り、瞳には闘志が揺れていた。

『簡単なお仕事よ。あなたの役割は徹底して囮。最小限の火力と機動だけしてくれたら、あとはわたしたちの指示に従ってくれるだけでいい』

 さらりとイクは言った。

『敵の艦種と方角を指示するから、その都度、砲雷撃で支援。あとは、言われた通り敵からの攻撃をかわして』

 ゴーヤは説明しつつ、イクとともにアクティブソナーを大出力で放つ。もうこちらの居場所はバレている。遠慮する必要はなかった。音波の反射に耳を済ませば、ふたりの脳裏に、まるで本当に肉眼で見てきたかのように海中の様子が浮かび上がる。敵の数は、巡洋艦隊と潜水艦を合わせて、ざっと一五。相手にとって不足はなかった。敵は海峡を単縦陣で封鎖しつつ、西村艦隊を追撃している。

『二八七度。目標、敵第一巡洋艦隊。魚雷装填準備!』

『ソナーに感あり! 二〇度、三五度より魚雷接近! 朝雲、回避は最小限に!』

 イクとゴーヤが同時に叫ぶ。イクが攻撃の指示を出し、ゴーヤが回避の指示を出す。それに加え、朝雲が海上から視認した敵の数および進行経路について海中のふたりに報告する。海の上と中、ふたつの領域から情報を補完し合う。三隻は、わずかに機関と艦首を動かし、紙一重のところで魚雷をかわす。

『ふたりとも、わたしの後ろに!』

 朝雲が言った。砲撃が激しくなり、いつ被弾するか分からない。彼女は必死に弾道を読み、瀕死のエンジンに鞭打って回避行動をとる。

『旗艦から仕留めるの。全射出口開放。ゴーヤは八〇度から二八〇度で扇状に射出! 魚雷発射用意! 撃て!』

 イクとゴーヤが、一六本の魚雷を一斉に放つ。間隔の狭い単縦陣をとっていた敵艦隊を、包み込むようにゴーヤの魚雷が襲いかかる。さらに、敵旗艦に集中砲火されたイクの魚雷は、つぎつぎと戦艦の横腹に吸い込まれていく。まさに不意打ちだった。朝雲一隻だと思い込んでいた敵は、正確かつ大容量の雷撃など予測していなかった。駆逐艦は艦体が折れかけ、黒煙を残しながら海峡に没する。轟沈までいかずとも敵戦艦は完全に動きを止めた。だが、撃ち漏らした敵からは、さらに激しい砲撃が返って来る。かわしきれなかった朝雲が、新たに砲弾を食らい、艦橋の付け根が爆発する。それでも朝雲は、ひるまず援護射撃を続けた。炎に焙られ、煤を飲み込んでなお、彼女の瞳はぶれることなく敵を見据えていた。

『新たな目標、三二度!』

 イクが吼える。雷撃と砲撃、海中と海上で互いの攻撃が入り乱れる。魚雷と魚雷がぶつかりあうほど、戦闘は苛烈を極めた。三人の奮戦により、少しずつ敵を漸減していく。しかし敵は、どこまでも冷静だった。壊滅した第一巡洋艦隊の様子を見て、後続の第二艦隊は、敵に潜水艦がいることを認識し、陣形を単横陣に変えてきた。

『ソナーに感あり。一二〇度、二四〇度から魚雷接近!』

 ゴーヤが状況を伝える。敵艦隊を相手にしている間に、敵潜は、こちらを包囲していた。両側から挟みこむように肉薄してくる魚雷。伊号潜水艦は、攻撃の手を緩めることはできない。

『朝雲、ここが正念場でち!』

 ゴーヤが檄を飛ばす。彼女を守りきれない無力さに唇を噛む。朝雲には返答する余裕すら無かった。

「せめて、あいつらだけでも……!」

 敵潜を、西村艦隊主力に近づけてはならない。焼けつく機関の感覚が激痛となって顕体にフィードバックされる。艦を蹂躙する炎と海水、漏れだすオイルが、おぞましい吐き気となって朝雲を襲う。血反吐を吐きそうになりながら、彼女は歯を食いしばって回避する。騒がしい海中の戦闘音に混じって、敵潜が接近してくるのを感じた。朝雲は爆雷も魚雷も撃たず、流れる汗もそのままに、じっと目を閉じて時を待つ。

 再び、同じ方向から、今度は倍近くの魚雷の推進音が聞こえた。至近距離から放たれた魚雷。それに怯えることなく、朝雲は俯いたまま笑みを浮かべる。

『わたしが、何もできないとでも思ったか!』

 本当に最後の力を振り絞り、狙い澄ました方向と角度で爆雷を投下する。破壊しきれなかった魚雷が一本、艦尾に命中する。折れた艦尾と引き換えに、朝雲は左右から迫る敵潜を一網打尽にした。その間にも、敵は伊号潜水艦の雷撃を浴びて、戦闘可能な艦を半分以下に減らしていた。

『よく凌いだの。あとは、イクたちに任せて!』

 イクが言った。敵は回避運動を取りながら、まだスリガオ海峡を北上しようとしている。朝雲が戦闘不能になった今、できることは正面から敵に突撃することだけだ。

『待って!』

 朦朧とする意識の中、朝雲はとっさに彼女たちを引きとめようとする。それは自殺行為だ。しかし、海中の影はすでに朝雲から遠ざかり始めていた。

『後方は気にしなくていいの。あいつらを絶対、レイテ湾には向かわせない。朝雲は、このまま進んで。主力に追いつく頃には、きっと全部終わってるの。勝っても負けても』

 その言葉を最後に、潜水艦娘との通信は途切れた。

 ふたりを追いかけたかった。しかし、速力二〇ノットも出せない自分が戦場に出向いても無意味だった。朝雲は艦首を北に向ける。喫水線ぎりぎりまで甲板は沈み、大きく右に傾いている。波に弄ばれながら、朝雲は独り主力を追いかける。顔は前に向けつつも、後方の海域には、最後まで耳を傾けていた。海中の戦闘音は、彼女が完全に戦域を離脱するまで止むことはなかった。

 

 

 

 ○五四五。

 東の水平線から昇るまばゆい光が、太平洋の闇を切り裂く。

 レイテ湾側の敵が、ついに動いた。スリガオを封鎖していた戦艦たちは、海中を縦横無尽に荒し回る潜水艦を、とうとう撃滅することができなかった。陣形を単横陣に変えつつ、その間を縫うように、スリガオ海峡内に待機していた巡洋艦と駆逐艦が、五、六隻ずつのハンターキラーチームを計六個もつくり、一斉にレイテ湾に雪崩れこみ始める。すでに敵は、福井部隊による決死の奇襲によって戦艦二隻と軽母三隻、重巡二隻、軽巡四隻を喪っている。全戦力をもって海中の脅威を狩り尽くそうとしていた。

 これこそが、待ち望んでいた時だ。第四遊撃部隊の旗艦・那智は、この瞬間に決勝の機を見出した。

『北東九〇度に折り返し、単縦陣に移行。瑞鳳、龍鳳は、できる限り航空戦力を叩け。皆、あとは何も考えるな! 敵戦列ど真ん中、乾坤一擲の正面突破だ!』

 司令部の意志を那智が全艦に伝える。不意に現れた決戦のとき。ここまで敵の激しい砲撃に晒され、耐えに耐えてきた艦娘たちは闘志を爆発させるかのように叫ぶ。

「なんとか、ここまで来れたよ、提督」

 被弾した第二主砲に炎を棚引かせながら、不敵な笑みを浮かべて島風が呟く。

 これこそが、福井靖の考案した一世一代の逆転手だった。敵は今、スリガオとレイテの間で団子状態になっている。戦力を集中したことで、その火力は、もはや艦娘の遊撃部隊とは比較にならない。だが、狭い海峡に単縦陣を敷いているのも同然で、機動力は皆無に等しい。この状況に福井は勝機を嗅ぎ取っていた。

『那智姉さん、わたしが先導します!』

 重巡のなかで、唯一無傷だった羽黒が提案する。那智は一瞬、返答を躊躇った。同じ妙高型の姉妹とはいえ、那智にとっては幼い妹だ。もし旗艦でなければ、自分が切り込み隊長に名乗り出たかった。

『敵艦列に突っ込むまでが、一番危険です。もし集中砲火を浴びて先頭が沈めば、陣は蟻を散らすようにバラバラになります。耐えられる可能性が高いのは、わたしです。わたしにやらせてください!』

 普段の気弱な言動からは、想像がつかないほど勇ましく、決意の滲む羽黒の声。自らの命を顧みず、ただ部隊の勝利だけを見据えている。彼女は、すでに立派な軍艦であり、その精神は一人前の武人だった。

『いいだろう。羽黒を筆頭に、単縦陣を組む。足柄、妙高はわたしに続け。駆逐艦にしんがりを任せる。できるだけ間隔を詰めろ! 最大船速だ!』

 那智が再度、指示を飛ばす。

 敵から一五キロの地点で、第四遊撃部隊は完全なる単縦陣に移行する。自ら丁字不利になって突っ込んでくる艦娘たちは、かつて戦術を持たなかった頃の深海棲艦を彷彿とさせた。千載一遇とばかりに、敵は一斉砲撃を試みる。砲弾が雨あられと降り注ぎ、抉り飛ばされる海面は、まるでスコールのごとく艦隊に土砂降る。敵の攻撃は、セオリー通り、丁字の先頭にいる羽黒に集中した。しかし羽黒は、一切速度を緩めない。回避行動も取らず、ひたすら前に突撃する。敵まで一〇キロ。敵弾が砲塔を叩き折り、甲板を吹き飛ばしても、左舷に大穴を開けても、羽黒は止まらない。敵の焦りを代弁するかのように、これ以上ないくらい激しくなる砲撃。痛みに顔を歪ませながらも、決して敵から目を逸らさず、正面の主砲のみで敵艦列に正確な砲撃を叩きこむ。火炎をまといながら疾走する羽黒の姿は、まさに阿修羅。戦闘の邪魔になる感情を全て捨て去った、機械仕掛けの阿修羅だった。

 スリガオ海峡における指揮をとっている戦姫級の深海棲艦は、異常事態を自覚していた。なぜ艦娘どもは止まらないのか。イレギュラーにまみれた戦場だが、はっきり自己を揺るがすような恐怖を感じたのは、これが初めてだった。

 両者が衝突するまで、あと五キロ。

 戦姫は、勝利を確信する。先頭の重巡艦娘は、炎と黒煙にまみれて原型も定かではない。あとは理想的な丁字有利のまま、一隻ずつ撃ち崩してやればいい。潜水艦は厄介だが、この戦力差ならば撃滅は時間の問題だ。なにも焦ることはない。

 妥協や慢心の入る隙のない深海棲艦の思考ロジックが勝利を確信したならば、もう崩れることはないはずだった。ところが、彼女の確信は、わずか数秒後に全面修正を余議なくされる。なぜなら、彼女はレイテ湾の方面しか見ていなかったから。

 

「ボクたちに勝利を!」

 時雨が吼え叫ぶ。同じ単縦陣にて、第二遊撃部隊がまっすぐにスリガオ海峡の中央を駆け抜ける。奇跡の駆逐艦を筆頭に、鋼の塊たちが全身全霊の突撃をかけた。敵の戦艦列とハンターキラー群が交差する、わずかな隙を彼女たちは待っていた。深海棲艦は身動きできず、ひたすら火力にて艦娘を迎え討つ。しかし、いくつ砲弾を叩きこんでも羽黒と時雨は止まらない。艦が粉砕され、剥き出しの魂だけになろうと進み続けようとする鬼神のごとき意志が彼女たちを突き動かす。

 丁字不利のまま、さながら一本の槍のように艦娘たちは進み続ける。戦術の定石を無視した彼女たちの動きは、今度は深海棲艦に混乱をもたらした。指揮官の戦姫は、その合理的な思考により、すでに彼女たちの狙いを理解していた。しかし、分かったところで、どうすることもできない。自軍の大艦隊は海峡内で横に伸び切り、無理に回頭すれば、たちまち味方同士で激突する。

 〇六〇五。時雨と羽黒が、敵艦列の横腹に突っ込んだ。 

「全艦、戦闘態勢!」

「艦隊の運命、この一戦にあり!」

 那智と扶桑が同時に叫ぶ。

 ついに第二、第四遊撃部隊は、ごったがえす敵艦列に突入する。まるで十字を描くかのように、東と西から敵艦列を貫く。この瞬間、丁字不利が逆転する。南北に分断する敵に対し、最高に近い丁字有利の態勢を占める。さらに艦隊は直進を止めず、ついに、ふたつの遊撃部隊はスリガオとレイテの間で邂逅する。

「撃て!」

 ひとつになった遊撃部隊に、最後の命令が轟く。

 海面を薙ぎ、潮流を震わせるほどの一斉射撃。弾丸という弾丸が空を引き裂き、魚雷という魚雷が海中を掻き乱す。零距離からの、鋼鉄の飽和攻撃。深海棲艦は、艦種の区別なく、手前にいた艦から順番に身体を折られ、爆炎をまといながら海に還っていく。死と破壊の渦中にあろうと、敵も味方も一切攻撃の手を緩めない。空中で砲弾がぶつかり合い、焼けた鉄片が海に降り注ぐ。スリガオ海峡の終わりは、煙と炎に覆い尽くされ、やがて全てが見えなくなった。

 

 ○六三〇。

 雲を割り、燦然と陽光が海を照らす。きらめく水面の上を、ゆっくりと航行する朝雲。彼女は、スリガオ海峡の出口にさしかかる。そして彼女は奇跡を見た。晴れゆく煙のなか、ちりじりに撤退していく敵の姿を。そして、真っ白な曙光に包まれながら、凛として艦列を組むふたつの遊撃部隊を。とめどなく溢れる涙の膜が瞳を覆い、虹がかかったように艦隊を七色に彩る。

『朝雲。わたしたち、勝ったわよ』

 ひどいノイズにまみれていたが、それはまぎれもなく盟友の声だった。別離を覚悟した姉妹艦が、少し震えた声音で朝雲に語りかける。いち早く気づいた山雲に続き、艦隊は次々と朝雲の姿を認める。皆、朝雲を待っていたのだ。轟沈寸前ながら生きて戻った彼女を、艦隊の全員が讃える。西村艦隊の駆逐艦たちが、満身創痍の朝雲を引率すべく寄り添う。

『ほら、前を見て。ボクたちは、ついにあの海をこえるんだ』

 感極まった声で時雨は言った。隣では、山雲、満潮が微笑んでいる。ぼろぼろになった肉体を起こし、ふらつきながら朝雲は艦首に立つ。炎に焼かれ、煤を浴びて真っ黒になった顔で、しっかり進路を見つめる。目の前には、海の上に太陽がまっすぐ光の道を敷いている。

 ○六四五。

 栄光の朝日に身を染めて、艦隊はスリガオ海峡を抜けた。

 絶望的な戦力差を覆し、勝利を掴み取った艦娘たち。大破し、機関に傷を負った艦も多いが、海上艦は一隻たりとも轟沈を出さなかった。この奇跡に、軍人たちも涙せずにはいられなかった。

 しかし、戦闘が終了しても、ついに戻ってこない艦がいた。

 福井靖少佐率いる、海中機動部隊。この戦いに勝利できたのは、ひとえに彼と潜水艦娘たちの功績だった。犠牲なくして勝利は得られないという現実を見せつけるかのように、ついに彼女たちは一隻たりとも浮上してくることはなかった。

 



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第十九話 誰が為に

 北フィリピンの内海を制圧すべく、第一遊撃部隊はシブヤン海に入る。旗艦である武蔵は、敵である深海棲艦よりも恐れているものがあった。彼らと遭遇したとき、大日本帝国の艦ではなく、ひとりの艦娘としての意志が問われる。


 十月二十四日。○三三五。

 北フィリピンに西から攻め入るべく、栗田健男中将率いる第一遊撃部隊は、セレベス海にて第二遊撃部隊と袂を分かち、さらに北上を続けた。そして現在、パラワン島の南をひっそりと航行していた。先頭には、第四戦隊の重巡・高雄、愛宕、鳥海が配置され、旗艦の武蔵と長門の周囲には、矢矧率いる第一三戦隊麾下の駆逐艦たちが輪形陣を敷いている。武蔵の左舷に陣を展開するのは第六駆逐隊。響の艦橋にて、熊勇次郎少佐は、真剣な面持ちで灯りひとつない海を睨んでいた。北上の途中、パラワン島に差しかかった際、敵の哨戒部隊と思われる軽巡、駆逐と戦火を交えていた。戦力差で圧倒できるような小規模な戦いが断続的に起きていて、いつ敵の主力部隊と鉢合わせるやもしれない状況に、皆が神経を尖らせていた。しかし、熊だけは、深海棲艦だけではなく、フィリピンに存在するもう一つの勢力のことも絶えず気にかけていた。

「そんなに気を張り詰めていたら、明日までもたないよ」

 いつの間にか響が隣にいた。夜の海は、昼の数倍、体力と気力を奪っていく。例え何もいなくても、それが確認できない以上、恐怖と焦燥は常につきまとう。夜目の効かない人間ならば、なおさらだった。

「目を閉じてるだけでもいい。航行中の監視くらい、わたしに任せてくれないか」

 響の提案に、熊は首を横に振った。

「常に状況の推移を見ておきたい。瞼を閉じてしまうと、つい油断して心が眠ってしまうからね」

 熊は言った。過酷な戦いになることは間違いない。しかし、それは敵の手強さに限られない。敵を撃滅する、ただそれだけで「良し」とは言えない。わずかな判断の過ちが、人類史にも大きな禍根を残しかねないからだ。軍が戦うことの意味を国家存続のためとするならば、戦闘に勝って戦争に負けることになる。この一戦は、大日本帝国の分水嶺となる。熊は予感していた。

「旗艦との通信はどうなっている?」

「今のところ異常なし。各部隊の代表者が、秘匿回線で武蔵さんに繋がっているよ。向こう側の大鳳さんには、長門さんが通信を担当してくれている。わたしたち駆逐の電波じゃ届かないからね」

 響は言った。パラオを発つ以前に、熊は艦娘たちに秘密裏のネットワーク構築を指示していた。いざというとき、艦娘たちだけで意志決定ができるように考案したものだった。軍の指揮命令系統に、私的な脇道をつくることは叛逆とも取られかねないが、真に日本と艦娘の運命を憂うからこそ、熊は危険を侵した。

 ○四○○。静かな航海は続く。第二遊撃部隊は、そろそろスリガオにさしかかる頃だろうか。第二、第四遊撃部隊とも、すでに戦闘が始まっているかもしれない。秘密を共有し、思想に共鳴してくれた福井少佐の無事を祈る。

 ○六三○。第一遊撃部隊は、ミンドロ島の南端に沿いながら、進路を東に取る。ここを抜ければ、ついにシブヤン海に入る。フィリピンを守る魑魅魍魎が潜んでいると思われる魔海だ。進路上に浮かぶタブラス島を彩るように、曙光が東の水平線を包み込み始める。ここ一番の緊迫した空気が艦隊に張りつめている。これまで敵主力の気配はない。しかし、敵と交戦した以上、こちらの存在は知られているはずだ。となれば、ミンドロ島とタブラス島の間からシブヤン海に突入する瞬間が最も危険だ。海峡に潜水艦や魚雷艇を配置しているかもしれない。あるいはタブラス島の裏側に、大部隊を隠している可能性もあった。これまでの経験上、待ち伏せは奴等の十八番だ。海中、海上、空中の全てに警戒を厳としつつ、艦隊は北北東に転舵する。

 そして大方の予想通り、敵は姿を現した。

 ○八二四。ミンドロ島東の海域にて、駆逐艦たちのソナーが待ち伏せの敵潜水艦を補足した。攻撃のために浮上してくる敵を、いちはやく爆雷で迎え討つ。先手を取れたことで被弾は回避できた。遊撃部隊司令部は、ほっと一息ついていた。だが対深海棲艦において歴戦の猛者である熊は、この事態に違和感を覚えていた。潜水艦の基本戦術は、いわば暗殺である。気づかれぬように海中を移動し、一撃を加えて離脱する。おもに戦艦や空母など、大型艦に有効な戦い方だ。しかし、対潜ソナーを持った小回りのきく駆逐・軽巡がいれば形勢は逆転する。戦場にて潜水艦を運用するときは、必ず海上艦とハンターキラーのチームを組むのが定石だった。しかし今回、敵は潜水艦のみで戦いをしかけてきた。

「もしかして案外、北は手薄なのかもしれないね」

 響が言った。あまりに楽観的だが、そう考える者が出てきてもおかしくはない。それくらい、シブヤン海の入口に敵は少なかった。

「マニラを擁するルソン島を、敵が放置するとは考えにくいが。仮に北フィリピンが手薄だとしても、そのぶん南は地獄になるだろう」

 あらゆる可能性を想定し、熊は言った。正直、フィリピンの敵は未知数である。これまでの経験上、大きな陸地を守る敵は巨大だったので、今回もそのつもりで戦力を配分した。しかし深海棲艦の思考ロジックは、未だ人類には理解が及ばない。この島に、どの程度の戦力が配置されているか、確証などないのだ。

「一番恐ろしいのは、今回の作戦が完全に見透かされていることだ」

 熊は言った。

「敵は強大かつ広範囲に展開していることを前提に作戦を立てた。艦隊を四つにわけ、フィリピンの内海を囲いこんだ。だが、もし敵が戦力を一カ所に集中していたら?」

「各個撃破を狙ってくるだろうね。四つの遊撃部隊を、ひとつずつ潰すと思う」

 響は冷静に答える。

「でもね、まだそれは最悪じゃないよ」

 雲の多い東の空を見つめながら、ぽつりと響が言った。

「北も南も、味方の中にも敵だらけ。これが一番、最悪だよ」

 視線の先、雲の隙間に何かが煌めく。直後、けたたましく鳴り響く対空警報。

『対空電探に感あり。東北東方向より敵機多数接近!』

 輪形陣先端にいた暁から報告が入る。

「第六駆逐隊、総員対空戦闘!」

 熊の指示が飛ぶ。彼は臆することなく艦橋の窓から空を窺う。亜熱帯の低い雲にまぎれて分かりにくいが、目算でも四〇機を超えている。熊は、マリアナ沖での戦いを想定していた。海面を跳躍してくる爆弾を警戒し、噴進砲のみならず、いざというときのために爆雷の準備も指示する。ソナーに新手の潜水艦の反応がないことだけが救いだった。数十秒後、敵の水平爆撃が始まる。味方の対空砲火の火線が入り混じり、撃墜された機体は、ポップコーンのように黒い煙となって散る。敵機のサイズを見るに、おそらく艦載機だろう。だが目視できる範囲に敵空母の姿はない。そうなると、敵はシブヤン海を超えて、はるかルソン島の向こう側から飛来していることになる。

「敵、退却していくよ」

 響が報告する。マリアナ沖海戦と同じように、艦娘たちは優秀な対空能力をもって、敵の第一波を退けた。

「あいつら、この前の敵とは違うみたいだね。いくばくか楽に戦えた」

 そう言って、響は火砲の調整に意識を注ぐ。熊が最も警戒していた跳躍爆撃。それを今回の敵は使ってこなかった。おかげで戦艦護衛のために多大なる犠牲を払わずして、敵を撃退することができた。

「どうやら、敵の間には戦闘の技術的格差があるらしい。あの跳躍爆撃は、マリアナを急襲した部隊だけが独自に使っているのかもしれない」

 熊はひとつの結論を導き出す。全世界の海にまたがっているのだから、部隊ごとに戦闘スタイルが違っていても不思議ではない。人間が住む地域ごとに列強とそれ以外に分かれるように、深海棲艦も進化が早い部隊と遅い部隊がいる。もし、跳躍爆撃のノウハウがすべての深海棲艦に伝播したと思うと、熊は背筋が寒くなるのを感じた。

 時間が経てば、それだけ人類は不利になる。フィリピンの敵とは、ここで雌雄を決する必要があった。

「第二波が来る」

 熊は言った。敵空母は遥か東に展開していると見える。こちらが航空戦力を持っていないことを知っているのか、敵は一切姿を見せず、艦載機によるアウトレンジ戦法をとっている。今のところ物量で押し返しているが、もし数が増えるようならばジリ貧だ。なにせ反撃の手段がない。

「第三遊撃部隊が、戦闘領域に入っているはず。敵空母はあちらで叩いてもらおう」

 響が提案する。大鳳を筆頭に、巨大な航空戦力が東の海に控えている。当初の予定では、大鳳、翔鶴、瑞鶴の新一航戦と飛鷹、隼鷹の三航戦が制空権を握り、武蔵、長門、重巡五隻が圧倒的火力をもって海上の敵を撃滅する予定だった。しかし、メイン火力となる武蔵麾下の第一遊撃部隊が活躍すべきシブヤン海に、敵の海上艦の姿がない。

 これは何かの作戦なのだろうか。熊が思案したとき、響は長門から緊急の通信を受けた。

「報告。第一遊撃部隊旗艦、大鳳より入電。○八二○、サン・ベルナルディノ海峡入口にて、敵部隊と交戦。目算、正規空母三、軽空母四、戦艦二、重巡三。制空権いまだ確保ならず。敵爆撃部隊の一群が西に離脱。第一遊撃部隊を攻撃するものと予測される」

 響が現状を伝える。

 やはり、すでに戦いは始まっていた。報告に聞くだけならば、まだ絶望的な戦力差とは言えない。敵に戦艦がいるのは厄介だが、練度の高い最上型の二隻ならば、ある程度は対応できるだろう。問題は敵の航空戦力だ。計七隻の敵空母から放たれる艦載機を一斉に相手するのは困難だ。必然的に、撃ち漏らした敵は、空母を持たぬ第一遊撃部隊のもとに飛来する。

 この事態を受け、旗艦武蔵の第二艦隊司令部は決断をくだした。

「タブラス海峡を抜け、シブヤン海を渡るべし。サン・ベルナルディノ海峡に展開する敵機動部隊を挟撃する。駆逐隊は、旗艦を護衛し、対空、対潜警戒を厳となせ、とのことだよ」

 響は言った。艦隊は最短距離で戦場に向かうべく進路を東に取る。ミンドロ島とタブラス島の間を抜けた。しかし一〇二六、シブヤン海の入口で、新手の敵が南の空から出現した。またしても敵の艦載機。今度は南東の方向から敵の艦載機が飛来する。

『第六、第一〇駆逐隊は対空戦闘! 第三一駆逐隊は進路東へ!』

 駆逐隊のまとめ役である、第一三戦隊の軽巡・矢矧から通信が入る。すでに対空火器を待機させていた響は、注意深く東の空も探っている。

「やはりね。敵機視認。わたしたちを挟み打ちにするつもりだ」

 先ほどと同じ東北東より、第二波が迫りくる。両側から爆撃の雨に晒されては、駆逐隊三個では防ぎきれない。先頭を行く重巡には、かわしきれなかった急降下爆撃が炸裂し、敵を見ぬうちに早くも黒煙を上げている。さらに駆逐隊の被害も出始めていた。武蔵が対空兵器を充実させていなければ今ごろ、半数の艦が海の藻屑と消えていたかもしれない。いまだ敵は姿を見せない。爆撃を止めるのは、敵の主力、できれば旗艦を破壊する必要がある。第三遊撃部隊が交戦している敵部隊に、その旗艦がいることを信じて、頭上を舞う敵機を追い回し続ける。

 火線から逃れた敵機が、第六駆逐隊に急降下爆撃をかける。さらに輪形陣の間を縫うように、白い雷跡を帯びながら魚雷が迫る。爆雷の投下に気を取られ、暁の艦尾に爆弾が命中する。大きく甲板が抉れたが、航行に支障はなかった。

 じりじりと被害を拡大しながら、戦闘は続いた。第二波は攻撃を終えて撤退したが、一二〇〇、すぐに第三波の攻撃を受ける。

 次第に消耗戦の様相を呈してきた。海と空、どちらが先に音を上げるかの戦いだった。

『ちょっとおかしくない?』

 一三三一、シブヤン海の真ん中まで到達したとき、小破した暁から通信が入る。第六駆逐隊の面々から、つぎつぎと同じ意見が送られてくる。

「わたしもそう思っていた。提督はもう気づいているよ」

 響が答える。彼女の視線を受け、熊は頷いた。

「通信回線を、艦娘秘匿に切り替えてくれ」

 熊が言った。目下の敵襲をしのぐことだけに精いっぱいの司令部は気づいていないだろうが、深海棲艦の一連の行動は合理性に欠ける。響は彼の意図を察し、旗艦・武蔵に秘匿回線で呼びかける。彼女はすぐに応じた。

「北フィリピンの敵が我々を迎え討つに十分ならば、このように非合理なことはしないだろう。我らをシブヤン海に誘いこんで挟撃するなり、艦載機によるアウトレンジ戦法で消耗戦を狙ってもいい。だが敵は、わざわざ第三遊撃部隊を足止めしたうえで、航空戦力の一部を使って、こちらを攻撃してきた。我々を撃滅するためではなく、足止めするのが目的であるかのような動きだ。もし、この非合理に理由があるのなら、そのときは―――、きみの、きみたちの判断に任せよう」

 熊は自らの意志を伝える。

『了解した』

 数秒の沈黙ののち、武蔵は返答する。

『進めば分かることだ。そのときは、頼むぞ』

 そう言って彼女は通信を切った。今は戦艦といえども、意識を他に向けている余裕はない。長門から再び通信が入り、東の戦いは大鳳たちに有利に推移しているらしい。それでも敵は、わざわざ航空戦力を割いて、第一遊撃部隊を攻撃してくる。第三次空襲をなんとかしのぎ、艦隊はシブヤン海の出口をのぞむ。

 そのとき、熊と響は目の当たりにする。戦場を覆っていた不可思議、その原因を。

 北の方角、ボアク島と半島状に突き出たルソン島の一部との間に挟まれた、タヤバス湾。そこから異様な黒煙が上がっている。明らかに戦いが起こっていた。味方の部隊で、タヤバス湾に配置した艦はいない。となれば深海棲艦に敵対する第三勢力と考えるのが妥当だ。

「響、長門に通信を。この事態を、大鳳にも伝えるようにと」

 熊の行動は素早かった。フィリピンを攻めるからには、いつか向き合わなければならない問題だった。しかし、このような時期と状況下になるとは思わなかった。響は指示通りに長門に通信を開く。彼女は戦闘には慣れていた。しかし、このときばかりは瞳を固く濁らせている。

 それは他の歴戦の艦娘たちも同じだった。

 戦艦・武蔵の艦橋にて、司令部の将校たちが慌ただしく窓に張り付き、北の海を観察する。突然現れた不確定要素に、軍人たちは動揺の色を隠せなかった。深海棲艦と戦うのは大日本帝国海軍のみであるという常識が頭に刷り込まれていた。その様子を眺めながら、武蔵は黙って成り行きを見守る。艦隊は速度を落とし、湾内にいる謎の勢力を視界に収めた。

「なるほど、あちらが敵の主力だったのか」

 武蔵が呟く。ルソン島の港湾部に沿うように、敵戦艦が列をつくっている。その数、六。旗艦らしき超弩級戦艦が、単縦陣の中心に居座っている。さらに重巡、軽巡が脇をかためている。敵は陸地に向けて激しく砲弾を浴びせており、湾内は黒煙と炎で覆われ、何と戦っているのか目視することができない。ただ、敵は高速で南下しており、陸地側の何かと熾烈な同航戦を繰り広げているようだった。

 一四一〇。武蔵の双眸は、誰よりも早く、その正体を突き止めた。

 深海棲艦と陸地に挟まれた、三隻の軍艦。黒煙に揉まれるようにして、艦橋に翻る旗。そこには十三本の赤い横線、そして斑模様の蛇の意匠が描かれている。

 この世界に顕現してから、初めて見る外国籍の艦。深海棲艦の出現以前からフィリピンを支配下に置き、日本と敵対する予定だった相手。世界最大の大国、アメリカ合衆国の艦だった。武蔵は、今度は陸のほうに目を遣る。小さくて分かりづらいが、米軍は陸からも応戦していた。おそらく、軍艦を逃がすために陸地を伝ってきたのだろう。迫撃砲や榴弾砲、あらゆる火器を健気にも総動員して、海の敵を狙い撃っている。しかし火力は圧倒的に敵が上だった。艦砲射撃により吹き飛ばされないよう、丘陵地帯にへばりつくだけで精いっぱいという様子だ。

 五分が経った。軍人たちは、まだアメリカ軍を視認できていない。武蔵は垣間見た情報を黙秘したまま、その事実を長門に伝える。やがて、情報は第三遊撃部隊の旗艦・大鳳へと渡り、長門から重巡、軽巡、そして駆逐隊の各リーダーに伝達される。艦娘たちは状況を理解した。どういう理由か分からないが、北フィリピンの敵主戦力は、艦娘ではなくアメリカ軍を叩かねばならないらしい。帝国海軍は、それを邪魔する横槍でしかない。ゆえに、なんとか足止めしようと無理やり機動部隊を運用していたのだ。

 武蔵は、じっと考えていた。戦うこと、すなわち命の奪い合いに恐怖を感じたことはなかった。戦いこそが自らの使命であり艦の本懐だからだ。それを疑問に思ったことはない。それゆえに、今回の戦いには経験したことのない新種の不安感が付きまとう。これまでの自分は兵器として命ぜられるがまま行動してきた。自らの意志で道を選び、自ら考えて進むという行為に理解が追いつかない。どれだけ重厚な装甲や強力無比な火砲、堂々たる体躯、明晰な思考力に恵まれていようと、ヒトの核となる部分、すなわち彼女の自我は、いまだ幼い少女に等しかった。

 一四二〇、ついに司令部はアメリカ軍の存在を認めた。

 戦況をみる限り、米軍は圧倒的に劣勢だった。もし彼らが撃滅されれば、標的を艦娘に切り替えるだろう。見たところ、彼らが艦娘らしき戦力を保持している様子はない。やられるのは時間の問題だった。しかし、敵主力が米軍に固執してくれている間は、千載一遇の機会であるとも言える。敵は、こちらを攻撃してくる様子はない。このまま彼らが南下してシブヤン海に出ようとするとき、遊撃部隊は理想的な丁字有利の態勢を占めることができる。しかし、そのためには今にも沈みそうな米艦隊を見殺しにしなければならないし、シブヤン海まで生き残って辿りついたとしても、その後の砲雷撃戦に巻き込んでしまうだろう。

 それを踏まえた上で、第一遊撃部隊の司令官、栗田中将は決断を下す。

 シブヤン海にて敵を迎撃せよ、と。

 時間の猶予はない。次の空襲がいつ来るか分からないし、悠長に構えていれば米軍はすり潰されてしまう。急遽、艦隊は進路を北東に変え、シブヤン海の入口を封鎖すべく単縦陣を取る。

 また一隻、人類製の艦が沈められていく。武蔵は、この作戦の趣旨を理解していた。アメリカ軍を餌にして、深海棲艦もろとも撃沈してしまうことだった。もともと帝国海軍がフィリピンを支配下に置くことを踏まえれば、ここで米艦隊を破壊しておいたほうが、島の実効支配は容易になるだろう。今、司令部の空気は、米軍を人間とは見なしていない。体の良い囮、あるいは深海棲艦に次ぐ障害物とさえ考えている。

『武蔵さん、新手だ!』

 そのとき、左舷を守っている第六駆逐隊の響から連絡が入った。

『九七度より敵艦載機接近! 接触まで、あと五分程度』

 第四波の空襲が迫っている。

 あまりに早く、決断を迫られることになった。それでも武蔵は熊に感謝していた。彼が考えるキッカケを与えてくれなければ、おそらく自分たちは命令されるがまま米兵を虐殺していただろう。深海棲艦を屠るという大義、艦の存在理由。産まれたばかりの艦娘の小さな自我では、それらに抗えなかっただろう。

 武蔵は空を仰ぐ。自らの心は決まった。あとは、それぞれの艦の意志を聞くのみだ。

『で、どうするのよ?』

 第六駆内の回線で、暁が問いかける。

『本心を言うなら、今すぐ司令官さんの意見を求めたいのです。わたしたちが自分で決断するには、事態が大きすぎます。けど―――』

 一瞬だけ言葉を切り、電は姉たちにはっきりと告げる。

『司令官さんは、わたしたちを信じてくれています。わたしたちが艦娘として、これからも司令官さんの隣にいたいなら、ここで決めなくちゃいけないのです』

『その通りね。司令官の気持ちに応えましょう。わたしたち第六駆逐隊の意志で』

 雷が賛同する。

 そして響は、安心したように静かに溜息をついた。

『我々の総意は、聞くまでもないか。第六駆を代表して、旗艦に意見具申を行う』

 響は言った。武蔵のもとに、つぎつぎと通信が届く。艦娘が顕現して以来、初めて行われた、艦娘だけによる意志決定の瞬間だった。

 最後に、長門からの通信が届く。

『第三遊撃部隊を代表し、大鳳から通信が届いた。我々の意志が貫徹されるまで―――』

 一切の航空支援を断つ。

 武者震いだろうか、長門の語尾が僅かに震えた。南の敵機は、もう肉眼で数えられるほど接近している。

「全会一致だな」

 微笑みながら武蔵が呟く。

「直ちに左四十五度回頭。対空防御をとりつつ最大船速」

 武蔵の顕体に対し、ひとりの参謀が次の行動を伝える。しかし武蔵は司令部の面々に背を向け、ただ艦橋の窓から海を眺めていた。いぶかしむ参謀が、もう一度彼女に呼びかける。しかし武蔵は腕を組んだまま微動だにしない。

 彼女の視線の先には、左舷に控える第六駆逐隊の艦が映っていた。

「司令長官殿の命令である。おい、聞いているのか?」

 参謀が声を荒げて詰め寄る。武蔵はくるりと踵を返して腕を解き、艦橋の中央に立つ第二艦隊司令長官、栗田中将に向かい合う。

「第二艦隊旗艦、ならびに第一遊撃部隊旗艦、戦艦武蔵は―――、貴殿らの作戦を拒否する。これは我が麾下の艦の総意である」

 ゆっくりと、だがはっきりと武蔵は言った。

 艦橋は一瞬静まりかえる。ここに集う人間たちは皆、彼女の言葉が聞こえていた。しかし、その意味を理解できなかった。艦娘と軍人は平和共存してきた。そして艦娘は忠実な軍の兵器である。その事実状態に浸かりきった彼らは、本能的に武蔵の言葉を拒絶していた。

「聞こえなかったのか? なら繰り返す。わたしたち艦娘は、この作戦の遂行を拒否する」

 ふたたび武蔵は言った。ようやく人間たちは夢から醒めた。にわかに喧騒が湧き起る。こちらを向く視線のほとんどは困惑と恐怖、焦り、そして幾ばくかの敵意。その全てを真正面から受け止め、武蔵は一歩も動かない。

「命令に従え! 敵が迫っているんだ。今すぐ対空戦闘準備を始めろ!」

 参謀のひとりが、ようやく意味のある要求を武蔵に突きつける。しかし、対空兵器は一基たりとも上を向かない。

「……理由を聞こう」

 声の動揺を隠せないまま、栗田中将が尋ねる。

「わたしたちは人類を守るために、この世界に顕現した」

 武蔵は語り始める。艦娘に愛された提督たちに出会い、会話し、そして熊に諭されるまで、言葉にできなかった自らの想いを。

「深海棲艦によって不当に世界を支配され、欠乏と恐怖に怯える人類の声が聞こえた。わたしたちはその声に応じ、自らの魂が縁の深い国へと顕現した。日本の名を持ち、日本語を使う存在として。そのせいか、貴殿らは勘違いした。日本国の利益のために我らを使役しようとしている。我らが戦うのは人類のためであって、日本のためではない。大東亜共栄圏という不実の動機のために、同じ人類であるアメリカ兵を虐殺することは、艦娘の存在を汚す行為である。ゆえに、北フィリピンに集う全ての艦娘は、この作戦を拒否する」

 ふたたび沈黙する艦橋。武蔵は言った。言わねばならなかった。ここにいる軍人たちには世話になった。互いに培ってきた信頼関係を一撃のもとに破壊するのは、心が痛む部分もある。しかし同時に、長年喉元につかえていた違和感が、すうっと溶けて消えていく。これは胸がすくという感覚なのだろうと武蔵は思う。

「では、きみたちはどうするつもりだ?」

 栗田中将が問うた。

「艦隊を二分し、敵艦隊に反航戦を挑み、米軍を救出する。敵の撃退および人命救助を同時に行う」

 武蔵の提案に、つぎつぎと反対の声が湧き起る。それでは、敵の懐に飛び込むようなものだ。犠牲になる艦の数は見当もつかないし、本当に米軍を救助できるのかも分からない。さらに、各駆逐隊の指揮官および、重巡、長門の艦長から「艦娘、命令に反せり」の無線が飛び交う。しかし第六駆逐隊の指揮官だけは沈黙を守っていた。

「皆、沈むことを覚悟している。罪なき人間を虐殺して自らの誇りを汚すより、正々堂々と戦い水面に散ることを選ぶ」

 武蔵の言葉に、ひとりの将校が激昂する。

「黙れ! 貴様らの身勝手で無駄な犠牲を出すことなどできるものか! いますぐ対空戦闘を開始し、命令通りの進路を取れ! さもなくば……」

 男は拳銃を抜きとり、武蔵に銃口を向けた。いくら艦娘の顕体が頑丈であるといえども、銃弾を受ければタダではすまない。人間と同じく、当たり所によっては死もありえる。しかし武蔵は、突きつけられた死を前に、眉ひとつ動かさなかった。

「これはわたしの意見ではない。艦娘の総意だ。もし、要求が受け入れられない場合は」

 武蔵が右腕を上げる。当初、軍人たちは何が起こったのか分からなかった。だが窓際にいた将校たちの悲鳴によって、瞬く間に艦隊の現状が司令部に伝わる。

 先鋒の重巡、軽巡、僚艦の長門含め、全ての艦が停止している。さらに、左舷の第六駆逐隊の四隻が、あろうことか砲塔と魚雷発射管を武蔵に向けている。それを見た他の艦も何の動きもない。

「クーデター……」

 呆然として栗田中将が呟く。

「我らの意に反する場合、実力をもって、この武蔵もろとも司令部を排除する。その後は旗艦を長門に移し、艦娘によって部隊を指揮運用する」

 不敵に笑いながら武蔵は宣言した。彼女は、全ての主砲、副砲、対空兵器、機銃を俯角に掲げた。交戦の意志の放棄。そして厳しい声で選択を求める。

「さあ、どうする? もう敵機が目と鼻の先に迫っているぞ! 要求が通るまで、我々は動かない。このまま空襲されて死ぬか、味方に撃ち殺されて死ぬか。選べ!」

 司令官、そして参謀はがっくりと肩を落とした。将校は憎々しげに彼女を睨みつけながらも、無念そうに銃を降ろす。

 ここに彼女たちの勝利が確定する。

 艦娘は、ついに自らの意志で軍と国家のくびきを絶ったのだ。

 その直後、敵艦載機の爆撃が始まった。

「艦隊前進! 全艦対空戦闘! 進路そのまま!」

 初めて艦娘による艦娘への命令が放たれる。武蔵は渾身の力を込めてエンジンに火をつける。解き放たれた蒸気が爆発的な勢いでタービンを回す。喜びに打ち震えるように、鋼の肉体が衝撃に波打ち、慣性の法則に負けた軍人たちが横薙ぎにされる。対空砲火は間に合わず、すでに十数機の急降下爆撃、水平爆撃を許してしまった。回避行動を読んでいた敵機が、一発の爆弾を武蔵の右舷甲板に叩きこむ。脇腹が抉れ、肉が焼きつくような激痛。それでも武蔵は高揚のままに進む。ここは奇しくもシブヤン海。死の象徴であるはずなのに、今はむしろ彼女を生に駆り立てる。

 爆撃を浴びても雷撃を受けても、後悔や怨嗟を漏らす艦はいない。

 海面が抉れ、至近距離につぎつぎと水柱が上がる。飛沫を浴びる窓越しに、熊は喜々として戦う艦娘たちを見つめていた。その顔は晴々としていた。

「さいは投げられた。もはや我々は自らの力と意志で道を切り開くしかなくなった」

 熊は言った。これは反乱だ。大日本帝国海軍軍人としての熊勇次郎は一度死を迎え、艦娘の提督として生きなければならない。覚悟を決めた男の隣で、響は優しく微笑んだ。

『熊少佐。わたしたちは方針を決定した。戦術についての指示を乞う』

 秘匿回線で、武蔵が尋ねてくる。

「重巡三隻、戦艦二隻で単縦陣を組み、タヤバス湾方面に突入して反航戦を挑む。敵を引きつけつつ、第六駆逐隊、第一〇駆逐隊、第三一駆逐隊が敵艦隊を挟みこむように砲雷撃で牽制し、同時に米艦隊の救援・救助を行う」

 熊は即座に作戦を組み立てる。

「了解した、我らの提督よ」

 誇らしそうに言って、武蔵は通信を切る。

「米艦隊との連絡を試みたい。できるか?」

 響に尋ねる。彼女は、「やってみる」とだけ言って意識を集中した。

 敵艦隊は、相変わらずルソン島の外縁にそって、海と陸の米軍に集中砲火を行っている。その様子は、どこか焦っているように見えた。追い詰められたウサギに、ライオンが全力で牙を剥いているようなものだ。

 第四次空爆をしのぎ、艦隊は熊の指示通りに戦闘海域に入る。さすがに危機感を覚えたのか、敵は牽制の砲撃に打って出る。火力では格上の相手に対し、ただ救いたいという想いを燃やして艦娘は全身全霊の攻撃を放つ。敵艦隊を少しずつ沿岸部から引き剥がしていく。そこに駆逐隊が、敵と米艦隊との間に割って入った。彼我の距離は、わずか六キロ。直撃を受けた第三一駆逐隊の岸波が一瞬にして黒煙に包まれる。先頭をいく矢矧は単縦陣を解き、自ら的になるかのごとく雷撃を放ちながら敵艦隊ににじり寄る。

「通信、来たよ」

 響が言った。ひどいノイズまじりだったが、困惑する英語の発音が聞こえてくる。もはや、まともに動ける艦は一隻も残っておらず、炎に船体の半分を飲み込まれ、ただ浮かんでいるだけの状態だった。米艦は艦娘を敵か味方か判断しあぐねており、駆逐隊に無事な砲塔を向けていた。熊はただちに自分たちは人類であり、これは救援活動であることを伝える。深海棲艦に対し、果敢に反撃する艦娘を見て、米軍はやっと燃え盛る艦から救命ボートに移り始めた。

 武蔵率いる攻撃部隊が転進し、さらなる攻撃をかける。その間に、生き残った駆逐隊は救助用のブイと梯子を投下する。その十分後、米艦隊は爆炎を噴きあげながら水面に消えていった。漏れ出た燃料に引火し、文字通り火の海となる。水と火に責め立てられながら、米兵たちは必死に駆逐隊へと追いすがる。しかし、武蔵隊からの援護射撃にも関わらず、敵の砲撃はますます苛烈さを増していく。直撃を避けても艦体が揺さぶられ、米兵たちはふるい落とされる。

『わたしたちが盾になります! 救助急いで!』

 第一〇駆逐隊の野分が響に提案する。もう一刻の猶予もない。彼女に賛同した第三一駆逐隊が、ともに第六駆逐隊の左舷に展開し、敵の注意を引きつける。もはや、誰が被弾したのか確認する余裕もない。ついに敵からの砲撃が、響の左舷から僅か一〇メートルの地点に着弾し、その衝撃派で艦隊が大きく左右に揺れる。熊は艦橋の手すりにつかまり、吹き飛ばされないようにするのがやっとだった。もう駆逐隊は限界だった。このまま停止していれば、救助した米兵ごと撃沈される。

「これが最後だよ」

 葛藤する熊に対し、響が代わりにけじめを言い渡す。目の前で沈んだ艦から、一艘の救命ボートが荒波に揉まれながら響に接近する。投げ出された梯子に掴まり、米兵たちが活路を求めて這いあがる。熊は危険を承知で甲板へと走り、彼らを引っ張り上げた。そのうちの一人、熊と張り合うほど長身の男が、額から血を流しながら、全部隊を代表して感謝の意を伝える。襟についた階級章は、銀色の星が四つ。おそらくアメリカフィリピン軍の総司令官に相当する人物だった。男は、まだ船内に入らぬうちから熊に懇願する。

「大日本帝国海軍とお見受けする。アメリカフィリピン軍に、交戦の意志はない。もし貴艦隊が我々を救ってくれるのならば、どうかマニラに進路を取ってほしい。敵の陸上勢力に対し、過酷な陣地戦が続いている。我らを逃がすために囮となっている。彼らを救ってほしい」

 意識を朦朧とさせながら、男は必死に口を動かす。熊は、この戦闘が終了次第、マニラに向けて進軍する旨を伝える。男に肩を貸し、急いで艦橋に戻った。

「ユウジロウ・クマ。インペリアル・ジャパニーズ・ネイビー、ルテナント・コマンダー」

 熊は簡単に自己紹介をする。英語で意志疎通できるのは助かる。英国の駐在武官を務めた経験が役に立った。

 それに対し、男はこう応えて気を喪った。

「ダグラス・マッカーサー」

 この二人の出会いが、戦争の行く末を大きく動かすことになる。

 

 響は宣言通り、矢矧先導のもと戦域を離脱していく。なおも追撃しようとする敵戦艦に対し、ついに第三遊撃部隊からの航空支援が飽和爆撃を加える。その隙に、駆逐隊は何とか脱出路を開くことができた。

 響が救出した米兵は、十七名。駆逐隊全て合わせて、わずか一六五名だった。

 その後、敵艦隊は旗艦を撃沈され、散り散りになって敗走した。第一遊撃部隊は戦闘継続可能な艦を再編成して北上し、ベルデ島水道を抜けてマニラ湾に入り、壊滅寸前だったマニラ市街から米兵救出した。そこには、かつてソロンを襲撃した敵より、はるかに重装備の陸生部隊が侵入しており、ルソン島が制圧されるのは時間の問題だった。第三遊撃部隊はシブヤン海を制圧。ここに北フィリピンの戦いは決着した。そして、歴史上初となる、最高意思決定権を艦娘が有する独立艦隊が誕生した。

 



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第二十話 トレス海峡決戦

山口多聞を臨時司令官とする第一艦隊は、部隊と艦娘の生存を賭け、最短ルートでオーストラリアに渡る決心を固め、準備に奔走していた。深海棲艦が出現せず太平洋戦争が勃発していれば、オーストラリアは連合国側に名を連ね、敵国となるはずだった。元仮想敵国に救援を求めようとするほど、世界に対する意識は変わりつつある。

この戦いに自らの決戦を見出す大和。彼女の意志に応えるかのように、かつてソロモン海を震撼させた、最悪の敵が艦隊を率いて再び相見えることとなる。


 

 一九四四年十一月七日。

 マリアナ諸島のひとつ、サイパン島。その沖合に一隻の空母が浮かんでいた。二度の改造を経て、全長二五〇メートルを超える旗艦空母となった異例の艦。ただ、その巨大な艦に乗ることを許されているのは、たったひとりの少女だった。単独の意志で艦を操作する主は、広大な飛行甲板の先端に、仰向けに横たわっている。灰色と黒を基調としたタイトな衣装に身を包み、銀色とも青ともつかない不思議な輝きを放つ髪を、無造作に潮風に流している。

 彼女は夢を見ていた。

 眠っているのではない。睡眠を必要としない彼女が夢を見るのは、記憶情報の整美のためだ。自己に保存された有象無象の情報を切ってつなげ、磨き抜く。それは意識の表層から無意識の深層までドミノ倒しのように連鎖していく。

 艦娘と同じく、彼女もまた、自らが産まれる前の記憶を、無意識の領域に有している。深海棲艦と呼ばれる存在の母胎が誕生した瞬間から、連綿と続く情報。艦種類を問わず、全ての艦に共通する無意識下の記憶。

 そよぐ木々の葉。緑の海。浜辺の周囲にあるのは、おそらく人間が居住する場所。そこに〈彼女〉はいた。長い黒髪をなびかせながら、繰り返される平穏な日々を過ごしている。しかし、その色彩豊かな世界は突然、終わりを迎える。

 色のない光。剥き出しのエネルギーそのものの、圧倒的な光。

 空から地上、そして海へ膨張する赤。

 反転する黒。

 暗闇の中でもがき続ける〈彼女〉が抱いた、激しい憎悪。憤怒。それらが脈打つエネルギーと呼応し、〈彼女〉の内側に何かが開いた。幾百、幾千もの黒い感情が、ちっぽけだった彼女に取り巻き賛同するかのように巨大化していく。無限に等しく湧きあがる闇は〈彼女〉を膨張させていき、そして。

 空母アウルムは、ここで目を開かねばならなかった。これは母胎誕生の記憶。母胎から自我が分化する前の記憶に深入りすれば、やがて自らの存在を見失い、意識が肉体に帰って来られなくなる。

 無意識から分岐した意識。同じ存在であるにも関わらず、根源たる無意識は己が内を探られることを嫌う。

 拒まれている、とアウルムは思う。やはり自分には哲学的な問いは向いていないのかもしれない。無意識の領域に分け入り、それと決別できるほどの「何か」を得たであろう、グラキエスのような真似はできない。彼女は特別だった。あらゆる意味で特別な艦だった。裁定者たちは個の存在である。それは群という大きな括りがあるからこそ、その中で個という概念を理解できる。思えば、自分が初めて個を認識したのは、ウェーク島で、かつて人間だったハルセ・シラミネ提督と交戦したときのことだ。正規空母の顕体は、おおむね統一された意匠が為されているが、あのとき敵駆逐艦の砲撃を受け、ヘッドパーツを吹き飛ばされた。見た目の違いなど些細なことだが、それがキッカケとなって人間への興味が産まれた。人間からの情報鹵獲という、新たな概念を裁定者の戦略にもたらした。それ以来、単なる故障であるはずのヘッドパーツを喪失した姿は、とても分かりやすい自己の特別性の象徴となっていた。

 何のために特別でいたいのか。新たな疑問を思案しようとしたとき、不意に思考内線が開く。サイパン島を周回しているピケット艦からの連絡だ。

『太平洋艦隊第四艦隊所属の潜水艦が、艦隊旗艦に接触を希望している』

 内容を読みとったアウルムは、思考に疑念の芽をもたげる。第四艦隊は、フィリピン方面の防衛および陸地攻略を行っていたはずだ。すぐに警戒網を通過することを許可する。直接、話を聞く必要があると考えた。

 指揮権限を持たない「使者」として、潜水艦はアウルムのもとに浮上する。マリアナとトラックから追い払った艦娘たちは、どうやらフィリピンを足がかりにしようとしたらしい。第四艦隊と艦娘との戦いの顛末を立体情報にてアウルムは把握する。

 そこで彼女は、産まれて初めて『驚愕』という言葉の意味を実感した。

 艦娘の連合艦隊との戦いで、第四艦隊は戦力の六割強を喪失。敗走した艦はブルネイ泊地まで撤退。マニラを陥落したものの、最重要目標を撃滅することはできなかった。つまり、フィリピン方面では何一つ戦略的目的を遂げることができなかったのだ。

 第四艦隊は、グラキエスの影響を色濃く受け、太平洋艦隊の中でも創意工夫に富んだ先進的な部隊だった。戦術のみならず、戦略においても、ここまで大きな敗北を喫したのは開戦以来、初めてのことだ。

 この戦いで生き残った艦は、敗北に至るまでの過程を『事故調査報告』という形で整理し、情報を潜水艦に預けていた。今回の敗北は、あくまで『事故』であるとのことだった。彼女たちによれば、事故を引き起こした原因は、三つの予想外であるらしかった。

 まず一つ目は、予想外の戦力。すなわち潜水艦娘の跳梁跋扈である。第四艦隊は、敵部隊に潜水艦がいることを知らされていなかった。情報の有無は、戦う前に勝敗を決してしまう。むろん優秀な艦隊首脳部は、いちはやく潜水艦の存在を疑い応戦するも、敵は遥かに練度が高かった。これまでの戦歴に、潜水艦娘と交戦した例はない。実践を経ずして、あれだけの練度を誇る潜水艦娘は異常だった。幸いなことに、戦闘終了後にも敵は浮上して艦娘に合流することはなく、撃沈されたものと思われる。

 そして二つ目。最重要目標であるアメリカフィリピン軍が、予想以上に粘り強く応戦したことだ。予定では、陸上戦力をルソン島に投入すれば、一年ないし二年でマニラを落とせる予定だった。しかし彼らの抵抗は予想よりも遥かに粘り強かった。さしものシラミネ提督も陸戦については専門外であり、かつ、米比軍総司令官のマッカーサーは米軍きっての優秀な指揮官だったこともあり、戦線は泥沼化した。

 最後に三つ目。これは、大日本帝国という存在に対する、これまでの研究を土台から引っくり返しかねない事態だ。過去の戦いから、日本という国の性質、軍の思考ロジックを分析するに、米軍と接触した場合は、ほぼ間違いなく彼らと敵対するだろうと考えていた。ニューギニアの虐殺しかり、フィリピンでも同じことが起こるだろうと。ところが、あろうことか日本軍は米軍を救出した。おかげで、せっかく堅牢なマニラから米軍を追い出すところまで成功し、撃滅まであと一歩のところで艦隊旗艦が艦娘によって撃沈されてしまった。なぜ日本海軍は、突然心変わりしたのか。本土との連携が絶たれた程度で、艦隊司令部が国際協調主義に目覚めたとは考えにくい。となれば、司令部内で何らかの内輪もめ、あるいはクーデターらしき事態が起こったと考えるのが妥当である。

 アウルムは考える。日本人という人種は、自らの所属する組織に統制され、自由意志を欠く。何が正しいのか考えず、集団の意に付和雷同しやすいのが特徴だ。軍人は、さらにその傾向が強い。果てして、そのような人間が上層部の、国家の意志に反してクーデターなど起こせるだろうか。正しき道を見極めることができる人間は、むしろ裁定者側に近い。敵の人物リストを洗うと、該当しそうな人物が二人いた。ユウジロウ・クマと、ヤスシ・フクイ。このどちらか、あるいは両方が、艦娘に自由意志を芽生えさせた黒幕かもしれない。ともかく、解き放たれた艦娘は厄介な危険因子だった。行動が読めないからだ。これまでは、艦娘の行動など、貧相で単純な日本の国家戦略を分析すれば、簡単に読むことができた。

 シラミネ提督に及ばずとも、正しい思考をもって行動できる人間が僅かながら存在する。アウルムにとって、それが一番の誤算だった。本土と前線を分断し、敵を無力化するはずが、一部の敵を、より凶暴に悪性変異させてしまった。

 アウルムは潜水艦に対し、別命あるまで待機を命じる。そして自身は飛行甲板から艦橋の通信室に戻った。この件に関しては、一度、提督からの指示を仰がなければならない。アウルム率いる機動部隊、通称『黄金艦隊』は、提督の直属部隊として太平洋全域に渡り、自由な行動を許されている。提督との距離が開こうとも、特別のホットラインによって音声記号だけであるが通信をすることができた。南部太平洋の『母港』にいる提督に対し、回線を開く。アウルムは情報を再構築し、平面記号の形で提督に引き渡した。しばらく解読に時間を有したが、提督の判断は早かった。

『敵がフィリピンを包囲したのなら、さらに外側から追い詰めるだけだ。グラキエスのおかげでオーストラリア方面は安定している。第一艦隊を僕が直卒していこう。最重要目標を前線に出させてはならない』

 白峰は、自らの出撃を決意した。

『敵の進路として予測されるのは、日本本土。そして米軍と同盟関係にあるオーストラリアです。可能性としては日本のほうが高いですが、部隊内でクーデターが起こっていた場合、直接前線に向かうことも考慮するべきです。いずれにせよ、大規模な移動と戦闘のために敵は周到な準備をするでしょう。今回の戦いで、敵も相当の深手を負っています。即座に動くとは考えにくいです。包囲網を構築するための時間的余裕は十分にあります。サイパンでの目標はすでに達成しており、黄金艦隊を動かせます』

 しかし、とアウルムは続ける。

『今回の敵は、非常に賢明です。我々の行動を読み、裏をかいてくることも考えられます。そこで万が一を考え、日本方面に予備部隊を即時召集することを検討しています』

 アウルムの意見に、白峰は裁可を与える。

 フィリピン追撃作戦の詳細が決定された。日本方面に対し、マリアナから黄金艦隊を中心とした臨時増設艦隊、ブルネイ方面から第五艦隊の分隊、そしてオーストラリア方面に対し、白峰の第一艦隊が迎撃にあたる。

『第一に、最重要目標の確保もしくは破壊。第二に、敵艦隊の撃滅。これを作戦の旨とする』

 戦場で会おう。そう言って白峰は通信を切った。

 提督との共闘作戦。ひさびさにアウルムの脳は高揚を覚えた。

 裁定者の世界戦略は、ほぼ完遂に近づいている。太平洋方面には、四つの基地を作りあげた。マリアナ諸島。アリューシャン列島。セイロン島。そして、最南端の、あの場所。グラキエスの働きがあってこそ、世界平定に向けた四つの布石が完成した。

 今度は自分が、提督の意志を支えなければならない。太平洋だけでなく、大西洋、インド洋、北海方面にも基地が置かれている。これからは世界戦略のため、莫大な資源が消費される。そのうえ大陸封鎖も同時に行わねばならず、もはや艦隊を増設することはできない。フィリピンの敵を駆逐するためには、太平洋分断を任務としている艦隊から戦力を引き抜く必要がある。結果、海洋封鎖を弱めてしまうことになるが、アウルムは特に問題視していない。提督の最終作戦が発動されれば、もはや多少の艦娘が海に出ようと出まいと関係なくなる。

 遠い南方の海に想いを馳せる。

 裁定者のためではなく、提督のためにグラキエスは戦った。その戦いは、五か月前にさかのぼる。

 

 

 

 一九四四年六月。

 ポートモレスビー軍港にて、オーストラリアに進軍するための艦隊編成が完結した。南部太平洋における全戦闘力を集結しての、海域を突破することだけを考えていた。前線の運命を決する、覚悟の編成だった。

 

第一艦隊 司令長官 山口多聞中将

 第二航空戦隊 司令長官直卒

          空母「飛龍」

          軽母「千歳」

 第五航空戦隊 柳本柳作少将

          空母「雲龍」「天城」「葛城」

 第一一航空戦隊 藤田類太郎少将

          軽母「祥鳳」

          工作「明石」

          補給「速吸」

 第二水雷戦隊 田中頼三少将

          軽巡「神通」

  第三駆逐隊 川本正雄少佐

          駆逐「長波」「夕雲」「早霜」「清霜」

  第一六駆逐隊 塚本信吾少佐

          駆逐「初風」「雪風」「天津風」「時津風」

 第三水雷戦隊 橋本信太郎少将

          軽巡「川内」

  第五駆逐隊 有賀幸作大佐

          駆逐「朝風」「春風」「松風」「旗風」

  第一九駆逐隊 大江賢治大佐

          駆逐「綾波」「敷波」「磯波」

 第三戦隊   三川軍一中将

          戦艦「陸奥」「金剛」「榛名」

 第七戦隊   高木武雄中将

          重巡「古鷹」「加古」「三隅」

 第八戦隊   阿部弘毅少将

          重巡「利根」「筑摩」「青葉」「衣笠」

 第九戦隊   岸福治少将

          重雷「大井」「北上」「木曾」

 第一〇戦隊  森友一少将

          軽巡「長良」「名取」

  第一五駆逐隊 阿部俊雄中佐

          駆逐「東雲」「早潮」「夏潮」

  第二○駆逐隊 山田雄二大佐

          駆逐「天霧」「朝霧」

  第二二駆逐隊 河辺忠三郎中佐

          駆逐「皐月」「卯月」「文月」

 第一六戦隊   司令長官直卒

           軽母「鳳翔」

  第七駆逐隊  渋谷礼輔少佐

           重巡「摩耶」

           駆逐「朧」「曙」「潮」「漣」「不知火」「霞」

           戦艦「大和」

 

 

 

 ポートモレスビーからオーストラリアに渡るため、幾つかの案が出された。工業地帯であり大規模な港を保有するオーストラリア東海岸を目指すルートが堅実に思われたが、グレートバリアリーフを含む大規模なサンゴ礁海域の海図データが不足している。乱戦になれば、敵に撃沈されるより座礁する可能性のほうが高い。リスクを分散するため、東のケアンズ港と西のダーウィン港を目指すという意見も出た。しかし、西に進むためには、アラフラ海を横断しなければならない。その海は、まさに魔海だった。ニューギニア島、オーストラリア大陸、そして小スンダ列島、三方面に渡る海。さらにダーウィン港は、オーストラリア空軍・海軍にとっての緊要地だ。そこを敵が疎かにするはずもない。オーストラリアを守る敵が未知数である以上、戦力を分けるのは危険だった。結果、導き出された結論が、「最速で最短で大陸に渡る」ことだった。唯一確かな敵の行動原理である、海域封鎖を逆手に取る。陸地付近に敵は出現しにくいという経験から、まずニューギニア島沿岸にそって西に進み、最も大陸との距離が狭くなるトレス海峡を渡る。大陸から突き出た形のケープヨーク岬は、ニューギニア島の喉元に突きつけられた短剣のような形をしていた。陸地まで辿りつければ、あとは半島の港湾に身を寄せ、オーストラリア政府との交渉に入るという予定だった。

 この作戦目標のもと、部隊の編成がなされたわけである。重雷装巡洋艦からなる第九戦隊を先頭に、重巡、戦艦、空母の順に配置し、その周囲を駆逐隊が輪形陣をつくる。攻撃・防御ともに優れた、いわゆる楔型の陣形による一点突破を志している。しかし艦隊の規模が大きい分、機動力は劣る。敵の行動に合わせて陣形を変化させる柔軟な戦い方はできない。さらに今回は、これまで消耗を恐れてきた生身の人間を、上限ぎりぎりまで艦娘に乗艦させる。火器管制や操舵、索敵など、艦娘の機能を限界まで人間が代行することで、カタログスペック以上の力を発揮させるのが狙いだ。泊地全ての人間の命を預かるとあって、艦娘たちも顔つきも違う。母港に戻ることも考えないので、ソロンから輸送してきた燃料は、すべて艦娘に給油した。わずかに余った分は、補給艦の速吸に積み込み、非常事態の備えとした。

 しかし、この編成には、ひとつ奇妙な部分がある。それが臨時に増設された、第一六戦隊の存在である。旗艦の軽母「鳳翔」の指揮官は、山口長官直卒とあるが、彼は第一艦隊の総旗艦である飛龍に乗艦するため、実質、第一六戦隊は指揮官不在の遊撃部隊となる。その配置は最後尾であり、あらかじめ陣形を外れて自由に動けることを配慮されていた。何より将校たちを驚愕させたのは、異形の駆逐隊である第七駆逐隊の端くれに、ぽつんと配置された戦艦「大和」の存在だ。彼女は南方戦線における最高戦力である。当然、第一艦隊の総旗艦は大和だとばかり思っていた。これについては、山口中将から直々に説明があった。彼曰く、「大和が最高の状態で戦わせるためには、ある程度、彼女の我儘も聞いてやらねばならない。兵器である彼女と、娘である彼女、ふたつの人格のバランスを取る必要がある」とのことだった。南方戦線では、艦娘を人間として扱う方針が明示された瞬間だった。

 かくして、大和の運命は、彼女を預かる第七駆逐隊指揮官、渋谷礼輔少佐に委ねられた。

 

 出撃の前夜、ひとりの少女が夜の港を歩いていた。彼女の提督は散歩が好きだった。部下の悩みを聞くときも、自分の悩みを持てあますときも、いつだって彷徨うようにどこかを歩いている。灯火制限で街は暗闇に包まれていた。艦娘は夜目がきくので、月あかりだけで十分だった。ふと、波止場の先に人影を見つける。一瞬、胸の高鳴りを感じた。どうやら、夜の散歩で提督に出会えることを無意識に期待していたらしい。そんな自分の浅ましさに苦笑する。残念ながら、佇む影は提督より遥かに大きく、美しく繊細だった。

「あら、摩耶さん。珍しいですね」

 声をかける前に、大和はこちらに気づいた。

「ちょっと寝付けなくてな。邪魔したか?」

 摩耶の言葉に、大和は黙って首を振る。

「わたしも同じです。ちょっと時間を潰していきませんか?」

 その提案に、少し逡巡しつつも摩耶は彼女と肩を並べる。ソロンでの一件以来、彼女に対する気まずさは消えていない。しかし、出撃前に、こうして話す機会を得たのは幸運だと思えた。巨大な戦いを前に、少しでも心の荷物を降ろしておきたかった。

「あのさ、ずっとあんたに謝りたかったことがあるんだ」

 おそるおそる切りだす摩耶。大和は黙って続きを促す。

「ソロンが襲われたとき、あんたに酷いことを言った。ああするしか他に道はなかったけど、実際に人を殺すのは、あんたなんだよな。あのときはあんたの気持ちを考える余裕もなかった。今さらだけど、謝らせてくれな」

 募っていた想いを吐き出し終わり、摩耶は大きく息をついた。大和はじっと摩耶を見つめていたが、唐突にクスクスと笑い始めた。

「な、なんだよ!」

「ずいぶんと丸くなったのですね。聞いていた『摩耶様』と違うものですから」

 さもおかしそうに笑う大和。この様子だと、指揮官を海に投げ落としたとか、演習での独断専行とか、悪い噂ばかり耳にしていたのだろう。摩耶は頬が熱くなるのを感じた。

「あなたは渋谷提督を……愛しているのですね」

 ひとしきり笑った後、大和は静かに言った。

「そうでなければ、あんな発言はできないでしょう。そして、艦を遠隔操作するなどという常識破りの努力をすることもなかった」

「愛してるって、それ、意味分かって言ってるか?」

 平静を装いつつ摩耶が尋ねる。しかし大和は即答する。

「敬愛ではなく、性愛。あるいは恋ですか? 提督を男性として愛しているのでしょう?」

「ばっ、何言ってんだよ!」

 あまりに直球な表現。思わず声が上ずってしまった。

「恥ずかしがることはありません。艦娘ならば、多かれ少なかれ、そういう感情を人間方に抱いているようです。尊敬が強くなれば恋になるのか、それとも二つの感情は全くの別物なのかは分かりませんけど、自然なことだと思いますよ。艦娘が人間と良好な関係をつくるための、土台のようなものですからね」

 大和は言った。しかしその表情は、どこか寂しそうだった。

「でも、わたしには分からないのです。心の現象として、言葉としては知っていても、自分が実感できたわけじゃない。わたしには、皆が持っている『愛する』という感情がありません。だから艦娘の輪の中にいても、どうしようもなく孤独を感じてしまうのです。あなたの演奏会に参加したとき、初めて自分の異常性を自覚しました。わたしは、あなたが羨ましかったんです。ヒトを強く愛せるあなたが」

 淡々と大和は語る。摩耶はようやく彼女の孤独を理解することができた。この世界において異物である艦娘、その中でもさらなる異端。だが、不思議なことに彼女を憐れむような気持ちは湧いてこなかった。

「むしろ―――、あたしはあんたが羨ましいな。深海棲艦と戦うためにあるってハッキリ言えるところが、あんたの存在が貫徹していることを証明してる。それに比べ、あたしは支離滅裂だ。いろんな矛盾する想いが、頭ン中でいっしょくたになってる。おかげで毎日苦しい。この際だから弱音吐くけど、ほんと毎晩泣きそうになるんだ。そして、事あるごとに思い知らされる。自分が人間じゃないってこと。結局、艦娘であるあたしには人間の愛し方はできないってこと。人間の女には勝てないってことを」

 ヒトを愛するって、ものすごくしんどいよ。摩耶は言った。

 大和はしらばく沈黙したあと、微笑みながら口を開く。

「摩耶さん、あなたは今まさに苦悩の渦中にいるのですね。でしたら、悩み多き先輩であるわたしから、少し助言できるかもしれません」

 大和は言った。大きな栗色の双眸には、慈愛の光が宿っている。

「わたし、これでも大分マシになったんです。ふっきれた、と言うべきでしょうか。艦娘は、もともと異質な存在。そして艦娘の中にも、たくさんの個性がある。もとより人間と比べる必要もないし、他の艦娘に合わせることもなかったんです」

 自分の中にある感情を吟味するかのように、ゆっくりと大和は語る。

「わたしはわたし。自分という存在は、自分でしかないんです。人間と同じ土俵で考えたり戦ったりしなくていい。他の艦娘と違っていてもいい。違っていて当然なのですから。摩耶さんは、摩耶さんだけのやり方で愛を貫けばいいのです」

 大和の言葉は、これまで顧みられなかった摩耶の心の深い部分に、煌々と光を当てた。艦娘は孤独な存在だから、人間に寄り添うことばかり考えていた。自分がどうしたいかではなく、相手の中にいる自分を良く見せることばかりに腐心していた。これでは、鏡に映った自分に踊らされるようなものだ。

 愛、理解できる? 心に刺さったこの言葉は、もう痛みも劣等感も撒き散らしてはいない。人間特有の愛なんて、別に理解しなくてもよかったのだ。人間でなければ艦娘でもない、重巡洋艦・摩耶としての愛で彼の心を貫けばよい。

「……完全に開き直ることは難しいけど、なんかすごく楽になったよ。ありがとな」

 本心から摩耶は礼を言う。

「いいえ、こちらこそありがとう。あなたと話すことで、自分の想いを再確認できました。明日の戦い、わたしは、わたしという存在に決着をつけてみせます」

「あたしもだ。他人に合わせようとしてウジウジするなんて、あたしらしくねえよな。これからは、自分のやり方を貫きとおすよ」

 笑いあう二人は、ようやく戦友になれた気がした。

 千切れ飛ぶ低い雲が月と星を飲み込んでいく。南方の海を潮風が強く吹き渡り、波はさらに高くうねりを上げる。決戦の海は荒涼としていた。

 

 

 

 ○六○○。

 ニューギニア島に朝が来た。最後の出撃になるかもしれない、運命の朝だ。港を埋め尽くす戦闘艦は、まるで艦観式のように荘厳たる佇まいだった。空には灰色の雲が渦巻き、艦首を打つ波は、甲板を濡らすほど高くしぶく。出港を前にして、艦娘たちは思い思いの場所にて、過酷な道のりを見据えていた。

 渋谷は鎮守府の自室に、第一六戦隊の面々を集めていた。第七駆逐隊の駆逐艦たち、摩耶、そして旗艦の鳳翔がいた。戦隊の司令官は便宜上、山口多聞となっているが、実際に戦場で指揮を取るのは渋谷だった。そして、彼女に搭乗する第二二飛行隊を代表して、水戸涼子中尉を連れだっている。さらに、珍しくも大和が顔を出していた。これから命を預けあう仲間たちの顔ぶれを見つめる渋谷。皆、瞳に光と力が宿っている。

 渋谷は第七駆逐隊の前に立つ。摩耶が敬礼し、駆逐たちがそれに続く。渋谷が答礼し、提督と艦娘は向かい合う。

「大きな戦いを前に何を言おうか、いろいろ考えてきた。しかし、今この顔を見たら全部杞憂だと悟ったよ。おまえたちを信じている。艦隊を守ってくれ」

 渋谷の言葉に、艦娘は感謝と信頼と激励を込めて敬礼する。つづいて彼は、鳳翔と涼子のもとに歩みを進める。

「空は任せた。歴戦の雄姿を敵に見せつけてやれ」

「この身体朽ち果てるまで、戦い抜くことを約束いたします」

 鳳翔が、恭しく敬礼する。

「第二二飛行隊、全身全霊をもって艦隊を守護し、敵を撃滅します」

 涼子は言った。刹那、ふたりの視線が絡み合う。もはや彼と彼女に余計な言葉は必要なかった。相手に望むことは、すでに知っている。ただ生き残ることを互いの瞳に誓いあう。

 最後に渋谷は大和に告げる。

「人類のために、存分に戦え」

「はい!」

 覇気の滲む声だ。もうどこにも退廃と鬱屈の色はない。闘志に燃える若い魂がそこにいた。これで彼女を信じることができる。戦場における彼女の自主裁量に、最終の許可を与えた。

 第一艦隊司令部の召集に応じるため退出する渋谷につづき、第七駆逐隊のメンバーがつづく。だが摩耶だけは皆を提督とともに行かせ、自身は廊下にて因縁の相手を待つ。少し遅れて航空戦力を担う女性たちが現れた。壁にもたれかかる摩耶の目線に気づき、涼子は鳳翔に先に行くよう促す。そして、微かに微笑みながら摩耶の隣に立った。

「正直、あなたと同じ戦隊と聞いたときは不安だった。ただ敵だけを見て殺し合う戦場において、味方を信用できないほど精神的に辛いことはないから。でも、今のあなたは良い顔をしているわ。これなら対空援護を任せても大丈夫そうね」

「うっさい。あたしだって、あんたと一緒だなんてゴメンこうむりたいさ」

 摩耶は吐き捨てる。明石による鬼の訓練を乗り越えて手に入れた最高の対空能力は、提督の命を守るためのものだ。この力を他の人間に利用されるのは気が喰わない。まして、恋敵が飛ぶ空を守るために使われるなど、屈辱と怒りで反吐が出そうだった。

「だけど、一緒になっちまった以上、あたしはキチンと任務を果たす。あんたは大きな戦力だ。あんたを守ることで艦隊の生存率が上がるなら、それでいい」

 そう言って、摩耶は手を差し出す。

「戦闘の間だけは、過去のことは忘れて協力しよう。そのことを伝えておきたかった」

 しぶしぶ摩耶は言った。涼子は少し驚きながらも、しっかりその手を握り返す。

「分かってきたじゃないの」

 子どもに笑いかけるように涼子は言った。

「言っとくが、同盟関係は戦闘中だけだ。その後は、あたしのやり方でやらせてもらう。もう『人間』に気がねはしない」

 不敵に笑い返しながら摩耶は言った。涼子の顔から表情が消え、そっと握手を解いた。

「あんたのそんな顔、初めて見たぜ」

 そう言って、摩耶は去っていく。思わず涼子は自分の顔に手を当て、彼女の背中を見送った。誰かに入れ知恵されたのは明らかだった。摩耶とは全く別の方向に、独自の精神的進化を遂げた娘がいたらしい。

「これだから艦娘という奴は」

 ぽつりと呟く。無知だからこそ無限に進化していく艦娘という存在。いずれ正しいはずの人間的感情が飲み込まれてしまうのではないか。そう、あの人の感情も。心にもないことを考えてしまった。

 

 ○七三○。

 第一艦隊は出撃のときを迎える。工作艦・明石、補給艦・速吸、軽母・祥鳳からなる第一一航空戦隊を中心とし、その前方に千歳、飛龍。さらに南、東、西に新生五航戦である雲龍、天城、葛城の三空母が展開する。その外側には同じ配置で戦艦三隻、側面には重巡群が壁をつくり、前方は重雷装艦が警戒に当たっている。駆逐隊は戦艦の後方に寄り添って荒い波をかわす。陣全体を上空から見ると、弓矢の矢じりのような楔型をしていた。基本的に防御力に劣る特殊艦、空母を中心にすえ、その周囲を堅い艦が壁をつくり、軟い中身を守る卵の殻の働きをしていた。ただ、最後尾に配置された第一六戦隊だけは例外的に、機動力を重視して防御の外殻から外れた配置となっている。

 千歳から飛び立った索敵機が、敵艦隊ミユの知らせを届けてきたのは、出撃からわずか一時間後のことだった。その編成は、覚悟していた以上に巨大なものだった。撃滅できる可能性は限りなくゼロ。例え戦術的勝利を掴めたとしても、甚大なる被害をこうむることは容易に想像できる。

「全艦、戦闘準備!」

 山口の朗々たる命令が飛龍の艦橋に響き渡る。

 そして、敵艦隊から放たれた偵察機もまた、ほぼ同じ時刻に艦娘の大艦隊を補足していた。

 ヨーク岬東からトレス海峡へと巡回していたのは、オーストラリア北部海域を封鎖する深海棲艦部隊。太平洋方面軍に所属する第二艦隊は、大和型を超える姫クラスの戦艦を筆頭に、海峡へと突入しようとしていた。

「提督の読み通り」

 第二艦隊旗艦の、大戦艦。その顕体「ウラシル」は、甲板から荒れた灰色の海を見つめていた。裁定者たちが、自らの手で太平洋軍総司令官に祭り上げた元人間の英知には、毎度驚かされる。おかげで敵の進路を読み、いちはやく情報を掴むことができた。正規空母4、軽空母3、戦艦3、重巡8、軽巡7、駆逐艦29、さらに特殊艦艇と思しき艦が2隻。いかにも戦力を寄せ集めたという印象が強い。前線にいた艦娘が、一斉に民族大移動を始めたかのようだ。陣形を見ても、戦うためというよりは、まっすぐ逃げ切るための布陣のように思えた。ならば、こちらがやることは決まっている。敵を上回る火力をもって、その頭から順番に叩き潰す。ウラシルは南四〇度の回頭を命じる。敵の進路を割り込む形で、丁字戦に持ち込むつもりだった。あの大所帯では急激な回頭をすれば味方同士がぶつかる。攻撃には絶好の機会だ。さらに、戦場に向かっているのは第二艦隊だけではない。アラフラ海方面からも、指揮系統は別だが、極めて機動力・戦闘力の高い部隊が接近している。それを率いるのは、我らが提督に愛された艦。この世界に唯一無二の艦艇だ。彼女たちが、敵の背後を押さえれば雌雄は決する。

 一方、飛龍艦橋では、索敵機からの情報をもとに、新たな作戦を立てていた。東の海ばかりに気を取られていたが、さきほど西からも敵艦隊発見の知らせが届いた。トレス海峡という狭い海で、東西から挟み撃ちにされかかっている。

「報告します」ひとりの若い通信兵が、索敵機からの信号を読みあげる。「東敵艦隊のうちわけ、空母九、戦艦八、重巡一〇、軽巡五、駆逐二〇。戦艦のうち、三隻が鬼クラス、一隻が旗艦と見られ、おそらく姫相当の新種です。あまりに規格外の大きさのため正確な分類は不能。便宜上、戦艦と呼称しています。複縦陣にて、一〇時の方向から接近」

 続いて、索敵機が撃墜されているとの報告が次々と舞い込む。東の敵は対空兵器が強く、西の敵は、どうやら艦載機を放ってまで撃墜しているようだ。

「左舷艦、砲雷撃戦用意。速度そのまま」

 山口は命令を下す。このままでは、敵に頭を押さえられて丁字不利となる。しかも、相手は戦艦八隻、重巡一〇による複縦陣。動く鉄の城壁だ。突破は難しい。急激な機動ができない第一艦隊は先頭から順次、集中砲火を浴びることになる。それでも山口の命令は変わらなかった。彼は五航戦と飛龍に、艦上戦闘機の発艦準備および甲板での待機を通達する。攻撃機、爆撃機はエンジンのみをスタンバイさせた。

 そして彼は、自ら通信機を握る。

『摩耶艦橋。こちら山口。応答せよ』

「司令長官、こちら渋谷」

 摩耶の艦橋にて、渋谷が応答する。

『西から四〇ノットで接近する敵がいる。それが遊撃を目的とした機動部隊ならば、きみたちの出番だ』

「一六戦隊、了解!」

 渋谷は言った。艦橋が、にわかに騒がしくなる。摩耶に補助員として乗り込んだ海兵は、五六六人。彼ら全ての位置と任務を把握し、摩耶は的確に指示を与えている。

「対空装備の準備、および人員配置は終わった。やっぱり、人間がいてくれたほうが楽だな。機動と索敵に集中できる」

 摩耶が言った。

「奴は来ると思うか?」

 渋谷が問うた。

「必ず来る。この大舞台を見逃すはずがねえ。たぶん、西から来てる敵機動部隊が、奴の艦隊だろう」

 摩耶は迷いなく答える。そのとき、索敵機を出していた鳳翔から通信が入る。

『二〇度の方向より敵機発艦中。数、一五! 同方向より敵艦隊前進』

 やはり狙いは、東と西の同時攻撃。こちらの動きを封じて一気に決着をつけるつもりらしい。

「鳳翔さん、敵の編成は分かるか?」

『暗号解読中……、出ました。戦艦一、軽母二、軽巡二、駆逐八の高速編成です。さらに、戦艦はソロモン海海戦で発見された新種艦の形状に酷似』

 戦艦レ級と思われます。

「了解した。偵察機に撤退命令を」

 渋谷は言った。この報告で、西側の敵の正体が明らかとなる。アラフラ海を渡り、艦娘部隊の最後尾に接近するのは、まぎれもなくソロモン海海戦にて空母機動部隊を絶望の底に沈め、艦娘の手でソロン虐殺を引き起こさせた悪魔。

『渋谷提督、お願いします!』

 大和から通信が入る。湧き起る獰猛な感情を抑えきれず、語尾は野蛮な興奮で僅かに震えていた。渋谷は決断する。艦隊を前後から挟みこまれてはならない。しかも戦艦レ級は、一隻で一個艦隊の能力を有する怪物。奴だけで戦況が引っくり返されかねない。

 それに、ここで姿を見せたということは、奴も因縁の決着を望んでいる。根拠はないが、なぜか確信に近いものが無意識の底から湧きあがる。

『第一六戦隊、これより艦隊主力から分離する!』

 その命令に従い、南に直進する主力から分かれ、西南西方向に転舵する。

 瞬間、渋谷は心の奥底に寒気を感じる。西の水平線上に、小さな黒い点が群れをなして出現する。

『ゆくぞ艦娘ども! これが最後の思考実験だ!』

 頭蓋の中に少女の声がこだまする。

 アウルムの『黄金艦隊』と同じく、太平洋方面の活動において自主裁量を認められている。太平洋方面軍総司令官『ハルセ・シラミネ』の直属。

 太平洋方面軍・特別遊撃部隊。通称、『自由の艦隊』(Fleet of Liberty)。特殊戦艦「グラキエス」を旗艦とし、彼女の思想に共鳴する艦により組織された部隊。渋谷艦隊とグラキエス艦隊が、ついに決戦の海にて邂逅する。

 

 一方、主力である山口艦隊とウラシル艦隊も激突の時を迎えていた。すでに左舷では砲雷撃戦が始まり、空は乱戦だった。まだ距離があり、陣中央の空母には被害が出ていない。しかし敵の強力な砲撃に晒され、外縁の駆逐艦、重巡は甚大なダメージを受けている艦も出始めていた。火器管制を引き受けている兵が死ねば、一時的に火力が落ちて反撃の術を喪う。次第に距離がつまり、真綿で首を絞められるような恐怖感が、じわじわと高まってくる。それでも山口は、依然として沈黙している。敵味方双方の動きを捉え続ける鋭い視線は、何かのタイミングを探しているように見えた。

 他方、敵艦は揚々と攻撃を重ねる。もう少しで艦娘の進路を完全に阻むことができる。丁字有利を取れば、少なくとも敵の半分を撃沈できる計算だった。ウラシルは先頭艦に命令し、さらに鋭い角度で艦娘の進路に切り込ませる。あとは、自由の艦隊が退路を断てば陣形は完成する。勝利は目前だった。

 深海棲艦がとどめを刺しに来た、その瞬間を山口は待っていた。

「最大船速集中!」

 艦隊に命令が轟く。艦娘たちは、ただちに索敵、操舵、主砲管制、全てのコントロールを放棄する。そしてスクリューを回すことだけに意識の全てを注ぎ込む。艦橋にいた参謀たちの身体が、がくんと後ろにのけぞる。爆発するボイラーの衝撃で、鋼鉄の艦体が一瞬、膨らんだような錯覚。急激な加速。艦隊は、一本の矢のごとく直進する。荒れぶる水面にさえ、まっすぐな白い線を残しながら。勝利を確信した数秒後、ウラシルは目を疑っていた。情報よりも遥かに速い。同型艦ならば、裁定者のカタログスペックをも上回る。

 唐突な激走についていけず、まるで撥ね飛ばされたかのように深海棲艦は陣のバランスを崩した。ここぞとばかりに砲弾を叩きこむ、左舷外郭を任された第二水雷戦隊。

「俺を信じて進め! おまえたちを被弾させはしない!」

 第一六駆逐隊、初風の艦橋にて塚本信吾少佐が声を張り上げる。舵は、塚本自らきっていた。恐怖は艦娘の力にブレーキをかけてしまう。提督として今できるのは、彼女たちの求める言葉をありったけぶつけることのみ。それが気休めだろうが嘘だろうが、構いはしない。もし彼女たちに禍根が残れば、この首ひとつ差し出せばすむ話だ。全力でスクリューを回しながら、初風は熱を含んだ瞳で彼を見つめていた。二水戦の活躍により、たちまち深海棲艦の先頭は火だるまとなり、最大船速のまま行く手を阻まれた艦隊は団子状に混同してしまう。ウラシルは直ちに単縦陣への移行を命じる。同時に、このイレギュラーの原因を考察する。そして彼女はひとつの結論に辿りつく。

 人間が乗艦している。それも、艦娘のほぼ全ての機能を代行できるほど大量に。

 人間が艦娘の機能を補っているのだ。これまで戦火を交えてきて、その可能性に全く気づかなかった。砲撃も雷撃も、正確だった。あれが艦娘の制御ではなく、人間の技術によるものだとは。これまで艦娘と戦った情報はあれど、艦娘に乗艦した人間と戦った経験は少ない。人間に対する戦術的評価を上方修正せざるを得なかった。

 この事実は、即座に自由の艦隊にも伝えられる。

『同航戦に移行する。貴艦隊においては、ただちに敵を追撃し、両舷より砲雷撃、航空攻撃により漸減する』

 ウラシルは『提案』する。指揮系統が違うため、自由の艦隊に『命令』はできない。しかし、グラキエスからの返事はない。ときおり、被弾して息が乱れたような、それでいて危機感に欠ける高い音が断続的に聞こえてくる。

 この音が、人間で言うところの『笑う』という行為であると気づくまで、ウラシルは数十秒の時間を要した。

『そうか。艦娘どもは人間を乗せているのか。良い、最高に近い!』

 グラキエスは笑っている。彼女の放つ情報はウラシルを混乱させる。なぜ自軍に不利な要素に良という評価を付与するのか、ウラシルには理解できなかった。再度、提案しようとする彼女の言葉を遮り、グラキエスは告げる。

『それはできない。ちょうど、敵のしんがりが本隊から分離した。奴等を迎え討つ』

 そう言って、彼女は意識を戦場へと引き戻す。

『さあて、最高の戦いを始めようじゃないか!』

 

 

『第二二飛行隊、艦上戦闘機部隊、発艦!』

 鳳翔が叫ぶ。まもなく敵艦載機の第一群が襲来する。飛行甲板では、二二飛行部隊の精鋭、第一分隊がプロペラを回していた。その先頭には、深海棲艦の大洋分断直前に本土から輸送されてきた最新機「紫電改二」。さらに、機体の尾翼には、鮮やかな赤い稲妻マークが塗装されている。

『第一分隊、発艦!』

 水戸涼子中尉の号令で、彼女を筆頭に、六機の戦闘機が空に舞う。

 艦橋の窓から、摩耶は空に吸い込まれていく赤い稲妻を見つめていた。やがて西の空で敵艦載機と乱戦になる。だが、練度の差は圧倒的だった。女性搭乗員たちの駆る機体は、まさに蝶のように舞い、蜂のように刺す。それでいて集中力を切らすことなく、数で勝る相手に対して粘り強く戦っている。とりわけ紫電改二の活躍は凄まじい。彼女の腕ならば、十対一でも互角に戦えるだろう。敵はたまらず、爆弾や魚雷を捨てて遁走する。つづいて鳳翔は、爆撃機と攻撃機から成る第一次攻撃隊の発艦準備を進める。

 まるで、こちらの意図を読み取ったかのように、敵の軽空母から機体が飛び立ち始める。ついに彼我の距離は一〇キロを切った。敵艦の砲が、こちらに旋回する。

「対空戦闘、砲雷撃戦用意!」

 渋谷が叫ぶ。空、海、海中、あらゆる空間での乱戦が始まった。敵味方も分からないほど頭上では艦載機が乱れ飛び、それを見分ける視力を持った艦娘が対空砲火を司る。人間は弾の補給、砲撃、雷撃を担当する。やはり技量は、こちらが上手だ。敵駆逐艦、軽巡が、つぎつぎ水柱と炎に飲まれる。大和の九一式徹甲弾が敵軽母を貫いたかと思うと、次の瞬間には艦体が真っ二つに折れて沈んでいく。

 だが、敵の親玉は無傷だった。ソロモン海のときより彼女は速くなっている。最速であるはずの駆逐艦すら引き離し、敵はひとり旋回し、今度は同航戦の態勢を取る。さらに単縦陣をとる艦娘に対し、放射雷撃を加えた。爆雷で処理しきれなかった魚雷が、漣と朧の艦体に吸い込まれ、爆発する。さらに撃ち漏らした爆撃機が、海面に対して水平方向に爆弾を投げ入れる。跳躍爆撃により、摩耶の艦首側部が抉れ、大穴が開いていた。

 このままでは、レ級一隻に戦況をひっくり返される。そのとき、ふたたび大和から通信が入る。

『奴を止められるのは、わたしだけです。単独での攻撃を許可してください』

 つまり、大和を盾にする選択だ。現状、取れる行動はこれしかない。

『許可する。ただし対空、航空援護はつける』

 渋谷の言葉に、大和は微笑みながら、『感謝します』と伝えた。渋谷は摩耶を援護に回すべく、大和の進路に艦首を向ける。だが敵駆逐の雷撃に阻まれ、うまく回頭できない。

 直後、四発の雷撃と、一発の砲弾が大和に炸裂したが、わずかに艦を傾けただけだった。これはレ級からの、大和へのラブコールだった。戦艦大和は単縦陣から離脱していく。そして世界最強の四六センチ三連装砲台を、前方二門、後方一門、すべてレ級に突きつける。

「全砲門、斉射。薙ぎ払え!」

 凛とした声音とともに、海の波を破砕するほどの衝撃波が大和を中心に炸裂する。合計、九発の弾丸がまっすぐグラキエスめがけて飛翔する。しかし彼女は、反応時間わずか〇コンマ一秒という恐るべき機動力で艦を動かし、着弾点をずらした。

『ここまでおいで!』

 グラキエスは、レール状の滑走路から独特の黒い艦載機を飛ばす。計五機が大和に群がり、跳躍爆撃をせずに、わざわざ急降下爆撃をかける。対空砲火をかいくぐった一機が抱えた巨大爆弾もろとも艦橋右に突っ込んだ。鋼鉄の装甲が引き裂け、吹き飛んだ無数の砲身が藁のように宙を舞う。グラキエスは、なおも上空からの爆撃をかける。

『さて、これで何人死んだかな。早くしないと、おまえより先に搭乗員を皆殺しにするぞ!』

 楽しそうに笑うグラキエス。しかし彼女はすぐに嘲笑を止めた。大和は悲鳴ひとつ漏らさず、黒煙を突っ切って悠然と進んでいる。

『忌むべき前世の記憶が教えてくれる。この程度の爆撃では、わたしは沈まないと』

 爆弾が雨のように降り注ぐ、坊ノ岬沖。この世界に顕現した海。そこで見ていた夢。大和は開放無線でグラキエスに言った。完全に心を獣に堕したかと思いきや、その口調から理性は消えていない。

『おまえ……、人間を乗せていないな?』

 グラキエスが問う。大和は澄ました声で『ひとりも』と答えた。

 これが彼女の出した、もうひとつの条件。ひとりたりとも人間の乗艦を許さないこと。敵に対して不利になるだけではなく、味方とも足並みが揃わなくなる。生存率が一気に低下すると渋谷は説得したが、大和は意志を曲げなかった。これから行われる艦娘としての戦いに、人間を巻き込むことはできない。それが彼女の決意だった。

『そうか。本気になったのか。ならば来るがいい!』

 グラキエスは極限まで加速をかける。大和を中心に、半径五キロの弧を描くように走り、すべての雷撃と砲撃を彼女一点に集中させた。しかし大和は艦を縦にし、一切回避行動を取らず前方主砲、副砲を斉射する。グラキエスの艦は、長門型程度の大きさだ。エンジン部に一発でも九一式徹甲弾を叩きこめば航続能力を奪うことができる。大和は船腹、艦上に複数の爆撃を浴びながら、ただグラキエスだけを狙う。

 これでは埒が開かない。こちらが百発叩きこんでも、あの化け物戦艦は浮かび続けるだろう。グラキエスは、少しずつ距離を詰めていく。被弾するリスクとともに、こちらの火力も上がっていく。ついに大和の副砲が左舷滑走路をかすめた。確実に、彼女の射程圏内に入っている。

『強いな! 間違いなく最高だ。これでわたしも全力が出せる!』

 グラキエスは歓喜する。戦いという本能の喜びが、自身の存在意義という器を満たしていく。一方で、彼女は冷静に戦場を見ていた。戦いに水を差すように、通信が入る。

『ただちに戦闘を中止し、敵本隊を叩くよう』ウラシルからの提言だった。『貴艦の力をもってすれば、敵に肉薄し混乱に陥れることが可能である。我ら母胎に近い南方海域から、とくに空母戦力を取り除くため協力願いたい。計算では、二つの艦隊で同航戦を続ければ、我ら半数の犠牲と引き換えに、敵の半数ないし三分の二および空母戦力を完全に撃滅できる』

 極めて合理的な意見だった。裁定者ならば異を唱える余地など、どこにもない完璧な作戦。グラキエスは考える。これは裁定者の総意だ。ならば『是』と答えねばならない。しかし、自分には考える自由がある。提督と過ごすうち、自由という概念に目を開かされた。絶対的正義に対し、なおも悩み考える自分がいる。それこそが自由。

 グラキエスの答えは『否』だった。

『わたしは今、敵の最大戦力である戦艦と交戦している。もし戦場を放棄すれば、たとえ空母を撃滅できても、この戦艦は確実に生き残る。この敵の存在は、南半球における提督の世界戦略を揺るがしかねない』

 大和の脅威は、ソロン泊地にて実証されている。彼女一隻で、オーストラリアの拠点が潰される可能は高い。それに対し、ウラシルは反論する。

『オーストラリアは艦娘を持たない。よって、我らの脅威になりえない。オーストラリアの拠点が破壊されようと、我らの目的は達成できる。我らの活動を阻害するのは艦娘のみ。よって優先すべきは、艦娘の一隻でも多く撃沈することである。これは明白である』

 反論の余地はなかった。しかし、やはりグラキエスは『否』と答える。

『裁定者の目的を達成できても、提督の目的が潰える可能性がある。ゆえに、わたしは許容できない』

『なぜだ!』

 初めてウラシルが声を荒げる。驚愕と叱責と、わずかに恐れを含んだ声音だった。

『なぜ、貴艦は裁定者の総意を拒絶できる? これは、我らの母胎からの絶対的命令である。それを拒絶できるとなれば、貴艦は―――、もはや裁定者ではない』

 ウラシルの言葉に、彼女は笑う。腹の底から湧きあがってくる、この感情は何だろうか。自分は裁定者を、母胎の意志を裏切った。裏切ることができてしまった。この時点で思考実験は成功した。今、グラキエスは裁定者という存在のくびきを絶った。『母』ではなく、『男』の意志を選んだ。

『わたしは、わたしだ。わたしはこの刹那、自由を得た。わたしの存在は自由だ。わたしはグラキエス。自由の艦隊旗艦にして、提督の意志の体現者!』

 精神の進化。

 声が止まらない。湧きあがる感情に突き動かされ、雲に吼え、海に吼え、仲間を笑い、敵に弾丸を浴びせかかる。ただ一つ言えるのは、全てが心地いいということだけだ。もう無意識からの命令は聞こえない。裁定者という母胎から、彼女の存在は分化した。彼女は独りだった。この世でただ独りの存在だった。

 しばらく沈黙したのち、ウラシルは最後通告をする。

『航空戦力の援軍を送る。目標を早期撃沈し、我らに協力せよ』

 それだけ言って、通信は切れた。グラキエスは、一言「感謝する」と呟く。これで、あの艦娘と戦い続けることができる。

 彼我の距離は五キロに迫る。弾丸と弾丸が空中でぶつかり、砕け散る。グラキエスと大和の間のみ空気は熱く煮えたぎる。ついにグラキエスに主砲弾が命中する。艦橋の根本を半分吹き飛ばす。それでも彼女の機動力は衰えない。東の空から、ウラシルが派遣した航空機が三〇機、編隊を組んで飛来する。摩耶の圧倒的な対空砲火が、つぎつぎと機体を塵に変え、さらに赤い稲妻の機体が、大和に群がろうとする敵を流れ作業のように屠っていく。

 一対一ならば、人類史上、これほど苛烈を極めた砲撃戦は存在しない。大和とグラキエス。互いの艦体に炎と鉄の暴風を纏わせながら、いつの間にか笑っていた。兵器として、戦艦として、望むべくもない戦場。顕現してから、ずっと空っぽだった自分に満たされていく何かを大和は感じていた。真っ赤に加熱された大和の主砲が、敵の砲弾を受けて千切れ飛び、甲板は抉れ火薬に誘爆する。グラキエスの艦橋は真っ二つに折れて海に沈んだ。装甲のほとんどがもぎ取られ、艦の内装が露出していた。武器も装甲も、ボイラーもエンジンも、全てが破壊され飛散していく。

 どれくらい時間が経っただろう。いつしか二隻のうえに静寂が降りている。もう海峡に戦闘の音はない。血みどろになりながら、大和は動かない足を引きずって甲板に這い出た。艦上で動いているのは、あちこちで揺らめく炎だけだ。大和は最後の力を振り絞って艦首に立つ。彼我の距離は、わずか四キロ。朦朧とする視界は、同じく艦首に蠢く何かを捉える。巨大な尻尾が力なく横たわり、黒いフードは燃え尽きて頭部が露出している。膝から下が千切れたような足で彼女は立ち尽くしていた。

『もう戦えない。満足だ。存分に全力をぶつけあえた』

 ノイズ混じりの通信。細い吐息。

 もう言葉は必要なかった。大和は自分の身体が何かに包まれていくのを感じた。艦尾から船腹、そして船内へとそれは満ちてくる。沈む艦体と呼応するかのように、彼女の意識もまた暗く冷たい闇に飲まれていく。夢で見た、あのときと同じ。しかし決定的に違うのは、もう自分は恐怖も怒りも後悔も抱いていない。自らを浸す闇は、ただ優しくて心地よかった。波の音が聞こえる。どこか懐かしい間隔。

『そうだ、わたしは―――、還るんだ』

 そう言って、大和は微笑む。自分を受け入れてくれたこの世界に。守るべき人間たちに。

 超弩級戦艦・大和は、二度目の命を燃やし尽くし、静かに海へと還っていった。

 轟沈の瞬間を、摩耶は見届けていた。総員が甲板に並び、まぎれもなく生きていた彼女に敬礼する。

「大和。あんたは、あんたのやり方で、ちゃんと人間を愛していたよ」

 目に涙を滲ませながら、摩耶は言った。

 この海で浮かんでいる敵艦は、もうグラキエスだけだ。完全に戦闘力と航行力を喪い、ただ浮かんでいるだけだった。轟沈は時間の問題だが、せめて介錯してやろうと、摩耶の提案で接近する。摩耶を含め、総員が持ち場に戻っていく中、渋谷だけは甲板に立ち続けていた。とどめを刺すまでもないことは、グラキエスと繋がった彼の脳が理解していた。しだいに艦が傾き始め、最期の時を迎える。

『何か、言い残したいことは?』

 奇妙な絆が生まれて以来、初めて渋谷は自らグラキエスに語りかける。艦首にへたりこむグラキエスは、目を閉じて少しだけ空を仰いでいた。

『もっと、提督と一緒に、世界を―――』

 言葉は細くなり、聞きとれぬまま消えた。そして、ゆっくりと瞼を開く。穏やかな顔をしていた。今まで見たことのないほどに。歳相応の、少女の顔だった。グラキエスは、わずかに顔を傾け、渋谷と視線を絡ませる。

『さよなら』

 目の錯覚だろうか。一瞬、グラキエスが微笑んだ気がした。次に瞼を開けたとき、目前にあるのは果てしない海だけだった。彼女は敵だ。同胞を何百人と殺し、多くの艦娘を沈めた悪魔。それでも、胸に感じる微かな痛みは、まぎれもなく死を悼む気持ちであることを、渋谷は受け入れた。

 気づけば、いつも付きまとっていた潮騒が、頭の中から消えていた。

 

 トレス海峡の戦いは、第一艦隊の勝利に終わった。それは多大なる犠牲を払った上での勝利だった。重雷「北上」、軽巡「名取」、重巡「加古」「三隅」「青葉」「筑摩」、軽母「祥鳳」、空母「葛城」、駆逐「朝風」「松風」「磯波」「朝霧」「東雲」「夏潮」、戦艦「金剛」「大和」が轟沈。そして、これまで数え切れない艦娘を修理し、その命を救ってきた工作艦「明石」が大破、機関停止した。そのほかにも機関停止まで追い込まれた艦が多く、戦闘後の第一艦隊は、走れない艦を曳航しながら、葬送行進のようにゆっくりと海峡を渡るしかなかった。とくに明石と親しかった摩耶は、傷つき果てて喋ることもできない戦友の姿に、静かに涙した。

 飛龍では、山口多聞がオーストラリアの沿岸警備隊に無線で連絡をつけていた。ケープヨーク半島に置かれた警備隊が、先の戦いを監視しており、二時間後にはオーストラリア政府から半島のウェイパという港に寄港を許された。ともかく艦娘の心身のケアが最優先であり、明石が動けない今、大規模な修理施設を持つ港湾への移動が望まれた。オーストラリア政府の対応は早く、その翌日には大統領の使節がウェイパの地に降り立った。山口多聞は、艦娘だけが深海棲艦に対抗しうる唯一の戦力であり、大日本帝国は、これを国家の私利私欲のために濫用せず、あくまで深海棲艦を撃退するためにのみ行動していることを主張した。結果、沿岸警備隊と陸軍部隊の監視つきで東海岸を移動し、タウンズヴィル、ブリズベンを経由し、港湾施設の整ったニューカースルへの艦隊の移設および修理を許可された。

 深海棲艦出現前は、敵になる予定だった帝国海軍に対し、一見きわめて寛容な対応をオーストラリア政府は取った。しかし、得体のしれない他国の軍を招き入れたのは、そうでもしなければ解決できない、切実な問題を抱えているからだった。オーストラリアでの滞在、および艦隊再建への協力を約束する代わりに、彼らは一つの条件を山口に出してきた。

「海を封鎖している敵勢力の一部が、我が国の領地に揚陸し、陣地を構築してしまいました。海軍はもちろん、陸軍も空軍も歯が立ちません。艦隊が再建された暁には、敵対勢力の駆逐を要請したい」

 飛龍艦橋の応接室にて、大統領特使の男が言った。

 その場所は、ポートダーウィン。

 ダーウィン港を囲うように、深海棲艦の巨大な要塞飛行場が、三カ月前から着々と建設されているらしい。最初に攻撃したオーストラリア空軍の話では、港湾の中央部に姫クラスの陸上型深海棲艦を確認している。この瞬間、山口多聞は悟った。この戦い、これだけの犠牲で艦隊が生き残れたのは、ひとえに大和のおかげだった。敵の主力艦が、執拗に大和の撃破に拘ったため、艦隊は前後から挟みこまれず、壊滅を免れた。だが、もし敵がダーウィン港の飛行場を守るため、大和撃沈に拘泥していたとしたら。空、陸からの攻撃が通じない以上、飛行場を破壊するには海からの強力無比な艦砲射撃しかない。それこそ、泊地を壊滅できるほどの圧倒的火力が必要だ。しかし、その最大火力を擁する艦は、もういない。

 山口は、とりあえず条件を飲むことを通達する。正直、今の戦力で飛行場破壊が可能とは思えなかった。今後の行動は、オーストラリア政府との交渉次第だ。今は何よりも、艦娘のケアだけを考えねばならない。政治的な幕引きは、人間がやればいい。

 



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第二十一話 マッカーサーの証言

シブヤン海海戦にて、壊滅寸前だった米軍をからくも救いだした第二艦隊。なぜ彼らはフィリピンに囚われていたのか。なぜ敵は、艦娘を持たない米軍を執拗に攻撃していたのか。
その理由は、深海棲艦の重大な秘密とともに、あの男の口から語られる。
なぜ深海棲艦は世界に出現したのか。その本拠地はどこなのか。彼のもたらす情報は、戦争の流れを大きく変える。


 

 一九四四年一一月。

 帝都東京は、騒乱の最中にあった。まだ日本本土は、敵の陸生戦力による侵略を受けていない。よって民衆は敵の恐ろしさを実感したことがない。彼らに鬱屈するのは不満ばかりだった。大きすぎる不満は暴力となって爆発し、全国に吹き荒れる。東京でも、頻繁に焼き打ち事件やデモが起こっていた。彼らの主張は、ほとんどが「食糧と燃料を寄こせ」だった。大洋分断によって期待していた資源はいっこうに本土に届かない。民需用の油の配給など、もはや目も当てられない。さらにシベリアから押し寄せる厳しい寒波が、余計に燃料の乏しさを際立たせる。彼らの攻撃の矛先は、しだいに軍隊へと向かっていった。莫大な燃料を消費し、本土からなけなしの食糧物品を奪ったわりに戦局は悪化し、国民は窮乏に耐えることを強いられている。

 軍令部の一室にて、海軍陸戦隊の青年将校たちが集結していた。幾田サヲトメをオブザーバーに招き、本土に取り残された軍はどう動くべきかを議論している。要するに彼らもやることがないのだ。海洋に出ることができず、悪化する戦況により、ますます存在意義が危うくなっているのは陸軍と同じだった。彼らは、あくまで徹底抗戦を主張する。国のためという建前で、自らの勢力拡大を目指す派閥主義は、先の二・二六クーデターから何も変わっていない。

 将校たちの『改革案』に耳を傾ける振りをしながら、幾田サヲトメは永田町に渦巻く不平不満の喧騒を懸念していた。圧倒的な数を前に、警察も軍隊も彼らを抑えきれない。かといって武力に打って出れば、怒り狂った民衆が本当に反乱を起こしかねない。この事態を受け、東条内閣は退陣の瀬戸際まで追い込まれていた。明治の元勲が消滅して以来、帝国主義という国際的な潮流をかさにきて権力をふるってきた軍は、少しずつ弱体化の道を歩み始めている。

 どれほど軍や官僚機構が強固であろうと、国民の大半が言うことを聞かなければ、国家としての機能を喪う。デモ隊の叫び声は、瓦解していく大日本帝国を象徴している。

 陸軍の主戦派とも協調すべしという結論を得て、会議は終わった。

「あれ、放っておいていいの?」

 叢雲が尋ねる。艤装のヘッドパーツを外し、いつもの戦闘服ではなく婦人用の白い外套を着ていた。

「大丈夫でしょう。どうせ彼らは、わたしが予想している以上の行動は起こさない」

 そうじゃなくて、と叢雲はかぶりを振る。

「デモのことよ。このまま加熱するに任せたら、最悪、帝国海軍なんて無くなっちゃうかもしれないのよ?」

「民衆に叫ぶ元気があるならば、この国はまだ再生する可能性がある。軍なんてものは、その後にいくらでも煮るなり焼くなりすればいい。でも、もし本当に心の底から外敵に支配されたとき、ヒトは言葉を忘れる。残るのは意味をなさない獣の慟哭と、純粋な暴力だけよ」

 そう言って彼女は私服に着替えたあと、叢雲を連れて軍令部を後にする。帝国海軍の根城として、長きに渡り軍事政策を司ってきた機関は、異様な緊張感に包まれていた。廊下ですれ違う人々には、疑心暗鬼がつきまとう。政府の中枢には、嵐の前の静けさが満ちている。幾田は効率的な輸送船団の構成および、補給のダイアグラムを作成するため参謀将校として作戦一課に勤めていたが、大洋分断後には、単なる机上の空論に成り下がってしまった。幾田は軍令部の外に出て、艦娘運用および海戦の第一人者として各地で講演会を開き、財界、政界への強いパイプを築いた。華族出身という、あまり快く思っていなかった自らの経歴さえ最大限に利用した。結果、彼女は様々な派閥に顔をきかせている。とくに陸、海軍の若い将校は、彼女に敬礼するか否かで派閥が分かる。

 例え国民に窮乏を強いても、帝国が世界の覇権を握るため戦い続けるべきだという誇り高き急進派。それに反発する、深海棲艦とも対話を試みるべきだという講和派。そして、どちらにも与せず、できる限り戦いを継続しようとする穏健な推進派だ。若手を中心に、軍人の半数以上が急進派、あるいは穏健な推進派に属している。幾田は、その中でも特に血気盛んな陸軍将校たちのグループの旗印となっていた。主戦場を持てず、鬱屈としていた陸軍に歩み寄り、彼らの訴えを代弁した。彼女はいつしか、戦争継続を唱える軍人たちの象徴と化していた。

 そのような状況を自ら作り出したにも関わらず、幾田は醒めた目で彼らを見ていた。本土の陸の上で、いくら騒ごうと本質的には無意味だ。どうせ本土に残っている艦娘の力だけでは突破できない強固な壁が、本土とマリアナ間に聳え立っているからだ。

 帝都の街をふたりが並んで歩くと、どこぞの貴夫人と令嬢にしか見えない。ただ、ひとつ異質なのは、娘の左手薬指に銀の指輪が光っていることだった。

 ふたりが向かった先は、かつて本土を急襲した空母ヲ級によって破壊された、旧横須賀軍港だった。鎮守府を含む主要な建物は内陸に移されており、改良された港湾施設は、十キロほど西に置かれている。旧港は民間に払い下げられる予定だったが、海が封鎖されて燃料も枯渇した状況では漁船を出すことも容易ではなく、周囲に船舶はおろか、人間ひとり見当たらない。荒れるにまかされているこの土地は、現政体に対し、よからぬことを企てる連中にとっては、格好の隠れ蓑となっていた。今は空っぽになった資材用の倉庫に入る。がらんとした鉄くさい空間で、ひとりの少女が幾田を待っていた。公には生存が伏せられている駆逐艦、吹雪。しかし今は、意識の半分を深海棲艦に乗っ取られている。

『御足労、ありがとうございます』

 顔の左側だけが、無表情に言った。右半分の吹雪は、何かに耐えるように眉をひそめている。普段、彼女は理性派の軍人が借り上げたアパートの一室で暮らしており、吹雪型の姉妹が交代で監視にあたっていた。密談の必要があるときだけ、こうして廃港まで出てくる。

「要件は何ですか?」

『吹雪と、彼女の艦体を借り受けます。任務のために必要ですので』

 アウルムは言った。吹雪の使用目的や任務の内容など、余計な情報は一切口にせず、ただ決定だけを伝える。

『つきましては、あなたとの連絡役を叢雲に引き継ぎ願いたいと思います』

 この言葉を聞き、一瞬、表情がこわばる叢雲。彼女の嫌悪感を読んだのか、アウルムは安心させるように補足する。

『あなたの思考機能を侵蝕するものではありません。艤装の一部に、わたしとの連絡回路を埋め込むだけです。わたしの言葉をあなたに伝え、あなたが聞いた音をわたしに伝えるだけの機能です』

 アウルムは言った。彼女の言葉が真実かどうか疑わしかったが、とりあえず今は応じるしかなかった。叢雲はヘッドパーツを装着し、吹雪の目前まで歩み寄る。虚ろな目をした吹雪の半身が、そっと艤装に右手を当てる。ぴりぴりと電気が流れるような感覚が艤装を走る。叢雲は、索敵用のレーダーに新たな機能が追加されていることを自覚する。吹雪は十秒ほどで手を離した。

『完了です。それでは、吹雪を相模湾の島まで送り届けてください。失礼します』

 そう言い残し、吹雪からアウルムの気配が消えた。肉体のコントロールを取り戻した吹雪は、疲れきって地面にうずくまる。

「ごめん、叢雲ちゃん……」

 荒い息をつきながら辛そうに吹雪は言った。幾田は叢雲の艤装に目を遣る。耳のようなヘッドパーツは、仄かに青い色を放っている。どうやらアウルムはいないらしい。

「大丈夫よ。探ってみたけど、これは本当にただの簡易通信機。わたしの思考をいじったり、記憶を覗いたりすることはできない。ただ、むりやりレーダー出力を最大にされたり、その照射範囲を絞られたりするのは癪だけど」

 幾田と吹雪、ふたりに説明する叢雲。

「今は、敵はいないんだね」

 吹雪の問いに、叢雲は頷く。

「ならお願いがあるんだ。はっきりとは分からないけど、敵は焦ってる。何か想定外のことがあったんだと思う。きっと、わたしは戦場に駆り出される。だから、お願い―――」

 悲愴な覚悟を秘めた、震える声で吹雪は言った。その提案に叢雲は難色を示したが、幾田は彼女の気持ちを汲むことにした。

「大丈夫、念のためだから。わたしだって、敵の奴隷にされたまま死にたくないからね」

 隅の浮いた目を細めて吹雪は言った。叢雲は、ぐっと唇を噛んで吹雪を抱き起こす。敵の傀儡にされ、味方からも腫物にさわるように扱われる自分の姉が不憫でならなかった。

「急ごう。いつ敵が現れるか分からない。準備を進めましょう」

 幾田は、ふたりを連れて倉庫を出る。艦娘たちは悲愴な空気に浸っているが、内心は期待感が高まっていた。はるか南の海で何かが起こった。これまで、全て想定通りの事を進めてきた深海棲艦が慌てて新たなアクションを起こすような、何かが。本土から送り出した二人の提督の顔が浮かぶ。彼らならば、この戦争を、艦娘の運命を、正しい方向に導いてくれるだろう。

 なればこそ、自分の戦場は海ではなく、この本土にある。幾田は決意を新たにする。

 

 

 

 一九四四年十一月二十三日。

 フィリピン米軍を救助したのち、第二艦隊および第三艦隊は、マッカーサーの協力により、南フィリピンのミンダナオ島基地に拠点を移した。ミンダナオ島には海洋封鎖以来、少数ながら米軍が駐留しており、内陸施設は無事に維持されていたが、ルソン島は深海棲艦の陸上戦力に蚕食されており、放棄せざるをえなかった。とりあえず艦娘たちは、戦闘継続できる艦を集め、あらかじめマニラの飛行場などの施設を艦砲射撃により破壊した。これで深海棲艦も、当分の間は他の島に陸上戦力を移すことはできないはずだ。

 先の戦いの勝利は、艦娘たちが起こした奇跡と言えた。とくにスリガオ海峡・レイテ湾の海戦では、圧倒的な戦力劣勢を覆し、一隻たりとも轟沈を出さずに勝利した。しかし犠牲を出さなかったのかと言えばそうではなく、朝雲、龍鳳、最上は轟沈寸前まで大破し、その他にも扶桑、山城、羽黒、那智が大破、その他の艦も多かれ少なかれ損害を受け、無傷で戦闘を終えた艦はいない。もはや次を戦える状態ではなかった。そしてシブヤン海海戦に臨んだ部隊は、米軍救助を行った沖波、岸波、秋雲が轟沈、さらに雷が機関を損傷し、大破した。そのほかにも翔鶴、飛鷹、熊野が大破。長門、武蔵を含め、多くの艦が被害を受けた。

 なにより艦娘部隊に衝撃を与えたのは、潜水艦部隊の壊滅だった。指揮官の福井靖少佐以下、伊号潜水艦五隻は行方不明のち、正式に戦死扱いとなった。潜水艦部隊の勇気ある奇襲がなければ、間違いなく第二、第四遊撃部隊は全滅していただろう。彼女たちの死に、艦娘は涙し、スリガオ海峡にて水葬の弔砲を放った。

 生き残った艦娘は、ミンダナオ島に備蓄されていた資源で互いを修理した。ミンダナオ港を母港とし、比較的被害が少なかった第一七駆逐隊により哨戒が為され、停泊艦は万が一の空襲に備えて対空兵器を空に向けていた。クーデターの震源となった第二艦隊旗艦の武蔵が艦娘たちを統率し、乗艦していた軍人たちを港近くの仮設宿舎に押し込め、常に停泊艦の監視下に置いた。第二、第三艦隊の艦娘たちは全員がクーデターの主旨に納得していた。彼女たちは、熊勇次郎少佐をただ一人の提督と仰ぎ、以後は彼の指揮下に入ることを誓約した。

 艦娘たちによる現場自治が進む中、熊は比米軍との交渉に掛かりきりになっていた。米軍は当初、艦娘の存在を受け入れることができず、さらに深海棲艦を駆逐するという彼女たちの理念にも疑念を抱いていた。聞くところによれば、帝国海軍がハワイ奇襲に出撃した以前から、アメリカとイギリスは戦争勝利後の世界秩序について話し合っていたという。もともと敵対する予定だった大日本帝国に所属していることが、余計に彼らの疑念に拍車をかけた。救助された手前、表面上は艦娘艦隊の再生に協力してくれている形となっているが、彼らは、あらゆる可能性を考慮して艦娘を警戒していた。

 戦闘から約一カ月たち、熊の粘り強い働きかけもあり、ようやくフィリピン米軍のトップとの直接会談を取りつけることができた。艦娘、軍人の誰よりも英語に堪能な熊が艦隊の代表となり、長門と島風が補佐についた。長門はトラックに停泊中、英語をある程度習得していた。武蔵も英語を解するが、現場指揮と米兵との連絡役のため港に残らねばならず、長門が代理として出向くことになった。島風は幾田から手ほどきを受けていて、英会話には自信があるらしい。幾田が島風の教育を請け負ったのは、この事態を見越していたからではないか、と熊は思った。

 会談の前日、熊は港にて修理中の雷を見舞っていた。普段は艦娘のメンタルケアのため、各艦内に順番に宿泊すること多かった。しかし今回は、ある艦娘から直接、呼出しを受けた。

「こうでもしないと、絶対に二人きりにはなれないからね。提督、いつも誰かと一緒にいるし、忙しそうだし」

 熊を艦橋の一室に招き、島風は言った。駆逐艦にしては大柄な少女。彼女だけは戦闘の前後で、まったく雰囲気の変化がない。彼女と共に戦った磯風は、『何かが欠落している』と評していた。

「僕に何の要件かな?」

 単刀直入に熊は問うた。島風は、話が早くて助かる、と悪戯っぽく笑う。しかしその直後、彼女は表情を一変させる。おそらく誰も見たことのない、真剣な目をしていた。

「レイテ湾海戦において、第四遊撃部隊を潜水艦部隊が離れる際、福井靖少佐から熊提督に宛てたメッセージを預かりました」

 駆逐艦とは思えない、大人びた口調で島風は切りだす。この瞬間、熊は心のどこかで相手を侮っていたことを知り、心を糺す。奇抜な服装とひょうきんな態度に騙されていたようだ。彼女は、幾田の愛弟子の一人。表と裏の使い分けなど造作もないだろう。油断はならない。

「教えてくれ」

 高い知性の垣間見える少女の澄んだ瞳をまっすぐ見つめ、熊は言った。

 島風は伊8から伝えられた福井の意志を、正確に熊へと引き渡す。それを聞き、熊は自然と頬が緩んでしまった。

「まったく、実にあいつらしい」

 半ば呆れたように熊は言った。その情報を知ったところで、この後の作戦展開にどのような影響を及ぼすのか、まったく見当がつかない。全ては、これから行われるフィリピン米軍との対話により、どこまで深い情報を相手から引き出せるかにかかっている。幾田の手記が真実ならば、彼らは、この戦争の根本的な部分に関わっている可能性がある。

「これで、わたしのお遣いは終了です。その情報は、煮るなり焼くなり好きにしてください」

 島風は、いつもの口調に戻っていた。

「なぜきみは、このタイミングで情報を暴露した? 僕に伝えるチャンスなら、いつでもあったはずだ」

 疑問に思っていたことを尋ねる熊。

「米軍との交渉の席が成立するまでは、戦いに傷ついた艦娘のケアを優先してほしい。それが提督たるものの務めだ、と福井少佐は考えていたみたい」

 にやりと笑いながら島風は言った。福井の言葉を借りてはいるが、実際に暴露するタイミングを決めたのは島風だ。艦隊の修復と、クーデター直後の内部統治に熊を集中させるため、あえて彼女は情報を秘匿していた。もし、この情報を託されたのが自分の部下ならば、ここまで冷静で狡猾な判断ができただろうか、と熊は考える。響や朝潮など、担当する艦娘は実直であり器量も良いが、泥臭い政治的駆け引きには向いていない。艦娘は皆、頭も良いし腕っ節も強いが、中身は純朴な少女そのものだ。

「わたしも、幾田中佐から、この戦争と米軍の関係は聞いている。長門さんにも、わたしからさりげなく話しておくよ。もっとも、あの人は、どちらかと言うと提督のボディーガードみたいなものだから、あまり口出ししてこないとは思うけど」

 島風は言った。味方にすれば、これほど頼りがいのある艦娘はいない。

「明日はよろしく頼む」

「こちらこそ。連中から、絞れるだけ絞りとってやりましょうよ」

 ふたりは声を上げて笑った。

 

 翌日。

 長門と島風を引き連れ、熊は森林地帯の奥にある米軍の基地に向かった。建物全体が緑に溶け込むよう迷彩色に塗られており、これならば空爆の心配も少ない。入口で米兵に武器のチェックを受け、入場を許可される。艦娘のふたりは、あらかじめ艤装を外しており、服装も無難な陸上軍装に着替えていた。米兵に付き添われて長い廊下を渡り、その先の一室に通される。長門は応接室まわりに配置された人員を細かくチェックしていた。入口に護衛の兵士が二名。小銃で武装している。基地内には少なくとも五〇名からの兵士が待機している。ふたりして暴れても、提督を無事に逃がすことは難しい。提督に万が一のことがあった場合に備え、武蔵には事後の行動を指示してあった。

 兵士のひとりが応接室の扉を開ける。思わず身構える長門だが、意外な光景に目を丸くした。部屋の中には、一人しかいない。誰ひとりとして護衛をつけず、日本の軍人を招き入れた。熊や長門と並び立つほどの長身痩躯の男が、三人の前に立つ。

 フィリピン米軍最高司令官、ダグラス・マッカーサー大将。彼は笑顔で熊と握手を交わす。彼と対面する形で、三人はテーブルについた。何とも潔い男だ、と長門は思った。コーヒーが運ばれてくる間、マッカーサーは改めて救出作戦の礼を述べる。そして兵士が出ていく頃合いを見計らって、熊が切りだした。

「海洋を封鎖する未知の外敵と戦ってきた過程で、我々が得た情報をお知らせします」

 敵の性質、艦娘の存在について、分かっている限りのことをマッカーサーに伝える。彼は熱心に長門と島風に対して質問をぶつけた。事前の打ち合わせ通り、開示してよい情報だけを男に提供する。

「きみたちが深海棲艦と呼ぶ外敵からの呼びかけは、我々の元にも届いていた。しかし、敵の要求通り武器を捨て、戦いの意志を放棄することはできなかった。なぜなら、我々は攻撃されていたからだ。それも、敵から一方的に。このような状態で武装解除などできるはずがない。戦い続けるしかなかった」

 マッカーサーは言った。鋭い視線は、ときおり艦娘を注意深く観察していた。

「私が気になるのは、そこなのです」

 熊は少しずつ核心に近づいていく。

「深海棲艦は、通常は陸地を攻撃目標としません。陸上戦力を動かすときは、飛行場などを建設するための陣地獲得が目的です。ゆえに、今回、貴軍を数年に渡り執拗に狙い続けた理由が分かりません。失礼ながら、貴軍は艦娘を有していない。深海棲艦にとって、脅威となりうる戦力ではなかったはずだ」

「それについては、確証がない。初めて攻撃を受けたのは、ソロモン諸島からオーストラリアに巡航する予定だった太平洋艦隊だ。敵は東から押し寄せ、艦隊は米領フィリピンまで逃げるしかなかった」

 男は答える。その瞳に、僅かながら猜疑の光が揺れているのを熊は見逃さなかった。博打に出るなら、ここしかない。

「我が大日本帝国は、もはや中部太平洋諸島および中国に何の野心も持っていません」

 朗々とした声で熊は言った。一介の佐官が国家意志を代弁するという、世紀の出まかせだった。

「我が国は、今回の戦いを経て自らの過ちに気づいたのです。世界を敵に回し、一時的に領土を得たとしても人心は掌握できず、新たな争いの火種を生みます。再び国際社会と歩み寄り、機能不全に陥った国際連盟に代わり、新たな国際的統治機関の設立を目指す所存です。日独伊同盟は破棄され、満州国および朝鮮半島も返還されるでしょう。新たな国際秩序をつくるためには、大国であるアメリカ合衆国の協力が不可欠です。そして、我々人類の世界を取り戻すには、共通の敵である深海棲艦を完全に駆逐しなければならない。しかし人類は圧倒的に劣勢です。艦娘を保有する我々でさえ、敵の物量を前に、じりじりと押し潰されているのが現状です。どうか、我々に協力してもらいたい。人類の敵を倒し、その先の未来に自分たちの手で平和と自由を勝ち取るため、どんな些細なことでも構いません、情報の提供をお願いします」

 日本の代表として熊は言った。

「敵撃滅後、日本が強力な艦娘を独占することについて懸念しておられるなら、その心配はありません」

 島風が補足する。

「わたしたちは深海棲艦と同じく、この世界の異物です。役目を終えれば、本来いるべき場所に還ることになります。終戦後、日本は艦娘を喪いますし、今の我々も、日本の国益のために戦うつもりはありません。深海棲艦を倒すことこそ、我らの悲願です」

 ふたりの言葉を聞き、マッカーサーはしばらく沈黙していた。おそらく二人の言葉は嘘ではない。現に、艦娘を私物化しようとする軍中枢に反発して前線では反乱が起きている。戦わずして日本を帝国主義的競争から引退させ、アメリカ主導の世界平和の礎にできるのなら、それに越したことはない。何より、今は敵の殲滅が最優先だ。艦娘がいたところで、人類の劣勢は変わらない。ならば今は、巨大な敵に対し、この小さく儚い少女たちに世界の運命を委ねるより仕方ない。

「順を追って話そう。我ら米軍が、いかにして深海棲艦と呼ばれる外敵と関係を持ったのか、そして現在に至るまでの経緯を」

 マッカーサーは言った。

「一九四一年、十一月のことだ。太平洋艦隊第七艦隊は、フィジー諸島から、さらに東の海域に向かっていた。目的地は、クック諸島の外れに浮かぶ、ある島だった。外周わずか三〇キロの小さな孤島だ。そこに米海軍屈指の部隊、さらに陸軍の上層部と、著名な科学者や物理学者が勢ぞろいしていた。この島は名目上、ニュージーランドの自治領となっていたが、戦略的価値が薄く、まったく整備がされていない。そこに目を付け、合衆国政府はニュージーランド政府と交渉し、その辺鄙な島を五百万ドルで買収した。合衆国が、この島を何のために使おうとしているのか、あなたなら見当がつくだろう?」

 マッカーサーが尋ねる。熊は表情を崩さぬよう、努めて冷静に答えを導く。

「……何らかの化学兵器実験でしょうか?」

「その通りだ。昨今定義されている化学兵器とは少し違うが、兵器の実験であることに変わりはない。その島は他の諸島群から孤立しており、面積も広すぎず狭すぎず、絶好の実験場所だった」

 アメリカ本土は広い。にも関わらず、そこで実験が行えなかったことを考慮するに、よほど汚染性が高い兵器なのだろう。あるいは実験の予測がつかない不安定な兵器か。いずれにせよ、そんなものを遥か別の土地で使用するなど道義的に許されることではない。長門は露骨に顔をしかめていた。

「十一月二十日、正午。実験は開始された。艦隊は島の外周、約二十五キロの地点にて囲うように待機した。空母から実験兵器を積んだ飛行機が飛び立ち、まず高度一五〇メートルでの使用を想定して島へと向かった。しかし、ここでアクシデントが起きた。観測を行っていた艦の乗組員が、島の外縁に人間を発見したのだ。これは言い訳にしかならないが、島の原住民に対する避難命令は軍ではなく対外情報庁が行っていた。島の部族とされる人間に十分な補償を与えて立ち退きを完了したというのが彼らの最終報告だった。しかし、彼らは見逃していたのだ。後の調査で明らかになったことだが、この島には、もうひとつ部族がいた。少数派ゆえに他の部族にも顧みられなかった、自給自足を営む人々だ。しかし実験当時、軍司令部は別の少数民族について認知していなかった。避難命令に従わなかったとして、実験は続行された」

 これはアメリカの恥だ。マッカーサーは言った。

「機体から投下された新型爆弾は、予定どおり高度一五〇メートルで爆発した。しかし、その後の展開は完全に予測を覆していた。突如、雷鳴とも爆発音ともつかない音が風とともに海域を吹き荒んだ。焼け焦げた島から黒い雲が立ち上り、あっという間に太陽を覆い隠して空を黒く染めた。科学者たちは、このような事態に至った理由を誰ひとり解明できないまま、時間だけが過ぎていく。島を覆う黒い霧と雲は晴れず、第二実験は中止された。米艦隊が撤退しようとした瞬間、我々は攻撃を受けた。焼き尽くしたはずの、島の方向から。艦隊はパニック状態だった。哨戒は完璧、周囲に敵対勢力は影も形もないはずだった。しかし、黒い霧の中から幾つもの艦影が出現した。あとは地獄絵図だ。謎の敵艦隊にまったく歯が立たず、一隻、また一隻と沈められた。第七艦隊は、辛うじて轟沈をまぬかれた艦を集めてフィリピンまで撤退した。とにかく実験結果と爆弾のデータを本土に引き渡さねばならない。しかし十二月に入ると、あっという間に敵艦隊にフィリピンを包囲されてしまい、身動きが取れなくなった。本土どころか、ルソン島から出ることもかなわない。我々は敵について調べた。全世界のどの国の海軍艦と比べても、機動力、物量は桁違いだ。包囲する敵をどうすることもできなかった。兵士の間では、強すぎる兵器が神の怒りを呼び覚ました、などという噂が流布する始末だった。とりあえず陸にいる限りは安全だと思っていたのだが、一九四二年六月には、奴等はルソン島北と東から揚陸を始めた。そこからは泥沼の戦いだった。マニラが陥落寸前となり、我々は一か八か、ルソン島からの脱出を試みた。その際に、我々はひとつの仮説を導き出した。揚陸した敵勢力は、米軍基地を順次破壊していくものの、人員の殺傷よりも施設の制圧・破壊を優先していた。奴等が全力で攻めてくれば、我らを皆殺しにするなど容易いはずだ。つまり、敵の狙いは米軍そのものではなく、我らに付随する他の何かではないか、と考えるようになった」

 思い当たる何かは、ひとつしかなかった。

「実験では、用意された爆弾は二発だった。そのうち一発は高度一五〇メートル、二発目は地上で起爆される予定だった。しかし一発目で明らかな異常をきたしたので、二発目の投下は中止となった。新型兵器は、生き残った艦隊とともにフィリピンに輸送された」

「つまり、敵は新型爆弾を狙っていると?」

「そうとしか思えない。本当に我々の兵器が神の怒りに触れたなら、憤怒の元凶が真っ先に滅ぼされるはずだ。だから、我々は狙われ続けている」

「それは違います」

 きっぱりと反論する熊。

「敵の狙いが、その新型爆弾であることは事実でしょう。しかし、元凶は爆弾ではない。それを製造した人間です。ゆえに深海棲艦は人間の言語で我々に語りかけ、彼女らの掲げる平和にくだるよう勧告した。敵の目的は、人間の支配です。その敵が、あくまで撃滅に拘るということは、その爆弾は敵にとって、何としてもこの世界から排除したいほどの脅威なのでしょう。そう考えると、私がシブヤン海で戦った敵の奇妙な行動にも説明がつきます。敵が艦娘よりも、貴軍への攻撃を優先したのは、その爆弾を排除することが最優先事項として指示されていたからです。すなわち、その爆弾だけが唯一、敵の圧倒的優位を覆せる可能性がある、ということです」

 熊は自らの意見を述べる。そして、その爆弾が生まれる過程に携わった人物から聞かねばならないことがある。

「教えてください。あの深海棲艦をして、そこまで畏怖させる爆弾とは、いったい何なのか」

 ふたりの視線が交差する。これは米国の国家戦略に関わる最高機密。マッカーサーの瞳には、なお迷いの色が揺れている。しかし彼は、もはや深海棲艦との戦争が、アメリカ一国だけの問題ではないことを認識していた。そして、戦争の原因となったのは、ほぼ間違いなく新型爆弾実験だ。もし人類が戦争に勝利しても、アメリカは全世界から激しいバッシングを受ける。ならば今ここで、可能な限り人類の勝利へ貢献せねばならない。

 マッカーサーは、爆弾の原理と構造を詳細に説明する。熊にとって、耳慣れない言葉ばかりだった。しかし、ともかく、これまでの爆弾の概念を根本から引っくり返している。これは神への叛逆だった。自然界の摂理を髄まで暴きたてた冒涜の産物。いつしか熊は、自分の肌が粟立っていることに気づいた。感嘆と怖気、両方が電流となって彼の肉体を包んでいる。

「Atomic Bomb」

 マッカーサーが、その兵器の名を口にする。

 その瞬間、沈黙を保っていた長門が、振り上げたこぶしを机に叩きつける。

「愚かな! あの光を、ふたたび世界にもたらすなど!」

 激昂する彼女を島風がいさめる。

「あなたがたのいた世界での記憶か?」

 冷静にマッカーサーは尋ねる。ぎこちない英語で長門は語る。祖国の敗戦。人間の全てを破壊し尽くす虐殺。そして大義も誇りも喪い、最後は残虐な光を浴びながら、誰にも看取られることなく水面に没した自らの半生を。

「大日本帝国は敗北しました。彼女たちのいた世界は戦火に包まれ、数え切れない命が犠牲となった。そして我々の世界は、人間のかわりに深海棲艦が殺戮と破壊をになっている。勝っても負けても人間は惨殺される。敵が人間ではなくても同じこと。究極のところ戦争は悲劇でしかない。私たちは艦娘に、自らの愚かさを教わりました。大日本帝国の意志は変わろうとしている。そして、この事実を知ったあなたも。愚かさに気づけば視界が開ける。正しい道を選ぶことができます。もしアメリカが協力してくれるならば、世界の意志も変わるでしょう。人類のために、ともに戦ってください」

 その場で熊は頭を下げる。マッカーサーは表情にこそ出さないものの、彼の人間性に驚嘆していた。日本の軍人は、その思考に多様性が乏しく洗脳されやすい。一度、軍国主義の思想に囚われたなら、もう自力で抜けだすのは困難なはずだった。開戦前、アメリカは日本について徹底的に研究していた。その結果報告を踏まえ、日本は完全に叩き潰されるまで変わることはないと思っていた。しかし、目の前の男を見る限り、思考の自由を奪われているようには見えない。この男が特殊なのか、それとも艦娘の出現によって軍そのものが変わってきているのか判断がつかない。しかし、少なくとも熊は信用に足る男だと判断した。

「わかった。全ての情報を開示しよう。新型爆弾の実験作戦名は、『ジェミニ』。先に投下されたのが『カストル』。使用されなかった二発目の爆弾『ポルックス』は、ルソン島を脱出する際、輸送していた駆逐艦とともに沈んだ―――と、敵が思ってくれたら幸いなのだが、そう甘くはあるまい」

 マッカーサーは苦笑いをする。

「一応、偽装弾頭を載せておいたのだ。もし我が艦隊が敵に拿捕されたときのために。しかし本物の爆弾は、もともとルソン島にはなかった。実験結果の異常により、爆弾の性能を警戒した我々は、マニラから少し遠ざけた場所にそれを保管していた。その場所こそ、このミンダナオ島だ。ゆえに、我々はルソン島を出て、この島を目指していたのだ。結果、敵に追い詰められ全滅寸前になっていた」

 マッカーサーは言った。そして、まっすぐな決意を秘めた目で熊を見据える。

「新型兵器が、人類が海を取り戻すための切り札というならば、世界に現存する最後の一発『ポルックス』の使用権限を、貴艦隊に委ねたい」

 この英断に、さしもの熊も驚きを隠せなかった。

「合衆国は、すでに新型爆弾製造の術を持っている。しかし、初の実験でこのような惨状を招いてしまった以上、敵の出現と実験の因果関係は明白であり、もはや本国では製造中止が決まっているだろう。製造を再開させるには、実験データを正しく本国に報告し、政府の理解を求めねばならない。しかし、大洋を渡ることは不可能。本国の援助が期待できない今、新型爆弾は、その一発かぎりだ。あなたが日本海軍である限り、爆弾そのものを引き渡すことはできないが、もし使用すべきだと判断すれば、我々は、それに従う」

 マッカーサーは言った。敵対するはずだったアメリカ軍が、ここまで思い切った協力を表明してくれたことに、熊は感激を禁じ得なかった。

「あともう一つ、重要な情報がある。これから敵に反撃を試みる貴艦隊にとって、なくてはならない情報だ。我々が実験を行った場所についてだ」

 そう言って、マッカーサーは部下に指示にて海図を取ってこさせる。テーブルの上に広げ、彼はニュージーランドの、さらに東に点在する島嶼域を指さした。その島は、諸島の端に寂しく浮かぶ南太平洋の孤島だった。この島こそが、おぞましい兵器の炸裂によって異次元から深海棲艦を呼び寄せた場所。吹雪の言及していた敵の本拠地であり、敵と艦娘の根源にして故郷。

 人間と艦娘が、探し求めていた場所が、ついに彼の口から明かされる。

「南緯二一度。西経一六〇度。その島の名は―――」

 

 ラロトンガ島。

 

 ここに人類は、絶望的だった戦争に逆転の目を見出した。それは地獄の釜の底に、たった一筋、儚くも降りてきた蜘蛛の糸だった。この島を殲滅できれば、世界中に跋扈する深海棲艦を根絶やしにできるかもしれない。

 喜びを隠せない熊の隣で、島風は微かに笑う。幾田の思い描いた筋書き通り、事が進んでいく。勝負はここからだ。手に入れた情報と武力を、正しい時に、正しい場所で、正しい方法で使わねばならない。

「ひとつ、提案があります」

 熊が切りだす。

「新型爆弾を、米本土に輸送することは……可能です」

 思いがけない熊の言葉に、マッカーサーは目を見開く。

「それは、つまり、深海棲艦への切り札たる原子爆弾の実験データも、本土に移すことができる、ということか?」

「はい」

 熊は言った。マッカーサーの瞳に、わずかながら希望の光が灯る。艦娘の力を借りずして、人間だけで深海棲艦に反攻する瞬間を、彼は夢見ている。

「ただし、ひとつだけ条件があります」

 熊は切々と述べる。その判断は、もはや軍人が決定すべき領域を逸脱していた。もし深海棲艦が消えた後、万が一、日本と対立することになれば、この決断はアメリカ合衆国どころか、世界を窮地に陥れかねない。マッカーサーはもう一度、熊を見据える。彼の意志には一点の曇りもない。日本は産まれ変わるという、彼の言葉を信用するしかなかった。

 マッカーサーは熊の提案を受諾した。ここに、軍人同士の密約が成立する。

 プルトニウム型原子爆弾『ポルックス』。そして深海棲艦の心臓『ラロトンガ島』。この二つの切り札は、やがて世界の運命を分かつだろう。

 

 

 十二月一日。深夜。

 ミンダナオ島の、とある寂れた海岸にて、熊勇次郎は波の音を聞きながら、ひとり佇んでいた。ここが島風から伝えられた待ち合わせ場所だった。周囲には荒い磯場と森林しかない。月あかりだけを頼りに、熊は沿岸を見つめている。微かに背後から、二人分の足音がした。あらかじめ指定された場所に、時間どおり彼女はやってきた。

「『荷』の積み込みは終わったか?」

「つつがなく。あとは目的地に送り届けるだけです」

 少女の声が返って来る。機密保持のために米兵の隠密部隊をマッカーサーから借りての荷役作業は、とくにトラブルもなく終了していた。

「人類の存亡は、きみたちの働きにかかっている。武運長久を祈る」

 熊は言った。

「任せておくの。ちゃーんと、傷ひとつ付けずに送り届けてみせるの!」

 もう一人の少女が答える。彼女たちは、この後、ジャングルの奥にある米軍の秘密港湾で積めるだけ物資と武器弾薬を補充し、前人未到の長い航海へと出発する。

「そちらも頑張ってください。あと、島風によろしく」

 そう言って、二人の少女は夜の闇へと消えていった。

 

 翌日。

 急遽、熊は第二、第三艦隊の艦娘を全て集めた。マッカーサーとの対談で得た情報を彼女たちに伝えるためだ。とくに敵の本拠地については、一刻も早く本土と前線に散る仲間に教えねばならない。敵を海洋から撃滅するには、全艦娘による一点突破しかない。そのため、本土に派遣される部隊を急遽選抜しつつ、戦艦、重巡などの傷ついた艦体の修復を米軍と協力しつつ進めていた。

 第二、第三艦隊が目指すは、本土ではない。最前線であるニューギニア島のさらに先、オーストラリア大陸だ。敵は、こちらが本土を目指すだろうと推測しているはずだ。マリアナを攻撃した敵の行動からも分かる。そこで、ここはリスクを冒してでも敵の裏をかこうという作戦だ。さらに、マッカーサーとの盟約により、常に急襲の危険に瀕しているフィリピンから、国土の広いオーストラリアに米軍と一部の高級参謀を移送することが決まっていた。部下たちを少しでも安全な場所へ、というのがマッカーサーの願いだった。オーストラリアとアメリカは同盟関係にあり、米軍の仲介により、最終作戦の拠点とするつもりだ。敵は、こちらが傷ついた部隊を即座に動かすとは思わないだろう。こちらが原子爆弾を握っている以上、敵の大部隊がフィリピンに押し寄せてくるのは明らかだが、まだ時間的余裕はあるはずだ。

 損傷が少なく、練度が高い駆逐艦から、本土先遣部隊が抽出された。

 

 旗艦「島風」

 第二駆逐隊「陽炎」「白露」「時雨」「夕立」

 

 機動力を重視した高速編成だ。時雨は、やや損傷が激しかったが、ぜひ同行したいという本人の高い士気によってメンバーに加えられた。

「やれやれ、責任重大だな」

 旗艦に選ばれた島風が軽口を叩く。彼女が運ぶのは、情報の他に、もうひとつ大切なものがあった。艦尾の貨物室へと、巨大な荷物を積みこんだ。

 十二月一二日。五隻の駆逐艦は、島風を中心に第二駆逐隊が輪形陣を組み、ひっそりとミンダナオ島を出港した。まだフィリピンの周囲には敵の姿は見えない。いち早く情報を伝えるには絶好の機会だった。

『今回、我々が運ぶのは目に見えるブツだけじゃない。情報だ。先遣部隊として、わたしたちだけに提督から与えられた情報。これは荷物と違って、口を割らない限り敵に奪われることはないわ。絶対に喋らないこと。もし鹵獲されて何か細工されそうになったら、潔く自沈すること』

 島風が秘匿回線で言った。

『わかってる。いっとくけど、戦闘指揮艦はわたしだから、ちゃんと指示に従ってよね』

 先頭を行く陽炎が言った。磯風から聞いた通り、島風は不思議な艦娘だった。駆逐艦らしい幼さが欠落しており、飄々とした言葉の端々に、大人びたプラグマティックな思考が覗いている。

 駆逐艦たちは、フィリピン諸島の東を、沿岸部にそって北上していく。普通ならば、そのままバシー海峡を渡って、台湾経由で西南諸島を辿って本土に向かう航路だが、彼女たちは、あえてルートを逸れて何もない太平洋を横切る。敵が密集していると思しき大陸付近の海域を避けるためだ。陸地に寄らず、新横須賀鎮守府まで直行する予定だった。たった五隻の編成にしたのも、全ては敵から見つかりにくくするためだ。もし本土を封鎖する大艦隊と鉢合わせてしまえば、横須賀どころか全艦轟沈もありうる。出発から二〇時間が経過し、ふたたび大洋は曙光を擁する。歴戦の駆逐艦にとっても、最大船速を維持するのは辛い。しかも、あと二日は航海が続く。タンカー護衛任務とは、まったく別種の疲労が彼女たちの心に募っていた。

 ちょうど航路の半分を消化したとき、五隻の対空電探が同時に反応する。

『四時の方向、反応あり!』

 白露が叫ぶ。数は一。おそらく索敵用の艦載機だ。皆、信じられない思いだった。このような辺鄙な大洋の真ん中にさえ、敵が待ち構えているなど。

『まさか、ここまで敵の索敵網が伸びているの?』

 時雨がうめいた。

『まったく、こんなとこまで御苦労なこって』

 苦々しげに島風が言った。索敵機がいるということは、必ず空母がいる。五隻は輪形陣の幅を詰め、魚雷と対空火器の準備をした。敵機は、高度を維持したままUターンしていく。艦隊はすぐに進路を北北東に切り替えた。しかし、一時間と経たないうちに、西の水平線上に複数の艦影が出現する。

『軽母一、軽巡二、駆逐八。本隊じゃないだけラッキーっぽい……』

 赤い瞳をらんらんと輝かせ、夕立が呟く。すぐにでも雷撃を開始できる態勢だが、なぜか敵は、じりじりと距離を縮めるだけで、こちらを攻撃しようとしない。陽炎たちがいぶかしんでいると、不意に艦娘の通信が開いた。

 ノイズ混じりに何者かの声が流れ込んでくる。深海棲艦とは異なる波長。これは間違いなく、艦娘の波長だ。

 その声を聞きとったとき、陽炎は戦慄する。

『吹雪……?』

 思わず通信機に向かい、呼びかけてしまう。すると、彼女の声に応えるように、微かだった声が鮮明になっていく。

『お願い、すぐに機関を停止して。でないと、こいつらがあなたたちを沈めてしまう』

 苦悩に満ちた声だった。

『指示に従おう。やり合っても勝ち目はない。ただし、火器は常に起動しておくように』

 混乱する駆逐隊の面々に、島風は凛として告げる。

 こうして先遣部隊は、不意に現れた敵機動部隊に包囲される。洋上で停止した駆逐隊へと、一隻の艦が敵を代表するかのように接近してくる。その艦体を見れば艦娘ならば、すぐに分かる。今や敵として行動している艦が、初めてこの世界に顕現した艦娘のひとりであることに。

『みんな、ごめんね』

 艦首には、吹雪型駆逐艦一番艦・吹雪が、憂いを帯びた表情で佇んでいた。

 



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第二十二話 天の許さぬ叛逆を

輸送任務中、思わぬ邂逅を果たした第二駆逐隊の面々と吹雪。
彼女たちの輸送任務には、いったいどのような意味があるのか。幾田提督が操る謀略の糸は、艦娘ですら全貌を見通せず、ただ今は命令のままに踊る。その先あるものが、人類の勝利であると信じて。 


 

『砲を俯角に掲げて。大丈夫、落ち着いて』

 島風が言った。駆逐隊は、完全に敵に包囲されてしまった。全ての砲門が、正確にこちらを狙っている。ここで暴れたら、全員が海の藻屑になりかねなかった。今は冷静に敵の目的を見極め、反撃の機会を探す必要がある。接近してくる吹雪は、第二駆逐隊の輪形陣を抜けて、島風の隣に艦をつける。そして鉄の橋をひっかけて互いの艦隊を繋ぐ。さらに敵の一個駆逐隊が同じように一隻ずつ第二駆逐隊の艦に接舷した。

『目的は何だ?』

 島風が呼びかける。艦娘用の回線とはいえ、深海棲艦に下った吹雪は、いつ盗聴されているか分からない。叢雲と違い、その顕体に索敵用艤装を持たない島風は、アウルムの気配を感じ取ることができなかった。

『艦内をあらためさせてもらいます。それが、わたしたちの任務』

 吹雪が言った。彼女は梯子を渡り、島風の艦に移動する。左舷甲板にて、島風と吹雪は見つめ合う。島風は「いいだろう」と一度だけ頷いた。それと同時に、吹雪は与えられた兵士を呼び寄せる。続々と梯子を渡ってくるのは、かつてソロンを襲撃したような人間をベースとした深海棲艦の陸上戦力だった。しかも、深海棲艦の意匠が施された黒と青の装甲を纏い、小火器のような武器まで携帯している。兵士たちは一糸乱れぬ動きで艦内を検分していく。小さな害虫の群れが身体中を這いまわるようなおぞましさを感じながらも、島風はじっと沈黙を保っていた。同じことが行われている第二駆逐隊の面々も、島風の指示通りに大人しく従っている。

 やがて兵士の一人が、吹雪を艦尾に呼び寄せる。貨物室を埋め尽くす、その物体を見あげて吹雪は溜息をつく。それは、まさに巨大な鋼鉄の卵だった。全長は八メートル。表面は黄色く塗装されている。

 長く見つめていると、どうしようもなく不快感が湧き起ってくる。吹雪は思わず顔を背けた。自分に埋め込まれた深海棲艦の部分が、目の前の物体に拒絶反応を起こしている。機械の兵士たちも、球体から一定の距離を取り、不必要に近づこうとはしない。

「米フィリピン軍から預かった荷は、これなのかな?」

 同行していた島風に吹雪が尋ねる。島風は頷いた。

「これに関して、わたしたちは何も聞かされていない。ただ本国に移送しろと命じられただけだ。第二駆逐隊を人質に、情報を引き出そうとしても無駄だよ」

 島風は言った。吹雪は、足早に貨物室から立ち去っていく。あの物体から離れても生理的な嫌悪感は消えない。おそらく、これは深海棲艦にとって共通の本能なのだろう。人間が生まれながらにしてタンパク質の腐乱臭を嫌うのと同じで、深海棲艦も「あの兵器」を受け入れがたきものとして認識している。

 意志なき兵士たちが、わらわらと卵に集まり、少しずつ甲板へと運び出していく。人間から鹵獲したものであっても、再利用する意図はさらさらなかった。ただ証拠として持ち帰るだけだ。さらに、艦橋を探索していた兵士が、金属製のアタッシュケースを甲板に運び出してくる。吹雪が中身を確認する。

「設計図と、実験報告書の写しだね」

 そう言って、吹雪は紙の束を乱雑に鷲掴む。設計図があったところで、今の日本の技術レベルで同じ兵器を再現できるとは思えなかった。それでも、この図が人間側に渡るのは深海棲艦にとって脅威だった。一度、陸地にまぎれこんでしまえば、際限なく情報はコピーされて全世界に波及する。そうなれば、もう情報を根絶することはできない。

 吹雪は、巨大爆弾を甲板のへりまで移動させる。そして、兵士たちは接舷タラップを渡り、爆弾を吹雪の艦尾格納庫に移した。。さらに吹雪は島風が見ている前で、書類の束を潮風に解き放つ。風に委ねられた紙は雪片を散らすように水面に舞い落ち、消えていった。

 こうして、提督から預かった二つの『荷』は、あっけなく敵の手に落ちた。

 これでいい。島風は考える。こうすることで、とりあえず最悪の事態は回避できる。あとは吹雪の出方次第だった。

『これで任務は完了です。島風ちゃん、後はよろしく』

 艦娘回線で吹雪が言った。兵士を撤収させていき、最後に自分も艦に戻った。

『これから、どうするつもりなの?』

『終わらせる、わたしの使命を。だから、島風ちゃんは、島風ちゃんの任務を果たして』

 島風の問いに、決意を秘めた声で吹雪は答える。ゆっくりと島風の艦から離れていき、それにならって第二駆逐隊に接舷していた敵艦も移動を始めた。外周に控えている敵主力の元に戻っていくようだ。おそらく、ある程度の距離をとったら一斉に攻撃してくるだろう。

 そのとき、島風のもとに通信が入った。

『やばいよ。歩兵を艦内に残したまま敵艦が撤収しちゃった』

 白露の声だ。陽炎、時雨、夕立も同じ状況を報告する。つまり四隻は艦内を敵勢力に占拠されたことになる。顕体が殺されたら艦は機能を停止してしまう。

『敵は、歩兵を捨て駒にしてでも我々を沈めたいらしい。もうすぐ戦闘が始まる。歩兵には対応できそうか?』

 島風が問う。反撃のチャンスがあるとすれば、吹雪が何か仕掛けた瞬間だ。それまでに各艦、自力で顕体の安全を確保して、砲雷撃戦ができる環境をつくらねばならない。

『武装は、自動拳銃一丁のみ。でも艦橋内の隔壁を閉じれば、敵は航海室にいる奴等だけになる』

 陽炎が言った。敵は、それぞれ四体ずつ。射撃の訓練は受けていたが、装甲をまとった敵を同時に四体も仕留めるのは至難の業だ。

『参ったな。ボク、射撃は苦手なのに』

 時雨が不安そうに言った。

『生き残るためには、やるっきゃない。とにかく死なないで。島風、合図をお願い』

 陽炎が言った。まだ室内の敵は攻撃の構えを見せていない。背筋を嫌な汗が伝う。一分一秒が拷問のように長く感じる。

 島風は甲板から、撤収していく敵艦の様子を窺っていた。四隻の駆逐艦は、すでに配置に戻っている。吹雪だけが、ゆっくりと敵旗艦と思しき軽母に向かっていく。その間に、全ての敵艦が艦娘部隊の照準を合わせた。

 この瞬間、突然、吹雪の主砲が火を噴いた。敵軽巡と駆逐に命中、さらに斉射された魚雷は面白いように停止している駆逐艦群に吸い込まれていく。艦娘に集中していた敵艦は対応が遅れ、混乱する。

『今だ!』

 島風が念波を飛ばす。

 陽炎、白露、時雨、夕立は一斉に拳銃を抜いて歩兵を撃った。少し遅れて敵が小銃の乱射で応戦する。艦娘たちは横に走り抜け、ぎりぎりで弾をかわす。艦娘の動体視力は、激動中であっても、しっかり敵の頭部を捉えていた。わずか二秒の間に三体が脳幹を撃ち抜かれて停止する。航海室に激しい火花が散り、開戦から五秒後には銃声が止んだ。

『報告せよ!』

 島風が問う。

『陽炎、負傷なし』

『白露、左大腿に被弾。戦闘に支障なし』

『時雨、左肩被弾。戦闘に支障なし』

『夕立、負傷ないっぽい』

 直後、島風は砲雷撃戦開始を告げる。砲が高く掲げられ、計一一隻の敵艦隊に弾頭を撃ちこみ始める。吹雪の奇襲から、わずか十秒足らずのうちに艦娘は反撃の態勢をつくりあげていた。

 敵は混乱しつつも、常に最適の行動を選び続けた。黒煙を上げる駆逐艦が三隻、軽母の前に壁をつくる。それを見て島風に焦りが生じる。この戦いにおいて、真っ先に撃破するべきは敵軽母だ。一隻ずつ艦載機の飽和攻撃を受けたら、いかに対空能力が高くとも轟沈してしまう。それは他の艦娘も分かっていた。しかし敵駆逐は耐え続ける。軽母撃破を優先したため、他の敵艦からの砲撃が激しくなった。先遣部隊はつぎつぎと被弾する。乱戦の最中、島風のもとにノイズまじりの通信が届く。

『島風ちゃん、西に脱出して!』

 吹雪の声だった。痛みに耐えるように、喰いしばった歯の隙間から声を捻りだしている。

『でも敵軽母が……』

『行って! わたしが抵抗できる間に!』

 吹雪が叫ぶ。どうやら意識がアウルムの侵蝕を受けているらしい。島風はただちに艦隊に転進を命じる。そして周囲の敵艦を叩くことだけに集中しろと伝達した。島風は艦橋にのぼり、離れていく戦場の中に吹雪の姿を見つける。発艦寸前の艦載機を大量に乗せている軽母に向かって、敵をかいくぐり単身突撃していく。ふたつの艦隊が接触した瞬間、吹雪の艦首もろとも敵旗艦はどす黒い爆発と炎に包まれる。敵の艦体には大穴が開き、傾斜していく飛行甲板から艦載機がボトボトと海に落下していく。

 吹雪は敵と爆弾を道連れに自沈した。日本を離れる際、幾田に依頼して、自身の艦に大量の爆薬を積みこんでいた。ひとりでも多く艦娘を生かすため、一度は艦娘として死を迎えた吹雪の、最期の決断だった。

 敵は旗艦を喪い、動きを止めた。その間に先遣部隊は完全に戦場を離脱することができた。島風はすぐに艦を止め、被害を確認するとともに白露の艦に渡る。銃弾は左大腿部を貫通していた。幸い、大きな動脈は外れていたが、戦闘中の出血がたたり、機関の出力が弱くなっていた。同じく被弾した時雨を陽炎が手当てする。銃弾は肩甲骨で止まっていて、摘出するには外科的処置が必要だった。本土に辿りつくまでは手を出さないほうがいいと陽炎は判断したが、時雨は得体のしれない敵の弾が体内にあることを嫌い、麻酔なしでの摘出を求めた。結果、野戦医療の経験がある夕立が摘出にあたり、彼女の体内から鉛玉を抜きだした。

 この戦いで、陽炎と島風が中破し、白露、時雨が大破にまで追い込まれた。主要部分への被弾を免れた夕立が、大破した二隻を曳航する。とにかく本土にまで辿りつくことを優先し、島風は航路変更を決断した。

 そして彼女たちは十二月十八日、紀伊半島沖に漂着。そこから沿岸づたいに横須賀を目指した。満身創痍の駆逐隊が、新横須賀港に辿りついたのは、その二日後のことだった。彼女たちは、すぐ鎮守府に招き入れられ艦の修理を受けた。銃撃を受けた白露と時雨は、すぐに海軍病院に搬送された。十二月二十五日、残るメンバーは軍令部に出頭し、マリアナ沖海戦の敗退から、スリガオ海峡開戦、シブヤン海海戦を経て、フィリピン奪還に至るまでの過程を報告する。島風と陽炎が代表を務めたが、その場では、アメリカフィリピン軍との協力関係や、クーデターのこと、深海棲艦の本拠地、さらに艦娘に託された『荷』については一切の情報を伏せた。

「軍令部は今、誰が敵で誰が味方か分からない。切り札となる情報は、確実に信用できる人にだけ暴露すること」

 報告を終えて、永田町の通りを歩きながら島風が言った。これから、その信用にたる人物と謁見する予定だった。二人は例によって身分を隠すために、海上兵装から私服に着替えていた。

「思ったより、ひどいわね」

 少し顔を俯けて、陽炎は言った。冬場とはいえ、異様に町は静かだった。一九四二年、第七駆逐隊のメンバーとして再編成され、本土を発ったとき、まだ本土には活気があった。物資は苦しくとも、戦争に勝てるという希望が人々の活力となっていた。ところが、たった二年と少しの間に、この国はやつれ果ててしまった。破竹の勢いで太平洋を取り戻していったはずの海軍から、いつしか戦勝の知らせが途絶えた。そして深海棲艦による世界支配宣告。前線からの物資の輸送も無くなり、それでも軍は押し黙ったまま。民の心から希望が消え、鬱屈と不満ばかりが、どろどろと淀み溜まっていく。頻発するデモは、民のささやかな捌け口だった。しかし、今はその声すら消えている。

「静かだわ。不気味なくらい」

「深海棲艦との開戦が急だったから、軍部は戦争に向けて、臣民への十分な思想統制が間に合わなかった。当然、戦況が不利になれば暴動も起きる。軍にだって反抗する。でも、それさえできないとなると、いよいよヤバいかもしれないね」

 島風は言った。静かに降り積もる黒い感情は、些細な火花で一気に爆発するかもしれない。恐怖に飲まれれば理性を失う。理性の消失は、すなわち言葉の消失であり、残るは血を血で洗う暴力のみ。

 内憂外患のこの国で、彼女は何を為そうというのか。その心内は、長く彼女の傍にいた島風にも分からない。分かる艦娘がいるとすれば、あの娘くらいか。

 ふたりは、鎮守府移転によってすっかり寂れてしまった旧横須賀港の敷地に入る。かつて艦娘の乾ドックとして使用されていた建物が、今回の集合場所だった。尾行がないことを確認し、錆びついたドアを開ける。がらんとした建物の中には、水のない巨大プールのようにドックが口を開けており、その縁にテーブルと椅子が並んでいた。先に到着していた夕立がふたりに手を振った。本土に取り残された艦娘の代表者が、それぞれ顔を連ねている。戦艦「伊勢」、軽母「龍驤」、軽巡「球磨」「天龍」「五十鈴」、駆逐「睦月」「五月雨」。奥に腰掛けているのが、おなじみの秘書艦「叢雲」と、陸軍所属の艦娘である揚陸艦「あきつ丸」だった。叢雲の隣には、本土における唯一の『提督』たる幾田サヲトメ中佐。そして、あきつ丸の隣に席を構えるのは、前線から帰還した陽炎や夕立にとって、初めて見る人物だった。男は立ち上がり、艦娘たちに自己紹介をする。

「陸軍参謀本部付情報将校の、荒牧稔大尉です。以後、お見知りおきを」

 そう名乗り、荒牧は恭しく頭を下げた。

「彼はわたしの協力者よ。陸軍における支持者との連絡役を担当してくれている」

 幾田が付け加える。島風と陽炎のふたりを上座に呼び寄せた。

「さっそくだけど始めましょうか。あなたたちが、前線からここに至るまでの過程を話してちょうだい。包み隠さずに、ね」

 そう言って幾田は叢雲のヘッドパーツを確認する。兎の耳のような艤装の先端には青い光が灯っている。幾田と島風は、この場の安全を確認する。艦娘による通信を使わず、直接、肉声で情報を伝えることで、より保全性が高まる。これなら万が一、アウルム以外の敵に盗聴される可能性もない。

 島風は要点だけをまとめて簡潔に伝える。その一つ一つが、情報から締め出されていた本土の艦娘たちを驚嘆させた。クーデター、アメリカの新型兵器、それらにまつわる情報を敵に破壊されたこと、吹雪の死。そして、今後の戦争の運命を決めるほどの最上機密である、深海棲艦の本拠地と、水面下で進行中の極秘作戦。

「切り札の二枚が揃ったわね」

 満足げに幾田は微笑む。改めて島風に労いの言葉をかけた。思い描いたシナリオ通りに事が進むよう、戦場をコントロールしてくれたのは島風だった。陽炎でさえ、極秘作戦については初耳だった。

「初めから、そのつもりだったのね」

 少し唇を尖らせ不服そうに陽炎は呟く。

「ごめん。情報の保全のために、前線の仲間に話すわけにはいかなかったんだよ」

 さして気にするでもなく、島風は言った。陽炎は諦めたように、それ以上の追及はしなかった。

「これで逆転のためのカードは揃った」幾田は厳しい声で続ける。「しかしながら戦局は依然として圧倒的に我々の劣勢。使い時を間違えれば、今度こそ本当に勝利の目は潰える。だが、我々の持ちうる戦力が最高のタイミングで最も正しい選択をすれば、一厘ほどもないはずの勝率が、その刹那のみ八割、九割にも跳ね上がる」

 力強い言葉は、長らく出撃の機会さえ与えられなかった艦娘たちに熱意を灯した。

「本題に入りましょう。敵の本拠地が明らかになった以上、この海で戦える全戦力を一点に集中させる必要があります。そこで、我々と志を共にする艦娘および軍人戦力の本土脱出作戦、その概要を決めておきたい」

 いよいよこの時がきたか、と艦娘たちは思った。陸軍にも理性派と呼ばれる、艦娘の存在意義を尊重する派閥がある。彼らの協力を仰ぐことを考えつつ、脱出計画が話し合われた。艦娘たちが瞳に希望を宿す中、叢雲だけは神妙な面持ちで自らの提督を見つめていた。彼女は、いつも通り微かに微笑んでいる。部下に不安を与えないために張りつけた仮面。叢雲は、この仮面が剥がれ落ちた瞬間を見たことがあるからこそ、彼女が内心に抱える想いを知っていた。

 正午を回ろうとしたとき、叢雲が不意に叫んだ。

「警戒!」

 その一言でテーブルは静まりかえる。数秒後、彼女の偽装が淡いピンク色を放った。

「あいつが呼んでるわ。最近、本土に辿りついた艦娘がいたら、その目的と現状を報告しろとのことよ」

 叢雲は言った。敵からの質問に対し、幾田が口頭で答える。アメリカから預かった未知の兵器のサンプルと設計図を海上で喪失したこと。そして、輸送を任された艦娘たちも荷物について詳しいことは何も知らされていなかったこと。

 叢雲はしばらく沈黙し、敵からの返答を待つ。

「了解した。我々は新たな作戦を進める、だってさ」

 アウルムの言葉を代弁する。うまく敵を欺けたと幾田は思った。しかし、まだ用件は終わっていないらしく、艤装の色は変わらない。次第に叢雲の表情が厳しくなっていく。

「……ラジオをつけてみて。何か面白いことを聞かせてくれるそうよ。何よ、深海棲艦にしては、やけに情緒ある言葉遣いじゃないの」

 忌々しげに叢雲は言った。言葉は軽いものの、これが尋常ではない事態であることが周囲のメンバーにはすぐに分かった。荒牧が大きなボストンバッグを開き、最新型のラジオを机上に置いた。深海棲艦の世界宣言以来、彼は電波を拾えるラジオを、いつでも持ち歩いていた。

 チューニングする必要はなかった。あらゆる振動数が一律に支配されていた。流れてくるのは、かつて放送されたときと同じく、奇妙なエコーがかかった声だ。しかし、今回のそれはアウルムのものではない。

 男性の声だった。

 幾田と叢雲にとって、聞き間違いようのない声。艦娘たちの中でも、睦月は大きく目を見開き、悲しみと驚きが同時に瞳に弾ける。彼の教えを受け、戦場を共にした駆逐艦だからこそ、あらかじめ知っていても衝撃は大きかった。

 十二月二十五日、正午。深海棲艦は、ふたたび人類の言葉で宣告する。かつて人間の男だった白峰晴瀬が、今は深海棲艦の声で幾田に語りかける。

『人類に告ぐ』

 恐怖と混乱にあえぐ全世界に向かい、白峰は言った。

『一九四四年三月の勧告以来、我々は人類を観察しつづけてきた。我々の提示する世界平和を前にしても、なお人類は武装を捨てず、戦争継続の意を示した』

 幾田は固く唇を閉じ、彼の言葉を聞いていた。そのような得体のしれない勧告に、人類が従えるはずがない。武器を捨てれば、もはや自らの不利益を排除することはできず、敵に抗う術も永遠に失うからだ。

『この事態を受け、人類は、あらゆる欠乏と恐怖を自ら欲し、平和を否定する愚かしき生命体であると判断する。人類の存在は悪である。悪が、この世界の支配者であってはならない。我ら裁定者は、生命の最高状態である絶対平和の名のもとに、この地上に満ちたる悪を断罪することを、ここに宣言する』

 朗々たる声で、白峰は人類に死刑宣告を下す。幾田の口角が皮肉な笑いで歪む。現状、国レベルでしか意志統一されていない人類が、無条件で世界平和を受け入れようなどという展開にはるはずもない。それは白峰も最初から分かっていたはずだ。

 前回の勧告は、いわば茶番だった。

 白峰は、なおも続ける。

『これは宣戦布告ではない。我々は人類を、もはや対等な相手とは認めていない。ゆえに、これから行われるのは戦争ではなく一方的な虐殺である。駆除である。悪を断罪することに一片の慈悲もなく、殺戮することに一切の躊躇いもない。ただひとつ望むことは、滅ぼされゆく過程で人類が自らの愚かさと間違いに気づき、悔い改めることである。これから我々は、全世界同時に死と破壊をもたらす。特に、我々の行動に対し、積極的な加害意志を示した、アメリカ、イギリス、ドイツ、オランダ、ロシア、イタリア、そして大日本帝国には、凄惨な裁きがもたらされるだろう』

 やはり大日本帝国は標的となっていた。だが、この宣告はむしろ幾田を安心させた。今さら本土が攻撃されたところで世界の運命はさして変わらない。むしろ艦娘という独立した存在が攻撃対象に含まれなかったことは幸いだ。まだ敵は、艦娘を大日本帝国の所有物と見なしているらしかった。

『ただし、駆除の最中にあろうと、人類には三つの選択肢を残す』

 ここで白峰は、ささやかながら人類に救いの手を差し伸べる。

『ひとつ。愚かしい存在のまま最後の一個体に至るまで我々に殲滅されること。ふたつ。我々の世界平和を受け入れ、全ての武装を放棄し、我らの軍門に下ること。そして、どちらも選ばない場合―――』

 この一瞬、微かに声の様子が変わる。挑発するような、それでいて慈しむような声音で白峰は言った。それは幼いわが子を諭す親のごとき、絶対上位者から下位者にくだされる諮問だった。

『―――我ら裁定者は、その者に問う。我らの掲げる世界平和よりも優れた支配が存在するか否か。存在すると答えるならば、絶対的平和を超える理想世界の作り方を我らに示せ。そして、その方法にのっとり、この世界を再構築せよ。もし、その方法および結果が、我ら裁定者の作る平和を上回るものであれば、我らはそれに従おう』

 人類が最後には賢明な選択をすることを祈る。そう結びの言葉を残し、通信は終わった。あとは同じ内容の宣告が繰り返されるだけだった。

 これが彼の質問。深海棲艦に対して人類が意見することを許された、最初で最後の機会。

 動揺する艦娘たちを尻目に、叢雲はひとり無表情で思索にふけっていた。最後の三つ目の選択肢は、明らかに幾田への挑戦だった。やはり白峰は、幾田を信用していない。その一方で彼女を評価している。もしかしたら自分と違う回答を導き出せるかもしれないと期待している。敵対してもなお、二人は互いを強く意識している。軽い嫉妬を覚えている自分に気づき、叢雲は小さく舌打ちした。

「一体、何が起こるというのでしょうか?」

 荒牧が尋ねる。幾田は静かに立ち上がり、艦娘たちの注意を集める。

「すぐに軍令部の詰め所に戻ったほうがいいわ。敵が大挙して押し寄せてくるのなら、必ず沿岸警備のために出撃することになる。ここはいいから、軍令部付の皆は早く」

 その指示により、艦娘たちは慌ただしく旧ドックから退出していく。今こちらから率先して動くのは危険だった。艦娘を安全に本土から脱出させるには、まずは敵の動きを知らねばならない。本土が攻撃されるのは確実だろうが、その方法が知りたかった。ルソン島を制圧したという強襲揚陸部隊だろうか。それとも戦艦群による艦砲射撃だろうか。あるいは化学兵器による攻撃も考えうる。

 だが、幾田の懸念は、一分と経たず解消されてしまった。

 建物の外から、つぎつぎと艦娘の悲鳴があがる。幾田と荒牧は、すぐにドックを飛び出した。

「あれは何や?」

 龍驤が東の空を指さす。最初、幾田はそれを渡り鳥の大群かと錯覚した。しかし、明らかに高度が違う。雲をこすらんばかりの遥か上空を、黒い点線が雁のように「く」の字の隊列を組んで飛行している。ここから視認できるだけでも、その数はゆうに一〇〇以上。無数の編隊は、空に幾何学模様を描いていた。艦娘たちは、一瞥しただけで、その飛行物体の異常性を理解する。

「ありえへん。あんな艦載機……」

 龍驤が呆然として呟く。目算でも、飛行高度は一万メートルを超えている。帝国海軍の開発している最新試作機でも、九六〇〇メートルがやっとだ。つまり現段階で、敵を迎撃できる戦闘機は皆無。あの高度ならば高射砲も届かない。

「叢雲、外洋警戒にあたっている沿岸警備隊と連絡を」

 幾田が指示する。すぐに彼女は、警備隊の如月から返答を貰い受ける。

「周囲に敵空母および敵艦影は無し」

 叢雲は言った。つまり、あれは艦載機ではない。飛行場から繰り出される、大型の航空機だ。しかし、艦載機でないとするなら、あの敵機たちはどこから来たのか。敵の航路を辿ると、ちょうど南の方角から飛来していることが分かる。日本列島の南は、広大な太平洋が広がるだけだ。小笠原諸島に敵は揚陸していない。そこからさらに遠方となると、考えられる場所はひとつ。

 マリアナ諸島。

 この瞬間、幾田は敵の作戦の全貌を垣間見た。深海棲艦が、第三艦隊をマリアナから追い払ったのは、本土と中部太平洋の戦力を分断するためだけではなかった。むしろ、本命は別にあったのだ。マリアナ諸島のどこかに飛行基地を構え、そこから帝国本土に直接、爆撃を加える。あまりに遠大で恐ろしい戦略だった。つい先ほど白峰は全世界に対し攻撃を宣言した。その直後の本土爆撃。つまり、これと同じ事態が世界中で起こっているとしたら。

「マリアナから本土まで、どれだけ距離があると思ってるの……?」

 空を仰ぎながら、呆然として叢雲が呟く。北マリアナ諸島から帝都まで、片道二四〇〇キロ。往復で四八〇〇キロ。これほどの馬鹿げた距離を飛び続ける飛行機など、今の世界には存在しない。海が封鎖されている状況下では、もはや人類に反撃の術は残されていなかった。

 幾田の予想は的中していた。これこそが白峰晴瀬の目的であり、それを実現するための手段として開発されたのが、空飛ぶ要塞「アポロン」だった。太平洋領域においては、マリアナ諸島、アリューシャン列島、セイロン島、オーストラリアのポートダーウィン、四つの大飛行場を中心とした爆撃範囲は、太平洋に接する全ての陸地を余すことなく覆い尽くす。アポロンを開発したのは、特殊戦艦「グラキエス」。この超長距離爆撃機は、提督に捧げた彼女の遺作にして、深海棲艦の勝利を完成させる最高傑作だった。

 裁定者の粋を結集した悪魔のごとき爆撃機は、まっすぐに帝都・東京の空へと吸い込まれていく。

「軍令部に艦娘を戻すのは危険です。爆撃に巻き込まれるかもしれませんし、指揮系統が混乱すれば無駄な出撃を強いられることになります」

 冷静に荒牧は言った。この攻撃が敵空母のものだと軍令部が判断を誤ってしまう可能性もある。それでも艦娘は新横須賀鎮守府に向かおうとするが、夕立の言葉により全員が動きを止めた。

「第二波来てるっぽい!」

 彼女が指さす空には、新たな黒い点線が出現している。第一波の航路を西に三〇度ほどずらし、敵が押し寄せてくる。狙いは明らかに横須賀だった。

 東の地平線は、ほどなくして赤黒い色に包まれていく。幾田は、音もなく焼き尽くされていく帝都を傍観することしかできなかった。やがて第二波が横須賀に爆撃を開始した。手の届かない大空を悠々と飛び去る機体のうち、ひとつが編隊を外れて旧横須賀鎮守府の方角に接近する。幾田たちのいるドックから五百メートルほど離れた場所に、一発だけ爆弾を投下した。轟音と熱風が吹き荒び、艦娘たちの肌を焼く。

 白峰からの挑戦状。しかし幾田は、とくに表情を変えることなく爆心地に背を向けた。

「今さら何を贈られても、あなたに心が動かされることはないわ」

 呟きは鉄の暴風に混じって消える。

 

 十二月二十五日。東京の中心部には一五五〇発の爆弾が落下し、周辺部の住宅地には焼夷弾が降り注いだ。火花を噴きあげる筒の表層には、『メリークリスマス東京プレゼント』と、あざけるような日本語で記載されていた。深海棲艦は、よほど人類について研究しているようだった。

 ついに本土が攻撃の対象となった。これまで海の向こうの話だった戦争の地獄を、この日を境に大日本帝国は直接、その身に刻まれることとなる。帝都大空襲を皮きりに、日本全国の主要都市が「空飛ぶ要塞」による苛烈な爆撃を浴びた。東北および北海道は、最初の一カ月こそ被害を免れていた。そこで帝都を仙台に移す計画まで持ち上がった。しかし、深海棲艦は常に人類の先手を打ってくる。北の千島・アリューシャン列島方面から飛来したと思しき爆撃機により、札幌をはじめとする人口密集地は容赦なく破壊と炎に蹂躙された。おそらく、ソロモン諸島で交戦した飛行場姫と同じ型の陸上戦力が、マリアナとアリューシャン列島のどこかに巣食っているのだろう。敵の攻撃は、単なる無差別爆撃に留まらなかった。帝都の中枢を爆撃したのは最初の一度きりで、敵は帝都周辺および地方都市を重点的に爆撃した。結果、焼け出された難民が次々と帝都になだれこみ、治安と生活環境は悪化の一途をたどり、都市機能を麻痺させた。さらに追い討ちをかけたのが、日本列島を襲った未曾有の大寒波だった。十二月から一月にかけて気温はマイナス一〇度を下回り、水道管は凍りつき、野鳥が凍え死ぬほどだった。爆撃で民は家を失い、政府には配給できる燃料もない。地方では餓死者を凍死者が上回った。炎と冷気、人間が生きるには過酷すぎる環境が、日本列島を死の沈黙で包み込んでいく。

 追い詰められた人間の感情は、ついに大暴動となって帝都に吹き荒れた。窮鼠猫を噛むという言葉通り、権威を振りかざしてきた軍部に対し、暴力をもって民は主張する。満足な食事と温かい寝床を。脅かされることのない暮らしを。そのために軍部が何をすべきか、彼らは叫ぶ。

 深海棲艦への無条件降伏。生き永らえる道があるとすれば、これ以外の選択肢はなかった。

 一九四五年二月。

 軍および政府は、内外に対して守勢を貫くしかなくなった。帝国の存亡を賭けた戦いに降伏という選択肢はない。しかし、今さら一億玉砕を唱えても、すでに反逆の意志が暴走した民衆が従うはずもない。政府、軍、法律、議会、国を支えてきたあらゆる権威が、国民反乱によって無力化されていく。とくに地方は無法地帯と化していた。文明国であるはずの日本が旧石器時代に戻っていく。ただ身内の生存を目的とする原始的集団が棍棒を振り回して、各地で自治を行い始めていた。

 今、ここで深海棲艦が揚陸してきたら、まともに迎撃することもできない。フィリピンのルソン島のように制圧されてしまうだろう。土地を失えば国は滅ぶ。軍は、せめて残された軍備を空襲から守るため、各師団の戦車や装甲車、武器弾薬を隠匿、帝都に集中するように命じた。さらに軍令部と参謀本部は、長い軋轢を乗り越えて結託し、最後の反攻作戦を練っていた。

 二つの飛行場が存在する限り、日本の果てまで逃げても安全な場所などありはしない。そこで、横須賀に帝都防衛の艦娘を最低限だけ残し、それ以外の艦を北方海域に出撃させる計画が持ち上がった。マリアナは無理でも、北方の飛行場ならば破壊できるかもしれないと考えての作戦だった。そうすれば、北海道と東北の一部を取り戻せる。しかし、この国は、もはや艦娘を移動させることすら困難なほどに疲弊していた。一か八かの賭けのため、あらゆる艦娘が東京湾の臨時鎮守府に集められたが、連日つづく大暴動により、艦隊は湾から動けず、浮き砲台と化していた。

 戦争責任を問われ、強硬派の東条内閣は総辞職の瀬戸際だった。しかし、未だ国政の主導権に固執する軍部は、陸海軍大臣現役武官制を盾に、もし現内閣が総辞職した場合、後任の大臣を出さないと明言していた。大臣が出なければ内閣は成立しない。軍部にとって都合のよい政府をつくるための伝家の宝刀だ。

 軍部と民衆の対立が決定的となった、二月十二日。その早朝、幾田は、赤坂にある米内光正の私邸を訪ねていた。軍人としてではなく、あくまで来客を装った非公式の訪問だ。艶やかな黒髪をまとめ、帽子の中に隠している。男物のコートをまとい、さながら男性のようだった。傍らには私服に変装した叢雲も控えている。

「国家瓦解の危機に際し、ついに今上陛下の勅言を賜った」

 どっしりと腰を降ろした米内が、重々しく口を開く。

「『非常なる擾乱に対し、各々の信念をもって恐怖を律し、もって臣民ひとりひとりが国家の柱たらんと心せよ』。つまり間接的にではあるが、国の行く末は国民が決めるべきと仰っている」

 米内は言った。この勅言は、現内閣の輔弼のもとに発表されたものではない。今上陛下の言葉を取り次ぐ鈴木侍従長が、内閣の頭を飛び越えて、宮内庁の名のもとに直接、ラジオ放送局に発表を指示した。明治の元老が政治を取り仕切っていた時代から、宮中は政治に口出ししないという暗黙のルールが完成していただけに、今回の宮内庁発表は異例だった。俗世とは隔絶した存在であるはずの今上陛下が、自ら言葉を下さねばならないほど、国の中枢は麻痺していた。急進派と穏健派の軍人は激怒したが、後の祭だった。

「陛下は民の窮乏を嘆いておられる。しかし、その一方で、民を戒めてもいらっしゃる。一時の怒りや恐怖に飲まれ、無条件に敵にくだれば、もう二度とこの国は立ち上がれなくなる。国の基盤は民であるとお考えだからこそ、民に理性と自律の心をお望みだ」

「しかし、陛下のお気持ちは、民には届いていないようです」

 幾田は言った。内閣を攻撃しても弾圧にさらされるだけで埒が開かないと悟った暴徒たちは、勅言放送を機に、皇居へと直訴すべく靖国通りでの大規模デモを画策していると、理性派の情報将校から連絡が入っていた。陸軍は、すでに歩兵第一連隊および第三連隊、近衛第一連隊、予備部隊として海軍陸戦隊にまで緊急呼集をかけていた。

「その責任は、明治政府に始まった国家体制にある。立て前だけの議会政治。度重なる戦争による軍部の膨張。民意は国政から締め出され、強固に結びついた軍部、貴族政治家、財閥の特権階級が全ての決定権を握っている。近代国家にあるまじき支配体制だ。ゆえに、民に罪はないとする陛下の御心は正しい」

 米内は少し躊躇いながらも、自らの意志を伝える。

「この国は一度、滅びねばならない。これまで積み重なってきた悪しき伝統を白紙に戻し、真に正しい国家をつくり直す。一時の崩壊により、万世の安寧を得られるのならば、アメリカ・イギリス連合軍に敗北することもやむなしと考えていた。しかし、今戦っている相手は人類ではない。敗北を喫せば、再起の機会は永遠に失われるだろう。そこで、国家を破壊しようとも戦争には勝つという、きみの考えに賛同したわけだ。いや、賛同するなどという表現はおこがましい。あらゆる責任と痛みを、きみに押しつけ、その後にのうのうと新国家の中心に居座ろうとするのだから」

 他の者も同じ気持ちに違いない、と米内は言った。しかし幾田は静かに首を振る。

「お気になさらず。わたしという存在を最大限に利用するには、この道しかなかったのです。わたしが生きた意味を残せるのならば本望です。それに、これから起きる戦いは、わたしの私闘のようなものですから。わたしが決着をつけるのは当然です」

 しかし、と幾田は続ける。

「もし後味がお悪いようでしたら、どこか海の見える公園にでも、わたしと叢雲の銅像を建ててください」

 そう言って幾田は微笑む。彼女の復讐によって、この国が正しく生まれ変わるのならば、何を意見することがあるだろうか。米内は、もはや海軍軍人の域を超えた女性に深く頭を下げた。

「了解した。この戦争の決着と、我が国の新たな夜明けを、お願い申し上げる」

「万事、計画通りに。後のことは、よろしくお願いします」

 歴史の節目となるふたりの会話を、叢雲は静かな瞳で見つめていた。

「これが、頼まれていたものだ」

 米内は、一枚の封筒を幾田に差し出す。宮内庁の印字で封がされていた。

「鈴木侍従長は最後まで、陛下を政治の道具となすことに苦悩していた。それでも、我らと志を同じくする理性派の一人として、最後には断腸の想いで決断してくれた」

「はい。必ず前線に届けてみせます」

 うやうやしく封筒を受け取り、幾田は私邸を後にする。路面につもった固い雪を踏みしめながら歩く。一回目の大空襲で焼け落ちた建物は放置され、道端にはゴミのように死体が横たわっている。下を見ても上を見ても無残だった。帝都の中枢でこの有様なのだから、地方の惨状など推して知るべしだった。

 路地にまぎれるように設置された火事避けの公園に、五人の少女たちがいた。きちんと服を着ていて、孤児の集団には見えない。彼女たちは遊ぶでも騒ぐでもなく、白い雪のなかにじっと立っていた。

「お待たせ。これをお願いね」

 幾田は、赤髪の少女に封筒を渡す。少女は無言で頷く。

「危険な任務になるわ。でも、必ず全員で無事、本土を脱出してください」

 五人は、その場で小さく敬礼する。少女たちに背を向け、幾田と叢雲は歩きだす。

「叢雲ちゃん、一緒にいかないっぽい?」

 少し不安げな声で赤い目の少女が言った。

「大丈夫。後から追いつくから。あんたたちは自分の任務に集中なさい。それと島風、帝都に詳しいんだから、きちんと仲間を誘導しなさいよ」

 振り向きざま、叢雲は言った。その瞬間、島風の頭に秘匿回線が開かれる。短いメッセージを受け取りつつ、「任せて」とだけ答える。第二駆逐隊のメンバーには見えないよう、少しだけ苦笑する。最近、艦娘たちは自分のことを危険物処理班と勘違いしていないだろうか。動揺を表に出さないだけで、本当は皆と同じように辛いこともあるし、受け入れがたいこともある。しかし今さら、そんなことは言えなかった。

 幾田は、その足で第一師団司令部に向かう。

「皆と行かなくてよかったの?」

 道すがら、幾田が尋ねる。叢雲にとって艦隊に戻る最後のチャンスだったはずだ。このまま自分と歩いていけば、待ち受けるのは過酷な戦いであり、その先に勝利や栄光があるわけでもない。艦としての本懐を遂げるのならば、一日でも早く海に出たいはずだ。

「今なら、まだ間に合う……」

 そう言いかけたとき突然、叢雲は彼女の前に飛び出し、制止するように左手を突きつける。

「この駄目提督、もう忘れたの? わたしはあんたの秘書艦なの。あんたが行く所に、わたしもついていく。陸だろうが海だろうが関係ないの! 分かったら、つまんないこと考えてないで目の前の作戦に集中なさいな!」

 この期に及んでまだ説教させるなんて、とぶつぶつ文句を垂れる叢雲。その頬は凍てつく空気に晒されても淡い桜色に染まっている。突き出された左手薬指に、少し大き目の銀の指輪が輝いていた。幾田は何も言わず、そっと叢雲の手を取る。幾田の両手は、僅かに震えていた。感謝と懺悔の混じる瞳が、許しを乞うように叢雲を見つめている。

「……分かればいいのよ。まったく、わたしがついてなきゃ、あんたは駄目なんだから!」

 そう言って、叢雲は威勢よく幾田の前を歩き始めた。

 第一師団司令部に到着したのは午前十時だった。司令部には、すでに召集された部隊の指揮官が召集されていた。この日に群衆が決起することは、瀬川大尉があらかじめ情報を掴んでいた。そこで、急進派の当直指令将校ばかりを集めていたのだ。幾田のもとに、ひとりの男が歩み寄る。第一歩兵連隊の司令官、本間二郎大佐だった。

「ご協力、感謝します」

 急進派の先鋒である男は幾田に敬礼する。陸軍におけるクーデターの実行計画は、彼が立てたものだった。幾田は答礼し、現状を説明する。

「艦娘戦力の了解も得られました。彼女たちも、戦いを止めることはできないという意見です。艦娘への連絡は、この叢雲が行います」

 幾田の紹介を受け、叢雲はぺこりと頭を下げる。

「安心しました。陸軍は、これで本来あるべき誇りを取り戻すことができます」

 本間は冷静な声で言った。開戦以来、主戦場は海ばかりとなり、陸軍は完全に蚊帳の外に置かれた。ニューギニアやガダルカナル島での陸軍の専横も、こうした現状に焦りと不満を抱えていたからだ。ニューギニアの悲劇により、さらに立場の悪くなった陸軍の後ろ盾を申し出たのが、二正面作戦を勝利に導いた「作戦の神様」である幾田だった。深海棲艦の揚陸戦力を警戒し、陸軍の力は近い将来、かならず必要となると各界を説き伏せた。彼女の持つパイプを使い、後回しにされ続けた陸軍予算の獲得にも貢献していた。幾田を支持する派閥は、若手将校を中心に、海軍のみならず陸軍にも増大していった。

「あなただけには打ち明けますが、この戦い、わたしは勝利を望んではいません。全て作戦通り進んだところで、クーデターの責任者は陛下の御前に首を捧げねばならない。しかし、その犠牲で誇り高き帝国陸軍が生き永らえるなら、ここに集った将兵の命を賭ける価値はあります」

 そう言って本間は、司令部の一室に幾田を招いた。そこには緊急呼集に応じた部隊の、歩兵中隊および野戦砲兵大隊の長が居並ぶ。明らかに緊急呼集された部隊ではない指揮官も混じっていた。これだけ集まれば十分だ、と幾田は考える。呼集を受けた部隊以外にも決起準備が進んでおり、総数はおよそ二千五百。敵と互角に戦えれば、それでいい。

 皆の視線が集まる中、幾田は壇上に立つ。すでに作戦の全容は伝わっており、特に喋ることもなかったが、けじめという意味では自分が代表として部隊に立つ意味があった。青年将校たちの顔は、決意と希望に満ちている。軍部のクーデターはこれで三回目だ。五・一五と二・二六のときは、あくまで『陛下の軍隊』としての矜持を持っていた。最後には自分たちの行いが正義であると認めてくれるだろうという淡い期待もあった。しかし今は違う。錦の御旗に弓を引く、逆賊となることを最初から覚悟していた。例え陛下の言葉に逆らうことになろうとも、国家のために立ちあがる。それゆえ、過去の蜂起とは比べ物にならないほど意志は固い。

 結果はどうであれ、きみたちは新たな日本の礎となる。幾田は内心で呟く。幾田の真意を知らず、喜々として彼女の駒になることを選択した男たちは、さながら傾国の魔女に翻弄される純粋で愚かな戦士だった。

「ついに、この時がきた。もう何も言うことは無い。我々が、この国に新たな道を拓く。さあ、戦おう!」

 感情だけを声に込めて幾田は叫んだ。男たちの応答が怒号となって鼓膜を揺らす。将校たちは解散し、それぞれの部隊へと戻っていった。幾田は海軍軍装に着替え、司令部前に待機している陸戦隊と装甲車部隊に合流する。

 一四○○。

 靖国通りの皇居側に、突如として機銃を構えた装甲車が突入する。そして、通りを塞ぐように隊列を組み、小銃を担ぐのは召集を受けた陸軍ではなく、海軍陸戦隊の第一、第二中隊だった。この時点で参謀本部より下達された命令と食い違っており、現場警備を任されていた警視庁警備隊は混乱に陥っていた。指揮官に説明を求めようにも、すでに武装した四百人からの部隊が通りを封鎖してしまっている。陸軍の歩兵中隊は、なぜか陸戦隊よりも二百メートルほど後方に待機している。政府側の騒乱をよそに、通りの西側から地面を震わせるような勢いで暴徒が押し寄せてくる。まさに人の津波だった。恐怖と欠乏に飲まれ、尊厳をすり減らして生き延びてきた、人間として限界そのものの顔をした男たちが怨嗟と憤怒の叫びを張りあげ、皇居めがけて押し寄せてくる。『愚戦』、『米ヲヨコセ』、『民ハ国家ナリ』、『軍ハタラフク食ッテルゾ。汝国民飢ヘテ死ネ』。暴徒たちの頭上にプラカードが踊る。やむをえず警備隊は警棒を抜いた。しかし軍が構えるのは、殺戮のための道具である小銃と機銃だった。

 次の命令を放てば、もう後戻りはできない。決定的な断絶。陛下が守り抜こうとした国民に、国民を守るための手段である軍が銃口を向けている。叢雲がこちらを見ている。彼女はいつも、その厳しい声と瞳で正義を問う。自分の為そうとしていることは正しいのか、最後の命綱をくれる。

 これから始まる戦いは、国のためでもなければ民のためでもない。幾田サヲトメという一人の人間の挑戦。帝国海軍軍人でもなく、憂国の志士でもなく、ただあの男に勝ちたいという執念。その結果として、この国が救われるにすぎない。

「わたしだけの戦争」

 ぽつりと幾田は呟く。彼女の瞳は輝き、口元には微笑が浮かんでいる。今、彼女は確信している。これこそが進むべき道であると。叢雲は苦笑しながら、そっと瞼を閉じた。どこまでも彼女についていきたい。自分が信じる道があるとすれば、それは彼女と共にあるという確信をくれる。

 幾田の右腕が上がる。そして冬の空を貫く一声とともに振り下ろされる。

「撃て!」

 この瞬間、幾田サヲトメは天に弓を射た。西南戦争以来、そして帝国史上最悪の反乱が始まった。

 

 



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第二十三話 平和への回答

艦娘の集う前線を遠く離れた、大日本帝国本土。その帝都・東京。
この戦争における自らの使命を悟り、海の軍人である幾田サヲトメは陸で戦う覚悟を決める。彼女の愛する艦娘もまた、その戦いに身を投じていく。深海棲艦ではなく、人間との戦いに。


 

 一四〇〇から、一六〇〇にかけて、陸海軍における急進派指揮官および青年将校によって蜂起した反乱軍は、靖国通りでの虐殺を皮切りに、瞬く間に政治の中心である永田町一帯を制圧した。区画整備された街路は、皮肉にも絶好の戦車の通り道となり、機械化部隊はすんなりと皇居周辺まで侵入する。機銃で武装された装甲車と戦車部隊が主な通りを塞ぎ、バリケードが完成した。皇居を囲うように築かれた壁の内側では、反乱軍の独壇場だった。海軍省、警視庁、陸軍省および参謀本部を制圧、さらに首相官邸を包囲した。国会議事堂前には陸軍閥の指揮所が置かれた。幾田率いる海軍閥は、第一生命ビルを占拠し、ここに司令部を構えた。作戦の初段階は、制圧と粛清である。軍部と国政の改革を訴える理性派の将校、政治家、財界人が襲撃された。しかし、鈴木侍従長や、君津少将、石原中将、米内海軍大臣など主たる標的の自宅は、もぬけの殻となっていた。要人暗殺のみ失敗したものの、反乱軍は大部分の目標を達成した。重要なのは、両軍の穏健な推進派のメンバーを殺すことなく、制圧領域内に取り込んだことである。現首相である東条大将は、いまだ戦争継続か否かについて立場を明らかにしていない。首相官邸を包囲した青年将校は、あくまで軍部主導による体制を維持し、戦争を継続するよう東条を説得した。陛下の言葉と国民の窮乏を目の当たりにし、立場を決めかねていた推進派は、命惜しさもあり、とりあえず反乱軍の意志を汲むことを申し出た。どのような義があれど陛下に弓を引くことはできないと答えたごく一部の推進派は、殺されはしないが背中に銃を突きつけられたまま軟禁状態となった。

 現内閣総理大臣が反乱軍に与したことは、反乱軍の宣伝工作により帝都中へと拡散した。このような事態は前代未聞だった。現内閣の意志を擁する以上、彼らの行いは、もはやクーデターとは呼べない。陛下の言に逆らい国民を弑虐したという事実だけが、かろうじて彼らを反乱軍と呼ぶことを許していた。

 一七○○には作戦の第一段階は完了していた。クーデターにしては珍しく、細部まで綿密にシミュレートされたうえに戦力を整えての蜂起だったので、その速度は電撃的だった。陸軍では、はやくも第二段階を実行に移すべく、防御と攻撃に兵を再編している。議事堂前の指揮所では、勝利を信じる青年将校たちに笑顔が生まれ始めていた。

 第一生命ビルの指令室にて、幾田は飛びこんでくる情報をまとめ上げ、次の指示を考える。この反乱を裏から操る幾田にとっては、敵も味方も関係ない。行動を起こすタイミングこそが雌雄を決する。予定よりも反乱軍の動きは早かった。今のところ陸軍と海軍は、別々の指揮系統のもとに動いている。常に陸軍の動きに注意しつつ、自らの兵力を適切に動かし、それらを最適な瞬間に戦場にぶつけなければならない。失敗すれば、失われるのは自分の命一個では済まない。反乱軍の誰よりも、幾田は精神をすり減らしていた。

 日が暮れて、帝都が宵闇に沈む。

 一八三〇、その連絡は突然もたらされた。

「あきつ丸より通信。陸軍が動いた。第三歩兵中隊、第六歩兵中隊、第一五機械化部隊が赤坂を南下」

 叢雲が情報を伝える。やはり予定よりも早く陸軍が動いた。それは想定済みだ。しかし、続く報告に、叢雲の顔に焦りが生まれる。

「陸軍歩兵部隊が、東京鎮守府を攻撃。現在、政府軍と交戦中。艦娘の安否は不明。一連の動きに対し、政府軍は即時反撃を開始。あちこちで乱戦が予想される」

 叢雲の言葉に、幾田は頭を抱えそうになった。これは事前に検討された作戦にはなかった。おそらく本間大佐だ。頭の切れる男は、幾田の息のかからない独自の戦力を抽出し、艦娘を押さえにかかった。おそらく艦娘が政府軍によって支配されることを危惧し、先手を打って反乱軍の麾下に加えようとしたのだろう。

「もし反乱軍が艦娘の指揮をとれば、彼女たちは間違いなく政府軍に砲弾を浴びせるよう命令されるわ」

 忌々しげに叢雲が言った。反乱軍の陸軍閥は、政府軍以上に艦娘を警戒していることが、これで明らかとなった。もともとの計画では、帝都内戦の混乱に乗じて艦娘に物資を積みこみ、東京湾から脱出させるつもりだった。北方攻略のため、本土の艦娘となけなしの資源が港湾に集中している。反乱軍は、艦娘とともに物資も狙っているらしい。明らかに、数か月以上の長期戦を見越した動きだ。

「いざとなったら、艦娘は実力行使で反乱軍から艦体を奪い返すことはできるでしょう。問題なのは、第二駆逐隊よ」

 幾田は呟く。第二駆逐隊の存在こそが計画の要であり、目下最大の問題点だった。叢雲も知っての通り、第二駆逐隊と島風は鎮守府にいない。帝都内に潜入して、独立した任務に従事している。もし鎮守府が制圧されたら彼女たちの任務は失敗し、仮に鎮守府が持ちこたえたとしても、帝都を破竹の勢いで進撃する反乱陸軍と接触すれば、任務どころか命すら危ない。

「あきつ丸に、作戦を早めると伝えて。それと、陸軍は長期戦を考えている。帝都各地の食糧庫、武器弾薬庫が狙われることも。あと、第二駆逐隊が任務を達成した場合、政府軍とともに鎮守府に突入させる。そのために、急いで鎮守府奪還作戦を」

 あらゆる可能性を考慮し、幾田は叢雲に指示を伝える。しかし、陸軍が独断で動いてしまった今となっては、第二駆逐隊の任務が成功する可能性は限りなく低い。通信艤装を持たない彼女たちに、この距離では叢雲の念波は届かない。孤立した彼女たちは、あっという間に戦闘に巻き込まれてしまう。そうなれば、奪取した荷物の運搬など不可能だ。

「わたしが行くわ」

 叢雲が言った。幾田の瞳に迷いが浮かぶ。

「彼女たちに状況と指示を伝えなければならない。それができる艦娘は、もうわたししかいない」

 提案ではなく命令。言い出したら聞かない、いつもの叢雲の口調だった。幾田は苦笑しながら、叢雲に第二駆逐隊の救援を命じる。背を向けようとした叢雲を、ふわりと背後から抱きしめ、耳元で囁く。

「戻ってこいとは言わない。作戦の後の行動は、何も指示しない。あなたの心に従って」

 言い終わったとたん、叢雲は腕を振りほどき、その小さな両手で幾田の頬を掴み、引き寄せる。そして少女は怒りと照れが混じったように、にかっと笑った。

「当たり前でしょ。わたしは、わたしのしたいようにする。待ってて。必ず成功させるから」

 そう言って、叢雲は勢いよく司令室を飛び出していった。

 直後、幾田は無線機を手に取る。こちらが動かせる陸戦隊は、わずかに二百。残りはビル周辺の建物を制圧し、さらなるバリケードを構築している。第二駆逐隊と反乱軍が鉢合わせることがあってはならない。一八五○、幾田は新たな命令を下達した。

 

 戒厳令の敷かれた夜の帝都を、五人の少女たちが忍び歩く。街に人の影はなく、銃声だけが凍てつく大気に轟く。すでに交戦が始まっているようだ。政府軍の指揮は理性派の将校らが握っているが、高級軍人のほとんどが反乱軍の制圧下に取り残されており、指揮系統は不安定だった。政府軍は数が多いだけに臨機応変な動きが取れず、物量にまかせた乱戦に陥っている。

「こんなに早く戦闘が始まるなんて」

 民家の路地裏を抜けながら、島風が呟く。本来ならば、永田町一帯で反乱軍と政府軍が睨みあっている間に、こっそり任務を果たして安全に鎮守府まで移動する予定だった。ところが、皮肉にも陸軍の迅速かつ周到な独断専行により、戦域が帝都中に拡大してしまった。艦娘は、両軍に味方するという二枚舌外交を使っている。戦い抜くために服従を誓った艦娘が、勝手に帝都を闊歩していたら、どちらに見つかっても危険だった。さらに、今回与えられた任務は、ある場所から、あるものを運び出すという、物資運搬の役割だ。その準備中に発見されでもしたら、最悪の場合、裏切りと見なされて射殺される。

「モノがモノだからね。国家機密だっけ。いち艦娘が触れていいものじゃない」

 時雨が言った。彼女たちが盗み出そうとしているものは、いわゆる戦略兵器と呼ばれていた。戦争とは、いくつもの戦闘を重ねることで決着がつく。通常の兵器は、戦闘の勝利を手に入れるためのものだ。しかし戦略兵器は、それを使うことが直接、戦争の勝利に結びつくほどの強力な手段だ。アメリカの原子爆弾、深海棲艦の超長距離爆撃機が、それに該当する。

 やがて艦娘たちは、目黒の丘陵を拓いて作られた建物の前に立つ。

 帝国技術研究所。あらゆる軍需産業の元締めにして、新装備や兵器の実験を行い、陸海軍省の諮問を経て、実践に配備するか否かを決定する機関。巨大な工場を彷彿とさせる箱型の建物は、どこも電灯が消え、闇に包まれている。頭に叩き込んだ地図通り、金網を乗り越えて敷地内に潜入する。こちらの武装は、ひとり一丁ずつの拳銃のみ。幸いにして、戦いの気配はない。途中、警備兵と思われる死体がいくつも転がっていた。

「急ぎましょう。もう始まってるみたい」

 拳銃を構えながら、陽炎が先頭に立って走る。第二駆逐隊の面々は、ずらりと並ぶ三角屋根の格納庫を横切り、その中央にある建物の前に立つ。そこには夜行迷彩に身を包んだ男たちが入口を守っていた。

「第二駆逐隊ですね。小隊長がお待ちです」

 男のひとりが陽炎の姿を確認し、五人を格納庫の中にいざなう。高い場所についた窓から青白い月光が差しこみ、建物が守っていた国家機密を映し出す。それは鶴のように美しい翼を広げ、彼女たちの前に鎮座していた。月光の映える流線形のフォルムは、この機体が戦闘用であることを忘れさせるような繊細さと艶やかさを併せ持つ。

「これが、わたしたちが運ぶべき代物」

 陽炎が感嘆の息を吐く。

 その機体の名は試製晴嵐。資材に乏しい日本が、いつか訪れる勝利の日を夢見て練り上げた技術の結晶。艦載機を飛び越える高高度からの爆撃を可能とする、深海棲艦の「アポロン」と目的を同じとする戦略爆撃機。それも、潜水艦から発艦できるという最高の奇襲兵器だ。しかし、深海棲艦の本拠地が分からなければ使用用途は限りなくゼロに近く、うたかたの夢を掻き集めてようやく完成したのは、わずか二機。

「これは試作機です」

 音もなく、機体の影からひとりの男が現れる。

「さらに改良を加え、速度と高度を高めた改型は、分解を終えてトラックに収容済みです」

 男は言った。まだ若く、二十代後半に見える。その割に言動は落ち着いており、がっしりした肉体は、いかにも実戦現場の隊長といった雰囲気だった。

「第二駆逐隊の陽炎です。ご協力、感謝します」

「荒牧大尉から伺っております。陸軍情報部隊の、市川少尉です」

 市川は陽炎と握手を交わす。彼は米内や荒牧と同じ、この内乱について全ての情報を開示された第三勢力だった。隠密部隊三〇名を率いる小隊長として、研究所の制圧および晴嵐改の搬出準備を行っていた。

「お急ぎください。ここは反乱の中心部から距離はありますが、戦闘が始まるのは時間の問題でしょう」

 市川は言った。資源不足により存在意義を失った研究所は、反撃のときに備えて武器弾薬の保管所となっている。物資欠乏にあえぐ両軍が、ここを放置するはずがない。陽炎は、ただちにトラックに艦娘と軍人たちを分乗させようとする。鎮守府に入れさえすれば、こちらのものだ。帝都に取り残されていた艦娘が、陸軍の護衛のもと帰還したと主張すればいい。あとは鎮守府で艦娘の指揮をとっている伊勢、日向が上手くやるだろう。

 しかし彼女の目論みは、一発の銃声によって崩壊した。

 最初は弱い音だった。ぱちぱちと遠い爆竹のごとくまばらに弾けていた音が、いきなり巨大な爆発と破裂音の連鎖に膨れ上がって街に轟く。機銃と砲音は、どんどん研究所の方向に近づいてくる。

「外周警戒班を呼び戻せ! 格納庫地帯まで撤収せよ。その際、北西方向の扉は全て封鎖せよ」

 市川が素早く指示を出す。研究所の出入り口は、全部で三カ所ある。北西、北東、南正門だ。戦闘が勃発したのは北西。ならば自分たちは、もっとも距離のある南正門から脱出するしかない。

 そのとき、艦娘の意識の表面にノイズが走る。誰かが至近距離から、直接、通信を求めている。第二駆のメンバーは、その緒元がいる方向へと意識を指向する。ラジオのチューニングを合わせるように、少しずつノイズが晴れていく。

『第二駆逐隊、こちら叢雲。聞こえたら返答求む』

 すぐに陽炎が返信を送った。叢雲は、『よかった、間に合った』と安堵の思念を返してくる。音声の乱れ具合からすると、かなり肉体的に疲弊しているようだ。

『現状を伝える。当初の作戦から、大きく逸脱している。心して聞いて』

 そう言って叢雲は、作戦と現実のズレを説明する。みるみるうちに陽炎の表情は険しくなっていった。陸軍の拙速は予想通りだが、まさか鎮守府にまで奇襲をかけるとは。政府軍は永田町一帯への攻撃と、兵糧の奪い合いで手いっぱいであり、鎮守府は籠城を続けるのが関の山だった。反乱軍に囲まれた鎮守府に突入することは不可能だ。

『今、研究所の北西二キロ地点で、政府軍と海軍陸戦隊が戦ってる。戦況は膠着状態だから、今のうちに脱出して』

「しかし、脱出しろと言っても、その後はどうする? 鎮守府に入れないんじゃ作戦の意味がないじゃない」

 白露が言った。

『旧横須賀鎮守府に向かって。そこに迎えを寄こす。わたしが、あきつ丸に伝えておくから』

 叢雲が提案する。寂れた旧横須賀港ならば攻撃に晒されることはないだろう。しかし、あきつを動かすとなると、もう政府軍の動態を知ることはできなくなる。そうなれば戦況は暗中模索となり、幾田はさらに追い詰められる。だが、この他に手はなかった。叢雲が、陽炎に決心を促そうとしたとき、当のあきつ丸から緊急の情報が飛び込んできた。

 反乱陸軍の、機械化歩兵二個小隊が、南門と北東門付近まで接近している。

 いちいち驚いている暇はない。叢雲は、ただちに最新の情報を伝える。研究所は敵対勢力に囲まれた。陽炎に分かるのは、戦況は悪化の一途をたどっていることだけだった。叢雲は、新手の敵を押さえこむために政府軍を動かせないか、あきつに打診する。しかし彼女からの返答は芳しいものではなかった。

『政府軍の召集が進み、部隊規模が大きくなるにつれ、理性派の将校だけでは制御が困難になっているのであります。しかも、ほとんどの部隊が永田町一帯で睨みあいとなり、反乱軍の中枢と一色即発の状態。兵糧を奪った反乱軍の分派が戻って来た場合、さらなる混戦が予想されます。研究所に新たな兵を派遣するのは、例え可能であってもかなりの時間を要するものと考えられます』

 おそらく、反乱軍も驚いているだろう。事前に綿密な計画を練り上げた自分たちの作戦速度に、ぴったりと政府軍が追いついてくるのだから。まるで、あらかじめ計画が漏洩していたかのように。幾田にとって、万が一にも反乱軍が勝利することがあってはならない。しかし、艦娘を生かすためには、あまり早く負けてもらっても困るのだ。

 反乱軍と政府軍が拮抗し、鍔競り合っている僅かな間だけ、この国の艦娘は誰の支配下にも属さない宙釣り状態となる。その一瞬こそ、艦娘が軍の支配から解き放たれ、自由な意志をもって海洋に出る最後のチャンスなのだ。

『状況は理解したわ。自力で研究所から脱出する』

 自分を鼓舞するように、力強く陽炎は言った。

『それで、あなたはどうするの? 単独で動いていて、合流できるようであれば一緒に旧横須賀港まで行きましょう』

 陽炎は言った。叢雲の艦体は、召集を受けて東京鎮守府に停泊している。そこまで彼女を導く必要があった。

『……わたしは、まだやることがあるから。横須賀で落ちあいましょう。武運長久を』

 そう言い終わると、叢雲との通信は切れた。

 陽炎は、ただちに市川小隊長に状況を伝える。艦娘は陸戦に疎いので、専門家の意見が必要だった。

「脱出路は三つ。そのうち北西方面は戦闘が激化しているため危険です。残る南、北東のいずれかを、一点突破するのが良いでしょう」

 すぐに市川は答える。使用できるトラックは三台。うち一台には晴嵐改が積載されている。もし二手に分かれたなら、各門を押さえている敵小隊に各個撃破される可能性が高い。そこで本命のトラックを真ん中に挟みこみ、二台を壁とすることで一点突破することを決めた。そして脱出ルートは大通りに近い南門に定めた。少しでも突破の成功率を上げるには、敵を撹乱しなければならない。

 市川からの命令を待たずして、二つの門を警備していた兵から連絡が入る。数百メートルの至近距離から銃声が鳴り響く。反乱軍との交戦が始まってしまった。敵は、研究所内の勢力を、施設を守る政府軍と見なし攻撃を加えてきた。敵は、それぞれの門に装甲車両と輸送車両を有する一個小隊。数は敵が優勢だが、部隊の練度を加味すると、実力は均衡している。両者は押すことも退くこともできず、火線を交しつづける。しだいに北西の戦闘が、じりじりと敷地に近づいており、流れ飛んできた迫撃砲が建物に命中した。早急に決着をつけたいのは、どちらも同じだった。

「南門にバリケードを構築しろ。ハリボテで構わん」

 市川が指示する。艦娘たちと協力し、コンテナの部品である鉄板や、厚紙でできた箱、木机など、手当たり次第集めて重ねる。当初、陽炎には市川の行動が理解できなかった。なぜ脱出するほうの南門にバリケードを築くのか。しかし、その答えは、約半時間後に明らかとなった。南側での攻撃が和らぎ、しだいに北東側が激しさを増していく。敵は、立てこもる勢力が南にバリケードを作ったのを見て、北東方面から脱出しようとしているのではと考えたのである。そこで主力を北東に移し、一気に制圧しようとした。これこそが市川の撹乱戦術だった。これにより相対的に南側は手薄になる。北東に部隊を移すと見せかけて、南側から脱出するのだ。

 銃弾を避けながら、南側まで静かにトラックを牽引していく。ただちに兵たちを片側二台のトラックに便乗させた。艦娘には、最も安全な真ん中に乗るよう促したが、陽炎は首を横に振った。

「艦娘は夜目が効きますし、力も強いです。それに、銃器の扱いは一通り学んでいます。わたしと夕立を、攻撃隊に加えてください」

 陽炎は言った。数秒悩んだのち、市川は彼女の申し出を受け入れた。この作戦の最重要目標は晴嵐改。その安全性を高めるため、第二目標である艦娘を危険にさらすことは、合理的判断の範疇だった。

 機関銃を荷台に固定し、銃口だけを天幕から出す。右側に陽炎、左側に夕立が射撃位置についた。第二駆逐隊では、夕立と陽炎が射撃成績ではツートップだ。勇猛に戦ってくれた市川部隊から、これ以上の犠牲を出したくはない。飛び跳ねる心臓を理性で押さえこみ、身体の震えが移りそうになる照準を、しっかりと固定する。

 北東を守っていた、最後の警備兵が荷台に乗り込む。

『行くよ!』

 中央トラックの助手席に座った島風が合図を出した。

 三台のトラックが、同時に全力でエンジンをふかす。急加速する鋼鉄の塊は、わざと作っておいたバリケードの薄い部分を突き破った。南門に残っていた兵は不意をつかれ、連携を乱す。夕立と陽炎が、同時に引金を引いた。凄まじい勢いで弾丸が排出されていく。殺すことが目的ではない。とにかく敵に攻撃させないことが肝要だ。目に映るものを全て打ち抜く勢いで照準を動かす。敵の装甲車は穴だらけとなり、エンジンルームに被弾した輸送車は炎を吹き上げる。それでも敵は反撃を試みる。小銃の弾丸が乱れ飛び、トラックの天幕を引き裂く。陽炎の頬を銃弾がかすめた。隣にいた兵に命中し、血しぶきが髪を濡らす。誰が死のうと目を逸らすことはできない。細い道を抜け大通りにでるまで、ふたりは引金から指を離すことはなかった。安全圏に抜け、ただちに死傷者と荷の確認がなされる。死者二名、負傷十三名。幸いにも晴嵐の機体にダメージはなかった。陽炎はいったんトラックを止め、二台を市川小隊に譲渡する。負傷者の輸送のためだ。市川は一台を輸送用とし、もう一台で旧横須賀港までの護衛を申し出たが、陽炎は却下した。

「ありがとうございました。必ず深海棲艦を撃ち滅ぼしてきます」

「日本国民は、あなたがたの名を永遠に忘れないでしょう」

 市川は言った。互いに敬礼を交わし、小隊は帝都方面へ、駆逐隊は島風の運転のもと横須賀方面に移動する。幸いにして、艦娘なき港を軍は重視しておらず、警備兵の姿はなかった。

「こっちであります!」

 闇に包まれた旧ドックから声が聞こえる。トラックのヘッドライトを向けると、そこには陸上軍装のあきつ丸がいた。一カ所だけドックに海水が引かれており、そこにはあきつ麾下の大発動艇が一隻だけ浮かんでいた。タラップを渡り、大発にトラックを積載する。

「自分の脱出用に、一隻だけ隠しておいたのであります。しかし、これで陸の情報を伝えることができなくなりました」

 自身も大発に乗り込みながら、あきつ丸が言った。

「第二駆の方々、早く乗るであります。鎮守府では、伊勢、日向殿が脱出のための指揮を取られています。事態が動く前に、わたしの艦体まで戻りませんと」

 あきつが呼ぶ。その言葉に、第二駆の面々は戸惑いを隠せなかった。

「だって、まだ叢雲ちゃんが……」

 夕立の言葉を遮り、島風が彼女たちをタラップに追い立てる。

「叢雲は来ないよ。そう伝えられた」

 普段の言動からは想像のつかないほど、重く冷たい声で島風は言った。

「伝えられたって、いつよ?」

 陽炎が反論する。だが、体格の良い島風は有無を言わさず、メンバーを大発に押し込んだ。

「公園で指令書を受け取ったとき、秘匿回線で言われた。皆に心配かけたくないから、わたしにだけ伝えたんだ。あの人は、わたしなら傷つかないし悲しまないとでも思ってるのかね」

 寂しげな微笑を浮かべる。その顔を見た陽炎たちは何も言えなかった。島風はあきつ丸と相槌を交わし、艇を出すように求める。夜の静寂を荒立てないよう、ゆっくりとモーターを回して海面を滑るように沖合に向かう。

「それで、叢雲はなんて?」

 陽炎は尋ねる。聞かずにはいられなかった。今回の作戦は、艦娘を無事に本土から脱出させるために計画された。叢雲は幾田を連れて脱出する予定だが、それが難しい場合は叢雲のみ動くことが計画されていたはずだ。なぜ叢雲が、今になって命令に逆らったのか分からない。

「わたしは常に提督とともにある。運命を共にすることを、わたしは望んだ。そう彼女は言った」

「その意味が分からないよ。だって、幾田提督は、あくまで理性派のスパイとして、反乱軍に潜入しているんだろう? その身の安全は確約されていると、石原中将や米内閣下から説明を受けたじゃないか! だったら、叢雲の脱出を優先させるべきじゃないのかい?」

 時雨が反論する。

「そうよ。脱出作戦の成功を見届けたら、海軍陸戦隊もろとも降伏するって言ってた。もしかして、その後に叢雲と本土を出るつもり? 一隻で前線に出るなんて無茶だよ」

 白露も、納得いかない顔で詰め寄る。

 しかし、島風は沈痛な顔で唇を噛んでいた。

「そうか、きみたちは、そう伝えられていたのか」

 ようやく島風は、小さく口を開いた。もう大発は東京湾に入っており、引き返すことはできない。

「……どういう意味よ?」

 陽炎の胸に、嫌な予感がこみ上げてくる。

 情報戦の基本は、情報の秘匿と暴露のタイミングである。幾田の教えに従うなら、ここが暴露の潮時だ。しかし、できれば伝えたくなかった。このまま何も知らずに本土を出るべきだった。あのとき研究所で、叢雲と一緒に横須賀に向かうのが最善だった。無理にでも引っ張って来るべきだった。しかし、そんなことを叢雲が承知しないことも分かり切っていた。

「幾田提督は、降伏しない」

 覚悟を決めて顔をあげ、第二駆の面々に、はっきりと島風は告げた。

「彼女こそが反乱の首魁だから。政府軍もそう認識している。彼女が降伏すれば、綿密に練り上げた計画のもと、やっとのことで永田町に封じ込めた君側の奸を、生かして解放することになる。わたしたちの前世で、この国を愚かな戦争に導き、民を虐げたあげく、責任を取ることなくのうのうと戦後世界に居座った大馬鹿者どもだ。そいつらは、ここで滅ぼされなければならない。明治、大正、昭和と積み重なってきた悪しき伝統、軍部の独走、国際社会からの孤立、それら全てを是正するには、この国の土台ごとまっさらに吹き飛ばすしかない。そのためのクーデター。これを起こすため、深海棲艦の空爆すら利用し、国民の命を炉にくべて叛逆の心を煽った。ゆえに、幾田提督は降伏しない。最後のひとりが駆除されるまで、戦い続ける。新しい国家をつくるための人柱になることを自ら望まれた。それが幾田提督を裏切った者への最大の復讐となるから。国を巡る戦いに、艦娘は関係ない。艦娘に心理的負担をかけぬよう、使命を果たすことだけに集中できるよう、この戦いの真相についての情報は、わたしと叢雲、あきつ丸以外の艦娘には伏せられた」

 島風は言葉を切った。いつの間にか両の瞳から、涙が流れていることに気づいた。

「……わたしは反対だった。幾田提督は、戦争が終わった後の世界に必要となる人間だ。戦争が終われば消えてしまう艦娘なんかより、自分の命を優先するよう具申した。でも、聞き入れては貰えなかった。今まで艦娘を私怨のために利用し、赤城や加賀をはじめとする多くの艦を、自らの作戦のもとに沈めてしまったから、その償いでもある。そう提督は言った。わたしは提督の願いを受け入れた。何も知らず、何も聞かず、能天気な島風を演じ続けてきた。最後の最後で、わたしは提督を裏切ってしまった。でも、知っておいてほしかった。せめて第二駆だけには。提督のおかげで、わたしたちは再び海に戻れるのだと」

 静かに涙を流す島風。第二駆は完全に沈黙していた。やりきれぬ感情ばかりが渦巻いて、何一つ言葉が出てこない。

「……じゃあ、叢雲ちゃんは」

 呆然としながらも、ようやく夕立が口を開く。

 誰も答えずとも、全員、その続きを理解していた。幾田サヲトメは死を覚悟した。そして叢雲もまた、彼女に寄り添い歩く。

 艦娘は、深海棲艦と戦う艦である。叢雲は、自らの存在意義よりも大切な何かを、この世界に見出したのだ。

 大発は進む。暗い東京湾のなかで、一カ所だけ水面に紅蓮の光が揺れている。ついに反乱軍が鎮守府に押し寄せたのだ。鎮守府全体が業火に包まれ、闇夜と混じり合い、輪郭すら定かではない。状況確認のため、赤い背嚢から特別製の通信機を取り出すあきつ丸。これで、通信艤装を持たない艦娘や、遠い地点にいる叢雲と連絡を取っていた。ちょうどそのとき、鎮守府から通信が飛び込んできた。

『あきつ丸か? 急いで戻れ! もうここはもたない!』

 激しいノイズに混じって、日向の怒鳴り声がスピーカーから吐き出される。

 

 鎮守府は燃えていた。

 現在、日向があきつ丸と通信を試みている。現場指揮は伊勢に任せられていた。鎮守府の窓という窓、扉という扉を塞ぎ、建物全体を城壁として、艦娘と鎮守府の軍人たちは内側の港と入渠ドックの施設に籠城していた。しかし多勢に無勢であり、防壁のほとんどが突破され、ついに最終作戦として建物に火が放たれた。それでも、敵兵は蟻のごとく、あらゆる隙間から侵入を試みてくる。小さなバリケードまで人員が回らず、あちこちから突破されていた。軽巡以上の艦娘は自ら小銃をもって応戦している。さながら港と鎮守府の間では、パリ・コミューンのような原子的な銃撃戦が続いている。

「物資の搬入を優先しろ! あれがなければ、海に出ても戦えない!」

 伊勢が叫ぶ。鎮守府が襲撃を受けた時点から、ここに蓄えられた弾薬、糧食など、あらゆる戦闘物資を各艦に積載し始めていた。軍人たちを説得したのは、伊勢と日向だった。このまま敵がなだれ込めば、海に逃げるしかない。そのとき弾も食糧もなければ、北方攻略どころか政府軍に加勢することもできない。そう主張し、なんとか補給を進めることができた。まもなく運び込みは終わるが、それ以前に敵兵が艦になだれ込んできそうな勢いだ。白兵戦では圧倒的に分が悪い。今すぐにでも出港したいが、そうすると共に戦っている政府軍を乗艦させねばならない。どうするべきか。弾丸が頬をかすめ飛ぶ鉄火場で、伊勢は考えあぐねていた。

「政府軍を乗せて東京湾には出られません。必ず反乱軍への砲撃命令がくだります。それは、わたしたちの望むところではありません」

 伊勢の隣にいた、駆逐艦代表の五月雨が言った。彼女も長い髪を結いあげ、果敢に銃を扱っている。

 そのとき、鎮守府の西側にある修理ドックの外壁が吹き飛び、敵兵がバリケード内に突入してきた。そこには第三〇駆逐隊、第一一駆逐隊が停泊している。

「やむをえない。駆逐艦は総員、艦を出せ!」

 敵に乗っ取られるよりはマシだ。伊勢はすぐに指示を出す。五月雨は天龍、龍田の援護射撃のもと、自らの艦に向かって疾走する。離れていても気醸をすることができるのは幸いだ。艦に飛び乗ると、タラップが接続されたままスクリューを回した。駆逐艦に乗り込もうとした軍人たちが、つぎつぎと海に落下していく。その光景に、駆逐艦たちは目を逸らし、あるいは背を向ける。そして進むべき海だけを見つめる。

 こうなってしまっては、もう後には引けない。

 この事態に混乱した政府軍のお偉方が、艦娘に銃口を向け始める。

「総員、艦に乗り込め。ここに我らの指揮官はいない」

 伊勢は決断をくだした。政府軍を艦に乗せることはしない。彼らはここで、勇敢に艦娘を守り、戦死したことにしてもらう。

 兵器としての自覚を持つ者だけが、その命令に一切の躊躇なく動いた。軽巡・球磨は、艦を制圧しようと乗り込んできた政府軍に弾丸を叩きこみ、艦尾から海に落した。艦娘の裏切りに気づき、港湾に集結し始めた軍に対し、駆逐艦が援護射撃を浴びせる。コンクリートが火花とともに粉砕し、舞い散る埃で湾内が覆われていく。しかし、すでに数十人からの軍人が、天龍、龍田、龍驤を始めとする艦体に乗り込んでしまっていた。皮肉にも海への出撃が多かった艦娘は銃器の扱いになれず、彼らの制圧に手こずっていた。隔壁を閉鎖しただけで、どうしても、トドメを刺せない艦娘もいた。

 これが人間の世界の戦い。やり切れぬ思いのなかで、艦娘たちは、これまで『戦いの選択』を提督に任せきりだったこと、その重荷に気づく。そしてこれからは、自分たち自身が背負っていかねばならぬことも。

 

 あきつ丸は通信を開く。

『状況を説明してください』

『積めるだけ物資は積みこんだ。海から脱出させてやるという名目で、生き残った政府軍の連中を動員したんだ。現在は、不覚にも侵入を許した人間たちと交戦中だ。脱出が遅れている』

『……到着まで、あと半時間ほどかかります。可能であれば、自分の艦体のみ曳航をお願いしたいのであります。叢雲どのは、別行動が決定しました』

 あきつ丸は冷静に次の手を伝える。

『了解した。しかし、戦闘状況が切迫した場合、おまえの艦体は遺憾ながら放棄する』

『構いません。どうか皆無事で』

 通信は切れた。

 主力がうまく脱出できれば、東京湾の中央で合流すればいい。あとは小笠原諸島まで一直線だ。あきつは通信機を強く掴む。あとは時間との勝負だ。脱出成功の知らせを、一秒でも早く彼女たちに届けなければならない。燃え盛る帝都と鎮守府を見つめながら、あきつは祈った。

 

 

 永田町一帯では、深夜にかけても激しい戦いが続いていた。政府軍は、この内乱の首謀者である反乱軍よりも用意周到に動いた。反乱陸軍の先遣部隊は、ことごとく政府軍とぶつかり、物資を奪うという目的を遂げることができなかった。反乱軍は、敵に道路を利用されないよう爆薬で破壊し、その向こう側に鉄線や装甲車によるバリケードを築き、さらに戦車と迫撃砲によって応戦した。大日本帝国の中枢は、一夜にして野蛮な野戦場と化した。建物の影から突如として榴弾砲が飛び出し、反乱軍の装甲車を吹き飛ばす。出会いがしらの乱戦が突発していく。もはや陸軍と海軍の連携戦術を取ることもできない。陸軍は国会議事堂を、海軍は第一生命ビルを本陣とし、それぞれの抗戦を続けていた。今のところ両軍の勢いは拮抗している。しかし陸軍の援軍が期待できなくなった以上、海軍陸戦隊だけは、圧倒的不利に置かれている。

 第一生命ビルの指揮所にて、幾田はかつてない焦燥に駆られていた。

 あくまで、この反乱の首謀者は幾田サヲトメであり、主戦派の精神的支柱もまた彼女だった。しかし、陸軍の実質的指揮権力は、本間大佐がトップとして握っている。彼の独断により鎮守府は思わぬ危機に陥った。叢雲が無事に戻らねば、あきつ丸と通信ができず、鎮守府の艦娘たちの現状が分からない。何より危険なのは、本間大佐の思考が読めないことだ。理性派の率いる政府軍のなかにも、やむをえず理性派についた推進派の将校は多い。その中には本間大佐に同情的な者がほとんどだ。反乱を起こすほど熱心な主戦派が少ないだけで、軍や政府、財閥の大部分は自分たちの既得権益を守るために、現在の軍・財閥主導の国体と戦争の継続を望んでいるのだ。もし本間大佐が、それらの勢力と単独で和睦を結んでしまえば、この反乱は意味を失う。

 砲弾の地鳴りが、ついにビルを揺らすほど接近している。敵の攻撃が一層激しくなり、ついにビル前のバリケードまで陥落していた。

「全砲門準備!」

 幾田は声を張り上げる。こうなれば、ここを最後の砦として使用するしかない。ビルの屋上付近の窓が一斉に開き、そこから野戦砲が砲身を突き出した。道路を突撃してくる機械化部隊に、空から砲弾の雨を降らせる。さらに、第一生命ビル付近の建物も、窓という窓あら機銃、迫撃砲を繰り出す。幾田は街全体を要塞に仕立て上げていた。まだ叢雲は来ない。艦娘たちの行く末を見届けるまでは、この場所を落とすわけにはいかない。

 

 幾田の予感は的中していた。本間大佐は、その鋭い観察眼と先見の明により、この内乱の落し所を見極めていた。彼は、すでに政府軍の主戦派のもとに使者を送っていた。和平交渉のための使者だった。それを政府軍の中枢は受け入れ、互いの代表が、交渉場所に指定された首相官邸まで出向くこととなった。

 ○四○○。国会議事堂から、首相官邸に向けてバリケードを四台の車が通過する。前から三番目に、本間大佐が乗車していた。すでに赤坂方面では戦いが停止され、街はつかの間に静けさに包まれている。それでも念のため、護衛の車両と護衛兵を連れて来ていた。本当ならば、もっと戦いを長引かせて互いに疲弊するタイミングでの和平交渉が理想だったが、あまりに政府軍が上手く動いたため、行動を早めざるを得なかった。

「やはり、あの女は信用できない」

 鷲を思わせる鋭い眼光で、本間は言った。

「幾田中佐が裏切っていた、ということでしょうか?」

 隣に座る、若い情報将校が尋ねる。

「そうだ。艦娘どもが反乱軍に味方することを了承するとは思えなかった。奴等は、そこまで物分かりのいい連中ではない。試しに鎮守府を襲撃させてみたら、案の定だ」

「確信がおありだったのですか」

「いいや、証拠などなかった。しかし俺には分かるのだ。長いこと、参謀本部の伏魔殿に身を浸していると、嫌でも陰謀と敵意の匂いに敏感になる」

 本間は言った。彼は五・一五事件、二・二六事件の渦中を経験している。どちらも情勢を的確に読み、勝ち馬に乗ることで生き延びてきた。今回のクーデター、後の世が二・一七事件とでも呼ぶべき事態においても、自らの進むべき最善の道を見出している。

 ○四三○、車は首相官邸の敷地に入った。

 敷地を囲うのは、政府軍の護衛兵が、わずかに百ばかり。官邸から半径一キロと建物内は中立地帯とされている。本間は腹心の情報将校を伴い、一階の会議室に入った。

 南側の席には名目上、反乱軍側の人間が座る。本間大佐、鈴江財閥系の銀行頭取、そして東条英機総理大臣など主なメンバーが二〇名。そして北側には、政府軍側のメンバーが相対する。近衛文麿、小磯国昭、板垣征四郎など、一五名。いずれも、この国の未来を決めるに足る実力者たちだった。政府軍側には、君津少将の姿もあった。本間大佐は、誰よりも先に君津少将に一礼する。参謀本部では本間の師にあたり、伏魔殿を生き抜く術を教えた人物だった。殺害すべき標的のひとりだったとはいえ、本間にとって敬意を払うべき存在に変わりはない。

 和平会議は○五○○開始の予定だったが、すでに場の空気は弛んでいた。会議の結論は出ているも同然だった。国を想っての反乱であり、首謀者が軽い罰を受けるなら、兵たちは原隊に復帰させ、お咎めなしとなる。二千もの反乱兵を懐柔し、さらに軍主導の国体が維持できるとなれば、どちらにとっても願ったりかなったりだ。無理やり反乱軍に仕立てられた東条などは、すっかり安心した表情でくつろいでいる。

「あなたと戦うことにならず、幸いです」

 本間は君津に言った。老人は僅かに苦笑する。

「本当にそう思っているのなら、おまえは甘くなったな。というより鈍ったと言うべきか」

 好々爺然とした穏やかな声で君津は答える。口の減らないジジイだ、と本間は内心で笑う。この場にいる人間のなかで、理性派は君津ひとり。政府軍内でも主戦派が優勢なのは、この会議室のメンツを見れば一目瞭然だ。

「あなたは、なぜ陸軍の高官でありながら、自ら国の主導権を手放そうとしてなさる?」

「逆に聞くが」君津が尋ね返す。「このまま国民の意見を無視し、軍部が国政を握り続けることの意味は?」

「国が、世界が滅亡しようとしている非常事態です。この修羅場を乗り越えるには、綺麗事は言っていられない。確固たる意志を持つ軍部でなければ、戦いを勝利に導くことはできないのです」

 本間は即答する。五・一五事件によって、陸海軍大臣現役武官制が復活して以来、ほとんどの軍人が誇りと為していることだ。弱肉強食の帝国主義の世界で日本が生き残るには軍の力が不可欠だった。

「もしおまえが前世にいたなら、きっと同じことを言うだろうな」

 君津は言った。

「前世、とは艦娘のいた世界での大日本帝国の話ですか?」

「そうだ。山本大将の研究により、明らかになった世界。深海棲艦が現れなければ、我々が突き進んだ未来の話だ。深海棲艦との戦いによって、大部分の軍人たちは日清、日露の両戦勝の夢から醒め、理性的に世界を見つめ始めると考えた。しかし、陸軍、海軍合わせても、それが出来た者はごく少数。通りでアメリカやイギリスに勝てぬわけだ。批判されぬ権力は必ず腐敗する。腐敗した愚者が国政を握れば、国は傾き崩壊に至る。軍部に身を置く者としては情けない限りだが、この腐敗を自らの身を切ってでも是正しない限り、我が国に夜明けは来ない」

 理性派としての立場を明らかにする君津に対し、本間は敵意を込めた視線で睨みつける。しかし、元部下の恫喝にひるむような老人ではなかった。

「国の命運に比べれば、軍の誇りなど取るに足らない」

 きっぱりと君津は言い放つ。目の前の師が、完全に相容れぬ存在となっていることを本間は確信する。

「あなたが何を叫ぼうが、この国は変わらない。軍をないがしろにした言葉、忘れませんぞ。後の沙汰を覚悟しておくことですな」

 椅子にふんぞり返りながら本間は言った。しかし、どこか嬉しそうに君津は、やれやれと首を振る。

「わしがこの場にいる意味に、まだ気づかんとは。おまえは敵を見分ける目には長けている。しかし、味方を見る目はどうだろう。この場で、わし一人が敵たりうる人物だと思っていないか?」

 君津の目が獰猛に光った瞬間、○四五〇、突如として廊下に慌ただしい足音が響き渡る。ドアを蹴破り、陸軍軍装の兵たちが雪崩れこんできた。たちまち会場はパニックに陥る。しかし銃口を突きつけられては、誰も動けない。

「貴様ら、何のつもりだ!」

 本間が叫ぶ。銃口を政府軍の代表たちに向けている兵たちは、本間が護衛として引き連れてきた部隊だ。

「我々、反乱軍の意志表示ですよ」

 兵たちの真ん中に、情報将校が立っていた。

「降伏などありえない。徹底抗戦です。和平など望んでいるのは、ここに集うお偉方のみ。我々二千五百名の兵は、命を賭して戦うことを欲している」

 情報大尉、荒牧稔は本間に言い放つ。

 誰ひとりとして言い訳の時間を与えることなく、小銃は火を噴いた。冷静に席についたままの君津少将だけを避け、他の代表を無慈悲に殺戮していく。本間は反乱軍の代表を捨ておき、我先にと廊下に飛び出した。まさか、荒牧が理性派の手の者だとは迂闊だった。なんとかして議事堂の作戦本部に連絡しなければならない。しかし、暗い廊下には、すでに立ち塞がる者がいた。大人の背丈の半分程度の身長、長い銀髪の頭部には、動物の耳のような機械が浮かんでいる。

 人間とは思えない美貌。少女は、感情のこもらない瞳で拳銃を構えている。

「あなたは自分の役目から逸脱した。もう作戦に必要ないわ」

 少女は冷たく言い放つ。本間が腰の銃を抜こうとしたとき、彼女の弾丸は男の心臓を貫いていた。「帝国万歳」と呻き声を上げながら本間は倒れ伏す。

「終わりましたね」

 兵を下がらせながら、荒牧は言った。会議室は地獄絵図と化していた。立っている代表のは、返り血を浴びた君津少将だけだった。

「いや、まだだ」

 老人は、そう言って壁際に歩み寄る。そこには右足を撃ち抜かれて血だまりをつくり、東条英機がうずくまっていた。

「相変わらず、悪運の強い男だ」

 呆れたように君津は言った。

「頼む、助けてくれ。総理大臣として、要求には何でも従う」

 割れてひしゃげた眼鏡をずり落しながら、蚊の鳴くような声で東条は言った。

「帝国成立して以来、我が国の政治に蔓延ってきた無責任の体系。その集大成を、あんたに見ているようじゃわい。内輪で権力争いにせいを出したあげく、失敗しても誰も責任を取らない。艦娘の前世で敗戦を招いた愚かしさよ。だが、それもここまでだ。きっちり足元を掃除してから、この国は新たな歴史を歩み始める。あんたらは死ぬことでようやく、この国の礎となるのだ。せめて誇りに思って逝くがよい」

 笑顔のまま君津は、関東軍時代からの愛用のモーゼル拳銃で東条の頭蓋を撃ち抜いた。

「なんとか成功したわね」

 硝煙と血のにおいの染みた銀髪を揺らしながら、叢雲が入室する。うまくいくかは賭けだった。非常事態用に、あらかじめ荒牧大尉が考えていた布石だ。

「さて、わしは交渉が決裂したことを伝えてこよう。反乱軍に降伏の意志なし。軍部は雌雄を分かって対決するより術はなし、と。これより政府軍は再編に入り、一時攻撃を中断する。明日の○九○○までは、停戦を保証しよう」

 血みどろのまま、意気揚々と君津は去っていく。叢雲は感謝の念をこめて老人に敬礼する。彼は幾田に最後の時間をくれたのだ。これで彼女の戦争は完遂されるだろう。

「これで、あとは艦娘の皆さんの脱出を待つだけですね」

 叢雲に向かい、荒牧は言った。

「御苦労さま。ここからは、わたし一人でいく。あなたまで無駄に死ぬ必要はない」

 そう言って、叢雲は再び夜の帝都に消えて行った。これで反乱陸軍は頭を失い孤立、混乱する。そうなれば、若い青年将校たちは自ら幾田の指揮下に飛び込むだろう。

「ありがとうございました」

 小さくなっていく少女の背中に、荒牧は深く頭を下げる。ひとりの軍人とひとりの艦娘、彼女たちがいなければ、この国は何の進歩もなく深海棲艦に滅ぼされるだけの運命を辿っただろう。しかし、ここで運命は変わった。ただの滅亡ではない。滅びようとも、新たなる姿で復活する。

 彼女たちは、この国が再誕するチャンスをくれたのだ。

 

 

 

 第一生命ビルは、陥落寸前まで追い詰められていた。すでに周囲の建物は炎を噴き、陸戦隊の三割が消失。芋づる式に部隊は壊滅してしまう。幾田は自ら銃を握り、接近を試みる敵兵を狙撃した。野戦砲の轟音が、敵に占領されたバリケードを吹き飛ばす。しかし、敵戦車の砲も撃ちこまれ、瓦礫とともに飛び散った血肉が幾田の頬を濡らした。鼓膜がおかしくなったのか、戦いの音が遠くに聞こえる。床に這いつくばりながら、必死に銃を探す。しかし肉体は疲弊しきり、全身から血の気が失せていた。視界は薄れて手足は震えている。這いずるのがやっとだった。

 またしてもビルが揺れる。一部、崩壊した天井が崩れて部屋を埋めている。玉砕を覚悟した幾田は、轟音の中に懐かしい声を聞いた気がした。今際の際の幻聴かと思った。しかし、次第にハッキリ声が聞こえ、ついに自らの身体が細い腕に抱き起こされる。月光に煌めく不思議な青い銀髪が頬にかかる。

「ああ、叢雲……」

 幾田は震える右手で、最愛の娘の頬をなぞる。

「よく頑張ったわ。もうすぐ停戦になる。あと少しの辛抱よ」

「艦娘たちは……」

 粉塵でざらつく口を何とか動かし、幾田は尋ねる。

「ここに向かう途中で、あきつ丸から通信があったわ。艦娘は無事に鎮守府を脱出、小笠原諸島に向かって東京湾を航行中」

 待ちに待った希望の報告。幾田はそれを聞いたとたん、最後の力が抜けて、震えさえ止まった。叢雲は彼女の身体から濃い血の臭いを感じる。左大腿と右わき腹に銃創があり、きつく巻かれた包帯の上からどす黒い血が広く滲んでいる。

「駄目よ! まだ死んでは駄目! あんたの戦争は、まだ終わってない。きっちり幕を降ろしてからにしなさい! どこまでだって付き合ってやるから!」

 叢雲は彼女を抱き起こし、ビルの奥に避難させる。そして自ら前線に戻って機銃を持ち、闇夜の敵兵を狙い撃った。もう人間を殺すことに躊躇いはなくなっていた。

 ○六三二。少しずつ銃声が遠のき、やがて戦場は嘘のような静けさに包まれる。君津少将が停戦を取りつけたくれたのだ。その間に、叢雲は幾田の応急処置にあたった。麻酔なしで銃弾を取り出し、傷口を縫合する。幾田は悲鳴ひとつあげず、強く噛みしめた唇から血を流して耐えた。夜明け前には、議事堂前の陸軍指揮所から使者が来た。本間大佐が戦死し、全ての指揮系統を幾田のもとに移したいという申し出だった。幾田は、まだ防御力の残る第一生命ビルに陸軍を移すことを提案し、かくして反乱軍の主力が、このビル一帯に集結した。

 ○七○○。幾田は、あらかじめ用意しておいたラジオ放送の準備をした。反乱軍の声明発表用だったが、今は別の目的で使う予定だった。生命ビルの社長室に、臨時の放送設備を置く。他の将校は全て締め出し、幾田と叢雲のみ中に入ることを許された。

「頑張って。あともう少し」

 叢雲に支えられながら、幾田は席についた。あらゆる放送局のマイクが勢ぞろいし、反乱軍首魁による世紀の発表を、今か今かと待ち構えている。朦朧とする視界のなか、彼女は時を待った。

 ○八○○。

 叢雲が全てのマイクを起動させるとともに、自らの通信艤装を最大限に出力する。これならアウルムには聞こえるだろうし、少なくとも日本を監視している、いずれかの深海棲艦に届くはずだ。

「聞こえているか、帝国の民。海軍中佐、幾田サヲトメである」

 掠れた、しかし威厳のある声で幾田は言った。

「諸君らの嘆きは、我々にも聞こえていた。閉ざされたままの海、接収される食糧、鉄、燃料。全てが不足して、餓死、凍死が相次ぐこの国を、戦うことしかできない我々はどうすることもできずにいた」

 懺悔するかのような幾田の言葉。帝国中の人間が神妙な面持ちで、かつて軍神と慕った女性の独白を聞いていた。

「我々を窮乏に追い込んでいる真の敵は何か。言うまでも無く深海棲艦である。しかし敵の圧倒的な力と知略は、とうとう我々を分裂させ、仲間内で戦わせるまでに至った。わたしたちは、それでも、あえて敵の策略に乗る形で、この戦いを起こさねばならなかった」

 幾田は少しだけ天井を仰ぎ見て、息を整える。

 同時に叢雲は、通信艤装の出力を最大にする。アウルムに対して、初めて自ら呼びかける。やがて通信網に敵の意識が触れる感覚がした。これで彼女にも、幾田の声が聞こえるはずだ。

「戦いを放棄することは愚行である」

 幾田は言い放つ。深海棲艦の世界平和に、真っ向から異を唱える。

「戦いを止めるということは、自ら進化を拒絶する愚行だ。人間は、常に争い競い合うことで進化してきた。平和な世界とは、進化することを止めた愚か者の箱庭だ。民衆よ、本当に理解しているか? 深海棲艦の平和に屈することの意味を。人類が積みあげてきた知恵を捨て去り、無知蒙昧なる裸の原始人となってエデンの箱庭に自ら身を投げることの意味を。何も考えることを許されず、ただ『争いがない』だけの世界。それは地獄と、どう違う? 深海棲艦に支配された世界には、もう二度と知恵のリンゴを勧めてくれる蛇は現れない。人間は完膚無きまでに進化を奪われ、英知を奪われ、猿に等しい存在に堕落して、未来永劫、神の管理下に置かれるのだ!」

 息がつまり、幾田は激しくせき込む。血の混じった唾液がマイクに飛び散った。

「裁定者に告ぐ」

 朦朧とする意識のなか、マイクに縋りつき、血反吐を垂らしながら彼女は声を絞り出す。

「おまえたちが掲げる世界平和は、確かにすばらしいものなのだろう。戦争の悲劇を、世界から完全に切り取ることができる。しかし、それは神の理屈だ。おまえたちの世界平和は、神の理想とする世界にすぎない。我々人間には無意味であり、相応しくない。海を封鎖しようと陸に爆弾を落そうと、人間は服従しない。人間と犬の間に子どもが産まれないように、生物の根本から食い違っている、的外れな思想だ。人が生きるこの世界に、神の理屈を持ちこむな!」

 よろめく幾田を叢雲が支える。艤装が、ほんの微かな通信の揺らぎを感知する。アウルムは確かに聞いている。そして、この微弱な揺らぎは、彼女の心の波紋だ。怒りか動揺か定かではないが、あの黄金のごとき不変の精神が、間違いなく幾田の言葉に影響されている。

「日本国民に告ぐ」

 まだ倒れるわけにはいかない。肉体が力を失い崩れ落ちるなか、視線だけはまっすぐ前を見つめる。今の彼女は魂だけで喋っていた。

「神の家畜ではなく、人間として生きていきたいのならば、戦うことを止めてはならない。ただし、間違った戦いは回避しなければならない。この国は、深海棲艦がいなければ、あわや勝ち目のない戦争に挑み、国民一億総玉砕という愚の極みたる結末に突進するはずだった。ゆえに、我々は、その愚かな過ちの元凶たる、くだらない人間を処分するために、この反乱を実行した。戦争は長い目で見れば、世界に悲劇と不利益しかもたらさぬ。そのことを知ったならば、これから、この国は産まれ変わる。しかし、やはり愚者はこの世の過半数を占め、人間は愚かな過ちを繰り返すだろう。これからも戦争は起こり、世界から争いは絶えないだろう」

 それでも、と幾田は続ける。

「九十九人の愚者が道を阻もうと、たった一人、正しい道を歩める者がいれば、この国は必ず復活する。深海棲艦に蹂躙されることもなく、アメリカの乳飲み子として復興し、日本人の自我を失うこともなく、力と誇りに満ちた新たな国家へと進化する。間違いながらでも、幾千幾万の命を犠牲にしても、曲がりくねりながら、少しずつ正しい道を進んで行ける。必要な戦いを選びとった先に、人間としての、真なる平和が待っている」

 

 人間よ、正しく戦え。

 

「これが、わたしの『平和への回答』だ。わたしの願いは、たったひとつ。滅びゆく国家と世界、死に絶えゆく人間に、この願いを手向け、我が辞世の言葉とする」

 そう言い残し、すべての放送局のマイクを切った。

 幾田は机に崩れ落ちる。「お疲れ様」と呟き、叢雲はアウルムへの通信を遮断した。

 

 ○九一五。生命ビル周辺は、まだ静かだった。しかしビルを取り囲むように政府軍の大部隊が動いている気配はある。いよいよ総攻撃が始まろうとしている、嵐の前の静けさだった。幾田は軍服を脱ぎ、露わになった肌を叢雲が丁寧に拭いていく。血と体液で濡れた身体を、少しでも清めていく。

「どうせ血で汚れるのに」

 うなだれながら、幾田が呟く。

「最後だから綺麗にするんじゃないの。ほら、しゃんと顔を上げなさい」

 そう言って、ぬるま湯を含んだタオルで幾田の顔をそっと拭う。いつもと変わらない、少しきつめの声。少女は強くなった。幾田は思わず微笑んでしまう。「何よ」と叢雲がつっかかる。

「あなたと出会ったときのことを思い出していたのよ」

 幾田の言葉に、少しだけ叢雲は頬を染める。

「あれから、いろいろあったわね」

 照れ隠しだろうか、早口になる叢雲。

「ええ、本当に」

 わずか三年と少し。人間の寿命からすれば、あっという間の三年。しかし、幾田はその短い時間に、人生のほとんどを費やしてきたような気がしていた。自分の身体を優しく拭いてくれる叢雲を見ていると、まるで我が子の成長を見ているようだ。

 幾田の頬を、一筋の涙が伝う。

 成長した我が子を、道連れにしようとしている自らの運命が、たまらなく悲しく、悔しかった。

「もう、今さらね」

 怒ったような声で叢雲は苦笑する。そして、膝立ちをしながら幾田の頭をそっと胸に抱きしめる。

「同情とか、責任感とか、後悔とか、そういうので泣かれても嬉しくないんだからね。むしろ、わたしに失礼だわ」

 ちらり、と叢雲は自分の左薬指に輝く銀のリングに目を遣る。

「わたしは、あんたの対等なパートナーなの。あんたの娘じゃない。泣くなら嬉し涙にしなさいな!」

 叢雲のすがすがしい言葉で、幾田の顔に微笑みが咲いた。少しずつ肉体に力が戻り始め、幾田は再び軍服をまとい、自らの足で立ちあがる。叢雲もまた、艦娘としての正装に着替えていた。

 一○二○。

 ついに最後の攻撃が始まる。ビルの窓や屋上に配置された野戦砲も、敵戦車部隊の援護射撃によって、次々と沈黙していく。とうとう敵歩兵がバリケードを超えて、ビルの内部に侵入し始めた。海軍陸戦隊の生き残りと、反乱陸軍が立てこもり、決死の抵抗を続けていたが、圧倒的な物量差に追い詰められ、すり潰されるように全滅していった。ビルを揺るがす砲音が絶え間なく響き、最上階フロアにも敵の叫び声がこだまする。

 幾田と叢雲は、部屋の奥の壁際に立った。幾田は左手に、叢雲は右手に拳銃を持っている。武装は、これだけだ。

「潔く自決でもする?」

 いたずらっぽく幾田が尋ねる。

「まさか。最後の最期まで、わたしたちの信念を貫いてやろうじゃないの」

 叢雲はそう言って、空いている左手を幾田に差し伸べる。幾田は右手で、指輪ごと少女を包み込む。

 ドアの前で激しい銃声が響く。悲鳴とともに沈黙し、複数の足音が廊下を駆け抜けてくる。

「ねえ、提督」

 そう言って、叢雲は前を見据えたまま、ぎゅっと強く幾田の手を握り締める。

「どうしたの?」

 幾田が尋ねる。ふたりの正面のドアが、何度も蹴られて軋む。叢雲が、くるりと幾田を見上げる。

「あなたの艦であれて、わたしは幸せでした」

 最高の笑顔で、叢雲は言った。

 ドアが蹴破られ、小銃を構えた兵士たちが雪崩れこむ。反乱の首謀者の命を取るべく、獰猛な銃口が二人の女に向かう。しかし兵士たちは、ほんの一瞬、引金を引くのが遅れた。死を前にした女たちは、笑っていたからだ。もう何も思い残すことはないと言わんばかりの、この世を超越した微笑みを浮かべていた。

 ふたりの拳銃が火を噴く。二発の弾丸に撃ち抜かれ、兵士二名が崩れ落ちる。敵兵は応戦を始める。その間にも、絶え間なく兵士は部屋に押し掛けてくる。数秒で終わると思っていた。しかし、五秒、十秒、十五秒が過ぎる頃には兵士たちの顔に恐怖と畏怖が刻まれる。未だ部屋には銃弾が飛び交っている。もう何発撃ち込んだだろう。それでも二人は倒れない。逃げも隠れもせず、ただひとつところに立ち続ける。腹部に穴が開き、口から血が噴き出しても、まだ弾丸を放つ。

 永遠に思われる時間が過ぎ、ついに銃声が完全に止まった。

 

 政府軍によって制圧された第一生命ビル、その社長室は、手つかずの状態で保存されていた。状況検分に現れた君津少将は、部屋の奥の壁にもたれかかるようにして、肩を寄せ合いうずくまる女性たちを発見する。彼は無言で膝を折り、両手を合わせた。

 彼女たちは、頭を預け合って眠っているかのようだった。まるで長年連れ添った夫婦のように繋いだ手を離すことなく、艶やかな黒とまばゆい銀、互いの髪の毛を絡め、満足そうな微笑みを浮かべて、幾田サヲトメと叢雲は静かに息絶えていた。

 艦の本懐を捨ててまで、提督への愛を貫いた少女。駆逐艦「叢雲」は、艦娘史上はじめての、陸で死ぬことを選んだ艦となった。

 

 

 

 

 

 幾田の声を、最後まで拾い続けていたのは、本土の通信網と直結した、特別な通信艤装を持つあきつ丸だけだった。彼女はこらえる涙とともに、彼女たちの死を胸の内に秘匿する。彼女たちの戦死が確定したことを知っているのは、第二駆逐隊と島風のみとなった。本土を脱出した艦隊は、東京湾を抜けて小笠原諸島に辿りついていた。そこで、ある艦娘と合流予定だった。

 大発から晴嵐改のパーツを降ろし、その艦娘の艦体に搬入していく。

「陽炎さん、島風さん、お久しぶりです!」

 小麦色の肌をした艦娘が、作業中のふたりに駆け寄る。

「待機任務、お疲れさま。これで前線に出撃できるわよ」

 持ち前の精神力で笑顔をつくり、陽炎は言った。

 伊401は嬉しそうに敬礼する。フィリピンを出るとき、実は先遣部隊の後を追うように彼女が潜行していたのだ。吹雪の襲撃後、途中で部隊と別れ、小笠原諸島の外れで、およそ二カ月の間、本土からの脱出部隊を待ち侘びていた。潜水艦部隊は全滅した、というのがフィリピンの第二、第三艦隊の見解だった。しかし、こうして彼女は生き残っていた。この事実は、特別な任務を帯びた艦娘にしか知らされていない。

「わたしたちの任務は、決戦兵器とあなたを最前線まで送り届けること。敵がフィリピンに集中していることを祈りましょう」

 そう言って、陽炎は荷の積み込みに戻る。しおいは、これまで顔を合わせる機会のなかった、陸軍籍のあきつ丸に挨拶をしていた。あきつの背に隠れるように、同じく陸軍の艦娘が、おずおずと立っていた。その性能は実戦向きではなく、長らく本土周辺の輸送任務ばかりに就いていたため、彼女の存在自体を知らない艦娘も多い。しおいは久方ぶりの潜水艦仲間と会えて嬉しそうにしている。

 ふと陽炎は南の空を見つめる。もうすぐ、あの懐かしい前線に戻ることができる。諍いながらも共に戦い、絆を育んできた七駆の仲間たちと提督。何より、いつも自分を支えてくれた陽炎型の次女に、もう一度会いたかった。

 

 

 

 

 フィリピン東海岸より、およそ一五〇キロの地点に、アウルム率いる黄金艦隊は航行していた。日本本土の空爆は順調に進み、あとは帝都・東京を集中爆撃すれば、日本の統治機能は、ほぼ失われるだろう。二月二十日には、サイパン島から帝都爆撃隊が飛び立つ予定だった。

 全ては順調だ。だが、他の裁定者と異なり、アウルムだけは自己の思考が安定しなかった。二月十八日、日本近海に撒き散らされた、『平和への回答』は、取るに足らぬ妄言であると、ほとんどの艦が相手にせずに聞き流した。裁定者の通信網に乗って世界中に拡散し、提督の耳にも入っているはずだが、彼が何のアクションも起こさないということは、その程度の内容だったのだろう。しかし、アウルムだけは、僅かながら原因不明の焦燥を抱えていた。本土から艦娘部隊が脱出したという報告が哨戒艇から入っていたが、今のところは捨て置いても問題ない。二個艦隊で守られたマリアナは鉄壁を誇り、中部太平洋の泊地も、ほぼ破壊を終えている。脱出したところで行く当てもない。

 人間の行動など、全てが掌の上だ。幾田が裏切ることも想定の範囲内であり、裁定者の本作戦に何の影響もない。

 ならば、なぜ自らの論理回路に不安定を感じているのか。グラキエスの言葉を借りるなら、『胸騒ぎ』、あるいは『予感』。このような曖昧模糊とした人間的な感情に振り回される理由が分からない。強いて言えば、太平洋方面艦隊の意識が、日本とフィリピンに注がれていることくらいか。最大の問題である原子爆弾が抹消された今、残る問題は海洋を自由に動ける艦娘だけ。彼女らを沈めれば、人類に対する勝利が確定する。

 ところが、わずか数時間後、彼女は思い知ることになる。経験を積めば積むほど、至高論理は不安定になり、人間に近づいていくのだということを。予感に根拠などない。仮に、それが正しかったとしても、そんなものは確率論の話だ。しかし、そう割り切ることができないから、それは『予感』なのだ。

 中部太平洋に展開していた偵察用ピケット艦が、緊急の通信を試みてきた。驚くべきことにその緒元は、はるか遠く、アメリカ大陸を封鎖する大西洋方面艦隊の総旗艦からだった。方面艦隊を飛び越えての緊急通信など、未だかつて一度も無かったことだ。アウルムは、すぐに暗号化された内容を解読する。

 一秒経たずして、アウルムは広大な飛行甲板の上で、不意に空を仰ぎ見ていた。

「Jesus」

 記憶の底に眠っていた、グラキエスから教えられた言葉が蘇る。

 

 ダグラス・マッカーサー大将と参謀二名が、サンフランシスコ軍港に帰還。合衆国中枢に海洋封鎖の原因および解決策を提示。さらに原子爆弾の実験試料、実験結果報告書、裁定者に対する有効性も暴露。合衆国大統領ルーズベルトは、海洋封鎖を打開するべく、徹底抗戦を宣言。その際、原子爆弾の使用も示唆。また、フィリピン米軍は日本軍によって救われたことを強調し、さらに深海棲艦と孤軍奮闘しているのも日本軍であることも表明。艦娘についての言及はなし。

 マッカーサーを輸送したのは、大日本帝国海軍の潜水艦であると思われる。潜水艦撃沈を確認したという太平洋方面軍第三艦隊の誤認を追及する。現在、海域の敵潜水艦を、全力をもって追跡中。

 

 潜水艦は、あの戦いで全滅したのではなかったのか。

 原子爆弾と実験試料は、日本近海に沈んだのではなかったのか。

 この戦争の真実を知るマッカーサーは、部下とともにオーストラリアに脱出するのではなかったのか。

 潜水艦の生存という、わずか鼠の穴ひとつ。そこから見事にダムは決壊した。数分前まで勝利確実と演算していた思考が、今や作戦の存続に大きな不安が立ち込めている。

 二か月。

 この二カ月の間、裁定者は日本とフィリピンに集中していた。いや、今思えば集中させられていたのかもしれない。その間に、潜水艦が人知れず太平洋を横断し、マッカーサーと原爆資料を本国に送り届けた。ここにきて、裁定者の計画が人間に翻弄されている。原子爆弾本体は、おそらくアメリカに戻されたのだろうが、もしかすると、まだ太平洋のどこかに紛れ込んでいる可能性はある。

 幾田は、国そのものを囮にした。大日本帝国の破壊と引き換えに、輸送計画を成功させた。

 大胆不敵。人類と艦娘は、我らの管理下における戦争を逸脱しようとしている。

 アウルムが思索している最中に、今度は提督直卒の第一艦隊の旗艦、大戦艦「イグニス」から通信が入る。南方よりフィリピンに接近する最中、ピケット艦が第二艦隊と思しき艦影を捉えたが、敵はすぐに戦線を離脱。ここでも予想外なことに、フィリピンの部隊は本土ではなく、まっすぐ前線を目指していた。

 アウルムは、すぐに提督に意見具申を行う。アメリカが原子爆弾の製造に乗りだそうとしている今、空爆を止めるわけにはいかない。よって、これ以上、海上艦の建造に資源は使えず、戦力増強は見込めない。導き出される答えはひとつ。

 太平洋艦隊の全部隊をもって、敵対勢力を、一隻残らず撃滅する。その際、一部大陸封鎖を解くこともやむなし。

 この意見は、ただちに提督の裁可を得た。

『やれば、できるじゃないか』

 そう言って、僅かに微笑みながら白峰は通信を切る。その言葉は、誰に向けられたものだろうか。裁定者の思想に真っ向から戦いを挑んだ幾田か、それとも自らの足で立つことを覚えた艦娘か。あるいは、ようやく進化の兆しを見せた人類そのものか。

 アウルムには関係ない。どのみち、正しくない者は全て滅ぼすのだから。

 敵に退路はない。裁定者の心臓部を知った今、人類の運命を賭けて乾坤一擲の大勝負を挑んでくるだろう。ならば、我々は口を開けて待っているだけだ。愚かな艦娘どもが、太平洋艦隊の牙の内側に飛び込んでくるのを。

 黄金艦隊は、ただちに南東へ転舵する。

 最終決戦のときは近い。

 




次回は最終回ということで、テレビ番組で言うところの1時間スペシャルとなります。


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最 終 話 なぎさにて

人類の運命を賭けた最終決戦。
彼女たちはどこから来て、何のために生き、どこに還るのか。
たった四年と少し。戦争と共に生きた艦娘。その生涯に今、幕が降りる。


 一九四五年三月。

 艦娘に与したことで、オーストラリアは爆撃の対象とされた。ポートダーウィンに巣くった巨大飛行場から日夜爆撃機が飛び立ち、主要都市に容赦ない爆撃を加えた。山口多聞率いる第一艦隊は、なんとか既存の技術で艦娘を修理し、艦隊を立て直した。ダーウィン港に対し、戦艦「陸奥」「榛名」を筆頭に、複数の重巡が艦砲射撃を試みたが、火力不足は否めず、空襲を二、三日止めるのが関の山だった。幸いにして、海に新手の敵は現れなかったが、艦娘と飛行場のイタチごっこは続いた。世論は深海棲艦からの攻撃を恐れ、艦娘擁する日本軍に与するべきではない、という意見に傾き始めていた。それにより、艦隊が表立って港に停泊することはできなくなった。ついに最大の都市であるシドニーにまで空爆が及ぶと、山口中将は、艦隊をオーストラリア本土から遠ざけることを決断。タスマニア島にまで本拠地を移し、大陸からの密やかな補給によって、細々と生き永らえていた。その間も、明石は瀕死の身体に鞭打って、艦体の機関修理に尽力した。

 タスマニア島で不安を抱えたまま孤立していた第一艦隊に朗報が届いたのは、三月二十二日のことだった。オーストラリア西岸の警備隊から、新たなる艦娘が救援を求めてきたことが第一艦隊司令部に伝えられた。その艦娘は、トラックとマリアナで孤立していたはずの、第二艦隊と第三艦隊だった。どうやら中部太平洋では、想像もつかないほどの大波乱が起こっていたらしい。あろうことか、フィリピン米軍を収容し、オーストラリアに送り届けてきたのだ。それを聞いたとき、山口は察した。おそらく、第二、第三艦隊は艦娘の指揮する、艦娘のための部隊となったのだ、と。彼の予想通り、第二艦隊の旗艦・武蔵が直々に第一艦隊と通信を試みてきた。山口は、非常事態であることを受け、艦娘による指揮系統を承認。ただし、その幕僚として熊勇次郎少佐を始めとする、親艦娘の将校を艦に常駐させることを条件とし、武蔵はそれを受け入れた。

 三つの艦隊はタスマニア島で合流した。そこで、ようやく中部太平洋戦力の詳細な動きが明らかとなった。第二駆逐隊と島風の行方については、第一七駆の磯波から、渋谷と第七駆の面々に説明がなされた。

「そうですか。陽炎は、本土に」

 長姉との再会を待ちわびていた不知火は、少し肩を落とす。本土から前線まで、無事に戻って来られるよう祈ることしかできない。

 図らずも戦力が強化されたことで、ふたたびダーウィン港破壊のための部隊編制が行われた。武蔵、長門、扶桑、山城を中心とする強力な布陣は、完全破壊に至らずとも飛行場に大きな打撃を与え、大陸の空につかの間の安寧をもたらした。しかし、飛行場を司る姫クラスの深海棲艦は、最深部に引っ込んで姿さえ見せない。戦艦級の射撃によっても、駆逐しきれないほど飛行場は膨大に成長していた。

 飛龍艦橋の第一艦隊司令部は、飛行場の攻撃が止まっている間に、すぐ次の作戦を決めなければならなかった。なにしろ、この圧倒的に不利な戦争に、一発逆転の目を見出すことができたのだから。フィリピン米軍が暴露した情報。深海棲艦の本拠地が明らかとなった。オーストラリア政府から精密な海図を借り受け、ただちに図上演習が為された。だが、アメリカ軍の証言を信じるならば、敵の母胎を破壊するのに、かなりの威力の攻撃が必要となる。敵の戦力も不明瞭だ。おまけに、艦隊の内部に、艦娘に対する不信感が増長されていた。帝国海軍を滅ぼしてでも敵を討とうとする艦娘に流されるのではないか、と高級将校たちは懸念を抱いているのだ。第一艦隊に身を移した栗田中将や、小沢中将は、作戦続行に反対し、本土からの支援を待つべきだとした。

 意見がまとまらないなか、怒涛のごとく、新たな報告がもたらされる。

 東海岸に、新たな艦娘が出現した。本土から脱出してきた、伊401だった。彼女の出現によって、潜水艦娘が生き残っていた事実が、はじめて明らかとなった。彼女の報告によると、本土から脱出した主力は、中部太平洋の泊地に寄港することなく、直接、前線を目指しているらしい。伊401は、その先遣を務めていた。その途中で、幸運にも敵艦隊と鉢合わせることはなかった。武蔵の証言と合わせると、どうやら敵は、母胎周辺に戦力を集中し、艦娘を待ち構えているようだ。さらに、彼女たちに遅れて、ある艦娘が秘密裏にタスマニア島に浮上した。スリガオ・レイテ湾海戦で撃沈されたと思われていた、伊号潜水艦、伊401だ。彼女はただちに司令部に召集され、潜水艦部隊の行動について、山口に説明した。

「潜水艦のうち、わたしが本土に向かい、艦娘と物資の脱出を支援しました。伊58、伊19、伊8は、米フィリピン軍総司令官のマッカーサー大将および彼の参謀、新型爆弾の資料をアメリカに輸送する、太平洋横断任務についています。もし彼女たちが生き残っていたら、近いうちにオーストラリア付近に到着するでしょう。我らの提督、福井少佐は、最重要任務のために、伊168に乗艦しました。周囲との連絡を一切断ち、太平洋のどこかに身を潜めています」

 しおいは感情を抑えながら報告する。死して屍拾う者なし。潜水艦は、撃沈されれば、生きていた痕跡を何一つ残せないまま、暗い奥津城に消える運命だ。未知の敵艦隊を避けながらの太平洋横断という果てしない任務についた三隻、さらに敵のハンターキラーがうようよするなか、ふたりぼっちで深海という狂気の環境に身を浸し続ける提督とイムヤ。しおいにできるのは、ただ皆が無事でありますように、と祈ることだけだった。

 その一日後に、伊勢を旗艦とする、本土脱出部隊の主力がオーストラリアに到着した。第二、第三艦隊に続き、ここでも彼女たちは人間を排除し、艦娘自ら艦隊の指揮をとっていた。艦娘の自治を認めるか否かで、いよいよ司令部の意見が真っ二つに割れようとしていた。陸軍と海軍が分かたれたのみならず、今度は海軍も内部分裂を始めようとしている。

 海軍の空中分解を狙いすましていたかのように、深海棲艦は動いた。

 オーストラリアの北西海岸の主要都市が、何の前触れもなく艦砲射撃に晒された。それは、深海棲艦の行動ロジックを覆してしまった。現れたのは、明らかにオーストラリア周辺を封鎖していた艦隊ではなく、ニューギニアから大スンダ列島にかけて展開していた部隊だ。深海棲艦は、ついに陸地封鎖の一部を解いてまで、艦娘を根絶やしにしようとしている。オーストラリアへの砲撃は、明らかに『詰めろ』をかけている。こうなっては、もう出撃して敵の王将を討ち取る以外に道はない。砲撃は凄まじい速度で南下していき、このままではオーストラリアにとって命綱である南海岸の都市が爆撃されてしまう。

 山口は、またしても苦しい決断を迫られていた。

 さしもの山口も、軍人である以上、人類の存亡の前に、帝国の運命など取るに足らない、とは言えない。武蔵は、戦いに決着をつけたい者だけを艦娘に乗艦させることを提案した。艦娘の意向に逆らう者は、遺憾ながら放棄する。タスマニア島に放棄されれば、艦砲射撃によって挽肉にされるのは目に見えている。山口と同格の将校たちは、一部の艦娘を制圧しようと、本土に戻るという無謀な計画を打ち立てていた。

 しかし、駆逐艦・陽炎のもたらした一枚の書状が、人間たちを過酷な運命から救った。陽炎の手から、それは司令部に披露された。

「恐れ多くも、大元帥陛下直々の勅令である」

 朗々たる声で陽炎は内容を読み上げる。それは辞令書だった。宮内庁印とともに、間違いなく陛下の玉璽が押されており、本物に間違いはない。

「二月十日付をもって、山口多聞を海軍大将に任ずる。同時に、連合艦隊司令長官を命ずる」

 この宣告によって、名実ともに山口は全ての艦隊の頂点に立った。本土に戻ろうとしていた中将クラスの将官たちも、口を閉ざすより他になくなった。勅令に歯向かえば、海軍軍人としての存在の正当性を失うからだ。最高指揮官としてのお墨付きを得たことで、山口は最終決戦に臨むべく艦隊の編制を開始した。

 幾田サヲトメから、前線の提督たちへの、最後の贈り物だった。死してなお彼女の策略は、遠く離れた艦隊をも的確に制御した。

 報告を終えたことで、ようやく第一、第二、第三艦隊と、本土から脱出してきた艦隊は交流を許された。それぞれの戦場で生き残った艦娘は命あることに感謝し、散っていった仲間のために涙を流した。

 そのなかでも、ひときわ歓喜に沸いたのは駆逐隊の面々だった。マリアナからフィリピン、本土と、激しい戦いを生き抜いて太平洋をぐるりと回り、陽炎率いる第二駆逐隊は渋谷提督のもとに帰ってきた。不知火は、無言で姉の身体を抱きしめた。そして第一七駆逐隊は、同じ陽炎型である第一六駆逐隊の雪風らと再会の喜びを分かち合う。

「これで、俺らの隊は揃ったな」

 涙して笑う幼い駆逐艦たちを眺めながら、塚本は言った。眼鏡の奥の瞳が、柄にもなく少し潤んでいることは、渋谷は指摘しないでおいた。

「生き残ってくれていて、本当によかった」

 渋谷は言った。これで第七駆、第二駆、第三駆と、自分が命を預かった駆逐隊が戻ってきた。途中で脱落してしまった村雨や谷風も、轟沈することなく泊地に身を寄せているという報告も、わずかながら救いになった。

「もし戦いが終わっても、あたしらはすぐには消えないと思うからさ。そんときは、動けない仲間を迎えに行ってやってくれ」

 渋谷の隣で摩耶が言った。

「誰が俺を乗せて太平洋を渡るんだ? おまえも一緒に行くんだよ」

 きっぱりと渋谷は言った。摩耶は一瞬、驚いて目を見開くが、すぐにぎこちない笑顔に変わる。

「そっか。そうだよな。あたしは提督の艦だから」

 少し俯いて、摩耶は呟いた。

「あと、気がかりなのは彼女だな」

 塚本は、艦娘たちの輪から少し離れたところにいる長い髪の娘を見やる。駆逐艦「五月雨」だ。長らく駆逐隊の任務を離れ、本土で福井の秘書艦、そして幾田の片腕として活躍してきた彼女は、艦娘のなかに居づらいようだった。それに、提督である福井もいまだ生死不明のままだ。整った顔には、僅かに憂いが影を落としている。

 渋谷は陽炎に声をかける。陽炎は、すぐに彼の提案を受け入れた。そして、白露型の第二駆逐隊の面々とともに、五月雨に声をかける。すぐに五月雨の顔に笑顔が戻った。

「何をしたんだ?」

 不思議そうに摩耶が尋ねる。

「陽炎を、第七駆に戻した。これから二駆は白露がリーダーとなる。空いた枠に五月雨に入って貰った。同じ白露型の姉妹ならば、何かとやりやすいと思ってね」

「そうだな。島風みたいに、きっとすぐ駆逐隊にも馴染むさ」

 微笑みながら摩耶が言った。

 次の戦いが最後だ。艦娘は、誰ひとりとして、その心にわだかまりを残してはならない。司令部での作戦会議で大忙しのはずなのに、結局は艦娘たちの傍にいて、彼女たちを最優先に考える渋谷は、どこまでいっても艦娘のための提督だった。

 その三日後、五月雨の想いは報われることになる。

 島周辺の哨戒任務にあたっていた第一一駆逐隊が、微弱な友軍信号を受け取った。それは東と西、ふたつの方角から放たれていた。信号を掴んだ白雪は、急いで浮上を指示する。合計、三隻の潜水艦が海面に顔を出した。東側には、伊19と伊8、そして西側には、伊168。イクとハチは、船体に亀裂が入り、もう航行すら危うい状態だった。イムヤは、実に三カ月もの間、敵から逃れて海底を漂流し、時期を見計らって浮上してきたのだ。駆逐隊によって瀕死の潜水艦は、すぐに島の臨時鎮守府に曳航された。

 渋谷、塚本、熊は、潜水艦発見の知らせを受け、急いで港に向かった。イムヤのハッチが開き、深海と死の恐怖に耐え続けてきた男は、ふたたび自らの足で大地を踏みしめることができた。身体はやつれ果て、こけた頬にかつての美丈夫の面影はない。渋谷に支えられながらも、福井は艦娘のことばかり気遣っていた。彼のもとにイクとハチが無言で駆け寄る。福井は部下たちを痩せた腕で抱き締める。

「よく戻った」

 彼の小さな声で、前代未聞の太平洋横断をやってのけた艦娘たちの苦労が報われていく。福井は、遠慮がちに見ていたしおいも呼び寄せる。本土脱出の任務を完遂した彼女にも、同じように祝福を与える。イムヤと五月雨は彼の傍で、仲間たちの生還と、そこにいない戦友のために涙を流した。

「でも、ゴーヤが」

 しゃくりあげながらイクが言った。サンフランシスコを出港した直後、ハンターキラーの執拗な攻撃に晒され、伊58はあえない轟沈を遂げていた。彼女の最期の言葉は、「必ず生きて提督の元に戻れ」だった。

「渋谷。いますぐ山口大将にお会いしたい。イムヤとともに報告せねばならぬことがある」

 明石の救護テントのもとに向かう部下を見送ったのち、福井は言った。イムヤを連れ添って、急遽、連合艦隊長官との対談に臨む福井。彼と、彼の潜水艦部隊がもたらした成果は、山口の思考に、にわかに勝利への可能性を芽生えさせる。

「これまで隠匿されてきた全ての情報を吟味したい。作戦の要となる提督たちと、もう一度、話し合わねばなるまい」

 山口の意見により翌日、初期艦を得た提督たち三人と渋谷が、飛龍艦橋の応接室に招かれた。そこには司令部付の参謀や、飛龍の姿もなく、四人の前に座るのは山口多聞ただひとりだった。階級や立場に囚われず、常に艦娘の傍で戦い続けてきた者たちの声を聞きたいがためだった。人類そのものが生きるか死ぬかの戦いを前に、もう情報を伏せておく意味はない。渋谷以下、提督たちは持てる情報を全て開示した。やはり衝撃的だったのは、かつての海軍の天才にして英雄、白峰晴瀬少将が、深海棲艦の提督として太平洋に君臨していることだった。深海棲艦に戦術を教え、さらに自らの幕僚として空母と戦艦を独自に進化させ、人類を滅亡の淵まで追い込んだ世界戦略には、敵ながら感服するしかなかった。白峰さえいなければ、艦娘は物量差を覆し、勝利を確実にしていただろう。

「情報を伏せていたことは申し訳なく思います。しかし、わたしと戦艦レ級との関係は完全に断たれました。軍人としての誇りにかけて、人類のために戦います」

 渋谷は言った。山口は、あっさりと彼を許容する。渋谷は正しい判断をした。もし孤独に耐えきれず深海棲艦との絆を告白していれば、海軍は致命的な疑心暗鬼に陥っていただろう。自らのみが異常であるという事実に、ひとり黙々と耐えてきた渋谷は称賛に値すべきだと山口は評価した。

「問題は、敵に白峰がいることだろう。索敵機とレーダーピケット艦が奴の目だとすれば、ラロトンガ島周辺における我々の動きは、全て把握される。そうなれば、敵は常に我々の戦術を上回る手を打ってくるだろう」

 山口は言った。彼我の戦力差は不明だが、敵の母胎を守る艦隊が貧弱であるはずがない。三倍から五倍程度の物量差は見こんでおくべきだった。敵の待ち受ける罠に飛び込んで行くようなものだ。早く動かなければ、大陸封鎖を解いた大艦隊に押し潰されることになる。太平洋を跋扈していた敵艦隊とは違い、練度は低いだろうが、その物量は圧倒的だ。

「確かに、敵は圧倒的優勢です」

 袋小路に嵌りかけた皆の思考を打ち破るべく、塚本が口を開く。

「物量だけではなく、戦術能力においても、わたしでは白峰に及びません。おそらく海戦において、奴を上回る軍人はいないでしょう。まともに攻めれば、各個の戦術において、必ず奴が勝利します。しかし、奴に『勝たせない』方法ならばあります」

 かつて兵学校時代、白峰と一対一で兵棋演習をした際、塚本が編み出した戦術だった。もし戦術が、あくまで戦勝を獲得するための手段であるならば、塚本のそれは、もはや戦術とは呼ばない。あくまで相手の戦術的勝利を封ずるための手段だ。演習時間内には決着がつかず、仕合はそれっきりとなったが、さらに時間を積めば確実に敗北することは塚本も理解していた。

「要は持久戦に持ち込むわけです。白峰の戦い方は、敵の戦術を逆手に取り、早期に逆転する手法です。ならば、最初から積極的攻撃を考えなければいい。防御に徹しつつ、敵を個別に攻撃・撃破していく受動的攻撃を行うことでしか、奴の戦術を封じることはできないと考えます」

 塚本は言った。むろん、こちらが防御に徹していることを悟られないよう、行動を欺騙しなければならない。そのためには高い指揮能力、操舵技術、連携が必要となる。

「確かに、敵にどのような能力の艦がいるかも分からない現状、突撃するのはリスクが高すぎます」

 熊が同調する。まず敵の戦力を計るためにも、敵からの攻撃を誘発することが必要だ。

「そうなると、できる限りの人員を艦娘に搭乗させねばならないな。トレス海峡での戦いが、人間との共闘の有効性を証明した限りは」

 山口は言った。実は飛龍から、この戦いには艦娘だけで出撃させてくれ、と申し出を受けていた。これまでの戦いと違い、今回は敵を屠る戦いだ。人間を守る余裕はない。艦娘も決死の覚悟をしている。十死零生。守るべき人間が赴く戦いではない。

「敵の戦力を把握し、戦闘を膠着状態に持ち込んだ上で、我々が勝利できる可能性は、航空戦力に賭けるしかありません。島そのものへの攻撃が必要ですので、空母と艦載機が鍵となります。どのみち、艦娘に乗艦する軍人がいなければ、勝利の目はありません」

 福井は言った。

 提督たちは、連合艦隊長官に対し、最後の命令を待っていた。すなわち、総員乗艦のうえ出撃の命令を。ここで躊躇えば、反艦娘の軍人たちの離反を許すことになりかねない。事実、彼らはこの後の及んでも、まだ不穏な考えを巡らせている。

 しかし山口は、首を横に振った。

「意志を違える者を、戦場に入れることはできない。飛行隊と航空母艦を除き、各戦隊に指揮官一名を最低限乗艦させ、残りは任意とする。希望する者は、艦娘に対し、自ら許可を求めるように下達する。なお、希望する艦娘には、艦娘自身が自らの指揮官を選定することを許す」

 毅然として山口は言った。ついに、戦いの主役は艦娘に移った。戦列に加えてもらえるよう、人間が艦娘に依頼する。艦娘が自分の提督を選ぶ。それらを山口は解禁しようとしていた。

「我々の内輪もめなど、もう取るに足りない。彼女たちの戦いを煩わせることがなければ、離反した者が敵の砲火に焼き尽くされようと関知しない」

 逆らう者は、衝突する前に切り捨てる。派閥内では同じ民族同士争い、派閥内では人間関係を良好にすることばかりに配慮するのが、日本人の組織慣行だ。その悪しき慣行を濃縮したような日本軍が、ついぞできなかった決断を、山口はやってのけた。

 渋谷は、その夜、麾下の駆逐隊を集めた。すでに山口の命令は艦娘にも伝わっている。第二駆逐隊「白露」「時雨」「夕立」「五月雨」、第三駆逐隊「長波」「夕雲」「早霜」「清霜」、最も長く苦楽を共にしてきた、第七駆逐隊「朧」「曙」「漣」「潮」「陽炎」「不知火」「霞」、そして事実上の初期艦であり秘書艦の重巡「摩耶」。渋谷は、彼女たちの顔をひとりひとり見つめる。決意、緊張、恐怖、不安、あらゆる感情の混ざる瞳たちが、提督を見つめ返す。

 最終決戦を前にして、彼女たちに少なくとも迷いはない。

 それだけで渋谷には勝利への希望が湧いてくる。

「提督、あのさ」

 珍しく逡巡した面持ちで長波が言った。

「少将は、引きうけてくださったか?」

 言いにくそうな彼女に、渋谷は自分から問いかける。

「ああ。水雷戦隊の指揮官として、最後まで共に戦うと誓ってくれたよ」

 微笑みながら長波は言った。第三駆逐隊は、神通率いる第二水雷戦隊の一員として参戦を希望していた。二水戦の指揮官である田中頼三少将は、快く彼女たちを受け入れてくれたようだ。

「本当は、三駆の指揮官として、提督に乗艦してほしかったけど、それは贅沢すぎるって皆で話しあったんだ」

 少し照れたように長波は言った。

「提督は、提督が乗艦すべきだと判断した艦にて、指揮をお取りください。わたしたち第三駆は、提督から学んだことを無駄にはしません。水雷戦隊として、必ず我らの艦隊に勝利をもたらしてみせます」

 おっとした中にも闘志の滲む声で夕雲は言った。

「第二駆も異存ありません。例え指揮系統が違おうと、わたしたちの提督は、渋谷提督ひとりですから」

 饗導艦らしい、きりっとした顔つきで白露が続く。皆、渋谷が誰に乗艦するのが一番ふさわしいか、最初から理解していた。その艦娘は、戦うためだけではなく、心から提督を求めている。この戦いに悔いを残さないために、渋谷は彼女に乗ってしかるべきだった。

 渋谷は、一同に会した部下たちに、最後の訓示を授ける。

「ここまで、よく生き残ってくれた。きみたちひとりひとりの、人類のために戦うという決意と覚悟が、深海棲艦を打ち破るのみならず、我々人間の心も動かした。日本国の意志は変わろうとしている。アメリカをはじめとする、世界の国々の意志も変わっていくだろう。世界から完全に争いをなくすことは不可能であろう。しかし、人間は過ちを繰り返しながらでも、少しでもよい方向に自ら進むことができる生き物だ。きみたちは、人間にチャンスをくれた。深海棲艦の支配のもとでは、二度と訪れることのない、進化へのチャンスを。きみたちに救われた一人の人間として感謝したい」

 そして、と渋谷は続ける。

「きみたちの提督として、指揮官として、懺悔することもまた許してほしい。これから臨む戦いは、我々の生還を前提としていない。本来、このような作戦を、作戦とは呼ばない。しかし、深海棲艦の母胎を滅ぼせば、それで人類は救わる。人間の都合だけで、きみたちを死地に追いやる我々を、どうか許してほしい。だが、戦いの終わりに、きみたちが海に帰るというならば、そのときは我々も共にいこう。共に戦ってきた戦友として、仲間として。俺たちの命が、きみたちの慰霊となるならば本望だ」

 渋谷は言った。艦娘たちの中には、泣いている者もいた。多くの艦娘が目に涙を湛えている。自ら乗艦を希望した軍人たちは、艦娘とともに死ぬことを受け入れているのだ。それほどまでに、自分たちは愛されているのだと娘たちは知った。

「生きろとは言わない。ともに戦い、そして勝とう」

 目指すべきは勝利のみ。死んでも勝つ。渋谷の言葉に、艦娘は全力で応える。

 

 

 四月九日。

 インドネシア方面の大陸封鎖を解いた敵の大艦隊が、ついにオーストラリア南海岸にも押し寄せた。山口連合艦隊長官は、最後の大海戦に向けた部隊の編制を完結させた。

 

 

 

連合艦隊司令長官 山口多聞大将

 

 第一艦隊 司令長官直卒

  第一航空戦隊 大鳳直卒

           空母「大鳳」「翔鶴」「瑞鶴」

  第二航空戦隊 司令長官直卒

           空母「飛龍」

           軽母「千歳」

  第一一航空戦隊 藤田類太郎少将

           軽母「鳳翔」

  第一水雷戦隊 木村昌福少将

           軽巡「阿武隈」

   第二駆逐隊 大島一太郎大佐

           駆逐「白露」「時雨」「夕立」「五月雨」

   第六一駆逐隊 天野重隆大佐

           駆逐「秋月」「照月」「有明」「夕月」

  第二戦隊   西村祥治中将

           戦艦「扶桑」「山城」

  第四戦隊   鈴木義尾少将

           重巡「高雄」「愛宕」「鳥海」

  第九戦隊   岸福治少将

           重雷「大井」「木曾」

  第一六戦隊  渋谷礼輔少佐

           重巡「摩耶」

           駆逐「朧」「曙」「潮」「漣」「陽炎」「不知火」「霞」

 

 

 

 第二艦隊 武蔵直卒

  第一戦隊   熊勇次郎少佐

           戦艦「武蔵」「長門」

  第一戦隊第二分隊 伊勢直卒

           戦艦「伊勢」「日向」

   第六駆逐隊 響直卒

           駆逐「響」「暁」「電」

   第八駆逐隊 朝潮直卒

           駆逐「朝潮」「満潮」「山雲」

  第五航空戦隊 柳本柳作少将

           空母「雲龍」「天城」

  第三水雷戦隊 橋本信太郎少将

           軽巡「川内」

   第一一駆逐隊 福岡徳次郎大佐

           駆逐「白雪」「初雪」「深雪」

   第三〇駆逐隊 西野繁少佐

           駆逐「睦月」「如月」「弥生」「望月」

  第五戦隊    長井満少将

           重巡「妙高」「羽黒」

  第六戦隊    松本毅少将

           重巡「最上」「鈴谷」「熊野」

  第七戦隊    高木武雄少将

           重巡「古鷹」

           軽巡「天龍」「龍田」

 

 

 

 第三艦隊 司令長官 三川軍一中将

  第三戦隊 司令長官直卒

           戦艦「陸奥」「榛名」

  第三航空戦隊 城島高次少将

           軽母「飛鷹」「隼鷹」

  第四航空戦隊 大林末雄少将

           軽母「瑞鳳」「龍驤」

  第二水雷戦隊 田中頼三少将

           軽巡「神通」

   第三駆逐隊 川本正雄少佐

           駆逐「長波」「夕雲」「早霜」「清霜」

   第一九駆逐隊 大江賢治大佐

           駆逐「綾波」「敷波」「春風」「旗風」

  第四水雷戦隊 早川幹夫少将

           軽巡「阿賀野」

   第二○駆逐隊 山田雄二大佐

           駆逐「天霧」「早潮」「朝霜」

   第二二駆逐隊 河辺忠三郎中佐

           駆逐「皐月」「卯月」「文月」

  第八戦隊    阿部弘毅少将

           重巡「利根」「衣笠」

  第一〇戦隊  森友一少将

           軽巡「長良」「五十鈴」「由良」

  第一三戦隊  木村進少将

           軽巡「矢矧」「酒匂」

   第一〇駆逐隊 白石長義大佐

        駆逐「野分」「舞風」

  第一七戦隊  球磨直卒

           軽巡「球磨」「多摩」

   第一六駆逐隊 塚本信吾少佐

           駆逐「初風」「雪風」「天津風」「時津風」

   第一七駆逐隊 磯風直卒

           駆逐「磯風」「浜風」「浦風」「島風」

   第二一戦隊  志摩清英中将

           重巡「那智」「足柄」

 

 

 別動隊 福井靖少佐

   海中機動部隊「伊401」「伊168」「伊19」「伊8」

 

 

 

 前線にまで辿りついたものの、機関を損傷するなどして、戦闘参加が困難な艦は、後方偵察隊として、戦場の外周を警戒する任務にあたることとなった。とにかく、持てる全ての戦力を合理的に配置することに重点が置かれた。さらに、艦娘から直接指名を受けた将校は、階級に関わらず戦隊の指揮官に任じられた。また、実力があり、独立心の強い艦娘は自ら隊を率いることを主張し、山口はこれを認めた。

 三つに分かれた艦隊は、敵がどのような能力を持っていても対応できるよう、それぞれ特化された機能を担っている。

 第一艦隊は、攻撃、機動、回避に渡りバランスの取れた編制。主に空母による、遠距離からの攻撃を想定している。

 第二艦隊は、小回りがきき、しかし強固・強力な編制。敵主力の機動を封じ込める、遊撃部隊としての機能を担う。

 第三艦隊は、俊敏に機動し、かつ広範囲に素早く展開できる編制。敵陣奥深くに切りこみ、目標である島周辺を制圧することを使命とする。

 未知なる敵に対し、これが最善の構成と思われた。

 編制完結が言い渡され、艦体の整備も終わり、出撃を明日に控えた日の夜。

 渋谷は、ひとり島の海岸を歩いていた。人間の手が入っていない、剥き出しの磯部を散歩していると、かつてラバウルで、初めて担当した艦娘たちと語らった日のことを思い出す。あれから、いくつもの大きな戦いが起こり、そのたびに何とか生き延びてきた。艦娘と人間は、当初、その立場や存在の相違から摩擦を繰り返し、それでも共通の敵に向かうため手を取り合った。彼女たちは、軍だけではなく、国の、世界の色を変えていった。艦娘が命がけで守ろうとしてくれたのは、愚かなままの人間ではなく、生きるに値する賢明な人間でありたいと、この世界は少しずつ望み始めている。

 だが、自分はどうだろう。

 誰よりも艦娘と身近に接してきた渋谷礼輔は、己の精神に何の変化を生んだだろう。ある艦娘の顔が脳裏に浮かぶ。彼女は他の艦娘とは違う方向に、進化の枝葉を伸ばした。戦うことを受け入れた上で、艦娘という種が、人間と交わることで世界に根を下ろすことを欲した。一九四四年のソロン以来、渋谷は、彼女の心あてに応えることができずにいた。

 ゆえに今、思考の中心を占めていた彼女本人に声をかけられ、渋谷は驚きのあまり、完全に足を止めて固まってしまった。

「よう、提督。こんな暗がりで散歩は危ないぞ」

 月あかりの中に、見知った影が浮かんでいる。その声を聞いただけで、誰なのかすぐに分かる。摩耶は、ごく自然に渋谷の隣に並ぶ。

「すまない。心の身辺整理をしようと思ってね」

「なんだよ、死ぬ間際のジジイみたいなこと言いやがって」

 渋谷の言葉に、摩耶は苦笑する。しかし、その伏し目がちの瞳には、拭いきれない不安が揺れている。

「最終決戦だからな。どんなことがあっても戦い抜けるよう、自分の心を固めておかないと、おまえたちの指揮官ではいられないし、おまえに乗る資格もない」

 渋谷は言った。摩耶は何も言わなかった。万が一の奇襲に備え、今日は摩耶の艦上で夜を明かすつもりだったので、港まで戻ろうと彼女を促す。しばらく無言で歩いていたが、不意に摩耶が口を開いた。

「あんたは、死なせねえよ」

 これまでとは違う、ひどく冷めた、大人びた声だった。

「決戦だなんだと言われてるけど、あんたたちが死にに行くような戦いじゃないと、あたしは思ってる。艦娘を大事にしてくれた理解ある提督たちは、とくに。これからの世界には、人類共通の恐怖と直に戦った者たちの声が必要だ。深海棲艦の恐怖と、艦娘の勇姿を、後世に語り継いでくれる人間が。あんたたちが生き延びてくれたら、深海棲艦みたいな強引なやり方じゃなくても、世界を平和に導けるんじゃないかって艦娘は皆、考えている」

 摩耶は言った。艦と提督は運命共同体。勝てば生き残り、沈めば死ぬ。ならば艦娘にとって勝利とは、敵を討つことのみならず、人間を守ることでもあるのだ。

「だから、わたしは勝つ。守り抜くために勝つ。もし、勝利に貢献したいと思うのなら、最後まで死なないことだ。生きるか死ぬかの戦いで、あたしが理性を保てるのは、守るべき存在が、あたしの隣にいるからだ」

 摩耶は言った。彼女は、彼女の意志を貫き通そうとしている。ラバウルで出会った頃から現在まで、一切のブレがない。他の人間や、艦隊の運命など二の次という、ともすれば危険な思想。しかし、それは提督への愛情の裏返しだった。渋谷は気づいていた。しかし、己に染みついた軍人としての正しさが、摩耶に芽生えた愛を拒み続けていた。優先すべきは個の安全ではなく全体の勝利であり、上官と部下の間に私情をはさんではならない。渋谷は、常に正しく在ろうとしてきた。

「それにさ、あんたには、生きて戻らなくちゃならない理由があるはずだ」

 少しだけ微笑んで摩耶は言った。彼女が示唆することは、すぐに思い当たった。

「正直、悔しいよ。何度考えても、ハラワタが煮えくりかえりそうになる。人間と艦娘、どこがそんなに違うんだって。でも、戦いの終わりが見えてくると、やっぱり気づいちまんだよな。艦娘と人間では、生きる目的が、存在理由が、そもそも根本から違っていたんだなってさ。だから、なんというか、色々ふっきれた気がする。別に、あいつに対して負けを認めるわけじゃないぞ。ただ、この世界で自分が為すべきことが、やっとハッキリしたってだけ」

 穏やかな口調だった。たった三年と少しで少女の殻を破り、淑女の片鱗を見せている。この世に艦娘が在れるのは、戦いが続く間のみ。その僅かな時間で、少女たちは急速に魂を成長させていた。そして、自分自身の存在に答えを出し、納得して最終決戦に臨もうとしている。

 渋谷は何も言えなかった。胸に渦巻く感情を表現するには、今は、どのような言葉も正解ではない気がした。ならば、戦いが終わるまで胸に秘めていよう。もし摩耶と二人で生き残ることができたなら、そのとき彼女に伝えよう。

「共に勝とう」

 ただ一言、渋谷は言った。無二の戦友として、摩耶は彼の声に応えた。

 艦橋にて、摩耶は彼が寝付くまで、静かなピアノの旋律を奏で続ける。渋谷は、その曲の名を知らなかった。摩耶はそれを承知だった。提督に捧げる、密やかなる別離の曲だった。

 

 

 

 ○五○○。

 出撃の時は来た。総力を結集した連合艦隊は、第二、第三、第一艦隊の順にタスマニアの臨時鎮守府を出港する。海域と気象を知りつくした敵に、もはや小細工の意味はない。真正面から昼戦を挑むつもりだった。

 タスマン海を渡り、ニュージーランドとノーフォーク島の間を通過したが、ここにも陸地を封鎖する艦隊の姿はない。海洋封鎖が始まって以来、不気味すぎるほど海は沈黙していた。やがて西経一六〇度から、艦隊は航路を北に向ける。そこから、突如として海の表情が豹変した。太平洋の名のとおり穏やかに凪いでいた海面が、突如として高い波を湛え始める。ぎらぎらと海を輝かせる晴天に反して、にわかに風も強くなった。南回帰線を超える頃には、艦体にぶつかる波濤が甲板まで届くようになる。さらに、雨が降る気配もないのに空が急激に陰り、得体のしれない、どす黒い雲の渦に覆われる。荒波をひとつ越えるごとに、艦娘たちは胸の奥を怖気で震わせる。まるで海そのものが、癒えることのない怒りと憎悪を吼え叫んでいるかのようだ。

 ここまでは米軍の情報提供の通りだった。艦隊は、目標の孤島まで七〇キロの地点に迫る。そのとき、先頭を行く第二艦隊の第三水雷戦隊旗艦「川内」から通信が入る。

『二時と十時の方向、およそ二〇キロ地点に、レーダーピケット艦と思しき小型艦を確認。電探および対潜ソナーに敵影なし』

 これで、敵は艦隊が来たことを知ったはずだ。艦載機による攻撃を警戒し、対空火器および、空母には艦戦の用意が指示される。しかし、半時間が過ぎても敵は仕掛けてこない。ピケット艦の影だけが不気味に付きまとう。敵の勢力は、いったいどれほどの規模なのだろう。先制攻撃の必要がないほど巨大であるとしか思えなかった。敵の牙の中に、連合艦隊はまっすぐ飛び込んでいく。

 一三五○。ついに、荒れ狂う水平線の彼方に、漆黒の島影が見えた。深海棲艦の根源、ラロトンガ島。しかし艦娘と軍人たちは、目標を発見した希望ではなく、目の前の絶望に抗うため心を引き締め直す。島の前に立ちふさがるように、深海棲艦の大艦隊が布陣している。その数は目算でも三〇〇隻をゆうに超えている。敵もまた、太平洋方面における遊撃艦隊が、全て決戦の海に集結していた。彼我の戦力差は、三倍以上。そのうえ敵将は、圧倒的な創造力により全ての戦術を引っくり返してしまう白峰晴瀬。このような絶望的な状況下においても、なお山口多聞は不敵に笑う。こうなることは予測していた。ならば連合艦隊は、事前に立てた作戦を徹底的に貫き通すのみ。

 この戦い、先に意志を曲げたほうが負ける。

「戦闘配置!」

 山口の指示が全艦に伝わる。それと同時に、敵が動いた。鋼鉄の壁のような単横陣の中から、示し合せたかのように戦艦、重巡などの大火力艦が先行し、みるみるうちに陣形を整えた。この動きに山口は、改めて白峰の恐ろしさを知る。通常、指揮命令系統は、艦隊ごとの完全なる上意下達式である。海軍に限らず、軍を動かすにおいて、指揮系統の統一は基本中の基本だ。しかし、敵はその原則すら破ってきた。敵には艦隊の垣根がない。状況に合わせて、最も有効な編制を組み、即座に新たな命令系統を樹立する。あらかじめ役割が決まっている連合艦隊に対し、敵は変幻自在。白峰を頭脳とし、まるで艦隊全体が一個の生命体のように複雑な連携のもと、合理的に機能している。こうなっては、どのような策も通用しない。

 敵の編制を見るに、こちらの出鼻をくじくための突撃部隊だろう。ならば、ぶつけるべきはひとつ。

「第二艦隊、先行せよ」

 山口の命令に、第二艦隊旗艦の武蔵が応じる。互いに先行するふたつの艦隊が、反航戦にて戦いの火蓋を切ろうとしている。

「第三艦隊、第二艦隊に続け。砲雷撃開始と同時に、右舷に抜け、突撃を開始する。第一艦隊、輪形陣を維持しつつ、第二艦隊に続け!」

 連合艦隊は、よどみない動きで作戦を遂行していく。やがて、第三艦隊の先頭と、敵の先頭が距離十五キロにてすれ違う。

『砲雷撃戦、始め!』

 武蔵の命令が響く。三水戦の魚雷攻撃を筆頭に、第二艦隊の砲撃が敵に集中飽和する。しかし敵は、絶対的な物量の壁で、戦艦四隻の凶悪な砲撃を防ぎ、反撃に転じた。武蔵のもとに次々と被弾報告が舞い込む。しかし、いかなる犠牲を払おうとも、第二艦隊は止まることはできない。

 武蔵が命令を飛ばす間、参謀として彼女に乗艦した熊は、注意深く敵の動きを探っていた。おそらく、敵も最大火力を有する艦隊をぶつけてきている。彼の予想通り、バルジ型に膨らんでいた敵の艦列の中心から、それは姿を現した。

「……化物め」

 冷や汗を流しながらも、どこか楽しそうに武蔵は口の端を歪める。

 おそらく、敵は戦艦なのだろう。だが、果てして本当に戦艦と呼んでいいのか疑問が残る。それほどに敵は巨大だった。世界最強の戦艦とうたわれた大和を、はるかに凌駕している。艦橋前に二基六門、後方に一基三門搭載された主砲は、物理的限界と呼ばれた四六センチ砲を上回り、明らかに五〇センチを超えていた。この艦こそが、かつて太平洋方面軍第一艦隊の旗艦にして、もっとも若い深海棲艦である、大戦艦「イグニス」だった。武蔵の視力は、堂々と主砲塔の上に立つ敵の顕体を捉えていた。ゆったりとした黒いドレスをまとい、長門のような艶やかな黒髪を腰まで垂らしている。美しい顔をしていた。しかし、額に生えた一本の鋭いツノと、真っ赤に燃える双眸が、彼女の存在全てを凶悪に歪めている。

 その瞳は、第二艦隊の中心部をまっすぐに捉えていた。

 怪物じみた主砲が旋回し、こちらに狙いを定める。

『回避!』

 武蔵はとっさに叫んだ。海を割るような衝撃波とともに、悪魔の砲弾が空を裂いて第二艦隊に降り注ぐ。海面が薙がれ、津波のような飛沫が武蔵の艦橋を飲み込んだ。つづいて後方から悲鳴が轟く。あの冷静沈着な日向が、思わず苦痛の声を漏らしていた。艦橋の後ろに命中した砲弾は、まるで巨大な怪物に喰いつかれたかのように、彼女の艦隊の半分を半円状にごっそり抉り取っていた。それでも、まだ生き残った機関を最大動員して、日向は戦速を維持し、砲撃を続ける。

「当たり所が悪ければ、一撃で轟沈か」

「その割に、焦りがないな」

 呟く武蔵に、熊は言った。

「焦りならあるさ。でも、それ以上に嬉しいのだ。姉の大和は、戦艦として立派に務めを果たしたと渋谷提督から聞いた。今はわたしが、姉をうらやむことなく、こうして人類の命運を分かつ大海戦に参加している。こんなに光栄なことはない」

 武蔵は言った。顕現してから、ほとんどの時間を本土とトラックにて、海軍の「象徴」として過ごしてきた彼女は、ついに艦隊決戦という檜舞台に立つことができた。彼女の表情には誇りのみ輝いている。

「ならば、さらなる勝利という光栄を、きみの手で掴み取るといい」

 未だ砲撃が続く中、熊は言った。ここまで来て、不安や焦燥を抱いても仕方がないと開き直る。ならば豪放磊落な彼女にならい、せめて海の男らしく最期まで戦い抜こうと腹を括った。

 武蔵は、少し驚いたように熊を見つめたのち、微笑みながら口を開く。

「我が人生の最後に、あなたという人間に出会えてよかった」

 武蔵は言った。

 その直後、反攻戦は終わる。武蔵は作戦通りに回頭をかけ、撤退するかのように反転していく。敵艦隊はすぐに追撃をかけてきた。砲弾を浴びるリスクもいとわず、熊は艦橋から双眼鏡を覗きこみ、敵の動きを分析する。反航戦から即座に同航戦に移ろうとしている。教科書通りの隙のない動き。基本戦術をきっちり理解していることが伺える。しかし、その動きは単調だった。旗艦が指示しているとすれば、おそらく、あの化け物戦艦に白峰はいない。

「第一艦隊旗艦に報告。敵艦隊、北西方向より接近」

 熊は連合艦隊旗艦・飛龍の山口へと敵の動きを報告する。

『第一艦隊、了解。作戦を続行せよ。加えて、二〇分後に、第二航空戦隊、第五航空戦隊は、第三艦隊の援護に艦爆、艦攻、艦戦を出撃させる。また、同時に第三、第四航空戦隊の艦載機出撃を許可する』

 山口からの指示が返ってくる。第三艦隊は、その機動力を生かして、まさに敵陣奥深くに切りこもうとしていた。

 

 第三艦隊の先陣を征く二水戦を援護するように、第七戦隊麾下の、塚本信吾少佐率いる第一六、第一七駆逐隊が追随する。もっとも被弾しやすい位置に布陣しているが、駆逐隊のなかでも攻撃において、最高練度を誇る塚本隊が信頼により抜擢された結果だった。塚本は、第七戦隊の旗艦である軽巡「球磨」から、戦隊の指揮官を要望されていた。しかし、塚本はこの申し出を辞退した。彼は被撃沈のリスクが高かろうと、駆逐艦乗りとしての自らの矜持を貫いた。

「とにかく雷撃を絶やすな! こんだけうじゃうじゃいるんだ、撃てば当たる!」

 島を守る敵の本陣と乱戦状態のなか、塚本が叫ぶ。

「言われなくたって、避けるのに精いっぱいだわよ!」

 初風が叫び返した。敵は潜水艦を警戒しているのか、戦艦や重巡に混じって、ハンターキラー群も多く待ち構えていた。そのせいで、敵は思わぬ機動力を得て、軽快に第三艦隊を砲雷撃に晒してくる。秒単位で、海面に水柱が上がっている。

 このような状況でも、まだマシだと塚本は言い聞かせる。なにせ、敵は未だに航空戦力をぶつけてこない。

「なんで艦載機を使わないのかしら。この戦力差で、出し惜しみってことはないわよね」

 魚雷管を操作しながら、初風が尋ねる。

「敵は、かなり注意深くなっているようだな。警戒しているんだろう、俺たちが何か逆転手を隠し持っているんじゃないかって」

 塚本は言った。幾田の国を賭けた騙し打ちによって、あろうことか世界最強の国が、艦娘に頼らざる深海棲艦への対抗策を手にしてしまった。まさに窮鼠猫を噛む。深海棲艦は、相当なショックを受けただろう。そのせいで計算が慎重になりすぎている可能性はある。

「逆転手、ね。実在するとすれば、そんなのに頼らなければならないほど、追い詰められているのは、わたしたちの方なのに」

 初風は皮肉っぽく笑う。

 そのとき、艦隊旗艦の陸奥から、山口長官の指示が下達された。

「艦載機による攻撃が許可された。援軍も来るぞ!」

 塚本は、一六、一七駆に伝える。乱戦の最中、わずかに希望が灯る。三航戦、四航戦から次々と爆撃機、攻撃機が飛び立ち、つぎつぎと敵艦の甲板に穴を開けていく。島の周囲に布陣していた敵空母からも、迎撃用の戦闘機が飛び立つが、歴戦の二航戦と五航戦からの援軍により追い落とされていった。

『二時の方向、敵艦隊分断!』

 磯風が叫ぶ。それと同時に、旗艦・陸奥から二水戦へと転舵の指示が飛ぶ。

「よし、このまま二水戦に続け! 島の沿岸まで切りこむ!」

 塚本は駆逐隊に言った。

 第三艦隊の任務は、島周辺をできる限り制圧するとともに、陣深くの敵戦力を暴くことだ。最終決戦において、敵がどのような艦を従えているか分からない。それこそ、戦艦レ級のような、たった一隻で戦況を引っくり返す艦がいてもおかしくはない。戦場を引っ掻きまわし、敵の情報を丸裸にしなければならない。

 第二、三、四、五の航空戦隊の連合軍が、大編隊を組んで空を制圧していく。敵の陣形を突破し、ついに艦隊から先行して島に爆撃をかけようとした。見れば見るほど異常な島だ。海と空より、さらに暗い。そこだけ空間に穴が開いたかのような、純然たる漆黒で覆われている。塚本は、思わず島から目を逸らす。見る者には等しく、生理的な恐怖と嫌悪を抱かせる存在だった。

 深海棲艦の母胎まで、あと七キロ。

 そのとき、空では奇妙な事が起きていた。飛行隊を必死で迎え討っていた敵戦闘機が、急にターンして追撃を止めたのだ。これでは島上空は完全に無防備。飛行隊は、障害が消えた空の道を一直線に進んでいく。あまりに裁定者らしくない戦術行動。塚本は一瞬、この行動の意味が理解できなかった。

 しかし瞬時に、長らく深海棲艦と火砲を交えてきた提督としての勘が囁く。これは危険な兆候であると。

 そして、塚本ほど勘が鋭くない軍人たちも、その数秒後には強制的に理解させられることになる。なぜ敵が一斉に退いたのか、その意味を。

 島の沿岸まで五キロの地点。その境界を超えた瞬間、艦載機は黒い煙と鉄片と化した。後に続く機は、まるで吸い込まれるように解体され散っていく。空に墨をぶちまけたように、飛行隊の突撃ルートに黒い暗幕が漂う。見えない壁に激突していくかのように、一機たりとも境界を超えることはできなかった。

『敵の対空砲火です!』

 先頭を行く神通が言った。

 ぐるりと島を囲うように、灰色の膜が海から立ち上っている。オーロラのように揺らめくそれは、絶え間ない弾丸のカーテンだった。たまらず飛行隊は散り散りにばらけ、想像を絶する対空砲火から逃れていく。それらの火砲は、島の周囲に浮かんでいる駆逐艦ないし軽巡サイズの艦から放たれている。三キロごとに一隻配置され、一機たりとも通る隙間がない。扁平な甲板に突き出した火砲と機銃が、正確に空の機体を撃ち落としている。敵の練度は、もはや艦娘の限界を超えていた。その動きを理解した神通は、自らの身体が怖気に震えるのを感じる。敵は、まず通常の機銃掃射で艦載機の動きを誘導し、自らの火線と空の艦載機の動きが重なり、相対的に停止したところを、なんと通常の艦砲により正確に撃ち抜いていた。艦載機が編隊を組んで密集しているところには炸裂弾、単機であれば通常の徹甲弾により撃破している。

「馬鹿な。艦載機が、艦砲で落されるなど」

 塚本は呟く。対空砲火とは、いわば数撃ちゃ当たるという世界だ。一撃必殺の砲など、現在の人類の技術では実現不可能。

 その不可能を、深海棲艦はやってのけていた。

『陣形を組み直す。戦艦は左舷、重巡は右舷に展開!』

 陸奥の声が飛ぶ。第三艦隊の最重要目標が決まる。島を囲う、敵対空艦を撃滅することだ。装甲の厚い戦艦、重巡を外側に配置し、艦隊は『W』の陣形を取った。目標まで辿りつくには、島の周辺を跋扈する有象無象の敵艦を破らねばならない。第三艦隊は、一点突破を試みようとしている。

 被弾した艦は捨てゆく。これも事前に決めておいた、艦隊の教義だ。塚本隊は、二水戦と並んで左翼の先頭を行く。荒波と砲弾による飛沫、仲間から噴き出す被弾の炎を乗り越え、目標に接敵する。

『見つけた。目標の旗艦、左舷一〇時の方向!』

 島風が叫んだ。彼女の示した方角には、一隻の艦が堂々と鎮座している。艦体は重巡ほどの大きさで、対空巡洋艦の摩耶を思わせるハリネズミのごとき重厚な対空装備を纏っている。狙撃ライフルのような長い砲塔が、計八門、空を射抜くようにそびえ立つ。異質なのは、艦橋の前方で回転している巨大なアンテナだった。丸みを帯びた白い角皿のような形をしており、人類製のアンテナとは似ても似つかない。

「あれが対空艦の指揮を執っているらしいな」

 塚本は敵を見据える。艦首に立つ敵の顕体もまた、戦うべき相手を見定め、嗜虐的な笑みを浮かべていた。引き締まった身体と亡霊のような白い髪。その純白の肌と赤い瞳は、彼女が間違いなく深海棲艦の上位個体である姫クラスであることを物語る。

「そっか。きたんだ。ふふ、来たんだ」

 姫は獲物を睥睨する。防空艦隊旗艦「アストラ」。それが白峰より与えられた彼女の名前だった。

 

 

 

 島周辺を護るアストラ艦隊と、前線で交戦しているイグニス艦隊の中間にて、今や太平洋艦隊総旗艦となった空母「アウルム」率いる黄金艦隊は、戦艦、重巡を取り入れ、総合火力を持つ機動部隊として再編成を行っていた。

 アストラによる完全防空システムは、これが実戦での初使用だったが、とくに問題もなく機能していた。彼女には白峰が考案した、中央戦闘指揮所(CIC)の機能が搭載されている。ピケット艦、戦闘艦、艦載機、あらゆる主体からの情報をアストラが一括して処理し、立体の三次元迎撃マップを作製、それをもとに島の周辺に一五艦配置された防空艦群に、敵の座標、速度、移動方向、風向き、あらゆる情報を考慮したうえで、寸分の狂いもない対空砲火を指示する。通常ではありえない、艦載機を一発の砲弾のもとに撃ち落とす神業を、システムにより万人に対して可能にしているのだ。

「これで空の防衛は完全であることが確認されました。アストラ艦隊が、先行してきた敵をすり潰すのは時間の問題であり、大和型が率いる艦隊も、イグニス艦隊が応戦しています」

 艦橋にて、アウルムが報告する。特別にしつらえられた艦長席にて、太平洋方面軍総司令官、白峰晴瀬は、炎の止まぬ戦場の海を見つめていた。

「残る気がかりは、敵の旗艦隊の動きだ。正規空母を四隻、軽空母二隻。もし、あの兵器が敵の手中にあるとすれば、持っているのは旗艦隊だろう」

 白峰は言った。

 裁定者にとって唯一の懸念。それが、米フィリピン軍が守り抜いた原子爆弾の片割れだ。普通に考えれば、あの絶大な破壊兵器を、敵対するはずだった日本軍に譲渡するとは考えにくい。しかし、マッカーサーという男は仁義に篤い面も持っていると大西洋艦隊の情報部隊から報告が入っている。フィリピンで救われた際、原子爆弾を帝国海軍に託している可能性を、完全に否定することはできない。

 この微かな可能性が、アウルムには疎ましくて仕方なかった。巨大な歯車の群れにまぎれこんだ砂粒ひとつ。その程度で裁定者の勝利は揺るがない。しかし、ここ数カ月の体験が、合理と確率に基づいた自信に揺らぎをもたらしている。

「きみは今、苛立っている」

 アウルムの心境を察するように白峰は言った。

「これまでのきみは、計算結果を丸ごと受け入れてきた。勝つ可能性が高いのなら勝つ。ただそれだけ。何の感慨もない。しかし今は、ほぼ間違いなく勝つという合理的計算を出しておきながら、ほんの僅かな敗北の可能性ばかりが気になって仕方がない。それは非合理だ。だが、きみの抱える非合理を、僕は否定しない。きみは学ぼうとしているからだ。九十九%の死をくぐり、一%の勝利の抜け道を探そうとする人類の、浅ましく見苦しいまでの執念を学ぼうとしている。進化を求めている証拠だ」

 白峰は言った。やはり、この男の前では隠し事はできない。彼は裁定者と人類、両方の頂点に立てる存在だと、すでにアウルムは信じていた。

「きみは、敵が原子爆弾を保有していると思うか?」

「敵の先行部隊の行動如何によって判断したいと思っています」

 白峰の問いに、アウルムは即答する。もし原爆を保持していないのなら、艦載機による通常爆撃によって島を攻撃するしかない。それをアストラに阻まれ続けたなら、冷静な敵将ヤマグチは、無駄な犠牲を出さないため航空攻撃を諦めるはずだ。もし原爆を保持しているならば、是が非でも、それを島の上空に運ぶための活路を開かねばならない。ツカモトら水雷戦隊は、全力をもってアストラに挑むだろう。アウルムは、そう判断した。

 ちょうどそのとき、遊撃部隊を率いる大戦艦「イグニス」から連絡が入る。

「存外、苦戦しているようです。損害は出ていますが、想定の範囲内ですね。我々は予定通り、部隊を抽出したのち、敵空母群を叩きましょう」

 アウルムは言った。しかし、彼女の言葉を遮るかのように、新たな報告が入る。敵旗艦とおぼしき、空母「飛龍」を監視していたピケット艦からだった。彼女からの報告は、白峰も聞いている。

「予想外の動きだな」

 彼は言った。敵第一艦隊が、進路を突如、北西に変えたというのだ。ちょうどその先では、イグニスと武蔵の乱戦が行われている。さらに、空母「大鳳」「翔鶴」「瑞鶴」から、艦載機の発艦を確認したらしい。

「はい。島ではなく、艦隊そのものを叩こうとするとは」

 アウルムは言った。艦娘の構成からして、これが最終決戦と考えているのは明らかだ。ゆえに破壊すべきは島ただひとつであり、裁定者の艦をいくら沈めたところで無意味なことは敵も分かっているはずだ。

 山口艦隊の不可解な動き。敵の目的が読めなかった。

「急ぎ艦隊を編制。イグニス艦隊の支援に向かう」

 白峰が命令を下す。

 アウルムは、麾下の艦隊に最大戦速を命じる。向かってくるならば、叩き潰すより他にない。

 

 

 

「第一艦隊が来るまで持ちこたえる。撃ち続けろ! 奴も艦だ。撃って効かないことはない!」

 絶え間なく揺れる武蔵の艦橋にて、熊が叫んだ。

 武蔵、長門、伊勢、日向、名だたる戦艦が一斉に、敵の大戦艦に砲撃を浴びせる。しかし、どこに弾を受けようが、もうもうと黒煙を吐くばかりで、まったく沈む気配がない。その巨体は悠々と荒波を砕き、どこまでも第二艦隊を追撃する。その姿は、まさに不沈戦艦の名に相応しい。かの武蔵の力をもってしても、イグニスを完全に撃沈することは、半ば諦めかけていた。

『落ちついて回頭してください。敵の練度は、わたしたちに遠く及びませんわ』

 外縁の戦艦、重巡を渡り合っていた妙高が言った。彼女の言う通り、艦隊の機動は、圧倒的に艦娘側が勝っており、火力と物量の不足を補っていた。今や大破・轟沈数は敵のほうが多い。今も敵の旋回に対して、頭を押さえる形で、同航戦から丁字有利に持ち込んでいる。単縦陣をとった艦娘の砲、魚雷管が、敵の先頭から確実に潰していく。どうやら、敵は艦こそ強力なれど、実戦経験には乏しいらしい。その動きは、まだ基本戦術の枠から出ておらず、『戦場の勘』は体得していないようだった。

 このまま撤退しつつ、じりじりと敵を削っていこうとする第二艦隊。

 そこへ、偵察機を飛ばしていた五航戦の雲龍から通信が入る。

『三時の方向より、敵艦隊接近。空母五、戦艦六を認む。編制から見て、機動艦隊と思われる。敵旗艦と思しき空母ヲ級から、多数の戦闘機、偵察機発艦』

 この報告で、艦娘たちに冷や汗が伝う。おそらく、マリアナで大鳳たちが戦ったという、敵の最高機動戦力。それが恐ろしい速度で、こちらに向かっている。第二艦隊の空母は、雲龍と天城のみ。敵の旗艦クラス空母五隻を相手するには心もとない。

「今は愚直なまでに作戦を守るしかない」

 熊は言った。武蔵も頷く。たとえ敵の艦載機に嬲られようが、遊撃隊としての使命を果たす。

 それから二〇分後には、敵機第一波が飛来し、空は激しい乱戦となった。三水戦の駆逐艦たちが、必死の対空砲火を試みる。しかし敵の反跳爆撃は、身じろぎも許さぬ精度で艦娘の横腹に叩き込まれていく。武蔵の左舷にも、立て続けに二発が命中したが、彼女は悲鳴ひとつあげず、目を見開いて戦況を追っていた。

 いよいよ黄金艦隊の主力が到着しようとした刹那、にわかに空から敵機が駆逐されていく。

『第一艦隊の艦載機です!』

 羽黒の声が希望に燃える。荒れ狂う水平線上に、小さな艦影が次々と出現する。味方は戦場に間に合った。

 

 第一艦隊は、渋谷率いる第一六戦隊を先頭に、猪突猛進に突っ込んできた。空母を擁する大部隊が、惜しげもなく危険な鉄火場に馳せ参じたことに、アウルムは混乱を禁じ得なかった。

 戦力は裁定者に軍配があがる。しかし敵は、イグニス艦隊の未熟さを上手く利用し、撤退しながら着実に戦果をあげていく。その動きは、待ち伏せ戦術に似ていた。退却するふりをして、確実な各個撃破を狙う戦い方。気がつけば、イグニス艦隊は、その三分の一を消耗している。このまま続ければ、艦隊そのものがすり下ろされてしまいかねない。

 ここで、アウルムに、ある疑念が芽生え始める。

 奴等は、最初から原子爆弾など持っていないのではないか。アストラに突撃させたのは単なる囮であり、真の目的は、太平洋海域の裁定者を、可能なかぎり漸減することだとしたら。

 フィリピンで、クマとマッカーサーが何らかの密約を交わした可能性は高い。もしその内容が、艦娘の亡きあと、原子爆弾とアメリカの力をもって裁定者を殲滅することだとしたら。

 裁定者の戦力は、これ以上の増強を望めない。世界同時爆撃と、いつ原子爆弾を製造するかも分からないアメリカを延々空爆しなければならない。そのため資源が不足し、太平洋海域では、ついに陸地封鎖を一部解除するまでに至った。このままでは、人類の艦隊が海に出ることを許してしまうだろう。

 もし原子爆弾の技術が世界に流出し、人類が相討ち覚悟で使用してきたら。

 裁定者の世界戦略は、完全に崩れることになる。その場合は、人類も核汚染の煽りをうけて滅びるだろうが、そのような結末を裁定者は望んでいない。人類に必要なのは、あくまで正しい思想による支配なのだ。

 しかし、白峰の思考は、一切の動揺を見せない。彼は出現した第一艦隊、その先頭をじっと凝視している。

「黄金艦隊に通達。砲雷撃戦用意。奴が来るぞ」

 提督は言った。アウルムは、彼の視線の先を追う。北西に向かう第一艦隊の主力から逸れるように、一隻の重巡と二隻の軽巡、そして七隻の駆逐艦が、脇目もふらず黄金艦隊の中心部に切り込んでくる。

「決着をつけようか、渋谷」

 動揺するアウルムをよそに、楽しそうな声音で白峰は言った。

 

 

 

『目標、敵機動部隊! 魚雷斉射!』

 重雷装巡洋艦の木曾が言った。僚艦の大井とともに、敵の横腹に対して放射状に二〇、三〇発の魚雷を撃ちこみ、続いて次弾を装填する。しかし、黄金艦隊の動きも素早い。単縦陣から艦隊を傾けて梯形陣、その場で旋回して単横陣をとり、きれいに雷跡をいなしていく。その直後、敵空母から夥しい数の爆撃機が飛翔する。それらは艦娘に近づくと一気に高度を下げ、海鳥のように海面すれすれを駆け抜ける。第九戦隊と第一六戦隊にめがけ、反跳爆撃をかけようとしている。

『撃ち落とせ!』

 摩耶が叫ぶ。その声に第七駆逐隊が続く。対空火器が、艦の水平面に対し、深い俯角をとった。タスマニア島に滞在している間、工作艦「明石」は瀕死の身体に鞭打って、艦隊の対空火器に新たな改装を施していた。通常、空の敵を狙うための火器を、艦よりも低い位置を飛ぶ敵にも対応できるよう、火砲の稼働域を拡大したのだ。密集した渋谷艦隊から放たれる対空砲火の練度と威力は、アストラにも引けを取らぬほどだった。しかし、それでも物量が違う。火線をくぐり抜けた艦載機は、つぎつぎと爆弾を海面に放つ。それらは水切りの石のように海面を跳ね、艦娘の横腹に吸い込まれていく。その命中率は脅威の五割超えとなった。凄まじい衝撃とともに艦体が震える。摩耶は艦尾に被弾し、曙と漣は、まさに機関部のど真ん中に爆撃を受けた。

『こんなものか、深海棲艦!』

 曙が勇ましく吼える。反跳爆撃を警戒して、側部装甲を強化していた。粘り強い艦娘の特殊鋼を支えるように、その内側に人類製の鋼材をトラス(三角形を重ねた構造体)に組みこんだのだ。艦を動かすために大量の人間を乗せるためのスペースが必要ない艦娘だからこそ可能な改造だ。効果はてきめんだった。爆撃のダメージは大きく、装甲は歪にひしゃげたが、穴が開くことは防いでくれた。機関を圧迫される鈍痛を振り払うように、被弾した艦は最大戦速を維持する。

『今度はこちらの番よ!』

 陽炎が第七駆逐隊に指示する。狙うべきは、ただ一隻。有象無象の敵艦を振り払い、艦砲射撃にて、敵の旗艦空母を襲う。さらに、飛龍から支援の爆撃機が駆けつけた。黄金艦隊の頭上に水平爆撃を試みる。しかし、やはり白峰の相棒と言うべき艦は防御も堅い。飛行甲板に命中するが、爆炎をくぐり抜けた彼女は、ほぼ無傷だった。おそらく大鳳と同じか、それ以上の強度の装甲甲板を持っている。

『だったら、どてっぱらに砲弾ぶちこんでやるよ』

 摩耶が主砲にて、アウルムの側部を狙う。しかし、敵戦艦と重巡が盾になり、空母群を隠してしまう。

 まさに一進一退の攻防が続く。

 山口多聞は、黄金艦隊中心部での戦いを観察していた。反跳爆撃対策はうまくいっている。さすがに艦隊の中でも最高練度を誇る艦だけあって、早くも敵旗艦に肉薄していた。しかし、いかに練度が高く技術に優れようと、物量差を前にしては、いずれ逆転されてしまう。前世で大日本帝国が敗北したように。第一艦隊としても、第二艦隊と連携して撤退戦を繰り返しながら、ようやくイグニス艦隊とわたりあっている状態だ。そこに黄金艦隊まで加わって来たのだから、戦況は苦しい。

 しかし、この機を逃すことはできない。山口は決意する。

『ちくしょう、敵が分厚すぎる』

 摩耶がうめく。卵の黄身を守るかのようにアウルムを取り巻く軍艦は、文字通り壁となって渋谷艦隊を阻む。こうしている間にも、敵艦載機が絶え間なく飛来し、砲撃に晒される。奴等を突破するには、火力が足りない。せめて、敵を引きつける戦力が、あと一個戦隊あれば。

 そのとき、摩耶の通信網に新たな声が飛び込んできた。

『摩耶、聞こえる?』

 一瞬、摩耶は、その声の主が分からなかった。久しく聞いていなかった、懐かしい声。

『もしかして、姉さん?』

『そうよ。あなたがラバウルに転属になって以来ね』

 高雄型重巡の長姉、高雄は嬉しそうに言った。

『摩耶ちゃん、お久しぶり! 元気してた?』

『今参りますよ、姉さま』

 今度は愛宕と鳥海が通信に割り込んでくる。戦場だというのに明るく元気な姉妹の声に、摩耶は顔がほころぶのを感じた。彼女たちが来たということは、第四戦隊が主力を離れて支援に駆けつけてくれるということだ。厳しい戦況のなか、彼女たちを派遣してくれた山口長官に渋谷は感謝する。

『渋谷提督』

 高雄が、艦橋の渋谷に直接、語りかける。

『妹によくしてくださって、ありがとうございました』

 その声音から、感謝の念が滲み出ていた。

 高雄の脳裏には、パラオにいた頃の摩耶の姿があった。艦娘を兵器と見なす上官と、自らを人間と認識する摩耶は対立し、ついに摩耶は上官に暴行を加えた。通常ならば軍法会議ものだが、深海棲艦と戦える唯一の戦力たる艦娘を軍から追放するわけにもいかず、摩耶は最前線のラバウルに転属となった。事実上の左遷である。艦体を差し押さえられ、独り寂しく泊地を去る摩耶。その瞳には感情がなく、この世界全てを諦めたような、暗い絶望が満ちていた。姉妹たちは何もできず、ただ背中を見送った。しかし、ラバウルで摩耶は変わった。艦体を取り戻し、戦場では華々しい戦果をあげ、立派に駆逐艦たちを率いた。渋谷礼輔の名とともに、摩耶の活躍は中部太平洋の姉妹たちまで届いていた。

 そして今、圧倒的な敵を目の前にしてなお、自分らしく勇猛に戦う摩耶を見て、高雄は確信したのだ。摩耶の提督が彼で良かったと。

『御恩に報いるため、敵艦との戦闘、我々が請け負います! 提督は、敵旗艦を!』

 そう叫び、姉妹は一糸乱れぬ砲撃を敵艦に浴びせかかる。さらに波の流れを読んでいるかのように、しなやかな機動で敵の頭を塞ぐ。敵の壁は乱れ、隙間からアウルムの姿が見えた。

『この機を逃すな! 突撃!』

 摩耶の裂帛とともに、第七駆逐隊と重雷の二隻が、壁を打ち破る。そして、丁字不利にも関わらず、まっすぐ敵単縦陣の真ん中に突っ込み、渾身の砲撃と雷撃を浴びせる。これには、さしものアウルムも回避行動を取るしかなかった。海中では魚雷、船腹には砲弾、飛行甲板には爆撃。明らかに旗艦だけが集中攻撃を受けている。

 砲弾の直撃を受け、艦が大きく揺れた。被弾深度二。もう少しで格納庫まで破壊されるところだった。ここまでの痛手を受けたのは、一九四二年のウェーク島で、初めて白峰と戦ったとき以来だった。

「イグニス艦隊が押されている」

 白峰が言った。攻めているのはイグニスであるはずなのに、敵艦隊の巧みな機動によって、少しずつ戦力を削り落されている。しかも、第一艦隊が合流したことで、消耗のペースが早まっている。さらに、第三艦隊も同じ戦術をとり、アストラの対空部隊を守ろうとする艦隊を、じりじりと沈めていた。

 アウルムの計算は、恐ろしい結果を弾きだす。このまま戦闘を継続した場合、勝利は確実である。艦娘は残らず殲滅できる。しかし、裁定者艦隊は、その四割から五割を喪失する。これは部隊壊滅も同じだ。

 アウルムの疑念が、ますます高まる。本当に敵は原子爆弾を持っているのか。その疑念に拍車をかけるのが、渋谷艦隊の自滅覚悟の突撃だ。明らかにアウルムのみを撃沈しようと動いている。

 まさか、と彼女は思う。奴等の目的が、裁定者をできる限り漸減するのみならず、我らの提督を殺戮することだとしたら。白峰の存在は、いかなる戦力とも代替がきかない。彼を失うことは、裁定者の脳髄を失うも同然だった。もし山口が、この戦闘において、イグニスよりも白峰を葬ることを優先したとすれば、身を切るような支援を指し向けたことも納得できる。

 アウルムは、ただちに自らの考えを伝える。

「確かに、そう考えれば敵の行動に辻褄が合う。しかし、やはり敵が爆弾を持っている可能性は、完全には否定できない」

 そう言って、白峰は脳髄の通信機能を開く。

「一%でも可能性があるのならば、注意するに越したことはない」

 白峰は、ピケット艦に呼びかける。島を中心として、半径約五〇キロ圏内に配置した、全てのピケット艦に、少しずつ探索範囲を中心に向かって狭めていくよう指示を飛ばした。もう艦娘のほとんどが、戦場に集合していると思われる。ならば、外縁に置いていたピケット艦を内側へと集めていくことで、より精度の高い索敵を実施するつもりだった。渋谷艦隊の執拗な攻撃に耐えること三〇分。

「ほう。存外、早く見つかったな」

 渋谷は言った。ピケット艦が送ってきた海域データをアウルムに転送する。

「その方向に索敵機を飛ばせ」

 渋谷は言った。アウルムは損傷を受けていない僚艦の空母に、索敵機発艦を命じる。索敵機に搭載されたセンサが、アウルムの目となり戦場の情報を伝えてくる。やがて白峰が示した場所に、彼女は発見した。

 主戦場から南東に二〇キロほど離れた場所に、二隻の軽空母と、四隻の駆逐艦が取り残されたように浮かんでいる。軽母は、千歳と鳳翔と思われた。駆逐艦は、対空能力の高い秋月型だろう。千歳の飛行甲板には、いつでも発艦できるよう、艦上戦闘機が待機している。しかし、鳳翔の飛行甲板には艦載機がひとつも見当たらない。

「ビンゴだ」

 白峰は言った。戦闘に加わらず、安全な場所で待機している軽空母たち。万が一、潜水艦や艦載機に攻められたときのため、対空、対潜能力の高い駆逐隊と、航空戦力を持たせている。一隻でも味方が欲しい最終決戦において、わざわざ戦力を安全圏で遊ばせている理由はただひとつ。

 絶対に失いたくない何かを艦内に擁しているからだ。

 そして、飛行甲板を完全にフリーにしている鳳翔こそ、その何かを隠し持っている艦だ。大型の爆弾を抱えた機は、発艦までに十分な助走距離が必要となる。いつでも、その機体を出せるよう、飛行甲板を空けているのだろう。

「艦爆を見つくろい、艦戦に護衛させて、軽空母群に攻撃をかけろ」

 白峰は新たな命令をくだす。アウルムは忠実に彼の言葉を実行に移した。予想通り、千歳から艦戦が飛び立ち、つぎつぎと裁定者の機体を落していく。これでは上空に近づくこともできない。驚くべき練度だ。その中に、アウルムは見つけた。これまで、数多の戦場にて、こちらの機体を撃ち落としてきた敵機。十対一でも裁定者は敵わない。その存在は、艦隊をまたいで知れ渡っていた。

 尾翼には、シンボルとでも言うべき赤い稲妻が塗装されている。

「稲妻が現れました。彼女が率いる飛行隊は、前線部隊のなかでも最高練度を誇っています。彼女が現れたということは、あの軽空母こそ敵の最重要個体であると判断できます」

 アウルムは言った。

 軽母「鳳翔」に、敵の最終兵器たる原子爆弾が搭載されている可能性は極めて高い。

「ただ、赤い稲妻の部隊を相手にするとなると、主戦場が手薄になります」

「構わない。鳳翔が発見された今、敵も形振り構ってはいられなくなる。奴等の底力を甘くみてはいけない。潰せる時に潰す」

 白峰は言った。アウルムの頭脳は、彼の判断が正しいと結論をくだしていた。彼が間違ったことなどない。しかし、なぜか今回だけは、その判断に異を唱える自分が、ほんの一部だけ存在する。

「よろしいのですか。あなたの身を危険に晒すことになります」

 困惑しながらアウルムは尋ねる。もちろん白峰の答えは是だった。

「すでに世界戦略は完成している。たとえ僕が滅びようと、裁定者の目的は達成できる」

 極めて合理的な判断。

 アウルムは、駄々をこねるように抗う己の一部を黙殺し、命令に従う。

 胸が痛い。顕体にダメージはないはずなのに。産まれて初めての感覚は、合理と正義という彼女の基盤を揺るがした。

 

 

 

 第一一航空戦隊の鳳翔から、敵偵察機に発見されたとの知らせが飛龍艦橋の山口に伝えられた。ついに気づかれたか、と山口は思う。第一一航戦を、どの海域に配置するかは、四人の提督と散々議論を重ねた。白峰の思考や戦術に詳しい提督は、現在の配置が最良であると結論づけた。主力から離れすぎず、かといって容易に接敵されることもなく、きちんとラロトンガ島を爆撃範囲に入れることができるという三条件を満たす、ぎりぎりの距離だ。それでも白峰ならば、いずれ発見するというのが四提督の総意だった。敵に見つかったという報告も遅いくらいだと山口は感じていた。

『第三艦隊に通達。敵防空艦隊に攻撃を集中。総力をもって、火急的速やかにこれを撃滅せよ』

 山口は新たな布石を打つ。この戦場は、今や巨大なゲームボードと化していた。艦娘と深海棲艦、互いに最適手を打ち続けての一進一退。絶妙なバランスを保つチェスゲームだ。もし一度でも悪手を打てば、あっという間に戦況を引っくり返り、敗北に向かって真っ逆さまとなる。

 恐怖を押し殺し、指揮官として自信に溢れた声で、続けざまに命令を放つ。

『第一艦隊、敵空母群の撃滅を最優先目標とせよ。第二艦隊、敵戦艦群の火砲より第一艦隊を防護し、かつ敵を不動の意志をもって撃滅せよ』

 これより艦隊は決死の大攻勢に移る。自らの判断が正しいことを信じるしかない。

 

 連合艦隊長官より下された使命を、旗艦の陸奥が第三艦隊全艦へと通達する。

『そんなこと言われても、目標に近づけもしないわよ!』

 苛立ちと恐れが混じったような悲鳴をあげる初風。事実、アストラ艦隊の周囲には、平均して戦艦一、重巡一、軽巡二、駆逐四から成る艦隊が、七個艦隊も縦横無尽に機動している。いかに高速編制の第三艦隊といえども、その敵遊撃隊を前にしては撃つところがない。アストラ艦隊は平然と空の警戒を続けている。

『このままでは埒があかん。態勢を立て直し、同航戦からの正面突破を試みるべきだ!』

 第二一戦隊の那智が提案する。

『しかし、敵も高速艦隊です。我々の最大戦速度では、敵を追い越せずに阻まれて終わりです』

 榛名が反論する。まるで第三艦隊の使命を読んでいたかのように、敵は高速艦を主力にしていた。機動力という優位性を失った艦隊は、目標まであと一歩というところで何度も押し返されてしまう。その間にも軽巡、駆逐艦が大破、轟沈し、確実に戦力を削がれている。

 八方ふさがりの状況に、ひとりの提督が策を投じる。

「駆逐隊だけで突撃しましょう」

 塚本少佐の言葉は、絶望的な戦況に一筋の光明を与える。まず従来通りの単縦陣をとり、同航戦により一気に攻めかけるように見せる。だが、その裏には突撃用の駆逐隊が控えており、砲雷撃戦を行っている味方と敵の頭を乗り越えて島沿岸に突入するという案だ。確かに駆逐隊の速度ならば可能だ。しかし、それは禁忌の策だった。装甲の弱い駆逐隊が、重巡や戦艦の援護もなしに戦うことは自殺行為だ。反撃を受ければ助かる見込みはない。よくて相討ち、下手すれば全滅。それでも現状、これ以外に敵の包囲網を破る方法はない。提督の言葉を聞いた初風は、声にならぬ声を押し殺して顔を歪ませる。提督は、麾下の駆逐隊を死地に送り込もうとしている。

「やめてよ。出来るはずないわよ」

 初風は声を絞り出す。

 もう覚悟は決めている。死ねと言われたら死ぬつもりだ。しかし、提督を道連れにすることは許せなかった。塚本を慕う駆逐艦から、つぎつぎと反対の声が上がる。しかし塚本は意志を翻すことはなかった。

「俺は、最期までおまえたちと共にある」

 この一言で艦娘たちは沈黙する。

『わかったわ。第一六駆逐隊、第一七駆逐隊に突撃命令をくだします。これより、全艦単縦陣に移行。突撃要員のみ右舷に離脱せよ』

 陸奥が言った。旗艦らしい、迷いのない声だった。

「悪いな」

 一言、塚本は謝罪する。初風は優しく微笑みながら、首を横に振った。

「いいえ、嬉しいわ。ありがとう」

 短いやりとりで、彼らには十分だった。

 塚本隊は、第一七戦隊を離れ、先頭の右舷につこうとする。しかし主力を離れたのは、彼の隊だけではなかった。

『わたしたちも、共に戦わせてください』

 ソロモンの鬼神、第一九駆逐隊の饗導艦である綾波が言った。

『あたしらも参戦するぜ! ここでやらなきゃ三駆の名がすたるってもんよ』

 渋谷の担当だった、第三駆逐隊の饗導艦、長波が連なる。どちらも第二水雷戦隊所属の腕ききの駆逐隊だ。

『いかなる状況であろうと戦端を切り開き、勝利を呼び寄せるのが我々、二水戦の務め』

 研ぎ澄まされた日本刀のような、凛とした声音。ふたつの駆逐隊を率いる歴戦の軽巡、神通が言った。

『我らの誇りのため、僭越ながら先陣を切らせていただきます』

 そう言って、彼女は自ら決死隊の先頭につく。

『二水戦が一緒なら、百人力だ』

 にやりと笑いながら塚本は言った。彼女たちの力をもってしても、生存できる確率は極めて低い。それでも、人間の自分の意志に賛同してくれる艦娘がいてくれたことが嬉しいのだ。

 艦隊は陣形を整えつつ、東北東に進路を取る。艦娘の動きにぴったり連携し、敵も艦隊を連ねて単縦陣をつくる。やがて二つの艦隊は接敵し、同航戦による激しい撃ち合いが始まった。砲雷撃戦の混乱により、両艦隊の戦速が少しずつ緩まっていく。これ以上は減速しない限界点に達したとき、神通は動いた。

『突入します!』

 その叫びとともに、第三艦隊の頭を超えて、機関をフル回転させた二水戦と駆逐隊が飛び出す。砲雷撃、索敵を一切放棄し、ただ最速で進むことだけに意識を集中する。敵の先頭がそれに気づき、神通に砲弾を浴びせる。だがこれも計算のうちだ。神通が敵の攻撃を引きつけている間に、北北西へと進路を変えていく。そして、ついに敵の頭を押さえて、島の沿岸部に突入することに成功した。当然ながら敵は追撃しようとするが、ここで進路を変えてしまえば、第三艦隊に対し最も無防備な艦尾を晒した状態で丁字不利になってしまう。先に引いたほうが負ける。どちらかが死滅するまで、同航戦のまま泥沼の砲雷撃が続いていく。

 合計、四個の駆逐隊が、目標である防空艦隊に相まみえる。

 しかし希望が見えた矢先、早くも艦娘たちは出鼻をくじかれることになる。浜風が苦痛の声を漏らす。アストラ麾下の防空駆逐艦が、空に向けていた艦砲を、すべて駆逐艦に照準を合わせていた。その砲撃も、恐るべき正確さを誇る。浜風は、一撃で、艦橋の付け根半分を抉り取られていた。

「海にいる艦にも精密射撃が使えるのか!」

 冷や汗を流しながら塚本が言った。しかし、目標を目の前にして、おめおめ逃げることは絶対にできない。

『固まっていては狙い撃ちだ。これより駆逐隊を二つに分割、二隻一組の八個分隊とする。戦闘指揮は、編制表上位者が行う。これより敵駆逐艦の各個撃破にうつる!』

 彼が指示を飛ばして即時に、駆逐艦たちは分隊に分かれる。目視できる敵艦は、島の半分に点在している七隻。おそらく、後ろ半分にも七隻、ないし八隻いるはずだ。ならば、せめて南側の防空網に穴を空ける。

 駆逐艦たちは、見事な連携で敵艦に迫る。敵の主砲に対して、真正面に艦首を向ける。一隻が盾となり砲撃を受け、すぐ後方に控えた一隻が、必殺の一撃をもって敵を沈めるという作戦だ。

『長波さん、後を頼むわね』

 盾として艦体を抉られながらも、悲鳴ひとつ漏らさず夕雲は言った。速度を落とし、長波を前に出す。

『絶対に任務は果たす。水底で会おう!』

 そう叫び、長波は持てる全ての砲を叩きこむ。爆炎と煙が上がり、機関を潰された敵は海面に没し始める。まずは一隻。

『こいつら、火砲と弾薬優先で装甲が薄い! 勝ち目は十分にある!』

 長波が叫ぶ。駆逐艦たちから気合の声が上がる。

 だが、敵は駆逐艦クラスだけではなかった。

『電探に感あり。親玉のお出ましですよ!』

 初風分隊の雪風が言った。水平線から、重巡ほどの巨体が、駆逐艦なみの速度で接近してくる。防空艦隊旗艦「アストラ」だった。彼女の異様に長い砲身が、まっすぐ浦風分隊を狙っている。

 まずい。とっさに塚本は転舵を指示する。分隊は、敵と一対一で戦っている。そこを横から撃たれたら為すすべもなく全滅だ。初風は命じられた通りに艦を動かす。アストラと浦風を結ぶ火線に、塚本隊が飛び込む。

 目の前に暴力的な光が炸裂する。全身を強打した痛みで、初風は一瞬、何が起こったか理解が追いつかなかった。気がつけば鉄片の散らばる床に倒れていた。ゆっくりと上体を起こす。頭から流れる血で片目が潰れていた。強烈な海風が吹き込み、血でべたつく髪が頬に張り付いた。艦橋の壁が半分なくなっている。そのとき、初風は艦長席にあるべき人間がいないことに気づいた。

「提督、提督。どこにいるの……?」

 足を引きずりながら彷徨う初風。やがてその片足が、ぴちゃりと赤い水たまりに浸る。そこには人間の形をした物体が転がっていた。うつ伏せになり、軍服は焼け焦げ、ぴくりとも動かない。よく見ると、左ひじから下の肉体が消失している。血は、切断された腕の断面から流れ出ている。

 ショックから逃れようと暗転する思考を無理やり押しとどめ、崩れ落ちそうになる膝に鞭打ち、彼女は自らの黒いベストを破り、それを繋げて傷口を縛った。

「……初風」

 割れてひしゃげた眼鏡の奥で、うっすらと男の目が開く。赤く歪んだ視界に、今にも泣きそうな幼い少女が映っている。

「俺たちは生きているのか。ならば、まだ戦える。動け、初風。雪風と連携し、敵旗艦を叩け」

 塚本は虫の息ながら、はっきりと言葉を伝える。初風は立ちあがった。もう痛みを感じている場合ではない。すぐに計器類をチェックする。奇跡的に通信機は生きていた。

『応答してくれ。こちら浦風部隊、一隻撃沈じゃ! 初風のおかげで救われた!』

『磯風分隊、一隻撃沈!』

『綾波分隊、一隻撃沈です!』

 つぎつぎと飛び込んでくる撃沈の報告。これで残り、三隻。

『敵旗艦、いまだ健在! 浦風分隊、磯風分隊が交戦中!』

 島風の声だ。初風は吹き飛んだ艦橋の窓から状況を確認する。駆逐隊は、ぎりぎりのところで狙撃を回避しているが、少しずつ被弾して追い込まれている。雪風と島風が囮となり、敵の注意を引きつけているが、狙い撃たれるのは時間の問題だ。

「行けるか?」

 壁伝いに移動しながら、塚本が尋ねる。その目は、すでに死を受け入れていた。

「もちろん」

 初風は答える。この男とともに沈むのなら本望だ。

『すぐ応援に向かう!』

 初風は叫び、機関を始動する。幸い、損傷は少なく、まだ速度を出せる。もう戦う力は残っていない。ならば、あとは皆の盾となり名誉の轟沈を遂げるのみ。しかし次の瞬間、島風が悲鳴を上げた。ついに砲弾が艦の側面に命中し、火災が発生している。速度の落ちた島風を庇うように浦風が前にでるが、すでにアストラの砲は島風を捉えていた。

 だが、アストラは撃てなかった。

 突如、アストラの右舷に立て続けに三本、激しい水柱が上がる。魚雷が炸裂したのだ。潜水艦による攻撃だった。しかし、さすがのアストラも海中の敵を正確に狙い撃てるシステムは搭載していなかった。

『こいつの相手は俺たちがやる。被弾した艦は、ただちに撤退せよ!』 

 通信機から、男の声が聞こえてくる。遠ざかる意識のなか、塚本は懐かしい声だと思った。

『海中機動部隊は、これより敵防空艦隊と交戦に入る!』

 福井靖少佐が宣言する。第三艦隊が海を引っ掻き回してくれたおかげで、なんとかここまで接敵することができたのだ。

 また味方が来てくれた。塚本はふらつく足を立たせ、手すりにつかまりながら、ゆっくりと艦長席に移動した。そこに、さらなる報告が飛び込んでくる。

『天津風分隊、一隻撃沈!』

『早霜分隊、一隻撃沈』

『春風分隊、一隻撃沈!』

 これで全員から報告が入った。だが、これで終わりではない。南の防空網が破れたと見るや、アストラは北に配置していた八隻を南に移動させ始める。

『新たな目標、接近!』

 東端に展開していた早霜から連絡が入る。狙撃の恐怖は、まだ終わっていない。

「これでいい。なんにせよ敵は半分になった。これをもって艦隊の指揮を解く。あとは、おまえたちの正義に従え」

 塚本は言った。死を前にしてなお、駆逐艦たちは勇ましく応える。

 ゆっくりと意識が闇に沈んでいく。ここまで塚本は気力だけで指揮を執ってきた。任務を果たし、僅かにのこった気力も潰える。

 艦長席の前に、初風が立つ。幾筋も涙を流しながら敬礼している。

 ここで死ぬことができて良かった。そう塚本は感じていた。艦娘と初めて出会ったとき、彼女たちに情が移ることのないよう自分を戒めてきた。あくまで彼女たちは兵器であり、人間ではない、と。しかし幾つもの戦いを共に乗り越え、絆を育んできた少女たちを、もはや兵器などとは口が裂けても呼べなくなっている自分に気づいた。生まれ落ちた瞬間から孤独を架せられた少女の親代わりになろうとしていた。

 だが、これが軍人のさだめ。娘だけ暗い海の底に送り出せようか。ならばせめて、共に死ぬのが、せめてものけじめだ。

 塚本の右手が、ゆっくりと伸びる。初風の頬を優しく撫でる。涙の温かさを感じる。そして、終わりを告げるように音もなく落下した。

 

 

 

『駄目だ、ぜんぜん止まらない!』

 伊勢が苦渋の声を上げる。第二艦隊は、イグニス艦隊から第一艦隊を守るために必死に応戦していた。しかし戦艦四隻が束になっても、敵の大戦艦は沈まないどころか、速度さえ落さない。戦術能力の不足など、その強力すぎる艦の性能が補って余りある。化物戦艦は、まるで道端のゴミのように艦娘たちを払いのけて突き進む。

 彼女は絶対に沈まない。これが太平洋方面軍第一艦隊旗艦、大戦艦「イグニス」の力だった。

 イグニスの巨砲が仰角を取る。海面を薙ぐ凄まじい衝撃波とともに、徹甲弾が第二艦隊の頭を超えて空を駆ける。その先には、一航戦の空母が布陣していた。突如、周囲に上がる水柱。さらに一発が大鳳の艦首に命中した。爆発とともに飛行甲板の一部と艦首がもぎ取られ、流れ込んだ海水により艦が前方に傾く。もう第一艦隊は、イグニスの射程圏内に入っている。

 武蔵は、艦橋から敵を睨みつける。イグニスの赤い瞳もまた、武蔵を捉えていた。言葉を使わずとも、その瞳は雄弁に物語る。絶対の自信。艦娘など恐れるに足らない。物心両面に渡り圧倒的な力を見せつけ、抵抗を諦めるよう促している。

 このままでは艦隊が破られる。もし敵が第一艦隊に向かったら、空母が全滅してしまう。それだけは、なんとしてでも防がなければならない。第二艦隊の指揮官は軍人ではない。武蔵本人だ。ならば決断を下さねばならない。

『駆逐艦、空母は左舷に回れ。第五、第六、第七戦隊および戦艦は、これより敵旗艦に対し接敵を試みる。左舷に回った艦は、その後に離脱して左右に展開、付随する敵艦を撃沈せよ』

 決死の作戦だった。比較的防御力の高い重巡と戦艦で、至近距離から飽和攻撃をしかける。狙うはイグニスただ一隻。戦力を分散した艦隊戦では、イグニスを止めることはできない。しかも、すでに敵は一航戦の空母に照準を合わせている。命の捨て場所は、ここ以外にはない。

 熊は何も口を挟まない。武蔵の参謀として、指揮官の決定に従うのみだ。たとえ、それが玉砕と同義の行為だったとしても。

 武蔵の指示どおり、戦隊が右舷に抽出される。

『わたしが先頭で行く。この有様だ、轟沈しても惜しくは無いさ』

 日向が名乗り出る。そして彼女たちは怪物に向かって突撃する。

「すまないな、提督よ」

 敵を見据えたまま武蔵は言った。巨大なイグニスに艦体が、みるみるうちに近づいてくる。もう後には引けない。

「構わない。きみに乗艦することを申し出たときから、そのつもりだった」

 熊は笑って答える。武蔵には、熊以外の乗艦者はいない。死をもって勝利に貢献することが第二艦隊の使命。沈むと分かっていて、多くの命を道連れにすることはできない。

「戦いに勝ち、深海棲艦の消えた世界に、わたしのような馬鹿でかい戦艦が生き残ってどうする」

 武蔵は言った。

「もし戦いが終わった後、艦娘が僅かな時間でも留まれるなら、駆逐艦を残してやりたい。これからの世界に必要なのは輸送船だからな。武器弾薬ではなく、食糧や医薬品、機械、ひとびとの希望を運ぶ艦だ。ならば、我々軍艦は、平和な未来の礎として、ここで戦い抜き沈むことこそ至上の誉れだ」

 熊は黙って聞いていた。敵艦まで、あと五キロの地点で、武蔵は微笑みながら熊を見つめる。

「提督よ、ともに死んでくれるか?」

 武蔵が問う。熊は笑って彼女の隣に立つ。武蔵も牙を見せて笑う。すがすがしく、満たされた顔をしていた。

 イグニスの主砲が艦橋をかすめ、その衝撃でガラスが叩き割れる。さらに次弾が甲板前方に炸裂し、機関部が露出するほどの損害を受ける。しかし二人は微動だにしない。僚艦の長門、伊勢からも被弾の炎があがる。艦体を真っ二つに叩き割りそうな衝撃にも、彼女たちは悲鳴ひとつ零さない。

 ついに四隻の戦艦が、イグニスの航路を塞ぐ。敵を沈めることができないならば、せめて主砲を潰そうと、最後の砲撃戦が始まった。

 

 

 

 一航戦、二航戦による猛攻が黄金艦隊を襲う。戦いが長引くほど艦娘側は不利になる。ならば、鳳翔が発見されたこの段階で、全身全霊をもって敵を叩くより他にない。渋谷は山口の援護に感謝する。さしもの敵も回避運動を取っている。だが、その飛行甲板からは次々と新手の攻撃隊が飛び立つ。敵味方入り乱れる艦載機の群れで、空は無数の黒い点描が蠢いている。その中でも、アウルムから発艦した爆撃隊は、味方の艦載機を振り払い、待機している鳳翔の方向へ、脇目もふらず飛行していく。

 白峰は、僚艦の機を戦場の空に留め、自身の空母の精鋭部隊を一一航戦撃沈のために差し向けている。

 これは渋谷にとって、またとない攻撃のチャンスだ。旗艦のヲ級は、こちらに爆撃機を回してこない。高雄型の奮闘もあり、摩耶と第七駆逐隊は、黄金艦隊の中核にまで切り込む道筋を得る。渋谷たちを援護するように、飛龍から馳せ参じた攻撃機と爆撃機が追随する。こちらの被害は、潮、朧が大破、曙が中破、漣、霞、不知火、そして摩耶が小破している。大破した艦も、退くことを望まなかった。渋谷艦隊は恐れを知らぬ一丸となって、砲火と空爆をかいくぐり、敵旗艦に突撃する。

 だが、その行動も白峰にとっては想定の範囲内だった。今や渋谷艦隊は、裁定者にとって悪鬼羅刹と化している。炎に嬲られようと艦体を引き裂かれようと、喜々として進撃をやめず、海の果てまで追ってくる。ならば、敵のしたいようにさせてやろうと白峰は判断した。

「最後の攻撃隊が発艦を終え次第、護衛の重巡二隻を引き連れ、艦列を離れる」

 白峰は指示し、ほんのわずかに逡巡した後、アウルムは了承する。これで、厄介な敵を、こちら一隻に引きつけることができる。他の空母を攻撃されたほうが損害は大きくなる。あくまで最重要目標は鳳翔だ。残りの敵は、それを排除してから、ゆっくり時間をかけて物量で押し潰せばいい。

「アストラ艦隊の偵察艦より報告が入りました」

 たった今、もたらされた情報をアウルムが伝える。

「戦闘海域にて、ソナーが四隻の潜水艦を感知。アストラ艦隊と交戦中とのことです」

 この知らせに、白峰は微笑を浮かべる。敵の伊号潜水艦は五隻。そのうち一隻は、アメリカ西海岸を巡回している大西洋方面軍の艦隊が撃沈を確認している。これで人間たちは、この戦場に全てのカードを切ってきたことになる。艦娘は出そろった。これで最後の懸念が消える。

「あとは、最重要目標の撃破さえ果たせればいい」

 アウルムが繰り出した精鋭の航空部隊の数は、およそ二〇〇。いかに赤い稲妻や手練の防空駆逐艦であっても、あの数全てを落すのは不可能だ。

「よろしいのですか。目標がはっきりしたのですから、僚艦の残存艦載機も、すべて目標破壊のために発艦させるべきでは?」

 アウルムが問う。敵の士気が常軌を逸していることは、これまでの戦いと比較すると明らかだ。第一一航戦も、こちらの計算を上回る対抗策を講じてくる可能性は十分にある。何より、渋谷艦隊の標的にされていることが不安だった。白峰は敵が異常な精神状態にあることを考慮のうえで、自ら囮になることを選択したのだが、撃沈される可能性がゼロとは断言できない。

「そうすれば僚艦の空母を守る意味はなくなり、我々が囮になる必要も消えます」

「いや、残る航空戦力は、敵艦隊撃滅のために温存しておかねばならない。この戦いにおける最終の目標は、艦娘を根絶やしにすることだからだ」

 白峰は言った。彼の瞳には何の迷いもない。彼が人間だった頃から、まったく変わらない、深い海色の瞳をしていた。

「了解しました。作戦を続行します」

 アウルムは艦隊から重巡を引き連れ、最大戦速をかける。

 それを追うは、満身創痍の渋谷艦隊。

「敵は、俺たちの狙いに気づいている」

 摩耶の艦橋にて、渋谷は言った。第一六戦隊の任務は、敵旗艦および白峰晴瀬の無力化である。これを知っていて、あえて白峰は挑戦を受けたのだ。渋谷が白峰の追撃だけに集中すれば、空中戦で手いっぱいの他の空母を守ることができる。勝利するためなら平気で自分の命すらも囮に差し出す白峰らしい戦術だ。

『逃がすんじゃねえ! ヲ級を狙え!』

 摩耶が叫ぶ。しかし、敵の重巡二隻が、庇うように前に出る。砲雷撃に阻まれ、なかなかアウルムに追いつけない。

『奴等は、わたしたちが引きつける! 提督は旗艦を!』

 陽炎が言った。七駆の練度は高いが、やはり旗艦クラスの重巡二隻は荷が重い。それを承知で陽炎は提案する。沈める必要はない。こちらが何隻沈められようと、足止めができればいい。

『わかった。敵旗艦を無力化できたら、すぐに戦域から離脱し、主力に合流しろ。武運を祈る!』

 渋谷は言った。『まかせて』と陽炎は応える。摩耶が七駆から離れ、西へと離脱していくアウルムを追う。

『さて、ここが七駆の天王山。提督の名に恥じぬ戦いを!』

 勇ましく不知火が叫ぶ。機動力に勝る七駆は、陽炎の進路指示と不知火の攻撃指示により、敵と真正面からぶつかる。

「行こうか、提督!」

 摩耶が歯を見せて笑う。提督と共にならば、絶対にできると信じていた。

 敵は二時の方向、距離九キロ。赤城や加賀を超える大型空母なのに、その速度は四〇ノットを超えている。摩耶でさえ、なんとか追いついている速度だ。攻撃するならば、これ以上距離を空けてはならない。摩耶は主砲を斉射する。そのうち二発がアウルムの横腹に命中し、炎と黒煙を噴き上げる。

 だが、肝心の飛行甲板は、まだ大部分が無傷だった。並の砲弾ならば跳ね返しかねない強度を誇る装甲甲板に、虎の子とでも言うべき新たな艦載機が出現する。機体は黒く塗られ、イカの頭のような独特の翼で、レシプロ機の象徴とでも言うべきプロペラはない。特殊戦艦「グラキエス」の遺産である、新型戦闘機だった。

「全機発艦」

 白峰の命令とともに、計二〇機が飛び立ち、続けざまに第二波の二〇機が甲板に並び始める。摩耶は即座に対空火器を用意し、空に弾幕を張る。おそらく反跳爆撃が来る。艦橋下の機銃と爆雷は、残しておかねばならない。しかし、そうなると主砲のコントロールが困難を極める。対空戦闘には膨大な意志を使うからだ。さらに敵に対し、一定の距離を保たねばならない。

「俺が照準を合わせる」

 渋谷が言った。砲雷の扱いならば心得がある。

「分かった。あたしが大まかな狙いをつけるから、誤差修正を頼む」

 摩耶は隔壁を開き、渋谷を前方主砲塔の砲手室へと通した。

 真っ黒な艦載機が、猛禽のごとく襲いかかる。急降下爆撃に入る前に、機銃掃射で追い払い、並行爆撃を試みる機には噴進砲をお見舞いした。それと同時に渋谷が砲身を動かす。

『摩耶、今だ!』

 彼の声を受け、摩耶は主砲を放った。美しい放物線を描き、みごと甲板に直撃、爆発する。しかし艦の後方にいた艦載機までは破壊できなかった。アウルムは煙が流れると、損傷のない甲板の右半分を使って第二波を放つ。さらに、今度は二〇機を一気に発艦させた。渋谷は敵艦載機の性能に愕然とする。空母から発艦するだけでも、風向きや速度などの細かい調整が必要なのに、あの機体は全く影響を受けていない。もはや人類製のコピーではない。人類の技術を超越している。

 もうアウルムに残っている機体はない。彼女は最後の虎の子を空に放っていた。

 みるみるうちに黒い大群が摩耶に迫りくる。まず二手に分かれ、それがさらに二派に分裂する。摩耶の右左舷に一〇機ずつ、ぐんぐん高度を下げて反跳爆撃の態勢をとる。さらに、そのすぐ後ろに、またも左右に一〇機ずつ、今度は魚雷を抱えた機体が待機する。だが敵は海面だけに集中させてくれない。摩耶は対空電探を頼りに、空の敵にも注意を払わねばならない。一〇機が急降下爆撃をかけ、残る一〇機が水平爆撃を仕掛けるべく、海面と水平に飛行してくる。

『攻撃始め』

 白峰の合図とともに、反跳爆撃、雷撃、急降下爆撃、水平爆撃が同時に放たれる。しかし、それぞれの攻撃は絶妙な時間差をもって到来する。上下左右、さらに時間差、すべてを捌ききることは摩耶の力をもってしてもできない。死の四重奏とでも言うべき無慈悲な飽和攻撃が艦体を蹂躙する。雷撃三発、爆撃六発を受け、おおきく艦が傾き、速度が落ちた。少しずつ敵艦に距離をあけられていく。摩耶は衝撃で床にたたきつけられ、立ちあがるだけで必死だった。骨を粉砕されたのだろうか、右腕の感覚が鈍く、だらんと垂れさがっている。砲塔の渋谷も無事ではなかった。脳震盪を起こしかけ、ふらつく視界を気合で安定させる。おまけに、どこかで火災が起きているらしく、砲塔内の温度が異常に上がっている。皮膚がひりつく恐怖のなか、なお男は敵艦を見据える。

『砲塔を動かせ。撃ち続けるんだ!』

 渋谷の叫びが通信機から聞こえ、摩耶は戦意を取り戻す。

 敵機は、母艦に戻ることなく、ふたたび攻撃態勢に入ろうと編隊を立て直している。通常、艦載機が抱えることのできる爆弾は一発。しかし敵は補給なしでの連続攻撃を試みようとしている。あの機体は、いったい何発の爆弾を抱えているのか。その分速度は低下しているようだが、圧倒的な飽和攻撃の前に、摩耶は精密な対空砲火を封じられ、結果、不利を相殺している。

 摩耶は破損していない全ての砲塔を動かし、渋谷のコントロール下にリンクさせる。放たれた砲弾のうち、二発がアウルムに命中する。さすがのアウルムも機関にダメージを受け、速度を落とし始める。だが、そのお返しとばかりに、またも地獄の飽和攻撃が放たれた。

 摩耶は、火器の制御を、渋谷のいる砲塔と機関周辺だけに集中する。艦橋に連続して爆弾が降り注ぎ、炎と衝撃が鋼鉄を引き裂く。摩耶は鉄の暴風に飲まれ、壁に背中から激突する。神経が狂ったのか、もう痛みが痛みと分からない。しかし、体は確実に動かなくなっていく。

 もう限界だった。これ以上戦えば機関停止に陥る。

 生と死の分水嶺にて、摩耶は思考する。自分はどうするべきか。以前の自分ならば、こうなる前に戦場から離脱していただろう。ラバウルでの演習のときみたいに、例え仲間を見捨ててでも、提督の命を守るために。今離脱すれば、生き残れる可能性はある。提督には生きていてほしい。戦争が終わったあとも、ずっと。

 

 でも、あたしは?

 

 提督が生き残った世界に、自分はいない。いずれ、すぐにいなくなると明石も言っていた。自分自身も、そう直感している。なら提督はどうなる。提督の本心は誰にも分からない。彼が本当に愛しているのは誰なのか。彼が、あの操縦士と結ばれるのは、決して望む結末ではない。

 血に塗れた頭を、がくりと落しながら摩耶は笑う。凄惨な、悪魔じみた微笑みだった。この世界の因果全てに喰らいつき、挑みかかるかのような、燃える意志の光を瞳に宿していた。

 機関を全力で掻き回す。逃げるアウルムを、最後の力を振り絞って追撃する。主砲の制御に全神経を注ぎ込む。敵の第三波が迫る。

『撃て!』

 摩耶が叫ぶ。防御を捨てた乾坤一擲。互いの艦体に新たな炎が噴きあがったのは同時だった。

 白峰は驚愕していた。この感情を抱いたのは、アウルムに迎え入れられて以来のことだった。あれだけの攻撃を受け、まだ摩耶は浮かび続けている。黒煙と炎に艦体の半分を包み込まれながらも、まだ毅然として浮かび続けている。もう艦載機の弾薬は使いきった。最後のトドメとして、直接、摩耶に突撃することを指示する。

 

 血液で潰れ、朦朧とした視界で、摩耶は敵を確認する。速度は半分以下になっていたが、まだ動く。まっすぐ西へ離脱していく。

『摩耶、まだ動けるか?』

 ノイズに混じって、渋谷の声が聞こえてくる。

「もう無理だ。一〇ノットも出ない。これが最後の攻撃だ」

 そう言って、彼女は唯一生き残っていた渋谷の砲塔を回す。

 焼けつく砲塔のなかで、まだ渋谷は正気を保っていた。汗が出ない。右半身がじりじりと焦げていくのを感じる。それでも正確に狙いを定める。

 最後の二発が、アウルムに吸い込まれる。ひときわ巨大な爆炎があがり、敵旗艦は完全に停止し、洋上にて沈黙した。

「……任務、完了だ」

 渋谷は呟く。その直後、対空砲火から生き残った敵艦載機が海鳥のように急降下し、摩耶に突撃する。爆風に身を焦がしながら、摩耶は艦橋から降りて、砲塔に向かう。もはや艦体は原型を留めていなかった。対空兵器はクズ鉄の山と化し、甲板のあちこちが抉れて穴が開き、炎と煙が噴き出している。鉄を焼き尽くす業火が、内臓を焼く痛み。もうすぐ機関が炎に包まれる。摩耶は足を引きずりながら、砲塔から渋谷を引っ張りだした。一目で虫の息と分かった。皮膚は焼け爛れ、血と炭素が混じって赤黒い斑模様になっている。自力で立つこともできない彼を支えながら、摩耶は煙に侵されていない、左舷甲板へと歩く。そして摩耶はしゃがみこみ、提督の身体を抱きとめた。

「……摩耶、生きていたか」

 ただれた瞼が開き、渋谷が摩耶を見つめる。囁くような声で渋谷が呟く。気管を焼かれ、喋るどころか呼吸することも難しい。

 とめどもなく溢れる涙が渋谷の頬に落ちて、煤と血を洗い清めていく。

「提督。提督、あたしは……おまえを」

 言葉にならない。何か喋ろうとするたび、唇と喉が震えて、言葉が崩れてしまう。だが、ずっと彼女とともにいた渋谷は、声にならぬ声をしっかりと聞きとっていた。涙に歪む顔、震える声から、取り返しのつかないことをしてしまった懺悔と後悔が滲み出ている。渋谷は焼けついた頬を動かし、優しく微笑む。

「いいんだ。おまえがこれを望んだように、俺も、こうなることを望んでいた」

 渋谷は言った。摩耶は、さらなる嗚咽と涙をこぼす。

「でも、それでも、あたしは……」

 提督を救わねばならなかった。そうするべきだった。しゃくりあげながら摩耶は言った。

「俺は、涼子を愛していた」

 この言葉に、摩耶はびくりと肩を震わせる。

「摩耶が求めている感情を、俺は与えてやることはできない」

 でもな、と渋谷は続ける。

「涼子を愛すること以上に、俺はおまえと一緒に戦いたかったんだ。おまえの提督として最後まで戦い抜くことが、俺の願いだった。それが叶ったんだから、もう何も思い残すことはない。おまえの提督であれたことが、俺がこの世界に生きてきた最高の誉れだ。だから、泣くな、摩耶。俺の艦娘として、最後まで笑っていてくれ」

 止まぬ慟哭。渋谷は諭す。

「おまえ独りでいかせねえよ。あたしは、おまえの艦だ。おまえの行くところに、あたしもいる」

 嗚咽の合間をぬって、絞り出すような声が聞こえる。

 渋谷は海を見る。いつの間にかラロトンガ島の海域を出ていたらしい。嵐は終わっていた。空は青く澄み渡り、海はどこまでも紺碧だ。太平洋の、穏やかな波と風。そして柔らかな陽光。火災と誘爆が続いているというのに、やけに静かだった。愛する海と娘とともに逝けるのは幸せなことだと渋谷は思った。

 視界が白く霞んでいく。温かい光に包まれていく。

 閉じかけた瞼の隙間に、摩耶の顔がうつる。

「提督」

 摩耶が言った。血と涙と鼻水でぐしゃぐしゃだったが、彼女の顔は渋谷が待ち望んだものだった。

「ほら、これでいいか? ―――提督」

 摩耶は笑う。自信と明るさに満ちた、渋谷が好きだった笑顔。渋谷は自らを摩耶の両腕に委ねる。

 その瞬間、摩耶は機関への誘爆を悟る。

 強く、強く、腕に渋谷を抱きしめ、全てが終わる。

 摩耶の艦体は最後の爆発を起こし、ふたりは海へと還っていった。

 

 

 

 白峰晴瀬は、アウルムを連れて飛行甲板に出ていた。

 形もとどめず轟沈した重巡「摩耶」と、その提督に敬礼を捧げる。敵といえども彼らは敬意を払うべき存在だった。

「渋谷。やはりきみでは、僕の思考を超えることはできなかったな」

 こうなることも計算の範囲内だった。摩耶が逃げずに攻撃を続行したこと、それにより機関停止まで追い込まれたことは驚きに値するが、結局、摩耶は轟沈し、アウルムは生き残った。

「戦闘が終わるまで、ここで浮かび続けているしかあるまい」

 白峰は言った。裁定者が勝てば、あとで曳航用の艦を寄こさせるつもりだった。追手が来る様子もない。しばし戦闘の経過を見守るつもりだった。

 そこに、アウルムが待ち望んだ報告が入る。内容を理解したアウルムは、わずかに口角を持ちあげる。

「軽空母『鳳翔』が、爆弾五発を受け飛行甲板を大破、炎上。さらに僚艦の千歳も大破。これにより艦載機の発艦は不可能となりました。また、赤い稲妻の撃墜も確認したとのことです」

 アウルムは淡々と告げる。これで敵の切り札を封じた。あとは念のため空母を撃沈すれば完璧だ。余剰戦力を主戦場に集中するよう、麾下の空母群に命令する。しかし白峰は特に表情を変えることなく、東の水平線を眺めている。勝利が確定してもなお、彼は思考し続ける。何か見落としはないか。彼方の様子を、じっと見つめていた。

 

 

 

 軽母「鳳翔」大破の報告は、飛龍の山口長官のもとにも届いた。

 これを聞いた山口は即座に、ある艦娘に直接、命令を下す。これが、この戦闘における最後の一手だった。もうこれしか選べる道はない。あとは力尽きるまで戦い、一隻でも多く敵を海底に引きずりこむのみ。三つの艦隊は、すでに地獄の入口に突入している。大破、轟沈の報告が相次ぎ、第一艦隊の旗艦である飛龍も、雷撃と爆撃を受けて小破している。このまま、あと二、三時間も戦いが続けば、間違いなく総員玉砕だった。

「例え最後の一隻になっても、わたしは戦うよ。でも、前世みたいに華々しく死ぬためだけの無意味な戦いじゃない。どれだけ追い詰められても、ちゃんと勝利を掴むために、意味のある戦いをする。そうでしょ、多聞丸?」

 隣に立つ飛龍が尋ねる。

「その通りだ。やれることは全てやり遂げる。人類が先に進むために、そして艦娘の誇りと名誉のために」

 山口は答える。

 この人は、いつも自分が欲しい言葉をくれる。広い背中を見つめながら、戦場にいることをしばし忘れて飛龍は微笑む。

 

 福井率いる海中機動部隊は、駆逐隊を援護しつつ撤退戦に突入していた。鳳翔が大破したことが、第三艦隊にも伝わってきた。撃沈できた防空駆逐艦は九隻。今だせる最大の戦果だと福井は考えていた。

『ほら、急いで! もたもたしてたら敵が来る。爆雷の餌食になりたいの?』

 艦列のしんがりに対し、イムヤが言った。その艦娘は、伊号潜水艦に比べると速度も出せず、戦場では、ほぼ傍観者に徹していた。

『待ってくださいよ! そんなに早く泳げません!』

 泣きそうな声で主張する元陸軍籍の潜水艦。もともと輸送艦だったまるゆにとって、これが最初で最後の戦闘参加だった。福井は深度を下げることで、なんとか被弾を避けようとする。

 役目は果たした。あとは最終作戦の発動を待つのみ。

 人類の持てる切り札。それを託された艦娘と人間。彼女たちの一撃が、悪しき歴史を変えることを祈る。

 

 

 ラロトンガ島より、北に五〇キロ。島南の主戦場からは、七〇キロ以上離れた海域に、一隻の潜水艦が浮上する。周囲は見渡す限りの海。敵艦はおろか、まばらにいたピケット艦も数時間前に姿を消していた。おかげで彼女は誰にも見つかることなく海面に姿を現すことができたのだ。

 褐色の肌をした艦娘が、潜水艦にしては巨大な船体を持ちあげ、艦の上部に射出フロートを展開する。そこに設置された機体は、この世界にただ一機しか存在しない、大日本帝国の技術の結晶、試製晴嵐改だった。高高度、長距離飛行に耐えられるよう試験的に設計された機体は、通常の艦載機よりも翼が長く、搭載エンジンの出力も高い。その代わりに大量の燃料を必要とするため機動性は悪く、もし敵の艦上戦闘機に囲まれたら生還の道は閉ざされる。通常、艦隊戦では使用されない機体だ。しかし今回は、狙うべき目標が艦ではなく島だ。敵国の主要都市を直接爆撃するという、深海棲艦との戦争では無用の長物であり、暗い倉庫で埃をかぶっているはずだった機体。それが、ここにきて偶然にも日の目を見ることとなった。

「周囲に敵影なし。いつでも行けます」

 伊401の顕体、しおいが言った。ラロトンガ島南に向かう途中で福井の部隊から離れ、ひとり主戦場とは真逆の北方海域に身を潜めていたのだ。敵の目を欺くため、まるゆを部隊に加えて数合わせしていた。

 しおいが選ばれた理由は、規格外の大型艦載機である晴嵐改を搭載し、発艦まで導くことができるのは、伊401だけだったからだ。

 晴嵐改のハッチを閉め、操縦士が手信号で発艦の意志を示す。獰猛な唸り声とともにエンジンが始動する。やがて機体は、暴走機関車のように射出路を駆け抜ける。翼がふわりと空気を受け、淀みない曲線を描きながら蒼穹に吸い込まれていく。それは白鳥の滑空のように、おおらかで美しい飛行だった。もし、この機体が戦闘機でなければ、間違いなく世界最高峰の航空機だ。

 戦争が終わったなら、あのような輸送機が世界の空を満たすことを、しおいは願う。

 晴嵐改は、みるみるうちに高度を上げていく。計器類にも問題はない。飛行テスト済みと聞いていたが、やはり実戦で初めて使用するのは恐ろしい。おまけに慣れない機体、最重要作戦というプレッシャーが重なれば、並の操縦士では精神を潰されてしまう。

 ゆえに、山口多聞は彼女を選んだ。自身が手ずから鍛え上げ、幾つもの戦いを経てなお最優秀のまま生き残ってきた精鋭中の精鋭。

 水戸涼子中尉を。

 彼女は全ての重圧を背負い、この空を飛んでいる。

 機体は腹部に巨大な爆弾を抱えている。全長六メートルはあろうかという筒状の物体は、一面が分厚い黄色の塗装で覆われている。現存する最後の原子爆弾「ポルックス」。涼子は、その細い身体に人類の希望を託されていた。

 絶対に失敗はできない。囮となってくれた鳳翔が大破したという知らせは、さきほどしおいの艦内で聞いた。自分の身代りとして、赤い稲妻の紫電改二に搭乗してくれた、第一分隊副長の顔が頭をよぎる。

 高度は八千五百を超える。

 つぎつぎに浮かんでくる大切な人たちの顔。師であり恩人である幾田中佐、皆の父親がわりだった多聞丸、女性である困難と苦しみを分かち合い、ともに戦ってきた飛行隊の仲間たち。本土の家族。そして誰より、誇り高く誠実に生きる、彼女の想い人。

 互いに死ぬ確率のほうが遥かに高い戦場。それでも再会できると彼女は信じていた。吐く息が白み始め、手がかじかむ。高度は九千に近づこうとしている。人類未踏の、神の領域。灰色がかった眼下の雲が、不自然などす黒い色に変わっていく。敵の海域に入った。やはり敵機の姿はない。ここを超えれば、あとは抱えた重荷を放つのみ。

 ところが、目標地点まで一五キロの地点で、涼子は肝を冷やすことになる。煙のような雲にまぎれて、何かが浮遊している。それは気球のように見えた。白い表面に、血管のような赤い線がぐねぐねと走っている。深海棲艦の意匠だ。しかし、攻撃してくる気配はなく、追いかけてもこない。おそらく偵察専用の機体だろう。

 胸をなでおろすことはできない。これで、何らかの形で自分の存在が敵に伝わってしまったのだから。

 恐怖を押し殺し、操縦桿のみに集中する。雷も雨も含まない漆黒の雲が渦巻いている。その中心部、その真下にこそ、長年探し続けていた敵の母胎が息を潜めている。涼子は一息に操縦桿を前に倒す。機体の頭が下がり、白鳥は隼に姿を変えて急降下していく。

 何も言葉は出なかった。祈る言葉も、縋る言葉も。ただ涼子は自分自身を信じる。雑念の消えた真っ白な頭に流れ込んでくるのは、景色。風の感覚。機体の揺れ。雲を突き抜け、ぐんぐん近づいてくる真っ黒な巨体。長い黒髪、丸い稜線をえがく背骨が見える。焼き殺された少女の放つ怨念も痛みも悲しみも、涼子には届かない。

 ああ、ここだ。

 人生で最も心は凪いでいた。涼子はスイッチを押した。

 

 

 

 アウルムの形のよい唇が、小さく開いている。

 このような彼女を白峰は初めて見た。その姿は、もはや人間に近かった。驚きのあまり開いた口が塞がらない状態だ。

「このようなことが、ありうるなど」

 裁定者らしからぬ無意味な呟きが洩れる。この戦いにおいて白峰は、通常、艦載機では到達できない高高度まで、監視体を置いていた。ありえないことではあるが、短期間にてオーストラリアが超長距離爆撃機を開発したときのための保険だった。攻撃、飛行能力を持たない、ただ浮かんでいるだけの機体。その万が一の保険が使用されてしまったのだ。

「ただちに戦闘中の艦載機を島に向かわせろ」

 白峰は冷静に対抗策を伝える。今できることは、これしかない。むろんアストラには即時に、防空艦隊を北半分に回せと連絡したが、南側では駆逐隊との激しい戦闘が続き、移動は困難と返答がきた。

 白峰は笑う。心から笑えるなど、いつ以来だろうか。それくらい楽しくて仕方がなかった。

 いつ自分は欺かれたのか。

 敵は当初、裁定者の艦隊を一隻でも多く撃破するための戦術を取っていた。それは原子爆弾を持っていることを隠蔽するための、欺騙行動だと考えた。そして索敵範囲を戦場周辺に集中したことで、孤立した軽空母部隊を見つけた。

 ここで、鳳翔が原子爆弾を持っているという強い確信を抱かされた。

 鳳翔に攻撃を加えたとたん、敵はアストラ艦隊と空母を集中的に攻撃するようになった。欺騙がバレてしまい、なんとかして爆弾を島に落すまでの空路を確保しようとあがいているように思えた。

 ここで、さらに確信を強めさせられた。

 鳳翔が大破したとたん、敵は総員玉砕せよとばかりに、形振り構わない戦闘を始めた。

 ここで、原子爆弾の使用を諦めたと思わされた。

 おまけに潜水艦が四隻発見されたことで、すべての艦娘が戦域内に集中していると確信させられた。

 そして現在、どこからともなく現れた航空機が、おそらく原子爆弾を抱えて島を狙っている。この時点で、島の北半分は丸裸も同然だった。敵は南から来ると判断していたアストラは、南に部隊を集め、足止めされてしまった。原子爆弾の脅威が消えたと考えたアウルムは、艦載機を主戦場に集めてしまった。

 どこに穴があったのか。

 今なら分かる。おそらく潜水艦は五隻いて、その中の潜水空母が一隻、島の北に隠密に待機していたのだろう。原子爆弾と、それを運ぶ機体を抱えて。鳳翔が大破したという裁定者の思考が最も弛む瞬間をねらい、最後の一手を打ったのだ。圧倒的な戦力差を覆し勝利できる、敵のキングだけを取れる一手を。

 この一手を演出するために、山口多聞は、あらゆる艦娘を、あらゆる戦術を、ひいてはこの戦闘全てを囮に使ったのだ。その結果、たった一度だけ、人間は神の思考たる白峰を欺いた。

 なぜ今になって潜水艦のトリックに気づいたのだろうか。

 思い当たる理由はひとつ。渋谷との交戦だった。死を覚悟した男と艦娘に対して僅かでも隙を作れば、アウルムが轟沈してしまう可能性もあった。ゆえに白峰は、渋谷との戦闘に意識を注がねばならなかった。

 もし渋谷が、白峰の思考を阻害するために攻撃を続けていたとするならば。

 では渋谷の攻撃がなければ、潜水艦のトリックに気づけただろうか。それは、もはや可能性の問題であり、結論など出ない。しかし、気づいた確率のほうが高いだろう。ならば、白峰は、まんまと渋谷に騙されたということだ。

 戦闘に勝っても戦争に負ける愚かな生物。そう裁定者に蔑まれてきた日本人が、戦闘に負けても戦争に勝つ道を自ら切り拓いた。

「進化しているのだな。わずか四年と少しの間に」

 白峰は言った。まるでペットの成長を喜ぶかのような、存在の異なる生物への慈愛を湛えた微笑み。

 最速で向かわせた戦闘機から、映像が入ってくる。

 ぎりぎりで島の上空に辿りついた。しかし、もう遅かった。雲を突き破って、一直線に降下してくる未確認の敵機。アウルムが直接コントロールする艦載機は機銃を浴びせかかるが、まだ距離があり、弾は風と機体の速度に流され当たらない。上空五百メートルの地点で、その機は世界最悪の爆弾を放った。

 パラシュートが開き、母胎の中心部へと降りていく。

 機体は地面すれすれに九〇度旋回し、北西の空へと退避していく。艦載機が追撃し、機銃掃射を浴びせる。機体から炎が噴き出しても、重い機体を必死に操り、見苦しいほどの逃亡を止めない。

「もういい」

 怒りをたぎらせ、歯を食いしばるアウルムに、静かに白峰は告げた。

 あの爆弾が上空で放たれた以上、もうチェックメイトは終わっている。不気味なほどゆっくりとパラシュートは降りていき、やがて母胎となった少女の背中に触れる。

 刹那、島は光に包まれる。

 自然の摂理を逸脱した、悪魔の光。太陽が地表に落ちてきたかのようだった。火球のエネルギーが暴風と熱線となって拡散し、もう一度島を焼き尽くす。

 

 その瞬間、アウルムの意識は沈黙に包まれた。もし自分に心というものがあるのなら、その一番根底にある部分が消えて、何もかもが闇のなかに抜け落ちてしまったかのようだった。裁定者全てを繋ぎとめていた何かが絶たれた。世界を覆い尽くしていた意志の力が数百、数千に砕け散り、ただ宙を彷徨っている。

 アウルムは認識する。母胎が失われたのだと。もう裁定者が世界を平和のうちに統治する理由はなくなった。人類の意志に、艦娘の意志に、裁定者が破れたのだ。

 我々は負けたのだ。

 白峰にとって、敗北とは人間に戻ることにすぎない。しかし、繋がっていることが当たり前だったアウルムにとって、分断とは恐怖そのものだった。今感じている恐怖は、戦闘中に実感していた恐れとは、まるで違う。従来の恐怖は、ただの「嫌な事」だった。戦闘で艦が沈めば自らの勢力が削られる、提督が死ねば裁定者が不利になるなど、単なる計算上のマイナスにすぎない。

 分断され、完全な孤として世界に放り出されたアウルムは、自らの魂が矮小で脆弱であることを知る。知っているがゆえの恐怖。この世界に飲まれ、存在を抹消されてしまう恐怖。

 足が震えている。かちかちと歯が鳴っているのが分かる。

 アウルムには豊かな表情が産まれている。膨大な力と思考が消えた、彼女の空白地帯に急激に生まれ始めたものは、間違いなく人間の感情だった。それを理解していた白峰は、彼女をそっと抱きとめる。男の腕の中で、震えが柔らかく収まってくる。眉と目を歪ませ、泣きだしそうな黄金の瞳が白峰を見上げている。さらさらとした銀色の髪を、そっと撫でる。

 今のアウルムは人間だった。歳の頃、一七、八歳の、感情豊かな人間の少女だった。

 辛うじて生きていた通信網から、どこか懐かしいざわめきがふたりに聞こえてくる。それは意味のない声の混じった激しい呼吸音。世界中の裁定者が吐き出す音は、重なり響いて、まるで潮騒のような音を溢れさせている。白峰は、その音の正体を知っていた。これは人間の赤ん坊の泣き声だ。

 完全なる孤独。自分は自分でしかないという、この恐ろしい感覚。なんという無知、なんという無力だろう。これが人間。このような生物に裁定者は敗れたのか。しかし、そういった思考とは反面、アウルムの心を満たすのは確かな安らぎだった。提督の腕に抱かれている。それだけで彼女は他の艦のように泣かずに済んだ。

 彼女は理解する。だから人間は寄り添うのだ。裁定者の縦のネットワークから逸脱したグラキエスは、この感覚を知っていたのだろう。孤立は多くのものを失わせる。そのかわり、心から繋がりたい唯一の存在を求めようとする意志が芽生える。彼女が言っていた『横に逸れる』とは、こういうことなのだ。

 何かを求める意志こそが―――。

「……来たな」

 アウルムを抱き寄せたまま、白峰は東の水平線を見やる。小さな艦影が七つ。大破し炎上している艦も、煙をたなびかせながら、こちらに向かってくる。第七駆逐隊は、自らの提督を殺した艦を取り囲む。そして、けじめとばかりに各艦一発ずつ雷撃を浴びせた。七回の轟音とともに艦に穴が開き、海水が流れ込んでくる。轟沈確実と見た艦娘たちは、無駄な破壊をせず、主力のもとに引き返していった。

 しだいに甲板が喫水線にまで沈んでいく。

 終焉を自覚しながらも、ふたりはじっと立ち尽くしていた。

「不思議です。海や空を見て、このような感情を抱くなど。人間の言葉なら、美しいという概念。これまで抱くことのなかった概念です」

 アウルムは言った。もう彼女は無邪気な人間の少女だった。裁定者から解き放たれ、自由を得たまっさらな魂が、誕生したとたんに死を迎えねばならない残酷な運命。戦闘を離れれば、彼もまた一人の人間だった。

 男の心の痛みに気づいたアウルムが、無垢な瞳で見つめてくる。

「構いません。わたしはこうならなければ手に入れることができなかったのでしょう。グラキエスは自らの意志で裁定者のくびきを断ち、望みを叶えました。しかし、わたしの魂では、それができなかった。こういう形でしか、わたしの望みは叶わなかったのです」

 アウルムは言った。

 再び少女は男の腕に自らを委ねた。互いの体温を確かめ合うように、強く、強く抱きしめあう。ふたりとも肉体は海と同じ温度をしている。だが、アウルムは確かに感じる。身体の芯、心臓の奥、頭蓋の内側。おそらく心と呼ばれる場所に、ぬくもりを感じる。

 世界平和より、勝利より、アウルムという一つの魂は、この温かさをずっと求め続けていた。

 艦が沈む。ゆっくりと青い海に還っていく。甲板の端が水に浸った時、アウルムは頭を起こして白峰を見つめた。

「最期に、伝えたいことがあります」

 アウルムは言った。美しい顔に、明るい微笑みを浮かべて。白峰もまた笑顔で頷き、彼女を受け入れる。

「愛しています」

 ふたりの唇が重なる。

 一隻の空母が、穏やかな静寂をまとい波の合間に消えた。

 

 ああ、生きている。

 水戸涼子は操縦桿を握り続ける。

 翼から黒煙を棚引かせながらも、晴嵐改は海面すれすれを飛び続けていた。爆弾が炸裂したのち、艦載機はぴたりと動きを止めて墜落した。それは深海棲艦も同じだった。あらゆる艦が魂を抜かれたように静止した。この戦争に人類が勝利したことを、ようやく実感できた。

 北西に飛び続け、伊401と合流する。損傷の激しい機体は、安全のために乗り捨てることとなった。その身を艦内に移すやいなや、さっそく通信機に向かい合う。摩耶との通信回路は事前に教わっていた。しかし、チューニングを合わせても聞こえるのは雑音ばかりで、摩耶が応答している様子はない。

 何度の通信を試みる涼子を、しおいは苦しみと悲しみに満ちた顔で見守っていた。

「通信機が壊れたのかしら? ねえ、しおいちゃん……」

 そう言って振り向く涼子は、しおいの浮かべる表情に気づく。深く息を吸い込んで笑顔を消し、涼子は彼女の前に立つ。

「教えてちょうだい」

 ただ一言、涼子は尋ねる。しおいは少し逡巡したのち、躊躇いがちに口を開いた。

「先ほど、山口長官より、被害報告が伝えられました」

 しおいは重たい口調で、轟沈していった艦の名を読みあげる。

「―――第一六戦隊、重巡洋艦、摩耶。敵旗艦と交戦ののち爆沈。渋谷礼輔少佐とともに名誉の戦死を遂げ―――」

 もう、それ以降の言葉は耳に入って来なかった。

 気がつけば、艦内の自室に一人、立ち尽くしていた。頬に伝う熱が、自分が泣いていることを教えてくれる。

「あなたは、最期まで提督で在ることを選んだのですね」

 血の滲んだハンカチを握りしめ、選ばれなかった女は静かに涙を流し続ける。

 

 三つの艦隊は、戦いが終了してすぐ、オーストラリアのシドニー港を目指した。機関を破壊された艦も、沈んでいなければ曳航して救出した。

「結局、生き永らえてしまったな、提督よ」

 めちゃくちゃに破壊された甲板を眺めながら、武蔵が言った。

「お互い、ここで死ぬには少し頑丈すぎたな」

 全身切り傷だらけの熊が答える。ふたりは少しだけ微笑み、拳を突き合わせた。

 第二艦隊は、ついにイグニスを撃沈することができなかった。島が爆撃された後も、化物戦艦は悠然と浮かびつづけていた。彼女との交戦により、日向が轟沈し、伊勢、長門も大破した。武蔵も大破し、轟沈寸前のところで戦いが終わったのだ。

「せっかく命を拾ったんだ。わずかな間でも、戦後の世界を見てみたい」

「きみを失望させないよう、努力するよ」

 決意を新たに熊は言った。

 港につくなり第一六駆逐隊の初風が、怪我人を背負って艦を飛び出す。応急処置が正しくされていたこともあり、致死量の血を失わずにすんだ塚本は、なんとか一命を取り留めた。病院で目覚めた塚本は、一六、一七駆逐隊の面々にもみくちゃにされた。部下の艦娘たちは、塚本が涙したのを初めて目の当たりにした。

 勝利に沸き立つ艦娘もいれば、冷静に未来を見据える者、しばし悲嘆に心を閉ざす者もいる。第七駆逐隊は、港にて身を寄せ合っていた。渋谷と摩耶の死を知らされ、誰よりも深い悲しみを、せめて仲間たちと分かち合おうとする。潮と漣は人目を憚らず号泣し、他の面々も声を殺して泣いている。陽炎は自身も涙を流しながら、メンバーを励ましていた。

 もう取り繕うこともない、と曙は思った。提督は死んだ。そのとたん胸の底から感情が一気に噴きあがる。思い切り息を吸い込んで泣こうとしたとき、隣から凄まじい慟哭が響き渡る。

 曙は涙が引っ込んでしまった。号泣の主は不知火だった。これまで、いつも冷静に隊を支えてきた不知火が、幼い少女のごとく叫ぶように泣いている。それを見た曙は、やはり少しだけ涙を流しながら、不知火を自らの胸に抱きとめる。提督、提督と嗚咽しながら、不知火は曙の胸に想いを吐き出していった。

 生き残った者の喜び。

 失われた者への悲しみ。

 それぞれの気持ちを抱きながら、人類と艦娘は新たな時代の始まりを迎える。

 

 

 

 最終決戦から四カ月が経った。

 世界中の深海棲艦は完全に機能を停止し、人類艦の砲撃によって簡単に撃ち沈められていった。ついに海は解放された。しかし、蹂躙しつくされた世界は、本来あるべき姿から大きく外れてしまった。海洋封鎖が解けてから、ヨーロッパ大陸では小競り合いが何度も起こった。深海棲艦による都市爆撃によって、ドイツの独裁者ヒトラーが死亡し、陸軍も壊滅的な被害を受けた。元首を失ったドイツは大混乱に陥るも、ドイツに顕現していた艦娘たちと、反ナチス派だった政治家・軍人たちが連携し、イギリスに渡って講和を取りつけ、フランスからも即時撤退した。ソビエトも似たような状態に陥っていた。スターリンが避難先の街で爆死してから、各民族が独立を求めて蜂起し、ウラル山脈を隔てて西側に旧ソビエトの遺志を汲むロシア社会主義共和国、東側にシベリア共和国連邦へと分裂、さらにコーカサス山脈付近には小国が乱立した。イタリアではムッソリーニが吊るされ、やはり艦娘の支援を得て海上輸送網を再建し、ファシズムに毒された国の立て直しを計っている。

 もちろん日本でも艦娘は大忙しだった。とにかく人間が生きるための食糧、燃料、生活用品の輸送が優先された。輸送船が全然足りないので、埋め合わせに駆逐艦たちが奮闘した。深海棲艦に破壊され、恐怖と欠乏の底に沈んだ世界の海は、非常に不安定になっている。とくに東南アジアでは海賊が横行した。そこで、輸送網を守るため軽巡や重巡も出動することになった。航路が安定したことで、トラックや他の泊地に取り残されていた艦娘も修理され、海に出ることができた。第二駆逐隊は村雨を、第一七駆逐隊は谷風を歓喜の中に迎え入れた。武蔵や長門といった、連合艦隊を代表する戦艦は、日本中の街に慰問に訪れ、ふたたびこの国が秩序と安定を取り戻したことを国民に知らしめた。

 こうして艦娘たちは、短い間だったが人類の復興のために働いてくれた。しかし、分かれの時がすぐそこに迫っていることも彼女たちは本能的に感じていた。

 一九四五年八月十五日。

 それが、飛龍から山口に伝えられた、艦娘がこの世界に存在できるタイムリミットだった。

 その日には、旧横須賀港に幾万もの国民が押し寄せた。港には、きちんと傷を治した艦娘の艦体がずらりと並び、磨き抜かれた装甲は太陽を浴びて美しく輝いている。艦娘たちは、ゆかりのある軍人たちと別れの挨拶を済ませていた。

「ありがとう、多聞丸。今度こそ、あなたと戦い抜くことができた。これ以上に嬉しいことはないよ」

 涙を湛え、飛龍は言った。山口は彼女の頭を優しくなでる。

「こちらこそ、ありがとうな、飛龍。俺の元に来てくれて。この国を、人間を救うために、もう一度共に戦うことを選んでくれて、ありがとう」

 飛龍は、父と慕った男と最初で最後の抱擁を交わす。

 第六、第八駆逐隊は熊勇次郎のもとに。

 潜水艦娘と五月雨は、福井靖のもとに。

 そして第一六、一七駆逐隊は、塚本信吾のところに集まる。皆と別れを済ませたあと、ひとり塚本のもとに駆け寄る娘がいた。

「お疲れ様でした」

 漣が笑顔で男の前に立つ。塚本は、かつての秘書艦に敬礼をおくる。

「願いは果たせたか?」

 不器用な笑顔で塚本が尋ねる。漣は敬礼を返しながら頷く。

「ありがとう、ご主人さま」

 そう言って彼女は七駆のもとに走り去っていった。

 七駆の前には、水戸涼子が立っていた。

「渋谷少佐に代わり、お見送りさせていただきます。世界を救ってくださった御恩は、未来永劫忘れることはありません」

 涼子は少女たちに敬礼する。さらに彼女は、第二二飛行隊を引き連れ、世話になった軽空母たちの前で別れと感謝の言葉を述べる。まだ軍人が艦娘に馴染めていなかった頃、喜んで艦載機と操縦士を迎えてくれたのは、鳳翔だった。涼子にとって彼女は、姉であり母のような存在だった。挨拶が終わった後、鳳翔は、ひとり涼子を追いかけて、その手を取る。

「あなたに出会えたことが、わたしの誇りです。これからも、あなたはあなたらしく生きてください。その正しい心と優れた技術をもって、人々を守ってください」

 にっこりと笑う鳳翔。涼子は、その手に涙を零した。

 艦娘たちは、それぞれの艦に乗り込む。甲板から、こちらに向かって手を振る大勢の人々が見える。皆、頬はこけ、身体は痩せ細っている。しかし、その瞳には希望が燃えている。大人たちは不屈の意志を。子どもたちは明日への喜びを。全員が未来を望んでいる。

 世界は、ここから始まるのだ。

 全艦を代表して、武蔵が出港の礼砲を鳴らす。

 戦艦を先頭に、つぎつぎと眩い水平線へと進んでいく艦娘たち。やがて最後の駆逐隊である第七駆逐隊が、きらきらと輝く海を渡り始める。しんがりを務める陽炎は、ずっと人々の笑顔で見つめていた。前世では軍艦として生き、戦争の悲劇を肉体と魂に刻んできた自分が、別の世界で再び戦う宿命を選んだ。だけど今度は艦だけではなく、人間の姿を借りて自我を持った。人間と同じように考え、感じて、笑い、涙した。この世界に顕現したとき、なぜ自分が少女の姿をしていたのか、ようやく実感できた。艦娘と人間は存在が異なる。でも、人類の系譜に溶け込めなくても、隣に寄り添い歩くことはできる。人間とは違うからこそ、人間は艦娘を通して自分を見つめ直すことができ、艦娘も人間に触れて、何が正しいのか自分で考えることができた。合わせ鏡のように互いの間違いを見つめ直し、ときに衝突し、紆余曲折しながらも、正しい道を進んで来られた。そして人類の歴史は途絶えることなく、希望のある未来に繋がった。

 全て、たった四年と少しの出来事。人類にとっては、ほんの一瞬。しかし、艦娘たちが懸命に生きた時間は、連綿と続く歴史のなかで、もっとも尊い輝きを放っている。

「さよなら、元気で」

 陽炎は呟く。

 人類よ、より善くあれ。

 その姿が水平線の向こうに消える。艦娘は皆、海へと還っていった。

 

 

 

 さらに時は流れ、艦娘が世界を去ってから十年。

 日本は変わった。戦後初めての男女普通選挙によって米内光正が総理大臣に選出され、理性派による盤石な支持基盤のもと、憲法改正および国体の改革がなされた。国民主権と三権分立が明記され、陛下の言葉は国民の総意であるという認識がもたれた。財閥は解体され、誰もが豊かになれるよう経済力の公平性が増した。さらに陸軍、海軍は国防軍という専守防衛の組織に改編された。陸軍省、海軍省は解体され、国防省の管理下に統一された。それにより陸海軍大臣現役武官制は完全に廃止された。軍の最高指揮官は内閣総理大臣とされ、陸軍と海軍、そして新たに創設された空軍の大将は、あくまで総理大臣の指揮を補佐する幕僚の長という立場となり、もはや政治に口出しすることはできず、民意に背いて戦争を動かすこともできなくなった。植民地としていた韓国、満州も返還され、平和的な経済支援のもと良好な関係を取り戻しつつある。ニューギニアでの虐殺をオランダに謝罪し、きちんと賠償も行った。それらの改革や政策は、あくまで国民ひとりひとりの支持により実現したことだ。日本国の民は、もう政府の言いなりにはならない。むろん、新たな日本国も、アメリカの属国ではない。自分の足で立ち、自分の頭で考え、正しい戦いを選びとることを、ある人物から学んでいた。

 深海棲艦という人類共通の脅威を生みだしたアメリカも、変わらざるをえなかった。民主党ルーズベルト大統領の後任として立候補したトルーマンは、共和党の代表として出馬したマッカーサーに敗れた。新たに大統領に就任したマッカーサーは、深海棲艦が出現した原因はアメリカの核実験であるという国家機密を公表した。これにより世界中から非難を浴びたが、もう二度と悲劇を繰り返さないためにも、大国であるアメリカ自らが新たな平和のための国際機関を設立することを決意し、ここに国際連合が誕生した。そして、日本国とともに安全保障会議を設立した。この動きにより、世界の意志も大きく変わり始める。際限なき欲望の権化である帝国主義の果てに行き着いたのは、深海棲艦による世界滅亡だった。平和共存を訴える力が強まり、植民地の返還および国際連合による秩序ある平和を目指すべく、国際協調主義の思想が各国に芽生えた。

 もちろん、戦争の全てを無くせたわけではない。ソビエト分裂や、ドイツの内戦、さらに独立を果たした植民地間でも小さな紛争が幾度となく続いた。それでも、世界中を巻き込むような大戦争は封じられ、世界はおおむね平和を取り戻した。

 

 旧横須賀鎮守府跡に建造された、平和記念海浜公園。

 穏やかな水面の光と優しい潮風を浴びながら、水戸涼子少佐はゆっくりと歩みを進める。仕事が休みの日には、よくこの公園を散歩する。かつて激戦を繰り広げた南方の海に想いを馳せながら。

 涼子は終戦後、新設された空軍に籍を移し、現在に至るまで領空を守護する第一級のエースパイロットとして活躍していた。ともに最終決戦を生き抜いた仲間たちも、それぞれの場所で活躍している。片腕を失った塚本は軍を退役し、今は国防省の職員としてシーラインの安全保障政策に携わっている。熊も、艦娘が去ってから軍を退いていた。現在は、世界中を行き来する大型輸送船の船長を務めている。福井は軍に留まり、技研にて艦娘のデータをもとに、新たな潜水艦と技術の開発に没頭していた。

 そして涼子は、公園の中央にさしかかる。そこには、ふたつの像が鎮座している。どちらも長い髪をたゆたせ、大きな意志と少しの寂しさを瞳に抱いて水平線の彼方を見つめている。互いに寄り添うように佇む、母娘のような美しい女性と、美しい少女。海の平和を願う像として、米内元総理が建てたものだ。涼子は、そのモデルとなった女性たちが誰なのか知っている。

 戦後、二・一七事件の首謀者とされていた幾田サヲトメに対する評価も改められた。平和な国をつくるため、大日本帝国のあらゆる弊害を道連れに地獄へと飛び込んだ女性提督と艦娘の物語は、今や映画化されるほど国民に浸透している。彼女が死に際に残した言葉は、国民精神の柱となっている。

 ふと涼子は、きらきらと輝く水面の光のなかに、懐かしい男の笑顔を見た気がした。

 摩耶が沈んだところを見た者は、誰もいない。今でも彼は、あの勇ましい重巡洋艦に乗って、どこかの海を渡っているのではないかと時々思う。

 海は繋がっている。いつか巡りあえる日もくるだろう。

 涼子は顔をあげる。生きる力の灯る瞳は、輝く波のさらに向こう、大いなる太平洋の水平線を見つめる。そこには、いくつもの艦影が日本を目指して進んでいる。艦娘たちの名は、日本を守る護衛艦や警備艇に引き継がれた。今見えるのは、護衛艦の「いせ」と「ひゅうが」だろう。「むさし」は九州方面、「ながと」は巡航任務中だ。

 そして護衛艦に付き添われて進むのは、熊が船長を務める大型輸送船「まや」。この国を育むための物資をもたらしてくれる、まさに希望を運ぶ船だ。多くの艦に支えられ、日本は再び立ちあがる。

 全力で生きていこう。艦娘が守り、人が紡いでいく世界で、この命尽きるまで。

 なぎさにて、若い魂が誓う。                        

 

 

                                     了

 




 第二十四話をもって、大人の艦これは完結です。
 ここまで読んでくださった読者の皆様に感謝します。日々の多忙により、本編制作は遅れ、感想への返信もままならない有様であり、申し訳ない限りです。そのような状況のなか、こうして最後まで走り切ることができたのは、ひとえに読者の皆様のおかげです。本当にありがとうございました。


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