上杉の章 新たな兵衛 (北極星)
しおりを挟む

プロローグ改 新たな旅立ち

三人称に統一した方が良いと思ったんで再投稿します。


 朝の鳥のさえずりが一人の男を起こした。

 体躯は優れ、肩幅や胸板も相応に鍛えられているのが分かるほどに発達している。一見、武勇に優れた将に見えるが、やや薄めの唇にやや高い鼻の上にある吊り上がった目にある色彩の薄い眼には狐のように狡猾で、厳格そうな顔つきで絶え間なく周囲を伺う神経質さが醸し出されている。腕の筋肉も槍を振るえるほど発達しておらず、手も多少のまめやたこはあるが、前線で暴れ回る者ほどあかぎれていない。

 人を見る目が多少なりともあれば彼が武将ではなく、策士であると悟る。

 外を見る表情は笑みがこぼれている。

 

「いよいよか」

 

 今日、彼はこの家から出なけばならない。

 三年前に前触れも無く突然やってきた男を迎えてくれて乱世を生き抜く為に必要なことを教えてくれた家を恩義も返さずに。

 当然ながら未練はある。だが、それ以上にこの家にいることのできない事情を作ったのは彼自身。

 割り切るしかない。

 罪人になったが、部屋からは出ることは普通に許されている。

 男は朝の気持ちいい日差しを浴びながらしばらく廊下を歩く。朝が早いせいか廊下には誰もいない。

 暇だと思った矢先に一人のふわふわとした雰囲気を持つ白い服をまとった女性と目が合った。むしろ少女という言葉がよく似合う。

 実際の年はあちらが少し上だが、端から見ると衝撃を受ける程の小ささである。

 そのことを言うと怒り心頭になり、色々とまずいことになるので男は一度だけ言ったきり言ったことはない。

「おはようございます」と挨拶をするとにこやかに明るく挨拶を返してくる。寂しさからか直ぐにその表情は少し暗くなってしまう。

 

「今日でお別れですか~淋しくなりますね~」

「しょうがないですよ。もう、こうなった以上は……」

 

「ですね~」としみじみと女性は返してきた。

 男がこの世界に来て一番最初に出会った二人の内の一人。

 そして、男の正体を知っていてそれでも嫌悪も警戒もせずに彼に政略、軍略という軍師としてのいろはを教えてくれたのは他でもない二人の女性。

 その内の一人である彼女は『師匠』という言葉が男にとってよく当てはまる。

 

「まぁ、またいつか会えるかも知れませんよ。ねぇ……」

 

「重さん」そう言うと重さんこと竹中半兵衛重治は「そうですねー」と表情を少し明るくして頷く。

 

「おはよう! 半兵衛ちゃん、龍兵衛」

 

 しばらく二人で談笑していると朝っぱらだというのにと思う程、元気な声が背中から聞こえてくる。 

 振り返ると半兵衛と同じくらいの背丈でその声の主である女性は白い衣装の半兵衛とは対照的な黒い服を身にまとう茶髪の女性がやってきた。

 

「おはようございます。官兵衛ちゃん」

 

 黒田官兵衛孝高。

 竹中半兵衛と共に後世で二兵衛と称される稀代の軍師。その間に挟まれるように立つのを男は嫌い、すっと身を引く。 

 

「おはようございます、孝さん」

 

 今日、官兵衛も男と一緒にこの家から出奔することになっている。

 彼女自身、元々はこの家にはある程度いる予定だったので今回がいい機会だったに違いない。

 だが、別れの前というのに官兵衛はいつも通りの元気いっぱいという感じである。それがこの方の取り柄であるのだが、それでも少し呆れてしまう。

 

「それにしても今日でお別れなのに孝さん元気ですねぇ」

「何言ってんの! 死に別れじゃあるまいし。また会えるよ」

 

 苦笑いが出てくるがもっともなことだ。

 いつか会えると思っていた男にもその言葉はすんなりと入ってきた。「また」と聞くと昔が蘇ってくる。頭に浮かんだのは全ての始まりの時だった。

 

「三年ですか……お二人に出会って」

 

 そう昔でもないことを大昔の事のように遠い目をして男が呟くと、二人もどこか懐かしそうに外を見る。

 

「そうだよね~もうそんなに経ったんだね~昨日のように思えちゃうよ」

「あの時は本当に驚きました。お山に龍兵衛ちゃんが倒れていたんですから」

「いや……あの時は自分も驚きました。突然この世界にいたんですから……」

 

 河田龍兵衛長親

 それがこの世界の男の名前だ。この名前はこの世界に飛ばされた時。名前を変えた方がいいと思って二人に頼んでつけてもらった。

 今思えば龍兵衛には聞き覚えがある名前だった。

 

「(河田長親は長尾、上杉家に仕えていた武将だろ。しかも、龍兵衛って通称じゃないだろ)」

 

 その時は色々な指摘を入れたくなった。 

 それはさておき。龍兵衛はいきなりこの世界に飛ばされた。もともと平成という平和ぼけした世から血で血を洗う戦乱の室町後期に飛ばされたのだから理不尽さを感じた。

 だが、龍兵衛にはそれ以上に驚くことがあった。それはこの世界では多くの著名な武将のほとんどが女性になっているということ。

 最初に半兵衛と官兵衛に出会った時には名前を聞いて正直驚きを隠すのに精一杯だった。疑ったが、信じることしか何故か出来なかった。

 とにかくそういう世界なんだ。そう自分に言い聞かせてた。今思えば、納得した理由が分からない。しかし、納得した以上、その住人にならなければ意味がない。

 

「それにしても……お二人はよくこんな自分を弟子にしましたねぇ。普通、捕られて斬られても自分は文句を言えなかったのに」

「まぁ、興味本位だよ」

 

 官兵衛が笑うと半兵衛もほっこりするような笑いを浮かべる。

 今思えばあの時は運が良かったのだが、あの時は最悪だと思った。

 何故そうなったかは知らないが、いきなり二人の目の前に龍兵衛は飛ばされたのだから。

 二人は言うまでもなかったが、相当驚いたらしい。

 当然である。うららかに散歩をしていた二人の目の前にいきなり人がやってきたのだから。

 あの時二人でなかったら斬られても龍兵衛はしょうがなかった。というか絶対に普通なら死んでいる。

 だが、お二人は警戒するどころか興味を抱き、ずずいっと龍兵衛に近付いて「どこから来た」だの何だのと質問攻めをしてきたのでさすがに参った。

 龍兵衛は取り敢えず、この世界の人間ではないこと。平和な時代から来たことだけを言った。

 そして、龍兵衛の事情を半信半疑ながらも知った二人は城下町の店で彼に合うような服を買い彼を着替えさせた後、城に連れて行くと言い出した。

 そこまでやってくれなくてもと思ったが、二人の名を聞いた時に確信していたが、ここは戦国時代。

 龍兵衛は一人でこの厳しい乱世を生き抜くのは不可能だと思い。二人の意見に従うことにした。

 そして意を決して二人に頼んだのだ。

 弟子にしてほしいと。

 二人は当然のごとく大層驚いていた。

 どこからどう見ても剣や槍を振るったほうが似合っているような体格をした男が軍師の弟子になりたいと言い出したのだからそれはしょうがないことだろう。

 これはあまり人には教えていないが龍兵衛には元の世界で肩を怪我した経験がある。そういう人が槍働きには限界があると考えた。故に軍師となること選んだのだ。

 

「まぁ、龍兵衛は軍師としての才能は元々結構あったし。修行の他にも剣術も習っていたけど、やっぱりそっちの方が良かったんじゃない?」

「いやいや、自分はやはり体より頭を動かす方が好きなので」

 

 これは紛れもない龍兵衛の本音だ。龍兵衛はもともと運動は決して得意ではない。

 一応は野球をやっていたのでそれなりに運動神経と体力はあったが、部員の中では最下位から数えた方が早かった。

 案の定、剣術の鍛練はやってはみたが、最初の三ヶ月は筋肉痛と肩の他にも抱えている持病の腰痛が悪化してその痛みがずっと続く毎日だった。ちなみに言っておくが、決して龍兵衛は爺ではない。

 だが、おかげでそれなりの人とも切り結ぶことが出来るようにはなったので良かったのだから良しとしている。

 

「それにしても、剣術の鍛錬にあの人はきつ過ぎましたよ」

「一鉄さんは容赦を知りませんからね~」

「まぁいいじゃん。それで龍兵衛それなりに強くなったんだし」

「……孝さん、完全に他人事だと思っているでしょ?」

「あったり前じゃん!」

「はっきり言いやがったよ、まったくこれだから孝さんは……」

 

 両脇に手を起きながら堂々と言ってくれた官兵衛に呆れたような溜め息を吐く。

 師弟関係ではあるが、普段はこういう軽い感じで接している。

 そもそも、師匠の二人がそういう方がいいと言ったので遠慮なくそうしてもらっている。

 

「さて……そろそろ支度をしておかないと。孝さんは確か小寺の実家に帰るとか。親孝行ですか? 珍しいですね……これは天変地異の前触れですか」

「ちょっ! それどういう意味!?」

 

 こういったからかいにはすぐに乗ってくる官兵衛。

 これだから官兵衛は非常にからかい甲斐がある。その為に色々と龍兵衛はいじっている。

 

「要は有り得ないということだな。龍兵衛よ」

「おはようございます一鉄殿。流石ですね、察しが早い」

「ちょっとちょっと! 二人して何なの!?」

 

 珍しく冗談を言う稲葉一鉄。これの方が天変地異の前触れに相応しいと半兵衛と龍兵衛は思ったが、わたわたと手を振って抗議する官兵衛の方が今は面白い。

 だが、それも今日で終わりとなる。

 

 

 

『先の罪により河田龍兵衛長親と黒田官兵衛孝高を国外追放とする』

 

 美濃の国々や周辺国には大々的にそうふれ回っているが、何故か主君とその跡を継ぐ女性は今はその罪人二人に頭を下げている。

 

「感謝するぞ、官兵衛に龍兵衛よ。そなたらのおかげで我々はあるべき姿になれたのだ。そして、すまぬ……このようなことになってしまい……」

「道三様、決してそのような……我々は道三様たちを思ってとった行動です。お気になさらずに」

「そうそう! やりたくてやったんだから別にいいって」

 

 官兵衛たちの言葉に二人はまた「すまぬ」「ごめん」と頭を下げた。

 白髪混じりの髪に威風堂々とした歴戦の老将を思わせる風貌の男性。

 斎藤家当主斎藤道三。

 斎藤家に仕え、二兵衛の教えを受けることが出来たのは道三の許可が無くてはありえないことだった。

 だからこそ龍兵衛が本当に感謝するのは道三なのかもしれない。否、絶対にそうである。

 道三もかつてご自身が商家から後ろ盾なく自分の人生を始め腕一本でここまで成り上がったのだから龍兵衛のように身分も定かでない人も入れることが出来たに違いない。

 

「これがお主が求めた感状じゃ。しかし、本当に良いのか? それだけのもので。他にも旅費なども必要最低限しか求めずに……道中何があるかわからんのだぞ」

「いやいや、普通こんなこと追放される人にするのがおかしいのですよ」

 

 龍兵衛が笑いながら言うと同調するように皆が笑い合う。

 このような楽しい時間は残念ながらもう無い。

 龍兵衛は最初、蝮と言われる道三がどんな方なのかビクビクしていたが、実際会い、段々気心が知れるようになればどこにでもいる気前の良い人物だということが分かった。

 忠義を尽くす配下の面倒を下々まできちんとよく見ている。話してみれば抑揚のある話術を巧みに使う面白い御仁だった。

 今回も龍兵衛達が他国に渡ることを承知の上で送り出してくれる度量。普通の人にはならば到底無理だ。 

「二人ともありがとう。感謝する」

 

 そして、そのとなりにいる薄い水色の髪をした美しい道三の愛娘である女性。

 斎藤義龍。

 昔が嘘のように晴れやかな表情をしている。

 あれだけ自分を出すのが苦手だったのが今では自己主張も少しずつしてくるようになり、その優秀さが前に出て彼女を知る人には次期当主としてふさわしい存在であると思わるまでに成長している。

 本来なら龍兵衛が品定めするのは無礼極まりないことだが、一鉄に叩きのめされて倒れている龍兵衛に水を差し出したりと色々と影で感謝しきれないことをしてもらっていた。

 

「では、そろそろ……」

 

 一鉄がもう時間が無いと申し訳なさそうに言ってくる。道三も名残惜しそうに頷く。

 来るべき時がとうとう来たのだ。

 

「達者でな。官兵衛に龍兵衛よ。いずれまた会おうぞ」

「道三様は長生きするよ、大丈夫だって!」

「そうです。父上、もっと生きてもらわないと困ります」

「はっはっは! そうじゃのう、今度会うときは儂ららが捕らわれるか捕らえるか楽しみじゃのう」

「頑張って捕らえる方にしたいですよ自分は」

「よう言うわ……じゃが、楽しみにしているぞ。時代に飲み込まれるな。龍兵衛よ」

 

 薄く笑いながら承知したように頭を下げる。

 道三はよく「時代に飲み込まれるな」という言葉を言っていた。

 時代は変わるからこそその波に乗り、飲まれることがないように必死に生きて来た道三。その道三が言うからこそ説得力がある。

 

「では檻車に乗ってくれ……はぁ、まさかこの年になって恩人に仇なすようなことをするとは思わなかったがな。二人ともくれぐれも気をつけるのだぞ」

「道三様~その台詞もう聞き飽きました~」

「ははっ、半兵衛にまで言われると凹むな」

 

 天にまで響くような高らかな皆の笑い声が連なって出たのはこの時が初めてだった。そして、最後である。

 

 

 檻車に乗った。道三様と義龍様、重さんは城から出ることはできないためここでお別れとなる。別れを惜しむ声が聞こえると様々な感情がごちゃ混ぜになって意味の分からない音が心の中で響く。

 だが、それ以上に至近距離で聞いた寺の鐘の音の如く胸に響いたのは半兵衛の声だった。

 

「さようなら。百山龍広さん」

 

 未来永劫もうその名前で呼ばれる事はないだろう。半兵衛も金輪際その呼び名では呼ばないに違いない。

 本当の名前を捨てることは思ったよりもきつかった。しかし、生きる為に龍兵衛はそれを捨てることが出来た。架空の通称に付けて欲しいと言った。故に捨て切れてはいないだろうが、ほとんど捨て去ったと見て良い。

 そう言い切れる自信が龍兵衛にはある。

 

 

 列は粛々と見慣れた稲葉山城の城下町を通る。

 二人に嘲笑や罵倒の嵐。刺さるような差別の目が注がれる。

 それでも、列は進んでいく。隣の官兵衛をちらっと見るとそれがどうしたとでも言いたげな、なんとも清々しい顔をしている。

 やはり、今も昔も変わらない。真実を知るは己自身のみだ。人は波に流されて実情を知ろうとはしない。

 だが、見てくれる人は必ずどこかにいてくれる。

 かつての世界でもあったような理不尽な仕打ちを今、龍兵衛自身が受けている。本当は不満や怨念を声に込めて声高に叫びたい。

 だが、そうしたら負けだ。

 もどかしい。このようなことは龍兵衛の過去にあった。

 訳も無くいじめを受けた。ある時は理不尽に殴られ

、またある時は失敗を半年も引きずられ、先生に助けを求めてもなにもしてくれず。さらにちくったことでいじめは悪化した。

 あの時、父が住んでいた地域に影響力を持つ人でないとどうなっていたことやら。今でも想像するだけで鳥肌が立つ。

 親の七光りなのは知っていた。自立したかった。

 だからこそ、周りからの差別的な声を無視して野球を続けた。それを聞いた近所の人々は龍兵衛を侮蔑した。あること無いことをでっち上げていることも知っていた。

 だが、父は親族の蔑みに対して怯むこと無く生きているお前は立派だとずっと背中を押し続けてくれた。

 嬉しかった。ただそう思った。ある事件で心の疑念が生まれるまでは。

 

 

 

 

 龍兵衛は幾日か経った間に官兵衛とも別れた。

 官兵衛は畿内方面に行くことになっていた。俺は北の飛騨の方面に向かうことが決まっていた。

 これが龍兵衛達の希望でこうなったということは余談である。しかし、重要なことでもあった。

 

「守就殿、今までありがとうございました」

 

 護送してくれた安藤守就に頭を下げてお礼を言う。

 一鉄と今、官兵衛を護送している氏家直元と共に美濃三人衆と呼ばれている勇猛な将である。

 守就は口は固い故に信頼を集めている。彼は口元だけ少し笑わせて気にするなと言った。

 

「龍興様が来ないのは残念だがな」

 

 斎藤龍興はこの世界では道三の息子で義龍の弟にあたる。

 今は美濃にあるとある寺で修行に励んでいる為に美濃にはいないのだ。

 

「まぁ、いたらいたらで毒吐いてどっか行ってそれで終わるだけですけどね」

 

 龍兵衛の洒落に今度は守就も声を出して笑った。

 

「そろそろ兵士たちも不審がるだろうし、残念だが、もうお前ともお別れだ……」

 

 守就は腰を上げてゆっくりと歩き出す。今、二人きりで話していたことも今日で終いだ。

 兵たちは二人がこの茂みの影から出てくるのを待っているのだ。最後、龍兵衛に一言言ってやりたいと言う守就の言葉を兵たちはあっさり信じた。彼の人望には本当に感心してしまうばかりである。

 ここにいる間どれだけのことを教わり。そして自らを高めていっただろう。

 生きる為に人を殺し、騙すことも厭わないこの時代でだ。

 最初は躊躇った。一度やればもうどうでもよくなった。初陣の最後は吐いた。今までに無いくらいに、血が出るくらいだった。

 だが、それも受け入れ、乗り越えた龍兵衛は今、ここにいる。乗り越えるべきものは乗り越えて来た。おそらく今後は全てを受け入れて生きていく事になる。

 この世界で生き抜く為にやるべきことの多くをこの斎藤家で教わった。今度はそれを活かす番だ。

 やってやろう。出来ることを出来る限り。そして、師匠二人に追い付くよう頑張ろう。 

 決意を胸に笠の紐をきつく締め直した。

 兵達の聞くに耐えない罵声を背中に聞こえる。だが、そのようなものは今となってはただの煩い雑音にしか過ぎない。

 龍兵衛は特別に与えくれた馬に跨がり自らが決意をここに自分に誓い彼は一路、越後へと一人で向かって行った。




ずっと迷っていましたが、今回変更に踏み切りました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一話改 越後へ

矛盾点を直しました。この時はノープランで始めたので。本当にすみません


 

 春日山城では長尾景虎が越後であと一つの反抗勢力である坂戸城の長尾政景を討伐すべく準備を進めていた。

 春日山ではそのための軍議が進められていた。戦前だが、広間の雰囲気は和やかである。

 

「いよいよ、政景殿のみとなりました。坂戸城には約二千の兵がいる模様」

 

 かつて景虎の反抗勢力の国人衆の一つの勢力で軍師をしていた天城颯馬は景虎にその才能を惜しまれ投降した。当初は怪しむ者もいたが、今や景虎の軍師としてその能力を遺憾なく発揮している。

 

「つきましては、私が先に提出した策がよろしいかと」

 

 上杉には軍師が颯馬以外にも二人いる。一人は今、軍議の様子を見守っている頭に耳をつけた女性、宇佐美定満。彼女は景虎が当主となる前から長らく長尾家に仕えている。

 

「いいえ! 私の策の方が絶対に上手く行きます!」

 

 そして、颯馬の策に喰ってかかる女性、直江兼続。

 武将としても仕える彼女は感情的であるが、裏表の無い人物で景虎に見出された人物である。

 

「なんだと!? 俺の策のどこに駄目な所が有るんだ!」

「絶対に私の策の方が今後に繋がる! 私は今後を考えて策を立てているんだ。今後を考えずに行動できずに何が軍師だ!」

「今、確実に勝たなくては今後はないだろう!」

 

 歯を牙のごとくして睨み合う二人、年も近いことがあって軍議の場でも無遠慮に言い合うことはいつものことである。

 

「まぁ、二人とも落ち着いて、定満殿はどう考えています? お二人の策について」

 

 ここで毎回二人を止めるのが役目の男性、水原親憲。

 越後で強力な国人集団、楊北衆の古参に入る人物であり、武勇に長けた勇将である。

 親憲に振られた定満は雰囲気のままに穏やかに口を開く。

 どちらの策が良いか、軍師としても家臣の中でも最も発言力のある定満の答えを颯馬と兼続は内心自身の策が選ばれることを期待しつつ待つ。

 

「どちらの策も捨てるには惜しい。だがら、どっちの策も取る。いい?」

 

 言っていることが良く分からないという雰囲気が軍議の場に流れる。

 

「どっちの策も同時に出来ると思うの。違う?」

 

 この言葉に言い合っていた二人は頷く、どちらの策も同時進行は可能だ。定満はその方向で行くべきと考えた。

 

「まぁ、今回は構いませ……ん」

「何、お前が譲ったようにしてんだ!」

「二人とも、もう喧嘩しちゃ、めっ、なの」

 

 定満の迫力に二人は頭を下げる。

 何故か定満の「めっ」は迫力があってみんなが言うことを聞いてしまう不思議なものである。

 

「それで颯馬君の策は兼ちゃんが。兼ちゃんの策は颯馬君がするの」

 

 颯馬、兼続にとっては承服し難い意見ではあったが、景虎が面白そうにそれはいいと言って結局その方向で行くことになってしまった。

 

「そうだ。軒猿から報告があったのだが、どうやら美濃で起きた配下の反乱の首謀者が死罪になったそうだぞ。それから、関連した二人の軍師が追放されたそうだ。ま、今はどうでも良いがな」

 

 軍議の最後に自らが抱える有能な忍からの報告をそれとなく景虎は話す。すると、兼続が直ぐさま反応した。

 

「当然の報いです! 主家に抗うなど愚の骨頂です!」

「ふむ、確かにそうだが普通は首謀者でなくても斬られると思わないか?」

 

 景虎の疑問は当然で謀反を行った以上、首謀者はもちろん、関連した人物も斬られるのが普通である。

 

「そういえばそうですね……ですが、景虎様。今は遠国の事よりも我らの手で越後を統一を早く終わらせることが先では?」

 

 兼続の上段隣に居る長身の女性、小島弥太郎は武勇に優れ、また兼続にとって景虎に推してくれた彼女には多大な恩がある。 

 

「そうだな。ま、そなたらが私を見限るなら堂々と裏切って欲しいな」

 

 景虎は悪戯っぽい笑みを浮かべながら物騒な事をさらっと言う。

 

「景虎様、またそんなことを……」

「意外に茶目っ気があるからなぁ」

 

 少し呆れる程余裕のある親憲や颯馬と違って、冗談の利かない所がある兼続は顔を真っ赤にして「そんなことは無い……そんなことは……」と小声で言っている。

 それを見て声を上げないように笑っていた景虎だが、直ぐに戦前の真剣な顔に変わる。

 

「実及、そなたに留守を任せる。よいな?」

「かしこまりました」

 

 ゆったりと本庄実及は頭を下げる。彼女は地味だが、謙信の師としても信頼高く。留守を任されるがそれほどの信頼と能力を持ち、筆頭格の定満と対等に話せる数少ない人物でもある。

 

「すでに長重と景家を出陣させている。我々も準備出来次第直ちに出るぞ」

 

 家臣全員が「御意」言ったのを聞いて景虎は軍議を終わらせる。

 

 

 日が丁度、真上に差し掛かった頃、龍兵衛は山賊に囲まれていた。

 

「何でこんなところに山賊がいるんだよ?」

「うるせえ、何でもいいから早く身包み置いていくんだ!」

「断るって言えばどうなるんです?」

「んだと? おい、やっちまえ!」

 

 何人かが斬りかかってくる。今、龍兵衛は飯山にもう数時間の山道にいた。普通、城下の近くには山賊はいないはずだか、と考えながら山賊を迎え撃つ。

 直ぐに片付く。そう考えていたが、思っているより人が多い。細道で一気に周囲からやられることはない。だが、人数が多くいる。

 剣術は決して苦手では無いが、かつて高校時代に入りたての下級生に走り込みで負けるほどの体力しかない龍兵衛にはちょっときつく。五人ぐらい斬ったところで息が上がってきた。

 

「(あと、十人はいる。やっぱり逃げようか……)」

 

 遠回りになるが馬を走らせれば撒くことが出来る。そう考えた龍兵衛が身体を反転させようとした瞬間だった。

 いきなり横から槍が目にも止まらない速さで飛んできて一人の山賊の首を貫いた。驚いて龍兵衛がその方向を見てみると、そこには青を基調とした露出度の高く、上は胸を隠すべきところだけを隠し、下は下着が丸見えの服を着た女性が立っていた。

 

「うーん、ここまで来れば大丈夫だと思ったんだけどぉ。やっぱり山賊はどこにでもいるのね」

 

 女性は龍兵衛に目もくれず、すでに事切れている山賊の一人から槍を引っこ抜くとあっという間に山賊を斬り捨てていく。その様は蟻の大群が人間の足に踏まれるようで、山賊は斬り掛かる前に次々と死んでいく。

 残った山賊の連中もその強さを見て、慌てて武器を捨てて逃げ出してしまった。追撃せずに女性は息を吐くと龍兵衛の方に視線を向け「大丈夫?」と声を掛けてくる。

 一方の龍兵衛の方は思わずその女性を見て衝撃を受けた。決して顔が綺麗だとか胸が大きいとかそういうものではない。

 

「なーにぃ? ぽーっとしちゃって……あ、もしかしてあたしが美しくて見とれちゃった?」

 

 勘違いも甚だしい。それ以上に何でこの人がここにいるのか。それが龍兵衛が女性をまじまじと見ている第一の原因である。

 

「な、なな……」

「ん、何? どうしたの?」

 

 龍兵衛は失礼などの考える暇もなく、女に指を差した。

 

「何で前田慶次がここにいる!?」

 

 

 

 

「なーんだぁ、龍ちんって斎藤の蝮のところにいた軍師だったんだ。そりゃ私のことも知っているわねぇ」

 

 二人で山道を歩きながらここまでの経緯を語り合った。どうやら、慶次は養父も死んで織田に居るのも飽きたらしく出てきたらしい。

 今は友好的だが、織田家先代の当主、織田信秀の時は何度か戦っていた相手だ。そこで遠目だが、前線で戦っている慶次を見たことがあった。

 その時は三人の軍師がそれぞれ思い思いの場所に置いた伏兵に囲まれながらも平然と突破をして陣に戻っていったのでよく覚えている。

 だが、その呼び名は正直なんかむずかゆい。

 龍兵衛はそんなあだ名なんてつけられたことが無く、いきなりそんな仲のいい友達みたく接してくる慶次に困惑した。だが、決して馴れ馴れしさを感じることはない。

 前田慶次はかなり破天荒な性格と噂があったことも思い出した。

 向こうがそう呼んでくるため、龍兵衛の方も遠慮なくでいかせてもらっている。

 

「でも、軍師には見えないわ。その体格」

「よく言われるよ」

 

 龍兵衛はかなり大柄な体格をしている。

 戦国時代の平均的身長を考えれば当然だが、よく武将と間違えられる。この世界に来て少し痩せたが、体格はさらに良くなった。そのせいか背も伸びたが、彼自身の自覚は一切ない。

 それが仇となって初陣の際は敵方の将兵の的になってしまい、一鉄に助けてもらっていたという情けないことをしている。

 

「で、慶次はこの後どうすんだ?」

「えーと、あたしはとりあえず……どこに行こうか迷ってた。龍ちんは?」

 

 聞いて呆れるこの発言。龍兵衛はずっこけそうになったのを必死にこらえた。

 

「……俺は長尾に行こうかなと思っていた。ついでだ。行ってみないか?」

「そうねぇ……行ってみよっか」

「軽いな……だけど、今は長尾景虎殿は春日山にいないんじゃないかな?」

「え、どうして?」

「知らないのか? 噂によると坂戸城に向かっているらしいぞ」

 

 そう言うと慶次も龍兵衛の言ったことを理解したように頷いた。

 だが、少し考える仕草をすると嫌な笑みを浮かべてしながら肩に乗っかってくる。胸が当たっているのだが、龍兵衛は気にしない。

 

「ねぇ、なら坂戸に向かわない?」

 

 慶次はとんでもないことを言ってきて龍兵衛を驚かせた。そんな龍兵衛にも構わず慶次は続ける。

 

「別に大したことじゃないわよ。ちょっとした道場破りみたいなもんよ」

「ちょっとしたことではないんだが……」

 

 慶次の言わんとすることは龍兵衛もわかる。一鉄に剣術は教わったので別に構わないが、決して一騎当千というわけではない。

 

「俺はそんなに強くないぞ?」

「別にいいわよ。それにさっきの見てたけどそんなに弱くないじゃない。いざとなったら私が守るから」

 

 もう少し軍師らしい売り込みをしたかったが、守ってくれるならいいだろうと龍兵衛は結論付け、口元をつり上げる。

 

「はは、面白いな噂通りの風来坊のようだ」

「あら、そんな風に呼ばれてたのあたし? あと、龍ちん笑顔が怖いわよ」

「そういえば、よく師匠にも言われたなそんなこと」

「師匠ってだれ?」

 

 二兵衛のことを言うと慶次に大層驚かれた。二兵衛はかなり尾張でも有名らしい。

 

「あ。そういえば、あたしも聞いたことある。二兵衛に継ぐ三人目の兵衛がいるって」

「……とりあえず行こう。坂戸に早くしないと戦が終わるぞ」

「話を逸らすの下手ね……まっ、いっか。よ~し、久しぶりに暴れるわー!」

 

 からかうような笑みで何か言おうとしていたが、龍兵衛は気にしない。

 

「ねぇ、一つ聞き忘れたことがあるんだけど?」

 

 善は急げと立ち上がろうとした時、慶次が口を開いた。

 

「斎藤でさ、最近内乱が起きたじゃない? あの時、首謀者は処刑されて、関連した二人の将が追放されたらしいけど」

「首謀者って誰だ?」

「あら、知らないの?」

「あいにく、その前に追放されたからな」

「えっと、確かね……」

 

 耳を傾け、名前を聞くと龍兵衛の目はたちまち大きく見開かれた。

 

「嘘だろ……」

「ほんとよ」

 

 龍兵衛が聞いた名前は信じたくないことだった。だが、慶次は京からこっちに来た時に美濃を通って来た為、間違い無いと見ていい。

 道三たちは台本を書き換えたようだ。それが彼自らの命令か他の者の仕業かはわからない。

 

「(どこかで落ち着いたら調べなくてはならないな)」

 

 龍兵衛は密かになるべく早く坂戸に向かおうと決心した。

 あの事件は決して龍兵衛ら以外は傷付かないはずだった。長尾に仕えられると決まった訳ではないが、早く身を落ち着かせたい。

 

「(もし。あの方が自らそうしたのなら、その責任は自分にもある)」

 

 龍兵衛からすれば自身達が捲いた種から要らぬ犠牲が出たと感じてしまう。

 彼は暗い雲が心を覆ったような気持ちになった。

 その日、もう自分から口を開くことはなく、暗い表情をしたままずっと下を向いていた。

 慶次もその雰囲気から何かを感じ取ったのかその日の口数はめっきり減り、順序よく坂戸に向かうことが出来た。

 

 

 しかし、翌日に完全な別人となった龍兵衛も見て、さすがの慶次も驚きを隠せなかったのは別の話である。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第ニ話改 乱入

 坂戸城では長尾政景が一人部屋で考え込んでいた。

 若者らしく髭一本も無い真面目そうな顔をした彼の頭にあるのはこれからの戦のことではない。今後の事である。

 

「おう、政景ここにおったか」

 

 許可なく襖が開き、入って来たのは頬に傷が残る老人だった。

 

「これから軍議だぞ、当主たるそなたがいないでどうするんだ? まさか、あの小娘相手に怖じ気づいたわけではあるまいな?」

「いえ……そういうわけでは……」

「なら、早く来い。待っとるぞ」

「わかりました……」

 

 抗えない自分に怒りを抱きながらも屈するしかない。

 

「すぐに向かいます……」

 

 政景の父、長尾房長は聞くに耐えない下卑た笑い声を上げて出ていった。

 今回の反乱について政景は決して賛成ではなかった。景虎のことを高く評価していて自分よりも越後の君主にふさわしいと考えていた。

 雰囲気から器、知勇まで全てが違う。彼女は誰にでも慕われる武勇を持つが、それを自慢するような事は一切無く、民をよく慈しみ、末端の兵士にまで行き届いている。

 だからこそ、彼女が越後統一の旗揚げをした際、味方になろうと一番に腰を上げようとしていた。

 だが、今の彼は隠居したはずの父や世の情勢を見えていない家臣たちの強引な手段により反景虎の筆頭に押し上げられた。

 今までは他の国人衆や豪族が上手く連携していたため、対等に渡り歩いてきたが、所詮は連合である。

 一度負ければ彼らは自分たちの利益を考えるようになり兵を積極的に出さなくなり、お互いに牽制しあうようになってしまった。

 肝心の房長も景虎を低く見ていていずれ崩れると考えてまともに戦おうともしない。

 負けに負けを重ねた彼の勢力はもはやこの坂戸城にしかいない。殆どの味方が降ったり、野に消えた。

 それでも父の房長は小娘小娘と景虎の事を見下している。全ての負けを国人衆のせいにして自らは後ろで酒でも飲んで戦勝報告を待っている。

 そして、負けた国人衆を吊し上げて全員の前で罵倒したりと散々な目に合わせてきた。それに嫌気がさして景虎に降った者も少なく無い。

 最近では諫言をする者を斬り捨てるような事も普通に行っている。

 もはや狡獪な父の存在は誠実な政景にとって邪魔者以外の何者でもない。だが、こうなった責任は自分にある。

 そう考えていた政景は自分の命はともかくも家族の命を救えないか模索し続けている。

 失敗すればその者は大丈夫でも他の者は滅ぼされかねないと意を決した政景は人を呼ぶと一人の人物を呼ぶことを命じた。

 

 謙信の下に政景側から使者が来たのはその日の夜だった。

 

「久しいな、景虎。もう何年も会っていなかったな」

「お久しぶりです。姉上、御壮健そうで何よりです」

 

 景虎が姉である綾が密かに使者としてやってきていた。

 綾は生来、身体があまり丈夫でないため、早くから政景の細君となっていた。

 その綾と景虎は二人きりで話をしている。これは仙桃院たっての希望で景虎も了承した為、颯馬や兼続も相手が主君の姉では無碍には出来ずに承諾した。

 仙桃院から話の内容を聞きこの戦いの全容を知った景虎はしばらく目を瞑り考え込み、しばらくしてゆっくりと目を開いた。

 

「わかりました。政景殿のことはどうにかしましょう。しかし……」

「房長様のことは気にしなくていいわ、政景様も覚悟は出来ているようだし」

 

 互いに頷いて短い会談は終了した。

 その後、景虎は主だった将を集め、こう命じた。

 

「政景は生かして捕らえよ」

 

 

 翌朝、景虎軍六千、政景軍二千が坂戸城付近の平野に集結した。しかし、どうみても政景は有り得ない行動を取っている。彼は細道も伏兵をおく場所も無いような所に陣を張った。

 軍略に長けている政景らしくない。誰もがそう思った。さらに彼を低く見るようになった。

 そもそも、そのような連中は彼の思惑を知っているものはいないのだが、政景にとってはれを知る必要も無い連中だった。

 越後に関わらず北陸地方一帯は山が多くこちらから見えにくくても向こうからは兵を置く所がある所もある。

 政景が選んだ決戦の地も例外ではない。ましてや、この地は政景の庭のような物、どこに兵が置けるかなど調べるまでも無いのである。

 戦は始まった。当初は誰もが予想したように景虎軍優勢だった。兼続、颯馬の策も思う通りに進み、はっきり言って楽な戦であった。

 突然の襲撃が無ければの話である。

 

「左翼に敵の増援が、こちらに真っ直ぐ向かっています!」

「何!?」

 

 本陣で指揮を執っていた颯馬には信じがたい知らせであった。大半の部隊は敵本陣に向かっている。慌てて兵を戻せば混乱状態になりかねない。

 だが、次の報告が颯馬の足を止めた。

 

「申し上げます! 敵の伏兵部隊が攻撃を中止し、撤退を始めている模様! どうやらお味方が敵の背後をついたようです」

 

 颯馬にとっては吉報ではあるが、そんなところに兵を置いていなかったし、兼続も定満もそのようなことをしてはいなかったはずだ。

 

「(一体誰が……)」

 

 そう考えた時、颯馬同様、本陣にいるべき人物がその方向に出て行った。

 

 

 龍兵衛と慶次は返り血をあちこちに浴びながら背中を合わせていた。

 

「うーん。思ったより敵が多いね。こりゃ、さっさと退いた方がいいかもしれないな」

「なにいってんの! これが楽しいんじゃん。わかってないね~龍ちんは」

「あのな。俺は身体じゃなくて頭を動かすのが専門なんだからしょうがねーだろ!」

 

 言い合っているが、二人はもう何十人という兵を斬っている。明らかに慶次の方が斬った数は龍兵衛の倍はいってるが、彼女は疲れを全く見せていない。

 二人は敵が襲いかかってこないのを見ると間を取って休憩している。

 

「第一に俺は前線で兵を直接殺ることなんて二度、三度ぐらいしかないんだから」

「その割には強いじゃん。この戦が終わったら手合わせを・……」

「却下」

「もう少し考えてくれてもいいじゃない……」

 

「のりが悪いわよ~」と二人がこんなやり取りをしている間も敵はこちらをいかに殺そうと見ている。

 一応、兵の数は徐々に減っている。この部隊を率いる将が撤退を命じているのかもしれない。

 だが、いくら何でも二人対数百人はきつい。それだけで済めばいいが、下手をすればすでに死んでいる。

 もともと二人は戦場のどこかで乱入するつもりでいた。だが、いつ、どこに踏み込むか図っていた時にこの別働隊を見るとそれに気づかないように付いて行けば景虎の本陣付近に到着して指揮を執っているであろう将が号令をかけて景虎軍本陣に突入しようとしていた為、二人はどちらかともなく背後から襲いかかったのだ。

 

「とはいえ、お前は疲れてないのか? 俺はもうかなり体力が消耗しているんだが」

 

 慶次にはそんな様子はまったくない。むしろ生き生きとしている。

 

「これからよ、私の見せ場は」

「余裕だね~一緒にいる俺の身にも……って解るわけないか」

「うん、わかんない!」

「(はっきり言うな、はっきり)」

 

 龍兵衛が内心、毒づいた時、敵が騒ぎ出した。

 攻めかかってくると龍兵衛と慶次は構えるが、どうやら敵はこちらではなく、後ろを見ているらしい。

 どうやら、景虎の軍勢がこちらに来ているようだ。背中を見せたその隙を見逃すような手ぬるいことを二人がするはずもなく、再び容赦なく敵を切り刻んでいった。

 

「終わったかな?」

 

 しばらくして敵は完全に討ち払った所で龍兵衛は独り言のように呟く。

 

「(何人斬っただろう?)」

 

 初めてこんな数を斬ったのは龍兵衛にとっては初めての経験だった。

 でも、やっぱり現代人の性格だろうか、人を殺すことは今までにもあったが直接殺した後というのは罪悪感がどうもある。

 この乱世では殺やなければ自分が殺られるのは分かっている。

 斎藤家でそれを嫌というほど知ったが、やはり拭えない物である。

 

「で、そこで何をしているんですか?」

 

 龍兵衛と慶次がその方向を睨む。するとすぐに一人の白い服を着た女性がやってきた。

 

「ふむ、二人ともあれほどの人を相手にして私に気付いていたか、やはりただ者では無いな」

「何を言いますか、自分はただの……」

「あらぁ、わかっちゃた? いやぁ、あなた人を見る目があるわね~」

 

 ただの人と言おうと思ったら慶次の奴が華麗に持っていきやがってくれた。「ふざけるな!」という気持ちをぐっとこらえて龍兵衛は溜め息一つで済ますことが出来た。

 

「私は前田慶次って言うの。ねぇねぇ、あなたの名前は?」

「おいおい、いきなり失礼だろ」

 

 初対面の人にいきなりこう接することの出来る慶次はある意味凄いな、龍兵衛には絶対最期まで出来ないような事だとどこかで感心している。

 

「いや、別に構わんぞ。私は長尾景虎と言う。良かったら我が軍に来ないか?」

「「……え?」」

 

 龍兵衛と慶次の声が重なった。

 

「ん、突然のことで驚いてしまったか? 別に無理とは言わないぞ、嫌なら断って構わない」

 

 そこでは無いと手を立てて龍兵衛はもう一度聞き返す。

 

「いや、それより、あなたのお名前をもう一度お願いしたいのです」

「ああ、長尾景虎だ」

「「はぁーーーー!?」」

 

 しかし、何故当主自らここまで来るのか。逸話でも色々と言われているが、実際に普通じゃないところがあるのかもしれない。

 そう思いつつ龍兵衛が何故ここにいるのか景虎に尋ねると平然として答えた。

 

「やはり、自分でしっかりと目にしておく。それが一番だ」

 

 訳わからん。慶次でさえ驚きで目が点になっておる。とりあえず龍兵衛たちは景虎の本陣に向かい、話合いをすることになった。

 本陣にて改めてお互いに自己紹介をする。

 とりあえず今までの経緯を説明する。だが、龍兵衛は慶次が織田からこっちに来たとあっさり言ってしまったため、つい彼も口を滑らせてしまった。

 前田慶次と河田長親。景虎は勝手に出て行ったと思ったらいい人材を拾って来たと上機嫌であった。

 家臣達からすればは景虎がいなくなったって大騒ぎだったが、そんな事全く気にもせず意気揚々と帰って来た。

 とりあえず二人とも有能であるということは景虎が認めているし、颯馬達からしても軍師が増えるのはありがたい。今後は越後を統一して仕事が増えるからだ。

 しかし、彼が斎藤家の出身と言うと空気が変わった。特に兼続は今にも彼に斬りかかろうとしている。それを見た弥太郎が今、兼続を必死に止めている。

 もし力を弱めれば兼続は飛びかかっているに違いない。

 だが、そんな中でも彼は表情を崩さずに平然としている。

 まず、景虎様が口を開いた。

 

「そなたは斎藤家で謀反があったことを知っているか?」

 

 龍兵衛は「はい」と答えた。

 

「次に聞こう、そなたはそれに関わったか?」

 

 全員が龍兵衛を向く。しかし、彼はあっさりと間を置かずに「はい」と答えた。それを聞いた途端、周りはざわめき、兼続は「不忠者が!!」と叫んでいる。

 

「そう言われるのも致し方ありません。ですが、自分は決して悪いことをしているとは思ったことはありません。あれは起こるべくして起きたもの。それを我々が早まらせただけです」

 

 彼は悪びれもしない。ただ、意味深なことを言っている。

 

「どういう意味だ? 謀反は謀反、主君に背いた大罪を何故そう割り切れる?」

 

 答え次第では斬る。そう言うかのごとく景虎は彼を見る。鞘に手を当てて脅しているようだが、龍兵衛は眉一つ動かさない。平然と表情は無のままだ。

 すると、彼は答える代わりに胸元から一通の書を出した。景虎はそれを受け取ると彼は決してそれを口に出して読んではならない、と言った。

 景虎はそれを読んでいく内にみるみる表情が変わっていく、よほどのことが書かれているのか、全員がそう考えていると、景虎は不意に顔を上げた。

 

「龍兵衛、ここに書いてあることは事実か? これを知っている者はどれほどいる?」

「はい、今、景虎様で他家の人物が知るのは初めてです。このことは当事者及び、主だった数人しか知りません」

「このことを私が声高々と言ったらどうするつもりだ?」

 

 彼は初めてふっと笑い、首を横に振ると真っ直ぐに景虎を見る。

 

「そのようなこと、信義を重んじる景虎様がするとは思えません」

 

「違いますか?」そう彼が言うと、景虎様も笑いながら確かにそうだ。「その通りだ」と言い、彼が渡した書を破いてしまった。

 しかし、それに龍兵衛は慌てることもなく、ただ、その行為を見ている。何か楽しそうに笑いながらもどこか安堵したように

 

「よかろう、河田長親、前田慶次、そなたらが長尾に仕えることを許可する」

 

 その言葉を聞いた瞬間、兼続が再び噛み付いた。

 

「景虎様! 前田殿はともかく、こ奴は主家に刃向かった不忠者です! 我らをまた、かつてのように裏切るかもしれません!」

「兼続、それはない。私がそう判断した。それとも何か意見があるのか?」

 

 敬愛する主君に鋭い視線で刺され、そう言われると兼続も頭を下げるしかない。

 おそらく、あの書に景虎の決断を促すことが書いてあったのだろう。もう今となっては知るのは当人のみだが、龍兵衛は聞くことはしなかった。

 

 

 

 

「ところで、よくあれと一緒に居れたな」

 

 城に戻ると颯馬は龍兵衛に慶次を見ながら聞いてくる。馬上で話しているうちに彼とは親しくなり、自然に敬語は無くなった。

 

「噂では聞いていたけど、あそこまで破天荒な性格だとは思わなかったよ」 

「いや、そうじゃなくてよく……な」

 

 よく見ると颯馬は慶次の顔より若干下に目がいっている。分からなくないが、龍兵衛は溜め息が出てきてしまう。

 

「男は理性を保たないといかん」

「俺の親父かよ……」

「年は同じくらいだって」

「……本当か?」




感想・指摘よろしくお願いします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話改 世継ぎ

第一話と同じ理由で再投稿します。本庄実及は女性です


 宿願である越後統一を果たした景虎は春日山に帰城すると、まず長尾政景は助命し、配下に加えることを発表した。

 これには反対意見がない。もともと家臣一同には政景を殺さないように言っていた為、こうなることはわかっていたのだろう。

 次に龍兵衛と慶次のことは互いに軍師と客将ということになった。かねてより仕えることを目的とした龍兵衛と縛られることを嫌う慶次にとってこの待遇は理想的なもので、当初、龍兵衛の登用に苦言を呈していた兼続達も人柄を理解し、認められた。

 そして、越後統一と三人の歓迎を兼ねて宴会が設けられた。

 

「しかし、あの襲撃を見破れないようじゃあ颯馬もまだまだだなぁ」

「なんだと!? お前だってあの時『今こそ好機だ。敵を討ち取れー』と突進したじゃないか」

「う、うるさい! なら、貴様こそどうして止めなかったんだ!」

「無理があるだろ無理が!!」

「「がるるるる」」

「まったく、お二人ともこのような場で不粋ですぞ」

 

 颯馬と兼続はいがみ合い、親憲が間に入る。

 

「私、お庭でお団子食べてくるね」

 

 いつも通り定満は月見団子を食べに縁側に向かういつもの面子はいつも通りだ。

 ここにあの三人は入ってくことが出来るだろうか。

 そう思い新たに加わった三人を景虎は探すと楽しそうにしている二人を見つけた。

 

「弥太郎殿はなかなかですが、自分の方が酒は強いようですなぁ」

「何を言うまだまだこれから……ひっく!」

「ははは、まだ自分はこれから酔ってくるのに弥太郎殿はもう酔ってしまいましたか」

「おのれ~ここからだ。一気に逆転してやる!」

 

 望むところだと言わんばかりに龍兵衛は杯の酒を口に入れる。弥太郎もそれに続いていく。

 お互いに酒ではなく水を飲んでいるようにがぶがぶと流し込んでいるが、全く苦しむ様子は無い。

 弥太郎も酒は強いが龍兵衛もなかなかいける口らしい。

 その周りでは慶次が実及と景家と一緒にどっちが先に駄目になるか賭事のようなことをしている。

 そして、政景も慶次に誘われ、飲んでいる。むしろ飲まされている方が正しい。

 龍兵衛は無愛想なところがあり、また先の一件があった為、不安であったが思ったより馴染んでいる。適応力は高いようだ。それに彼も酒が入ると表情がはっきりしてくるようだ。

 政景もどうやら心配なさそうで皆と話して友好的に皆も接している。 

 一息ついたところで景虎の杯を傾けた。

 

「やはり、景虎様がいる限り、長尾は安泰ですねぇ」

 

 そう実及が言うと景虎の杯の手がぴたりと止まり、宴には似つかわしくない真剣な目に変わる。

 

「いや、実及殿のおっしゃる通り! 景虎様は天下無敵です!」

 

 景家も実及に続く。

 だが、言われた景虎の顔は真剣に何かを考えているように見える。

 颯馬がそれに気がついて訪ねると宴の席に似合わない真剣な表情となった。

 

「今、実及の言葉に考えさせられた。確かに私がいる間はこのままでいられても私がいなくなったらどうなるのか……」

「な、何をおっしゃるのですか、景虎様はそんな死にはしません!」

 

 突然の言葉に会場はどよめきが走り、兼続は必死に否定する。

 

「兼続、私とて人の子だ。いずれは死ぬ私が死んだ後長尾はどうなるか……」

「景虎様、そのようなことは後で考えたら如何です? 今はこの宴を楽しみましょう」

 

 親憲は周りの雰囲気を考えて景虎を窘める。確かにこの場では不謹慎なのかもしれない。景虎もそのまま酒を飲むことにした。

 

 

 

 

 三日後、長尾家の重鎮は軍議の間に集められた。新参者の二人も含めて突然、全員が今日のことは知らされずにいたため、今日の内容は何なのか話し合って、首を傾げ合っていた。

 

「待たせたな、皆」

 

 しばらくすると景虎が軍議の間に入って来た。

 全員たち皆の注目は景虎よりも一緒に入って来た頭に猿を乗せた女の子にいっているが、今は割愛する。

 慶次が景虎に聞くと景虎はこれは私の娘だと、真面目な顔をして言ったものだから全員が驚愕の表情を見せた。

 

「景虎殿、そう言う言い方は誤解を招きますぞ。あくまでも顕景は義理の娘ではないですか」

 

 政景が苦笑いを浮かべるが、景虎は全く気にしない。

 

「いやぁ、ちょっと皆の驚いた顔が見たくてな。いい反応だった」

「何故に政景殿は知っているんですか?」

 

 政景は颯馬の疑問を全員に伝わるように声を出して答える。

 

「あれは私と綾の娘で顕景と言うんだ」

 

 同じ疑問を持っていた全員が理解したと頷く。それを確認した景虎は表情を真剣なものに変える。 

 

「今日から顕景は私の跡継ぎとして励んでもらう。そなたらも顕景をよく支えていって欲しい」

 

 景虎が顕景を自らの世継ぎとすると宣言し、それに合わせて彼女が頭を下げた。

 そして、すぐに解散した後、評定の間を家臣たちが一斉に出ていく。

 

「なるほど、そういうことなのかもしれないなぁ」

 

 龍兵衛が呟くと隣の颯馬がどういう意味か聞いてくる。政景を生かした理由の一つが今回の養子のこともあると彼は察したのだ。

 顕景を養子とするために政景を生かした。また、彼も変な噂が立つ事も無いだろうし、景虎の下で動きやすくなる。

 そう説明すると颯馬も納得したように頷くが、まだ疑問が残っていると首を捻る。

 

「景虎様はあの宴の時に世継ぎのことを考え始めたんじゃないのか?」

「一人ではもう前々から考えていたのかもしれないぞ。だが、家臣の実及殿にああ言われて早くした方がいいと考え始めたのだろう。それに顕景様を娘に迎えるのは政景殿には叛意がないとも取れるし一石二鳥ってやつだな」

 

 颯馬はそこで全て合点がいったと頷く。

 

「ありがとうな、龍兵衛」

 

 突然、感謝され、ただ目を丸くするしかなかった。

 

「どうした急に?」

「あ、ああ。そうだな」

 

 颯馬は龍兵衛の反応が意外だったのか、驚いた表情でこちらを見てくる。

 どうも脈絡が無かったが、彼にとって良いことを言ったのだろう。理由までは聞かず、その後は無言で別れるまで歩き続けた。

 龍兵衛はそのまま顕景の下へ挨拶に伺った。

 

「顕景様、自分は河田長親と申します。これより景虎様、顕景様をお守りし、さらなる長尾家繁栄に粉骨砕身精進して参ります」

「うむ」

 

 小さい声で聞き取り難かったが、龍兵衛の耳はどうにか聞き取る事が出来た。

 顕景の声は小さ過ぎる。彼はぎりぎり聞こえた方だが、あくまでも彼自身の話でこの先大丈夫だろうかと不安になってしまう。

 

「あの、顕景様、失礼を承知で申し上げますが、もう少し声を張ることは出来ないのですか?」

「大きい声出すの苦手。だから、よく間違えられる」

 

 別にしゃべることが苦手というわけではなさそうだが、声を出すと直ぐにもじもじとして目を逸らしてしまった。

 顕景は人見知りをする性格のようでそれではますます大丈夫かと龍兵衛は思ってしまう。

 有能であると景虎が言っていたので一応は大丈夫なのだろうが、第一印象と声は大事である。このままでは皆が不安になりかねない。

 

「まぁ、自分も昔は声が小さいとよく言われたのでわかるんですけど、他の人が聞くとやはりちょっと……」

 

 言いにくそうに龍兵衛がしていると顕景は驚いた顔をして龍兵衛を見ている。

 

「龍兵衛、顕景の声、聞こえるの?」

 

「そこかい!」という出掛かったツッコミをぐっと必死に押さえる為に咳を二、三度して改めて顕景に向かう。

「まぁ一応」と言うと顕景は嬉しそうに笑った。花が咲いたような明るい笑みだった。彼はこの段階では何も思うことはなかった。

 どうやらここまで顕景様のところに来て話が通じたのが龍兵衛が初めてだったそうだ。

 景虎と顕景以外で話が通じる人がいないのでかなり困っていたらしい。

 その後、顕景は龍兵衛のかつての家でどのように過ごして来たのか知りたいと言ってきたので大まかに話をした。

 かなり顕景は真剣に聞いてきて質問などもしてきたので、それにもしっかりと答えた。

 今後の自身を高める為の参考にしたいのだろう。

 だが、龍兵衛自身もまだまだで途中で修行は中止せざるを得なくなった身故にあまり誇れるものはないと思いながらであったが、言われた以上は話さなければならない。

 

「・……まぁ、こんな所ですかね。自分の今までの修行のことは」

 

「何かありますか?」と龍兵衛が聞くと顕景はしばらく黙り、口を開いた。

 

「旅に出るまで、何があった?」

「……」

 

 それは龍兵衛にとって一番答えられない。だが、答えなくてはかえって怪しまれる。

 

「申し訳ありませんが、今はかつての記憶を思い出したくないのです」

 

 苦し紛れに表情を歪ませて頭を下げる。無礼と分かっていてもこれだけは譲れるものではない。

 顕景はそれを見て、慌てた様子で頭を下げた。

 

「ごめん」

 

 謝罪の後、龍兵衛は作り笑いでごまかし、少し強引に会見を切り上げた。

 

「はぁ……」

 

 龍兵衛は外に出た後も屋敷に戻ってからため息しか出てこなかった。

 

「ごめん……か……」

 

 本当は龍兵衛が謝るべき状況であった。

 嘘をついた。いずれこの長尾家から上杉家を守る人に付いた最初の嘘。

 罪は重い。だが、これで良いのだ。

 様々な人は人には言えないものがある。龍兵衛の場合は特にそういうものが多いのかもしれない。

 

「覚悟を持って生きろ……もしかしたらこの事かもしれないな・……」

 

 この世界に来る前に彼をこうした張本人が言っていた。乱世に生きることかと思っていたが、違ったかな。

 一人、首を傾げた龍兵衛だが、心の疑問に答える者がいるはずがない。

 彼は徹底した現実主義だが、少し見せる理想故に理解しない者もいた。だが、長尾家の面々はそれをすぐに理解してくれた。嬉しく思い、その輪に入ろうと努力している。

 だからこそ何か自分を出せてない感覚もあったのだ。自覚もある。だが、自分を出したら色々とまずいことも知っている。

 空しさを心のどこかで感じながら、龍兵衛は気持ちを切り替え、明日に備えて寝る準備を始めた。

 

 翌朝、龍兵衛が朝早くに城に到着し、のんびりと歩いていると顕景の姿を見かけた。

 

「顕景様、おはようございます。今日もいい天気になりそうですね」

 

 彼女に早足で近付き、頭を下げる。

 

「龍兵衛、怒ってない?」

「ん? 何のことですか?」

 

 何でもないと言われ、顕景はそのまま奥へと消えて行った。

 昨日のことを言っているのだろうとすぐに察した。しかし、これから仕える者に変な感情を持たせるのは後々の災いとなる。あえてごまかすことで、彼女の中での自身の印象を作ってもらうのが重要である。

 裏表のない忠臣であると。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話改 災難

もう一度再投稿させて下さい。
一人称を三人称に変えて少しだけ内容も変えました


 龍兵衛が長尾家に来てから三ヵ月が経った。

 彼は基本的に内政を担当している。もちろん軍事も出来ないわけではないが、上杉には定満を筆頭に主に軍事に長けた軍師が揃っている。

 そのようなこともあって今、龍兵衛がやっているのは不正の摘発への証拠集めだ。

 

「思ったよりくさい店が沢山あるな……」

 

 城下を取り仕切る有力者や奉行から出してもらった資料を見て、怪しい店を絞り込んでいる。

 百聞は一見に如かずと言うが、城下の店には売上が高く儲かっている割には客足があまり無い所がいくつか見受けられる。

 越後の内乱で一儲けしようと国人衆や豪族に媚びようと金をばらまき、見返りにさらなる売上を得る。こうでもしないとやっていけない店が出ていたようだ。

 ここまで広がっていると内乱がどれだけ領内の人々を腐らせるかがよくわかる。

 とりあえず、力試しということで龍兵衛が法令を定めること、現代の警察制度を加えた警備体制の刷新案を出したところ、定満に感激されてこの方面を担当することになった。

 斎藤家では師匠二人の助言があったからまだ良かったが、ここに来てから初めて龍兵衛は自分の判断で自分の知識の中にある法令の中でこの時代でも使えそうなものを抜粋してまとめたものを敢えて厳しくしたものを町に出したので不安でたまらなかった。

 だが、留まっているわけにはいかない。乱世では否応なく人の心を腐らせる。

 人の腐敗に待ったは無い。

 気付けばこちらが暗闇の中で探るようになってしまう。

 そのようなところで緩い法令を出せば、人はそこにつけ込む可能性は百に等しい。とりわけ今後は人口の増加も考えられるので入って来た人と元々いた人との間での騒動などは絶対に避けなければならない。

 そう考えた龍兵衛は基本的に罰を犯した場合の刑罰をより厳しいものにした。

 景虎などからはもう少し抑えてもいいのでは、と言われたが、定満や実及が龍兵衛の考えを理解してくれたので後押しをしてくれた事もありその提出案でいくことになった。

 

「(根回しって大事だな……)」

 

 だが、決して厳しいだけのものではない。刑法の点で拷問を敵国の間者以外には禁止したり、取り調べの時間を一日三刻以内(六時間)にするなどそういうところは緩くした。

 それに龍兵衛はずっとこの法令でいくつもりはない。いずれ簡素化するつもりだ。

 厳しいままでいけば民は不満を持ちかねない。国が大きくなれば自ずと敵国と隣接していない国の民は平和な心を取り戻すだろう。

 歴史がそれを証明している。秦の始皇帝の死後のように法律が厳しいままにしていても良いことなど無い。もちろんそこまで厳しい法律では無い。

 平成の国民もそうだった。ここの民もそうであると願いたい。

 他には税収の問題もある。戦から逃げる為に畑を放棄して逃げ出した者もいる為に土地が荒れている所が多々ある。

 本当は難民向けの福祉事業も進めたいがそれには金がいる。まだ統一をしたばかりの越後で税収の安定を図るのは難しい。また、税政のことは龍兵衛自体あまり詳しくない。今は完全に手探り状態だ。

 

「龍兵衛ー新しい報告があるよー」

 

 仕事をしていると入ってきたのは忍だが、普段はまったく忍ばない為に兵士には顔がしっかりと知られている人物。だが、有能ではあるので景虎は仕えさせているらしい。

 しかし、さっぱりした性格で龍兵衛も別に嫌ってはいない。仕事もしっかりとこなすので貴重な味方だ。

 

「どうだった? 段蔵」

 

 加藤段蔵。後世で飛び加藤の二つ名で現代では有名な忍である。褐色に焼けた肌が特徴的で、体にはいくつか傷が見受けられる。

 

「んーと、この店とこの店ははっきりと黒って言い切れるね」

「確証はあるのか?」

「部下がもうその店に入っているよ」

 

 不正の無い綺麗な町が理想である為、まずは春日山での試しといったところである。

 すかさず踏み込む日程を決めてその人員を確保しなくてはならない。

 一般兵士にはやらせるわけにはいかない。口の軽い者がうっかり言ってしまう恐れもある。秘密裏に事を進めたい。

 他の人の協力がいる。自分のような新参者より他の方が兵士の性格も知っているだろう。

 そう考えた龍兵衛はまずは定満のところへ向かった。運良く部屋に居た為、そのまま上がらせてもらい事情を説明する。

 

「ん、わかった。でも、私はちょっとその日お仕事があるから、いけないの。弥太郎か颯馬君にお願いしてちょうだい。兼ちゃんはちょっと暴走しちゃうかも知れないから、止めておいて」

 

 確かに兼続の正義感の強さではどうしてそのようなことをしたのか聞く前にその場で犯人を斬り捨てることも下手するとやりかねない。

 大丈夫だと思うと龍兵衛は考えたが、定満の言うことには従っておかなければならない。

 

「わかりました。では、景虎様にはどのように知らせておきましょうか?」

「それは私がやっておくから大丈夫。龍兵衛君はそっちに集中していて」

 

 お礼を言って退出しようとすると定満に止められた。よくわからないが促された通りに元の場所に座る。

 

「龍兵衛君、何だか一人でいない?」

「はい?」

 

 そんなこと無いと思うがという思いが頭に出てくる。

 長尾に来てからしばらく、彼はよく颯馬や兼続たち軍師同士とは世間話をしているし、弥太郎や景家には無理やりだが鍛練に引っ張り出されることもある。

 別に一人でいることが多い訳ではないと思うが、どこかそう感じるのだろうか。

 

「何だかね、自分だけを信用している感じがするの。そうだね?」

「・・・・・・」

 

 黙っているということは当たっていると言っているようなもの。

 ちょっと定満は言い過ぎだが、一度ついた彼の悪い性格はなかなか直ってくれない。

 今まではおどけてみせてなんとか凌いで来た。だが、今回の定満は相手が悪い。彼女は人の嘘を見抜いたり、本質を言い当てたりすることがある。

 当てられた立場にある龍兵衛はどうやって逃げようか考える。部屋からさーっといなくなりたいが、定満は部屋から言わないと出さないと言わんばかりに座る場所を変えて逃げられないようにしている。

 突き飛ばすのもありだが、定満の方が断然格上だし、年上の方をそうするのは現代で上下関係の厳しい体育会系の部活にいた彼にそんなことはできるはずがない。

 その猜疑心の塊のような心。時折味方からも裏で自分のことを批判や陰口を言われているのではないかという程に腐った心。人と仲良くなればなるほどその人をますます疑ってしまう。

 自分でも自覚がある為笑ってしまう程馬鹿馬鹿しいことだ。

 それだけ龍兵衛の過去は腐っていた。

 仲間だと思っていた連中にまで裏切られ別にもっといじめられていたやつはいたと思ったが。それでも裏切られていじめを受けた彼には我慢できなかった。

 家で親に相談してもそんな奴ら家柄もない馬鹿を相手にする必要はないとまったく解決出来ないことを言うし、やむを得ず先生に言えば何とかするだけ言って何もしない。 

 ついにはこの四面楚歌の状況は中学を卒業するまでに解決することはなかった。信頼出来る友達も三、四人といったところだろう。

 それでも耐えて来たのは彼自身の中で評価出来るだろう。それに、その後の高校生活は充実していた。

 三年の夏までの話だが。

 そして、この世界に来て初めて仕えた家での事件、本来誰も死人を出さない謀反だった。筈だった。 

 高三の夏以降の一件と斎藤家の悲劇。

 これらが心の病の決定打となったのかもしれない。否、確実にそうだと確信していた。

 

「過去に捕らわれているのは自分でも知っています。ですが、どうもこう・・・・・・踏ん切りをつけられないというか・・・・・・」

 

 定満から逃れられない事は分かっていたが、今の龍兵衛には言い訳じみた事をするしかない。

 あの事件の詳細を知っている訳ではない。ここに来てからも調べてはいるが、仮説を立てれば立てるほどどの人が何を考えているのかわからくなってしまった。 

 猜疑心ばかりが彼の心を支配している。抜けきれないもの。踏ん切りをつけられないものがあるのだ。

 

「ですが、これだけは言えます。自分は決して長尾家から出るつもりはありませんし、別に信頼をしていない訳でもありません。自分はここで一生涯の努力をしていくつもりです」

 

 馬鹿馬鹿しい程のその場しのぎだ。

 

「(何言ってんだか・・・・・・自分の決意表明をしたところで何も変わらないというのに・・・・・・)」

 

 下を向いてそう思っていると定満が目の前まで来ていた。

 自分の目をじーっと見て何かに納得したらしくうんうんと頷くと頭を撫でてきた。かなり近い為、少しどぎまぎするのを龍兵衛は必死に抑える。

 

「あの・・・・・・定満殿、何か・・・・・・?」

「龍兵衛君、いい子」

「はい?」

 

 突然の事に龍兵衛が何かそんな事をしたのか考えたが、どこにもそんな事がなかった筈である。

 

「龍兵衛君は頼る人とそうでない人の区別がつかなくて困っている。だから、はっきり出来ない。でも、私からも言っておくね。長尾家の人はみんないい人ばかり。だから、大丈夫」

「・・・・・・定満殿・・・・・・わかりました・・・・・・定満殿が言うのならば、信用します」

 

 あの会話の中からどうやってそれにたどり着いたのか分からないが、しっかり当たっている。たしかに人の全てから信頼出来る人を見抜く力はまだまだ未熟である。

 この答えに満足したのかうんうんと頷くと定満はすっと身体を動かして襖への道を開けてくれて、ようやく退出許可をやっと出してくれたが、何故かこの後弥太郎の部屋に行くと言うと意味ありげな笑みを浮かべながら定満に「頑張ってね」と言われた。

 

「(この家は楽しいけど本当によくわからない)」

 

 

 

 

 龍兵衛は部屋に向かったが、弥太郎が部屋にいなかったので探していると城門の近くにいた。

 

「(なんか屈んでいるけど、この夕暮れ時に何やってんだろう?)」

 

 気付かれないように近づいてみるとそこには白い猫がいた。

 触ろうとしているが、野良猫は警戒心が強いのが多いにで難しいのではないか。そう思いながら見てると案の定さーっとすごい速さで逃げられた。

 それから何故か龍兵衛の方に来た猫は彼を見てここにも人がいたのかとはっとして止まる。警戒しながら彼を見ていたが、龍兵衛が少し目を笑わせると寄り添って来た。

 どうやらなつっこい性格らしく足に首を擦り寄せてくる。顔に似合わないので内緒にしているが、龍兵衛は猫が好きだ。

 基本的には餌付けで懐いてくるのがほとんどだったが、たまにこうして何もしなくてもやって来てくれるのもいる。

 龍兵衛が屈んで首を撫でてやると気持ちよさそうにゴロゴロ言っている。やっぱり猫は癒されるなと思っているとすっかり弥太郎のことを失念していることに気付いた。

 

「(と、いかんいかん)」

 

 弥太郎に言いたいことがあったことを忘れかけた龍兵衛は弥太郎を見る。弥太郎の顔は何故か赤く染まっていた。

 

「(あれ、何だか弥太郎殿怒っている? 凄い形相で睨まれている気がするんだが・・・・・・俺は何もしていないぞ? ・・・・・・多分・・・・・・)」

「龍兵衛・・・・・・」

「は、はい・・・・・・」

 

 何故か妙に低く威圧感のある声を向けられ頭になんでなのかずっと思案するが、何も出てこない。だが答えはなんとも拍子抜けなものだった。

 

「何で動物に嫌われないんだ?」

「何でって言われましても・・・・・・」

「だって、お前、私と背丈は同じくらいだろう。どうして・・・・・・羨ましい・・・・・・!」

「(そんな羨望な目で見られても相性の問題だろうに・・・・・・)」

 

 そう言うしかないが、年上にそんなことを言うのは失礼なのでそれを押さえると弥太郎に龍兵衛に抱かれている猫を渡そうとする。

 するところっと弥太郎は怒りの表情を嬉しそうな顔に変えたが、猫は弥太郎を怖がってどこかへ逃げてしまった。

「はぁ~」という弥太郎の大きい溜め息が日が暮れかけた空にそれは盛大に響いた。

 

 

 

 

 

「・・・・・・と、言うわけでして」

 

 とりあえずすっかり凹んでしまった弥太郎殿をなだめて部屋に戻すまでがかなり掛かってしまい、夕餉の後にもう一度やって来た。

 一から話してしまったのでさらにかなりの時間がかかってしまったが、了承を得ることに成功して弥太郎が信用出来る部下を集めてくれることになった。

 後は颯馬だけと思い部屋を出ようとすると、弥太郎にも止められ、急に酒に付き合えと言われた。

 せっかちな龍兵衛としては颯馬のところに早く行きたいのだが明日踏み込むわけでもないしまぁいいか、と思い言われるがままに座った。

 しかし、しばらく飲んでいて龍兵衛は思いっ切り後悔しながら面倒くさそうに酒を呷っている。

 

「(やっぱり、断った方が良かった・・・・・・)」

「ぷっはぁ~やはり人と飲む酒はいいなぁ」

「そーですねー」

 

 棒読みだが、弥太郎は機嫌が良い。先程は無視したら首もとに刀を突きつけられ「言わないと刺すぞ」と口に出してまで言われたので仕方ない。

 だが、龍兵衛からするとかなり面倒くさい。何度も絡んでくるので口が休む事が無いので逆に疲れそうだ。

 今思うと龍兵衛はこの前の飲み比べで一杯差で勝ってしまっている。あの時は彼も正直楽勝だと思ったら弥太郎は粘りに粘った。最終的に久々に厠で吐くかと思ったぐらい飲んだ。

 弥太郎はさっきからあの時の事をネタにしている。どうやらあれを結構根に持っているらしい。

 龍兵衛とて酒は嫌いではないのだが、健康面に気遣ってなるべく控えている。

 

「しかし何だな、背丈で動物は判断しないということが今日でよくわかった。やっぱり自分の何かがあるのかな?」

 

 楽しそうにしていた弥太郎は何か急に真面目な顔して言ってきた。弥太郎は動物に嫌われることをよっぽど気にしているらしい。

 

「そうですね・・・・・・やっぱり、相性が問題でしょうか、動物にも性格がありますから、例えば先程の猫にしても・・・・・・」

 

 気付けば龍兵衛自身も熱心に話してしまっていた。弥太郎もかなり真面目に聞いてくるものだからついつい彼の猫好きも重なって止まることなくかなり時間がかかってしまった。

 再び気付いたら月がかなり上に出ている。慌てて詫びを入れて部屋を出ようとするとまた止められた。

 まだ飲めと言われるのかと冷や冷やしていると、弥太郎は立ってそのままでいるように言い、弥太郎自身も立ち上がる。

 すると龍兵衛の背丈と自分の背丈を比べているらしく目線の位置や頭の上に手を当てて自分と彼を交互させている。

 

「やはりな、龍兵衛の方が少し大きいか?」

「そうですね。ま、若干ですけど、それが何か?」

「いやなに、私も背が高いからな・・・・・・こうして人を見上げるのは初めてなんだ。どうだ?やはり男性とは見下ろした方が良いのか?」

「は? それはどういうことで?」

「いや、以前颯馬にも同じようなこと聞いたらな。私の背丈も魅力の一つではないかと言われたんだ。龍兵衛はどう思う?」

 

 龍兵衛は内心で納得したように頷いた。弥太郎は背丈に負い目を持っているらしい。

 だが、それは颯馬の言う通りであって決して気にするようなことでは無いことだと思う。

 第一に男からしたら弥太郎は憧れを抱くほどの美しさを持っているのは事実だ。

 そう言うと弥太郎は驚き、顔を少し赤らめた。

 

「ふふふ、そなたも颯馬と同じで世辞が上手いな」

「これだけは言っておきますが、自分は颯馬と違って無自覚で物事を言うことはありません」

 

 颯馬のあれはどうみても天性の物だ。正直言ってあれはあれで逆に凄いと思う。

 

「おや残念。颯馬よりはまともな性格のようだな」

「そりゃあ、自分は颯馬ほど女性に現を抜かすタチではありませんし。顔は怖・・・・・・」

 

「・・・・・・いほうだ」と言いたかったが弥太郎はそうさせてくれなかった。

 口を口によって塞がれてしまったのだ。最初は何が起きたかよくわからなかったが弥太郎が顔を離し時に何が起きたかすぐに理解した。

 だが、してもらいながらも嬉しさは一切出て来ない。むしろ弥太郎の獰猛な笑みが恐ろしく、背中に戦慄が走った。

 

「初めてだな、私より背の高い男に口付けをしてもらったのは」

「自分でやっといて何言ってんだか・・・・・・」

 

 彼が慌てて口を抑えた時にはもう遅い。完全に素が出ていた。弥太郎は面白いものを見たというように口元が歪んでいる。

 

「(慌てるな、動揺を抑えろ俺!)い、今の無しにして・・・・・・」

「無理だな」

「もらえるにはどうすればよろしいでしょうか? 弥太郎・・・・・・『様』」

「ふふっ、では、もう一度口付けをさせてもらおうか」

 

 そう言うと弥太郎は本当に彼にもう一度口付けをしてきた。先程よりもじっくりと甘く、官能的な雰囲気を作るようにだ。

 

「おや、颯馬はこれで落ちたのだが、やはりそなたの理性の糸はなかなか切れないか」

「当たり前です。障子紙と比べてもらっては困ります。それに自分も決して初めてではありません・・・・・・じゃなくて!」

 

 弥太郎にまた驚かれる原因となることを言ってしまうと共に龍兵衛は自分で墓穴を掘ってしまった。

 変な雰囲気になったので失礼しますよと言って早く出て行ってしまおうとしたが、それよりも早く弥太郎に腕を掴まれた。振り払おうにも力が強い。

 弥太郎は何故か急に三日月に口の形を変え、物欲しそうな獣が浮かべる獰猛な笑みを全面に出してきた。

 

「その強情はいつまで続くかな?」

 

 弥太郎がそう言った瞬間が合図のようだった。

 

「・・・・・・あ! ・・・・・・ま、まさか・・・・・・」

 

 龍兵衛の身体に異変が起きた。中からぞくぞくと熱く感じるような感覚。すぐに弥太郎が何をしたか分かった。

 

「そなたはおどける時があっても根はしっかり者だということはわかっていたからな。そして、理性もしっかりとしている。酒だけでは難しいと考えて薬を盛らせてもらったが・・・・・・ほう、いいように利いているではないか。誠実な男にはこれが一番だな」

「くっ・・・・・・!」

 

 じろじろと弥太郎は汗が滲み出ている龍兵衛の身体を見回して薬の効果を面白そうに観察している。

 彼からすれば抵抗すればするほど熱くなる身体が夏の灼熱の太陽の下に立っているぐらいまでになり、頭も思考が働くなってきた。

 

「(まさか、定満のあの笑みは・・・・・・この事を意味していたのか?)」

 

 龍兵衛がそう思った時にはもう彼は限界まで来ていた。

 

「何を・・・・・・したいの・・・・・・です? ・・・・・・あな・・・・・・た・・・・・・は、このま・・・・・・ま・・・・・・では」

 

 このままでは弥太郎を汚す事になる。そう警告を鳴らしても、弥太郎はそれを望んでいるように布団を敷いて手招きをする。その様は妖艶で龍兵衛の理性の壁に穴を空けるには十分であった。

 

「さぁ、どうする? このまま部屋に帰って自分で慰めるか? それとも私を使うか? 経験があるならどちらが良いのか分かっているだろう?」

 

 ふらふらとした意識の中、弥太郎に組み敷かれた時に彼にはちゃんとした意識があったかは覚えていない。

 快楽を味わった獣となり、弥太郎によって自身の身の清きを堕とされた事は覚えている。

 

 

 

 

 

 

 次の日、龍兵衛は颯馬と件の不正について話し合っていた。

 

「弥太郎殿が兵を集めてくれるから俺たちは踏み込むのに備えていてほしいってさ」

「わかった。これぐらいかな?」

 

 大体まとまったところで一緒に部屋を出る。

 しばらく歩いていると弥太郎が前からやってきた。普段通りに軽く頭を下げながら通り過ぎようとした龍兵衛だが、弥太郎はすっと近付いて「昨日のようなお前も悪くないぞ」と言って去っていった。

 龍兵衛は顔を少し赤らめて視線を逸らす。何か言ってやろうとしたが、既に弥太郎の後ろ姿は随分遠くになっていて何も言えない。故に、彼はその代わりとして思いっきりその他背中を睨んでやった。

 

「何があったんだ?」

 

 龍兵衛は一度は何でも無いと言った後、昨日の弥太郎殿の言葉を思い出した。

 

「そう言えば、颯馬はすぐに落ちたと言ってたな・・・・・・」

 

 ぶつぶつと何か独り言を言い出した龍兵衛に颯馬がどうしたのか聞いてきた。誰もいないことを確認すると龍兵衛は颯馬の近くに移動して単刀直入に聞く事にした。

 

「お前、弥太郎殿と寝たことあるか?」

 

 二、三分だけこの場が凍り付いた気がする。

 後から思えば、龍兵衛はその時よくあんな事を言えたもんだと自分で感心していた。

 変な雰囲気になったのでとりあえず龍兵衛は事情を話した。

 そう言うことなら頷けると颯馬も納得した。それで納得する時点でおかしい気もしたが、気にしない。今後は気を付けるように忠告された。

 二人で真剣にそんな話をしていると颯馬が何かを思い出したようにしてもう一度颯馬は龍兵衛に近付いて囁く。

 

「あと、定満殿も警戒しておいた方がいいぞ」

 

 颯馬は要注意人物をあげておいてくれた。何があったのか颯馬は顔が青くなっている。

 

「颯馬、あのお二方が俺たちより年上で、なのに旦那さんがいないのって・・・・・・」

「そういうことだ・・・・・・」

 

 同時に互いに溜め息が出てきた。

 改めて思うと長尾家は変わってる人が多い。二人はそう思う今日この頃だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話改 忍び寄る影

題名と視点を第三者視点に変えました。
変なところは探しますが、気付かなかったらお知らせください。


 龍兵衛の夜中に響く号令と同時に兵は動き、見た目から私腹を肥やした商人を縛り上げる。

 夜中に実行された不正商人の捕縛作戦は上手く行き寝込みを襲われたため、全員が逃亡者も無く捕らえることに成功した。

 最初、黙っていた連中も内通者がいては、どうしようもない。ただ顔を青くしてうなだれている。

 

「こいつらどうするんだ?」

「とりあえずこれらは牢に入れといて、後で刑罰を言い渡しましょう。その前にこいつらにはこの金の出所を聞かないといけません」

 

 弥太郎が聞くと龍兵衛は淡々と吐き捨てる。

 後ろには山ほど積まれた金の入った箱。これはどうみても一介の商人で出来ることではない。

 弥太郎が前に出て、どこから仕入れたか聞くと首を振るだけで何も答えない。

 すると、後ろにいた龍兵衛が業を煮やしたのか刀を抜いて商人の首に当てて、座って彼らが目線を合わせる。

 

「後で苦しみながら吐くか、ここでさっさと素直に吐いて楽になる。どっちがいい?」

 

 黒い笑みを隠そうともせずに再度、龍兵衛は刀で商人の首をつつく。怯えている商人を楽しむかのように。

 

「(この前の夜といい、あいつの本性はあれなのか? だとすれば、普通に怖いな……)」

 

 以前、弄ぶつもりが弄ばれかけた弥太郎が密かに背筋を凍らせていると度が過ぎる脅しに観念したのか商人が声を上げた。

 

「この金は、加賀から運ばれたものです……私は頼まれただけなんです。本当です!」

 

 全員が主の証言に目を見開いた。加賀、つまりは一向一揆の軍事的拠点である。さらに裏で糸を引いているのは一向宗の本拠地、石山本願寺をおいて他ならない。

 

「弥太郎殿、このことは景虎様と定満殿のお耳に入れといた方が」

 

 弥太郎達は互いに頷くとかなり面倒な事になりそうだという思いをそれぞれが抱きながら店から出た。

 

 

 商人を城へ連れて行き、牢に閉じ込めた後で景虎と定満に報告し、三人は兼続も加えて例の件のことを話し合うことにした。

 

「こちらに喧嘩を売っているつもりでしょう。だとすれば、受けて立つのがよろしいのでは?」

 

 兼続は主戦論を展開するように言うがそれは弥太郎と龍兵衛はそれが得策とは思っていない。

 

「いや、今加賀方面に向かえば越中や能登だけでなく全国の一向宗を敵に回します。さらに、景虎様は越後を統一したばかり。さらに国内の民にも一向宗の信者がいます。その者たちがどう動くかは保証出来ません」

 

 龍兵衛の意見はもっともであると弥太郎も首肯する。一向宗の脅威は武士も民も関係なく非常に大きいものだ。大々名であっても決して侮ってはいけない。

 今、加賀に攻め込めば越後統一間もない国内で一向宗が蜂起する可能性がある。

 

「では、貴様はこの動きを指をくわえて見てろと言うのか!?」

「そうは言ってない。今は耐える時だ。それに蘆名と最上のこともあるだろう」

 

 喰ってかかる兼続を龍兵衛は平静に諫める。

 後ろを固めるのは兵法でも基本中の基本である。蘆名や最上とも同盟も利害関係もない以上は動くに動けない。

 そのままにして越中に行けばまさしく内憂外患の状態になってしまう。

 

「私も龍兵衛の意見に賛成です。おそらく奴らは向こうから攻めるよりこちらが来るのを待っているのでしょう。だとすればあの金は景虎様に不満を持つ者に渡すつもりだったのでは? だとすれば辻褄が合います」

 

 弥太郎も信じたくないが、未だに長尾に不満を持っている者もいるだろう。

 そこに付け込んで本願寺は景虎が越中に向かった時に本国で反乱を起こさせる腹積もりなのかもしれない。

 

「うむ、わかった。では、我々はしばらくはそちらには出ない事にしよう。それで例の金をどうするかだが……」

 

 景虎が頷いたところで今度はあの没収した大金をどうするのかについて颯馬が口を開いた。

 

「あの金を逆に我らが使っては?」

 

 颯馬が言わんとした事を察した龍兵衛がなるほどと膝を打つ。弥太郎も察することが出来たが、景虎は承諾するだろうかと景虎に視線を送る。

 

「我らに完全についていない国人らの懐柔に使うということか?」

「人が貯めた金を使うのか……」

「兼続、やむを得ないことだ」

 

 景虎が諭すと兼続も首を縦に振るしかなかった。

 彼女も決して正義だけで生き残れるとは思っていない。だからこそ、簡単に長尾は潰れる事は無いのだ。それでも、正義を確固たる信念として置いている。

 やはり長尾家の家臣として生まれて良かったと弥太郎は心底思った。

 

「景虎様、自分が計算しますとあの金はそれでもあまります。そこで残った物は半分を民に分け与えてはいかがでしょう」

「それは良いな。龍兵衛、兼続、民への分配はお前達に任せる。定満と颯馬には国人の懐柔を任せよう」

「景虎様、国人と言えば、佐渡の本間はどうするのですか?」

 

 話が一段落したのを見て、機会だと弥太郎が先程から気になっていたことを聞くことにした。

 佐渡には銀山がある。それを所有する本間衆を長尾に取り込めば財政は豊かになる。

 

「すでに実及に命じて服従の使者を出している。まぁ、刃向かうのなら容赦しないと言ってあるしな」

 

 景虎は既に先のことを考えている。

 越後の統一後の事も考えて前々から準備していたというようにしか考えられない動きに弥太郎は感服した。

 

「ではその皆が集まったついでだ。今後の動きをどうするか決めておこう」

 

 徐々に軍師の話題になってきたがたまには聞いてみるのもいいかもしれない。そう思った弥太郎は残ることにした。

 

「まずは颯馬、そなたは今後我らが外に出る時はどう動くのが良いと考える?」

「はっ、私は……」

 

 三人の軍師の意見ははっきりと別れた。

 まず、颯馬は関東へ下り関東管領の山内上杉憲政殿を助け、今勢いのある北条をあらかじめ叩いておく。

 兼続は加賀までは行かなくても越中を取る。一向宗は徹底的に潰す事で今後の北陸経営をやりやすくする。

 どれも利点はあるが欠点もあると定満は評した。

 颯馬の策は北条と戦うとなると関東管領を助けるので義はこちらにあるが、北条の強力な軍と戦うことになる。遠征はまだ先だが今後としても面倒なことになる。

 兼続は被害は少ないように見えるが国内の一向宗がどう動くかがわからない。敵に回れば先程のようなことが現実となってしまう。そうなってはまた越後は分裂する。

 次に景虎は龍兵衛に意見を求めた。

 龍兵衛はまず蘆名か最上のどちらかを攻めること。どちらかとは盟約を結ぶのが良いと主張した。そこから先ずは東北へ進出するのが良いと言った。

 定石なら京の都に近づいくように領土を広げていくようにするべきだと思うが、それはどの家でも同じことを考える。つまりは今後、中央の戦乱が激化するところに身を置くことを意味する。ならば長尾はあえてそれをせず、背後の東北から攻め取る。

 そうすれば犠牲の少ないままに勝つことが出来る。そして、最後にはもちろん中央に出る時を見計らって出る。

 龍兵衛はそれで締めくくった。

 

「定満、そなたはどう思う?」

「龍兵衛君、背後はどうするの?」

 

 越後は東西南どこに行くとしても背後を気を付ける必要がある。必ずどこかと和睦を結んでおかなければ、背後を襲われてまともま外征が出来ない。

 

「まず信州は村上と小笠原などがこちらに友好的です。真田もこちらから動くことが無ければ動くことはないでしょう。念の為に使者を送るべきですが……越中は畠山と椎名、神保が政権を争っている状態です。しばらくはこちらに来る可能性は低いかと」

「ならば、なおさら越中に向かうべきではないのか?」

 

 兼続は内乱に付け込み、より京への足掛かりを作りたいと考えているようだ。

 

「さっきも言ったが、越中に限らず北陸は一向宗の軍事的拠点だ。ここを攻めれば、一向宗を敵に回して今後の領内経営も上手くいかないと思う」

「わかった。定満。そなたはどう思う?」

 

 さらに何かを言おうとする兼続を遮るように景虎は定満に声を掛ける。

 

「うーん。今のところは龍兵衛君の策が一番いいと思うの。でも、もう少し踏み込んでいいと思うの」

「……どういうことだ。定満殿」

 

 定満にはさらなる策があるということを聞いて傍観を決めていた筈の弥太郎は思わず口を開いてしまった。

 

「ついでに颯馬君の策の一部も取るの」

「つまりは二方面に軍を展開すると?」

「無理ですよ。いくら宇佐美殿の策とはいえ私は反対です」

「二人とも最後までお話聞くの」

 

 定満に怒られ、反論を試みた颯馬と兼続は縮こまって定満の話に耳を傾ける。

 

「上野の山内憲政さんは直ぐに負けるとは思えないけど勝てる可能性は低い。でも、部下にはいい人が沢山いるの。その人たちに協力してもらっていざとなったらこっちに来てもらうの」

「なるほど。その後の関東の義は我らにあるということを示せるという事か」

 

 景虎の補足にそういうことだと定満は頷く。東北への進出以外にも次善の策を置いておく。定満に適う者はまだまだいない。

 そして、先となるだろうが長尾もいよいよ他国に動く時が近付いてきた。

 

 

 三日後に伝えられた真田家が武田に降るという予想外の知らせは長尾家を驚愕させた。

 真田家が降るということは南方の信州豪族の大半はおそらく武田になびくことになり、武田に対抗出来るのは小笠原や村上、それに仁科といった北方信州豪族だけになってしまう。

 

「現在、上田原で武田と村上が交戦中。情勢は今のところ動きはありません」

 

 評定では最初から信州の情勢のことばかりである。仁科盛能ではおそらく器量では信玄には適わない。やはり頼りは、村上義清、小笠原長時である。

 

「しかし、まさか真田が武田に降るとは……」

「これでは我らも動くに動けないではないか」

 

 兼続は龍兵衛を睨む。お前のせいだと言わんばかりに。だが、これは龍兵衛のせいでは無い。小国は日和見が生き残る術である。

 当の本人はおとがいに手を当ててなにやら考えごとをしている。

 どうやら、龍兵衛は兼続のことなどまるで気にしてないらしい。

 弥太郎からすれば、彼と彼女が全く噛み合っていない様が面白い光景を見ているように感じる。

 

「まぁ、しばらくは様子も見るとしよう。それに武田も内乱を抑えて、高遠城を落としてここまで来たんだからすぐにこちらに来るということはないだろう」

 

 確かに信州の有力な豪族の高遠頼継をどうにかして倒したという感じでやって来ている以上、余力は少ないはず。今はそちらに動くのでは無く、少しでも東北への足がかりを作ることである。

 

「段蔵、何か報告はあるか?」

 

 景虎が言うと忍隊を率いる段蔵が出て来る。

 

「最上は天童との内乱状態は変わらないよ。蘆名は佐竹と一触即発状態だったけどなんか佐竹が態度を軟化させて今は北条と佐竹は戦っているみたい」

 

 慇懃無礼な物言いだが、誰も文句は言わない。

 彼女は最初からあのような態度であり、それを許される確かな実力を持っている。

 

「本来なら今すぐにでも最上とやりたいところだが……」

「さすがにそれは景虎様も許さないだろう」

 

 龍兵衛は颯馬と何か喋っているが、景虎はそこまでのことは許すとは思えない。肝心の金が無いのだ。

 聞くまでもないかと二人は思ったようで、すぐに会話を止めた。

 結局、最上は放っておき、蘆名を討つということになるであろう。

 蘆名が佐竹との戦いが終わったのも最近であり、今は動けなくともこれから準備すれば倒せるはずである。

 だが、上杉も内乱状態を終えたばかりで、もう少し時間が欲しい。

 今回のことで内乱ほど面倒なものは無いと痛いほど知った。最も人心が離れ、なおかつ国力が下がる。

 長く越後統一を目指していた景虎はそのことを一番良く知っているだろう。案の定、険しい表情をしている。

 

「まだ、時間はいるか……」

「うん。やっぱり後顧の憂いを断った思うの」

「分かった。実及、首尾はどうだ?」

「おそらくは、今日明日で返答は来るかと」

 

 本間は大人しく降るだろうとほとんどの者が楽観視していた。

 島とはいえ、いつ油断した隙を突かれるかも分からない。

 だが、希望論ほど上手いこといかないのはこの乱世の定めなのかもしれない。

 翌朝に届けられた知らせに長尾の面々は愕然とすることになる。

 

『佐渡にて雑太本間と河原田本間、羽茂本間が長尾に降るかで意見が対立し、反対派河原田本間軍は雑太城を包囲せんと進軍中。羽茂本間も我ら長尾に備え、羽茂付近に陣を構えている模様』

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話改 金をくれ

 雑太城は本間氏宗家の居城であり、同じく河原田城と羽茂城の本間氏は雑太本間氏の分家で家格は明らかに雑太の方が上である。

 しかし、室町幕府が衰退すると次第に雑太本間氏は宗家としての権威を失っていく。一族の力が強くなり、とりわけ河原田と羽茂の勢力拡大を止めることは出来なくなった。

 此度の長尾家からの降伏勧告は雑太からすれば長尾家の比護を受け、宗家としての勢力を回復できる。そして、河原田、羽茂にとってはこれ以上佐渡に自分たちの勢力を広げることが出来なくなる。

 当然、欲の深い彼らにとって面白いわけがない。

 長尾は雑太には救いの手であり、逆に河原田、羽茂には邪魔であった。

 そのために河原田本間と羽茂本間は結託し、河原田は長尾と雑太の連携を絶つべく雑太城へ羽茂は長尾家を迎え撃つべく羽茂の港に着陣していた。

 対する長尾軍は小島弥太郎を総大将とした軍勢を派遣、二千の兵にて順調に佐渡へと向かっていた。

 

「さて、まずはどこの港に向かうべきか」

 

 船の中で主要な者が集い、軍議を開いていた。羽茂には敵が備えている以上、上陸されるところを各個撃破される可能性が高いと弥太郎は見ている。

 

「真野はどうでしょう? あそこなら雑太からも近いですし」

 

 兼続が置かれている地図を見ながら応える。

 真野は、上陸しやすい羽茂よりも北にある。港という港は無いが、上陸不可能という訳ではない。

 そこならば雑太との距離も近く、羽茂の虚を突くことも可能だ。

 

「兼続に賛成です。それより北上しようとすると退路を断たれます」

 

 弥太郎が龍兵衛に目を向けると肯定する答えを返してくれた。

 長尾家は佐渡の土地勘が無いため、少しずつ歩を進めるしか無い。ここが長尾が抱える問題だった。

 故に慎重に行くに越したことはない。弥太郎も頷きかけた時だった。

 

「いや、その必要は無いだろう」

 

 斎藤朝信が待ったをかけた。

 彼も定満らと共に古参の人物であり、知勇兼備で武闘派の多い長尾家の中では内政に長けている。人望の厚い武将である。

 今回は若い者たちに多くを任せて彼は補佐に回っているが、何か考えがあるのか、これまで閉ざしていた口を開いた。

 

「どういうことです? 斎藤殿」

 

 兼続が尋ねると同時に朝信は本庄実及から預かったという書状を懐から出した。

 宛名は二人。その名前を聞き、更に書状の内容を聞いた龍兵衛と兼続は最初に目を見開き、そこから口の端をつり上げ、互いに思い付いた策を口に出した。

 

「ふむ……兼続は二手に分け、挟撃。龍兵衛は手練を潜伏させ、撹乱か」

「弥太郎よ。どちらも同時に行うのはどうだ?」

「確かに。龍兵衛、誰を潜伏させる?」

「差し支えなければ、自分が行きましょう」

 

 三人から驚いた表情を向けられる。

 

「正気か? 将自ら敵の地に自ら乗り込むなど、危険だぞ」

「それだけの価値がある。自分はそう思っております」

 

 腕を組み、思案する。彼が言っているのは佐渡にあるとされる金脈のことだ。それを手に入れるために将一人の命を差し出すほどの価値があるとは思えない。

 

「この島の価値は越後が数百年、盤石となるために欠かせないと考えます」

「だからといってお前に行かせるわけにはいかないな」

「斎藤殿、ここで自分が御家への忠誠を示す好機でもあります。必ず成功させますので、どうか」

 

 そう言って龍兵衛は深々と頭を下げる。それを見た斎藤は呆れたように溜め息を吐く。

 

「分かった。そこまで言うのなら任せよう」

「ありがとうございます。では到着次第、すぐに動きます」

 

 いくつか手段は用意している。成功させることこそが長尾家に忠誠を誓える何よりの証となる。未だに疑う者も多い中で、この機会を逃すことなど、龍兵衛には出来なかった。

 長尾軍はその後、予定通りに小木に上陸した。

 そして早速、龍兵衛は潜伏を始めた。

 すでに得ている情報で、河原田と羽茂の主は保守的であるため、景虎のことを快く思っていない。さらに欲深い性格が良い方向に向かせてくれるだろうと考えている。

 

「さて……」

 

 斥候の気配を感じ、茂みに身を隠す。

 斥候は二人、馬から降りて驚いた様子で海の方へと走っていく。遠くからはよく聞こえないが、突然現れた長尾の軍勢に動揺しているようだ。

 完全に背後が無警戒になっている。静かに近付くと左側の斥候の首に小刀を突き立てる。うめき声に気付いた右の斥候が慌てて刀を抜こうとするが、それよりも先に狙いを定めた龍兵衛の刀がもう一人の斥候の首を真一文字に切り裂いた。

 互いの上背が自分と全く合わないことに舌打ちすると、鎧だけ借り受けて、島の内部に入っていく。

 一番に見えた村にも兵が右往左往しており、長尾の襲来を警戒しているのがよく分かる。そのまま脇道に逸れると予定していた方向へ進む。

 敵は正攻法での警戒しかしていないのだろうか。山道や獣道には気配が全く無い。だが、油断は禁物だと周囲への警戒を怠らずに前に進む。

 そして、特に襲撃など無いまま目的である羽茂まで出ることが出来た。

 丁度良い場所から陣を見る。方角からして小木より南の方からの襲来を警戒しており、このままでも急襲で方が付きそうな気もする。

 だが、ここまで来て、帰るのは強い責任感が許せない。

 

「さて、お目当ては……」

 

 距離はおおよそ四、五町(約四百から五百メートル)離れている。だが、龍兵衛は目が良いため、大体の人の顔を把握出来る。

 そして、奥の方に目当ての人物を発見すると、どう接近するか考える。拙い陣容だが、警戒態勢はなかなかに様になっている。

 

(ここは自分で行くのは難しいな)

 

 龍兵衛の背は平成の世の中でも高い方だった。そのため、平均身長がかなり低くなる戦国時代では目立ってしまう。

 悩んでいると丁度良く、用を足しに行くのか、陣から離れる兵が一人、目当ての所から出ていくのが見えた。それを見て、龍兵衛は満足げに一つ頷くと茂みから離れてその兵に近付く。

 完全に油断している兵は用を足し終えると大きな息を吐いて、履物を上げている。

 龍兵衛はその背後に音を立てずに近寄ると小刀を背中に突き立てる。

 

「動くな」

 

 突然のことに声も出せずに震えている兵に金の入った袋を見せる。

 

「欲しければ、言うことを聞きなさい。命も助けてあげましょう」

 

 低い声の敬語が恐怖心をより煽る。断れば命が無いことを分かっているのか、必死に何度も頷いている。また、体中から出ている汗が本気であると物語っている。

 

「見回りは一人でも行うことはありますか?」

「あ、ああ……」

「なら、一旦戻って物見に行くと伝えろ。裏切れば既に上陸している長尾の本隊にお前のことを言うからな」

 

 兵が驚いているところを見ると、やはり長尾が上陸しているのは知られていないらしい。

 手のひらに銭袋を握らせ、静かに「行け」と言うと逃げるように兵は陣へ戻っていく。

 万が一に備えて、龍兵衛は茂みへと身を潜める。しばらくすると件の兵が同じ所にやって来た。背後に他の兵がいる様子も無いことを確認し、辺りを見回している彼の背後に再び立つ。

 

「よくやってくれました。さらに励んでくれれば、さらに報酬をあげます。良ければ、長尾に仕官出来るように口を聞いてあげますよ」

 

 さらなる報酬と新たな仕官先というこの上ない褒美をぶら下げられ、兵は唾を飲み込む。

 

「早速、羽茂の港まで案内してください。街道は使わずに脇道を辿るようにして。それから、妙なことをしないように。ね?」

 

 兵は背筋を震わせながら、先導する。

 やはり、最も賑わいのある港へと向かうため、脇道も人通りは無いが、きちんと整備されている。

 街道には砦がいくつか立てられており、兵力に差があったとしても、被害は出ていただろう。

 

「つ、着きました」

 

 兵が震える指で示す方向には、羽茂の港が見える。そして、長尾軍を今か今かと待ち構える佐渡の兵が数百、武器を構えている。

 

「なるほど……よし、戻りますよ」

 

 龍兵衛は兵を立たせ、前に行かせる。

 来た道をそのまま戻り、本陣近くの茂みに入る。

 

「さて、貴方はこれから自分が言ったことを一言一句違えずに報告してもらいます。よろしいですね?」

 

 兵が赤べこのように何度も首を縦に振る。

 

「赤泊が長尾によって襲撃されている。激しい攻勢故に援軍がいる。とね」

 

 兵が驚いて龍兵衛の方を向く。赤泊は羽茂の東に位置する土地であり、丘陵地帯が続くため、行軍には向いていない。

 

「大丈夫です。赤泊からの襲撃など、そちらは考えてもいないのですから。襲撃の狼煙も用意していないでしょう?」

 

 兵の無言を肯定と捉えた。すでに真野に到着している長尾軍についても音沙汰が無い時点で確信に近いものは得ていたが、かなり警戒態勢が甘い。

 

「さぁ、急いで下さい。さもなくば……これですよ?」

 

 小刀で兵の心臓辺りを軽くつつくと悲鳴を上げながら本陣へと転がり込んで行った。

 

「……あんな兵がいて大丈夫なのか?」

 

 士気が低いと情報は得ていたが、これほどとは思っていなかった。ぼやきながら茂みから離れ、再び陣が見える遠い木陰から様子を伺う。

 徐々に本陣の動きが騒がしくなり、四半刻もしない内に本陣から多くの将兵が赤泊に向けて走って行った。

 

「よしよし。残っているのは……やっぱり、あれか」

 

 上手くいっていることに満足し、何度も頷く。

 よく見ると先程脅した兵も残っている。どうやら、件の将は兵までには伝えていないようだ。

 本陣の近くまで行くとおおよその場所を探し当て、件の将がいる所に潜入する。静かに幕を開くと座っている将が一人しかいない。

 

「御免」

「……! 何奴!?」

「長尾の者でございます」

 

 突如、背後から現れた龍兵衛に神経質そうな痩せこけた顔をした将は刀を引き抜いて応じるが、正体を明かすと落ち着きを取り戻したようにかけていた場所に直る。

 

「お初にお目にかかります」

「先程、赤泊より襲撃があったと伺ったが、偽りでございますな?」

「然り。貴殿には陣にある狼煙を上げていただきたく。それが長尾が出撃する合図となります」

「承知いたした。して、何処より貴軍は来るのですかな?」

「案ずることはございません。ここに合流するので」

 

 最後まではぐらかしながら、狼煙を上げるように催促する。将は分かったと手を挙げると外の兵に狼煙を上げるように指示を出す。

 しばらくして、龍兵衛は煙が上がるのを認めると改めて将に頭を下げる。

 

「左馬助殿、手筈通りです。見返りは羽茂城城主」

「河田殿、感謝いたします。ご安心下さい。有泰様とは決して仲違いはしません」

 

 元々、本間左馬助は長尾与党であった。周りが反景虎派ばかりでやむを得ず、反景虎派に加わるしかなかった。

 越後に移動させる意見も出たが、軒猿に彼の性格を調べさせたところそれほど狡獪な男ではないことが分かった。

 むしろ愚直と言った方が正しいということがわかり、今回も反景虎派の家臣が背中を押して参加をしたらしい。

 朝信もなかなかの策士である。

 

「しかし、少し報酬が高いような気がいたしますな。少し釣りがあるのでは?」

「察しが早くて助かります。実は、鉱脈開拓と強制労働させる者を受け入れて欲しいのですが、お願いできますか? その管理」

「それだけですか?」

「規模は百ほどになるかもしれませんので」

 

 左馬助の唇が引きつる。

 それだけの罪人を佐渡に入れるための設備や人員は整っていないだろう。当然、龍兵衛も承知している。

 

「強制的に働かせる者とは?」

「重罪人たちですので、くれぐれも民が不安になるようなことが無いようにお願いします。それから、積極的に交流を図りたいので、使者を定期的にこちらから寄越します」

「あ、いや。使者ならばこちらより……」

「いえいえ、貴殿らにはかなり負担をかけますから。それに、何かあれば長尾の管轄ですから」

「しかし、佐渡への船旅は大変でしょう?」

「それはお互い様です」

 

 材料が無くなった左馬助は口をつぐみ、唸ってしまった。それを見て、龍兵衛は止めを刺す。

 

「長尾としては、変わりゆく佐渡の治安が良いものであり続けるか、見ていきたいのです。きっと惣領家の主殿もご納得いたしますよ」

 

 外からこちらに向かってくる蹄の音が聞こえてくる。兵たちがにわかに騒ぎ出し、しばらくして「長尾の軍だ!」という声も届く。

 

「さぁ、左馬助殿。兵たちにご指示を」

 

 押し黙る左馬助。葛藤しているのだろう。長尾とは同等の関係を築くつもりだったのだろう。しかし、傘下であるようにしなければいつ問題を起こすか分からない。元々、独立意識が高い島の武家である。最初から上下関係をはっきりさせておかなければならない。

 

「案ずることはありません。きちんと言う通りにしておけば、良い還元がありますよ」

 

 その言葉が後押しになり、左馬助は意を決して顔を上げた。

 

「長尾に手を出すな! 我らは降る!」

 

 

 

 戦を終えた帰る船は緊張しなくて良い。

 龍兵衛は一人、船尾で佐渡を見ながら物思いに耽る。

 行きのような緊張感も無く、暇な兵士たちは思い思いに時間を潰している。

 長尾は不穏物質の羽茂と河原田を滅ぼし、味方となった勢力にはしっかりと恩を着せ、長尾に反抗出来ないようにした。

 反発する残党もいたが、本間宗家の主である本間有泰が命を助けてもらったと長尾が提示した要望を無条件で受け入れた。その結果、長尾は佐渡を完全に支配下にでき、あらゆる方面に動く下地が完成した。

 

「龍兵衛。どうだ? 勝利の酒だ」

 

 弥太郎が盃を片手に持ち、声をかけてくる。

 

「変なもの入れてないでしょうね?」

「あ、ははは、大丈夫だ。この前のようなことは無い」

 

 それでも彼の表情が晴れることはない。 

 

「いや、本当に大丈夫だ。な、な?」

 

 彼女は毒味とばかりに酒を飲むが信用出来ない。この前の一件と人を疑う悪い癖のおかげである。

 

「まぁ、とりあえず今回は信じましょう」

「今回はということは、今後は疑うのか……」

 

「当たり前だ!」と叫びたい気持ちを抑え、龍兵衛は酒を受け取る。

 

「この前のことをまだ根に持っているのか? まぁ、別に良いじゃないか、お前も役得だったろう。なかなか上手かったしな……どこで覚えた?」

「……教えません」

 

 そのようなことを言う馬鹿がどこにいるのか知りたいぐらいだと睨む。

 

「ま、それは置いといてだ。金山のことなんだが、あれはこちらが管理するということで本当にいいのか?」

「ええ、そうして置いた方が今後に繋がります。向こうも承諾してくれたじゃないですか」

「それもそうだが、任せてしまえば良いのではないか?」

「罪人の管理は任せますが、発掘した物の量はごまかされると困ります。人は欲に負けますから」

 

 弥太郎はそれなら納得だと頷く。面倒ごとを押し付けて、美味しいところだけをいただく。大人気ないが、勝者のだろう権利だ。

 

「罪人の選別は?」

「戻り次第すぐに。重罪人を選ぶのは大変ですが、きちんと選抜しますよ」

 

 重罪人でなければいけないわけがある。鉱山の環境は平成時代になっても人類に被害を与え続けてきた。

 ましてやこの時代の衛生の酷さなど言うまでも無い。おそらく刑期までに生きて帰れる者は十人に一人の割合だろう。

 

「それにしても、どうしてあそこに金山があるとわかった? 別に長尾には利になるから良いのだが、あっさりと見破るなど……少し気になる」

 

 発掘を主張した龍兵衛自身も驚いた。佐渡金山のほとんどは江戸時代に発掘されたもので、この時代には無かったと考えられていた。

 戦国時代には全て発掘されていたと思っていたため、何となく見た資料に書いてあった時には驚いて、周囲を気にせずに声が出てしまったほどだ。

 

「まぁ、あれですよ……自分の金に対する鋭い嗅覚です」

 

 龍兵衛はとりあえず、鼻を指差し、おどけてごまかした。

 その言葉を聞いた途端、弥太郎が少し龍兵衛から距離を取った。

 

「……やだな、お前も。変なところがあるな」

「それはお互い様ですよ」

 

 じとっとした目をお互いに向け合う。そうしているとおかしくなり、屈託なく笑い合いながら酒を口に入れた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話改 迷子?

 大勝利を収めて意気揚々と佐渡から帰って来た弥太郎達を待ち構えていたのは大騒ぎの春日山城内だった。

 大騒ぎといっても城全体では無く、一部の長尾の上層部がいる所ばかりの小規模なものであるが、雰囲気がいつもと明らかに違った。

 

「何の騒ぎだ?」

「さぁ、自分に聞かれても。行って見れば解ることかと」

 

 太陽が今まさに沈むという美しい夕暮れ時の光景を後ろに城門に入ると弥太郎たちが帰って来たことに気がついた兵士が頭を下げる。

 ここは問題無かったが、一つ違う事があった。

 景虎はいつもこういう時は将兵の苦労を労う為、城門まで迎えに来るのが当たり前だったので、弥太郎は門にいた兵士にどうしたのか訪ねるが、わからないと首を振るので、たまにはこういうこともあると城に入った。

 五人の主だった将は城内に入ると何やらざわざわと人が話し合っているのが聞こえた。

 ここも問題は無い。女中達のよくある世間話の類だ。

 そう考えながら景虎に帰還の報告をするために部屋へと向かうが、ここからがおかしかった。

 右往左往する女中たち。よく見れば女中の中でも位が上の者達が動き回っている。ざわめきも段々大きくなっている。

 何かあったのかと思った五人は近くにいた家臣の一人に訪ねたが自分は知らないと言って首を振った。

 そこでさらに奥へと早足で歩いて行くと颯馬が立っていた。

 五人の姿を確認すると出迎えも無く申し訳ないと詫びを入れて労を労った。

 しかし、五人の興味はそこでは無く、上層部の騒ぎの原因が何か気になっているため、聞いてみると颯馬は辺りを気にしながら耳元で囁くように言った。

 

「実は、死んでいたと思われた御方がお見えになったのですよ」

 

 

 

 

 

 

 それは龍兵衛たちが佐渡から帰っている頃のある日のことである。

 

「顕景、山籠もりに出てみないか?」

 

 景虎のその一言が事の始まりだった。

 颯馬は景虎に顕景を影から護衛するよう命じられそれについて行くことになった。

 そして、あっという間に一週間が経ち、無事に山籠もりを終えた顕景が山小屋の整理をしている間に先に颯馬が春日山に帰って来た。

 先ず、顕景がどんな生活をしていたか記録した報告書を提出した。景虎もそれを面白そうに読んでいる。

 

「ねぇ、そういえばあっきゅん遅くない?」

「そういえば……」

 

 いくら颯馬の方が歩くの速いからといっても遅いと思った慶次が珍しく心配そうに言う。

 

「まぁ、顕景なら大丈夫だろう」

 

 楽天的な景虎の発言に本当に大丈夫なのかと心配になった二人は一緒にもう一度戻ることにして立ち上がろうとしたその時、親憲がやってきた。

 

「あのー顕景様がお戻りになられました」

 

 歯切れの悪い感じで親憲が言って来たので気になった颯馬が訪ねる。怪我をしているわけでは無いそうだ。

 

「おお、そうか。労をねぎらってやらねばな。早く通せ」

「いや、あの……しかし、ですねぇ……」

 

 珍しく親憲が言葉を濁すと「とにかく外に来て下さい」と謙信に頼み、訝しげに思いながらもそれを承諾して立ち上がった。

 そして、城門まで降りてみると顕景ともう一人、雰囲気も身体付きも大人の女性が立っていた。 

 

「ほう、ここがお主の住んでる城か、なかなか壮大じゃのう」

「(えっへん)」

 

 そこにいたのは春日山を褒められ、胸を張って自慢げにしている顕景ともう一人、金髪の女性がいた。

 

「誰ですか? あなたは?」

「ん、なんじゃ? お主達がこの城の将たちか?」

 

 なんとも傲慢そうな女性である。だが、その格好姿勢からして大分身分が高い人に思える。

 

「顕景、ご苦労だったな。怪我は無いか?」

「(……♪)」

 

 顕景が景虎に飛びついてその頭を撫でる。本当の親子みたいだなと颯馬達が微笑んでいるとその気持ちを代わりに知らない女性が代弁した。

 

「仲が良いのう……ところでお主が長尾景虎か?」

「……何故、わかったので?」

「纏う雰囲気が違う故にな」

 

 ただ者ではないと全員の警戒心は一気に引き上がった。顔も知らないのに景虎を一発で見抜くなんてそうそう出来るものではない。

 

「あなたは一体何者だ?」

 

 颯馬が警戒しながら訪ねるが、女性の方は全く気にしていない様子だ。

 

「お主こそ、相手の名前を聞く時はまず自分が名乗るのが常識じゃろ」

「いくら、顕景様が連れて来たとはいえ、知らない者を長尾の城に入れるわけはいきません」

 

 女性はそれもそうじゃなと言うと周りを気にしつつも「信じてくれるか?」と訪ねて来た。いきなりの意味深な言葉に皆で顔を合わせたが、景虎が信じようと言ったのでほっとした様子で女性はこう名乗った。

 足利義輝と。

 それから、どうにか頭を整理した颯馬達は義輝を相手に立ち話ではいけないと部屋へとお連れすることにした。実及は本当に足利義輝なのかと疑ったが、そこで慶次と手合わせをすることになった。

 慶次は相対するなり、相手がただ者で無いと見極め、最初から本気を出してどうにか引き分けに持ち込んだ。

 その瞬間、剣豪塚原卜伝に剣術を教わった足利義輝に相違無いと全員が判断し、上座に連れ、頭を下げた。

 堅いのは好かんと義輝からは言われたがそれは土台無理な話だ。

 あの剣豪将軍と呼ばれた御方が目の前にいる。

 死んだと言われたあの義輝が生きているだけでも驚きなのにここにやって来るなど、誰が想像するだろうか。

 

「それで、何故に義輝様は顕景と一緒に……」

「いや、顕景が一人で山の中で不安そうな顔をしながら妾の袖を掴んだのじゃ。それで迷子かと思ってな」

「(ぶんぶん)……! ……!」

 

 颯馬から見ると身振り手振りで顕景は景虎に何か伝えているようにしか見えない。

 

「顕景は義輝様が『どこに行くべきか……』と悩んでいたのを聞いてお連れしようとした。と言っていますが」

「(こくこく)」

 

 よく景虎は顕景の言いたいことがわかるなぁと颯馬は毎度の事だが、感心してしまう。

 

「いや、確かにそんなことも言っていたがのう……やはり、かような子に袖を掴まれては……」

 

 颯馬が感心していると義輝は颯馬達を見て同意を求めて来た。

 

「確かに、顕景様にそうされては……」

「(きっ!)」

 

 睨まれた景家が慌てて頭を下げるが、確かに気持ちはわからなくもない。

 

「……! ……!」

「顕景は武者修行の山籠もりをしていたのです。決して迷子では無いと」

「(こくこく)」

「なんじゃ、そうじゃったのか、それはすまなかった」

「(ぶんぶん)……! ……!」

「お気になさらずこちらも義輝様と知らずに働いたご無礼お許しくださいと言っています」

 

 よく顕景の言いたいことが分かるのか、本当に不思議だと颯馬が思っている傍らで義輝は否と首を振った。

 

「将軍、足利義輝はもう死んだのじゃ。今はただの足利義輝じゃ気にしなくても良い」

「とんでも御座いません!」

 

 景虎の言葉が飛ぶ。

 あの天下の将軍がそんな事言うとは誰も思わなかった。いくら群雄割拠のこの時代とはいえ将軍の力は決して侮れるものでは無い。

 

「それで義輝様は今後はどこにも行く宛は無いのですね?」

「うむ、こうなった以上、師匠のように旅をするのも悪くないと思っていたのじゃが……やはり、妾は都の生活に慣れてしまったようじゃ。どうも旅には慣れぬと思っていたところだった」

「ならば、我々のところにいらしてはいかかでしょうか。そして、必ずや義輝様を再び将軍の座へ」

 

 義輝様はおとがいに手を当てて考える素振りをしてすぐに世話になろうと言った。

 再び景虎達は頭を下げた。しかし、義輝様から出た次の言葉に皆が愕然とした。

 

「世話にはなるが、妾は将軍に戻るつもりは無い。長尾が家臣として働く」

「何故……」

 

 義輝の発言に珍しく景虎が絶句した。

 

「襲撃された時にわかったのじゃ。足利の時代を取り戻そうと妾も妾なりにやってきたのじゃが、時代はもうそれを認めようとしていないとな……」

 

 義輝の頭の中にはかつて信頼出来る家臣達と奮闘した日々が次々と並んで出てきている。

 そして、最後に出て来たのはもう死ぬと覚悟したあの業火の中で一人で謎の襲撃者達を相手した己。

 己が足利幕府の末路も体現したとすればもはや考えるまでも無かったのだと語った。

 

「もう足利の時代は終わりじゃ。お主が足利に尽くそうという思いは嬉しいがそれは徒労になるじゃろう。ならば、景虎よ。お主がお主の時代を創るのじゃ」

 

 颯馬は恐る恐る景虎の様子を伺う。

 彼女は悩んでいる。正義と秩序を重んじて幕府再興という名目で天下を統べようと考えていた景虎の考えを義輝の発言は根本から覆すものであった。

 目を閉じてどうするべきか長く考えている。そして、決意したように目を開いた。

 

「わかりました。長尾景虎、自らの道を歩み必ずや天下を統一し、平和な世を取り戻します。そのために力をお貸しして頂きたい……義輝様、いえ。義輝殿」

 

 この答えに満足したのか義輝は大きく頷いて高らかに笑い、景虎にこれからよろしくと頭を下げた。

 これで大団円。そう思ったが、慶次によってその雰囲気は変わった。

 

「ねぇ、今思ったんだけどさ。足利義輝が生きているって今知られたらまずくない?」

 

 確かに、と部屋の皆が頷く。

 確かに長尾はまだ越後は統一して領内経営も軌道に乗ったところだが、越後一国では力はまだまだ諸国と均衡しているぐらいだ。

 義輝のことが知られれば、その存在を我がものにしようとする不届き者が出てくるかもしれない。さらに幕府の火薬に火を点けることにもなる。

 

「よし、ならば慶次。そなたが決めろ」

 

 景虎の丸投げに颯馬も含めた全員が驚きの表情を向ける。

 

「え! あ、あたしが!? いやいやいやいやぁ、こういうのはぁ、やっぱり自分で決めるのがぁ……」

「何を言うか、名前を変えた方がいいと最初に言ったのはそなただぞ」

 

 逃げ場の無くなった慶次は颯馬に救いの目を向けるが、華麗に無視をして目を見事に逸らしている。

 

「そういえば、お主が前田慶次か……話に聞いた通りの人じゃな」

「え! ご存知なのですか?」

 

 景家が驚愕の声を上げるが、慶次の方は、きっかけが分からないようで、首を傾げる。だが、何か掴んだのか、すぐに手を叩いた。

 

「あーもしかしてぇ、藤っちから聞いたぁ?」

「うむ。お主が京にいた頃、藤孝とはよく手合わせや連歌をやっていたそうではないか。藤孝は良い相手が出来て喜んでおったぞ」

「え!? 慶次って連歌とか出来んの!?」

 

 全員の気持ちを景家が代弁してくれた。全員が慶次に驚愕の表情と好奇の視線を送っている。

 

「失礼ねーあたしを誰だと思ってんのよぉ」

 

 慶次が胸を張ると露出度の高い服のせいか大きい胸が揺れる。

 その姿はどう見ても、ただの露出度の高い怪しい傾奇者にしか見えない。

 

「待てよ。藤孝ってまさか、細川家の細川藤孝殿では!?」

 

「そ! あったり~」と問いた颯馬に言う慶次だが、知っている人物もまた大物過ぎる。

 何でそのような人と知り合いなのか颯馬は思ってしまったが、慶次だからと自分で妙に納得してしまった。

 

「話が逸れたな。で、どうするんだ。慶次?」

 

 珍しく真剣に慶次が考えているという貴重な光景を長尾家の面々は目の当たりにすることが出来た。しばらくして「よし!」と言うと思いついた名前を言った。

 義輝もしばらくはそれで良いと気に入ったため、今後はその名前で呼ぶこと。決して義輝の存在を外には漏らさず厳密にすることを確認した。

 

 

 

 颯馬が一通り話終えたところで弥太郎が口を開く。

 

「それで、名前はどうなった?」

「北山義藤になりました」

「なるほど、花の御所と細川殿から取ったか」

 

 由来を察した龍兵衛は直ぐに頷いた。

 

「だが、いずれは長尾家の家臣としてどこかに入るつもりです」

「ならば、どうしてこんなに騒いでいるんだ? もう部屋とかは手配したのだろう」

 

 兼続の疑問に颯馬は首肯したが、さらに声を潜めてかなり重大な問題だと前置きして口を開く。

 

「実は今、他に問題が起きました」

 

 一揆でも起きたのかと五人はそう思ったが、颯馬の神妙過ぎる表情を見るとそうではないようだと悟る。

 

「関東の北条が本格的に動いたそうだ」

「何!?」

 

 軍師達の見立てではもう少し後の予定だった筈なのに早過ぎると龍兵衛は目を見開いて続けて颯馬に尋ねる。

 

「里見はどうなった?」

 

 軍師達は一つの理由に背後に里見がいるため直ぐには動けないと思っていたが、何故北条が動けたのか分からない。

 

「領内で一揆が起きたみたいで動くに動けないらしい」

 

 龍兵衛の舌打ちが廊下に響く。颯馬もかなり重い表情になっているが、聞いていただけに龍兵衛よりも冷静だ。

 

「景虎様も万が一に備えて出迎えの準備をしています。とりあえず弥太郎殿たちは報告をしておいて下さい」

 

 颯馬の言葉に頷いて弥太郎達は直ぐに景虎の部屋へと向かった。

 

「すまないな、出迎えも無く。だが、ご苦労だった。報告は聞いた。佐渡の事はそなた達の案で行く。とりあえず義藤殿のところへ行きそのままはゆっくり休め。何、心配はいらん。北条とは戦う気は無いぞ。憲政殿を出迎えるだけだ」

 

 戦うのならば我々もという五人の意図を察したのか景虎は手を振って大丈夫だと落ち着かせた。

 結局、景虎がそこまで言うのであればと納得し、五人はすぐに義輝もとい、義藤のところへと挨拶に行った。

 既に五人の事は景虎から伝えてあるらしく、会談はすぐに終わった。

 また、五人ともその場で義藤に堅いと言われたのは言うまでもない。

 元将軍だけあって、身に纏う覇気がこの部屋の彼女が辛うじて御殿から持って来た名刀のように鋭く、恐ろしいものなのでどうしようもない。ただただ圧倒されてしまったのだ。

 それでも義藤は気さくな方だということは五人ともわかったので少しは気が今後は楽になるだろう。

 

 

 

 

 

「(義藤殿の胸大きかったなぁ)」

「ど・こ・を・見・て・い・る? 私のと義藤殿とのを比べるなぁ!」

「へぶっ!!? みぞおちがぁ……」

「颯馬、少しは懲りろ。慶次の時もそうだったじゃないか」

「龍兵衛、少しは助けを……」

「断る」 




感想・指摘よろしくお願いします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話改 あすなろ

少し変える必要があると思ったので再投稿します


 上杉憲政の居城平井城は北条の急襲に蜂の巣をつついたような大騒ぎとなり、北条軍は好機と一気に総攻撃を始め、憲政方の士気を下げようとした。

 北条の思惑通りに大多数の国人衆や豪族が北条方に降り、後は当初の目的である平井城を落とすのみとなった。

 だが、山内側の援軍として参戦していた長野業正はこれをよく守り、北条軍は苦戦を強いられた。

 そこで北条軍大将で当主、早雲の娘である氏康は一計案じて多目元忠に命じて抑えをさせておき、平井城を密かに離れて業正の居城である箕輪城を一気に目指すように進んだ。

 さらに忍の風魔小太郎に命じて厩橋城にわざとこのことを知らせて出撃を促させた。厩橋城は箕輪城あってこその城のため箕輪城が落ちては籠城しても意味が無いのだ。

 虚報を真に受けた厩橋城は出撃するがその隙に氏康に命じられて別働隊を率いていた北条綱成に城を奪われた。

 さらに箕輪城は業正が居ないことと北条軍の到来に戦意を失い、農民兵に揺さぶりを掛けられた為、あっさりと落城してしまった。

 この動きに付いていけなかった憲政方は平井城に完全に孤立してしまい。残された生きる道は越後へとは敵中突破するしかなくなった。

 しかも北条の忍、風魔の手は平井城の奥深くにまで入っていた。

 太田道灌が寝返りを企んでいる。

 そのような根も葉もない噂が動揺している平井城城内には瞬く間に広がった。

 これを聞いた憲政は道灌を切腹させようとするが、家臣の上泉秀綱と太田資正のとりなしでどうにか謹慎という事で落ち着いたが、策士道灌がいなくては北条の大軍を抑えることはかなり難しくなってしまう。

 どうにか業正・秀綱・資正らがいる為、しばらくは落ちることは無いが救援が無い以上、数に勝る北条の勝利は時間の問題となった。

 

「しかし、随分とあっけないな。動けなかったのか?」

「動くことが頭に無いんじゃないか? あの管領様は」

「よせ、家柄だけは向こうが上なんだから」

「三人とも、あまり言っていること変わってないの」

 

 報告書を囲んで兼続、颯馬、龍兵衛、定満の順番で意見を言っていく。

 冬が近付き、寒々としてきた春日山の一室にて四人の軍師は北上している北条についての対策を軍師同士で話し合うために顔を合わせていた。

 全員はとりあえず憲政は殺されることは無いだろうと結論付けた。関東管領を斬っては評判が著しく悪くなる。

 問題は長尾に対する利益である。これからが大切な時、人が国を動かすのだから人材は出来ることなら欲しい。

 

「誰かこっちに来ないのでしょうか?」

「とりあえず、憲政さんを保護すれば大丈夫だと思うの」

 

 憲政をきちんと保護する条件付きとなるが、憲政の家臣には優秀な人物が大勢いる。それを迎え入れることは長尾家にはかなり好材料だ。

 

「北条がこちらに来ることは……無いですね?」

 

 龍兵衛が一抹の不安を述べるが、全員がそれはないと頷く。

 越後山脈を超えることは戦の後に行うのは難しい。沼田などより北にはこちらに来るまで城が無い為に補給も難しい。

 

「なら、まだこちらには余裕がありますね。今の内に軍備を整えて起きましょう」

「うんうん。あと、龍兵衛君、金山の方はどう?」

「最初の成果がこちらにもう少しで着くそうです」

 

 情け容赦なく重罪人を使ったことで思ったよりも早く成果が出て来ている。

 もちろん龍兵衛もただの重罪人ではなく、重罪人でも反省の色が無い連中や極悪非道の人間を使っている。彼らはいわゆる見せしめというやつだ。

 彼らのようになりたくなければそのような罪を犯すなとただそう言いたいだけだ。

 龍兵衛はそんな連中に慈悲をかけてやるほどお人好しの心など持ってはいない。そのような連中に慈悲をかけても付け込まれるだけだ。それはかつての彼自らが受けた経験が心の中で警鐘を鳴らしている事に他ならない。

 

「職人はかなりの量が期待出来ると言っていました」

 

 何せ佐渡金山は後世の計算では日本一の発掘量であったらしい。軌道に乗れば長尾の財産は潤っていくだろう。

 だが、何故か期待を寄せる龍兵衛に三人の視線が刺さる。

 

「龍兵衛君、お金になると目の色が変わるの……」

「まったくです。颯馬は女、龍兵衛は金、長尾の男の軍師はいやらしいですなぁ」

 

 兼続は颯馬も巻き込む。彼が兼続を睨んでいるが、龍兵衛は気にしない。

 

「何を言うか。金はあるに越したことはない!」

 

 龍兵衛の持論上、胸を張って言える。金にうるさくて何が悪いと。

 

「でも、確かに颯馬の女は駄目だよなぁ。それじゃあ決まった相手は出来んぞ」

「男のお前が言うな!」

「いや、わからんぞ颯馬は浮気しそうだから嫌だと言われるかもな」

 

 兼続もここが好機だと言わんばかりに龍兵衛に乗って颯馬を攻め立てる。

 

「まったくだ。このままじゃ定満殿みたいにいつまでたっても婚姻出来ない……あ!」

 

 調子に乗った彼がうっかりと口を滑らせてしまう。

 龍兵衛が恐る恐る定満に目を向けるとそこには大変良い笑顔をしている。こめかみの青筋がぴくぴくと動いている。

 全て大当たりであり、彼女が影ながら気にしていることをはっきり言ってしまった罪は深い。沈黙した空気に身の危険を龍兵衛は慌てて立ち上がり「お先に失礼しまーす」逃げるように退出しようとするその背中に、低い声が聞こえた

 

「龍兵衛君、後でゆっくりお話しようね」

 

 その後、夜から始まった定満の説教は翌朝の日の出まで続いた。

 しかも、龍兵衛は正座を命じられていたため、動くことが出来ずに終わった後も、しばらく定満のおもちゃになって足を弄ばれていた。

 更に苦痛だったのが、定満は無自覚なのか分からないが、終始背中に自分の胸を押し付けて来たことだ。分かっていてやっているため、たちが悪い。

 結局、徹夜で精神と身体に二重の苦痛を味わう羽目になり、疲労困憊になってしまった龍兵衛に颯馬は肩を置いた。労いの感情を十二分に込めて言ってくれた。

 

「ご苦労様」

「定満殿の説教は死ぬ・……」

「だろ? もう少し気をつけろ」

 

 しかし、休む間もなく、火急の知らせが舞い込んできた。

 

「申し上げます。関東管領山内上杉憲政殿、敗北」

 

 東北へ動こうとしている長尾には早過ぎる報告だった。軍師たちはせめて蘆名を倒すまで持つと考えていた。

 

「こうなった以上、北条に備えなくてはなるまい」

 

 長尾家の軍議の間では臨時の軍議が執り行われていた。今は北条が来ることは無いだろうが、いつかは憲政を追ってやって来る。

 それは誰もがわかっていた。

 

「新発田城にどなたかを派遣して憲政殿をお迎えしましょう。そして北条に備え、越後と関東の間の山々に砦を築いてはいかがでしょう?」

 

 颯馬の策に反対意見は無かったので、それで行くことになった。そしてもう二つ忘れてはならない方面からも知らせが来るのはさらに次の日だった。

 

「信玄は撤退したみたいだね」

 

 段蔵からの報告は長尾を驚愕させた。

 上田原で村上義清と戦っていた信玄は義清に敗北。更に義清の後ろに控えていた筈の仁科、小笠原の伏兵に退路を断たれ、さらなる追撃を受けて大打撃を被ったらしい。

 

「なんとも噂に聞く武田信玄にしては精彩を欠いた戦だったようだな」

 

 景虎の独り言は誰もが思っていたことを代弁している。

 ここまで負け無しであっという間に南信州を統一した信玄だが、北へ侵攻し始めてからどうも変だ簡単に負けている気がする。それが長尾家の疑問だった。

 

「とはいえ一旦は一方の脅威は消えました。今は北条もそれなりの被害を被ったようですし……そろそろ我らも動く時かと」

 

 静かな龍兵衛の言葉を聞き諸将から興奮した声が聞こえて来た。

 

「定満はどう思う?」

「うんうん、私もそう思うの。今を逃したら次は無いと思うの」

 

 武田にしろ北条にしろ次は本格的にこちらに来る可能性は大きい。いや確実だ。

 

「とにかく、関東管領一行をお迎えしてから動かねばなりませんね」

 

 人材は多い方がいい。

 軍師達の利益を重んじる思惑はいい方向には行っていた。

 他に明るい報告が上がっていた。ようやく佐渡から金が届いた。正直言って数えるのもはばかれる程の金の量だった。

 

「初めてだよ。俺、あんなに金が入っている箱を見たの」

「俺もだ。颯馬、これで随分楽になるな」

 

 先程、金を見た颯馬の顔はまだ驚きから抜け出せていない。

 あれほどの量を掘り出すとはさすがの龍兵衛も想像していなかった。

 職人は随分と人を使ったのだろうということが分かる。

 

「遠慮なく使っていいと言ったのは河田様じゃないですか。なので遠慮なく」

 

 職人は本当に容赦なく使ったらしい。

 実際に勝手に使っていいと言い出したのは龍兵衛なので別に職人には罪はない。

 景虎達もこの量には目を見張った。普段は清貧を好む長尾家の面々がこれほどの金の山を見るのは初めてだった。

 慶次がこっそりと手を出そうとしたので颯馬が兼続に頼んで連行しておいたため、金に手を出す不届き者はいないだろう。

 これに元々佐渡で取れていた銀も加わる。長尾にとってはたいへんな大きな利益となるのは言うまでも無い。

 これだけでも様々な政策を可能にする事だろう。

 その日の内に謙信の下に関東へ派遣した軒猿から報告がもたらせた。

 

「関東管領様が新発田城に入りました。明日か明後日には春日山に着くそうです」

 

 これで長尾家は北条とは相容れない仲となるだろう。

 しばらくすれば向こうも態度を軟化させるかもしれないが今は仕方がない。

 和議を結ぼうとしても憲政殿の身柄を渡せと言われる可能性は高い。

 それではいそうですかと渡すような景虎ではない。簡単に渡せば日和見だと周りから言われかねない。

 しばらくは関東の動きには警戒をする必要がある。新発田城の新発田重家や安田城の安田長秀は勇将で北条の攻勢に遅れを取ることはないだろう。

 

「関東管領殿は関東を取り返せと言ってくるだろうか?」

 

 景虎はどこか不安そうにしている。そんな彼女へ颯馬が訪ねる。

 

「そう言われたらどうするので?」

「管領殿がこちらにいて義は我らにある。無論関東に行くべきでしょう」

 

 すぐさま兼続はそう言うが、景虎様はそれはないと首を振った。

 これには定満や親憲といった古参組も驚いた。義に篤い景虎が関東管領の言うことを無視するのか。

 以前の景虎では到底考えられない。誰もがそう思った。

 

「義藤殿に言われた。私が思うように戦えとな。私は天下を平定するのが私の戦う意味だ。その為には今勢いのある北条と戦うのは得策では無い。いずれは戦うことになるが・・・・・・今は我ら長尾の勢力を安定させるべきだ。我らは東北へ向かう」

 

 軍議の間にどよめきが起きる。

 この時、景虎は人の為の正義では無く、自分の正義の為に動く。そう宣言したも同然だ。だが、これこそが重臣の軍師や将が望んだ姿。

 

「最上への工作はどうだ? 颯馬」

「はい、同盟を結んでも大丈夫なほど関心は持たれています」

「龍兵衛、兵糧の方は?」

「計算すれば次の収穫を待って動けば盤石の状態で行くことが出来ます。農民も戦いに参加させることが出来ますし、出陣は収穫を待った方がよろしいかと」

「定満、信州の情勢は?」

「問題無いの。この前の戦で武田はかなり被害を出したの。だから、大丈夫」

「兼続、蘆名の状況はどうだ」

「当主の蘆名盛隆に不満を持つ家臣がいる為に一枚岩とは言えない状況が続いています」

 

 矢継ぎ早に景虎は軍師達に確認をしていく。軍師達は次々と上杉の好条件を言ってくれる。全ての条件は揃っている。

 動くにこれほどのいい時期はない。景虎は立ち上がり高らかに宣言した。

 

「蘆名を収穫後に攻める。各々準備を怠るな!」

 

 全員の返事が一層大きくなる。

 軍議の間は外の寒気が忘れられるほどの熱気に包まれた。

 もう少しでとうとう天下統一の為の道ヘ長尾家は歩き始める。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話改 民とは

 農家の朝は早い。 

 朝は夜明け前に起きて簡単な草刈りをして、出来た野菜や果実を収穫する。朝食を取った後にまたすぐに畑に出て、土に肥料や水を撒く。そして、虫と格闘しながら新たな肥料を作り、無駄な苗を引き抜いたり、無駄な枝の切り取りをする。午後はまったりとした後にさらに水を撒いたり午前中の残りをやっつける。

 書けば簡単だが、実際はそうはいかない。

 とにかく疲れる。

 農家の朝が早いのは夜に寝るのも早い。そうしないと翌日に響く。植物は朝から面倒を見ないといけない神経質な相手故に農家の朝はとても早い。

 

「はぁ~……またこんな時間に起きちゃった」

 

 朝早くからはやることが無いのに起きてしまった龍兵衛は冴えてしまった目をこすって起きる。

 平成の世では龍兵衛の家は江戸から続く農家で彼自身も手伝っていた。そのために朝は昔から早い。

 それはここに来て、数年経った今でも変わること無い習慣である。

 今は農家では無い。

 さらに見習い修行をしていた斎藤家の頃と違ってやることが本当に無いのだ。

 人によっては朝から鍛錬をする者もいるが、彼は朝から汗を流すのはあまり好きではない。そのため、城下を散歩するようになった。

 気晴らしが出来るし、歩いて運動不足を解消することが出来て一石二鳥だ。

 

「龍兵衛、おはよう」

 

 部屋を出て後ろから声が聞こえる。そこには緑を基調とした着物を着て頭に猿を乗せている長尾家の世継ぎが立っていた。

 

「顕景様、おはようございます。今日は早いですね」

「早く起きた。龍兵衛、どこへ行く?」

「自分は散歩に」

「顕景、行く。いい?」

 

 龍兵衛は快諾すると早速二人は早朝の城下へと出掛けた。

 

 

 

 仕込みだの掃除だのと色々やらないといけないことがある。

 龍兵衛は仕事柄、よく城下を視察し、毎朝散歩をしているので顔見知りも多くいる。

 

「おや、顕景様と河田様。おはようございます」

 

 一人の若い店主が二人に気付いて頭を下げる。龍兵衛はそれに頷いて笑顔で返す。

 

「おはようございます。どうです調子は?」

「まぁまぁってところです」

「そうですか。今日も頑張ってください」

 

 会話もそこそこに歩を進める。普段ならもう少し世間話でもしたいところだが、顕景がいるため、少し時間を気にしなければならない。

 しばらく歩いていると今度は年配の商人が声を掛けてきた。

 

「河田様、今度の寄合では話したいことがあるのですが」

「前にも言いましたが、皆さんの寄合です。自分ではなく、その時にきちんと話してください」

 

 気弱そうな商人は少し残念そうに肩を落とした。

 その後も様々な場所で老若男女問わずに龍兵衛は声を掛けられた。

 話題は様々だが、なるべく手短に答えることで、皆の声を聞けるように心がけた。

 それから時間はまだあったため、二人は農村地域にも行くことにした。ここでも龍兵衛は農民の一人に姿を認められると挨拶された。

 そして、真剣な表情で農民と話し合う。収穫の時期がいつになるか、今年の稲の状態はどのようなものかを聞き、今後の政策を頭で考える。

 今度の収穫後は冬の雪を覚悟して、蘆名討伐に向かう。

 早めに出なければ、北条や武田のことも気にしなければならない。後々、大変なことにならないように龍兵衛はいつ収穫になるかだけでも把握して出陣の日を早いところ定めておきたい。

 

「収穫の時は自分も手伝いましょうか? 元々、農民ですから」

「いやいや、結構ですよ。河田様のお手を煩わせることはありません」

「そうですか。せめて俵運びだけでも手伝わせてください」

 

 農民の代表者は断りかけたが、龍兵衛の真剣な表情の前に「わかりました」と言うと仕事に戻っていった。

 気にしないふりをしたが、邪魔をされるのではないかという不安な表情が見て取れた。確かに越後に来てから日は浅く、信頼は高くない。しかし、国を支える彼らを良くしていくためには現場をよく知らなければならない。何でも便利なあの時代のものにすれば良い方向に向くとは考えにくいため、少しでも今は信頼関係を作らなければならない。

 農作業を見ながら思案していると顕景が袖を引っ張ってきた。

 

「龍兵衛、どうして皆と仲良くなれる?」

 

 唐突な質問すぎたため、どういうことか尋ねる。

 顕景は笑顔をほとんど見せない龍兵衛が屈託の無い笑顔を見せているのを初めて見たと言った。

 確かに普段、当主の景虎や顕景や目上の将といる時は表情をよほどのことがない限り変えない。

 

「そうですね……例えば、一匹の蛇がいるとしましょう。その蛇はねずみを狙っています。襲いかかろうとしましたが、ねずみはよく見ると……まぁ、あまり無いことですが、ねずみは群れを作っていて十匹以上いました。さて、蛇はどうなります? ねずみの大きさはどれも同じと考えて下さい」

 

 いつもの真剣な感情を読み取ることが出来ない顔で問う。

 

「蛇、やられる」

 

 顕景は言うまでもないと直ぐに答える。

 

「そういうことです。わかりますか?」

 

 よくわからないと言っている。

 龍兵衛は顕景の表情からそう読み取る。

 

「蛇は邪悪な当主。ねずみは民です。ねずみを襲うのは蛇からの圧政、つまり餌を狙うこと。ねずみが団結しているところに蛇はそれを襲うのは一揆の鎮圧。ねずみは数が多い為に蛇より弱くても数で勝てるのです」

「数が質に勝つ。よくある」

「さすが、その通りです」

「龍兵衛、民が団結しないように注意してる?」

 

 意図を察した顕景の答えに満足し、龍兵衛はそういうことですと頷く。

 

「民がいないと我らは生活出来ません。また彼らも然りです。ですが、一つだけ違うところがあります。大変言い難いのですが、民は我々がどうなろうと知ったことでは無いんです。誰が上に立とうと民は自分達が良ければそれで良いんです」

 

 この言葉には顕景は衝撃を受けたようで、目を丸くして、農民たちに視線を向ける。

 

「彼らも生きる為に必死なんです。我らが圧政でも敷けば簡単に他国に流れてしまうでしょう。だからこそ、民は慈しむものでそこからかれらの心を掴み、こちらの思う通りに動くようにさせる。そういうものなのです」

 

 武士の力だけで無く国を動かす力を得るには民の力が必要となる。 

 民が減ればそれだけ生産力が落ちて財政が上手く行かなくなる。龍兵衛はそれをよく知っているからこそ自らが本気でかれらに向かっているようにしている。故に、腹を割って話すことを心掛けている。向こうも龍兵衛に合わせて素直な気持ちで話が出来るようになるの。

 しかし、龍兵衛はかなりの時間が掛かった。

 

「民を動かす、大変?」

「ええ、まったくその通りです」

 

 龍兵衛はそう言いながら、顕景と農業に励む農民をしばらく見ていた。

 しばらくして彼は顕景にかれらを指し、あれから作られる食材に感謝しながら毎日の食事を食べることが出来るかと聞いてきた。

 すぐさま肯定する答えが返ってきたが、龍兵衛はその答えを一瞬で否定した。

 顕景は驚きながらも先程の言葉を真剣に考えるように腕を組んでいる。

 民の心を掴むまでは大変だが、得ないといけないと言っていた人間が今度は農民が作った食材に感謝は出来ないと言い出した。顕景は聞き捨てならないと龍兵衛を睨むが、気にせずに続けた。

 民が食材を作る事が当たり前になっているのは昔からだ。今更、そのことに感謝しようとしてもそれはすぐに忘れてしまう。所詮は上に立つ人間はそういうものだ。

 そう龍兵衛は言った。その顔は雨に降られたように暗く、大切なものを落としたように残念そうに感じられた。

 一方で、龍兵衛自身もまた民の日和見主義には憂いを感じていた。人の心とはここまで変わりやすいものなのかと嘆きそうになる。

 そう考えるだけで、彼の心は萎えてしまう。

 それでは政治家である自分の意味がない。なんとしてもかれらが長尾家の下でないと嫌だと思わせるような政治をしようと農民を見ているとつくづく思ってしまう。

 またしばらく顕景と龍兵衛は何も考えることなく完全な日の出までもう少しの中で農作業を眺めていた。

 暑いという時間帯ではないが、やはり汗は人間である以上出てきてしまう。

 もうそろそろ稲穂が徐々に手入れを要する頃である。

 

「稲穂……米か……」

 

 龍兵衛は顎に手を当て、少し考えると額を叩いた。

 

「しまった。俺としたことが」

 

 苦虫を噛み潰したような表情で、自身の失態を恨む。

 顕景がいるのを見て、すぐにいつもの表情に戻ったが、少し顔を赤くなってしまう。

 彼女にはその動きがとても滑稽に見えたのか、面白くて笑ってしまった。

 

「何で、笑うんでしょう?」

「龍兵衛、無理しない。普通にしていい」

 

 自分はこれが普通だと言おうとした龍兵衛だが、言い逃れは出来ないような人だと分かっている。生来の素を出そうかと思ったが、頭の中で何かが囁いたのを聞いて、駄目だと心の中で首を振るって真顔に戻る。

 

「そろそろ時間ですね。戻りましょう」

 

 すぐにいつもの龍兵衛に戻った。

 顕景は不満げに口を尖らせたが、お構いなしに置いて行きますよと先に行こうと促す。無礼には文句を言わなかったが、顕景は口を尖らせたままだった。

 そして、その日の内に城下の職人に龍兵衛は依頼をして、千歯扱きと唐箕を作らせた。

 しばらくして試作品が出来上がり、景虎の立ち会いの下で試験を行ったところ両方とも上手く行ったので民想いの景虎のお墨付きをもらい、増設を命じた。

 そして、この秋から以来格段に米の収穫後の作業は早くなった。

 それでは問題も起きる。後家。いわゆる未亡人となった女性の稼ぎ手段が無くなることだ。

 もちろん龍兵衛もそのことはわかっていた。そこで彼は身体が丈夫なもの選抜して、歩き巫女として他国の情報を探らせるようにさせる組織を作るように景虎に提案した。

 彼女は早速、認めて東北、関東、信州へ重点的に送り込むように命じ、その指揮を龍兵衛に任せた。

 龍兵衛は他にも農政面では肥料の改善もしたいと、来春の田植え前には完全なものを完成させたいと考えていた。

 法令の整備浸透も着々と進み、人口の増加に伴い施設の建設をさせ、孤児や無宿者を住まわせる所も建てさせた。そこに先ほど出た後家の女性の中で、歩き巫女になれないような体が弱い者を彼らに食事を作って振る舞わせるようにさせた。

 資金は佐渡で取れた銀の方を当てて、子供には寺の住職に頼んで江戸時代の寺子屋のようなものを寺の中でさせた。

 本当なら兵農分離もさせたいところだが、越後一国の人口でどれくらい兵数が集まるかなど、たかがしれているため、しばらくは我慢である。

 

 

 

 どの時代にも私利私欲に走り、どんなに人を貶めても構わない連中は居るものである。

 今日も龍兵衛達は怪しい店にいわゆる立ち入り調査に入ることになった。

 案の定、その店の売上台帳には入っていない金があった。それだけでなく彼らは他の店の亭主の売上を脅しによって一部を奪っていたのである。

 そのおかげで必要な時に金が無くなった店はやっていけなくなり、閉店。絶望した店主も海に身投げした。

 

「あんたには、それ以上の思いをさせてやるよ……」

 

 龍兵衛がそう言うと亭主は絶望した表情で膝から崩れ落ちた。

 そのくらいの肝っ玉の小ささでよくやっていけたなと逆に感心してしまう。もちろん同情は全くする気は無いが。

 先程の被害に遭った店の家族は母親は店主の後を追うように死んでしまった。子供はどうにか寺の坊主に預けられていると分かった。

 その為、結局は二人を殺したということになり、店の主は即刻死罪となった。

 部屋に戻ると疲れたように息を吐いた。

 早く不正摘発の仕事がなくなって欲しい。これは切実な彼の願いだ。

 龍兵衛からすれば逃げられないように、夜にこの仕事を決行する為、寝不足になるからたまったものではない。

 最近では、その成果も出て、不正は徐々に減ってきている。

 だが、それが過ぎ去ったとしても、新たに考えなければならない問題が出て来た。

 青苧座の存在である。特権的地位があるあれには龍兵衛も手をこまねいていた。潰せば良いような問題ではない。

 坂本・天王寺などの京に近いところや京からの利益が無くなるのは痛い。

 それをみすみす見過ごすていては、権力の笠に着て、良からぬことを考える連中が出てくるだろう。

 官営化させて長尾家の完全な直轄にするのもありだが、そうすると値段の固定化などによって京都の天王寺など主要な取引先が抗議する可能性が高い。

 収益を独占する気だと言われれば向こうは宗教の力で国内で一揆を促す可能性もある。

 あくまでも長尾は保護しており、管理しているのではない。

 そこで、龍兵衛は定満に協力してもらい、表向き警護ということで彼らの店や会合に信頼出来る兵や軒猿を置くことにした。

 実際には監視をさせて、変な動きをする奴が居れば、すぐさま捕らえるという監察官のようなことをさせている。

 ただし、軒猿はともかく兵にも無いことを有ることにしてしまうこともあるかもしれないため、何かあれば即刻金山行きにすると釘を刺しておいた。

 これで心配は無いだろうと誰もが思った。金山行きはつまり死刑と言っているようなものだから。

 未来での日本とは違い、生きることだけが本望の民。明日のことなどでは無く、今日生きることだけに精一杯である彼らに明日を見せることが上に立つ者達の役目である。

 古今東西、民を軽んじた国は必ず滅ぶことは宿命だ。

 今に比べれば平成日本を生きる国民はどれだけ幸せであろうか。死と隣合わせの今、民は慈しまなければならない。それは龍兵衛が乱世で生き抜くためにも必要となる。

 

「いずれはこの時代も終わる。それまでにやるべきことをやらないと」

 

 龍兵衛は雪の散り始めることが無いよう空に祈る。寒いのももちろん、出兵をする長尾にとって深雪は大きな影響が出る。

 さらに長尾を発展させる第一歩が始まることを夢見て、龍兵衛は眠りについた。




感想・指摘よろしくお願いします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間改 龍兵衛の趣味 

「よろしいですか? 景虎様」

 

 冬も間近となった季節。

 景虎が外ですっかり寂しくなった庭を一人で眺めていると龍兵衛がやって来た。

 かなり真面目な顔をしている。それだけでまたかと嘆きの思うと共に景虎も仕事の顔になる。

 

「先程、不正を働いていた店を一件見つけました。明日には踏み込みます」

 

 民の為にならないのならばすぐに処罰するべきだ。景虎が了承すると龍兵衛はさっさと立ち去ろうとする。

 しかし、彼女の中の気紛れが働き、呼び止めて少し話しをしたいと言うと大人しく座った。

 

「顕景から聞いたぞ。お前が初めて顕景と話すことが出来たと。かなり嬉しかったようだな」

 

 そう言うと曖昧に頷きながら、少し照れくさそうに頭をかいている。

 

「そうでしたか……実は自分も昔は声が小さいと言われていたんで逆にちゃんと相手の声は聞き取ろうとしているんです」

 

 景虎は納得したように頷いた。

 龍兵衛がどのように聞き取っているのか気になったため「どうやっているのだ?」と聞く。彼は「普通にですけど」と言われ、苦笑いを浮かべてしまう。

 景虎も初対面の時はかなり顕景の声の小ささに困惑してしまい、あることに気付くまでなかなか上手く会話をすることが出来なかった。

 

「景虎様はどのように顕景様とやり取りを?」

「考えるんじゃない、感じることだ」

「……無理がないですか?」

「間違って無いと思うのだがなぁ」

 

 龍兵衛は困ったように唸ってしまった。

 考え込む彼をよそに、景虎は思い出したように彼に疑問を単刀直入にぶつけた。

 

「そなたは顕景が嫌いなのか?」

「……はっ?」

 

 何故そうなるのかと逆に龍兵衛が質問してきた。

 

「いや、顕景が言っていたんだが、お前がどうも素っ気ないらしいな。どうもお前は颯馬達と居るように腹を割って話すことをしないそうじゃないか」

 

 景虎の問いに彼は「うーん……」と唸るばかりで答えをくれないため、さらに問い詰める。

 

「どうしてだ? 顕景と壁を作っているのか?」

「いえ、自分はそういうつもりはないんですけど……」

「なら、もう少し仲良くしてやってくれ。まさか……顕景を次期当主としてふさわしく無いと思っているのか?」

「それはありません!」

 

 勘違いされるような発言に龍兵衛は声を荒げてしまう。珍しいものを見たため、目を丸くして彼を見る。思わず、笑ってしまいたくなったが、真剣な目をしているため、心を落ち着かせて落ち着いて口を開く。

 

「ならば頼むよ。顕景も龍兵衛を嫌っている訳ではないんだからな。颯馬みたいに顕景の言っていることが分からなくてもちゃんと会話をしようとする者も居るのだから」

「それはそれで問題ですけど……分かりました。努力してみましょう」

 

 そう言うと頭を下げて、龍兵衛は去っていった。

 また、一人になった景虎も肌寒い風を受けて、自室に戻る。十分な収穫ではなかったが、不安要素は一つ減ったため、少し心は穏やかになった。

 

 

 顕景が寒い廊下を歩いていると鼻歌が聞こえてきた。

 よく聞いてみると聞いたこと無い曲であったので、どこから聞こえるのかと耳を澄ますと今まさに通り過ぎようとしている部屋から聞こえてきた。 

 それは龍兵衛の部屋からだった。

 普段は鼻歌なんかするような性格ではないのにどうしたのかと気になって襖の小さな隙間から覗いて見ると机に向かってなにか書き物をしていた。

 顕景はそこだけが永久凍土の中に一つだけの暖かな楽園があるような感じを受けた。

 それだけ彼女は龍兵衛が作っている空間が違っているように見えた。

 仕事ではあんな雰囲気は作るわけがないし何をやっているのだろうと気になった顕景はそーっと部屋に入って行った。

 本に集中しているのか全く龍兵衛は気付かない。

 入ってみると龍兵衛の部屋はきちんと整理整頓されていて、小道具も真っ直ぐ向いて置いてある。

 本棚も仕事の資料や私用の兵法書などが綺麗に分類されている。

 無駄使いはしない主義と前に言っていたが、それを見事に表現している。まさに彼らしい部屋と言っていい。

 そして、本人はまだ顕景に気付いていない様子で相変わらず本に向かっている。

 肩越しに顕景が見てみると、龍兵衛は何か物語を書いているようだった。 

 何度もどこまで書いたか前の貢を見返しては何かを思い出すように頭を抱えて思い出すと「あっそうだ」ということを繰り返しながらどんどん書き進めている。 

 龍兵衛は本当に楽しそうだと景勝は思った。

 普段は見せないようないい顔をしてささやかな楽しみを満喫しているようだ。

 一章書き上げると「よし!」と姿勢を直して休憩を入れることなく更に次に書き進める。

 顕景からすると途中から見ている為、彼の書き進めているのは物語なのは分かるが内容がよくわからない。

 そこで顕景は意を決して声を掛けた。

 

「龍兵衛、何書いてる?」

「ひゃい!?」

 

 何とも可愛らしい声を上げて龍兵衛が飛び上がった。そして、その拍子に机に自分の脛をぶつけたようで、左の足をさすっている。

 

「顕景様? いつからそこに?」

 

 直ぐにいつもの彼に戻ったが、さっきの裏返った声と脛をぶつけるというドジが恥ずかしかったらしく、少し顔を赤くしている。

 やっぱり龍兵衛には面白いところがあると思いながら顕景はその書を見せるように言ってくる。 

 渋っている龍兵衛だが顕景が

 

「顕景の言うこと聞けない?」

 

 と、悲しそうな顔をして来たので頭を乱暴に掻きながらも、本を取ってわかりましたと言うと書いていた本を差し出す。

 顕景は最初はぱらぱらとめくっていたを読んでいく内に段々真剣な表情になっていった。

 実は龍兵衛が書いていたのは某ベルギー人の名探偵の推理小説を日本人に置き換えた物だった。

 そして今、彼が書いていたのは名作中の名作、とある急行列車で起きた殺人事件を今いる時代に置き換え、舞台を宿にしたという原作からかなりの改変を必要とするものだった。

 あまりこういうものを他の人には見せたくなかったが、次期当主に見せろと言われてはどうしようもない。早く読み終わるのを待ちながら、龍兵衛はそわそわと落ち着かない気持ちを抑えていた。

 

「この後どうなる?」

「まだ決めてません」

 

 ふむ、と顕景は再び物語に目を通す。結論から言うと顕景はこの小説にはまった。

 何もわからないところから犯人を導こうとする主人公がどうやって解決するのかが気になった。

 ふと、龍兵衛を見ると落ち着かない様子を隠そうとしているのが分かった。そして、顕景には彼が何を考えているか何となくわかった。

 

「これ見られる。嫌?」

 

 力無く龍兵衛が頷くと顕景は他人に見られない為の条件を持ち掛けてきた。

 

「なら続き、顕景に見せて」

「……わかりました」

 

 やむを得ない。という感じで龍兵衛は首を縦に振った。

    

「……♪」

 

 思わぬところで顕景には一つ楽しみが増えた。

 さらに彼女は部屋を眺めていると箪笥の脇に置いてある横長の何かが置いてあり、その上から大切そうに布に覆われている物に目を付けた。

 龍兵衛が慌てて止めようとしたが、間に合わず、顕景は覆われていた布を外す。するとそこにあったのは尺八であった。

 

「龍兵衛、色んなことやってる」

 

 顕景は面白いものを見つけたと笑いながら龍兵衛を見る。

 

「はぁ……それも自分が顕景様に聴かせるでいいですか?」

「(こくり)」

 

 投げやりな態度の龍兵衛に対して、ご機嫌なまま顕景は部屋を出て行った。

 

 

 数日後。

 

「顕景様、出来ましたよ」

 

 外の寒さとは裏腹に暖かい顕景の部屋に入って龍兵衛が顕景に例の完成品を見せる。

 期待しながら顕景は本を受け取って笑顔で礼を言って本をめくる。

 こうして見ると顕景様もまだ子供だなぁと龍兵衛はついつい思ってしまった。

 本の内容としては龍兵衛はなるべく不自然にならないように結論を原作通りにした。

 だが、最終的には私刑と敵討ちを全面的に批判するものなので、読み終わった後に何を言われるか分からず、龍兵衛の心は戦々恐々としていた。

 だが、そんな彼の心など知らずに顕景は幸せそうに彼に目を向けて言った。

 

「龍兵衛、これ、しばらく借りる。いい?」

「えっ?」

 

 龍兵衛は人に見せる気は全く無い。

 そもそも自分で読みたいと思っていたのでなるべく手元に置いておきたいのである。

 それよりもこの作品は最後の結末は暗に敵討ちを批判的に捉えているところがある為、それがこの時代では絶対に非難の的になるのでどうしてもこれは彼一人のものにしたかった。

 しかし、駄目かと顕景に言われるとこのことを人にはもう知られたくないという思いと顕景なら分かってくれるだろうと考えて渋々承諾した。

 その後、顕景から本が帰ってきたのは三ヶ月後だった。

 よほど良かったのか龍兵衛は今度新しいのが出来たら紹介してくれと頼まれたので嫌々ながらも分かりましたと承諾した。

 幸いにも顕景に憂いていたことを触れられることはなかったので龍兵衛は一人安堵していたのは秘密である。




感想・指摘よろしくお願いします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話改 関東管領

 関東管領は室町幕府が立てたその名の通り関東を将軍の代わりに統治する鎌倉府の補佐を担当する役職であり、代々上杉家が継ぐものであった。

 だが、その後分裂を起こして二つの家に分かれた上杉家は関東を舞台に何十年もの年月を費やして、ようやく山内上杉家が扇谷上杉家に勝利した。

 ここで山内家の命運を決める事態が起きてしまう。

 この時の山内上杉家当主上杉顕定が後の北条早雲となる伊勢宗瑞を迎え入れてしまったのだ。

 元々、関東の覇者となることを夢見ていた宗端は顕定に近付き、友好的な関係を築いて虎視眈々と機会を窺いつつ更に彼との関係を蜜月なものにした。

 そして、完全に心を許した顕定の居城、小田原城へと彼を騙して兵を送り込み、世に有名な火牛の計にて奪い取った。これによって早雲の関東への足掛かりが出来た。

 その後は語るまでも無く、着々と北条は関東に覇を唱えて行き、先の戦で関東管領の山内憲政を完全に関東から追い出した。

 一方、憲政は越後で保護された後にも景虎の意向にも理解を示してくれたおかげで、すぐに関東にとはならなかったが、北条との差を痛感したのか、突然驚くべきことを提案した。

 

「憲政様は景虎様に関東管領の地位を譲るようだ」

「はぁ、何で?」

 

 兼続と龍兵衛は相変わらずの冬の寒さが続く廊下を歩きながら仕事の話をしている時、颯馬がやってきて、この知らせを伝えた。

 いずれこうなる事は分かっていたがこの時に来るとは龍兵衛は思っていなかった。

 まったくわからないという表情の彼は、二人の顔を見るが、彼らも分かる訳がない。兼続と颯馬もこの展開に疑問符しか頭に浮かんでこないという表情をしている。

 長尾は元々、一豪族にしか過ぎないため、家格で見たら有り得ないことである。

 

「譲る。というよりやらせる。という方があっていると俺は思う」

「関東管領を景虎様にやらせることで自分は狙われないようにするってことか」

 

 龍兵衛の発言に颯馬が言わんとすることを言葉にする。それに兼続は「汚いな」とここにはいない憲政に侮蔑の言葉を吐き捨てる。

 

「けど、北条も愚かではない。そんなことで誤魔化せる訳が無い」

「颯馬の言う通りだ。問題はそれを景虎様が受け入れるかというところだな」

「今の景虎様ならほぼ間違いなく譲り受けるだろうな。そうなると北条と我らは敵となる」

 

 颯馬の言葉に二人は同時に頷く。

 景虎は義藤から言われた時以来、自分の思う天下を創ろうと動いている。今回の事も譲り受ければ、関東の戦いの義は自ずとこちらになってくる。

 いずれは関東も取ることになるだろう。その時に存分にその役職は使える。利として景虎もそう考えているはずだ。 

 北条攻略の口実にこれ以上の理由は無い。しかし、時期はかなり悪い。

 長尾はまず、北上することを考えている。北上戦略はかなり家臣内から反発があったが、背後を固め、東北の開拓によって畿内に勝るとも劣らない土地を持つことが出来ると景虎が後押したため、決定することが出来た。

 関東への目を光らせるほどの力が現状、越後にあるとは言いにくい。

 

「今後、関東への調略を行う必要があるな」

 

 沈黙を颯馬が破る。

 

「いずれ、か……」

「どうした?」

 

 兼続の問いに龍兵衛は何でもないと答える。

 三人はそのまま並んで仕事へと向かった。

 そして、その日のうちに景虎は関東管領の職の譲渡を将軍から認可を受けて、受け入れることになった。それによって姓を上杉に変え、上杉謙信と名乗ることになった。顕景も同様に上杉景勝と名前を変えた。

 それを祝う宴は大いに賑わった。慶次が猿真似をして盛り上がったと思えば親憲が女装をして全員の爆笑を誘った。

 おかげで結局は全部、親憲が持っていった形となったが、その中で嬉しいのか、嬉しくないのか分からない状態になっている龍兵衛がいた。

 

「約束とは破る為にあるものだ! と本当なら言いたい……」

「……?」

 

 誤魔化すように溜め息を吐きながら龍兵衛は夜の冷え込みを感じながら縁側の外れで笛を吹き始める。

 以前、部屋での一件で尺八を景勝の前で聴かせるという約束を景勝はしっかりと覚えていた。

 親憲の女装で彼の標的になって大笑いしていたのでもう覚えて無いだろうと思っていたが、彼女はそのようなことでは忘れなかった。

 

「あまり期待しないで下さいね」

 

 龍兵衛は尺八を元々は趣味で始めたので、忙しかった最近はまったくやってなかったので全然自信が無い。

 しかも、吹いているのは基本的にかつての時代の中でこれはいけるのではないかと勝手に思った曲ばかりでこの時代の人に聴かせるのも憚られる気がしてしょうがない。

 面倒だと思いながらも景勝は早くしろと言わんばかりにこちらを向いている。

 早くやって終わらせようと考えながら龍兵衛は笛に口を付けた。

 一度始まると自分で早く曲の終わりが来ないかと待ちながら吹いていた。

 そして、曲が終わるとさっさと立ち上がって逃げるように部屋に戻ろうとしたが、すかさず止められ、またやって欲しいと言われた。

 嫌と言えないような強い目で見られた為、龍兵衛は仕方なく他の人には絶対に秘密にすることを条件に渋々承諾した。

 景勝は笑みを浮かべて、喜んでくれた。

 

「龍兵衛、少し変わった?」

「どういうことでしょう?」

 

 龍兵衛は不思議そうに景勝を見る。

 

「前、断ってた。でも、いいって言った」

 

 そうかもしれない。だが、これくらいなら別に断ることもなかったと思う。

 龍兵衛からすれば景勝がこのことを知っているからやったまでだ。

 

「景勝様はこのことを知っているからいいと言ったまでです。他の人には聴かせる気はありません」

「もったいない。龍兵衛、上手」

 

 お世辞だ。

 そう思いながら龍兵衛は今度聴かせる機会が有ったら聴かせますと言って部屋に戻った。

 だが、実際に彼の腕は本当に良かった。かつての彼は多趣味で笛にも挑戦したことがあり、囃で助っ人を頼まれたこともある。

 野球に打ち込むようになってからしばらくは封印していたが、やることが限られるこの時代でもう一度やることにしたのだ。

 それでも彼の腕は衰えてはいなかった。景勝は笛には詳しくないが、それでも上手いと思える程に彼は笛が上手だった。

 猜疑心が強く自分に来るほめ言葉の全てを否定的に捉える彼には景勝の言葉も入ることはなかった。

 

 

 長尾景虎が関東管領に就任し、上杉謙信と名乗るという知らせは直ぐに近隣諸侯に伝わった。

 北条がどう動くかが一番気になったが、これといった敵愾心を露わにするような動きは無く。むしろ友好的に接している。

 

「貢ぎ物を持ってくるとは某も思いませんでした」

「北条もわかっているって事ですよ」

 

 親憲と龍兵衛は話しながら馬に揺られている。今、上杉軍はとある戦場に向かっている。

 北条は関東管領の件を聞くとすぐに貢ぎ物を献上して来た。 

 友好的に来たのはおそらく佐竹と手を組まれるのが怖いのだろう。

 元々佐竹とは手を組むことは考えていなかったので上杉家としては別にどうでもよかったのだが、関東管領となった謙信様と戦うのは不利であり謙信を恐れているという事が表れている。

 先の戦で太田道灌という知将を討ったとはいえ、生き残った憲政殿の将は優秀な将ばかりである。

 それに上杉謙信の配下の将も有能で、謙信の統率力は憲政とは比べ物にならない彼女が率いるとなれば、こちらから出向くことがない限りは越後山脈を越えてくることは無いだろう。

 因みにまだ東北に行くには寒さに対する対策が準備が足りない。だが、武田に対応するには十分だった。

 

「何故に武田が出てくるんでしょうか? 龍兵衛殿はわかりますか?」

 

 武田は関東管領を謙信が譲り受けると兵をこちらに向けて来た。

 

「武田にとっては甲斐の名家が長尾のような……はっきり言えば、豪族上がりが関東管領になるのが気に入らないのではないでしょうか?」

「なるほど。されど、こうもいきなり攻めてくるとは……いくら気に入らないとはいえ、某が信玄の立場でもこんな暴挙には出たりは致しませんね」

 

 上田原での大敗からさほど時間が掛かっていないが、ここまでやってくるのはかなり無理をしたに違いない。

 だが、まだ攻めて来ないと考えていた北信州の豪族は対応出来ずに小笠原、仁科はあっという間に崩れ、頼みの村上義清は頑強に抵抗したが、先の戦での失敗を二度もする信玄ではない。

 真田勢の分離工作で村上は疑心暗鬼に陥って敗れ、義清は謙信を頼って春日山城に逃げ込んで来た。

 当初上杉は、武田がそこで退くと考えそのまま村上殿を説得して東北遠征の準備を続けていたが、武田はそのままこちらに向かっているらしく、さすがに無視出来ないので急遽東北遠征を中止して川中島へ向かっている途中である。

 武田も随分と無理をすると上杉家の将兵は思った。今回の戦は武田家の家臣の中にもかなりの反対意見が出たらしい。だが、当主の信玄が強引に取り決めたそうだ。

 まるで私情を戦に持ち込んでいるようで龍兵衛は思わず公にもかかわらず、首を捻ってしまう。

 

「そういえば、颯馬達はどこに行ったか知ってます?」

 

 龍兵衛の突然の質問に親憲も辺りを見渡すと案外あっさり見つかった。

 

「何やってんの?」

 

 龍兵衛が詰め寄るように問うが颯馬達は腹を抱えて笑っていた。

 

「いや……水原さんの顔見るとこの前のがまだ思い出して来て……」

「わ、私も……」

 

 颯馬と兼続は角度からして親憲の顔が死角になって丁度見えないところに居たが、龍兵衛と一緒に親憲が辺りを見ている時に視界に入ってしまったのだ。

 原因を知ると二人のせいで龍兵衛も化粧面の親憲がしっかりと頭を支配してしまった。

 

「止めろ……俺も……」

 

 その後は景勝と景家を巻き込んで半刻(三十分)の間、五人の笑い声が収まらなかった。

 

 それから一ヶ月が経ち、上杉軍は川中島で武田と睨み合いを続けていた。 

  

「……以上が今回の戦果の報告です」

 

 颯馬が報告を終えると謙信はふむと言った後は押し黙ってしまった。

 対陣してからしばらく、武田から攻めて来てちょっと被害を出しては退く、ずっとこれの繰り返しだ。大した戦果は両軍にはない。

 

「向こうから攻めて来ておいて鼠のごとくちょろちょろと小競り合いをして撤退するとは舐められいる証拠だ。謙信様、いっそこちらから攻めては?」

「落ち着け兼続、今はその時では無いことぐらいわかっているだろう」

 

 颯馬は兼続を宥めるがそれがどうも逆効果になったらしく兼続は彼に喰って掛かってきた。

 

「では貴様は歯がゆくはないのか!? あのようなこすっからく我らの領地を奪いに来た輩を!」

「わめけばどうにかなるのか!?」

 

 釣られて颯馬も怒鳴り返した。

 だが、はっきり大きく動いてくれない以上は上杉軍から攻撃を仕掛けることは出来ない。

 犀川を挟んで開けた平野で相対している以上、伏兵の心配はないが、このようにくすぐられるような攻めには将兵からも兼続のようにこちらから打って出るべきだという者も出ている。

 こちらが先に川を渡れば向こう岸に着くところを迎撃されて、退路が無くなる為に簡単には動けない。

 そもそも上杉からすればこれは守る戦で攻める戦ではない。焦ったところでこちらがやられては意味がない。

 

「しかし、何故に信玄はここに来て慎重になったのだ?」

「そこに信玄の企みがありそうで怖いですね」

 

 龍兵衛と親憲も推測を立てて何故信玄が動かないか色々とあまり意味の無いことを考えている。

 

「安心しろ、景勝」

 

 謙信様は不安そうに見上げている景勝様の頭に手を置きながら家臣達を見渡す。

 

「颯馬も兼続ものんびりと行こうではないか」

「え、いや、しかし謙信様……」

 

 何か言おうとした兼続を謙信様は手で制す。

 

「そろそろ食事にしよう。颯馬も兼続も腹が減って苛立っているのだろう」

 

 別にまだそんな時間でもないし颯馬達もまだ腹が減っている訳ではない。

 

「まぁいいじゃん」

 

 颯馬の肩を龍兵衛が叩いてきた。颯馬は定満を見ると笑顔で行こうと手で招いている。苦笑いを浮かべながら彼も兼続の肩を叩きながら謙信達について行った。

  それから二カ月が経っても上杉軍は相変わらず武田と千曲川を挟んでいる。

 冬の冷たい風を切りながら将兵は対岸を睨んでいた。

 

「これじゃ、今年の東北遠征は無しかな……」

 

 おどけるように両手を上げて龍兵衛は嘆く。彼自身が東北への進出を主張した為、この戦を仕掛けた信玄は邪魔以外の何者でもない。彼は表情には出てないが苛立っている。

 現に軍議での貧乏揺すりは日に日に盛大なものになり、いらいらを晴らそうと兵達と馬鹿話をしたり、一人で考え事をしたりしてる。

 

「あぁ~もう、飽きた! 向こうが出てきたらこの苛々をぶつけられるのに!」

「前田殿、落ち着いて下さい。それ以上暴れると、その……目のやり場に困ります」

「だってぇ。水原さんもこの気持ちわかるでしょぉ~」

「某は前田殿よりも兵達の気持ちがわかります」

「それってぇこういうことぉ~? ちらっ」

 

 親憲は慶次の行動に全く鼻の下を伸ばすような事はせずに慶次の目から視線を離さない。

 近くで颯馬が龍兵衛と兼続の鉄拳制裁を受けているが、それには誰も気にしない。

 

「……男というのはそういうはっきりとした誘惑より、楚々とした風情の方が喜ぶものです」

「そそとしたふぜぇ?」

「楚々とした風情とは……」

「ふんふん」

 

 苛立っていた慶次は親憲の言葉に興味を持ったようだが、龍兵衛はそれを嘆かわしい目で見る。

 

「(慶次には死んでも無理です……水原さん)」

 

 龍兵衛は一人でその光景を眺めながら親憲の無駄な努力に涙したい気持ちだ。

 

「なぁ、颯馬、謙信様はいつまで待っているつもりだろうか?」

「さぁな、龍兵衛はどう思う?」

 

 颯馬も慶次と親憲の会話を聞いていてここが戦場であることを忘れかけたが、兼続のおかげで集中直しす。だが、龍兵衛から返事が無い。

 

「……ぐ~」

「……す~」

「「起きて下さい!」」

 

 寝ていた定満と龍兵衛が目を覚ます。

 二人は気を抜きすぎている気がするが、龍兵衛はただ定満に眠気を移されただけで何ら罪は無い。

 

「龍兵衛はさっきまで起きてたろ!」

 

 颯馬は鋭い指摘を入れておきたかったが、呆れてそんな気も萎えてしまった。

 

「ん、敵襲か?」

「違うがちゃんと起きてろ! 定満殿もしっかりしてください!」

「いいお天気だから」

 

 寝ぼけ眼の龍兵衛が問うと兼続の大声が響き渡る。だが、二人とも気にせずに「ふぁ~」と可愛らしい欠伸をする定満と猫のような伸びをして身体を起こす龍兵衛。

 年と身体つきに似合わない仕草をしてそれぞれが身体を起こす。

 

「敵、動きました!」

 

 その報告が来たのはその直後だった。 

 戦ではなく、和睦の使者であると分かったのは単騎で来るのを見てからである。

 すぐに使者は通されると謙信はその者が携えていた書状に目を通して使者の話を聞くと一瞬だけ固まったが、すぐに頷いた。

 

「よかろうその条件、飲もう」

 

 この言葉に兼続は驚きの声と抗議の声を上げる。

 内容としては上杉、武田双方に有利ではあるが、それを引き受ける条件が物議を醸した。

 昌景は上杉が先に退くように願ったのだ。兼続は「後ろから攻める気だ!」と言い、昌景がそれに応戦したが、謙信が即座にそれを抑えて昌景に信玄よろしく伝えるようにと言って陣所へと引き返すように勧めると彼もすぐに馬に乗って戻って行った。

 上杉は講和を結ぶことになった。

 そして、昌景が去って行った後、上杉軍には更に一悶着あった。 

 

「私が残る! たまには譲れ!」

「なんだと!? 俺が残った方がいい!」

 

 颯馬と兼続はどちらが殿を務めるかで揉め始めたのだ。

 別にただ武田が退いていく様子を眺めるだけなのだが、先に颯馬が残ると言うと兼続がすかさず噛み付いたのだ。

 

「もう、また仲良く喧嘩して、嫉妬しちゃう」

「「誰と誰の仲が良いんだ!」」

「お二人の息が合っているのは余人も認めるところですよ」

 

 全員の『またかよ……』という目も気にせずに兼続と颯馬は睨み合うが、親憲の言い分は確かにその通りだ。

 とりあえず、謙信様が間を取って二人残ることになり、それ以外の将兵達は春日山に先に撤退することになった。

 

 春日山城に帰る途中でも上杉軍は変わらない。

 

「女性の着物からふっと見えるうなじや脚、某はそういったのが好みですな!」

 

 撤退する途上で親憲と龍兵衛はそういった会話をしていた。

 事の発端は慶次と親憲の戦の間での会話でどのようなものが好みか親憲が龍兵衛に聞いてきたのだ。

 親憲からそんなことを聞かれると思ってなかったので一瞬呆気にとられた龍兵衛だが、にべもなく普通に答えた。

 

「自分は正直そういったところに興味は無いですね。自分は服装には人それぞれの個性が出ているので、そういったのを無くすのはもったいない気がしますよ」

 

 なんだかんだ言いつつも龍兵衛は親憲と女性の好みについて話している。周りからは「(龍兵衛もそういう話しするのか!?)」という好奇の目が集まっている。

 普段は堅物を貫いている龍兵衛だが、周りは気にしないで親憲と話を続けていく内に、慶次の衣装について話は変わる。

 

「第一に、慶次が楚々とした風情になったら慶次が慶次じゃなくなります」

 

 案外これは龍兵衛の本心だったりする。

 

「慶次がそうなるのは……まるで動物に弥太郎殿が好かれるようなものです」

 

 謎かけのような龍兵衛の例えに謙信が悪戯っぽい笑顔で入ってくる。

 

「その心は……到底無理ということか」

「上手い例えじゃのう」

「(こくこく)」

 

 義藤と景勝がそれに続いて悪戯っぽい笑みを浮かべて頷く。

 

「おい龍兵衛、人が気にしていることをはっきり言うな。傷つくだろう」

 

 弥太郎は同僚とはいえ後輩である龍兵衛にからかわれたことに凹んでしまったようだ。

「まぁまぁ」と定満が慰めるが、口元が笑っている。

 慶次は「やってみないとわかんないでしょ~」と抗議しているが、全員に無視された。




感想・指摘よろしくお願いします
最初千曲川と書いたんですが、本当は犀川の間違いでした。申し訳ありません


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話改 謙信出奔 

かなり変えました。ここから先は変えるものが多いのと風邪をひいたので時間がかかります。


 その日、天城颯馬は朝の廊下で上杉景勝と出会い、そのまま謙信の部屋へと向かった。

 朝議の議題の確認である。その時まではいつも通りであった。いつも通りに朝は進んでいた。

 龍兵衛は日課の散歩に風が吹き荒れる寒い中でも城下へ向かい、弥太郎や景家達は朝の鍛練、定満や颯馬は龍兵衛と違って夜遅くまで詰めて仕事をするタイプなのでまだ寝ていた。

 兼続はそっと廊下を進み、部屋の前で謙信の所在を確認して部屋に入ろうとするが、返答がない。

 いつもならこの時間にはとっくに起きている筈なのに珍しく寝坊か。

 そう思ってもう一度、さっきより大きい声で呼び掛けるが、まったく反応が無い。

「失礼します」と言いながら部屋に入ると謙信はいない。

 もう起きてどこかに居るのか。そう思った時に机の上にあった手紙に目が行った。

 あまり覗き見はよろしく無いが、景勝が興味を抱いて手紙を読む。

 

「(まぁ、景勝様なら謙信様でも何も言うまい)」

 

 そう思っていると景勝の手が震えている。その手紙を兼続に渡しに来た。

 どうしたのかと思いながら文面を読んでいく内に顔色が無くなっていき、読み終わる前に完全に頭が真っ白になってしまった。

 

 急遽、上杉家の主要な将達は評定の間に集まった。

 

「謙信様が出奔……まさか……そんな……」

 

 景家は絶句するばかりで、先程から同じ言葉ようなことを呟いている。

 唯一の望みは散歩からまだ帰って来てない龍兵衛であった。

 朝早くにおきた事件のため、もしかしたら謙信の行方を知っているかもしれない。

 

「直江殿、落ち着いて下さい。これは出奔では無く。その……家出と言ったようなものですから」

 

 親憲が意味深長なことを言いながら一人、冷静に座っている。

 だが、颯馬はその言葉に気にかかることがあった。取り乱している多く者に変わって、尋ねる。

 親憲は「あくまでも某の意見ですが」と前置きを置いて説明を始めた。

 

「この文面を読む限りでは、ちゃんと行き先を書いてありますし……いや、家出なら『探さないで下さい』とでも書いているはずですから。隠居のようなものですか」

 

 大事に変わりないが、親憲は冷静に分析する。

「某だって取り乱していますよ」と言っているが、全くそんな様子がない。その有り様に景勝や慶次もすっかり感心している。否、呆れている。

 

「謙信様が取り乱したり、女装したら戻って来るのなら話は別ですがね」

『(女装は関係無いと思う……)』

 

 内心で、それが出てくることに疑問に思いつつ、颯馬はもう一度、手紙に目をやる。

 謙信が身を寄せている寺には、親憲と実及がすでに信頼出来るものを派遣している。

 文面を読み込もうとした途端、軍議の間に一人の人物が入って来た。

 

「戻りましたけど何かあったんですか?」

 

 ようやく龍兵衛が散歩から帰って来た。

 が咎めると、新しく出来た農具の調子を見に行って帰ってくるのが遅れてしまったらしい。

 彼が入ってくるのを見るなり、兼続が彼の胸元を力強く掴み、揺らしながら「謙信様を見なかったか!?」といきなり言われたため、さすがに何がなんだか分からないと、颯馬の方に視線を向ける。

 事情を説明すると龍兵衛は兼続の手を払い除けて、姿勢を正す。

 

「おやおや、それはそれは……」

 

 目を軽く見開いただけで、そこから激しく動揺する素振りも無い。

 

「で、どうするのですか?」

 

 親憲並みの落ち着きを見せる。

 年は近かったはずで、颯馬は慌てている自身が恥ずかしくなった。本題の謙信を見たかと聞くと、残念そうに首を横に振った。

 

「龍兵衛殿も戻って来ましたし、手紙をもう一度、読み直して見ては?」

 

 颯馬は親憲に言われるがままに謙信が残した手紙を見る。

 そこには過日の武田との戦で武田家臣団の強さを感じたこと。今後は景勝に政を任せて自分は隠居しようと言うことが書かれていた。

 

「かっつん、期待されちゃっているね」

「(はわわわ)」

 

 そのような無責任なことをするような人ではないのだがと颯馬は首を捻る。

 すると、慶次が手紙を覗き込み、一通り読む。

 そして「なるほどねぇ〜」と呟くと急に真剣な表情になり、雰囲気が斜めなものから真っ直ぐ真剣なものになった。

 

「この手紙を見るに、私はこう考えます。謙信様は景勝様に謙信様が居なくなって混乱した上杉家をどう治めるのか……いかが、思われます?皆様は?」

 

 慶次が今までに無い真面目な表情をして颯馬達を見回す。全員がその真剣な目に今度は全員がその真意を悟った。

 

「いや、前田殿の仰る通りです」

「いやん、そんな風に返されると、照れちゃう」

 

 いつものしなを作るが目はいたって真面目だ。

 

「確かに焦る必要も無いでしょう。謙信様もおそらく自分のやっている事に対した危機も感じていない筈です。ま、危なくなったら飛んで帰ってきますよ」

 

 龍兵衛は大丈夫ですよと余裕の表情を崩さない。兼続にもこのようになってもらいたい物だなぁ。と、そういう颯馬も結構取り乱していたので人の事を言える立場ではない。しかし、つくづく龍兵衛は年をごまかしているとしか思えない。今度聞いてみようと思いつつも颯馬は自らが動くべきがどちらにあるか、考えを進める。そして、

 

「ならば、某が謙信様の説得に向かいます」

 

 そう言うと颯馬は定満達に後は頼みます、頭を下げていく。

 間違い無く、謙信がいなくなった上杉家は乱れる。ならば、今のうちに説得して帰って来てもらった方がいいだろう。

 

「この事は皆に伝えるべきだろうか……」

「伝えない方が良いのでは?下手に伝えれば家中の混乱を招くかと」

 

 それは難しすぎる。いずれ穴が開いて、そのままそこに流れ込む水のように、ばれた時にあらぬ事態に陥りかねない。

 

「下手に隠すとバレた時にまずくないか?今のうちに言っておいた方がいいと自分は思います」

「ふむ、確かにそうだな、謙信様が居ないというのは隠せるものでは無い。遅かれ早かれ・・・バレるな」

 

 弥太郎の発言で決まった。今のうちに言っておいて混乱を最小限にする。全員の意見が一致したところで颯馬は謙信が居る寺へと向かった。

 颯馬が説得に行った後、家臣団は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。しばらくは景勝が上杉家を取り仕切ることを全員に言って、とりあえず散会となった。

 

「しかし、何故この時期に謙信様はこのようなことを……」

「この時期だからこそ、景勝を世継ぎへとする為の試練を与えたのじゃろう」

 

 義藤は余裕の構えを崩さない。数々の修羅場をくぐり抜けただけあって、これぐらいどうとでもないのだろう。

 ここには上杉家の重臣中の重臣が集まっている。

 今後のことを話しているが、ほとんど謙信が帰って来るまで今まで通りに行くことになり、完全散会となった。

 だが、景勝の身を案じる一部はまだ残っていた。

 

「大丈夫、かっつん、あたしが入れば何ともないって」

「そうです!景勝様、私のような優秀な軍師もいます」

「いや、軍師は他に自分もいるから……」

「某は肩書きは無いですが混ぜて下さい」

 

 変わることは無い上杉家家臣を頼もしく思いながら景勝は大丈夫だと思った。

 その時、他の家臣と同様に楽しそうにしていた龍兵衛が顔をしかめ不覚にも「あ!」と声を出した。

 

「龍兵衛君、どうしたの?」

 

 いえ何でもありません、と首を振ったが、その後も彼はずっとおとがいに手を当てていた。

 

 

「謙信様はお強いが、景勝様はどうもな」

 

 暗い春日山一つの屋敷で四人の将が灯籠一本の灯りに集まっていた。

 

「そうだな、ここは一つ、我らで一旗揚げようではないか」

「しかし、我らだけでは同志が集まると思うか?」

 

 中央にいる上杉家の重臣、北条高広が不安げな他の将を落ち着かせるように自らの考えを言う。

 

「そこで、上杉景信様に我らの盟主になってもらうのよ、すでに了承を得ておる。山本寺定長様も協力して頂けるように頼んでおいた」

 

 二人は上杉家の一門だが、謙信とは長らく対立関係にあった。とりわけ景信の古志長尾家は政景、景勝親子の上田長尾家との対立は著しく、謙信に降伏した後もずっと景勝には敵意を隠し持っていた。

 その二人がこの好機をのがす筈がない。二つ返事で高広の誘いに乗った。

 

「手回しが早い、さすがは高広殿……ですが、こういうのは確実にいかねばなりますまい。慎重に事を運ばなければ」

 

 北条高広ら、四人の将は互いに頷き合い計画を実行する準備を始める為に部屋を出ようとした時、高広が三人を止めた。そして、もう一人の人物に目を掛けている、と笑みを浮かべた。

 

「……と、言う訳でして、ぜひとも協力してもらいたい」

 

 ふむ、とおとがいに手を当て、龍兵衛はとある将と対談をしていた。

 

「で、見返りは?」

「新発田をお与えします」

 

 東北遠征の為の拠点の一つとして力を入れてきた新発田城は春日山の次に大きな規模を持っていた。

 

「わかりました。協力しましょう」

「では、よろしくお願いしますぞ」

 

 龍兵衛は三日月に口の形を変えるのを見てやってきた将は立ち上がる。そして、その将が出て行くのを見て、龍兵衛は立ち上がってとある部屋に向かった。

 

 

 北条高広は龍兵衛がかつて斎藤で謀反を起こした経験があるから誘った。

 こういった輩は反骨心が強い。さらに彼は景勝とは距離を取っているという噂もあった。

 高広も愚かではない。

 高広の思惑通りに行った。さらに何人かが呼応して兵力は十分に揃った。

 そして、決行の日の前日、彼らは再び春日山の暗い灯籠一本の部屋で作戦会議をしていた。

 

「では明日、各々の兵を率いて春日山近くを抑えて一気に春日山を攻めるということで……よいな、決して抜かるな」

 

 全員が頷く。ここで最後まで何も言わなかった龍兵衛が手を挙げた。

 

「実は皆様にはまだ言っていませんでしたが、助っ人が自分に協力してくれるそうです」

「ほう、それは誰じゃ?」

 

 控えさせているので連れて来る、と言って、龍兵衛は部屋を出る。美濃では三人目の兵衛と言われていた彼が認めるのなら役に立つだろう。誰もがそう思った。

 高広が本当に彼を引き込んで正解だったと思った。彼が立てた計画への過程は見事なもので、全てが理にかなっていた。

 後は明日の決行日に全てを成功させて景信の下で自分が上杉家を意のままにする。ふつふつと燃える野心の炎がまさに一気に燃え盛ろうとしている。

 

「よろしいですか?」

 

 襖越しに龍兵衛が声を掛けたので高広が許可を出す。

 龍兵衛が襖を開けた瞬間だった。彼らの顔が固まった。原因は龍兵衛の連れて来た人達だった。

 一人目は甘粕長重、二人目は前田慶次、三人目は小島弥太郎、四人目は水原親憲、そして、五人目はここに最もいてはいけない人物。

 

「か……景勝……様」

 

 上杉景勝その人だった。この時、高広の心は野心の炎よりも怒りの炎が先に燃え広がった。

 

「どういうことだ!? 我らに協力するのではなかったのか!?」

 

 高広が喚く。

 その声は春日山のどこまでにも聞こえただろうか。他の連中も殺気や怒気を彼に向けている。

 しかし、龍兵衛自身はそのようなものなど気にしない。むしろ、それを浴びて嬉々としている。

 

「自分はわかりましたと言いましたが、決して、協力するとは一言も言ってません」

「嘘を吐くな! 貴様は言ったぞ! 協力すると、はっきりとな!」

 

 確かにあの時龍兵衛は協力すると言った。だが、彼は両手を広げて全くの知らぬ存ぜぬとしらを切る。それは高広の聞き間違いで自身は協力するなんて一言も言っていないの繰り返しだ。

 今となっては龍兵衛に正義がある以上は全て彼の言ったことが正しくなる。それを分かっているからこそ彼は平然としていられる。

 

「助っ人を用意しているというのも全て嘘だったということか!」

「あくまでも、自分に協力して頂けると言いました。あなた方に協力するとは一言も言ってません」

 

 高広達を見るその目は人を見る目ではない。醜い鼠を見るような目だ。高広はぎりっと奥歯を噛み締める。全てこの男の手のひらだったということを今初めて悟ったのだ。

 

「あなた方は三流以下の道化師です。笑われていただの道化だったんだ。所詮は一流の道化師に踊らされているのに気がつかなかったんだよ!」

 

 龍兵衛は黒い笑みを浮かべ、独特の動きで四人を指差す。もはや、言葉使いも先輩である高広達に対する礼儀も無くなった。彼らの悔しそうな顔を面白そうに見ながら、彼は真面目な顔に変わって景勝様を向く。

 

「景勝様、彼らは上杉家を乗っ取ろうとした不義の輩です。ご指示を」

「捕まえる」

 

 景勝の号令に反応した四人はすぐさま彼らを捕らえた。

 景信と定長の方も定満達が行っている。今頃は部屋に押し入っている頃だろう。あちらには兵も付けている為、逃げられる心配もない。

 

「終わりました。景勝様」

「龍兵衛、言わなかったら、もっと、騒ぎになった。ありがとう」 

「勿体なきお言葉です」

 

 そして、景勝は捕らえられた三人に向かった。その目には当主たる覚悟が宿っている。

 

「皆、いらない!」

「この四人を処刑せよ!」

 

 親憲がそばに控えていた兵に彼らを引き渡した。これでもう抵抗は無駄となる。

 

「じゃ、刑場に行ってらっしゃ~い」

 

 慶次の言葉にはふざけが入っているが、その目は怒りの炎がこもっている。腕を捕まれながら高広は龍兵衛を睨み、最期の言葉と言わんばかりに声を上げた。

 

「河田ー! 貴様も元は謀反人だったんだ! 共に協力していれば良かったんだよ!」

 

 ただの恨み言は全くの効き目もない。その言葉は簡単に龍兵衛の心に弾かれた。

 

「まったく……あれは起こるべくして起こったと言ったのを忘れたのか?」

 

 いつぞやの龍兵衛が謙信に言った言葉を四人の将は完全に忘れていたのだ。

 その後、景信と定長の二人も定満達によって捕らえられ、死罪となった。こうして、御館の乱は起きること無く、未遂で終わることとなった。

 万事片付いたところで上杉家には平穏が戻った。

 そして今、龍兵衛は定満の部屋で酒を飲んでいる。定満が杯に酒を注ぐと彼に渡してくる。

 

「龍兵衛君、お疲れ様」

 

 恐れ多くも上司である定満に酒を注いでもらった龍兵衛は頭を下げながら杯を受け取り「いえ」とにべもなく返す。

 

「元気ないの」

「今思えば、自分は随分と失礼な振る舞いをしました。万死に値するでしょう」

「でも、そのおかげで景勝様は目が覚めたの」

 

 何年も昔のことを思い出すようにしてぼやいているが、定満の言う通り、景勝はその後、すぐに龍兵衛に内偵を命じ、彼の報告を受けながら、当主としての仕事も立派にこなした。

 そしてあの日も、龍兵衛からの報告で全員が春日山に集まったところを一網打尽にすることに成功した。この作戦を考えたのは定満でも龍兵衛でもない。景勝自らが立てた。

 もちろん二人も同じような策を考えていたが、景勝自らがこれでいくと言った時には内心これでもう大丈夫だと確信した。景勝様は我らの次期当主に相応しい方になられたと。

 

「目出度し目出度し、という訳にもいきませんよね……?」

 

 二人は顔を暗くしたのには景信や定長といった上杉家一門と北条高広という重臣を粛清した穴埋めの問題が出て来たのだ。

 定長の不動山城、景信の栖吉城、そして、高広の北条城が空になった。三つの城の規模と今まで城主だった人の家格を考えるとすぐに誰かをポンと入れてしまう訳にもいかない。

 これからは大変なことになると思いながらも龍兵衛は定満と一緒に酒を飲んでいると、定満が近付いて頭を撫でてきた。

 

「今回、龍兵衛君には無理させたの」

「とんでもない。自分はやりたくてやっただけです」

 

 平然とした態度を貫いて最後まで一時期の景勝が取った上杉家の舵を龍兵衛は裏で支えた功労者だ。そして、普段よりもさらに景勝と距離を取り、周りに噂が本当であったと思わせた。

 彼とて景勝の側で皆と一緒に景勝を支えたかったに違いない。彼はあんなことを言ったが、定満は彼には辛い思いをさせたと分かっていた。

 そんな彼には一つや二つぐらい報いねばならない。

 

「龍兵衛君、ご褒美欲しくない?」

 

 定満は龍兵衛の背中に回ってふにゅーっと胸を押し付け、顔を近付けて耳に甘い息を吹きかけた。

 彼はいつぞや颯馬と話していた事を思い出した。そして、定満とは以前も同じような事があったが、その時はちゃんと耐えた。

 だから今回も耐えておけば大丈夫だと思っていたが、思わず杯を落としてしまった。

 

「ま、またか……」

 

 身体が熱くなってきた。眠る欲望を醒まさせようと薬は身体中を回って行く。

 

「定満殿……これは……どういうことです?」

 

 欲望に押される身体を必死に抑えながら、龍兵衛は定満を睨み付ける。だが、定満は完全に楽しんでいて、龍兵衛の身体を舐めるように見回している。

 

「弥太郎の言っていた通りなの」

「余計な真似をやってくれて……」

 

 免疫が出来たのか龍兵衛は以前よりも言葉を繋げることが出来ている。

 だが、定満はその上を行く、首筋から耳の穴までを舐めまわし、時折卑猥な囁きで龍兵衛を誘ってくるが、彼は理性を保ち、定満の責めに耐えている。

 着物を自らはだけてさせて豊満な胸を隠そうとしないで迫ってくる。

 しかし、目の前で熱い吐息をかけて上目で定満が見ようと彼は定満を押し倒そうとしない。

 

「龍兵衛君は潔癖だね。分かっていたけど……でも、私は、それを壊したくなるの」

 

 定満はにっこりと笑う。

 しかし、龍兵衛にはそれが悪魔の微笑にしか見えない。必死に前を向いて耐えるしかない。

 定満はならばとばかりに龍兵衛に抱き付いたままとある小さな包装紙を取り出して、酒に入っている自分の杯に中に入っている薬を入れて口に含み、強引に口付けをして龍兵衛の口にそれを入れた。

 抵抗した龍兵衛も定満の濃密な口付けに誤ってそれを飲んでしまった。

 

「一つ……聞かせてもらえませんか?」

 

 もはや覚悟を決めた。龍兵衛は最後の理性を最大限に発揮して定満にこれは弥太郎と定満、どっちが元々の所有者なのか聞いた。

 

「これはね……私の……なの。だから、今夜だけ……」

 

 自分でも少し飲んだのだろう。定満も顔が赤く染まっている。

 

「(ということは弥……)」

 

 そこまでで龍兵衛の理性は途絶えた。

 さらに彼は身の清きを失っていく。堕ちるのだ。

 

 その翌日、謙信が帰って来た。実に数週間の出来事だった。

 景勝に頼まれて龍兵衛はまた笛を吹いている。

 やっと謙信が帰って来たので安堵したのだろうか、楽しそうに景勝は聴いているが、どこか眠そうだ。

 曲が終わり、最近はよくやるようになった雑談をする。正直こっちの方が日々の不満を一人で溜め込む龍兵衛にとっては楽しい。

 最近はお互いの愚痴を言い合うようになったので相手が景勝でも遠慮なく愚痴をこぼしている。だが、今日の景勝の愚痴はとてつもない多さで龍兵衛は圧倒された。

 やはり、謙信が居ないあの間にかなりの鬱憤を溜めていたようだ。

 

「龍兵衛、あの時すごかった。別人に見えた」

 

 景勝にはいつもは怒ったりしない龍兵衛が急に激しい口調で他人が割って入ることも許さないような剣幕で景勝を叱り飛ばしたのが鮮明に記憶に残っている。

 あの時は龍兵衛も焦っていた。高広からあの二人の名前が出て来た時は『ああ、やっぱり』と思った。

 史実を知る彼はあの二人には元から警戒感を抱いていた。だが、実際とは違うこの世界では謙信が景勝を明確に世継ぎと定めている以上、御館の乱のような事自体が起きることさえも分からなかった。

 だが今回、その警戒心は功を奏した。予め二人を監視させておいたおかげで上杉家の内乱は兵を損なうこと無く終結したのだから。

 後から考えてみても、上杉一門であんなことをするのはあの二人だけだと龍兵衛は思っていた。

 政景のことは真っ先に龍兵衛は頭から外した。あの忠誠心は誰もが認めるところだからだ。

 上条政重も同様で、彼の場合は城主を交代させられた事によって景勝と対立したが、そうしない限り大丈夫だろうと彼は考えていた。

 そして二人は思った通り、景勝の下に真っ先に向かって忠誠を誓った。

 

「自分も言いたいことがある時ははっきり言いたいだけです。ですが、今回は景勝様のことを自分は批判しました。ご無礼をお許し下さい」

「あれは気にしなくていい、景勝、変われた気がした」

 

 景勝は自分であの時に龍兵衛に言われた時はまだ役目に不安が残っていた。しかし、彼に内偵を命じた瞬間に心の不安がすーっとどこかに吸い込まれて行くような気がした。

 そして思った。

 

『自分でもやれる』

「それは良かったです」

 

 龍兵衛は無意識にその時笑顔を浮かべていた。それは景勝の成長を喜ぶ至福の笑みとでも言おうか。とにかく穏やかな彼の心からの笑顔であった。

 

「龍兵衛、いい顔している」

 

 景勝に言われて、龍兵衛は慌てていつもの顔に戻すことは無かった。

 

「もう夜も遅くなりましたし、景勝様もお疲れでしょう。お休みになられて下さい」

 

 笑顔のまま龍兵衛はそう言って部屋に戻ろうとすると欠伸が出そうな顔をしている景勝が裾を掴み、もう一曲吹いて欲しいと言われた。

 まぁ、今日ぐらいいいか

 彼はそう思い、もう一度冷たい床に座り直して曲を演奏し始めた。

 龍兵衛の曲は心を慰めるような儚い曲が定番だが、その曲は心を和ませる明るい曲に変わっていた。




感想・指摘宜しくお願いします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間改 慶次への仕置き

やりたかったネタです


 謙信が出奔騒動を起こす少し前。

 慶次のいたずらは城内の至る所で様々な人の頭を悩ませていた。

 厨ではつまみ食いが多発し、中庭に出ればどこに落とし穴があるかわかったものではない。

 その苦情は常に兼続、颯馬、龍兵衛という若い軍師三人に上がってくる。

 しかも、まるで彼らの監視が悪いという風にやってくるのでとばっちりもいいところだ。

 何度も説教をしてもまったく減ることの無い悪戯によって湧き起こる苦情に辟易していた三人だが、ある日を境に少し慶次が大人しくなった。

 

 それは川中島の戦いの少し前のことである。

 颯馬が一任して欲しいと言ってきた。自信があるのかを二人が聞くと「大丈夫だ」と言うので、任せたところ、慶次の悪戯は減り、あるとしても、あまり人の困らないものとなった。

 三人は密かに喜びの宴を行い、自分たちの仕事に集中していたが、最近になって油断したのが悪かったのか、再び頻発してきていると苦情が絶えなくなってきた。

 被害はとうとう上層部にまで及び、景勝、兼続、颯馬達が被害にあった。

 

「落とし穴ってそんなに落ちると驚くものなのか?」

「「当たり前だ!」」

 

 未だに運良く被害にあったことの無い龍兵衛はよく分からずに首を傾げる。

 しかし、三日後になってとうとう龍兵衛も落とし穴にはまった。

 

「心蔵に悪いな。あれ……」

 

 泥が付いた服を着た龍兵衛は覚束ない足取りで二人に報告した。そして、被害者三人は迷いなく慶次の部屋に踏み込んだ。

 

「三人で説教とか。無いわ~」

「いいから、慶次は大人しく話を聞け!」

「そうそう。誤って手が滑って刀がずるっとお前の首に……」

「龍兵衛、お前はちょっとやり過ぎだぞ」

 

 慶次の部屋に押し入るなり、龍兵衛が慶次の首に刀を素早く当て、身動きが取れなくなったところを、兼続と颯馬が正座をさせ、説教を開始して早一刻を過ぎた。

 それでも説教は終わる気配がない。廊下には三人の声が聞こえているだろう。

 だが、それを止める人はいない。全員がもっとやるようにと熱い眼差しを送っていることに本人たちは知る由もないが。

 そして、「とりあえず今日はこれぐらい」と颯馬が言った時にはすっかり日が暮れて外では冬の寒い風が吹いていた。

 

「あぁん、正座されられて足の感覚がぁ」

 

 ようやく立つことを許された慶次が立ち上がり、足の痺れで上手く立つことが出来ずに慶次の巨大な胸が大きく揺れるのに颯馬と龍兵衛は鼻の下を伸ばすことは無い。

 ただ白い目で完全に呆れかえったという目で見ている。

 慶次の色仕掛けに屈するようでは、上杉家ではやっていけない。

 これは上杉家男性陣の密かな訓戒でもある。

 二人はその前に色々と屈しているので慶次ごときの存在でもあるが。

 一方の兼続は険しい表情をしている。

 

「相も変わらずけしからん乳なんだ……」

 

 妬ましそうな口調で言っていたが、二人は気にしないでおく。

 廊下に出て、しばらくし、龍兵衛は二人に問いかける。

 

「あれで止めると思うか?」

「「有り得ないな」」 

 

 阿吽の息で返してきた。

 内心、からかいたい気持ちが出たが、前に弥太郎と指摘して、何故か自分だけが説教の対象となったのを思い出して、抑える。その代わりと言わんばかりに颯馬に、悪い笑顔を向ける。

 

「ま、いざとなったらまた颯馬に頼むかな」

「えーまたかよ?」

 

 以前、慶次を止めれたのが颯馬しかいない。「お願いします」と仰々しく二人は頭を下げる。人の良い颯馬も渋々承諾したが、条件として龍兵衛に協力して欲しいと言ってきた。

 

「兼続じゃ駄目なのか?」

 

 面倒で、慶次からの報復で何かされるのが嫌である。

 

「お前との方がやりやすい。なにせ、感情的な兼続には荷が重い」

 

 面白そうにしている目で完全にからかっているのが分かる。

 

「うぐ、そ、そんなことはわかっている! だから、今直しているのだ!」

「それを直せよ」

 

 言い返せない指摘を颯馬に入れられた兼続は「何をやるかは知らんが私の手を煩わせないようにな!」と捨て台詞を吐いて行ってしまった。

 

「で、兼続を遠ざけてまで何をするんだ?」

 

 尋ねると、立ち話もあれだと颯馬の部屋で話し合おうと促されるままに付いて行く。。

 美しくも寒い夕空が春日山の廊下を眩しく照らしている。

 それを見て、時間的には良い頃合いだと嬉しそうに颯馬はしているが、龍兵衛からすると何のことか全く分からない。

 

「ま、あれだ。俺達には役得な事だ」

 

 少々悪い笑顔になった颯馬に龍兵衛は嫌な予感がした。

 

「お前まさか、以前のあれって……」

 

 笑みを崩さないまま頷くのを見て、以前、何をしたのか全て察した。呆れたと溜め息しか出てこない。だが、すぐに身体を乗り出して颯馬と同じような黒い笑顔になった。

 

「まぁ、あの乳に興味が無いと言ったら、男として嘘になるな」

 

 普段のお固くまとまっている龍兵衛はどこにもいなくなる、対慶次作戦会議はさらに夜まで続いた。

 

 

 

 慶次にはこのところ新たな日課が出来た。

 それは春画本を密かに龍兵衛の部屋に忍ばせることである。

 

「慶次の奴、また資料と春画本をすり替えやがって……ここに隠しとこ」

 

 慶次はこの龍兵衛の発言を聞いて、肩を震わせながらその場を離れた。

 事の発端は颯馬の発言だった。廊下を歩いていると、彼が龍兵衛のことを女性経験が無いとからかっていた。

 これに龍兵衛は珍しく動揺して「なにが悪い。節操なしのお前よりはましだ」とばつの悪そうな顔をしていた。

 これを聞いて黙っている慶次では無い。すぐさまその日の夕方に彼の部屋の机に春画本を置いておくと龍兵衛は最初は慶次のいたずらと考え、激昂していたが、周りを見回すと静かに押し入れの中に入れた。

 これを何回か続けたが、彼は結局自分のものにしていく。慶次はこの行動を面白く思い、また確信した。間違い無く経験が無いと。

 前回は颯馬の奸計にやられたが、今回の相手は龍兵衛だ。

 間違い無くこういうのには疎いというか堅物の彼に女を知らせておくのも悪くない。

 おそらく、あの本を取って置くのも女中に捨てているところを見られたくないからではなく、自分のために取って置いているのだろう。

 楽しみをいつまでも取っておくのは体に良くない。

 そして、その夜。慶次は早速、龍兵衛の部屋を訪れた。

 当然、相手をするつもりは無い。からかって最後は気絶させて顔に落書きでもする算段である。

 

「この時間に慶次が来るなんて珍しいな。どうかしたのか?」

 

 龍兵衛はいつも通りの堅い表情を崩さずに慶次を迎え入れる。しかし、彼はそれとなく押入れを隠すように移動するが、慶次はそれを見逃さない。

 

「ん~? ちょっとぉ、龍ちんの押し入れが気になってぇ……しっつれーい」

 

 彼は慌てて止めようとするが、軍師が慶次の体捌きにはついて行けるわけが無く、滑って転び、膝を強かに打ち付けて悶絶している。

 

「あーらら~龍ちんったら堅物だと思っていたのにこんなもの持っていたんだ~」

「こら! 人の押し入れを勝手に……」

 

 痛む膝をさすりながら抗議する龍兵衛だが、春画本のまとめていた物を見つけられて頭を抱えてしまった。

 

「ちょっと待て! それはお前がやったやつだろう!」

 

 大事なことを思い出したと言わんばかりに声を上げて、珍しく怒りを露わにしながら慶次に詰め寄る。

 

「でーもぉ、あたしは貯めておいてとは一言も言ってません」

 

 これには言い返せず、龍兵衛は唇を噛む。

 

「龍ちんも男だねぇ……経験が無いのはつらいことよ~後々、奥さんをもらった時にもしっかり導かないといけないんだから」

「何のことだ?」

 

 取り敢えずとぼけてごまかそうとするが、通じるような相手では無い。

 滑るように慶次は龍兵衛の腕に寄り添い、自分の胸を押し付ける。

 龍兵衛は顔を赤くして目を逸らす。それに慶次は追い討ちを掛ける。

 

「んもぅ~無理しないでいいのよ。今はぁ、あたしと龍ちんしかいないんだからぁ」

「と、仰いますと?」

 

 急に真顔になって腕を振り払おうとするが、慶次の力が強過ぎて龍兵衛の腕は全く動いてくれない。

 

「敬語でごまかそうとするなんて、もう万策尽きたのよ~私を、欲望の赴くままにしていいんだから」

 

 ぴくりと龍兵衛が動いた。

 これで堕ちたと思い内心にやりと笑って叫ぼうと思った慶次だが、龍兵衛は慶次を押し倒す訳ではなく、身体を震わせ、とうとう堪えきれずに笑い声を上げだした。

 

「え? うええっ?」

「やれやれ……慶次、よく言った! その言葉の通りにさせてもらうよ」

 

 ようやく、慶次は龍兵衛の行動と言動は全てが演技だったということに気がついたようで、戸惑いの表情を浮かべて意味もなく左右を見回す。

 

「俺も経験があるとはいえ、お前同様に浅い方でな。ここは一つ豊富な人に援軍を頼むか」

 

 慶次が驚いた表情で言おうとする前に龍兵衛は手を二回叩く。

 すると襖が開いて中に入ってきた援軍は今の慶次からすると悪魔の襲来に等しかった。

 

「こんばんは、前田殿?」

「ええ! 颯馬っち!? いつからそこに!?」

「ずっといたよ」

 

 部屋に入って来た途端に黒い笑みしながら颯馬は慶次に迫る。

 彼の手には縄が握られている。見た途端、慶次は先の一件が脳裏に蘇り、下がろうとするが、龍兵衛が肩を掴んで離さない。

 振り返ると龍兵衛も普段の理性的の目からは考えられない女に対する欲望の目に変わっている。

 

「しかし、下手な演技だったなぁ。少しの奴だったらばれているぞ」

「そんなこと無いと思うけどなぁ。それに仕方ないだろ? 俺は本当に経験は浅いんだから……ま、慶次で助かったことにしとくよ」

 

 そんな談笑をしつつも二人は慶次を組み敷いてしっかりと縄で縛り上げている。

 完全に縛り上げ、満足したように近付いてくる二人に準備も何もしていない慶次が待ったをかける。

 

「話が違うわよ~! 何で颯馬っちも一緒なの!?」

「お前は何も俺だけ欲望のなんとやらとは言って無い」

「じゃあ今から……」

「残念だけど。もう遅い、諦めろ」

「自業自得だ。恨むんだったら自分を恨め。それに、お前こういう方が好きだろ?」

 

 結局、二人は遅くまで慶次で思う存分楽しむことが出来た。

 終わった頃には慶次は文字通り極楽に逝きかけ、翌日は終日寝込むことになった。

 それから、慶次の行動は再び大人しくなり、龍兵衛に対する態度も軟化したのは別の話である。

 




感想・指摘待っています


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話改 川中島の戦い 始まり

「……夢、か」

 

 平成の夢を見るのはこちらに来てからは初めてである。

 龍兵衛は龍広だった頃の記憶はもう薄れてきている。

 もう捨てたはずのものが今になって蘇ってきたことに嫌な予感を拭えなかった。

 だが、考えても意味のないことである。気合を入れるように頬を叩いて起き上がる。

 外はまだ日は昇っていないが、気にせずに着替えを終える。それから顔を洗い、寝癖を直し、髭を剃って準備を整えると朝の日課である散歩に繰り出す。

 廊下では誰ともすれ違うことなく通り過ぎ、寝ている門番を起こして城下に出る。

 早く起きたため、まだ城下町は人がちらほらといるだけである。

 龍兵衛は気にせずにそのまま農村に歩いていく。

 普段だったら時間を決めているが、今日は決めていない。

 何故なら、今日休みだからだ。

 農村に来る頃には日も高くなりだして人も少しは多くなっていた。彼はいつも通りにぼーっと農家の人の農作業を眺めている。

 季節は田植えの時期を終えている。夏への移り変わりが少しずつ出て来る頃だ。

 

「(ああ、だからだろうか俺があのような夢を見たのは……)」

 

 一人、静かに納得しながらも龍兵衛は相変わらず外に感情は出さずにのんびりと農作業を眺めている。

 もちろん、ただ漠然と眺めているのではない。彼は自らが預かる農政には一切の手を抜くことなく徹底的な改革を行っている。

 例として農村に協力してもらい肥料の試作品を試している。理論的には絶対に失敗は無いはずである。

 鶏糞や魚粉を使い木屑や腐葉土に混ぜた平成でも使われている代物をこの時代の技術を使えるだけ使って作った物だ。

 聞けばなかなか上手くいっているようだ。龍兵衛からすれば正直言って当然だ。

 これで失敗でもしたら農家出身の彼にはかなり心に来るものである。

 鶏や魚を使った肥料は風呂がそこまで浸透していないこの時代で申し訳ないが、消すまでとてつもない臭いがする。

 

「(いつか温泉でも掘り起こしてみようか)」

 

 今出来ないことは脇に置いておき、まず鶏糞の肥料を撒いて稲の根をしっかり張らせる。

 その後に成長を促す魚粉の肥料を撒いてその成果を観察しているが、なかなかのものらしい。

 今年の米は楽しみにしておこう。

 平成と違い、この時代の越後は米はあまり豊富に取れる方では無い。そのためには別の国に食料を求めて出なければいけない。故に、彼はずっと東北遠征を主張している。

 決して彼の地は豊富な土地では無いが、いずれはあの地方を日ノ本有数の米の産地にするのが龍兵衛の野望でもあったりする。

 やろうと思えばやれるはずだ。江戸時代に伊達政宗が百万石の米を生産する計画を立てて数十年後に成功させたものを真似出来るようにしたいと彼は考えている。

 だが、それは東北を取ってからの話。今は我慢強く時を待つしかない。

 上洛命令が出れば話は別だが、義輝もとい義藤と違って現将軍義栄は畿内勢力をひとまずは安定させている。

 それは三好の協力があるから出来ることだが、将軍家の力は侮れない。

 いずれ全国に力を伸ばそうとするだろうが、それはまだ先になるだろう。

 足元が固まっていない以上は外に出てこようなんて思わない筈だ。権威だけの将軍では存在価値は無いと龍兵衛は思っていた。

 いつぞや義藤が言っていた時代は変わっていくということを彼は教科書を通じてだが、よく知っていた。

 まだ幕府が存在する以上はそれを上手く利用することが一番手っ取り早い。

 謙信が関東管領になった以上、いずれ上洛命令が下る可能性がある。

 その前にやっておきたいことはなんとしてもやっておく。政治は待った無しだ。

 先の内乱未遂事件で家臣の不穏分子は消えた。準備が整い次第動く。そして、勝つ。それだけだ。

 

 はやる心を抑える為に龍兵衛は農村を離れて山の開けた場所に座り、尺八を懐から取り出す。

 いつもの曲を吹いて心を和ませる。自分で吹くことが出来そうだという曲を選んで吹いている。穏やかな曲が多いが、そうなるのは仕方が無い。一番笛に合っているのだから。

 龍兵衛は今日は久々の休日のため、そのままのんびりと野山を散策することにした。

 そろそろ戦の準備に忙しくなる。今日ぐらいはゆっくりとするとしよう。

 そう思いながら龍兵衛は静かな森を歩き、木と木の間からこぼれるやや暑い木漏れ日を浴びながら更に奥へと歩いて行く。

 普段は楽しげな騒がしいところにいるが、たまにはこういうのもいい。

 こっそりと持ってきた茹でた鶏の卵を取り出して殻を割って口に頬張る。

 人が見ればなんて罰当たりなことをしている、と思うだろうが、その栄養価の高さを知っている彼には関係ない話だ。という訳で誰もいないので遠慮なく頂かせてもらっている。

 栄養分でいえば鶏の卵は申し分ないが、主君の謙信は熱心な仏教信者であるので表だってこのようなことは出来ないため、こういう機会を逃すわけにはいかない。

 

「このようなところにいましたか……河田様? 何をしているので?」

「むがっ!? ごっほごっほ……」

 

 龍兵衛はいきなり声を掛けられたため、喉に詰まってしまった。すぐに水筒の水を飲んでどうにか咽せるのを抑えた。卵は見られてないようなので内心ほっとしているのは秘密だ。

 声を掛けてきたのは軒猿の一人だった。

 

「謙信様が直ちに戻るようにと」

 

 落ち着いた口調で「分かった」と言うと気配が消えた。残念だがどうやら軍師に休憩は無いようだ。

 すぐに城に戻る。門番は先程と打って変わった真剣な表情で警備をしていた。

 評定の間に向かうとすでに主だった者たちは揃っており、龍兵衛は最後になったようだ。 

 

「戻りました」

 

 彼が座ったのを見て、謙信は口を開く。

 

「全員揃ったようだな。どうやら我らが東北に行く理想を叶えるのはまたお預けとなるようだ」

 

 他の勢力が侵攻している。

 しかし、この状態で洒落を言えるのは謙信の良いところでもある。

 緊張感高まる評定の場を少し和ますことが出来れば無駄な力が無くなる。

 そして、この場合相手となるところは考えるまでもない。

 

「武田がまた来たのですね?」

 

 龍兵衛の言葉に謙信が頷く。そして「懲りない御仁だ……」と彼は呟く

 武田が出て来る以上また川中島に行くことになりそうだ。否完全に確定である。

 面倒以外の何物でも無い。ここで武田を叩かないとこれからずっと同じことを繰り返す。

 

「今回こそ雌雄を決する。さもなければ我らはこの群雄割拠の時代に飲み込まれる。良いか? 今度こそ勝つぞ!」

 謙信の号令に家臣団は一斉に頭を下げた。

 

 数週間後、妻女山は川中島の八幡原南側にそびえる山で上杉領から見れば武田領に突出している形で布陣した。道幅が狭く大軍での行動は難しい。

 善光寺から出陣し、そこに敢えて謙信が陣を敷いたのは信玄との決戦に望む意志が強いことを表している。

 さらに主要な将の大半を引き連れて憲政の下にいた上泉信綱から名を変えた上泉秀綱や太田資正にも龍兵衛が頼んで来てもらっていた。

 

「役に立つのはお前もわかっているだろう?」

 

 それには颯馬はもちろんと頷く。

 秀綱の剣術は謙信や弥太郎と互角の勝負を繰り広げて資正と彼女の鍛えた犬は大きな戦力となる。

 

「今回こそはやってやんないとな」

 

 息を巻いているその様を隠すこと無く、龍兵衛は武田の陣がある茶臼山を眺める。

 以前の第三次会戦では謙信の出奔騒動で領内統一に目を奪われてしまい、結局、将軍義栄による仲介を長尾から頼み、信玄が信濃守護の役職を獲得して終わった。

 そして、四回目の対決。歴史通りならば、この戦を契機に歴史の転換を図れる好機である。

 暑い夏の気候の中、逸る気持ちを抑えて彼は颯馬と一緒に陣に戻った。

 布陣してから一週間ほど、しばらくお互いに睨み合いが続いている。この戦の為に武田は海津の城を大きく改修した為、そこを本陣として茶臼山に出陣し、上杉の妻女山を包囲をしていたが、状況が動かないのを見ると一旦海津城に撤退をした。

 おそらく武田は状況を打開しようとするために自ら動いたのだろう。

 二人は一度、自陣へと戻る。それを待っていたかのように謙信が口を開いた。

 

「そろそろ動きたい頃だな」

 

 謙信もこの睨み合いには痺れを切らしていた。

 

「さんせ~い。あたしこういうの苦手なのよね~」

 

 慶次もこの動かない状況に苛ついた様子だ。彼女だけでなく誰もがこの睨み合いでかなり鬱憤が溜まっているようだ。

 突出した布陣のため、兵糧も考えると上杉としては早期決戦が望まれる。

 

「海津城に武田は撤退しました。動くのはもう少し後かと」

 

 弥太郎の意見に皆が賛成する。その最中、謙信の視線が上空に向けられていたことに龍兵衛は気付く。

 

「いつもより、敵の炊煙が多いと思わないか」

「もう動く気でしょうか?」

 

 颯馬達は立ち上がり炊煙を見つめる。龍兵衛はその中でも一番に反応した。

 

「いつもより炊煙が多いですね……動くと見て間違い無いでしょう」

「どのように武田は動きますかね?」

 

 長重に答えるものはいなかったが、全員が頭で考えていた。

 どうやって武田は動くか。

 そして、自分達はそれに応じてどうやったら勝てるのか。

 

「取り敢えず、軒猿と斥候を出せるだけ出して探らせましょう」

 

 颯馬の言葉に謙信は頷き、すぐに兵士を呼んだ。

 

 それから二刻が経ち、夜もすっかり更けた頃、定満、兼続、颯馬、龍兵衛四人の軍師が協議をしている所に段蔵が情報を入手して戻ってきた。

 武田が二手に別れて行動し始めている。

 それを基にどう動くかの協議に結論が出た。武田の別働隊がこちらに向かっている隙に上杉が本隊を叩く。問題は別働隊が降りてくる時にどうするか。

 武田本隊も兵力がかなり残っていることは想像がつく。

 段蔵の報告では、ほぼ半分の戦力を別働隊に投入したらしい。だが、目的は武田信玄の討伐であり、別働隊を食い止める兵士は少なくしなければならない。

 

「別働隊を対する者は一騎当千で統率力に優れている人が適任ですね」

 

 颯馬の言葉に他の三人が頷く。

 候補は自然と絞れてくる。さらに話し合いは続き、誰が残るか決まった。

 そして、軒猿を総動員して探らせた武田の情報は全て上杉に届いた。

 

「長重、資正、義藤はここに残り、別働隊の敵を迎え撃て。この山の道はどれも狭い。二千もあれば十分だろう。残りはここを降りてこのように動く。各々、悟られないように」

 

 各武将の指示の下、兵たちは迅速に支度を整え、半刻もしない内に上杉軍は八幡原に向けて進軍を始めた。

 

「霧が出てきましたな」

 

 親憲が冷静な口調で辺りを見る。霧は濃くなり続け、このままだと味方でも判別が付かなくなりそうだ。

  

「この環境下は逆にいえば、敵に見つかりにくくなります」

「ならば颯馬、どうする?」

「車掛かりの陣を敷きましょう。難しい陣形ですが、上杉軍の精強さなら問題ないかと」

 

 謙信は進言に頷き、すぐに伝令を飛ばした。

 ここで龍兵衛が口を開いた。

 

「仮に敵の別働隊に留守隊が突破された時には素早く退くことが大切です。本陣の善光寺を撤退。集合場所にしていますが、八幡原をどう抜けるかが重要になってきます。判断の早さが大切ですので欲をかかずに敵が降りて来たら直ぐに撤退するのが上策かと」

「信玄の首はどうするのだ?」

 

 信玄を倒さなければ完全勝利とは言えないと謙信は考えている。だが、龍兵衛ははっきりとは言わないが、否定的な考えを持っていた。

 

「信玄を討てば、武田家臣達が何をするかわかりません。最後の最後まで謙信様を付け狙うでしょう。信玄の首を取るならば、武田家臣団の首と共に取らねばなりません」

 

 武田家臣は信玄の下での団結が強く、信玄への忠誠心はかなりのものだ。

 

「この戦で信玄を討てなくても、しばらく武田を立ち上がれないようにすれば、本来の方針通りの戦略を取れます」

 

 あくまでも今回は東北へ進出するために背後を固める戦である。

 外様であるが故に龍兵衛は最も対武田に客観的視点から見ることに長けている。

 

「これは上杉の未来が掛かっています。この戦に躓けば、武田との堂々巡りは終わることは無いでしょう」

 

 この戦に掛ける思いが強い龍兵衛の言葉にはかなりの熱がこもる

 それを感じ取った全員がいつも冷淡なところがある彼を物珍しいそうに見ていたが、彼の意を汲み取り、意気上がる気持ちを抑えるように霧の中を粛々と動いた。

 

 そして、夜明けと共に上杉軍の鬨の声が八幡原に響き渡り、川中島の戦いが始まった。

 序盤は先手を取った上杉軍有利で進んでいる。

 最前線で慶次、弥太郎、景家が敵を斬りまくっている。

 霧は濃いままで、一寸先の味方も見失いそうだ。だが、前線は兼続が指揮を執っている。心配無いと思い、辺りを見回していると顔を青くした颯馬が近付いてきた。

 

「おい、謙信様を見なかったか!?」

「何!?」

 

 龍兵衛も慌てて見回すが、霧でよく見えない。

 

「どうした?」 

 

 異変に気付いた景勝にも事情を説明する。彼女も目を丸くして辺りを見回す。だが、どこにも見当たらない。

 

「颯馬、このことは誰にも言っていないな?」

「当然だ」

 

 それを聞いた景勝が颯馬に謙信を探すように命じた。不安がる彼を安心させるように、龍兵衛が居ると言ってくれたのが少し嬉しかった。

 勇んで出て行こうとする颯馬を呼び止める。少し苛ついているが、構わず龍兵衛は口を開く。

 

「颯馬、謙信様を見つけたのが敵別働隊の到着した後なら先に善光寺へと行ってくれ」

 

 言われるまでも無いと彼は頷きもせずに馬を走らせた。

 謙信が消えたこと自体は全く解決していないが、あの謙信が戦で誤って命を落とすことはないだろう。兼続もそろそろ本陣に戻るはずだ。

 

「龍兵衛、景勝、大丈夫?」

 

 不安そうに景勝が龍兵衛を見上げる。謙信がいない今、敬愛する義母の宿敵に自分が実質的な大将として向かいあっているのだから無理も無い。

 

「大丈夫です。景勝様、自分を信じてください。味方を信じるのでしょう?」

 

 龍兵衛はあの時の言葉を繰り返し使う。

 景勝が大将の顔に変わった。

 そこから景勝は龍兵衛を通じて、適切な命令を出し続けた。

 防戦に徹する敵に突出した者が出ればすぐにそこを叩き、手薄になった箇所を集中的に攻める。

 

「敵と思えば、容赦なく斬れ! 今こそ武田の息の根を止める時だ!」

 

 龍兵衛も景勝の期待に応えるべく、本陣で兵を動かす。師匠の二兵衛から貰い受けた鉄扇で指揮を執る。

 そこにはいつもの平静な雰囲気は無く。自らの純粋に上杉を勝たせたいという気持ちを前面に出ている。

 

「申し上げます! 敵左翼が中央を突こうとしています!」

「兼続に伝令を出せ。今のことを伝えろ!」

 

 龍兵衛の指示を受けた兵が霧の中へと消えて行く。それと同時にぎりっと下唇を噛む。

 

「(さすが武田信玄……簡単にはいかないか)」

 

 内心、舌打ちをしながら鉄扇を握り締める。

 戦上手の信玄が相手では戦術に苦手意識がある自身では分が悪い。分かっていたが、徐々にそれが現れ始め、なかなか決定打を出せない。

 

「申し上げます! 敵の右翼の一隊が出よう出ようという動きがあります!」

「……水原殿に少しずつ退き、こちらに右翼の隊を引きずり出すように伝えろ。いい加減の時に義清殿の隊を背後に回させる。村上隊にも伝令を出せ!」

 

 伏兵を置く余裕が無いと判断し、好機と見て、一気に積極的な指示を出す。

 

「中央を叩け! 景家と弥太郎殿、それから慶次にも伝令だ! 背中を定満殿に任せ、兵を率いて敵陣を突破させろ!」

「どうしてあっちに行かない?」

 

 景勝が聞いてくる。。

 右翼にほころびが出来た以上、武田は信玄がいる中央から兵を出すわけにはいかない。そうなれば後詰めからしか兵を出すしか無い。

 

「中央を救援出来る部隊が無くなってしまうのです。左翼にはすでに兼続が向かっているはずですから、左翼から中央に兵を出す余裕はありません」

 

 右翼に敵の目を行かせる訳にはいかない。

 景勝は納得したように頷くと戦況を深い霧の中に見ようとする。ここまでは順調に来ている。

 だが、上杉の時は有限である。龍兵衛は軒猿に妻女山の情勢をしっかりと見るように命じた。

 命令を受けた三人が一気に突撃しているのが音で分かる。

 主君の宿敵である武田の精強な軍団の中央に斬り込む。

 武人として心が躍らない訳が無い。三人は中央に雪崩れ込み、敵兵を散々に斬って行く様が浮かび上がる。

 

 その姿は上杉軍には兵を鼓舞する舞を踊っているかのように美しく見え、武田軍には死へと導く鬼神のごとく恐怖に見えたという。

 

 霧はまだ晴れない。




感想・指摘お待ちしています


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十三話改 川中島の戦い 終結

 

 龍兵衛は、上杉と武田が中央に乗り遅れ、天下統一の機を逸したのはこの戦いの損害が多過ぎたせいだと考えていた。

 最初は上杉が勝っていたが、撤退の遅れによって武田軍並みの損害を受ける羽目になった。

 最後まで武田と雌雄を決することが出来ず、損害を多く被った上杉は関東平定や北陸への対応もままならずに越後と一部の土地を領しただけで戦国時代の終焉を迎えた。

 それ故に、この戦を知る自身がここで歴史を変える。そのために様々な布石を打ってきた。

 兵の質を上げ、出征での衛生を向上。軒猿などの情報収集の強化に人材の受け入れとやれることは積極的に動いてきた。

 そして今日。その全てを結果として示す。

 妻女山に史実では甘粕長重のみが残っていた。

 その武勇は確かだが、一人では心許ない。

 彼の能力を疑っているわけでは無いが、大軍相手に一人の指揮では早々と抜かれる恐れもある。だから、義藤と資正も加われば問題ないだろうと謙信にも事前に頼み込み、承諾してもらった。

 大局を見ることが出来る三人ならば、長重との連携も上手くいくだろう。そして、三人は一人で何十人という敵を倒せることも出来る。

 

(もうしばらくは前に集中出来る)

 

 妻女山留守隊が敵を蹂躙する様を頭の隅で想像しながら龍兵衛は景勝と指揮を執り続ける。

 後ろに敵がいること自体、本来あってはならないことだが、仕方ないと割り切る。武田軍の力を徹底的に削げる機会を逃すような方がよほど愚かだ。

 右翼を崩した後は中央を突破するのみ。しかし、その中央がなかなか崩れない。

 先程から徹底的に突破を試みているが、頑強に守りを固めている。

 余程優秀な指揮官なのだろうと思いつつ、腕組をしている指を叩く。

 確実に敵は減っているが、時間が無いことも知っている。

 歯痒い思いをしていた龍兵衛は報告に来た兵に咄嗟に「何だ!?」と強く当たってしまった。怯えている兵を見て正気に戻り、詫びを入れて報告を聞く。

 

「右翼の孤立した敵は撤退しました! しかし、水原様が敵将の諸角と初鹿野を討ち取りました!」

 

 心中で拳を握る。

 残るは信玄のみだ。

 内心、ほくそ笑みながらも表情を変えること無く、龍兵衛は指示を出す。

 

「中央を突破しろ! それでこの戦に決着を着ける! それから敵の中央の部隊を率いる将が誰か分かり次第、報告を」

 

 兵が急いで前線へと戻っていく。

 背後にいる景勝に視線を向けると心配そうにこちらを見ている。

 

「大丈夫です。必ず勝ちますよ」

 

 何となくだが、彼女が背後のことを気にしだしていると察した。当たりだったようで、驚いてこちらを見ている。それから、何か迷うように首を捻ると決断したと頷く。

 

「分かった。信じる。だから、気にしないで指揮して」

 

 その言葉で先程から自身が景勝の許可も取らずに行動していたことに気付く。普通なら不敬ヲ問われて持つおかしくない。

 

「申し訳ございません。戦に夢中になってしまい……」

「いい。景勝、後ろ見てた。龍兵衛、前、頼む」

 

 龍兵衛は八幡原で戦う上杉軍の指揮を全面的に任されたと解釈した。戦術が苦手だと今更、断ることは出来ない。

 

「御意」

 

 頭を下げると前線へと目を向ける。相変わらず視界が悪く、敵味方の区別が付かない。

 

「報告、敵の陣形と中央の将が判明しました」

 

 軒猿が静かにやって来た。

 

「申せ」

「敵は鶴翼の陣にてこちらを迎え撃っております。また、中央の敵将は山本勘助かと」

「分かった。中央への攻勢を強めるように伝えろ」

 

「御意」と言うと軒猿は気配を消した。

 

「うーん。山本勘助殿か……」

 

 龍兵衛は報告に眉間のしわを深める。

 あの山本勘助に知略で適うかと問われれば、首を捻る。

 ここでの打開策はあるにはあるが、危険な賭けだった。現在、兼続と定満が左翼を、義清が右翼を攻めている。

 残る隊は本陣の兵を除くとただ一つしかない。

 だが、切るべき最後の一手はここであり、逃すことは許されない。

 

「遊撃隊の上泉隊に中央の突破に加わるように伝えろ」

 

 後ろの景勝が驚いて、こちらを見ているのが分かる。

 これによって背後を守るのは留守隊の長重達の隊しかいなくなり、一か八かの賭けとなった。

 背後の隊が早く突破されれば本陣が危なくなる。信じて待つしか龍兵衛には出来ない。

 だが、ここまで来たら間に合わないのではないかという用心深い心など龍兵衛から既に無くなっていた。

 それから、上泉の部隊が加わった中央部隊は数の差を活かした攻勢で、敵中央を深々と破っていく。また、それによって武田も中央を守らんと左右の陣が縮小し始め、包囲される形になっていく。

 そして、山本勘助の討死も報告され、一気に前線を押し上げる総攻撃の号令をかけようとしたその時だった。

 

「報告! 武田別働隊、八幡原へと接近しています!」

「何!? もう抜かれたのか?」

「どうやら別の道を通って来たようです」

 

 龍兵衛は鉄扇を叩きつけたくなる気持ちを抑えて、冷静に状況を整理する。

 長重の隊はまだ戦っている。中央は第二陣の山県昌景の隊を突破すれば、もう信玄の本陣だけだ。

 報告だと敵の別働隊約六千は八幡原東からやってきている。おそらく、兵を二分して安全策を取ったのだろう。

 肝心の謙信はまだ帰って来る気配が無い。霧も少しずつ晴れているが、颯馬も道に迷ったのかもしれない。

 息を吐いて、心を落ち着かせると景勝が心配そうに龍兵衛を見ているのに気付く。

 ここで大任を降りるわけにはいかない。

 別働隊が来る前に退かなければ、痛み分けとなる。

 歴史を変える時が来たと肚に力を込めた。

 

「全軍に通達。八幡原の西に集結しつつ、善光寺へ退け。敵の首は全て捨てろ。これは厳命だ。破った者は罰する。甘粕たち、留守隊にも同様の事を伝えるんだ」

 

 各方面に伝令と軒猿が散っていく。

 一息つき、空を見ると徐々に晴れ間が見え始め、霧も晴れてきた。視界が良くなったためか、龍兵衛の伝令は上杉軍全軍にすぐに伝わった。

 元々、別働隊が現れるまでと言い聞かせてきた甲斐もあってか、全軍が素早い動きで、八幡原西に集結し、善光寺へと撤退して行く。

 最後に、右翼を攻めていた義清隊も無事に撤退し、第四次川中島の戦いは終わった。

 別働隊を抑えていた留守部隊も馬場信春の騎馬隊の猛攻を受けたが、長重達が自ら殿を引き受けたおかげでどうやら武田はもう追撃はして来ないようだ。

 また、敵の首を置いて走らせたのも大きかった。人の首があるないでは動きがかなり違う。

 手柄が貰えないのではという不安の声も上がったが、龍兵衛が謙信に代替案を提案すると言うと安堵した表情が広がる。川中島での撤退が遅れたという逸話もあったが、あながち間違いなかったと龍兵衛は思った。

 この時代は、首を取った多さで出世が決まることになっているからだ。もし首を捨てないで逃げたらどうなっていただろうか。

 背中が冷えた。想像したくもない。

 だが、それはあくまでも過去の想像で現実ではそのようなことは起きず、完全な勝利を得たのだ。

 龍兵衛は歴史を変えたことに心の中で大きく喜んでいた。

 そして、上杉の勝利を称えるかのように完全に霧が晴れた。

 

 武田の追撃も振り切り、上杉軍の把握が出来そうになったところで、景勝の命令で被害を確認する。

 謙信がいないことは指摘されること無かったが、景勝と龍兵衛は安心しながらも早く帰って来てくれと内心はらはらし通しだった。

 しばらくして、ようやく最後の撤退が終わった。

 景勝が龍兵衛の裾をくいっと引く。視線を追うと帰って来た二人の姿を確認し、安堵のため息をついた。

 

「……♪」

 

 景勝が謙信に近付き、龍兵衛が馬を降りて出迎える。二人の動きを見て、他の皆もそれに気がついた。

 

「あらぁ、お帰り~」

「颯馬? 貴様、所定の場所を離れて何をしていた?」

 

 慶次が呑気に声をかけたが、それを遮る兼続の厳しい問いが挟まる。珍しく颯馬は大人しく頭を下げ、代わりに謙信が事情を説明する。

 

『えぇー!?』

 

 皆の声は善光寺の境内だけでなく、八幡原にも響いたかもしれない。

 

「し、信玄と斬り合っていたって……どういうことです!?」

「言った通りだ」

 

 兼続が青ざめ、口を動かすだけになってしまう。

 

「そんなにさらりと言うことでは無いと自分は思いますけど……」

「あらぁ、楽しそうじゃない」

 

 代わりに龍兵衛が皆の心の声を代弁するが、慶次はどこ吹く風である。

 

「いやいやいや、さすがに敵大将と一騎打ちとは……さすがに恥ずかしいな」

「は、恥ずかしいとかそういう問題では……」

「でもずるいぞ。謙信、妾もやってみたかったのじゃ」

「あ、私もです!」

 

 頬をかく謙信に向けて、義藤と景家が羨望の嫉妬と羨望の眼差しを向ける。

 

「二人とも、煽ったら、めっ! なの」

 

 それを見た定満が年長者らしく、場を引き締めてくれる。

 

「まぁまぁ、定満、もう終わったことだ。それと、すまなかったな。今回のことははっきり言って失態だった。颯馬が来なければ私が敵に討たれていただろう」

「ちょっと待つのじゃ。謙信殿、まさか信玄と斬り合っていた場所は」

「察しの通り、武田の本陣だ」

 

 村上義清の問いにあっさりと応える謙信。恐ろしいことも他人事のように言っている謙信とは裏腹に周りにはさらに驚愕の色が広がる。

 

「けんけんってやることが豪快すぎるよねぇ。さすがにあたしも負けるかも……」

「いや、前田殿。そこは張り合うところでは無いと某は思います」

 

 親憲の指摘はもっともで、慶次と謙信では気の使いようが違ってくる。謙信がいなくなれば上杉はあっという間に没落するだろう。

 

「敵本陣で謙信様を見た時、俺は肝が冷えたよ……」

 

 さっきまでの戦の殺伐とした雰囲気がどこへやら。

 だが、こうしていられるのも生きているからこそである。上杉軍の面々がこの楽しいやり取りに長い時間盛り上がった。

 

 

 その後、上杉軍の被害は八百だったのに対して武田軍の被害は四千から五千ということが分かった。

 諸角虎定などが討死し、討たれたと思っていた山本勘助は奇跡的に一命を取り留めたものの、かなりの重傷を負い、武田軍は再編成が必要なほどの被害を被った。

 さらに海津城は陥落しなかったものの、長尾政景の火攻めに遭い、修復が必要になり、越後への足掛かりは完全に失われた。

 これに伴い、武田軍は見るからに弱体化し、今まで日和見を続けていた信州の国人衆は徐々に上杉へとなびき始めるようになる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十四話改 夏の日

 

 川中島の戦いから早数週間。

 勝利した上杉軍は東北遠征に備えて夏の太陽が照りつける中でその暑さに負けないぐらいの厳しい鍛練を行っていた。

 川中島での被害は少なかったものの、兵士達の疲れが溜まったまますぐに遠征に行くのは愚の骨頂である。

 幸いにも計算上は今年の収穫を待たずに行けることが出来る。

 その為、しばらくの休息を取った後に東北遠征に行くことになっている。

 強行な判断だが、武田の邪魔が無い機会を逃すわけにはいかない。

 問題は収穫を控えた農民の後方支援部隊としての動員だが、一家の主と長子以外を動員するしかないと謙信は決断した。

 それで初めて大体軍勢が七、八千となる。最大動員数はそれ以上だが、蘆名軍にはそれくらいで十分であるという軍師達の見解もある。

 当主の盛隆は二階堂家の人質から蘆名家当主となったので彼女を快く思わない者もいる。

 肝心の主君が家臣との足並みが揃わない以上、団結力は日の本の軍の中でも屈指の上杉軍が有利になるだろう。

 龍兵衛は今が楽しくて仕方がなかった。

 遠慮なしに仕事をこなして策を立てることが出来る。

 斎藤家の頃の修行の賜物であるのは彼が一番知っているが、そこで鍛えた頭脳が発揮出来るのが楽しいのだ。

 自惚れかもしれないが、それぐらいは誰にでもあるものだ。

 今日の仕事を早く終わらせて資料をまとめて棚にしまう。時間帯は正午過ぎぐらいで一番暑い時間だ。

 だが、温暖化だのと騒がれていた平成日本の夏の中で何年も過ごしてきた龍兵衛にとってこの時代の夏はどうということはない。

 部屋を出て涼しい城をぶらぶらと歩く。

 ついでに城下に出たいと思い、部屋に戻り、平成の時代からこの時代でも愛用している黒い手袋をはめた。

 潔癖な彼は手が汚れるのがあまり好きではないため、夏でも手袋をはめている。

 素材が皮なので上杉家では南蛮の物を斎藤家にいた時にもらったと周りには言ってごまかしているが、たまに「追放された身でよくもまぁ」と嫌みを言われたこともあった。

 先の反乱未遂でそのようなことを言っていた連中は悉く粛清された。つまり、残ったのは比較的良い人ばかりなのだ。

 

「(定満殿が言っていたことは本当だな)」

 

 彼は自分が異端者であることは当然のごとくひたすら隠しているが、それ以外のことは別にどうってこと無く心を開きだしている。

 笛を吹けるなどいくつかを除いてではあるが、それは放っておく。彼は素早く立ち上がって城下に出た。

 

 喧騒が城を出た所からすぐに聞こえる。

 かなり賑わっているが、足りないと龍兵衛は思っていた。

 西洋の技術がまったく入って無い。田舎の部類に入る越後を考えると当然だが、早く港を増やして整備や拡大を出来るところをもっと見つけ商業の発展させたい。

 九州や畿内に近い程、当然ながら西洋の文化は多く入ってくる。

 西洋の船が太平洋側に入ってくることが多い以上は日本海側の越後上杉家は動かざるを得ない。

 蘆名や伊達の太平洋側の東北に出て行き、港を拡大させる。西洋船が来る回数は少ないが、こっちよりはましだろうと龍兵衛は考えていた。

 色々と試さないといけない状態はまだ続いている。次に何が起こり、何がどの動きに繋がるのか。よくよく考えないと時代には付いて行けない。

 龍兵衛としてはこの世界の時代の動きが不自然で付いて行けないところが多くあったので混乱するところがあった。

 いい例が関東管領の上杉謙信の就任や足利義輝の永禄の変、さらに第四次川中島の戦いが史実よりも早くなっていることだ。

 だが、それも逆に取れば無いこともあり得るということだ。そこはプラスに取ってもいいと彼は思っている。

 まだ鉄砲が普及して来てないし、北条早雲がまだ生きているおかげで北条との間で戦が起こることはまだ起きていない。先の貢ぎ物の件も早雲が指示して行っていた事らしい。

 これも逆に考えると早雲がいることは脅威だが、攻めて来る可能性は低いだろう。今、北条は里見と戦っている。別にこれはいい方向に捉えてもいいだろうと龍兵衛は思っていた。

 戦があり、いつ取られるか分からない命の危険はあるが、自分の心の寄りどころがある。

 緩む心を戒めるように龍兵衛は小さく気付かれないように首を振る。

 本来、自分はここにいるべき人間ではない。どんなに楽しくても平成の世の中で生きるべき人間だ。たとえそれが嫌でもだ。

 前回の武田軍との戦いでも勝ったとはいえ八百の人の命を犠牲にした。

 軍師は戦で死んだ者の思いも負担にならない程度に背負っていく。そのことは忘れてはいけないと師匠もそう言っていたではないか。

 気付けば顔馴染みの商人が心配そうに声を掛けていた。それでようやく自身の眉間に皺が寄っていることが分かった。

 なんでも無いと安心させて一息入れる為に近くの茶屋で一息入れる。

 本来もう少し寄りたいところであったが、龍兵衛は今日は一人でいると良くないと考えて城に戻ることにした。

 

 

 

 

 

 

 鍛練は夏にやれば無論暑い。下手をすれば倒れる者もいる。

 だが、今日は大きい訓練の為、謙信以下多くの武将が出席しているので兵士達も油断出来ない。

 軍師である颯馬も半ば強引に連れ出されて鍛練に参加している。

 

「くっそー・・・・・・龍兵衛の奴。上手いこと逃げやがって」

 

 龍兵衛は呼ばれた時に厠に行っていた為、連れ出しに来た弥太郎に見つからずに助かった。

 

「恨み言は後にして。ほら、さっさと私の相手をしろ!」

 

 渋々颯馬は弥太郎の相手をする。謙信もこの鍛練に参加している為、武将も手を抜くことは出来ない。全員が真剣に打ち込むが、この暑さでは一回一回の終わりが段々と早くなっていく。

 

「汗が止まらないな・・・・・・」

 

 休憩中に手拭いで何度も汗を拭いてもなかなか止まらないので皆うんざり気味である。義清などは半分死にかけているのを先程景家が気付いて強制退場させる始末だった。

 

「龍兵衛はともかくとして何で前田殿はいないんだ!?」

 

 兼続は龍兵衛と違って意図的に逃げ出した慶次に毒づく。

 

「仕方無いさ兼続、慶次はそういう性格なんだ。諦めろ」

「し、しかしですね謙信様、これでは配下に示しが・・・・・・」

「あれに示しも何も無いだろう」

 

 謙信はもうほとんど慶次をほったらかしている。

 慶次になに言っても変わらないことぐらいは兼続でも分かってはいるが、生真面目な性格なのと以前に二人の好敵手は彼女を止めているので諦められない。

 

「じーーー」

 

 景勝はさっきからずっと義藤の刀を興味津々という様子で見ている。

 

「ん、なんじゃ? この刀が気になるのか?」

「コクコク」

 

 頷くと義藤は今度部屋にある刀達を紹介すると言うと景勝はとても嬉しそうな顔をして喜んでいる。

 景勝が刀の収集が趣味であるのは皆が知らなかったので『へぇ』と驚いている。

 普段は自己主張が少ないので自分の趣味をぽんぽんと明らかにすることはなかったのだ。

 

「(龍兵衛、こういう風、良い)」

 

 景勝は龍兵衛が自分の趣味を隠す理由が分からなかった。趣味を共有して交友を深めることもこうして出来るというのに。

 何かを思い出したように顔を景勝がしたのを謙信が気付いて訳を聞く。

 

「龍兵衛、刀、振った。見たこと無い」

 

 そういえばと皆が記憶を探るが、龍兵衛が刀を振っているのを実際に見たことがあるのは彼が上杉家に仕えるきっかけとなった戦で見た謙信と慶次しかいない。

 

「決して弱くはないと思うぞ。私が見た時の記憶が正しければ颯馬や兼続と同じ位だ」

 

 皆が成る程と頷く。二人と同等ならば軍師としてはかなりの腕前であるということになる。

 

「ですが、何故に龍兵衛は鍛練をしないのでしょう? 俺達も鍛練はなるべくします」

 

 その時、道場の扉ががらっと開いて全身を黒で統一した大男が入ってきた。

 

「呼びました?」

「龍兵衛!? いつの間に!?」

 

 いきなり話題の主が鍛練場にやってきたので颯馬を始めとして全員が驚いてしまったので龍兵衛も驚いてしまった。

 

「い、いや、ちょっと・・・・・・城下の市場で慶次を見かけたんで報告しようと思って」

「・・・・・・ちょっと失礼します。城下の市場に用事を思い出しました」

 

 兼続が出て行った。そして、誰もが思った。

 

「(終わったな。慶次・・・・・・)」 

 

「まぁ。慶次は別にいいとして・・・・・・龍兵衛、ちょっと颯馬と手合わせしてみろ。これは命令だ」

「え!? いきなりですか!?」

 

 謙信のいきなりの発言に龍兵衛は困惑するが、そんなのお構いなしに颯馬は木刀を持って立ち上がる。

 

「さ。諦めろ」

 

 相対して来る颯馬に「はぁ」と溜め息を出しながら龍兵衛も木刀を取る。   

 まず仕掛けたのは颯馬だ。

 左から横払いで刀を繰り出す。それを龍兵衛は受け止めることをせずに下がることでかわした。

 続けて颯馬は一気に間合いを詰めて突きを出すもこれも龍兵衛は身体を逸らすことでかわす。ここから龍兵衛は反撃に出た。 

 逸らした身体の力を利用し身体を反転させながら、颯馬の右肩から一気に刀を振り下ろした。慌てて颯馬はかわすがそのせいで右ががら空きになった。龍兵衛はそれを見逃さずにさらに右に攻撃を一回二回と仕掛けた。

 どうにか颯馬は避けて体制を整えることに成功するが、力では龍兵衛が上の為、力付くで押すと思いきや、龍兵衛は一旦下がった。

 間合いを開けてゆっくりと颯馬のどこを攻めるかを観察する。

 のんびりと構えているように見えるが、彼の目は集中力を高めている。まるで本当の戦の時の敵を見るように颯馬を見ている。

 だが、彼は決して自ら攻撃するようなことはせずに颯馬が攻撃するのをずっと待っている。

 しばらくの膠着状態に痺れを切らした颯馬は一気に決着をつけようと畳み掛けるが、龍兵衛は攻撃をかわしつつも隙を見つけてはそこにつけ込むようにちょろちょろと動く。その繰り返しを続けていた。

 そして、颯馬が龍兵衛に上段から振り下ろした時に勝負は決した。

 颯馬の攻撃をかわすと龍兵衛は左から横払いに斬り込むが颯馬はそれを受け止めると龍兵衛は遂に力を入れてその刀を力任せに振り上げた。

 だが、思ったよりも力が入って無かったようで、颯馬が刀を手離すことはなかった。

 颯馬には隙が出来た。それは龍兵衛も同じでそこからお互いの隙に入るのは丁度同じタイミングだった。

 颯馬は心臓に、龍兵衛は首にお互いの刀を向けていた。

 

「そこまで!」

 

 兼続の声が響いた。

 

 

 

「もったいないわね~もっとガツンと行きなさいよ」

 

 終わった瞬間から休憩する時間も無い。

 さっきの攻め方に龍兵衛は武将達から大ブーイングを受ける羽目になった。

 

「そうですよ。龍兵衛殿は巧さよりも力で押すような刀の使い方が合っているはずですよ」

 

 親憲にまで言われている。ちょっと考えてない方からの口撃に龍兵衛は凹んでしまった。

 

「いや。別に自分はそこまで・・・・・・」

「何を言うか。お主はちゃんと鍛練すればそれ以上のものになる。もったいないぞ」

 

 剣豪の義藤に言われ照れ臭そうに龍兵衛は頬を掻いた。

 誤魔化していると共にもう話を終わりにして欲しいという感情丸出しである。

 

「それにしても大丈夫か? 今日は暑いから倒れたりされては困るぞ」

「大丈夫ですよ。暑さには慣れているんで」

 

 謙信の言葉に淡々と返す龍兵衛。

 汗はかいているが、顔色一つ変えていない姿に彼が暑さにやられるような気配はない。

 熱された道場の中の暑さはこれくらいで人工芝のグラウンドと同じぐらいのものとなる。龍兵衛はけろっとしていた。

 その後は復活した義清が帰ってきて自分も龍兵衛の腕がどのようなもの知りたかったと悔しそうだった。そこに謙信が「まだ龍兵衛は一回しか立ち合っていない」と。

 龍兵衛は悪魔の言葉を聞いた気がした。

 

「龍兵衛殿、立つのじゃ!」

「嘘でしょ~」

 

 結局ほぼ休み無しで義清に立ち向かった結果はどうなったかは言うまでも無い。

 

 

 

 鍛練という地獄が終わり一人になった瞬間だった。

 龍兵衛は腰と肩を押さえて苦悶の表情を浮かべる。うずくまり、脂汗をぽたぽたと流しながら足を引きずるように歩く。

 平成の時代に野球をやってきて数年間、休み無く突っ走って来た代償として腰に疲労を溜めて慢性的な腰痛を患い、さらに肩を脱臼して手術をすること無く野球を続けていた為にプレーには制限があった。

 それ以上の力が必要とする刀を振るうにも強引な力技を使わずにいなしてかわして相手に入り込んで隙を突くやり方を好んでいるのはこの後遺症の残る持病に極力負担をかけない為だ。

 颯馬との戦いで最後の刀を振り上げた時に身体は自分の頭の命令を聞かないで勝手に動くようになってしまっていて気付いた時には遅かった。

 音はしなかったが、本人は右肩の痛みが来たのがわかった。

 

「(痛い)」

 

 ただその感情だけが頭にあり、ふらふらと龍兵衛は夕日が眩しい廊下をさまようように歩いていた。

 

 

 

 

 

 

 景勝と兼続から思ったよりも早く解放された慶次が見たのは偶然だった。

 出会った二人は部屋で世間話をする為に一緒に歩いていた。その時僅かながらに呻き声が聞こえた。二人はその声が低く、小さいがずっと続いているのがわかる。かなり苦しいそうな声だ。

 その方向に向かって角からこっそりと見ると龍兵衛が身体の節々を押さえながら苦しそうに歩いていた。

 途中で彼は女中とすれ違ったが、その姿を見るとすぐにいつもの龍兵衛に変わり、何事もなかったようにすれ違い視界からいなくなるのを確認すると苦しそうに腰をさすっていた。

 かなりの無理をしていると誰にでもわかるような動きをしながら龍兵衛は自分の部屋に入っていった。

 二人は手伝おうにも龍兵衛の雰囲気がそうさせてくれなかった。

 そのまま付いて行って慶次がそっと襖を少し開ける。景勝は止めた方がいいと思ったが、慶次はそんなの関係なしに中を覗く。

 

「この、呪われた身体め・・・・・・せめて、この肩だけでもなんともなければ・・・・・・」

 

 龍兵衛は横たわって恨みがましく自分の身体に言っている。

 ふらふらと立ち上がると龍兵衛は手拭いに水を含ませて着物を脱いで、肩に手拭いを当てた。

 そこまでで二人は見るのを止めたが、とんでもない物を見た気がした。

 普段の彼が鍛練をしないのはこの為で決してさぼっている訳ではないのである。

 それを庇う為に力を抑えた技を身に付けようとしているのであるとわかった。

 慶次は今思えば一緒に最初戦っていた時も彼は右肩を気にする素振りを見せていた気がした。

 景勝にとってはなんとも後味が悪いというか罪悪感があった。

 自分の言葉を一番最初に理解してくれて上杉の為に目立たないような自分が嫌われるようなことも厭わずに汚れ仕事も行って来ている事も知っていた。

 分かっていたつもりだった。だが、本当は自分は龍兵衛のことをわかっていないことに気付いた。

 あれほどまでに自分の抱えている爆弾に苦しむ姿を颯馬達に見せたことがあるのか。

 慶次を見ると景勝の言いたいことを察したのか知らなかったと首を横に振った。

 自分の都合の悪いものは自分の身体のことでも後回しにして上杉の為に動いている。

 前から腰を叩いて状態を気にすることはあったが、ここまでひどいとは誰が思ったであろうか。颯馬達も知らないだろう。

 何故、龍兵衛はここまでボロボロになっても仕事を続けて戦場にたち続けるのかが景勝には分からなかった。

 死に急いでいる訳でも無い。ただ、上杉家の為に動くにしても最近の彼はどんどん働いている時間が増えている気がした。

 

「龍兵衛、心配」

「そうねぇ、もっと休むことも大切よねぇ」

 

 心配とお気楽。二人は対照的な顔をして歩いている。

 景勝は謙信に伝えるべきだろうかと思ったが止めた。

 龍兵衛はそういうことが人に容易く広まるのを最も嫌う。

 黙っておこうと慶次にもそう言うと彼女も頷く。その一方で彼女は景勝から龍兵衛が今まで何をしているのか無理をしている時もあるのだということを聞くと少し目を見開いた。

 

「かっつん、龍ちんのことよくわかっているのねぇ」

「龍兵衛、景勝の言ってること、一番に分かってくれた」

 

 あの内乱騒動の後も景勝と龍兵衛の仲はあまり良くないという噂があった。

 慶次もそれを本当だと思っていたが、どうやらそれは違っていたようだ。

 嬉しげに語る景勝を見ると逆に景勝は龍兵衛を良く理解していると分かる。おそらく龍兵衛も景勝を同じくそうなのだろう。噂とは当てにならないものであると慶次は思った。

 

 

 

 

 

 

 龍兵衛は先程の疲れから眠りについてしまい、目が覚めたのはその三十分後だった。まだ西日が差している。

 伸びをして身体を起こすと手拭いが濡れたまま床に起きっぱなしだった。乾かしているとぽたぽたと水がまだ垂れている。痛みが強かったのでちゃんと搾らなかったのが悪かった。

 しばらくその水の滴り落ちているのを眺めていると外では空模様がおかしくなっていた。雲がやってきている。龍兵衛が少し襖を開けて風に当たると風の匂いが変わっていた。

 

「(来るな・・・・・・)」

 

 そう思った時にゴロゴロという音が聞こえて雷と共に雨が落ちてきた。 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十五話改 今、再びの東北へ

 八月、太陽からの熱気が増す中で、春日山城の評定の間はさらなる熱気に包まれていた。

 

「今日は対蘆名家への戦について話し合う」

 

 謙信の号令にざわめきが様々な場所から聞こえる。これだけで皆が東北遠征を心待ちにしていたことが分かる。

 

「龍兵衛、説明を」

 

 龍兵衛が無言で頭を下げ、用意していた紙を広げる。

 上杉にとって初めて信州以外の領土に文字通り侵攻する戦となることもあり、かなり慎重に事を進めた。

 越後から蘆名を討つには会津新宮と黒川の二つ城を取ることが必要である。

 蘆名の本拠は黒川だが、落ちれば間違いなく向羽黒山城に逃れる。向羽黒山城を落とさない限り、蘆名を屈服させることは不可能だ。

 

「もう一つ、蘆名を倒すには二階堂も同様に倒す必要があります」

 

 現在の二階堂家当主である二階堂盛義と蘆名盛隆は実の親子である。ほぼ間違いなく盛義が娘の救援が来るだろう。

 そのために、角館に行く前に二階堂の援軍を叩く必要がある。

 

「二階堂自体は力はさほどありませんが、後顧の憂いは絶っておいた方がいいと思います」

 

 龍兵衛はそう言うと次に具体的な戦略を説明する。

 会津新宮城を迅速に落とした後、二階堂の援軍を叩き、一気に蘆名の本拠を落とす。

 このことは東北に進出することを主張し、戦略を立てるのが得意な龍兵衛が策を練り、定満や颯馬、兼続と話し合って決めた為に異論や変な言い争いはなかった。

 

「今の通りに動けるよう、各々しておくように」

 

 出陣日を決め、謙信から散会の合図が出た。

 ほぼ全員が出て行ったのを見て、龍兵衛の表情が若干緩んだ。

 

「やっとだぁ~」

 

 以前より東北侵攻を主張していただけに龍兵衛は待ちくたびれていたように伸びをする。 

 他の諸将もいよいよ守りの戦から外征に出るとなり、皆、表情が色めきだっていた。

 

「軒猿は既に偵察に出しています。地形は山を越えれば比較的平坦な所もあるようですし、なるべく城攻めは避けるように進まねば」

「うむ。手回しが早いな颯馬は。ならば楽に勝とうか」

「謙信様、楽に勝てたら苦労しません」

 

 謙信の失言に兼続が苦言を呈すが、笑って気にしていない。

 

「武田に勝てたのだから、蘆名に楽に勝たないでどうする?」

 

 それを言われると兼続も反論出来ないように口を閉ざした。

 川中島の戦いに勝てたのは大きかった。

 武田の被害は甚大。海津の修復やさらに武田に仕方なく降った北信州の豪族が反乱の動きも見せているらしい。

 一部は龍兵衛が密かに扇動したものだが、誰にも言わないでいるため、他の者は必然的な流れと信じている。

 勝たないと川中島での勝利はまぐれと言われる。ここで負ける訳にはいかない。勝つしかないのだ。

 

「だいじょーぶ! あたしが先陣を切って敵を倒すからぁ」

「なんだと!? 先陣は私に決まってる!」

「慶次と景家が揉めるのなら、妾が間を取って……」

「私じゃ!」

 

 慶次、景家、義藤、義清はいつものやり取りを始める。それを微笑ましそうに見ている謙信を見て、龍兵衛の緊張感は一気に高まった。

 初めての外征で自身が提案したもの。これが失敗すれば必ず何かしらの咎を受けるだろう。謙信が庇おうともしきれない可能性もある。いつの間にか肩に入っている力を抜くが、胃が少し痛くなってきた。

 今さらながら失敗した時の恐怖に襲われる。だが、ここから上杉が龍の如く天に昇るには避けて通れぬ道である。誰かがやらなければならないことを当然のようにやっていればそれで良いはずだ。 

 

「……?」

 

 我に返ると目の前で景勝が心配そうに顔を覗き込んでいた。驚き、少し体を仰け反る。周りを見ると全員の視線が龍兵衛へと向けられていた。

 

「大丈夫か? 凄い汗だぞ」

 

 颯馬に指摘されて、初めて額の汗が床にも垂れていると気付いた。

 

「失礼。少々、考え込んでしまいました」

「なら良いが。体調が優れないなら無理はするなよ」

「大丈夫。大丈夫だから」

 

 さらに声をかけてくる颯馬を制し、景勝も元の場所に戻るように促すと何も聞いていなかったことを詫びて、会話の中に入る。

 いつの間にか軍師だけとなった評定の間で、蘆名に対する謙信と戦略を練っていたと苛立ちながら兼続が教えてくれた。 

 それを聞いて、すぐに頭の中で蘆名が取るであろう行動と敵の体制を浮かべる。

 

「すべての城を一つ一つ落とすのは下策です。一気に新宮城を目指しては?」

「俺と一緒か。やはり、すぐに叩くべきでしょう」

「どこか拠点となる所を落とした方がいいのでは無いか? その方が敵の援軍が来た時の備えにもなるだろう」

 

 颯馬と龍兵衛は強攻を主張し、兼続が慎重論を主張する。二分された意見の中で、定満だけが沈黙を守っていた。

 

「うーん」

「定満、どう思う?」

 

 謙信が首を捻り続ける彼女に意見を求めるとゆっくり姿勢を戻し、主の方へ顔を向ける。

 

「兼ちゃんの方を私は押すの」

 

 定満には颯馬も龍兵衛も逆らえない為、ここは仕方無しに頷く。結局、越後側にも近く、会津新宮城に近い高館城を取ることになった。

 

「そこからの動きはどう考える?」

 

 謙信が龍兵衛の方を向いてきた。

 

「新宮を落とせば二階堂が動くでしょう。蘆名と合流される前に叩いてしまえば、敵の士気も落ち、戦も容易になるかと」

「分かった。皆、支度をしてくれ。この戦を上杉が天下を取る先駆けとする」

 

 皆が一斉に頭を垂れ、全員が評定の間から出た。

 軍師たちは前列に定満と兼続、後列に颯馬と龍兵衛が並んで歩く。外に出て早々に兼続が龍兵衛に対して口を開く。

 

「龍兵衛、蘆名について何かしら情報は?」

「主の蘆名盛隆は家中での立ち位置が微妙らしく、家臣掌握に苦慮していると聞く。付け入る隙は多いな」

「調略の準備をするのであれば、私や定満殿に確認する必要は無い」

「分かった。とりあえず、二階堂と蘆名にめぼしい人はいくつか見つけてあるからそこから取り入ってみる」

「頼むぞ」

 

 そこからの会話内容は基本的には颯馬や定満の管轄だったため、あまり覚えていない。一人思案する中で浮かぶいくつかの過程を最後に結び付けやすくするために歩調を合わせながらも思慮だけは別に向けていた。

 曖昧な情報が多いが、信憑性の高いものを見ていかなければ敗北につながる。

 途中で段蔵を見かけた龍兵衛は三人と分かれてそちらに向かう。

 

「お、どうした?」

 

 彼女は気付くなり、陽気に声をかけてきた。

 

「蘆名の調略について具体的な話をしたい」

「良いよー。じゃ、あんたの部屋で」

 

 

 

 三週間後、上杉軍は蘆名領内で起きている内乱に介入するという名目で出陣した。

 そして、すぐに高館城を落とし、蘆名攻略への道を開けた。休む間もなく、城を修復すると次の目標である会津新宮城への攻略を進めていくための軍議を始めた。

 

「二階堂は未だに動く気配が無い以上、すぐに動くべきかと」

 

 颯馬の意見に皆、賛成する。

 二階堂は龍兵衛の指示で撹乱を行った軒猿によって内部の混乱を抱いている。そのため、援軍を派遣しようにも家臣たちの反対によって動けない状況にある。

 謙信が各部隊に出撃を伝えるように指示を出そうとした時だった。

 龍兵衛が組織化した歩き巫女達が情報を持って来た。

 存在を知るのは謙信や龍兵衛、その他の軍師や一部の重臣のみの為、文書での報告だが、それぞれが偽名を持ち、暗号まがいの文の為に何を書いてあるかなどを知る者はさらに限られてくる。

 

「『離縁の時は近く。妻と子供は残り、父は出て仕事へ行く』ね」

「……?」

 

 景勝がよくわからないと教えて欲しそうにこちらを見ている。

 

「簡単すぎるのですが、要するに蘆名は家臣が分裂しているようですね。籠城派と強硬派に。そして、強硬派はこちらに来ます」

「分裂しているのは分かるが、どうしてやって来ると分かるんだ?」

「簡単だよ兼続。細君と子供は基本的には家に居る。父親が細君と喧嘩しているのは家と仕事のことがほとんどだ。仕事を重視する父親が出て行くんだ。わかっただろ?」

 

 兼続は納得したように頷く。

 もっとも、龍兵衛としては難解な暗号を作りたかったが、自分と歩き巫女たちの教養力ではさらに難しくするのは難しい。

 

「たしか、軒猿が前に持ってきた報告によると蘆名の家臣は金上と針生が対立していると言っていたな」

 

 謙信がおとがいに手を当てながら尋ねてくる。

 

「金上は知略にも通じる人と聞きます。おそらく盛信が強硬派の筆頭で彼が来るでしょう。彼は武人で猪武者なところがあると聞きます。針生が来るのはこちらにとっては好都合です。その前に城を落とせば、彼の性格からすれば間違いなく城を取り戻そうとするでしょう」

「仮に落とせなくても盛信は城の兵と共に策を立てればまとめて倒せます」

 

 兼続がさらに言葉を続ける。

 

「まぁ、その前には簡単に落ちるはずですがね」

 

 龍兵衛が締めくくり、軍師達の軍議は終わった。

 すぐに謙信は翌朝に城を攻めると宣言し、各部隊への通達を命じた。

 

 翌朝。到着したばかりの高館城を上杉軍は休む間もなく一気に攻めた。

 不意を突かれた名も知らぬ城主はあっという間に新宮城に逃亡してしまった。

 

「全然手応え無しねぇ、つまんない」

 

 慶次の言葉は将兵皆の気持ちを完璧に代弁した。

 そして、この城を拠点に新宮城を攻める準備をしてその日の内に進軍した。

 その中で、龍兵衛は神妙な顔をしていた。

 生来慎重な男で、常に最悪の中でも最悪な状況を考えて行動するのが彼のやり方である。以前の川中島での決断は本当に覚悟を決めた時にしか命じたりはしない。

 

「夜襲に備えるべきではないでしょうか」

 

 そう言ったのも龍兵衛だった。

 敵の将の性質を調べずに攻める上杉軍ではない。直ぐに龍兵衛の意見を取り入れ陣を築き次第兵を休ませて夜襲に備えたのだ。

 そして今日の夜、想定通りに蘆名軍はやって来た。蘆名軍は十分に備えていた上杉軍の前に歯が立たず、半数以上の死傷者を出して撤退していった。

 

「思った以上の戦果ですね。義藤殿と秀綱殿が特に、見ていてこちらが怖くなりました」

 

 龍兵衛は伏兵を指揮していた為に剣豪二人の戦いを上杉軍の将の中で一番近くで見ていた。

 

「しかし、景勝が言った通り二人を伏兵に置いておいたのは正解だったな。いい判断だったぞ、景勝」

「♪」

 

 謙信に褒められながら頭を撫でられ、景勝は嬉しそうに目を細めている。この前の龍兵衛のことを気にして、元々、義藤だけのところを秀綱も伏兵に置くように進言した。

 この戦いの影響は少なからずあるに違いない。蘆名全体の士気を挫くことが出来ただろう。もはや新宮城を落とすのは時間の問題となった。

 それから、今後の進軍すべき道を定めた後、陣に戻った颯馬と龍兵衛は二人で話をしていた。それは上杉軍だけでなく、どこの者だろうと決して好まない行いのことである。

 

「じゃ……段蔵には俺から言っておく」

「ああ。じゃあ、お休み」

 

 話していたのは蘆名方に送る偽の手紙についてである。これによって上杉軍はより勝利を確実な物に出来る。

 正義を重んじる謙信がこのようなことを許すはずが無いと考え、二人は秘密裏に物事を進めていた。

 彼を見送ると龍兵衛も気紛れに暑さ変わらぬ夜に陣外へ出た。

 空を見上げると暑さも忘れるような満天の星空が広がっていた。彼自身は天文学の知識は無いが平成では見れない星もあることはわかっている。

 楽しくても居るべきでは無いこの世界。

 その中に自分が居るのを彼は決して認めることはしない。

 己の正体を知るのは師匠二人でいい。

 異端者は決して生きることは出来ない。

 心の広い上杉家の人達だろうと自身を奇怪な目で見てくるだろう。そして、自分を認めた時に平成の自分の存在は消えてなくなる。

 実家には自分以外の子供はいなかった。自分がこの世界の人物だと認めたら、それは実家の断絶に繋がる事を意味する。

 自分をこの世界に放った人物は言っていなかったが、龍兵衛自身はそのような気がしてならない。

 その空しい気持ちを和らげるつもりで夜空は見上げているのにますます空しくなるばかりである。

 

 翌日、上杉軍は会津新宮城を落とした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十六話改 軍師の仕事

 高館城にある一室に龍兵衛は段蔵を呼び、敵に書状を送るように頼んだ。

 内容は戦の際に上杉軍に寝返るようにして欲しいというもので軍師達と段蔵、軒猿の精鋭が行う汚れ仕事の一つである。

 

「これを針生に届けるのでいいの?」

 

 宛先は針生盛信となっている。

 蘆名盛隆と上手くいっていない者に寝返りを促す。段蔵はそう思ったが、颯馬は首を横に振った。

 

「これを届けるのはな……」

「……え!? 正気?」

 

 普段、心底驚くことは少ない段蔵も目を丸くしている。

 

「ああ、あれは生きていても俺達の利益にはならない。降伏させてもいずれ裏切るだろう。謙信様にも言うな」

 

 一存でやるということになる。だが、口を出す程、段蔵も自分の立場をわきまえない人ではない。

 

「……わかった」

 

 すぐに段蔵は行動した。

 気配が消えたのを感じて、龍兵衛は大きく息を吐く。

 全ては敬愛する主君の為、上杉家の為、汚れるのは軍師も忍も同じである。

 

 上杉軍は翌日から会津新宮城を攻略を開始した。

 半数以上が被害にあったとはいえ蘆名の重臣、佐瀬種常は城をよく守り、初日から三日間、落城出来ずにいた。

 

「さて、いい加減城を落とさねばな」

 

 謙信の声に均衡状況を打開するために集められた軍師は次々と口を開く。

 

「やはり包囲して落ちるのを待つのでは無く、強攻に移るべきかと」

「ただ強攻をするより朝駆けや夜襲を行い、こちらに被害をなるべく出さないようにするべきです」

「颯馬の言うことは道理にあっていますが、佐瀬は知略に長けています。先の戦いで戦力が減ったとはいえ十分な警戒態勢を敷いているでしょう。やはり強引に攻めるのではなく囲んで交代で攻めるのがよいと思います」

「私は、攻めるにしても、攻める場所を変えて行くのがいいと思うの」

 

 兼続、颯馬、龍兵衛、定満の順番でそれぞれの意見を言う。敵の援軍が来る前に落としておきたいのは上杉軍全員の考えだ。

 水源を絶ってはいるが、敵はしっかりと貯水しているようである。

 毒を入れるのも龍兵衛は腹案していたが、謙信は絶対に許さないだろう。仮に秘密裏に行っても城に異変が起きればすぐに悟られる。

 議論の末に定満と颯馬の意見を組み合わせて二の丸北と東に夜襲を行うことにした。

 だがその夜、上杉軍に謎の吉報がやってきた。

 

「軒猿からの報告で、蘆名の重臣である針生が金上に殺されたらしい」

 

 謙信からの報告に集められた将達にどよめきが走る。

 針生盛信は元々、蘆名一族であり、先代の主、蘆名盛氏の時から主に外交で活躍していた。最近、力を付けてきた金上盛備とは対立関係であったが、侵攻を受けている際にこのようなことが起きるとは予想外だった。

 親憲が真偽の程を聞くが、報告した者は城門に晒された首を見たため、間違いないらしい。

 

「原因は我らに内通を疑われたそうだが、何か知っているか?」

「自分がこちらになびくように工作をしていました。しかし、まさか露わになるとは」

 

 龍兵衛は全員の厳しい視線を受ける。

 

「どこかまずいことでもあったか?」

 

 詰問するように謙信が問いてくる。

 

「いえ、万事つつがなくと返事も得ておりました。おそらく、あちらが何かしでかしたのでしょう」

 

 「そうか……」と謙信は腕を組む。

 元々、龍兵衛は家臣の個々の忠誠心が高いと判断して蘆名へ工作などしていなかったが、工作は敵が損をすれば問題ない。

 そのためにわざわざ偽の手紙を金上の元に届けて、けしかけたのだから。

 

「ですが、これで援軍はしばらくは来ないと見ていいでしょう。このことは敵に知られているでしょうし、さらに兵士達にも伝えることが出来れば敵の士気は完全に落ちます」

 

 颯馬の言葉にはこの好機を逃してならないという気迫が滲み出ている。

 謙信も如何なることがあろうと時が来れば攻めるつもりでいたため、すぐに攻撃命令を出した。

 また、龍兵衛が城内にもこの情報を流して動揺を誘った。

 結果、士気が落ちた城兵に上杉の猛攻を凌ぐことはできずにその日のうちに会津新宮城は落城し、佐瀬は命からがら脱出していった。

 落城と共に颯馬と龍兵衛は段蔵との集合場所に向かった。

 

「段蔵、戻ったか?」

 

 二人は新宮城の隅で段蔵が居るのを確認する。

 ここだと言う声のする方向に向かうと彼女がいた。

 黒川城の情報を聞くと針生の一件に連座して、猪苗代盛国が謀反を疑われて黒川城に呼ばれたらしいが、謀殺されるのを恐れ、猪苗代城ごと伊達に寝返ったらしい。

 

「(歴史通りだけど……何か引っ掛かるな)」

 

 猪苗代の独立意識が強いのはわかっていたが、時期が早過ぎる。

 あの者が寝返るのはもっと後の摺上原の戦いであった筈だった。

 

「(まさか……)」

 

 一つの警戒感を覚えた龍兵衛は段蔵に伊達のことをこの戦が終わり次第、直ちに調べるように頼んだ。

 

 

 三日後から上杉軍は黒川城に進軍し、攻略を始めた。

 しかし、蘆名の本拠である黒川城は東西に伸びる連郭式の縄張で東西北に出丸があり、特に南の本丸に近い北の大手丸は後世にその堅牢さから鏖丸《みなごろしまる》と呼ばれた出丸を持つ東北屈指の城である。

 鏖丸については後に伊達、蒲生が城の改修を行ったことで出来た物で現状、あまり拡張していない。

 

「それでも今も昔も堅牢ということに変わりないか」

 

 独り言が聞こえてしまったようで、訝しげに颯馬と兼続が振り返ったが、龍兵衛はなんでも無いと首を振る。

 

「でも、確かに堅牢な城ではあるな」

 

 颯馬が言うと兼続も同感だと頷く。

 攻略を進めて数日、手掛かりが全く掴めないまま時間だけが過ぎていく。

 東は三の丸、二の丸があり。西と北の出丸は場所によっては本丸から攻撃される可能性がある。南は沼があって攻めるに攻められない。

 

「よくもまぁ、こんな城を建てたなあ」

 

 龍兵衛はぼやくが、目が笑ってない。どこから攻めるかを頭の中では考えていた。

 

「ですが、今後を考えるとあまり戦力を消耗するべきではありませんな」

 

 隣にいた親憲も厳しい目をして堅牢な城を眺める。

 

「確かに、兵士達も夏の暑さに参っていますからね。龍兵衛のように暑さに慣れている方が珍しい」

「おいおい颯馬、俺だって我慢しているんだ。今年は暑いよ」

 

 今、上杉軍がいる会津盆地は名前の通り盆地の為、昼は暑いのは当然のことである。どこか涼しい場所を求めて高い山にでも登りたい。

 龍兵衛は「山……」と脳裏に思い浮かんだ言葉を呟く。

 おとがいに手を当て、考え事を始め、考えをまとめるとすぐに顔を上げた。

 

「水原さん、ありがとうございます」

 

 親憲に礼を言うと龍兵衛は戸惑っている親憲をよそに謙信の下へ、同様に頭の整理が追い付いていない颯馬と兼続を連れて向かった。

 

「どうしたんだ? 急に」

 

 謙信と景勝がやって来て、訝しく龍兵衛を見る。

 

「我々は黒川城に目をやり過ぎました……」

 

 彼の言葉に五人はさらに眉をしかめた。

 

「向羽黒山城を攻めましょう」

 

 謙信と軍師たちの表情が納得したものになり、景勝と親憲はさらに首を傾げる。

 向羽黒山城は白鳳三山の最高峰である岩崎山に建てられており、先代の盛氏が隠居後にそこに移り、政務を監督するなどしてきた、蘆名にとって重要な拠点である。

 

「かの城を落とせば、敵は退路を失う。こちらの守りはいかがする?」

「蘆名が好機と見て、動く可能性もありますが、そこはいかようにも対応できるかと。上手くいけば黒川城を落とせるかもしれません」

 

 そこまで言うと龍兵衛は颯馬と兼続を見る。二人も言いたいことを理解したのか、自信を持った頷きを謙信に示す。

 

「よし、隠密に動く必要があるだろう……景勝」

「?」

「お前が三千の兵を率いて向羽黒山城を落とせ」

 

 全員が驚いて謙信の方へと向けられる。至って真剣な表情で言っているため、これが決定事項なのだと皆が察する。

 

「良いか。我らにとって初めての越後以外の領地を得る戦だ。そこで景勝が勝利に導く戦功を立てることで正式な世継ぎとして周囲の大名も認められる」

「天下に知らしめるお気持ちは分かります。しかし、仰るとおりこの戦は我らの緒戦であります。ここは、兼続か水原さんに任せてはいかがですか?」

 

 颯馬の意見に謙信は即座に首を横に振る。

 

「いや、だからこそだ。この戦で重要な戦である以上、景勝に任せたい。無論、勝つために盤石の体制は整える。龍兵衛、慶次。お前たちが景勝を補佐しろ」

「はぁい。任されました」

「……御意」

 

 龍兵衛は熟慮したかったが、慶次の即答によって便乗しなければならなかった。

 提案したのは自分だが、前提として上杉軍の勇猛な将を兼続か親憲の下に集結させて一気呵成に叩くことを想定していた。その前提条件が崩れた以上、戦略を見直さなければならない。

 その思案をよそに謙信は軍議を終わらせる。

 慌てて龍兵衛も立ち上がり、段蔵を呼んで大至急向羽黒山城を調べるように伝えると慶次の後を追う。

 

「おい。何であんなにすんなりと承諾した?」

「え? だって、かっつんが手柄を立てる良い機会じゃない」

「もう少し将が欲しかったんだよ」

「夜襲だし、人も少ない方が良いでしょ?」

「少な過ぎる。お前が前線を全部指揮することになるぞ」

「あら……もちろん、そのつもりよ」

 

 慶次の口調と目付きが一気に真面目になる。本気で景勝を支える覚悟があるようだ。そして、龍兵衛に同じ覚悟が無いのかと問いているようにも感じられる。

 

「分かった。じゃあ、それなりに動いてもらうからな」

「もちろん、任せなさい」

 

 慶次は含みのある笑みを浮かべ、去って行く。 

 龍兵衛も息を吐くと来た道を戻る。

 

「おい。段蔵、まだいるか?」

「何? 追加の仕事?」

「嫌そうにするな。悪いが、城に向かう時、噂を三つ流してほしい」

「良いよ。内容は?」

「金上によって針生が討たれたこと。金上が松本も疑っていること。それから二階堂の援軍は上杉が撃退したこと」

 

 向羽黒山城を守るのは松本氏輔、行輔親子である。

 かの一族は元々、蘆名に謀反を起こしては粛清されることを繰り返してており、流言を真に受けることが出来るうってつけの人物である。

 

「嘘も混じってるけど」

「良いんだよ。どうせ、情報なんて言ったもの勝ちだから」

 

 段蔵を急かして行かせると一旦休憩すべく、あてがわれた部屋に戻る。

 水を飲みながらぼんやりしていると人が近付く足音が聞こえ、姿勢を正す。

 外から見える影から景勝だと悟り、襖を開けて出迎える。

 

「いかがしました?」

「景勝、不安」

 

 すぐに向羽黒山城を攻略することだと分かった。

 

「大丈夫です。自分と慶次が全力で支えます」

「負けたら、怖い」

 

 握っている拳が膝の上で震えている。

 

「負けたことを考えるのは自分の仕事です。そうならないようにすることが一番であり、それに向けて色々と考えておりますから」

「大丈夫?」

「大丈夫です。決して景勝様が危惧するような事態にさせません」

「ん。分かった。景勝、頑張る」

 

 入ってきた時の不安そうな表情と雰囲気はかき消え、鼻を鳴らして息巻いている。あまり強気になりすぎても困るが、先程よりはまだ良いかと指摘せずに置いておく。

 

「ごめん。時間、取った」

「ああ、大丈夫です。今は休憩していたので」

「じゃあ、景勝、まだここ、いて良い?」

 

 断る理由も無いため、良いと頷く。

 嬉しそうに距離を詰め、肩を左右に揺らしている。

 次期当主として大変な時期である。時にはゆとりも必要だろうと戒めることなく、特に話題も無いが、互いに無言のまま時間を過ごす。

 龍兵衛は改めて無駄な時間のある大切さを知ったような気がした。

 まだ蘆名を討つことは終わっていないが、こうしたのんびりとした時間を獲得するために軍師として早くこの戦を終わらせることが自身の仕事である。

 

「やりますか……」

「……?」

 

 独り言が聞こえてしまったようで、小首を曲げる景勝に何でもないと首を横に振る。

 再び無言の時間が始まる。だが、龍兵衛の頭は先程とは違い、完全に回転していた。

 

 その日の夜、向羽黒山城は夜襲と内部の混乱によって収拾が付かないまま落城し、松本行輔、氏輔親子も討死した。

 こうして、上杉軍は黒川城の退路を断ち、完全な包囲を完成させた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十七話改 上杉のやり方 

 向羽黒山が落ちる前日に上杉軍は軍議を開いて来たるべき蘆名軍の襲来に備えている。次々と役目が決まっていく中で太田資正は軍議の中で最後まで呼ばれることは無かった。

 

「(今回は新宮城の守りですか……)」

 

 資正に関しては訓練している犬の方に大概、目がいきがちになるが、彼女とて武人である。皆と前線で戦い武功を上げたい。

 だが、城の守りも欠かすことの出来ない重要な役目、仕方無いと思っていると別の者が城の守りを命ぜられた。

 一瞬、自分は用なしなのか愕然とした彼女だが、その次に呼ばれた。

 

「さて太田。そなたには大切な任務についてもらう。動き次第では我らはいらぬ犠牲を払うことになる。そなたの動き次第では我らは苦境に立たされる。やってくれるな?」

 

 驚いている資正に構わず、机上に兼続が地図を出した。それを謙信が指をさしながらつらつらと説明していく。

 

「もし、二階堂が来たら我らの手勢では防げない。そこでその時は新宮城に退く。これは先ほどまでで確認した。だが、簡単に負ける訳にはいかない。そなたはここに伏せておき、頃合いを見計らって追撃してくるであろろう蘆名を襲ってもらいたい。よいな?」

 

 資正は考えてもいなかったことを任されることになり、目を見開くしかない。

 彼女は元々、山内上杉憲正の配下であり、主君共々、越後に逃亡し、謙信が関東管領に就任したため、正式に上杉に仕え始めた、いわゆる新参者である。

 このような重要な役目は定満や親憲などといった上杉古参の将に任せるのが普通であり、自分が選ばれることは無いはずなのに謙信の顔には迷いが無い。

 

「……わかりました」

 

 だが、功を立てる機会を逃したくないという思いが勝り、承諾した。

 上杉を裏切る気は毛頭無い。むしろ拾ってもらった恩がある。

 軍議は終わり将達は準備に出て行く。だが、どうも資正は立てる気がしなかった。

 

「謙信様……」

 

 意を決して謙信に声を掛ける。ここには彼女と定満しかいない。先程、思ったことをそのまま口に出した。

 それを聞くと二人は笑いだした。笑えるようなことでは無いはずだが、と思っていると謙信はこう言った。

 

「有能で信頼が置ける者なら、その能力を最大限に活かしてやるのが私のやり方だ。そこに古参だのというのは関係無い。案ずるな、ここにいる定満も親憲達も皆理解している」

 

 つまり、自分の力が認められているということだ。

 謙信が能力も見てくれる人物であることは知っていたが、まさか自身がそこまで評価されているとは思わなかった。従来、家に仕えている長さで見るが、謙信は囚われない。

 重圧もあるがそれ以上に嬉しく、その期待に応えようという気持ちが強かった。

 やはり上杉謙信を頼って良かった。資正は心からそう思った。

 

「それとも……そなたは私を裏切るのか?」

「そのようなことはありません!」

 

 資正が全力で否定すると謙信はその姿が面白かったらしく、笑いながら冗談だと手をひらひらと横に振った。定満もにこにこと笑っている。

 これも自分を信頼しているからこそだと彼女は奮い立つ。

 三日後にその信頼に応える時は来た。

 蘆名軍は我先にと謙信の首を求めてやってくる。

 彼らにとってこの戦で謙信を討つ討たないで今後が大きく変わるのは資正もわかっていた。自分も立場が同じならこうしていただろう。自身もわかっているからこそだ。

 

「放て!!」

 

 資正の合図で反撃の矢の雨が降り注いだ瞬間、謙信は馬首を返した。

 

「今です! 蘆名盛隆を捕らえて下さい!」

 

 その号令に続いて蘆名軍の悲鳴が聞こえて来た。

 謙信は再び反転して自らが先陣を切っているが、これは退いている時に敢えて自身が後ろに居ることで自分の姿を見せてさらに蘆名軍の目を追撃に集中させる。

 無論細心の注意を払っての事だが、後でこのことを知った軍師一同から説教や小言を言われるのは余談である。

 伏兵で混乱したところに先の戦で暴れまわった義藤と秀綱の剣聖二人。そこに軍神が加わり負けることがあろうか。

 数では上だが、蘆名軍は統制が取れないまま壊走を始めた。それは後ろから来た二階堂勢にも波及していった。

 二階堂勢を率いる須田盛秀という人物がいる。

 彼女は盛隆の父である二階堂盛義からの信頼が厚い重臣である。

 二階堂も一枚岩では無い。この戦いには不干渉であるべきだという保土原行藤らの派閥もあった中での援軍だ。

 故にこの戦に勝って行藤達に目にもの見せてやるつもりだったのだろう。

 だが、上杉軍が作り上げた展開に何が何やらわからないまま蘆名軍に釣られて撤退を始めた。

 ここで盛秀が冷静になれば蘆名も少しは体勢を整えることが出来たが、頼みの二階堂が撤退する様を見た蘆名軍兵士は降伏する者も現れる有様だった。

 

「降伏した者は殺すな! 追撃を強めろ!」

 

 謙信の声に応えて将兵も勢いを更に増す。

 もはや大勢は決した。蘆名軍は軍神とその配下にに追われる弱い祟り神となった。

 そして、更に蘆名軍に追い討ちをかけるように、凶報が来た。

 

「向羽黒山城から上杉軍が帰還。こちらを迎え撃つ布陣で待ち構えている模様!」

 

 そこからは勝利が確定した上杉の快進撃であった。

 前後から攻められた以上、蘆名、二階堂軍はただやられるしかばかった。

 黒川城に兵を残していてもこの攻勢では意味はなかっただろう。

 二階堂軍大将、須田盛秀はどうにか逃げ延びたが、蘆名盛隆はこれ以上味方が倒れて行くのを見るに耐えぬと降伏した。

 思い切ったことをする。

 殺されても文句は言えないのに自ら捕らわれるなんて自分は出来るだろうか。

 謙信に言われればそうするだろう。だが、自らの意思で命を投げ捨てるような真似は難しい。

 

「さて……」

 

 謙信は盛隆を見る。捕らわれた彼女も見返している。

 どちらも視線は合ったまま逸らすことはしない。ここには新宮城の守りをしている実及以外のこの戦いで出陣した上杉軍の将全員が揃っているが、それに怯える事も無い。

 盛隆は堂々としている。

 

「降伏したのは何故か?」

 

 謙信がまず口を開く。

 

「兵士の皆さんがこれ以上死ぬのを見ていられませんでした」

「私の命令一つで兵士も城も無くなることは考えなかったのか?」

「それは……ならば、ここで私を解放して城と共に果てさせては頂けますか? ですが、私はそのようなことはしたくありません。殺すなら私だけにして下さい。皆さんは助けてくれませんか?」

 

 兵士を殺されることだけは避けようとして自分を殺して欲しいと頭を下げる盛隆に謙信はふっと笑いながらそばに寄り全員に伝わるように声を上げた。

 

「よかろう! だが、そなたも私に仕えるのが条件だ。わかったな?」

「……良いのですか?」

 

 謙信が頷くと盛隆は何度も頭を下げた。謙信は盛隆の命を投げ打つ覚悟と兵士を自ら鼓舞するところを高く評価しての事だった。

 その日のうちに黒川城は開城し、盛隆自らが説得を買って出た二日後に二階堂家も降伏した。

 黒川城が開城するとすぐに颯馬と龍兵衛は黒川城の盛備の部屋に向かった。棚という棚を探していると目当てのものを見つけた。

 

「あったぞ」

 

 颯馬がこの前の針生盛信宛ての書状を探し当てた。

 

「これは燃やさないとな。謙信様に知られたらまずい。俺がやっておくから颯馬は休んでいいぞ」

 

「悪いな」と言うと颯馬は去って行った。

 龍兵衛は辺りを気にしつつ暗い廊下を歩き、どうにか自分にあてがわれた黒川城の一室に入った。

 そ蝋燭の火で針生盛信宛ての偽手紙を丁寧に燃やした。

 完全に燃えると龍兵衛はようやく一息付いて部屋に横たわった。彼はこれで戦が終わった気がした。

 いつまで汚れることになるだろうか。上杉の為の泥をかぶり終わるのはいつになるだろうか。

 軍師である自分がこのくらいで折れてはやってはいけない。

 それは颯馬も同じ思いの筈だ。仲間が居る。めげてはいけない。

 首を大きく振って頬を叩く。

 龍兵衛は次の仕事に頭を切り替え、考え事を始めた。

 今回は彼が立てた島津の釣りの伏せを真似た戦法で勝てた。だが、これ以上苦しい戦をするわけにはいかない。

 これからが始まりの時である。上杉家は遂に力と信義という矛盾を掲げながら天下取りに名乗りを上げ始める出発点に立った。

 

 戦後処理を終え自ら人質となって、上杉に叛意は無いと示すと言って一緒に来た盛隆を連れて上杉軍は春日山に帰って来た。

 皆が驚いたが、彼女の顔は晴れ晴れとしていた。公務をどうするのか、謙信が聞くとしばらくは金上に任せて越後を見てみたいということで話は半ば強引に決まった。

 そして、春日山に帰還すると守備を任されていた政景が慌てて書状を持って来て謙信に渡す。

 彼女はそれを読むと目を丸くしながら書状を全員に回した。

 内容は二つ。

 一つは北陸のことだ。

 加賀でまた良からぬことが起きているようで、越後に再三の挑発的態度を取って来ているそうだ。

 魚津城の斎藤朝信は冷静で謙信への忠義が厚い人物のため無断侵攻などしないが、最近、一向宗がらみの騒動が多いらしい。

 北陸に居を構えている以上、一向宗との衝突は避けられないが、あまり変ないざこざは起こしたくない。このことについての対策は謙信と軍師が話し合うことになった。

 二つ目は桶狭間で今川義元が負けたこと。

 義元は討たれたらしいが、太原雪斎はまだ生きているため、簡単にはやられることは無いだろう。しかし、義元という大黒柱が折れた以上は弱体化は必至となる。

 同盟関係の武田と北条はどう動くかはまだ不明だが、動きを変える可能性もある。気をつけて情勢を見る必要が出てきた。

 

「義元殿もやってしまったな。織田が小国とはいえあそこは将達の質は高いというのに……」

「ほんとよねぇ。番狂わせとはまさしくこのことだわぁ。これで畿内は織田の時代になるわねぇ」

 

 織田をよく知る龍兵衛と慶次は他人事のように言っているが、軽いものではないと二人ともわかっている。

 今川の敗北は東日本の情勢に大きく影響する。それほど、義元の存在はとてつもなく大きかった。

 さらに二人は織田が勢いに乗った時の恐ろしさを実際に見ているので内心はここにいる誰よりも警戒心を強めていた。

 

「まぁ……まだこちらには大きな影響はこないだろう。今は北陸の事だな」

 

 報告を全て聞いた謙信は動じることなく、まだ畿内に目を向けずに確実に東を統べることを優先するべきだという姿勢を改めて示した。

 城に入ると評定の間にて戦後の論功行賞が行われ、それが終わり次第、重臣のみが残って、今後の方針を確認する話し合いが始まった。

 

「今川義元殿が簡単に負けるとは思えん。なんか臭いな」

「龍兵衛、今は北陸のことと次の攻撃目標のことだ」

 

 まだ頭に今川敗北のことが気にかかっている龍兵衛に颯馬の指摘が飛ぶ。

 詫びながらも頭の中では切り替えが出来なかった。

 かつて畿内に居たため、龍兵衛は義元をよく知っている。

 歴史上、義元は軟弱に思われがちだが、彼のことは評価していた。

 彼は公家文化に興味はあったが、傾倒までは行っていない。寺の坊主から家督争いに勝ち、家をあそこまで大きくした強かな男であると考えていた。ましてや、彼の師匠である太原雪斎がまだこの世界では生きているのだ。負ける可能性など無に等しい。

 

「おい。聞いていたか?」

 

 小声で颯馬が注意してくる。

 

「すまん。ちょっと無駄な方に頭がいっていた」

 

 またしても別の方向に行ってしまった頭に方向を直すように二、三度頭を振る。

 今は上杉軍の軍師。しかも東北征伐は自分が主張したものだ。龍兵衛は切り替えて、話し合いに集中する。

 

「加賀のことはですが、いかに対処すべきか斎藤殿に今一度、伝え、刺激しないようにかわしていくのが良いかと」

 

 兼続が意見を述べているのを聞いて、今は一向一揆のことを議題としていると把握する。

 加賀の一向宗が越後を欲するのは北陸に覇を唱え、強力な宗教国家を築くという野心があるからだろう。

 だが、彼らのほとんどが酒と肉に飢えた生臭坊主のようだ。彼らの裏に居るのは本願寺である。

 そっちの方はまだ良い方らしいが、加賀の方はただの物欲の亡者の集まりにしか過ぎないと見て良い。

 

「しかし、ここまで執念深いと裏で何か動いていると考えられますね」

「うんうん、私もそう思うの」

 

 龍兵衛と定満は互いに頷き合う。一向一揆の目的が何なのかはわからないが、用心に越したことはない。軍師全員の意見で間者を放っておくことになった。

 

「次にどこを攻めるかだが」

「最上ですね」

 

 謙信の問いに兼続が即答し、皆が頷く。

 

「私の情報だと最上はようやく内乱が終わったとか。早めに攻めるべきかと」

「颯馬の意見はもっともです。ですが、こちらもまだ戦を終えたばかり。慣れない夏の暑さの中での戦で兵士達もかなり疲れています。休息は多く取らせるべきです」

 

 兵士の状態を考えると龍兵衛の言い分はもっともである。蘆名に比べると最上の方が油断出来ない大国であり、優秀な将も多い。

 

「龍兵衛君はどれくらいいると思う?」

「少なくとも収穫を待たねば」

「冬になりかねないぞ。大丈夫か?」

 

 兼続は不安があると眉間のしわを寄せるが、彼も分かっている。

 冬の行軍は雪があるため、厳しいことは周知である。

 だが、それ以降となると最上は備えを万全にしてくる。つまるところ、冬も我慢しなくてはならない。

 

「兵には我慢してもらわないといけません。確かに冬になる前に決着を着ける必要はあります。雪がありますからね、撤退しなくてはならなくなります」

 

 龍兵衛の提言に軍師全員が苦虫を潰したような顔になる。

 それだけ、彼の意見は的を得ていつつも難しいことである。

 本来なら、春まで待ってから攻めるべきなのだが、今は我慢の時だ。

 最上を取れば、国の経営は楽になるだろう。軍師全員の見解で推測の域を出ないが、かの家が領する南羽州を取れば、国人衆の溜まり場である北羽州も取ったも当然である。

 

「分かった。龍兵衛の考えでいこう。各々は冬に向けて資材の確保にかかってくれ」

 

 謙信が承諾し、話し合いは終わった。外に出るとすぐに兼続が声をかけてくる。

 

「冬に備えろと言っていたが、大丈夫か?」

「大丈夫だ。それなりの支度もする。それに、冬に向けて良い物も出来るはずだ」

「良い物?」

 

 龍兵衛は無表情のまま強く頷いてみせる。兼続も納得したのか、何も言わなかったが、一足先に去っていった。

 それから城内の部屋に戻ると着替えを始める。

 上半身裸のまま、手拭いに冷えた水を浸して肩と腰に当てる。かなり熱くなっていた箇所が段々と冷えていくのがわかる。

 特に腰がひどく熱くなっている。馬術は得意ではないため、腰に負担がかなりかかっていたようだ。

 十分程度経ったところでようやく落ち着いて来たのを見て、着替えを再開しようとした時のことであった。

 

「龍兵衛、いる?」

 

 襖が開き、景勝が顔を覗かせてきた。

 

「か、景勝様! 着替え中です!」

「ふぇ!? ごめん!」

 

 慌てて襖を閉められる。龍兵衛は急いで着替えを終えると襖を開く。端に顔を真っ赤にしてしゃがむ彼女を見つけた。

 

「申し訳ありません。見苦しい姿をお見せして」

 

 動揺しているところを見せまいと無表情、無感情で声をかける。

 

「……」

 

 全く声が届いていない。顔は端から見れば完全に茹で上がった蛸みたいだ。

 

「あのー景勝様ー」

 

 龍兵衛が景勝の顔の前で手を上下に振ると正気に戻った。顔は相変わらず真っ赤である。

 

「はっ……! き、気にしない。か、景勝。だ、だい、大丈夫!」

 

 景勝は落ち着いている様子が全くない。

 落ち着かせるため、部屋に招き入れて水を一杯飲ませる。それから何度か深呼吸を続けさせると、徐々に顔の色も元通りになり、きちんと話を聞けるような状態になった。

 

「笛、聴きたい」

 

 いつもの縁側へ、いつもの時間に行くということで一致したところで景勝は部屋を出た。

 足音が聞こえなくなったのを確認すると湯呑みを片付けている。自分の部屋にもかかわらず、机の柱に足の指をぶつけた。

 景勝のような目上に意図せずとも裸体を見せたのは完全に不覚だった。

 

「明日から大丈夫か?」

 

 自問自答しても答えが出るわけでもない。

 気持ちを落ち着かせるために龍兵衛は自作の物語の続編を書き始めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間改 平和な一時

 石山本願寺の軍事拠点の一つである加賀の尾山御坊では本願寺から遣わされた一人の僧侶が一人の人物と会っていた。

 部屋は豪華なものでかなりの財産を投じたものであると一目で分かる。

 だが、加賀は一揆が起きたことは無い。民から取ったことに変わりない。

 全て本願寺への寄付と銘打っておけば、民は簡単に貢いでくれる。

 それで建てたこの城内はどこの部屋も同じような造りになっている。

 

「晴貞殿、お身体の具合はいかかです?」

 

 端正のとれた顔と高い背丈の青年、端から見れば女性から勝手に寄ってくるような雰囲気を持つ富樫晴貞。

 彼は一族が一向宗に敗れて彼は傀儡の当主ということで担ぎ上げられた。

 

「うむ、大事にない。そなたも相も変わらず壮健そうだな」

 

 雑談が始まりお互いに和やかに笑い合う。

 冗談が少しだけ僅かに交わされただけですぐに終わる。

「さて」と晴貞が言うとお互いに真剣な表情に変わり、短すぎる雑談は終わる。

 そこには晴貞が傀儡のような雰囲気は全く無い。

 

「越後への工作は上手くいってない」

「まだですか? あなたにはなんとしても北陸の覇者となってもらわないといけないと言うのに」

 

 僧侶が責めるような強い口調で言う。 

 声を潜め晴貞は僧侶にもっと近くによるように言うと疑問を抱いた自身でも分からないという声で語り出す。

 

「どうも謙信は最近になって人が変わったようなんだ」

 

 晴貞の発言に一瞬僧侶は呆気に取られた。

 人はそんなに簡単に変わるものかという疑問が僧侶の頭に湧く。

 理由を聞くと晴貞は以前は人を雇って春日山にて暴動を起こさせて民に怪我をさせたらしいが、逃げる際に雇った一人が捕まった。

 間違いなく謙信には誰の仕業か耳に入る筈なのに弾劾状どころか何もしてこなかったそうだ。

 今度は謙信達上杉軍の主力が東北に向かっている間に同じようなことを行った。

 今度は魚津と春日山両方で騒ぎを起こして民を傷付け、加賀の指図でやったという証拠をしっかりと残した。

 しかし、留守を任されている斎藤朝信と長尾政景は何もしてこなかった。

 謙信が春日山に戻ってからも同様だ。

 

「正義を掲げる謙信ならば、民がこのようになっているのを見過ごしておく筈が無いのに何かがおかしい」

 

 晴貞の言っていることは僧侶も頷ける。

 そもそも本願寺がこのことを晴貞にやるように命じた以上は本願寺もこれは黙って見ている訳にはいかない。計画の第一歩が全く踏み出せない状態である。

 

「だいたいのことはわかりました。しばらくは様子を見ましょう。いずれ謙信に上洛命令が出る筈です。将軍様は外に目を向け始めております。上洛したときに・・・・・・」

 

「後はおわかりでしょう?」と言わんばかりに僧侶はニヤリと笑う。そして、晴貞も同様に口を釣り上げる。

 先程までの人を惹き付けるような雰囲気は全くなくなり、残忍な雰囲気を醸し出している。

 

「兄を殺してもらってようやくここまで来たんだ。そなた達には感謝しているよ。その恩に応えないと・・・・・・仏罰が当たりそうだ」

 

 晴貞の心には兄に対する後悔も何も無い。あるのは自分の栄達の為にある歪んだ独占欲のみ。

 口では言っているものの義理というものも何も感じていないのだ。

 それを見た僧侶もその歪みに少々呆れながらも恭しく頭を下げると僧侶は部屋を出て行った。

 

 

 

 

 春日山では夏も終盤になって来て最後の踏ん張りだと言わんばかりに気温は増している。

 

「あつ~い。こっちがこんなに暑いなんて聞いて無いわよ~」 

「知るか! さっさと動け!」

 

 慶次はぐでーっとしているのを兼続に引きずられている。歩く気配は一向にない。

 城下町の視察に行くというのにまったく来ない慶次を兼続が見に行ったところ、あろうことか何も着ていない言葉通りの素っ裸で部屋にいたのだ。 

 兼続は暑くてイライラしていたところをさらに慶次のこの態度を見て危うく琴線が切れかけた。

 別に自分の身体と比べたのでそこに黒い感情が出たとかでは無い。

 早く着替えさせてそれでもブーブー文句を言って来る慶次を説教しながら引きずっているのが今の状態である。

 

「だいたい~なんであたしなの~? 他にいるでしょ~」

「仕方無いだろ、他にいないんだから」

 

 基本的に見回りは二人以上と決まっているが、兼続は普段回っている弥太郎が休日でどこかに行ってしまった。

 他に人を探したが、颯馬は別の仕事で忙しく龍兵衛も弥太郎同様に休日で城下に出掛けている。

 他の武将も鍛練だのなんだので忙しく。結局、慶次しかいないので仕方無く彼女になったのだ。

 

 

 

 

 春日山は平穏になっている。少し前に騒動があったが、特にこれといったことも起きる様子は無い。

 暇潰しにはいい機会だと慶次はきょろきょろと店の中を覗いたり、店主と話したりしている。

 兼続はその慶次の行動をはしたないと咎めたりしたが、人の言葉を聞いておくことが民の生活向上に繋がるので、慶次の行動を折檻することはないし、城下が平和に動いているのを見て特に悪い気分になることはなかった。

 今日はこれぐらいでいいかと思った時、慶次が声を掛けて来た。

 慶次が指した方向を見ると龍兵衛がいた。なにかソワソワと落ち着かない様子で一つの店の裏を見ている。そして周りを見て意を決したように路地裏に入って行った。

 なにか様子が変だ。二人は彼に付いて行って路地裏に入ると二人は見た。

 

「にゃ~♪」

「よしよし、はい、餌だぞ」

 

 猫と戯れる龍兵衛の全く普段からは想像付かない姿を。

 彼は懐に隠し持っていた餌を食べる猫たちを自分の子供のように見ている。

 餌を食べている猫たちを順番に撫でて普段の彼は雑談の時ぐらいしか見せないような幸せそうな顔をしている。

 

「似合わないわぁ~」

 

 兼続も慶次の言葉に大賛成だ。

 龍兵衛は身体が大きくて顔は別に不細工ではなく整っている方だが、強面という印象が強く、威圧感を感じさせる。

 そんな龍兵衛が猫好きとはまるで合わない趣味だ。猫の方も龍兵衛に懐いているが、よく懐かせているなと感心してしまう。その時兼続はある人を思い出した。

 

「小島殿が不憫に思え・・・・・・」

「呼んだ・・・・・・っ!!!???」

 

 いきなり後ろから話題の主が現れたと思いきや弥太郎は龍兵衛と猫を見ると声になっていない声を出して直ぐに路地裏に入って行くと。

 

「フーッ!」

 

 猫の威嚇にあった。

 龍兵衛がその逆毛だった猫の視線を辿ると、何とも言えない顔をしている弥太郎を確認してからかうように笑って頷いた。

 

「ああ、弥太郎殿か、道理で・・・・・・あっ」

 

 龍兵衛を見て少々引いている慶次と兼続も目に入った。

 すとんと龍兵衛の顔から表情が抜け落ちて気まずい沈黙が広がる。

 

 

 

「で、条件は?」

「私は今度買おうと思った書物を買ってもらおうか」

「あたしは勿論お酒でよろしくぅ」

 

 今、龍兵衛の猫好きを黙っておく代わりの二人の条件(脅し)を聞いている最中である。

 土下座までして黙ってくれと言われればさすがの二人もこれぐらいでまけといてやろうと思ったのだ。

 ちなみに弥太郎は猫に逃げられそうになったところを尻尾を掴んで引っかかれた。

 その痛みよりも猫に嫌われた傷心が強かったらしくそのまま凹んでどっかに行ってしまった。

 とりあえず、後で慰めの酒でも買っておいておくことになった。もちろん、龍兵衛の金からの出費である。

 

「いいじゃん猫が好きならそうしておけば? 悪くない趣味だとあたしは思うわよ」

「だって俺には似合わんだろ。こんなでかい図体した野郎が」

 

 自覚があるようなので自分で言うことは避けているのはしょうがない。

 言っているように別に悪いことでは無いので慶次はそのくらいなら別に言えないことでは無いだろうと思ってしまう。

 

「もう少し龍ちんも自分出してもいいんじゃない? 例えば、この前の夜だってぇ・・・・・・」

 

 いきなり慶次が顔を赤くして変な雰囲気を作りながらあの時のことを言おうとする。

 その瞬間、龍兵衛は表情をさっと変えた。口元はにんまり笑っているが、目はギロリと慶次をに睨んでいる。

 

「何のことだ・・・・・・」

 

 低くドスを利かせて龍兵衛が言ったのでそれ以上は慶次が言うことは出来なくなった。そこで兼続が咳払いをして口を挟む。

 

「まぁ、何があったのか知らんが・・・・・・龍兵衛、前田殿の言っていることは正しいぞ。今後を考えるともっと己を出さないと人が不信感を抱くようになる」

「いや、わかってんだけどさぁ・・・・・・」

 

 どうも龍兵衛は出生の事などとなると彼は口を閉ざす。

 とりあえずは農家の出だということに彼自身はしているが、それ以上のことは一切喋ろうとしない。

 彼は上杉のフレンドリーな雰囲気を気に入っているが、逆にフレンドリーすぎて困ることもあるようだ。

 その例がこの私生活の趣味だの、人にバレても構わないところが簡単に人に知られるところだ。

 知られては困ることが多い龍兵衛にとっては苦痛に等しい。それに彼はあまり私生活を人に見せることがあまり好きでは無い。

 その事を察して彼ももう少し皆と趣味を共通しても良いと思っているが、彼の過去の縛りのようなものが邪魔をしてどうも上手くいっていないと上杉家の面々は見ていた。

 兼続の言う通り、上杉の面々は彼を理解している為、何とも思って無いがこれから国が大きくなると理解を出来ない人が現れてもおかしくない。

 

「とりあえず善処しておくよ」

 

 龍兵衛はそれだけ言うと二人の希望の品物を買いながら二人と一緒に城に戻ることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 三人思ったよりも早く城に帰ってみると兵士たちがなにやら楽しそうに騒いでいた。

 兼続が何をやっているのか聞くとどうやら石礫を投げて的に当てる遊びをしているらしい。これは考えた物で楽しいし、石礫を投げる時の正確性も上がる。

 三人がしばらくそれを眺めることにしていると、謙信と颯馬、景勝もやって来て六人で眺めていたが、龍兵衛はそれにあるものを思い出してしまった為に血が騒いでしまったらしく、ふるふると手が震えて終いには、飛び出した。

 

「ちょっと行ってきます」

 

 景勝と慶次は龍兵衛の事情を知っている為、止めようとしたが謙信達は龍兵衛を煽っているし、龍兵衛自身も気合いが入っているようで止めように止められなくなってしまった。

 また、無理をするのかと景勝と慶次はそう思ったが、現実は違った。

 彼が怪我をして抑えていたのは右肩だが今、彼は左肩を回して肩を暖めている。

 

「ほう、龍兵衛は左利きなのか・・・・・・知ってたか?」

 

 全員が知らなかった。

 彼は普段から字を書く時の筆を持つ時は右を使うように矯正しているので仕事を一緒にすることもある颯馬も兼続も知らないことである。

 そして龍兵衛は一つ息を吐くと的を一心に見つめて龍兵衛はもう一度肩を回して投げた。

 すると、龍兵衛の投げた石礫は的の真ん中より少し左に当たったが、ここまでで一番的の真ん中の近くに投げたようで兵士たちからどよめきと歓声が上がった。

 謙信達から見ても彼の投げ方は若干横からだが、無駄なところが無く。投げた石礫も兵士達と比べても一番速かった。

 

 

「やるではないか、龍兵衛」

「あれ戦で使ったらいいじゃない」

「前田殿の言うことに賛成だな」

「お前の投石術があんなに上手いなんてな」

「龍兵衛何であんなに速い?」

 

 帰って来た龍兵衛を待っていたのは順番に謙信・慶次・兼続・颯馬・景勝の質問と賞賛(からかい)の嵐だった。

 とりあえず逃げることで解決を図ろうとしたが、慶次と兼続に例のことをバラすと言われたので黙ってしばらく五人に捕まっていた。

 もう一度やって欲しいと景勝に言われたが、龍兵衛はもうやらないと断った。

 

「これ以上やったら、兵達が自信無くしますよ」

 

 その後はその通りの結果になり、兵は誰も龍兵衛より的の中央に当てる者は居なかったという。

 

 

 

 

 

 龍兵衛は仕事を終えるといつも通り笛をこっそりと練習する。

 景勝は上手い上手いと言っているが、彼自身は未だにお世辞としか受け取れないままなので聞き苦しいと思わせないようにひっそりと練習しているのだ。

 音が外になるべく漏れないように部屋の隅の隅で練習するのはもはや日常となってきている。

 耳にも神経を集中させ誰が自分の部屋に入って来るのか確認出来るようにしている。もし人が入ってくれば「(なにやってんだお前?)」と思われても仕方がないような状態である。

 

「龍兵衛、いる?」

 

 景勝の声がした。この前の事があった為、景勝の声は今までよりもかなり大きくなっていた。

 とりあえず部屋の真ん中に移動して笛を閉まってどうぞと声を掛ける。入って来ると景勝は本を持って来ていた。

 どうやら兵法書である。これの解説を頼みたいと言って来たので快く龍兵衛は承諾した。この時、彼は久し振りに光を浴びたのでかなり眩しく感じた。

 

「これぐらいですかね・・・・・・あくまでも自分の解釈なので他の人にも聞いてみた方がよいと思います」

 

 頷くと景勝は何か礼がしたいと言って来た。

 龍兵衛は別にいいと言ったのだが、景勝はお礼はしっかりとするべきだと聞かないので仕方ないと頭を振りながら、少し考えてすぐに答えを出した。

 

「では・・・・・・自分の笛の新しく覚えた曲を一つ聞いてもらえないでしょうか?」

 

 何とも不可思議な礼の仕方だが、景勝としては龍兵衛が自ら笛を吹きたいと言ったのはじめてなので、ようやく自分から自分を出そうと動こうとしていると嬉しく思った。

 もちろん、景勝は快諾して心待ちにしていると言って出て行った。

 そう言われては下手なものは見せれないと龍兵衛はまた部屋の片隅で静かに笛を吹き始めた。

 この日の夜、景勝が絶賛したのは言うまでもない。

 

 

 

 翌日、三人の軍師が廊下を歩いているとふと兼続が切り出した。

 

「なぁ、最近景勝様の機嫌がかなり良いんだが・・・・・・颯馬、なにか知らないか?」

「さぁな、龍兵衛は知ってるか?」

「俺に聞かれてもなぁ・・・・・・」

 

 三人はその後は他愛も無い話をして自分の部屋に向かう。

 近くでそれを聞いてしょぼーんとしている人がいるのを知らずに。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十八話改 秋の憂鬱

 夏が終わり、秋の涼しい風が心地良く吹いている頃になった。

 田んぼに行けば稲穂がたわわに実り、人からすれば心地良い季節で城下では更に繁盛している店が多く見られる。

 過ごしやすい時期だと思う日々である。だが、龍兵衛は見事に体調を崩していた。

 

「はぁ~……だるい~」

 

 恵まれた体格だが、季節の変わり目に人一倍弱い彼にとってこの時期はつらい。

 体調を崩して二日間。昨日も夕餉だけ食べ、ずっと布団の中にいたが、いつまでも寝込んでいる訳にもいかない。

 脱皮した動物したのように立ち上がり、軍議の間に向かった。

 廊下に出ると朝の日差しの強さが夏よりも弱くなっていることがよくわかる。

 涼しい風が吹き、女中達は龍兵衛と違って活き活きとしている。

 評定の間に入るとまだ人はあまりいなかった。どうやら少し早かったらしい。席に座ると先に到着していた兼続と話し始めた。

 

「今年の米は結構いけるらしいな」

「ほう、それは楽しみだな。お前の開発した肥料は結構、農民達には評判らしいぞ」

「そりゃ良かった」

 

 兼続の称賛に素っ気なく返す。龍兵衛は上杉に来てから農家の生産力の増加に力を入れて、彼らを保護する政策を次々と出している。

 例えば先程の肥料。

 龍兵衛が平成の知識を活かしたものが成功を納め、肥料の開発に協力してくれた人に開発した肥料を無償提供した。

 実験的な意味も兼ねていたが、思った以上に生産を助け、収穫量が五割近くまで増えた。

 この成果を以て他の農民達にも不公平がないように今年の内に肥料を増産して、来年には多くの農民に無償提供をすることも約束した。

 そのおかげで越後には多くの商人が良質な米を集まってきている為、商業も活発になっている。

 龍兵衛は更なる農業生産力の向上が図れると見て、治水開墾や新たな野菜の生産に力を注いでいる。

 

「米は簡単には作れるもんじゃ無い。それに俺達はかれらが居ないとやっていけないからね」

 

 龍兵衛の言葉に兼続は頷く。その後は一切関係無い他愛も無い雑談を続ける。しばらくするとそこに颯馬も加わった。

 最初の内は和気藹々としていたが、颯馬が兼続に茶々を入れて二人で口喧嘩が始まった。

 既に来ている親憲が割って入ろうとするが、頭に血が上った二人は止まらない。

 龍兵衛は初めから面白そうに眺めている。

 基本的には二人と違い、あまり入らない。理由は見ていて面白いからだ。

 

「ほう、また仲良くやっとるのう」

「楽しそうで何よりです」

「喧嘩するほどなんとやらと言いますしね」

 

 入って来たのは剣聖の名を欲しいままにしている義藤とその姉弟子である信綱。

 そして、二人に勝ると劣らない腕を持ち、軍の統率にも長けている業正。

 

「親憲もいいじゃろう。謙信が来れば終わる」

 

 「それもそうですね」と親憲はまだいがみ合っている二人を放置する選択肢を選び、龍兵衛達の方に入って来た。

 直臣では無い楊北衆ながらも彼はその人柄から長尾時代から仕える古参、美濃から来た龍兵衛や憲正に付いて来た業正達新参の将の間を取り持っている。

 慶次から唯一あだ名で呼ばれていないので目立って無いのを気にしているがそんなこと無い。宴会ではいつも十分に目立っている。

 

「おっはよー……ってそんなにいなかったわねぇ」

 

 慶次と弥太郎、盛隆が入って来た。

 慶次は相変わらず城をうろうろして悪戯に興じているが、城下町の人からの評判は良く、彼女になら話せるという貴重な情報を持ち込んでくることもあるので、軍師達も悪戯以外では信用出来るようになっている。

 弥太郎は景家、義清と共に騎馬隊の強化を図っているが、こちらは始めたばかりで、山が多い北陸や東北は機能しにくいこともあり、畿内や南に侵攻するまでのお楽しみになっている。

 盛隆は薬草にも知識があるため、龍兵衛はその薬の実用化を図って資金提供をして利益を得ようとしている。悪いことではない。

 

「いや、結構いるぞ慶次。俺が見た限り……あといないのは資正殿ぐらいだな」

 

 既に定満と景家は一番乗りで来ている。龍兵衛が見た限りでは結構遅い方だ。

 

「龍兵衛殿、いつもぎりぎりに来る前田殿にして早いと某は思います」

「確かにそうですね、水原さんの言う通りです」

 

 面倒くさいことにならないように親憲につられておく。その後も雑談に興じていると資正が申し訳無さそうに頭を下げながら入って来た。

 彼女は相変わらず犬の訓練に余念が無い。当初は不満げな将兵もいたが、謙信が上から押さえ込んだ為、今は表面的に不満を言う者はいない。

 実際に役に立っているので謙信は犬小屋と餌代を軍事費から出している。

 その恩に応えようと資正はますます気合いが入っている。

 遅れた理由も犬の訓練をしていた為である。そうこうしている内に謙信と景勝がやって来た。

 それを合図に颯馬と兼続の口喧嘩は終わりを告げた。

 

「最上討伐の戦略を練る」

 

 謙信が宣言すると部屋の雰囲気が一転した。

 

「龍兵衛、兵糧は?」

「今年の収穫量は例年遥かに上回ると各地の農家達は言っていました。それを入れれば問題ありません」

 

 昨年、開発した千歯扱きと唐箕のおかげで早く収穫終わることになるだろう。

 

「弥太郎、兵士の状態はどうだ?」

「先の戦の疲れは無いと兵士たちは言っています。動きにも無理をしているところはありません」

 

 頷くと謙信は全員を見る。

 

「どこから攻めるか決めるぞ」

 

 謙信の言葉と同時に兼続が地図を出して口を開く。

 

「まず、左沢城を取り、道を作ります。そこから一気に長谷道、山形城を落として最上を討ちます。時間との勝負にもなりますから迅速な行軍が必要となってきます」

 

 左沢城は五百川渓谷を経て米沢と小国という重要地域がある置賜と稲作が盛んな村上を結ぶ重要な戦略的拠点で、ここから東に出れば、寒河江の平野を一望することも出来る要地だ。

 続けて颯馬は敵の情報を詳しく説明する。

 

「私が思いますに、まだ最上は完全に家臣を掌握出来ているとは思えません。揺さぶりを掛けつつ動くのがよいかと」

 

 最上は当主の義守に不満を持つ白鳥長久を謀殺して以降、内部に亀裂が走っている。

 二人の説明を聞いて謙信は頷き、龍兵衛を見る。

 何を言おうとしているのか察し、口を開く。

 

「大宝寺や清水は傍観までには持っていけますが、鮭延城の鮭延秀綱や野辺沢城の延沢満延はまず最上義守に付くでしょう」

 

 龍兵衛は表面的には政治を専らにして軍事は有事の際のみという思われているが、実際は調略や寝返り工作を行うなども行っている。

 さらに謙信は伊達や佐竹の状況を聞いてきた。

 佐竹は北関東の制圧に動くという情報を巫女から得ており、結城に目を向けるだろうと考えている。

 伊達は当主、輝宗の奥方が最上一族の為に介入して来る可能性が高いと見ていいと言った。

 

「定満、武田はどう動くと思う?」

 

 川中島での大敗後、国内の分裂の鎮圧に力を注いでいた信玄もそろそろ外に目を向けてくる頃だということは全員が案じている。

 その危険性があっても上杉家が南下せずに東北に向かいたいのは、武田を南の防波堤にする思惑があるからだが、虎視眈々と先の屈辱を晴らそうとしていることは間違いない。

 その危惧を安堵させるように定満は首を横に振る。

 

「武田は今川が弱くなっていると考えているの。駿河に行くと思うの」

 

 今川は先の戦で義元を失い、大きな損害を受けた。同盟を破棄してまで、動く価値があるのは間違いない。

 

「しかし、いくら松平……いや、徳川が織田と手を組んだとはいえ、あの太原雪斎殿がいる以上は簡単にはいかないでしょう」

 

 龍兵衛の意見に納得する者が多い。

 太原雪斎の名は越後にも知られている。この世界では未だに生きているらしいことに疑問を抱きつつも色々と仕方ないことだと一人で片付けた。

 だが、定満は首を横に振って続ける。

 

「武田は海が欲しい筈なの」

 

 上杉領への侵攻はただ私怨だけでなく海の塩を欲してのこともある。

 内陸部に領地がある以上、塩は輸入に頼らざるを得ない。かつての上杉と今川。どちらが強力かというとどう見ても今川であった。

 しかし、義元が死んだ為、急遽後を継いだ娘の氏真では役不足と考える大名が東日本全土の大名がそう考えるだろう。

 信玄とて馬鹿では無い。

 謙信と氏真を能力の天秤に掛け、どちらが有利に進めやすいか考えるとやはり氏真になるのは仕方ないことだ。

 

「だから、今度の戦は義清殿は出陣してもいいと思うの。お留守番は別の人に任せればいいの」

 

 先の戦では万が一に備えて義清を飯山に、政景を春日山に残しておいた。

 だが、今回は前回よりも武田がこちらに来る可能性は低いと考える。もちろん確率の問題なのでちゃんとした将を残す必要があるのに変わりない。

 

「やはり信玄とはいずれ雌雄を決しなければな………だが、今はその時では無い。実及、繁長。此度はそなたらが飯山に向かえ」

「「はっ」」

 

 知略では軍師達に勝るとも劣らない実及が適任であるのは間違い無い。来たら柔良く剛を制すという算段だ。

 繁長の武勇は武田四天王にも太刀打ち出来るだろう。この二人なら武田が来ても大丈夫だと謙信は考え、軍師達も異論は出さなかった。

 他に守りは魚津、春日山に前回同様に斎藤ご政景が入ることになり、北条と佐竹に備えて新発田城と安田城に新発田重家、安田顕元が守備することになった。

 そして、軍の編成に議題は移る。

 先の戦では上杉、蘆名双方が収穫前の戦のため、あまり兵士を集めることが出来なかったが今回は収穫後となり、越後と蘆名領の軍、総勢二万の軍となる。

 蘆名はかなりの被害を受けたが、盛隆の代わりに領地経営を任されている金上盛備の手腕によって早い復興を遂げている。

 その結果として期待以上の兵数を編成することが出来た。出陣の日はこれから収穫後に決めることになり、軍議は散会した。

 

「かなり無理をさせることになるな……」

 

 龍兵衛は一人で誰にも聞こえないように呟く。

 戦とは最終手段だと兵法もある。様々なところに停滞を招き、国を発展することに妨げになる。

 先ほど弥太郎は大丈夫だと言っていたが、疲労を押して無理をしている兵士もいることに変わりない。

 先の戦が終わってわずか二ヶ月程度。まだ先とはいえ、簡単に疲れが取れる訳が無い。

 体力面の疲れが取れても、すぐに戦となると精神的に参っている兵士もいるはずだ。

 戦は生と死の隣り合わせの場。

 生きて帰りたいと考える者が殆どである以上は自分の事にかなりの神経を使っている。

 聞こえてしまったのか、颯馬が近付いて小さい声で話し掛けて来る。

 

「仕方無いさ、今は我慢だって以前も言っただろ」

「ああ……わかってる。やるしかないな、颯馬」

 

 複雑な心境は二人も同じ。お互い頷いて部屋に戻る。

 龍兵衛にはまだ人の死を直視することに抵抗を感じることがあった。

 戦乱の世に生きるなら割り切るべきものなのか、それともこの戦乱の世だからこそ未だに大切に持っておくべきなのか。

 兵の命を盾にする軍師が何を考えているのだろうかと自己嫌悪になっていく。

 死んでいく兵を見ることに慣れてはいたはずだが、未だにこの心はくすぶっているかが自分でよく分からない。

 彼が一番精神的に参っているのかもしれない。

 それを嘲笑うかのように涼しい秋風が吹いている。

 そのまま部屋に戻ると急に龍兵衛の身体には先程まで何も感じなかっただるさが出て来た。

 だが、まだ昼を過ぎているかいないかの時間に寝るなど言語道断である。

 気合いを入れ直して、仕事に取り組む。米の収穫後の俵詰めを手伝うと言っている以上、それまでには終わらせないといけない。

 机に向かうこと約三時間。昼飯を食べずにいたので腹が空っぽなのを思い出し、買ったおいた茶菓子で一服する。

 どうにか今日中の仕事は終わり、俵詰めの間の仕事の埋め合わせをする。

 このまま邪魔がなければ早めに切り上げられる。

 

「龍兵衛、入る」

 

 目上に向かって邪魔とは言えない。

 すぐに許可すると思った通り、景勝が入って来た。

 彼が食べていた茶菓子に景勝の目が移っている。内心であまり食べないことを祈りつつ、無言で差し出すと喜んで食べ始めた。

 

「……♪」

 

 無邪気に笑う景勝に憂鬱だった心もいくらか晴れた。

 昔の自分もこのような顔で笑っていたのだろう。

 それは軍師だからでもなく、乱世の理不尽さでも無い。

 もっと彼の心に刺さる衝撃的な出来事。

 思い出すだけで龍兵衛は胸が痛くなる。

 

「どうした? 痛い?」

「い、いえ、何でもないです」

 

 気付けば胸を押さえていた。

 景勝は心配そうに近付いて顔を覗き込んでくる。

 

「龍兵衛、顔赤い。どうした?」

 

 恥ずかしさもあって赤くなった顔だが、自身の体調のことを思い出し、景勝と距離を取った。

 

「景勝様。自分、風邪を引いたようなので感染るといけないので下がっ……」

 

 全て言う前に景勝は手を彼の額に当て、自分の額と熱さを比べる。

 景勝の小さい手に龍兵衛の熱が伝わったようで、すぐに景勝は真面目な顔になった。

 

「ちょっと熱、ある。寝た方がいい」

「いや、別に大丈夫です。これぐらいすぐに治りますよ」

 

 景勝は首を振って、抗議の目をして来た。それでも大丈夫だと訴えるが、彼女は立ち上がり、勝手に押し入れを開けて布団を敷き、早く寝ろと言わんばかりに睨んできた。ここまでされると逆に寝ないと後々面倒そうなので素直に布団に入ることにした。

 

「龍兵衛、いないと景勝……ううん、上杉困る。身体、大事にする」

 

 布団に入った龍兵衛を心配そうにする景勝に、ありがたいという気持ちを頭を下げることで伝える。

 次期当主となる御方にここまでされて申し訳無いという思いしか龍兵衛にはなかった。

 件の小説を貸すことで、このことは口止めとしておくことを約束すると景勝は龍兵衛の指差した場所の本を取り出して抱えて出て行く。

 足音が消えたのを確認すると布団から出て、押し入れに閉まい、机の上の仕事を再開した。

 内心、申し訳無いと思っているが、熱に負けない程度にてきぱきと仕事をこなしていき、夕餉前には仕事を終わらせた。

 その後はさすがに気力が切れたのか、一気に身体がだるくなってしまい、夕餉の後に直ぐに布団を敷いてさっさと寝てしまった。

 翌朝になると体調は良くなっていて、いつも通りに振る舞う龍兵衛には昨日の出来事など露程も感じさせなかった。

 それに少しだけがっかりしていた者が一人いたのを彼は知らない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十九話改 闇の舞

十八十九連続で出します


 天童頼道はかねてより最上一族と対立していた。

 ことさら現当主最上義守の代になるとその対立は激化し、羽州は一触即発の状態となっていた。

 頼道は上杉に使者を送り同盟を結ぶことにして最上を潰そうとしたが、上杉からの返答は全く無い。

 最上にこの動きを悟られ、寒河江城を頼道が攻めたことでとうとう内乱が勃発した。

 最初は一進一退だった戦線も最上家の武将達の活躍で徐々に天童不利に傾いていった。さらに追い討ちを掛けるように頼道側だった楯岡満茂が調略で寝返った。

 柱を失った頼道はもう一度上杉に藁をも掴む思いで援軍を頼んだ。

 だが、最上義光の情報網に引っ掛かった書状は籾つぶされ、逆に偽の使者を天童に送り、上杉が援軍に来ると思わせて工作部隊を周辺の諸将に遣わせて、天童は上杉と結託して一人で南羽州の領地を獲得しようとしていると弾劾し、諸将の懐柔を図った。

 これは上手く行き、独立意識の高い大宝寺と寒河江以外の全ての将は最上側に帰順した。

 さらに上杉軍を流言で凶暴な軍に仕立て上げた。

 このことは上杉にとっても重大な問題となった。戦前に立てた策は羽州の諸将が足並みを揃えていないことを前提であり、足並みが揃えば、まともなぶつかり合いをすることになるため、最上の兵数を考えると犠牲も大きくなる可能性が出てきた。また、時間がかかると雪の心配も出てくる。

 動くには悪条件が重なりすぎたが、止まる訳にはいかなかった。無理押しの出兵で何の戦果も無く、撤退すれば諸将から不満が出て来るだろう。民達の感情も悪くなる。 

 

 人は誰も邪魔をせずに進む程、慢心を抱き、傲慢となる。それを抑え自らを律することが繁栄への道となる。

 天童頼道はその道から外れていた。上杉軍が来たと知ると彼は援軍が来たと思い、合流する為にすかさず出陣した。

 進む途中、最上勢からの襲撃を受けることはなかった為、上杉に恐れをなした最上義守は山形城で怯えていると判断した。

 やはり、巷で広がっている上杉や天童の良くない噂は所詮力無き最上の世迷い言にしか過ぎない。

 彼はあの噂に非常に怒った。何としても最上を倒して義守と義光を自分の前に跪かせて自分の手で首を斬らないと気が済まなかった。

 だからこそ、上杉軍の援軍は願ってもないことだった。だが、頼道も馬鹿ではない。彼の持つ軍勢だけでは返り討ちに遭って終わりだ。

 その為に上杉軍に援軍を頼み、利用して自分が羽州の覇者となる。

 しかし、援軍要請など受けていない上杉軍から見れば、彼はただの敵だった。

 彼の軍は多勢に無勢な上にこの戦の為に鍛え上げられた上杉軍の敵では無く、何故味方から攻められているか彼自身も良く分からないまま謙信に首を斬られていた。

 

「なんだったんだろうな。あれは?」

 

 颯馬の言葉に近くにいた龍兵衛も首を捻る。

 上杉軍からすると訳が分からない戦だった。

 わずかの兵でこちらにやって来たと思えば、奇襲なども無く、戦を終えた。

 最上は山形城の最大の支城である長谷道城に本陣を置き、そこから南西にある最上十八楯の一つである谷柏楯付近に兵を置いたという情報を掴んだ。

 上杉軍もすかさずそれを叩くべく、一気に他の支城を全て無視して電光石火の速さで進軍した。

 慌てて城から出る者も居たが、予測していた上杉軍に全て迎え撃たれ、撃退された。

 それ以外の者はほとんどが降伏したが、謙信は全て迎え入れて今後は上杉に協力することを条件に領地の所有を認めた。

 そこでようやく上杉軍は偽の情報を最上が流していることを知った。

 決して上杉軍は最上の地で乱暴、略奪はしないことを行動で示した。

 降伏したところでは確実に効果を出している。だが、民達にはそうは行かなかった。

 最初に降伏した領地で民を視察した時は龍兵衛が危うく怪我をしかけた程の暴動が起きた。

 民達は最上が流した情報を真に受けて略奪に抵抗しようとしたのである。

 その時はどうにか一緒にいた義藤の活躍で大事に至らなかったが、民の心が離れていては今後の統治に支障が出る。そこで慈善活動を続けながら民の心を惹き付けるように上杉軍は進むことになった。

 最初の印象が最悪だっただけにかなりの時間が掛かってしまった。

 このままでは冬が近くなって来る。

 下手をすれば雪により退路が断たれ、背後を雪に阻まれた背水の陣を敷くことになりかねず、上杉軍はここ羽州に来年の雪解けまで足止めされることになる。

 そうなれば北条、佐竹も矛先を謙信がいない越後に変えてくるかもしれない。

 どうしても今年の内に最上討伐を終わらせる必要があった。

 さらに伊達からの援軍がいつ来るかも分からなくなる。

 だからこそ、この慈善活動に上杉軍の軍師達は頭を悩ました。刻一刻と時間が無くなっていく。

 山形城に一気に向かう手もあるが、長谷道城を無視すれば最上十八楯と名高い支城の主力は義守に付き従っているとはいえ、各城に残る将が出て来るのは確実であり、上杉軍は包囲される危険がある。

 悩んでいても、時間は無情にも針を止めること無く進んでいく。早いところ決着を着けたい。

 幸いにも最上は野戦で勝負に出ている。

 数では上杉軍が上だが、ひっくり返されることもある。要は諸将の奮戦に掛かっている。

 

「望むところだな」

「やるからにはどっかーんと行きたいからね~」

「妾も久し振りに刀に血を吸わせたいしのう」

「この前の戦では私の出る幕はなかったからな、今回は存分に暴れたいのじゃ」

「私もやるぞ!」

 

 弥太郎、慶次、義藤、義清、景家はうずうずしているらしい。他の将も同様だ。

 天童との戦は物足りなかったらしい。これには軍師達も苦笑いを浮かべる。

 

「頼もしくていいじゃないか」

 

 謙信は楽しそうに見ていて、終いには諸将と誰が先陣を務めるかとなると冗談とはいえ自分も入り始めた。

 四人の軍師は顔を見合わせて頼もしくていいのか不安に感じるべきなのか分からずに溜め息を吐いた。

 

 谷柏楯は山城で堅牢な城、籠城すれば長谷道同様に直ぐには落ちない。

 だが、最上も上杉と同じく野戦での決着を心待ちにしていた。

士気の高さは同じで兵数は約二万と一万数千。数の差はあるが地の利は最上にある。

 指揮を執るのは上杉謙信。最上側は最上義守が総大将だが、実質には最上義光、統率力はどちらも同じ位でその配下の将も質は同じ程度である。

 野戦場は平野のような地形をしていて軒猿が探しても伏兵は無く、置けるような場所も無い。歩き巫女からもその情報は来ている。つまりは正面からのぶつかり合い。

 一瞬の判断の誤りが敗北となる。

 羽州の運命は如何になるか。たった一つのこの戦で決まる。

 この戦に上杉は勝てば天下取りをのぞむ戦国大名の仲間入りになる。

 最上を倒せば伊達は包囲される形となる。それに対応するまでの兵力は伊達にはない。戦略は上手く行っている。

 そして、軍師は戦の策のみが仕事ではない。上杉は猪苗代盛国と伊達の対立を謀った。

 これは簡単にいった。元々独立意識の高い盛国は伊達輝宗が猪苗代城に名代を置いて盛国を伊達の膝元に置こうとしているという流言をまともに受けてあっさりと伊達から独立した。

 輝宗はまだ動いていないが、盛国の討伐に向かうだろうと軍師達は考えた。

 

 雲によって月の光が地上に届かなくなっている。

 真っ暗闇の中で一人の女性はきょろきょろと辺りを見回して誰もいないことを確認する。

 辺りは草が生い茂り、夜に吹く風は冷たく冬が近いことを示している。

 彼女は池を見つけると火打ち石を取り出し紙に火を点ける。

 その炎は彼女がほっと一息着いている様とその紙が燃える様を見つめるのをはっきり映していた。

 

「何をしているんですか?」

 

 草を踏むがさっと音がすると男が二人。その女性の姿を男達が持っている松明が現す。

 見慣れた二人の男の姿にそこにいた女性は驚きの表情を浮かべている。何故わかったのかと。

 

「いつものうさぎの耳を外していますか……やはり目立ちますから、ねぇ、定満殿?」

 

 颯馬がそう言うのと一緒に二人の軍師はさらに尊敬する先達の軍師に近づく。そこには耳飾りをしていない為、、桃色の髪をさらけ出している宇佐美定満がいた。

 だが、いつものふわふわとした雰囲気とは違う。

 穏やかな雰囲気を纏わずに裏の仕事をする龍兵衛や颯馬の雰囲気よりも鋭い。

 二人がちょっとでも油断すれば、飲み込まれてしまいそうな恐ろしい雰囲気を纏っていた。

 

「どうして、わかったの?」

「定満殿は今回の戦の出陣前に作業以外でも一人で動くことが多かった。普段の定満殿ならそんなことはしません」

「定満殿は人の繋がりを大切にします。戦前にはいつも人と話し合って、謙信様との意志が同じなのかどうか。今回の戦いをどう思っているのかを確認する」

 

 龍兵衛と颯馬はさらに定満との距離を詰める。定満は動くことはない。

 

「定満殿。あなたは天童頼道からの手紙を軒猿から受け取りましたね? その時は自分が本来担当する筈だったのがその日は偶然自分は休日。颯馬は別の仕事で兼続は城下の見回りに出ていた。しかも、兼続は諜報には向いている性格ではない。残るは定満殿……あなたしかいない」

 

 龍兵衛はいつもの淡々とした口調では無く、罪人を裁くかの如く口調になっている。

 口元にいつもの不正町人を裁く時の歪んだ笑みを浮かべていることは無い。表情は怒りを押し殺すように眉間に皺を寄せている。

 颯馬もまた拳を握り締めて定満をじっと睨んでいる。

 彼らは定満を責めているのでは無い。自らがやるべき汚れ仕事をさせてしまった自分達を悔いているのである。

 定満も軍師。汚れ仕事をしてきた経験は二人よりもずっと多いだろう。

 その仕事を彼らは自然に引き継いだ。そして、定満は表だけを生きる軍師として上杉の纏め役として務めを果たしていく筈だった。だが、それを偶然が止めてしまった。

 

「でも、あの時はしょうがなかったの。謙信様にあれを見せたら、絶対に天童と動くの」

 

 正当化する定満に颯馬が何故と問い詰める。彼らは定満の普段と違う行動に気付いていた。

 

「だからって、定満殿だけでやる必要はなかったでしょう。我らに伝えてくれれば……」

 

 定満は手でさらに詰め寄る颯馬を制する。

 じっと二人を睨んで言い返せるような雰囲気を作らない。

 

「颯馬君達も、人の事、言えないの。蘆名の時もそうだった」

 

 言い逃れるようなことはしないはっきりとした物言いに二人は息を呑んだ。

 逆に今度は彼らが聞いた。そのことには触れずに定満は話題を変えた。

 

「軍師のお仕事は大変なの。表で作戦を華々しく披露して、裏では御家の為に泥をかぶることもしなくてはならない。違う?」

 

 普段の口調ではあってもその黒く鋭い雰囲気に彼らは頷くしか無い。それに彼女の言っていることは間違って無いので先輩の定満には説得力がある。

 

「二人はいつも謙信様が気づかない所で動いていた。でもそれは大変、私も知ってるの。だから、二人にはたまにはお休みをあげようかなって」

「嘘ですね」

 

 何も言えないような雰囲気に負けることなく、龍兵衛は即反論をした。

 

「定満殿、本当は御自身で動きたかったのでしょう。自分達は誤魔化せませんよ。おそらく、以前も天童との間でこのようなことがあったのでは?」

「何のことなの?」

 

 龍兵衛の追求にとぼけて誤魔化そうとする定満に今度は颯馬が穏やかでも優しくない声を掛ける。

 

「定満殿。今ここには謙信様も、またそれ以外の家臣もいません。我々は汚れ仕事をこなして来た軍師同士です。腹を割って話して下さい。何があったのです?」

 

 人を突き刺すような目を颯馬は先達の定満に向けてしている。失礼を承知だが、怒りがその制御を外した。

 龍兵衛も定満の目から視線を離さずにジッと定満の口が開かれるのを待っている。

 沈黙は長く続き、三人の間を風が何度も何度も吹いている。

 それでも二人は身震いする事もない。定満を待っている。自分達になら話してくれると信じて。

 二人の雰囲気を感じて、周りに誰もいないことを再度確認すると定満はいつものような雰囲気に変わり、可愛らしく「ふぅ」と息を吐いた。

 二人にこれから話すことは決して今後、誰にも話さないことを約束させて真相の口を開いた。

 闇に葬られた筈の謀略の演劇は今、二人の鑑賞者に発表される。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十話改 過去と現実

 龍兵衛が謙信に仕え始めてまもなく、颯馬が越後の治安維持の為に領内視察を行っていて春日山を留守にしていた時のことだった。

 定満は謙信に呼び出された。

 悩んでいるようで、どこか浮かない顔をしていた。聞くと一通の書状を見せてきた。

 差出人は天童頼道。

 文面を読んでみると最上と戦をするために兵を貸してほしいと書いてあった。

 謙信はどう返答するべきか定満に聞いてきた。

 書状に書いてある天童からの見返りは悪いものではない。羽州の領地の一部を分けてくれる。

 だが、よく読み返すと主要な要地は天童が全て治めることになっている。しかも、上杉軍がそれ以上に北上も出来ないように天童が城と領地を所有することも見逃せない。

 定満はすぐさま断るべきだと言った。

 幸いにも越後は統一されたばかりで、まだ外征が出来る状態では無い。

 断る理由は十分にあるが、謙信が人から助けを求められたら断り難い性格であることも知っている。

 もしかしたら天童はそのことも計算に入れているのでは無いか。

 仮にそうだとしたら謙信の義の心と性格に付け込むことだ。

 上杉への忠義が篤い定満にとって、主君を汚す、許し難い行為である。

 定満はこの件を任せて欲しいと言い、早速動いた。

 まず、間者を放って天童を探らせた。

 定満の予感は的中する。

 間者の一人が天童の家臣に接触することに成功し、酒と金で情報を聞き出した。彼は謙信に戦を任せて漁夫の利を狙っていた。

 それだけでなく、あわよくば統一直後に兵を出して弱体化した越後も乗っ取ろうと画策していたのだ。

 謙信をよく知り、一番近くで見て来た自負のある定満は憤った。

 

 彼女がここまで説明すると龍兵衛が手を挙げた。

 

「一ついいですか? 何故、天童は謙信様ばかりを狙ったのです?」

「頼道は東北の覇者になるのが夢。だから、他が大きくなるのを嫌ったんだと思うの」

 

 伊達などが大きくなると自分の野望が実現出来なくなってしまう可能性が高い。それは東北の複雑な情勢を理解していない上杉である方が都合が良いと考えたのだろう。

 

「あと、謙信様以外に兵を貸してくれそうな所がなかったんだと思うの」

 

 当時は東北のどの地方でも内乱状態にあった。

 その中で最上と伊達はいち早く領内を統一し、対立も早くからしてきた。だが、その二つの家も一枚岩ではない。そこに天童は付け込んだ。

 伊達が大きくなるのは、定満が述べたように都合が悪い。となると残るは越後を治める上杉しかいない。

 寒さを感じるようになってきたので、龍兵衛の持っている松明を中心に自然と固まった。

 定満は謙信を説得し、出兵は断じて禁じて欲しいと言うとこの書状も秘密にするように頼み、計画を実行に移した。

 まずは偽の書状を作り上げ、間者に天童では無く、最上派で天童城に近い中野城に敢えて渡した。

 中野がすぐに義守に伝えたことで天童と上杉が繋がっていることが明らかになった。

 すぐに義守は天童を討つべく出陣した。一方の天童もことが明らかになったことを悟ると反最上派の連合を作り上げて義守に対抗した。

 いわゆる最上八楯による内乱、天正最上の乱である。

 結果として、両者は和睦を結び、一時休戦となった。

 その後、義守与党だった延沢満延が正式に最上の傘下になったことで天童は簡単に最上を攻めることは出来なくなった。

 ここまでは龍兵衛達にも伝わっていることである。

 楯岡が調略によって寝返り、徐々に最上優勢になると天童はもう一度上杉に援軍を頼んだ。

 使者が到着したのは龍兵衛達が石礫投げで盛り上がっていた日のこと。

 定満は謙信がいないと嘘をついて代わりに使者と面会した。

 快諾したふりをしてその後、謙信がいることに気付かれないようにそっと使者を帰らせた後にこのことを密かに最上に伝えた。

 

「謙信様に何故使者が来たという報告が行かなかったのですか?」

 

 颯馬はもっともなことを聞いてきたが、定満があらかじめ門番にもし天童からの使者が来たら自分に伝えて欲しいと金を握らせておいた。

 門番も定満の気迫に押し負けて応諾してしまった。

 使者には頼道に上杉が承諾した旨を伝え、上杉の陣で共に戦うことを条件とした。

 自尊心が高く、独立の野望がある頼道は上杉の下に入るような扱いに激怒したが、それを呑まないともはや頼道自身の命運はない状況にまで来ていた。

 頼道はもう宇佐美定満という稀代の策士の手の平に転がっていて握り潰されるのを待つしかなかった。

 援軍が来たと思った彼は出陣した。上杉軍を見つけて合流しようと馬を走らせた。

 しかし、彼を定満以外の上杉軍全員が頼道を敵と見た。全てを知る定満は敵を倒すべきと言った。

 

「どうして、頼道をこちらに引き込まなかったのですか?」

「颯馬、それは愚問だ。俺達と考えていたことは定満殿も同じだったということだ。針生盛信の時のようにな」

「うん。はっきり言うとね、頼道は要らなかったの。直接会ったことは無いけど、書状の書き方、間者からの報告、使者の態度……全部、彼の性格を表していたの。とっても傲慢で独善的」

 

 定満の目は怒りに燃えていた。

 めったに見せない怒りの表情を隠そうともしない。

 それほど気に食わなかったことが分かる。

 二人は定満の気持ちと蘆名の時の盛信に対する気持ちが同じであると今感じた。

 夜風は厳しく松明の火では和らぐ事は無い。暖かい雰囲気などはすでに雲散していた。だが、暗くて冷たい風が吹くほど三人の顔は活き活きとしていた。

 まるでそちらの方が自分達が生きていて行きやすいと思わせるように。

 

「そして、仕上げは終わったの。これで私のお仕事は終わり……ううん。後、もう一個あった」

 

 定満は燃え粕となった書状をまるで頼道が燃えているように侮蔑の表情で眺めている。二人は察した。

 頼道から送られた書状は二枚だ。

 今一枚が燃えているが、もう何が書いてあるか分からない。後一つの仕事というのは言うまでもなく天童城にあるであろう二度目の使者に送らせた書状を燃やすこと。

 最初の中野城に届けた書状はこちらの手違いで一応は済む。

 だが、もう一枚はそうはいかない。

 あの書状を掲げられてしまっては上杉は不義の輩で味方さえも討つという本当の慮外者という烙印を押される。

 幸いにも頼道は死に、ほとんどの将も先の戦で倒した。あとは二枚目の書状を焼くだけで終わる。

 

「定満殿は自らの手で葬りたかったのですね? それほどまで彼を許せなかった……」

 

 颯馬はまだ定満を責めるような口調を続けるが、龍兵衛がそれを許さない。

 

「颯馬、もう言うなこれは終わったことだ。この事はもう言わなくていいだろう。そして、定満殿」

 

 颯馬を諫めると龍兵衛は改めて定満の目を見て言った。定満を責めるような視線ではなく彼女の働きを労るような雰囲気に変わっていた。

 

「この事は我々の墓場まで持って行く、謙信様にも言わない……そうですね?」

 

 定満は頷いて三人は陣に戻る為に立ち上がる。燃え粕を池の中に入れて終わった筈だった。

 

 木陰からの物音で三人は振り返る。

「誰だ?」と颯馬が刀に手にして、言うと出て来た人影はすんなりと姿を現した。

 

「私だよ颯馬」

 

 出て来た人物を龍兵衛は松明を掲げて確かめる。

 すぐに誰か分かった。

 ここに一番いてほしくなかった人物だった。

 三人は悟った。全部聞いていたに違いないと。話に集中し過ぎた事に後悔したがもう遅い。

 

「定満よ、今の話は真だな? 何故私に言わなかった?」

 

 その声は冷たく三人の足を凍らせるのには十分だった。最初に刀を向けられた定満は頭を下げる。

 

「謙信様、ごめんなさい」

「詫びはいい。理由を私は聞いている」

 

 はぐらかそうとしても出来ない。

 謙信をよく知る定満には分かっていた。

 家臣を信じて来た謙信にはつらい現実を突き付けることになる。それでも定満はもう言うしか無かった。

 頼道を許せなかったこと、籾つぶすことで上杉の今後の為になったこと。上杉を強くするためにやむを得なかったこと。

 

「謙信様を愚弄する事が、許せなかったの」

 

 つらつらと全てを話した定満に何も言わずに今度は颯馬と龍兵衛に聞いてきた。

 

「そなた達も蘆名攻めの際に同じことをしたようだな? 何故……とは言わん。定満と同じ考えだったのだな?」

 

 力無き声で二人は返事をする。そして謙信は一つ息を吐き、三人を戦場の敵を見るように睨み付けた。

 

「そなた達は私に黙って何をしていたんだ? 上杉の為によかれと思いやったのはよく分かっている。だがな、当主たる私に何も言わないとはどういうことだ?」

 

 その剣幕はさらに燃え上がる。

 謙信は家臣が上杉の利益の為に恨みを買うようなことをしているのを責めているのではなく三人がこのようなことをしてのうのうとして知らぬ存ぜぬでいたのが許せなかったのだろう。

 

「この罪は重いぞ。別にこのようなことを止めろとは言わん。だが、私に黙っておくことは許し難い行為である。もっとも、そなた達から見て私が当主に相応しくないのなら話しは別だが」

 

 最後の台詞には三人は大きく首を左右に振る。

 謙信もさすがに熱くなり過ぎたと思い冷静になるべく一息入れる。

 

「すまぬ。ちょっと言い過ぎたな。だが、主君である私に黙っているのはあってはならないことだぞ。今後はしっかりと私に報告するんだ。私とて嘘や謀無しに乱世を生きることは出来るとは思ってない」

 

 謙信はいつもの雰囲気に戻った。

 それだけなのかと三人は首を傾げる。てっきり罪を着せられると思っていたが、不問に付されたことに違和感を覚えた。

 互いに顔を見合わせて戸惑っている三人に謙信は気付きもう一度振り向く。

 

「そなた達を罰して、何か良いことでもあるのか?」

「謙信様……」

「そなた達は上杉になくてはならない存在だ。罰してみろ。損害は兵一万人以上を失うのに等しい」

 

 そう言うと謙信は定満の頭に持って来ていたウサ耳を着けた。

 

「定満はそれが一番いい。無理はもうするな。私とてもう大人だ。ま、そなたから見ればまだ子供だけどな」

 

 いつもの冗談に定満は頭を無言で下げた。今度は龍兵衛を見る

 

「影で色々とやっていたことは把握している……驚くな。黙っていたのだ。何も言わぬ。ただ今後はきちんと報告を怠るな」

 

 龍兵衛は謙信の懐の広さに驚くしかない。

 今度は颯馬に視線を向けている。

 

「颯馬も同じだ。それにそなたには色々といてもらわないと困るぞ」

 

 颯馬も頭を下げる。

 三人は改めて思った。

 綺麗な正義も汚れた謀略も包み込むこの人こそ日の本を天下統一へと導く御方に相応しい。

 自分達は軍師として支えよう。決して踏み止まらせることはさせない。

 

「さぁ、陣に戻るぞ。早く寝て明日に備えるんだ」

 

 謙信の後に続いて三人の軍師は歩いて行く。

 冷たい風は止み、少し寒さも和らいだ。

 三人は心の安らぎとは裏腹に上杉の闇を支配する正式な黒幕へと変わった。

 清々しく残虐で美しい物をこれからどれだけ見ることになるのかはまだ知らない。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十一話改 正しき忠義

 最上との雌雄を決する戦がいよいよ始まる。

 今日も晴れているが、肌寒く、冬が近いことを表している。

 颯馬は朝早くに陣中の見回りをしていた。だが、少し早く起きたせいか兵士たちもちらほらと見る程度である。

 あと半刻もすればほとんどの者が起きるだろう。

 

「あらぁ、おはよー颯馬っち」

「おはよう」

 

 ふらりと景勝と慶次がやって来た。二人共早く起きすぎたせいかまだ目が半開きでいる。

 

「おはようございます。今日は早いですね」

「今日、決戦……ふん!」

 

 鼻息荒く景勝は胸を張る。

 気合いが入っているのは慶次も同様なようだ。眠いとはいえ決戦とあって早く起きたのだろう。颯馬も同じなのだから他の人達もきっとそうなのだろう。

 そう考えていると兼続もやってきて、そのまま四人で陣中を見回って歩く。風も冷たく、今年の夏の暑さも忘れるような寒さだ。

 

「(秋というのにもうこんな寒くなるのか……)」

 

 東北の寒さは越後以上だと聞いていたが、これほどとは思わなかった。

 颯馬はそう思いながら兼続と慶次を見ると二人も少し寒そうにしている。

 ところが、景勝だけは何故か平気そうだ。気になった颯馬は聞いてみる。

 

「龍兵衛。気をつける、言ってた」

 

 どうやら、龍兵衛は夏の暑さが今年はいつもより高いことを知ると今年の冬はより寒くなることを予測して、今回の戦では景勝に厚着をした方がいいと言っていたそうだ。

 元は農家の人達からの受け売りと言っているが、彼自身も確か農民出身だと言っていたので元から既に知っていたようにも見受けられる。

 当初から龍兵衛は天候には詳しく、前に雨が降る時の予測もしていた。颯馬などは燕が低く飛ぶ時などを見て予測を立てるが、龍兵衛の場合は風の匂いで判断しているらしい。

 今回も龍兵衛の予測は当たったようで、景勝は寒さ対策を十分にしていたおかげで大丈夫なようだ。

 しばらくすると、その龍兵衛が陣中の片隅に一人で立っているのを見つけた。すかさず景勝が走り出して行く。

 

「(慕われているよなぁ、龍兵衛。やっぱり一番最初に会話を成立させただけはあるな)」

 

 玩具を見つけたような景勝の後ろ姿も微笑ましいと思いながら、以前、彼女と龍兵衛は不仲であるという根も葉もない噂があったことも思い出した。

 景勝に件の事を言ってくれなかったら謙信と説得に向かった颯馬は帰る所を失っていたかもしれない。

 その後も少し不仲であるという噂は続いているが、颯馬は知っている。

 龍兵衛が景勝と本を交換していることを。

 仲が良くないのならば、そのようなことはしないだ。

 意識を現実に戻すと景勝は龍兵衛に声を掛けていた。振り向いた彼はやつれ、目の下のくまはひどく、眼はより鋭くなっていて、普段の大きな身体から出る威圧感も無い。

 

「だ、大丈夫? 龍ちん」

 

 これから寒いことを教えてくれないでいたことに恨み言の一つでも言ってやろうとしていた慶次も変わり果てた龍兵衛の姿に驚いて真面目に状態を聞いている。

 大丈夫だと返答したが、どう見ても大丈夫ではない。

 

「まぁ、ちょっと夢にうなされていた」

 

 よくわからないが、恐ろしい夢を見たのだろう。

 少し顔を洗ってくると龍兵衛は重石を引きずっているような足取りで歩いていった。

 

「おお、皆早いな」

 

 背後から謙信がやってきた。

 全員が頭を下げて挨拶をする。

 兼続が龍兵衛のことについて話すと謙信は決戦前に士気に関わるかもしれないと颯馬に様子を見てくるように命じた。

 颯馬はすぐに龍兵衛の後を付いていき、すぐにその姿を認めた。

 

「おーい、龍兵衛、入っていいか?」

 

 声を掛けると中から龍兵衛が許可する声が聞こえた。

 入ると先程よりは落ち着いたようで、だいぶ顔色も良くなっている。

 

「本当に大丈夫なのか?」

「ああ、問題無い。やはり悪い夢とは睡眠を妨げる」

 

 淡々と話すその口調はいつもと変わりない。それでも颯馬は気になることを単刀直入に聞いてみる。

 

「本当に大丈夫なのか?」

 

 龍兵衛は眉間にしわを寄せて、無言になる。

 聞かない方が良かったかもしれないと思ったが、どうしても気になって仕方なかったのだ。

 

「さて! 切り替えよう! これから戦だ!」

 

 指を額に当て、横に縫うと龍兵衛は自分の頬を叩き、気合いを入れる。

 本当に公私をしっかりと分けて行動していると颯馬は少しばかり感心してしまう。ここまで立ち直りが早いと向こうが年上に見えるのは、上杉には親憲がいるからだろうか。

 そのようなことを考えていると颯馬は龍兵衛に背中をいきなり叩かれた。

 力がある為に普通に痛い。

 悶絶している颯馬を見て、笑って気合いが足りないぞとからかうっている口調で言ってくる。

 

「この野郎!」

「やっべえ」

 

 この鬼ごっこは起きてきた定満にうるさいと言われて、二人仲良く説教されるまで続いた。

 

 半刻後(一時間)、兵達も殆どが起きて動き始めている。

 最上はこちらよりも数は下だが、地の利で向こうに分がある。さらに伊達が援軍を向ける気配があるという報告がある。伊達も次は自分達が攻められることを知っているようだ。

 軒猿が探りを入れて、伏兵の雰囲気は無いという確認があるとはいえ政景との戦の時のようにいきなりやって来ることも起きかねない。

 粛々と決戦の地へと入るとすぐさま上杉軍は陣を整える。

 無論、最上軍も動いている。上杉軍の動きを見て、対応するような陣形を取って来た。

 速攻で決着を付ける為に軍師達は車掛かりの陣を敷いたのに対して、最上は守りに適した方円の陣を敷いた。伊達からの援軍が来るまで守りの固める気だろう。あの陣形から伊達の援軍が来るのは推測から確実となった。

 謙信は軒猿に伊達の援軍の現在の位置を確認させ、颯馬達軍師に対応策を練るように指示した。

 まず、兼続が口を開いて全員が考えていることを代弁する。

 

「いかに最上を援軍が来るまでに討つかですね」

「そのための車掛かりの陣だからな、某はそのような配置をしているなら逆に一点突破を図るべきだと思います」

「自分も賛成です。問題は敵が各部隊に多くの弓隊を配置していることですね……」

「うーん。それならどこかに弓隊を集中させるの……」

 

 兼続と颯馬と龍兵衛が腕を組む中ですかさず定満が策を立てた。それ自体は陳腐だが、実に効果的な策だった。故に、その策は昔から使われているのだろう。

 謙信もそれを認めて将達に様々な指示を出す。

 日が昇りきり、戦いの幕はもうすぐ開ける。

 さらに一刻が経ち、いよいよ謙信が攻撃開始の合図を出した。第一陣はいつも通りで景家が務めている。最上は矢を使い、景家の接近を許さない。

 いつもの景家なら一気に攻めているだろうが、景家も無理はせずに矢の当たらない所まで下がり、同じく矢で応戦する。

 お互いに当たりそうで当たらない距離を保ちながら膠着状態になってしばらく、謙信は第二陣の義藤に突撃を命じた。

 景家の隊に合流して、徐々に最上との距離を縮めるように少しずつ進軍する。

 矢の雨が戦場にお互いの兵を突き刺しながら降り注ぎ、それに堪えるように軍を統制しながら景家と義藤の隊はゆっくり進む。

 ここで謙信は一気に第三、第四陣を進軍させて業正と資正の隊が進んで行く。

 最上側からは更に多くの矢が降り注いでいる。一点突破を上杉軍は狙っていると思っているのだろう。

 いくら策とはこのまま進むと被害は増えるばかりだ。定満にそろそろではと颯馬が聞くと彼女は首を横に振ってまだもう少し隊を進軍させるべきだと言った。それを謙信は聞くとすぐに次の慶次の隊を進軍させた。

 この戦いに備えて竹でこしらえた盾を作ったが、多くの矢が突き刺さり、限界になってきているようで景家と義藤の隊では被害が徐々に多く見られるようになって来た。

 最上側はそれを見て更に矢を降らせる。矢が減らないのはそれだけ弓隊が増えている証だ。

 定満はただそれだけを狙っていたのだ。目的の場所とは違う所を攻めて敵の目をそちらに向けさせて本来攻めるつもりだった所の守りが薄くなった時に攻める。何とも昔からよくありそうな策だが、だからこそ効くのだろう。

 上杉軍は二万の兵を十の部隊に分けている。今は半数が戦場で戦っていることになる。

 

「第六陣に正面の救援に向かわせて、第七陣から動きましょう」

 

 颯馬の言葉に謙信は頷いて直ちに動いた。第六陣と第七陣を率いるのは秀綱と弥太郎。

 いよいよ上杉直臣、小島弥太郎の率いる上杉軍の精鋭中の精鋭が出る。

 秀綱の隊と弥太郎の隊は共に進んだ。

 だが、それも途中までで動きが変わる。

 弥太郎の合図は颯馬達からはよく見えなかったが、なんらかの合図があったと共に弥太郎の隊は一気に左に隊列をずらして、そのまま一気に方円の陣の左に突っ込んで行く。

 弓隊からの迎撃はあったが、最上側は中央に集中させすぎた弓隊をすぐさま戻せずにいる。戻せば中央の一万以上の上杉軍に突破される事は確実だ。

 今は弥太郎は二千の兵で突撃している為にまだ最上も防げると踏んでいるらしい。

 だが、控えている隊がこちらにはまだいる。謙信は第八陣の親憲の隊に弥太郎の隊に続いて左から攻めるように命じた。

 颯馬がふと龍兵衛を見るとそわそわしている。

 軍師として落ち着いて腰を据えているべきだというのにどうしたのだろうか。

 戦前に朝のこともあって、謙信にこの戦出れるかと聞かれた龍兵衛は迷わずに行けますと答えた。

 だが、今の状態では信憑性に欠ける。左隣にいた兼続が状態を聞くと大丈夫だと龍兵衛は首を振り、信じてくれと真っ直ぐに颯馬達を見る。

 彼のかなり真剣な表情に颯馬達も納得せざるを得ず、戦に意識を戻す。

 

「伊達の動きが気になって……このまま順調に行けばいいんだが、どうも不安を拭えない」

「確かにそうだな、一気にけりを付けるべきかな?」

「ああ、早いとこ総攻撃を掛けて最上を撤退させて伊達に備えるべきだと思う。伊達もここまで来て何もしないで帰るなんて気は無いだろうし」

「私も同感だ」

 

 龍兵衛達は謙信と定満にこのことを言うと直ちにそれを是として、総攻撃の準備を始めた。

 

「定満、いつ動くべきだ?」

「弥太郎達が突破するのを待ってからだと遅いと思うの。今すぐに動くの」

 

 定満の言葉に頷くと共に謙信は素早く馬に跨がり、刀を抜いてこの戦場の隅々に響き渡る声を上げた。

 

「総攻撃を開始する! 私に続けー!」

『おおぉぉぉっ!』

 

 その叫び声と共に馬を走らせる姿は華麗としか言いようがない。その姿に将兵は士気を上げて、自らもそれに続かんとしている。

 

「あぁ~あ、謙信様はまた……もう!」

 

 謙信が自ら刀を握り先頭に立って行く姿に龍兵衛は呆れ顔で額に手を当てている。軍師達の悩みの種でもあるが、謙信のあの性格はおそらく生涯直らないだろう。

 

「何を言っている。謙信様のあれは今に始まったことではない。お前も上杉に来て何年か経つのだからわかっているだろう」

「まぁ、確かに武田の時みたいに見失う事は無いだろうし、まだいいか……」

「そうそう。さ、俺達も行くか」

 

 颯馬達が馬に跨がると定満が後は任せてと手を振って見送る。兼続も続いて馬に跨がろうとするが、龍兵衛は待ったを掛ける。

 

「あの! 全員で行く気ですか?」

 

 地形上、伊達に背後を捕られることはない。

 何を憂うことがあるのだろうか。

 本陣には守備隊をちゃんと置いてあるし、定満がこういう風に一緒に敵陣に斬り込むということは大丈夫ということでもある。

 

「景勝様はどうするのですか?」

「「「あっ」」」

 

 三人の声が綺麗に重なった。

 颯馬達の視線の先では景勝がとても寂しそうな顔をしてこちらを見ている。

 一気に申し訳ない気持ちになる。実際、はっきり言って颯馬達は完全に景勝の存在を忘れるというあってはならない失態を犯した。

 慌てて、颯馬達三人は下馬して頭を下げる。もし、景勝に何かあればうっかりで済むところでは無い。間違い無く死罪ものだ。

 どうにか許してもらったが、景勝はかなりご機嫌斜めだ。

 

「行っていい」

「え、よろしいのですか?」

 

 残れと言われると思っていた兼続は戦場を景勝が指差しているので思わず聞き返すが、こくりと頷いて龍兵衛に近付く。

 

「景勝に気付いていた龍兵衛に守ってもらう」

「(これで俺達の好感度落ちたな……)」

 

 颯馬たちは士気を落としながら馬を走らせる。

 側面から敵陣に入った謙信と合流し、颯馬達も左から突撃をする。颯爽と謙信が敵を斬り裂いて悠々と道を開き、颯馬と兼続はその後に続いて負けじと敵を斬る。

 弥太郎達が穴を開けていたおかげで思ったよりも直ぐに左翼の陣を突破出来た。

 一つ突破出来れば他はもう簡単に突破出来るだろう。中央からの上杉軍の歓声も聞こえてきた。あとはそのまま一気に本陣へと突っ込んで決着を着けるだけの筈だったが、邪魔が入った。

 一人の男が謙信達の前に立った。

 

「悪いが義守様のところには行かせない」

「大勢は決した。何故に降伏しない?」

「主君に殉ずることは家臣の務め。違うか?」

 

 謙信の言葉に分かりきったことを言わせるなと言うように男は睨んだ。

 颯馬が男を観察すると彼ぐらいの年で背は高い。

 謙信は男の言葉に肩をすくめてふっと笑った。男はそれを見て何がおかしいと顔を怒りで赤くしている。

 

「貴様は家臣を無くした主君がどう思うか考えたことはあるのか?」

「主君が自分達をどう思っているかは知らない。だが、御家に殉じてくれたことを喜んでくれる筈だ」

「貴様の主君はそんな人なのか? 人が死んで喜んでいられるのか?」

「喜びはしない。だが戦では人が死ぬのはやむを得ないことだ。自分一人死んだことで義守様が生き延びられるなら本望だ」

「それは貴様の考えだ。主君はそうは思わない筈だ。最上義守は人望が有り、民に慕われているそうだな、その民達一人一人が死んでも自分のように悲しむような人だと聞いている。貴様は将のようだが民よりも近くで見て来た貴様が死んで最上義守は喜んでいられるのか? そうでなくても平気で居られるのか?」

 

 謙信は男の発言を悉く跳ね返し、決して有無を言わせないようにつらつらと言葉を繋げる。そして、暗に降伏しろと言っている。

 男は最初こそ普通でいたが、段々と虚勢を張っているように見えて来た。それ程謙信様の言う事は理路整然としている。そして、男はとうとう叫んだ。

 

「お前は何なんだ! 主君のことを分かっているような物言いをして!」

「(ああ、相手の大将である謙信様を知らないで戦をしていたのか、それでは俺達の方が有利に戦を進められて当然だ)」

 

 哀れそうに眺め見る颯馬に気付く筈がなく、男は謙信を睨み続けている。

 

「私もこの者らの主君だからだ」

 

 素っ気なく謙信が言うと男はかっと目を見開き、鋭く斬りかかって来た。その鋭さはかなりの手練れである。しかし、謙信は彼の攻撃をにべもなく受け止める。

 一旦間をおいて男は謙信に向かい、確認の為にかお前が上杉謙信か? と聞いてくる。謙信は「如何にも」とまたも素っ気なく返した。今の謙信は彼をちゃんと将として見ているとは思えなかった。 

 颯馬が見た信玄と対戦している時の覇気も全くない。つまらなそうに男を見ている。

 そんな謙信のことなど気にせずに男は再び攻撃への体勢を整える。

 

「池田盛周、上杉謙信を討ち取り、義守様への手土産とさせてもらう!」

「ほう世に名高き悪次郎が相手なら不足は無い。皆、手出しは無用だ」

 

 颯馬と兼続は池田盛周の名を聞いて前に出ようとしたが、謙信はそれを止めて動くことが無いようにしてしまった。

 また悪い癖が出たと呆れながらも渋々二人は引き下がった。

 盛周は一度大宝寺に仕えていたが、その無理な増税に反乱を起こして最上に匿われているそうだ。人情に厚い人と聞いていたが、ここまで自分の命に冷酷な人だとは思わなかった。

 謙信と盛周の周りでは上杉と最上の兵が変わらず乱戦を繰り広げている。指揮する者が居なくなるのを恐れた定満はここは任せたと言うと兵達の下へと向かった。

 颯馬と兼続はいつでも助太刀出来るように周りを気にしながら謙信達を見守る。

 謙信の刀と盛周の槍がぶつかり合う。正真正銘の一騎打ちだ。

 その中で颯馬達が出来ることは主君、謙信を信じて待つのみ。

 そして、これからじっとしていても肌寒さが無くなるような見る人も汗滲む一戦を颯馬達は見ることになる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十二話改 三つ巴

 氏家定直は嫌な予感を拭えないでいた。彼は後陣にて戦況を見守っていたが、上杉軍の動きに違和感を感じていた。

 情報では謙信は軍神と呼ばれる程の戦上手。また配下の軍師達も切れ者揃いで負けるような戦はしないと聞いていた。

 そのような人達が劣勢でも何か手を打ってこないでただ方円の陣の前線、それも守りが最も堅い中央に兵を次々と送るだけ。

 最上軍の中で最も慎重な彼は内心おかしいと思いながら上杉軍の真意を考えていた。

 中央に兵を集中し過ぎと言ってもいいぐらいにお互いの兵は中央に集っている。

 最上軍は数は下だが、伊達の援軍がやってくれば数の上では最上軍が少し有利になる。故に守りに徹して援軍の到来と一緒に上杉軍に攻撃を掛けるつもりだった。

 時間を稼ぐこと。それが最上軍の勝利への道だった。

 逆に上杉軍は冬と伊達の援軍の到来を恐れて迅速な勝利を望んでいる。

 このことぐらいは誰もが分かることだ。だが、上杉軍はまだ山形城だけでなく、長谷道城すら落としていない。

 中央に兵を集めて援軍の到来前に勝利を収めたいのは分かる。定直が仮に上杉軍だとしてもこんな戦法は取らない。犠牲が大きくなるだけだ。

 いくらこちらが出せるだけの兵を出して決戦を望んでいるとはいえ長谷道や山形を落としていない以上、最上との戦いはこれからの筈だ。

 そう考えている間にも上杉軍は更に中央に兵を出して来たようだ。これでは我々は他の部隊からも救援を求めるしかない。

 定直が上杉軍の真意に気付いたのと弥太郎の部隊が方円の陣の左翼側面に向けて進軍を開始したのはほぼ同時だった。守りが手薄になっていた側面を突かれてしまった。

 だが、定直は後陣全体を任されている以上すぐには動けない。

 彼は一部の兵を援軍として進軍させるのが精一杯だ。後陣を疎かにすれば退路が危なくなる。今の彼は仲間の無事を祈るしかなかった。

 

 

 

 

 報告を受けた義守は困惑していた。

 側面を敵に突かれた以上は救援を出さないといけない。しかし、中央に兵を集中させている為、無理に兵を動かせばこちらが混乱状態になる。

 頼りの義光は前線中央の指揮を執っている以上、ここには自分しかいない。

 

「満延を右翼の救援に向かわせて下さい!」

 

 今はこれが精一杯だ。義守自身に武芸の心得があれば話は別であるが、残念だが彼女は人に頼るしかない。信じて待つしかない。

 もはや最上軍は誰かを信じ、誰かに頼りにされる状態になった。

 

 一方、中央では矢の降らせ合いはもう既に終わり乱戦となっていた。 

 囮だったとはいえいかにも本当に正面から攻め込むと見せる為に勇将猛将を投入した上杉軍は上泉信綱・北山義藤・長野業正に鍛え上げられた精鋭は最上軍を切り崩し始めとする完全に突破出来るまで今少しの所まで来ていた。

 しかし、守備の陣形とは内側程厚い物で外側は降って間もない国人衆などで固められていた為に最上の精鋭は内側には控えていた。

 上杉の勇猛な将はそれでこそ斬り甲斐があると楽しそうに斬り込む猛者が上杉には多くいた。もはや誰なのか言うまでもない。

 敵に斬り捨てるのがその人の糧となるのではないかと思わせる程の血を飛ばしている。

 その量は辺りに血の水溜まりを作る程辺り一面死体の山、返り血を浴びれど舞う姿。味方は見惚れ、それに続く。

 敵は怖れ、逃げようとする。逃げ切れなかった敵は気付けば首と胴体が別れを告げている。猛者達はそれでも足りぬとさらに駆ける。獲物に飢えたその眼は正に獣である。

 返り血を拭うとさらなる狩りをしに六人の将は配下を引き連れて敵本陣へと突き進む。

 その道は逃げようとする者と一矢報いようと立ち向かう者とでごった返している。それも上杉軍にはただの獲物にしかすぎない。

 上杉軍の背中に太陽は行き始めていた。

 

 

 

 

 

 上杉謙信と池田盛周の対戦は佳境を迎えていた。謙信の剣術に盛周も疲れている。肩で息をしている盛周に対して、謙信は涼しげな表情を崩さない。

 

「どうした? 主君への手土産にするのではないのか? このまま死ぬのか?」

「だ、黙れ! まだまだ・・・・・・これからです!」

「ふっ・・・・・・虚勢など誰にでも張れる。では、こちらから行かせてもらう」

 

 謙信は一気に間合いを詰め、盛周にとどめを刺すべく隙の無い攻撃を繰り返す。盛周もどうにか止めているが、体力の限界があった。

 二合三合と斬り合う内にとうとう盛周の槍が弾かれ後方に飛ばされた。刀を突き付けられた盛周は目を瞑る。あとは首を取られるだけだ。だが、首が取られる気配は無い。

 そっと目を開くと謙信はまだ刀を盛周の首に置いてそこに立っていた。

 

「何故討たないのです? 自分が降伏するとでも?」

 

 その口調はもはや挑発である。自分の首を取らせる為の相手の怒りを買うような声で盛周は謙信に言う。

 謙信は肩をすくめ、後ろを見ろと盛周に言う。後ろを見ると最上軍の兵の数人が鬼の形相で謙信を睨んだいる。もしここで盛周の首を斬れば、兵は謙信を殺しに掛かるに違いない。

 

「あれを相手にするのは少々面倒だ。では、また会うとしよう」

 

 謙信は再び馬に乗り颯馬達の隊と合流するために去っていった。

 謙信の背中を見届けた盛周はまだ自分も慕われていることに嬉しく思った。

 かつて仕えていた大宝寺の当主が重税を民に課し、それに見てられなくなった盛周は一揆を扇動した。

 結果的に負けたが、義守に匿われたことで許された。

 だが、その一揆の真実を知らない者に疎まれていることもあったし、讒言もを浴びた事も何度かあった。

 それでも義守は彼を重用し、ここまでにしてくれた。

 自分はただ恩を返すことしか考えていなくてただ、自分を保つ為に戦っていた。そのためにかつて見ていた民達を見ることは出来なくなっていた。

 今になって気づいた。自分は決して主君の為だけの身ではない。民や兵達の為にも必要であるのだと、義守は民のことを第一に考える。

 そんな彼女が自分が下を見れないまま死んでいったらどう思うだろうか。

 悲しむ。そんな訳ない。哀れに思われて死んで行くなんて真っ平御免だ。

 盛周が義守に生かされているのは民の為に生きる彼を信じていたからだ。だから、大宝寺との対立を覚悟してこうして匿ってくれた。

 生きて、義守様と民達を助ける。それが自分の使命。そして、今度こそ上杉に勝たん。

 盛周は周辺の自分の兵を纏めるとすぐに中央の救援に向かった。

 

 

 

 

 

 謙信の軍勢が合流し更に勢いづいた別働隊は更に方円の陣の中心に食い込んでいく。ここまで行けばあとはもう最上は退却しかない。

 中央からは上杉の歓声と最上の悲鳴がよく聞こえる。終わりは近いようだ。

 

「ええい! 何をしておる! 義守を守るのじゃ!」

 

 義守の軍勢は孤軍奮闘していた。敬愛する姉を守る為にという力が更に義守は奮起させる。

 

「義光様、敵の攻勢が強く、もう無理です。このままでは義守様も・・・・・・」

 

 しかし、それは義守のみ。他の者はそういう訳にはいかない。

 

「・・・・・・やむを得ん、お主らは義守の所に向かえ、妾がここを食い止める。その間に義守を逃がすのじゃ」

 

 兵は何か言おうとしたが、義光の覇気がそれを許さない。今、話し掛ければ自分も斬られそうだ。御意、と言うと兵は義光の武運を祈りながら去っていった。

 

「さて・・・・・・」

「義光様ー!」

 

 今の義光に迷いなく話せる相手など限られている。その一人はぼろぼろになり、戦えるのかも疑問に思える有り様であった。

 

「盛周? どうした、何故そのようになっておる?」

 

 盛周は謙信と一騎打ちを演じて負けたと説明すると義光は驚愕の表情を浮かべる。盛周は胸に熱いものがある。一騎打ちに負けておめおめと逃げてくるような男ではない。

 

「自分は気付いたんです。負けて首を取られるよりも自分は生きて、最上とその民を守ることが己の生きる意味だと」

「盛周・・・・・・」

 

 義光は嬉しく思った。件の一揆の後、ただただ身を粉にして最上に尽くしていたが、彼の無鉄砲さに皆が危惧していた。だが、自らより上の敵と戦い、変わることが出来たのだろう。謙信には敵大将とはいえ感謝せねばならない。

 

「では、行くぞ! 無論生きて帰るのじゃ! 死ぬことは妾が許さぬぞ」

「はっ!!」

 

 二人は残った兵達と上杉軍に突撃して行く。死ぬことなど考えていない。ただ、この先の最上を守る為と自らの生きる意味を達成する為に乗り越えるべき壁に向かう。

 

  

 

 

 上杉有利の中央は義光、盛周の壮絶な奮戦で完全な激戦になってきた。

 たった二人の将とその配下の数百の兵の参戦だったが、二人の働きは最上軍の士気を上げ、上杉軍の攻勢を徐々に防ぎ始めている。

 景家達はこれを見て苦々しい気持ちに変わっていく。当初は敵を容赦なく斬り捨てていき、速攻で最上を倒して行きこのまま勝利出来ると考えて、戦を楽しんでいたが、最上の防衛が立ち直って来ている。

 このままでは理想的な勝利が出来ないと戦術も変えて攻め込む場所を変えてみたりしているが、なかなか突破出来ない。 

 

「やはり、さすがは最上軍ですね」

「うむ、だがこうしていてはこちらが不利になってしまう。軍師達の懸念も現実となるのう」

 

 親憲と合流していた義藤は二人で戦況を見ていた。軍師達は伊達の援軍の到来を恐れている。援軍がくれば時間が掛かる。また、時間が掛かっては冬になる。

 援軍が来るであろう道に斥候を隈無く出動させて、村上義清を万が一に備えて攻撃に参加させずに控えさせてはいるが、このままでは乱戦に伊達が包囲をして来てこちらが不利となるのは確実である。

 

「別働隊から伝令、突破に成功寸前とのこと」

「北山殿、援軍を左翼に向かわせては?どちらかが突破出来れば我々の勝利です」

「なるほどな・・・・・・では親憲、お主が行ってくれ。ここは妾に任せてもらいたい」

「わかりました」

 

 親憲は手勢を纏めて左翼に向かう。許された者は自分で判断をして軍を動かして良いという軍令が上杉にはあった。

 龍兵衛が作ったものだが、彼は謙信に頼り、判断力の乏しい将が多い上杉軍を憂いてこの軍令を推奨した。

 無論、勝手気ままなことされないように無駄な判断だと判明した時点で死罪とすることにはなっていたが、親憲と義藤の判明は正しかった。

 四半刻後には左翼突破成功の報告が上杉全軍に伝わった。

 

 

 

 

「義清殿には伊達の援軍により警戒を強めるように伝えろ。こういう時こそ気を引き締めるんだ」

 

 本陣では実質的に全軍の指揮を任されている(半強制的に押し付けられた)龍兵衛は最後まで気を抜くことはない。

 最後まで何が起きるかわからないのが戦と野球は同じだと彼には骨身にまで染み渡っている。

 そして更に四半刻後、来る時が来た。

 

「ほ、報告! 伊達の軍勢を確認! すぐ近くまで来ています!」

「義清殿には伝えたか?」

「はっ! すでに伝えてあります!」

 

 タイミングが悪い。

 決着を着ける為にかなりの兵が最上軍の陣になだれ込んでいる。とはいえすぐに戻せば逆撃を受ける可能性もある。

 ここは本隊を少しずつ下げさせておいてしばらくの間は義清に任せるのが賢明だ。

 

「決して無理をせずに挑発されても突出はしないように伝えろ」

 

 兵は頭を下げて義清の隊に向かう。

 

「龍兵衛、大丈夫?」

「大丈夫な戦などこの世の中に在りませんよ。それを勝利に導くのが軍師の役目です。まだ、これからですよ」

 

 景勝に冷たく言うと龍兵衛は更に戦況を自ら把握するべく陣を出た。

 突き放された感じがしたが景勝もそれに付いていく。お互いが味方と上杉の勝利を信じ、自らの熱い心を押さえつつ二人は今、戦場を見つめている。

 

「伊達の援軍はあれですね・・・・・・戦況を見定めているところでしょうか」

「何故、すぐ来ない?」

「負け戦に突っ込んでも被害をもらって終わりです。五分五分以上の戦に乱入するからこそ意味がある。伊達の指揮官はなかなか強かです」

 

 自らの利益を確実に物にしようとする姿勢、憎たらしいが、間違ってはいない、正しい判断だ。

 上杉としてはここで伊達に少々でも被害を出して起きたかった。伊達を放っておいては山火事を消して山中に火種を残すことになり、冬の間に力を蓄えられ、次に攻め込む時に被害がこちらにも多く出ることは日をみるより明らか。

 そうなれば次の目標の関東などが先々のことになる。

 一気に決着を着けるべくこちらから義清の隊を伊達軍に動かしてはどうかと景勝は言ったが、それでは万が一の抑えを失い、こちらが迎撃態勢を取る時間が無くなる為、あれは動かせない。

 景勝の案に首を振ると龍兵衛は戦況を見つめる。左翼の隊が突破に成功しじりじりと最上は後退している。正面の隊が突破すれば間違い無く最上は負ける。伊達も退いてくれるに違いない。

 伊達については後で戻って来る定満達と考えればいいと考え、龍兵衛は正面に攻勢を更に強めるように伝えた。それでもじっと戦場から目を離さない。

 そして、とうとう義光と盛周が率いる最上は突破寸前になり、龍兵衛は全軍に最上本陣を鉄扇で指し、一気に落とすように伝えた。

 これで勝ったと上杉は思った。伊達軍も退いてくれるかもしれない。

 端から見ていてもそう思わない人がどこにいただろうか。実はいたのだ。この中にいる。

 

 

 

 

 ここで伊達は動いた。負け戦は確実となった最上軍を救援するなど無益である。

 誰もがそう思ったが、伊達軍は最上軍を救うような動きはせずに義清の隊を無視して上杉、最上を纏めて包囲する。

 

「・・・・・・まさか」

 

 龍兵衛の顔には驚愕と怒りの表情が同時に浮かび、眉間の皺は深くなった。

 景勝も目的を悟ったらしくどうするべきか龍兵衛に聞く。答える代わりに龍兵衛は急いで義清に包囲内の上杉軍に合流して、撤退させるように伝えた。

 義清もすでに伊達軍の企みを悟ったようで動き始めているが、釘を刺す為に撤退完了したら直ちに退くように厳命として伝令を走らせた。

 伊達は援軍でも何でもない。伊達はただ第三勢力としてここに来たのだ。援軍と銘打って自らの利益を得ようとしているのだ。

 

「あざとい・・・・・・」

 

 龍兵衛の独り言は上杉・最上軍の心を代弁するには十分だった。

 そして、伊達軍は対処しようとする二つの軍を嘲笑うかのように攻撃を開始する。

 新たな軍の到来で二つの軍は混乱状態になりかけている。最上義守はもう撤退の準備をしていた所にやって来た伊達軍に動けないまま兵は次々と倒れていく。

 龍兵衛も決断の時が来た。景勝を残してここは敵を食い止めるべく敵陣に行きたいが。景勝一人で大丈夫だろうかという思いが足を動かさない。

 策はあるとはいえ一時的に本陣は手薄になる。

 

「龍兵衛、景勝は大丈夫。今は謙信様達を助けることが大事」

「いや‥‥・・しかし・・・・・・」

「少しなら大きい声出せる。龍兵衛、怪我あるのはわかってる。でも、今、違う」

 

 何故そのことを知っているのか気になったが、景勝の言う通りである。

 今はそんなことを気にしている時ではない。龍兵衛は後詰めの兵に本陣の守りに付くよう言うと戦線に立つべく兵と共に馬を走らせた。

 

 

 

 

 上杉軍は勝ち戦が一転、不利な状態となり、兵達は将達の号令も空しく右往左往し始めている。

 

「謙信様! このままでは完全に包囲されます!」

「慌てるな。颯馬・兼続。指揮を」

「はっ! 正面の上杉軍と合流する! 最上は相手にするな! 伊達のみを敵と考えろ!」

「小島殿は一足先に敵中を突破して道を作って下さい!」

「弥太郎、私も行くの」

「某はここで謙信様を守ります。颯馬殿達は兵の指揮に集中して下さい」

 

 矢継ぎ早に兵を指揮し、自分達の思うままに動き回る謙信達、かれらもまた、景勝、龍兵衛同様に伊達軍の卑劣な行動に怒りを感じていた。

 

 

 

 

 中央の上杉軍の将達の怒りは誰にも止められないものになっていた。

 頂点に達した上杉軍の将達は攻めてくる伊達軍と逃げている最上を問わずに斬って斬って斬りまくっている。

 血の量は先程よりも多く舞い散り、鬼神を飛び越えて死神にしか見えない。

 皆は言葉も出さずに顔を怒りで赤黒くしながら更に返り血を浴びて顔を赤くしながら戦っていた。その姿を見て配下も奮い立ち、何も将達が言わずとも伊達軍に向かって行った。

 まさに武で語る様を表現している。

 だが、この地獄が終わることは無い。伊達軍を追い返すべく上杉軍が将兵一体となり、伊達軍に斬り込んで行くのだから。

 これからが本番なのかもしれない。端から見る者がいたらそう思うだろう。

 しかし、邪念を持てば、その者は間違いなく屍となるのがこの戦である。

 油断は出来ない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十三話改 それぞれの意地と野望

二話連続です


 それは上杉軍が谷柏楯に到着する少し前の日。

 夜もだいぶ更けていた頃、揺らめく蝋燭の火を頼りに伊達家当主伊達輝宗は最上からの書状に目を通していた。

 かつては色々と揉めたりしていたが、輝宗が妻を最上からもらい一応の和睦をした。その最上は今、上杉の侵攻を受けている。

 当然助けるべきである。反故にすれば伊達の家名は落ちることとなる。

 しかし、最上と伊達が組んで戦ったとして同じかそれ以上の兵力が揃ったとしても結束力ではお互いに上杉軍の足元にも及ばない。

 どちらも先の内乱からようやく領内統一を果たし、未だに誰が味方なのかもわからない状態である。

 一方の上杉は反乱分子を徹底的に粛清して皆が上杉の忠臣である。さらに上杉軍の先の蘆名との戦いぶりに畏怖している豪族もいる。現に最上では一部の豪族が上杉に付くことを誓っている。だが、最上が負けて行くのを指を加えて見ておけばいずれは間違い無くこちらも上杉の餌食となる。

 とはいえ、伊達家単独での対抗は難しい。

 

「父上、入りますよ」

 

 入って来たのは輝宗の娘伊達政宗と輝宗の信頼が厚い老臣。

 そして、政宗の幼なじみで将来嘱望の優秀な三人の若き将達。五人が入って来たのを確認し、呼んだ理由を話す。

 それが終わると老臣の鬼庭左月が積極的に口を開く。

 

「当然救援に向かうに向かうべきです。最上と結んでいるのはこちらが奥州を統一する為の物。今は協力関係を続ける為にも援軍を向けるべきです」

 

 輝宗の野望は奥州を奪る事、そのための最上との縁戚関係である。横槍を突かれる心配を無くしてこそ、奥州に集中する事が出来る。

 だが、はっきり言えば最上との関係はそれだけでそれ以上の物は無い。ただ利用し合っているだけだ。

 

「輝宗様、私は左月殿の意見には反対です。最上が負けたらといって上杉はこちらに直ぐには来ないでしょう。今年の冬前に山形城を落とすことで精一杯の筈です。兵を出さずにこのまま力を蓄えるべきです」

 

 幼なじみ四人の中で一番の切れ者に育った片倉景綱、確かに冬の到来は上杉軍の懸念材料だ。

 雪が振る前に事を運ばなければ上杉軍はただの無駄足を踏んだことになる。

 そうなると伊達家は援軍に行かなかったことになる為、盟約違反と弾劾される。

 

「小十郎の意見はもっともだけど、動かないと伊達が簡単に人を裏切るって言われるよ」

 

 赤髪の長身女性、鬼庭綱元は苦言を呈す。

 知勇兼備にて鬼庭左月の娘である彼女は景綱の意見に肯定と反対の考えらしい。

 基本的に私的なところでは四人は上下関係が無く幼名で呼び合っている。

 

「成実、お前も何か言ったらどうだ?」

「政宗、これに意見を求めるのは無意味だぞ」

「えぇ~私だってちゃんと考える頭はあるよ~」

 

 輝宗の苦言に駄々をこねる子供のような表情できゃいきゃいと言っている少女と言える体格の人物、伊達成実。この中では一番の武勇を持っているが、そっちに才能が行ってしまい馬鹿ではないが、一番頭は弱い。

 

「じゃあ、成実はどうしたいんだ?」

「敵だと思う方に攻める!」

 

 成実以外の全員の溜め息が部屋中に広がる。間違ってはいないのだが、敵をいつ討つか、どちら側に付くかを考えているのでそれは論点から外れている。だが、どちらもいずれは敵になるのも確かだ。

 最上を討つことも輝宗の妻も認めている。

 そして、上杉は当然討つべき相手、今はどうするべきか迷う時である。

 

「政宗、さっきから黙っているが、そなたはどう思う?」

 

 先程から話し合いに茶々を入れていて何も話そうとしていない政宗は輝宗に話を振られると目を瞑りじっと考えて、そして輝宗に聞いた。最上はいずれ倒すべきか。家の為に母の実家を討っていいのか。上杉は伊達を狙っているのか。どれにも輝宗は首を縦に振った。

 それに基づいて発表した政宗の考えを聞いてここにいる誰もが思った。彼女は本当に伊達の跡継ぎに相応しく育った。

 

 政宗は最上領の谷柏楯近くの平野に立つ。

 最上が勝とうと上杉が勝とうと伊達家には関係ない。最後に勝つのは自分達。勝利を横取りし、奥州だけでなく東北一帯。天下を奪るのは我ら伊達家。他の家を全て跪かせる。

 独眼竜は野望を実現させるべく攻撃命令を出した。

 綱元と成実の二人を先頭に伊達は上杉、最上両軍の兵に斬り込む。

 二人の背中を預けられた左月も負けじと武器を振るう。三人が向かっているのは一番混戦となっているであろう中央の地、そこでは兵の悲鳴がよく響いている。

 上杉軍に押されていた最上軍の殿が伊達を自分達の目の敵と言わんばかりに斬りまくっていた。中でも気を吐いていたのは最上義光と池田盛周。

 二人は上杉軍の将達の働きも霞ませるような武勇にて伊達軍を寄せ付けない。

 上杉軍が近くに居るが、それらには見向きもせず、伊達軍に向かってくる。利用し合う関係であったということは分かっていただろう。

 だが、伊達軍がこうくるとは思わなかっただろう。

 

「そこに居るのは最上義光と池田盛周と見た。いざ、尋常に勝負!」

 

 伊達軍若き二将が突っ込む。

 武で語り合い彼女達を捕らえて真意を聞けばいい。

 最上の二将は伊達の二将の叫びに応えるように得物をぶつけ合う。

 盛周と綱元、義光と成実、二組の対戦が始まる。

 盛周は先程の謙信との一騎打ちで身体は不十分であるとはいえ今逃げては義守に危害が及ぶ。それ故に体を張って彼女を守らんと動いている。

 その意気は伊達の二人にも伝わってくる。だが、政宗より出陣前に伝えられた言葉を思い、心を鬼にする。

 

「天下への為なら最上を討つ事は仕方の無い事だろう」

 

 竜となる彼女の歩みを止めることは許されない。

 自分達が武勇で政宗の天下への道を切り開くのだ。この戦はそのための第一歩である。

 当主は未だ輝宗であるが、彼自身もあの日以来から政務や軍事の殆どを政宗に任せている。その証拠に彼はこの戦に参加していない。

 当主の代理として政宗を総大将として軍を派遣しただけだ。

 わざわざ援軍として当主自ら来ては逆に怪しまれる。また、こういったところでもまだ政宗が他家に名が売れていないこともいい意味で影響した。

 

 伊達政宗と片倉景綱は戦場を見つめている。思っている以上に上杉軍の対応が早い。伊達軍を迎撃しつつ包囲を突破しようと迅速に動いている。

 

「流石だな」

 

 軍師である景綱は良く戦況を理解して一人呟く。それ程上杉軍は見事に対応しているのだ。最上は既に撤退を始めていて抵抗らしい抵抗をしていないようにも見えたが、未だに残って応戦している将兵もいる。指揮している人物には見覚えがあった。

 

「最上義光と池田盛周か。その配下の兵も流石だな……簡単には下がってくれない」

「まぁ、そう急くことはないだろう。慌てずに攻めるのだ」

 

 そんなに慌てることはない。だが、それは景綱がついた嘘であった。急がなければ包囲を突破される心配もある。上杉、最上を屈服させて羽州南と越後。そして、蘆名領を全て伊達の手中に納める計略には謙信と義守の身柄がいる。義守は既に撤退したが、謙信はまだあの中にいる。

 羽州は取れなくても上杉軍の将と領地が入って来る。想像して心が踊らない人などいるわけがない。

 東北を制圧して中央に攻め込むのだ。政宗の掲げる野望は膨らむばかりである。

 乱戦の中で、首や手足は舞い散り、敵兵の上げる苦しみの声を耳障りと言わんばかりに息の根は次々と絶えている。上杉家自慢の将達に途中退場の文字は無い。

 敵ながら見事と言う他ない。

 徐々に政宗の目が中央に向けられていく。左右どちらかから側面を突けば、敵を混乱させられるかもしれないが、乱戦の波が徐々に強くなり、兵を動かすとそこから崩れるような気がする。

 そう判断し、政宗は変わらずに戦況の変化を伺う。

 軍師から提案も無いため、判断としては間違っていないのだろう。

 政宗はさらに戦況の観察に努め続けた。

 

 龍兵衛は数十の兵を率い、戦線を迂回して、一直線に馬を走らせていた。

 狙いは伊達政宗。彼女を倒すことでこの戦の終止符を打つ。

 今でなくともいずれ上杉家は伊達を纏めて配下に納める。東北を完全に押さえるには南部や葛西、大崎などがまだいるが、最上と伊達の二大勢力の二つを取れる好機を逃す手はない。

 政宗を探すことに集中する。  

 馬を並べて戦況を見つめる二人の女性。こちらにはまだ気がついてない様子だ。

 一人は神社の巫女のような格好をした黒髪の女性。もう一人は黒い甲冑を身に纏っている女性。よく見ると右目に眼帯をはめている。

 その姿を見た瞬間、彼は腰にある袋に手を伸ばした。

 

「伊達政宗殿とお見受けする。いざ、尋常に勝負!」

 

 彼は得意技である投石攻撃を仕掛ける。腹部に投げつけて政宗を気絶させる狙いだ。

 

「むっ?」

 

 政宗はそれを避け、こちらを見る。

 初動を外したが、構わずに龍兵衛は一直線に馬を走らせ、迫る。

 

「政宗、退いていろ! ここは私が」

 

 片割れの巫女姿の女性が言うが、政宗は首を横に振って更に一歩前に出る。

 龍兵衛は一気に間合いを詰めずに一旦止まって政宗の目をじっと見る。

 

「お前は何者だ?」

「上杉家が家臣、河田長親。伊達殿とお見受けしたが、如何か?」

「如何にも私が伊達政宗だ」

 

 一瞬の静寂の後、政宗から口を開いた。

 

「上杉は何故に此処まで来た?」

「天下統一の為」

「足利幕府がまだ健在だというのに関東管領の分際で逆賊の行いではないのか?」

「権威はあれど、乱世を治める力が無い。這い上がることも可能ですが、それは難しいです。伊達殿、あなた方こそ最上との盟約を破り、要らぬ戦をしようとしているようですが、それは何故です?」

「乱れた東北を伊達の名の下に平穏にする為、最上は内乱が絶えず義守には鎮める力が無い。故に私は立ち上がったまで」

「そして、天下に羽ばたく竜となると……結局は変わらないではありませんか」

 

 本心を見事に見抜かれ少し驚愕するが、すぐに平静に戻り少し侮蔑を込めた声を出す。

 

「関東管領ならば大人しく関東を平定しておけばよかったのではないか? それが何故東北に来る? それとも北条が怖いのか?」

 

 政宗の後ろから笑い声が聞こえてくる。上杉の中の一部が憤り立って飛び出そうとするが、龍兵衛はそれを手で抑える。

 

「確かに北条は関東の脅威ですが、古来より背後が危ういままにしておくのは愚の骨頂。まずは地固めということです」

 

 一泊置くと龍兵衛は如何にも楽しそうな顔を浮かべる。

 

「故に鼠のような小さな脅威でも獅子は全力であいてにしなければならないのですよ」

 

 敢えてどこの家なのか言わなかったのは龍兵衛の精一杯の敬意であった。

 それでも、伊達軍にとっては聞き捨てならない台詞だった。

 

「つまり、我らは鼠だと言いたいのか?」

 

 笑みが一変して、額に青筋が立っているのが龍兵衛には想像出来た。それが彼にはとても面白く感じてしまう。

 

「ええ、その通り。ちょろちょろとどっちつかずで美味しい物はさらっと持って行くやり方はまさに鼠」

「貴様! 政宗様を愚弄する気か!」

 

 龍兵衛のよくわかったと言うような物言いに隣にいた女性がくってかかる。龍兵衛は平静さを失わずについでにと名前聞く。そして、彼女が答えると息を吐いた。その名を彼はよく知っていたからだ。

 

「では、この策を考えたのは片倉景綱殿。あなたですか? いや、先程の物言いからして政宗殿が立てた策に違いないですね? このような策を弄してまで最上を取りたかったので? ならば反対しなかったあなたも鼠同然ですね」

 

 政宗も景綱も動かない。怒りを通り越して無の感情になっている。だが、心ではあの者を倒して首を掲げてやりたいという感情が今にも爆発しそうなのは見てとれた。

 いよいよ政宗が手を挙げ、攻勢を命じようとした時、不意に背後から悲鳴が聞こえてきた。更に蹄の音が響き渡る。

 

「申し上げます! 背後から謎の軍勢が我らを襲っています!」

 

 政宗が慌てて背後を見ると謎の騎馬隊が後背の兵を襲っている。

 

「いやはや、思ったよりも時間が掛かりましたか」

 

 龍兵衛が両手を挙げて、おどけてみせる。

 

「寒河江殿も最上軍の目を縫って来るのは大変でしたでしょう」

 

 政宗は驚き、龍兵衛を見る。

 苦虫を潰したような顔をして政宗は龍兵衛を睨む。

 

「貴様、最初から分かっていて……」

 

 景綱が睨んでくるが龍兵衛は気にせずにおどけた仕草を変えることはない。

 

「伊達が来る気配を優秀な方達が教えてくれたので万が一ということで、まさかこんなに上手くいくとは……」

 

 そこで彼の表情はすとんと真顔になった。

 

「なんとも嬉しい計算外です」

 

 そして、今度は龍兵衛の手が伊達軍を指した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十四話改 共感

 三日前。

 謙信に集められた軍師達が揃っていた。

 呼ばれた理由は伊達の援軍がこちらに進発している為にどう動くべきなのかというものだった。

 皆、予測していた。いつ来るかは不明だったが、対応策はある。

 問題は最上軍に対して完全勝利することが難しくなったことだ。

 数で向こうが同じかやや上になると結束力が高い上杉軍とはいえ簡単にはいかない。懸念している冬の到来は刻一刻と迫っている。

 ここで完全勝利を納めずに長谷道や山形城に籠もれる程の兵を最上が残してしまっては今年中に勝つ確率はかなり低くなる。

 もう迷ってはいられない。

 軍師達は密かに服従を誓っている大宝寺と寒河江へ使いを送り、伊達軍の背後を突いてもらうことを提案した。

 謙信も了承し、直ちに実行に移された。三人はもうこの時点で気がつくことも出来たが、当然だろうと思い、気付くことが出来なかった。

 もし、ここで気付いていればあのようにはならなかっただろう。 

 寒河江達はすぐ動いた。大宝寺は山形城へと向かい、こちらにやってきた。

 もちろん全て軍師達が指示通りの動きである。

 

「反撃の時間だ。伊達政宗を捕らえろ!」

 

 龍兵衛の指は、真っ直ぐに夕日が差す政宗の姿を指す。

 それに呼応した兵士たちは突撃を始めた。

 最上軍に勝利したところで伊達軍が到来したことは偶然だった。

 中央では義清がようやく包囲陣に穴を開けようとしていると報告が入ってきた。元々伊達軍の備えであった為、こちらに向かわずに上杉最上軍を包囲する伊達軍に反応が遅れてしまった。

 どうにか景勝の指示で急いで謙信を救うべく敵中に入ることが出来た。そして、そこで彼女が見たのは想像していた伊達軍にやられる上杉軍ではなかった。

 伊達軍相手に気を吐く上杉の勇将たちは端から見れば、気分が悪くなるほどの屍を積み上げている。

 周りの兵士もそれに続かんと敵を斬っていく。包囲されてもその士気が落ちている様子は無い。

 仲間が暴れ回っている姿を見ていて、胸が騒がないはずがない。そこに義清の援軍が来たことが知らされると包囲されていた兵士達は歓声を上げた。

 だが、さすがの伊達軍も落ち着いて対処しようと試みている。

 

「皆怯むな! 我らが上杉軍を包囲しているんだ! かかれ! 謙信を捕らえろ!」

 

 鬼庭左月であろう老将が前線にて指揮を取っている。

 早く決着を着けたいのだが、上杉軍の頑強な粘りの前に肝心の謙信が何処にいるのかさえ把握出来ていなかった。

 左月は謙信の勇猛な性格を考えて中央にいると考えて中央に多くの兵を投入したが何処からも謙信らしき人物が居たという報告がない。

 本陣だろうかという考えも浮かんだが、すぐに無いと判断した。

 斥候から本陣に謙信は居なかったことはもう聞いている。

 消去法で考えると側面しか無い。左月は陣を変えて突貫を仕掛けて側面を突こうとしたが、そこに綱元達が血相を変えて前に出て来て彼の動きを止める。

 

「父上! 急いで撤退を!」

「何故だ! この機を逃してどうする!?」

「左月殿、それどころじゃ無いよ! 梵天丸の居る所が!」

「なに!?」

 

 左月が見ると政宗の軍は挟撃されている。

 数は多くないが、完全に虚を突かれていて混乱状態になっているではないか。謙信を捨てることになるが、次期当主を放っておくなど以ての外。

 

「やむを得ん・・・・・・退け!!」

 

 左月は苦虫を潰したような顔をして馬を反転させて駆け出す。

 敵に背を向けているのは何年振りだろうか。初めてかもしれない。歯痒い思いが左月の脳裏によぎった。

 

「ん、なんじゃ? 敵は退いて行くぞ」

「義藤殿、あれを見るのじゃ」

「あ~! 龍ちんったら自分だけ美味しい所持って行こうとしてない!?」

 

 別働隊では謙信がすぐに異変に気付いた。

 

「むっ? 敵が退いて行くぞ」

「謙信様、どうやら寒河江の援軍が到着したようです」

「謙信様! 今こそ反撃の好機です! 突撃命令を!」

「分かった。行け! 伊達軍を追撃しろ!」

 

 謙信の号令で上杉軍の反撃への狼煙は上がった。苦しい戦だったが後は仕上げのみである。

 

 

 龍兵衛は刀は持っているが前には出ない。

 寒河江の援軍が来るかどうかは正直わからなかった。あの挑発の時も覚悟は出来ていた。

 肩が砕け散っても景勝の居る本陣に行かせる訳にはいかないとそう考えていた。

 援軍が来た時には内心ほっとして膝から崩れそうになったのを叫ぶことで堪えた。

 自分にも幸運はあった。そう思った時、彼は現実に戻された。

 

「はぁああ!!」

「っ!?」

 

 龍兵衛に向かって一人が突撃して来た。政宗の代わりに龍兵衛を討たんと景綱が斬り掛かって来たのだ。

 伊達軍からすると普段の彼女の性格上珍しい事だが、彼女は龍兵衛に対する怒りを抑えられなかった。さっきの彼の人を喰ったような物言いが我慢出来なかったのである。

 

「我らが鼠だと・・・・・・貴様はどうなんだ!? 貴様も同じような物ではないか!?」

「では、貴方は伊達は鼠同然と認めるのですね?」

「なっ!? そんなことは一言も言ってない!」

 

 怒りに任せて刀を振って来る景綱の剣撃を龍兵衛はかわし、いなして隙を窺う。

 向こうが攻撃した時に出来た隙を見逃さずにそこを突くのが龍兵衛の得意とする技だ。そして、更に景綱の心理を抉る。

 

「あなたは軍師ですよね? 軍師は汚れて汚れて当主を潔白なままにするのが役目ではないのですか? 景綱殿?」

「・・・・・・」

 

 確かに自分は軍師だ。

 軍師たる者、自らが策にて当主を勝利に導くのが務め、たとえ汚れるような仕事も顔色変えずにやっていくもの。

 それが自分はどうだ。次期当主の政宗に先を越され盟約を破るという汚点を政宗に作った。作らせた。

 本来ならば自分が汚れるべき所だったのが、先程の龍兵衛との口戦でもうっかりと政宗が立てた策だと認めるような言葉を言ってしまった。

 敵に知らせるという完全な失言を行ってしまった。

 情を捨てて利を求める筈の軍師がこの体たらくでは主君の支えとなるのだろうか。

 

「潔白な軍師などこの世にはたして居るのでしょうか? 自分は居ないと思いますよ。軍師という職に就いた以上、自分達は汚れるべきです。貴方は・・・・・・変わるべきです」

 

 その台詞は心の中では何度も返ってくる。

 そして、邪念の入った景綱の攻撃に隙が出来た。それを龍兵衛は見逃さずに脇に入り込む。

 景綱の右脇腹にどすっという音がしただろうか。

 

「敵将、片倉景綱捕らえたり・・・・・・」

 

 呟くような声は伊達政宗にも届いただろうか。

 こちらに向かって来る。怒りの目を隠すこと無くおぞましい程の覇気を纏い、龍兵衛に向かっている。完全に殺気立っている。

 龍兵衛は腰を落として政宗の攻撃に備える。

 だが、それはある意味無駄となった。

 伊達軍の主力部隊が戻って来た。

 

「若! 御無事で!?」

「梵天丸、小十郎は?」

「居たよ。あそこに・・・・・・」

 

 綱元が指を指した方向には景綱が倒れている。それを見て一番に成実が駆け出した。

 

「小十郎の仇ぃいい!!」

「生きてんだけどなぁ・・・・・」

 

 そんな呟きが聞こえる訳無く、成実は龍兵衛に斬り掛かる。

 重い。

 景綱よりも身体が小さいのにもかかわらず一撃一撃が強い。隙を窺うもそんなもの成実には無く、龍兵衛は一方的に攻撃される。

 隙らしきものを見つけて必死に反撃するが、それも簡単にかわされる。

 避けること自体に苦ではないが、攻撃となると龍兵衛はあまり得意ではない。

 守りに徹して確実に成実の攻撃を観察する。必ずどこかに隙がある筈だ。だが、なかなか見つからずにしばらく斬り結ぶしかなかった。そうなるとあまり体力的には自信がない龍兵衛にはだんだん不利となる。

 

「せいりゃぁああ!!」

「しまった!!」

 

 成実の槍の重さに負けて刀が弾かれた。なんとか力を強引に使い刀は手離さないが、大きな隙が龍兵衛に出来てしまった。

 

「覚悟!!」

「くっ!!」

 

 体勢を持ち直して槍を防ごうとする。

 その強引な身体の動きに付いていけないところが一つあった。防ぐことは出来たがまた刀を弾かれる。その時だった。

 その音は成実にも聞こえたのだろう。成実も何の音か最初はわからなかった。

 動きを止めて間を取る。これは龍兵衛には持ち直す時間を与えるが、成実はそれよりも聞こえた音が気になった。

 一方の龍兵衛はまったく動かない。

 

「がぁあああ!!!???」

 

 そして、彼の断末魔のような声が周辺にまで響き渡った。そして、その声は上杉軍の将達にも聞こえた。

 

「龍兵衛!? 大丈夫か!?」

 

 追撃してきた本隊がやってきた。義藤が龍兵衛の異変を見て一番に駆け寄る。

 他の者達も徐々に集まって来た。

 

「片倉景綱殿です・・・・・捕縛してください・・・・・・」

 

 すぐに痛みをこらえて龍兵衛は動く左腕で身体を起こして景綱を指す。だが、肩を外した彼は歩くこともままならない。

 

「あやつを捕らえるのじゃ!」

 

 義藤がそう言うと呆然としていた兵士達がはっと我に帰って気絶している景綱を連行する。

 それを見て伊達軍の三人の将達も動き始めた。

 

「小十郎を取り戻すぞー!」

 

 成実の号令に兵士達も動き始めた。それを見た義藤は素早く龍兵衛を兵士達と一緒に後ろ下がらせるよう命じると、続けてやってきた秀綱と弥太郎と共に伊達軍の攻勢を防ぎに向かった。

 その後続々と将がやって来る。お互いが仲間を取り戻すため、負傷した仲間のために再び激戦が始まった。

 お互いの将達とそれに鍛えられた兵士達が一進一退の攻防を繰り広げる。

 

「敵の大将は確か輝宗殿の跡取りだったな?」

「ええ、政宗殿という方だそうです」

 

 謙信の近くにいた颯馬が口を開く。

 

「会ってみたいものだな・・・・・・」

「謙信様・・・・・・?」

 

 おそるおそる颯馬が謙信を見ると既に謙信の姿は無かった。

 

 

 お互いの兵が無秩序に倒され倒れていく。その中で謙信は単騎で敵を斬り捨てて政宗の前に立つ。突然の謙信の来訪にも政宗は眉一つ動かさない。

 

「何故に伊達軍はこのような真似を?」

「さぁ、貴殿なら分かっているのでは?」

「自らが築く天下の為か?」

 

 先程の龍兵衛と同じようなやり取りを政宗がしていると周りには伊達軍の兵が続々と集まって来る。

 謙信に襲い掛かろうとする兵達を政宗は制して更に続ける。

 

「如何にも、貴殿も同じことを考えているのか?」

「ああ、その通りだ。故に、誰かに譲る気などさらさら無いがな」

「奇遇だな。私もだ」

 

 そう言うとお互いに刀を抜いて斬り掛かる。大将同士の一騎打ち。周りの兵は見るばかりの観客。

 謙信は盛周と一騎打ちを繰り広げて伊達の包囲網を斬り抜ける為に自ら刀を振った。

 そして、この一騎打ち。勝てる物も勝てないような疲労が溜まっている筈だが、それを微塵にも感じさせない。

 

「ふっ!!」

「はぁ!!」

 

 それがどうしたと政宗と対等に渡り合う。顔色一つ変えずに刀を振るい目の前の政宗に斬り掛かる様。その姿はまさしく軍神そのものである。見る人は伊達軍の兵ばかり。

 それでも謙信と政宗の戦いは皆を魅了した。

 お互いに刀を振るい相手の剣撃を避けて斬り掛かる。

 見事なまでに無駄な所が無い演劇のような動きに目を見張り、見ているだけでここが戦場であることを忘れてしまう。

 越後の竜と独眼竜の一騎打ちが始まった。

 その戦いを霞ませるような戦いが他でも行われていた。

 

「剣聖と名高い上泉秀綱殿と合間見えることが出来るとは・・・・・・この左月、光栄の至りである」

「ふっ、そう言わずに、私も恥ずかしいではないですか、こちらこそ左月殿も伊達の宿将、お会い出来て光栄です」

「北山義藤・・・・・・聞いたことはないですけど、何ともその覇気は油断ならないですね」

「ほう、妾の相手はそちか・・・・・・お主もなかなかの力を秘めていると見た。楽しめそうじゃのう」

「あらぁ、あんたがあたしの相手ぇ? あたしは前田慶次っていうのよろしくぅ」

「うぅ~なんかその身体を見ると負けられない気がする」

 

 三組の戦いがゆるりとした口調で言葉を交わす、そして舞い上がった。

 

「「「「「「はぁああ!!」」」」」」

 

 秋の長い夕暮れ時の空、砂埃を上げて六人の両軍自慢の猛将の叫びはどこまで聞こえたであろうか。

 

 

 

 

 

 

 謙信と政宗はお互いに何かを得ていた。田舎と言われてもおかしくない越後や奥州から天下を取る。口で言えば簡単だが、その道はひどく険しい物となると知っている。

 だが、この乱世を変えたいという気持ちは二人にあった。その為に狙う場所が最上領という一緒の場所になり、こうして巡り合った。

 謙信は信玄並みの脅威を政宗に感じ、この勝負が心底楽しくなって来た。

 政宗も楽しくなって来ている。彼女は謙信のような宿敵は居ないが今それを得た感覚がある。

 そして、二人は思った。お互い仲良く出来るのではないだろうか。

 乱世にあってこんなことを敵に思うなんて思わなかった。心を許せて、自らと同じ方向に向かう家臣達が居る。だが、分かり合えるであろう人物がここにもいる。しかも家臣ではなく、他家の当主となどとはお互いに夢にも思わなかった。

 また一人、分かってくれている者が居た。

 それでも二匹の竜は争うことを止めない。

 

 決着の時は刻一刻と近づいて行く。無情の時間が止まることは無いが、二人はそれを逆に今か今かと待っているように見える。

 刀が一本飛んだ。周りの兵が我に帰る。

 二人を見る。一方が首に刀を一方がそれを抵抗無く受け入れている。

 兵はそれを見て顔色を変える。動こうとする兵がいる。だが、それは自分達の当主によって止められた。

 もう一人は刀を鞘に納めて言った。

 

「我らと共に歩まないか? 伊達政宗よ」

「私が当主ならば喜んで、と言いたいところだが、生憎私は当主ではない。父輝宗を裏切ることは出来ない」

「ならば、行くが良い」

「・・・・・・宜しいので?」

 

 命を取ることは無いと思っていたが、ここまで迷うことなく言った謙信に政宗はかなり驚いた。

 

「何なら、そなたを盾に降伏を迫るのもありだがな」

「それは貴殿の信義に合わないと?」

「そういう風に生きてきたからな」

 

 政宗は笑みを浮かべた最後の言葉には謙信の人間味が表れている気がした。

 

「小十郎・・・・・・いや、景綱は・・・・・・」

 

 それが今一番気になることだ。

 

「彼女は解放することは出来ない。だが、生かしておくことは約束する。それに不自由にはしない。案ずることは無い。私から命じておく」

「感謝しよう」

「では、また会うとしようか」

 

 お互いに頷き合いそれぞれの軍に戦の終了を命じた。二人は互いに健闘を讃え合い。握手を交わし帰って行った。

 終わりが命じられるとそこからは早かった。

 一騎打ちを演じていた将達はお互いの武を認め合い、再戦を誓い合って撤退して行った。

 この時、夕日が沈むか沈まないかの一番綺麗な時間帯であった。

 

 

 

 

 

 

 一人で自らの怪我と戦う龍兵衛が陣でうずくまっていた。

 

「龍兵衛、大丈夫?」

「ええ・・・・・・まぁ・・・・・・ああ・・・・・・くっ・・・・・・」

 

 とても大丈夫には見えない。肩が外れたまま歩くのは龍兵衛にとって生き地獄その物だった。

 彼が陣についた時に景勝は彼の変わり果てた姿を見て目を疑った。

 普段から自分の感情は表に出さない筈の彼が痛いという感情を思い切り出している。

 景勝は駆け寄って肩を貸そうとするが「結構です」と龍兵衛は言って自力で陣幕に入り、座り込んだ。

 景勝が外れた右肩にそっと触れると完全に肩の骨が陥没している。中がどうなっているのか想像するだけで気分が悪くなるような状態だ。

 帰って来た将達も心配そうに彼を見ているが、幾分治し方が分からない。

 龍兵衛が肩の痛みから解放されるには方法は一つしかない。それを彼は知っている。

 龍兵衛はふぅと息を吐くとふらふらと立ち上がり、軍議を行う場所に向かう。そこにある机の角を怪我をしている無理やり右腕を上げる。

 颯馬達が慌てて止めようとするが、龍兵衛はこれしかないと言って聞かない。

 彼は、ここにいる謙信を含めた上杉軍の面々の前で皆が目を逸らしたくなるようなことを始めた。

 覚悟を決めたようにもう一度息を吐くと一気に外れている右肩を机から離さないまま身体を屈める。

 同時に聞くに耐えない断末魔のような声を今一度上げる。

 

「うあぁぁあああ!!!」

 

  ぼこっという聞こえた音は先程成実が聞いた音と同じ音であった。そして、今度は元に骨が戻ったのだ。

 肩で息をしながら龍兵衛は右肩に手をやると完全に元に戻ったことを確認してがっくりと地面に倒れ込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 上杉軍はこの戦で二千の兵を失い、負傷兵を入れると五千の損害を受けた。

 上杉軍の被害の殆どが伊達軍によるものだが、上杉軍は最上軍にそれ以上の損害を与えた。ちなみに伊達軍は八百の損害だそうだった。

 形上では伊達の勝ちになった。

 谷柏楯に入ると龍兵衛は手拭いで処置していた肩を包帯でしっかりと三角巾を作り、それに右腕を吊した。

 

「これで二度目か・・・・・・」

 

 平成の世では三回やったらもう手術に踏み切るしかないと通告されていた。肩の寿命は最後の一つとなった。

 終わりまでもってほしい。上杉の天下統一までに自分が生きているかは知らないが、最期まではもって欲しい。

 だが、切なる願いが叶うかはわからない。

 だからこそ龍兵衛は自分自身に腹が立った。

 訳も無く。それがただの八つ当たりだと分かっていながらも大事なところで言う事を聞かない身体が龍兵衛は憎かった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十五話改 沈黙

 山形城を囲む上杉軍。

 負傷者が多く出たとはいえ、最上だけは屈服させるのが最低目標である。

 兵数は寒河江と大宝寺のおかげで勝っており、山形城から打って出る気配もない。両家は早くも一門や家臣を人質に出して忠誠を誓う姿勢を示した。

 だが、季節は秋と冬の狭間となってきた。地元の者によればに今年の冬の到来は近いため、もう猶予はない。

 最上軍は被害が多過ぎたため、長谷道には籠もれる程の兵力が無くなり、山形城に兵力を集中させた。

 だが、すでに城が大宝寺に包囲され、足を止める訳にもいかず、夜を待って敵中突破を図った。

 成功したが、ここでも被害を被ってしまった。

 城内では、兵の士気はかなり落ちており、逃亡を図る者もいるそうだ。

 

「最上のことですから、次の一手があると見てもいいと思います」

 

 軍師たちと謙信の話し合いの場。

 龍兵衛が強い口調で、謙信に訴える。

 空は秋晴れと言ってもいい程澄み渡り、雲一つも無い。肌寒さが身に染み始めているが、まだ太陽光線に当たればどうにかなる。

 

「どこかとまた盟約を結ぶということか? 一体どこが今の最上と?」

 

 兼続は首を捻っている。

 伊達が撤退し、東北の中で援軍を出す余裕があり、上杉軍と渡り合える勢力はほとんど無いと言って良い。

 この情勢では如何に負けないかが勝負となり、何としても冬を越せるように時間を稼ぎたいとも思っているだろう。そのため、龍兵衛は他勢力に援軍を頼むしかない状況に追い込まれていると考えていた。

 

「なら、どこと最上は組むと思う?」

「安東家です」

 

 颯馬の問いに謙信へ向けて、答えを言う。

 部屋内の雰囲気が一気に自身に対して悪い方へと向かっているのが分かる。

 

「本当に安東が来るのか? 確かに最上が負ければ、北羽州は落ちたも当然だが」

 

 これまで傍観していた謙信も加わり、自分の考えを言うに言えなくなってしまった。

 気になっているのは颯馬だけだった。

 定満も「うーん」と首を捻っている。

 考え過ぎかもしれないと思ったが、何か嫌な予感がする気は拭えない。

 

「それよりも、早く山形城を落とさなければならない。明日の夜明け前に城に攻め入る。策を考えてくれ」

 

 謙信がそう締めたため、龍兵衛も頭を切り替え、皆と一緒に山形城攻略の策を練る。

 山形城は奥羽一の規模を持ち、二の丸は東西南北すべての門が巨大で、とりわけ東は大手門が二つある。

 東は虚を突いても追い返される危険性が高いから除外した。

 北と南は上杉軍の布陣している菅沢にある富神山からは遠く、規模が広い山形城外で素早く軍を動かすことは難しい。

 

「でも、そこを突くの」

「ええ、俺もそう思います。問題は兵達の疲労ですか……」

 

 颯馬は眉間にしわを寄せる。上杉軍は寒さと内乱で荒れた道を進んでおり、疲労が溜まっている。

 

「やむを得ませんね……大宝寺が酒を献上して来ています。自分が兵達に振る舞い、気を紛らわせましょう」

「龍兵衛、私も手伝う。無理をするな」

「皆が動いているとね。俺も動かしたくなるんだよ」

 

 冗談のつもりで言ったが、この発言は完全に失言だった。

 肩を吊ったままである彼の姿はあまりにも痛々しい。

 定満から正座を命じられて三人から「自分の身体を労れ」と説教を喰らうことになった。

 謙信と景勝も何故か加わり、龍兵衛は足の感覚が無くなるまで座っていた。

 彼自身、もう二度と味わいたくなかったあの痛みをここで味わうことになるとは全く思っていなかった。

 脱臼した時の一人でも治せるやり方を教えてもらったが、あの治し方はこの時代の人から見ると正気の沙汰ではなかったらしく、治した後も全員から「あんな治し方があるか!」と後で色々と言われた。

 おかげで、定満が前線の指揮を代わりに、龍兵衛は今回の戦では後方支援の責任者となってしまった。

 説教がようやく終わり、外に出るとすっかり空は夕暮れに変わっていた。

 ここ数日、肌寒い気候が続いている。

 少し前までは暑く感じるこもあったが、この変わり様。

 厚着をしているが、それでも寒い。

 風が吹いていないだけまだましだが。

 龍兵衛は冬の到来までの期間を計算しながら歩いていると後ろから声を書けられた。

 

「龍兵衛、大丈夫?」

 

 景勝が小さな声で尋ねてくる

 

「大丈夫ですよ。ま、刀は振れませんけどね」

「じー」

「(信用されてないな、俺)」

 

 景勝の目が龍兵衛を本当のことを言えと言っている。

 脱臼は肩が本来あるところから外れる怪我であり、誰もがなる可能性がある。しかし、戻してしまえば、痛みは大丈夫だが、言うまでは解放してくれそうにない。

 

「少し、まだ痛みますけど……ま、軽く動くことは出来ます」

「ん。無理はしない。景勝も手伝えることする」

「とんでもない。景勝様の手を煩わせることはありませんよ。それより、どうして自分の怪我を知っていたのですか?」

 

 景勝様は自分が出陣した時、こう言った。

『怪我があるのは分かってる』と。

 龍兵衛は教えていない為、いつ知ったか分からない。

 ちょうど良いと思い、尋ねると簡単に話してくれた。

 春日山で稽古に張り切り過ぎた龍兵衛を労ろうと付いて行った際、襖の向こうで、右肩を押さえて痛みをほぐしているのを見たらしい。

 脱臼後の痛みは、天候や体調でやってくることもあり、酷使すれば言うまでもない。

 偶然とはいえ、ちょうど良く見られていたとは思わなかった。これからは襖への気遣いをしようと思いつつ、意識を現実へと戻す。

 

「とりあえず、明日は景勝様も自分と一緒に後陣で全体の指揮を見守るんですよね? 宜しくお願いしますね」

「(ふるふる)龍兵衛がしっかり見ていれば大丈夫」

「とんでもない。自分とて一人ではとても……それにこの身体では戦になると不自由ですから」

 

 そう言うと景勝は胸を張って「頑張る」と言った。

 少しかわいいと思ったが、すぐに邪な考えと脳内から削除する。

 龍兵衛は会話が終わったと判断すると「明日は早いのでもう寝ます」と言い、陣幕に戻る。 

 景勝は残念そうな顔をしていたが、特に追ってこなかったため、気にせずにおいた。

 

 翌朝、上杉軍は山形城の攻撃を開始した。

 東から見える煙から段蔵率いる軒猿の工作部隊が東に目を向けさせる為、大門への放火が成功したと分かる。

 現場では赤黒い炎が轟々しく燃え、実行犯が見つからずに最上軍は混乱しているに違いない。

 兵数が少ない最上軍は城門ごとに兵を置ける状態では無く、富神山に近い西に兵力を集中させている。そのため、正反対の最も守りの堅い東に襲撃を掛けられ、混乱するのは必定である。

 だが、実際の前線では上杉軍の兵が北から攻めている。

 今頃、二の丸の不明門を突破した頃かもしれない。

 龍兵衛は目立つ三角巾を外して右腕を全く動かさないように内側を包帯で固定して、戦況を見守っている。

 馬には乗れるが、それ以上のことはしないように颯馬や兼続からは釘を刺され、景勝は隣に立って、戦況と一緒に龍兵衛の行動をずっと見ている。

 

「(完全にお目付役……)」

「(じー)」

「水を飲みに行くだけです」

 

 龍兵衛は様々なことに気を使わなければならないため、余計な疲労が溜まっていく。

 早く戦が終わって欲しい。

 そう思っていると城の方から歓声が聞こえてきた。

 報告によると不明門を突破し、上杉軍が城内に雪崩込んだらしい。

 これで後は本丸のみとなった。龍兵衛達も三の丸に入り、城を見上げる。本丸は天守が無い変わりに御三回櫓がある。 

 ここまで来れば、最上は降伏するしか生きる道がない。

 謙信は攻撃を一旦止め、降伏勧告の使者を出した。これで最上軍が降伏すれば、今回の戦の最低目標が終了である。

 龍兵衛は後詰めの指揮を執りながら、万が一の攻撃に備えて準備を怠らないように兵達に指示をする。 

 

「敵方、降伏勧告を受け入れました」

 

 約一刻(二時間)後に戦の終わりを告げる報告が届き、本陣の張り詰めた雰囲気が少し和らいだ。

 

「景勝様、最上軍は我々に降るとのことです」

「ん、分かった。お疲れ」

 

 龍兵衛はにこりと笑顔で応える景勝に胸が打たれるような感じがしたのはその時が初めてだった。

 今まで気がつかなかったが、景勝を見て、頭がよく働かなくなっていた原因はこれだったと悟る。

 無くしていた、無くしたかった感情が蘇って来た。それは過去の龍兵衛に付きまとい最後には悲劇を呼んだ感情である。

 

「?」

 

 景勝は眉間にしわを寄せたままこちらを見る龍兵衛を不思議そうな顔をして見てくる。

 我に返るとすぐに何でもないと首を横に振り、城の方へと視線を戻す。

 自覚してしまった。龍兵衛は今後、景勝に対応出来るのだろうかと不安を覚えた。

 

「(大丈夫だろう)」

 

 何故なら龍兵衛はとうにその感情による、それ以上の悲しみを知り、更に見たくもないことが起きるかもしれないと分かっているのだから。

 

 上杉軍は悠々と山形城に入った。

 最上義守は少女と言うべきだろう風貌で謙信に頭を下げた。

 謙信は羽州の大名である最上が傘下に入れば、他の国人衆への良い習いになると考え、降伏した全員の助命は約束され、上杉軍傘下に入った。

 義守は自分よりも家臣や民の命を守る人という評判は本当であり、家臣の命を保証すると謙信が言った時、彼女は自分のことのように喜んでいた。

 そして、最上の家臣達も全員が上杉に入ることには不満は無いらしいようだ。

 先の戦で散々に叩かれ、抗う気力も戦力も尽きたのだろう。

 調略に応じた寒河江と大宝寺は本領安堵とそれぞれに恩賞として一つずつ郡を追加することになった。

 彼女達二人は最上に冷遇されていたのが不満だったらしく、その恩恵に強く感謝していた。

 そして、これからが軍師は一番忙しくもある。

 

「いくら人がいないからって……」

「我慢してくれ颯馬。定満殿は兼続の手伝いに行ったからお前しかいないのだよ」

 

 龍兵衛が颯馬と一緒にやっているのは、山形城城下町の資料の整理である。

 規模だけに龍兵衛だけでは間に合わないので颯馬に手伝ってもらっているのだが、彼にも仕事がある中で時間を削ってもらっているため、不満たらたらである。

 

「今日は氏家殿が手伝いに来てくれるそうだから失礼の無いようにな」

 

 龍兵衛の言葉に颯馬は首を振る。

 氏家定直は最上軍の最年長で軍事から内政までに携わって来た最上の重鎮中の重鎮である。

 

「失礼します。河田長親殿と天城颯馬殿はこちらでよろしいでしょうか?」

 

 噂の方がやってきた。直ぐに入室の許可を出すと氏家が入って来た。

 白髪の髪を綺麗に纏めて手入れは髭にもきちんと行き届いている。

 二人は交渉の時もいたと記憶していたが、礼儀正しくてそれでこちらを緊張させない独特の雰囲気を持っている。

 お互いの自己紹介を済ませると仕事を再開する。

 丸一日かかると思っていた作業は半日で終了した。

 やはり、城のことをよく知っている氏家が加わっただけで、非常に充実した仕事運びになったのは気のせいでは無いようだ。

 一段落着いた頃に氏家が持って来た茶菓子とお茶で一服する。

 後は、商人の情報を龍兵衛で把握し、隠し財産が無いか確認するだけとなった。ここまでくれば、数刻もあれば終わる分量で、颯馬も自身の仕事に集中できる。

 集中力が切れる前に再び作業に戻ろうと氏家に声をかけ、颯馬を解放しようとした時だった。

 外から小姓が二人に謙信からの言伝で、すぐに集まるようにと伝えてきた。

 小姓はすぐに向かうと言うと別件もあったのか、急いで去って行った。

 

「何事だろうか?」

「さぁな」

 

 龍兵衛は颯馬の問いに首を捻る。

 一旦、作業を中断すると氏家に伝え、三人揃って部屋を出る。

 二人は後程、再開時に声をかけると伝えて彼と別れると謙信の下に馳せ参じる。

 そこで、定満と兼続も加わり、衝撃的な情報を伝えられた。

 安東愛季が上杉に降伏を申し出たのである。

 

「まさか、降伏までするとはな」

 

 謙信も最初に聞いた際にはかなり驚いたらしい。

 軍師たちは少し顔を見合わせた後、颯馬が口を開いた。

 

「何か条件は?」

「仔細は全て我らに任せると」

「随分と下に出ましたね」

「颯馬の言う通りだ。あまりにも出来過ぎている気がしてならない。定満、いかにすべきだ?」

「受け入れるべきなの。追い返すと周りに心象が良くないの」

「他の者も異論は無いか?」

 

 龍兵衛は他二人と揃って頷く。

 安東への違和感は拭えないが、定満の言う通り、諸大名へ上杉が降伏を許さない者と思われるのは良くない。これを逆手に取ることが出来れば、こちらにとって都合が良い。

 

「よし。兼続、使者に降伏を認める故、十日以内に安東自らこちらに赴くように伝えろ」

 

 謙信はそう言うとこの場を解散させた。

 龍兵衛は一番最後に立ち上がると首を何度も捻りながら外に出る。

 疑う余地があり過ぎるのは、あちらも分かっているだろう。しかし、あえて降伏を選択したのは何故か。理由が読めない。

 

「疑い過ぎ」

 

 景勝が音もなく、背後からやって来た。思わず、すり足で距離を取ってしまった。

 

「景勝様、脅かさないでください」

「そこまで疑うのは良くない」

「そうしなければ、御家に危機が来るかもしれないのですよ」

「これから、これから」

 

 景勝の表情は引き締まっているが、思考自体が楽天的に思えてならない。

 

「そう言われても、性分ですので……では」

 

 龍兵衛は去ろうとするが、いつの間にか景勝に裾を掴まれている。

 

「謙信様、待つ、言ってた」

「先手を打たなければならない可能性があるなら、やっておくべきことはしておくべきです」

「どうして?」

「はい?」

「どうして、そこまで、こだわる?」

「性分です」

 

 今度こそ去ろうとするが、景勝の力はますます強くなる。

 

「そこまでさせる理由ある」

「それを知ってどうするですか?」

「もっと龍兵衛を知りたい」

 

 真っ直ぐな瞳で訴えられ、固く閉ざすと決めていた心が揺らぐ。

 今までなら、誰に何と言われようとはぐらかして終わりだったが、景勝相手ではどうも太刀打ちが出来ない。

 固く口に止めているはずの鍵が巧みに解かれようとしている。

 

「自分を知ってどうするのです?」

「知りたいから知りたい。理由、それだけ」

 

 理論的ではない答えに普段なら一笑に付すところだが、足が動いてくれない。振りほどきたい彼女の手も振り払うことが出来ない。

 それどころか、意図しない言葉が勝手に口からこぼれた。

 

「……場所を変えませんか?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十六話改 拭えない過去

 斎藤家の中で道三と義龍の対立は激しさを増していた。

 憂いている人は多くいたが、和解をする者達が現れる事はなかった。

 理由として道三が黒い噂で成り上がったことが大きい。

 血と恐怖で国人衆を支配して来た彼に意見をする者などいなかった。

 娘の義龍自身も父との仲を直そうとせずにいた。

 彼女は生来、人付き合いを苦手にしていた為、それを理解出来ない者もいた。

 また、その性格を理解し、父とは話せば分かり合えると思っていた重臣も日に日に仲が悪くなる親子に手が着けられない状態になっていた。

 ここまでになると国人衆は自分達の体面を保つため、道三派と義龍派に別れるようになった。

 だが、道三派は少数しか集まらなかった。

 彼の恐怖支配のつけが回って来たのだと皆は考えていた。

 道三はこれまで言うことを聞かない国人衆を血の粛清で悉く消していたのだからやむを得ない。

 しかし、内乱が起きれば、たちまち国力が落ちてしまい、斎藤家の威信が失われる可能性もあった。更に尾張の織田信長が道三が敗れるとなると同盟を反故にして美濃に介入して来ることも考えられた。

 それだけでなく、義龍を擁して稲葉山を取ることや斎藤家に代わって自らが美濃を治めようとする者がいるという噂が絶えなくなった。

 その事態を重く見た四人が集った。

 それが稲葉一鉄、竹中半兵衛、黒田官兵衛、河田龍兵衛だった。

 四人は夜な夜な集まり話し合ったが、解決方法が見つからず、無情にも時間だけが過ぎて行った。

 それでも諦めずに根気良く話し合い、時には道三と義龍に話をして何故、対立を続けるのかそれとなく聞き続けた。

 しばらくして、官兵衛と一鉄が道三に聞くことに成功した。

 強引に酒を飲ませ、酔わせた結果、口が軽くなったところを直接聞くことが出来た。

 義龍は道三の娘では無いという噂が出て来た頃、それを利用して彼女を煽る国人衆が数人いたそうだ。

 道三がことごとく謀殺したが、それ以降、元々少なかった彼女の口数がさらに少なくなった。

 道三に不満を持つ国人衆は、彼をますます悪く言うようになった。

 内容は、道三が義龍をいずれは亡き者にするに違いないと何とも馬鹿馬鹿しい内容であるが、それが通じる程、親子の関係は酷いものになっていた。

 実際の道三は身内を大切にし、心の許せる者には好々爺のような性格を出す温厚な人柄だった。

 かつて、義龍にも向けられていた事であり、国人衆を徹底的に恐怖支配をしていたのはどっちつかずを粛清する為に仕方なくやったことだった。

 元々、成り上がりの道三が美濃という大国を支配するのには反逆に反逆を重ねてきたので心から忠誠を誓う者が少なかったという仕方ない理由もある。

 そして、道三はもう一つの人間性があった。自分の命の価値観が人よりも低かったことである。

 徐々に義龍に冷たく当たるようにした。彼は義龍に反逆を煽るように仕向けた。

 そうすることで義龍の代になって美濃が安寧となるのなら自分は死んでもいいとそう考えてますます娘に辛く当たった。

 当時の美濃は非常に微妙な立場にあった。

 朝倉が怪しい動きを見せていて六角を巻き込んで不審な動きを見せていた。

 かねてより朝倉は斎藤家と対立しており、かつては織田と手を組んで挟撃を企んだこともあった。

 その時は道三の外交手腕が勝り、織田と同盟を組んで見せたのだが、朝倉は諦めずに斎藤を狙っていた。

 だが、年で衰えていた道三は外のことが見えなくなっていた。

 美濃三人衆がどうにかしていたが、限界を感じていた一鉄以外の二人までが義龍を推すようになっていた。

 切羽詰まった状況で三人の軍師が策を練ることになった。

 まず、義龍を半兵衛と龍兵衛が巧みな話術にてそれとなく道三について聞いた。

 彼女自身は道三を尊敬していることは間違いない。しかし、大き過ぎた父の偉大な能力が娘は無能であるという思いを生んだのだ。

 義龍自身がどこかでそのようなことを言ってしまったらしく、道三に不満を持っていた国人衆の間にあっという間に広がり、義龍が気がついた頃には派閥が出来てしまい、本来の親子に戻れなくなってしまった。

 ここで半兵衛と龍兵衛に闇に葬られた最悪の事件が起きていた事を思い出させた。

 派閥のことについて何も言わないのをいいことに、国人衆の一人が父親との争いをしないようにすることを条件に義龍の春を奪おうと迫った。

 偶然、龍兵衛が近くに居て国人を捕らえたので未遂で終わった。

 被害にあった彼女は派閥の事については口を割ることは無く、ただ彼の出来心だったと言い続けた。この派閥の事が露見すれ間違い無く戦になることを知っていたため、最後まで黙っていた。

 一方で、軍師達は出来心だけで国主の娘を手籠めにするとは考えられなかった。

 三人の軍師は不敬を働いた国人衆を逃がすことを条件に口を割らせた。そして、その事を聞いた三人はその事で初めて悟ったのだ。水面下で起きていることを。

 

 ここで景勝が手を挙げた。

 山形城にある離れの奥にある部屋に二人は夜の中で、ろうそく一本で対話をしている。

 

「龍兵衛。その国人、本当に逃がした?」

「いや、師匠の二人が配下に命じて殺しました。彼に逃げ方を教えて」

 

 誘導したと言った方がいい。

 主君の娘を奪おうとする輩を許す程、三人は優しくない。

 

「続けましょう。義龍様はこの事から分かるように本当は戦を避けたいと思っていました。ですが……」

 

 影は光と共にある物。

 道三は義龍を光のままにしようとしたが、それは叶わない夢であった。

 斎藤家の影は光よりも速く進んでいた。そして、影は義龍を遅々と確実に包んでいった。

 斎藤家はもう義龍達の望む方向に行くことは不可能になった。

 義龍は道三との仲直りを諦め、戦で決着を付けることを選んだ。四人は止めた。だが、影に侵食されてしまった義龍が聞くことはなかった。

 やむを得ない状況になった四人も仕方なく戦を利用することにした。

 強引にでも二人の親子が死ぬことを避ける為に道を外す覚悟は出来ていた。

 先ず、一鉄が道三に近付いた。彼は一旦、止めようとしたが、もちろん聞く耳などなかった。既に命と引き換えに愛する娘を守ろうという覚悟は優しい道三には出来ていた。

 この時、軍師たちは道三に義龍の事件の真相は言わないでいた。

 そのようなことを言ったら彼は発狂しかねない。

 そして、彼の奥底に眠る凶悪な部分が全面に放出される。

 やむを得ず一鉄は計画通りに道三を密かに強引に眠らせて、とある寺に監禁した。

 義龍の方には三人が付いて国人衆とのやり取りを重ねて、それとなく戦の準備を引き延ばすように仕向けた。

 その過程で国人衆の詮索を行い、粛清すべき人物を把握して密かに一鉄と半兵衛が書を交換し合った。

 抜かりなく計画は進んでいたが、ここで問題が起きた。道三の身代わりを誰にするかだ。

 義龍が戦で勝つのは明白でこのままでは道三は死ぬ。一鉄は道三を監禁し、寺に預けた。厳重な監視の下の為、彼は逃げることは出来ない。故に戦の時に道三の身代わりが必要となった。

 一鉄が名乗りを上げたが、名実共に斎藤家の重臣である彼を失っては今後の領地経営に支障が出る。

 結局、道三の身代わりに白羽の矢が立ったのは長井道利、道三の弟である。道三と距離を取り、義龍に近付いていた。しかし、彼の心には義龍への忠誠など露ほどもなかった。

 表向きは慈悲深くて良い人でいたが、知っている人は知っていた。彼は物欲に囚われた腐った人間、心にあるのは金と女の事ばかり。

 そこが三人の軍師の恰好の的となった。道利が死ねば、後々の事が楽になる。

 三人は道利に近付き、道三の代わりに指揮を執れば、彼に付いていく。更に美濃三人衆も道利を支持するように働きかけることを約束した。

 彼は簡単に乗った。自身の物欲を叶えることに関して、誰のことも信じる性格だったことを三人は知っていたのだ。

 道利はかねてより邪魔者で道三に重要視されてない人間は暗殺を繰り返した。

 寵愛を受けている人間は道三に事が漏れると何をされるかわからないので中央から地方に移動させた。

 道三は身内に甘く、寵愛を受けている者が居なくなれば動く。

 堅実な軍師三人も快く思われていなかったが、ここは道利の物欲心が勝った。

 一鉄の方も三人衆の二人を計画入れることに成功した。かれらとて戦は避けたかったのである。

 さらに計画は順調に進んだ。決戦の時は道利は病気で療養しているということになっていたが。実際に療養先にいたのは道三で道利が道三の格好をして戦に出ることになっていた。

 道三は病死と見せかけて殺し、義龍もこの戦で亡き者にする。そして、道利が正真正銘の美濃の君主となる。軍師達にとって道利を担ぎ上げるのは本当に簡単だった。

 道三と道利の顔が良く似ていたことも助かった。

 斎藤道三軍僅か数百、斎藤義龍軍五千以上の兵が長良川で戦の火蓋を切った。

 もちろん道三は此処には居ない。代わりに指揮を執る道利は寡兵であっても徹底的に戦った。

 彼の強欲さが心を支えた。しかし、多勢に無勢である。言うまでも無く道利側は不利になった。

 一気に総攻撃を仕掛けるように軍師達は言った。だが、ここに来て義龍は躊躇っていた。親子の絆とは簡単に死ぬことはないのだ。

 確かに義龍が実の娘であることは間違いない。自分の死によって救われると道三は言っていた。

 それと同時に道三は本当は分かっていたのだ。

 国人衆は自分の死によって好き勝手やることは明白であると。義龍へ付いた国人衆の目的は殆どが自分が道三によって縮小された自分の領地を彼を討ち取ることによって復活させること、要は道利と同じような連中ばかりだったということだ。

 義龍も分かっていた。命じなければ国人衆は斎藤家そのものを潰そうとするかもしれない。

 もう戦が起きた時点で手遅れであった。今は親子の為でなく、斎藤家の為に動かなければならない。

 義龍は手を挙げて総攻撃を命じる。

 終わった。親子は完全に敵となった瞬間だった。

 それは親子の絆を崩壊させてでも行うという非情な決断をした四人の計画を実行する合図でもあった。

 国人衆の進撃は止まることを知らずに道三の首。もとい道利の首を目指した。

 先頭に立っているのは長井忠左衛門道勝。道三の一門で道利とは兄妹ではあるが、道三のやり方には賛同していて道三と義龍を仲直りさせようと一人で奔走していた。

 戦になった以上は体面を守る為にも道勝はやむを得ずに病気の兄の代わりに義龍に味方していた。

 一方、道利は妹を邪魔だと思っていた。

 彼女の性格は兄とは百八十度違っていた。実直で人一倍正義に厚い。そんな人と卑劣で強欲な野郎が性格が合う訳がない。

 彼は妹をこの戦で消すつもりだった。寝返る手筈の半兵衛達が彼女を背後からどさくさに紛れて殺すことになっていた。

 道利の運命はこの戦が始まった瞬間に無くなっていたも同然だった。

 何故なら彼が本当の美濃の邪魔者だったのだから。

 本陣の道利はいらいらが頂点に達していた。寝返りを約束していた筈の軍師達は寝返る気配が無い。

 だが、道利は信じていた。強欲な彼は自分が美濃の覇者となることを夢見ていた。

 道勝が本陣に突っ込んで道利を道三と思いながら道利を捕らえて義龍の前に連行しようとするまでは仮面などいらなかった。

 

 ここで再び景勝が手を挙げた。

 

「道勝さんは計画、入ってなかった?」

「あの方は実直過ぎてこういうことに向いていなかったのです。実に真っ直ぐな人間でした……」

 

 本当に良い方だったと龍兵衛は振り返る。

 よく手を差し伸べてくれた。食事や酒を奢ってくれた。師匠二人と遊んでいた時とその時だけかつての世界のような心地があった。

 

「ここで景勝様もお分かりのように問題が起きました。道勝殿は道利殿を捕らえようとしていたのです。このままでは道三様が本当は道利殿である事がバレてしまう。そうなれば計画は失敗です。自分達は国人衆達の手によって刑場の露となったでしょう。しかし、そうはならなかったのです」

 

 現に龍兵衛は此処にいる。人の運命は最後までわからないものである。

 ちなみにこれは龍兵衛が後で聞いた話だが、この時の龍兵衛は一番愉快そうな顔をしていたそうだ。喜んでいいのか分からないが、この時の顔が景勝からすると彼の感情が一番よく出ていたらしい。

 

 一気に本陣に突入した道勝は道三を捕らえようとしていた。

 道利はこの時ようやく悟った。嵌められたと。

 一鉄も軍師達も味方ではなく自分を良いように利用しただけだったのだと。美濃一番の極悪人は怒りも何も感じなかった。

 道三と共に彼が商人の頃から一緒にいて、武家に仕えて立ち上がった時からここまで上って来た。悪行は全て道三に押し付けて自分は潔白な人であることを貫いて来た。

 道三の美濃の蝮という徒名は殆ど彼がやって来た事を道三が被って来た事によって付けられた物であると言っていい。

 道三は知っていた。だが、何も言わないでいた。直臣が罪を着せられては斎藤家の信頼は地に落ちる。

 それ程までに斎藤家に対して不信感があって国人衆が道三を恨んでいた。故に道三は身内の家臣を庇い、それを国人衆達に罪を着せていた。

 斎藤家を守り、国人衆の影響力を無くす為だ。それを道利は悪用していた。どんどん道三の評判は悪くなって行った。

 道利はやりたい事はどんな外道な事も迷うことなくやって来た。そのつけが回って来たという自覚はあった。抵抗する気は無かった。

 だが、最期に妹に首を取られる事になるとは思わなかった。これも天が自分に与えた罰なのかもしれない。

 道勝が兄を組み敷いて討ち取ろうという時だった。誰かが後ろから来た。

 後ろから道勝を突き飛ばして道利の首を掴むと素早く道利の首を斬った。ぽたぽたと流れる血が道利の死を告げる。

 

「何をしている!?」

 

 道勝は思わず叫んだ。その男は何も言わずに去って行った。男は冷たい目を道勝に向けてそのまま去って行った。

 道勝は激怒した。男を見ると道勝もよく知っていた人物だった。

 小牧源太。

 彼もまた道三からの恩義と御家存続の為とで挟みとなっていた人物である。

 しかし、彼は大胆で且つ巧みな男であった。 

 彼は四人の実行者達が夜な夜な密会していたのを知っていたのである。

 そして、それを謀反を企んでいるのではないかと勘ぐり、ある日とうとう盗み聞きをしたのだ。

 だが、その気配は百戦錬磨の稲葉一鉄に悟られた。捕らえられた源太は何故忠義に厚い人達がこのようなことをするのか詰め寄った。

 それを聞いた四人は笑い声で返した。源太でなかったらここで斬られていたかもしれない。

 実はそうではないということを知ると源太は驚き、四人の計画に賛同してすぐに仲間に加えて欲しいとその場で言った。

 四人も人が増えるのは結構なことだったので彼を喜んで迎え入れた。

 合戦の決着はあらかた付き、源太はゆっくりと馬に跨がり道利を目指した。

 国人衆は道三への恨みは強く、見つけた途端に道三(道利)は斬り殺される筈だった。

 しかし、源太は見た。先頭に立っているのは国人衆ではなく、道勝である。

 彼女ならば道三が道利であることを直ぐに分かってしまうだろう。

 大急ぎで馬を飛ばし、どうにか道勝の後ろに追い付くことが出来た。道三側の本陣で道勝が道利を捕らえようとしているのを見ても何も考えることは無かったが、猶予は無かった。

 とっさに源太は道勝を突き飛ばし、手柄を奪った。

 しかし、源太にはそのことが全く頭に無かった。ただ道利という真の悪人を斬ることと道勝に道三の正体を知られてはならないという思いが彼の頭にあった。

 首だけになれば死人に口無し。道利も話せる事は無い。背後から道勝が怒りの声を上げるが彼は気にしない。

 これで美濃が綺麗になるならこれでいいと源太は胸を張った。

 戦は終わった。

 しかし、本当の戦はこれからであった。

 全軍に道三が討ち取られたことは伝わった。これで終わったと皆が思っていた。

 四人の計画はこれからだということを知らずに皆が安堵して勝利の雄叫びを上げた。

 これから始まるのは小牧源太も三人衆の二人の安藤守就と氏家直元も知らない。四人が立てた最後の命がけの計画だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十七話改 清き血を浴びた者に

 義龍軍には多くの死者が出ていた。

 長良川が死んだ者達の血で赤く染まっていた。勝ったはずの戦で何故かまだ戦をしている。

 将兵たちは現実を受け入れられないでいた。

 小牧源太が道利の首を取った報告を受けると国人衆は歓声を上げた。彼らにとって閻魔よりも恐ろしい蝮が死んだのだから。

 しかし、彼らの本当の地獄の幕開けはこれからだった。

 官兵衛の言葉に皆が耳を疑った。彼女は義龍軍に矛先を向けてこう言った。

 

「殿に属する者を殺せ!」

 

 その叫びは義龍も聞こえていたそうだ。

 聞き間違いだと思ったが、本当だったことに当初は衝撃を受けたらしい。

 一鉄さえも踵を変えて、義龍軍に向かっている。

 さらに両兵衛の軍もこちらに向かっている。

 四人の軍はこちらの兵達を薙ぎ倒している。

 義龍は驚きを隠せず、ただ呆然とするかなかった。

 信頼していた者達がいきなり寝返り、驚くなという方が無理がある。だが、聡い彼女は次第に四人が企む真の目的が分かった。

 しばらく眺めている間に口を三日月の形に変えた。

 四人の行動の真意は義龍を討ち、斎藤家を転覆させることに非ず。

 よく見ると四人の軍勢は義龍の居る本陣や美濃三人衆の安藤守就、氏家直元が居る陣の中心を狙っていない。

 信頼出来ない国人衆の軍勢を狙い、徹底して本陣に突撃しようとはしていない。

 戦前にこの陣形を考えたのは龍兵衛である。

 彼が考えた陣形を義龍は二つ返事で承諾したが、外側という接敵しやすい国人衆には上手くいかない。そこで、国人衆が大好きなことで承諾させた。

 道三の首は喉から手が出るほど欲しい。

 当然のことだが、今回の戦で敵大将である道三の首を取れば、莫大な恩賞が出ることになっている。彼は国人衆達に道三を討ち取った者には重臣としての扱いを約束していたと義龍が言っていたと見え透いた嘘をついた。

 その嘘を国人衆達は簡単に信じた。

 故に、義龍に見向きもせずに道三の陣に近い所に我先にと部隊を配置したのだ。

 義龍の陣から外れる程、斎藤家に要らない屑である。

 義龍は察し良く、安藤と氏家に自身を守らせ、境界を作った。

 此処から外の敵を討てと彼らに示した。

 いち早く察した一鉄と二兵衛は其処までで進撃を止めて周りの敵を徹底的に叩いた。

 どさくさに紛れて三人衆の二人も国人衆の一部を討ち取った。後で怪しい動きをしていたとでも言っておけば良い。

 周りには多くの汚れた強欲者の血が流れた。

 長良川の色はさらに変わり鮮やかな赤色がどす黒い赤色に変わっていく。

 同時に払拭されていく美濃の怨念。しかし、その代償は重かった。

 ここからが河田直親の一生の不覚であった。これが無ければこの世界で上杉軍の河田直親は存在しなかったかもしれない。

 天はそれを許さなかった。

 

 龍兵衛が境界線を越えてしまったのである。

 もちろん境界線は気付いていた。

 だが、経験の浅さが出てしまい、軍を反転させる機会を誤ったのだ。

 慌てて一鉄に止められて気付いた時にはもう遅かった。彼が率いていた兵達が守就の軍の兵を何人か殺してしまい、龍兵衛も誤って安藤軍の兵二人の命を奪ってしまった。

 義心にかられ、刀を握って義龍の邪魔者を排除せんと先陣を切っていた。そのために兵への指揮が疎かになった。

 言い訳も出来ない完全な過ちだった。この瞬間に斎藤家の河田長親は完全に終わった。

 

 龍兵衛は守就が鍛えた清廉潔白な兵の血を浴びたまま一鉄達と一緒に捕らえられた。

 目の前で義龍は表向きの咎め、厳罰に処することを言った。夕日の中で縛られた四人の姿は罪人そのものだった。

 稲葉山に戻り、牢屋に入れられた四人の前に義龍が現れて頭を下げ、義龍は道三と再会した。弊害は消え、妨げる壁も何も無い。親子は抱き合った。暖かった。

 道三は心から愛する娘に今まで言うことの無かった言葉を掛けた。

 

「よくやった……」

 

 お互いは泣き崩れた。この時が親子であって親子で無い環境から抜け出して真の親子となった瞬間であった。

 その後、斎藤道三は長井道利として表では偽って生きることになった。

 道三も戦が終わってから計画の終点は親子の仲を修復することであったことを始めて知り大変驚いていた。

 命を賭してまで美濃を守ろうと行ってくれた頭を下げ、四人に感謝の弁を何度も述べた。

 国人衆の多くは無差別な粛清を受けて、一人立ちなど夢のまた夢となり、完全に斎藤に頼らざるを得なくなった。

 これで斎藤家は美濃を完全に掌握し、脅威を払拭した。

 義龍は国の経営を任されることになり、その隠された能力を遺憾なく発揮することになった。 

 その姿は実にはつらつとしていて、かつての暗い面影など、どこにもなかった。

 美濃から強力な闇と強欲が払われ、斎藤家に真の栄光の道が開き、皆が幸せになれる国となる。

 しかし、龍兵衛だけは幸せになれることは無かった。 

 彼の戦で守就の兵を殺してしまったことは問題となった。国人衆の方は握り潰せるが、斎藤家の重臣で名高い美濃三人衆の一角の守就の兵を殺した事に関してはどうすることも出来ない。

 何も知らない兵からの不満を受け取っておきながら、何もしないとなると側近には甘いと考えられてはまたどこかで道利のような人が現れるかもしれない。

 一鉄達三人は兵達の暴走というかなり強引に結末を変えた。

 しかし、三人衆の兵を殺めた龍兵衛はどうするか。

 別に殺すつもりはない。だが、それに近い刑罰を与えなければ、また周りから何か言われることは明白。

 現に彼らの計画を知らない家臣からは龍兵衛を処刑するべきだという声もあった。

 彼自身もここに居て、立場が無いことは分かっていた為、覚悟出来ていた。死を人一倍恐れる彼もその時は投げやりになっていた。

 しかし、道三と義龍が取り計らい、龍兵衛の了承を得て、追放するということになった。

 本来なら、反逆罪で首が無くなるところだったが、道三達の手回しによって処刑を龍兵衛は免れた。

 また、官兵衛も実家の事と自分の弟子を止めることの出来なかった責任感を感じ、自分を同罪にしてほしいと聞かなかった。

 半兵衛が止めたが、あの戦で弟子が醜態をさらした事に心がやられた。彼がもう大丈夫だと思っていたからこそ、この衝撃は大きかったのだ。

 彼女も龍兵衛に荷担していたと、国外追放される事になった。

 一鉄と半兵衛はこのことを密告していたとして、強引に無罪となった。

 

「……そして今、ここに自分が居る訳ですが」

「兵達を討った。まだ、後悔してる?」

 

 当然と暗い顔で龍兵衛は頷いた。

 

「ですが、最近分かったことがあったのです。これが無ければ自分とて人間不信にはなりません」

 

 確かに先の事は龍兵衛の過失で本人も認めていることだ。最悪なのはここからだった。

  

 小牧源太が首を持ち去った理由を知っていた人物が一人だけ居たのだ。それは道三があの戦には参加していないのを知っていて尚且つ道三が道利である事を直ぐに分かる事が可能な人物。

 井上道勝は道利を組み敷いた時に一瞬だけ顔が見えたそうだ。それに驚愕している間に源太に道利の首を取られたということらしい。

 彼女は兄の事を知らなかった。兄の道利は道勝の事は大切にしていた。溺愛という言葉が当てはまる位に、道勝も少々の鬱陶しいと思っていたが、道勝自身も兄の事は慕っていた。

 その兄を目の前で斬られ、彼女は悪人と名高き道三が道利として、兄として生きる事となったのは耐え難いことだった。

 彼女は真っ直ぐな人であった。それはもう綺麗に引かれた細い糸のように。

 だが、細かったが故に進んでいた道も脆く、外れること容易かった。

 

「今川を倒した織田と早々に手を組んだそうです。義龍様を見限って」

 

 龍兵衛は怒りを隠す事無く拳を床に打ち付ける。顔を震わせ、赤くなっている左手を痛がることも無い。それどころか、景勝に向けてまくしたてるように口を開いた。

 

「それで済んだらまだいいですよ! あの戦いには無関係で中立を保っていた明智光安殿という方がいらっしゃるのですが、あの戦いの後、自分達が居なくなった後を見計らって、明智殿の居城を襲撃しました。道三様につき、斎藤家を乗っ取ろうとした首謀者だと。不忠者だと、汚名を着せて! 娘さん達を逃がす為に光安殿は死にました。そして、井上は……」

 

 その後、彼は長井道勝がどんな事して来たのか語った。

 道勝は影で斎藤家を意のままにし、民から税を絞り取り、義龍がそれを咎めようとすると道三の事を国人衆にばらすと逆に脅して黙らせ、全て義龍の命令であると大々的に公表し、義龍の弟の龍興が少し町の女性と話していたのを見ると彼は女好きのだらしない奴であると言いふらすなど、やりたい放題を繰り返していた。

 これを見た半兵衛は道勝を暗殺する為に襲撃計画を龍興や美濃三人衆と共に立てて、義龍が稲葉山を離れている時に実行した。彼らが外から襲い、龍興は城の中で背後を突く算段だったが、道勝は計画をあらかじめ察していて城から抜け出していた。

 結局、その事件は半兵衛が首謀者として片付けられ、だらしない龍興に活を入れる為の物であったとされた。

 半兵衛も首謀者にされた以上、命は助かってもいずれ讒言にて首が飛ぶ事を恐れて隠居してしまった。

 三人衆は謹慎の後、復帰したが、今までの力は失った。

 その後、いち早く織田に降ったのも道勝であった。

 今や美濃は国として貧しさを増しており、かつての豊かさが見る影も無くなりつつある。斎藤一族も今は織田の大河に飲まれよる事をよしとせずに必死になっているだろう。

 

「今でも斎藤家の方々は道勝の恐怖に影響され続けています。あんないい人がこんなに変わると……」

 

 龍兵衛は溜め息を吐いて景勝を真っ直ぐ向く。

 

「どうでもいいことですが、実は自分は子供の頃は周りからいじめを受けていて、元々人の本性は悪ではないかという思考になっていたのです」

 

 景勝は驚き、目を丸くしている。

 それを察した龍兵衛は苦笑いを浮かべる。

 培われた負の思想を斎藤家の面々は救ってくれた。龍兵衛から負の心は霞のように小さくなり、上向きな性格の部分が出てくるようになった。

 長良川の一件も最後はともかく、斎藤家がより良くなると信じ、彼は越後へと向かった。

 

「……あの女は、見事なまでに捻り潰してくれた。誰でもいつか狂者となり、人を恐怖に陥れる。斎藤家の方はその考えを、塞がれていた自分の負の考えを解放してくれたんです。なのに……あれの本性は邪悪なのに、織田の庇護下でのうのうと生きていやがるのが許せない。自分の人間不信を蘇らせる一端を作ったあの悪魔を……っ!?」

 

 声を段々と荒げ、怒り感情を完全に表面に出し、景勝に向かって身体を震わせる。

 彼女への敬意を失い、ここに居ない者への怒りの矛先を向けるかのように睨んでいた。

 景勝がそれを止めるように龍兵衛に抱き付いた。

 彼はその暖かさでようやく落ち着き、呆然としていたが、少しずつ平静さを取り戻すと今度は現状を把握し、顔を赤くする。

 景勝も抱き付いたまま、龍兵衛に負けないぐらい顔を赤くして、明後日の方向を向く。

 

「あの、景勝様? 大丈夫ですので離れて欲しいのですが……」

 

 そう言ったが、景勝はそのまま龍兵衛を見ずに口を開く。

 

「龍兵衛、上杉の軍師、違う?」

「そのようなことありません」

 

 龍兵衛はもう上杉軍の一員であり、仕えた時から上杉家をさらに繁栄させる為に全力を尽くすと決めていた。

 

「なら、もう気にしない。誰もいない。居ない人怒る。周り、困る」

 

 確かに今の龍兵衛はただの狂人となり、せっかくの心を許せる者達から遠ざけられる。

 怒りは要らぬ所に影響を及ぼす。龍兵衛はようやく、怒りをぶつける人が居ない所で何も良いことはないと気付いた。

 後悔などしていても意味がない。終わったことをあれこれ言うのは簡単だが、これからを考えなければ人は先に進むことは出来ないのだから。

 

「すみませんでした。そして、ありがとうございます。自身の原因が分かりました」

 

 先程までとは違う穏やかに笑顔を作る龍兵衛の笑みが浮かぶ。

 

「もういい加減に離れて頂きたいのですが……」

 

 いまだに景勝はくっついている。龍兵衛から顔は見えないが、赤くなっているのが簡単に想像出来た。

 

「もう少し、こうさせる」

 

 龍兵衛は頭を掻くが、愛しいと思った人にこう言われ、抗える訳が無く、このままでしばらく居る事にした。

 顔がお互いに真っ赤で何とも気まずい雰囲気が続き、龍兵衛はもう一度口を開く。

 

「自分だからいいですけど。人だと勘違いする人もいますよ?」

 

 もう少し内容を選ぶべきだったと言った後に気付いたが、景勝は首を横に振った。

 

「別に……勘違いでも、いい」

「……は?」

 

 素っ頓狂な声を上げた龍兵衛を誰が責められようか。いきなりの発言に必死に頭を正常に戻そうとする。

 一方、景勝は完全に茹で上がり、龍兵衛の腕の中で口をぱくぱくさせている。

 自分よりも舞い上がっている人を見ると冷静になれるもので、その動きを感じた龍兵衛は景勝の肩を叩いて正常に戻そうとする。

 すると景勝はどうにか少し落ち着いたので、真意を聞こうと真っ直ぐ彼女を見る。

 

「ぼ。は、はわわわわ……」

 

 景勝は再び真っ赤になっておろおろしてしまった。

 

「(駄目だこりゃ……)」

 

 とりあえず、身体を離して居住まいを正す。そして、真面目な顔を景勝に向けると雰囲気を感じ取ったのか、徐々に落ち着いた。

 景勝は謙信が世継ぎ。いずれはどこかの家格の高い人と婚姻するのは分かっている。

 

「自分よりもいい人は、この世の中にごまんといますよ」

 

 好意を向けられつつも平然としているが、景勝は首を激しく横に振って否定する。

 

「龍兵衛、景勝の事、一番、分かってくれた。龍兵衛、景勝、分からない。だから景勝、龍兵衛の事、知りたかった。龍兵衛、ずっとはぐらかした。でも、今日教えてくれた。嬉しかった。本当は龍兵衛、いい人、今日、わかった。だから……景勝、龍兵衛がいい!」

 

 意を決したような最後の言葉に龍兵衛は胸を撃たれた。

 自己管理の出来ないような人を次期当主になる方が好きになることなどあり得ない。

 本当なのか。ただの戯れ言ではないのか。

 猜疑心は強くなる一方で、龍兵衛は景勝をじっと観察する。顔を赤くして何も言わない。返事を待っているのだろう。

 

「自分は無実の人間の綺麗な血を浴びているんです。そんな人と景勝様は一緒にさせるなど許される筈がありません」

 

 疑いが潔白になる事など無く、もっともらしい理由で突き放す。それに清い景勝は清き者と居るべきと龍兵衛が思った時、胸を拳で叩かれた

 痛がっている隙に顔が彼女の方に向けられ、唇を重ねられた。

 

「か、景勝様? いったい……」

 

 互いに顔を赤くさせて残っている唇の感触を確かである事を確認する。

 間違いではなかった。さらに顔を赤くしながら景勝は龍兵衛を上目で見つめて言った。

 

「景勝、本気」

 

 龍兵衛は愚か者だったと自覚させられた。

 どこまでも人を信じる事出来ない愚か者だ。それでも景勝は本気でいいと言ってくれた。

 疑り深い彼でも口付けまでされたら信じられないわけがない。

「はぁ」と息を吐くと龍兵衛は景勝を動かせる左腕で抱き締めた。景勝も両手を龍兵衛の背中に回す。それはお互いに満足するまでずっと続いた。

 人の心は揺れやすく、人を疑うことは容易くても信じることは難しい。それでも、景勝は龍兵衛を信じた。

 それは人間不信の彼には何とも愚かなことである。

 彼も景勝を信じた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十八話改 春日山の冬

 久々に上杉軍は春日山に帰って来た。すっかり寒くなった春日山城下を謙信を先頭に粛々と進んでいく。

 上杉軍諸将以外に最上からの名代として義守が自らの護衛として定直と盛周を引き連れている。安東も当主の愛季が自らが人質となり、家臣の浪岡顕村を引き連れてこの凱旋に参加している。

 これには上杉軍の皆が驚いた。

  

「私も負けたらああするから安心しろ」

 

 謙信はその話題に冗談で笑いを取ろうとしたが、通じない者がいることも失念していた。

 

「「謙信様が負ける事なんて有り得ません!」」

「……景家と兼続という冗談が通じないのが居るんですから」

「ははは、颯馬の言うとおりだな。以後、気を付けるとしよう」

 

 颯馬はその言葉が嘘だと分かっているが、それ以上言っても無駄であると分かっているため、諦める。

 

「……私、上杉の方達ってもっと真面目な感じを思っていたんですけど、これなら早い打ち解けそうですね」

「そうですね。これなら民達もきっといい生活をしているのでしょう」

 

 背後から義守と盛周の会話が聞こえる。

 不安を感じていただろうが、上杉諸将の笑顔を見ていると随分と気が楽になったようだ。

 周囲でも、上杉の諸将が談笑しており、それがより良い方向へ導いている。

 一方、安東は相変わらず、俯き、暗い表情を崩さない。

 

「あのー安東さん? いくら人質とはいえ、もう少し落ち着かれては?」

 

 安東は意識を他に向けていたのか、義守の問いで俯いていた顔を上げた。別に疲れている様子ではない。

 

「え、ええ……」

 

 それから義守と安東はお互いに世間話を始めたが、遂に表情が晴れることが無かった。

 

「何かある」

「ああ」

 

 颯馬と龍兵衛は遠くから見て、疑わしく感じられた。

 事前に突然の降伏を疑い、お互いの情報網を駆使して内情を探ったが、特に何も出て来ていない。

 むしろ何か隠しているのではないかと逆に勘ぐって今度は安東家の領地の家臣や国人衆も調べている。

 調べておかなければ、西への進出に不安を残すことになる。また、龍兵衛には別の目的もあった。

 

「北羽州の雄勝郡と北秋田郡から匂うんだよ」

「匂うって?」

 

 龍兵衛は笑みを浮かべ、親指と人差し指で丸を作って颯馬の耳元で囁く。

 

「これだ……」

「……やだな、お前」

 

 颯馬はごみを見るような目をしているが、気にしない。

 院内銀山と阿仁鉱山の獲得は非常に大きい。交渉の際、彼は真っ先にその二つの地域を取るように、北羽州の上杉直轄領地をすることを進言した。

 院内銀山は江戸時代初期に発見された銀山で、その産出量は日本に留まらず世界有数と言われた。

 阿仁鉱山の方は銀と銅の産出が豊富で、江戸中期には長崎への輸出量が日本一になっていた。

 江戸時代はこの二つを所有していた久保田藩が林業と共にこれを藩の経済の軸とした結果かなり財政が潤っていたという記録もある。

 上杉家がこれを直轄すれば、この二つの鉱山を発見し、本格的に採掘を行った結果、佐渡金山や越後に数多ある金山、銀山と合わせた莫大な財力を手に入れることが出来る。

 それを考えるだけで、龍兵衛は口元が緩むのを堪えるのに必死になる。

 

 春日山では歓声を上げて城下町の民が謙信達の凱旋を祝った。

 食料や酒を献上しようとする者や思わず謙信に跪いている人もいる。それだけかつての内乱で傷ついた民達の心は修復されている。

 だが、上杉は越後統一からたった五、六年でここまで大きくなったのは外征に次ぐ外征の為であるその間の時間に内乱もあったので民達はそれ以上に苦しんでいた。

 そのため、謙信は評定にて数年の内政集中の方針を打ち出した。

 これには全員が満場一致で賛成し、治安の維持や法令の更なる整理や街道の整備、開墾の奨励などの様々な地固めを本格的に行う事になった。

 別に外征に目が行き過ぎて民達を放置していた訳では無い。

 謙信が留守の間は政景を筆頭に朝信や実及が中心となって政策を執り行っていた。

 それでもやはり、戦の方に労力が行ってしまう事が現状なのであまり本格的に執り行う事が出来なかった政策もある。

 これを憂いた謙信がこの方針を自ら進める姿勢を見せる事で民達を安心させるところも含まれている。

 本来、内政型の龍兵衛が指揮監督する事になり、開墾や法令の整理などを担当する事になった。

 

「開墾は冬にやってもあまり意味は無い。雪に埋もれて作業が滞るからな……やっぱり、法令から行くか」

 

 越後にも雪がたくさん降る所もあればそうでない所もある。

 全体的に言えるのは土地が緩く、作業が上手く行くかは分からない事だ。

 気候と自然には人間は太刀打ち出来ない。それは彼自身もよく知っている。

 本来なら雪の少ない地域では開墾を行っても良いが、その地域の農家が生産力を付けてしまい。他の地域の農家の間で経済的格差が出る事も考えられる。

 米が多く売れる程、金になる。米をたくさん作るほど安い値段で売りさばくことが出来る。

 だが、今まで通りの農家の米の値段では高くて売れなくなり、いわゆる小作人になる人も出て来るかもしれない。

 故に、開墾を今進めれば間違い無く不満が出る。下手をすれば一揆が起きるかもしれない。

 だとしたら開墾は田植えの前後にまで保留しておくことにして法令の整備から始める事にした。

 かつて龍兵衛は取り調べを制限する法令などを出したが、今回は本格的な改革を行う事となった。

 これには定満や颯馬達も協力する事になっていて龍兵衛はそこで発表する草案を纏めている。

 一旦全員の案を出してそこから相談を行い、謙信の所に持って行く事になっている。

 

「どうしたものか」

 

 龍兵衛自身は法令に明るい訳ではない。

 問題は色々と山済みだ。やらないといけない。彼は彼の歴史から倣うことにした。

 その翌日に定満と颯馬、兼続に法令の草案を見せたところ、二人から首を傾げられた。

 

「随分と民の法令を厳正にしているな。これでは民達が息詰まるんじゃないか?」

 

 颯馬は龍兵衛の法令案に不安なところを指摘する。

 自身の知識の中の法令をこの時代に合ったものにしてより刑法を厳正にし、治安維持を徹底する事を中心とする法令案を提出した。

 

「確かに少々厳しいかもしれないが、この乱世で国の治安が不安定では民達の不安に繋がる。どちらかというとこれはそんなに厳しくは無い。民達は要は殺人、傷害、盗み、不正などを行った場合の刑罰はどのようなものなのか分かっていればいいんだ」

 

 彼の内容としては殺人は無論即刻死罪とし、傷害は重い場合は鉱山行き、軽い場合は国内での懲役刑。不正も傷害と同じ。それ以外の暴行などの罪は禁固刑。

 要は大日本帝国や産業革命の頃のイギリス刑法を参考にしたものである。

 他の法令も基本的に民は縛られるような感じだが、規律を重んじておかなければ治安の悪化に繋がると考えてこのような法令となった。

 一方で、少しは農業や商業の起業の自由を与えるなど寛容な所も含まれている。

 だが、彼の作った法案には三人が見逃せないところが一つだけあった。

 

「敵討ちも殺人と同等に扱うのはさすがに……」

「別に俺だって敵討ちが悪いとは言わない。でも、さすがに人命を戦以外で無くす事は極力無くさないと放っておけば、治安の悪化にも繋がってしまうし、それこそ下剋上に繋がる。それに、きちんと訴えれば適切な対処を取ると別項で書いてある」

 

 私刑を全廃するのには、かなり皆が慎重だった。

 この時代では敵討ちはお咎め無しで済まされることもあり、それによって殺人が横行することを避ける狙いがあったのだが、武家として敵討ちの撤廃は少し急進的過ぎる気がしたのだ。

 民にも、この法令を不満に感じるものも出るかもしれない。

 龍兵衛からすると治安の維持向上をする為には必ず必要な法令だと信じてこの案を出した以上は簡単に引き下がることは出来ない。

 議論の終着点が見えないままなので定満が待ったかける。

 

「法令については謙信様とも相談するの」

 

 確かにここは謙信の判断を仰いだ方が良い。四人は議題を変えることにした。

 開墾は後回しにする事は全員が承知しているので基本的には商業と交易の事についての話になった。何しろ佐渡金山や越後の金山、銀山の採掘は軌道に乗っていて資金は豊富にある。

 青苧座はあまり変な動きをしているようでは無い。しっかりと税金を上げて来ているので京との交易は順調であるといっていい。

 問題は城下町の拡大と収益の上昇をどのように計るかになって来る。

 特産品が少ない以上、無理に拡張しても損害を被る可能性が高く、青苧座の交易と直江津港の交易に堺からの物を多く仕入れるように奨励する事が第一となった。

 今後は拡張に力を入れる者は上杉家に申し入れれば免税を行い、支援を行うことになった。

 いわゆるアメリカのベンチャーキャピタルのようなものである。さすがにアメリカのような資金の無償提供をすることはないが、それに近いものだ。

 

「ここまで、質問、ある?」

 

 誰も定満の言葉に反応しなかったのを見て散会となった。

 

 部屋に戻り、仕事を終わった龍兵衛は息を吐いて部屋に戻る。

 戦から久々に帰って来た時は春日山の自分の部屋はやはり落ち着いた気持ちを取り戻す事が出来た。

 生臭い血の臭いから解放されて普段の日常臭い畳の匂いとは人の心をいつの時代でも心を和ませてくれる。

 水を飲んで一息ついたら直ぐに机に向かって今後の方針の確認の為の資料を読む。今日の仕事を終わっても休む暇は無い。

 民達は待ってはくれないのだ。かれらは今の生活の向上を望んでいる。かれらは未来よりも今を見る。今が安定していないと不満を招く。

 だが、龍兵衛達政治家は未来を見て行動しなくてはならない。その間のギャップを少しでも埋めるのが定満を筆頭とする軍師達の役目でもある。

 

「実際にやっているとなんとなく政治家の気持ちが分かる気がするな・・・・・・」

 

 一人ごちながら龍兵衛はその後、黙々と資料を読んでいく。

 町人からの収益の報告をこの後は調べる予定でもあるから仕事は終わるのは夜になる。

 今日は泊まりで多くの仕事を終わらせる気だったので別に彼自身は何とも思ってはいない。

 集中すれば何時までもやれる性質の彼は途中喉が乾いて水を飲む時以外は資料の文字から目を離さない。

 

 

 夕方になり日差しが長く入って来て窓の障子からの日差しが目に入った所で龍兵衛の集中力は終わった。

 伸びをして廊下に出る。廊下では夕餉前の女中のうるさい声が響いていた。

 首を左右に回しながら龍兵衛はゆっくりと城の中庭に出た。片隅の小さな木立に屈んで様子を窺う。

 すると可愛らしい鳴き声と共に三毛猫の姿が見えた。龍兵衛が城下町を歩いているとふらふらと腹を空かせたように歩いていたのを拾った。

 最初は汚かったが、洗ってやったら綺麗になり、可愛らしく擦りよって来たのをその勢いで餌をやったら懐いてしまい。そのまま中庭に暮らしている。

 龍兵衛が戦場にいた間は彼同様に猫好きの女中に密かに頼んで世話をしてもらっていた。

 久々の再開にも関わらず猫は龍兵衛の顔を確認すると飛び付いて来てゴロゴロと喉を鳴らす。

 龍兵衛も猫を丁寧に撫でてやり、懐に忍ばせていた餌をやる。

 ぱくぱくと可愛らしく食べるのを見ているとここが乱世である事も忘れるぐらいの和みを龍兵衛に与えてくれる。

 夕餉前の楽しい一時は直ぐに去って行ってしまい、夕餉だと龍兵衛は探しに来た女中に怒られながら城内に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 夕餉の後、龍兵衛が仕事を進める間に来客があった。景勝である。

 山形での一件以来、彼もまた景勝と一緒に居る事が増えた。

 しかしそこは龍兵衛で、景勝との事は一切を内密にする為に普段の日中は普通に接している。

 景勝の方はもう少し一緒に居たいらしく龍兵衛が仕事中でも景勝が一緒に居るのが増えているのも事実である。

 幸いにも謙信と颯馬の方が目立って増えた為に全然話題になっていないのが現状だ。龍兵衛にとっては最も望んでいた状態である。

「仕事が忙しいので」と言うと「待ってる」と言ってそのまま本棚から龍兵衛の書いた本を取り出して、読んで待っている。

 仕事を終えて行き、大分片付いた所に差し掛かると景勝が座っている場所を龍兵衛の正面に変えてじーっと彼を見ている。

 当の本人は気にしていないようで相変わらず仕事の資料を読み進める。そこで景勝は口を開いて聞きたい事を聞いた。

 

「龍兵衛、猫好き?」

 

 ぴたりと龍兵衛の手が止まり、壊れかけた機械のようにかたかたという音が鳴りそうなゆっくりとした動きで景勝に視線を合わせる。

 

「どうして分かったんです?」

「謙信様と歩いていた。龍兵衛、中庭で猫といた」

「え、謙信様もご一緒で?」

「(こくり)」

 

「嘘だろ……」と龍兵衛は頭を抱える。猫に夢中で全然気がつかなかった。

 ただ、景勝が見たのなら構わない。

 

「外に出ましょうか?」

 

 伸びをしながら龍兵衛が立ち上がると景勝も付いて来る。

 外は肌寒く、厚着が必要である程だが、二人はそれをお互いの身体を寄せ合うことで補う。

 龍兵衛はかなり恥ずかしくて穴があったら入りたい気持ちではあったが、景勝が満足そうなので、よしとする。

 もう一度中庭に出て、三毛猫を呼ぶとすんなり出て来た。

 初めて見た景勝に少し怯えたが、すぐに大丈夫だと分かったのか景勝の足の周りをうろつく。

 城内に連れて行こうと言われたが、猫を室内で飼うのは汚れるとまずいので、別れて縁側に戻る。

 

「来た」

「ええ」

 

 空から降ってきた白い物体がひらひらと落ちて地面でじわっと小さな小さな水になる。

 雪。

 春日山に冬が来た。 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間改 後悔の囁き

 春日山にしんしんと雪が降り、年を跨いでも肌寒い日々が続いている。

 しかし、何事も慣れというやつで長らく越後の冬を経験している上杉の家臣は寒さには慣れている。

 一名を除いてであるが。

 

「あぁ~……冷える!」

「我慢しろよ、これぐらい」

 

 颯馬が龍兵衛の大きな独り言に噛み付く。

 彼は暑さには慣れているが、その代わりに寒さには弱い。

 越後に来て、四年ほどになるが、北陸地方以北の寒さをこれまで経験した事が一度も無かった。

 平成の東京生まれ東京育ちで、しかも冬の寒さは比べ物にならないぐらいに暖かく、便利な機械がいくつもあった。それで、この寒さに耐えろなど、どだい無理な話だ。

 

「お前達だって夏は完全にぐだってたくせに」

「あのなぁ、俺達はあんな暑さは初めてだったんだ」

「俺だってこの冬は同じようなもんだ」

 

 ここには龍兵衛と颯馬、兼続がいる。

 仕事の確認で集まったが、三人共に今日の主だった予定が終わりだったので世間話に興じている。

 その後、話題は城下の事へと自然に移った。

 

「ここのところ城下町の治安も大分安定して来たよな」

「やっと法令が浸透して来たんだろう」

 

 龍兵衛と颯馬の言葉には確実な手応えが自信となって表れていた。

 二か月前に法令の整理について様々な意見交換を通じ、更に謙信の判断によって龍兵衛の草案全てとはいかないが、ほぼ同じような物が通ることになった。

 だが、敵討ちを殺人罪とするのは保留となった。

 必死に訴えたが、謙信も武家、民を問わずにかなりの不満が出ると考えたため、没にした。

 結果、最初は厳しいという声が上がる事も懸念されたが、それ程までも無く、むしろ城下の治安が良くなると民からは喜ばれた。

 そのおかげか、起こる事件といえば食い逃げぐらいになった。

 

「冬が終わればいよいよ開墾だ。その時には手伝いに行かないとな」

「お前は本当に農業には力を入れたがるな」

「そりゃあ、食い物作っているのは農家の人達だろう? しっかりと働ける環境を整えるのが俺達の役目だ」

 

 二人は頷くしかない。

 元々、農家出身の彼はその難しさを良く知っているという自負があったし、実際、そうである。

 年貢を減らすことも考えているが、あまり豊かではない領地に拡大する上杉では院内銀山、阿仁鉱山の発掘を本格化するまで財政を支えるものが無いため、やむを得ない。

 青苧座や佐渡金山が発展している間に様々な収益の柱を建てなければ負担を軽減できない。

 国外に目を向ければ、加賀の一向宗の動きも気になる。最近は大人しいが、何が起きているのか不明だ。

 それ以上に上杉家を驚愕させたのは今川が織田に降伏したという事である。

 更に義元の死は偽造だったことも判明した。

 織田は美濃を攻めているようだが、斎藤は内乱の影響で殆ど守る力が無い模様である。

 半兵衛もこの戦には干渉していないようで、美濃陥落は時間の問題となった。

 

「(時の流れが早過ぎる)」

 

 龍兵衛からすれば、永禄の変がかなり早い時期に起きたのを始めとして時代の流れがおかしいと感じていた。

 女性が将をやっている時点で彼にとっては違和感があるのだが、気にしない。

 肝心の武田はどうやら今川を狙って失敗したらしい。

 今は逆に今川、徳川が武田に攻め込もうとしている。

 川中島の戦いで大敗したが、信玄の存在があるため、すぐに落ちることは無いだろう。

 北条の動きは無いが、武田に付くか、今川に付くかは不明である。今は里見との戦いに集中しているらしい。

 東海のことが話題となっていたが、途中で兼続が龍兵衛に訪ねて来た。

 

「なぁ、斎藤義龍殿ってどんな方なんだ? はっきり言うが、あまりいい噂を聞かないのだが」

 

 前置きがあったが、はっきり過ぎる兼続の発言に龍兵衛も引きつった笑みを浮かべるしかない。

 

「……確かにそうだな。でも、悪い人では無いぞ。義龍様は優秀な方だ。だけど、どうも口下手でな……あまり人に理解されないというか。何というか……あ、景勝様のような感じかな」

 

 それで二人は納得したらしくと頷いた。

 そこからは龍兵衛による斎藤家の人達についてどんな人かの説明となった。

 

「……で、重さんは危ない人であるという事」

「でも、本当に口から出て来るのか? 魂が別にお前を疑っている訳ではいないが」

「いや本当だって、斎藤家の人達で見たことない人いないと思うよ」

「それはそれで色々と駄目な気がするが……さてと、もうこんな時間か……」

 

 颯馬の言葉で外を見るとかなり話し込んでしまったようで雪も上がって夕日が出て来ている。

 龍兵衛と兼続が部屋に戻ろうとするが、颯馬だけ違う方向に向かいだした。

 

「颯馬、何処へ行くんだ?」

「いや……まぁ、ちょっと厠……に」

 

 そう言うと颯馬は去って行った。

 

「(わかりやすい奴……)」

 

 内心、呟きながらも龍兵衛もまた兼続と別れた後に景勝の部屋に向かった。

 景勝は龍兵衛の来訪を喜んで迎えた。

 普段の二人は見事なまでに主従関係を築いているため、親憲でさえもこの事を知る事は出来ていない。

 遠慮無く二人はお互いの愛を確かめ合い、人としての自分をさらけ出す事が出来るのだ。

 互いに抱き合い、口付けを交わす。我慢していたものを吐き出すかのように。

 それから、夕餉までの一時を何をする訳でも無く、思い思いに時間を潰す。

 茶を飲みながら日々のことや愚痴を話し合ったりと普段の二人では考えられない姿があった。

  

「龍兵衛、疲れてる?」

「いえ、特には」

 

 それだけで相手が何を悟ったのかよく分かる。

 龍兵衛はあまり話すのが得意ではないが、普段、巧みに隠している。

 知っているのは景勝だけであり、彼女だからこそ普段とは違う所を出す事が出来る。

 そう思いつつ、景勝の方を向くとこちらを真っ直ぐ見つめてきている。

 

「景勝様、自分の顔に何か付いていますか?」

 

 彼女は首を横に振ると理由の説明する。

 それは以前の軍議の終了後、謙信が何かをしようとしていると颯馬がすぐさま琵琶を取り出して、それを当たり前のように受け取り、演奏し始めた事だ。

 その後も謙信と颯馬は何も言わずとも意思疎通をしているのを見て、自分も龍兵衛と以心伝心をしたいと思ったそうだ。

 彼はもうあの二人に何があったかは大体分かっているので苦笑いを浮かべるしかない。

 以前、早朝の散歩に向かう際に謙信の部屋から出て来る颯馬を目撃しているので、好奇の目で見ているのを颯馬も察し始めている。

 黙っているのは、決してばれた時の颯馬や皆の驚いた反応を見たいという悪い考えを持ってやっているわけではない。

 

「まぁ、色々とあったのでは? 分からないですが」

「ん。それより、膝枕」

「分かりました」

 

 甘えた声に応じて龍兵衛は正座をして、彼女に近付くとそのまま頭を膝に乗せてきた。

 彼はその姿に中庭の三毛猫を思い出し、無意識に頭を撫で始めた。

 景勝は龍兵衛がこのような事をすると思っていなかったらしく、驚いていたが、気持ちよさそうに目を瞑りされるがままになった。

 その姿に彼も穏やかな笑みを浮かべ、昔の自分を思い出す。

 自分も昔は親に膝枕をしてもらっていた。

 母は家事全般を一人でやっていて父も農家でずっと畑に付きっ切りだった。

 夜には戻って来てよくやってもらっていた。特に父にやってもらっていたという記憶があった。

 

『お前が私の父を殺した!』

「はっ!」

「っ!? どうした?」

 

 いきなり龍兵衛が身体を震わせたので、景勝も驚いて退いてしまった。

 何でも無いと言うとまた気持ちよさそうに彼の膝に頭を乗せ、本当に眠ってしまった。

 それに気付いた龍兵衛はや溜め息を吐くも再び景勝の頭を撫で始めた。

 外では強い風が打ち付けていて、この後また廊下と外を歩くと思うと憂鬱になる。

 冬の到来はこれからで寒さはさらに厳しくなる。穏やかなこの心だけでもせめて暖かいままでいたいものだと龍兵衛は思った。

 

 翌朝、朝の早い龍兵衛が散歩に行こうと歩いていると颯馬がせわしなく動いて部屋に戻ろうとしていた。

 それを見て悪戯心が芽生え、静かに近付き「おはよう」と声を掛けると飛び上がって驚いた。

 

「りゅ、龍、龍兵衛!? お、おお、おはよう」

「どうした? そんな慌てて?」

 

 口元が歪まないように気をつけながら敢えて知らないふりをして颯馬に迫る。

 何でも無いと首を横に振り、龍兵衛から逃げようとしたが、思いがけない援軍が来た。

 

「おお、おはようございます。颯馬殿」

 

 親憲が立っていた。二人に挟まれ、颯馬は右往左往しているが、お構いなしに二人は颯馬に迫る。

 

「す、水原さん!? お、お、おお、おはようございます」

「おや、龍兵衛殿もいらしたのですか。どうしたのです?」

「颯馬がこんな所にいたのでどうしたのかなと思いまして」 

 

 親憲はなるほどと頷く。

 

「それはですね、昨日颯馬殿は謙信様の所にお泊まりだったのですよ」

「へ……?」

 

 颯馬は何で知っているのかと呆然としている。

 龍兵衛は良い機会と悪どい笑みを浮かべながらあごをさする。

 

「なるほどなるほど、それはそれは……」

「龍兵衛! なににやにやしてんだ!」

「まぁまぁ、颯馬殿。龍兵衛殿も元々知っていたのですから別に大丈夫ですよ。某達はいつでも構いません。颯馬殿の方から話す時を待っていますから」

「……ありがとうございます」

 

 憎々しげに龍兵衛を見ながら颯馬は部屋へと戻って行く。

 その後ろ姿を見ながら、新たな楽しみが出来たと思い、龍兵衛は一人で笑いを堪えるのに必死だった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十九話改 春が来て

 雪解けと共に風は日に日に穏やかになり、気温も徐々に上がってうららかな春が訪れる。

 龍兵衛の肩も春の到来が近付くと共に良くなり、回復の為に朝は道場での鍛練を行い、鍛え直している。

 怪我で全く動かせなかった右腕の筋肉は完全に落ちてしまった。

 道場で肩を気にしつつも木刀を振るう。

 大した痛みがある訳では無いが、二度目となると慎重になる。今年、来年の出陣が無いため、無理はしない。

 唯一の気になる点は伊達の存在だが、上杉に友好的らしい。

 片倉景綱がこちらに捕虜としている。政宗と昵懇である彼女を案じ、来る可能性は低いだろう。

 

「龍兵衛、おはよう!」

「おはよう」

 

 意識を現実に戻したのは景家の元気な声だった。

 朝稽古に来たと、すぐに槍を振るい始める。

 豪快な槍さばきを見ていると格好良く思ってしまうが、龍兵衛には真似出来るような代物では無いのは分かっている。

 少しでも追い付きたいと思うのが人間の性である。 

 

「龍兵衛、さっきから私の槍の使い方を見ているが」

「いや、景家のように動けるにはどうすればいいのか見ているんだ」

「そうか、何かわかったか?」

「いやー駄目だな。どんな動きをしているのか分かるんだが、どうやって動いているのかが分からん」

「よく言っている事が分からないが。まぁ、龍兵衛は軍師なんだし、あまり気にする事は無いだろう」

 

 龍兵衛は厳しい顔になった景家に「そうだな」と話の腰を折ると立ち上がって、向き合う

 

「ちょっと相手してくれないか?」

「え、大丈夫なのか?」

 

「少しだけ確認だ」と龍兵衛が言うとそれならと景家も相対する。

 部屋の雰囲気が一気に静まり返って緊張感が高まる。

 

「はぁ!」

 

 景家がまずは仕掛ける。

 龍兵衛は正面からの突きを横によけてそのまま一気に詰めて刀を横に薙ぎ払う。

 彼女は上半身をかがめて髪を掠めたかそうでないかの距離でかわす。

 立て続けに龍兵衛が上段から振り下ろすが、槍で完全に受け止められ、彼女から反撃をくらう。

 刀を槍で絡め取ろうと振り上げ、そこから一気に振り下ろしてくる。龍兵衛もどうにか受け止められたが、力が無くなっている影響か腰が引けてしまった。

 そこを景家は逃さずに更に攻撃を重ねる。

 

「参った」

 

 しばらくすると龍兵衛の首に槍が向けられた。

 

「大分良くなったな」

「大丈夫なのか?」

「まぁ、完全にというわけでは無いが」

「そうか。あの時の龍兵衛はこの世の終わりのような顔をしていたからな」

 

 龍兵衛の表情はそれだけ端から見ると苦悶に満ちていたようだ。

 少々言い過ぎな例えに苦笑いをしながらも納得したように頷き、道場を後にする。

 

「もういいのか?」

「ああ」

 

 龍兵衛は景家の声に振り返ることなく、返答して部屋に戻る。

 手拭いで汗を拭きながら歩く。外の様子から少し暖かくなりそうだと安堵する。しばらく廊下を歩いていると景勝に会った。

 

「おはようございます。景勝様」

「うむ」

 

 それで直ぐにすれ違う。普段の二人は決して関係を明かすような真似をしない。

 だが、どこかもどかしく感じてしまうのも確かで、鬱憤のようなものを振り払うのに時間が掛かったりする。

 最近、特に朝は感じが続いている。そして、原因が分からないため、彼の苛立ちが募る。

 

 龍兵衛は朝餉が終わり次第、着替えて農村に向かう。

 いよいよ開墾作業を行う時が来たので手伝いに行く。

 城下は春とはいえ、雪がまだ少し残っている。それでも、田畑への影響は全く無いと見てよい。

 

「おお、河田様、おはようございます」

「おはようございます。いい天気になって良かったですね」

 

 町の責任者やその他の人々と仲良く話しながら全員が揃うのを待つ。村の人々が集まったところで早速始める事にした。

 先の内乱で捨てられた畑や田畑として使えると思った場所を村の人々と協力して冬の間に調べ上げ、予め決めておいた所を耕して行く。

 草を抜いて土を掘り起こしていく。口で言えば簡単なことだが、大変な肉体労働である。

 それ故に、龍兵衛は自ら手伝うことにした。彼らに任せるのは上からやれと言っているようなものである。

 現場にいることで、上杉が本気で農家の為にやっていると示せる。謙信も快諾してくれたので、問題は仕事を押し付けた颯馬と兼続ぐらいだ。

 昼頃になり、一旦休息を取る。昼食はこの時代に取る習慣が無いため、少し辛いが、耐えるしかない。

 代わりに水を多め飲みながら空腹をごまかす。

 周りを見ると自分が居るこの世界の緑の多さを感じる事が出来る。龍兵衛にとっては実家が農家だったとはいえ周りは道路などがあってこのように周りがほぼ緑というのはなかった。

 春の到来はもう少し先となりそうだが、徐々に暖かくなって来ている為に掘り起こした土の中からは虫達が出て来てそれを狙って鳴き声を上げながら鳥達がやって来る。

 そろそろ小鳥への餌やりの為の準備といった所だろう。さらに土を触り、風の匂いを嗅ぐとどこか春の到来を感じる。

 深緑の静けさを最も好む龍兵衛にとって感覚を通じての春を感じるのは至福の時と言ってもいい。

 

「おお、龍兵衛、今は休息しているのか」

「ぶっ!? むが!? げっほげっほ」

 

 突然、後ろからの聞き覚えのある声に思わずお茶が気管に入ってしまい思い切りむせてしまった。

 振り返ってみるとそこには謙信と颯馬が立っていた。

 村人達はやって来た人に度肝を抜かれて土下座に近い格好で頭を下げている。

 

「け、謙信様。どうして?」

「いや、開墾の様子を見に来ただけだ。龍兵衛はまさか此処にいるとは思わなかったがな」

 

 龍兵衛は開墾の手伝いに行くとは言ったが、どこに行くとは言っていなかったのだ。

 他の村々でも開墾を奨励している為にどこでもこの時期は開墾を行っている。その中で彼を見つけたのはかなり奇跡的な事だ。

 どうして此処にいるのか聞くと謙信は今日は休みで城下の見回りのついでにと此処まで足を延ばしたそうだ。

 しかし、颯馬を選ぶのは分かるが、今日休みでは無い。どういうことなのか聞くと苦笑いをしながら答えてくれた。

 

「そのことを聞くと定満殿が仕事をやってくれるって言って下さった」

 

 これでしばらく定満には逆らえない。龍兵衛と颯馬はお互いに溜め息を吐いた。

 

 それから作業を再開し、日が傾き始めた頃に龍兵衛は声をかける。

 

「今日はこの辺ですね」

「そうですな。おーい、今日はもう上がっていいぞー」

 

 村の代表の声に合わせて村人達が一斉に返事をして後片付けをしていく。

 一通り終わったところで龍兵衛は帰る事にした。そこには謙信と颯馬がまだ居た。上機嫌の謙信をよそに颯馬は顔が引きつっている。後で定満からの長い説教が待っているのは言うまでもない。今からそれを想像しているのだろう。

 

「いやぁ、実に面白いのを見せてもらった」

「そうですか? やっている方は楽しいですけど。見ているのはどうでしょうか?」

「民がどのように田畑を耕しているのを知るのも当主の仕事だ」

 

 なるほど確かにそうである。義を貫く事を唱えていて民を想う謙信にとって民は慈しむべきもので、決して軽んじてはならない。

 夕暮れ時の城下に戻ると飲食店が夜の忙しい時間に備えて準備に追われている。他の雑貨店などは店仕舞いに同じく忙しい。

 春になって城下の民も段々と動いているように見える。季節とは人の動きを変える物であると龍兵衛は思いながら謙信、颯馬と雑談に興じている。

 本当なら距離を取って二人きりに龍兵衛はさせようとしたのだが、謙信が一緒に帰るとしようと聞かないので仕方ないと思いながら付き合っている次第だ。

 

「水原さん。それに、池田殿も」

「おお、謙信様達ではないですか」

 

 颯馬が二人を見つけてお互いにどうして此処にいるのかを聞く。盛周がこの城下をもっと知りたいと思い、親憲に案内を頼んだらしい。

 盛周は民思いの人であることは皆が知るところで、より近くで民を見たいと思ったらしい。

 

「水原さん、良ければどこかで飲みませんか?」

 

 龍兵衛は二人を誘う。

 二人が快諾し、ようやく謙信と颯馬を二人きりにさせることが出来て安堵の溜め息を吐いた。

 

「ふふ、どうやら某達は良き餌になったようですな」

「ええ、上手く食べることが出来ました。ありがとうございます」

「ん? お二人とも何のことです?」

「いえいえ、池田殿もいずれ分かる事ですよ」

 

 笑い合う二人に盛周は良く分からないと首を傾げるしかなかった。

 それから、良さげな店を見つけ、中に入る。

 

「いやー随分とお二人は飲みますね」

「そうか? いつもこれぐらい飲む時は飲むぞ」 

 

 龍兵衛は水を飲むように酒を飲み、親憲はちびちびと飲んでいる。飲み方はだいぶ違うが二人とも飲んでいる量はかなりのものだ。

 二人ともなかなかの酒豪で謙信には適わないが、酒はかなり飲む方である。それに釣られて盛周の酒も進むが、二人よりも早く飲むのを止めて今は肴に出た物を食べている。

 夜になるとまだまだ少し寒く感じる。親憲が言うにはまだ春になるのはもうすぐの事らしい。そして、話題は民の事に変わって行く。

 

「池田殿から見てどうです? ここは」

「かなり賑わっていますね。山形城下も良かったですが、ここも負けていません」

 

 龍兵衛はかなり真剣に盛周の意見を聞いている。彼からすれば政治家として民の生活を維持向上させるのが役目である以上、様々な人からの意見を聞いて参考にしなければならない。

 

「龍兵衛さん達が整理した法令もかなり浸透していますね。自分が見ても民達が安心して商売をしています」

 

「そうですか」と言うと龍兵衛は酒を更に飲む。

 実際は嬉しいのを隠しているだけである。よく知っている親憲は笑っているが、聞こえないふりをして龍兵衛は誤魔化す。

 自分だけが立てた訳でもないので自分が誇るのは憚られる。

 親憲もそれ以上は何も言う事はせずに真面目な話を変えて砕けた話題となっていき、更に三人は楽しげに語らった。

 

 

「ふぅ……やっと帰れた」

 

 半日ぶりに帰って来たので、疲れたという思いが強かった。

 先ず、定満の部屋に向かい、仕事を代わってくれた事に礼を言う。

 にっこりと笑って気にしないでいいと言われたが、ちゃんと明日は仕事をするようにさらに笑顔を深め、釘を刺された。

 よく見ると笑顔の額に若干の青筋が立っている。仕事を半ば強引に頼まれたのを根に持っているのは間違いない。

 龍兵衛は平身低頭でお礼を言い続け、彼女の部屋から逃げるように去った。

 その後、入れ代わりで颯馬がこの部屋に来たが、どうなったのか知る者はいない。

 定満の部屋から出た後、風呂に入る事が出来た為、身体を洗う事が出来た。

 この時代、なかなか風呂に入る事が出来ないので、井戸の水を自分の部屋で温めて手拭いで拭くことも考えていた。

 奇跡的に入ることが出来た風呂でしっかりと汗を流して部屋に戻り、布団を敷いて時間は早いがもう寝るかと思った時だった。

 景勝が入って来た。

 顔を赤くしているが、どうしたのか龍兵衛が聞くと肩の事を聞いてきた。

 景家とも立ち合った事も知っているようで大丈夫だと言うと景勝は安心しているようだが、何故その事を今更聞いてきたのか疑問に思い。聞くと景勝は一冊の本を持ってきていた。

 どうやら定満からもらったらしいが、龍兵衛が何が書いてあるのかを聞いてみると景勝は言うよりも先に本を差し出して来た。どう見ても落ち着きが無く、おろおろとしている。

 よく分からないまま本をめくるとすぐに景勝の顔が赤い原因を察した。

 彼は本を一瞬でぱたんと直ぐに閉じて眉間に指を当ててぼやくしかなかった。

 

「なんでこんなものを定満殿は持っているんだ? そして何でまた景勝様に渡すかね。まったく」

 

 床に投げ捨てたそれは春画本だった。

 いくら恋仲とはいえ、次期当主となる人を前に素の口調になるのに何の罪が有ろうか。この状況ではしょうがないだろう。

 

「龍兵衛……」

「何でしょ。むっ!?」

 

 いきなり景勝は龍兵衛に抱き付いて接吻をして来た。小さな身体の中にある目一杯の力で龍兵衛の大きな身体を押し倒した。いつもと違うほんのりと甘い雰囲気が彼女から出ている。

 

「龍兵衛、肩、治った。心配無い」

「そういう事ですか」

 

 此処まで来れば定満の行動にも合点がいく。

 しかし、それはあくまでも定満の考えであって景勝の考えではない。

 

「いくらなんでも押し付けるような真似をしなくても」

「ううん、景勝、ずっと我慢してた」

 

 乱暴に頭を掻く龍兵衛に景勝が衝撃的な言葉を言って、彼の手を止めさせた。

 そのままの彼にもう一度接吻をすると景勝は意を決して言った。

 柔らかく男性を誘惑するような声で囁く。

 

「景勝、大人にして……」

「景勝様、一つよろしいですか?」

「……?」

「あの、本当によろしいのですね?」

「しつこい」

「性分ですので……では、失礼しますよ」

 

 強固な城壁のように固かったはずの龍兵衛の理性の壁は景勝の前にいとも簡単に崩れ落ちた。

 二人の愛は寒い春前の夜の部屋を前の暑い夏の日のように熱くした。

 こうして龍兵衛と景勝の初夜はあっという間に過ぎていった。

 

「景勝様、起きて下さい。朝ですよ」

 

 景勝は目を覚ましながらおぼろげに昨日の事を思い出し、顔を真っ赤にしてもじもじとさせている。

 彼は笑いながら「景勝様に求められて嬉しかったですよ」と言うと顔をさらに真っ赤にした。

 だが、彼女も彼に大人にしてもらって嬉しかったと笑顔で返した。

 そう言われると負けないぐらいに顔を真っ赤にする。

 互いに無言となるが、自然と笑みがこぼれてしまう。そして、二人は再度これが現実だと確認し合うように唇を重ねた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十話改 上洛命令

 戦が無いと時の流れが早く感じるのはこの乱世に飛ばされて何年も経つからだろう。

 しかし本来、これでは駄目だと思うのが平成の世を生きていた龍兵衛が抱えるべき考えだった。

 段々と自身もこの世界の住人となって来たということかと思った。

 乱世への憂いもあるが、上杉家で日ノ本を平定すれば良いと思うようになってきているのも事実である。

 壊したものを作り直せば良い。そう感じるようになった。

 信頼出来る親友を多く作れることが出来て、景勝とも契りを交わした。

 春前までに感じていた不快な感覚も景勝との夜を過ごしたことで無くなった。

 後日、景勝に聞いたところ同じであったらしく、互いにすっきりとした気持ちで一日一日を過ごせている。

 しかし、平和の時間は光の如く早く過ぎていった。やはり乱世の中には休みというものが無いのかもしれない。

 最近出来た龍兵衛の朝の日課は愛しい人を起こすことである。

 早起きの龍兵衛に合わせ、一緒に起きずとも良いのだが、景勝は早く起きれるようになりたいと言ったため、遠慮なく起こしている。

 

「景勝様、起きて下さい。朝ですよ」

「まだ、も少し……すぅ」

 

 布団からあまり出た例がない溜め息が出て来る毎日だが、可愛らしい寝顔で眠っている景勝に起こす気が萎えてしまうのも事実である。

 昨日もそうだったが、景勝の部屋を訪ね、朝まで一緒にいることが多々ある。互いに望んでいるため、構わないが、寝坊は良くない。

 

「今日は謙信様から大切な軍議の日がある事は言われているでしょう?」

 

 猿にも景勝を揺すってもらいながらそう言うとゆっくりと布団から抜け出して来た。眠たそうにしているが、今日はそうはいかない。

 

『明日は必ず遅れずに全員軍議の間に来るように』

 

 謙信の強い口調が脳裏に蘇る。

 何があったのかまだ軍師達も聞いていないが、かなり重要な案件だろう。

 その理由として事前に軍師達には伝えず、謙信自らが軍議にて話をしたいと言っていたのだ。

 より多くの人から意見を聞きたいのだろう。昨日、颯馬や兼続にも聞いたが、謙信が何を話すのか知らないらしい。

 龍兵衛は先に部屋から失礼をして、誰も自分が視界に入る所に居ないのを確認してから静かに景勝の部屋を出て行った。

 屋敷に戻って顔を洗い、簡単な朝餉を取り、すぐに軍議の間へと向かう。

 月日の経つのは早いもので、季節は夏である。平和な日々が早く過ぎるとやはり、乱世は戦の中心に時間は回っているのだろうかと思ってしまう。

 日差しが強く今日も夏晴れになるのだろうと思いながら歩いていると途中で颯馬と出会い、一緒に軍議の間に向かっていると景勝が前から来た。 

 二人で挨拶をすると景勝も返事をして、そのまま通り過ぎて行った。その足取りは軽く跳ねているようにも見えてしまう。

 

「どうしたんだろうな? かなり上機嫌だな」

「さぁな」

 

 颯馬が反応に困ることを言うが、冷静な心を最大限に使ってごまかすことに成功した。

 そのまま他愛も無い話をしながら、軍議の間まで行くと先客がいた。

 

「おい、二人とも遅いぞ」

「お前が早過ぎるんだよ」

 

 兼続の言葉に颯馬がすぐさま牙を剥く。

 相変わらずこの二人は見ていて面白い。喧嘩すればなんとやらのいい見本である。

 その後もしばらく二人の言い争いを眺めながら袖で口元を隠しながら笑いを堪えていると親憲がやって来て、二人の間に入ってようやく言い争いは終わった。

 かなり大切な軍議だが、上杉家の将は皆変わることなく、緊張感があまり無い。

 しかし、神妙な顔付きで入って来た謙信から伝えられた上洛命令に係る知らせに全員は驚愕の色を隠せなかった。

 

「この時期に上洛命令とはね……面倒以外の何物でもないな」

「よせ、龍兵衛。名目上は関東管領となって、まだ将軍との謁見を済ませてないから来いと言っているんだ。仕方無いだろう」

 

 軍議が終わり、眉間にしわを寄せ、颯馬と二人で廊下を歩く。

 今は夏、上洛となると色々と準備が必要になるため、出立はおそらく秋の収穫直前か直後辺りになるだろう。

 その間に攻めて来る勢力があるとすれば北条ぐらいだ。

 武田は織田の攻勢に押され始め、甲斐への侵入を許してしまうこともあったと聞く。

 美濃も稲葉山城の陥落まで秒読みになって来ており、これで東日本は上杉、織田、北条の勢力が均衡状態になる。有利なのは客観的視点から見ると間違い無く織田である。

 豊かな国々を支配下に治め、経済的に突飛していると見ていい。

 上杉家は佐渡と院内、阿仁を中心とした鉱脈の採掘と青苧座からの収入でかなりの財力を持っているが、治めている国々自体の国力は低い方で畿内からも遠い。

 畿内に近い織田が商業を盛んにすると今後の繋がりも薄くなってしまう可能性が高い。

 さらに織田の場合は冬の出陣が天候次第になる上杉と違い、どの季節でも出陣可能である。

 上杉が動けない時、不利になることも考えられる。

 今回の上洛で、外交を担当する颯馬と確認をすることも考えなくてはいけない。彼も懸念していたらしく、定満や兼続と一緒に協議をしようということになった。

 今回の上洛は正式なものであり、上杉家の名を世に知らしめるため、それなりの軍勢を率いることになっている。

 謙信も兵士や民に負担を掛けることを懸念していたが、やむを得ない。

 戦続きでかなりの負担を強いられていた民達が正式な上洛とはいえどのような感情で今回のことを受け入れるかは不明だが、上杉家の為という人が多いと祈るしかない。

 

 その日の夕方、四人の軍師が揃い上洛への準備の方針を固める。

 

「兵士は五千、連れて行くの。実及と朝信に残ってもらって何人か他の家の人も連れて行くの」

 

 定満を中心に上洛軍の編成と留守組を誰が務めるかを決めて行く。

 また、他家の将を連れて行くことで上杉家の力がどれほどのものかを知らしめる。

 収穫直後を出立としてなるべく早めの行軍で雪がひどくなければ、冬の間に帰ることを予定とし、ひどい場合は雪解けの時を待って帰還となった。

 兵糧などは新田開発がほぼ順調に進んでいる為に問題無いが、直ぐにどこにでも稲作が出来る訳では無い。今年の米は昨年と同じくらいと見ていいだろう。

 だが、それよりも大きな問題が上杉家にはあった。

 

「景資殿は結局どうしましょうま?」

 

 颯馬の言葉は軍師達の悩みどこを端的に表していた。

 北山義藤もとい足利義輝はあろうことか今回の上洛に付き合いたいと言ってきたのだ。

 現在、彼女は高齢となった吉江宗信の養子として吉江家の当主に収まり吉江景資と名乗っている。

 地位も何も無いままの偽名ではと決まったことだが、留守を任せる本庄実及や斎藤朝信はともかく、家臣の中でもかなり上の地位にある吉江家の当主を上洛軍に参加させない訳にもいかない。

 病気と偽らせておくことを考えていたが、行くと言って聞かないため、どうしたものかと考えあぐねている最中だ。

 向こうに変な誤魔化しが効く訳が無い。そのようなことは京をよく知る景資が一番わかっているはずだが、どうして行きたいのか理由を教えてくれないのだ。

 景資曰く、どうしても行きたい事情がある。

 足利家の面々と面会をするわけではないとのことで、顔を表には出さないことを条件に同行をさせることとした。

 

「ですが、どうしてこの時期に上洛命令を出して来たのでしょう?」

 

 龍兵衛は前から抱えていた疑問を口に出す。

 名目上、謙信の関東管領就任後に将軍家として正式に面会することということになっているが、あくまでも名目上で真意が掴めない。

 

「何かあるかもしれないが、行かないと何も始まらないだろう」

 

 兼続は前向きだが、胸騒ぎがする。

 颯馬に目をやってみるが、首を振るばかり、定満も何も言わずに黙っている。真意が掴めないと言いたいのだろう。 

 うやむやのまま会議は終わり、それぞれの部屋に戻って行く。

 外は夕方でも汗ばむ陽気となり、暑い日々が続いている。

 中庭の伸びた夏の草は綺麗になって片端に積んであった。それを作った蘆名盛隆も上洛に付き従うことになっている。

 三毛猫を呼び寄せて餌をやり、撫でてやりながら上洛の真意を考えるが、全く答えが出て来ない。

 そのまま夜になり、正解が見えないまま一日が終わってしまった。

 

「分からないな。本当に」

「……?」

「いえ、何でもありません」

 

 また声に出ていたことに咳払いと言葉で誤魔化す。

 景勝の部屋でいつものように逢瀬をする。今日は早々に退室しようかと思ったが、居るだけでいいと言われた。龍兵衛自身、悪い気はしないので、そのまま考えごとを続けている。

 

「分からない事、ある?」

「いえ、今考えても仕方ない事です」

 

 確かに何時までも考えていても仕方ない事で、あの景資が変な企みをするとは思えない。

 それから、考えるのを止めて景勝と世間話に興じた。

 そして、それ以外で個人的な問題が起きた。

 この日からまた過去の夢を毎日のように見るようになってしまった。

 

「はっ! また夢か……」

 

 体中に寝汗で濡れて気持ち悪い。

 両親やかつて愛を誓った者たちが侮蔑してくるという精神的につらい内容に溜め息を吐くしかない。

 

「今さら何でこんな……」

 

 自問自答しても答えは出ない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十一話改 巻き込まれる

「では、某はこれにて失礼をします」

「ありがたく思います。富樫殿」

「いえいえ、某に出来るのはこれぐらい故……」

 

 謙信と会談している加賀守護の富樫晴貞は頭を下げる。

 だが、守護とは名ばかりで、一向宗の傀儡として上に立っているだけの存在。

 加賀の本城、尾山御坊の近くのある寺で上杉が一泊した際、晴貞は快く迎え入れ、献身的にもてなしてくれた。

 そして、謙信は会談を早めに切り上げて出立の命令を下す。直ちに将兵が動いて直ぐに準備は整った。

 富樫は行軍の姿が見えなくなるまで頭を下げている。律儀な御方だと颯馬は思った。

 だが、龍兵衛は富樫が視界から消えた途端に渋い表情になる。

 

「どういうことだ?」

「いくら何でもあそこまでの好待遇はないと思うのだがな」

「はは、考え過ぎだろう」

 

 龍兵衛には他国であって長年、一向宗との因縁がある勢力に加賀の国主がこうもしてくれると思っていなかったのだろう。

 颯馬とすれば、将軍に謁見するために上洛しているのだから当然の範囲内だと考えていた。

 

「(猜疑心が強いのは知っていたが、そこまで人を疑わなくてもなぁ……)」

 

 当の龍兵衛は颯馬が浮かべている苦笑いを全く気にせずに話を続ける。

 

「だけど、はっきりしたな。富樫殿は決して傀儡ではない」

 

 龍兵衛が断言出来たのは昨日のことだろう。

 晴貞は家臣達にあれこれと指示を飛ばしていたが、その時の姿はかなり様になっっており、傀儡である事を他の勢力に見せないようにしているようにも見えなかった。

 

「もしかすると一向宗の支配を逆手に取っているかもな……あの目は危険な目だ。警戒する必要がある」

「そこまでか?」

 

 龍兵衛は迷いなく首を縦に振った。

 颯馬には感じのいい人に見えたが、彼の同調は得られない。

 

「(龍兵衛は人を見抜く力も師匠に習ったと言っていたが、それを活かしたということか……)」

 

 龍兵衛は段蔵を呼んで軒猿に加賀の情報に力を入れるように伝えた。

 

「勝手にやって良いのか?」

「謙信様に言っても却下されるだろう」

 

 その通りのため、言い返すことができない。

 段蔵もすでにどこかに行ってしまったため、これ以上の追及は諦めることにした。

 それからしばらくは皆が無言で行軍を続ける。

 四半刻ほど経ち、「景資殿が京に居た時どんな感じだったのですか?」と最上義守が景資に尋ねるのが聞こえてきた。

 颯馬も聞いたことがあっても見たことが無いので、耳をそっちに集中する。

 因みに義守は堅いのは好きじゃないという事と自分も上杉家の家臣である事に変わりないという事で呼び捨てで構わないと上杉の面々は言われている。

 

「妾はずっと御所に居たからのう。町については詳しくは無いのじゃが、御所は色々と大変じゃった……」

 

 そこからは景資の苦労話に皆が静まり返った。

 将軍家の力を強めようと尽力しても一人では何も出来ず、細川藤孝ら直臣以外にも三好家を頼るしかなかった。

 三好長慶は景資もとい義輝を支えて将軍の権威を上げることに尽力をしていた。

 だからこそ諸大名の間の戦いに積極的に介入して調停をしていた。

 しかし、義輝の強引な手法に納得がいかない者がいたことも事実だった。

 その者達に襲われた夜。

 敵を斬り捨てながら義輝は思った。

 もはや足利将軍家の権威は地に落ちたと。

 力を持っている者こそが真のこの国の支配者となるべきである。

 死を覚悟した。それでも、彼女の天命はまだあった。

 ある人物に助けられ、その人物は逃げる手筈も整えてくれた。その者に命の恩人として礼を言わなければならない。

 そう思い、景資は今回の上洛に同行する事にした。

  

「あの襲撃は間違い無く三好家の仕業じゃ。おそらく、長慶が指図したに違いない。故に、妾は今の将軍である義昭に会う事はない。そこには長慶も居るはずじゃからな」

 

 姿を変え、身分を隠しても上洛して堂々と動いていれば、必ず義輝が生きていることが発覚する。

 そうなっては、景資だけでなく上杉家にも危害が及ぶ。

 それを承知で、恩人に礼を言いたくて我が儘と知りつつも付いて来た。

 

「皆も三好家の者達には注意した方が良いぞ」

 

 景資はそう締めくくった。

 その神妙な顔付きは颯馬達の警戒感をいやというほど高めさせた。

 

「……ふむ」

 

 謙信もその苦労を思っているのだろうか、視線が下に向いている。

 義輝として、この上杉家に来るまでは前途多難だったに違いない。

 皆が景資に同情の視線を送る。

 颯馬も同じような視線を送るしかない。だが、その苦悩をよく分かる人がどのくらい居るだろう。

 その人にしか分からないものである。もちろん、謙信達には分かる筈もない。

 

「まぁ、もう済んだ事じゃ。それに長慶に恨みはもう無い。謙信が築く天下をよくよく見ておきたいからのう」

「期待に応えられるように精々励みます」

 

 二人の冗談混じりの会話で少し緊迫感があった周りの雰囲気も少し和らいだ。

 一方の颯馬はこれから待ち受けるであろう何かに嫌な予感を感じた。

 

 

 上杉家が加賀を行軍している頃、織田信長は美濃の制圧に成功していた。

 

「ようやく落ちたな……」

「おめでとうございます。信長様、斎藤義龍殿らの処遇は如何いたしましょう?」

 

 近くで控えていた老臣、丹羽長秀が尋ねる。

 

「降伏するなら配下に加える。背くなら、容赦なく斬れ」

 

 彼は頭を下げ、戦後処理のため、去っていく。

 美濃はかつて尾張、近江と共に室町幕府から半済令の対象となった三つの国の一つ。豊富な土地柄故に激戦区の一つであった。

 また、龍兵衛達が去った後に力を付け直した国人衆の力が根強く残っている国でもある。

 信長はこの戦で国人衆を徹底的に弾圧し、彼らの力を完全に削ぎ、美濃の支配者として君臨する体制を整えた。

 この戦では井上道勝の暗躍が大きかった。木下秀吉の配下として斎藤家が誇る美濃三人衆をこちらに寝返らせた。

 その勲功は大変大きく、信長も秀吉と彼女の出世を約束した。

 稲葉山城内では柴田勝家ら織田の猛将がまだ抵抗する者を倒しているだろう。もはや斎藤家の命運は信長の手の中にあった。

 

「信長様」

 

 気付くと近くに秀吉が立っていた。

 

「どうした? 猿」

「実は斎藤家にて軍師として働いていた者がおります。その者を召し抱えたいのです」

「ふむ……良かろう。許す」

 

 織田軍には平手政秀の死後、これといった直属の軍略家が居ない。

 稲葉山城はその日の内に陥落し、義龍、龍興姉弟は幸い、殺される事なく、そのまま織田の配下となった。

 道利は正体がばれることを恐れて自害しようとしたが、小牧源太に止められ、同じように織田に降った。

 信長の覇道の道はまだこれからであり、美濃は通過点である。

 しばらくして秀吉は半兵衛の下に向かった。

 

「たのもー! 竹中半兵衛殿の家はここでいいですかー?」

「はいはーい、お探しの半兵衛さんはここですよー」

 

 この時、半兵衛は織田からの勧誘に躊躇いを感じた。

 しかも聞けば、かの道勝は今、目の前に居る秀吉の配下だという。

 一旦断りを入れて心を落ち着かせ、どうするべきか半兵衛は考えた。

 道勝といるのは常に背後に刃があるのも同じ。三人衆も織田に降っているが、隠居している半兵衛には降らないという選択肢のある。

 だが、あの事件の首謀者の一人であり、それを公にさせられれば自分だけでなく、友や弟子の立場も危うくなってしまう。

 美濃から出てしまう事も考えたが、それは自分の病弱な身体と相談してみれば無理だとすぐ分かる。

 秀吉との会見でも何度血を吐いて助けられたことか分からない。

 考えに考え、半兵衛は秀吉の三度目の訪問でようやく首を縦に振った。

 そして、信長に目通りも程々に、美濃三人衆と密談を稲葉山城内の一部屋で行った。

 再会の喜びも束の間、問題の人の動向についてについて三人衆から聞く。

 

「……では、道勝さんは今は大人しくしているんですね?」

「うむ『今』はな……」

 

 一鉄の言い方に、いつ狂気が目を覚ますのか戦々恐々としているのが分かる。

 四人からすれば道勝は獣であり、そのような人と一緒に居る事自体が嫌なのだ。

 静まり返っていると外から足音が聞こえ、四人の居る部屋の前で止まった。

 

「やぁ、半兵衛。その節は世話になったな」

 

 入ってきたのは半兵衛達の予想通り一番見たくない顔だった。

 

「お久しぶりです、道勝さん」

 

 素っ気なく半兵衛は答え、嫌悪感を封じ込める。

 井上は気にせず、悪戯っぽい笑いを浮かべながら四人に近付く。

 綺麗な顔立ちをしており、端から見れば、可愛いらしく見えるだろう。だが、その顔こそが狂乱者の顔であり、何か酷薄なことを考えていると知らせる合図でもあった。

 

「あたしは別に自分で天下を取る事なんて思ってない。だけども、やっぱりこの乱世を早く終わらせてさ。さっさと金に困らないようにしたいんだよ。それと人殺しもな」

 

 やはり、この人は乱世ではなく自分の欲求を満たす為にしか頭に無い。

 そのことを再認識した半兵衛は無言で頭を下げる。

 終わりかと思ったが、井上はまた口を開いた。

 

「あんたの親友の……官兵衛だっけ? あれに連絡取ってすぐに織田に推薦しな。本当は龍兵衛も欲しいところだったんだけど、どこにいるのか分からないし。ね、半兵衛」

 

 嫌味の入った言葉に半兵衛は三人衆に頼み、道勝を殺したいほどの怒りを覚えたが、堪えないといけない。

 彼女は自分が仕える秀吉の家来。いざこざを起こしては自分の首が必ず飛ぶ。

 秀吉は良いように扱われていることを全く気がついていないだろう。

 しかし、半兵衛は彼女のことに好感を持てた。天才的な人当たりの良さは誰もが目を引く。そして、自身のような病弱で忌避されても良い者にも分け隔てなく相手をしてくれる。

 それ故に、井上に良いようにされているのが実に忍びない。

 危機を知らせるべきだが、急いては事を仕損じる。

 半兵衛は井上に頭を下げると官兵衛宛てに手紙を書くためにゆっくりと立ち上がった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十二話改 探り合い

 冬直前に上杉軍は京に到着した。

 将軍義昭との面会をするべく、案内人としてやって来た三好長逸を先頭に御所へと向かっている。

 景資は後ろに下がり、顔の大半を布で覆い、付いてきている。

 幸い、誰も気付いていない。

 龍兵衛は初めて来た京を見て、眉根を潜めた。

 長年の争乱で京の洛外はまだ復興の手が届いていない。人骨や腐敗した死体が散見され、烏やねずみがあちこちで餌を求めて動き回っている。

「荒れているな……」という謙信の呟きに長逸が「これでもまだ良くなったのですよ」と冷淡に返答した。

 三好家家臣にて三好三人衆の筆頭である彼女は青い髪の綺麗に短く纏め、一見律儀さと生真面目さを感じる。

 だが、その一方でどこか油断ならない雰囲気がある。

 龍兵衛は、史実で義輝暗殺の黒幕になっているが、この世界では噂にも出て来ないということを思い返す。

 重苦しい雰囲気の中で慶次だけは明るい表情で「すっかり変わったわねぇ」と龍兵衛の隣で辺りを見回している。

 

「楽しそうだな、慶次」

「そうりゃあそうよ」

 

 どこに要素があるのか問いたいが、聞いても分からないだろうと黙って前を向く。

 彼女にはお目付役を付けることが密かに決まっているため、羽目を外し過ぎることはないだろう。折檻する準備もきちんと整えており、颯馬や兼続とも確認済みである。

 しばらく進むとようやく将軍がいる御所が見えてきた。

 上杉家の到来を祝うように雲一つも無い天候である。

 景資と慶次は兵を纏めておく役目があると参内せずに陣で待機する事になり、正式な官位を持つ者だけが目通りのため、御所内へ入っていった。

 

 足利幕府第十五代将軍、足利義昭。

 史実では永禄の変の際にまず越前、それから美濃に逃れて織田信長を頼って将軍となったが、この世界では義輝の襲撃事件後に就任した先代の足利義栄が突然、病死したため、興福寺から呼び出され還俗して細川家と三好家によって担ぎ出された将軍である。

 しかし、彼女も乱世を憂いている気持ちは持っている為、細川三好家の協力により少しでも将軍の権威を取り戻そうと奮闘しているらしい。

 だが、義輝もとい景資の覇気と比べると首を捻りたくなる。

 それが会見に立ち会った兼続の意見だった。

 龍兵衛は官位を持っていないため、同じく颯馬と共に陣で待機していた。

 

「強権ではなく、協調か。それで多くの大名と話をしているのは景資殿と同じか」

 

 龍兵衛が言うとすかさず兼続が「あの方とは違うところもある」と指摘を入れてきた。

 義昭は誰彼構わずの義輝とは違い、細川や三好の意見を取り入れた上で会見を行っている。

 龍兵衛は分かっていると手を上げ、空を見る。夕日がもう少しで西の山に隠れそうだ。

 

「じゃあ、後のことは明日以降でいいか?」

 

 颯馬と兼続に確認すると二人も頷いたため、それぞれ用意された部屋へと向かう。

 官位のある兼続と違い、龍兵衛は三好が用意してくれた小さな寺院に向かう。

 幸い、住職や僧侶は真面目な人のため、夜中に気を付けることは無いだろう。

 あてがわれた部屋で疲れを吐き出すように一息つく。

 兼続が義昭に対して少し過激な表現を使って批判を行っていたこともあり、周囲に気を配っていたため、気疲れを起こした。

 今頃、兼続は定満の部屋で足の感覚を失っているだろう。

 三人で帰る際、待ち構えていたように定満と出会い、彼女は問答無用で連れて行かれた。

 その様を肴に水を飲んでいると来客があると小僧から連絡が来た。

 薄い青緑色の髪をした女性は綺麗な所作で龍兵衛の部屋に入る。

 彼女の姿を確認すると龍兵衛も姿勢を正して相対する。

 

「久しいですね、河田殿」

「ええ、そちらもお元気そうで何よりですよ。明智殿」

 

 龍兵衛は通称ではなく、名字で呼ばれたのは久しぶりな気がした。

 部屋に入り、静かに座ったのは明智光秀だった。

 かつて、美濃で父の光安が内乱に巻き込まれ、死亡し、その後の行方は不明だった。

 彼女は例の計画の全容は知らない。故に、龍兵衛を謀反人と見ているだろう。

 しかし、その雰囲気からは敵視するような感じを受けない。

 

「あの時は大変でしたね……」

 

 龍兵衛は全てを知っているかのような物言いに目を見開いた。

 彼女を見た途端、全ての罵倒雑言を受け入れる覚悟をしていたが、掛けられたのは労りの声だった。

 彼女とは親しかった訳では無い。当時は家督を継ぐ前の娘と見習い軍師として修行をしていた者。挨拶を交わす程度の間柄であった。

 

「どうして何も仰らないのです? 自分は間接的には貴殿の父を殺したも同然なのですよ」

「良いのです。確かに最初はあなた達を恨んでいる心は有りました。ですが、ふと思ったんです。何故、聡いあなた達はあんな事をしたのか」

 

 あの事件に疑問を持った光秀は独自に調べ、自分なりの結論を出したらしい。

 

「あの謀反は美濃の邪魔者を殲滅する為の戦だったのですね?」

「まぁ、それもありました」

「他にも何か目的があったのですか?」

 

 光秀は驚愕の表情をしながら身を乗り出して聞いてくる。

 彼女の人柄を見て、知ることが出来る人物であると龍兵衛は思った。

 

「これから話すことは当事者と斎藤家の上層部の中でも一部の人しか知らないことです」

 

「いいですね?」と聞くと光秀は頷き、改めて姿勢を正して一言一句聞き漏らすまいというのが顔に出る程の真剣な表情になった。

 光秀が知らないであろうことを龍兵衛は丁寧に話して行く。途中で質問を入れながらも最後には納得した表情で頷いた。

 そして、道三の生存にはかなり驚いていた。

 

「では、我々の生活を奪ったのは井上殿なのですね?」

「はい。あれこそ許し難い敵というやつです」

 

 光秀は龍兵衛へと頭を下げて礼を言って来た。

 その中には道勝に対する怒気が含まれているのは言うまでもない。

 龍兵衛は礼には及ばないと言ったが、光秀は首を横に振る。

 

「斎藤を救おうとしたあなた方には感謝をしなければなりません」

 

 そう言って光秀はまた頭を下げる。

 これでは埒が明かないと思い、龍兵衛は話を上杉の話に変える。

 光秀はこちらに来る前に謙信の所に向かったらしく、印象を聞いてみると意外と思うところがあったそうだ。

 毘沙門天の化身と呼ばれる謙信は戦の印象が強いらしく、戦好きなところがあるのではないかと考えていたが、実際に会ってみると民のため、仕方無く戦をしていると分かったそうだ。それこそが謙信の戦う意味である。

 

「自分とてそのような戦狂いの人だったら仕えたりしませんよ」

「それもそうですね」

 

 お互いに笑い合う。その後は二人がどうのようにして今に至るのかを話し合った。

 光秀はあの事件後、京に向かえばと藁をも掴む思いで居たところ、偶然細川藤孝に拾われたそうだ。

 本当に幸運で、あの出会いが無かければ今の自分は無いだろうとしみじみと話していた。

 それから龍兵衛がこれまでのことを話すと改めて驚きを隠せず、少し目を丸くしていた。

 

「河田殿は随分と大胆な事をしたのですね。私ではそのようなことを出来るとは思えません。流石に三人目の兵衛と言われる事はありますね」

「その通称はもう……それに、あれは自分ではなく一緒に居た慶次が思い付いたことですから」

「それでも乗ったのでしょう? 私でしたら危ないから止めますよ」

 

 あの時は謙信に売り込む最大の好機だと龍兵衛も慶次も思っていたため、後先のことを考えていなかった。

 さらに話し込んでいるとかなり時間が経った。それに気付いた光秀が「この辺りで」と立ち上がったため、この会談はお開きとなった。

 玄関まで見送ると光秀は何かを思い出したのか、振り向いて「謙信様にもお伝えしましたが」と前置きを入れて、もう一つの家が明日にも到着することを明かした。

 

「また随分と過密な日程ですね」

「義昭様は許す限り積極的に様々な勢力との会見に望んでいます。将軍家はまだ立て直せる。そう信じて進んでいられるのです」

「なるほど」

 

 光秀の力の籠もった言い方から、義昭は見かけによらず、なかなか行動的な御方のようであると龍兵衛は脳内の評価を改めた。

 今度こそ彼女が出て行くとようやく一日が終わったと安堵の溜め息を吐く。

 誤解が完全に消え、真実をすぐに信じてくれた。

 夕日はすでに山に消え、星空が輝いている。

 龍兵衛はどこの大名家が来るのか聞き忘れたことを思い出したが、光秀が謙信にも伝えてあると言っていたため、さして気にせずに床に就いた。

 

 翌朝、陣に向かうと一番に謙信に光秀と私的に会見を行い、今日、将軍と会見を行う大名家がどこか尋ねた。

 

「ん? ああ、すまん。実は私も聞き忘れた」

 

 残念ながら聞きそびれた互いに聞き忘れてしまったことがここにいる颯馬と慶次、景勝にも発覚してしまった。

 慶次も再会した藤孝から同じことを聞いたようだ。

「先に言えよ」と龍兵衛は抗議したが、彼の反応が見たかった、なかなか良い反応だったと面白そうに言っていた。

 颯馬や景勝も口元が歪んでいるのを見て、遊ばれたことに不機嫌そうに首をひねる。

 

「しかし、義昭様には悪い事をしてしまったな……」

 

 謙信は溜め息混じりで呟く。将軍家を支えるのではなく、自らの力で自らが天下の統べる事を誓っている。それ故に、義昭との会見での言葉は全て嘘である。

 表向きは関東管領という立場上、幕府の一翼を担わないといけないため、明確な幕府側の立場を示さないといけない。

 

「まぁ、良いように利用させてもらうさ」

 

 謙信は言いにくいことを簡単に言ってのけ、周囲を苦笑いさせる。

 幕府が存続している以上、将軍家の影響力は大名には欠かせないものである。

 それから、朝の評定を終えるとそれぞれが自由に行動を始める。

 龍兵衛はやることが無いため、京を見回ろうと身支度を整えるため、一旦寺に戻る。

 

「失礼、河田殿ですか?」

「これは長逸殿」

 

 龍兵衛が戻る途中に後ろから声を掛けられ、振り返ると見覚えのある顔があった。彼は一度覚えた人の名前と顔は忘れない記憶力を持っている。

 

「少々、お時間を頂いても宜しいでしょうか?」

 

 そう言われ、断る理由も無いため、快諾すると彼女の屋敷に招かれ、一室にて対面する。

 

「改めまして、三好孫四郎長逸と申します」

「河田長親です。この上洛中はよろしくお願いいたします」

 

 挨拶がてら長逸を改めて見ると、どこかに油断ならない雰囲気と表面に仮面を着けているように見えた。

 

「河田殿の噂は京にも伝わっています」

「はは、どうせ良い噂ではないでしょう?」

 

 龍兵衛は自嘲気味に話す。

 美濃の醜聞は畿内にも届いていると半兵衛からの手紙で知っている。

 それでも、長逸は左右に頭を振って否定する。

 

「河田殿は大した才覚の持ち主ではないですか。そうでなければ謙信公も重く用いる事は無かったでしょう」

 

 人の心の弱いところをつつき、その気にさせるような巧い口調で話す。

 

「河田殿は上杉家の領地拡大に大きく貢献しているではないですか。それを聞くと私も活躍したいと思ってしまう程なのです」

 

 長逸の方は表情を変えない龍兵衛に気付かれていないと思っているのか、さらに盛り上げてくれる。 

 

「それはどうも。三好三人衆の筆頭である貴殿からそのような評価を頂けるとは自分としても大変光栄です」

 

 龍兵衛は背中を曲げて下から長逸を窺うように構える。

 

「……と、言っておけば満足ですかな?」

 

 口元に三日月を作る。

 

「貴殿も楽にして良いですよ」

「何のことです? 私は純粋に素晴らしいと……」

 

 長逸はとぼけようとしたが、手で制する。

 

「勢力が目まぐるしく変わる京では色々と大変でしょう。ここは貴殿の屋敷ですから、体にも毒では?」

 

 自分には見えていると言わんばかりにさらに詰め寄る。

 すると長逸は観念したように、先程まで柔らかい姿勢が消し、彼と同じように口元に三日月を作る。

 黒い雰囲気をさらけ出し、それを抑えようともしない。

 龍兵衛は心で何かが踊るように盛り上がり、背筋が震えるのを感じた。

 

「ふふっ、やはり一筋縄ではいきませんか」

「舐めてもらっては困りますよ。これでも三人目の兵衛と呼ばれているんですから」

「そうですね。上杉家は単純な人が多いと思っていたのですが、あなたはそれとは違うようですね」

「残念ながら、自分は美濃斎藤に仕えていたので。まぁ、その言葉こそ自分には光栄の言葉です」

「……その性格ならば謀反を起こしても仕方無いですね」

「さぁ? どうでしょう?」

 

 両手を上げておどけると長逸は実に面白そうに笑っている。先程までと違い、心から楽しそうにしているのがよく分かる。

 

「退屈しませんね……その性格は」

「河田殿、それはお互い様でしょう? まぁ、今は上杉とは友好関係でいたいので、あなたとは仲良くしておきましょう」

 

 龍兵衛はそのまま会見を終えると寺に戻り、予定通り京散策を始めた。

 

 明くる朝。京にまで来ても龍兵衛の早起きの習慣は治らない。まだ日差しが昇りかける最も寒い時間帯に起きてしまった。

 

「(それもこれも、あの夢のせいだ!)」

 

 八つ当たりの拳を掛け布団に叩きつける。

 かつて見た夕暮れ時の出来事が夢に出て来て離れない。

 おかげで景勝には春日山で迷惑を掛けっぱなしだった。いい加減、踏ん切りを着けないといけない。

 そう思いながら龍兵衛は首を鳴らし、身支度を整える。

 朝餉を終えてゆるゆると過ごしていると外がざわついてきた。どうやら件のもう一つの大名家がやって来たらしい。

 一応、どこの家かは調べた方が良いと考えて謙信の許可を取って探りを入れさせている。

 今日は特に用事も無く、午前中はのんびりと過ごそうかと密かに持ち込んだ小説を読み返す。

 それでも暇になれば、京見物でもしようかと思っていたが、気が乗らないため、ゆっくりと頁をめくり続ける。

 謙信から部屋に来るように言われたのはちょうど小説の中で一番良いところであった。

 間の悪さに頭を掻きながら彼女の部屋に向かう。

 入室すると謙信の他に景勝と定満ら軍師三人が揃っていた。

 どうやら龍兵衛は最後だったらしく、彼が座ったのを見て、謙信が口を開く。

 京に上洛したのは九州の大友家だった。

 軒猿から報告を受けた謙信も最初、戸惑った。

 光秀に聞いたところ九州探題として折りを見て上洛するようにと前から通達をしていた。

 遠国だが、挨拶はしておくべきと考え、会見の場を設けたそうだ。

 

「今は関係が無いが、天下統一したら関係有るからな。いい機会じゃないか」

 

 謙信は上機嫌で会見にむけた指示を出している。

 龍兵衛は京にいる手前、厳かにすべきではないかと隣にいた颯馬に声をかける。

 

「謙信様、やけに機嫌が良いな」

「え、いや、別に……何も……」

 

 表情を少し赤らめて遠くを見つめる颯馬を見て、全て察した。

 呆れてしまうが、その性格が謙信の心を捕らえたのかもしれないなと納得もしてしまう彼自身もいた。

 

「な、なぁ、昨日、明智殿との他に誰かと話したか?」

 

 颯馬が突然話題を変えてきた。龍兵衛は肩をすくめながら頷く。

 

「ああ、三好長逸殿とな」

「どんな人だった?」

「あの方もなかなかの黒だ」

「本当か?」

 

 颯馬の顔も真剣なものになり、さらに具体的な話をしようとした時だった。

 

「来たの」

 

 定満の耳が何かを捉えたように上に向く。

 挨拶と一緒に入って来たのは三人の女性。

 一人目は金髪の髪に天真爛漫といった言葉がよく似合うやや少女らしさが残る女性、軒猿より聞いた容姿から、おそらく当主の大友宗麟だろう。

 二人目は背が高く、紅の髪に凛とした女性で、吊り上がった鋭い目から如何にも武人だとを雰囲気で示している。

 そして、龍兵衛は一人目と二人目の間ぐらいの背丈で、大人の女性らしい顔立ちで、鼻が高く、一見穏やかそうな垂れ気味の目をしつつ、上杉側を警戒する鋭い眼光をした、真っ直ぐに伸びた黒髪の女性。

 彼女が三人目として入って来た途端の衝撃を絶対に忘れないだろう。否、既にその人を知っていたと言った方が合っている。

 驚愕の声、表情を出すのを必死に堪えてその人物から目を背ける。

 

「……っ!!?」

 

 向こうも気付いたのか、声を上げてしまった。

 紅の髪の人物にどうしたのか聞かれているが、何でも無いと言って静かに腰を下ろす。

 上杉家と大友家の異色の会見が始まった。

 基本的には謙信と宗麟が話を進め、互いの家臣はそれを傍聴しているだけにとどまった。

 龍兵衛は自己紹介の後、会見終了まで互いに何を話していたのか、あまりよく覚えていなかった。

 覚えていられたのは金髪の方が、やはり大友宗麟で紅の髪の方が、吉弘紹運ということぐらいである。

 彼が一番耳と頭を稼働させていたのは三人目の女性が紹介された時だった。

 由布惟信。

 龍兵衛は会見が終わるまで謙信と宗麟以上に彼女のことを見ていた。

 四半刻ほどで会見は終わり、それぞれが出会った人達と個別に話し掛け始める。

 龍兵衛は惟信に話し掛けようとしたが、それよりも早く彼女に外へ誘われた。互いに誰も居ないのを確認し、彼女はゆっくりと歩きながら口を開く。

 

「久し振りね」

「ああ」

 

 龍兵衛が絶対に忘れることの出来ない穏やかな声。信じたくない思いから声を聞くまで出来なかったが、確信した。

 それ以上に顔は何年経っても忘れることは出来ない。

 

「お前も此処に来ていたとはな……驚いた」

「それは私も、龍広君がここにいるなんてね」

「親しい人は皆、龍兵衛というふうに呼んでいる。しかし、お前があの由布惟信だとはな」

「お互いに驚いたわね」

 

 惟信は笑っているが、それを仏頂面で見ることしかできない。

 一方で、彼女の柔らかい笑みに自身に対する憎悪の念は無いように見えた。

 確かめたいと自嘲気味に彼は口を開く。

 

「俺を殺さないのか? 今ならば誰も居ないぞ」

「ふふふ、なかなか言うようになったじゃない。言ったでしょ。どうしても龍広君は殺せないって」

 

 思いは揺るがない。

 本来なら、殺されても仕方無いようなことを龍兵衛は彼女にした。

 

「お父さんは大丈夫よ。だいぶ立ち直っていたし、新しい仕事も見つけたしね」

「そうか」

 

 彼女の父親の社会的地位を失わせた張本人の目の前でも彼女は心を乱さない。先程の驚いた声が嘘のようだ。

 しばらく無言だったが、今度は惟信から龍兵衛におずおずと口を開く。

 

「よりを、戻すことは出来ないの」

「しつこいな。それはもう無理だと言った」

「でも」

 

 遮ろうとも何か言おうとする惟信、もとい香代に龍兵衛は目でもう言うなと語り掛けると黙って下を向いた。

 慰めることはせずにそれで良いと頷く。

 

「俺とお前は互いに利用しあう仲。そうじゃなかったのか?」

「そうね。そうだった」

 

 惟信は暗い表情で頷くが、彼は心の鬼にするしかない。

 龍兵衛は彼女とは一切何も関係ない部外者同士。しかし、彼女は諦めないと勢い良く顔を上げる。

 

「ここにはお父さんは居ない!」

「だから?」

「憂う事なんかないでしょう!?」

 

 半ば呆れながらも龍兵衛は詰め寄って来る惟信の肩を叩いて彼女の心を落ち着かせると彼女の心に刺さるように太い棘を刺すように言い放つ。

 

「もう俺とお前はただの馬鹿野郎同士だ」

「そんな」

 

 うなだれる惟信を見ながらも龍兵衛は何もせず、そのまま一緒に散歩をしようと促す。

 共に歩いても互いにの心が共になることは無い。

 平成の世の中では将来を誓い合うまでの仲だった二人はもう戻る事は無い。

 友達以上恋人未満。

 その言葉通りの関係を貫く事を誓ったあの夕暮れ時、夢に出て来るその光景が鮮明に頭の中で蘇る。

 冬の寒さは京もあまり越後と変わらない。空しい風が吹き荒び、洛外の廃墟は段々と更に廃れているのだろう。

 死体の山が昔はあったそうだが、義昭の命令でそれは撤去され、死臭を嗅ぐ事はなかったのが救いかもしれない。

 ここは洛内で美しい建物もあったが、二人が歩くここだけが廃れた洛外のような感じが龍兵衛はした。

  



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十三話改 父親殺し

 そこに二人の少年と少女がいた。

 少年はその地域の有力者の一人息子。野球好きであり、勉学の成績も良好で、特に日本史には優れた能力を発揮した。

 だが、真面目さと周囲にが大人だらけの環境で育ったため、同年代と馴染めずに疎まれ、小中学校時代にはいじめを受けながら育った。

 そこで生まれたのは歪んだ猜疑心。

 

 少女は父親の仕事で九州から東京に引っ越してきた。

 小学校五年の時だった。

 その頃になれば、転校生は友達を作ることが難しい。彼女は一人寂しい思いをし、毎晩枕を涙で濡らした。

 そこで生まれたのは哀れな孤独感。

 

 二人の出会いは少女が転校して三週間後だった。

 この日もいじめを受けて、家族に見せることのない怒りを腹に入れ込んだ少年が家路に着いていると少女は道で膝を抱えていた。

 少年が興味本位で何をしているのか聞くと少女は蟻を棒でつついていると言った。

 最初の会話はそれで終わった。

 しかし、それが二人の始まりだった。

 明くる日もまた明くる日も蟻をつついて遊んでいる少女に呆れた少年は少女を家に誘い、一緒に遊んだ。

 そして、その日から必ず二人はどこかで常に遊びようになった。

 少年は虐げれた心を癒やす為。

 少女は孤独な心を癒やす為。

 年を重ねても変わらなかった。

 少年は地元の実力者が集まる硬式野球チームに入った事で更に妬まれ、さらにいじめを受けた。

 一方の少女は部活動を通じて友達を徐々に作っていたが、東京の文化の違いにいまいち付いて行くことが出来なかった。

 そのため、いつも二人が遊ぶことは変わらなかった。

 お互いに理解しあう人がいる事が心の拠り所になっていた。

 そして、互いに恋をした。

 少年はいじめの影響で口数は少ないが、行動で示す、強面ながら整った顔で漢の感じを受けさせるところがあった。

 少女は誰もが振り返るような美貌を持ち、運動神経抜群で得意の空手で個人表彰されるほど、活発な性格だった。

 正反対の性格だが、本来の自分を二人きりの時だけ露わにする事が出来た。依存心がお互いの告白を受け入れた。

 高校も同じ高校を受け、共に合格した。お互いの部活動に励むことになり、一緒に居る事自体は減ったが、仲が悪くなることは無かった。

 学校と部活が終わったら家で電話や通信機能で愚痴を言い合うのが日課となった。

 そして、二年生の正月休みの時。遂にお互いに身体を許し合うようにまでなった。

 少年は春の選抜への出場を二十一世紀枠ながら果たし、少女は一月に関東空手大会に出場し、お互いにまさに順風満帆な生活を送っていた。

 だが、夏の野球大会の決勝での敗北は多くの人の人生を狂わせた。

 敗因である選手に向けて新聞紙やペットボトルを投げつけるOBの男が仲裁に入った少年に矛先を変えて罵倒した。

 

『四番の資格なしだ。怪我なんかで退場しやがって』

 

 怒り、憎悪、その感情を覚えた野球人はその男をとことん憎んだ。人前で聞くに耐えない罵倒を浴びさせられ、家族の事も容赦なく馬鹿にされた。

 その日に限って偶然先に帰っていた両親が此処に居なくて助かったと少年は思った。

 聞いたら血気の強い父親は切れていたに違いない。下手をすると暴動も起きていたかもしれなかった。

 少年はそのような父を持ちながらも親と正反対の性格となり、比較的冷静な人に育った。だが、限度というものが人にはある。

 その日は耐えた。そして、負けたことで皆が悔しくて泣いているところを肩を叩いて皆を慰め続けた。

 それだけしか出来ない。彼はその決勝の試合で肩を脱臼した。変な音がしたと思った瞬間、彼の肩に激痛が走った。触ってみると凹んでいた。血の気が瞬く間に引いていった。

 幸いにもその日応援に来ていた接骨院の先生の治療のおかげですぐに治ったが、試合には出れない。四番を欠いたチームは負けた。しかし、少年が怪我をした時の打席は四打席目。回は八回。さらに点差もすでに六点差がついていた。

 さほどチームに影響は無かったはずだった。

 それでも、初出場を願い応援に来たOBは選手の誰かを吊し上げないと気が済まなかったのだろう。

 怪我をした四番と監督に非難の嵐が終わる事なく降り注いだ。それでも、少年は動く左腕で泣いている選手達の肩を叩き続けていた。

 そして、査問委員会を開けというOBの声に教員側もOBに屈して、最終的に査問委員会を開いた。

 その会はただの監督への罵倒雑言の嵐、監督は無能だと言う声も聞こえた。

 表向きは監督への意見会というような内容の予定だったが、OB達はこの機会に監督をどうしても辞めさせたかった。

 監督がその学校出身ではないからである。

 監督がその学校出身者でなければOB側の意見がなかなか入らないのが面白くなかったという馬鹿馬鹿しい理由だった。

 だが、少年たちの代より上の成績を納めた代は無い。

 監督は黙ったまま聞くに堪えない言葉を一身に浴び続けた。

 しかし、先のことを恨んでいた少年は何としても仕返しをしてやりたいと思っていた。この委員会を盗み聞いていて我慢の限界に到達した。

 一緒に聞いていた同級生達二人とその委員会に乱入して、彼は開口一番OBに言い放った。

 

「あなた達が我々よりも上の成績を残した訳でもないのによくそんな偉そうに言えますね」

 

 この発言にOB達の怒りの煮え湯をさらに湧かせた。

 

「お前らがそんな事言える立場か? 学生は引っ込んでろ」

 

 会場一帯から笑い声が聞こえてくる。殴ってやりたい気持ちを抑えて、精一杯の礼儀で少年は返答した。

 

「あなた達だって誰かの腰巾着にならないと社会で生きていけない弱い人間でしょう? 所詮は我々とおんなじです」

 

 少年のからかうような動作と口調、歪んだ笑み。

 OB達の顔はますます真っ赤になって行く。

 少年は監督の止めを聞かずに畳み掛ける。

 

「自分達の事を棚に上げて、人を責めるのはただの愚図がやる事ですよ。ああ、もうそうなってますか?」

 

 とうとう堪忍袋の尾が切れた一人のOBが少年に思い切りライターを投げつけた。その時を待っていたかのように少年はわざと当たったふりをして、火も点いていないのに熱がる演技をした。

 それは上手く行き、一緒に入って来ていた同級生が携帯で写真を撮り、証拠となる物を手に入れた。

 そして、少年は自分の家の伝統によって築かれた人脈を使って新聞記者に接近し、その委員会の出来事を自分達に有利な状態で出すように依頼した。

 決して自分達の名前は出さないでOBが勝手に怒り勝手にあのような行為をしたと書くようにとも頼んでおくことも忘れずにだ。

 元々、少年の家と親しかった記者はそれを承諾し、実行に移した。

 ここまでは少年の思惑通りだった。野球部自体には高野連からの咎めは無く、写真に載ったOBが世間の非難の的になった。

 しかし、その載ったOBこそが恋人の父親だと知ったのはこれから更に三カ月後だった。 

 少女の父親は元々その高校のOBであったなんていうことを少年が知る由も無い。その父親は元々、上京希望でその高校生活と大学生活を東京で過ごして沖縄へと戻って行った。

 少年は少女の家には一度も行ったことが無く、彼女の家族にも会ったことがなかった。もし、彼女の父を知っていたらこのようなことはしなかった。

 それを期に少女の父は当然の如く社会から疎まれた。

 会社では少年に対する行為が問題視され、閑職に回された。更に不景気の波に飲み込まれたその会社は正社員の首切りを決行、当然、彼もその対象になった。

 少女の父は元々は誠実な人だったが、血気盛んでもあった。

 負けたあの日と査問委員会では野球部敗北の悔しさに身を任せて選手に怒りをぶつけてしまった。

 その後は、あの行為の報いを受けたと自らが自覚して一人ふさぎ込んでしまった。

 口数も減り、酒に溺れながらも仕事を探す。しかし、子供である高校生にあのような行為をした人間をどこも採用しようなどと思わなかった。

 それを見ていた彼女は激怒した。必ず家族を崩壊寸前にまで追い込んだ奴を見つけてやる。たとえ同じ高校の友達だとしても許さない。

 見つけ出して復讐してやる。彼女は心に誓った。

 調べに調べた。

 そして、少女は首謀者突き止めてしまった。

 首謀者は自分の恋人である百山少年であることを。

 今度は何度も何度も調べ直した。だが、事実は変わる訳がない。

 確信してしまった彼女はある日の放課後、お互いの部活を引退した後はいつものように一緒に帰る帰り道の途中で切り出した。

 

「どうして、あんな事をしたの?」

 

 最初、少年は何のことか分からなかった。だが、少女の話を聞いていく内に悟った。自分は恋人の家族を潰した。

 

「嘘……だろ……」

 

 何という事をしたのかと頭を抱えた。

 小中学校時代の時に目覚めた残虐な心が人を貶めた。その時の快感はどこへやら、貶めた人物がまさか唯一心を許し合う恋人の父親だなんて思いもよらず。

 うなだれる彼を見て少女は逆に怒りを覚えた。そして、溜まりに溜まった物をぶちまけた。

 

「あなたは……あなたは……私の父を殺したも同然だ!」

 

 その声はどこまで響いていただろう。くだらない理由からあのような行為を行った彼に対する怒りは止められる事は出来ない。

 

「どうして、本当に……私はあの事した人を殺したい程憎いと思っていた。なのに……どうしてなの……」

 

 涙が留めなく出ている。そのような少女を見ても少年は何もしない。もはや自分にそのような資格など無いのだから仕方ない。

 

「殺したいならどうぞ殺してくれ。俺は何も抵抗はしない」

「馬鹿、出来る訳ないでしょう!」

 

 少年の頬に赤い平手の痕が出来る。それを押さえることなくそのまま立つ。

 お互いに二人を愛しいと思い続けて何年も経ち、将来を誓い合い、お互いには真っ直ぐな心で向かい合っていたが、二人の内の一人による裏切りに近い行為である。

 他の人であれば少女は殺していたかもしれない。

 しかし、彼女はその一発だけでそれ以上続けなかった。

 

「どうしても殺せない。これ以上殴れない。だってどうしてもあなたを愛しいと思う心が強くて……どうして? どうして!? どうして!?」

 

 泣き喚く彼女を前に少年は天を仰いで呟いた。

 

「哀しい哉哀しい哉哀しい哉哀れが中の哀れなり、悲しい哉悲しい哉悲しい哉……」

 

 かの弘法大師の言葉は自分と少女に向けて言ったのか、自身にも分からなかった。

 目の前に居る女性はもはや自分の愛しい人では無くなった。

 彼も彼女を愛していた。だが、家族を殺したも同然と言われ、自分のせいでこのようなことになってしまった彼女と歩むなど不可能である。

 意を決し、彼女の首を持ち、顔を上げさせた。

 

「お前と俺はもう終わった」

 

 そう言って少年は泣き続ける愛しい人を捨てて振り向かずに歩いた。

 その日から二人は変わった。挨拶するがめっきり話す事はしなくなり、知っている者はあの二人は別れたと考えた。

 少女に告白した人は何人もいた。

 だが、少女は全てはねのけた。別れた後、もう一度復縁したいと思っていたのだろう。

 それでも、少年は自身の罪を深く意識し、首を横に振り続けた。

 友達以上恋人未満。

 二人はそれを貫いた。

 だが、心の拠り所を失った二人の衝撃は大きく、周囲に上手く隠していたが、家ではかつての面影を失っていた。

 塞ぎ込み、何もすること無く、ただ怠惰な日々を送った。夢の中でもお互いのあの日が何度も何度も見るようになり、お互いの心を抉って行った。

 心の拠り所を失った二人は失敗が目立つようになった。そして、自分を愚か者と感じるようになった。

 二人の限界はとうに越えていた。そして、あの日が来た。

 

「お前もあの日にここに飛ばされたか」

「うん。突然誰かが目の前にいたと思ったら光に包まれてた」

 

 卒業式の日、二人は同じ日の同じ時間にこの世界にやってきたのだ。違う場所であるが、その日からお互いに変わった。

 少女はまだ、家督を継いでなかった大友宗麟に拾われて、そのまま立花家の配下である由布家の養子に入った。

 少年と違い、そのままの家で変わらず持ち前の運動神経で瞬く間に武芸を身に付け、気付けば九州にその名前を轟かすようになった。

 入った時にはかなりいざこざがあったようだが、宗麟の鶴の一声で強引に決まったそうだ。

 それ以来、由布惟信となった彼女は宗麟には恩義を感じて、日々精進している。

 

「俺とはえらい違いだな……ま、俺には罰が当たったのかもな」

 

 壮絶な別れをし、斎藤家では最後まで忠誠を誓えなかった。天罰と捉えて良いだろう。とはいえ、同じ境遇の持ち主と出会えた二人は互いの因縁を忘れてしばらく語り合った。

 

「もう、こんな時間か……」

「そうだね……」

 

 太陽は南から西に傾き始めている。お互いに暇であるとはいえ、そうそう時間を空けている訳にもいかない。

 

「これでお別れになっちゃうかもね」

「どうだろうな。誰かが天下統一をすればその場で会えるかもな」

 

 惟信は冗談混じりの龍兵衛の言葉に驚きの表情をする。

 

「君ってそんなに冗談混じりに言葉を出す人だったの?」

「そういえば、前はそんな事あまり無かったな」

 

「上杉家の面々に毒されたな」と肩をすくめると惟信は静かに笑い出した。

 

「君も随分と柔らかい感じになったのね。昔はがちがちの堅物で人に流される事は無かったよ」

「そうだっけ?」

「そうだよー」

 

 性格が変わる者は変わっていく。そして、変わらない者は変わらない。

 

「お前は相変わらず、根はのほほんとしているな」

「ちゃんとする時はちゃんとしてるわよー」

「とてもそうは見えんな」

 

 今度はお互いに声を出して笑い合った。やはり、人は誰であろうと仲間は必要なのだ。

 何はともあれ楽しげな一時を過ごしてお互いは心のわかだまりが完全ではないが、少しだけ消えた気がした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十四話改 誓いは続く 

 簡単な会見で終わるはずだった。

 しかし、異なる時代より来た二人の再開はその他の興味を湧かせた。

 とりわけ、いたずら好きの宗麟と好奇心旺盛な定満は二人の再会した時の反応に敏感だった。

 宗麟は惟信の驚いた反応に、定満は龍兵衛の重苦しい雰囲気に興味を示し、別々に二人を尾行した。

 そこに主を一人に出来ない紹運と、龍兵衛絡みという理由で付いて来た景勝がそれぞれに加わり、二人の後を尾けていると二人は話し始めた。

 距離は離れていたので耳の良い定満でもよく聞こえなかったが、雰囲気は重く、儚い。

 四人の目に気付かないまま二人は話しを続ける。

 すると突然惟信が声を荒げた。

 

「ここにはお父さんはいない!」

「……」

「憂うことなんかないでしょう!?」

 

 龍兵衛の声は小さく聞こえないため、惟信の言葉が何を意味するのか四人には分からなかった。

 だが、次に龍兵衛が発した言葉は先ほどよりもはっきりしていたため、定満に聞こえてしまった。

 

「もう俺とお前は恋人同士ではない」

 

 定満は驚愕の声をかろうじて押さえ込んだ。

 どこかよそよそしい雰囲気であったとは思っていたが、まさかあの二人は元恋仲だったとは思わなかった。

 だが、あの二人はその関係になったのか。

 九州では元々、龍兵衛がいたのは美濃だとしても遠すぎる。

 惟信が元々別の出身だろうか。

 否、宗麟は惟信を紹介した時、自分で拾ったと言っていた。

 出身も同じく九州だと。

 龍兵衛が九州出身かと思ったが、違うと断定した。

 彼が九州出身ならもっと大友家に詳しくてもいいはずだ。そもそも、彼ほどの人材をあの宗麟が見逃さない。

 

「……という訳なの。どういうことなのか教えてくれる?」

 

 その日の夜、定満は一人で彼を訪ねて単刀直入に聞いた。

 しかし、龍兵衛は何も言おうとはしない。ただ首を振り続けるだけである。

 だが、彼からすれば堀を全て埋められた城を守るような気分だろう。どこに逃げようとも完全に包囲され、黙って死ぬか捕らえられるのを待っているしかない状態だ。

 だが、知りたいと思ったことには何としてでも知ろうとする定満は鎌を掛けた。

 

「ふーん、私には何も言えないんだ」

「な!? 違います!」

 

「心外だ!」と言わんばかりに龍兵衛は声を荒げるが、所詮は虚勢を張ったにすぎない。

 

「じゃあ、どうして言わないの?」

「うっ……」

 

 龍兵衛は言えるということを自ら認め、墓穴を掘った。

 孤立無援な戦いを定満と行っている。そこをどうするか考えている時、足音が龍兵衛の部屋の前で止まった。

 

「龍兵衛、いい?」

 

 景勝が入って来た。

 定満は珍しいと目を丸くする。

 このような時間に尋ねるほどに重大なことが起きたのか。はたまた、自身同様に好奇心が動いたか。

 

「どうした?」

 

 景勝は定満の姿を見て、怪訝そうな表情をする。

 

「ううん、何でも無いの。ちょっとお外で待ってくれる?」

 

 彼女は仕事の話をしているという雰囲気を出すと素直に下がって行った。

 やはり、昼のことを気にしているのだろうか。

 定満はそう思いつつも彼を見る。相変わらず、苦しそうに唇を歪ませている。

 そこで、なるべく優しく彼の肩に手を置く。

 

「龍兵衛君、いい? 私はね、龍兵衛君が別にどこの人でもいいの」

「えっ……」

 

 優しく彼を毛布のように包み込むように温かい囁く。

 

「謙信様や景勝様を悲しませること、しないでね? それだけ約束。出来る?」

「もちろん、決してそんなことは自分の目の黒い内は、絶対に」

 

 龍兵衛は力強い決意の籠もった声で、定満の目を見て言ってくれた。

 彼女は安堵して立ち上がる。

 彼は最後まで上杉の土台が崩れない限り、支えてくれるだろう。

 生き残ることを考えているだけの風見鶏かと思っていたが、ようやく本質が見えてきたように感じる。

 意外と胸に熱いものを秘めており、見ているものが自身たちよりもずっと先のものである。

 おそらく、彼が活躍するのは先のことだろう。そして、自身と彼女の役割を継がせるに相応しい。

 一人、納得した頷き、彼の頭を撫でると部屋から出る。

 襖を閉めると景勝が座って待っているのを認め、終わったと伝える。彼女は少々不機嫌そうに中に入っていった。

 やはり、昼のことで何か気にかかることがあったのだろう。

 定満はあまり気にせずに自室へ戻った。

 

 

 龍兵衛は頭を抱えていた。

 定満と代わるように景勝が入ってきて、昼に惟信と何を話していたのかと聞いてきた。

 

「惟信さんと龍兵衛、仲良し?」

 

 同じ言葉を何度も聞かされる。

 そして、沈黙が漂う。

 景勝にまで見られていたとは思っていなかった。

 彼女は龍兵衛の目を真っ直ぐ見ており、逸らせば負けてしまう。

 

「まぁ、その……昔馴染みというやつです」

「……」

「……いや、そのなんですか?『本当のことを言え』と言う目は」

「……」

「あのー本当ですからね」

「……」

「信じて下さい!」

「……」

「・・・・・本当のこと言った方が良いですか?」

「……」

「『確認するまでもないから早く言え』……と」

「……」

「元……恋人……です……」

「うむ」

 

 長いようで短かった景勝の無言の威圧から解放された龍兵衛は溜めていた物を出すように「はぁ!」と大きく溜め息を吐く。

 

「出会った。龍兵衛、景勝、相手、違くなる?」

「いやいやいやいや! そんなわけないですよ!」

 

 不安げに見つめられると龍兵衛は慌ててあたふたと手と首を左右ぶんぶんと振る否定する。龍兵衛自身はそんなに軽い人では無い。

 そうしたら今度は景勝がほっとしたように息を吐いた。龍兵衛から見ればなにを今更と思ってしまうが、言わないでおく。

 かつての経験から女性はこういうことには敏感でなおかつ凄く気にすることは知っていた。聞くというのが無粋というやつだ。

 どうしても景勝からすれば惟信と龍兵衛のことが気になって仕方が無かったのだろう。故に、こうして部屋に来ている。

 

「変なご心配をお掛けしたことにお詫び申し上げます」

 

 景勝は別に気にするなと悪戯っぽく笑みを浮かべて笑い出す。先ほどの不安げな表情はどこかへ消えてからかえて面白いという感情しかない彼女を見ると今までずっと試されたと分かり、龍兵衛はぽりぽりと頬を掻く。

 

「人が悪いですよ。景勝様」

 

 龍兵衛のじとっとした目も気にせずに景勝はまだ笑っている。悪戯っ子が悪戯に成功した時の顔だ。

 ちょっといらっと来た龍兵衛は景勝を無理やり押し倒す。

 

「いらぬ所も謙信様に似てきてしまったようですねぇ」

「はわわわ」

 

 龍兵衛は普段、景勝に見せなかった黒い笑みを見せる。

 少々怯えてしまったようだが、口元が笑っているあたり、警戒しているように見えない。

 このような場面で言うのは違う気もしたがここで言わないといつ言えるのか分からなくなる気もした。

 越後に帰ればまたいつものような生活に戻る。いつもと違う上洛時だからこそ言えるものなのかもしかない。

 深呼吸を繰り返して口をゆっくりと開く。

 

「あの……景勝様」

「……?」

「その……改めてとなるんですけど。自分は景勝様を心から愛しています」

「……っ!」

 

 いきなりそんなことを言われたので景勝は顔をぼんっと真っ赤にする。無論、龍兵衛もそれに負けないぐらいに真っ赤だ。

 

「ですから……ここで、誓います」

 

 沈黙は長く、静かな風の音が外からよく聞こえ、お互いの胸の高鳴りが聞こえる気がする。

 お互いがお互いの目をしっかりと見つめ合う。龍兵衛はもう一度深く息を吸う。

 

「この河田長親、景勝様を今後悲しませることはしません。故に、お側に居させて頂きたく」

 

 景勝は最初何を言われたのかよく分からなかったが、頭の中で言葉を辿ると龍兵衛が何を言ったのか段々分かって来る。

 自分を龍兵衛は本当に愛してくれている。

 昼のことがあって景勝は本当に彼が愛していたのは惟信ではないかと勘ぐってしまった。それほど、龍兵衛と惟信は親密な雰囲気だった。

 何故、二人が別れてこのように遠く離れた家に仕えるようになったかは知らないが、それでも龍兵衛は惟信ではなく景勝を選んでくれた。

 否、最初から惟信と会っても龍兵衛は景勝と決めて揺るがなかったに違いない。

 そのことに景勝の心にはただ純粋に嬉しさが込み上げてくる。

 気付けば今度は景勝が龍兵衛を抱き寄せていた。

 

 

 一方で、大友側は修羅場になっていた。

 惟信は宗麟と紹運に昼の龍兵衛との二人の会談についてじっくりと搾られていた。

 

「ですから、河田殿とはただの幼なじみで……」

「へぇ~ほぉ~ふ~ん」

「なんですか!? 宗麟様、その目は!」

「いや、惟信には恋の経験があったんだ~って」

「別に、そんなこと……」

「無いとは否定出来ないんだな?」

「紹運殿も何ですか~」

 

 互いに惟信の言い分など聞き入れる訳無く、次から次へと質問をぶつける。

 

「何であの河田殿は惟信と別れたんだ? 惟信はこんなに綺麗なのに」

「それは……色々と……」

「まさか、向こうが振ったのか!?」

「えぇ~もったいない~」

「違います! 色々あったんですよ!」

「あっ、今恋をしたと認めたな?」

「うっ……」

「ずるいわよ~私達をほっといて恋人がいただなんて」

「ですが。彼とは大友家に仕えてからは別れました!」

「じゃあ、恋の経験があったことは認めるんだな?」

「うぅ~」

 

 紹運に失言を拾われて龍兵衛と違い、実直で上手い嘘を付けない惟信はもう完全に落ちてしまい。言える範囲のことをほどんど言ってしまった。

 

「……と、いう訳でして」

「そ、そうか、そこまで行っていたのか」

「も、もうこれ以上は言いませんからね!」

「え~ここからが面白い所なのに~何で振られたの?」

「それは第三者はそうですよ! ですから、振られてません!」

「じゃあ、振ったんだ!」

「……否定出来ない」

「まぁ、いっか。府内に帰ったらゆっくり聞かせてもらいましょ」

「まぁ、今のを聞いても参考にはなりませんでしたからね……」

「え、紹運にも想い人がいるの?」

「ち、違います! まだそれはこれから……」

 

 今度は自身で墓穴を掘った紹運が宗麟にからかわれている。

 どうにか難を逃れた惟信はそれを眺めて彼女自身にも自然と笑みがこぼれた。

 とりあえず二人には別れるまでの龍兵衛との生活を出来る限り話した。

 しかし、惟信にも信念がある。彼との最後のことは絶対に口を割らないと心に誓っていた。彼女には龍兵衛との最後は心の中で今も生きている。

 最後の泣き喚く彼女を見向きもせずに歩いていった龍兵衛の背中に惟信は更に心を惹かれてしまった。

 思い起こすだけで惟信の心は高ぶってしまう。

 まだ惟信は諦めている訳ではなかった。何故なら龍兵衛だけが自分を自分として初めて扱ってくれた。

 平成の世では小中学校時代、転校生としてしか周りからは見られていなかった。

 沖縄とはどのような所か。周りが口を開けばそんなことばかり聞いてきた。

 高校に入ってから大分それも落ち着いたが、惟信は早くからそれを捨てて自分を見てくれた龍兵衛を心の中から失うなんて出来るはずがなかった。

 復讐の黒い心は完全に焼き払われ、今の惟信には情熱的な心が戻っていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十五話改 糸

 上杉の軍師たちはわざわざ京に来てただ足利、三好の将達に挨拶周りをしているだけではとどまらない。

 定満、颯馬、龍兵衛の三人は馬にてある所へ向かっていた。

 

「思ったよりも凄い人なの」

「ええ、しかも商人が自治をしているとは思えないほどの治安です」

 

 定満と颯馬はそれぞれ感想を述べて堀の中に見える大きな町を眺める。龍兵衛はただ想像以上の大きさに呆然として長い息を吐くだけで何も言えない。

 日の本に知らぬ者はいないで最大商業地の堺では越後で見られない品々がたくさんあるはずだ。

 今後、越後ではどのような商品が実用性があって売れるのかを把握するためにも参考なる。

 

「兼続は残念だったな。颯馬」

「まぁ、しょうがないさ」

 

 くっくっと喉を鳴らして歯を見せずに笑い合う男二人。

 軍師の内で一人は残っておかないといざという時に困るだろうという事で誰が残るか決めようとしたところで諍いが勃発した。

 定満は年長者のため、行くと決まった。

 

「龍兵衛、お前残れ」

「はぁ!? 嫌だよ! 兼続、任せた」

「何でそうなる!? 私だって上洛前から楽しみにしていたんだぞ! 颯馬、お前が残るんだ!」

「何上から目線で物言ってんだよ! 断る!」

「三人とも、静かにするの……」

 

 だが、残り二枠を巡って若い三人が言い争いを始めた。

 取り敢えずは定満の仲裁という名の抑え込みでそれは収まり、最終的に平等にくじ引きで決める事になった。そして、兼続が外れを引いたので彼女が居残り決定となった。

 

「二人とも……覚えてとけ!」

 

 外れを引いた時の膝から崩れるほどの衝撃もそうだったが、出掛ける時に捨て台詞を吐いて謙信と共に兵の視察に行った兼続は定満でさえ笑ってしまうほど面白かった。

 

「まぁ、結局はくじ引きで負けてあんなこと言ってたけど、素直に謙信様に付いていったけどな」

「切り替え早いからな兼続は」

 

 颯馬と龍兵衛が歩きながら順に先ほどの出来事を思い出しながら笑っていたが、それも直ぐに異様な町の雰囲気が原因で収まってしまった。

 堺は中心に行けば行くほど、賑わいを増して行く。贔屓目で見ても春日山とは比べ物にならないほどの繁盛を極めている。

 逆に比べるのが失礼なほどだ。

 南蛮の見慣れない商品が揃った店や西国の特産品など日ノ本の全てがここに集っていると言ってもおかしくない。

 三人の軍師は言葉を失いながら堺を回っていた。

 もちろんただ眺めるだけではなく、ちゃんとした目的を持ってやって来ている。

 鉄砲だ。越後でも龍兵衛主導で鉄砲の重要性が見直され、更に多くの数を用いるべきだという意見が出ていて徐々に鉄砲も日の本独自の研究や南蛮からの伝来で新しくなりつつある。

 そのためにも鉄砲を購入して越後の刀職人に更なる鉄砲の製造法を熟知してもらおうと堺へと赴いた。

 

「ここ?」

「ええ、間違い無いですね」

 

 定満は立ち並ぶ店の中で一際大きな門構えの店を指差す。龍兵衛は頷き先頭を切って入って行く。

 ここに来る前に光秀からどこか鉄砲商人で間違いの無い所を龍兵衛が聞いたところ今三人が前に立っている店を紹介してくれた。

 中の様子も賑やかで他の店よりも従業員が多い。やって来た一人の者に光秀からの紹介で来たと言うとすんなりと奥に通してくれた。

 歩いて行く廊下も長かったが、通された部屋も広い。ざっと二、三十畳はあるが、一切の無駄が無く、清潔感に溢れている。

 三人は出されたお茶で喉を潤していると一人の女性が静かな落ち着きある声で入って来た。

 年齢は定満と同じぐらいと聞いていたが、それを感じさせない高貴な雰囲気と清潔さを持っている。

 女性はいそいそと三人の前に座り、綺麗な所作で頭を下げる。

 

「お初にお目にかかります。私、橘屋又三郎と申します」

 

 橘屋又三郎は色々と謎なところがあるが、自ら種子島に赴き、鉄砲技術を持ち帰った人物でその力の入れようは「鉄砲又」と呼ばれるほどの貿易商人である。

 それほどの大物と光秀がパイプがあったのは光秀自身の鉄砲術と幕府の力に他ならない。

 歴史を知る龍兵衛が鉄砲に長けている光秀に声を掛けたのは必然で史実と違う所が色々とあるこの世界では不安があった龍兵衛だが、それは杞憂であった。

 光秀は快諾すると予想の遥か斜め上を行く人物を紹介してくれたために龍兵衛も度肝を抜かれた。

 逆にいえばこのような人物と知り合っておく事は今後のためにも非常に有効的になるに違いない。

 三人は名高い鉄砲商人を相手に気を引き締めて交渉に当たった。

 主な内容としては鉄砲の購入と技術者の確保である。前者はともかく後者には又三郎は首を捻った。

 越後という畿内では片田舎に望んで行く人などなかなかいない。確率は広大な砂漠で一つの小石を探すような物だろう。

 だが、ここまで来て確率が低いからといって諦める訳にはいかない。何とかして欲しいと三人はあくまでも頼む側としての礼儀を捨てずに頭を下げる。

 慌てて又三郎は面を上げるように言うと同時に顔を上げて同じようなひ表情ですがるように見る三人を見ておとがいに手を当てて考える。

 又三郎も胸には熱い物がある。自らの鉄砲技術が役に立つなら金にならなくても誠意ある者には惜しみなく援助をしたいという気持ちがあるし、実際そうしてきた。

 今回は関東管領である上杉家からの依頼。しかも、幕臣である光秀の紹介であるのに相手は偉ぶる訳でもなく、必要以上に下手に出る訳でもない。

 相手にしっかりと自分達の意見が伝わるように言葉を紡ぎ、こちらの都合にも合わせてくれるという。ならば応えてみせたいと思うのが当然である。難しいがやってみるしかない。

 とりあえず努力してみせると言って三人と又三郎との面会は終了した。

 

 店を出ると三人は良い返事を貰えなかったことに残念だという思いを込めて盛大な溜め息を同時に付く。

 

「やはり技術者は難しいようですね……」

「仕方無い。越後は遠いの」

「ですが、前向きな反応でした。伝手が出来ただけでも収穫があったと見ていいのでは?」

 

 難しい顔をする颯馬と定満に対して龍兵衛は前向きな方向に向いている。

 

「珍しいな、お前がそんな風に考えるなんて」

「そうか?」

 

 颯馬が驚くのも無理は無い。普段は最悪の状況を考え、決して希望論は口には出さない主義である龍兵衛がそんな事を口に出すのは滅多にないのだから。

 誤魔化すように笑う龍兵衛を定満は実に嬉しそうに眺める。知っているが、敢えて言わずに黙って皆が驚く顔が見てみたいという悪戯心がむくむくと芽生えている。

 

「じゃあ、しばらく見物するの」

 

 公ということもあってからかうのは後にしようと思った定満は話を逸らすため、堺見物に乗り出そうと誘う。

 二人共当然のように頷くと三人は思い思いに時間を堺見物に費やす事にした。

 

「色々とあるなぁ」

「そりゃ、堺だからな」

 

 基本的に龍兵衛の言葉に颯馬が反応しながら三人は様々な店を眺めていた。

 すると定満はとある服を扱う店の前で止まった。服を前から買いたかったらしく二人もそれに釣られて店に入った。

 定満が服を買いたかった理由を颯馬が聞くと上半身にある定満が実に女だということを主張する場所を触った。しかも、公衆の面前で。

 誰も見てないことを確認しながら二人は通行人に見えないようにそれとなく距離を縮めて壁を作る。

 

「最近ね……ここがきついの」

 

 生で見たことがある二人は頭から強引に妄想を叩き出して定満と共に店に入る。定満が服を探している間、ぶらぶらと中を眺めていると今度は龍兵衛の足が止まった。

 彼の視線の先には黒いフード付きの羽織りがあった。何でこれにこれが付いているのか龍兵衛は疑問に思ったが、もはや理不尽かつ理解不能な展開に慣れたのであまり気にしないように努める。取り出して触ると龍兵衛は内心驚愕した。

 羽織りの素材は間違い無くベルベットを使った物だ。

 店主に聞くと自分が本当に南蛮人から取り寄せたものらしく龍兵衛は店主に材質は何かと聞くと彼は思い出すように少し首を捻りながら考える。一旦奥に下がって確認するとビロードだと店主が言った。

 間違い無くポルトガルから持って来たものだと確信して試着してみる。あまり上質なものでは無いが、結構良い着心地だったので龍兵衛は考える間もなく買った。

 無論、南蛮の品故にかなり値段が張ったので財布はすっからかんになって龍兵衛は半べそかいている。

 

「けちなお前が随分高い買い物をするな」

「こういう時のために取って置いて……どかっと使うんだよ」

 

 珍しいものを見たような目で颯馬は龍兵衛を見て驚いたような口調で話し掛けると切り替わって目を輝かせて語る彼に失笑しながら颯馬は少し呆れたように呟く。

 

「どうでも良いけどお前は本当に黒ばっかりだな」

「良いんだよ。好みで着てるんだから」

 

 以前から颯馬に限らず上杉家では龍兵衛が黒ばかりで同じ構造の服を着ている事が話題となっていた。

 遂には龍兵衛はいつも同じ服を着ているのではという噂まで出たため、女中達は少し龍兵衛を遠巻きに見るようになってしまっていた。

 事を解決するため、颯馬が龍兵衛のいない間に部屋に忍び込んで調べた結果、箪笥には同じ黒色の同じ構造をした服が見事なまでにどこの場所を開けても向きも同じでずらーっと並んでいた。

 その後、彼絡みの変な汚い噂は無くなったが、もう少し颯馬から見ても他を選んでもいいのではと思ってしまう。

 だが、全く耳を貸さない龍兵衛は着ていた羽織りを脱いでそのまま買った羽織りをいきなり羽織った。

 颯馬からすればせめて戻るまで我慢しろよと思いたくなってしまうが、すぐに諦めた。彼とて人の好みに口を出す気は無い。

 少し経って定満が出て来た。どうにか目的の物は見つけたようでご満悦な表情をしている。

 男二人は思った。そして、世の中の女性に同情した。

 

「(定満殿はさらに成長するのか……)」

 

 もしこれが兼続の耳に入ればどうなるか。少し怖くなった気もしたために黙っておくことに二人はして、くじ引きでの幸運を天に感謝した。

 まだ時間があったため、三人は堺を歩いていると颯馬だけが何も買っていない事に定満が不公平だと思い、何か買うようにと背中を押した。

 そこに龍兵衛も加わって断り難い状況を作らされた颯馬は気乗りしないまま適当に辺りを見回す。 

 すると、ある店の主らしい浅黒い肌をした威勢のいい男性がやって来た。これはどうだと焦げ茶色に近い色をした細長い物を出して来た。

 得体の知れないものを見て固まっている二人をよそに龍兵衛は近づいて匂いを嗅ぐとすぐにこれが何か悟った。

 

「鰹の身を干した物ですね?」

「へい! 土佐からわざわざ仕入れた物です」

 

 初めて鰹節の身を見た二人が後ろで食い物なのかと驚いているが、龍兵衛は構わずに店主に頼んで鰹節の身を削った龍兵衛からすると見慣れたそれを持って来てくれた。

 龍兵衛は迷わずひょいと口の中に放り込んで美味しそうにその風味を味わっている。現代のものと比べるとさすがに味は落ちるが、食べれない訳では無い。

 まだ後ろでじーっと龍兵衛を観察している二人を見て彼は二人の前に鰹節を差し出す。諦めたように二人も恐る恐る口に入れる。徐々に表情が変わっていった。

 

「美味い」

「うんうん」

 

 二人の口にも合ったようで颯馬にこれを買えばいいと定満が勧めるが、颯馬はさすがにここで食べ物を買うのは躊躇われたようで難しい顔をしている。

 そこで龍兵衛が主に聞く。

 

「おじさん、これは結構色々と使えるんですか?」

「もちろん、食べるだけじゃなく出汁にも使えるよ」

「酒の肴にも?」

「当たり前さ!」

 

 どんと胸を叩いて間違い無いと言う主。聞いた瞬間に颯馬の顔付きが変わって唸りながら鰹節を眺める。

 謙信もまた塩辛い肴を好むことは知っている。

 

「これを買おう」

 

 後ろで定満と龍兵衛が笑っていたが、それに颯馬は気付かない。

 

 

 

 翌日、三人の軍師は謙信に呼ばれて昨日兼続と話し合ったという越後に帰る日を告げられた後、三人は昨日の堺での結果を改めて詳細に報告した。

 

「……俺からは以上ですが、二人は何かありますか?」

 

 定満と龍兵衛は首を振って特に無いということを示したので謙信はこの会議を終了した。

 残った仕事をやっつけるために立ち上がってさっさと退室しようとする二人を見て兼続はいないが、謙信は今しかないと口を開く。

 

「すまんな。お前達二人にはいつも迷惑な事を押し付けて」

 

 神妙な顔付きで謙信が言うと二人の軍師は驚いたように顔を突き合わせる。謙信の言わんとすることを察すると二人同時に声を出して笑う。

 これに謙信が驚いてどうしたのか聞くと笑いながらも二人は謝り、再び謙信の正面に座って笑った余韻が残るまま龍兵衛が言った。

 

「何故、謙信様が謝る必要があるんです? 自分達は颯馬を含めて謙信様が正義の道を歩み続ける事が出来るようにするために好きでやっているんです。謙信様が謝る必要などどこにも無いのですよ」

 

 諭すような龍兵衛の言葉に定満もうんうんと頷いている。互いに主君のためにやっていると口を揃えて言ってくれた。その言葉が謙信の胸に強く響いた。

 やはり颯馬の言う通り二人も颯馬と一緒でたとえどんな事があっても自身に付いて来てくれる。自身に足りない所を補い、自身を行くべき道へと導いてくれるに違いない。

 たとえ皆がいなくなり、茨の道を歩む事になったとしてもきっとそうだろう。

 ならば、自分は当主として彼らを守り抜く重責がある。

 

「当主とは大変だな……」

 

 気付けば口に出ていた。だが、此処にいる三人の軍師は決して謙信に驚愕はすれども失望などしない。謙信も分かっているからこそ口に出せる。

 

「謙信様、それを支えるのが私達の役目なの。もっと人に頼っていいの」

 

 定満は笑顔で謙信に頷きながら頑張るように背中を押すような声で言う。長年、上杉家に仕えて来た彼女には母のような雰囲気がある。

 

「当主が家臣を信頼しなければ家臣は当主を信頼しません。しかし、我々は謙信様を信頼しているからこそここまで来ているのです」

 

 かつての経験があるため、龍兵衛の言葉には説得力がある。

 少々手厳しく聞こえるが、そこには彼なりの上杉家を思う熱い心があるのをここにいる全員が知っている。

 最初は猜疑心の塊のような性格だった彼がここまで態度を軟化させてきたのも上杉家の雰囲気のおかげであることも彼は隠しているつもりだが、皆は分かっていた。

 兼続はここには居ないが、その心は三人の軍師と一緒だろう。

 誇らしい。謙信はただそう思った。

 

「やはり颯馬の言う通りだったな」

 

 二人が退室すると開口一番、謙信は安堵の声を出した。

 

「だから言っただろう。上杉の家臣は皆が謙信に不満がある訳でもない。そして景勝様にもだ」

「そうだな。颯馬、私は必ず勝つ。天下を取ってみせるぞ」

「ああ、俺も謙信を支える」

 

 今後も今までと変わらずに、天下が如何に変わろうと上杉の皆のために生きようという決心が芽生えた時だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十六話改 一つの憂い

活動報告にも書きましたが、再び修正していきながら更新します。忙しいのでなかなか進まないかもしれませんが、書き方もあまり分からずに始めた自業自得ですね、取り敢えずはやれるだけやってみますので今後もよろしくお願いします!


 ある日、景資はとある山小屋に来ていた。

 冬晴れと言っていいほどの実に良い天候でその日差しが壊れた屋根から山小屋に入って来ている。

 景資はこの荒ら屋である人物の来訪を待っていた。ただ一人で、誰も護衛を付けずにじっと座っている。

 彼女は上杉家の中でも謙信以外の誰にも知らせずにここにいる為、秘密裏に動いている以上、来訪者を待って外にいることは許されない。

 別に景資の実力なら十人ぐらいに囲まれても屈することは無いだろうが、どこにどのような輩がいるのかわからない京の洛外の危険さは景資が他の誰よりもよく知っている。

 彼女自身が身を持って知った訳ではないが、何人もの旅人が洛外のどこかで賊の被害に遭っているのは何度も藤孝達からよく聞いていた。

 危険は承知だが、会わねばならない人がそこに来るのである。

 じっと待っていると外に人の気配があった。賊かもしれないが、景資はぴくりとも動かない。

 このようなところに賊が入って来たとしても入ってから斬り捨てればよいのだから。

 しかし、それに及ぶことは無かった。

 

「待たせたの。義輝・・・・・・いや、今は吉江景資じゃったか」

「おお、お主も変わらないようじゃのう」

 

 高貴な雰囲気を纏い、このような風が吹けば屋根が飛んで行きそうな水簿らしい山小屋には似合わない公家の格好をした女性が一人すっと入って来た。

 まっすぐ景資を見つめて笑顔で懐かしいものを見たような目をしている。景資も来訪者に微笑みながら、心からその人を待っていたように暖かく迎え入れた。

 また、来訪者の方も護衛無しだ。

 

「越後はどうじゃ? まぁ、そちなら退屈するような事など無いじゃろ」

「まったくじゃ。皆楽しい者ばかりでのう、毎日が飽きることが無い。京での生活の方が退屈だったと思ってしまうぐらいじゃ」

「ほっほ、そうかそうか。それは何よりでおじゃる」

 

 優雅な口調で景資の正体を知っておきながらもつらつらと対等に言葉を繋げる女性。

 楽しそうに世間話に興じていたが、景資が手を挙げて会話を一旦切り上げる。

「ところで」とここで景資の顔が真剣なものに変わった。それに合わせて来訪者もぐっと優雅な笑みを消して、扇を口元に当て、景資に近付く。

 

「妾が言いたい事は分かっておろう?」

「もちろんじゃ。だがのう・・・・・・あの晩、三好のどの将も動いていなかったのじゃ」

 

 一層声を潜めて来訪者がそう言うと普段は冷静な景資もかなり驚いたようで「なっ!?」と声が出てしまった。景資が身を乗り出してもう一度真偽を問うと間違い無いという事らしい。

 景資はあの襲撃事件の首謀者を三好長慶と考えていたが、どうやらそれも的外れだったようだ。

 

「麻呂の方も大分手を尽くしたのじゃが、結果がこれで残念でおじゃる」

「いやいや、お主が謝る必要は無い。妾が無理を言って頼んだのじゃ。お主の責任では無い」

 

 景資も別に大した結果を期待していた訳では無い。そもそも将軍襲撃を企てる人物が無鉄砲にあんな事をするなんて思えない。

 用意周到に証拠も必ずもみ消せる自信があったからこそあのような大それた行動に踏み切る事が出来たのだろう。

 だからこそ景資は真っ先に長慶を疑った。彼女ならそれぐらいたわいない事だろうと思ったからだ。

 だが、景資はもう復讐を望んでいる訳では無い。既に彼女は過去を捨てて名前を変えて吉江家の養子となって名実共に越後上杉家の家臣となったのだから。

 復讐の為ではなく、今後の上杉家の害となるであろうその人物をこの手で亡き者にしたいのだ。

 襲撃者は彼女が将軍の権威を復活させる為に奔走し、確実に歩んで来た時に襲って来た。

 おそらく自らが天下の覇者になろうとする者か、はたまた乱世を好む者かはわからない。どちらにせよ上杉家には良いような存在になるはずが無いのだ。

 自らは血を浴びる。景資とて戦以外で血を見るのは嫌いだが、正義の世を作ろうとしている謙信の為になら構わない。

 

「そちには悪いが、もう少し調べてくれないかのう? 何としても天下の害毒を排除したいのじゃ」

「よかろう、麻呂に任せるのじゃ。そちは精々、上杉家を盛り立ててやるのじゃぞ?」

 

 無論と言わんばかりに景資は笑って頷いた。その心の中で景資は改めて確信した。

 

「(やはり京は日の本の闇の中枢じゃ)」

 

 

 

 

 

「かの松永久秀殿にご対面出来るとは、光栄の至りです」

「あら、随分と口が上手いのですね」

 

 颯馬は三好家の家臣、松永久秀に出会っていた。挨拶周りの一環で、彼女が最後になってしまったのだ。

 上杉家の面々は全員が足利、三好の面々に会える訳では無いので人を分担して当たっている。そして、颯馬はようやく久秀に会えることになったのだ。

 とりわけ話すことも無く、殆どがただの世間話となり、短い会談で終わる筈だったが、颯馬は久秀の目の中にある何かを感じていた。

 

『松永久秀には注意して観察して欲しい』

 

 龍兵衛がそう言っていたが、当たりだったようだと颯馬は思った。どこかに久秀の違う雰囲気があるように颯馬は感じていたのだ。例えるなら、定満のように鋭い棘のある美しい花のような。

 それが何かは分からないが颯馬は警戒感を押し殺すのに必死だった。

 油断すれば久秀の何かに呑み込まれそうになりかねない。平静さを装いながらも颯馬は内心、冷や汗をかいていた。

 それでも収穫があったと思いながら、颯馬は足早に退室しようとすると、久秀に呼び止められた。

 

「どう? 久秀の印象は?」

 

 先程とは雰囲気が変わっている。颯馬には久秀の中にある何かが少し出ている気がした。

 

「ええ、さすがは噂に違わぬ素晴らしい御仁であるとよく分かりましたよ」 

「それだけ?」

 

 口調が段々と苛ついたものになってきている。颯馬は内心の冷や汗が引いていき、楽しめが出て来ているのを感じた。

 

「はい、それだけですが?」

 

 颯馬がとぼけて誤魔化すと、久秀は「ふーん」とつまらなそうにして「今日はどうも」と不機嫌そうになった。誤魔化せたのか、と少し安堵しながら颯馬は部屋を出て行った。

 

「馬鹿ね、久秀を誤魔化せるとでも思っていたのかしら?」

 

 颯馬が部屋を出て行った後、久秀は一人ごちる。簡単に彼が猫を被っていたのは分かった。そして、久秀を探っているのも分かっていた。

 本性を暴き出して、面白みのある彼を引き出そうと思ったが、颯馬はとぼけて出て行った。

 

「ふふっ、でもなかなか上杉家にも面白い人が多そうね」

 

 先日、三好長逸が河田龍兵衛との対談で彼がいとも簡単に彼女の本心を暴き出した事は既に聞いている。

 そして、先程の軍師天城颯馬、さて彼らの本性はどこなのか。

 

「遠い越後にいるのが残念だわ」

 

 楽しみを取って置くのも悪くないと思いながら、久秀は隠されていた黒い笑みを誰もいなくなった部屋で浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

 

 堺にもう一度赴いた上杉家の三人の軍師は又三郎に注文してあった新しい火縄銃五梃を購入した。上杉家にも火縄銃はあるにはあったが、かなり少なく、また新しくないので殺傷能力に欠けるところがあった。

 その為にあまり使われることは無かったが、今回を契機にしてもう一度力を入れ直そうということになった。 

 別に金は佐渡の金を使えば普通に支払える値段だったが、問題はもう一つの願いだった。

 

「残念ですが、あれの方はどうも・・・・・・」

 

 職人が居れば越後に招き入れて鉄砲の生産を上げたいと思ったが、それは駄目だったようだ。やはり、片田舎の越後まで行くのには抵抗があるらしい。

 その代わり受け取ってくれと又三郎が一冊の本を取り出した。

 颯馬が何かと問うと又三郎は自分の師匠である八板金兵衛が纏め、又三郎が新しい技術や製造法を付け足した本の複写版だというものだから三人は驚愕を飛び越えてまさに開いた口が塞がらない状態になってしまった。

 

「そんな驚くようなものではありませんよ」

 

 ころころと三人の反応を笑っている又三郎だが、驚くような代物を敢えて見せて反応を面白がっているようにも感じられる。

 失礼を承知で三人が中身を読んでいくと越後ではまずやっていないような製造法や又三郎が独自に研究したという日の本でも生産可能な火薬の製造法も書かれてある。

 いわゆる純国産の鉄砲を初めて作り上げた人物と堺を鉄砲商売の一大都市にする一翼も二翼も担った人物の本、複写版とはいえこれはかなりの高値になるに違いない。

 龍兵衛が手を挙げて単刀直入に聞く。

 

「いくらになるのでしょうか?」

 

 もしかしたら鉄砲一梃分よりも高いかもしれない。だが、これはかなり欲しい。三人は身を乗り出して又三郎の返答を待つ。

 

「いえ、これはタダで差し上げます」

「「「・・・・・・」」」

 

 くるりと三人は又三郎に背を向け、ひそひそと話し合う。

 

「いいんですかね?」

「何か、怖いの」

「いいんじゃないですか?」

「なんで龍兵衛はしれっとそんなことが言える!?」

「だってタダより安いものはないし」

「確かに。ご好意に甘えるのもいいかもしれないの」

「しかし、いいんですかね? 本当に・・・・・・」

「いいんですよ。別に」

 

「わぁ!」と三人が同時に驚いて飛び上がって振り向くと又三郎が目の前にいた。その時、左にいた龍兵衛が後ろの壁にぶつかって頭を打ってしまい後頭部を押さえて悶絶している。

「大丈夫です」と龍兵衛が頭を押さえながら明らかに痛そうな表情で全員に言うと又三郎は話を戻す。

 

「本当にいいんですよ。これがどれほど役に立つかは分かりませんけど、もし役に立ってあなた方が乱世を収めて頂けるのなら喜んで差し上げます」

 

 乱世を憂いながらも又三郎自身は武器を作り続けるしか生計を立てる手段が無い。注文に来る人達の大半が戦に勝つために注文していた。嫌気が差す時も何度かあったが、今回の上杉は違った。

 先の会見で三人にはそれ以上に天下を平定するという思いがあったと又三郎は感じていた。故に、その主君である上杉謙信もその思いを持っているに違いない。そうでなければ家臣達がそのような思いを持つ筈が無い。

 又三郎は武家の出ではないが、主君の性格が家臣に影響するのは知っていた。故に、この本を自ら複写して上杉家に献上しようとしたのだ。

 

「・・・・・・早く我々が武器を作る日がなくなるのを心から待っていますよ」

 

 三人の軍師はただただその素晴らしい誠実さに頭を下げるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「しかし、そのような物を本当に貰えるとはなぁ」

「皆、びっくりしたの」

 

 用件を終えて謙信に報告をしに来たが、詳細を聞くとやはり謙信も驚いた。 

 

「ところで、龍兵衛はどこに行った?」

「明智殿の所にお礼を申し上げに行っています」

 

「そうか」と頷くと謙信は早速、又三郎からもらい受けた本に目を通し始めた。

 

 龍兵衛は光秀の部屋へと向かい、頭を下げていた。

 

「光秀殿、今回は本当にありがとうございました」

「いえ。私は紹介をしただけで何もしていません。あなた方の交渉が上手く行ったからこそです」

「いえ、その紹介があったからこそ我々は橘殿にお会い出来たのです。あなたがいなかったらどうなったことやら・・・・・・」

「ふふっ、このままでは堂々巡りになりそうですし、今回はこちらが折れておきましょう」

 

 その言葉にありがたいとという気持ちを込めて龍兵衛は再び頭を下げる。その後は二人はお互いを持ち上げあいながら談笑を続けた。

 

 

 

 

 

 

 堺での仕事も終わり、上杉軍は帰路に着くことになった。報告では幸いにも雪の影響は少なく、早めに撤退をすれば、滞り無く帰れるだろう。

 

「そう、もう帰るのね」

 

 惟信の部屋に向かって龍兵衛は別れの挨拶をしに来たと言うと彼女はすぐに通してくれた。

 少し悲しそうな顔をしているが、この世界に来た以上は我が侭は許される訳が無い。惟信も馬鹿では無いので分かっているが、いつでも別れというものは辛いものだ。

 

「まぁ、しょうがないか。私達も後二、三日したら帰還する予定だったからね」

 

 表情はお互いに明るい。二人はこれ以上の別れというものを経験しているのだから。死に別れでもない限りは下手に肩を落とすようなことはない。

 

「今度会う時は三味線、聴かせてくれよ」

「そういえばこの時代だったね。琉球から三味線が来たのって・・・・・・そう言う龍広君はまだ笛、吹けるんでしょう? その時はお願いね」

「ああ・・・・・・」

 

 いつ会えるかは分からない。それがこの世なのかあの世なのかも分からないが、二人は何故かまた会えるだろうとどこかで確信していた。

 

「いずれまた会えるさ」

「そうね・・・・・・後、まだ私は諦めてないから。浮気したらその人は・・・・・・覚悟することね」

「・・・・・・諦めろ、いい加減(どこでそんな強い殺気を覚えたんだこいつ? 景勝様には指一本も触れさせんぞ!)」

 

 それだけの短い挨拶だった。再会の約束はしない。仮にそうしてもかなり後の話になる。

 

 

 

 

 

 憂い無く、ようやく自分の家に帰れると上杉軍の将兵は安堵の声も上がっている。

 それはあくまでも表向き。裏では水面下で行われている上杉家を崩壊させる計画を食い止めるべく、四人の軍師は謙信と共に対応に被われていた。

 

「如何致す? 間違い無くこの計画には加賀が絡んでいる」

 

 追い詰められたような状況に変わりない。加賀を抜けるしか越後に帰る方法が無い以上、突破以外の方法は無い。

 

「とりあえず加賀の国主である晴貞は馬鹿ではありません。我々を通してから背後から襲う可能性も考えるべきです」

 

 もはや謙信を含めた全員が晴貞に対して怨念の感情しかない。あれだけ巧みに誠心誠意に対応されては騙されるなという方が無理である。

 

「こうなったら一気に加賀を取りましょう!」

「兼ちゃん、めっ! そんなことしたら上杉の名前に関わるの」

 

 上洛軍が帰り掛けに攻め込まれたからといって国を取るなんて前代未聞の汚点になる。それは向こうとて同じ筈なのにどうしてか上洛から帰路する上杉軍を襲おうと考えているのかが分からない。だが、向こうは必ずやってくる。

 声を上げることはめったにないが、定満もこの状況にかなりの焦りを見せている。

 軒猿によって本願寺が絡んでいることは掴んでいる。しかし、龍兵衛はどうも合点がいかない。

 

「いくら何でも本願寺の名前が出過ぎている気がするのですが」

「確かにな・・・・・・それは頷ける」

 

 颯馬も思うところがあったようだ。本願寺が裏にあるという確証は嫌でも出て来る。糾弾すればそのままだが、おそらく本願寺はその確証を握り潰してしまうだろう。

 それ以外の三人も同じような思いがあったようで腕を組んだり、おとがいに手を当てたりしている。

 

「今はそれよりもどうやって越後に帰るかです。越後に入ってしまえば、我々勝ちなんですから!」

 

 兼続は思考を打ち切るかのように口調を強くして指摘する。

 切られた思考に腹立たしいという思いは見せず、四人は兼続を驚いた表情で見る。

 

「兼続・・・・・・」

「は、はい!」

 

 謙信に声を掛けられて兼続は姿勢がすっと伸びる。

 

「随分と良いことを言ったではないか」

「・・・・・・は?」

 

 一瞬で兼続の頭の中は疑問符で一杯になった。

 三人の軍師からも驚愕の目で見られている。

 気付けばこの計画の黒幕を突き止めることに頭が行っていたがここは越後ではなく、京である。帰らない限りは今後も何もあったものじゃない。

 こうなった以上はどうやって加賀を抜けて越後に帰るかを考えるべきだ。

 

「兼ちゃん、いい子」

「お前がそんなことを言うとは・・・・・・」

「うん、何かちゃんと帰れる気がしてきた」

「宇佐美殿はともかく、お前達にそのようなこと言われたくない!」

「「何!?」」

 

 ぎゃーぎゃーとまた言い争いを始めた三人を見て、謙信は少し心に落ち着きが出て来た。本来らしくなってようやく人は自身の力を発揮出来る。その状況になれたのだ。

 結局、五人は今は帰路の加賀に入ってからはしっかりと警戒態勢を敷いておくことで一致した。今は何か策を立てようにも立てられる状態ではなく、ただ急いで帰るしかない。  

 

「何ともやりきれないな・・・・・・」

 

 謙信は颯馬と二人で部屋で顔を合わせている。だが、そこにいつもの和やかな雰囲気は無く、殺伐とした雰囲気が続いている。

 

「大丈夫だ。俺達を信じるのだろう?」

「そうだな。だが、私もそなた達を守らないといけない。だからな・・・・・・」

 

 主君と家臣、お互いにお互いを信じなければ良い結果にはならない。謙信も分かっているが、怖いのだ。越後に帰れるか、帰った後も上手く皆と上杉を大きくしていけるのか。

 

「大丈夫だ・・・・・・信じてくれ・・・・・・」

 

 颯馬は謙信のその心を悟り、落ち着かせる為に謙信を抱き寄せた。

 そして、その肩が震えているのを颯馬は感じた。

 

 

 

 

 夜の廊下を三人は音を立てないようにそっと歩く。 皆が寝静まっている為でもあるが、気まずい雰囲気の中で床の音さえもうるさく感じるように思えた。 

 

「何が起きるのでしょうか?」

「ううん、私にも分からないの」

 

 三人は溜め息を吐く。誰が黒幕なのか。本願寺と断定するのは早計かもしれない。だとしたらそれ以上に大きな影が動いているのか。それがどこなのかは分からない。

 軒猿を駆使してまで諜報活動を行っているが、かなり厳重な警戒態勢を向こうも敷いているらしくなかなか有益な情報を掴めていない。

 しかし、それ以上に生きなければ意味は無い。

 

「今は兼ちゃんの言う通り、上手く越後に帰ることを考えないといけないの」

「これからが、本番という事か・・・・・・」

 

 自身に言い聞かせるように兼続は呟く。

 定満と龍兵衛も心に言い聞かせてこれから起こるであろう事を恐れながらもやるしかないという決意で陣に向けて歩いて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 一人の少女が京の洛外にある宿に入っていた。簡単な造りの宿だが、しっかりとした設計になっていて泊まるのには事欠かない。

 

「京まで来たけど、随分物騒な事になってんな~」

 

 昼の間に彼女が見たのは上杉軍の旗印である竹に雀の旗がひしめく上杉軍の本陣だった。

 少女は好奇心に誘われて本陣に近付いてみると思ったよりも精強そうな兵士達が揃っていてそれを指揮しているであろう将達も厳しいながらも兵士達の動きに合わせて行動していた。

 情報通の彼女は上杉軍が上洛していたことは知っていたが、これほど上と下が上手くいっている軍勢を見たことはなかった。

 上は下を思いやり、下は上を尊敬している。信頼し合っているからこそ取れる連携は斎藤には不可能だ。

 

「見ていて面白そうだったな~」

 

 出来ることならもっと近くで見てみたい。

 しかし、彼女は行くのは越後よりもっと南に行かないといけない。早く行かないといけないが、早く行きたくない。本当に足取りの重い旅になっている。

 

「(そういえば、あの野郎は越後に行くって行ってたけど、たぶん駄目だっただろうな~謙信ってたしか、義を重んじる人だって評判だし。今頃はもっと北に居たりしてね)」

 

 越後に向かうと決めていた悲運な自分の弟子を哀れみながら少女はぐっすりと眠った。

 

 

 

 

「へっくしゅん!」

「龍兵衛君、どうしたの?」

「いえ、誰か噂している気がして・・・・・・」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十七話改 誘拐事件?

 上杉軍は今日、越後に帰還する。それは上杉家の未来を掛ける攻防戦の始まりでもあった。

 朝一番に謙信は信頼の置ける配下の将を集めて件の計画に対応する為に軍議を開いた。

 寒々とした空からは雪の降る気配は今のところは無いが、その寒さは越後の冬にも負けないものがあり、上杉軍の間にも広がっている。雰囲気はお世辞にも良いとは言えない。

 何故ならここにいる全員が元より計画を知っている者ばかりなのだから。だが、知っていても具体的に知る者は誰もいない。

 軍師達でさえ掴めない詳細な情報を知れる訳が無い。

 

「弥太郎と景家は先頭を頼む。何かあればすぐに伝えるように」

 

 二人が頷くと謙信は他の将に矢継ぎ早に指示を出す。

 長重と義清には後背を突かれないように警戒を怠らないこと。またそれ以外の将も両翼からいつ襲撃されてもいいようにしておくことを命じた。

 

「よいか? 何としてでも兵士達を無事に越後に帰すのだ」

 

 全員が頭下げて軍議が開かれた部屋から出る謙信の後ろを付いていく。

 その中でようやく越後に帰れると安堵の心がある者などいない。謙信を含めた全員が内心、いつ襲撃が来るのか分からない戦々恐々とした気持ちであった。

 逆に言えばこの地獄を突破出来た時に上杉家は天下への道を進むことが出来る。しかし、そのような上向きな考えを持つ者など誰もいない。

 

 

 上杉軍が京から越後に帰るには北近江を通ってから越前北陸を通るのが普通である。軍を引き連れている以上はこの道以外に通るという選択肢は無い。

 謙信はとにかく急ぐようにと各部隊に命じた。

 一方、早急に戻る必要があるが、兵士達に休息を与えない訳にもいかない。

 京を離れて早三日。上洛前に立てた予定以上の早さで上杉軍は北近江に入った。ここで一日休息を取ってすぐに出立する事になった。

 しかし、一日と言っても北近江に入ったのは巳の正刻(午前十時)さらに明日は日の出と共に移動を始める予定の為、実質的には約半日しか無い。

 兵士達は陣の設営が終わるとすぐに死んだように眠りに就いた。 

 今のところもっと休ませて欲しいなどの不満は出ていないが、このような行軍を続けていれば兵士達の疲労は溜まるばかりで越後に着くまでに脱落者が出るかもしれない。

 それでも今は我慢のしどころである。ここで一日でも無駄にすれば帰る前に何が起きるか分からない。

 それに兵士達だけでなく、将達は陣の見回りと来襲の警戒。軍師達も越後に帰る前と帰った後に起こるであろうことを考えてそれを話し合うなど忙しく、疲れているのは皆である。

 故に、兵士達からは不満の声が上がらないのかもしれない。

 一方、不満が無くても不安がある為、将達は疲れなど気にしてもいなかった。

 

「どうしたもんかね」

 

 龍兵衛もその一人である。

 うろうろと陣の近くを歩いていた。先程までは他の軍師達と議論を重ねていたが、結局は今後の対応策を練るだけでどこが戦場になるかさえ分からない以上は正直言ってあまり意味をなさないのは誰もが分かっていた。

 それでも議論をしていないと気が収まらない。故に、無駄な話し合いが続いている。

 終わった後に不安を解消する術も無く、気晴らしにと歩いていた訳だ。

 相変わらず不安な心は解消されない。それどころか一日毎に積み重なる石のように徐々に重くなって行く。

 その中で心身共に寒い雰囲気を少しだけ温かくするような者がいた。

 

「・・・・・・誰ですか?」

 

 先程から沿って歩いている近くの茂みに何かが居ることは分かっていた。

 龍兵衛に付いて行くように動いていて彼が上杉軍の陣に近付いてもそれは変わりない。

 間者にしては動きがバレバレなのでどうするべきか考えあぐねていたのだが、いい加減陣に戻らないといけないのでとりあえず誰かでも知っておこうと思い、龍兵衛は声を掛けた。

 万が一に備えて腰を落とした龍兵衛が問い掛けると思ったよりも素直にがさがさと茂みから何かが出て来た。

 言うまでもなく人である。まず立ち上がったらしく頭が出て来た。しかし、顔が見えない。背が小さいので仕方ないのだろう。

 茶髪の頭に緑色の葉っぱがだらしなくくっついているのが見える。

 それから出ようとしているのだが、身体のどこかが木の枝に引っかかったようで「うーん、うーん」と強引にはがそうとしている。

 声からして明らかに女性であるが、背丈はまだ子供だ。どうにか引っ掛かりからは抜け出せたみたいだが、勢い余って出て来た途端にずっこけた。

「ぐべっ」というあまりよろしくない声を出すとその光景をにやにやと面白そうに眺めながらこけても助けようとしなかった龍兵衛を黒い服を身にまとい、出て来た少女は立ち上がって恨みがましく睨み付けている。

 

「河田殿、そこにおったか。定満殿が呼ん・・・・・・」

 

 少女に話し掛けようとした途端、背後から義清の声がした。義清は龍兵衛の背後にいたすぐに少女に気付き、目に一気に火が灯った。

 

「覚悟ー!!」

「いきなりかい!」

 

 龍兵衛の指摘を無視して少女に斬り掛かる。

 少女は全くその動きに反応出来ずにどすっという音がしたと思うと少女の視界は真っ暗になった。

 

 

 

 

 

 

「で、なんであたしはこの世にいるの?」

「起きるなりいきなり物騒な言いなさんな。義清殿が控えていますので今呼んで来ますね」

 

 とりあえず龍兵衛は気絶していた少女を義清の天幕を借りて寝かせていた。

 目が覚めたことを龍兵衛が伝えると少女をこうさせた張本人である義清は入って来るなり土下座をして少女に謝罪をした。

 

「申し訳なかったのじゃ!」

 

 頭を地面に付ける綺麗な土下座だった。

 少女も自分で怪しい行動をしていたと自覚があったのでそこまでされると思っていなかったので間抜け面で口を開いている。

 

「いや、義清殿、何もそこまで・・・・・・」

「何を言っておる! まさか河田殿の師匠だとは思いもよらずにあんなことを・・・・・・」

 

 龍兵衛が宥めるが、義清は聞かずに更に頭を下げようとぐりぐりと土に額を擦る。

 義清はあの時、殺してはいなかった。まず第一に彼女は少女を間者だと思い、捕らえようと槍の矛先とは逆を使って気絶させた。

 龍兵衛はその時、止めようとしなかったのは突然すぎる出来事だったので対応も出来なかったからだ。

 

「よ、義清殿・・・・・・」

「大丈夫か? 河田殿、怪我は無いか?」

「えっ? ええ」

 

 完全に義清の覇気に圧されて龍兵衛は何も言えない状態になってしまい、言われるがままに頷いて説明出来ない状況になってしまった。

 

「よし、ならば手伝って欲しい! この愚か者を謙信殿の所に運んで、何を企んでいたのか聞き出すのじゃ!」

 

 その剣幕は凄まじいもので龍兵衛は気付いた時には義清に代わって少女を運んでいたのを兼続に見られて変な目で見られたのを必死に義清に力を貸してもらって誤解を解いてもらっていた。

 そのまま陣に入って主だった将全員でその少女をどうするのか話し合われた。

 

「龍兵衛! いつまでぼーっとしているんだ!?」

 

 取り敢えず、どうやって皆に説明をするかしか頭に無かった龍兵衛は話し合っている皆をよそに考え事をするようにおとがいに手を当て続けていたが、兼続の脳天を貫くような雷が落ちたことによってようやく龍兵衛は覚醒した。

 呆れられながらも謙信から少女をどうするか聞かれるとそれ以外の全員は意見を言い終わっているようで視線が龍兵衛に集まる。

 大人数の前で発表するのが実は苦手な龍兵衛は痛い程の視線を一気に受けてこの寒い冬なのに少し汗をかいている状態になりながらも自分の意見を言った。

 

「えーと・・・・・・とりあえず、保護しましょうか」

「「「「はぁ!?」」」」

 

 当然のごとく何人かが『何言ってんだお前!?』という目をしている。

 

「あれがもし間者だったらどうするんだ!?」

「そうじゃ! いくら何でもそれには承伏できぬ!」

 

 兼続と義清が声を上げるが「いや、間者じゃないだろう」と龍兵衛は苦笑いをしながらどう説明しようか迷い、誤魔化す為に頭を掻いている。

 

「いつもの龍兵衛らしくないな・・・・・・どうした?」

 

 今度は謙信から聞かれてもぽりぽりと頬を掻いてやれやれと首を振ってから誰に向けるでもなく引きつった笑いを浮かべる。

 他の将達も彼のいつもと違いすぎる様子に何かあると思いながら龍兵衛を見る。

 龍兵衛は周りの目がこちらに向くのはもう嫌になったので仕方ないと単刀直入に言うことにした。

 

「あの方は自分の師匠です」

『・・・・・・はっ?』

 

 皆の目が点になり、沈黙が広がって外の風の音がうるさく聞こえる。

 

「あの方は自分の師匠の一人の黒田官兵衛です」

『はぁあああ!?』

 

 今度は人の声が天地を揺らす程響き渡る。龍兵衛は陣が声によってぐらっと揺れた気がした。

 

 

 

「・・・・・・というわけで、孝さんは上杉軍の保護下に入ってもらいますよ」

「えぇ~あたしは聞いてないし~」

「そりゃあ、寝てたからしょうがない」

 

 駄々をこねて早く自由になりたいとぶーぶー文句を言っている少女が龍兵衛の師匠だと思うと義清ははっきり言って納得が出来ない。

 義清自身も背は低い方だが、それより背丈も身体付きも子供である。

 

「諦めて謙信様と会って下さいね」

「え~もう少し待ってよ~」

 

 相変わらず官兵衛は文句を言っているが、龍兵衛は全く抗議など受け付けないと謙信を呼びに行く。

 しばらくすると謙信が何人かの将を連れてやって来た。龍兵衛が官兵衛を紹介すると彼女を初めて見た全員が目を丸くする。

 

「まぁ、何とも・・・・・・」

「子供ではないか・・・・・・」

 

 弥太郎と景資は唖然として出してはいけない言葉が出てしまった。

 

「あたしはもう大人だ!」

 

 聞いた途端に官兵衛の怒りに火が点いた。

 ワーワーと謙信が宥めようと何を言っても止まらない。定満が「静かにするの」とこめかみに青筋を立てて言っても彼女は一向に止まる気配がない。

 黙っていようと思っていた龍兵衛だが「はぁ」と溜め息を吐いて拳を握った。

 

「いったーい! 龍兵衛なにすんの!?」

 

 ゴツンといい音がして官兵衛の頭に龍兵衛の拳骨が落ちた。

 子供扱いすると何かと抗議して周りを困らせるところは本当に変わっていないと龍兵衛は思った。取り敢えず、こうなった官兵衛は手を使わないと止まってくれない。

 

「ここは上杉軍の陣ですよ。孝さん?」

 

 拳骨と弟子の低く威圧感のある一言に官兵衛は言葉を詰まらせる。端から見ればどう見ても師弟同士のやり取りではない。それからちゃんと官兵衛は謙信達に非礼を詫びて改めて頭を下げた。

 

「黒田官兵衛孝高です。見苦しい姿をお見せしてしまいました」

「気にすることはない。しかし、このような所で龍兵衛の師匠殿と出会えるとは思わなかったな」

 

 謙信が感慨深く官兵衛を見ている一方、龍兵衛は何故ここに官兵衛が居るのかが不思議でしょうがない。

 聞くと彼女はどうも言いづらそうにしているので耳元でぼそりと「道勝」と呟いてみると大当たりだったようで官兵衛はぴくっと身体を震わせる。

 だいたいのことは察せたので龍兵衛は謙信に人払いを願った。

 謙信は自分が残ることを条件に承諾した為、未だに官兵衛を信用出来ない兼続達はそれは危険だと反対したが、聞き入れるような謙信ではなく、結局は鶴の一声で強引に決まった。

 謙信以外の全員が出て行くのを確認すると龍兵衛は真剣な顔付きになって官兵衛を見る。

 

「例の事で呼び出されたのですね?」

 

 官兵衛は残っている謙信を警戒して何も言わない。

 察した龍兵衛が「謙信様にはあの書状を見せました」と言うと安心したらしく嫌そうに頷く。龍兵衛は心にある忌々しい道勝の姿を斬り捨てた。

 

「孝さんが行くと自分も危なくなりますよ?」

「でも・・・・・・行くしかないし・・・・・・」

 

「そうなんだよな~」と官兵衛と龍兵衛は天を仰ぐ。友が危ない以上、救わなければならない。裏の秘密を知られれば斎藤はもう終わりだ。

 龍兵衛はふと疑問に思った。

 

「なんで南近江を通らないで北から美濃に向かおうとしているんですか?」

 

 美濃に向かうには琵琶湖の南を通って行った方が断然早い。その理由には官兵衛はあっさり答えた。

 美濃に向かう途中に京に立ち寄った際に上杉軍と遭遇してその軍勢に興味本位で見ていたら龍兵衛の姿を認めて驚いたそうだ。

 

「で、試しに付いて来てみたらこうなったと」

「そう、当たり」

 

 がっくりとしてしまう龍兵衛に官兵衛は「でも」と慌てて抗議する。

 

「いや、絶対に美濃に着いたら何も言わないから、本当に絶対誓う!」

「本当か? 黒田殿?」

 

 今度は謙信が覇気を出して官兵衛を上から睨み付ける。官兵衛はびくびくしながら首が取れる勢いで何度も何度も頷いた。

 それを見て謙信は面白そうにからかいがいのある官兵衛に冗談であると安心させると笑いながら「ゆっくりしていくといい」と言って陣を出た。

 師弟は久々に腹を割って話せる状態になる。

 

「久し振りですね。孝さん」

「そうだね~案外早い再会だったね」

 

 綻ぶような二人の心からの笑顔。美濃の時以来顔を合わせる事はもちろんなかった。しかし、この楽しい時間はすぐに終わることは分かっている。

 談笑するほどの余裕はすぐに無くなり、お互いに真剣な顔になった。

 

「書状。見せてもらえませんか?」

 

 官兵衛は懐から書状を出した。この時、官兵衛は書状の書の字も口に出していなかったが、龍兵衛は分かっていた。

 官兵衛も自分から嫌な所に行くような人ではない。ならば美濃に向かう理由はただ一つ。道勝に脅されたに違いない。

 それは半兵衛と同様に官兵衛も死地に向かうようなものだ。

 

「どうしようもないし・・・・・・諦めているから・・・・・・」

 

 だが、秘密をばらされる訳には行かない。

 段々とここだけが曇天の空が広がっているかのように重い雰囲気になっている。もう少しすれば雨が降ってきそうだ。

 お互いの溜め息が広がる度に雲が広がるのが分かる。そんな嫌な雰囲気が続いていたが、そんなことをしていても意味がないことは分かっている。

 

「とりあえず、孝さんと重さんに運があることを祈りますよ」

「・・・・・・他人事だと思ってない?」

「当然です」

「・・・・・・最低」

「いつぞやのお返しです」

 

 お互いに薄い笑いを浮かべる。それで互いに少しは雲は晴れた気がした。

「重さんに宜しく」と言うと龍兵衛は官兵衛と別れを告げるように頭を下げた。笑顔だった。しかし、心は空しい風が吹く。

 

 

 

 

 

「かなりお前もあの事でまだ参っているようだな」

 

 幕を出た龍兵衛が振り返ると謙信が影から出て来た。

 一礼して彼は謙信の一歩後ろを歩いて行く。気持ちはどうも晴れない。自分は景勝のおかげで解放されたが、師匠二人は解放されていない。

 それを助ける術を龍兵衛は持っていない。今は上杉存亡の時でもあるのに私情に近い方に心が行ってしまうのは龍兵衛もまだ人間くさいところがあるのだ。

 

「謙信様。孝さん・・・・・・いえ、官兵衛殿はあれでも約束は必ず守る方です。上杉軍の内情を知っても決して漏らす事は無いでしょう」

「そんな事、私はとうに分かっていたぞ」

 

 謙信が嘘と真を見抜くことに長けていることは分かりきっていた事だったが、龍兵衛は師匠が心配で仕方がなかった。

 謙信も龍兵衛の気持ちをよく理解していた。官兵衛が恐怖に怯える内心を抑え込み、望まない場所に行くことで生き残るしかないという哀れな立場をどうにかしてやりたかった。

 道勝さえ居なければこうはならなかった。官兵衛もあの書状が無ければどうにかならない物なのか。

 

「そうだよ龍兵衛、無かったことにすればいいんだよ」

「・・・・・・はっ?」

 

 急に何かにひらめいたようで謙信は素っ頓狂な声を出して不思議そうに彼女を見ている龍兵衛に定満と颯馬を呼ぶように命じた。

 

 

 

 

 

 

 

 官兵衛は今日だけ上杉軍がここにいることは龍兵衛から聞いていたので朝早くに起きてすぐに出られるように準備を始めていた。

 向こうの恩義を無駄にすることになったが、美濃に行かないといけない事情がある。友の為に動かねばならない。

 外は星空が出ているとはいえ寝るにはまだ早い。それでも官兵衛は明日の為に早く寝ることにした。

 完全に意識を手放したのを見計らったように誰かが入ってきたと思うと官兵衛を素早く縛り上げてしまった。

 慌てて起きた官兵衛が暴れて抵抗する。手を拱いたのか侵入者は手刀で官兵衛を気絶させた。そのまま彼女を担ぎ上げて侵入者は去って行った。

 

 

 

 官兵衛が目を覚ますと当然だが先程と違う所に寝かされていた。身体を確認すると縛られている訳ではなく、これといった怪我も無さそうだ。

 だが、外に人の気配がある以上は簡単には動けない。官兵衛は武芸はからっきしなのでこのような所に弱い見張りを置いていてもすぐにやられる。

 仕方ないと思いながらも誰か来るまで素直に待っていることにした。

 官兵衛はぼーっとしていると外で誰かが見張りと話している声が聞こえた。

 一通り話し終わったようで足音を立てながら見慣れた顔が四人やってきた。

 

「いや、済まなかった。また気絶するような事をさせて」

「でも、あれは暴れる孝さんが悪いですよ」

「あれで暴れるなというのは無理な話だ」

「うんうん。龍兵衛君もちょっと手荒だったの」

 

 呆然としている官兵衛をよそに謙信とその配下の軍師達は次々と言葉を繋げる。

 何と言うべきか迷う官兵衛を嘲笑うように龍兵衛が何かをひらひらとさせる。

 途端に官兵衛はがばっと立ち上がってそれを奪おうと龍兵衛に飛びかかるが、龍兵衛はひょいと避ける。

 そこに颯馬が加わって龍兵衛が持っていたある物を受け取る。

 手ぶらになった龍兵衛はすかさず官兵衛を羽織い締めにして動きを封じ込めた。

 

「何するの!?」

 

 官兵衛が喚くが龍兵衛は力を弱めることはない。強引に彼は官兵衛を座らせた。

 その前に謙信が官兵衛と目線を合わせるように座り、語り掛ける。

 

「そなたも人の子、美濃には行きたくないのだろう?」

「うっさい! あなただって龍兵衛からの書状が読んだんでしょ!? なら、あたしがどんな気持ちであそこに行くか分かってるでしょ!?」

 

 友が常日頃から窮地に立たされていて、寝ている間も恐怖に怯えているのを少しでも和らげるのは友として当然のこと。

 謙信も承知している。しかし、頷いたその目に同情の感情は全く感じられない。

 謙信は官兵衛をしっかりと見て言った。

 

「官兵衛殿、我らと共に来ないか?」

 

 目を見開いて官兵衛は驚いている。謙信も知っている。今は美濃に向かわないと友が危ない。

 分かっているのなら何故ここから出してくれない。

 目で訴えるが、謙信は首を横に振るだけ。

 謙信も馬鹿ではない。弟子の龍兵衛が馬鹿に仕える訳がない。

 龍兵衛を見るとなにも感じさせない無の表情だ。彼が人からの返答を待っている時の顔だ。

 確かに官兵衛だって織田の下に行きたくない。だが、官兵衛は半兵衛という友が道勝の見えない背後の刃を突き立てられて今、颯馬が持っている書状を書いて官兵衛に送った。

 それがある以上は官兵衛は行かないといけない。しかも無かったとしても受け取った証拠は黙って誤魔化せば無いのだ。

 

「そうか・・・・・・」

「そうなんですよ。官兵衛殿、無いんです。これが無くなれば後は知らぬ存ぜぬを貫けばいいんです」

 

 颯馬の言う通り書状が消えてしまえばそれでいい。この書状を送った者はいるが、書状を良く読むと半兵衛は道勝が織田家お抱えの伝馬役を使わない筈だということをそれとなく書いている。

 強欲な道勝はおそらく官兵衛に書状を書いた後、それに官兵衛が来る頃になってから彼女を呼んだと信長に言うつもりだったのだろう。そうすれば道勝の評価は上がり易い。

 龍兵衛もそこが気になっていたそうだが、書状を官兵衛からくすねて謙信達と読んだ時にすぐに分かったそうだ。

 

「弟子に出し抜かれましたね~」

「う、うっさい!」

 

 ふてくされてぷいっと頬を膨らませてそっぽを向いてしまったが、悪魔の恐怖から解放されたせいかその頬には何かが輝いて落ちていっている。

 それを見ると龍兵衛は心の中でここにはいないもう一人の師匠に心からの感謝の言葉を述べた。

 

「お互いに重さんに感謝しませんとね」

「おうよ!」

 

 まだ少し涙目のままの官兵衛と龍兵衛の拳がこつんと触れ合った。また一人、過去の恐怖から解放された瞬間だった。

 代償として友には更なる重みを背負ってもらうことになるだろう。しかし、友はそれを承知で行ってくれた飼い主へのささやかで大きな抵抗を無駄にする訳にはいかない。

 官兵衛は自らその書状を蝋燭で丁寧に燃やすことはしなかった。

 龍兵衛を除く全員がこれには驚いたが、三年も近くにいた龍兵衛には官兵衛の思いは分かっていた。

 官兵衛はここにはいない友への感謝の気持ちを忘れない為にもこれは大切に取って置くことにする、と言った。

 それには誰も何も言わない。龍兵衛も薄く笑っている。

 何故なら誰もがこの哀れな師弟二人にはここにはいない同士を含めて負ける訳にはいかない戦いはこれからあるのだと知っているから。それは自分達もそうなのだから。

 懐に書状をしまうと官兵衛は思い出したように謙信を見る。 

 

「今、思い出したんですけど。謙信様はあたしを襲った時に一緒に居たんですか?」

 

 謙信が当然のように頷くと官兵衛はかなり驚いている。

 

「う、うそ~謙信様って巷では正義を掲げているってもっぱらの噂なのにそんな事しているんですか~?」

「ふっ、私とてそれだけでこの乱世は生きて行けないことぐらい分かっているさ。だが、ここにいる三人がどうしても私を汚したくないそうでな・・・・・・ま、私も潔白な方が居やすくて良いがな」

 

 官兵衛は何か嫌な予感しかしなかった。

 謙信は格好良く言っているが、言っている内容は官兵衛が思い描いていた謙信とは全然違い、想像がぼろぼろと崩れていくのを感じた。

 謙信は呆然としている官兵衛を見て悪戯っぽく笑いながら通告した。

 

「そなたもそうなるのだ。覚悟しておくのだぞ」

 

 まだ謙信という人間の想像と現実から脱却出来ない官兵衛が戸惑いながら「え~え~」と目を白黒させている。

 後ろでは三人の軍師達が同情の目をしている。これからは随分と大変なことになりそうだと思いながらも一度頷いた以上は断る訳にはいかない。

 どうして龍兵衛がここに居る事が出来るのかがよくよく分かった気がした。

 現実に見た謙信なら彼の仕官を許しても何ら不思議ではない。

 この日だけ、師弟が再会した良い日はこれで終わり、明日からまた上杉軍は修羅場になる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十八話改 誰が味方で・・・誰が敵か・・・

 加賀の国境に入った時、上杉軍の緊張感は最高潮に達していたと言って良かった。

 

「(いよいよ・・・・・・入るか)」

 

 謙信は強く心に言い聞かせ、戒めるように何度もこの言葉を頭の中で反響させる。

 加賀の国境に入り上杉軍の雰囲気は戦に出掛けるようなものに変わった。晴貞は既に使者を出して来て、是非とも帰路に付いた上杉軍を歓待したいと願って来た。

 これには殆どの将が無視しておくべきだという意見が出て謙信もこれを是としたが、一人反対する者がいた。

 官兵衛である。彼女が正式に上杉家に加わった事はまだ美濃との兼ね合いの為、内々の秘密になっていたが、龍兵衛の師匠としてかなりの存在感を出していた。

 

「ひとまず承諾しないと晴貞は上杉がこちらの動きを悟ったって思う。危険なのは分かっているけど無視した方がもっと危ないよ」

 

 二兵衛の一角を占める官兵衛の立て板に水のように繋げて理路整然とした言葉には全員が考えを改める必要があるという思いが入っていた。

 最初の頃はその口調と歯に衣着せぬ物言いで兼続や景家からはあまり良い思いをされなかったが、彼女の性格を理解している龍兵衛が間に入った。

 

「慶次よりはましだろ」

 

 そう窘めると「ああ確かに」とすんなりと丸く収まり、存在感を発揮し始めた官兵衛を認めた。

 出汁にされた慶次は少し凹んでいたが、全員に無視されたのは余談である。

 結局は官兵衛の意見が通り、晴貞の使者によろしくと謙信は言ってさらに加賀へと進んで行く。

 そして、いよいよ加賀へと入った。

 ひとまず尾山御坊近くの寺に招かれた謙信達は晴貞の嘘臭い労いを受けた。

 

「いやあ、上洛の任、御苦労様でした。謙信殿」

「いえ、富樫殿には行きも帰りもこのようにさせて頂きこの謙信、感謝の極みです」

「あーいえいえ、頭をお上げ下さい。ささ、こちらです。ご案内します」

 

 晴貞は謙信に堅苦しくするなと低姿勢だが、気軽で気を和ますような物言いで上杉軍の面々を迎え入れる。

 件のことを知っている上杉軍の面々はそれに無性に腹が立ったが、決してそれを悟らせないように恭しく頭を下げながら晴貞に付いて行く。

 彼の背中に刀を突き付けたい気持ちを抑えながら、その日は大人しく晴貞の歓待を受けた。

 謙信は晴貞に探りを入れてどのような反応をするのか試したい事があった。

 

「富樫殿、実は長く越後を離れていましたので明日には発ちたいのですが」

「なるほど、確かに国主が何時までも国を離れている訳にはいきませんからね・・・・・・分かりました。では今日だけでもゆっくりとお過ごし下さい」

 

 迷うことの無い晴貞の返答に謙信は内心驚いた。

 計画に深く関わっている彼ならもう少し居ていくれなど言って引き留めることをすると思っていたが、意外にあっさりと明日発つこと許した。

 驚きを隠しながら晴貞に付いて行く謙信からすれば全くの想定外で謙信の頭を混乱させるのには十分だった。

 

「(やはり思惑が掴めない。この者は一体何を企んでいるのだ?)」

 

 謙信には猜疑心の心が目覚め、彼が何を企んでいるのかますます分からなくなった。彼の背中を睨んだところで何かが変わる訳では無いが、今はそうしなければ気持ちを抑えることが出来ない。

 それと同時に謙信は何かが動き出したことを悟った。

 大きな影となり、謙信と彼女自慢の配下達。さらには大切な越後の民達をも飲み込もうと迫って来ている。

 

 

 

 

「動いた者も分からずにどこで何が起きるのかも分からない。八方塞がりだな」

「そんなに軽く言えることではありません」

 

 その日の夜に謙信はいつも通りに軍師達を呼んで会議をしていた。颯馬以外の四人も謙信を咎めるように見ている。

 謙信は失言だったと詫びて改めて話し合いを続ける。しかし、先程の謙信の発言のように今の上杉は八方塞がりの状態である。

 明日には尾山を出る。二、三日で上杉軍は加賀を出ることになる。そうなっては晴貞も手は出せない筈だ。

 

「裏で越中と手を組んでいるとかはないの?」

「うーん、それは無いと思うの。神保さんも椎名さんも今のところはこっちの味方かな」

 

 富山城の神保氏はかつて敵対していたが今は上杉に降伏状態。

 松倉城の椎名氏は元々上杉家とは密接な関係がある。神保は警戒しておく必要があるが、上杉軍の敵ではない。

 椎名の本城である松倉城辺りまで行ってしまえば越後に帰ったも同然である。

 

「誰が味方で、誰が敵なのか・・・・・・」

 

 謙信の独り言に全員は眉間に皺を寄せて黙り込む。

 その沈黙は長く、この部屋に一本だけある蝋燭の蝋がかなり溶けていった。

 晴貞の言う通りにこのまま素直に加賀を出ても良いのかも怪しくなってきた。

 早いところ出た方が良いのは知っているが、急いては事を仕損じるとも言う。だが、今は善は急げの状態であると言った方が良い。

 

「とりあえず、動いてみないと分かりませんね。今後はさらに警戒を強化しましょう」

 

 颯馬の発言を最後に話し合いは自然解散の形で終わってしまった。

 立ち上がる者の足取り重く、全員が明日の到来を人生の中で最も嫌だと思っていた。

 それでも時間は止まる筈が無く、無情に時を刻むだけだった。

 散会になると師弟の二人は夜の廊下をひたひたと歩きながら静かな声で話し合っている。

 

「随分と大変な所だね~」

「入ってきた自分を恨みなさい」

 

 軽口を言う官兵衛と龍兵衛の表情は真逆である。

 官兵衛が謙信や龍兵衛から今の上杉家が立たされている苦境を聞いて驚愕したのは少し前の事だ。

 別に上杉家に入ったことを後悔する事は無いし、彼女は少なくとも織田よりは良いだと思っていた。

 道勝の見えない恐怖の下よりも苦境であっても楽しみを見つけられる。しかし、それはこの地獄を突破してからの話であって今はただの気休めにしかならない。

 

「これは出たとこ勝負になるよ、龍兵衛」

「もちろん覚悟は出来ています」

 

 一方の龍兵衛は師匠の官兵衛でさえ手を拱くこの状況下で自分がやっていけるのか不安になっていた。

 だが、切り抜けなければ生きることは出来ない。生きることこそが善であると考えている彼にとって死ぬということは出来ない選択肢である。

 その為に気になるのは謙信と軍師達に景資が言っていた事だ。

 

『京は日の本の闇の中枢』

 

 やはり黒幕は京に居るのだろうかと龍兵衛は頭を働かせる。だが、織田と違いまだそこまで将軍家は上杉家を敵視していない筈だ。

 関東管領の謙信には管領並みの特権を与えて東日本に平穏を取り戻して欲しいと義昭は言っていた。

 だとしたら上杉家を無くすのは将軍家にとっては大きな痛手。やはり本願寺だろうかと龍兵衛は頭を捻る。それにしては以前も彼は考えていたが少し名前が出過ぎているように思える。

 以前に春日山で起きた暴動も簡単に加賀が差し金だと分かった。今回の上洛にも存在が見え隠れしていた。

 定満と龍兵衛が主導で色々と調べても本願寺が最後には必ず出てくる。いとも簡単に、簡単過ぎる程。

 

「こうなったら片っ端から片付けていくしかないかもしれませんね」

「下策だけどそれしか無いね。せめて誰が敵なのか分かれば良いんだけど」

 

 軒猿も手を尽くしているが、如何せん関係していそうなところはどこも警戒が強くなり、上手く集まっていない。

 

「砦が見えない戦なんて初めてだよ」

「自分もです」

「だけど逃げるつもりは無いよ」

「もちろんです」

 

 それ以降はお互い無言で歩いて行く。始まるのは悪夢かそれともこの世の地獄かはまだ分からない。

 

 その頃、謙信は颯馬と二人きりで話していた。

 

「しかし、何のだここの皆は・・・・・・」

 

 晴貞に付き従う家臣達の目には何もなかった。謙信はいち早く、上洛行きの時にそれに気付いていた。

 

「確かに何かがおかしい。何でも晴貞の言う事には『はい・承知』だけだ。表情も無だった。だけど龍兵衛みたいに心に何かを秘めている訳でもなさそうだった。本当に何なんだろうな・・・・・・」

 

 一旦は謙信の部屋から出た颯馬も彼女が気になってまた戻って来ていた。颯馬は分かっていた。人一倍不安な心を持ったまま謙信はこの後をどうするべきか何が起きるのか不安になっている。そして、富樫の家臣達の不穏な様子もだ。

 富樫家の家臣達は目に覇気がなく、まるで晴貞の人形のように動いている。ふらふらと晴貞の後ろを歩くだけなのだ。

 

「さっき定満殿達と話してみたんだが、龍兵衛が何か術みたいのに掛かっているようだと言っていたな」

「術?」

 

 頷くと颯馬は先程、龍兵衛が言っていた事を話し始める。

 

『あれはもしかしたら術ではないかな? 催眠術って言って相手の頭脳の中から相手が意思する力を抜き取って自分の意のままにする。まるで人形のように動かすようにするんだ』

「ちょっと待て、まさか颯馬はその話をまともに受けたのか?」

「まさか、龍兵衛にもそれは無いだろうと言ったよ。でも龍兵衛は『じゃあ、なんであの者達はあんな風になっている?』と言ってな・・・・・・」

「確かに・・・・・・反論出来ないな」

「それに龍兵衛は催眠術というのは誰でも習得しようと思えば習得出来ると言っていた」

 

 実際かれらは龍兵衛の言うように機会のように動いている。

 あの者達は自分の意思があるようには謙信も見えなかったのだし、それに誰でも習得出来るものなら晴貞がそれを持っていることも考えられる。そう考えると龍兵衛の言っていることも頷ける。

 

「だけど確かに龍兵衛もその催眠術というものの可能性は低いと思っていたらしいが、それでもう一つの可能性があると言っていた・・・・・・」

『俺も催眠術は人に掛けようと思えば出来るかもしれない。何故ならたまに催眠術のような人を惹き付ける能力を産まれた時から持っている人も確率はかなり低いけどいるらしい。霊に取り憑かれたように人はその人を崇めるように付いていく。その人以外の言葉など耳にも入らない。もし、晴貞がそれを持っていたとしたら・・・・・・どうだ?』

「何でもそれは主君のような人から慕われるものとも違ってかなり特殊なものらしいな。一回そうなった人は本当に霊に取り憑かれたようになかなかその人の依存から離れられないそうだ」

「なるほど・・・・・・心から晴貞を慕っている訳ではなく、晴貞がかれらを慕わせているのか・・・・・・」

 

 もしそうならばそれから解放させてやりたい。

 だが、その為にはこれからの戦に勝たないといけない。さらに弊害がある。

 謙信自ら公表した内政に三年は集中する政策が破棄される危険性が出て来る。

 宗教上及び越後という国は一向宗との完全な対立を引き起こしかねない。

 いずれは一向宗は討たないといけない相手。だが、背後には東北のまだ上杉に対抗しようとしている勢力もいる。

 まさに上杉軍は前門の虎に後門の狼の状態だ。

 それは越後に戻ってからの話で今は敵の中にいる。もはや網の中にいる魚だが、海に捨てられ生きるかまな板の上で捌かれて死ぬかは最後まで分からない。

 

 

 

 

 

「謙信の奴は明日に出ると言っている。だが、俺達にはそんなことどうでも良い。計画は完璧。漏れることなど無い。漏れていてもこの動きは止められない」

 

 晴貞は一人、誰もいない部屋で誰かに言い聞かせるように話しながらにやにやと笑っていた。

 端から見れば恐ろしい悪魔が笑っているにしか見えない。それ程彼の野心と欲の為の計略は上手く行っている。

 上杉家が滅べば心おきなく北陸を自分の意のままに出来る。一向宗という強大な力を背景にここまでのし上がったが、さらに欲のままに生きることが出来る。

 あわよくば独立して朝倉にも手を伸ばして勝手にやれることも可能だ。

 欲望は人間が持ち、脱することが出来ないもの。それをよく知る晴貞はそのままに生きているだけなのだ。それが彼の生き方である。

 全ての人を一向宗の名の下に自身の前に跪かせる。仏教の禁欲とは逆行して欲望に支配された彼の野望は始まったばかりである。彼の欲に終わることなどあるのだろうか。

 

 

 

 

 二日後、いよいよ越中に入った。加賀を抜ける時は何も起きることは無いまま上杉軍は歩みを進める。

 晴貞の思惑を掴めることは無いまま上杉軍軍師は加賀を出た。軒猿には残るように謙信は命じて晴貞の動向を探らせた。

 もはや何も動きが無いまま春日山に到着する事を祈るしか上杉軍には残された道はない。

 

「ところで、龍兵衛」

 

 颯馬が前から気になっていたと前置きを置いて龍兵衛にそっと尋ねて来た。

 

「官兵衛ってなんで馬に乗らないんだ?」

「あっ、そうそうぉ、あたしも気になっていたのよぉ」

 

 慶次の他にも何人かの人が龍兵衛に視線を集める。ここのところ官兵衛のことについて龍兵衛に質問が入ってくることがもの凄く多い。

 彼からすれば本人に聞けよと思ってしまうような質問も入ってくるのでいい加減辟易としているのだが、官兵衛に聞いても必ずこう返ってくる。

 

「あたしじゃなくて龍兵衛に聞いて」

 

 そういう訳で龍兵衛に全員が聞くのだが、当の本人は全然そんなこと知らない。

 その理由は官兵衛曰わく。

 

「龍兵衛って怒らせたら何するか分からないから」

 

 そう口止めしているのだ。

 官兵衛は歩いて先の方にいる。しかし、その態度は弟子に何かを押し付けたという罪悪感は全く見えない。

 その師匠の悪巧みを知らない龍兵衛は内心の溜め息をぐっと抑えながら回答する。

 

「あの人が馬に乗るとね・・・・・・」

 

 それは龍兵衛がまだ美濃で修行中だった頃。

 織田家との戦に向かう為に進んでいた時の事であった。やっと馬に乗りこなせるようになった龍兵衛を見て官兵衛の好奇心の歯車が回転し始めた。

 彼女が龍兵衛に少しだけ馬に乗せて欲しいと言うと何も知らなかった龍兵衛はすんなりと交代したが、それは完全な龍兵衛の失態だった。

 馬に乗った瞬間、官兵衛は辺りをきょろきょろと見回して馬を抑えること無く、普段の官兵衛の背丈では見えない高い所から見える情景に意識が行ってしまい馬の事など関係なくさらに辺りを見回す。

 そうしている内に馬がどんどんと官兵衛に無理やり振り回されている内に乗られていることに嫌になった。

 

「・・・・・・それで、地面に真っ逆様」

「落ちたんだな・・・・・・」

 

 察した颯馬に龍兵衛が大きく頷くと全員ががっくりとうなだれてしまった。

「そんな子供じみた理由で馬に乗らないとは・・・・・・」という目で全員が官兵衛を見るが、その視線の先の子供は凝りもせずに近くにいた兵士に馬に乗せろと言っている。

 それを見た龍兵衛が頭を掻きながら官兵衛の下に向かい拳を振り上げる。『ゴツン!』という音が良く聞こえてきた。

 キーキーと弟子に文句を言っている官兵衛の頭には大きなたんこぶが出来ていた。

 一方の龍兵衛は師匠の小言に聞く耳を持たない。

 緊張感漂う上杉軍は少しだけの癒やしを味わう事が出来た。

 その後、神保領はつつがなく襲撃も無いまま通り過ぎることが出来た。これで後は椎名の領地を通り抜ければそれでこの上洛は終わる。

 上杉軍の誰もが安堵したが油断はしていない。椎名家にも念のためにと探りを入れさせて粛々と歩みを進める。

 その念のためが最悪の事態を教えてくれた。

 椎名家が反旗を翻し、斎藤朝信の籠もる魚津城を包囲。さらに安東愛季が離反。秋田城の安東家家臣団が密かに愛季を秋田城に連れ戻して旧領を取り戻さんと侵攻を開始した。

 

「慌てることはない! 今まで通り勝つだけだ! 全軍に命ずる! 魚津城を救援せよ!」

「「「応っっっ!!!」」」

 

 謙信の号令に動揺していた兵士達は士気を持ち直す。

 軍師達は内心の恐怖を隠すのに精一杯だった。晴貞が馬鹿ではないのは分かっていた。人を惹き付けるのに長けているのも分かっていた。

 ここまで彼と本願寺の手が伸びているとは夢にも思っていなかった。

 また安東愛季までがそうなっているのに一番の恐怖を覚えた。

 秋田まで手が届いているということはもしかしたら越後も同時に調略の手が伸びているのではないか。

 とりあえず弥太郎と義清を魚津城に向かわせて故郷の山形を案じた義守達に景家と秀綱を付けて派遣させた後、定満達は謙信の許可を得て越後国内にも軒猿・斥候を放ち報告を待つことにした。

 その報告前にとんでもない報告が舞い込んで来た。

 新発田城城主新発田重家が上杉家から独立を宣言。安田城城主安田顕元がその反乱を阻止出来なかったことに責を感じ切腹。急遽、弟の能元が跡を継ぎ、新発田重家と交戦の準備を進めてる。

 これはさすがにまずいと判断した謙信はすかさず箝口令を敷いてすぐに長重を数十人の兵と共に海路より派遣させ、蘆名を預かる金上盛備にも使者を出し、背後から挟撃するように要請をした。

 次々と暴発する反乱に上杉軍の軍師達は奥歯をぎりっと噛んでいた。

 兵力をかなり分散することになったが、どこが黒幕なのか分からない以上は仕方がない。ましてや越後の国内で乱が起きたことは上杉軍に衝撃を与えた。 

 このままでは自国民までもが巻き込まれる。

 だが、重家の本城である新発田城はかなりの規模を誇る越後第二の拠点と言ってもおかしくない城。

 早く終わらせることが約束されている訳ではない。

 そして、先の報告が最悪の事態というのは間違いだった。あれが最悪ならばこれはなんと言えばよいのだろうか。

 雪が降り始めた魚津城付近の上杉軍本陣に軒猿がもたらした報告に謙信達は雷を受けたかのような衝撃を受けた。

 坂戸城上田長尾家当主長尾政景に謀反の兆しあり。

 その報告を第一に受けたのは謙信ではなくたまたま本陣で控えていた龍兵衛であった。

 

「・・・・・・真なのか・・・・・・それは・・・・・・?」

「間違いございません」

 

 軒猿の無情な返答に龍兵衛は天を仰いだ。

 上杉家一門による謀反が起きるかもしれないという憤りよりも何故あの政景がそのようなことを起こそうとしているのかが分からない。

 野心家の父、房長と違い、実直な政景がどうしてこのような疑いを持たれたのだろうか。

 だが、迷っている訳にはいかずに龍兵衛は謙信の下に走った。

 謙信は魚津城の救援の準備の指揮を執っていた。龍兵衛がやってきた時に感じたのは彼から出て来るよくわからない複雑なものが入り混じった雰囲気であった。

 近くにいた定満もやってきて龍兵衛は軒猿からの報告を謙信に言った。

 

「・・・・・・そうか」

 

 政景の謀反は計算外。龍兵衛はそう言いたいのであろうと謙信は感じた。故に、謙信は龍兵衛を励ますように言った。

 

「仕方ない。まだ起きた訳ではないのだ」

 

 気休めにしか過ぎないが、龍兵衛も少し落ち着いたようなので謙信は聞きたいことを聞き始める。

 

「軒猿の報告は確かか?」

「間違い無いと」

「確証はあるのか?」

「政景殿の文箱に謀反を煽る書状が」

「・・・・・・どこからだ?」

「・・・・・・本願寺です」

 

 三人の怒気が辺りを支配したのは気のせいではない。

 またもやその名前が出て来た事に三人はこめかみの青筋を無くすのに精一杯だった。

 

「景勝には?」

「言っていません」

 

 最後の質問は謙信にとっても定満や龍兵衛にとっても最も気になったことだ。最悪のことを考えて不安げに見つめる定満と龍兵衛に対して謙信は笑って返す。

 

「景勝は既に我が娘だ。気にすることはない」

 

 二人はほっとした。景勝に事が知られれば彼女は不安になって戦を切り抜けるよりも政景の方を気にしてしまうかもしれない。

 更に下手をすれば謀反人の娘として廃嫡ということも考えられたが、謙信は慈愛が深かった。

 

「これは軒猿に任せる訳にはいかぬ。そなた達二人で解決してくれ」

 

 突然の二人はその命令に目を見開くが、謙信は構わず続ける。

 今は時間が無い。故に、軒猿のように命令で動く者では無く二人のように自分の判断で動けるような者がこれに当たるべきだ。他の軍師達に任せて二人は政景の事に集中してほしい。

 

「いざという時の判断は任せる」

 

 謙信はそう締めくくった。

 完全に任されたことはありがたい。しかし、複雑な思いは拭えなかった。

 敵の姿は未だに見えないまま嘲笑うように風が吹いている。

 

 

 

 

 かけ違えたのはいつだろうか。

 自身があの方に降った時。それともその後に自身を見失った時。あの戦で心に熱いものが蘇った時。

 考えても分からない。

 否、そもそも自身はかけ違えた存在だったのだろう。そうでなければこのような事をしている筈がない。ましてやあの誘いには乗るつもりなど毛頭無かった。

 それでもどうして自分は乗ったのだろうか。

 政景には分からなかった。しかし、自身の決意は固過ぎた。退くに退けない状態に自らを追い込んだ以上、動かなければならない。

 もし、失敗した時には潔く果てるのみ。固い決意は揺るがない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十九話改 悪人正機

 長尾政景に謀反の兆しありという知らせは謙信達三人で内密にすることになった。

 誰かが聞いたら景勝だけでなく上杉一門や長尾一門にも累が及ぶ。

 危害は間違いなく政景の娘である景勝に及び、廃嫡を言い出す者も現れるかもしれない。そうなれば謙信が何と言おうと間違いなく景勝を推す者と反対する者との間で内乱が起きる。

 ただでさえ上田長尾家は今まで反旗を翻し続けて来た事があってあまり良い目で見られてはいなかった。

 更にここでこのようなことが公になれば政景は自身の保身の為に真実であろうと無かろうと兵を率いて春日山に侵攻するだろう。

 春日山城には実及がいるとはいえ政景の能力を考えると激戦になる。

 国内での平和が続き、ようやく築き上げた雪の美しい春日山城下が赤い血で染められてしまう。それはなんとしても避けなければならない。

 定満と龍兵衛は謙信からの命を受けた後にすぐ春日山城に向かった。

 まず密かに実及を訪ねて政景の事を告げると彼女も目を見開いた。

 溜め息を付いて残念そうに「そう・・・・・・」と呟いただけで彼女はそれ以上、何も言わなかった。何を思っているのだろうか気になったが、二人には分からなかった。

 実及は綺麗に整えられた白く長い髪をさすっているだけであった。

 多くを語らず自身の役目を考え、自らが為すべきことを思い直しているのかもしれない。二人はそう思って城を出た。

 さすがに二人が帰って来たことがばれるとまずいので城下では定満は象徴とも言えるうさ耳を外し、普段黒い服を着ている龍兵衛はこんなこともあろうかと密かに持っていた灰色の服に着替え、顔に化粧をしてひっそりと抜け出した。

 二人は城を出て出来るだけ南下し、偶然見つけた宿屋で宿を取った。

 二、三日後には坂戸城城下に入り、様々な方法を使って探りを入れることになっている。

 いざとなれば政景を殺めることも考えなければならない。誰も気付かれないような方法を考えて称賛されないようにしなければならない。

 汚れることは覚悟の上。やらなければ越後は外で勝利しても国内から滅びるだけだ。

 

 それから長重はどうにか直江津から居城に戻り、兵を集めて新発田へと向かうことが出来た。

 新発田城は南に伸びる三の丸手前に大手門町口と二の丸前に大手門前門がそびえ、加治川の流れを入れた外堀と前門を守る櫓を配置している。

 その先にも攻略すべき古丸などがあるのだが、先ずは大手門と櫓を突破攻略することが必要である。

 新発田城攻略を任された長重は先に到着していた安田能元と合流して善後策を練っている。

 手筈では蘆名家を任されている金上盛備が援軍を引き連れてやってくる筈だったが、それは抗えないものに阻まれた。

 蘆名領が深雪の為、蘆名軍は行軍不可能になってしまった。

 雪は北陸や東北を治めている以上は仕方の無いことではある。しかし、気候のせいにしてだらだらとやっていると北条や佐竹がやってくることは間違いない。長重も能元も十分によくわかっている。

 彼らが持っている軍勢と城に籠もる兵力は兵法の城攻めに必要な三倍の兵力よりも上ではあるが、新発田城の堅牢さを考えると足りないのが現実である。

 長重とて突っ込むだけの将ではない。今は中条達の援軍を待って包囲を固め、相手の隙を窺うしか方法が無かった。

 新発田城の戦いは掛けたくない時間が掛かると長重と能元は考えていた。

 兵法では速攻こそが勝利の道であると書かれている。一方、大きな蘆名という援軍を頼めるような状況でもないことも知っている。

 今は恨めしく新発田城を見つめるしか長重達には手段がなかった。

 この場には景家や義守ら山形に向かおうとする者達もいた。それは当然のことといえば当然である。

 新発田城は越後と羽州を繋ぐいわば連絡路に築かれた城。突破しない限りは山形に戻ることなど不可能である。

 新潟港を経由して山形に迂回しようにも新潟港は既に重家方の加地衆に制圧されている為に陸路からの進軍を余儀無くされる。

 今のところは山形に安東の手は伸びてはいないが、新発田城に手こずっていては上杉家の重要な財源である雄勝郡の院内銀山や北秋田郡の阿仁鉱山を間違いなく安東家に制圧される。

 上杉家にとっても東北の動乱は佐渡・院内・阿仁の三つの内の二つが消えることでもあり、稲作がそれ程豊富ではない上杉家にかなりの痛手を被ることになる。

 上杉家にとっても最上と蘆名家にとっても大事な戦線を任されている以上、長重達は時を待つようなことはせずに先ず確実に支城を落として行くことにした。

 長重は景家と最上家の氏家定直に重家が築いた新潟城と沼垂城を落として新潟港を奪還する。そこから山形城に安東家討伐の軍を海路から派遣させることにした。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 魚津城を包囲していた椎名康胤は思ったよりも早い上杉軍の到来に目を見開きながらも余裕の心持ちを崩さなかった。

 そもそも上杉家と神保・椎名家は因縁があった。

 かつて越中は畠山氏の所領だったが、当主は越中には来ずにいたので東部を椎名氏が西部は神保氏が取り仕切る事になった。

 しかし、神保氏が応仁の乱以降に畠山氏から独立する構えを見せると椎名氏もそれに同調し、畠山氏与党の越後長尾家と対立した。

 一旦は長尾家を撃破したが、為景が長尾家当主になると形勢が逆転した。

 椎名氏は畠山・長尾連合軍に降伏。神保家当主は討死。守護代職を実質上は長尾為景に奪われてしまう。

 ここで神保家当主の息子である長職が現れる。

 彼は神保家再興を誓って新川郡に富山城を築き、一応は守護代職であった椎名氏を攻撃した。

 この時、椎名氏は長尾家に援軍を頼むが当時景虎と名乗っていた謙信が軍師達の意見を聞き入れて越中方面に不干渉の姿勢を取った為に椎名氏当主の康胤は一門の椎名民部と重臣の神前孫五郎を失い、居城の松倉城に追い詰められ、神保家と繋がりがあった能登畠山家の仲介でどうにか和睦をしたが、不利な条件を押し付けられた。

 この時に不干渉の姿勢を取った上杉家に椎名家が不満を持ったといえる。

 因みに上杉家は史実と異なる行動を取っていた。

 史実では椎名家を援助していた謙信だが、この世界では龍兵衛が主張した東北征伐を是とした為に越中には不干渉の姿勢を取っていた。

 結果として上杉家は領土を大幅に拡大することに成功したが、その裏でかなりの不満を持たれることにも繋がった。

 康胤は上杉家に対抗する機会を虎視眈々と狙っていたが、油断なく魚津城で朝信が見張っていたのでなかなか機が巡って来なかった。

 だが、それは本願寺率いる一向一揆勢が手を差し伸べて来るまでの話である。

 上杉家の上洛命令が出た時は康胤は天から恵みを受けたような気分になった。

 彼はすぐにでも越後に攻め込みたかったが、それでは将軍家からの命令で上洛する上杉家の領土を攻めることになるので周りから白い目で見られるのは確実だった。

 故に、役目を終えた上杉軍が帰って来た時、康胤は有頂天に等しい気分になっていた。

 すかさず出陣を決意して魚津城が囲んだ。上杉軍が越中に入ってすぐに囲まなかったのは謙信達に目の前で悔しい思いをぶつけてやろうと思ったからに他ならない。

 上杉側から見れば越中勢の離反は起きるべくして起こることだと、元々は心のどこかで感じていた。

 しかし、神保家の方が確率では椎名家よりも遥かに高いと思っていた。現当主である長職の父である慶宗は長尾為景によって殺されている。

 一族である謙信は神保家から見れば怨敵に等しい。軍師達も何か行動を起こすとすれば長職だと考えていた。

 故に、康胤による魚津城包囲は予測出来ていたが、警戒していなかった。

 先陣を任された弥太郎と義清は官兵衛を軍師として椎名家家臣、土肥政重が構えている対上杉軍用の陣に進軍を始めた。

 今回の戦で松倉城には椎名家は余剰の兵力をあまり残していなかった。

 それに何かあると思った官兵衛は松倉城を攻めて魚津城の包囲を解く事はせずに敢えてそのまま魚津城を目指し、天神山城の小国頼久を松倉城に向かわせるように弥太郎に進言すると直ちに彼女は使者を出した。

 結果的に官兵衛の予測は当たった。頼久は松倉城に入っていた一向一揆勢の伏兵に攻められ、撤退を余儀無くされた。

 一方の神保も危機に晒されていた。上杉軍を出迎えて送った後すぐに加賀の一向一揆勢と能登の畠山家家臣の畠山七人衆が率いる軍勢が侵攻を始めていた。

 当主の長職は上杉家に援軍を頼んだが、状勢が状勢だけに上杉軍も援軍を出す余裕などがある訳ない。

 しかも、神保家家臣は一枚岩ではなかった。

 重臣の二頭で一向一揆与党派の寺島職定ともう一人の実力者である上杉家与党派の小島職鎮率いる派閥の対立が激化していた。

 先に動いたのは職鎮だった。隙を突いて職定を監禁した。

 この時、当主である長職は上杉与党であった為、何かにつけて上杉を討とうと進言する職定の事は疎ましい目で見ていたので彼にとっては正に吉報だった。

 しかし、ここで問題が起きる。実の娘である長住が職定の意見に同調してしまった為に神保家は二つに割れる状態になった。

 不穏な状況を打開する為、長職は強引に上杉との共闘を宣言してしまう。

 これに激怒した長住と職定の家臣は職定を救出して畠山家を頼って逃げ出した。これによって戦力が落ちた神保家は富山城の内情をよく知る者達も向こうに引き抜かれた為に窮地に追い込まれた。

 上杉が来れない今、富山城で籠もっているしか道は無い。

 誰かに和睦の仲介になってもらうにしても当事者の謙信は駄目だ。

 武田家は一向一揆勢とは長年不干渉の姿勢を取っている。朝倉は一向一揆との対立が長く、入る余地が無い。

 長職はどうしても一代で復活を遂げたこの神保家を一向宗というたかが宗教の庇護化に入れるのが嫌だった。

 宗教に入るのなら武家の下に入った方がましである。

 娘のように生き残る為になりふり構わない姿勢にはなれなかった。長職は良くも悪くも昔がたきの性格である。今回は悪い方向に向かい、窮地になった。

 だが、今更頭を下げるなどという選択肢は無い。宗教の下に入るなら死んだ方がましだ。

 

 傀儡の畠山義慶ではこの流れを止めることは出来なかった。

 勢いのある加賀の一向一揆勢との同盟には仕方が無いとは思っていたが、それはあくまでも能登を平穏無事で戦の無い国のままでいる為、今回のように戦をすることは嫌だった。

 祖父と父は七人衆の一人である温井総貞を殺害したことによって内乱を呼び、一応は鎮圧したが、残った家臣の力を抑えることが出来ないまま追放されていった。

 故に、彼はもう自身の立場も踏まえてどうでもよかった。大人しくしていないと家臣達が何をするか分からない。間違い無くかれらに刃向かえば必ず自分は邪魔者扱いにされていつかは殺される。

 背中から他国の影では無く、前から自分の家臣達に刀が突き立てられている。

 しかし、不憫な彼にも一つの心の寄りどころがあった。妹の畠山義隆である。

 彼は血の繋がった親族の中で唯一の信頼を置ける者は祖父と父以外で妹しか能登にはいなかった。

 それを知っている者は妹と自分を婚姻させろと迫ってくる。彼はそれだけには反対した。

 どうでも良くなった彼にだって意地がある。家族を守ろうと思う心だけは残っていた。

 さすがにそれには家臣達も機嫌の悪い顔はしたが変な行動を起こそうと考える者は現れなかった。

 今まではそうであった。しかし、誰もが牙というものは隠している。

 今回は違った。温井総貞の息子である続宗が義隆を監禁して彼女と自分が可愛ければ出陣しろと迫って来た。戦いたくはなかったが、妹の命が掛かっている以上は腰を上げるしかなかった。

 

 続宗と違い、義慶は兵が寝泊まりするような小さな部屋に置かれ、軍議の時以外の外出は禁じられた。

 もどかしいが、義慶は軍議だと言われるまで下を俯いて何をするでもなく黙っている。

 呼び出されて軍議に行ってみると加賀の富樫晴貞が指揮を執っている。

 盟主同士として隣に義慶も座っているが、誰も彼のことなど見やしない。とりあえず義慶も話は聞いていた。

 そこには富山城を脱出した神保長住や寺島職定の姿もあった。積極的に軍議に参加しているのはその二人と温井続宗ぐらいで他の人々は口を開こうともせずに頷いているだけである。

 結局は富山城はいつでも落とせるとゆっくり包囲しながらじりじりと攻撃していくことになった。

 

「義慶殿・・・・・・」

 

 軍議が終わり殆どの将が準備に出て行く中、晴貞に呼び止められた義慶は浮かしかけた腰を止めた。そこには晴貞と義慶。そして、続宗が残っていた。

 先程の軍議でずっと黙っていたことを咎める気だろうか。傀儡とはいえ一応は盟主である。

 何か言わないのはおかしい。晴貞も傀儡だと義慶は思っていたが、あの堂々とした指揮の取り方はとてもそうとは思えない。間違い無く噂であったということだ。

 畠山家の家臣達はそれに疑問を持つことなく、議論を聞いていた。おそらく連絡を取り合っていたのだろう。義慶が知らないところで、彼が知らないように。

 何を言われるのかびくびくしていると晴貞は急に頭を下げた。

 

「この度はどうもありがとうございます」

「え・・・・・・? あ、いや、頭をお上げ下さい」

 

 慌てる義慶を抑えるように晴貞は首を振ってにこやかに応える。

 先程の公の場では見せないような気持ちのいい笑顔だった。それを見た義慶は少しばかり心が落ち着いたように思えた。

 彼が傀儡とは思えないが、自分のような本当の傀儡の当主にそこまで礼儀正しく接してくれるとは思っていなかった。

 もしかしたら少しは自分の立場を思ってくれる人なのかもしれない。

 

「(まだ、私にも幸があったか・・・・・・)」

 

 儚いものでも手に入れた気がしたという思い。少しだけ麗らかな風が吹き流れた。

 

 

 

 

 

 坂戸城の城下に入り、宿屋で夕餉の時に一緒に食べている龍兵衛がかなり緊迫感の表情をしているのを見た定満は気張ってばかりでは駄目だと彼を酒に誘った。

 普段の疑り深い龍兵衛なら定満に以前堕とされた経験がある為、かなり慎重になるところだが、今はそのようなことを考えている暇も無いので素直に従う。

 夜の為に冷えるが、それ以上に龍兵衛は心が冷えている気がした。

 

「定満殿・・・・・・」

「うん、どうしたの?」

 

 未だに緊迫感が抜け切れていない龍兵衛を和ませようと定満は穏やかに声を出す。

 話しかけてきた龍兵衛の視点は定満ではなくどこかに行っている。普段はきちんと人の目を見て話す彼だが、虚ろな目は定満でさえも珍しいと思って思わず逆にどうしたのか聞きたくなる程だ。

 

「人ってなんでこうも理不尽なことに巻き込まれないといけないのでしょうか・・・・・・」

 

 それはいつもの龍兵衛ではなく、別人のように定満は感じた。

 口調もいつものはっきりしたものではなく、ぼんやりとして表情も引き締まりがない。誤魔化す際に浮かべる作り笑いも普段なら平時の笑いと同じで定満も見分けが付かないが、今日は分かりやすい引きつったような笑いを浮かべている。

 定満は龍兵衛の発した一つの言葉が頭で何度も繰り返す。

『理不尽なこと』とは何だろうか。龍兵衛とて乱世に生きている以上はそのようなことは何度も経験している筈だ。

 実際そのようなことが過去にあった。上杉で見た限りでは龍兵衛は眉一つ動かさずにそれを受け入れてきている。

 しかし、今回の龍兵衛は定満の知っている彼とは違っていた。以前の内乱の時も彼は冷酷なまでに謀反人と戦い、景勝を上杉家次期当主として誰もが認める存在にのし上げた。

 今回も同じようにしていれば良い筈なのに何故彼はそこまで動揺し、腑抜けたようになければならないのか分からない。

 龍兵衛は軍師であり、影の汚れ仕事も躊躇うことなくこなしてきた。その彼が何を躊躇っているのだろうか。今まで通りにそのまま今回の事も心を鬼にして終わらせれば良いのだ。

 色々と御託を並べ立てたが、定満は分かっていた。彼をこうさせている原因は景勝との関係。

 未だに景勝との仲がよろしくないという噂もあるが、実状を知っている。

 その一端を作った定満は景勝との関係が龍兵衛をここまでにさせているのは分かっていた。

 政景は景勝の実父。景勝はまだ知らないことだが、別に恋人の父親を殺すことがこの戦国乱世では有り得ないことではない。

 しかし、政景とは仲が良かった龍兵衛がいつものように無情になって彼を殺せるかは分からない。

 人と人の繋がりを大切にする定満は龍兵衛の心境はよく分かっているが、今回の龍兵衛の腑抜け具合には定満は疑問を覚えた。

 心を許した人にしか見せない彼の個人的な感情を見せていることに変わりないが、いつもとは様子がかけ離れている。

 何故そこまで思い詰めた顔をしているのか。先程から口から出て来ているのは溜め息ばかりで言葉も出て来る気配が無い。

 

「龍兵衛君、さっきから変なの」

「そうですか? そうかもしれませんね・・・・・・」

 

 言葉が行ったり来たりで支離滅裂としている。

 これ以上何を話しても意味がないと思った定満は龍兵衛に酒を切り上げて今日はもう寝ることを勧めた。

 礼をして立ち上がった龍兵衛は浮浪者のようにふらふらと足取りがおぼつかないまま襖の角に足の小指をぶつけたが、全く気にせずに部屋を戻って行った。

 

「やっぱり、変なの・・・・・・」

 

 今回の仕事で彼はもしかしたらずっとあのような状態になるかもしれない。自分一人がやっているつもりでいこうと定満は胸に誓った。

 

 

 

 

 

 実直で心は暑く熱血漢という言葉がよく似合うというのが政景の人格だった。上杉家の中では知っている人は誰でも知っている。

 定満も当然範疇に入る。故に、政景の噂はかなり疑問に思った。

 どうしてあの政景がこのようなことをしたのか。謀反を起こそうとしていると断定するのは早いかもしれないが、そもそも噂が立つこと自体がおかしい。

 彼は実直ではあるが、強かに自分の地位を確立出来る男でもある。故に、景勝を謙信の養子に出して今後は謙信の配下として忠誠を誓うことを示し、それなりの地位を確保することに成功した。

 あのような書状など受け取ってもすぐに捨てるなり燃やすなりした筈である。では何故残していたのか。

 書状の内容に何か心に響くものがあったからに違いない。そうでなければ政景のような人物がわざわざ謀反を煽るような書状を残す筈がない。

 気になるのは好奇心は子供のままである定満も人の内実を詮索するのが大好きな龍兵衛も同じである。

 だが、龍兵衛は興味などの問題以前に完全に政景のことで狼狽している。坂戸城に近付くにつれてそれは段々と顕著なものになっていた。

 移動している時もぼーっとしていて定満が話し掛けても一泊おいてからはっと気付いたように話す事が続いている。

 今日は定満が目を離している間にどこかに消えたと思ったら龍兵衛は屈んで何かを棒で突ついていた。

 定満が覗いてみるとただ地面にある何の変哲もない小石を面白そうに笑みを浮かべながら突ついていた。

 龍兵衛は定満が声を掛けて我に帰ったが、そんなことをしているところを見てはさすがに定満も指を咥えて見ている訳にはいかない。

 その日に取った宿で定満は夕餉の後、もう一度酒に誘い、それとなく聞き出した。

 

「龍兵衛君は政景さんのこと、どう思う?」

「どう、とは?」

「うーんとね、政景さんの人柄、とか?」

「いい人だとは思いますよ。何度か酒に誘ってくれましたし・・・・・・ただ・・・・・・」

「うん?」

 

 ここで定満のうさ耳がピンと立った。

 その先を促すようにじっと定満は待つ。普段の龍兵衛ならここで話を逸らすところだが、今日は酒と彼の心で疼く何かと定満の存在が龍兵衛の口を軽くさせた。

 

「政景殿が・・・・・・どうしても・・・・・・」

「どうしても?」

 

 徐々に歯切れが悪くなる龍兵衛の口を動かそうと定満は促すように語り掛けると彼のうなだれていた顔が上がる。

 

「どうしても・・・・・・あれの父に見えてしまって・・・・・・」

「あれって、誰?」

 

 定満は立ち上がり、さらに心に隠していることを聞き出す為に龍兵衛の肩を揉んで力を抜くように優しく言葉を掛ける。

 その中にある子供を楽園に誘うような悪魔の感情をひた隠したままにして。

 

「あれとは・・・・・・惟信・・・・・・・由布惟信・・・・・・です」

 

 龍兵衛は目の焦点がくらくらと回ったまま虚ろに言葉を発した。

 美しい薔薇ような定満の声に龍兵衛は楽園の美しさに負けて定満が隠していた悪魔の棘に自ら刺されに行ったのだ。

 

「言ったね・・・・・・龍兵衛君」

「え・・・・・・あ・・・・・・あああ」

 

 ぽんっと定満が肩を離すと龍兵衛は正気に戻り、目の焦点が定まる。そして、誘惑の薔薇に刺されたことに気付いた。

 何ということはない。正直に言っただけだ。しかし、定満はその正直なところから更に龍兵衛の懐に入ろうとしている。それだけで彼は怖くなった。

 手を離しても悪魔の棘は手の中に残っている。そして、定満という悪魔は眼前の龍兵衛という刺された子供に毒を入れていく。

 

「私に話してくれる?」

「い、いえ・・・・・・言えな・・・・・・」

「言えない。なんて思っている? 私を前にして」

 

 とうとう定満はにっこりと笑いながらもはっきりと言い切った。彼女は龍兵衛に悪魔の本性をさらけ出した。

 

「あ、ああ・・・・・・な、なんて事を・・・・・・俺は・・・・・・」

 

 定満という好奇心の裏に隠している腹黒さに気付いた時には遅かった。

 一瞬の忘却が原因で龍兵衛の身体に毒が確実に身体中を駆け巡り、全身を満たしていく。

 どこにも逃げ場は無く、助かる道は無い。どこかに逃げ出したくとも逃げられない。完全に追い詰められた中で龍兵衛は逃げ場を探し求める。

 人間とは精神的に窮地に陥るとそこで掛けられる優しい天使の手のような言葉にはついつい手を差し出したくなってしまう。

 それは人が弱いからである。今、龍兵衛を救う者は目の前にいる。

 皮肉にも彼をこのような状態に陥れた張本人の定満だ。

 彼女は強引には行かずに龍兵衛の頭を丁寧に撫でながら母親のように今までよりも優しくて、穏やかで、包み込むような声で彼を諭す。

 

「龍兵衛君、素直に言えば楽になるの。なりたい?」

「は、はい・・・・・・なりたいです・・・・・・」

 

 とうとう子供は悪魔の手に堕ちた。定満はにっこりと笑いながら手を龍兵衛の頭に乗せ、うさ耳をぴんと立てる。

 懺悔は長く、深く、暗かった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十話改 戦の序章

 越後、新潟城では新発田重家に加担した加地衆と景家を大将とした最上救援隊の間で戦が繰り広げられていた。

 長重と景家は新発田城で貧乏揺すりを続けていたが、最上軍の中でも知略に優れた定直が策を提案して来た。

 加地秀綱の本拠である加地城を攻めるべきである。

 確かに目が新発田に行き過ぎていた。二人は動きがなく、いらいらしていたのでその策を是としてすぐに行動に移った。まずは景家が最上軍と共に加茂城に向かった。

 加地秀綱はその報告を届くとすぐに彼は援軍を加地城に派遣したがその日の夜。

 つまり今日、景家と最上軍は加茂城から引き返して新潟城に夜襲を行った。

 加地は突然の急襲に対応らしい対応が出来ずに沼垂城に撤退を始めた。

 景家は徹底的に追撃を緩めることなく彼を追い詰め、加地は沼垂城に後一歩のところで首だけとなった。

 景家は秀綱の首を陣に高々と掲げ、沼垂城の兵達に見せ付けた。

 城主の首を見て士気が大幅に下がったところを見計らって景家は密かに別働隊を率いてやってきた上泉秀綱の奇襲を合図に沼垂城に総攻撃をかけた。

 景家や秀綱達による上杉軍の怒りを吐き出すような苛烈で容赦ない攻めに恐怖した兵士達が徹底的抗戦を主張する副将を殺して降伏を願った。

 しかし、そんな調子のいいことを怒りに燃える景家達が許す筈がなく、沼垂城を焼き払い、その者達も纏めて沼垂城の兵士達ほぼ全員の首を跳ねた。

 逃げた者も盛周が残党狩りを敢行している為にすぐに殺されるだろう。

 こうして新潟港が開かれ、景家達はすぐに兵を纏めて山形に向かった。

 残党狩りを終えて無事に山形に向かう景家達を見送った長重は新発田城攻めの膠着状態を破る為に先ずは重家側の加茂城を落とすべくその支えである剣ヶ峰砦を落とそうとした。

 剣ヶ峰砦はL字型の単調な造りの山城だが、その砦を落とせば加茂城は半分以上落ちたも同然である。

 長重は直ちに砦を攻め立てたが、敵も必死に防戦した為に特に成果を上げることが無いまま一度撤退をした。

 能元を新発田城の抑えに置いているとはいえわざわざ兵を二分したのだ。結局は何も変わりませんでしたでは意味がない。

 夜襲は加地での戦で使った以上は加茂城に籠もる将の耳にも入っている筈だ。それならばあとは方法は一つしかない。

 

「火攻めの準備を始めてくれ」

 

 早朝、長重の指揮によって放たれた火は剣ヶ峰砦を包み込み、逃げ出て来た兵は悉く長重を先頭にした上杉軍に討ち取られた。

 これで新潟港は開かれその日の内に景家と義守は羽前に向けて出立した。

 

 

 

 山形城では義守の代わりに城を預かる義光があれこれと指示を飛ばしていた。

 彼女にとって今の状況は安東家同様に独立する絶好の機会でもあった。現に安東から決起を呼び掛ける密使が来ていた。しかし、答えは否。

 山形城に入った時、上杉軍は民には一切手を出さず貧民には慈善活動を行い、かつて最上軍が広めた悪い噂を簡単に嘘だと行動で表明して民の心をあっという間に掴んだ。

 最上がいくら頑張っても出来なかった国人衆達の掌握も地道ながら徐々に行って行き、表面的には忠誠を誓わせて反乱が起きないような状態にしてしまい、義光は大層驚いた。

 また、領地は削られはしたが、あれこれと上杉は何かを押し付けるような事はせずに越後と同じ法令を領内に出すことを条件に自治を任された。

 義光は越後に義守の護衛として同行した定直と盛周に探りを入れるように密かに命じていたが、彼らから上がってくる報告は上杉家の善政を褒めるものばかりであり、悪い報告はほとんど無い。

 彼女を一番驚かせたのは上杉家が所有する豊富な鉱山の成果を独り占めせずに民に還元しているということだ。善良な領主でも欲には眩むもので一人占めにしたいという思いが出て来てもおかしくは無い。しかし、なかなか出来ない事を謙信は簡単にやっている。

 最上とて大名である以上は自分達が上に立ちたいと思っている。

 あの時の戦は色々とあったのでもしかしたらと思った事もあったが、それはもう過去の事。乱世は先を見なければならない。

 評判を聞いて来た義光は上杉家を信じることにした。第一に謙信は自分達を信じてくれた。誰が裏切るま分からないこの時世でしっかりと当主の義守を含めて。

 

『いざとなった時はそなたの判断で軍を動かすことを許すぞ。もちろんちゃんとした理由があってこそだがな』

 

 つまりはちゃんとした理由が無いなら罪に問うということである。甘いが、義光は決して信じた人の信頼に漬け込んでよろしくないことを企むような人ではない。

 軍を動かす真っ当な理由が今はある。最上の為には非道な策も辞さない義光だが、生来根は善である。

 謙信の信頼に応えようと義光は立ち上がる。行き先は安東家領内。問題は兵力が心許ないことだが、反乱を野晒しにして置くわけにはいかない。

 評定の間にて義光は立ち上がって安東からの密使を怪我をしない程度に蹴り飛ばした。だが、使者は部屋の襖をミシリと抉る程の勢いで飛んで行った。義光は気にしない。密使が立ち上がる前に近付くとぐっと顎を持ち上げて睨み付ける。

 

「帰って愛季に伝えるのじゃ。精々良い辞世の句を作っておくようにとな」

 

 そう言うと延沢満延に密使を文字通りつまみ出させて鮭延秀綱に明日出陣すると命じた。

 

 

 

「むぅ、なかなかやる。何か良い策は無いのか?」

 

 少し苛ついた義光の口調だが、誰も反応しない。義光らは愛季が北秋田郡に進軍したという情報を掴み、その隙を突こうとしたが、愛季は使者が帰る前からこうなることを予測していたようで顕村に北秋田郡の攻略を任せて自らは上杉家が雄勝郡にある院内銀山確保の為に直轄地にした為に所領の一部を奪われた事に不満を持った小野寺景道と共に義光の侵攻を防ぐ為に由利郡で迎え撃った。

 情勢は一進一退。景道と対立していた国人衆の土佐林禅棟が援軍に来たとはいえ決定的な兵力を持っていない以上は策で対抗するしかない。

 頼みの義守は新潟港で新発田の足止めを喰らっているという報告が入っている。

 謙信達と違って時間は少しだけあるが、なるべく早く鎮めて最上の力を見せ付けたいという思いもある。

 

「いっそこちらから動いてはいかかです? 夜襲をしてみては?」

「それは駄目じゃ。相手は安東、手は打っている筈じゃ」

「しかし、このままでは味方の士気にも影響します」

 

 知っているというように義光は頷く。しかし、決定打が無い。満延や重臣の一人である楯岡満茂もそこから更に黙り込む。

 誰もがこの状況に業を煮やしていることは義光も知っている。何故なら自分もそうであるからだ。

 彼女達も今決戦を行えばかなりの被害が出ることは分かっている。

 歯痒いが援軍を待つしか無い。義光は各自に逆に夜襲に警戒するように命じた。

 

 

 

 

 

 景家達が由利郡の義光の陣に到着したのは一週間後であった。相変わらずの膠着状態だった義光軍は援軍の到来と共に義守達が帰って来たことに歓喜した。

 

「義守ー! 会いたかったのじゃー!」

「わわわ! 義光!?」

 

 とりわけ義光は姉との再会に狂喜乱舞して義守を見るなり、まさに電光石火の速さで飛んで行った。

 久々の再会とはいえ義光ははしゃぎすぎなだが、義光からすれば何十年も居ないような気持ちであったので仕方がない。

 上杉家に降伏した時は義守が春日山に行くと行った時は義光は自分も行くと言った。

 しかし、最上一族のどちらかが山形に残っていないと駄目なので義守が我慢するように懇々と説教をして終いには義守渾身の雷を落とした事でどうにか首を縦に振ったが、義守はその間ずっと鬱憤をかなり溜めていた。

 故に、公衆の面前であっても愛情故のべたべたである。

 

「あー! もう離して!」

 

 猫のようにまとわりついてくる義光をぐいっと引き離すと義守は顔を赤らめながら満延達に状況を聞く。

 呆れながら満延は名残おしそうな顔をしている義光を横目に相変わらずの一進一退で動いては退くをお互いに繰り返している。

 また財源である院内銀山はどうにか間に合ったが、阿仁鉱山を奪われたという情報も入っている。

 

「まずいな・・・・・」

 

 景家の呟きは陣の雰囲気を重くした。このまま手をこまねいていては安東軍の主力がこちらに攻めてくることになる。その前に決着を付けることが勝利する道である。

 兵力は上杉・最上軍が今のところはかなり上だが援軍が来れば安東軍との差は少しになる。決定的な勝利を得る為、今のうちに攻めることで決定した。

 だが、攻めるにしても安東軍が守っている場所が悪かった。

 岩谷という場所がある。

 そこは国人の岩屋氏の本拠だが独立心が高く、愛季が上杉家からの独立を宣言すると当主の岩屋朝盛も独立を宣言して安東と同盟を結んだ。

 岩谷は丘陵地に位置する山城で東西南北が急な丘になっている為に守りに易い城である。

 南北は特に攻めることが不可能な程に急激な角度の為に東西に攻撃の場所が集中する。

 そのために東西には搦め手などが備えられている為、あまり東北の中でも目立たないがかなりの要害である。

 援軍が来る前に落とそうと義光もそこへの攻撃を指示したが、落ちる気配がない。

 

「なかなか嫌な所に城を建てたものだ」

 

 満延は城を見ながら攻め込んでいる城を恨めしく見つめる。ずっと立ち往生している彼女達からすればかなりの時間が掛かっているように感じていた。

 おかげで苛々が溜まった義光は暇つぶしだと岩を満延に投げ付けて遊んでいる始末で、彼女自身もいい加減その岩を受け止めることも飽きた。

 

「なんとかならないのか、この状況は」

「私に聞かれましても・・・・・・私も色々と考えているのです」

 

 この状況を打破する為に彼女は定直と話し合っているが、全く得策が浮かんで来ず、唸り声が上がる。

 

「しかし、何故に安東は私達が来るまでに義光様と決戦を望まなかったのでしょう?」

「そういえばそうだな?」

 

 普通ならば今の上杉・最上軍同様に援軍が来る前に決着まではいかなくてもせめて一回ぐらいは大きな攻めるようなことをしてもいいのだが、全く気配が無い。

 

「いずれにしろ。向こうにも何かあるとみていいかな?」

「ええ、この動きはかなり周到に準備されていたようですから」

 

 確かにこれ程動きが綿密だと最上の面々も気になる。

 義守達にも許可を得て二人はすぐに斥候の増員を周辺に動かした。

 さらに三日経った朝に情報がもたらされた。

 伊達に不穏な動きがあり、戦支度をしてどこかへ向かおうとしている模様という上杉・最上を驚愕させる報告だった。

 

「輝宗・・・・・・懲りもせずにまだ妾達を狙うつもりか」

 

 怒気を孕んだ義光の言葉は先の最上軍と上杉軍の戦の際の伊達の乱入はかなり根深く恨みを持たれている事を示している。

 実際、あの時の戦で最上軍が一番の被害を受けた。原因は上杉軍にもあるが宣戦布告も無く奇襲攻撃をした伊達をいくら乱世を生きる為とはいえ許せる筈がない。

 

「どう思いますか? 景家さん、秀綱さん?」

「無論討つべきでしょう!?」

 

 二人は義守と盛周の切迫した空気に苦笑いを浮かべるだけだ。

 この怒りに支配された空気の中で上泉秀綱と柿崎景家の上杉家から派遣された将はあまりそれには同調出来ないように満延には見えた。

 あの時、上杉と伊達は双方武で語り合った。理解し合った。汚いという恨みはあるが、最上と比べたら天と地の差である。

 

「輝宗殿が何を考えているかは分かりかねますが、とりあえずは御息女の政宗殿に敵意は無いと思います」

「しかし、それは娘であろう。当主は輝宗。何をするか分からんぞ、以前のようにじゃ」

 

 最上軍の一同は義光の言葉に賛同だと大きく頷いている。

 景家も負けじと何か言いたかったが、何分口よりも手を動かすのが好きな彼女は何も言えず、秀綱に任せるしかなかった。

 秀綱も自身が主導になることは景家のおどおどしている様子から分かっているので涼しい表情は崩さないが、内心、必死に説得しようとしているのが景家には分かった。

 

「いえ、龍兵衛殿が仰っていました。あの時の策は政宗殿本人が立てたものに間違いない、と」

 

 最上の面々は全員が目を見開いて隣同士とざわめく。

 この事は最上軍が上杉家に降る前に龍兵衛が上杉の面々に言っていた為に最上側は知る由もなかった。それが逆に一部の人間の逆鱗に触れた。

 

「それではもし政宗が来たら我らの手で討ち取るべきではないですか!?」

 

 盛周が音を立てて立ち上がり秀綱に詰め寄った。満延達も怒りで顔を赤くしている。

 一方の秀綱は便乗することはせず、静かに手で彼を制する。

 その様子を景家は秀綱が追い込まれたのではないかと何も出来ずにはらはらしながら見ていた。

 

「私も本来ならばこのようなことは言わずに一旦撤退して体制を立て直すことを提案します。しかし、伊達は動かないでしょう」

「何故!?」

 

 盛周はさらに詰め寄るが、秀綱は彼の怒りを鎮めるように静かに言った。

 

「武人の勘です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 定満は龍兵衛から全てを聞いた。惟信との間に起きた悲劇と彼がひた隠し続けていた罪ある過去の真実を。

 もちろん龍兵衛も定満の巧みな話術に堕とされ、外堀が埋められたからとはいえ心の理性はしっかりと保ちながら定満にも分かるように説明した。

 心が過去のことについて口を滑らせて絶望で支配されかけたが、皮肉にも定満の励ましのおかげでどうにか持ち直した。

 淡々と過去を話していく龍兵衛。その内容を聞いている内に定満は龍兵衛が言っていた『政景殿と惟信の父が似ている』ということに合点がいった。

 政景も惟信の父も実直で心に熱いものがあると龍兵衛は言った。

 その点がまったく一致していることがどうしても躊躇いを覚えてしまうということも彼は素直に自白した。

 

「そして、自分は惟信の父を社会的に抹殺しました」

 

 この言葉を聞いた時、定満は龍兵衛を叱り飛ばしたくなった。

 

「(そんなことを・・・・・・!?)」

 

 口から出せば何度も要約すれば同じことを言ってしまいそうになる。

 哀れな者達だと本心からそう思った。

 

「惟信さんにばれたの?」

「ええ、そうでなければ今頃自分は惟信と一緒にいました」

 

 悲恋を経験したことが龍兵衛と惟信にどのような絶望を味あわせたのか。もはや聞くまでもなかった。

 そして、龍兵衛は恋人の父を惟信が言ったように『殺した』のだ。

 再び龍兵衛は恋人の父を殺そうとしている。それが彼の心をふわふわとどこかに離れさせている原因だった。

 聞けばあの時に龍兵衛は心を鬼にして父よりも愛を取り、泣き崩れた惟信に対して別れたくない気持ちを抑えて彼女を振り切り、一切の関係を絶ったらしい。

 あの時の彼女の涙で潰れた綺麗な顔を龍兵衛は忘れたくても忘れられないと言って締めくくった。

 定満は彼が最初に惟信の父を殺したと言った時はかなりの憤りを覚えた。

 それと同時にあの時、惟信はどうしてそのような冷酷な男とよりを戻そうとしているのか疑問を抱いたが、冷静に考えれば恋とは理論では答えられないものだと思い出した為、その疑問はすぐに頭から捨てた。

 もう一つ疑問が出来た疑問の方が定満にとっては大事だった。

 

「まさか・・・‥・景勝様の事、繋ぎだと思ってる?」

「そんなことありません!」

 

 咎めるような定満の睨みに龍兵衛は首を大きく横に振って否定する。

 ちゃんと景勝とは将来を誓い合って惟信とは踏ん切りを付けた。

 素直に言った龍兵衛がかなり顔を赤くしているのは恥ずかしいからだというのは黙っておく。

 定満はまだ政景のことに龍兵衛が躊躇いを覚えるのは惟信とのことにちゃんとした踏ん切りを付けていないからだと分かっている。

 根底にある因縁はもはや解決出来ないことだと龍兵衛は言っているので諦めるしかない。

 惟信の父がかなりひどいことをしたのは分かっているが、我慢出来なかった龍兵衛も悪い。

 もちろん彼もあの時は今よりも血気が盛んだったと反省しているが、反省してもいつまでも引きずっているのは良くない。

 ましてや龍兵衛の場合はかなりの重傷である。もう何年も前の話なのにまだ吹っ切れないのは間違いなく問題である。

 

「・・・・・・まだ何か?」

「ううん。もう・・・・・・いいの、お休み」

 

 立ち上がった彼は少し以前よりも心持ちが楽になったのか足取りは少し軽くなっている。

 

「やっぱり、ちょっと待って・・・・・・」

 

 はっと思ったことを聞きたいと龍兵衛を呼び止める。龍兵衛の表情は先程のぼんやりしたものから少し引き締まっている。安堵しつつも彼女は聞きたいことを問う。

 

「龍兵衛君は、どこから来たの?」

「美濃からですよ・・・・・・・・」

 

 何を分かりきったことをというようにふっと笑いながら龍兵衛は言ったが、定満は誤魔化されない。虚勢を張っているのは見え見えである。定満も勘付いていた。

 彼が言いたくないのは分かっているが、彼女の好奇心が聞きたくて聞きたくてうずうずしていたのだ。

 

「景勝様に私や弥太郎と寝たことばらしてもいいの?」

「あの時は薬で・・・・・・!」

「変わりないの」

 

 定満は龍兵衛の唇を指で抑えて有無を言わせない姿勢を取る。しかし、龍兵衛は指を払って定満を睨む。

 

「卑怯です!」

「軍師だから、しょうがないの」

 

 時には手段選ばない。それは軍師の心得でもある。

 羞恥心を晒すことは避けたい。出生の秘密も避けたい。しかし、相手は定満。

 以前のことは言わなくて自身の出生については今後も追及しているだろう。

 確信が無いことは追及して来ない定満である以上、何を言っても言い返して来るのは必至。

 先程、定満は軍師故に、卑怯な手段も辞さないと言った。龍兵衛も軍師である。

 

「御免!」

「ひゃ!?」

 

 突き飛ばして逃げる。先程の脅しは所詮は脅し。言いふらすようなことを定満がしないと分かっているからこそ取れる先達に対する暴力。

 目を瞑ってくれるだろうが、明日が怖い。しかし、秘密を知られる方が龍兵衛はもっと怖い。

 定満は景勝に言って仲を崩そうなどと鬼畜なことはしない。彼女なりに自身を救おうとしようとしていることは分かっている。

 だが、逃げるしかない。心を縛るような形になろうとも。

 

「(何故だ。心が全く重くない・・・・・・)」

 

 一方の定満は突然突き飛ばされたことに怒りながらも少しやり過ぎたかと自身で反省していた。

 人は一人ではない。誰かが支えることでその人は幸せになれる。

 今回の場合は彼が抱え込んでいたものを少し共有することで龍兵衛は楽にさせようと思った。

 龍兵衛は頑なにそれを避けた。確かに人である以上、仲間にも知られたくない秘密というのは一つや二つはある。

 だが、見る限り彼の心が危ういことに変わりない。

 やはり、自ら壊れることを避けて自らが手を打つべきだろうか。

 それとも、彼の彼が見えない以上、やはり自らを築かせる為に動くべきか。

 否、既に答えは出来た。先程、突き飛ばされた時の龍兵衛の表情は一切の曇り無く、感情は全く籠もっていなかった。

 選択肢は二つ。簡単に道を決められるものではない 龍兵衛と景勝の為にも年上である自身がどうするべきか導くのが仕事だが取るべきところの選択肢はゆるゆると決めないといけない。

 全て終わった後に景勝が彼をどう見るかは分からないが、もちろん自身も二人が末永く幸せになれることを願っている。その為にも年上の自分が一肌脱ぐ必要がありそうだと定満は思った。

 その結末が残酷なものになろうとも構わないと。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十一話改 変わったっていいんじゃない

 景家は震えを収めることは出来なかった。上杉軍大将の重責を担われている筈の自分が戦では常に先鋒を任され、功を立ててきた。

 好敵手の長重に負けることがほとんどだったが、それでも悔しさから戦で震えるような事はなかった。

 答えは斥候からの報告だった。その報告は予想だにしていなかった。

 

「寒河江と大宝寺に寝返る気配が!」

 

 岩谷に援軍が到着して一週間した。景家だけではなく全員が驚きと後悔を合わせた表情をしている。

 東北の国人衆には恩を着せておけば平気だろうと軍師達は高をくくっていたが、間違いだった。彼らに恩を感じる心などなかった。

 陣の雰囲気は冬の寒さよりも冷え込み、誰も話そうとはしない。

 現実になれば陸路からの退路を絶たれる事となり、落ち延びるには海路で新潟港に戻る必要がある。

 

「自分はここで生まれ育った。死ぬならここで死にます!」

 

 案の定、羽前を故郷とする最上の面々は反対した。

 義守や定直達、穏健な将は再起を図るべきだと言っても聞かない。

 彼らからすれば上杉家のように降った後も義守や義光を生かすようなことをする勢力などいる筈がないという思いと国人衆達は仮に最上が逃げ出した後、必ず山形の民に略奪をするに違いないという思いがある。

 最後の最後までかれらを守りたいという思いが特に民を思う気持ちが誰よりも強い盛周には死に対する恐怖よりも強い。

 気持ちは分かるが、景家ら上杉家からとしてはなんとしても全員が生きて戻るようにと謙信からの絶対命令がある為、この状況から最上を救わなければならない。

 しかし、説得する口と頭を景家が持っていないのも現実である。その代わりに秀綱が何か言おうとした時、予想外のところから声が上がった。

 

「盛周、なんとしても生き延びて下さい!」

 

 全員の目が見開かれて最上部にいる人に向かう。そこにいた義守は小さな身体にあるとは思えない程の勢いで机を思い切り叩いた。

 

「確かに民を守る気持ちも分かりますけどそれで死んでは後に何もありません!」

「しかし・・・・・・!」

「最後まで聞いて下さい!」

 

 民を守ることが生き甲斐である盛周は否と言い返そうとしたが、義守はそれ以上の行く声を出して上から押さえつける。

 今までにない程の義守の迫力に誰もが驚愕故に沈黙する。彼女は生来全くそのようなところを見せることは無く、家臣や民に屈託の無い笑顔を振り撒いて来た。故に、身分を問わずに慕われた。

 だが、今の義守にその爛漫な姿はどこにも無く、当主の意志を最後まで押し通そうという大きな力が景家には見えた。

 

「なんとしても生き延びて皆と山形を守るのです! これは命令です。背くことは許しません!」

「・・・・・・」

「わかりましたか!?」

「はっ・・・・・・」

 

 納得がいかないながらも主君の心意気に押された盛周は義守を驚愕の目で見る。

 義守は敢えてそれを無視をして満延に岩谷に総攻撃をするように命じた。

 

「はぁ~~~疲れました~」

 

 ほとんどの将が出て行ったのを見てへたりと座り込むといつもの義守に戻った。

 

「お疲れ様、義守」

 

 景家は義守の肩を叩いて説得の労をねぎらう。ついでに肩を揉んでやろうと思ったが、義光が嫉妬の視線で睨んでいるのを見て止める。

 景家の代わりに口を動かして誰が何を言っても動きそうになかった盛周の腰を浮かせることに成功したのだからこれぐらいはしておかないといけない。

 

「本当に変わられましたね。私は嬉しいですよ、義守様」

 

 一緒に残っていた定直もにこやかになっている。

 最上家の最年長として長く義守に仕えた身である彼には義守の成長に子供か孫が大きくなったような喜びを感じている。

 

「えへへ、謙信様を見ていたらなんだか私ももっと頑張んないとって思ったんです」

 

 無邪気に笑う義守は一人頭の中で謙信に感謝の弁を述べていた。

 人質としていた春日山で謙信が威風堂々と指揮を執っている姿を見て憧れに近い思いを抱いた。

 決して嫉妬などはしない。既に自分の方が負けたのだから負けは認めざるを得ない。

 それでも最上家当主として自分もあのようになりたいと思うのは仕方がないことである。

 謙信は日に日に大きくなっていると義守は見ている限りでは感じていた。それが何故なのかと思った。意を決して謙信に直接聞いた。

 

「普段から私は家臣から色々と意見を聞いているが、その中には家臣からは見えて私には見えないところがある。それを否定するのは簡単だが、視野を広げて肯定するのは難しい。私は家臣に恵まれただけだ。私に見えない意見をよく持ってくる。もちろんそなたの家臣を悪くは言っていない。良い家臣を持っていると思っているぞ。私はかれらの言葉を宝と思っている。それを自分に取り入れることが大事なのだよ」

 

 この言葉を聞いて義守も自分に足りない何かを補うだけでなく、足りないところを克服しないといけないと思ったのだ。

 弱点を補うと言えば格好良いかもしれないが、逃げているのと同じである。逃げていては何も解決しないと悟ったのだ。

 義守の足りないところは押しの弱さであることは彼女自身よく分かっていた。

 不安はあった。自分は謙信程強い精神力はないので途中で折れてしまうかもしれない。

 

「私に出来るでしょうか?」

「やれるかどうかはやってみないと分からない。前もって決め付けてやらないのが悪いんだ」

 

 不安が残っている義守を謙信はそれを振り払うように睨んで厳しい激励で背中を押す。義守は強い目に心を動かされた。

 

「なるほど・・・・・・分かりました! やってみます!」

「ふふっ、期待しているぞ・・・・・・もがみん?」

「さ、最後に何ですか~!」

 

 強い目はどこかへと吹き飛び、悪戯っぽい笑顔を最後に見せられてからかわれてわたわたしたのは脇に置いておいて頑張って義守も弱気にならずにやろうと思ったのだ。

 盛周と上杉側の意見が分かれた今、それを実行する時が来たと思った。

 結果は上手く行った。自分にも出来ると感じた。謙信のおかげであるがやれると確信した。

 

「さ、私達も行きましょう!」

 

 残っていた三人も勢いよく腰を上げて再び戦場に立とうと歩み始める。

 謙信には感謝の印としてこの戦の勝利を捧げよう。

 胸に誓い、東北の火種を絶やさん。

 

 

 

 

 義守は自ら前線に出た。それを見て士気が盛り上がった将兵達の攻勢は苛烈を極め、東側の三の丸を突破することに成功した。

 一刻後に再び総攻撃を命じようとした時だった。

 

「報告! 敵増援が接近中!」

「来ましたか・・・・・・」

「義守様、ここは一度撤退して、体制を立て直してから援軍を叩いては?」

「何を言うか! 今少しで城が落ちるというのにここは攻めるべきだ!」

 

 定直と景家は真っ向から対立意見を述べる。速攻と慎重。どちらも道理に適っている。この状況では決めがたい決断。しかし、間に挟まれようと義守に迷いはない。

 

「定直には悪いですけどこの好機を逃すわけにはいきません! 全軍に攻撃命令を!」

 

 はっきりと言い切ったことに定直は自身の案を取り下げられた不満よりも義守が本当に大きくなったことへの喜びが勝った。

 若い者の決断力の強さが伸びるだけで喜びを感じる。年を取るとこうも変わるのだろうか。

 若者が成長していくことが唯一の楽しみになっていくかもしれない。老骨がすることは彼らを見守ることと表舞台への幕を開けてやること。

 

「では、私は援軍の抑えと退却路の確保に向かいます」

「はい、頼みましたよ」

 

 不安な顔は無く、任せて欲しいという顔がそこにはあった。

 

 

 

 

 

 

 

「とはいえ、なかなか落ちませんね・・・・・・」

「仕方無いさ。かなり堅牢な城だよ、これは」

 

 二の丸に攻撃を仕掛けたが、なかなか突破出来ないので一旦兵を退かせて義守達は将達で集まり話し合いをしている。

 敵の援軍が来るまで後僅か。もう一度攻めるにしても兵を被害を増してばかりでは安東との戦いに支障が出る。

 

「火を・・・・・・使いましょう」

「義守・・・・・・良いのか?」

「ここまで来たら退けませんからね」

 

 妹の不安げな言葉にも大丈夫だと首を振って義守は満延と満茂に火攻めの準備をさせて秀綱には敵の注意を引くために城攻めの再開。盛周と景家に逃げ出した兵を討ち取るように命じた。

 

「妾はどうするのじゃ?」

「定直と合流して援軍が来たら迎え撃って」

 

 それでは義守を守る将が居なくなる。それは出来ないと満茂や盛周が自分は残ると言ったが、義守は聞かない。

 

「皆さんを信じていますから、勝ちますよ。この戦」

「義守様・・・・・・」

 

 満延達は義守からは出てくることは絶対に無いだろうと思っていた覇気が出ている気がした。

 ここの中心を纏め上げ、戦の幕を降ろそうという思いが嫌でも伝わってくる。

 

「義守ー! 大人になったのー! 妾は嬉しいのじゃー!」

「義光!? ちょっ・・・・・・離して!」

「はぁ、こうして見ると義光様の方が子供に見えてくるな・・・・・・」

 

 満延は皆が頷いているのを確認して義守にへばりついている義光を怪力で引っ剥がしてつまみ上げながら馬に連れて行った。

 四半刻後、東側の二の丸に火の手が上がった。

 陽動を続けていた秀綱率いる部隊が本格的な城攻めに移り、満延と満茂の二人の隊が合流した為、二の丸は阿鼻叫喚の地獄絵図となった。

 果敢に立ち向かった兵は秀綱達猛将の餌食となり、西から逃亡を図った兵は景家と盛周の隊によって空しくも戦場の土になって行った。

 その後景家達も合流して本丸への総攻撃を開始した頃、敵の援軍が来たことを伝える狼煙が上がった。しかし、義守達は慌てない。

 義光と定直が上手くやってくれる筈だと信じている為、敵の援軍に構わずに義守は攻撃を続ける。

 城を取れば二の丸は防御が落ちているが、堅牢な岩谷に籠もれる。そして、越後からの援軍を待って安東を討ち取る。

 そのまま勝ってもいいと義守は考えていた。謙信の恩に報いる為にも自らの力で勝利をもぎ取る。援軍は景家達で十分だというところを見せてやりたい。

 

「これからです! 怯んではなりません!」

 

 戦場にまだあどけなさが残る叫び声がこだまする。しかし、それに和むような人など誰も居ない。最上・上杉問わずに義守が決めた覚悟を果たすために戦う。

 本陣に急ぎ駆ける馬の蹄の音が聞こえて来た。

 

「申し上げます! 大宝寺と寒河江が山形城へ進軍しています!」

 

 淡い期待などやはり木っ端微塵になってしまうものなのだろうか。

 義守は驚きの顔を隠すことが出来ず、困惑し始める。

 味方は岩谷城の本丸を攻めている。これを退かせても大丈夫だが、問題は浪岡の援軍に当たっている義光と定直の隊だ。

 撤退を命じればかれらは背後を突かれる。兵は五分五分、背中を見せている以上、最上軍の被害は必ず大きなものになるだろう。時間が無い。

 大宝寺はともかく寒河江は山形城とかなり近い所に領地を持っている。ここまで報告が来ることを計算に入れると既に山形城は攻め込まれている可能性もある。

 もちろん守備隊も残してはいるが、兵数など高が知れている程度だ。東北で最も堅牢な城の一つとはいえ兵が足りないと意味がない。 

 退くべきか、進むべきか。

 山形の城下には義守達が大切にしてきた民がいる。かれらを見殺しには出来ない。簡単に退けば義光達の兵が危険に晒される。兵が危険晒されるのはいつものこと。だが、民に危険を覚えてもらうわけにはいかない。

 決断した。迷いは捨てるものである。

 

「撤退します! 城攻めは中止して下さい!」

 

 援軍を足止めしている部隊にも同様のことを告げるように伝令を走らせる。義守が出来ることは味方を信じて待つだけだ。

 しかし、義守は忘れていた。援軍に当たっている将は義光であること。彼女の武勇は最上の中でも一、二を争うものであることを。

 

「はぁ!」

 

 義光が一度得物を振るうと数人が吹き飛んだ。また一つまた一つと命が減っていく。兵の指揮を定直に任せて殿を務めている彼女は義守の成長を心から誰よりも嬉しく思った。

 戦では義光が頼りになっていた最上家だが、義守も戦で物怖じしない強い心を持ち、以前の盛周とのやり取りのように家臣の言葉に振り回されることがなくなった。

 完全な成長はこれからでも未成熟な成長をしている。義光は義守の為に武勇を奮っていた。

 これからはそれ以上に最上家の為にも、天下を安寧させる為、上杉家の為にも武勇を奮うことになるだろうと感じた。

 民を思う心は義守と同じ、最上家が天下を取ることは不可能でも山形の民を守ることは出来る。そして、これからもずっとそうでありたい。

 思いを込めながら得物を振り回していると安東の援軍は義光の武に恐れて逆に後退りを始めた。

 それを見た義光は今一度強い攻撃を仕掛けて撤退しようとした時、安東の方から一人の将がやって来た。

 見覚えは無いが、見た限りではかなりの位の将だと分かる。義光は名を問うだが、敵将は無視して義光に攻めかかって来た。

 義光は敵将の槍による突きを簡単に交わして馬上とは思えない身体捌きで敵将の腹の得物を入れたが、敵将もそうは簡単にやられる筈がなく、それをどうにか受け止めた。

 

「やるのうお主、やはりそうでなくてはつまらない」

 

 軽い言葉を掛けても敵将は声を上げて攻めかかってくるだけ。つまらないと思いながら義光は敵将を討ち取りにかかる。

 先程の義光の言葉を挑発と受け取ったのか顔を怒りで赤くした敵将の槍が心の臓を目掛けてやってくる。

 しかし、義光は簡単に得物で受け止めて槍を巻き込んで強引に振り上げた。今度は隙が出来た敵将に義光の得物が空気を切り裂く音を立てながら向かってくる。敵将もすぐに構え直したが、義光の怪力が槍をへし折った。

 ぐしゃりという鈍い音がしたと思うと義光の目の前には人間としての顔では無くなった敵将が倒れていた。

 

「な、浪岡様がやられたー!」

「逃げろー!」

 

 ここでようやく義光は敵将が浪岡顕村だと分かった。もはや顔が潰れてしまい判別がつかないが、兵の慌てぶりを見て本物だと確信した。

 安東家家臣の筆頭であると聞いたことがあるが、所詮本気を出す程では無かった。

 

「大したことなかったのう」

 

 不遜な態度で屍を見下ろすと義光は首を取ることなく撤退していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「義守ー! 大丈夫か!? 怪我は無いか?」

 

 帰って来るなり義守愛が爆発した義光に当の本人は苦笑いを浮かべながら頭をぽんぽんと叩いて妹と苦労を労る。

 岩谷城の愛季は顕村が討たれたことを知ると素早く撤退を始めた。そこに景家が追撃を掛けた為、被害を出しながらも安東は撤退して再度攻撃を開始することは無かった。

 外の脅威が無くなり、元の陣まで退却した義守達は内側の脅威を排除すべく陸路を使って撤退することにした。

 報告だと伏兵を置いている訳では無さそうでどうも山形城を取ることに頭が行っているようだ。

 

「おそらく安東がどうにか止めてくれると思っているのでしょう」

「だとしたら逆に先ずは大宝寺の本拠を襲っては?」

「なるほど相手は連合、そこを突くのですね? 分かりました。それでいきましょう」

 

 大宝寺にはまだ安東の敗走は知られていない。安東と戦っている筈の最上が大宝寺に攻め込めばかれらは安東が負けたと思わせることも出来る。

 定直・秀綱・義守の順に作戦は固まって行く。

 もちろん盛周と満延を山形城に先に進めておいてさらに連合に揺さぶりをかけることも忘れない。

 全員の気持ちが少しずつ楽になっていた。上杉家の援軍があったおかげでもあるが、多大な収穫があった。残るは仕上げだけ。

 寒い冬の夕暮れが風を呼んで将兵に眠気を呼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 最上軍はすぐに撤退を始めた。

 途中で満延と満茂が山形城救援の為にかれらと別れつつ迅速な行動で大宝寺の居城、藤ヶ岡城に向かっている。

 このまま順調に行けば二日後には到着出来る。東北の厳しい冬は雪を降らせている事が例年の事だが、今年は雪があまり降ることが無いまま民が凍死する被害も無く、政策にも滞りがなかった。

 だが、その平穏な暮らしの中でそれを破る大宝寺と寒河江という愚か者がいた。

 とりわけ大宝寺義氏は今回こちらに味方した土佐林禅棟の讒言を上杉・最上問わずに行ってきたが、明らかに潔白であるのと土佐林は代々羽黒山別頭を務めてきた家系で無碍にすれば羽黒山信徒を敵にすることになるという政治的観点から二家は取り上げようとしなかった。

 義氏は前々から積極的な外交を続け、その戦の為に必要な兵糧を確保する為に税を上げていた。

 禅棟はそれを諫言し続けていたが、義氏はそれを煩く思っていた。どんなに禅棟を悪く言っても聞いてくれないので不満が溜まっていたのだ。

 何とも自分勝手で馬鹿馬鹿しい理由だ。禅棟からもそのことは聞いていたので民を重んじる義守達には大宝寺との戦は民を救う為の戦でもあった。

 藤ヶ岡に近付くにつれて思ったよりも早く戦を終わらせることが出来ると義守は思っていた。

 後は山形の民の心をしっかりと癒やして詫びる。とにかく早く山形城に向かいたい気持ちを抑えながら義守は馬を走らせる。

 そうしていると報告を伝える早馬が来た。方向からして山形城からである。もう大宝寺がこちらの動きを察したか。そう思った時。

 

「申し上げます! 伊達軍、突如国境を突破!」

 

 斜め上に行って欲しくない報告がやって来た。その報告を聞いた瞬間、義光達が景家と秀綱を睨み付ける。

 

「(お主達、伊達は侵攻しないと言った筈なのにこれはどういうことじゃ!?)」

 

 烈火の如く怒った義光の赤い表情に景家は小さくなり、秀綱もその報告に驚愕している。

 同じく顔を真っ赤にした盛周が何か言いたそうに二人に詰め寄るのを定直が身体を押して必死に止めている。

 それでも義守は落ち着きを保って彼を宥めることでこの場は収束した。

 戦はこれからだというのに義守は一仕事終えたように小さく疲れたような溜め息を吐くと藤ヶ岡城を諦めて山形城に向かうと声高に命じた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十ニ話改 どうしてうんと言ってくれないの

 義守達が安東を蹴散らしていた頃、新発田方面を任されていた長重は長い攻防戦に貧乏揺すりを止めることが出来なかった。

 加茂城の要である剣ヶ峰砦を落としたまでは良かったが、その時用いた火が延焼してしまい、加茂城と同じ丘にあった耕泰寺まで焼けてしまったのだ。

 住職との再建の交渉やそこの寺を信仰している民達に謝罪を述べに行ったりと戦の間もあちこちに奔走したせいでなかなか加茂城に集中出来ずにいた。

 加茂城はなかなか堅牢で東西南北の尾根づたいに曲輪を配しているが、長重が攻め込もうとしている西の曲輪は複数の堀で遮断されている。さらに細道で大軍での行動は難しい。

 剣ヶ峰砦を落としたとはいえ長重はその曲輪に悩まされていた。

 新発田城の状勢が芳しくない以上、どこかで動かないと長重の軍の士気が落ちる一方だと決行した加茂城攻めだが、ここでもまた時間が掛かるようなことがあればさらに士気が落ちる。

 この状況に業を煮やした長重は夜襲と朝駆けを繰り返し行ったが、堀を埋めて少し進軍出来ただけで肝心の主郭に攻め込むことが出来ないままいたずらに一日一日を無駄にしていった。

 そもそも長重と新発田城に陣を構えている安田能元の率いている軍の兵力は三つに別れた上杉軍の中で一番兵力が少なく五千の兵馬というものであった。

 謙信が魚津に居る以上は主君に兵力を多めに残しておくのは当たり前で山形も最上がいる為に景家達が連れて行った兵力に上乗せが来るのは普通であった。

 元から長重の隊は安田城の兵力と合わせるだけで多くの兵力があまり集わないのは予想済みであった。

 長重は既に中条など様々なところに援軍を頼んでいるが、兵達はそんな事情知るわけ無いので不満が出て来るのは仕方が無いことで長重の配下の将から兵達の苦情が毎日のように上げられるようになった。

 強襲すれば兵の被害が多くなる。だが、それ以外に方法を思い付けと言われると長重も軍師ではないので浮かぶものも決定打に欠ける。

 一つだけあるが、それはかなり卑怯な手である。

 やりたくない。しかし、向こうは都合で寝返った裏切り者。別に情けを掛ける事や相手から卑怯など言われる筋合いは無いのだ。それに時間を掛けて良いような戦では無いことは十分に理解していたので長重は大将としてこれしかないと判断した。

 

「おい、軒猿を呼んで来い」

 

 配下の将に指示を飛ばして長重は一人雪が被っている加茂城を見つめていた。

 そして、一週間後の夜。加茂城内で異変が起きた。

 

「う・・・・・・うおえぇぇ・・・・・・」

「は、腹があぁぁ」

「か、厠へ・・・・・・」

 

 城内の将兵達の呻き声がその日は一晩中収まる気配が無いまま兵はのたうち回り吐き気や腹痛を訴える者が相次ぎ、将達までがその兵の看護に当たる羽目になった時であった。

 

「報告! 敵軍が攻め込んできました!」

 

 加茂城は対応する間もなく、あっさりと落ちた。

 長重は毒を買わせた後すぐに軒猿に毒を加茂城の水樽に放り込ませた為、将兵達は抵抗出来ずに倒れて行った。

 彼も武人ではあるが、義がどこにあるのか理解している。正義は最後には裏切り者を征伐したこちらにあることは分かっていた。

 長重は降伏した兵は武器を捨てて帰郷させ、将は全員処刑して新発田城の包囲に戻って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱり、重家だな・・・・・・簡単には落としてくれねぇ」

 

 十日後、長重は舌打ちをしながら合流した能元と未だに落ちない新発田城を眺めていた。

 長重が加茂城を攻めている間、能元がしっかりと長重の代わりを務めていたおかげで長重は加茂城に集中できた。

 若いが兄の才能に勝るとも劣らないものを持っている彼はまだ精神的に幼いとはいえ実直で無欲な性格は謙信からの信頼も篤いものになるだろうと長重は思った。

 それに比べてどうしてこうなってしまったんだと長重が思ってしまうのは新発田城城主、新発田重家である。

 重家は元々は新発田家の分家である五十公野氏の当主であったが、兄の長敦が病死したのを受けて新発田家を継いだ。

 しかし、生前の長敦に対しての恩賞についてで謙信と不和が生じた。

 長敦と自分にくれるものだと思っていた恩賞が殆ど景勝の実家の上田長尾家に持って行かれたのである。それを重家は謙信の一族重視だと強く批判し、新発田一族に泥を塗られたと思った。

 しかし、上杉の勢いは日に日に強まるばかりで謀反などすればあっという間に鎮圧されてしまうことは必至。不満だけが胸に燃えない火種としてくすぶっていた。重家が謀反を決意したのは謙信が上洛中の時であった。

 重家の配下が夜中に春日山城に人質としていた安東愛季と浪岡顕村を捕らえたのである。

 重家が自ら事情を聞くと顕村が諦めたように謀反を考えていた為に主君の愛季を脱出させようとしたと俯き、台本に書かれたものをただ棒読みするかのように呟いた。

 最初こそ疑ったが、本気だと絶望に浸った顔をした二人を見て悟った。

 その時、重家は胸の内にあった火種が一気に燃え盛ろうとしているのを感じた。人払いをさせると愛季と顕村に向き直って言った。

 内心の興奮した気持ちを抑えて顔に笑いを浮かべるのを必死に堪えて二人を覚悟を決めた強い目で言った。

 

「某も協力したい・・・・・・」

 

 愛季と顕村を密かに逃がした重家は先ず謙信与党の家臣を処断して家の方針を謀反へと統一させた。

 安田顕元がそれをどこかで嗅ぎ付けたようで何度も重家を説得したが、彼はその意志を変えることはしなかった。

 そして、蘆名家の金上盛備にも使者を出して背後を固め、顕元が責任を取って切腹したのを聞き、安東家と共に決起した。

 思ったよりも謙信の指示で長重が素早い動きで新発田城に侵攻したが、重家も慌てない。

 時間が経てば上洛に付き添った兵は疲れを、農民兵は田植えに返さないといけない以上、春まで持ちこたえればその間に更なる地盤を固めることが出来る。

 重家は上杉軍の兵力を分散させる為に様々な支城を建てた。新潟城と沼垂城は既に落ちたが他にも五十公野城や赤谷城などがある。

 長重達が新発田城を一気に攻め込もうと出来ないのはその支城らが邪魔をしている為でもあった。

 しかし、重家はその城に徹底的な普請を行い、堅牢なものに仕上げた。

 新発田城を包囲しているとはいえ支城の存在を考えて遠巻きにしか囲めない。迅速に落とせといえるような城ではないし、守る重家も優れた将である。

 援軍が欲しいがそんな余裕はどこにもある訳ない。

 業を煮やした能元が決戦を望む声を上げ始めた。彼からすれば重家は兄の顕元を自害に追い込んだ張本人。何としても自らの手で斬ってやりたいという気持ちが強いのだろう。

 長重も裏切り者に制裁を自らの手で落としてやりたいが、新発田城に攻め込んだ時の兵の犠牲を考えると足が止まってしまう。

 重家は勇猛で知略にも長けている。兄の長敦の影に隠れていた為、あまり今までは目立っていなかったが、新発田を継いでからその才能を開花させた。

 長重も彼と一緒に戦った事もあるので彼の才能は高く評価していた。

 故に、動くに動けないのである。さらにここにきて雪の問題も出て来た。今年は今まで降らなかったが、ちらほらと降り始めたのである。

 雪はあまり積もらずに地面を緩ませる為に行軍が上手く運ばなくなってしまった。新発田城付近は元々湿地帯であり、行軍が遅くなるのだが、そこに加えてこの雪である。重家もすかさずこれを利用した。

 先ずは夜襲を決行。能元の隊に雪崩れ込んでぬかるんだ地面のせいで思うように動けない騎馬隊を叩いて能元へと迫った。

 城から出て来ないと油断していた能元は突然の夜襲に驚いたが、何を思ったか重家を討ち取る好機だと考え統率が取れていないまま出陣した。

 重家の隊に囲まれて危うく討ち取られるところを長重によって助けられたが、この夜襲で能元の隊はかなりの損害を被った。

 能元は重家を評価していた長重と違い、所詮重家は裏切り者だという概念を捨てることが出来ずに重家を見くびっていたのである。 

 長重に警戒を怠っていたこととその後の対応について叱責を受け素直に詫びたが、さらに能元は重家への憎悪を深めて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 能元の敗北で長重は軍の再編を強いられることになった。謙信の隊からの援軍では越中と謙信達が突破するまで待つことになる為、時間が掛かる。それでも援軍が欲しいところまで長重は苦境の地に立たされていた。

 長重がどう新発田を攻めるか頭を抱えること三日間。ようやく頼んでいた色部勝長・安田長秀・本庄繁長の援軍が到来した三人の将合わせて約三千で新発田を攻めるには足りない気がするが、ありがたいことに変わりない。

 早速、長重は軍議を開いて今後の対応を話し合った。

 先ず、新発田城を一気に攻めるのは下策だという見解は能元以外の全員が賛同した。

 

「重家など所詮は・・・・・・」

「能元、お前はいい加減にあいつが裏切り者だからという考えは捨てろ。重家を甘く見て痛い目にあったばかりだろうが」

「されど! ・・・・・・分かり申した」

 

 能元はまだ重家という人物に対する偏見を捨てることが出来ずに何か言おうとしたが、藤資達先達の将達に睨まれ何も言わなくなった。

 続けて長重が口を開く。先ずは援軍の将達が新発田城の支城を一つ一つ潰していくことを提案し、全員が一致した。

 将達が立ち上がる中で長重が不満げな能元に近付く。彼の顔は怒りで赤くなっていた。

 能元は内心憤っていた。誰も自分が兄を失ったつらい気持ちを分かってくれない。

 新発田城の中に居る重家が今生きている事を思うだけでどうしても腰を浮かしてしまいたくなる。

 しかし、能元も兄がいなくなった今は毛利安田家の当主。慎むところは慎まなければならない。

 動かない能元を見て長重は溜め息を吐かないように努めて近付く、聞かれれば能元に溜め息を何故吐くのかと詰め寄られそうである。

 少し知恵を足せばもっと良い将になるが、能元は如何せん固定された観念に縛られやすい。もっと客観的な視点を得れば重家のことも侮らずに太刀打ち出来るが、惜しい。

 長重は能元の肩をぽんと叩いて励ますような口調で言った。

 

「お前も少しは将として何が大切か考えな」

 

 能元は少しばかり驚いて長重の後ろ姿を眺めていたが、すぐに新発田城を怒りの目で睨み付けた。

 今は誰かが別の方向を向いている方が負ける。分かっていても重家への憎悪を隠せない。

 しかし、能元も一人の将として公私混同は避けなければならない。今は我慢だ。

 能元も立ち上がり長重の背中を追い掛けた。

 

 結局、加茂城で戦った長重が新発田城に残り、他の将達は手始めに重家が反乱の中で親憲がいない隙に攻略した水原城を奪還することになった。

 ここで四人の将は楊北衆の筆頭格勇猛で知られる中条藤資、景資親子と合流して意気揚々と水原城に向かった。

 水原城は元々は城というよりは代官所という方が合っている城である。

 すぐに落とせると思えるが、重家は自身の領地拡大に成功した城を簡単に落とさせるような事はさせない為にかなりの兵力を水原城に投入していた。

 

「問題じゃのう・・・・・・」

 

 水原城攻略の実質的な総大将になった中条藤資は蓄えた顎髭をしごきながらも余裕の笑みを崩さない。

 

「何か考えがおありですかな? 藤資殿?」

 

 長秀は藤資の真意を探るようににやりと笑みを浮かべている。

 一方の能元は何をこの状況下でそんなに笑っていられるのかがよく分からなかった。

 怪訝そうな顔をしていると藤資は地図を持ってこさせて指を指しながら説明する。

 藤資はひとまず水原城は後回しにしてここは八幡砦を落とすことを提案した。八幡砦は水原城と新発田城や五十公野城を繋ぐ連絡路。ここを先ずは落としてしまおうという訳だ。

 

「ここは長秀と能元に任せる。儂自ら重家の喉元に穴を開けてやるわ」

 

 呵々と笑う藤資に顔には老齢の気は隠せないが、長年宿老として謙信を支えてきた気は衰えていない。

 だが、能元には聞き捨てならないところがあった。

 

「某を何故ここに残すのです? 某は兄の仇を討つためにとここにいるのです。某もお供させて頂きたい」

「能元、口を慎みなさい」

 

 長実がきっと能元を睨むが、藤資は呵々と笑いながら長実を抑えて能元を見る。穏やかだが鋭い目が能元に突き刺さる気がした。

 

「お主はまだまだ若い、血気に逸るところがある。これからの将には我慢というのも覚えてもらわねばならん」

「されど・・・・・・」

「もう言うな。決まったことだ」

 

 結局半ば強引に藤資の権限で長秀と共に能元は水原城の抑えをすることになった。

 

「いかに思う?」

 

 藤資は兵の見回りをしながら長実と繁長に尋ねる。そこには先程までの呵々とした笑みを浮かべてはいない。既に落ち着いた威厳に満ち満ちた表情を浮かべ、端の人が見ればそちらから頭を下げるだろう。

 

「やはり、かなり脆いかと・・・・・・」

「私も同じですね」

 

 二人の将はあの能元の焦りに渋い表情を見せている。兄の仇であるからという気持ちは分からなくも無いが、戦である以上は何としても勝利するということが肝要である。

 怒りがもたらす力強さは火のように強いが、一旦崩れると雪崩の起きた地面のようにずるずると脆くなる。

 三人は勇猛で名が通っているが、二度の越後の不安定な状況下であった時を乗り切り、自分の地位を確立している人物でもある。

 人間臭い一面もある藤資だが、だからこそ彼は三人の中で一番彼の若さを憂いている。重家側を攻めるとどこまでも周りに目もくれずに進んで行ってしまいそうな気があるように藤資は見えた。

 

「まぁ、長秀殿が居ますし、どうにかなりますよ。彼女にもしっかりと監視しておくように仰ったのでしょう?」

 

 そのためにも一番落ち着きがある長秀を置いたことは当然の備えというものだ。

 信頼出来る人を信じなければ乱世は生きられない。

 敬愛する主君の謙信はそれを理念に乱世に立っている。

 彼女もそれは矛盾があることを自覚しているのにもかかわらず毅然としていられるのは彼女の強い精神力に他ならない。

 それ程のものを能元に求めようとは思っていないが、どうしてもあの脆さを藤資は気にせずにはいられなかった。

 

「儂も年かのう・・・・・・」

 

 溜め息を吐きながら進む老臣に長実と繁長は驚いた。普段から自覚があっても自身が老人扱いされるのを非常に嫌う彼が自分からそんなことを言うとは思わなかった。

 彼と並び、上杉家家臣団の筆頭格である定満よりも年上で七十を超えながら息子である景資に家督を譲らないのもその年による頑固な性格であるのは誰もが知っていた。

 長年定満が知略なら藤資は武で上杉家を支えてきた自負がある彼は床で死ぬよりも戦場で死ぬことを望んでいる事は周知の事である。

 それにしては彼が長尾、上杉家の下で反骨心が強い事で有名な楊北衆の中で早くから謙信に忠誠を誓って長尾政景との戦、武田との川中島の戦い、東北遠征と主要な戦の全てに出陣し、長年の歳月を掛けて残した功績は大き過ぎるものであって景資に突然継いでもらうよりも時間を掛けて準備をしたい為になるべく周りの重臣達は彼を床で最期を迎えて欲しいのだ。

 それを言ったら藤資が「老人扱いするな!」と言って止まらなくなるので誰も言わないだけである。

 だが、私的には温厚な人でその時には彼も普段の威厳は無くなり屈託のない好々爺となる。

 城下でも子供には笑顔を向け、困っている人を見つけたら老若男女身分などを問わずに助けなければ気が済まないような性格で若い時からの男気は衰えない。

 それはお迎えが来るまで変わることは無いだろう、というのが謙信以下、上杉家の藤資への見解なので心では何か言いたいのだが、黙っている。

 

「まぁ、暖かく戦場で死なないように見守ってやろう」

 

 謙信の冗談混じりの言葉で誰もが苦笑いを浮かべながらもそうする事にしていた。

 故に、二人の勇将も藤資の今の台詞には何も言えなくなり、ただ藤資を追い掛けた。

 その背中は小さく武将ではない好々爺も背中だった。

 

 陣を出た能元は安田長秀に詰め寄っていた。

 

「何故です!? どうして某を使ってくれなかったのですか!?」

「落ち着きなさい。私に喚いて何も変わらないでしょう?」

 

 確かに総大将ではない長秀に能元が詰め寄るのはおかしい。しかし、能元は言わなければ腹の虫が収まらないのだ。

 

「それは・・・・・・藤資殿に直接申し上げるのは失礼です。やはりこういったもの長秀殿ような御方に言ってから・・・・・・」

 

 正論を返された能元は俯いて愚痴のような言葉を発してきた。

 

「まったく、お前は堅いんだよ。颯馬達みたいにもっと壁を破っていけば良いのに」

「颯馬殿達は・・・・・・あれの方がおかしいんです」

 

 長秀は普段の生真面目さからは想像出来ない内容の発言に驚きつつも能元は何かを思い出したように眉間に皺を寄せる。

 能元は兄の跡を継ぐ前、春日山にいた頃に若い軍師三人や慶次達の若者が謙信や景勝などの主家格や定満達重臣に分け隔て無く接しているのに理解出来なかった。

 謙信への忠誠心は篤いが、家柄よりも颯馬や龍兵衛のように能力のある者はかつて敵であった者だろうと家を裏切った不忠者だろうと用いる能力主義にも疑問的なのであった。

 故に、能元は颯馬や龍兵衛、慶次には強く当たり、時折公の場でもかれらは不敬な奴らだと話していたりした。

 直江家を継いでいる兼続には何も言えないが、謙信や景勝と並んで歩いて普通に接している事に首を捻る時もあった。

 しかし、誰もその言葉を真摯に受け止める人が居ない。それで良いと定満や実及は軽く訴えて来た彼をあしらう。

 何故このような体制で上杉家はやって行けるのかという疑問を抱いたまま安田家の当主になったが、未だに内心のもやもやは拭えない。

 

「長秀殿は今の上杉家のやり方に疑問は無いのですか? 長秀殿のように家柄もしっかりしているような方が颯馬殿達のような成り上がり者に功を取られっぱなしという今の状況に何も思わないのですか?」

 

 立て続けに繰り出される若者からの質問に冷静さでは親憲に並ぶ長秀も苦笑いを浮かべるしかない。

 言っている事は正しいかもしれないが、果たして本当に正しいかと言われると長秀は首を捻る。

 

「はっきりとは言えないけどその考えは少し・・・・・・そう、上杉家に居続けたいのなら捨てた方が良いかな」

 

 彼女は軍師三人よりも年上だが、定満や親憲よりも年下でいわゆる弥太郎と同様に中堅に位置する。

 同年代の弥太郎や年下の軍師達が活躍しているのを羨ましいと思ったことはあってもそれはかれらが与えられた場所でしっかりと結果を残すことが出来る才があると知っているからだ。

 長秀も謙信の能力主義を認め、彼女自身もそれが一番良いと思っていると言ってしまえばお終いだが、能元がここまではっきりと言っているのを見ると先程の藤資への不満は兄の仇だけでなく、自身も功を立てたいと思う気持ちが強いことも合わさっていると思わざるを得ない。

 

「ま、いずれ分かる時が来るさ・・・・・・」

 

 そう言うと長秀は兵に指示を出すべく幕を出た。

 

 能元は一人、陣幕で呆然としていた。

 自身の概念を真っ向から否定されたことに驚愕した。長秀にもどこか自身の言葉に思うところがある筈だと思ったのにそれを彼女は一蹴した。

 

「間違っているのは私なのか?」

 

 能力主義を否定している訳ではない。

 ただ彼は少しは家柄と過去の事も考えて欲しいと思っているだけである。

 答えが一つだけというわけでは無い。だが、能元はそれに気付いていないだけだ。

 

『良いか? 能元、安田家に生まれた以上は長尾家に忠誠心を誓うことは当然の事だ。我々のような由緒ある家の者こそが主家を支えるのは当然の事である。故に、主もそれに恥じないような力を付けなければならん』

 

 尊敬する兄の顕元から受けた言葉。能元は父からも同じような言葉を聞いていた。故に、安田の名を越後に轟かせようと強くなろうと決意した。

 尊敬する兄はこの世から呆気なく消えた。その背中に追い付くのはまだ先だが、仇である重家を討ち取る事で兄を弔いたいと悲しみに染まった葬儀の中で思った。

 故に、能元は家を継ぐとすぐに新発田城に攻め入った。しかし、重家は頑なに防戦してなかなか落ちない内に長重がやって来た。

 これで情勢が変わると思ったが、長重はなかなか新発田城を攻めない。

 安田家の兵だけでは数が足りないのは分かっていた。我慢した。待っていると援軍が来たが、長重達は攻めない。

 一気呵成に新発田城を攻めれば片が付くというのに何故先達の将達は憂う事があるのだろうか。

 理解出来ないままに時が過ぎ、長重は別の方向に目を向けた。これが仇を討つための布石であると我慢している状態の中で今度は留守を任される。

 

「どうして・・・・・・」

 

 使ってくれない不満。そして、正しいと思っていたことを否定された能元はどうして誰も分かってくれないのかと首を捻る。

 ようやく戻って来た長秀に指摘されて陣幕を出た。ただ付き従えば良いと思っている兵を嫌そうに見回る。

 後ろから見ていた長秀はそれを察して辟易を表す溜め息を盛大に吐いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十三話改 川の向こうへ

 突如として椎名康胤が敷いた魚津城の包囲網を解くべく弥太郎と義清を先頭に謙信率いる上杉軍は椎名家家臣の土肥政重が引いた防衛線を突破する為に魚津城西側の富山七大河川の一つ常願寺川にて椎名軍と対陣していた。

 寒波がまともにやってくる真冬の時期は常願寺川は雪の影響を受ける為、普段なら上流の水面が凍って下流の水量は少ないが、今年は雪が少ない影響であまり凍らずにむしろ少ない雪と平年よりも暖かい冬が水量を増す結果となり、水量が増して流れも人馬が渡れば間違いなく足を取られて流される速さに増してなかなか渡航は出来ない状態となってしまった。

 

「無理に通ろうとすれば川の流れに流されて兵に凍死する者が出るかもしれないな・・・・・・」

 

 五日間の足止め状態の中、今日も川の状態を颯馬は見に来ていた。

 問題は眼前の常願寺川を突破しなければ先には進めないことであった。突破さえすれば数の差を考えれば簡単に防衛線を越すことは出来る。

 多くの溺死者が確実に出る流れの速さで突破する為に無理は出来ないが、川を見て兵の士気も下がりっぱなしであるのも確かだ。

 後世では常願寺川は急流河川で名高く、明治時代のオランダ技師、ヨハネス・デ・レーケが「これは川ではない、滝だ」と言わしめる程の速い流れを持っている。

 突破出来ない川を見て颯馬は思わず地面にあった小石を八つ当たりで川に向けて蹴飛ばした。小石は波紋を立てること無く消えて行く。

 魚津城はよく持って二、三ヶ月。あくまでも松倉城の支城であって防備はさほど堅くない。守る将が上杉きっての名将、斎藤朝信であっても厳しい。

 さらに天神山城の小国頼久が松倉城で敗北した為に上杉軍が常願寺川を突破しない限り、魚津城は実質上の孤立状態となる。

 白い雪は降らずにみぞれが降る。今までは今年は冬の雪が少ないと皆で喜んでいたが、こんなところでこんな弊害が出るなんて思ってもいなかった。

 頭に掛かる雪が溶けた水を鬱陶しそうに振り落とすと颯馬は轟々と流れる常願寺川を恨みがましく睨みながら陣幕に戻って行った。

 

「どうだった?」

 

 颯馬が帰って来るなり兼続が待ち構えていた。駄目だと首を横に振ると彼女は盛大な舌打ちを響かせる。

 川の足止めを喰らう事五日、ここまで来るのに二日。計一週間は越中の東に上杉軍は居る。

 西の神保は富山城で加賀の一向一揆勢と能登の畠山の奇襲を受けて苦戦を強いられている為に援軍は期待出来ない。

 春日山の本庄実及と坂戸の業正と憲政に援軍を要請した為に来れば魚津城には総勢一万は集う。

 しかし、援軍が来る前に早いところ椎名を倒して神保の救援に向かいたいところであるのが謙信以下、諸将の願望だ。そもそも援軍が来る前に魚津城が落とされる可能性もある。

 

「しかし・・・・・・この川の状況では渡航は厳しいな・・・・・・」

「まったく・・・・・・ところで颯馬、黒田殿を見なかったか? 朝から探してもいないんだ」

 

「はて?」とお互いに首を傾げ合い何処へ行ったのか探そうと腰を上げかけた時に官兵衛は帰って来た。

 機嫌良く、何か収穫があったという事は一目で分かる。

 子供のように活発で人懐っこくて気分屋なところを見ているととても身近に居る彼女とは真反対の性格の弟子が本当に彼女から薫陶を受けたのかと疑いたくなる。

 当の本人は声高らかに「師匠の背中を見て育った!」と言っているが、とても思えない。

 窮地であるにもかかわらず、他愛ないことを二人は考えていると官兵衛がかなり有効性のある情報があると言ってきた。

 上流に橋が残っているらしい。椎名は上杉軍の進撃を阻む為に橋の殆どを壊したのだが一つだけ壊されてはいるが、復旧可能な橋があったそうだ。

 これは見逃せないと颯馬と兼続は官兵衛の案内でその橋の下へと向かうとそれはあった。

 かなり上流に登った所で官兵衛は指を指した。その方向には確かに壊れているが、直せば渡れるような橋が危なっかしく掛かっていた。

 近くで良く見ると壊された形跡がない。隠れた枝道の見難い所にあるので椎名も発見出来なかったのだろうと推測出来る。細くて大軍が動けるような大きさではないが、今の状況で橋があるとないとではかなり違う。

 早速と三人は陣に戻ると謙信にこの事を言い、密かに橋の復旧を急がせた。

 

 

 

 三日後に橋は出来た。謙信は夜に義清と兼続に命じて三千の兵を上流に先に進ませて残る兵を後詰めとしながら山道を慎重に軍を進める。

 ここまで来ると椎名も目が行かないようで警戒されている事も無く、斥候がいたという報告が軒猿からも来ていない。

 いくら暖冬とはいえ北陸の冬である。寒さが厳しいことに変わりない。常願寺川の上流に向かうには当然、山を登らなければならない。

 上洛時から歩き続けている兵の疲労は溜まりに溜まっている。そこにこの山登りはさらに兵の足の疲労を蓄積させ寒さは全身の力を奪い取って行く。

 寒さ対策をさせてはいるが、今回のような非常事態が兵の疲労を蓄積させている一つの原因でもある。

 精神と身体は人間らしく生きる為に欠けてはいけない隣り合わせのようなもの。謙信という軍神が居ることが兵の支えとなり、謙信について行けば最後は勝てるという思いだけがかれらを前へ前へと歩みを進ませていた。

 橋を渡ればそこからは下りに入る。そこから一気呵成に寝込んでいるであろう敵の防衛線に突っ込む事が狙いであった。

 橋がある枝道の木の枝に引っ掛かり苛々しながら入って行く。修復した橋はやはり狭く横列に二人か三人が歩ければ良い方の構造である。

 しかし、贅沢は言っていられない。先ずは先鋒の義清と兼続が渡る。そして、先鋒の隊が全員渡りきり謙信達が渡ろうとした時だった。

 一本の矢が謙信の身体に向かって飛んで来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

「(今は我慢だ? はっ、笑わせてくれる! 我慢など身体に悪いだけさ!)」

 

 富山城を囲んで二週間神保も頑強に抵抗し続けていた。

 越中でも三本の指に入る堅牢な城はたとえ敵に城の造りを知る者がいても決して簡単には落ちない。

 向こうが知っているならそれを利用すれば良い。神保長職は本丸にて落ち着いて状況を見守っているだろう。

 それに比べて富樫晴貞は落ちないことをとにかく他人のせいにして場合によっては義慶や畠山の家臣団の許しも無しに畠山の軍を使って富山城を何度も総攻撃したが、撃退されてあっさりと被害を出して終わりという事が続いていた。

 晴貞は負けた畠山の家臣の一人を見せしめとして斬り捨て、それを楽しみとして捉えながら毎晩酒を飲み、酔った勢いで制圧した街に繰り出して女を襲い、その女の口から自分の悪評が漏れないように行為の後は女を殺してしまうなどやりたい放題を繰り返していた。 

 富樫家家臣は誰もそれを止めるような者は居らず、晴貞を止めようとした畠山家家臣が一人、城攻めの際に先陣を任されてそのまま後ろからの援護も無いまま撤退される事も許されずに神保側が放った矢によって死んで行った。

 これを晴貞は弔おうとした義慶を止めて運ばれた将の死体を踏みつけて遊ぶようにゴロゴロと転がして終いには死んでいる将の心臓に彼がさしていた刀を鞘から抜いて刺した。

 そして「使えない奴はこうなる」とその死体を焼き払って残った骨も全て踏み砕いた。

 この残虐な行為を見て恐怖を抱いた能登の兵の一人が戦場からの脱走を試みたが、あっさりと加賀の兵達に見つかって晴貞の前に連れ出された。

 その兵は富山湾に沈められたらしいが、それを知るのは晴貞とその周りだけである。

 それを実行した晴貞は義慶に兵の統率の為に仕方無くやったと言った。既に義慶は彼の言う事など信用しなくなっていた。

 義慶は知っている。晴貞によって殺された将の砕かれた骨を彼は配下の将に仏から賜った薬だと言ってこれを飲めばこの戦も絶対に勝てると言いながら飲ませたことを。

 配下の将はそれに疑問も抱かずに主君の晴貞が仏から賜った物だと喜んで躊躇いもなく飲んでいた。

 そんな事で勝てる筈がない事など義慶は知っていたし、第一に何故晴貞の将兵達はその時の光景を見ていたにもかかわらずそれを飲むのかが分からなかった。

 

「晴貞様の仰った事に間違いは無い・・・・・・」

 

 義慶が勇気を振り絞って富樫の家臣に聞いてみると無表情の無感動な物言いで去って行った。

 

「これはこれは・・・・・・義慶殿、私の部下に何か?」

 

 呆然と見送る義慶の後ろから聞きたくない声が聞こえてきた。晴貞の言葉の内容は不機嫌なものだが、声質は愉快で表情はくつくつと笑いながら義慶に近付いている。

 

「別に何でも・・・・・・」

「まったく、みだりに部下に声を掛けてもらっては困りますよ。お分かりですか?・・・・・・」

 

 晴貞はさらにニヤニヤと笑いながら義慶の耳元で囁く。

 

「・・・・・・義兄上」

「・・・・・・」

 

 義慶が無言で俯いているとつまらなそうに舌打ちをして周りに誰もいないことを確認すると晴貞は彼の胸倉を乱暴に掴む。

 

「言ったろ? あんたは見逃してやってんだ。感謝して精々俺の為に励め・・・・・・」

 

 どのような表情をしているか義慶には分からないが、晴貞は先程と違うドスの効いた声で義慶を脅しているように言った。

 それは義慶と晴貞の邂逅から二日後のことである。

 

「今・・・・・・何と?」

「あっははは・・・・・・・いやですねぇ~聞き慣れないのは仕方ありませんけど早く慣れた方が良いですよ。ではもう一度、今後とも宜しくお願いします。義兄上」

 

 にっこりと微笑んで言う晴貞と対照的に真っ青な顔で義慶は晴貞を見つめる。陣幕の中には二人しかいない。

 

「一体・・・・・・誰が私の妹と貴殿を婚姻させると?」

「嫌ですね、あなたが許可したとあなたの家臣が言っていましたよ」

 

「これも畠山家の為だと言ってね」とにっこりと変わりない笑みを浮かべながら晴貞は答える。

 誰もそんな話を持ってきてない。義慶が言うとまた拒絶するから敢えて話さなかったのだと簡単に推測出来た。

 義隆が晴貞の嫁になるのは義慶も嫌であったが、この乱世ではそうも言ってられない。義慶も傀儡であっても畠山家当主の立場から考えればそれも構わないかもしれない。

 それに晴貞と会って二日の間で義慶は彼をいい人だと思うようになっていた。しっかりと目を見て誰にも誠実に接し、兵にも笑みを絶やさない。

 だが、目の前の人物はそれと全く違って見えた。

 

「楽しみですよ、なかなかの美貌をお持ちの方のようで・・・・・・どう籠絡させようかなぁ~」

 

 ぺろりと舌を出して低く笑う晴貞を見て義慶は目を疑った。

 今まで女など知らず、優しさを全面に出していた彼はどこにもない。

 目を見張って晴貞を見ている義慶に気付いたのか晴貞は先程までのにっこりとした笑みに戻ったが、先程までの歪んだ笑みの名残が少し残っているように義慶は感じた。

 

「これからは親族になるもの同士、まぁとりあえず能登は見逃してあげますよ。もちろん俺の配下としてね、あんたの命は俺の手の中になる事に変わりないけどな・・・・・・頑張って俺の為に働けよ。妹は諦めな。あんたも自分が可愛いだろ?」

 

 丁寧だった口調が徐々に残虐さを増して表情も歪んだ黒さが滲み出て来る。

 外堀は完全に埋められた。義慶には頷く以外は方法はなかった。それを見て晴貞はまたくつくつと低く笑いながら陣幕から出て行った。

 あんな輩に大事な妹は渡したくない。だが、彼の周りは彼の家臣ががっちりと固めている。対して義慶は信頼出来る家臣など一人など一人もいない。

 彼の希望は椎名と相対している謙信が勝利してこちらに来てくれる事だ。つまり富樫・畠山軍が負ける事。義慶は心底それを願望した。

 軍神と崇められる謙信なら晴貞に遅れは絶対に取らない筈。その時の混乱に乗じて妹を救えばどうにかなる筈だ。

 そう思っていると出て行った筈の晴貞が音も立てずに戻って来ていた。

 

「ははは、こっちが負けるなんて都合のいい事考えているんじゃないぞ。負けても既に義隆は俺の部下が加賀に入れたからな」

「な・・・・・・!?」

「くっくっ、妹の事になると感情が入るなあんた・・・・・・そういう奴のものを奪うのが大好きなんだよ俺は・・・・・・まぁ安心しな。妹に手を出すのは俺だけだ」

 

 そう言うと晴貞は陣幕を出て行こうとしたが、何か思い出したように振り返ると彼はまた歪んだ笑みを浮かべながら義慶を見た。

 彼は下を向いて寒い冬にもかかわらず汗をぽたぽたと垂らしながら落ち着かない様子で首を振り続けている。

 人の不幸を見るのは晴貞が趣味にしていること。忘れかけていたが、それに満足そうに頷きながら晴貞は陣幕を出た。

 冬の寒さが本格的になっている。風を肩で切りながら晴貞は彼に気付いた家臣が頭を下げながらもそれにまったく気遣う事なく歩いていく。

 頭の中ではこの戦の事など考えていない。これから尾山御坊に帰って弄ぶ義隆の事に対する楽しみしかない。

 そしてもう一つ、忘れてはならない事。それを思うとにやにやと笑いを隠すことが出来ない。

 

「そろそろ謙信は新川の流れの中にいるかな?」

 

 

 

 

 

 

「はぁあああ!!」

 

 血が飛ぶ、首が飛ぶ。常願寺川の流れの速さは兵の血をあっという間に下流に流していく。 

 謙信が自ら白刃を握り、敵を斬って行く。矢に気付いた謙信は間一髪のところで避ける事に成功したが、それから橋の近くに伏せていた伏兵に襲撃されていた。

 向こうの方が兵力は下だが、上杉軍は狭い道のせいで大軍の利を活かす事が出来ずに苦戦を強いられた。 しかも、先鋒の隊と分断されるように襲撃された為に先鋒の状況が分からなくなってしまった。

 

「謙信様、撤退の合図を!」

「何を言うか! まだ兼続達が前にいる。家臣を見殺しには出来ん!」

 

 自身も敵を斬っている颯馬の言葉さえも謙信の耳には入らない。謙信は先鋒隊の大切な将兵を残したまま背を向けるなど考えていない。

 

「颯馬・官兵衛! ここは任せた。慶次・親憲! 私と共に付いて来い!」

「え、けんけんどこ行くの?」

「決まっている。前だ」

 

 謙信は刀で先鋒が居るであろう所を指す。それを聞くと慶次と親憲はにやりと笑った。

 

「了解~」

「承知しました」

「いやいやいやいや!? どうすんの!?」

「ははは、心配ない。盛隆も居る事だし、官兵衛の守りは大丈夫だ」

 

 謙信のとんでもない発言のせいで完全に素が出ている官兵衛を気にせず、謙信は馬に跨がり「行くぞ!」と声を掛けると二人も神速の速さで一緒に前線へと消えてしまった。

 

「(私は別にそういう事を言いたいんじゃくなて)」

「官兵衛! ぼーっとしている暇はないぞ!」

 

 後ろから厳しい声が聞こえる。颯馬はもう気にしていない。命じられた以上は指揮を執って兵を鼓舞する。

 毅然としていられるのは新参の官兵衛と違って必ず三人は帰って来るという絶対的な信頼感があるからだ。

 官兵衛も颯馬の声で我に返ったが、それでも訳の分からないままに盛隆に守られながら指揮を取り始めた。盛隆も謙信の突撃に驚いている様子はない。

 兵を鼓舞して士気を更に盛り上げようとしている。

 

「(なんでここの人達ってこうも平気でいられるんだろ?)」 

 

 疑問は抱きつつも戦場故になっそれ以上は深く考えないように官兵衛はしておいた。

 前線では義清が槍を繰り出す。兼続が刀を振り下ろす。

 お互いの背中を合わせて預け合って迫り来る敵を屍に変えていき、積らない雪の代わりに地面には血が染まり、顔には返り血が付いていく。

 包囲された時、兼続はすぐに兵を纏めて退こうとしたが、それは誤った判断だった。

 細道でいきなり退こうとしたために大軍の上杉軍はすぐに混乱状態に陥ってしまった。それでもこうして持ちこたえていられるのは二人の統率力を誉めるべきだろう。

 自らこの死地を突破しようとする姿に兵は奮い立ち、それなりに立て直したが、包囲されているのに変わりはなかった。

 敵の兵からは諦めて大人しく捕まれと心を挫くような言葉が飛び、中には二人を見ていやらしい目をしている男の兵もいる。

 二人とその配下の兵が降伏するのを敵は今か今かと待っているが、二人の頭の中にそんな考えなど無い。

 援軍が来る可能性は低い。それでも少しでも可能性があるならば諦めない。可能性は拾う事も出来るから。

 待ちに待った結果、二人は大き過ぎる援軍を受けた。

 

「兼続、義清! 無事か?」

「「謙信様!?」」

 

 仲良く声が揃った二人をよそに後ろから付いて来た慶次と親憲と共に謙信は兼続達を包囲している敵を薙ぎ払う。

 あだ名の通り、軍神のようなその姿に上杉軍は奮い立ち、声を上げて椎名軍に斬りかかる。

 椎名軍は謙信の登場に討ち取って与えられる恩賞に目がくらみ、謙信の向かって彼女の首目当てに突っ込んで来る。二、三人が空しくも死んで行った。

 

「上杉謙信だ! 討ち取って名を上げろ!」

 

 一人の将が馬を走らせ、謙信に槍を繰り出す。目の前の大物を見てその将は死に対する恐怖よりも功績にあやかる欲望に頭は行ってしまった。

 だが、彼は自分の判断の誤りに気付かずにしかも名を名乗る前に将は慶次が投げた槍に貫かれた。

 

「ど、土肥様がやられたー!!」

「ひ、退け! 退けい!」

「何を言うか!? 土肥様の仇が目の前にいるのになんという体たらくだ! 覚悟ー!!」

「あらん、危ないじゃない」

 

 向かって来た兵の遅い攻撃をひょいと簡単に慶次は避けるとよくこんな腕で生き残って来れたなぁと感心しながら強烈な蹴りを避けられてつんのめった兵の背中にお見舞いして気絶させた後、ゆっくりと土肥政重の身体に刺さった槍を引き抜いて兵にとどめを刺そうとしたところで邪魔が入った。

 謙信が前にすっと合間を縫うように入り込むと兵を斬ってしまったのだ。

 

「あぁ~ずるーい! けんけーんそれはあたしの手柄よ~」

「何を言うか。慶次こそせっかくの敵将を討ち取るという功績を持って行ったではないか」

「だってぇ、まさかそんな名のある将とは思わなかったんだもーん」

「そんな言い争いは後にして下さい! さっさと退きますよ!」

 

 いくら敵は退いているとはいえここは前線である。兼続の雷で状況を思い出した謙信は撤退の合図を送った。

 

 

 

 

「あ、帰って来た」

「ほんとだ・・・・・・」

 

 当然のように謙信達を迎え入れる颯馬と呆れている官兵衛。対照的な反応だが、謙信達が無事であったというほっとした気持ちは同じであった。

 

「敵将政重はこの上杉謙信が討ち取ったぞ! 皆怯むな!」

 

 謙信の帰還と自ら討ち取ったという敵将の首を見て上杉軍の兵からは歓声が上がった。

 逆に狭い道の為に上杉軍は簡単には動けないでこちらが勝てると思っていた椎名軍は防衛線を任されていた大将を討ち取られたというまさかの報告を聞き、証拠としていつもよく見ていた政重の変わり果てた首を謙信が掲げた為に崩れて行った。

 今度は上杉軍本隊を襲っていた伏兵は逆に退ける場所が見つからないまま上杉軍に斬られて行った。

 

 

 

 

「・・・・・・ふむ、終わったようだな」

 

 上杉軍はどうにか敵の奇襲を乗り切って元の陣付近まで生き残った全員が無事に退却していた。謙信は思ったよりも兵の損害がなかった事に安堵し、諸将を呼んだ。

 簡単にはいかないという事がこの戦でよく分かった。椎名軍にもなかなかの智者が居ることもまた知ることが出来たのは大きな収穫だった。

 わざと橋を残してそこに来るであろう敵を伏兵にて襲撃する。簡単な策だが現状の上杉軍の早く行軍したいという思惑を考えるとかなり効果的である。

 だが、件の橋は壊すことなく椎名軍は撤退して行った。普通であったらこんな策を二度も三度も通用するようなものではない。既に死地を突破した今の上杉軍は普通の状態である。 

 

「もう一度あの橋を渡りましょう」

 

 颯馬の言う事に誰からも反論は無く、上杉軍はその日の内にもう一度橋を渡り、今度は常願寺川を簡単に突破した。

 椎名軍は土肥政重を討ち取られた事によって将がいない防衛線など役にも立たずあっさりと突破され、上杉軍の魚津城到来を許してしまった。

 慌てて椎名康胤は常願寺川の東にある早月川付近で迎え撃った。

 早月川も常願寺川並みの急流を誇るが、その辺り一帯の陣は手薄で早月川に掛かる橋でも康胤は同じように奇襲を試みた。

 しかし、先述のように二度も同じ手に掛かるような上杉軍ではなく椎名軍はあっさりと敗れて魚津城の本陣まで退却して行った。

 

 

 

 

 魚津城の戦況は富山の晴貞にまですぐに報告された。

 

「そうか・・・・・・」

 

 忠実な家臣の報告にも晴貞は眉一つ動かさない。

 斥候にもっと速く知らせを入れるように指示を出して富山城に総攻撃をかけるように命じると誰もいない陣幕の中で黒く、冷たく、ニヤニヤと笑い出した。

 

「くっくっ、所詮は悪足掻きよ。謙信は春日山に戻る前に・・・・・・いや、戻った後でもどうせ死ぬ・・・・・・政景の手によってな」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十四話改 悲しき若人

 結局は行かせた方が良かったかもしれない。

 そんな思いが藤資の頭を過ぎる。しかし、どちらにしても良い結果を生まなかったのではないかという想像も付く。

 藤資が八幡砦を攻めている間、水原城の敵を監視する役目を拝命された安田長秀は普段の端正な凛々しい顔ではなく。

 美しさを失うほどの苦虫を潰した顔になりながら撤退戦の激戦で服がすっかりぼろぼろになっている安田能元を睨んでいる。

 周りの配下の将は長秀の怒気に恐怖を感じ、誰も言葉を発しない。冷たい雪が降っている事もあってかここだけ周りよりもさらに寒く感じる。

 

「何をしていたのだ・・・・・・」

「・・・・・・」

 

 能元は何も言わないで俯いている。長秀が発する叱責の声は彼の失態に対するものでもあり、止める事が出来なかったせいだという自分に対する叱責でもあった。

 一方、こうなる前の能元の我慢は頂点に達していた。何度も何度も長秀に水原城攻めを進言したが長秀はいつも首を横に振るばかりである。

 八幡砦を攻撃隊から外されて兄の顕元の仇を自ら追い詰める事が出来ずに留守を任されている事に合わせて長秀の慎重さが焦りと貧乏揺すりをさらに大きなものにさせていた。

 

「この兵力では水原城を落としたところで犠牲も大きくなる。今は藤資殿達からの吉報を待つことが大切。それに藤資殿も動けとは一言も言っていないでしょう?」

 

 確かにその通りである。能元も分かってはいるのだが、ここまでゆっくりと時間が過ぎていくのに能元はただ自分の我慢の線が指にちょんちょんと触れられて切れるかどうかの瀬戸際まで来ていた。

 昨日とうとう我慢の糸が完全に触れてぷっつりと切れた。

 いつものように能元が兵の見回りを嫌々ながらもやっていると兵士の一人が能元に声を掛けてきた。能元はその兵士を見ると老人という言葉が似合う程の年齢に達している。

 このような老兵でさえ戦に出て上杉家の為に戦ってくれている。どうして我々は動かないでいられるのだろうか。

 能元がそう思った時、老兵はすがるような声で言った。

 

「いつになったら、戦が終わるんですか?」

 

 涙を見せている訳では無いが、老人の言葉は切迫感があった。戦を早く終わらせてここにいる兵達を早く家族や家に戻してやるのが上に立つ者の使命だ。

 能元は兵を下に見ているきらいがあるが、かれらを捨て駒として見ているのではない。自分達が戦を指揮して犠牲を少なくして戦いを指揮する。要は守ってやっていると思っているのだ。

 安田家に生を受けて父や兄に付き従っている兵を見ていてついた習性とでも言おうか。それが彼にいつしかそのような考えを持たせるようになったのだ。

 早く戦を終わらせて兵を家に帰し、仇を追い詰める。出陣を決意した彼を止める事が出来る者は長秀だけだった。

 能元配下の将は彼が自身達の言で止まる事などないと知っている。その彼女は別の部隊の見回りに向かっている為にここにはいない。

 つまりは彼より格上の者も異議を唱えられる者もいない。誰も彼を止める者などいなかった。

 

「出陣するぞ! 水原城を落とせ!」

 

 案の定、水原城は落とせず、能元は敗戦した。

 

「愚か者が・・・・・・」

 

 さらに長秀は辛辣な言葉を浴びせる。彼女の静かな声がさらに威圧感を増している。能元は口を開かない。

 策も何も無いままに出陣した能元は水原城の正面を突いた。そのまま城側から何も反応が無いまま城壁まで達した。

 やはり謀反人の一味が守る城など大したことはない。

 蔑んだ思いと共に能元はすかさず城攻めを命じた。城側からは何も反応しない。

 城壁を登っていた兵が壁の中央辺りまで登った時だった。城から矢と岩が能元が率いる兵に降り注ぎ、城壁の下にいた兵も落ちてきた兵の下敷きとなった。

 さらに城に近付きすぎた為に待機していた兵も矢の的となってしまった。近付き過ぎた兵達は一旦退却せざるを得ない。

 だが、能元はそれでも攻撃を指示した為に兵はさらに混乱してしまい、城壁から下がる兵とこれから攻めようという兵でせめぎ合いが始まってしまった。

 これを見た水原城側は城から出て上杉軍に襲いかかった。

 能元はその出で立ちから一番に狙われて彼も刀を振るう事を余儀無くされた。

 しばらくは戦っていたが、能元の周りが敵だらけになった時にようやく彼は撤退を決意した。

 敵に襲われながら傷も付きながらもどうにか血路を開いて撤退したが、彼は多数の兵を失い、水原城との均衡状態を破ってしまった。

 勢い付いた水原城の兵は上杉軍の陣にまで詰め寄り、もう少しで上杉軍は突破されるところまで追い詰められたが、長秀の援軍と巧みな指揮でどうにか水原城の軍は撤退して行った。

 そして、戦が終わった後すぐにこの状態に陥らせた能元を咎めるべく今こうして長秀は能元を見下ろしている。

 周りからの威圧感など気にもせずに能元は相変わらずだんまりを続けている。

 それが長秀の配下の将達の怒りに油を注いでいた。油が溢れて火に飛び火した一人の将が能元に喰って掛かり首元を掴み、怒鳴りつけた。

 長秀がその場を収めた為にそれ以上に何かが起きることはなかったが、能元は何故自分がここまで責められなければならないのかよく分からなかった。

 早く内乱を終わらせて自国民の心を平穏なものにしてやらないといけないのに何故ここまで待たないといけないのか。

 兵法にも速攻は良とあるにもかかわらず、八幡砦を攻略されるのを待たないといけないのか。

 長重も首謀者の新発田重家が居る新発田城を囲んでいながら攻め込もうともしていない。

 何に懸念があるのだろうか。所詮は謀反人なのだから今回の戦も能元の隊だけが攻めたが、長秀が援軍を出していれば水原城はきっと落ちた筈だ。

 能元はそう思いながら長秀の睨みによる視線を痛く感じながらも悪びれたような事をせずに顔を上げて長秀と睨み返した。

 二人の間を冷たい風が吹く。嫌悪感と分かって欲しいという気持ちがぶつかり合い、息詰まる目と目の戦い合いが始まった。

 一方は若いが故の唸りを上げる血のたぎりを抑えられない。

 もう一方は長いとは言えないが、場数を踏んだ経験による感覚を持つ。

 睨み合い、口は開かず、目を逸らす事もない。

 長い沈黙が続き、周りの者はこの時間が四半刻以上は続いたように思えただろう。

 さらに風は強く冷たくなり、二人の間を吹き荒れる。陣幕の一部が飛んでいってしまいそうな程の突風が吹いた時だった。

 

「な、長秀様、報告が入りました」

「申せ・・・・・・」

 

 一人の将がおそるおそる長秀と能元の間に入って声をかける。平静さを装っているが、長秀の口調には怒気が含まれている。

 普段はそこまで自分の私的な感情を表に出さない長秀がそのような口調で話すと普段は感じられない威圧感がある。

 それでも将は大事な知らせであると自分に言い聞かせて勇気を持って長秀に報告した。

 

「申し上げます、八幡砦が落ちました。藤資殿はそのまま八幡砦の守備に入ったと」

「よし、直ちに水原城に件の弓文を放たせろ」

 

 将は頭を下げるとすぐに陣幕を出て行った。ここでようやく能元が口を開いた。

 

「長秀殿は何故、敵とよしみを通じようとしているのです?」

「お前には答える筋合いはない」

 

 立場も状況も読めないような輩が偉そうに何を言うか。長秀は心からそう思い、陣幕から立ち去ろうと歩き出しながら横目で能元を睨んだ。

 能元は長秀の心境を読み取ったのかは分からないが、長秀の目を見て言った。

 

「あなたも二心があるのでは?」

「貴様、己が言った事分かっているのか?」

「ええ、長秀殿は謀反を企んで・・・・・・」

「貴様! 長秀様になんという事を・・・・・・」

 

 先程も能元に詰め寄った将がもう一度詰め寄り襟元を掴む。

 とんでもない事を言った立場知らずの若者に他の将も彼を睨み付け、中には刀に手をやっている者も居る。

 長秀がその将を手で遮り、能元に近付く。能元の目から感じる彼の感情は怒りと侮蔑の二つ。

「はぁ」と息を吐くと仕方ないなという風に肩をすくめて能元を見る。彼は相変わらずの侮蔑の目だ。

 

「水原城に降伏勧告を出す」

「なっ・・・・・・」

 

 素っ気なく発した長秀の信じがたい言葉に能元は絶句するしかない。

 彼からすれば謀反人で兄の仇の城の一つ。攻め落として中にいる将兵を撫で斬りにしてやりたいと思っていたのにそれを不可能にする長秀の方針に彼は怒りを通り越して呆れてしまった。

 

「ははっ、長秀殿も悪い冗談を仰いますね。謀反人を許すと?」

「水原城は新発田重家殿が落とした城、元は上杉の城だ。あの中には仕方無く向こうに降った者も多い」

「主君に最期まで殉じるのが配下の務め、謀反人に降った以上はかれらも謀反人では?」

「かれらも生きる為に仕方なかったのだ。それに血を流さずに戦を終える。兵法にもあるだろう」

「時と場合によってです。某でしたら謀反人にまで命を売る事は致しませんし、謀反人にまで恩情を掛けても何の意味もありません」

 

 平然と怒りが互いに主張をぶつけ合い、下がらずにお互いの主張を言い合うばかりのああ言えばこう言うの状態の繰り返しで全く終着点が見えない。

 それを嫌った能元はとうとう最後通牒を出した。

 

「長秀殿は怖じ気づいたのですか? 何故にそこまで戦おうとしないのです? だから兵にも不満が出て来るのですよ」

「・・・・・・それは、そなたが聞いたのか?」

「ええ、この耳ではっきりとね」

 

 同僚とはいえ年下の能元に屈辱的な言葉を掛けられてまた怒気を孕んだ雰囲気を纏った長秀を見て自分の耳を指差して抗議する能元はまるで勝ち誇ったかのような表情を浮かべている。

 お前の言っている戦わずに勝つ戦略は兵からすればつまらないのだ。それを自分が望まれたから戦っただけだと言わんばかりに侮蔑の笑みを浮かべる。

 

「誰から聞いたのか」

 

 長秀が問うと能元は上機嫌で立ち上がり案内した。その歩く姿もどこか喜ばしそうで長秀配下の将は怒りの視線を彼の背中に向けて能元配下の将はそれをはらはらしながら見ていた。

 能元は先程の陣で件の老兵を探したが、どこにもいない。

 疑問に思いながら他の陣を探してもどこにもいない。先程の戦で亡き者となったかと思い。その旨を長秀に報告した。

 どのような兵だったか長秀が聞いたので能元は簡単にその老兵の特徴を言った。しかし、長秀はそれを聞くと鼻で笑い、小馬鹿にしたような目で能元を見る。

 

「そなたが話を聞いたという老兵、私は知らんな」

「それはそうでしょう。某が見た時、あなたは他の陣に居たのですから」

 

 当然だろうという風に能元は長秀をさらに侮蔑したように見る。

 長秀はその態度を見て呆れたように首を振る。

 

「私が昨日ここを見た時にはそのような老兵は見なかったな」

 

 能元の顔が少し固まったように長秀は見えた。彼女はここぞとばかりにさらにそこに畳み掛ける。

 

「私は間違い無くここを見た時にはそのような老兵はいなかった。つまりは昨日いなかった兵が今日はいたという事だな、これはどういう事か・・・・・・まさかそんな事も分からないなどとお前は言うまいな?」

 

 そこまでつらつらと立て板に水のように言葉を繋げられると彼も言葉に詰まる。

 ようやく能元は悟った。あの老兵は間者であることを。

 老兵は能元が死に物狂いで戦っている最中に水原城に戻り、今頃は水原城の中で能元の事を嘲笑っているだろう。

 やはり兄の顕元とは比べものにならないぐらいの愚将であると。

 それを想像すると能元は後悔よりも怒りがこみ上げてきた。なんとしてもその老兵を探し出して八つ裂きにしてやると憎悪の念が鎌首をもたげる。

 すっくと立ち上がると能元は長秀の止めも聞かずに怒りに身を任せてまた馬に跨がろうとしたが、それを水原城の報告が止めてくれた。

 水原城は降伏勧告を跳ね返していつでも相手になってやると返して来たのだ。

 聞いた能元は長秀をさらに侮蔑した目で得意げに見ていた。それでも長秀は涼しい表情を崩さない。

 妙だなと首を傾げておとがいに手を当てる。それを虚勢と見た能元は鼻で彼女を笑う。

 

「悩んだところで変わりありません。さっさと水原城を落とせば良いのですよ。まったく、こんな所でぼさっとしているから無駄な時間が・・・・・・」

 

 聞こえるような大きい独り言を言いながら長秀にほらほらと城攻めを促す。

 そこには先程までの間者にはめられた怒りなどどこにも無く、ただ嬉々とした表情を浮かべている。

 それには長秀以下、長秀と能元の配下の将でさえも全員が呆れたように彼を見る。

 大切な戦略を説明したにもかかわらず分かっていない。何故あの兄がいてこの弟が居るのだろうかと頭を抱えたくなる。

「はぁ」と息を吐くと今度は長秀が能元を侮蔑した目で彼を見る。

 

「お前は水原城への戦略を聞いていなかったのか?」

「何の事です?」

 

 苦しい言い訳が始まった。長秀は平静を装って内心は悔しいのだと思い込みながら能元は勝ち誇った表情を崩さない。

 

「水原城は先程も言ったように新発田軍に降伏した城、故に中にはこちらへの思いが強い者も居る」

「ですから、それは長秀殿の推測でしょう? そんな謀反人に降った輩がそんな事考えている訳ないじゃないですか」

「推測ではない。断定したものだ」

 

 能元は固まってしまった。その台詞は聞き捨てならなかった。

 長秀は城の中でなにが起きているのかを知っている。もちろん水原城がこちらに放っているのと一緒で長秀が水原城へ手の者を放っているのは能元も知っているが、彼にはそのような事聞いていなかった。

 何故に自分に教えてくれなかったのか。

 長秀は能元の思いを悟って冷たく言い放った。

 

「私は言ったぞ・・・・・・だが、お前は新発田殿の事で頭がいっぱいだったのだろうな」

 

 つまり長秀は水原城の兵が厭戦状態が漂っていることを知っているからこそこのような戦略を打ち出した。

 厳密に言えば藤資達もそれを知っている為に先に八幡砦に制圧して新発田城との連絡を絶ち、孤立させたところで水原城に降伏勧告を出すと既に最初から決まっていた。

 もちろんそれは長秀も知っていたし、能元にも話した。

 その時、能元の頭にあったのは兄の仇である重家の姿だけで他は何も見えなかった。

 結局彼が仕掛けた水原城攻めは水原城の兵の厭戦状態を払拭して士気を上げただけで降伏しなくても良いという判断を水原城に促しただけであった。

 彼もそれを知っていれば復讐心をこらえていることが出来たかもしれない。だが、知らなかった能元はそれを抑える事は出来なかった。

 ならばと能元は少し引きつった顔を上げる。

 

「ですが、先程も某は言いましたが、謀反人に降った以上は謀反人だと見てよろしいのではないですか?」

「お前は兵法を知らないのか? 城攻めにはどれほどの人と物質を使うと思っている。ここで無駄に使えば新発田城を落とす時には我々はどうしようもないではないか」

 

 言葉が詰まる。能元はまったく後先の事を考えていなかったのは当たりで兵の犠牲などは二の次であった。

 だが、能元もここまで長秀の事を言った以上は簡単には引き下がれない。

 

「某はただ兵を早く家に帰してやろうと・・・・・・」

「『やろう』だと・・・・・・?」

 

 平静で表情をあまり表に出さない長秀の口元がひくひくと動いている。これを見た長秀配下の将はすすっと下がった。

 これを見せた時の長秀はかなりの怒りを溜め込んでいる状態で長秀の怒る時は冬のように冷たく、心を抉るような物言いとなる為に周囲からはなんとしてもこのような状況を作らないように努力しようという団結力が生まれる事もある。

 

「偉そうにそうした結果、お前はその為に多くの兵を家ではなく、黄泉路へと送ったという事か・・・・・・」

 

 鼻で笑いながら長秀は能元に続ける。

 

「どうだ。黄泉路に送りこんだ犠牲はこれだけあっても収穫はあったか? いや、無いな。お前は結局は水原城に攻め込んで失敗し、また懲りずに同じ失敗を繰り返そうとしている」

「いえ、今度こそ・・・・・・」

「失敗するに決まっている」

 

 長秀は反論の余地すら与えずに感情の籠もっていない声で語り続ける。

 

「これでは顕元殿も浮かばれないな。ずいぶんと手塩にかけて育てた弟がここまでも阿呆とは・・・・・・顕元殿を継ぐのは無理だったかな?」

「兄には追い付ける訳がありません」

 

 胸を張って顕元は素晴らしいかったと語る能元に長秀はやれやれと短く切りそろえた髪の毛を掻きながら能元の事を哀れそうに見やる。

 聞いていて馬鹿馬鹿しくなった長秀は冷たい視線を能元に浴びせて能元を遮るように少し声を上げた。

 

「顕元殿は父を超えようという向上心があるがそなたにはまるで無いな。これでは上杉軍でもどこの軍でもやっていけない」

「なっ・・・・・・」

「兄の背中を追いかけ過ぎて自分がやるべき事が全く分かっていない」

「・・・・・・」

 

 全ては敬愛する兄の為と思ってやった事であった。新発田城を攻める事にしろ八幡砦を落とす為の攻撃隊に加わろうとした事。

 さらにこの水原城攻めの速攻の進言、間者に騙されて行った水原城への独断での進軍。

 能元が全てを思い返してみると上杉軍の為にと思った事は一度もなかったかもしれない。

 もしかしたら水原城を攻める前のあの意気込みもただ兄の為にという理由にさらに理由を貼り付けただけのものかもしれない。

 

「お前のせいで要らぬ戦、要らぬ犠牲を払う事になった。まさか顕元殿も血を流しすぎてまで勝利するのが良いとは言ってまい」

「・・・・・・」

 

 能元は先程のだんまりとは違うだんまりをしている。

 

「よくよく反省しているのだな」

 

 あしらうようにそう言うと長秀は振り返って本陣に戻る。その背中を能元がまだだと長秀を止めた。

 

「某を戦で使ってはくれないのですか? この失態の責を晴らさせてもらえないのですか?」

 

 これからまた戦になる。能元がせがむように長秀を見るが、長秀は首を横に振った。

 

「お前をもう一度用いれば兵は不安になる。それに万が一に備えて繁長殿が戻って来る事になっている。それまで頭でも冷やしておくんだな」

 

 正論を突き付けられ、がっくりと能元は膝を着いた。長秀はそれだけをちらりと見てそれ以上は振り向かない。

 

「お前はまだくだらないものに縛られている。だから私のように目付役が付いているんだ。まぁ、意味はなかったがな。一瞬だけでも目を離した私が愚かだったよ」

 

 最も冷たく心に突き刺さるように言い放ち、長秀は今度こそ無言で去って行った。

 俯いて動こうとしない能元に声を掛けようとする者など誰もいない。誰一人として能元に温情を掛けようなどと思う者は一人もいないのだ。

 結局、次の日の夜に長秀はと水原城を襲撃。

 前日の戦の勝ちを引きずって油断していた水原城の兵達は為す術も無く敗走していったが、新発田城と水原城を繋ぐ背後の八幡砦を落とした本庄繁長がその兵達を倒した為、新発田城に戻れた将兵は十数人で残る者達は降伏した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十五話改 迷い道

 椎名康胤は当初の余裕が少し無くなり、焦りが出始めていた。

 魚津城を包囲し、斎藤朝信を追い詰め越中全土を椎名が独占するこの好機をもう少しでものに出来る筈だった。

 一度、晴貞の下に逃れた神保家反上杉派の筆頭である寺島職定の援軍を得て魚津城の弱点である場所を徹底的に攻め込んでみたが、朝信はそれを逆に利用してそこに簡易的に作った落とし穴などの罠を設置して進撃をよく阻んでいる。

 苛々しているところにさらに不利な状況になる報告が舞い込んで来た。

 上杉軍が常願寺川を越えて魚津城に迫っている。土肥政重は上杉謙信によって首を斬られ、将の居ない砦は簡単に突破された。

 はっきり言えばこの時康胤は後ろの事を完全に気にしていなかった。

 常願寺川の流れでは上杉軍は渡れないと踏んであえて一本だけ橋をわざと残したままにしてそれに気付いた謙信がこれを渡るところを伏兵にて叩く。

 越中を長年統治している康胤は急流である常願寺川の流れを存分に利用した自信を持った対応策だったが、こうも簡単に突破されるとは全く思っていなかったので次善策の準備の時を稼ぐ為に康胤自ら出た謙信との戦にも呆気なく敗北した。

 とりあえずと思って作った早月川の第二の砦も突破され、いよいよ魚津城との挟撃の危険が出てきた。

 康胤はうろうろと陣幕の中を一人で歩き回り、決めあぐねている。魚津城を多大な犠牲覚悟で攻め込むか先に謙信との雌雄を決するべきか。

 後者はすぐに廃案とした。贔屓目をして見ても謙信とのぶつかり合いはなんとしても避けたい。軍神と謳われる謙信の怖さは越中にも存分に知れ渡っている。

 兵の中にも謙信が出たというとそれだけで怖じ気づいてしまう者もいるかもしれない。

 だとすれば前者の策である。しかし、魚津城は松倉城の支城であるが、上杉の名将、斎藤朝信の前に椎名軍はなかなか落とせていないのが現状。

 また、早月川を突破した上杉軍の行軍速度を考えると仮に落としたとしてもすぐに魚津城で籠城する事になりかねない。

 犠牲を強いられた後の戦などいくら籠城とはいえ兵の疲労、数、装備。全てが衰えるだろう。このままでは進むも戻るも負けが見えている。

 考えても考えても良案が出てこないままうろうろと熊のように陣幕の中を康胤は歩いている。その為、のっそりと入って来た初老の人物にも気付かなかった。

 

「焦っては敵の思う壺ですぞ」

 

 入って来て早々にその心中を察した寺島職定が落ち着いた声を掛ける。

 彼の連れてきた援軍のおかげでだいぶ魚津城攻めも苦戦を強いられているとはいえはかどっていることは康胤も認める。

 根気良く攻め続けて魚津城の二の丸を後少しのところまで追い詰めているのは彼の知恵のおかげでもある。

 

「む、そうだな・・・・・・しかし、この状況を焦らずにどうするのだ?」

 

 多少は職定の声で落ち着いた康胤だが、状況が変わる訳ではないのでやはり少し顔には焦りが映っている。

 一方の職定は焦らない。老練な将は長い戦の為に無造作に伸びた口髭をさすりながら康胤に近付く。その雰囲気は康胤の心に徐々に落ち着いた気持ちを呼び出しているように感じた。

 

「ここだけではありませぬ。康胤殿の兵は松倉にもいるではありませんか」

「しかし、あれは富樫殿からの借りた兵だぞ。それにあれは兵ではない」

「はっはっ、戦場に出れば兵も民も関係ありませぬ、このような時の為にも使えるのなら良しとしましょう」

 

 穏やかな声だが、職定の目は勝利を得る為の獰猛な欲に駆られている。

 松倉城の一向一揆勢は天神山城の上杉軍を撃退して意気は上がっている。

 今は動いていないが、いざという時には康胤の指示を聞いてくれると晴貞も言っていた。冬の寒さは増していき将兵達の中でも早く決着を付けたいという意見も出ている。

 考えた挙げ句、康胤は職定に背中を押された形で松倉城の晴貞から借り受けた一向一揆勢に使者を送った。

 

「これで謙信も春日山に大人しく引っ込むしかないな・・・・・・」

「そうですな・・・・・・まぁ、そもそも春日山に帰れるかどうかですが」

「確かに・・・・・・」

 

 二人はくつくつと笑い合い勝利する為の策を練り始めた。

 思い描くは謙信の首を見る自身達の姿。

 

 

 

 二日後に謙信は上杉軍を率いて魚津城付近までやって来た。康胤はすぐに迎え撃つべく魚津城の西にある角川に陣を敷いた。

 角川も元々急流でさらに暖冬の影響で雪が凍らずに溶けている為に川の増水がひどくなっている為に時間稼ぎにはもってこいの場所だった。

 神保家がこの川の水害によく悩まされているのは有名で城下町経営にはよろしくない川だが、戦には役に立つしこの川の流れは魚津城の堀にも使われている。

 冬の寒さがいつもよりも柔らかいものだとはいえ寒い事に変わりなく、康胤も身体を震わせながら上杉軍の到来を待った。

 ここで時間を稼いで松倉城の一向一揆勢が上杉軍の背後を突く。簡単にはいかないかもしれないが、ここで謙信を叩いておけば謙信は多大な犠牲を覚悟して越後の玄関口である不動山城に逃げ込むしか生きる道はない。

 正直言えば康胤はここまで自身が謙信を追い詰める事が出来る日が来るとは思ってもいなかった。

 

『毘沙門天の化身・越後の竜・軍神・・・・・・』

 

 二つ名を上げれば康胤など戦う気も失せる程だ。しかし、康胤は神保との戦の際に上杉家が椎名の援軍要請を断った事というそれ以上に強い恨みを持っていた。

 あの時上杉家が援軍を派遣してくれれば神保との戦に勝てたかもしれない。

 現実逃避もいいところだが、康胤自身からすればおかげで越中の影響力をかなり失った事になる。

 畠山氏から任された越中の東半分の影響力を保つ為に上杉家にはほぼ臣従状態である事にも耐えた。魚津城も献上した。それなのに援軍は送ってくれなかった。

 使い捨てというまったくもってその言葉がぴったりである。

 それに気付いた時には遅かった。神保には負けて屈辱的な和睦を結ばされた。その時、康胤は全てを謙信のせいにした。 

 故に、上杉を滅ぼすこの計画に飛びついた。また富樫晴貞の庇護下に入る事になるが彼からすれば越中さえあれば別に誰の下にあろうと構わないのである。

 成功した暁には越中の東だけではなく、西の大半を康胤自身が治める事になっている。神保長職の娘の長住と寺島職定も彼の下に入る事になった。

 宿敵の神保を倒し、怨敵上杉を倒し、そして越中の大半を我がものに出来る。

 一つの計画は椎名康胤の願望三つを叶える事が出来る。思うだけで意気が上がるのは仕方無い事。

 意気揚々と康胤は職定と共に陣を敷いてこの時の為にと作った最も堅牢な第三の砦に入った。

 角川の川の付近に建て空堀を作っている。端から見ればちょっとした小さな出城に見える程の規模を持つ。

 そこを康胤は対謙信の戦いへの本陣として角川の前に防衛を目的とした陣を敷いた。さらに角川に掛かる橋を全て壊して上杉軍を渡れなくして松倉城からの一向一揆勢が上杉の横腹を突く算段をつけた。

 その時康胤は密かに魚津城に戻って総攻撃を始めてそれを落とす。

 そうすれば謙信は越中に足止めを喰らい松倉城を落とすしか道が無くなる。しかし、康胤もその時には松倉城に戻っているだろう。

 そうなれば謙信は討たれ、次期当主の景勝を捕らえてその父政景が実質上の上杉家当主となって晴貞の傘下に入る。

 北陸に一大宗教国家を築き上げて本願寺と帯同し、本願寺の下で浄土真宗の国家を作り上げる。

 その計画を聞いた時には康胤の心が躍っていた。自らも天下太平への一翼を担うと思っただけで自らが思いもしなかった立場に上がれるかもしれないと。

 その為に強敵である上杉を倒す事に恐怖を抱く事はあまりなかった。そして、今もいよいよ謙信との決着を付けると思うと彼の心は有頂天に近くなっていた。

 

「遅い・・・・・・」

 

 しかし、現実ではその上杉軍がやって来る気配がまるで無い。斥候にはしっかりと上杉軍の動きを監視させている。変な動きがあればすぐに報告が届く筈なのだが、全く来る気配がない。

 

「悟られましたかね・・・・・・」

「可能性はありますな・・・・・・」

 

 康胤の呟きに職定も渋い表情になる。

 そんなに簡単に見破られる程、生半可な斥候を放ったつもりはないのだが、それでもばれたとなるとかなりの手練れが向こうにもいるのだろう。

 康胤は思わず腕組みをするが、迷っていても仕方無い。

 配下で親戚関係の神泉和泉守に今は魚津城を任せている。いつかは朝信に康胤がいない事がばれて謙信の援軍がすぐそこまで来ている事がばれる。

 角川を渡らないといけないとはいえ謙信の援軍が近くに来ている事が分かっただけでも魚津城の士気は回復する。

 出丸と二の丸の一部が取られている以上は朝信が城から出て来るとは考えられないが攻城に支障が出る可能性が高い。

 だが、魚津城は天神山城と同様に越中から越後に帰る為に上杉が絶対に押さえておかないといけない城である。康胤にこれを取られると謙信は越後に帰るまでに殿を置く所が無くなる事になり、傷が増える。

 その為に早く魚津城の包囲を解放しようと上杉軍は向かって来る筈なのだが、やってきた斥候は意外な報告を伝えにきた。

 

「申し上げます。不動山城の上杉軍、こちらに向かっております」

「何!?」

「さらに春日山と飯山からも後詰めが派遣されている模様」

 

 康胤の驚愕の叫びの上にさらに凶報がやって来た。天神山城の援軍を撃退した為にしばらくは来ないと思っていたのだがここまで早く援軍が来るとは思っていなかった。さらに越後からの援軍は来ないようにさせている筈だったのだが、思わず二人は顔をしかめる。

 

「政景殿は何をしておるのだ?」 

 

 職定はここにはいない同志の人物を恨みがましく呟いて口髭をさすっている。 

 今頃越後では政景が謙信不在の虚を突いて春日山を乗っ取る筈であったのに何の音沙汰も無いと思っていたら何をやっていたのだろうか。

 そう思っていると職定は一つの不安がよぎった。

 

「まさか・・・・・・」

 

 康胤に何か言おうとした時に新たな伝令がやって来た。

 

「報告、松倉城に上杉軍が出現」

 

 心は愕然として先程までの踊る心など目の前の川の流れのようにすっとどこかに流れ去った。

 本拠地が危ない以上はもはや松倉城に戻るしかない。そう考えた康胤だが、職定はこれを好機と捉えた。

 まだ魚津城に上杉の援軍が来ている訳ではない。松倉城が落ちている訳ではない。それに一向一揆勢はあくまでも借り物で晴貞も好きに使っていいと言っていた。松倉城自体も堅牢でちょっとやそっとで落ちる事はない筈だ。

 ならば逆にこれは好機と捉えて良いのではないか。そう思った職定は康胤に耳打ちする。すると康胤も落ち着きを取り戻して面白いと笑い、職定をどこかへ向かわせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 松倉城を囲む上杉軍は最大限の警戒心を持って松倉城に近付いていた。小国頼久が松倉城で一向一揆勢の奇襲に遭い撤退を余儀無くされたのは嫌でも上杉軍の警戒心を上げたのだ。

 松倉城は富山三大山城の一つで標高四三〇メートルの山に建てられている。

 構造は比較的シンプルなもので急な斜面であるが、山の西の中腹に大見城平という巨大な兵舎がある為に多くの兵力を城に入れる事が可能になっている。

 さらにそれぞれの郭を仕切る堀はかなり巨大で深いところで十メートルという程の代物で周りには城を補完する砦が築かれている。

 先の戦では一向一揆勢は康胤と職定の指示で最も堅牢な第四郭に誘い込みそこで掘に足を取られた兵を散々に打ち払った。

 しかし、今回は指揮官が誰もいない。元はかれらは兵ではなく民である為に戦には素人と言っていい。

 武器を持っているかれらの姿は上杉軍の精鋭に比べると何とも可愛いように見えてくる。

 そんな中で一向一揆勢は焦る事なく籠城の構えをしっかりと作っている。兵を以前同様に第四郭に兵力を集中させてそこと主郭を軸にして上杉軍を迎え撃つ準備を進めていた。 

 突然の襲来だったにもかかわらず、一向一揆勢は落ち着いていた。その姿はまるで本当は正式な将兵であるかのようである。

 

 

 

 ゆるりゆるりと上杉軍は松倉城の包囲を絞り込み、すんなりと周辺の砦までは簡単に突破できたが案の定第四郭で足止めを喰らった。

 道は徐々に狭くなり、山の斜面を活かした戦法で一向一揆勢は上杉軍の攻勢に一歩も退かない。

 一方で上杉軍もここで時間を喰っている訳にもいかない。しかし、どうも一向一揆勢が行う松倉城の籠城戦法が玄人のやり方である。

 守っているだけでなく時折機を見ては攻勢を仕掛けて来ている為に上杉軍も被害を被っている。

 

「何ともまぁ、将にやるようにやれっていうふうになると思ってたけど思うようにいかないねぇ~」

「確かに少々計算外、というよりかなり計算外だな」

 

 官兵衛と颯馬は味方の前線で郭と郭の間にある堀を見ている。

 近くではないが、とにかく広くて深いのがよく分かる。ここまでこの堀を突破する為に上杉軍は難儀している。

 ここまで二、三回は攻撃を仕掛けたがこの堀のおかげで全く戦果は挙げられていない。たった一つされど一つ。歯痒いがこれほど見事に作られた堀は二人共初めてと言っていい。  

 

「でも、これを何とかするのがあたし達の役目ってやつだね」

 

 相も変わらずの余裕の表情の官兵衛に颯馬も苦笑いで応える。第四郭からは武装しているが、鎧は着けていない一向一揆勢の人々が二人をじっと監察している。中には弓を構えている者もいるが、撃つ気配はない。

 これ以上は危険だと判断した二人は陣幕に戻ると早速話し合いを始める。

 まず第一に何故ここまで向こうは松倉城の守りをしっかりと固めているのか。そして、ここまで効果的な攻撃を繰り返し行えるのか。この二つが二人の疑問だった。

 

「誰か将が居るとしか考えられないんだけど」

「それにしてはかなりの人だよなぁ」

 

 確かに守り方攻め方の両方が兵法にのっとている。しかし、それ程の人物が松倉城に入っているのかと考えると当てはまる人が浮かばない。

 それに前にも軒猿に松倉城を調べさせたが、そんな将は誰もいなかったという報告が三回も来たので間違い無い。

 魚津城に康胤と職定が居るのは分かっている。それに誰がどんなに動いていようと軒猿が徹底的に監視している為にそれを逐次報告する事になっているのですぐに分かる筈なのだが、なかなか報告が来ない。

 

「まさか悟られたのか?」

「それはないでしょ。あの人達はそこまで下手な訳ないって」

 

 一抹の不安が出たが、何故か軒猿の事はまだよく分かっていない筈の新参者官兵衛に颯馬は否定された。

 

「いずれにしろ早くこの城を落とさないといけないか・・・・・・」

 

 颯馬はしばらく手入れをしていない髪の毛をぼさぼさとかきむしる。攻め落とすにしてももう少し考える必要が出てきているのは確かだ。

 

「さて、じゃあ正攻法では攻めきれないって事は分かったところで視点を変えてみようか」

 

「よし!」と官兵衛は立ち上がってまた偵察に行こうと颯馬を誘う。

 

「(さっきまであれほど歩いたのに・・・・・・)」

 

 颯馬は何か言いたそうにしながらも渋々その元気な背中を追い掛けて行った。

 付いて行く颯馬に構うことなく官兵衛はずんずんと急斜面もある山道を歩いて行く。

 

「危険だから止めないか?」

「何言ってんの。だからこっちに有利なものが見つかりやすいんでしょ」

 

 颯馬が官兵衛を諫めるが全く聞く耳を持たない。

 二人が向かったのは第四郭のある北側とは反対の南側、大見城平の近くである。

 そこだけが急斜面の多い松倉城の建っている山の中で何故か開けた土地になっていて大きな兵舎が多数並んでいる。

 ここに主力の一向一揆勢が交代で休息を取り、有事の際には万全に近い状態で戦に望む事を可能にしている。

 雪が止み、風が冷たく吹き荒れ出している。その風は不思議な事に松倉城に向かって吹いている。

 

「颯馬、この風っていつまで吹いているの?」

 

 颯馬も軍師である以上は天文にも通じている。越中は越後と同じ北陸である為、だいたいの予想はたてる事は出来る。

 

「多分、今日明日は絶対に止まないな・・・・・・何考えてんだ?」

「面白い事だよ・・・・・・」

 

 笑ってみせる官兵衛に颯馬は少し冷や汗をかいた気がした。

 そのにやりとした笑みは官兵衛の弟子である龍兵衛の笑みにひどく似ていて何かを企み、恐ろしい冷酷さを隠しても隠しきれていない。

 彼が無自覚に時折浮かべる黒くて相手が策にかかっているのを楽しそうに眺めているあの顔に似ていた。

 

「(身体付きも性格も似ていない師弟だと思っていたけど・・・・・・こういうところは似ているんだな・・・・・・)」

 

 少し冷や汗で寒くなった身体を震わせながら意気揚々と陣へと戻る官兵衛の後ろを颯馬は歩く。

 陣幕に戻るとその冷や汗は官兵衛に対するものでなく、上杉軍の存亡にかかるものへと変わった。

 

「天神山城が落ちました・・・・・・」

 

 がっくりとうなだれてその報告を伝える伝令兵。松倉城の支城は多数存在するがその中で魚津城、天神山城はその支城の代表格と言っていい。

 その内の一つが簡単に落ちてしまった事に伝令兵は肩を落としているのだ。

 天神山城が落ち、魚津城は椎名軍が包囲して落城寸前まで追い詰められている。越中から越後に戻るには天神山城を経由しなければならない。

 つまり、上杉軍はこの松倉城付近に完全に孤立したという事になった。伝令兵でさえこのような状態になるのだ。軍師である二人がこの状況をまずいと思わない訳がない。

 

「どうする・・・・・・?」

 

 考えはあるが、一応と颯馬が聞くと官兵衛も苦虫を潰したような顔になっておとがいに手を当てている。その頭の中で二人は頭脳を最大限に動かして今後の対応を考える。

 

「とりあえず、さっきの話を続けようよ。少なからずここを落とせば椎名軍の士気にも影響する筈だから」

 

 松倉城は椎名家の本拠地。ここを落とせば少しは康胤も慌ててくれる筈だと官兵衛は踏んだ。今の事は誰にも言わないように伝令兵に厳しく命じると二人は陣幕の中で今後の策を練り始めた。

 しかし、そこには先程と違う強張った表情は無く、にやにやと策士の笑いを浮かべる二人の姿があった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十六話改 僕等の戦は崖っぷち

「・・・・・・何か言う事はあるか?」

「・・・・・・いえ」

 

 厳格な声を発して問い質すとか細い声で答えを返す若者に「そうか」と顎髭をさする老将。

 水原城を落として八幡砦にて一旦合流した新発田方面の別働隊は夕方、疲れを取る間もなく陣幕の中で一人の青年をぐるりと囲むように中条藤資と安田長秀を中心に座っている。

 水原城も八幡砦も多大な犠牲を相手に与えた。しかし、それで「はい、おめでとうございます」という訳にはいかない。失態は罰しなければ配下に示しがつかない。

 今は言うまでもなく安田能元が水原城で行った命令無視によって要らぬ戦と要らぬ犠牲を払うはめに陥らせた事に対する処遇を決めている最中である。

 裁定を下すのはもちろん最年長で別働隊の大将である藤資だが、しばらく目を瞑り立派に貯えられた顎髭にさすりながら考えている。

 沈黙は藤資以外の者が決して破ろうとはせず、誰も彼に話し掛ける者はいない。掛ければ見えない刃で斬られそうな雰囲気がある。

 それがいつまで続いたかは分からないが、その身体から出てくる老齢と他者の追随を許さない空気からここにいる全員が実際の時間よりもかなり長く掛かったと思った。

 藤資は長く息を吐き、がたりと音を立てて立ち上がるとゆったりと能元に歩み寄る。

 能元は冬の地面から身体に伝わってくる寒さにさらに冷や汗の寒さが加わっているのを感じた。

 ここに来る時にも長秀と共に馬に揺られていたが、全く会話も無く、重苦しい雰囲気のままにここまで来た。そして、さらに重い空気の中に能元は完全に呑み込まれていた。

 兄の仇を取ろうと勇んで戦ってきたこの新発田重家との戦。皆から自身の戦う意義を否定されるような事ばかり言われ、失態に失態を重ねて安田家の顔に泥を塗った事に対する罪は重い。

 藤資は能元の目の前で止まった。しかし、能元は雑草すら生えていない殺風景な地面を見て顔を上げる事はない。

 鞘から刀が抜かれる音がする。冷たい剣筋は能元の首元を通り過ぎた。

 

 

 

 新発田城では長重が別働隊からの報告を聞いてにやりと笑っていた。そして、心の中で会心の気持ちを込めて拳を握り締めた。

 しかし、能元の事を聞くと少し表情を暗くして一人溜め息を零した。長重も彼の危うさには気がついてはいたのだが、他の者達と違ってはっきりと諫めたり止めたりはしなかった。

 何故なら、彼が別働隊で色々と気付いて行くだろうと高を括っていたのだ。

 だが、今ではそのような望みは簡単に崩れ落ちてしまい、結局は上手くいかないものであったという事が分かっただけだった。

 長重自身も初陣の頃は能元のようにただ前へ前へという根っからの武人だったが、それでは配下の者達が付いていく事が出来るのかと聞かれるとそのような事は考えた事もなかったので付いて来れない奴が悪いと思っていた。

 長重が重要な事に気付かせる戦を越中や越後の内乱で徐々に経験したおかげで自分だけでなく、配下はどのくらい動けるのか。かれらがどうすればもっと力を出せるようになれるのかをしっかりと考えられるようになった。

 故に、能元も戦の経験を重ねれば戦で自分の感情を配下に押し付けるのではなく、戦で重要な事は何なのかを分かってくれる筈だと考えていた。

 結局、それは希望論でしか無く、現実はそう甘くはない。

 

「(やっぱり、肉親が死ぬのは枷になるのかねぇ)」

 

 今までの長重に無くて能元にあるのは戦う相手が肉親の仇であるという事だ。しかし、私情を戦に持ち込む事は戦では禁じ手である。

 将である能元もそれは十分に分かっている筈なのだが、重過ぎる重責があった。

 

「(顕元殿の背中は大き過ぎたんだな)」

 

 兄の死を目の当たりにした弟の気持ちが分からない訳ではない。

 

「(だが、戦は戦だ。あれにはまだまだ早かったのかもしれないがあいつがこれからは安田家を背負っていかないといけないんだからな)」

 

 配下の命を落とさせてまで主君は生きている事を彼が分かっているかは長重が知ったところではないが、気付いていないのならば当主としては失格である。

 そう断言出来るのは彼もまた甘粕家の当主であるからだ。

 思考を戦に戻すと重家側は水原城と八幡砦を奪われた為に徐々に孤立し始めている。

 新潟港は長重達が奪った為に安東家からの海路からの補給は分断した為に士気は低くなっている。しかし、時間を掛けていては今は静観している北条・佐竹・伊達がどう出てくるかは分からない。

 

「時間は掛けられないが、今の兵の数じゃあ返り討ちだな・・・・・・」

 

 焦って新発田城を攻めては能元の二の舞に遭う、重家は優秀な将だ。侮ってはならないと改めて自身の心に刻む。

 慎重過ぎるのは良くないが、ここは慎重に行くのにこした事はない。長重は重家側の主だった城の新発田城と五十公野城にこの事を知らせるように命じた。

 

「さて、どう出る・・・・・・重家?」

 

 

 

 

「そうか・・・・・・」

 

 重家はただそれだけを呟いて兵を下がらせた。そして、一人落ち着いた仕草でゆっくりと座った。

 部屋には誰もいない。静寂な空間でじっくりと考えられる。

 重家もこんなに早く長重達がここまで来るとは思っていなかった。

 本願寺の使者に時間はたっぷりあることを伝えたばかりですぐにそれを翻すなど恥ずかしくて出来ない。

 謙信が討たれた暁には重家は政景の下で筆頭家老になる事を約束されている為、今はぐっと堪える。それだけの恨みが重家にはある。

 兄である長敦が死んだ後、彼が立てた戦功は新発田家のものになる筈だったが、それがどういう訳なのか殆どが上田長尾家のものになってしまったのだ。

 失態など一度も起こしていないのに何故だろうか。

 答えは簡単だった。ただ謙信が一族重視の考えを捨てられなかったからだ。

 当時はまだ上杉家が能力主義からの完全な切り換えが出来ていなかった。考えてみれば仕方ない事の筈だったのだが、兄の事がある重家としてはどうしても承服出来なかったのであった。

 その後、徐々に軌道に乗った能力主義を見ていると重家は段々といらいらを抑えられなくなってきた。

 何故自身の家にはかれら程の恩賞を得られなかったのか理解出来なかった。

 過去の事を掘り返しても奪われた方の側が面白くないのは分かっても抑えられないものがあった。

 まるで彼の不満に漬け込むように本願寺の甘い言葉がやって来た。

 その時の上杉の状況を客観的に見てみても謀反は厳しいのは分かっていた。故に、当初は渋った。しかし、その内容を聞くと心が躍った。反骨心の勢いのままに動いた。

 最初は上手く行った。加地秀綱や加茂衆を味方に引き入れて新潟港を抑えて沼垂城と新潟城を建設して水原城を奪い取り、領地を拡大する事が出来た。

 東北の羽州でも安東や大宝寺などを中心とする反乱軍が躍動していた。

 蘆名が反乱の誘いに乗らなかったのは少し残念なところだったが、蘆名領が深雪で背後を突かれる心配がなくなったのが大きかった。 

 全軍を長重率いる上杉の新発田家討伐軍に集中させる事が出来た。ここで彼は一計案じた。

 当然ながら重家も単独で対抗出来るとは思っていない。仮に謙信が越中から脱出して反乱を抑えるという重家にとって最悪の事態も考えられる。

 その為に重家も同盟を組める勢力を探し、三つの勢力が目にとまった。北条・佐竹・伊達である。

 関東管領の謙信と関東管領を追い出して勢力を拡大した北条と羽州と南陸奥を取られて肩身の狭い思いをしている筈の佐竹と伊達との利害は一致する。

 すかさず重家は三家に使者を出して援軍を求めた。佐竹からは領地が離れている為に補給のみが約束され、陸路からの闇商人の取引でどうにかなることになった。

 未だに返答が二つの家から無いのが気になるがどこかは必ず出してくれると信じて重家は待っている。

 その間に能元が兄である顕元の仇だと勇んでやって来たが、地固めもせずに堅牢な新発田城をいきなり攻めるという愚策をしたために簡単に重家が追い返した。

 その後は能元も大人しくしていたが、重家が思っていた以上に長重率いる援軍が早く来た。迅速な行軍が持ち味の上杉軍であってももっと遅いと重家は踏んでいたのである。

 重家は焦らずに素早い動きで守りを固めて長重の攻勢に備えたが、その前に長重はやるべき事はしっかりとやって新発田城にやってきた。

 能元と違い長重は確実に新潟城と沼垂城を奪取して新潟港から来る安東家からの補給が断ち、重家が補給を行うのを難しくさせていた。

 それでも重家は慎重になって水原城へ援軍を出せなかった。しかし、それは裏目に出てしまい、水原城はあっさりと落ちた。

 さらに八幡砦も取られた為にあとは新発田城と五十公野城が残るのみとなり、窮地に立たされたといっていい。このままでは落城も時間の問題となってくる。

 苦境に立たされたと思った重家だが、ここで嬉しい吉報が舞い込んで来た。

 能元の暴走によって上杉軍に被害が出たという。

 それと同時に先程の水原城と八幡砦の凶報も舞い込んで来たが、向こうに被害を与えた事は重家からすると大きい。 

 上杉軍の兵の被害を考えるとまだまだ新発田城を囲まれるには時間が掛かる。五十公野城の兵と合わせれば外で戦える程の数となった。

 この好機を逃す程、重家は愚かではない。すかさずその日の夜に出陣を命じると長重がいるであろう陣に突撃をかけた。 

 長重が警戒している中、夜陰に紛れて上杉軍の前線に突入し、敢えて兵の多い中央に斬り込んだ。

 それでも決して無理をせずに突っつくように少しずつ被害を与える。

 前線を任されていた長重配下の将も警戒していなかった訳ではないが、相手が重家では相手が悪い。

 少しずつ後退しながら体勢を立て直そうとしたが、重家はそこで生まれた隙を逃さなかった。

 今度は後ろに控えていた隊に中央に目が行って手薄になった左右の陣を突かせて一気に攻勢を強くした。

 そのまま包囲するように長重隊の前線を追い詰めようとしたが、ここで報告を受けた長重の本隊が到来すると今度は旗色が悪くなると判断し、襲撃を受ける前に素早く撤退していった。 

 

「やはり、まだまだこれからだな・・・・・・」

 

 城に戻ると重家も少しばかり余裕が生まれてきた。さらにこの城の周りは湿地帯の為に上杉軍は迅速に行動をする事が出来ない。

 ここからは援軍が来るのを待ってしっかりと守って行くとしよう。まだ勝てる。負けた訳ではない。ここからだ。

 一人、部屋の中で重家の固い表情が少し和らいでいった。

 全ては新発田家の繁栄の為に。理想を叶える為に。

 

 

 

 

 

 

「申し訳ありません!」

「仕方ないさ。相手が重家じゃな・・・・・・お前はもう休め、後は俺がやっておく」

 

 ぺこぺこと頭を下げながら戻っていく前線を任されていた将を眺めながら長重は溜め息を付く。

 責任感を負うのは仕方が無い事だが、相手が悪過ぎる。長重は一人になったところで響かない舌打ちを重家に対してした。

 長重は重家の夜襲は水原城での能元の敗北を聞いたからだと分かっていた。そうでなければ重家も動く事はなかっただろう。

 しかし、ここで手をこまねいているとまた重家は攻撃を仕掛けて来る。

 兵の数は減ったばかりですぐに攻撃を仕掛ける事は出来ないのでやはり援軍を待つしかないが、海路からの補給路を断っている以上は新発田城も長くはもたない。

 重家もそれを知っているからこそ速攻を望んでいる筈。その為の夜襲だったということは長重も分かっている。

 湿地帯という条件は向こうも同じである。騎馬隊の攻めがあまり期待できないというのは城を攻める側からすればあまり軍に影響は無い。

 どちらかというと今は攻め手が限られている重家の方が不利である。

 守りを固めて藤制が率いる別働隊が戻ってきて総攻撃を仕掛ける事が可能になる時まで耐えるのが一番の上策だと結論付けた長重は休む間もなく立ち上がって陣の再編に取り掛かった。

 

 小池半助という人物が甘粕家に仕えている。彼は主君である長重と共にこの城攻めに加わり、今は新発田城の監視の為に前線にて防衛の為に指揮を執っていた。

 もちろん、彼も重家の恐ろしさは十分に理解して警戒を続けていたが、それでも彼が勝てる相手ではなかった。

 夜襲を受けた時も彼はしっかりと自ら陣の見回りをしていた。

 報告を受けた時にはやはり来たかと馬に跨がって防戦の為に陣を整えた。

 しかし、名将新発田重家が甘粕家の家臣である半助に遅れを取るわけがなかった。

 あの時長重の到着が遅れていたら半助も敵に討たれていたかもしれない。

 半助という男は生来生真面目で長重とは正反対の性格だったが、何かと馬が合うためにここまで屋台骨のような存在として長重に可愛がられていた。

 その性格の為に前線でも最前線に立って指揮を執っていた今回は危うく命を落としかけたが、どうにか長重の援軍で助けられた。

 とにもかくにも全力を出した長重の活躍に助けられて彼からは責任を感じる事は無いと言われ、他の仲間からも仕方ないさと肩を叩かれたが、あてがわれた幕に戻るとがっくりとうなだれてしまった。

 勝とうとは思っていなかった。少しでも長重が来るまで時間を稼げればいいと捉えていたが、重家の巧みな戦術には付いて行く事が出来なかった。

 半助とて一介の将である。戦となれば勝利して功を立てたいと思う。

 たとえ相手が格上であっても。否、格上だからこそ勝ちたいと思う心が出てしまうのが人の性である。格上に勝てばそれ程周りからの賞賛の声もかなりのものとなるのだから。

 しかし、現実は違った。やはり負ける時は負け、格上になればやはり戦の仕方が変わって来る。悔しいが捉えないといけない現実はつらい。

 もう少し何か自分にやれない事はないだろうか。別働隊が戻って来るのは彼の耳にも入っている。それまでにまた重家が攻撃を仕掛けて来るのは半助も分かっていた。

 その時はおそらく長重が自ら指揮を執るだろうがそれでもどこかに負けた自身がやれる事はある筈である。

 だが、負けたという事を考えるとまた彼の肩に責任感がのしかかって来る。

 他の者達には今日はゆっくり休めと言われたが、寝ようとしても何かと寝付ける事が出来ないままにごろごろと寝返りをうってばかりで四半刻は経っただろうか。

 気を静める為に外の空気でも吸っておこうと長重は外に出た。

 星空を愛でる程彼には教養は無いが見ていて美しい。横になっているよりもこうして寒空に輝く星を見ている方が彼は疲れが取れる気がした。

 どこかから人の声がした。何度も何度もその声はどう聞き返しても聞き覚えのある声だ。

 慌てて行ってみるとやはりその姿だった。しかし、その姿に普段の軽い感じは受けない。寒さ故に出る白い息を吐き、汗をかいて兵に指示を飛ばしているその姿は紛う事無く主君の長重その人だった。

 

「半助、お前は戦で疲れているから寝ていろって言っただろうが」

「それは甘粕様も同じでしょう?」

 

 咎める主に頭を振って半助は笑って近付く、明らかに冗談めいている表情が彼の真面目さ故に出る不器用さが滲み出ている。

 

「お前は俺と違って最初から前線に出ていたんだ。疲れは俺よりもある。無理すんな、ここは俺で十分だよ」

「はは・・・・・・私も甘粕様が珍しく真剣にやっているのを見ると疲れている場合ではありません」

「・・・・・・どういう意味だよ」

 

 珍しく冗談を言った半助に長重は少し驚きながらもじとっとした目で睨む。

 半助は気にせずに長重に「手伝いますよ」と言うと長重の止めも聞かずに兵に指示を出し始めた。

 後で半助自身が気付いたが、長重の命に半助が嫌だと言う事も珍しかった。

 

「まさか、半助があんな事を言うとはな・・・・・・」

 

 さっきまでの件で少し呆然としている長重に半助が「周りを見てみなさいな」と笑って言う。

 言う通りに見回してみると長重は気がつかなかったのだが、半助と同様に配下の将達が足軽兵と一緒に長重の指示の下で動き回っている。

 皆がいつ来るか分からない重家の襲撃に神経をすり減らしている筈なのに誰もその影響からくる疲れを誰も感じさせていない。

 本当ならさっさと寝込みたい筈なのになかなかどうして、良い意味で長重を裏切ってくれる。

 

「しょうがない奴らだな・・・・・・まったく・・・・・・」

「いいじゃないですか。私達も長重様の珍しい姿を見ると頑張りたくなるんです」

 

 周りにいる将兵問わずに全員がうんうんと頷いている。その顔には疲れが見える者もいるが、作業を止めようとする者は居ない。

 

「ったく・・・・・・お前ら、戦終わったら覚えておけよ・・・・・・」

 

 毒を吐きながらも長重は嫌そうな顔をしない。何故ならこのような状況も嫌いではないからだ。

 

「甘粕様、ここには誰が着きます?」

「ああ、ここはだな・・・・・・」

 

 一人の配下の将が長重に今度の戦に備えての配置を確認する。長重の影響がある意味良い反面教師となったのか甘粕の家臣は真面目な者が多い。

 

「失礼します。甘粕様、兵糧の確認ですが・・・・・・」

 

 半助もさっきと違ってすっかり真面目になっている。相変わらず切り替えが早いと長重は密かに感心してしまう。

 兵糧は未だに尽きてはいないが、与坂城からの補給も段々と厳しくなっている。

 長重もそれは知っているからこそ早く新発田城への攻撃を開始したいと思い、別働隊が来るまでの間の防衛策を模索し続けている。

 重家とまともに渡り合えるのは長重一人である以上は重家は長重の指揮が行き届かないような戦略を練ってくるのは明らかだ。

 それを乗り越え、援軍が来れば勝利は確実に見えて来る。

 全員でこの後の戦に勝って上杉家を天下への道へと進ませる柱となる。また阿呆な家臣達と一緒に酒を飲んで馬鹿騒ぎをしよう。

 心に真剣な思いをしまい込んで将兵に指示を飛ばす。

 後は天が向けてくれる運次第だ。主君では無いが、たまには祈ってみるのも悪くないと長重は汗を流しながら思った。   



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十七話改 命かけてます

 職定はゆっくり立ち上がって天神山城からの光景を眺め見る。

 別に上杉軍が来襲したとか危機が迫っている訳ではない。ただ城からの何の変哲もない風景だ。

 しかし、職定は笑う。ただ笑う。ここに自分が居るという事は上杉の息の根ともいえる謙信と景勝を越中に留めることにほぼ成功したのだから。

 忘れられない恨みを晴らす為に

 

「ここまでは順調。後は詰めるだけか・・・・・・」

 

 一人静かに呟くと律儀にも家臣の一人が近付くが、何でも無いと首を振って家臣達を下がらせる。

 松倉城が取られる心配もあったが、それは杞憂となった。

 ここに来るまでにそのような報告は上がっていない。そもそも天神山城を落としたところで松倉城が落ちてもそれは所詮は悪足掻きというやつだ。

 

「それでも上杉に対して一歩も退かない加賀勢は凄まじいな・・・・・・」

 

 松倉城には椎名康胤らの代わりに加賀の一向一揆勢が入っている。

 職定は椎名の家臣ではないが、この戦いでの松倉城の重要さは十分に分かっているし、越中の者として東側を制圧するに必要な城であることも承知している。

一向一揆勢を借り受けて松倉城を攻めようと康胤の進言してかれらに上杉軍が来た時の対処法を指示したのも全て職定であった。

 しかし、康胤からすると相手が上杉軍という懸念もあった。向こうは鍛え上げられた精鋭。一向一揆勢は元をたどれば所詮は装備も疎らな民。数の暴力があるとはいえ職定はどうしても不安を拭えなかったが、松倉城に入った彼らはその不安を期待に変えてくれた。

 上杉軍の援軍として松倉城に入った小国頼久の隊を指示通りの動きで撃退した。

 この報告を受けた時に職定は驚き、一向一揆勢に対する評価を改めた。

 民であるが故の絆のようなものが深いのだと確信に近いものを感じた。そして今、上杉軍の本隊相手に松倉城をしっかりと守っている。

 松倉城の堅牢さの御陰でもあるが、上杉軍という名前を聞いただけで怯える者も居るというのにかれらは怯えるどころかむしろ向かって行っている。

 

「流石と言いえば流石だが・・・・・・」

 

 職定は一向一揆の結束力を頼もしく思っていた。かれらの信仰する浄土真宗は端的に言えば「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで極楽浄土に行く事が出来るという教えである。

 民達は乱世という生き地獄に居るならば死んでから楽になりたいという訳であろう。

 かつて京で仏教宗派勢力同士の争いに敗れて加賀に下野したが、教如がその簡単な教えで民の心を掴んだのは誰もが知るところである。

 その後、再び力を盛り返した浄土真宗は京に戻り、今は本願寺を中心に絶大な勢力を築いている。

 職定自身は武将である為に民の心を理解するには限界があるが、乱世を憂いているが故に分からない訳ではない。

 だが、職定はその一向一揆勢の恐ろしさも一方で感じていた。

 一度だけかれらを晴貞から借りる際に見た事があるが、かれらはただ命令に忠実で首を縦に振るだけで感情の起伏など無い。

 職定の放った斥候からの報告が彼の背中をさらに冷やした。

 死ぬまで一歩も退かずに死んで行き、死に対する恐怖も無くただ敵に向かって死んで行き、表情を変えないまま西に頭を向けて死んで行く。

 武将である職定でさえ戦で死ぬ恐怖を持っているのに民であるかれらは死ぬ事を怖がらないのか不思議だった。

 両手を広げて素晴らしいと言っても良いのかもしれないが、職定はどうも合点がいかない。

 本願寺への忠誠心というよりは職定にはどちらかというと一向一揆勢の忠誠心は晴貞に向いている気がしてならないのだ。

 かれらの信仰に対する篤い思いが浄土真宗に対するものではないと職定は感じるようになっていた。

 

「いずれにしろ今は味方、大丈夫だ」

 

 疑問が残っても浄土真宗の庇護の下、長職の娘である長住を当主として神保家を再興させる。

 職定の最終的な目的はこれである。念願を叶える為に上杉は潰さないといけない。

 一向一揆勢と上杉家。越後を治めている以上は北陸全土に宗教国家を築く野望がある本願寺とは相容れない仲である。

 それに上杉家は神保家に屈辱を与えた間接的な原因でもある。

 復讐心を抑える事が出来なかった職定は長住と共に主家の過ちを正す為に家を出てまで上杉家を倒したい気持ちが強く心にある。

 公より私を選んだと見られるかもしれないが、職定は職定で神保家を守ろうとしている。

 元々彼は人徳の厚い将だった。その為に本来なら長職もこちら側に誘って神保家の全てを挙げて上杉家と対抗しようとしたのだが、邪魔者はどこにでもいる。場合によってはそれは自分の権勢にまでしゃしゃり出てくる。

 

「あの馬鹿さえいなければ・・・・・・」

 

 毒を吐いた矛先は言うまでもなく小島職鎮である。彼は上杉家との因縁を捨ててかれらに靡いている。その為に主君の長職も上杉家与党になってしまっている。

 職鎮が何か吹き込んだのだと彼は信じて疑わなかった。この戦はその害毒の膿を神保家から抽出する為の戦いでもある。

 今でも彼は長職を上杉家へと心を向かせているに違いない。

 しかし、職定からすると長職だけでも職鎮によって支配された心から解放して本願寺から向けられている仏敵の対象から外したい。

 長職と長住の親子の醜い骨肉の争いを終わらせ再び親子仲良く元通りにと職定は心の底から篤く思っていた。

 

「これが神保家の損にならないようにしなければ・・・・・・」

 

 職定は立ち上がり、将を集めて越後から来る上杉軍の援軍を迎え撃つ為の準備を始めるように命じた。

 

 

 

 

 軍議ではさほど重要な情報も危急の知らせも無く、ただ顔合わせで進んでいく。

 

「・・・・・・他に何か意見はあるか?」

「某から一つ・・・・・・」

 

 軍議も佳境に差し掛かった頃。締めとして配下を見回すと一人の将が声を上げる。

 

「どうやら民が流入しているようですが、いかが致します?」

「迷う事はない。迎え入れてやれ」

「しかしながら、殆どが越後から来た者共ですぞ」

 

 他の将も戸惑いや反対の意見を述べている者が多い。しかし、職定は揺るがない。

 

「民に何の罪がある?」

「いえ、その・・・・・・」

 

 民が頼って来たのであれば無碍に追い返すなど出来る訳が無い。かれらは生活の日を求めているのだ。職定の正論に将は言葉を失い。最終的には頭を下げてしまった。

 

「密偵の可能性があるのでは?」

 

 配下の者達が言いたい事も分かる。

 だが、簡単に読めるような策を上杉家の軍師達がするとも考えられなかった。

 それに職定の人徳が苦しんでいる民達に救いの手をのべてやりなさいと言っている。第一に謙信が民を間諜に仕立てるということ自体有り得ない。

 

「兵糧に余裕はあるか? あるならかれらに与えてやれ」

「よろしいのですか? かなり厳しくなりますぞ」

「民があってこその国だ。迷うな」

 

 何と慈悲深い御方であろう。改めて職定の度量の深さに配下の将達は頭を下げた。

 民達は快い職定の歓待を受けて大変嬉しそうにしている。

 その着ている服を見てみると誰もがぼろぼろでいくら何でもこれはないだろうというぐらいの汚れっぷりである。

 仕事を終えた職定が夜になって自ら何故越後から逃げて来ているのか聞くと民達は口を揃えてこう言った。

 

「坂戸の長尾政景様が春日山と飯山の兵が出陣したのは越中の援軍に行くと見せかけて実は反乱を企んでいると言い回っているんですだ」

 

 道理で動きがないと思っていたらそのような事を考えていたのかと職定は内心にやにやと笑いながら政景の策に感服していた。

 この流言を上杉軍にばらまけば簡単に謙信達は疑心暗鬼に陥る。

 政景はがら空きとなった越後を難無く奪い取り、職定が保護した民達を越後に戻す事で生産性の糧を壊す事無く越後を早く再興させる事が出来る。 

 

「なかなか考えた・・・・・・流石は長尾政景殿だな・・・・・・」

 

 戦いの天秤は反上杉に傾き続けている。

 もうすぐで謙信達の首だけとなった姿を見る事が出来ると思うと職定は心の高ぶりを抑えるのに必死であった。

 夜が長く感じる季節で夢の中で彼が見たものは何だろうか、それは彼がこの戦の終焉に見るものと同じであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方の神保長職は富山城の中で一向一揆勢の攻勢を受け止めて早数週間。

 城内への侵入を全く許さずにここまで守り抜いている。

 富山城にいるのは約一千五百。対する一向一揆勢は一万以上。兵力だけで十倍の差があるこの戦いでしかも援軍も無い悲壮感漂う中でこの戦況を保っているのは賞賛されるべきものである。 

 しかし、それはこのまま一向一揆勢が退いてくれればの話で負ければそのような話は歴史の暗闇へと消えて行くだけ。

 孤立無援の富山城の中で長職はじっと目を瞑り、動じること無く座っている。その場では配下の将達が指示が下るのをはらはらしながら待っている。

 

「申し上げます! 敵軍が三の丸への攻撃を開始!西と南から攻め込んでいます!」

「慌てるな。前線に伝令、怯む事無く防げと。職鎮は西、勝重は南、それぞれ三百ずつを連れて援軍に向かえ」

「「御意」」

 

 小島職鎮と水越勝重。神保家の重臣中の重臣が勇んで出て行く。

 伝令兵がもたらしたその報告を聞いてもう何度目だろうか。長職の将兵は傷が付いていない者がいない程加賀と能登の軍勢に攻め込まれていた。

 疲労困憊の中で長職は涼しい顔を崩さない。彼自身も自ら白刃を血の色へと変えている。

 だが、その勇姿に城内の兵は勇み立ち相手の兵は恐れおののく訳ではない。

 厳密に言えば能登の軍勢は恐れているが、加賀の軍勢は全く恐れを抱いていないように見える。

 確かに富山城に籠もる兵の数の方が少ないのだが、当主自らがその武勇を振るい、傷一つも付けないで戦っているのを見ると普通は近寄りがたいものを感じる筈。

 しかし、彼は見ていた。全く表情も変えずに覇気も無いままに向かって来る加賀の兵の無秩序な襲来が嫌でも目に入ってくる。

 富山城を攻めている加賀の兵は正規の兵士の為にきちんと武装しているのだが、別に凄いと思える程鍛えられている訳でも無く、長職であればかり簡単に打ち払う事が出来る程度であった。

 

「とはいえ数は向こうに利があるか・・・・・・」

 

 質よりも数が重宝されるのはいくら鍛え上げられた兵士でも数打ち当たり勝負すればいつかは絶対に負けるからである。

 こちらは籠城しているとはいえ被害は日に日に増えている。

 それは向こうも同じだが、数が減っていくのが早いのは兵が少ない富山城である。守りが崩れるのは時間の問題であった。

 それでも彼は富山城を守らなければならない。

 彼は晴貞の内部に隠されている狂気を知っていた。

 それは本当の偶然だった。だが、長職ははっきりと見た。晴貞が加賀の国内からお忍びで越中西の長職の領内に来ている事を。

 本来なら捕らえるなりした方が良かったのだが、長職には椎名家との争いがある以上は加賀と越中東の挟撃を避ける為にも動かずに静観する事にした。 

 そして、自ら足を運んで晴貞を監視していた際の事。

 農村で晴貞の足がぴたりと止まった。視線の先を見てみると綺麗な女性が一人で野良仕事をしている。

 

「(まさか・・・・・・)」

 

 嫌な予感しかしない長職は晴貞の行動を瞬きもせずに見守る。見てしまった。

 晴貞は周りに誰もいないのを確認するとその女性を素早くかっさらい、どこかに連れて行った。

 追って行き、その場で問い質す事も考えたが、長職の足は動かなかった。

 晴貞を咎めて加賀の機嫌を損なわせる事はその時の上杉や椎名のことを考えるとあまり戦略的に良しとは言えなかった。

 

「(すまない・・・・・・)」

 

 心でその女性に深く深く頭を下げて長職はその場をひっそりと後にした。

 その後、件のの女性が死体で見つかったと聞いた時は晴貞の手で行われたとすぐに分かった。

 長職はその事について口を開く事は無く、結局女性を殺した犯人は今でも分からないままになっている。

 彼は黙ることを貫いた。その中で晴貞への不信感を募らせた。

 だから職定が晴貞に合力しようと誘った時にはすぐに反対した。

 何故と聞かれても彼は上杉と組んだ方が明日があると言うだけでそれ以上は言わなかった。

 長職は神保家の中にも晴貞の間諜がいる事は分かっていた。故に、それを言えば間違い無く晴貞は越中の一向一揆勢を煽って蜂起させて加賀の軍勢を越中に向ける。

 それだけは何としても避けたかった。一方で、あんな晴貞と手を組むのも絶対に嫌だった。

 職定は表面だけで彼の裏を全然分かっていない。だが、彼は晴貞の表面の偽物の人間性にすっかり取り込まれていた。

 さらに長職の頭を抱えさせたのは実の娘までもが晴貞の偽の魅力に取り憑かれていたのだ。

 長職も私では父親である。娘の長住に晴貞と会わせてみるものなら何をされるか分からない。

 身内贔屓をしても可愛いらしく育った愛娘があんな下郎の下に入る事を考えるだけで長職は気分が悪くなる。

 しかし、斥候からの報告を聞けば長住は晴貞と共にいるという。

 

「(早く長住を助けてやらなければ・・・・・・)」

 

 逸る心はあっても神保家当主として家の存続の為に長職は戦わなければならない。守るべき民達が将兵が、あの蛆虫のような輩の下に入る事を何としても避けないといけない。

 私情に走って多くの人を犠牲にする事は出来ない。

 

「申し上げます! 敵軍から矢文が・・・・・・」

「また降伏しろという催促だろう? 懲りないものだ」

 

 このところ毎日のようにやって来る。そのせいで兵の士気は落ちるばかりだ。だが、降伏したところで晴貞のおもちゃになるのは死ぬ事以上に御免である。

 それは長職だけでは無い。配下の将兵も同じ目に遭う。分かっていない兵の士気を上げるのは難しい。

 

「(何としても踏ん張らなければ・・・・・・)」

 

 長職は立ち上がると矢文を持って外に出た。

 外では将と兵がこの冬に汗にまみれて戦の前線に出ようとしている。長職の姿を見ると何人かが膝を着くが長職はそのままで良いと手で制する。

 それがしばらくの続いて長職がようやく三の丸に着いた時には神保家の将兵は長職の事など気にせずに戦っていた。

 血生臭い臭いが漂い、敵味方のものなのか区別が付かない死体が転がっている。

 ふと長職が見ると刀を合わせている味方の兵が死体に足を取られて倒れているのを見た。

 

 兵は農家の次男として産まれた。長男が家を継ぐのが当たり前であるこの時代では彼は実家に居ても意味がなかった。

 そこで彼は神保家に入った。特に何か能力があるわけでもない彼は生きる為に必死で敵の人間を斬ってきた。

 最初こそ何故このような事をして普通でいられるのかと先輩の兵に聞くようなこともあった。

 その時、彼に聞かれた兵はこう言った。

 

「お前もあと二、三度戦場に出れば分かる」

 

 疑問だった。本当に分かるのだろうか。

 結果はその通りだった。彼は自覚していなかったが、三度目の戦。人を殺す事に何も感じなくなった時、彼は生死の価値が分からなくなった。

 彼に倒されて怯える敵兵を見ても何も感じなくなった。血が冷たくなり、怯える理由が分からなくなった。

 戦場は生と死が背中合わせの筈。何を怯える必要があるのか。しかし今、彼は死への恐怖を味わっている。

 

「(まさか自分が殺った敵兵に足を取られるとは・・・・・・これが俺にやられた奴らが味わった恐怖なのか・・・・・・)」

 

 目を閉じて首を取られるのを待つ。最期に不思議な敵と出会った。

 無表情で斬っても斬っても変わらない表情のまま死んで行くかれらに死の恐怖はあったのだろうかおそらく無かっただろう。今の自分がそうだから。

 目を閉じると顔に血が当たる。

 

「(温かい・・・・・・温かい?)」

 

「えっ」と思いながら恐る恐る目を開けると一人の将の背中が見えた。将と分かったのは明らかに着ているものが違い過ぎるからだ。

 将の手には血で赤くなった刀が握られている。その人の足元を見てみると今まさに相対していた敵が死んでいる。相も変わらず無表情なままで。

 

「大丈夫か?」

「えっ・・・・・・」

 

 振り返ったその顔には見覚えがあった。普段から戦線で自分達兵を鼓舞しているその姿は忘れる訳がない。

 呆然としながら兵が頷くと将も頷いた。そして、兵を救った者は周りを見ると持っていた文を高く掲げた。

 

「これを見よ! 晴貞は愚かにも私に降伏を勧めてきた!」

 

 兵士も周りの兵もその突然の行動に呆気に取られている。それでも構わず将は続ける。

 

「私は神保家の主として宣言する。加賀の兵共、晴貞に伝えろ! 断固としてこれは拒否するとな!」

 

 そう言うと将は躊躇いも無く、その文を破り捨て踏み潰した。

 その姿は勇ましく、頼もしく、どこか悲壮感漂うものだった。

 一介の兵士には何故そのような悲壮感を抱くのかは分からないがそれでもその疑問を吹き飛ばすような眩し過ぎる姿を兵士は見た。

 

「神保の将兵達よ、生きよ!」

 

 ただ生と死の二つの内、この逆境で生を選択した神保家当主を崇めた。

 富山城は加賀・能登勢の攻勢を夜まで受けたが、結局この日も城を守りきった。はっきり言って被害はここまでの攻防戦の中で一番多かった。

 しかし、兵の顔には勇ましいその表情が戻っていた。

 長職の徹底抗戦の姿勢が諦めが見え始めていた兵の心に再び火を点けたのである。夜中に城に残っていた酒が将兵全員に振る舞われた。

 将兵は騒ぎすぎない程度に騒ぎ、自らの功を自慢しあっていた。その中には長職に助けられた兵士もいた。

 

 

 

 

 

 

 その日の松倉城の夜は明るかった。

 月は新月、夜は真っ暗闇になっている中でそこだけが輝いているように見えた。

 

「綺麗だね・・・・・・」

「・・・・・・はっ?」

 

 颯馬が素っ頓狂な声で火事場にはまるで合わない発言をした官兵衛を見る。

 

「あたしの弟子がねよく言ってたんだ。『遠くから夜に見る明かりはたとえどんなものだろうととても綺麗だ』って」

 

 遠くを見て過去を思い出している官兵衛にはその小さな身体からは出せない筈の保護者のような雰囲気が出ている。

 何でだろうと颯馬が思っていると官兵衛が突然睨んで来る。

 

「・・・・・・今、何か変な事思わなかった?」

 

 大当たりです。などと言える筈なく、颯馬は首を横に振って強引に話を逸らす事にした。

 

「でも、あいつってたまに柄に合わない事言うよな・・・・・・だけど確かに言われてから見てみると・・・・・・」

 

 少し遠目から見るようにしてみると確かに少しは颯馬にも綺麗に見えるかも。

 

「やっぱり俺には見えない」

 

 がくーっとずっこける官兵衛。颯馬は改めて人の美的感覚はそれぞれであると確信した。 

 

「あいつって軍師以外にもこういう事に才能あるんだよね~」

「やっぱり柄に合わないな~」

「あたしもそう思う~」

 

 大柄な彼が文化に目覚める姿は確かに少し滑稽が過ぎるだろう。親憲の女装に近い感覚かもしれない。

 吹き出しそうになったのをぐっと堪える為、身体を屈めた颯馬を見て官兵衛は訝しげに彼を見るが、何でもないと颯馬は言うと二人は松倉城を見上げる。

 城の木材と城内の兵か民か分からない者達という材料を得ながら紅蓮の炎は一晩中燃え続けるだろう。

 その炎は上杉軍の逆転への狼煙かそれともただの一向一揆勢への悪足掻きとなるのか。

 自身達が春日山城を眺めることが出来るかそれとも戦場の土となるか。

 かつて自身を拾ってくれた謙信ではないが、運次第の結末になるだろうと颯馬は思いながら松倉城に背を向けた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十八話改 雪に願いを

 水原城と八幡砦を落とした藤資率いる別働隊は長重が囲んでいる新発田城の本陣に帰って来た。

 勝利を収めたにもかかわらず、その空気は重苦しく、熱気ある歓声を上げて出迎えた本隊の間を進む間も細い隊列だけが別世界のように寒い。将達が歓声に応える姿にもどこか悲壮感が漂っている。

 長重はそんな藤資達を丁重に迎え入れ、その雰囲気から勝利の報告よりも一人の若者の事の方が気に掛かった。彼がどこにもいない。

 

「能元はどうしたんですか?」

 

 開口一番、労をねぎらうよりも先に長重が聞くと藤資が自身の首を指ですっと払った。

 黙っている長重をじっと藤資は睨むような目つきで見ると首桶を持たせる。中を見て長重は目を見開いた。入っていたのは紛い無く安田能元の首だった筈だ。

 

「違う・・・・・・」

 

 入っていたのは八幡砦を守っていた将の首だった。

 

 

 中条景資にとって父である藤資は偉大な存在だった。謙信が旗揚げした時からその秀でた武勇を以て上杉家家臣の筆頭として同じく年長者の定満と共に長年主君を支えてきた藤資は上杉家将兵全員から慕われる存在である。

 景資が三十路を過ぎても未だ彼に家督を譲らずに現役として最前線で戦っているのには実の子供である景資も半ば呆れているが、それも頑固な父らしいと残りの半ばは諦めている。

 更に以前の伊達との戦での鬼庭左月の戦ぶりを見ていると老害で居るのも元気でいられるからだと思うようになり、別にいいかというような感じに最近はなっていた。

 故に、繁長達から聞いた能元との一件の後に零した言葉を聞くと父は弱気になったとは思わなかった。ただの冗談だろうと片付けた。

 案の定その二日後から始まった表八幡での八幡砦攻防戦では従来の勇猛さを遺憾なく発揮した。

 やはりたまに零すぼやきだと父を見る息子は思った。

 

『藤資殿の事をよく見ておいて下さい』

 

 繁長や勝長から耳に蛸が出来る程言われたが、景資はさしてその言葉を気にする事無く、そのまま普段通りに父と接した。

 しかし、その藤資のぼやきは現実だった。景資は見た。目の前で目の当たりにした。

 八幡砦を落とした次の日だった。陣幕で五人の話し合いが終わり親子二人になった瞬間だった。

「ぐっ」という低い声がしたと思うと藤資の身体がぐらっと揺れて倒れそうになった。

 気付いて陣幕から出掛けていた景資が駆け寄ってどうにか彼の身体を受け止めて椅子に座らせたが、顔色が青くなり息が荒くなっている。 

 弱々しい父の姿を初めて見た景資は慌てて従軍している薬師を呼ぼうとしたが、その行動を藤資は「やめい!」と声を上げて遮る。景資が振り返ると相も変わらずの真っ青な表情で息も絶え絶えである。

 

「しかし父上、戦いはこれからだというのにその身体では」

「儂は大将だ。大将の身体に異変があるなどと兵が知ってみろ、たちまち士気は落ちるわ」

「だからといってそのままで居ては肝心な時に倒れてしまいます」

「くどい! 大丈夫だ。この戦いの間だけでももたせる・・・・・・」

 

 そう言うと藤資は立ち上がって景資に誰にも言うなと釘を刺して陣幕を出て行った。残った景資はすぐにこの事を密かに長重達に伝えた。

 

「幸い父上はこの戦いの大将、後ろに引っ込ませておく事が出来ます」

「大将だから後ろで戦況を見守っておくって事か?」

「ええ・・・・・・」

「分かった。長秀殿、藤資殿の隊は後ろに配置するように出来ますか?」

 

 長秀は長重に頷くとすぐに頭の中の思考をめぐらす。彼女は部隊の配置を藤資から一任されていた為に頭に描いていた配置を変更する事は容易だった。

 

「とはいえあまり後ろに配置する事は少し考えた方がよろしいかと」

 

 五十公野城の信宗が動く事は長秀の頭の中で既に想定される事として入っている。 

 故に、藤資を後ろに置くということは背後から襲来した五十公野の兵と戦う事を意味する。

 

「ちょうど中央に配置して景資殿が前を私が後ろに付いて動かないようにしては如何でしょうか?」

「いいな、勝長の案に賛成だ」

 

 長重以外の者も頷いた為、四人はそれで解散して各々の仕事に向かった。

 翌日に長秀は布陣を全ての将に発表した。藤資からはやはりと言うべきか前に出させろと要望が出たが、長秀は普段の冷静さを装って頑なにこれを拒む。

 

「大将たる御方は武勇ではなく、兵の指揮をしっかりと執って頂きたい」

 

 長秀は決して折れる事なく藤資を懇々と説得したおかげで渋々ながらも承諾してくれが、その日の藤資はたいへん不機嫌で息子の景資も近付けなかった。

 しかし、不機嫌と命は明らかに後者の方が優先させられる。やむを得ない措置として藤資には秘匿としてこの戦を終わらせなければならない。

 その日の午後、兵法では集中力が切れて兵がだらける時と言われている時間帯、我慢の限界だった藤資の号令で先陣の景資が新発田城への攻撃を開始した。

 

 

 

 五十公野城は新発田城の東、加茂川の近くに建っている平山城で新発田城と共に新発田軍の重要な主城である。

 城主の五十公野信宗は新発田重家の妹婿で元は長沢道如斉と名乗っていたが、重家が新発田家を継ぐと五十公野氏の養子となった。

 元々、義兄同様に謙信の論功行賞に不満があった彼は今回の反乱にも二つ返事で快諾し、五十公野城にて佐竹との密かな補給を受け持つ役目を拝命している。

 今、上杉軍は新発田城に兵を集中させているが、信宗は慌てる事無く援軍を派遣する準備を進めていた。

 名将と越後では名高い義兄がそう易々と勝手知ったる自身の城を落とされる訳がない。彼には義兄に対する揺るがない信頼感がある。

 明日か明後日には出陣して新発田城に目が行っている長重らの軍を討ち、相手に休む間を与えずに奪われた城を迅速に取り戻す。

 冷静な信宗はただその二つの事を静かに頭の中で繰り返した。

 そして、頃合いと思った信宗は軍を率いてゆるゆると新発田城へ進軍していた。

 

「報告、新発田城へ上杉軍が攻撃開始」

「分かった。引き続き頼む」

 

 信宗がそう言うと物見は静かに頷いてまた新発田城へ戻って行った。信宗は相変わらず慌てる事なく軍を進める。

 重家ならば援軍が来る間の僅かな日数で新発田城を簡単に落とすようなへまはしない。

 背後からの急襲は敵の目が前に向いている状態で行わなければならない。新発田城は堅牢でなかなか落ちる事はない。上杉軍がそれで苛々しているその時に攻めるからこそ効果がある。

 一旦加茂川に寄って兵達に休息を取らせる。このような真冬に川で休息を取るのはやはり河原という広く多くの兵が休める所があるからだ。

 寒さのせいで誰も川に手を付けようなんてする馬鹿はいないが、全員が腰を下ろして息を吐いている。白い息が辺り一面に広がり約二千の兵が戦に向かうという事を忘れて思い思いに時間を過ごす。

 曇り空が広がり今にも雪が降ってきそうである。今年の冬は気まぐれな天候が続いた。

 最初は暖かい天候が続いて雪があまり降らないと思っていたが、急激に寒くなって一日で例年並みの雪の量が降ったりとその度に対応に追われる日々が続いた。

 しかし、年が明けると気ままな天気も終わり、例年よりも暖かい気候にようやく落ち着いていた。

 たまには毎年毎日のようにこの季節に見る雪も見てみたいと思う心理はさすがに働かない。

 長年冬の豪雪に悩まされていた越後の将や兵や民、今年の暖冬には全員が感謝していた。

 

「ぎゃああああ!!??」

「矢だ・・・・・・矢が降ってきたぞー!!」

 

 しかし、まさか空から突然雪でも雨でもなく矢が降って来るとは思わなかった。

 兵達は鎧を貫かれ串刺しにされていく、その中で信宗は冷静に辺りを見回す。

 矢が降ってきているのは河原から死角になっている林の中。伏兵ならそこまで多い数ではない筈だが、この兵達の混乱ぶりではどうしようもない。

 ここで退いては上杉軍の士気を上げ、背後を気にせずに新発田城を攻める事を可能にしてしまう。兵を捨て駒にして突破したとしてもその数の兵で新発田城へ向かえば返り討ちに遭う可能性が高い。

 

「(一旦退くしかないか・・・・・・)」

 

 そう思った時、上杉軍が矢による攻撃を止めて突撃を始めた。

 

「某に続け!!」

 

 先頭にはこの戦いで散々なまでに心を叩きのめされた若者であった。

 

「な・・・・・・あ、能元が何故ここに?」

 

 新発田軍には能元は先の戦の失態で藤資の怒りを買い処断されたとされていると聞かされていた。

 突然の奇襲に信宗から普段の冷静さは無くなり、頭の中は混乱の渦となった。

 能元が死んだと聞いた時は信宗も嘲笑った。老害となった藤資のようにはなりたくないと。しかし、その愚かな思考は修正せざるを得なくなった。

 

 

 

 

 

「・・・・・・なるほどな」

 

 事の顛末を聞いた長重は頭を無造作に掻いて馬鹿な若者の成れの果てを知った。

 藤資の刀は首の頸動脈ぎりぎりのところをかすめて傷だけが残っている。

 

「お前には特別に機会を与えよう。それが成せねば、分かっておるな?」

 

 そう言って藤資は能元に重要な命令を下した。

 今頃は五十公野城の近くに潜伏し、信宗を待っているのだろう。だが、嫌な予感しかしない。

 

「大丈夫なのですか? そのまま一人で」

 

 そこまで叩きのめされては長重も自身がそのままでいられるのか疑問に思う。また無理をする可能性も高い。

 

「そうしないとあれの為にならんだろ」

 

 ばっさりと藤資は斬り捨てる。一方で、彼は一つの策を思いついていた。味方の失態を利用する日が来るとは思わなかったが、これも勝利の為、この状況では卑怯もへったくりも無い。

 藤資は長重を陣幕の中に引き入れて策の説明をし始めた。

 彼も武勇の人であるとはいえ馬鹿ではない。七十を既に越えた年で現役を続けていられるのは衰えた腕を頭で補ってきたからだ。

 それでも藤資は武勇、定満が知略、端からはそう見られていた為にどうしても戦略面の藤資の姿は影が薄かった。

 今回はその事が逆に上手く行き、稚拙な策でも成功を収めたのだが、成功は成功である。ここからは遮二無二攻めるだけだ。

 

「五十公野信宗と見受ける! いざ尋常に勝負!!」

 

 早々と姿を確認され、名を呼ばれたことで冷静さを取り戻した信宗は舌打ちをしながらもやむを得ず撤退の合図を出す。

 背中を見せた彼を能元はすかさず追撃を仕掛けようとるが、寸前で配下の者が止めに掛かった。

 

「安田様、藤資様からの命令をお忘れですか?」

「ちっ・・・・・・ふん! 貴様がいなければこのまま五十公野城を落としたんだがな!」

 

 配下とはいえ直属ではなく、藤資からの命令で監督役を任された藤資配下の将がそれを止めると嫌味とも取れる発言を残して新発田城に戻る準備を始めた。

 

「やはり、あの態度は嘘であったか・・・・・・」

 

 心をへし折られてふらふらになりながら反省したかのように俯いていた行軍途中の能元は戦が始まるとすぐに息を吹き返した。しかも、性質がより悪くなってしまっている。

 戦前の演説で兄の事は語っても上杉家の事は語らなかった事から既にお目付役には嫌な予感を感じさせた。結果は案の定というやつだ。

 追撃を仕掛けるなと言われたにもかかわらず、無視して攻めようとしていた。

 

「藤資様が知ったらなんと言うだろうか・・・・・・」

 

 想像するだけで溜め息が出てくる。

 

『申し訳ありませんでした。これからは兄に盲信するのではなく、上杉の将の一人として励みます』

 

 藤資達の前で言ったあの言葉とは真逆の発言を能元はした。別に今回の戦いで何か失態を犯した訳では無いので大きく罪に問われる事は無いだろうが、さらに彼が疎まれる事になるのは確実である。

 藤資は血気盛んなところがあるのでこの事を知れば今度は手の付けられない程に激昂して勢いで能元を斬るかもしれない。

 まさに不協和音。

 状態を憂うような立場では無いと監督役の将は分かっていたが、上杉家に仕え、藤資に仕えている以上はこの状況は彼も望むような状況ではなかった。

 

「(ただでさえ今は一致団結の時だというのにどうしたものか・・・・・・)」

 

 能元をどうするかは分からないがしっかりと藤資には報告した方が良さそうだと監督役の将は思った。

 

 能元が信宗を撃退したという報告はすぐに藤資達に伝わった。

 背後に気を取られる心配がなくなった上杉軍は新発田城に攻撃を開始した。とはいえ新発田城は堅牢で守る将も名高い名将新発田重家。簡単に落ちる訳が無い。

 結局、その日では落ちず、撤退した後にお目付役の将から聞かされた報告に藤資は呆れたと溜め息を吐おた。

 気を紛らわす為に外に出ると夕暮れだった空があっという間に周りを闇夜に変えようとしている。

 目を閉じると風が一気に藤資を襲う感覚がした。慌てて身を引いて体勢を整えるが、ゆっくりと目を開けて周りを見ると兵達は何ら変わりなく動いている。

 まるで風など吹いておらず、逆に聞くのも憚られる程に平然としている。

 自身だけが浴びた強い風。しかし、それはこの世に生きている限り有り得ない筈の現象。

 

「(何かある・・・・・・)」

 

 長年、戦場で現実と向き合って生きてきた藤資独自の勘がそう言っていた。

 頼らざるものに頼るようなものだが、不安を抱いたまま藤資は早めに眠りに就いた。

 

 

 藤資の抱いた危惧は現実のものとなる。

 その日の夜だった。

 暖冬だった筈の天候が急激に寒くなり、陣幕にちらりと白い物体が舞い落ちた。するとその物体は時間を追う事にどんどんと量を増している。

 早めに寝ていたことですぐに起きれた藤資は「やはり」と呟いて武具を整える。

 

「まさかこの時に天が上杉を見放すとは・・・・・・この老骨の目の黒い内に上杉の天下統一をまみゆる事が不可能でも重家を取る事さえも許さぬのか・・・・・・」

 

 天が答える口を持っている筈がなく、その代わりと言うばかりに雪をさらに強くさせて地面へと降り積もらせている。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十九話改 燃えよ上杉軍

 上杉軍が松倉城を焼き払ったのは椎名康胤に大きな衝撃を与えた。

 火攻めがなかなか落ちない城を攻める際の常套手段であることは康胤も知っている。しかし、松倉城は越中の中で戦略的にも大きな価値ある拠点で、魚津城や天神山城を解放する際の拠点となる所でもある。

 それを簡単に落ちないとはいえあっさりと上杉軍が焼き払うとは康胤も頭に無かった。

 逆に言えば、上杉軍は松倉城を焼き払ったことで拠点が無いまま魚津城の救援に向かって来るという事だ。つまり、退路を失った状態の上杉軍を一度だけ戦に勝ってしまえば椎名軍の勝利は確実なものになる。

 

「されど死兵を相手にするとなると油断は出来んな・・・・・・」

 

 退路が無くなったことは下々の兵にも伝わっているだろう。兵法にもある通り決死の覚悟を持った軍程、面倒な相手は無い。

 今、背水の陣を敷いている上杉軍は正に死兵である。上杉軍の強さを聞いている康胤にとって恐れるべきことだ。

 

「まぁ、焦ることはない」

 

 しかし、余裕を崩さない康胤はほくそ笑みつつ水を飲む。

 椎名軍の眼前は角川という自然の障害がある。上杉軍がこちらにいつ来ようと現れてから準備しても十分に間に合う。そもそも上杉軍は角川を渡ることは出来ないだろう。

 

「申し上げます! 上杉軍が角川の対岸に現れました!」

 

 思ったよりも早く到来した上杉軍に目を見開きながらも焦ることは無いと再度心に言い聞かせながら兵に指示を出す。

 

「万が一だ。早めに魚津城に攻撃をかける。準備しろ」

 

 今から準備しても上杉軍は川を越えることは不可能であり、十分に間に合う。

 康胤は万が一に備えて息子の椎名兵部に角川に築いた陣の守りにつかせていたが、敢えて増兵させる必要も無いと動かない。

 目の前で越中では有名な角川の急流は相変わらずの早さを保ち、人や馬が入って足を取られればあっという間に下流へと流されるような感じである。

 それを分かっている息子の兵部も対岸にいる謙信率いる本隊にろくな構えもせずにただ形だけの構えをしているだけだった。

 

 一方の上杉軍は松倉城を官兵衛と颯馬、秀綱に任せて密かに松倉城から反転して主力をこちらに向けて虚を突いたのは良かったが、角川の急流に阻まれている為に歯痒い思いをしていた。

 

『元々運に任せた戦で角川の流れがもし変わっていたらってゆうあまり期待できないやつだけど、それでもこの状況を打破するにはこれしかないよ』

 

 謙信は新たに入った軍師、官兵衛の言葉を頭で思い返す。最初の内は敬語で通そうと無理して話しているのがバレバレで普通に話していいと言ったら本当に普通になったものだから謙信が拍子抜けしたのは余談である。

 

『あたし達は相手が相手だし何とかなるけど勝てるかどうかはそっちの戦に掛かっている。もし渡るのが駄目だったら松倉城から山を登って上流の浅瀬から無理やり天神山に下って椎名を叩く。その時はもしかしたら魚津城は包囲を解いてくれるかもしれない』

 

 最初と同様に推測であったが、こちらには確信があるというように声は毅然としていた。

 魚津城と松倉城のどちらを優先するかと問われて魚津城と答える者は越中の大名にはいない。焼かれてしまおうと松倉城が東越中の要地であることに代わりないのだ。

 

『でも、松倉城から山を下るのは結構きついからもしかしたら魚津城は間に合わないかもしれない。その時は・・・・・・』

「『覚悟して欲しい』・・・・・・か」 

 

 官兵衛が残した最後の言葉には重みがあった。

 魚津城を失うという事は越中における上杉にとっては影響力が無くなることを意味する。

 越中の覇権を巡って一向一揆勢と戦うのは上杉家にとって好ましくなく、これ以上、一向一揆勢の力が付くのも快く無い。故に、魚津城は越後に一向一揆勢を侵攻させない為に必要な砦であり、死守すべき防衛線である。

 更に魚津城に籠もる斎藤朝信の存在もある。

 朝信は軍事と政治の両面で上杉家の重きを担っている。彼が生きるか死ぬかで上杉家の土台の一部が崩壊し、立て直しにも時間を割くことになる。

 いくら有能な人物であっても呆気ない原因で死ぬかもしれない戦国乱世とはいえ朝信の死は上杉家にとっては何としても避けたい。

 軍師達のように冷酷なれば謙信もこの川の見て諦めただろう。迂回路を探して春日山城に戻り、魚津城が落ちても再び取り返す為に動いただろう。

 だが、謙信は戦闘好きではないとはいえ軍神と呼ばれている武人である。

 

「目の前の敵から全く覇気が感じられない。ああ舐められたら真似をされると・・・・・・」

「え・・・・・・?」

 

 隣にいた慶次が嫌な予感を感じて隣を見る。そこにはいたはずの謙信がいなかった。

 

 

 

 

 

 

「朝信様、敵が攻勢を開始しました」

「いつも通りに迎撃しろ」

 

 毎日毎日同じように攻めてくる康胤に朝信は飽き飽きとしたような声で家臣に指示を出す。しかし、状況はそんな呑気な状態ではない。

 既に周辺の砦を落とされてしまい、城内に入られて突破されそうになる二の丸を何度も朝信の巧みな戦術で追い返しているとはいえ数はどんどん減っている。

 当初いた一千五百の城兵は椎名軍と一向一揆勢六千の前にあっという間に一千になっていた。そして、今もまた兵が前線では数多くの倒れている。

 そこに舞い込んで来た三日程前の天神山城の落城は朝信が前門の角川、後門の寺島職定によって完全に孤立したことを意味している。

 実はこの状態になった時に何人かの兵が脱走して敵に投降を試みていた。普通ならば見せしめに首でもはねて城門に晒すところだが、朝信は怒るばかりか笑い飛ばしていた。

 

「まぁ、いいじゃなねぇか。その者達は命が惜しいのだろう」

 

 しかし、翌日の朝。かれらは驚きの光景を目の当たりにする。

 脱走した兵達が全員処刑されて首を陣に晒されているのだ。そればかりでなく、その顔には目を抉られて代わりに小石らしきものが詰められているという何とも残忍過ぎる所業をされていた。

 向こうからするとそれで上杉軍の士気を下げて一気に城を落としてしまおうという腹積もりだったのだろうが、上杉軍はそんな貧弱な者の集まりでは無い。

 それを見た途端にかれらは怒りを士気へと代えて攻撃を仕掛けて来た椎名軍を散々に打ち倒してしまった。

 そして、今度は逆に椎名軍の兵の一部を生け捕りにして椎名軍がした以上の処刑をしようと兵達はいきり立ったが、朝信はそれを許さなかった。

 

「そのような報復行為をすれば誇り高い上杉軍の名に関わる。生け捕りにした兵は武器を廃棄させて解放してやれ」

 

 兵達は不満げだったが、朝信は今後の上杉家の為に繋がると考えてのことだと説得するとそれなら仕方ないと言われた通りにすぐに解放した。

 報復行為を正当化するのは難しい。報復行為をしないようにさせるのはそれ以上に難しい。

 だが、難しいことを行うことが出来れば見返りは非常に大きくなって返って来る。

 しかし、勝たなければこの慈悲も意味の無いものとなってしまう。この状況下では勝ちは絶望的かもしれないが、それでも信じていた。

 

「斎藤様、二の丸が突破寸前の由!」

「行くぞ、俺達も前に出る!」

 

 最後に勝利するのは上杉であると胸に秘め、朝信は城内から飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 官兵衛は颯馬と共に松倉城の焼け跡を見回っている。

 秀綱が火が落ち着いたのを見計らって徹底した全滅作戦を取った為に生存者はほとんどいない。

 残虐行為とも取れるこの行動は上杉家の為に必要な事であると二人の軍師は分かっていた。一向一揆勢の勢力を少しでも粗がなければ今後に支障が出る。

 だが、いざその跡を見てみると随分と非道いことをしたものだと思ってしまうのも仕方ない事。 松倉城の中に入ってみるとやはり第四郭と大見城平の被害が一番大きく、中には一向一揆勢の民達の焼死体、火の手から運良く逃れた者も秀綱の部隊によって斬り殺され、見るも無残な死体がごろごろと転がっていた。

 戦いに慣れている者でさえ見れば吐き気がしそうなその光景の中を二人は表情を変えずにずんずんと歩き進んで行く。しかし、兵の中には体調を悪くして陣幕で休んでいる者もいる。

 平静を努めていたが、最も被害の多かった大見城平に入ると二人もさすがに口元を抑えた。

 

「なに、これ?」

「まさかと思ったが、これほどとは・・・・・・」

 

 松倉城に火を点けた際、大見城平から火を放った為に焼け焦げた無残な死体が山のように積まれているのは仕方ないが、第四郭よりも焼死体が多く、中には骨までしっかりと焼けているものもある。

 その中には非戦闘員の女子供なども含まれていて二人の軍師は戦だから仕方がないと気丈に振る舞いながらも魚の骨が喉に刺さったように引っ掛かるものを感じていた。

 さらに郭を進むと今度は秀綱達によって果てた者達が転がっている。

 普通であれば痛そうに苦しそうな表情をしているのが斬られたほとんどの兵が穏やかな表情をして西を向いて死んでいる。

 これで極楽浄土に行けると思っていたのか戦の際は無表情であった筈の兵達とは思えない程に活き活きとした顔をしているのだ。

 逃げるように大見城平から本丸に移った二人はここで松倉城を守っていた椎名軍の将である三浦五郎左衛門の首の無い亡骸を見つけた。秀綱が自ら討ち取ったその死体もしっかりと西の方向を向いて死んでいる。

 周りの家臣や兵も同様だ。かれらが最後に何を思って死んで行ったのか、考えると容易に想像がついてしまうのは気のせいではなさそうだった。

 念仏を唱えるだけで極楽浄土に行ける。

 考えると世の中が腐っていることを嫌でも痛感させられる。しかし、上杉家の天下の邪魔となる以上は譲ることは出来ない。

 そして、謙信が掲げる義の為にも負ける訳には行かない。

 秀綱は今残党狩りに向かっている為に明日から進軍は一気には進軍せずにゆるゆると松倉城から天神山城に向かう予定である。

 

「本当に大丈夫なの?」

 

 官兵衛はまだ不安げだった。彼女からすればあの角川が簡単に流れは落ち着くとは考えられない。

 あの時進言したことも本来なら最初から魚津城を直接救援せずに天神山城を奪取して逆に椎名軍を角川に追い詰めるべきだと考えた。

 しかし、颯馬がそれに待ったをかけた。天神山城については颯馬に策がある。それに先に天神山城を落とすとなると時間がかかり、魚津城を救援出来なくなるかもしれない。

 結果として角川の流れ次第という妥協案が出された。渡るのが無理だったら天神山城はともかく魚津城を救援するのにさらに時間が掛かってしまう。

 だが、心配する官兵衛をよそに颯馬はにやりと笑ってみせる。

 

「大丈夫さ・・・・・・」

「どこから来るの? その確信は」

「謙信様は勝つ・・・・・・」

「・・・・・・」

 

 自信に満ちた表情。そこに官兵衛は謙信と家臣の信頼の深さを感じた。

 一方の颯馬は諦めたような溜め息を盛大に吐いて官兵衛を戸惑わせた。

 急にどうしたのかと官兵衛が聞くと苦笑いを浮かべながら颯馬は口を開く。

 

「戦が終わったら定満殿と兼続の説教だなって思った」

 

 

 

 

 

 

 

 

 一騎が駆ける。味方も敵も何をしようとしているのか分かる者はいない。

 味方の一部は分かっていた。しかし、それを止めるような者は誰もいない。止めても無駄という事は分かっていた。

 川の目の前まで来た謙信の前には相変わらず急激な流れをしている角川がある。その流れはまさに滝である。

 その先に救援を待っている味方がいる。その先に倒すべき敵がいる。その先に皆が帰りたがっている春日山がある。その先に守るべき民がいる。

 迷ってはいられなかった。考えるよりも先に川に飛び込んでいた。敵味方からどよめきが起こった。だが、その声も謙信からすれば馬耳東風だった。

 馬が川に押されそうになっても謙信は馬に頑張れと腹を蹴る。

 中腹まで差し掛かった時、ようやく兼続が軍を前に出した。そして川の直前でもう一度止まる。敬愛する主君が危ないのは分かっているが、兼続達の足は前に行ってくれない。

 謙信はそれでも後ろ見ずに前に進む。半分以上渡った為、安全は前にしかない。そもそも前へと進むことのみしか頭に無かったので謙信は決して後ろを振り向かない。

 呆然として謙信を見守る上杉軍。謙信が川の後半に差し掛かった時、兼続は見た。

 謙信が川を渡るその時に一匹の竜を幻惑ではなく、はっきりと現実のものとして。

 兼続などいとも簡単に飲み込んでしまいそうな程の大きさで美しい鱗が輝かせる竜はこの急流の川をいとも簡単に、まるで流れなど無いように渡っている。

 否、渡っているのではない。その川の上を飛んでいるように兼続には見えた。

 優雅にそれで勇ましく、その美しい姿に兼続が感嘆の声さえ漏らすことも許さずに見惚れていると竜は対岸に辿り着き、高らかに咆哮した。

 

「この程度の川、恐れる必要はない! 椎名の兵達よ、この上杉謙信が相手となる! いざ!」

 

 竜と一体になった主君の雄叫びに上杉軍から歓声が上がった。飛んでいた竜は人へと戻り椎名軍に突っ込んで行く。

 謙信の人間離れした行いに呆然としていた兼続が正気に戻った時には慶次や親憲達という多くの将兵が竜の叫びを耳にして川を渡り始めていた。

 その後ろ姿は嬉々として久々のまともな戦に向かう武人の姿。

 

「はぁ・・・・・・少しはこちらの身にもなって欲しいものだ」

 

 呆れたように首を振りながらも刀を抜いて兼続は川へと入って行く。

 謙信が椎名軍の先陣に斬り込みを入れる。続けて慶次達が突っ込み、更に椎名軍を蹂躙して行く。

 決戦の火蓋は切られた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十話改 将達の行方

 藤資は内心、焦り始めていた。

 新発田城攻略を任された上杉軍は豪雪の影響で攻めることが不可能になってしまった。

 しかし、諦めて撤退しようと背を向ければ、間違いなく重家は追撃して来る。上杉軍と違い、新発田軍は拠点が減っている為に死に物狂いで犠牲を与えようとするだろう。

 

「ですから、もっと早く新発田を攻めておけばこんなことにはならなかったのです」

 

 砕かれた心で虚勢を張り、偉そうに能元はふんぞり返っているが、それに同調しようという者は一人もいない。

 先の戦での不満だらけで完全に功を焦った態度は藤資達にしっかりと伝わっていた。しかし、咎めることはせず、戦功を立てたとして誉めた。

 結果的にそれが逆効果になってしまい、事ある毎に総攻撃を主張するようになっている。

 もちろん、堅牢な新発田城がおいそれと落ちるとは思っていない他の将はそれを危険が大きいとはねのけているのだが、この豪雪によって足場が落ち着かない今の現状では上述のように攻めることは出来ない。

 また、撤退もすぐには出来ない為に頭を悩ませているのだ。

 

「後ろに道が無いのなら前に道を求めて進むべきです」

 

 この期に及んでも能元は城攻めを主張する。

 若者故の血の気の多さと兄に対する盲信の心を潰したことによってここまで傲慢な性格の人間が出来るとは誰も思ってもいなかった。

 だが、今は彼を更生させるよりもどうやって退くかが第一優先である。

 

「……長秀」

「何でしょうか?」

「情勢を説明しろ」 

「新発田城はいまだに三の丸すら突破出来ず、されど五十公野は被害を受けた為に動くことは出来ません」

 

 新発田城を攻めるのであれば今が好機である。しかし、天候が上杉軍を見放している現状は否めない。生き残ることが出来たとしても傷口を大きくしては治る前に傷を悪化させられる。

「藤資殿」という声が聞こえその声の主に視線を向ける。長重だった。

 

「ここは撤退すべきでしょう。こちらも被害はそれなりに出ていますし、この寒さでは兵達の士気にも影響します」

 

 この状況では早い決断こそが勝利を呼び込む。

 藤資もこの戦はもう限界であるということは分かっていた。物質はこの豪雪で減る速度が早まるばかりで、兵の中にもひどい凍傷になって戦えなくなった者も出始めている。

 しかし、最期の戦になるかもしれないこの戦で功も立てることが出来ずに終わるというのは藤資にとって辛いものである。

 また一方で、一人の我が儘で軍を乱すなど藤資には出来ない。それをやって余計な被害が出るのはもっと辛いものだ。

 やりきれないこの気持ちを叫ぶのをぐっと堪えながら長重を向く。

 

「……分かった。長重の言う通りにしよう」

「ご英断です」

 

 ほとんど将は藤資の身体が病魔に犯されているのを知っている。それによって彼が功を焦ってしまうことも恐れた。

 心の中でこの老将は何を思うのか、息子の景資でさえ分からない。しかし、撤退を選択したことによって藤資の寿命はまだ保たせることが出来る。

 内心、安堵の溜め息は吐きながら長重達は撤退の為の準備を始めた。

 

 

「まったく、腰抜けの集まりだ……」

 

 音を立てて真っ先に陣幕を出た能元は愚痴をこぼしながら自身の幕に戻って来た。それを聞いた配下の将達は半ば軍議で何が決まったのかが大体察することが出来た。

 皆の予想通り能元は撤退の準備を始めるように命を下して兵達に指示を出すが、その様子は不満たらたらで先の一件の反省など塵の小ささよりもありはしない。

 将の態度は兵達にも影響を及ぼし、やる気が無いようにだらだらと動いている。それは能元同様に撤退への不満ではなく、能元への不満だった。

 はっきり言って無茶苦茶な命令を水原での戦いから繰り返している彼によって無駄な犠牲が出ていることは誰もが知るところになっている。

 そんな彼が不満そうに撤退の命を下した時に兵達が抱いた感情は悪いものばかり。一言で言えばこれが一番当てはまる。

 

「(ざまをみろ)」

 

 兵達の不満をどうにか父や兄の代から支えている家臣達が留めている為、大事には至っていない。

 配下の将達の対応が無ければどうなっていたことやら分からない。それこそ暴動が起きていてもおかしくない状況の時もあった。

 それでも能元に付いていくのは先代の顕元への多大な恩と越後を立派に治め、民や家族を養ってくれている謙信への篤き忠誠心である。

 それに気付いていない能元はやる気の無い兵達への見せしめとして一人のやる気を見せてきちんと仕事をしていた兵士を適当に選んで棒で叩く。

 能元からすれば兵達は毛利安田家の当主として君臨している自分の姿に付いて来ているという思いがあった。見事な勘違いだが、知らぬは当人ばかりなり。

 彼は徐々にかつ確実に軍から孤立して行った。

 

 

 さらに一日経った日の夜。

 上杉軍が本格的な撤退を始めたという報告を受けた重家は追撃を始めた。

 重家に上杉軍撤退の報告が来たのはその二日後だった。敗戦が続き、窮地にあった彼からすればこのところ降り続いている豪雪に続いてまたとない吉報である。

 

「今宵に出るぞ!」

 

 迷い無く、重家は城内に出陣命令を飛ばして自身も甲冑を身に纏う。

 相手はあの筆頭家老中条藤資を始めとする他上杉の中堅、若手の有能な将達。簡単にはいかなるだろうがそれでもこの状況を打開するには追撃しかない。

 上杉家に反旗を翻してたった数ヶ月、劣勢続きであっさりと滅ぼされるのかと自身でさえ思っていた反乱もまだ続けることが可能であると確信した。

 重家は一つの書状を握り締めてにやにやと笑いながら部屋を出て廊下を歩き出す。

 

「(ようやく来た助力への返答、これでしばらくは保つことを出来る。後は春を待って蘆名と北条を説得するだけだ)」

 

 手にある書状をさらに強く掴みながら重家は歩く速度を速めた。

 宛名は『伊達輝宗』とあった。

 

 

 

 

 雪が上杉軍の足跡をしっかりと残してくれている為、新発田軍からはどの道筋で撤退するのか予測が容易に出来た。水原城を経由して安田城と春日山に撤退するらしく足跡は徐々に急ぎ足になっているのか歩幅が大きくなっている。

 すかさず重家は追撃を速めて上杉軍の尻尾を掴もうと進んだ。

 しかし、進めども進めども上杉軍の姿を確認することが出来ない。ここまで来て何の戦果もなく撤退するのは重家が上杉軍に馬鹿にされる恰好のネタとなる。

 そして、重家はどんどん軍を進めて翌日の明け方前には水原城付近にまで着いてしまった。

 

「何なんだ?」

 

 重家は混乱していた。この先にある林道を通れば水原城は目と鼻の先である。

 ここまで来ても上杉軍は一向に姿を現さない。何か裏があるのは薄々感づいていたが、重家は軍を進める以外の選択肢は思い浮かばなかった。

 水原城まで来たからには新発田軍が撤退すれば水原城からその姿を見取られては逆に上杉軍からの襲撃を受ける可能性もある。

 

「(まさか、これが目的だったのか!?)」

 

 慌てて撤退すると声を張り上げようとした途端、襲撃を伝える悲鳴が前線から聞こえて来た。

 

「(伏兵か……!)」

 

 簡単に分かった。ここまで引き付けておいて帰れないようにしておいたところを叩く。この狭い林道の中で無理に軍を進めようとしてもかえって混乱を招くばかりだ。

 こうなった以上はもはや前の部隊は見捨てるしかない。よく考えれば稚拙な策に掛かったと重家は思ってしまう。それ程までに勝利が必要では無かったにもかかわらず、追ってしまったのは重家自身が上杉軍に一回で良いから勝ちたいと思ってしまっていたからだ。

 重家は前線の将兵に申し訳ないと思いながらも自分が生きている限りはまだ盛り返せるという希望を胸に撤退の命を下した。

 鬼が一匹とは限らないと知らずに駆けていた。

 

「なっ!?」

 

 林道を出た瞬間に重家は絶句した。気付ける訳がなかった。

 そこには竹に雀の旗と片喰、酔漿草の旗印。そして先頭に立つ男。

 忘れたくても忘れられない。どんなに年を重ねようともその厳格な雰囲気と何かを刺すようなその鋭い視線に重家は一瞬身を固めた。

 

「藤資・・・・・・殿・・・・・・」

「ほう・・・・・・儂の顔は覚えているのか?」

 

 顎髭をしごきながら藤資はにやりと笑い重家を見る。藤資が率いている軍勢自体は少ないが、退路を断たれたことは新発田軍の兵達には混乱を招いた。

 重家はここではめられたことを悟り、奥歯をぎりっと噛み締める。

 

「もはや儂より先に逝くことになるとはな、重家よ」

「残念ながらこの首は簡単にくれてやるつもりは毛頭ありません」

「それは残念だな」

「申し訳ありませぬが、返り討ちにさせてもらます!」

「良かろう! 皆の者、裏切り者の首を上げた者は軍功第一ぞ!」

「あれは上杉軍の筆頭家老中条藤資ぞ! 討ち取れば恩賞は思いのままだ。かかれ!」

 

 逆回転で動き出した歯車は一人歩きを始めて修理しない限り戻ることは二度とない。しかし、修理は不可能な程に狂った歯車は一度壊すしか方法は無い。狂いが生じた猛将同士の戦いが始まった。

 策を弄するにも重家はもはや袋の鼠、あとは始末すれば新発田軍は全て終わる。藤資は重家目掛けて自ら突進して行く。

 

 

 それは新発田城から撤退する前日のことだった。

 

『この戦で儂が重家の退路を断つとしよう』

 

 能元抜きの軍議で藤資は四人の将にそう言った。しかし、四人はそれに待ったをかける。全員の反対は凄まじく、藤資が唖然とする程の剣幕であった。

 

『つまりは藤資殿は重家と戦うって事ですか? それは駄目ですね。大将は後ろで安全な所にいるっていうのが当たり前でしょう?』

『長重、儂にそのようなものは通じない。謙信様に仕えて数十年、常に前線で戦ってきた儂の場所を譲る気は毛頭ないわ。これは大将の命令だ』

 

 結局藤資は全ての反対意見を大将命令だ、と押し通してはねのけてしまった。そこで長重が妥協案として自分も共に藤資と戦うと言ったのだが、

 

『ならん、儂一人で十分だ。まさか儂の腕では重家を倒せないとでもいうのか?』

 

 藤資は誰の意見も聞かずに片付けかけていた陣幕を逃げるように去ってしまい、軍議は強制的に終わってしまった。

 

「ったく、俺ぐらいは残しておいても構わねえだろうが・・・・・・よっと」

 

 残された四人の呆然と互いの顔を見合わせる光景が第三者の視点から思い出される。溜め息を吐き、憎まれ口を叩きながらも長重は重家の前線部隊を斬り捨てている。 

 藤資らしく病の事を知られたくないのだろう。しかし、それを分かっているからこそ長重達は必死に止めた。

 

「(まさかあの時に藤資の爺さん察したのか?)」

 

 普段であれば藤資の意見は謙信の次に重みがある。つまり長重達中堅、若手が彼の決定に口出しするなどあまりないことだ。

 だが、それを今回は普通にやった。悟られても仕方ない。しかし、彼を止めることは結局は出来なかった。

 

「(・・・・・・馬鹿だな・・・・・・俺達も・・・・・・あの人も)」

 

 気付けば長重は分からない怒りに身を任せて敵をただただ容赦なく斬り捨てて行き、長秀に止められるまでに約五十程の兵を斬っていた。

 

 

 

 

「追い詰めろ! もはや勝利は目前だ!」

 

 藤資は自ら得物を構えて敵の屍を築き上げている。長年連れ添った馬に跨がり大将首を狙ってやってくる新発田軍の兵がたとえ複数人でかかって来ても藤資は軽い動きでまとめてなぎ倒して行く。

 その姿は往年の彼を彷彿させ、それを知る者はもう何人もいないが、その少数の人はここが戦場であるのを忘れて彼の姿に思わず手を合わせた。

 しかし、窮鼠は猫を噛むとも言う。重家も必死だったどこかに退路を探した。藤資は兵法にも通じている。死兵を相手にするようなことは普通は絶対にしないはずだった。

 では、普通でなかったらどうなのか。

 言うまでもなく怒涛の進撃を続ける藤資を止める者はいなかった。それは外側からの障害のみの話。

 

「ぐっ・・・・・・」

 

 胸元を押さえながらも藤資は止まらない。目指すは重家の首のみ、それを最期の功としてあとは景資に任せて、ゆっくりと地獄で暮らすとしようか。

 自らの力を振り絞って藤資は暴れまわった。病魔に侵されている身体が何度も馬から落とされそうになったが、その時愛馬は速度を落として藤資に合わせてくれた。お陰で彼は端から何の不振な様子を見せることはないまま新発田軍に突進して行く。

 ぽたりぽたりと滴り落ちる水滴のように確実に侵攻して行く病魔を身体の中で感じながらもただ上杉家の繁栄の為に戦場で功を立てるのみ。

 そして、いよいよ重家の姿を見つけ出した。その姿に藤資は止まりかけた足を再び動かし始めた。

 

「重家! 来い!!」

 

 その声は戦場の端から端まで響き渡っただろうか。前線で自ら兵を落ち着かせるべく指揮を執っていた重家はその鋭い目を見開いて藤資を見ていた。そして、覚悟を決め彼も刀を抜いた。

 武で適うかは分からない。しかし、戦う以外に退路は無い。

 

「藤資殿、お覚悟を!」

「若造が・・・・・・・言うではないか! しかし、儂もまだそこまで老いてはおらんぞ!!」

 

 お互いに馬を双方に向けあい、ゆっくりと動き出す。そして加速し始めて一気に間合いが詰まる。

 

「「はぁあああ!!」」

 

 

 

 

 長重は新発田軍を散々に討ち払い、終わった戦の戦後処理をしていた。辺りには逃げ場がなかった新発田軍の兵達の屍が無数に転がっている。

 これほどの傷を負った以上、重家も立ち直ることは当分出来ないだろう。後は内側の面倒事を片付けるだけ。

 

「長重殿、いつまで突っ立ているんです? さっさと重家の首を取りに行きますよ」

 

 相変わらずの嫌味ったらしい言い方で能元が言ってくる。しかし、長重は動こうとしない。

 先程、背後から声を掛けて来たと思えば立ち上がらなければ勝手に軍を動かすと急かすように長重の答えを待っている。

 

「聞いているのですか? それともこれ以上戦う気力も無くなったんですか? それだったらかなり長重殿も貧弱ですね」

 

 やれやれと言わんばかりに能元は両手を広げて挑発するような態度を取る。それでも長重は何も言わない。

 

「あの! 行くのか行かないのかはっきりしてくれませんか?」

「行かねぇよ」

 

 仮にも勇将で名が通っている長重からの想定外の発言に呆気に取られている能元をよそに長重は水原城に戻って間道から八幡砦を経由して新発田城に行くと指示を出した。

 藤資が覚悟を決めた以上はそれに横槍を刺さない。逆にそれに花を添えておくのが武人である。

 

「後は、爺に任せる・・・・・・」

 

 誰かに伝えるには小さ過ぎる声だった。

 

 

 

 お互いの刀と刀がぶつかり合う。藤資と重家が一騎打ちを始めて十五分程度経っただろうか。だが、厳しく身体を鍛えている両者はどちらも息を切らすような状態ではない。

 藤資が右から払うように振り抜けば、重家はそれを受け止めて間合いを詰めて一気に振り上げる。そして、また藤資はそれをかわしては上段から振り下ろす。

 そのようなことを繰り返している二人の将、その周りでは藤資と重家の配下の兵達がお互いに生きて帰る為に斬り合っている。

 矛盾するかもしれないが、それしか方法がないのが乱世の習とも言うのかもしれない。

 しばらくの唾競り合いを嫌った重家が一気にけりを付けようと藤資に攻勢を仕掛ける。しかし、それは藤資にとってこの戦いを楽にさせるものであった。

 振り下ろす重家の刀を受け止めずに後退することでかわし、重家との間合いを詰めて突きを繰り出す。重家はかわしたが、藤資はさらに重家を追い詰めるように刀を突きから横薙ぎに払った。重家はこの素早い動きにどうにか対応したが、さらなる藤資の攻勢には抵抗出来なかった。

 とうとう重家の刀を弾いた藤資はがら空きになった彼の首にとどめを刺そうとする。

『ぽたり・・・・・・』と何かが藤資の中で滴り落ちた。しかも今までで一番大きな水滴が落ちた気が藤資にはした。

 

「ぐぅうう!?」

 

 大事な時に藤資の身体に限界がやってきた。

 そう思って身体を起き上げようとしても水滴はぽたりぽたりと滴り落ちることを止めない。

 がくりと膝を崩したまま藤資は上を見上げた。そこには刀を拾い上げてやってきた重家がいた。

 

「藤資殿・・・・・・」

「この儂が戦いではなく病気に負けるとは・・・・・・情けない話だな・・・・・・」

「何を言います?あなたは立派でしたよ、最期まで戦場に立てたのですから」

「お前も、いずれは謙信様によってそうなる。この老骨の頼みとして、聞いてくれ」

「何なりと・・・・・・」

「また、謙信様の下には・・・・・・」

「もう神輿は出ました。戻ることはありません」

 

「そうか」と藤資は諦めたように目を瞑り、空を見上げる。勝負には勝った。

 だが、無防備な状況を晒している自身を見逃す程、重家は甘くは無い。

 戦場に出て、生き甲斐として来て五十有余年、戦場で暴れまわることこそ乱世を生きる糧としてきたこの中条藤資の存在価値はもう無くなったのだ。

 

「やれやれ・・・・・・これも時代の流れ、か」

「藤資殿、あなたはもう休む時です・・・・・・」 

 

 重家は不覚にもその潔さと晴れ晴れとした笑顔に声がうわずってしまった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十一話改 お後がよろしくてっよ

「(やはり彼女は人ではなく、竜として見るべきだったのか・・・・・・!?)」

 

 遅蒔きながら椎名兵部は謙信の恐ろしさと人間離れした実力に気付かされた。

 

「何故だ・・・・・・?」

 

 兵部は呆然と立ち尽くすしか術がなかった。

 角川の流れは轟々として一切早さを緩めることは無いまま勢いは強い滝のように人の足を打ち付け、渡れば人はたちまち極寒の冬の富山湾に流される筈だった。

 

「容赦はするな! ただ目の前の敵を斬れ!!」

 

 竜の叫びが戦場にこだましている。それに突き動かされた上杉軍は角川を懸命に渡り椎名軍に突進して行く。中には椎名軍の予測通り流される者もいたが、兵部の目からは僅かな程度にすぎなかった。

 

「兵部様!」

「・・・・・・はっ! や、矢を放て!」

「既に放っていますが、突破されそうです!」

「じゃあ、槍だ! 槍袋を出せ!」

「もう出しています!」

「ええい! じゃあ、さっさと蹴散らせ!」

「申し上げます。中央が突破寸前です! 早く後陣から援軍を!」

「踏ん張れ! 今から手配する!」

 

 配下の将達は迎撃の為に出払い、兵部のその場しのぎの指示だけが陣幕に響き渡る。

 上杉軍の予想外過ぎる行動に呆気に取られていた兵部は全く動くことが出来ないままただ喚いているだけで全く戦力にならなかった。

 そもそも彼は防衛の為の陣をろくに配置せずに魚津城が落ちるのを待っていたのだからその時点で上杉軍とまともに立ち合って勝てる見込みのある将だとは到底考えられない。

 自然に頼った戦法は重要だが、間違えると敗れる原因となる。兵部は地の利がずっと椎名軍にあると思っていたが為の失態はこれから更に傷口を広げる。

 

 

 

 

 

「はぁあああ!!」

 

 謙信は一人で白刃を血に染めて行く。それでも飽き足らんと馬を走らせて進んで行く。急流の川を渡り、疲れがある筈だが竜にはこの程度の川だったのだろうか。疲れを感じさせない華麗な動きで先陣を駆け抜けるその姿に川を渡った上杉の将兵は奮い立つ。

 謙信が自ら先頭に立っていると見れば椎名軍の将兵はその首を取らんと雲霞のごとく謙信に斬り掛かる。しかし、それは叶わない夢であった。

 

「まぁ、妾を倒せるかという話じゃな」

 

 景資が今まで隠れていたことへの鬱憤から解放されたことを喜ぶように白刃を振る。その度に複数の人が倒れ、謙信の前に立たせない。

 その内、謙信の後ろから来た後続の将兵が瞬く間に謙信に追い付いてその周りを囲み、謙信を目当てにやってきた椎名軍を徹底的に殺して行く。

 将兵が増えようと景資の鬼神の如き動きは凄まじく。その前に立った者は一合も合わせることが出来ないまま首や胴体の一部が飛んでいった。

 京では悶々と一人洛外の陣で上杉軍の監督をしていた時に条件を破って密かに人と会っていたことがバレた為に定満と兼続の説教を一挙にくらい、事情を知っていた謙信からもやむを得ないということで罰として義清と弥太郎が交代で景資を監督することなった。

 故に、それ以降は何も出来ずにただ剣を振っているしか出来ない生活を送り、この戦いは肩身の狭かった京から出て初めてその鬱憤を晴らせるようなまともな戦であった。

 

「やれやれ、それがこの戦いであったのが幸運でしたな」

 

 親憲がぼやくのも無理はない。前に早く戦場に出たいと好戦的な愚痴を聞いた時は宥めるのに苦労した。

 案の定、景資の戦ぶりは他の将兵の活躍を全て霞ませるものであり、親憲でさえ一瞬目を奪われそうになる。

 また、上杉からにしても椎名は信頼していた相手である。それに裏切られたという事で慈悲をかけるようにとは言われていない。むしろ斬って斬って斬りまくることを謙信は命じていた。

 

「どけどけどけー! この義清の槍の錆になりたくならどくのじゃ!」

 

 景資に遅れながらも謙信と共に先陣に立った義清は背中を謙信と任せ合い無人の広野を駆けるように進んで行く。

 

「流石だな、義清」

「謙信殿も負けていないのじゃ!」

「ふむ、ならば競争してみるか? どちらが敵を多く斬るか、でな」

 

 にやりと笑ってみせる謙信に義清も同じような笑みで返す。

 

「今までの数は抜きじゃな?」

「無論」

「ならば・・・・・・」

「待てぇぇええぇぇええい!!!」

 

 腕に力を入れて前に飛び出そうとした途端、敵ではなく、味方から待ったをかけられた。後ろからいきなりの大声が飛んできたので二人共思わず馬を止めて後ろを見る。

 そこには愛の兜を取れば髪が逆毛立っているであろう一番最後の方に川を渡り、ようやく前線に追い付いた兼続がいた。

 

「なんだ兼続か、これから良いところなんだ。邪魔しないでくれ」

 

 この発言がさらに兼続をヒートアップさせる。

 

「『なんだ兼続か』ではありません! 村上殿はともかくも謙信様は上杉家の当主としてしっかりと後ろで・・・・・・」

「報告だよ!」

 

 まくし立てる兼続の説教は段蔵がやって来た為、中断した。

 

「なんだ?」

「椎名兵部の姿を見つけた! 本陣はこのまま真っ直ぐの方向!」

「よし! 行くぞ!!」

「『行くぞ!!』じゃありません! ですから大将たるおか・・・・・・ってもういない!?」

 

 中断を中止にさせる程の謙信の雲隠れに兼続は呆然とする。どさくさに紛れて義清も一緒に馬を走らせて去ってしまった。

 呆然としている兼続に段蔵が肩を叩いてくる。

 

「あれが謙信様って分かってるでしょ? 兼続殿は結構近くで見てきているんだから」

「貴様に言われても励まされている気にならんが・・・・・・まぁ、そうか・・・・・・」

 

 溜め息を付きながら後で説教は取っておこうと決意しつつ兼続は中央の指揮を謙信に代わって執り始めた。

 

 

 

 

「は、早く討て! 早く、謙信を討て!」

 

 完全に混乱し、あっちこっちうろうろしながら先程から同じような言葉を続けているだけの兵部は兵達の後ろに隠れて戦況を全く見ていない。

 その中でも兵部の姿を見つけられたのはさすがは段蔵といったところである。

 

「申し上げます。中央が突破されました!」

「両翼から早く援軍を出せ! 後陣は何をやっているのだ!?」

 

 両翼も蘆名盛隆と指揮を執る方に回った親憲によって着々と崩れている。その報告は既に兵部の下にも来ているのだが、錯乱状態の彼には頭に入る訳がなかった。

 

「駄目です。もちません! 撤退のご指示を!」

「ならんならん! それだけはならんぞ! 死んでもここは守るのだ!」

「さ、されど・・・・・・」

「黙れ黙れ! 逃げればこうなる!」

 

 言うが早いや、この状況で一人の人でも死ねばさらに混乱を招くことを分かっていない報告に来て兵部は撤退を促した将を斬り捨てた。

 父や世話役から兵法を学んでいるがいわゆるお坊ちゃま育ちの彼はこういった逆境にあったことが無い為、正直言って全くの使い物にならないが、当主の息子である以上は将兵も付き従うしかないのだ。

 こうして揉めている内にも上杉軍は椎名軍の将兵を次々と撃破して兵部に迫っている。

 所詮、兵部自身の自己満足であると知らずに総崩れ寸前の状況下でも兵部は椎名軍は戦っていれば勝つという甘いにも程がある考えを信じていた。

 軍神の到来に椎名軍は恐れおののき道を開けて呆然と立ち尽くす。そして、立ち尽くしている兵達は後ろから来た上杉軍の将兵の餌食となった。

 謙信は一人、椎名軍の本陣にまで辿り着き、目的の人物を見つけ、馬の胴を強く蹴る。

 

「そこにいるのは椎名兵部と見た! 我こそは上杉謙信なるぞ! いざ、尋常に勝負!」

「け、謙信が何故ここにいる!? 将たるもの後ろにて戦況を見守るものではないのか!?」

 

 予想外の人物の登場で元々戦況が全て狂っていた為に混乱していた彼の頭の中はすっかり真っ白になってしまっている。

 

「み、みみ皆の者! あ、ああ、あれが謙信だ! は、早く、早く討ってくれぇ!」

 

 もはや命令ではなく頼み事をするかのような悲痛の叫びで喚く兵部に椎名軍は愛想を尽かして道を開ける者や謙信を見て逃げ出す者も現れた。

 兵部は謙信と完全に目が合う距離まで間合いを詰められて武器も持てずに腰を抜かしてへたり込んで手で地面を伝いながら下がる。

 当の謙信もその不甲斐なさに半ば呆れて少し騎乗で立ち尽くしてしまった。

 

「ありがたい! 御恩は一生忘れません!」

 

 しかし、それを見た兵部が見逃してくれると勘違いしたのか頭を下げて、上杉軍からすれば意味深なことを言いがら赤ん坊歩きで馬にすがりついて跨がると反転させて逃げようとした。

 なんという自分勝手、なんという馬鹿者。そんな都合の良いこと謙信が許す筈もなく、その台詞で我に帰った謙信は馬を走らせて兵部を追い掛けようとした瞬間。

 突如、謙信の隣から馬が風を切りながら飛び出して謙信をあっという間に追い抜いた。そして、兵部を逃がそうとする兵部の側近を斬り捨てるといとも簡単に兵部に追い付き慶次は笑いながら愛槍を振り上げる。

 

「ご愁~傷~様~♪」

 

 ご機嫌な声と裏腹に兵部の首を情け容赦なく、遺す言葉も許さないまま斬り捨てた。

 

「慶次!? それは私が斬ろうとしたのだぞ!そもそも何故ここにいる!?」

「だってぇ、この前けんけんどさくさに紛れてあたしの獲物を取ったし~しかもその後さらっと自分の手柄にしたでしょ~?」

「うっ・・・・・・だ、だが、それはそれ、これはこれだ」

「ま、今回はありがたく手柄をいただくわね」

「はぁ、道理で今回の戦であまり目立っていなかったなと思っていたら、これを狙っていたのか」

「大当たり~」

 

 いつもの慶次なら謙信に出遅れたとしてもその次には必ず出てくるような性格の為に今回義清と一緒に戦っていた時に慶次がいないのに謙信はおかしいと思っていたが、恨みがあった為に仕返しを狙い、好機を確実にものにした彼女には呆れたような溜め息しか出て来ない。

 以前の手柄を全部持ってかれた慶次はひらひらと自分が取ったと言わんばかりに兵部の首を振っている。それを見た椎名軍は壊走し始め、追撃に入った上杉軍に背中を斬られている。

 

「ふぅ、やれやれ・・・・・・」

 

 ひとまず一息入れた二人が揉めていると後ろから何やらちりちりと背中に刺さる視線を感じた。その原因は言うまでもなく兼続である。

 

「今回の事といい、さっきの川渡りといい、先の戦の事といい、謙信様は何をやっているんですか!?」

「そんな怒るようなことではないだろ? 別に以前のように一人二人だけという訳ではなかったのだから」

 

 大勢は既に決した為に安堵していた謙信に向かって早々に説教の態勢に入った兼続を謙信は宥める。

 この時、慶次は矛先が自分に向かっていないことを密かに安堵しているのは余談である。しかし、これが逆に兼続の琴線に触れた。

 慶次はぷちんと何かが兼続の立っている辺りで鳴った気がした。

 

「こちらの身にもなって下さい! いいですか!? 謙信様は上杉家の当主なのですからもっと後ろでしっかりと腰を据えて・・・・・・」

「無理だ」

「はいぃい!?」

 

 想定外の即答に兼続は思わず声がうわずる。

 

「だってな、目の前に敵大将がいるのにもったいないだろう?せっかくの手柄なんだから」

「あのですねぇ、謙信様は大将でしょう!?ならば家臣の活躍に任せて下さい!」

 

 ああ言えばこう言うを繰り返しでこれは当分収拾がつかないなと思った慶次はさっさと自身も追撃に加わろうとする。

 

「今回は私が川を渡らなければそもそも戦にはならなかったのかもしれなかったのだぞ?」

 

 確かにそうだと慶次も馬に乗りながらうんうんと頷く。

 

「そうでなければ敵大将の首も取れなかったのだ」

「(そうだそうだ)」

 

 慶次はまた頷きながら馬にしっかりと乗る体勢を作る。

 

「まぁ、確かに謙信様のあれがなければ、今回の戦で謙信様が敵大将を討ち取ることはなかったでしょうからね・・・・・・」

「(そうだそう・・・・・・)え? ちょっと待って」

 

 ぴたりと慶次は行動を止め、首をぐりんと反転させる。そこには納得したような様子の兼続と真面目な顔をした謙信がいた。

 

「だろ? 私が先陣を切って川を渡らなければ私が敵大将を討ち取ることはなかったのだ」

「あの~ちょっとぉ~・・・・・・無視はひどくない?」

 

 慶次は真面目な顔を崩さずしれっと聞き捨てならないことを言った謙信に抗議の目を向けるが二人は気にしない。  

 

「今回は大将首を取ったということで、まぁよしとしますか・・・・・・」

「頼むから、一回でいいから、お願いこっち向いて~」

 

 溜め息が出てきそうな声で兼続は言うと謙信に兵部の首はどこにあるのか聞いた。

 謙信はそれならと慶次の馬にあった兵部の首を慶次よりも素早く奪って平然と自分の手柄のように兼続に見せた。もちろん兼続はその一瞬の動きを見ていたが、無視して「流石謙信様」と感服する。

 

「けんけ~ん、だからそれはあたしのて・・・・・・」

「皆! 聞け!」

「また無視!?」

「この謙信が椎名兵部を討ち取った!」

 

 それを聞いた上杉軍は今までよりも大きな歓声を上げ、敬愛する主君の勇ましい武勇とあの急流の角川を渡った勇気にさらに感服した。

 近くで青い服を着た巨乳が何かぶつぶつ言いながらいじいじしているのに気付く者はいても慰める者はいなかった。

 

 

 一応、椎名との決戦を終えた上杉軍は容赦なく追撃を続けて戦えない被害を出すことに成功した。

 謙信と兼続が追撃の調整を行いながらも味方を救う為、急いで魚津城に近付いて行く。

 その途上慶次は謙信に近付いてじとっとした目で耳元で話し掛ける。

 

「貸し二つだからねぇ」

「ん? 何の事だ?」

 

 本当に忘れているような素振りにいらっときた慶次はこめかみに皺がよるのを必死にこらえてさらにずずいっと詰め寄る。

 

「この前の戦、今回の戦、けんけん、あたしの手柄二つも持ってたでしょ」

 

 謙信は「ああ」とやっと合点がいったように膝を打つが、冷静に言い返す。

 

「貸しはないだろ?」

「えぇ~何でそんなふうに言えるの!?」

 

 心底驚いている慶次に謙信は至極真面目に答える。

 

「先の戦ではそなたは私の手柄を取っただろ?」

「あっ・・・・・・」

 

 謙信が言いたいのは土肥政重の事だ。だが、反論の余地はまだあると慶次は詰め寄る。

 

「でもでもぉ、今回は関係ないでしょ。だから貸しは一つあるじゃん」

「何を言うか、そなたの悪戯の被害による苦情、誰が一番処理していると思っている?」

「うぐ・・・・・・そ、そこでそれ出すぅ?」

 

 城内の事は軍師三人に上がることが多いが、城外でも色々とやっている慶次の所業は軍師ではなく、直接謙信の下に行くことが多いのだ。

 城内なら慶次の代わりにぺこぺこと軍師三人が謝れば良いが、城外だとそうはいかない為に謙信はその対処におわれることもよくある為、慶次のせいで色々と苦労をしているのだ。

 

「まぁ、聞けば別に城外に落とし穴を作るようなことはしていないようだが、なるべく控えて欲しいな。一つ慶次が大人になって頭を下げるなら話は別だが・・・・・・」

「あたしから悪戯を取ったら何が残るのよ!?」

「・・・・・・」

「何!? その空気と目は!?」

「全軍、足を速めよ!」

「(もぉう、絶対今度は持ってかれない手柄を立ててやるぅ!)」

 

 結局、この後兼続から慰めの言葉の一つも貰えずに今回も全部持ってかれた慶次は行軍の間、春日山城での仕返しをずっと考え続けていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十二話改 遥かなる背中

 誰も彼の最期をしかと見届けられた者は誰一人もいなかった。

 しかし彼、中条藤資の顔に恐怖や悲壮感は漂わず、戦に生き、戦で人生を終えることが出来ることへの優越感にひたる笑みがあった。

 唯一、彼の最期を見ることが許された重家はここが戦場であることも忘れ、ただこの老人の長きに渡ったその人生がどのようなものであったのか思案に耽ってしまった。

 同じ上杉家の重臣として生きてきたが、その年数は桁違いに程がある。

 謙信が景虎として旗揚げした時よりも前から同じく家臣の中で筆頭格の宇佐美定満と共に長尾・上杉に仕え、武勇の柱として上杉家を支えてきた藤資は数え切れない程の功を立て、揚北衆の中では珍しく上杉の忠誠を尽くして来た為、謙信から感状を貰うこともあった。

 晩年になると活躍の場を弥太郎や景家達、中堅・若手に明け渡すようになってあまり目立たなくなったが、それでもその多大な影響力は変わらなかった。

 

『一つの命が散ったぐらいでは上杉はびくともせん。この首はいつでも差し出す覚悟は出来ておるわ・・・・・・まぁ、まさかそれがお主になるとは思わなんだか』

 

 最後まで変わることのなかった呵々とした笑い声が重家の耳から離れない。

 彼が上杉家で遺した偉業は中堅・若手の将が追い付こうとも追い付けないものである。それ程、彼の戦功は多く、突飛していた。

 謙信配下の筆頭格として生きた猛将は紛うことなく上杉家の歴史に名を刻むだろう。

 藤資には景資という良い跡継ぎがいる。中条家が今後どうなるかも憂うことなく死んでいくことが出来たということも穏やかな笑みを浮かべて死んでいくことが出来た要因かもしれない。

 

「羨ましい・・・・・・」

「新発田様!」

 

 配下の将の一声で重家ははっとここが戦場であるということを思い出す。気付けば目の前の胸元に手を当てて倒れている藤資の胴体をぼーっと眺めていた。

 

「新発田様? 泣いておられるので?」

「そんなことはない・・・・・・それで、なんだ?」

 

 内心まさか涙が出ているとは思っていなかった重家は慌てている心を必死に抑えながら冷静さを装い将からの報告を受ける。

 

「我が軍の退却路確保できました!」

 

 藤資を討ち取ったことによって出来た隙を重家は見逃さずに直ちに一つの道を作ることを命じていた。ようやくそれが出来た。

 

「分かった。すぐに退け」

 

 感傷にひたっている場合ではないと重家はすぐさま藤資の首を持って馬に乗り、撤退を始めた。

 藤資が討たれたとはいえ新発田軍は包囲を突破する際にかなりの犠牲を払った。前線の兵はほとんどが討たれ、重家の中軍もかなりの痛手を被った。

 しかし、この積雪では上杉軍はしばらく攻めることは難しい。更にまだ新発田城と五十公野城が残っている以上は盛り返せる。

 冬の間に力を取り戻してまたすぐに新潟港を奪還すれば補給も追い付くようになるだろう。少なくとも沼垂城と新潟城、水原城までは奪還したい。まだ謙信への反乱は始まったばかりだ。

 雪解けが終わったら伊達がやってくる。それまでは防戦になるかもしれないがそれまでに上杉が攻めてくる可能性も低いだろう。

 

「申し上げます。甘粕長重率いる隊がこちらに追撃を仕掛けるべく進軍中の由」

「やはり来たか・・・・・・距離はどれほど離れている?」

「約二里前後かと」

 

 全速力で駆ければ十分間に合うが、先の戦で傷を負い、人の手がいる者もいる。しかし、犠牲が多い今、止まっていてはここは逃げなければならない。

 立ち止まっては上杉軍の思う壺。それに希望がある以上は無闇に命を捨てる訳にはいかない。

 

「敵が来る! 皆駆けよ、遅れは許さん!」

 

 怪我人がいる中で鬼畜かもしれないがこれしか命じることは出来ない。

 もはや重家は使えない兵が捨て駒のように敵に討たれていく姿しか目に浮かばないまま新発田城へと急いだ。

 

「上杉軍が後方の負傷兵に襲い掛かりました」

 

 それでも重家は前だけを見ていた。凶報という凶報が続いてやってくるとは知らずにただ進むしか道はない。

 

 

 

 

 

 

 

「ったく、重家も随分と面倒なことをしてくれたもんだ」

 

 長重の視線の先には新発田軍の取り残された負傷兵の屍。白い雪の上を赤い血で染めているどの兵も最期まで重家の為に戦い、死んでいった。その為に長重達は思ったよりも時間を喰った。

 

「それにしても、追撃するならさっさとやっておけばよかったものを・・・・・・」

 

 またしても能元が空気の読めない嘲るような口調で後ろからやってきた。

 元々長重達は追撃をせずに藤資に任せるつもりだったのだが、やはり行うべきだと景資が進言したのだ。

 その理由として最も皆を影響させたのは能元の空気の読めなさだった。

 

「何かぞくっと背中に何かが走った」

 

 そのような下らない理由で行く気にならないと言う能元を放っておいて長重達は追撃することにした。

 

「何でお前はやってきたんだ?」

「手柄を持ってかれる訳にはいかないんでね」

 

 にやりと笑う能元だが、聞いた長重は聞くまでも無いとすぐにそっぽを向いて戦場を見つめる。結局は長秀も自分の手柄目当てに付いて来たのだが、最終的にはこの戦では長重が一番功を立てた。

 先程の景資の予感は見事に当たってしまった。藤資の部隊と合流した長重達はかれらによって藤資が重家に討たれたことを知った。しかし、上杉軍の武勇の象徴でもある藤資が重家に後れを取ることは考えにくい。

 

「(そういう事か・・・・・・)」

 

 長重達は察した。そして、息子であり、状態をよく知っていた景資はもしかしてと思っていたとはいえ敬愛してやまない父の突然すぎる死に強い衝撃を受けた為に今は一旦水原城へと戻り落ち着かせることになった。

 

「やっぱり老害でしたな。まったく、我々のような若い者達に任せておけばよかったものを・・・・・・あの人は自分で命を捨てたもんだ」

 

 少し笑いながら言う能元。ここに景資がいなくて本当に良かったと長重達は思いながらも自身達も彼に飛びかかろうとしている自分を堪えるのに必死になっている。それを紛らわすようにとあるものを探している。

 

「それにしても、藤資殿のご遺体が見当たらないな・・・・・・」

 

 首は重家が持ち帰ったのは分かるが胴体が全然見当たらないのだ。見逃したかと何度も探し直したが見つかる気配が無いままに夕暮れになってきた。

 

「しょうがねぇ、今日はここまでにして水原城に退くぞ」

「なんと、新発田城を落とす好機だというのに何故にまたしても退くというのですか?」

「お前は本当に分かってねぇな。ここから水原と新発田、どっちが近いかっていったら間違いなく水原だろ?」

 

 能元の蔑む口調に怒りも湧かないまま適当に流しながら長重は馬に跨がって水原城方面に体勢を向ける。

 かなり新発田軍を引き付けた為に上杉軍が新発田軍と戦った一帯は言うまでもなく水原城付近である。新発田城に今から向かえば途中で夜になる。

 

「ならば野営をすればよろしいではありませんか」

「馬鹿かお前。ここで野営をしてみろ、たちまち凍死者が出る」

 

 今度は長秀が呆れて嘲るような口調で能元を窘める。雪が降り始めて寒さが増したこの時期に戦続きで疲れが溜まっている兵に野営をさせるなんて自殺行為である。

 

「最上軍から報告が来ました」

「分かった。すぐに会おう」

 

 長重達は能元の意見を全て聞かずにすぐに水原城に帰還した。

 

 

 

 

 

「これはこれは満延殿、何故にわざわざここまで来られたのです?」

 

 藤資が亡くなった為に次に年上である長秀が一番上座に座って対応する。景資はいまだに衝撃を隠せない状態だが、満延が来た以上は出ないといけない。

 厳しい状況下であることは最上領内でも変わりない。最上軍でも重き地位にいる満延がわざわざ海路を通ってまでここまで来たのには何か訳があるのだろう。

 そう考えてぐっと身を乗り出して上杉軍の面々は話を聞く。

 

「最上家は上杉家から離反した大宝寺義氏と寒河江兼広を討ち取りました。それから安東愛季ですが、取り逃がしましたが、重臣の浪岡顕村を討ち取り、安東軍自体は多大な被害を出して撤退をいたしました」

「いや、ちょっと待ってくれ」

 

 つらつらと平然と満延が言うが、長重が待ったをかける。

 

「かなり最上領内の情勢は厳しくてそんなに簡単に収まるような状況ではなかった筈なんだが」

「まぁ、そうなんだけど、実は・・・・・・」

 

 その後、満延は最上領内で起きた事を噛み砕いて説明し始めた。

 

「・・・・・・と、いったところです」

 

 満延が話し終わるまでに上杉軍の面々は予想外すぎる展開に「はぁー」という驚愕の表情になっている。

 

「しかし、政宗殿がまさか輝宗殿を説得してそんなことをなさるとは・・・・・・」

 

 長実は額を指を押さえて予想外のことに驚きを隠せないでいる。

 元々伊達家は上杉家との戦いを得て友好的な関係になっていたが、今回はさすがにここまで上杉が東北に影響力を及ぼしている以上は出てくるとしても敵として出てくると誰もが考えていた。

 それがまさか味方に付いて山形城の危機を救ってくれただけでなく寒河江の残党狩りに近い寒河江城の戦いでも手を貸してくれるとは予想外もいいところである。

 

「しかし、思い切ったことをするかいうのは伊達らしいところですな」

 

 景資も半ば呆れたような溜め息を吐きながらも一つ気になることを口にした。

 

「・・・・・・延沢殿、まさかそれだけの報告の為にやってきた訳ではありますまい?」

「ふっ、流石は音に聞こえた中条藤資殿のご子息であられる」

 

 にやりと笑う満延だが、藤資の名前を出した途端に場の空気が重くなったのを感じた。

 

「延沢殿、実は・・・・・・」

 

 長重が満延に近付いて事情を説明する。説明して行く内に満延は最初目を見開き、徐々に暗い表情に変わる。

 

「・・・・・・なんと、まさか藤資殿が」

 

 満延も上杉家の重臣筆頭格の藤資のことはよく知っている。彼が戦場で命を落とすとは彼を知る人物からすると考えられないことである。満延はすかさず景資に詫びをいれるが、景資は気にしなくてよい、とうなだれながらも言った。

 しかし、父を亡くしてまだしばらくの景資は正直誰の目からも分かる程に動揺している。しかしそれでも、景資は気をどうにか落ち着かせて満延の話に耳を傾けようとする。

 同情の目を景資に向けながら満延はこれから行って欲しい動きを長重達に告げた。

 

「なるほど、分かりました。すぐにでも準備しましょう」

「よろしくお願いします」

 

 策を聞き早速準備に立ち上がろうとしたかれらだが、能元がその勢いを止めた。

 

「待ってください」

 

 いつもの邪魔が入ったことに上杉の将達は不機嫌な様子を露わにし、満延は一瞬呆気に取られる。

 

「何故にこの策で行くのです? 聞けばこの策は伊達政宗殿が立てた策のようですね、そんな日和見な人物の策を簡単に信じるのですか?」

「何!?」

 

 満延ががたっと立ち上がり能元を睨み付ける。しかし、能元の嘲るような口調は収まらない。

 

「まぁ、義守殿は元々戦には不向きな方でしたし・・・・・・仕方ありませんな」

「貴様、義守様を侮辱する気か?」

 

 それ以上言えば満延は刀を抜き出してしまいそうな覇気を出している。その間に長重達が入って満延を宥めて能元を叱りつける。

 しかし、能元はそれで反省する気は毛頭なく、表向きは申し訳ありませんでした、と頭を下げて出て行った。

 

「まったく、懲りない奴だ・・・・・・」

「前からあんな感じなのか?」

 

 満延は長重に今にも露わになりそうな能元への怒りをぐっと抑えて聞く。以前から二人は最上が上杉の傘下に入ってから馬が合い、敬語抜きで話し合う仲だ。

 

「ああ、この戦が始まってからずっとだ」

 

 満延は長重に事情を長々と聞かされると半ば呆れたように溜め息を吐いた。

 

「のうのうと育てられたせいか?」

「能元の父君と兄君は息子想い、弟想いだったからな」

 

 ぼんぼんが戦で出るにはちょっと早過ぎた。長重はそう言いたげに溜め息を零す。

 

「敵討ちが悪いとは思ってはいねぇ。だが、奴の場合はそれに捕らわれて足元がまるで見えてない」

「それを気付かせるまでは良かったが、その後に変なものが残った訳か」

「あいつは上杉家に対する忠誠心は篤い。あれを変えるとなると謙信様しかいないな」

 

 時の流れに付いて行けずにただ家の為にとだけに生きる能元は歯車が完全に狂ったことによって将兵から孤立している。彼の支えはただ、毛利安田家の当主という肩書きのみである。

 

「それと、ここに来る前に伊達家から書状が来なかったか?」

 

 満延の突然の発言に長重は足を止めて目を丸くする。その反応から事を察した満延は間違いなく書状は送ったと政宗が言っていた、と話した。

 

「まさか、藤資の爺さん・・・・・・」

 

 長重は察し、天を仰いだ。藤資はこの事を知っていたのだ。どこでかは分からないが、予想は出来る。

 

「八幡砦でどっかから使者が来たって色部が言ってたな」

 

 あの時、長重は新発田城の監視に回っていたので細かい事情は分からないが、それがその時のものだろう。しかし、藤資はそれをあえて公表せずにずっと自身のどこかに隠し持っていた。

 見せなかったのはあえて窮地に立たせることで味方の士気を上げようとしたのだろう。

 

「だから重家の退却路を断つ役目、自分がやるって言って聞かなかったのか・・・・・・」

 

 退却路を断たれた敵は間違いなく、活路を開こうと死に物狂いで立ち向かう。

 

「そこを病身の身で、先があまりない自分の身体を犠牲にして時間を稼いだ、か」

「馬鹿だな、やっぱりあれは老害だった」

 

 満延が言葉を繋げると捨て台詞を吐いて長重は足早に歩き出した。

 長重はその足で景資の下に向かいそのことを説明する。全てにうんうんと頷きながら景資は段々と頭の中で父の姿を大きくしているのだろうと長重は思った。

 しかし、今はそれで良い。明日になれば景資は立ち直る。そう信じていた。

 

「・・・・・・一人にさせてくれないかな?」

 

 うわずる声からして我慢しているのだろう。そう思った長重はすぐに出て行った。

 

 

 

 

 この次の日の夜。

 越後と越中の二つの城から炎が立った。それは完全に城を焼け落とす勢いのものではなく、ただ勝利を伝える為に燃えている。多くの将兵の喝采を浴びて燃える炎は天へと上る竜のように小さくも強く舞い上がる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十三話改 東北は今日も雪だった

 雪が降り、屋根に積もっている山形城では最上から安東の誘いを受けて寝返った寒河江兼広が大宝寺義氏よりも一足先に包囲していた。彼の心に領土を広げてもらった上杉に対する恩などどこにも無い。

 更なる領土拡張に対する望みだけが心にあった。結局は彼も自身のことしか考えていなかったのである。それ故に、大宝寺よりも早く山形城を囲み、落として羽前最大の城を独り占めにしようと思っている。

 城攻めに話を戻すと兼広は改めて山形城の壮大さに目を見張った。

 彼は思った。義守などよりも自身の方がこの城の持ち主として相応しく、羽前を取るにはこの城は欠かせない。

 義守と義光は今は城にいない。家臣の者が守っていて兵も二人がかなり引っ張って行った為、籠城するのにも事欠く程度にしかいない。

 既に義氏が来る前から城を落とす算段が付いている。もはや勝利は決まっていると兼広は確信に近いものがあった。

 そんな彼を嘲笑うように寒い風が強く吹いて顔を直撃し続けている。

 翌日の夕刻には寒河江軍は三の丸を突破し、山形城の包囲を着々と絞っていた。

 兼広は戦勝を祝う宴を開くことを決めて兜を外して酒を持たせる。

 戦の最中にあってもやはり酒とは良いものだ。喧騒な雰囲気から解放され、時間がゆっくりと過ぎて行く感覚がある。疲れが出ているからこそ酒はいる。 

 ぐいっと一気に飲むのでは無く、戦終わりの時間と同様にゆっくりと味わうかのように痛飲する。そうするとその日の疲れがすっと身体から抜けていくような気持ちになるのが兼広の楽しみだった。

 

「申し上げます! 最上軍が引き返して来ました!」

 

 杯を叩き付けた欠片が報告に来た兵の頬を掠めた。そのこと気にもかけずに兼広は陣を出た。そこには楽しい気分をぶち壊し、兼広の楽しみを終わらせたことへの怒りがあった。

 近くにいた配下に迎え撃つように命じ、兼広は再び酒を煽る。伊達軍が来ていることは既に知っているが、慌てることはない。山形城はその前に落とせば良いのだ。かれらの物にはさせない。

 苛々を抑えること無く兼広は休息を中止して残りの配下に山形城攻撃を命じた。

 

 

 

 

 山形城に籠もる志村光安は全くもって予測していなかった寒河江の襲撃にわずか一千の兵で五千の兵の襲撃を防いでいるところは流石である。

 元々剛毅な性格の彼は兵を良く指揮し、挫けそうな者が居れば自ら敵に斬りかかるなど鼓舞をして二の丸よりも先の侵攻し許さなかった。

 しかし、守っている彼は大宝寺の援軍が来ればかなり厳しいことになるのはよくわかっていた。厳しいで済んだらまだ良いかもしれないが、二の丸や本丸も危なくなる。

 民を城内に避難させているだけに城が落ちれば民は略奪の標的になってしまう。

 光安は義光から民を最後まで守るように何度も命じられている。逃がしておくならば戦の混乱に乗じて逃がすのが一番得策かもしれない。

 危険ではあるが、三の丸に敵が入った以上は兵は死なない為に目の前の敵とぶつかり合っている隙に逃がすのが危険だが、逃げ延びる確率は高い。

 そう結論付けた光安が立ち上がろうとした時だった。

 

「報告。三里南に伊達の旗印を発見。およそ三千かと」

「申し上げます。大宝寺の軍が二里程西に、その数二千」

 

 光安は天を仰いだ。これで民を逃がす方角は北だけになった。満延達がやって来ていることは既に報告が来ている。

 だが、逆に考えれば寒河江の軍もそちらに向かうということは明白で民と寒河江軍が鉢合わせでもしたら全滅する恐れもある。それに大宝寺はともかく精鋭揃いの伊達軍が近付いている以上、こちらから戦を仕掛けるのは危険だ。

 被害を受けて更なる被害を受ける羽目になって山形城は援軍を待たずに陥落してしまう。

 光安は息を吐いて浮かしかけた腰をどっかと音を立てて落とした。もはや城から人を出すことは不可能である。

 いざとなれば民も巻き込むことも致し方ないと光安が疲れた身体を休めようと水を飲んでいるとまた報告が届いた。

 

「寒河江軍が二の丸に攻撃を開始」

 

 光安はすぐに頭を切り替えて指揮を執るべく雪の降る前線に向かった。

 

 二の丸は大分押されているが、光安がいつものように自ら敵を斬り捨てることで兵も奮い立っていた。後ろの本丸では民が肩を寄り合わせて怯えている。もはや逃げ場はない。

 しかし、負けた訳ではないのだ。味方の援軍が来るか敵の援軍が来るかはまだ分からない。

 また報告を告げる兵が来た。それでどちらの援軍が来るのか分かる。そして、光安の動きが決まる。

 

「申し上げます。大宝寺、突如撤退開始!」

「・・・・・・何故だ?」

 

 怪訝な顔をして伝令兵に光安は訪ねる。吉報ではあるが、向こうはそのようなことが起きる状態ではないはずだ。周りの将兵達も驚愕の表情を隠せない。

 

「どうやら羽黒山で一揆が起きた模様です」

 

 光安は目を見開き、ことを察して薄く笑った。

 

「(やったな土佐林殿・・・・・・)」

 

 元々義氏は羽黒山信徒と仲が悪かった。禅棟が就いていた羽黒山別当の地位を得たのは良かったが、増税とすぐに別当を辞して将軍家から許された屋形号を名乗るなど羽黒山信徒や民から不満を持たれていた。

 さらに彼自身が増税を謙信達から咎められていた事。上杉家の世継ぎである景勝に疑問を持っていた事が決め手で義氏は反旗を翻した。

 しかし、土佐林達上杉家与党の家臣から不満を持たれた。もし軒猿達の手引きが無ければ禅棟らは義氏によって殺されただろう。

 そして、今回の戦で義氏は出陣した後に示し合わせたような一揆は羽黒山信徒と未だに繋がりが深い禅棟の影が光安の頭にも見え隠れしている。

 さらに義守がこちらに向かっていることも知らされた。これは山形城内の兵の士気を大きく引き上げた。それまでに山形城を防衛すれば間違い無く寒河江軍は退却する。

 問題は伊達軍の動きだ。義守達が速いか伊達が速いかは分からない。しかし、常識的に考えると伊達の到来が間違い無く速い。

 頼みとなる満延達が速く来ることを光安は城を守りながら祈るしかない。

 敵を薙ぎ倒しながら光安は頭の中で伊達が来た時の対策を練っていた。

 更に一刻経ち、夕方から夜に変わろうという時間になっても寒河江軍は攻勢を緩めない。向こうの方が外にいるのだからこちらに来た報告が全て向こうには行っているのは確かである。来る時が来た。

 

「申し上げます。伊達軍の旗を確認しました」

 

 

 満延達が山形城見えてきたのは光安に伊達軍襲来の報告が来てから半刻経った時、兼広配下の足止めをそこに人がいなかったかのように華麗に突破した後も休むことなく進んだが、辺りはすっかり夜になっていた。 

 

「満延様、伊達が既に・・・・・・」

「言わなくてもいい。行くぞ! 山形を救い、光安を救う!」

「「「応っっ!!!」」」

 

 負けることは出来ない。満延の延沢家と寒河江家の因縁は深い。義守に不満を持っていた最上八楯の一派が反乱を起こした時、延沢家は寒河江家を一番に攻撃した。決着は付かなかったが、これはかなり問題となった。

 延沢家も最上八楯の一つ。天童から再三の共闘を持ち掛けられた。だが、満延は義光を通じて既に最上に恭順の意を示していた。

 義光は満延の立場を利用させて満延が天童に従うことを誓わせて近隣の不安が無くなったと寒河江が油断したところを襲わせたのだ。

 あの時から兼広は満延に敵愾心を露わにして最上が上杉に降り、兼広が領地を獲得すると何かと付けて満延を見下すことが多くなった。

 偉そうにしている兼広に満延もかなり我慢をしていた。

 この戦は最上を守る為でもあればその我慢を発散する時でもある。

 伊達という邪魔も入ったが、それもかつての戦での鬱憤晴らしというやつだ。一つの戦で二つの鬱憤を晴らせる。

 人としての楽しみが出来たところで満延は戦場となっている山形城を視界に捉えた。

 

 

  

 羽黒山信徒の中に民とは思えない出で立ちと鎧姿をした人物が二人いた。一人は僧侶、一人は武人、土佐林禅棟と池田盛周である。

 彼ら二人は羽黒山信徒を率いて大宝寺義氏の居城、鶴ヶ岡城を攻めていた。鶴ヶ岡城は義氏の居城となっているが、あくまでも軍事拠点の支城という見方が強い。

 そこを破れば大宝寺の本拠地である尾浦まで後一歩である。

 あの時最上軍と上杉の援軍の間で嫌な空気が流れ、義守がそれを遮るように山形城に向かうと言ってどうにか一触即発の雰囲気を破ったが、それでは大宝寺と寒河江。さらに伊達を纏めて相手取るという非常に不利な状況下に晒されることになる。

 なんとかして敵の戦力を分散することが出来ないかと定直から相談を受けた禅棟は羽黒山信徒のことを思い出した。

 義氏に不満があるかれらなら義氏の増税を撤廃すると約束すればすぐに動いてくれる筈だ。

 そう考えた禅棟は義守の許可を得ようとしたが彼は首を横に振った。

 

「民を巻き込んでまで勝ちたいとは思いませぬ」

 

 即刻却下された。

 しかし、今はそんな贅沢を言っている場合ではない。

 どうとか山形城を救う為にもどこかの勢力を引き離さないといけない。  

 南羽州の西にある鶴ヶ岡城に向かっている為に東の山形城との距離もどんどん離れているのも事実で満延が先に着いたとしても兵力の差は否めない。

 

「義守様、私も賛成です。この禅棟殿は御自身が泥を被る覚悟でございます。それを反対なされては禅棟殿の立場がありません」

 

 定直も加わって懇々と説得するとようやく義守も仕方無さそうに頷いてくれた。

 支配者は時として被らないといけない物。越えないといけない物がある。無事に突破した者が戦にも勝ち抜くことが出来る。

 禅棟は羽黒山信信徒の代表に密書を送り、盛周を借りて僅かな兵と共に別行動を始めた。

 羽黒山信徒は簡単に誘いに乗った。義氏の増税に悩まされていた民達もその騒動に次々と立ち上がり鶴ヶ岡城に攻め込む。鶴ヶ岡城にも兵は残っていたが、数が違い過ぎるのと城内で義氏に不満を持っていた東禅寺・来次の二将が寝返り、あっさりと落城した。

 夜になっても禅棟と盛周は勢いを緩めずに続けて本城の尾浦城に迫ったが、ここでも守りを任されていた砂越はあっさりと降伏した。

 元々大宝寺の治める地域は不安定な土地だったが、それなりにもう少し良い政治を行うことが出来た筈だった。外には強かった義氏も内には弱かった。

 脆くも義氏が来る前に帰る所は無くなった。

 

 その頃、義守は義氏の隊と鉢合わせていた。

 義守の顔を見た瞬間に義氏の顔は血管が破裂しそうな程に赤くなり見るからに悔しそうに義守を見ていた。鶴ヶ岡城の陥落は届いている筈だ。

 夜の暗闇の中で松明の明かりがよくその顔を映している。義氏の感情が一目でわかった。それを見て義守が一計案じる。

 義光に耳打ちすると彼女は嫌な笑みを浮かべながらどこかへ向かった。

 それを隠すように義守は前に出て義氏を真っ直ぐ見て明らかに動揺している周りの兵を見る。

 

「尾浦も落ちました。皆さんの帰る所はありません。今なら間に合います。降伏して下さい!」

 

 それを聞いた義氏の顔を青筋が脳天に辿って着いた時にはぷつりと何か音がしたのを義氏の近くにいた兵は聞いた気がした。

 逃げ出そうとした兵を斬り捨てると義氏はよくわからない奇声を上げて義守目掛けて突っ込んで行く、義守は相手にすることなく、すっと馬を反転させて退却する。

 しかし、義氏は執拗に義守の背中を追った。暗闇で見えなくなりそうになっても徹底的に義守を見つけて追った。そして、周りは全く見えなくなった。

 

「やれやれ、こんな策に掛かるとは義氏もやはり脳筋じゃのう」

 

 義守に言われて義光は大宝寺を包囲するように陣を整えたが、簡単に引っかかってくれた義氏には敵なのに哀れに思えてきた。

 怒りに任せるのは自身の力を強めて良い傾向に行く時もあるが、殆どの場合は結局返り討ちにあって終わる。

 義氏はその典型的過ぎる例だった。半刻もしない内に義氏は完全に孤立してしまい、それから少し経った時には完全にボロボロになりながら不運にも景家に降伏を願ってその景家の槍の錆びになっていた。

 

「まぁ、良しとしようか・・・・・・」

「良いと致しましょう・・・・・・」

 

 下らないと思いながらも秀綱と定直は同じ思いでこの戦を終えた。 

 

 

 

 今宵の月は満月だ。夜襲をかけるには向いていないが、それでも愛しい山形を守る為に義守達は馬を急がせる。

 歩兵の中には息が上がって今にもへたり込んでしまいそうな者もいるがそれでもかれらは走る。将兵一体となってこの夜空の下、寒河江の陣に襲い掛かり徹底的に叩く。

 元々満延に出していた指示であるが、山形城からの報告が無いということは満延達に何かあったからに違いない。やはり向こうにも足止めの兵が向かったのだろう。

 いくら勇猛な満延と満茂であっても疲れは出る。思うように突破出来ていないのかもしれない。ならば自分達がやらなければならない。

 上杉・最上軍は馬をさらに加速させて景家と秀綱が先頭に立って山形城に向かっている。

 二人は先の発言で最上からの信頼を失っていた。それを挽回するためにも武勲を立てないと気が済まない気持ちで早く早くと山形城を目指す。

 満月の光の御陰で山形城が思ったよりも早く見えてきた。二人はそれぞれの得物を構えて寒河江が居るであろう陣を探し当ててそこに入った。

 そこにいた将のような人を見つけて斬り掛かろうとした時。

 

「あ、義守様、お帰りなさい。お先に失礼しています」

「義守様、申し訳ありません。兵達がどうしてもと聞かないので・・・・・・」

「「「「「・・・・・・」」」」」

 

 それなりに出来上がっている光安と申し訳なさそうにしていながらも酒からほんのり顔を染めている満延を見ると何があったと先ずは率直にそれが言いたい。

 だが、残念ながらそんなこと言えるような状況ではない。

 義守も義光も景家も兵達と一緒に目と口で綺麗な丸の形を作って絶句している。定直と秀綱だけが落ち着いた素振りで礼儀正しく待っていた将達に御辞儀をするが、その目はいささか開いていた。

 山形城がちゃんと守れているのは別に良い。守りきったのだから。満延達別働隊が居るのも別に良い。先に山形城に到着するのは計算済みだ。

 疑問は二つある。

 一つは何故、山形城の攻防戦が終わっているのか。

 

「何でこの方が寒河江の首を持っているのですか?」

 

 義守が代表して二つ目の疑問をしっかりと言ってくれた。

 

「ん? 私達が居て何か悪いか?」

「私『達』?」

 

 義守が可愛らしく小首を傾げると満延達の背後にさらに義守達は顎が外れるようなものを見た。

 

「梵天丸ーお酒持って来たよー」

「成実、もう少し落ち着いて・・・・・・」

 

 やってきたのはドタバタと酒樽を頭に乗っけて酒が少し零れているのも気にせずに走って来た少女とそれを宥める長身の女性。二人は義守達に気付き、『こんばんは』と頭を下げる。

 ようやく頭の配線が繋がった義光が一言叫ぶ。

 

「何で伊達がここに居るのじゃ!?」

 

 結論から言うと伊達は上杉との戦での邂逅を終えた後、輝宗に事の詳細を告げた。

 政宗が謙信との一騎打ちに負けたと聞くと輝宗は高笑いを上げて政宗の肩を叩いた。

 驚きながらも政宗が何故そこまで笑っていられるのか聞く。

 

「やはりこれからは上杉と我々の時代になる。東北でどんな波乱が起こるか想像するだけで楽しみなのだ」

 

 端から見ればそれだけの理由かよと何か言いたくなるが、輝宗も戦人である為、そしてここにいる全員も同じく戦人である。三人は肩をすくめあってそれを眺めるだけであった。

 ところが着々と上杉が領土を拡大している頃、伊達では色々と揉め事が起きた。元々不満を持っていた国人衆が反乱を起こし、それに対応する羽目になってしまっていた。

 さらに輝宗がその戦の最中に人質に取られるなど家中でも騒然とするような事が起き続けた為に外に出ようにも出られない日々が続いていたのだ。

 気付いた時には上杉と伊達の領土の大きさはかなりのものになっていた。しかも、伊達を囲むような領土の拡大を重く見た輝宗は挽回策を考えたが、知恵袋の景綱が上杉に居る以上は簡単には上杉に手を出せない。

 しかし、伊達にも転機が訪れた。本願寺からの誘いである。輝宗は政宗達を呼んでどう動くべきかを訪ねたが、なんと今回は賛成する者が現れなかった。

 

「また同じような手を使えば伊達の名前は完全に地に落ちます。それに春日山には景綱がいます。第一に上杉とは上洛中は領内に侵攻しないと和睦を結んでいるでしょう?」

 

 政宗はつらつらと正論をぶつけて輝宗を説き伏せた。政宗達は国人衆の反乱は先の戦の乱入で自分達もいつかは伊達に斬られると思ったことによるものだと分かっていた。

 あのような思いはもうたくさんである。それは輝宗も感じていたことなので仕方無いと本願寺の誘いは丁重に断った。

 

「だが、これから我々はどうするのだ? もはや周りは上杉に囲まれている。田村が残っているとはいえそれ以外はどこにも行けぬぞ」

 

 田村が徹底抗戦の構えを崩していないが、放っておいてもすぐに落ちる。

 だとすると他に侵攻することになるが、蘆名も最上も上杉の傘下に入っている。

 残るは葛西・大崎辺りだが、攻めたところであまり領地が拡大する訳でもなく、また間延びした感じに領地がなるので分断される危険性がある。

 はっきり言って時間を無駄にしたというのが伊達の領土拡大が遅れたことが根本的な原因だった。

 それは今になっては無情の時間が帰って来てくれる訳でも無いので後悔しようにも出来ない。そうなってくると残る方法は危険だが、一つしかない。

 

「だからってよくも上杉に降ろうなんて思ったわね。私だったらそんなさっぱりと決められないよ」

「まぁ、元々上杉には借りがあったし。謙信殿とは仲良くやって行けそうだったからな」

 

 にやりと満延に笑っている政宗には以前の乱入戦の時の罪悪感は無いように見えてしまって義光は少しばかりの拍子抜けとかなりの怒りを覚えた。

 だが、義守と定直、秀綱が三人がかりでそれをどうにか宥め続けたおかげでどうにか話せるまでに回復した義光が口元をヒクヒクさせながら政宗達に詰め寄る。

 

「まぁ、お主らの処遇は謙信殿が決めることだとしても先の戦の落とし前についてはどうするつもりなのじゃ?」

 

 明らかに嫌味たっぷりな発言に政宗も苦笑いを浮かべるしかない。言っていることは義光の方が正しいので言い返せないが、余裕な態度を崩さずにいる。

 

「私の父、輝宗と綱元の父、左月が手土産を持ってくる手筈となっている。それで大丈夫だろう」

「手土産・・・・・・ですか?」

 

 義守が小首を傾げると政宗は悪戯っぽく『今言ったらつまらんだろう』と笑ってそれ以上は何も言わなかった。

 義守は追及を諦めてようやく満延に状況を聞くと兼広は成実が討ち取って寒河江は殆どの兵が被害を受けて撤退して行った。後は寒河江を攻めれば万事片が付くだろう。

 満延も最初は伊達が寒河江を攻めているのを見てまた山形城を横取りする気かと思った。

 しかし、満延達が現れても何も伊達に動きはなくただ寒河江を攻めているのを見て疑問に思ったそうだがよく見ると光安が一緒に政宗と並んで馬に跨がっているのを見て、一瞬呆気に取られたが、そこから光安が自ら使者として事情を説明したので一応は分かったそうだ。

 報告も終わったところで政宗達が持って来たかなりの量の酒で宴が始まった。

 夜空の満月の月明かりの下での一杯もなかなかの風流だったが、長い戦を続けた最上軍からすればかなりの疲れを癒やす為のものにしか考えられず、結局、雪が止んだこともあって本当にその日は朝まで飲んで勝利を祝った。

 その後、鶴ヶ岡城と尾浦城を落とした盛周と禅棟が帰還した。

 義守は正義感の強い盛周がこのことに何か危ないことを言うではないかと不安になったが、盛周は予想通り最初こそ斬り掛かろうとまでした。しかし、義守の説教と思ったよりも素直に政宗達の言い分を聞き入れたのでとりあえずはよしとなった。

 その三日後には寒河江の残党も全滅した。

 義守は南羽州を守り、愛する山形の民を守りきった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十四話改 越中挽歌

 陣から見えるのは息子、兵部の首。

 それがどうした。息子が殺されても仕方ないのは乱世の慣わしだ。

 いつ、どこで殺されるかも分からないこの時代に生きている以上、康胤自身も分かりきっている事だ。

 しかし、分かっていても親子の絆とは不可解で他人からは見えることは無いもの。

 康胤は首が晒されている上杉軍の旗を見るだけで紅蓮の炎の如き赤い顔になる。精一杯の理性を保ちながらも私情を挟まずにはいられなかった。

 

「息子の首を奪い返すまではここからは退かぬ!」

「落ち着かれよ! 康胤殿、ここはひとまず戦線を立て直す為に松倉城に退いては如何か?」

「お前は知らんのか? 松倉城などとうに落ちたわ!」

 

 憤りを隠さないままの康胤から事の報告を聞いた寺島職定は天神山城に養子の寺島盛徳を置いて急いで魚津城まで来たのだが、まさかここまで戦況が悪化しているとは思っていなかった。

 唯一信頼の置ける職定と盛徳が残っている以上、ひとまず天神山に退いて海路から密かに撤退することも考えていたが、息子が討たれた事は康胤の判断力を怒りによって大きく狂わせていた。

 いらいらが募る中で一つの打開策である魚津城攻略の目途は既に立っている。二の丸は突破まであと一回総攻撃を掛ければもう本丸になだれ込める。しかし、その考えも上杉軍は凌駕しようとどんどん魚津城に近付き、とうとう椎名軍と陣を相対するまでになっていた。

 上杉軍本隊三千と椎名軍五千。数では椎名軍の方が上だが、戦となれば間違いなく魚津城の兵が挟撃を仕掛けてくる。

 これは椎名軍の誰もが知らない事だが、軒猿によって上杉軍の本隊が戻っていることは魚津城に知れ渡っている為に城兵の士気は割れんばかりの歓声を上げる程までに盛り上がっている。

 魚津城には一千かそれよりも下の軍勢が籠もっているが、このことが知られれば椎名軍とて攻め込みようが無くなり、敗北を喫する可能性がある。

 それには職定に対応策があった。天神山城の兵を回して幾分かの康胤の兵と共に魚津城に釘付けにしておけば挟撃の危機は無くなる。

 策があると聞いて職定の話を聞いて行く内に幾分か落ち着いた康胤だが、まだ少し怒りからか顔が赤い。

 

「なるほどな。手配の方は出来ているのか?」

「私が手の者を回せばすぐに・・・・・・」

 

 寄り添うように言う職定に康胤はにやりと笑い、善は急げとすぐに実行するように伝えた。

 

「何としても、あの首を取り返してやる。そして、謙信よ、今度は貴様の目の前で景勝の首を掲げてやるわ」

 

 低く笑いながら康胤は兵部の首をじっと見ていた。 冬の雪は白い銀世界を作り上げた。しかし、いつかはここに人の軌跡によって足跡が出来る。

 康胤には謙信を取るという大功への足跡を踏む為に臥薪嘗胆の気持ちを以て耐える。 

 

 

 

 

策の準備の為の使者を出した後、僅か四半刻だけ経った晴れた夜のことだった。

 

「報告、天神山城が・・・・・・落ちました・・・・・・」

 

 絶望を意味する報告が届いた時、康胤と職定は出す言葉も失った。

 

「馬鹿な・・・・・・盛徳は、娘はどうなった?」

「上杉に降伏した模様です」

 

 職定は身体の中で何かが動いた気がした。もはや娘までが上杉という毒牙にかかろうとは思ってもいなかった。

 しかし、それが現に起きた今となっては止めるものは何もなく、彼はがたりと音を立てて立ち上がった。

 

「謙信を討ちましょう! 今すぐに!」

「私も同じ思いです。行きましょう!」

 

 策を潰された怒りから康胤も立ち上がって配下の将に魚津城から兵が出ないような最低限の押さえを置き、四千の兵馬で椎名軍は上杉軍の陣に向かう。

 上杉軍は連戦に次ぐ連戦で疲れている。それを叩いてしまえば上杉軍は終わる。

 そして、憎い謙信を斬る。そうしなければ二人の腹の虫は収まらない。

 足跡が出来る。上杉軍を倒す為の軌跡が残る。見る者はいないが、二人は同じ思いを抱いて駆ける。

 怒り心頭の二人には勝利の二文字しか頭にない。

 怒りの支配とは強い。前にいる憎い敵を討つ為にたとえどのような窮地に陥ったとしてもそれをひっくり返してしまう。だが、それ故に崩れだしたら脆い。

 

「いない?」

 

 上杉軍の陣中に風が空しく誰もいないことを示すように吹き荒れる。

 人が簡単に消えて無くなる訳ではない。どこかに逃げる場所がある訳でもない。

 答えはもう限られた。気付いた時には顔から血の気が引くのを感じた。

 

「いかん! 退け! 退くのだ!」

 

 その声を合図に馬の蹄の音が聞こえる。それは椎名軍のものではなく、上杉軍のものであった。

 崩れは脆い。簡単に一つの川に流される葉のようにすーっと優雅に、それでいて濁流の川に流されるにもかかわらず助けられない人を眺めるように残酷に。

 竹に雀の旗印の下、一人の将が名乗りも上げずに進んでくる。それを見て康胤達は包囲されたことを悟り、逃げるしか道はなかった。

 雪に刻んだ足跡は椎名家滅亡への軌跡だった。

 そして、見放された兵達はその恐ろしい武勇を撒き散らして進む将の槍の錆となり、逃げる場所もないかれらはもう降伏を願い命を惜しむか、主君の為に命を散らすか、または、諦めて生きるか。

 

 

 

 

 

 

 まだ日が高く昇っている頃、謙信は兼続と共に陣中を見舞っていた。

 

「しかし、こんなことをして康胤はかなり腹を立てているのではないか?」

「それはもう、かんかんでしょう」

 

 普段と変わらない涼しい表情で謙信が見上げる先には兵部の首がある。兼続は後ろでその首を悪人を侮蔑するような目で眺めている。景勝も最初はいたのだが、耐えきれずにすぐに退散してしまった。

 

「あとは、このまま夜になるのを待てばこの戦いは終わります」

 

 これは全て策の内。押され続けた形成を逆転する為に最後に越えなくてはならないものである。策が成功すれば逆転からだめ押しにまで持ち込めることが出来る。

 全ては優秀な軍師のおかげだ。決着を付ける武将達が思う存分に戦えるように整えてくれるかれらを謙信は本当に頼もしい存在だと思っていた。

 

「ふふっ、楽しみだな」

「・・・・・・断っておきますけど、絶対に前には出させませんからね」

「おや、残念だな」

 

 この前の戦で前に出て最終的には兼続を丸め込んだが、性懲りもなくまたしても自分から手柄首を取ろうと目を輝かせている主君に心配性の家臣は何度はらはらさせられた事か、足の指を加えても数え切れない。

 いい加減に早く帰って定満にも説教に加わってもらわなければおそらくこの御方は止まること知らない。兼続は呆れながらも敬愛する主君の後ろにしばらく立っていた。

 兼続自身はもう春日山に帰れないのではないかという大きな不安はこれっぽっちも無くなっていたことにようやく気付いた。

 不思議なことだと思う。この地獄が始まった時は本当にどこがどうなっているのか分からない状態からだった。しかし、最後まで主君を信じ、仲間を信じたことが全ての結果を生んだ。急がずに乱れることなく冷静に動くことが出来た。

 悩むことなく動いて今ようやく兵部の首ではなく鉛色の空を見ることが兼続は出来た。

 不意に謙信は薄く笑い出した。

 

「ようやく、春日山に帰れる・・・・・・か」

「えっ・・・・・・」

 

 成功すればいよいよ愛するべき故郷に帰れるにもかかわらず何故か悲しそうに呟く謙信を兼続は訝しげに見る。

 

「いや、何でもない・・・・・・」

 

 長く空けている春日山の事を憂いているのだろうか。

 長尾政景と本条実及に任せっきりのままで早数ヶ月。何としても帰りたいと思うところの筈だが、その目はどちらとも言えないものである。

 触れば消えてしまいそうな程に儚い雰囲気が謙信から出ている。謙信は思っているのか敏い兼続もその思考を見抜くことが出来なかった。

 

「さ・・・・・・今夜だ。今夜の為に今はゆっくりと休むとしよう・・・・・・」

 

 まだ昼が過ぎた頃、休むには早いが今後を考えれば当然の事、兼続は頭を下げて去って行く。

 風が吹いてきた。冷たい冬の風を肩で切り、謙信は歩き出す。

 風によって葉の先が揺れる。決戦の時を待つように戦う人の集う所で揺れてひらひらと舞い落ちる。

 喜怒哀楽の感情を心に留めた時、人の目は細くなる。

 謙信の目は細い。

 

 

 

 

 

 

「ふぅ、こんな感じかしらねぇ」

 

 屍の山と血の池の中心で何事もなかったかのように乱れた髪を整える慶次。凛とした佇まいは普段の彼女からは想像も出来ない。

 その後ろでは謙信が拗ねている。

 

「まったく、兼続のせいで慶次が一番功を上げてしまったではないか」

「これが普通です! 謙信様はこれで良いんです!」

 

 遊んでもらえずにつまらなそうにふてくされた子供のような顔をする謙信だが、兼続はそれが当たり前だとと兵達に指示を出す。

 

「しかし、謙信様がいない戦もたまには面白いものですなぁ、某からすれば直江殿と同じようにいらぬ心配がいりませんし」

「おかげで戦に集中出来て、前にいる敵にだけ集中出来るからな」

 

 親憲と弥太郎の言葉に他の将もうんうんと頷く。

 謙信はそんなにもかと驚いているが、本当に主君が死んだらどうすんだという思いが他の家でも大きくある。上杉ももちろんそうなのでやっぱり謙信には前に出て欲しくないのが皆の思いだ。

 

「分かった。善処しよう」

「「「(絶対に分かっていないな・・・・・・)」」」

 

 真面目な顔して答える主君に呆れたように家臣達は内心で盛大な溜め息を吐く。そこにはいつもを完全に取り戻した上杉軍の姿があった。

 

「さて・・・・・・あとは仕上げだ」

 

 謙信の呟きに兼続は密かに少し口元を歪ませた。

 

 

 

 

 

 

 

 ぼろぼろになった自身を見て舌打ちをしながら康胤は周りを見る。兵達は彼以上にぼろぼろになっている為、あれこれと不満を解消するようなことは言えない。

 

「生き延びた者は?」

「約三千、内負傷者は半数です」

 

 兵部の首を取り戻すばかりかその首がある所に向けて進んだところを一気に伏兵で叩かれた。

 まるっきり嵌められた形になった康胤達はがっくりとうなだれるしか出来なった。

 全てが上手く行くと思っていた。ゆくゆくは越中全土を我がものに出来ると思っていた。しかし、結果は茶番となった。否、茶番にもならない結末が待っていた。

 天神山城を落としても落ちないという自信があった松倉城を落とされ、ずっと包囲していた魚津城は追い詰めても落とすことが出来なかった。

 そして、息子の兵部を殺され養子の盛徳を捕らえられたこの現状、この有り様ではどうしようもない。

 風はただ彼らの身体に冷たく突き刺さる。寒さで身体が痛い。天が彼らに与えるのは欲をかいた愚か者に対する冷たい鉄槌。

 

「申し上げます。魚津城から兵が出てきました。さらに、側面から上杉軍の奇襲です」

 

 

 

 

 天神山城は二の郭に繋がる門から火の手が上がっていた。三の郭から攻め込むのは難しく地形を活かした堅牢な松倉城の支城の一つである。

 官兵衛と颯馬は僅か二日で落としてしまった。到着したのは職定が天神山城を出た後、魚津城の戦いの結果を聞けば必ず行くであろうと想定した官兵衛の策であった。

 密かに官兵衛は龍兵衛にも連絡を取り、軒猿をかの城内に変装させて忍び込ませるようにも頼んでおいた。

 つまり、官兵衛はこの危機的状況を覆す策をほぼ最初から持っていたのである。

 

「見事、としか言えない・・・・・・」

「そんなに大したことないって、颯馬だってあたしが足りないと思っていたところの詰めの作業を良い助言してくれたじゃん」

「そうは言っても、お前が策の全容と立てたんだからな」

 

 軽い笑いで颯馬は苦笑いをするしかない。

 正直言って官兵衛はどこの大名が天下を取ろうとただ自分がその策にて平定へと担えれば良かった。

 それが悪魔のせいで織田になりかけたのを龍兵衛という弟子が上杉に変えただけだ。しかし、お陰で最初の戦で随分と目立つことが出来た。

 逆境よりも大局を見て勝利を確実に掴むことを得意とする官兵衛だが、不利な状況を覆すことも出来なければ軍師ではない。そのことを示した官兵衛。

 城内では逃げて来たふりをした軒猿が中から火を点け、混乱したところで門を開け、待機していた颯馬達が率いている一千の兵がなだれ込んでいた。

 しかし、戦は思っていた以上に呆気なく終わった。

 

「本当に良かったのですね?」

「ええ・・・・・・」

 

 官兵衛の返事に弥太郎程ではないが、長身の若い女性、寺島盛徳はおもむろに頷く。

 寺島職定の養子として武勇の誉れ高い将である。そして、彼女は晴貞の狂行を目の当たりにしたことのある数少ない人物の一人でもあった。

 その時は晴貞とは知らずに襲われていた女性を助けたが、後で調べたらその時取り逃がした男が富樫晴貞と分かった時は身の毛もよだつ思いをした。

 今回の戦でも養父が富樫側に付いた為に仕方なく共に戦っているが、本心はあんなのと戦いたくない。もしかしたら自分も手込めにされると思うと富樫側にいるのは心底嫌だった。

 故に、上杉軍による天神山城の奇襲は彼女にとってまさに天の助けに等しいものであった。

 

「養父がどうなってもいいの?」

 

 官兵衛が聞くが、盛徳は躊躇わずに頷いた。

 

「義父上には多大な恩があるとはいえ、表面しか分からない御方。目を覚ますのであれば話は別でしょうけど、もはやそれは叶うことはないと私は思っています」

「その中でも貴殿は義父上を思う心、響く可能性があるかもしれませんよ?」

 

 颯馬が言うと盛徳は少し笑って「ありがとうございます」と軽く会釈した。

 

 

 

 

 

 

 

 その二日後。

 謙信は魚津城で康胤と職定の前に立っていた。二人は縄できつく縛られてそれでも動いて抵抗しているが、全て徒労である。

 

「終わりだな。椎名康胤、寺島職定」

 

 冷たい謙信の言葉が二人に突き刺さる。二人はあの奇襲で義清に捕らえられた後に天神山城からの颯馬達の到着を待って裁断に計られていた。

 

「くっ・・・・・・まさか我が娘までが捕らえられようとは・・・・・・」

 

 職定は狼のような鋭い目で謙信を睨み付ける。どこにいるのかは知らないが、義理とはいえ実の娘のように可愛がってきた彼女の無事だけは見ておきたい。しかし、彼に無情の現実が突き付けられる。

 謙信が「来い」と言うとそこに現れたのは職定にとって生涯忘れられない光景だっただろう。

 服装にも身嗜みにも乱れているところが無く、普段の職定が見るような盛徳がやって来た。

 

「なっ・・・・・・」

「義父上、あなたは全てを知らないのに何故晴貞という奸物の下に入ったのです?」

 

 絶句する職定に何も回りくどい言い方をせずに盛徳は単刀直入に聞くが、今度は康胤がぐっと身を乗り出した。

 

「貴様ら! 盛徳殿に何を吹き込んだ!?」

「私は今義父上に聞いています。康胤殿は黙っていて下さい」

 

 有無をも言わせぬ厳しく意志のある物言いに康胤は盛徳が自分の判断で上杉に降ったと察した。

 盛徳は真っ直ぐ職定を見て逸らすことを許さない。職定は我が娘同様に可愛がっていた義理の娘に震えながら声を出した。

 

「まさか、有り得ない。あの方は真の徳を持った御方だ」

「間違いです。その本性は悪です。極悪です」

「違う。本当だ! お前は上杉に騙されているだけだ!」

「いつまで目を曇らせているのですか? 騙されているのはあなたです」

「違う!」

「いいえ、正しいです」

「まさか、お前は自ら上杉に降ったのか!?」

「今更察したのですか? それでも職鎮殿と共に神保家の筆頭家老の座を争った方ですか?」

 

 狼狽しながら職定は詰め寄るように盛徳に聞く。盛徳は答えることには即答える。彼女は義父の目がすっかり曇っていることに気付いた。

 

「頼む・・・・・・目を覚ましてくれ・・・・・・盛徳」

 

 更生して欲しいと泣きそうな顔をして職定は頭を下げる。しかし、それに答えること無い。

 むしろ職定の方が更生しろと無情な視線で見下ろすと盛徳は溜め息を吐き、謙信に身体を向けた。

 

「謙信様、もう無理です」

「分かった。何か言うことはあるか?」

 

 おとがいに手を当てて考えると盛徳はもう一度だけ職定を見た。

 

「天神山城に越後からの流民を入れたのは間違いでしたね」

 

 人徳が篤い故に負けた。しかし、人徳が篤いことに盛徳は否定的では無い。越後から来たという時点で疑うことをしなかった義父に呆れていたのだ。

 

「二人を連れて行け」

 

 謙信の声と共に職定はうなだれながら、康胤は「息子と共に貴様を呪ってやる!」と謙信に向けて喚きながら刑場へと消えて行った。

 

 

 

「終わったか・・・・・・」

 

 二人の処刑が終わった途端に謙信以下、全員がぐったりとして魚津城から天神山城に向かっている。 

 盛徳はこのまま上杉に仕えることになり、かつての戦友と戦うのは辛いだろうと共に春日山に帰ることになった。

 魚津城を最後まで守りきった斎藤朝信は謙信の救援にいたく感謝してそのまま魚津城の守りを続けることになった。

 しかし、失った犠牲が多い為に謙信が連れてきた兵の中で半数を魚津城に残して代わりの兵を春日山から派遣するまでその軍勢で魚津城を守ることにした。

 謙信が率いているのは上洛に付き添った兵。かれらも春日山に帰りたいのだ。その為に春日山に早く帰り兵を準備して派遣する為に休む間もなくそのまま進軍しているということだ。

 

「あぁ~もうこんな戦こりごりだわぁ」

「まったく・・・・・・」

 

 ぐてーっと器用に馬の上で垂れる慶次も、盛大に溜め息を吐く兼続も上杉軍全体が勝ったとはいえ利益も何も出ない越中突破の為に戦に辟易としていた。

 この戦いで払った犠牲は約二千。上洛に従った上杉軍の総員は約四千、ニ分の一の兵を失ったことになる。

 しかし、これが逆に上杉の成果とでも言うべきだろう。何よりも主要な将を一人も失うこと無くこの戦を終わらせたのは大きい。兵を集めるよりも優秀な将を集める方が難しいのだから。

 素晴らしい生を受けた者達は先に逝った者達への心を思って何かをするという事は出来ない。一方で、その屍の先に希望が見える。

 今に何も無くても先に何かがあると信じれば必ず風は背中を押してくれる。鉛色の雲から見慣れた雪が降り始めた。

 一息入れた天神山城で東北と新発田の情勢をようやく謙信達は知ることになる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十五話改 希望の鐘が鳴る夜に

 豪雪とまではいかないが、頭に被る雪をうるさそうに払いながら景資は雪の中をわざわざ歩いて行く。

 

「やはり・・・・・・見当たらない」

 

 戦場の中で人が死んでいくのは必然のことだが、肉親が死ねばその亡骸を葬ってあげたいと思うのは残された家族の思うことである。

 景資は三日間探したが、先の戦場で藤資の遺体を見つけることはが出来なかった。

 どうしてなのかは分からない。諦める訳にも行かず、景資は必死に探し続けるしか方法が無い。

 一日目は見落としがあったと思った。二日目に薄々感づいた。三日目になれば嫌でも確信した。

 見落としではなく、確実に藤資の遺体は無くなっている。確信が無くても景資の中で誰がどうしてそのようなことをしたのかは察することは出来た。

 だが、怒りは何故か湧いて来ない。自身が向こうと同じ立場だったら越後国内で誰もが知る勇将を討ち取ったことを誉れと思い、同じようなことをしていたかもしれないからだ。

 

『私情を挟むことは公の場では決してならん。それは一時お前に優越感を持たせるかもしれないが、後に絶望を与える事となる』

 

 父、藤資の言葉は一つ一つが重かった。そして、暖かかった。

 最期まで昨日言ったことをまた今日も言うというように子供に見られてはいたが、最期の方ではただの老害として割り切っていた。

 最期まで上杉の老害として生きたという自覚があったと長重から聞いた時には馬鹿な親父だとつくづく思った。

 父への心からの思いが崩壊し泣くのは必然。だが、それ故に後れを取ることは乱世では禁物。その後にすぐに切り替えることが大切である。

 藤資が死んだ次の日からはもういない父に代わって中条家当主として景資は生き始めた。

 切り替えられた筈なのにこの場に来るということはまだまだ父に対する名残があるのだと自覚して溜め息を吐いてしまう。

 

「これからの事を考えないといけない。やはり、後回しだ。俺もまだまだだな」

 

 父を忘れられないことへの愚かさを自覚し、自虐的に鼻で笑うと景資は水原城に戻って行った。

 

 

 

 

 

「また、行っていたのか?」

 

 景資が戻ると長重が陣の少し入った所の影で待ち構えていた。景資がいない間は彼がいない間の事について全て受け持ってくれている。

 

「ああ、けど・・・・・・やはり・・・・・・」

 

 景資の首の振りで全てを察すると長重は息を一つ吐いて景資の肩をぽんと叩いた。

 

「重家の目的が何なのかは分からないが、変な気を起こすんじゃないぞ。藤資殿が死んで悲しいのはお前だけじゃない」

「長重・・・・・・」

 

 あの日の夜、景資だけではなく、藤資の死には将兵問わず多くの人が涙した。それは先達を失ったという意味で長重達も同じである。

 

「しばらくは我慢だな」

「分かっているよ。あれのように枷が外れた馬鹿にはならない」

 

 一つの壊れた風車のようにどこまでも空回りを続ける気持ちを公に持ち込んでいる能元がここに合流した満延にも少しの嫌悪感を抱かせた事については誰もが知るところとなっている。

 彼の事情を知った途端に満延は随分と哀れに思えたようでそれ以上は能元と接することは無くなっていた。

 問題児は今、長秀が監視下に置いている為にあまり目立って変な動きをしていることはない。

 

「それから、満延に書状が来たそうだ」

「近いのか?」

「明日か明後日だと、それで分かるな・・・・・・」

 

 互いに頷き合う。それが合図のように足音が陣中から二人に近付いて来た。

 

「また何かしているんですか?」

「「(うるさいのが来た・・・・・・)」」

 

 長重と景資は心底嫌そうな顔をして声がした方を向く。案の定、長秀の目を盗んで来た能元がそこにはいた。

 

「別に何も」

 

 景資が素っ気なく言うが、それを待っていたかのようににやにやと笑いながら能元は歩み寄る。

 

「いやだなぁ、知っていますよ。景資殿が藤資殿の遺体を探しに行った事ぐらい」

「っ!?」

 

 能元にだけは隠していた筈なのに何故か知られていた。

 驚きの表情を浮かべている景資を嘲笑うように能元は更に続ける。

 

「人には人の情報網があるんですよ」

 

 どこで察したかは知らないが、確実な情報を掴んでいるようだと景資は明後日の方向を向いて溜め息を吐く。

 

「それにしても、人には私情を挟むなと言っておいてなんですか? 自分は許されているんですか?」

 

 安定の嫌味が始まる。自分は駄目で人は許されるのか分からないと不満たらたらの様子が目に見えて分かる。

 

「まさか、それを許される行為だと言うのではないでしょうね? 長秀殿は絶対に私情を挟むことは許さないお方ですよ」

「だから、密告するのか?」

 

 長重の殺気の籠もった視線にも能元は気にする事なく彼に視線を返す。

 

「いやですねぇ、甘粕殿、密告はしませんよ。公で報告するんです」

 

 勝ち誇ったような歪んだ笑顔。見るだけで無性に景資は腹が立ち、刀を手に取ろうと利き腕に力が籠もるのを感じた。

 即座に長重が腕を掴みそれを止める。

 景資は足元を見ると能元に飛びかかろうという体勢に自分がなっていることに気付いた。

 風は冷たく三人の間を吹き、その関係性を見事なまでに表している。

 長い沈黙の中で長秀が何か言おうとした途端、急に風向きが変わった。そして、長重達から能元に吹き始めている。能元の後ろから誰かが来るのを伝える足音がした。

 

「何をしているんだ三人とも?」

「これはこれは長秀殿、実は咎めていたのです」

「ほう・・・・・・貴様如きに咎めを受けるような事を二人は何かしたのか?」

 

 長秀の物言いに能元が奥歯をぎりっと噛んだ。しかし、それでも優位に立っていると心に言い聞かせ、能元は平静を装ったまま再度口を開く。

 

「実はですね・・・・・・」

 

 能元が話している間、景資は父の一つの事を思い出していた。

 主君である謙信が関東管領になった時の事である。

 その時藤資は太刀を祝いの印として謙信に送った。しかし、謙信はそれを当然のように受け取ると藤資に感謝の辞をただ一言述べるとそれで終わってしまった。

 当時家を継いでいないとはいえ、既に二十歳を過ぎていた景資はその現場にいた為に何故と不満を持った。しかし、父の藤資は意にかえすような素振りも見せずに屋敷に戻った。

 そして、景資は父に問いた。

 

『何故、謙信様は父上に何もされずにおられるのか?』

 

 藤資は呵々と笑いつつも景資は分かっていないと呆れたように首を振ると真面目な顔に戻った。

 

『謙信様は儂にこのような形ではなく、戦で功を立ててもらいたいと思っているのだ。まぁ、一応はこの事にも何かして頂けると思うが、おそらく戦の功の方が破格なものとなるかもしれんな』

 

 謙信はこの後、藤資に武官の中で一の地位に立てば最上の地位に就くことを意味する『侍衆御太刀之次第』で席次は一門に次ぐものとなった。

 家臣の中では最も格上になった事を景資は喜んだが、当の本人は少し不満げであった。

 屋敷に戻ると今度は藤資が景資に不満たらたらな様子で言った。

 

『謙信様はもう儂が老骨と思っているのだ。このように素晴らしい恩恵を与えておけば良い老後生活が儂に出来ると勘違いしておる』

 

 つまりは藤資に多大な恩を与えて一生困らないような生活が出来るように配慮してやるというものだと謙信からの計らいを彼は悟っていた。

 実際、この後も堂々と軍議や戦にも前線で活躍する藤資を見て謙信は景資に「あの恩を返して欲しいものだな」と冗談でこぼしている。

 景資自身も藤資程の一騎当千の武勇がある訳ではないが、弥太郎や景家とも斬り結ぶ事は出来るし、統率力は藤資以上の実力を持っていた。

 そんなにも恵まれた後継ぎがいるというのに何で隠居してくれないのか分からなかった。しかも、ちゃんとした理由は教えてくれないので本当に困った老害ある。

 

『儂は戦でしか生きられん』

 

 謙信以下家臣全員が藤資が言い続けて来た建て前に呆れるような目で見ていたことを既に彼は知っている。

 故に、戦場に立ち続けた。これに辟易した謙信は一計案じた。

 第四次川中島の戦いで藤資は諸角虎定の首を上げる大功を立てた。

 謙信はそれを讃えて血染めの感状を藤資に送った。

 それを受け取った時の藤資はたいへん嬉しそうにしていたが、その文面には『この謙信生涯忘れる事はありません』と書かれてあると知ると彼は目を見開いた。

 生涯ということは藤資の功を立てる事に賛辞を送りながらも実際にはもう戦に出ないでくれと暗に言っているようなものである。

 これは逆に彼の中にあった揚北衆特有の反骨心に火を点けた。

 藤資は次の戦にも堂々と戦場に立つと弥太郎や景家と共に先陣を切って戦功を立てた。

 報告を聞いた謙信は本当に呆れて天を仰ぎ、勝手にしろと他の将と同じような待遇に戻した。

 もしかしたらその時から謙信は藤資の運命の先を見ていたのかもしれない。

 父の死を謙信はあらかじめいずれかは分からないが、いずれは来るともしかしたら父の病を察していたのかもしれない。

 そう思うと景資は一番近くで見ていた筈の自分が気付かないでその次に藤資を見ていたであろう謙信が察していた事に恥ずかしくなった。

 謙信は病を察していながらそれを黙り、父に花道を与え続けて、見るのも辛い筈なのに父に強く根強いていた武人の心を尊重し続け、戦場で使い続けた彼女を改めて素晴らしい御方だと思う。

 父が今、地獄にいるのかそれとも極楽にいるかは分からない。だが、謙信が与えた最後の恩賞である花道を登っていることは間違いないだろう。

 景資は危うく涙腺が脆くなってしまった。

 

「・・・・・・と、いうわけでしてね。まさか長秀殿がこのような勝手な事を許すとは思えないのですが、いかがです?」

 

 現実に戻ると能元は説明を終えたらしく、彼は笑うと景資を侮蔑するように見た。そして、長秀を見ると彼女は鼻で笑うと景資を見た。

 

「彼には許可している。故に何も咎めるような余地はない」

「なっ・・・・・・」

 

 能元は絶句して長秀を見る。

 

「何故です? 私の時は敵討ちを許さずに私情を挟むなと仰いましたよね?」

 

 能元は納得が行かないと食って掛かるが、長秀はいつも通りの涼しい顔を崩さない。

 

「状況が違うだろう。そなたの時は戦の時だ。景資の時はどうだ。今はもう戦は終わっている」

「戦が終わっている? 何故そう言い切れるのです? 新発田重家はまだ新発田城で虎視眈々と再起の時を待っているのですよ?」

 

 ふざけるなとでも言いたいのだろうか。能元は長秀にさらに詰め寄る。しかし、そこに先程までの余裕は無く、重家という名前を出した事で彼への憎悪が撒き散らされている。

 

「そうか、そなたには言っていなかったな。まぁよい、いずれ分かることだ」

 

 そう言うと長秀は景資に軽く口元で微笑んで見せる。景資も会釈をして二つぐらい年上の景資に内心感謝しながら長秀の後ろに長重と共に続く。

 唖然として長秀の後ろ姿を見るだけの能元がそこには残った。

 風はまだ能元だけに強く突き刺さる。

 

「長秀殿、ありがとうございます」

「気にすることは無い。そなたはあれのようなことはしないと分かっていたから嘘を付けたのだ」

 

 長秀はさっき初めて景資の行動を聞いた。それでも許せたのは景資自身の能元に無くて彼にある抑える心のおかげである。

 

「だが、これからはちゃんと言うようにしろよ」

 

 頭を下げると景資にもう一度長秀は微笑んで前に歩き出した。

 景資は今、藤資の後継ぎとして完全なる一歩を見えない大地に踏み出した。全ては父が夢見た上杉家の勝利の為。

 風が強く吹いている。その風はどこから来たのか。そしてどこで途切れるのかは分からない。

 しかし、三人はその風が冬の為に冷たい筈なのに何故か心地良く感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初は静かだった。そして、ゆっくりと何かが音を立ててずれ始めた。

 それを分かるのに時間が掛かる者とそうでない者がいる。だが、時間という早さがものをいう戦では先に何かを掴んだ者が勝利する。

 重家は急いで兵糧の準備を始める。先日伊達家から兵糧が行き届いた。

 量はひと冬の戦には十分なものである。

 藤資達に後れは取ったが、重家も名将の内に入る者。敗戦が続いているとはいえ相手が動けない時に動くということは前もって決めていたのだ。

 かの奪われた城や砦、港を奪還するためのみならず算段はもう付いている。上杉軍が防ごうとしても水原城以外の城と砦を放棄したかれらにそれは不可能。

 

「まずは・・・・・・海路だな・・・・・・」

 

 頭の中で出来上がっている地図にはきちんと順番が完成している。

 新潟港を奪い、安東家からの兵糧物質の援助の道を確保する。そして、八幡砦を奪い、水原城を奪取する。春を待って北条を口説いて出兵を促す。

 そうすればもう謙信は風前の灯だ。勝てる。

 その思いが日に日に強くなって口元が緩むのを必死に堪えながら重家は兵糧庫を出た。

 

「申し上げます。上杉軍、水原城を放棄」

 

 出るなり入ってきた報告に疑問が重家の頭を支配する。わざわざ取った城を放棄する真意が分からない。水原城まで放棄しては新発田城を攻略する為の拠点の全てを放棄することに繋がる。

 何かあると分かっているが、動かないという選択肢を選んでは家臣から「この好機を逃すとはいかなる訳か!?」と言われかねない。

 重家はすぐに軍議を行う為に諸将を集めるように命じた。

 

 

 

 軍議が終わり、早めに動いた方が良いと翌日、出陣する事を決めたその日の夕方。

 

「申し上げます。後方から敵の襲来です」

「何!?」

 

 駆け込んで来た兵からの報告に重家の表情は目を見開くが、すぐに笑みに変わる。

 今回の戦は一度上杉軍が撤退することで終わると考えて水原城を上杉軍が放棄した後に奪取する為の準備に追われていた。

 故に、今日は明日の為に将兵にはゆっくりと休むように通達を出していた。そして、自身も寝ていた時の報告に飛び起きた。

 上杉軍は前にしかいない。もし背後に回るとなると五十公野を通らなければならない。奪取されていたとしても斥候が教えてくれる。

 ならば、背後から来る軍勢がどこの家か重家は見当が付いている。

 最上は内乱の収拾と安東家への対応で動ける筈がない。蘆名も豪雪が道を阻み、復興までには時間が掛かる。

 

「伊達軍からの援軍だ。丁重にお迎えしろ」

 

 容易く結論は出た。

 

 

 

 

 夜に近付き、新発田城では篝火が焚かれ、待ちに待った援軍の到来を今か今かと首を長くしている。

 それぞれの思いは違う。伊達は東北の覇権を我がものにする為。新発田は越後を改革し、謙信への恨みを晴らす為。

 味方でも思い違いというのがこの世にはよくある。ちょっとしたもので済むかわいいものもあれば、自らの道を崩壊させる危険なものまでと様々だ。

 

「開門願う!」

 

 若い女性の声が聞こえた。

 

「何者か!?」

「伊達軍大将伊達政宗、援軍を率いて参上仕った」

 

 重家も彼女の事はよく知っている。

 謙信と一騎打ちを繰り広げ、一歩も退かずに戦ったという話は越後では語り草になっている。

 篝火を頼りに旗印を見ると間違いなく伊達の旗『竹に雀』が並んでいる。早速、重家は開門させて城内に招き入れ、自ら出迎えに上がる。

 

「遠路はるばる申し訳ない。この重家心強く思いまするぞ」

「いや、気にすることはない。困った時はお互い様だ」

 

 紫色に近い髪に右目に眼帯を着け、その残った左目から全てのものを見定めるようなその眼光の強さ。先の戦と変わらないと思いつつも重家は援軍の到来に一つの安心感を抱いた。

 

「まぁ、とりあえず城内で今日はゆっくりとお休み下さい」

「うむ、だがその前に・・・・・・そなたの首を取ってからにしようか・・・・・・新発田殿?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十六話改 風が止まらない

 強い冬の風が吹く中で二人の将が新発田城城内に転がっている屍の列を跨ぎながら歩いている。

 顔や鎧に返り血を浴びたその姿はほんのりとした月明かりによって美しくも残酷な様に見えた。

 

「・・・・・・それで、重家はどこに居る?」

「分からない。しかし、蟻の這い出る隙間も無いように囲んでいる。見つかるのは時間の問題だろう」

 

 上杉軍の将である長重と伊達家の次期当主の政宗はつい前までは敵であった者同士だった。

 しかし、互いの意義に感じるものがあった上杉家と伊達家は伊達家が自ら上杉家に降るという天変地異が起きても有り得ないだろうと思われていた事によって全てが一応丸く収まった。

 二人はもう打ち解けて普通に話して良いと互いに許可を与え合っている。

 水原を放棄した後に撤退したふりをして新発田城に襲い掛かった上杉軍とその前に伊達軍の奇襲にて混乱状態に陥っていた為にほとんど必要がなかったかもしれない。

 しかし、重家と思って政宗が殺したのは彼を庇った新発田家家臣の一人であり、伊達軍の寝返りを知った重家は慌ててどこかに逃げ去って城のどこかに隠れている。

 その後はほとんど上杉・伊達と密かに伊達と共に来た最上によって新発田城は陥落寸前にまで。否、ほぼ陥落までに追い詰められている。

 抵抗はあったものの混乱状態に多勢に無勢では重家も統制が取れずじまいだった。

 新発田城は落としたが、重家を見つけない限りは完全な陥落とは言えない。その為に将兵全員が血眼になって重家を探している。

 とりわけ能元の執念は物凄い。兄の敵をもう少しで殺すことが出来るとなると心にくすぶっていた復讐心が烈火の如く燃えているのだ。

 遮る者が無い彼は一人で重家と叫びながら城内を探し回っている。

 一方、比較的冷静な長重と政宗は一旦長秀と鬼庭綱元と合流した後に城内の部屋を二手に別れて探し始めている。

 

「いねぇ・・・・・・」

 

 毒付く長重は目の前にあった人が入れそうにない小さな箱を八つ当たり気味に軽くどんと蹴る。

 長重は政宗と城内の部屋を一つ一つ探すが、どこにもいない。しかし、人は消えて無くなる訳が無い以上は必ずどこかで息を潜めている筈だ。

 

「部屋ではない気がする。武器庫とかは?」

「それだ。行くぞ」

 

 二人は頷き合うとすかさず動き、邪魔する者達を斬り捨てつつ駆け出した。

 長重の先導で武器庫まで行くが、内側から錠がかかっている。

 二人はぶち破ろうとしたが、武器庫程の大切な建物の厳重な扉が簡単に開く訳がない。

 そこで怪力の義守と満延を呼んで頼むと二人は肩を回しながら扉に拳を当てる。

 

「「どっせい、と」」

 

 息の合った声と共にずーんと鈍い音がすると長重と政宗が何度やっても駄目だった堅い扉があっさりと一回で開いた。

 二人はぽかーんとしているが、すぐに中から人の気配がするとその方に意識が向いた。

 むくりと中にいる黒い影が起き上がる。政宗達は腰を落とすが、長重はそれを制すると一人で三人の前に出る。

 向こうの影もその長重の姿勢を見て少し警戒感を緩める。

 

「出て来いよ」

「・・・・・・」

「少し話がしたい」

 

 さすがに出ることは憚れたのか影は少し躊躇ったが、長重の珍しい穏やかな声にゆっくりと影は動き出した。

 そして、三日月の月明かりはその影にあった人の顔をはっきりとまではいかないが、四人の目にははっきりとそれが誰なのか分からせた。

 

「久しいな、長重よ」

「ああ、そうだな・・・・・・重家・・・・・・」

 

 長重は少し目を見開いた。

 よく知る重家の目はきりっとしていて大きな目をしていたが、月明かりを頼りにして見る彼の目はすっかりくぼみ、目の下の隈はひどくなっていた。

 

「随分と変わったな」

「誰かが兵糧の道を断ったからな」

「安東からの海路を、か?」

「御名答」

 

 最初に長重が嫌味たっぷりににやりと笑うと重家も同じように笑い返し、次の問いと答えには鼻で軽く笑い合う。

 周りには三人が二人に手出しがないように立っている。かれらは二人が何を思い、何をその眼の中で見ているのかは分からない。

 その中には上杉軍での日々が綴られているのだろうと政宗は思った。

 上杉軍の重鎮であった者と今も変わらぬ重鎮である者の二人だからこそ分かるものがあるのだろう。

 その中に他家の三人が入るのは無粋というものである。故に二人を守るように囲んでいる。

 

「長重、何故に俺がこのような事をしたか分かるか?」

「さぁな、謀反人の思案など察したくもない」

「はっ! よく言うわ。まぁよい、教えるとしよう・・・・・・」

 

 重家はそこからかつての兄長敦が功に報われる事がなかっただの、その後も重家が立てた功をほとんどが謙信の養子である景勝の実家である上田長尾家に持っていかれた事。

 それに不満を持った自身とそれ以上に不満を持った重家の家臣や五十公野氏の背中を押された事によってこのような謀反を起こした事。

 

「ふっ・・・・・・そして、これが成れの果てよ・・・・・・」

 

 新発田城はもはや中に敵を入れてしまい、風前の灯火。

 自虐的に笑いながら重家と長重は三人を扉のあった所に待たせて武器庫の中に入って行った。

 入った途端に長重が早速繰り出す。

 

「さ、本題に入ろうか」

「どうしてあの藤資殿の首だけでなく、胴体まで持って帰ったのか、かな?」

 

 一気に真面目な表情になった長重をよそに重家は少し笑った表情を崩さない。そのまま長重を奥に通すと一つの棺の前で足を止めた。

 

「一応はきれいにしたのだがな、配下の者は皆気分を悪くしてしまった」

 

 自虐的に笑いながら重家はその遺体の入っている棺を開ける。そして、長重は生涯忘れることは無いであろうものを目にした。

 

「・・・・・・景資、呼ぶか?」

「いや、これは中条家に丁重にお返しすると決めていたものだ。ま、こちらが運ぶ手間は省けたがな」

 

 中には藤資の首と胴体を縫い付けた藤資の遺体が眠っている。血は綺麗に洗われていて死装束をしっかりと綺麗に着せてあった。

 元々味方同士であったとはいえ敵となった者にこれほどの事をするとは全く長重も想像していなかった。

 丁寧過ぎて逆に呆れて溜め息が出てくる。

 

「まぁ、随分とご丁寧なこって」

「らしくないか?」

「いや、逆だ。お前らしい」

「だろ?」

「ったく、どっちなんだよ」

「さぁな」

 

 今度は高らかな笑いが武器庫に響く。人がいないからか入り口付近にに居る三人にも今回はしっかりと聞こえたようで驚いた三人は振り返ってしまった。

 だが、二人の愉快そうな顔を見て安心したようにまた武器庫に誰も入らないようにそれとなく守り始める。

 

「藤資殿にはお互いに稽古をつけてもらったよな」

「ああ、お前は随分と泣きを入れていたけどな」

 

 長重のツッコミに重家は少し過去を思い出して赤面する。

 しかし、長重からは夜の暗い武器庫ではその姿を確認する事は出来ない。それでも長重には何となくその素振りが分かった。

 年が長重の方が上とはいえ気にする事はなくこうして軽い感じで話せるのはかつての思い出があるが故のものである。

 藤資は彼らに武勇を叩き込んだ師でもあり、その時に二人は知り合って気が合った為にお互いの家々の仕事や上杉家の家臣としての仕事の合間を見つけては酒を飲み交わす仲であった。

 しかし、こうなった以上はもはや過去の中の一つとなって忘れられるものとなる。そして、重家は生涯を謀反という汚名を着ながら死んでいき、残った人々からは罵倒されるだろう。

 それでも重家の顔は晴れやかだった。

 謙信の実力主義の台頭がまだ軌道に乗る前の事だったとはいえ、恩賞を得られなかったのは重家にとって時が悪かったとしか言いようがなかった。しかし、周りが許す筈がなかった。もちろん重家もである。

 

「運がなかった。としか言いようがない」

「どうだろうな・・・・・・」

 

 長重は意外にもそれには同調しようとはせずに難しい顔をしている。

 

「どういうことだ?」

「実は小耳に挟んだがな・・・・・・」

 

 そう言うと長重は歩み寄る。伊達の面々は当然のこと、重家も不用心過ぎる彼の行動に目を見開く。その中で一人平然と長重は重家の耳元に顔を寄せる。

 

「軍師達はこの事を察していた」

「何!?」

 

 かなり小さな声で囁かれた事実に重家は先程とは違う驚きが心に響く。

 

「いや、正確にはお前の持っている軍勢の多さを恐れていたと言った方がいいかもな」

 

 それは謙信が初めて東北遠征に向かい、重家の兄である長敦が死んで新発田家の当主として駆け出そうとした時の事だった。

 彼は蘆名との戦で先陣にて活躍したにもかかわらず、恩賞を貰えなかった時、謙信は本来戦功の多くを重家に与える予定だった。しかし、その方針を土壇場で一転させて重家が貰う筈だった恩賞の多くを政景に与えた。

 理由は一つ。

 東北遠征の為に普請、拡大を続け、越後第二の拠点となった新発田城を持ち、なおかつ上杉家の中で誰もが一目おく知勇兼備の勇将である重家を誰が止める事が出来るのか。

 答えは誰もいない。

 数で適う者は春日山の兵だけでそれ以上に恩賞を与えては力がさらに大きくなって春日山の規模と同じ位の力を重家は持つことになる。

 それを軍師達はかなり恐れた。

 正解を言うと重家の存在を龍兵衛が最も恐れていた。

 彼は蘆名討伐の功をこれ以上大きくなっては力が独立しても遜色がなくなる重家ではなく、政景に与えることで上杉家一門の力を強めるようにも仕組んだ。

 定満達もそれに賛同し、謙信に進言した。かれらの言い分を謙信も聞いてあの恩賞の形となったのだ。

 まさか力を持った政景が怪しい行動を始めるとは軍師達にとっては計算外であったが、これは長重達はまだ知らないことである。

 

「・・・・・・という事は、俺は出汁にされた事か?」

「そうだな・・・・・・」

 

 何とも言えない。重家はがっくりと膝を着いて藤資の遺体が入っている棺に手をやってようやく身体を完全に倒れないようにしている。

 力を持ちすぎたが故に自身が気付かれない内に疎まれていた。まさかと思ったが、この謀反は謙信も察していたのだろう。

 時が悪かったというだけで、もしかしたらこの重家の動きも全て軍師達の計算通りだったのかもしれない。

 

「俺は軍師達の手の平で踊っていただけなのか・・・・・・」

 

 衝撃を受けた時には既に遅かった。

 重家は肩をふるふると震わせて全てが思い通りになると思っていた自身の思いは全て上杉家軍師達の計算内であった事を察した今、彼が出来ることはただ一つだけだった。

 

「ふふふ、あっはははは!」

 

 狂気に身を任せ夜空に響く程の声量で自虐的に笑うのみ。

 

 

 

「おい、いたか!?」

「いません!」

 

 能元はずっと新発田城城内の部屋という部屋を探していた。しかし、どこにも目的の人はいない。

 重家の首は何としても他の人に渡す訳にはいかない。彼の首を取って兄の霊前に捧げ、彼の一族を皆殺しにしてその恨みを晴らさなければ腹の虫が収まらない。

 

「まったく、どこに隠れているんだ?」

「能元様、向こうから何か人の声がしています」

「よし、向かうぞ」

 

 苛々が彼の身体から全て解放された時だった。しかし、外の寒さは相変わらず厳しい。

 

 

 

「何か言い残す事はあるか?」

 

 一通り笑い終わった後に重家は疲れたようにぐったりと座り込んでしまった。しかし、その顔は先程と変わることなく、充足感に満たされ先程よりも良い顔になっているかもしれなかった。

 三人の将も長重が入るように言った為に武器庫の中に入っている。それでも場違いな気がしてならなかった。

 

「軍師達に言っといてくれ。謀は巡らしても、このような事は立て続けに続くと思うのは大間違いだと。それから・・・・・・こんな事をしてはろくな死に方をせんとな」

「他には?」

「そうだな・・・・・・あいつにも言っといてくれ・・・・・・」

 

 

 

 

 未だに能元は周りを血眼になって重家を探していた。

 先程の声は上杉軍の兵が新発田の残党に最後の抵抗によって息絶える前の叫び声だった。 

 見当違いに腹を立てながらも能元は諦めずに歩き続けて重家を探し続ける。

 

「む?」

 

 月明かりが一つの物体を見させた。そして、それを持った者は他に四人の将らしき者と歩いている。

 そして、城門まで行ったところで一人が前に出て持っている物体、首を上げる。

 それを見た途端、能元は呆然と目の前の光景と出来事を飲み込んで呆然と刀を落とした。

 

「新発田重家、この甘粕長重が討ち取った」

 

 歓声が響く。能元にはその歓声が遠いものに感じた。

 戦いの余韻は全てがその時に残るものではない。

 終わりを迎えてすぐでもあれば、五年先、十年先と過ぎて出てくる余韻もある。

 

 風はまだ吹いている。その風はまだ尽きること無く吹き続ける。

 風は影を持たぬ故、その軌跡を誰も分かることはない。影を持たぬ故に気紛れに吹く。

 時に優しく、時に厳しく誰かの頬を掠めて行く。。

 能元に吹く風はいまだに厳しく吹き付ける。

 

 

 景資はその首を見た時には心が愉快になった気がした。だが、それは全て虚ろなもの。

 

『後悔がお前に襲い掛かる』

 

 風と共に藤資の声がした気がした。ついでに風の中に藤資の拳骨が飛んだ気もした。はっ、となった景資だが、重家の首を見ると心の何かが疼いて止まらない。

 

「今ぐらい、私情を挟んだって、いいだろう。この、老害が・・・・・・」

 

 全てが終わる前に逝った父を思うと涙は止まらないでさらに滴り落ちる。

 人に見せてはいけないとずっと下を向いている景資に一つの足音が近付く。

 

「今それじゃあ、駄目だな」

「長重・・・・・・」

 

 首を家臣に預けた長重はその視線を景資の目に向ける。その目に映る長重は潤んで見えた。

 すぐに目をこすってすぐにきりっと顔を整える。

 

「大丈夫だ。何だ? 何かあったのか?」

「いや、俺からじゃない。重家からだ」

 

 その名前が出た時、景資は目を見開いた。長重はそれに気にする事なく、そのまま単刀直入に言い出した。

 

『景資には今まで友として酒を飲めなくて済まなかった』

 

「それ、俺が飲めないこと知ってて言っただろう。あいつ」

「だな、あいつも最期は悪戯っぽく言ってたし」

 

 互いに笑みを零すと長重はまだ続きがあると再び続ける。

 

『全ては俺のせいだ。俺が藤資殿と相対しなければ、こんな事にはならなかった。俺には天下泰平の一翼を担うなんて無理だったって分かっただけでも、それはそれで良かったかもな』

「・・・・・・」

「これが最期の言葉だよ」

「馬鹿、そういう事は先に言うもんだろ」 

「性格が悪くてな」

 

 長重が笑いながら言うが、対照的に景資の目はさらに潤んでいる。

 だが、景資はすぐに目を拭うと顔を天へと上げた。

 

「重家、それは違う。父はお前のような名のある将が最期の相手で満足しただろう」

 

 病がなかったとしてもあの老害はいずれはもう寿命が彼の動きを止めていたに違いない。景資もいずれは流す涙があった筈なのだ。 

 父、藤資の事も重家の事も少々早まっただけ。もはや過去の事である。

 全てが終わった訳ではないが、景資は一つの終わりを迎えた。藤資の影という場所から脱却して今度は彼が光を浴びることになる。

 藤資の叶いである謙信の天下統一を見ることは彼には許されないが、景資は彼の墓前に報告をする為、新たに中条家当主として上杉の為に仕えようではないか。

 

「さ・・・・・・始まりはこれからだ」

「これ持って帰るか?」

「えっ、なにこれ?」

 

 長重の後ろには黒い件の棺がどんと置いてあった。

 彼が重家のやりたかったことを自身の推測を含めて説明すると景資は下唇を噛んでまた泣きそうになるのを必死に堪えた。

 

「何回泣きそうになれば気が済むんだよ?」

「だって・・・・・・父だよ?」

「まぁ、分からなくないけどな。けど、ほどほどにしろよ」

 

 分かっていると機嫌悪そうに頷くが、景資の頬には滴が垂れ落ちる。藤資の遺体は万全なものとなる事に満足するが、残念ながら相手が重家では素直には喜ぶことは出来ない。

 謀反人に感謝することは毛頭ないことであって下手に景資が感謝すればいらぬ事を企む輩が出てくるやもしれない。

 しかし、藤資と重家は謙信の理想とする世の中を見ることを許されずに逝った。

 その理想がどのような結末になるかは分からないが、それが二人の予想を裏切るような事があってはならない。

 景資は長重という友と共に藤資の遺志と重家の理想を叶えるという密かな重責が出来た。

 気紛れで穏やかな風はまだ吹き続けている。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十七話改 帰れ春日山へ

「・・・・・・ふむ、新発田重家の反乱もようやく終わったようだな」

 

 新発田城からの報告の書状を読んだ謙信の言葉に全員が安堵の声や喜びを噛み締めるように拳を握り締める者。十人十色の反応だが、この勝利に心の中では歓声を高らかに上げたいという思いは全員が一つであった。

 不動山城まで帰還した上杉本隊は今はゆっくりと春日山まで向かっている。春日山にはあと三日四日すれば戻れるだろう。

 謙信の頭の中には今後の越後をついての事がぐるぐると回っていた。新発田城の落城は上杉家の安泰を示すものだが、残った物の被害も大きい。

 さらにこの戦で払った犠牲は謙信の隊よりも長重達の方が大きいようだが、その原因が次に綴られていた。

 

『安田能元の突出が原因である。我々の止めも聞かずに無断で敵の城を攻めたり、無謀な戦を仕掛けようとした』

 

 これを見た謙信の最初の反応は軽く笑っただけだった。それは若気の至りであってしばらくすればまだだったと彼自身も反省するだろうと思った。しかし、次の文章には謙信は目を見開いた。

 

『能元に私情を挟む戦はしてはいけないと言ったにもかかわらず、能元は戦い続け、いらぬ犠牲を払った。さらに兵からの苦情も絶えず、どうしても能元の下で戦いたくないという者まで出る始末である。当の本人はそれを気にする事なく、兵を捨て駒にするような事ばかりであった』

 

 さすがにここまで書かれると謙信も聞き捨てならない。将達だけの問題ではなく、兵にまでその余波が響いているのは主君として黙ってはいられない。

 重家と能元の因縁は理解している。気持ちも分からなくない。

 しかし、戦を私情で動かしたとなれば話は別になってくる。この文に書かれているようにもし能元が歪んだ考えで上杉家に害をもたらすのなら何か鉄槌を下さいといけない。

 

「なっ・・・・・・」

「どうされました?」

 

 更に読み進める内に思わず謙信が声を上げる。全員の視線が謙信に向いて、颯馬がすかさず反応すると謙信はその書状を家臣達に回す。

 皆は最初に新発田城の陥落までの道筋を見て喜び、その後能元の失態とその後の行動に腹を立てた。

 その二つの報告が吹っ飛ぶ程の内容がその次に書いてあった。

 

「中条藤資殿、新発田重家に討ち取られた由」

「なんと・・・・・・」

「藤資殿が・・・・・・」

 

 口に出して読むと兼続や弥太郎達は藤資が死んだ事に絶句したりざわめいたりしているが、親憲と官兵衛は冷静に謙信から回された書状をよく読んでいく。

 

「ふむ、藤資殿は不治の病に侵されていた為に重家に隙を見せてしまったようですな」

「あの越後随一の猛将と名高い藤資殿が病とはねー。ちょっとあたしも驚いたわ」

 

 藤資も人である以上は年を取るし、病にもかかる。年齢を考えると戦国時代では大層な長生きをした分類に彼は入るので死ぬべくして死んだと言って良い。

 

「仕方ない、か・・・・・・」

「そうだな・・・・・・」

 

 謙信も事を冷静に考え、弥太郎も冷静さを取り戻して溜め息を吐く。

 藤資の死がこの後にどう影響するか、筆頭家老として生きてきた彼の死は上杉家にとって想定外の事であったと言える。

 景資という素晴らしい後継ぎがいる為、あまり変な揉め事が起こるとは思えないが、彼の偉業が大きすぎるので二代目が薄く見えてしまうのもまた事実である。

 そちらはさほど気にすることでは無いが、一方で謙信には能元をどうするのかという事も考えなくてはならなかった。

 本来ならば首をはねるような事も考えなくてはならない所業である。しかし、新発田家と毛利安田家の二つ家を無くすというのは上杉に利益は全くない。

 仮に養子を立てておくとしてもそれはそれで結局は上杉家一族の力を強めるばかりであって家臣達から不満が出る可能性もある。

 景家辺りならくだらない不安だと言い返すだろうが、現実問題そうはいかない。誰かが養子としてその家に入ればその家の家臣達の序列や当主との相性も変わってくる。

 人となりが知れているならともかくいきなりこの人物をここの家の当主とするなど出来る訳がない。ただでさえ毛利安田家辺りの揚北衆は上杉に反目を続けてきたのだ。

 

「(しばらくは能元に頑張ってもらわないと困るな)」

 

 続けて厄介なのは重家という越後第二の勢力を持っていた者の新発田城にこの後誰が入るかということである。

 適任者は誰なのか、謙信は重臣の顔を思う浮かべながら考える。軍師達、特に定満は春日山にいてもらわないと困る。

 武将を置くにしても揚北衆との仲を考えなければまた内乱が起きる可能性が高い。

 

「(これは春日山に戻ってから定満達も加えて話しを進めよう)」

 

 ふぅと息を吐くと謙信は今後の予定に議題を移し始めた。

 その翌日、東北からの詳細な報告に謙信達は目が点になり、兼続や義清は顎をはずした。

 更に四日経ち、謙信は春日山で民からの盛大な歓声を受けた。

 春日山を離れて四ヶ月、内乱などが起きたという事を感じさせない民の目に謙信はほっとした。

 つまりはあの二人は政景を止めることに成功し、実及もよく春日山の留守を守っていたということだ。

 三人には感謝しなければなるまい、と思いながら謙信はゆっくりと城下町を進んだ。

 

「謙信様、よくぞご無事で」

「うむ、そなたもよく留守を守ってくれたな」

 

 城門で出迎えた実及に労いの言葉をかけると謙信は近況を報告させた。

 特にこれといった大きな動きがあった訳ではなく、そもそも変な動きの兆しすらも無かったそうだ。新発田と東北からの報告全てをひっくるめると上杉は勝ったと言って良い。

 ここに謙信が勝利宣言を上げると将兵は大きな鬨の声を上げた。

 一つの壁を越えた上杉家はまだ理想に届いてはいないが、これからさらに時代を変えていく事になるのか。それともさらなる大波に飲み込まれる事になるのかはまだ分からない。

 

 

 

 

 一つの区切りを付けた上杉軍の将兵は各々自分の屋敷に戻ってぐったり死んだように伸びている。

 しかし、重臣達はそうはいかない。戦後の処理や周辺諸勢力の動向の確認や春日山にいなかった間の政務の処理とやることは山のようにある。

 早々と休みたいのをぐっと堪えて謙信以下颯馬や兼続、春日山に戻ったことで正式に上杉家軍師となった官兵衛といった軍師達、弥太郎や親憲といった藤資亡き後に武将を引っ張っていかなければならない重臣中の重臣達が溝に貯まった水を一生懸命流すように仕事を片付けて行く。

 しばらくして新発田方面の長重や景資らも帰還した。かれらも大分傷付き、春日山に帰ってきた途端にへたり込んでしまう兵もいる程だった。

 義守達はもう少し落ち着いてから春日山に参上するとの伝言を満延が預かって春日山城に来た為、滞りなく東北も回復に進んでいると見て良い。

 結果として秋田郡や阿仁鉱山を失う結果となったが、それはまた取り戻すことになった。

 そして、新発田討伐から帰還した軍の中にはもちろん伊達軍の姿もあった。

 

「久しいな、政宗殿」

「ええ、そうですね、謙信殿」

 

 かつての敵の領地であるにもかかわらず政宗は堂々と春日山に入り、その姿は新発田討伐から帰還した将達と共に謙信の前に出ても変わらずである。

 

「まさかこちらに降るとはな、独眼竜は人の下に付くとは思えないが」

「ならばここで謙信殿の首を斬ってもよろしいか?」「何!?」

 

 能元が立ち上がって刀に手をやる。しかし、綱元が能元から政宗を庇うように移動しただけで謙信も政宗も何も言わない。 

 

「貴様、やはり謀ったか?」

 

 能元はじりじりと政宗に詰め寄るが、謙信が強い口調で「止めよ」と彼を制する。しかし、当人は聞く耳を持たない。

 

「謙信様、このような者に情けは無用。何故すぐに斬らせてくれませぬ?」

「止めよと言ったのが聞こえぬか?」

 

 謙信の強い覇気に能元はたじろぎ、しばらく黙った後に派手な舌打ちをしながらどっかりと座った。

 

「すまぬ、家臣が見苦しいものを見せて」

 

 謙信はすっと頭を下げて詫びる。能元はそれを見てまた何か言おうとしたが、隣で長秀が睨みを効かせておいた為にそれ以上は何も言わなくなった。

 

「謙信殿、貴殿が謝る必要はありませぬ。この者が冗談も通じないとは思わなかった私の責任です」

 

 そう言って政宗が今度は頭を下げる。謙信はそれを聞くと少し覇気を緩め、じっと政宗を見る。また政宗も顔を上げて謙信を見る。

 

「もし、私が何も言わなかったらどうしていたのだ?」

「謙信殿においてそのようなことは無いかと」

「何故に?」

「貴殿は冗談が通じる御方ですから」

 

 謙信はそれを聞くと口に手を当てて少し前に上半身を屈ませてた。

 何をしているのだろうと全員が見ていると急に肩を震わせて笑い始めた。なかなか抑えることが出来ないのだろう。

 家臣達が戸惑いの色を隠せないままきょろきょろとしているのに気付いて口元を未だに歪ませながらも喋れるように戻した。

 

「いやいやすまぬ、まさかここまで私の腹が読まれているとは思わなかったのでな」

「これから臣下となる者、主君の心を読めずにどうします?」

「なるほど道理だ」

 

 いまだに少し笑みをこぼしている謙信に政宗はニヤリと笑い返す。そして、謙信は表情をきりっと引き締め直して政宗の前に立った。

 

「伊達が我ら上杉家に降伏する件、認めるとしよう」

「感謝致します」

 

 こうして二匹の竜は手を組み、天下統一への道という大河を上ることになった。

 

「それから政宗に聞きたい事がある。手土産があると聞いているが、何だ?」

「ああ、それでしたら・・・・・・綱元、持って来い」

 

 護衛に付いていた鬼庭綱元が一旦退出するとその十五分後ぐらいに再び戻って来た。その隣には外で待機していた伊達成実が共にやって来た。

 上杉の面々は度肝を抜かれた。それは伊達家にその人ありと言われた成実が小さいからではない。本人は失礼だが、既にその事は先の戦で知っている事だから。

 原因は綱元と成実が持っているものである。綱元は首桶、そして、成実が持っているのは物ではなかった。

 

「人・・・・・・?」

 

 景勝が小首を傾げながら誰にも聞こえない小さい声で縛り上げられたそれを見て呆然となる。

 それは明らかに生きている人であり、忍であった。

 

「まずはこの首から、これは田村清顕の首です。どうぞお納めを」

 

 田村清顕は田村氏の現当主で力は小さいが、伊達家にとって外征の度にどこかで邪魔をしてきたり、内乱の際も介入してきた、いわば、目の上のたんこぶのような存在であった。

 伊達家は当主輝宗自ら綱元の父である左月と共に田村領を急襲して悠々と勝利を収めていた。

 伊達のあまりの速さに謀略に長けた重臣田村月斎も対応が出来ずに敗れ去り、そのまま消息不明になった。

 

「その見返りとして田村の領地を寄こせか?」

「さすがに話が早いですね。しかし、全土とは言いません」

 

 相変わらず不敵に笑う政宗に対して謙信は苦笑いで返す。

 

「傲慢だな・・・・・・まぁ、良かろう」

「話が早くて助かります」

 

 あっさりと認める謙信に能元が顔を赤くしているが、誰も気にしない。

 もはや他の者は謙信がこうなっては聞かないことをよく知っている為に言うだけ無駄だと思っているだけで、後でみっちりと兼続は説教をしようと心に誓っている。

 

「で、だ。その忍は誰だ?」

 

 成実の隣でしっかりと縄で縛られているその人物を指差す。

 

「ああ、これはですね・・・・・・」

 

 順を追って政宗が話す。

 それは伊達家にあの本願寺からの使者が来た時。その使者として遣わされたのがこの忍だそうだ。その時輝宗は伊達家は上杉家と共に歩むと決めて丁重に使者を送り返そうとした。

 そして、その時事件が起きた。

 忍は懐から隠し小刀を取り出すと輝宗目掛けて襲いかかったのだ。しかし、輝宗も武を修めている者。簡単にはやられる事はない。

 結局その時部屋の外で控えていた左月と綱元が騒ぎを聞いて中に入り押さえつけられそうになっていた輝宗を救い出して騒ぎは収まった。

 その場で斬ろうと鬼庭親子は思ったが、輝宗はこれを捕らえる事にした。

 上杉家に二心が無いということを示す為だ。

 

「なるほど、よくわかった。ちょうど我らも本願寺の真意を探りたいと思っていたからな」

 

 ちょうど良すぎる事が起き過ぎて疑問に残るが、ここまでされて信じるなというのが無理でこの忍は牢獄にそのまま連行させた。

 

「これに最上と景資達の救援か。なかなかの手土産だな」

「そうでしょう? 今後はさらに手土産が入ってくると思っていて頂きたい」

「期待しよう。ま、今度道場で一つ手合わせでもしながら語り合うか?」

 

 それ以降はすっかり二人の世界となってしまった。

 周りは誰も入る事を許されない。人が人外である竜の世界に入るのはやはり許されないのだろう。

 そして、謙信にはもう一つ仕事があった。

 政宗達を部屋に案内させると謙信の纏う雰囲気が喜から怒へと一気に変わった。その矛先は言うまでもなく能元である。

 しかし、当の本人は主君に睨まれようと反省の色を見せずに憮然としている。

 

「何故、藤資や長秀の言を無視した?」

「正しい行いをしようとしたまでです」

「だが、負けた」

「長秀殿が救援しないせいです」

「長秀」

「策で水原城を孤立させる為に八幡砦を攻略する間は動かないようにしていました」

「と、言っているが?」

「某は聞いておりませぬ」

「言って賛同したか? また腰抜けとか言ってはねつけただろう?」

 

 確かに能元は聞いておいても絶対に首を縦に振らなかっただろう。そもそも能元の頭の中は兄である顕元の敵で一杯だったのだから聞くという事はなかった可能性が高い。

 彼もかつてはそれを暴露してしまっている以上は言い逃れは出来ない。

 

「それだからお前は兵からも信頼を失うんだ」

「えっ・・・・・・?」

 

 心から驚いたように素っ頓狂な声を上げる能元を見て、謙信はまさかと思いながら鎌を掛けてみる。

 

「まさか兵はお前に簡単に付いて来ると思っていたのか?」

 

 何も言わずに目を逸らす能元を見て当たりであったと分かった。

 毛利安田家の当主たる者が兵にまで信頼を持たれていないのは問題だと思っていたが、それ以前に兵の感情など無視した采配を執っていた事にはっきり言って謙信は呆れた。

 それ以上は何も回りくどい事は言わずに単刀直入に切り出す。

 

「能元、直属の兵は?」

「まだ外に待機させてあります」

「その者達に謝って来い」

「な・・・・・・何故に某が兵などに謝らなければなりませぬ?」

「兵『など』だと・・・・・・」

 

 能元は先程向けられた謙信の怒りの覇気は刀のように鋭く、胴体を切り裂くような雰囲気が出ていた。

 

「愚か者が、これは命令だ。行ってこい」

「さ、されど・・・・・・」

「くどい、何度も言わせるな。それから兵はお前のおもちゃではない。人だ」

 

「それを忘れるな」と言うと謙信はもう終わりだと長秀に改めた報告をするように命じた。

 その後、能元はさっさと兵に心の籠もっていない謝りを入れて逃げるように屋敷に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 さらに数日後、伊達家当主輝宗が春日山に参上し、謙信との会見に望んだ。

 

「我が娘、政宗から降伏の旨を聞いたと思われるが如何か?」

「確かに、上杉家からはその降伏に偽りなしと見受け、降伏を認める」

 

 厳かな雰囲気のまま会見は輝宗が来る前から決められていた内容を政宗が輝宗に伝えていたためにほぼ滞りなく進んだ。

 

「伊達家には将来有望な人材が四人いる。その者らに他の家で見聞を広めさせたいのだが」

「私の方では構いませぬ。それで誰を?」

「我が娘の政宗、ここにいる鬼庭左月の娘鬼庭綱元、外で控えている伊達成実、そして・・・・・・」

 

 一泊置いて輝宗は一番大事だというような感じでぐっと身を乗り出す。

 

「この春日山にいる筈の片倉景綱」

「・・・・・・心配ありません。外出を許してはいませんが、城内は監視付きで行動は許しています」

 

 察したように謙信は笑みを浮かべる。それを聞くと後ろに控えている二人も安堵の息を吐く。

 謙信が輝宗に聞くと四人は幼なじみで同じ師匠から教えを受けた間柄だという。 

 道理で輝宗よりも後ろの二人の方がぐっと身を乗り出してちりちりと刺さるような視線を送っていたなと思っていた謙信は納得したように二度三度頷くとさらに話を進める。

 そして、大体会見が終わったところで政宗がそわそわと発言をしたそうにしているのを謙信が気付き、

 

「政宗、何か言いたそうだな」

 

 突然輝宗との会話中にいきなり振られたものだから政宗も驚いてしまった。

 それでも政宗は気丈に振る舞いながら口を開く。

 

「謙信殿、こ、景綱は何処に?」

「ああ、景綱ならば・・・・・・」

 

 ちらりと謙信が列席していた颯馬に目をやると颯馬はすぐに頭を下げて政宗を景綱のいる部屋に案内する為に立ち上がった。

 

「いや、変な事を言ってしまった。とりあえず会見を続けて下さい。私はその後で・・・・・・」

「何を言うか、政宗が景綱に会いたくてそわそわとしていたのは最初からだろう?」

「えっ!? い、いや、そんな事は・・・・・・」

 

 少し顔を赤らめて恥ずかしそうにする政宗を見て颯馬が不謹慎にも少し可愛いと思った事は口が裂けてでも言えない。

 

「ふふっ、政宗、謙信殿が良いと言っているのだ。行ってこい」

「そうだ、行ってきて良いぞ。外にいるであろう成実殿とそちらの鬼庭殿もな」

 

 綱元は政宗よりも冷静に振る舞っていたのでまさか自分の内心が感づかれるとは思ってはいなかったので少しばかり驚いている表情を見せた。

 

「ああ、嫌なら無理とは言わん。しかし、それでは景綱はかわいそうだ・・・・・・」

 

 ちょっと残念そうにする謙信を見て政宗はむっとして立ち上がって不機嫌そうに言った。

 

「分かりました。謙信様の言うとおりにします」

 

 続いて綱元も二人は立ち上がると颯馬の後に付いて部屋を出て行った。

 

「謙信殿、便乗した俺も悪いが、あまり娘達をからかわないで頂きたい」

「いやぁ、ああいった動きを見るとつい・・・・・・」

 

 輝宗の渋い顔に対して謙信の悪戯っぽい笑み。

 溜め息を吐きながらも輝宗は謙信の案外茶目っ気があるところに安堵しつつその後はお互いに当主としてのこれまでの歩みを語り合った。

 その頃景綱の部屋に颯馬の案内でやってきた三人の内一人が喜びを爆発させ、その後ろで二人が上辺の冷静さを保ったまま再会を喜び合ったのは別の話である。

 

「・・・・・・というわけでな、まったく兼続は真面目過ぎるというかなんというか・・・・・・」

「ふぅむ、謙信殿も大変だのう。俺も若い頃は大分左月には色々とぐちぐち言われて耳が嫌になるぐらい同じような説教を喰らってな」

「やはり自身が当主であるのは分かるのだが、戦場を駆けたいという思いはどうしても抑えられないものでな」

「いやぁ分かる、よく分かるぞ。俺なんか今は丸くなったが、若い頃の戦はいつも左月が隣にいて前線で出たくても出れなくてな・・・・・・」

「輝宗殿は一人だろう?うちにはそれが四人もいるから大変なんだ。でも、そこを上手く目を盗んで出れた時はたまらなく良いんだなこれがまた」

「説教が後にあると分かっていてもな」

「「あははははは」」

 

 これは当主の会話である。

 

 

 

 

 

 

「しかし、定満と龍兵衛はまだ帰って来ないのか?」

「確かに遅過ぎるな」

 

 久々に謙信は颯馬と春日山城からの月を見ながら酒を飲む。部屋からの月は窓から太陽の日差し程強くない為に風流なものである。

 勝利したが、気になるのは信頼のおける者の事。全員が地獄から無事に帰ってこれる事を祈った戦だったが、藤資が死んでしまいその願いは空しくも叶わない事になってしまった。祈ることしか出来ないが、まだ戻って来ていない二人も無事でいて欲しいという思いがある。

 

「まさか政景殿に捕らえてしまったんじゃ?」

「いや、定満も龍兵衛もそんなへまはしない。颯馬も分かっているだろう?」

 

 違いないと首肯しながら颯馬は酒を口に注ぐ。

 裏のことなら二人は軍師達の中で一番適していることは颯馬も分かっている。

 

「焦る事はない。大丈夫だ」

「藤資も顕元も死んだ。これ以上の犠牲はもう出したくない。不安があるのも事実だ」

「だが、俺達が出来るのは信じて待つだけだ・・・・・・」

 

 謙信は返事をせずに酒を呷る。後は静かな部屋はただ酒をつぐ音だけが聞こえていた。

 

 

 

 

 三日後の夜。謙信が今日中の仕事を終えてもう寝ようかなどと考えている時だった。

 

「謙信様、河田殿が帰還されました」

「早く通せ」

 

 謙信が颯馬と共に仕事に勤しんでいた日暮れも近い夕方。待ちに待っていた報告が来た。気になるのは報告に来た家臣は「河田殿」と言って定満の名前を出していない事。

 

「謙信様、河田長親、只今戻りました」

「入れ」

 

 入って来たのは龍兵衛である。しかし、その目はくぼみ、体格の良かった身体はすっかり痩せきっていた。二人は驚愕の表情を隠せず颯馬は思わず聞いてしまう。

 

「大丈夫なのか?」

「ああ、俺は大丈夫だ」

 

 安心しろと言われても大丈夫には見えない姿である。だが、こうして来た以上は謙信は事の詳細の報告を聞かないといけない。

 

「件の事は成功しました。しかし、その前にお人払いを」

「ん、颯馬でも駄目なのか?」

 

 別に颯馬なら構わない筈なのだが、力強く龍兵衛が頷いた為に謙信は颯馬を退出させるしかなかった。

 出て行った後でも不安なのか龍兵衛は辺りをきょろきょろと見回して誰もいない事を確認する。

 普段の大きなことにもあまり表情を変えない彼とは違うその動きから余程の事があったと謙信は想像がついた。そして、一番気になっていた事を先に聞く。

 

「定満は、どうした?」

「詰めの作業を行っている為に自分が先に戻るように言われました」

「そうかそうか、定満も無事なのか」

 

 藤資や顕元以外が死ぬという不安が払拭されて謙信はほっとしたように笑みをこぼす。しかし、龍兵衛の表情は晴れず。どこか儚いように感じられた。

 やはりどこかおかしいのではないかと謙信が聞くと龍兵衛は「自分は大丈夫です」と続けた。

『自分は大丈夫だ』と龍兵衛は言った。まさかという思いよりも先に謙信は目を見開いて身体が動いた。

 

「龍兵衛、本当の事を言え! 定満はどうした!?」

 

 気付けば謙信はがばっと立ち上がって龍兵衛に詰め寄っていた。普段の冷静さからは想像出来ない程取り乱して焦りと恐怖が表情に滲み出ている。

 初めてみる謙信の様子に驚きつつも龍兵衛は顔を下に向けたままがっくりと両手を畳に着けて口で何かを言おうとして言えないように下唇を噛んでいる。

 謙信がもう一度さらに強く「言え!」と龍兵衛に詰め寄ると龍兵衛は観念したようにそのままの姿勢で「申し訳ありません」と堪えるように頭を下げ続ける。

 

「詫びはよい。仔細を話せ」

「・・・・・・」

「話せというのが分からぬか!?」

「・・・・・・分かりました」

 

 思い出される光景に嫌という感情を持ちながらも話さなければならないことに身体を震わせながら龍兵衛は顔を上げて謙信に仔細を話し始める為に口を開く。

 外の風は一気に強くなっていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十八話改 その時が来るまで

 謀《はかりごと》は常に密に行い、それを公に開かすものではない。敵地に潜入して影で実行する。故に難しく、失敗すれば命の危険は避けられない。

 たとえ老練な者を用いたとしてもどこかに綻びがあればそのほつれた糸から様々なことが明るみにすることが出来ない時もある。

 それは蜘蛛の巣と言えるだろう。

 黒幕は辺りに糸を巡らせて入って来ようとした者を食らい何事もなかったかのように全てを闇に葬る。

 しかし、蜘蛛の目にも死角がある。それを見つけ出した者は糸にかかった仲間を救う事が出来る。

 今回の糸にかかった仲間とは春日山の民と上杉家の全てである。

 

「しかし、これからの相手はあくまでも手下であって大蜘蛛を引き寄せる為の小蜘蛛にしかすぎない、か」

「うーん、よくわからないけど、わかるの」

 

 ぼそりと言った筈の龍兵衛の言葉に耳の良い定満はぴくりと反応を見せる。龍兵衛の比喩的な表現に団子を食べながら可愛げに小首を傾げるが、龍兵衛は鼻で笑ってあしらうように何度か首を小さく頷かせる。

 そのほんわりした雰囲気の中にある毒のある棘は着々と今回の標的である長尾政景の内部に侵蝕している事を理解しているからだ。

 

「(怖や怖や・・・・・・)」

 

 時は遡って二人が坂戸に付いて早ニ週間、時期でいうと謙信たちが常願寺川の戦いで勝利を収めた頃である。

 ひとまず二人は坂戸に着くとまずはゆっくりと慎重に調査を始めていた。

 龍兵衛は酒屋などでの聞き込み、定満は正体を悟られないようにうさ耳を外して酒屋の他に様々かつ大胆な方法を使って調査を続けた。

 しかし、やはり謙信への謀反となるとかなりの秘匿である。簡単には蜘蛛の糸のほつれは見れずに歯痒い思いを二人はし続けた。

 そこである時、龍兵衛は一か八かの賭けに出る事にした。まずは彼が商人へと変装をして坂戸城に乗り込むとあるものを政景の重臣である国分彦五郎の下に献上する事にした。

 この時はもう龍兵衛は定満の暗示のようなものによって心がいくらか吹っ切れていて政景の疑惑を調べるのに積極的になり始めていた。

 龍兵衛は元々平成の世では横浜出身の友達に化粧術などを習っていた事があり、その助長で変装が出来るようになったのだ。

 坂戸城の門番には上手く喋りと金を使って丸め込み、彦五郎に会う事に龍兵衛は成功した。

 部屋で待っていると親憲よりは若く、龍兵衛や颯馬達よりは年上の風貌をした男性が入って来た。

 

「儂が国分彦五郎だ。お主か、儂に会いたいといったのは?」

「はい、手前のことは牛蔵とお呼び下さい」

 

 そして、しばらく二人は世間話やそれぞれの愚痴を話し続けた。龍兵衛は下に下に出る事で彦五郎の機嫌を伺い確実に彼の懐に入っていった。

 

「さて、そろそろ本題に入ろうか、何故に儂の下に来たのだ?」

「実は小耳に挟んだのですが、彦五郎様は随分とお盛んな方だそうで」

 

 これは定満が酒場で酔っ払った兵から掴んだ情報である。有効に使わなければいけないと定満が持ち帰り、今回の策で行くことになった。

 

「ふふっ、年甲斐もないとでも思っておるのか?」

 

 彦五郎は認めるとにたりと笑い龍兵衛の意図を察してすすっと近付く。

 

「いえいえ、それに乗じて儲けるのも商人めの仕事です」

 

 それに釣られるように龍兵衛も同じような笑みを浮かべて耳元で彦五郎に囁く。

 

「厳しい値になるぞ?」

「構いません。では、今夜にもこのお宿に来て頂きたいのですが・・・・・・」

 

 そう言うと龍兵衛は自身達が泊まっている宿が書いてある紙を渡した。

 

「そこで試して頂きお気に召されれば・・・・・・ああ、もちろん孕ませてはいけませんよ」

 

 下劣な笑いが彦五郎の口から出てきたのは言うまでもない。 

 彦五郎はきちんと時間通りにやってきた。

 そして、龍兵衛が牛蔵だと知らずに龍兵衛が紹介したのが、定満であると知らずに彦五郎は定満を抱いた。

 幸いな事に彦五郎と定満には直接の面識は無く、定満も龍兵衛によって少し顔に手入れをした為に全く感づかれる事はなかった。

 予想通り一夜の後に彦五郎は定満の技の前に陥落し、彼女をいたく気に入った為に龍兵衛に高い金を払って城に連れ帰る事になった。

 

「後は定満殿に任せるとして、こっちは砂金の小粒を砂漠の中に探しに行きますか」

 

 定満を見送った龍兵衛は一人、宿に戻って聞き込みの為の準備を始めた。

 

 

 

 

 

 

 定満は望まない相手に抱かれながらも機会をじっくりと伺っていた。彦五郎は政景の側近として政景を支えている。故に政景の持っている秘密も必ず知っている筈。

 信頼を得ながら探りをいれる事一カ月したある日。

 彦五郎が顔を赤くして興奮覚めやらぬという感じで屋敷に戻って来た。

 定満がしなやかな指で頬をなぞりながら聞くと彦五郎は誘惑にあっさり負けて自分の部屋に呼び、誰にも言うなと釘を刺してつらつらと話し始めた。

 

「政景様が越後の国主となるべく立ち上がる決意をなされた」

 

 定満は心の中で気になる事を言うのを堪えて話している彦五郎に続きを促す。

 

「二週間後、政景様は春日山に向かう。そして、そこで『我々は謙信様の救援として越中に向かう故にしばし休息を取りたい』と政景様が申せば必ず門は開く。そして、その油断したところを叩くのよ」

 

 一気に策の全容を言ってもらい定満は内心黒い笑みがこぼれるのを必死に抑えて彦五郎に抱き付きながら政景はどうして決心したのかそれとなく聞くと彦五郎はにやりと笑った。

 

「越後を取れば東北が乱れる。そして、政景様はその隙に東北を取りその支配者となるべきだと本願寺の使者が・・・・・・」

 

 確実な証拠を得た定満はそれ以上は聞かずに頭の中で仮説を立てた。

 おそらく政景は本願寺に上手く丸め込められて謙信が自分を疎んじていると思っているのだろう。

 しかし、謙信はそのような事は全く思っていない。むしろ政景は留守役の責任者とするなどかなり責任がある仕事を任せたりもした。

 何故ここまで彼を変えたのか、政景は一本気で決して変な二心など持つような性格ではない。

 

「政景様は景勝様を富樫殿に献上する事を条件に上杉家を潰さない事ようにしたのよ。今の状況下では謙信ももはや生き延びられまい」

 

 つまり謙信はもう助からない。娘の命が惜しかったらこちらに従えと単に脅されているのだ。

 政景にとっては謙信がいなければ自分を止める者はいなくなる。故に自分が立てば景勝の命は助かって上杉家はまだ生き残る事が出来る。

 しかし、定満はあの晴貞がそこまで温厚な事を本当にするとは思えなかった。

 確かに彼は上杉家を残すだろうが、そこそこの力を残して微々たるものに変えてしまうだろう。そうなると不満を持った上杉家に反乱を煽ってすぐに潰す。

 彼の後ろ盾である上杉家と本願寺はかつての因縁からあまり仲が良いとはいえない。

 晴貞が気に入らない奴は片っ端からひねりつぶすような性格であると察していた定満は政景が騙されているとわかった。

 そして、仕事は全て終わった定満はその夜の内に密かに集めていた証拠と共に屋敷から消え去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「お疲れ様でした」

 

 帰ってきた定満を龍兵衛は少し安堵した顔をして前もって変えていた宿に迎え入れた。帰って来るとは思っていたが、若干彼の心に不安があったことは否めない。

 

「龍兵衛君、悪い子なの。私を使うなんて・・・・・・」

 

 豊かな胸をたゆんと揺らして腕で隠しながら定満は少しじとっとした目で龍兵衛を見る。

 

「それが一番の近道ですから、それに情報を持ってきてこの策を考えたのは定満殿でしょう?」

 

 胸に行きそうな視線を精一杯の努力で抑えて負けじとじとっとした目で龍兵衛は見返すが、定満はきょとんとした顔に変わる。

 

「うーん・・・・・・そうだっけ?」

「・・・・・・そうです」

 

 自分から行くとか言ってのりのりだった人が何を言うのかと半ば呆れながら龍兵衛は定満と一つの部屋で定満が集めて来た証拠を整理し始めた。

 それは単純なことではなく、仮説を立てながらどこに黒がいて政景を動かしているのか調べなくてはならない為、更に時間が掛かり、終わった時には朝になっていた。

 

「やはり本願寺。いや、晴貞の仕業ですね・・・・・・」

「うんうん、間違いないの」

 

 晴貞の中にある狂気に薄々感づいている二人は結論として大蜘蛛が晴貞であるとしてその後も別の顔をした商人や旅娘に変装して情報収集にいそしんだ。

 そして、最後の結論として政景は止まる事は無く、その禍根を断つ為には彼を殺す事しか方法が無いという結論に達した。

 

「やるんですか・・・・・・?」

「うん・・・・・・」

 

 また恋する人の父親を殺す事になるかもしれない龍兵衛にとってはかつての光景が蘇ってくる。

 あの悲しき終結になるかもしれないと思うと龍兵衛はふるふると身体が震えた。過去を払拭する為には乗り越えるべき壁であるのかもしれない。

 しかし、その壁は滑りやすく、茨が多く存在するものでもある。

 落ちれば龍兵衛の心は茨に刺されて崩壊する危険がある。だが、逆に乗り越えてしまえばこちらのもの。龍兵衛は全てから脱却出来るかもしれない。

 一方、この仕事を任されてから見せるようになったそわそわと落ち着かない様子を見ていた定満は龍兵衛の景勝への想いは深いと思いながらもそのせいでこの仕事がやっていけるのかが不安になってきた。

 彼は気丈に振る舞っているが、定満にはその複雑な心境が手に取るように分かった。

 

「龍兵衛君、大丈夫?」

「ええ・・・・・・」

 

 その虚ろな眼の中で何を思っているのか定満は知っている。

 人の本質を鋭く見抜く定満は龍兵衛が一見図太いところがあるが、実際はかなり繊細な心を持ち、自分で自分を傷付けてきた男だと察していた。

 また、彼は今後の事の最悪な状況を考えて行動する為になお始末が悪い。

 この場合の最悪な状況を考えると定満も龍兵衛と景勝の心境を思うしかない。それでも国を考えなければいけないのが軍師である自身達の役目である。

 それでも龍兵衛に手を下させるのは非常に危険である。彼が景勝に黙っていれば何でもないが、そんな事を龍兵衛が出来る訳がないし、定満も二人の間に亀裂が入るような事はさせたくはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 一つの心境が政景を揺すっていた。

 お前は謙信を越える事が出来る。そして、天下の覇者となれる。お前は無敵だ。一度立ち上がれば謙信など目の下のほこりのようなもの。今しかない。やるんだ。そして、天下を取れと。それは惑いだった。

 

「もはや賽は投げられた。私は・・・・・・謙信を討つ!」

 

 家臣達が頭を下げると政景は大々的にとうとう公表した。

 後戻りは許されない。そして、勝つ以外に方法は無く、負ければ全てを失う。政景はすぐに部屋に戻り戦の準備を始めた。

 寒空の坂戸城だが、政景自身の心の熱気はかなりのものであrう。

 

「申し上げます。宇佐美様がお見えです」

「何!?」

 

 驚いて振り返ると報告に来た家臣はその形相に逆に驚いてしまった。政景は詫びをいれると一応はすぐに通すように命じた。

 ここで追い返したりしたら相手が相手だけに怪しまれる可能性は高い。だいたい何故定満がここにいるのか。

 政景は部屋で戦々恐々としながら定満を待っていた。

 定満は部屋に通されるまでの間に様々な人が忙しく通り過ぎて行くのを見た。

 その中にはあの彦五郎の姿もあったが、定満とあの遊女が同一人物でないと分からずにすれ違って行った。

 見事なものだと龍兵衛を心で賞賛しながら定満は政景の部屋に向かった。

 

「政景さん、お久しぶり、なの」

「ええ、そうですね、定満殿」

 

 中に入ってからの簡単な挨拶の態度から定満は政景が何を思っているのか察する事が出来た。

 

「それで今日はどのような?」

「それよりもお団子食べる?」

 

 早く本題に入りたがる政景に対して定満はゆったりとまずは話し始めた。政景はしばらくは静かに定満と団子を食べていたが、とんとんという指の音や足がそわそわと動いているのを見て定満は彦五郎の言葉があるとはいえ確実な確信を持った。

 

「政景さん、どこかに出兵するつもり?」

「な、何故それを・・・・・・」

 

 単刀直入に聞く定満に心が見透かされたような反応をする政景に定満は察しながらも外でにっこりと笑い、内で怒りと黒い感情を交錯させながらもさらに続ける。

 

「うーんと、謙信様の救援?」

「そ、そうだ。その通りで謙信様が危機となっている以上は行かねばなるまいと思いましてな」

 

 政景がそう言うと定満は政景の頭に手をやって撫でた。

 

「それよりも定満殿は何故にここに?」

「うん? 私はね、謙信様が坂戸の政景さんが大丈夫かなって心配してたからやって来たの」

「心配とは?」

「政景さんから救援が来ないからちょっと何かあったのかなって、実及さんも春日山から援軍を出したのにどうして政景さんは来ないのかなと思ったの」

 

 春日山から援軍を出したと聞いた時に政景の目の色が若干変わったのを見逃さないまま定満はどうしてと小首を傾げる。

 

「定満殿は外の様子をご覧になられたのでしょう? ならば心配は無用です。少々兵糧の確保に手間取ってしまいまして。後もう少ししたら出陣出来ます」

「うんうん、良かったの」

 

 定満は心底安心したように何度も頷いて政景によろしくと言って悪びれもせずに茶をすする。

 ちょうど団子も無くなり、定満のゆったりとした仕草に和みつつも政景は定満を退席させようとしたが、彼女はは一泊置いて政景に甘い声で誘いをかけた。

 

「お舟遊びに興味ない?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・・・・準備は万全でした。ところが、定満殿が自分に任せるように言ってきたのです」

 

 龍兵衛は一息入れると謙信を見る。先程よりはかなり落ち着いていつもの謙信に戻っているが、まだ若干の怒りが残っているようだった。

 ちなみにこっぱずかしいので定満を城内に潜入させた策の内容と言う時が違いすぎると思って景勝関連については伏せている。

 定満は龍兵衛が計画した政景の暗殺計画を否定して自身が立てた計画を遂行するように龍兵衛にお願いではなく命令してきた。

 その為に定満は自身の城である琵琶島城に龍兵衛を先に向かうように命じた。そして、先にここに泊まるようにと宿の名前を書き記した紙を渡されそのままその命令に従った。

 

「その時の定満に何か変なところはなかったのか?」

 

 龍兵衛は全くと首を横に振る。

 正直なところ龍兵衛は定満がやろうとしている事に大体の察しは付いていた。ここまで自身の知る歴史と合わさっていると察せない方がおかしい。

 

「言う通りにして定満殿よりも先に自分は琵琶島に向かいました。定満殿がまさか敵地の中央で暴挙に出るとは思わなかったので、案の定、定満殿は三日後にちゃんと来ましたよ。まさかそれが定満殿の姿を見る最後になるとは夢にも思いませんでしたがね・・・・・・はぁ・・・・・・」

 

 息を吐きながら龍兵衛が先を言おうとすると謙信は龍兵衛に胸倉を掴み溜めていた怒りを吐き出すように詰め寄った。

 その龍兵衛の態度が余裕そうに見えて癪に触ったのである。そして、それ以上に聞き捨てならない言葉を龍兵衛の口から聞いたからだ。

 

「『定満の最後』だと・・・・・・? 何故定満を止めなかった!?」

「自分とて止められたら止めましたよ」

 

 龍兵衛は冷静にその怒りを受け流す。謙信と違って龍兵衛は事実を知っている為に冷静になれるのは当たり前の事だった。

 悔しがるように謙信は龍兵衛の胸倉を振り放すと離れて座る。

 それを合図に龍兵衛は着物を整えてながら悔やむようにまた下を向いた。

 

「あの時、油断していなければ自分は定満殿を助ける事が出来たかもしれません・・・・・・」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十九話改 湖の決心

 もう一度、その時間に戻れればということを何度も思うのが人の人生だ。それが多い者、少ない者は人それぞれである。

 定満は龍兵衛から惟信との真実を知り、景勝の幸せを願い、謙信と颯馬の幸せも願った。認めたくないが、年長者として若い人の幸せを願うのは当たり前の事である。

 仮に東北全土を失ってとしても、もう少しで越後を取り巻く暗雲の雲の一部を取り除くことが出来る。この雲を取り除けば後は周りで頑張っている将兵がどうにかしてくれる。

 定満は信じていた。上杉は最後には必ず勝つ。

 それは単なる希望論ではない。心から信じている。

 しかし、自身はその為の犠牲になるかもしれない。ならば今後の上杉の為に何をするべきなのか。

 一人、定満は宿の部屋で書状を書いていた。

 外は綺麗な夕日がもう少しで沈もうかとしている。今の風景を絵にでも描けば素晴らしい作品が出来上がるだろう。

 だが、定満は外など気にせず、物凄い速さで筆を走らせていく。

 半刻したぐらいにようやく全てを書き終えると肩を回しながら疲れたように長く息を吐く。

 そこで今、何時なのかが分かり、外が少しずつ群青になっていることに驚きながらも時間に間に合ったと安堵する。

 しばらく休息を取っていると外は完全に赤い色が無くなり、群青の空の中に月が出始めてきた。普段の定満なら団子を抱えて外に出るところだが、今夜は大事なことがあるので止める。

 思いっ切り伸びてゆっくりと倒れようとした時、定満の耳はぴんとはねて何かを捕らえる。

 誰かが廊下を歩く音がする。定満は部屋の明かりを消してゆったりと場所を移動した。

 外から入室を請う声がする。敢えて何も言わない。外の人物は何度か声を掛けたが、やはり何も言わない。

 外の人物はこの時間に定満に来るように言われていたのだ。

 暗い部屋とはいえ失礼を承知で外の人物は中にそっと入ろうと襖を開けて部屋の中に足を踏み入れ、定満に気付かず、中に誰もいないことにはてと思った瞬間だった。

 定満は影から姿を現し、相手に確認させることも出来ないような素早さで入ってきた人物の後ろに回り込むと首に鋭い手刀を喰らわせる。

 相手は対応することも声も上げることも出来ずにうつ伏せに倒れて気絶した。

 

「ごめんね・・・・・・」

 

 口だけの言葉を残して定満は部屋に書状を丁寧に倒れた人物の隣に置くと残して出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「颯馬、まだ起きているか?」

 

 仕事を終えて自室へ戻った颯馬に外から龍兵衛の声が聞こえてきた。

 いつの間にやら帰ってきた同僚に驚きながらもすぐに入室を許可する。労を労るように颯馬は快く出迎えようとしたが、彼を見ると労るどころか心配になってしまう。

 

「おい、本当に大丈夫なのか?」

 

 そこには以前の面影など無いほどにげっそりとした龍兵衛が立っていた。歩み寄る足取りはしっかりとしているが、見るからに弱っている。

 

「颯馬、謙信様の所に行け」

「・・・・・・はっ?」

 

 座らず、颯馬の質問に答える事もなく、龍兵衛は部屋の外をさっと指差した。刻限はもうかなり遅くなっていて夜は完全に更けている。

 このような時間にいくら謙信の部屋でも入るのは無礼だ。

 

「いや、でもこんな時間に・・・・・・」

「いいから! これが今は精一杯だ。颯馬、これは亡きお方の言葉だ。謙信様のお心の溝を埋めるのはお前しかいない」

 

 龍兵衛は意味深な発言を残して部屋を出た。

 先述のように夜はかなり深くなり、人はもう眠る時間である。それでも去り際に龍兵衛が鋭い形相で睨まれた為、何が何だか分からない様子のまま颯馬は謙信の部屋へと向かった。

 

「これでいい。これで謙信様は救われる・・・・・・後は、颯馬次第・・・・・・」

 

 颯馬が出て行った部屋で静かに呟くと龍兵衛も自室に戻っていった。

 

 吹き荒れる寒い突然の強い風に颯馬は身を小さくしながら謙信の部屋へと向かう。

 何があったのか先程、龍兵衛に聞かなかったのは不覚だったが、謙信に聞けば良い。

 

「謙信様、颯馬です」

 

 部屋の前で声をかけるが、反応がない。

 寝るにしても部屋の灯りはまだ点いているのと龍兵衛の強い口調からして絶対に起きているのだろう。

 そっと中に入るが、いつものように夜遅くまで部屋の中央で仕事などをする謙信はいない。

 颯馬が見た謙信は壁にもたれかかり、虚ろにただ座っていた。それを見た途端に颯馬は公の顔を捨てて私の顔となった。

 

「大丈夫か?」

「・・・・・・・・・・・・」

「おい!」

 

 颯馬は強く肩を掴んで揺さぶる。

 颯馬の姿を確認したのか驚きながら彼を見ると目の焦点が合い、姿を確認することで謙信はようやく平静さを取り戻した。

 

「どうした? 何かあったか?」

「それは俺の台詞だ。謙信こそどうしたんだ? そんなにぼーっとして」  

「いや、大丈夫だ。何でもない」

「そんな虚ろな顔をして、説得力が無いぞ」

「そうか? はは、そんなに私は呆けていたか?」

「ああ、何があった?」

 

 躊躇わずに謙信に問うと困ったように謙信は作られた苦笑いを浮かべる。

 謙信の心には溝が出来ていると颯馬は悟った。こんな作り笑いをする謙信など見たことが無い。彼がゆっくりと視線を合わせるように顔を覗き込むと謙信は未だに虚無感を持ったままに彼の目を見る。

 

「定満が・・・・・・」

「定満殿が、どうしたんだ?」

「死んだ・・・・・・」

 

 聞いた瞬間、颯馬は絶句した。見開いた目とは裏腹に視点は暗転して前が謙信でさえ分からなくなる。

 嘘だと思いたい。しかし、謙信の後ろに乱雑に置かれていた定満の耳飾りはその事実を如実に物語っていると悟った。

 

 

 

 

「これがその時出来た痣です」

 

 龍兵衛が首元を見せるとはっきりとはしていないが、少し紫色に腫れているのが分かる。

 定満は龍兵衛を部屋に来させて自身が出て行ったことの発覚を遅らせる為に敢えて彼を呼び寄せた。

 

「軍師であるお前に反応しろというのは無理な話か」

「まぁ、そうですね」

 

 当たっていることをはっきり言われて少し傷つきながらも龍兵衛はあの時を振り返るように眉間に指を当てて溜め息を吐く。

 龍兵衛は胸元から書状を取り出した。謙信が何かと聞くと龍兵衛は聞こえないように唾を飲み込んで口を開く。

 

「定満殿の遺された書状です」

 

 謙信宛となっているその書状の表を見て謙信はすぐさま無造作に開いて中身を確かめる。間違いなく定満の筆跡である。

 じっくりと謙信は読んでいくと最後に溜めていた息を吐き出すのと同時に前のめりだった天を仰ぎつつ姿勢を少し後ろに傾けた。

 

「お前も読んでみろ」

 

 龍兵衛が書状を読んでいる姿を謙信はじっと見ていた。

 最初はかなりの速さで読み進めていたが、徐々にゆっくりとその文面に目を通し始め、何度か読み直すという事を繰り返しながら一字一字も読み漏らすまいという姿勢で読んでいく。

 読み終える際にはぎりっと奥歯を噛み締める音と共に目に手を当てて何度か抑えながらぶつぶつと何かを言い。

 

「本当にあの人には適わないなぁ・・・・・・」

 

 どこか空虚に上を向いて今度は謙信にも聞こえるように呟いた。

 龍兵衛に分からないように首肯しながら謙信も定満が今まで上杉の為の功績を立てた事やあの母親のような笑顔で皆を自身に忠誠が向くように色々と影で支えてきていた事を頭で思い描いていた。

 思えば思う程鮮明に出てくるその定満の顔にはいつも浮かべるあのふにゃりとした笑顔があった。

 

「誰も適わないよ。定満には・・・・・・」

 

「ええ」と頷く龍兵衛はいまだにどこかに別に心があるような返事を返す。

 だが、それは謙信にも言えることであった。普段の龍兵衛ならば気付けただろうが、謙信も心ここにあらずといった状態だった。

 謙信は定満には初陣と時から何度も世話となっていた。謙信がただ真っ直ぐに正義を信じていた。定満はその矛盾に気がついた謙信が危機に陥った時、定満はゆっくりと謙信の頭を撫でながら励まし続けた。

 

「謙信様は、諦めないで、信じていいの。大丈夫、いつか分かり合える人がいっぱい、謙信様を支えてくれるの」

 

 そう言われた時の謙信の心の氷結は溶けていき、定満が本当の母親のように見えたのは幻ではない気がした。それほど自身が喜びを持てたという事であろう。

 今思えば間違いない。喜びが自身に力を与え、清濁の全てを受け入れる度量の大きさを持つことが出来るようになって、今のような上杉家を築き上げる事が出来たのだと確信している。

 いわば定満の存在は謙信の心の支柱の多くを占めていた。颯馬達家臣とは違う。さらに大きい支柱であった。

 

「定満・・・・・・」

 

 その一言にどれほどの思いが詰まっているのか、龍兵衛には分かる筈もなかった。

 

「その後、自分が気付いた時には定満殿は消えていました・・・・・・」

 

 龍兵衛が気付いて起き上がり、ここまでの事を思い出してすぐにその部屋から飛び出した時にはすっかり辺りは暗くなり満月の照明が綺麗に地平を明るく照らしていた。

 龍兵衛はまず宿の主に定満のことを聞くと一刻前に池に舟遊びをしにとある人と出て行ったそうだ。

 それを聞いた龍兵衛は背中が凍る思いをした。そのまま上着も着ないで宿を飛び出し寒い越後の冬を身体で感じる事も忘れて龍兵衛はただ野尻池に走った。

 城下、農村、林の中。疲れることも忘れてただ走って走って走り続けた。

 野尻池に着いた時には龍兵衛は肩で息をしながら足が棒になるような感覚に襲われたが、鞭打って池に近付く。

 だが、目の良い龍兵衛には野尻池に視線を向けるだけで十分だった。

 池のちょうど真ん中にあったのはゆらゆらと揺れる満月。

 そして、それに照らされた転覆している小舟がゆらゆらと動いていた。

 

「見た瞬間、がっくりと膝を着きました・・・・・・」

 

 さらに続きを言っている龍兵衛はまだそれを見た時の衝撃から抜け出せる事が出来ないのだろう。拳を握り締めて止める事が出来た自分が出来なかった後悔に苛まれているように下を向いている。

 

「定満と会っていたのは政景だな?」

「間違いないでしょう」

「何故だ? 何故助けようとしなかった!?」

 

 そこで膝を着く暇があったのなら池にすぐに向かえば良かっただろう。

 謙信は詰め寄るが、龍兵衛は冷たく謙信に視線を向けた。

 

「自分もあの池に飛び込めと?」

「あっ・・・・・・」

 

 今は冬だ。池の寒さは人を亡き者にするには十分である。いざ飛び込めば寒さで気が動転して溺れるかもしれない。

 そのような所に生きているのか不明な者を探しに龍兵衛は入り込む程の勇気は持っていない。

 

「しかも、あの時は舟もあの一艘しかありませんでしたよ」

「すまん。少し取り乱していた」

 

 最初からそうであるが、今の発言はかなり支離滅裂な発言であった。謙信は素直に非を認めて頭を下げる。

 

「しかし、定満が本当に死んだのか? 春日山が無事である以上は政景は死んだのだろうが、定満は・・・・・・」

 

 希望論を述べて必死に現実から逃げようとする謙信を見て龍兵衛は謙信も大分この事に参っていると察した。先程からおかしいと思っていたが、異常である。

 龍兵衛は心を鬼として答える代わりに先程から隣に置いてあった風呂敷を謙信に渡した。

 この時龍兵衛は『政景』という単語を聞いて少し心の音が鳴ったのは彼自身の秘密である。

 謙信は龍兵衛に促されるままにそれを素早く開けると動きが徐々に遅くなり、身体が震え出した。

 

「どこにあった?」

 

 入っていたものは定満がいつも着けていた耳飾り。

 水に浸されてあったのか少々ふさふさしていた毛が寝ている。

 

「自分もその時まで謙信様と同じような思いを持っていました。何故定満殿は死ななければならないのか、理由が無い。その為に辺りを探しました。しかし、これを見た瞬間、自分は心に何本もの矢が刺さった気がしました。それを落ち着かせる為にしばらく山奥の寺で心を落ち着かせていたのです。故に帰ってくるのがこの日になってしまいました」

「御託はいい。答えろ! これはどこにあった!?」

 

 定満の大切なものを見た謙信は理性など、どこのかなたに吹き飛ばして龍兵衛に詰め寄った。

 

「池の中央、転覆していた舟の隣に、浮かんでいました・・・・・・」

 

「そんな・・・・・・」

 

 謙信が語り終えると颯馬は先程までの謙信のように虚ろな表情になり、言葉の出ない口を開けている。

 謙信は先程龍兵衛から渡された書状を颯馬に見せる。

 文面にはまず謙信への詫び、今後の上杉家がどう動けば良いか。その為の善策と若い軍師達への後事を託す激励の言葉。

 そして、龍兵衛を責めないでくれという言葉の次、最後に書かれていたことに謙信は苦笑いを浮かべた。

 

「『藤資に後は任せる』か・・・・・・」

 

 謙信が藤資の死を聞いた時、重家が最期の重家の言葉を聞いていた。それは景資に託され、謙信へと伝わった。武人らしくその内容は不器用だが、芯が通っていた。

 そして、その最後の言葉が奇しくも同じであった。

 

「藤資殿は『定満に後は任せる』だったな・・・・・・」

 

 奇しくもその二人は時期を同じくして亡くなった。

 謙信の誇る上杉二大の支柱が倒れた時、それを知った者は絶句をするのが精一杯である。

 

「藤資が死んだ。定満も死んだ・・・・・・人間なのだから死ぬのは分かっている。しかし、どうして!? 何故天は一気に二人を召したのだ!?」

「謙信・・・・・・」

「二人共、自分の事は後回しにして、どうして私の為に生きようとしたのだ!? どちらも避けられる死だったというのに・・・・・・」

 

 颯馬に意味が無いと分かっていても詰め寄るしかなかった。定満が死んだ以上、謙信が腹を割って全てを話せるのはもはや颯馬しかいないのだから。

 

「謙信・・・・・・誰もが謙信の為に生きているんだ。とりわけあのお二人は謙信に最も長く仕えてきただろう。これが本望だった筈だ。だけど・・・・・・」

 

 そっと颯馬は慰めるように謙信を抱き締める。しかし、自身の目にも水が溜まっていた。

 何人もの味方の死を見てきたが、初めて颯馬は一人の仲間が消えることはこれほどまでに悔しくて悲しいことなのだと知った。

 

「まさか二人共にお互いに後を託していくなんてなぁ」

 

 颯馬は呆れたような口調で悔しさを誤魔化すしかない。

 藤資は戦場で、定満は影の仕事で、お互いにいるべき場所で亡くなった。それは二人が最も望んだ死に様であったのだろう。

 

「定満は永遠にあの池の中で眠る。藤資と違い、遺体も見つける事は出来ないだろう」

 

 颯馬の腕の中で謙信はただ失った者が大き過ぎる悔しさを愛しい人の温もりで癒そうとさらに腕に引き込まれようとする。

 颯馬は何かに気付き、はっと顔を上げた。

 

「定満殿は政景殿を殺した自分が景勝様の前に立つのが苦しかったのかもしれない」

「どういうことだ?」

「景勝様に実の父親を殺した自分がいるなんて思いたくなかったんだろう」

 

 颯馬の推測には確かな説得力がある。謙信はその言葉に顔を怒りでは無く、興奮によって紅潮させた。

 

「・・・・・・は馬鹿だ・・・・・・」

「えっ・・・・・・?」

「だとしたら定満は馬鹿だ! 景勝はそんなやわな娘ではない!」

「・・・・・・」

「藤資が老害だと分かっていたが・・・・・・定満はそれ以上の老害。いや、大馬鹿者だ!」 

「・・・・・・」

「死ぬ必要はなかった! 定満も藤資も・・・・・・!」

 

 喚く謙信を颯馬は落ち着かせるようにさらに強く抱き締め、優しく声をかける。

 

「・・・・・・大丈夫だ」

「なっ・・・・・・」

 

 颯馬とて悲しい。しかし、謙信はそれ以上に悲しい思いをしている。自身が泣いて共に頷き合ったところでそれはただの気休めにしか過ぎない。

 悲しみの淵にいる彼女はきちんと心から慰めなければいけない。

 

「定満殿も藤資殿も確かに死んだ。だけどお二人は天で必ず謙信を見ている」

「・・・・・・」

「それに、俺は絶対に謙信を一人にしない」

「・・・・・・本当に、本当、だな?」

「ああ、だから、今は素直に泣いたらどうだ?今は泣いておくんだ。そうしないと後で後悔するぞ」

「だが・・・・・・」

「今は人として謙信はいてくれ、頼む。な?」

「う、うわぁああ~・・・・・・」 

 

 男性、優しい言葉を投げかけた。一人の女性、ただただ素直に泣き出した。それを見る男性、自身はこらえてその女性を抱き締めた。女性、すがりつくように男性の胸を涙で濡らした。男性、一つの決意を新たに亡き者に誓う。

 

「(定満殿、藤資殿、俺は謙信の心の支えを必ず埋めて見せます)」

 

 

 

「別れという悲しみは突然の強い風と共にやってくる、その風は俺をただ責めるだけ・・・・・・」

 

 龍兵衛は風に身を小さくして縁側に座っていた。この風は主君と筆頭家老の一人を別れに追い込んだ罰なのだろう。

 疲れは無い。何日もの間、寺で定満の死による衝撃を癒やす為にずっと籠もっていたのだから。

 笛を取り出し、悲しい音色でゆっくりと定満とのしばしの別れを惜しむ。

 

「オリオン舞い立ち、スバルはさざめく。か・・・・・・」

 

 演奏が終わると誰にも聞かれないように小さな声で空に向かって呟く。夜も遅い為、誰もいない。

 冬の星空は素晴らしいと歌ったとある詩人の歌だが、その言葉通りの美しい星空が広がっている。

 死んだ人は星となると言われているが、それは本当かは分からない。

 また生きている人が前世に未練を残した考えだろうとかつての龍兵衛は思っていたが、乱世に来てからそれもあながち間違いではないと思うようになった。

 目の前で死んで行く人々を見ていると嫌でもそう感じる。

 

「そして、この冬の空に新たな星が二つ・・・・・・いや、三つ増えた」

 

 政景の死も龍兵衛は真摯に受け止めなくてはいけない。

 彼の愛しい人を直接殺したのは定満だが、そのお膳立てをしたのも止められなかったのも自身であるのだから。間接的には殺したも同然である。

 最初に政景に関する報告を受けた時、彼はそれが嘘であると信じていた。世迷い言にすぎず、離間の計かもしれないと希望を持っていた。

 しかし、現実という無情な世界は政景を、龍兵衛の愛しい人の父親を待たしても重罪人に仕立て上げた。

 

「嬉しくない星に産まれたものだ」

 

 自虐的に笑ってみせるが、運の無い人生を変える事は不可能である。時の流れは止まらない。もはや動かねばならなかったのだから。

 

「景勝様は以前の香代と同じように自分を責めるだろうなぁ」

 

 否、それだけでない。仲間も自分を責めるだろう。分かっていたとしても誰かに責任があるのだから。

 振り返れば平成の世に生を授かり約十八年、この乱世に生きて約八年、一人の人間として異端者として生きてきたその道が見える。

 

「いや、まだだ。まだ振り返る時ではない。前を見なきゃ定満殿に叱られる」

 

 一人決心が付いたように頷くと風が少しだけ収まった。

 その後は、眠る気にもならず龍兵衛は星空を眺めながら朝まで縁側で過ごした。

 

 

 龍兵衛はそのまま朝餉もとらずに軍議の間に入った。

 まだ時間は早い。兼続さえもいない。龍兵衛はただ下を向いて時が流れるのを受け身で待っていた。

 

「なんだ龍兵衛、帰っていたのか?」

 

 予想通り兼続が一番早く入ってきた。

 

「ああ、昨日の夜にな」

 

 その後もぞろぞろと入ってくる将と同じような会話を繰り返して謙信の到来を待った。

 その間龍兵衛は決して表情を変える事はなく、師匠が正式に軍師となったことや伊達の降伏も眉一つ動かさずに受け入れた。

 その姿を颯馬は哀れんで見ている。辛い事を目の当たりにした後も気丈に振る舞い、軍師として生きようとする彼に同情した。その一方であのような事があった後でも普段通りに過ごせるとは大した胆力だと感心していると外から足音が聞こえて来た。

 

「皆揃ったな」

 

 謙信と景勝が入ってきた。景勝は龍兵衛が戻ってきた事に驚きを見せると共に飛び跳ねたい気持ちになりながらも平静を装って謙信の隣に座った。

 

「謙信様、宇佐美殿がまだ来ておりませんが」

 

 兼続は定満と龍兵衛が共に行動していた事を知っている為に龍兵衛が戻って来た以上は定満もいると思い、まだ見えぬ先達を探す。

 

「え、ああ、定満か、定満は・・・・・・」

「亡くなった」

 

 苦しい笑顔を見せて謙信がそれとなくはぐらかそうとしたが、龍兵衛がはっきりと事実を述べた。

 

「龍兵衛・・・・・・」

「遅かれ早かれ定満殿と政景殿の事は必ず明るみになるでしょう。ならば今言っておくべきです」

 

 そう言うと龍兵衛は定満と政景が死んだ事について詳細を話した。しかし、軍師として龍兵衛は生きている。表立っては定満と自分は周りの城に内通者がいないか確認する為に越後の城を回っていたとして、定満はその途上で政景が謙信の援軍に向かう前に祝いとして自身の城に招いて舟遊びに誘い、酔った勢いで極寒の池に飛び込み溺死した。というふうに結論をねじ曲げた。

 

「・・・・・・まさかあの定満殿が」

「なんともやりきれないですなぁ、政景殿もまたらしくない事をしたものです」  

 

 弥太郎も親憲も呆気ない二人の最期に唇を噛む。

 景家は拳を何度も悔しそうに叩き付け、長重や慶次も絶句している。

 

「・・・・・・」

 

 龍兵衛は景勝をちらりと見る。景勝は何も言わないが、心境は複雑だろう。

 

「ともかく、藤資も定満も死んだ事は事実として受け止めなくてはならない。各自、二人の喪に服した後は直ちにその穴を埋めるべく今後はさらに励んでくれ」

「「「御意」」」

「それから龍兵衛、そなたは定満と政景の死を止められる立場であったのに一瞬目を離した事によってこのような事態を招いた罪は重い」

「返す言葉もありません」

「だが、二人が死んだ今、そなたはよりいっそう上杉家の為に励んでもらわないと困る。故にしばらくの謹慎を命じる」

「温情に感謝いたします」

 

 そして、謙信は散会を宣言すると諸将が足取り重く出て行った。それを見ると謙信だけではなく、定満は皆の心の支柱だったという事がよく分かる。

 そして、残ったのは謙信以下軍師と弥太郎・慶次・親憲そして吉江景資の定満の死に疑問を持った者である。そして、謙信は心を鬼にして景勝も残らせた。

 

「龍兵衛、定満について本当の事を言え」

「御意・・・・・・」

 

 昨日の謙信に言った事をそのまま機械のように一言一句違わずに全て言った龍兵衛に集まった視線は同情のみ。非難の目はなかった。

 あの状況下で止められる者は確かに龍兵衛だけであったが、その上をいったのが定満である。

 

「御苦労様でした。龍兵衛殿」

 

 親憲が労いの言葉をかけるとその後も龍兵衛に慰めや労いの言葉を皆がかける。

 

「だいじょーぶ、龍ちんが何も気負う事はないって」

「ああ、私も龍兵衛の立場であったら、同じようになっていたかもしれない」

「小島殿は武芸の心得がありますから、宇佐美殿はもっと別の手段を使ったかもしれませんね」

「軍師として龍兵衛はやったんだから仕方ないって、良くやったと思うよ師匠として」

 

 慶次・弥太郎・兼続・官兵衛が順に言うと共に龍兵衛も少しだけ顔色が良くなってきた。景資も黙って肩を二つ叩いて「ご苦労じゃった」と言ってくれた。龍兵衛が皆に謝辞の礼を言うと謙信も口を開く。

 

「そなたは少し休め、精神的にはまだ参っているだろう。この謹慎をいい機会と思っておけ」

「そして、その仕事を押し付けられた兼続達から謹慎が解けた後に今度は自分に仕事が押し付けられる訳ですか?」

「ちっ、分かっていたのか」

「当たり前だ。以前もそんな事があったからな」

「ならば少し謹慎を長くしてその分の英気を養うか?」

「やめてください。その分仕事がまた増えますから」

 

 笑い合う皆に龍兵衛は少しだけ心が安らいだ。

 

 景勝は龍兵衛があの場でちらちらと自分の様子を窺っていたのは分かっていた。何故なら何度も目があったからである。そして、龍兵衛の眼が何を語っているのかも悟った。

 夕刻になって龍兵衛の部屋を訪れると先程と違って龍兵衛は腑抜けきった顔をして壁にもたれかかっていた。そして、景勝の姿を確認すると力無く姿勢を改めて土下座をして「申し訳ありませんでした」と謝った。

 その頭を景勝はぽかりと叩く。

 

「龍兵衛、悪くない! 悪いのお父さん!」

 

 それでも姿勢を直さずに龍兵衛は景勝に顔を見せない。

 

「自分は罪深き罪人です。政景殿を景勝様の父を・・・・・・」

「言わなくていい! でも、景勝、龍兵衛、上杉の為にやったの分かってる。それにやったの、定満」

「それでもお膳立てを立てたのは自分です」

「景勝、上杉家の人、上田の人、違う!」

「自分は上杉家に必要な人を見殺しにしました」

「定満、龍兵衛、動けなくした!」

「ですが、愛しい人の父君を・・・・・・」

「変わらない! 分かれ! 馬鹿!!」

 

 龍兵衛の自身を遠ざけるような物言いに景勝は憤慨しながらも筋の通った言葉をつなげる。しかし、目の前の愛しい人は下を向いたまま自分を傷付ける。再度先頭に戻った龍兵衛に渾身の叫びで景勝は龍兵衛の心にある後悔をえぐり出そうとした。

 

「分からない? 景勝、龍兵衛、好き。龍兵衛も景勝好きって言ってくれた」

「それでも、肉親との絆とは切っても切れないものである筈。自分は・・・・・・」

 

 ようやく龍兵衛は景勝の言いたいことを悟り、顔をはっと上げた。景勝は決してやわな人ではない。その事は龍兵衛も十分に分かっている。

 人間の感情は複雑怪奇なもの。真人間が人に心を許せばその者には第三者には理解できない感情を抱く。その間には肉親も入るような事すら出来ない。

 龍兵衛はかつての世界でその事を一番に理解していた筈であった。

 彼は名家出身故に父や母に香代との交際は一貫して伏せていた。両親は彼にそれなりの金と力を持った家の娘との交際を勧めていたのだ。

 今の景勝と自身も立場が逆転しただけで同じ。

 景勝は次期上杉家当主。龍兵衛はなんだかんだで一介の軍師、しかもかつては他家で謀反を働いた事になっている。

 確かに景勝も実の父の最期に衝撃を受けただろう。それでも景勝にはまだ龍兵衛という存在が心を支えていた。むしろ父や母よりもその柱は巨大であるに違いない。かつての自身がそうだったように。

 そこで自身の誤りと考えに反すると龍兵衛はようやく気付いた。

 

「はぁ、人と人の愛に入る者はいない。か」

「(こくり)」

 

 今一度下を向いて溜め息一つ。そして、ゆっくりと龍兵衛は顔を上げた。景勝はその顔がやせ細って、目の下のくまがギラギラと鋭い龍兵衛の目をさらに強くしていることに改めて驚いた。

 

「今度、謹慎が解けたら野尻池に行きたいのですが、一緒に来ませんか?」

「いいけど、何する?」

「墓参りですよ」

 

 景勝は父の死んだことよりも笑顔で頷いた。その顔を見ていると龍兵衛はもうこれ以上は景勝に変な衝撃を与える事は止めようと決意した。見えない恐怖に怯えて生きるのは軍師としてだけでよい。

 人としてはもう先を見て生きるとしよう。景勝を心配させない。悲しませない。

 今なら誓えるだろう。

 たとえ己が不義の子でも。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十話改 自由の道連れ

 上杉は苦境の中の苦境の中の苦境、地獄の中の地獄を通り抜ける事が出来た。伊達軍を仲間に迎え入れる事も出来た。しかし、その代償として武勇と知略の大黒柱を二本失う事になった。大き過ぎる代償に上杉はその立て直しを図るべく日々奮闘していた。

 しかし、越中では戦いがまだ終わっていた訳ではない。

 龍兵衛が帰還して三日後に一カ月間の謹慎を命じられたその次の日、いきなり女中が部屋に来た。

 

「謙信様、神保長職と名乗る方が城門でお会いしたいと申しておりますが」

「何、神保殿だと? ああ、やはり駄目だったか・・・・・・」

 

 通すように命じるとすっかり変わり果てたぼろぼろな姿をして長職が謙信の前に現れた。

 

「久しいですな、謙信様、私が来た以上は分かっておいででしょう?」

「ええ、済まなかった。救援も出せずに」

「いやいや、謙信様の状況を考えるとあれで救援を出してくれと言われて応えるのは無理というもの。しかも私ではあの窮地を抜け出せてはいないでしょう」

 

 衣服は汚れ、顔には整っていない髭が伸びていて生やしていた顎髭も目立つという事で無造作に切ってある。

 最後まで戦おうと粘った長職は一向一揆勢の苛烈な攻めを一身に受ける気持ちのまま敗れ去った。

 

「それよりもよくぞあの窮地から生きて帰ってこられましたな」

「職鎮が私の身代わりになってくれました。もし彼がいなければ私は富山城と運命を共にしたでしょう」

 

 聞けば職鎮が最後の突撃をかけている間に長職は密かに道なき道を通り、海路まで使ってほうほうの体で魚津まで逃げ込み、朝信の下に逃げ込んだという。

 

「その後の職鎮の行方は掴めておりません。おそらくは自害したか、処刑されたでしょう」

 

 最後まで忠義を通した宿将に長職は申し訳ない気持ちでその思いを語る。

 謙信も黙って聞きながらその気持ちを汲み取り、自ら話し出すことはせずに後悔の呟きを聞き続ける。

 謙信とて定満と藤資を失った。颯馬には我が儘に聞いてもらい、愚痴を長々と話したのだ。彼もその時の自身と同じ、辛さを誰かに知ってもらいたいと自分勝手な思いを抱いているに違いない。

 自身と同じ思いを持つものはどこにでもいると思っていると長職は話し続けた口を休めるように話を区切り、一息置くと頭を下げて再び口を開く。

 

「そこで、私はもうどこにも行く宛がない。謙信様の家臣の列の末端に並べて頂ければ私はもう何も申しません」

「分かった。神保殿・・・・・・いや、長職、これからよろしく頼む」

 

 四面楚歌の籠城を何ヶ月も大軍から守った将である。嫌と言うのは宿敵ぐらいだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これ全部~?」

 

 官兵衛の目の前には山のように置かれた資料の山。本格的に仕事をすることになって入ってみれば、上洛中やその帰りに起きた戦や定満と藤資の喪に服していた間に溜まっていたものがそれぞれの目の前にある。

 顔の半分が向かいにいる兼続から見えないのは決して官兵衛が小さいからではない。

 

「仕方ないだろ? 誰かの弟子が謹慎になっているんだから」

「表向きじゃん!」

 

 颯馬の嫌味にはっきりと官兵衛は言ってはいけないことを言う。龍兵衛は別に出て来ても謙信からも何も言われない。しかし、謹慎扱いになっているので普通に外に出るのもおかしいのだ。

 

「まったく、龍兵衛も随分と騒がしい師匠を持ったものだ」

「随分と苦労したみたいだ。主に黒田殿の暴走を止める事とかにな」

「どういう意味?」

「それは直接龍兵衛に聞け」

 

 颯馬と兼続の半分からかった目に少しじとっとした目をして反論しようとしたが、龍兵衛に詰め寄る体力を残す為にここは官兵衛は踏みとどまる。

 

「だけど確かに出てきても別に良いんだけどな、龍兵衛」

 

 その颯馬の言葉が始まりだった。

 

「ただあいつはさぼりたいだけだろう?」

「龍兵衛って意外と真面目そうだけど逃げる時は逃げるからねぇ~」

「河田殿も随分と駄目なところがあるんだな」

 

 何故か景綱まで加わってその後もしばらくここにいない龍兵衛の悪口が続いた。

 定満がいないせいかそれはかなり盛り上がって気付けば太陽が一番高いところまで来ていた為、悲鳴を上げても戻って来ない時間を取り戻す術も無く、その日は半徹になってしまった。

 その理不尽な八つ当たりが龍兵衛に返ってくるのは謹慎が解けた瞬間の話である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 謹慎中だとはいえ城内は普段通りに行き来してよいということになっている。とはいえ寒さに弱い龍兵衛は外に出るような事はあまりせずに部屋の中で色々と本を書いていた。

 しかし、龍兵衛も外に出なければ身体に悪いのは分かっているので雪の残る中庭に出てみることも欠かさない。そこで彼が目にしたのは雪をかき分けて進む謎の跡だった。

 

「(あっ・・・・・・)」

 

 忘れていたというわけではないが、最近の目まぐるしい事態に行ったり来たりしていた為に少し目が行っていなかった。

 呼ぶと出て来たのは楽しそうにしていた子猫。ではなく普通の猫よりは小さいが、子猫と呼ぶのは失礼な程に大きくなった猫が姿を表した。

 

「(あの童謡は絶対嘘だな・・・・・・)」

 

 それほど龍兵衛の猫は雪の中を元気に走っている。そして、龍兵衛の胸に直接飛び込んできた。

 

「元気にしてたか?」

 

 がっちり受け止めてそう言うと猫はそれを肯定するように一つ鳴いた。だが、冬だというのに身体が冷えているというわけではないことに気になった。

 そこで龍兵衛はひとまず猫を上に上げておいて龍兵衛がいない間に世話を頼んでいた女中の所に向かった。それに猫が付いて来たのは言うまでもない。

 

「龍兵衛様がいない間、とりわけ雪が振っていた時にはその子を上に上げて部屋で温めてあげたんです」

 

 聞くと随分と猫は龍兵衛がいない間、勝手に上がっては龍兵衛の部屋の前をうろうろうろうろしていたという。

 

「今は龍兵衛様外に出ることは無いんですからたまには面倒を見てあげたらどうです?」

「いや、一応謹慎中だからねぇ」

 

 頭を優しく撫でると猫はごろごろと喉を鳴らす。

 逆にこれはいい機会かもしれないと気ままな猫を見ていると思ってしまう。

 色々と面倒な事は別の軍師に押し付けている今だからこそ愛猫とすごせるというものだ。たまには猫を見習ってみるのも良い。

 龍兵衛は猫を抱き上げると誰にも見つからないように懐に猫を隠して部屋に戻る。

 どこにでもある殺風景な部屋だが、やはり家が一番落ち着く。

 性質も部屋に居着くという猫に似てきたと思うと良いのか悪いのか分からなくなる。しかし、今だけはそれで良いと片付けられる余裕がある。 

 確かに龍兵衛は定満と政景の事については参っていた。そして、その後悔の念は忘れようとも無理なものである。

 そもそも龍兵衛からしても定満は随分と心の崩壊から助けてもらったいわば相談員のような存在である。

 政景にしても謙信の傘下に入ったのが同時期であった為に家格が違うとはいえ、かなり私的には面倒を見てもらっていた。

 時に官兵衛を上杉は迎え入れた定満はその代わりという訳であるのだろうか。

 しかし、官兵衛は今は名がさほど売れていない。半兵衛は一応は羽柴秀吉の軍師としてかなり織田でも重き場所に座っているそうだ。

 龍兵衛もそうだが、官兵衛も名があるとすれば謀反人の汚名であるが、逆に幸いするかもしれない。それは官兵衛の能力を考えるとすぐに名高い軍師となるだろうが、しばらくは利用可能である。

 そう考えながら猫を撫でつつ、半兵衛の無事と道勝の悔しい思いをしている様子を内心くつくつと笑いながら想像していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 岐阜城の一室では旧斎藤家の面々が密かに集まって越後の間者が持ち帰って来た報告に暗い部屋がますます暗くなるような雰囲気になっていた。

 

「これはどういうことだ!?」

「さぁ~半兵衛さんに聞かれましても~たぶん龍兵衛ちゃんが半兵衛さんよりも先に誘ったのではないでしょうか~?」

「ちっ! 忌々しいったらありゃしない。おかげで信長や重臣達に随分と白い目を向けられたよ!」

 

 道勝はヒステリックに喚いて思い通りに行かなかったことへの八つ当たりに半兵衛に散々嫌味を言って出て行く。

 半兵衛と美濃三人衆はニヤニヤと笑い合っていたが、彼女が気付く筈もない。

 ずんずんと歩いていく道勝の頭にはニヤニヤと見下しながら笑っている龍兵衛の顔が浮かんでいた。

 

「その顔、私が踏みつけてやる!」

 

 そう言いながら道勝は廊下の奥に消えて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 謹慎中の身の故に知らない事も色々と知れるのも龍兵衛は楽しみになっていた。

 周りからするとその考えは不謹慎だが、本人はそれがどうしたと気が向いては外に出て城内をぶらぶらしている。

 表向きは屋敷にすら基本的に帰る事が出来ない城内監禁の身である為に余計に色々と知る事が出来るのだ。 

 

「うっきー!!」

「ぐるるる!」

「こら、三! 何やってるの!?」

「猿も、めっ!」

「犬猿の仲と言いますけど、どうしても折りが合わないですね・・・・・・」

「(こくこく)」

「おかげでこの子達は景勝様も嫌いますし」

「(しょぼーん)」

 

 中庭で沈み合う景勝と資正の犬猿事情はかなりの問題となっている。戦の時もそうで、どうも景勝と資正は場所を離さないと上手くいかない。

 

「(臭いの問題かな?)」

 

 また別の日は道場にて。

 

「さすがに景資殿は随分と腕がたちますね。やはり、上杉軍にその人ありと言われた方ですね」

「いや、妾などまだまだじゃ。しかし、お主もなかなか腕がたつのぉ。どれ一つ手合わせと参ろうか?」

 

 道場では景資と綱元という猛者がお互いの武を素振りで見極め、立ち合い、見ている側も汗を握るような試合をする。それ以外にも歴史上の様々な猛将が立ち合っているのを見ると龍兵衛は改めてとんでもない方達がいるのを実感した。

 

「(味方になってくれて良かった・・・・・・)」

 

 また別の日は廊下にて。

 

「ふむ・・・・・・なるほど・・・・・・」

「さっきから何なのよぉ? あたしの後ろにずっと付いて来てぇ」

「いや、前田殿は良い尻をしているなと思って」

「ぶっ! な、何かと思えばいきなり・・・・・・ひゃあ!」

「ふむふむ、なかなか、やはり、な・・・・・・」

「だ、誰かぁ、助けて~業っちが変態になってる~」

「む、私は別に良い尻を揉んでいるだけだ。変態とは心外だな」

「それが変態なのよ~」

「それにこのような格好している前田殿の方がけしからんな」

「って! あぁん、言ってるそばから強く揉まないでぇ~」

「(見なかったことにしよ・・・・・・それから慶次、身体よじりすぎて胸が出そうになってるの気付け)」

 

 

 

 

 

 

 夜になると猫は龍兵衛の部屋でぐっすりと眠っている。しかし、龍兵衛はここのところは夜に眠れない日々が続いている。どうも不眠症になってしまったらしい。

 気晴らしというわけではないが、外に出てみる。雪は降っていないものの寒さは変わらない。

 夜風は身体に毒と言うが、龍兵衛は気にした事がない。それが身体が冷えて風邪をよく引く原因なのだが、気にせずに城内をあてもなく歩く。端から見れば完全な不審者だ。

 

「ん?」

 

 しばらく歩いているとどこかからは知らぬが、笛の音が聞こえてきた気がした。縁側の方に足を向けるとその音源は景綱の笛の音色だと分かった。

 その姿は星空輝く美しい夜空にとても合っていた。幻想的な音色は夜の星にまで溶け込むかのように心にじーんと響く。

 目を瞑り、しばらく龍兵衛はそこで立ってその音色と頭の中でのその風景を思い描いていた。

 

「そこにいるのは誰だ?」

 

 演奏が終わったと思うと景綱の鋭い殺気が若干籠もった声が聞こえる。

 龍兵衛は景綱のからは死角になる所に立ってその音色だけで風景を思い描いていた為、気付かれないようにという配慮を忘れていた。

 

「見事な音色に惚けていた。罪人ですよ」

 

 諦めて龍兵衛が顔を出すと景綱は声に振り返り、彼の顔を認めて意外そうな顔をした。

 

「河田殿、そこに立っていると不審者に見られても仕方ないと思わないのか?」

「分かってはいたんですけど、このようなものは目よりも耳で聞くのが一番ですからね。風景があったとしても、その音が引き立てる」

「わかっているな。河田殿も笛をやるのか?」

「ええ、ですが、自分は片倉殿とは違いますね。片倉殿は儚く悲しい音色で人の心を惹き付ける。しかし、自分はどちらかというと和やかさや喜怒哀楽の哀を感じさせるのが主流です。まぁ、片倉殿のようなものも吹けますが」

「なるほど、私もそのようなものも吹けるが、確かに私はこちらの方が合っているからな」

 

 笛は人の心を表すと言うが、景綱は龍兵衛もかなりの耳と芸術感を持っていると悟った。素人では一度聞いただけでそのような事も分かるというのはなかなか難しい。

 龍兵衛の大柄な体格を考えると似つかない趣味だが、上杉の面々を見ているとそのような感性も無くなったので景綱はさして気にならなかった。

 上杉に捕らえられて後、不自由な生活を強いられてきたが、決して上杉に悪い印象は持っていなかった。

 普通に監禁状態であったが、部屋を用意されて城内を歩いても良いというのには彼女自身かなり驚かされた。

 伊達を舐めていると見られてもおかしくないが、逆に余裕がある故にこのような事をする事が出来るとも思慮深い景綱には取れた為、逆に彼女は考えさせられた。

 周りに変わった人々がいてかれらにたまに振り回されることもあったが、この一風変わった家の生活も苦ではないと感じるようになっていた頃にあのような一大事が起きた。

 定満が訪ねて来たのは実及に政景の事を密かに報告する為に龍兵衛と共に来た時だった。

 その時、彼女が景綱に頼んだのは、新発田方面打開の為の策。

 最初は唖然とした。そのような事を敵の軍師である景綱に聞いてくるとはこの前にも先にも彼女だけだろう。しかし、定満は変わらないふにゃりとした笑みを浮かべていた。

 

『輝宗さんは上杉の味方なの。だから景綱さんも味方、なの』

 

 今、思い返せば何とも意味の分からない理由だが、それが現実となったのだから驚かされる。そして、景綱は一定の情報を聞いて定満に自身が考えた策を言った。

 定満はにっこりと笑いながら頭を撫で、その場を後にした。

 地獄が終わった後、景綱は彼女が考えた策を定満がそのまま長重達に書状で送り、かれらはその策通りに動いて勝利を収めた事を知った。

 

「(無茶苦茶過ぎる・・・・・・)」

 

 普通なら少しでも疑っても良いのに定満はそのまんまで策を遂行した。そう考えた時、景綱には戦慄の震えが走った。

 もしかしたら定満は伊達がこう動くのも予想の内だったのではないかという考えが景綱には芽生えた。考え過ぎと吐き捨てることも出来るが、策を言っている時の自身も別に二心など抱いてすらいなかった。

 定満は全てを見ていたと思うと戦慄が走るのも無理はなかった。

 

「宇佐美殿は恐ろしいな・・・・・・」

「どうしたんです? 藪から棒に?」

 

 何でもないと首を振ると景綱は龍兵衛の笛が如何なものか知りたいと言うと最初こそは渋っていたが、「道理に合わないだろう?」と景綱に悪戯っぽく笑われては下がる訳には行かない。龍兵衛は渋々笛を取りに戻って行った。

 星と月の輝きで闇は浅い。

 

「如何でした?」

「うーむ、思っていたのよりもちょっと違うな」

「どういう意味です?」

「ああ、変に勘ぐるな、下手という訳ではない。河田殿の音色に少しばかり悲しみが入っていたからな」

 

 なるほどと苦笑いをして龍兵衛は「察してください」と景綱に言うと景綱もさすがに悪い事を言ってしまったと詫びを入れた。

 人の感情を笛は語る。何であれ、龍兵衛はいまだに定満の衝撃から立ち直ってはいないからこその今の音色である。

 その後は話題をそれぞれの笛に対する考えや奏法などを話しあった。

 しばらくして景綱が何かを思い出して龍兵衛に聞く。

 

「そうだ。河田殿」

「なんでしょうか?」

「夕刻に黒田殿と何を話していたのだ?」

「ああ、あれですか。まぁ、ちょっとした世間話ですよ」

「そうか? それにしてはかなり神妙な顔つきだったぞ」

「はは、気のせいでしょう? では自分はこれで・・・・・・」

 

 鋭さには恐ろしいとおもいな龍兵衛は逃げるように立ち去って行った。

 夜ということを忘れて龍兵衛は足音を立てて歩く。思考には寝ているであろう他者への配慮ではなく、夕刻に遡っていた。

 官兵衛が資料を読みながら歩いていると前から龍兵衛が歩いて来た。しかし、官兵衛はそれに気付かずに資料に集中している。それでも龍兵衛は気になる事を言わずにはいられなかった。

 

「重さんからの書状・・・・・・」

 

 官兵衛がぴくりと動きを止める。振り返ると龍兵衛は官兵衛を真っ直ぐに見ている。

 

「やはりあれは捨て切れなかっただけですね? 自分には分かりますよ。あのような書状、普段ならすぐに捨てますよね?」

 

 呆れたように溜め息を吐く龍兵衛。

 もしかしたらと思っていたが、ばれていた事に別に不快感はなかった。むしろさすがだなと思い、察しの良さに嬉しく感じる。

 上杉に加わったのは自身だけのことを考えると良かったが、友の身体の事を考えると自分はやはり織田に行くべきではないのかと未だに思ってしまう。

 半兵衛に感謝すれども官兵衛には迷いがあった。

 

「自分は止めません。ですが、謙信様達は止めますよ?」

 

 龍兵衛は最近になって自然と出るようになった威圧的な視線を浴びせる。謙信の命令とあらば官兵衛を逃がさない。

 いざとなれば殺すことも厭わないと目で語る。無言の威圧をものともせず、官兵衛はその視線を鼻で笑ってあしらう。

 

「まったくあんたには適わないね」

「いえ、師匠には生涯追い付く事はありません。時が来たら考えましょう。重さん達を助ける方法を」

 

 私情に走った事を龍兵衛は咎めるような事はしない。彼もまたどのようなことがあっても上杉の面々同様に斎藤家の面々を助けたい気持ちを抱き続けている。

 そのまま二人は互いに笑みを浮かべて背を向けて歩き出した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十一話改 旅の途中

「さ~てと・・・・・・」

「やるか・・・・・・」 

 

 ゆっくりと肩を回し、こきこきと鳴らしながら颯馬と官兵衛はずんずんと廊下を歩く。そして、とある部屋で立ち止まると官兵衛が颯馬の前に出る。

 

「おらー! 龍兵衛、起きろー!」

 

 官兵衛がすぱーんと大きな音を立てて襖を開けて龍兵衛が入っているであろう布団を走る勢いそのままに蹴り飛ばす。

 颯馬は官兵衛の乱暴過ぎるやり方に一瞬唖然としたが、さらに唖然とする事が起きた。

 そもそも颯馬も龍兵衛が起きたところをすかさず縛り上げて仕事部屋へと連行しようとしていた時点であまり官兵衛とやろうとしたことは変わりない。

 

「嘘! いない!?」

 

 龍兵衛の布団の中はもぬけの殻だった。もちろん二人は彼がどこに行ったのか分からない。

 龍兵衛が早起きである事は承知しているが、今日はまだ姿を見ていないと門番からの報告が既に上がっている以上、外に行った訳が無い。

 二人が首を傾げていると官兵衛は机の上にある書状を見つけた。そして、文面に目を通すと顔色が徐々に赤くなって行く。

 

「あんにゃろー!!」

 

 何故か怒り狂って颯馬にその書状を投げつけた。もちろん広げっぱなしで投げたのでまったく飛んでいないし、勢いも無かったのだが、いきなりそれは良くない。

 官兵衛に呆れながらも颯馬がそれを拾い上げて読んでみると龍兵衛が明らかに誰かが来ることを想定して認められている書状だった。

 曰わく、しばらく坂戸と琵琶島に視察しに行くことになった景勝様に付いて行く事になり、その分の仕事はちゃんと終わらしているから後はよろしく頼むという内容の龍兵衛の筆跡で書かれたものがあった。

 

「やられたな・・・・・・」

 

 今日は龍兵衛の謹慎が解けて三日目。

 昨日、一昨日と龍兵衛は何かと理由を付けて軍師四人(官兵衛・颯馬・兼続・景綱)に仕事を押し付けられるという地獄を味わった。

 その影響で今日は早起きの彼でもまだ布団に潜っていると思った二人が乗り込んだ訳だ。しかし、結果はご覧の通りの意趣返し。

 龍兵衛は謹慎中は仕事場に顔を出す事が無かったのでどうして仕事を終わらせる事が出来たのかが疑問に残った。

 親切なことに最後にしっかりと答えを書いてくれていた。

 

『たまには自分も泥棒をしますよ』

「夜に密かに忍び込んだな」

「おのれ・・・・・・師匠を出し抜くとは~」

「お前は龍兵衛に舐められすぎだろ」

 

 昔から変わっていない現状をはっきりと言われて凹みながら官兵衛は颯馬に慰められながらしおしおと仕事場に戻って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「多分、今頃孝さんは地団駄踏んでいる頃かな」

 

 目に浮かぶ師匠の困惑と怒りの混ざった表情に肩を震わせて笑いながら龍兵衛は景勝と轡を並べている。

 謙信から一応、正式な命令は受けている為、景勝の護衛という形での同行である。元々、彼女との約束もあったのでこの命令は渡りに船というやつだった。

 

「ま、この辺に賊がいる訳ないから別にいいか・・・・・・」

 

 政景が死後に坂戸では主君が行方不明になった為、色々と騒動があったが、兼続達が鎮圧しておいたので余計な心配がいらないで済む。

 そうでなければ龍兵衛も自身の身体と実力に相談して断るところである。

 しかし、帰ればまた他の軍師達から色々と仕事を押し付けられるなど面倒くさいことになることは目に見えている為、そのことを考えると龍兵衛は憂鬱な気分になっている。

 

「~♪」

 

 一方の景勝がご機嫌なのが一番の原因である。

 龍兵衛も気持ちは分からなくないが、公の仕事である以上は公私混同は避けてほしい彼にとってはその浮ついた態度には眉をひそめてしまう。

 

「景勝、顔がにやけてますよ」

 

 聞こえるように言って戒めたつもりが、景勝は気にせずに更に笑みを深めて龍兵衛を見る。

 

「(可愛い・・・・・・だけど、いくら何でも気を抜き過ぎだ。ここは一つ・・・・・・)あっ、人がいる」

「・・・・・・!」

 

 ありきたりすぎるが、それ故に効果はしっかりしていて景勝はすぐに顔付きをきりっとさせた。しかし、すぐに嘘に気付いて先程の笑顔から一変して膨れっ面になる。

 

「・・・・・・誰もいない。龍兵衛、景勝騙した」

「少しは気を引き締めて下さい。次は本当に人前で、今よりも大きな声で言いますよ」

 

 警告を鳴らすと景勝は不満を露わにするようにぷいっとそっぽを向いてしまった。

 しかし、それさえも可愛いと思ってしまう龍兵衛の心境は複雑なものである。

 景勝は龍兵衛とは彼が謹慎期間の間しばらく、龍兵衛が自らの意思で全く顔を合わせる事がなかったので一緒にいるのは久々の事だ。故に、今は一緒に居れれば良いと思っている。

 その為、龍兵衛が眉間に皺を寄せて何かをぐっと堪えているのに我慢しているのに気付かなかった。

 しばらく会話も無く進んでいくと景勝は龍兵衛の背中に背負っている袋の異変に気付いた。

 

「龍兵衛、背負っている袋が動いてる」

「えっ・・・・・・ああ、これですか? これはですね・・・・・・」

 

 そう言いながらごそごそと背負っていた袋を開ける。

 

「にゃ!」

「連れてきました」

「・・・・・・」

 

 龍兵衛が飼っている三毛猫が出て来た。たまには一緒に行くのも悪くないと思った彼の考えである。

 唖然とする景勝をよそに猫は景勝の猿と何か会話をしている。

 

「真面目に行こうって言った。龍兵衛」

「これぐらいは別に許される範囲だと思うんですが・・・・・・」

 

 人目に晒さない程度は龍兵衛からすると大丈夫な一線なのだ。じとっとした目を気にせずに龍兵衛は猫をもふりながら馬を進ませる。

 景勝はその間ずっとご機嫌斜めで龍兵衛が声を掛けても無視を続けていた。

 

 

 

 龍兵衛は景勝を宥めながら馬を進ませる事しばらく、海沿いを北に日本海を見ながら琵琶島城に向かう途中の宿に入った。

 予定通りよりも早すぎて逆に困るぐらいである。当初の予定は夕刻に入るつもりだったが、一刻も早く着いてしまい、日が傾く前に着いてしまった。

 正午は過ぎていて外は辺り一帯農村部なので動く気にもならない。のんびりと宿で過ごす事にした二人だが、龍兵衛は自身の取った部屋に入った途端にぐらっと倒れてしまった。

 身体がなまじ大きい彼が倒れたので隣の部屋にまでその音が聞こえる。

 大きな音に隣の部屋にいた景勝は何事かと部屋に入ると龍兵衛はうつ伏せになって倒れていた。

 慌てて景勝が身体を起こそうとする。しかし、龍兵衛の口からは規則正しい寝息が聞こえてきた。

 

「むぅ~」

 

 景勝からすると何度も自身を驚かせている龍兵衛がゆっくりしているのを見ると恨めしく思ってしまう。

 

「くぁあああ・・・・・・」

 

 だが、景勝の心情などお構いなしに猫が龍兵衛を見て眠くなったのか彼の背中に乗って眠り始めた。

 徐々にそれを見ていると景勝も欠伸を一つしてこてんと横になりたくなってしまう。

 

「すぅ・・・・・・」

 

 龍兵衛の腰を枕に猿をお腹に乗せて、共に眠り始めてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「何で龍兵衛を景勝様の護衛に付けたんですか!!?」」

「いきなり来たかと思えば・・・・・・」

 

 一方、春日山では颯馬と兼続が謙信に詰め寄っていた。しかし、謙信はどこ吹く風と平然と休み中にいつも飲んでいる茶を口に含む。

 

「謹慎が解けたんだ。それにあれもしばらく外に出てなかったからいい機会だと思ったのだがな」

「そういう意味ではありません! やっと仕事をさせられるようになったのにどうしてまた外に出したんですか!?」

「颯馬まで言うか。別に良いだろう。龍兵衛は仕事を終わらせたんだし、何の問題もない」

「「まぁ、確かにそうですが・・・・・・」」

 

 言葉では同時にそう言うが、二人は承服しかねるように口を尖らせる。

 不満げな二人に対して謙信はひらひらと手を振って大丈夫だと示す。

 

「もう納得しただろう? 早く戻って、自分達の仕事を終わらせてこい」

 

 謙信が話は終わりだと資料に目を通し始めた為、不承不承従うしか二人には術が無かった。

 

 

 

 

 

 

 夕刻の西日の眩しさによって景勝が先に目を開いた。

 いやに固い枕だと思っていたら龍兵衛が寝息を立てている。それに見て景勝は寝る前の事を全て思い出した。横になった時、龍兵衛の背中が丁度よく空いていた為に拝借したのだ。

 ゆっくりと景勝のお腹の上で寝ている猿を起こさないように立ち上がるとすすっと両膝で擦るように移動して龍兵衛の顔を覗き込む。彼はまだ寝息を立てて眠っていた。

 射し込む夕日が彼の顔を赤く照らし、その寝顔をはっきりと映す。

 あの日から一ヶ月、大分痩けていた頬は元に戻り、血色が良くなっている。謹慎の間かなり身体を鍛えていたらしく、体つきは以前よりも大きくなったようにも感じた。

 規則正しく寝息はかつてのように夢に怯えるような様子も無い。

 しかし、目の下のくまが寝不足である事を如実に語っていた。疲れているのだろう。

 定満の死後、軍師達は他家の景綱も組み込んでその穴を埋めようとしている。復帰して間もないというのにこれでは後々の事も不安になってくる。

 少し体勢を変えるように龍兵衛が身体をよじると上に乗って寝ていた猫が起きた。降りる際に龍兵衛の背中を通ったが、それでも彼は起きる気配が無い。

 しばらくはこのままにしておこう。

 そう思った景勝は未だに規則正しい寝息を立てている彼の頬に唇を付けると気の済むまで彼の頭を撫でていた。

 見ているのは眩しい夕日だけ。

 

 

 

 

 

 夜になって夕餉の刻になると腹時計がなったのか龍兵衛は起き上がった。寝たまま伸びをするとその首ったけに猫が寄り添って来た。

 それをゆっくりと撫でるとゴロゴロと喉を鳴らして気持ちよさそうにしている。

 うとうとする目を開く為に外に出て水で顔を洗って戻っている時だった。

 

「あっ、起きた」

「ええ・・・・・・って、何で寝ていたこと知っているんです?」

「隣から、ずーんって音がした」

「ありゃあ・・・・・・それは失礼しました」

 

 申し訳なさそうに頬を掻いていると龍兵衛はふと何か違和感を抱いた。

 

「何か少しべたつくな・・・・・・何で景勝様、顔を真っ赤にしているんです?」

「な・・・・・・何でも・・・・・・無い」

 

 はわはわとしていて、ツッコミどころ満載だが、大体のことは察せたので聞かないでおくことにした。

 

「(道理で起きた時、妙に背中全体が圧迫感の跡があると思った)」 

 

 龍兵衛はそのまま頬を吹くことはせずに景勝と夕餉を取った。

 その後は特に何も用事が無い為に二人は雑談というようなものを始める。

 しかし、景勝があまり喋りを得意とするような人物ではない為にかなり途切れ途切れとなってしまったが、どうにか進めることが出来るのは龍兵衛が喋りを続けているからである。

 何かがきっかけとならなければ話は続けることは出来ない。だが、龍兵衛は話を変えてでも聞きたい事があった。

 

「そうだ、景勝様一つ聞いてもよろしいですか?」

「・・・・・・?」

「あのーそのー今まで気になっていたんですけど、景勝様はどうして自分が良いと思ったんです?」

 

 今までを思い返してみると明確なきっかけがなかった。以前景勝が告白した時に言ったのは嘘である事は龍兵衛は当に分かりきっていたので他に理由がある筈だが、景勝は教えてくれないし、龍兵衛も聞く機会が無かった。

 

「え、ええ、えとー・・・は、はわ、景、景勝は・・・・・・」

 

 完全に赤く染まった景勝を龍兵衛はそれほど気にせずに真顔でじっと見る。それがさらに景勝を恥ずかしくさせてしまった。

 

「ぷしゅー・・・・・・ぱたり」

「あぁぁああああ!! 景勝様ぁぁああああー!?」

 

 もう少し機を見た方が良かった。そう心底思いながら龍兵衛は布団を敷いて倒れても真っ赤のままである景勝を寝かせる。

 一息付くと龍兵衛はふらりと外に出る。変わらない星空を見ていると何故だか原因不明の空しさに襲われた。

 

 

 

 

 

 

 

 酒は寒い身体を温める。外に出るのは憚られる冬の夜風が吹き荒ぶ寒さ故、謙信と颯馬は謙信の部屋で酒を飲み交わしていた。

 

「しかし、何でまた景勝様を視察に向かわせたんだ?」

 

 颯馬は今日一日、何故と思っていたことをずっと考えていたが、答えが出て来なかった。しかし、謙信は逆に何で分からなかったのかと少し驚いている。

 

「真の親に会わせてやるのも義理の親としての役目だ」

「なるほど・・・・・・」

 

 真面目な話となり、颯馬もいつもの敬語になってくる。予め謙信は決めていたのだ。

 表向き気丈に振る舞っていたが、寂しさがあった景勝の心を読んでいた為にほとぼりが冷めるのを待って彼女を坂戸に向かわせた。

 

「景勝様も政景様には随分と驚かれたでしょう」

 

 少なくとも墓参りぐらいはさせておいた方が良い。密かに龍兵衛が作ったという簡易なものであったとしてもだ。

 

「景勝様は随分と気丈に振る舞われてきました。しかし、血とは断つ事が出来ないということですね。たとえ世間では謀反人でも」

「哀れなものだ。まさか政景があんな事をするとは誰も夢にも思っていなかったんだからな」

「ええ、それではもう一つ聞いてもよろしいですか?」

「なんだ?」

「何故に龍兵衛を護衛として?」

「別に、ただあれにはもう少し政景に何が起きたのか調べてもらいたいと思っただけだ」

 

 誰もが驚き、誰もが疑問に思った。その背後には何があったのか。謙信はどうしても調べてもらいたかった。

 

「人選は間違ってないだろ」

 

 官兵衛と景綱は上杉に入ったばかり、兼続はこういうのには向いていない。颯馬は謙信が個人的に離したくない。消去法ではあるが、一番向いているのは実際は彼であると謙信は思っていた。

 

「大丈夫なんでしょうか?」

 

 颯馬には一抹の不安があった。龍兵衛は浮いた噂は一回も無いとはいえ、一応は男と女である。その事を言うと謙信は目の色をがらりと変え、表情は般若の如く険しくなった。

 

「この私が、そのような獣を景勝に近付けるとでも!?」

「じょ、冗談だ。冗談」

 

 この時、颯馬は自分よりも背丈は低い筈の謙信がとんでもなく大きく見え『ごごご・・・・・・』という効果音が聞こえてきそうな覇気にすっかり素に戻ってしまった。それを見て元に戻った謙信は一息吐いて颯馬に改めて居直る。 

 

「龍兵衛はそんな奴ではないと颯馬も分かっているだろう?」

「そうだな・・・・・・(多分)」

 

 一応は肯定しながらも内心、龍兵衛の色々を知っている為に不安な颯馬と違い謙信は笑いながら酒を飲み干す。

 

「まぁ、仮にも景勝にそんな不埒な事をしようと企んでいる輩は・・・・・・私自ら血祭りに上げてやるからな!」

「だから俺に迫ってもしょうがないだろ」

 

 ぐぐっと颯馬に戦の際に敵に見せるような恐ろしい威圧感を持って顔を近付ける。

 どれだけ景勝を大切に思っているのかは十分に分かっているが、娘馬鹿もほどほどにして欲しいと思いながら颯馬も酒に口を付け始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝。景勝は彼女の爽やかな目覚めと真逆な明らかに寝不足だと顔に書いている龍兵衛のゆらゆらとした歩き方に目を疑って後ろから声を掛ける。

 

「龍兵衛、顔色悪い。どうした?」

「なーんか、昨日は夢見が悪くて・・・・・・(背筋が凍って一回起きたしな・・・・・・)」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十二話改 美しき影たち

 坂戸に着いた景勝と龍兵衛の二人は城下の様子を一つも見落としが無いように慎重に見回っている。

 政景の死後、一応は代役として本庄実及が入っている。彼女の卓越した手腕は政景の死後、大騒ぎとなった坂戸城の状態を完全に元に戻したと言って良い。

 その証拠として民は皆、不安げな表情を見せずに笑みを浮かべながら仕事をこなしている。

 

「先に見た琵琶島城下の状態も大分収まっていましたので、まぁ、良しとしましょうか?」

「(こくこく)」

 

 琵琶島も坂戸も上杉にとって重要な拠点である。

 交通の要地である二つの地域はお互いの近くを流れる川を利用した物質配給の拠点で、この二つの土地の混乱は越後が土台のぐらついた店のようになったものである為、この視察は手を抜く事は許されないと二人は重々承知していた。

 しかし、考えていたような不安はなかったので、一つ安堵の息を吐くと二人は城下で食事を取る事にした。

 

「疲れてませんか?」

「ん、大丈夫」

 

 かなり早め早めの視察予定だったので体力が自身よりも無い景勝が疲れていてもおかしくないと龍兵衛は定期的に声を掛けている。しかし、彼女は胸を張って元気そうにしている。

 一応はそれなりに変装を二人共している為に誰にも正体がばれるということは絶対にないが、それでも可愛らしい景勝に城下の男は目が行っているが、その隣に恐ろしい威圧感を放つ龍兵衛がいる為に皆は一、二秒で目をあっさり逸らす。

 一方の龍兵衛自身は護衛の為に一応は周りを気にしているが、普段外では崩さないその鋭い表情と龍兵衛が当時の人々の平均身長よりもかなり大きいというのも原因になって無自覚ながら彼をよく知らない坂戸の民から怖がられているのに気付かれていない。

 

「寒くないですか?」

「平気」

 

 答えるように頷いている龍兵衛は他のことでそわそわと落ち着かない。

 

「お腹、減った?」

「分かりますか?」

「こくこく」

 

 少しだけ驚いたように口を開く。景勝からすると分かりやすかったが、心情を見事に当てられた事に龍兵衛は内心かなり驚きながら足は近くにあった飯屋に向かっていた。

 食事を取った後、再び二人は城下町に足を並べて歩き、夕刻まで二人は城下を見ていた。

 角に入って変装を元に戻すと二人は坂戸城に入り、実及に謙信から彼女への激励の言葉を送ってその日は坂戸城に泊まった。

 景勝はすぐに部屋に入ってぐっすりだが、龍兵衛にはやるべき事があった。

 

「(さすがに政景殿は証拠を残すような物は持っていない、か・・・・・・)」

 

 深夜になるのを待って密かに龍兵衛は政景が使っていた部屋や書庫を物色して例の事を調べている。

 どこにも裏の黒幕に関係性がありそうなものは無い。政景では探れるようなものではないと思っていたが、案の定というやつだ。

 

「それにしても、本当に何で・・・・・・」

 

 あの政景の謀反の真意は全く掴めないまま越後国内では解決出来なくなった。

 何を思い彼は謀反を企んだのか、何故彼は死ななければならなかったのか、水の中に消えていった真実は何も語ることは無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日、視察を終えたさっさと二人共、坂戸城を出て春日山に帰ることにしたが、その前に寄り道をすると前もって決めていた。

 雪の残る林の中を通って行く。二人の行き先を示すように風が吹いている。風は二人の間を通らずに周りを通っている。

 しばらくすると開けた場所に出た。池がその中心。否、ほとんどがそれで占められている。

 綺麗な水の上に氷が薄く張っている。太陽によって氷は反射して眩しい光を発している。しかし、二人はそれを美しいと眺める事はせずに池の端を無言で歩いて行く。

 

「ここです・・・・・・」

「・・・・・・」

 

 冷たい風を浴びながら二人は二つ立っている石が三つ重ねられた物体の前に立つ。

 龍兵衛が簡単に作った定満と政景の墓だ。政景は世間では謀反人の扱いの為に大きく作る事は出来ない。そもそも作る事自体がおかしい。しかし、龍兵衛はそれがどうしたと言わんばかりに小さくはあるが、思いをしっかりと詰めたものを作った。

 冬の為に一輪の花も添えることは出来ない。この冷たい池の中に沈んだ時の気持ちはどうだったのだろうか、景勝は頭の片隅で今となっては考えてもしょうがない事を考えながら花の代わりにと龍兵衛が買った酒をかける。

 平等にかけ終えた二つの墓に二人は合掌する。

 二人が二人の思いを心の中で告げる。そっと目を開けながら立ち上がって今度は野尻池を眺める。

 木の枝が風に吹かれて悲鳴を上げている。枯れ葉が舞い上がっている。前から来る風が景勝の髪を揺らし、龍兵衛の羽織りを吹き上げる。

 冷たい風が容赦なく二人の顔を打ち付けるが、どちらも立ち去ろうとはしない。互いに目を閉じたり、顔を背けたりせずにじっと池を眺め続けている。

 風が二人を止めて、池が二人を呼び止めている。連日の寒さと雪で辺りの山々は真っ白になっている。

 あの日は日中晴れていた。

 雪見と月見にはちょうど良い時期であったのだろう。その現場の全てを知る風はもうここにはいない。どこに吹き去ったのかも分からない風に何を問うことが出来ようか。

 

「自分がもう少ししっかりとしていれば、定満殿は死ぬ事は無かったのに」

「龍兵衛・・・・・・」

 

 景勝が見上げると悔しそうに唇を噛み締めている龍兵衛がいた。

 

「景勝様も定満殿が何を思って死んだのか、分かりますか?」

「(ふるふる)」

「政景様の方は?」

「・・・・・・」

 

 龍兵衛から問い掛けられても景勝は何も言わない。涙も流さず、ただ立っているだけ。悲壮感漂う表情にそれ以外の感情はない。

 喜怒哀楽の哀の感情を剥き出しにした表情は誰にも変える事は出来ない。何を言おうとも何をしようとも不可能だろう。

 何ともいえない近寄りがたい雰囲気を出す今の景勝をしっかりと見る事はこの世の誰も出来ないだろう。

 

「(全てを知る御方はいない。俺達が明かすまでは全てを水の中から引き起こす事は出来ないのか・・・・・・もどかしい)」

 

 目をそらし、龍兵衛は目の前にある池に語りかけるように無感情な目線と口調で喋る。策士の目の中にどのような思い、考えがあるのか。

 

「行きましょう・・・・・・」

「(こくり)」

 

 二人はもう一度頭を下げる。顔を上げても龍兵衛は目を閉じて何も言わない。この時だけ、景勝は彼の心境を察する事は出来なかった。

 心のどこかに悲しみがある。その足取りは何かを引きずっているように重く、雰囲気は消えかけた蝋燭のように暗い。

 沈黙を破りたいと馬を繋いでいる所まで歩きながら唐突に景勝は龍兵衛に話し掛ける。

 

「龍兵衛は何を思った?」

「そうですね、自分は本当に政景様には良くしてもらっていたのでありがとうございましたという気持ちを伝えました。景勝様は?」

「龍兵衛とおんなじ、景勝、定満にも色々と教えてもらった」

 

 敢えて政景のことは口に出さずに口元だけ笑わせながら龍兵衛は景勝の言葉に重みと悲しみを持ち合わせた声に肉親の消失への心の一部の喪失を感じた。

 

「(肉親、か・・・・・・)」

 

 知りたくなかったその真実。これは個人的な問題ではあるが、その詳細を知りたいとも思ってしまう。

 

「(だけど手掛かりがこの時代にあるわけ無いんだよなぁ)」

 

 今は考えても仕方ない。だが、知りたいという気持ちも強い。

 帰ったら唯一の手掛かりを徹底的に調べよう。そう決意しながら龍兵衛は足を速めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっと帰れますね~」

「~♪」

 

 基本的に手のひらを返すように切り替えが早い二人は十日ぐらい離れていた春日山に帰れる事を楽しみにしている。

 これは二人の強みでもあった。一日の間にけろっと気分を切り替えることが出来る二人の性格は次への仕事を順調に引き継げる。厳密に言えば、龍兵衛の性根にある性格が景勝に染ったと言った方が正しいが、そこは割愛させておく。

 急いで帰る為に一日の行動をぎりぎりまで詰めている。疲れている訳ではないが、実家に帰りたいという思いが足を進ませたがるのは二人の心理というやつだ。

 そして、この日は後一歩で春日山に着くという直江津の町に宿を取る。越後第一の港として軍師達が拡張してきただけにこの時期だというのにかなりの盛況ぶりである。

 

「明日には戻れますね」

「(こくり)やっと謙信様達に会える」

 

 心底嬉しそうにしている景勝。名前が出て来るのを聞いてよく慕っていると思いながらも龍兵衛は重い鉛のような溜め息を吐く。

 

「どうした? 何か不安?」

「いえ、そんな事は・・・・・・ただ・・・・・・」

「・・・・・・?」

「こんなに早く人がいる所に帰りたいと思うようになったのは何年ぶりだろうと思って・・・・・・」

 

 平成の頃にいじめを受けた身である為に人と群れるのを嫌い、相手の心を疑う事に目覚め、とことん人が自分に何かを裏で言っているという考えを持っていた筈が今は純粋に皆と共にいたいと思っているという感情に龍兵衛は戸惑っている。

 

「何年ぶりというよりは初めて抱く感情かもしれません」

「・・・・・・」

 

 自虐的な笑みを浮かべて話しているが、龍兵衛の顔には嬉々とした感情があると景勝は感じた。ようやく彼も人らしくなった。

 それを口にして言うと龍兵衛は拗ねたように膨れっ面になって不機嫌になる。

 

「じゃあ、自分は今まで何だったんですか?」

「・・・・・・?」

「不思議そうに首を傾げて考えるのやめてください・・・・・・」

「冗談」

「・・・・・・本当に謙信様の変なところだけは似ているんだから・・・・・・」

 

 地味に凹んだ様子を見せ物のようにクスクスと面白そうに笑う景勝を睨みながら今度は心から呆れた溜め息は吐く。しかし、その心は無邪気な子供のように笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 春日山城では一時ののんびりとした雰囲気が出来ていた。

 

「こら前田殿! また資料と春画本をすり替えたろ!?」

「さぁ~なーんの話ぃ?」

「とぼけながら逃げるな!! 待て!!」

 

 兼続が慶次を追いかけ回していた。帰ってきた時からこれだから兼続も颯馬もぶちぎれている。しかし、慶次はあっさりと兼続を巻くと物陰に身を潜める。

 

「ふふん、かねやんは追い掛けるの下手ねぇ」

「ふふふ・・・・・・前田殿の隠れ方も下手だと思うのだがな~」

 

 がしっと肩を掴まれた慶次が恐る恐る後ろを向くとそこには弥太郎がいた。

 

「げっ・・・・・・やっちゃんいたの?」

「ああ、自分がした事に責任は無いなんて言わせないからな・・・・・・何をしたか、自分の口で言ってみろ」

 

 声にはドスが利いていて威圧感があり、肩を恐ろしい力で掴まれている為に慶次も逃げられない。

 

「え、えーと・・・・・・布団を雪の積もった中庭に埋めましたぁ」

「分かっているなら良い。じゃあ、今日は私が特別に説教をしてあげよう」

「いやー助けて~」

 

 ばたついて抵抗しようとするが、弥太郎はそれを許す筈も無く、力一杯首根っこを掴んで引きずり出す。

 

「抵抗するなら兼続も呼ぼうか?」

「ひ~ん、大人しくしますぅ・・・・・・」

 

 弥太郎に連行された慶次はその日、地べたに這いつくばるようにしか歩けなかった。

 

 

 

「黒田殿は少し用心を覚えた方がよろしいのでは? 来てからずっと前田殿のいたずらに引っ掛かりすぎです」

 

 官兵衛はこの城に来てからまだ少ししか経っていないのに悪戯に引っ掛かる確率が異常に高い。一日に必ず一回は被害に遭っている。

 そして、今も官兵衛は引っ掛かって全身水浸しになっている。

 

「いや、何故か分かっても足が止まらないというか、何というか・・・・・・水原殿みたくは無理です」

「・・・・・・いや、某がどうのと言うよりも・・・・・・」

 

 もっとその子供のような好奇心を抑えたらどうだとは口が裂けても言えない。そんな事を言えば、また官兵衛は「あたしは大人だー!!」と喚き、暴れる。引き留め役の龍兵衛がいない以上は下手な事は言えない。

 

「(しかし、よく龍兵衛殿はこのような御方の弟子になったものです)」

 

 官兵衛を慰め、師弟共に変わっていると思いながら親憲は一人静かに笑った。

 

 

 

 

 

 

 今日は雪に降られる事も無かった為に外に出る気も失せるような冷たい夜の海風だけが襖を打ち付ける。その中でゆったりと二人は宿の部屋で過ごしている。

 二つ取っておいた筈なのに何故かこの時期には珍しく満杯で一つしか取れなかったのが原因である。

 

「これも全て、定満殿のせいか・・・・・・」

 

 漏らしてしまったと慌てて寝ている猫を撫でている龍兵衛はちらりと猿と戯れている景勝を見る。

 二人で楽しそうにしているのを見るとばれていない安堵感と共に乱世という無情な空間から解放されると感じる。心底楽しい喜びがここにはある。

 景勝がこの寒い風を吹き飛ばす暖かい太陽のように感じる。無邪気な笑みが龍兵衛の凍れる心を段々と溶かしている。

 完全に溶けきるには時間が掛かるだろう。自らの身の上やかつての事を思い出すような時には冷えた風が心に吹き荒んでいる。しかし、少しずつ春が彼の心にもやってきてくれる。

 今年の春はいつ来るのかは分からない。だが、いつかは必ずやってくる。そしてまた、田植えの時期がやってくる。毎年これが楽しみで一つの癒やしともなっている。

 その到来を考え農家の人達が笑顔で畑に繰り出しているのを想像すると自然とその喜びが顔に出てしまいそうになる。

 それをぐっと我慢しながらぼーっとしていると龍兵衛は気付かぬ内に溜め込んでいた疲労が襲い掛かった。抵抗しようとしたが、瞬く間に敗れて夢の中に入って行った。

 景勝がそのこと気付いたのはそのすぐ後だった。口を尖らせて起こそうとしたが、猿が欠伸を一つすると眠りについた。

 これを見た景勝も欠伸が染ったらしく、欠伸をすると自然と龍兵衛の方に目がいった。

 相変わらずあぐらをかいてかくんかくんと首があっちこっちに揺れながら眠っている。

 

「むぅ~」

 

 自分を差し置いて先に寝ている護衛があるかという思いを抱きながらも景勝は起こす気を自身の強烈な眠気によって妨害されてしまった。

 今ばかりはその眠気を恨みながらも、景勝はふらふらと起こさないようにそっと龍兵衛にもたれかかって寝始めた。

 

 

 

 

「むっ・・・・・・」

「どうかしましたか?」

 

 何でもないと謙信は一緒に歩いていた兼続に首を振って歩くのを再開する。

 

「(何か嫌な予感がしたな・・・・・・でも、それほどのものではないか・・・・・・)」

 

 

 

 

 

 翌朝、龍兵衛は瞼を開くと目の前にいた物体にまず目が行った。

 

「あれ、何で?」

 

 規則正しい寝息を立てて自身の膝の上で景勝が寝ている。しかし、昨日の事を思い返してもどこにもそのような事は無かった。

 

「(つまり、俺が寝た後・・・・・・後!?)」

 

 ここでようやく龍兵衛は自分がやらかした事に気付いた。護衛がその対象よりも先に寝た事はやってはいけない事であることは分かっている。しかし、龍兵衛はやってしまった。

 

「しまった・・・・・・」

 

 声に漏れて顔を右手で覆って一人で反省していると景勝が寝ぼけた目をこすりながら起き上がった。

 

「むぅ、龍兵衛、おはよう・・・・・・」

「お、おはようございます・・・・・・景勝様」

 

 一応は挨拶をするが、龍兵衛は引きつる表情を直せない。

 とりあえず詫びを入れようと頭を下げる為に景勝から離れようとするが、それを景勝が許さずにぎゅっと腕に力を入れて離さない。

 

「謝るいらない。こうしている」

「これが罰だと?」

「(こくり)」

 

 強く首に巻かれた腕が龍兵衛を手放すまいとぎゅっと締まる。少しばかり苦しいが、龍兵衛はそれを快く受け入れた。

 冬は早朝と枕草子で言われている。

 朝日が差し込み、今日もまた晴れてくれるようだ。寒い事に変わりはないが、二人はお互いの温もりによって暖かい朝を迎える事が出来た。

 

 

 宿を出るのが一件によって予定よりも少し遅くなってしまったが、それほど影響はない。

 ゆっくりと馬を歩かせていると不意に景勝が自分をじーっと見ている事に龍兵衛は気付いた。

 

「どうして龍兵衛は大きくなれる?」

「さぁ、自分に言われましても・・・・・・」

「何か、ある!」

 

 そう断言されても困るのだが、一応は龍兵衛も身体を強くする為に色々とやっている。

 

「うーん、動ける時にしっかりと動く事ですかね?」

「それってどうなる?」

「身体が強くなります」

 

 どこか不満そうな景勝に龍兵衛は何か変な事を言ったか思い返すが、そんな事はなかった。

 

「他には、無い?」

「他、とは?」

「もう、効果なし?」

 

 それを聞いて急に歯切れが悪くなって「あははー」と笑っていない笑い声を出している龍兵衛を景勝は物珍しそうに見ている。

 

「まぁ・・・・・・他にあるとすれば、男女に関わらずしっかりとした健康を維持できる。ですか?」

「じぃぃぃ・・・・・・」

「『話を勝手に健康面に曲げるな!』という目ですね?」

「じぃいいぃ・・・・・・」

「えーっと・・・・・・」

 

 動揺しながら目を泳がせている龍兵衛をよそに景勝は無言で彼を見つめる。

 その威圧感はどんな人でも正直に白状させるものを持っているのは龍兵衛が一番よく知っている。

 相手が言わせたい事は分かっている。やれやれと溜め息を一つ吐くと龍兵衛は意を決したが、しっかりと目をそらして言った。面と向かって話せる訳がない。

 

「女性として・・・・・・出るところはしっかりと出る。と聞いた事があります」

 

 恥ずかしそうにしながら言う龍兵衛をよそに景勝は良いことを聞いたと言わんばかりに目を見開いた。

 

「そうか、じゃあ景勝の胸、大きくなる? 慶次より? 定満より?」

「(やっぱり気にしてたんですね?)それは・・・・・・景勝様の身体の問題もあるのでは?」

「謙信様も大きい。だから景勝も・・・・・・」

「あー・・・・・・あっはっは(あくまでも義理ですからな)」

 

 突っ込みを隠す為の乾き切った笑いしか出てこない龍兵衛と期待する目で彼を見る景勝。

 周りに分かり合える人間があまりいないのがその辺の不満を溜めていた原因なのだろう。第一に今の龍兵衛に景勝のきらきらした目は反則だ。

 

「もうやけだ・・・・・・飯をたくさん食べるのも良いですよ」

「本当?」

「ええ、食べるだけは絶対に駄目ですが」

「ん、景勝、ちゃんと動ける!」

 

 胸を張る景勝を見て嫌な予感しかしないまま龍兵衛は景勝と春日山にその日の夕方に帰還した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方で春日山にある牢の一番奥では颯馬が右往左往していた。

 珍しく焦っているように何度も悲鳴が聞こえる牢獄に向かいながら様子を見るが、なかなか中から声が掛からない。

 しばらくすると一人の兵が出て来たので呼び止めて確認したいことを聞く。

 

「どうだった?」

「駄目です。どんなに尋問をしても聞きません」

「さすがに女といえど忍だからな・・・・・・」

 

 先の伊達軍が捕らえた忍を颯馬と配下が取り調べていた。

 相手は忍。なかなか口を割らない。しかし、これ以上は待てないのも事実。謙信からの命令がある為に颯馬も最終手段に出るしかなかった。

 

「何人かの男兵を呼べ・・・・・・」

「・・・・・・どれほどにいたしますか?」

「精々、狂わない程度にしろ。吐いたら報告するんだ」

「御意・・・・・・」

 

 目の色を理性から欲望へと変えた兵士がそう言うと颯馬は黙って傷だらけになりながらも目を閉じている綺麗な女忍を哀れなものを見るようにしてその場を静かに立ち去った。

 

 

 

 

 三日後。春日山城に帰還した二人のが一昨日のことだが、早くも異変が起きていた。

 

「女中から聞いたんだが、どうも景勝様が食べる量がここのところ増えたらしいな」

「ああ、俺も聞いた。そういえば慶次が最近は景勝がよく道場に来ているとも言っていたなぁ」

「かなり活発になったという事か?」

「「さぁ・・・・・・どうだっけ?」」

 

 景綱の疑問に仲良く首を同じ方向に傾げる颯馬と兼続。何故か互いにそれが無性に腹が立った。

 

「俺に聞いてんだ!」

「何だと!? 私の方が気にしているんだ!」

 

 訳の分からないところで言い争いを始める二人に景綱は少々呆れたように溜め息を吐いて面倒くさいと思いながらその場を去った。

 その頃、間食の団子をたくさん食べている景勝を謙信が隣で少し心配そうな顔をして景勝を見ていた。

 

「・・・・・・」

「大丈夫なのか景勝、最近よく食べるようになったが、お腹を壊さないか?」

「ん、大丈夫。その分、動く」

「そうかそうか、景勝はこれからだからな」

「ん、頑張る」

 

 景勝は力強く頷くが、どう考えても噛み合っていない気がすると遠目でそう思いながら慶次はその場をすーっと立ち去った。

 ちなみにその火付け役は仕事部屋に監禁されていた。 

 

「師匠~たった一日じゃないですか~何でこんなにあるんです?」

「うっさいなー! 働けって言ったら働け!」

 

 戻ってくるのが予定よりも一日遅かった事を官兵衛に良いように利用され、更に彼が出し抜いた軍師四人による理不尽な仕事の押し付けをされていた。

 

「(これ、平成ならパワハラで訴えられないかな~)」

 

 しょうもない事を考えながら龍兵衛は目の前の資料を片付けるしか術が無かった。 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十三話改 心の窓に灯火を

 安田能元は苛々を隠せないまま廊下をずんずんと歩いている。その怒りで染めた朱の顔の熱は越後の寒い冬さえも吹き飛ばせるだろう。

 目的の部屋で立ち止まると怒りを抑えて入室を願う。返事があると能元は「失礼する」と言って頭を下げずにずかずかと入った。

 一方その中にいた服を灰色で揃えた人物はまったく動じる気配が無い。

 

「どうかしましたか? 能元殿?」

 

 うるさそうに能元を扱う邪険な声。部屋の主たる龍兵衛は振り向きもしなかった。

 

 

 

 

 春日山の冬がある意味最高潮を越えて少しずつ暖かくなってくる時期だ。

 謙信は能元を呼び出した。近頃は賊の出現も無いのでどうしたのだろうと首を捻りながら謙信の言葉を待つと謙信は座るなり口を開いて思わず聞き返したくなることを発した。

 

「そなたをしばらく春日山に出仕させる。安田城の事は家臣に任せよ」

 

 背筋が震えた。先の戦の際の責任は確かに彼自身の背中に乗ったが、それ以降は能元自身何もした覚えがない。

 出仕と言えば聞こえは良いが、実質のところ彼が持っていた安田城の利益は謙信の下に入ることになる。さらにそれに不満を持った能元の家臣が反乱を起こせば能元は間違いなく首を斬られる。

 簡単に表せば人質のようなものだ。能元自身は謙信を裏切る気は毛頭無い。しかし、このような事をされては能元の面子が潰れる。

 今、上杉家では軍師の進言で中央に軍権を集める為に様々な城の主は春日山に集っている。もちろん能元もその例外ではなくいずれはこうなると分かっていた。

 しかし、彼からすれば時期が悪い。

 周りからは先の戦での失態の事で兄と比較されるような目が強くなった為にこれでは春日山に縛り付けられたと思われてもおかしくない。

 責任の全てを全て押し付けられたと思っている能元はこの命に一応は従ったものの決して納得した訳では無かった。

 謙信の前から辞するとまず最初に何故自分をこのようにしたのか。謙信の近くに控えていた二人の軍師が彼の頭をよぎった。

 あの二人が謙信にけしかけて自分をこのようにしたのだ。そう思うと能元の頭には血が上り、足は自然と速くなった。

 まず第一に疑ったのが怒る能元を平然と迎え入れた灰色の服を着た男。あの時いた二人の内、こういった事には間違いなく絡んでいるだろう軍師だ。

 

「河田殿……どういう事ですか?」

「どういう事、とは?」

 

 ようやくその言葉で龍兵衛は振り向いた。口元は笑っているが、眉一つ動かさずに鋭く相手の中を見抜いてしまうような目で能元を見る。しかし、それに怯む能元ではない。むしろその様子を見てさらに怒りが増した。

 

「何故に某がこのような恥をかくような事をしなければ……!」

「仰っている意味が分かりかねますね」

「何故、某を春日山に縛り付けるのかと聞いているんだ!」

 

 はぐらかそうとした龍兵衛に心の糸が切れ、喚く能元の目の前で龍兵衛は新しく着るようになった灰色の服を何事も無いように揃える。

 官兵衛がやってきてからは黒が二人になった事が嫌だという師匠の駄々に仕方なく新調したものであるのは二人の秘密だ。

 

「長年、上杉に仕えた栄誉ある毛利安田の当主である某に恥をかかせていいと思っているのか!?」

「謙信様は家よりも実を取ります」

「それでも少しぐらいは考えられてもいいだろう!?」

「仮にあなたにそうしておいて、その後に何か益があるのですか?」

「ある!」

「どのような?」

「某は先の戦では他の方の慎重すぎる策のせいで敵に遅れを……」

「待ってください」

 

 ああ言えばこう言うと言った状態になりかけたところで龍兵衛は能元の言った一言に噛み付いた。

 意気込んだところを止められて能元は顔全体を朱色にしたが、龍兵衛はその顔を覗き込むように見ている。そこから何かを読み取ったように頷くと疲れたように息を吐いて姿勢を一気に崩して手を身体の後ろに付いて重心を背中に預ける。

 

「自業自得じゃないのかな?」

「なっ……」

 

 敬語を外され、低い威圧感の利いた声と突き刺すような鋭い目で発せられた言葉に能元は思わず絶句した。

 

「自分がやった事にまるで罪が無いような物言いだね。栄誉なんて最初から無いよ能元殿、馬鹿じゃないのかな?」

「何だと!? 貴様、俺を侮辱する気か!!」

「兵の犠牲や後先の事を考えない人の事を馬鹿と言わないで何と言う?」

 

 諭すように問い掛けるように聞く龍兵衛に能元は口を紡ぐ。事実を言われては何も返す言葉が見つからない。

 しかし、肯定することを言えば自分が馬鹿だと認める。自尊心の高い能元にそれは出来なかった。

 怒りによって身体を震わす能元からそれを見抜いたように龍兵衛は溜め息を吐いてきた。

 

「自分の悪いところを認めないで他人の悪いところを吊し上げるのは控えた方がいいね。特に、兵達に当たるのはどうかと思うよ」

「何?」

「だって、兵達から能元殿は全く自分達の事を思っていない。以前も失態を詫びに来たけどその口調は全く反省している気配がないと聞いたよ。それにその後も兵に随分な振る舞いをしたみたいだね。それじゃあ上に立つ人としては失格だよ。何せ兵達も人なのに人として扱わないんだもの」

 

 顔を上げた能元に龍兵衛は軽い笑みを浮かべながら一気に言った。だが、明らかに声には怒りの感情が含まれている。

 高き地位にずっといた能元と様々な苦境の中で己を高めていた龍兵衛の違いは人と人の間にある立場の違いの壁を破る事が出来るか出来ないかであり、龍兵衛自身もそれは自覚している。

 また、上杉家の周りには膝を付いて兵と共に話をする将が多くいる。しかし、自尊心の高い能元はそのような事はせずに来た。

 上から馬に乗って俺に付いて来いというような形を取っている。確かにそれ相応の実力があり、勲功があるのならそれも良いだろう。

 若い能元にそれがあるかと聞かれると答えは言うまでもない。

 無理な事をしてまで自分の実力を見せようとして失敗し、その後も将としてやってはならない失態を犯して醜い言い訳を続けていた。

 藤資の死に関係もあるにもかかわらず、今も変わらず上杉の勝利に時間を掛けていらぬ犠牲を払った罪の意識が無い。

 

「あなたはまだ若い。それに、教育が必要と判断したのは先達の皆様方だ。謙信様も反対しなかったぞ」

「貴様が上から物を言える立場なのか? 定満殿と政景殿の死を止められなかった。どうせ二人が死ねば自分の地位が上がるからと思って見殺しにしたんだろう? 俺には分かる。貴様は以前謀反を起こしたからなぁ、どうなんだ?」

 

 嘲るような口調で答えろと言わんばかりに気持ち悪い笑みを浮かべる能元に一瞬だけ龍兵衛は殺意を覚えた。

 かつてのことを何も知らない輩にこうまで言われたのは初めてで、ここまで腹が立つとは思わなかった。しかし、それだけで龍兵衛は怒りを収めてそれを吐き出すように溜め息はつく。

 

「以前は以前、今は今。確かに自分もそのようなことをした。自分の事を棚に上げて、いらぬ讒言で他人を貶めようとする・・・・・・」

 

 相変わらず勝ち誇った目をしている能元に龍兵衛は喉を鳴らして笑った後、すぐに表情が抜け落ちて無表情になると目を見開いて声を上げた。

 

「救いようの無い馬鹿だな!!」

 

 その言葉に能元は理性を失い、自分の中にある怒りの全てを龍兵衛にぶつけた。

 

「何だと!? 貴様こそ、その罪を認めていないではないか!?」

「自分は既に罪を認めて謹慎をしていた。謙信様もそれで自分を許された。これを否定すれば謙信様のお考えを否定することになるぞ?」 

 

 謙信を盾に出した龍兵衛に能元も言葉が詰まる。それに乗じて龍兵衛は畳み掛ける。

 

「自分は能元殿と違って自分を認める事が出来る。能元殿は皆と違って自分を認められない。だから、この出仕なんだ。誰が何と言おうと決まった事。あなたの家臣からの承諾も得ている。敬愛する兄を越えたいのなら、少しは苦しみを知れ」

 

 何か言ってやろうと思ったが、これ以上抗っても言い返せないと悟り、顔を真っ赤にした能元は何も言わずに出て行く。

 龍兵衛の物言いには我慢が出来ない。しかし、それで逃げ出している以上は当たりを言われた事を認めているようなものだが、彼は決して認めない。

 廊下を歩いていると他の家臣からの視線が自分に向けられている。知った人はやはり自分はまだ若いと思い、自分が何を言おうとも龍兵衛のように追い返すに違いない。

 

「(見ていろ。必ず見返してやる)」

 

 今は我慢だ。そう思いながら能元は自室に向かった。

 一方、思いっ切り開け放しで能元が出て行った龍兵衛の部屋には入れ替わるように兼続がやってきた。

 

「随分な物言いだったな」

「なんだ、聞いてたのか?」

 

 公の顔から私の顔に変えて兼続に茶を出そうとするが、結構と止められる。先程の謙信が能元に命を下した時、龍兵衛と共にいたのは兼続だった。

 

「お前が盗み聞きとは、らしくないな」

「なっ!? 人聞きの悪い事を言うな! 聞こえたから仕方ないだろう!」

「それが盗み聞きだってぇの。その時にここにいなけりゃ良かったのに」

「何、私が悪いみたいに言うんだ!」

「悪いでしょ?」

「何!?」

 

 内心にやにやと笑っているのを表情に出ないよう必死に押し隠して真顔で受け答える。

 

「冗談だよ、兼続も少しは覚えろ」

「ぐっ・・・・・・言い返せない」

 

 苦虫をつぶしたような顔に今度は顔と口に出して笑う。しかし、兼続が顔を真っ赤にしかけているのを見て即座に引っ込めて手を上げる。

 

「はいはい、抑えて。それにしても、お前があんな事を言うとはな」

「何か変か?」

「うん」

「認めるのか!?」

「そりゃあ・・・・・・」

 

 龍兵衛は言葉を繋ぎながらもその時のことを思い出す。まさか兼続が言い出すとは思わなかったので龍兵衛は謙信達の顔を頭に浮かべて笑いを抑えるのに必死だった。

 

 

 

「安田殿は春日山に置いておいた方がいいのでは?」

 

 そう言い出したのは兼続である。龍兵衛と進めていた仕事の報告に謙信の下を訪れた時の事。唐突にその事を言い出した。

 

「安田殿は先の戦以降、不満を募らせています。しかし、それ以上に安田殿の家臣は安田殿に不満を持っています」

 

 その為に能元を春日山に残しておいてしばらくは若い能元に将たる者の真を様々な将がいる春日山で学ばせるという事だ。

 

「・・・・・・という表向きの理由で、本来は安田殿を春日山に縛り付ける事で安田殿の動向を窺うのが本来の目的です」

 

 先の戦以降の言動から能元が謀反を企んでいるのでは、という疑いが出てくるのは当然の事である。謙信は気にしてはいないのだが、他の家臣から見ると由々しき事態である。

 その不安を取り除く事で要らぬ対立も防ごうとする考えだ。しかし、毛嫌いにしている颯馬や龍兵衛が身近にいる時が増えるのはどうか。

 

「自分も颯馬もそれほど気にしていません」

 

 確信がある龍兵衛に迷いはない。そして、謙信は能元を呼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「その時の謙信様は目と口で丸を作っていたよ」

「私は気がつかなかったぞ」

「謙信様に力説するのに意識が行ってたからな」

 

 暗に他方面には目が行ってなかったというような物言いに気付いた兼続が食ってかかるのを抑えると龍兵衛はからかうのは止めて真面目な表情に戻す。

 

「謀反が無いと言い切れる謙信様のような人を見る目が全員にあれば話は変わるんだが・・・・・・」

「どだい無理な話だな」

 

 きっぱりと兼続は言い切って納得したように頷く。兼続も別に謙信を疑っている訳ではないが、軍師として最低限の処置というものはしておくべきだと考えたのだ。

 

「話を戻すがやはり言い過ぎではないか?」

「あれぐらい言わないと発奮しないだろう。毛利の坊ちゃまは」

 

 龍兵衛の言い方は悪いが、兼続は否定しない。実際に能元をそういうふうに見ている人がほとんどである。

 

「これからなら逆にああ言っておいた方が結構いい方向に行ってくれたりするもんだ」

「私はそのような立場になった事が無いから何とも言えんが・・・・・・」

「それはお互い様だよ」

「おい、どういうことだ?」

 

 兼続は少し怒ったように言ってくるが、龍兵衛は兼続を大人しく宥めておく。

 その内心、彼には確信があった。あのような気難しい性格には発破をかけるのが良い。

 

「俺達は自分達の命だけでなく、他の命も預かっている。その重い重責を上杉の中で分かっていないのはあれだけだ」

「それを分からせない限り、兵達の不満を安田殿は知らず知らずの内に背負う事になる。だが、教えるのではなく、自らが分からない限りは到底無理という事か」

 

 二人は言葉を繋ぎ首肯し合う。全ては上杉の為、そして、能元の為でもあるのだ。

 能元の話はそれで終わり、今度は先程の謙信との話となった。仕事については二人が分担して行う事にして後は世間話となった。

 

「それにしても、私が言ったらどうしてあんな空気になったんだ?」

「お前はどちらかというと戦略、戦術の軍師だろ。こういったのは俺や颯馬の領分だから謙信様もまさかと思ったんだろう」

「私はそんなに向いていないか?」

「ああ・・・・・・」

 

 何故か龍兵衛は口元を吊り上げて、兼続に指をびしっと指す。

 

「性格だ!」

「何!?」

 

 わざと大きい声で言うと案の定、兼続は腰を上げて食いついてきた。

 

「私の性格のどこが向いていないと言うんだ!」

「その感情的なところさ!」

 

 はっきりと心に食らわせられたことを言われて琴線に触れた兼続は腰を落として戦闘体勢に入る。

 それに釣られて龍兵衛も立ち上がってつり目を細めて集中して兼続の動きを見る。

 内心、ちょっとした悪戯心となかなかの後悔と大きな面白いと思う心があるのは今更言えない。

  

「それほど私を怒らせたいのか?」

「最近慶次が何もしないから暴れられねぇんだよ」

「ほう、奇遇だな・・・・・・私もだ・・・・・・その台詞を吐いた事、後悔させてやる!」

「ふん! 返り討ちにしてやるよ!」

 

 素手で殴り合う二人の試合はお互いに軍師ではあるが、互いに武にも通じている為になかなかの熱戦となった。

 兼続の顔面に龍兵衛の拳が入ったと思いきや兼続はそれをひらりとかわして裏拳で龍兵衛のみぞおちに一撃を食らわせようとする。しかし、龍兵衛は兼続の手を殴りかかった方とは逆の手で兼続の勢いを抑える。

 しばらくそのようなことを続けている内にうるさいと思ってやってきた弥太郎に止められるまで続き、二人は続けてやって来た謙信にこっぴどく叱られた。

 四半刻程叱られて龍兵衛と兼続は互いに互いを睨みつつも弥太郎の監視下で大人しく退散して行った。

 

「まったく。兼続といい、龍兵衛といい、お前といい、何でそこまで喧嘩が絶えないんだか」

「俺も含むな。それに別に毎日言い争っている訳じゃないだろう」

 

 疲れた顔をして出て行った二人を見送った後、やってきた颯馬に口が軽くなって謙信は愚痴を言ってしまう。

 

「それにしても、私達は随分と大きくなったものだ」

 

 本国越後に会津、南羽州と南奥州の一部。国力は京や畿内などに比べたら微々たるものだが、領域は広い。それ故に反発する者の抵抗も大きくなっている。良い例が越中と同時期に起きた先の戦だ。

 

「今更感慨に耽る事じゃないだろう? 今回はまだ序の口なのかもしれない」

「あれがか? それじゃあ何度命を落とす事になる?」

 

 謙信は笑っているが、心は全く笑っていない。それほど先の戦は謙信でさえも恐怖を感じていたのだ。そこで払った犠牲は多大なものでしばらくは派兵など出来るような状態ではない。今、上杉に出来るのは静をもって動を制すること。

 だが、行えるのはいざという時に派兵を出来る力と状態を持っているからこそである。今はその状態ではなく、いつ攻められても対応できるかは分からない。

 その一方で、やられっぱなしというのも面白いものではない。

 

「しばらくは耐えだな」

「ですが、軍師から見ると秋田と阿仁鉱山はなるべく早く奪還するべきです」

「それは『全員』の意見か?」

 

 颯馬は即座に肯定する。『全員』とは軍師達の意見が一致した時の一つの暗語のようなものである。全員が政策の為の金を求めている。その為に阿仁鉱山は絶対に欲しい。

 

「何か良策は?」

「まだですが、全員が頭を搾っているところです」

 

 時は人の中を回り、止まる事は無い。他の勢力に目が行く事が出来なかったその間の穴を埋めなければならない為、過去の一つの恐怖にすがりついているわけにはいかない。

 忘れるべきものを頭から叩き出して謙信は次なる政策を練り始めた。

 

 

 

 

 人の一生の中で家族と一緒にいられる時間はあっという間であり、気がつくのは年老いてからである。しかし、辛い別れを体験すれば若い頃からその思いを抱く者もいる。

 家族との別れ。その先にあるのは復讐の感情を押し潰され、心が衰退した者。それを乗り越えて全てを受け入れて複雑な感情の中に人を想う者と様々な形で気付かされる。

 前者は今は我慢を覚え、自尊心を崩さずに起きる出来事全てを試練と受け入れて耐えている。様々な性格の人々と会い、合わない人であっても話すのに耐えている。

 一方の後者は今、他人の部屋でゆったりとしていた。

 

「すぅ・・・・・・」

「人が仕事している時に我が物顔で上がり込んできたと思ったら、すぐに寝てまぁ、自分の部屋で寝ろってぇの・・・・・・」

 

 しかめっ面の顔と毒のある愚痴とは裏腹に内心は仕事に忙殺されている身体がかなり癒されているので叩き起こす事は出来ない。

 時は夕刻、今の時期は春の雪解けと同時に始める政策の為の準備で忙しい。その多忙さに軍師だけでなく、朝信や親憲などの政務にも通じる将にも多忙という波が岩に当たって飛び散っている。

 

「さっさと終わらせんと・・・・・・」

 

 集中し直すが、机の書と格闘して早数刻経っているのとその前まで兼続と戦っていた為に疲労感が出て来た。

 結局二つ三つの書に目を通して色々と手直しをしたところで筆が止まった。

 

「今日はもういいか・・・・・・」

 

 基本的に朝方の為に人よりは早く仕事に打ち込み始めるので他の軍師と仕事に差異が出るなんて事はない。

 それに気付かず太平楽な寝息を立てている恋人を見ると自分も眠くなってくる。しかし、それを見られたら要らんことになりそうなので気合いで眠気を吹き飛ばした。

 その代わりに寝ている恋人の頭を撫でさせてもらっているのに文句はあるまい。

 

「(不思議なものだ・・・・・・)」

 

 男は父の命を狙っていた。彼は直接は関わらなかったが、罪悪感に苛まれていた。

 かつて男は同じような事を行った。その成功した喜びの代償として自らの心とかつて愛した女性の心に穴を空けた。

 しかし、男は他の女性によって気付かされた。何であの日からかつて愛した女性は心を鬱ぐようになったのか。

 全ての感情の中にある複雑怪奇なもの。その感情はこの世の中全ての常識からは逸脱し、良い意味でも悪い意味でも人を裏切る。

 気がつかなかったその男は悩み、気付いた時には今の恋人に感謝をかつての恋人に詫びを心の中で入れた。

 それはそれで良かった。だが、新たな問題が男に出来た。

 

「(偽りではない筈なのに・・・・・・)」

 

 解きほぐした心の糸から出て来たのはかつての恋人へのむずかゆい感情。そして、今の恋人へのどこか申し訳ない気持ち。

 解きほぐした事によって蘇った蘇らなくて良かった心が身体中をよぎる。

 何故今になって過去の想いが蘇るのか。切るべきものは切った。しかし、意味も分からずに徐々に戻ってくる。

 

「俺にもまだ人の心があったという事か・・・・・・」

 

 それはそれで嬉しいが、気付いて良いものと悪いものがある。今までは何だったのかという人間が原点に戻るような思考になっても困る。

 今は純粋になって目の前で寝ている女性と愛し合っているのがその男、龍兵衛の人としての喜びである。

 

「純粋か・・・・・・こんなふうにしていられたのは・・・・・・あれ?」

 

 おかしいと思いつつも頭の中を必死に探すが、思い出せない。記憶力には絶対の自信がある自分が忘れられない記憶を呼び戻す事が出来ない。

 分からない。幼少期の純粋無垢な時の思い出と心を思い出せない。

 

「(何故・・・・・・)」

 

 その後、龍兵衛は景勝を起こして強引に帰らせる間も眠りに就くまでの間も思い出そうとしたが、何も浮かんでこなかった。

 

「(何故だ・・・・・・)」

 

 翌朝は別のことが原因で目覚めが悪くなりそうだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十四話改 今日もどこかで

 積雪の少なかった事が幸いしてか今年の越後には少しだけ早い春がやってきた。

 草木など見るものは全てが少しずつ晴れやかになり、うららかな日差しは少し早く出てきた植物に注がれる。

 それに乗じて人も動き始め、農商問わず城下は盛り上がり始めた。がやがやとうるさい店先で声を出す主や子供の喧嘩が春の空気を動かしているように見える。

 しかし、春の到来と共に様々な要らない動きも出始めた。代表例と言っていいのが商人の不正である。

 

「消えたこの収益、いったいどこに行ったの?」

 

 夜中に詰め掛けた数人の兵は瞬く間に主やその家族、奉公人を縛り上げた。主は抗議し、奉公人達も怖い形相をして兵達を睨んでいる。

 しかし、その兵達の間からやってきた人物に主達は血の気を失い、奉公人の中にはわなわなと怯えるように震えている者もいる。

 彼は表向き、城下町の民には温厚に接している。しかし、その裏に隠された非情な目は揺るがずに常に悪事を見続けている。 

 善者には循吏のごとく法を正しく理解し、かれらを導く。一方で、悪者には一切の妥協は許さずに厳しい処罰を行い、些細な商人の不正も許さない断固した姿勢で臨む上杉の軍師。

 夜陰に隠れる灰色の服を身にまとい、そのドスの利いた声と上から見下すような視線は鋭く、見えない筈の刃が見え隠れしている。

 

「もう一回聞くけど、どこに行ったの? ねぇ!?」

 

 精神から崩すような口調と不正を見つけた証拠となる書状を音を立てて手でばんばんと叩きながらさらに龍兵衛は主に詰め寄る。

 この店は税として納めるべき利益の一部を別のところに流し、それがばれないように賄賂まで送ってごまかしたりするなど様々な手法を使ってきたのだが、税政の総指揮を執っているのは龍兵衛である。賄賂などという馬鹿げた事が通じる訳がなかった。

 ばれていないつもりだった筈なのに外堀はしっかりと埋められていると観念したようでがっくりと主は首を落とす。

 それから顔を上げずに震えるような声で何かをぶつぶつと言い始めた。

 

「・・・・・・」

「え!? 何!? もう一度!」

 

 主を気遣うことなく冷徹な姿勢を崩さないまま龍兵衛は敢えて大声で聞き返す。主は泣きそうな顔で震えながら声を必死に出した。

 

「いくらで・・・・・・見逃してもらえます・・・・・・?」

 

 これを聞いた途端に後ろで控えていた兵達の顔が青ざめた。最初の頃、このようなことをして見逃してもらおうという輩が何人もいた。

 金で全て解決すれば事が済むそう考える輩は多いが、龍兵衛は笑って皆を恐怖の海に溺れさせては救わずに放置して来た。

 案の定、かれら全員が龍兵衛の鉄槌を受けて撃沈した。下手をするとしばらく気絶してしまうような者もいた。

 だが、怖いのはその後である。賄賂での買収という事は立派な犯罪に当たる。そこで城に連れて帰るとまずは罪が重くなった事を伝え、その犯人が人にまで危害を与えていなかったらひとまずは生きて帰ることは難しい片道切符の佐渡行きである。

 しかし、人にまで危害を与えていた場合は別に刑罰が用意されていた。一例がまず柱に犯人をくくりつけ、目隠しをさせられる。そして、犯人の目の前で人は血をどれくらい流すと死ぬのか話した後に犯人に傷を付けて血の代わりに水を流す。

 そして、犯人に暴れると血が流れると言うなどさらに犯人を精神的に追い込む。その後に犯人が死んだらそれで良し。駄目なら駄目でもたいていの犯人は恐怖心で心はすっかり堕落する。

 基本的に最後は誰一人として平常な心を保った人はいない。これには謙信からもお墨付きがあるし、上杉は誰もが不正は許さない姿勢の持ち主なのでやりすぎだという意見は出て来ても正しいことをしていると龍兵衛が言えばそれで終わってしまう。

 だが、間近で見ていた兵の中には 気分を悪くして途中退場する者もいる程である。それを平然とやってのける事が出来るのは龍兵衛がかつての経験からこういった事に対しての慈悲の心が無いからである。

 そして、今回の主はそれに該当した。

 彼は元々冷酷な性格であった。誰であろうと自分の害になりそうな者を追い落とすことに躊躇いを覚えたことは一度足りもなかった。

 それ故に次に発した龍兵衛の発言に兵達は驚愕した。

 

「じゃあ、ここにある金の大半を俺らが持っていって良いのなら許してもいいよ」

 

 その声は柔らかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大事な仕事を終えた段蔵は帰る途中に龍兵衛におずおずと訪ねる。

 

「ねぇ、龍兵衛、本当に見逃していいの?」

「良い訳ないだろ。あれほどの事をやっておいて俺が見逃すと思うか?」

「じゃあ何で・・・・・・」

「あの野郎、横流しした金の行き先を話さなかった」

 

 怪訝そうに聞く段蔵に龍兵衛はどこか確信めいた口調で答える。 

 

「それならさっさと牢に入れちゃって、聞き出せばいいじゃん」

「そうはいかん。あれほど詰め寄っても言わないのなら相手はかなり大物だ」

「だったらなおさら・・・・・・」

「あれぐらい問い詰めておいても口を割らない。どこかに仲間がいる筈だ」

 

 段蔵は目を見開いてから事態を重く見て表情が真剣なものになった。そして、今度は龍兵衛は問い掛ける。

 

「今、上杉と対立していて一番禍根があって、さらにこういった事をしているのは?」

「本願寺」

「ご名答」

 

 龍兵衛は段蔵が答えると共にぴんと人差し指を立て、前を向きながら横にいる段蔵に話す。

 

「簡単に言えば、本願寺はまだどこかに間諜を入れている可能性が高い。あの店主が黙りこくっているのはそれが原因だ。だとすれば俺らがあそこに踏み込んだ事はすぐに仲間から本願寺・・・・・・いや、加賀に行くだろう。あの富樫晴貞がこれを聞けば・・・・・・」

 

 ここまで言うと龍兵衛はもう言う必要も無いだろうと問い掛けるように段蔵を向く。段蔵も言いたいことが分かったので頷いた。

 店主は間違いなく晴貞によって殺される。

 情報の収集の為にあちこち駆けずり回って晴貞の真の性格を知っている段蔵はあの晴貞が使えなくなった輩を生かしておくとは思えなかった。

 

「段蔵、あの店の金の約七割を没収した。しばらくはやっていけるだろう。だが、殺される前に逃げるかもしれん」

「でもそのために釘を差しておいたよね?」

 

 一応は逃げたら今度は容赦なく罰するとは龍兵衛は威圧感を全面に出して言っておいた。

 

「でも、逆効果になるんじゃない?」

「可能性は否定できない。一応はしばらく監視しといてくれないか。万が一自害しようなら助ける。もしそうではなく、誰かに殺されたなら助けなくていい。その下手人を追ってくれ」

「あの人は助けなくていいの?」

「あんなの生かしておいても意味がない」

 

 きっぱりと言い切る龍兵衛には彼の冷酷な一面が表情と言動からにじみ出ていた。

 

「下手人も捕らえずに泳がせてくれ。誰が主犯なのか調べる為にも」

「え? 主犯は晴貞じゃないの?」

「いや、絶対にそれ以上の何か大きな影があるはずだ」

 

 確信がある。越後を取るという野望があるとはいえ、あれほど大きな計画を晴貞という自己の欲望を満たすだけの存在が思いつく訳がない。

 だとすればもっと先の人に接触するところを調べられるかもしれない。

 

「春先早々済まないな」

「別にいいよ、仕事だもん」

 

 特に気にしていないように段蔵は両手を頭の後ろで組んでいる。彼女には別に気になっていることがあった。

 

「んでさ、あの金はどうすんの?」

「蔵の中に潜らせて色々と混ぜる」

「・・・・・・はっ?」

「まぁ、悪いようにはしないさ」

 

 よく分かっていない段蔵に肩をすくめて誤魔化すようにそう言うと龍兵衛は歩く速度を速めた。 

 俗に言うマネーロンダリングのような事をするのに躊躇いは無い。没収した金は国の財産からすれば微々たる物かもしれないが、龍兵衛には必要なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「おう颯馬か、おはよう」

 

 夜遅くに仕事があったとはいえ龍兵衛は早朝には起きて欠伸を噛み締めるようにぶらぶらしていると颯馬に出会った。

 

「昨日はご苦労さん」

「なに、一つ揉んでやっただけだ」

 

 両手を上げて開いた手で肩を揉むような仕草でおどける。颯馬も軽く笑ったが、すぐに真剣な表情に変わった。

 

「それで、やっぱり・・・・・・」

「間違いない。だが、決定的なものが無い。そっちは?」

「駄目、色々と聞いたけど口を割る前にあの世に逃げられた」

 

「そうか・・・・・・」と少し残念そうにしながら二人は一緒にぶらつく。しばらく沈黙が続いたが、歩いている内に我慢出来なくなった龍兵衛が口を開いた。

 

「ところで最近、どうも関東がきな臭くなってきているんだろ?」

「ああ、佐竹が結城と手を組んだ。里見も戦の準備を始めているらしい」

 

 北条が目標であることは言うまでもないが、あの北条早雲が簡単にやられるとは考えられないt二人の見解は一致している。しかし、颯馬には一つということで確信があった。

 

「今回は北条も苦戦するかもしれないな」

 

 龍兵衛も首肯する。箱根山を挟んで隣に織田・徳川の脅威がある以上はそちらにも警戒をしなければならない。徳川は一応の同盟関係ではあるが、実質上は織田の配下とみていい。

 佐竹・里見・結城の三家と織田の兵力は同等ぐらいである。下手をすると挟撃の危険も出る以上は北条はどこかに頼る必要がある。

 小山・小田。どちらも小粒で頼れる程の戦力は無いと言っていい。

 

「有り得ない話だが、まさか北条が謙信様と同盟なんて考えるか?」

「仮に使者が来たとして、謙信様はともかく憲政殿が許すと思えん」

「だよな・・・・・・」

 

 颯馬は大きな溜め息を吐く。

 憲政はかつての事から北条を恨んではいないが、毛嫌いしている。さらに関東管領の地位は元は憲政のもの。謙信が北条との同盟に賛同しても憲政が反対すればその発言は無碍には出来ない。

 だが、これは上杉にとっては好都合である。断る理由もある以上はしばらくは動かないで済むという事だ。

 織田が武田と北条を攻めている間にこちらは国内の消耗した力を取り戻せる。さらに武田・北条と織田が戦い終えた頃を見計らって疲労したところを突けば後々の事を考えても犠牲が少ない。同盟を組むよりも静観の構えを見せる方が先々の利益はある。

 だが、今はそんな事よりも本願寺と東北の失った地域の奪還を上杉が最も重要とするべきものである。

 

「蘆名の金上盛備殿からは叛意はなかったという使者が来ている。輝宗殿は蘆名を裏切った猪苗代盛国を追い出したそうだ」

「まだ戦力は残っているという事か。蘆名に相馬を、伊達は最上と安東を討伐させる。田植えが終わり次第にこちらから将兵を派遣しておけば良いだろう」

「休む間もなく戦か・・・・・・面倒な事だ・・・・・・」

 

 龍兵衛からは自然と嘆息が出る。

 謀反人や犯罪者には容赦が無い彼だが、上に従ってやむを得ずに動いている兵達もいるのには哀れみを感じていた。

 町人や地主達の不正でも上を罰して関与していない下の者には色々と次の職場を与える機会を作っている。そんな事なので城下町では彼にとある二つ名が出来ていた。

 

「まぁ頑張ろうや『慈悲深き蒼鷹』殿?」

「言ってろ」

 

 前漢時代に出てくる酷吏の代表的存在として宮中を恐怖に陥れた事で名高く、最後は皇族を処刑したことを景帝の母親に恨まれ、泣く泣く景帝は処刑を命じたとされる人物。

 彼の不正に対する厳しい姿勢によって付けられた蒼鷹という通り名と、龍兵衛の善良な人に対する慈悲や城下町での人気になぞらえて付けられた訳だが、本人は彼の事を高く評価していない為にあまり快く思っていないので言われるとこのようにはぐらかすのが大体のことである。

 

「具体的な策は決めてあるのか?」

「腹案はあるけどそれは全員の意見を聞かないと」

「じゃあ今日だな」

「いきなりかよ!?」

「あるって言ったのはお前だろ?」

 

 両手の人差し指で颯馬を指差すと颯馬も溜め息しか出てこない。ちなみに龍兵衛は決してさっきのあだ名で呼ばれた為の意趣返しという悪い考えは持ってはいない。

 

「お前にはあるのか?」

「多分お前と同じ事考えているよ」

 

 にやりと笑い合いながら二人は朝稽古でもどうだという颯馬の誘いに龍兵衛は乗り、道場へと向かった。

 朝の日差しが今日一日の天候を指し示している。だが、その二人の笑いがまったくの作られたものであるとは天も知る由もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「どれぐらいになりそうだ?」

「ひとまず・・・・・・三カ月ぐらいかと」

「それでは織田が既に武田を倒しているかもしれんぞ」

 

 件の策の事で上杉の軍師は謙信と共に具体的な策について論議している。しかし、実行には時間が掛かるのは事実で兼続は懸念が残ると考えていた。

 北条との同盟には謙信と軍師一同、全員が賛同している。つまりは織田との対決姿勢を示すことになるのだが、北条との同盟をしなくても革新的な考えを持っている織田信長は関東管領という役職を幕府から拝命している上杉とはいずれ対立する。

 

「いずれにしろ、今は時間も兵も足りない・・・・・・」

「兵法で速攻こそが勝利の道と言われているが・・・・・・」

「そんな余裕は無いのが現状、だね・・・・・・」

 

 景綱と兼続の言葉を繋ぎ、官兵衛が肯定するとどんよりとした空気になった。謙信も黙り込んでしまい、誰も話そうとはしない。

 龍兵衛は官兵衛をちらりと見る。それに気付いた官兵衛はゆっくりと横に首を振った。もどかしく感じながらも現状の策はこれが精一杯という訳だ。

 本来なら危機的状況で師匠に頼るようなだらしない性格ではないのだが、この時ばかりは仕方なかった。 物質が無い以上は人は何も出来ない事をまざまざと見せつけられている。今ここだけが冬に逆戻りしたようである。

 

「他に何かあるか?」

 

 誰からも発言が無いのを見て謙信は龍兵衛と颯馬の策を取ることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ・・・・・・」

 

 自室に戻ると龍兵衛は押し入れの中に入った。うなだれている時間はない。中をごそごそと探ると一つの大きな箱を取り出した。木で作られた頑丈そうな箱の中から出てきたのは金である。

 

『昨日の店は大分前からあんな事やっていたそうだが、泳がせていたのか? いやに時間が掛かったな。もしそうなら、龍兵衛らしくない』

 

 意外そうな目で謙信から言われたのは別に大した事はない。単に驚いたという発言である。

 何度もいうが、龍兵衛は不正には今までどこかの国が絡んでいようと断固とした態度で臨んできた。その彼が相手が本願寺に通じている可能性が高いという事で不正を揉み消して泳がせるようなことをしたと聞いた時、謙信は驚き、兼続は「捕まえて首根っこから何でも吐かせれば良かったんだ!」とぶち切れかけて官兵衛は弟子の成長に嬉し泣きをした。

 これで官兵衛には後で舐められていたことへの憂さ晴らしとしてじっくりと折檻をする予定が龍兵衛に出来た。

 

「別に俺だってやりたくてやっている訳じゃあないんだが・・・・・・」

 

 人を罰するのは辛いが、やらないといけない事情がある。

 全ては上杉の為、これは正しい悪である。そう言い聞かせると龍兵衛は金の一部を取り出して風呂敷に詰める。その時、もう一つの箱に目が行った。

 その中にあるのは昔の彼の存在を意義し今の彼の存在を脅かしすもの。そして、彼の出生にあった謎を解く鍵が入っている。

 春日山に帰ってきてからずっと調べようとしているが、勇気が出ない。全てを見れば全てが分かる。しかし、それを知りたいという勇気が出ない。

 そもそも昔の自身の心と今の自身の心がやすやすと変わる訳がない。つまりは龍兵衛も元々は人が必ず持つように臆病な性格である。

 

「(まぁ、いいか・・・・・・気が向いたらで・・・・・・)」

 

 内心の恐怖を内心の気ままさで強引に押し殺すと部屋を出て城下町の裏街道に消えて行った。

 仕事を終えた龍兵衛は心の片隅でちょっとした残忍な笑みと共に悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

 その一週間後、件の店の主以下全員が殺害されているのを隣の店の主が発見した。

 しかし、犯人は不明のままその痛ましい事件は主達の無理心中で片付けられ、次第に忘れられていくのである。

 

 

 

 

 

 

 背筋にぞくりとした感覚に襲われた。別に自身の身にも周りにいる誰かにも何かが起きた訳ではない。今後に何か嫌な予感がしたわけでもない。

 

「どうかしましたか? 惟信」

「いえ、何も・・・・・・」

 

 惟信は背後にいた一人の将に声を掛けられる。輿に乗っている女性は惟信よりも背は小さいが、彼女の師であり、実質上の主である。

 

「あまり不安そうにしては駄目ですよ。しっかりと前を向いていなければ兵達も不安になります」

「申し訳ありません。今後は気をつけます」

「分かっていれば良いのです。今は・・・・・・」

「今は龍造寺との戦に集中しろですか? 道雪様?」

 

 遮れられたとはいえ、別段不満そうにはせずにくすりと微笑を浮かべながらその女性、立花道雪は「その通りです」と頷く。

 宗麟に拾われて以降、道雪であれば惟信としての彼女を高める事が出来ると考えた宗麟によって当時、戸次家の当主であった道雪の下で修行を積んでいた。

 その空手などで鍛えた身体能力の高さを見出され、道雪の課す厳しい訓練に耐えて惟信は武勇の才能を開花させ、立花道雪の家臣の筆頭格の地位を勝ち取った。

 

「筑紫、秋月を打ち払い。草野を屈服させた今、大友に対する警戒が強まっています。早い攻めが必要となりますよ」

「毛利は今、尼子と、伊東は島津と、相良は甲斐殿を仲立ちに同盟関係にあります。心おきなく戦えるというものでは?」

「いけませんよ。いつなにが起こるかが分からないのがこの乱世です。今は味方でも明日には敵になるかもしれないのですよ」

 

 すんなりと非を認め、惟信はすぐに「申し訳ありません」と頭を下げる。

 この謙虚な姿勢と普段の暖かい温もりを感じるのほほんとした性格が人からの好感を生んでいる。しかし、当の本人はまったく自覚が無い為にその視線には気付いていない。

 さらに彼女自身が未だに捨てられない未練とそのことを知っている宗麟達が面白がって色々と男の将達を妨害しているので誰もその背中に追い付けていない。

 

「それにしても男性が未練を断ち切り、女性が未練を追う。まるであべこべですね・・・・・・」

「何か?」

「いえ、何でもありませんよ」

 

 邪念を持たずに行けと言った手前、そのような事を考えているとは言えない。小首を傾げる惟信に彼女と違って少しも慌てることなく道雪はすぐに平静さを取り戻した。

 それに道雪は主君から龍造寺討伐の総大将を拝命された身である以上は彼女自身が一番気を引き締めないといけない。

 内心の緩みを打ち直して道雪達は龍造寺討伐の一歩として一路勢福寺城へと向かう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間 九州事情

 外間香代こと由布惟信がこの世界に来たのは因縁によるものだったのか。それともただの神の悪戯だったのか。

 今となっては分からない。だが、当初の彼女は自身の不運を呪い、神を呪った。

 人の着ていた物を盗み出して物陰で着替えている時にその出会いはあった。あの時に出会った金髪の女性。彼女こそが惟信の大元の主君となり、最大の恩人になるとは夢にも思わなかった。

 惟信は九州探題の職を幕府から授かった大友家の中では家というしがらみがあるのは十分に分かっていた。しかし、何年もの修行の末にそのしがらみを越えることが出来た。

 宗麟や道雪、紹運といった大の付くほどの先達や宗茂という家格という垣根を越えた友。彼女達によって惟信は数少ない叩き上げの将として生きるようになった。

 しかし、功を立てて行く毎に惟信の脳裏には彼女が初めて愛した男の顔が浮かび上がっていた。二度と会えぬと思っていたあの時まで、惟信はその募らせていた思いが背中にのしかかっていた。

 故にあの時、河田長親となり、龍兵衛という架空の通称を持った彼に出会った時の心にあったしこりが飛び出すような解放感は今までにあったことではなかった。

 会えた事にただ純粋に嬉しかった。一方で自分を見つめる目がかつてのものとは違っていることも分かっていた。

 

「よりを・・・・・・戻す事・・・・・・出来ないの?」

 

 未練がましいと分かっていた。思い切った発言であったことは分かっていた。しかし、聞かずにはいられなかった。確かに首を横に振られた時には内心がっくりとした。

 それでも因縁の友として、腐れ縁としていることは認めてくれた。 

 それだけでも分かっただけで惟信は嬉しかった。何故なら彼女の全てを知った上で受け入れてくれたのは龍兵衛ただ一人なのだから。

 とある陣の隅で立っていた惟信は風に吹かれる長い茶髪がかった黒い髪をうるさそうに束ねながら春の暖かい日差しを降り注がせる太陽を大して眩しそうにせずに眺めている。雲の流れが風に流れて遊ぶように動いている。その雲がたまに太陽の日差しを邪魔しながら流れていくのを惟信は訳もなく見ていた。

 

「『時の流れは止まらずに流れたい方に流れていく。それは全て気分次第。楽しくもあれば美しくもある。それでも風のように無情でもあり、残酷でもある。止まることをまるで知らずに流れている。それでも人は全てを受け止めようとはしない』」

「ふふっ、それは愛しい人の詩ですか?」

「い、いたんですか?」

 

 後ろから愛用の黒戸次を器用に扱い音も立てずに近付いて、クスクスと面白いものを見つけたように笑いながら近付いて来る道雪に顔を赤らめてしまう。それを見た道雪はそらきたと悪戯っぽい笑みを浮かべて畳み掛ける。

 

「まったく、紹運も宗茂もそうですが。本当に嘘が下手ですね」

「ち、違います。いきなり道雪様が来るから驚いただけです」

「何を言っているのです? 私はずっとここにいましたよ」

「え、嘘ですよね? 絶対嘘ですよね!?」

「ほほほほ」

「笑って誤魔化さないで下さい!」

 

 上洛から帰ってきてからというもの惟信は龍兵衛との関係がバレてしまい何かとからかわれるようになっている。しかも帰ってきた初日の夕餉が赤飯だったりと宗麟主導の悪戯に振り回されている。

 別れたと口を酸っぱくして言ってきたのに聞いてくれない宗麟に惟信はとうとう道雪の下に泣きついた。しかし、それがまたまずかったりする。

 惟信は道雪が宗麟を説教してくれると思っていたのだが、残念ながら道雪は逆に「主君である私を差し置いてなんてことをしているのですか」と結局はますますからかわれる羽目になり、道雪の嬉しくないもう一つの顔を知って今に至る。

 

「まぁ、からかうのは後にして」

「それを止めて下さい!」

「あなたがそんな詩を諳んじる事がありませんからね」

「うぐ・・・・・・」

 

 無視されて軽く凹んだ後にらしくないことをした為に言い返せない状況になった。

 はっきり言えば道雪からすれば惟信はちょろすぎる。義妹の紹運と同じくらいの反応を見せてくれるのでどちらかがいない時はどちらかをからかうのが最近の道雪の楽しみでもある。

 なので、もちろん二人揃った時には二人同時にいい反応をしてくれるのでそれが最も楽しいのだが。

 

「紹運は左翼の指揮をしているので・・・・・・残念です」

「後で一緒にからかおうという腹ですね・・・・・・というか、道雪様。邪念を持たずに戦に行くようにと仰ったのは道雪様でしょう?」

「主として恋に燃える家臣の気持ちを落ち着かせるのも務めですよ」

「いやいやいやいや、燃えていませんし! それに全然落ち着かないですから!」

 

 顔をさらに赤くして手を思いっ切り左右に振って抗議する惟信を見て道雪はさらにクスクスと笑っていた。

 戦は難しい。道雪からすれば戦前に気を引き締めすぎてガッチガチになっている惟信の気を緩める為にやった事だが、少し薬が効き過ぎたようだ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「隆信は勢福寺を本陣として城外に陣を敷いています。先鋒に龍造寺四天王筆頭の成松信勝を置いている以上、向こうもこちらが本気であることを知っていると見て良いでしょう」

 

 紅の髪を束ねた長身の女性、吉弘紹運の報告の後に誰も続けて話そうとする者は誰もいない。宗麟自らの龍造寺討伐ということで軍議の間にもかなりの緊張感が漂っている。

 家臣達はじっと主君を見てその判断を仰ぐ構えである。当の本人はそのような視線を気にもせずに大して暑くもないのに扇子で自分を仰いでいる。しかし、その姿を止める者は誰もいない。

 何故ならこの様は宗麟が頭の中で自身の軍をいかにして勝利へと導くかを考えているからである。

 分かる者は分かるが、今の宗麟の目は目の前にいる家臣達に向いておらず。これからの戦に向いている。しかし、その思考の中で出た結論をすぐさま全員に出すことはない。

 思考を終えた宗麟は先ず家臣の最上位にいる人物に目を向けた。

 

「道雪、あなたはどう思う?」

「そうですね・・・・・・」

 

 その言葉を待っていたかのように道雪は閉じていた目をゆっくりと開き、自らの考えを宗麟に申し上げる。

 

「龍造寺は主君の隆信以下かなりの剛の者が揃っています。さらに、軍師の鍋島直茂もかなりの切れ者。兵力はこちらが上とはいえ、油断は禁物です」

 

 道雪は一旦ここで区切ると将達を見回す。首を捻り考える者やさらなる道雪の言葉を待つ者と十人十色の反応が道雪の目に入る。

 

「兵法には拙速こそが勝利への道とあります。しかし、ここは確実に地固めをしていくべきかと」

「先ずは勢福寺の外に構える陣を叩いて士気を下げ、そこから勢福寺を落とすわけね?」

 

 道雪が肯定すると宗麟はまた考える。

 

「毛利が背後に来ることは?」

「それはないでしょう。草からの報告によると尼子との決戦に入ったようです」

「伊東が島津と手を組むというのは・・・・・・無いわね?」

 

 当然の事だと道雪以外の諸将も頷く。伊東と島津は何度も日向の地を巡って戦ってきた。今更手を組もうなんて考えはお互いには無い。

 

「石宗、あなたはどう?」

 

 今度は道雪の真向かいに座る男性の一人の将に全員の目が向けられる。着込みの上に僧衣を着用し、頭を丸めている為に誰もが僧であることは分かる。しかし、穏やかなその鋭い眼光から出される気は全てを見抜く力を持っていた。

 角隈石宗。

 軍師として大友家をここまで大きくした功労者の一人である。

 

「私が思いますに、龍造寺隆信という者が『肥前の熊』と言われる由縁は決断力に長けており、一度決めたことはすぐに行動に移すからです。されど隆信にはもう一つその理由があります」

「なに?」

「隆信はかつての経験から疑心暗鬼に掛かりやすい性格で腹心以外の者には冷たく接しております。そして、疑った者は迷いなく・・・・・・首を斬る」

 

 そう言いながら石宗はすっと自身の首を斬るように指を動かす。

 

「離間の計ですか?」

「お察しのとおり」

 

 道雪は二度三度頷き、少し眉を潜めた。どこか不満げなところがあるように見える。

 

「反対ね」

 

 そう言ったのは道雪ではなく、宗麟だった。その言葉を皮切りにあちこちから反対の声が上がる。

 

「石宗が言いたいことも分かるけど、その考えは同調出来ない。万が一にも失敗すれば今後に響くわ」

 

 幕府から九州探題の職を拝命している大友家がそのようなことをするという噂が流れるのは幕府の名も汚すことになる。

 

「申し訳ありません。私も実際にそのような策を宗麟様が使おうなどとは考えておりませんでした。ですが、相手は数が下回っているのを知っていて城外に布陣しております。そのいざという時の最後の切り札としてこの策があることをお忘れなく」

「そうならないようにしないとね。紹運、宗茂あなた達は先鋒を頼むわね」

「「御意」」

 

 紹運ともう一人、まだ道雪や紹運と見比べれば、未熟なところがあるが、その武勇は引けを取らない。黒い髪を義母である道雪のように長く伸ばした女性。

 立花宗茂

 道雪と紹運の下で将としての心得を学んだ大友家の将来を担う人物として期待されている。

 ちなみに惟信とは当初から互いに気の合うところがある為に『私』の場では互いに敬語を外して笑いあう仲でもある。

 そして、この龍造寺討伐は二人揃って戦う初めての戦でもあった。 

 

 

 

 

 

 

 一方龍造寺軍では当主の隆信と軍師の直茂が二人で陣幕に座っていた。

 

「直茂、本当にいいの?」

「隆信様らしくないですね。せっかくの機会だというのに」

 

 隆信は不安げな様子である。このような隆信は長らく共にいる直茂もあまり見たことが無いのである意味新鮮なものを見た気がする。

 

「いくら何でもこの数の差は私でも考えるって」

 

 五千の内から勢福寺城に一千を残して四千の兵が城原川に駐屯している。大友軍先鋒は一万五千、包囲されればひとたまりもない。しかし、直茂の目に曇りはなかった。

 

「うぬぼれかもしれませんが、この私が必ず止めてみせますよ」

 

 普段は謙虚な直茂のこの大胆な発言に一旦硬直した隆信だが、我に返ると彼女の肩をぐわしと掴み、子供のような無邪気な笑みを浮かべた。

 

「さっすが、直茂! じゃあ私達はその策に乗じて暴れられる訳ね」

「ほどほどにお願いしますよ」

 

 一応の諫言はしておくが、自身の策に期待を寄せてくる主君に直茂も悪い感情は持たなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 勢福寺城

 かつては守護大名である少武氏の居城だったが、肥前統一を目指す龍造寺隆信がこれを攻めた。このとき少武氏当主少弐冬尚は西島城の横岳氏の所にいて、勢福寺城は重臣の江上武種が守っていたが落城した。しかし、武種は間もなく冬尚を擁して勢福寺城を回復する。だが、再び隆信に攻められ、蓮池城主の小田政光が討死するなど激戦となったが、一旦和議が結ばれた。しかし、翌年龍造寺隆信は和議を破棄して勢福寺城を攻め、少弐冬尚を自刃に追い込み少弐氏は滅亡した。

 少弐氏が滅亡した後は隆信に降った江上武種が城主となり今に至る。勢福寺城は大友家との戦線を維持する為には必ず守らなければならない城で落とされれば隆信の居城である佐賀城は目の前になってしまう。

 逆に言えば、大友家はここを落とすことで肥前の反龍造寺派を取り込むことが出来る。そうなれば、音に聞こえた隆信も窮地に立たせられる。

 隆信は大友家と呼応した有馬、大村を抑える為に四天王の百武賢兼と江里口信常を双方の討伐に当て、自らは大友との決戦をするべく勢福寺城城外の城原川に布陣した。

 その報告を受けた大友軍は総勢四万の大軍を城原川に向かわせ、高橋紹運・立花宗茂の先鋒隊に一万五千の兵を当てた。対する龍造寺軍は僅か五千。

 

「ここは数もこちらが上ですからやはり一気に叩いてしまうのが良いのでは?」

 

 当然のように宗茂は強行策を主張する。だが、紹運の首は縦には振られない。この龍造寺討伐は隆信の早い領地拡大を危惧した周辺の国人衆と宗麟が同調した上でかなり早め早めで出陣が決められた。

 簡単に言えば準備と情報が不足しているのである。さらに紹運は高橋家を継いでから日数がさほど経っていない為、旧臣達との足並みもまだ微妙なところを辿っている状態なので急いて事を仕損じては今後に大きく響きかねない。

 

「どこもかしこも今後を考えていかないといけないとは、まったく面倒な事ばかりだ・・・・・・」

 

 大きすぎる独り言に宗茂も苦笑いを浮かべるしかない。

 

「焦ることは無いが、黙って正攻法では敵の思う壺だ。宗茂は五千の兵を連れて雲上城を取れ。その後すぐに勢福寺南東砦を攻めるのだ。その間に私は龍造寺軍の本隊に攻めかかる」

 

 龍造寺家軍師の鍋島直茂は石宗曰わく私よりも戦には長けているそうだ。ここは数に任せるよりもあえて虚を突く方が良い。紹運の説明に宗茂は頷くとすぐに動き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし三日後の朝、紹運に驚くべき報告が入ってきた。

 

『勢福寺に龍造寺軍の姿無し。佐賀城に退却した模様』

「どういうことだ?」

「宗茂様は雲上に到着次第直ちに城を攻めましたが、すでにもぬけの殻で、そこから勢福寺南東砦に向かうとそこも人一人いない様、おかしいと思った宗茂様は勢福寺城に草を放ったのです」

「それでこの報告か・・・・・・」

 

 あえて本城に兵を集めて戦力を集中させようというつもりなのか。しかし、援軍が無い籠城に意味は無い。第一に武勇で名が通っている隆信が自身の動きを制御する籠城を選択することがおかしい。

 だとすればこのような事をさせる可能性を持っているのはただ一人、鍋島直茂しかいない。石宗が言っていた事に間違いはない。

 そう判断した紹運はすぐに宗茂を撤退させて本隊に伝令を出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 宗麟は報告が届いてすぐに石宗を呼んだ。

 

「なるほど・・・・・・こう来ましたか・・・・・・」

「何か分かる?」

「おそらく直茂は我々を佐賀城に引き付けて慣れた地にて決戦をすることを選んだのです。勢福寺に兵を送るよりは佐賀の方が兵も多く集まります」

 

 僅かに首を上下に揺らしながら石宗は納得したように頷きながら説明する。その言葉に宗麟と道雪も納得したようだ。

 

「微々たる兵も時にはそれが勝敗を分けることもありますからね」

「左様、そうなると我々は早急に兵を佐賀城に向かわせ、ひとまずは佐賀城を包囲しましょう」

 

 

 

 道雪は自らの陣幕に律儀にも控えていた惟信に仔細を説明する。

 

「・・・・・・ということなので、惟信? どうしました?」

「いえ、何でもありません。ちょっと気になる事がありまして」

 

 その真剣な表情に道雪も何かを感じ、いつものようにからかったりはせずにしっかりと耳を澄ませる。

 

「佐賀を包囲する際に宗麟様はどこに布陣するおつもりなのでしょうか?」

「たしか、佐賀城北にある今山だと思いましたが、それが何か?」

「い、いえ、本当に少し気になっただけです」

 

 そう言って惟信は話を強引に切り上げると道雪の陣幕を辞した。

 

 

 

 惟信は別に戦国時代に教養が深い訳ではなかった。しかし、彼女が最もよく知る人がこの時代のことをよく知っていた為にうんざりさせられる程聞かされたので嫌でも知るというものである。

 そして、それが役に立つ時が来たのだと感じた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間 いつぞやの教え

『大友家が衰退した原因は宗麟がキリスト教に傾向し過ぎて仏教信者を省みずに家臣の一派を纏められなかった事に目が行きがちだけど、それだけではない。宗麟は要所要所で島津・龍造寺との戦に敗れて決定的な主導権を握ることが出来なかったことも原因なんだ。ま、この辺は正直テストにはどうでもいい範囲だけどね』

 

 龍兵衛が言っていたこと。今の惟信にはそのどうでもよかったことが大事すぎる程に大事なものとなっている。

 記憶力の良い惟信はそれを覚えていた。そして、その詳細までもをはっきりと明確とだ。

 

 

 

 

 

 先の城原川の一件の一週間後には大友軍は佐賀城を包囲した。反龍造寺の国人衆らも集ってその数は五万にまで膨れ上がっていた。

 宗麟は高良山を本陣として包囲の指揮を執る。だが、龍造寺軍も退路が無い以上は兵法でいう死兵。士気も高く容易に大友軍を寄せ付けなかったため、戦況は小競り合いを繰り返しながら数ヶ月が推移した。とは言え、龍造寺側には長期の篭城戦に必須である援軍の見込みはなく、このままいけば落城は必至の状況であった。

 包囲を続けても落ちる気配が一向になく、諸国の動きを気にしている宗麟は城攻めの大将として弟の大友親貞を三千の兵で前線に送り出し親貞に総攻撃命令を下した。翌日には親貞は佐嘉城の北に位置する今山に布陣した。

 惟信はここが一つの分岐点であることは分かっていた。親貞は凶兆の日を気にし過ぎてなかなか出陣しない。ここは道雪に城攻めの大将を変えるべきだと宗麟に進言したい。

 しかし、それを実行するには家柄という壁があった。

 叩き上げの惟信は大友家の一部から疎まれる存在でもある。幸い道雪がいる為に表面化するような対立は無いが、宗麟に直談判するのには様々な目を向けられることははっきりしている。

 その為に惟信は戦の中で未然に防ぐ策を考えていた。それならば問題は出ない。そして、これはあまり考えてはいないが、もう少しは惟信の発言力も上がる。

 次に起こるであろう戦は局地戦の為にさほど軍全体に影響が出るわけでは無いが、勝機を逸することは避けなければならない。

 ところが、それは最初から頓挫することになった。

 

「私は親貞様よりも道雪殿か紹運殿を城攻めの大将に任ずるのがよろしいかと思います」

 

 そう口火を切ったのは軍師の石宗であった。彼は主君である宗麟に対してその鋭い眼光を抑えることはせずにむしろさらに鋭く刀のような視線を感じさせた。

 

「どうして? たまには弟に功を立てさせて道雪には休んでもらおうと思ったんだけど」

 

 少々不満げな宗麟は負けじと石宗を睨み返すが、彼はまったく気にしない。しかし、既に宗麟は親貞に大将を任じた以上はそれをすぐに覆すとなると彼女には優柔不断なところがあると見られかねない。ましてやこの大軍を率いている大将がそれでは軍全体の士気にも影響する。

 

「私は親貞様が役不足とは思ってはおりませぬ。ただ、この佐賀城を攻めるにあたってはかなりの判断力が必要となります。故に経験豊富な方にお任せするのが良いと考えたまでです」

「・・・・・・惟信、あなたはどう思う?」

「えっ、私ですか?」

 

 今ここには宗麟と石宗の他に三人。道雪と紹運、そして惟信がいる。その為に自分よりも先に二人にお伺いを立てるのが普通であるというのにいきなり自分に振られたものだから惟信は驚きを隠せなかった。

 しかし、当主から振られた以上は答えない訳にはいかない。少し腕組みをして惟信は考えるとすぐに自分の考えた結論を出した。

 

「親貞様を今更変える訳にはいかないのならば、道雪様を副将として親貞様の下に行かせればよろしいのではないでしょうか?」

「なるほど、それなら宗麟様と石宗殿の面子を守れますね」 

 

 紹運は納得したようにおとがいに手を当てて頷く。しかし、宗麟は未だに承伏しがたいように扇子をぽんぽんと叩いて考えている。

 惟信も引き下がりたいところだが、ここでそうするとせっかく乗り掛かった舟から川に落とされるようなものである。

 やはりより確実な勝利を得るため舟にはしがみつく覚悟で宗麟に進言しようとしたが、それも未遂になった。やはり、石宗が割って入ったのである。

 

「宗麟様、これは御家の事情の為ではなく、勝利の為。大友家の繁栄の為です。ご決断を」

 

 ぐっと石宗は宗麟を見て首を縦に振るように祈っている。そして、結局宗麟は折れた。

 

「うーん、石宗がそこまで言うのなら仕方がないか。道雪、行ってくれる?」

「御意、お任せください」

 

 それを聞いた時、惟信は安堵の溜め息を出さないようにするのに必死だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 佐賀城はもともと龍造寺氏が居城としていた村中城を改修・拡張したものである。

 幅五十メートル以上もある堀は、石垣ではなく土塁で築かれている。平坦な土地にあるため、城内が見えないように土塁にはマツやクスノキが植えられている。城が樹木の中に沈み込んで見えることや、かつては幾重にも外堀を巡らし、攻撃にあった際は主要部以外は水没させ敵の侵攻を防衛する仕組みになっていたことから『沈み城』とも呼ばれてきた。また城郭と城下町の完成予想図と思われる『慶長御積絵図』とは異なる部分が多く、厳密には未完成の城である。

 道雪は惟信ともう一人の腹心である小野鎮幸に命じて迅速に準備を進めて翌日には今山に到着した。そこからは佐賀城が一望することができる。

 そこで三人を出迎えたのは姉とは違って真面目で謙虚そうな姉譲りの金髪を長く伸ばした若い男性。

 

「お待ちしておりました道雪殿」

「いえ、親貞様。あなたはこの戦の総大将、頭をお上げください」

 

 道雪がそう言っても親貞は「恐縮です」ペコペコ頭を下げながら徐々に頭を上げる。それには後ろに控えている惟信と鎮幸もその少し滑稽な姿に苦笑いを浮かべるしかない。

 第一に姉と違いすぎる。悪戯好きな宗麟と違って親貞はかなり真面目な性格の持ち主で叩き上げの惟信にも真摯に様々な事を教授したりする。

 そして、それが今回は周囲から見ると少し、惟信と石宗からはかなりの大事となった。

 

「しかしながら、占いでは二十日までは凶兆であると出ています。龍造寺は僅か五千、何故にすぐに動く必要があるのですか?」

 

 真面目すぎる為に様々な事を真摯に受け止めるきらいがある。さらに少し楽観的なところがある親貞は佐賀城をすぐに落とせると高をくくっているが、そこに大きな欠陥が浮き彫りになる事は百戦錬磨の道雪には見逃せる訳がなかった。

 

「親貞様、占いを信じるなとは申しません。ですが、少々私は見方を変えるべきだと思います。凶兆は今のままでは凶となり、攻略法を変える事で吉に転ずると考える事も出来るのでは?」

「確かに道雪殿の見方もあります。されどもう決めたことを覆す訳には・・・・・・」

 

 渋い表情で言う親貞に道雪は先の宗麟への進言の一端も担っている為にこれ以上は強く言えない。

 

「では二十日に攻撃という事でよろしいですね?」

 

 少し道雪は間を取った後にゆっくりと首を縦に振った。

 

 

 

 

 

 

「少し楽観的過ぎるのではないでしょうか?」

 

 陣幕に戻る途中。惟信と対照的に短く髪を切りそろえた女性。年は惟信よりも年上であるのにそうは見えず、背丈は紹運と同じくらいだが、頬に古傷があるところから長きに渡って戦に身をおいている事が分かる。

 小野鎮幸。

 惟信にとっては姉貴分のような存在でもある一方で色々と道雪と一緒に惟信をからかってくるようなところもある為、公では頼れるが、私ではあまり頼りたくない存在でもある。

 

「決まったことです。もはや親貞様が考えを改めるとは思えませんが、我々は大友家の勝利の為に動くのみです」

 

 道雪は既に戦へと頭が切り替わっている。親貞を止められるのは道雪だけでもはやそれがかなわない以上は進むしかない。それは鎮幸も惟信もよく分かっている。

 

「こうなった以上は龍造寺軍の奇襲に気を配る必要があります。鎮幸と惟信は警戒を怠らないように」

「「はっ」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その二日後の夕刻。

 直茂は机に向かって書き物をしていた。城壁の向こうには敵がいるというのにその表情に悲壮感はなく、ただ目の前の書き物に集中している。そうしていると襖の外にすっと気配がした。

 

「直茂様、報告です」

「遠慮はいりません」

「敵大将大友親貞は現在宴を催しております。おそらく戦前の宴かと」

「分かりました。引き続きお願いします」

「はっ」

 

 そう言うと外の気配はまたすっと消えた。そして、それと同時に直茂は立ち上がって隆信の下に向かった。

 

「隆信様」

「来た?」

「はい、間違いありません」

「よし、出るよ」

「御意」

 

 隆信の後に直茂は続く。決戦の時はこの時しか無い。

 

 

 

 

 夏至はとうにすぎている。しかし、残暑は厳しく汗が滲み出るような暑さが夜まで続いていた。その中を龍造寺軍の選び抜かれた精鋭は迅速にかつ隠密に進んでいる。

 今山には静かな脅威が迫っていることは宴で盛り上がっている親貞が気がつく筈がなくそのまま龍造寺軍は緩い監視の中をかいくぐって大友軍本陣に迫った。

 そして、隆信が鞘から抜いた刀は一つの陣を差す。

 

「かかれ!!」

 

 その声を合図に四天王の円城寺信胤率いる弓隊の矢が一斉に夜空へと舞った。そして、突然の奇襲に混乱している大友軍大将大友親貞の陣に信勝の精鋭部隊が斬り掛かる。

 宴で前後不覚になった者達は馬に蹴飛ばされ、必死に抗おうとする者も混乱状態でまともに戦えない。そして、親貞を探して龍造寺軍はさらに攻勢を強めて行った。

 さらに直茂は大友軍の陣に鉄砲を撃ちかけ「寝返った者が出た」と虚報を流して大友軍の中心を機能出来ないようにしてしまった。

 そして、隆信自ら白刃を血に染め上げていき、親貞のいる本陣に迫る。だが、龍造寺軍の精鋭は後一歩のところでというところで立ち往生を余儀なくされる。

 

「ぎゃあぁぁああ!!??」

 

 矢の雨が今度は大友軍から降り注ぐ。そして、今度は騎馬兵・歩兵が攻めかかってくる。未だに冷静に対処できる将がいるようだ。

 しかし、所詮は悪足掻き。親貞を討ち取れば大友家は勝機を失い必ず攻め手を失う。隆信直々の指揮の下で兵達はそう思っていた。

 だが、一人の人物が登場すると同時に戦場の空気は一変した。

 

「お、鬼だー! 鬼道雪が来たぞー!!」

「何!?」

 

 冷静な信勝も思わずその兵が指差した方向をはっと見てしまう。松明の火が姿を映している。そこには見間違う筈の無い黒戸次に乗りながら刀を振るう華麗な女性。しかし、握られている刀、雷切には殺気が溢れんばかりに漏れ出ている。

 

「なるほど、全て道雪殿の手の平だったということか・・・・・・」

 

 仮にも主家の一族たる親貞を囮に使うような策を信勝に思いつけと言われるとさすがに無理である。仕方無いと思いながらも信勝は隆信に撤退を促しに向かった。

 そして、その間にさらなる凶報が舞い込んでいた。

 

「申し上げます。大友軍伏兵が自軍の退路を封鎖しているとのこと」

「そう、なら仕方無い。信勝と信胤は殿を頼む」

 

 信勝と後陣からの報告を受けて怒りをかみ殺しながら隆信は撤退の合図を出した。

 

「申し訳ありません。まさか道雪殿がこのような事を・・・・・・」

「気にしないで直茂、私も少し宗麟の弟に目が行っていたし」

 

 互いに少しばかり意気消沈する。伏兵による挟撃をどうにか振り切ったが、僅か一千にも満たない兵で打って出た為に犠牲は少ないものの周りの兵は数えられそうなまでに減っていた。

 そして、直茂は明日から行われるであろう大友軍の攻撃にどうすれば対抗できるか考えながら馬を走らせる。

 思考は川上川を渡ろうとした時に遮られてしまった。川の草村から流れ星のような矢が降り注ぐ。

 

「申し上げます! 大友軍の伏兵です!」

 

 そう隆信に言った兵の背中に矢が刺さった。その方向を直茂が見ると歩兵が一斉に掛かって来た。

 

「我こそは小野鎮幸! 死にたい者は順に前に出ろ!」

 

 叫び声が聞こえる。鬼道雪の腹心の一人の鎮幸が槍を振り回している。しかし、直茂はそれに目をやる暇はなかった。

 隆信を守るように下がらせる。だが、背後からも叫び声が聞こえてきた。

 

「由布惟信これにあり! 私と戦いたい者はいるか!?」

 

 道雪の誇る立花双璧がやってくる。その戦場を想像するだけで龍造寺軍は恐怖に陥る。しかも惟信は続けざまに「道雪様が来たぞ!」と叫ぶものだから奈落のように恐怖のどん底に落とされて行く。

 悔しい思いを抱きながらも直茂は当主である隆信を佐賀城に無事に戻すことに必死になっていた。信勝や信胤がいる為に心配は無いはずだが、どうにか犠牲を少なくする必要がある。

 その時佐賀城の方から騎馬の音が聞こえてきた。

  

「直茂様! 援軍です。援軍が到着しました!」

 

 その先頭には一応は四天王に勝るとも劣らない武勇を持っており、自身も四天王の一人と自称している将。

 

「昌直、よく来た」

 

 隆信が少しほっとしたようにその将に視線を向ける。

 

「隆信様、ご無事でなによりです! あとは俺に任せて下さい!」

 

 木下昌直はそう言うなりすぐに大友軍に斬り掛かって行った。そして、この間に隆信は直茂と共にどうにか佐賀城に帰還するのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時をその日の昼に遡る。

 親貞が直接が道雪の下にやって来た。内容としては明朝と総攻撃を仕掛ける故にその前祝いとして宴を開きたいというものであった。

 

「いけません。勝ってもないのにどうして宴を開く事が出来ましょうか?」

 

 一旦親貞は下がった後、惟信は即座に反対の意を示した。道雪と鎮幸もあまりこの誘いにはあまり乗り気ではなかったが、ここまで惟信がはっきり言うのには少し驚いた。

 普段は上に逆らうような性格ではないが、物事をはっきり言う性格の為に色々と疎まれているところがある彼女に道雪も鎮幸も少しは釘を差すこともしているが、今回は聞いてくれない。

 そこまでして何かあるのではないかというのならば道雪も無碍には出来ない。再び親貞を呼ぶと宴は戦の終わった後にするべきだという旨を伝えると残念そうにしたが、自分は宴をするというように伝えて出て行った。

 惟信がその生真面目なくせに楽観主義者の背中に何か言おうとしたが、鎮幸がそれを止めた。こうなったからには自分達だけでも気を引き締めなければならない。

 

『大友軍が佐賀城攻めに失敗したのは親貞が前祝いとして宴を開いたことだ。これは長い戦乱の中でもよくある話で桶狭間の戦いでも一説ではそれが原因であるという説もある。このおかげで龍造寺は一応服従の形を取っていたけど戦略上は大友家と対して有利になった。取った領地は自分達のものに出来るようになった・・・・・・って、ごめんごめんまた話が逸れたな』

 

 段々と思い出す度に蘇ってくるのは今後の大友家の行く末を語る龍広の姿。その声を思い出し、拾い上げて惟信は道雪に今日龍造寺軍が夜襲を仕掛けたらどうすればよいか聞くと、道雪もはっとして目を開き、鎮幸も顔を青ざめた。

 

「惟信、直ちに親貞様の陣の周りに兵を配置する準備を始めて下さい。鎮幸は私と共に親貞様の本陣に向かいます」

 

 道雪の素早い指示に各自すぐに動いた。すぐに惟信は兵をいつでも移動できる状態にして道雪の帰りを待つ。そして、少し日が西に傾き始めた頃に道雪は帰って来た。

 案の定親貞は一応は気をつけると言っていたものの味方の士気を上げるための宴を中止する事はしないと聞かなかったようだ。

 

「こうなった以上は致し方ありません。惟信、手筈は整っていますね? あなたは下村に伏せて鎮幸と協力して敵を挟撃して下さい。 鎮幸、あなたは川上川に伏せて撤退してくる龍造寺に追撃を。私は密かに親貞様の陣に向かい敵を迎え撃ちます」

 

 やむを得ない決断ではあるが、大友家の為には鬼となるしかない。鎮幸と惟信は溜め息を吐きながらも道雪の後を付いていった。

 そして、二人は結果的に龍造寺軍の精鋭中の精鋭を破った。残念ながら敵将の木下昌直の奮戦で隆信を取り逃がしたが、一応は決戦であった為にこの勝利は大友軍全体の勝利をより確実なものとする。

 

「申し訳ありませんでした」

 

 今山の本陣に戻った道雪と二人の家臣は親貞の謝罪をまず最初に受けた。

 親貞からすればこの勝利は喜べない。自身の楽観視が戦を動かした。下手をすれば龍造寺に主導権を握られていたかもしれない。

 

「親貞様、僭越ながら申し上げます。戦に楽なものはありません。必ず勝利できるとは限りません。気の緩みは敗北を招きます。それを親貞様は肝に銘じるべきです」

 

 厳しい言葉が親貞に突き刺さる。しかし、道雪は毅然として頭を垂れる親貞から目を離さない。親貞はもう一度「申し訳ありません」と言うと明朝の戦を道雪に一任したいと言ってきた。

 しかし、道雪は良しとはしない。

 

「親貞様は宗麟様の弟君、一介の家臣である私が出る場ではありません」

 

 頑なに厳しい。変わることは無いと悟った親貞は明日は必ず最後まで自身の悪い癖を出さないようにすると誓った。 

 それを見た惟信は勝利を確信し、龍兵衛に心から感謝したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今山の戦勝の報告を受けた宗麟は内心で拳を握り締めた。しかし、この戦はあくまでも局地戦。まだ佐賀城は落ちてはいない。その事を石宗に窘められると宗麟ははいはいとうるさそうにしながらも緩みかけた緊張の糸を直した。

 

「ふぅ・・・・・・」

 

 一方陣幕に戻った石宗は宗麟が抑えた溜め息以上の溜め息を吐いた。一つの山を越えたように疲れたその表情は普段の石宗からはあまり見られないものである。

 

『石宗、あなた最近拾ったっていう孤児《みなしご》。別に僧であるあなたが見逃すなというのは言わない。私もそうする。だけど、あそこまで信用していいものなの?』

 

 先程言われた宗麟からの言葉にあったのは自身が拾った惟信に対するものとは対照的な石宗が拾った若者に対する不信感と普段の彼女からは思えない程の嫌悪感であった。

 

「信用というよりは・・・・・・面白いと思っただけですよ。宗麟様、あれは必ず・・・・・・必ずや必要となってくる筈です」

 

「ふふっ」と口の片方をを歪ませ先程は宗麟に言わなかった石宗の言葉にはどこか確信めいたものがあった。

 

 

 

 翌日

 万策尽きた龍造寺隆信は家臣と共に大友家に正式に和睦をせざるを得なくなったのである。




史実では惟信と鎮幸の年は惟信が上で鎮幸が下ですけれど、オリジナルということでそこはどうか気にしないで下さい。
それから皆さんに前もって言っておきます。決して月冴は出しません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十五話改 幸せになりたい

 晩春を過ぎた五月上旬のこと。二つの動きが起きた。

 一つは北条が上杉に同盟の使者を密使として送り込んで来た。憲政がかなりの反発を示した。

 彼女自身、関東に未練がある訳ではないが、かつて重臣である太田道灌を北条が殺めたことは許せないらしい。

 しかし、上杉の他の者達にとってはまたとない機会かもしれないという意見もあれば、慎重に考えるべきだという意見に分かれた。

 双方に利点と欠点がある。

 まず同盟を結べば東海道を北条が、その後ろを下って上杉が織田を二方面から攻めることが出来る。どちらかが勝つことでそこからむかう負けなしの織田軍全体に影響する。

 さらに今の内に織田に勝っておけば今後は失った所領を奪還するのに時間を掛けることも出来る。

 欠点は仮に負けた場合が怖い。もしも負けたら立て直す間もなく織田軍は追撃してくるだろう。そもそも上杉にはその余裕はまだ残っていない。

 第一に上杉が関東に下るには武田の存在がある。武田は織田とは対立しているとはいえ上杉とはもっと対立している。

 先の戦の背後に武田があるのではないかという意見も出る程に上杉の武田に対する不信感は強い。逆もまた真なりで武田も上杉に対する不信感は強い。

 次いで同盟を断った場合の利点は上杉の削られた力を取り戻す時間が出来ることだ。先の戦で失ったものは優秀な将三人と何千という兵達。双方の欠落を埋めるのはかなり難しい。

 故に、しばらく北条に織田を任せてじっくりと観察させてもらう第三者の立場に立つことで上杉の力を蓄えるべきだとかれらは意見した。

 欠点は今後戦うであろう織田との戦いに不利になるかもしれない。これ以上の織田の戦力拡大を指をくわえて見ているのはいかがなものか。

 美濃や東海道の豊かな国々とこの冬には九鬼嘉隆の先導で紀伊と南近江の六角という織田は畿内の豊かな国々を着々と併合している。

 そもそも将軍家との仲もぎくしゃくし始めている織田を関東管領の上杉が見逃しているのは世間体でよろしくない。そして、将軍家からも織田に警戒するようにとの密書も来ている為に無碍には出来ない。

 また背後で椎名がよからぬことをしてくる可能性も高いという危険性もある。

 というのが全体の同盟賛成派と反対派のお互いの言い分である。

 やはり戦となる可能性が高い為に景家や景資、慶次に長重、兼続辺りが賛成派。逆に親憲や弥太郎といった武将の中でも穏健な人物と颯馬や官兵衛、龍兵衛といった政治的な立場もとっている軍師が反対派を占めていた。そして、かれらは評定にて白熱した議論を繰り広げていた。

 

「もしこれで中央に遅れたらどうするんだ!?」

「俺は確実に行こうと言っているんだ! 兼続のやり方では危険が大きい」

「颯馬は慎重すぎる! 虎穴に入らずんば虎子は得ることは出来んぞ!」

「「ぎいいいぃぃぃ」」

 

 他にも賛成派と反対派が文字通りあっちこっちで議論を白熱させる中で謙信と景勝は静かにそれを見ているだけ、他家の面々は目を動かして呆然とその様を見届けることしか出来ない。

 特に新しく降った伊達家の面々は先に降ってこういった光景を何度も見て慣れていてじっと茶を飲んで待っている蘆名や夕飯に鮭が出ないかなと思っている最上に比べて目が点になっている。

 成実においてはあっちこっちに目を動かしすぎてそろそろ目が回り始める頃になっている。

 

「な、なぁ、謙信殿、放っておいていいのか?」

 

 政宗が勇気を出して謙信に近付きそっと聞くが当の本人はどこ吹く風。さして気にしないようにただただ眺めている。

 

「まぁ、いつものことだ。もうしばらくはこうさせておこう」

「(うんうん)」

 

 隣の景勝も同意だというように少し笑いながら頷いている。しかも、その表情にはこの状況をどうするのかという危機感よりもむしろ楽しそうに眺めている二人の姿がある。

 

「・・・・・・本当に大丈夫なのか?」

「大丈夫さ。まったく、盛隆ももがみんもそうだったが、そんなに心配することでは無いというのに」

 

 ぼそっと言ったつもりなのに聞き取られたことに驚きながらも謙信から出てきた発言に政宗は溜め息を吐きたくなった。

 義守は謙信の口の動きに違和感を感じたようで訝しげに目を謙信に走らせて首を傾げている。

 

「(それは絶対に変なごたごたが起きると不安になったからだと思うぞ)」

 

 政宗の心配をよそに、相変わらず謙信と景勝は涼しい顔をしている。それは別にこれで表立った対立が出る訳ではない。上杉の結束力は高いことを知っているからである。

 そして、伊達家も着実に毒されていくであろうことも謙信は予想出来ていたのは彼女の内心だけの話。

 なんやかんやで半刻が経ち、将達が言い争うのに疲れてきたところを見計らって謙信はようやく口を開き始めた。

 ひとまず北条と手を組むことは得策でもある。しかし、すぐに戦おうとすれば間違いなく織田から圧迫を受けている武田は空いた越後に活路を求めてやってくる。

 

「つまるところ、同盟を組もうが組まないが、損益は変わらないということだ」

「謙信様は同盟は組んでも動かないと?」

 

 颯馬の質問に謙信は如何にもと頷く。謙信とて中央に出たいのは山々だが、今はあくまでも確実な勢力拡大が第一である。

 

「颯馬はひとまず北条の使者には同盟に承知したと伝えよ。しかし、すぐの出陣は無理だとも伝えておくのだ」

 

 さらに謙信は弥太郎達に兵の鍛練の強化を軍師達には安東と越中の状況を探らせるように命じた。

 

 政宗達外様の者達が去り、上杉の者達だけになった途端、雰囲気が一気に和らいだ。

 

「謙信様、狙っていたよな?」

 

 軍議が終わったすぐのこと。弥太郎の嫌味ったらしい発言から始まった。

 

「ん、何のことだ?」

「とぼけなくてもいいですよ。私達を疲れさせて確実に言いくるめようとしていたのは見え見えです」

 

 兼続も弥太郎に負けないぐらいのじとっとした目を謙信に向ける。他の将達も同様にうんうんと頷く。しかし、謙信は肩をすくめてまったく気にもとめない。

 

「分かっていたのならそなた達で止めればよかっただろうに」

「止まないこと知ってて言ってるわね・・・・・・はぁ、まったくけんけんのそういうところ苦手だわぁ」

「だいたい、景勝様も黙っていないで止めて下さい」

 

 慶次の不満を無視して今度は龍兵衛が矛先を景勝に向ける。景勝に謙信を止めるのは不可能であることは皆が承知済みのこと。それでも、龍兵衛は言わないと腹の虫が収まらなかった。

 

「抑えられるのは景勝様だけなんですから」

 

 それでも懇願するように龍兵衛は景勝に頭を下げる。しかし、景勝は無理だと左右に首をぶるぶると振る。

 何故か指摘されたのに全員から「ですよねー」という目を向けられてしまい景勝はしゅんとしてしまう。

「だったら聞くではない」と謙信も龍兵衛を叱るように言っているが、口元が歪んでいるあたり、駄目である。

 結果としては上杉は北条との同盟を締結した。しかし、あくまでもすぐには出陣出来ないということはちゃんと添えておいた。

 これで今しばらくは時間が稼げるというものだ。まだ中央ではなく確実に東北を取ることが先である。

 

 ちなみにこれは余談である。

 

「(ぷいっ・・・・・・)」

「すみませんでしたぁ!」

 

 理不尽にも龍兵衛に謙信を止めるように苦言を呈された景勝は皆から哀れそうな目で見られたことにご立腹であとでこれを察した龍兵衛が謝りに行ったが、景勝は完全に拗ねてしまい土下座をしてもなかなか許してくれなかったそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 二ヶ月後、織田軍がいよいよ信越地方に本格的な侵攻を開始した。織田はひとまず武田領に進軍を始めた。

 伸びきった戦線を断たれるのを恐れた当然の戦略といえる。今頃は武田の高遠城にでも侵攻を開始したあたりであろう。密偵からの報告では徳川・今川には東海道から下山城を攻略するように命じたらしい。

 

「武田は騎馬隊が主力。おそらく平野部での戦を望むでしょうね」

「でも、甲斐にそんなところ少ないでしょ? あたしだったら山の上から攻めるね」

 

 報告を聞いて廊下で他人事のように話している師弟は武田が勝つ確率は低いということを知っている。

 

「おそらく織田は相手が騎馬隊ということで虚を突いた戦法を取るでしょう」

「もし、それが封じられても火縄で馬を制御不能にさせる。か」

「間違いなくそうでしょう・・・・・・自分の知るところですからね」

 

 薄く笑う龍兵衛に官兵衛も納得したように頷く。そして、官兵衛は間違いなく武田は敗れると確信したように溜め息を吐いた。

 

「まぁ、半兵衛ちゃんもいることだし、織田が負けることはないか」

「とりあえず勝とうが負けようがあのゴミには消えてもらいたいですけどね」

「それは皆が思っていること」

 

 それは二人に一致する憎悪の念。張り倒してやりたいという衝動に駆られる。頭にその姿が見えるだけで怒りが込み上げて叫びたくなる。

 しかし、そこはぐっと我慢する。斎藤での一件を知られるのは自身達の首に影響しかねない問題なのだから。

 だが、今は織田と武田の戦よりも主家のことを考えなくてはならない。

 

「(もし仮に武田があっけなく敗れた場合、上杉は失った領地を取り戻す猶予が無くなる。武田がそうなるとは考え難い。だが、秋田の阿仁を奪還するには少し越中に仁義を切っておかないとな・・・・・・)孝さん、後で少々お時間をよろしいですかね?」

「越中のことならいつでもどうぞ。颯馬と兼続も呼んでおいてね」

「まじかよ・・・・・・」

 

 考えていたことを完全に見抜かれたことに素になってしまった龍兵衛を見て官兵衛はけらけらと笑う。怒った龍兵衛が官兵衛の頭を殴って逃げて行く。突然のことで一瞬、頭が真っ白になった官兵衛だが、すぐに覚醒すると出来たたんこぶを押さえながらも追い掛ける。

 一見愉快そうだが、二人の心境はまったくの真逆なものであり、暗い感情を押し殺しているに過ぎない。

 せめてもの救いは天気が良く晴れていることのみ。 

 

 

 

 

「なるほど・・・・・・分かりました」

 

 早雲はゆっくり頷くとその報告と書状から目を離す。そして、怒りをかみ殺したような溜め息を吐くとその書状を燃やした。

 

「時間がいる? この私も舐められたものですね。見え見えですよ謙信殿。我ら北条に全て任せることは」

 

 だが、気持ちも分からなくはない。上洛帰りに起きた上杉と北陸の反上杉の同盟軍との戦は諸勢力にも行き渡っている。

 もし早雲が謙信の立場であれば時間がもう少しいるというのは分かっている。

 だが、今はそんなことを言っている場合ではない筈なのだ。織田という脅威が畿内からやって来ているというのにどうしてこうも危機感が無いのか。

 だが、危機感が無ければ越後統一の際にその波に飲み込まれていた筈。足掛かりがあまりなかったところはかつての長尾と北条は一致している。

 故にそのような状況からここまで上杉を大きくした謙信の手腕を早雲は高く評価はしていた。

 早雲にしろ謙信にしろ願うのは民の平穏。しかし、その為には国を欲しなければならない。様々な強かな策も施してきた。

 だが、この時代ではその苦労も一日で木っ端微塵に砕け散るもの。故にこの状況はどうにかしないといけない。知らない阿呆は生き残れない。

 早雲は口元を直線から少し片側をつり上げると目を閉じながら天井に顔を上へ傾ける。

 

「ですが、ここにきてこの応答は何かあるようですね・・・・・・まぁ・・・・・・全て思う通りにはさせませんけど・・・・・・」

 

 早雲の眼光は怒りを以て鋭く光る。そのままゆっくりと立ち上がって控えていた小姓に重臣達を集合させるように命じた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十六話改 あのことにさようなら

 目まぐるしく動く勢力図の中に呑まれないようにする為に見るべきものはまだ中央ではない。まず東北の失った領地を全て取り戻すことである。

 五月下旬、そう判断した謙信以下重臣達は安東愛季に一旦降伏勧告を出した。

 愛季の答えは徹底抗戦。先の戦で義光に討たれた浪岡顕村の敵もあるということで降伏は一切受け入れないということであった。

 これを聞いた謙信は早速新しく新発田城城主となった長尾一門の千坂景親を大将とした約四千の兵を東北に向かわさせた。

 最上や伊達にはその援護、というよりは実質の本隊とも言える程の軍勢総勢約八千、計一万二千にて露払いを命じた。

 また、蘆名には二階堂と共に五千の兵が未だに従わない二本松・相馬・大内・白河結城の討伐を命じて弥太郎率いる七千の兵、計一万二千を派遣した。さらに密かに安東の背後にいる葛西・大崎に密書を送りより確実な勝利を得るための布石を整えた。

 かねてより金には人が現を抜かす程の力があることを知っていた軍師達は阿仁の奪還に燃えていた。特に金に関しての執念深さは上杉随一の龍兵衛は目から火が出るのではないかと官兵衛から思われた程である。

 最上は安東に対するお目付役を東北方面の指揮を任されていた長重と共にかつての謀反を防げなかった不覚を取り返す為に息を巻いていた。

 だが、その整えておいた筈の布石は最初の枠組みから崩れ落ちることとなる。

 

「葛西も大崎もこっちには付かないと?」

「は、返書はこちらに」

 

 苛ついたままだが、感情を抑えて丁寧に兵から書状を受け取ると長重は舌打ちと溜め息をして軍師として隣にいる官兵衛に渡した。

 

「はっきりしたね・・・・・・」

「あん?」

「葛西と大崎は上杉よりも織田を選んだんだよ」

「・・・・・・成る程な」

 

 腹立たしいことの筈が長重は怒る気になれなかった。状勢が分からない彼ではない。今や東北から畿内にかけて、各勢力の動きは全て連動するところまできている。

 織田・上杉・北条・佐竹・武田。この五つに全て絞られた。佐竹は動かずに静観している。つまり、佐竹は大業を夢見るよりも家を守る事を選んだということだ。はたまた興味が無いのかもしれない。

 残る四つの勢力の内、武田は織田に動きを封じられつつある。北条はこれ見よがしと里見を攻めて勢力を拡大しつつある。しかし、今川の目にいずれ止まり織田が動く日が来るであろう。

 それは上杉に対する越中の椎名にも同じことが言える。一応は独立しているように見えるが、上杉の者は知っている。所詮、椎名も富樫晴貞の犬であると。

 晴貞は真言宗信者の謙信を快く思っていない。それは本願寺に即した視点である。しかし、晴貞の野望である北陸の統一に上杉が邪魔であるのは目に見えている。迂闊に大きく動けない。

 それを見た葛西・大崎は大きく動かんとしている織田に目を惹かれたのだ。畿内にも多大な影響力を示し始めているかの家に東西問わずに魅せられている。

 織田は『新』を求めている。全てを塗り替えようと、足利幕府との世代交代の時代の到来を示している。それに惹かれる人物は後を絶たない。

 しかし、革新による世代交代には保守による逆の波が押し寄せるのも古来よりの慣わし。上杉のように関東管領を拝命している『旧』に頼り『箔』を欲しようといる者もいるのは事実。足利が良い例だ。

 北条にはそのような『箔』がない。そのために『新』と『旧』の間で『中道』として独自の勢力を成り立たさせいる。さらに下剋上の象徴たる早雲が健在故に人は北条が軍事的制裁しない限りなかなか靡かない。

 話を戻すと葛西・大崎は『旧』として上杉を見たのだ。もはや東北に関東管領という古いものは通用しない。

 

「舐めてくれるぜ・・・・・・謙信様の考えも理解しねぇで」

 

 謙信の時代にこびりついた『旧』の心は決して偽りではない。しかし、真でもない。

 時代の変わる波に乗る『新』という心も併せ持っている。それをさらけ出さずにそれとなく見せている。それに気付き、同調したのが蘆名・最上・伊達である。しかし、残念ながら分からない者達もいたということだ。

 

「それに辛酸をなめさせるのがあたし達の役目ってやつじゃない」

「それもそうだな・・・・・・」

 

 長重の視線の先にいる官兵衛の目には知者の輝きが宿る。そこにはもはや後ろにある刃に畏怖する姿はない。

 弟子と共に何があったかは知らないが、上杉の為に一緒に真摯に動いている姿を見れば信用などすぐに持ってしまった。

 

「申し上げます。最上様、伊達様がお見えになりました」

「軍議で発表する策は纏まっているよな?」

「もちろん」

「じゃあ、行くか・・・・・・」

 

 長重の心は決まっている。信頼する主君を裏切った者に待っている事の顛末は死である。そして、かの者を討てば、それに対する協力者も反上杉の考えを改めてくれるだろう。

 

「しかしながら、甘粕殿も大変ですな。本来は副将として出向く筈であったのに」

「はは・・・・・・まぁ、千坂殿は元々あまり戦は得意としていませんから」

 

 開口一番、輝宗は平気で言い難いことを言い出した為、長重は驚き、苦笑いで答える。

 長重は山形城に残った景親から実質の総大将を任されている。元々こういった予定であったとはいえ、上杉には自身の判断で動ける人が決まっていると言われているようなものである。事実だが、あまり痛いところを突いて欲しいものではない。

 

「父上、あまり戦の前から水を差すようなことは言わないで頂きたい」

 

 発言者の輝宗の隣から娘の政宗が呆れたような口調で咎めると素直に頭をかきながら下がる。

 輝宗はどこか自身の細君に似ている娘に頭が上がらないらしい。

 そして、龍兵衛曰わくかなりの娘馬鹿だそうだ。それを聞いた時に颯馬が何かぶつぶつと呟いていたが、官兵衛には残念ながら聞こえなかった。

 

「まぁまぁ、あまり喧嘩をすると戦で力が出ないぞ?」

 

 間に入ったのはちょうど二人の真向かいにいた義光である。別に喧嘩という程に大きいものではないが、二人の間に籠もった熱を冷ます程の水はかけられたようで大人しく折れてくれた。

 かつては宿敵同士であったとはいえ輝宗の妻は最上出身であるし、上杉の私の常にのびのびとしている雰囲気によって摩擦は全く無くなった。

 こう考えると上杉の包容力は恐ろしくもある。かつては蘆名も伊達とはあまり良い関係とは言えなかった。

 これは全て定満の影響だと官兵衛は思っていた。彼女自身はあまり定満と一緒にいたことは少なかったが、それでも龍兵衛から聞いた彼女の人となりと自身で見た彼女を合わせると上杉のすみからすみまで定満の影響力が及んでいると思える。

 故に、皆は定満が死んだ時に悲しんだ。だが、第三者に近い存在だった官兵衛はどこか安心もしていた。定満のその包容力と影響力はもしかすると謙信をも凌駕しているのではないかと思うようにもなっていた。

 そのために定満の早い死は謙信をさらに引き立てる為に不可欠なものだったのかもしれない。

 それは必要なものでもあった。遺されたそのなんとも言えない不思議な力は上杉になくてはならないものでもある。そして、惹かれた者がここに馳せ参じていた。

 

「戸沢殿、誠に援軍に感謝致します」

 

 形式的に長重と官兵衛は頭を下げる。とはいえここにいる褐色色の女性、戸沢家当主戸沢盛安は上杉に降ったも同然で本人もそうすると言っている。

 病弱な兄・戸沢盛重にかわって、十三歳の若さで家督を相続し、角館城主である彼女は大曲平野の進出に当たって小野寺とは対立を深めていた為に元々最上を通じて上杉とは関係を築いていた。

 

「いいや、助けられたのはこちらの方です。誠に上杉には返しきれない恩を頂きました」

 

 形式的に盛安も頭を下げる。実際、盛安は安東とあまり仲が良くなくどこか上杉と自身が上手くやっていけると感じていた。その動きが悟られたために安東らに圧迫されたところに渡りに舟のようにこの上杉の到来である。

 すぐに官兵衛が図面を広げて軍略上の策を説明し始めた。まずは安東の前に小野寺景道の横手城を落とすことが肝要である。

 その過程として稲庭・川連・西馬音内・大森・湯沢などの支城を陥落させてから横手城を囲む。

 その間に愛季が援軍を出してくれば御の字である。こういう事はあまり軍師らしくないが、纏めて倒すことが可能になるというもの。数では上杉側が上である以上は遅れを取るという可能性は低く、その機を逃す必要は無い。

 

「今回の戦は速さが重要。いつまでもゆっくりとしていたらまだ上杉に靡かない勢力が旗揚げするよ」

「後詰めの色部殿を待つ暇はないってことか」

 

 西の富樫や織田のこともある。いざとなれば今回は力攻めも必要になってくるだろう。そして、それは上杉にとって願ってもないことである。

 上杉が回復に集中している間に愛季は由利郡の大半を安東の勢力下に入れた。上杉ではそう解釈されている。

 

 軍議が終わり官兵衛は景綱や定直と共に陣内の周りをぶらりと歩きながら軍議の場で話せなかったことを三人はゆったりと話し合っていた。

 

「懸念するとなれば八柏道為だね」

「小野寺随一の知者ですね。かの者には我らも手を焼きました・・・・・・」

 

 名前を聞いて渋い顔をしている定直の協力によって情報はしっかりと入っている。そして、危険人物は事前に知っている。その第一に上がったのが八柏道為である。

 上杉の降る前の最上が奪った義道が旧領の回復を図って挙兵した有屋峠の戦いでは、緒戦は道為の巧みな用兵で最上勢の多数を討ち取り最上勢は退いた。しかし、戦い自体はその後に最上勢が反撃に転じ小野寺軍は五百余人が討死し退却せざるを得なかった。

 

「降伏してくれれば良いんだけど」

「おそらく無いでしょう。彼の忠義はかなりのものと聞いております」

 

 官兵衛の期待は脆く定直に崩された。

 景道の父、小野寺稙道が家臣である大和田光盛や金沢八幡別当、金乗坊に殺害されると景道を助け、後年、光盛と金乗坊を滅ぼすのに尽力した。いわゆる景道の恩人であり、忠義者でもある。

 しかし、その切れ者にも欠点がある。腕を組む二人に景綱が手を挙げた。

 

「ご案じ召されるな、それについてはもうこの片倉が手を打っておいた」

 

 自信ありげな景綱から出された策は見事にその欠点を突いているものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 上杉・最上に被害を与えた安東愛季も協力者が次々と葬られた上に重臣である浪岡顕村や別の協力者である富樫晴貞や本願寺も今は事情ありで救援が出来ないと言われている。

 葛西・大崎の二家が協力してくれると言ってきたが、あそこは元々長年敵対していた勢力。問題点ばっかりである。だが、頭を抱えて悩んでいる暇はない。本城である角館城まで上杉は迫っている。

 安東・葛西・大崎、合わせて約四千が上杉の一万に挑むには野戦は無謀。籠城して南部の援軍を待つほかない。

 ここで座して待つのはあまり得策とも言えない。小野寺とは今は盟友同士である。そして、影に手を染めた自身のけじめを付けるためにも。配下を巻き込むのは申し訳ないが背に腹は代えられない。

 愛季は立ち上がり、配下に横手城救援を指示しに向かった。

 その三日後、愛季が横手城手前の本荘に入ったところで衝撃的な知らせが入った。

 

「報告。八柏道為が小野寺景道が支城の慰労の為に留守の間に息子、義道を暗殺せんと企んでいたが故に義道の手によって誅殺された由」

 

 愛季は愕然と肩を落とし、こう指示するしかなかった。

 

「撤退し、檜山にて葛西・大崎と共に上杉を迎え撃つ・・・・・・」

 

 雨も降っていないのにぽたりと水が落ちる音を聞いた。愛季にはそれが道為の命の音に聞こえた。自身の身もいずれああなるのだろうか。

 謀反人は徹底的に殲滅させられるが古よりの定め。いざとなれば腹を切らなければならない。覚悟は当に出来ている。それぐらいの覚悟で挑んだ上杉への謀反なのだから。

 しかし、愛季にはまだ勝機があった。南の未だに上杉に従わない国人衆達が上杉を手こずらせ時間を掛ければ佐竹や南部がやってくる。

 淡い期待かもしれないが、愛季にはそれが希望であった。そして、小野寺も知者がいなくなったとはいえ勇者がいる。

 道為を殺めた義道は剛勇にて知られている。時間は十分に稼げるだろう。それに愛季は自身が籠もる檜山城に自信があった。

 檜山城は多法院の東に聳える標高百四十メートル程の山に築かれており、主郭は谷の南側の標高百三十メートル程の峰を中心に、周囲へ伸びた尾根に曲輪を展開する。

 西へ伸びた尾根は谷を挟んで三本あり、それぞれ曲輪群を連ねて西端を大堀切で遮断している。北端の尾根が主線で広大な曲輪の西端には一段小高く櫓台が付いている。主郭から東の将軍山に至る部分に枡形と土橋を組み合わせた虎口がある。

 将軍山の曲輪群は将軍山と館神社の間に広大な平地があり、西側に土塁が付く。将軍山は自然地形に近いが、南東側の尾根に堀切があり、主郭方面は竪堀状の地形が複雑に絡み小曲輪群となる。

 主郭から谷を挟んで北側に位置する北曲輪群には堀切で区画された曲輪から西へ降りる山道の側面に堀切と竪堀がある。

 この東北でも稀に見る程の堅牢な城に籠もれば数ヶ月は持つ。

 そもそも小野寺の本城横手城も比高五十メートル程の平山城で石垣を設けなかった代りに敵兵が登ってこれないように韮を植えた事から韮城の別称があり、三方が横手川、背後が奥羽山脈が控えた要害で、前述した五つの支城へ繋がる街道が交差する交通の要衝でもある。

 小野寺の武勇もあるしそう易々と落ちはしない。もうしばらく時は持つ。そう高をくくっていたのが愛季の不覚だった。

 上杉はわずか一週間の内に横手城を丸裸にした後に横手城をあっという間に包囲してしまったのである。

 

 

 

「いやー楽な戦だねー♪」

「まぁ、否定はしないが、最後まで何があるのか分からないのが戦だぞ。黒田殿」

 

 官兵衛と景綱は横手城を包囲する陣中にてここまでの戦の感想を話し合っていた。

 実際、道為という知者がいなくなった今、二人にかなう知者はいない。さらに土佐林禅棟という大宝寺から独立した切れ者の僧がここにはいる。

 

「たしかに、河田殿の師である黒田殿にあってはこの横手城もすぐに落としてしまいそうな勢いと頭がありますからな」

 

 老人のようと笑う禅棟にはどこか愛嬌があるが、二人の目にはたしかにこの僧に知者の輝きが映って取れた。彼はこの戦が終わり次第、羽黒山別当として戦から離れて羽黒山に籠もるそうだ。

 のっぺりとしていて一見掴みどころがなく風見鶏のような性格だが、芯は通っている御仁なので都合が悪くなって羽黒山衆を煽ったりすることはないだろう。

 話を戻すと知略が無くなった小野寺の支城全てをここにいる三人と定直の巧みな調略と迅速な攻撃で攻略した。

 官兵衛達は街道と横手城周辺の横手川の要地全てに砦を築いて横手城の兵糧を絶ち、斥候を放って背後の奥羽山の水の手を探している。

 

「簡単に落ちる訳はないけど道為がいればもう少しまともな戦い方をしたでしょうな」

 

 禅棟の言葉に二人は首を縦に振る。数が少ない上に援軍が来ないとなれば奇襲なり夜襲なりを仕掛けてきてもいいものだが、全くどこの場所でもやってこなかったことに少々上杉軍は拍子抜けした。

 

「お見事ですな、片倉殿」

「なに、偶然入った情報が役に立っただけだ」

 

 道為の欠点は景道の息子である義道との溝であった。武勇と知略、とりわけ小野寺ではこの二つは水と油のような関係であった。それを景綱は巧みに突いて定直に頼み義道を殺して道為が降伏する旨を認めた偽の書状を送ったのである。

 まさかここまで早く片が付くとは誰も思っていなかったが、早いことに悪いことは無い。

 人一人いなくなったとはいえここまで楽なものに変わるのだから戦とは恐ろしい。

 

「っ・・・・・・」

「どうかしたのか?」

「んーん、何でも無いよ」

 

 突然、悪寒に襲われてぶるりと身体を震わせた官兵衛を見た景綱が声を掛けてきたが、官兵衛は笑って首を振ってみせる。

 何故か知らないが、一人いなくなることでここまで楽になるというふうに思った時に憎いあの女狐が未だに頭をふっと過ぎるのだ。

 

「(抑えないと・・・・・・また頭が働かなくなる)」

 

 かつての龍兵衛が襲われたあの怒りに我を忘れるような感覚を彼とは違い、官兵衛自らが強引に収めたとはいえ道勝に対する怒りは収まるものではない。

 

「どうかしたのか? 顔色が優れないぞ」

「え? あ、いや、なんでもないよ」

 

 自然と奥歯を強く噛み締めていると再び景綱に顔を覗き込まれた為、少々焦ったが、心を落ち着かせてどうにか知者としての顔に戻す。

 景綱も禅棟も戦の最中である為にあまり詮索せずにいてくれたのが幸いだった。さらに好都合なことに放っていた斥候が帰ってきて二人の意識はそちらに向かってくれた。

 

「報告、水路を見つけました」

「よし、じゃあ明日城に降伏勧告の使者を出そう」

「すぐに甘粕殿に伝えてくれ。兵の準備は私達に任せてくれて構わない」

 

 横手城は詰んだ。もはや留まる理由はなく、官兵衛達は内心の笑みを隠して素早く各々の任務を決めて立ち去った。

 小野寺景道は息子の失策を官兵衛達の謀略と気付かずにそのまま二日後の総攻撃の間に愛季を頼って檜山城に撤退せざるを得なかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十七話改 命の話をしよう

「どうやら長重は横手城を落とし一旦角館城に入った後に安東の檜山城に向かったそうだな」

「ほう、ならばこちらも気張らないといけませんね」

 

 弥太郎と親憲は書状に認めれている羽州側の勝利を伝える内容に満足げに頷いている。向こうもこちらも流れは悪くない。

 奥州側の反上杉討伐軍は蘆名と二階堂の先導によって未だに上杉に属さずに考えを改めなかった二本松義国を瞬く間に討ち取り、二本松氏を下した。

 そして、今は標高三百四十五メートルの「白旗が峰」に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城で、後に日本百名城の一つにあげられた二本松城に留まっている。

 

「やはりここが今後の討伐には重要な拠点になりましょうな」

「ええ、かつての奥州探題畠山氏が築城しただけあって様々な道に通じます」

 

 親憲の進言に弥太郎も異論は無いというように頷く。だが、弥太郎はすぐに二本松城を少ない傷で手に入れた喜びの顔を暗くしてしまう。

 

「それにしても大内もどこかにくすぶっていれば良いものを・・・・・・田村がいなくなって我らが軍の編成と内政の整備に力を入れている間に独立するとは・・・・・・」

「伊達殿に臣従していたのはまったくの嘘であったようですな。やはり東北はこういったところなのでしょう」

 

 淡々と親憲は判断するが、表情は少し強張っている。

 親憲の冷静な判断はもっともである。東北は和睦という和睦のほとんどを政略結婚で解決してきた。その為に色々な家が複雑な縁戚関係で結ばれてもはやどこと関係があろうとどうでもいいようになっている。

 故に今回の大内の離反も向こうからすると当たり前のことなのだ。武将であるとはいえ戦は二人共あまりやりたくない。

 勝手に独立し、あまつさえ伊達が取った筈である田村氏の居城であった三春城まで取り、上杉に刃を向けるのは見逃してはいられない。ここのところ謀反や離反が相次いでいる為に上杉の面々はその鎮圧の為の戦に飽きている。

 だが、これは久々の外征でこの戦に勝てばもはや東北に残る強敵は南部だけとなるのだ。負けて良い戦など無いが、この戦は是が非でも勝たなければいけない。さすれば中央に向かう為の体勢も盤石になるというもの。

 

「軍師達が戻り次第すぐに軍議を開くぞ」

「承知しました」

 

 立ち上がり二人は軍議の間へと向かう。二人の上杉の重臣の願いは最後まで謙信を人の上に立たせたまま天下を平定すること。

 その為には鬼も蛇も斬る覚悟だ。堕ちるところまで堕ちても構わないという迷いの無いその視線は黒でも灰色でもない、陰りの無い真っ白な忠義がある。

 

 

 

「次の戦では二つに軍を分けます」

 

 軍議は龍兵衛の発言から始まった。

 編成は、まず一隊はこのまま東進し、大内・相馬に向かう隊。そして、二階堂の領地を通って南下し、石川・岩城に向かう隊である。

 

「南の白河結城はどうするのですか?」

 

 こちらの情勢を誰よりもよく知る盛隆が手を挙げる。それには隣に座っている兼続が答えた。

 

「結城は勢力が小さいとはいえ、一応同じ姓を名乗る他家に結城晴朝・結城秀康がいます。仮に援軍を頼んでもあちらは北条と小山と板挟みになっているのでもう無理でしょう。さらに白河は内部に火種を抱えています。それ故に一旦は保留しておき先に他の勢力を片付けてからということに致します」

 

 その発言を聞きながら龍兵衛は以前の情報の収集と整理の段階で知った驚くべきことがあったを思い出していた。

 

「(まさか、かの結城秀康がもう結城家にいるなんてな・・・・・・)」

 

 分かった時には冷静さを装っていたが、内心は混乱しまくっていた。しかもよく調べると徳川との関係一切無しだった。

 どこからあの豪傑が湧いて来たんだということを思いながらあの時龍兵衛は情報を集めていた。

 情報では一応はまだ結城晴朝が当主であるそうだ。しかし、今相手取るのは白河結城氏である。

 いずれにせよ非凡な才を持つ白河結城晴綱も侮れないということで結論が付いた龍兵衛と兼続は後詰めの援軍を頼み、援軍が来る前に白河結城以外の家を討伐。そして、援軍が到来して別れていた二つの隊は石川家の三芦城にて合流した後に結城を下すということにした。

 すると説明途中に弥太郎が手を挙げる。

 

「結城がその間にこちらに来ることは?」

「そうなるとおそらく背後の小山が動くでしょう。あの二家は不倶戴天の敵ですから」

 

 すかさず龍兵衛が答えて弥太郎を納得させた。

 あの二家は上杉と北条の間で大きく揺れている。小山は常に北条を立ててきたが、結城晴朝は巧みにどっちつかずを貫いてきた。

 今回の戦でその関係に終止符を打つためにその前哨戦とも言える今後の戦いは被害の少ないように終わらせる必要がある。

 

「分かった。ならば軍の編成は?」

「兵は六千ずつ。小島殿は南を、水原殿が東に。軍師として私が水原殿に龍兵衛が小島殿に付きます」

「では、南の先鋒は・・・・・・」

「はい! 私にやらせてくれ!」

 

 兼続の後を継いで龍兵衛が口を動かすとやはりここでと言わんばかりに景家が手を挙げる。だが、彼は聞かない。その隣に控えて我も我もと目を輝かせている方に目を向ける。

 

「慶次、頼む」

「了解♪」

「えーっ!? なんで私じゃないのさー!?」

「いちいちうるさいわ! 南はお前だから安心しろ」

 

 龍兵衛の褐でどうにか黙ってくれたと思うと今度は後の彼の発言を聞いて嬉しそうにしている。

 こう見ると一癖も二癖もある上杉の中で真っ直ぐな景家がいてくれて少しばかり安堵出来るのは気のせいなのかなんなのか。

 とりあえず緊張感漂う空気が和んだところで龍兵衛はやることを矢継ぎ早に諸将に伝えて行く。一通り終わったところで新たな報告が届いた。

 

「申し上げます。小山が結城攻めを開始致しました」

「思っていたよりも早いな・・・・・・」

「おそらく、北条がけしかけたか」

 

 兼続の疑問のような呟きを龍兵衛は拾い上げる。小山を動かすことで北条も同盟を組んだとはいえ譲れるものは無いということだろう。関東への玄関口は封じておこうとする。もし小山とぶつかれば北条との同盟もご破算である。

 北条早雲、やはり侮れない。

 その意識はここにいる全員に伝わった。

 

「見逃してはおれませんな」

 

 親憲の危惧するところは弥太郎や軍師二人も理解するところであり、彼の言葉に全員が頷いた。

 もし、結城を取られるとなると念願の東北の完全掌握が不可能になる。関東はいずれ関東管領としての職務全うの為に取るつもりでいたが、その足掛かりが減るのは痛い。

 おそらく早雲も知っているのだろう。しかし、北条も余裕がある訳ではない。

 

「されどこれはかなりの好都合です」

 

 龍兵衛は普通のいつもと変わらない口調で皆を見る。全員がその隣で頷いている兼続と龍兵衛を訝しげに見る。

 代表してどういうことだと分かっていない景家が聞くとすかさず龍兵衛は地図に石を置いて諸勢力を指し示す。そして、結城の場所には少し大きめの石を置く。

 これから攻める南の石川・岩城に集中すれば結城は上杉の横腹を突かれることになる。しかし、小山が結城を攻めてくれるおかげで懸念材料が無くなった。

 

「小山がすぐに結城と決着を付けることが出来るとは思えません。それに北条は今、里見と戦っています。援軍を派遣したとしても多くは出せぬ筈」

「いずれにせよ、迅速動かなければならない。諸将方の奮戦、よろしく頼む」

『御意』

 

 弥太郎の散会の声で上杉直臣以外の将が皆出て行ったところでそれは始まった。

 

「おい、龍兵衛! どうして私を弥太郎殿と一緒に戦わせてくれなかった!?」

「なんでって・・・・・・適材適所だよ」

 

 しれっと言う龍兵衛に景家はますます怒りで顔を赤くして顔をずずいっと近付ける。その気迫に龍兵衛も少しばかり怖じ気づいたが「近い、近い」と言って誤魔化す。だが、景家は無視してさらに顔を近付ける。

 

「私は弥太郎殿と功を競いたかったんだ! それをどうして・・・・・・」

「そんなもん知るかよ。第一にそれが危ない」

 

 熱くなる景家の正反対を歩くように龍兵衛の声は徐々に冷たくなる。

 功を立てようとする気概は良いが空回りしてもらっては困る。先程来た好敵手の長重が大きな功を立てたことがその闘争心をますますかき立てているようだ。

 さらに先の二本松攻めでは息の合った攻勢で軍を操り、自身達も見事な武勇を発揮していた。しかし、その時もまた景家は弥太郎に功争いで負けた。

 これ以上放っておいたらなにかやらかしそうなので軍師の二人はあえて弥太郎と景家を分けた。冷静な親憲の指揮下に入ればその武勇を遺憾なく発揮出来るだろう。

 

「はぁ、兼続も景家をしっかり見とけよ」

「ああ、分かっているよ。その為にこの編成にしたのだからな・・・・・・はぁ」

 

 疲れたように溜め息を吐く二人に景家は「何故だ?」と小首を傾げ、周りの弥太郎達は二人の気苦労を悟り、労るように同情するような視線を向けている。

 

「水原殿も柿崎殿を見逃さないように」

「ええお任せ下さい。では、三芦城にて」

 

 今後忙しくなるだろうことを察してか弥太郎達はここはゆっくりと立ち上がる。今だけののんびりとした雰囲気を一人一人が心の内で楽しむように少しでもこの空間があることを願い。時間が経つのを一人一人が憎んだ。しかし、無情な時間と風はずっと流れている。

 そして、弥太郎が動き出したのを皮切りに各々が動き出す。親憲には見逃してはいけないものをもう一つあった。

 

「小島殿、幾分足取りが覚束無いようですな」

「む・・・・・・それほど飲んではいないのですが」

「「なに!?」」

 

 ぐりんと龍兵衛と兼続の首が回る。その勢いのまま二人の顔がずずいっと弥太郎に近付く。

 対して弥太郎は見るからに動揺して誤魔化すように「あはは~」と笑うばかり。

 

「口から酒の匂い・・・・・・」

「小島殿・・・・・・」

「いやはや、某の図星も捨てたものではありませんな」

「す、水原殿? 貴殿はいつからそれほどまでに人をからかうようになったので?」

 

 二人の恐ろしい目に刃を立てられたように手を挙げながら弥太郎は親憲に困ったような目を向ける。しかし、親憲は珍しく上手くいったというようにくすくすと笑っている。

 

「はっきり申さば、某は小島殿が水筒に水を捨てて献上された酒を入れているのを見ました」

「うぐっ・・・・・・」

 

 呻き声と共に弥太郎の表情に動揺がはっきりと示され、言い逃れが出来ない状態になってしまった。

 親憲の証言で外堀もしっかりと埋められ、それを聞いた二人の軍師は顔を何故だか少し和らげる。

 

「軍議前に酒を飲まれるとは・・・・・・弥太郎殿は随分と『お気楽』なようで」

「その『お気楽さ』が戦で足元を掬いかねません。『少々』お話を聞いてくれますよね? 小島殿?」

 

 親憲は微笑む二人のこめかみにしっかりと青筋が立っているのを見届けると慶次や景家と共にこの場から音を立てず、何事も無かったかのように立ち去る。

 そして、背後の陣中から「説教は嫌だあああぁぁぁ!!」という叫び声が聞こえてくると思わず三人は振り返り、手を合掌させた。

 

 

 

 

 石川氏は、平安時代中期から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・大和源氏の一門、源頼親の子源頼遠を祖としている。

 しかし、鎌倉時代以降は冷遇され、応仁の乱以降は周辺に良い顔をしなければ生き残られない状態となっていた。

 今回も北条・佐竹に良い顔をしている為に上杉の討伐対象となった。おそらく関東管領を憲政より譲られた謙信の成り上がりぶりが面白くないのだろう。

 しかし、面白い面白くないだけでは戦乱の世は生き残られない。石川家の次期当主である昭光は伊達の血縁。その為に上杉は何度も石川家当主の晴光に臣従を迫ったが、先の理由からだろうか全く聞く耳を持たない。そういうわけで討伐対象となったのだ。

 

「でもぉ、この数の差は否めないでしょう」

 

 三芦城に向かう途中、慶次は不満げに手を頭の後ろにやる。先鋒を任されたとはいえ全く張り合いの無い前哨戦を終えて暴れ足りないのだろう。

 それもその筈。前哨戦の藤田城の戦いでは慶次の暴れぶりを見て怖じ気づいた相手は全く相手にしないままに撤退したのだ。石川にそれなりの被害は出たが、戦い自体はろくなものではなかったのだ。

 なのに未だに抗って来ることに慶次はよく思っていないのだろう。

 

「最後まで意地を通そうという腹なんだろう。武人としての意地ってやつを」

「ふーん、よく分からないわねぇ」

 

 飄々と気ままに生きてきた慶次にはその武人たる道理を理解はしているだろうが、何故にそれを貫くのかが分からないらしい。

 

「龍ちんは?」

「分かんないなぁ。だって俺、武人じゃないし。軍師ですから」

 

 彼らしくない砕けた口調と手を広げておどける仕草に慶次も当事者の龍兵衛も笑い合ってしまう。

 

「武士の本懐故に致し方なかったのでしょう」

 

 笑い合っていた二人に水を差すような鋭い声が聞こえてきた。口元に薄い髭をたくわえ、見るからに質素な鎧を纏っている少しばかり日焼けした男性。

 須田盛秀。

 先の上杉との戦の後に主君の二階堂盛義と共に上杉に恭順し、人質として春日山に出仕している。その気骨さと真面目な性格は上杉家中でウケは良いが今一つ周りの人に隠れて影が薄い。人の顔を覚えるのを得意とする龍兵衛さえもたまに「誰?」となるような人物である。

 しかし、今回は幸いなことに主君の二階堂盛義と共に先導役を務める為にそれなりに目立っている。

 龍兵衛の生きることに関しての執着心が盛秀の癪に触ったようで彼の目は龍兵衛に向けて鋭く光っている。

 

「石川殿はお二方が語られた武人の意地を貫くのでしょう」

「それで、死ぬと?」

「左様」

「その後は?」

「何も残らないでしょう。ですが、それが良いのです。死して御家の名誉に殉じたのですから」

「では何故に貴殿は上杉に降った?」

 

 軽かった空気が重くなる。盛秀は答えを待っている龍兵衛を睨む。言い返す言葉を探しても見つからないらしい。何故なら彼も盛義共々、上杉に生きて降ったのだから。

 だが、その沈黙を破ったのは他でもない龍兵衛である。彼は真面目な顔を崩して肩を震わせて急に笑い出したのだ。

 

「何故笑われる!? 貴殿とて・・・・・・」

「龍兵衛とて・・・・・・?」

 

 上杉家中では禁忌となってきている龍兵衛の過去を引き合いに出そうとする盛秀に慶次が普段のあだ名でなく普通の名前で言い、得物の槍を握り締める音がすると盛秀は少し怯んだ。

 戦場では一騎当千の力を発揮する慶次の眼力は盛秀にはきつかったらしい。険悪になりそうな雰囲気を間に入って止めたのは龍兵衛だった。

 

「死んで、何になるのです? 生きるからこそ何かを生むのですよ」

「されど、某には石川殿のお気持ちの方がよく分かります。某も武人ですので」

「左様ですか。ふっ・・・・・・まぁ、人それぞれですよ」

 

 和らぐことは無かったが、場を和らげるような軽い笑いを浮かべながら龍兵衛が言うと盛秀は一応は考えるように下を向いた。結局その場はそのまま盛義が間に入って盛秀は後ろに下がって行った。

 生きることに美徳を見出す龍兵衛にとって武人の意地とは相対する考えでもあるもの。こう考えると龍兵衛の概念はやはりあまり理解されないものなのかと彼は痛感させられる。だが、いずれはそのような時代が来るのを信じるしかないのだろう。

 

「(まぁ、焦ることはない。一世一代でやろうとすれば必ずどこかで落とし穴に嵌まる)」

「ん、なに?」

「別に・・・・・・」

 

 落とし穴という単語が出てきたら無性に慶次を睨みたくなったのだが、心当たりは有りすぎるのでもはやこれで打ち止めにしておいた。

 息を吐いて思考を切り替えようと首を鳴らしながら左右に倒していると龍兵衛はあることに気付いた。  

「そういえば、弥太郎殿を見なかったか?」

「「「あっ・・・・・・」」」

 

 慶次だけでなく後ろにいた盛義と盛秀も声を揃えて辺りをきょろきょろ見回す。しかし、どこにもいないので不味いのではないかと龍兵衛が一度戦列を離れようとした途端、のっそりのっそりと後ろから弥太郎が馬に揺られるようにやって来た。

 見るからに落ち込んでいて、誰も近付こうとしない。呆気に取られている三人をよそに龍兵衛が近付いて声を掛ける。

 

「どうしました?」

「『どうしました?』ではない。龍兵衛のせいで失った意気を戻そうと猫でも愛でようと思っていたのに・・・・・・」

「(俺だけのせいじゃないし、第一に自業自得だろうが) 逃げられたと」

「ああ・・・・・・」

「しっかりとしてください。大将がそれでは士気に影響します」

 

 睨まれたと思うと弥太郎はどよんという音でも聞こえてきそうな雰囲気で落ち込んでしまう。

 このまま将の先頭を歩いていては格好がつかない。だが、弥太郎は気にせずにすっと龍兵衛の前に腕を見せる。そこには三本のひっかき傷。それを見た途端に龍兵衛の猫馬鹿が表面に出てくる。 

 

「・・・・・・引っかかれたんですね?」

「逃げようとしたところを・・・・・・尻尾をだな・・・・・・」

「だからあれほど猫の尻尾は駄目だって申したじゃないですか」 

「ううむ、面目ない」

 

 密かに猫好きの会を幾度かやっている二人だが、未だに弥太郎は愛でれる動物が景勝の猿や龍兵衛の猫などに限られている。

 

「羨ましいな。龍兵衛は、どうしてこうも差が・・・・・・」

 

 先程の堪える光景を思い出してしまったらしく。さらに落ち込んでしまった弥太郎を龍兵衛が真剣な表情で色々と慰める。

 

「仕方ありません。徐々に、徐々に猫とも仲良くなってきていますし。慌てずに行きましょう。ええ、大丈夫です。はい。これから、これからです」

 

 それを見ている兵達は「また小島様は動物に嫌われたのか」「もはや天から授かったものだな」「俺はもらわなくて良かった」と色々こちらでは哀れそうに大将の弥太郎を見ている。

 二人の後ろでは慶次はにやにやと笑いながら見つめ、盛義と盛秀も先程までの嫌悪な雰囲気を忘れて口元を歪ませて笑いを堪えている。

 こうして見ると上杉の絆は下にも行っていることがよく分かる。

 それが分かっただけでも良しとしよう。

 そう思いながら龍兵衛はどうにか二、三十分かけて弥太郎を慰めることが出来た。

 しかし、彼は後にこの面子に同行した事に心底後悔する事となる。 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十八話改 酒と悪戯と暴露と堕落

 石川は倒すにはおそらく苦労は無い。しかし、問題はその後、石川と同盟関係にある岩城重隆をどうにかしなければならない。

 かつては伊達輝宗の父である晴宗にその戦いぶりを賞賛された剛の者の一面もあれば、年を取ってからは巧みな調略や外交政策を用いて佐竹や伊達からの圧力を逃れてきた強かさを併せ持っている。

 警戒をする相手が戦うべき敵の更に後ろにいるというのは龍兵衛にとってかつての美濃の一件からの恐怖のようで嫌でたまらない。

 

「(いかん、また邪念が・・・・・・)」

 

 頭を振って現れた邪念を追い払い、策へと集中し直す。

 内情の情報は入っているというのに眼前の敵である石川晴光について彼はよく知らない。

 史実で知っているのはただ様々な勢力の争いに巻き込まれて最後には佐竹に三芦城を追われたということだけである。だからといって情報収集を忘れるという愚行は決してしない。

 間者からの報告を様々な視点から考えてみる。どうも晴光という人物は切れ者なのかただの弱小大名なのかが分からない。

 力自体があまり強くない為にどっちつかずな姿勢で様々な勢力と手を組んで生き抜いてきたのは十分に分かる。しかし、それ以上でも以下でもないのだ。

 

「(うーん、行ってからのお楽しみで済むようなものであることを祈るしかないのか?)」

 

 首を何度も何度も捻りながら龍兵衛は全く分からないというふうに首を傾げる。

 分からない龍兵衛は「ああ!」とどこかやるせない気持ちを吐くように叫ぶと報告をまとめた紙を全て燃やして陣幕から出た。

 外は明日も良い天気を示すように夕日で空は赤く染まっている。以前は少しも感じることがなかったが、少しずつ余裕が生まれてきたのか風情あるものに心を傾けることも出来るようになってきた。

 とはいえ龍兵衛自身の好みは人が作った作意あるものではなく、自然が生み出す現象や光景の中に見えるものである。

 故にそれ人知れずに林の中に入ったり、山の中にある川のほとりを歩いたりするのが好きなのだ。山籠もりが好きな景勝とも趣味が合っているのも彼女と仲が良い原因でもあったりする。

 恋をするようになって景勝とは何度か視察と表してはお忍びで山に出掛けてたりすることが最近の楽しみでもあるのだ。

 

「(いかんいかん、景勝様にしばらく会っていないから・・・・・・)」

 

 春日山を離れて一、ニ週間。目の辺りをぐしぐしと擦って今は必要のない煩悩を頭から追い出す。だが、今度は夕日によって後ろに長く映える自身の影を見てしまった。

 墨汁を流したような黒い影が何か語ることはない。彼にはその影が自身の身の出自を語るかのように普段よりも黒く、それでも何故か薄く見えるのだ。

 

「(あの手紙の事が本当ならば、もしかしたら・・・・・・)」

  

 思考が龍兵衛の眉間の皺を寄せさせる。見えてくる仮説は自分のことを自分で嫌でも嫌悪感を抱かせるようになる。諦めの境地というものに一度は彼に希望をもたらしてくれた定満にそれでは申し訳が立たない。

 時の流れは止められない。そのようなことを自分が言えるような立場ではないことは重々承知しているが、今この時だけは言ってやりたい。

 

「何故、あの時に時を覆す猶予を自分に得ることを天は許さなかったのか?」

 

 龍兵衛は誰にも聞こえないように呟くともう一度頭を切り替えるべく溜め息を吐くとそのまま外で三芦城を落城させる為の策を考え始めた。

 彼が影よりも光を見ることが出来るにはまだ時がいる。

 

 三芦城は今出川の北西にある愛宕山の東の峰、通称八幡山に築かれている。そこを落とすには数はこちらの方が石川単体の軍勢よりも上である為に雑作もないだろう。

 だからこそ、あえて盤石な体勢を整えてから三芦城を落としたい。

 そのためには三芦城の支城である雲霧城と藤田城を落とさなければならない。進軍路を阿武隈川沿いに向けているが故に当然の戦略である。

 再三の降伏勧告を下らない名家出身という名前というものに縛られて応じることがない石川晴光に引導を渡してやろうというのが上杉の心意気だ。そのことについては龍兵衛が一番燃えていると言って良い。

 彼には分からないのだ。何故、死んでまで自らの意地というものを貫こうと考えるのかが。もし、死んだとしても鮮明な印象を与えて人の頭の片隅に留めおかれていたとしてもその時間は短い。

 だが、盛秀の言う通り、最後まで貫き通したいものがあるということも分からなくはない。何故ならば今の彼もそのようなものがあるのだから。

 

「(考えていても意味は無い。お互いに考えがある。正直、石川は降伏しないと言っているのだからな)」

 

 信念が無い人間などどこにもいる訳がない。ならばその信念のままというものを利用して死なせるのもまた軍師としての務めでもある。

 彼の人知れぬ苦悩には誰も入ることはない。それがさらに彼を悩ませる。

 

 一応の策を練った龍兵衛はその日の夜に総大将である弥太郎の下に向かっていた。上を見上げれば何表現して良いのか分からない素晴らしい星空が広がっている。

 龍兵衛はその光景を見ることで今まで使っていた頭の疲れが視界から吹き飛ばされるのを感じる。

 前の世界とは違って眩しいとも思える夜空を見上げながら彼は早足で歩いていき、弥太郎のいる陣屋に入ろうとすると二人の女性の笑い声が彼の耳に聞こえてきた。

 

「「あははははは」」

 

 しかも、二人共に龍兵衛がよく知っている人物の声である。そーっと入るとやはり幕の主である弥太郎と客という形で慶次がいた。

 龍兵衛が入ったというのに二人共酒に興じて全く気付く気配がない。いくらここがこれから攻めようとしている雲霧城から離れている為に夜襲の心配がないとはいえここまで気を抜いていては困る。

 しかし、ただ詰め寄るのもつまらない。悪戯心が芽生えた龍兵衛はそーっと慶次の背中に歩み寄ってその無防備な背中にゆっくりと近付き、悪戯心を行動に移す。

 

「ひゃあい!?」

 

 つーっと指でなぞってみる。案の定慶次は飛び上がっていい反応をしてくれた。その反応に龍兵衛は親指をぐっと立てて笑うしかない。

 

「大成功」

「もぉう、乙女の背中になにするのよぉ」

「おや、弥太郎殿、その中身は酒ですかな?」

「え・・・・・・あ、いや、こ、ここ、これはだな・・・・・・」

 

 絡むと面倒臭いので慶次はもう無視して弥太郎に顔を向ける。

 以前の説教の時のような邪気を孕んだ薄い笑みを浮かべるとびくっと怯えたように持っている水筒を背中に隠した。分かりやすいことこの上ないと思いながら龍兵衛は呆れたと溜め息を吐く。

 

「はぁ・・・・・・別に取り上げたり説教をしようとは考えてません。しかし、もう少し気を張り詰めてくれませんか?」 

「何を言う。私達はただ一時の、一杯の酒を飲んでいるだけだ」

「その割には大分出来上がってますね」

 

 それなりの言い訳は用意しておいたようだ。きりっと弥太郎は言い返すが、二人共、顔が赤くほんのりと染まって、吐く息も少し荒くなっている。

 なまじ二人共美人なので男の欲をくすぐる雰囲気を今は持っているのだから分かって欲しいと逃げるところだが、障子紙の颯馬に比べて城壁の如く固い理性を持つ龍兵衛にはただのべべれけた酔っ払いにしか二人は見えない。

 

「はぁ・・・・・・これじゃあ策は明日に持ち越しですか?」

「いやぁ大丈夫だ・・・・・・ひっく、今でも聞けるぞ」

「(駄目だこりゃ。酔っ払いの典型的なパターンだな、これ・・・・・)明日また伺います」

 

 酔ったようにしゃっくりをしている弥太郎を見て、呆れかえった龍兵衛はこれ以上面倒に巻き込まれたくないと思い、帰ろうとくるりと背を向ける。

 

「ちょっと~付き合い悪いわよ~」

 

 しかし、今度は慶次が悪戯をされたのとガン無視されたのに腹が立っているのかどかりと強く肩にもたれかかってくる。なのでしっかりと龍兵衛の背中には慶次の巨大な胸が形を変えて圧を掛けてくる。

 

「(・・・・・・柔い・・・・・・じゃなくて!)」

 

 景勝では味わえない感触だ。

 だが、ここはしっかりと気合いを入れておかなければならない。

 

「ふんぬ!」

「ぐべぇ・・・・・・」

 

 腹に肘打ちを喰らわせると慶次は跪いたので悪魔のような胸からどうにか解放された。これで今度こそ帰ろうとしたのだが、今度は背中に何か刺すような殺気が降りかかる。

 

「飲め・・・・・・」

「・・・・・・」

 

 今度は抗えない。仕方なしに座る。そうすることで弥太郎は機嫌良さそうに持っていた太刀を引っ込めた。

 

「(本当にたち悪いな・・・・・・)」

 

 いつぞやの時と同じ手段とはいえ本当にやりかねないような気配がしたのでここは大人しく従ってやる。それを見た弥太郎は龍兵衛の恨みを込めた視線に気付きもせずに新たな飲み仲間が出来たと嬉々として彼に酒を注ぎ始めた。

 そして、それが龍兵衛からすると悪夢の始まりであった。

 

「(帰りたい。寝たい。辛い。苦・・・・・・いや、言うまい・・・・・・)」

 

 酒に付き合わされて早三十分。元々出来上がっていた二人に比べて素面からの始まりである龍兵衛はこの面倒な酔っ払い二人組に手を焼いていた。

 しかし、こそこそと帰ろうとすれば慶次に羽織い締めにされる為、もはや二人が酔いつぶれるのを待つしかない。

 その二人もここは戦場であることは分かってはいるのでそこまで飲むつもりはないことは分かっているだろう。それに明日また策を聞かなくてはならないとならばなおさらである。なかなか潰れてくれない。

 赤の他人から見ると正直危ないところまで来ている。第一に疲れている龍兵衛はさっさと戻って寝たいのだ。

 言えば絶対に何か面倒くさいことになる。それ故に今日はちびちびと飲みながら二人のほとぼりが冷めるまで待機といったところである。

 

「(さっきまで綺麗な星空を見て飛んだ筈の疲れよりも倍の疲れがたまっている気がする・・・・・・)」

 

 抗いきれない疲れの前に致し方ないと思った龍兵衛は軽く寝ながら二人の話を聞き流そうとした。

 

「おーい、龍ちん~? 起きて~さもないとこうよ~」

「ぐむっ!?」

 

 だが、慶次のけしからん胸が今度は龍兵衛の顔を埋めていく。

 端から見れば羨ましい限りだが、龍兵衛にとっては景勝との関係がある以上、迷惑この上ない。また、慶次はよくこの手で遊んでいるから面倒くさいだけだ。

 

「は、はなへー(離せー)・・・・・・ふるひい(苦しい)」

「えぇ~なに~? 聞こえな~い」

「うほつへえぇぇい! (嘘つけえぇぇい!)」

 

 十二分に腕の力を使って慶次からどうにか離れることに成功する。そして、その間に出来なかった呼吸を回復する為に大きく深呼吸を繰り返す。

 

「はぁはぁ・・・・・・悪夢を見た」

「えぇ~こぉんなにたゆんたゆんなおっぱいが悪夢だって言うのぉ? あ、もしかして龍ちん貧乳好み?」

「ちがああぁぁう!! 断じて違う!!」

  

 腹の底からの叫び声を上げて全面否定をする。ちなみにこれは決して景勝を愚弄している訳ではない。龍兵衛も男なのだ。致し方ない欲望もある。

 慶次は龍兵衛の必死なところが面白く感じたらしく、にやにやと笑って更にからかってやろうと口を開く。

 

「まぁ、そうよねぇ。そうじゃなかったらあたしをああいうふうに襲うなんてしないわよねぇ」

「えっ?」

「くぉら! なにさらっと暴露してんだ!? あれはお前の自業自得だろう! ・・・・・・というか弥太郎殿! なんでそんな引いてんですか!?」

「信じられん。颯馬ならいざ知らず、あの龍兵衛が女子を襲うとは・・・・・・」

 

 弥太郎は本当に心から驚いたように龍兵衛を見て目が飛び出てきそうなぐらいに見開いている。

 浮いた噂を決して出さずに潔白な人として生きている龍兵衛が慶次に襲い掛かるという事実を認めた。しかし、弥太郎が引いているのはその部分ではない。

 

「では、龍兵衛があの時、私になすがままにされていたのは?」

「あれは薬の・・・・・・いわゆる副作用でしょう!?」

「まさか、襲うのも趣味とは・・・・・・」

「話を聞いて下さーい!」

「えっ、龍ちん、まさか襲われるのも趣味なの!?」

「慶次もなに便乗してんだ!?」

 

 ぎゃーぎゃーと抗議する龍兵衛は華麗に無視され、弥太郎と慶次は顔を突き合わせる。

 龍兵衛は逃げたら事実で、それを認めているように思われてしまう。故に、嫌な予感しかしないが、この場所に残るしか方法がない。

 

「(頼む。期待できないが、穏便に終わってくれ!)」

 

 だが、願い空しく。弥太郎は龍兵衛と慶次を交互に見て目を見開いて慶次に口を開く。

 

「慶次は龍兵衛に襲われたのか?」

「まぁ、そうね、厳密に言えば颯馬っちも一緒にあたしをいやらしく縛ってたけど」

「おい! さらっと詳細を言うな!」

「私には身体を任せてくれたのだがな」

「だからあれは薬で身体が・・・・・・」

「襲うのも趣味。襲われるのも趣味。つまり龍兵衛は・・・・・・」

「「本当は変態」」

「ですから・・・・・・ああ! もう!! ち・が・うと言ってるで、しょー!!!」

 

 勘違いが勘違いを呼び、悪しき方向に向かって行き、最後に結論を勝手に決められて、止めることが出来ない。

 最後の悪足掻きだとやり場がないように叫ぶしかないが、投げやりになっては負けだと心を落ち着かせて龍兵衛は二人に逆に詰め寄る。

 

「弥太郎殿は薬を盛ったんでしょう!?」

「否定はしない」

「慶次は自分が蒔いた種が災いになっただけだろ!?」

「まぁ、そうね」

「だったらなんで自分だけに火の粉が飛んでくるんですか!?」

「「だって結局寝たことに変わりはないだろう「じゃない」」

「うぎぎぎぎぎ・・・・・・」

「素直に負けを認めるのねぇ」

 

 優しく慶次に諭され、龍兵衛はとうとう膝を着いた。それは龍兵衛が築き上げてきた虚飾の身の清きを一気に崩された瞬間でもあった。

 そして、その日は最後まで二人の酒を酌まされ、さらに件のことの口止めとして春日山に帰ったら二人の酒代を一ヶ月も奢ることになった。

 

 龍兵衛の不幸中の幸いは景勝との仲がまだばれていないということに改めて気付かされたことである。しかし、同時にこの酒宴が原因で春日山に戻った後に色々と面倒なことになるとは龍兵衛とて予測出来なかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十九話改 希望の鐘が鳴る朝に

「あの、河田様。大丈夫ですか? 随分とお疲れのようですが」

「ああ・・・・・・問題、ない・・・・・・」

 

 即、ありまくりであると声を掛けた兵は突っ込みを入れたいが、機嫌を損ねてはならないとぐっと我慢して頭を垂れて下がって行く。

 昨夜のことで弥太郎と慶次の二人からど変態の称号を勝手に貼られ、死にかけた状態になってしまった龍兵衛は見る人見る人から安否を確認される始末である。

 今、彼は前線に出て暴れている総大将の弥太郎の代わりに後ろで指揮を執っている。

 雲霧城を既に取り囲んでいる為に気は抜けないのだが、精神を滅多滅多にやられているので戦には集中している一方で先々のことなど、それ以外の事に頭が今は全く回っていない。

 

「河田様、よろしいでしょうか? 水原様より書状が」

「え? 誰から?」

「水原様からです」

 

 衝撃の強さは思わず聞き返してしまう程に耳も遠くなってしまった。

 いけないと分かっているが、抱える黒歴史を暴露された以上は凹むしかないのだ。

 兵から訝しげな視線を送られつつ、ゆっくりと差し出された書状を受け取り、中を改める。読み進めて行くと先程までの死んだ目が見開かれ、龍兵衛は椅子からがたりと音を立てて立ち上がってしまった。

 そこでようやく焦りを人に見せてしまったことが周りの目にもあることに気付き、すぐに何も無かったかのように咳払いをして座る。

 冷静を装って改めて中を見るが、信じがたいことが書かれている。だが、もしかしたらとも思っていた。

 有り得ることがあるとあえて別方面に向かわせていた筈なのに何故だ。何故そこにいるのだろうか。

 龍兵衛は難しい顔になり、雲霧城の陥落を聞くまでずっとその表情は変わらなかった。

 

 龍兵衛が死にかけた状態になる原因となった地獄の酒宴が開かれていた夜。

 小手森城を守る菊池顕綱は何度も伊達から上杉への帰順を勧められ、また兼続の工作を受けてそろそろ潮時を迎えたと考えていた。

 当主の大内定綱は追い詰められ、城を出ることさえままならない。いくら縁組をしているとはいえ弱肉強食の戦乱の世では誰が裏切ろうと当たり前のこと。

 幸いにも上杉謙信という人物は頭を下げて恭順する者には寛大だと聞いている。

 菊池家は肥後国の名門、菊池の一族で幕府から本家とは別に塩松郡を治めるよう命じられているが、そんな甘っちょろいことで生き残る暇はない。

 今すぐにでも大内が滅びれば一番に頭を下げるつもりであった。

 

「殿! 大変です! 伊達軍が我が城に進軍しているとのこと!」

「なっ・・・・・・」

 

 がたっと音を立てて立ち上がると顕綱は大急ぎで櫓から外を見る。

 すると、ここにはいない筈の伊達軍が既に城門を破り、圧倒的な力の差を見せ付けながら攻め入っているではないか。

 困惑、裏切られた怒り、そしてもっと早い段階で頭を下げればという後悔が顕綱には浮かび上がっていた。

 その三日前のこと。

 親憲が率いる大内討伐隊は着々と進めていた軍が止まっていた。

 時を待っているばかりでは好機を逃しかねない。

 そう判断した龍兵衛と兼続の積極的な攻撃策は功を奏した。二本松が落ちるまでの時間があったとはいえ、討伐の対象となった勢力は上杉軍の素早い動きに順応出来ずに慌てて居城にて準備をする有り様である。

 大内定綱も例外ではない。慌てて小浜城城外にて迎え撃たんとするものの先のことでいささか腹が立っている景家の鬼神の如き攻勢の前に一旦撤退し、体勢を立て直すべく自身の居城小浜城に立て籠もった。

 小浜城は阿武隈川の支流小浜川と移川によって形成された阿武隈丘陵に築かれた平山城で小浜から二本松・田村・相馬に通じる交通の要所に築かれている。

 ここを取れば、道が開かれ、攻勢を取り続けることが出来る。

 上杉軍の一隊、大内、相馬討伐隊が親憲の指揮の下で小浜城を包囲している。時間を掛けている暇はない。

 だが、小浜城とそこに籠もる定綱は頑強でなかなか落ちないままに足止めを喰らっていた。このままでは兼続の工作によって静観している周りの小豪族も上杉から大内に靡きかねない。そんな苛々が募る中でやってきたのは意外なものだった。

 

「伊達政宗様が二千の兵を連れて馳せ参じました」

「はて? 某は援軍を頼んでおりませぬが・・・・・・」

 

 後ろにいる誰もが首を傾げた。しかし、来た以上は出迎えなければならないと親憲は軍師の兼続と共に政宗の下へと向かうと本当に政宗がいた。

 

「この政宗、落城寸前となった檜山城は甘粕殿や我が父輝宗に任せ、こちらに参上した次第」

 

 詳細としてはすでに長重は檜山城の支城である茶臼城と大館城を夜襲にて落とし、瞬く間に檜山城を丸裸にしたということ。

 檜山は要害であり、すぐには落ちない。その為に何か隙を見せ、愛季を外に引っ張り出す必要がある。その策として政宗は檜山城の城攻めの方針で長重と揉めて勝手に撤退したように見せかけたということらしい。

 

「だからといってまさか本当に撤退するとは・・・・・・」

 

 普段平静な親憲も少しばかり呆れていることが口調から聞いてとれる。

 しかし、政宗はまったく悪びれる様子を見せない。むしろ面白いだろうと笑って楽しそうにしている。

 

「官兵衛殿が二千減ったところで変わりないと豪語していたのだ。文句はあの軍師に言ってくれ」

「はぁ・・・・・・どうして黒田殿から龍兵衛殿のような弟子が出来るのでしょう?」

「まったく……」

 

 普段から無邪気な子供みたいな師匠と根は真面目で決して踏み外したことはしない龍兵衛は正に水と油である。

 珍しく親憲から愚痴が出るのも無理はない。兼続も同調する。

 春日山にて官兵衛の暴走しかけたところを止める気苦労が重なったせいか少しばかり腰を痛そうに押さえることが多くなった龍兵衛を思い出すと本当にどっちが師でどっちが弟子なのか分からなくなる。

 だが、それによって官兵衛に対する危機感というものは全く生まれない。立てる策は素晴らしく、戦略における道筋は端からは分かり難いが、極めて理にかなったものばかり。畿内にて培ったと言っている強かさは上杉軍の軍師の中で誰よりも勝っているだろう。

 

「まぁ、黒田殿のことですから仮に今回で失敗しても何か次善の策があるのでしょう」

 

 故に親憲の言葉にも誰も安心感は持てど不安は抱かないのである。これで後からやってくる後詰めの援軍の余剰の兵力はもう一つの隊に任せられる。その旨を伝える伝令を越後に出すと親憲と兼続は改めて伊達勢に目を向ける。

 政宗の後ろには鬼庭親子ともう一人、親憲達が見た事の無い女性が一人いる。

 桃色の髪にそれと同調したような桃色の羽織りを羽織った器量の良さそうな女性。

 二人の視線に気付いたのかその女性は物怖じせずに前に出て礼儀正しく丁寧に頭を下げる。そして、その女性は自らを支倉常長と名乗った。

 そこで常長は自らが考えたという策を皆に説明する為、口を開いた。

 

「では、今一度支倉殿を派遣して大内定綱に降伏を促すと?」

 

 夜になった陣中の軍議場では親憲と兼続、政宗と常長の四人が顔を突き合わせていた。

 

「大内定綱はたしかに独立を目論んだ野心家でもあります。されど、知勇兼備にて上杉に降れば利益になるでしょう」

 

 たしかに大内定綱という人物は武勇においては十文字槍の名手。知略においては様々な外交政策で小さな大内家を守ってきた人物ではある。

 しかし、伊達とは何度も傘下に加わるようにという通達を断っているだけでなく、互いに何度も戦ってきた宿敵。

 

「真に信用出来るのか? また独立を目論む危険性もあるのだろう?」

「直江殿の懸念ごもっとも。ですが、そうさせない為の策がありますれば」

「如何にして?」

 

 親憲がそう言うと政宗は不敵な笑みを浮かべながら策をつらつらと言っていく。しかし、その策は義に篤い兼続だけでなく、上杉軍にとっても承服し難いものであった。

 聞き終えた途端に「そのようなことが出来るか!?」と兼続は机を激しく叩きつける。

 無論、政宗はそのことを承知の上での献策である。

 

「それ故にこの策の過程は我ら伊達が行う。そうすれば伊達の一存で行ったということになる。なに、父上も承知の上だ。それに、後で上手くやれば上杉に汚名は付かないままだ」

「・・・・・・それならば構いませんが」

「水原殿!?」

 

 さらに抗議をしようと食って掛かろうとする兼続に親憲は手を挙げてそれを制する。

 

「某とてあまりこのようなことはしたくありません。されど、どのみち時間を掛けられる戦ではないということは直江殿もお分かりでしょう? ここは上杉の為に伊達殿には悪役となってもらいましょうか」

 

 親憲は兼続が体面を気にしているのはよく分かっている。結果として上杉の汚点となるかもしれないが、ここは実利を取るべきだ。しかし、利を強く求めようとすれば当然、懸念材料も出てくる。

 

「支倉殿のお覚悟はいかほどか? その場で斬られても誰も何も文句は言えませぬぞ?」

「覚悟は、当に出来ております」

 

 親憲の視線に負けじと常長は毅然とした口調で言い切る。

 穏やかな柔らかい雰囲気からは想像もつかないような鋭い気が滲み出る。その覚悟から彼女の戦に対する憂いと自らの力もその一端に役立たせたいという気持ちがありありと伝わってくる。

 

「分かりました。このことは我々は聞かなかったことに、直江殿もよろしいですね?」

 

 親憲に振られて兼続は反論すること無く、仕方ないと肩を竦める。本来なら兼続自身、やりたくないことだが、上杉軍の現状を見ても今はやむを得ない状況である。

 

「ええ、されど、あまりご無理はしないように」

「大丈夫です。お心遣い、ありがとうございます」

「う、うむ・・・・・・」

 

 常長のなんとも丁寧な礼に少し動揺した兼続は曖昧な返答を返した。

 常長は首を傾げて何か粗相でもしたかと考えたが、親憲が大丈夫ですと言ってくれた為に伊達の面々は少し目を逸らしている兼続と笑っている親憲を見比べてますます分からなくなったみたいだが、親憲はそのままの表情で政宗にとって願ってもないことを言ってきた。

 

「某達の兵一千もお貸しします」

「良いのか?」

「されど・・・・・・」

 

 先程の笑みが打って変わり、親憲は厳しい表情になる。それに乗じて政宗の話を聞く姿勢もより引き締まる。

 

「旗も武具も伊達殿のものにする。そして戦には参加すれど、その策には伊達殿が一任し、我が兵達は一切関わらないというのが条件です」

 

 政宗は頷くと家臣を率いて策実行の為の場所へとに向かう。

 伊達軍を見送った親憲達は重い沈黙を保ったまま陣幕へと戻っていた。兼続も口を積極的に開こうとはせずに下を向いている。

 そんな状況を嫌ったのが景家である。兵の訓練の為に伊達軍との会談にはいなかったが、戻って来て事の詳細を知った途端に落胆した。時が遅いというのは分かっている。だが、聞かずにいれないと決心して口を開いた。

 

「水原殿、その・・・・・・本当によろしいのですか?」

「現在の滞っている進軍を解決する為には少々強引な策も必要です」

「ですが、私達の方ももう少しで落城寸前です。事実先日には西の二の郭を落とし、東の郭も陥落寸前、後は大手門。突破すれば落城は必至でしょう?」

「その為にいかほどの兵力を使うおつもりですか?」

 

 決断した以上、決して揺らぐことはない。その眼には決意の感情が見てとれる。しかし、今度は兼続も黙ってはいられないとばかりに政宗達がいた時には言えなかったことを口に出す。

 

「水原殿は我が軍の評判を落とす気ですか? たしかに眼前の小浜城がなかなか落ちていないのが現状。されど、いくら表面上は認めていないとはいえ上杉にはこんな野蛮な軍があるとこれに批判する者も少なくないでしょう」

「直江殿はいつから体面ばかりを気にするようになったのです? 体面を気にしすぎて負けても所詮誰も褒めてくれませんよ。第一に直江殿も伊達殿の策を認めたではありませんか」

 

 勝てば官軍負ければ賊軍。

 源平合戦の際に生まれた言葉であるが、それと同様に上杉という偉大な大名が一つぐらいの汚点を示したとしても勝ってしまえばいずれ埋もれていくと親憲は考えていた。

 幸いにも主君である謙信が参陣していない今、この事を謙信が指示していないという口実も生みやすい。

 揉み潰すのは不可能とはいえ事が上手く運べば今はいざ知らず後世の者はそのことを致し方ないと評するだろう。 

 

「政宗殿は我々に汚名が付かないと仰っていましたが、残念ながらしばらくは何かと言われると思っていた方がよろしいでしょう。しかし、贅沢は言っていられません。某達がすることは小浜城を牽制し、我が軍の動きを悟られないようにすることです」

 

 普段の平静さのままで指示を出す親憲だが、その口調は一瞬だけ冷徹な人にも見え、兼続も景家も親憲を見て目を見開いた。

 冷えた夜風が全員を巻き込んで吹き荒ぶ。

 しばらくして顕綱は使者を派遣して来て城の明け渡しと城からの退去を政宗に申し出るが、政宗は拒否。

 その二日後、伊達軍の総攻撃に呆気なく陥落した。そして、捕らえた将兵から武器を没収し、女子供らと共に城内の一角に集めておいた。

 

「城内にいる皆将兵は捕らえたか?」

「はい、この綱元が一人残さずに」

「若、誠にこのようなことをしなさるので?」

「左月、これは正義だ。上杉謙信という人物が天下を平定する為に必要な通過点。しかし、謙信殿には・・・・・・潔白であってもらいたいのだ。私が認めた天下を統べる人物にはな」

「若・・・・・・」

 

 左月は決してまだ若いと思っていた次期当主のその傲慢とも言える発言に腹を立てた訳でもなく、また政宗がすっかり謙信を慕っていることに落胆した訳でもない。

 ただ、自らが戦乱を収める為の礎となる覚悟が出来ていることに喜びを持った。左月とてこの戦乱に憂う気持ちはある。あわよくば伊達に日の本の頂点に立って欲しいという願望もあった。しかし、それはもう叶わない夢。

 上杉という家は一人を除いて普段は真面目に動き、全員が謙信に忠実に働いている。一方で仕事を離れるとなんとものどかというか和やかというか、とにかく変わっているところが多い。

 当初はこれで大丈夫なのかという感情もあったが、政宗もおかげで随分と成長したように見えるし、彼女の父である輝宗も上杉の面々は面白いと笑って日々を過ごしている。

 結果として左月自身も降ったのが上杉で良かったと思うようにもなっていた。

 その本来の暖かさに冷たい雨が降るようなことがこれから起きようとしている。左月も当初、政宗からこの策を聞いた時には猛烈に反対した。しかし、政宗に迷いはなく、それを聞いた官兵衛も政宗の背中を押した。

 やるしかないのである。

 だが、今の左月には不思議と罪悪感があまり浮かばない。自身がもう老い先短いからだろうか。それとも老体が生きている間に天下の平穏を見る為かは分からない。だが、その心は晴れやかで、肩に掛かる重荷も無い。

 

「(不思議なものだ)」

 

 気付けば左月は軽く鼻で笑っていた。

 しばらくすると先ず、顕綱が政宗達の前に引きずり出された。

 

「何か言い残すことは?」

「ならば一つ問おう。これは、上杉の命か?」

「私の一存だ。謙信殿を始め、誰も知らない」

「・・・・・・そうか、ならば最期に言っておこう。このようなことをして、貴様も上杉もろくな死に方はせん」

「戯言としてよく覚えておこう。さて・・・・・・やれ!」

 

 小手森城城主、菊池顕綱を一番はじめにして城兵だけでなく城に籠もった女、子供など約八百人が皆殺しにされ生存者はいないとされている小手森城撫で斬りが政宗の号令の下に始まった。

 伊達軍の持つ白刃が赤い血で染まる。悲鳴が聞こえ、怨念を叫び、命乞いをする哀れな声、女が子供を抱きかかえ、子供が腰を抜かして泣き喚く。だが、伊達軍はそれらを無慈悲に斬り捨てる。そして、それだけでは飽き足らないと伊達軍は馬、犬といった動物達もただ無慈悲に斬っていく。

 

「綱元殿、政宗様を見かけませんでしたか?」

 

 城内で撫で斬りの一部指揮を執っていた綱元は城外の本陣に詰めていた筈の常長がやってきたことに驚いた。

 

「え? 本陣じゃないの?」

「それが・・・・・・私がちょっと目を離した隙に・・・・・・」

「・・・・・・分かった。私が探すから常長殿は戻っていいよ」

 

 申し訳無さそうにする常長をよそに「政宗ならやりかねない」と笑って頷きながら綱元はよく知る幼なじみを探しに城内の奥に消えていった。

 一方の政宗は血生臭い中をただ一人であてもなく歩いていた。月は雲に邪魔をされ暗い。もしかしたらこの惨劇を見て雲の力を借りて見まいとしているのかもしれない。

 つい先程まで生きていた命の灯が刀という息を吹くだけでいとも簡単に消えて行く。そうしている内に足元に許しを乞いにきた一般の城兵が足にしがみついてきた。しかし、その哀れな姿に許してやろうという気持ちは露ほども浮かばない。

 そして、その兵はやってきた自軍の兵によって声なき屍へと姿を変えた。

 それを見届けると隠れていた月が顔を出した。そして、月明かりは歩き回る者の右目に付けた眼帯を黒く光らせた。 

 夜中に始まり、全てが終わった頃には朝日が昇っていた。その輝きは人と動物の血の赤黒さをしかと表していた。

 だが、この地獄を生み出した張本人、伊達政宗の目にはこの惨劇の跡はその鋭く光る左目にも、失った右目にも見えていない。

 見えるのは朝日が照らす謙信が天下へと歩む道先だけ、それ以外に今の政宗には何も見えない。

 思い出されるのは一騎打ちを経て、降った後に初めて腹を括って話した時、謙信は強い決意を以て宣言した。

 

『私は何人の血を被ろうと天下を正義の下に統べる。それが矛盾だらけであると分かっていても、それを信じて付いてきてくれる皆の為。そして、思い半ばで逝った定満や藤資の為。誰が裏切ろうと嘲笑おうと、乱世を生き、上に立つ者として乱世が終わる最後まで諦めはしない』

 

 見える。人という飾りを被った越後の竜が独眼竜と言われる自身よりも大きく、自身さえも飲み込んでいってしまう程の器を眼前の竜は持っている。

 この謙信なる人物が今後どう生きるかは分からない。だが、彼女が歩む先にある弊害を切り裂く役目を自身も行いたいと思った。

 

「終わったよ。梵天丸」

「む、そうか」

 

 珍しく幼なじみとしての綱元の一声にてようやく目の前が見えた。朝日が城の床にべっとりと付いた血をこれでもかと見せ付ける。 

 気付かないでいたことを察して綱元は敢えて「梵天丸」と呼んだのだろう。気付かない気遣いに感謝しつつも敢えて話題を変える。

 

「随分と血生臭いな」

「言い出した梵天丸が何を言ってるの?」

「これが、敗者の成れの果てかと思うと今更ながらに哀れに見えてな」

 

 本当に心からそう思った。しかし、その罪悪感を上回る希望への期待感が政宗には強かった。もはや後戻りの出来ない状態になった。これで失敗すればその時はその時。

 親憲との約束通り上杉の兵には何もさせていない。これで後は伊達政宗という独眼竜の翼に一旦多くの血を吸わせればそれで良い。そして、長い時を掛けて血を滴り落とすだけ。

 落としきった後には自分もきっと越後の竜に近付く程に大きくなることが出来るだろう。

 各方面から処刑終了の報告を聞くと常長を先に帰らせた後に政宗は死体を片付けさせて帰陣の命を下した。

 朝になってから報告を受けた親憲は早速、景家に城周辺の警戒を強化させ、陣幕に兼続を呼んだ。

 

「終わりましたか?」

「ええ、これが送られてきた書状です」

「ふむ・・・・・・水原殿、小手森城の城兵は八百とありますが、いっそ一千に増してはいかがでしょうか?」

「数を増やすことでより大内の恐怖を煽ると?」

「ええ、さらに周辺の豪族に大内へ援軍を送る気を無くし、上杉に恭順させるのです」

 

 不信感を抱く者もいるかもしれない。だが、それは上杉の持つ仲間意識が自然とその壁を崩してくれるだろう。

 

「小手森城の兵も何もかもが全て死にました。民には何かと言われるかもしれません。されど菊池以上の統治をすれば民は菊池を忘れていくでしょう」

 

 今もいずれは過去となる。全てを忘れ去るには時間が掛かるかもしれないが、決して時を刻む針が止まることは無い。

 

「報告、春日山より二千の後詰めが到着寸前です」

 

 伊達軍は去った小手森城の中で微かに動く指を誰も見ることはない。 

 

 

 

 雲霧城を落とした弥太郎達は浮かない顔をした龍兵衛を城内に呼んだ。その表情に先の事とは別の何かが起きたことを察した弥太郎が事情を聞くと小手森城の事を認められた書状を読み慶次と共にはっと龍兵衛を見る。

 何も言わず、動かないが目が語っている。そして、三人は一つの部屋に集まり誰もいないことを確認すると声を潜めて話し合いを始めた。

 

「どうする? これが石川に漏れたらますます頑強に抵抗するやもしれん」 

「伏せておくに限ります。書状を見るに政宗殿の一存で行ったとあります。ですが、人の口に戸は立てられません。一度漏れれば面倒なことになります」

「だったらいっそ誤魔化しちゃえば?」

「・・・・・・それだ。書状には八百とあります。それを二百と改竄してしまいましょう」

「随分と思い切ったな」

 

 弥太郎の声には半ば呆れが入っている。慶次もやりすぎではないかというように目で訴えかけるが、龍兵衛は気にしない。

 

「ここまできた以上、面倒事は避けなければ・・・・・・この事は伊達殿の留守を任されている後藤信康殿に伝え、自身が改めた報告を送ることにしましょう」

 

 伊達が上杉の代わりに治める領地に下手な諍いを招かない為には嘘でも何でもついておかなければならない。少しでもこの事で上杉に対する偏見を防ぐ為には当然の処置である。 

 

「随分と活き活きしているな」

「そうでしょうか?」

「してるわねぇ~不思議なくらいに」

 

 顔をさすって自身の表情を窺うが、全くそのような自覚も感覚も無い。

 戦の時は乱れることの無い落ち着いた感情を彼は少しばかり珍しく崩した。龍兵衛は政宗の行った事に軽い共感を抱いた。

 美濃で罪の無い数人の潔白な血を浴びた自分。そして小手森城に籠もっていた八百の人間を殺めた政宗。味わう苦しみが同じとは言えないかもしれないが、お互いに家の為に汚れたのだ。

 近くに同じ境遇を持った人が居れば自ずと心も軽くなるのだろう。それが彼が活き活きとし始めた原因であった。 

 

「うーん、歴史に残りそうな瞬間に立ち会ってみたかったんですけど。それを利用出来るのもまた楽しみですから」

「そのようなことを楽しそうに受け止める性格からしてやはり龍兵衛は襲うのが趣味か、やはりそっち系の方が男としては多いのか?」

「だからそれは忘れて下さい!」

 

 おそらく生涯言われることになるだろうと思うと龍兵衛は溜め息しか出て来なかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十話改 山あり谷あり

 援軍として訪れた伊達軍が小手森城に籠もっていた将兵及び女子供、さらには生きている馬までをも撫で斬りにした由という報告を大内討伐に向かった親憲から受けた三人は愕然としていた。

 天を仰ぎ見る弥太郎に珍しく真面目な表情をしている慶次。だが、二人よりもそれ以上にこの報告に一番愕然としているのは龍兵衛であった。

 

「(やりかねないからあえて安東攻めに伊達を持って行ったのに・・・・・・)」

 

 この日の前日に横手城を包囲して落城寸前であるという報告を受けていただけに大丈夫だろうと思っていた矢先のことであった。もう結果が出てしまった以上は彼もまた両手で顔を覆うしかない。

 別段、撫で斬り自体、戦国時代では良くあったことだと聞いていたのと自身も斎藤家でこういった皆殺しを手伝わされたことがある。しかし、今は時期が悪い。上杉軍全体の士気にも関わるが、東北の反上杉に悪影響を及ぼしかねない。

 

「とりあえず、このことは合流後で聞くことにしましょう・・・・・・」

 

 今は石川を倒すことに集中しなければならない。だが、黒い歴史をまたしても覆すことが出来なかった自分を呪わずにはいられない。何かを見出せるのであれば良いが、利益を一切見出すことが出来ない

 意味があってこその政宗が起こした所業であることは分かっている。しかし、それをただの残虐行為と見なす者はどれほどいるのだろうか。

 

「(いや、今言ったばかりだろう。今は石川だ)」

 

 逸れた思考を戻す為、頭を振って思考を現状に戻す。龍兵衛は控えさせていた地図を出して弥太郎、慶次、盛義と盛秀を含めた五人で今後の戦運びを話し合い始める。

 雲霧城を落とした為に石川の本城である三芦城へと進む為の弊害は藤田城のみとなった。もっと早い段階で雲霧城へ攻撃を掛けていれば良かったと思っても詮無き事。先を見なければ軍師として失格である。

 

「こうなった以上は藤田城へ今日中に進軍し、包囲してしまいましょう。そうすれば敵にこの情報が流れる前に降伏させることも可能です」

 

 龍兵衛は切り替えて次なる戦略を立てる。上杉の機動力を考えれば容易いことである。その意見に反対意見は無い。

 

「慶次は二階堂殿と共に先に向かってくれ。春日山より援軍がもう少しで到着すると報告が届いた。それを交渉材料にして自分達が到着する前に城を落としても構わない」

「了解」

 

 広まる前に城を落とせば、たとえ向こうが猜疑心を持ったとしても上杉は寛大であることを示すことも可能である。上杉軍の力を見せておけば降伏してくれる可能性も高い。

 

「二階堂殿、先導役の役目、よろしくお願い申し上げます」

「うむ、任せてもらおう」

 

 二階堂盛義は盛隆という年頃の娘がいるというのに顔には髭一本も無く、きりっと引き締まった顔をしている。

 あまり有名ではない為に龍兵衛もなかなか彼については知る情報がなかった。知っているものもあるにはあるが、それは決して眼前の盛義とは似ても似つかない。

 

「(これなら三芦城まではすぐに辿り着けそうだな)」

 

 油断は禁物ということは分かっている。しかし、戦では頼もしい面々が揃っている以上は少しばかり奢ってしまいそうになってしまう。

 

「ちょいちょいと・・・・・・」

「いひゃあい!?」

「油断は禁物だぞ? 変態さん?」

「弥太郎殿~」

 

 皆がいなくなった瞬間に弥太郎は背丈に似合わない悪戯っ子に変わる。以前に黒歴史がばれてからは更に龍兵衛に対する悪戯は増えている。

 本当に戦の時だけは頼もしい面々だと龍兵衛は脇腹をさすりながら改めて思った。

 翌日からの藤田城へ進軍するまでに上杉軍は奇襲を受けること無く無事に到着出来た。そして、盛義は仕事をほっぽりだした慶次に代わって包囲が完了したらすぐに降伏勧告の使者を出した。

 

「まったく、前田殿はどこに行ったのやら・・・・・・」

 

 呆れるしかないが、盛義も慶次の実力は認めている。しかし、あの悪戯好きで気ままな性格が娘の盛隆に影響しているのにはちょっと眉をひそめていた。

 彼女の気ままな性格が盛隆の趣味である草むしりを気が向いたらやるようになってしまうという困った方に行ってしまっているのだ。

 

「呼んだ~?」

「まったく、使者はそろそろ帰ってきますよ」

「あっそぉ・・・・・・じゃ、任せた」

 

 一瞬で面倒くさいと察したのか逃げられた。溜め息しか出てこないが、盛義は思わず笑ってしまった。

 それからしばらくして帰ってきた使者の結果は駄目。

 仕方無いと思った龍兵衛は夜襲に警戒しつつ弥太郎達が率いる本隊を待って攻撃を仕掛けることにした。

 残念がっている盛義と対照的に慶次はどこか嬉しそうにしている。

 

 この使者が持って帰ってきた結果は慶次にとって望んでいたものでもあった。彼女は戦に身をおいてこそ本領が発揮される。慶次自身もそのことはよく分かっていた。だからこそ戦を望み、早くそこに我が身を置きたいのだ。

 うずうずと逸る気持ちを抑えながら慶次は早く戦になることを願っていたが、願望はその日の内にやってきた。

 野営していた上杉軍の陣中には静かな沈黙が流れていた。静寂の中を飛ぶ一本の矢。その綺麗な軌道は風のない空中で乱れることはない。そして、矢はしっかりと上杉軍の兵の一人に突き刺さった。

 それを合図にした訳ではないが、雄叫びが周辺に木霊する。上杉軍の陣中に石川の軍勢が雪崩れ込んできた。

 

「前田様! 夜襲です!」

 

 兵の一人が大慌てでやってきた。しかし、慶次の姿はそこには既にいない。驚いた兵は辺りをきょろきょろと見回すが結果は同じこと。

 急いでそこから離れた場所を探すと慶次は既に敵と戦っていた。その有様からして動揺している素振りは無く普段通りの強さで槍を振り回している。さらに周辺の味方の兵にも指示を飛ばして火の始末をさせている。

 

「あらぁ? どうしたの」

 

 周りの敵を大体片付けた慶次が呆然としている兵に気付いて声を掛けてくる。返り血を浴びたその顔は彼女の美しさを損なうことは無く、戦の中で舞う残酷で美しい夜叉に見える。

 

「え、いえ、その・・・・・・」

「ああ~もしかして夜襲が起きたってことぉ?」

「えっ? ええ・・・・・・」

「だいたい分かるでしょ。陣中に入った最初の夜は夜襲に注意って」

 

 この兵は慶次を見誤っていた。普段の戦ぶりからただの戦闘狂にしか見えなかったのだ。しかし、慶次も育ちの良さから色々と学んできた。それを一介の兵が知る由もない。それも最近入った二階堂家の新兵なら尚更である。

 

「で、そっちは救援いるの?」

「はっ、少しばかりお願いを」

 

 そう言うが早いか慶次は盛義のいるであろう場所へと向かった。 

 一方の盛義は夜襲に警戒をしていたが、慶次程上手く対応出来ていなかった。布陣して初日なので疲れて眠りが深かったのである。

 少々の被害が出始めていて、盛義自身も少し焦っていた。娘が継いだ蘆名の傘を借りてどうにか二階堂家の威厳を保ってきた。そして、上杉に盛隆の計らいで降伏した後も二階堂家を残し、心無い者から他家の七光と言われながらもどうにか自身の領土を守ってきた。なんとしてもここで退く訳にはいかない。

 いつまでも他人に頼っていると言われない為にも。

 だが、その心意気も呆気なく終わることになる。一つの銃声が響くとその銃弾は盛義の顔をかすめた。

 すると盛義のきりっとしていた顔が徐々に青ざめていき、目が異常に釣り上がり、口を大きく開け、まるで発狂しているかのような表情になる。

 

「ひょ、ひょえええぇぇぇ~!!!」

 

 その奇声はこの戦場の隅々までに聞こえたであろうか。ともかく盛義はその後にすぐに気絶してしまい、兵達によって奥に避難させられた。それからすぐに慶次がやってきた。 

 

「前田慶次、推参! って・・・・・・肝心な人がいないじゃないのぉ?」

「申し訳ありません。二階堂様は流れ弾によって怪我の治療に」

 

 二階堂の兵達からすれば自家の当主が全く機能しなくなったなど口が裂けてでも言えない。それを知ったら何をするか分からない慶次では尚更である。

 

「ふーん、案外丈夫じゃないのねぇ・・・・・・ま、いっか。ここはあたしに任せて」

 

 そう言うや否や慶次は武芸者でも見ることが難しい程の速さで敵に突撃を仕掛ける。その後ろから付いて来た上杉軍の兵が小波の如く続いていく。

 

「さぁ、私が相手になるから束になって掛かってらっしゃい!」

 

 慶次らしくない殺気の籠もった声と一緒に無情な台詞が上杉・二階堂軍には安堵感を含んだ鬨の声を、石川軍には怒りを与えた。

 

「貴様などさっさと捕らえてその身体を殿に献上してやるわ!」

「あっそ」

 

 その間の抜けた慶次の言葉と共に喚き、突っ込んで来た兵は真っ二つに頭から切り裂かれた。

 

「悪いけど、そんなに私も安っぽいもんじゃないのよね」

 

 慶次は無駄のない身のこなしで敵を圧倒し始めた。その武に後ろの兵達も続いていく。

 この夜襲の知らせはすぐに弥太郎と龍兵衛にも入ってきた。とはいえ二人共もしかしたらあるかもしれないと思っていたのでさほどのことではないと最初は捉えていた。

 だが、盛義の軍勢に被害が出たという少し懸念がある。それが藤田城に伝われば士気が上がって降伏させる余地が徐々に少なくなってしまう。

 弥太郎は急いで進軍をさせるとそのまま二時間後には藤田城城外の陣に着いた。

 すぐに軍議を開くと盛義の代わりに盛秀がやってきて素直に盛秀が倒れた詳細について話す。弥太郎がぷるぷると震えていたが、龍兵衛が下で密かに足を踏みつけたおかげで黙ったままで済んだ。

 

「それで、二階堂殿は?」

「意識は回復致しました。誠に此度はお見苦しい姿をお見せして、主君に代わり某がお詫び申し上げます」

「いや、お気になどなさらず。敵の夜襲は失敗に終わったことですし。後は石川が降ってくれれば良いのです」

 

 盛秀は恥ずかしさを誤魔化すように何度も頭を下げている。あの盛義の狂気じみた行動は重臣中の重臣である盛秀ぐらいしか知らなかったことで今回のあれは例外として一応は済んでいる。

 

「まぁ、須田殿も二階堂殿の下へ向かって看病していてくれ。後は私達で」  

 

 弥太郎が締めくくるように言うと盛秀は陣幕を出て行った。そして、中には弥太郎・龍兵衛・慶次の三人となった。

 

「しかし、二階堂殿は夜襲に警戒していなかったのだろうか?」

「有り得ますね。しかし、二階堂殿も分かっていなかったと断定するのは早急です・・・・・・まさか弥太郎殿は二階堂殿に罰を?」

「いや、戦もまだ始まったばかりでそのようなことをすれば纏まりが無くなりかねん」

 

 弥太郎の判断に二人も同意を示した。悪口にも聞こえるが、緒戦に不意を突かれるようでは抵抗可能と判断されて今後の戦も楽にはならない。

 そして、藤田城の状況に話題は移る。

 先の夜襲にて藤田城の城兵は上杉軍以上の被害を被り城内の兵は多くても一千程度となった。今は密かに龍兵衛が城内の様子を探らせている。

 

「もう少しで帰って来る筈です。それから使者を出すかどうか決めましょう」

「援軍の方はどうだ?」

「早馬が到着の前日に来る手筈になっています」

 

 了解したと弥太郎が頷くと今度は仮に藤田城が降伏しなかった場合の戦運びを考える。

 藤田城は小さな山城ではあるが、阿武隈川の支流藤田川の南の丘陵に築かれている。

 城は谷を囲む様に曲輪を配し、主郭は東側にあり南北に長い曲輪で南側がやや高くなっている。主郭の北下にある曲輪は南側に虎口を開いている。

 龍兵衛は城の見取り図を開くとその虎口を指差した。

 

「ここを落とせば城自体の機能がいかなくなります。敵もそのことを十分理解しているでしょう。その為に弥太郎殿と二階堂殿で南西の大手門を攻めて敵の目をそちらに引き付けて下さい。後は自分が慶次と須田殿とで上手くやります」

「分かった。そちらは任せよう」

 

 そう言うと弥太郎は姿勢を崩して足を組みながら溜め息と共に溜まっていた緊張感を一気に吐き出す。普段から同じようなことをしているが、今日はいつもと違い、息を吐く音が呆れたようにも聞こえた。

 

「・・・・・・で、どうするのだ」

「うーむ、いくら何でも・・・・・・仕方ありませんね?」

 

 お互いに頷き合うとここまで全く話に入ってこなかった慶次に近付く。力任せにぐいっと龍兵衛が身体を押すと「きゃあ!?」と声を上げて椅子からひっくり返った。

 

「痛ぁ、なにすんのぉ?」

「話し合いの最中に居眠りして鼻提灯出していた奴が言うな」

「だってぇ、夜襲終わりは疲れるのよぉ、どんだけ駆け回ったと思っているの」

「「知らんな」」

 

 無情の返答によよよと泣き崩れる慶次を二人はしらーっとした目で見ていた。

 その日の夜になって城に潜入していた段蔵が戻ってきた。その様子からどうにも夜襲の影響で士気が上がり、さらに元々玉砕覚悟の防衛戦であったようで降伏勧告に来た使者を斬る役割を持った者もいる程だそうだ。

 わざわざ死に行くような事を命じたり自らやったりする程弥太郎も龍兵衛も馬鹿ではない。

 

「んで、後は龍兵衛の推測通りだったよ」

 

 問題無く事は進んでいる。あるとすれば、弥太郎の率いる上杉軍の進軍する西の道に櫓がある事と城の兵も襲撃に気付けば死に物狂いで攻め込んでくるだろう。ならば善は急げ、今宵攻めかかるのが良いと判断した龍兵衛は早速夜襲を弥太郎に進言した。弥太郎も迷わず頷くと準備をあっという間に終わらせて密かに進軍を命じた。

 弥太郎の軍は特殊な篝火を用いることで櫓の監視を潜り抜け、各々が所定の位置に付き、段蔵が配下と共に各軍の状態が確実に良くなった段階で上杉軍は動いた。

 まずは手筈通り弥太郎が南西の大手門を攻めた。案の定敵、敵の守りは薄く、あっさりと突破に成功した。それに慌てた石川軍は弥太郎が自らを上杉軍総大将と名乗りを上げながら突撃をして来た為に更なる混乱と欲を引き立て、目をそちらに向けさせた。

 そして、万事恙無く策の通りに進んだところで龍兵衛の指揮棒が虎口を指した。敵の一部はその前日に拝んだ慶次が真っ先に突撃するのを見て恐怖にかられた。 

 その時と変わらぬ槍さばきは見る者を魅了させ、魅了された者はとことん屍に変わり果てた。

 

「ん~、歯応え無いわねぇ・・・・・・もっと戦える人は順番に相手するわよぉ」  

 

 しかし、その発言は石川軍に怒りをもたらせども慶次に向かって行く気概を与えはしなかった。誰も来ないのを確認すると慶次はそのまま石川軍に容赦なく攻めかかる。

 

「はぁ、あの真面目な目を少しは普段も出して欲しい・・・・・・」

 

 龍兵衛は後ろで指揮を執りながらそんなことを呟いた。一応守られているが、そのフードを被った薄い南蛮製の羽織りは石川軍からは恰好の目標となった。

 彼自身、そんなに後ろには守っていなかったので慶次の猛攻をかいくぐった兵が龍兵衛に襲い掛かる。

 

「名のある武士とお見受けする。いざ尋常に勝負!」

「・・・・・・げ」

 

 戦に出ている以上は安全な場所は無いと知っているが、自身がそんなに長く戦えないと知っている彼にとっては迷惑この上ない。とはいえ彼も多少は武に通じているので一兵卒に手間取ってしまうことはない。

 ひょいと攻撃をかわすとその隙から刀を入れる。あっさりと兵が倒れたと思ったら今度はもう一人の兵が斬り掛かってきた。

 

「危ないな」

 

 ありふれたことを言いながらまた敵を斬り捨てる。だが、口先だけで龍兵衛自身には余裕がある訳ではない。身体中に冷や汗をかいている。

 

「河田殿、ここは某に任せて指揮を執ることに専念して下され」

 

 後ろから槍が飛んできて次に来た敵に刺さったと思うと、背後から掛かった盛秀の声に龍兵衛は内心、安堵しながらも平静さを保ち、静かに、緩んだ気持ちを引き締めながら引き下がった。

 そして、背後を取られた形となった上に慶次と盛秀の活躍によって虎口は呆気なく落ちた。

 楽な戦などどこにも無いことは分かっている。しかし、これ程、手応えも歯応えも無い戦は幾度も修羅場で戦ってきた者達にとっては楽としか言いようがなかった。

 

「慶次、そちらはどうだった?」

「問題無し。そっちは?」

「言うまでもない。行くぞ!」

 

 弥太郎と慶次は合流し、そのまま向かってくる敵さえも近付けないような動きで藤田城の本丸へと向かう。

 邪魔な兵達を全て斬り捨て、悠々と本丸へ入るとそこには白髪交じりの髪をして物腰穏やかな初老の男性が立っていた。

 

「そなたが藤田城城主溝井義信か?」

「死に行く者の名を聞いて何とする?」

 

 一瞬でも穏やかだと思った二人は第一印象を改める必要があった。

 溝井義信は物腰穏やかのそれ以上でも無いと思ったが、彼にも武人として気概があった。それは御家の為に死するという武人としての覚悟。そして、二家に仕えないという武人としての道理。

 弥太郎にも義信の眼が語るそれは間違いなく感じられているだろう。

 

「降伏勧告を今致したところで変わりないな?」

「ふん、貴様らなどの成り上がりに降るなど、由緒正しき石川の恥でしかないわい」

「力の差があっても、か?」

「確かに儂らも降伏を考えた。されど・・・・・・」

 

 義信は一息入れると二人を勢い良く指差して喚くように大きく口を開いた。

 

「罪の無い者達も皆殺しにする貴様らなど降る価値も無いわ!」

「なっ・・・・・・」

 

 二人の身体中を雷で撃たれたような衝撃が走った。何故それを既に知っているのだろう。内密にしてきたことが包囲していた藤田城に漏れていた事に弥太郎と慶次は驚きを隠せないままであった。

 それを見ていた義信はしてやったりと笑うと鎧の下に着ていた白装束をさらけ出し、あっという間に小刀を腹に刺した。するとずっと後ろで控えてらしい兵が出てきて介錯の務めを終えるとすぐに自身も首に刀を刺して果てる。

 二人はただ呆然とするばかり。そして、首を取ると城を出ると兵達と共に暗い気持ちを少しでも慰めようと勝ち鬨を上げる。 

 それから全軍を城に入れると真っ先に龍兵衛の下へ向かい、見つけるとすぐに声を掛けた。

 四人の主だった将と共に戦後処理を終えながら話し合っている時に弥太郎が件のことを話す。

 

「そうですか、小手森の事がばれていましたか」

 

 龍兵衛は心底残念だというように表情を暗くする。内心の冷や汗は免れない。藤田城に知られているということは他の城にも小手森城のことが知られている。

 

「こうなった以上は三芦城もこうなると覚悟をしていた方がよろしいですね」

 

 親憲の暗い表情が周りにも徐々に蔓延して行く。

 

「そうねぇ、力攻めがどこまで上手く行くかは知らないけどぉ」

「もしかすると此度の戦はもう石川を落として終わりになるかも・・・・・・」

 

 慶次と龍兵衛の弱気な発言も無理はない。ただ問題は回復を早めて強引に外征を進めた以上は戦略通りの戦果を上げる必要がある。

 だが、一旦起きた汚点はすぐに消えてくれるものではない。少なくともこの戦の間は耐えなければならないのが現状だ。

 

「早馬が到着致しました」

 

 五人は顔を見合わせて早く通すよう弥太郎が急かす。そして、待ちに待った援軍が明日にも到着する事が告げられた。これだけでも良い材料には十分である。

 しかし、その率いる大将に少々の問題があった。

 

「なんで謙信様自らのご出馬を?」

 

 出迎えようと三人は陣の入口に向かうと一番前には見慣れた白い颯爽とした軍服を身にまとっている謙信の姿があった。

 

「家臣達がいつ死ぬか分からぬ時に私だけが後ろに引っ込んでいてはな・・・・・・」

「政務は?」

「颯馬と朝信と長秀に任せてきた」

「「「(押し付けたな・・・・・・)」」」

「まぁ、私が来たらば兵の士気も上がるからな。少しは戦運びも楽になるだろ」

「「「(本心は違うくせに・・・・・・)」」」

 

 体裁の良いことを言っていると内心呆れた溜め息を吐く。

 謙信自身、戦好きという訳ではないが、少しばかりは自由に動ける戦場の方が楽であると思い、出て来た事を上杉の直臣三名はよく分かっている。

 

「いや、私も止めたのじゃがな・・・・・・」

 

 三人から「おい、何故だ?」という声なき声を籠めた視線に感じ取った義清は言い訳を始めようとするが、もはやここまで来た以上は止めるものも止められない。三人はただ溜め息を吐くしかなかった。

 一応、援軍が着いたことでもう少し戦いに余裕が出てきた。

 気になるのは武田だが、織田との攻防戦に目が行っている以上は今のところは気にしなくても良い。だが、そんな気楽な構えを龍兵衛は謙信の言葉によってすぐに捨てなければならなかった。

 

「大内の方も抵抗しているそうだが、景勝が向かった事だし、問題無かろう」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十一話改 その先へ 

 慶次はもう少しで三芦城を落とせると考えていた。藤田城で情報の漏洩があったことが分かったものの、数では石川も風前の灯火と言っていい状態となったからだ。

 そう考えると気が楽になってくる。謙信が来たのは脇において援軍が到着したということ。つまり、自分はもう後を別の人に任せられるということである。

 だが、謙信のある台詞に一気に雰囲気が変わった者がいたことを慶次は見逃さなかった。

 

「大内の方も抵抗しているそうだが、景勝が向かった事だし、問題無かろう」

 

 龍兵衛が呆れ返ったような感情を変え、奈落の絶望に落とされたような表情を一瞬したのを慶次は見た。その人物、龍兵衛はすぐに表情を元に戻して皆と談笑を続けた。

 普段は掴み所の無い慶次だが、人を見る目は鋭い。今回はそれが役に立ったようだった。

 

「まぁ、それならばすぐにでも大内を落として、相馬を下せるでしょう」

「そうだろう? 故に私達もしっかりと勝たねばな」

「ただ・・・・・・絶対に前に飛び出したりしないで頂きたい」

 

 しかし、龍兵衛はすぐに謙信にぶっとい釘を差すとここにいる全員から思いっ切り頷かれるような同調を貰いご満悦な表情を浮かべた。

 三芦城の石川晴光は降伏の考えを止めて徹底抗戦の構えを示した。そして、小手森の二の舞になる訳にはいくまいと将兵の親族を避難させるように指示。玉砕覚悟の籠城戦を宣言したことは段蔵によって上杉に知られた。

 これを謙信は好機と考え、弥太郎に命じて密かに避難させたという場所に兵を送り込み、その親族達を捕らえた。

 連れてこられた者達は小手森城のようになると恐れて誰一人として心を落ち着かせていた者はいなかった。中には念仏や題目を唱えたり、恐怖のあまり泣き出す者もいる程である。

 そこに真っ先に入っていったのは謙信であった。謙信は怨みや憎しみの中をつかつかと無言で歩きながら一人の子供の前に立つ。すかさずそこにその母親らしい女性がやってきて大慌てで子供を腕の中に隠した。

 謙信はそれに構わず子供に手を差し伸べる。だが、子供は泣いてその手を強く払った。

 慌てて親らしき女性が腕の中に子供を収め、謙信を鋭く睨む。殺すなら自身を殺せと言わんばかりに謙信から目を離さない。

 駄目だと思った謙信は背中に罵倒雑言を浴びながら早足で去った。

 

「如何でした?」

 

 捕らえた者を収容する場所から出て来た謙信を出迎えたのは弥太郎と龍兵衛の二人だった。

 

「やはり、我らに恐怖を抱いているようだな。さる老人からは『殺すなら早く殺せ』と言われる程だ」

「それでは時間が掛かります。やはり、ここは先に三芦城を落とした方が・・・・・・」

 

 第一にかれらに食べさせる食事の量も考えなければならない。しかし、謙信は首を横に振る。

 

「龍兵衛、それはならん。人の心を掴まずして何が上に立つ者なのだ」

「されど、時は待ってくれませぬ。もし仮に景勝様達が先に大内、相馬を倒したら・・・・・・」

「言いたい事は分かる。しかし、私は私のままのやり方を崩したくないのだ」

 

 揺らぐことはない。謙信は藤田城の将兵に小手森城の事が漏れていることを既に知っている。その上で行うという決意の目を見た龍兵衛は何も言わない。一方で、彼にはこの時間が今後に起こる大きな好機を逃す気がしてならなかった。

 

「心配するな。このことは決して無駄にはならないようにする」

 

 決まった事を覆すことはもうしないで謙信の言葉に龍兵衛はただ頷くしかなかった。しかし、頭では時間を埋める為の策が浮かび上がっていた。

 

「一つだけ自分の我が儘を聞いて頂けないでしょうか?」

  

 その後、謙信が総大将となった上杉軍は三芦城に近い愛宕山に陣を敷いた。その間、謙信は全く攻撃命令を出さずに将兵を慰労する宴を羽目を外さない程度にほぼ毎日行うようになった。

 

「謙信様、少々飲み過ぎでは?」

 

 軽い宴もたけなわになってきたところで盛秀は指摘する。たしかに謙信の飲む量はほどほどと本人は言っているが、端から見ればかなりの量を飲んでいる。

 

「いや、これでも少ない方だぞ、な?」

 

 弥太郎・龍兵衛・義清・慶次という上杉の直臣が四人同時にうんうんと大きく頷いたので「噂に聞いていたがこれほどとは・・・・・・」と諫言どころか逆に盛秀は感心してしまった。

 ちなみに弥太郎はしっかり羽目を外していた。

 

「ふー・・・・・・龍兵衛、お前も飲め~」

「お断りします。弥太郎殿は少し酒を控えて下さい」

「何、聞き捨てならぬ。お前こそ私との一夜・・・・・・」

「分かりました! 飲みましょう!」

 

 脅迫材料を持ち出してきた弥太郎に慌てて取り繕って龍兵衛は難を逃れた。

 だが、慶次はそれに便乗する気にならなかった。その宴の最中も龍兵衛が時折疲れたような溜め息を吐き続けていることが気になっていたのだ。

 しばらくして宴が終わるとすぐに慶次は龍兵衛の下を訪ねて以前から出ている落胆した表情についての訳を単刀直入に聞いた。

 すると彼は「出ていたか・・・・・・」と溜め息を吐きながら先程上手くいった謙信に対する事の余韻を引きずった笑みを引っ込めて、暗い表情になった。

 

「大内が落ちていないのに景勝様が大内討伐の援軍に向かってみろ。小手森の撫で斬りは誰が指示したと大内の面々は捉える?」

 

 龍兵衛が全てを言い終わる前に慶次は目を見開いた。そこまで言われて察することが出来ない阿呆ではない。

 上杉軍の皆が声高に叫ぼうと伊達政宗が自身の指示で行ったと言ったところではたして信じる者がいるだろうか。そして、それは景勝には随分と苦しい思いをさせることに違いない。

 

「大内が落ちていれば話は別だ。でも、謙信様はまだ大内が落ちていないと仰ったし、大内が落ちた情報も入っていない」

「つまり、かっつんに向けられる目は・・・・・・」

「怒り、恨み、侮蔑・・・・・・ありとあらゆる偏見だ・・・・・・」

「そんな・・・・・・」

 

 絶句するのも無理はない。龍兵衛もただ腕を組むばかり。それで何かが変わる訳ではない。もうここにいる以上は景勝の代わりに泥を被るのは不可能だ。仮に兼続あたりが被ったところで全ては総大将である景勝に向けられる。

 

「今はどうしようもない。この辛さを俺達は石川にぶつけていくしかない。そろそろこちらの動きを察して動いてくるだろうからな。しかし・・・・・・」

 

 龍兵衛は腕を組み、唸りながら頭の中で何か考え事を始めた。

 また、人に関わらずに考え込む悪い癖が出たと慶次は思いながら気になるので聞いてみる。

 

「何?」

「謙信様がこのことに気付かない程の御方とお前は思うか?」

 

 思ったよりも簡単に話してきたことに驚きつつ、慶次は首を横に振る。謙信の人を見る目は天下の中でも指折りだろう。また、切れ者でもある彼女が景勝にどのような目が向けられるのか分からない筈が無い。

 

「分からないんだよなぁ・・・・・・」

 

 分かっているのにどうして景勝を出陣させる必要があったのか。慶次にもその真意は掴めず、二人の思考は徐々に泥沼に入って行く。

 

 

 

 

 

 一向に攻めてくる気配のない上杉軍を石川晴光が不審に思い、斥候を放ったところ家臣一同の親族全員が上杉軍にいることが分かったのだ。

 晴光は怒り、直ちにその者達を奪還をするべく出陣を命じた。無論これに反対する者はおらず、城兵達も殆どが上杉軍に進軍した。

 そして、愛宕山に突撃したかれらの目の前に待ち構えていたのは上杉軍ではなく、かれらの親族であった。

 盾にしているとしか思えない残忍な所業、やはりかような事を行えるのは上杉軍の本性は善ではなく悪であるからこそだ。そのような家の当主が関東管領であるとは聞いて呆れる。もはや呆れかえって物も言えない。

 だが、親族が盾になっている以上は突撃を命じれば晴光の方が冷酷であると表明するようなもの。

 待機させて上杉軍の動向を伺うと後ろから誰かが徒歩でやってきた。一人で、その者は見るからに名のある将であった。しかし、晴光はその者に向けて襲い掛かろうとする気にはなれなかった。

 親族の間を縫うようにその者は前に歩いてきた。晴光はここでようやくその者が女性であり、謙信と分かった。

 

「この者達は我らに降った」

 

 唐突かつ単刀直入に言い出した謙信の発言に石川の面々は意味を理解するのに時間が掛かった。しかし、悟った途端にその怒りは衝動となり兵達は感情に駆られ、何人かが飛び出した。

 謙信に斬り掛かろうと刀や槍をかざして突進するもそれを何故か人質となったかれらの親族が許さなかった。

 

「お待ち下さい。謙信様を斬るのは止めて下さい」

 

 一人の老人が前に出る。それと同時に女性を守るように前に前に続けて出て来た。

 石川家臣団の親族達が上杉謙信を守る為に頭を下げている。

 奇怪としか言いようがない。

 兵達もこの光景に誰一人として先程のように怒りに任せに突き動かされる素振りは見せず、親族達の必死の懇願にだらりと武器を下げている。

 既に流れの波は動いている。そして、謙信はもはや石川を取ったのだ。石川家臣の将兵が親族を斬り殺す。

 つまりは赤の他人を斬った上杉軍以下の存在になるか、それとも降伏するか。天秤にかければもう晴光はどうすることも出来ない状況に立たされたことに悟った。

 そして、追い討ちがさらに晴光に掛かる。

 

「申し上げます。三芦城が上杉軍に占拠されました」

 

 涙を流した斥候からの報告に晴光は馬から下りて謙信に向かった。

 一方の謙信は表情を少し緩めながらも油断すること無く、晴光の動きを観察する。出て来た兵に武器を渡すように言われても素直に従い、特に抵抗する素振りは無い。

 それを見ながら謙信は思考を二週間前のことに戻す。

 愛宕山へ先に捕らえた石川の将兵の親族も連れて行き、そこで徹底的にかれらの心を開く事に専念した。

 親族達も当初こそは兵も一緒に様々な将と共にやって来るのを見ていよいよかと念仏の声や合掌する者が後を絶えなかった。

 だが、謙信以下、将兵が食事を与えたり膝を着いて語るなどの努力によって段々と皆が話すようになってきた。

 そしてとうとう、慶次が宴で行う猿真似を披露すると拍手が起こり出す程に石川家臣団の親族は上杉に敵愾心を無くした。 

 だが、それに用した時間は二週間、時間が気になる龍兵衛にとっては貧乏揺すりが止まらなかった。

 それでも彼は上杉軍の勝利の為、自らも積極的に石川家臣団の親族と真摯に接した。そして、上杉軍の主だった将全員がかれらと親しい関係を築いた。

 これが功を奏して石川家を一ヶ月という短い期間で降伏させることに成功した。

 晴光も家臣団も用無しになった親族達と共にこれから小手森のようになると恐々としていたが、親族が上杉の面々と親しげにしているのを見ると共に謙信が自らかれらに向けてこれ以上は石川の人を殺さないと高々に宣言したので安堵の表情を浮かべるに至った。

 しかし、その裏で龍兵衛は一人、謙信にひどく叱られていた。

 

「あのような策、私に二度と進言するな。此度は良かったが、正義を掲げる我ら上杉の家名に関わる恐れもある」

 

 厳しい表情の謙信を前にして龍兵衛は頭を下げるばかり。石川家臣団の親族を盾に降伏を促すという危険な策を進言した彼はその策を謙信から真っ向から反対された。

 弱味に付け込むようなやり口や暗殺というやり方は謙信が最も嫌うもの。

 だが、彼がそれを知っていてあえてその策を進言したのは絶対的な自信があったからに他ならない。いくら危険であっても人の心情は恨みのない家族となれば乱世であるとはいえ複雑怪奇なものに変わる。

 分かりきっていたからこそこの策を強く推した。無論、謙信からの叱責は必至だと知っていた上である。

 

「申し訳ありません。しかし失礼ですが、謙信様は何故に策を取り上げて下さったのです?」

 

 龍兵衛は謙信が反対をすれどもまさか賛成するとは思っていなかった。

 石川にあえて親族達の状態を知らせてそれから使番を走らせておけばそれで石川は降伏すると思っていた。

 仮に戦になった場合は普通に戦えば実力の差を見せることが出来る筈と考えてこの策を使うことは無いだろうと思っていた。

 故に、謙信が了承した訳が理解出来なかった。

 

「戦はなるべく少なくしなければ、民はそれほど苦しむ。ならば、その苦しみを取り除く為にもこの策は最も良い策だと思ったのだ」

 

 民を第一に考える御方だとは分かっていた。そして、龍兵衛もその考えに感銘したからこそこうして上杉に仕えている。

 だが、龍兵衛は悟り、信じられないと目を見開いた。謙信という人物はもう後戻り出来ない程に努力をし、民の為に自身さえも黒くなることを選び始めた。今まで軍師達が庇ってきた皮を自らの手で剥き始めたのだ。

 

「全て・・・・・・定満殿が亡くなったせいですか?」

「濁の真髄を知る者が少なくなった以上、清ばかりを私が求めていては駄目だ。そう思ったまでよ」

「されど、それでは今までの我々の努力が・・・・・・」

「定満が亡くなり荷が重くなった。それが本心ではないか?」

「・・・・・・」

 

 眉間に皺を寄せて龍兵衛は無言で下を向く。額から流れる汗が正解である。定満がいなくなった今濁を以て動けるのは龍兵衛他に官兵衛と颯馬である。時折兼続や他家の景綱、禅棟にも手伝ってもらっているとはいえ、この六人が揃ってでさえも定満へは辿り着くことは出来ないのだ。

 それ程までに定満の存在は大きすぎた。富士の山の如き高さにその辺の小さな山が揃ったところで意味がないのと同じように。

 しかし、謙信を巻き込んでしまったことは軍師達にとって不覚である。官兵衛の誘拐など可愛い方。今回は戦に関わり、今後に関わるものだ。それ以上に謙信が軍師の知らないところでそのようなことをしていたことが最大の失態である。

 考えをまとめるとがっくりうなだれる龍兵衛に謙信はこれまで彼が聞いたことの無いような冷酷な声を発する。

 

「これ以上、私に泥を被せるな」

「・・・・・・御意」

 

 外から季節はずれの寒い風の音が聞こえる。止んだ筈のものが蘇ってきた。

 

「さ・・・・・・話は終わりだ。今後は岩城を相手にしなければならない。ここには弥太郎を置いて石川郡の民を安心させる。幸いにもこの三芦はほぼ無血で開城出来た。義清にはその代わりとして存分に働いてもらう。そなたもそのつもりで策を立てよ」

「承知致しました」

 

 石川を一ヶ月程度で抑えられた事は大きい。岩城からの援軍がそろそろやって来ると思っていた頃合だったこともあって早い石川の降伏は岩城にとって意外なものであるだろう。

 

「(一気に攻め上がるのも良し、未だに大内が落ちていないのを考えて焦らず地道に調略を行うも良しか・・・・・・)」

 

 石川と違い岩城家は常陸平氏の血を汲む名族であり、その子孫が陸奥国南部土着した。飯野平に本城を置き決して強大ではないが、当主重隆の巧みな外交戦略で生き残ってきた。

 しかし、周辺の佐竹や伊達や相馬、蘆名の圧迫を受け続けてきた岩城に救いの手を差し伸べるのも良しと龍兵衛は考えていた。

 

「つまり、我らの傘下に入れる事を告げて完全な無血開城を行うと?」

「御意、今こそ上杉の力を利用する良い機会では御座いませぬか?」

 

 戦を少なくさせることが出来る。これには謙信も二つ返事で承諾してくれた。だが、相馬と岩城は相容れない仲。岩城が降伏すれば相馬は上杉には降伏しない可能性が高い。そうなればますます大内・相馬の抵抗は大きくなるのは必定である。

 

「景勝様には随分と苦労が重なりますね・・・・・・」

「仕方無いだろう。今はこのようなことも戦場で知ってもらわないとな」

 

 何気ないつもりで謙信は言ったのだろう。だが、龍兵衛の耳は聞き逃さなかった。

 

「『このような』とは? 謙信様、まさか・・・・・・」

 

 思わず聞き返してしまった。謙信と景勝の間に家臣である龍兵衛が割り込んで良いものではないと分かっていても、勝手に口が動いてしまっていた。

 しまったという言葉を顔で語っている謙信を見て悟った。先日に慶次と悩み続けて出なかった答えが出た。謙信はわざと景勝をそちらに向けさせたのだ。

 そう分かると龍兵衛の身体は勝手に謙信へ食ってかかる形になっていた。

 

「何故に、景勝様を? あれほど謙信様は景勝様を可愛がっていたのに」

「もはや言い逃れはしない。だが、景勝に真っ当な正義ばかり教えて何になる? 私も人の子、突然どこかで死ぬかもしれないのだぞ。そうなった時に景勝が清のみを理解して濁をきちんと理解していなければ上杉はどうなる?」

「だからと言って、強引にその現場を見せるのは・・・・・・僭越ながら苦言を呈さずにはいられません」

 

 謙信の言い分も分かる。早い訳ではない。景勝をいきなり酷な状況下に送り込むのことに龍兵衛は怒っているのだ。

 

「親の獅子が子供の獅子にすることを知っているか?」

 

 珍しく顔を紅潮し、怒りを露わにする龍兵衛を謙信は宥めるように比較的冷静な声で諭すような口調で語る。

 

「親がわざと子供を崖下に落とすというあれですか?」

「分かっているのなら、私の言いたいことも分かるだろう?」

「もし、上がって来れなかったらどうするのですか?」

「景勝がそこまでやわに見えるのか?」

 

 全ての龍兵衛の問いに謙信は即答し、逆に彼に問い掛ける。

 龍兵衛はこの時、普段の冷静は消え失せ、怒りにほぼ口を任せていた。眉間に皺が寄り、元々つり上がって細めの目はさらに細くなって殺気に近いものも感じる。物言いがはっきりとしだして無礼と言われても文句は言えない。だが、龍兵衛は気にせずに謙信を睨んでくる。

 愛娘である景勝を何の感情も籠もっていない言い方で言われ、さすがの謙信も少々不機嫌になったのか眉間に皺が寄ってきている。

 

「自分は景勝様以外の御方が謙信様の跡を継ぐ事は不可能だと思っております。ですが、僭越ながら竜に獅子の真似事は似合いませぬ。所詮は、ただの猿真似ですから」

 

 しかし、龍兵衛は謙信のその感情を気にせず、はっきりそう言うと一礼して部屋を辞して行った。

 一方の謙信は一人、部屋に残された形になった。しかし、怒りよりも最後に残した龍兵衛の発言が気になり、不思議だという感情の方が強くなっていた。

 

「一体何だったのだ?」

 

 首を傾げるも、答えを知ることは出来ない。今後、龍兵衛に尋ねても決して答えようとしないだろう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十二話改 僕達の行方

 飯野平城城主、岩城重隆の下には二つの書状が届いていた。

 一通は長年宿敵として真っ向から対立を続けてきた相馬盛胤から。

 長年の因縁を忘れて上杉軍を追い払おうというもの。だが、決して簡単に受け入れられるものではない。

 そもそも、岩城と相馬の因縁は重隆が当初は白河結城と盟関係を固めることにより、伊達稙宗の縁戚となって勢力が盛んとなっていた近隣の相馬氏や田村氏と対抗しようとしたことから始まる。

 ところが重隆の娘の嫁ぎ先をめぐって伊達氏や相馬氏と対立し、軍事的な争いにまで発展した結果、岩城氏方が敗れ、久保姫を稙宗の息子、伊達晴宗に輿入れせざるをえなくなった。

 そこで重隆は相馬盛胤との対立が生まれ、遂に東北全土を巻き込んだ伊達家内の対立の際に顕著なものになる。

 後にいう天文の乱。

 同時の伊達氏当主、伊達稙宗と嫡男、晴宗父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱である。

 この時重隆は晴宗に属し、盛胤は稙宗に属した。

 重隆は相馬と同盟関係にあった田村に内紛をけしかけるなど調略で活躍し、祖母が田村家出身であった重隆は晴宗派と蘆名の勢いに乗り、また結城の援助も受けて相馬の領地を攻めた。

 これが両者の間に決定的な亀裂を作ったといって良いだろう。

 その後も相馬との抗争を続けていたが、乱世の世の中は確実に重隆も盛胤も蝕んでいた。周辺を佐竹、最上、伊達に囲まれた岩城はどこに付くかの選択を迫られてきた。

 さらに上杉が関東管領でありながら東北に進出を企むという東北の国人衆には正に寝耳に水の事態が起きたのだ。

 既に最上、伊達といった東北の雄が上杉の傘下に降り、周辺の有力豪族の石川や大内もほぼ詰んでいる。

 長年外交戦略で家を守ってきた重隆だからこそ潮時であると悟ることが出来る。だが、重隆が躊躇っているのは家中の武断派が未だに徹底抗戦を主張しているからである。

 今少し待ち、この二つの書状のどちらは灰にするかを決めよう。そう考えて重隆は二つの書状を大切に閉まった。

 その一週間後に重隆の下に石川晴光が上杉軍に降伏という知らせが入った。

 待っていて良かったと重隆は心底思った。このことを何人かの重臣に聞いた時には小手森の事を引き合いに出して我々は死んでも本望であると言い切る者も多かったのである。

 しかし、聞けば晴光以下、降った者全員が許されたと聞いた。

 重隆はもう迷う必要はなかった。躊躇わずに盛胤からの書状を火にくべ、もう一通の書状を出す。

 そのもう一通の手紙は上杉軍が軍師、河田長親からの上杉との協定の打診。表向きはそうであるが、実際は降伏勧告であるのに間違いない。

 時流に乗って守ってきた岩城家、今回もその時流に乗って家を守らるしかない。

 

「(それにしてもあの時は伊達晴宗様の味方に付いて良かった)」

 

 天文の乱は越後にも影響があったのである。その時稙宗は上杉定実の下に自らの息子を養子として送り込むことで越後さえも丸め込もうとしていた。

 越後では受け入れ推進派と反対派との間で戦闘が発生したが、上杉定実や中条藤資らは反対派の同時守護代であった謙信の兄、長尾晴景や揚北衆などの越後国人衆に敗れ、ついに入嗣案は完全に頓挫したのだ。

 晴宗派に属していなければ上杉との和睦はならなかっただろう。安堵感を抱きつつ重隆はあっさりと謙信に使者を出すことを決めた。

 重隆は自ら謙信の前に馳せ参じ、頭を深々と下げた。

 

「岩城重隆、及びその配下達が我が上杉に降ることを認めよう」

「ありがたき幸せに御座います」

 

 謙信の目の前にて頭を垂れる重隆。彼は一部の旧領を上杉に授けることを条件とした降伏勧告に応じた。

 かくして石川、岩城は予想以上に早い時間で片付くことになった。

 

「ところで、何やら落ち着いていないようだが」

 

 重隆は先程からそわそわし通しで何か気にしている様子が丸分かりである。謙信に指摘され、重隆は恐る恐る口を開き出した。

 

「実は・・・・・・昨日から某の家臣の一人が行方不明でして・・・・・・」

「・・・・・・そうか、我らに降ることを良しとしない者がいると?」

「いえ、某を疑うのは致し方ないことかと。ですが、某は決して謙信様の寝首を取るなどと考えたこともありませぬ」

 

 慌てて首を横に振る重隆を見て、案外小心者であることが分かり、老獪な者ではなさそうだと少々安堵した謙信は大丈夫だと言うと改めて重隆の上杉参入を歓迎した。

 

「終わりましたな」

 

 上杉直臣のみが残ったところで龍兵衛は一つ伸びをして肩をほぐした。

 

「うーむ、戦が早く終わったのは良いのじゃが・・・・・・」

 

 対して義清はどこか不満げである。彼女からすればせっかくの功を立てる機会が戦自体が終わってしまった為に無くなってしまったのだ。

 なかなか鬱憤が溜まっているのか慶次にこの後に相手を願い出る程である。

 

「まぁ、良いだろう。我らは為すことを成した。後は景勝達の吉報を待とうではないか」

 

 満足げな謙信の言葉にもかかわらず一人だけ龍兵衛は空笑いをしている。そして、謙信に後で今後について意見を聞きたいと言われると頭を下げて誰にも体内を走る悪寒に気付かれないように振る舞った。

 数十分後、陣中の一角で龍兵衛は謙信に頭を下げていた。

 

「また勝手に動いたな?」

 

 周りに誰もいないせいか、静かな声が龍兵衛の耳に響く。その冷眼は軍師といる時にしか見せない謙信の眼。そして、怒りを押し殺して冷静な思考へと動かしていることによって恐怖がますます強大なものへと変わっていく。

 

「言い逃れは致しません」

「車斬忠、岩城家屈指の勇将。私が知らぬ訳がなかろう。あの時あれほど申したではないか?」

「・・・・・・」

 

 その台詞は眼前の龍兵衛に向けられているのかここにはいない重隆に向けられているのかは分からない。

 だが、向けられる視線は龍兵衛にだけ、この幕には謙信と龍兵衛のみがいるとはいえ油断すれば目で斬られそうなぐらいの恐ろしさに龍兵衛は汗を身体中に滲ませ、頭を上げることが出来ない。

 

「車斬忠をどうした?」

「謀反の気配があったが故に、段蔵に始末させました」

 

 

 

 それは重隆が上杉に降る三日前。段蔵が探りを入れていると叫び声が聞こえた。

 気付かれないように見てみれば重隆が上杉に降る故に、各々は好きにして良いと暇を与えている最中であった。

 しかし、それに全員が賛同する訳ではない。

 

「なりません! 何故に上杉という成り上がりに降る必要があるのですか!?」

 

 その代表格として一人の女性が前に出た。黒い髪を短く纏め、顔にある傷を隠すことなく見せているが、それが誇らしく思っているのは彼女が武人であることを示している。

 車斬忠という女性がいた。普段は佐竹との前線にある車城にいるが、この状況下となって家臣に城を任せて馳せ参じた。そして、今は主君の弱気な決断に怒りを露わにしていた。

 

「ならば丹波はどう戦うというのだ?」

「相馬からの書状の返事に承知したというように認めれば良いでしょう?」

「残念ながらあれは燃やした」

「な・・・・・・」

 

 全てはもう斬忠の思う通りにはいかない。そう通告するように重隆は斬忠に言うと彼は立ち上がって部屋から去っていった。

 そして、怒りを噛み殺すようにぎりっと奥歯を鳴らすと斬忠もすぐに何処かへと立ち去った。 

 弱気過ぎる。いくら勢力が弱小で外交戦略を駆使しなければ生き残れないとはいえあれほどに弱気な当主を斬忠は始めて見た。

 元々斬忠は重隆の戦を避けるやり方に不満があった。この乱世で生き残るには戦が一番の防御であると彼女は信じていた。今思えば斬忠の積極的な策が取り入れられたのは一度や二度ばかりであとは全て却下されている。それは重隆が年をとるごとに顕著になっていった。

 あのように弱腰の重隆に目にものを見せてやる為にも自身がやれるというところを示しておかなければならない。

 目の色は紅蓮に燃え上がり、上杉に怒りの全てをぶつける覚悟は出来た。

 そして、斬忠は部屋に戻ると書状を書き出した。その宛先がどこかは分からないが斬忠に付いていった段蔵にはかなり焦って書いていることが見て取れた。

 しばらくすると書き上がった書状を斬忠は家臣の一人を読んでこれを佐竹に届けてくれと命じた。これを聞いた段蔵はすかさず書状を託された者を追い掛け、簡単にその書状を奪うことに成功した。

 段蔵が中身を改めると内容としては佐竹が動けば上杉は今、身動きが取れなくなる。そして、その隙に黒川を落として背後を取る。これで上杉は進むも退くも出来ずに終わる。

 すかさず段蔵は潜入を頼んだ龍兵衛に報告をすると彼はただ「殺れ」と言ったのである。

 

「その後は段蔵から聞いて下さい。自分が知るのはそこまでです」

「・・・・・・分かった。要らぬ戦を未然に防いだことは褒めておく。だが、二度とそのような方法を用いるな」

「御意」

 

 くるりと背を向けて謙信はその場を去ろうとしたが、何かを思い出したように足を止めると振り向かえらずに再び龍兵衛に声を掛けた。

 

「まさかと思うが・・・・・・そなた、定満の代わりになろうなどと思っていないだろうな?」

 

 唐突に言い出した畏れ多い事に龍兵衛は「滅相もない」と反射的に首を上げて横に振る。それを見た謙信はならばよいと頷き、はっきりと龍兵衛の胸に突き刺さるように言った。

 

「そなたはまず己を見つめ直せ、よいな?」

「お待ちください」

 

 そう言って謙信は歩き出そうとしたが、今度は龍兵衛が止める。

 

「軍師として、上杉家の天下統一の為以外に何が必要なのでしょうか?」

 

 彼が今までを振り返るとたしかに何の為に色々と振る舞ってきたのか、自身でも見当が付かない。斎藤で二兵衛からの薫陶を受けた後に上杉家に仕え、軍師としてやってきて何が自らの本質であるのか。

 上杉家が天下統一する以外にそんな事を考えもせずにずっと突っ走ってきた。そうとしか結論が出せない。

 

「私は軍師としてお前は随分とよくやっていると思うぞ」

「では謙信様は何を自分に見直せと仰るのですか?」

「決まっている。お前は自分自身の、もう少し人としての本質を悟れ。己が分からない者に猿真似などと言われたくない。それに、本がなければお前の成してきたことは無意味になる。私も、主君としてそれは避けたいのだよ」

 

 龍兵衛の不機嫌そうな物言いを気にすることなく素っ気なくそう言うと謙信は足早に去って行った。今まで龍兵衛が見たことの無いような厳しい表情だった。

  

「・・・・・・これからはもう少し抑えないと」

 

 独断専行を反省するようにそう呟くと龍兵衛もそこから去っていく。その足取りは非常に重い。

 自身の生き様だったと思っていたことを真っ向から批判された。

 別に定満の代わりになろうなどと彼は全く思っていない。

 定満という軍師は日の本広しといえどもなかなかいないと彼は思っていた。もしかしたら二兵衛よりも上かもしれない。

 だが、そういった勘違いや誤解はよくあるもの。彼が最も衝撃だったのは自分以外の人間から自分の本質が分かっていないと宣告されたことである。

 

 その日の夜、飯野平城の一角で龍兵衛は義清、慶次と戦勝祝いとして酒を飲んでいた。だが、祝い酒の場であっても話題は小手森の事に関連してどうしても景勝のことになってしまう。

 

「景勝様は随分と憔悴しているそうじゃな」

「無理もありません。ですが、これを越えてくれないと困ります」

「相も変わらず、景勝様には手厳しいのう」

 

 冗談めかしのように笑いながら杯に入った酒を口に含むが、龍兵衛の心は全く笑っていなかった。

 謙信から己が未だに出来ていないと言われ、大内の状態を調べるがてらに景勝の様子も聞いたら心が汚点の影に負けそうになっていると聞いて明るくいられる訳がない。

 それ故か随分と口が悪くなってきているようだ。杯を呷る度に溜め息がこぼれてくるのも仕方ない。

 気晴らしになればと慶次の誘いに乗ったのは良かったが、普段切り替えが早い龍兵衛でもなかなか気持ちは晴れてくれない。

 今はこれから攻める結城について考えなくてはならないのに頭には景勝の心配と謙信から言われた『己を見つめ直せ』という言葉しかないのだから。

 景勝のことは会ってから様子を直で見れば良いとして、後者の問題はかなり切実である。

 二兵衛からの薫陶を受けた後に上杉家に仕え、軍師として奔走してきた彼であるが、人としての自分を確立してきたことはたしかに無かった。

 言い換えればそのような余裕が無かったと言える。

 そもそもこの乱世ではそれを必要とするのだろうか。しかし、上杉謙信という御方は必要のないことを言う人物ではない。

 ならば間違っているのは自分自身なのであろうか。

 

「どしたの?」

 

 自身は暗い顔をしているのだろう。気付けば慶次が顔を覗き込んでいる。

 彼は内心の苦悩を悟られないように頭を振る。否、おそらくばれている。内容は知られずとも聡い慶次は既に悩みを察しているだろう。

 

「いや、別に何でもない」

 

 だが、そう言うしかない。何故なら他人の力では分かるようなことではないからだ。

 結局、今日はもう飲む気になれないと二人に言うと龍兵衛は逃げるようにそこから立ち去った。

 

 

 

 

 

「かくも力の差がある以上はもはや降伏しかあるまい・・・・・・」

 

 定綱は城内から見える上杉の大軍を前に膝を着く他なかった。一族郎党が小手森のように皆殺しにされるやもしれないと分かっていてもだ。

 支倉常長という使者が己の命を顧みることなく何度も降伏勧告に来ているので無碍にはされまいと思い。定綱は終わりを迎えたと思いながらゆっくりと目を閉じた。

 その翌日に定綱は自ら上杉陣中に使者として入り、景勝を前にして降伏と自らの首を引き換えに家臣一同の命を助けるように申し出た。

 景勝は自ら上杉陣中に来た定綱の器量を評価して定綱以下、全員の助命を許した。

 だが、景勝に伊達が侵した汚点の影が入っているのは確実である。入城した際には小手森の撫で斬りを景勝が指示したと考えた兵が石を投げつけるということも起こる有り様であった。

 

「(しょぼーん・・・・・・)」

「まずいのう・・・・・・」

 

 かなりがっくりとしている景勝と共に援軍としてやってきた景資は彼女の背後で顎に手を当てて苦虫を潰したような顔をしている。

 小手森の事は景勝が到着する寸前に二人の耳に届いていた。景資にはその事の重大さが十分に理解出来た。そして、兼続と何度も首を捻り合った。

 件の事が景勝の仕業と考える者が大内の間にいる可能性はかなり高い。だが、一度吹かれた風潮はなかなか収まらないもの。

 撫で斬りを行った伊達が随分と誤解を解くために駆け回ったと聞いているが、効果はなかなか表れていないようだ。

 隣では兼続がずっと難しい顔をしている。しばらく腕を組んで考え事をし、景資におずおずと話し掛けてきた。

 

「必要な策であったとはいえ、これでは今少し時間が掛かります。吉江殿、いっそのこと謙信様に一旦こちらの状況を伝えて撤退しては?」

「ならぬ。兼続、この戦はお主達が推し進めたものであろう」

 

 東北に残る蠅を払うのは今しかないと主張し、何度も謙信を説得して得たこの機会。逃しては定満亡き後の軍師達はやはり駄目だと言われかねない。

 それを何としてでも避けるにはこの戦を勝たなければならない。景資も軍師達がそうならないようにするためにも出来る限りの事はするつもりである。

 らしくない兼続の弱気な発言に景資は背中を叩いて激励すると兼続は己を叱咤して先程と違うはっきりとした表情になった。

 

「分かりました。この兼続、小手森の一件を決して無駄には致しません」

「うむ、その心意気じゃ!」

 

 元に戻った兼続にがばっと景資は肩を掴んで持っていた扇子でぽんぽんと頭を叩く。

 ここは人目に付きやすい城内の大きな郭、当然ながら二人の光景はしっかりと見える。

 

「よ、吉江殿!? ま、まま、周りの目がありますのでお控え下さい!」

「むぅ、相変わらずお主が一番堅いのう。たまには肩の力を抜いたらどうじゃ?」

「体裁の良いこと言って私を乳の中に沈めるのは止めて下さい!」

 

 背中越しに景資の胸に包まれている感が兼続に伝わっている。顔を真っ赤にして兼続は抗議しているが、景資はすりすりと扇子で頭を撫でて「可愛いのう」と言ってさらに兼続の顔を染め上げていく。

 ますます可愛く感じて今度は手で直接撫でようとした時だった。

 

「じー・・・・・・」

「「・・・・・・」」

 

 凹んでいた筈の景勝がこちらを見ていた。そして、当たり前だが目が合った。明らかにはしゃいでいた二人の声が周りにも聞こえていたので当然のことではあるが、少し時が悪かった。

 景勝の気が曇天のように暗かったのに家臣である二人がこれでは景勝の気をさらに滅入らしかねない。

 

「(ずーん・・・・・・)」

「あ、あのー景勝様、私達は決して・・・・・・そのー・・・・・・」

「(ぷいっ)」

 

 珍しく歯切れが悪い兼続に愛想を尽かしたのか景勝は一人で立ち去ってしまった。

 

「やはりまずかったですよ」

「ううむ、落ち着くまでしばらくは大人しくさせておいた方が良い。これ以上、事が広がらないのを祈るばかりじゃ」

 

 棚に上げて偉そうに言っている景資だが、兼続も突っ込みにいれる気になれずに頷くよりも先に溜め息が出て来た。

 景勝の聡明さを二人はよく知っている。しかし、聡明過ぎるということも知っていた。

 景勝とて卑劣な行為無しに戦乱の世を生き残ることは出来ないのは重々承知しているが、自らの身体に汚点の影が入り込むような事が起こるとは二人は全く予想だにしていなかった。

 

「いつ頃立ち直るかのう?」

「さぁ、早い方が良いに越したことはありませんが、あの様子では次の相馬との戦は水原殿が指揮を執られた方がよろしいかもしれませんね」

 

 万全の状態を保って望むことこそが勝利への鉄則の一つ。しかし、景勝の心にあるであろう穴がすぐ埋まるとは限らない。

 二人はただ根も葉もない噂が広まることが無いことを祈るばかりであった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十三話改 急がば廻れ

 龍兵衛は開城した飯野平城の一室で謙信と対談していた。雰囲気は晴れる訳が無く、口を開くのも憚られる。

 

「安東愛季が降伏したとか」

「さすがに耳が早いな。龍兵衛、お前なら愛季をどうする?」

「首をはねて見せしめにするべきかと。さすれば東北の諸将は今後、上杉を裏切る危険は薄まるかと」

 

 言われるまでもないと即答する。

 愛季は一度降伏した後に反旗を翻すという許し難い行為を平然と行い。一旦、敗れたにもかかわらず懲りずにさらに反抗を強めんと葛西・大崎ら東北の諸将を誘って上杉に刃向かった。

 結局は伊達が離反したという官兵衛が流した誤報を真に受けた愛季は夜襲を仕掛けるも全てを読み切っていた上杉軍に葛西・大崎の援軍諸共、大半の兵力を失い、謙信に命じられた長重が再三の降伏勧告を行い、三日三晩考えて折れた結果になった。

 ここは一度は許しても二度は許さないという上杉の態度を見せるのが賢明であり、甘いと思われないようにするのが良いと龍兵衛は考えた。

 だが、その考えを謙信は首を横に振って否定する。

 

「愛季は、許す」

「一度離反した安東を許せば上杉は甘いと言われます」

「甘いのではない。寛大なのだ」

 

 仮に甘いと侮られるのならそれは謙信の人となりを知らない者が考えること。それに上杉という勢力は多少の甘さに付け込まれる程弱い勢力ではなくなった。

 謙信という人物が甘かったら上杉がここまでに勢力を拡大することはない。

 

「(ここで寛大な心を見せることで周りに徳を見せるという訳か・・・・・・史実で何度も謀反を行った将の帰参を許した性格は変わらずか)謙信様のあまりにも広いお心に感服致しました」

「・・・・・・龍兵衛、何時までも美濃の一件を引きずっているのもお前が己を知れない要因なのやもしれんぞ」

 

 腹の底で考えていたことが見抜かれていた。そして、謙信は龍兵衛に二つの戒めをした。

 己にある強い猜疑心をいい加減に少し抑えるようにすること。そして、いつまでも龍兵衛の心から消えることはなく根付いている美濃の一件を忘れること。

 年少から裏切りを受けた人数は数知れず、信用してみようとした人は殆どが日和見で自身から離れていった。

 美濃の一件でさらに増したその心は上杉に来てから段々と癒されたが安東愛季の謀反を聞いた時には非常に憤りを覚えた。

 定満の止めがなければ隠密を無視した行動を行っただろう。

 誰にも言わなかったが、政景の離反が確実と分かった時には人知れずに心で轟々と何かが燃えていた。もはや裏切ることを許さないと。

 そういった意味では増しに増した猜疑心を癒やした景勝には龍兵衛は感謝してもしきれない。

 定満を止められなかった自身を許した謙信にも多大な恩を感じていた。だが、今はたった一言で人の考えや性格を見抜くことが出来る謙信の人を見る目に恐ろしさをも感じ始めていた。

 しかし、龍兵衛にその恐怖は何故か定満よりも弱く見えていた。

 

「(分からない。謙信様と定満殿が何故に・・・・・・)」

「如何した?」

「いえ、何でもありません」

 

 まじまじと謙信を見ていたことに気付いた彼は慌てて謙信の前から引き下がろうと向きを変える。だが、「まだ話は終わっていない」と謙信が慌てて龍兵衛を呼び止めて結城の本城である白河小峰城攻略の為の戦略を立てるように命じた。

 白河結城の兵力は決して多いものではない。当主の晴綱はかつての天文の乱の際に晴宗派に属しながらも稙宗派にも通じていたという立ち回りの良い人物。

 だが、人間誰もが年老いて行く者で年老いていて、病で大分弱ってきているそうだ。

 一度、降伏勧告を出してからでも討伐は遅くはない。悠長なことだと思われるかもしれないが、血を多く流してまでも勝利を得ようとは龍兵衛自身も考えていなかった。

 一瞬で考えた大体の策を謙信に言うと了承を得ることが出来て、さらに細かい方針が出来次第再び来るようにと言われた。その前に龍兵衛はもう一つ気になっていたことを謙信に尋ねる。

 

「それよりも先に考えるべきは車城のことです」

「既に義清が向かった。一週間以内には報告が来るだろうから心配するな。龍兵衛は結城に集中しろ」

「・・・・・・御意」

 

 手回しの良さには龍兵衛は感心してしまうが、今の彼はそれよりも本人の中で重大な事が背中から身体中にまで重石となってのしかかっていた。

『彼を知り己を知れば百戦殆うからず』という孫子の兵法で有名なこの言葉。

 軍師として当たり前のように知らなくてはいけないのに龍兵衛は『彼』を知りながら、肝心の『己』を知らないでいたのだ。

 謙信によって気付かされた時に悟った。自身は薫陶を受けた二兵衛の背中ばかりを追い掛けて、軍師としての本質ばかりを求めていたのだと。それ故に、人として『己』の本質を見抜けないままであったことを。

 出て行くつもりで向けた足が今度は底なし沼に嵌まって地中に埋まって行くように動かなくなった。

 今思えば謙信が何故にそのような自身を何時までも仕えさせているのかが分からない。

 おそらくあの時の物言いでは既に彼の『己』の無さを知っていたと考えて良い。本来なら定満の死の際に彼を追放することもあったかもしれない。

 では何故、ここまで自身を残しているのだろうか。

    

「何時までそこにいるつもりだ?」

「はっ・・・・・・!? あ、申し訳ありません」

「龍兵衛らしくないな、人前でぼーっとするとは」

 

 笑っている謙信に誰のせいだと言いたいのをぐっと堪えるように唇を噛みながら龍兵衛は今度こそそこから逃げ出した。 

 

「(寒い・・・・・・)」

 

 春を迎え、新緑の季節を過ぎたという東北でも暖かな気候となるこの時期に、彼の心の中だけは風が未だに吹き荒び、冬の寒さのように冷え切っていた。

 

 

「たった一言であそこまで変わるとは・・・・・・」

 

 謙信は誰もいなくなった陣幕でぽつりと呟いた。

 少しは動揺すると思っていたが、普段から狼狽など見せずに決して感情をさらけ出さない龍兵衛があそこまで分かり易くなってしまうとは考えてもいなかった。

 別に謙信は彼を必要としていない訳ではない。龍兵衛の立てる戦略や政策は確実で堅実なものである。

 その堅実さを謙信は高く評価していたが、ある時それに疑問を持つようになった。

 定満亡き後に龍兵衛が春日山に戻ってきた時のことである。

 精神的衝撃を受けたのは謙信よりも目の前で定満の死を見届けた龍兵衛の方が強かったに違いない。しかし、普段からどんなことにでも表向きは動じずに切り替えが早いことに定評がある彼があそこまでの時間を立ち直りに掛けたことがどうしても気になったのだ。

 時間が掛かりすぎではないかと何度もそれとなく聞いていたのだが、龍兵衛は決して口を滑らせることはせずにただ苦笑いをするだけである。

 とうとう謙信はその間に何が起きたのかを知ることが出来ずにいた。

 だが、龍兵衛は謙信自身に何か言いたげな態度をずっと続けていた。気になった謙信は一度だけ単刀直入に彼に何があったのか聞いた。

 それが仇となったらしく、龍兵衛はその後、一切そのことに関して口を開かなくなった。そして、謙信もそのことについて忘れようとしていた一ヶ月後であった。

 龍兵衛が景勝と共に視察に行った時のことである。その時一日だけ二人は遅れて帰ってきた。原因について龍兵衛は自身の我が儘によって少し時間を要してしまったと謝罪した。

 だが、謙信はどうも龍兵衛がそわそわと落ち着きがないのに疑問を抱いて景勝にもその仔細を聞くことにした。

 すると景勝は龍兵衛が自身が籠もった寺の和尚に礼を申し上げるべく一日だけ龍兵衛一人でその寺に立ち寄ったという。

 今まで何回かあったが、すぐに収まったふわついた態度と普段と恩を仇で返すようなことも辞さない彼が時間を置いて礼をしに行ったということが謙信の人物眼に止まった。

 掴み所の無い性格ではあったが、それは彼が自分が持つべき『己』としての信念を確立していないからではないのかと思った。

 颯馬にしろ、兼続にしろ、あの慶次にしろ確固たる『己』の意志があるからこそ軍師や将という立場の他にも自身を保つことが出来ている。

 だが、改めて龍兵衛を見ると軍師としての信念はあれど人としての信念はまるで感じられない。

 今まで苦難の連続であったことは分かっている。超えるべき信念が心に無いのならばそれはそれで問題である。

 突き放して考えさせれば良い結果が生まれるかもしれないが、龍兵衛は意外とそういう人ではない。

 時より見せる純粋に何かをしようとする目がまだある限りは人の手助けも必要であると謙信は思っていた。

 

「まったく、上杉の殿方軍師は厄介者だ」

 

 謙信が身も心も捧げた颯馬は相も変わらず女性との噂が絶えない。時折面白がるように龍兵衛と兼続がさらっと噂を零すこともあるが、颯馬は断じて噂は噂であるとして否定している。

 彼もまた元をたどれば外様であって最初から上杉家に仕えている訳ではない。肩身の狭い思いをしたこともあるだろう。

 だが、颯馬には確固たる意志がある。だからこそその心意気を支えにして今までを乗り越えてきた。

 それに対して普段から生真面目であったり、ふざける時には悪のりして兼続に追い掛けられたりして掴み所が無い性格を持っている。その実、自分を後回しにしてふわついた心を直そうとしないで過去に振り回されている龍兵衛。

 何度も聞き出そうとして失敗した真の過去を今更掘り出そうとは今は思っていないが、未だに乗り越えられずにその時に空しくも取り残されていることがある。

 謙信も彼の本質を出す為に手助けをすることにしているが、最終的には己の中で出さなければならない問題である。

 

「(それがいつになるかは分からないが、首を長くして待つことにしよう)」

 

 

 

 

 岩城重隆を降伏させた上杉軍は飯野平に入った後、消息不明になった車斬忠の遺志を思い、最後まで抵抗した彼女の居城である車城を義清が二日で落としたことで完全に岩城領を掌握した。

 ここからもう一つの部隊と合流してから一気に物量で結城を抑える予定であったが、景勝率いる大内討伐隊が小手森の一件の後の大内の頑強な抵抗とその後の領内統制に時間が掛かった為に上杉軍には時間差が生じることになった。

 そこで謙信は景勝らとの合流を諦めて飯野平の兵を三芦城に戻して自身達だけで白河結城と決着を付けることを決断した。

 白河の領地さえ取ってしまえば常陸の佐竹と領地が隣り合わせになり今後の関東への足掛かりを作ることが出来る。

 幸いにも白河は離反した国人衆との戦で消耗した後であり、それに付け込む為にも謙信は兵の休息を交代で取らせて三芦城に戻り、弥太郎と合流した後に僅か一週間で白河の領内に迫った。

 うららかな春が最も心地良いと感じられる日の下でいい加減戦に疲れ気味になっていた上杉軍の兵全員がこれで次の戦で春日山へ帰れると聞くと士気はぐっと上がった。

 だが、ここまで不気味な沈黙を保っていた佐竹が遂に動いた。

 佐竹義重は義清が落とした車城に軍を差し向けると国境に入る入らないの所で行ったり来たりの動きを見せ、上杉軍を牽制してきている。

 報告を受けた謙信は一旦進軍を止めて兵を駐屯させると段蔵に探りを入れさせ、龍兵衛と弥太郎を呼び善後策を練ることにした。

 

「ひとまずはここで待機して佐竹の腹を探るのがよろしいのでは?」

「やはり、弥太郎もそう思うか。龍兵衛も同意見か?」

 

 一応聞いてみるが、謙信も弥太郎も龍兵衛が否定しない訳がないと思っていた。

 彼は石橋を叩いても渡らない程に慎重で常に最悪を考えて行動する人間であるのを知っている。この状況では動くにしても無理が生じる危険性もあるし、佐竹と対抗する兵力を車城の義清が持っていない。

 

「いえ、自分はこのまま白河を一気に討つことが上杉の勝利に繋がるかと」

 

 故にこの龍兵衛の発言に二人は驚きを隠せなかった。二人の表情を見てやはりと思いながら口を止めずに龍兵衛は続ける。

 

「佐竹がなかなか動かなかったのが今になって動いたのは関東における状勢が徐々に北条に傾いているからです」

 

 北条が里見を徐々に圧迫し始めて織田に対する準備を進めている。佐竹も下野や房総半島北部への出征を繰り返してきたが、北条幻庵の巧みな外交政略によって小山や結城を誘い込まれてしまい南進が出来なくなってきている。

 そうなれば後は北上するしかないのだが、今、上杉が奥州一帯を着々と所有している為に迂闊には動けない。

 上杉と北条の動きに介入せずに傍観の構えを取り、油断したところを取る考えであったのだろうが、上杉の予想以上の進軍の速さに本当に動けなくなっていたのだ。

 だが、ここで白河を後回しにしておいた上杉の戦略が裏目に、佐竹には僥倖となった。

 白河を落とすには小峰城を落とさなければならない。そうなると白河東の石川にある車城の守りが薄くなり、佐竹が付け込む隙が出来てしまう。

 

「だったらいっそう車城に兵を送り込んでおいた方が良いのでないか?」

「それは違います。今回の佐竹は今までと違い、鬼真壁が戦場に出ていません」

 

 安易過ぎると弥太郎の考えをきっぱり否定する。不自然なのは普段の佐竹軍であれば鬼真壁と恐れられる真壁氏幹が参陣する筈であるが、今回は戦場にさえ出ていない。

 

「今回佐竹を率いているのは岡本禅哲。かの者は佐竹の外交を任されている人物で、おそらく、北条との戦いが迫っているのを感じ取り、尚且つ、上杉軍の進撃を止める為にわざわざ兵までもを率いさせたのでしょう。そう考えれば佐竹義重という人物もなかなか強かに見えてきます」

 

 もう少し人選をしっかりとするべきであった。せめて真壁氏幹を参陣させていれば龍兵衛も兵を返したに違いない。

 一方、内心ではあの佐竹義重が見え見えの様子見をすることに不信感も持っていた。しかし、それを調べる術は禅哲に会わなければ分からない。

 

「今はこの好機を逃しては佐竹の思う壺。どこまでいけるかは分かりませぬが、すぐに兵を動かして最悪でも関和久城を落とせば十分です」

「結城自体を落とさなければ撤退した後に取り返されてしまう。しかし、奪うことで上杉軍の力を見せ、交渉を有利にさせる訳か?」

「はい、謙信様との会談を望む頃には佐竹の度肝を抜いておくという訳です。義清殿には決して佐竹軍を挑発してはならないと伝えておきます」

 

 そう結び、久々に長々と話したので息を一つ吐いた。

 今思えば石川との戦の際に謙信が取った石川の心を攻める策で要した時間がもう少し短ければ確実に白河を仕留めることが出来た筈である。

 

「(今更悔やんでも致し方ない。それよりも、どうやって関和久城と小峰城を迅速に落とすか・・・・・・)」

 

 関和久城はともかくも、小峰城はなかなかに堅固な城として有名である。

 力攻めが一番であるが、犠牲は少ないのが好ましい。

 

「謙信様、二階堂様がお目通り願いたいと」

「相分かった。通せ」

 

 すぐに盛義がやってきて一礼すると以前のあれは何だったのだろうかという程、戦前のきりりとした表情を覗かせる。

 

「何かあったか?」

「此度の戦で我々は疲れが見えてきております。故に白河との戦は策を用いるべきかと」

「ほう、どのような?」

「白河には我が娘、蘆名盛隆の養父、蘆名盛氏との縁者がおります。今はそれほど表に出ることはありませんが、実はこれがなかなかの野心家でして・・・・・・・・・・・・」

 

 弥太郎はつらつらと策を謙信に申し上げる盛義には確信があるように見えた。

 彼が言い終えると謙信は考え込むように目を瞑り、龍兵衛を見る。

 

「・・・・・・ふむ、龍兵衛は如何だ?」

「良い策です。そういった者はそれなりの餌を与えればすぐに動くでしょう」 

 

 盛義のおかげで策は思ったよりも簡単に出来上がった。頭の中の理想的な運びをその通りに出来れば白河の本拠、小峰城を落とさずとも勝つことが出来る。

 その時、龍兵衛の口元には策士の歪んだ笑みがこぼれていた。謙信はそれを見て、さすがに軍師だなと安堵する。

 公私混同は避け、龍兵衛はきちんと真剣な表情で考えている。良い顔だ。

 

「(それでも颯馬には適わないが・・・・・・)龍兵衛は盛義と策を進めよ。弥太郎、先鋒は任せる。何かあれば逐一知らせるようにな」

「「「御意」」」 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十四話 名物は必要

 白河結城家は元々鎌倉時代から続く下総の結城家の庶流で鎌倉時代に結城氏の祖小山朝光が得た白河庄に、孫の結城祐広が移り住んだのが、白河結城氏のはじまりとされる。

 だが、白河家も戦国時代の激動の波に乗ることが出来ずに飲み込まれていった。

 家臣との再三にわたる対立。さらに佐竹や那須の侵攻を受けたため、衰退の一途をたどり、佐竹義重によって赤館城を攻め落とされて、南郷一帯はことごとく佐竹氏の支配下に落ちてしまった。

 その結果、長年本拠としていた白川城を廃棄せざるを得ない状況にまで追い込まれた。

 

「上杉軍が国境を突破致しました!」

 

 そして、今は上杉軍という佐竹や那須とも比べものにならないような怪物がやってくる。

 だが、現当主である結城晴綱は病に伏せっている。しかも、日を追うごとに目眩が絶えなくなり、薬師からはそう遠くない日に目が見えなくなるかもしれないとまで言われている。

 だが、ここは病を押してでも自分が立ち上がらなければならない。

 そう思った晴綱は根性で立ち上がると杖を突いて歩き出した。

 案の定、軍議の間では朝がまだ早いというのに家臣一同が集ってあれこれと議論を展開させている。しかし、その中でなかなか良案は浮かばずにただ無駄な話をしているようにしか晴綱には見えなかった。

 

「こ、これは晴綱様!」

 

 彼の登場に気付いた一人が慌てて頭を下げる。それに続けて家臣全員が一斉に頭を下げた。

 

「未だに、何も出ていないようだな・・・・・・」

「晴綱様、何か妙案がおありで?」

「仲介を頼み、一旦脅威を無くした後にさらに強固な地盤を築く」

「お言葉ですが晴綱様、我らに協力して頂ける勢力がありますでしょうか?」

 

 そう言ってきたのは清廉な若人といった言い方がよく似合う男性で老年の家臣達を差し置いてその有能さを評価され家臣の筆頭の地位にある小峰義親。

 内乱により断絶していた白河結城氏の庶流である小峰氏を継いでいて、宗家の結城晴綱が元気な間はあまり政治の場に表れることはなかったが、晴綱が病により当主としての活動が困難になると、晴綱の嫡子である義顕の代わりに家中の実権を握り、白河結城家を動かしている。

 無表情で己の感情を全く出さないが、無欲無心で晴綱からの信頼も篤い将来性の高い将である。

 

「北条殿とはかつて同盟を結んでいた間柄、上杉が徐々に関東に近付いているのは北条殿とて面白い筈がない」

 

 本来なら長年の付き合いがある岩城に頼みたいが、上杉に降伏してしまった為、残念ながらそれは不可能となった。

 北条とは今も同盟を結んでいるままではあるのだが、形骸化していて全く使い物にならないと晴綱も思っていたが、このような時になって忘れていた宝物を引っ張り出すことが出来るとは思わなかった。

 

「なるほど、たしかにそれは妙案」

 

 義親が二度三度合点がいったように頷く。しかし、その反対意見があるが故に議論が纏まらない訳である。

 

「殿、某はそのような弱腰なお考えには賛同出来ませぬ!」

 

 勇み立って反対意見を述べるのは家老の和知美濃守である。

 武勇一辺倒の彼は身体に生傷を多く作ってきた。その為か、今回は相手が上杉であることもあって気張っているようだ。

 

「今、北条を頼ればますます北条をつけあがらせるだけですぞ! 何故に由緒正しき白河家がそのような恥辱を受けなければなりませぬ!?」

「世は乱世、儂が言えたものではないが、白河家もじきに波に飲まれるやもしれん。儂とてそれは避けたい。故に、このような事も必要なのだ」

「解せませぬ! 最期まで意地を貫くのが、武人としての意地ではありませぬか!?」

 

 息を巻く彼の発言を聞くだけでも時間の無駄だ。

 もうよいと手を挙げ、晴綱は彼を無視すると義親に視線を向ける。 

 

「義親、その仔細について話し合いたい。後で儂の部屋に来てくれ」

 

 おそらくこれが最期の大仕事になるだろう。ならば白河結城家を守る為に何としてもこの仕事が終わるまでは生き長らえなくてはならない。

 そう思った途端、晴綱の視界はぐらりと揺れて意識が遠のいていった。

 

「むぅ・・・・・・ここは?」

「お目覚めですか?」

「おお、義親か・・・・・・・・・・・・な・・・・・・」

 

 晴綱の目に光が無い。目一杯開こうとも開こうとも真っ暗な闇が視線の先には続くだけである。

 

「軍議の間にてお倒れになりその後、薬師に見せたところ、御無理をした為にお身体が付いていかなかったそうで御座います。どうか今後は自重してくださいませ」

「見えぬ・・・・・・」

「はっ?」

「もう一度薬師を呼べ! 目が、目が見えぬ!」

 

 すぐさま義親が薬師を呼んだ。

 診てもらうとどうやらとうとう病によって目も蝕まれてしまったらしい。

 失明した目はもう光を取り戻すことは無くなり、身体は思ったよりもますます弱ってきているようだ。

 このような時にどうしてと己で己で恨めしく思う晴綱を義親はゆっくりと諭すような口調で慰める。

 

「ご案じ召されるな、後の事はこの義親が進めます。晴綱様は御自身のお身体に気をお遣い下され」

「迷惑をかけるな・・・・・・このことは誰かが気付くまで内密にしてくれ」

 

 このまま死ねば、白河結城家の命運は地に落ちる。年少の義顕では快く思わない連中がまたどこかで動き出すかも分からない。

 残った命を灯火は弱っているが、まだ消させてはならない。

 

「ところで晴綱様、和知美濃守を如何が致します?」

「あやつか・・・・・・あれはなんだかんだいっても白河の武の柱ぞ。今までも忠誠を誓ってくれたではないか」

 

 目の光を失えども自分に向けられている忠誠心は見える。そして、この状況下でもし最悪の場合になった時には和知美濃守の力は必要不可欠である。

 義親は失礼と言うと晴綱でも分かるように音を立てて近付いた。

 

「ここだけの話ですが・・・・・・和知は近頃何やら将達を集めて宴をよくやっているとか・・・・・・実は某もそれに以前参加致しましてな」

「何!?」

 

 感情の入っていない声で耳元で囁かれた内容に晴綱は立ち上がろうとしたが、衰弱した身体がそれを許さない。

 

「どうしてそれを早く言わなかった!?」

「その際は、和知は特になにも言わなかったが故に・・・・・・」

 

 呻き声を上げ、何かを言おうとしているが、晴綱のかすれた喉はがらがらの声しか出せない状態になっていた。

 咳払いをすると少しばかり声が出せるようになり、かすれた声で必死に義親に命じる。

 

「早よう、和知を呼べ・・・・・・あれを問い質さねば・・・・・・」

「・・・・・・」

「義親、早よう・・・・・・」

 

 じっとその光景を眺めるだけで義親は動かない。表情を全く変えることもなく、ただ「早よう、早よう」と言う主君のかすれた声がまるで聞こえていないように晴綱の肩を揉んでいる。

 それが続いて二、三分程経っただろうか。

 精一杯の力で晴綱が叫んでいるつもりの声を出しても義親は決して動かない。

 先程から変わらずに優しく肩を揉んでいるだけである。

 

「お主が行かぬのなら・・・・・・儂が・・・・・・」

「おそらく・・・・・・」

 

 痺れを切らし、自ら動き出そうとした晴綱の肩をそこにいるようにと言わんばかりに強く押し込み、突如として固く閉ざしていた口を開いた。

 

「おそらく、義顕様にも手が・・・・・・」

「な・・・・・・!? まさか・・・・・・」

 

 ならば尚更行かねばならない。

 そう身体に言い聞かせて動かそうとするが、義親は肩を離さない。「離せ!」と晴綱が叫んでも義親は聞かない。声も出なくなったのかと晴綱が渾身の力で振り解こうとしても病身の老人と若い青年では結果は言うまでもない。

 

「早く止めねば・・・・・・白河家がどうなっても・・・・・・良いのか・・・・・・?」

「ご案示召されるな。後は・・・・・・この義親が上手くやりますので・・・・・・」

 

 義親は変わらない声で耳元で囁く。しかし、長年白河結城家を守り抜いてきた晴綱の強かな性格はその声の中に白河結城家への忠義の他の感情が入っているのを感じた。

 

「離せ! 貴様・・・・・・義顕をどうするつもりだ・・・・・・」

「ご案示召されるな・・・・・・この義親にお任せ下さい・・・・・・」

「ぐ、があぁ・・・・・・」

 

 力を込めれば込める程に晴綱の命の灯火を灯す蝋燭の蝋はぽたりぽたりと滴り落ちる。

 晴綱には蝋燭を持っている真っ白な人らしいなにかが幻覚の中でしっかりと見て取れた。

 

「(寿命が消えるよ。ほら、消えてしまうよ・・・・・・急がないと・・・・・・ほら、ほら)」

「(まだだ・・・・・・消えるな。急げ・・・・・・消えるな! 消え・・・・・・)・・・・・・る・・・・・・な・・・・・・」

「・・・・・・と、これで蝋燭に火は点いた。しかし、家に帰ると子供がつい遊び心で火を息を吹いて消してしまった・・・・・・以上『死神』でした」

 

 龍兵衛が一礼すると慶次達は拍手と呆気なさすぎる展開に驚いている。

 戦の合間での余興で披露した落語が受けてほっと一息して龍兵衛は安心していた。

 一方、義親は邪気を孕んだ笑みを一人だけになった部屋で浮かべていた。 

 

「さすがは晴綱様、あれだけの会話で事を察するとは・・・・・・」

 

 晴綱の脈を取り、事切れていることを確認すると義親は今まで他人に見せたことの無い、冬が終わり、農家の人々が春が到来した時のような嬉しいという感情を爆発させたようなとびきりに良い笑顔になった。

 

「ふふふ、これは報いだ。俺を己の種で産み落としておきながらも凶日に産まれたということを理由に遠ざけ、俺を世継ぎとせずに小峰に送ったな・・・・・・」 

 

 長年、内面に押し込んでいた御家転覆の野心という悪を全面に出しているというのに全くそのような気配を出さずに実に良い顔をしている。

 

「言い忘れていたな・・・・・・ご案示召されるな、義顕様は生かしておきます。されど・・・・・・その後は保障しませんよ」

 

 晴綱が暴れて乱れた布団を整えて光を失っていながらも見開いている指で目を閉じさせる。

 合掌すると義親は部屋を出ようと歩き出すが、何かを忘れているのを思い出し、身体を反転させる。そして、部屋に置いてあった名刀、備州長船盛景を密かに自分の腰に差すとその笑みはますます深いものになった。

 今度こそ廊下に飛び出し、溜め込んでいた始まりの始まりが上手くいったことへの喜びを吐き出すように義親は叫び続けた。

 

「誰かおらぬか!? 晴綱様の容態が!」

 

 

 

 

 大内定綱を降伏させた景勝率いる部隊はその定綱を配下に入れ、相馬を倒すべく、手始めに権現堂城と泉田城、さらに請戸城を纏めて一日で落とした。

 その三日後には小高城の支城である岡田城を落とし、規模がさほど大きくない為に小高城に築かれている出城を制圧して丸裸にすると、いよいよ相馬氏の本拠地である小高城を包囲した。

 この戦が始まって早くも二ヶ月以上は経っている。

 しかし、景勝にはどうしてもそれ以上に時間が掛かっているように思えた。

 夢見が悪くなったのである。

 内容としては景勝は誰かに聞かれたとしても絶対に語りたくないものであった。

 小手森城の撫で斬りにあった人々が首なしの状態で自分に向かってくるのである。毎回誰か一人に袖を掴まれたというところで目が覚めるのだが、これが毎夜のごとく振り返っているのだ。

 政宗からも直々に伊達家の重臣が揃って本当に浅慮であった、申し訳ないと何度も頭を下げられた。景勝はその度に気にしていないと口では言ったが、実際に自分に非難の目が向けられるのを見るとさすがに参ってしまう。

 

「(分からない・・・・・・)」

 

 政宗達が尽力したおかげで早々と非難の火は徐々に消えてはいるが、今の景勝はどうしてもそれを引きずってしまう。

 腹を割って話せる謙信と龍兵衛は別の方面にいて何も相談が出来ない。兼続では相談したところで気にしないのが一番であるとしか返ってこないだろう。

 景資に聞いてみるのもありだが、どうしても畏れ多くて腹を割って話せる雰囲気に持っていく自信が無い。

 だが、そう考えている間にも小高城は徐々に落城への道歩きを続けている。

 兼続から実質上の指揮を親憲に任せてはどうかと打診されたのは一週間程前であったが、その時は頑なに首を横に振り続けた。

 それは意地である。

 この程度で指揮を家臣も委託するなど信頼してくれた謙信の顔に泥を塗るようなもの。

 援軍を率いる大将として自分が向かうとは思っていなかったが、任された以上は最後までやるのが当然である。

 決して意地の張り合いで戦をやっていける訳がないと分かっていても、景勝にも譲れないものがあるのだ。

 だが、邪念に支配されている頭はなかなか働いてくれない。

 先程などは大手門を攻めている景家からの救援要請が来た際に、どこの部隊が援軍を欲しいのか改めて聞き返すという戦ではやってはいけないことをやってしまった。

 周囲は兼続が警戒している為に大丈夫ではあるが、集中していなければ戦はどこでひっくり返るか分からない。

 

「(早く、謙信様と龍兵衛に会いたい。お話したい・・・・・・)」

 

 何度気合いを入れ直してもこの感情だけはどうしても景勝から離れることを許さなかった。

 

 

 

 

 

 深緑の季節が近付き、ますます生い茂る木々がもっともっとと太陽の光を浴びたいと成長を続けている中で小高城を囲む木々は人間の流した血によって木の幹の色を赤く染めていっている。

 そして、木々はそれが汚らわしいと人々の戦いを軽蔑するように徐々に人の住む場所へと戦場を移し出すようにと風に頼む。風もそれに呼応して吹き荒れる。

 人は天地の怒りを聞いたかのように争いの場を徐々に小さくしていった。

 しかし、そのせいで流れる血は数が少ない方が断然多くなっている。

 

「大手門を突破され、最早、これまでかと・・・・・・」

 

 怒れる天を仰ぐ以外に何か選択肢があったのだろうか。

 笑いながら迎える死? 

 そのようなものなどありはしない。

 相馬家の発展に力を注いできた。成功もあれば失敗もあった。しかし、その成功は越後の竜の軍隊によって全てがおじゃんになろうとしている。

 だが、腕組みをして城の窓から外を眺めている相馬家当主相馬盛胤に、死に対する悲壮感は無かった。

 たぎっている血潮の流れが留まることなく流れている間、他家の者に命乞いをすることなど、出来る筈がない。

 

「(俺にも、武人の血が流れていたということなのか・・・・・・)」

 

 嬉しいのやら悲しいのやら分からない。

 第一にそれを表すような表情がどのようなものなのか、盛胤は知らない。故に、今ここで出来るのはふっと鼻で笑うだけである。

 上杉は既に主郭を包囲し、もう盛胤は逃げることは出来ない。

 

「申し上げます。上杉の使番が盛胤様にお目通りを願っております」

「追い返せ、何度来たところで俺の気持ちは変わらない」

 

 振り向きもせずに手をひらひらとさせて伝えに来た兵に言うが、その兵は何故だか困ったようにして動こうとしない。

 家臣達は自らの持ち場から離れずにいるので今ここには盛胤しかいない。故に誰かがいることは盛胤にはよく分かる。

 

「実は、もし盛胤様がそのような返答をされてもこれをお見せすれば、気が変わるであろうと・・・・・・」

 

 そう言うと兵は盛胤に近付いて手に持っていた物を盛胤に差し出す。

 それは一本の刀だった。一介の兵にはその価値が分からないようで目を見開いて刀を見つめる盛胤を見ている。

 盛胤は真剣な表情で周りをじっくりと鑑定している。しかし、鞘から刀を抜いてそれを見た途端、余程の名刀なのだろうか。盛胤はその刀を差し出した相手の思惑通り、驚きの表情を浮かべた。 

 

「・・・・・・通せ」

 

 盛胤が兵に命じた時に、風はそれを称賛するかのように強風を弱くした。

 腕を組んで待っているとしばらくして件の人物はやって来た。

 このことを聞いた何人かの将兵がこの場に来ようとしたが、盛胤自身がそれを許さず、皆持ち場に戻っていった。

 兵が使番が入るという声を出したのを聞くと盛胤はすぐさま通すように伝える。

 そして、自身は上座でどっかりと座るのではなく、目上の者を出迎えるように部屋の隅で控えているとその使番が入ってきた。

 使番の姿を確認すると盛胤は深く頭を垂れ、先程兵から渡された刀をその使番に返す。

 

「そう畏まらなくても良いのじゃが・・・・・・」

「そうは申されど、この相馬盛胤、あなた様からは多大な恩がある故に。義て・・・・・・」

「吉江景資じゃ」

 

 毅然として、有無を言わせない物言いに変わりはない。そして、その少々頑固なところも。半信半疑であったが、確信した。

 長い沈黙が続き、食い下がっても意味がないと悟った盛胤は聞こえないように溜め息を吐くと今一度、頭を垂れる。

 

「・・・・・・分かり申した。吉江・・・・・・景資殿・・・・・・」

 

 景資はそれで良いと実に晴れ晴れとした笑みを浮かべた。 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十五話 意地

「(これは現か・・・・・・それとも夢か・・・・・・)」

 

 盛胤は内心の喜びの感情を抑えるのに必死だった。

 足利義輝殺害事件、永禄の変は東北の辺境の地にまで聞こえていた。

 夢と盛胤が思ったとしても城内にまで伝わる血の匂いは全てが現であることを伝える。

 今から何年も前に東北全土を巻き込んだ天文の乱が勃発すると相馬盛胤の父、顕胤は稙宗派として晴宗と戦った為、彼も稙宗派と目された。

 その後、盛胤はこの内乱に乗じて独立した蘆名と未だに力を持っていた伊達の二大勢力に板挟みされる状態となり、どちらに付くか決断を迫られることになった。

 盛胤は伊達と丸森城と伊具郡周辺領域をめぐって抗争を続け、風前の灯火となった現在に至るまでその状態が終わることはなかった。

 結局、天文の乱は征夷大将軍、足利義輝の仲裁を承けて、稙宗が晴宗と阿武隈川を挟んで相馬・懸田・亘理拠りに位置する丸森城に隠居して晴宗に家督を譲るという形で和睦し終結した。

  

「その節は誠にお世話になり申した」

 

 乱の間、盛胤は危機に瀕していた。

 祖母が田村家出身であった岩城重隆は晴宗派と蘆名の勢いに乗り、また白河結城家の結城晴綱の権勢を後ろ盾にして相馬領へ侵攻した。このため盛胤は父と共に岩城を警戒する事態となった。

 その対応に追われていた時の義輝の仲裁であった為に盛胤は義輝に対して多大な恩を感じていた。

 そして、その時に盛胤は義輝と面識を持った。厳密に言えば、盛胤が義輝の持つ名刀達に目が行ってそれに気付いた義輝は盛胤に興味を持ったと言った方が正しい。

 その時の義輝の一日だけとはいえ、名刀についての講義は盛胤の数寄者の心を大きくくすぐった。

 

「やはり、それは『童子切安綱』でしたか、あの時義輝様が始めにお見せしてくれたのでよく覚えていました」

「ほう、そのような事があったのか?」

 

 覚えていないし、そもそも知りもしないと惚ける景資に盛胤は溜め息しか出てこない。目の前の元将軍様は最早ここまで己の信念を曲げてしまった。

 

『妾は、何としてでも乱世の火種を摘む。たとえその中でどのような妨害があってもじゃ』

 

 輝いていた。力強いその目は誰もを凌駕する絶対的な風格とその台詞を口八丁にしない威厳を持っていた。

 だが、今はその風格も衰え、上に立つ者としての威厳は他の者よりも強く感じられるが、以前のものと比べると月とすっぽんである。

 すっかり上杉の家臣に成り下がってしまった。

 盛胤は愕然とするしかない。あれほど全てに通じる力は影を潜めている。

 

「時代は・・・・・・」

 

 それに気付いたのかは分からないが、景資は遠い目をして語り出す。

 その姿は上杉家家臣吉江景資ではなく、第十三代将軍足利義輝であった。

 

「時代は、止まってはくれぬ。古より滅びという闇が見えた途端に全てはあっという間にひっくり返る。強引に事を進めすぎた妾にいずれ快く思わない者が現れるのはうすうす感づいていた。それでもどうにかなると思っていたのじゃ」

 

 しかし、その心に生じた気の緩みが義輝の足元を掬った。

 あの夜は自身でも生涯の中で最も壮絶に戦ったと自負できる。だが、そのような状態に追い込まれるまで気付かなかった。

 悟ったのは襲撃に遭った時。そして、上杉に拾われるまで正体を明かしても信じられず、力を付けた三好に媚びを売る為に襲われることもあった。

 やむなく身をやつして民に施しを貰いながらただ京から離れた。その時に義輝は民がいかなる者かを学んだ。

 それから、どうにか春日山の山中で景勝をお互いに迷子と勘違いし合い、城に連れて行ってもらったことでようやく心休まる時を得ることが出来た。

 そこで義輝は衝撃を受けた。

 自身が民と接することでようやく分かった事を謙信を含む上杉家の面々は最初からよく知っていた。

 民と分け隔てなく接し、共に歩むようにして進んでいるあの者達を見て義輝は上杉家に身を寄せて本当に良かったと思った。

 そして、上杉家こそが変わり始めている天下の時代の風に乗ることが出来ると確信した。

 ただの勘であったが、その後の様々な妨害を乗り越え風に流されずに躍進する上杉家は彼女にとっていつしか人生の生きがいになっていた。

 

「逃げた。どれほど綺麗に言い繕うと某にはそうとしか聞こえませんが?」

「手厳しいのう。それもそうかもしれん。しかし、最早潰れて行くであろうものにしがみついて何になる?」

「足利を捨てると? 生まれ育った家、慣れ親しんだ者達がどうなってもよいと?」

 

 盛胤は我を忘れる程に怒りで頭を真っ白にしていた。

 無責任な発言だ。これがかつては剣豪将軍と謳われた義輝なのか。弱くなった足利幕府を復権させることに燃えていたあの強過ぎず覇気を纏っていたその人なのか。

 分からない。何故に目の前の義輝もとい景資はそのような物言いが平然と出来るのか。

 

「意地など誰にでも張れる。しかし、その後に残るものを誰が片付けるというのじゃ? 武人たる妾達がするのではない。最後に露払いをするのは結局は民。妾はそう悟ったまでじゃ」

 

 たしかに戦というのは己の意地を最後まで貫き通し合うもの。しかし、戦後に戦地となった場所を最後に元の田畑に稲穂をたわわに実らせる光景に戻すのは結局は民であり、武士はその為のささやかな手助けをするのみである。

 別に景資は弱い者達が強者に対する負け戦をするなとは思っていない。しかし、その中で無駄なものがいくつもある筈である。

 

「妾は意地を張って多くの民を犠牲にした。そう気付いたのじゃ。上杉の者達によってな。気付かされた時は残酷であったが、今は随分と感謝している。いずれ妾の正体を公に明かさねばならない日が来るであろう。しかしそれでも、妾は上杉から離れとうない」

「それほどまでに、上杉に愛着を・・・・・・」

「何も言うでない。妾は、弱い妾が意地を張っても無駄と知ることが出来た。それで満足じゃ・・・・・・後は、強い謙信達に任せる」

 

 そう結んだ景資を見る盛胤の目からは憤慨が消えていた。

 あの時、語ってくれた思いは景資本人にはもう無くなってしまった。しかし、盛胤はその景資の眼に新たな光があるのを見た。

 その苛烈さは変わらないが、そこにはかつて会った時には無かった穏やかさがあった。

 

「温故知新。景資様はどうやらさらに今を学んだのですな」

「盛胤、単刀直入に言おう。降れ。妾の言いたいことが分からぬお主ではなかろう」

「ええ・・・・・・ですが、岩城重隆と某は奴が某の隙を突いて攻めて来た時からの犬猿の仲。おそらく、あれは某を快く思ってはいますまい。某が降ったとしても、上杉の為にはならぬかと」

「ならば、如何するというのじゃ?」

 

 今度は盛胤が遠い目をしてど記憶を戻しだした。

 忘れもしない天文の乱。岩城重隆の急襲に憤慨し、いずれ仕返しをすると誓いそれが成せなかった日々。

 思い返すとそれはただ意地っ張りな己が蒔いた災いに思えてきた。

 馬鹿馬鹿しい。しかし、当時から既に波に乗れなかった自分を今の自分が責めても意味がない。

 思考と意識を現在に戻し、一つ息を吐くと外から見える美しい東北の山々に目を移す。

 外には景資も惚れ惚れする程に素晴らしい手付かずの自然が遠くに見えた。

 盛胤同様に景色を眺めていると、ふと景資は山々を眺める彼の表情から盛胤が本当は自然のままに生きてみたかったという願望があったのではないかと思った。

 外を見ている盛胤の顔はとても敗北寸前の将の浮かべる表情ではない。武人としての泥臭さは無くなり、清々しさに満ち溢れている。

 お互いに無言で数十分ぐらい経っただろうか。盛胤は外の景色から目を外し、再び景資に視線を向ける。

 表情から穏やかさは消えた。武人の顔に一瞬で戻った盛胤を見て何を言おうとしているのか景資も容易に察することが出来た。

 

「某は景資様と違い、たとえ弱くてもその意地を捨てきることは出来ませぬ。武人たる某は最期まで武人として生きとう御座います。逃げも隠れも致しませぬ。しかし、何卒遺される将兵と我が家族のことは宜しくお願い申し上げる」

「妾が何を言おうと最早無駄なようじゃな・・・・・・よかろう、他に何か望みはあるか?」

 

 目を瞑り、腕を組み、少しばかり考えると盛胤ははっきりと口を開いた。

 

「景資様の名刀のどれかで介錯をして頂ければ某の生涯に何も後悔はありませぬ」

 

 景資は表情を変えること無く、一度だけ頷いた。

 

 

 

「吉江様がお戻りになりました」

 

 一番驚いてその報告を聞いたのは景勝であった。

 もうここまで来たら徹底抗戦を向こうが選べば後は親憲達が上手くやってくれるだろうから自身は城を落とせと命を一つ下すだけである。

 景勝は景資が帰って来るまでずっと謙信や今まで戦で学んできたことをほけーっと考えながら小手森の事へと結び付けていた。

 結局分からずじまいで終わってしまったが、何となく糸口は見つけられた気がしていた。

 景勝が景資の出て来た小高城を眺めていると景資の後ろから相馬の将兵達が出て来た。相馬家の家宝「放駒の陣螺」を携えて。

 景勝は親憲からあれを譲り受けることを条件に無血開城をするべきという進言をされていたのだが、おそらく小手森の事が未だに尾を引いている現状で、その可能性は低いと思っていたが、戦になるという可能性は無くなったということは集中力が欠けている景勝にとっては幸いであった。

 戻って来た景資に景勝はとててと近付いて使番の役目を果たした労をねぎらおうとしたが、景資が片手に持っていた盛胤の首を見て目を見開いた。

 

「吉江景資、只今戻りました。これは相馬盛胤めの首に御座います。子細は、陣幕にて」

 

 景資は公としての振る舞いをすると景勝・親憲・景家の上杉家重臣と共に陣幕の奥に入り、景資はすぐさま人払いを済ませて口を開く。

 

「やはり駄目じゃった。盛胤にはもう少し柔軟さがあればこんな事にならずに済んだのじゃが・・・・・・」

 

 自らが降伏勧告の使者としての役目を買って出た景資は残念そうにその首を見る。

 そこには面識がある故に必ず無血開城を盛胤に承諾させると自信を持って言った己の責任も感じているのだろう。

 盛胤との間であった先程までの遣り取りを皆に景資は語る。

 天を仰ぐ者。目にかすかな涙を浮かべる者と反応は様々である。

 最後まで家族、家臣一同、そして周辺に広がる美しい自然の為に散っていった盛胤は敵ながら天晴れであった。

 軍議の間に皆を集め、死装束を身にまとい、自分は腹を切り、皆を巻き込んだ詫びをいれたいと言うと当たり前のように家臣一同が皆泣いて反発した。

 必死に止める者もいれば自分もお供仕ると声高に叫ぶ者と様々。

 しかし、盛胤は全く耳を貸さずに家臣を一喝して黙らせると最後にゆっくりと立ち上がった。

 

「皆は生きよ、今後は上杉に忠誠を尽くせ、これが俺からの最期の命だ」

 

 そう言いきると家臣の返事も待たずに景資と自身の部屋に姿を消した。

 その数分後、盛胤は景資の介錯で見事に果てた。

 最後に血の付いた景資の『鬼丸国綱』を景勝達に見せる。

 これを使ったのは成り行きだった。

 此度の戦で最も出番が少なかったこの刀に最後の血を吸わせてやろうという考えに他ならない。

 

「まぁ、今後上杉に害するであろう『鬼』を退治したと思えば何とも思わぬ」

 

 知人を殺めた冷徹で強かな人間とは思えない穏やかな表情。

 親兄弟さえも殺し合う。それが乱世の慣わしなのだからこれは仕方がない。

 ならば何も面識のない小手森の面々を皆殺しにした政宗達は鬼畜と言えるのだろうか。人を殺めた時点でもう人は既に鬼畜と化しているのではなかろうか。

 糧にすればそれで良い。

 流れていく人の血を、憎しみを持った人々の目を、これから先にそのようなことが起こるか分からないが、その中で生きればまた一つ成長出来る。

 景勝は『鬼丸国綱』に目を移す。まだ斬って間もないということで鮮やかな赤い血が付着し、古では初夏に入った五月の太陽に反射して眩しい光を放ちながら刀は輝いている。

 生々しさもあるが、これはこれで美しい。

 

「まぁ良い。これ以外に謙信やお主への手土産も出来た」

「・・・・・・?」

 

 小首を傾げる景勝に景資は「この戦が終わって、謙信達と合流してからじゃ」と手をひらひらさせる。

 

『岩城重隆は切れ者で名が通っておりますが、所詮は知者気取りのただの日和見です。それをお忘れなきよう』

 

 最期に腹を切る寸前に残した盛胤の言葉。

 景資には分かっていた。盛胤がその事をただの私怨ではなく、公人としての警告であると彼の目が語っていた。

 

「(必死に戦い、降伏させた謙信達には悪いが、それがふいにならないことを祈るしかあるまい)さて、後は城に入り、処理をしなければのう・・・・・・景勝、如何した?」

「(ふるふる)何でもない」    

 

 少しばかり気が緩んだとは口が裂けても言えない。

 戦の後は一息付きたくてもつけないもの。死傷者の把握に軍の再編、さらに取った領地の民への慰安活動。それらを全て統括する役目は景勝にある。

 景勝自身、重々承知していたが、何故か緩んでしまった。

 自身の中で万事が解決した。しかし、とにかく緩んだことは自分を戒めなくてはならない。

 自分の中で自分の頭を叩きながら景勝は親憲に助けられながら総大将としての仕事を始めることとした。

 結局、相馬家の所領は上杉家が全土を支配することになった。

 大内は一部を伊達と蘆名に分け与え、戦前から龍兵衛が絶対に欲しいと言っていた郡山一帯は全て上杉家の直轄地になった。

 一週間が経ち、明日にはここを発って先に白河結城を攻めている謙信達に合流する。

 その準備に明け暮れていた景勝の下に親憲が珍しく慌てて走りながらやってきた。

 その様子からただ事ではないとすぐに分かった景勝だが、親憲から言われた事に驚愕を隠せなかった。

 此度の戦はこれで終いとする。戦後処理を終えた後に春日山に撤退するように。

 当然のごとく景勝は誤報ではないかと疑ったが「加藤殿直々にやって来られた」と親憲が言うと本当であると思わざるをえない。

 今度は親憲が持っている書状に目が行く。

 景勝は嫌な予感を抱いて書状を受け取り、中を改めると奥歯を噛み締めた。

 それは一週間前のこと。

 丁度、景勝達が戦を終えた時に事は起きた。戦後処理を終えた謙信達は二階堂義盛の手引きによって小峰城を占拠し、義顕を追放した小峰義親に対して降伏すれば所領を安堵するという使者を出した。

 これに義親は二つ返事で承諾し、謙信達を出迎える為に小峰城を出立した。

 だが、この隙を見逃さなかった人物がいた。中畠晴常である。彼は晴綱の長男だが庶出だったため母方の中畠氏を相続し、国神城に入っていた。

 つまり嫡男の義顕の行方が分からない今、彼にも白河結城を継ぐ権利はあったのである。晴常が声を上げると義親によって出世の道を閉ざされていた家臣達が晴常に走った。

 それは義親の油断以外に他ならなかった。元々彼は白河結城の当主として君臨することだけが目的であった。それが達成された後は内の権力掌握に目が向いて他の事には疎い一面が出てきたのである。

 国神城が小峰城と三芦城の間にある以上はそこを通らずに行く為に義親は進路を一旦北に変更して迂回することにした。

 それは全て晴常の目論見であった。すかさず晴常はかねてより誼を通じていた佐竹と正式に手を組み、小峰城を佐竹に奪わせた。

 報告を聞いて慌てた謙信が義親を待たずに白河結城を攻め込んだ時には後の祭り。

 既に最低限は取っておきたいと考えていた関和久城さえも取れずに田村領との国境にある僅かな小城のみを取るに終わった。

 それが終わるのを待っていたかのように義清から佐竹軍が和睦を結びたいと言ってきたという使いがやって来た為、進むことが出来なくなった上杉軍は撤退せざるをえなくなった。

 その際に撤退する上杉軍はそこだけが冬に戻ったようにめっきりと雰囲気は寒くなり、妙な緊張感が走っていた。あのひょうきんな慶次でさえめったに口を聞かない有様であったという。

 景勝は一通り読み終えると親憲にも中身を見せる。内容を読み進める内にさすがの親憲もこの呆気ない幕切れには溜め息を吐くしかない。

 

「佐竹と今の我らではたとえ某達が援軍に向かったところで勝てる見込みは低いでしょう。ここはこの書状に書かれている通り、撤退すべきかと・・・・・・」

 

 このところ連戦続きの上杉軍が鬼義重や鬼真壁を擁する佐竹軍に対抗できる力がある筈がない。

 今回の強引な遠征で途中で限界が来るかもしれないことは景勝も分かっていたが、まさかこのように思わぬところで足を掬われるとは想定外だった。

 やり切れない怒りを抱えて景勝は親憲に将達を集めるように指示する。

 誰の過失でもない。

 ただこちらに靡こうとした愚か者の不手際によって二ヶ月弱に渡るこの遠征は終わりを迎えた。  



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十六話 口は災いの元

 やむなく謙信率いる上杉軍は車城で佐竹との交渉を終え、一旦三芦城に撤退して春日山へ戻ることになった。

 怒りをぶつける場所も無く、代わりに速くなった行軍速度はかなりのもので行きにかかった時間よりも二日早いお帰りである。

 一息つきたいところであるが、龍兵衛はそうはいかない。謙信が最後に了承するとはいえ、龍兵衛が実質上がってきた報告書を検分してそれから謙信に持って行くのだから最終的責任は彼にあると言って良い。

 今回降伏した石川・岩城は領地の一部を上杉に譲渡する形になり、大内に対しては田村の領有していた領地と旧領である現在の熱海町にあたる土地を没収した。

 反抗した以上は致し方ないという判断ではあるが、景勝は小手森の事も考えて少しばかり温情をかけ、定綱自身に身の振り方を考えさせ、小手森で出した損害を立て直す為の資金を提供するという約束をした。

 この景勝の慈悲深い心に生真面目な武人である定綱は感激し、上杉が出した降伏条件を全て受け入れた。

 景資の手引きで助かった相馬盛胤の嫡子である義胤が未だに幼い相馬に関しては本拠の小高とその付近のいくつかの郡を残して田村の領地を新たに上杉が直轄地とした代わりに一部を伊達に分け与え、残りは上杉の直轄地にした。 

 一見かなりの戦績だと思われるが、三芦城に着いた上杉軍の雰囲気は重苦しい。

 

「ふぅ・・・・・・」

「・・・・・・」

 

 報告書の全てに目を通し、謙信に提出した龍兵衛はそのままの流れで共に城内の様子を見ながら歩く。

 上機嫌さを振り撒いていたが、誰もいなくなったところで謙信は疲れたような溜め息を吐き、その斜め後ろを歩く龍兵衛は何も言わずに不機嫌なことを隠しきれない仏頂面で歩いている。

 原因は佐竹軍との交渉だった。

 佐竹の使者、岡本禅哲は、我々は元から白河結城と手を組んでいただの上杉も白河結城の領地を取れたから良かったではないかとあれやこれやと重箱の隅をつついて関和久城以北の領有を主張する上杉を退け続けて最終的に謙信が妥協する形で今領有している土地を境界とすることで一致した。

 面白くないと思う龍兵衛をよそに謙信は佐竹とのいざこざを防ぐ為に自身の所持する名刀『備前三郎国宗』を愛刀家である義重に送ることを約束した。

 佐竹が実質上は白河結城を牛耳ることが出来るようになってほくほく顔の禅哲と違い、龍兵衛は何かに八つ当たりしたくなる感情を抑えるのに必死だった。

 上杉にとっては関東への進出路を越後から上野に南下する進路と蘆名の領地から下野に入るしかなくなってしまった。

 関東管領という役職上は北条以外の勢力と波風を立てたくない。そのためには白河結城の領地は必要である。

 下野の大名で日光から鬼怒川一帯を支配する宇都宮は北条与党だけでなく佐竹とも同盟を結んでいる為に駄目。

 同じく下野の那須郡を支配し、宇都宮・北条と対立する那須と結び付きを深める必要がある。

 利害が一致する那須の領内を通ることが出来るようになれば越後・東北から北条を挟撃出来るようになるのだ。

 だが、那須の治める地域と隣接する白河結城の領地を取ることが出来なくなった以上、その計画は頓挫してしまった。

 

「この一連の動き、北条が絡んでいると見るのは考え過ぎか?」

「いえ、十中八九間違いないと見ていいでしょう。結果として北条は時間を得、我々の進軍を越後から上野へ下る道のみにしたのですから。さらに佐竹との関係をぎくしゃくさせたのも全て計算済みと見て宜しいかと」

 

 北条は上杉が南東北に出ている隙に里見に圧力をかけて房総半島に押し込め、小山を支援して結城の領地を削り始めているという。

 全ては北条早雲が考えた筋書き通りになっている。

 連戦続きで上杉が動けない間に領地を拡大版させて上杉と対等に渡り合える地盤を築く為に他ならない。

 侮れない人物と分かっていたが、仮にもまだ同盟を組んでいる為にしばらくは安心出来る。

 もう少し早く攻めれれば良かったという思いもあるが、後悔しても先々の役には立たない。

 龍兵衛は話題を変えることにした。

 

「謙信様、小峰義親とお会いになられましたか?」

 

 謙信の頭の中であまり表情を変えない理知的な表情をした小峰義親が浮かぶ。

 先ずは取り敢えず自身の浅慮な行いを義親は口先だけの謝罪した後に言った。

 

『ご案じ召されるな、必ず謙信様のお役に立ってみせましょう』

 

 義親の自信ありげな発言の中にかつて颯馬や龍兵衛と初めて出会った時のような力強い眼は無かった。

 それだけで謙信は目の前にいる男はただの物欲者で富樫晴貞と同類の人間だと分かった。

 そういう人を改めて見ると忌々しく思える。謙信はあの時の時間はすぐにでも忘れたかった。

 

「ああ、彼がやってきたその日にな。しかし、あれは盛義の言う通り餌を与えればどこにも飛んでいくような野心家だ。白河があれの手中にあればどうにかなるのだが・・・・・・」

 

 謙信の鋭い視線が龍兵衛に突き刺さる。何度も経験している軍師達や重鎮の武将達だから良いが、初見の者では籠められた威圧感に耐えきれないだろう。

 

「・・・・・・分かりました。ですがもう少しばかりお時間を・・・・・・」

「何故だ。別にすぐとは言っていないだろう」

 

 強欲な野心家を放っておいたところでたとえ才能があったとしても情勢が不利になって寝返られては何も意味をなさない。だが、今回はそうすることで大きなデメリットが生じる。

 

「小峰義親は結城晴綱の実子という噂もありますので彼を慕う者もいます。故にしばらくは彼の人望を利用させておき、恩賞を与えて春日山に縛らせるのが良策かと」

「佐竹が牛耳る白河結城を面白くないと思う者を我らに靡かせるのか」

「さすがのご慧眼で御座います」

「仔細は任せる」

「御意・・・・・・」 

 

 重苦しい雰囲気が話の内容が内容なだけにますます暗くなった。

 謙信からはそれが出ているように感じて龍兵衛はその気に白刃を突き付けられた気分で背中に冷や汗がたらりと流れる。

 その雰囲気を少し和らげたのは他でもない謙信自身の言葉であった。内容は仕事だが、先程が暗すぎたのでそれよりもずっと明るい話題である。

 

「ところで、獲得した領地の経営の準備は上手くいっているのか?」

「実は・・・・・・そのことでご相談が」

 

 獲得した領地には石川鉱山などの未だに開かれていない多くの鉱山がある。山師を使ってそれを発見し、上杉家の財政をさらに潤わせることも龍兵衛は考えていた。

 

「此度はおそらく獲得したかなりの領地に鉱山が眠っていると思われます。その発見の為に必要な資金を少しばかり多くして頂きたいのです」

 

 鉱山の大小があるとはいえ龍兵衛の知識では少なくとも十近くはある。

 それ全てを発掘する為にかかる資金は馬鹿にならないが、今後のために必ず必要になる鉱山は何としても見つけなければならない。 

 

「善処しておこう」

 

 色よい返事を貰えたので内心ほっとしながらも謙信が訝しげに自身を見ていることに気付いた。

 

「龍兵衛は何故そこまで金には鋭いのだ?」

「さぁ、昔から金があるに越したことはないという考えはありますので、それが助長したのでは?」

 

 こういった誤魔化しが良いのか悪いのか最近は堂には入っている。

 清貧を好む謙信がいるからということに関係なく、彼の鉱山の目利きは別に知識を役に立てているだけであって資金も必要な金しか使っていない。

 こういった財政に携わることが多い彼だからこそ疑問もあった。

 何故、颯馬ではなく自分が今回の遠征に同行することになったのか。龍兵衛はどちらかというと戦術ではなく、政策や戦略を得手とする。

 ずっと考え込んでいた疑問でとうとう謙信に面と向かって言うことはなかったが、戦が終わった今、ようやく分かってきた。

 

「(おそらく俺が『己』を確立していないからだろう。相馬盛胤殿のことを聞いて自身の本質が『生』ではないことは分かっていたが、最も重きを置くべき領内経営をこのような者に任せるなど思えん)」

 

 盛胤の事は既に謙信達にも届いていた。その時、龍兵衛は自分の本質がそれではないかと思ったが、それに気付いた謙信に鼻で笑われ一刀両断にされた。

 それよりも前から龍兵衛は生きることこそ、最も人として重きを置くべきという考えを持っていると知っている者が殆どで上杉家の中で知らない人の方が稀である。

 もし仮に謙信が龍兵衛の本質を『生きる』であるとしたのならあのようなことを言い出したりはしない。間違いなく春日山には颯馬ではなく彼を残らせた筈である。

 

「(どっちにしても早くしなければ・・・・・・)」

 

 深刻に考え込む心境が表情に出ていたらしく、謙信は龍兵衛を訝しげに見ている。それに気付いた龍兵衛はすぐに「何でもありません」と苦笑いを浮かべながら首を横に振ると謙信は何かに納得したように頷いてとんでもないことを言い出した。

 

「なるほど、やはり龍兵衛は欲が金に行っているのか」

「ちょっと待って下さい。何で今の自分を見てそうなるんです? それからその・・・・・・『やはり』って何ですか?」

「颯馬が言っていたのだが、違うのか?」

「いや、無いと言えば嘘になりますけど、普通ぐらいですよ」

 

 内心で謙信と一緒にいれなかったという理不尽な恨みを持っているであろう颯馬が龍兵衛のいない間に謙信に言っていたのだろう。

 彼へその八つ当たりの仕返しを考えながらも平静を崩さずに謙信に応える。

 

「ふむ・・・・・・その受け答えから察するに慶次が言っていたことは嘘のようだな」

「慶次のことですから、またろくでもないことでしょう?」

「うむ」

 

 龍兵衛の言葉に謙信が迷いなく頷くのを見て、慶次を哀れに思いながらも、龍兵衛は続いて謙信から出てきた発言に一瞬時間が止まった気がした。

 

「慶次が龍兵衛は変態だと言っていたのでな、まさかと思ったが、やはり嘘だったか」

「・・・・・・・・・・・・はい?」

 

 素が出たことぐらい不敬に価しないだろう。

 何せ自分の黒歴史が謙信に耳に入っていてなおかつ、あの謙信からあっさり『変態』という言葉が出てきたのだから。

 経緯を聞くと慶次と飲んでいた時に彼女が言ったが、かなり飲んでいて慶次自体も酔っていた為にあまり謙信も信じていなかった。

 

「(あの野郎・・・・・・颯馬よりもあいつの方が先だな・・・・・・)断じて嘘です」

 

 復讐を決意した心に怒りを収めて先程よりも平静を装って謙信にはっきりと口以外に目でも伝える。

 

「そうだよな。あの慶次が真面目な顔をして言うものだから、龍兵衛に限ってそれはないと思っていたんだ」

 

 酔って真面目な顔を浮かべる慶次も見てみたいが、それは今は割愛する。それよりも自身に限ってということは颯馬や親憲はどうなのだろうかと少し気になった。しかし、今は自身に被せられた疑念を晴らすのが先決である。

 

「ええ、慶次が真面目な顔をして本当らしく言うのはたいてい嘘です」

 

 便乗するところは便乗して必要無い事実は闇に葬る。それが龍兵衛の仕事の一つでもある。

 しかし、龍兵衛は以前にも調子に乗って定満の前でうっかり暴言を吐いてしまった人物でもある。

 

「はぁ、颯馬との件はいざ知らず。まさか慶次も自分に矛先を立てるとは・・・・・・・・・・・・」

 

 思いっ切り素が出ていたことに気付き、慌てて口を噤んだ時には既に遅かった。

 今度は謙信の時間が止まったように身体が硬直している。

 龍兵衛同様、すぐにそれは終わったが、終わった途端に謙信が物凄い怒気を出して龍兵衛に「どういうことだ?」と問い詰める。

 背後に赤い炎がぼわっと出ているように感じたのは龍兵衛の気のせいだ。外が夕暮れになってきて、烏が鳴いているような時間になっていたからに違いない。

 

「えーと・・・・・・そのー・・・・・・」

 

 そう言い聞かせなければ龍兵衛は生きた心地がしない。

 

「それは由々しき事だぞ。上杉の軍師が将と夜な夜な密会しているとは・・・・・・」

「・・・・・・自分はそこまで申してはおりませんが」

「言っていた内容で分かる」

 

 龍兵衛が一歩下がれば謙信は二歩詰め寄る。龍兵衛が二歩下がれば謙信は四歩詰め寄る。龍兵衛が三歩下がれば謙信は六歩詰め寄る。いよいよ龍兵衛は後ろの壁に捕まった。

 

「大事な事だ。言え・・・・・・」

「あ、はは、ははははは・・・・・・」

 

 全速力で逃げたいが謙信は龍兵衛が逃げた途端に追い掛ける準備は万端である。そして、龍兵衛の足は決して速くない。

 謙信と颯馬が恋仲であることは本人達は隠しているつもりらしいが、もはや上杉家の公然の秘密と化している。

 時期的にそうなった時とはずれているが、指摘するのは二人の意思を尊重して黙っておくべきだろう。そうなると彼が残された道はただ一つ。

 

「えー・・・・・・これはあくまでも噂で聞いた話ですが・・・・・・」

 

 取り敢えず自分の事は棚に上げて、密告することだけであった。

 なるべく当たり障りないように上手く言葉を誤魔化しながら大体の事を言い終える。

 見ると謙信は何故か嬉しそうな顔をしているが、出ていた怒気はさらに膨れ上がっていると龍兵衛は感じた。

 油断すると圧されて膝を着きたくなりそうである。

 

「・・・・・・分かった。実に良いことを聞かせてもらえた。用事を思い出した故、先程の報告書は後でも良いか?」

 

 彼としては本当はすぐに出してもらいたい。

 しかし、今反抗すれば怒りの矛先が自分に向きかねない。

 

「ええ、どーぞ、どーぞ」

 

 下手くそな作り笑いを浮かべ、大袈裟に頭を下げて謙信を見送り、背中が見えなくなると溜まっていた空気を一気に吐き出す。

 これだけのことで身も凍るような恐怖を味わいそれから解放されたことと自分に類が及ばなかったことを喜ぶように両手を挙げて思いっきり伸びをして腰を鳴らす。

 ゆっくりしようとも思ったが、慶次がどうなるのかも気になったので密かに着いて行き、誰もいないことを確認してそっと襖の隙間から覗くと見るも無惨な光景が広がっていた。

 

「(恐ろしい・・・・・・)」

 

 例える言葉は全く見つからず、表現方法がそれしか無いほど恐ろしいものである。慶次は叫び声も上げられない程に身体を寒がりな動物のように小刻みに震わせている。

 龍兵衛を恐怖でがくがくする膝に鞭を打って音を立てないよう立ち去るが、龍兵衛の頭の中は謙信と慶次のやり取りで一杯である。

 

「(明日、果たして慶次は生きているのだろうか・・・・・・そして、あの縛られた縄の跡は無くなるのだろうか・・・・・・)」

 

 おそらく春日山に帰った時には颯馬はもっと恐ろしい仕打ちが待っていることだろう。

 どうなるのか想像するだけで龍兵衛は先程謙信に鋭い視線を向けられた時よりもさらに背中の冷や汗が増して今度は服が濡れている。

 部屋に戻って気持ちを落ち着かせながら彼が春日山で謙信の帰りを待っているであろう颯馬に送る言葉はただ一つ。 

 

「(アディオス、アミーゴ!)」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十七話 恐怖体験?

 長重達は謙信達よりも先に越後に戻り、降伏した安東愛季を蟄居させていた。

 安東の土地は代官として後詰めの色部長実と本条繁長が残り、正式な沙汰が出るまで二人が取り仕切ることになっている。

 長重個人としては主君たる謙信を裏切ったという怒りからその場で首を跳ねたいと思ったが、当の謙信からしばらく生かしたままにしておくようにと命じられた以上はそうしなければならない。

 舌打ちしたい気持ちを抑えて長重は新発田城に待機していた。

 長重を苛つかせているのはそれだけでなく、葛西・大崎に大打撃を与えたのは良かったものの、当主の葛西晴信と大崎義隆を取り逃がしたことである。

 他にも上杉に降ることを良しとしない安東家の一派が密かに逃げ出して檜山系の安東氏残党が北秋田郡を奪ったのだ。

 不完全な終わりをしたのは何も謙信達だけではないという訳だ。

 無論、長重達にも謙信達が佐竹と色々と揉めたことは知らされている。

 自分達だけが良い思いを出来るとは思っていないし、他の大名達が必死なのは分かっている。それでも報告で受けたような敵に出し抜かれたような事を聞くと面白くないと思ってしまうのは個人の感情移入がある為に仕方ない。

 成実や秀綱を手合わせの相手にして気を紛らわす一方で謙信達がそろそろ帰ってくるという報告を受けたのは長重が佐竹との一件を耳に入れてから約一週間後のことである。

 その日は夏前にやってくる雨期を象徴するかのように少し肌寒く、強い雨が地面に落ちる度に音を立てて降っていた。

 

 黒川城にて二手に別れた南東北の討伐隊は合流して一旦そこで一息つくことになった。

 政宗に対して謙信は勝手な行動を叱りながらも景勝のあらぬ風聞を乗り越えて、逞しくなった姿を見て軽い訓戒処分で済ませた。

 宴では景資が相馬盛胤の最期を話して謙信に帯同していた諸将を涙させ、少しばかり緊張した雰囲気が続いていた政宗と定綱だが、それを憂慮した親憲が持って来ていた女装用具で笑いを誘わせ、一応は和解させた。

 これはどうでもいい話だが、弥太郎が酒を飲んで安定の大暴れをしている時、兼続が控えるように言ったが全く聞かないので戦前同様、龍兵衛に援軍を頼んだが、龍兵衛が言おうとした矢先に耳元で弥太郎に何か囁かれると俺には出来ないと言って逃げ出したらしい。その中で謙信は終始ご機嫌だった。

 

「随分とご加減が宜しいようですね、謙信様」

「うむ、悩み事が一つ解決したからな」

 

 景家から指摘されて表情を引き締めるが、見るからに気分が良さそうである。

 景勝達からすれば佐竹との交渉で上手くいかなかった謙信達は苛々で殺伐としていた雰囲気が出ていると思っていたが、謙信を見てそうでもなかったので拍子抜けしたのは秘密である。

 ちなみに小手森の一件で憔悴していると思いきや景勝でさえも案外そうでもなかったのに少しばかり拍子抜けしたのは謙信達の心に閉まってある。 

 

「(帰って颯馬に会ったらあの表情が般若の如く険しくなるんだろうなぁ・・・・・・)」

 

 龍兵衛は颯馬に件のことを言っていない。

 酔っ払った弥太郎が兼続を張り倒したお陰で彼女から逃げ切った龍兵衛は謙信を見てますます恐怖を抱いた。

 慶次からの報復が無いのを見るとあの時謙信は自分から聞いたことを言わなかったようなので龍兵衛は内心ほっとしている。

 しばらくはぼーっと全員が盛り上がる光景を眺めていた龍兵衛だが、酒が進んでいないのを見た景資が彼に酒を進めると彼もその輪の中に加わっていった。

 一刻程で宴が終わり、梅雨の時期にやってくる冷たい風の吹く夜はどこか淋しさがあって今の自分にはぴったりである。

 そんなことを龍兵衛が思っているとどこかで二次会を行っているのか女性二人の笑い声が聞こえてきた。

 その時、彼の危険を察知する第六感がそこに行ってはいけないと語り出した。その一方で頭の中ではそこに行って聞いてみたいという師匠譲りの好奇心がもたげてきた。

 ゆっくりと近付いて声の主を確かめる。人によって行くか帰るか決めることにしたのだが、分かった瞬間に彼の身体は勝手に防衛反応を出して引き下がってしまった。

 

「(間違いない。弥太郎殿と慶次だ)」

 

 会話を聞きたいなんて思って近付いてばれでもしたらとんでもないことになる。

 龍兵衛は想像するだけでぞくぞくと背中に悪寒が走った。

 やはり、今の龍兵衛には自然の寒さよりも悪寒が一番よく似合う。

 文字通りに身体を百八十度回転させると龍兵衛は何故か走ってその場から去って行った。

 その向こう側から一人の人影が現れたのを彼は知る由もない。

 

 

 

 報告を受けた長重達が新発田城で謙信達を待つこと十日間、謙信と景勝を先頭にして勝者のゆったりとした歩みで上杉軍は帰還した。

 その場にて高々と勝利を宣言すると待っていた兵は皆が謙信の威風堂々とした立ち振る舞いに大きな声を上げた。

 歓声は蟄居を命じられていた愛季にも聞こえてくる。

 愛季にとって謙信の帰還は死神が自分の下にやってきたことと同じようなものである。謙信の一声で自分は処刑されるに決まっているのだから。

 思い返せば昨日の夜、土佐林禅棟が自身の下にやってきて蟄居は今日限りと言っていた時点でもう命運は決まっていたのだ。否、どう考えてもそうだった。

 禅棟は変わることのないのっぺりとした表情で愛季に言い渡すと用事はそれだけだと立ち上がり部屋から出ようとする。

 愛季は自身の命よりも安東家がどうなるのかだけが気になっていた。小手森の一件も考えると上杉が安東を皆殺しにする可能性は否定出来ない。

 慌てて禅棟を呼び止めると愛季は安東を上杉が滅ぼすのかどうかを単刀直入に聞いた。

 

「ありなんありなん。謙信様のお気に障る事を言えば、さもありなん」

 

 禅棟は曖昧にうむうむと頷いているだけで全く表情を変えない。これが彼の老獪さを実に良く出している。

 だが、愛季にはそのようなことを考えている暇はない。

 

「では、私が頭を下げれば寛大な処置をして頂けるのですね?」

「寛大、寛大。謙信様の慈悲深きお心は海の如くよ」

 

 うむうむと頷きながら謙信が褒められたことで再び部屋を出ようとしている禅棟の機嫌がよくなったのを見計らい、愛季は最も気になっていたことを聞くことにした。

 

「では、何故に寛大な謙信殿が小手森城の人々を皆殺しに?」

「皆殺し、皆殺し・・・・・・」

 

 禅棟は振り返って一度だけ愛季を睨み付けると部屋を出ながらこう言った。

 

「お主も最期の時を心して過ごされい」

「(どっちなんですか!?)」

 

 結局、禅棟との対話では全く謙信の方針が分からなかった。それでもなんとなく察した。

 明日、自分は殺されると。

 恐怖がある訳ではない。ただこの人生の虚しく、なんとも家臣に振り回されたことか。

 一時の欲に家臣は目がくらみ、浪岡顕村達を引き止めもせずに流された。何とかなると思っていたことが第一の原因である。

 結果的に顕村は死に、戻るにも戻れない状況に追い込まれ、生き残る為に必死になって戦った。

 だが、軍神に東北の雄達を相手に勝てる見込みなどありはしなかった。責任を持って腹を切る他あるまい。

 

「お前に戻りたいという意思があるのなら許してやっても良い」

 

 翌日、そう考えていた為に謙信の言葉には唖然とするしかなかった。

 唖然としているのは愛季だけではない。他の諸将もあんぐりと口を開けている者や何か言いたげに謙信を見ている者。「このような不忠者、上杉に必要ありません!」と叫ぶ者までいる。

 純粋に知りたい。何故に自分を許すのか。

 

「・・・・・・それだ」

 

 何を言おうか考えていると謙信が愛季をじっと観察して突然言った。

 

「・・・・・・は?」

 

 理解出来ないのは愛季も他の面々も同じである。しかし、謙信は全く気にする素振りを見せずに自分だけが納得したような笑みを浮かべてさっさと部屋から出て行った。

 納得しない者の一人が慌てて謙信に付いて行く。

 

「謙信様、どういうことですか? 私は納得出来ません!」

 

 背後から聞こえてきたのは兼続の声と二人分の足音。一人は兼続でもう一人はおそらく彼女を止めに来た人物。

 

「よせ、謙信様は前々から決めておられたんだ。今更覆す訳もないだろう」

 

 龍兵衛であった。振り返らずとも二人で落ち着け、落ち着いていられるかと冷静と熱さの言い争いを行っていることが分かる。

 

「(もし仮に定満がいてくれたらたった一言で止めてくれるものだが・・・・・・)」

 

 やれやれと首を振って振り返るとそれに気付いた二人はそこで諍いを止める。

 定満よりも楽かもしれない。

 何てことを思いながら謙信は家臣に納得する者が少ないだろうということは最初から分かっていた。

 兼続には言っておかないとまたやってきそうなので今の内に前から聞いていた龍兵衛に説明させる。

 

「要は、寛大なお心を見せるということですか?」

「まぁ、そうだな。だが、誰これという訳ではないぞ」

 

 納得したように頷く兼続をよそに「な?」と龍兵衛を見ると彼は無言で、苦笑いで頷く。

 兼続はその点については納得しながらも疑問はまだあった。

 

「しかしながら、安東愛季はまた寝返るとお思いにはなりませんでしたか?」

「それはない」

「え?」

「龍兵衛、分かるか?」

 

 いきなり振られて驚きながらも大柄な身体を伸ばして眉間に皺を寄せて腕を組んで考える素振りを見ると上から睨み付けているようで子供が泣きそうになる顔をしている。

 そして、すぐにこれかなと自信がないように首を傾げながら答えを出した。

 

「安東愛季が、謙信様に向けていた目ですか?」

「そうだ。愛季の目は何故己を許すのかという疑問が純粋に語られていた。さらに禅棟に聞いたところあれは昨晩、己のことよりも配下の者のことを気にしていたそうだ。まぁ尤も、私はあれの性格は善良であると分かっていたがな。愛季は家臣に恵まれていなかっただけだ」

 

 そこまで言い切ると謙信は呆気に取られている二人が全く同じ大きさに口をぽかんと空けているのを笑いながら立ち去って行った。

 

「分からんなぁ・・・・・・どうしたらあのような観察眼を手に入れることが出来るのか?」

「謙信様には毎度驚かされるが、これほど驚いたのは私も初めてかもしれん」

 

 全ては謙信の優れた人を見抜く力の賜物。だからこそ一度離反した者でも懲りた者ときりがない者とを見分けることが出来る。

 そんなもの持っていない二人にとってこの辺りが近くにいるのに遠く感じるところである。

 

「しかし、謙信様は甘くないか?」

「俺も最初に聞いた時、同じことを思って聞いたよ。だけど謙信様は『甘いのではない。寛大なのだ』と言われていたけどな」

 

 謙信が立ち去った後の廊下を眺めながら二人は溜め息を吐いた。

 結局、安東愛季は謀反の罪を許され、山本郡だけを残し、他の領地を大きく削られてしばらく春日山城に謹慎することになった。

 そして、上杉家に恭順することを誓った戸沢盛安には本領と雄勝郡を除いた上浦郡全てを与えられた。

 なんだかんだで勝利は掴んだもののあまりいい形の勝利ではないということで春日山城に残っていた颯馬達もさほど大きく喜ばずに労をねぎらうだけで謙信達を出迎えた。 

 春日山城に戻ったのは久方ぶりの謙信達にとって長く空けていた間に起きた国外の情報はしっかり把握していなければならない。

 正式な論功行賞は既に新発田城で終わらせている為にすぐに軍師達は集まったが、そこで颯馬から耳を疑うような報告を聞いた。

 

「織田が武田を諦めた?」

 

 兼続の声が少し大きく感じたのは他の者が疑問を口に出さずに黙っているからだろう。

 聞けば武田は織田がこれ以上大きくなるのを危険視し、攻め込んだところ数の差は否めずに多大な損害を出した。

 ところが、織田軍は追撃することなく撤退したという。

 代わりに今川が動いている訳でもないので疑問が尽きないそうだ。

 織田の本国で異変が起きたと考えるのが妥当であるが、そのような報告は来ていない。 

 ひとまず確かにある情報の整理が必要と謙信は颯馬に詳細の情報を聞くことにした。

 

「武田はどれほど被害を出した?」

「細かくは分かりませんが、おそらく半年から一年は掛かると間者は言っておりました」

「織田の被害は?」

「それほど出ているという報告は・・・・・・」

「ますます分からんな。何故に織田は撤退したのか・・・・・・?」

 

 喜ぶのは織田には誰もいない。武田は喜ぶかもしれないが、上杉にいる信州出身の村上義清がもっと喜んで謙信に「行くべきじゃ!」と勇んでやってくるだろう。

 それを知らない織田信長ではない筈だと官兵衛や龍兵衛といったこの中では信長を一番よく知っている二人が言った。

 協議は混迷するかと思われたが、案外簡単に答えは出てきた。

 

「北条が密かに織田と手を組んでいると考えると全ての辻褄が合うな・・・・・・」

「え? 龍兵衛、何?」

 

 ぼそりと言ったつもりだったのが隣に座っていた官兵衛には聞こえていたようで官兵衛の声で龍兵衛に視線が集まる。

 

「武田との戦となれば謙信様は間違いなく出陣しますよね?」

「・・・・・・・・・・・・そうだな」

「「(今の間はなんだ?)」」

 

 謙信をまだよく分かっていない官兵衛と景綱が訝しげに見ているが、よく知っている三人は気にしない。

 

「なるほど、謙信様が武田に目が行っている内に北条が越後を攻め取るということか」

「しかし、それを織田が了承するのか?」

「兼続の疑問はもっともだ。だが、織田が今、こちらに構っている状況ではないとしたら如何でしょう?」

「背後に不安・・・・・・将軍家と三好、あれらと手を組む者達がそろそろ動くと?」

 

 龍兵衛が一つ頷くと他の軍師達も合点が行ったようだ。

 今、北条が攻めている里見は房総半島一帯を領有する大名。すぐに落ちないのは分かっているが、北条がそれを攻めているのはいずれ武田に攻め込むであろう上杉に今は大丈夫だと思わせる腹で実際は里見を本気で攻め取るつもりはないと見て良い。

 織田も馬鹿ではない。北条が仮に越後を取ったとしても最終的に謙信がいなくなって混乱する越後・東北を北条が纏めている間に全て絡め取るのは目に見えている。

 それでも早雲が織田と手を組んだのはそれを上回る考えがあるからであろう。

 

「あくまでも今は推測の域を出ませんがね・・・・・・」

 

 六人で一つの仮説からとんとん拍子で話が進んだので少し焦った龍兵衛はちゃんと釘を差しておいた。

 

「これで終わりだ。後、何か言いたい事のある者はいるか?」

 

 颯馬が謙信不在の間に任されていた仕事について聞きたいと言った。それ以外にいないのを見て謙信は散会を宣言する。

 外を見るすっかり日も沈んで夜になっていて、廊下もめっきり冷えている。

 一人になったところで龍兵衛は何故か女中達にクスクス笑われていたが、それはあまり気にせずに人の不幸を想像して笑っていた。

 対象は言うまでもなく颯馬である。よく考えれば謙信に自分は金欲の塊であるという勘違いを植え付けたのに仕返しをしようとしていたのでこれは良い機会だった。

 大成功に一人で肩を震わせて笑っていると後ろから足音が聞こえてきたので顔を手で覆い真面目な顔に変える。

 振り返ると慶次がいた。ちなみに慶次の方にも仕返しをしようとしていたので謙信への密告は龍兵衛の企みが思わぬところで成功してあっさりと終わった。

 彼を見ると怒ったような目をして睨んでくる。

 

「(ま、そりゃそうか・・・・・・)」

 

 あの時、慶次の下に謙信が駆け込んだということは龍兵衛が言った以外に有り得ない。

 ざまをみろと思う反面あの謙信の折檻は龍兵衛をも震え上がらせたのでさすがに可哀想だと思い逃げないで素直に謝っておくことにした。

 

「どうもすいませんでした」

「分かってはいるのね?」

「(声が真面目。かなり怒ってるな、うん)何があったかは知らないけど」

「これ見てよ」

 

 手首と足首に縄目の跡。大分きつく絞められたのか今だに跡が残っている。

 しかし、あの日から龍兵衛は慶次をそれとなく見ていたが、荒縄の跡など無かった。

 

「どうやって隠してたんだ?」

「水原さんのをちょっと拝借したのよぉ」

「なるほど・・・・・・で?」

「『で?』じゃないわ。けんけんは?」

「颯馬と一緒に仕事中」

「・・・・・・分かっているんでしょ?」

「・・・・・・仕事という名の仕置きだな」

 

 二人の仲を知らない上杉家の人を逆に見てみたいものである。  

 

「謙信様って意外と嫉妬深いんだな」

「女性っていうのはそういうものなのよぉ」

「勉強になります」

 

 大分怒りが収まってきたのか言葉遣いがいつも通りに戻りつつある。

 

「話が逸れたわ。どうすんのこれ」

「忘れて・・・・・・無理か」

「どうやったら忘れられると思う?」

 

 収まっていた少し怒りが込み上げてきたようだし、逃げるのが一番と思い身体を反転させようとしたが、背後から「逃がすと思って?」という威圧の利いた声が聞こえてきた。

 

「(どこの極道だよお前)忘れてくれる条件は?」

 

 酒の代金二ヶ月に延長などと言われそうで冷や汗をたらりと流していたが、慶次は龍兵衛に身体を近付けると背中に回って何かをぺりっと剥がした。

 まさかと思い、振り返ると慶次が『変態』と書いてある紙をひらひらさせていた。

 

「気付かなかったのねぇ」

「あ! 道理で女中達がけらけら笑っていると思ったら!」

「そうよ~あたしがこっそり貼ったのよ~」

 

 背中を慌てて気にするが、さすがにもう紙は貼っていない。良い顔で笑っている慶次は仕返しが出来たのか実に満足げである。

 帰ってきた途端にこれだから龍兵衛は呆れかえってものも言えない。

 

「まさか、これが条件?」

「そんなわけないでしょ。ここからが本番よぉ」

「本番?」

 

 全く分からないというように首を傾げている龍兵衛に慶次は腕にくっついて密着させてきた。

 

「(また酒の酌か? 嫌だな~)」

 

 胸を当てないでほしいということを言ってもどうせ聞かないのでそこはほっといておく。

 しかし、慶次は予想外の行動に出た。顔を赤くしてどこに持っていたのかとある物を取り出した。荒縄である。

 

「えっ?」

「けんけんに縛られた時にあたし興奮してたみたいでぇ、今も颯馬っちがけんけんにこうされてると思うと、ね・・・・・・」

「えっ、えっ?」

「戦続きで溜まってるんでしょ? 一晩だけで良いからぁ、あたしが相手しても良いのよ」

 

 慶次の目が真面である。龍兵衛はどん引きである。

 つつつと迫る音とすすすと下がる音が静かな夜に聞こえている。

 周りを見ると誰もいない。救援が欲しい時に来ないのは戦でも城内でも同じことだ。

 

「他の誰かを当たってもらえませんか?」

「気心知れてて、あたしを弄んだのは颯馬っちと龍ちんだけよぉ。だからぁ・・・・・・」

 

 とどめと言わんばかりに慶次はさらに胸を押し付けてくる。

 こうなった以上、龍兵衛に残された道はただ一つ。

 仕方ないなと首をすくめて慶次に向き直り、荒縄を受け取る。

 

「三十六計逃げるに如かああぁぁず!」

 

 慶次が油断した隙を見逃さず、腕を振り切ると龍兵衛は脱兎の如く駆け出した。

 

「あ!? 待ちなさーい! そう恥ずかしがんないでぇ! 龍ちんも役得でしょー!」

「でかい声でそんなこと言うなあぁぁ!(各々方、慶次が変態になったで御座る!)」

 

 龍兵衛は死に物狂いで逃げ続けた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十八話 波乱の後の苦悩

 一波乱も二波乱もあった春日山の夜は流れ星が流れて消えていくようにあっという間に過ぎて行き、いつも通りの朝を向かえる。

 慶次との鬼ごっこを上手く撒いて逃げ切った龍兵衛は戦の疲れが重なって自分の部屋に辿り着いた瞬間に力尽き、やろうと思っていた部屋の整理をすることは出来なかった。

 早朝に布団も敷かずに寝ていたことに気付いた彼だが、初心を思い出して部屋の所持品を整理していると一通の手紙を見つけた。

 処分しておくように言っておいた物は既に処分されていたが、この手紙だけは必要である為に隠しておいたのだ。

 取り出して中身を改める。文章が変わる訳がないが、飽き足らずに何度も読んでしまう。

 あれこれと適当に読み進めていくが、どうしても最後に書かれている事は食い入るように見つめてしまう。そして、あまりにも無惨な終わりに怒りを感じる。

 今やその感情は無意味なものとなっているのだが、忘れ去ることは決して無いだろう。

 整理を終えて部屋を出ると梅雨の時期には珍しく汗ばむ陽気になってきた。

 

「(そろそろ梅雨の終わりかな)」

 

 庭に植えてある梅雨が取り持つ七色の紫陽花もそろそろ色が褪せてきているようにも感じる。

 散歩に出る気にもならないので座ってぼけーっととしていると飼っている三毛猫がやってきた。

 春日山城内に野放しで飼っていたが、室内飼いの方が良いと聞いて出陣前にこちらに引っ越しさせた。

 初めてこの部屋に来た時は怯えていてずっと使ってない押し入れに入り込んでいたが、すっかり慣れて、腹を上に出して寝ている。

 抱きかかえて膝に乗せるとごろごろと喉を鳴らしているのが分かる。

 戦が続いた近頃に謙信達によって浮き彫りにされたことを忘れてしまいそうなぐらいに和やかでゆったりとした時間が流れる。

 時折吹く涼しいそよ風が整理をしていた時に流れた汗に触れ自身の体温が下がっていくのがよく分かる。

 木々の枝が微かに揺れ、鳥が鳴き始めた。草木は既に新緑から深緑へと移り変わり、青々としている。

 風が続いている間はこうしていよう。

 胡座をかいたまま猫を膝に乗せて龍兵衛は朝の気分転換を満喫した。

 とはいえ、部屋に居ても整理と使用人の様子を確認するだけで他にやることが見つけられなかったので朝餉を簡単に済ませるとすぐ城内の散歩に出掛けた。

 日射しが時間を追う毎に強くなり、徐々に気温も高くなっている。

 

「(眩しい・・・・・・)」

 

 素晴らしい天気であるというのに何故だか龍兵衛の心は晴れる気配が一向にない。

 謙信に指摘され、それまでずっと気付かなかった空虚な『己』にはただ純粋に人を照らし続ける太陽が羨ましいからだ。

 照らす太陽の眩しさが強くなる程に反比例して彼の心は暗くなる。

 

「はぁ・・・・・・」

 

 溜め息を吐けど幸せが逃げるだけ。分かっているが、やらなくても幸せが逃げていく気がしてならない。

 城内を簡単に歩き回ってひとまず自分の部屋に戻ると置いてある資料をかき集めて今後の長い領内経営について個人的な考えを纏める。 

 戦には勝利したが、北秋田郡を安東家残党に取られ、第一の目的でもあった阿仁鉱山を取れなかった為にあまり喜べない。

 その代わりに取ることが出来たのが土崎湊である。

 土崎は雄物川の河口、現在の秋田運河に位置する港町である。もともとは平安時代の蝦夷討伐軍が拠点として築いた秋田城への物資の補給などに利用された港であった。これが元で昔から海運で栄え、室町時代には安東氏が湊城を築き三津七湊の一つに数えられた。

 ちなみに越後にある直江津もこの三津七湊の一つに数えられている。

 さしあたり、土崎湊から直江津へ鉱山で取れた鉱物資源を運び、南部に備えて直江津から土崎湊に兵糧を送ることも可能である。

 前々から進めていた直江津の拡張も上手く行き、西の国々から商品が行き交うようになってきたそうだ。

 ますます発展しそうな商業と違い、越後という国は農業が決して盛んではない。

 一応、龍兵衛には盛んにする方法があるにはある。

 越後の田畑は湿田が主流で、足が嵌まったら自力で出られないことも稀にある。治水もきちんと行われていない為、氾濫が多く農耕不能な土地もある程である。

 さらに越後東では阿賀野川と信濃川。西側は関川と姫川が雨期になると土砂を巻き込んで被害を出している。治水を行い、湿田を乾田に移行させれば必ず上手く行く。

 分かっていたことではあるが、四つの川の全てが急流の為、抑えるのはかなり難しい。

 それに、長年湿田を使っていた農家に対していきなり乾田に変えると言ったら今までの苦労は何だったんだと言われ、不満が出るのは目に見えて明らかである。

 結局、今後も鉱脈の発展や青苧座の保護という重商主義に徹するしかなくなる。

 重農主義者の龍兵衛にとって苛々する状況だが、今回は好機である。

 おそらく次の戦は少なくとも二年程先である。

 今後の別の政策に行う予算を差し引いて、纏めて行うのは不可能だとしても一つや二つの川に堤防を築くことは可能である。

 

「(とはいえ人数と金は随分使うぞこれ)」

 

 龍兵衛が東北に勢力拡大を主張した最もな理由は眠る鉱山を発掘し、それを政策に活かすという考えを可能にする為である。

 潤沢な資金があるとはいえ、確実に成功するか分からないものへの多大な出費は金に厳しい彼にとってあまり嬉しいものではない。

 だが、いずれはやらなくてはならないものである以上はやらないといつまで経っても後回しになるだけである。

 面倒事を後回しにするような性格ではないが、金に厳しい性格故に、鬱憤が溜まる。しかし、それは抑えないといけない。面倒だと思いながらも彼は意見書を纏めることにした。

 もう一度部屋を出て今度は厠に向かっていると謙信が前からやってきた。

 

「おはようございます。謙信様」

「うむ、何か変わったことはないか?」

「いえ・・・・・・ああ、近々今後の政策について纏めた意見書を出しますので宜しくお願いします」

 

「分かった」と謙信は頷いてすれ違って行った。実に空に広がる晴天に似合う清々しい上機嫌な顔をしている。

 

「(間違いない。颯馬は死んでいる)」

 

 このところ何度走ったか分からない悪寒が背中を走る。五分五分の恐怖と好奇心を持って龍兵衛は厠を済ませるとそのまま颯馬の部屋に向かってみた。

 

「颯馬、いるか?」

 

 何度かけても返事が無いので一言断って部屋に入るが、どこにもいない。「はて?」と思いながら部屋を出て周りを探すが全く見当たらない。ますます分からないままに城を回っていると会いたくない人物に出会った。

 

「や、慶次」

 

 向こうもちゃんと「おはよー」と返してきた。怖かったがどうやら今は素面らしい。

 

「(さすがに朝っぱらから誘うような魔物ではないか)颯馬を見なかったか?」

「部屋じゃないの?」

「いなかったから探しているところ」

 

 慶次も颯馬のことは気になっていたので一緒に探すが、どこにもいない。

 自分の部屋の周りにいないということはもっと他の所にいるのだろうと思い、二人は場所を移動する。

 移動した先で出会ったのは景勝だった。 

 普段通りに挨拶するが、景勝は無言で立ち去ってしまった。

 

「かっつんご機嫌斜めみたいねぇ」

「まだあの事を引き摺ってるのかな?」

「でもぉ、そうは見えなかったわよぉ」

 

 小手森の事で衝撃を受けていると思っていた二人だったが、合流した時には無邪気に謙信に飛び付いていたので安心していた。今、何故不機嫌なのかが分からない。

 

「後で聞いてみるか」

 

 それが良いと慶次は頷くと二人は再び颯馬を探し始める。心当たりのある場所は全て探したが、見つからない。

 時間的に城内にいない筈が無いので必ず城のどこかにいる筈である。残された場所は後一つだけ。

 

「謙信様の部屋辺りだな」

「知って下さいって言ってるようなものね」

 

 溜め息が出てくる。呆れてしまうが、もうそこしか無いのだ。間違っても部屋に取り残されているということはないだろうと思うが、可能性は否定出来ない。

 あの恐怖を見ている龍兵衛と体験した慶次は戦々恐々とした心持ちで謙信の部屋に通じる廊下に入った。

 そして、二人は見た。廊下の隅にうつ伏せで倒れている濃い青の着物を着た男性の姿。

 

「精魂尽きたか・・・・・・」

「生きてる?」

「脈は・・・・・・ある」

「大分弱ってるわねぇ」

「見ろ、手首に縄で縛られた跡がある。呼吸も弱いな」

「無惨ね、後少しで腹上死していたかもしれないわよぉ」

「お前もあの縄跡から察するに随分とやられたんだろ?」

「あたしは、手足を縛られて、口も封じられたんだけどぉ。けんけんったらそれで颯馬っちと何があったか話せって言うのよぉ」

「理不尽極まりないな」

「結局あたしは喋れないからずーっと説教を受けたけど・・・・・・これを見たらまだましだわぁ」

「あ、説教で済んだの?」

「・・・・・・その先があると思ってた?」

「・・・・・・止めよう。俺の柄に合わねぇ」

「あたしはぁ、龍ちんも男だしぃ、別に良いと思うけどね」

「まぁ、そのことは脇に置いておいて、取り敢えず運ぼう。人にばらす訳にはいかん」

 

 颯馬をおぶると龍兵衛は彼を部屋に運んで慶次に布団を敷かせてそこに落とした。

 内々の事は颯馬の代わりに朝信が評定で発表し、颯馬は疲れが溜まって体調を崩したということになった。

 ちなみに龍兵衛と慶次が颯馬を運んでいるのを見られていない筈がなく、数人から状態を聞かれたが、二人は首を捻った。

 

「疲れで少し体調が崩れただけでそこまで大袈裟ではないな」

「ちょっと疲れたのかしらねぇ、すぐに治ると思うわよぉ」

 

 最後までしらばっくれて真実を闇へと葬ってしまった。

 こうして昨晩起きた事件は真犯人が分からないまま迷宮入りとなった。

 だが、意識が回復した颯馬にはまだ面倒事が残っていた。

 

「ねぇ、ちょっとだけでいいから何があったのかあたしに教えてくれない?」

「断る! 思い出すだけでも背筋が凍るんだ! 第一、人に言えるかよ!」

 

 哀れにも興味津々の慶次からの詰問は一週間続いたそうだ。

 

 

 戦の間に溜まっていた仕事をどうにか終わらせる為に色々と頑張ってきた師弟は合間を見つけてここぞとばかりに楽をする。

 

「北条は里見攻めを中止して織田に備えてるみたいだね」

「という情報を流して我々の油断した隙を窺う。なかなかにあざといですね」

 

 二人は気ままな城内散歩をしながらあまりよろしくない会話を続けている。

 面白くないのは二人も一緒であった。しかし、この策には二人のよく知る策士が関係しているという確信があった。

 半兵衛は織田の為に必死になっている。太原雪斎と協力して北条早雲と話を付けたと見るのが妥当だろう。

 

「やっぱり半兵衛ちゃんは半兵衛ちゃんだね」

 

 友は老獪な動きにぼやいて弟子は見事な策だと無言で頷く。

 三人の中で一番奇策を得意とするだけに半兵衛は抜かりなく次の策も考えていることだろう。

 

「織田はどう動くと思います?」

「まぁ、いきなり将軍家ってことはないと思うけど何するか分からないのが織田の怖いところだからね」

「さすがに将軍家をいきなり襲っては世間体が悪くなります。手始めに浅井・六角・比叡山辺りですかね」

「本願寺も門徒を動かすと見て間違いないね。そして、ちょっかいを出した将軍家を一気に叩くと」

 

 次々と織田が討つであろう相手が留まることなく出てくる。

 名前を上げるだけで急進的な信長を快く思わない畿内の保守派の諸将は数多いることがよく分かるが、正直なところ二人は将軍家や畿内への思い入れがある訳ではないので別にどうなろうと知ったことではない。望んでいるのは織田の進軍が滞ることである。

 

「戦続きの我々が出来るのは密かにかれらを支援することですか」

「いや、やらなくていいよ」

「また随分きっぱりと・・・・・・」

 

 少し凹んでしまうような発言だが、容赦ない物言いをする官兵衛の目は智者の輝きが光っている。

 

「支援するってことは中央に出るという期待を持たせることになる。そうなるとこちらの都合なんか向こうはお構い無しに出兵を頼んでくるよ」

 

 失念だった。

 支援とは味方が行うもの。しかし、将軍家も畿内の諸将もいずれは対立する。

 敵の敵は味方ではない。利用し合い、それとなく潰すもの。

 今の上杉と北条のように、それは織田と北条にも当てはまる。

 織田も戦続きで疲れが溜まっている筈。畿内は寄せ集めの軍勢といえども簡単に勝利すると官兵衛は考えていなかった。

 所詮は利益を失うのが嫌になっている者が起こすものである。そうでない者が仮にいても官兵衛と龍兵衛には同類にしか過ぎない。

 

「古人曰わく、利をもって合する者は窮禍患害に迫られて相棄つ。ですか?」

「そ、結局あたし達も見捨てるし、見捨てられる」

 

 己の未熟さが師匠の前だと浮き彫りになると痛感する。追い付くことが果たして自分に出来るのだろうか。

 無理ではないと官兵衛は言うかもしれないが『己』を知らない自分は知ってからこそ追い付くことが出来るのだろう。

 

「京及び畿内にいる間者を増やしておきます」

「そうしといて」

 

 今、目の前にいる師匠に謙信から言われたことを言うべきか。それとも言わずに自身の力だけでやっていくべきだろうか。

 言えば官兵衛は必ず相談に乗ってくれる。しかし、龍兵衛が最も恐れているのは「大丈夫、いずれ分かる」と笑顔で励まされるように言われることだった。

 今はそんなものよりもただひたすらに助言が欲しい。何も参考にならないことを言われるのが彼にとって一番の苦痛であった。

 欲望が喉から出掛かっては引っ込んでいく。期待と恐怖が交互に襲いかかってさらに彼を悩ましている。

 歩きながら一人で考え込み、足音が聞こえるだけの廊下で迷いに迷った末、最後まで龍兵衛は官兵衛に何も言えずに別れた。

 その日の夜、仕事を再開した龍兵衛は新たな政策の立案書をなるべく早く提出するように謙信に言われ、嫌々筆を走らせていた。

 外にはまだ若干暑さがあるが、部屋の中は対照的に部屋の主の心を表すように涼しさを感じさせる。

 実際には涼しいというよりは寂しいと言った方が正しい。

 その感情をコントロール出来るような強い精神力を彼は今持っていない。

 何故なら今の今まで龍兵衛は複雑な思いを抱いて自身が一途に思っていた筈の女性の下にある告白をしてきたばかりなのだから。 

 厳密に言えば別件で用事があった彼女の下に向かい、話している内にそういった話題になったというところだろうが、内心の吐露がその時はありありと滴り落ちていた。

 久々に心の内を語ったにもかかわらず、彼の心はまるで庭石がのしかかったように重く、糸がほどけていた筈の心はどこかで失敗したのかさらに絡まってきた。

 一旦終わりを見せた心の長旅は無情の音が聞こえる風の中をただ一人で何もない草村へと新たな旅路に付いていく。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十九話改 彼女の想いが聞こえない

 その日は晴れやかに終わる筈だった。

 しかし、官兵衛との会話が彼の心に曇りをもたらせた。官兵衛と別れた後、龍兵衛はそのまま景勝の下に向かい、朝のことについて聞いてみた。

 

「龍兵衛、一番知っている」

 

 部屋に入ってきてから表情が不機嫌なのは相変わらずで龍兵衛を睨んでそれっきりである。

 

「小手森の事、ではないのですね?」

 

 こくりと頷く景勝の目は「まだ何かあるだろ!?」と語っている。だが、龍兵衛に心当たりはまるでない。それを見て呆れたように溜め息を吐くと景勝はきっと龍兵衛を睨んだ。

 

「まだ、惟信さん、好き・・・・・・?」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 当たり、とは口が裂けても言えない。

 だが、彼の心に眠っていた純粋な心を景勝が引き出してくれたおかげでこうなったのは事実である。 

 責任の一端があるとは面と向かって言えないが、ありがたいとも思っていた。

 悲観的な自分の感性を少しずつ矯正出来ている。

 しかし、まさか彼自身も矯正していく中で彼女への想いが再燃してくるとは思ってもみなかった。

 汗がどこからとなく出てくる。下唇を噛み締め、眉間に皺が寄る。

 長い沈黙が流れ、何と言って良いのか分からない時間が無情にも過ぎていく。

 

「龍兵衛、景勝、違くなる?」

「いえ、そんなことは・・・・・・」

 

 以前と同じことを聞かれても龍兵衛は以前と同じようにはっきりとした口調で否定出来ない。

 

「景勝、龍兵衛、助けたせい?」

 

 その問いには龍兵衛は絶対に否だと首を横に振る。

 純粋な心が語るのは壁を越えた自分が本当に愛おしく思っているのはどちらなのだという悪魔の嘲笑うような声による囁き。

 更に目の前にいる景勝には喜びを与えることが可能なのかもしれない。しかし、その選択に後悔が無いかと聞かれると口が開かない。

 自身が一体、何を愛し、大切に思っているのか龍兵衛自身の中で答えが見つからない。

 頭の中で巡り巡る思考。しかし、濁流のように頭はぐるぐる強く回るだけで良い案は全く出てこない。

 

「(俺の本質さえ分かっていれば・・・・・・)」

 

 分からないから悩む。分からないままにあやふやなことを答えてもいずれは後悔するかもしれない。また、景勝がいる手前でどうすればこの場を凌げるのか分からない。

 長い沈黙が続き、互いに口を開かずにかなりの時間が経った。夜はますます更け、虫達が旋律の取れていない合唱を行っている。

  

「景勝、待つ」

「えっ・・・・・・?」

 

 唐突に景勝が溜め息と共に沈黙を破った。龍兵衛は考えている際に自ずと下がっていた顔を上げ、目を見開いた。

 

「景勝、龍兵衛、どうするか分からない。でも、待てる。景勝、惟信さん、選ぶの、龍兵衛」

「どれほど掛かるとも分からないのに景勝様は耐えられるのですか? 乱世ではいつどこで何が起きるのか分からないのですよ」

 

 自身が責められるべき立場の筈が、龍兵衛は思わず詰め寄ってしまう。しかし、景勝は大丈夫だとこくりと深く頷いた。

 何という純粋な目と寛大な心。

 龍兵衛は呻き声を喉で必死に押し下げ、声に出ないように必死になった。

 確固たる信念を持つ者だからこそ出来る境地に景勝は既に入っていたということに遅蒔きながら気付かされた。

 嬉しいという感情が込み上げるままに本来なら迷いなく抱き締めたい。しかし、龍兵衛は景勝と違い、己を知らない。そのような者が域が超えている者を愛する資格など無い。

 

「(景勝様と一夜を共にする前に知っていれば・・・・・・)」

 

 悔しさから泣きそうになる。気付くのが遅かったと嘆きたい気持ちもあるが、もう後戻りは出来ない。

 

「実は、先の戦で謙信様にお叱りを受けました」

『『己』を知れ、そうしなければ軍師としての力も活かすことは出来ない』と・・・・・・」

 

 ありのままに伝えると景勝は驚きながら龍兵衛に笑って頑張るように言ってくれた。

 気遣いが寂しい心に水に置いた墨のように染み渡り、暖かい風が吹き込んでくる。笑みを浮かべてくれただけでもありがたいと龍兵衛は泣くのを堪える為、自身も笑う。

 だが、解放された自分の心は惟信のことを思っても暖かい風を吹き込んでそれを受け入れてしまう。一方で心に悔しさが込み上げて怒りにもなってきそうなのが龍兵衛の現状である。

 

「あの、越後と九州、大分遠過ぎますけど本当に良いんですか?」

「大丈夫、待てる」

 

 冗談を言うような砕けた口調で龍兵衛は内心の悲しみを抑えると景勝も胸を張って背中を押してくれる。

 早く決めねばならない。その時が来るまでに完全なる自己を確立しなければならない。

 贅沢なことを言っているとも言われそうだが、彼にとっては苦悩としか考えられなかった。

 景勝はそんな龍兵衛を咎めずにただ優しく見守っていた。

 

「(間違いない。景勝様は大きくなられる)」

 

 純粋に嬉しい。たとえ非情の選択を強いられる日が来るとしても景勝は受け入れてくれるだろう。

 

「必ず、自分は一日でも早く『己』を見出します。必ず、決断します」

「ん・・・・・・」

 

 一瞬、悲しそうな表情を浮かべた景勝だが、気遣うこともせずに一礼して立ち上がろうとする。

 だが、景勝は何か忘れていたように手を叩くと龍兵衛にもう一度座るように言って表情を穏やかなものから一変、きっと龍兵衛を睨む。

 

「龍兵衛、弥太郎、慶次、何かした?」

 

 がつんと音がすると龍兵衛がのた打ち回る。

 

「っつう・・・・・・」

 

 座る前に言われて動揺した龍兵衛は部屋にあった机の角に膝をぶつけてしまった。景勝は気遣いもせずにじっと龍兵衛を見る。

 

「答える」

 

 嘘を付くことは駄目だと小さな身体からは想像出来ない威圧感が龍兵衛をしっかりと押し包む。

 逃げ出したら景勝は性格的に弥太郎か慶次の下に行くだろう。それこそ龍兵衛が一番避けたいことだ。やむを得ないと彼は素直に言うことにする。

 

「景勝様とこういった関係になる前のことですからね・・・・・・」

 

 そう前置きしてちょっと若気の至りで色々あったのだと正直に白状した。

 このようなことをまさか愛する一人の女性に言う日が来るとは夢にも思わなかったが、話さないと駄目な状況に追い詰められているので仕方ない。

 最初こそ色々と想像して真っ赤に顔を染めていた景勝も次第に元に戻り、冷静に龍兵衛が正直に話していると認め、彼の話を聞いて安堵の息を吐いた。

 ちなみに龍兵衛は何故そうなったのかということは一切言わずにただそうなったとしか言わなかった。

 

「(言ったら嫌われる)」

 

 その思いを保ち続けた。あれは口が裂けても言えない墓場まで持っていく秘密である。

 それでも不安そうな景勝に龍兵衛はどうしたのか聞くと衝撃が強さを押し隠すのに必死になってしまう台詞が返ってきた。

 

「景勝、薄っぺら。惟信さんみたく、ぽよんぽよんしてない」

「・・・・・・それが、どう関係するのですか?」

「弥太郎、慶次も大きい」

「いや・・・・・・自分、胸にそこまで執着してないですって(前にも言ったような気がするんですが)」

 

 あまりにも正直に言うのはどうなのだろうかと思った龍兵衛だが、向こうもはっきり言っているので少しは気が楽になった。

 不安と嫉妬を感じさせたのは間違いない。先日、慶次も女性が嫉妬深いことを言っていた。景勝に思わぬところからとはいえ隠しておきたいことがばれてしまったことは不覚としか言えない。

 それについてはちゃんと詫びを入れ、気になったので聞いてみると、それは黒川城での出来事だった。

 あの弥太郎と慶次の二次会は所謂一つの猥談話の披露会だったらしく、として颯馬はもちろんのこと、龍兵衛も入っていたそうだ。

 

「景勝聞いた。龍兵衛、颯馬、弥太郎。慶次に・・・・・・あと、ええと、まず薬、後、縄・・・・・・」

「それ以上言わなくていいです!! (あの馬鹿二人、何話してんだ!?)」

 

 また、顔を真っ赤にして気絶されては後が面倒くさくなる。

 主に兼続あたりにばれた時に。二人は本当に戦以外では頼りにしたくない。というかしてはいけない。

 それはおいておくとして、景勝はそれで龍兵衛が姦通していると疑いを持った。だが、先程の会話で疑いはすっかり晴れて、心に不安は無くなった。

 その景勝に龍兵衛はすっと一歩引いて頭を下げる。心から詫びを入れ、自分の確立を目指す為に前を向く。 

 

「京での誓い、しばらくは保留とさせて頂きます。武士に二言はないと言いますが・・・・・・誠に申し訳御座いません」

「謝らない。景勝、待てる。心配ない」

 

 ただ平身低頭するしかない。

 たとえ相手から許すと言われてもそれは景勝の寛大な心があってこそであって、彼自身はそれに付け込むという言い逃れは出来ない不忠をするのだから。

 だが、そうしなければ今後探していく『己』を見付ける為に邪魔になると龍兵衛は考えた。

 景勝との関係を一旦絶って自分が自然体の立ち位置を作ってからこそ自分が分かると龍兵衛は結論付け、いずれは言わなければと思っていた。このような思いがけない機会がやってくるとは思わなかったが、言わないと何時までもほっといていたかもしれない。

 あまり嬉しくない丁度良さだが、やってきた以上は止むを得ない。

 やれやれと内心溜め息をこぼして表情を改める。

 景勝の目を真っ直ぐ見て決して逸らさないように焦点を合わせる。

 

「景勝様」

 

 景勝も龍兵衛の目をしっかりと見つめる。感情はお互いに無い。必要ないことをこれから言うのだから当然である。

 

「しばらく、お一人で考えるお時間を頂きます」

 

 景勝は分かったと言うように一つ頷くと少しだけ笑った。

 龍兵衛が部屋を辞するまでの時間はそう長くはなかったが、彼には笑顔が優しく見えた。

 

 部屋から龍兵衛が消えて足音も無くなった途端だった。ぺたんと景勝は座ったままで動かない。

 謙信のような母としての母性愛でもなく、慶次のような友としての友情でもない。彼が景勝を包んだのは愛情である。

 無論、三つだけではなく他にも様々な感情が景勝の心を支え、新たに兼ね備えた信念となっている。それは揺るぎないものになると景勝は確信した。

 しかし、幾数もある感情の中でたった一つのものが無くなった今この時に何故だかぽっかりと穴が開いたような虚無感が景勝の全身に走った。

 力を入れて立ち上がろうとしても身体がそれを良しとしない。代わりに景勝を襲ったのはどうしようもない孤独感と悲哀だった。

 

「ウキー・・・・・・」

 

 一部始終を見ていた猿が励ますように声を掛ける。

 その頭を撫でる景勝の手は優しく、いつもと変わりない。しかし、猿はいつもと違う景勝を見た。彼女の目には、涙が浮かんでいた。

 

「や、景勝、待ちたくない・・・・・・龍兵衛・・・・・・離れたくない」

 

 孤独感による空しさが本音を出した。涙を浮かべる景勝の目には想いを持った女性らしい正直さがあった。

 見て聞いて、迷うことはない。猿はするりと景勝の手から逃れると部屋から出て行った。

 

 

 

 

「ウキッ!」

 

 上杉で知らない者はいない鳴き声が聞こえる。龍兵衛が振り返ると思った通り、足下にそれはいた。

 

「どうした、猿?」

「キキッ、ウキキッ!」

「景勝様の所に戻れと?」

「ウキッ」

 

 龍兵衛は当然のようにいやいやと首を振って拒否する。だが、猿は「行け行け」と裾を引っ張って聞かない。

 今、行ったばかりだというのに何故また行かなければならないと思うが、猿がいやにしつこいので龍兵衛も仕方ないと溜め息を吐いて仕方なしに付いて行く。

 行くと戻るとで随分と気分が変わっている。行きづらいのは致し方ないことだ。

 景勝に決意したことを言うのに景勝に会えるということで随分と浮かれていた行きと違ってあのようなことを言ったにもかかわらず平気そうに笑顔で見送って激励をくれた景勝が戻る時には彼の心を苦しめ、進む足取りが重くなる。

 だが、引き返そうとしても猿が肩から小さい手でぴしっと叩いてくるので行かざるをえない。

 ふらふらと蛇行しそうな足に神経を使ってどうにか平静を装って景勝の部屋の前に戻る。

 だが、中から聞こえる泣き声が彼の口だけでなく身体全体を動けなくさせた。

 

「ひぐっ・・・・・・ぐっす・・・・・・」

 

 声を上げて泣いている訳ではない。猿が部屋から出た時に空いた隙間が景勝のすすり泣く声を微かに耳へと届かせた。

 

「・・・・・・・・・・・・」

「ウキッ」

 

 中に入れと猿が小さく鳴くが、龍兵衛はもう入ったところで何も意味は成さないと察した。

 かつて愛は人の感情以上に複雑怪奇なものであると気付いたが、それは誰が相手であろうとも同じことであるとも彼は気付かされていた。

 だからこそ、ここで景勝を励ますことは出来ない。一度迷いを抱き、その思いを告げた後、すぐに前言を撤回して中に入れば龍兵衛はますます謙信から指摘されたことを忘れるだろう。

 頭を振って行かないと示すと猿が抗議の目を向けるが、指を立てて静かにするよう言うと龍兵衛は部屋に戻った。

 歩いている間も部屋で座って考えていても心を鬼にしても龍兵衛の耳から入った景勝の泣き声がずっと脳内でつんざいている。

 

「さすがにこのまま見捨てるのはあれだな・・・・・・」

 

 部屋に戻ると龍兵衛は持っている手拭いを一枚。それともう一枚、必要な紙を取り出した。

 

「(何故だか、心がますます軽くなった気がする)」

 

 代わりに心臓の音が激しく鼓動するようになっていた。

 

 

 景勝は止めなく流れる涙によって霞んだ目の中では彼が与えてくれた幸せが見えていた。

 確かに彼は脆く感じる時もあった。それでも強くあろうと自分を追い込んでいた。

 それは景勝が一番よく分かっていた。自負があった。だが、実際には龍兵衛は『己』を知らない為に苦悩していたのだ。

 分からないから必死に逃げる為に自分を追い込んでいくしか選択肢がなかった。

 気付いた。だからこそ景勝は彼を助けたい。しかし、龍兵衛は良しとしないと目で景勝を否定した。

 身を貫かれた思いでうなだれる。

 かつて龍兵衛が部屋の隅でぐったりともたれていた時も同じだったのかもしれない。

 なるほど、確かに一人になるというのは辛い。疲れたというよりはやる気が無くなるような感じである。

 気付かされたのは彼女自身も同じだった。

 

「・・・・・・!」

 

 ふと景勝の目の前に手拭いがぱさりと落ちてきた。

 新品同様、丁寧に畳まれたままで、それに続いて猿が戻ってきた。

 持っていた真新しい紙片を恭しく差し出すと猿も中身を見ようと景勝の肩に乗る。

 

『己を知らなかった自分を恨んで下さい。龍兵衛』

「うー・・・・・・」

 

 つくづく馬鹿だと景勝は龍兵衛に対して怒りを、自身には不甲斐なさを感じた。恨んでいるのは気付かなかった自分自身。彼を恨む気などさらさら無い。

 だというのに龍兵衛は手紙を使ってさらなる孤独感を持たせようとしている。

 この手紙がしばらくの近くて遠い別れを伝えていることを誰もが分かる内容を律儀にも龍兵衛は景勝に送った。

 賢い景勝はその返答をするのが良いと考え、思考を巡らせる。

 収まりかかっていた涙がまたぽろぽろと床に涙のしみを作った。

 

「(すごく重い・・・・・・)」

 

 胸を掴むと音は微かにしか聞こえて来なかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十話改 愛と悲しみの春日山

再投稿します。
何か変なあったら言って下さい


 夏が近付き徐々に暑くなっている中で城下町では相変わらずの賑わいを見せていた。

 子供達も暑さなどそれがどうしたと言わんばかりに、駆け回って大人達を呆れさせては、それでも足りないとさらに駆け回る。

 そして、先程までその中心にいた人物は今小休止ということで茶屋で一息付いていた。

 

「やはり城下で子供達と遊ぶのは楽しいものだな」

「謙信様、これは見回りであることを忘れてはいけませんよ」

 

 颯馬が苦言を呈するが、謙信の表情は楽しさに満ち溢れて全く気にしない。

 上洛に次ぐ外征でなかなか国内に集中出来ずにいたのと諸大名の間者の動きも各国から入ってきている為に見回りを強化している訳であるのだが、謙信は城下の子供達と遊ぶことに興味が移っているようにしか見えない。

 おかげで巻き込まれた颯馬は子供達に追い掛け回されて肩で息をしていて茶屋で喉を潤して、やっと口が聞けるようになったところである。ただでさえ暑くなっているのにこれでは身体がもたない。

 

「兼続に来てもらえば良かった・・・・・・」

 

 心の嘆息が口に出てしまう。

 以前兼続は城下で子供と遊んで帰ってきて不満を口にしながらも嬉しそうにしていた。それをからかった弥太郎が理不尽にも兼続に説教されたのは別の話である。

 何はともあれ案外子供好きであるのでこういったことには彼女の方が適任であると颯馬は本気で思っていた。

 

「ほう、颯馬は私と共にいるのが嫌だと」

 

 寂しげな顔を作って拗ねる謙信。わざとだと分かっていても今の颯馬は謙信に頭が上がらない。

 

「いえ、そんなことはありません。某は謙信様の家臣に御座います」

「ふふっ、冗談だ。分かっているから私に付き合ってくれているのだからな」

「お人が悪いですよ」

「お前に言われたくないな」

「うぐっ・・・・・・」

 

 語弊があるが、そう言われると言い返す言葉が見つからないのは颯馬の方である。

 

「人が悪いのではなく、質が悪いんです」

 

 兼続か龍兵衛がいればそのような突っ込みが入ったところだろう。

 本気で凹んでしまったのを見ると謙信もさすがに手を挙げて「もういいのだよ」と颯馬を宥め、仕事の顔になった。

 

「実際、昼ということもあって草も動き始めてはいない。夜になれば分かることだ」

「気付いておられたのですか?」

「なんだ。私はただ遊んでいた訳ではないぞ。それから颯馬、龍兵衛と共に夜の警備を強化して、もし何かあれば逐一報告してくれ」

「承知しました」

 

 てっきり遊ぶことに頭が行っていたとばかり思っていた颯馬にとって謙信の発言は驚きを隠して聞くことが精一杯であった。そんな颯馬を見て謙信は悪戯が成功したように手元に手を当てて笑っている。

 

「驚いているのはばればれだぞ。心にそう書いてある」

「隠せませんか?」

「無理だな」

 

 参りましたと頭を下げるのを見て、ますます面白そうに笑いながら謙信はぬるくなった茶を口に含んだ。

 夏の風だというのに涼しく感じるのは汗をかいているからだろう。隣でまだ完全に呼吸が整っていない颯馬程ではないが少し自分も疲れた。

 しかし、これは嬉しい疲れとでも言おうか。戦とは違って子供と遊ぶのは変に気を使わずに楽しむことが出来る。その為に謀や血にまみれていない純粋な自分のままでいることが出来るのだ。

 外に出て戦になると純粋さはしまわなければならないが、帰ってきた時に楽しみがあると早く乱世を終わらせようと頑張れる気がする。

 

「随分と嬉しそうですね」

 

 いきなり耳に入ってきた颯馬の言葉が謙信の思考を遮らせた。

 

「そんなに出ていたか?」

「俺だから分かったんです」

「まったく、口の減らない奴だ」

 

 にやりと笑う颯馬に口でそうは言っても謙信の心は嬉しさで踊っていた。

 まだ子供達は駆け回っている。その様子を楽しそうに眺め、汗が軽く流れる謙信の横顔に颯馬は見とれていた。

 

 

 

 あちこちで兵や民達の木材を運ぶ声が聞こえる。

 その中心でかれらに声を掛けながら現場を見回っている二人の師弟軍師。

 端から見れば逆に見えそうなものだが、実際は予想と逆である。気付いた人々が目を点にして驚く声も忘れる。

 そんなことは気にせずに二人は当然だという顔で堂々としている。

 それは約一ヶ月半前のこと。

 颯馬が留守を預かっている間に城壁に空洞が出来ていることが判明。これを良いきっかけに改めて春日山城を普請してはどうかという声が上がったのだ。

 謙信は普請によってかかる資金を民の為に使うべきではないかと考えたが、颯馬や龍兵衛の上杉という家名の建前としても民を安心させる為にも必要だという主張に弥太郎や親憲といった者達が賛成した為、これを認めた。

 龍兵衛の後押しで普請奉行となった官兵衛の下で春日山城の大規模な改築が行われることになり、今に到る。

 汗ばむ陽気となってきている為に働いている者も当然ながら現場を歩い続けている二人の着物にもじとっと汗が付いている。

 

「とは言っても、あんたも随分首を突っ込んできてるよね」

「自分がやっているのは助言ですよ、助言」

 

 汗ばかりではなく目もじとっとしたもので見る官兵衛を気にせずに自分の言い分はしっかりと用意しておいた龍兵衛。

 官兵衛の目には弟子に「やれ」と強引に背中を押された恨みもあるのだが、もちろん恨みだけではない。弟子に褒められて満更な気持ちでもないのも事実だったりする。

  

「ま、理に適っているからこっちは感謝してるんだけどね」

「そりゃどうも」

 

 素っ気ない返事をしているが、師匠に褒められて満更な気持ちでもない龍兵衛は内心嬉しかったりする。

 築城の名手として名を馳せている官兵衛はこの世界でもそれは同じことであって、彼女がいる以上はあまり口出しする所はない。

 だが、どうしても彼が理想として考えていたことだけはやりたいのだ。

 北条・武田・富樫の間者がどこにいるのか分からない現状では侵入を避ける為には城下町の警備以外にも城の中の通路を変える必要がある。

 他にも万が一敵が来た時に備えてを必要だと考え折り曲げた通路を広く取り、弓矢で敵を射やすくするという加藤清正が名護屋城や熊本城で用いたような設計法を取り入れたいと龍兵衛は官兵衛に相談し、予算の工面を謙信に頼み、どちらからも是の言葉をもらい、官兵衛と相談した上で普請案を完成させた。

 

「実際、自分は通路の作りに口出ししただけです。それ以外は全て孝さんが考えた設計法でしょう?」

「まぁ、そうなんだけどね。あたしはやりやすくて結構なことだけど」

 

 謙信は官兵衛に龍兵衛を補助につけ普請の一切を一任させ、自身は城下町の警備体制の見直しに力を入れている。

 民のことを第一に考える謙信が最も自らが先頭に立ってやりたいと思っていることだけにそのことに反論する者は一人もいなかった。

 段蔵によれば今のところはどこの間者も活発には動いていないようで越後が狙われる危機はまだ来ないと見て良い。

 きな臭い北条も織田に対する警戒を強めているという噂もある。完全に信用していないのか、はたまた策略かは分からない。

 だが、言えることはただ一つ。

 

「結局はどこも信用出来ないのがこの戦乱の世の中ということですか・・・・・・」

「どした? 藪から棒に」

「別に何でも」

 

 口に出ていたかと龍兵衛は手で口を軽く覆うと首を振って否定し、官兵衛は訝しげに見ながらもよくあることだとあまり気にせず、二人は見回りを再開した。

 

「そういえば、ここのところ畑に出てないよね?」

「ええ、なんか行く気にならなくて・・・・・・それがなにか?」

「なーんか最近のあんた、元気がないよ。何かあった?」

「いや、別に・・・・・・」

 

 適わない。師匠は鋭い。とはいえ彼も軍師である以上は誤魔化すこともする。

 だが、官兵衛も長く見てきた弟子の仕草をよく知っている。故に龍兵衛が何かを隠しているのは手に取るように分かっていた。

 そして官兵衛はもう一つ知っていた。弟子はあまり人に自分のことを相談したりするのは嫌いであると。よほどのことではない限り、相談することを龍兵衛はしないことを彼女は一番よく知っていた。

 故に、おどけてみせる龍兵衛を見て官兵衛はさらに突っ込む必要はないと思い、そのまま普請の様子を二人で無言のまま見回っていた。

 官兵衛とは別れて龍兵衛は今度は景綱や弥太郎と歩いている。

 景綱は仕事終わりに合流して、弥太郎は遊んで猫に手を出そうとして逃げられたのを二人で慰めたのを理由にしてである。そのまま城内を歩いているとふいに弥太郎が声する部屋を覗くと驚いて二人にも声を掛けた。

 

「おい見ろ、兼続が景勝様に説教をしているぞ」

 

 二人も部屋を覗いてみる。中では兼続が腕を組んで正座している景勝を見下ろすようにして言葉を繋げている。

 さらに景勝の頭には猿が乗っていて景勝同様に頷きながら神妙にして話を聞いている。

 

「すごいな、いくら何でも次期当主である景勝様に説教はちょっと自分もしようとは思いません」

 

 龍兵衛の感心するところが少しおかしい気もするが、兼続はあの性格で、誰でも説教をするのは知っているので弥太郎も景綱も気にせず、むしろ同調して二人に声を掛け、兼続に事情を聞く。

 

「前田殿は厨から持ち出したものを景勝様と食べていたのです」

 

 原因は慶次が厨から持ち出した菓子類を景勝とつまみ食いをしていたという苦情を兼続が聞いて、問い質そうとしたところ、奇跡的に慶次だけが逃げ切って景勝だけが説教をくらう羽目になったそうだ。

 

「直江殿、それは前田殿が主犯で、景勝様は関係ないのでは?」

 

 景綱はもっともな意見を言うが兼続は全く動じず、むしろそれが彼女の意見を強調する機会だと言わんばかりに言い返す。

 

「いいえ、景勝様は前田殿が厨からこっそり持ち出したのを知っていたにもかかわらずそれを食していたのですよ。そこはきちんと止めてしかるべきではありませんか?」

 

 まったくの正論で言い返す言葉がない。結局、それ以上誰も何も言わずに景綱は兼続に「大変そうだな」と同情の視線を向け、龍兵衛と弥太郎は「やっぱりか」と巻き込まれないように肩をすくめて立ち去ろうとする。しかし、猿が呼び止めた。

 

「ウキッ、キッキキ? キッキ」

「鉄砲の製造? ええ、順調に進んでますよ。今のところは特に変わったところはありません」

 

 さらに猿が何か言うと龍兵衛が平然と答えた。

 城の普請や街道の整備と民の為の政策を行っているとはいえ、戦の為の準備も怠ってはならない。

 堺で橘屋又三郎から貰った鉄砲製造書を信頼出来る鍛冶師の下に送り、鉄砲製造に力を入れさせている。

 万が一上杉以外に売り込まないように大量の前渡し金を渡しておいた上である。

 大丈夫であると答えた龍兵衛に猿が続けて「ウキッ、キッキ!」と鳴くと「任せて下さい」と龍兵衛は頭を下げた。

 

「・・・・・・え?」

 

 しかし、景綱はそのやり取りにたいそう驚いて目を見開いている。対してその景綱に兼続と弥太郎は驚いている。

 

「どうかしました?」

「いや、河田殿は、猿の言うことが分かるのか?」

「え、逆に分からないのですか?」

 

 ぴたりと時間が止まってしまった。

 沈黙を破り、兼続が恐る恐る聞いてみる。

 

「・・・・・・片倉殿は分からなかったのですか?」

「直江殿、上杉家の直家臣ではない私にそれは無理です」

「たしかに・・・・・・」

「(しょぼーん)」

 

 龍兵衛が腕を組んで嘆息し、景勝は猿を知らない人がいると改めて知らされて気を落としてしまった。

 しかし、喋るのが苦手な景勝に代わって能弁な猿が話すことはいつものことである。そろそろ他家の面々にも分かってもらわなければ国が大きくなって景勝が指揮を執ることも増えるだろうからいいかげん慣れてほしいと願っておかなればならない。

 

「だが、景勝様はあまり言葉を発さないが心では様々なことを思っているのだろう? そうでなければあそこまで猿が懐く筈がない」

 

 それには全員が頷く。景綱は長く囚われの身だった。とはいえ自由に監視付きながらも城内は動けただけに上杉家の公の生真面目な雰囲気から一変として逆に生真面目な者が振り回されるような私としての表情を一番よく知っている。

 景綱自身も最初は面を喰らったが、段々慣れて、同じような性格で気苦労の多い兼続とは同僚の愚痴を言い合う仲になって、不満が解消されているのは余談である。

  

「ウッキ! キキッ!」

「片倉殿も猿のことを知るようにと猿が言っています」

「・・・・・・分かった。努力しよう」

 

 兼続の通訳でどうにか会話が出来たが、今後に不安が残り、はたして話せる時が来るのだろうかと不安に思いながら景綱は本当に頑張ろうと思った。

 景勝への説教に巻き込まれるのを嫌った三人はそそくさと撤退して再び廊下を歩き始めた。

 

「はぁ~」

 

 出た部屋が見えなくなった所で弥太郎の溜め息が突然入ってきた。

 

「急にどうしたのです? 弥太郎殿」

 

 景勝、兼続と別れた三人はそこから景綱がいなくなって龍兵衛は二人で雑談をしながら歩いていた。そして、ねたが切れてきたという時に弥太郎が盛大な溜め息を吐いたのだ。

 

「いや、最近の景勝様のことだが・・・・・・」

 

 また動物のことかなと龍兵衛が思いながらも聞いてみるとかなり真剣な話題であったのでかなり驚いた。

 

「どうも口数が減って猿に会話を頼っている。元々あまり話さないが、最近は異常になっている気がするんだ」

「そうでしょうか?」

 

 龍兵衛自身もなんとなく感じてはいたが、弥太郎に言われるまで確信がなかった。

 

「ふさぎ込んでいるというか・・・・・・落ち込んでいる時がある。何か知らないか?」

「さぁ、自分に言われても・・・・・・」

 

 あっさりと言い切れた自分がすごいと思ってしまう。原因の大半は自分のせいだと言うのに何故いとも簡単に知らないと言い切れるのか、自分でも全く分からなかった。

 

「そうか、何か分かったら教えてくれ。力になろう」

「ありがとうございます。弥太郎殿も何か分かったら教えて下さい」

 

 共に頷き合うと弥太郎と別れ、彼女の姿が見えなくなった途端に龍兵衛は近くにあった柱に八つ当たりの蹴りをいれた。

 罪悪感が無い訳がない。だが、こうしている今の方が楽なのだ。原因が分かっていても言えないもどかしさはあるが、あまり言えるものではない。

 困ったことがあれば一番頼りになるのは弥太郎だが、こういったことを相談すると真摯に聞いてくれる定満と違って広めて面白がる弥太郎の姿しか思い浮かばないのだ。

 

「(止めよう。自分の惨めさが浮き彫りになるだけだ)」

 

 景勝がどのように思っているのか以前の手拭いと先程の、他の三人は気付いていなかったが、龍兵衛には分かっていた。

 景勝が、彼が部屋を辞する際に浮かべていた悲しそうな表情で分かっている。

 だが、今考えるべきは鉄砲製造と春日山城の普請に、城下に潜んでいる間者の動きを把握すること。そして、畿内と京の動きもだ。

 やることは多いが、いつもと変わることはない。師匠ほど器用でない彼は一つ一つ目の前のことをこなしていくしかない。

 

「まだ分からないか・・・・・・いつ分かるか分からないけど信じて待つしかないよな・・・・・・」

 

 その意味深な言葉を解する人物はこの場では今のところ彼だけである。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間 祭り

季節の変わり目に風邪をひいた自分は布団の中でこれを投稿します。
前々からあっためておいたやつです。そろそろ新宿で行われる歌舞伎町祭り、楽しみです。


 春日山の普請が佳境を向かえた頃、一度に冬の寒さと一向一揆という二つの地獄と田植え後に強行した南東北征伐の後に上杉家に待っていたのは涼しい快適な夏。

 

「の、筈なんだけど・・・・・・」

 

 毎年恒例となり始めている上杉・伊達の人々の夏バテに龍兵衛は半ば呆れている。仕事を終えた夕方の軍師の部屋にはぐでーっとした面々が約数名。言うまでもなく龍兵衛以外の面々である。

 

「皆さんもう少し気張って下さいよ」

「お前が元気すぎるんだよ!」

 

 机に突っ伏したままで颯馬が牙をむく。他の面々も彼を睨むが、龍兵衛は気にしないで肩をすくめる。他に言っても変わらないと思った龍兵衛は官兵衛に目を向ける。

 

「孝さんは畿内の夏を経験しているんですからもっとしゃんと・・・・・・」

「変わんないよ!!」

「・・・・・・してくださいとは言えないけど、もういいや」

 

 日本海側が環境的に夏の暑さは結構な暑さになるとは知っていたが、照りつける太陽の下で白球を追い掛けていた龍兵衛にとっては普通よりも涼しいのだ。

 半分以上呆れながらも龍兵衛は一番軽い官兵衛の首根っこをひっつかんで持ち上げる。

 しかし、官兵衛は抗う力無く手足はだらんと垂れ下がっている。

 それを見た龍兵衛はつまらなそうにポンと捨てた。すると官兵衛は「ぐえ!?」と良い反応をしてくれる。ここからを龍兵衛は期待したが、すぐに床に伸びるように倒れてしまったままで後が続かない。

 それを見て兼続が「仮にも師匠である人に何やっているんだ!?」と生き返ったが、別段それ以上詰め寄ることはしない。元からこの師弟関係はこうだと知っているからだ。

 官兵衛で遊んでもつまらないと察した龍兵衛は一人、部屋にある水壺から水を柄杓で取り出して飲む。

 

「さて、今日はもう終いにして・・・・・・あとはよろしくお願いしますね」

「待て、少し聞きたいことがある。ちょっと歩きながらで良いから構わないか?」

 

 立ち上がって出て行こうとする龍兵衛を颯馬は呼び止める。颯馬の表情に何かを感じ取った龍兵衛は頷くと共に廊下に出た。そして、辺りを気にしながら龍兵衛が颯馬に耳打ちを始めた。

 

「弥太郎殿から報告があった。どうやら間者の拠点はバラバラで、それぞれが何らかの仕事に付いているようだ」

「間者としてはありきたりのやり方か。まさか鍛冶屋に入っていないだろうな?」

 

 鉄砲製造の情報は他国に流さすことは絶対にならない機密情報である。知っているのは謙信以下、限られた重臣のみだ。

 

「あそこは段蔵達が昼夜問わず見張っている。兵達も選ばれた者ばかりだ。問題ないだろう」

「おい、報告ってそれだけか?」

 

「まさか」と龍兵衛はニヤリと策士らしく笑い、颯馬を手招きして弥太郎の部屋に共に向かった。

 事前に来ると連絡していたので弥太郎は部屋にいた。どうやら鍛練を終えたばかりらしく汗がまだ完全にひいていない。

 

「間者達の集合場所が把握出来た。城下の一つの貸家のようだ」

「なるほど、たしかにそれなら怪しまれないですね」

 

 治安の向上によって夜の城下もかなりの賑わいを見せている。逆に言えば人は人を見つけにくい状況が出来上がっているというわけだ。

 

「私が精鋭を選んでおいた。兼続と長重にも声を掛けてある。今夜早速といきたいのだが、どうだ?」

 

『善は急げ』という。迷わず二人は頷き、策を練り合って、三人は謙信の下に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 夜が深く感じるのはこの日が新月だからだろう。普段は夜も盛況な筈の春日山の城下はこの月明かりが無いせいか、今日はまばらである。

 満月の夜と違って周りは暗く、不気味な静寂が広がる。夜襲に最も適すると言われているが、密談の時にもやはりそれは同じこと。

 目が慣れてきてようやく見えるという真っ暗闇の中を一人の人間がこそこそと周りを気にしつつとある家に入っていった。

 そして、そこから少しばかり離れた所で数人の人影がある。そこに一人の長身の女性が加わった。

 

「もうそろそろ時間だな」

 

 弥太郎が前もって草を放ち、いつ頃間者達が集まるのかは把握している。間者が集まるという小さな貸家の周辺には彼女が直々に選んだ兵達が控えている。

 ここにいるのは長重と龍兵衛・颯馬、さらに兼続といった面々である。先程、兼続は部屋に残るふりをして二人の会話を誰かが聞いていないか監視していた。

 

「集まると向こうに明かりがともる。それを合図にして私と長重が最初に入り、後からお前たちが続いてくれ」

 

 弥太郎が手早く指示を出すと無言で四人は頷き、じりじりと間者達に気付かれないように包囲を詰めていった。

 そして、さらに十分程度経った時、ぽっとほのかに新月の代わりのような小さな明かりが灯った。

 

「行くぞ」

「了解」

 

 弥太郎の合図で長重が扉をぶち破る。当然見張りもいたのだが、長重に続いて入ってきた弥太郎が即座に斬られた。

 

「颯馬はここで逃げる者を捕らえろ。兼続と龍兵衛は裏へ回れ」

「「「はっ!!」」」

 

 三人は軍師とは思えない素早い動きで指示された通りに動き出す。弥太郎と長重が家の入り込むと明かりの灯っていた場所に走り出す。先程扉を破った音が聞こえていたのか案の定部屋の前には数人の人間が刀を構えていた。

 みずぼらしい格好をした者、商家の人らしい格好をした者。様々な格好をしている者が集まっているのを見るとやはり怪しむなというのが無理というもの。

 

「貴様は、小島弥太郎!?」

「ほう、私の名を知るか。これはなかなかに収穫がありそうだな」

 

 自身が知る大物が突然現れて思わず口を滑らせた間者に視線を合わせ、弥太郎は迷わず斬り捨てれば長重も周りの圧倒していく。

 

「全員、殺していいのか?」

「構わない。この者達は小物。親玉は中にいる」

 

 長重は頷く代わりに部屋に押し入る。しかし、長重も半ば予想はしていた通りもぬけの殻であった。

 その後ろから弥太郎が残った者達を斬り終え、返り血を浴びた顔を隠さずに入ってきた。二人は頷き合うと長重は表に、弥太郎は裏へと向かった。

 結果的に中にいた三人が表で一人、裏で二人捕らえられた。

 兵達がその家の死体を処理し、血を洗い流して痕跡を無くしている間に颯馬と龍兵衛、兼続が三人をそれぞれで尋問していると兼続が調べていた間者が吐いた。

 

「雇われたのは本願寺、実際にはおそらく富樫でしょう」

 

 その後、龍兵衛が調べていた間者も自身が富樫に雇われたと白状した。

 

「大方予想通りだったな」

「と言いますと?」

 

 兼続の疑問に弥太郎は「あくまで推測だがな」と前置きを入れて、この騒動の最中で気になっていたことを語り出す。

 武田にしろ、北条にしろ素破は有能な者達ばかりである。相手は上杉の軒猿。情報戦であればかなりの精鋭を派遣する筈で、情報網が広いとはいえ弥太郎のところに引っ掛かるようなへまはまずしない。

 段蔵のところにも無論、情報は届いているだろうが、仮に手厳しい相手であれば蛇の道は蛇、こういったことは弥太郎達武将が出向かずに段蔵率いる軒猿が出向いた方が適任である。しかし、段蔵はこれよりも自分は越中の動向を調べるのが先であるとして弥太郎に頼んだ。

 とるに足らない相手と見ての判断だが、その予想は大当たりであった。有能な間者であればこんな早く口は割らない。さらに言えばこんなにあっさり捕まらない。

 龍兵衛と兼続にも先程の争いで思うところがあったのか二人で頷き合って納得した。

 最終的に、最後まで口を割らずに颯馬に何も言わなかった間者が一番上の人物であると判明したためにその間者を城に連れ帰って詳しく事情を聞くことにした。

 

「考えれば、たしかに手応えのある相手はいなかったな」

「ほう、軍師である颯馬がそう言うのか。よほど越中は人手が足りないと見える」

 

 越中の西を統治していた椎名康胤と、さらに行動を共にした寺島職定は死亡。職定の娘である盛徳と越中の東を治めていた神保長職は上杉に保護されている。

 東西の支配者とその有力家臣がいなければ次の越中の支配者を巡って対立や内乱が起こるのは必然だった。

 越中は土地が荒廃し、民達は一向宗に頼るか、越後上杉を頼って逃げるしかない。しかし、そうはならなかった。

 加賀の富樫晴貞が越中に侵攻し、領地としたのである。晴貞は畠山義慶に越中を与えて、その名代として能登は義慶の家臣、温井総宗が取り仕切っているらしい。仮に情報が確かなら義慶は明らかに晴貞に屈したということになる。

 傀儡とはいえ能登の大名たる義慶を勝手に晴貞が扱って彼を傀儡にしていた張本人で、晴貞と懇意にしている総宗を能登に置いたということは退路を絶って彼を防波堤としているというのは簡単に分かる話だ。

 五人の頭では同じ思考が回っていたのか溜め息が五重奏になって出てきた。

 

 

 

 終わってみれば尋問と貸家の整理に時間が掛かってしまい春日山に戻ってきたのは早朝になってしまった。 

 ほぼ徹夜であったにもかかわらず、五人と配下の兵達は疲れを見せず、領民達を心配させないように別々に帰還した。

 

「今日も暑いな」

 

 弥太郎が手でパタパタと扇ぐような仕草を見せる。

 

「そうですか?」

「お前はもういい。そろそろ夏至ですからね」

 

 ばっさり斬り捨てられた龍兵衛は放っておく。颯馬の言う通り夏至の日が近付いている。それに合わせたかのように城下ではあちこちで蝉の鳴く声が聞こえ始めていた。

 だが、龍兵衛にはそれが不審な点に思えた。

 

「それにしても今年は蝉が多いですね。城だとあまり、というかさっぱりですから」

「そういえば、聞かないな」

 

 弥太郎も同調する。たしかに春日山城内では全く声が聞こえない。疑問に思いながら兼続が何か思い付いたように悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 

「小島殿はとうとう蝉にも嫌われるようになりましたか」 

「なっ、ま、まさか、それはない。ないはず・・・・・・」

 

 普段世話を焼いている仕返しとだと言わんばかりに珍しく兼続から痛いところを突かれ、弥太郎は動揺してしまう。それが引き金となって四人からしばらく散々にからかわれた。

 弥太郎が凹みながらも謙信への報告を終えて五人は城の中を歩いていくと蝉の鳴き声が聞こえてきた。

 

「弥太郎殿は行かない方が良いだろ」

 

 長重がその方向に行こうとする弥太郎をからかうように諫めるが、弥太郎が聞く耳を持つ筈がなく、ずんずんと進んで行ってしまう。

 動物のことになると冗談を真に受けるものだから弥太郎も面白いところがある。四人はそう思いながら後に付いて行くと蝉が朝を告げる鶏のように鳴いていた。

 夏の風物詩の一つでもある蝉が鳴いているのを見ると夏至が近くなっているのを感じる。

 五人はしばらく蝉を眺めていたが、その時は突然やってきた。

 物凄い速さで何かが蝉を捕まえたと思うとその場でしゃくしゃくと蝉を食べてしまったのだ。

 しかし、龍兵衛以外の四人はその光景に目を向けずに龍兵衛に目を向ける。

 

「龍兵衛、原因はあれだぞ」

「いや、弥太郎殿、そう自分を睨まれても・・・・・・」

 

 見れば、誰もが知っている龍兵衛の三毛猫が蝉を食べている。

 弥太郎が鋭く睨んでくるのを誤魔化すように明後日の方向を向いて頭をかくしかない。

 

「餌はちゃんとやっているんですけどね」

「あれは狩りとでも言うのか?」

「たまに鼠を自分の所に持ってきますし」

 

 猫が蝉を淘汰しているのは分かったが、これは理不尽である。ペットの失態は飼い主の責任であるが、甲斐性まで直せというのは無理がある。

 

「失礼、逃げます!」

「待て!! 逃げるな!!」

「「朝から騒がしい!!」」

「お前らもな」

 

 何はともあれ内憂の一つは無くなったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 実際に夏至の日が暑いとは限らない。そもそも夏至とは一年の間で最も日の出ている時間帯が長いことをいうのだからそれが最も暑くなるとは直接結び付くものではないのだ。

 だが、今年は例外で例年よりも暑さの到来が早くなっている。

 

「(収穫の時期が早まるかもしれないな。下手をすれば冷害が起きる。いざという時の為に準備しておかないと)」

 

 間者を捕らえた翌朝、久々に農家の様子を見ている龍兵衛だが、そこに加わるのではなく、ただ腕を組んで眺めているだけで手伝おうとはしない。

 明確な目的もなくやってきているだけで元々手伝おうとしていた訳ではない。

 だが、どうでもいいと思っていたところに思いがけない収穫を得たのも事実で、今年の農政への対策を考えながら龍兵衛は本来の目的を果たすべく別の方向に戻って行った。

 龍兵衛が目的のことを終えて帰ってくるとそれを見計らったように外から声が聞こえてきた。

 

「おーい、龍兵衛」

「颯馬か? 入っていいぞ」

 

 入ってきた颯馬は安心したように息を吐くと先程からずっと探していたと伝えてきた。

 自分は外に用事があってどうしても席を外さないといけなかったと言うと詫びを入れながら颯馬は龍兵衛が勧めるままに座る。

 

「で、用事っていうのは?」

「ああ、その・・・・・・」

「今夜の祭り」

「分かっているんなら言わせるなよ」

「顔が少し赤いから面白くて」

 

 慌ててぺたぺたと頬を叩く颯馬もまた悪戯心をくすぐっていく。笑いながら口を手で抑えているとその分颯馬が慌ててくれるのだ。

 

「まぁ、これぐらいにしておいて、ほどほどにしないと周りにバレるぞ(もう遅いけど)」

「あ、ああ、分かっている。それで、祭りに謙信様が行くらしくてな」

「? ・・・・・・ああ、なるほどな」

 

 一瞬疑問符が頭に浮かんだが、納得した。

 夏至に合わせて祭りを行うのは欧米のとある国であろうと日ノ本であろうと変わらないものである。

 不穏分子の一部が取り払われたことで未だ完全に安心できる状態ではないが、それくらい足を延ばすのは良いだろう。

 仕方ないなと肩をすくめると颯馬はありがたいと口に出さなかったが、一緒に来てくれるようにと立ち上がった。

 

「(本当に隠しているつもりなのか?)」

 

 先程、注意したのに行動がこれでは駄目というしかない。頭を抱えたくなる気持ちを抑えて龍兵衛は颯馬の後ろに付いて行った。

 その後、龍兵衛は謙信にどういうような化粧をすればいいのか教え終わるとそそくさと出て行ってしまった。

 何故なら二人が出すラブラブの雰囲気に耐えきれなくなったのである。

 

「さ、謙信様と颯馬が今どんな雰囲気になっているのか聞こうか?」

「なに付いて来てるんですか?」

 

 部屋を出た瞬間に弥太郎が背後に忍び寄ってきた。こうなると驚くというよりも呆れる。

 

「興味とはいくつになっても尽きないものでな」

「それはもっと年を取ってから言う台詞です」

「嬉しいな、私はまだまだ若く見えるのか」

「遊んでますね・・・・・・はぁ、取り敢えず質問の答えは見ていられない程のいちゃつきっぷりでした」

 

 投げやりに言い放つ龍兵衛は心底嫌そうな表情が浮かべた。

 

『変装しても謙信様はお綺麗です』

『ははは、世辞はよせ、おかしくないか気になっているのだ』

『そんなことはありませんよ・・・・・・』

 

 落語の要領で喜怒哀楽たっぷりに表現している龍兵衛だが、そこから先に入ろうとした途端に弥太郎は手で制した。

 

「あーもういい。要は蚊帳の外だったのだな?」

「ええ、もーそれは呆れる程に」

 

 兼続などは二度とあんなことに巻き込まれたくないという叫びが口から出てくるかもしれない。

 

「まぁ、私も準備していたが、仕方ない。今回は留守番だな」

「行く気だったんですか?」

「もちろん。兼続には内緒だぞ」

 

 子供のように口元に人差し指を立てる弥太郎は少し冗談めいているようにも見える。しかし、派手好きな一面もある弥太郎にとっては本当にがっかりしているのだろう。

 案の定、からかうような雰囲気を解くと本当に残念そうな表情に変わった。

 

「景勝様は大丈夫ですよね?」

 

 さすがに謙信・景勝、二人揃っていませんは問題である。弥太郎も分からないが、おそらく行かないだろうと考えていた。

 

「普通は親が子に譲るものだがな」

「愛という欲望のままに謙信様が動く以外の想像が出来ません」

「同感だ」

 

 

 

 

 

 

 夏の暑さがある中でも老若男女問わず祭りは盛り上がってなんぼである。

 

「見るからに凄いな」

「ああ、それほど城下が平穏無事である証拠だな」

「はぁ、颯馬はここでも軍師としての目を向けているのか」

 

 息抜きは必要であるが、ほどほどにしなければ足元を掬われる。どうしても颯馬は謙信の代わりに気を張ってしまうのだ。

 やれやれと思いながらも謙信は颯馬とさらに進んでいくと突然背後に殺気を感じた。

 

「上杉謙信、天城颯馬、何故にかような場所に?」

 

 二人は驚いた。バレないと自信ありげに言っていた龍兵衛が変装をさせているのにすぐにバレてしまった。

 まさか、間者の残党か。そう思いながら二人が警戒しながら振り返ると見慣れた人物が二人。

 

「びっくりした?」

「お前かよ!」

 

 慶次だった。その隣には景勝がいる。クスクスと笑って悪戯の成功を喜び合う二人に対して、謙信と颯馬は背筋の凍るような思いをした為にじとっとした目で二人を見ている。

 慶次がまあまあと宥め、四人はそのまま一緒に歩いて櫓の見えるところに向かった。

 時間が掛かってしまい、夜になってきているが、気にしない。今頃は兼続や景家が「謙信様と景勝様がいない!?」と言っている頃だろう。そして、それを弥太郎達が止めているだろう。最後は四人が纏めて兼続の説教を受けるだろう。

 展開が見えてしまって慶次は見えてしまってどうやって逃げようか思考をめぐらしていた。

 櫓近くに来ると、そこでは城下の力自慢が太鼓を叩いている。吹き出している汗を拭う間もないまま、続けていたが、突如として止めてしまった。

 どうしたのかと慶次が近くにいた人に訪ねるとこれから面白いことが始まるらしい。

 

「面白いことねぇ。水原さんでも出てくるのかしら?」

「それはないだろう。出掛ける時に水原さんを見たし」

 

 なにが出てくるのか確信もない想像を話していると周りから一斉に拍手が起きた。四人が驚いて櫓を見ると主催者らしき男性が上がり、これから祭りを盛り上げる余興を行うと言って降りてしまった。

 周りはそのまま拍手を続けていて、なにがなんだか分からないままの四人が逆に浮いているように見える。

 困惑している四人をよそに櫓に大柄な男性が上がってきた。それは四人をますます困惑させてしまった。

 

「龍兵衛?」

 

 景勝の呟きはかき消されたが、他の三人も同じようなことを思っている。

 あの黒や灰色を基調とした服を着る龍兵衛が白と青の服を身にまとっている。普段は大衆の前で声を出さない龍兵衛が堂々と櫓の上に立っている。

 

「はい、皆さん注目!!」

『そうだ!!』

 

 それはそのまま始まった。

 

「本日は夏至である!!」

『そうだ!!』

「今日こうして祭りが出来るのは、春日山城下町の皆さん! 皆さんのおかげでこうして皆さんが盛り上げてくれたからである!!」

『そうだ!!』

「それはそうと、自分はこの町にたいへん思い入れがある!!」

『そうだ!!』

「最初は町が大き過ぎて一刻ぐらい迷子になった!!」

『そうだ!!』

「しかし、町の美味しいお酒、美味しい料理、そして・・・・・・以下同文!!」

『そうだ!!』

 

 龍兵衛はちょっとウケたので嬉しそうな顔をしている。

 

「今日はその恩返しだ! 思いっきり盛り上がっていこう!!」

『そうだ!!』

「もっと盛り上がっていこうか!!」

『そうだ!!!!』

 

 一回一回に拳を挙げて答える一体感もさることながら、基本的に道からは外れない龍兵衛の崩壊ぶりに三人はポカーンとしている。

 唯一乗り遅れながらも乗っていた慶次は続けて両手で手拍子を指揮する龍兵衛に「傾いているわぁ」と目を輝かせている。

 我に返った三人は慶次も一緒に櫓から降りてきた龍兵衛を待ち構えるべく人混みをかき分けてずんずんと前に進んだ。

 四人が龍兵衛を見た時は既に着替えていていつもの龍兵衛に戻っていた。しかし、服装だけが元に戻っても先程の余韻が残っているのか顔は赤くなっている。

 

「ありがとうございました。河田様のおかげでかなり盛り上がっていますよ」

「いやいや、楽しかったので結構でした」

 

 笑顔で主催者に答えると龍兵衛は早く帰らないと謙信様達に怪しまれると笑っていたが、その近くに当人がいたのを見てしまい。

 すとんと表情が無表情になった。そこから身体をあちこちに動かして動揺を隠せない様子になると次は顔を恥ずかしさで赤くしている。

 

「何でいるんですか?」

「駄目か?」

「いえ、別に・・・・・・(夜遅いからもういないと思っていたんだけど)」

「なかなか、傾いていたわねぇ」

「やっぱり見ていたんですか?」

「(コクコク)」

「はっきり言ってお前らしくない」

「ガーン」

 

 無情な謙信の宣告にがっくりとしゃがみこんで「もう嫌だ・・・・・・」とぶつぶつと落ち込んでしまった。

 慶次が結構良かったわよと言わなかったらもうしばらくは凹んでいただろう。だが、慶次は龍兵衛のパフォーマンスで忘れていたことがあった。

 城に戻ると般若顔の閻魔が五人を見下ろすように待っていた。

 

「お帰りなさいませ、謙信様? 景勝様? そして、護衛の任ご苦労。では早速・・・・・・皆様、祭りは楽しめましたか?」

 

 帰った五人は仁王立ちで待っていた兼続に夜通しの説教を受けて翌日皆からからかわれるのは別の話である。

 

「先日の祭りで龍兵衛殿が傾いていたと前田殿が言っていたのですが、何があったのです?」

「水原さんの前でも言えないものは言えません・・・・・・」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十一話改 聖域なき嫉妬心と情報網

指摘されたところを修正しました。
かなりひどかったので再投稿します 


 上杉が連日の普請と城下の街道整備の監督、さらに法令の浸透を図っていた頃、織田信長は東の武田を諦め、後事を今川と徳川に任せて撤退した。

 しかし、これは上杉の見立て通り、北条と示し合わせたことで、もし上杉が弱体化した武田を叩こうとするのであれば北条が密かに結んでいる上杉との盟約を破棄して、新発田から越後を突き、東北の葛西・大崎に上杉の領地を攻め込んでもらうという策略も含んでいる。

 もちろん織田はその隙に本格的に武田に侵攻して、甲斐・信濃を取った後に戦っているであろう上杉・北条の横腹を突くという算段を立てている訳であるが。

 当分は東を諦めて西の不安要素である石山本願寺主導の一向一揆と浅井・朝倉連合、比叡山延暦寺を攻めることにした。

 そして、戦を勝利で終えたものの、信長は不機嫌を隠しきれない表情のまま馬を進めている。

 今回の姉川の戦いにて浅井・朝倉に勝利したものの、延暦寺の保護によって完全な勝利を得ることは出来なかったことが原因である。

 怒りが頂点に達しかけた信長はそのまま延暦寺を焼き討ちしてしまおうとも言ったが、これは事態を察した将軍足利義昭が明智光秀に両者の仲介役を命じてどうにか止めることに成功した。

 保守的な彼らが将軍家に靡いているのは当然である。

 だが、この将軍家のでしゃばった態度も信長の苛々を増長させた。いずれは自分が日ノ本の覇者にならんとしている信長にとって将軍家は倒すべき敵であって靡くものではない。

 彼女からすれば将軍家は旧の権力を持った新たな時代への障害のようなものである。 

 帰路に着いているとはいえ、信長は次の戦はどこを攻めるべきかという思考だけである。

 上杉・武田とは違い尾張・美濃・伊勢という豊かな土地を得ている織田は戦で消耗してもすぐに補充が出来るという利点がある。

 信長はその利点を大いに利用して戦を続け、敵が態勢を整えない内に叩く戦法と交易にて得た金子を困窮している有力者に与えて配下に組み込んできたおかげで圧倒的な速度で領地を拡大してきた。

 活発な性格の信長らしい動きが出来るのも彼女が生まれた場所が良かったということも言える。

 だが、それと同時に考え方が保守よりの勢力が多いのも畿内近くに生まれた信長への天が与えた試練とみても良いのかもしれない。

 だからこそ苛々がますます増長するのだ。腐敗の連鎖を絶つ為には一度どこかで壊さなければならない。そこに止まっていても結局元に戻ってそれで終わりなのだから。

 重臣達も重々その思いは分かっているつもりだが、如何せん信長の発する威圧感を破ろうとする者がいない。

 美濃攻略の戦功によって武将へ正式に仲間入りした秀吉も普段はどんどんと懐へ入っていく性格だが、筆頭格の柴田勝家や丹羽長秀までが遠ざけているのを見てさすがに入る気になれない。

 

「半兵衛ちゃん、どうにかならないの?」

 

 何とかしたいのだが、どうしようもないので隣にいて、今回は輿に乗っている半兵衛に泣きつく。

 

「無理ですよ~半兵衛さんは本当なら身体を休めておきたいのですが、こうも戦続きだと血を吐くのを我慢するので精一杯ですから」

 

 それは暗にしばらくは戦をせずに他の勢力の動きを見つつ、回復を図った方が良いと言っている。もちろん秀吉がそれを察せない筈がないのだが、それは半兵衛個人の意見であって信長がそれを呑むとは今の主君の姿を見ると秀吉は首を傾げてしまう。

 

「多分無理だと思うよ。でも、半兵衛ちゃんは次の戦に無理して出なくても大丈夫だから」

 

 ふわりと笑ってありがたそうに見つめる半兵衛を見ると秀吉の心には和みが生まれた。軍師とは思えない程に穏やかな性格である半兵衛を彼女は心底気に入っていた。

 半兵衛自身は切れる頭脳を持って軍師として活躍をし続け、しかも、それをひけらかさない謙虚さで今や織田の中でも日に日に発言力を大きくさせている。

 自分が登用して仕えている軍師の活躍に秀吉は鼻が高かった。しかし、それと同時に半兵衛に対する嫉妬心を生み出していることを彼女は知らない。

 秀吉と半兵衛と、二人分の間を空けて馬に揺られている女性。お淑やかに見えてその腹の中は漆で染められたような黒さを持っている斎藤家を影で操る闇。

 井上道勝は実に不機嫌だった。官兵衛は上杉の策略で持って行かれて、最近はその官兵衛が上杉で活躍しているのを聞いているとその友人である半兵衛も秀吉のお気に入りになってきている。

 かく言う道勝は官兵衛が織田に来ると言っておきながら結局駄目だったことでしばらく家中の笑い種になっていた。

 それは傲慢で強欲な道勝にとって屈辱的な日々であった。なんとしても官兵衛と龍兵衛の喉元に刀を突き刺してやらないと気が収まらない。

 道勝自身は東へ進み、すぐにでもそうしたい。だが、自分の出世の為に今はただひたすら耐えるしかないのだ。

 自分の為なら耐えることが出来るのは彼女が持っている唯一の良いところである。目の前で半兵衛が楽しそうに秀吉と話していることから目を逸らせばであるが。

 

「井上殿、如何されました? 険しい顔になっておりますが」

「いえ、何でもありません。少し考え事をしていたので」

 

 不意に後ろから長秀に声を掛けられたが、平然を装っておく。内心のいきなり声を掛けてくるなという心情を隠して。

 要件を聞くと長秀は秀吉に用があったのだが、道勝が眉間に皺を寄せているのを見て気になっただけであると言ってそのまま前に行ってしまった。

 

「秀吉、おおこれは半兵衛殿もご一緒でしたか、これは丁度良かった」

「どうしたの、長秀?」

 

 秀吉と長秀の間にはかなり上下関係があるが、お互いに親子のような絆で結ばれているために殆どの会話がため口である。

 聞けば長秀も半兵衛同様にしばらくは戦をせずにいた方が得策ではないかと思っていたそうだが、主君はおそらく攻め続けることを選択する。それならばどうすれば良いのかと頭を悩ませていたらしい。

 秀吉は半兵衛を見ると半兵衛はにっこり「大丈夫ですよ~」と笑っている。今は先程まで帰って身体を休めたいと言っていた人ではない。策士竹中半兵衛に変わっている。

 半兵衛は信長の妹の信行に頼んでどうにか信長の外に出ようとしている足を止めるように彼女から説得するようにすれば身内を大切にする信長のことなので耳を傾けてくれる筈だ。しかし、一つだけ問題がある。

 

「ねぇ、大丈夫なの? 信行様ってかなり信長様に似ているところがあるけど」

「大丈夫ですよ~多分」

 

 あの二人は性格がよく似ている。というよりも信行が信長を信頼しきっているところがある。半兵衛が多分を付けているということはかなり難しいと言っているようなものである。その会話を密かに聞いていた道勝はニヤニヤと笑うのを必死に隠していた。

 

「ですが、信長さんもちゃんと考えていますよ~半兵衛さん達が慌てる必要はないと思います」

 

 これには二人も頷かざるをえない。信長がただ苛ついているのではなく、にっちもさっちも行かないから苛ついているのは重々承知している。

 型にはまらない発想が信長の持ち味の一つである以上は必ずまた大胆な考えを持ってくるに違いない。

 

「まぁ、半兵衛さんは信長さんが戦をするというのなら軍師として策を考えますよ~」

「期待しているよ! 半兵衛ちゃん!」

 

「はい~」と頷く半兵衛に秀吉も長秀も悩みが解決したような楽な気持ちになり、自然と笑みがこぼれた。

 近くで道勝は人知れず舌打ちを繰り返した。 

 そして、信長は岐阜城に戻るなり半兵衛が思っていた通りのことを言い出した。彼女が分かっていながらも詳細を秀吉達に言わなかったのは背後に嫉妬に刈られた刀があったからである。

 

 

 

 

 

 

 

 将軍、足利義昭は姉川での浅井・朝倉連合の敗北を重く受け止め、信長に対して反抗する東の勢力へ書状を送り結び付きを深めようとしていた。

 義昭は次いで細川・三好と協力し合い畿内の安定化を図り、本願寺や延暦寺に供養金を送って繋がりを深め、繋がりの深い三好を通じて堺の会合衆に協力を仰いだ。さらに皇族の烏丸光広らが援助を引き受け、それによって牢人を多く召し抱え、自身の軍事力を大きくしている。

 だが、ここで一つの問題があるのを義昭は見逃していた。本願寺の主導する一向一揆勢は現在東の最大勢力である上杉と対立していることである。

 謙信の下には越中残党が多く保護されていて、加賀の冨樫晴貞は謙信を目の敵にしていた。

 上杉の中にも将軍家に協力することは構わないが、加賀と共闘することに反対する者は少なくない。 

 当然のことながら将軍家から信長討伐の密書が届いた時、反対意見が多く出た。

 謙信としてもあのような危ない人物と轡を並べる気はさらさらない。遠征続きの兵を出兵させて苦戦でもすれば武田や北条が越後を狙ってくる。しかし、相手が将軍家である以上は無碍に断ることは不可能なことでもある。

 そこで謙信は明智光秀と誼がある龍兵衛に彼女を通じて上杉が反信長に加わるが、今は兵の疲労が溜まっている為にしばらくは動けないという曖昧な返答をすることで一旦の妥協を図った。さらに冨樫晴貞の勝手な所業を弾劾し、本願寺に加賀一向一揆勢の破門とその討伐許可をニ年後に出して欲しいと願い出た。

 

「ここに書いてあることは真ですか?」

「龍兵衛殿は間違いないと言っております。義昭様も御存知でしょう? 先に上杉殿の軍勢が越中で襲撃にあったことを。その時、冨樫晴貞殿は直接ではありませんが実質的な指揮を執っていたとか」

 

 関東管領の軍勢が上洛の帰路で襲撃に遭ったのは将軍家でも問題となった。そして、この事件は将軍家の力を弱めようとする者の仕業だとして、越中の椎名康胤の行動に将軍家の目が集中したが、冨樫晴貞はあくまで自分は神保長職が一向一揆勢に弾圧を働いた為にその保護の為に出陣しただけだとしらばっくれた。

 本願寺からの謝罪もあった為にその時はお咎め無しで済んだが、上杉がこうもはっきりとした弾劾状を幕府に提出した為に見逃せる問題ではなくなった。

 

「もし仮にそれが事実の場合、冨樫晴貞を京に呼び出して仔細を聞かなければなりますまい」

 

 細川藤孝の険しい声が全体の雰囲気の重さをよく語っている。

 あの謙信がこれほど嫌がる相手なのだから余程悪い意味で人として成り立っているのだろう。

 今ここには次の戦に備えて本城にて準備をしている三好の面々を除いた将軍義昭と光秀、細川藤孝・忠興親子がいる。

 だが、行商人の噂では冨樫晴貞は加賀・越中をよく統治していると報告が届いている。そして、本願寺からは加賀の協力なくしては信長を討伐するのは不可能であると使者が来ている。

 義昭自身もここは迷いどころであった。本願寺と上杉、どちらの肩を持つべきか。どちらの力も必要である。しかし、今は上杉が兵を出せないと言っている以上はその力を頼りには出来ない。

 信長が撤退している今、必要なのは今動ける勢力である。相手が怪しい人物であろうと迷ってはいられない。

 

「光秀、三好に戦の準備を早めるように伝えて下さい。藤孝、上杉への返答はどう認めましょうか?」

「幸いにも上杉殿はすぐにではなく二年後としております。一応は認めておいて本願寺には後にこのことを知らせましょう」

「では、上杉からの件はしばらく保留とします。今は、本願寺と手を組み、こちらから織田を攻めます」

 

 家臣が尽力して得た周辺の平穏。無論、それから天下を平和にする。しかし、それは時代に止まることを良しとしない者達によって壊されている。その元凶たる人物が信長であるならば倒す為に戦を仕掛けるのに何を迷う必要がある。全ては幕府復興というここにいる皆が嘱望する夢を現にする為に打って出る。迷いはなかった。

 力の無い今の将軍家は他の勢力に頼るしかない現状は重く受け止めなければならない。

 せめて藤孝達に頼るばかりの現状から自分を脱したいと思うのは我が儘で愚かな行為であろうか。

 否、織田という強大な勢力は当主が絶対的な崇拝を受けている。上杉や他の勢力もだ。ならば自分も適わないかもしれないが、そうならなければならない。

 

『御意!』

 

 皆からその言葉を聞いた時、義昭自身の胸の内からすーっと重いものが消えていった。

 

 

 京で義昭が信長との対決姿勢を明確に宣言して二週間後、一通り普請事業に片が付いた春日山では龍兵衛と颯馬が将棋を指しながら入ってきた情報について話し合っていた。

 

「京の動きが大きくなっている。いよいよ将軍家が直々に出る時も近い」

 

 謙信に代わって京の間者を実質的に動かしている龍兵衛は眉間に皺が寄っている。

 

「そうなると景資殿に伝える必要があるな。まぁ、やばい状態にならないと動かないかもしれないけど。例の弾劾状のことについては?」

 

 一方の颯馬は楽しそうに軽く二、三頷いて龍兵衛が教えてくれる情報を頭で整理しつつ自分達がやるべきことともう一つ、龍兵衛が出すように謙信に打診した物について聞く。

 

「保留になったらしい。ま、今の織田を見るとすぐに動きたくなるのは当然だ」

「第一こちらはすぐに出兵出来る状態ではないからそれはそれで構わないさ。だが、そう簡単にあの織田信長が隙を見せるとは思えない」

「同感だ。おそらく次の一手がある筈だが、正直、皆目見当もつかない」

「そうなんだよなぁ、後で官兵衛や兼続にも聞いてみるか」

「いつから師匠を呼び捨てにするようになったのかという質問は言わないでおいて、謙信様にも言っておかないとな・・・・・・はい、やらかしたね・・・・・・これと、これで・・・・・・はい、王手」

「しまった・・・・・・」

 

 二人の表情が逆転した。参ったと手を挙げる颯馬をにやにや見つめながら龍兵衛は最後通告を突き付ける。

 

「じゃ、約束通り酒代一週間な」

 

 天を仰いで悔しがる颯馬も無理はない。龍兵衛も弥太郎に負けないぐらいになかなかの酒豪なのは上杉の皆が知るところ。

 ちなみに龍兵衛は宴以外では滅多に酒を飲まない。何故このような賭けをしたのかというと弥太郎と慶次に口止め料として持っていかれた金を少しでも工面しようという腹だ。もちろん悪いのは負けた颯馬である。

 だが、興のある仕草や表情もここで終わった。颯馬が怪しむように龍兵衛を見ながら口を開く。

 

「しかし、お前はどうしてこうも早くあの書状を将軍家に出そうとしたんだ? 確かにあれを見れば本願寺が動くかもしれないけどこちらの準備は万全ではない」

「お前も分かっているだろう? これで分かるかもしれないんだ。上杉に対して反抗する勢力を動かす何かをな」

 

 上洛からこの日まで謙信と軍師は仕事や戦の傍らでずっと先の戦について調べていた。そして、畿内の勢力が織田への敵対を明らかにした今、龍兵衛はこれを好機と捉えて弾劾状を認めるべきだと謙信に進言した。

 

「たしかに、織田が将軍家に劣勢の今だからこそ、外に目を向けていられる、か」

 

 颯馬も唸り「だろ?」と龍兵衛は真面目な表情を崩さずに頷く。仮に将軍家が劣勢になった場合、本願寺を頼らなくてはならない状況下になった時、加賀の実状を訴えたところで畿内だけでなく織田・徳川の領地である伊勢や三河にも影響力がある本願寺の力を嫌でも頼ることになる。

 それでも颯馬は懸念していることがある。この弾劾状が本願寺の耳に入れば当然加賀の富樫晴貞にも行くだろう。そうなれば、越中における上杉の防衛戦である魚津城を攻められるのは間違いない。

 畠山義慶が攻めてくれば、迎撃して追い返せばそれで済むが、晴貞が加賀・能登の軍勢を率い、大挙して攻めて来ると兵の質は一流だが、疲弊している上杉は分が悪い。

 最上も伊達も蘆名も先の戦で兵を出し、戸沢や安東は上杉に降伏して日が浅く、出羽に残る安東の残党への対処の為にすぐに国境を越えて援軍をという訳にはいかない。

 

「颯馬が言いたいことは分かっている。だけど、織田信長はそう易々と倒れないさ」

 

 確信のある物言いはかつて慶次程ではないが、隣国の敵対していた国として、信長のことを聞いていた彼が記憶の中で知っている情報を繋ぎ合わせて出来たものである。

 

「それに、弾劾状が議題に上がった時に三好や本願寺の関係者はいなかったらしいぞ」

「えっ!? お前、どうやってそれを知った?」

「上洛した時に知り合った京の商人がいてな。その方が細川殿と懇意にしているんだ。幕府復興の手伝いになるからと囁いたら協力してくれることになった」

「また随分な大物と親しくなったな」

 

 素直に颯馬は感心している。だが、龍兵衛は「ただの成り行きだ」と言って軽く笑うだけでそれ以上話題には出さない。

 実際、上杉は堺の大物商人の橘屋又三郎とも懇意にしているのだから京の商人と仲良くなっても不思議ではない。

 

「で、どうやってその方は分かったんだ?」

「茶の湯に心得があって細川藤孝殿と茶をした時にそれとなく聞いたそうだ」

 

 颯馬も藤孝とは会っていたが、老練で噂に違わない芯の通った人物である。その藤孝が認めた程の人物となるとますます驚いてしまう。藤孝の茶の湯に対する手並みはかなりのもので謙信がその手前に唸っていたのを颯馬は思い出した。

 感心し通しだが、颯馬も調べているものはきちんと調べている。今、彼は関東の状勢の把握しているのだが、そちらからは特に何もない。とはいえ何もないように見せ掛けるからこそ何かが起こるというのは十分に分かっている。

 関東に出入りしている行商人からは何も情報が得られない。間者も風魔の網に引っ掛からないように慎重になっている為にこれといった情報が入ってこないのだ。

 

「誰か俺も関東に伝手があればなぁ・・・・・・」

「だったら俺がその商人に聞いてみようか? もしかしたら一人や二人もいるだろうし」

「感謝するよ」

「じゃあ、酒代一ヶ月に・・・・・・」

「却下!」

 

 残念そうに肩を竦めながら龍兵衛はじとっとした目をしている颯馬と謙信や軍師に会う為に部屋を出た。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十二話 無い物ねだり

 八月にもなれば稲がすくすくと育ち、秋の収穫時期を徐々に迎える準備を始める。今年は幸いにも残暑も厳しくなく、ゆっくりと秋に向けて農家の人々は米を積める為の俵作りに励んでいる。

 明るい雰囲気が様々な場所で見られ、働く者達は目の前に越後から東北にかけて支配する上杉の軍師がいても恐れる様子はない。それはもちろんその軍師が人々に知られ親しまれているからである。

 彼自身も楽しそうに俵作りをしている。普段の何か企んでいる時から解放されて何も考えずにただ純粋に目の前の作業に励むことが出来る。

 

「やっぱり、農業は良いもんだ・・・・・・」

「ははは、河田様ともあろう御方が何を仰る。謙信様や河田様達のおかげで、儂ら農民は平穏無事に励んでいられるのですよ」

 

 独り言のつもりで呟いた筈が思ったよりも近くに老人がいたので驚いた。向こうも気配なくやって来た訳ではないので少し龍兵衛は気を抜きすぎていたと一人反省する。

 

「自分達は皆さんが気持ち良く作業が出来るように環境を整えているだけですよ。平穏無事にいられるのは畑を耕している皆さんのおかげです」

 

 それらをしっかりと心の中で抑えると表情で軽い笑いを作って誤魔化す。

 本当に越後の民は素晴らしい。謙信の影響を受けてか真面目で理不尽な迫害や差別をしたり、罪を犯した者の家族に村八分の制裁を行ったりしない。

 謙信の尽力もあるし、足繁く現場の状況を見ている上杉の家臣達がそういったことをさせないようにしてきた結果でもある。

 しかし、最終的には現場の人々がやってくれないと意味がない。越後の人々が真面目なおかげでこうした平穏無事な日々を送れることが出来ると龍兵衛はつくづく思っている。 

 楽しそうに笑いあって休憩している人々を見て羨ましいと龍兵衛が一人だけ孤立しているようにも感じてしまう程だ。

 以前なら皆と一緒にバカ騒ぎをしているだろうが、定かではない心が本当にそうして良いのかと問い掛けてくる。

 考えても考えても分からないのだからいっそ羽目を外してみるかと以前の祭りの行動でもある。

 その後に謙信や慶次からお前らしくないが、面白いから皆の前でやってという声もあったが、今はそれから逃走中の最中であることは割愛する。

 ただ彼は今はヒントが欲しいのだ。自分の本質が何であるのかということに対してのヒントを喉から手が出る程に欲している。

 だが、彼の自尊心が他人に助けを求めることへの拒否反応を与えている。自分勝手なことであると龍兵衛も笑ってしまいそうになるが、口がそのことを話すことを許さない。

 自覚を持っていながらに自分の行動が出来ないのだ。

 

「(馬鹿馬鹿しいにも程があるな・・・・・・)」

 

 自虐的に笑うのもありだが、周りに人がいる以上は何も出来ない。

 思考の海に浸かっていると先程の老人から声を掛けられると我に返って手伝いを再開した。

 

 

 

 夕暮れ時の春日山城は夕日という情景も加わって普請を完全に終えた為に以前よりも威容がある。

 春日山城下の民達は何も言わずにこの普請に快く力を貸してくれたおかげもあって予定よりも一ヶ月早く終わらせることが出来た。

 

「謙信様達には大きな恩を頂きました。今度は私達が返す番だと皆張り切っていたのですよ」

 

 謙信が自らその礼として住民達に謝礼金や食料を渡しに行くと代表者は半分を返して全員の総意であるとそう言った。

 

「あ・・・・・・」

「・・・・・・!」

 

 その情景を見ていた龍兵衛が視線を落とすと偶然にも景勝が近くにいてさらに目が合ってしまった。

 

「「・・・・・・」」

 

 気まずい沈黙が流れる。先の一件以降は公事の時以外ではお互いに会わないようにしていたが、こうして二人が何も無い時に会うのは久々のことである。

 

「・・・・・・どうも」

「・・・・・・うむ」

 

 悩み抜いた二人が出した結論は普通に挨拶をして通り過ぎるだけ。沈黙が長過ぎたが、幸いにも周りに人は誰もいなかった。

 

「(歪み、定まらない心、か・・・・・・)」

 

 

 

 

 

 城には今日は用がない為に屋敷に戻って部屋で身の整理をした後にごろごろしながら入ってきた情報の整理をしていると龍兵衛の下に謙信からすぐに城に来るようにと通達が来た。

 急報というのだから彼ものんびりすることなく素早く身を整えると城へ向かう。

 到着して謙信の部屋へと入ると既に颯馬と兼続、官兵衛が来ていた。

 全員が神妙な顔付きをしているのを見ると城にいて大まかなことは聞いているらしいことを確認しながら龍兵衛は促されるままに座ると謙信が口を開いた。

 

「織田が北条との同盟を結んでいることを公にした」

 

 軍師の四人はそのことに大きな反応は見せずに溜め息を吐いて上を向いたり、下を向いて顎に手を当てている。

 全員がこれはほんの始まりに過ぎないということは分かっている。そして、この先に何かが裏にあることに対して考えている。

 北条とは秘密裏に同盟を結んでいるが、正直いずれどちらかが破棄するのは分かっていた。だが、正式な同盟ではない以上、北条が表立って上杉に破棄を宣告することはない。

 しかし、秘密裏にならどうか。考えてみると織田が北条との同盟を公にしたのは突然であり、北条が知らなかったと仮定する。

 どこと同盟を組もうが北条の勝手ではあるが、織田と上杉は対立し合っている。そもそも武田と同盟を結んでいる北条が織田と同盟を結んでいたことがバレれば武田は弱体化した身を頼る場所が無くなる。

 要は武田を戦わずに負けさせるということだ。

 しかし、その裏があるということに軍師達は頭を悩ませている。

 信長も北条と上杉が潰し合っているのに対して今は背後が危うい時に簡単に背中を空けることは出来ない。

 

「そういうことか」

 

 分かれば簡単だと官兵衛が髪をがしがし掻いて説明し始める。

 

「今、私達が親交を深めているのは里見でさ、反織田信長の主力は朝倉じゃん」

 

 官兵衛の言葉で全員がああ、と頷く。

 北条の背後には里見・佐竹がいる。北条がそれをどれほど掴んでいるのかは知らないが、察することは織田も北条も出来るだろう。

 北条が上杉を攻めれば里見は上杉に目がいっていることに乗じて北条を攻め込むだろうし、逆に里見が攻められれば上杉が動く。

 関東管領としての職務を全うする為に動きたい上杉と領土の死守という里見の利害の一致で今、二家は仲を深めている。

 だが、実際はそう簡単に行かない。上杉が今は疲弊して兵はあまり動かせないでいるからだ。

 同盟を公にすることで北条は密かに盟約がある上杉にも目を向ける必要はなく、心置きなく里見や佐竹に相対することが出来る。謙信は性格上、決して上杉側から同盟の破棄を行うことはないと踏んだ上で。

 北条が里見を潰せば上杉は関東を巡っての戦に乗り出す際の理由が無くなる。

 一方の織田はこれで西に重点を置くことが出来る。延暦寺とは将軍家の仲介で和睦を結んだ為にすぐには攻めることは出来ない。そうなると次の相手は浅井・朝倉と本願寺である。

 その中で最大の勢力は朝倉で、背後には富樫晴貞が控えている。本願寺の支配下という立場に変わりない晴貞が真言宗信者の謙信を目の敵にするのは何ら不思議なことではないが、上杉は織田に単体で対抗できる力を持っている。

 その上杉に将軍家が頼らない筈がない。とはいえすぐに動けない上杉と本願寺との間に嫌な空気が漂っているのをそのままにしておけば、織田にとっては都合が良い。

 朝倉と共に南下して織田に攻め込まれる心配もなくなり、姉川で敗戦した浅井・朝倉に追い討ちを掛けることが出来る。

 将軍家が上杉と本願寺との間を取り持つ可能性もあるが、それまでに決着を付ける自信が信長にはあるのだろう。

 実際に上杉は本願寺との間を修復する気はないのだから、信長の思惑は織田側からするといい意味で外れている。

 背中に上杉がいる為に富樫は南下出来ずに織田は朝倉と心置きなく戦えるというものだ。

 回復力の高い織田は早ければ一年経たずに軍を浅井・朝倉に差し向けるだろう。

 

「しかし、どうして織田は我らと北条が同盟を結んでいると知ったのだろうか?」

 

 上杉と北条の同盟は上杉の上層部しか知らない機密情報である。しかし、織田の動きはまるでそのことを知っているかのようで、そうなると情報が漏れたとしか考えられない。

 

「まさか・・・・・・内通者?」

「いや、それはないだろう。草からの情報はない」

 

 官兵衛がはっとしたように顔を上げるが、謙信は冷静にゆっくりと頭を振る。

 軒猿が他勢力の情報を得るのなら、歩き巫女達は上杉に降った勢力の監視を専らとしている。

 総称して草と呼んでいるが、彼女達からの情報は謙信の下には届いていない。

 納得したように軍師達が二度三度頷くのを見て、謙信は今度は本願寺に話題を移し、かれらに対しての関係をどのようにしていくかを話し合い始めた。

 武家の封建関係の外でこのような権力を握っていたことから延暦寺や堺の町衆などと同様に信長からの圧迫を受けた為に反織田を明確にしている。

 一方で、浄土真宗信者ではない謙信は本願寺とは仲が良い訳ではない。

 畿内の情報は龍兵衛の懇意にしている京の商人からやってくる。今、彼はその商人に積極的に支援を行い将軍家やその周辺勢力の動きを徹底的に調べてもらっている。

 

「富樫晴貞はともかく、本願寺自体は今、上杉と対立して良いことなどないと分かっているだろう。どうなのだ?」

「そのあたりはまだ不明です。織田に反抗するように煽る檄文を門徒らに送ったことは分かっていますが、大きな動きはまだありませんね」

「将軍家に送った件の書状については?」

「詳細はまだ・・・・・・ですが、本願寺自体が悪くはないと分かってしまうと義昭様がどう決断するか分かりません」

 

 以降は全員が沈黙の中で思考を巡らせる。謙信は全員がどのような考えをそれぞれが用いるのかをじっくりと観察する。

 不謹慎だが、謙信はこの沈黙が好きであった。

 ここの皆が考えているのは上杉の為になることで、必ず有益になることである。誰の口が最初に開かれるのかは分からないが、正直それは誰でも良い。

 うずうずする気持ちを抑えているとまず兼続が口を開いた。

 本願寺との関係がどうなるのかはもう将軍家に委託した。ならば、それにおいて今後考えられる状況を想定して今のうちに準備を進めるのが良策だ。

 万が一、織田が負ければ将軍家は軍略的に余裕が出来る為に本願寺に加賀の件について糾弾するだろう。逆に将軍家が負ければ否応無しに堺や紀伊の雑賀と繋がりの深い本願寺をますます頼ることになる。

 将軍家にはくれぐれも内密にして欲しいと重ね重ね書状で懇願しておいたので本願寺にすぐバレるということはないだろう。

 とはいえ、人の口に戸は立てられない、どこから情報が漏れるのか分からない状況では万全の状態を置いておいた方が良い。

 越中との最前線である魚津城とその背後で補給路の役割を持っている不動山城にいる兵と兵糧を増やして富樫の襲来を待つべきだ。

 そう締めるが、これに颯馬は難色を示した。今、そのようなことをすれば富樫に怪しまれて逆に危険である。京の間者の報告を待ってその後に予め葛西・大崎討伐の名目で集めた兵を二つの城に入れた方が良いと言い出した。

 そこでいつものように二人はいがみ合いを始めるが、他の者はそれを放っておいて二人の意見はもっともだが、今の上杉は決して余裕がある訳ではない為に本当にすぐに実行して良いものだろうかという検討に入った。

 

「今、動かせる兵は?」

「ざっと五千です。しかし、春日山城に置いておく兵や信濃と上野の国境にいざという時に援軍として送る兵を考えると・・・・・・二千、でしょうか」

 

 魚津城にいる兵は約一千強、斎藤朝信が常時越中の動向を監視しているが、越中・能登・加賀を合わせた兵を考えると圧倒的に不利で、兵を送っても同じである。

 とはいえ、刺激を与えれば晴貞が動く口実を与えてしまうことにもなりかねない。

 幸いにも晴貞は今、動くような素振りは見せていない為、本願寺に上杉が送った弾劾状の話は行っていないと見れる。

 

「今は何もせずにただ静観するしかないか。後手後手に回る可能性もあるがな」

「北条や反織田勢力とのこともありますので、しばらくはそうならざるを得ないかと」

 

 龍兵衛が渋い顔でそう言うと謙信と官兵衛は溜め息を吐いた。

 

「龍兵衛、万が一最悪の状況になった際はお前が魚津城に向かえ、連れて行きたい将の編成は追って考えておいてくれ」

「御意」

「武田の情報は何かあるか?」

「は、はっ! い、今のところは特にありません。軍の再編に忙しいようです」

 

 今まで颯馬といがみ合っていた兼続が慌てて謙信に申し訳ありませんと頭を下げながら言葉を発する。

 上手く立ち回れなかった申し訳なさからか兼続が顔を恥ずかしそうに少し赤らめて何かぶつぶつと言っている様を謙信はしばらくクスクス笑いながら見ていたが、凛とした表情に変わり、全員に言い渡した。

 

「京と北陸、この二つの地域の情報収集を徹底させる。何かあれば今後は逐一報告するように」

『はっ!』

「兼続、悪いが弥太郎を今すぐここへ」

「承知しました」

 

 全員が去り、誰も居なくなると謙信は一人目を瞑り、外の音を聞いて考えに耽る。

 夏の風に木々が揺れ、夕暮れ時の中で蝉が鳴いている。穏やかな外の情景を心で感じ、頭で想像する。

 実に良いと思いながら、さらに想像を深めていく。

 今の上杉は決して楽な時ではない。否、楽な時が乱世である筈がない。だが、そういう時だからこそ心にゆとりがあるべきだ。

 先程の颯馬と兼続が良い例だなと思い返しながら謙信は他にも先日の龍兵衛のはっちゃけぶりや弥太郎や慶次が悪戯の後を考えずにまたやっている様を一人で思い出しながら笑っていると、弥太郎が入ってきた。

 

「どうしたのだ? 一人で笑って」

「いやなに、単なる思い出し笑いだ」

 

 入ってくるなり不思議な光景を見たと訝しげに見る弥太郎に手をひらひらと振って気にするなと言うと謙信はすぐに真面目な表情に変わった。

 

「例の事、どうだ?」

 

 弥太郎は謙信の問いに首を横に振り、駄目だと表した。

 

「どうやら思ったよりもかなり深い闇で、その分かなりの大物が裏で舵を取っているようでな・・・・・・おそらく言えば己が身に危険が伴いかねないらしい。私では手に負えないな」

 

 済まないと頭を下げる弥太郎に謙信は気にするなと言うと眉間に寄っていた皺をさらに深くした。

 軍師達は情報収集と内政の調整で忙しい。官兵衛が時折手伝ってくれているそうだが弥太郎に任せた仕事はなかなか上手くいかない。

 

「定満さえ居てくれればな・・・・・・」

 

 ふんわりと、おっとりしていた雰囲気に目がいきがちだが、あの恐ろしいまでに計算高く、相手の心に入り込む話術は謙信さえも逃げることは出来なかった。

 

「よせ、それは禁句だろう」

 

 弥太郎が戒めて初めて謙信は心の声が口に出ていると分かった。

 上杉家中では定満のことは一切言わないという暗黙の了解が出来ている。それは責任を感じている龍兵衛への気遣いと定満を失った損失の大きさを物語り、家の雰囲気を壊しかねないという危惧から生まれた。

 

「済まない。まだ未練があってな」

「気持ちは分からなくないが、少しは前を見たらどうだ? 定満殿が居なくなった重みは皆が感じていることだ」

「分かっている。分かっているんだが・・・・・・」

 

 ちらりと後ろを見やる謙信に釣られて弥太郎もその方向を見る。箪笥があるだけだが、あの中には定満の遺した唯一の遺品が入っている。

 最も長く謙信に仕えてきた一人として定満が謙信の心の支えであったことはよく分かっている。

 それは弥太郎も心に空しさを抱いたからこそ分かるのだ。

 定満程ではないが、長く謙信に仕えた者として、定満の支えがどれほど上杉家中に大きく広がっていたか理解していて、代わりになろうと日々彼女も精進している。しかし、なかなか定満の背中は見えない。

 

「取り敢えず、何か分かったことがあればすぐに知らせる」

「頼む」

 

 そう言うと弥太郎は出て行った。

 謙信はまた外の様子を眺めた。

 すっかり夜になり、何も音がしない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十三話 上に立つ者 

どちらかというと幕間っぽいかも・・・・・・


 

 辛い。その言葉が今の上杉家中の現状に最も当てはまる言葉だ。

 東北の火種であった安東・葛西・大崎らに勝利してから早くも一年が過ぎようとしている。にもかかわらず未だに回復が出来ないのは戦に次ぐ戦で田畑が荒廃し、人が逃げ出して戻って来ないからである。

 越後から東北は寒冷な気候の為になかなか作物が育たない。

 土地に有効な作物の改良や堆肥の作成を龍兵衛が農家と協力してやっているとはいえ時間が待ってくれない。

 先日も越後の川に堤防を築き、湿田から乾田への変更を龍兵衛は提案したが、主要な四つの川に堤防を築く案は採用されたものの、予算が纏まるかはかなり不透明で、意見を聞いた農家からの反対もあって乾田への移行は見送りとなった。

 今は平野の多い越後東側にある信濃川と阿賀野川を中心に堤防の建設が進められているが、何分この方面に関して長けている人材がいない為に四苦八苦している状態だ。

 その代わり商業政策は歯車が噛み合っている。日本海側という交易に不便な面もあるが、直江津には土崎湊から入ってくる産物や時折ではあるが、京・堺からやってくる品との貿易が盛んになっている。

 だが、食料がなければ生きていけないのが人間である。金があってもそれが飯に換わらなければ何ら意味がない。

 越後から東北にかけての欠点、金があっても飯が無い。それが顕著に出ている。

 腹が減っては戦が出来ぬというが、他の国から何かを買おうとしても結局は高く付くのだからやはり自国で作るのが一番手っ取り早いのだ。しかし、口では簡単に言えても実行は難しい。

 今一つ農業が上手く行かないのが上杉家の立て直しが進まない原因である。

 また、立て直しが上手くいかないのは上杉に降伏した他の家々にも当てはまる。

 伊達政宗は上杉に対する名目上は出仕として、実際は人質として春日山城にいる。本来なら父の輝宗と共に米沢城にて上杉に付き従って後に伊達軍が被った東北の諸勢力との対峙で出した犠牲の立て直しを図る時であるが、上杉に降るという決断をしたのは自分自身である以上我が儘を言うことは許されない。

 上杉軍の立て直しを手伝っている為に暇という訳ではないのだが、久々に故郷の空気を吸ってみたいという欲求が出てくる。

 近くに頼りになる友がいる為、一人で中に溜め込むというようなことはないが、こればかりは抑えきれない。

 

「やれやれ・・・・・・」

「梵天丸らしくないな。まったく、別に割り切ってしまえば良いものを」

 

 自分以外は誰もいないと思っていた政宗は驚いてバネが反動したように振り返ると二間程後ろに彼女を幼名で呼んだ神職の服を身に纏った友がいた。

 

「・・・・・・居たのか」

「ああ」

 

「随分前からな」と悪戯が上手くいったような笑いをみせる友に政宗は恥ずかしさを誤魔化すようにもう一度溜め息を吐いた。

 この様子だと自分が最初に吐いた溜め息の意味も察しているに違いない。

 

「そんなに米沢城に戻ってみたいならさっさと謙信様に言え、笑って許すさ」

「そうはいかん。伊達の当主として私の面子に関わる」

「素直に言えば謙信様も喜ぶと思うのだがな」

「私情によって動こうとすれば謙信殿は呆れるやもしれん」

「謙信様は随分私情を優先する時が多いぞ。お前も聞いたことがあるだろう? 川中島や上洛帰りの戦での行動を」

「それらは致し方ないからの行動だ。戦と平時を一緒にするものではない」

「普通は平時に私情を優先するものだ」

 

 ああ言えばこう言うの繰り返しで全く決着が付きそうにない。

 友である景綱はすっかり上杉家中に馴染んでいる。長い間囚われの身として春日山城にいたというのが第一の理由であるが、興味深いことに気を引かれる性格の彼女にとってこの上杉家中は絶えることない楽しさがあるのだろう。

 それに政宗が何か言うことはない。しかし、景綱のように毒されたまでには行っていない。景綱の場合は上杉家のような気質に好感を持ってそれに付き合っていると言った方が正しいかもしれない。

 政宗自身も上杉家の面々に悪い気を抱いたことはない。むしろ面白いとさえ思っている。しかし、伊達家当主として上杉家に傾倒するような真似は許されない。 

 

「何時までもへそ曲がりでいてもこの家では通用しないぞ。謙信様以下上杉家の方々は皆が本音を出し合っているのだからな」

 

 わざとらしく溜め息混じりに言う景綱に政宗は少しばかり機嫌が悪くなった。同じ師に教わりずっと共に生きてきた友は自身のひねくれをよく知っている。

 にもかかわらずそれを少しばかり抑えろと言ってきた。

 政宗もこの春日山城で上杉家の面々と接してきてかれらがどのような人達なのか十分分かっている。

 本音を隠そうとしている者もいるが、結局は誰かが原因で己の本音を晒け出してしまう。それが上杉の家風である。

 

「面白いか?」

 

 怪訝な表情を浮かべる政宗にとっては上杉家ははっきりし過ぎている気がしてならなかった。表裏がないというのは好ましいが、本当にそれで良いのだろうかと思ってしまう。

 戦で制限されていた行動を平時に晴らすように思いっ切り動きたい思いがそうさせているのだろう。

 

「ああ、面白い」

 

 しれっと言う景綱の返答は予想通りであったが、以前であればもう少し躊躇うような素振りがあった筈だ。

 良く言えば、自分の心に素直になれる時間があり、相手になる友がいる。悪く言えば、お人好しで味方に騙されて悪戯に嵌まる。

 簡潔にすれば政宗の上杉家の面々に対する人物像はそのような感じだった。

 政宗にも本音を語れる友がいる。しかし、今回の自分が思っていることはあくまでも私心である。しかも今回は友にではなく自身が降伏した相手である。

 言うのは易いが、それを言い出すまでが政宗にとって辛い。本音をあまり出さずにひねくれた性格になるように育ったが故の足の重さだ。

 その心境をも悟ったように景綱はくすりとまた笑い出した。

 

「本当に梵天丸らしくないな」

「どこがだ?」

「いや、何でもない」

 

「気になることを言うな」と睨み付けるが、景綱は何のその。笑いを必死に堪えて、今にも吹き出しそうにしている。

 何かおかしいことをした覚えはない筈だ。やはり、あったかもしれないが、そんなに顕著に表れていたであろうか。

 

「答えが欲しいか?」

「伊達家当主としてな」

「なら仕方ない。そのひねくれぶりがぎこちなく見えたんだ」

 

 要は景綱から見た先程からの政宗はいつものようなひねくれが堂には入っていないということだ。 

 悪い笑みを浮かべる景綱に何か言ってやろうとしたが、政宗自身も少し自覚があったので言い返せない。

 自分が思っているよりも久々に米沢に戻りたいという思いがかなり溜まっているらしくさっと否定出来ない。

 それがどうも可笑しく映ったようで景綱は笑いを堪えている。

  

「何でも良いから行ってみてばいいだろう?」

「いや・・・・・・その・・・・・・」

「ど~い~て~!!」

 

 簡単に背中を押そうとする景綱から逃げる為に政宗が迷っていると彼女の背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

『どだだだだ』という足音と共に慶次が走って来る。避ける為に移動するとさらにその後ろから今度は兼続が般若のような顔付きで追っている。

 

「こら! 逃げるな!!」

 

 逃げるなと言っても何かやらかして逃げない方がおかしい。そんな他愛もないことを思いながら二人が通り過ぎるのを見送ると中庭に飛び降りた慶次と兼続、二人は同じ所を通ろうとした筈だった。

 

「きゃあ!?」

 

 先頭の慶次だけが消えた。というより慶次だけが落とし穴に入ったのだから消えて当然だった。

  

「痛ったぁ・・・・・・ここにかっつん用の落とし穴掘っていたの忘れてたぁ」

「ほー景勝様用の・・・・・・私の本を水浸しにしたはまだ許せるが、そうかそうか・・・・・・」

「いやいやぁ、だったらさっきのおっかない顔はなんなのぉ?」

「なに、さっきまでは優しく諭してやろうと思っていただけだ。しかし、気が変わった。次期当主たる景勝様の身に何か起きては遅いからな・・・・・・さ、手を貸してやろう」

 

 兼続が慈悲のある優しい声を掛けているが、なかなか手が出てこない。慶次は躊躇っているのだろう。助けてもらっても説教が待っている。

 政宗は喰らったことは無いが、正論に正論を重ねてくる為にかなり堪えるらしい。

 一番説教を喰らっている慶次はそれを痛い程に分かっている筈。なのに懲りないのはもう慰めの仕様がない。しかし、助けがなければ深く作ってある穴から出ることは出来ない。

 穴の中で慶次がどうしようか迷っているのが想像出来てしまい政宗は景綱と一緒に笑ってしまう。

 少し経った後に慶次の手が穴の中から伸びてきた。兼続がそれを見て悪そうな笑みを浮かべているのは誰も気にしない。

 慶次が兼続に助けられながらようやく顔が出てきた。これから説教かと政宗達が思っていると。

 

「えぇ~!?」

 

 何が起きたか分からないという悲鳴を上げて慶次はもう一度落とし穴に落ちていった。

 

「おや、前田殿ではないか。何故にこのような場所に? ああ、なるほど、自分で仕掛けた落とし穴に落ちたのか!? 本当にまぬけだな! 前田殿は!」

 

 悪意しか感じられない大声での言い方と兼続の満面の笑み。それを見て聞いた女中達が笑っている。

「そんな大声で言わないでぇ~」という声が地中から聞こえているが、兼続はそんなことを気にも留めず、どこかへ去ってしまった。

 

「あそこまで遊んでいるとかえって清々しく思えないか?」

「少しやり過ぎている気もするが」

「行ってみて当たって砕けろだ。謙信様なら大丈夫さ」

 

 あれぐらい真っ直ぐに謙信に言ったらどうだという景綱の言いたいことは分からなくはない。かなり強引に背中を押された気しかしないが、仕方ないと政宗は謙信の下に向かうことにした。

 あまり行きたくないという思いとは逆に足取りは非常に軽い。

 だが、行ってしまえば楽なものだった。部屋の雰囲気がそうさせたとも言える。謙信は政宗から事情を聞くと最初こそは真剣な表情で聞いていたが、段々と堪えられなくなったのか最後には声を出して笑い出した。

 気恥ずかしそうに政宗は謙信を睨むように見る。謙信は「すまん、すまん」と謝ってはいるが、声が震えていて明らかに笑いが収まらない様子だ。

 めったに私情を申し上げることがない政宗が気恥ずかしそうに晒け出した私情が謙信の笑いのつぼをつついたらしくなかなか笑いが止まりそうにない。

 政宗からすれば恥ずかしいので早く笑いを収めて是か否かはっきりしてもらいたい。

 しばらくしてようやく笑いが収まった謙信だが、まだ表情は笑っている。しかし、先程の大笑いの時とは違う、どこか慈母のような笑みであった。

 

「ようやく、お前もか。それこそ正しい訴えというものだ」

 

 謙信の言葉に政宗は頭の中で思い返す。先日、最上義守が山形城への一旦帰還し、代わりに氏家定直がこの春日山にやってきた。

 その際に義守が戻りたいと言ってきた理由が義光から来る手紙が日に日に切迫したものになってきて、終いには『妾のことはもうどうでもよくなったのか? 妾は死にたい』とまで書かれた手紙が届いた為にこれは駄目だと思ってしょうがなく腰を上げたそうである。

 それは義光の駄々っ子がいけないのではないかと政宗は思ったが、謙信は察したようにいやいやと首を振る。

 

「義守も気丈に振る舞ってはいたが、ところどころで山形城に戻りたいという思いがあるようなことをしていたからな」

 

 そんなこと政宗が分かる筈がない。そういったことに対する洞察力は謙信に適わないと思いながら政宗は頭を下げて礼を述べる。

 当然のように謙信は気にするなと微笑みながら手をひらひらさせる。

 政宗にはそれが真の母親のような優しい笑みに見えた。病から隻眼になった故に母親から疎まれ、見放されるような物言いをされたのは頭の記憶の中に残っている。

 母親のような優しさがあるのは普段の景勝とのやりとりで分かっていた。義理の間柄にしろ政宗にとって謙信と景勝のやりとりは新鮮なものであったが、こうして自分が直接感じてみると政宗は自身の経験がある為にむず痒い感じがする。

 だが、面倒だとかうっとおしいという感情よりもああ、温かいという思いがあった。

 上杉家の面々がああして日々を楽しそうに動いているのは謙信の包容力が自身が思っていたよりも深く影響しているのだと思えてくる。

 故に謙信の理想を解する人物は謙信に歩み寄って支えようという気になるのだろう。

 母親の愛を知らない政宗にとって謙信は母親のように感じられた。

 景勝がああして慕っているのもそういうことなのかもしれない。結局は謙信の包容力が恐ろしい程に大きいものであるからなのだろう。

 政宗はそう思いながら謙信から許可を得て代理の者が来るのを待って米沢城に帰ることを許された。

 

「本当はすぐ帰してあげたいのだがな。家臣達がうるさくてしょうがない」

 

 義守の時もすぐに許したらしいが、弥太郎や龍兵衛から「もう少し慎重になって下さい。義守だから良いですけど、他も真似しますよ!」と散々に言われたらしい。

 それを溜め息混じりに言う謙信も謙信であると政宗は思ったが、米沢城に帰れるという思いが強く、気付けば嬉しそうに頭を下げていた。

 

 

 

 

「弥太郎殿、たしか政宗殿が米沢に戻ったのは故郷に帰るのもそうですけど父君である輝宗殿に会いたいと思ったからですよね?」

「ああ、謙信様もそう言っていたな」

「じゃあなんででしょうねぇ? 輝宗殿には使者を出していた筈なのに・・・・・・」

「私が知るか。颯馬、お前が輝宗殿の立場だったどうする?」

「当然、政宗殿を米沢城で待ちますよ」

「私もだ。でも何故だ?」

「何故でしょう?」

 

 開いた口が塞がらないままに弥太郎と颯馬は見ている。何故か政宗の代わりに来た輝宗が春日山城にいることを疑問に思いながら目を点にしている。

 その輝宗は先程から龍兵衛や兼続と話している。とはいえ二人共驚きを隠すのがやっとといった状態でどうにか会話を繋いでいるという状態だ。

 

「あんな父親を持って政宗殿は可哀想だな・・・・・・」

「ええ、まったく。ああはなりたくないですよ」

 

 一週間程経ち、春日山城にやって来て廊下を堂々とした姿勢で歩く輝宗に何も迷いは無い。それを後ろから見ている案内役の二人の内、龍兵衛が恐る恐る尋ねてみた。

 

「しかし、何故に輝宗殿が?」

「ははは、心配するな。政宗が米沢に着くまでは左月が公事の指揮を執ってくれる。あれなら間違いあるまい」

「いえ、そこではなくてですね・・・・・・」

 

「なぁ?」と兼続を向く、兼続の方もかなり言い難そうに苦笑いを浮かべている。

 

「なに、政宗には少しばかり痛い目にあってもらわなねばな」

「「は・・・・・・?」」

 

 見事に二人の声がはもった。

 

「まぁ、ちょっとした意趣返しよ」

 

 楽しそうにしている輝宗の後ろで二人はなんとなく察しがついた。 

 

「ありゃただの親馬鹿だな・・・・・・」

「ああ・・・・・・」

 

 輝宗に聞こえないように言った龍兵衛の言葉に兼続は頷くと二人は共に溜め息を吐いた。

 輝宗も政宗に会えなくて寂しかったというわけだ。 二人は謙信が輝宗から書状を受け取った時、政宗の代わりに誰が来るのか聞いたのに謙信は教えてくれなかったと言っていたことを思い出した。

 謙信も加担していたとなるとよく出る茶目っ気がまた出たということになる。

 龍兵衛はどこか不機嫌そうに首をコキコキ鳴らしているのを兼続が「後にしろ」と咎めると小さく咳払いをして表情を引き締めた。

 

「まぁ、ほどほどにな」

「ああ、ほどほどにしよう」

 

 しかし、兼続が呟くと龍兵衛も呟いてここにはいない人物に向かってたいへん良い笑顔を浮かべた。

 これは後のことだが、輝宗は結局二ヶ月で鬼庭綱元と交代で米沢城に帰っていった。この強引な幕の裏に兼続と龍兵衛が謙信と輝宗に説教を喰らわしたことがあるのは言うまでもない。

 さらに輝宗は米沢城で政宗に説教を喰らい、二重の苦しみを味わい、しばらく体調不良になった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十四話 行き帰り

前回よりも時は一年程進んでいます


「(来るべき時が来た。というのはこういう時に使う言葉だな)」 

 

 そのようなことを考えながら龍兵衛は馬に揺られていた。 

 今、彼は新発田城に向かっている。東北において羽州側の殆どは上杉に帰属したが、奥州側は南側の伊達や大内などだけで、北側は未だに上杉との国境で小競り合いが続いている状態だ。

 先の戦からもう二年は経っている為に上杉も傘下に入っている家々も十分に戦が出来る状態である。

 そして、二年目とは上杉家にとって大切な節目となっていた。

 本願寺の件で将軍家に送った密書の返答が帰ってくる年である。

 もし、将軍家を通じて本願寺が加賀の富樫晴貞の破門を認めたのならば、すぐにでも龍兵衛達は反転して魚津城を本陣に越中を攻める。

 認められなければ、つまり本願寺が加賀にけしかけて越後との対立を積極的に後押しするのなら魚津城の防衛に努め、謙信が率いる本隊と共に一気に越中を攻める。

 いずれにせよ越中を攻めることに変わりはない。時間が少しずれるだけだ。  

 加賀に対する通達が京にいる間者を経由して伝わっていない以上、すぐに加賀へ動くことは出来ない。怪しまれないようにするには何かと口実が必要である。

 面倒な行軍になっているという不満げな武将達の言いたいことは分かるが、虚を突く為に必要な過程である以上はやらない訳にはいかないと龍兵衛は説得した。

 実際にこの戦は上杉家が今後、天下統一を出来るか出来ないかを左右する大事な戦いである。

 失敗すれば天下は織田か西国大名のものとなり、上杉家は永遠に越後以北を治めた田舎の大大名で終わってしまうだろう。

 実際、伊達と大内を先鋒に上杉は景家を配下に親憲率いる五千の兵を派遣して奥州北側の葛西・大崎、あわよくばさらに北の和賀や稗貫も取ってしまおういう考えも含まれている。

 最上にも安東愛季・戸沢盛安と共に降伏せずに反上杉家を掲げた者達は檜山城を乗っ取り、愛季不在の隙を突いて湊城を奪った安東家残党に対して長重を大将にかれらの頭目である安東愛季の弟、安東茂季とその配下の筆頭である浅利勝頼を討つ為に三千を派遣した。

 目下、もう一つの脅威である北条は既に上杉との同盟を織田という最大の脅威に対する利害の一致からお互いに攻めている暇は無いという状態が出来ている。今、北条は氏康を総大将にして里見との決着を付けようとしている。

 佐竹は相変わらず北条を牽制しつつ、下野の那須に矛先を向けている。

 上杉家から名刀の『備前三郎国宗』を譲ってかなり譲歩したのだから上杉にはそれなりの理由がない限りは攻めて来ることはないだろうと上杉家上層部は考えているが、油断が出来ないのが乱世である。万が一に備えて長野業正と黒川清実が国境を固めているので二人の実力と上杉に対する忠誠を考えても十分、佐竹に太刀打ち出来る。

 

「しかし、面倒じゃ・・・・・・」 

「さっきからそればっかりですね。景資殿」

 

 事前に軍師達と協議した事を思い返していると横槍を刺すように景資の声が聞こえてきた。明らかに不満げである。

 

「こうでもしないと本願寺が上杉に対して不信感を抱きかねませんから」

「それはもちろん分かってはいるんじゃが・・・・・・」

 

 それ以上は何も言わなかったが「やはり、すぐにでも戦をして富樫晴貞の首を斬ってやりたいのじゃ」と景資の言いたいのは大方そんなところだろうと思いながら「我慢して下さい」と言って苦笑いを浮かべるしかない。

 本願寺は今、織田と各地で一向一揆をけしかけて対抗している。特に史実通り伊勢長島の門徒の抵抗はかなりのものであるそうだ。

 他にも既に沈静化しつつあるが、徳川の三河でも一向一揆を煽り、長年加賀の一向一揆と対立していた朝倉とも足利義昭の仲介によってどうにか和睦を果たし、織田に集中出来るようになっている。

 とはいえ、織田も黙っていない。姉川の戦いの後、すぐに比叡山に出陣し、延暦寺を焼き討ちにした。

 理由は簡単に浅井・朝倉を匿い、支援した為、鎮護国家の大道場といわれる比叡山を焼き討ちしたのは畿内保守派の反感を買ったに違いない。

 それはもちろん上杉家にも伝えられ、兼続や景家などはかなり憤慨していた。

 しかし、畿内状勢を探っていた龍兵衛にとって信長がどう動くのか知らないでいた筈がない。そのことが問題になって大分彼は叱責を受けた。

 しかしその後、彼は毅然と比叡山の内実を報告し、焼き討ちは起こるべくして起こったものだと反論した。 

 曰わく、比叡山の門徒達は僧の身でありながら女人を多く侍らせ遊女を麓に住まわせている。

 曰わく、比叡山上層部にも必要以上に側室を作り、酒を飲んでいる。

 曰わく、比叡山付近の住民に僧兵が押し入って寄付と称させて食料や金品を強奪している。

 表立って言えるような内容ではないので上杉家の重臣のみになったところで言った。さすがにそれには先程まで彼を叱責していた二人も口を噤むしかなかった。

 

「要は織田の焼き討ちは比叡山を元のれっきとした寺院に戻す為に必要なこととお前は考えているのか?」

「ご明察で御座います」

 

 謙信も何か言いたげではあったが、結局彼は許してもらえた。

 実際は事前に謙信と他の軍師達にも伝えてあった為にこうなることは全て台本通りであったのだが。

 それはさておき、信長は反織田の一角を占めている比叡山は無力化し、今は浅井・朝倉との決着を付ける為にその後ろ盾である足利義昭との決着を付けようと出陣している。義昭は二条城の周囲に新たな堀を巡らし、弾薬を運び込むなどしているらしい。

 景資が気にしているのではないかと思っていたのだが、思っていたよりも気にしていないのに正直龍兵衛は面を食らっていた。

 

「まぁ、殺されることはあるまい」

 

 征夷大将軍であった自身が殺されかけた際はかなり問題になった以上、信長がそこまでのことをするとは思えないという考えである。

 甘い気もしたが、史実よりも結束が高く、三好長慶や細川がいる将軍家ならば少しはやってくれるだろうと彼も期待していた。

 

「新発田に入って後、すぐとは言いませんけど本願寺の情報が間者を通じて入ってくるでしょう。そうなれば、この面倒からも解放されますよ」

 

 そう言うと景資は「それは楽しみじゃ」と心底楽しそうに笑った。

 龍兵衛からすると戦を楽しんでいるようにしか見えない。しかし、戦場こそが景資の生きる場ではないかとも思えてくる。

 実際に彼の覚えているところで功を立てないで終わった戦は記憶にない。常に最前線で兵と共に戦う彼女は兵からも絶大の信頼と崇拝とも言える尊敬を集めている。

 ちなみに彼女自身は京ではずっと奥で引っ込んでいた為に塚原卜伝から受けた剣術を発揮出来ずにいたのが十分に発揮出来るようになったのでかなり嬉々としているだけである。

 それを聞いた時にはさすがに呆れたが、既に景資は上杉に欠かせない存在になっているので逆に引っ込んでもらっては困るのである。

 

「ところで聞いておきたいことがあるのじゃが・・・・・・」

 

 思考の海に入っていた龍兵衛を引き揚げた景資は怪訝そうな顔をしている。

 

「妾は京のことをよく知っている。様々な勢力の間者が集い、機会を窺っている。故にその間での争いもあると知っている。されど段蔵以下、軒猿の精鋭は加賀に置いているのだろう?」

「ええ、それが何か?」

「軽く言って誤魔化すな。それ程の手の者、謙信に聞いたことが無い」

 

「どういうことじゃ?」表情は笑っているが、目には殺気を潜ませ鞘に手を置いている。その覇気には押されるしかない。

 一瞬で斬られてもおかしくないような気を纏い、彼の身体中に冷や汗を染み込ませる。

 とはいえ、以前にも颯馬に言っていた為に謙信にも伝わっていると思っていたが、軍師としての『公』としての役目は守っているようだ。

 

「(やはり、颯馬は一番軍師らしい性格なのかもな)」

 

 そんなことを思いながら自身の不明で景資に要らぬ疑いを抱かせたことを後悔しつつ以前、颯馬に言ったことを景資に誰にも言わないようにと前置きを入れて説明し始めた。

 

 

 

 

 

 新発田重家の反乱の後、新発田城に入った千坂景親は、元は鉢盛城主であり、上杉氏の四家老の一人である。

 

「久しいな景資様、龍兵衛。元気そうでなによりです」

 

 新発田城に入った二人は城にいる将兵全体の前で景親と対面して、今は三人でいるところだ。

 家格では景親の方が上の為に表立っては二人に威厳を見せていた彼だが、今は景資を前にして言葉使いも丁寧なものになっている。

 とはいえ、白髪の混じった髪と髭、大柄な体格が正しく長い間上杉の家臣の筆頭格を務めてきた気迫が十分にある。

 背丈では龍兵衛の方が上である筈なのに面と向かって対談すると景親の方が威圧感で圧倒している。

 龍兵衛からするとこのところは冷や汗に次ぐ冷や汗をかいているのであまり身体に良いことをしているとは言えない。

 

「うむ、お主も変わらないようじゃな。もうくたばるのではないかと心配していたのだが、どうやら杞憂じゃった」

「はっは、この景親、まだまだ謙信様に仕え足りんわ」

 

 老人にはあまり言うべきではない言葉をさらっと言った景資に対して景親は顎髭をさすりながら笑っているが、軍師である龍兵衛からすると見えないところで刀が鍔迫り合いしているとしか見えなかった。

 龍兵衛は、景親が上杉家の中では謙信の本陣を守る。親衛隊長のような立場で、決して前線に出るような人物ではない為に後世の戦記で他の将と比べて出番が少ないことを思い出した。

 しかし、目の前にいるその人は主君である謙信の御身を守るという確固たる信念を持ち、弥太郎と引けを取らない武勇の持ち主である。 

 実際、そういった状況になるのを想像したくないが、窮地に陥ったら景親とその配下の兵が謙信を守らなければならないので相応の武勇を持っていなければ務まらない。

 その考えが今でも上杉家有数の武勇を衰えさせないのだろう。現に暇さえあれば鍛練をやっているような人物である。

 龍兵衛はいつの間にか自分がそんなことを考えていると気付いて心の内で気合いを入れ直し、二人に向かい合い、今後の方針について説明を始める。

 まずは将軍家と本願寺が下した加賀への沙汰を確認が取れ次第直ちに魚津城にとって返し、相手に準備させる期間を与えず、一気に松倉城を奇襲する。

 景親からその周辺にある多くの支城や砦をどうするのかという指摘があったが、それらは無視して敢えて敵地深くに入り込んで相手の喉元に刃を立てる。

 周辺に数多ある松倉城の支城や砦はいざという時は焼き払ってしまえば松倉城の防衛力を落として陥落させるという戦略を立てることも可能だ。

 

「そのあたりは臨機応変でいきます。その後は魚津城に戻り、謙信様率いる一万の精鋭を待って富山まで進軍して畠山と椎名を討ちます」

 

 今、龍兵衛と景資が率いているのは三千。これでは富樫に対抗出来る筈がない。謙信の援軍を得る為に戦線が伸びるのは決して好ましい状態ではない。

 その為、謙信の率いる本隊を迎えるのは魚津城の方が好ましく、松倉城は放棄した方が都合が良い。

 ざっと説明を終えるとそれまでは兵を分けて景親が行っている東北を討伐する隊に送る兵糧の運搬の手伝いと来たるべき決戦に備えての鍛練をする。

 景資には鍛練をほどほどにしておくように釘を差しておく、彼女の鍛練のおかげで兵の質はかなり上がったが、如何せん数日間に疲れが残る。

 兵達も慣れようにも慣れないらしく、鍛練が終わると疲れていることがよく分かる姿で歩くかれらを軍師達は見ている。

 たまに捕まってその仲間入りすることも多々あるが、思い出すだけで嫌気が指すので龍兵衛は強引に思考を振り払う。

 景資が兵の指揮の為に出て行ったのを確認すると景親と龍兵衛は二人になったところで龍兵衛が身体を乗り出すと景親も頷いて懐から紙を取り出すとそれを龍兵衛に見せた。

 中には葛西、大崎や檜山に籠もる安東家残党について書かれてある。

 葛西・大崎は元々国境のことで揉めていた同士の為、相変わらず牽制し合っているらしい。さらに北の和賀や稗貫のおかげでどうにか同盟を保っている状態でそれに勝利する為の策は既に親憲に従って進軍している官兵衛が立てているそうだ。

 一方で安東家残党は意外に絆が深く、愛季を取り戻して再び安東家を復興させようと気を巻いているらしい。

 背後で南部が援軍で動かす構えもあるらしく、既に最上には後詰めを出すように長重は指示を出し、越後からも安田能元が援軍を率いて進軍している。

 

「さすが景親殿、情報がしっかりしています」

 

 一通り読み終えると景親に龍兵衛は頭を下げる。

 

「ふっ、煽てても何も出て来んぞ?」

「(いや、実際ここまで詳細な情報はなかなかない方だけど・・・・・・)」

 

 情報収集にかけて景親はかなりの能力を持っている。本気を出せば下手をすれば伝手なんて無くても情報を拾ってきそうな程優秀である。

 さらに彼は新発田城という場所に位置する為に佐竹との外交にも携わっている。

 彼は引き継いだ後に佐竹と巧みに利害関係を一致するように工作をして、関係をより深いものにしたのは彼の功績によるところが多い。

 

「(なのに何でこうも目立たないんだろ?)」

 

 内々のことに関しては彼の功績は軍師達よりも大きいかもしれない。しかし、彼は戦場に出ることが少ない為に目立たないのだ。

 彼ほどの人物であれば中条藤資の跡を継いでもおかしくない。

 

「なんだ? どうかしたのか?」

「ああ、いえ、別になにも・・・・・・」

 

 気付けば怪訝そうな顔で景親を眺めているのに気付き、かなり慌てて首を横に振る。

 だが、心の内を感じ取ったように景親は呵々と笑って楽しそうにしている。

 溜め息を吐き、胡座の足を組み直すと姿勢を正して真剣な表情に変わる。その覇気に釣られて龍兵衛も自然と表情と姿勢が引き締まっていた。

 

「儂は乱世が怖いのよ。生きるか死ぬかの瀬戸際で戦うことが、故に儂は己を鍛えた。恐怖から脱する為にはそれしかない」

「景親殿・・・・・・」

 

 あまりにも唐突だった。年を重ね、威厳のある声から気弱な老いぼれという言葉が似合う声にがらりと変わった。二人は武人である景親の口から弱気な言葉が出るとは思っていなかった為、ただ呆然とするしかない。

 

「人は有形、いずれ滅ぶ。それを知っている故に人は死を恐れる」

「・・・・・・」

「儂は正直に生きているだけだ。どんなに煽ててもそれは勘違いというもの。今後もそれは変わることはない。見届けたいのだ。上杉による。謙信様による天下統一をな・・・・・・どうだ、見苦しいか?」

 

 景親は自虐的に笑ってみせるが、龍兵衛は首を横に振って否定する。

 

「いいえ、まったく。むしろ素晴らしいかと」

 

 蔑むことはしない。出来ない。何故なら龍兵衛も義理や名誉よりも生を第一としているのだから。そして、その考えが覆ることは終生無いだろう。

 

「左様か。だが、お前にもいずれやってくる。儂のように戦を恐れ、避け続けて生きるのか。それとも戦で死ぬ道を選ぶか」

 

 本陣の警護を拝命しているのは景親にとって僥倖なのだろう。死ぬことが余程の窮地に陥らない限りは無いのだから。

 

「お前は儂のようになるやもしれんな」

「景親殿のように、とは?」

「いずれ分かる。その時が何時になるかは知らんがな」

 

 景親は立ち上がって部屋から出て行った。本来なら龍兵衛もその後ろに付いて行かなければならないが、どうしても立ち上がる気にならない。

 景親のようになるとはどういうことなのか。しかし、景親はいずれ分かると言った。時の流れに任せていれば分かるのだろうか。

 だが、龍兵衛も人間である。自分のことになるとすぐに何か知りたいという欲求がある。

 それが何時になるかは分からない。ならば、早く来るようにすれば良い。

 それは結局自分の努力次第。この辺は現代と変わらないなと思いながら龍兵衛は一つ息を吐き、立ち上がって見えない景親の背中を追っていった。

 城内にはいないようなので城外に出ると景資が忙しそうに指示を飛ばしている。

 

「(忙し過ぎる気もする)」

 

 気になったので声を掛けてみると景資は探していたとは言わなかったが、いつもの落ち着いた態度ではないのが悠長にしている暇はないと言っている。

 

「今、知らせが入った。一向一揆が越中の富山に集結している。その数は二万を超えているそうじゃ」

「富山城に? 何故?」

 

 富山城にいるということは魚津城には三日程度で到着出来る。しかも、二万という大軍をこんなにも早く集められる筈がない。

 

「分からぬか? 本願寺は加賀に妾達の情報を伝えたのじゃ」

「それはおかしいですね・・・・・・本願寺は今、決して旗色が良い訳ではありません。上杉と対立すれば織田を喜ばせるだけですよ」

 

 ここから先は謙信と軍師達の秘匿であるが、本願寺にはこの二年間決して情報を漏らさないように将軍家には念を押しておいた。

 そうなると将軍家が上杉を裏切ったことになる。しかし、そのように簡単に済ませて良い問題ではない。

 

「景資殿、以前、京の闇はどこよりも深いと仰っていましたよね?」

「うむ、それがどうしたのじゃ?」

「どれほどに深いのでしょう?」

 

 龍兵衛が落ち着いているのを見て景資は落ち着きを取り戻したようである。おとがいに手を当てて考える素振りを見せ、すぐ彼に向き直った。

 

「一度人を疑えば切りがない。だが、そうでなければ生き残ることは難しいじゃろうな」 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十五話 黒幕はどちらに?

 越中の突然の襲来を聞いた龍兵衛と景資達はその日の内に準備を整えて新発田城を飛び出した。昼も夜も休まずに走り、四日後に一度報告なども兼ねて春日山城で休息を取った。

 その間、龍兵衛と景資は謙信と対談し、事の大きさを語った。無論、謙信にも加賀の情報は入っている為に状況確認だけになった。

 魚津城には斎藤朝信率いる一千の兵がいる。今、一向一揆は三万に兵が膨れ上がり、富山城を既に進発した。

 魚津城は元々松倉城の支城であるのを本城並みに朝信が改築したもので、決して強固なものとは言い難く、明らかに戦える状態ではない。

 

「考えたのだが、やはり朝信と頼久を一旦、不動山城に戻して魚津城と天神山城を放棄させるべきだと思うのだが」

「しかしながら、ここで退いては春日山城も危うくなります」

 

 退くと春日山城は不動山城を残すのみで越中に対する備えが無くなる。越後に通じる親不知を突破すればもう春日山城を守る城は一つしか無くなる。

 

「兼続もそう言っていたが、ならばどう対応する?」

 

 和睦はあの富樫晴貞が結ぶとは考えられない。東北の諸大名は東北の統一を目指して進軍させたばかりで呼び戻す訳にはいかない。

 春日山城で準備していた一万二千の本隊も万全ではなく、まだ時間が掛かると謙信も苦い表情を浮かべた。

 

「敵は三万と言っていますが、見かけ倒しで本当は一万数千です。残りの一万程度は経験の無い農民、主力である正規の兵を討てば、富樫晴貞も退かざるを得ません」

「戦とはいえ、民を討つのか?」

 

 民の為に力を尽くしている謙信にとって泰平の為に民を討つのはかなり複雑な心境である。

 しかし、龍兵衛はかれらを民と思っていなかった。意志を奪われたもの達は人にあらず、ただ命令のみでしか動けない人形にすぎない。

 かれらがもし晴貞の呪縛から解放されたとしても果たして自分の足で動けるのか、謙信に対して加賀が貼っている風評を見事に剥がして主君に忠誠を誓わせることが出来るのだろうか。

 謙信ならば誠心誠意接していけば自然と心は開かれるだろうと言うかもしれないが、口では言えても謙信を直接知ることが出来ない他国の民が本当に信じていけることが出来るのだろうか。

 疑問は尽きないが、なるべくなら謙信の心を摘み取らなければ主家の方針にも背くことになりかねない。

 極力速い進軍をするようにすると謙信は伝え、二人には急いで魚津城に入るように命じ、龍兵衛の方から取り敢えず、他に手の空いている将を貸して欲しいと頼むと謙信は快く承諾して太田資正を連れて行くように命じた。

 外に出ると二人は資正に子細を伝えてすぐに準備するように伝えると景資に将兵への指揮を任せて龍兵衛は軍師達に会いに行った。

 

「どう思う?」

「同感だ」

「俺もそう思う」

 

 ひとまず東北に行っている官兵衛以外に先程考えた自身の意見をふまえて聞いてみると二人共頷いて肯定してくれた。

 やはり、北陸に蔓延る悪しき空気を浄化する為にはそれに必要な血を流して大地より空へと運び上げなければならない。

 言うなれば一向一揆は北陸の戦乱という火種そのものである。

 

「だが、謙信様が民に対する殺生を渋く思われている以上はあまりむやみに策の為に民を殺めることは出来んぞ」

「分かっているよ。俺だって出来れば行きたくないとも思っているんだ」

 

 民が敵軍にいるという理由で制限されると策に支障を来す。言った兼続も気持ちはよく分かるようで何度も頷いてくれている。一方で颯馬は心配そうにして龍兵衛を見ている。

 

「大丈夫なのか? 三万の軍に対してこちらは一万と数千だぞ。援軍を派遣するまでに時間はそれほどかからないと思うが・・・・・・」

「大丈夫だ。籠城していれば二週間もしない内に援軍が来るだろ?」

 

 二人がどこか申し訳なさそうな顔をしているのを見て、龍兵衛の心に嫌な予感がよぎった。

 

「とにかく魚津城に早く援軍は行けるようにするから。頑張ってくれ」

 

 取り繕うような颯馬の物言いに違和感を抱かずにいられない。「どういうことだ?」と二人をじっと見て、誤魔化すなと交互に二人の目を見る。

 取り調べで決して黙秘を許さない彼のことをよく知っている二人は龍兵衛には誤魔化せないと悟り、「「すまん!」」と言って揃って頭を下げると内実を語り出した。それは落胆することも出来ない、かえって清々する程に大当たりだった。  

 二人と別れた後、溜め息しか出てこなくなっていた。一難去ってまた一難、これまでも色々とあったが、今回は最悪の状況の一つと言って良いだろう。

 投げ出して良いのなら喜んで投げ出したい。やけくそになってはいけないのは重々承知しているが、それでもだ。

 だが、軍師たる者、焦りが生じる時ほど冷静にならなければならない。

 今回は越後の命運がかかった戦。負けることは許されない。負ければ富樫晴貞の魔の手が越後にまで蔓延する。

 切実に避けたい現象を食い止める為にはやはり行かなければならない。

 

「ああ、景勝様ですか」

 

 手を伸ばせば届くぐらいの距離に景勝がいたが、思考の海に漂っていた為に景勝の存在を近くに来るまで気付かなかった。

 

「明日、出る?」

 

 しばらく、猿に頼りっきり会話が続いていたが、最近になってようやく治ってきた。長いと思うが、引きずりすぎた結果だなと龍兵衛は思っている。

 

「ええ、そのつもりです」

「勝てる?」

「防衛戦なので絶対に勝たねばならない訳ではありません。負けなければ良いのです」

 

 数の差がある以上、勝てる見込みなどありはしない。しかし、幸いにも今回は籠城戦。富樫軍が撤退すればそれで良いのだ。

 だが、景勝は不安そうに龍兵衛を見上げている。景勝も知っているのだろう。むしろ景勝が知らなければならない問題がおきている。

 

「先程、颯馬達から聞きました」

 

 その言葉に景勝はたいそう驚いた。何故ならそのことは決して他言無用、とりわけこれから戦に出ようとしている龍兵衛と景資には何があっても口にしないように謙信が直々に命じたものであるからだ。

 

「罪人を裁くようなものです。それに、軍師がこれより望む戦に対して知らない情報があっては困るでしょう?」

 

 道理であるが、知ったところで何か利する訳でもない。本当に大丈夫なのだろうかと心配そうにしている景勝だが、彼は特に気にしていないようなので大丈夫なのだろうと思った矢先だった。

 

「本当は大丈夫な訳ないんですけどね」

 

 急に表情を暗くして溜め息混じりに言い出した。悔しそうに唇を噛んで手を額に当てている。

 その様子を見ていると景勝は自然と頭を下げて自分達の不注意を詫びようとしていたが、慌てて龍兵衛がそれを止める。

 景勝が頭を下げるような問題ではない。管理していた者達、つまり軍師達も含めた将達の責任だ。しかし、景勝は自分もその一人であると言って聞かない。

 とはいえ、ここで責任が誰にあるかなど言っている暇はないことは二人共重々承知している。

「その話題はこの辺で」と龍兵衛は手で示すが、それでも溜め息が出てくる。

  

「それにしても兵糧の三分の一がやられるとは・・・・・・」

 

 正直言って大き過ぎる失態である。間者によって謙信が率いる筈であった一万ニ千人分の兵糧が焼き払われてしまったのだ。

 さらにその中には龍兵衛達が持って行く筈だった補給もあり、それをかれらに渡すと自然的に六千人分の兵糧しか残らないことになる。

 警戒が嫌でも弱まる深夜に起こった為に警備兵の隙を突かれてのことであった。

 このおかげで謙信達は六千人分の兵糧を手配する為、出兵にさらに時間が掛かることになった。

 龍兵衛達が率いる三千、魚津城にいる一千の兵、対するは富樫晴貞率いる三万の兵。

 元々奇襲する為に兵力は必要最低限程度に抑えていたのがここにきて弱味と言いますなってしまった。

 数を見れば明らかにたとえ上杉が籠城戦を選択しても、保って数週間程度、勝てる見込みどころか間違いなく負ける。

 

「魚津城、諦める?」

「それは危険過ぎます」

 

 そもそも魚津城は椎名康胤が神保に攻められた際に上杉を頼り、その後はほぼ暗黙の了解で上杉が実行支配していた。

 魚津城は越中に侵攻する際に富山に行くにしろ松倉に行くにしろ必ず通らなければならない重要な城。魚津城を失うのは西に侵攻する基盤そのものを失うに等しい。

 

「勝てる見込み、無い」

「先程申したように負けなければ良いのです」

「負ける?」

「皆様次第です」

 

 兵糧を集めるのに全力を尽くすと颯馬達は言っていたが、今は夏。年貢が入ってくる時期ではない。

 選択肢としては買い占めるか春日山の貯蔵庫から出すか。両方行ったとしても八千人分の兵糧を集めるのは手間がかかる。

 

「龍兵衛、行きたくない?」

「いいえ、行かなければ。今後の上杉が天下に上り詰めることが出来るか出来ないかを決める重要な防衛戦になります。敵に民がいようとも迷いはしません」

 

 はっきりと言い切った。颯馬達の前では二人のことを考えてあのように言ったが、彼の心はもう既に新発田城に進軍した時から戦へと向いている。

 越後から西へ行く為に、負けない可能性が無くても魚津城は守らなければならない要地。たとえ相手に民がいようともかれらは己の意志を持ってして上杉の支配を受け付けようとしていないと考えればそれを取り除くことに躊躇いはない。

 謙信に民にはなるべくと言われたが、おそらく晴貞から解放された後にかれらに待っているのは絶望のみ、ならば手始めに越中の民を見せしめにすることもやむなきこと。

 幸いにも織田の比叡山焼き討ちの印象が強過ぎた為に越中という辺境の地での行いはそれほど強い印象は残さないだろう。たとえ誰かが声高に叫んでもその者が生きている限り戦で気が滅入った狂人の妄言で片が付く。

  

「まぁ、戦に出る以上はむざむざとこの首をくれてやる訳には行きませんから」

 

 音を立てられと首を打っておどけると景勝も少し表情が緩んだ。しかし、またすぐに心配そうな顔に戻る。

 

「死んじゃ、駄目」

「心配性ですね。まぁ、死ぬ気はありませんよ」

「・・・・・・」

「はは、そう睨まないで下さい。可愛い顔が台無しですよ」

 

 誤魔化すようにそう言うと龍兵衛は景勝の前から辞して自分の部屋に戻って行った。

 景勝にはあれで意外と負けず嫌いの龍兵衛の本心は勝利したい方向に向かっていると分かった。そして、今まで生きようとしてきた心持ちから死ぬ気が芽生えていることも感じられた。

 何があったかは知らないが、まだ死なせる訳にはいかない。景勝にとって彼がどう変わろうと彼に対する景勝の愛は変わることはないのだ。

 その為にも自分に出来ることを精一杯やらなければ、今生の別れとなるかもしれない。そう考えると景勝の足は自然と兵糧庫に向かって行った。

 

「はぁ、鋭いなぁ」

 

 景勝が何も言わずにただじーっと何かを見つめる時、それは何かに興味を持った時か、違和感を感じた時に行われる。

 おそらく生きるか死ぬかの選択を迫られた時に生きる選択を捨てる可能性も出ていることを感じ取られたのだろう。

 なんとなくだが、察することが出来た。もちろん簡単に負けてやるつもりはさらさら無い。やることをやってあわよくば勝利を収めることが出来れば尚良い。

 一方でそう決意を固めながらもう一方で別のことを彼は考えていた。

 それは先程、颯馬達に兵糧を焼かれたことを聞き出した後のことである。どう考えても疑問に残ることがあった。  

 

「しかし、妙だな」

「ああ、妙だ」

「まったく、妙だな」

 

 三人は口を揃えて肯定し合った。兵糧が軍の命であることに変わりはない。しかし、命故に警備もかなり厳重である。

 狙われたのが夜であったとはいえどうやってそこまで入り込めたのか。

 加賀には段蔵が選び抜いた精鋭達が間者として潜り込んでいる。ちなみに景資が訝しんでいたが、その次に実力のある者達は殆どが京にいる。

 しかし、京からは定期的に情報は入って来ずに一方で加賀からは定期的にちゃんと段蔵や軍師達の下に情報が入ってくる。

 さらに春日山や越後の主要地域でも影で捕まえられる間者は圧倒的に加賀の手の者が多い。

 要は加賀にはそれほど間者を見抜く実力者と間者として、軒猿や越後の面々を欺ける者がいない。

 にもかかわらず、上杉の警備の合間を縫って兵糧を焼くなど常識的に考えても有り得ない。

 そうなれば考えられる道筋は一つしかない。

 

「本願寺は本当に上杉を潰す気だ」

 

 兼続の言葉に二人も頷いて間違いないと断定する。本願寺は北陸から東北を浄土真宗色に染め上げて織田を滅ぼし、己達が天下を牛耳ることにしたのだ。

 織田との直接の戦いで旗色が悪くても最後に勝とうとしている。

 

「なかなかに強かだな・・・・・・」

 

 颯馬の溜め息が部屋を支配したように静まり返る。

 だが、晴貞は本願寺とは表向きは忠誠を誓っているように見えるが、その内実は己の欲望を満たすことにしか興味がない強欲者。

 上杉が負ければ間違いなく本願寺から独立して自分の思うがままの国家を形成するだろう。

 そのような危険性があるにもかかわらず、何故に本願寺は晴貞を飼い続けているのかが分からない。

 

「まさか、本願寺の後ろに大きな影があるのか?」

「龍兵衛もそう思うか。俺もそう考えていた」

「だが、たかが寺院に積極的に力を貸すようなところがあるのか?」

 

 たしかに本願寺は元を辿れば所詮は宗教を広める為の団体である。

 武家にとってかれらの力が侮り難いとはいえ、その力が台頭し過ぎることは決して面白いと言えることではない。

 だが、現実に本願寺は今は状況が不利とはいえ織田と渡り合える実力を持っている。その力を利用する者が現れてもおかしくない。

 

「なぁ、ふと思ったんだが、伊賀や甲賀の忍を本願寺が雇って富樫晴貞の下に送り込んだとしたらどうよ?」

「危険なことだが、段蔵からは報告は無いんだろ?」

 

 首を縦に振って龍兵衛が肯定するが、颯馬は彼が言うことも一理あると考えた。もしかしたら本願寺以外に上杉の台頭を快く思わない輩がいるのかもしれない。

 水面下で優秀な忍を持っている北条や武田が工作している可能性も考えられる。

 

「だが、今はそういう訳にもいかない筈だ」

 

 兼続も調べているが、武田が大きな工作をしている報告は今のところ無い。

 今、上杉がいなくなれば北条や武田は逆に危険な状況になると三人は考えていた。

 上杉がいなくなれば織田は混乱する東を間違いなく攻める。そうなれば織田と戦は回避出来ず滅びの道を歩むしかない。

 逆に上杉の領地を掠め取ることも可能だが、背後に今川や徳川の脅威があり、勢いに乗った富樫と特に武田は戦いをしなければならない。

 逆転を狙うなら今は上杉に困難を押し付けて程良く弱まってから攻める方が良い。

 

「もっとも、北条はともかく武田はそう思っているんだろう」

 

 颯馬の言うことは正しい。北条は天下よりも関東の安寧に心を砕いている。

 武田信玄の場合は天下統一を最終目標にしていて、上杉を敵視しているだけにその可能性が高い。

 そうなるとやはり黒幕は京にいるとしか考えられない。実際に以前も同じようなことがあったのだから。

 

「一つ、この戦が鍵になるな」

「頼む。何としてでも魚津城は守ってくれ」

「分かっている。お前達も早く、な?」

 

 颯馬と兼続が頷いて返す。

 全ては越後の空に暗雲をもたらさない為に、力を尽くして謙信と景勝、そして越後の民を守る為に。

 立ち上がって出て行こうとする龍兵衛を二人が呼び止めた。

 

「今回の戦、負けるなよ・・・・・・」

「・・・・・・兵糧を二度も焼かれるようなことしたらただじゃおかないからな」

 

 背後の颯馬の声に振り返らず、抑揚のない口調で返すと龍兵衛は出て行く。

 二人から何も反応はなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十六話 灯は希望か、絶望か

「申し上げます。上杉軍は魚津城に援軍を派遣した模様。その数、三千程かと」

「うむ、ご苦労」

 

 富山城では富樫晴貞が将兵達を集めて軍議を行っていた。とはいえ、殆どの将は頭を下げて彼の面構えを見る者はいない。

 辛うじて彼の隣にいる畠山義慶がちらちらと見ているだけである。

 

「援軍を率いる将は誰か?」

「河田長親を大将に、吉江景資と太田資正が副将として」

「追放された反逆者に、どこの馬の骨とも知らぬところから成り上がった者に、元は山内憲政の家臣とは・・・・・・はっ、よほど上杉が人材がいないと見える」

 

 言い終えると下品な笑いを上げながら晴貞は「な? な?」と諸将を見渡す。将達は頭を下げて「ごもっともです」と頭を下げてそれ以上何も言わない。

 誰も何も言わずにただ晴貞は低い笑い声が響く中ででおずおずと義慶は口を開く。

 

「富樫殿、その・・・・・・河田長親は上杉の中でも軍師としての能力は高く、吉江景資や太田資正も勇将です。あまり侮っては、足元を掬われかねないかと・・・・・・」

 

 蚊の鳴くような声であったが、他の者が沈黙を保っていた為にその声ははっきりと晴貞の耳に入った。

 晴貞は今まで義慶がこちらの顔色を窺っていたことに気付いていなかった為、驚いて義慶を見たが、すぐに口元を笑わせて彼に近寄った。

 

「そうだな、その通りだ。相手が誰であろうと油断はいかん。済まないな義慶殿、今の言葉で目が覚めた」

 

 はっはっ、と笑いながら背中を叩いて再び元の位置に戻るとすぐに晴貞は軍議の締め括りに各々に指示を出した。

 各々が無言で頭を下げながら出て行く。その中には義慶の妹である義隆や神保長職が娘の長住もいる。二人共、文字通り晴貞に篭絡され、心を無くし、傀儡となってしまっていた。

 軍議を散会させて全員が出て行くのを確認すると晴貞は再びにっこりと笑いながら義慶に近付く。そして「お礼を言わなければ」と言うと普段は決して見せない怒りの形相を露わにして義慶に殴りかかった。

 

「余計なことをしやがった礼だ。たっぷりとくれてやる」

 

 何発何発も足りないと言わんばかりに殴り続ける。義慶も流石にやられっぱなしではなく、止めてくれと目で訴える。しかし、それが逆に晴貞の怒りの火に油を注いだ。

 

「ふざけるな。お前は飾り物、口出しする資格はない」

 

 笑いながらそう言って、さらに殴り倒す。胸倉を掴みながら倒れそうになっている義慶を起こして殴るだけでなく膝で蹴りも入れる。

 義慶の顔が鼻血と唇が切れて出てきた血で真っ赤になってようやく晴貞は殴るのを止めた。そして、彼の胸倉を突き放すとその顔面を足で押し付けて転がすように足裏で頬を撫でながら義慶を見下す。

 

「言ったよな? お前は見逃してやると。ここにいる連中は俺が本願寺からの命令だと言えば簡単に動いてくれる。素面でいたかったら大人しくしていることだ。もし今度邪魔するようなら・・・・・・反逆者として処刑してやる」

 

 返答はない。義慶は気絶して何も聞こえていない。舌打ちすると晴貞は恨みを晴らすように義慶の脇腹を蹴ると軍議の間から出て行った。

 

「ふんっ、大人しくしていれば良かったものを。まったく要らぬ時間を掛けてしまった」

 

 忠言は耳に痛いというが、独善的な晴貞にとって人からのそれは本当に邪魔なものである。

 こうなったのも全ては義慶が首を突っ込んできたせいだと考えていた。

 だが、すぐにそんなことを忘れて、彼はニヤニヤと笑い出した。

 

「もうすぐだ。もうすぐでお前を殺せる。そして、俺が俺の為の天下を作る一歩が始まるのさ・・・・・・」

 

 廊下を笑い声が支配した。そして、彼はここにはいない最大の邪魔者に向けて最高の礼を以て八月の照りつける太陽が立ち上る空に伝えた。

 

「なぁ、上杉謙信」

 

 

 

 

 

「今夜には魚津城に到着するので支度を怠らないようにしてください」

 

 龍兵衛がそう伝えると将達は一層表情が険しいものになった。

 急ぎに急いで不動山城と天神山城での補給もそこそこに昨夜は野営となってしまったが、そのおかげもあって一向一揆勢が魚津城を包囲して四日目の日に魚津城に入ることが出来る。

 魚津城を守る斎藤朝信は三万の兵に臆することなく、また城内の将兵達も逃亡者は一人もいないままに城を守っていると報告が入っている。

 後は援軍の先鋒として出立した上杉軍三千が夜陰に紛れて魚津城に急いで入るだけであるのだが、ここにいる四人の将、龍兵衛の他に景資・資正と天神山城から合流した寺島盛徳はさっさと城に入ろうという気はさらさらなかった。

 聞けば、魚津城を包囲してから晴貞は三日間の間、昼も夜も交代で休むことなく攻め続けているらしい。

 いくら傀儡のような物に化したからといって中身はただの人。疲れも溜まることはある。

 そもそも籠城戦は守っているだけでは敵を撃退出来ない。敵の一向一揆勢は意気盛んでどこかで士気を挫くことが必要になってくる。

 籠城している斎藤朝信率いる一千の兵では夜襲を行っても敵が二手に別れ、一方で足止めを喰らってもう一方で少ない兵力がさらに少なくなったところを魚津城を攻められては一溜まりもない。それも昼も夜も休むことなく攻めている一向一揆勢にそのような隙は無いと見た方が賢明である。

 つまり、逆に取れば魚津城に敵の目は行っていて周辺に対する目は疎かになっているということだ。

 

「全員に一刻程進軍した後、休みを取って夕暮れ時になったらすぐに進軍を開始します」

 

 幸いにも不動山城の先の謙信出奔の際に粛清された山本寺定長の弟、山本寺景長が一千の兵を貸し与えてくれた為に戦力は増強している。

 景長自身は自分も行こうと鎧まで準備していたが、そこは流石に四人から止められた。

 仮に魚津城が落城して景長が死んだらどうなる?

 では、その時に貴殿らが死んだらどうなる?

 その言い合いをした結果、謙信と一緒に来るようにするという妥協案で決着した。詳細を言えば、景資が怒気を孕んだ気を出して半ば強引に行った訳であるが、それで彼は了解したのだから良かったのだ。

 あまりやりたくなかったが、致し方ないのであったのだ。いくら相手が上杉の庶流であってもこれぐらいは許される。

 要らぬ思考が働いた頭を内心で叩く。龍兵衛は三人が頷いて異論があることを確認するとそれぞれに指示を出して自身は地図を片手にどこを攻めるべきかに思考を集中させた。

 

 

 春日山城では誰これ構わず人々が走り回っている。 兵糧の運搬が主な仕事であるが、主力の将兵達が敗北必至の戦に挑もうとしているのを前に、急いで救援に向かわなくてはと思う心が皆の足を走ることに変えている。

 弥太郎や兼続が汗を拭うことも時間の無駄だと言わんばかりに矢継ぎ早に兵達へ指示を出している。  

 無論、颯馬や本庄実及らも情報を探り、決して手を緩めることを許されない状況が続いているのは確かである。

 時には謙信や景勝、あの慶次も自ら腰を上げて兵糧の運搬の指示や徹底した兵の調練の監視も行った。 

 とはいえ、なかなか八千人分の兵糧を集めるのにはかなりの苦労を労する。しかし、それ以上に魚津城にいる斎藤朝信やこれから魚津城に入る龍兵衛達を思えばそれ程の苦労とは思っていなかった。

 特に慶次が真面目に仕事をしていた時は全員が驚き、ある人は目を何度もこすり、ある人は夢ではないかと頬をつねり、ある人は顎を外して、ある人はこれは明日は雨が降ると準備をし、ある人は慶次に霊が乗り移ったと加持祈祷をするべきだと謙信に直訴するという有り様だった。

 

「ふぅ・・・・・・」

 

 謙信は汗を拭いながら一時の休憩に入った。周りには颯馬や兼続達が謙信同様に水を含み、景勝も一緒に座って可愛らしく団子を頬張っている。

 

「颯馬、兼続、済まないな。ここまでお前達を使って」

「いえ、お気になさらず。謙信様や景勝様までがこうして働かれているのですから我らも休む間もありません」

 

 律儀に兼続がすぐに答える。疲れの色は見えないように見えるが、明らかに誤魔化している。文字通りの三日三晩、ほぼ不眠不休でやってきているのだから体調を崩さない方だけでも褒めておくべきである。

 

「ほう、暗に休ませろと言っているようにも聞こえたのは私の気のせいか?」

「ぶっ!? ち、違います! 謙信様の勘違いです!」

「なんだ。結局、私のせいか」

「ですから、違います! 言葉を選ばなかった私のせいです!」

 

 水を吹き出してすぐ否定したが、謙信のせいと言っているようにも聞き取れるような物言いをして、謙信は迷うことなく重箱の隅をつつくようにじとっとした目で兼続を睨むと兼続は周りがその様子に笑いを堪えているのを気にせず、慌ててまた否定する。

 最終的に謙信が笑って「冗談だ」と言ってその場は収まった。

 上杉がこれほど気楽なことが出来るのは順調に行けば、予定していたよりも早い時期に援軍を送り込むことが出来ると計算上は可能だと判断しているからだ。

 

「京からの報告も無い。これでは救援して終わりかな」

「今度こそはあいつを斬ってやれると思ったんだが、残念だ」

 

 謙信も弥太郎も吐き捨てるような物言いでここにはいない忌々しい輩が最大の軽蔑をするのに値することを物語っている。

 京から報告が無いということはどこかで揉み消しがあったからだと判断して良い。そうなった以上は本願寺が織田に負け、影響力が弱まるのを見計らって加賀を攻めるのが良い。

 本願寺が敗れるのにはさほど時間は掛からないだろうというが判断で、いっそ伊勢長島の一向一揆勢に本願寺の目が行っている隙に攻めるという意見も出始めている。

 これは兼続が主張している論だが、おそらく龍兵衛が戻ったらまた言い争いになるだろうなと謙信は思っていた。

 龍兵衛はこのことには慎重派で、将軍家の力が借りれなかったら、本願寺が敗れるまで待つべきだとずっと主張してきたからだ。

 謙信自身は正直どちらにも道理がある為に迷っている。だが、越後国内での浄土真宗の影響力は弱まり、国内での一向一揆の反乱が起きる可能性は低くなったのでそろそろとは考えていた。

 

「弥太郎、兵に遠征の準備もさせておいて何も収穫なしで撤退するなど笑い話だ」

「・・・・・・なるほど、分かった。明日から兵の調練をより強化しよう」

 

 北陸の安寧は上杉の安寧に繋がる。その為への過程は違うとはいえ、四人はその最後の決着点はそこだと一致していた。

 ならば、自分は上杉家当主として今の状況下で最も良いと判断した選択肢を選ぶのみ。そして、それを聞いた時、兼続の顔が興奮で紅潮したのを謙信は見た。

 

 

 

 

 

 魚津城は本来、松倉城の支城である。築城年代は定かではないが、室町時代に守護畠山氏の守護職椎名氏により築かれたといわれる。

 北陸道に築かれた為に後に上杉が築いた天神山城と共に越中に進軍するにせよ、越後に進軍するにせよ重要な拠点である。 

 その為に長く上杉家に仕え、知勇兼備で有能な斎藤朝信がここを守っている。しかし、将が有能で兵が精鋭であっても意味を成さない時はある。

 

「しかし、壮観だ・・・・・・」

「呑気なことを言う。お主も大分余裕が出てきたのう」

 

「善き哉善き哉」と隣で面白そうにしている景資も変わらないだろうという指摘を内心でしつつ、再び城内の櫓から城外の一向一揆勢を見る。 

 今のように目の前に三万によって城を包囲された時である。質が数によって押し潰されるのはよくあることである。

 かれらが着陣する前までの三日間、彼は三万の兵に対して僅か一千の兵で城を守っていた。それだけでも彼の力がどれほどのものか分かる。

 それを彼に面と向かって到着した四人が称賛すると朝信は手をひらひらされて「大したことではない」と否定した。

 その顔は照れ隠しや謙遜をしているのではなく、本当に大したことではなかったと書いてある。

 

『一向一揆勢は三万と唄っているが、実際に戦闘を経験している正規の兵は後ろに控えている。城攻めの前線には武器も装備もままならない民兵のみ。あの者達が退けば富樫の下郎はかれらを容赦なく自身の配下に斬り捨てるつもりだろう。今まで我らが戦っていたのは戦いの前哨戦に過ぎぬ。おそらく、これからが本番ぞ』

 

 それは龍兵衛も考えていたことであった。かれらの主力である正規兵は一万五千、民兵も一万五千。実際に戦を出来るのは前者の一万五千。必ずどこかで全軍を使った総攻撃を仕掛けてくる筈。そう考えた彼は毎日、気を抜かずに敵陣営を見張っている。

 

「しかし、斎藤殿はそう言っていたし、俺もそう思っていたけど、援軍が来ても向こうは正規の兵を使おうとしないな」

 

 城に入って三日目、三万の兵は一割程度はやられている。その殆どが民兵で、正規の兵は無傷のままと言って良い。一方の民兵は一旦体勢を立て直さないと堂々巡りを繰り返すような状態になっているのは城からでも分かっていた。

 

「妾達の目を民兵に釘付けにして、他の策を考えているのやもしれんな」 

「天神山城を襲うと? それは流石に危険ですよ。富樫もそれは分かっているでしょう」

 

 晴貞は残虐非道、冷酷無比で上杉家中には名が通っているが、加賀や能登、越中を一代で席巻した手腕は侮れない。

 天神山城は小国頼久が二千の兵で守り、不動山城の山本寺景長の送った一千の兵が援軍として入っている。

 頼久も当然のように援軍を派遣しようとしたが、朝信も龍兵衛も断った。天神山城の兵が手薄になったのを知れば、間違いなく晴貞は動く。

 動きたくなる状況であるのは間違いなないが、そう誘発させるように晴貞はさせているのかもしれない。

 

「富樫晴貞の狙い通りにはさせない。貴様には最大の侮辱と残虐さを併せ持つ処刑方法で殺してやる・・・・・・」

 

 龍兵衛のこめかみに青筋が沸き立つように出来上がり、怒りを露わに彼は隠そうともしない。

 隣にいた景資は珍しくはっきりとした彼の意思を聞いて少なからず驚いたが、周りにいた兵達もその言葉に改めて表情を引き締めて奮起したように見えた。

 

「そういえば能元は如何した?」

「謙信様に頼んで置いてきました」

 

 あっけらかんと言ってみせた龍兵衛に景資は空いた口が塞がらない。

 

「このような状況で不協和音を招くような存在はじゃまにしかなりません。兵だけ借りてきて、兵糧を送ることに専念させました」

「随分と怒ったのではないか?」

「ええ、しかし、それが最適かと」

 

 万全と期して魚津城を守る為、ならば致し方ないと景資も息を吐いて頷く。

 

「呆れました?」

「当然じゃ」

「富樫程倒したくて仕方無い存在はいないのでね」

 

 そう言われると否定出来ない。何故なら景資も晴貞を恨んでいたからだ。

 将軍の時から加賀は一向一揆によって当主は傀儡となっていると聞かされていたが、蓋を開けてみれば加賀の国主は己を殺めんとした三好と同じぐらいに許されざる輩であった。

 向こうの陣営にいるであろう神保長住の父、長職は病の為に春日山城で療養している。

 景資は龍兵衛達と長職の下に出立前に向かい、必ず長住を奪還するように約束した。しかし、長職は首を横に振って「気休めにもならん」と否定した。

 

「私もかつては一国一城の主であった。そして、富樫晴貞という男をよく知っている。また、今の上杉の状況もな」

 

 以前と変わらない人に言い聞かせるようで、相手を不機嫌にさせない物言いで布団から身体を起こして続ける。

 

「奴は一度ものにしたものを離しはしない。そして、上杉には本願寺が後ろにいる奴を討つことが、織田の台頭を考えて難しい」

 

 一度咳き込むとぐっと景資達に身体を近付けて病人とは思えない鋭い目つきで三人を見る。

 

「魚津城を守るので精一杯の今、どうやって娘・・・・・・長住を奪還することが出来るのだ?」

 

 景資は答えに窮した。理に適い、現実的に難しい。それは重々承知していた。それでも長職の病が少しでも良くなることを信じ、良かれと思い言った言葉が逆に彼に陰を指した。

 

「そうやって諦めるのは如何なものでしょうか?」

「何?」

 

 龍兵衛は即答であった。景資達も驚いたが、最も驚いていたのは間違いなく長職であろう。一番状況を熟知している筈の男が何故か一番に反論をしてきた。

 

「たしかに早々と無理と諦めるのはこの状況下ではやむを得ないことかもしれません。されど、やってもいないのに駄目だと諦めてはやれることもやれなくなります・・・・・・」

 

「違いますか?」と問い掛ける視線の先にいる長職はおとがいに手を当てて考え込むとすぐに顔を上げた。

 

「お主、では長住を取り戻す策があると申すのか?」

「いいえ、今のところはありません」

「なんじゃ、少しだけ期待した私が馬鹿みたいではないか」

 

 長職は笑い、龍兵衛も笑う。他の者は二人のやり取りを見守るしか出来ない。堂々としているのは景資ぐらいだ。

 笑いが収まると長職は横になって「もう良い」と手で示す。布団の中からでも機嫌が悪くなったのがよく分かった。

 

「ですが・・・・・・」

 

 景資達二人が立ち上がって部屋を出ようとする中で龍兵衛だけは布団の中を覗き込んだ。

 

「自分はたしかに『今はない』と言いましたが、絶対に不可能とは申していませんよ?」

 

 その言葉をした途端に布団の中の雰囲気が変わったのを景資は感じ取った。すると、長職は再び起き上がって訝しげに彼を見る。

 

「まさか、この戦に勝機があると考えているのか?」

「それは難しいでしょう。しかし、我々も負ける気は全くありません。必ず魚津城は守り抜いてみせます。謙信様は援軍として来着し、一向一揆勢を追い払った後におそらく越中を攻めるでしょう。どうです? もしかしたらあなたのご息女を奪還する時が出来るかもしれませんよ?」

「お主、どうして謙信公が越中を攻めると?」

「ただの推測ですよ。まぁ、外れた場合でも、ひょっとすればひょっとすると、ご息女は帰ってくるかもしれませんよ?」

「城を守るので精一杯の状況であるのは分かっておろう。何故にそこまで言い切れる!?」

 

 喉の奥から叫ぶような声を出したせいか長職は酷く咳き込んだ。慌てて資正が駆け寄り、彼の背中をさする。落ち着いたのを見計らって龍兵衛は口を開いた。

 

「少しでも希望があるのに何故最初から諦めてかかるのです? たしかに一向一揆勢に勝てない可能性は高いですが、負ける可能性が高い訳ではない。さらに言えば、神保長住殿をお救いする可能性もある訳です? 違いますか?」

 

 再び長職は笑った。今回は軽く鼻で笑うものだったが、明らかに先程とは違って雰囲気は緩いものであった。

 

「ふん、若造が、言うではないか。まぁ、良いだろう、期待して待っている。勝てたらなお良いがな」

「気休めにもなりませんね」

「言ったつもりもない」

「こりゃ、失敬」

 

 長職はもう一度軽く笑うと手で下がるように言うと長職は再び布団の中に入った。

 それから二人は櫓へと登ったが、途端に龍兵衛は頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。慌てて景資は顔をのぞき込む。しかし、途端に笑ってしまった。

 

「まぁ、悪いことを言った訳でもないのに、あそこまで恥ずかしがることはなかったろう」

 

 どうやら龍兵衛はあの時何も考えずに勝手に言葉が出ていたようで顔を少し赤くして、それを誤魔化す為に唇を噛み締めていた。

 先程のことが恥ずかしがったのかと単刀直入に聞いてみると慌てて「何のことでしょう?」と取り繕おうとして柱の角に足の指をぶつけて悶絶しているのを見ていたら嫌でも分かる。

 

「よいよい。誰にも言わぬ」

「笑いながら言われても信用出来ません」

 

 櫓を降りながら和やかに話していると戦場であることを忘れてしまいそうになる。少なくとも劣勢にたたされているとは思えない雰囲気だ。

 

「申し上げます。敵軍に動く兆しがあります」

 

 櫓にいた兵の声が降りかかる。見れば、敵は陣形を変えて一気に城門を突破する為に動いている。

 

「出丸を取らず、一気に虎口を破る腹積もりですか。景資殿、どうやらお喋りはここまでですな」

「まったく、空気の読めない連中じゃ。仕方ない。憂さ晴らしと参るかのう」

「養父と会う暇も無いとは、至極残念ですな」

 

 彼女の形上の養父である吉江宗信が出丸にて指揮を執っているが、時間を割いて様子を見に行くことが出来ていない。

 

「まぁ、終わったらゆっくりとな」

「では、早くあの者達の目を覚まさなくては」

 

 敵軍の目を覚まさせるには晴貞を討ち取ることが必要になる。今回は不可能かもしれないが、まだ望みが絶たれた訳ではない。信じて時を待てば見える光もある。

 

「資正殿と盛徳殿を北の郭と南の郭に向かわせて、万が一に備えて西にも兵を派遣しましょう」

「良かろう。采配は任せる・・・・・・行くぞ!」

 

 景資は戦闘へ頭を切り替え、愛刀達は揃えて颯爽と前に出た。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十七話 捨てるもの

無茶苦茶な理屈のオンパレードですが、如何せんこういう風にしか書けないのです・・・・・・


 見える旗印には見覚えのあるものが殆どだった。

 富樫の『八曜紋』神保の『竪二つ引き両』畠山の『足利二つ引き』の三つの種類の旗がたなびいている。

 北陸の諸大名の揃い踏みということは明らか。その中で一番多く風に揺られてたなびいている旗は富樫の旗だ。富樫晴貞が一向一揆勢の実質の総大将なのだから当然である。

 その隣や各所に別れている畠山と神保の旗。それで一向一揆勢がどのような配置をしているのかがよく分かる。

 民兵が相変わらず先頭に立っているのが、その後ろでかれらの援護が出来る場所と中央で富樫の軍勢に囲まれるように二つの家の旗は立っている。

 それを城内の櫓から見ていると自然と龍兵衛は溜め息が出てきてしまう。

 どう見ても神保と畠山は前に攻め込むしかない。仮に下がろうとすれば間違いなく富樫に斬り捨てられるだろう。

 二つの家の戦力を削って自分達は高みの見物により富樫に頼らざるを得ない状態を作ろうとしている考えが見え見えで、富樫が一番上に立とうとする野心だけが切実に見えてくる。

 その利己的な野心だけは他の大名達と同じである。

 別にそれを批判する気は全く無い。上杉も天下統一を最終目標としている為に野心が無いと言えば明らかな嘘である。

 しかし、謙信と晴貞の明確な違いがある。諸大名と晴貞の明確な違いは民を平気で戦に巻き込み、その犠牲も厭わないところだ。

 晴貞が民兵を連れて来たのは万が一朝倉が侵攻してくることを考えて兵を残す必要があった為である。

 足りない兵力を浄土真宗信者の民に謙信がその排斥を企み進軍していると唄い、志願兵で埋め合わせたのだが、その民兵を城攻めの最前線に使うとはさすがに斎藤朝信も面を食らった。

 民兵の殆どは負傷しているにもかかわらず、遮二無二攻めかかってくる。

 民を傷付けるのは当主の謙信が最も嫌うことであり、朝信自身もやりたくなかった。しかし、目の前の民兵は技量こそは上杉の兵に適わないとはいえ、敵を殺そうとする殺気は本物であった。

 浄土真宗の敵と上杉を見なし、そのような他宗教を信じる輩を全て排してやろうという意志が見え隠れしている。

 だが、朝信としては早く謙信率いる援軍と共に晴貞が率いる正規兵のみを討ち取りたいと考えていた。

 龍兵衛達の夜襲によって正規兵にも犠牲が出た。その時、朝信も援軍が敵軍を襲っているのを旗が乱れているのから見抜いて出陣し、挟撃によって敵に損害を与えた。

 その結果として一時は敵本陣にまで後一歩というところまで敵を追い詰めた。

 そこから晴貞は激怒したのか援軍が来る前よりも攻勢を強めて徹底した力押しを敢行しているが、この一週間でその効果は無い。

 一向一揆側の損害は少なくとも民兵に二割以上、正規兵にも一割は出ている。しかし、上杉側も四千の兵の内、二百程が死傷している。

 民兵の士気は異常なまでに高い。たとえ一人になろうとも最後まで敵に向かってくる。負傷兵の中にはその気迫に押されて気分を悪くした者までいるほどだ。

 このままいけば間違いなく魚津城の陥落は時間の問題だが、城内の将兵達に焦りは全くなかった。ここを守るのは二週間から三週間で良いと分かっていたからである。

 謙信は一万二千という一向一揆側よりも少ない兵を連れて来る予定だが、一向一揆勢の正規兵のみを相手にすれば不動山と天神山の兵、魚津城の兵を併せれば約二万になる。

 その時に謙信が敵本隊を叩いて魚津城の兵は民兵との戦を極力避けつつ戦えば良い。

 全ては援軍が来てからの話だが、今の現状を見て一向一揆勢の状況は苦しく、こちらの状勢が有利である。

 

「斎藤様、敵軍が攻撃を開始しようとしています」

 

 頷いて答えると朝信は立ち上がって前線に向かう。城主である自身が前に立てば否応なく味方の士気は盛り上がる。

 ちなみに景資や資正も自ら武器を握って敵を次々と倒しているのを見て己の血が騒ぐという個人的な理由も含まれている。

 外に出れば走り回る兵の中でじっと敵の様子を見ている一人の軍師がいた。

 河田長親、かつては美濃で活躍しようと言った時に内乱に巻き込まれて何の縁か上杉に仕え始めた軍師だ。

 最初こそは内乱の中で謀反を企てていたということを風の噂で聞いたいたので警戒していたが、謙信は気にせずに彼を使い、彼もそれに応えて着実に成果を出している。

 本人も最初こそはそのことを気にしていて落ち着いた性格をしていたが、次第に表情の起伏も豊かになってきた。

 軍師の中では仕官してかなり短い為に家中での地位は高い方ではない。だが、政務に関して彼が関係しないものなど無いことを朝信は知っていた。そういう役職に付いて影から上杉を支えているのだ。

 戦に関しては後ろで軍略を練る方が向いていると広言しているが、今回の戦で戦術も的確なものを持っていると分かった。

 

「斎藤殿、何か?」

 

 そんなことを考えていると向こうは気付き、声を掛けてくる。何でもないと手で示すと朝信はその隣に立った。

 

「また民兵を前線に立て、正規兵は後ろにいます」

「何時まで続けると思う?」

 

 朝信の質問におとがいに手を当てて少し考えると彼は朝信の目を見て簡単に言った。

 

「おそらく、魚津城が落ちるまででしょう」

「我々に正規兵を使うまでもないと富樫は考えているのか?」

「ええ、おそらくは」

 

 しれっと言ってみせた龍兵衛に朝信は少なからず怒りを覚えた。とはいえそれは彼自身にではなく一向一揆勢に対してである。

 数が少ないとはいえ仮にも上杉家の重臣中の重臣であることに自負がある。その己に対して正規兵を何故に用いることをしないのか。

 

「推測ですが、富樫は民を斬り捨てるつもりなのでしょう。しかし、それが自身であれば風聞が悪い。ならば自分が敵対している人物に、またはその家の家臣に討たせようという腹です」

「まさか、謙信様や我ら上杉が民を多く殺めたと言いふらす気なのか?」

 

「仰る通り」と頷く龍兵衛を見てますます朝信は怒りを覚えた。しかし、ここは踏みとどまっておかなければならない。

 怒りを察したのか龍兵衛は「あくまでも推論ですから」と諫めてくる。それで心身共に落ち着けた。

 城を出て戦うことは可能かと聞かれれば朝信も首を縦に振るだろう。敵は数に任せて押し潰しにかかっている。

 魚津城周辺は北と南に川が流れている。城を出てそこに誘い込み伏兵を置くことも可能である。しかし、その策をあっさりと廃棄したのは目の前にいる軍師だった。

 朝信も何故に策を用いずに徹底した籠城戦を彼が選んだのか最初はよく分からなかった。やはり自身で言っていたように戦術の類は苦手なのか。そう思った。

 だが、今になって彼がどうして城から出ないのかが分かった。戦なのだから向かってくる民を殺しても仕方がないと言っていたが、彼も決して民を殺すことに積極的では無いのだ。そう思って朝信は龍兵衛を見ていると不意に彼の顔が険しいものへと変わった。

 

「如何した?」

「いえ、ここだけの話、謙信様の体面がある為に籠城戦を選択しましたが、敵兵をもっと効率的に減らせないことに苛立っていたのです」

 

 朝信は先程の考えを撤回した。決して慈悲深い訳ではない。軍師として割り切っているだけであくまで謙信が上にいるから攻め来る民を斬っているだけに過ぎない。

 残酷と言えばそのままだが、向かってくるのならそれは盗賊と同じだ。おそらく龍兵衛はそう思っているのだろう。盗賊に同情する欠片など微塵も無い。

 

「ああ、語弊がありますね。民の乱れは秩序の乱れ。たとえそれが自国の民でないとしても上杉の統治を良しとしないのならばそれはまずいです」

 

 訝しげな視線に気付いたのか龍兵衛は訂正するように言う。立ち向かう者が武人ならば彼は負けても命を取ることはしないだろう。しかし、民の反抗は上杉の民と共に生きるという概念が上辺だけというものであると他国の者達は捉えかねない。

 民を殺すような真似をすればどうなるか。悪い噂が立つことを彼は恐れているのだ。

 そして、富樫晴貞はそのことを知っている。

 

「俗物が、今度こそは首を斬ってやる」

「ええ。その為に援軍が来るまでは籠城に徹しておきましょう」

「しかし、謙信様がここに来れば謙信様が民を殺したと富樫は言うのではないか?」

「それは無いでしょう。謙信様が来た時には、もう戦は勝利で飾っているでしょうし」

 

 勝てば官軍である。負けた晴貞が何と言おうと彼の治める土地にしか広まらない。逆に上杉が富樫晴貞は民を見殺しにして逃げ出したと言った方が効果は強い。

 何故なら日の本の東側で名が売れているのは謙信の方なのだから。

 

「しかし、屁理屈にも程がある気がするな」

「理屈という言葉が入っているので良いんです。屁理屈を許せる立場に上杉はいるのですから」

 

 国が大きい時の利点を最大限に活かすという訳だ。悪いことを考える奴だと思いながらも軍師だから仕方ないと納得してしまった。

 不思議なことに先程の冷酷な物言いをした龍兵衛とは違う気がした。おどけるような言い方は先程までの面影が全く無い。

 たとえ覚えていようとしても戦が終わる頃にはあの冷酷な表情はおそらく忘れてしまうだろう。

 そんなことを考えていると埃が舞って鬨の声が聞こえてきた。

 

「来ますよ」

「ああ、全体の采配は任せる」

「承知」

 

 自然と朝信の身体に力が入った。勝てる可能性が低いと思っていたこの戦で勝機が巡ってきたから当然のこと。

 既に景資と資正は所定の位置に付いている。後は自分が前に、龍兵衛が全体の見えるように櫓に登れば準備は終わる。

 謙信の援軍が一日でも早く来るように切望する気持ちを抑えて彼は目の前の敵を討つように心を集中させた。

 

「鉄砲隊、放て!」

 

 資正の指揮で鉛玉が鎧も着けていない民兵を簡単に貫通していく。しかし、その屍を気にすることなく後ろから新たな民兵が城目掛けて突進してくる。

 

「続けて矢を放て!」

 

 矢が雨のように降り注ぎ、いつものように前線に立って向かってくる民兵に刺さる。

 このようなことをして何度目だろうかとここにいる将兵全員が思っている。いつものことをまるで昨日に戻ったかのように続けている。

 さらに続けて鉄砲と矢の一斉射撃が民兵に襲い掛かる。それでも民兵達は退こうとしない。鬨の声を上げて城門に迫ってくる。 

 魚津城は越中の上杉における重要な拠点である為に多くの武器兵糧が蓄えられているのでまだまだ籠城出来るが、こうも同じことの連続だと何を目的で向こうは攻めているのかと考えてしまう。

 何千、何百という人の兵を犠牲をしてでも戦う意義は何なのだろうか。先程、龍兵衛が推論を述べていたにもかかわらず気になってしまう。

 だが、今は生死を賭けて戦う戦。朝信が他のことに思考を持っていって良い時ではない。邪念を遮ったのは伝令の彼を呼ぶ声だった。

 

「斎藤様、木工助様(吉江宗信)から伝令。攻勢が激しい故に援軍を求めています!」

「分かった。百の兵を派遣する故それまで持ちこたえろと伝えよ」

 

 少し間が空いたが、平静を装って返答するとすぐに自分の拳で額を殴り気合いを入れ直した。

 結局、その日も城は落ちずに終わり、一向一揆勢の民兵は三割が倒れた。

 だが、終わらない。

 一向一揆勢は昼も夜も休まずに攻め込んで来る。龍兵衛の提案で三つに分かれて交代で防いでいるが、それでも魚津城を落とさんと民兵達は攻めて来る。

 将達もいざという時に力を蓄えておけるように一つの場所を交代で戦っている。事前に誰がどこを指揮するかは伝えている為に混乱を来すことはない。

 太田資正は手が空いていた為にこの魚津城の防衛戦に派遣された。

 

「はぁ・・・・・・」

「どうしたのじゃ、また溜め息など付いて」

 

 今日も共に戦った戦友の頭を撫でていると声が聞こえ、資正は顔を上げると景資が立っていた。

 

「何でもありません、とは言えませんね。実は、いつまで民を殺すのかと思っていたのです」  

 

 言いたいことが分かったのか景資も納得したように頷く。

 

「おそらく、援軍が来るまではこのままじゃな。龍兵衛もそう言っておった」

「そうですか・・・・・・」

 

 再び溜め息が出てくる。当然、資正も景資も武人であるが、上杉による天下の為に民を殺してまでも名を上げたいと思っていない。

 だが、援軍の指揮を委託されたのは龍兵衛であり今は城主にして総大将の朝信に対しても彼は民兵を正規兵として扱わざるを得ないと主張している。

 

「実際に向こうは妾達を敵と見なして襲って来ている。お主も分かるであろう? あの殺気は本物じゃ」

「はい、ですから私も相手にしている時は必ず民ではなく兵と見ています。しかし、戦が終わればそこに転がっている屍は鎧も着けていない者達ばかりです」

「されど、妾達が気重になっていても意味がない。このような策を取っているのは敵じゃ」

 

 それは正しい。富樫晴貞は落ちないのにもかかわらず、ずっと民兵を前線に出し続けている。どのような意味を持つのかは知らないが、城の将兵達の心を攻めているのだという考えも資正の頭には浮かんでいた。

 

「・・・・・・もしかしたらですけど」

「ありえるかもしれんが、そのような詮索は龍兵衛に任せて妾達は目の前の敵を討つことに集中せねば、武人たる妾達の役目はそれじゃろ?」

 

 静かに肯定すると景資は一つ頷いてそのまま兵達の様子を見に去って行った。

 気付いた犬を撫でて寝かせると資正は今度はあの景資の余裕な態度に羨んだ。いつものことだが、このような不本意な戦でも彼女は戦中の苛烈な攻撃の中でもその態度を崩さない。

 資正が景資について知っていることは越後を統一した辺りで謙信の下に仕え、当初は別名であったが、後に吉江宗信の養子になってとうとう上杉にその人ありと言われる人物になったということだけ、それ以外に関しては全く知られていない一種の謎の存在でもある。

 常日頃は謙信に対しても時々不遜とも言える態度を取ることもある為に他国衆から白い目で見られることも多々ある。しかし、謙信以下上杉の直臣達が気にしていないので結局「ああ、いいのか」という感じになっているのが日常だ。

 上杉に仕える以前の経歴については一切が不明だが、その肩を並べる者がいない刀の腕前によってかなりの手練れであることは分かっていた。

 滑らかな太刀捌きには味方である資正も彼女が纏う気に圧倒され、敵にも脅威の存在であることは間違いない。 

 魚津城は平城の為に門を突破しようとする民兵の他に城壁に梯子をかけて登ってこようとする者達もいる。するとその梯子の上に立っているのが吉江景資その人である。

 他の場所では梯子を登る兵達に矢や石を降らせ、梯子を落とすのだが、景資は城門防衛や弓隊の指揮を朝信や資正に任せ、自身の愛刀を鞘から抜くと登り切ってようやく魚津城の兵に襲い掛からんという敵を容赦のない圧倒的な力量の差で屍へと変えている。

 それでも魚津城を狙う一向一揆勢の民兵達はその首を取ろうと必死になっているが、結果的に無意味となってそれは無駄な挑戦となっているのだが、何故に無意味と分かっていながらも立ち向かっていくのかが分からない。

 分かっていればおそらくむやみに民を殺すことを朝信や龍兵衛が指示することは無いだろう。何か策を打って富樫晴貞の首を取ることが出来る筈だ。

 

「たしかに、このようなことは河田殿に任せていれば良いですね。私達は勝利する為に戦ならば民も兵と思わねば・・・・・・」

 

 不本意なところもあるが、景資の言う通りかもしれない。武人は考えることをしても今は戦であって平時ではない。

 謙信の直臣ではないとはいえ上杉に対しての恩は返しきれないものであり、それに戦働きで報いるのが武人の役目である。

 軍師の龍兵衛はきっと勝利を得て、民の犠牲を最小限にする策を取る筈だと信じておけば大丈夫だ。そう資正は自分に言い聞かせると立ち上がって犬と共に兵の様子を見に行った。

 資正が去って行った所に新たな人が立っていた。

 

「あの言い方からすると、俺が何か策を練っているように考えているな」

 

 犬に気付かれなかったことは幸運だった。先程までの資正と景資の会話から察するに二人は民を救う余地があると見ていた。

 

「(あの二人には悪いけど、それはお目出度い考えというやつだ)」

 

 音を立てないようにそっと立ち去る。その上には夏の夜空に星空が燦然と輝いていた。それがどちらに幸を招き、不幸を招くのかはこの場にいる者達には知る由もない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十八話 逆転

 一週間経っても魚津城は未だに落ちない。そのことに晴貞は苛立っていた。誰もいないこの場は紙・筆といった物が散乱している。普段振りまいている笑顔を無くしてただ物という物に当たり散らしている彼が原因であった。

 しかも昨日の戦では上杉軍の流れ矢よって民兵達を指揮していた畠山七人衆の一人である温井景隆が討ち死した。これに動揺した民兵達が少人数であるが逃亡した民兵達にも理性が戻って来て中には動揺がある者達が出ている。

 元々かれらは家族を捕らえられたり、加賀や能登の重臣達が行った罪を擦り付けられ無罪の罪で死んでいった者達の家族である。

 絶望によって穴がぽっかりと空いたかれらの心を掌握して、晴貞は朝倉に警戒する為に足りなくなった兵を補う為の民兵組織を作り上げた。だが、それも徐々に数が減り、極楽浄土に行くよりも上杉への恐怖が募った者達が出てきた。

 晴貞はその者達を密かに斬り捨て「かれらは異端の者達に我らを売ろうとした」と首を示すことで恐怖心を煽らせ、民兵達に限らず他の将兵達の支持も集め、さらに彼の奥底に眠る残虐な行為によって得ることが出来る充実感を獲得していた。

 最初は民兵達によって魚津城に入った者達の心を攻めて士気を低くした上で一気に魚津城を正規兵も投入して落とそうとしていたにもかかわらず、魚津城は少数の兵で形はどうであれ大軍を何度も撃退している為に士気は高まるばかりでこのままでは援軍が来る前に魚津城を落として北陸道に通じる道を作ろうとする目論見が外れてしまう。

 折角上杉軍の将兵達が東北へ出払っているのだからこの好機を逃さないで一気に越後まで取ろうと意気込んでの遠征であったが、このままでは遅かれ早かれ本願寺からの支援が無くなる可能性も高まる現状で何も手を打たずに包囲と攻撃の繰り返しでは領地を増やすことも出来ずに反撃に遭う危険も高い。

 本願寺に幕府が加賀の内情を調べるように命じているのは知っている。本願寺からまだ使者は来ていない。幕府の人物が来る可能性も危惧したが、それは無くなったようだ。

 その前に魚津城を落とし、越中を完全に掌握してしまえば本願寺に対する言い訳も出来るというものだ。「上杉は自軍が不利な為に我々に濡れ衣を着せようとしているだけだ」と言って金でも掴ませれば全ては穏便に解決して自分の思い通りになるというもの。

 しかし、このままでは全てが水の泡となってしまう。今まで積み上げてきた権力と名声が手に汲み上げた水のように零れ落ちるのだ。強欲な晴貞にとってそれは命を取られることよりも受け入れられないことである。

 このまま包囲していれば物量的に一向一揆勢が有利。遅かれ早かれ必ず落ちる。晴貞はそうしている暇が無いと知っていた。

 上杉軍の援軍が春日山を進発して先鋒の小島弥太郎率いる六千が既に不動山城まで到着しているらしい。上杉軍の機動力を考えるとこのまま後四日、五日もすれば必ず姿を表せる。だが、傲慢な彼は決して松倉城や富山城に退いて体勢を整えるという選択肢を持っていなかった。そして、彼は同時に自分の軍隊にかなりの自信を持っていた。

 四半刻後に攻撃を決断した時、口うるさい輩などどこにもいなかった。

 

 

 

 魚津城城内では兵糧問題を解決して謙信率いる援軍がようやく春日山を進発したという報告を受け、五人がこれからどうするか話し合おうとした時だった。

 

「申し上げます。敵が攻撃を開始しようとしています!」

 

 嫌な予感を心に抱きつつ五人は慌てて櫓に登り、敵を確認する。いつも通りの民兵達の中に大きな違いがあった。鎧を着けた兵が多く混ざっている。

 

「来るべき時が来たか・・・・・・」

「如何する? このままではこの魚津城も保たぬぞ」

「焦ることはありません。これは逆に好機です」

 

 苦い表情の四人を尻目に龍兵衛はそう言って四人を驚かせながら下に降りると先程の敵の陣形を思い出しながら石を敵の陣形代わりにして地面に形を作る。

 

「城攻めにて最も用いられるのは魚鱗の陣です。そして、この陣形を特化させた陣形が鋒矢の陣。しかし、この陣形は長所も短所も特化させている陣形で、一度側面に回られ、包囲されると非常に脆く、縦横あらゆる偵察から兵を多く見せることが出来て、敵より寡兵である場合、正面突破に有効です。しかし、敵は正規兵だけでもこちらより上、しかも富樫は我々が籠城しか出来ないと見て明らかに柔軟性を無視して一気にこの魚津城を落とそうとしています」

「すると、出るのか?」

 

 朝信の問いに力強く頷く龍兵衛に連動するかのように景資と盛徳が嬉しそうにしている。龍兵衛はその二人に視線を向けて指示を出そうとするが、朝信が険しい表情をして待ったをかける。

 

「今までとは訳が違うのだぞ。正規兵も敵は使ってきている。まともな訓練も装備もしていない民兵ならともかくそれなりにも訓練している正規兵がいる。危険とは思わないのか?」

「それは敵も同じでしょう。かれらは正規兵を使って一気に勝負を付けようとしている。つまりそれは・・・・・・」

「妾達への援軍が近いということか」

 

 龍兵衛の言葉を聞く前に景資が前に出た。魚津城に入った情報よりも上杉軍は近付いているということだろう。

 

「ですが、それは敵の策とは考えられませんか?」

「寺島殿、それは考え過ぎです。何故に籠城で精一杯の我々にわざわざ策を弄してまで勝とうとするのです? 黙って包囲していればいずれは落ちるというのに」

 

 犠牲と時間を気にせずに魚津城を攻めていた一向一揆勢が時間を気にし始めた。明らかに何か異変が起きたとしか考えられない。

 だとしたら晴貞が正規兵も組み入れている理由は焦りが出てきたということに他ならない。それに付け込んで敵を撹乱するというのが軍師の冥利に尽きるというもの。

 まるで師匠みたいなことを言っているなと内心で笑いながら龍兵衛は景資と盛徳に指示を出した。

 

「お二人は二千五百の兵で左翼から回り込み、右へと真っ直ぐに突破をして下さい。ずれてはいけません。真っ直ぐに駆けて下さい」

「あいわかった」

「斎藤殿、我々も出る準備を致しましょう」

 

 朝信が頷くと同時に龍兵衛は動いた。また、景資と盛徳は待機していた兵達の下に向かい、声を上げる。

 

「門を開け! 我らはこれより敵の側面を突く! 遅れを取れば死すと心に決めよ! 決して離れるな!」

 

 盛徳が槍を高く掲げ、兵を鼓舞する。兵達もそれに合わせて高らかに声を上げる。その隣で景資が指示を出して自らが先頭に立ち、城門から一気に側面目指した。盛徳もそれに続いて出撃する。

 一向一揆勢は魚津城を攻めることだけに目が行っていた為に魚津城側が攻めてくるとは考えていなかったようで指揮官らしい者達も困惑しているらしく、迎撃の体勢も整えることもままならない。

 その状況を嘲笑うかのようにその先頭を無視して二人が率いる上杉軍は中軍の左翼に斬り込んで行った。

 景資の剣舞と盛徳の槍が絡み合うように互いが互いを信じ合って多過ぎる程の敵軍を無人の野の如く駆け巡る。

 一向一揆勢の鋒矢の陣は完全に側面の攻撃されると対応が出来ないような状態になっている為に完全に混乱状態に陥っている。

 また、一人一人の技量は上杉軍には及ばない為、容易く突破出来る。鋒矢の陣は最後尾に総大将が陣取るのが基本的で、今回もそれに当たった。

 中軍を率いるのは畠山軍、主君を傀儡にし、専横を極めている家の兵達は主君の義慶が一旦退くように言っているにもかかわらず、実質上指揮を執っている長続連がそれを押さえつけて「命を惜しまずかかれ!」と命じたものだからますます混乱している。

 そこに景資が愛刀達を引っさげ、盛徳が槍を振り回して目の前にいる畠山の兵達を蟻を踏み潰すように屍へと変えているのだから逃亡する兵も出てくる有り様だ。

 しかし、かれらも逃げることは出来ない。後ろに逃げれば富樫軍が逃げれば本願寺の指示に背くという理由で容赦なく味方から殺される。

 進めば敵に殺され、退けば味方に殺される。八方塞がりになった中軍一万は、たった二千五百の兵によって敗北を喫するしかなかった。

 

「ふむ、あれが指揮をしている者のようじゃのう」

「行きますか?」

「ならぬ。先程、龍兵衛に言われたことを忘れたか?」

 

 こちらの兵は敵の三分の一にしか過ぎないのにここで欲を出せば間違いなく囲まれる。

 景資はそのまま真っ直ぐ進むように軍を鼓舞すると真っ直ぐ一直線に走った。

 

 

 その雄姿は魚津城の櫓からもはっきりと見えていた。龍兵衛と朝信は満足そうに頷いてかれらの武勇を称えている。

 

「さすが、お二人は随分と暴れ回っていますね」

「うむ・・・・・・して、如何する?」

「無論、敵の前線を討ちます。かれらにいつまでも攻めさせている訳にもいきませんから、一千の兵で出撃して下さい。城の守りは自分と資正殿にお任せを」

 

 朝信は頷くとすぐに槍を片手に櫓を降りるとすぐに準備を終えて真っ直ぐ敵の前線に突っ込んでいく。前線の一向一揆勢は一万。しかし、朝信は怯まない。

 指揮官としての有能さだけではそこまで上杉軍にその人有りとは言われない。彼が越後中に名を轟かせているのは『越後の鍾馗』と称される武勇があるからこそである。

 鍾馗は唐の六代皇帝玄宗が瘧にかかり床に伏せた時、玄宗は高熱のなかで夢を見る。宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。玄宗が大鬼に正体を尋ねるとそれが鍾馗であったという伝説がある。

 今の朝信の前にいるのは鬼ではなく人間。かれらを討つことなど魚津城の守らんと気を吐いている彼の敵ではない。

 朝信の武勇は自身が率いる僅か一千の兵を奮い立たせ、一万の兵に対する恐怖を無くすに十分であった。

 髭一本も無い端正な顔と黒と白を基調とした鎧に次から次へと返り血が付いていく。普通ならばそれに近付こうとする者などいなくなる筈だが、民兵達は遮二無二襲い掛かってくるが、間近で見るとやはりその殺気は明らかに兵そのものである。

 

「ほう、まだ来るか。よかろう、お前達をもはや民として扱いはしない。兵として見よう。掛かって来い!」

 

 鍾馗と化した朝信にどのような敵が来ようとも関係がない。ただ、真っ直ぐに突き進むのみ。

 前線の変化は景資達にも伝わっていた。 

 

「景資殿、斎藤様が敵に突撃を始めました」

「手筈通りという訳か。よし、行くぞ!」

 

 右まで一直線に突破することに成功した景資達は混乱している中軍への攻撃を止めて休むことなく前線の横腹に襲い掛かった。

  

 

 

 

 

「三者三様とは言うが、これほどとは・・・・・・」

 

 龍兵衛から感嘆の声が漏れてしまうのも無理はない。それほどに三人の武勇は突出していた。隣にいる資正もその戦舞に見入っている。だが、それを見てつまらなそうにしている者が一人いた。

 

「はぁ~なんで私だけは留守居なのさ!」

「さっきからそればかりですね。竹俣殿」

 

 長いぼさぼさとした黒髪に緑色の粗末な服を身に付け、駄々を捏ねるように出撃させろと言っている女性は竹俣慶綱である。

 彼女も揚北衆の一人で川中島の戦いでは、乗馬武具を失いながら奮戦し賞された。

 どちらかというと彼女の子孫の方が有名で米沢藩で上杉綱憲の傅役を務め、竹俣西家の祖となった竹俣義秀や上杉鷹山の藩政改革で鷹山の右腕として活躍した竹俣当綱などがいることで有名である。

 朝信に従って魚津城の守備に付いていたが、根っからの武人でまるで景家のような人物だ。

 

「一応、何があるか分からないですし。いざという時に誰かいた方が良いでしょう?」

「それは分かってるけど・・・・・・」

 

 その辺はきちんとわきまえているので自分がここにいる理由も把握しているから龍兵衛も良しとしている。

 敵が奇襲をしてくるということも考えると龍兵衛は戦えないことは無いが、軍師なので指揮を執らなければならない。資正は弓を得意としているので接近戦になると心許ない。ならば消去法でという訳で慶綱が残ることになった。

 資正も犬達を率いて戦いたいという思いもあったが、先の戦で民兵達を指揮していた将を弓矢で討ち取っている為に今回はこちらに回っている。

 今のところ奇襲の気配は無く、敵もこちらからの予想外の襲撃で混乱状態に陥っているし、心配無いと考えていつ頃皆を退かせるかを見定めている時だった。

 

「河田様、春日山より書状が届きました」

 

 援軍が来る前には必ず寄越して欲しいと言っていたのでおそらくそれだろうと思いながら期待を込めて中を改める。

 しかし、読めば読むほどに龍兵衛は顔をしかめ、気付けば声に出ていた。

 

「嘘だろ・・・・・・」

「どうした?」

 

 天を仰いで顔を手で覆ったまま龍兵衛は隣の資正と慶綱に渡す。中を見た途端に二人は愕然とした。

 武田軍の馬場信晴と虎綱春日を先鋒に信玄が六千の兵を連れて再び川中島の近くに来ている。その為、謙信は急遽川中島に八千の兵を引き連れて行く準備を進める為、残りの四千を魚津城に向かわせる故にそれまで持ち堪えろというものであった。

 

「眠れる獅子・・・・・・いや、虎がとうとう虎穴から復活したか・・・・・・」

「ええ、武田となれば謙信様は間違いなく川中島に赴くでしょう。そうなれば一向一揆勢に対して攻勢に転ずるのは難しくなります」

 

 謙信率いる一万二千だからこそ一向一揆勢三万に対抗出来るが、もし六千で別の将が率いるとなると上杉が一向一揆勢に対する攻勢に転ずる理由が浄土真宗でないと公言している謙信がいない為に無くなり、そもそも攻勢に転ずることが不可能になる。

 そもそも、越後から来た情報が一向一揆勢に伝わっているとも考えられる。そうなれば晴貞は魚津城に構うことなく、援軍と対峙してそちらを叩くかもしれない。

 弥太郎のことだから悟られるような動きをするとは思えないが、今回加賀には優秀な間者がいる。油断が出来ない。

 正規兵を魚津城に留めておくことはどう考えても無いと思うが、これまでの戦の段階で民兵達の残りの戦力は未だに一万を切っていない。魚津城の兵四千とでは先の戦のように虚を突かない限りは勝利は出来ない。 

 龍兵衛がそう考えている間に二人が書状を読み終えて、嘆きの声が伝わってくる。絶望的な状況ではないが、勝利する為に乗り込んだこの戦でまたもや先の東北との戦と同様に完全な勝利を不可能にさせられた怒りが嘆きへと変わっているのだ。

 龍兵衛が手を叩いて注目を集めさせる。軍師としてはこの城を何としてでも守らなければならない。出すべき指示をしっかりと出さなければ動揺が兵にまで広がりそれでは守れるものも守れない。

 まずはこのことはここにいる主だった者達だけが知る事実であること。次に取り敢えずは謙信がやってきているというふうにしておいて、士気を盛り上げておくこと。最後にこの戦が終わり次第、出丸を守る吉江宗信に援軍をさらに百に増やして、一応は夜襲に備えること。

 素早く指示を出し終えた時だった。気配の無い所からすっと誰かが姿を表せた。

 

「段蔵、どうしたんだ?」

「能登から援軍が近付いているよ!」

「何!?」

 

 思わず慶綱は叫んでしまった。彼女を落ち着かせて段蔵に話を続けさせる。聞けばその数は二、三千と少ないが、今までこちらが向こうに出した犠牲とほぼ同じぐらいの数である。

 こちらの援軍が少ない以上はその数が与える魚津城の上杉軍への衝撃はかなり強い。

 

「段蔵、敵の援軍は今どの辺りにいる?」

「あたしが最後に見たのは二日前に富山城に後五里ぐらいになった所かな」

「それならあまり焦ることは無いでしょう。太田殿、今までの戦略を変える必要はありません。斎藤殿達が帰ってきたらもう一度今のことを話しましょう」

 

 龍兵衛は頭の中で地図を作り上げ、情報を聞いて軍師として一人、冷静にあっさりと言い切った。

 今頃は富山城に入った頃か進発して間もない頃かいった辺りと見て良い。仮に休みも取らずに上杉軍が率いる援軍に間に合わせてやって来たとしたら危険である。

 奇策は何度も使えるものではない。夜襲は毎日、毎日向こうが警戒している為にどうしても出来ない。

 これから先はまたしばらく後手後手になるのを我慢しなければならない。

 

「(しばらくがいつまで続くかだがな・・・・・・)」

 

 魚津城自体はそこまで堅牢な城ではない。長い間は保たないが、知っている歴史を繰り返す訳にはいかない。だからこそここには史実ではいない者もいる。そして、援軍も来ているのだから、勝てなくても負けてはならない。

 胸に決意を秘めて龍兵衛は朝信達に撤退の合図を送るように伝えた。 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十九話 明日への希望

「謙信様は武田の方が恐ろしいと考えているだけ。魚津城を見捨てた訳ではありませんよ」

「随分はっきりと言い切る・・・・・・ま、たしかにそうだな。この数の差でこの体たらくでは俺が天秤にかけてもそうする」

 

 魚津城では謙信が一万二千の兵を分けて魚津城に四千の兵のみを派遣したことに関して無駄な話をしていた。

 しかし、そう捉えられても仕方がないような軍の分け方であることは朝信も龍兵衛も承知している。

 これに将の一人である蓼沼泰重が、謙信は非情な判断を下して自分達よりも信玄との戦を望んだのではないかという愚かな声が上げていたのだ。

 彼も上杉の直臣である為に武田の怖さを十分に知っている筈である。しかし、魚津城の重要性は上杉家の誰もが知っていることである。そして、一向一揆勢の数はかなりのもの。

 にもかかわらず、武田との戦を優先するのは何事かというようなことを言っていたのだ。

 しかし、龍兵衛が一向一揆勢の兵の質を考えると実際は三万ではなく一万八千程度、魚津城は決して強固ではないが、朝信による城の普請と兵の鍛練によって兵は四千足らずだが、ここまで同等に戦っているのを見れば十分に分かる。

 そこに四千の援軍が来るのだから決して悲観すべきことではない。

 たしかに上杉家の中でも四千の援軍で大丈夫なのかと思っている者もいるかもしれないが、それは現場を見ていないからだ。周りが思うほど厳しい状況下ではない。

 

「むしろ武田との戦前に兵を割いてくれたのを喜ぶべきではありませんか?」

 

 朝信も時折加わっての説教に泰重も考えを改めたのか素直に頭を下げて詫びを入れた。

 ほっとしたのも束の間、資正がこのことが兵に漏れていないかと不安げに訪ねた。そのことは龍兵衛が既に調べ済みであり、あくまでも援軍の先鋒であると大きく言っておいたおかげでそのような噂をする者はいないらしい。

 

「だけども、人の口に戸は立てられないと言うし、そろそろ手を打った方が良いんじゃない?」

「慶綱、それは単調な考えというものだ。援軍が近い今の状況で打って出るような軍がどこにある? それでこそこちらの実情を知ってくれと言っているようなものだ」

 

 明らかに先の戦で暴れることが出来なかったことに不満な慶綱がやる気をみせるが、すかさず朝信がそれを抑える。

 慶綱は決して馬鹿ではないが、戦場を住処としているような人物の為に早いところ戦場に出ないととんでもないことをしそうになるので朝信が常にストッパー役として監視している。

 

「たしかに斎藤の言う通りじゃな。援軍が近付いているのに打って出るのは少しおかしい」

「何がおかしいんだよ?」

 

 朝信の言わんとすることが理解出来た景資が二度三度頷き、それに未だによく分かっていない慶綱が噛み付く。他にもよく分かっていない将が先程の泰重を含めているようだ。

 龍兵衛は自分が説明する必要が無いと判断して既に傍観の姿勢を整えている。

 

「籠城は援軍の見込みがあるからこそするもの。その援軍は今、こちらに近付いている。だというのにどうしてわざわざこちらが打って出る必要があるのだ?」

 

 景資に代わって朝信が説明する。これでようやく合点いったのか慶綱達は納得したようだ。

 一向一揆勢が上杉の援軍に纏めて襲い掛かるにしろ、兵を分けて上杉の援軍と魚津城攻めに当てるにしろ、援軍の到着前に魚津城を落とすにしろ、背後ががら空きになるか、兵を分ける愚策を選択して隙を与えてしまうのだ。

 四千の援軍は本隊の先鋒と唄っているのに打って出るのは余裕がなく、援軍が後ろにはいないと言っているようなもの。

 故に援軍が見えるまでは魚津城から打って出るのは良策とは言えない。

 

「富樫晴貞も馬鹿ではない。一時期の戦功が後々の大きな被害となっては意味がないからな」

「ええ、ですが、富樫もそろそろ感づいているでしょう。いつ総攻撃が来てもおかしくありません」

 

 資正の心配は朝信達も憂いていたことだ。いくら籠城と先の急襲戦で数が減ったとはいえ一向一揆勢の兵数が質抜きで多いことに変わりはない。

 だが、この魚津城は越中における上杉の防衛線。上杉が西に進む為には絶対に必要となり、守らなければならない絶対の要地である。

 

「ならば、ここをどう守り抜くかだな」

「まぁ、来たら来たで返り討ちにして終わりじゃ」

「はぁ~早く私も戦って功を立てたいよ」

 

 景資は先程の戦の余韻を引いて慶綱は鬱憤を晴らしたくてしょうがないらしい。

 だが、かれらが本当に望むのは一向一揆勢の撤退である。軒猿の情報網を潜り抜け、上杉が幕府に出した加賀への弾劾状のことを知っているように襲来したのは朝信も慌てた。

 それでも魚津城を守っているのは朝信以下、魚津城の将兵が優秀であるということに他ならない。

 ならば朝信達にはこの魚津城を最後まで守る義務がある。だが、謙信の為に殉じることを今は許されない。何故ならここで死んだところで何も上杉に有利になることは無いのだから。

 ただ優秀な将兵が死に、越中から西に向かう為の進軍路が無くなるだけ。この激戦の後に晴貞もさらに進軍しようとは思っていない筈だ。

 仮に思っていたとしても天神山城・不動山城という二つの城が立ちはだかっている。この先に進もうとする方が馬鹿というやつだ。

 そうならない為にも朝信達はこの魚津城で一向一揆勢を援軍と共に撃退しなければならない。難しいことだが、分かっている将達に悲壮感は無い。

「いつでも来るが良い。その時は全て返り討ちにしてやる」という感情が溢れ出ている。

 先程まで無駄に「謙信様が我々を見捨てた」などとほざいていた連中までもが意気込んでいる。非難しょうが、なんだかんだで上杉への忠誠心は高いのだ。強い中央集権を目指して、国人衆の力を減らした甲斐もあったというもの。

 一方で手懐けも欠かさずに行ったことで飴と鞭が上手く使い分けれた結果といえる。

 後は一向一揆勢を待ってそれを退け続けるのみ。そう考えながら朝信は先程から胡座をかいた左膝の上に左肘を乗せて目を瞑っている者に声を掛けた。

 

「龍兵衛、これからはどうこの城を守るべきだ?」

「そうですね・・・・・・」

 

 いきなり振られたにもかかわらず、ゆっくりと姿勢を正して落ち着きを払いながらまるでこれを待っていたかのように龍兵衛は腕を組んで考える素振りを少しだけすると「まずは・・・・・・」と左手の人差し指を立てた。

 

「援軍が来れない以上、敵の虚を突いて動揺を誘うのが一番です」

「ですが、先の戦でその手は使いました。さすがに向こうも警戒しているでしょう。それに斎藤殿も先程仰った通りにあまり下手に打って出るのは如何なものでしょう」

 

 すかさずこの城の守将の一人である石口広宗が指摘を入れる。そこから反論に出るのかと思いきや龍兵衛は「ああ、そうでした」と事も無げにしれっと言った。

 

「やっぱり、ただ籠城をする以外に選択肢は無いのか・・・・・・」

 

 慶綱が溜め息混じりにぼやいて天井を見る。この状況下では仕方ないが、上杉の強みは接近戦での兵の質と機動力である。どこかで何か仕掛けたいが、先程朝信達がそれをすることで起こる盲点を指摘したばかり。

 

「まぁまぁ、打って出るのは駄目ですが、勝利することは可能ですよ」

「どういうことじゃ?」

「戦場が城の外と決まっている訳ではありません・・・・・・」

 

 龍兵衛の口元がゆっくりと、斜めに歪んだ。

 

 

 

 

 全くの青天の霹靂であった。情報の力を京と加賀に入れていた為に少し背後が疎かになっていたことは認めざるを得ない失態である。

 甲斐にも優秀な間者は多くいる。上杉軍が東北に出払って越後ががら空きになるであろうことを把握しての進軍だったのだろう。

 今回は加賀に出陣する前に襲来の知らせが来たが、少しでも遅れていたらどうなっていたことか。

 そう思うだけで背筋が凍る。

 だが、謙信は内心複雑だった。

 以前の川中島の戦いで勝利を収めて追撃せずに撤退したのは蘆名や武藤を警戒してのこともあったが、今川と北条が同盟を理由に甲斐・信濃に進出してくるのを恐れたからだ。

 今となっては武田と今川はその栄光も過去のものとなり、その均衡も崩れて上杉と北条が同盟を結びながら睨み合っている筈だった。

 まさかここにきて信玄が起死回生とも言える逆転劇を見せようと頃合いを見計らって川中島に進軍するとは謙信も軍師達も思っていなかった。

 それがちょっとした油断であることに気付いた時には謙信は自分の身体を抑えることは出来なかった。

「懲りないのならまた返り討ちにするまで」と身体の向きは魚津城から川中島に変わっていた。だが、本当にそれで良いのかと内心はかなり悩んでいた。

 魚津城に籠もる将兵は皆が謙信の大切な家臣であり、共に天下統一を夢見る者達を見捨てることになる。武田も背後に今川と北条の脅威がある為に誰かを派遣してしばらく堪えていればいずれ武田は兵を退くだろう。

 しかし、分かっていても信玄と戦いたいという望みから今は川中島へと進んでいる。

 つまり今の謙信は私情を優先させて家臣を見殺しにするかもしれない選択を取っているのだ。弥太郎達が四千の兵を引き連れているとはいえ三万と魚津城の兵を合わせて八千では勝ち戦になるとは思えない。

 しかも、八千の兵が固まっているのではなく、二つに別れているのだから既に少数が多数に向かう時に必要なことを出来ていない。

 一向一揆勢が二手に別れてお互いを迎え撃つことも考えられる。技量は抜きにしても向こうが倍以上の兵を抱えていることに変わりはない。

 それでもこの選択に踏み切ったのは一向一揆勢よりも信玄の方が怖いという思いがあった。腐っても鯛と言うが、信玄の謙信に対する対抗心は腐ってすらない。生き生きとした新鮮な鯛のままである。

 だからこそ、こうして隙が出来た途端に攻め込もうとしているのだ。ならばそれに応えてみせるのも謙信の流儀であり、信玄に対する礼儀でもあった。

 数だけを見るなら、どう考えても一向一揆勢の方に謙信率いる八千が向かうべきである。謙信が向かうことによって一向一揆勢に対する攻勢に転ずる勢いが出来る。

 謙信は元々曹洞宗の信者になった後に真言宗の信者となり、浄土真宗とは相容れない姿勢を取っていた。その謙信が一向一揆勢に対するということは上杉に敵対することを決意した本願寺と対抗することを上杉の領国に示し、力を強め過ぎた浄土真宗を織田に次いで上杉も対抗すると表明することになる。

 こうすれば幕府への軽い脅迫にもなる。直接の敵対行為ではないし、攻めてきたのは向こう側なのでそこまで幕府に言われることは無いだろう。

 今、魚津城で戦っている一向一揆勢の半数は民兵、残りの半数も能登と越中の寄せ集めの兵が殆どであるという情報も入っている。

 武田軍と一向一揆勢、天秤にかけてどちらが強力かと問われれば、謙信は間違いなく数に関係なく武田と答えるだろう。

 それが今まで武田と四度戦い、数があまり変わらないながらも苦戦を強いられた経験と上洛の帰路というところを襲い、数が多かったにもかかわらず、謙信や景勝を取り逃がした一向一揆勢を見てきた謙信の判断だった。

 しかし、多勢に無勢という言葉もある以上、この選択は本当に正しかったのかと何度も自問自答してしまう。

 決断をした時は兼続や颯馬だけでなく、弥太郎達武将からも反対があった。それでもどこかに間違いないという確信があったが故に決断したにもかかわらず、今はもう不安になっているのだ。

 家臣を見捨てるということにならないか。そのような不安が頭をよぎる。

 魚津城にいる将は全員が上杉の功臣達で実力も申し分ない。兵も朝信と景資に鍛えられているので簡単に落ちるということは無いと思うが、どうもふらふらと考えがあっちこっちに行っている。

 

「あまり考え過ぎるとお身体に障りますよ」

 

 その内心を読み切ったように声を掛けてきた颯馬に謙信はかなり驚いた。謙信も気配には敏感に対応出来るが、思考に神経が行き過ぎて周りに気付かなかったらしい。

 将兵達は布陣の準備にあちこちと動き回っている。謙信も周りを見ているように見えていたが、実際は思考そこにあらずといった状態だった。

 

「今回のことはもう誰も何も言いません。しかし、謙信様がそれでは我らはともかく兵士達が不安になります」

「ならば良いが、お前も兼続も反対していたからな」

「不安になることは無いでしょう? 皆、謙信様を信じてのことです」

 

 謙信の気を使うように軽く笑みを零す颯馬。所詮は励ましにしか過ぎない。しかし、少しでも気を楽にしてあげようという颯馬の思いはありがたい。もしかしたら皆も同じようなことを考えていたのかもしれない。

 重臣の面々にしか分からない謙信の内心を悟り、その代表として颯馬が言ってくれたのだろう。気遣いに感謝して謙信は一番気になっていることを口にした。

 

「魚津城は保つと思うか?」

「報告によれば敵は速攻の勝利を望んでいます。その間は良いですが、持久戦に持ち込まれると・・・・・・」

 

 警戒していたとはいえさすがに魚津城の物資も無限にある訳ではないし、武田がでしゃばった真似をしてきた以上、幕府からの加賀についての沙汰を待っている暇は上杉に無い。 

 元々、謙信は一向一揆勢に対しての沙汰を待つつもりも無かったが、この状況下では待っていた方が得策だが、待っている間に魚津城が落ちるという最悪の事態になりかねない。

 弥太郎達の援軍も派遣した訳だし、知略に富んだ朝信や龍兵衛ならどうにか凌いでくれるだろうと思っているが、富樫晴貞も援軍が近付いていることは知っているだろう。どう出るかは不明だが、心許ないのに変わりはない。

 援軍をさらに派遣したいところだが、信玄に背中を見せるなど以ての外。謙信の自尊心もそうだが、みすみす越後へ侵略する隙を与えててしまう。

 そうなれば武田と一向一揆勢の挟撃をもろに受けるという最悪の状況に陥る。

 こちらは時が経てば必ず戦は終わる。魚津城は分からないが、これ以上手を差し伸べることは出来ない。

 ならば、謙信達に出来ることはただ一つ。

 

「信じるのです。信じて待つしかありません」

 

 颯馬の言葉に謙信は力強く頷いた。

 もはや、打てる手は打った。後は天命に事を委ねるのみ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十話 夜風の中から

 貧乏揺すりが止まらない。身体が疲労を感じている。

 先程まで軍議で笑顔を振り撒いて魚津城はもうすぐで落ちると偽りを言っておいた疲れである。

 本当は激しい抵抗と先の急襲戦による敵の攻撃と同士討ちによってまともに戦える兵の数は既に二万と七、八千にまで減っている。

 力が駄目なら策で行くべきだが、自尊心の高い彼が七分の一の敵に策を弄するということなどする選択肢が頭にある訳がなかった。

 先日もそのようなことを進言した畠山義慶を滅多うちにして完全に黙らせた。生きているが、この戦で復帰することは不可能だろう。

 今は病気を患ったということで後陣に引っ込んでもらっている。

 

「富樫様、密偵が敵に異変があったとお目通りを願っています」

「すぐに通せ」

 

 どんな小さなことでも良いから攻略へのきっかけが欲しかった時に何という間の良さ。普段の柔らかい笑みを浮かべながら間者を待つ。

 

「申し上げます。魚津城の兵が徐々に撤退しております」

「・・・・・・真か?」

 

 疑うのは無理もない。魚津城の将兵は大軍の一向一揆勢に対して僅か数千の数で善戦を続けていることは嫌でも認めざるを得ない。

 訝しげに見る晴貞に黙って間者は頷く。その者に反応せずに晴貞は陣幕を出て魚津城を眺める。

 しかし、今は夜。魚津城には松明が星のように輝いて風によってたなびいている。

 

「本当にいないのか?」

「はい、少々松明の数が昨夜よりも多くなっていたが故に城に近付いて調べました」

 

 さすがに城内には警戒が強過ぎて入れなかったそうだが、それでも十分だ。晴貞は気付かれないように薄く笑う。やはり念を入れて畿内の優秀な忍や間者を雇って正解だった。

 どうやら上杉軍は悟られないように少しずつ撤退を開始して夜明けには完全に魚津城から天神山城に撤退するようにしているらしい。

 敵には今日も徹底的に攻撃を与え続けた。最近は先の戦での被害を受けた影響で夜の攻撃は控えていたが、どうやらそれが思わぬ僥倖をもたらしたらしい。

 だが、晴貞も馬鹿ではない。戻ろうとした足を止めて敵の策ではないかと考えた。

 しかし、間者が聞いた話では援軍のことは魚津城の城兵は知らないらしい。つまりは一向一揆勢の包囲が未だに厚い為に外の情報が入ってこないのだ。

 最近は向こうがよく夜襲をしてくるのはそういうことなのだろう。援軍の見込みが無いと悟り、こちらの士気を下げて隙を見て撤退しようという腹なのだろう。

 そうと決まれば黙ってはいられない。すぐに陣幕に諸将を集めるように晴貞は命じるが、間者が答える代わりにおずおずと訪ねてくる。

 

「某が加賀にいた際、敵国の間者と見られる商人や旅人が数人おりました。かなりの手練れです。かれらを抱えているにもかかわらず、魚津城内に情報が・・・・・・」

 

 それ以上言おうとする間者の喉元に晴貞の刀が刺さるか刺さらないかのところで止まっている。

 

「間者ごときが大将の俺に物申す気か?」

 

 誰にも見せることのない怒気を孕んだ殺気を持って間者を睨み付ける。すると間者は驚きと共に頭を下げて謝罪する。 

 しかし、その謝罪の声が晴貞の耳に入ることはなかった。

 

「要済みだ・・・・・・」

 

 その声と共に間者の首がごとりと地上に落ち、どさりと身体が続けて倒れた。

 この間者は京からの借り物、万が一この者が自身の隠れた性格を本願寺に言ったりなどしたらそれこそ援助が断ち切られ、破門となってしまう。

 恐れるのは自分の野望への光が絶えること。それ以外はどうでもよい。

 

「すまないが、この狼藉者もどこかに捨ててきてくれ」

 

 近くにいた兵は無言で何事もなかったかのように首と胴体を片付ける。死体など所詮はごみのようなものだと見向きもせずに晴貞はもう一人の兵に将達を叩き起こすように命じた。

 

 

 

 

 一刻後に晴貞は畠山義隆を率いて隊が粛々と出陣した。月がほぼ新月に近い、輝きがあるかないかの天候で、夜襲には絶好の好機である。

 わざわざ総大将自ら出て来たのは一応は自ら出ることで士気を盛り上げると銘打っているが、功を全て自分のものにするという強欲者の真髄の為である。

 現場の指揮は義隆に任せておいて後は夜襲の大将として自分を立てるように義隆に迫ればそれで終わりである。

 晴貞も魚津城の重要性はよく知っていた。魚津城は松倉城の支城だが、室町時代に守護畠山氏の守護職椎名氏により築かれた。椎名氏は松倉城を居城としいるが、北陸道の押えとして築いたもので、つまりは魚津城を取れば越中から越後に進む為の進軍路が開かれる。

 それ故に上杉は斎藤朝信という宿老を置いた。魚津城の中にいる兵は一千程度と少ないが、もし攻めあがろうとすればその背後から謙信が二万の精鋭を率いて襲い掛かってくるのは日を見るより明らかであった。

 晴貞も馬鹿ではない。自分の兵を贔屓目で見ても謙信が率いる将兵よりも弱いことは分かっていた。

 だからこそ最も嫌なものの一つである我慢というものを続けて時を待った。 

 だが、時を待つ程、加賀一向一揆勢の状勢は徐々に不利になっていた。

 突然、京から上杉家が本願寺に加賀一向一揆勢の破門を要請する弾劾状を無礼を承知で幕府に提出し、幕府を経由して本願寺に査定を迫ったという密告が来た。

 本願寺の顕如は加賀一向一揆勢をあくまでも浄土真宗を世に広める為の国家であって野心の為の国家と考えていない。

 もちろん本願寺は晴貞の狂気を知っていたが、当時の富樫が行っていた一向一揆勢の弾圧を防ぐのと晴貞の野心が利害の一致を生んだ為に危ない橋を渡ったのだ。

 もし、本願寺が晴貞の狂気が一向一揆勢の信仰ではなく、晴貞自身への崇拝の為で歯止めのかからないところまでになったと知れば、そのような輩と国に支援することは意味が無いと判断して本当に破門しかねない。

 だからこそ今しか時が無いのだ。期日が迫っている以上、何としてでも上杉を越中から追い出し、越後を手中に収めなくてはならない。

 幸いにも上杉軍の将兵の多くが東北の背後を固める為に出立している。

 魚津城に慌てて入った三千の兵を率いる者達も上杉古参の将ではない。故に、魚津城は簡単に落ちる筈だった。

 しかし、平城の魚津城は朝信の手によって様々な改築が行われ、兵もよく城を守り、さらに奇襲によって大きな犠牲を被った。

 ただでさえ嫌な空気を追い出そうとした出陣だったのにさらに嫌な空気を入れてしまった。

 自尊心と強欲の感情を踏みにじられたような気分になった晴貞は戦の最中であるにもかかわらず酒と女で苛々を誤魔化すしかなかった。

 さらに敵の援軍が迫ってきている。この状況を打開する為にするべき手段を考えていた時のことであった。

 武田軍の川中島侵攻。

 だが、それでも魚津城が落ちるとは限らない。さらに上杉の援軍が来なくなったということにも繋がらない。

 だが、この日の夜にもたらされたのは魚津城自体に関係するものであった。

 魚津城から上杉が撤退。

 これは晴貞にとって正に天佑であった。魚津城を重要視するのは一向一揆勢も上杉も同じである。

 しかし、上杉は場所よりも命を選んだ。晴貞の猜疑心は彼の身体をくすぐったが、それ以上に強い欲望が彼のくすぐられたもどかしささえも紛らわす強い劇薬を与えた。

 北陸だ。北陸道を一向一揆勢が支配し、越後への道が開かれて北陸の覇者となる自分の野望の第一歩が完成する。

 そして、謙信達、上杉の女傑らを侍らせ、その力を持って上杉が支配している東北一帯も纏めて手中に収める。そうなれば、東北の女傑らも我が物に出来、本願寺の支援など必要ではなくなり、東日本を完全に掌握することも夢ではない。

 ふつふつと沸きだつ野望の煮え湯は今まさに妄執の中で完全に沸騰している。

 気付けば魚津城の対一向一揆勢用に築かれた大手虎口の目の前に来ていた。

 にやりと誰も気付かないように笑うと晴貞は急いで門を破壊するように指示を出して、自身は敵が気付いた時の為に矢が当たらない所まで下がる。

 決して声を出さずに門に突撃をかける音だけが響く。それに気付いた魚津城の上杉軍の殿らしい部隊が矢や石を落として抗戦するが、いきなりの襲撃による混乱と元々少なかった兵がさらに少なくなった影響からか犠牲など城攻めで出る被害のそれと変わりない。

 今か今かと待っていると晴貞の目の前で一際大きな音が聞こえた。

 

「突っ込めー! 敵を全て殺してしまえー!」

 

 晴貞の号令に兵が一斉に攻め上がって行く。

 これこそが晴貞が思い描いていた本来の姿だ。上杉を異端として祭り上げて徹底的に一向一揆の敵と見なさせて為す術もなく排除されていく。

 この素晴らしい惨状こそが晴貞が考えていた理想であり、自らの残虐な心を満たしてくれる光景であった。

 酒でもあればこれを肴に一杯やりたい。そのような考えが芽生えた時だった。

 何故か月明かりが邪魔になってきた。空を見上げると相も変わらず指で触れてしまえば簡単に折れてしまいそうな月が懸命に地上へ明かりを灯そうとしている。

 ところが、現実はそうではなかった。月は雲の中に姿を隠し、真っ暗と言っても過言ではない。

 ならば晴貞が感じた月明かりに似たものとは何なのか。答えは魚津城の中にあった。

 悲鳴が聞こえ、炎が上がる。それを見た瞬間に晴貞の顔色が変わった。

 

「馬鹿者! 誰が城に火を点けろと命じた!? 早く消せ! 早くしろ!」

 

 魚津城は上杉にも一向一揆勢にも必要な城。燃やして良いものではない。

 慌てて晴貞は魚津城に近付いて「早く火を消せ!」と大声で同じことを言い続ける。しかし、一度点いた火はなかなか消えない。

 苦虫を潰したような顔に変わりながら晴貞は恨みがましく魚津城を睨み付けた。

 このような仕掛けによってまた進軍を止めなければならないことに無性に腹が立った。全て上杉のせいだ。あの正義を掲げた偽善者にやられた。否、今回は謙信はいない。否、謙信に魅せられたという馬鹿な連中も同じだ。

 ここにいても怒りをぶつける場所も無い。ならばと晴貞は魚津城に踏み込んだ。まだ上杉軍は残っている。悲鳴が上杉軍のものだと分かりきっているが、その者達を斬り殺す。そうしなければ腹の虫が収まらない。

 彼が見た光景はおびただしく転がる屍。戦場故に当然のことである。しかし、問題は屍の数ではない。どちらの屍が転がっているのかというのが問題だった。

 転がっている旗印は『竹に雀』や毘沙門天の『毘』ではない。富樫の『八曜紋』であった。

 落とし穴と見られる穴には竹槍が仕込んであり、そこに釘差しのように無残な死体が口を広げ、眼を剥き出しにして生きているような苦しい表情を浮かべている。

 晴貞が悟った時、周りが火で明るくなっているが、魚津城が燃えるようには燃えていない。いかにも燃えているように錯覚させられたのだ。

 再び周りを見ると矢で射られた者達が倒れている。当たらなかったのは奇跡と言うべきだろう。

 

「・・・・・・・・・・・・今晩は、富樫殿」 

 

 振り返ると見覚えのある大柄な男が立っている。何か言っていたようだが、聞き返すことも面倒だ。

 その後ろには明らかに剛の者と思わせる姿勢と覇気を持った女性。こちらも見覚えがあった。

 

「一度お会いしたのに覚えてもくれないとは、富樫殿は薄情者ですねぇ」

 

 ここが戦場であるのを忘れたかのような落ち着いた物言いで男がまるで決め付けたように言ってくる。実際、晴貞も二人に見覚えがあっても名前を覚えてはいなかった。

 何も答えずに晴貞が二人を見ていると男はやれやれと首を何度か横に振ると薄く笑った。

 

「だから、気付かなかったのですね。敵に内通者がいると」

「何? どういうことだ!?」 

 

 敵に聞くなど愚かなことである。とはいえ、彼の自尊心の中に誰も自分の配下になった者は決して裏切らせることはしないという自負があった。

 

「どういうこと? 馬鹿だな、そのまんまの意味だよ」

 

 先程浮かべた笑みなどなかったように怒りの表情が彼のどす黒い雰囲気をさらけ出した。

 この時、晴貞は彼は謙信のような人物ではなく、自分のような人物であると悟った。あのような黒い雰囲気を簡単に出せるのは悪人でしかない。

 晴貞は周りで一向一揆勢の兵が立て続けに斬られているにもかかわらず、そんなことを気にする彼ではない。

 この中でも悠然と出来る故に、話す相手も自分のような者故に、彼も普段の皮を被ることはせず、剥ぎ取った顔を出した。

 

「教えてくれたって良いだろう? お前も俺と同じ人間なんだからさぁ・・・・・・っ!?」

 

 言い終わるのとほぼ同時に後ろにいた女性の怒気が一気に膨れ上がり、晴貞の余裕がその気に吸い込まれていくように他者から見れば感じる。

 それは一番の当事者にである晴貞が一番よく知っている。 

 少しでも動けばあっという間に間合いを詰められて斬り殺されそうだ。そもそもその行動を動かされないように足が何もない地面に埋め込まれていきそうである。しかし、それは未遂に終わる。

 侮辱された筈の男がその女性を首を軽く横に振って止めるように促すと女性の殺気は少しばかり和らいだ。代わりに女性からは不満の言葉が出てきた。

 

「何故に逃がすのじゃ!?」

「別に逃がしはしませんよ。ただ、もう少しばかり生かしておいた方があれに随分と良いものを見せることが出来ます」

 

 まるでその言葉が合図であったかのように一向一揆勢の二人の兵が晴貞の下に駆け込んで来た。

 

「申し上げます。敵が我らが軍の退路を塞ぎました!」

「申し上げます。味方本陣から炎が上がっております!」

 

 聞いた瞬間に晴貞が起こしたのは絶句でもなく、絶望に浸る表情でもない。肩を震わせて悲嘆や絶望からは百八十度逆にあるもの。

 

「くくく、はーっはっはっは!」

 

 理性を支えていた柱を崩壊させてただ本性である狂気を出して踊るように笑いを上げるのみ。

 地獄を楽しみ、全てを享楽に捉え、欲望の極みを理想とする男の悪魔の笑い声は天高く舞い上がり、穏やかで気紛れな秋の夜風さえも巻き込んでいるかのようにただ笑いに取り憑かれていた。

 

 

 

 全ては博打だった。

 敢えて分かり易いように松明を多く灯して一千の兵を城外に出した。

 普通の将であれば攻めてくることを躊躇った筈だ。しかし、相手は普通の将ではない。

 本性を間近で見たことはもちろん上杉の面々は無い。しかし、情報は入っていた。

 尾山御坊に入るのはいくら軒猿でも生きて帰ることは難しい。それを承知で龍兵衛は段蔵に多額の金を積ませて頼み込んだ。

 その甲斐もあって軒猿の中でも精鋭中の精鋭が持ち帰った情報は様々な晴貞への推測を確信へと変えた。

 晴貞という人物を考えて間違いなくこの一進一退の勝負を決さない状況では魚津城を早く落とそうと苛々が募っている。

 だが、上杉軍が攻めて行けば先のようにはいかないだろう。陣形を変えて万が一に備えているのがよく分かる。

 故に散発的な夜襲を仕掛けて消耗戦に持ち込んだが、魚津城の堅牢さを考えるとそろそろ限界も近いと誰もが思っていた。

 その中で龍兵衛が手を挙げた。

 

「戦場が城の外と決まっている訳ではありません。敵に攻めさせれば良いのです」

 

 魚津城は限界で、撤退するように見せれば晴貞は餌に釣られて走る駄馬のようにかぶりつこうとするだろう。

 何度も言うが、上杉軍の面々は晴貞の本性を間近で見たことは無い。しかし、段蔵達が命を賭けて掴み、自信を持って伝えた情報を疑う余地はなかった。

 魚津城に落とし穴を仕掛けて、城内に敵が入り込んだ時にそれに嵌まったのを見計らって一斉に周りから襲い掛かる。

 城の城門を敢えて閉めておけば一向一揆勢には一千の兵が出て行ったのが本当の撤退であると見せかける為。

 敵を誘い込み、広い城外よりも狭い城内で一気に包囲殲滅を計る。簡単でよく使われる策だが、その為のお膳立てにはかなり苦労した。

 平成の祭りで使うような大きな松明を城内に敵が入り込んだ際、火を点けて誰か大物が城内に入ってくれることを望んだ。

 火という餌にかかったのは龍兵衛が予想した畠山七人衆という予想を遙か斜め上を行った。

 

「一向一揆の総大将様は間抜けだなぁ、ちょっとの火であたふたと城内にやって来るなんて。今晩は、富樫殿」

 

 嬉しさを隠すのに精一杯だった。それ故に敢えて聞かれたら相手が激怒しそうな言葉を小さめに掛けた。

 龍兵衛に襲い掛かってきても後ろで控えている景資が代わりに立ち向かってくれる。

 城門付近で後ろから現れる敵に立ち向かうように命じたのは城主の斎藤朝信であった。

 軍議の中で第二の伏兵を出す時は本隊が来る以上、朝信の方が適任であると言おうとした瞬間に朝信はさらっと言ってくれた。

 

「では、敵後詰の制圧は龍兵衛に任せるとしよう」

「無茶ぶりの極みだ・・・・・・」

「そう言うな、景資も付けるし心配なかろう」

「いや、言いたいのはそこではなくて・・・・・・」

「私は先に皆と戦い、敵の戦意を挫く。後詰をどこまで誘い込むかの判断は龍兵衛の方が良かろう」

 

「自分はあまり戦力にはなりませんのでやはり戦術も武勇も十分な斎藤殿が第二の伏兵の指揮を執るべきです」という台詞が出せない。

 要は「自分も鬱憤が溜まっている。暴れたいから指揮をやれ」と言っているのだ。

 体裁の良いこととは何とでも言えるものであると溜め息を吐きながらも朝信の屁理屈を覆すことで戦前に体力を持っていかれないようにする為に渋々頭を下げた。

 何故なら、龍兵衛は晴貞という人物がその場に来ることを密かに期待していたからである。

 

 

 そして今、朝信や蓼沼泰重達が率いる第一の伏兵によって斬り倒された者達の真ん中で龍兵衛と景資は狂気を狂気と思わせず、むしろその姿でなければ不自然だと思わせる白髪の青年の本性を素面で、敵で、初めて見る者となった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十一話 必要悪

 龍兵衛と景資が見たのはただの狂乱者だった。長い束ねられた白髪が風によって乱れ、身をよじりながら天高く叫ぶような笑いが二人とその後ろにいる兵達の耳に入ってくる。

 兵達は衝撃、驚愕の表情を隠せずにただ佇んでいる。

 一方の二人はああやっとあいつの本性を間近で見ることが出来たか、とただその姿をじっと何もせずに見ている。

 その時、龍兵衛は迂闊にも膝も伸びきった状態で晴貞を見ていた。それを卑劣な性格を丸出しの晴貞が見逃す筈がなかった。

 一気に間合いを詰めようと膝に力を込めて龍兵衛に迫る。

 不覚を取ったことに気付いたが、どうにかその切っ先をずらして致命傷を避けることが精一杯だった。

 かすかに右肩を斬るとさらにとどめを刺そうと晴貞は迫るが、今度は景資が代わりに晴貞を受け止めた為に事なきを得た。

 晴貞はすぐに景資から離れると自軍の兵をさらに追撃してくる景資の刀の盾にして防いだ。

 

「おのれ、卑怯な!!」

「消耗品、消耗品。くひひひ!」

 

 数多の敵を眼前にしてさらに卑怯な手を使い、ますます高らかと笑うという舐めきったような態度に景資は怒りを覚え、龍兵衛を見たが、龍兵衛は先程の傷は何ともないように平然として、静かに首を振って晴貞を見る。

 かつて彼も同じようなことをした時の相手の気持ちはどのようなものか味わっているのだ。

 なるほど、随分と癪に障る。しかし、それを利用する時だからこそあの手を使った。今、目の前の晴貞のように。

 今更ながら申し訳なさが込み上げる。しかし、眼前の晴貞がこのようなことをしているのを見ると芝居ではない彼を伊達の面々は許すことは無いだろう。

 今の龍兵衛達のようにその場で首を斬り落としたいと思った筈だ。

 晴貞のそれが終わると再び軽い笑みを浮かべて、晴貞に気をつけながら語り出した。

 

「先程、こう仰いましたね? 自分も富樫殿のような人間だと、たしかにそうです。認めます」

 

 すんなりと言い切った龍兵衛を景資は驚愕の表情を浮かべ、晴貞はさらに笑みを深くした。晴貞が少しずつ間合いを近付けようとするとすっと龍兵衛は手を挙げてこれを抑える。

 

「ですが、貴殿と自分の悪はまるで違う。それは分かるでしょう?」

 

 龍兵衛は目が笑っていない笑みを深めて、大袈裟に晴貞を指差しながら自分と晴貞を違う人間と断定して侮蔑するように鼻で笑った。

 

「分からんな。所詮悪は悪、まるで言い訳にしか聞こえんぞ」

 

 晴貞も同様に蔑むような目つきがさらに痛いと感じる程に強くなっている。しかし、不思議と龍兵衛は怒りを覚えずに平然とすることが出来た。

 相手は人間としてまるで駄目な奴だと分かった。もはや晴貞に何の感情も起こり得ない。

 

「ならば教えて差し上げましょう。貴殿は自分以外の人間をごみのように扱っている。そこに死んでいった者達への感謝などありはしない。そして、容赦なく人を殺して自分の欲しいもの、格好を気にしている自己顕示欲の為の悪。これは『悪い悪』とでも言いましょうか。反対に自分は上杉の為、大義の為、天下の安泰の為にやらねばならない悪。これは『正しい悪』です」

 

 ここだけが戦場ではなく、ただ説法をする坊主がいる教室のようになっている。周りの戦場では上杉軍に包囲された一向一揆勢が逃げ場を失い、ただ主が生きよと命じない限りは上杉に立ち向かい死んでいくただの人間の狩り場となっていた。

 

「己の欲を満たさないで人間とは言えない。俺はそうしているだけだ」

 

 晴貞からすれば今も昔も盛者必衰の世の中で今を生きているからこそ欲望を満たすことを責める輩の言うことなど所詮は聞く価値も無い耳障りな諫言にしか過ぎない。

 構わず笑みを浮かべながら龍兵衛は続ける。今度は晴貞を近付けるような姿勢ではなくなっている為に続けることが出来た。

 

「何事も我慢がいる。己の欲望を完全に満たす悪はいずれ滅び、消滅する。しかし・・・・・・」

 

 笑みの下に隠していた怒りをさらけ出し、左手の人差し指と中指を揃えてぴっと晴貞を指差し、告げた。

 

「公の為に行う『正しい悪』が倒れることは無い。それが貴様と俺の違いだ。不滅の『悪い悪』などない」

 

 最後通牒が終わったのを見計らって景資が飛び出した。しかし、晴貞は景資の剣撃を巧みに避ける。

 驚いた景資がさらに力を込めて晴貞に詰め寄ると今度は晴貞がこれには適わないと判断したのか大きく後ろに下がった。

 

「皆、済まないが私の為に死んでくれ!」

 

 本性を皮の中に隠した晴貞がそう高らかに叫ぶと同時に一向一揆勢は晴貞を囲んで護衛しつつ、景資達に向かっていく。

 

「ちぃっ! 富樫晴貞を逃がすな。包囲の輪を縮めよ!」

 

 景資の号令に今度は素早く上杉軍が一向一揆勢を囲む。ここには上杉軍が五百、一向一揆勢はその倍以上が負傷者も含めているが、優勢がどちらかは明らかだ。勝負は決したと上杉の将、誰もが思ったが、晴貞の叫びが上杉軍を呆然とさせた。

 

「皆、目の前の敵に突っ込め! そして、死ね! 捨て駒になるのだ!」

 

 龍兵衛も軍師である以上、やむを得ない犠牲というものを何度か出してきた経験がある。しかし、堂々と味方の兵を捨て駒扱いにしたことは今までもこの先も一生無いだろう。

 目の前の狂乱者は平然と味方の兵を捨て駒扱いにした。 

 そこまでして逃げたいのなら敵としてそれを逃がさないようにしなければならない。

 

「やれ・・・・・・」

 

 意識もしないで勝手に声が出てきた。低く呟くように、それで周りにはっきりと聞こえる龍兵衛が発した怒りの命令を待っていたかのように上杉の将兵が晴貞に襲い掛かる。

 しかし、晴貞は屍さえも自分の盾にして上杉の追撃をかいくぐって行く。景資が何度も後一歩まで追い詰めたが、全て彼女に屍を投げつけることで隙を作っては逃げるを繰り返して景資の攻撃を防いだ。

 そして、晴貞は自分の馬にまで辿り着くことに成功した。

 

「待つのじゃ! 逃がすでない! 追え、追うのじゃ!」

 

 景資もすぐに後を追おうとするが城内での戦であった為に近くに馬を用意していなかった。

 景資がかつて見抜けなかった彼の本性とここで北陸にはびこる負を断てなかった悔やみが奥歯がぎりっと音を立てたが、どうしようもない。

 

「今は諦めましょう。城内にいる敵を叩くことに集中して下さい」 

 

 いつの間にか背後で自分の刀を血で染めた龍兵衛が立っている。その落ち着いた声で景資も少しばかり落ち着くことが出来た。

 そんな龍兵衛を冷静になった目でよく見ると思わず笑ってしまう。

 

「何か?」

「いや、いつもなら後ろに引っ込んでいるお主が刀を持つとは、たいそう怒りを抱いているようじゃのう」

「はは。まぁ、その話は戦の終わった後の酒の席で」

 

 そう言うが早いか、景資はすぐに眼前に迫る敵を斬り捨て晴貞を逃した怒りを容赦なく逃げ遅れた兵達にぶつけ始めた。

 別の場所では朝信や慶綱が暴れ回っているし、退路は資正率いる一千の兵が絶っている。

 一向一揆勢の家臣達は晴貞の命令が絶対なのでこの混乱状態では全く機能出来ていない。

 もう出番が無くなったと判断した龍兵衛はたまに斬りかかってくる敵を倒しながら殆ど動かずに戦況を見ていた。

 

「物にはすべからく時期がある。使う時を間違えたのは富樫晴貞であって、原因を分かろうとしない。それが分かっただけでも十分だ」

 

 

 

 

 晴貞の目の前には信じ難い光景が広がっていた。燃え盛るは一向一揆勢の本陣、中では逃げ遅れた兵達の呻き声が響き渡っている。

 しかし、そのようなものは晴貞にとってただの耳障りな雑音に過ぎなかった。それ以上に大きな衝撃が彼の視界の中にあったのである。

 彼の視界の中で暴れ回るのはここにいる筈がない上杉軍の要中で要である勇将二人。

 火から逃れてきた一向一揆勢を容赦なく斬り、民兵さえも屍へと変えている。

 本陣の守りは神保長住に任せていたが、その消息も全くこれでは分からない。

 

「もう少しあいつを味わいたかったが、残念だ」

 

 己の欲望を少しでも満たしてくれたことには少しばかり感謝しておくことにしよう。周りには逃げている途中で合流した兵がいる。

 殆どが傷付いているが、晴貞にとってそんなことはどうでもよかった。

 

「半数はあいつらの背後を突け、後は私に付いて来い」

 

 この負傷した使い物にならない兵達ではちょっと上杉軍を驚かすだけで終わりだろう。しかし、時間を稼いで自分が逃げれればそれで良いのだ。

 ここまで来たらおそらく本願寺からの詰問は免れないだろう。   

 それも別に構わない。泣くように本願寺からの使者に頭を下げて情で訴え、金で訴えれば叱責は受けても破門にすることはない。

 第一に今、破門にすれば織田に対する備えの一翼の全てを自らの手でもぐことにしかならない。

 上杉との仲があまり良くないという点で一致しているが、いつまでも人に扱われることを良しとする晴貞ではない。

 つまり、これは案外良い機会であったともいえる。実質上の加賀・能登・越中のほぼ全土を手中に収めている晴貞は本願寺からの支援など無くてもやっていけるのだ。

 

「ま、織田を倒すまではそのまんまでいてやるか・・・・・・」

 

 飛騨の山々を越えてわざわざ北陸に来るとは考えられないが、包囲網の一角として朝倉と協力しなければいずれ加賀に触手が伸びてくる。

 その時に上杉と織田の挟撃を受けてはさすがに手の打ちようがない。

 その不安を解消する為のことも含んだ今回の越後への遠征であったが、またしても敗れた。

 どうも自分は謙信に対して相性が悪いらしい。ならばその相性の悪さを無くす為には全兵力を越後に向けられるようにする必要がある。

 それにまだ自分には越中の松倉や富山に兵が残っている。富山にはこちらに向かう予定の援軍もいることだし、さらに能登でさらに徴兵すれば敗残兵も含めて一万は集まるだろう。

 

「くくく、諦めるのは性に合わん。もう一度攻め込んでやるとしようか」

 

 敗れても自分が生きている限り誰にもこの野望を絶やすことは不可能。そして、自分は決して戦で死なずに天寿を全うする。その間に天下を取る実力が自分はある。

 間違いないからこそ自分には生まれ持った人を使う才能がある。まだ十二分に使う為の命はまだ潰えていない。

 

「待っていろよ、上杉謙信。貴様には最高の苦しみと屈辱を与えてやる・・・・・・」

 

 今度は誰にも気付かれないように薄く「ひひっ」という気味の悪い声で喉を鳴らすように笑った。そのまま晴貞は馬首を富山城へと向けた。

 

 

 

 

 

「やはり、弥太郎だったか」

 

 魚津城に入った兵達を掃討して逃げる将兵を追撃していると大分明るい炎が見えてきた。朝信は城の守りと城内の残党狩りを龍兵衛と石口広宗に任せて一気に敵本陣に迫った。

 弥太郎率いる援軍が到着したのははっきり言って計算外であった。龍兵衛も景資も晴貞に向けられた報告を聞いた時、少し疑問を抱いていたが、龍兵衛はその動きでなんとなく察することが出来た。

 そして、朝信にすぐに追撃を進言した。朝信も軍師が好機と言う時を逃すような凡人ではなく、すぐに魚津城に最低限の守りを残して一気に駆けた。

 しかし、その追撃もそこまでであった。

 一向一揆勢の本陣に放った火はあっという間に燃え広がり、陣の中に入ることさえも不可能な程になっている。

 朝信は武人であるが、文化的な一面もある。この炎を例えるならば彼は間違いなくこう例える。

 上杉の富樫晴貞に対する怒りである。

 炎はごうごうと燃えてこれでもかこれでもかと一向一揆勢の本陣から逃げ遅れた将兵達を殺している。

 苦しみの声が聞こえてくるが、朝信はその中で何かが聞こえた。

 

「富樫様、お助け下さい・・・・・・」

 

 聞こえるか聞こえないか微妙なところだったが、自分だけ聞こえて他の兵達には聞こえていなかったようだ。

 少し朝信はほっとした。兵達にその声が聞こえなかったこともあるが、これで上杉が一向一揆勢の中にいる民兵を斬ることに躊躇いを持つことは無くなる。

 何故なら、その言葉を言ったのは民兵の逃げ遅れだったからだ。

 

「朝信、変わりないようだな」

「うむ、よく来てくれた」

 

 ここでようやく朝信と弥太郎は合流した。長らく謙信に仕えてきた間柄、家格が違うとはいえお互いの武勇を尊敬し合っている二人は共に敬語は使わない。

 

「状況は?」

「俺達の方はもちろん犠牲があったが、俺が予想していたよりも少ない。今は魚津城内に誘い込んで、中に閉じ込めている。景資殿や龍兵衛が奴らを徹底的に叩いているよ」

 

 ここに魚津城を巡る防衛戦の勝敗は完全に決したと言って良い。 

 負けなければ良かったと思っていた戦だったが、勝ってしまった。朝信の感想はそんなものであった。

 援軍の将兵が来なければたしかにそうなって終わっていたのが関の山であっただろうが、龍兵衛が簡単に一向一揆勢の状況を掴んでくれた。

 朝信も実際にこの魚津城に籠城することばかりに心が固まっていた為にその中でいかに魚津城を守り抜くかということで思考が型にはまっていた。

 軍師という立場から型にはまることなくやっていく戦術でこうして勝利出来たのだ。本人は武勇によっての勝利だと言っていたが、朝信は戦功の第一に彼を推す。

 

「ところで弥太郎、この火は誰が点けるように言ったのだ?」

「ああ、兼続だが・・・・・・何かあるのか?」

「いや、何でも・・・・・・」

 

 何か言いたげなのは分かるが、これ以上のことは朝信も言おうとしていないのを見て弥太郎は指揮を執る為に去っていった。

 朝信の頭ではぐるぐると思考が巡り回っている。あの火の中には民兵が大勢いる。

 兼続はどちらかといえば軍師ながら感情的な面が目立つ。それが軍の勝敗に関わるようなことはしないとはいえ、いくら戦でも民を傷付けたり、巻き込んだりするようなことはしない。

 だが、この火の勢いは間違いなく用意されていた策である。自然を友として守るものだとしている龍兵衛と違い兼続は火攻めを用いることを必要であれば躊躇わず使う。

 つまり、今回の戦は躊躇わず火攻めを用いる時だと判断したのだ。

 民を傷付けたりすることはしない筈の兼続が強力な火を予め使うことにした。しかし、兼続は民兵が敵の軍勢に入っていることを知っていたにしても民兵達の様子を間近で見ていない。

 晴貞の為に火の中水の中に躊躇わず入るような傀儡の状態になっていることを知らない。

 

「・・・・・・俺には民を傷付けたりすることは出来んな。なるほど、軍師に必要なものを二人共持っていたということか。あいつらがいれば上杉も安泰だな・・・・・・」

 

 武闘派の多い上杉の中で数少ない民政家としても名高い朝信はどのような状態になったとしても弱い人間を火だるまにすることは出来ない。

 このような戦でも絶対に自分の良心が許さないだろう。それまで万人をなるべく平等に慈しんできたように。

 

「今回は、仕方ない。二人がいて助かった・・・・・・」

 

 いずれにせよ今回は例外中の例外というものだ。何とも後味が悪いような気もするが、民でも心がなくなった者に情けをかける程、朝信も甘くはない。だが、いざこうする時となれば躊躇っただろう。

 未だに燃え盛る一向一揆勢の本陣にこれ以上目を向けると自分もどうかなってしまう気がした朝信は弥太郎と共に最後の仕上げに取りかかる為に馬に跨がった。

 一向一揆勢の呻き声は聞こえない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十二話 探り当て

 魚津城城外の一向一揆勢本陣である長円寺には累々と一向一揆勢の正規兵、民兵問わず屍がごろごろと転がっている。

 改めて終わった戦場を見ると龍兵衛は臓器、特に守られていない首から上のぐちゃぐちゃしたそれが飛び散っている斬り殺された死体と真っ黒に焦げあがった焼死体ばかりで思わずどちらが見ていてマシなのか比べてしまいそうになった。

 実際、その前に戦後処理が忙しいのでそんなに暇も無い。という言い訳の中だが、死体の処理も仕事なので嫌でも見入ってしまう。

 もう慣れているので特に気分が悪くなることはないが、見ていて何かが高ぶる狂人でもない。

 下らない私情を捨てて戦後処理を進めていると弥太郎が見当たらないので探し回るが、なかなか見つからない。はて、と思った龍兵衛に一つの素晴らしいひらめきが起きた。

 そのひらめき通りにその場所に向かうと案外簡単に見つかった。

 正確にはまさかと思って行った所にいてしまった。

 天を仰ぎたい気持ちを抑えて取り敢えず切れたい気持ちは流しておいてお互いを労い合った。

 

「来ると思っていましたよ」

「『思っていましたよ』か。推測でよく判断したものだ」

「取り敢えずあの難所を潜り抜けてもおそらく休みなしで来るとは思っていました」

 

 魚津城に向かうには北陸道を通って行くのが最も早いが、その道中には親不知という大きな難所がある。

 親不知は現在の新潟県糸魚川市の西端に位置する崖が連なった地帯で親不知と子不知に分かれるが、この二つを総称した名称も親不知である。

 親不知の名称の由来は幾つの説があるが、有名なのは壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛が越後で落人として暮らしていたことを聞きつけた奥方が京都から越後国を目指してこの難所に差し掛かり、難所を越える際に連れていた子供が波にさらわれてしまった。その時、悲しみの歌を読み、それが由来とされているというものである。

 とにかく断崖を海岸沿いに歩かなければならないので油断をすれば海に真っ逆様だ。

 龍兵衛達もそこを通った後、休まずに魚津城に入ったが、それは春日山城で十分に休憩したのと一向一揆勢が未だどこまで来ているのかきちんと分からなかったからだ。

 だが、援軍の場合は魚津城の状勢を細かく知っていた筈だし、慌てて派遣されたものだからどこかで一度休憩をするべきであった筈だ。

 

「段蔵の報告で急を要するとの判断から無理をしたのだよ。段蔵は不満げだったがな」

「ちゃんとそれなりの特別報酬はあげましたよ」

 

 結構ねだられたらしく、龍兵衛は眉間の皺を指で押さえながら懐が寒くなったことを寂しげに語る。 

 実際、軒猿には今回加賀の状勢を探り、魚津城周辺の一向一揆勢の動きや味方及び敵の援軍が何処にいるのかとたくさん動き回ってもらった。

 弥太郎や龍兵衛達によってかなり使われたということで段蔵にあげた褒賞には金にシビアな龍兵衛は人知れず唇を噛んだ。

 

「まぁ、その話は脇に置いて、正直予想外でしたよ。あの本陣への夜襲は」

 

 援軍に来た時は本陣に火を点けて欲しいと密かに兼続を通じて知らせていたが、少なからずも燃えているように見えた魚津城を顧みずに一向一揆勢の本陣を火攻めをするとは意外だった。

 第一にあの策は均衡を破る為に考えた局地戦を勝利する為のものであって援軍がやってくるとは龍兵衛はおろか、城主の朝信も知らなかったことだ。

 間違いなく、あの夜では戦況など分かる筈もないのに迷わずに一向一揆勢の本陣に奇襲をかけたことは嬉しい誤算であった。

 

「感謝するなら兼続に言えよ」

 

 疑問を口にすると弥太郎は自分ではないと頭を振りながら言った。

 弥太郎率いる援軍は疲れを見せずに恐ろしい速さで魚津城に到着したは良いが、城内で炎が上がっているのを見るや弥太郎は急いで魚津城に入るべきだと判断した。

 しかし、兼続がこれに待ったをかけ、魚津城はまだ落ちている訳ではない。これはおそらく味方が罠を張ったのだろうと判断して弥太郎に背中が空いている敵本陣を攻めるように進言した。

 結果として弥太郎は兼続のことを信じて本陣を奇襲し、兼続の指示で火攻めを敢行した。

 朝信曰わく、あの二人の戦運びは相も変わらず見事な相性であったそうだ。

 本陣を焼き、逃げ出したところに鬼小島と武芸をその鬼に習った者に逃げ出した疲れも癒さずに立ち向かえるのは傀儡のような遮二無二突撃するように教え込まれた兵ぐらいしかいないだろう。

 今回はそれが仇となり一向一揆勢は逆に犠牲を増やす結果になってしまった。 

 敵の死傷者は龍兵衛と兼続が出した計算で三万の内の一万に上る可能性がある。

 上杉の援軍を含めた約八千の戦力でそれだけの兵を相手にして勝ったのだから十分過ぎる戦果である。

 故に皆の勝ち鬨が天高く響き渡った。そして、その士気が高いままに帰還したのだから戦後処理を終えたら酒宴を開きたいと思ってしまうのは当然だろう。

 だが、まだ昼で戦後処理もやっておかないと駄目だ。

 

「早いですよ。酒を喰らうの」

「何を言う。酒は飲むものだ」

「弥太郎殿の飲みっぷりは喰らうと言った方がよく当てはまります」

「女として言いたいことがあるが・・・・・・これほど目出度いことはなかなかないだろう」

「皆、外で色々まだやっているんですよ」

「この城の主は朝信だろう?」

「援軍の大将は誰ですか?」

「援軍は援軍、私はあくまでもたまたま援軍の大将になった訳で、魚津城の城主が一番上だろう?」

「でもですね・・・・・・」

 

 ああ言えばこういうの繰り返しだが、端から見れば明らかに龍兵衛の言うことは正論である。

 要は、一向一揆勢を撤退させて、魚津城を解放して、一向一揆勢の多数を殺したことが今後の上杉にどれほど大きいものかを知っていて、その景気祝いということだ。

 だが、物事には常に裏がある。弥太郎が酒を煽るついでにぼそっと龍兵衛は聞いてみた。

 

「本心は?」

「しばらく飲んでいなかったから飲みたいからだ」

「・・・・・・はぁ」

 

 戦後処理を放っておいて飲んでいた理由が予想通り過ぎて一気に脱力した身体を再び起こすには力が必要だった。「素直についてそう言えよ」という不満を心に閉まっておいて立ち上がって部屋を出ようとするが、背中に声を掛けられた。

 

「お前も付き合え、戦勝後の夜は長い」

「結構です」

「ほぉ、お前の本性をばらしてもいいのか?」

「ならば、弥太郎殿のことを兼続あたりに先に言うとしますか」

「・・・・・・待て、話が・・・・・・」

「お断りします」

 

 数秒もおかずに素早くきっぱりと言い切るとさっさと部屋を出て、辺りをきょろきょろと見回す。

 龍兵衛の立っている所からは見えないので歩いて探していると探していた人物はあれやこれやと城内の戦での後処理を行っている。

 天気は秋晴れと言っても良いほどの暖かい気温と太陽で汗も出てくるような気候だ。

 

「龍兵衛、お前も手伝ってくれ。この有り様ではどうも手が足りん」

 

 現に声をかけた兼続も忙しそうにしていて汗で額や頬が少し光っている。それを拭うことも忘れて懸命に働いているのは兼続らしい。

 言われるがままに兼続の下に向かいながら辺りを見回すと改めて累々と屍が転がっている。これを見ても罪悪感など微塵にも感じなかった。

 晴貞という物欲者の傀儡となり果てたことに同情はする。しかし、同時にこれが富樫晴貞への怒りだとしたら悲しみや哀れみといった感情は無くなってしまう。

 

「(この人達もあんなでも晴貞を信じていたのか。まぁ、これはこれで良かったのか・・・・・・)」

 

 内心の言葉が溜め息となって出てきそうだ。もっとも、今回は無情なことばかりが続いた気がしてならない。

 一応は心の拠り所があるままに死んでいったのだからそれから解放して虚脱感を味わい、それに耐えきれなくなって本当の狂人になるよりはましだったかもしれない。

 それでは彼の信条である筈の生と反している。だが、所詮は人のことを押し付けられるのは他人には良い迷惑でしかないだろう。

 信条といっても共有するものを信条とは言わないし、別に分からない人達に分かってもらおうとは彼も思っていない。

 それに彼もどれほど言っても付いて来ようとしない人を許す程、そこまで優しい人ではない。 

 ぼけーっとしているように見えたのか隣の兼続が睨んでいるのに気付いて目を逸らして口元を手で覆って誤魔化す。

 殴られなかっただけでも今日はついているのかもしれない。

 しばらくは黙って手伝っていたが、魚津城内にも燃え落ちた松明の炎に巻き込まれた焼死体を片付けていると敵本陣のことが鮮明に脳内で映ってくる。

 そう考えるとそれを実行した隣にいる兼続も同様に民兵の大半を焼き殺したのだからそれなりに辛い感情があるのだろう。

 

「なぁ兼続、民兵達は惨い死に様だったか?」

「なんだ。藪から棒に・・・・・・まぁ、たしかに心は痛む。本来なら殺さないでおけた者達だからな」

「やっぱり、お前もそう思ったか、俺もだ。しかし、そうせざるを得なかった。特に最初はな」

「どういうことだ?」 

 

 首を傾げる兼続を見て龍兵衛は弥太郎や兼続に援軍が来る前、なおかつ援軍が近いという報告が来る前の魚津城を囲む一向一揆勢の戦陣がどのようなものであったか話していなかったことを思い出した。

 報告をしておいたので大丈夫だろうが、義に篤い兼続が聞けば憤慨しそうな内容は避けておいた。だが、いずれは言わなければならない。

 これは案外良い機会だと感じた龍兵衛は「怒らず最後まで聞けよ」と釘を差した上で一向一揆勢が取った戦術を説明し始めた。

 兼続も最初の内は釘が利いていたのか普通に相槌を打ちながら聞いていたが、晴貞のやり方にはやはり怒りを感じたのか次第に怒気で顔が赤くなり最後には「下衆が・・・・・・」と舌打ちを一つした。

 

「報告を聞いて覚悟を決めておいた。正解だったようだが、お前の方が長く民を相手にして随分苦しい戦をしたのだろう?」

「いや、俺も覚悟していたからそれほどでもなかった・・・・・・ああ、それよりも、火攻めは見事だったな」

「そ、そうか、ま、まぁ、役に立ったのなら何よりだ」

「ああ、前もって頼んでおいただけもあるが、予想の遥か斜め上だった」

 

 普段はあまり褒めないでいがみ合っている龍兵衛からの予想以上の賛辞を貰って兼続は戸惑ってしまったが、案外満更でもなさそうに今度は照れくさそうに顔を赤くしている。

 だがここで「ただ・・・・・・」と龍兵衛が間を置いて少しにやっと口元を歪めた。

 

「あの難所を通り抜けた後休みなしで通ったのは如何なものかと」

「なんだと? まるで私がやったような物言いをするな!」

 

 思った通りに兼続はくってかかってくる。構わずに龍兵衛は兼続に目を会わせずに明後日の方向を見ながらニヤニヤと笑って続ける。

 

「あれ、違ったの?」

「当たり前だ! というか、お前達だって私達が来なければ危なかったくせに言えた立場か!?」

「まぁ、来なくてもあと一週間は保たせる予定だったし~」

「今程時が戻ったら良いと思ったことはないな」

「むくれてもさっきの発言は撤回する気はさらさら無い」

「・・・・・・良かろう。そこまで私を怒らせたいのなら決着を付けようではないか」

 

 すらりと刀を出そうとする兼続は想定外だった。大慌てでそれを必死に「冗談だ!」と口と手で止めると姿勢を正して改めて頭を下げた。

 

「まぁ、実際に結構やばかったから感謝するさ」

「まったく、最初からそうしていれば良かったものを・・・・・・素直じゃないなぁ」

 

 溜め息混じりの兼続に「お前の方がよっぽど」という激怒間違いなしのツッコミを入れることを強引に喉元で押し下げて龍兵衛は続ける。

 

「で、だ。武田の方はどうなっているのか情報はないのか?」

「ああ、謙信様から状勢のことはまだ届いていない。だが、見立ては私達の考え通りと見ていいだろう」

 

 今回の戦に武田がでしゃばってきたのは時の偶然というものであった。

 それが一向一揆勢の援護になった訳だが、上杉に武田がまだ落ちぶれていないという示威が目的であったと颯馬や兼続は考えていた。

 もちろん魚津城が落ちれば機に乗じて越後に侵攻する準備は整えていたのだろう。

 

「それにしても武田は上杉に対して存在意義を見せてもその代償を考えなかったのか?」

 

 敗戦続きの武田が何もせずに撤退する。これは兵や民からかなり不満が出るに違いない。

 ただでさえ甲斐や信濃は肥沃な土地とはいえないにもかかわらず、出征が続いて軍の立て直しを図る為の金が無いとなれば税を取らなければならなくなる。

 その負担が返るのは民である。一揆が起きるとは考えられないが、国の柱である民の感情が悪くなるのは今後に影響が出かねない。

 さらに民に影響が出るということはそこを納めている国人衆や豪族も収入が減るのでその場その場の損得勘定で動くかれらの不満を募らせるばかりだ。

 それについては、龍兵衛は頭を振って否定する。

 

「まさか、そこまで武田信玄は馬鹿ではない。そうでなければ謙信様とあそこまで渡り合えた筈がないだろう」

 

 そう言われると兼続も首肯せざるを得ない。しかし、その信玄だからこそ今回の意味のない出陣が気になる。

 今、考えても仕方ないが、また後手に回るのは少々歯痒い気もしてきた。

 

「また後手は嫌だから今度こそ先に動こうなんて考えてただろ?」

「ぐっ・・・・・・そ、そんなことはない!」

「嘘付け、その言い方が嘘を付いていると言っているぞ」

 

 不意に兼続が顔を背けて顔を赤くした。それだけでもう龍兵衛には嘘だと分かった。

 案外というか、やっぱりというか、分かりやすい。迂闊にも笑い声を堪える不自然な声が出てしまい、慌てて咳払いで誤魔化す。

 刺さるような視線が先程よりも強くなったのは龍兵衛の気のせいだ。

 

「とにかく、上杉も武田も今回の戦はかなりの強行であったことに変わりはない。しばらくは武田よりも西への進軍を盤石にする為に背後を固めることに集中出来る」

「とはいえ、水原殿達の方も強行であることに変わりはないんだよなぁ」

 

 軍師二人はまだ眉間の皺が取れていない。夏から秋にかけて米は収穫前の大事な時期である。その時をして兵を徴収してまで出陣したのだから上杉も武田も少なからず民の不満は出てくるだろう。

 

「揚北衆の方々は、大丈夫だろうか?」

 

 龍兵衛が一番懸念しているのは中条藤資亡き後の揚北衆のことも考えると憂いが内側にあってはかなりまずいということだ。

 後を継いだ中条景資は基本的に謙信に従順だが、揚北衆の絶対的な首領であった藤資が亡くなった今、憂うのは揚北衆の反乱である。

 元々、上杉家家中で強力な軍事力を持っている揚北衆は阿賀野川付近と拠点にしている為、謙信とは反目し合っていた。

 その揚北衆内部でも対立関係がある為に今回の強行軍に不満を持った者達が対立関係にある別の揚北衆を倒すことも考えられる。

 武田や一向一揆勢に協力して反旗を翻す気配は今のところ無いが、いずれは起きるものだと見ていても損はない。

 

「案ずるな。私が謙信様に危ない連中は東北に向かうように仕向けておいた」

「えっ、俺聞いてない」

「あの時、お前は吉江殿と一緒に魚津城に行く為の策を練っていただろう」

「あぁーそうか、あの時期か・・・・・・そういえば竹俣殿も揚北衆の一人だぞ?」

「あれはそこまで気にすることはあるまい。それを言ったら『水原殿も揚北衆だぞ』と言っているようなものだ」

 

 急に真剣になった龍兵衛を兼続は言葉で抑える。竹俣慶綱はとにかく真っ直ぐの一本気な性格で、主家に仕えることを誇りとしている武人である。たしかに彼女を憂うのは無意味だ。

 龍兵衛も「それもそうか」と眉間の皺を取ると戦後処理をしながら今後をどうするのか話し合う。

 兼続が謙信から伝えられた命を聞いた後に今のところ入っている情報を話し合う。

 東北の状勢は新しく降った戸沢道盛の活躍でかなり順調らしく南部がもしかしたら降伏するかもしれないらしい。

 葛西・大崎は相変わらず頑強な抵抗が続いているが、元々仲が悪かった者同士での戦いがずっと上手く続くとは思えない。

 北の稗貫が援軍を出していることもあるそうだが、南部とのことがある以上、そこまで長居することは出来ないだろう。

 取り敢えず、東北の憂いを絶ち、南下、西進の為の初期段階はこのままだと順調に終わりそうだ。

 後は南部がどう出るかが問題であるが、何でも降伏派と決戦派に分かれているらしい。上杉としてもなるべく戦は避けたいので降伏派を支援するつもりだ。

 

「火種を潰すにはもはや安東の残党は消す以外しかあるまい」

「同感だ。しかし、謙信様は降伏すれば殆どの者を許しているのに何故降る選択を選ばないのだろうか?」

「そりゃあ・・・・・・」

 

 言いづらそうに一呼吸置いて、龍兵衛は改めて口を開く。

 

「謙信様の絶対的な正義が理解出来ないんだろうよ」

「解せないから、だと。たしかに分からない者達に同情の余地はないか」

「え・・・・・・」

 

 おとがいに手を当て冷静に頷く兼続を見て、驚愕の声が思わず漏れ出てしまった。「どうした」と首を傾げる兼続に「何でもない」と首を振ると正面を向いて驚きを必死で隠した。

 

「(あの兼続が、謙信様を非難するような言葉に怒らない!?)」

「まぁ、分からない前に分かろうとしない者達には私も興味は無いのでな。身に染み込むまで謙信様に刃向かった後悔させてやるだけさ」

「(・・・・・・大分黒くなったな。お前)」

 

 

 

 それから一、二時間が経ち、一旦休憩に入った時に兼続があることに気付いた。

 

「そうだ。お前、小島殿を見なかったか?」

「えっ・・・・・・あ~・・・・・・あ、はははは」

「あーこらこら、笑いながら逃げるな」

「おいおい、声と態度が釣り合ってないぞ?」

 

 優しい声と裏腹に痛い程に掴まれた背中から何故か怖い雰囲気が刺さっている。

 すーっと逃げたいが、力がどんどん強くなっているのは気のせいではなさそうだ。

 

「素直になれば説教は免除してやる」

「向こうの倉庫に行けば全てが分かる(これはツイてる)」

 

 出された取引をすぐ受け入れて先程までいた方向を指差す。

 単純な算盤計算でも兼続の説教を弥太郎と一緒に受けるのと兼続の代わりにこの場の戦後処理の指揮を執るのは明らかに良過ぎる取引だ。

 ずんずんと進んで行く兼続の背中を見送りながら休憩を終わらせて龍兵衛は兵に混じって手伝いながら戦後処理を急いだ。

 途中で誰かの悲鳴が聞こえた気もするが、誰も気にしなかった。

 

「(やっぱり、今日はツイてるな・・・・・・)」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十三話 帰れない者達へ

 一向一揆勢との攻防戦に勝利し、束の間の平和が訪れたように涼しげで秋晴れの魚津城内では戦が終わった途端に一つだけ問答が生じていた。

 

「なぁ、兼続」

「なんだ?」

「後ろから何故か殺気がするのは俺の気のせいかな?」

「奇遇だな、私もそう思っていた」

 

 魚津城の処理と援軍の将が来るまで待機を謙信から命じられた龍兵衛と兼続は先の戦で城内に何か欠陥が生じていないか見回りを行い、それが終わったので二人で歩いているとしばらくその獲物を狙う狼のような雰囲気を身に纏っている人物に背中を狙われ続けていた。

 その殺気だけで強者であることが簡単に分かる。正しく鬼のような気がある。しかし、二人も先程から警戒しているおかげで狙われても襲われてはいない。

 

「じゃあ、いっそのこと矢でも放つか?」

「馬鹿を言うな、矢も無限にある物ではない」

「じゃあどうするよ?」

「二人で斬りかかればどうにかなるだろ」

 

 兼続の言葉に合わせてすらりと刀を抜いた二人の目の前に大きめの太刀が振り下ろされた。物凄い力だがそれを二人は一緒に止める。

 そこから後ろに素早く下がって襲撃者との距離を取る。そこには黒い衣装に身を包んだり、顔を覆ったりもしないでいる二人の見慣れた人物が立っていた。

 

「これはまさか謀反ですか?」

「ならば、すぐに謙信様に報告を」

「誰がこうさせたと思っているんだ?」

「「自分じゃないですか」」

 

 鬼は無情な宣告を受けてがっくりと膝を付いた。要は鬼の正体は弥太郎であって、何故兼続と龍兵衛に凶刃を振り下ろしたのかは言うまでもなく酒が原因である。

 兼続に肝まで搾り取られた弥太郎は宴で酒をいつもよりもかなり制限されるという酒好きには受け入れがたい罰を受ける羽目になった。

 この襲撃はその腹いせであって兼続と龍兵衛の二人に何ら非がある訳ではない。

 

「自業自得なんですから。ちゃんと反省してくださいよ」

「龍兵衛、お前、私の隣で嫌味のように『酒は旨いなぁ』とずっと言い続けていた恨み、晴らさずにはおけぬ」

「だから自業自得でしょう」

 

 また斬り掛かってきそうな弥太郎を必死に二人で止めにかかる。羽織い締めで上から兼続・龍兵衛の順番で弥太郎を押さえにかかるが、戦で見せる怪力を弥太郎が持ち出して二人を強引に持ち上げ、纏めて放り投げた。

 二人は二間ぐらい飛ばされたが、体勢を立て直して上手い具合に着地して事なきを得た。筈もない。

 

「第一に兼続に言うなと言っておいたにもかかわらず、お前は兼続に言っただろう?」

 

 ずずいっと弥太郎は刀は閉まったが、さらに距離が近くなって目が怖くなっている。

 弥太郎は龍兵衛が先日部屋を出て行く時に「兼続には言うな」と最後に懇願するような大きな声で言ったのだ。しかし、龍兵衛は聞こえていなかったのと元から問答無用で兼続に言うつもりだったので弥太郎からすると無視されたことになる。

 普段なら「それだから動物や子供に嫌われるんですよ~」と軽口の一つでも出てきそうなところだが、弥太郎の怒気がマジなので二人もマジで止めようとしているが、鬼小島が暴れ出そうとするのを軍師二人で止めるのは難しい。

 どうしたものかと考えていると弥太郎の背後から手が伸びてきた。

 

「阿呆、何やってんだ?」

「いたっ・・・・・・って、朝信か」

 

 何時の間にか背後にいた朝信が弥太郎を一つ殴るとあっという間に弥太郎から出ていた怒気が収まってしまった。

 

「ったく、自業自得だって龍兵衛も言っただろう。その通りだ」

「いや、しかし・・・・・・」

「弥太郎、いい加減諦めろ」

 

 さすがに自分と同じ程に強い気を出されたら弥太郎も渋々頷くしかなかった。恨みがましく二人を泣きそうな顔で睨み付けるとそのまま足音を立ててどこかへ行ってしまった。

 その背中を見つめながら三人は「やれやれ」と溜め息を吐くと軍師二人は朝信に弥太郎の暴走を止めてくれたことに改めて礼を言った。

 

「なに、あいつとはお前達よりも付き合いが長いだけだ」

 

 そこまで言うと朝信は真剣な表情に変わって二人に話があると自分の部屋に招いた。

 

 

 

 魚津城内は一向一揆勢が中に入り込んだ為に死体やその兵が持っていた刀や槍が地面に刺さり、ぐちゃぐちゃになっている所が多々あったが、その中で数少ない綺麗なままで整えられている場所の一つが朝信の部屋だった。

 本人はこんな所を守るなら前に出るべきだと兵達を引っ張り出していた為に少しは荒れてもおかしくない筈だったが、思ったよりも魚津城内の戦場の規模が小さかった為に類は及ばなかった。

 

「まず、富樫の行方は分かったか?」

 

 朝信は勝っても決して揺るがない。舞い上がることはない。開口一番、朝信は最も懸念すべきことを二人に聞く。

 

「我々は南から、援軍は北東から攻め上がった為、松倉城に逃げ込むことは不可能でしょう。富山城に逃げ込んだとみて間違いないかと」

 

 龍兵衛の推測ではこのまま撤退するような晴貞ではなく、富山城で体勢を立て直してもう一度魚津城に攻め込むであろうと考えていた。

 

「民のことを考えれば間違いなく撤退するべきだと思うが、たしかにあの富樫がそんなことを考えるとは思えないですね」

 

 兼続も同意する。本来はもうすぐ秋の為に徴兵した農民達を田畑に帰さなければならない。気の知れた大名なら当たり前のようにやっていることだが、そんな常識が晴貞にあるとは思えない。

 そうなると上杉も同じように動かなければならない。つまりは農民達を田畑に帰すことが難しくなってくる。

 民からの不満が出る可能性が大いに高い。しかし、民を守る為にはもう一度来るであろう晴貞を追い返す必要がある。

 そうなると民に対する負担が不満に変わる可能性は高い。元々、かれらは現金な者達なのだから。

 しかし、三人にそれに対する懸念があるようには見えない。

 

「一応、そのことについては一か八かの賭けの策がある。やってみなければ分からないが・・・・・・」

「大丈夫です。おそらく自分も同じようなことを考えていますから」

「こら、私もだ。龍兵衛、忘れるな」

 

 三人はお互いに意見を聞き合うと笑みを深め、軒猿を呼んだ。

 

 

 

 軒猿に要件を言うと三人はもう一度表情を改めた。

 一向一揆勢に勝利したのはあくまでも魚津城の攻防戦によって。これから先、上洛をする時が来れば正面衝突は避けられない。

 その前に富樫晴貞の力を削ぐことが必要になる。その為には動けない内は向こうを動かして疲弊させる必要がある。

 

「これでおそらく晴貞は加賀に帰らなければならないな」 

「問題は帰らずに誰かを帰らせることでしょう」

「いや、それは大丈夫です。自分が富樫に少々吹き込んでおきましたから」

 

 一か八かの策の為に危険が高いのはよく知っている。しかし、龍兵衛が晴貞に言った一言は強欲で猜疑心の強い晴貞の耳からは離れないだろう。

 他の者を信用出来ないようにしてしまえば晴貞は必ず自ら腰を動かすしかなくなる。富山城の一向一揆勢は必ず撤退するだろう。

 必ずとは言えないが、必ず撤退しないということはない。確率を兼続に問われると彼はこう答えた。

 

「五分五分・・・・・・かな」

「適当な」

「しかし、そのことが本当ならば富樫は退くとみて良いだろう。追撃して富山城を取ることも出来るが、秋に近くなった以上は兵を撤退させなければな」

 

 本来なら松倉城か富山城を取って一向一揆勢に対して有利な展開に持っていきたいが、秋になれば農民兵を帰す必要がある。

 そうなると兵力が足りなくなり、不利になりかねない。もっとも謙信が川中島に連れて行った一万以上の兵がいれば話は別だが、それは希望論であって現実的には有り得ない。

 謙信も川中島の戦いが終わったらおそらくそのまま兵を魚津城には向けずに撤退するだろう。

 民のことを考えると賢明な判断だと言える。朝信達もそうなると分かっている上で今後について話し合っているのだ。

 冬になれば雪の覆う北陸で戦が起きることは少ない。あるとすればやはり富樫晴貞の遠征ぐらいだろう。

 いっそのこと魚津城を捨てて親不知の道を封鎖してしまえば越後に入る道を一向一揆勢は失う為、人員などいらないが、それでは魚津城に住む民達を不幸にすることになるのでそれは全員が却下した。

 後は晴貞が撤退することを祈るだけ。もしまた来るようなことならば今度は籠城しか選択がないだろう。

 奇策は使いきったし、あの晴貞がまた同じ手に屈するとは思えない。戦略を変えてくることもあるだろうが、不覚を取るような戦をすることはないと考えられる。

 

 

 

 

 外のことについての話題が途絶えると自ずと話題が内側のことになってしまうのはおそらく三人が越後の内情をよく知る人物だからだ。

 ここのところは二年近く戦を控えていた為に農民達を大分落ち着いて見ることが出来た。

 とはいえ、目の前のことを考えて動きたがる農民達は秋の収穫時に行われたこの戦のことを快くは思っていないだろう。

 そうなると民の不安に乗じてよからぬことを企む者が現れるということである。

 

「やはり、怖いのは・・・・・・」

「揚北衆か?」

「御意、新発田・五十公野など危険な家を排除したとはいえ、未だに本庄と鮎川が、黒川と中条が対立している現状は決して見逃せないかと」

「謙信様の目が光っている間は大丈夫だと言いたいが、たしかに気になる」

 

 朝信も暗い顔になりながら溜め息をつく。ふと龍兵衛が横を見ると兼続が少し怒ったように顔を赤くしているのが分かった。

 おそらくは敬愛する主君を裏切る輩に対して謙信の思いを踏みにじるような真似をさせてたまるかという意気から来ているのだろう。

 

「しかし、お前達が城の普請や街道の整備をかれらに負担させることで力を削いでいるだろう?」

「逆に言えば、負担がかかる分に不満も溜まるというものです」

 

 諸勢力が持っている力を削ぎ落とし、そこに上杉が色々と手を差し伸べることによってますます上杉に依存するように仕向けているのは軍師達の真の目的である。

 朝信はそれを知る数少ない人物の一人だが、聡い者達は、表向きは越後の民の為とふれ回っているこの目的に気付いているに違いない。

 

「国が大きくなる程、内側も気にしなければならないか」

「民の安寧と家臣の忠誠心が無ければ国は栄えることはありませんから」

 

 それは明や日の本の歴史を辿れば嫌でも分かることだ。その為に戦に必要となる金を普請事業などに当てさせては金を減らし、国人衆が財力の豊かな上杉に頼るように仕向ける。

 気付いている者達もいるが、そうしなければ勢力をそのままにさせた室町幕府の二の舞となりかねない。

 揚北衆に限らず、不満を持つ者は必ずいる。それを抑える為にも早くこの戦を終わらせる必要があるのだ。

 謙信は秋前に終着することが出来ると考えてこの越中への遠征を決行したにもかかわらず、最初から頓挫することになった。

 これで国内の不安材料が燃える可能性が出てくるが、今はくすぶるままでいてくれる筈だ。

 他国の諸大名が上杉ではなく織田に目が向いている中でその間に戦を避けて内政に専念するべきだと龍兵衛も兼続も考えていたが、一向一揆勢との対決姿勢を明らかにした以上は早めに攻めるべきだと判断した謙信には逆らえないし、理にかなっている。

 今回は武田のちょっかいのおかげで失敗に終わったが、この魚津城の攻防戦を見ると明らかにどちらが有利でどちらが不利かが分かる。

 本来ならこの機を逃さずに一向一揆勢の内側から切り崩しにかかるのも手だが、晴貞に刃向かおうする者がいるとは思えない。

 結局はこちらが動くか向こうが動くか、どちらかが動くことによって崩れる均衡を待つしかない。

 今回は上杉が関東管領の力を以て、幕府に訴えるという権力を傘にした方法を取り、均衡を崩そうとしたが、逆に晴貞が先にそれを崩した。

 訴えていたことの期間が近いということで都合が良過ぎる気もしたが、細かいことが分からない以上、また均衡状態が続く可能性が高い。

 謙信は京への足掛かりを作る為に北陸を席巻することを目指しているが、今回の戦でまた動けなくなった。

 

「上手くいかない時は必ずある。それが今回だったという訳だ。気にすることはない」

 

 歯痒い思いを悟ったのか朝信は笑いながら二人の背中を叩いた。痛そうにしている二人だが、朝信にそう言われただけでも少しは気が晴れた。

 そのまま三人は水で喉を潤すと自然と心が穏やかになるのを感じた。

 秋が近いせいかどうやら水も飲んで冷たくなっている。やはりこういう水ははっきりと冷たい方が戦での疲れがすーっと抜けていくように感じるものだ。

 疲れが抜けると他のことに気が行ってしまうもので、朝信はもう一杯飲むと緊張緩んだのか思っていたことをすっと口に出した。

 

「帰りてぇ・・・・・・」

「斎藤殿はもう少し魚津城にいてくれませんと」

「そうはいってもな。お前らと違って妻子に会いたいんだよ」

「あー・・・・・・すみません。分からないです」

「これだよ。早くお前らも相手見つけろよ。そうすれば分かる」

「断っておきますが、自分はまだその気はありません」

「こういうのは早い方が良いぞ? いつ自分が死んでも思い残すことは無いってもんだ」

「そうは言いましても・・・・・・なぁ・・・・・・って、なに顔真っ赤にしてんだ?」

 

 ふるふると震えている兼続は明らかに恥ずかしそうにしている。どちらかというと初心なところがある兼続とはいえこんな話題にも恥ずかしくなってしまうのだろうか。

 そう思いながら龍兵衛はもう一度訪ねると今度はまだ顔を赤らめながらも話し始めた。

 

「ちょっと・・・・・・謙信様達のことを思い出してな」

「あぁ~・・・・・・」

 

 手招いて龍兵衛の耳元でごにょごにょと囁くと龍兵衛も少し顔を赤らめて思い出したように明後日の方向を向いた。

 それを朝信はよく分かっていないように首を傾げるばかり。二人がそういう関係にある訳がないし、察するに颯馬がまた何かあったとしか考えられない。

 

「でも、あれ見ただけでそうなると兼続はまだまだ先・・・・・・・・・・・・おい、ここで刀を抜こうとするな!」

「顔を赤くしたお前に言われる筋合いは無い!」

「おい、外でやれ外で」

 

 いつも通りの追いかけっこが始まりかけて朝信が釘を差すと二人は何も言わないで外に出て行って一人の悲鳴と一人の「待て!」の連呼が聞こえる。

 

「あ、颯馬のこと聞くの忘れた」

 

 後で二人の口から聞き出すのも手だが、話したところで兼続はあの様子では途中ではわはわしそうだし、龍兵衛はそういうことには本当に興味を示していないので話そうとはしないだろう。

 

「やっぱり、帰りてぇ・・・・・・」

 

 春日山城に戻れたらそれとなく颯馬を探るとしようか。その為にももう一度来るかは運次第だが、富樫晴貞との戦いに決着を付けなければならない。

 しばらく水を杯に満たしては飲み干すを繰り返しながら朝信はそんなことを決めた。

 束の間の休息になるか、それともこのまま帰れるのか。ここにいる者達は待つだけ、全ては北陸を支配せんと願う狂乱者次第。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十四話 柊の蕾

 夏の日の暑さとは秋になればすぐに忘れることが出来る。それは残暑が少ない東北故にということもあるだろう。

 一方で、この時期は農民にとって収穫という大事な時期になる。年貢を納めることを当然の義務としている武家が戦を秋に行うことはよくあることだが、それで下の不満が溜まっていくことを知っているのはどれほどの大名達であろうか。

 大大名程にそれほどのことに気を配らなければならない。

 この戦は東北の残る勢力を完全に排除する為に仕掛けた戦であるだけに今後、上杉が西へと進む為に背後を固めるという基本中の基本で最も大事な戦の一つである。

 この収穫という国の大事な時期に仕掛けなければならない程。

 しかし、戦を仕掛けるには理由がいる。その為に官兵衛は伊達と大崎の間にある東北特有の事情に目を付けた。

 伊達家家臣にて伊達晴宗の三男である留守政景の配下に黒川晴氏という人物がいる。元から対葛西・大崎に方面を守る為に政景の傘下に知勇兼備の将として活躍していた。

 黒川氏は北陸奥の斯波・羽州最上の分家にあたり、大崎に属していたが、伊達稙宗の勢力伸長に伴って伊達一門の飯坂家から養子を迎えており、加えて稙宗が大崎を実質的に従属させたことで晴氏の代には黒川は半ば独立した地位を保ちつつも、大崎・伊達に両属する状態にあった。

 その均衡が崩れたのは先の伊達家の上杉家への全面的な降伏である。

 伊達家に属していた晴氏は当然、政宗の決断に従うべきであったが、簡単に首を縦には振れなかった。

 晴氏の奥方は現当主の大崎義隆の祖父である大崎義兼の娘で、彼は養子に大崎義直の息子である義康を迎えている。一方で義康には晴宗の弟である亘理元宗の娘を迎えていた。

 東北ではよくある様々な家との政略結婚と養子縁組をしているのは彼も例外ではなかった。伊達にも大崎にも通じている彼は反上杉の立場を取っている斯波の一門にも繋がっている為に晴氏の立場は極めて微妙なものとなっていった。

 それこそが官兵衛の目に止まった。まず、官兵衛は密かに輝宗と連絡を取り進軍をしつつ、かねてから留守政景と対立していた泉田重光と長江勝景を隠居した土佐林禅棟に協力を願って二人をそそのかし、政宗からの離反を促した。

 まず、勝景がそれに応じた。密かに輝宗に出奔を願い出てそれが承諾されるとすぐさま大崎義隆の下に走った。

 重光は結局応じなかったが、これだけでも十分である。官兵衛からすればどちらかが離反すれば良かったのだから。

 これを好機と見た輝宗は大崎討伐の許可を上杉から得るとすぐさま左月と成実を先鋒に自ら出陣した。

 まず、黒川氏の北方を固めている大衡城に入り、晴氏に動きに睨みを利かせ、政景に葛西に備えて長江勝景の領地との国境で行かせた後、対大崎の重要拠点である桑折城へ進軍した。

 大崎義隆は桑折城では防衛に向かないと判断し、桑折城城主の渋谷氏を撤退させ、中新田城を伊達軍に対する防衛線と定めた。

 輝宗はすぐさま桑折城に入城して城に自ら志願した晴氏を置き、中新田城へと向かった。

 

 

 

 

 中新田城を囲んだ輝宗はまず東北でも有数の大規模な城を落とす算段をどう付けるかに迷った。

 元は大崎家の居城である中新田城には大崎家の重臣で、戦上手と名高い南条隆信が入っている。

 手を下すにはなかなか難しい相手であることは分かっているが、ここを取れば大崎は地盤を失い、静観している豪族達は保身の為に上杉へ降るだろう。

 中新田城を包囲したとなれば敵の援軍が到来するのも時間の問題、一方ですぐにはこの中新田城を落とすことは難しい。強襲でもしてみればたちまち犠牲が多く出る。

 いっそのこと毒でも敵の水源を見つけて入れることも考えたが、それはすぐに破棄した。

 上杉にいる以上はそのようなことをするのは卑怯だと罵られる。そもそも輝宗自身もそんなことを心からしようなどとは思っていない。

 そうなると残るは奇襲だが、これ程の大事な拠点を任される将が簡単にそのような隙を見せるとは思えない。

 打つ手は今のところはない。そう、今のところだけはない。

 時は必ず来る。そのお膳立てをしてくれた者がいるのだから。

 

 

 

 黒川家は元々、清和源氏足利家の庶流である斯波氏の庶流筋であることから、長禄年間には将軍より直接に古河公方・足利成氏討伐を命じる御内書を下されるなど、大崎氏麾下の国人領主として重きをなしてきた。

 戦国時代に入り、伊達家が稙宗の代に拡張すると伊達家に属したり、大崎家に属したりと風見鶏の方針で家を守ってきた。

 黒川家第九代当主、黒川晴氏は稀代の優秀な将として周りから期待され、信心深く早くから月舟斎と名乗り、民心をよく掴んでいた。

 しかし、世の中には名門の血というものがある。

 かねてから政宗の急進的な発想と、上杉とは名ばかりの成り上がりと考えていた謙信達に疑問を持っていた晴氏は迷いを捨てきれなかった。

 たしかに北陸から以北、東北の状勢は間違いなく上杉が一番上に立っている。

 一方で、世の中には義理というものがある。かつて、義理は命よりも大切にするべきだと言った将もいた。

 もちろん、斯波一門として黒川家を守ることも考えなければならない。

 上杉に恩を売っておけば後々のことに有利になることは重々承知している。そして今後、黒川家は脈絡を保つことが出来るだろう。

 しかし、長年大崎家と伊達家の間で行ったり来たりをしてきた中で斯波一門という誇りが薄れてきているのも確か、弱肉強食の戦乱の世でどんな形であれ強い者が勝利するのは必定。されど、武人として生き恥を晒すよりも美を重んじて逝くのもまた良し。

 輝宗が中新田城を包囲したという報告を受けた時、自然と晴氏は拳に力を込めた。

 武人の華を咲かせるには十分な舞台が出来上がったことへの喜びを噛み締めたのだ。

 

 黒川晴氏の反旗はあっという間に伊達軍に伝わった。

 晴氏が兵を挙げたのは中新田城の背後にある桑折城、つまり背後が敵となり、このままでは挟み撃ちにされてしまう。

 輝宗は将兵の動揺を抑えつつすぐに援軍要請の使者を蘆名と上杉に送った。

 蘆名盛隆はすぐにこれに応じて、金上盛備に後事を任せ、自ら三千の兵を率いて出陣した。謙信も予め黒川城に出陣していた親憲を大将に軍師に官兵衛を付け、二千の兵に出陣を命じ、両軍は米沢城で支倉常長と合流した後に桑折城に急行した。

 一方、輝宗が一度体勢を立て直す為に新沼城に退却していることを知った政景は親戚関係にある晴氏に泉田重光を人質とすることで一旦和睦をするように促した。 

 新沼城を包囲していた晴氏は輝宗を倒す絶好の機会をみすみす逃すことを考えるとすぐに反対しようとしたが、義理の息子である政景の言葉を義理堅い彼は無碍にも出来ず、晴氏は時間を掛けて考えることにした。

 だが、義理堅い性格が官兵衛の付け入る隙となり、予めから予定していた戦略通りの道へとさせてくれた。

 輝宗にも人を見る目がある。そのような彼がわざわざ戦前に伊達と大崎双方に通じている将を退路となる桑折城に志願されたとはいえ置いておく筈がない。

 全ては官兵衛の策通り、敢えて輝宗は負けてあげたのだ。

 政景から黒川晴氏という人物がどのような人なのか、輝宗から伊達が抱える内憂がどこにあるのか把握した官兵衛に晴氏は謀られていたのだ。

 官兵衛は晴氏が戻る前に桑折城へ本庄繁長を向かわせた。主無き城は猛将繁長の前にあっという間に陥落してしまい、彼は僅かな守備兵を残してすぐに新沼城に向かい、官兵衛達と合流した。僅か、五日のことである。

 晴氏は桑折城の陥落を聞くと歯痒い気持ちを抑えて中新田城へと撤退して、そこで大崎軍と合流した。

 季節は秋へと近くなり、東北は山が寂しくなる季節となってきた。

 

 

 

 上杉軍はそのまま中新田城へと追撃を掛け、一気に城を包囲していた。

 親憲は城の包囲に綻びがないか視察をし、終わったところで本陣へ戻ると城を睨みながら唸っている官兵衛を見つけた。

 

「うーん・・・・・・」

「悩み事ですか?」

「水原殿、そんな簡単に言わないで下さい」

 

 最初こそは北方で傍観している南部に勢いを示す為に速攻を続けて勝利する策を実行し、桑折城を素早く落としたが、意外にも大崎の将が有能であって南条隆信という勇将の活躍によって中新田城での足止めを余儀なくされた。

 南条隆信は智勇兼備の将として名高く、彼は輝宗を相手に中新田城を寡兵でよく守っていた。

 何度も降伏勧告の使者を出したが、そのたびに断られ続けている為に城を攻めるしかない。

 だが、中新田城はかつては大崎氏の本城であっただけに城の守りが堅く、中にいる将もその城を守るに相応しい将である為に無理に攻めれば被害が出てしまう。

 

「まぁまぁ、某も大分焦っておりますよ」

「・・・・・・とても、そうは見えないけど」

 

 なかなか城が落ちずに駄々っ子のようになった官兵衛を一緒に親憲に視察に行っていた盛隆がおずおずと彼を見て言う。

 

「某達が焦ったところで城は落ちませんからな。しかし、そろそろ急いだ方がよろしいかと」

 

 親憲が同調を入れてやんわりと抑えるが、城を包囲して二週間、いい加減に決着を付けなければ大崎軍本隊だけでなく葛西や稗貫の援軍が到着してしまう。

 だが、一方で官兵衛達は違和感を感じていた。

 

「いくら何でも大崎が本隊出すの遅くない?」

「たしかに、私も違和感を感じていました」

 

 盛隆も同調したように大崎は中新田城を防衛戦に定めてからなかなか動く気配を見せない。輝宗が大崎領に進軍して二週間、官兵衛達と合流して中新田城を包囲したのが二週間、いくら中新田城の将兵が善戦しているとはいえ、そろそろ動き出さなければ中新田城がいつまでもこうしていられるという保障がない。

 親憲は輝宗を呼んでこの違和感を伝えると輝宗も新沼城にいた時からこの違和感と同じものを感じていたようで、官兵衛からは前もって新沼城には最善の防備を敷くように忠告されていた為に左月と成実には交代で厳しく監視していた。

 にもかかわらず、大崎軍は本隊を表さずに黒川軍が五千の兵で包囲していただけであった。

 輝宗もそろそろ大崎軍本隊が来ると考えていた為に五千の兵を持っていながらも一時的に孤立していたのも重なって新沼城に入っていた。だが、現実には何も起きずにこうして孤立状態から救われた。

 

「政景にこのことを伝えよう。あれなら何か知っているかもしれん」

 

 親憲達が頷くのを見て輝宗はすぐに政景に書状を認めた。 

 

 

 

 政景からの返答はすぐに来た。

 同盟国である大崎と葛西が互いに牽制している為に義隆は背後を警戒してあまり兵を出せないらしい。 

 息を吹き込むだけでたわいなく瓦解していくような簡単な戦というものは無い。ただ、指揮を執っているのは人間である以上は必ず欠陥が出来る。どちらかがその欠陥を見つけ出してそこを突くことこそが戦。

 黒田官兵衛は常々そう考えていた。

 敵の葛西・大崎は今は同盟を組んでいるが、元は領土を巡って長く争っていた敵同士である。

 疑心暗鬼にさせてしまえば向こうから勝手に崩れていく。

 兵法では敵が親しみあっているときはそれを分裂させるとある。ならば絶好の好機を逃す訳にはいかない。

 幸いにも葛西晴信は今は一度領内に戻って援軍の手配をしている。この情報を得た官兵衛はすぐに動いた。

 留守政景に対して葛西領との国境の警備をそれとなく緩めて大崎に敢えてそれを間者を通して伝えた。

 案の定、大崎と葛西の動きが上杉に対して積極的ではなくなった。

 

「ふむ、政景によるとどうやら内輪揉めを始めたようだな」

「敵が眼前に迫っていて、ですか?」

「常長、あの二家は前々から対立していたのはお主も知っておろう? 結局、この同盟は相手を利用し合うのが奴らの真の目的よ」

 

 お互いに上杉を撃退すればその後はまた領土を巡って対立が起こる。大崎からすれば今まで何度も葛西に辛酸を舐めされてきただけに今回の戦では中新田城で敵を抑えつつ後は葛西に任せる腹積もりだろう。

 一方の葛西は大崎と上杉を戦わせ、一気に今後の領土問題に決着を付ける腹は少し考えれば誰にでも分かる。

 

「何と、申せばよろしいのでしょうか?」

 

 常長はただ呆れるしかなかった。以前から領土を巡って対立していた間とはいえ、上杉という大木に抗うことにも驚いたが、抗おうとしてこの様になるとは思ってもいなかった。

 

「まぁ、内側から崩すように仕向けたのはこちらだからな。しかし、こうも簡単に喧嘩になるとは思ってもいなんだ」

「はい、それは確かに・・・・・・」

 

 たしかに常長もその一翼を担っていた以上、こうなることは分かっていた。故に何も言える立場ではないことも重々承知していた。

 そして、輝宗が新沼城に退却する為に五千の兵から四千程度にまで減らしていたことも知っている。約一割が減らされた為に仕方ないことなのだ。

 

「そう暗い顔をするな。もはやこちらの流れは決定的なもの」

「そうですね。何とも、やるせない気持ちですが」

 

 珍しく常長が不満を零した。輝宗は驚きつつも彼女が戦嫌いでこういったことをあまり好まないが、大義の為なら鬼になることも知っていた。

 その常長が普段は零さない不満を零したのだから、それほど今回のことは呆気なさすぎたのだろう。

 

「これで、向こうが降伏してくれればよろしいのですが・・・・・・」

「おそらく無いだろう。向こうにも面子があるからな」

 

 名門の出という『箔』が黒川晴氏という武将の目を曇らせている。 

 気付くのはいつになるかは分からない。

 

 

 

 

 中新田城は本丸を囲むように二の丸が設けられ、さらにその周辺には二ノ講・三ノ講と続き、本丸の西側には乾ノ丸が置かれている。

 それぞれの郭は土塁と堀で囲まれており、先代の大崎義直が居城としていただけに大規模なものである。

 周辺には湿地帯がある為に攻めるには向いていない城である。しかし、ここを抜けなければ大崎義隆の籠もる名生城へ向かうことは出来ない。

 さらに二週間経ち、包囲しても落ちない城にイライラしていた官兵衛達の下に朗報が届いた。大崎家内で対立していた氏家吉継と新井田隆景の間が決定的に決裂したらしい。

 大方、上杉と葛西に対する軍の方針を巡ってのことであろうが、世に名を轟かさんとしている策士の目の前でそのような隙を見せるのは愚か者の極みである。

 

「もう、大崎は積んだね」

「ええ、某達が何もせずに、このままでも内側から崩れていくでしょうな」

「けど、南部のこともあるし、上杉の脅威を見せる必要があるね。もう一度輝宗殿に連絡して書状を認めさせようよ」

「それは良いですな。では、このことを城内の兵達にも知らせましょう」

「うん、それも考えて今後の方針を考えよう。すぐに紙と筆を出して」

 

 届いた筆をさらさらと進めている間に輝宗がやって来た。

 

 

  

 要件が終わり、大体のことを輝宗を伝えると官兵衛は書きかけの書状をさらに書き進めている。

 その様子をたまたま見に来た盛隆が親憲にそっと近付いて会釈をすると小さい声で話し掛けた。

 

「また、何か?」

「ええ、大崎が内側から崩れるのは時間の問題でしょう」

「そうですか」

 

 早く戦が終わることは良いことであると盛隆はほっと一息付いた。

 官兵衛を見ると彼女は盛隆の存在に気付かずに筆の勢いをさらに早くしている。

 

「柊・・・・・・」

「何か?」

「いえ、何でもありません」

 

 柊は葉にある棘が常に邪魔をしていて、それは古来から邪鬼に利くとされている。一方で小さくて綺麗な花を咲かせる秋《とき》がある。まだ時期は来ていないが、そろそろ花が咲くだろう。

 その花は知略の花とでも言おうか。棘もまた綺麗に見えるだろう。武勇という見え見えの棘に守られた小さな花にも知略という危険がある。危険で統一された一種の美点かもしれない。

 そう盛隆が思っていると官兵衛は書状を書き終えたらしく、一つ伸びをした。

 書状を一通り見直すと官兵衛は鼻を鳴らして立ち上がった。

 

「ふん、たわいないね・・・・・・」

 

 ちょっと格好をつけて言ってみているが、官兵衛には似合わないというツッコミが二人は頭の中で入れたが、暴れを止めることが出来る龍兵衛がいないので口には出さずにお互いに顔を見て薄く笑っておく。

 今回の軍師として緊張状態を解消して勝利へと近付けた官兵衛の功は大きい。

 しかし、敵を疑心暗鬼にさせて敵の足並みを崩した後に一方を攻めて、もう一方を攻めずに放っておくことでお互いの仲違いを決定的なものにさせるには後一つ、手を打たなければならない。

 その策も既に練ってある。官兵衛は上機嫌そのものだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十五話 戦場には銭が落ちている

 上杉軍を追い返す為に葛西・大崎・和賀・稗貫の四つの勢力は一時的な和睦を結ぶという判断は妥当であり、それ以外に選択肢は無かった。

 一つの勢力が上杉に対抗することはまず不可能なこと、返り討ちに遭うどころかその家の存亡にも関わってくるのだから。

 だが、葛西・大崎は前々から対立を続けてきた間柄。しかも、現当主である葛西晴信と大崎義隆になってからはその対立が激化している。

 とはいえ新しく生えた巨木の前に自身の栄養分を取ろうとして争い続けて枯れた木々が立ち向かっても勝負は言うまでもない。

 手を組むにしても一つの均衡を支えている細い爪楊枝のような棒では簡単に倒れてしまい使い物にならない。

 それでは決して均衡を保ち続けることは不可能。均衡を保つ為に重心には支えとなるものが要るのだ。

 例えば二つの家の対立を仲介する為の別の家。しかし、それはどこでも良いという訳ではない。それなりに二つの家と接点が必要である。

 故に葛西の重臣大原守重と大崎の重臣氏家吉継はお互いの家を和睦させる為に結託して和賀・稗貫両家に仲立ちを頼んだ。

 和賀の出自及び系譜に関しては数々の伝承記録が伝えられ、一説では遠祖を源頼朝としている。また、稗貫も奥州藤原家の滅亡後に稗貫郡に入った伊達家の始祖が稗貫と改めたとされ、系譜を辿ると藤原北家、もしくは藤原流中条家の分流ともされている。

 葛西は元は桓武平氏の家流に、大崎は河内源氏の流れを組む斯波の一族であるとはいえ家格は十分であった。

 四つの家は奥州藤原氏滅亡後から鎌倉幕府より東北の治世を任せられてきた間柄である。

 和賀家当主、和賀義忠は北に稗貫郡がある為に今のところは長尾からの成り上がりである上杉打倒に全力を注ぐことが出来ると快く仲介役を引き受けた。上杉に降るという判断は有り得ない。

 一方で稗貫家当主、稗貫輝時はかつて上洛の際、足利義輝に献金をして偏諱を賜ったことがあるが、彼は元々養子として稗貫家に入った身である。

 それは乱世でも現代でもよくあることなので問題ないのだが、稗貫家の場合は問題があった。そもそも輝時の何代も前から様々な家から養子を取り、正当な血脈など無いのである。

 主家としての地位を確立することが出来ないまま、戦国大名として成長することは出来ず、稗貫郡を支配するだけの国人領主的存在となったまま今に到るのだ。

 それこそ稗貫家の臣下は養子に次ぐ養子を入れている当主に忠誠心など無く様々な意見を言ってはばらばらな方向を向いているのが実状であった。

 稗貫家が戦国大名に名乗りを上げられない最もな理由がそれだろう。

 しかし、今回だけは全員の答えが一致した。

 

「私は上杉軍恐るるに足らず。そう考えるが、皆はどう思う?」

「私も同じ思いです」

「某もです」

 

 我も我もと様々な家臣から上杉家に対抗するという考えは稗貫輝時以下、家臣一同全員が持っていた。

 最上・伊達・蘆名という東北有数の大名に力を補ってもらうことは不可能。しかし、地の利はこちらにある。

 それに意地が無ければ戦えない。最初から戦いもせずに負けることなど恥である。

 他にも理由がある。

 勝てるかどうかは別にして意地を通すということは必要であるし、上杉に降ったことで今後、その身が安泰であるかということは保障出来ない。

 大名ならばまだしも、和賀のように東北の辺境で国人衆の領主になったのがやっとのような家に温情をかけても意味がない。下手をすれば、小手森城のような仕打ちを受ける可能性もある。

 偶然、和賀が懇意にしていた行商人から聞いた話であったが、義忠の身を震え上がらせるには十分であった。

 いくらその日その日で風見鶏になることが必要な国人衆達でもこのことを聞けば待遇の良さそうな方に行きたくなるのは人間の一種の欲というもの。

 稗貫にもそのことを書状で伝え、ますます二つの家は結束を強めた。

 両者の仲介の下で葛西・大崎は和睦を結んだ。元々、上杉に対して警戒心を持っていた両家はきっかけを欲していたこともあって、すんなりと和睦が結ばれた。

 

 

 

 そして、現在に至る訳である。 

 予め大崎義隆が誘っていた黒川晴氏の離反による急襲は失敗したが、中新田城の南条隆信と逃れて来た晴氏の奮戦で上杉は足止めを食らっている。

 上杉は今、士気が落ちていることは間違いない。ここで出撃して中新田城の将兵と挟み撃ちにしてしまおうと氏家吉継は四つの家が出せる兵力全てをもって上杉との決戦を主張した。

 ところが、それに反対する輩が出てきた。吉継と同僚の新井田隆景である。

 吉継の主張に反対して、この際、上杉軍への討伐は他家に任せて自分達は後ろで万が一に備えるという名目で高みの見物をしようと

 彼女は元々、その容姿の良さから義隆の目に止まり、次第に寵愛されるようになっていた。

 隆景は新井田城の城主になった為に新井田の姓を名乗ったが、彼女には大崎家四家老の一人である里見隆成という大きな後ろ盾があった。

 隆成は隆景の父親である。彼女が寵愛を得ている間、隆成は大崎家を牛耳ることが出来るのだ。父親の家中での発言力が強まり、隆景自身も、将来は非常に大きな権力を握ることは確実となる。

 当然のようにそれを面白くないと思う者達が出てくる。

 それが氏家吉継達である。かれらは隆成・隆景親子と対立して伊場野惣八郎という小姓に接近した。彼女の父は侍大将を務めている伊場野外記という人物であり、彼女もかなりの美貌の持ち主だった。

 だが、伊場野側にほとんどの重臣達が味方したのにもかかわらず、形勢は家格と家内で持つ実権が勝る新井田側に傾き、とうとうこのような大事な決戦の方針にも関わるようになってきた。

 結局、隆景の主張が通り、大崎は万が一上杉軍が背後からの奇襲攻撃を仕掛けてくる可能性を考えて、自分達は後詰めをすると言った。

 それに食ってかかったのが、葛西晴信である。

 

「何なの!? じゃあ、大崎はあたし達を踏み台にするの!?」

「そ、そんなこと言ってないでしょ! ただ、万が一に備えてのことだってさっきから言ってるじゃない!!」

「誰? そんなこと言い出したのは!?」

「そ、それは・・・・・・」 

「はっきりしてよ! はっきり!」

 

 その後、二人の言い争いは晴信が一気にまくし立てる形で終わった。最後まで義隆は誰が方針を立てたかは言わず、隆景に累が及ぶことは無かった。

 それを見ていた隆景はほくそ笑んだ。

 一方、吉継は天を仰ぎ、隆景を呪った。彼がいる限りもはや大崎家の発展も無い。

 このまま彼を排さなければ大崎家の実権は里見と新井田が握ることになる。しかし、眼前の上杉軍をどうにかしなければその害を無くすことは出来ない。

 そんな折に敵である伊達輝宗から書状が来た。

 隆景が台頭してきた時からどうにかしようと連絡を取っていたこともあったが、今は戦場で相対する者同士である。

 訝しく思いながらも書状を開くとそれは間違いなく輝宗の筆跡だった。

 

 

 

 

 

 中国の春秋時代から日の本の戦国時代に渡って国を拡張させた者達が順調に勢力を拡大しているのは兵力や将の能力だけではない。

 所謂、金があるか無いか、その金を上手く使えているかいないかによって変わる。

 いくら戦だけが強くても食料となり、生きる糧となる物を上手く使いこなせなければ勝てないのだ。

 下手に浪費をすれば国の財政を揺るがし、民の生活を犠牲にすることになる。

 民を守るには金、兵を集めるには金、政策を実行するにも金がいる。

 そして、金はそれらだけでなく、人の心も買うことが出来る。

 稗貫家は和賀家と共に南部の侵攻には協調せずに、かの家と対立する高水寺斯波家を支援していた。

 南部は上杉家と誼を通じるように工作をして、田植えが終わった後には斯波の領内である紫波郡へと攻め込んできた。

 斯波家は敗れ、稗貫の仲介を得て和睦を結んだが、その際に南部への工作の為に斯波家と共に出した金と戦の際にしていた支援が重なって、さらに今回の戦によって金の支出が多くなっていた。

 上杉側からもその可能性が高いと考えている者がいた。黒田官兵衛である。

 彼女は密かに蘆名名義で稗貫に金を送り込んだ。もちろん、直接陣幕にではなく海路や最上領を通ってわざわざ奥羽山脈を横断して稗貫の本国にである。

 このことが留守居の瀬川隠岐守から伝えられ、隠岐守から密かに上杉側について撤退すればさらに金を送り込むという旨の書状まで黒田官兵衛という名義で送られてきた。

 夕闇の近付いてきた陣幕で稗貫家の上層部はこの書状を囲んで密談を行っていた。

 

「輝時様、これはまたとない好機ですぞ」

 

 しかし、実際に密談の主導権を握っているのは輝時ではなく、家臣達であった。専ら、輝時は聞き役になって後はただ首を縦に振るだけである。

 横に振れば、家臣達が通じている本国の百姓一揆と結託されて権力と命が無くなるのがオチだ。

 

「左様、黒田官兵衛殿といえば、上杉軍の軍師としてその才能は恐れもされる程と聞いております。そのような者からの書状ということは、我ら稗貫家のことを買ってくれているに相違ありません」

 

 家臣の大迫右近は出陣前まで「上杉討つべし」と息を巻いていた人物である。それが今ではこうして上杉の肩を持つような発言を普通にしているのだから輝時は笑うことしか出来ない。

 しかし、財政難に陥っている現状を考えると上杉からの献金はありがたいのは確かだ。

 

「・・・・・・ここは素直に上杉の温情にすがるとしようか」 

「ご英断です」

 

 皮肉ったような右近の物言いには呆れる。「早く決断しろよ」という不満が滲み出ている。

   

「しかし、理由は如何する?」

 

 正当な理由が無ければ、もし仮に今回の討伐で上杉が中新田城から撤退した場合は稗貫家は三つの家々を敵に回すことになる。

 たしかに上杉を味方にすることが出来るが、四つの家の中で最も遠い土地に位置する稗貫は南部と対立する高水寺斯波氏の影響を最も受ける間になっている。

 上杉の工作によって南部が上杉家与党になっている今、もし撤退などすれば疑いを持った斯波からの攻撃を受けることは免れない。

 

「国で一揆が起きた、とでも言っておけば良いでしょう。国元の大事は何にも勝ります」

 

 一揆と繋がっているのに淀みなく国の大事がと言える神経には呆れるしかない。しかし、一揆以上に警戒することもある。

 

「斯波殿にはどう対応する?」

「南部に書状を送り、我々と挟み撃ちにすると誘うのです」

「だが、上杉が・・・・・・」

「それほど不安であられるなら、上杉から頂いた金を送り返せばよろしいではありませんか」

 

「(これだ・・・・・・)」と輝時は内心、天を仰いだ。

 家臣達は稗貫に仕えていることで自分達の家の存続と権力を握る為のことしか考えていない。

 今回の金のことだって稗貫家の財産ではなく、自分達の財産のことを考えてそれなりに稗貫家には持っていかれてもあれを仲良く平等に、なんて考えてもいないのだ。

 今回は上杉が中新田城で行き詰まっているからこそ立てた策である。しかし、家臣達はそのようなことに踊らされていると考えもせずに金だということで目を輝かせ、上杉に対する見方を手の平返しのように変えている。

 仮にそれが上杉の想定内であるとすればの考えを持っている者などいない。いたとしてもどうにかしてくれると考えているに違いない。

 呆れている輝時をよそに右近はすぐに立ち上がって兵達に指示を与える為に去っていった。他の家臣達もそれに追従する。ただ一人、輝時だけが残った。

 

「(俺達も飲まれるのか・・・・・・)」

 

 

 

 

 稗貫の撤退は葛西・大崎に衝撃を与えた。しかも、お互いが疑心暗鬼になっている時という非常に間の悪い時期というのがなおさら疑心暗鬼に滑車を与えた。

 和賀は残ると誓っているが、それを聞いても信用出来ない状態に稗貫はさせ、葛西・大崎から疑いの目で見られるようになり、大崎と葛西では互いに稗貫に何かを吹き込んだと表立ってではないが、暗にそう思うようになっていて、大崎陣内では吉継が隆景の愚策が稗貫の撤退を間接的ではあるが、導く結果になったと非難すると隆景は吉継の仕組んだ謀略というでたらめにも程がある主張を始めるなど、派閥同士での対立が表面化し始め、収集が付かなくなった。

 さらに悪いことに黒田官兵衛の名義で大崎宛てに送られた書状が見つかったことである。

 偶然、巡回中の兵が間者を見つけ、捕らえた際に間者の懐に入っていた物であったが、内容が金を送る故に軍を返して欲しい。今ならば、大崎の存続を約束するというものであった。

 葛西には全くそのような書状は送られてはいないし、葛西のことはその書状には書かれていなかった。

 敢えてそうしたという考えが出てくるのは当然のことであった。

 言いがかりと反論に葛西・大崎は集中してしまい、心ある者がどれほど諫めようと隆景が義隆への忠告への道を閉ざしてしまう為に援軍どころではなくなってしまった。

 天は大崎家を見捨てたのか。

 外では雨が降り注ぎ、天井が音を立てている。その天井の下では吉継が沈痛な面持ちで腕を組んでただ考えていた。

 蝋燭の灯火は吉継の目の下に出来た隈を鮮明に映し出し、彼女がどれほど考え込んでいるのかをよく物語っている。

 吉継自身、大崎家への忠誠心が無くなった訳ではない。

 ただ、美貌というそれだけの武器で成り上がった隆景とその父、隆成を恨んでいるだけだ。

 大崎家がかつては奥州探題の名の下に東北を席巻していたのはもう過去のものとなり、吉継は大崎家は戦乱が終わるまで続いていれば良いと考えていた。

 しかし、隆成・隆景親子がいる限りは大崎家は保たない。仮にどこかに属していたとしても存続していれば大崎は名を残すことが出来る。

 そう信じている吉継に立ち止まり、諦めるという選択肢など無かった。

 

 

 

 東北の秋風は珍しいことに緩やかに南から北へ、上杉軍に追い風へとなっていた。

 親憲と官兵衛は二人で議論を重ねている間に入ってきた報告で呆れつつも戦が次の段階へと進んだことを確信した。

 

「運も実力の内と言いますけど、此度は本当に運が良かったですな」

「本当、自分達で勝手に揉めて敵の間者に全く気付かないんだから呆れるよ」 

 

 今回の新井田隆景と氏家吉継の対立についての情報は本当に偶然の産物であった。

 元々は、敵の保有する戦力がどれくらいのものであるかを調べる為に派遣した間者であったが、敵は内側の統制に目が行き過ぎた為にかなり奥まで潜入が出来たらしい。

 普段なら派遣した間者の半数近く、ひどい時には三分の一以下は帰って来ないのだが、今回は三分の二から四分の三近くも帰って来ているのだからそれだけでも状況は十分に分かる。

 工作に時間が掛かり、秋先に出陣して一ヶ月以上は経ち、大分木の枝が寂しくなってきたが、策が徐々に進み、上機嫌にしている官兵衛に対して親憲は訝しげに首を捻り続けている。

 

「ところで、この敵の動きには我々の書状が敵に渡ったという噂が出てますが、まさか過失があったのでは?」

「あたしがそんなへますると思う?」

「・・・・・・なるほど、敢えて向こうに知らせたと、さすがです。では、今一度城に降伏勧告出しては?」

「いや、こっちがいくらへりくだっても向こうは多分降伏しないと思う。だから、ここは別の方向に目を向けよう」

「別というと・・・・・・なるほど、それなら和賀も撤退せざるを得なくなりますね。そちらは任せます。責任は某が持つので十分にやって下さい」

 

 配下の者が主君より全幅の信頼を置かれて悪い気にならない訳がない。

 上機嫌に一つ頷くと官兵衛はもう一度書状を認め始めた。

 将とは違い、その日その日の生活が良ければそれで良い兵達を釣るのは今の状態なら簡単なことだった。

 しかし、それこそが官兵衛の思う壷であった。

 彼女は元々東北の国人衆を信用していなかった。

 畿内・西日本を見てきた官兵衛から見て東北の国人衆は明らかに自分達の利益を優先して日和見主義の者達が多かった。例えるなら、美濃の国人衆達と同類かそれよりもひどい。

 軍師という立場からするとそのような連中を生かして手懐ける選択をすれば、手を焼くことになると考えていた。

 東北という畿内に進出する際に背後になるにしろ、色々と悪条件が重なり過ぎている。

 特に金が一番かかるのは良くない。大名の中でも有数の財力がある上杉家とはいえ、使える量は官兵衛の弟子である龍兵衛が必要な時以外は徹底して制限している為になかなか持ち出せるようなことは出来ない。

 金は天下の回りものという言葉もある通り、無駄な支出は国の根幹を揺るがすことになりかねない。

 そして、今回の手懐ける為の金も実際は無駄な支出である。

 金で忠誠心が出来るのならば苦労はしない。しかし、金が無ければ最低限の忠義は出来ない。

 蘆名や最上、伊達は忠義がある故に官兵衛も認めている。

 一方で稗貫や和賀といった忠誠心の無い者達の間に人情というものは無い。葛西・大崎は先見の明がありながら、無謀な戦を仕掛けて国を乱そうとしている。

 ならば、こちらも人情など捨てて、容赦なくその連中を殺し、土地を頂いてしまうまで。

 上杉家の勢いといざという時は恐怖を用いるという斯波や南部への脅迫の為にもかれらには犠牲となってもらうことにしよう。

 策を伝える為、官兵衛は親憲に対してほくそ笑みながら口を開いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十六話 異なる美徳

 名生城の雰囲気は雨も降っていないのに重く、数人を除いて誰も自ら言葉を発しようとしない。

 

「他には? ・・・・・・何も無いのなら今日の軍議はこれまで」

 

 言い終えて息を吐いた者は主君でもないのに偉そうにふんぞり返っている。

 里見隆成は勝ち誇ったかのように義隆が上座から立ち去るのを見届けると自分も立ち上がってその後ろに付いて行く。

 続いて息子の新井田隆景が続いて隆成の隣を歩き出した。本来なら四家老の渋谷氏や仁木氏、四釜氏が隆成の後に続くのが普通である。

 誰も近付こうとしないのは義隆への忠誠心が無くなった訳ではなく、ただ隆成と隆景の近くにいたくないだけだ。

 続いて後ろを歩く渋谷や仁木は隆成と隆景の間に距離を取って歩いている。何かをひそひそと話しながら歩いているのは隆景も薄々察していた。

 かれらも大崎家の重臣である為に油断は出来ない。しかし、隆景が最も警戒しているのは隆景と渋谷達の間を何もせずに歩いている氏家吉継であった。

 隆景は大崎家の為にと思って葛西や和賀・稗貫に先鋒を任せる策を進言した。

 普段はよっぽど外れていない限りは義隆に逆らわない吉継が決めかけた義隆の決定に真っ向から反対した。

 和賀・稗貫はともかく、葛西は長年の敵である。誰も監視に付けずに領内を通すようなことをすれば、葛西は要らぬ欲を抱く可能性も考えられる。大崎家を没落させる為に上杉に寝返ったり、軍を反転させて寝込みを襲ってくる可能性だってある。

 義隆と隆成は考え過ぎだと言って聞かなかった。たしかに葛西軍を領内に入れる危険はある。それは逆を言えば、葛西軍の背後に回ることも可能だということだ。いざとなれば、葛西軍は退路を失い、その間に大崎が葛西の領地を取ることも出来る。

 しかし、自分よりも長い間義隆に仕えている吉継が分かってくれないことに何故だという疑問が生まれた。

 彼女は隆景よりも容姿は劣るが、知能は隆景よりも上である。それは隆景自身も認めていることである。にもかかわらず、彼女は隆景自身を毛嫌いしてやることなすことに異議を唱えてくることに疑念と怒りを抱いた。

 彼女がこちらに加われば、自分から進言して義隆へ意見が通るように取り計らってやるのにどうして対立してまで自分の立場を悪くしようとするのかが分からない。

 吉継に対して疑念が浮かび、彼女をますます欲するようになっている自分が彼女には分からないのかもしれない。

 ならば、分からせてやれば良い。新井田隆景の力が今やどれほどのものであるか。

 上杉軍に対するのは葛西と和賀であると決まっている。稗貫が一揆が起きたとほざいて撤退したが、今はどうでも良い。

 密かに高水寺斯波家に使者を送って稗貫が南部と共に上杉に付いたと密告してある。室町幕府の重臣たる斯波もすっかり没落してしまったが、稗貫ぐらいには勝てるだろう。

 吉継は対立する伊場野惣八郎と共に上杉・伊達軍に対する戦略で意見が割れている。以前はなかなか口が出せなかったが、今や隆景は力を持ち、後ろ盾は四家老の一人である父という十分なものがある。

 中新田城への援軍の件を葛西と和賀を承諾させてしまえば後は露払いをさせて終わりである。

 吉継と共に反対した惣八郎は取るに足らないただの八方美人。彼女さえ死んでしまえば予め父の隆成が義隆に対して吉継の悪口を言っておいて不信感を持たせておいた為に吉継達は頼る者が無くなり、自然と靡いてくれる。

 筋書き通りに事を運び、力を見せれば頑固な吉継も膝を屈するだろう。彼女を派閥に組み込めば、必ず大崎家は新井田の下に一つにまとまるのだ。

 上杉の脅威を拝するのはそれからである。家中を整備しないで外の敵に勝てる訳がない。

 

「誰か、父上に書状を認める。筆と紙の用意を」

 

 慎ましくしていても見る者を魅了する美貌を持つ彼女を慕う者は多い。彼らを使えば吉継達を跪かせることはたわいない。

 力の使い方をあの頑固者に教えてやり、家中を完全に統一した後に上杉の脅威を払いのけることが出来た英雄としてその道を歩む新井田隆景の使い走りになってもらうとしよう。

 義隆と共に大崎家の全てを下に置いて徹底的に統治を行う。それが隆景の理想とする大崎家の在り方である。

 

 

 

 中新田城は蜂の巣をつついたような混乱状態になっていた。

 秋が深まることを教えるように肌寒くなった早朝、上杉軍が太鼓を鳴らして突然の南の外郭から朝駆けを仕掛けてきた。

 決戦かと思った黒川晴氏と南条隆信はすぐに動員出来る兵を叩き起こして、南と万が一に備えて東側に兵を配置しようとするも予め準備をしておいた上杉軍に対して慌ててそこそこの準備のみで動いた中新田城側の攻撃も空しく、あっという間に矢が届く範囲にまで入られてしまった。

 しかし、隆信と晴氏は焦らずに兵を鼓舞し、喝を入れた。上に立つ者がしっかりしているからこそ兵も落ち着いていられるのである。

 混乱状態をすぐに二人は収めると晴氏は北の外郭の指揮を取り始めた。

 矢の届く範囲に上杉軍がいるということは城側からも狙いやすい。一斉に矢を放たせると上杉軍の勢いを少し収まった。

 とはいえ、数では上杉軍の方が圧倒的に上である。先鋒の伊達が伊達成実の指揮の下に数に任せて前進を続けている為に息を付く暇は無い。外郭を突破されるのは時間の問題であった。

 晴氏は鞍替えに後悔をすることは無かった。そもそも、彼には後悔するような時間は無かった。

 上杉・伊達軍の雲霞の如き勢いは、天が持つような盾でなければ防ぐことは不可能。次から次へと味方の屍を踏んででも攻め込んでくるのだ。

 晴氏は後退することは出来ない。今まで伊達と大崎の間を行ったり来たりしていたが、おそらく今回の寝返りのやり方は伊達の当主である輝宗の命を危うくさせたことで罪に問われることは明白。

 温厚な輝宗も留守政景が取り計らってたとしても、その他の伊達家の武断派は許すとは思えない。輝宗もかれらの意思を尊重して自分の首を斬るだろう。

 晴氏は武人故に死ぬことに対して恐れは無い。それでも、一矢報いることをしなければ犬死である。

 義は大崎にあると判断して鞍替えしたのに何もせずに死んでは天下の笑い物も良いところだ。

 

「矢を射続けろ! 突破を許すな!」

 

 もう少しだけ生きておきたい。上杉・伊達に一泡吹かせるまでは死ぬ訳にはいかない。

 

「黒川様、敵が門を破壊し始めています!」

「すぐに弓兵を回せ、それからありったけの岩を落としてやれ!」

 

 桑折城にいた際は上杉・伊達軍は見るからに五千は越えていた。さらに柴田などの豪族も加わったと聞いているから八千には達しただろう。

 今の中新田城城内の兵はそれに比べたらすぐに落ちてしまうような数である。援軍の望みが薄れてきた現状では人の援軍よりも自然の援軍を晴氏は望んでいた。

 隆信と話し合って既に戦略は決めてある。大崎平野は雪の多い土地柄であり、雪が降れば籠城軍は俄然有利となる。

 周辺が湿地帯の中新田城は冬の大雪によって進軍が出来なくなる。その時を待って名生城からの援軍と古川・師山城の兵と共に四方向からの攻撃を仕掛ける。

 上杉軍の将も馬鹿ではない。東北の冬の恐ろしさを知っているからこそ、兵を収穫の為に帰さなければならない以上、早め早めに決戦を仕掛けてくることは予想が付いていた。

 前日に夜襲を仕掛けてきたので、今日は普通に攻めてくるだろうという高を括って不覚を取らなければこの戦も防げた。

 終わってしまい、始まってしまった為、退くに退けない彼にとって死線を渡るような戦となってしまったが、追い返すことは可能である。

 武人としてまだ生きることも必要。敗戦の中で死ぬのならまだ責任の一端は持てる。しかし、これから勝とうとする戦に死んでから勝利を迎えるのは簡単に言えば、嫌である。

 

 

 

 

 隆信は城主として全体を眺める櫓に立っていた。既に喧騒が凄まじい程に聞こえてくる。目の前まで敵が見えてくるような上杉軍の鬨の声が聞こえてくる。

 声というものは敵味方、互いの士気をよく表していると隆信は考えていた。

 聞こえる声は大崎軍ではなく、上杉軍の声が圧倒的に大きい。数の問題もあるのであまり気にしていないが、大丈夫なのかという憂いも出てくるのは人として当然のこと。

 すぐにでも立ち上がって兵達を鼓舞しに行きたいところだが、総大将の自分に何かがあれば事の天秤は大崎には傾かなくなる。

 幸いにも黒川晴氏という優れた将が代わりに前線の指揮を執っている為にあまり悲観してはいない。

 全体を見渡せる櫓まで登ると、上杉軍は今までと違ってかなりの規模で攻めかかっている。秋が近くなり、兵を畑に帰す為に総攻撃を仕掛けてきたという推測が出来上がるまで大した時間は掛からなかった。

 冬になれば、積雪で下手をすれば帰れないということにもなりかねない。

 ここを踏ん張れば、大崎もまだやれるということが示され、南部の方針を変えることも可能である。

 しかし、朝駆けの攻撃は大崎軍に効果的な被害を与え、今にも突破されそうになってきている。上杉軍もここで決めるという意気込みがあるのだろう。現に、鬨の声が今までよりも数倍は大きい。

 とはいえ、隆信も主君から中新田城という重要な拠点を任されている以上は、その期待に応えなければならない。

 

「矢を放て! これ以上は近付けるな!」

「申し上げます! 敵の攻撃凄まじく、援護が必要かと!」

「東の兵を南へ回せ、絶対に城内へ入れるな!」

 

 ここを破られれば、残る大崎の拠点は古川城のみとなり、大崎平野の中心部に位置する彼の城は、古川氏の兵力のみの為に防衛能力は中新田城よりも各段に劣ると見て良い。

 本来は桑折城と師山城の兵が上杉軍を通してその背後を突くという戦略を考えていたのだが、桑折城はとうに陥落し、師山城からは音沙汰が無い。上杉軍に包囲されたか調略されたかのどちらかであろう。

 ここを突破されれば敵を大崎の領内で防ぐには実質上、義隆が本城とした名生城のみとなる。

 そうなっては否が応でも葛西らの大名に頼らなくてはならなくなる。長年の宿敵同士である葛西に頭を下げて温情にすがるなど武人たる心が許さない。

 当主の義隆がどうするかは不明だが、自分は必ず反対する。もし、義隆が生きる道を選択したら、大崎家の盾となる覚悟は出来ている。

 生きるように命令されることは無いだろう。ここを長く守らなければ大崎家の明日は宿敵である筈の葛西の手に委ねられることになるのだから。

 目の前の現実は上杉軍が執拗に攻めかかってくる為にとうとう城門付近にまで攻め入られてしまった。

 城内の士気を下げる為、上杉軍は一旦攻撃を緩めて矢に隆信に降伏を促す文章や中新田城は見捨てられ、援軍は絶対に来ないという内容の文を何本もくくりつけて射てきた。

 しかし、中新田城の将兵はこの日の為に大崎の重臣である南条隆信が鍛えてきた者達である。

 少し動揺の色を見せた兵もいたが、隆信配下の将が一喝するとすぐに動揺を抑え、敵に立ち向かう。気の緩みは戦の中で最もやってはいけないことの一つである。

 見せてはならないことを少しでもすれば上杉軍は出来た隙を躊躇うことなく襲ってくる。故に、隆信は晴氏に何度も使いを送って前線の戦況をよく把握し、頭の中で戦場を作り上げていた。

 その中で上杉軍は南の外郭から攻め寄せてきた。兵法では敵を分散させて味方を集中させるのが定石とされている。

 攻城戦として考えると城内の兵を分散させておくようにすることも可能である。他の方角の外郭や堀から攻めれば隆信もそちらに動かさなければならない。

 放っておけばそのまま雪崩れ込まれるのがオチである。上杉軍の今までの戦いぶりを見てみると有能な者がいる筈。

 晴氏の謀反を知っていたように一時は孤立した輝宗を救う為に素早く兵を桑折城に向け、その過程で義理堅い性格の晴氏の心を読んで時間を稼ぎ、結果として輝宗を救い出し、晴氏を敗走させた。

 晴氏も知略も持つ将として東北でも名高く、その彼をあっさりと中新田城まで撤退させた手腕は侮れるものではないと思っていた。

 実際に戦ってみると包囲を続けて、水路を断ち、随分と単調な攻めを行っているだけで目立った動きがない。東北有数の堅牢さを誇る城を見れば隆信も攻める側と立場を変えればすぐに妙案が浮かぶかと聞かれると答えに間違いなく窮す。

 北と東が地形上、外郭が狭くなっている為に攻める側からすればそちらから攻めるのは当然の判断である。

 晴氏と相談した際も二人で上杉が決戦を挑んでくるとすれば北か東と意見は一致していた。奇襲を西から仕掛ける考えも頭に入れるということも忘れずに。

 何もないという選択肢は捨てた。考えもなくここまで攻め込まれる程、自身と晴氏は無能ではない自負がある。

 上杉の真意が分からない。有能な指揮者程、その手を見せず、時には味方すらも騙すこともあるというが、隆信は何故か騙した者の手中にいるような気がした。

 ただの直感であるが、当たらないとは限らない。意外な時に当たるものだから侮ってはいない。しかし、直感の中が分からないままで深い闇が続いていた。

 どこに何があるのか、西と東には万が一に備えて城外にも斥候を放っている。敵を見つければすぐに駆け込んでくる手筈になっているが、報告は全く無い。

 考え過ぎかと思ったが、相手は晴氏を騙した者である以上、考えるに越したことはない。

 

「申し上げます。敵の一部が東に動きました!」

「予想通りの動きか・・・・・・敵の本隊は?」

「相も変わらず、南より攻め込んでおります!」

「本隊から目を離すな。東に伝えよ、踏ん張ってくれとな」

 

 兵が下がると隆信はもう一度上杉軍に目をやる。一部の隊が東に動いているのが見えた。その隊に東から奇襲を掛ければ、切り崩すきっかけになりそうだが、隆信の直感はそこに何かある気がした。

 中新田城の東は平地になっていて伏兵が置けるような場所は無い。草村ぐらいはあるが、隠れられる人数は微々たるもの。対して西には鳴瀬川がある。

 地理を考えると簡単だった。敵の目的は未だに過程に入っているのも怪しいところ。ならば、潰す好機はあるというものだ。

 寡兵で援軍が来ない籠城戦は死を待つような戦、夜襲でも仕掛けておきたかったが、上杉軍は夜な夜な警備を強化していて機会に恵まれなかったが、とうとう機が巡ってきた。

 

「旗を東と南に集中させろ。城の守りは黒川殿に任せる。西に出せるだけの兵を用意しろ。私自ら引導を渡してやるとしよう」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十七話 大崎平野の柊

 大崎平野はほぼ東西に平行して東流する鳴瀬川と江合川の二川による度重なる氾濫によって形成された広大な沖積平野であり、現在もその名残と思われる大小無数の河川と水路が大崎平野の北西から東南方向に向かって流れ地形と水利に恵まれた自然環境により古来より稲作が盛んであった。

 他にも大崎平野で有名なのは例年、奥羽山脈から吹き下ろされる寒波の強風とそれと共に降る雪によって一気に気温が下がる厳しい冬である。

 元々、東北の秋自体が秋分前後に北東から冷たい海風が入り込み、曇りがちになって大きく冷え込むことがある。早ければ、十一月や十二月にはもう雪が大地に落ちてくることもあるが、大崎平野の冬は現代でも氷点下を普通に下回ってくる程に寒い。

 上杉軍は秋前に出兵した為、冬に備えての装備を忘れずに持ってきているが、親憲や官兵衛達の間ではその前に終わらせるのが最低限の目標であるという共通の意見が出ていた。

 本来、この後にやってくる農家にとって最も大切な作業の集大成である収穫の時期が近付くのと一回行くと下手すれば帰れなくなる程に厳しい大崎平野の冬のことを考えるとあまり褒められるような遠征ではない。

 謙信からも民の生活基盤を支える一つの一大行事を取り止めさせてでも上杉が動くのは如何なものかという意見が内々で出ていたが、大崎家の内紛が伊達にまで及び、好機をもたらした以上、今動かなければおそらく西からの脅威がさらに近くなり、集中出来なくなるという軍師達からの強い主張に最後は首を縦に振ったのは裏でのことだ。

 軍師達だけでなく、上杉直臣の弥太郎や長重といった将達がこの好機は見逃す選択肢は無いと主張した。懸念は季節が秋に近いことであったが、速攻で片が付くと誰もが思っていた。

 そして今、上杉軍は大崎家らに対してたかが生き残りだと驕っていたことに気付き、後悔しているところである。

 一応、上杉軍とうたっているが、実際には伊達や蘆名の方が多く、上杉軍の軍の比率は低い。他方面にも出兵させている為に致し方ないことだが、普通は軍の統率が上手くいかなくなる可能性がある。

 とはいえ、官兵衛達は決して寝返りや命令無視という戦であってはならない恐ろしいことが起こるとは考えていなかった。

 力をそれなりに削いでいきつつ与える物はきちんと与えてきた。恩義を感じさせて靡かせておく配慮を軍師達は仕事として欠かさないで行ってきたからである。

 正直なところ、最上のように力よりも謙信の人情に絆された蘆名や伊達が寝返るという考えはそもそも出てこなかった。

 故に、一番軍師達が配慮を欠かさないでいたのは最上家であり、待遇自体には不満は無いようなので心配はしていないが、東北が完全に統一されるまでは少し他よりは甘くしているのは謙信と軍師達の暗黙の了解となっている。

 実際にこれまで降った家の中で上杉傘下に入っても力が一番あるのは最上であったりするのだ。

 今回は羽州方面にも出兵しているが、これの目的の一つに、危険は承知だが、安東家残党の討伐でそれなりに最上の力を落としてもらうという背景もあって上杉直属の長重隊は多くの兵は率いていない。

 ざっと三千でそれ以外は最上軍という均等ではない配分で、先鋒も最上にするように長重には官兵衛が言っておいた。

 薄々感づいている者もいるかもしれないが、最上軍のおかげで奪われた湊城を取り返すことに早々と成功するなど随分と安東家残党討伐ははかどっているようである。

   

「残すは脇本城に檜山城だけか・・・・・・良いな~」

「黒田殿、一応ここも戦場ですから。もう少ししゃんとして下さい」

 

 戦の最中に他方面の戦況を知らせる書状がやってきて読んでいて全てを読み切らずに書状を投げ出すと親憲の冷静な忠告に耳を傾けるのもほどほどに官兵衛はここには無いお菓子を食べたそうな子供が浮かべるような羨望の眼差しをしている。

 最上の力を削ぐことも目的の一つであるとはいえ三方向の中で最も楽な戦は羽州方面であると軍師達は考えていた。安東愛季を慕う家臣の方が多く、上杉に降ることを良しとしない一部の者達の行動である為に上杉から派遣する兵はそれほど多くなくても良い。

 最上も同じような考えを持っていた為に上杉が考えている真意に気付いているのはいないかもしれない。

 戸沢の参加もあってさらに胡散臭い匂いは無くなっている。

 城を眺めながら官兵衛はこちらもそろそろと思っていた時だった。

 

「申し上げます! 西の大内隊、南条隆信の攻撃を受け、苦戦中!」

「見破られましたか。話は聞いておりましたが、これほどとは・・・・・・」

「南条自ら出たってことは城内は手薄な筈。攻勢を強めるように伝えて」

 

 朝駆けを行ってもなかなか本丸に続く郭を突破出来ない。外郭は朝駆けが功を奏して突破出来たが、それから先、本丸に続く道が開けない。

 これ以上の戦は士気に影響すると将達は考えていた為に必死だが、向こうも中新田城の先には行かせまいと必死である。

 兵法では、籠城戦の際に攻める側はその城を落とすのに城内の兵力と三倍の差が必要と言われている。

 上杉軍の数は計七千。そこに桑折城の陥落を見た豪族達が集いさらに二千の兵が合流したので一万程度に膨れ上がっていた。

 対して中新田城に籠もる兵は五分の一程度と聞いている。頼みの援軍は官兵衛が手を打って大崎と葛西の間に溝を作っておいたおかげで来る気配が無い。 

 

「思ったよりも頑強だね・・・・・・」

 

 官兵衛は独り言のように呟く。隣にいた親憲にはしっかりと聞こえていたが、親憲も同じようなことを考えていた。

 中新田城城内に矢文を何本も射て、動揺を誘ったが、失敗した様子を見ると官兵衛は次善の策である敵の目を攪乱させて動揺を誘ったが、南条隆信がすぐにこれを察知して西に置いてあった大内定綱の伏兵を看破してしまった。

 官兵衛はもし西の伏兵に感づかれても対処出来るようにするよう定綱には言い含めておいたが、隆信は鳴瀬川付近の地理をよく知っている為か、上手くいかない。

 さらに追い詰めてくれれば、その隙に中新田城に駆け込むことも出来るが、残った兵も必死の抵抗で本丸への道はなかなか開けない。

 上杉の陣から見ても大分激戦が繰り広げられているのが見える。先程まで圧倒的に大きかった鬨の声が徐々に小さくなっているのにイラついてきた官兵衛は貧乏揺すりを止めるのに必死だった。

 

「結構やるじゃん。大崎にも良い将がいたもんだねぇ」

「まぁ、仮にも元は奥州探題の家柄ですから、人は集まるのでしょうな。しかし、内部の分裂は否めないようですが」

「この中は例外みたいだね。黒川と南条が対立するなんて期待はしてなかったけど」

 

 南条隆信のことはともかく、黒川晴氏のことは政宗や留守政景から慎み深い性格で私欲もなく、公の為に尽くす人物だと聞いていた。

 南条隆信と組んで長く籠城を続けているということは二人共にお互いが公の為に尽くす人物であることを示している。

 

「今からでも黒川と南条を離間させては?」

「時間があれば考えられないことはないけど。多分、二人の性格は同じで、勝算があるんだと思う。多分無理だね」

「なるほど、自然の力を借りるのですね」

 

 空を見上げる官兵衛を見て、親憲も納得したように上空を見上げる。この辺りは秋から冬にかけて天候は曇りがちになり、冬は大雪になると聞いている。

 兵法における天の時が大崎に傾きつつあることに親憲は危機感を募らせた。

 無論、官兵衛も同じである。前から大崎平野の天候の特徴は聞いていた為に早く終わらせたい考えは山々だった。

 

「大崎と葛西の間はもう手に負えない状況まできているみたいだし。早めに落として反上杉がまた一枚岩にならない内に何とかしないと」

「二つの家の仲をさらに悪くするのならば、もう少し時間を掛けても良いのではありませんか?」

 

 葛西と大崎の間の離間は元々上杉が仕掛けたものだが、仕掛けなくてもいずれは不満が大雨の日に堰に貯まった水のように溢れ出して洪水のようになったかもしれない。

 中に送り込んだ間者によるとそろそろどちらかが互いを討とうと動いてもおかしくない状況下にまで切迫しているらしい。

 その事実も含めて中新田城には矢文を射れたのだが、動揺する気配も無いところ、大崎家屈指の優秀な将と言っても過言ではないと官兵衛は思った。

 

「それも考えたんだけど、今の葛西・大崎の間を取り持ってい和賀は家の力を見ると稗貫がいたからこそ上手く間を取り持てた筈。今は稗貫もいないし、稗貫から自分の領地を取られないかひやひやしてると思う」

「稗貫がいない今、我々が中新田城を取れば葛西と大崎は援軍を出せなかったことをお互いのせいにし合い、肝心の和賀も入り込める場所がそこには無い、ですか」

 

 目の前の自分よりもかなり年下の少女のような軍師はよくここまで臨機応変に動けるものだとつくづく親憲は感心する。

 年下ということは間違いないが、自分の弟子よりも年上ということは前々から聞いていた。端から見ると一瞬固まってしまいそうだが、かつての上司にも同じような人がいたので決して親憲には驚く要素は無い。

 戦の最中に他愛も無いことを考えていたことに気付いた親憲は自分らしくないと内心反省しながらおとがいに手を当てて考える隣の軍師に目をやる。

 目は城に向かっているが、鋭い視線の焦点はどこにも合っていない。

 見えているのは親憲には見えない先のこと、敵に回さなくて良かったと彼は心から思った。

 

 粘り強く籠城を続け、兵をよく指揮する将を撃ち破るのは難しい。そういった相手には軍全体の士気を落とすことから始めるのだが、 なかなか士気は落ちない。

 もう一つ、上杉からすれば今後に来る冬のことと西への進軍に備えて悠長に待てないので致し方ない。打破するには中新田城を陥落させる他無いのだが、名生城を落とす為に戦力は温存して勝ちたいのが官兵衛の考えである。

 時が進むごとに物質も減り、士気が落ちるのが普通の将兵達である。しかし、眼前の中新田城は大勢に対して寡兵で粘っていることにますます士気が上がり、つけあがるだけ。これでは名生城の攻略にも支障が出てくる。

 軍師として大崎が戦をしなければならない状態に持ち込み、葛西や和賀などの国人衆をも巻き込んで一挙にかれらを無力化させる為の布石は敷いた。

 しかし、中新田城の予想外の頑強な守りには舌を巻く。

 南条隆信の評価は聞いていたが、敵としてここまでやりがいのある将だとは思わなかった。

 官兵衛の心は決まった。策の何重も重ねていた策もこれで四つ目となる。今、浮かぶもので最後の策だ。

 

「もう少し悠長に構えておきたかったけど、もう限界かな・・・・・・伊達勢は東に回って敵の目を引き付けよ! 水原殿は南門を一気に攻め落として」

「承知、行くぞ! これで終わらせる!」

 

 いくら堅牢な城でも守っているのは人。人が城を守る為に力を振り絞っている以上、疲れは嫌でも溜まるというもの。

 南で夜襲、朝駆けを連続で受け、西へ東へ上杉への対処で走り回っている中新田城の兵は寡兵故に休む暇も無かったのは手に取るように分かる。

 最後は策と言っても数に任せた総攻撃である。南、東から交互に攻撃を行い、城内の兵を行ったり来たりを続けさせてさらなる疲れを誘い、最後に南門に兵力を集中させて本丸を一気に取る。

 南条隆信も黒川晴氏も寡兵でよく戦ったと官兵衛は第三者の立場なら拍手を送っただろう。

 だが、隆信が最後に自ら墓穴を掘ってしまった。西の伏兵を主力と勘違いしたのか、武人として伏兵を自ら断ち切りたくなったのかは分からないが、全体を見渡す指揮官が変われば、兵は困惑する。

 戦場で犯してはいけないことを隆信は最後の最後で犯してしまった。

 

「西の大内殿に伝えて、もういいって」

「はっ!」

 

 伏兵故に少人数の数しか置いていないにもかかわらず、出てしまった隆信の才を惜しみながら死兵として定綱が巻き込まれないように官兵衛は退路を作った。

 

 

 

 そこからはもう上杉の流れになった。南門と東門からの強い攻勢にとうとう耐えきれなくなった中新田城は門を破られて上杉軍はあっという間に本丸まで占拠した。僅か二時間のことである。

 入城した親憲はまず留守政景と連絡を取って冬に備えての物資を届けるように使者を送った。

 まだ葛西・大崎攻めは始まったばかり、これから冬が近くなるという想定ともはや収穫前に国元に兵達を帰してやることは出来ないという判断が入っていた。

 親憲は官兵衛や政宗と共に詫びを入れて今年は年貢を減らすように口添えすると約束し、兵達からの喝采を浴びた。

 これは三つの方面に戦を繰り広げている上杉にとって難しい問題だが、代わりに豊富な財力を以て補うという選択肢があるからこそ出来る。伊達や蘆名にも金を配り、恩義を着せることも可能だと官兵衛は考えた。

 一方、大崎軍の情報収集も怠らないでいる。南条隆信は不覚を取ったことに気付き、どうにかして城に戻ろうとしたが、城の各所から火が上がったのを見て、腹を切ろうとしたところを兵達に止められて逃亡したらしい。消息は不明だが、地理に詳しい彼が残党狩りに引っ掛かる可能性は低いかもしれない。

 黒川晴氏はそのまま北門から撤退し、古川城へと逃げ込んだという報告が届いた。決戦の場所を名生城と考えているのだろう。その際に横から攻める腹積もりだ。

 冬までの時間を考えると古川城は無視する可能性も高い。後顧の憂いを残したまま攻めることになるが、中新田城に冬の間取り残されるような真似は避けたい。

 

「申し上げます。師山城へ向かった柿崎様より使いが参りました」

 

 景家は中新田城を攻める際に後ろを突かれる心配があるとして官兵衛から別行動を頼まれていた。

 兵に戦後処理の指示を出しながら、思考を巡らせて親憲はすぐに通すように伝えると使者はゆっくりと落ち着いた様子で部屋に入ってきた。

 

「申し上げます。師山城、柿崎様と本庄様の猛攻を受け陥落」

 

 師山城も中新田城同様に頑強な粘りを見せていたらしいが、師山城には中新田城程の物資は少なく、景家が繁長の一端、包囲を解いて油断したところを再び奇襲を掛ける策で陥落した。

 捕虜によると忠隆は中新田城へ救援に向かおうとしていた為にその夜は兵達を休ませていたところに攻め込まれ、どうにか抵抗しようとするも統率が上手くいかずに敗れた。

 

「敵将、古川忠隆は古川城に逃亡した模様」

「また古川城ですか・・・・・・これは・・・・・・」

 

「まずい」という言葉を飲み込んで親憲は使者に景家達に中新田城まで早く来るように伝えた。

 親憲は軍師の真似ぐらいは出来る知略を持っている。黒川と古川は大崎にとって欠かせない優秀な将達だ。仮に南条も古川城に落ち延びたとしたら数は少ないとはいえかれらを見逃す訳にはいかない。

 とはいえ、大崎に構っている時間は少ない。葛西のことも考えるとなおさらだ。葛西には途中で長江との国境まで戻った支倉常長の調略の手が伸びている。時間が経てば靡こうとした者達も上杉恐れるに足らずと葛西に手を差し伸べる可能性が高い。

 

「いざという時に取っておきたかったですが、早めに手を打っておいた方が良いかもしれませんね」

 

 溜め息を吐くと親憲は気晴らしになればと思い外に出た。空を見上げるといつ雪が降り出すか分からない曇天模様。外は兵達が処分し切れていない屍や血が所々で臭っていて、秋故に木々も枯れ始めている。

 ますます溜め息を吐く材料が増えるばかりだと思った親憲は文字を眺めている方がましだと考えて部屋に戻ろうとするが、途中で行きにはいなかった姿を捉えた。

 

「蘆名殿、何をなさっているのです?」

 

 普段のように草をむしっているのではなく、ただ草花をじっと眺めている盛隆はどこか楽しそうだ。

 親憲の姿を見ると立ち上がって丁寧に頭を下げる。盛隆は質問に答える代わりに指をある一点に指した。

 

「水原殿、見て下さい。あそこです」

「あれは・・・・・・柊ですね。しかし、某はあまり草花に詳しい訳ではないので」

 

 それに柊は刺々しいあの葉があるせいで親憲の心には魅力が湧かない。どこか美しいと思えるところがあるのだろうかと内心、首を捻りながら親憲も腰を下ろす。

 

「いえ、私が見ているのは柊の花です」

「花? ああ、あの白い」

 

 小さいが、たしかに柊の刺々しい葉の中に見える。だが、葉の鋭さと威容に負けて小さい柊の花は負けているようにしか見えない。

 影が薄いという言葉がよく似合う。となりの蘆名家当主が草花に詳しいことは知っているが、どこにも良さが無いように見えた。

 

「あの小さな花は葉に負けています。しかし、小さく咲く花は決して必要無い訳ではありません」

 

 親憲の内心を察したように盛隆は語り出した。確信のある言い方に何か興味も湧くだろうと親憲もまた耳を立てる。

 

「刺々しい葉は力強いです。しかし、強過ぎます。そこにあの小さな花があるからこそ、柊の花は見ることが出来るようになるのです。もし、花が咲かなければ古の貴族達も恐れて手を出さなかったと思います」

 

 柊は古くから邪鬼の侵入を防ぐと信じられ、庭木に使われてきた。盛隆は刺々しい葉だけでは人と関わることはなかっただろうと考えていた。

 

「つまり、蘆名殿はあの花こそが柊の本来の主役であると?」

「そうです。水原殿、柊の花はどのように映りますか?」

「ふむ、これまでの話から考えるとあの刺々しい葉の醸し出す脅威を和らげるもの、でしょうか?」

「いえ、私も最初そう思っていたのですが、ふとそのその考えが変わった時があります」

「それは何時です?」

 

 普段、詮索はあまりしない親憲だが、盛隆の熱弁に少し呑まれていたことに気付いたのはこの後の話である。 

 

「此度の戦です・・・・・・気になりますか?」

「蘆名殿が話せるのならばですが」

 

 盛隆は微笑んで頷くと嬉しそうに口を開いた。柊の花はまだ咲かないが、最後には咲くだろう。




天極姫2の発売決定を昨日知ってしまった。
期末が迫っているのにそっちに興味が・・・・・・


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十八話 決め時

メリークリスマス


 官兵衛が事の詳細を聞いたのは夕暮れ時に差し掛かった時だった。その頃には城内の戦後処理は大方終わり、後は纏めた屍を埋めることぐらいだ。

 軍師であまり体力も無い官兵衛はただ兵達に指示を出して後はぼーっとしていただけだが、何もしないというのは彼女の性分からして無理である。

 普段から戦の際も策に使えそうな場所を自ら足を運んで見るような性格なのだから。その代わりとも言うべきか、官兵衛には動きたい好奇心があってもそれに伴う何かを持ち上げて運んだりするような力が無い。

 何度美濃にいた時は友人と共に弟子が楽しそうに兵糧の為の米俵を両腕に抱えて持っていた光景を指を咥えて見ていたことか。その度に黒い感情が湧き出ていたこともあったが、今は気にしないでおくことにする。

 戦はこれからが本番だというのに懐かしいことを思い出している自分に気付いて、頭を一人ぶんぶんと振るとそれを見て呆気に取られている兵達に誤魔化す為に鋭い声で指示を出しながら慌ててその場を去った。

 そのまま城内を宛もなくうろうろしていると親憲からのお呼びがかかった。

 

「少々面倒なことになりました。実は古川城に中新田城の残党が徐々に入っているらしいのです・・・・・・」

 

 親憲は景家の下から来た使者から聞いた話と古川城と名生城に放った斥候から入った報告を全て事細かに話した。

 聞き終えた頃には夕暮れ時がすっかり夜に変わってしまっていた。

 官兵衛はそろそろ名生城の内部に入り込むべきだと言う親憲の言葉には反対を示した。

 

「せっかくこのような機会が巡ってきたのですから。黒田殿も待っていたことでしょう?」

「だからって、今使えば古川城に逃げ込んだ将達が黙ってない。いくら寡兵でもこっちに来られたら時間の無駄だよ」

 

 親憲から古川城に晴氏と古川忠隆が入ったことは言うまでもなく聞いている。古川城自体はさほど脅威ではない。だが、人によって少ない兵も大軍に変わることが出来る。

 かれらは官兵衛が見る限りはおよそ二倍から三倍ぐらいまでは必ず増やすことが出来る。

 時は既に有限の刻を超えようとしている。今の時点で最優先にするべきことは名生城を早く陥落させて大崎を討つこと。

 既に大崎家内の火種は暴発寸前だが、発火させる為の合図の狼煙は上杉が持っている。

 官兵衛はもし今発火させれば古川城にも燃え盛った火種が古川城にも飛び火してしまい戦略通りの勝利が出来なくなる。

 もっとも、戦略通りにいかないのが戦である。

 今回は速さを重視した戦略を冬前に決着を付ける為に立てた。故に、確実性に綻びがある箇所がある。それが正しく今出て来た。

 直ちに名生城に火種を投げ込めば、名生城へ進軍する前に古川城の将兵が上杉軍に城を出てでも止めに掛かるだろう。

 一方で、無視して名生城で時間を取られれば、古川城は上杉軍の背後を脅かすことになるが、景家率いる別働隊が後ろからやってくることを考えると晴氏達が古川城から出ることは難しい筈だ。

 ここは狼煙の上げ時を間違えれば、速攻の勝利が遠退く。

 景家達を待って万全の状態を整えて古川、名生を順に落として行くことは下策。ならば、最低限の休息を与えてすぐに名生城へと向かうべきだ。

 

「兵達に城が整い終わったらすぐに出立するように伝えよう。後、例の書状はあたし達が名生城に着く頃に送っといて」

「分かりました。柿崎殿には進軍を速めて古川城に向かわせる。それでよろしいですね?」

「いや、古川城には本庄殿が抑えているだけで良いよ。景家にはすぐに名生城に来るように伝えて」

 

 名生城さえ落とせば古川城は袋の鼠。玉砕覚悟の突撃か全面降伏をするかは晴氏と忠隆次第だが、あまり希望を持った判断はしない方が今後の為になる。 

 切り札を出す時はまだだが、近いのは確かだ。準備は整う。後は狼煙を上げるだけだ。

 時は少ないが、主導権はこちらが未だに握っている状態に変わりはない。仮に火種の発火時が冬を越すことになろうと兵達からの不満は最小限にするような処置は取ってある。その旨を知らせる書状を越後にも既に送った。

 内実、親憲と官兵衛はまだ年内の決着を諦めていなかった。収穫前の決着はほぼ不可能になったとはいえ、冬前の決着は可能性がまだあると踏んでいる。

 葛西が後ろに控えている為に大崎を下していない今では難しいかもしれないが、冬前に決着を付けないと支援物質を送る政景の隊が使う道が豪雪にて塞がれることも考えられる。

 そうならないように多めの物質を届かせるように指示を出したが、物質が来ない。その理由が道を糧道を塞がれたと兵達に知られるのは士気に影響する事態だ。

 箝口令を出したとしても潜伏しているだろう間者がせっせと情報をばらまいていくのは目に見えるように分かる。

 兵達からは休む暇が少ないと不満が出るかもしれないが、それ以上に軍師として官兵衛が気にするべきことは東北の冬の中で凍死や兵糧不足になることだ。

 勝っている軍に不満で敵に降るような輩が出るとは思えないが、凍死を出すことや兵糧不足は不満以上に軍を預かる者としてやってはならないことである。

 今のところは主導権をこちらが握っていることに変わりないが、風が吹けば飛んで行ってしまいそうな状態である。

 

「三日後に出立、それでどうでしょう?」

「うん、それが妥当かな」

 

 お互いに思惑を話し合いながら最後に頷き合うと官兵衛は立ち上がって親憲の使っている部屋から辞す。

 外は既に闇夜に包まれている。

 その中で戦での疲れもあるというのに篝火を焚いてまで戦後処理に励む兵達を見ているとやはり皆の本心は早く故郷に帰りたいという思いが強いのだろうと分かる。

 官兵衛自身は故郷という場所からは既に見切りを付け、父にはいざという時の策を出立する際に言っておいた。

 しかし、未練が無いという訳ではない。故に兵達の気持ちもよく分かる。年貢を減らすと言っておいたが、口約束で何ら確実性が無いことは少し考えれば分かってしまう。

 気付いても不安にさせないようにすることで軍全体の士気を維持させることが出来る。速さが問われる戦を前に官兵衛自身、身震いを禁じ得なかった。

 一見不可能なことを可能にする。軍師冥利に尽きるというものをやれる機会が巡ってきたのだ。

 策略によって相手を嵌めることを心から楽しみとしている彼女からすれば、南条隆信や黒川晴氏という策士に相対することも面白いことだったが、味方の不利な状況をひっくり返すのもまた一興。

 官兵衛の悪い性格だが、弟子が似てしまったことを知るのはまた後の話である。

 星空が広がっている。官兵衛は欠伸が出そうになったが、必死に堪えた。眠りに付き、夢を語るにはまだ時が早い。

 しかし、夢を語れるような余裕が出来る上杉は強い。現実はまだただの夢として上杉の夢を飲み込もうとしているが、謙信も家臣達も現実を見ることが出来ている。

 それが大崎家の家臣の間にあるものとの大きな違いだ。大崎家は夢のような明日を見るよりも現実の今日を見るべきだった。外の脅威が如何なるものかよく知るべきだった。

 官兵衛はつくづくそう思い、ほくそ笑んだ。幸いにもこれから知ることが出来る機会が大崎には巡ってきている。思う存分外の敵を前にしてどれほど内側の憂いは怖いものなのか。外の脅威はどのようなものか教えておくとしよう。

 もう一度、星空を見上げると官兵衛は一人で策も浮かべていないただ子供のような無邪気な笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 葛西家の大原守重は実に不愉快な気持ちになっていた。

 氏家吉継との会談を先程まで行っていたが、お互いに言い争っている間に中新田城の陥落を伝えられ、取り敢えず、会談を中断してお互いに善後策を練ってからもう一度話し合おうということになった。

 だが、良い策が浮かんでも、現状を考えると葛西と大崎の間にあるお互いの利益のことについて、都合を話し合って終わりになることは分かっていたからだ。

 意味のないことに時間を無駄にすることを嫌いな守重にとっていらいらを増幅させるのに十分だった。

 

「それもこれも、晴信様に忠誠を誓わない奴らのせいだ・・・・・・」

 

 一人ごちても何も解決する訳ではない。ますます守重はいらいらを募らせていく。

 元々、葛西という家は戦国時代初期から領内での内乱の為、統制に苦しんでいた。

 葛西氏家臣の所領は、郷単位となっていて、地頭である家臣は邑主などと呼ばれていた。室町時代になると采郷のなかに采地が分けられ、新入りの地頭や合戦における行賞などで分かち与えられた。

 当然、采地となる場所は本来の郷主の手の及ばないところであったと思われるが、郷主としてはみずからの所領を侵略されたように思われ、至るところで所領争いが引き起こされ、それが葛西領争乱の複雑な要因ともなっていた。

 現在の当主である晴信は決して凡庸な人ではないことは守重以下、心ある家臣達は誰もが知っていた。戦国大名化へと発展出来なかったのはその仕組みのせいだということを。

 守重は葛西の重臣として寺池城で起きた及川頼家と千葉信近の口論から発展した及川氏の反乱、及川騒動を鎮圧し、重臣の一人として葛西家の為に様々な邪魔者を排してきた軍事において主家を支えてきた剛直な男である。

 一方で、状勢を読むことにも長けていて、大崎との因縁を忘れて一時は上杉という脅威の為に手を組もうと晴信に斡旋したのも彼の業績だ。

 数ヶ月前のことである。幸いにも大崎家も氏家吉継という上杉に対して守重同様に危機感を募らせていた者がいた。二人は文書や直接話し合うことで意見を交換し、葛西・大崎同盟の準備を進め、その過程で、稗貫や和賀といった大名へと名乗りを上げれなかったものの、北の有力な国人衆に頭を下げてまで仲介を頼み、同盟を成立させることに成功した。

 しかし、儚くもその努力が脆く崩れ落ちようとしている現状に腹立たしさが心の内に芽生えてきた。

 稗貫が突然、国内で内乱が起きたと見え透いた嘘を付いてせっせと撤退してしまった。

 守重はこのことをすかさず高水寺斯波家に密使を通して、すぐに後背の憂いを絶って欲しいということを伝えておいた。

 今頃は、四つの家で組んだ同盟から脱退したことに後悔しているだろう。

 だが、他家のことを気にするような状況ではなくなった。守重の主である晴信と盟友な筈の大崎義隆との間で前々からあった軋轢は、一時は有利であった戦況の中で生まれた余裕のせいで以前よりもさらに深まった。

 無くなった筈だという希望的な願望を持つ程、守重も甘い人物ではない。ただ、家の為には私情を捨てて欲しいという気持ちはあった。無ければ、葛西・大崎共々、上杉の波にあっという間に飲み込まれてしまうことは分かっていた。

 輝宗を一時は孤立させるなど有利な展開に持ち込むことも出来た。それは上杉が奥州を完全に掌握する為に始める戦の理由付けと分かっても中新田城の活躍で上杉の進撃を食い止めることが出来た。

 そこに古川城や名生城の大崎軍本隊と共に葛西が攻撃を仕掛ければ、間違いなく勝てた。しかし、勝てるという思いが大崎に邪念を持たせてしまったのだ。

 上杉が強いことは間違いない。故に、葛西・大崎は大きな危機感を持って強大な勢力に挑もうとした。その脅威が消えようとしたのが原因だった。仕方のないことだったのかもしれない。今を生きることに余裕が生まれるとその後のことを考えられるようになったのだから。 

 大崎義隆から突然、羽州の最上家や斯波のことが気になる故に自身の隊は後詰をすると言い出した時。守重は真っ先に吉継に視線を送った。

 吉継は大崎と葛西が争い合う状況を憂いていたにもかかわらず、何も知らないように平然としていた。

 

「氏家殿」

 

 軍議が終わると守重はすぐに吉継の下に駆け寄った。怒りを押し隠した内心を見透かしたように吉継は「申し訳ない」と頭を下げた。

 

「私では・・・・・・もう、上杉に対抗する策を考え出すことは出来ません。後は、よろしくお願いします」

 

 立ち上がって、再び頭を下げると表情を崩さずに去って行った。守重はただ何も語るなというその背中を眺めることしか出来ない。

 部屋を出ようとした瞬間、何かを思い出したのか吉継は振り返ると守重に目を合わせた。

 

「言い忘れましたが、新井田に関わらない方がよろしいですよ」

 

 そう言うと吉継はすっとお辞儀をして今度こそ出て行った。

 もちろん、守重は分かっていた。大崎の後詰への移動について吉継が知らない訳がない。大崎家の重臣中の重臣に対しても義隆が黙って国の大事を勝手に決めるようなことをするとは思えない。

 だとすれば、吉継にも抑えられない大きな力が動いているとしか考えられない。

 大崎家の中でも多大な力を持つ彼女を抑えることが出来る人物は自ずと限られてくる。駄目だと思うことは諫言を行う吉継が出来なかった人物。元は大崎と対立していた葛西の家臣である以上、分からない者はいない。

 新井田隆景と伊場野惣八郎との対立は聞いていたが、まさか大崎家四家老の立場にも影響が及んでいるとは思ってもいなかった。

 だが、冷静に考えれば隆景の父である隆成のことを考えると当然のことだと思わざるを得なかった。

 四家老の持ち合っていた権力を一つに集めることが出来る好機が巡ってきたのだ。欲のある者が腰を上げることは必然である。

 吉継達が権力争いに負けたことを察して守重は天を仰いだ。このままでは吉継と苦労の末に辿り着いた上杉を撃退するという策が根本的にひっくり返り、敗北への道筋が見えてしまう。

 しかし、先程言われたようにこれ以上は、吉継を頼ることは出来ない。

 守重の属する葛西家、吉継が属する大崎家。その間に出来た大きな溝によって誼を通じている二人のことを勘ぐる輩が出てくる可能性がある。

 それを元に讒言でもされれば、二つの家の間柄は完全に崩壊する。

 

「(如何するべきか・・・・・・晴信様が打って出る決意をされれば良い。されど、おそらく無い。新井田め、ここに来て下らん策を用いよって・・・・・・)」

 

 誰もいなくなった評定の間に舌打ちの音がはっきりと響き渡る。生来、気の短い守重はすぐにでも隆景の下へと怒鳴り込みたい気持ちを持ったが、先程言われた言葉のおかげでどうにか抑えることが出来た。

 だが、吉継自身も隆景に対して随分な妬みを持っているに違いない。以前の合同で行われた評定では隆景のことを「新井田殿」と普通に呼んでいたにもかかわらず、先程の物言いには明らかな侮蔑と怒りが混ざっていた。

 吉継が自分を抑えているのは家のことで大崎家を滅亡させまいという思いがあるからだろう。

 たしかに、吉継の言葉ではないが、家を越えた家臣同士の喧嘩は上杉に隙を与えるだけだ。

 

「今は、中新田城が落ちないことを祈るしかないのか・・・・・・」

 

 歯痒いのは誰もがそうである。上杉のこと以外に先の家中での権力を考え始めた者達を除いて。

 

 

 

 

 現在、守重が最も恐れていたことが起こってしまった。葛西・大崎に関わらず、心ある者達はその報告に天を仰いだり、絶句する者など中新田城陥落の報告に対する反応は人それぞれだったが、葛西・大崎に関わらず、共通しているのは大崎の領内での上杉の防衛は名生城と古川城のみとなり、大崎の命運は葛西の救援次第ということになってしまった。

 葛西からすると大崎は荒れた時の海の防波堤のように欠かせない存在である。そもそも、二つの家は強大な上杉を相対するに至って一蓮托生の間柄。

 気付いていた者は最近から因縁を捨てていた。気付かぬ者も上杉のことを侮っていた訳ではないが、互いの家に対する不信感を拭えきれずにいた。

 ほとんど者はそうかもしれない。しかし、守重達のように全ては上杉を追い返した後と考える者達と今から互いの家に牽制を入れて上杉を追い返した後にすぐにでも有利にことを運べるようにしようという者達のせいで上杉と互角に戦っていた中新田城を見捨てることになった。

 中新田城陥落の知らせはますますお互いの家に対しての不信感を募らせるには十分であった。かれらはお互い同士を直接的ではないにしろ、皮肉や嫌味を言った。

 大崎では吉継達と隆景達がお互いに策の失敗の責任を決め付け合い、罵り合う始末となっているらしい。

 結果的に、吉継が自身の居城に徹底して後方支援に回ることで一応の決着を付けたという。

 聞いた時には守重は隆景にますます呆れ、隆景に憎悪の念を抱いた。

 原因の違いがあるとはいえ、かつては自分達にも同じようなことがあった為、吉継の気持ちはよく分かる。

 ここで吉継が退いておけば、隆景に権力は集中するが、彼女に抵抗する者がいなくなる。渋谷達四家老の言葉よりも隆景の言葉に重きを置く義隆にとっても口うるさい者がいなくなるので気軽になっただろう。

 忌々しいと守重は感じたが、逆に一つの方向に向けさせる好機と見ることも出来る。

 今後を託された身にとって、隆景とこれからは上手く調整を行おうと決意を固めた次の日、まさかの事態に守重は気が動転してしまった。

 氏家吉継が岩出山城で挙兵し、謀反を起こしたという報告が入ってきたのだ。




ミスターローレ○ス
(古っ!)
ごめんなさい。
今年はこれで終わりです。皆様よいお年を


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十九話 依存

明けましておめでとうございます。
今年はこの作品の完結を目標に精進して参ります。よろしくお願いします。


 中新田城の修復も佳境を迎えたのを見計らって親憲と官兵衛は残しておく部隊に後を任せて出立を命じ、そろそろ名生城へと到着するという所で伊達・蘆名らの諸将を召集した。

 

「今、名生城からはおよそ三日掛かる所にいます。これから私達は半日程休息をして、名生城に向かいます。村上寺が我らに協力すると通達を出していますのでそこを本陣として名生城を落とします」

 

 村上寺は平安期の初期頃、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際、将兵の安全を祈る為に建立したものと伝えられる真言宗の寺院である。謙信が真言宗を信仰していることもあって、協力してくれるように予め使者を送っておいた。

 その際、官兵衛が使者に持たせたのが金銀であるが、僧侶の一部を除いてすぐに受け取ってしまったことを聞いた時は半ば官兵衛も呆れたことは余談である。

 軍議という公の場所である以上、普段は堅苦しくない官兵衛も長い説明を敬語を使って話している。

 上杉軍の将の中には下を向いて必死に笑いを堪えている者もいるが、官兵衛の後ろで親憲がそういった者達に鋭い視線が向けている為、視線が刺さった者達はすぐに真剣な表情に変わっている。

 一方、官兵衛の口調のことなど気にせずに先程述べた官兵衛の大体の軍略に疑問的なことを感じた者達は隣同士で話し合いを始めている。

 その中で政宗が代表して手を挙げた。

 

「古川城は如何する?」

「我らはかの城を攻めることはしません。後詰の柿崎殿と本庄殿に委ねます」

 

 納得したように政宗は頷いたが、今度は、その隣に座っていた景綱が口を開いた。

 

「たしかに敗残兵の多い古川城はたしかに動けるような状況ではないでしょう。しかし、名生城には大崎家四家老の下、大崎の本拠として厳重な装備を備えていると思われます。冬のこともありますし、何か策を用いた方がよろしいのでは?」

 

 景綱の物言いは敢えて上杉軍の中で秘匿としている策があると察していて、それをなるべく早く聞いておきたいという思いが見て取れる。

 実際、この軍議で予め詰めていた策の大体を言う予定だったので問題はない。

 

「伊達殿には既に支倉殿をお借りする際に少々お話し致しましたが、そのおかげで準備は既に終えることが出来ました。まずは・・・・・・」

 

 官兵衛は四半刻掛けて名生城と大崎の中にある猜疑心を利用した件の策をざっと説明し終えると親憲がそれぞれの役目を振り分けて大崎との最後の戦に向かうという思いを一つにした。

 

「この戦にて上杉が京に上れる日を実現可能にするかしないかを分ける重要な戦となります。後々の為、背後を固める重要な戦であるということを忘れずに戦に挑んで頂きたい」

『はっ!』

「・・・・・・しかし、曇り空が増えてきましたな」

「この辺りは冬が近くなると風も出てくるらしいから、寒くなるにつれて早く物資が減っちゃうよ」

 

 軍議が終わり、親憲と官兵衛のみとなった陣幕。二人で調整を進めて、きりの良いところで外に出て空を見上げると太陽など出る幕が無いという程に厚い雲に空は覆われている。

 冬になれば、火を起こす為の木材や身体を暖かくさせる為の食料など必要なものが減る割合が早い。名生城まで行けば、城内の兵糧で補うことも出来るのでなるべくそこまで冬前に行きたい。

 

「いっそ、この辺りの住民に臨時収入でもさせる?」

「変な冗談はよして下さい。某だから良いですけど、直江殿あたりが聞けば、今にでも黒田殿の首が飛んでいましたよ」

「分かってるよ。あたしだって人を選んでます」

 

 そんな四方山話をしていると報告に来た兵がやってきた。

 

「申し上げます。敵方に不審な動きあり。古川城の兵が突如として名生城に撤退し、古川城を破棄した模様」

 

 上杉軍にこの知らせが入ったのは中新田城を出立して三日程経った日だった。

 景家が到着する前に古川城の兵が迂回して中新田城を奇襲する可能性を考えた官兵衛は大内定綱を予備の為に残しておくことにした。

 とはいえ、ほぼ古川城を無視して名生城に迫ろうという策を使って戦おうとしていた日に舞い込んできた報告には二人共拍子抜けした。改めて官兵衛が古川城を地図上で見てみると上杉軍は横切るような所まで来ていた。当然、夜襲を恐れて、古川城には近付かないように動いているが、ここまであっさりと撤退することには怪しむしかない。

 

「たしかに妙ですね。何か分かり次第すぐに報告するようにして下さい」

 

 親憲が指示を出すと兵は返事を返してすぐに去って行った。それを見届けると親憲と官兵衛は食い入るように地図を見始めた。

 そこには先程までの眉間に皺を寄せた表情はなかった。

 

「黒田殿の言う通りになりましたな。問題はいつ頃氏家の動きが皆の耳に入るかでしょう。それまでに新井田隆景は動くと思いますか?」

「いや、たぶん岩出山城には父の里見隆成が出ると思う。新井田は名生城で首を引っ込めるしか頭にない筈だよ」

「主君を盾に、降伏を促して自身の身も守ると・・・・・・少々、話が良過ぎる気がしますね」

「いるんだよ。世の中にはそういう都合の良い話が大好きな輩共が」

 

 吐き捨てるように言う官兵衛の頭には思い出したくない記憶が蘇ってきた。戦前に悪いことを思い出した故に出てきた怒りの気を静める為に深呼吸を何度かすると改めて親憲に向き直った。

 

「取り敢えず、支倉殿に早く戻ってくるように伝えておいて、名生城に行こう。そしたら、さっさと大崎攻めを始めよう」

 

 敵にとってこれからが家の存亡を賭けた決戦であることは軍師である官兵衛が一番よく知っている。故に死に物狂いで立ち向かってくるだろう。にもかかわらず、言い方が何も考えていないような人の言い方のようにさっぱりしていて、簡単に「さっさと」という単語が出てくるのが官兵衛である。

 その姿を見て呆れるように溜め息を吐く親憲に対して官兵衛は策が上手く行って実にご機嫌そうだった。

 

「楽しそうに見える?」

「ええ、とても」

 

 自分の姿が楽しそうに見えるのだろうと思ったからこそ官兵衛は親憲に聞いてきた。

 親憲も官兵衛が楽しそうに見えたからこそ尋ね、返答を聞いていつもの軍師冥利に尽きることとは違う何かによって自然とご機嫌そうに見えたのだと悟った。

 

「まぁ、たしかに軍師としてさ、こういうことをするのは楽しいよ。でも、する相手が善人だとあまり乗り気じゃないんだよね~」

 

「あはは~」と誤魔化すように笑う官兵衛を見て親憲はますます分からなくなった。

 善人さえも騙すのが軍師であり、当然のことである。

 普段から一見子供っぽく駄々をこねることがあるが、決してやたらめったらと本心を明かすようなことはしない軍師らしい人を食ったような一面を持つ官兵衛のこと。何かあると思っていたが、言いにくそうにしている女性にわざわざ無理をしてでも聞こうとする親憲ではない。

 

「懐かしいことを思い出すとさ、人って自然と笑みがこぼれることってあるじゃない?」

 

 そう思った親憲がさっさと立ち上がって出立の準備に取り掛かろうと陣幕を出ようとした瞬間、その背中に声が掛けられた。

 

「それは、播磨のご実家のことですか? それとも・・・・・・」

「後者の方だよ。決まってんじゃん」

 

 足を止め、ものは試しと聞いてみたが、仮にも実家である筈の家をきっぱりと拒否することはないと思う。親憲は苦笑いを浮かべるしかなかった。

 着々と毛利が勢力を伸ばしているとはいえ、播磨も国人衆や豪族が勢力を争っていて策を要する筈だが、こういう性格だから策を講ずる際に国人衆の影響力が色濃く残っていてそれを粛清していた斎藤道三の下の方が刺激が強く、美濃の方が官兵衛にとっては楽しかったのだろう。

 そんな親憲の心情を察したのか官兵衛はもう一度座り直すように向かいの席に親憲を招く。

 

「あんま人に言う気なかったんだけどさ。水原殿なら良いかな~って思ったんけど。良い?」

「構いませんが、某に伝えるのは如何なものでしょうか。昔話なら春日山に戻り次第、龍兵衛殿に言うのがよろしいのでは?」 

 

 たしかに、過去のことには一切知らず、何も関係ない親憲の言うことはおかしいと考えるのが当然である。しかし、官兵衛はいやいやと手を顔の前でひらひらさせた。

 

「面と向かって言うのが恥ずかしいと思うことってあるじゃん。ほら、色々と・・・・・・」

 

 官兵衛はまた「あはは~」と頬をかいて顔を染めている。内心にやっとしながら親憲は聞いてみることにした。

 

「恋、ですか?」

「だったら普通同性に相談すると思わない?」

「ですよね」

「それに、さっきの恥ずかしいっていうのは半分冗談だし」

 

 ぶすっと拗ねてしまった官兵衛はどこから見ても少女である。師弟恋愛をちょっと期待したが、真顔に戻ってもっともな言い方をしたことにがっかりしたのは親憲だけの秘密である。

 

「懐かしいことって、楽しかったこともあったけど、嫌なこともある。あたし達は嫌な思い出の方が多いからそれを知っている二人同士だと話すとどうやっても碌なことにならないんだよ。いっつも話が途中で脱線しちゃってはあっちこっちに話題が行って、最後には何の話だったけってなるんだ」

「ほほう」

 

 少しだけ親憲は興味を覚え始めた。決して詮索好きという訳ではないが、同じ家に仕える者として同僚の人間性を知っておくことも必要である。

 

「美濃にいた時はあたしも驚いたんだけど、龍兵衛ってすっごい残酷な一面を持ってるんだよ」

 

 この暴露発言には親憲も少し驚いたように目を開く。ひねくれているところもあるが、優しい一面を持っている。民や配下を問わず、普段は困っている人にはそれなりの支援をしたりと彼なりに手を差し伸べることがあるのを親憲は知っている。

 例として不正を働いていた商人を捕縛した後に立ち行きがいかなくなった被害を受けた店に不正商人が溜め込んでいた金の一部を戻しておく決まりになっているが、利子が重なり、それでも返せない状態にあった店の借金を彼の一存で不正商人から徴収した金をさらに出して借金返済に協力した。

 後で公では謙信に咎められはしたが、謙信も裏では彼のことを褒め、兼続達も一緒に彼の行動を讃えた為、不問にされたことがある。

 もちろん、軍師として、金に目が眩んでどこかの家に出奔してしまいそうな者や反乱を企む輩を容赦なく暗殺する指示を出すなど冷酷な一面があるのも知っているが、軍師の域を越えて残酷なところがあるとは知らなかった。

 

「愚痴を聞いているとさ、言うんだよね~美濃で碌な目に合わせなかった連中の腸を生きたまま口から手を突っ込んでえぐり出してやりたいとか」

「そのようなことを龍兵衛殿は言うのですか?」

「まぁ、あいつがぶち切れた時だけだから。でも、それをやりかねないからなお性質が悪い」

 

 つまり、実際に行動に移したということになる。

 官兵衛が言うにはその者は道三の怒りに触れて死罪を申し渡されたらしい。元々、その者は問題があったので誰も止めはしなかった。

 そして、龍兵衛はその者の死罪が決まった時、道三に自分に処刑させて欲しいと密かに頼み、本当に口から手を突っ込んで、喉元をえぐり出して殺した。

 

「まぁ、そいつは龍兵衛に百姓上がりだって公衆で面と向かって龍兵衛に言っていたし、道三様にもよく命令無視で咎められていたから。誰も龍兵衛のことは咎めなかったけどね。後であたしともう一人の龍兵衛の師匠とできつーく叱っておいたけど」

「・・・・・・そう、ですか。龍兵衛殿にもそういうところがあったのですか・・・・・・」

「でも、叱った後はそれなりに改善したみたいだけど・・・・・・あたしがここに来る前の間に何も変なことしてないよね!?」

 

 がばっと親憲に詰め寄って腕に力を籠める官兵衛に大丈夫だと言うと本当に安心したらしく「ほーっ」と溜め息を官兵衛はついていた。

 それだけを見ても色々とやっていたんだなと思えるのでやれやれと親憲も釣られて溜め息が出てしまう。

 親憲は詮索好きという訳ではないが、人を見る力は鋭い。似ていないところが多い師弟だと思っていたが、案外そうでもないらしいことを知れた。

 官兵衛が冷酷という訳ではないが、今のように官兵衛が弟子を案じて人に自分が見えない所で龍兵衛が何かしていないか案じるところなどよく似ている。

 以前も龍兵衛が酒が入った時に師匠達が自分がいない所で本当にちゃんとやっているのか不安になって景資にくれぐれも目を離さないように頼んでいたことも彼女から聞いたことがある。

 お互いに放っておけないところがあるというのがよく似ていると感じた。

 一方で知っているのだろう。官兵衛も龍兵衛もお互いが自分のいない所でもちゃんと自分を見失うことなく仕事をこなすことが出来るということを。

 思い出してみると、どちらか一人の時は二人でいる時よりも頼りになる気がする。 

 

「何笑ってんの?」

「いえ、別に」

 

 おそらく、二人が一緒にいるとお互いがお互いに頼ってしまい、向こうがいるから大丈夫だろうとお互いを意識して抜けてしまうのだろうと親憲は思った。

 何か大きな影響を及ぼすということはないが、廊下に資料をぶちまけたり、仕事中にうたた寝をしたりと取り敢えずは説教ということになるようなことはよくやらかしている。

 そして、兼続に引っ張られて行く姿を思い出して自然と笑っていたことに気付いた親憲は訝しげな目をする官兵衛を誤魔化す為に表情を戻して咳払いは一つすると「何でもありません」と否定する。

 じとーっとした目でしばらくは見ていた官兵衛だが、親憲は何も言ってくれなさそうだと察すると諦めたように溜め息を吐き、顔を明後日の方向に向けてしまった。へそを曲げてしまったらしい。

 気分転換に戦に連れて行くとしようと親憲は溜め息を付く。まるで子供を遊び場に連れて行くような気持ちになってしまうが、目の前の軍師が正しくそれなのだ。

 話を逸らして元に戻すことにしようと親憲は真面目な口調で聞く。

 

「氏家はいつ動くでしょうか?」

「たぶん、あたし達よりは早く動くんじゃない? 古川城の兵が名生城に向かったってことはそういうことでしょ。もしかしたら、もう動いているのかもしれない。大崎からするとなるべく隠密にしないといけないからね」

 

 からかわれたことなどすぐに忘れたように一気に多弁となって親憲の質問に隙のない答えを返してきた。

 機嫌のよさそうな表情に親憲は踊らされすぎだと内心溜め息を吐いてしまう。少し慶次を相手にしているようだなと親憲が思い始めた矢先。

 

「申し上げます。村上寺の使者と名乗る僧が水原様にお目通りを願っております」

「すぐに通して下さい」

 

 兵が下がると二人は頷き合い、心に踊るものを抱えてその者を待った。

 入って来たのは確かに剃髪を行い、僧衣に身を包んだ僧侶であるが、見るからにいざという時は僧兵として戦う為の訓練がされていると分かるがっしりとした体型をしている。

 二人の前ですっと頭を下げるとその僧侶は時間を無駄にしたくない性格らしく、さっさと要件を言い始めた。

 

「氏家吉継が岩出川城にて謀反を起こしました。これに南条様と里見様がご出陣され、黒川様と新井田様が名生城に残り申した」

 

 官兵衛の心の内で何かが高鳴りをして跳ねた。いよいよ、大崎を落とす最後の仕掛けが動いたのだ。政宗から常長を借りてまで行った内側から切り崩す策が相成った瞬間を伝える知らせが舞い込んできたのである。

 外は落ち着いて見えるが、内心の踊るような感情は分かる者には簡単に分かってしまう程、抑えられなくなっていた。

 一方、親憲は普段の平常心を崩さずにゆっくりと頷くとまだ心に残っている気掛かりについて尋ねる。

 

「古川城は?」

「未だにそちらの情報は掴めておりませぬ。されど、分かり次第すぐにご報告申し上げる所存。この度拙僧が参上したのは、これを報告する為に、また、我ら村上寺の僧侶一同、喜んで上杉様のお力になるとお伝えに参りました」

 

 そう言って再び僧侶は頭を下げる。親憲はすぐに頭を上げるように言うと感謝の弁を述べて、こちらの準備が整い次第すぐに出陣するという旨を伝えた。

 

「分かり申した。上杉様の準備が整うのをお待ちします。拙僧はすぐに寺へと戻り、この旨を住職様にお伝えし申す。されど、時はもはや冬に近くなり、時がありませぬ。なるべくお急ぎになるように」

 

 僧侶はそう言うと表情を変えずに素早く立ち上がり、最後に頭を下げ、しつこいように二人に急いでくれと頼んで陣幕から出て行った。

 二人はその背中を見送り終えるとすぐに陣幕へと歩き出す。

 

「来たよ。これで、大崎との戦を終わらせることが出来る」

「ええ、ですが、まだ戦はこれから始まります。油断は禁物です」

「分かってるって。こういうことはさっさとどうするのか決めて、村上寺に行こう!」

「・・・・・・そうですね。兵は神速を尊ぶとも言いますし」

 

 官兵衛が意味ありげに笑うと親憲も意味ありげに笑った。

 陣幕に戻ると官兵衛は素早く地図を広げるとすぐに策を詰めを親憲に説明し始めた。

 親憲が官兵衛に聞き忘れていたことがあるのを思い出したのは、その日の寝る直前のことである。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百話 嗚呼、異常

 吉継が謀反を起こしたのは私利私欲の為ではない。ましてや、大崎家存続の為でもない。ただ新井田隆景の排除の為である。

 数週間前の大崎家の評定にて吉継は珍しく逆上した。

 原因は政敵、隆景の讒言である。彼女は密かに評定を行う前に義隆に会いあること無いことを言った。その中に事実はあった。

 吉継は確かに留守政景を通じて伊達家と誼を通じていた時があった。原因は葛西との戦いでは何度も大崎は敗北を喫していた為だ。いざという時に伊達家を頼れるようにしておくことも考えていた方が得策だと考えていたのである。

 しかし、平和主義者の輝宗が積極主義者の娘、政宗にほとんどの全権を任せ、彼女が上杉に降ってからは奥州探題の家系を持つ大崎家と元は越後上杉家の守護代の長尾家という家柄の問題と実績の無い伊達政宗を始めとして支持する者がいないと考え、方針を変え、斯波や和賀、稗貫と関係を深めるように努めた。

 これは義隆の命であり、吉継自身は謙信達のことは高く評価していた為、降ったとしても素直に頭を下げる者は無碍にしないという噂の謙信に降って、後は温情にすがることもありだと考えていた。

 もちろんそれは、大崎家単体で当たる場合の時のみであって同盟を組んで一致団結をすれば、結果は分からないかもしれない。

 結果として現在は同盟を組まなければならない状況下にまで追い込まれ、主君の義隆も謙信に降るという選択肢を捨てたのだから家臣として全力で戦うのが道理である。

 にもかかわらず、吉継の過去を掘り出して伊達家との関係を疑うように隆景は義隆に言上した。過去のことを掘り出して足を引っ張り合うことは戦ではしてはいけないことである。さらに隆景は吉継達の派閥の中に遊撃軍として城生城まで出陣していた中目隆政が中新田城を目の前にしておきながら撤退したことを咎めるべきだと義隆に訴え、揺さぶりをかけた。

 怒りを覚えない訳がない。決して短気な吉継ではないが、大崎家四家老の中で侍大将として軍事面で必要な隆政は中新田城陥落後の窮地に必要な存在である。

 里見以外の必死の懇願により、彼は中目館に謹慎することで処分は止まったが、侍大将以外にも吉継同様に執事として政治的にも重要な地位を占めている彼の離脱は痛い。

 吉継は必死に義隆に許すように懇願したが、義隆は迷ったように何も言わず、その代わりに隆成が「もはや決まったことだ」と言って義隆に発言させないようにする。

 隆成の発言に吉継は噛み付いた。

 

「あなたは黙っていろ!!」

 

 普段は冷静沈着で大声で怒鳴ることなど決して無かった吉継の怒りの叫びは隆政のことを勝手に処罰した隆成・隆景親子に対する烈火の如く燃え盛っていた心を表すには十分だった。

 そう言って吉継は義隆に深々と頭を下げて詫びを入れると岩出川城に戻って行った。

 これによって邪魔者がいなくなった隆景は今度は政敵の伊場野惣八郎を排する為に隆成に頼んで吉継を名生城にいられないようにする為に伊達へと送った彼女の書状を元に他にも讒言を繰り返して岩出川城に退去させるように仕向けた。

 察しの良い吉継はその前に身の危険を感じて物資の確保を目的に岩出川城に退いていた。だが、逆にこれが隆景派の流れを勢いづけるものになる。

 吉継の物資救援がわざと遅れているように見せかけ、その原因は、彼女が物資をちょろまかしていると義隆に吹き込んだ。

 真に受けた義隆は吉継を呼び寄せるように命じた。しかし、前々から疑われている吉継が来る筈がない。不審に思った義隆は隆景の父である隆成に聞くと彼はこう言った。

 

「名生城に内通者がいる故、吉継に情報が漏れているのです」

「それは、誰です?」

「察するに・・・・・・伊場野辺りかと」

 

 その答えで義隆の心は決まった。すぐに隆成に命じて伊場野惣八郎を呼び出すと彼女を捕らえてしまった。

 

 

 その二日後。

 視線の先にはかつては美貌にて大崎を魅了した惣八郎の変わり果てた姿があった。

 長かった黒い艶めかしい髪の毛を短くなり、顔の至る所には拷問によって出来た青い痣が出来ていた。

 

「義隆様より処断せよとの命が下った。よって、この場にて斬る」

「ふっ・・・・・・貴様が義隆様に吹き込んだのだろう。外敵を前に私情を挟んだ貴様など、死して終わるのみ」

 

 政敵に慈悲の心など無く、隆景は惣八郎を斬首とした。

 牢から出て来て返り血を浴びた隆景を見て義隆は思わず駆け寄った。しかし、隆景の服に着いている血は惣八郎の血である。

 

「何か、惣八郎は言い残していますか?」

「いえ、ただ粛々と刑を受け入れておりました」

 

「そうですか・・・・・・」と残念そうに下を向く義隆を見て隆景は思った。このお方は最後まで主君として家臣を信じているお方なのだ。素晴らしいお心を持っている。

 故に、隆景達は好きに動けるのだ。それに感謝しなければならない。

 この処刑も隆成が全ては大崎家の為であると懇々と説得を続け、大崎家のことを心配してくれていると信じた義隆のおかげである。

 故に、さらに一手を打てることも可能なのだ。

 

「もし、未だにお気になるのであるならば、今一度氏家殿をお呼び寄せなさいませ。忠義に篤いあのお方なら、間違いなく馳せ参じますよ」

 

 当然、吉継が来る訳がない。分かっている。今から行けば、殺される。まだ隆景を殺していない以上、死ぬ訳にはいかない。

 だが、これを好機と見た隆景は強引に吉継を謀反人に仕立て上げる為に以前の伊達との交流を大崎への逆心ありという名目で父の隆成を総大将に義隆に兵を挙げさせた。

 さらに先に兵を挙げたのは吉継であるという風潮を流し、この討伐は正当なものであるとして誰も疑わなくなったし、めったに見せない炎のような義隆の怒りを見て隆景の讒言だと彼女達と対立する家臣達も言えなくなった。 

 

 

 

 

 

 さらに時を遡る。

 支倉常長は密かに名生城に足を伸ばしていた。中新田城への大崎と葛西が出兵を巡って溝を深め、吉継が名生城の中で隆景と対立を続けている中で徐々に立場を悪くしている頃だった。

 

「早くお決めにならなければ、名生城も大崎様も跡形もなく消えてしまいます。それでもよろしいのですか?」

 

 常長はある女性を前に説得を行っていた。必死の説得を受けている女性、新井田隆景は頭を抱えたくなる思いでその説得に耳を傾けている。

 という訳ではなかった。

 隆景からすると興味は無かったのである。隆景は義隆の下であるからこそ、好き勝手やれるのである。仮に大崎家が存続を許されて、義隆が助命されたとしてもその上に上杉謙信がいるのでは今までのことを考えると注意の目が置かれる可能性もある。

 謙信という人物は権力を上杉に集中させる為に様々な家から名代という名の人質を取り、国内の国人衆にも春日山城の屋敷に住むようにさせている。

 大崎家が降伏すれば、吉継を向かわせてその間に権力を自身の下に集中させることも出来る。

 しかし、義隆には自己犠牲の気持ちがある。その為に最上義守や伊達政宗のように自ら春日山城に行くと言う可能性もあるのだ。

 その際、国の政務を任されるのは彼女の父である隆成だろう。素直に考えれば親子に権力が集中する好機に映る。しかし、家中の権力争い程に醜く、相手方に容赦ないことは歴史を紐解くと明らかなことである。

 当主の義隆がいない間に吉継達の派閥が今まで募らせてきた隆景達への恨みを蒸し返して、失脚を目論むかもしれない。兵力を考えると隆成以外の四家老が敵対している中で武力衝突が起きれば不利になるのは隆景側。しかも、武力衝突を起こせば、上杉は大崎を改易にする可能性もある。

 当主がいなければ、好き放題やれるのは隆景達ではない。だからこそ、大崎家が上杉に降伏することだけは何としても避けたい事態であった。

 しかし、常長は執拗に悪いようにはしない。上杉でも大崎家の存続を認めるから義隆に降伏を促して欲しいと諦めずに説得をし続けてくる。

 大局が分かっていないと隆景が呆れたように溜め息を吐いた時だった。

 

「おそらく、大崎家の中にある病を取れば、新井田様は謙信様や政宗様に重用されると思います」

「えっ・・・・・・本当ですか?」

「ええ、これはお近付きの証として取っておいて頂けますか?」

 

 そう言って常長は持ってきていた数個ある箱の一つを取り出して中を空けた。中には眩いばかりの光を放つ金が入っている。

 流石の隆景もいきなりの展開に驚愕の色を隠せなかった。

 

「こ、これは・・・・・・」

「こちらが気前の良い待遇を貴殿にはしようとしているのです。後はご協力して頂くかどうか・・・・・・もし、否としてもこの金の一部は差し上げます」

「えっ、それは何故に?」

「大崎様が降伏なさった場合、上杉謙信様も伊達政宗様も大崎様と新井田様を重用するのがよろしいとのお考えです。一刻も早く病を治すことを願っております」

 

 常長は答えを待たずに隆景が既に承諾したように上杉が彼女にやってもらいたいことを言い出した。

 

「貴殿らが氏家殿を居城である岩出川の城まで退かせれば、もう新井田様の邪魔を出来るお方などおりません。後は言うまでもないでしょう」

 

 隆景にとって目の上のたんこぶは惣八郎の後ろ盾のような存在だった吉継だった。彼女の他にも渋谷など、四家老の一角を占める者もいるとはいえ、最も知略に長けた吉継こそが本当にいなくなって欲しい人物である。

 しかし、だからといって上杉に組する理由は無い。義隆の下でも吉継を排することは出来る。呼び寄せる為の理由などいくらでもある。仮に無理だとしても、義隆にまた隆成を通じて兵を派遣すれば済む話だ。

 兵を派遣するのは本当に最後の手段である。葛西の救援を望めない以上、頼りない和賀はもはや戦力外。大崎単体で上杉と戦うことは厳しいことであるというのに戦力の分散など以ての外だ。

 

「例えば、これを渡す相手が本当は氏家様だとしたら、どうします?」

「何!?」

 

 差し出した箱を自分の方に寄せて溜め息を吐きながら数個積まれた箱を整えてすっと立ち上がろうとする常長の裾を慌てて隆景は掴んだ。

 

「まだ、何か?」

「はっ!? これは失礼!」

 

 横目で見る常長の様子から自分が何をしたのか察した隆景は先程よりも慌ててさっと手を引いて頭を下げる。

 

「受け取らないのであれば、これは氏家様の下へとお送り致します。これから決戦だというのによろしいのですか? このままでは葛西様がやってきて氏家様を倒した後も居座り続けますよ。そのような事態になれば、大崎様は上杉様どころではなくなると思いませんか?」

 

 正論をぶつけてきた常長の裾は綺麗に整え直されている。隆景は唇を噛み締めて返事を待つ常長の顔とその後ろの箱を交互に見比べて考えている。

 上杉が来ることは分かっていた。しかし、葛西のことは失念していた。岩出川城への討伐を後回しにすれば、後顧の憂いが残る。そのまま上杉に対すれば、背後から上杉に唆された吉継が攻めてくるのは必定。

 手を打つにしても葛西を頼る必要が出てくる。たとえ双方打ち払ったとしても葛西は岩出川城に居座ることも考えられる。

 結果的に責任が返ってくるのは葛西を撤退させた直接的原因がある隆景となり、大崎での権威に傷が付くかもしれない。

 吉継を大崎の手だけで処分して、上杉の脅威を取り払う為には方法は一つしかない。

 

「受け取れば、上杉はどうするのか、お聞かせ願いたい」

 

 隆景が言うと、常長は嬉しそうに微笑みながら説明を始めた。

 

「・・・・・・と、このようなものです。この通りにすれば、氏家様は岩出川城に戻り、兵を挙げるしか術がなくなります」

「なるほど・・・・・・分かりました。義隆様には上手く知らせておきます」

「ありがとうございます。これでお互いに肩の荷が取れましたね」

「何故、私の下にこれを?」

 

「では」と微笑みを崩さずに常長はゆっくりと立ち上がって去ろうとする。

 隆景は未だに金銀を渡された意味が分からず、常長の背中に聞く。

 

「我らの御大将は氏家様を倒した暁には、我らの手で氏家様を処断したいとお考えです」

「それでは我らの面子が無くなります!」

 

 大崎家中で起きたことは最後まで大崎家中で解決しなければ領民達に大崎家は上杉家の下に降ったと見られてしまう。

 

「正直に申しましょう。我らは大崎様のことなどどうでも良いのです」

「何!?」

「最後までお聞きになって下さい。しかし、大崎様はそうはいかないでしょう。無論、あなた様も・・・・・・何時までも葛西と戦を続け、田舎の小大名でいたところで、大崎様も新井田様も勝利者となれますか? 否、史書の端くれに載る程度でしょう。しかし、今こそその状況から抜け出して、上杉様の下とはいえ、大大名になる好機と何故にお考えになりませぬ」

 

 上杉の下。つまり、義隆や隆景が春日山に名代として赴く可能性もある。しかし、常長の先程の物言いではもし、約束を反故にすれば、金を受け取ったことに関係なく、容赦ない制裁が隆景にも喰らわされることを意味している。

 隆景の額から脂汗が出てきた。権力が無くなるのは嫌だし、死ぬのも嫌。逃れられる手立ては上杉の傘下に入り、慈悲を願うこと。しかし、先述の通り、己の身に危険が及ぶかもしれない。

 そんな隆景の思考を見抜いた。見抜けない方が間抜けというような様子を出している隆景の後ろにいつの間にか常長が立っていた。

 

「代わりと申さば、大崎様と新井田様は上杉様への名代には生涯ならぬよう、便宜致しますが?」 

 

 隆景は冷静に考える。

 もしも、義隆と吉継が和睦すればどうなるだろう。間違いなく己の地位は独占しづらいものとなり、大崎家を牛耳ることが出来なくなる。

 中新田城を落とした上杉がこのまま攻めあがってくるとなれば、義隆は間違いなく名生城に籠城する。つまり、義隆を囲う好機と共に政敵に囲まれる可能性も出てくる。

 

「渋谷様らのことならばお気になさらず。新井田様はそれ以上の影響力と後ろ盾とをお持ちではありませんか」

 

 父の隆成は娘が義隆に重用されている為に四家老の中でも筆頭の地位に上り詰めている。そして、隆景も吉継や中目隆政という執事よりも権力を持っている。

 気になるのは中立を保ち続けている四釜隆秀ぐらいだが、彼も今は名生城城外の警備に回っている為、内側に入り込めないように何か策を講ずれば良い。

 

「後は、あなた様の勇気を信じます」

 

 隆景は優しい言葉を掛けてきた常長に無意識に頭を下げていた。

 後悔は無い。何故なら、さらに権力を手に入れることが出来るから。

 

 

 

 

 

 一週間後。

 上杉は予め協力を承諾してくれた村上寺に着陣して名生城攻略への地固めを始めていた。

 そこに常長は夜陰に紛れて密かに戻ってきた。親憲と官兵衛はまだ起きて、戦への準備を進めている。総大将自ら戦に臨む姿勢を見るとやはり上杉と伊達は似ていると思い、思わず本当の笑みがこぼれてしまう。

 

「撒いた餌が利いたみたいだね」

「ええ、あれほど簡単に釣れてしまうとは思いませんでした」 

 

 常長の笑みを成功した結果を知らせる何よりの証拠だと確信した官兵衛は帰ってきた常長に労いの言葉を掛け、常長を大いに褒め称えた。

 景綱と違って無邪気にがんがんと言ってくる官兵衛に常長は面を食らい、恥ずかしそうにしながらもしばらくは官兵衛に言わせておいてあげていた。

 しばらくして話すことが無くなったのか官兵衛の表情から無邪気な笑みが消え、顔には笑みを浮かべているが、眼に知者の輝きが光り始めた。

 

「で、やっぱり新井田は駄目?」

「はい、自分の権力に目が行ってまるで外が見えていません。当主の義隆は危機感を募らせているようですが、隆景の父、隆成が上手く誤魔化しているようです」

「そっか・・・・・・ま、いいや。こっちも収穫あったし」

 

 そう言うと官兵衛は家臣を呼んで「例のものを持ってきて」と指示を出した。その兵とすれ違いで陣幕に入ってきたのは政宗と成実だった。

 

「常長、戻っていたのか」

「政宗様、ご報告が遅れて申し訳ありません」

「いや、気にすることはない。敵地に行っていたのだ。抜け出すのにも苦労しただろう」

 

 政宗には事情を説明して官兵衛は常長を借りていたので何をしていたのか政宗は知っている。それ故に、常長の肩を叩いて労をねぎらっているが、成実は「え、何のこと言ってるの?」と政宗と官兵衛の顔を交互に見比べている。

 政宗がそれとなくはぐらかそうと口を開きかけた時、先程の家臣が例のものを持ってきた。

 

「えっ! 何これ!?」

 

 家臣と一緒に入ってきた例のものは人であった。顔に傷が付いているが、僧衣によって隠れている腕や足にも傷が付いているだろうということはよく分かる。

 成実はそれを見てますます陣幕にいる人々を見比べ始めた。常長も目を見開いて僧侶を見ている。

 

「良いのかな?」

 

 常長は大丈夫だろうが、もう一人は不安がありまくりの人物の為、官兵衛は不安げに政宗に耳打ちする。

 

「構わないだろう。あれでも秘密は守る奴だ」

 

 さして不安でもなさそうに薄く笑って肩をすくめる政宗を「どーゆー意味ー?」とじろりと睨む成実を見ると官兵衛はますます不安になってくるが、今下がって欲しいと言っても成実の性格からすると下がるということをしないのは目に見えている。

 一つ溜め息を吐くと成実に官兵衛は近付いて耳を貸せと成実に近付く。近くで親憲と政宗の二人はその光景を見て少し和んでいることは余談である。

 

「もし、今からのことを誰かに話しちゃいそうなら、ここから出て行った方が身の為だよ」

「い、言ったら、どうなる、の?」

「口を封じる」

 

 間を置かずに答えられた為に少し身体を震わせた成実だが、己の中には無いものを貫く為にぶんぶんと首を縦に顔が二重に見える程の速さで頷いた。

 

「大丈夫、ちゃんと口を噤んでいれば・・・・・・簀巻きに冬の海に沈めたりしないから」

 

 さーっと顔色が青くなっていく成実よりも親憲は笑いながらそんなことを言うから弟子に移ったのではという疑問が官兵衛に対して浮かんだ。

 

「さ、成実も大丈夫そうだし、聞いてみようか。この間者はどこの手の者かってね」

 

 成実は、その無邪気な声の後から出てきた黒さが滲み出てくるような声はまるで官兵衛は二重人格ではないかと疑いが出るようなものだが、それよりも気になったのは目の前で縛られている僧侶が間者ということに気を惹かれた。

 

「『どうして分かった?』っていう顔してるね。あれだけ臭い芝居と僧侶っぽい物言いは逆に怪しいって。ねぇ?」

「ええ、某もかなり違和感を抱きました」

 

 政宗と常長はこの流れから大体を察していた為、上杉の二人同様に僧侶もとい間者を睨み付ける。成実は成実で驚いたように相変わらず間者と官兵衛達を見比べている。

 

「正直言って、下手くそな演技だったよ。どこの手の者かはまだ分からないけど、大崎の中から来たのは分かっている。言った方が良いよ。生きてここを出たいなら」

 

 そんな甘い誘惑に乗っかる程、間者も手緩くない。睨み合いが予想されたが、政宗がしれっと物騒なことを提案し出してきた。

 

「いっそのこと殺して、名生城に送りつけてしまえば良いのでは?」

「いや、さすがにそれは上杉として・・・・・・」

 

 義を重んじる上杉がそのようなことをすれば、名を汚す。総大将、親憲の鶴の一声で政宗の提案は一瞬で拒否された。

 ならばとばかりに今度は成実が声を上げる。

 

「でも、間者が喋るのを待っていたら、それこそ冬になっちゃうよ」

 

 冬越えは名生城で行うか、中新田城で行うか。村上寺まで来て中新田城に退くのは追撃のことを考えると避けたい。

 もっとも、成実の場合はただ退きたくないという思いと冬に野宿は嫌だという思いがあるだけだが。

 

「そうなんだよねぇ。どうしたもんかねぇ」

「誰から習ったのですか。その言葉遣い」

「あたしの弟子~」

「(駄目ですな・・・・・・)」

「(駄目だな・・・・・・)」

「(本当に、これで大丈夫でしょうか?)」

 

 呆れた親憲と政宗、常長は官兵衛に気付かれないように溜め息を吐いた。二人共優秀なのは認めるが、言葉遣いだとかは肩の荷が降りた時には抜けている。政宗と常長からすると龍兵衛の真面目なイメージを崩された思いだった。

 第一に今は気を抜いて良い時ではないというツッコミが三人の頭に浮かんできた。

 

「取り敢えず、口を割らせるように努力はしてみようか」

 

 そんな三人をよそに官兵衛は再び家臣を呼ぶと間者を連れ出してある人を連れて来るように命じ、四人にどうすればいいか指示を出し始めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百〇一話 魅せられて

題名忘れてました。すみません


「とうとう氏家が謀反を起こしたみたいだね」

 

 官兵衛は送られてきた書状をぽんと投げるように親憲に渡す。それを読んだ親憲は読み終えると丁寧に火にくべた。

 

「なるようになった。という訳ですね・・・・・・しかし、考えましたね、敢えて、新井田に近付いて氏家の謀反を煽らせるように動かせるとは」

「ま、考えれば、氏家は大崎家への忠義は篤いけど主家を守る為に手段を選ばない。新井田は大崎家への忠義よりも自分の権威への欲が強い。情報通りなら上手く行くと思ってたよ。怖いのは葛西だけど、どう?」

 

 褒め称えるような口振りで官兵衛を立てる親憲に満更でもない様子の官兵衛だが、決して浮かれるようなことはない。

 大崎の情報を重点的に調べていた為に葛西は疎かになっていたことは否めない。

 

「葛西家の重臣である大原という方を中心に名生城へ援軍を派遣するべきと主張している派閥と同じく重臣の岩淵という方を中心に新たに斯波と盟を結び、援軍を頼寺池城まで退くことを主張する派閥に割れているようです」

 

「また派閥か・・・・・・」という心の声がだだ漏れな溜め息が官兵衛の口からこぼれる。親憲も同情するような苦笑いを浮かべて同じ思いだという視線を送る。

 全くの無警戒だったという訳ではないが、突然長江と共に伊達領に急襲してくる可能性も考えられる。

 しばらく揉めていれば、大崎を攻めても葛西は動く可能性が低くなる。しかし、それは上杉が有利であるからこそ出てくる慎重論であって、名生城を落とせずに冬を越してしまうと葛西の重臣一派も考えを改める可能性もある。

 

「これで早く城を落とすようにしないといけないのか」

「命を受けた以上、やるしかありませんから」

 

 お互いに肩をすくめ合うと陣幕の外に出る。

 晩秋の風が官兵衛の身に染みる。冬前に解決するのが目標だったとはいえ、万が一に備えて冬の準備は整えてきた。それでも、東北の冬はその上を行く。

 一方、親憲は平気そうに兵達に声を掛けて慰労を始めている。見れば、伊達や蘆名の面々も同様に座って楽しそうに話している。

 中国地方で生まれ育ち、美濃で暮らしていて、美濃よりも北に行ったことが無い官兵衛だけが風に吹かれて思いっ切り寒がっていた。

 

「黒田殿ー何をしているのですか? 行きますよー」

「分かってるよ! 今行く!」

 

 手に息を吹きかけて親憲の後を追う。

 彼女達がいる村上寺からは名生城北側を見ることが出来る。

 他にも見渡すと既に作物は収穫済みの田畑が広がっている。

 城内では吉継謀反の報告で蜂の巣をつついたような大騒ぎになっているだろう。上手く行ったことは確かである。後は名生城を落とす戦略と戦術を考えるのみ。

 官兵衛は地形を頭の中で整理し始め、頭を最大限に回転させ始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 名生城は江合川の西岸の河岸段丘の微高地に築かれている。大館・内館・北館・小館・軍議評定所丸などから空堀と土塁で区画された曲輪群で構成されている。

 北には敵が襲来した際に堀に水を入れ込む為の水門も用意されており、川の利用した要害とも言える。

 

「この季節じゃなかったら川から泳いで一気に本丸を夜襲っていう手もあったんだけど、そんなことしたらあたしが殺されるね」

 

 名生城を包囲して三日目、まだまだ始まったばかりとはいえ、速攻を重視する上杉にとって一日が過ぎることも三日、四日過ぎたぐらいに感じる。

 

「何だったら私が言って来ようか。官兵衛が兵達に川を泳げ、さもなければ、斬ると言っていたとな」

「止めて、どの道あたしが殺されることに変わりないじゃん。というか、一言余計だって」

 

 村上寺に置かれた本陣の陣幕では官兵衛と政宗の声が響いている。形上の軍議が終わり「気分的に」と政宗が残った。一応成実も最初の方はいたが、城攻めの策についてという言葉が出てきた途端、難しい話になると察知したのか兵の慰労へと向かった親憲の背中を追い掛けて行ったきり帰って来ない。

 官兵衛の言う通り冬も間近に迫り、既に収穫も場所によっては始まっていて兵の不満も溜まっている上に、冬間近の冷たい水の中を泳げと命令を下せば、不満が怒りに変わってしまう。

 

「まぁ、兵達を泳がせることは止めて、まずは確実に地固めだな。眼前の評定所丸と小館を落とし、そこから本丸を落とす。これで良いか?」

「いや、将の動揺は兵にも及びかねないからといって、それは危険だよ。大崎内部の火種がどれほどくすぶろうとしているのかは分からないけど、たぶん、外側程抵抗は強いと思うよ」

 

 官兵衛の言わんとすることに合点がいったのか、政宗は一度頷いた。

 

「なるほど、外に出された者程、隆景と対立していた者ということか。ならば、こちらに寝返るよう調略してみてはどうか?」

「もうやってるよ。返事はまだだけど」

「さすがに手回しが早いな」

 

 政宗はそう言うが、不満そうに机に顎を乗せる官兵衛を見ると調略は今一つ上手く行っていないことが分かる。 

 隆景を寵愛しているからといって、大崎義隆に愛想が尽きた訳ではない。隆景と対立しているからといって、大崎家への忠義が無くなった訳ではない。

 大方その辺だろうと思い、政宗が聞くと「分かってるなら聞かないでよ~」と「自分いらいらしてます」と言っているような返事が官兵衛から返ってきた。

 

「大崎義隆に降伏勧告は出したのか?」

「おとといきやがれだって」

「ならば、総攻撃を仕掛けるしかないだろう。おそらく、二週間もすればもう雪が降ってくる。この辺りの地形は湿地が多い。身動きが取れなければ、大崎が城から出てくるぞ」

「まだ返事返ってこない所が何個かあるからそれだけでも待とう」

「時間が無いというのにか?」

「文句あんなら水原さんに言って」

 

 軍師らしからぬのんびりな発言に目尻を上げた政宗の口から今度は溜め息がこぼれる。官兵衛もさっさと城攻めに切り換えたいと思っているが、親憲が返事を待った方が良いと言っている為に出来ないのだ。

 総大将である以上、最終決定権は親憲にある。何か考えがあるのかもしれないが、冬に近付いてきているにもかかわらず、長丁場は早めに終わらせなければならない。

 

「そういえば、船はどうだ? あれなら兵達から不満は出ないだろう」

「それがね、古川城から戻っていた黒川達が漁船とかも全部壊しちゃったみたいでさ。筏は作っているんだけど、季節が季節なだけに材料が足りなくてなかなか出来ないんだよ」

「今、どれほど出来ている?」

「ざっと百人ぐらいが乗れるぐらい」

 

 それでは夜襲が上手く行っても本隊との合流を果たす前に全滅する危険がある。冬を越えれば葛西と戦うというのにそのような危険な策は取れない。

 やはり、正攻法を取らなければ勝てない。

 

「明日にでも出陣出来るようにしておこうか?」

「うん、それから例のことだけど、上手く行ってる?」

「ああ、心配するな。それに、官兵衛もこの少ない時間で攻めなかったことが意味のないようにする」

 

 笑い合い、政宗と官兵衛は勝利を確信出来るような盤石な体勢を整えることを誓った。

 全ては軍神と呼ばれる越後の竜の天下の為に。

 

 

 

 

 

「うーん・・・・・・」

 

 政宗が伊達軍が陣取る場所に戻り、一番に目に入ったのは先に戻っていた成実であった。彼女は渋い顔をして唸っていた。

 

「どうした? あまり気を使い過ぎると身体に障るぞ」

「そんなこと言っても梵天丸も分かってるでしょ? このままだったら凍え死んじゃうよ」

 

 今はまだ秋だから我慢出来る。しかし、これが冬になればどうしようもなく寒くなって身体が持たない。水の手を絶つことも出来ない為、早く攻めなければ、勝つどころか自然のせいで負けてしまうかもしれない。

 

「まったく、戦に関しては頭が良いんだがな」

「どういう意味ー?」

「まぁ、その頭を使うのも今日で最後だ」

「え、じゃあ・・・・・・」

 

 嫌味を聞いてじとっとした成実目が一瞬できらっと期待を込めた目に変わる。その瞳には政宗のにやりとした笑みが映る。

 

「おそらく、今日か明日にも軍議が開かれる。ちゃんと遅れずに来いよ」

「了解ー♪」

 

 そうと決まれば準備運動だ。早速、成実は自分の槍を持って鍛練を始めた。

 この時、政宗は大事なことを言うのを忘れていたことに気付いたが、後にしようと心で思った。今の成実に声を掛けても後にしてくれと返されそうだったからだ。

 

「やれやれ、元気なことだ」

 

 呆れているように見せるが、政宗も実際は心が躍っていた。

 大崎とは曾祖父の代から因縁が深い。今までは戦ったり、和を結んだりと立場を変え続けていたが、全て終わる。

 それだけではない。この戦が冬に差し掛かる可能性があることは、政宗は知っていた。兵は民であり、国を支える食料を作っている。かれらを田畑に戻さずに戦に連れて行くことに政宗は当初、難色を示していた。

 もちろん、謙信もその可能性を重々承知していた。

 

「古今東西、苦しまずに天下を取った者はいない。必ず一度は敗北を味わったり、危機に陥ったりする。私は危機を何度も味わってきたが、敗北はまだ味わっていない。もしかしたら、私にはいずれ見えない敗北がやってくるのかもしれないな」

 

 政宗が難色を示したその日の夜、謙信は政宗を一人呼んでそう話した。

 葛西・大崎は勝てない相手ではない。だが、たとえ勝てたとしても謙信には思うような勝ち方ではなかったら負けであるということだ。

 もちろん、戦は人と人が生死を競って争い合うもの。普通は思い通りに上手く行くことの方が珍しいぐらいだ。

 それでも、謙信にとって今回は上手く行かなければ敗北なのだ。それは収穫前に敵を倒すことが出来なかった今を意味している。

 つまり、謙信はわざと己を戒める為にこの戦を望んだ。そして、負けた。予想通りに負けたのだ。

 以前、春日山で政宗は謙信に問うた。

 

「何故に民をも巻き込んで負けようとするのか?」

「一度、民が私を本当にどう思っているのか、聞いてみたくてな」

 

 紛れもない本心で語った謙信の言葉は政宗にとって衝撃を与えた。民の笑顔を守る為に戦い続けている謙信が民を試す為に戦う。

 己を天下統一の為に気を引き締める為、己が本当に天下統一を果たす価値ある人間が試す為、わざと民に嫌われることを一度故意に行う。

 だが、自然と怒りは湧いてこなかった。逆に政宗は問いていた。

 

「まさか、軍師達が反対の意を示していたという越中攻めも敢えて葛西・大崎を攻める際に素早く勝利を得ない為に?」

「まさか、私は親憲という将と官兵衛という軍師。そして、伊達・蘆名の素晴らしい将達に期待しているからこそ十分だと判断したまで・・・・・・しかし、もうこのようなことは止めたい」

 

 この発言の真偽は分からない。最後にぽつりと独り言のように語った一言は紛れもない本音だと政宗は確信した。

 民の笑顔の為でなく己の権威を計る為の行いを一度だけ行おうと目の前の人物はしている。本来ならば止めるべきだが、怒り同様に止める気にならなかった。

 己を厳しい方向へと敢えて導こうとする謙信に逆に魅せられた。

 不意に政宗の頭の中で己も過ちを犯したことがあるかという問いが出てきた。答えは否である。

 あるとすれば、母との仲が己の右目のことで悪くなったことぐらい。だが、家中の中でも家族の部類に入る。

 国を巻き込んでまで、敢えて厳しい状況に追い込むことは政宗には出来る勇気が無い。そもそも、伊達と上杉とでは明らかに違う点があった。

 財力である。越後は佐渡金山と青苧座を手中に収めている以外にも他国の鉱山を擁する郡を直轄としている。

 政宗は他家の者の為に見ることは出来ないが、上杉の蔵には大層な金銀銅が溢れているらしい。事実、上杉が二年前まで続けて出征が出来たのもこの財力によるものだと聞いている。

 出来る状況だからこそ出来ることを謙信はしようとしているだけに過ぎないが、それでも政宗は民を苦しませることに手を出すと思うと眉間に皺が寄る。

 

「(分かった。この方と私の違いが・・・・・・)」

 

 敵に容赦ないところがある政宗だが、心から信を置ける成実達や民に対して残酷になれるのは、たとえ一度だけでも出来ないかもしれない。

 自然と口から疑問が漏れていた。

 

「私は、甘い。のか・・・・・・?」

「いや、そんなことはない」

 

 謙信はきっぱりと政宗の疑問を斬り捨てた。そして、謙信は持っていた琵琶を演奏し始めた。

 政宗には何となく音色に怒りが混じっている気がした。おそらく、己への戒めと共に民を巻き込まなければならない己の弱さへの怒りだろう。

 しかし、弱さを謙虚に受け止められる謙信は弱くない。弱さから逃れようとせずに受け入れられるだけでも素晴らしい器と言える。

 そう考えていると、政宗は自然と頭を下げて聞いていた。しばらくすると演奏は終わり、謙信は悲しそうに秋の満月を眺め、一つ溜め息をついた。

 悲しそうにしている理由は分からない。民を巻き込むようになるかもしれない申し訳なさか、他に不安なことがあるのか。政宗には察することは出来なかった。

 しばらくすると謙信はゆっくりと身体を動かし、政宗の方を向く。政宗もそれに釣られるように謙信へと身体を向ける。聞く体勢が整ったのを見ると謙信は開き直ったように口を開いた。

 

「天下を目指す為にやらねばならないと思ったからこそ、私だけがやる。政宗殿は別に必要ない。だが・・・・・・もし、私の天下が揺らいだ時、その道を通るのはお前かもしれないな」

 

 

 

 

 

 

「政宗様、水原様が今一度話したいことがあるということで、本陣に来るようにとのことです」

「・・・・・・」

「政宗様?」

「ん? ああ、悪い。考えごとをしていた。それで?」

 

 もう一度、左月は政宗に要件を言う。「そうか」と呟くように言うと政宗は左月の前から辞そうとするが、訝しく思った左月が政宗を言葉にて引き止める。

 

「如何なされた。このような場で考えごとなど。政宗様らしくありませぬな」

「いや、ちょっとしたことだ。気にすることはない。じゃあ、またしばらくここを頼む」

 

 そう言うと政宗は逃げるようにその場を後にしてしまった。

 その背中を左月は珍しいものを見たような視線で追い掛けた。

 

 

 

 

 

 親憲達の下に到着した時には政宗の中にあった焦りは無くなっていた。いつものように威風堂々とした佇まいで陣幕へと入ると親憲が頭を下げてきた。

 

「何度も申し訳ありません。どうしても政宗殿にお伝えしなければならないことがありまして」

「気にすることはない。決戦が近い今、臨機応変な対応が必要になるからな」 

 

 明日にも戦が始まる。軍議前に予め伊達軍は城攻めの先手を任されていると政宗は言われている為、親憲と官兵衛とは綿密に連絡を取り合うようにしている。

 

「実は古川城、柿崎殿の降伏要請に応じ、開城し、援軍がこちらに向かっている模様です」

「将無き城は脆い。これで後ろの心配は消えたな。さて、これからどうするか」

「その為の軍師です。黒田殿に任せるとしましょう」

 

 考え込むようにおとがいに手を当てる政宗に向かって親憲は悪戯っぽい笑みを浮かべる。それに見た政宗も同様に官兵衛を見て笑った。

 無言で抗議の姿勢をぶつける官兵衛だが、親憲と政宗は相変わらず笑って誤魔化してしまう。決して丸投げしている訳ではない。策を立てることに命を賭している人間がいる以上は、その人に任せるのが良いのだ。

 

「体裁の良いこと言って、本当は思い付かないだけでしょ? ・・・・・・ちょっと! 逃げるな!」

 

 二人は無言で振り向かずにさっさと逃げて行ってしまった。

 無責任なやり方に溜め息が漏れ出てしまうのは当然のこと。しかし、ここまで来たらこの退くに退けない状況を有利にしてみせることこそが官兵衛の仕事である。

 上杉の中から背後を固める重要な戦を任されたのだ。一番の新参者でありながら、実力を買われて任された奥羽方面の軍師としての職務を全うする覚悟は出来ている。

 やれやれと思いながら二人の背中に声を掛けた。

 

「分かったよ、言うよ。言えば良いんでしょ?」

「うむ、人は素直が一番だ」

「ひねくれた人に言われたくないっての・・・・・・」

「何か言ったか?」

「別に、水原さんも乗らないでよ」

「いや失礼、これも前田殿の悪戯心の影響です。某のせいではありませんよ」

「(なに無茶苦茶なこと言ってんの・・・・・・)」

 

 揃いも揃って腹が立つ。別に嫌いになる訳ではないが、からかわれるのは好きではない。

 心に黒いものを抱えながら官兵衛は伊達軍が執るべき戦略を説明し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日の夜は暗かった。日の入りからかなり経った時間、亥の刻辺りだろうか。上杉軍先手の伊達軍の『竹に雀』の旗印がたなびいている。

 寒い夜をさらに寒くするように風は音を立て、砂埃を上げるような強さで人の身体の芯を突き刺すように吹き荒れている。これには寒さに強い伊達軍も気が滅入る。

 その中を粛々と政宗は先頭を馬に跨がっていた。目の前をしっかりと見据え、城が近くなっても彼女は決して表情を変えずに進んで行く。 

 いよいよ名生城、軍議評定丸を眼前に捉えた。そこで政宗は馬頭を後ろに控える将兵達へと向きを変えた。

 

「皆、知っていると思うが、もう冬が近い。もし今日、城を落とせなければ我らは凍え死ぬか、大崎に討たれるか、二つに一つだ」

 

 自ずと兵達の表情が鬼気迫るものへと変わる。かれらの中に政宗の言葉で動揺を示す者はいない。

 頼もしいと思うと同時に戦況を皆がよく分かってくれていることに感謝する。

 

「それから逃れる手はただ一つ・・・・・・あの城を落とすだけだ!」

『おおおぉぉぉ!!』

 

 指を差すと将兵達は各々自身が持っている刀や槍を掲げた。冬に怯える者も死に怯える者もいない。政宗も謙信同様に将兵から絶大な信頼を置かれている。

 そのことを確信することが出来た。ならば、かれらと共に攻めるのみ。

 政宗はゆっくりと鞘から刀を抜くと天高く叫んだ。

 

「行くぞ、我らの手で城を落とす!! 一番乗りは軍功第一だ!!」

『おおおおぉぉぉぉ!!!』

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百〇二話 灯りが欲しい

「義隆様! 義隆様は何処に!?」

 

 未だに日の昇らぬ時刻、細かく言えば、日の出までの時間を数えるよりも日の入りが終わった時間を数える方が早い時刻。

 新井田隆景の声が名生城本丸に響き渡る。周りではどたばたと走り回る音が聞こえ、将兵達が段々と外へ出て行く。

 そして、隆景はようやく本丸の外で義隆の姿を見つけた。ほっとしたと共に疑問が出てきた。

 

「申し上げます! 上杉軍の夜襲です!」

「言われなくても分かっています。早く迎撃しなさい」

「御意。しかし、誰が私よりも早くこのことを知らせに?」

「私が気付きました」

 

 隆景は驚いて義隆を見る。やはり、自身が徐々に大崎の舵を取るようになっているとはいえ、常時戦場の構えを崩していない。やはり、有能な方だと思わず感心してしまう。

 

「何をしているのです。早くあなたも迎え撃ちなさい!」

「しかし、それでは御身は・・・・・・」

「自分の身より、この城の命運が先です。大丈夫です、ここには放牛もいます。落ちれば、我々はもう逃げる場所がありません!」

「・・・・・・分かりました。ご武運を」

 

 去って行く隆景の背中には痛い程に強い視線が刺さっている。しかし、気にしている場合ではない。自分の大崎での権威を守る為には義隆の命は何としてでも守らなければならない。

 命じられた以上、前線の救援に向かわなければならないが、雪崩れ込んできた上杉軍に義隆を討たせる訳にはいかない。

 常長を介して上杉とは義隆は助命するという約束はしてあるので大丈夫だろう。万が一負けたとしても義隆が生きていれば、大崎は自分のものに出来る。

 心に不安が残りながらも隆景は前線に出る為、馬に跨がった。

 

 

 

 

「これで少しは荷が降りますねぇ」

 

 近くに隆景がいると安心するのは確かである。一方で最近の暑苦しい程の隆景のすり寄りには少々辟易としていたことも正直なところだ。

 故に、そう言いながらも義隆の内心は穏やかなものではなかった。隆景はこれからしばらくは上杉軍は包囲に徹して城を攻めることはしないだろうと推測を立てていた。

 義隆もそれをすんなりと認め、四釜隆秀達の速攻に備えて評定丸に主力を配置すべきだという主張を退けた手前、この責任は自分にもある。

 隆景の失策であることは否めない為、彼女に責任を負わせなければならないが、認めた自分も責任を負うべきである。だが、近頃の重臣達の隆景に対する反応が冷ややかなことも薄々感づいていた。

 もし、自分が責任を負えば、また隆景を庇ったと重臣達から思われるかもしれない。

 義隆が彼女を寵愛する理由はただ気が合うから、どうしても友のように接したくなるというただ純粋な心である。

 だが、主君という立場がそれを許さなかった。重臣達から隆景を降格させる為にあることないことを言わされ続けて理解した時には遅かった。

 上杉という脅威がやってきたにもかかわらず、軍事的に信頼を置ける者の一人である氏家吉継は謀反を起こしてしまい、南条隆信も中新田城が落ちてから一切の行方が分からないまま、おそらく残党狩りにあって死んだのだろうと義隆は判断している。

 頼りになるのは隆秀と隆景の他に中目隆継、一栗放牛・高春の二人、一迫隆真、宮崎隆親といったあたり、調略の手が伸びている者もいるという噂もあるが、人がいない以上は仕方ない。

 評定丸には隆秀を置いていることだし、すぐに突破されることは無いだろう。

 そう思った矢先のことだった。

 

「申し上げます! 四釜様、上杉と一戦も交えずに撤退!」

 

 否応なしに周辺にいた兵達に動揺が走る。報告を持ち込んで来た兵も動揺のあまり顔が真っ青になって、義隆の返答を待っている。

 

「高春に何としてでも小館を死守するように伝えて下さい。三の丸の隆信にも同じように伝令をお願いします」

 

 一方の義隆は自然と何故か怒りも動揺もすることがなかった。自分の中で隆景を友として扱っていたことに不満を持っていた老臣達がいたことも今となっては理解出来る。

 彼らから見ると若い隆景を重んじていたことに嫉妬心を抱いていたのだろう。吉継のように謀反を起こさずとも、心の内は計り知れないものがあったに違いない。

 吉継のように堅い人間はどうしても苦手だった。隆景のように親しみを持って接してくれる者を義隆はただ欲していただけだった。

 かつて奥州探題の職を幕府から任じられた大崎の重みを軽くする為に友を欲していただけだった。しかし、隆景に発した愚痴は彼女の父にとって政敵を排除する良いきっかけになったのだろう。

 思い返してみれば、隆景の父、里見隆成は讒言の矛先を徐々に絞っていたようにも感じられた。おそらく、義隆が隆景に、隆景が隆成に言ったことを良いことに義隆自身に不満を抱いているのではないかということを言ってきたに違いない。

 今となっては不覚の極みだが、隆成は権力を掴む為に娘をも利用していたのだ。彼がいない今、それがよく分かる。

 

「申し上げます。丸山が上杉の手に落ちました!」

「それは真か!?」

 

 義隆の代わりに声を上げたのは白髪だけの頭をして腰が少々曲がっている老人、一栗放牛。齢は定かではないが、七十を越えて既に八十近く、もう隠居しても罰は当たらない筈だが、戦場を華としている為に未だに戦に出ている。

 

「丸山には一迫がいた筈、奴はどうした?」

「上杉の調略にて、寝返った模様。現在、岩出川城に向かった里見様の隊に攻めかかっている由」

「若造が・・・・・・忠義を忘れたか!?」

「お、落ち着いて下さい。今はこの城を守らなければ駄目です!」

 

 ここにいない者を責めても何の意味もなさないことは放牛も分かっている。しかし、当たらずにはいられない。

 隆秀が抗戦を諦めた為にしばらく崩れない筈の均衡が崩れてしまい、上杉が攻める為の拠点を得たのだから。そこに追い討ちをかけるような報告に怒りが沸いてしまうのは人としての心理。

 

「申し訳ございませぬ。年甲斐も無いことをしました」

「気にしないで下さい。それよりもこの場をどうするべきでしょうか・・・・・・」

 

 評定丸が落ちた以上、小館と三の丸だけが敵を食い止める為に必要な砦。有能な晴氏と高春が二つの拠点を守っている為にしばらくは落ちることはない。

 怖いのは奇襲だが、二の丸には隆親が向かっている為、警戒は怠っていない。

 朝まで保てば、上杉は撤退してくれる筈。しかし、流れは変わることはない。

 

「申し上げます。川より多数の敵が!」

「数は、どれぐらいですか?」

「およそ、千以上かと・・・・・・」

「何と・・・・・・まだ上杉はそれほどまでの兵を隠しておったのか!」

 

 放牛は自分の責任だと言わんばかりに眉間に皺を寄せ、そこに手を当てる。誰のせいでもない。川から攻撃されることは考えていたが、間者からは全くそのような報告が無かった。

 考えるだに無駄と思っていたと上杉では言っていたことを真に受けたのは皆であり、放牛にしろ義隆すら分かっていなかったことである。

 このままでは川に近い小館には混乱が広がることは必至。たとえ勇将の高春でも隊を統制するのは難しいだろう。

 

「義隆様、ここはこの老骨をお使い下さい。私が孫に代わり小館に向かい、前線を整えて参ります」

「いや、でも・・・・・・」

 

 高春と放牛、年の功から放牛は孫よりも配下からの信頼も篤く、統制にも優れている。現実的に考えるとここは放牛の方が高春よりも前に出た方が戦いは維持することが出来る。

 もちろん間に合えばという難しい話になってくるが、放牛の武人としての最期に見せるべき巡り巡った意地の見せどころを逃すことは彼の心が許さない。

 義隆は、彼の眼にはそう語られているように見えた。

 

「・・・・・・分かりました。よろしくお願いします」

「御意、心より感謝申し上げます。すぐ、高春をこちらに向かわせます故に、義隆様、くれぐれも早まりなさるな」

「死に行くような言い方は、止めて下さい・・・・・・」

「・・・・・・では」

 

 謝ることは出来ない。何故なら人間として七十年以上生きてきた人生に悔いはない。最期に大きな勢力を前に決して忠義を曲げずに逝ける素晴らしさを心は既に噛み締めて泣いているのだから。

 

「我らはこれより小館に向かい、敵を食い止める! 上杉の成り上がりの木っ端共に我ら名門の維持を見せてやろうぞ!」

 

 普通ならば義隆が言わねばならない台詞を代弁しているところ。放牛は無礼とは思わない。これからその罰を受ける代わりに死地へと向かう。近い終わりはすぐそこに見え始めた。 

 

「本当に、ごめんなさい・・・・・・」

 

 放牛の死を招いたのは自身の軽率さ故に。隆成の娘を友としていたばかりに。

 俯いた義隆がふと顔を上げるとそれを合図にしたように灯りが徐々に小館から上がり出した。ゆらりゆらりと空に上がり、赤い粉を散らして義隆に向かってくる。

 川に挟まれている為にこちらに来ることはない。しかし、義隆には非常に近くまでその灯りが来ているように見えた。

 包まれることに恐怖はない。しかし、当主として最期まで皆を守ることが優先である。足が止まり、義隆は高春が到着するまでただ呆然と灯りを見続けていた。

 だが、義隆は家中の火種は隆景ではなく父の隆成だと考えていた。それこそが義隆自身、人生最大の不覚だったと言えるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 時を少し遡る。

 名生城から一通の書状が届いたのは、親憲が兵の慰労に向かっている最中、官兵衛と談笑していた政宗が笑いを消して立ち上がろうとした時である。

 官兵衛は素早く書状を受け取り、中を読み始めると意外だというように驚いた顔を浮かべたが、すぐに元の真剣な表情に戻り、何度も何度も読み返し、最後に兵へ顔を向けた。

 

「この中に書かれていることは本当?」

「間違いないと申しております」

「ふーん・・・・・・」

 

 官兵衛が外に目をやると相変わらず風が吹き、田畑が殺風景な眺めを作っている。左右にも目をやると最後は空に目をやった。

 

「昨日の夜は、月が出ていなかったよね?」

「ああ、確かに新月だったな」

 

 政宗の言葉を聞き「ふむ・・・・・・」と頷くと官兵衛は、今度は立ち上がって陣幕の外に出る。空をしばらく眺めると腕を組み、少々考えごとをする素振りをする。腕を解くと兵の方向を向いた。 

 

「『了解した』そう伝えて」

「はっ」

 

 去って行く兵がいなくなるのを見計らい、周囲に人がいないことを確認すると官兵衛は政宗の耳元で囁き始めた。

 

「四釜がこちらに寝返ると言ってきたよ」

「何!? ・・・・・・あの四釜隆秀がか?」

 

 最初は思わずにという感じで普段は冷静な政宗も大声を上げてしまったが、すぐに小声になって官兵衛の持つ書状を見る。

 

「確かに四釜の書状だ。しかし、あの南条隆信と並ぶ大崎家きっての勇将がこちらに寝返るか?」

 

 四釜隆秀は大崎が衰退し始めた時から大崎家に仕え、知勇兼備の将としてよく義隆を支えてきた信頼の篤い人物だと政宗は聞いている。

 隆景が重用されるようになった今でも待遇は変わらず、自身の地位を確立している人物である。

 

「この書状、どう思う?」

「うーん、聞いたことあっても見たことない人だから・・・・・・何とも言えないね」

 

 待遇には満足している筈だし、忠義ある人物という噂も聞いている。調略を進めているとはいえ、全く気にしていなかったところからやってきた寝返りを約束する書状に疑うなと言う方が難しい。

 だが、官兵衛からするとどちらでも良かった。寝返るにしろ謀略であるにしろ、動きそうになかった戦況が動く良いきっかけが出来た。

 

「水原様から伝令、一迫隆真の調略に成功したとのこと」

「・・・・・・何か上手く行き過ぎている気がする」

 

 一迫隆真は栗原郡真坂城の城主で隆景とは対立する間柄の重臣である。目立たないが、伊豆守という受領名を持つ大崎の中でも席次は上の方。

 今、隆真は謀反を起こした岩出山城と名生城を結ぶ位置にある丸山城にいる。ここを取れば名生城は丸裸も同然。吉継の討伐に向かった部隊も孤立する。

 先述の対立に目を付け、官兵衛が寝返りを促していた大崎家臣の中で最後まで返事を返して来なかった人物というのは隆真である。

 上手く行ったのは良いが、上手く行き過ぎて調子に乗ると必ずそこには罠がある。

 

「ああ、ここは慎重に行くべきだな」

「だけど、時間もない。悠長に構えている状態じゃないんだよねぇ」

 

 政宗自身も後二週間程度で冬が来ると言っていた手前、官兵衛の言う通り、時間の無いことは重々承知している。

 

「一迫は間違いないだろうけど、四釜は分からない。乗るか乗らないか。寝返りが本当なのか策略なのか。いずれにしてもどちらでも勝てるようにしないとね」

「精々励めよ」

「そこは『期待している』とか言うところじゃない?」

 

 何も言わずに政宗は鼻で笑った。話し相手がいつも相手をしている成実のようにやいのやいとうるさくなるのをうっかり失念していたことを後悔することになるなどと思わず。

 

 

 

 

 

 

 

 

「小館と三の丸、どちらか一方でも落とせば、大崎の前線は崩れる。攻撃をより強いものにさせて」

 

 官兵衛は親憲と政宗の隣で全体の指揮を執っている。思ったよりも頑強に抵抗する大崎に少しばかり敵を侮っていたかと思う時もあったが、川からの陽動が名生城に伝わったのだろうと思うと川に近い小館から動揺が見られた。

 しばらくすると小館が落ちたという知らせが入り、官兵衛は内心拳を握り締めた。

 

「やっぱり、筏使って正解だっだねぇ」

 

 官兵衛はすこぶるご機嫌である。一旦は止めようとしていた川からの奇襲だが、新月の夜を考慮すると篝火を焚かせて誤魔化すぐらいのことは出来るのではないかと思い、急いで五百人ばかり乗れるように作らせた。

 親憲や政宗から助言があった訳ではなく、自分で隆秀から来た書状を受け取った時に思い付いた策である。策をめぐらせることが大好きな官兵衛の機嫌が良くならない訳がない。

 

「川からは攻めないのか?」

「臨機応変に攻められたら行って良いって蘆名さんには言っておいた」

 

 乗れる人が増えたとはいえ、五百である。状況判断に長けなおかつ武勇に秀でている盛隆に陽動と奇襲の策を任せるのはうってつけだっだ。

 陣を構えている所から川の様子は見えないが、それなりに効果はあったと思いたい。 

 

「それにしても、本当に寝返るとはね」

「四釜の思惑は分からないが、大崎に愛想がついたのか、新井田を排する為か。二つに一つだな」

 

 上手く行き過ぎているということにも乗っかってみるのも悪くない気がした。しかし、今回は特別である。

 大崎には新井田隆景という火種も抱えていることだし、愛想が尽きたということもあるのだろう。

 

「申し上げます。三の丸の館にて敵が同士討ちを始めた模様」

「そりゃあまた・・・・・・」

 

 官兵衛には何と言おうか検討が付かない。この夜襲が始まった時には同士討ちなど起きなかったにもかかわらず、何故今になって起こるのか。はっきり言って意味不明だ。

 

「成実様より報告。黒川晴氏及び新井田隆景を捕らえたとのこと」

 

 その報告だけで官兵衛は納得した。大方、小館が落ちたことで三の丸は保たないと考えた晴氏と三の丸に救援に来た隆景の間で揉めたのだろう。

 自分の権力が欲しい輩は決して前に出ようとはしない。間違いなく三の丸を最初に守っていたのは晴氏である。

 

「これで後は、二の丸だけか・・・・・・何とも呆気ない気がするな」

「上に立つ者が揉めていれば、下も仲が深まる訳がありません。大崎義隆は少し家臣に恵まれなかったのです」

 

「少し」ではなく「全く」と言わないのは親憲の敵に対するそれなりの思いやりだ。

 

「万が一のことも考えて小館に兵を残しておこう。二の丸に目が行くと間違いなくあたし達の陣が手薄になる」

 

 城内では成実を筆頭に勇猛な将兵達が所狭しと暴れ回っているという報告が上がっている。暴れ回っている時に隙が出来てしまうこともよくあることだ。

 

 

「申し上げます。小館にて鬼庭左月様、敵将一栗放牛を討ち取った由」

「お見事ですな。黒田殿」

「一栗放牛も大層な老人て聞いてたけど、左月殿が勝ったか・・・・・・へぇ、やるもんだねぇ。どこの爺も」

「・・・・・・それは、某のことですか?」

「いやいや、水原殿はまだ若いさ」

 

 凹みかけた親憲を慰める政宗。その二人をよそにもっと年老いていた筈の人物を官兵衛は頭の中で思い出していた。

 親友と違って元気過ぎて馬から落ちても死にはしないだろう暴れ馬のような二人。馬に馬が乗っている姿など想像も出来ないが、その例えがあの二人にはぴったりだ。心はともかく、身体は心配するだけでも無駄だと思い、気にするまでもないとすぐに頭から外す。

 

「二の丸、陥落寸前!」

 

 親憲と政宗も表情から少しばかり緊張感が取れた。だが、表情に出すことはしない。相変わらず真剣な表情を崩さずに周りに「まだ勝っていない」と伝えている。

 だが、内心は官兵衛を含めて勝利を確信した歓喜が出来ている。

 冬に帰ることは出来ない。しかし、余りある勝利は得ることが出来そうだ。後は謙信が上手く民を導いてくれることを期待するだけ。

 

「もういいかな・・・・・・後は仕上げだね。二の丸はもう良い、適当に当たって挟撃されないように注意を怠るな! 本丸に火を放て! 一気に決着を付ける。大崎へ絶望与えよ!」

 

 朝日はまだ昇りそうにない。しかし、朝日と見間違える程に紅蓮の炎は高く上がった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百〇三話 花の素顔

 名生城の焼け跡に残った本丸には大崎家の内館・小館で捕らえられた大崎の捕虜の確認と本丸に残った焼けた木材の整理が進められていた。 

 陥落の三日後。名生城の修復と冬越えの準備の指揮は親憲の下、古川から二日遅れで合流した景家・繁長の他、伊達や蘆名らの者で行われている。

 

「しかし、政宗殿達はよく働きますなぁ」

「父君の輝宗様が政宗様へ師として預けた坊主が『国を治めるならば民を学べ』と言うような方でしてな。次期当主様に鋤や鍬を持たせて農業をやらせていたのだ。おかげで自分の家臣達にも農業をやらせたり、厨で自分で料理を作ったりと大変なのだよ」

 

 そこで二人は話の合間というように茶をすする。お互いの視線は気が遠くなっているようにどこかを見つめている。

 

「良いことではありませんか。戦場で先頭に立って、勝手に敵本陣にまで迷い込んで、敵の大将と一騎打ちをして、危うく討たれそうになったところを家臣に助けられて、一番最後に帰って来るよりかはましです」

「それはまた大変だったな」 

「ええ、お互いに」

 

 親憲と左月は互いに休憩を取っている間、未だに兵と共に働いて汗を流している政宗を眺めながら話し合いながらにお互いの家の愚痴を言って笑い合っている。

 今でこそ笑い話になるが、川中島のあれには随分親憲も内心焦っていたし、謙信から聞いて驚いていたものだ。誰も気付いていなかったが、それは彼の性格もある為に仕方ないことなので割愛する。 

 また、左月の話を聞いていると親憲も政宗に関して思い当たる節が色々とあるような気がした。

 ふらっと見てみると春日山の厨を借りて女中と一緒に色々と料理を作っていたり、よく農業の手伝いに行く龍兵衛に同行を願ったり。

 一応は名代なのであまり外に出て行かれても困るのだが、上杉の面々からすると「楽しそうだから別にいいか」という感じで受け入れられているので政宗も自由にさせてもらっている。

 

「そんなことで大丈夫なのか?」

「まぁ、何もやましいことはありませんし」

 

 そのことを言うと逆に左月から心配されてしまったが、親憲も自由にさせてやっている人達の一員なのであまり気にしていないのが現状であったりする。

 

「新年の挨拶で向かった時に思ったが、春日山だけは平和な風が吹いている。羨ましい限りぞ」

「いやいや、それでは越後だけが平和というように思われてしまいます。それに伊達殿の領地も随分と良きものではありませんか?」 

「何を言う。上杉殿に比べたら我らなどまだまだ」

「いえいえ、伊達殿も・・・・・・」

「おーい、そこのご老体達、そろそろ働いてくれないか?」

 

 端からちらほらと聞いていた政宗がこれ以上話させていると遠慮合戦になると思い、話の腰を折る。

 

「某は四十を過ぎていますけど、そこまで老けていますか?」

「いや・・・・・・気にすることはない。まだまだ我らは健在ぞ」

「だと、よろしいのですが・・・・・・」

 

 地味に結構凹んだ二人はお互いに溜め息を吐きながらとぼとぼと仕事に戻った。

 

「まったく、話していることが爺臭いんだから・・・・・・」

 

 ぼやく政宗の手には焼け落ちた本丸から燃えることなく助かった資料が抱えられている。

 大崎の人口や土地ごとの年貢の収穫量、城下町の商人の売り上げがどれほどのものかを記された重要な資料ばかりだ。

 本丸が焼けた際に一緒に灰になった資料もあるが、幸いにもかなりのものが残った。

 大崎地方は山間部地域と古川から鹿島台にかけての平野部では気候・気温・降雪量に大きな違いがある。

 名生城のある土地は山間部と平野部の間にある為に冬の間に視察などを行うことは可能だが、山間部の栗原郡などはそうはいかない。 

 視察前に資料に目を通しておくことによってスムーズな領地経営の再開が出来、後々に一から大崎の領地を視察して最初からということにはならず、さほど時間を掛けることなく今後の領地経営を行うことが出来るだろう。

 東北の征伐は二、三年以内には終わるだろう。その後は上杉の下で行える野望を果たすのみ。

 

 

 

 

 

 

 大崎の家臣達の明暗ははっきりと分かれた。四釜隆秀は降伏。黒川晴氏は政宗は最初は処刑しようと考えたが、留守政景からの陳情を無碍にすることも出来ず、伊達への帰参を許された。

 宮崎隆親と一栗高春は行方不明。残党狩りにも引っかからないところを見るとおそらく奥羽山脈に逃げ込んだのだろうと政宗は主張した。

 しかし、冬も間近の奥羽山脈に入り込んで迷ってしまえば生きることは奇跡に近い。官兵衛は万が一のことを考えてさらに細かく調べさせるように指示を出した。

 官兵衛は必ず雪が降る前に捕らえるようにと厳命を親憲の名義で下した。

 取り逃がせば、上杉が南や西へ向かった際に下手に一揆を起こされることになる。怖いのは突然、蜂起を起こされること。上杉に降伏せずにどこかへ逃げるということは再起を狙っていると考えるのが妥当である。

 散り散りになった大崎の重臣達の中でも唯一捕らえられた将に官兵衛は会おうとしていた。

 

「ご苦労さま。あんたには感謝しているよ」

「ありがとうございます。ですが、少々話が違うのでは?」

「何のこと?」

 

 とぼける官兵衛に新井田隆景は苦笑いなのか失笑なのか分からない笑みを浮かべる。今、隆景は縄でしっかりと縛られ、身動きが出来る状況ではない。故に口でしか訴える手段がない。

 

「私が支倉殿とお話した際、あなた方は氏家の反乱が収まるまで待っていてくれると申しておりました。それどころか氏家の反乱を制圧に向かった我が軍が出陣してすぐにこの城に攻め入った。どういうことです?」

 

 確かに常長は隆景に策を授けた際に時間をやるからその間に吉継を征伐しろ。上杉はそれが終わったら名生城に攻めると言った。

 しかし、実際に上杉が名生城に攻めることは吉継の反乱を終息させてからでは無理である。その時期にはもう冬が訪れ、上杉は中新田城に撤退しなければならない状況になってしまい、留まっても大崎に攻め込まれるのがオチである。

 大崎にとっては利益になる。来春以降、上杉が攻めてくる為に名生城の普請を行う時間が出来て、さらに後背の憂いも除ける。

 しかし、その餌にかじり付いてみれば、結果はたったの数日で名生城陥落という最悪の事態になった。

 睨み付ける隆景の痛い視線を何ともないように官兵衛は受け流す。

 

「さぁ、何のこと? あたしはそんなことを言うように支倉殿に指示を出してはいない。新井田殿の聞き間違えでは?」

「いえいえ、間違いなくそう支倉殿は申しておりましたよ。何なら、支倉殿にご確認をさせては?」

「生憎、支倉殿は古川城に向かい、後続の部隊との連絡を取りに向かっているからここにはいないよ」

「敢えて、そうさせたのですか・・・・・・まぁ、良いでしょう。それで・・・・・・どれほどの地位に私は就けるでしょうか?」

「いきなり自分の権威のこと? まったく、欲が深いね」

 

 その言葉を聞いて口元を三日月形に変えて笑う隆景は美濃で見た国人衆よりも性質が悪そうに見えた。官兵衛からするとはっきり言って、気分が悪くなりそうになる。

 目の前の女は上杉は平気で盟約を破ったことを黙ってやる取引材料として良い役職に就こうと躍起になっているのだ。実際にその通りだが、官兵衛達は元からそのつもりだったので別に申し訳なさは無い。

 しかし、目の前の女はそのようなことなど知らずに大崎はまだ存続すると思っている。

 

「大崎は重臣達がいなくなり、このままでは散り散りになってしまいます。纏める者が必要です」

 

 つまり、隆景は自分が事実上、大崎を牛耳るようにさせて欲しいのだ。

 呆れた物欲心に感心していると隆景は表情を戻して不自由な身体をよじりながら官兵衛の前に出て頭を下げた。

 

「人の欲の深きこと、大海の如し。しかし、私もそれを抑える我慢の心はあります。私が地位を気にしているのは一族を養えるか気になったからこそ。それに、あなた方もこのことを広められたくはないでしょう」

「うん、まあね・・・・・・」

 

 興味が無い。官兵衛がつれない返事の中で思っていることは誰もが分かった。

 隆景は分かってもらえると思っていたのか、どうしてそのような反応になるのか分からないらしく、首を傾げて空を見上げて顔を合わせようとしない官兵衛を見ている。

 官兵衛は頭をかくと今度は空から一転、地面を見て足で下の砂を払い始めた。無言の時が数分間続くとようやく官兵衛は隆景を見た。

 

「言葉っていうのは便利だね・・・・・・」

「はぁ・・・・・・?」

 

 不味いことを起こして取り繕うと思えば、簡単に言い訳は作れる。だからといって無闇やたらに使うのは良くない。しかも、相手が人について分かる人物ならば、なおさらだ。そして、官兵衛も相手の人間がどのような者なのかよく知っている。

 村上寺にいた際、間者を捕らえた。しかし、口を割りそうにない。そこで官兵衛は村上寺の住職に矛先を変えた。

 少々脅してみれば住職は怯えて簡単に話してくれた。大崎のある重臣から金を送られ、その見返りとして上杉を倒す為に協力して欲しいと頼まれたのだ。

 その重臣が誰であるのか。住職は簡単に吐いてくれた。

 新井田隆景であると。官兵衛だけではなく親憲や政宗もこの行いには呆れた。

 どっちつかず程面倒な人間はいない。状勢を見極めると言えば、聞こえは良いが、悪く言えば、忠義など無いということになる。

 乱世では悪く言えばを尊重される。さらに先程隆景が言った大崎を纏める者。そのような者など必要ない。何故ならもういらないからだ。

 手を挙げるとそれを合図に兵達が入ってきて隆景を囲む。驚く隆景をよそに官兵衛が手を隆景の方向に指すと一本の刀が腹に刺さった。

 

「な・・・・・・かっは・・・・・・」

 

 言うことなど聞いたところで碌なものじゃない。先が見えた官兵衛は隆景が言葉を発する前に手を上げた。今度は背後から刀が隆景の首を斬り落とした。

 

「これですっきりした?」

「ええ、ありがとうございます。我が儘を聞いて下さって」

 

 兵達が被っている笠を取るとそこには隆景には見劣りするものの、官兵衛からすれば潔い性格故にそれ以上に美しく見えるようになった女性がいる。

 氏家吉継。彼女は名生城が落ちたことを聞くと動揺した里見隆成の軍勢に奇襲を掛けて打ち破り、その後は常長の説得で上杉に合流した。

 立ち去ろうとした官兵衛は何かを思い出したように手を叩くと首なし胴体になった隆景の屍に声をかけた。

 

「ああ、忘れてた。あんたの主君様はとっくに遺体で見つかったよ。あの世で会えると良いね。新井田隆景?」

 

 今度こそ官兵衛は隆景の屍に背を向けた。しばらく二人で歩いていると吉継が後ろから尋ねてきた。

 

「あの・・・・・・義隆様のことは、本当に・・・・・・」

「うん、別の捕虜に確認させたら間違いないって」

「そう、ですか・・・・・・」

 

 唇を噛みながら吉継は悔しそうに下を向いている。氏家氏にとって大崎家は長年執事という役職を任され、隆景の存在のせいで疎まれながらも恩義は感じていたのだろう。

 だが、生きるか死ぬかは紙一重である。火に囲まれたあの状況で逃げる道が限られていた。本丸は二の丸へ通じる道を除いて封鎖していたから生きていれば奇跡に近かっただろう。

 

「生きていたところで、大崎義隆はいずれ傀儡のようにいずれはなっちゃうんじゃなかったの?」

「そうかもしれません。いえ、義隆様はお気付きにならなかったかもしれませんが、端から見ると傀儡となるのは目に見えていました」

 

 生かしておけば、義隆の気付かない所で隆景達は自らの権力を増大させる為に他の者に粛清を行っただろう。そして、そのまま義隆さえも殺められる可能性もあった。

 他の家臣達も同様だ。罪の無い者達が殺されることは吉継には忍びないことであったし、自分にいつ累が及び、殺されるか分からない。

 義隆と心ある家臣達を守る為には大崎を滅ぼすことが一番早かったのかもしれないと今では思える。

 氏家の家を守る為には不利になった大崎を見捨てる覚悟は必要だった。

  

 

 

 

 

 

 氏家吉継が名生城にいるのは上杉にとって別段不思議なことではない。

 支倉常長について官兵衛が隆景に言ったことは嘘である。彼女は撤退したふりをして密かに岩出山城に向かい、吉継と里見隆成の軍を挟撃し、隆成を討ち取っていた。

 名生城に来たのは隠密で知っている者は官兵衛の他に親憲と政宗、盛隆といった当主格とその重臣達のみである。

 

「そう暗い顔しなくて良いって、もしかしたらあの方が・・・・・・」

「あの方が、何でしょう?」

「いや、何でもない」

 

 訝しげな視線を送る吉継から逃げるように官兵衛は目を逸らした。

 不自然だが、これ以上のことを言うのは吉継の逆鱗に触れると官兵衛は思った。官兵衛は天下が誰のものになるのか正直興味が無かった。それはかつて美濃にいた時も同じである。

 このままでは美濃のように義隆は誰にも気付かれないように傀儡に堕ちていただろう。

 ふと、美濃にいる友や義龍達のことが気になり始めた。未だに生きている道勝の見えない刃の下で義龍は精一杯当主として、友はその補佐の仕事に励んでいる。

 義龍の下では天下を取れるとは思えなかった。義龍自体に能力が無かった訳ではない。国人衆の力が強過ぎた為、粛清をしてもしきれない状況に先代の道三のこともあって出来ない状態にあったことが厳しかった。

 半兵衛達のように地元ではないので美濃に強い執着があった訳ではない。だが、人の忠義については人となりに知っている。

 たとえ、どれほどまでに冷遇されようとも二君に仕えずに散っていった者達は古今東西、大勢いる。今もそうしている友が日の本にいるのだから。

 だが、賞賛されることはあってもそれから先に何かあると言われれば、官兵衛は口を噤むしかない。

 生きて手柄を立てた方が必ず人々の為になるし、後世の人々からも賞賛される。官兵衛にとって賞賛されるかどうかはどうでも良いことだが、人々の為に平和な世を作るという思いはある。

 今、上杉の下にいる以上は平和の為に必要だからこそ吉継は生かしている。危険だと思えばすぐに排除してしまえばそれで良い。

 

「氏家吉継、我らが主君、上杉謙信様。及び、此度の戦の大将であらせられる水原親憲殿に代わって申し渡す」

「はっ」

「大崎家の有する所領は上杉・伊達にて分配する。されど、氏家殿の功績も大きい。よって岩出山城のある玉造郡に加え、栗原郡の西の一部を与え、伊達の傘下に入るように」

「よろしいのですか?」

 

 伊達の傘下に入ることは予測していた。しかし、増加までは予測していなかった。おそらくは東北を治める上杉の代官と伊達を事実上の上として吉継を中心に大崎の残党を纏める為に自分が必要ということだろう。

 しかし、最終的には隆景に追い詰められたとはいえ、謀反を起こした自身が加増などされて他の降伏した者達から見て不信感を募らせることにならないかと不安になった。

 その心を見透かしてか、官兵衛はひらひらと手を振った。

  

「安心して、手は打ってあるから」 

「それは、どのような?」

「まだ先のことだから。あまり気にしないで良いよ」 

 

 官兵衛は笑顔で心配などしていないような顔になった。

 元々、吉継が大崎の中で人から慕われていたことも幸いしたし、謀反についても大崎には痛手であったことは変わりなかったが、家臣達の中でも「ああ、やはり」というような感じで受け入れられていたらしい。

 きちんと根回しをしておけば、後は上杉と伊達の後ろ盾をもってすれば、大崎の残党も屈服せざるを得なくなるだろう。 

 反乱が起きたとしても圧倒的に違う力によって上から押し潰してしまえばそれで良い。

 後は収穫時に間に合わなかった兵達やその家族に対しての信頼を取り戻すように心を砕くとしよう。

 官兵衛はそう考えながらしきりにぺこぺことしている吉継の頭を上げようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 後日、蘆名には今回、病気を理由に参陣を拒否した石川家の所領の一部を分け与えることに、大内にはかつて田村から定綱が奪い、上杉が持っていった領地の一部を与えることになった。伊達には大崎地方南の領地の一部を与え、残りは上杉家から荒川長実か加地春綱を代官として派遣することで根回しをしている。

 以前から決めていたことだが、この恩賞の分け方は間違いなく石川の反発を招くことになるだろう。しかし、それこそが軍師達の思惑だった。

 まだ爆発することはないと思うが、着実に貯めておいてもらう方が上杉側からしても非常にやりやすい。

 西へと向かう前に越後国内とその他の国の病は治しておく必要がある。今までも治療を行ってきたが、完全には治しきれていなかった病が上杉にはあるのだ。

 軍師の間で話し合っていたことを思い出しながら官兵衛は思ったよりも早く降ってきた雪の名生城城内を、寒さで凍える身体をぶるぶると震わせながら、政宗から言われて部屋に押し掛けてきた成実に仕事をするようにと言われながらずるずると引っ張られていた。

 

 

 

「柊もすっかり枯れてしまいましたか・・・・・・」

 

 盛隆は雪の中、庭に降りて残念そうに刺々しい葉にそっと触れた。しばらくは小さい白い花を咲かせていたであろう柊の中心を見つめながらふぅと息を吐くとすっと立ち上がり、縁側に座る。

 寒いが、季節的で良いと感じた。草も生えてくる時期ではないし、庭を見ることが盛隆の楽しみである。

 そこにぎゃーぎゃーと言い争いながら歩いて行く成実と引きずられて行く官兵衛が見え、思わずくすくすと笑いながら茶に手を伸ばした。

 

「やはり綺麗に咲いていた筈の柊も、よく見れば策士の影の花でしたか・・・・・・」

 

 そう言うと盛隆はゆっくりと置いてあったぬるい茶をすすった。




柊の花言葉には先見の明があるそうです


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百〇四話 忘れられるものならば

 親憲達が中新田城を落とした頃、かれらとは対照的に斎藤朝信と吉江宗信・景資親子、竹俣慶綱を魚津城に残して龍兵衛と資正は弥太郎・兼続と共に春日山城に帰還することが出来た。

 元は出陣して越中を取るつもりだったが、決して勝利したという訳でもなく、逆に攻められて防戦に成功しただけだが、三千程度の兵で突然の一向一揆勢三万の奇襲を乗り越え、結果的には戦力を減らした訳だ。結果的には勝利と言っても良いだろう。

 

「かと言って、あまり効果は無いような気がするんだよなぁ」

「富樫はまた民を兵に変えて攻めてくるかもしれない、か。はぁ・・・・・・これだから暴君は面倒だ」

 

 馬に揺られる帰還途中、兼続のはっきりとした物言いに龍兵衛は苦笑いを浮かべるしかない。しかし、間違ってはいないので否定も出来ない。

 賢君は民を思い、民を巻き込むようなことを極力避けて戦や政治を行う。賢君と呼ばれる者はほぼ古今東西統一して民を慈しみ、戦がある時は必ず勝つことが出来る者を後世の者はそう呼ぶ。

 一方で暗君と呼ばれる者は色々といる。戦が強くても政治がそれに伴わず、民を重税などで苦しめる者。佞臣の言葉を真に受け、忠臣を遠ざける者。忠臣の諫言に聞く耳を持たず、無礼だと手打ちにする者。

 そして、民を苦しめるどころか、国自体も疲弊させ、あまつさえ兵を容赦なく捨て駒にして最後は負ける者。

 上杉の中で富樫晴貞という者はそういう人物だということになっている。外からは未だに一向一揆の傀儡国主となっているが、本性を外に出さないところを見ると正に暴君の道化師という言葉が当てはまる。

 道化師の仮面を捨てた晴貞は今後、上杉が少しでも隙を見せればすぐにでも魚津城に攻め入るだろう。

 民のことも国のことも省みずに、ただ己の欲望の為に敵と見た上杉を倒すだろう。面倒なのは国の者に誰も反旗を翻そうとする者がいないことだ。

 きっかけが無ければ戦にならない。魚津城に攻めて来た際、晴貞は越中の一向一揆勢に上杉が攻撃をしたという根も葉もないことで攻めて来た。

 反乱でも起きれば、すぐにそれを収める理由を付けて晴貞を斬ることが出来るのだが、残念ながらそれは叶わない。

 だが、晴貞も今は面倒な時期を迎えていることは確かだ。背後の織田の存在が徐々に増してきている。

 

「これで一向一揆との対立は明白になった。だが、織田のこともある。本願寺がどう判断するかは知らないが、織田との戦を優先にしてくれることを祈りたいな」

「そのような希望論が通用すると思っているのか?」

 

 国境が隣接している訳でもないのに晴貞が織田と戦うようなことはしないだろう。本願寺からの命令が下れば分からないかもしれないが、今はそのような気配は無い。

 浅井・朝倉も姉川で負けた後に段々と状況が悪くなり、将軍家は武田や本願寺が指揮する長島の一向一揆にも挙兵を働きかけている。しかし、加賀の一向一揆には未だに例の件があってかは分からないが、判断を下すことが出来ていない。命令が無い限りあの晴貞は西へは動かないだろう。

 兼続の言う通り、龍兵衛の言ったことは余程のことが起きない限り起き得ない希望論でしかない。

 だが、希望論に誰もがすがる訳でもなく、春日山城と不動山城から連れて来た兵の半数以上を魚津城に残すことで晴貞の再びの侵攻に備えておいた。

 

「冗談、冗談。だが、当分は朝倉とのこともあるし、さすがに動けないだろうよ・・・・・・さむっ」

 

 手をひらひらさせる龍兵衛に苦手なものが襲ってきた。

 もう秋風が身に染みるようになり、強い風が吹くと龍兵衛は寒そうに身を震わせ、大柄な身体を縮こませる。先程までの真面目な雰囲気が一掃されたのを見て、兼続は呆れたように溜め息をつく。

 しかし、これがこの男の性格なので仕方ないと割り切っている。張り詰めた雰囲気の時はきちんとしていて何事にも無頓着な人形のようになるのが、終わった途端に溜め込んだ鬱憤を吐き出すように表情には出ない性質だが、口調で感情が分かるようになる。

 今のような性質の悪い冗談を言うこともあるが、その中で計算を立てていることも兼続は知っていた。

 金に少し色気を出すことがあり、私の時は良くも悪くも分かりやすいところがあるが、秘匿すべきことはきちんと内密にする。それが河田長親という軍師だと兼続は思っている。

 そう評している男は隣で再び真面目な表情に戻っていた。自分の髪をいじりながら今回の戦を思い出しているようだ。

 

「しかし、朝倉も簡単に乗ってくれたよ。いくら冨樫自身がいないからって加賀への威圧をしてくれって頼み」

「元々、朝倉と一向一揆は対立していた間柄だからな。私達の言うことを一から全て信じてくれなくても勢力が大きくなるのは面白くなかったんだろう」

 

 かれらが春日山に帰って来れたのは万が一に備えて認めておいた朝倉への書状と金が利いた為である。

 朝倉は浅井と共に姉川以降も何度か織田に対して出兵を行っている為、財政は困窮しているに違いない。

 そう考えた龍兵衛は上杉の保有する金の一部を海路で朝倉に送り込み、一向一揆勢の勢力拡大は今後において武家の災いとなるだろうという書状を送り、一部の兵を加賀との国境に置くよう要請した。

 朝倉家当主、朝倉義景は睨んだ通り、金策に困っていたようで、国境に兵を送り込んで威圧してくれたらしく、晴貞は加賀へと退いて行ってくれた。

 本来なら負けても地の果てまで追い込もうと考えていたに違いないが、大敗を喫し、本国に危機が迫っているという良い理由が出来て退却する時だということも分かっていたのだろう。能登の畠山を殿に悠々と退いて行った。捨て石になるのは最後まで能登勢と越中の一向一揆勢だった。

 

「いらいらすることこの上なかったな」

 

 思い出すだけで腹立たしさが兼続には湧き上がってくる。その感情は隣の者にも伝わっているようだ。

 龍兵衛も表情が怒りを含むように少し強張っている。

 

「ああ、だが、自分の兵に傷を付けずに魚津城を追い込んだのだ。これからも奴の兵力に気を付けておくべきだな」

「兵って言っても民ばっかり何だけどな。しかし、無心でこっちに攻めてくるあれらを民と見て良いものか・・・・・・」

「分からなくはないが、私は民だと思いたい」

 

 心から願うような兼続の口調は龍兵衛の心に少し響いた。しかし、秩序を重んじればそれは甘い考えなのかもしれない。

 

「そうだな・・・・・・」

 

 その為、龍兵衛は曖昧な答えしか返すことが出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰って来た上杉軍を迎えたのは謙信自らを含めた主要な上杉の将、ほぼ全員だった。もちろん仕事に差し支えがないようにしてであるが、下手をすれば二度と会えないのではないかという怖さもあったのが、春日山城に残った面々の思いである。

 武田がちょっかいを出して来なければ、謙信も自ら救援に赴いて晴貞と相対するつもりでいた為、これで魚津城が落ちてしまっては、後悔の念が募るところだった。

 全員に労いの言葉をかけていく謙信を見て、兼続は少し泣きそうになっている。それを隣で見ている弥太郎と龍兵衛は謙信の言葉よりも「(あ! 兼続が泣きそう!?)」と思いっ切りそっちに目が行ってしまっていた。

 冗談を交えて謙信は皆に語りかけ、最後にもう一度主だった三人の所に戻ってきた。

 

「資正に兵の指揮を任せ、後で私の部屋に来るように」

 

 おそらくというか絶対に魚津城の詳細と今後取るべき方針の再確認だろう。

 

「さて、まずはお前達から聞かせて欲しい」

 

 部屋に通されると案の定、魚津城のことから始まった。当初からいた龍兵衛がほとんどのことを話して途中から弥太郎と兼続が補足説明をすることで謙信もあまり嬉しくなさそうな表情に変わっていった。

 

「今後も警戒が必要か・・・・・・やはり、先に富樫と雌雄を決するべきか?」

「いえ、それでは戦線が伸びきって武田や北条が何かしてくるかもしれません。やはり、東北を完全に統一するのを待って・・・・・・」

「龍兵衛、そう言うが、東北の勢力も頑強でな。冬以降に持ち越される可能性が出てきたと親憲から書状が届いている」

「なんと・・・・・・」

 

 弥太郎が二人の代わりに一言出す。余裕が無い戦の中では情報を得ることなど出来なかったが、魚津城に負けないぐらいに激しい戦を繰り広げているらしい。

 兼続と龍兵衛からすると兵糧物質の支援もそうだが、他にも懸念するべきところがあった。

 

「兵を田に帰すことも不可能ですか。何か処置を施さねばなりませんね」

 

 兼続が口を開いたが、龍兵衛も全く同じ考えである。収穫は稲刈り以外にも脱穀など、作業がある。上杉では以前に作った千歯扱きや唐箕のおかげで作業効率は上がっているとはいえ、面倒なことに変わりはない。

 しかし、謙信は既にこのことについては考えを持っていると間を置かずに皆を唖然とさせることを言った。

 

「兵達の家の者を含め、上杉が治める全ての地の年貢を減らすことにした」

「「・・・・・・はい?」」

 

 兼続と龍兵衛が一緒に反応してくれた。

 

「二人がそう言うならもう迷うことはないな」

「いやいやいや! ちょっと待って下さい。そういうことで言ったのではなくて・・・・・・」

「いくら一年程国を休めたとはいえ、まだ完全とは言えません。年貢を減らすことは反対致しませんが、全ての土地というのは・・・・・・」

 

 嬉しそうにささっとこの場を締めようとする謙信に兼続も龍兵衛も必死で止める。

 戦で物資が減っていることは否めない。金はあるが、農家出身者としてあまりそちらで買うのではなく、作るべきものは作るという考えを持っていることも含め、金は今後の戦費や政策資金の為に取っておきたいので手を出したくないのが龍兵衛の政治家としての見方である。

 兼続からすると兵糧の減少よりも怖いのは年貢を減らすことによって揚北衆の不満が高まることだった。徴収するのはその土地の領主である。年貢が減れば、自分達の懐に入る分も減るということ。

 領地が拡大して政治が徐々に安定していくと別のことに欲を見せる者が出てくる可能性は否めない。

 お互いに意見を謙信に申し上げるが、謙信は頭を振ってどちらの意見も退けた。

 

「もう決めたことだ。これ以上のことをすると現状維持でも民の不満が出るかもしれん」

「春日山を始め、越後の民は謙信様を慕う者ばかり、しかし、他国になるとそうはいかないか・・・・・・やむを得ないだろうな」

 

 弥太郎も謙信の考えに同調する姿勢を示している。

 収穫時に人手が足りないのは兵農分離が未だに人口の問題上、出来る状況ではない上杉の治める国々で抱える現在の問題である。とはいえ、かなり難しいことである。

 不満を口にする者もいるだろう。北条や武田と通じる者も出てくるかもしれない。かつての新発田重家のように。

 しかし、謙信は二人の心配をよそに意に介するようなことはない。

 

「輝宗殿も既にこちらに来ているのだ。答えはもう決められているだろう?」

 

 その国の領主直々に願い出ているにもかかわらず、一昨日きやがれと無碍には出来ない。どうやら自分達はもう頷くしかなさそうだ。

 そう察した兼続と龍兵衛は嫌々ながらに肯定するしかなかった。

 悪いとは思っていない。民を第一に考える謙信の決断は間違っていない。しかし、ものにはすべからく時期がある。

 

「いずれにしろ。本当によく戦ってくれた。この戦いは後世に残るだろう」

 

 そんなことはどうでも良いことである。

 越後全域を減税することはかなり賭けになりそうだし、何かの為に対応出来るようにしておいた方が良さそうだと二人は思った。

 

 

 

 伊達家前当主である輝宗はまた春日山に戻ってきていた。中新田城を落としてこれから大崎と決戦という状況にもかかわらず、春日山城に来ているのにはちゃんとした理由もあるのだが、本当の理由としては先の一件で娘の政宗によく無視するようになって寂しくなったそうだ。所謂、傷心を慰めようとしたのである。

 端から見ればただの親馬鹿にしか見えないが、対面した謙信が「分かるぞ」と輝宗の肩を叩いて頷いていたので敢えて、皆も気遣っておいた。ちなみに何故知ることが出来たかというと、颯馬が謙信と逢い引きしていた時に聞いて、それをうっかり慶次に言ってしまったのでたちまち広まってしまったという訳である。

 しっかりと入れない親馬鹿の壁というものが出来てしまっている為、誰も入れる者はいなかった。

 それ繋がりで上杉の家臣一同から謙信と景勝の間でそんなことがあったのかと皆が気になったが、代表して慶次が聞くと、どうやら謙信と景勝の仲が喧嘩をしておかしくなったということは無かったそうだった。

 ただ独り立ちの嬉しさと親元を離れる悲しさが一緒に来たらしい。

 

「これは、輝宗殿。大崎のことはよろしいので?」

「政宗がやってくれている。俺はもしかすると水原殿達が政宗達と共に大崎と葛西攻めによって冬を越すやもしれぬ故、謙信殿に兵の家の年貢を減らして欲しいと頼みに来たのだ」

 

 収穫とは田植えよりも厳しい作業だと言える。体験してきた龍兵衛にとってそれは重々承知していることだ。

 一応、これが輝宗が春日山城に来たちゃんとした理由である。

 後で本当の理由を颯馬から聞いて兼続と一緒に呆れ返って天を仰ぐことになるのは三日後のことである。

 

「それにしても、激戦だったみたいだな。目立った怪我をしていないところを見ると随分と河田殿も悪運が強い」

 

 がらっと変わって話題は魚津城のことになった。米沢に戻った後に魚津城のことは輝宗の耳にも入っていた。 

 上杉でも有力な将達が誰一人も欠けることなく生き残ってくれたと謙信から聞かされた時は輝宗も胸を撫で下ろした。

 

「河田殿も民が相手では随分と苦労されたのではないか?」

「いえ、はっきり言ってしまえば全くです。あそこまで抵抗されてはもうただの兵士としか見えませんでした」

 

 同情するように語りかけた輝宗だが、それをあっさりと跳ね返すように言い切った龍兵衛の言葉を聞くと輝宗は驚いたように本当にそうなのかともう一度訪ねてしまった。龍兵衛は肯定すると何故に二度も訪ねてきたのか不思議そうにしている彼を見て、輝宗は思わず溜め息を吐いた。

 

「これは、かなり酷いかもしれんな・・・・・・」

「何か仰いましたか?」

 

 聞こえなかった筈の独り言を龍兵衛が拾ってきた為に輝宗は少し慌てながらもすぐに否定すると輝宗はその以上、そのことについて話そうとはしなかった。

 

「それで、どうであった。かなりの苦労をしたと聞くが」

「ええ、もうそれは・・・・・・」

 

 語り出すときりがない。それしか言うことがないのでそう言うと輝宗も苦笑いを浮かべるしかない。しかし、何かを知ろうと龍兵衛の顔をじっと観察すると「別に構わないか」と意味深な言葉を呟いた。

 それは聞き逃さずに不思議そうに龍兵衛が訪ねるも輝宗は「気にするな」と言うだけで何も言おうとはせずにただ一言と言って去って行った。

 

「お主は本当に軍師らしいな」

 

 輝宗は背後にいるであろう龍兵衛に面と向かっているように言うと返事も待たずにさっさとどこかへ向かってしまった。

 首を傾げる龍兵衛をまたしても秋風が襲った。

 寒さと同時に背後に何故か暖かいものを感じながら。

 

「・・・・・・いい加減にして下さい」

「うー・・・・・・」

 

 思った通り、輝宗が消えた途端に景勝が後ろからそっと抱き付いてきた。回している腕をさっさと外すと龍兵衛はすっと距離を取る。

 

「まだ?」

「余裕が無かったことは分かっているでしょう? もうしばらく待って下さい」

 

 景勝は不満げである。そう言い続けて彼が一年以上経っても答えを出せていない。しかも、言い訳がずっとそれであることも景勝を苛立たせる原因の一つであった。

 早くしろと圧をかけながらじーっと見てくる景勝に自分の原因がなかなか解決出来ないことも龍兵衛を焦らせる。

 このような執拗な催促が答えを見付けることの出来ない原因だとも最近では彼も考えるようになっている。しかし、面と向かってそれは言えない。

 心の底に景勝のことを傷付けることは出来ないという思いがある。

 

「すみません・・・・・・」

「また、それ・・・・・・」

 

 決まり文句もまた跳ね返された。いづらくなった龍兵衛はもはや黙って立ち去る以外に方法は無かった。

 

「切り換えてしまえ。もはや、知らずとも別に構わないってな・・・・・・という訳にもいかないか・・・・・・」

 

 急いては事を仕損じることもある。時が解決してくれることもあるだろう。それも一種の方法だと龍兵衛は思い、景勝から逃れるように歩みを速めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 報告書の書き方を頭の隅で考えながら屋敷に戻ると部屋の管理をしてくれた女中達に感謝の言葉と謝礼を払い、そのまま部屋に戻ると龍兵衛はごろんと寝そべった。

 彼の頭には景勝のことよりも輝宗の言葉が引っかかっていた。

 

「民との戦が辛くないか? そうだな、あれはそもそも人の動きではなかったからな」

 

 例えば春日山の民のような普通の民を相手にするとなればたしかに躊躇しただろう。しかし、かれらは大した技量もないのに晴貞の命令で彼の命を救い、一向一揆勢を勝利へと導く代わりに自らの命を進んで捨てていった。

 真っ当な兵であってもいざとなればなかなか出来ないようなことを平然とやってのけていたのだ。しかも、顔色一つ全く変えずに死んでいく姿を見れば変な感情を抱かずにはいられない。どう見ても普通の民ではなかったのだから。

 思い出すだけで夢にも出てきそうだ。早めに記憶から無くしたいが、忘れる度に脳裏に蘇ってくるかもしれない。

 龍兵衛は溜め息をつくと目を瞑った。しかし、寝るようなことはせず、今回の戦で自分がやってきたことを反省するつもりで思い返してみる。出てくるのはやはり晴貞が率いていた者達の相手を殺すことしか頭に無いような目。

 龍兵衛自身はもちろん殺戮を肯定する気はさらさらないが、救いようが無いと判断した者を救おうとする程お人好しではない。

 殺したのは間違いなく民である。今後のことを考えるとかれらがいなければ誰が田畑を耕すことになるのだろうか。兵を民に帰すことが一番早く効率的だが、春と秋に出陣出来なくなることが多くなり、晴貞の上杉打倒の夢が遠くなる。

 だが、あの性格的に晴貞は兵を民に帰しても田植えや収穫時も関係なく出陣してきそうだ。

 晴貞が民さえも捨て駒にしようとしているのは明らかだが、龍兵衛はそれを非難することが出来る立場にはいなかった。

 

「まぁ、今となってはどうでも良いことか・・・・・・」

 

 要らない過去は捨てる。そう心に誓った。おかげで随分と痛みを伴うことになったが、それもいずれまた時が解決してくれるだろう。

 今は必要ない思考に走ったことに気付いた龍兵衛は頭を振って元の思考を呼び戻す。

 幕府に訴える内容を書いた弾劾状の返事は謙信の下には届いていないことは既に確認済みだ。今、幕府は織田との戦で主力の一角たる本願寺以下一向一揆勢を頼みとしている為に決断に踏み切れないと考えるのが妥当である。 

 結果的に西へのことはしばらく後手後手にならなければ上手く行かないと判断するしかない。守りも必要で今回の戦で籠城も出来ると分かったとはいえやはり攻めて領地を拡大することに目を向けたくなるのが龍兵衛の思いである。

 溜め息をつくとその音に反応した猫がかりかりと襖を引っ掻いて「開けろ」と言ってきている。

 良い耳だと呆れるように思いながらも襖を開けて中に入れてやる。

 拾って来た三毛猫はおおむね行儀が良く本棚の本で爪を研いだりせず、一度外に出たら決して足を吹く前には中に入らない為に女中達からのウケも良いが、何だかんだ言って龍兵衛に一番懐いてくる。

 胡座をかいて座り直すと喜んでその膝に乗ってきた。

 喉がごろごろ鳴っている。可愛らしい。心中穏やかではなかった龍兵衛の心を癒やしてくれる。

 気持ちよさそうに寝返りをうって今度は腹を見せて「こっちを撫でろ」と一つ鳴いてくる。猫だから我が儘なところもあるのは百も承知。おねだりを受け入れて普段害虫・害鳥・害獣狩りで鍛えている固い腹を撫でる。

 自分もこれぐらいになればなと思ってしまうが、猫と人は身体の作りが違う為に絶対に無理である。それ故に羨んでしまうのは欲の深い人の性質だが、それはそれで置いておくとしよう。

 

「(良いよなーあの瞬発力。南米の人みたいで・・・・・・)」

 

 他愛もないことを考えられる時間が徐々に限られていく。この時間を大切にしなければ。いずれまた、戦が時の針を進ませる前に。

 しばらくもふもふと耳を撫でているのも飽きたので猫を膝に乗せたまま尺八に手を伸ばす。

 以前は横笛が専らだったが、景綱と被るのが何となく嫌になったので思い切って変更した。

 理論は知っていたのでコツを掴むのに時間はかからず、普通に人前で吹ける腕前にまで上がっている。

 取り出して口を付け、さぁ吹こうとした途端、外で足音がした。そして、龍兵衛のいる部屋の前で止まった。

 

「河田様、謙信様が今一度城に参られよと」

「(たぶん、北条か東北の状勢のことだろうな)一難去ってまた一難か・・・・・・分かった。すぐに向かうと伝えてくれ」

 

 特に気分を害された思いは持たず、龍兵衛は猫を下ろして伸びを一つして散っていた集中力を集める。そして、自分のお気に入りの羽織りを羽織って寒くなった春日山の外に出る準備を始めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百〇五話 収穫

 晩秋の木々が葉を緑から黄や赤に色を変え、遠くから見る者の目を見晴らせ、美しいと思わせる季節。

 春日山城では謙信と龍兵衛が楽しそうにしていた。しかし、本当は楽しんではいけない状況である。 

 簡単に言うと親憲達が率いている北奥州討伐隊が豪雪で帰れなくなってしまった為に二人は外に出ることになった。

 領有している土地柄故に兵農分離が進んでいない上杉では帰って来れない兵達の代わりに正規兵達が元は農家であることを活かして帰って来れない兵達の農地の収穫を手伝うことになった。

 それを聞いたら黙っていられない者が二人程いた訳である。先述の謙信と龍兵衛は目を輝かせ、率先して収穫の手伝いをやることにした。

 龍兵衛はともかく、謙信は当主故にそう易々と外に出ることに兼続達は渋い表情になったが、取り敢えず慶次が同行するということで間を取ることにした。

 颯馬については満場一致の即刻却下だったことは余談である。

 

 

 

 

 

 行く場所はあまり遠くなく、戦に駆り出された兵が一番多い所である。きちんと前もって言っておいたし、謙信も龍兵衛も顔見知りなので心配はない。

 実際、初めてに近い謙信は色んな人から聞きながら、農業経験の豊富な龍兵衛は根っからの農家らしい素早い手付きで稲穂を刈り取っていく。

 その腕前は後で謙信をして「手が何本にも見えた」と言わしめた程であった。

 休憩時間になると謙信は改めて人々に頭を下げた。謙信は当主の為にここだけを手伝うが、龍兵衛は少しの間、仕事を他の軍師達に託すというより半ば押し付けて他の場所も回る予定だが、得意とはいえたかが一人が増えたところで状況はあまり変わらない。

 あるとすればせいぜい、上杉は民を本当に思っていると示すことぐらいだけだ。

 

「本当に、すまなかった」

「い、いえいえ! 謙信様が頭を下げることはありません! 皆が平和になる為に謙信様も戦っているのはよく知っています。生活は十分にさせて頂いていますのにわざわざそのようなことをされなくても大丈夫です。なぁ、皆の衆!」

「はい! 私達は謙信様が平和な世を作る日を待っています。謙信様に何かあったら・・・・・・そっちの方が心配で」

「馬鹿、良い大人がなに泣いているんだよ! 謙信様、私達は謙信様がいなくなることの方が心配です。収穫よりも謙信様がいなくなることが・・・・・・」

「ばーか、お前こそ何縁起でもないこと言ってんだ!」

「あ、いや、そこまで言ってもらえると・・・・・・嬉しいやら、恥ずかしいやら・・・・・・」

 

 己の弱さ故に巻き込んだことへの申し訳なさを通じ、素直に頭を下げる謙信に返ってきたのは逆に謙信がたじろぐ程に熱烈な反論とも言えるような謙信への弁護の声だった。

 本質を見抜き、人の感情を見る目を持つ謙信の目にはかれらの言葉は意外と本当に心から言っていると見えた為になお驚きを隠せない。

 純粋に嬉しいことであるが、一方で新たな疑念も頭に浮かび上がってきた。

 

「(他の土地の者達もそうであろうか?)」

 

 

 

 龍兵衛は戦場に行かない若い者達と話していた。それでも手はしっかりと動かしているあたり、さすがに元農家の一人息子なだけはある。

 手際良く稲を束にして脇に置くと近くにいた青年の一人話し掛けてきた。

 

「そういえば河田様、早くして下さいね?」

「・・・・・・? 何か約束したっけ?」

「いつになったら皆を飲みに行かせて頂けるのです?」

「あー・・・・・・」

 

 以前に城下町で飲んで、酔った勢いで変なことを言ったような記憶が断片的に残っている。 

 金を大事にする彼は守銭奴でもある為、金の貸し借りは一切しない主義である。しかも、他人に奢るなど以ての外だ。

 

「まぁ・・・・・・もう少し時間が出来たらな」

 

 取り敢えず、期待している目を向けてくる相手をばっさり「無理だ」と斬り捨てるようなことは出来ない。

 人は忘れる生き物だ。いずれ忘れてくれるだろう。しかし、現実は甘くはない。

 

「俺達は楽しみにしているんです。いつまでも待ってますよ」

 

 明らかに「早く早く」と急かしているようにしか聞こえない発言に龍兵衛は内心溜め息を付いた。

 ここまで木天蓼を待つ猫のような目をされると忘れてくれる日が来るような時が来るのかすら怪しい。

 

「そういえば、慶次はどこに行った?」

「あそこに・・・・・・」

 

 龍兵衛が慶次を指で差した時、二人共一瞬時間が止まってしまった。

 

「はいはーい、次は誰かしらぁ?」

「く、俺が、とりゃあぁぁ!」

「脇が隙だらけ!」

「ぐぇ・・・・・・」

 

 視線の先では慶次が子供達を圧倒していた。しかも、全員をぼろぼろにさせている。

 

「お姉さん、もう少し手加減してよ~」

「え~あたしは一割も力入れてないわよぉ。皆が弱過ぎるだけよ」

 

 元気そうにしているから良いのか、ぼろぼろになっていることに気付いていないだけなのか。子供達は慶次の挑発的な物言いに一斉に飛びかかる。しかし、慶次は全員をひょいひょいよけてあっさりと全員を張り倒してしまった。

 

「手加減している割には随分と目が本気だな」

「このままだと子供達が壊れますよ」

「助けて来い」

「御意」

 

 台本通りのようなひょいひょいしたやり取りでそう言うなり龍兵衛は慶次の背後に回り込み、気付いていないことを良いことに慶次の背中に容赦ない飛び蹴りを食らわせた。

 

「痛ったぁ!?」

 

 もんどり打たないだけ立派である。しかし、腰にがっちり決まったようで呻き声が口ではないどこからか聞こえてくる気がした。 

  

「少しは加減しろ。馬鹿」

 

 龍兵衛がからかうような口調で言うと慶次は身体を震わせてしまった。分かりやすいことこの上ない。

 

「ったく、子供達相手に手加減無しは大人気なさ過ぎだぞ。しばらくそこで大人しくしてろ」

「誰のせいだと思ってんのよぉ・・・・・・」

 

 泣きそうな声で訴える慶次をガン無視して龍兵衛は収穫作業に戻って行く。

 結構マジでやっていたことがばれ、腰を負傷した慶次は子供達のその後散々に蹴散らされているのを皆が無視していた。

 

「しかし、だな・・・・・・」

「どうか致しましたか?」

 

 不意に慶次を見た謙信には多少の疑問が浮かび上がってきた。本当に簡単な疑問の為、律儀に振り向いた龍兵衛に聞くまでもないのだが、気になる。故に謙信は聞いてみた。

 

「慶次はあんなに素直に反応するような奴だったか?」

「さぁ・・・・・・分かりませんね」

 

 やはりというべきか龍兵衛も知らない。慶次に聞いてみるだけ無駄だというのは分かっているので聞かないが、別に大した疑問でも無いので謙信は放っておくことにした。

 一方、龍兵衛は内心心当たりがあった。

 

「(やっぱり、調えることに関与するのはまずかったかなぁ。颯馬に押し付ければ良かった・・・・・・)」

 

 あの時と同じような視線を龍兵衛は慶次にぶつけていた。つまり、未だに慶次は何かを考えているのである。

 

 

 

 

 

 

 夕方まで作業は続き、最後まで三人は残った。

 謙信と龍兵衛は締めの作業を終えて色々と傷を負った慶次と共に屋敷に戻ることにした。普段は反省という文字が無い慶次だが、純粋無垢な子供達にからかわれたのはかなりショックだったようで謙信が笑って励ましてもぶつぶつと何か言って自分で勝手に凹むを繰り返している。

 そんな中で慶次は当分立ち直りそうにないと見た龍兵衛は気になることを聞くことにした。

 

「少々寒くなって参りましたな」

「・・・・・・何が言いたい?」

 

 敢えて、らしくない物言いをしながら誰も周りにいないことを確認して低い声で話を切り出すと謙信の目も真剣になった。

 

「此度の戦。謙信様は三方向へと出陣されました。安東の残党はともかく、一向一揆と葛西・大崎らの連合には必要最低限とでも言うべき少ない兵力を用いました。準備不足とはいえ、何故にそこまで焦るような真似をなさるのか。自分には理解致しかねます」

 

 これは他の軍師達も思っていたことである。

 夏が過ぎれば当然秋が来る。秋が来れば米の収穫がやってくる。収穫には人がいる。

 つまり、農民がいる。しかし、越後は未だに人口が少なく兵農分離は出来ない。その為、秋の収穫時に兵を徴収することは住民感情を損ねることになりかねない。そのことを民思いの謙信が分からない筈がない。

 知っているからこそ今までは雪の降る冬を除いて田植えを終えた晩春、夏と収穫前の早秋に戦を行ってきた。

 ところが、今回は何を思ったか晩秋の近い時期に出兵を行うと言い出した。そして、軍師達が案じた通り、親憲達は冬前に帰ることはほぼ不可能になった。

 責めるような視線を謙信は受け流すと龍兵衛をまたしても驚かせることを言い出した。

 

「雪が解けたら伊達の後続が長江を抑える筈、その後に援軍を蘆名と共に派遣させる」

「田植え前に決着を付けるつもりですか?」

 

 かなり危険な賭けになる。もしも長引けば収穫と田植えを連続で人手不足になり、いくら謙信の下だとしても民は黙っていないだろう。

 本当に表立ってしか言わずに裏で陰口を叩かれる可能性もある。

 

「大丈夫さ。今日の民達を見て、行けると思った」

「・・・・・・なるほど、秋前にあのような出兵をさせたのはその為ですか」

 

 さすがに察しが良い。つくづく謙信は上杉の軍師は有能だと思った。少しだけの言葉で今回の戦の目的の一つを当てることが出来るのだから。

 

「まさか、武田が出て来ることも計算に?」

「入っていなかった。と言えば嘘になる。五分五分の可能性だったがな」

「流石は謙信様。しかし、わざわざ民を巻き込む。あまり関心致しません」

「厳しいことを言う」

「主君の歩むべき道を正すのも、家臣の役目で御座います」

 

 思わず謙信は笑ってしまった。別に龍兵衛をからかっている訳ではない。普段は外様故に控え目な発言が多いが、きっぱりと言い切るただらしくない物言いに彼の民への思いがありありと映されていると思い、安堵した為である。

 

「いい加減、武田も北条も黙っていないだろう。佐竹の動きも気になる」

「上野の豪族達は、何と?」

「武田はともかく、北条が気になるらしい。佐竹は下野に掛かりっきりのようだ。しばらくは北条も上野に専念出来る」

 

 房総半島の里見のことはまだ情報が入っていないらしい。背後のことがある為に北条も上野を早く取りたいと焦っている頃だろう。

 その焦りが足元をすくえば御の字だが『相模の獅子』と言われる北条氏康が簡単にやられるとは思えない。

 

「しばらくは武田も出て来ないだろう。私自ら向かう故、龍兵衛は兼続と共に景勝のことを頼む」 

「謙信様自らのご出馬に反対は致しません。しかし、弥太郎殿か慶次は連れて行くべきです」

 

 あの二人を連れて戦場に出すだけで兵の士気は上がり、百の兵が五百に増えるようなものだ。謙信を含めるならばそれが八百に増えると言っても良い。

 

「大丈夫か? 一向一揆は背後に朝倉のことがあるからまだしも武田は少ない兵でも奇襲をしてくる可能性があるぞ」

「飯山城には本庄実及殿がおりますし、国境には警備兵を置いてあるのでしょう? それに今川と徳川も織田の為にいつまでも背後を放っておくことはないと思います」

 

 糧道が伸びることを懸念し、箱根山を越えなければならないことを考えると関東よりも山がちだが、進軍するにはまだ動ける甲斐武田の領地を狙うことは分かる。 

 未だに同盟関係を結んでいることも幸いして、北条も今のところは里見を警戒して箱根山の背後には無関心といった感じらしい。 

 

「それから、一向一揆のことはまだ楽観視出来ません。また民を兵に変えて攻めて来る可能性もあります」

「だから、お前は弥太郎と共に数百の兵で春日山に戻り、義・・・・・・景資を魚津城に残したのだろう。兵を鍛える為に」

 

 龍兵衛はこくりと頷く。景資の鍛練は元が元だけにかなり厳しい。しかし、景資の息をも付かせない刀捌きは上杉の中で憧れの的のようなものになっている。

 景資を残し、朝信が鍛えた魚津城の兵をさらに強化することは一向一揆に対しての脅威となることに違いはない。

 

「政治を任されている身としては、それよりも国内の火種をそろそろ消しておく方がよろしいかと」

「揚北衆のことは颯馬や兼続からも聞いている。飯山城の守りは義清に任せる。南や西へ向かう前に実及と共に手を打っておいて欲しい」

 

 揚北衆の歴史は長い。初めは鎌倉時代と言われ、阿賀野川北岸地域に土着していた。長らく越後北側を治めてきた自負がある為に南北朝時代になって越後に入った上杉・長尾と対立を起こしては政情不安を招いてきた。

 先代の晴景の代までそれは続いたが、謙信が家督を継ぎ、越後を統一したことによって丸く表面は収まった。しかし、表面を削れば未だに揚北衆は互いを主張し合い対立している者がいる。

 

「案は既に考えております」

「聞こう」

「水原殿を、新発田城の城主に任じるのです」

 

 意外な答えだったのか謙信を足を止め、龍兵衛を見る。慶次もいきなりの発言に驚きを禁じ得ない様子だ。

 しかし、彼の目は真剣な目。そもそも、彼は公で冗談を言うような性格ではないことは二人も知っている。

 

「中条殿と黒川殿、お二方は揚北衆の中でも一、二を争う力を持っています。しかし、黒川殿には北条のことを当分は任せている以上、他国に向かわせることは出来ません」

「かといって東北という辺境の地に揚北衆筆頭の中条も向かわせるは出来ない。だが、二人は未だに確執が絶えない。その歯止めを親憲にさせるのか」

「はい、新発田は越後北側で最大の規模を持つ城。水原殿ならば両者共仲はよろしい為に適任かと」

 

 ただ、一つだけ懸念がある。親憲は元々大関氏の出だが、断絶した水原の名を継いでいる。水原氏は佐々木氏を元にした揚北衆の一人。有力な将であることに変わりはないが、中条や黒川には軍役や家臣の地位は劣る。

 

「それだけでは足りない。そこでまた何か考えているのだろう?」

「・・・・・・分かりますか?」

「それぐらい見抜けなければ当主は務まらないよ」

 

 悪戯っぽい笑みを見せる謙信に呆れつつ明後日の方向を無為ですわざとらしく大きな溜め息をつく。

 

「蒲原の山吉殿が病にかかったとか」

「耳が早いな。また私を出し抜いたか?」

「い、いえ、今回はちゃんと颯馬から聞いた情報です」

 

 謙信は納得したように頷いているが、龍兵衛と一応護衛として一緒にいるが、話が難しくなりそうなのを見て、蚊帳の外だった慶次は少しびくびくしていた。

 謙信と颯馬、二人が睦み合っている時にこのことを盗み聞きした下手人は慶次である。うっかりそれを龍兵衛に言ってしまったのはちょうど昨日のこと。

 ばれたところで寛大な謙信は「慶次ならまぁ良いか」と言って終わらせてくれるだろうが、いきなり龍兵衛が言うとは思わなかったので意表を突かれた。

 後ろで冷や冷やしている慶次をよそに龍兵衛は続ける。

 

「山吉殿の御嫡子、盛信殿は病弱。彼の弟、景長殿が跡を継ぐことは間もないこと。しかし、景長殿は若年であられる。減封には良い理由ですな」

「まだ決まったことではないことだ。勝手な推測は無用」

 

 見えない刀が首に置かれているような感覚に襲われ、龍兵衛は背中に冷や汗をかきながら努めて平然と頭を下げる。

 その覇気には勇猛な慶次も驚き、自分が怒られている訳でもないのに少し肝を冷やした。

 謙信はすぐに冷たい覇気を静めて「だが・・・・・・」と手を軽く挙げた。

 

「悪い策ではない。仮に没収した領地を直轄地にしておけば、揚北衆への脅威となるか」 

「はい、かの地は阿賀野川を挟み、揚北衆の集う岩船の玄関口。抑えておくことが賢明だと思います」 

 

 まだ揚北衆の力を削ごうとはしない。いずれ越後を完全な上杉の領地とすることは必要だが、徐々にやっていかなければ大きな反発を招きかねない。

 謙信はさらに上を目指すことを目標としている。いずれ乗り越えなければならない道だが、揚北衆の中で力のある中条・黒川・色部・水原の四つの家はなるべく抱え込んでおきたいという思いもある。

 

「これからのことはこれからにしておくべきです。まだ上杉は発展途上。東北を完全に制した後、全てはそれからですが、その準備の為にも」

 

 そう言って龍兵衛は頭を下げる。領地の大きさだけを見れば確かに織田や北条とも引けを取らないが、東北という土地は豊かではない。

 謙信も分かっている。後は先程頭に浮かんだ四つの家も他国に領地を与えなければならない。

 では、今はどうするか。目の前で案を言ってくれた龍兵衛だが、しかし、謙信は首を横に振った。

 

「足りぬな」

「えっ・・・・・・」

 

 龍兵衛だけでなく慶次も口を開けて驚いた。彼女もまた先程龍兵衛が出した案を良いと思ったからだ。

 

「もう一つ、付け加えなければ・・・・・・」

「それは、どのような?」

「まだ言えぬ」

 

 きっぱりと二人の好奇心をへし折る。今思い付いたこともあるが、何よりもまだ言えた考えではない。

 いずれは言うことになるが、かなりの根回しが必要になる。時間もかかるだろう。どれほどかは分からないが、やらなければならない。

 自然と謙信の目つきが戦場に出ているかのように鋭くなった。

 そこに龍兵衛と慶次が踏み入れる場所はなく、三人は何も言葉を交わすことはなかった。 

 

 

 

 長重が最上・安東と共に反上杉の安東の残党を全て倒し、あと三日ぐらいで帰城するという知らせを聞いたのは三人が春日山城に戻ってすぐのことである。

 

 

 

 屋敷に戻ると龍兵衛は汚れた身体を拭いていつものように部屋でごろごろしていた。

 自身の考えた案を受け入れてくれたことは大変にありがたいことである。それが軍事力達も賛同してくれれば、実行へと移すことが出来る。

 しかし、謙信は最初に自身の指摘を笑った。おそらくは「お前に言われたくない」というような皮肉があったからだろう。

 謙信が己に厳しいことは分かる。今回のことも敢えて、自らを厳しい立場に置いて試したかったことも承知した。

 龍兵衛は平成の心からまだ抜けていない面もある。それが民と武士との間に自然に出来てしまう壁を疑問に思い、平気でそれを通り越すところだ。

 謙信という素晴らしい国主ともあろう御方が民を巻き添えにするようなことをしてはならない筈。それを咎める為にあのような諫言をした。

 しかし、返ってきたのは笑い。意味が分からない。何か考えがあるのは分かるし、謙信が今回だけでもう終わりにすることは分かっている。

 あの時、何故笑ったのか聞かなかったのは衝撃が強く、後から聞こうにも謙信はすぐに城内に消えて行ってしまった為にタイミングというのが無くなってしまったからだ。

 今更、聞きに行くのは憚られる気がするし、また笑われるのは彼の中にある自尊心が許さない。

 気晴らしにと思い、戸棚から尺八を取り出してゆっくりと小さな音色を吹き始めた。

 今、龍兵衛は向けられる笑みをかつてのようにからかわれているという幻覚と自意識過剰から脱却してはいたが、謙信の笑みはそれを思い出させるようなものであった。

 不快になった訳ではない。ただ、何故そのマイナスなものが蘇ってきたのかが分からなかった。未だに完全な心の回復が出来ていないからということは分かっている。そして、その根本的な原因も知っている。

 虐げられることから逃れる為に生きてきた故に己を見返すことが出来ず、未だに知らぬからだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百〇六話 君は百万石の為に死ねるか?

 ちらりちらりと降る雪さえも 積もり積もりて深くなる

 

 越後と東北の場合は『ちらり』を『どさり』に変えた方が正しい。

 人の動きも閉ざされる冬。それは竜が翼を休める時と捉えることも出来るだろう。

 翼を休めた竜はこれから東北を席巻するべく早春の風と共に舞い上がる。

 

 

 

 

 出ることさえも憚られるような冬の雪も大分解け、人の移動も可能になり、謙信はすぐに立ち上がった。

 葛西を平らげ、高水寺斯波を倒す。そして、南部を下す為に動くのだ。

 西と南へと向かう為の下準備を終える時をこの時と見定め、軍師や将も反対せずに満場一致での決断だった。

 謙信が東北へ出陣する前日、龍兵衛は居残り組の代表として謙信の下を訪れ、政治のことについて詰めの話し合いを行っていた。

 この戦では謙信以下慶次と加地春綱、千坂景親を連れ立って行く。

 黒川清実を連れて行く案も出たが、ころころと任所を変えると不満が出るという龍兵衛が懸念を示した為に没になった。

 これは中条と黒川の対立をいくら謙信の信頼が篤いとはいえ清実よりも年下の弥太郎と二人よりも若年の兼続となおかつ外様である龍兵衛とでは自身の留守の間に揉め事を起こされては処理に面倒な時間を割くかもしれない。

 景資は年は若干離れているとはいえ、若い軍師達の力量を認めている為に些細なことでは怒りはしないだろうと考えてのことである。

 春綱は前から決めていた東北のことについて甘粕長重と共に取り仕切ることを実行に移す為に同行する。土着意識が強い揚北衆の中で春綱を外に出すということは越後全土の実権を謙信が握ろうとしている前兆と揚北衆から不安の声が上がっていたが、中条景資と本庄実及が謙信の意見を支持した為に渋々首を縦に振るしかなかった。

 だが、領地を与えなければならないことも事実で、不満を無くす為に無いものを与えることも必要である。

 金を与えれば人はゆとりを得ることが出来る。領地を与えれば人は力を得ることが出来る。その力をどれだけ伸ばすかによって上杉譜代の家臣として家中に影響力を持つことが出来るか。

 上杉には家中の力というものには興味を持つ者はほとんどいないが、武人が多い故に武勲で得た領地を巡って対立することもある。

 加地は今のところはそういったことは無いとはいえ、面倒な揉め事を持っている者。例えば、中条と黒川、大熊と本庄、かれらからすると明日は我が身と思うようになり、それなりの恐怖を植え付けることも出来る。

 

「長重は上田に向かい、北条への警戒を任せ、実及を実質上の一番にさせ、春日山にて景勝の補佐をさせる。他に何か付け足すことはあるか?」

「いえ、特には・・・・・・」

 

 雪解けが終わり、春がやってくる季節。もはや、東北の趨勢は決まっているにもかかわらず、未だに抗う葛西と高水寺斯波の両家を滅ぼし、西へ南へ進む。

 安東の残党は愛季が自ら先頭に立ち、未練を振り払うかのような素晴らしい武勇を見せ付け、弟の茂季を討ち取った。

 

「南部が未だに言ってこない。だが、腹の内は間違いなく投降だろう。しかし、家中には未だに火種が存在し、なかなか使者を出すことが出来ないだけだ」

「勝手にやらせておきましょう。と、言いたいのですが、謙信様はお許し下さらない」

「目の前で言うことではないな。その通りだ。最上と安東には来年の夏に南部の中に介入させるように言ってある」

 

 助けを求める者を捨て置くことはしないという上杉の流儀は決して大きくなろうとも変わることはない。

 

 

 

 

「謙信様」

「何だ? 龍兵衛」

「件のことはいつ頃皆様に? というよりも、誰かにこのことは言いましたか?」

「いや、まだだ。この戦が終わり次第・・・・・・いや、時を見て私の考えを皆に言う」

 

 気になる。ただひたすらに。心の内は留守を任される以上は田植え前には戻ってくるであろう謙信の為に政治を整えなければならないという使命感よりも謙信の言っていた考えというのに気が行ってしまう。

 またとんでもない発想が飛び出てくるとかそういうことではなく、ただ胸騒ぎがするのだ。

 

「気になるか? まぁ、待っていれば分かる」

 

 悪戯っぽい笑みを浮かべる謙信を見て駄目だと悟っり、あっさりと龍兵衛は諦めた。

 謙信は絶対に口を割らない気でいるのだろう。これまで龍兵衛はかなりの回数を重ねて、謙信に問うてきた。しかし、ここまで頑固だと聞くに聞けない。

 一体何を考えているのだろう。そう思いながら悩んでいると謙信は龍兵衛を手で招き寄せる。

 

「その代わりと言ったら何だが・・・・・・大熊の様子を見ていてくれ」

 

 大熊朝秀は上杉の中でも有能な将である。しかし、本庄実及とは常に見えない刀を合わせる仲。

 今回、謙信の代わりに政務を取り仕切ることになった実及のことを快く思っていないことは必須。隙を突いて武装動乱を起こすことも考えられる。

 謙信も前々から気にしていたが、越後を留守にするとますます気になってしまうのだ。

 

「やはり、ですか・・・・・・」

「まだ確証がある訳ではない。しかし、下手に噂が広まると私がいないことを良いことに何かを仕出かす者も出かねない。分かったな?」

 

 真剣な表情で一つ頷くと謙信は「要件はそれまでだ」と龍兵衛に言って、背中を向けた。

 部屋を辞した龍兵衛は人を知らないながらも未だに信頼されていることがただ嬉しいと思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 名生城は冬の間に焼けた本丸も済み、既に兵を駐屯出来るようになっていた。

 謙信達はそこで休みを取ると二日後に出立。親憲達が待つ高清水城に向かった。

 高清水城は高清水直堅によって築かれたと言われ、直堅は大崎氏九代大崎義兼の三男である。

 つまり、高清水城を守っていた高清水直堅は大崎家の縁戚。彼は名生城が落ちた後も彼は抵抗を続けていたが、政宗の義隆は生きているという偽の情報に騙され、うっかり城を出た際に奇襲で城を奪われ、自身も雪で身動きが取れなくなったところを成実に討たれた。

 呆気ない幕切れだったが、高清水城は葛西の領地に向かう為には重要な場所である。本来ならば、国境が最も接していて、葛西の本拠寺池城に近い佐沼城に入りたかったのだが、上杉が大崎の領地を纏めている間に葛西に隙を突かれて佐沼城を奪われた為にやむを得ず高清水城に着陣し、まずは佐沼城を取り返して葛西の本拠地である寺池城を落とすことになった。

 謙信は予め越後で予測を立てていたのと名生城でそのことを迎えに来ていた繁長から聞いていた為に別段驚くことはなく、葛西の最後まで諦めない意地を内心称賛しつつすんなりと頷いて高清水城に入った。

 

「すまない。皆には多大な苦労をかけた」

 

 そして、評定の間に姿を現すと開口一番、謙信は名生城の本丸で頭を下げた。心から東北の未知の土地で冬越えをさせたことを詫びる為だ。

 皆、誰も口を開かずに神妙に謙信の言葉と動作に注目している。

 

「先の戦は我らを戒めるに十分であったと思う。驕りは足元をすくいかねん。それを我らによく分からせた筈だ。私もよく反省した。しかし、我らはこの失態を糧にして、さらに進まねばならぬ。止まることは許されない。良いな?」

『はっ!!』

 

 先程、ここにいない将兵達にもなるべく多くの者達に声を掛けて詫びを入れてきた。申し訳ない気持ちは強い。しかし、自身の中でやむを得ない課題を克服する為にやらねばならないことをしなければならなかった。

 口には出せないが、自分勝手な真似をして申し訳ないという気持ちを一人一人に込めて頭を下げ、丁寧に詫びていた。

 兵達の中で涙を流さない者はいない程に皆が謙信の態度に感激し、将兵達の心を謙信は改めて大きく掴んだ。

 

「親憲、名生城を攻め落とし、その後の統制も抜かりなく行ったこと、聞いている。よくやってくれた」

「ありがたきお言葉」

「官兵衛、景家に繁長、また政宗や盛隆達もよく親憲を補佐してくれた。葛西との戦が終わり次第、皆には功に応じた恩賞を取らす」

『ありがとうございます』

 

 戦功によって得ることが出来る領地は東北の将達、蘆名はまだ佐竹などと領地が隣接しているからともかく伊達にとって次の葛西攻め以降、あまり加増は期待出来ない。

 大崎との戦の際に貰った領地は十分だったが、上杉の下で欲しいのはさらにそれ以上の領地。

 ふつふつと煮えている心の内は煮えたぎっている。上杉傘下の大名の中での最大領地及び石高保有の為、葛西との戦いは伊達にとって正に正念場である。

 戦に負けて降伏した訳ではない為にいくらか領地を献上したとはいえ傘下の大名の中でも伊達は最も大きい勢力であることは事実。

 さらに次の戦で功を立てて、さらに領地を頂きたい。たとえ危険視されても背に腹は変えられないのだ。

 

 

 

 

 評定を終えるとしばらく謙信は上杉の上層部と改めて詳細な戦略を話し合い、それが終わるとすっかり夜になっていた。

 謙信は、皆がいなくなったのを見計らって外に出た。

 しかし、先客がいた。

 

「どうも」

「ふむ・・・・・・今日は一人で飲もうと思ったのだが」

「戦前に酒とは殊勝なことですね」

「ふふっ、嫌味ではなく、素直に飲みたいと言えば良いものを」

 

 謙信は本心をずばり当てられて膨れながらも杯を取りに行く政宗を見ると面白いと思った。

 悪くないへそ曲がりだが、もう少しじゃじゃ馬なところを直すことは出来ないのだろうかと呆れてしまう。しかし、そこが嫌いになれないところでもある。

 政宗が持ってきた杯には謙信が密かに持ってきていた好んで飲んでいる愛染明王を祀った寺で清められた水が注がれる。一度お互いに掲げてそれを飲み干すと後はお互いのペースの手酌で会話が始まった。

 

「随分と将兵達を懐かせたようで」

「人聞きの悪い言い方をするな。心底、私は反省したのだぞ」

 

 実際、冬の間に謙信は一人で随分と悩んでいた。本当にあのような決断をしてしかも、民までも巻き込んでしまったことに間違いはないかずっと頭を抱えてきた。

 批判的な意見も数人から出たが、民達からは仕方ないことだと許されたおかげで少しばかり心の内が楽になった。

 しかし、それが本当に民のん総意であるのかと考えると謙信も首を捻る。単に謙信の前だからそう言えて、裏ではそうではないかもしれない。

 気になるものは気になって仕方がない。謙信がそう言うと政宗は何故か意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「嬉しいことに、どうやら私はあの苦しみと怒りを味わうことは無さそうです」

「嫌な言い方をする。本来は天下に羽ばたく竜となろうとしていただろうに」

 

 竜と呼ばれる者同士、天に舞うことを夢見た執念は政宗の方がおそらく強いだろう。だから、最上との戦いの際、第三勢力として乱入してきたのが良い例だ。

 

「ふっ、確かにそうかもしれない。だが、貴殿が最後まで天下を見ようとするのであれば、私は羽ばたく竜の役目、謙信殿に譲る所存」

 

 政宗は戦前の春日山での会談で確信した。天下を取る器、謙信と己とではどちらが近く、大きいか。答えは謙信である。

 優し過ぎる程、優しいところもあるが、それは謙信の中で常に計算されていること。自身の下に入れ込める者であれば惜しみなく入れ込む大きい器が謙信にはある。政宗はそう思った。

 自分は謙信同様に主君の立場故に分かっていたが、今までは、何故謙信の家臣が謙信を甘いと思わずに近い間柄でも敬愛しているのか疑問を抱くこともあった。だが、謙信の中にある大きな器、それが彼女に引き寄せられる原因なのだと分かった時、謙信の家臣達もその器に魅せられて入っていったのだ。

 

「本当にそれだけか?」

「どういうことだ?」

「お前が裏切らないのは分かる。しかし、お前の中にある心は上杉の下で・・・・・・いや、異にして何かを成そうとしていないか?」

 

 正しくその通りである。このことは誰にも言っていない。先程、信頼出来る軍師、景綱にも綱元と共に会ったが、時期尚早と考えて、敢えて口にはしなかった。

 葛西との戦が始まる頃に伊達の者達を集めてこのことをかれらに伝えて将達の士気を盛り上げる為にも使おうと思っていたことが謙信には簡単にばれていた。

 

「さて、何のことでしょう?」

 

 しかし、そこを素直に「はいそうです」と言えないのが政宗の性格である。とぼけていれば、どうにかなる相手ではないと分かっていながらにそうすることが出来るのは実に政宗らしいと伊達の者が見たら言うだろう。

 

「欲しいものは与えよう。懐が許す限りな」

 

 謙信は笑っているが、目が笑っていないのが分かる。政宗は何を言ってくるのか分からないからと知っているからだろう。

 

「では、そうしてもらおう」

 

 だが、政宗もここで怯んで言わない訳にはいかない。謙信に対して政宗は自身の要望を言い出した。

 

 聞き終えた謙信はまず大きな溜め息が出てきた。

 

「(なるほど・・・・・・輝宗殿が苦労する訳だ)」

 

 政宗の要望は大崎を滅ぼした今、上杉と伊達、蘆名で領地を改めることになるのは必定。さらに葛西や高水寺を取るならばさらに領地は広がる。

 欲しいものは何か。素直に政宗は言った。領地だと。

 

「それらを全て手に入れて、伊達が領有するのはざっと計算すると・・・・・・百万石か?」

「左様。あくまでも自分の中にある思い故、このことは忘れて頂きたく」

「ならぬ」

 

 にやりと笑う政宗に対して真顔できっぱりと謙信は拒絶した。

 当然のことだ。傘下に降った大名から領地を搾取しているとはいえ、東北は土地が痩せている為、未だに直轄地が下手をすれば二百万石を超えるか超えないか程で此度の戦の後に得る領地を頭数に入れても三百万石には届かない。

 そこに百万石をくれというのは土台無理な話だ。謙信から冷めた刀のような背筋が凍る視線が送られる。しかし、政宗は怯まない。

 

「今すぐにとは思っていない。しかし、後々には欲しいと・・・・・・」

「物欲の塊か、お前は」

 

 懲りもしない奴だと呆れる謙信を見て政宗はしてやったりと笑みをこぼす。だが、謙信も折れている訳ではないと分かっていた。

 上杉の下にあらゆる力を集結させ、諸大名に恩義を着せる程度を見定め、与えるやり方に誰かが突出したという考えは謙信にはない。

 しかし、諦めないのは政宗も同じ。さらに政宗は続ける。

 

「見せて良い欲とならぬ欲。二つを私は上手く分けているだけだ」

「結構だ。そうでなくては天下など取れない」

「まるで、私がいずれは天下を横取りすると決め付けるような言い方だな」

 

 徐々に政宗の言葉が不遜なものに変わっていく。

 しかし、謙信はこのようなことに怒りを抱くような性格ではないし、この政宗の態度が逆に面白いと思えてしまっている。

 相手は自分を試している。何度も分からせているにもかかわらず、その都度試し、いざという時に己が立とうとする気概を持っている。

 裏切ることを許容する訳ではないが、何故か政宗だけは別に良いのではないかと思うように謙信はなっていた。

 

「ならば聞こう。百万石を貰い、その地を如何する?」

「天下の覇者となる上杉へのささやかな反抗へと」 

「・・・・・・その言葉、そのまま受け取っても良いか?」

 

 政宗は真剣な表情で刀に手を当てる謙信に笑いながらひらひらと手を振る。

 冗談にしては過ぎるが、それぐらいの冗談を言わなければ謙信は折れないと見たからだろう。確かに謙信はそのつもりだった。

 だが、すぐに真剣な表情を収めて、何度も聞いたような呆れた溜め息を吐く。

 

「上杉に次ぐは伊達である。それを天下に知らしめ、陸奥に再び栄華を戻すこと。これが私の理想だ」

「奥州藤原氏の道を修復させ、源頼朝公の時のように脅威として上杉の下で生きると?」

「解釈は謙信殿にお任せする。しかし、これだけは言おう・・・・・・」

 

 謙信はここで目の前の人物はさも天下を取ったかのような物言いで自身に話しかけていることに気付いた。

 先程、言った『天下の覇者』とは言葉の綾だと思ったが、違う。政宗は謙信を天下人として見ている。

 確かに謙信の最終目標は天下の統一である。しかし、脅威はまだ多い。特に北条や織田といったこれから先戦うことは否めない勢力は侮れない。そして、謙信が最も警戒するのは武田。

 弱体化したとはいえ、それでも体制を維持出来ているのは信玄という大黒柱が生きているからこそ。

 

「お前は気が早い」

 

 政宗がさらに何か言おうとするのを見て話を折ると咎めるように厳しい口調で彼女の目を見る。

 揺るぎない真っ直ぐな目だ。

 

「そんなことはない。古来より竜は一頭で動くもの。しかし、この場には二頭の竜がいる」

 

 ならば、天下を領することなど容易い筈。謙信と政宗、互いに人であることに変わりはない。故に天は試練を与え続けるだろう。

 しかし、竜はそれをも乗り越え、さらに羽ばたいて飛び回る。

 政宗は夢想を言っているのではなく、なかなかはっきりとは言わない本心よりそう言っている。

 

「上杉家外様の中で筆頭の地位は我ら伊達が必ずものにする」

 

 懲りもせずにまた天下を見据えるような物言いを続ける。

 

「確信があるのか?」

 

 上杉が天下を取るという確信があるからこそ政宗は言っている。しかし、謙信にはそのような確信はない。持ってはいけない。

 驕りは足を引っ張り、他者を己から引き離す。上に立つ者は如何に状勢が定まろうとも決して決め付けることなく、最後の報告が入るまで気を抜いてはならない。

 分かっている筈なのに政宗は簡単にそれを無視してきた。

 

「ある」

「何故?」

「私が貴殿を認めたからだ」

「無茶苦茶な・・・・・・」

 

 聞いてみようと少し期待してみた自分が馬鹿だった。謙信は自身の心がへし折られた期待を捨てて、大事なことをなかなか言わない政宗に自身の寛大な心にも少しずつ陰りが見え始めたことが分かった。

 政宗はかたかたと震える謙信の肩を見て、苦笑いを浮かべると両手を拳にして床に付け、頭を深々と下げた。

 

「この伊達政宗、上杉の下で果たすことを成す為に全力を尽くす所存」

 

 謙信の心がぷつりと音を立てた。しかし、怒りは湧いてこない。寛大な心が消えた瞬間に謙信は何故か胸がすっきりと晴れたように感じた。

 実に愉快だった。すこぶる愉快になった。笑い声が夜の縁側に響き渡る。

 

「お前がへそ曲がりでひねくれ者だと輝宗殿から聞いていたが、これほどとはなぁ」

「あのお喋り・・・・・・」

「怒るな怒るな。しかし、実に愉快だ」

 

 不思議な感覚だが、楽しい。

 膨れっ面の政宗を横目に謙信は笑いが収まらないまま、水を自身の杯に注ぐとぐっと政宗に差し出した。

 

「お前は働くか?」

 

 真の目的は聞かないでおく。欲しいというならいずれはくれてやろう。しかし、代価として日の本を平和にする為に、民を平穏に帰す為に。いざとなれば自身を汚すことが出来るか。そして、最後まで上杉の下にいるか。

 

「民を思い、辺境の地より天下に羽ばたく竜となる意志は互いに同じ・・・・・・だが、謙信殿の方が器が広く、私は負けた」

 

 故に、譲ることにする。上杉が揺らがぬ限り、伊達も上杉に対して揺るがぬ思いで支える。伊達は上杉を信じる。

 謙信も政宗も互いに互いが全てを語らずとも理解をしてくれたことに喜び、互いに口元を少し緩めると謙信が差し出した杯を政宗は両手で受け取った。

 そして、政宗が謙信の杯に水を注ぎ、互いに高々と掲げる。

 

「我ら竜と呼ばれる者として・・・・・・」

「天に羽ばたき、行を成さん・・・・・・」

 

 映える月は三日月の夜。舞うべき竜は天に上がろうが、地に堕ちようが、共にあることを願わん。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百〇七話 杏が咲いた

 謙信が自ら葛西討伐に向かったという知らせはすぐに晴信と家臣団に伝えられた。

 佐沼城を取り、上杉の出鼻を挫いたとはいえ、葛西と上杉は数では圧倒的な差がある。 

 冬の間に上杉は大崎の領地を立て直せるだけ立て直して民心の掌握に努めてきたという報告を間者からも聞いている。

 潜伏していた大崎の重臣、一栗高春も残党狩りに遭い、殺されたという報告も上がってきており、上杉はこの戦で葛西と高水寺斯波を下す構えを示している。

 しかし、上杉にも弱点があると葛西の重臣、大原守重と千葉広綱は考えていた。 

 数の上では上杉は約八千。その内訳は伊達が主力で上杉はその次の数。実際に最たる軍事力を持っているのは伊達軍である。

 目の付けどころは正しい。間違いなく敵は一つの疑念を持ち込んでしまえばそれで崩れる可能性が高い。

 

「さて、後は鹿ヶ城で上杉を足止めしている間に斯波殿は動いて下さるかどうか・・・・・・」

 

 上杉の到来が迫り、戦の準備に人々が右往左往している慌ただしい寺池城の中を廊下を守重と広綱は平然と慌てることなく並んで歩いている。

 その築城時、城の守護として城内に鹿を生き埋めにしたという。この城の別名を鹿ヶ城というのはそのことにちなんでいる。

 広綱はかつては葛西が築城したにもかかわらず、大崎に奪われた悔しさと伝統を重んじる性格も相まって常に佐沼城を鹿ヶ城と呼んでいる。

 そこで時間を稼ぎ、戦況を長引かせた上で上杉に間者を送り込んで疑念を抱かせつつ、改めて同盟を組んだ高水寺斯波の援軍を待って一挙に押し返す。

 しかし、葛西にも拭い切れない不安材料があった。

 斯波は先の戦で勝手に撤退した稗貫を討伐することで頭が一杯。しかも、その背後にて南部が影をちらりちらりと見せている。

 和賀も先の戦で大崎に最後まで付き合い、叩きのめされ、這々の体でどうにか退却出来たものの完全に弱体化してしまい、もはや戦力にもならない。

 かく言う葛西も稗貫同様にあまり戦わずに撤退した為、既に解決はしているが、斯波からも一時期不信感を持たれた。

 要はどちらも不安材料は持っているのである。その中で上杉の方が数は上。有利なのは上杉である。

 それでも、佐沼城がこちらの手中にある限りはまだ抵抗は出来ると葛西家全体では考えていた。

 

「大丈夫だろう。斯波殿のお力ならばすぐに稗貫も滅ぶ。さすれば、我らに援軍が来て地の利のある我らに勝利は間違いない」

 

 守重は広綱の不安を除去するように努めて明るい声を出しながら並んで歩く。

 斯波と稗貫の力の差はそれほど大きい訳ではないが、先年に南部晴政とその嫡男で第二十五代当主、晴継が相次いで死去し、南部一族で家督相続を巡り内輪争いが起こると、斯波家当主、詮直は奪われていた岩手郡にすかさず侵攻し奪還した。

 頼みの南部が上杉に対して静観の構えを見せている為、状況的に見ると稗貫はもはや風前の灯。援軍の保障はない。

 

「南部には動く気配が無く、斯波殿も背後に影があるとはいえ躊躇わずに稗貫に攻め込むでしょう」

 

 すると、背後から走っている足音が聞こえてきた。

 振り返ると息も絶え絶えになっている兵がぼろぼろの格好で二人の姿を認めると膝を折り、二人がその姿についての疑問を述べるよりも先に声を出した。

 

「申し上げます! 佐沼城、陥落致しました!」

「何!?」 

 

 佐沼城は城の北側と東側は迫川が流れ、西側は湿地によって画され、北西側は西から伸びる丘陵と深い沢によって切り離されており、わずかに南側のみが地続きとなっている天然の要害である。

 しかも、佐沼城は元々葛西家に属する城であった。攻め手が逆から来ようとも簡単に落ちるような城ではない。

 

「大和田殿は如何なされた?」

「討たれた由にございます・・・・・・」

 

 呆気ない幕切れとなった。大和田掃部は元は浜田城城主だが、この上杉侵攻に備えて前線へと派遣された。葛西の中でも決して凡庸な将ではない。

 どのようにして討たれたのか。

 力攻めという可能性も否定出来ないが、戦はまだ序盤といったところ。最初から犠牲を払うことを覚悟で攻めることは考えられない。

 

「私が聞いた話では、伊達の奇襲にあったと」

 

 やはりと言うべきかそれを否定するように兵は力攻めの可能性を気付かない内に消してくれた。

 だが、掃部は何度も大崎と戦ってきた百戦錬磨の将。警戒を怠るような人物ではない。にもかかわらず、奇襲を受けた。

 

「して、どこから敵は現れたのだ?」

「分かりませぬ」

 

 少し考えてから思い出したようにはっとして聞く守重の問いに答えられないことに申し訳なさそうにする報告に来た兵を下げさせると二人はこのことを晴信に伝える前に部屋で話すことにした。

 

「何も分からないまま佐沼城が落ちるとは・・・・・・実に妙なことだと思いませぬか?」

 

 重苦しい雰囲気のまま部屋に入って座るなり、口火を切ったのは守重だった。

 佐沼城は簡単に落ちるような城ではないことは何度言おうとも変わることはない。

 故にこのような呆気ない佐沼城の幕切れには不思議としか言えないのだ。兵の報告を蔑ろにする程、二人共腐っていない。しかし、今回ばかりはおかしい点が多すぎる。

 何故、上杉は佐沼城を簡単に三日で落としてしまったのか。

 何故、上杉は何処から奇襲を行ったのかどうやって情報が掴めない不明な程に隠密かつ迅速に落としたのか。

 何故、大和田掃部はその動向を知らない内に襲われたのか。

 大きな疑問の内から導き出せる答えは簡単である。しかし、決して信じたくないものでもある。

 

「誰か内通者がおりますな」

「やはり、結論はそこに行きますか・・・・・・」

 

 二人は佐沼城の中にいると考えるのが妥当だと思ったが、ここでまた疑問が出来る。 

 誰が裏切ったのかが分からない。だが、いなければこれほど早く佐沼城が落ちるということはない。

 つまり、佐沼城の中にいたとして密かに上杉の下に潜り込んだのか、それとも外に首謀者がいて佐沼城陥落の際にどこかへ消えたのか。

 前者はまだ対応の仕様があるが、後者となると情報がどこから上杉に漏れるのか分からなくなる為、面倒なことになる。

 それがはっきりしない状況では誰かを疑わなければならない。

 

「冗談としてお聞き下され。まさか、貴殿ではないでしょうな?」

「まさか、我らは決して晴信様を裏切るようなことは致すまい」

「左様。だが、他の者はどうやら・・・・・・」

 

 上杉に対する気苦労からか白髪が若干増えてきた髪の毛をさすりながら守重は広綱の言葉を聞いて真剣に考える。

 考えたくないが、葛西の中に裏切り者がいるとしか考えられない。

 上杉は大崎の家臣の一部を召し抱えたとはいえ、佐沼城はその上を行く堅牢さを誇っている。

 

「晴信様にはお伝えした方が良いな」

「うむ・・・・・・」

 

 二人は苦い顔を崩さずにすぐに立ち上がると晴信の下に大急ぎで向かい、事の仔細を説明した。

 

「この顛末はおそらく内通者の手引きによるものとしか考えられませぬ」

「じゃあ、早く皆に言わないと!」

「お待ち下され。今、皆方に仰ってしまえば、これからに影響を及ぼしかねませぬ」

 

 守重の説明を聞き終えた晴信は顔色を変えてがばっと立ち上がったが、広綱はそれを冷静に諫める。

 これから戦が始まる以上、不穏物資は取り除いておくべきである。だが、公にしてそれを行えば、間違いなく情報が錯綜し、誰が善で誰が悪なのかも分からなくなる。

 

「このことは隠密に行う必要があります。晴信様、決して口外なさいますな」

「で、でも・・・・・・」

「晴信様、我らも心苦しいのです。しかし、今は堪えて下され」

 

 広綱・守重の順に説得され、深々と頭を下げられては晴信も無碍には出来ない。

 広綱は家臣中でも最も大きな所領を持ち、守重は国を二つに割りかねない事件を上手く処理してみせた長い間、葛西を支えてきた重臣。

 二人が決して私欲の為にこのことを上申してきた訳ではないということは分かっている。

 

「・・・・・・分かった。二人で頑張って裏切った人を見つけて」

「「はっ!」」

 

 晴信の心は複雑だったが、いることは仕方ないとすぐに切り替えた。

 元々のさっぱりした性格もそうだが、晴信を始めとする歴代の当主が一族内の内紛や大崎氏との抗争に明け暮れてきたこともあって外からの脅威には大崎よりも疎かになっていたことは重々承知していた。

 だからといって簡単には負けることはしないつもりだ。

 宿敵であろうと大崎義隆の無念を思えば、自身は未だに生きている。不仲になって勝手に撤退したことは今となっては過去のこと。うじうじしていたところで変わることはない。

 裏切り者がいるということは上杉は既に寺池城にも手を伸ばしていると考えられる。間者が潜り込んでいることを考えるともしかしたら口を閉ざしてもその者が噂を広めるかもしれない。

 こちらが上杉の内部を崩そうとしているのに既に先手を取られていたということだ。

 あの二人に任せておくこと以外にも手を打っておく必要がある。間者を探すこともそうだが、斯波の援軍も早めることで体勢を保つことも必要だ。

 晴信はすぐに家人を呼び、斯波へと使者を派遣することにした。

 

 

 

 

 

 謙信は佐沼城に入るとすぐに状況の確認を急ぐように指示を出した。

 佐沼城陥落は大和田掃部の配下の怠惰のせいだった。

 当初、謙信は速攻での決着を望み、佐沼城はあまり落とすことは考えていなかった。ここに入られては下手をすれば数ヶ月は籠城されてしまい、田植えに間に合わなくなってしまう。

 しかし、それでも攻めないという姿勢を見せてはいつ背後を突かれるか分からない。

  佐沼城は南側に位置する大門が中門を経由して本丸大手に至っている。他の堀には水路が張ってある為、そこしか道はない。上杉はその道を通らずに一気に寺池城を目指そうという動きをしただけで掃部は何故か油断したらしく、警戒を解いてしまった。

 それが前もって城の普請の際に下働きに扮して潜入していた間者の目に止まり、あっさりと外の上杉軍へとそのことが漏れてしまった。

 罠の可能性も考えたが、政宗が伊達が「人柱にならん」と突撃を試みた。

 伊達の中からも反対の意見が多く出たにもかかわらず、政宗は突入を強行した。するとどうであろうか。佐沼城に入っていた大和田掃部は油断しきっていていきなり襲来した伊達軍に成す術も無く敗れた。

 疑問が残る勝利だったが、勝利は勝利である。謙信は佐沼城に入ると周辺に伏兵がいないか徹底的に確認させた。

 それでも何も出てこなかった為に伊達軍の大半に二ッ木城を落として寺池城への補給路を断つことにした。

 それが六日前のことである。

 

「報告。鬼庭綱元様、長江勝景を討ち取った由にございます」

「ほう、さすがは鬼の片割れといったところか」

 

「これぐらいやって当然だ」とふんぞり返る一方で、娘が褒められて満更でも無さそうな左月を横目に謙信は次にやってきた報告に耳を傾ける。

 

「申し上げます。二ッ木城、陥落致しました」

 

 こちらもまた早い。かの城は政宗に任せておいた。規模が大きいとはいえ、要害性は極めて低い城だが、葛西に上杉の脅威を知らしめる為に見せしめとして行った威圧である。それにしても、かなりの早さである。

 伊達の機動力が高いことは有名であったが、これほどまでに迅速に動く軍はなかなかいないだろう。

 

「(それから百万石の為かな?)」

 

 政宗のことだ。確約してしまった以上、伊達の重臣達に思いっ切り宣伝して士気を上げようとしたのだろう。それに乗っかって戦功を立てた者達もまた百万石の為に動いているとすると実におかしい。

 内心でそっと笑いながら謙信は未だに二ッ木城の陥落を報告してきた兵が去らないのを見て、訝しげに尋ねる。

 

「伊達様は降伏した二ッ木城の主である二木三五郎を殺したと」

「政宗のことだ、何か訳があるではないか?」

「それが・・・・・・」

 

 清水信晴という人物が葛西晴信の指示を伝えに二ッ木城に来ていたらしい。

 三五郎は投降する際、このことが葛西に漏れることを恐れて信晴の寝込みを襲ったらしい。そして、翌朝に城門を開けた。

 そのことに政宗は不忠だと憤り、三五郎を殺めたということだ。

 佐沼城の一切は、政宗に一任したとはいえ、このことは謙信へのお伺いを立ててから行うべきではなかったのか。

 

「ふむ・・・・・・つまりは政宗の行いが勝手過ぎるのではないかと」

「僭越ながら・・・・・・申し訳ありません」

「よい、意見は様々な所から出る方が参考になる」

 

 この兵だけではなく、様々な将兵がそう思っているということだ。

 信晴という人物の方が葛西の中での地位は上なのだろう。だからこそ、三五郎という者は政宗に降る前に信晴を殺した。

 しかし、政宗が許さなかった理由も分からなくもない。

 政宗は三五郎に寝返りを煽った訳でもなく、二ッ木城にて一戦交えた訳でもないらしい。つまり、三五郎が降ったのは己自身の身を守り、主家が危うくなったら斬り捨ててでも生きようとする者を生かしておいてはいつ寝首をかかれるか分からないということだ。

 三五郎という者がどのような人物なのか、謙信には分からない。

 一応、兵に聞いてみると案の定、あまり好印象を持つような人物ではなかったという月並みな言葉が返ってきた。

 謙信は兵を下げさせて周りを見る。

 ここにいるのは謙信を含めた颯馬・慶次・春綱・左月の五人である。後は兵を纏める為に佐沼城のほうほうに散っている。

 すかさず左月が頭を下げた。

 

「申し訳ござらん」 

  

 自分が付いて行っていればこのことは防げただろう。その思いも入っていることは謙信以下全員にも伝わる。

 

「よい、別に咎めるつもりはない。責があるとすれば、この私にある。何せ、佐沼城のことを任せたのは私なのだからな」

 

 再び左月は深く頭を下げた。ありがたいとは口には出すことはない。本音を出さないところは政宗と似ている。その辺は伊達の家風なのだろう。

 謙信は笑ってしまいそうなのを堪えながら表情を引き締め直し、皆を見る。

 

「このことは不問に付す。左月は伊達の本隊と合流し、未だに抵抗する城を落とすように伝えよ」

「承知!」

 

 駆け出す左月の背中を見て謙信は内心最近芽生えてきた悪い笑みを浮かべた。

 ここまでの過程は全て謙信の予想通りだった。政宗は先のことで血気に逸っている。それでも、身の丈を越えるような暴挙を行うようなことはしない。これは決して勝手な行いでもない。

 政宗には政宗なりの仁義もある。調略に応じた訳でもなく、一戦交えた訳でもなく、ただ怖いから降伏したことが政宗の仁義が許さなかったのだろう。

 一方で何となくだが、もう一つ訳があるのではないかという考えもあった。百万石の為に少しでもその土地の領有者を除こうとしているのではないか。

 それが確かでも、謙信はやはり三五郎を斬ったことに何か勝手な行動をしたという理由で政宗を咎めるつもりはない。

 かつての自分と今の自分。正義の為に突っ走ってきた自分と欲というものを覚えて双方を使うようになった自分。

 どちらの自分もおそらく政宗の立場に立ってみれば三五郎を殺しただろうから。

 故に、何となくだが、政宗は多少のことも咎めていくだろうという予測が付いた。

 

「(まだ若いな・・・・・・)」

 

 年寄りくさいことを言っている自分に思わず笑ってしまいそうになる。

 謙信は政宗よりは年上だが、輝宗達よりは年下である。しかし、景勝という娘がいることで少しばかりの母性が身に付いたのだろう。

 そう思いながらも謙信は表情を緩めずに寺池城を落とす為の策を練り始めた。

 

 

 

 

 

「・・・・・・という訳だが、どう思う?」

 

 早速、その日の夜に颯馬を呼び出して謙信は昼間に思っていたことを聞いてみた。

 

「うーん、やっぱり紛いなりにも子供を持つとそうなるんじゃないか?」

「ふむ・・・・・・やはりそうか」

 

 真剣に考える謙信を見ると自然と颯馬にも笑みがこぼれる。普段なら決して年齢のことについて気にすることはなかった筈なのに急に気になり出すのだがら、気紛れも良いところである。

 おそらく春日山に戻った頃、それよりも前にひょっとすると忘れているかもしれない。

 普段は凛として皆に隙を見せないようにしつつ敬愛をされながらも決して近寄り難い雰囲気を出さずに皆と楽しそうにしている謙信だが、案外君主という仮面を取って人間としての謙信は抜けているところもあるのが面白い。

 そして、それを独占しているということが颯馬に若干の優越感をもたらせていた。

 

「それにしても、この城はあっけなかったな」

「ああ、それが最後まであっけなかったから逆に変だ」

 

 話題が一気にがらっと変わっていくこともまた謙信らしいと思いながらも本当に思ったことを言う。

 皆が変だと思っているに違いない。しかし、それが現実なのだからおかしい。

 

「向こうには疑惑を生んだかもな」

 

 それは敵にも言えることだ。これが本当だとすると間違いなく葛西は佐沼城陥落の原因が何なのか探るだろう。

 謙信は仕事の顔に変わって颯馬に命じた。いつものように汚れた仕事を配下に押し付けるということに罪悪感を抱きながら。

 

「仔細は任せる」

「御意のままに・・・・・・それから、寺池城を落とした後はどうする?」

 

 葛西を落としたら必ず高水寺斯波との戦は必定。佐沼城を落としたことで時を稼いで斯波の援軍を待つという策を根本から覆した以上、上杉も対斯波への戦の戦略を根本から変えなければならない。

 

「その場その場ではいかん。何か策はあるか?」

「もちろん。斯波については既に情報が入っております」

 

 颯馬は謙信に近付くと耳元で囁くように策の全容を説明する。

 一度も言葉を挟むことなく謙信は相槌を打ちながら聞き終えると満足そうに頷いて仕事の顔から私の顔に逆戻りした。

 

「さすが颯馬だな・・・・・・んっ・・・・・・」

 

 不意に謙信は颯馬に口を付けた。軽いものだったが、颯馬を驚かせるには十分過ぎるものだった。

 

「こら、いきなり・・・・・・」

「良いではないか。このところ互いに忙しかったのだしこれぐらい構わ・・・・・・誰だ!?」

 

 謙信が甘えるように肩を寄せようとした途端、草村から風もないのに音がした。武に通じる謙信の気に触れ、すかさず刀に手を当てる。しかし、それは未遂に終わった。

 

「にゃー」

「・・・・・・なんだ、猫か」

「良かった・・・・・・」 

 

 謙信は毒気が抜かれたように込めていた気を抜き、颯馬は心の声が漏れた。

 そして、二人して心底から出てきた安堵の溜め息を大きく出すともう一度、今度は先程よりも熱い口付けを互いに求め合うように重ねた。

 

「さ・・・・・・明日も早い。今日はもう寝るとしよう」

「そうだな。何だか謙信と離れるのは名残惜しいけど」

「それは私もだ・・・・・・春日山に帰ったら、な・・・・・・」

「ああ・・・・・・」

 

 そう言うと互いにまた唇を重ね合った。戦というものの恐ろしさを忘れるかのように。長く、名残惜しいという雰囲気を二人は月明かりの下で眩い光を与えていた。

 

 

 

 二人が去った後。先程、謙信が警戒した草村からがさっと音を立てて青い服を着て、豊満な肉体をぎりぎりのところまでさらけ出している一人の女性が出てきた。

 

「はぁ、あっぶなっ~」

 

 二人の睦み合いを覗こうとして誤って音を立ててしまい、慌てて最近覚えた猫の鳴き真似でどうにか乗り切った。

 先程の溜め息は安堵の溜め息と緊張して出すことの出来なかった溜め込んだ息を吐き出す為の溜め息である。

 

「ふひひひ、あたしの鳴き真似も大分様になったってことねぇ」

 

 練習した甲斐があったというものだ。これからはもっと観察しよう。

 影から女性は悪戯の標的を見付けた猿のような笑みを浮かべて嬉しそうに立ち去って行った。




杏の花言葉には疑惑という意味があるそうです


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百〇八話 丁か半か

 寺池城の城内は半ば色めき立ってきた。佐沼城の陥落は葛西の将兵に驚愕と疑念を持たせ、裏切り者がいるのではないかという思いを嫌でも植え付けた。

 千葉広綱と大原守重に密かに内通者を捕らえるようにと命じた晴信の心境にも疑いという感情が少しずつ、はっきりと見えるようになってきた。

 だが、今更裏切り者が出たとしても冷静に考えればさほど驚くことはない。

 葛西が戦国大名へとなれなかったのは葛西独特の統治方法によって完全に上に立つということが出来なかったからであり、それから脱却する為の改革が晴信を含めた歴代の当主が反乱を恐れて実行することが出来なかった為である。

 後悔するような性格ではない晴信だが、少しだけ今は悔しさが疑念と共に心に芽生えていた。

 やはり及川騒動による及川一族の反乱によって内憂を処理する時間に追われて最後まで大崎との雌雄を決することが出来なかったこと。それに尽きる。

 かれらをさっさと退治することが出来なかったのは葛西の中でも最も大きな汚点と痛手を残すことになった。

 それでも晴信はうじうじと後悔することなく次の段階へと進んだ。しかし、及川一族の反乱に費やした犠牲を取り戻すことは最後まで出来なかった。

 

「って、最後じゃない!」

 

 不吉な思考に行っていたことを自覚して頭をぶんぶんと大きく振って思考を弾き出す。

 上杉の東北への侵攻を蘆名も伊達も最上も防ぐことが出来なかった。しかし、葛西が出来れば天下にその名を上げることが出来る。

 なかなか城内の士気が上がらないが、結んだばかりの斯波との同盟のこともある。

 易々と破棄してしまうことは許されない。斯波の領地に逃げ込むべきだという意見も広綱から出たが、大崎との同盟を組んでまで負け、また負けて今度は自分が治める領地から逃げるようなことはしたくない。

 

「晴信様、申し上げます。先日の件、判明致しました」

 

 外から守重の声が聞こえた。すぐに通すと彼はかなり険しい顔をしながら座る。

 

「実は、千葉殿に不穏な動きありという声が上がっております」

 

 座ってすぐに守重は時間が無いと言わんばかりに口を開いた。外の晴天が嘘のように鉛色の空が重い空気をもたらしてこの部屋のみを暗くしている。

 

「でも、広綱はそんなに人を裏切るような人じゃないよ!」

「私もそう思い何度も確認させました!」

 

 最後は守重も言い難そうに叫んだ。彼だって広綱がそのようなことをするとは信じたくない。 

 しかし、噂として流れて守重の耳にも入るようになり、確認させて間違いないと分かった以上は捨てられない事態である。

 

「本当なの? 確証は?」

「はい、私の配下が米ヶ崎城で不審な者を見付け、問い質したところ。懐からこのようなものが・・・・・・」

 

 震える手で守重は懐から書状を取り出して晴信に渡す。それだけでも広綱は慕われていることが分かる。しかし、事実を拭い去ることは出来ない。

 

「嘘、でしょ・・・・・・」

 

 書状から目を離すと晴信の表情には明らかな動揺があった。

 中に認められていたのは広綱に対して伊達の軍師である片倉景綱から、寝返りの件は了承した。もし寺池城を包囲した際に広綱は背後から奇襲を掛けて欲しいという旨が認められていた。

 

「晴信様、ご決断を・・・・・・」

 

 躊躇う。あれだけ真面目な広綱が謀反を起こすとは思えられない。しかし、目の前には決定的な証拠がある。

 

「晴信様!」

 

 迷いは捨てるべきだ。長々と考えていたところで不安を抱えたまま上杉がやって来る。益は何もない。

 

「・・・・・・分かった」

 

 

 

 

 

 

 

「・・・・・・分かった。こちらにも間者が潜んでいる筈だ。何かあれば報告してくれ」

「はっ」

 

 佐沼城に千葉広綱の処断の報告が入ったのはその二日後である。

 颯馬が受け取った報告はすぐに官兵衛や景綱に回ってきた。これによってかなり葛西との戦も流れが良くなる。

 こちらに潜む間者によって大内や二階堂の離反も噂されることが稀にあったが、事前に全て軒猿の調査と越後との強力な情報網で全て偽りであるということは証明されている為、動揺は一過性のもので終わっている。

 

「協力してくれてありがとね」

「なに、これぐらい朝飯前だ。そうだな、軍師冥利に尽きるとでも言っておこうか」

 

 官兵衛の謝辞に景綱はいつも通り、変わらずの不遜な態度で冗談も交えながら答える。

 三人は笑い合った。策の成功は軍師にとって最も心躍り、普通の武人には理解出来ない点がある。変人と言えばおかしいが、人と異なる視点や感性が無ければ奇策や謀略など上手く行くことは無い。

 全ては千葉広綱という有能で葛西の中でも広大な領地を持つ者を戦前に邪魔である故に排除してしまおうという考えの下で導き出された謀略。

 元々、官兵衛と景綱によって思案、実行されたもので颯馬は事後報告のような形でこのことを知った。

 もう少し余裕があれば葛西は調べることも出来た筈。ばれてしまう可能性も高い拙作だったが、失敗しても少なくとも疑いを持たせることぐらいは出来た筈だった。

 逆にこちらは更に敵を怒らせて冷静に城を落とす為の策を考えることも出来たというもの。

 それが成功してしまう程、広綱の謀反の疑いは衝撃的で時間が無い時に起きたものだったのだろう。

 

「それで、後任は誰になったんだ?」

「ああ、矢作重常っていう千葉よりも随分若い人らしい」

 

 景綱が首を傾げている様子を見る限り、あまり聞いたことがない人間だということが分かる。

 気仙沼郡を治め、葛西の中で最大勢力を誇ったことで名高い広綱の後任が景綱でさえよく知らない人物であるところを見ると葛西も人が足りていないことが分かる。

 葛西はもう詰んでいる。しかし、颯馬はどうしても眉間の皺を解すことは出来ない。

 

「しかし、どうしても腑に落ちないな・・・・・・」

「この佐沼城が呆気なく陥落した原因か? 私も腑に落ちないところがあるが、やはり葛西にはその程度の者しかいない。そういうことだろう」

 

 そう言われても気になるのが軍師としての性格である。颯馬はちらりと官兵衛を見やるが、気にしていないのか敢えて無視しているのか分からないが、彼女はもうそのことに関しては興味が無さそうである。

 

「片倉様、殿がお呼びでございます」

「分かった。では、私はこれにて」

 

 颯馬は景綱が振り向く前に自身の眉間に寄った額を見られたような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 寺池城は北上川西岸の丘陵地に築かれた平山城で東は断崖となっている。西から北は両方から入り込んだ沢状の鞍部で城を仕切り、東・南・西まで弧状に堀が巡らされている。

 城自体は小さい為にどちらかというと北上川を使った交易を指揮する商業都市という扱いが強い。

 だが、寺池城を取りさえすれば葛西は完全に戦う意気も場所も無くなり、東北の流れは上杉に完全に流れ込んでくる。

 佐沼城での休憩もそこそこに謙信は葛西晴信が籠もる寺池城の迎撃の準備が十分になる前に叩くべく進軍を開始した。

 城の南、北上川沿いの丘陵に保呂羽館という大きな城があるとはいえ晴信は寺池城から動くことはせずにそのまま籠もった。

 官兵衛と颯馬は早過ぎる佐沼城の陥落を聞いてやはり葛西の中で疑心暗鬼の心が芽生えてきているのだろうと判断し、保呂羽館を大内定綱に任せて寺池城に眼前まで迫った。

 

「ここからは包囲を縮め、誰一人として逃がさないという構えだということを寺池城の者達に示せ」

『はっ!』

 

 謙信はすかさず諸将を集め配置する場所を命じていく。

 てきぱきとそれぞれに指示を出し、迷いの無い謙信の目がそれぞれの目に映り、嫌でも皆の身が引き締まっている。

 

「この戦によって葛西を討つ! まだ斯波との戦が残っているとはいえ、この戦に勝てばもはや斯波の命運は決まったようなもの。我らはこの戦で東北に平和をもたらし、天下統一への布石とするのだ!」

『はっ!』

 

 全ての将に各々の役目を言い終えると改めて全員に気合いを入れさせて締めとした。 

 続々と自身の部隊に指示を出す為に去って行く諸将達。そして、最後に残った政宗と目が合う。

 

「「・・・・・・・・・・・・」」

 

 数秒の無言の後に政宗がすっと頭を下げる。そして、普段のように決して誰にも侮らせまいという堂々とした立ち振る舞いで去って行った。 

 その背中を謙信は慈愛と表現出来ない悪戯っぽい笑みを以て見ていた。

 

 

 

 その日の夜遅く。

 深夜にもかかわらず、政宗は主だった者を集めて自身の陣所に軍議を開くと命じた。

 

「おや、遠藤と留守。いつここに?」

「今日の夕刻に、物資を届けに参りました。これよりは戦に加わり、皆様をお助けする所存」

 

 最初にやってきた左月の問いに答えたのは一人は政宗達ほどではないが、武人らしい真っ直ぐな目をした若い男性、留守政景。

 もう一人は左月程、年は食っていないが、左月同様に若々しい老人、遠藤基信。

 二人共、伊達の重臣であり、左月に物言いが出来る数少ない人物でもある。

 今回は長江の抑えに回る予定だったが、政宗から物資の救援を理由に後事を綱元と白石宗実に任せて援軍として駆け付けた。

 中には寝かけていた者もいた為に目を擦って必死に眠気を堪えている者もいる。若干一名、完全に目が塞がっている者もいるが、その者には左月が頭に拳骨を真上から入れたおかげでぶーぶーと子供のような容姿に似合うように抗議していた。

 しかし、その和やかな雰囲気も政宗が陣所に現れると一変。緊張感が全体で行われた軍議よりも重苦しいものになった。

 それも政宗の出す気が鬼気迫るものになり、成実や綱元といった政宗の幼なじみ且つ双璧も何事か言えない程に近寄り難いものになっているからだ。

 

「ここからが我らの見せ場だ。決して他の者には言ってはならぬ」

 

 強い決意を持った政宗の目に伊達の重臣達の雰囲気は自ずと緊張感漂うものになった。

 その中で政宗の言葉を発する前の吸い込む息の音が微かに聞こえる。

 

「今宵、寺池城は我らの手で落とす」

 

 その言葉に先程までの雰囲気は雲散し、ざわめきが起こった。

 やはりというべきかまず左月が声を上げる。

 

「上杉様からは包囲を固めるように言われ、まだ出撃せよという命は出ておりませぬぞ」

「だからこそだ。今のうちに出て、戦功を上げる」

 

 政宗の迷いの無い発言に誰もが戸惑いを隠せない様子で隣同士の人と話し合っている。幼なじみの景綱や成実も政宗の言葉に驚きを隠せない様子だ。

 皆も政宗からは何も伝えられていない。政宗が一人で決めてきたことだ。そう思いながら景綱が政宗を諫めようと試みる。

 

「左月殿の言う通り、謙信様から何も言われて・・・・・・」

「既に命じられている」

 

 平静と驚愕。二人の目が合わさった時に伊達の陣は驚きと心躍るものが生まれた。

 政宗は誰も何も言わないのを見てすかさず机上に置かれた地図を指差す。

 それを見て景綱ははっと顔を上げた。

 

「まさか、南西の道を任されているというのは」

「そういうことだ。我らに功を立てれるものならやってみろという謙信殿からの挑戦状だ」

 

 蘆名が陣取っている南東からの道の方が三の丸、二の丸と続いていく為に確実に攻め上がることが出来る。

 対して伊達が陣取っている南西の道は二の丸に直接通じるが、道が南東の道よりも細く、この戦に大軍を注ぎ込んだ伊達には不利。

 更に三の丸からの攻撃を横から受ける可能性も高く、二の丸攻略に攻めあぐねていれば退路を断たれる可能性もある。

 傾斜が厳しい為に三の丸をわざわざ攻めることは難しい。時間が経てば有利になるのは守る葛西である。

 敢えて謙信はそこに配置したとしか考えられない。「やれるものならやってみろ」という声が政宗には先程の目と目の会話で聞こえてきた。

 一種の緊張感が漂った時、その空気を見事に読まない者が伊達にもいた。

 

「上杉から援軍は無いの?」

「成実、だから挑戦状だって言ったろ?」

「え、じゃあ。あたし達だけで落とさないと百万石の夢は無いの!?」

 

 件のことはまだ口約束だけで決まったことではない。言ってはいけないことを言ってしまった。

 成実に全員から冷ややかな視線が送られ「(分かったのなら口に出すな!)」そう言う思いを込めて成実の頭に治りかけていた痛みが再び政宗によってやってきた。しかも、同じ所に。

 泣きそうな顔で悶絶する成実は放っておいて政宗は皆に視線を直す。

 

「今や東北の地は平穏が訪れようとしている。しかし、それはつまり我らが領地を得ることは今後さらに難しくなるということだ」

 

 誰もが知っている。伊達は天下を望むことは出来なくなってもまだ大きくなることは出来るということを。

 

「この戦、我らが目立つ大きな功を立てる最後の戦となろう。いや、今後も大きな功を我らは必ず立てる。しかし、領地を得ることは難しくなる」

 

 政宗が欲するもの。それは百万石の領地。東北に戦乱が無くなれば功を立てても貰えるのは金か微々たる領地。

 好機を逃すことはあってはならない。しかも、最後になるかもしれないとなれば尚更だ。

 

「この戦、我らの野望の為に賭けに出るぞ!」

『応っ!』

「左月、成実。お前達は先鋒として二の丸を突破した後に直ちに本丸まで攻め上がれ。二の丸は無視して構わない」

「「はっ!」」

「常長、後陣を任せる。決して三の丸の動向からから目を離すな」

「承知しました!」

「政景は私と共に左月達が二の丸突破した後に二の丸を占領する。基信と小十郎はこの陣を頼むぞ。皆、決して遅れを取ることは許されないぞ。皆の者、良いな!?」

『応!!』

 

 すぐに伊達軍が動いた将は兵を起こし、これからのことを伝えられ、兵はすぐに行動を始めた。

 皆が揃い、準備が整ったところで政宗はすぐに出陣命令を下した。

 成実と左月の隊は二の丸へと続く細道を駆け抜けると入口のまず弓隊に手で指示を出す。そして、櫓にいる監視兵を櫓の篝火頼りで倒すと左月がすぐに二の丸の門を指差した。

 

「門を突破しろ!」

 

 左月の声と同時に門壊が始まる。寺池城二の丸からの防戦はあっても起きたばかりの兵の抵抗は微々たるもの。

 耳をつんざく音がして門が開かれる。それが成実の突撃命令の声よりも大きい何よりの命令だった。

 内側に入られた以上、数に劣る葛西には成す術が無い。

 

「敵襲ー!」

 

 そう叫びながら味方を起こそうとする者もいたが、首元を槍に突かれてすぐに倒れてしまった。

 

「伊達成実、これにあり! さぁ、死にたい者から掛かって来い!」

 

 成実がまず正面から一気に斬り込みを掛ける。先程まで左月と政宗に鉄拳制裁を受けていた者と同一人物には見えない。

 

「左月、背中は任せた。あたしが道を開く!」

「何を言うか! 若造が出しゃばる場ではない。前方はさっさと儂に任せて後ろを守れ!」

「うるさい! 伊達成実に後退の文字は無い! 皆、このまま押し通る。我に続けー!」

 

 そう言うと成実は口論を終わらせて一気に駆けて行ってしまった。

 普段は先頭に立ち、今回も立ちたかったが、持っていかれてしまった。しかし、たまには娘の真似をして若者の背中を守るのも悪くない。

 

「我らも遅れるな! この鬼に付いて来い!」

 

 左月がその後ろから成実の背後を守るように己も容赦ない攻撃を寝起きの葛西軍に浴びせる。

 

「申し上げます! 先鋒部隊、二の丸を突破!」

「早いな・・・・・・よし、叔父上、我らも行きましょう」

「うむ、行くぞ! 二の丸を占領する。政宗様直々の出馬だ。皆、武功を立てよ!」

 

 そこから伊達軍の動きは早かった。元々伊達の武器は機動力ということもある。それも上手く歯車が噛み合った結果になった。

 政宗が二の丸を占領した報告を受けた矢先に三の丸からも火の手が上がったのが伊達軍本陣の景綱と基信には見えた。

 

「蘆名も気付いたようじゃな。慌てた姿が目に浮かぶわい」

 

 笑っているのは分かるが、目が笑っていないところを見ると基信は面白くなさそうにしていることも分かる。

 蘆名はここから伊達に負けじと三の丸を落とした後に本丸まで攻めようとするだろう。なるべくなら他家には邪魔して入って欲しくなかった。

 伊達の一人舞台で幕を閉めたかったが、蘆名も南陸奥に佐竹や伊達に挟まれながらも一大勢力を誇った大名。みすみす利益を見逃すような真似は決してしない。  

 

「遠藤様、片倉様、蘆名盛隆様が参られました」

「ほう、主自らか。分かった、通せ」

 

 次の行動も早い。しかも、盛隆が自ら乗り込んでくる大胆なところもある。

 兵が外に出るとほぼすれ違いと言っても良いタイミングで盛隆は怒りの表情をぐっと堪えるようにして入ってきた。

 

「蘆名盛隆です。伊達政宗殿は何処に?」

「すまないが、政宗様はここにはいない」

 

 偽りを言ってはいない。それは盛隆にも伝わったらしく納得したように頷いている。しかし、それならばと盛隆は景綱を睨んだ。

 

「では、代わりにお答え願います。何故、包囲したままでいるようにという命を無視致したのですか?」

「それはお互い様ではないか? ここから見る限りだと三の丸にも火が上がっている。我らは貴殿らが控えている為に三の丸に攻め込むことは不可能。然るにそなたらも命を無視していることにならないか? 更に言えば、何故に家臣らを指揮せずに貴殿はこちらに来た?」

 

 盛隆の言うことは正論である。しかし、景綱もまた正論で返す。ここで退くことは出来ない。こうなることを予想して政宗は景綱を本陣に残した。

 景綱なら蘆名の使者に弁舌で勝利してくれるという絶対の信頼があるからだ。

 景綱もそれに応えるのが道理である。たとえ向こうが蘆名の当主であっても。

 

「富田隆実に指揮を任せています。私達は伊達殿が二の丸を攻めているのを見て、援護しようと動いただけです」

「だが、上杉様の命ではない。それは間違いないのだろう?」

 

 盛隆は押し黙っている。返す言葉が無いのか反論する為の言葉を探っているのか分からない。どちらにしても畳み掛けるなら今だと景綱は判断した。

 

「我らは上杉様の命で動いている。それ故、何ら問題はない。もし、偽りと思うのならば即刻、上杉様の陣に確かめに行かれるが良かろう」

「そう、ですか・・・・・・では、私はこれにて」

 

 歯痒い思いが背中によって伝わる。これで伊達が他の家から疎まれはすれども訴えられることはない。

 不意に視線が三の丸に行ってしまった。しかし、蘆名も蘆名で素早く動いただけのこと。もう気にすることはない。

 

「さて、これからは蘆名に負けることなく本丸と葛西晴信の首を取るのみか」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百〇九話 障害

 早春の春日山城では景勝の補佐をしつつ本庄実及の指揮の下で兼続と龍兵衛の二人が留守居中の仕事に追われていた。

 とはいえ定満亡き後、表立っても執政を任されている兼続と裏で実質上の政務を任されている龍兵衛にとってそれは普段の日常と変わらないことである。

 上がってきた報告書に目を通して、自身達が行った政策の報告書も書き、献策書を景勝の下に送る。

 そして、時間を割いては弥太郎達が兵を訓練している所を視察に行ったり、自分達も参加したりと何ら変わらぬ日々を当たり前のように過ごしていた。

 だが、その日の昼下がり。兼続はいつもと違う切羽詰まった表情で城内を誰も近付かないような雰囲気を出しながらかなり速いペースで歩いていた。

 目的の部屋へと近付いて行く度に内心の焦りは大分大きなものへと変わっていく。

 自覚を持っていることもかなり危ういということだ。しかし、兼続は由々しきことが起きるかもしれない予兆を捨て置く訳にはいかなかった。

 

「おい龍兵衛、入っても良いか?」

「・・・・・・」

「? おい、外出中か?」

 

 数秒待ったが、返事がない。しかし、今から龍兵衛に相談したいことは彼にとっても大事なことである。

 どうしても今日中には聞いておかなければならないこともあるし、万が一ということもある。

 

「失礼する!」

 

 という訳で兼続が選択した次の行動は勝手に襖を開けて中に押し入ることだった。

 中に入ると龍兵衛は机に突っ伏して手をだらりと伸ばしたまま顔も下に向けながら倒れていた。

 

「おい、大丈夫か!? 具合が悪いのか!?」

 

 兼続は慌てて駆け寄り身体を揺さぶると突っ伏していた龍兵衛ががばっと起き上がってきょろきょろと周辺を見渡した後にまたゆっくりと机に戻っていった。

 

「・・・・・・すぅ」

 

 その声が龍兵衛から聞こえた途端に兼続の中で何かが切れた。

 

「こら、起きろ! 貴様、軍師たる者が仕事中にうたた寝をして良いと思っているのか!?」

 

 何ということは無い。龍兵衛はただ昼寝をしていただけである。しかし、兼続に見付かったのが運の尽きというものだ。

 先程までの心配を返して欲しい。そういう思いも含めての恨み節が一発入った。

 

「痛って!?」

 

 龍兵衛の眠気は兼続が後頭部に放った拳骨によってすっかり吹っ飛んでしまった。しかし、それと同時に龍兵衛には何とも言えないものが襲ってくる。

 

「頭蓋に反響・・・・・・うぅ・・・・・・ぎゅぅ・・・・・・」

 

 龍兵衛はばたりと再び机に突っ伏した。今度は寝たのではなく気絶してしまった。

 表情は下を向いてしまい分からないが、自分がやらかしたので嫌でも分かってしまう。

 

「おい、龍兵衛? おい・・・・・・! まさか、それほど強くしたつもりじゃあ・・・・・・」

 

 さっきよりもさらに慌てて兼続は龍兵衛の身体を揺する。しかし、反応が無い。

 医師を呼ぼうか。そう兼続が思った矢先。

 

「嘘だぴょーん!」

 

 龍兵衛はばっと起き上がった。長いようで短い沈黙が流れる。

 その間に兼続は貯まっていた騙されたことへの怒りを吐き出さんとしていた。何かが切れるような音と共に決壊した。

 その音は龍兵衛にも聞こえ、悪戯が過ぎたと反省しつつ兼続から一気に距離を取ると外へ逃げようとする。

 

「何が『嘘だぴょーん!』だ。そこに直れ! 斬り殺してやるぅ・・・・・・」

 

 武将としても活躍する兼続の方が武芸では上である。外へ逃げようとする龍兵衛も兼続が引っ掛けようとして伸ばした足をひらりとかわしたが、そこからもう一つ出てきた逆の方の足の蹴りを見えても避けることは出来なかった。

 

「うぎゃ!?」

 

 飛ぶようにして前のめりで転ぶ龍兵衛。取り敢えず右肩を庇ったことは彼の本能的防衛反応というやつだ。

 しかし、そんなものは兼続には関係ないしどうでも良い。身を翻して逃げようとする龍兵衛の身体に馬乗りになって実に良い笑顔を作る。

 

「さぁ、覚悟は良いか・・・・・・?」

「待て待て待て待てえぇぇい!!」

 

 暴れるなとさらに強く取り押さえながら刀を龍兵衛の身体に本気で収めようとする兼続と本気だということが分かってそれから必死に逃れようと身体全身をじたばたと動かす龍兵衛。この格闘は約十分間続いた。

 

 

 

 

 結果として二人が一通り暴れて疲れたところで休戦することで一時的な和解を見た。

 

「やれやれ、折角の人の休憩を何だと思っているのか」

「だったら最初から休憩中だったと言えば良かっただろう。変な演技をするからこうなったんだ」

「寝ていて喋れたら苦労しない。それに、痛かったことに変わりないぞ」

 

 先程までの暴れ合いですっかり目が覚めてしまった龍兵衛は後頭部も押さえてじとっとした目で兼続を見る。

 さすがの兼続も全くの正論に返す言葉が見付からない。

 取り敢えず、龍兵衛はただ仕事に一区切りが付いたので休憩がてら寝ていたのを妨害された恨みに兼続が素直に謝ることでその件は終了した。

 

「で、本題は何だ?」

「ああ、実はな・・・・・・」

 

 兼続は最初に言おうと思っていたことを説明する。

 一言、一言言う度に龍兵衛の眉間に皺が寄っていくのを兼続は見ながら更に止めることなく話していく。

 途中で龍兵衛は口を挟むことなく最後まで黙って聞いていたが、兼続が全て語り終えると「はぁ~」と盛大な溜め息を吐いた。

 

「やっぱりか・・・・・・」

 

 兼続は少し寝癖の付いた髪の毛をがしがしとかいている龍兵衛を見るとますますぼさぼさになった気がした。

 他愛ないことを思っているが、兼続もあまり良い立場にいる訳ではない。

 

「そう簡単に言えるものじゃないぞ。謙信様のいない間に何か動きがあるかもしれない」

「分かってるよ。だからといってこちらが先に動くことも出来ない」

 

 先程のことである。

 雑談とは必ずどこかで気が抜けてその人の本心が不意に出てしまうもの。龍兵衛や兼続といった軍師達は決してそのようなところを見せないようにと気を配っている一方で向こうが何かこぼさないか耳を傾けるように心掛けている。

 兼続が名代として春日山城に来ていた黒川清実のある家臣と話していた際、その者はうっかりと口を滑らせた。

 龍兵衛に対しての不満が溜まっていて、もしかすると失脚を試みるようになるかもしれないのでそれとなく兼続に協力を仰いできた。

 

「で、答えは?」

「分かりきっていることを言わせるな。それよりも、向こうはかなり露骨にお前のことを言ってきたぞ」

「例えば?」

「金の無心だの。景勝様との仲が悪いから低い地位のままなんだ。などだが・・・・・・そういえばどうして黒川殿の家臣がどうしてお前の地位が低いと決め付けていたのだろう」

「そりゃあ、黒川殿本人ではなくて黒川殿の家臣だからだろ」

 

 龍兵衛はさも当たり前のように返事を返す。しかし、兼続も妙に納得した。

 龍兵衛は外様とかつてのことがある故にあまり高い地位にはいない。軍議でも誰かに振られるまでは口を開かず、表立って大きく出たのは最初の東北への遠征の戦略を諸将に伝え渡した程度。

 実力を評価する者もいたが、出奔の表向きの理由が理由なだけにそこで印象が悪くして陰口を叩く者もいる。

 知っている者もかなり限られているので兼続もそこは仕方がないと割り切ることが出来る。

 だが、景勝とは表向き仲が悪いように見られていたし、距離を取るようになってからは全く口を聞くこともなく、話題が出ても笑って誤魔化すだけでますます仲が悪くなったのではないかとまことしやかに語られている。

 だが、兼続も謙信が出奔した折には龍兵衛は景勝の補佐をしっかりと務めて役目をきちんと果たしていたことを知っている。どう見ても仲が決して悪い訳ではないことは見ていれば分かることだった。

 それは清実も同じな筈。清実ならば龍兵衛の本当の立場がどのようなものなのか分かっている。にもかかわらず、家臣達がそう言うということは清実は敢えて無視しているようにしているとしか考えられない。

 

「他の方はどうなのかな?」

「さぁな・・・・・・ああ、安田顕元殿は大丈夫そうだぞ」

 

 珍しく兼続の口から冗談が出たことが意外だったのか思わず龍兵衛も笑ってしまう。

 

「あれは主家に対しては真っ直ぐ忠義をひたむきに向けているからな。問題は他の揚北衆だ」

 

 龍兵衛の言いたいことは兼続も分かる。しかし、難しい問題であることも分かっている。

 揚北衆は長年越後の阿賀野川以北に土着し、その影響力は越後全土に及ぶ。しかし、越後を完全に掌握しようとする上杉からすればそれはあまり好ましいことではない。

 上に立つのは上杉であって揚北衆はあくまでもその配下である。

 徐々に進めているとはいえ豪族同士の連合の頭領という体制から脱却して上杉が越後の君主である体制を築こうと画策していることに揚北衆の一部からは不満が出始めている。

 例えば、揚北衆の本拠地出歩いて岩船郡には高根金山という鉱脈がある。

 上杉の財力を強化したいという思いから兼続と龍兵衛は高根金山を上杉の直轄としようと画策している。しかし、当然のことながら反発が出た。

 上杉は佐渡金山の中心である相川金山を始めとする鉱脈の採掘を前々から直轄とし、更に政景亡き後に上田にある上田銀山を直轄にしている。また、青苧座も手中に収めているにもかかわらず、どうして高根金山までいるのか。

 そういった声が揚北衆の一部から出てきている。しかし、全員ではないのが未だに兼続と龍兵衛に対しての反発が表面化しない理由でもあった。

 

「水原さんと中条殿はこちら側。本庄繁長殿も説得が必要とはいえ上杉家への忠誠心が揺らぐとは思えない。やはり後は黒川殿という訳か」

 

 実質的に揚北衆第二の勢力を誇る清実さえこちらに付いてしまえばもはや上杉が越後の全土を完全に手中に収めたと言っても良い。

 しかし、そう簡単に終わることではないのが現状である。

 

「中条殿と黒川殿の対立を知らないのは越後にはいないからな・・・・・・」

 

 溜め息と共に兼続は腕を組む。

 先の新発田重家の反乱でも清実は中条と轡を並べるのを拒否するように常に中条のいる本隊とは別に新発田の支城を攻めている。

 本隊その後に合流しなかったことで中条景資から訴えられたが、その際も最後まで本隊の援護に徹するべきと判断したまでという主張を繰り返し、最終的には反乱が起きたばかりという考えから謙信も不問に付していた。

 

「だけど、黒川殿も水原さんと中条殿がこちら側に付いていることは知っている筈だよ。それに本庄殿は俺が何度か文書や直接会って説得をしていることも知っている筈。ますます孤立することが分からない程、黒川殿も愚かな人じゃない」

 

 揚北衆の中で最大の勢力を誇る中条景資と新たに新発田城の城主となって揚北衆を監視する役目を持つことになった親憲。さらに上杉の中でも指折りの武勇を誇る繁長を相手取ってまで景資と対立を続ける清実。

 彼がこの情勢を保ち続けることが出来るのは兼続や龍兵衛達の勢力に不満を抱え、対立する者がいるからに他ならない。

 

「大熊殿が密かに背後に付いているとしか考えられないな」

 

 兼続は龍兵衛の言葉に背中が少し冷える思いをした。

 大熊朝秀は段銭方として手腕を振るう上杉には数少ない文官である。仕事上、龍兵衛もよく顔を合わせていて仲は良い。

 だが、それ以上に本庄実及と仲が悪い。ライバル関係と言えばよく当てはまるが、越後守護上杉氏の滅亡前後から守護代長尾氏に共に仕え、その時から事ある毎によく対立していた。

 今回もそうである。実及が揚北衆と対立する立場にあるから朝秀は揚北衆に味方している。

 そう考えると筋が通っているし、清実がこちらに膝を屈しないのも頷ける。

 

「やはり、大熊殿に監視を付けるべきか」

「待て、まだそれは見送った方が良い」

 

 兼続には黒川が膝を屈さない理由としてまだ心当たりがあった。

 先程、龍兵衛は繁長と連絡を取り合っていると言っていたが、中条と黒川同様にそれに反応する者が必ずいることを知っていた。

 鮎川である。かの家は本庄とはかなり因縁深い関係であることを樋口・直江と譜代の間を渡ってきた兼続はよく知っている。

 そもそも本庄氏は元は桓武平氏秩父党の一族で、鮎川氏は本庄氏から早い時期に分かれた一族とされている。

 だが、繁長の父である房長の時に鮎川清長が彼をそそのかして出羽に追放した過去がある。繁長はその後復帰を遂げるが、そのことで鮎川を目の敵にしていた。また、鮎川の方もその後も度々本庄と領土問題を起こし、本庄との仲は日に日に悪くなっている。 

 もしも、本庄が龍兵衛と連絡を取っていてこちら側に付こうとしているのを知れば間違いなく黒川の派閥に付くだろう。

 

「そうか・・・・・・そこは盲点だった。ありがとな」

 

 龍兵衛が左手をぴっと立てて礼を言うと兼続は照れながらもちょっと嬉しそうに俯いている。

 ちなみに龍兵衛はこの時代には無いだろうと思っていたツンデレという単語を普通に慶次が言っていて兼続がツッコミを入れていたのにかなり衝撃を受けたのは余談である。

 だが、兼続はすぐに仕事顔に戻り、おとがいに手を当てて考えている素振りを見せる。

 

「そうなると鍵を握るのは色部殿と見て間違いない。何か策はないものか」

 

 色部勝長は本庄と鮎川が争った際に両者の調停に入っている。また、繁長が復帰して清長を討ち取ろうとしたときには再び両者の仲裁をしている。

 川中島の際も上杉軍の勇将として奮戦した為、謙信からその武功を賞賛されて安田長秀らと共に血染めの感状を頂戴している。

 楊北衆の中でも上杉に対しては滅私奉公を続け、実力、勢力は楊北衆で五本の指に入る勝長をこちらに付けることが出来れば得るものは非常に大きい。

 だからこそここで何か恩を売ってこちらに近付けさせたいが、きっかけが無い。

 

「あるよ」

 

 そんな兼続に龍兵衛は某バーテンダーのような言い方で兼続の願いにあっさりと答えた。

 

「実はな。色部殿絡みでちょっと今揉め事が起きているんだ」

 

 いつも戦陣において勝長は白地に日の丸の小旗を用いている。ところが、平賀重資という蒲原郡護摩堂城主が全く同旗を用いているので勝長はこの旗は自分が謙信から授けられた紋であるのに平賀ごときが使用するのはけしからんと先日、訴えを出した。

 一方で重資の方も同じ旗を斎藤朝信の家臣も使っているのだから問題ないという風に反論して、揉め事になっているのだ。

 そして、その裁量を任されているのは他でもない龍兵衛である。

 

「なるほど、確かにこれを使わない手はないな」

「だろ? だけど、ここで早々と判決を出す訳にもいかない。大熊殿と鮎川殿の動向を見ながらだ」

 

 もし、色部がどちらかと繋がっていたとすればそれはこちら側の首を自分で締めることになる。

 あくまでも、どちらの主張を是にするかを他の者にも聞いてみてから判断したいということを言っておいて、その間に色部を探る。

 色部が鮎川達と繋がっていれば訴えを取り下げるようにさせ、逆ならば色部を勝たせてそのまま取り込んでしまえば良い。

 ここで龍兵衛にはもう一つ名案が浮かんだ。

 

「なぁ、平賀重資殿って女性だったよな?」

「ああ、それが?」

「もし、色部殿が鮎川殿達と繋がっていなかった時、お前にちょっと協力してもらうかもしれない」

 

 最初は『女性』という単語が出てきて訝しげな表情を浮かべていた兼続だが、前置きが功を奏して龍兵衛が何を言っているのか理解して「任せて欲しい」と自信ありげに頷いた。

 それから二人は誰がどのような立場を取るであろうか、改めて確認を始めた。

 

「越中の山本寺殿、吉江親子殿も寺島殿もこちら側、竹俣殿も魚津にいる以上、このまま自然にこちらに付くだろうな」

「小国殿は中立を保っているが、これはお互いが丸く収まるようにと立ち回っているようにしているだけ。いざとなればこちらに付く手筈は私が整えている。問題は、山吉殿だな」

 

 山吉豊守の病は徐々に深刻化している。そして、彼が死ねばおそらく跡を継ぐのは病弱な長男の盛信ではなく次男の景長。

 その際に三条城とその周辺の領域を没収することは密かに決められている。それに恨みを抱いて景長が清実側に付く可能性が高い。

 

「だが、山吉殿は本庄実及殿の娘御を正室としている。血縁の誼で本庄殿から説得を頼むという方法もあるが?」

「説得のことは俺も同じことを考えている。けど、家の利益の為に血を捨てる可能性がこの時世にはあるし、山吉殿が仮に死去すればしばらくは景長殿ではなくて山吉殿の家臣が家を引っ張って行くだろうしな」

 

 景長は龍兵衛や兼続よりも年下である。彼をしばらく補佐するのは豊守の代からの家臣。かれらがこの裁断に不満を持てば間違いなく山吉は血縁のことなど関係無く清実側に付く。

 

「景長殿もしばらくは家臣の言うことを聞かない訳にはいかないだろう」

「ああ、景長殿が家臣を無視出来る程の強引さがあれば話は別だが」

「龍兵衛、そのような者が上杉にいると思うか?」

「いないだろうなぁ」

 

 何だかんだ言っても皆はそれぞれの家に仕えている家臣のことを考えて行動している者ばかり。楊北衆が反発するのも統治している家臣や民に今までよりも苦しい生活をさせるであろうことへのある種の恐れ。

 しかし、ここで手をこまねいていることは上杉家直臣の二人には許されることではない。

 

「謙信様が不在、田植えも近い今。腰を上げることは絶対にするなよ」

「言われるまでもない。第一に兼続もだ。お互いに身の回りに気を付けないとな」

 

 兼続が頷いたところで長い会話は終了した。

 

 

 楊北衆の恐ろしさは実父からも養父からも教えてもらっていた。しかし、これほどまでに面倒なものだとは思わなかった。

 兼続は生来汚れ仕事は嫌悪している。しかし、やらねばならないということも理解している。

 楊北衆はいよいよ龍兵衛の失脚を狙い、内輪揉めも辞さない可能性が出てきた。彼の失脚はどうしても避けなければならない。

 内々のことに関しては龍兵衛はかなり優秀であり、汚れ仕事も平気でやってくれる上杉の中でも数少ない人物である。

 武人の気がある者達が多い中で龍兵衛のような存在はかなり貴重である。それが故に長年越後で暮らしている楊北衆にとっては面白くないのだろう。

 今更、妬いたところでそれが楊北衆の面々に出来るかと問えば答えは否。

 いきなり文官のようなことが出来る筈がない。にもかかわらず、龍兵衛の仕事の重要さを理解せずに勝手にそう言っていること事態に兼続は汚れ仕事を行うこと以上の強い嫌悪感を持っていた。

 完全に理解しろとは言わない。しかし、理解しようと努力しないことが嫌でしょうがなかった。

 全体的なことは龍兵衛がほぼやってくれると言っているし、自分はその補佐をすれば良い。そして、龍兵衛が手を挙げた時には、共に上杉の内憂を排する。それだけである。

 そんなことを考えているとぐらりと視線が揺れた。

 

「なっ・・・・・・」

 

 廊下に出てしばらく歩いていると兼続はいきなり背中を殴られた。

 春日山城は間者が登れないように返しを付けている。しかし、襲撃者は兼続が気配に触れることなく背中を襲ってきた。

 かなり痛かったが、どうやら致命傷には至っていないらしい。前屈みでうずくまり激痛に耐えながらも兼続は振り返って何者かと確認しようとする。しかし、誰もいない。

 不思議に思い思わずきょろきょろと辺りを見回してみるが誰もいない。

 兼続は立ち上がりながら首を傾げてどういうことなのかと考える。

 

「ん?」

 

 よく見ると三毛猫がこちらを小馬鹿にしたような表情で見ている。

 

「くひっ」

 

 そう鳴くと三毛猫は悠々と立ち去って行った。

 そして、兼続は今日何度目か分からないぷちんという音を自分の心の中で聞いた。

 

「ぎゃあああぁぁ!!?」

 

 そんな声が春日山城に響き渡るのはそれから三分後のことである。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百十話 欲しいなら取ってみな

「報告。葛西晴信、伊達成実殿によって討ち取られた由」

「分かった。我らも日が昇り次第城に入ると伝えよ」

 

 突然、城攻めを行うからと叩き起こされた兵が眠そうにしながら去るのを見て颯馬は強めの口調で謙信に問う。

 

「よろしいのですか? 伊達軍は勝手に城を攻めたのです。こちらに呼び寄せて詰問するのが先では?」

「良い。伊達に二心は無い。それにこれは私も承知済みだ」

 

 謙信は振り向きもせずに平然と答え、驚いた表情で互いを見る官兵衛と颯馬をよそにただ煙が所々から上がっている寺池城を見ている。

 

「では、何故に我らには何も語らずにいたのですか?」

「官兵衛、敵を騙すのならまずは味方からと言うであろう」

 

 謙信は決して振り返ろうとはしない。しかし、ますます官兵衛と颯馬は困惑の色を見せているだろうということは容易に想像出来ているのだろう。

 私の謙信を知る颯馬だからこそ他の者には分からない彼女の心が彼には見えた。

 それでも今回の戦には疑問が残る。普段は軍師や重臣達に何かと相談をしてから行動する謙信が今回は誰にも相談せずに伊達に密命を下していた。

 官兵衛や颯馬ではないにしろこのことを知れば皆が驚愕するだろう。

 何故に突然誰にも相談をしなかったのかと疑問を抱く者もいるかもしれない。しかし、敢えて謙信はそうした。

 

「(おそらく、誰も知らない何かが二人の間にはあるのだろうな)」

 

 これは互いに主として人から竜と崇められる者同士の会話である。そこに上杉だろうと伊達であろうと人たる家臣が入る隙間はこれっぽっちもないのだ。

 何故か颯馬は納得してしまった。家臣としては更に聞くべきことがあるというのに主君の私を知り、心を知ることが出来るからこそそこで口が止まってしまった。

 

「官兵衛、親憲と共に先に寺池城に向かってくれ」

「承知しました」

 

 官兵衛が去り、いよいよ陣幕の中には謙信と颯馬しかいなくなった。

 慶次と景家は夜明け前に蘆名の後から露払いをすると言って兵を率いて寺池城に向かって行った。他の者達も親憲と共に逃げてくる葛西の将兵を捕らえる為に出払っている。

 

「政宗にはいずれ百万石を与えることになるだろう」

「なっ・・・・・・」

 

 おもむろに口を開いた謙信から衝撃的な言葉が出てきた時、颯馬は最初言っていることがよく分からなかった。

 

「颯馬、どういうことまでかは聞くな。しかし、このことは決して他言無用だ」

 

 もう一度どういうことか聞こうとしたが、その前に謙信の冷たい声が颯馬の開きかけた口に刺さった。

 

「はっ」

 

 先程から謙信はずっと寺池城を見ている。颯馬はその表情を見ることが出来ない。

 疑問が浮かぶ中で強い風が二人の間をよぎった。謙信の後ろに細長く縛られた髪が揺れ、表情が少しだけ見て取れた。

 

「えっ」

 

 思わず呟いてしまった声。謙信に聞かれなかっただけまだ運が良かった。

 謙信はひどく疲れている。颯馬は唇を噛み締めるようにしているのか謙信の左側の頬が少し寄っていることに気付き、直感的にそう思った。

 何に疲れているのか。身体的なことの可能性は低い。謙信の体力は無尽蔵と言える程にある。

 だとすれば精神的ということだ。慣れないことをすれば人は精神的に疲れると言われている。

 しかし、謙信はそちらでもなかなかそのようなことにはならない。どちらにしても実に稀なことである。

 

「おっと・・・・・・」

 

 知りたいという好奇心から颯馬は扇子を意図的に前に落としてみた。詫びを入れながら謙信の横顔が見える所まで歩いてちらっと謙信を一瞥する。

 疲れていると思ったことは確信に変わった。更に、謙信の目は少し腫れぼったくなっていて寝不足であることに気付いた。

 最近は悩むことはあまり無く、よく眠れている筈の謙信だが、何故だろうか。

 そう思案するとすぐに謙信が発した先程の言葉が颯馬の頭の中を過ぎった。

 

『政宗にはいずれ百万石を与えることになるだろう』

 

 政宗は謙信に対して何か脅しを入れたのかそれとも頭を下げて懇願したのかは分からない。しかし、颯馬はすぐに前者の考えを捨てた。

 冷静に考えて伊達政宗という人物はそのようなことをする人物ではないし、そのような者を人一倍信義に篤く、人の中にある信義を見ることが出来る謙信が楊北衆でもないのに放置しておく筈がない。

 百万石を与えること。それは上杉が天下を取れば不可能なことではない。

 とはいえ、室町幕府の混乱の原因を考えれば間違いなく好ましいと思えることではない。第一に国内で楊北衆の弱体化を徐々に図っているにもかかわらず、他の勢力にそれほどまでに大きな領地を与えるなど矛盾だらけこの上ない。

 どのようにして謙信が政宗にそのような約束をしたのかは分からないが、おそらくかなり悩んだに違いない。

 謙信も伊達がそれ相応の武功を立てれば嫌とは言えないだろう。今後、南や西に出陣する際に伊達・最上・蘆名は特に必要な戦力となる。

 武功。その言葉が颯馬の頭の中を過ぎった。

 

「(そうか、伊達が夜襲を仕掛けた後、謙信も蘆名殿も動くのが早かったのはその為か)」

 

 謙信は伊達が今夜、夜襲を行うことを知っていた。それを敢えて黙って許すことで誰にも文句の言えないような功を立てさせた。

 しかし、謙信は伊達に任せずに蘆名や親憲にも出陣を命じた。

 颯馬は悟った。これは上杉謙信が出した伊達政宗に対する密かな挑戦状であると。裏で約束をしておきながらも更に裏では政宗一人に武功を取らせ、早々とその約束を守る程に大きなものにさせないように暗躍していたのだ。

 しかし、謙信は一人で行うことを良心の呵責からか嫌い、自分に伝えてきた。

 敢えて事実を伝えることで釘を差し、颯馬を半ば脅迫しつつこのことについては一切誰も知らないようにさせて、協力するようにさせている。

 

「(何ということだ! 謙信はこれほどまでに手を汚していたのか!?)」

 

 かつては定満と龍兵衛と共に汚れの無いままに謙信を天下を統べるまでに導く。そう決心したにもかかわらず、定満はこの世を去り、龍兵衛も自分も他国や敵から降った外様の将。官兵衛や兼続も謙信の為に動いてはくれているが、官兵衛も弟子同様に外様。兼続は生来あまりこういうことは好まない故に遠ざけている。

 颯馬も外様であることに間違いないが、越後統一前から謙信に仕えていることもあってほぼ譜代の扱いを受けている。そして、恋人同士。

 代わりになろうと謙信と共に定満が死んだと知った時に誓った筈。なのに、謙信は定満の代わりに自ら成そうとしている。

 

「(もはや、止まっていることは出来ないか)」

 

 颯馬も上杉の人として信義を重んじている。しかし、それ以上に謙信がそのままでいてくれて欲しい。その為には軍師達がますます強かに振る舞うことが必要になってくるのだ。

 秘めた決意は謙信に気付かれないように黙礼を以て伝えた。

 

 

 

 

 寺池城は軍事的拠点には向いていない。しかし、以北の葛西残党は未だに上杉に恭順するという姿勢を示している者が皆無な以上はここを拠点として従わない者達を降伏させるしかない。

 謙信はこの役目を親憲の指揮下に大内と蘆名を置いた。端の者はひとまず露払いぐらいは伊達に比べて功を立てることが出来なかった二家に任せ、勝手に動いた伊達を詰問する為だという受け取り方をするかもしれない。しかし、謙信の本音は違った。

 これ以上伊達に功を立ててもらっては困る。とはいえ、大原守重ら何人かの家臣を討ち漏らしてしまい、これからかれらを捕らえるなりして葛西の反抗の根を潰しておかなければならない。

 そこに伊達が加わってかれらを捕らえるようなことになれば明らかに伊達の武功が目に行ってしまう。

 敢えて外させることで政宗に力を持たせ過ぎないようにする配慮である。

 

「どういうことか。説明してもらいたい」

 

 夜になり、春とはいえ寺池城は寒くなる。にもかかわらず、謙信は縁側で水を飲んでいた。地上を照らしていた月は厚い雲に覆われてしまっている。それでも来るであろうと予測していた者の到来を待ち、案の定高々と足音を立てて来てくれた。

 

「政宗、私も上杉家当主だぞ。少しでも家の益を考えるのは当然のことだ」

 

 いつも通りの笑み。だというのに何かが違う。笑みがいつもよりも深い。そして、口元が左右均等につり上がっているのではなく、微妙に片側の方が上がっている。ほくそ笑んでいるようで少し勝ち誇っているように感じる。

 

「やはりか・・・・・・」

 

 謙信は予め寺池城陥落の功を伊達の独り占めにさせない為に盛隆に伊達がその夜に夜襲を仕掛けるだろうということを伝え、盛隆は家臣に三の丸を攻撃させ、その間に何も知らないふりをして伊達の陣に抗議しに行く。

 盛隆も二階堂から蘆名の当主になるまで苦労してきた人間である。人を見る目はある。そして、感情の機微も敏感に判断出来る。

 景綱が僅かに見せた視線の動きを盛隆は見逃さなかった。

 

「お前の幼なじみは随分と表情を隠すのは上手かったようだが・・・・・・すぐに城に目を向けて三の丸の方向を見ていたのは不覚だったな」

「小十郎の奴。何をやっているんだ」

 

 吐き捨てるようにここにはいない最も信頼の置ける家臣であり、友である者に叱責する。

 しかし、政宗も同じ立場であれば同じような行動を取っただろう。盛隆が自ら乗り込んできた時点で少し眉が動いていたかもしれない。

 本来なら逆に褒めてやるべきところだが、どうしても謙信に嵌められたことへの悔しさが景綱への賞賛を否定する。

 

「残念だが、蘆名もこの佐沼城を落とした功労者だ。無論、伊達が葛西晴信を討ち取ったのだから武功第一に変わりはない。しかし、蘆名に我が配下の親憲も功を立てた。故にそれ相応の褒美を与えねばならぬ」

「いつから・・・・・・」

「最初からだ」

 

 全てを語ることを遮り素っ気なく謙信は答えてきた。

 政宗は怒って良い立場にある筈なのに怒りが自然と湧いて来ない。湧いて来るのは謙信に対する尊敬の心。否、それ以上に謙信という人物に対して何か畏怖を感じていた。

 普段は誰にでも慕われる温厚かつ寛容な性格。その裏には上杉の天下の為、日の本の泰平の為に邪魔になる者を蹴散らす力の強さ。上洛後に起きた危機的状況をも回避する運の強さ。

 背中から冷や汗などかいたことは記憶に無いのに何故だか自覚出来る程に背中にじとりと湿っているのが分かった。

 問い詰めようとしていたにもかかわらず、逆に政宗は話の主導権を簡単に握られていることにも腹立たしくならない。

 すると、謙信は握った筈の主導権をいとも簡単に手放すように政宗が呑まれていた気を雲散させて朗らかな笑みを浮かべて水を呷った。

 

「だが、佐沼城のことについては見事だったな」

「何のことです?」

 

 政宗も惚けるようにして謙信同様に水を飲み干した。

 確かに伊達軍は二ッ木城を落とす前に佐沼城を陥落させた。とはいえあれはただ敵の怠惰と愚かな采配によるものである。

 だが、謙信はいやいやと首を横に振ってますます笑みを深める。手酌で水を注ぎ、一気に杯の水を呷ると政宗を見た。

 

「片倉を使い、佐沼城城主の大和田掃部を謀ったであろう?」

「っ!?」

 

 その表情はいつもの悪戯っぽい笑みの謙信とは違った。似ているが、正真正銘の黒さを含んでいた。

 だが、気のせいだと思うほどすぐにそれは無くなり、悪戯っぽい笑みになる。

 

「どうして・・・・・・」

「そうだな・・・・・・女の勘、というやつかな」

 

 ますます笑みがこぼれている謙信。悪寒が政宗の背中を走った。

 当たりであることは間違いない。景綱に命じて冬の間に佐沼城に入った葛西の武将、大和田掃部の調略を行っていた。

 もちろん、長年仕えてきた葛西を裏切るのは窮地から逃れようと生き延びたと罵られると思われる。自分にも武人としての意地があると言って断り続けてきた。

 しかし、景綱は最終的に葛西に最期まで付いていても意味がない。天下に名を残したいのならばこちらに降り、伊達の傘下に入って更に大きな土地を治めてみたくはないかと説得を続けてきた。

 それでも掃部は首を縦に振ろうとはしなかった。故に景綱は政宗に許可を得た上で敢えて事実を伝えた。千葉広綱はこちらに寝返る準備をしていると。

 無論、広綱は策の生贄になっただけで本当に寝返った訳ではない。しかし、気仙沼に葛西家臣の中で最大の勢力を誇る広綱の名前は利いたらしく、掃部は真っ青になったらしい。

 喚くように「何か証はあるのか!?」と怒鳴り散らし、景綱に詰め寄った。景綱はそんな相手に平然と広綱から貰ったという書状をひらひらと掲げてみせた。

 そして、見せ付けた。間違いなく広綱が送ったという紛れもない証であると。

「筆跡が違う!」と掃部は再び抗議したが、景綱は「これは千葉殿とは違う、家の者が書いた」と主張した。

 景綱はその時表情を眉一つ変えることなく今にも怒りの感情のままに刀を引き抜きそうな掃部に対して冷静に応対した。

 葛西の柱がいなくなると知った掃部が冷や汗をかきまくって膝を折るのはそれから三日後のことであった。

 更に万が一にと配下の兵を買収しておいたことも助かった。

 しかし、あの日の夜すぐに上杉の間者が佐沼城の状態についての報告をしてきた時には高揚していた気分が、肝が冷えたことによって一気に急降下した。

 政宗は皆が慎重になるところで焦りを抑えることで必死だった。結論として出たのは佐沼城を夜襲する為に自らが先鋒を務めて危険かどうか見てくるというものであった。

 

「佐沼城に入った時、いくつか酒の入った壺があった。あれもお前が渡すように指示したのか?」

「ええ、身を保証する証として受け取って欲しいと」

「結局はそれが身を滅ぼす原因となるか・・・・・・皮肉にもならんな」

「まさか私も、敵が去ってからすぐに手を付けるとは思わなかった」

 

 これが怠惰であった。買収した配下の者が手を出したことは佐沼城で降伏した兵から聞いた。当然ながらその者はあっさり酔い潰れていたところを何も抵抗出来ないまま首を取られた。

 

「佐沼城は迫川の流れを汲み、北上川にも通じている要害。なるべくなら無駄な血を流さずに落としたかったのだがな」

「何を持っても弁明にはならないことは覚悟している」

「一応言っておくが、お前を処分するつもりは全くない。今後はあまり面倒を買うような真似をするな。この言葉だけだ・・・・・・持って行け」

 

 政宗の前に謙信が持っていた二つの徳利の内、謙信が使っていた方の物が置かれる。

 

「少々水とはいえ飲み過ぎた」

 

 そう言いながらも謙信は更に水を呷る。

『過ぎたるはなお及ばざるが如し』という言葉を謙信は今体現して政宗を戒め、脅している。

 処分をするようなことはしない筈だが、もしこれ以上何かすればその時は何も無いという保証は無い。

 謙信も上杉の主として自分の器から零れ出そうな者は放置する程の愚かさは無いことはよく知っているし、景綱からも聞いている。

 確かに今回政宗は勝手に動いていたところがあった。百万石という野望に浮かれていた訳ではないが、それは上辺だけだった可能性もある。

 成実には口約束を信用するなと拳骨を食らわせたが、本心では口約束を真に受けていた部分があったのかもしれない。領主が死ぬことで主のいない領地が増えることを喜んでいた自分がいたのかもしれない。

 そう考えると政宗は自分自身に対して不快になった。あの成実に食らわせた拳骨を自分に食らわせた方が良いとも思えた。

 

「ああそうだ、斯波との戦。先鋒は伊達で行くからな。英気を養っておけよ」 

「えっ・・・・・・」

「欲しいものは自ら動かねば取れぬ。民の平和もだ」

 

 

  

 

 

 

 

「これで良い・・・・・・」

 

 未だに月を覆う雲に語ったのか自身に語ったのかは分からない。両方かもしれないが、何となく違って思えた。

 去って行った政宗は下を向いたままだった。表情は分からなかったが、不意に見えた頬は赤かった。

 百万石を欲しいと思うならあそこで何か言うべきだった。別に謙信は何も言わないからと言って政宗を見損なった訳ではない。

 少しは自分の欲しいと思うものに素直に歩んでみたらどうだと背中を押しただけである。それが政宗にはどのように映ったであろうか。それは謙信自身がよく分かっていた。

 世間で言うような冷酷とはかけ離れていても普段の自身を考えると人から見れば何か威を感じさせたのだ。

 強かなところを配下に任せるのが心苦しくなっていることは否めない。しかし、やはりこういうことは苦手である。

 伊達の力を行き過ぎさせない為に取った措置とはいえ慣れないことをした自身に少しばかり月は眩しかった。

 

「(人肌が恋しいな・・・・・・)」

 

 誰かに懺悔をしよう。

 謙信は立ち上がると愛する者がいる部屋にそっと向かった。

 また雲は開いて月を見せた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百十一話 駄々

 高水寺城はかつては平地にあった城だったが、応仁の乱の前から乱れていた東北の状勢を鑑みて郡山の丘陵上に詰の城を築き、最頂部に本丸がありその南に二の丸、東に家臣の右京屋敷や姫御殿などがある。

 最盛期には斯波御殿と呼ばれ、名門の血も相まって高水寺斯波は戦国大名化することも出来た。しかし、それは一つの躓きによって不可能な状態となった。

 

「何と、もう葛西は落ちたというのか!?」

「間違いございませぬ! 殿、ご判断を!」

「ぐぬぬぬ・・・・・・」

 

 当主の決断力の無さ。それは家臣同士の対立を招く。

 書状を握った手がわなわなと小刻みに震えている。その光景を見ながら周りの者達も無理も無いと個人個人で頭を悩ませている。

 天然茶髪を肩まで伸ばした女性、というよりは少女と言った方が正しいだろうか。高水寺詮直は季節外れの汗をかきながら頭を悩ませる。

 だが、彼女にとってこのようなことになったのは初めてであり、なかなか良い策は出てこない。

 高水寺斯波家は現在の当主である斯波詮直の曾祖父である詮高が謀略に優れていたといわれ、雫石に勢力を誇っていた戸沢を攻略。

 雫石城攻略後に次男の詮貞を雫石城に入れ、更に雫石領内の猪去館に三男の詮義を配するなどして家中の結束を固め、更に詮高の息子である経詮が先述の弟達と共に共同統治を行なって父の時代から続く高水寺斯波家の全盛期を築き上げた。

 しかし、詮真の代になると『三日月の丸くなるまで南部領』と言われる程に南部の最盛期を作った南部晴政が勢力を拡大させ徐々にその圧力を受けるようになり、婚姻関係を結ぶことによって一時的に脅威を避けていた。

 詮真は何もしていない訳でもない。祖父や父程までは積極的な戦略を立てずに領内の治安維持に心を砕いていた。

 無論、このままで良いと思っていた訳ではなく、葛西・大崎や稗貫らとの関係強化を図り、南部の侵攻に備える為に軍備を整えていた。

 しかし、そのまま彼は南部の侵攻を受けないままに死んでいき、外へと出なかったのが跡取りに悪影響を及ぼしてしまい、自身は政務を家臣団に任せ、方針を巡って家臣の統率が取れないままでいた。

 詮直は父の詮真に名門故に大切に育てられていた。それ故に他国の脅威を机上で知りはすれども身を以て知るのは今回が初めてであった。

 意見が別れるところを取り纏めるのもほぼ初めてである。

 

「殿、ここはひとまず、九戸の援軍を待って籠城なさるべきでは?」

 

 九戸の主君である南部とは南部家先代の晴政に詮真が戦で敗れた為、実質上は支配下にあった。しかし、名門故に生まれるプライドがこれ以上の他家への依存を許さず、独立意識が強い。

 斯波は足利一門の中でも名門であり、足利将軍家に匹敵する家格を有した。故に詮直の家系は斯波としては高水寺斯波の生まれながらも足利の遠祖で平安後期の名将、源頼義・義家以来の聖地ともいうべき斯波郡を領有してきた。

 これが家臣の間にも染まっていて、それが現状の言い争いにも少なからず原因がある。

 

「それはならん! 斯波家は将軍様の御一門ぞ! 九戸などに膝を屈するなど以ての外!」

「今、恥を忍ばねば我らは滅ぶしか道はありませぬ!」

 

 家臣同士が怒鳴り合っているにもかかわらず、詮直は誰かを頼りにするのでもなくただおろそかとするばかり。

 

「ならば、雫石殿は我ら数千の兵馬で一万以上の上杉軍と外で戦えというのか? いくらこちらに地の利があるとはいえ、この差はどうにもならぬ」

「では、岩清水殿には何か策があるのか?」

「先程申したように、九戸を頼るしか道はありますまい。そう言う雫石殿は何か上杉に勝利する為の策があるのですか? 九戸も頼らずに勝利する方法が。是非、お教え願いたい」

「そ、それは・・・・・・」

「とにかく! 岩清水殿の策は良策ではありませぬ。これだけははっきりしていることだ!」

 

 四人の人物が唾を飛ばし合いながら行っている言い争いは収まる気配が全くない。

 岩清水義長・義教姉弟と雫石久詮・猪去久道が名門のプライドを捨てて南部に援軍を乞うか、プライドを捨てずに最後まで自力で戦い抜くという方針で割れている。

 だが、どちらにしても現状ほぼ不可能な戦略であること。敗戦必至であることに間違いない。

 南部にとって国外の脅威よりも国内の憂いの方が重要である。時間的にも余裕は全く無い。

 外に出たところで上杉・伊達・蘆名・大内は強者揃い。勝てる可能性は無いと言って良い。

 

「殿、如何致しますか?」

「殿、九戸を頼ったところで良いことはありませぬ! 名門の血を絶やさぬ為にも、何卒、何卒・・・・・・」

 

 久詮達に良策が出なかったことを良いことに有利に義教が詮直に判断を仰ぐが、すかさず久道が泣きそうな表情で額を床に着けて懇願する。

 傾きかけた方針は詮直がそれを見て決めあぐねた為に議論はまた平行になる。肝心の詮直は全くその中に入ることは出来ずに。

 詮直自身『名門』という言葉に弱かったことは確かだったし、斯波家中では周知の事実であった。

 先祖代々の築き上げてきたことのほとんどが名門の『箔』で解決してきたという思いが常に頭の片隅に置かれていた。

 一度頭に入った固定観念は簡単に捨てることが出来る程、詮直は柔軟ではない。

 最後は待ちに待った各々の意見をどちらも取り入れることなく「後日、裁断を下す」と言ってさっさと軍議を終わらせてしまった。

 詮直が立ち去って行く時、盛大な溜め息が評定の間に広がった。まるで彼女にわざと聞こえさせているように。

 

 

 

 

 

 

 

「馬鹿者!」

 

 軍議が終わるなり義長は弟を自分の部屋に呼び出すなりいきなり怒鳴った。

 評定の間に響いた盛大な溜め息。吐いた張本人は義教である。

 あの場での溜め息はただの溜め息で済むようなものではない。明らかに詮直に対して聞こえよがしに吐いたものだと他の家臣には確実に思われている。 

 

「姉上、それは誰もが思っていること。いい加減、某も疲れ申した」

 

 内心の思いを『馬鹿者!』の一言で収めた義長の心を義教も感じていた。確かに義教の言いたいことも分かる。

 詮直が先程の二つに別れた戦略に対しての論争に決着を付けれずに既に一ヶ月は経とうとしていた。義教とてさっさと決めてくれれば主張した戦略を取り下げる潔さを持っている。 

 しかし、詮直が敵を目前にしてもなかなか裁断を下さずに後へ後へと先延ばししているせいで葛西と共に上杉を迎え撃つことも出来ずに葛西は滅んでしまった。

 これだけでも実直な義教の詮直に対する不満は溜まっている一方であったにもかかわらず、更にその後も葛西の残党を支援することなく動かずにあっさりと上杉に葛西の領土を与えてしまった。

 葛西・大崎が同盟を組んでいた際は南部がまだ背後を脅かす存在であった為に動くことが出来なかった。

 しかし、葛西が健在の時、落ちた後の残党の抵抗時、数の差があれども何度も上杉の動きを止めることは可能だった。そう義教は信じていた。

 

「まだ九戸の援軍が来れば、勝機はあるのにどうして殿は分からないのでしょうか・・・・・・姉上、やはりここは雫石達を排する他・・・・・・」

「阿呆! このような場所で口に出すでない!」

 

 義長の手が義教の頬に入った。

 ここは高水寺城内。どこに耳があるか分かったものではない。

 猪去と雫石は高水寺斯波の庶流の流れを組む一門である。かれらに媚びる者は大勢いることは二人共良く知っている。

 もっとも、かれらは決して野心を持っている者達ではない。先程の主張も斯波の行く末を思ったまで。

 しかし、体内に流れる斯波の血は成り上がりの謙信や家格の違う南部や九戸の懐に入るという選択肢を一瞬で切り捨てた。

 

「・・・・・・とにかく、某は納得がゆきませぬ。上杉はもう目の前に来ようとしているのに・・・・・・」

「それ以上言うな。もはや進退窮まっている現状を打開するにはせめて詮直様だけでもどこかに行かせなければならない。とにかく、もう一度詮直様に会ってくる。お前は岩清水城に戻って兵を集められるだけ集めてくれ」

「はい・・・・・・」

 

 義教の苦虫を噛み潰した表情を見て義長は姉の顔でぽんと肩を叩いた。

 

「そうふてくされるな。今は時を稼ぐことに集中だ」

 

 自分達が奮戦すれば詮直もこちらの意見を取り入れてくれるだろう。

 詮直も家の窮地になっても今までのように遊び呆けることはない。そこまで愚か者ではないと信じていたが、期待は彼女の部屋へと行くことで木っ端微塵に打ち砕かれた。

 詮直の許可を得て中へと入ると彼女は先程まで悩みを浮かべていた顔と同じとは思えない程に楽しそうな表情で絵を描いていた。

 詮直と彼女が描いていただろうそこら中に散らばっている完成した絵を交互に見て、不安だから一緒に付いて行くと言った義教の血管が切れそうになっている。

 

「殿、いい加減にして下さい! 何故に危機が迫っているにもかかわらず、そうのんびりと絵などを!?」「うるさい。危機が迫っているからこそこうした息抜きがいるというものだ」

 

 更に怒りに身を任せて詮直に詰め寄ろうとする義教を手で制しながら義長は平身低頭、詮直に向かい合った。

 

「殿、上杉はこれまで諸大名には比較的宥和政策を取り、首領の者も降伏すれば許してきました。しかし・・・・・・」

「ああ、長い話は無し無し! 言いたいことはさっさと言ってくれ」

 

 気付かれないように天を仰ぐと義長は詮直に無感情な声で事実を告げた。

 

「このままでは、殿の御命も危ういかと」

 

 ずっと描いている絵から目が離れていなかった詮直の目の色が変わり、手がぴたりと止まった。

 

「上杉は、殿のことも滅ぼすおつもりかと」

「何、斬るのか!? 斯波家一門の私を!?」

 

 無礼は承知であったが、こうするしか詮直を話に集中させる術が無かった。

 事実、大崎義隆や葛西晴信は上杉によって討たれている。東北、特に奥州・羽州の北側は豪族達の内乱が絶えず繰り広げられている。

 降伏させるという選択肢を取ってもそれぞれの利益を主張して結局傘下に入れてもまた内乱を起こされる可能性が高い。

 上杉は名家などということもどうでも良く斯波もその豪族の一つとして捉えているだろう。 

 

「殿、上杉は元は越後の守護代にしか過ぎない者。あの者らに相手が名門という考えはございませぬ」

 

 物は言いようだが、命のことになれば人は餌にありつこうとする餓えた野獣のように必死になる。

 特に詮直は斯波家一門の誇りと箔を絶対と思っているところがある。故に敵は決して自身を殺さずにその前に家臣達が力付くで敵を追い返してくれるだろうと信じていた。

 しかし、今回はまるで勝手が違うというように家臣達は頭を抱えている。詮直も皆がこれほどまでに深刻に考え込むのは初めて見た。

 それでも、上杉は家臣達がやはり追い払ってくれる。何だかんだ悩みつつも最後は解決してくれる。故に先程のように軍議で意見が割れてもどうせすぐに自分が決断しなくても誰かが決めて自分は「よし」と言うだけで終わり。

 そう思っていた。

 

「殿、ここは一つ、我が岩清水城に参られては・・・・・・」

「嫌だ!」

 

 いきなり自分で決めろと言われて詮直は疲れていた。足を動かしたくない。外に出たくない。生まれ育ったこの城から出たくない。

 今までと違う状況に置かれている。その事実は受け入れるしかないのだろう。しかし、その代価として我が儘の一つぐらいは聞いてもらわないと困る。それが彼女に残った子供心から出た反抗心だった。

 

「しかし、この城では孤立してしまいます」

「駄目! ここからは出たくない!」

「されど、ここでは救援が来たとしても・・・・・・」

「うるさい、うるさい! もう私は決めた! 二度とこのことは申すな!」

 

 義長・義教が立て続けに懇願するも、詮直は不機嫌そうに筆を無造作に取り、再び絵にかじり付いてしまった。

 岩清水姉弟はもう我慢が出来ないというような怒りの表情を押し隠すことも出来ずに食って掛かろうとする義教が義長の必死の制御を受けながら部屋へ戻ろうと歩く。

 眉間に皺を寄せ、額に青筋を作り、悔しさと怒りが混ざった表情を全面に出しながら義教が歩く姿を義長は隣で哀れんだ目で見た。

 途中、二人は久道に出会ったが、詮直の下に向かうと聞いただけで立ち去った。

 

「行くだけ無駄です」

 

 義長から後に受ける鉄拳制裁も覚悟の上で義教は忠告した。

 案の定、久道は一歩足りとも詮直の部屋に入ることは出来なかったという。

 

 

 

 

 

 

 寺池城の陥落の後、上杉軍は伊達軍を先鋒に未だに従わない寺池城以北の葛西家臣の城を立て続けに落としながら快進撃を続けていた。

 目の色が変わったように伊達軍が素早く功を立ててくる為に蘆名や大内も負けるかと月ノ輪城や鼎館、米谷城を立て続けに陥落させ、上杉はほぼ葛西の旧領を支配下に置いた。

 謙信率いる上杉軍は休む間もなく降伏勧告を無視した高水寺斯波を討つべく、どっちつかずの対応を見せた和賀を滅ぼし、斯波の圧力を受けていた稗貫を救出すると北上川沿いに進路を取りながら高水寺城に迫った。

 

「このまま一気に高水寺城を落とす! 東北の民に安らぎを与えるのも時間の問題だ!」

『はっ!』

 

 斯波の国内に入ると橋爪城と大巻城を僅か三日で落とし、一気に高水寺城を包囲せんとしていた。

 謙信が軍議を散会させると残ったのは颯馬・官兵衛・親憲・景家ら上杉軍の上層部のみとなった。

 戦が続いているにもかかわらず、謙信の顔色は戦勝が続いているせいか随分と良い。

 

「謙信様、実は先頃、安東殿から使者が参りまして、南部が安東殿を仲立ちに降伏致したいと」

 

 颯馬は書状を謙信に差し出す。機嫌が良いのは謙信と同様だ。

 

「・・・・・・なるほど。だが、南部は家中に火種があると聞く。我らに付くことは構わないが、その反抗勢力がどうでるかだな」

 

 南部は現当主の南部信直が南部家の最盛期を築いた先代の南部晴政の実子ではなく、重臣の子供であるということで権力の集中化を恐れた他の家臣の分裂、対立を招いている。

 その代表格の津軽為信が信直の実父である石川高信の居城である石川城を落とし、更にはかつて上杉に刃向かうよう愛季に仕向けた浪岡顕村を安東に追放させていた。

 浪岡家は元々北畠親房の後裔とされ、東北地方では名門とされていた為、彼を追放した後に津軽と安東の仲は悪くなり、戦を行った時もある。

 しかし、信直は腰を上げることをしなかった。というよりも出来なかった。

 九戸家が推す九戸政実の弟、九戸実親という人物との世継ぎ争いを繰り広げて当主に収まった為、九戸とも仲が良くない。信直が津軽を討伐に行けば背後で挙兵する可能性もあったので自らは動けずに家臣達に一任していた為に指揮が低くなかなか勝利出来ずにいた。

 

「すぐに援軍を差し向けるべきか?」

「はい。なるべく早い時期がよろしいかと」

 

 謙信の問いに颯馬がすかさず賛同の意を示し、他の将も特に何も言わずにいる。

 本来なら援軍を出さずに南部の力が弱まったところを待ってそこからそれなりに上杉の傘下になって上杉を頼らざるを得ない時になって動くことも考えられたが、弱くなったところを付け込むことは上杉の家風ではないし、後に聞こえが悪くなる。

 そもそもここで援軍を派遣しなければ、南部は津軽を討伐することは難しくなる。

 九戸政実が虎視眈々と南部家当主の座を狙っている今、南部と津軽が睨み合っていて決着が付かない時、出兵する機会が九戸には出来る。

 斯波と九戸は南部と対立し、南部が上杉を頼っているところで利害が一致する。つまり、九戸からの援軍の恐れが十分にある。

 長年、南部の精鋭として戦場に出ていた九戸の兵と戦うことは避けたい。上杉が援軍を派遣することによって津軽は背後を警戒しなければならなくなり、南部も上杉の介入によって対津軽戦線に余裕が出てきて九戸に対する睨みを更に利かせることが出来る。

 九戸も動くに動けない状況になり、斯波も降伏か討ち死かを選択せざるを得なくなる。

 

「このことを高水寺城の将兵達に伝えましょう。斯波詮直も慌てて降伏するかもしれません」

 

 颯馬の言葉に謙信は力強く頷いた。

 

「そうだ。颯馬、例のことはどうだ?」

「はっ、官兵衛の協力で上手くいっております。ここで時間を置きますか?」

「いや、士気も高く勢いをある今。策があるから時間をくれなどと言えば必ずや不満が出る。血をあまり流さずには終わらせたいが、はてさて・・・・・・」

 

 謙信は決して戦であろうとなかろうと人の命を粗末にするようなことはしない。しかし、味方の命の価値へと嫌でも流れてしまうのは謙信だけに決まった訳ではない。

 力が減ればその家は否応無しに勝利した家に頼らざるを得なくなる。

 その道理は謙信も天下を取る為には渡らなければならないと分かって割り切っている。

 故に軍師達の上げてくる良策と思えるものは採用して、申し訳ないと思いながらも軍師達に細かな策は任せている。

 寺池城で颯馬の下に向かった際に兼続張りの説教を食らい、反省して慣れないことはやはり人に頼ることにした。

 任せてみれば、きちんと次善の策も用意している手前。やはり本職の上手さというものだろうか。せっせと颯馬と官兵衛の二人は実行寸前まで持ってきてくれた。

 これで少しは気楽になれるというものだ。心にゆとりが出来ると家臣達の緊張した表情も見ることが出来た。がちがちになるよりはましだ。戦前、気分転換も必要である。

 

「どうだ。皆で酒でも?」

「謙信様、いくら何でも少々気を抜き過ぎです」

「あはは、そうだな。では、水で我慢しよう」

 

 親憲に咎められてはぐうの音も出ない。

 謙信は自ら一人一人の杯に水を満たし、謙信の号令で颯馬達は一気に皆で呷った。

 強い春風が田植えが来るぞと伝えているように謙信は感じた。後一ヶ月も経たない内に時期が来る。

 

「(急がねばならないが、焦ってはならん・・・・・・そこが難しいな)」

 

 

 

 

 岩清水城で岩清水義教が謀反を起こしたのを皮切りに簗田や日戸などの斯波家家臣達が呼応して一斉に挙兵したのは三日後のことである。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百十二話 朝が来る前に

「そうか・・・・・・分かった。後は私がやっておく」

 

 詮直が結局九戸からの援軍を頼りにせず、高水寺城から落ち延びないことを正式に決めたという報告を家人から聞いた義長は嘆息を吐きながらも致し方ないだろうと納得もした。

 あの時の詮直は誰が何と言おうと決して人の言いなりにはならないという決意が見て取れた。当主として駄々をこねるような真似はして欲しくなかったが、聞く気がないのであれば家臣である義長はそれに最期まで付き合うのが道理である。

 そもそも、先代が突然病死してしまい、当主としてのいろはをあまり教えられずに着いた高水寺斯波家当主の座は荷が重かったのだろう。

 故に怒り、我が儘を言うことで一度はすっきりしたいという思いがあったのかもしれない。

 何度も諫言をしたが、詮直は決して聞く耳を持つことはなかった。父の詮真がしっかりし過ぎていたこともそうだが、家臣達が詮直を甘やかし過ぎて面倒事を家臣達が率先してやり過ぎたことは彼女が遊興に耽ることになった原因の一端だろうと今では思えることでもある。

 戦支度を整える間、義長は援軍を頼む為に岩清水城に向かった義教へとなるべく早くするようにと催促の書状を認めると屋敷から出て城へ向かった。

 雫石久詮も上杉の行く手にある城の将兵の中で斯波に忠誠を誓う者達を高水寺城へと入れ、各郭へと配置する作業で忙しくしている。

 その為に今、全体的な指揮を執ることが出来るのは久道と義長しかいない。

 これから先、どれほどこの道を往復することが出来るだろうか。そして、眼前の高水寺城を幾度見ることが出来るだろうか。

 詮無きことだと思いつつも死を覚悟している義長は郷愁の念というものに駆られている自分に自虐を与えるような笑みを浮かべた。

 

「止まれ!」

 

 門番の声にふと我に返ると義長の周りを兵が武装して囲んだ。そして、その間を縫うようにして猪去久道がやってきた。

 

「どういうことだ猪去殿。この岩清水義長、何ら落ち度も無い筈ぞ」

「残念だったな。ここから先、謀反人を通すような真似は出来ぬ」

 

 突然、謀反人扱いされたが、全く以て義長には意味が分からないことである。しかし、向こうは確信があるのか怒りと侮蔑を表情に隠すことも無く浮かべている。

 

「言っていることが唐突過ぎる故、筋が分からぬ」

「はっ、よく言うわ。お主の弟が岩清水城で謀反を起こしたというのに」

「何だと?」

「岩清水で弟が兵を挙げ、姉であるお主が混乱に乗じて詮直様の首を取る。筋書きはそのようなところか? だが、この猪去の情報網を甘く見てもらっては困る」

 

 そう言うと久道は義長に一通の書状を叩き付けた。

 中には義教から九戸へ、上杉に対抗する為に斯波の下ではもうそれを果たす望みも無く、斯波家にて生きている価値も無い。

 混乱に乗じて九戸は斯波の領土に攻め込み、上杉の出鼻を挫く手助けをしてもらいたいという旨の書状が書かれていた。 

 読んで行く内に義長の表情は青くなっていき、それを見た久道は鼻で笑って義長を捕らえるようにと指示を出そうとする。

 しかし、書状を読み終えた瞬間、義長の感情は怒りによって完全に支配された。

 

「あの愚か者め! 詮直様の下に向かい、出陣の許可を取ってきます。そこを退いて頂きたい」

 

 書状を破り捨てると久道に家格の差など気にも掛けずにそこをどけと言わんばかりに睨み付ける。

 その気に圧されて思わず久道も質問をしてしまった。

 

「出陣とは、一体どこへ?」

「義教を斬る!」

 

 岩清水城に向かうとは言わずに義教を斬るとはっきり言い切った義長の決意の眼差しを見抜けない程、久道も腐った人物ではない。

 義長の目が語っている。もはや、義教を弟とは思わない。斯波家に仇成すただの不忠者だと。彼を排するのは彼をよく知る自分であり、あのような弟になってしまった自分の責任でもあると。

 

「嘘ではあるまいな?」

「もはや弟とは思わぬ。あれはただの阿呆よ」

 

 やはり久道の思った通りだった。彼女は忠誠心を決して失うような人物ではない。

 名門の箔を捨てることが出来ずに対立はすれども普段から忠誠心に揺らぎが全くない義長を見て、彼は道を譲った。

 久道は義長の背中には怒りと共に悔しさがあるように思えた。

 

「拙者も人を見る目が無いな・・・・・・」

 

 それなりの自負があった。しかし、たったこれだけのことでその自負が破砕されるような気持ちになるとは思わなかった。

 久道には名門故の箔から来る誇りがあっても野心や欲はない。自己研鑽は積んできたつもりだったし、家柄相応の能力もあると思っていた。

 謀反というものは嫌でも首謀者の一族に対して偏見が出てくる。人故にそれは同じ血が流れているからという同族主義の考えがもたらすものだろう。故に久道も義教の謀反を聞いた時、真っ先に義長を捕らえようと動こうとして、都合の良いことに向こうから来てくれたと内心ほくそ笑んだ。

 これで久詮と共に主張してきた方針に異論を唱える者がいなくなるとも思い、気が楽になった。

 しかし、現実は思いの中とは違い、ただの醜い偏見による羞恥を久道に与えただけだった。

 義長は主君である斯波家への忠誠を誓い、日々精進していることは人から聞いていた。

 斯波家一門ではあるが、誇りは最低限に抑えてきた彼は義長に好印象を持って接してきた。それが、弟の義教が謀反を起こしただけで全ての評価を無にしようとした久道自身、十分に恥をかいたが、逆に無駄なことをせずに済むという思いから清々しくもなった。

 生暖かい早春の風が吹く中で久道は詮直に許しを貰った鬼気迫る表情で義長が戻って来るまでずっと門で立ち尽くすようにして彼女を待っていた。

 

「早よう、義教を討ってくれ」

 

 これを言う為だけに。

 

 

 

 

 

 五日後に義長は岩清水城に出陣を開始した。数は三百と少ないが、岩清水城は未だに兵を集めたばかりで百もいるかいないか程度の数らしい。

 すぐに陥落させて義教を討ち取り、彼の首を城門に掲げて斯波家の者は誰一人として忠義を失わず、斯波は決して上杉に従わないという気概を見せ付けてみせる。

 愚弟の犯した罪を叱咤する前にやることは斯波の家臣がこれ以上離反するのを防ぐ為、義教謀反の報告を聞いた後、立て続けに他の家臣が離反したという報告が舞い込んできた。

 このままでは流れが完全に上杉に行ってしまい、最後まで飾り気の無い戦で終わってしまうだろう。少しでも何か世の中に魅せれるようなものを遺さなければ岩清水の名に愚弟が起こした謀反を抑えきれなかったという不名誉な記録が残るばかり。

 

「(それだけは何としてでも避けなければな)」

 

 追い風の中でそう胸の中で誓いながら義長は馬に揺られている。

 岩清水城は義長が長年城主として治めてきた城。その城を弟に奪われる形で戦になるとは夢にも思わなかったが、親子や兄弟姉妹同士で争うことがあるのが戦国時代の運命であるとして割り切るしかない。

 謀反を早く鎮める為に忙しく行軍している中で義長の思考は随分とゆったりとしていた。

 思考の中では既に義教はこの世にはいない。いくら義教がこの動きを予測して九戸が援軍としてやって来ようとその前に義教を討ち取る自信があった。

 庭同然の岩清水城に性格を良く知っている弟義教。しかも、数ではこちらの方が上。籠城戦において攻城は下策だが、それを跳ね返す程に悪条件は向こうに揃っている。

 後は上杉の攻撃をどう凌ぐかに掛かっている。謙信は民を良く重んじている為に田植え前に撤退をすることはほぼ確実であり、それまでに高水寺城を守りきればひとまずは勝ちである。

 しかし、上杉の疾風の如く速い機動力は侮れない。とにかく義教との戦いは時間との戦いでもある。

 

「岩清水様ー!」

 

 その報告を聞いた途端に義長の心の風のみが向かい風となった。

 

「南部が突如として国境を突破! 更に上杉軍が高水寺城へと後三里も無い所まで迫っております!」

 

 決断を迫られた。久道や久詮を信用してこのまま義教を討つか、詮直を守る為に急いで高水寺城に戻るか。

 どちらにせよ、大軍と事を構えることに変わりはない。岩清水城を放っておけば高水寺城は完全に孤立してしまう。一方、上杉との決戦において真の忠臣なら主君の近くにいないという選択肢は義長にとっても決断を難しいものにさせた。

 斯波家一門の出では無い為に誇りとは距離を置いていたが、武人としての誇りを捨てて謀反人を討ち取るという功を立てながらも肝心の主君は討ち取られていましたなどという義長にとって本末転倒な結末だけは避けたい。

 悔しい。何故に勝手に忠義を翻した義教に都合が良いように事は運ばれるのか。しかし、まだ負けが決まった訳ではない。耐えていれば機はある筈。

 

「撤退だ! 高水寺城に戻れ!」

 

 今度は心だけでなく身体も向かい風になった。

 義長には暖かい筈の早春の風がひどく鬱陶しいように思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 久道は義長を出陣させることを許すように道を譲ったのを後悔していた。

 冷静に考えれば上杉は義長が出陣したのを見計らってやってくるという可能性は高かったと分かる。義教が上杉と通じて謀反を起こしたのか九戸と通じているのかは不明だが、そもそも上杉軍が近付いているというのに道を譲った自身が許せなかった。

 こうなることは簡単に予測出来た。しかし、武人としての誇りを以て弟を討とうとした気に圧されてしまったのだ。

 ここには久道と久詮以外には数人の武将しかいない。他の者は上杉に降ったのだろう。

 おそらくは義長も上杉の大軍を背後に力尽きてしまったかもしれない。

 詮直の背後で久道がそう思った時だった。

 

「詮直様、岩清水殿がお戻りになりました」

「何と、この囲みを突破したというのか!?」

 

 完全に上杉軍に包囲されたこの日。もはや援軍の見込みなどない虚しい籠城戦になるだろうと誰もが思っていた中で決して来れないだろうと踏んでいた者が戻ってきた。

 しかし、詮直の嬉しそうな表情も義長の傷だらけになったぼろぼろの姿を見ると恐怖が隠せないというような目に変わった。

 

「殿、岩清水義長、只今戻りました・・・・・・」

「よく戻った。して、上杉は?」

「運良く寝静まった頃にて、被害は出ましたが、どうにか・・・・・・」

 

 早く早くと急かす詮直に対して疲れ切っている義長はそこで呼吸を整えるように深呼吸を二回する。

 辛うじて入ることが出来た義長だが、配下の将兵はほとんどが上杉に討たれてしまい、残っている兵は百にも満たない。

 それも致し方ないことだと久道は思った。義長が率いていた兵の数は三百、上杉は一万と聞いていたのが、本来は二万にもなっている。

 いくら寝込みの中に入れたとはいえ全く無害で通り抜けられる訳がない。

 義長以外に兵が残っていること自体が奇跡的なものと言える。

 

「おそらく、明日には高水寺城を攻めるつもりでしょう」

「そ、そうか。もう来るのか・・・・・・何か策は無いのか? 生き延びる為に必要な策は?」

 

 ある訳ない。

 面と向かっては言えないが、久道も義長も共通の考えだった。

 最後まで我が儘を貫いてここを出ないようにしつつ生き延びたいと詮直は思っている。

 上杉に付いた者達はこのような考えを最後まで捨てることが出来なかったことに対する呆れだろう。しかし、それでも主君であることに変わりはないのだ。

 

「殿、敵はおそらく明日の攻撃に備えて今宵は休息を取っているのでしょう。そこで夜襲を仕掛けては?」

「なるほど、敵も二度も同じ手を使ってくるとは思ってはいないでしょうし。ならば、すぐにでも・・・・・・」

「いや、岩清水殿はお疲れでしょう。ここは拙者に任せて殿の御身を守っていて頂きたい」

「よろしいですか? 殿」

「う、うむ。お主らがそう言うのならそうしよう」

 

 流されるままに詮直は頷いているように見えた。しかし、それで良い。それでこそ上杉軍に好機を逃すことなく一矢報いることが出来るのだから。

 

「行くぞ!」

 

 その声とほぼ同時に篝火が上杉軍の中で一気に灯った。

 

 

 

 

 

「けんけーん、夜襲よぉ」

 

 上杉軍の本陣では戦の最中だというのに慶次が普段通りのお気楽モードで謙信を起こしに来ていた。

 

「ふむ。どうやら官兵衛の言っていたことは当たったみたいだな」

 

 起こすまでもなく当然のように謙信は起きていた。そして、上杉軍からすると二度目の夜襲も全く動揺を見せる素振りはなく、至って冷静に戦況を見つめている。

 外では官兵衛と颯馬が前もって指示していた伏兵が鶴翼の陣を敷いて待っていた本隊と共に散々に斯波軍を討ち取っている。

 

「一度目の夜襲は小手調べ。もう一度来た時に本隊を動かすと見た官兵衛の慧眼には恐れ入ったな」

「一回目は手応えなかったからねぇ」

 

 疑念を抱いたのは官兵衛だった。おかしいと感じたのは敵が背後から攻めてきたのに敵は城から出る気配がなかったこと。 

 明らかに示し合わせたものではなく、行き当たりばったりな策であることが分かる。

 もしかするともう失敗した夜襲はしないだろうとこちらが思っていると考えて、また夜襲をするのではないか。

 懐疑的な意見も数人の将から出たが、最後は謙信の鶴の一声だった。

 

「それよりも早く終わらせましょ」

「そうだな。景家はどうしている?」

「もう行っちゃった。『未来永劫、如何なる戦でも私は上杉の先鋒を務める!』って」

「はっははは、あいつらしいな」

 

 世間話でもするように話しているが、身体は既に馬上で戦の体勢に入っている。

 

「そういえば、この戦が終わったら、この後は九戸攻め?」

「いや、後は伊達達に任せる。私達は撤退だ」

 

 ちょっと慶次は拍子抜けした。謙信は自ら先頭に立って決して配下任せにはしない面を持っている。それが原因で自己の判断で動ける者があまり多くない一面が上杉の欠点でもあるが、今は割愛する。

 今回は外様に任せるという普段は行わない方針を取るらしい。

 戦に関しては無類の強さを誇る謙信は外様に任せるようなことはせずになるべく譜代で行おうとする一面を持っていることも慶次は知っている。それは今まで長尾政景や景信といった一門の中でも争いを行ったことへの反省なのだろうと慶次は考えていた。

 一方で慶次は決して察しの悪い人間ではない。この決断は先述の譜代が多くの功を立てることに対する外様の不満を解消する為、そして、民を重んじている謙信が農民を田植え前に農地に返す為であることも承知済みだった。

 

「それじゃ、あたしも出るとしましょ。けんけんもどう?」

「よし、では久々に合わせるか?」

「はいな~」

 

 数の差を見れば勝利は間違いない戦。たまには前に出ることも構わないだろう。そのつもりで謙信も馬に跨がったのだから。

 軽い気持ちで調子に乗って大量の返り血を浴びた格好で謙信が帰ってきた際、颯馬から慶次と仲良く説教受けるのはまた別の話である。

 

 

 

 

 

 上杉軍が悠然と、恐ろしい殺気を隠しながら待っていたのを見た時、久道は終わったのだと悟った。

 普通城攻めでは扱わない鶴翼の陣を上杉軍が敷いてあったことも篝火で分かった。撤退する際、伏兵の配置にしてもまるでこちらが夜襲をしてくることを待っていたかのように置いてあった。

 ほうほうの体で逃げてきた久道に付いて来れたのは僅か五百以下の兵だった。

 それからこの劣勢の中で高水寺城に馳せ参じた将達が討たれていく報告が次々と舞い込んできた。

 そして、また報告がやってくる。おそらく、というよりは十割間違いなく凶報だろう。

 

「申し上げます。東の細川長門隊、壊滅状態に陥りました! 上杉はそのままこちらに向かってきております!」

 

 久道の予感は当たった。誰もが報告に来た兵を見て同じことを思った筈。

 ただ一人、詮直のみが顔を青くしてその報告は受け入れ難いものだという表情を浮かべている。 

 

「何故、何故、斯波が敗れる・・・・・・名門の家柄が、何故・・・・・・」

 

 俯いて誰の言葉も入っていないのかもしれない。しかし、久道はどうしても言わなければならない、進言しなければならないことがある。

 

「殿、お逃げ下さい!」

「嫌だ! ここは私の城だ! ここから出たくない!」

「されど・・・・・・」

「うるさい! うるさい! 私は一歩たりとも出ないぞ!」

「そう、ですか・・・・・・」

 

 久道は天を仰いだ。我が儘もここまで続くと逆に羨ましいように思えるが、戦に我が儘など通用する訳がない。

 詮直を説得するのは無理だと悟った久道と義長は最後の手段を選ぶしかなかった。

 

「・・・・・・では、御免!」

 

 久道が腹に一発喰らわせると詮直の身体が前にぐらりと倒れた。それをすかさず義長が抱え込む。

 

「来世ではもっと憚ることなく戦場でも平時でも友としてありたかったな」

 

 顔を合わせないままに義長が不意に零した言葉に久道は驚いて振り向いた。表情は変わらない。

 だが、互いの間にあった一門とそうでない者の壁というものは無駄なものであるとして破られていた。

 その言葉がありがたかった。冷め切っていた久道の心を暖かくしてくれたことこそ、墓場に持って行く最後の良き思い出だろう。

 気付けば、久道は今まで斯波家一門の誇り故に主君以外には下げたことが無い頭を義長に下げていた。

 

「・・・・・・済まなかった」

「別れに詫びは無用。今はただ誇れることを思い、最期の時を喜ばん」

 

 武人として生きてきた二人。更にここにはいないが、久詮もまた足利将軍家一門の斯波に仕えることが出来たことに誇りを持って最後まで上杉の猛攻に互いに毅然として立ち向かおう。

 

「逝くか・・・・・・」

「ええ・・・・・・」

 

 二人は頷き合うと久道は上杉軍の中央へ、義長は高水寺城の東、北上川へと馬を走らせた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百十三話 今日から上杉軍休みます

 上杉軍は高水寺城を落とし、斯波詮直は討ち漏らしたものの、城に馳せ参じた有力な重臣達の多くを討ち取り、斯波家を完全に無力化させた。

 雫石城も猪去城も主がいなくなったと知った途端、あっさりと開城して上杉に降伏した。

 岩清水義教は処遇を政宗に任せた。結局、政宗は彼を最後の最後で利益を得ようと裏切った逆臣として扱い、処断しようと岩清水城を攻めたが、義教は九戸を頼って落ち延びたらしい。

 政宗も最初は追撃しようと考えたが、田植えの時期が迫っていることを理由に一旦米沢城まで撤退した。

 南部からの援軍要請を謙信は伊達を頭に安東と戸沢に任せて慶次に言った通り、農民兵の帰還を理由に田植え前の撤退を完了させた。

 加えて残った伊達以外の二つの家も農民兵を帰還させる為に一旦領地に撤退して少ない正規の兵のみの行軍となるだろうが、津軽と九戸で四苦八苦の南部からすれば恵みであることに間違いないだろう。

 来年には南部の内乱に介入しようとしていただけに願ってもないことと言えば願ってもないことだった。

 戦続きであることには目を瞑るしかない。背後の不安を無くすことに待ったはもうかけられないのだ。

 恩義を着せることが出来れば恩義を感じ取って戦わずに向こうから下になってくれるかもしれない。今までよく裏切りを味わっていながらも謙信は決して折れることはなく、外れることもなかった。

 これが謙信の良いところであり、時折悪いことにも繋がる性格である。

 今回は良い方向に向かって欲しい。誰もがそう思っていた。皆が連戦に次ぐ連戦で疲弊していた。

 孫子曰わく、百戦百勝は善は善なるものにあらず。

 謙信も兵法を知る者としてそれはよく知っている一文の一つだ。しかし、複雑に関係が結ばれ、誰が味方なのか分からない東北ではそれを一回破壊するしかなかった為に戦い続けるしかなかった。

 収穫前に万事解決という当初の目標とは大きな差が出た結果となり、人手不足の分、民への補償を出すという赤字まっしぐらな政策を取らざるを得なくなったが、覚悟した上でのことなのでここからは国内を立て直すことにしばらくは心を砕くことになる。

 帰って来た時に謙信は思った以上の歓迎を受けた。

 収穫時を通り越して田植えもぎりぎり間に合った時期の帰還の為に不満が出てくるのは覚悟していたが、皆が謙信自身の帰還を心から歓迎しているのを見ると内心、安堵の溜め息が出てくる。

 出迎えてくれた重臣達に留守の間にかけた迷惑の労いと間に起きたことや報告書を提出してもらうとやはり普段の春日山での生活が良い思ってしまう。

 

「(なるべく早く楽隠居したいな・・・・・・)」

 

 その為には早く天下統一をしばければならない。しかし、なかなかそれは難しい。そして、それは更にこれから難題になってくる。

 関東の北条・佐竹。越中から加賀にかけての一向一揆勢。そして、宿敵である甲斐の武田。もちろん、織田も忘れてはならない。

 この四つの家の中で動きが盛んなのは織田・北条だろう。

 北条は既に東上野を抑え、武田の治める西上野も狙わんという姿勢を見せている。これからは房総半島を取るか下野に介入するかは分からないが、どちらにせよ流れは佐竹よりもある。

 織田は東を徳川・今川に任せて伊勢の一向一揆と浅井・朝倉との決着に本腰を入れ始めている。東へとはまだ将軍家や三好、本願寺という脅威があるが、武田を先に討つ可能性も無きにしもあらずというところだ。

 徳川・今川は北条を気にしているのか織田に止められているのか不気味な沈黙を保ったままである。太原雪斎という名の馳せた軍師がいる以上は何かを企んでいると見て良い。 

 

「まぁ、全ては内々のことを終えてからだな」

「何がでしょうか?」

 

 背後で景家の声を聞いて何でもないと手で制しつつ気付かれないように口を塞ぐ仕草をする。

 彼女にもこれからは忙しく動いてもらわなければならない。

 軍師達が以前から主張している上杉の越後完全直轄化の下準備をこれから始めなければならない。

 楊北衆が持っている高根金山を直轄にしたり、山吉の領地を没収したりすれば、かれらは力が徐々に奪われるのではないかとびくびくすることは必至。

 謙信は後に空いた東北の領地やこれから攻める関東や信州の土地を与えることで調整を図りたいと思っているが、取れるかもまだ分からない所をやると言っても逆に不信感を持たせるだけである。

 そもそも謙信自身もそう簡単に取れるものだとは思っていないし、東北への国替えはまるでかれらからすれば都落ちのような気分だろう。

 これからが大切だと謙信は改めて自身の中で厳しく言い続けた。

 

「景家」

「はっ」

「時期は任せるからお前はしばらく休んだ後に飯山城へ向かってくれ」

「あの、謙信様。坂戸の方は、よろしいのですか?」

「構わない。向こうは清実と憲政殿達に任せておけば心配ない」

 

 弱くなったところで虎は虎である。獅子の台頭も怖いが、謙信の脳裏には川中島の記憶が残り続けている。

 未だに立ち向かい合ったことが無い者と幾度も戦い、雌雄を決し合ったことのある者。謙信も人である以上は一対一で、生身で戦った相手の方へと目が行くものだ。

 北条も上野を取ったばかりですぐに越後へと目を向けることはないだろう。そもそも北条は関東の覇権を目論んで行動しているのだから上杉がちょっかいを出さない限り攻めてくる可能性は低い。

 武田は北の上杉、南の徳川・今川に挟まれて動こうにも動けない状態ではあるが、上杉が北条か一向一揆を攻めている間に越後に攻めてくる可能性もある。

 あの執念深い信玄ならば有り得る話だ。故に警戒しておかなければいずれ足元をすくわれかねない。

 

「いくら弱体化しているとはいえ、信玄は信玄だ。決して、侮るな。飯山城に着いたら義清にもそう伝えてくれ」

「はっ!」

 

 良くも悪くも景家は忠義に篤い。悪いところは謙信自身に忠義が篤過ぎて功を急いてしまうところがあるあたりだ。

 もちろん、謙信も承知のことで手綱はきちんと引くようにしている。

 勝手に戦線を広げられては民の負担がますます多くなる。

 景家もそこにはきちんと気を配れる人だ。分かっているだろうし、その辺りも踏まえてもう何度か口を酸っぱくして言っておけば景家も謙信の考えを汲み取り、勝手に信州に入ったりはしないだろう。

 だが、一つだけ懸念があった。

 

「後、もう一つ付け加えるぞ」

「はい! 何でしょう?」

「明日、明後日にも行こうなどとゆめゆめ思うな」

「うぐっ・・・・・・」

 

 去ろうとしていた景家に少し強めに言ってみれば図星だったらしい。顔に「どうして分かったんですか!?」と書いてある。

 景家の悪いところのもう一つ。時折、自分のことに目が行って兵のことをうっかり失念すること。

 

「景家は分かり易いからな」

「か、からかわないで下さい!」

「ははっ、私が慶次ではなかったことに感謝しておけ」

 

 そう言う謙信も茶目っ気がある為に景家からすると油断大敵である。

 第一に慶次は別に墓穴を掘らなくても普通に悪戯をするので変わっても同じことだ。

 だが、景家に何かツッコミを入れる程の気を回す余裕など無く、おろおろするしか彼女にはやることがなかった。

 それを見て謙信はまた笑みを深めた。別に加虐心がくすぐられた訳ではない。ただこうして景家が乗ってくれるのが楽しいだけだ。

 普段よりも長くからかいを出来る理由は余裕があるからである。

 今宵は久々にゆっくりと休める安堵感が謙信にはゆっくりと出来上がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 出陣した時と違って大分暖かい風が吹き始めて人の心を穏やかなものにさせるようになった。

 風の音、暖かさは人の心を左右するのかもしれない。現に颯馬は寒い東北の風に吹かれていた時は謙信と二人きりになってもどこか、落ち着かないようなもどかしさと訳も無く苛々するような気分になっていた。

 戦の合間ということもあるのだろうが、それでも冬の残ったような冷たい風よりも春がやってくると知らせる風の方が断然良い。

 良く身体も動くし、頭も働くような気がする。

 帰って来るなり颯馬は任せていた仕事を確認する為、身体を休めることなくすぐに龍兵衛と兼続の下に向かった。

 颯馬が部屋を訪ねた時、兼続は景勝と共に別の仕事に向かっていた為に留守にしていたが、もしもの時の為にと龍兵衛は予め兼続から資料を預かっていた為に話は滞りなく進んだ。

 留守にしていた間は特に何も他勢力のこちらに対しての攻撃はなかったこと。

 内政としては特に大きな事件も無くほとんど平和的であったこと。

 そして、龍兵衛はしつこく湿田から乾田への変更をお願いしたところ、ようやく幾つかの村が折れてくれたこと。

 

「大きな一歩だよ」

「そんなにか?」

「これで確実に米の生産性は上がる。しばらくは新田の為の不作が起きるかもしれないが、安定すれば絶対に上手く行く筈だ」

 

 颯馬は農業を見たことがあってもやったことは無いズブの素人だ。そもそも、軍師としても武将としても農家出身という者は珍しい類である。

 だが、目の前にいる農家出身の龍兵衛が確信を持って言っている以上は間違いないのだろう。

 龍兵衛には実際に確信があった。江戸から明治時代にかけての干拓作業と阿賀野川と信濃川の堤の建設。更には流れを変える為の支流作りなど厳しい土木作業を強いることになるだろう。

 それでもやらなければ越後を日の本の米所にすることは出来ない。

 以前から進めている鉱脈の発掘と密かに進めている青苧座への支援と管理化、直江津と新潟港での交易の拡張。

 ほとんどの改革が成功を納めている。

 そこに農業が成功すれば農・商・工の三つが他国よりも成長している国に越後はなれる。

 

「そこまでにか・・・・・・」

 

 正直、颯馬は全く予想も出来なかった。京や堺を見て、差を感じていた。しかし、龍兵衛は差を埋めるだけでなく上に立つことも可能だと言う。

 

「あくまでも希望的なものだけどね。でも、間違いなく可能だと思うよ」

 

 普段は断言を避けることが多い龍兵衛が断定した。

 実行することで出来ることだということを確信しているということだ。

 後は民への理解だと颯馬も知ったところで協力は惜しまないと龍兵衛に彼は約束した。

 感謝しつつひとまずはその村で乾田に移行させた後に出るであろう効果を大々的に発表することで他の村にも乾田への移行を促す考えだと龍兵衛は締めくくった。

 それから話題はがらりと変わり、龍兵衛が兼続と共に密かに進めている楊北衆の力を抑えることへの対策についてになった。

 

「そっちはどうだ?」

「万事順調。とまでは行かないが、流れはこちらにある。山吉殿がこちらに付いた。これで三条城は上杉家の直轄地となる」

 

 まだ先々の話だが、山吉の領地は山吉豊守が逝去すれば嫡男の盛信も病弱であるという理由で領地は没収されることになっている。後は代官を派遣してしまえば誰も文句は言えない。

 黒川清実の行動が気になるが、当分は坂戸にいてもらう為に憲政達の目があって動けない筈だ。

 

「・・・・・・こんなところだな。謙信様には黒川殿の動きに逐一注意するようにと兼続とも言っておく。颯馬も頼むぞ」

「分かった・・・・・・そうだ。多分、謙信様から俺達には改めて言うことになると思うけど・・・・・・」

 

 颯馬が思い出したのは伊達が謙信に行っている水面下での交渉。謙信が彼だけに教えた大切な情報である。

 信用しているからこそ颯馬は龍兵衛に自分が知っている限りのことを伝えた。 

 

「そうか・・・・・・伊達に百万石を」

「ああ、だけどただで与える訳ではないみたいだな。寺池城を落とした時も本来なら伊達の功だったんだが、一人占めになるところを蘆名殿や水原さんを使って妨害したんだ」

「そりゃあ、当然だな。今から大きな顔をされても困るし。伊達殿は上杉が服従させている者達の中でも最も力と人が揃っているから、これ以上大きくなるのを黙っている訳にはいかない」

 

 外でも内でも水面下で駆け引きが行われている。つまり、軍師は当分両方に目を向けなければならない。しかも、これから戦後処理が待っている。

 

「休みが欲しい・・・・・・」

「同感だ・・・・・・」

 

 戦が終わっても休むことなど軍師には許されない。

 ぼやいている二人だが、本心はきちんとそれぞれが行うべき仕事に向いている。

 おそらく颯馬は官兵衛と外交を、龍兵衛は兼続と家臣達の調整を行うことになる。とはいえ、しばらくは内側主体になる為に前者の二人も後者の応援になることが多くなる。

 

「くれぐれも、伊達からは目を離さないようにな」

「分かっているよ。しかし・・・・・・」

 

 そこまで言うと急に颯馬の雰囲気が変わった。先程までは少しばかりは冗談を言っても通じそうな程度の真面目さが、今は下手なことを言えば通じないようになっている。

 

「それにしても、謙信様はよく政宗殿を近くに置けるものだと思ってな」

「上杉の中でも大きな力があるにもかかわらず、更に大きくなろうとする向上心のようなところか?」

 

 颯馬は首肯する。器の大きさが皆の崇拝にも似た尊敬を集めていることは颯馬も龍兵衛も知っているところだ。

 

「まぁ、それが器の大きさの違いかな・・・・・・」

「それを越えて奥深くに入り込んだお前が何を言う」

 

 顔を赤くして恥ずかしそうにしている颯馬を見てますます龍兵衛の心は楽しくなっている。

 親憲と共にはっきりと謙信との仲を知っていますよと言ってあるからこそからかえることがただ面白いだけだ。

 

「と、とにかく、謙信様が伊達殿を認めている以上、俺達からは何も言えない」

「分かってるよ。謙信様は信頼を置けない人は決して用いる方じゃないからな」

 

 下手なはぐらかしで逃げるように去って行った颯馬をにやにやと見ながら龍兵衛もお互いの部屋へと別れて戻って行った。

 

 

 人を見る目が鋭いと言えばそれまでだが、鋭過ぎると自身を傷付けかねない。そのことは龍兵衛も重々承知している。

 もちろん、謙信もそうであるに違いない。しかし、その果てが分からない為に龍兵衛は謙信という人物を尊敬していた。しかし、今は畏怖となっていることに自身で気付いた。

 

「颯馬、俺は怖いんだよ。謙信様が・・・・・・」

 

 能力があり、それなりに反骨心がある者でも決して謙信自身の器から漏れることはないと判断すれば一度は恭順してもう一度反旗を翻そうとも再び取り込む器の広さが龍兵衛には颯馬同様に畏敬の念と共に恐怖を抱かせた。

 葛西・大崎や北奥州の豪族達のように手に余ると判断すれば簡単に葬り、津軽・九戸の場合は伊達や安東、戸沢を使って完全に滅ぼしてしまう強さ。

 どこかで歯車が狂えば全てを上杉譜代の家臣のみにしてしまい、それ以外を使うだけ使って後は使い捨ててしまうという恐ろしい顛末を迎えてしまいそうな程に高みへと昇って行く主君が今や親しみやすさと共に畏敬の念を超えて恐怖にもなろうとしている。

 

「(だからといって、謙信様は決して道を外すようなことはしない筈だ。皆と笑い会えるような人は決して道を外すこと有り得ない)」

 

 心にあるものが畏怖でありたい。恐怖を抱くような思いは美濃にいた時だけで十分だ。

 取り敢えず、先程会った時に謙信からは留守の間の労いとしばらくは内政に専念する故に力になって欲しいと兼続共々お願いされた。

 労い一つで一回一回感激している兼続に痛い視線を送っていたら謙信の部屋だったにもかかわらず、殴られそうになったのは余談である。

 もしかすると器を計ろうとすること自体が間違いなのかもしれない。計り知れない故に知ろうとしても届かない。ただの無駄な行いなのかもしれない。

 

「そう考えた方が楽かもな。別にやましいことをしてないんだからびくびくする必要もないし」

 

 たまには慶次のように軽い気持ちで考えてみるのもありなのかもしれない。

 

「ま、慶次に感謝したところで何も出てこないんだけど・・・・・・」

「あらぁ、分かんないわよぉ」

「・・・・・・」

「痛たたた!? 何すんの!?」

 

 思いっ切り頬をつねってみる。反応しているところを見ると幻覚では無さそうだ。

 

「何で突然入って来たのか不思議だったもんで、つい」

「だからっていきなりつねることないでしょう?」

「悪い悪い。で、何しに来た?」

 

 単刀直入に訪ねると慶次は一旦目を明後日の方向に向けて考えるような素振りを見せる。そして、急に頬を赤くしてぐいっと龍兵衛に迫った。

 

「戦での・・・・・・高ぶった気を慰めに」

「・・・・・・」

 

 何を言っているのかは分かる。もちろん、慶次は龍兵衛が抱え込んでいる悩みなど知る筈がない。だが、人を明らかに間違えている。

 

「戦のことなら一緒に参加した颯馬の所に行けば?」

「けんけんの所に直行したわよぉ」

 

 龍兵衛は舌打ちとと共にどういうことなのかを全て悟った。

 慶次は颯馬が謙信の部屋に行ったのを目撃してそれとなく付いて行き、二人っきりのところを覗いたのだろう。

 時間が時間なだけに身体を重ねていることは無いだろうが、それでも慶次の心を揺さぶるには十分なものだったに違いない。

 

「あのね、もう少し人を選んだら・・・・・・って、駄目?」  

「駄目よぉ。男としても、ねぇ・・・・・・」

 

 顔が赤い。鼻息が荒い。敢えてそうしているのか口呼吸になって肩を揺らしている。それに合わせて大き過ぎる胸が揺れて見たくなくても目が行ってしまいそうになる。そもそも、当たっている。

 どうやら本気で慶次は誘っていると龍兵衛は悟った。しかし、応える気など彼はさらさらない。

 

「(このままだと振り切れないな・・・・・・)」

 

 ぎゅっと力強く慶次は龍兵衛の服を掴んでいる。無理に剥がそうとすればそれこそびりびりになって折角の服が台無しになってしまう。しかし、先程言ったように今の龍兵衛にはその気になるような気分でもない。普段は巧みに隠しているだけだ。

 如何にして逃げるか真剣に考える龍兵衛。すると、一つの記憶が蘇ってきた。

 上手く行けば今後は慶次をそちらに向けさせることも出来る。

 

「慶次・・・・・・目、閉じて・・・・・・」

「えっ・・・・・・」

 

 囁くようにそう言ってゆっくりと龍兵衛は慶次の唇に自身の唇を近付ける。

 

「ぐっ・・・・・・」

 

 呻き声と共に慶次の身体が前に倒れ、遂に龍兵衛の部屋で起き上がることは無かった。

 

 

 

 

 

「ん・・・・・・あれ・・・・・・」

 

 慶次の目が覚めたのは夜になってからの話である。

 身動きが取れない。それもその筈だった。

 慶次はしっかりと亀甲縛りで出てるところを強調され、大股開きで足を固定された状態で固定されていたからだ。

 

「え、えぇぇええー!?」

「ああ、起きたか?」

 

 しかも、声をかけてきたのは龍兵衛ではなく弥太郎であることも予想を超える光景だった。

 

「えっ・・・・・・あ、ああ、あたしは、確か、龍ちんのとこに・・・・・・あれええぇぇー!?」

「その龍兵衛が、私に『良いものが手に入ったから好きに使って下さい』と言って呼んだのだ。付いて行ってみればその格好で縛られているお前がいたからな。ありがたく、お持ち帰りさせてもらったまで」

「えっ、お持ち帰りって・・・・・・」

「ああ、安心しろ。ちゃんと布団に包んで隠しておいたし、足の開いているのは私の部屋に着いてから龍兵衛が縛った」

「いや、ちょっと待って。何、その前に好きにして良いって、どういう意味?」

 

 慶次の発言に弥太郎は少し驚いたらしく、目を丸くする。しかし、慶次が周りをきょろきょろと見回しているのを見てまだ状況が分かっていないだけだと気付き、安堵したように息を吐いて慶次に近付きながら口を開く。

 

「私もこのところお前同様に溜まっていてな。謙信様が帰る前に何度か龍兵衛の部屋に夜這いを仕掛けてみたが、逃げ出した挙げ句、猫に見張りをさせる始末でな。それで今日は期待してあれの部屋に行ったのだが・・・・・・まぁ、お前で解消するのも悪くない」

 

 そう言いながら弥太郎は急に頬を赤くして、慶次が動けないことを良いことに身体のあちこちを弄ろうと手を伸ばす。

 

「いや、待って! あたしは百合には興味なんか・・・・・・」

 

 慶次は嫌な予感が汗で流れたのを感じると動かない手足の代わりに口を動かす。しかし、そんなことは弥太郎には通用しない。

 

「まぁ、そう言うな。求め合えば男も女も関係ない。ましてや・・・・・・」

 

 一度、口を止めると弥太郎は慶次の唇をさっと一瞬だけ奪った。それに動揺する慶次の隙を見逃さない。

 

「互いに溜まっていればなおさらよ・・・・・・」

 

 そう言われると慶次は抵抗らしい抵抗を見せることはなくなり、弥太郎のなすがままになった。

 

「よし、これで良い・・・・・・さーって、今日は早く寝よっと」

 

 静かに戸を閉めて「くっくっく・・・・・・」と笑いながら忍び足で帰って行く者に慶次は最後まで気付くことは無かった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百十四話 実りは遠く

 春は春一番という大風が吹く日以外でも風が吹く時が多い。それでも、春一番の寒い風よりは暖かい心地を与えてくれるので人は春風を歓迎する。

 しかし、風は気ままな性格を崩すことはない。

 穏やかな風を吹かせれば強くやかましい風を吹かせることもある。

 そして、風の音で目を覚ましても不思議ではないぐらいに強い風が吹いているのがその日であった。

 叩くようなうるさい音で起こされた龍兵衛は眠い目を擦りながら屋敷を出た。東北の戦が大体片が付き、政務も謙信達が戻ってきて大分余裕が出来ている為に久々に帰れる日々が続いている。

 楽で良いのかというと龍兵衛はそれほど自己中心的な人間ではない。

 

「(本当に帰って、寝て。良かったのか?)」

 

 逆に他の人達に仕事を押し付け過ぎて何か言われていないか不安になることもしばしばある。

 責任感が強い故に極力は自分でやろうとすることが多いが、無理だと判断したものは自分で解決せずに他力に頼ることもある。

 そうでなくても元々、上杉の面々は自分のことはなるべく自分でやろうとする気風がある為、その代表的な存在である兼続などはぎりぎりまで詰めて仕事を行っているのが日常である。

 龍兵衛もそこまでではないが、決してその類から漏れ出ている存在ではない。急いで支度を整えると彼は城に向かった。

 

「おはよー」

「おはよーございます」

 

 官兵衛と出会った龍兵衛は美濃の頃から変わらない伸びた挨拶をし合う。

 いつまで経っても官兵衛は変わらないままである。

 

「(色々と・・・・・・)」

「今なんか変なこと思ったでしょ?」

「思ってませんよ(何でこういうところだけは鋭い?)」

 

 内心の焦りを隠しつつ何でもないというようにしれっと答える。

 当然、官兵衛も女である以上は勘は優れているということだろう。しかし、世の中は実に不平等なものである。

 

「(特に慶次とか、慶次とか、慶次とかと比べると・・・・・・)」

「やっぱり、何か思ってるでしょ!?」

「だから何のことですか?」

 

 あまり多くを語ると逆に怪しまれる。重々承知している故に決して惚けること以上のことはしない。

 

「その惚けるだけっていうのがなお怪しいな」

「げっ・・・・・・」

 

 あっさり弟子を越えた師匠。というよりも師匠が弟子を越えないこと自体に問題がある。

 そこで素知らぬ顔が出来れば龍兵衛も誤魔化しようが利いたが、相手が気心の知れた官兵衛でしかも、公の場で無いという条件が重なって失態を犯してしまった。

 

「さぁさぁ、思っていたことをちゃっちゃと吐いた方が良いよーあたしの気が変わって龍兵衛が思っていたこと無いことを大声で言わない内に」

「へいへーい・・・・・・」

 

 その後、龍兵衛はしばらくの間、自身の頬に手の跡が残ることになる。

 

「今日も早く帰れると良いんですけどねぇ」

「んー大丈夫じゃない? ここんとこ、大した動き無いし」

「そうは言ってもねぇ。今は色々と大変なんですよ。何だかんだ」

 

 ひりひりする頬をさすりながら龍兵衛は遠い目をしている。

 大変なこととは楊北衆との高根金山についての協議や中条と黒川を筆頭にした楊北衆同士の対立、新田開発の指揮といったものだ。

 実際に忙しいのは間違いない。昨夜のように早く終わって屋敷に帰れるのは稀である。その稀が最近は続いているのだ。

 嵐の前の静けさとでも言うように本当に越後は平和な日々が続いているのだ。それ故に官兵衛も龍兵衛も大きなことが起こるかもしれないと内心では戦々恐々としている。

 軽口の叩き合いはその場凌ぎの心の安らぎを求めているからでしかないのだ。

 

「じゃ、俺はこれで・・・・・・」

「はいよー・・・・・・後、黙ってやるから感謝しろよー」

 

 根に持っていることに嫌な予感を持ちつつも龍兵衛は官兵衛から逃げるように部屋へと向かった。

 

「おう、兼続。来てたのか?」

「お前と違ってちゃんと城に残っていたからな」

 

 入ってくるなり嫌味の攻撃である。

 

「良いじゃん別に、仕事はちゃんと終わってから帰っているんだし」

「はぁ、何が起きるか分からないのに呑気なことで」

「言ってろ。体調管理も仕事の内、休みも必要だろ」

「屁理屈もそこまで行けば良いな。小島殿には言い訳もせずにぺこぺことしていたくせに」

「そりゃあ、向こうの方が偉いんだから」

 

 本当の理由は先日の慶次との一件の一部始終を覗いてたことがしっかりとばれていた為、覗きを黙っていてやる代わりに一日だけ奴隷のような生活をさせられることを命じられたので仕方なくぺこぺこしていただけである。

 

「それで、黒川殿はどうしている?」

 

 兼続の一言で急に言い争いが収束して真面目な話にころっと変わった。

 

「今のところ動き無し。だけど、色部殿がこっち側に靡き出しているのを少し気にしてるみたいだな」

 

 龍兵衛の答えはしっかりと調べた上での報告である。先日に出てきた色部勝長の旗印の一件について龍兵衛は勝長側の主張を全面的に受け入れて平賀重資の敗北が決まった。

 それでも食い下がる重資に龍兵衛は自ら相断るべきだと彼女を叱責して突き放した。

 

「ひどかったなぁ。あれは・・・・・・」

「うるせーその後、お前がちゃんと慰めたんだから良いだろ? 予定通りにな」

「ああ、ちゃんと慰めたさ。予定通りにな」

 

 それを聞いた龍兵衛がにやっと笑う。

 重資はあっさり否決された挙げ句、再考をお願いして断られて悲しみに暮れていた時に兼続が頭をよしよしと撫でて手を差し伸べた。

 そのことに感激した彼女は兼続に誘導されるように上杉の中央集権化の為に楊北衆の力を弱めることに賛成する派閥に入った。

 

「もうこれっきりにしてもらうからな」

「分かってるよ。俺だって本当なら弥太郎殿に頼みたかったんだ。けど、弥太郎殿も色々と兵の鍛練で忙しそうでさ・・・・・・」

「そんなことぐらい私だって分かっている。やりたくないとやらねばならないは別だ。それに、あそこまで頭を下げられては嫌と言えないだろう」

 

 本当なら兼続は崩れかけた人の心を誘導して有利な方向に運ぶようなことは汚いことだと考えている為にやりたくないと私情では思っている。

 今回は龍兵衛が土下座までしようという勢いで頭を下げてきた為に仕方なく受け入れたに過ぎない。

 しかし、龍兵衛からするとその兼続の発言に驚きを隠せなかった。

 

「・・・・・・・・・・・・えっ?」

「何だ、その『えっ?』は? 正直に言わないと話し合いを説教に変えるぞ」

「じゃあ・・・・・・ばいばーい」

「こら! 逃げるな!」

 

 そして、以前にもあったような状況になる。しかし、今回は兼続に非がある訳でもないので龍兵衛はしっかりと夕日が落ちそうになる時間まで兼続に正座をさせられた。

 ちなみに、崩そうとすれば兼続の口から火を噴くような声で足を引き戻すように言われるので結局今日は城に泊まることを余儀なくされた。

 

 

 

 

 

 それから更に経ったある日。

 龍兵衛は乾田への移行に頷いてくれた村を訪れていた。どのようにして湿田から乾田へと移行するか。当然のことながら農家の人々は知らない。

 そもそも、湿田とは地形的条件から落水後も乾き難い水田のことであり、これに対して乾田は落水期に容易に乾かすことのできる水田のことである。

 越後は東側が平野になっている為に今でも東側の米の生産量が多い。しかし、西側も出来ないことはない。

 今回協力してくれる村の内、八割が西側である。西側で生産量が東側の生産量と追い付いていると知られれば、農法を真似ようとする心理が必ず働く。

 

「取り敢えず、この湿田は冬の間も水が田に浸っている為に水はけが悪く、水の量の調整が難しい為に質が落ちてしまいます。もちろん、水を引く水路があることも承知しています。しかし、この村は関川の影響も時折受けているのですね?」

「はい。しかしながら、なかなか儂らには良い考えが浮かばなくて・・・・・・」

 

 湿田から乾田への移行は比較的簡単に出来るものだと最近になって龍兵衛も知った。ただ水路をもっときちんと整備して冬の間に普通なら田畑に張りっぱなしの水を引けば良い話だ。

 しかし、関川の洪水が時折起きるこの村ではきちんとした堤がない。その為、図面には川に沿った堤も描かれている。

 

「当然ことながら、それを避ける為には関川のことを何とかすることも重要です」

 

 そう言いながら龍兵衛は一枚の図面を取り出した。そこにはその村の田畑の場所、流れる川、そこから水を組み入れている為の水路。そして、現在は流れていない筈の小さい川のようなものが描かれていた。

 

「この水路を作ることで季節毎に水の調整をすることが可能性になり、冬の間に浸していた水を中に入れないことの理由はおおまかに分かりましたけど。それだけで米の量が変わるのですか?」

 

 土壇場での様子を見たいというような物言い。気持ちは分からなくもない。しかし、ここで歩調を合わせてはまた保留になってしまう。

 折角、実行するまでに来たのだから好機を逃すようなことはあってはならない。

 村長の不安げな表情と声に同情するように龍兵衛は少しだけ目を笑わせて曖昧に頷いて「はい」と返答した。

 一方、頷いた曖昧さとは裏腹に返答の声にははっきりとした確信を持ったものが含まれている。

 

「上手く行けば、この村を含めた村々が日の本一の米所になる最初の起点となった村として名を残すことも出来るかもしれないのですよ?」

「日の本・・・・・・い、いち・・・・・・?」

 

 いきなりのことで唖然としてそのままの状態では何を言っても耳の入りそうにないのを見て龍兵衛はさっと村長の手を取ってしっかりと目を真っ直ぐと見る。

 

「今は信じられないかもしれませんが、いずれ、数十年後、百年後にはそうなっている。その時に我々は評価されるんです! 一緒に頑張って行きましょう」

 

 心に響くように一言一句重みを付けることを意識して言う。

 心からの誠意を込めるように更に龍兵衛は真っ直ぐ射抜くような目で村長を見る。彼の心にも伝わったのだろう。

 最後には驚きを隠せないままであったが、頷いて「分かりました」と言ってくれた。

 

「(良かった。やっぱり、こういうことは心に言うようにすれば良いんだ)」

 

 上手く行くだろう。今は失敗が起きても決して諦めなければ道は必ず開かれるものだ。

 今、評価されなくても良い。龍兵衛自身、体裁に気を置いても評価に重きを置いたことはあまりない。いずれ、越後が繁栄すればそれで良いのだ。

 実際に彼は知っている。乾田移行することによって越後もとい新潟は日本一の米所になったことを。

 

「(この調子で他の村にも説得と説明を続けよう)」

 

 今日のことを忘れずに行けば、何かアクシデントが無ければ上手く行く。

 確信にも似たその思いを胸に龍兵衛はその村を立ち、最初にこの村を訪れた時よりも緊張感がほぐれた気がしながら他の村へと向かった。

 

 

 

 

 

 龍兵衛が城に帰ることが出来たのは結局、日も落ちた夜だった。

 その足で謙信に会おうと思ったが、すぐに足が止まった。この時間なら間違いなく颯馬がいる。

 ええい、それがどうしたと踏み込もうとすれば出来ないことも無いが、さすがに村を回って来た身体でそんな気力も無い。

 

「(明日にしよっと・・・・・・)はぁ・・・・・・」

 

 龍兵衛は心の溜め息が口から出てしまったことに気付き、慌てて周りに人がいないか確認する。

 誰もいないことを確認すると安堵の溜め息を今度こそ心の内で収めると部屋へと戻った。

 

「・・・・・・ん?」

 

 机の上には置いた記憶のない縦長の短冊のような紙が置かれていた。

 

「(言伝か?)」

 

 そう思いながら、龍兵衛はひょいとそれを取って書かれているものを読む。相手は景勝だった。

 

『由良の門を 渡る舟人 かぢをたえ ゆくへも知らぬ 恋の道かな』

 

 読み終えた瞬間に龍兵衛の眉間の皺が一気に寄った。

 百人一首の内で恋の句は最も多く四十三句ある。その中でも分かり易く、行く末の分からない恋を待ち続ける景勝の状況にぴったりと合うのであろう句をそのまま彼女は叩き付けてきた。

 

「そう来たか・・・・・・」

 

 淹れた茶をすすりながら溜め息を吐く。

 はっきり言って龍兵衛は中学の時に習って少しばかり印象に残った句を覚えて終わりだった為にあまり唄を詠むのは好きではないし、苦手な分野で景勝にも教えていた。

 しかし、景勝は知っていた上で敢えて句を持ってきた。

 龍兵衛が不得手な句を持ってくることで怒りと催促の両方を表し、曽禰好忠の句にて己の悩みを訴えかけて、背後を壊せない壁で覆い、早く結論を出すように語っている。

 

「句で返せ、そう言っているようにしか思えんな・・・・・・仕方ない。下手なりに何とかするか・・・・・・」

 

 がしがしと乱暴に髪をかきながら龍兵衛はどう返そうかとしばらく頭を抱えた。

 彼の部屋の灯りが消えたのはそれから二時間経った後だった。

 

 

 

 翌朝、景勝は普段と比べれば目覚めが良かった。寝起きも良く、機嫌も良い方だった。

 たまたま出会った慶次に朝稽古を付けてもらい、負けたとはいえ良い運動になった景勝の心身は爽快さで満ち溢れている。

 しかし、部屋に戻ると起きた時には無かった紙が机の上に置かれているのを確認すると心の気分は一変してがっくりと落ちた。

 

『かぢをたえ 門にて惑う 舟人の 行くも退くも 新月の夜』

 

 舵を失った船頭は潮の流れが激しい川と海が出会う潮目で動こうと努力しているが、周りが見えない新月ではどうしようもない。

 つまり、この恋の結論は未だに心の惑いを消せずに、暗闇の中で右往左往している龍兵衛は船頭の如くその場から動けていない状況だということだ。

 

「むぅ・・・・・・」

 

 下手なりに考えてはあるが、それよりも答えを見付けて欲しいというのが景勝の思いだった。

 更によく読んでみると催促を抗議するようにも取れる。

 まだ船頭は船上で迷っている。しかも、目印の無い新月の夜では動くに動けない。にもかかわらず、陸の上から呼ぶような句を送るのは止めてくれという訴えが含まれているように思える。

 

「うー・・・・・・(長い・・・・・・)」

 

 景勝はいい加減苛々してきているのだ。答えを見付けることが出来ていない彼の苦悩はよく知っているつもりである。

 謙信を始めとする重臣達が少なくなった時には夜中に部屋の中に行こうとして何度もうろうろしていた。

 最終的に龍兵衛に気付かれて変に思われるから止めて欲しいと怒られた。

 その際、彼の目はひどく悲しそうだった。目の下にある隈が印象的だったが、もう話し掛けるなと怒りを背中で語るようにして景勝に振り返ることはその時はなかった。

 その代わりと景勝はまたその日の夕方に龍兵衛が留守にしている時を見計らってまた一首の句を置いていった。

 

『うたたねに 恋しきひとを 見てしより 夢てふものは たのみそめてき』

 

 夜に龍兵衛が帰ってくるとまた彼の溜め息が部屋中に響いた。つまり景勝はこう言いたいのだ。

 

「(うたた寝してた。龍兵衛の夢見た。あっという間、だけど、それ、頼りっきり!)」

 

 部屋に戻った後に龍兵衛は百人一首よりももっと知らない万葉集からの訴えに更に鬱な気持ちになった。

 

「(こりゃあ、かなり怒ってるな・・・・・・どうやって返そう・・・・・・)」

 

 またこの日も夜まで灯が消えることはなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百十五話 怒り

 夏だというのに蝉の声は今年も全く聞くことが出来ない春日山城。

 下手人は誰もが知るところだが、逆に静寂が心地良いという人にウケが良いので飼い主も放っている。その為、狩りし放題の現状を下手人ならぬ下手猫は狩りを満喫している。

 

「だからって、朝っぱらから部屋の前に鼠の死骸を五匹纏めてのお届けは止めて欲しいんですけど」

 

 小隊を全滅したと一仕事終えたように舌をちゃしちゃしと指で舐める猫は渾身のどや顔を作って龍兵衛に「凄いでしょ。自分」と言っているような気がする。

 とはいえ、後始末は飼い主の仕事。内心しくしく泣きながら手袋をはめて鼠の死骸達を拾い集めると中庭の隅に穴を掘ってしっかりと埋めた。

 合掌している姿をその場を行き来している女中や将兵達は暖かい視線で龍兵衛を励ましている。

 いつもこうして埋めている彼の背中はどこか哀愁が漂い、可哀想に見えてくるのだ。

 

「さてと・・・・・・」

 

 屈んで行う仕事を終えて背中を伸ばすように伸びをして固まりそうだった腰を伸ばす龍兵衛。腰痛持ちが持病である為になかなかこの仕事はきつい。

 しかし、これからがもっときつくなる。夏と言えども、戦乱の世に休みはない。

 様々な勢力が農民の田植えを終えてかれらを兵へと変えて動き出している。

 北条はいよいよ武田に靡いている豪族を除いて上野の領地をほぼ完全に掌握した。

 もちろんのことだが、豪族達から上杉に援軍要請も来ていた。しかし、背後の不安を取り除く為に冬を越してまで続けた戦で兵の疲労はピークになっている。

 しばらくは動くことが出来る状態ではなかった。その為に一応は援軍要請を引き受けておいて、国境の将兵を少しばかり動かして最低限の威圧をするだけで終わらせてしまい、ほぼ見捨てた形となった。

 豪族達は最期まで北条に付くのを良しとせずに上杉や武田に逃げたり、自害したり、または諦めて降伏するなど様々だった。

 上杉を頼ってきた豪族達は謙信にどうして兵を派遣しなかったのか詰め寄る者もいた。

 

「我らも戦に赴いていた故に致し方なかったのだ。やむを得なかった」

 

 それに対して謙信は申し訳なさそうに頭を下げた。

 豪族達には更に向こう側の都合に合わせて欲しかったと言うようなことも言う者がいたが、結局、謙信はかれらに何度も頭を下げることで豪族達を半ば強制的に黙らせた。

 後で兼続が色々と喚いたが、謙信は何も聞く耳を持たずに肩をすくめて誤魔化した。

 周りの者達は雑談をしたり謙信と兼続のやり取りを温かく見守っている。そんな中、謙信達に驚くべき報告が鮎川から舞い込んで来た。

 

「申し上げます! 本庄繁長様、ご謀反!」

「なっ・・・・・・」

 

 鮎川からもたらされた報告に兼続の絶句の声が部屋中によく響いた。

 それ以外の者も同じような反応だった。颯馬も兼続のように声は出さねども驚きを隠せないと口を開けている。

 官兵衛と龍兵衛はさほど驚いていないという表情を浮かべているが、龍兵衛の眉間に寄っていた皺が更に深くなっているのを官兵衛は見た。

 気丈に振る舞ってはいるものの、龍兵衛は内心の汗が止まらない。

 揚北衆の弱体化を図る中で繁長には調略相手として仲を深めていたにもかかわらず、謀反を起こされては面目丸潰れも良いところである。

 

「更に、清長様の下からこのような書状が届いております」

 

 謙信は恭しく使者から書状が渡されるとじっとそれを読み込んでいる。

 軍師達は邪魔にならないように自問自答しながら色々と考えを巡らせている。

 本庄繁長は以前から鮎川清長・盛長親子と対立していたことは皆が知っていることである。

 かつて清長は盟友であった本庄房長と境界上にある下渡島城の支配を巡って対立し、房長の弟の小川長資や色部勝長と共謀して本庄城を攻め、繁長の父である本庄房長を出羽に敗走させた過去がある。

 更に繁長の代に父の十三回忌の式で長資を捕らえて殺すなど鮎川一族や周りとはかなり対立を続けていた。

 

「颯馬、兼続。お前達は東北の諸大名に通達を出し、直ちに春日山に来るようにと知らせろ。あくまでも今後の方針を確認するという名目でだ」

「「はっ!」」

「龍兵衛、官兵衛。お前達は直ちに中条達に本庄討伐の命を出せ。それから鮎川に急ぎ本庄の動きを封じるように伝えろ」

「「はっ!」」

 

 書状を一通り読み終えた謙信は続けざまに指示を出すと四人はすぐに謙信の部屋を辞して重い雰囲気をそのままに足早に廊下を歩き出した。

 暑い筈の夏が一気にそこだけ冷め切った秋のように風が吹き、お通夜のような静けさを放っていた。

 

「しかし、どうして今になって本庄殿は・・・・・・」

 

 しばらく続いていた沈黙を破ったのは颯馬であった。おとがいに手を当てながら分からないという表情を作りながら首を傾げている。

 

「武田か、北条か、一向一揆か。誘いがあったんだろうね」

 

 答えた官兵衛も先程までの無感情な表情から一変して苦虫を噛み潰したような表情になって明らかに苛々を隠せていない。

 

「どこから誘いが来たにせよ。本庄殿が動いたとなれば誘った勢力が動く筈だ。それよりも怖いのは・・・・・・」

「これで黒川殿達も反旗を翻す可能性がうんと高くなったことだな」

 

 兼続、龍兵衛が順に語り他の二人が同時に頷く。

 本庄の裏切りで上杉内部の対立している家臣と楊北衆の間で表面化するようなことになれば服従している諸大名や一向一揆、武田が目の色を変えて攻めてくるだろう。

 

「防ぐにはひとまずそれぞれに監視を付けるのが良いな」

「段蔵には俺から言っておく」

 

 兼続、龍兵衛の焦ったような口調に他の二人も釣られるように頷く。

 それぞれの表情にはこれから上杉が東北という後ろから関東・信州・越中といった前に向かおうと方向転換をしようとしていた際に舞い込んできた繁長の謀反には何か必ず裏があるということとその背後にいる人物は誰なのか。それを明らかにさせようという決意があった。

 

 

 

 

 暑かった筈の太陽が厚い雲に覆われている。上杉に明るさなど無用だと言わんばかりに。

 珍しく龍兵衛は兼続と一緒に歩いている。互いに神妙な表情を崩さずに互いに自ら話そうという雰囲気ではない。

 

「なぁ、兼続」

「なんだ?」

「繁長殿ってそんなに謙信様に不満を持っていたかな?」

 

 おずおずと龍兵衛が話しかけてくる。

 まだ、気にしているようだということは簡単に分かった。

 上杉の中ではあまり誰かが失敗したからといって揚げ足を取るようなこすっからい真似をするような輩はいないが、龍兵衛自身には責任感を持って行っている仕事に失敗したという気負いはあるのだろう。

 先程の評定でも終始どこか居心地の悪そうな顔をしていた。

 しかし、兼続も報告された時に絶句したように繁長の謀反はおそらく誰も想定していなかったであろう意外なことである。

 元々、本庄は繁長の祖父の時長、父の房長が長尾に反乱を起こしたり、独立意識が高い勢力だが、繁長は比較的先述の理由もあって上杉には恭順な立場を取っていた。

 加えて繁長は上杉の中では鬼小島と呼ばれる弥太郎と共に鬼神と呼ばれる武勇を持っている。

 

「分からない。だが、謙信様の武勇に崇拝の念を抱いていたことは確かだ」

 

 兼続は定満の亡き後軍師達の中で最も長く上杉に仕えている。その使命感からか、かなり人のことを観察するようになった。

 繁長はかなり謙信の持って生まれた武勇には憧れを抱き、謙信自らが鍛練に励む時は積極的に立ち会いの相手を買って出ていた。

 謙信もその意気に応えて全力で相手をしていた。今までの結果は謙信が明らかに勝ち越している。しかし、なかなか勝てずとも腐らずに繁長は己を極める為に励んでいた。

 それが兼続の繁長に対する評価だった。つまり、上杉に謀反を行おうとするようにはとても見えなかったという訳である。

 

「だが、信じられないことが世の中起こるものだな」

「感心している場合か。だが、分からなくもない。正直なところ、私も信じ難い気持ちだ」

 

 上杉と楊北衆のことについては中立的な立場を取り続けていただけに謙信としても家臣達からしても衝撃的なことであることに間違いない。

 もし、この中立の均衡が楊北衆側に傾くのであれば荒川・菅名といった勢力も楊北衆側に靡くかもしれない。

 

「むしろ好機として謙信様の直轄地を平野にも伸ばすことも出来るかもしれないが、難しいな」

「うん、さすがに戦が続き過ぎた。このままだとさすがに財政も逼迫する」

 

 兼続も龍兵衛も謙信が留守の間に政務を取り仕切っていただけによく内情を知っている。

 財力は豊かな上杉とはいえ、魚津城防衛戦に収穫期の強引な出兵と冬越えの後に田植え前に行った斯波攻め。

 さすがにこれ以上の戦での出費が続くと政治にも影響が出て来る可能性が高い。

 更に外征での疲れを癒やす為に十分な休みを取ることが出来ていない。このままではいくら結束が強い上杉軍でも中から不満が出るのは必至である。

 しかも、内乱となれば結束にひびが入る可能性もある。

 誰が味方で誰が敵なのか。一介の兵に全てを語る訳にもいかず、噂が錯綜して真実のことが嘘の情報に消されることだってあるかもしれない。

 政治的にも軍事的にも間の悪い時に起きた繁長の謀反。逆に言えば、繁長には絶好の機会が与えられたという訳だ。

 軍師からすれば実に腹立たしい時にやってくれたものであると言える。

 怒りを全面に出すようなことはしない。しかし、この謀反は普段から抱えている苛々の火に更なる油を注いだことになった。

 

「本当は本庄殿の首を取る前に指の骨を全部へし折ってやりたいよ」

 

 うっかりと心の声が出てしまった龍兵衛に三人の驚愕の視線が集まる。

 

「・・・・・・龍兵衛、本気なのか?」

「うーん、半々? 一応、誰が裏にいるのかも知らないと」

 

 颯馬は簡単に嘘だと分かった。官兵衛が言っていたことを彼はしっかりと覚えている。越中の松倉城を焼き払った時に燃える炎を龍兵衛はかつて美しいと言った。

 しかし、一方で自然を大事にする彼はそれを簡単に灰へと化してしまう炎をあまり用いるのは好きではないとも言っていた。

 どちらが本当の龍兵衛が言っているのか。その答えを颯馬は知っている。おそらくは前者であると。

 東北から戻ってきた親憲がぽろっと零した。官兵衛から聞いた話だと言っていたが、小さな宴の席とはいえ酒が入り、親憲も少し口が軽くなったのだろう。

 颯馬は親憲から龍兵衛が美濃で行った残酷な処刑法を聞いてしまった。

 

『龍兵衛殿には何か恐ろしいものが取り憑いているのでしょうか? しかし、根は良い方ですし、あまり気にすることではありませんな』

 

 そう言って笑っていたが、颯馬は何となく龍兵衛に当てはまっていると感じた。

 不正を犯した商人の締め上げ方も龍兵衛は弱い者を見て面白そうにしているようにも見えることが多々あったようにも今では思える。

 しかし、親憲が言ったように決して龍兵衛も悪人ではない。むしろ、善人の類に入る方だろう。

 それは本当に怒った時のみのことで普段は冗談も言えて自身も通じる融通の利く性格である。だからこそ、颯馬も兼続も偏見をすぐに捨てて友人として接することが出来たのだ。

 龍兵衛も越えてはならない一線というものを知っている。必要以上に冷酷になることはないと颯馬は信じたかった。

 やりたくて龍兵衛は冷酷になるのか。それとも上杉の秩序を保つ為に敢えてそう演じているのか。

 颯馬はこの一件で彼のことが更に分かるような気がした。

 

 

 

 

 

 一方、当の龍兵衛は兼続と共に確証の無い無駄な推理をしていた。

 普段なら二人共、このような意味の無いことをするような性格でもないし、特に兼続などは推測を以て動くことは滅多に行わない。

 龍兵衛はそれなりに推測も馬鹿にならないことを知っているが、当たる確率は極めて低いことぐらい百も承知のことだ。

 

「謙信様が受け取った書状はあくまでも繁長殿が送った自分の謀反に呼応して欲しいという書状。その中に誰が後押しをしているのかまでは書いていなかった」

「となると、黒幕はかなり用心深い人間だ。その点では武田・北条・一向一揆。全てに当てはまることになるな・・・・・・実は、大熊殿には俺の判断で勝手に監視を付けていたけど、特に動きはなかった。ごめん」

「まぁ、そのことは後回しで良い。謙信様にちゃんと謝っておけよ。しかしそうなると、楊北衆の黒川殿の煽動ではないな」

 

 大熊朝秀と黒川清実は裏で通じているというのは親憲が既に新発田城で掴んでいる。

 清実が動くのであれば朝秀も身の危険を考えて居城の箕冠城に戻る筈だが、朝秀は相変わらず春日山城に留まっている。

 先程の繁長謀反の知らせを受けた時も心底驚いたような表情を浮かべていたのを兼続・龍兵衛共々しっかりと見ていたのを見ると朝秀の関与は低いと思える。

 

「一向一揆は、どうかな?」

「低いな」

 

 兼続はきっぱりと断言する。それ程、自身の判断に自信があった。

 加賀の一向一揆は実質上、富樫晴貞の恐怖政治の下に置かれている。

 一応、二人共晴貞に出会い、穏やかな笑みの下にあるその凶悪で卑劣な人柄をそれなりに軒猿の情報も通じて知っている。

 その一方で晴貞はかなり自己顕示欲が強く、保身を前提として動いていることも龍兵衛は先の魚津城の一戦で悟っていた。

 

「あれだけ越中勢や能登勢に前線を押し付けて自分は後ろで胡座をかいて高みの見物。全部、俺の推測だけど、間違ってないと思う」

「同感だ。それ程、自分を立てたがる者はわざわざ敵の人を使って国をかっさらう真似はしない」

「だな・・・・・・まぁ、俺達の推測が当たればの話だけど」 

「・・・・・・とにかく、情報を更に集めなければな。じゃあ、私はこれで」

 

 兼続は龍兵衛が頷くのを見て去って行った。怒りが兼続の肩を少しだけ震わせているのが龍兵衛には見えた。

 軍師故に今はあまり感情的にならないようにしているのだろう。それは龍兵衛も同じことである。

 残った龍兵衛自身もさっさと段蔵の下を訪れると用件だけを手短に伝えて部屋に戻った。

 

「ふぅ・・・・・・」

 

 汗はかいていないが、額を拭い一仕事終えたような疲れた表情を浮かべて龍兵衛は部屋の一角に座る。

 先程、兼続も言っていたように繁長は信用出来る人物だったと彼もまたそう思っていた。だが、信用して交渉を続けていた繁長がまさかの謀反で状況は一変した。

 これからは繁長の宿敵とも言える存在の鮎川清長・盛長親子と関係を深めなければならない。

 

「やだな・・・・・・」

 

 はっきり言って龍兵衛は鮎川親子が嫌いだった。

 清長はまだ策略家として軍師顔負けの戦術を持っているし、他を立てるところがあるから許せる。

 その一方で己の出世欲の強さが滲み出ていて人の意見に突っかかってくる時があり、功を立てる機が到来したと見た際には、積極的に提案をする。

 更に立てた策には効率性よりも犠牲が目立つような狡猾で自身の身辺には一切傷が付かないような巧みなものであるとなっては軍師達はこぞって反対してきた。

 龍兵衛には直接何か言ってきたことは無いが、影で外様であることや出世が思うように行っていないことを冷やかしていることは人伝に聞いている。

 それ以上の存在が息子の盛長である。

 彼は龍兵衛が今まで出会ってきた者の中で会いたくない人ナンバーワンの位に入ってもおかしくない嫌味ったらしい性格の持ち主である。

 安田能元はまだ短気なところを上手く使ってころころと操ることが出来るから可愛い方だ。

 盛長の場合は方針にあれこれと自分が介入して何かと功を立てなければ気が済まない性格で欲の強さは父譲りというよりもより上回っている。

 手柄は父のように譲る時は譲る訳ではなく、奪ってでも自分のものにしたがる。そして、何か類が及ぶようなことがあればせっせと保身に努めて他の将や家臣のせいにする。

 見え見えの出世欲が鮎川の出世を阻んでいることを知らないのは本人達のみだ。

 交渉を任されるのは兼続と共に繁長と交渉を進めていた龍兵衛達の可能性が高い。しかし、謙信に頼まれても嫌だと言いたいぐらいに鮎川親子は嫌である。

 兼続もそうだろう。龍兵衛よりも第一印象で人を判断する兼続は必ず嫌悪感を持っているに違いない。

 そう考えれば、先程の怒りの感情を出していた背中も頷ける。

 一応、交渉を続けていたことは同じ楊北衆の清長達には伝わっていない為にそこをつつかれることは無いだろう。

 しかし、それ以上に個人的に彼らと会いたくない。

 彼らが一度だけ面と向かって見せた龍兵衛への嘲笑。虐めを受けて育った龍兵衛には小さな表情の変化も機敏に見えてしまうのだ。

 あの二人の唇を釣り上げた笑みが龍兵衛の頭の中でフラッシュバックされる。それと同時に平成の頃の忌まわしき記憶が蘇る。

 嫌でも舌打ちと貧乏揺すりが出て来た。

 

「ああー!! 何なんだよ、あの屑野郎ー!!」

 

 平成と違って嫌がらせに直接的な仕返しが出来ないやるせない気持ちが心に怒りを覚えさせ、久々に龍兵衛は戦の時以外で大声を上げた。

 繁長に怒っているのか鮎川親子に怒っているのかは分からないが、怒りの声は少なくとも二、三部屋隣までは響いたと後に言われた。

 

「はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・絶対に許さん!」

 

 反射的に叫んだ龍兵衛は息を整えて心を落ち着ける。

 気付けば外は雨になっていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百十六話 武人は燃えている

抜けていたところがあったので一旦消して再投稿します


 本庄繁長は真っ先に鮎川清長・盛長親子の本拠地である大葉沢城を囲もうと、三面川の支流に沿って総大将の繁長を先陣に、彼の武勇を頼りにする魚鱗の陣を構えた。

 対する鮎川軍は大葉沢城の南西にある鑑窓寺に陣を敷き、数の多さに任せて鶴翼の陣にて迎え撃つ構えを見せる。

 

「かかれ! 一気に鮎川の木っ葉武者共を蹴散らしてくれる!」

 

 睨み合いもそこそこに繁長の号令の下、兵が声を上げて駆け出して行く。

 鮎川の台頭が面白くなかった。しかし、彼を排するには必要な力が繁長には無い。

 政治力をあまり持っていない彼としては他に何によって自身の力を上げるべきか。武勇を以て功を上げることである。それは繁長自身も自負してきたことであり、他の将も知っていることである。

 北陸奥では謙信とは別行動になることが多かったとはいえ、葛西・大崎の様々な支城を落とすなどの手柄を立てた。にもかかわらず、繁長に与えられた恩賞は金と小さな領地だった。

 繁長としては金よりも大きな領地が欲しかった。鮎川よりも強くなる為には彼よりも大きな土地を持ってその下で力を付けて向こうの頭をぺこぺこさせるぐらいの差を付けたい。

 そこまではさすがの繁長もはっきりと言わなかったが、謙信や颯馬と官兵衛には予め功を立てたらなるべく土地が欲しいと前もって言っていた。

 

「お前には五百石分の領地増加と二百貫文の金銀を与える」

 

 謙信は葛西・斯波との戦後の論功行賞で繁長に与えたのはこれだった。

 ちらりと颯馬と官兵衛を見やると少し目を見開いて驚いたような表情を浮かべていた。つまり、二人は交渉してくれていたのだ。

 しかし、謙信は欲しいと言ったものを与えようとしなかった。

 その時、初めて繁長の頭の中で謙信に対しての不満が生まれた。

 謙信は家臣を大切にして出来ることなら家臣の言うこともきちんと聞いてくれていた筈だった。にもかかわらず、何故に東北への移封でも良いから領地が欲しいと言っていた繁長自身の言うことを聞いてくれなかったのだ。

 疑問が不満へと変わるのは当然のことだった。しかし、繁長も馬鹿ではない。

 畿内の織田に負けじと破竹の勢いで東北を着々と支配下に置いている上杉に反旗を翻すのは難しい。

 第一に謙信に楯突くことなど繁長の頭の中で微塵にも無かった。しかし、鮎川親子への恨みや妬みはそれ以上に強かった。

 盛長などは模擬戦や鍛練の打ち合いでも一回も勝ったことはないというのに勢力が大きいという理由で繁長の前では常に大きく見せようという虚栄心が見え見えだった。

 その怒りを見透かしたように届いたのは一通の書状であった。

 鮎川との不仲は知っている。彼らの討伐に手を貸す故、これから我々が越後に攻める時には援助してもらいたい。

 主君である謙信を滅ぼすことになるのは惜しいだろうが、一個人として謙信を立てるよりも家の長としての本分が繁長にもある筈だと相手は言ってきた。

 確かに謙信はこのところ家臣を使い、高根金山の直轄化を画策し、実行するなど楊北衆の弱体化を目論んでいるような行動も見えてきている。

 加地春綱のように東北の辺境の地へと移されるのは時間の問題である。上杉は間違いなく直臣のみを大切にしてこれからそれ以外の者を排除するだろう。

 確かに考えようであった。間違いなくこれから先はすぐにとはいかなくても上杉は勢力を伸ばして行く。

 関東・東北の趨勢を握っていると言っても過言ではない。しかし、楊北衆がそれに反比例して徐々に影響力が下回っているのは否めない。

 気付けば繁長は自身のような楊北衆からの家臣は蔑まれ、春綱のようになってしまうのではないかという不安が生まれた。もしかすると謙信は本庄一帯も所領を没収して東北の地へと移すかもしれない。

 楊北衆からすれば長年先祖が治めてきた土地から離れろと、故郷を捨てて新しい土地で生きろと言っているようなものだった。

 しかし、謙信は苦言を繁長などが言っても聞かない。そこで謙信が留守の間に軍師や謙信の側近に声を掛けてみたが、かれらも繁長のことを聞かず、兼続や龍兵衛においてはむしろ協力を願い出る程だった。

 聞けば高根金山を上杉の直轄地にしようと画策しているらしい。楊北衆にとってかの金山から取れる産物は財源の要そのもの。

 取られるのは楊北衆に上杉の下に付けと言っているようなものだった。

 武人として尊敬していた謙信がそのようなことをするのには繁長も失望した。

 武人として勝利すれば謙信も必ず心を改めてくれる筈だと繁長は信じていた。

 謙信を繁長は主君としてではなく、武人の崇拝者として見ていた。そのことを書状を送ってきた者は知っていたとも考えられる。 

 もちろん繁長も綺麗事のみで乱世を生き抜いて行けるとは思っていない。それは繁長自身も味わったことであり、叔父を討った時もそうだった。

 父の十三回忌と呼び寄せて手打ちにするという策を思い付いたのは繁長本人である。

 それ以降繁長がそのようなことから距離を置いているのは叔父に嵌められた自身と叔父が重なって見えるというトラウマから来ているのは別の話だ。 

 相手はおそらく謙信よりも謀略に長け、決して劣勢に立たされても怯まずに謙信を倒そうとしている。

 如何にも武人らしいと繁長は思った時、力をこれ以上得ることが出来ないと思った時、謙信よりも更に自らが尊敬に値する者が現れた時、何よりも鮎川親子への恨みを晴らすことが出来ると思った時、繁長は腰を上げた。

 

「申し上げます。鮎川軍が徐々に退却を始めている模様」

「よし、追撃を掛けろ。一気に大葉沢城を取る!」

 

 自らも槍を振るいながら繁長は前へと進み続ける。

 結局、彼を突き動かしているのは謙信への不満よりも鮎川親子への恨み。そして、謙信が行き過ぎているのかそうでないのか、それを見定める為。

 政治力や知略に乏しい彼には方法が武によって知るしかなかった。それ故に立ち回りや根回しも苦手であった。

 

「申し上げます。黒川様が上杉に一族を人質に出し、忠誠を誓った模様」

「何!?」

 

 迂闊だった。謙信に近頃不満を持ち始めていた清実ならば寝返ってこちらに同調してくれると思っていたにもかかわらず、繁長の心境は電が近くで落ちたような驚きと戦の生死をさ迷う時以上の恐怖によって支配された。

 

「・・・・・・追撃を中止しろ」

「はっ・・・・・・?」

「追撃を中止しろ! 急ぎ本庄城に撤退する!!」

「し、しかし・・・・・・ここは追撃を続け、上杉軍本隊の到着前に大葉沢城を落とした方が・・・・・・」

「ならぬ! 撤退と言ったら撤退だ!」

 

 よく鍛練されている上杉軍の正規兵の機動力もさることながら、それに付いて行く徴集された農民兵の機動力も繁長は素晴らしいと思っていた。

 農業の合間を縫って鍛練をした成果なのか、謙信への忠誠から成せることなのか。

 とにかく、かれらは疾風の如き早さを持っている。上杉の機動力を以てして勝利したこともある。

 繁長は上杉軍の機動力を味方の頃は頼もしく、恐怖に感じていた。

 故に繁長は戦功を以て身を立てる武人であるにもかかわらず、撤退するという選択を選んだのだ。

 

 

 

 

 

 本庄城に帰参するなり、繁長の貧乏揺すりが止まる気配を見せない。

 

「我が方の被害は?」

「死者三百。負傷者はその三倍かと」

 

 盛大な繁長の舌打ちが本庄城の評定の間に響く。

 結果として本庄軍はなりふり構わずの撤退で鮎川軍が序盤の劣勢を覆さんと気張った為に追撃をほぼ殿無しで受ける羽目になった為、被害は客観的に言うと鮎川軍よりも出た。

 繁長は比較的冷静な武人として上杉家中では知られているが、この想定外の出来事にはこめかみに青筋を立てなければならなかった。

 本庄城に万が一に備えて籠城の準備は整えてある。

 後は謙信がいつやって来るのか。謀反を囁いて援助してくれると言った者がいつやって来るのか。 

 おそらく謙信が村上城に向かった時ぐらいになるのだろう。そう以前にやり取りをしていた書状にはそう認められていた。

 本庄城は先々代の時長によって築かれた城で臥牛山の山頂に本丸があり、そこからは地方一帯を見渡すことが出来る。

 臥牛山自体は標高が高く、急な斜面と細く作られた本丸への道が攻める方からは脅威となることは間違いない。

 繁長も本庄城の防衛能力については絶対の自信を持っていて、籠城すれば一年以上は保たせることが出来ると考えていた。

 野戦では適わないかもしれないが、本庄城は越後の中でも指折りの堅牢な城として知られている。

 いくら謙信でも籠城して粘っていれば、勝ち目は見えてくる筈である。

 

「上杉本隊は?」

「今のところ姿を見せておりません」

「早よう、詳細な位置を届けるように伝えよ。それから紙と筆を持て、羽黒山衆に書状を認める」

 

 土佐林禅棟は隠居して悠々自適に生活を送り、羽黒山衆はほぼ上杉の支配下の中で自治を行っているものの今後の利害を説けば上手くこちらに靡くかもしれない。

 そして、他にも頼る手はある。望みが薄くともこうなった以上、後戻りは出来ないのだ。

 更に繁長はかねてより清実と通じている春日山城の大熊朝秀や富樫の下僕であることも承知の上で越中の国人衆にも書状を送り届けるように指示を出した。

 背に腹は変えられない。勝たねば謙信はこれを機に、更に楊北衆の弱体化を図るだろう。そうなる前に手を打たなければならないのだ。

 

「殿、上杉軍はどこから攻めて来るでしょうか?」

 

 書状を一通り書き終えたところで家臣の一人が地図を出しながら繁長の意見を伺う。

 繁長は地図を睨みながらおとがいに手に当てて考える。

 本丸へは北東の三の丸へ続く道、他にも東の麓にある屋敷一帯や西の道がある。

 後者の二つはどちらも傾斜はきつく、道が曲がり続けていて三の丸へと進む道よりも狭い為、攻めるのには向いていない。

 攻める際の被害を考えると三の丸から徐々に攻め上がって行くのが良い。最も道が広く大軍を動かし易いのと傾斜が緩く兵も疲労が溜まり難い。

 しかし、七曲りというを登りきったところに虎口があり、櫓門が存在する。両側の虎口から入ると、櫓門の内部に入るようになっていてこの門を中心に城は本丸方向と三の丸とに分断されている。三の丸方向には櫓が二つ、本丸方向には御鐘門と黒門と続き、櫓がある為に定石通りでも籠城に向いている城だと言える。

 しかし、繁長は謙信が本庄城を攻める際は真っ直ぐ攻め上がることはないかもしれないと思っていた。

 兵法でいう正と奇は共に使うことによって効果が出る。本庄城は一見奇の攻めを防ぎ、正でしか攻められないように造られた堅牢な城に見える。しかし、そこを敢えて奇で攻めることが戦での勝利の道である。

 

「三の丸の玉櫓と籾櫓に置く兵は最低限で良い。西と東の麓に兵を増やせ。奇襲に備えるのだ」

『御意!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 謙信の下に書状を送り届けたのは意外にも黒川清実であった。

 彼は対北条として任せれていた坂戸城から本拠地の黒川城に戻り、軍勢を整えて謙信の下に馳せ参じている。

 清実は自身が楊北衆に向いている強い風を押し返す為、先鋒を勤めて繁長を討ちたいと意気込みを謙信の前で語っていた。

 皆が内心の驚愕の声を隠しながらも清実の心意気に感謝していた。 

 

「何故、繁長は清長や盛長にも声を掛けたのだろう?」

「なりふり構わず・・・・・・ということはあの繁長殿も考えていなかっただろうな」

 

 大葉沢城の救援目的が突然の繁長の撤退によって急遽、繁長討伐に目的が変わってしまった。

 分からないという表情を浮かべると謙信も残念そうに小さく笑って返した。

 だが、颯馬は個人的に考えを持っている。黙っているのはあまりにも推測の域を出ない為に話すのも憚られると思ったからだ。

 楊北衆の中でも本庄と鮎川の因縁を知らない者はいない。しかし、その因縁を乗り越えてでも今の上杉の中央集権化に少しでも歯止めを利かせることが出来ると思ったのだろう。

 もしくは抱き込んで殺してしまおうという腹積もりだったのかもしれない。しかし、鮎川はどちらかというと知略に長け、保身が上手い。

 繁長の誘いには裏があると考え、それよりも謙信に属することで更なる功と褒美を得ようとする腹積もりだろう。

 ゆくゆくは同じ家筋に当たる本庄を丸ごと乗っ取ろうする考えもあるのかもしれない。

 どちらにしても繁長の政治力の欠けているところが出たとしか言うしかない。

 

「どうした? 浮かない顔をしているが」

「いや、別に・・・・・・」

 

 濁す言葉に謙信が気付かない訳がない。それでも颯馬は濁して誤魔化し、考えていたことは隠すしかなかった。

 誰もが思った筈だが、颯馬は黒川清実が繁長に同調しなかったのは驚きを隠せなかった。

 謙信が楊北衆の力を削りつつ、他国へと家臣を移そうとしているのに警戒感を持ち、清実を中心としてそれに歯止めをかけようとしているのは謙信も知っているし、向こうも少しずつ感づいている。

 しかし、謙信が春日山城にいた時に謀反を起こしたのは間違いだった。

 仮に颯馬がそうするのであれば、謙信が戦が出ている間に決起する。そして、その前に確実に上杉を裏切るであろう人物を調べて、徐々に接近しつつ挙兵する直前に書状を認める。

 そして、予め間者を放ち、どちらに付くのかを見定めて付かないのであれば何か動けないような工作を施すか、偽の情報を掴ませてこちらに有利になるように動かすようにしただろう。

 逆に言えば清実もそう考えている可能性が極めて高いということだ。清実は楊北衆の中でも優秀な将で隙の無い性格をしている。

 もしかしたら今も隙が無いように動いているかもしれないのだ。

 隠していたつもりの不安が表情に出ていたのか颯馬のことを謙信はじーっと見てくる。

 気恥ずかしさと共に全てを見透かすような謙信の目は颯馬も少し苦手としていた。ただちょっとだけ別の女に手を出しかけた時にすぐに分かるようなあれには本当に参った。

 そして、今も同じような目で見られている。だが、今回は颯馬も決して何もしていない。今後の保障はないが、今回は大丈夫だ。

 

「そ、そうだ。鮎川殿はどうするんだ?」

  

 鮎川親子は繁長の武勇に恐れを為したのか撤退する本庄軍を追撃したきり大葉沢城に籠もったきりで出て来ない。

 強引に話題を変えた颯馬を謙信は訝しげな目で見ながらも真剣に前を向いて視線を微動だにせずに考え、答えを夜空を見上げながら答えた。

 

「何度か早くこちらに来るように催促をしている。だが、なかなかにしぶといというか何というか・・・・・・」

 

 謙信達が本庄城に到着する頃までに軍備を再び整えて出陣する故、今少し時間をくれというように言って聞かないのだ。

 

「もしかしたら鮎川殿はそうやって静観を決め込むつもりじゃあ」

「やはりか・・・・・・もしそうなるとしたら。鮎川は没落させざるを得まい」

 

 不問に付すことも考えられたが、謀反に対して謙信の出陣命令を無視して何もしなかったというのは問題になりかねない。

 楊北衆が徐々に力を失って行くのは颯馬達にとっては腹の内では喜ばしいことであるが、謙信が目の前で悲しい顔をしているのを見ると颯馬も喜ばしい感情を投げ捨てざるを得なかった。

 何故に悲しい顔をするのかどうしたのか問いてみると謙信は素直に口を開いた。

 

「清長を失うのは惜しい。しかし、繁長の武勇を失うのはもっと惜しい。繁長を生かせばおそらくあれはまた機を伺って清長を討とうとするだろう。かといって領地を離すことは難しい・・・・・・」

 

 その言葉に颯馬は目を見開いた。

 謀反を起こした繁長を謙信は生かしておきたいのだ。

 そして、謙信は今清長の名を出したが、盛長の名を出さなかった。謙信は無意識に言ったのだろうが、颯馬は聞き逃さなかった。

 繁長を生かすことは簡単だ。謙信が帰参を許せばそれで良い。しかし、清長を生かして鮎川を没落させるのは難しい。実行に移せば今度は鮎川が謀反を起こすだろう。

 難題の解決にはまだ時間がある。今は目の前を打開しなければならない。

 

「それは俺達の仕事だ。謙信はまた任せておけば良い」

 

 強い口調で言うと素直に謙信は頷いた。先の東北での伊達の一件を颯馬が兼続と龍兵衛に話したおかげで謙信は懇々と諭された。

 説教と言った方が正しいが、家臣が主君にそのようなことをするとは謙信も颯馬以外には恥ずかしくて言えない。

 聞いていた慶次や龍兵衛が温かい目をしてちらりと覗きながらもずっと黙っているのは謙信と兼続には知られていない話だ。

 

「さて、そろそろ私達の動きに気付いた黒幕が出て来る頃だ。万が一においての腹案は私にある・・・・・・それぐらいは任せてもらっても良いだろ?」

「あ、ああ・・・・・・」

 

 普段から愛しく、美しいと思っている相手から身体を寄せられての上目遣いは反則だと颯馬は常日頃から思っている。そして、今回も同じくで謙信のおねだりには頷かざるを得なかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百十七話 夏からいつまで

 平林城にて軍議の最中で謙信が各々に指示を出している間、非常に順調な進軍だと颯馬は思っていた。

 謙信は色部勝長の本拠地である平林城に軍を入れ、翌日の軍議の後に本格的な本庄攻めを行うつもりである。

 上杉本隊三千、蘆名と最上から計二千の援軍がこちらに来る予定である。更に隠居した土佐林禅棟を介して彼の息子である氏頼に羽黒山衆を口説いて動かない、もしくは援軍を出すように既に楊北衆のことを考え始めた時から要請している。

 故に楊北衆の誰かが手を組もうとしても決してそちらに靡こうとはしないし、そうさせるように手付け金と手付けの茶釜も渡しておいた。

 色部勝長は本庄と城が近い故に別働隊として本庄側の支城を崩している為、本庄城に着陣してからの合流となるが、既に謙信の下にこの戦が終わるまでという条件で家臣の子供を人質として明け渡している。

 平賀も兼続が上手く取り込み、親憲によって新発田城は抑えられている為、安田も動くことは出来ない。もっとも安田長秀は謙信に絶対的な忠誠を誓っている為、すぐさま馳せ参じている。

 残るは後手後手にはなるが、黒幕が誰かを突き止めて一気に本庄城を攻め、本庄繁長を討つのみとなった。

 しかし、順調な進軍とことの運び具合とは裏腹に颯馬の心はもやもやした気分が残されたままだった。

 原因は簡単なことである。ただ鮎川親子を救ったところで謙信と彼らよりも家格が下な家臣達には嫌味が待っているだろうという思いからだ。

 

「『ここまで来たならさっさと救え。この云々が』とか言われそうだなぁ・・・・・・」 

「それあたしも思ってた~」

 

 颯馬は心の内で止めていた筈の声がうっかり本当に出ていたのを知り慌てて口元を覆ったが、後の祭り。しかし、聞いた官兵衛の方は彼の動揺など気にせずに口を尖らせて本当に嫌そうにしている。

 一応、ここは軍議の最中である為に私語は慎んでちゃんとしていなければいけない。二人はひそひそと声を小さくしているが、話をしているのはばればれで案の定律儀な長秀は目で颯馬達に叱責をしているかのように睨んでいる。

 比較的温厚な性格で心が広い中条景資は颯馬達を見つつも同情的な視線を送り、二人の気持ちは言っていたであろうことも大体良く分かっているような目をして頷いている。

 清実は特に颯馬達には興味なさげに謙信の話を聞いてしきりに頷いているが、どこか落ち着かない様子で一度だけちらっと颯馬を見やっていた。

 鮎川は上杉の中でも譜代の待遇を受けていることを鼻にかけている親子は外様の颯馬や官兵衛には冷たく当たり、嫌味を言うのがほぼ出会った時のお決まりのようになっている。

 決して外様を毛嫌いしているという訳ではないのだと鮎川親子と比較的仲が良い勝長や景資は言っていたことあるが、温厚な颯馬達でも「(そこまで言うか!?)」と思う程に鼻に付くような言い方をしてくることがあった。

 

「頭がとにかく古い。譜代と外様を区別して家柄を真っ先に見る悪癖がある」

 

 かつて鮎川親子から聞こえよがしに嫌味を言われたことがある颯馬を見て偶然近くにいた長秀は彼にこう言って慰めるように肩を叩いてくれた。

 謙信が比較的譜代と外様関係無く土民上がりの弥太郎を始め敵の軍師であった颯馬や元は美濃の斎藤家に仕え、謀反を扇動したと言われている龍兵衛に続いて同罪を被った官兵衛を登用するところが納得行かないのだろうと長秀は腕を組んでいた。

 

「更に言えば、中条殿や水原殿にも不満を持っているようだな」

 

 長い髪をうるさそうに後ろにやりながら長秀は鮎川親子が去って行った方向を見ていた。

 彼女自身はそういったことからは一歩引いている立場の為に謙信からも重用されている。

 その長秀曰わく、鮎川は楊北衆の中で三、四番目ぐらいの力を持っている家だ。

 先の新発田重家の謀反で楊北衆最強の武勇持っていた中条藤資が亡くなり、てっきり二番目に力を持っていた清実がそのまま序列一番に繰り上がると思っていたらしく、清実に鮎川親子は接近して親憲を越して序列三番目を狙っていた。しかし、結果的に景資がそのまま藤資の位置に納まったことに不満を抱いたらしい。

 そして、親憲が謙信から藤資亡き後武将として更に重用され、今や楊北衆の中でも序列三番目を確立して黒川・中条に迫っていることや宴のあれで配下や他の将ともますます仲良くしていることに対しても自分達の嫌味な性格を棚に上げて不満を募らせているらしい。

 颯馬はそんなことを頭の片隅で思い出しながら軍議の様子を見ている。

 相変わらず清実は謙信の方に目を向け、長秀と景資も颯馬と官兵衛がきちんと謙信の言っていることに耳を傾けていることを確認して自身達も軍議に集中している。

 その最中に急報を告げる知らせが舞い込んできた。

 

「飯山城の岩井・村上様より伝令。海津城より武田軍が飯山城に侵攻を始めたとのこと」

 

 岩井とは、岩井信能のことで父の満長が武田信玄との争いに敗れて上杉謙信を頼ると、その小姓として仕え、父の死後に春日山城に入る実及に代わって飯山城城主に任じられ、義清と共に武田との境地である飯山の治安維持に腐心してきた者である。

 他の地方から報告は無い為にこの報告は、黒幕は信玄であることを分からせたも同然。これに諸将は驚きの声を上げて俄かに騒ぎ出した。

 誰もが武田の可能性は低いと思っていたのだ。朝倉の脅威が無くなった越後侵攻を企てる一向一揆を率いる富樫晴貞が上杉軍の隙を作る為。もしくは謀略に長け、武田が東や北に目を向けている間に箕輪城を落とし上野をほぼ手中にし、これから下野にも手を伸ばして関東八州を手に入れんと考えている北条が繁長を動かしているのではないかという思惑が上杉軍の諸将の中で出来ていた。

 

「成る程、繁長の裏には信玄がいたか・・・・・・相も変わらずの執念深さだ」

 

 想定外のことが起きて少し動揺が起きているその中で謙信は溜め息を吐きつつ感心しているのか呆れているのか分からないような口調でそう言うとちらりと颯馬を見やる。

 義清は当然ながら、信能は知勇に優れている為、信玄相手でも十分に太刀打ち出来るだろうが、援軍は出しておくに越したことはない。

 戦続きで兵糧が不足している時だが、金策においてどうにかやりくりしていけば間に合わせることが出来る筈だ。

 

「春日山城におります兼続と龍兵衛を飯山城に派遣しては?」

「うむ、それから実及にはしばらく春日山城の政務を任せると伝えてくれ」

 

 すかさず颯馬が提案すると謙信はさっと決めて伝令を再び派遣した。 しかし、その言い方に颯馬達は明らかに動揺して隣の者と顔を見合わせている。

 

「我らはこのまま本庄城に向かう! 包囲を固め、繁長を討つ!」

『はっ!』

 

 誰かが何かを前に謙信は繁長討伐の意気込みを大声で語ると物言いを悟った者達からの発言を遮ってしまった。

 謙信は颯馬達を見ると心配することはないと安心させるように目元を少し笑わせた。

 春日山城を実及に任せるということは、留守役の景勝を川中島に赴かせるということである。

 兼続を総大将にして信玄と相対させることで追い返すことは十分に可能だが、景勝を信玄と立ち向かわせるのが厳しいことは周知のこと。

 兼続を総大将にしておけば最近は政治家としての面が強い彼女も戦に出れば戦術上手故、信玄相手にも滞りなく策を回すことが出来るだろう。

 しかし、景勝が形上でも総大将となれば信玄は景勝が自身相手に経験が不足していることを良いことに景勝に同行する家臣へ何か揺さぶりをかけるかもしれない。

 颯馬達は景勝に任せるのではなく、逆にこちらに景勝を呼び、謙信自らが春日山城に戻って指揮を執った方が良いと言いたいのだろう。

 しかし今回、謙信は信玄を自ら相手取る気はさらさら無い。

 決して一度大勝したから信玄を下手に見た訳ではなく、もはや宿敵ではなくなったからという訳ではない。もっと理由は他にある。

 散会の合図を出すと将達はこぞって準備の為に出て行ったが、案の定残る者もいた。

 清実はそそくさと出て行ってしまったが、それ以外の出て行ってしまった楊北衆の中でも重臣に身を置いている将の中にも謙信の言い方に何か思うところがあった者もいただろう。しかし、謙信への忠誠から何か言うことは憚られると思った者がほとんどの為、意見するつもりは無いのだ。

 中条・安田が謙信を何か言いたげに見ていたが、彼女には何も言わずに一つ頭を下げると浮かない顔をしながら去って行った。

 最終的に颯馬と官兵衛、長重が部屋に残ると謙信は三人が言いたいことを言う前にさっさと口を開いて答えを言い始めた。

 

「簡単に言えば、景勝に任せておいた方が今回は良いということだ」

 

 三人の反応は無い。あっけらかんと今まで渡り合い、死闘を繰り広げてきた宿敵を相手にしないような物言いに驚きを通り越して呆れているのだ。

 

「まさか謙信様は、信玄を取るに足らない者と断定したんですか?」

「いやいや官兵衛、信玄と私の因縁はどちらかが頭を下げるか、討たれるかまで続くもの。終わることはない」

「では、何故に謙信様はあれほど即決即断を下すことが出来たんです?」

「うむ、それはだな・・・・・・」

 

 最も早く平常心を取り戻した官兵衛の問いにはすぐさま答えたが、間を置かずに続けてきた長重の問いには言葉を濁しつつ目を明後日の方向に向けて考える。二十秒ぐらい経つと謙信は颯馬達に視線を戻す。

 皆が分からないでいる謙信は自ら武田との戦に望まないのかという疑問の答えは。

 

「今回は信玄が来ないような気がしてな・・・・・・」

「「「はぁ?」」」

「要は、勘だ」

「「「・・・・・・」」」

 

 謙信の発言に呆れて物も言えなくなるのは今日で何度目だろうか。

 謙信は自分の判断に何ら悪びれもせずにすぱっと言い切ってみせた。もしも他の家臣達だったら「御家の大事を勘で決めるとは何事か!?」などといくら相手が茶目っ気のある謙信であったとしても怒鳴っていただろう。

 颯馬達も訝しげに謙信を見ている。しかし、謙信は相変わらずのどこ吹く風と笑って三人の反応を面白がっている。

 

「まぁ、今回は景勝に任せておいて十分だろ」

 

 そう言うと謙信はさっさと顔を見合わせて唸るしかない三人を軍の準備に行くように言って手で振り払ってしまった。

 

 

 

 

 

 颯馬は他の二人と別れて荷駄の運搬を監督していた。

 相変わらず心の中には謙信の物言いに突っかかりを覚えていた。

 信玄の配下を客観的に見ることは颯馬も長く上杉にいたが故になかなか難しい。代わりに龍兵衛がかつて評していた。

 

『公では言えないが、上杉家はどちらかというと武人の集まりで、大将として統率力を持ち、臨機応変の判断を出来る人が少ない』

 

 手厳しい評価だったが、確かにと思わせられるところがあった。

 親憲・長重・弥太郎・兼続などその他を上げろと言われれば両手の指で数えられる程だと颯馬も思わされるところがある。ほとんどの戦で謙信が総大将として出陣しているのを考えると選んだ者でも首を捻らざるを得ないかもしれない。

 それに比べて武田は配下の将は数多の者が総大将として率いることがあると聞いたことがある。

 龍兵衛が美濃にいた頃は信州と美濃の間にある山脈故にそれほど武田の内情に詳しかった訳ではないが、今後のことを考えてと上杉に来てから独自に調べていたらしい。

 しかしだ。謙信が春日山城に不在とはいえ信玄が自ら上杉との決着を付けようとしていることは誰もが知っている。

 上野への戦や織田との局地戦ならばともかく信玄が今まで謙信との戦に局地戦でさえ参加しなかったことがあろうか。

 各地に放っている間者の知らせでは信玄が参加しなかった戦もあったと聞くが、謙信との戦で参加しなかったことは今まで一切無い。 

 

「(そう考えるとやっぱり兼続に任せるのが良いと思うんだけどなぁ・・・・・・)」

 

 この辺りのことは情報収集が得意な龍兵衛が調べ上げている。彼のことだしきちんと調べて述べたことなのだろう。事実だとすればやはり策を自身で立てられる兼続の方が適任である気がしてならない。

 もちろん景勝のことだから二人の意見を蔑ろにするような愚行を取ったりはしないだろうという信頼も実際に見てきたこともある為、心配は無い筈だ。

 しかし、それでも心配の種は絶えない。これから繁長という上杉の中で知らない者はいない程の武将との戦であるにもかかわらず、颯馬の思考は半分武田とのことに支配されていた。

 その為、颯馬は夏の良い天気とは裏腹に首を傾げてばかりだった。

 その後ももやもやを頭の隅に置きながら作業の指示を出していると颯馬も知っている軒猿の一人がすっと現れ、颯馬を作業場の隅へと手招いた。

 

「天城様、本庄の間者を捕らえましたところ、懐にかようなものが・・・・・・」

 

 宛先は一向一揆の真の支配者、富樫晴貞である。

 颯馬は驚きの心に突き動かされて中身を改めてみると謀反に協力願うという旨の書状が届いていた。

 

「これは思ったよりも長丁場になるな・・・・・・」

 

 繁長が知略に疎い方だとはいえ、このような書状は謙信に対抗心を持っている者の心当たりに手当たり次第送っているのだろう。

 更に武田と一向一揆は上杉と対立する勢力として互いに連携を取り合っていると聞いている。もしこの書状が届かなくても晴貞は信玄の侵攻を聞けば動くかもしれない。

 

「このことは他言無用。急ぎ山本寺殿と魚津城に知らせてくれ」

「はっ」

 

 本来なら一向一揆と対立している朝倉を使うことも出来ようが、今は織田との戦で手一杯。

 先の姉川の戦いでは重臣の真柄直隆達を失っていると聞いている。つまり今、一向一揆は越後に攻め入る絶好の好機であるということだ。

 どうするべきかは謙信との相談を行ってからだが、早めに魚津城の吉江義親子達には知らせておくに越したことはない。

 軒猿の気配が消えると颯馬はすぐに謙信の下へと走り出した。

 

「・・・・・・成る程、事情は分かった。上条に書状を認める。彼女にいざという時には動けるように準備するように命じよう」

 

 上条政繁は謙信が出奔した際に擁立を企んだ者もいたと噂された為に処刑か追放を主張する者もいたが、龍兵衛と兼続の取りなしで両方の刑罰を免れ、近年までは力の無いただのお飾りの長尾一門の一人だったが、龍兵衛が上杉の力を強くさせる為に謙信に進言して断絶していた上条上杉家を継がせていた。

 政繁自身は強者揃いの上杉の中ではどちらかというと貧弱であるというイメージが強い。しかし、颯馬は兼続や龍兵衛同様に比較的彼女を買っていた。

 知勇においても政治力においても良くも悪くもない普通という感じで統率力もそこそこだが、人の話に耳を傾けて人を惹き付ける能力には長けている。

 謙信に対する忠義も真っ直ぐで名誉や義理を重んじるところも政繁が上条の名を継いだ理由でもあった。

 

「では、上条様は春日山城に?」

「いや、これを機に魚津城を政繁に任せる」

 

 颯馬は謙信のことをいざとなれば軍師の考えもいらない程に素晴らしいことを考える御方だと思っていたが、今回程凄いと思ったことは今まで無かったかもしれない。

 迫る外患を逆手に取って上杉の影響力を徐々に伸ばしていく。

 現在魚津城を任されている斎藤朝信も上杉の力が強くなることには協力的で颯馬が直接事情を話した時も「面白い」と笑っていた為にこのことも本当のことを察して協力してくれるだろう。

 

「今一度使者を飛ばそう。すぐにでも実行に移させるのだ。構わないな?」

「はっ、真に素晴らしきお考えです」

 

 そう言うと颯馬はすぐに仕事場に戻ろうとするが、身体が動かない。否、動かすことが出来ない。

 

「良い考えであったのだろう?」

 

 何時の間にか近付いていた謙信がぐいっと颯馬の腕の裾を引っ張る。

 

「・・・・・・ああ・・・・・・」

 

 動作もそうだが、謙信の声が公から私に変わった為に颯馬も敬語を外した。ゆっくり振り返るとやはり謙信が目の前で俯いていた。

 互いに顔を赤らめながら数秒の沈黙の後、謙信は颯馬を見上げた。

 

「この褒美は、今欲しい・・・・・・戦はこれからだから忙しいのは分かっている。だが、せめて接吻だけでも・・・・・・」

「・・・・・・」

 

 やはり颯馬は謙信の上目遣いには弱いのだ。 




 眠れぬ夜の徹夜は止めましょう


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百十八話 夏は来ぬ

 旧暦での夏も中盤を越えた六月。梅雨明けと共に上杉軍は繁長の支城をあっという間に陥落させて本庄城を一気に取り囲んだ。

 北東の三の丸へと続く主要道は黒川清実が抑え、謙信はその後ろにある大山祗神社に陣を敷いた。南東の虎口は色部勝長と長重が、細い各所の押さえは中条景資が隊を分けて行う手筈となっている。

 攻める場所が複数あるとはいえ主戦場となるであろう三の丸への道を蔑ろにしては本庄軍に隙を見せることになる。

 颯馬も官兵衛も少ない兵で夜襲を行い、士気を削ぐことを主張したが、草からの報告で繁長が思ったよりも各所を隈無く警戒しているのと清実の猛反対で諦めることにした。

 そこで謙信は清実の意見を汲み取り正攻法で包囲することにした。

 梅雨明けの湿気の多さがむしろ心地良さを感じさせ実に涼しげな風が頬を撫でる。例年の暑さはどこへやらとでも言うような快適かつ爽やかな暖かさが大地を支配している。

 颯馬は風に当てられながら戦が無ければ春日山城で謙信や仲間達と一緒に政務に追われながらもあっちこっちと楽しく過ごしていたのだろうとしみじみとしていた。

 しかし、戦が続いて骨を休める暇が全く無い。いい加減に戦を中断しなければ折角得た力と民からの支持が落ちてしまうかもしれない。

 そうならないように春日山城では本庄実及を筆頭に政務に滞りが無いように龍兵衛や兼続達が頑張っている。

 ならばこちらも早く戦を終わらせて民と国に一時でも良いから休養を与えることが出来るよう奮起しなければならない。

 勝手な決意を胸に颯馬は謙信の下に報告へと走る。既に官兵衛が軍備について報告をしている時だった。颯馬は構わずに主君の前に立つ。

 

「謙信様、本庄城の包囲が完成しました。後は鮎川殿の到着を待つのみです」

「よし、各部隊には無闇に動かず包囲に隙が無いようにと通達を送れ。最上・蘆名の援軍が到着次第攻撃を開始する」

「はっ!」

 

 伝令兵が各部隊に飛ぶ。本庄城を隙無く包囲したという驕りがどこかにあっては逆にそれが隙となり繁長に足元を掬われかねない。

 今まで共に戦って来た故に分かっていることだが、比較的若手の繁長であっても戦に関する勘や兵の統率力は既に往年の者を凌ぐところがある。

 

「力と力でぶつかり合うことも良いが、謙信様はこの戦では犠牲を払うことはしたくないと言っておられた。黒川殿とは意見が今後分かれるな」

「うん、まぁ分かっていたことだし。当分はこっちも譲る気で行かないとね。何だかんだで黒川はまだ力は強いから」

 

 楊北衆の中で中条の次に兵力を持つ清実は未だに年長者として人を束ねる力を持っている。

 彼も決して馬鹿ではなく、楊北衆の中でもかなり優秀な能力を持っているし、こうして情勢を見極める目も持っている。

 故に厄介なのだ。清実は上杉の力を見せ付ける為に徹底的に城を攻めるべきだと主張した。

 しかし、颯馬や官兵衛、長重達は反対した。内乱で兵を犠牲にしても返ってくる利益は無く、損害が増えるのみだとして清実を論争を繰り広げた。

 結果的に謙信は軍師達の意見を取り入れて包囲を固めて援軍を待つことにした。

 清実は速攻こそが勝利の道だと謙信に意見したが、それは籠城戦では何の意味もない。心理戦でもある籠城戦は精神的に攻められる側の方が参り易い為、時間を掛けてじっくり攻める方が良いのだ。

 

「黒川殿はまた謙信様に不信感を募らせるな」

「まぁ、家中の火種も利用出来るんなら使っておいた方が得だし、水に流してくれるのが一番良いんだけど」

 

 自信ありげな官兵衛の無邪気な笑みの中に策士の目が光るのを颯馬は見て、頼もしいと思った。

 如何にして清実を利用するのかは分からないが、官兵衛のことだから利用されていると途中で気付かれてもその時はもう乗っかるしかないようなことをするに違いない。

 

「(似ても似つかないではなく似つかなくても似ている師弟か)」

 

 一人でくすくす笑いながら不意に官兵衛を見下ろしていた顔を上げると謙信と颯馬の目が合った。謙信が微笑むと颯馬も気付かれないようにすいっと手を挙げて応える。

 しかし、近くにいて颯馬の様子を見ていた官兵衛はじとーっとした目で颯馬を見ている。

 

「な、何だよ?」

「別に~・・・・・・」

 

 何かを思い出したように官兵衛は上を向いて盛大な溜め息を吐く。その後も官兵衛は颯馬のことを痛い目で見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今年の夏の暑さは人に仕事への意欲を萎えさせる程あまり暑くはない。

 それ故に上杉の家臣達も精力的に働いて次々と右へ左へと動いている。

 どちらにしても平成のヒートアイランド現象を乗り越えて外で野球に打ち込んできた龍兵衛にとって暑くはない。

 謙信の留守役である景勝の補佐役の一人として働いている為に暇など無いのだが、個人的な鍛練だけは出来る時間は一応ある。

 しかし、肩を外した伊達との戦以降、前線に出るようなことはあまり無くなったとはいえ万が一のこともあると最悪のことを考えて行動することに重きを置いている彼も暇があって疲れがあまり無い時には鍛練を行っている。

 

「・・・・・・ふぅ・・・・・・」

 

 とはいえ野球の癖が独立の以降に首をもたげるかのように蘇ってきた為、木刀を振るのに飽きれば誰もいない時には木刀を野球のバットに見立てて構えて素振りをすることも今のように行ってしまう時もある。

 

「何してる?」

「えっ? 景か・・・・・・あぁぁああ!?」

 

 突然の乱入者に驚きながらも振り出した木刀は止まらない。それどころか慌てて振り出した木刀を強引に止めようとして手汗と本来入れなければいけないところの力が抜けてしまったらしく見事な軌道を描いて木刀は龍兵衛の手から離れて行った。

 木刀は壁にしっかりと残る傷とぶつかった痕を残してがらんと音を立てて床にもはっきりとした傷を付けて落ちた。

 

「・・・・・・」

「えーっと・・・・・・えー・・・・・・すみません」

 

 景勝に面と向かって「急に入ってきた貴方が悪い!」とは言えないので素直に頭を下げて逃げるようにそそくさと出ようとする。

 取り敢えず弁償は免れない。目撃者がいる為に言い逃れも出来ない。しかし、人にはど忘れというものがある。期待出来るだろう。

 

「(んな訳ないか・・・・・・)」

 

 龍兵衛は内心の思いが溜め息となって出てくるのを自覚しつつ首を振りながら「やってしまった」と何度も呟きながらどさくさ紛れに道場を出ようとする。

 

「あて!?」

 

 しかし、猿がしゅびっと景勝の頭から龍兵衛の頬に突撃を掛けた。

 猿は俊敏に龍兵衛の歩いていた先に着地して「そこにいなさい」というようにじっと彼を見る。

 龍兵衛は景勝をちらっと一瞥すると相変わらずじーっと彼を見ている。すぐに目を離そうとするところだが、龍兵衛はなかなか景勝から目を離すことが出来ない。

 帰るにもまた猿が襲ってきそうなので動くに動けない状況が続いている。

 しばらく視線同士がぶつかり合う沈黙の戦いが続く。互いに視線を逸らさず表情も変えずただ互いの目を見合うばかり。

 均衡を破ったのは景勝だった。景勝は無言で近付くと耳を貸せと手招きされたので龍兵衛も素直に景勝の身長に姿勢を合わせる。

 

「黙って、良い」

「本当ですか!?」

「でも、条件ある」

 

 景勝の顔が少し赤くなったのを見て龍兵衛の心にあった弁償しなくて済むという嬉しさはどこかへと吹っ飛んでしまった。

 

「・・・・・・お断りしてちゃんと弁償代を払います」

「むぅ~話、ちゃんと聞く」

「言いたいことは大体分かってます。敢えて言いませんけど(どうせ、よりを戻してとかだろ)」

 

 内心の図星は景勝の胸の内を一言一句間違えずに当てている。

 未だに己を模索中の龍兵衛はまだ景勝と繋がることは許されないと思っていた。もちろん、初めてを奪ったことに対しての責任感は感じている。

 だが、龍兵衛自身の不器用さが心に突っかかりを持たせているのだ。

 息を一つ吐くと龍兵衛は完全に仕事の顔になって景勝に向き合う。

 

「それで、何か話があったのでは?」

「謙信様から書状、来た」

 

 口を尖らしてつまらないという心情を表情に出しているが、景勝も龍兵衛の下に来たのは非常に重要なことである。

 渡された書状を恭しく受け取り、龍兵衛は中を改める。

 内容はは信玄が出てきたので景勝を総大将として再び武田に相対してくれというものだった。

 そして、本庄繁長のことや一向一揆に気を付けるようにという警告と共に上条政繁を魚津城に派遣するということを事細かに認められていた。

 

「・・・・・・分かりました。すぐに兼続と共に策を練り、本庄殿と政務の引き継ぎに取り掛かります」

「ん、頼んだ」

 

 龍兵衛は景勝に一礼すると黙ってその場を辞した。背中からは悲壮感漂う雰囲気を受けながらも振り返ることはない。振り返れば負ける気がしたからだ。

 

 

 龍兵衛は道場から急いで出ると汗を拭いて着替えてから兼続の部屋に向かい、入りながら口を開いた。

 

「兼続、聞いたか?」

「鮎川殿がこの戦にから手を引いたことだろう? 既に知ってるさ」 

「・・・・・・何で武田よりもそっちなんだ?」

「決まっている。お前は外よりも内を司る軍師だからな。気にするならばそちらだろう?」

「こりゃお見逸れしました」

「・・・・・・色々と言いたいことはあるが、今は黙っておいてやろう。兵糧不足と言っていたが、見え見えの嘘だ」

「『今は』に力が入っていたのは聞かないことにして・・・・・・武田が姿を現して考えるところがあったんだろう」

 

 鮎川を失脚させる良いネタは入った。それを実行に移すにはこれから始まる武田との攻防戦に引き分け以上に持ち込まなければならない。

 

「もはや清々しい・・・・・・」

「兼続から愚痴が出るか・・・・・・ま、気持ちは分からなくもないけど」

 

 謙信同様に二人も信玄の執念深さにはある意味感服している。

 一度大敗して背後が怖くなってもそこまでして上杉打倒への方針を覆さないのは珍しいことこの上ない。

 明らかに繁長の謀反と連動したこの動きは武田が裏で繁長を唆したことを証明する何よりの証拠である。

 飯山城を取られれば上杉は信濃に対する足掛かりは無くなる。狙いはそれなのか、もしくはあわよくば春日山まで取ろうという腹かは分からない。

 褒めるべき賞賛なのかそれともただ攻め込む場所が無い故に一番手っ取り早い故の手当たり次第の侵攻だろうか。

 これから春日山城の二人は川中島に向かうが、今回は以前と違い、景勝が総大将としてかの地に赴くことになっている。

 正直、景勝本人も後は実及と龍兵衛、更に春日山城に詰めている安田能元に政務を手伝ってもらい、信玄との戦のことは兼続や慶次達に任せようと思っていた。

 故に謙信から景勝を総大将として兼続・龍兵衛・慶次を配下として途中の田切城で高梨政頼・頼親親子と合流して飯山城に迎えと言われた時は景勝も猿も口を開けて驚いていた。

 

「しかし・・・・・・どうして景勝様をわざわざ出陣させる必要があったのだろうか?」

「分からない。だけど謙信様のことだし、何か考えがあるんだろうな」

 

 分からないのは龍兵衛も兼続もお互い様である。そして、景勝も同じだろうと二人は思った。

 謙信の決断は本人に聞かなければ分からないが、今は謙信の命じるがままに動くしかない。

 それに二人にはもう一つ謙信と景勝から頼まれていることがあった。

 

「西は加賀の一向一揆。春日山城に謙信様も景勝様も不在と知られれば必ず兵を挙げるだろう」

「上条政繁様を援軍として派遣すると聞いているが・・・・・・斎藤殿率いる魚津城の数を足したところで一向一揆が持つ最大兵力には遠く及ばず、か」

「私達から既に山本寺殿には援軍を派遣出来るようにして欲しいとは通達済みだ。しかし、最も望ましいのは・・・・・・」

「「一向一揆に動いてもらわないこと」」

 

 二人は頷き合うと得ている情報から整理をして武田と一向一揆に対してどう対応するか検討に移った。

 

「他のことには全くの無関心だな。逆に言えば、実際に会ってみて富樫は己の私利私欲に関してはかなり切れ者になる。そういう人には共通した性格がある」

「疑心暗鬼か・・・・・・成る程、内部に亀裂を入れるのか。しかし、当てはあるのか?」

 

 兼続も弥太郎や龍兵衛達から一向一揆の戦ぶりを聞いている。

 まるで晴貞以外は意思の無いとしか思えないような動き。実際そうなのだろうが、兼続は俄かに信じ難いことだった。

 しかし、龍兵衛とも長い付き合いである。本気で言っているのかそうでないか区別することぐらい容易なことだ。 

 故に、兼続は信じこそすれ疑いはしなかった。

 

「候補はある。畠山は富樫が束ねる一向一揆の中でも比較的独立を保っていると聞いている。逆に利用してやろう」

「卑怯な手だが、今は致し方ない。か・・・・・・」

「そう言うな。向こうが汚い手を使って俺達を殺そうとしたんだ。なら、同等以上の報復をしてやる。それだけだ」

 

 一向一揆に対しての怒りは上杉では皆が平等かつ激しく燃える紅蓮の炎の如き怒りを持っている。炎で例えるならばまだ良い方だろう。殺しても殺しても何度も殺し直す程に強い敵愾心が上杉にはある。

 結局、龍兵衛は謙信と上杉の名を汚さない程度の範囲で彼の思い通りに一向一揆のことは対応することになった。

 嬉しそうにしている龍兵衛を見ていると少しだけ兼続も不安になるが、こういうことに関して上杉の中で一番長けているのだから安心出来るだろうと考えて重ね重ね聞くことはしなかった。

 

「さ・・・・・・問題はまだあるぞ」

 

 兼続の言葉で部屋の雰囲気は急激に締まった。

 一向一揆が来襲するかは不透明だが、武田が来襲するのは明らかである。

 

「間違いなく武田は海津城に兵を集めている以上は、飯山城へ動く気だろう。今川を無視出来ているのはどうしてか分からないが、何か対策は打っている筈だ」

 

 龍兵衛はそう言うが、大体の察しは付いている。織田の畿内攻めが上手く行っていないのだろう。

 足利幕府の崩壊を狙う信長に対する畿内の抵抗は姉川の戦いや比叡山焼き討ち以降、弱まるばかりか強くなっている。

 手を焼いている一向一揆討伐の援軍を今川が持つ水軍において頼んでいるのだろう。

 

「海津城を守るは武田四天王が一人、虎綱春日。飯山城に二千の兵を率いて進軍中。その背後にいる武田本隊は甲斐に残す兵を考えると・・・・・・およそ四、五千といったところか? 少なくともまた川中島に向かわなければな」

「ああ。だとすると武田軍は計七千。いや、信州の豪族を集めれば八千だな。一方、こちらは魚津城にも兵を派遣することを考えると飯山城の義清殿達の軍勢を含めて五千が一杯か」

「そうなると二倍近くの敵を迎え撃つことになるのか。籠城でいかほど保つか・・・・・・」

「ふーむ・・・・・・待てよ、北条に備えている坂戸から兵を借りればどうにかなるな」

「それだ。書状は私が認める」

「兵糧のことは本庄殿にお願いしても良いか?」

「構わない。お前は例の件を頼む」

「急いで兵を集めてくれな」

 

 万が一に備えて上杉では兵をすぐに集められるように農民兵には既に鎧が家に置かれていて城にて武器を運搬、支給させる制度を確立させていた。

 従来よりも数日も早く出陣出来る為に謙信からも気に入られた龍兵衛の発案だが、あまり褒められたものではないと彼は首を横に振っていたのは別の話である。 

 

「援軍を待って出陣しようなどと悠長なことをすれば、武田はその前に飯山城を包囲しかねない。義清殿も岩井殿もそう易々とやられるような方ではないとはいえ相手が相手なだけにな」

 

 義清も信能も優れた将である。しかし、それ以上に武田信玄は優れている。

 迅速に援軍を出さなければのんびりとしている間に飯山城を奪われかねない。そして、景勝が総大将なだけに尚更早く動かなければかつての義清の配下である落合や屋代のように信玄の調略に応じて寝返る者も現れる可能性がある。

 引き締めを行うのも手だが、これ以上将を締め付けるようなことをすれば逆効果になりかねない。

  

「忠誠心を金で買うのはいけ好かないんだが」

「分かってるよ。これも俺と本庄殿でやっておく。お前が嫌いなのは知っているが、我慢してくれ。手伝わなくて良いから」

「す、済まんな。私が、駄目な人間で・・・・・・」

「止めとけ。自分を卑下したところで何も始まらんことぐらい分かってるだろうに」

 

 逆にこのようなご時世に兼続のように根っから真っ直ぐ生きる人物などそうそういない。 

 龍兵衛からすると羨ましいとも思えることである。暗い林の木々が自身の根に光が刺すような羨望にも近かった。

 

「早く俺もそうなりたい・・・・・・」

「む、どうしたんだ急に?」

「ごめん。独り言だ」

 

 口が軽くなるのは今しばらくお預けであることを思い出して口をとんとん拳で軽く叩いて一人、自身を戒める。

 涼しい夏だが、風が吹かない。未だに決着は決められてはいない以上、上杉が風を吹かせなければならない。

 だが、景勝を補佐しつつ二人は共に信玄よりも早く流れの風を吹かせるという非常に難しいことを行うという使命感が信玄に実質上立ち向かうという気負いを忘れさせる夏の暑さは無い。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百十九話 夏の終わり

 岩井信能は清和源氏である平安時代中期の武将、源経基の五男、満快の子孫で信濃泉氏の末裔にあたるとされている。

 父の満長が義清達と共に武田に敗れ、謙信の下に逃れた。しかし、父は春日山城に世話になっている間に病弱になり、信玄とはその後一度も矛を交えること無く没した。

 彼の信玄に対しての対抗心は義清よりも強い。決して蔑んでいる訳ではないが、強敵でも親の敵を討とうとするのは武人として筋である。

 故に徹底的に父の代わりに戦うのみ。同士とも言える義清は曲輪の様子を見に行っている為に今は不在。

 突然の武田の来襲とはいえここには旧信州豪族の残党将兵が多くを占めている。皆が打倒武田に向けていつでも信州の故郷を取り戻してやろうという気概がある。動揺が少しあっても逃げる者はいない。

 此度の信玄の来襲はこれで六回目である。今までの中で実際に戦ったと言えるのは二回。

 信玄は東西南北に敵を抱えている状態で動けない今を打破する為に動いたのだろう。ならば、信玄はこの好機を前に逃げず隠れず攻めて来る筈。

 これは信能達信州残党にとっても信玄を討つ好機。逃す手はどこにもない。

 信能は今度こそ戦えるということを聞いた時は内心で両手を挙げて喜んだ。

 しかし、信能も数の差を考えないような愚か者ではない。今か今かと景勝率いる上杉の援軍を心待ちにしていた。

 

「申し上げます。高梨様より使者がお見えです」

 

 信能は待っていましたと勢い良く立ち上がって急いで城内の櫓から外へと出た。

 案の定、既に高梨頼満は義清と共に会談していて信能は立ち話も何だということで近くの置いてある木材を椅子代わりに座った。

 

「本当によく来てくれたのじゃ。岩井殿共々、礼を申すぞ」

 

 義清がそう言うと信能も当然のように頭を下げる。

 三人は信州の豪族の中で信玄に最後まで抗った者同士。この中で一番良く戦ったのは義清である為に自ずと義清が一番上のように上杉では扱われている。

 事実、間違いないので信能も頼満も不平は無い。

 

「それで・・・・・・」

「うむ、景勝様が率いる上杉本隊が後三日程度で来る。おそらく、それまでに武田は来襲しよう。故に軍師である直江殿と河田殿から籠城して待つようにとのお達しだ」

 

 間違いない選択である。信玄は負ける戦をしても二回も負けるような真似はしない。砥石崩れのようなことを信玄は織田との戦まで決してして来なかったのが証拠である。

 信能達も信玄の恐ろしさは身を以て知っている。故に頷かない者はいなかった。

 しかし、義清の表情にはどこか浮かないものがあった。普段の太陽のような明るさにどこか曇りがある。更に「はぁ~」と珍しく長い溜め息をこぼしている。

 

「村上殿、一体どうされたのです?」

「いや・・・・・・分かってはおるのだが、この飯山城の先には我が葛尾城があるであろう。悔しくてたまらないのじゃ」

 

 葛尾城は元々義清が居城としていた城。飯山城からは約十九里(五十八キロメートル)強は離れているが、こうして武田と戦うことになるとどうしても旧領の思いが強くなるのは必然だった。

 義清の気持ちは二人にもよく分かる。しかし、謙信は東北をほぼ完全に掌握した以降の方針はまだ出していない。

 おそらく次は信州よりも先に関東を攻めるだろう。先に信州を攻めるのは北関東の佐竹・那須や三国街道に迫ろうとしている北条に本国を空けているのでどうぞ攻めて下さいと言っているようなものである。

 これからまたしばらく武田との戦はお預けになるだろう。ならば信能達はたとえ防戦であっても思うがままに戦い、勝利する。

 

「さ、私が茶を立てましょう。どうぞお二人共」

 

 信能の誘いに二人は喜んで立ち上がる。

 特に暑いという訳ではないが、義清は先程から汗が流れる量が三人の中で最も多くこのままでは脱水状態になりかねないだろう。

 良い時に誘ったと信能は密かに思いつつそのまま並んで歩き、三人は世間話に興じる。

 戦前から気張るのは本番で気疲れを起こし、力を発揮出来ない。もてなしによって心を和らげるのもまた良きことである。 

 弾みになることをしなければならないと考えた信能のもてなしは良き点前であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本庄繁長の乱と後世ではその名で呼ばれ伝えられている繁長の謀反は長丁場の予感を見せていた。

 包囲して早一ヶ月以上が経ち夏をすっかり過ぎようとしている。

 互いに動きは無くただ睨み合いが続いているだけ。上杉軍が何度か攻めようと試みてみたが、要害である本庄城の守りを崩せずに退却を余儀無くされていた。

 その為、本庄城城内の士気は上がるばかりという訳でもなく、逆に日に日にピリピリとした雰囲気になっていた。

 城内を歩く音が静かに聞こえる。音を出している繁長本人は元々大らかで決して配下に細かいことで何か言ったりなどしない。

 しかし、今の繁長は自分で出している足音でさえ苛々を感じる程に繊細になっていた。

 城に籠もって早一ヶ月。しかし、上杉軍は全く動揺を見せずに本庄城を取り囲んでいる。

 一度だけ城外の様子を探ろうと斥候を派遣したものの、あっさりと色部の兵に見つかり、何ら傷も付いていないまま丁重に送り返された。

 こちらは余裕がある。いつまでも包囲して待つことが出来るのだという上杉軍からの隠された本庄城への言伝だということは容易に分かった。

 このことは将兵達にも既に知れ渡っていて謙信の懐の大きさを見て士気が若干落ちている者もいる。

 当てにしている一向一揆や羽黒山と寒河江残党。そして、上杉に逃れても物欲の強さ故に未だ春日山城で冷遇されている白河結城の小峰義親も繁長は目に留めた。

 かれらの誰でも良い。誰かが挙兵すれば間違いなく謙信は兵を戻さなくてはならなくなる。

 その時、追撃をするも良し、軍備を整えるも良し。時間が出来るということは本庄城の将兵達に休息を与えることが出来る。

 上杉も何か手を討っている可能性が高いが、書状が届きさえすれば本庄に靡く者もいるだろう。

 何せ信玄も動いてくれているのだから。上杉に敗れ、織田にも敗れたとはいえ信玄が生きている以上は決して落ちたとは言えない。

 未だに謙信も信長も武田を攻めていないというのが何よりの証である。謙信もそうだが、信玄が生きている以上は信玄という存在が驚異である為に信長もおいそれと手を出す訳にはいかないのだろう。

 故に、今川・徳川にも出撃させずに武田に動きがないように見せているだけなのだと繁長は考えていた。

 

 

 

「申し上げます! 繁長様、北より最上の援軍が。凄い数です!」

「なっ・・・・・・」

 

 繁長は慌てて物見櫓に登ると身を乗り出すようにして最上の旗印である『竹に雀』と義光の扱う『黒の五輪塔』がたなびいている。

 最上軍を実質任されている義光が直々に上杉に馳せ参じているということは羽黒山衆は寒河江残党の決起は失敗したのだろう。実際にそれ程の数の旗が立っている。

 

「羽黒山衆から返事は?」

「ありませぬ。おそらくは、上杉に付いたものかと・・・・・・」

「ここから人がどれほどいるかはよく見えぬが、あの旗の数を見ると三千以上はいるな・・・・・・やはり、羽黒山衆は駄目だったか・・・・・・」

 

 落水距離が長い滝を落ちる花びらのようにすとんと落胆の渦が本庄城内を包み込む。

 最上など出羽の大名にも書状を送ったが、返事が返ってくる気配が無い。望みを賭けて託した出羽に潜伏している寒河江や大宝寺の決起によって最上からの援軍を阻もうとしたが、結局は眉唾だったと眼前の光景を見てよく分かった。

 早過ぎる結末だった。何も出来ず、願望であった筈の鮎川親子を討つことさえ失敗して、国人衆や豪族にも話を掛けたが、どこからも音沙汰が無い。

 

「(万策尽きたか・・・・・・)」

 

 いつもはただ武勇を戦場にて示し、何人もの人を殺してきた繁長が欠如している政治力や謀をやってもただの悪足掻きにしか過ぎなかった。

 家臣の前でなければがっくりと膝を付いていたかもしれない。だが、信じている将兵達がいる以上は決して弱味を見せて士気を乱してはならない。

 包囲されて情報が入っていない為に外で何があったのか分からない。

 何となく上杉本隊の旗が減らずに将兵が動かない様子を見るどこかが動いたということは無いのだろう。一向一揆には期待していたのだが、謙信の旗印もあるので動いていないと見るのが妥当である。

 ここまで来ればもはや打つ手はない。謀反を起こした自身はともかく将兵を無駄死させたくは無い。

 しかし、何もせずに降伏しても本庄繁長という武人はただの時勢の読めない阿呆だと天下の笑い物になってしまう。

 せめて鮎川親子を滅するという目的を果たしてから逝きたい。それが繁長が武人としての最期の願いであった。

 

 

 

 

 

 

 

 秋前に謙信は農民兵の収穫作業への滞りが出ることを考えて一時包囲を解き撤退を考えたが、逆に農民兵からの反対に遭い、年貢を事情によって減らすことは出来るが、微々たるものに過ぎないと言っても聞かれずに困ってしまっていた。

 これだけを見ても主君がどれほどに民に慕われ越後にその権威が届いているのかが分かる。

 

「田畑から実る米が我らの生活を潤してくれるのだ。そなた達を帰すことで国が成り立つも同然なのだぞ!?」

「だからって、謙信様が苦しくなるのは勘弁だ。頼みます。残してくだせえ!」

「否、そなた達を待つ家族もおろう。何故に折角の機会を逃すのか!?」

「それは私達ではありません! 謙信様の為に死んだとなれば本望です! 家族も納得致しましょう!」

「ならぬ! 家族が許そうとも、仮にも国を治める私はそなた達が無闇に死ぬことなど許さぬ!」

 

 揉めた。実に謙信と農民兵は揉めた。ああ言えばこう言うの応酬だったが、農民兵代表の十数人相手に一人で戦った謙信もまた見事であった。

 謙信は民のことを思い、慈しんでいるからこそその思いのあまり頑固になることもある。だからといって、謙信と農民兵の間で「帰れ!」「嫌です!」の言い合いが起こるとは誰が予想したであろうか。

 

「止めるべきか否か。颯馬、どうするべきだ?」

「中条殿らしくありませぬな。味方の揉め事を傍観するのは愚の骨頂。されど、私にも止める術がございませぬ。こういうことは官兵衛に任せるのがよろしいかと」

「何その無茶ぶり!? あたしだってあんな所に入りたくないよ」

 

 取り敢えず、中条景資が包囲を続けていても変わらない戦況を憂いて配備の再確認をしようと謙信の下に訪れたら戦場にも似た熱気が漂ってきた為に急ぎ駆け込んでみたところ、既にこうなっていた。

 収穫の時期が近付いているので配下の者に指揮させる故に帰っても良い。

 普通は諸手を挙げて喜ぶところだが、これが謙信という人物の成せる人望というもの。

 徴集された農民兵は代表者を出して抗議に来るという前代未聞のことを平気でやってのけた。

 端から見れば呆れるような状況だが、謙信は性格故に農民兵達に強く言えない。それが良い方向にいつも傾いていたので景資も久々にある意味で悪い方向に向いているのを見た気がした。

 顔をしかめるようなものではなく謙信が徐々に押されて少し面白いと思えるからまだ許せる。

 

「(分からない。国は民あってのもの。謙信様はそれが良く分かっている御方。されど、何故に黒川は一時の弱体に耐えることが出来ないのであろうか・・・・・・)」

 

 景資は久々に上杉らしいところを見たと戦の間の和みを味わいつつ、少々疑念を抱いていた。

 父である藤資は生前から清実と対立していた。理由として清実から領地のことについて紛争を起こされたことである。かつて父である藤資からはこう言われていた。

 

『黒川だけは味方とはいえ常に警戒を怠るな』

 

 若き頃の景資にはよく分からなかったが、景資が藤資の死に伴い単独で中条家を引っ張ることになるとその言葉が正しいと分かった。

 景資が家督を継いだのは三十路を過ぎて人間としては最盛期を迎える頃。以前から薄々と父と清実の仲違いは察していたが、対象が景資一本に絞られると実にひどかった。

 清実はあれこれと景資の主張にいちゃもんを付けてくるようになったのである。「この若造が・・・・・・」と聞こえよがしに言ってくる時もあった。

 鮎川親子が龍兵衛や颯馬に行っていることを清実は景資に向けてやっていたのだ。

 清実が有能で上杉に忠義を尽くしていることは知っている。そうでなければあの謙信が不介入の方針を取る筈がない。

 しかし、人には我慢の限界というものがある。楊北衆筆頭として中条家を引っ張る立場として隠していたが、父譲りの血気の強さを持っている景資は清実のことを何とかしたいと常日頃から思っていた。

 長年楊北衆の中で一番目の地位を保ってきた中条の誇りを持って代が変わっても力は変わらないと清実に見せ付けてやりたいと好機を窺ってきた。

 景資も武人である為、暗殺や失脚などと卑怯な手を好まない。故に、見返すには武を以て清実を超えるしかない。否、とにかくこの反乱を抑える功を立てさえずれば楊北衆で未だに景資を認めていない者も自ずと靡くだろう。

 その時は小童と言われてきた借りを武によって返すという密かな熱い決意を胸に秘め、景資は腹を空かせた虎の如く本庄城という獲物を食い散らす為に時を待つ。

 

「中条殿、眉間に皺が寄ってるけど」

「む、済まない。少し考え事をしていた」

 

 時を待つ時に気張るのは愚かなこと。ゆるりと時を待ち、一切の気を見せずに時が来れば虎の如く一気に襲い掛かる。

 

「あ、やっと終わったみたい」

「結局、決着は付かず、明日も引き続きと言ったところだな」

「何時までも包囲を続けている訳にもいかないからね~」

 

 思っていることを二人に言ってもらえた景資は官兵衛の言葉で少しだけ不安が取り除かれた。

 

「一応、私は謙信様に明日か明後日にでも包囲を切り替えて攻城にすべきだと申し上げようとしていたところだが、二人共どう思う?」

 

 謙信に帯同している軍師が良いと言えば謙信に申し上げる時も後ろ盾が出来る。

 しかし、二人は首を横に振って否定的な態度を示した。

 

「最上の援軍が来たばかりなのに動く訳にはいかないよ。さっき謙信様も最上義光に会ってたけどまだその時じゃないって二人で言ってたから」

 

 蘆名の援軍が今、新発田を経由して本庄城へ向かっている。最上だけでなく蘆名の援軍も来たと知れば本庄城の士気は更に落ちる。

 その為に敢えて最上には旗を多めに持って来るように頼んで大軍が来たと繁長に思わせているのだから。

 最上も本当は寒河江残党や最上八楯の残党が繁長の反乱に便乗することに備えて兵を置いている為に上杉に多くの援軍を派遣する訳にはいかない状況にある。

 蘆名にも同様に旗を多めに持って来るように言ってある為に蘆名が来れば城から見てみれば五、六千の兵が一万以上の兵が包囲しているように感じるだろう。

 

「そこで降伏勧告を出す訳か・・・・・・されど、本庄も武人だぞ。決めたことを失敗すれば責任を取り、腹を切ることになりかねん」

「筋を通すことが本来あるべき武人の姿では?」

「成る程、颯馬の言う通りだな」

 

 武人ならば主君を立てて命を懸けて守り抜き、最期まで敵に立ち向かうべきだ。繁長の行いはただ武人から外れた愚かな行いでしかない。

 そこを非難して繁長の心を砕き、そこに謙信の慈悲の心を聞かせて再び恭順するようにさせる。

 ある意味で黒いが、柔よく剛を制すという手段を用いることで知略に乏しい繁長は武人の心を非難するだけで簡単に降るだろう。

 

「鮎川のことについて、本庄は何か言って来るだろうか?」

「言ってくるでしょうね。ただ、そのことについては謙信様に妙案があると」

「ふむ、未だに言わぬとは何かあるな」

「何にせよ、あたし達は本庄城を落とすことに全力を注ぐってことだね」

 

 珍しく官兵衛からまともな発言が出たことに内心驚きつつ景資は進言しようとした攻城に切り替えることを胸に閉まい込んで自分の陣に引き返すことにした。

 あの様子ならば長く陣を置いていても士気が落ちる心配も無く、蘆名が新発田城からこちらに向かっているならば戦自体もそう長くは続かないだろう。

 

「(好機は逃すやもしれんな・・・・・・)」

 

 一方で景資は清実を見返す為に立てたかった功を立てられなくなる可能性も出て来たことに危惧を抱いていた。

 よく考えれば清実にも同じことが言える。繁長が降伏すれば功は颯馬や官兵衛のものになるだろう。それは二人と懇意にしている景資の影響力も強くなるということだ。

 決して謙信に反旗を翻すような野心を景資は持っていない。そのことを知っている颯馬達と協力すれば清実も大きく出れることも少なくなるだろう。

 既に景資の頭は半分が戦の終わった時になっていた。

 

 

 

 

 

 戦では何が起きるか分からない。故に、気を緩めるのは愚かなことである。

 

「中条様! 夜襲です! 本庄軍が襲来しています!!」

 

 それは上杉が油断大敵という言葉を忘れた為に起きた敗北の始まりだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百二十話 呪われた夏

 夏真っ盛り。という程まで暑くないはないが、少しぐらいは汗ばむぐらいの天候になってきた。

 景勝達が飯山城に入って二日目。全員で軍議が行われていた。

 

「結局、武田とはまたまともに戦うことは無いのか・・・・・・」

 

 一人だけ汗の量が違う義清のぼやきが飯山城に赴いた際の全てを語っていることは隣の兼続や景勝も否定しない。

 報告によると武田軍は六千強の兵が揃っているらしい。謙信の予想とは裏腹に信玄は先頭に立っていたという報告もあるが、もはや間に合う訳が無い。

 どう戦うか考えたが、兼続も龍兵衛も上杉直臣と帰り所が無いとはいえ他国衆と呼ばれる者との寄せ集めと野戦を行うのは分が悪いと考えて籠城を選択した。

 北条方面から援軍も近付いている為にかれらを待って城から出る。景勝もそれに賛同し、義清と信能も援軍が来ても埋まらない数の差を考えて頷いた。

 いよいよ武田がやってくるという前に兼続は糸魚川に築かれた根知城に毛利秀広を派遣して万全に期した。

 飯山城方面から根知城に向かうには北信州最大の山と言われる妙高山を越えなければならない。

 だが、万が一ということもありうる。

 飯山城の立地は千曲川を経由して越後妻有へ通じ、さらに飯山街道を経由して直接越後府中に通じる交通の要衝でもある為に信玄は何度もここを攻めている。

 飯山城は低い丘陵にある平城に近い平山城だが、千曲川の流れを水堀に取り込み、周辺一帯を囲む要害でもある。

 信玄が進路を変更するようなことがあれば根知城を包囲する武田を背後から襲うことも出来、その際は上杉も妙高山を越えなければならないが、いざとなれば葛尾城を奪取して武田を上杉の領内に封じ込めることも出来る。

 仮に飯山城を素直に攻めて来ても根知城から武田の横腹を突くことも可能だ。

 もちろん信玄が横腹や背後を取られるような真似をする筈がないと兼続も重々承知している。ただ飯山城に防戦を行う上杉が固まっていると知られるのは良くないという考えから敢えて実行した。

 普段から最悪の事態を考えて行動する龍兵衛でさえそれ程まで信玄が危険な策を実行することは無いだろうと無駄なことではないかと兼続に言ったが、結局は彼女に押し通されてしまった。

 

「もしかして兼続。ちょっと気合い入り過ぎてない?」

「そんなことはない! いつも通りだ! 変わりない!」

「(いや、目が燃えてるんだけど・・・・・・)」

「兼続、落ち着く」

「は、はい。え・・・・・・景勝様にも私はそんなに力が入っているようにと?」

「(こくこく)」

 

 兼続が燃えているのは他でもなく謙信から景勝のことをしっかりと補佐するようにと頼まれたのだ。

 今まで景勝が戦の指揮を執ることもあったが、今回は武田という上杉にとって大きな敵。実質的に指揮を任されている以上、気合いが入らない訳がない。

 

「ここは水原さんを見習って平常心で行こうよ」

「(うんうん)」

 

 武田相手に気合いが入るのは景勝も龍兵衛も構わないと思っている。しかし、気合いの入り過ぎは逆に空回りして信玄に足元を掬われかねない。 

 ここは親憲がいつも言うように平常心を崩さずに信玄を迎え撃つのが一番の良策である。

 流されるままという訳ではないが、信玄のように隙を突くことを厭わない者には感情をなるべく無くしていくのが良い。

 

「ま、さすがに水原さん程になれというのは難しいですが・・・・・・」

「でも、近付くこと、出来る」

「あ~でも、兼続には無理か?」

「勝手に決め付けるな!」

「もう、感情的」

「景勝様~」

 

 景勝に正論を真っ正面から突き付けられ、泣きつくような声でうなだれる兼続を見て笑いが皆に零れた。その一方で、義清と信能は物珍しいものを見たというような表情をして龍兵衛と景勝を見比べている。

 

「どうしました?」

「いや、妙に息が合っているというか・・・・・・」

「実は、私も同じことを思っていたのじゃ」

 

 普段はあまり話すことが無い為に互いに避けているという噂がまだちらほらと出ている。

 微妙な関係になってから確かに会話はめっきり減ったが、二人は互いをよく知っている為に次に何を言い出すのか大体察することが出来るようになっていた。

 

「そりゃあ当然でしょう? 見てて兼続が面白いんですから」

「見てて、だと・・・・・・私は見世物か何かか!?」

 

 誤魔化すように惚けて墓穴を掘った龍兵衛の発言に景勝もそっと頷いていたのだが、頭に血が上った為にそれに気付かず、うがーっと火を噴く勢いで兼続は龍兵衛にだけ噛み付く。

 しかし、龍兵衛はそんなのどこ吹く風と「暑い暑い・・・・・・」と扇子を扇いで涼しげな表情で全く相手にする様子が無い。

 その光景がおかしくて義清達も二人のことよりもそちらを笑って見守っていると急に外が騒がしくなった。

 

「申し上げます。武田軍、飯山城南、千曲川沿いに陣を敷いた模様!」

 

 入ってくるなり兵が持ち込んで来た報告を聞いた途端に遊びの雰囲気は一気に雲散した。

 こぞって全員が中心に置かれた地図を見やり、協議を始める。ほとんどが様々な予想をしてきた内の一つの確認であるが、武田が来てからでないと実際に行う戦略は決められない。

 取り敢えずは籠城戦だが、千曲川沿いに陣を敷いたということは大手門を中心に攻めるということ。援軍が来ることを知っている。

 何故なら飯山城周辺は川に囲まれている為に他より攻める場所も限られている。大手門を一気に攻め、速攻による勝利を狙っているのだろう。

 のらりくらりとかわすにはやはり大手門を防備を固めつつ、相手が信玄ということは考えて北門の監視も厳しくしていかないといけない。

 

「兼続、大手門の指揮は義清殿に任せて、お前は西の郭で前線の全体を頼む」

「分かっている。本丸の方は頼むぞ」

「いや、俺は三の丸で郭の後方支援だ。本丸の方は景勝様一人で大丈夫でしょう?」

「・・・・・・!?」

「何を言うんだ。景勝様お一人では何かと障害が出るからと誰かが補佐するべきだと言ったのはお前だろう」

 

 先日、兼続と共に無礼を承知で景勝に掛け合った。少ししょぼーんとしていたが、まだ景勝の言葉を理解出来ない者もいる為に誰か近くにいるべきだと考えた二人は信玄の攻撃を防ぐ為には必要なことだと思ったのだ。

 にもかかわらず、土壇場で龍兵衛は景勝の補佐役を破棄すると言い出した。代わりに信能を付けておけば良いと。

 

「命令聞く。龍兵衛、残る。景勝、守る」

 

 毅然と景勝は龍兵衛の拒否を絶った。少なくとも強い口調はこれ以上の反論を許さない。

 何か言いたげな龍兵衛をもう一度睨むと彼も頭を下げて渋々頷いて承服した。さすがに私情を戦に挟むのは御法度である。

 

「では、三の丸のことは高梨殿に任せます。武田に謙信様がおらずとも戦えると示してやりましょう」

 

 立ち上がりながら兼続が言うと全員が『応っ!!』と声を上げた。飯山城を抜かれれば後は小城が並ぶのみ、負ける訳にはいかない思いは皆が同じであった。

 

「武田を退けることが出来たとして、問題は本庄殿の謀反が早く収められるかどうか」

「大丈夫、謙信様いる。颯馬、官兵衛いる」

 

 少し景勝は楽観的だ。簡単に終わることはないだろうと龍兵衛は思っていた。知略に乏しい繁長だが、戦において培われた独特の勘がある。

 

「(嫌な予感がする)」

 

 景勝の手前何がとは言えないが、今、龍兵衛に出来るのは謙信達の無事を祈ることのみ。

 本庄城の状況が飯山城にも入って来たのはこの日の夜のことであった。

 

 

 

 

 

 

 北東及び南東から火が上がっている。夜であることもあって黒い光景に紅蓮の炎はよく見える。

 景資はどちらにもいないほぼ南南東に位置する所に陣を敷いていた為に攻撃を受けなかった。

 今は状況を整理して如何なる行動を取るべきか考える。

 当然ながら動かない訳にはいかない。謙信の安否も心配だし、色部や甘粕のことも気になる。また、動かずにいれば挟撃される恐れもある。撤退など論外。主君の危機を救うのは家臣としての務めである。

 

「申し上げます。色部隊が壊滅寸前」

「申し上げます。黒川隊が謙信様の陣を防いでおります。戦況は本庄側が有利かと」

 

 双方から飛び交う苦戦の報告。景資の配下には動揺が激しい波のようにあっという間に広がっていた。

 

「中条様、如何致しましょう!?」

「慌てるな」

 

 景資は周辺から入ってくる情報に反して比較的冷静だった。

 同然、謙信の救援が優先だが、万が一ということもある。色部と甘粕が苦戦しているというが、どちらの方が本庄軍の攻勢が強いのかを判断しなければならない。

 

「最上軍、甘粕隊と合流した由!」

「申し上げます! 黒川隊が敗走した模様!」

「よし」

 

 それだけ言うと景資は北東を指した。清実でさえ防ぎきれなかった本陣への道。攻撃を受けているのはこちらとはいえ、まだこれは局地戦。全体で敗北を喫した訳ではない。

 

「行くぞ! 謙信様をお救いする!」

 

 上杉軍の敗色濃厚とはいえ景資の心は高ぶってきていた。 

 好機だ。清実に中条は決して代替わりしようとも変わらないということを示す好機だ。

 清実が出来なかったことを景資が成せば上杉家中で誰もが景資に目を置くようになるだろう。そして、楊北衆第一は中条であると示すことが出来る。

 駆ける景資が本陣付近に到着した時、彼の目に映ってきたのは謙信の兵が死に物狂いで主君を守らんとしている姿だった。

 この中に謙信がいることは分かっている。探すのは難儀なことだが、何としても見付けて謙信を救い出しておかなければならない。

 長年、自身の家も含めて国人衆の力が強かった越後には謙信のような強い指導者がいる。そして、それを理解しない人を排する必要がある。

 その為に景資は楊北衆第一の地位を確固たるものとして親憲達と共に黒川などを弱体化する必要があるのだ。

 

「急げ! このままに一気に突っ込み、謙信様をお救いしろ!」

 

 叫びつつ自らも刀を振るう。景資も父譲りの強者。足軽兵などに遅れを取るような者ではない。

 景資が駆ける毎に本庄軍の兵の屍が転がる。徐々に景資は謙信を探し出すことに専念するべくただ駆けるだけとなり、眼前に入った邪魔な本庄軍の兵を斬り捨てるようになっていった。

 

「む? 颯馬か!?」

「中条殿!」

 

 景資の目に飛び込んで来たのは刀を振るい兵と共に敵を倒している颯馬だった。

 

「謙信様はどうした!?」

「それが、乱戦の最中ではぐれてしまいまして」

「早く探すぞ!」

 

 言い淀む暇など無いと景資は颯馬を強引に引き連れて本陣へと向かう。

 見る兵は本庄軍の生きる兵と上杉軍の死んだ兵。ぞくりと背中が冷える。風は吹いていないにもかかわらず、景資の背中には寒気が襲った。

 

「中条殿、あれを!」

「あれは・・・・・・義光殿?」

 

 颯馬の指差す方向には長い棍棒を振り回す義光の姿があった。

 

「義光、どうしてここに?」

「うむ、夜襲と聞いてな。兵は盛周に任せてここまで来たまでよ」

 

 相変わらずの尊大な態度だが、今はありがたいの一言に尽きる。しかし、謙信の行方は義光も知らないと首を振った。

 

「中条様、謙信様らしき御方をこの先の神社にて発見致しました!」

「よくやった。行くぞ」

 

 三人に少しだけ明るい希望が胸で開いた。

 更に三人は乱戦の中を真っ直ぐ突き進む。付いて来れる兵は徐々に減っているとはいえ主君の命には変えられない。

 社に付いた時には累々の屍が転がり、もはや誰が誰なのか区別も付かない。境内の中で囲まれた者を三人は見つけた。

 

「謙信様!」

 

 颯馬が叫び、いち早く駆け出す。景資も続けて駆け出すが、一瞬足が驚愕と恐怖で竦んだ。おそらく今後忘れることは出来ないだろう。

 そこには血まみれの謙信が冷たい目をして立っていたからだ。

 

「謙信様・・・・・・?」

 

 颯馬の声がよく二人には響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜が明けると人は周りの景色を見てその日をどうするのか無意識に考える。

 颯馬も軍師として謙信達と今日をどうするのか決めなければならない。

 

「昨夜の夜襲にて、色部弥三郎(勝長)様が討ち死。また甘粕様と黒川様の隊にも大きな被害が・・・・・・総じて被害は六百に上るかと・・・・・・」

 

 聞いた途端、颯馬の感情は一気に奈落の底に落とされた思いになった。眉間に皺を寄せ、目をぎゅっと瞑り、拳を口に当て悔しさをはっきりと表す。

 返答を待っている兵に今は死者を運び、負傷者を手当てして指示を下すまで決して油断することの無いようにと厳命を下した。

 しかし、いくら下に厳しく指示を出したところでかれらには何も罪は無い。あるのはこちらがいつでも倒せると考えて油断していた罪悪感と勝長の死への無念のみ。

 だが、過ぎた時間は戻って来ない。軍師として行うことはただ先を見る。

 

「ところで、官兵衛を見なかったか?」

「先程、出掛けて行きましたが」

 

 これからのことを説得するべく、もう一人の軍師と共に謙信に会いに行かなければならない。

 颯馬は陣を出てあちこち探すと柵を修復している所にいた。

 見ると官兵衛は兵にあれこれと指示を出している。思い返すと春日山城の普請奉行でも官兵衛は素晴らしい改新を行い謙信から絶賛を受けていた。

 てきぱきと指示を出し、違うと思った所はすかさず動いてあれこれと身振り手振りで違う箇所を直すようにしている。

 はっきり言って似つかわしくないと颯馬は思っていた。少女のような官兵衛が力仕事に関わっている。端から見れば実に滑稽で、思わず笑みも零れるような光景だ。 

 

「どうだ。上手くいっているか?」

 

 しかし、今は和んでいる時ではない。内心、頬に自身の手を打って喝を入れると官兵衛に声を掛ける。

 少しだけびくっとしながらも官兵衛は兵の前ということで気丈を保ちながら振り返る。

 

「あぁ、颯馬。どうにかだけど、取り敢えず柵の修復だけでも早く終わらせておかないと」

 

 これから先、上杉から本庄を攻めるのは今の段階では厳しいだろう。

 軍の編成などを考えると今回の敗戦は血を流し過ぎた。

 冷静に考えて今一番の上策はただ一つ。それを謙信が承服するかは別だが、取り敢えず言ってみないことには決められるものではない。

 

「謙信様の所に一緒に来て欲しいんだけど、良いか?」

「良いよ。この後で行く予定だったし」

 

 官兵衛は手をはたきながら後のことを兵に任せて颯馬とと共に歩き出した。

 

「謙信様」

「おお、二人してどうしたんだ?」

 

 味方も凍らせるような目をしていた昨日とは違い謙信の目には暖かさが籠もっている。

 何度斬ってもきりがないあの状況を颯馬達が来るまでほぼ一人で切り抜けたのだから仕方がないと言えばそれまでだ。

 

「今後のことですが・・・・・・」

「このまま戦を続けるのはちょっと厳しいかな~って」

 

 おずおずと尋ねる颯馬の代わりに官兵衛がはっきり言ってくれたおかげで謙信も助かった。

 謙信も颯馬達同様に歯痒い思いだった。それは颯馬が一番良く分かっている。見えないようにしているつもりらしいが、謙信は唇を噛んでいることが分かった。

 大敗を喫したのは心の隙という不覚以外の何ものでもなかった。運が無かったのではなく最初から運は上杉軍を見放していたのだ。

 分かった時にはもう既に遅し。謙信は天を仰ぐしかなかった。

 

「・・・・・・徹底するか」

「英断だね。本庄が追って来ないようにあたしと中条殿とで兵を伏せておくから」

 

 勢いに乗って追撃するのは戦では必定のこと。それを未然に防ぐのが軍師として当然のことである。

 

「颯馬、一足先に新発田に向かい、蘆名に退却するように伝えてくれ」

「はっ」

「官兵衛、伏兵の指揮はお前に任せる」

「了解」

 

 敢えて鮎川のことは言わなかった。それが謙信の中で最も良い判断だと考えたからだ。詰問の使者は同然出す。

 春日山城に謝罪に来るならばまだ慈悲深い謙信は許そうと思っている。清長でも盛長でもどちらでも構わない。しかし、来ないのであればその時は謙信も優しくなることは出来ない。

 しかし、すぐに鮎川の没落を決めてしまえば鮎川親子は本庄と手を組むだろう。岩船郡北一帯が敵になることは避けなければならない。

 内乱程苦しく、もどかしいものはない。駆け引きの恐ろしさが強い憤りと歯痒い思いを募らせ、謙信を悩ませるものはない。

 面倒なことにならないことを颯馬は祈るばかりだった。

 

 

 

 

 

「繁長様、上杉軍が退却しております!」

 

 家臣が持ち込んできた報告に繁長はすぐ立ち上がって櫓から外を見る。

 ふらふらと揺れながら南西へと向かっている旗。間違いなく上杉軍は撤退している。

 

「上杉が撤退している今が追撃の好機。すぐに出陣の御命令を!」

「いや、止めておこう。おそらく追撃を防ぐ為の策を弄している筈。知略に疎い俺でもそれぐらい分かる」

 

 繁長は息を巻くような家臣達の気勢を水のように冷静な口調で窘める。

 家臣は繁長の判断力に感嘆の声を上げているが、繁長の本心は違うところにあった。

 いい加減、物資が乏しくなってきたのである。

 今回は上杉が攻める前に攻め込んだ為に上手くいき、上杉軍が撤退した。これから秋になる為、兵糧や武具も補充出来るが、それでも周りは相変わらず敵でいっぱいである。

 一向一揆は侵攻がなかった以上はもはや頼りにならず、最上によって決起しようとした寒河江の残党は容赦なく打ち首になったという報告も入っている。

 周りは敵だらけ、猶予が与えられたとはいえ鳥坂城の中条を始め黒川や新発田の水原が本庄城をしっかりと見張っている。

 これから奪われた支城を取り返すことぐらいは出来るだろうが、それだけでも労力と兵糧は減って行くばかり。

 今の繁長にとっては少々の出兵でも出てくる費用が気になる程に切羽詰まっているのだ。

 勝算はあった。そして、勝つことも出来た。撤退した上杉軍の旗を見ながら繁長は今後のことを考える。

 先ずは繁長が夜襲によって謙信が直々に指揮を執った上杉軍を打ち破ったと大々的に広めて謙信恐るるに足らずと表面することだ。

 この勢いで清実や一向一揆、武田との関係を強化していくことに専念して上杉軍が再び来ることを想定して戦略を練り直さなければならない。

 武田が飯山城を落としていれば良い。しかし、撤退してしまえば本庄は完全に孤立してしまう。手段はある。しかし、個人的にやりたくない。

 

「(鮎川と手を組むか・・・・・・いや、絶対に出来ん!)」

 

 向こうはこちらの都合など考えない。そもそも鮎川を排除したいという思いで起こした挙兵。しかし、今回の戦で鮎川がいなかったことは昨夜の夜襲で分かった。

 物資が不足している以上、もはや背に腹は変えられない。

 

「上杉軍の行動に目を離すな。それから大葉沢に間者を放ち、様子を見てこい」

 

 ここまで来たらもはや何でも使える手段は使ってやるしかないのだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間 九州事情弐

たまには書いておかないと・・・・・・
と思って投稿します


 九州では徐々に勢力がはっきりと二分されてきた。

 先の戦にて龍造寺を完全に配下にして平戸港において南蛮貿易を推奨している大友。

 三州の内、薩摩・大隅・日向の一部を取り、更に肥後にも侵攻を行おうとしている島津。

 九州ではこの二つの勢力が北の大友・南の島津というようになって形成されつつある。日向には未だに伊東、肥後には相良と阿蘇が残っているが、二つの家はどちらかというと大友に靡いている。

 宗麟が将軍家と関係を強化して献金をしたおかげで幕府から忠誠を認められて九州探題となったことで格が付いたことも大きい。

 一方で、伊東は日向統一を目指している島津との戦に敗れて大友か島津かで右往左往している。

 これについては大友の軍師、角隈石宗はやむを得ないことだと考えていた。最終的にはこちらに膝を屈するだろうが、催促してもまるで大友の臣下になれと言っているようにしか向こうには聞こえないだろう。

 伊東も元々は藤原四家の一つ南家の流れを汲む工藤家の一族で、大友に負けないぐらいの名家である。

 現在の当主である義祐も自尊心が高く、己を曲げないことで有名である。

 彼は熱烈な仏教信者としても有名で京の寺に献金を行うなど、また次第に奢侈と京風文化に溺れるようになり、本拠である佐土原城は九州の小京都と呼ばれるようになっていた。

 その為、九州探題を拝命して南蛮貿易を奨励している宗麟とは水と油の関係だが、先述の島津との大敗は義祐にとって不覚の一言だっただろう。

 伊東崩れと呼ばれるその戦は義祐が島津貴久の隠居と肝付の侵攻により動揺している島津の加久藤城を相良義陽と連携して攻めた際に伊東側は三千の軍勢がありながら、島津義弘率いる僅か三百の寡兵に木崎原で大敗を喫したことで伊東の中でくすぶっていた家中の不満は日に日に高まっていた。

 宗麟はそこに目を付けて伊東を配下に付けるべく援軍という名目で日向へ侵攻しようと企み始めたのだ。

 

「宗麟様も随分とせっかちになってらっしゃることで・・・・・・」

「東で上杉が、中央で織田が勢力を着実に伸ばしていることが焦りを招いているのでしょう」

 

 白髪頭を少し撫でながら石宗は今、紹運と惟信と共に府内の一角を歩いている。

 正義を掲げて、それが下らないという考えを持つ勢力や一向一揆勢の妨害がありながらも保守勢力と革新勢力を巧みに取り入れ、東北のほぼ全土を手中に収めた上杉。

 革新を目指して将軍家を中心に畿内保守勢力の妨害に遭いながらも徐々に体勢を立て直しつつ領土を拡張させ、将軍家や本願寺、浅井・朝倉との戦いも徐々に終わりを見せている織田。

 宗麟はその二つの家に遅れない為には日の本の西を一つにする必要があると考え、今までの豊後や毛利量を除く豊前だけでなく筑後・筑前も完全な支配下に置かんと道雪や紹運を中心とした軍団を派遣して反目を続ける国人衆の掃討を大友に協力的な蒲池や問註所の協力を以て着々と勢力を伸ばしていた。

 とはいえ大友も上杉や織田のように決して順風満帆な時ばかりではない。

 大友では伊東・島津のことよりも重要なことが起きている。

 北を毛利との国境を除いてほぼ手中に収めて南の島津と相対するという時に滅ぼした筈の秋月が復活したのだ。

 

「秋月が未だにこちらに膝を屈しようとしない今。まずはそちらを片付け、万全を期すべきでは?」

「秋月は小倉城の高橋鑑種殿と手を組み、背後に毛利の影もある。道雪殿が立花山城を落とし、釘を差しておかなければ、今頃どうなっていたことやら・・・・・・」

 

 秋月家の旧臣、深江美濃守は毛利氏の支援を得て、種実を居城に迎えると、秋月の本拠地である古処山城を占拠していた大友軍を破り、秋月氏の旧領をほぼ回復した。

 更に種実の弟、種冬は高橋鑑種の養子として小倉城に入り、種信は長野家を継いで馬ヶ岳城主となり、元種は香春岳城主となり、それぞれ大友氏に対抗姿勢を見せている。

 更に厄介なのが以前から不穏な動きを見せていた立花鑑載が謀反を起こした。これは道雪の快進撃で鑑載は敗れて自害した。後に立花家の名跡を継いだ道雪は立花山城に入っているが、現在では毛利の飯盛山城と秋月の古処山城に挟まれ、動くに動けない状況だということだ。

 秋月の背後に毛利がいることは分かりきっていることだが、門司一帯を持っている毛利の方が今は有利だ。

 水軍にて豊後の海上に睨みを利かせ、陸軍は秋月の協力を得て道雪を徐々に豊後の大友から孤立させつつある。

 

「龍造寺はどうしているのですか?」

「援軍が必要ならば、すぐにでもという知らせが配下の鍋島殿から来ています。ですが、あの肥前の熊が簡単に応じるかは分かりません」

 

 石宗が恐れていることは猜疑心が強く、ほぼ降伏状態とはいえ独立意識が高い隆信が毛利に抱き込まれて背後で寝返って九州西側の覇権を巡って争乱が起こることだ。

 恨みをあまり募らせない為に龍造寺が大友から削られた領地は微々たるものだということもあって大友に反抗することも未だに可能である。

 大村や筑前の国人衆を大分手懐けることが出来たとはいえ、秋月も未だに精力的に打倒大友に動いているし、小倉城には未だに毛利に寝返った高橋鑑種が虎視眈々と控えている。

 更に筑前の原田や筑後の筑紫・宗像といった未だに大友に従わない秋月と内通しているという疑いがある者達もいる。

 

「松山城の田原殿に急いで援軍を送るべきです。毛利には中央の宇喜多や織田に目を光らせてもらいたいですが」

「それは私に言うことではない。しかし、宗麟様に言うならば私の方が良いか」

 

 ここで初めて惟信が口を開いた。黙っていたのは今まで二人の格上の将二人にびくびくしていただけである。

 あくまでも惟信は道雪の配下。石宗のように軍師として大友を盛り立てて来た訳でもなく、紹運のように名門の高橋家を継いだように格はない。 

 

「あまり浮かない顔をしていようですが、どうしたんですか?」

「・・・・・・いえ、何でもありません」

「由布殿もいずれは自然と格が付くものです。その時を待てば良いのですよ」

 

 ずばりと内心を言われ惟信は驚いたが、普通に誰でも分かるような皺の寄った顔をしているので正直もう少し表情に余裕を持って欲しいと思っているのは道雪から紹運がよく聞く愚痴になっていることだが、当の本人は知らない。

 石宗の言う通り、惟信は元空手家の才能を以て活かされた武勇と形に捕らわれない頭の柔軟性から大友でも一目置かれている存在になっている。

 その惟信が道雪とは別行動をして府内にいるのは彼女が道雪の名代として日向侵攻を止めるように走らされた使者であることに他ならない。

 宗麟に意見するのだから彼女に近くて自分の言葉でしっかり意見を言える人物となるとやはり惟信が適任である。

 選ばれた以上はやらなければ結果がどうなろうときちんと任務を果たさなければならない。

 

「紹運殿、よろしくお願い致します。とにかく頑張ってみます」

「分かっているなら良い。後押しは頼む」

「はい」

「では、私はこれにて」

 

 石宗は府内から門司城に向かうには必ず通り、豊前の防衛線である松山城の田原親宏の下に宗麟からの指示書を認める為に屋敷に戻ると二人きりになった紹運と惟信は歩きながら別の話に変わった。

 

「島津ですが、宗麟様は何故に毛利や秋月よりも固執するのでしょう?」

「おそらく保護している南蛮人の要望もあるのだろう。今後のことも考えてな」

 

 伊東義祐も島津も仏教を優先して南蛮人を追い出すような形で国外に連れ出している。

 南蛮貿易を財政の柱としている大友が南蛮人の要望を聞いておかなければ向こうも気が変わって有馬や大村といった他の南蛮新教信者との取引を優先させるようになっては困る。

 

「一度だけで良いからが、今後の大友を左右するようにしか思えません」

「同感だ。義姉上に代わって私達が宗麟様の真意を正さねばな」

 

 何の為に今の自身がここにいるのか。宗麟を諫めるだけにここに二人はいるという訳ではない。

 大友が更なる繁栄をする為に。それを支えるべくここにいる。 

 

 宗麟は部屋で二人を待っているかのように中へと招き入れた。

 二人が何を言うのかも察していたかのようにすぐに表情は真剣になった。

 

「宗麟様、何卒日向への侵攻を取り止めて先に筑後・筑前にいる反抗勢力を打ち払って頂きたく」

「悪いけど、二人の前でも無理なものがあるから」

 

 全く聞き入れてくれるようには思えないきっぱりと反論を断ち切るような答え。

 何故に宗麟がそこまで日向に拘るのかが分からない。

 豊前・筑前・筑後の方が今後を考えると確実に大友のものにしておきたい豊かな土地である。

 大友の当面の目標は九州統一だが、背後を毛利以外に取られる現状を打開しておくべきだと軍師である石宗を含めて家臣一同が主張している。

 

「宗麟様、これは道雪様からの書状です」

 

 懐から出した書状を恭しく宗麟に手渡す。

 道雪も立花山城でほぼ孤立無援の状態で奮闘している。生半可な将であれば今頃既に降伏しているかもしれない。

 中には宗麟に対して当分は南ではなく北に目を向けて欲しいといった内容の書状が書かれている筈だった。

 

「龍造寺のこともあります。万が一のことがあります故に今は北に・・・・・・」

「駄目よ」

「何故ですか?」

 

 宗麟は頑なに惟信の意見を遮る。すかさず惟信は宗麟に問う。しかし、宗麟はただ首を振り続けるばかり。

 ちらりと惟信が隣を見やると紹運が代わりに宗麟に対して口を開く。

 

「ならば、義姉上のことは如何するのです?」

「それは親度と鎮連がやっている」

 

 扇子を扇ぎながら素っ気なく宗麟は答えた。

 志賀親度と戸次鎮連は互いに惟信と同年代の有能な将だが、相手は毛利。分が悪い気がする。

 

「せめて角隈殿だけでも派遣するべきでは?」

「紹運、南蛮人からはもううるさく言われてるの。これ以上先延ばしにすれば貿易が縮小されて困るのはこっちよ」

 

 妥協案さえも却下するところを見ると宗麟はかなり南蛮人からの催促を受けているのだろう。彼女自身はあまり南蛮新教自体には興味を持ってはいないが、貿易が縮小されるのは確かに大友からすると痛手である。

 

「とにかく、私はもう決めたの。紹運は府内に残って」

「っ!? それでは宝満城の守りは如何するのです!? 私がいないと知られれば秋月は間違いなく攻め込んで来ます!」

「大丈夫、どうにかなるから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 空気が重い。外は綺麗な晴れ空だというのにどんよりとした紹運と惟信の雰囲気はそれだけで空を曇り空に変えてしまいそうな暗い。

 

「本当にどうしたんでしょうか・・・・・・」

 

 惟信は溜め息と共に滅多に言うことはない愚痴を零す。

 結局、宗麟は方針を変えることは無いと伝えると話はそこまでだと追い払うように二人を部屋から出してしまった。

 

「分からない。しかし、宗麟様が最近おかしいと父上からも聞いていたが、まさかこれほどとはな」

 

 紹運の父で吉岡長増・臼杵鑑速と共に三家老に列せられている吉弘鑑理も先日宗麟の下を訪れたらしいが、同じように送り返された。

 

「角隈様のこともお聞きにならないとなると何か日向か伊東に宗麟様は何か固執することがあるんですか?」

「いや、聞いたことが無いな」

 

 紹運も長く宗麟に仕えているが、因縁があるなどと聞いたことが無い。故に、どうして日向を攻めたがるのかが分からない。

 紹運も本当に宗麟がどうしたのか分からなかった。以前の龍造寺との一戦や肥後の相良や阿蘇との同盟のようにすぐに意見を取り入れるのではなく我を強く通すようになった。

 

「紹運殿は府内に残るようにと言われていますし、その間に宗麟様の真意を探ってみては如何でしょう?」

「うむ、私も考えていた。義姉上のこと、しかと頼むぞ」

「はい!」

「惟信、待って」

 

 気合いの籠もった声と共に惟信が立花山城へと戻る為に厩に行こうとするが、背後から掛けられた声に勢いを止められる。

 二人が同時に振り返るとそこには大きくも小さくもない背丈の青年が立っていた。

 戸次鎮連。石宗が拾ってきた孤児だそうで、彼が道雪に頭を下げて戸次家に入れて欲しいと頼んだ人物で、石宗が自ら軍略を一から学ばせている将来軍師となることを約束されている。

 一礼すると鎮連は惟信に顔を向けた。

 

「宗麟様から立花山城には戻らずに府内で待機するようにとの命令だ」

「えっ!?」

 

 表情を見ると鎮連の言うことは本当のことらしい。第一にこれほど大事なことに冗談を言う程、鎮連は道化ではないし、普段は軍師とは思えない程に真っ直ぐで馬鹿正直という言葉がよく似合うような性格である。

 それが大友の人達にはウケが良く色々と浮ついた話があるのはまた別の話だが、今は割愛する。

 

「とにかく、命令だ。詳しくは俺も分からない」

 

 前々から年が同じぐらいということで互いの口調に遠慮は無いが、紹運から見ると明らかに惟信の気が鎮連を押しているように見える。

 確かに紹運からしてもこの命令は納得いかない。

 道雪は立花山城で秋月と毛利の間に挟まれている。ここに龍造寺が加わると先ず標的になるのは筑後。

 鑑盛がいれば問題は無いだろうが、内側から崩れれば間違いなく彼でも対処の仕様がない。

 その時、宝満城に紹運がいれば鑑盛は龍造寺に対しても防戦に徹することが出来、筑紫もおいそれと紹運と矛を交えるような真似はしないだろう。

 しかし、紹運は府内に残らなければならない。万が一のことを考えて道雪は立花山城にいなければならない為に彼女の家臣である小野鎮幸と惟信が宝満城に向かうか豊前の戦線に向かわなければならない。

 府内に惟信が残るということは鎮幸が仮にどちらかに駆り出された場合は立花山城から他の将兵を派遣することは難しくなる。

 代わりの将はもちろんいるが、その前に立花山城の兵を三分するということは兵法では禁じ手を犯すことになる。

 それを乗り切るには道雪の片腕である惟信の存在は欠かせない。

 

「府内に私達を集めて、何か利益があるの!?」

「無い。悪いけど俺にも分からないんだ。どうして宗麟様が北を軽視するのか」

「鎮連・・・・・・惟信・・・・・・」

 

 紹運は悔しそうに唇を噛む鎮連の肩に手を置いた。そして、惟信の手を握り締めて顔を上げた二人にゆっくりと頷く。

 惟信は宗麟に気に入られ、鎮連は宗麟に煙たがれはしてきたが、互いに大友の為に役に立とうとしてきたことを紹運は知っている。

 紹運自身も宗麟の考えが分からないが、何か意味があるからこそ家臣達の反対を押し切っているのだろう。

 それが宗麟という人物だと彼女は二人よりも知っている。

 

「勝とう。勝って、宗麟様の真意を聞けば良い。今の私達に出来るのはそれだけだ」

 

 道雪のように何か上手く言えないが、言えることはある。どちらにしても今の大友はとにかく勝たなければならないのだ。負け続きの流れを変えるにはそれしかない。

 だが、強い口調で言ったのが幸いしたのか二人も下を向いていた顔を上げて強く頷いた。

 心の悩みは晴らせないが、晴らす為にはこれから段階を踏まなければならない。それに紹運自身は二人の心が自分の言葉で少しでも晴れたのを見て嬉しく思えた。

 たとえ厳しい道であろうと誰かに踊らされていようとも前を向いて行こうと紹運も決意した。




一回で終わりそうにないので次に回します。次回も九州です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間 九州乃風

 筑後には一国を統一する勢力は出現せず、筑後守護となっていた宗麟の幕下で各地域の国人衆が共存共栄的に存在していた。それらの中でも特に力を持っていた十五の家を筑後十五城と呼び、有事の際には大友軍として参加する。

 しかし、決して心から臣従している訳でもない。基本的に他の国人衆と同じように利益で動き、義理や人情など当たり前だがある筈もない。

 今回のように上妻郡の筑紫が怪しい動きを見せる時もある。 

 その中で最大勢力を誇る蒲池鑑盛は大友への忠誠を絶対に誓い、毛利からの寝返りの誘いも断っている。

 その影では九州でも有数の堅牢さを誇る柳川城と十二万石という大きな領地を納めているからだというように冷ややかなことを言われていることもあるが、鑑盛本人もそれには気付いており、全く気にしていない。

 彼からすればそれは認めなければならない事実でもある。しかし、石高の多さで事を決めるというのは違うと考えていた。

 たとえ鑑盛は生来の性格から如何なる領地を保有していたとしても決して大友から寝返るようなことはしない。第一に問註所などは一万石程度の領地しか持たないのに大友に忠誠を固く誓っている。

 要は心に決めたものさえあれば領地の大きさや石高の多さなど関係無いのだ。

 

「蒲池様、五条鎮定様が面会をと参っております」

「通せ」

 

 相手の名前を聞いても躊躇わず鑑盛は命じる。

 鑑盛は決して石高が周りよりも多いとはいえ相手を待たせるような真似はしない。すぐに資料を片付けて立ち上がると面会する為の部屋へと向かう。

 

「久しいですな。鎮定殿」

「ええ、互いに肥前の熊には冷や冷やさせられているからね」

 

 五条家の遠い祖先は天武天皇で、その孫が大原王、その孫が後に清原の姓を賜わり、後醍醐天皇の息子懐良親王の征西大将軍としての九州入りに補佐役として従軍し、そのまま九州に土着した由緒正しき家である。

 しかし、その煌びやかな家柄とは裏腹に鑑盛を待っていたのは動きやすそうで爽やかな淡い水色の服を身に纏った若い女性。

 五条鎮定は鑑盛同様、龍造寺と大友の間で風見鶏な態度を見せず一貫して大友派を貫いていて飄々とした見た目からは想像も付かない程に筋が通っている性格をしている。

 

「まったく、今回はあんたも恩を見事に仇で返されたね」

「うむ、やはり龍造寺隆信という人物は人の下に入ることを良しとしないらしい」

 

 かつて隆信が政争に巻き込まれて際に鑑盛は敵である隆信を手厚く保護し、後に佐賀城に彼女が帰還する際に兵を付けて護衛させたことがある。

 しかし、それはもう過去のこと。弱肉強食の乱世では隆信も弱者になることを好まず肥前の熊という渾名が出来る程の強者になった。

 そして、今は鑑盛や鎮定のような者達に立ちはだかる大きな脅威となっている。

 

「それで、何用でここまでわざわざ単身で参られた? この鑑盛に援軍を送れと?」

「馬鹿ね。私もそこまで阿呆じゃないよ。ま、こっちも自分のことで精一杯なのは変わんないだけどね」

 

 ひらひらと手を動かす鎮定だが、表情は少しだけ強張っているのが鑑盛には分かった。

 五条家の石高は一万石程度。龍造寺が攻めてきた際は一溜まりもないだろう。しかし、柳川城は筑後を取る上で必ず先ず龍造寺が目を向ける城。

 援軍を差し向ける余裕は自ずと無くなる。柳川城が落ちてしまえば筑後から大友に属する国人衆は五条と門註所を除いていなくなる。

 しかも、二つの家は合わせて二万石に行くか行かないか程度の兵力しか持っていない。つまり、柳川城は筑後における大友の最大にして最後の砦と言っても過言ではない。

 

「少しは宗麟様に敗れて大人しくなると思っていたのだが、やはり儚い願いでしかなかったか」

「龍造寺殿は平気で恩を徒で返すからね。かつてのように」

 

 鎮定はからからと笑うが、鑑盛の表情に少しだけ怒りが生まれたのを笑みによって細くなった目で確実に見た。

 別段、鎮定は鑑盛を咎めた訳ではないが、やはり義に篤い彼からすれば自身の行いは誤っていたというような解釈をされたと思われたのだろう。

 そんなつもりではなかったと鎮定は名家のお嬢様のような穏やかな笑みで鑑盛に再びひらひらと手を振る。 

 しかし、鎮定はただ龍造寺批判をする為にわざわざ自身の城である高屋城の守備の準備を投げ出して柳川城に来たのではない。

 

「龍造寺の情報はちゃーんとここに認めておいたよ」

 

 見せびらかすようにして束ねた書状を掲げるとぽいっと鎮定は鑑盛に投げ出す。

 ここまで適当にものを扱うのを見るともはや名家の出であることを疑ってしまうが、彼女本人の着飾らない清楚な雰囲気と共に逆に相手には清々しさを感じさせる。

 大友では格上の為、しっかり者の鑑盛からすれば最低限の所作ぐらいはして欲しい。

 しかし、鎮定が集めてくれた情報に鑑盛は思わず唸り声を上げた。

 

「成る程、筑後よりも肥前の統一を優先するということか」

 

 そこには龍造寺がどのように動くのかという情報が事細かに書かれていた。

 その中で大きなことは鑑盛が口から漏れた言葉だろう。

 鎮定という名家の出とは思えない程に諜報に長けた集団を抱える彼女達が血眼になって探った龍造寺の情報を疑うことはない。

 だが、相手は猜疑心では更に勝る隆信である。こちらも疑わずに越したことはない。

 

「まさかと思うが、突如として攻め込んで来るなどということはないだろうな?」

「まぁ、有り得ないことではないわね。でも、今回は可能性は皆無に等しいと見て良いよ」

「訳は?」

「有馬・大村に派遣する兵は一万二千。これは龍造寺が使える兵力の限度ぎりぎりさ。私達以外の国人衆を煽っているのは大友に付いている私達への牽制以外の何ものでも無いってことよ」

 

 要は筑後十五城の面々が後ろを付くことを恐れて行った根回しにしか過ぎないということだ。しかし、それを巧みにひた隠すことが出来る程の知略を持った者がいる。

 

「さすがに鍋島直茂か。主君の欠点をしかと埋めている」

 

 隆信の欠点は血気に逸りやすく、短気なところがある。それを埋めているのは異母妹の軍師の功績に他ならない。

 正に知略縦横の名を欲しいままに毛利と大友を潰そうとしている。

 そう鑑盛が頭の中で少々忌々しく思っているところにそんなの関係無いと鎮定がほれほれともう一通の書状を見せる。

 

「もっと美味しい情報も入っているよ。私もこれを見た時は驚いたけどね」

「・・・・・・早く見せろ。そして、先に言え」

 

 苛立ちを覚えながらも興味を持った鑑盛を鎮定は更に楽しいものを見つけたように笑みを深めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鑑盛から隆信の親書で静観を貫くという書状が送られてきたのはそれから三日後のことだった。

 

「来たましたね。高橋殿、立花宗茂殿と一緒に秋月の本拠、古処山城に向かって下さい。由布殿は臼杵鑑速殿と一緒に香春岳城に。鎮連は蒲池鑑盛殿と柳川城で合流。あの方は柳川城に残るでしょうが、他の国人衆とは協力し合い筑紫やそれに靡いた者達を倒した後に迂回して立花山城の道雪殿を救援して下さい。もし、筑紫に手を焼くようであれば問註所殿達に任せて結構です。道雪殿の救援を最優先にお願い致します。吉弘鎮信殿は佐伯殿と志賀殿と小倉城を奪取。更に・・・・・・」

 

 龍造寺からの書状でどよめきが走った中で石宗は鋭く普段よりも大きな声できびきびと指示を出す。

 普段から相手が民でも下級の兵でも丁寧かつ穏やかな口調で話す石宗から穏やかが無くなり、毅然とした口調は誰かが意見することさえ許さない。

 しかし、突然のことに家臣達は内心の動揺を抑えることは出来なかった。

 大きな声で宗麟に問い掛ける者はいなかったが、隣同士と話し合うなど落ち着きが無いのは目に見えている。

 

「私だって考えているんだよ。今、筑前や豊前を攻めるって言ったらどうなるか」

 

 その中で宗麟は悪戯が成功したような童のような笑みを浮かべつつ口元のみ扇子で隠す。

 毛利が豊前・筑前を虎視眈々と狙っているのは北九州で知らない者はいない。

 大友対毛利で鍵を握るのは筑後と筑前の国人衆と龍造寺。道雪が筑前を、鑑盛が筑後の国人衆を抑えるとして龍造寺を抑える者は誰か。

 家中に後藤という火種を抱える大村では役不足。有馬は西郷や深堀の侵攻で身動きが取れない。

 石宗はそこに目を付けた。先ず宗麟に許可を得て龍造寺がかれらの内乱に介入することを支援し、更に龍造寺に秘密の約束をすることで毛利に付くよりも敢えて大友を攻めないことによって得る利益があると誰かに吹き込めば良い。

 たとえそれで力が強くなったとしても有馬の背後にいる島津が龍造寺を阻んでくれるだろう。

 

「そういう訳だから。今、石宗が言った通りに動いてね。あ、石宗、相良と阿蘇にちゃんと島津と見張っておくようにっていう書状も出しておいた?」

「はい、既に我が配下が送っているかと」

 

 相良は島津と、阿蘇は龍造寺との対立関係で利害が一致している。

 石宗は僅かな希望に過ぎないが、阿蘇と鑑盛が連合を組み、龍造寺の背後を攻めるということも考えていた。しかし、あくまでも筑後の国人衆の全てが大友に付くという条件なのでほぼ無理だろう。

 

「じゃあ、よろしくね。私も後陣として小倉城に向かうから。惟信、頑張ってね」

「は、はい!」

 

 宗麟はいきなり言われて慌てる惟信を見てくすくす笑いながら散会を宣言した。

 

 

 

 

 

 

 

「少し驚いたよ。宗麟様があそこまで深く考えていたなんて」

 

 失礼千万な発言だが、鎮連からするといつも邪険に扱われ、最近になってやっとましになってきたのだ。その為、今一つ宗麟という当主がどのような人なのか分からなかった。

 

「まぁ、あまり鎮連とは関わりを持とうとしなかったからね。ここのところまでは」

 

 鎮連に宗麟が心を開いたのは最近のことである。

 どれだけ邪険な扱いをされようとも必死になって石宗の下で励む彼を見て宗麟が偏見を恥じた為だ。

 以降は徐々に宗麟も鎮連に意見を求めるようにもなり、鎮連もそれに応じて日に日に実力を伸ばしている。

 深慮が及ばずに石宗や宗麟に振り回されることもあるが、それは一種の親睦を深める表現だと道雪達も暖かい笑顔で眺めているのは別の話である。

 

「全て宗麟様と角隈殿の手の平だったのだな。まさか、毛利や秋月に不審がられないようにする策だったとは」

「日向に兵を出すと思わせることを俺達家臣達にも浸透させることで他家の者も騙すということだったんですね」

「敵を騙すには先ず味方、ということですか」

 

 紹運と鎮連はどこか得心行ったように、惟信は先程の突然の振りに少し衝撃を受けてちゃんと答えられなかったことへの恥ずかしさから言葉少なげに呟く。

 

「ですが、龍造寺も私達が大きくなることを防ぐ方が先決ではありませんか?」

「いや、客観的に考えてみるとこの戦は秋月や毛利に奪われた土地を奪い返す戦。しかも、完全に奪い返せる可能性は無いと思う・・・・・・まさか、石宗様は・・・・・・」

 

 鎮連は自身の推測を粒立てて行く内にはっと顔を上げた。目を見開いた彼はそれ以上は言わなかったが、代わりに惟信が気付き、声に出た。

 

「もしかしたら、鍋島も?」

「有り得ると思わないか?」

 

 惟信がはっと顔を上げ、鎮連は自身の推測が人に分かってもらえて安心する。

 直茂が石宗と連絡を密に行っていたことは鎮連も知るところ。利害を説いて石宗は隆信さえも納得する条件を出したのだろうと鎮連は考えていた。

 

「でも、どうやって宗麟様は鍋島直茂をこちらに手懐けたんだろう?」

「多分、有馬と大村じゃないか?」

「成る程、かの領地を龍造寺のものに・・・・・・随分と宗麟様も大きく出たものだ」

 

 紹運は鎮連の推測は何となく当たっていると思った。大友が毛利に目が行っている間に肥前を完全に平らげることが出来れば龍造寺は大友や島津と並び三大勢力となる。そして、隆信は大友に対して大き過ぎる恩を着せられたことになる為、しばらくは大友に刀を向けることは無いだろう。

 それでもまた寝返ることがあるかもしれないが、筑後の国人衆の統一を石宗が前からよく口にするようになったと鎮連は思い出した。

 龍造寺よりも未だに心からこちらに付こうとしない国内の国人衆を纏め上げることが大切だと言う石宗に鎮連は龍造寺の背後にいる大村と有馬のことが頭をよぎり、口を滑らせた。

 まさかそれが石宗の耳に入り、この策まで行ったとは本人は知らない。

 ちなみにそれを聞いた紹運は言うべきではないかと石宗に言ったが、教え子の教育に妥協が無い僧は発奮を促す為に黙っておくべきだと首を横に振った。

 

「かなり危険な策だと思うんですけど。今後島津と龍造寺が手を組めば俺達はどう動けば良いんでしょうか?」

 

 結果は石宗の思惑通り、上手く良い方向に鎮連は向かっているようで更に先のことを考えている。

 工作と言えば聞こえは良いが、龍造寺の力が更に増加するということは否めない。

 

「それを何とかするのが、お前の役目ではないか? このような時こそ自身の力を最大限に発揮するのだ」

「そう、ですけど・・・・・・」

 

 若い軍師には明確な目的があってもなかなか実力は石宗の域には達することが出来ないことで時折悩んでいることは紹運も知っている。

 百戦錬磨の軍師の域には一朝一夕でなれるものではない。焦ることはないと時折励ましているが、やはり差というものは人の心を惨めにしてしまうものらしく、鎮連は一人で悩んでいる時もある。

 

「とにかく、鎮連は今やれることをしっかりやればそれで良い。それに、角隈殿は此度は岡城に向かうそうだ」

「ええっ!?」

 

 石宗から評定の間を出る前に密かに頼まれた言伝だが、紹運は目を見開く鎮連を珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべて笑う。しかし、当の鎮連はそれどころではない。

 岡城は日向との戦線にある要所である。伊東が背後を突く恐れがある為に石宗が守備に残るというのは妥当だといえるが、いきなり言われても困るものである。

 もちろん鎮連もそこでおろおろしていても意味が無いということぐらい分かっている。

 石宗は孤立する危険性が高い戦を敢えて教え子に任せることで更なる成長を促そうとしているのだ。

 

「石宗様を頼りっきりだったけど、一人で頑張るしかないんですね。とにかく俺のやれる限りのことはやってみます」

「うむ。ただ、気負い過ぎないようにな」

 

 石宗からの指示は裏を返せばそこまで任せられる程に実力が付いたと認められたこと。しかし、慢心は命取りになる。

 鎮連の決意と熱意が籠もった目は紹運達にもしかと伝わった。後は門司城と小倉城を取り戻して結果を示すことで石宗に成果を見せる。

 一人意気上がる鎮連を見てほっとした紹運は今度は惟信に顔を向けた。

 力強い眼差しが紹運でさえ射抜かれるような気分になる。

 

「惟信。これよりは別行動になるが、しかと役目を果たすようにな」

「はい。私は宗麟様の為に刀を振るい、出来る限りの民を救うんです」

 

 武人としてどうあるべきか。道雪に指摘された課題を既に克服し、自身が信じた宗麟を最後まで守り、その上で民が大友家の下で皆平和を謳歌出来るようにするという目標を持てた。

 平等にということが不可能であると悟った以上、大友家で出来る限りの者を救い、己が武勇を以て人を救う。

 それは戦で兵を殺すという矛盾があるかもしれない。しかし、そこで立ち止まっていては何も起きないし、先述のように出来る限りの救いも出来なくなる。かつての惟信自身のように。

 無駄な慈悲は更なる悪を招き、争乱を呼ぶ。それを防ぐには武人として戦場で舞い、ある程度の力を以て敵を伏せなくてはならない。

 道雪に惟信が出した結論を言った時は良いと言われ、褒められた。ついでに早く恋も実らせろと言われた。無理がある。

 もう時は戻すことが出来ない。たとえ相対する時も惟信は容赦なく彼を殺すだろう。身も心も既に武人となったのだから。

 それが紹運にとっては嬉しいことだった。

 宗麟がいきなり拾って来た時には驚いて思わず身構えたが、惟信の人当たりが良く穏やかで朗らかな性格は紹運の心を瞬く間に許させた。

 以降、道雪と共に武においても人としても教えてきた愛弟子はもう一人の義妹と共に将来有望な大友の若手株に成長した。

 甘さがまだあるものの、段々と強かさも持ち合わせて独り立ちも出来そうな程になっている。

 しかし、まだ足りない。響くのは何かがぶつかった少し鈍い音。

 

「あたっ!?」

「まったく、そのドジはどうにかならないのか?」

 

 例えばこれである。

 紹運の呆れた視線の先には柱の角に足の小指をぶつけた惟信がのたうち回っている。

 相変わらずのことでもう見慣れたが、府内に来てからこの方、こればかりは全く変わる様子が見えない。

 逆にそれが普段の凛とした姿と中和されて紹運からすると悪くないと思える時もあるが、さすがに多過ぎると厄介なことだ。

 

「う~ひりひりする・・・・・・」

「擦りむいたのか? まったく、何時までも子供じゃないのだから」

「返す言葉もありません・・・・・・」

 

 紹運は溜め息が漏れた。いくら心掛けも心構えもしっかりしていたとしてもこれではまだ独り立ちは先のことだろう。

 

「まったく、誰に似たんだか・・・・・・」

「だ!? 誰・・・・・・ですかねぇ」

 

 惟信は敢えて言わずとも紹運にはお見通しだった。

 ぎくっと肩を震わせば尚更である。

 惟信の内情をよく知らない鎮連だけが首を傾げてくすくす笑う紹運と悟られたことに気付いて顔を赤らめて東に逸らす惟信の二人を見比べていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「痛っ!?」

「まったく、お前はどこに行っても・・・・・・」

 

 飯山城に入ったその日に兼続の隣では龍兵衛が大きな身体を縮こまらせて足の小指をさすっている。

 慣れていない建物に入ると始まる龍兵衛の通過儀礼だ。

 ちなみに入ったらすぐに起きるという訳ではなくいつ起こるか分からないので兵の間ではそれが賭けの対象となっているのは本人は知らない。

 

「今の今まで無かったからてっきりどうかしたのかと思ったぞ」

「俺は見世物じゃない!」

「その言葉、そっくりそのまま返させてもらうぞ! お前のその痛がる反応の方がよっぽど見世物だ」

「なんだとおぅ!?」

 

 兼続は二日前の恥ずかしい思いを忘れてはいない。

 丁度、武田も攻撃を止めている時である為にここぞとばかりに龍兵衛をからかう。しかし、龍兵衛もやられてばかりで黙っている訳がなく、いつものように言い争いが始まった。

 見かけた者はいても止めようとする者はいない。止めたところでぼろぼろになるまで説教されるのは分かりきっている。

 

「喧嘩しない」

「「っ!?」」

 

 背後から突如として景勝の声が聞こえた。

 謙信や二人の先達がいない以上、間に刺さるような言葉を入れて二人を止めることが出来るのは景勝しかいなかった。 

 

「今、戦。後でめってする」

「「すみませんでした・・・・・・」」 

 

 景勝に詫びを入れて互いに顔を見合わせるが、互いに「お前のせいだ!」という視線を浴びせ合う。

 

「・・・・・・」

 

 怒った景勝の視線が再び強く二人に刺さる。それに気付いた二人は尻込みをしてまた景勝に頭を下げる。やはり、二人は逆らえないのだ。

 大丈夫そうなのを確認して景勝は龍兵衛に歩み寄って唐突に問い掛けた。

 

「誰に似た?」

「誰でしょう?」

 

 惚けたところで景勝はお見通しだった。じーっと見る目がしばらく龍兵衛を突き刺し、彼は目を逸らし不意に西を彼は見ていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百二十一話 それは素晴らしい冬の終わり

かなり展開が早いです


「よう、繁長。お前さんも考えるようになったじゃないか。夜襲とは考えてもいなかったよ」

 

 それは夏の日のことだった。繁長は夜襲を掛け、成功した。繁長は兵を二分して北東と南東に攻め入った。

 繁長も上杉の武将として謙信の旗印ぐらいは見たことがある。しかし、繁長は配下に南東を任せて敢えて北東の色部と甘粕の陣に攻め込んだ。

 雪崩れ込み、立ち向かって来る上杉軍の兵を誰これ構わずに斬り捨てては駆ける。ただその繰り返し。その中で見つけたのはよく顔の知っている二人。

 甘粕長重と色部勝長。二人共上杉の重臣の中でも高い地位を占めている。

 それだけでなく二人共中立を保ち、謙信が行っている上杉への権力集中に協力していて、勝長は楊北衆の中で蔓延る対立から一歩引いている立場である。

 また、かつて本庄と鮎川の間にあった確執を収めようと奔走し、清長を討ち取ろうとした繁長を必死に自らの刀も引き抜いて止めにかかったこともある。

 

「繁長、お前は如何なる理由でこのような愚行を起こした?」

「勝長殿、悪いが貴方には分かりますまい」

 

 勝長とは何の縁かこうして親しくなり、互いに諱で呼ぶようになっている。

 しかし、それでも今は敵同士。倒すべき者であることに変わりない。

 

「憎い鮎川に何時までも格下に見られ、謙信様に欲したものさえも頂けず、我慢出来なくなり申した。いつか鮎川を超える。それが出来ぬと悟った時、私にはこれしか手段が無かったのです」

 

 冷徹な目を以て繁長は勝長を睨み返す。しかし、勝長は繁長の顔を見て笑った。そして、ゆっくりと彼に近付いて歩く。

 おそらくは自身との一騎打ちでも望んでいるのだろう。

 繁長は刀を抜き、惜別の念を込めて勝長に口を開く。

 

「勝長殿、貴殿には本当に感謝しています。かつて鮎川と叔父御が手を組んだ際に再び本庄の地を踏めることを可能にして頂き、真に感謝申し上げます。しかし、私は鮎川だけはどうしても許せないのです。そこをおどき下さい。さもなくば斬って捨てます」

 

 鼻で笑う声が聞こえる。言うまでもなく繁長の前に一番に立ちふさがった勝長だった。

 

「ふっ、まるで鮎川殿がここにいるような物言いだな」

「えっ・・・・・・まさか、鮎川は・・・・・・」

「ここにはおらんよ。今頃大葉沢でぶるぶる震えているのではないか? まぁ、お前の知ったことでは無かっただろうがな」

 

 奥歯が軋む音が聞こえた。 

 周りでは先程から戦場である為に上杉軍と本庄軍の兵が血を流して戦っている。その中でもはっきりと繁長は自分が怒りを現すことをしていると分かった。

 清長という馬鹿者は臆病者でもあり、繁長にたった一度だけやられたというのにそれで尻を引っ込めたのだ。

 そのことを知った繁長は今ここにいない宿敵に失望し、自身がどうしてそのような輩を宿敵と思い続けてきたのか自身で腹が立った。

 抑えきることが出来るのは目の前に勝長という恩人がいるからだろう。

 

「ただ鮎川殿を討ちたいという思いで謀反を起こしたとは思っていないが、少なくとも謙信様の下に大将が出向かないのは如何なことか。それ程までに鮎川殿が嫌いか?」

「父と私を策略によって貶めた者を好きになるような輩など、この世にいるとは思えませぬ」

「ならば、私のことも嫌いか?」

 

 最初は勝長が何を言っているのか分からなかった。

 繁長の中で勝長は恩人である。恩人を嫌いになる理由がどこにあろうか。むしろ好意的に接することが普通である。

 

「ふむ、言葉が足りなんだか。では、これでどうだ? 命がけでお前の父を追放した張本人は、私だ」

 

 繁長だけでなく勝長の後ろにいた長重も目を見開く。

 その中で勝長は構わず話を続ける。

 

「お前の父である房長を羽州に追放せし時、定実様。そして、宇佐美殿と共に私はあの二人をけしかけたのよ。結果はお前の知る通り、全て計画通りに行った。まさか、あれほど上手く行くとは思わなかったがな」

 

 繁長は耳を疑うような真実を聞かされて先程から呆然と刀を持って立ち尽くすしかなかった。

 その隙を見逃さずに勝長は前に出て一気に間合いを詰める。

 しかし、繁長も武勇を以て上杉を支えてきた者。素早く身体をのけぞり、勝長の攻撃をすんでのところでかわす。

 

「これが本当の私だ。どうだ、失望したか?」

 

 呆然としていたのを見逃さずに容赦なく隙を突いてえげつない勝ち方も辞さない。

 これが勝長という武人の本当の姿だった。

 それ故に謙信を真逆にいる方として敬愛していた。

 

「お前はただ私情で謀反を起こしたことに過ぎない。謙信様の掲げる正義は茨の道を歩む厳しいもの。それは私のような者ばかりの乱世で素晴らしいことだ。その謙信様の武勇を見てお前は憧れを持った。追い付こうとしていた・・・・・・」

 

 懐かしいものを遠くに見るように勝長は繁長から視線を外して夜空を見上げる。

 繁長は黙ってその話を聞いているが、目は油断せずに勝長の奇襲に備えている。

 勝長は目を瞑り、少し口元だけを笑わせたと思うとかっと老化故に皺の寄った目を見開いた。

 

「お前は今のようなところが駄目なんだ!」

 

 怒声を浴びた繁長は何故、自分が怒られているのか分からなかった。しかし、答えはすぐに勝長が出してくれた。

 

「主君を立てるのが家臣であるにもかかわらず、お前は隙を見せた私を殺せない。はっきり言おう。お前は謙信様を追い掛け、ただ青くなっただけだ」

 

 勝長の重く、真っ直ぐな声は繁長の心に突き刺さった。

 突き刺さったものを取るべく繁長は動いた。衝動的に動いた。

 

「あぁあぁあああ!!」

 

 自分でも断末魔のような雄叫びを上げていたことが分かる。そして、ぷっつりと何かが切れていたのだろう。

 自覚は無かった。気付いた時には周りに数十人の上杉軍の屍が転がっていた。その中には勝長の者と思われる屍があった。

 

「勝長殿!」

 

 思わずそれに名を呼びながら駆け寄る。屍の表情は笑っていた。

 夏のよるであるにもかかわらず、凍るような寒さが繁長を襲ってきた。

 

『精々、鮎川殿を討つまで励め』

 

 煽るような挑発的な勝長の声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 越後一帯が冬景色に変わり、辺り一面が雪に覆われる日々が続く。

 時折、行軍が降雪によって悩まされても上杉軍はそのようなことお構いなしに本庄城に進軍し、包囲を始めた。

 最上の援軍を含めて約一万の将兵が城攻めに備えて陣を構えている。

 先の本庄城の包囲戦の時の将と共に景勝と龍兵衛、親憲に鮎川盛長も加わっていた。

 

「繁長も強情だな。いくら籠城しても援軍はもう来ないというのに。早く降伏してくれれば私も部屋で温まることが出来るのだが・・・・・・」

 

 ぼやく謙信を少し困ったような顔で颯馬は笑った。

 謙信が春日山城に撤退すると共に信玄も甲斐に撤退した。

 敗れた筈の謙信を追撃せずに繁長は兵糧不足で本庄城に籠もったのが原因である。

 そもそも、武田は飯山城を取りに来た際に繁長の反乱も鎮めなくてはならない為、上杉は兵を大きく二分することになったにもかかわらず、繁長は早めの決着を望んで夜襲を掛けた。

 結果として上杉軍は敗れて被害が多く出た為に撤退した。そこで更に追撃をすれば上杉軍の被害は更に増しただろう。

 

「そもそも本庄殿は夜襲などする必要無かったんですよ。やはり、あの方はその辺りの駆け引きには疎いようですね」

 

 長期戦に持ち込めば上杉軍が不利になったことは兵を二分した時点で分かる。

 謙信が本庄城を諦め、繁長が追撃をしなかったことで信玄が上杉軍と一身で戦うことになってしまった。

 飯山城に坂戸からも援軍が近付いていることも考えると信玄が撤退したのは当然の判断といえる。

 

「功が逆に仇となったか。ならばこちらは仇を功にしなければな」

「既に龍兵衛を本庄城に向かわせたとか?」

「うむ、とっておきの策があると言っていたな」

「とっておき、ですか?」

「あいつのことだから碌なことではないと思うがな」

 

 それでも上杉の為になるのであれば謙信はそれを許す度量がある。

 分かっているからこそ颯馬も龍兵衛も行いたいことを行えるのだ。

 怒られること覚悟で臨むのだから龍兵衛も物好きなものだと颯馬はくすくすと一人で笑っていると謙信がこちらを向いていることに気付き、咳払いをして遅蒔きながら誤魔化す。

 

「そうだ、颯馬」

「何でしょう?」

 

 謙信は呆れたように溜め息混じりで周りに誰もいないことを確認するとそっと颯馬に近付いた。

 

 

 

 

 

 

 

「本庄殿、無駄な強がりは逆にただの悪足掻きにしか見えませんよ・・・・・・」

「何か仰いましたかな?」

「いえ、別に」

 

 本庄の家臣の一人が鋭い視線を龍兵衛に投げつける。

 降伏勧告をする為に赴いた龍兵衛だが、一刻(二時間)程待たされると繁長のいる評定の間に通された。

 しかし、肝心の繁長が一向に現れない。そのことに業を煮やした龍兵衛はとうとう言ってはならないことをぼそっと口にした。

 危うくばれそうになったことに内心の焦りを抑えつつ持ち前の無表情で誤魔化す。

 

「お待たせ致しました。本庄様のお見えです」

 

 小姓が扉を開けると繁長がようやく姿を表した。

 その姿を見て一瞬龍兵衛は目を見開いた。

 繁長の髪はいつも長く伸ばしてある筈なのに今日はその髪が一本も無い。剃髪されていて光っている。

 

「河田殿、お久しゅう御座います」

「こちらこそ、本庄殿。本日は降伏を勧めに参りました」

「ふっ、この頭を見れば分かるだろう。この繁長の命の代わりに我が兵達の命は助けて頂きたい」

「謙信様に同じことを申し上げればおそらく本庄殿以下、皆様もお許しになるでしょう」

 

 一部から安堵の声が聞こえてきた。

 やはり命に未練があった者が多数いたのだ。いつの時代も命あっての物種であると龍兵衛は思いつつ繁長を見る。

 彼もまた表情に強張ったものがなくなっていた。

 しかし、それが龍兵衛の黒い感情に火を点けて内心の笑みを更に深くさせた。

 

「それでは、自分と共にこちらへ」

 

 そう言って龍兵衛は繁長を外へと促すように手を襖へと出す。

 繁長は頷いて帯刀している刀を全て小姓に預けると立ち上がって堂々と歩き出した。

 

「(さすがだな・・・・・・)」

 

 武人の魂を他人に渡したというのに失われない武勇によってもたらされる威厳がありありと龍兵衛に伝わってくる。

 

「(だが、これも仕事だ。如何に謙信様がお怒りになろうとも俺にはこのやり方しかない)」

 

 廊下に出て誰もいなくなったことを確認すると龍兵衛は後ろを歩く繁長の隣に寄り添った。

 

「実は、謙信様も本庄殿には此度は鮎川殿とのこともありましたし、少しだけの謹慎でことを穏便に済ませようとしていたのです。されど、鮎川清長殿が・・・・・・」

「鮎川殿が、どうしたというのです?」

 

 鮎川の名前を出した途端に繁長はすぐ食らいついた。これこそ龍兵衛が望んでいた状況であり、越後に上杉の力を浸透させる為に行うべきことを行う為の布石だ。

 

「いえ、自分から言うのも憚られることですし・・・・・・」

「そうは仰らずに。お願い致します。この通り!」

 

 繁長は龍兵衛に手を着いて頭を下げる。

 宿敵が謙信に自分の処置のことで何かを吹き込んだのだ。気にするなという方が無理な話である。

 

「先程は家臣の方々がいた為に言えなかったのですが・・・・・・条件があります」

「な、何でしょう?」

 

 ぐっと互いに顔を近付けて声を小さく出そうと、小さい声を拾おうとする。

 

「下渡島城を没収します」

「っ!? そ、それだけは・・・・・・」

 

「勘弁して欲しい」その言葉が繁長の喉寸前まで出掛かったが、ぐっとここは堪える。

 繁長は謀反人であり、帰参を許されるのであれば出された条件を飲まなければならない。

 下渡島城は繁長の居城である本庄城の北側に位置し、鮎川との国境を示す重要な城でもある。そこから東には鮎川の本拠地である大葉沢城があり、下渡島城は先代の父が清長と所領を巡って争った城。

 手放せば、本庄の領地は大きく削られ、仮に鮎川が治めることになれば繁長は鮎川の傘下に入ったも同然である。

 鮎川以外の者が治めるのであればまだ我慢出来る。しかし、繁長の儚い希望はあっという間に握り潰された。

 

「おそらく、鮎川殿の領地になるでしょう。まだ正式な沙汰は後ですが」

 

 鮎川親子の下に置かれるなど思ってもみただけで生きている楽しみが塵の如く雲散していき、自害でもしなければ逃れられることはないだろう。

 

「本庄殿、貴方を謙信様は買っておられるのです。故に殺してしまうことは忍びない。その慈悲の心が分からない貴方ではありますまい」

 

 繁長の心を見透かしたように龍兵衛は比較的穏やかで優しい声を掛けてくる。

 謙信のことは間違いない。繁長も謙信の情け深い心は今まで見てきたし、今の自身にも浴びせられている。

 

「それでも駄目でしたら。自分も諦めるしかありませんなぁ・・・・・・」

「ま、待ってくれ、河田殿!!」

 

 立ち去ろうとする龍兵衛の背中を繁長は必死で止めた。

 湿原から抜け出せない足を救って欲しいというような声が聞こえ、龍兵衛の心には怪しき盗人の笑みが浮かんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 元々、謙信は自分を責めていた。天下を取ろうとする者がこうまで家臣や諸大名の離反などの鎮圧に奔走して、今回のように敗戦の後、更に年を跨いで半月以上も掛かり、色部勝長という今後に必要不可欠な重臣を失うという大失態も犯した。

 そもそも繁長という優秀な武将に謀反を起こさせるということ自体が失態なのだ。

 とはいえ、謙信は道を変えることはしない。正義の世を創る為にはたとえ誰にも理解されなくても自身が信じる道を進み行くのみ。

 現に多くの者が謙信を信じて内乱が起きようと謙信に付いて来ている。

 

「(大丈夫だ。それに・・・・・・)」

 

 ふと周りがざわめいている。それによって謙信も意識が現実へと引き戻され、はっと顔を上げる。

 龍兵衛が隣に剃髪をした者を連れて城から出て来た。そのまま龍兵衛は本陣へと戻って来ると謙信の前に跪き、隣の繁長をちらりと見ながら報告した。

 

「謙信様。本庄繁長、こちらに降伏する由にございます!」

「良くやった。皆、戦が終わる! 我らの勝利だ!!」

 

 空に響く将兵達の勝ち鬨が謙信の心を癒やしてくれた。

 一方、その明るい雰囲気を掻き消すかのような暗い雰囲気が一角に立ち込める。

 

「・・・・・・」

「本庄殿、そう暗い顔をすることないって! また、これから名誉挽回すれば良いんだから!」

 

 軍師のものとは思えない程に明るい声が繁長の暗い感情に光を多少なりとも灯してくれた。

 

「黒田殿・・・・・・」

「でも、鮎川殿が力を付けることはあたしもあまり感心しないんだよね~今なら大葉沢城も戦勝の報告で湧き上がっているだろうし。あいつら何もしてないくせにさ」 

「・・・・・・」

 

 やはり軍師達でさえも快く思っていないのだと分かると少しだけ繁長も気が晴れたが、それは一瞬のこと。

 結局、鮎川は何もせずにしていただけで正に漁夫の利を得たのだ。

 実に腹立たしく憎しみが更に増長することだった。

 

「今夜ならこっちも宴会だし、色々と大葉沢城にも伝えないといけないから。どう、行ってみない?」

 

 繁長は一瞬だけ官兵衛の目が光った気がした。

 

 

 

 

 

 その日の夜。いくら勝ったとはいえ油断は出来ないと水による宴が催された。

 

「それにしても、中条殿には悪いことをしたな・・・・・・」

 

 夜襲を受けた日の前日に景資に言っていた謙信の立てた策は知らないというのは嘘であった。

 知っていたのだが、敢えて言わなかった。景資はあまり人に何かを言い触らすような人ではないが、あまり人に言えたものではなく、言ったところでどこから漏れるか分からない。

 秘匿すべきことは最小限の人のみが知っていることで成功率が高まるものだ。

 

「良いんだよ。それでこそ上杉の結束は高まる」

 

 官兵衛が申し訳なさそうにしている颯馬の隣で小さな声で励ます。

 彼女はこれで良いと思っていた。もちろん颯馬も同じである。 

 越後の将兵と民が慕っているのは真っ直ぐな謙信である。強かな謙信など望んではいない。強かな謙信を知るのは限られた人のみで良い。

 

「まぁ、互いに策が上手く行ったとは言えないけど、戦勝を祝って・・・・・・」

「「乾杯」」

 

 そう言うと互いに杯を呷り、息を吐く。

 冬の夜というのは寒い。ましてや雪国である越後は尚他国に比べて極寒ともいえる寒さを誇る。

 

「そういえば、龍兵衛の姿が見えないな」

「あの人と一緒に大葉沢に向かったよ」

「・・・・・・そうか」

 

 再び二人は杯を呷った。

 それ以降、二人は誰かに話し掛けられる間まで誰とも自ら話そうとはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鮎川清長が繁長によって殺害され、息子の盛長も以前の戦で謙信の命令に背いたという理由で蟄居が決まったという知らせはすぐに春日山城にも伝わった。

 繁長は猿沢城に蟄居となり

 また、黒川清実は今回の戦で病の為に不参加だったが、それが仮病であることが判明した。

 普通であれば改易か減封が妥当だが、謙信は土地の不入権を剥奪し、当分の謹慎という非常に軽い処分で済ませた。

 これにはさすがの清実も目を見開いて驚いた。今まで楊北衆には断固たる姿勢で望んできたのにここに来ての甘過ぎる処分。

 思わず清実はどうしてこの程度で終わらせるのかと聞き返した。

 

『私はお前を武将として高く評価している。ここでお前を出奔させるようなことはしたくない』

 

 真剣な目で語られた。本当に目の前の方は自分を買ってくれているのだ。

 そう思った清実は心から頭を下げた。そして、二度と疚しいことはしないと誓った。

 

「これで黒川殿に付いていた楊北衆や大熊殿も謙信様に頭を下げるしかありませんね」

「ああ、さすが謙信様だ。私達は黒川殿を何かに付けて失脚させることしか案がなかったのに、今の席を維持させたままとはな・・・・・・」

 

 酒を飲む弥太郎の隣では珍しく兼続が座っている。時々弥太郎に飲めと煽られるが、舐めるだけで決して深酒はせずに茶を飲んでいる。

 敢えて一番上の清実に甘い処分を下して心からの忠誠を誓わせることで他の楊北衆を完全に手懐ける。

 徹底した力の削減しか考えが無かった兼続達にとって正に目から鱗の考えだった。

 力を残す形になるが、あまり楊北衆からの不満も抱かれることも無く、事を穏便に済ませることも多くなるかもしれない。

 

「穏便に済ませる考えもありましたが・・・・・・」

「厳しかったか。まぁ、私達だけではな・・・・・・」

 

 上に立つ者がしかりしていて尚且つ慈悲深い謙信だからこそ行えることである。

 今まで楊北衆のことは軍師達に一任させていたが、さすがにと思った謙信が自ら腰を上げた結果だった。

 

「これで楊北衆も完全に謙信様の手中に入った。陸奥の南部の内輪揉めを解決した後は軍備を整え、関東・信州へと進出か」

「佐竹・北条・武田。強者揃いですが、それでも勝たなければなりません。謙信様の御力と正義こそが全てよりも上回ることを」

 

 弥太郎は力強く頷く。それだけ兼続は頼もしく思えた。

 兼続の最初の頃を一番近くで見てきただけにこれほどまでになってくれて嬉しいと思う心は他者よりも強い。

 

「織田も浅井・朝倉との戦に決着を付け、一向一揆との戦にも区切りが付きそうだと聞いている。我らにも休む暇はないな」

「ですが、民のことを思えば当分は戦を控えるべきです。将軍家も長島の一向一揆が敗れれば更なる大きな仲間を加えようとするでしょう」

「それは?」

「織田と国境を挟むことになった加賀一向一揆勢」

 

 兼続の答えに弥太郎の目が若干細くなった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百二十二話 東北は終わったけれど

 繁長の反乱が鎮まってから早二ヶ月が過ぎようとしている。

 風が暖かくなり、何をするにも気分が上向きになるのを身体で覚えながら兼続は謙信の下へと向かっていた。

 これまでの間にとうとう加地春綱を総大将とした最上・安東などの連合軍が南部と協力して九戸と津軽を滅ぼし、南部信直が家臣の北信愛を伴って春日山城にて謙信に服従すると誓った。 

 これで上杉は完全に東北地方一帯を支配下に置き、背後の憂いを絶ったのである。

 これを期に謙信は内政の状況を整理させて逼迫し始めた財政の回復に努めることにした。

 今まで疎かにしていたことは無いが、戦に目が行っていた以上、政策に使用しようと考えていた金が少々戦費に流れていたのは致し方ないこと。

 これから関東や信州に目を向ける以上、更なる激戦となるのは必至。その前にきちんと整えるべきものは整えておかなければならない。

 謙信の部屋には彼女一人しかいなかった。

 別段珍しいことではないが、兼続は少し意外だと思ってきょろきょろと思わず周りを見てしまう。

 気配が無い為に誰もいないようだが、気になって更に念を入れようとしたが、謙信の前で無礼であると思いすぐに止めて本題に入った。

 

「南部信直には九戸と津軽地方の一部を与えて残るは安東と戸沢に任せようと思うのだが、どうか?」

「それでよろしいかと。ところで、本庄と鮎川の領地は直轄地にするのですか?」

「うむ、親憲と協力し、楊北衆の監視に努めなければな」

 

 それに関しては、兼続を含める軍師達はずっと気になっていることがあった。正しくこれから言おうとしていたことだ。

 確かに楊北衆の歴史は長く、土着した者達は住み慣れた先祖代々の土地を離れたくないと思う者もいるだろう。

 だが、楊北衆の引き締めや東北の安寧を保つ為に更に上杉の者を派遣することは急務である。

 ここで難題が浮上した。

 如何せん上杉には武芸に長けた者は多くいても政治的な駆け引きをあまり得手とする者がいない。

 誰を東北の上杉の領地にした所を治めさせるか、なかなかに難しいことである。

 現在、東北に派遣しているのは北羽州に長重。南陸奥岩城など旧領に新津勝資。北陸奥稗貫の旧領には加地晴綱が入っている。

 他にも葛西地方に平賀重資や桃井義孝が入り、謙信が直轄地と指定した大崎や高水寺地方などを除いて着々と家臣への領地配布も進んでいる。

 だが、多くの者がどちらかというと武人の血が強く、民を思う心はあってもきちんとその思いを実行に移せる者がいるかと聞くと難しい。

 

「故に、今少し政治に長けた者を派遣すべきという訳か」

「はい、悪政を敷くような方々ではないことは承知しておりますが、やはり必要かと」

 

 すると謙信はすっと真剣な表情の眉を釣り上げ、更に厳しい表情になった。

 

「東北という越後よりも寒く、辺境の地に行きたいと思う者がいると思うか?」

「しかし、十三湊までを甘粕殿や安東殿に任せるのは如何なものかと」

 

 長重が東北に持つのは今まで東北の北羽州の安東や戸沢が持つ領地以外の土地。

 兼続はそれと並行して新たに十三湊という堺や蝦夷地からの商いを行うことが可能な港を安東と共に任せるのはどうかと思っている。

 一人でやる量が多過ぎる。このままでは回るものも回らなくなる可能性もある。

 

「今少し人を派遣すべき。私だけでなく、本庄殿や我々軍師達の総意です」

「ふむ・・・・・・では、誰が適任だと思う?」

「安田能元殿が適任かと思われます」

 

 兼続は謙信の表情に少し拍子抜けというものを見た。

 能元は以前の新発田や本庄の反乱という厳しい戦を経験したは足に生涯治らない負傷を抱えてしまい、今は文官寄りの仕事が多くなっている。

 相変わらず扱いずらい性格で融通が利かないところがあるが、政務に関しては政務を取り仕切る実及も目を見張るばかりの上達ぶりを見せている。

 兼続は最初は難色を示したが、龍兵衛も実及と同じ意見だということで結局政治に長けている二人の判断を信用することになった。

 

「長秀は駄目なのか?」

 

 安田長秀は斎藤朝信には及ばないとはいえ文武両道の武将で普段の凛とした雰囲気と冷静さから同僚や配下から慕われている。

 もちろん兼続もそのことは知っているが、それは違うと首を横に振った。

 

「今後、謙信様が関東や信州に向かう際に長秀殿は留守居役となるであろう本庄殿の補佐役として必要になる方です。斎藤殿が魚津城に釘付けの中では長秀殿を東北に向かわせるのは妥当ではありません」

 

 そもそも長秀程の人物を外に出すというのは明らかな下策であり、長秀が納得しようと他の者が疑念を抱きかねない。

 その点でいうと性格的に人付き合いがあまり得手ではない能元の方が内部分裂を恐れて遠くに放ったという見方も取れて国内は納得するだろう。

 

「織田の一向一揆の警備を緩める訳にはいきません。それに織田も今は長島のことで一杯のようですから一向一揆からすれば魚津城を攻めるのには好機です」

「人材が足りないか・・・・・・」

 

 上杉の直臣にしろ楊北衆にしろ武人が多く、政治を得手とする者が少ない。

 民を思う心は皆持っているとはいえ、実行に移せなければ民には伝わらない。

 どこかに転がっているものでもない為、やはり今後は近い家臣も越後の外へと出していかなければならない。

 

「いざとなれば代官を派遣させて春日山城に残すことも考える。それなら構わないだろう?」

「まぁ、そうですが・・・・・・」

 

 指示を出す際に数字と現状では異なることが多々あるというのに大丈夫だろうか。

 兼続の不安をよそに謙信は当然ながら定期的に視察する時を設けさせると言って少しだけ兼続を安心させた。

 しかし、逆に言えば謙信の下に徐々に直臣が減り、なるべく謙信も信頼出来る者を留めておきたいという意思の現れが見え隠れしている。

 兼続は徐々に楊北衆も辺境とはいえ領地を与え始めている謙信に恭順するようになっていると思っている。

 一気に行えば無理が生じることは明白な以上、一つ一つ潰して行くように工作を行わなければならない。

 上杉の表面は当面の目標だった東北の統一を終えて一時的な平和を見た。しかし、内情はこれからも火種を抱えていかなければならないということが兼続には快く思えなかった。

 謙信の前でなければ不機嫌な感情を愚痴によって誰かに零していただろう。

 兼続は謙信の前でそのようなことをしない為にさっさと部屋を辞そうとする。

 

「では、私はこれにて・・・・・・」

「そうだ。一つ忘れていたことがある」

 

 立ち上がりかけた兼続の足は謙信の真剣な声にぴたっと止まり、再びその場に兼続を止まらせる。

 

「近々重要なことを我が上杉の皆には伝え渡す。完全な正式発表はまだだが、発狂させない為に前もってお前には伝えておこう」

「私が、発狂・・・・・・?」

 

 兼続は謙信の突然の意味不明な言葉に首を捻るしかない。

 一方の謙信は呆然とする兼続を構うことなく真顔のままである。

 それが兼続の嫌な予感を更に助長させ、思わずぐっと拳を握り締めた。

 

「私と颯馬は婚姻関係となる」

 

 不気味な沈黙が謙信の部屋中に満遍なく流れた。

 

 

 

 

 翌日。

 春というにはまだまだ草木の寂しい光景が広がっているが、雪が降ることも少なくなり、龍兵衛の猫も冬眠開けの鼠を狩り始めている為、春はもうじきなのだろう。

 

「(嫌な季節の風物詩だなぁ・・・・・・)」

 

 ぶつぶつこぼしながら龍兵衛は鼠の墓を作って形ばかりの合掌をする。

 ちなみにその墓の上には桜の木が立っていてそこに龍兵衛は鼠の墓を作っていることから最近では『龍兵衛の猫の甲斐性桜』という意味の分からない名称まで付いている。

 

「(もういいや、忘れよ)」

 

 萎える気持ちを胸にしまい込んで、立ち上がりながら尻をはたくと龍兵衛はそのまま定満亡き後上杉の筆頭家老になった本庄実及の下に向かい、昨日の兼続が謙信と話し合ったことを直江津の視察に行った彼女の代わりに報告した。

 

「そ・・・・・・やっと謙信様も折れてくれたのね」

 

 報告を聞きつつ粗茶の準備をしながら実及は安堵したような声で龍兵衛を労う。

 既に三十路どころか四十路も超えている筈の実及だが、定満に負けず劣らずの老いを感じさせない皺一本も無い容貌と腰近くまで伸ばした整えられた艶のある白い髪が一層彼女の外見を実年齢よりも若くさせている。

 

「はい、後は能元が頷いてくれるかどうかですが」

 

 能元は気難しい性格が災いするかもしれない。

 説得は必ず必要になる。また、その労力は他の人への説得よりも遥かに使うだろう。

 謙信の命令だと言えばそれまでだが、きちんとした理由を道理を以て彼を説得すればどうにか頷いてくれるだろう。

 

「先の大熊殿の出奔といい、貴方には色々と迷惑を掛けるわね」

 

 茶を啜りながら実及は申し訳なさそうに言う。

 大熊朝秀が先の本庄繁長の謀反を裏で操り、密かに謙信も景勝もいない春日山城を乗っ取ろうとしていたことは既に謙信以下、重臣の中でも上層部や軍師達には伝わっている。

 本庄繁長が許されたとはいえ、朝秀は自身にも繁長の口から累が及び、これ以上の出世が出来ないと悟るとさっさと越後から信州に出て行った。

 朝秀の情報が入って来た時、すぐに飯山方面を封鎖すべきだという中条や色部の対して龍兵衛はそのような単純な経路を取る筈が無い。おそらくは越中方面を経由して妙高山西沿いに道を取るだろうと主張した。

 しかし、中条達の意見が通り、飯山城はすぐに村上や高梨によって封鎖されたが、朝秀らしい人物は一向に表れずに気付いた時には武田の重臣である山県昌景の下に大熊という名前があった。

 

「いえ、謙信様や重臣の方々からするとやはり自身は何ら肩書きを持たないのですから仕方ありません」

 

 龍兵衛からすると歴史を考えたまでだったのでそれを盾に主張する訳にもいかずにすぐに意見を引っ込めてしまった。

 だが、さほど重臣ではないとはいえ勘定奉行という立場から上杉の台所事情を良く知る朝秀の出奔はかなり痛い。

 実際、かなり上杉の財政は東北の征伐とその直後に起きた繁長の謀反によって大分逼迫している状況である。

 すぐに新たな財政を司る奉行が必要になったが、抜擢されたのは山崎秀仙だった。

 彼は儒学者で謙信の教師的役割として謙信が子供であった頃は四書五経を講じ、老荘諸子等の思想家や賢人についても教授していた。

 確かに政治手腕には優れている為に妥当な判断だと言える。しかし、上杉の内情を良く知る実及はてっきり今まで裏で政治を操っていた龍兵衛が表に出て奉行職に就くものだと思っていた。

 

「自分には相応の格がありませんし、領地も持っていないんですから仕方ありませんよ」

「うーん、確かにそうだけどねぇ・・・・・・」

 

 実及はつまらなそうに頬杖を付く。それと同時に大きな胸が形を崩して潰れる為に必死に龍兵衛が目を下に向けないようにしようとしているのを彼女は知らない。

 実及からすると山本寺景長か長秀を置くべきではないかと思っていたし、今もそれが妥当だと思っている。

 以前、秀仙に関連した騒動が起きていた。

 先の高水寺討伐や繁長の反乱において安田長秀が謙信公認の下で恩賞と引き換えに黒川や大熊の派閥に属していた諸将を謙信側に引き入れようとしたが、論功行賞で秀仙は黒川・大熊側への恩賞授与を反対し、謙信を押し切った形となった。

 これに激怒したのが毛利秀広という家臣だった。

 元々、彼は短気なところがあったとはいえ、兼続と秀仙が対談中に突然斬り込んで来ると誰が予想しただろう。

 偶然居合わせた慶次と岩井信能が慌てて秀広を斬り捨てた為に秀仙は軽い怪我を負っただけで済んだ。

 

「先程の『色々』とはそのことですか」

「そ。まぁ、お前にはお咎め無しになったのは山崎殿のおかげだから」

「分かっています。昨日、ちゃんと会って話をしてきました」

 

 秀広は元々北条高広の家臣だったが、最近になって頭角を表し、越中方面に龍兵衛の名代として向かう予定だった。

 それを期に龍兵衛の配下になる予定だったが、今回のことで全てが流れた。 

 本来なら龍兵衛も仮初めでも主として何か罰が下される筈なのだが、秀仙が謙信を説得して龍兵衛は事なきを得た。

 龍兵衛からすれば秀広の襲撃事件は予想済みであった為に敢えて襲わせるという選択を取っただけである。

 慶次を使ってそれとなく秀仙の警護を強めていたことが功を奏した。ただそれだけであった。

 龍兵衛は慶次にこのことは誰にも言うなと厳しく言っておいたが、後で知ったらしい秀仙が龍兵衛に恩義を感じてお咎め無しにさせたことを龍兵衛は昨日知った。

 取り敢えず良い結果に行って良かったと慶次は笑って逃げ出したのも昨日のことである。

 

「山崎殿は貴方のことも信用しているのよ。ちゃんと期待に応えなさいよ」

「分かっています。精々励みます」

 

 年の割にははつらつとしていて声も若々しいが、世話焼きなところがある実及は龍兵衛達若い軍師達のことを信用しているからこそついつい年長者として気にかけてしまう。

 龍兵衛も分かっているが、話が長くなると面倒だと思いさっさと退散することにした。

 

「あ、そうだ。龍兵衛、一つ忘れてたけど、神保殿と寺島殿のこと知ってるかしら?」

「ああ、確か義父子となったとか」

 

 立ち上がりかけた龍兵衛を上から抑えるように実及の声が少し強く耳に入る。

 神保長職は自身の病が治ったのは良いものの、娘の長住を富樫晴貞に奪われ、寺島盛徳は父と兄の心を彼によって奪われ、利用されて殺されたも同然だった。

 故に、互いに欠けたものがある。家族という他人からは決して理解されないであろう絆。

 しかし、上杉の家風は絆を重んじることにも繋がっている。

 二人が足りていないものは何か謙信達も知っていることだし、そのことで反対するような者などいる筈が無かった。

 唐突にその話が出されたが、龍兵衛も賛成していたのであまり関係の無さそうだなと気長に聞こうと思っているといつの間にか実及の手に書状が握られていた。

 

「何ですか、これ?」

「良いから読んでみなさい」

 

 渡された書状を受け取るままに開いて中を改める。

 宛先は龍兵衛になっていて送って来たのは神保長職。

 実及は龍兵衛が不在の間に書状を受け取り、渡しておくように頼んだと言っているが、わざわざその程度のことで実及を使うというのは首を捻らざるを得ない。

 そんな疑問が最初は頭の中で湧いていたが、次第にそれは薄れて行った。

 そして、読み終えた時、龍兵衛の頭の中は手紙の内容で他のことはすっからかんになってしまった。

 

「えーと、これは・・・・・・」

「あら、もしかして分からないの?」

 

 龍兵衛は実及の若手を弄び、からかっているような声にも反応出来ずにただ書状を何度も読み返す。

 内容を簡単に言えば空いた時で良いのでこの度義理の娘となった職定もそろそろ身を固めた方が良いので是非お願いしたいということである。

 直接的な言い方はされてないが、敏い龍兵衛はすぐに気付いて押し黙ることしか出来ない。

 

「要はお前と盛徳殿を見合わせようということね」

「・・・・・・・・・・・・げ」

 

 呻き声と共に龍兵衛は身体の力が抜けた。




色々と史実と異なるところがあります。
オリジナルということで目を瞑っておいて下さい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間 火の長島

一話だけの織田です


 美濃国岐阜城。

 かつては斎藤道三の居城として稲葉山城として名の通った城は信長の手によって商業が盛んになり、賑やかな城下町が形成されている。

 関所の撤廃や座の廃止という稀に見る斬新かつ合理的な政策が功を奏した結果だろうと織田家臣、丹羽長秀は思っていた。

 この内政の良さがついでに外交や戦にも行ってくれればとついつい思ってしまう。

 朝廷や堺の会合衆の一部を味方に付けたのは良いが、未だに朝廷には将軍家を推す派閥が存在し、堺のある摂津も三好の領地である。

 更に長島一向一揆の進退が付かない為、主君である信長は長島に着陣したままである。

 昨年にようやく浅井・朝倉を滅ぼした為に後はこの一向一揆と畿内の将軍家と三好や丹波の波多野のみ。

 だが、さすがに追い詰められた鼠が猫を噛むと言い、一向一揆は糧道を断っても決して降伏せずに粘り続け、将軍家は上杉や武田、毛利とも繋がりを更に深めようとしていると聞いている。

 短気なところがある主君の信長はさぞかし苛々しているだろうと思うと長秀は頭を抱えたくなる。

 これまでの圧倒的物量で押し切る一揆とは違い、撤退路での伏兵といった作戦行動を取るなど、防衛能力の高さを以て長島一向一揆は抵抗を見せている為、信長は更なる物量を以て攻めるという方針を転換せざるを得なくなった。

 一ヶ月前に長島攻めを再開した信長は妹の信行に伊賀と近江からの陸路の補給路を、九鬼嘉隆は水軍を任せて紀伊からの海の補給路を遮断させ、容赦ない兵糧攻めを敢行した。

 それでも、念仏を唱えれば極楽浄土に向かえるという意思と仏敵と見なした信長に対しての抵抗を止める気配は無い。

 業を煮やした信長はとうとう美濃で織田軍に物資兵糧を送る役を任されていた長秀を後は前田玄以と村井貞勝に任せるようにと出陣命令を出した。

 戦況は長島から送られる書状で大体のことは把握している長秀だが、今までの中でも危険な戦線であると心に言い聞かせていた。

 何せ美濃三人衆の一人である氏家直元や長らく織田の譜代家臣であった林通政も一向一揆の手によって殺害されている。 

 上杉や毛利という強者が徐々に近付いている中で早めに一向一揆を鎮めなければ朝廷内でも気が変わる者も表れる可能性がある。

 早急に対処すべきだということは無論、長秀も知っている。しかし、思い通りに行かないことの方が多いことも同時に知っている彼は今日何度目か分からない溜め息を吐いた。

 信長の気性の激しさも譜代としてよく知っている。

 故に今回の戦で先に信長自ら先陣を務め、五万以上の大軍勢を派遣した。

 それでも一向一揆は全く降る気配を見せずに抵抗するのを信長は我慢出来なくなったのだろう。

 ここは海路を絶っている現状を利用して長く包囲を固めて徐々に一向一揆が兵糧不足で弱まって行くことを待つのが妥当であるというのに短気な信長は長秀に一万以上の兵を率いて長島に来いと言っている。

 信長らしいと言えば信長らしいが、七万とは織田の率いることが出来るほぼ最大の兵力である。

 もし将軍家や三好が動いたりしたら近江に援軍を派遣することは不可能。

 信長も知っている筈だが、敢えてそうしているところを見ると余程一向一揆を目の上のたんこぶにしている。

 だが、それを止める術を長秀にしろ筆頭家老の柴田勝家にしろお気に入りの秀吉にしろ持っていない。

 憂鬱な気持ちを持ったまま長秀はせかせかと城下町での買い物を早めに済ませようと歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 一向一揆の鎮圧に時間が掛かっているのは兵糧攻めに際して前回は伊勢大湊での船の調達も事前に命じていたが、大湊の会合衆が要求を渋っていた為、難航していた。

 信長からも北畠具教・具房父子を通じて会合衆に働きかけたがこれも不調に終わり、直接長島を攻めることが出来なかったというところがある。

 前回の反省を活かして信長は予め大量の金を商人に渡し、応じない場合は伊勢の各湊に兵を派遣して半ば強制的な手段も辞さないという態度を示してほとんどの船を織田に付かせることに成功した。

 にもかかわらず、信長の表情は長秀の援軍が来たにもかかわらず、不機嫌さを隠せない。

 いくら攻めても降伏せずに力の差を分からせても攻めて来ようとする気概は認める。

 相手が武人であれば短気な信長も意地と誇りがあると許すだろう。

 しかし、今回は相手が違う。武人はいてもほとんどが浄土真宗の信者で民。

 本来は戦を欲するべき存在では無い筈なのに自ら争乱を巻き起こすとは許し難い行為である。

 守るべき民を殺めるということも信長が進まない戦況と共に苛々する原因でもあった。 

 

「信長様、私の下に先の戦での兵糧攻めの不調について情報が入って参りました」

「秀長、何かあるのか?」

 

 信長は苛々するとどこで噴火するか分からない。それを承知で近寄り難い雰囲気の壁を突き破ったのは羽柴秀長である。

 秀長は姉の秀吉とは異父弟で、姉同様に切れ者ではあるが、自身の父譲りのせいか背が高く、切れ目なのが特徴である。

 とはいえ秀吉との信頼関係は深く、浅井・朝倉を滅ぼして間もない近江・越前方面を任された秀吉の名代として羽柴軍を統括している。

 

「はっ、どうやら会合衆の一部が紀伊の雑賀・根来と繋がっていた為に長島に物資が届いている模様」

 

 間髪入れずに信長の舌打ちが秀長の耳に入る。

 物資搬入を防ぐ為に行っている航路妨害なのに肝心の会合衆がそれでは意味がない。

 しかし、商人を保護する者もいなければ妨害など出来る筈がない。

 

「時に、信長様は日根野弘就という者をご存知でしょうか?」

 

 当然のように信長は頷いて秀長に先を促す。

 日根野は元は斎藤家の良い方の家臣だったが、織田に降ることを良しとせず、信長に対抗する勢力の家を転々としていて今は長島城に一向一揆勢と共に籠もっている。

 

「日根野と山田三方の福島親子が誼を通じております。それが根本的な原因かと」

「で、あるか・・・・・・」

 

 信長の顔に慣れていない者が見れば固まってしまうような冷笑が浮かぶ、怒りが頂点に達した時に浮かべる表情。

 これが出た時、家臣の分際で信長を止める術など無くなる。

 

「秀長、直ちに福島の下に向かえ」

「捕らえるのですね?」

「いや、その場で斬り捨てろ。首を山田三方の連中に見せ付けてやるのだ」

 

 秀長は姉の秀吉と違い、冷静さといざという時の非情さが取り柄の秀長だが、この時ばかりは一瞬目を見開いた。

 山田三方はさほど歴史が深いという訳ではない。伊勢神宮の勢力を排して独立したのは室町中期のことである。

 だが、信長も商人が日和見であることは重々承知の筈。

 分かっている上で斬首を命じるということは余程一向一揆を嫌い、かれらに組すること自体が重罪に値すると思っているからだ。

 そして、そこに武人も商人も関係ない。何故なら一向一揆を率いる浄土真宗の信者達に武人と商人の壁は無いのだから。

 

「直ちに向かえ。終わり次第、軍議を開く」

「・・・・・・はっ」

 

 そもそも秀長は信長に意見するような立場でも無く、するつもりなど毛頭思っていなかった為に躊躇いながらも頭を下げた。

 秀吉の出世の為に非情な面を遂行して来た秀長という存在だからこそ信長も命じたのだと自身に言い聞かせて秀長は数人の兵と共にすぐに出立した。

 

 

 

 

 

 

 信長は秀長が持ち帰った福島親子の首を本陣の一向一揆勢の砦から見える所に置いてかれらに恐怖心を植え付けた。

 死ぬという恐怖はたとえ信仰心があろうとも人間である以上、決して離れないものである。

 案の定、抵抗に力が無くなり少しずつだが、一向一揆の兵が減って来ているようにも考えられた。

 

「勝家、お前は佐久間と共に賀鳥口に一万の兵を置け。米五郎と秀長は早尾口に三万。私が指揮を執る。市江口は信行、お前は三万の兵と森・長井らを率いて待機するのだ」

 

 突然のことに家臣達全員がざわめき、隣同士で話し合い始める。

 

「しかし、既に顕忍殿が講和を結ぼうとしているのでは?」

「ふん、所詮はその場しのぎよ」

 

 その中で勝家が信長に訪ねるが、完全に苛々している信長の目は鋭くなっていて勝家などで無ければ間違いなく怒鳴り声が聞こえていただろう。

 

「奴らと我らは永久に相容れぬ存在。どちらかが完全に死ぬまで終わることは無い!」 

「では、信長様は・・・・・・」

「奴等は完全に滅せよ! 如何なる手段を以てしてでも、容赦はするな!!」

 

 信長が腕を伸ばし、手の平を向けて叫ぶ先。長島城では一向一揆が二ヶ月の兵糧攻めを受けて飢餓に苦しんでいるだろう。しかし、信長は決して同情を許さないとはっきりと宣言した。

 息を呑む音でさえ聞こえるような静寂。

 沈黙を破ることが出来たのは譜代家臣の中でも上に立つ者。

 

「恐れながら、一向一揆勢の守りは衰えているとはいえ屈強であることに変わりはありませぬ」

 

 長秀が気勢を削いで信長の機嫌を更に悪くさせるのを承知でおずおずと尋ねる。

 しかし、信長は軽く笑うだけで怒りはせずに余裕に満ち溢れた表情に変わる。

 そこに先程までの不機嫌さは一切無く、いつも通りの威厳もはっきりと見えていた。

 

「そのぐらい分かっている。九鬼に新兵器を持たせた。明後日には到着するだろう。その前に長島を囲む砦を落とせるだけ落とす。これで忌まわしい彼奴等との因縁を終わりだ」

 

 信長の不敵な笑みは冷徹でその場を凍り付かせるには十分だった。

 

 

 翌日から行われた一向一揆本陣である長島城攻めの前哨戦である大鳥居城と篠橋城攻めは苛烈を極めた。

 それ以前に三方向から効果的に交代で攻めたり、一気に同時に討ち掛かるなどしてそれぞれの前線を一蹴。

 一向一揆勢は残る城にそれぞれ逃げ込んで抗戦しようと試みたが、兵糧不足と共に信長が持ち出した新兵器、大鉄砲によって破壊される城を防ぐ柵や脆い壁を見て恐怖心を抱いた二つの城の兵は降伏を信長に申し出たが、完全な殲滅を指示した信長がそのようなことを許す筈も無い。

 降伏を申し出る為にやって来た使者を斬り捨てると陣門にかざして徹底的に戦うという意志をはっきりと示し、兵糧攻めを続行させた。

 たまりかねた大鳥居城の者が女子供を逃がそうとしたが、織田の監視兵に見つかり信長の命によって斬り殺された。

 その後、篠橋城も陥落した為、いよいよ一向一揆の拠点は長島城のみとなった。

 

「良く粘ることよ・・・・・・」

 

 前線を任されている長秀は疲れたように呟きながら憐れみを持った表情で長島城を眺める。

 全軍が集結し、七万の大軍が長島城を蟻の這い出る隙間も無い程に包囲して一ヶ月。

 長島城の主要な出城である大鳥居城や篠橋城でさえも兵糧不足に喘いで降伏や逃亡している。

 しかも、篠橋城は長島城を内側から崩すと約束したにもかかわらず、長島城は一向にそのような気配は見えない。

 丸め込められたのかばれて何らかの処罰が下ったのかは分からない。

 はっきりしているのは逃げ込んで来た兵を養う程の兵糧が無いというのに人が入って来た為にますます長島城は逼迫した状況に陥ったということだ。

 長秀達の考えでは後数日もすれば一向一揆側も降伏だろうと思っていた。

 長島城はもはや丸裸同然。籠城したところで戦死よりも飢え死の方が多くなるばかり、勝てる見込みなど無く援軍さえ無い。

 思考の海に浸かっていた長秀が意識を現実へと戻したのは若干陣が慌ただしくなった時だった。

 常日頃から僅かな変化さえも機敏に気付くように自らに言い聞かせている長秀にとってそれが敵襲で無いことも分かった。

 

「丹羽様、長島城から使者がやって来ております」

「すぐに信長様に報告せい。対応は私が行う」

 

 予想通り自身が陣幕にいないことで探していた兵達がどこだどこだと探していただけであった。

 その一方で長秀は一向一揆側の降伏に何故か安堵よりも不安が大きく募った。

 その不安は歩いている時も拭い去ってしっかりと使者と相対しようと心で何度も言い聞かせても使者から降伏する故に信長に会わせて欲しいと言われてもなかなか拭い去ることが出来なかった。

 

「丹羽様、至急前線の陣形を整えるようにと殿からの御命令に御座います」

「陣形を? 使者が帰ったばかりだというのにか?」

「はっ、殿は半刻後にこちらにいらして指示を下すと申しておりました」

 

 長秀はそれだけで全てを悟り、思わず声が漏れそうになったのを必死で堪えた。

 主君が一ヶ月前に言っていた一向一揆を完全に滅するとは本当のことであったのだ。

 てっきり長秀は降伏するまでと思っていたが、その後に信長は如何なる手段を以てしてでもと言っていた。

 

「(つまり、降伏に承知したと見せかけて油断したところを・・・・・・)」

 

 果たしてどのような地獄絵図が自身の目に映るのだろうか。

 比叡山の際はまだ向こうの僧侶が腐っていた為にまだ許せた。延暦寺はその後に真面目な僧侶達によって復興しようとしている。

 長島城に籠もる者達のほとんどは民である。それでも許せないということは先の演説で長秀も重々承知していた。

 今すぐにでも信長の下に向かいたいが、降伏の使者が来て好機到来の状況下では何か言えるような状態ではないことぐらい分かっている。

 

「すぐに命令を出た皆に伝えよ。一応、鉄砲隊も準備するのだ」

「鉄砲隊・・・・・・ですか?」

「そうじゃ。早よう支度をしてくれ」

 

 まだ配下の中には去って行った者のように織田の威容を見せ付けるだけだと思っている者もいるのだろう。

 分からせるのはまだ先、信長が到着する直前か直後にでも伝えれば良い。

 

 

 信長は言った通りに半刻後に長秀の下にやって来た。

 陣形が整っているのを見て鉄砲隊の配備も整っていることを確認すると「さすがは米五郎よ」と機嫌良さげに笑った。

 これから殺戮を行うような表情にはとても見えない。それが逆に長秀の恐怖心と戦前の緊張感を一気に高めさせた。

 主君の笑顔の裏には下手をすれば家臣さえも燃やすような激しい怒りが隠されている。

 隠された怒りの炎はこの後で表現されるだろう。

 長秀はそう思いながら不意に後ろに控えている他の織田家臣達に目を向けた。

 勝家や利家達を見ても妙に表情が引き締まっている。

 既に何を行うのかは聞いていたのだろう。この時を待って効率良く一向一揆を殲滅するということを。

 この時、はっきり言って長秀は信長よりも後ろの同僚達の方に目が行ってしまい、信長の語っていたことは馬耳東風状態だった。

 

 

 

 一刻後。夕闇が迫る中で飢えによって心身共にふらふらになった一向一揆勢に向けられた鉄砲隊の一斉射撃から信長の目に映える代わりの怒りと炎が長島城を包み込んだ。

 見渡す限りの紅蓮の中で信長だけが薄い笑みを崩さなかった。

 時代が更に変わることへの喜び。

 ただそれだけの笑みがもたらす人への恐怖を彼女は知らない。

 恨みを持つ者は屍となり言葉を発することはもう二度と無い。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百二十三話 嵐の前の騒がしさ

 長島一向一揆の全滅は本願寺に衝撃を与えた。

 幕府とはあくまで信長憎しというところで利害が一致している為に結ばれた同盟関係のような間柄で繋がりが深い訳ではない。

 幕府という大きな権力を持っているのは足利家の為に本願寺が従うのが道理であるが、長島一向一揆が倒れた以上、更なる規模を持っているのは後一つしかない。

 

「それで我々に白羽の矢が立ったということか・・・・・・越後をまだ取っていないんだが、まぁ、良い」

 

 尾山御坊の富樫晴貞には本願寺顕如から越後方面への進出を諦めて越前の一向一揆と共に信長に対抗するようにと書状が届いた。

 上杉を相手にしていたのはあくまでも北陸を己が手に収めようとしただけの野心の為、狙っていたのは謙信ではなく越後にしか過ぎない。

 謙信達はあくまでも副賞のようなもの。付いて来たら運が良い程度のものである。

 越前もまた北陸ではある為、いずれはと晴貞も思っていた。

 攻めなかったのは朝倉という大名が今まで織田に対抗する為の防波堤の役割を補ってくれていた為で背後に気を取られる心配があまり無かった為だ。

 何度か攻めて来るという報告があったが、結局何も起こらず、誰かが一向一揆の勢力が大きくなるのを嫌ったからだろうと晴貞でも分かっていた。

 

「ま、俺にはどっちだろうと構わないからな」

 

 晴貞は他人事ように思考を捨てると野心の達成を完成させた自身を想像してにたぁという表現が良く似合う残虐な笑みを浮かべる。

 いずれは取るつもりの二つの国。越後は狙っても越中勢が魚津城すら攻略出来ておらず、戦況は今も膠着状態で今は松倉城に待機している。

 その状況を打破する為にはどこかで動きを入れなければならない。

 そう考えていた晴貞にとってこの依頼は千載一遇の好機である。

 新たに越前という場所を得ることで更なる力と血と女を手に入れることが出来る。

 今からそれを思うだけでぞくぞくと身体が武者震いを起こし、身体が今にでも西へと向けられる。

 

「越中の奴等に任せておいて良かった。俺のところにある力は十分に備わっているからなぁ・・・・・・」

 

 更に笑みを深めると先程まで楽しんでいた寄り添う女を放り投げる。

 服を整え晴貞は控えていた側近を呼んで評定を始めると命じながら舌を舐めて下品な笑みを浮かべる。

 晴貞はゆっくり立ち上がると書状を蝋燭の火に掛けて評定の間に向かった。

 歩いている間も笑い声が収まる気配は一向に無い。止める者もいなければ眉間に皺を寄せる者もいない。

 寄せる者がいれば潰せば良い。それだけで済む。

 血が騒ぐ。人を殺したい。女を犯したい。邪な衝動に駆られる。

 

 凶人が再び腰を上げた時、北陸には新たな暴風が吹き荒れる。

 

 

 

 

 

 

 

 春日山城にも織田が長島一向一揆を殲滅させて全てを灰と化すようなことを行ったという情報が上杉に入って来た時、皆の反応はほぼ無に等しかった。

 信長の性格を自身の目で見て来た慶次の意見も役に立ったことと一向一揆との激しい対立は畿内の間者達から情報が入っていた為、おおよその結果は見えていた。

 

「(さぁ、何で俺はこんな状況になっているんでしょうか?)」

 

 龍兵衛は頭の中で自問自答しても答えは無い。何故なら答えは分からないからだ。

 

「それにしても、前々から思っていましたが、河田殿は随分と喋らない方なのですね」

「べらべら喋ることはあまり好きじゃありませんからね」

 

 出された茶を啜りながら面倒臭いと思いながらもいつもの感情の籠もっていない声で返答する。

 先程から目の前にいる寺島盛徳が質問して龍兵衛が答える。これに一切の変動は無い。

 普段と違うのは互いの衣装だ。

 龍兵衛は安定の濃い灰色の服に黒いきちんとした羽織り。

 評定の時でさえも滅多に着ることの無い、儀式が行われる際に着るようなものを着ている。

 一方の盛徳は赤を基調とした服を着こなし、決して派手過ぎず、地味過ぎずという武人らしいさっぱりとした雰囲気を相手に与えている。

 一方で顔には盛徳が女性であるということを分からせる化粧をしていてそこだけを見れば普段の男らしさも影を潜めている。

 

「確かに、必要以上にべらべらと喋って逆に顰蹙を買うようなことや要らぬことを話して情報を流してしまうよりは全然ましですね」

 

 とはいえ言葉遣いはいつも通りに武人らしい話し方でそれに合わせるように話題も互いの私を探るというよりも普段の公の行動で疑問に思ったことを探るようになっている。

 龍兵衛はただ単に公で話すことがあまり好きではない為に積極的に発言することが無いだけだが、素直に言うのも憚られるので敢えて言わないでおいている。

 他にも理由は一つあった。それは龍兵衛の視界の隅に入っている猿。猿が乗っている頭がちょこんと茂みの上から出ている。

 外では不安げな景勝、興味津々の慶次、どこで嗅ぎ付けたのか伊達の成実と綱元が部屋の中の二人に気付かれているのに二人は気付いていないかのように部屋を覗いている。

 

「嘘吐き~普段から何かに付けてからかう時はからかうくせにぃ」

「(こくこくこく)」

 

 ちなみに景勝と慶次は部屋内の二人が行っている一問一答に感想を一回一回述べている。

 

「へぇ~意外だね。さえちゃん」

「うん、私達には普通に話し掛けてからかうなんてこと絶対にしないよ」

 

 初めて知った龍兵衛の一面に驚く伊達の二人。

 普段の時のようにただけらけらとからかっているばかりではなく他家との間では常に龍兵衛は決して自分の弱味をさらけ出すまいと気を払っているだけである。 

 上杉の二人は伊達の二人が龍兵衛のことについて普通に驚いていることに驚いている。

 互いに色々と龍兵衛には振り回されることがあった景勝と慶次にとって彼は一種の問題児のような感じでもあった。

 

「それにしても、いつまでああして話しているんだろう?」

「盛徳、喋る、止まらない」

「へぇ~意外~普段は如何にも武人だ! っていう感じなのに」

 

 大分景勝の言うことも他家の面々も分かって来たかと慶次は内心喜びながら再び龍兵衛と盛徳の会話に耳を傾ける。

 

「近頃は尺八をなさっているとか?」

「お、私生活入った」

「ただの趣味ですよ」

「かぁ~何て返し方してんのよぉ~」

 

 感情の籠もっていない声で素っ気なく返す女心など全く理解していないような龍兵衛を慶次は恨みがましい視線で見る。

 しかし、盛徳は何故か明るい女性らしい笑顔になっていた。

 

『えっ?』

 

 龍兵衛を含む全員の声が一気に重なる。

 

「そのように見せかけている姿、とても惹かれます」

「えっ、えっ?」

 

 何故か龍兵衛も分かっていない為にきょろきょろと何でこんな展開になったのか分からないというように誰かに助けを求めようとするが、外の四人はささっと茂みの中に隠れていないふりをしてしまい、彼は完全に孤立無援になった。

 盛徳は戸惑う龍兵衛の隙を突いて素早く組み敷くと外の四人に聞こえないように龍兵衛の耳元で囁く。

 

「そう普段は斜めに構えていても、かつて神保様を励ましたように熱いものをお持ちであるのを私は知っております」

「あぁーあれですか・・・・・・」

 

 ちらちらと外から来る好奇と嫉妬の視線を逸らしながら龍兵衛は盛徳から目を逸らす。

 

「ま、まぁ、あれはその・・・・・・ただ神保殿を励まそうと思って・・・・・・」

「いえいえ、あれほどまでに真っ直ぐな目は私、河田殿から初めて見ました。あれこそ貴方の本当の姿なのでは?」

「いや、多分、違う・・・・・・」

 

 近過ぎる顔に目を逸らしつつどうにか否定の言葉を探そうとするが、女性の熱い眼差しを至近距離で受けるとさすがの龍兵衛もどぎまぎする訳である。

 ここで見ていられなくなった景勝が足音を少し立てながら撤退した。

 

「そうでなくても良いのです。はっきり言ってあの時の河田殿に大層惚れてしまいました」

 

 気付かないふりをしてぐいぐいと盛徳は龍兵衛との距離を更に近付ける。

 じたばたと龍兵衛は抵抗しているが、武術の心得は圧倒的に職定の方が上手。無駄な足掻きというやつだ。

 伊達の二人はこの先は見ない方が良いと判断して撤退を始めた。

 

「謙信様と颯馬みたいにならなければ良いけど」

 

 綱元が去り際に言った台詞に慶次は全く驚くようなことは無く、溜め息を付いた。

 

「(やっぱりばれてるわねぇ・・・・・・はぁ、けんけんも颯馬っちもいっそのこと皆にも言っちゃえば良いのに・・・・・・)」

 

 もう少し二人の様子を見ていたいと思ったが、慶次は一瞬こちらに盛徳の鋭い眼光で睨み付けられた気がしたのでこちらがばれてると思い、彼女はそそくさと退散することにした。

 

「逃げるなー!」

 

 龍兵衛の声が聞こえた気がしたが、慶次は心から彼がまともな恋を出来ることに祝福を送ることにした。

 

 

 

 

 

 

 その日の夜になって龍兵衛の部屋では望まないお見合いをさせられてぐったりしていた彼と突然押し掛けた景勝のある戦いが繰り広げられていた。

 

「(じぃぃぃぃー・・・・・・)」

「(痛い。視線が痛い。後、近いです)」

 

 二人の間の距離は約十五センチぐらい。龍兵衛が一歩下がれば景勝は一歩詰めるの繰り返しを続けて龍兵衛の背中は押し入れの扉にくっ付いている。

 先程から景勝がまた城勤めで屋敷に帰れない龍兵衛の部屋に押し掛けてからずっとこのままである。

 景勝は部屋に入るや否や無言のままずっと龍兵衛に近い所に立っている。

 理由は取り敢えず何故、盛徳とお見合いなどしたのか。何故、自分には何も言わずにお見合いをしようとしたのか。

 要は単なる嫉妬である。未だに龍兵衛に一途な景勝にとって由々しき事態である。

 盛徳に対してどう返答したのか気になる。もし、龍兵衛が首を縦に振ったのであれば景勝も強硬手段に出なければならない。

 それが惚れた男に対する一途な乙女が行える最大の勇気と最高の効果がある行いだ。

 

「ちゃんと断っておきましたよ」

 

 見透かしたように掛けられた景勝をこの上なく安堵させる言葉。

 景勝はほっとしながらもやはり応えてくれない龍兵衛に苛々している。

 またもやその思いを察したのか龍兵衛は申し訳なさも含めた薄い笑みを浮かべる。

 

「なかなか答えが見つからないことには謝罪しかありません。しかし、今は少し大人しくしていた方が・・・・・・」

 

 話す内に徐々に気まずそうに視線を逸らす彼を見て景勝も少し顔を赤くしてこくりと頷いて早く答えを出すように念を押して部屋を出た。

 翌日、謙信と話す機械がな出来た龍兵衛は彼女の部屋を訪れた。

 

「よう、昨日はお疲れ様」

 

 予想通り颯馬も一緒にいる。

 

 

 

 

 二週間程前のことだった。上杉の家臣達が突然召集されて何だ何だと思っていたところで謙信は上杉家内のことだけにして欲しいという前提でさらっと言った。

 

「私は颯馬と婚姻を結ぶことにした」

 

 反応は当然ながら無。全員が何とも言えない表情で互いを見合う訳でも無く不気味な沈黙が流れた。

 ほとんどの者が『(何を今更・・・・・・)』という目で見ていた。

 皆が呆れていることを内心で必死に隠そうとしている中でのことだった。

 

「えぇええぇぇー!!?」

 

 驚愕の叫び声ははっきり言ってその時の評定の間の中で浮いていた。

 

『(誰だ? 今更。こっちが「えー」だよ)』

 

 そう叫び声の主を訝しげに辿って行く。しかし、主を見た途端に何となく皆も納得してしまった。

 景家である。

 武人の道一本というような感じで上杉の重臣の中で一番こういうことには疎そうな人である彼女なら仕方ないと家臣一同そう思った。

 

「何で? 皆もびっくりしたでしょ?」

『もう皆知ってたよ(いましたよ)』

「えぇぇー!? な、何で、どうして?」

「あたしは、けんけんに相談されたし」

「某も薄々感づいていました」

「私と龍兵衛などは二人が城下でお忍びで逢い引きしていたのを見たからな」

 

 慶次・親憲・弥太郎と次々に上げられる二人のいちゃついていた事情の目撃談。

 

「自分は颯馬が朝に謙信様の部屋から出て来るのを見ました」

 

 とどめとばかりに龍兵衛が決定的瞬間を見た時のことを話す。

 恥ずかしそうにしている謙信と颯馬を『(今更何を)』という白い目で皆が見ている中で弥太郎は驚いていた景家に本当に知らなかったのか確認の問いを入れる。

 

「というか、景家は本当に気付かなかったのか?」

「えっ、いや、何か仲が良いなぁ・・・・・・とは思ってたけど」

「「「鈍っ!」」」

 

 慶次・龍兵衛・兼続からの単純かつはっきりとして実に効果的な感想の刀に景家はとうとう撃沈して隅っこでいじけてしまった。

 その後は見境無く仲が良いところを見せた謙信と颯馬に今にも斬り掛かりそうになった兼続を慶次が羽織い締めにして騒ぎに乗じて龍兵衛の隣にこそこそと景勝が来たと思えば「景勝、ああなりたい」と彼を大いに慌てさせ、わざわざこの為に一旦魚津城から帰還した景資が親憲と共に呆れるというぐだぐだな光景が出来上がり、その日は誰もが仕事に手を付けることが出来なかった。

 

 

 

 今となればなかなか笑える光景だなと思い返しながら龍兵衛は場を整えてくれた謙信に盛徳とのお見合いについての結果を報告する。

 

「何で断ったのだ? 折角、私も期待していたというのに」

 

 先ず驚き、それから心底残念そうな表情を謙信は浮かべている。

 一方の龍兵衛は知っている。

 自身が整えたのに断って泥を塗ったとかお見合いが駄目になって互いに可哀想だと思っているのではなく、恋愛に疎そうな二人の戸惑う姿をからかう楽しみが消えたというがっかりした感情から来ていると。

 

「別に良いじゃないですか。自分にだって色々とあるんですよ」

 

 実際に昨日、龍兵衛は盛徳にきっぱりと「お断りします」と言い、盛徳が呆然としている間に組み敷かれた腕を解くと申し訳ないと頭を下げて着物を整えながら部屋を辞した。

 謙信と颯馬はそう説明しながら平然と茶を啜る龍兵衛を見て驚きながら互いに目を合わせる。

 龍兵衛も浮ついた噂が無くてもやはり男。好みというものがあるのだろう。

 謙信の思考は先ず以前起きた颯馬と慶次の一件について出て来た。

 

「颯馬のように胸に好みがあるとか、か?」  

「まだ生きてたのか、それ!?」

「永久に不滅だな」

 

 現に颯馬は謙信と婚姻を正式に結んだ以上、謙信も大きい為に否定出来る立場ではなくなった。

 かなり曲解だが、今の発言はまるで謙信のことを否定するようにも聞こえる。

 じとっとした目を向けられた颯馬はおろおろとしながら龍兵衛に助けを求めるように視線を向けるが、彼は扇子を取り出してどこ吹く風と扇いでいる。

 

「だ、だいたい、寺島殿の身体付きは弥太郎殿とほぼ同じだぞ?」

「む、そういえばそうだな・・・・・・ならば、龍兵衛は兼続のような胸の小さい方が好みか?」

「ぶっ!?」

 

 苦し紛れの颯馬の発言に真剣に答えた謙信のとんでもない疑問に動揺した龍兵衛は転けた際に右手を打ってしまった。

 打ち所も悪かった為に痛そうに手をぶらぶらさせている龍兵衛を見ると謙信は妙に納得したような表情になる。

 

「やはり、そうか・・・・・・龍兵衛は小さい方が良いのか」

「人の好みを勝手に決めないで下さい! しかもその言い方は誤解を招きます!」

 

 さり気なく颯馬が自身から距離を取っているのを横目に龍兵衛は謙信に対しての礼儀作法もぎりぎりのところで怒鳴りつける。

 

「怒るな。人の好みはそれぞれだからな。私もそこまでは口出ししない」

 

 完全に謙信はおかしい方向に行っている。止めなければ謙信の中で自分は変な好みがあるということが確定してしまう。

 龍兵衛からすれば謙信はともかくとして隣で腹を抱えてどうにか声を出さないで笑いを堪えている颯馬をどうにかしたい。

 二人共何かを誰かに簡単に喋る程、口が軽い訳ではないが、颯馬の場合面白がって敢えて誰かに言ってそこから絶対に広まるという自信が龍兵衛にあった。

 防がなければならない頭の中でどう対処すべきか龍兵衛は思考を巡らせる。

 

「ただし・・・・・・」

「っ!?」

 

 思考を完全に遮ったのは謙信の言葉。否、彼女の戦場で見せるような圧倒的な威圧感であった。 

 

「景勝には変な真似はするなよ」

「・・・・・・はい」

 

「もう遅いです」なんて口が裂けても言えない。

 ちらっと颯馬を見ると謙信の凍てつくような気にやられたようである。

 

「(あれなら今夜中に忘れるだろう)」

 

 内心安堵しながら龍兵衛はそそくさと部屋を辞した。

 安心したのも束の間、出て来た瞬間に龍兵衛は背筋が凍った。何かがいる。一人ではなく二、三人は確実にいる。

 龍兵衛の姿を確認すると人影はゆらりと動いて龍兵衛に迫る。

 

「誰ですか?」

 

 形だけの警戒した声。出て来たのは好奇心旺盛な目で彼を見る弥太郎・慶次・官兵衛。 

 先程、謙信から問われたことを聞きに伏せていたのだろう。

 そう考えると合点が行く。その一方で、完全に進む方向を防がれて逃げられない状況を打破する策を一つだけ思い付いた。

 

「あ、猫・・・・・・」

「えっ?」

「いる訳ありまっせーん!」

「きゃっ!?」

 

 動物がいると反応してしまうのが弥太郎である。

 見え見えの嘘だと気にしなかった二人違って龍兵衛が見る先へと視線を移したのを彼は見逃さない。

 突き飛ばして空いた道から一気に駆け出して全力疾走で逃げる。

 曲がり角を上手く利用して前へ前へと行かず、たまには屋敷まで距離のある道を通るなどして龍兵衛は四半刻(三十分)後にようやく屋敷に転がり込むことに成功した。

 

 

 

 

 

 

 翌朝、龍兵衛は昨日の逃走の疲れからいつもより遅く城に来て仕事前に歩いていると背後から足音が聞こえてきた。

 足音は龍兵衛の背後で止まるとくいっと龍兵衛の裾を引っ張りながら言葉を発した。

 

「景勝の胸、龍兵衛好きって言ってくれた♪」

「んなこと一言も言った記憶がありません! というか、誰からそんなこと聞いたんですかあ!?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百二十四話 会いたくて

 春日山城の中の謙信の部屋では長重の東北仕置きの手伝いに行った官兵衛を除いた軍師達が謙信の部屋に集っている。

 

「加賀勢がまた動き出したらしい」

 

 颯馬の報告に顔をしかめると謙信は魚津城に援軍を出すべきか軍師達に聞く。すかさず京の情勢を管理している龍兵衛が首を横に振る。

 

「いえ、今回はどうやら彼等は織田に対抗する模様です。また、越前の一向宗にも不穏な動きがあると神余殿から報告が」

 

 長島が全滅した以上、間違いなく本願寺の最後の大きな抵抗と見て良い。

 

「本願寺は負けると思うか?」

「十中八九間違いないでしょう」

 

 兼続からすれば一向一揆の激しい抵抗は忌々しいが、今回は織田との対戦ということでいくら抵抗する者に容赦がない以上、鎮圧されるのは間違いない。

 

「兼続の言う通りになるでしょうが、問題はどれほど掛かるかです」

 

 晴貞が指揮を執るということは目に見えて明らかである。物欲においては奸智に長けている彼は越前を欲するのであれば激しい戦になることは必至。

 民が傷付くことを許さない上杉の家風があるが、晴貞に従い、彼の傀儡に陥った者達に手を差し伸べる程、謙信は愚かではない。

 また軍師達が良いと思っているのは織田と一向一揆の戦いが長引くことで他の方面に目を向けやすくなったことである。

 

「これ以上、北条を野放しにしていては後々の問題となるでしょう。早めに手を打った方がよろしいかと」

「それは自分としては反対です。東北の戦で大分戦費が逼迫している。何か切欠があるまで動かないのが良いかと」

 

 積極策を否定されて睨む兼続をよそに龍兵衛は謙信に目を向ける。

 北条は北へと勢力を伸ばしつつあり、上野は完全に支配している。現在は下野に目を向け、宇都宮・皆川・那須といった勢力に攻勢を掛けている。

 切欠とはその者達からの救援要請だ。多くの軍勢を率いることが難しい現状で欲しいのは他国の力である。

 

「座して待つ。今の上杉にはそれだけの余裕があります」

 

 全員が黙る。龍兵衛の言うことには一理ある。南部が降ったとはいえ、越後から陸奥の最北端は遠く、なかなか落ち着いてくれない。

 九戸と津軽という大きな反抗勢力を滅ぼしたとはいえ、小さな抵抗はまだ続いている。

 それが先程龍兵衛が述べた財政の逼迫にも繋がっている。

 鉱山の発掘と採掘に力を入れているとはいえそうやすやすと一攫千金とはならない。

 

「いつ頃になると思う?」

「自分は、後三月は待てると思っております」 

 

 謙信は颯馬と兼続を見る。二人共頷いて龍兵衛に同意だと示す。

 戦の無いことは良いことである。謙信もまた龍兵衛の案に同意すると口を開いた。

 外では桜が風に吹かれて乱れ散っている。

 

 

 

 

 

 時が経ち、夏の日差しが容赦なく地上を襲い、人々の体力を奪って行く。

 しかし、上に立つ者に休みは無く、また世の中が乱世ならば尚更のことである。

 春日山城では夏の暑さの中で道場という空気が籠もって湿気が一気に上がって立っているだけでも汗をかくような実に気持ち悪い状況下で主だった将達が兵との鍛練を終えた後に自らの鍛練を行っている。

 

「暑い・・・・・・」

 

 景勝が皆が思っていることを代弁するように呟くが、他の者達は話すことさえ体力を奪うと口を一切聞かずに前の相手と視線をぶつけ合っている。

 隙を見ては攻撃を仕掛け、隙を突かれては必死に守り、距離を取り、体勢を立て直して再び相手に相対する。

 謙信も含めて軍師達も武芸の心得が一切無い官兵衛を除いての全員参加の為、誰も手を抜くこと無く相手と打ち合っている。

 狭い道場の酸素の薄さと全力で打ち合うことで体力はあっという間に奪われて行くので皆がすぐに膝を付いてしまいたくなる思いをしているが、謙信の前で醜態は晒せないと気張っている。

 龍兵衛の考案で行われている真夏の稽古だが、終わるよりも前から脱落者が何人か出ている。

 中には頑張って気力で立っている者もいるが、一時の僅かな気の緩みによって足がふらつき、倒れた時になってようやく自身はもう限界を超えていたと気付く。

 粘って重症になるのが一番面倒だが、このご時世ではすぐに限界だからと言って退場する概念など誰も持っていない訳である。

 

「駄目じゃ~直江殿が二人にも三人にも見えるのだ~」

「村上殿、しっかりして下さい! 柿崎殿、早く水を持って来て!」

「分かってるよ! 今行く!」

 

 鍛練を始めて一刻、暑さに弱い義清が気合いで我慢し続けて来たツケが回り、音を立てて倒れた。顔を真っ青にして目をくらくらと回している。

 取り敢えず、兼続と颯馬が二人掛かりで義清を外へと引っ張り出して景家が持って来た水を頭から思いっ切り掛ける。 

 後で女中達に叱られることは避けられないが、床掃除と人の命を天秤に掛けて床掃除を選ぶ人など先ずいない。

 水で若干力を取り戻した義清はふらふらと立ち上がってもう一度道場に向かおうとしたが、兼続に必死に止められて部屋に強制送還となった。

 その光景を後ろで苦笑いしながら腕を組み、溜め息を付いて同情的な視線を送る颯馬と龍兵衛はようやく入った休憩をしながら額の汗を拭う。

 

「逆にあれで良く保った方だと思うな」

「まったく、やっぱり・・・・・・火事場の馬鹿力って侮れないな」

 

 アドレナリンが発揮されているとついうっかり言いそうになった龍兵衛は微妙な間で颯馬に同調する。

 義清程の者が鍛練で倒れただけで熱中症でぽっくり死ぬとは思えないので二人共心配そうにはらはらしている景家を見てくすくすと笑っている。

 その背後で謙信は衆目の場所で何を笑っているのかと呆れている。

 何も出来ない故にはらはらと右往左往するしかない景家は確かに面白いが、義清の容態を気にしてから笑って欲しい。

 だが、謙信自身も義清があの程度で病気になるとは全く思っていないので二人同様に口元が緩みそうになるのを必死に堪えている。

 

「謙信様」

 

 背後から聞こえて来た弥太郎の鋭い声を聞き、手を当てて緩みかけていた口元を真っ直ぐに直す。

 

「もう良いだろう。鍛練は終わりだ」

 

 龍兵衛以外が長い息を吐いて身体中にみなぎっていた気合いを一気に出す。

 その次は立っていた場所に暑さと疲れで動けずにへたり込む者や何とか外に出て涼を求める者などそれぞれ動きが分かれる。

 

「暑~い~」

「こら! その場で脱ぐ奴があるか!? そのけしからん乳を早くしまえ!」

 

 慶次という例外がいたが、兼続と官兵衛の主導で無力化された為、大した被害は無かったので良しとされた。

 視界の端でその光景を見ていた龍兵衛だが、景勝がわざとらしく正面に入って来たのを見て咳払いをして立ち上がって逃げる。追っ手が無いのが幸いだった。

 おそらく今日以降、この鍛練は謙信の声が掛からない限りは二度とやらないだろうと思いながら龍兵衛はゆっくりと歩いて道場を出ると自身の部屋に向かいながら道場では感じられなかった外の風を気持ち良く浴びる。

 部屋に戻ると汗を拭って着替えを済ませると右肩に濡らした手拭いを当てたままごろんと横になった。

 義清達のように暑さにやられた訳ではないが、相変わらず抱えている爆弾を庇いながら動いていたので体力的な疲れもあるが、常に神経を使っていたので精神的な疲れの方が割合でいうとかなり大きい。

 この後は仕事も既に昨日の内に今日がきつくなると予想していた為、気合いを入れて終わらせておいたのでのんびりとごろ寝が出来る。

 

「ぐえっ・・・・・・」

 

 そう思ったのも束の間、上にのし掛かる重圧。三毛猫が自分も寝たいと腹の上にのしのしと乗っかって来た。 

 そのまま猫は龍兵衛のゆっくり寝たいから降りろという抗議の視線を無視して丸くなってしまった。

 寝返りでも打てば簡単に猫は落っこちて起きるだろうが、出来ない。

 猫が一番ストレスを溜めるのは寝ているのを起こされた時だと龍兵衛はどこかの漫画で見たことがある。

 仕方ないと猫の邪魔にならない程度に溜め息を小さく吐くと龍兵衛も疲れに抗うことが出来ずにゆっくりと目を閉じる。

 今だけだ。休養を十分に楽しむことが出来るのは来年、もしくは半年後には再び上杉は乱世へと舞い戻る。

 南部を降伏させて忠誠を誓わせることに成功し、上杉家臣に与えた領地の経営も軌道に乗り、国内のことは徐々に回復の兆しを見せている。 

 本当は戦わないことが一番良いのだが、上杉という家が掲げる正義が未だに理解されずにいるのと侵攻を続けていることで正義というのは所詮格好良さを見せているだけではないかと断じる者達が多い為になかなか降伏を受ける勢力が無い。

 今度は道理で行くと関東か信州である。

 関東は元関東管領の山内憲正以下、優秀な家臣達がいるのと現関東管領という立場において正義はこちらにある。

 しかし、越後山脈を越えて行かなければならない為、すぐに攻め込むかもしくは北関東から一旦東に出てから南下するというかなり長い行軍になることは必至。

 信州を攻めるにしても義清や須田、高梨と北信州から武田に追われて越後に逃れて来た者がいるとはいえ山岳地帯故に行軍が難しい土地。

 どちらかというと長居が出来るのは武田の方だが、上杉軍は速攻にて勝負を決することを至高としている為、どちらを攻めるにしろ戦う期間は三、四ヶ月が良いところだ。

 

「(後で、颯馬達と確認しよ・・・・・・)」

 

 覚醒した後の行動を考えつつ龍兵衛は完全に意識を失った。

 

  

 

 

 蝉の音が珍しく聞こえた。しかし、すぐに「じっ!?」という変な声を出すと蝉の鳴き声は止まる。

 その音が原因で龍兵衛は起きた。外は既に空の色が茜色に染まり、昼間の暑さが若干ながら和らいだ時間だった。

 屋敷に戻ることも考えたが、収穫高の予測を地域によって認めた資料を確認しなければならない為、帰ることは出来ないことを思い出しながら起きるという嫌な目覚めである。

 眠い目を閉じたままのっそりと立ち上がって思いっ切り伸びをする。猫は既にいなくなっているのか何か物音はせずに圧迫感の跡が残っている。

 しかし、苦しかった腹を感覚を取り戻すようにさすると何故か毛を触っている感触があった。

 

「(まさか!?)」

 

 それだけで龍兵衛を完全に覚醒させるには十分だった。猫とは違う長い髪の感触を彼は知っていた。

 目を瞑ったり開いたりとうとうとして今にも寝そうな態勢をしているのは間違いなくその人だった。

 

「景勝様、何やってんですか!?」

「ん・・・・・・龍兵衛、起きた。起きなきゃ・・・・・・」

 

 小さいながらも相手を戒める鋭い声を発する龍兵衛に全く悪びれる訳でもなく、龍兵衛以上にのっそりと立ち上がると「ん~!」と景勝は思いっ切り伸びをする。

 慌てて龍兵衛は目を開けて部屋の周りと襖を開けて外を確認する。

 誰もいないことを確認すると先ずは襖を閉め、ずり落ちながら安堵の溜め息を長く吐く。

 次に体勢を直して何故ここにいるのか景勝に問う。

 曰わく、景勝が会いに行くと爆睡していた龍兵衛がいたのでついでに猫がどいてくれたので腹の上に乗ることにした。

 

「大丈夫。一回、颯馬来た。景勝、押し入れ隠れた。ばれてない」

 

 どや顔をされても龍兵衛からするとそれが本当なのかも疑いたくなる程、景勝は眠そうにしている。

 今寝たばかりだから大丈夫だと安心させるように景勝は言っているが、これがまた怪しい。

 一応、押し入れを確認すると景勝の言う通り、無かった筈の布団の皺がある。別段、龍兵衛はこういうことを気にする訳では無いが、景勝にはもう少し自重してもらいたいと思ってしまう。

 溜め息を吐きながら笑い掛けて来る景勝を誤魔化すように視線を逸らして頬をかく。 

 

「ん・・・・・・? あっ、景勝様!?」

「ばれた?」

 

 少しだけべたつく頬。何となく微か唇に残る感触。ばれない訳が無い。

 さすがにここは兼続を見習おうと龍兵衛は景勝を座らせる為に捕まえに掛かる。

 しかし、悪戯が成功したような子供の笑みを浮かべて景勝はひらりひらりと龍兵衛の手をかわす。

 

「驚いた声聞けた♪」

 

 飛びっきりの笑顔のまま景勝は部屋から誰も周りにいないことを瞬時に確認して廊下へと消えて行ってしまった。

 

「まったく・・・・・・」

 

 追い掛ければ変な噂になるかもしれないと考えた龍兵衛はそれ以上追うことはせずに部屋の中で景勝が入ったことで乱れた押し入れを整理し始めた。

 起きた時に無くなった筈の疲れと汗が倍になった気がしたが、八つ当たりするものが無い為、龍兵衛はますます苛々した。

 彼にとって幸いだったのは景勝の言っていたことが本当であった為にどうにか恐れていたことにならずに済んだことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 常陸、太田城は後に関東七名城の一つに数えられることになる佐竹家代々の本拠地である。

 現当主、佐竹義重が常陸を治める上で力を入れていたのが治水開墾以外に鉱山の発掘であった。

 常陸は現在の茨城県に位置し、全国有数の発掘量を誇る八溝金山を含めて多くの鉱山が存在する。

 義重は彼の鉱山などを発掘、採掘させることで収益を潤沢なものにして国力を上げ、外交では小田を屈服させて北条の関東完全征服の野望を里見と共に防いでいた。

 自ら先陣に立ち、兵と共に敵を容赦なく斬り捨てて行く姿は彼が顔半分を隠す面のこともあっていつしか『鬼義重』と呼ばれるようになった。

 しかし、義重達が如何に奮闘しようとも時代の流れに乗れなかった佐竹は上杉の東北の完全統一と北条の上野進出と下野への介入に徐々に押されてきているのが現状であった。

 

「氏幹、少し越後に向かってくれ」

 

 義重の家臣であり、親友である真壁氏幹は義重に部屋に来るように呼ばれたと思えば唐突にそう告げられた。

 上杉とは以前、有耶無耶ながらに和睦を結び、それ以降、緊張状態になることがあったが、何度か秘密裏に交渉は進めている為、戦には至っていない。

 下総の結城もまた北条の攻勢を受けて佐竹に援軍どころではなく、頼るのはもはや上杉しかいない。

 

「長沼城の戦況も良くない。上杉に援軍を頼んで戦況を打開するのが得策だ」

 

 長沼城は北条に抵抗している皆川俊宗の支城である。ここが北条に奪われると下野の最大の領域を誇る箕輪城への防衛線がほぼ無くなり、後は壬生城を落とせば箕輪城は丸裸になる。

 かなり北条の勢いが強くなり、白河結城の生き残りももはや戦力にはならない。

 消去法でいくと上杉に頼るのが一番上策で効率的に勝てる算段を立てられる。

 

「本来なら俺が行かなければならないが、さすがに状況が状況だ。俺はここを離れる訳にはいかん」

 

 北条を討ってくれと頼むのはかなりの誠意が必要になる。

 しかし、いざという時に義重がいないのは最悪だ。氏幹が選ばれたのはその為である。

 重臣で鬼真壁と呼ばれ、他家からも名を知られている氏幹を派遣するのは道理であり、上杉に対して佐竹がどれほど切羽詰まっているのかを示すにも十分な人材である。

 氏幹はその命令に顔をしかめる。武勇に秀でている彼だが、交渉術はあまり得手と言えるものではない。

 

「案ずるな。小貫も一緒だ」

 

 氏幹はその言葉で不安は払拭された。

 小貫頼久は重要な外交交渉を任され、佐竹に抵抗し続けて来た常陸南部の国人衆を滅ぼした後に軍事、経済の要衝として築城した大台城城代を任されている文官型の武将である。

 彼はこれまで敵対する北条への対策として上杉との交渉を上手く進め、大台城城主としても敵対していた国人衆の影響が色濃く残り、治安の悪い彼の地の回復に苦心しながらも努めてきた。

 義重もまた彼の力を認めて重用して来た。

 今回、使者として春日山城に行く際に彼の存在は武人道一本の氏幹にとって心強い。

 一方、武人であるからこそ義重の判断に疑問もある。 

 他家に力を借りるよりも最後まで自力で戦い抜き、徹底的に北条の攻勢に抗い、たとえ己が身を滅ぼしてでも意地を見せるのが武人の華ではないのか。

 義重もまた武人である。同じ思いを持っている筈だ。

 氏幹の思っていることを察したように義重は要らぬ心配だと言うように溜め息を吐く。

 

「無論、膝を屈する訳ではない。ただ、我らでは打開出来る状態ではないことぐらいは分かるだろう?」 

 

 戦好きでも馬鹿ではない氏幹は義重の正論に渋々ながらも頷かざるを得ない。

 確かに、上杉と北条を天秤に掛けてどちらを取るかと言われれば義重同様に上杉を選ぶだろう。

 北条に組みするということは関東の覇権を北条に明け渡すことになり、北関東の覇権を狙う佐竹と下野や下総の領有を巡って再び揉めることは目に見えている。

 

「我らが援軍を要請すれば蘆名などの諸大名にも出陣を命じるだろう。上杉にとっては良い機会だからな」

「しょうがねぇか・・・・・・」

 

 関東管領としての仕事を行う好機を窺っている謙信が逃すとは思えない。

 上杉ならば上野などの領有を行っても下手に口出ししなければ本領以上の領有をしても介入して来ることは無いだろう。

 

「蘆名達諸大名の顔もついでに窺っておくよう小貫に言ってある。下手な騒動は起こすな」

「分かってるよ。俺もそこまで阿呆じゃない」

 

 氏幹は護衛も兼ねているということだ。蘆名は以前まで敵同士だった相手である以上、春日山城に盛隆がいたとすれば何か揉め事が起きるかもしれない。

 念を押されるように蘆名には十分気を付けるように義重に言われた氏幹はいつもよりもしつこい義重に首を傾げながらも出立の為の準備を始めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百二十五話 なんとかなるさ

 佐竹の要請を受けて上杉軍が動いたのは南部のごたごたが幾分片付き、夏の色と秋の色が交錯する頃のことだった。

 親憲と弥太郎、中条景資が常陸方面から南下する蘆名・伊達と共に進軍し、上野から最上や安東の軍を謙信自ら率いて進軍を開始した。

 数は合わせて三万以上。佐竹らを合わせれば四万五千になる見込みである。

 更に謙信は武田の侵攻を企てるように見せかけて義清に五千の兵を与えて飯山城から信州の旧国人衆を結託させて派遣させた。

 葛尾城まで行ければ良いという感じで謙信も義清に深追いは絶対にするなと念を押して命じている。

 武田の家自体が弱まったとしても信玄やその四天王は健在。将の実力を考えると五千という兵は少ないようにも思える為、致し方ないことだ。

 戦果はともかく武田に越後に攻め込まれないようにする為にこちらから逆に攻めてはどうかという龍兵衛の意見を謙信は聞き入れた。

 珍しく積極策を進言した龍兵衛に他の軍師達は驚いていたが、気に掛かっていた戦費はどうにかなったのが一番の要因である。

 奪還した阿仁鉱山や新たに発掘した東北に眠っていた多くの鉱山より採れた金銀を高く売りさばいたり、質の良い貨幣を作る為に加工して流通を円滑にして他国の商人を招いている。

 その成果によってかなりの金利が出た。龍兵衛が金の多さに涎を垂らして皆に引かれている程の量であり、計算しても十分過ぎる利益が出た。

 ある時の今の内に使っておいてそれ以上に得るものを得ようという政治的な考えを元に龍兵衛は提案したのだ。

 話を戦に戻すと上杉軍本隊はまず上野から南下して北条方の城を奪還しつつ決戦が起きればいつでも準備出来るように備えておく。

 善政を敷いている北条は国人衆達からも受けが良く、一門との絆も固い為、調略に応じる者は少ないだろうと考えた軍師達は下野の反北条勢力とも連携して各国の主だった城を攻め落とすことによって旧山内家家臣達を扇動させてじわりじわりと北条を追い詰めることにした。

 坂戸城から三國街道を下り、岩櫃城や沼田城など後世では有名な城々を落とさなければならない。

 考えるだに厳しい戦になるだろう。しかし、いい加減に関東管領としての仕事をこなさなければならないのも事実。謙信もそろそろと考えての行動である。

 

「(さて、どうしたら良いのか)」

「上野において攻め込むべきはやはり箕輪城です。堅牢な城故に、落とすことによる利益は大きいものになります」

 

 頭では別の思考を案じている龍兵衛だが、耳はちゃんと軍議で兼続が取るべき方針を説明している方に傾けている。

 箕輪城さえ落とせば三國街道に沿う中山道の松井田城や高崎城を落としてそのまま武蔵を経由して相模に入る。

 上野の箕輪城が最大の決戦地だと思っている者が大半だが、龍兵衛は箕輪城よりも少し先の忍城に考えが行っている。

 忍城を守るのは成田氏長・長忠姉妹。また武蔵にまで侵攻すれば小田原城から援軍も考えられる。 

 龍兵衛にとってその状況は嫌でも気を引き締める状況であった。豊臣軍が大将が石田三成であったとはいえあれほどの大軍勢であっても小田原城が落ちるまで唯一保った城なのだから。

 北条は早くから兵農分離を可能に出来る環境を政策や人口の多さを活かして行って来ている為、兵一人一人の実力は高い。

 小田原城からの援軍も望める状況で下手をすれば武蔵の平野で北条の大軍と正面からぶつかることになる。

 条件的には北条に分があるが、大軍という点の利は上杉にある。

 

「(上手く機能すればの話だけど・・・・・・)」

 

 上野から南下する軍はともかく、常陸から南下する軍は佐竹や他の反北条の寄せ集めとなり、結束力に欠けるところがある。

 北条がそこに目を付けると上杉軍本隊が関東に孤立することになる。万が一に備えて官兵衛が軍師として弥太郎と親憲の側にいるが、龍兵衛は内心、不安が過ぎりっぱなしである。

 

「龍兵衛、何か兼続の意見で指摘するところはあるか?」

「いえ、特には」

 

 思考は相変わらず別だったが、兼続の戦略に抜かりは無かった為、迷わず龍兵衛は謙信からの問いに肯定の答えを返す。

 

「龍兵衛、慶次、景勝と大将に沼田城の攻略へと向かってくれ」

「御意」

「はいな~」

 

 慶次の裏表の無いお気楽な反応とは裏腹に龍兵衛は返事の裏で溜め息を吐く。

 岩櫃城も沼田城も上野における交通の要所であり、三國街道と沼田街道を下る際には拠点となる城である。

 どちらも当初は真田家と沼田家の城であったが、北条が北進して来ると弱体化した武田に付いて行った真田は信州へと逃れた。

 沼田は北条に敗れ、上杉を頼った後に当主の顕泰が隠居した後に後継者問題が起きた為、軍師達が動いて沼田家家臣の金子泰清を使って顕泰の息子、朝憲を殺し、後を継いだ別の息子を父が面倒事を持ち込んだ罰として新発田城陥落の後、必要が無くなった水原城に左遷させた。

 一応、この戦に顕泰は参加しているものの、謙信を含めて誰もが戦力にならないと思っている。

 沼田城の戦いにも参加させると謙信は言ったが、あくまでも北条との攻防戦との参考にしかならないだろう。

 言う通りの弱点を突いたところで切れ者揃いの北条軍に簡単に逆手に取られるのが落ちだ。

 ちらりと顕泰を見ると明らかに鼻息を荒くして意気込んでいるのが分かる。故郷を奪われたことに関しては龍兵衛も同情するが、少しは自分だけで勝手に問題を起こして周りに迷惑を掛けていることも考えて欲しい。

 後継者問題は没落した家とはいえしっかりと片付けてもらわないと困る。沼田にいた頃から抱え続けてわざわざ越後にまで持って来られては上杉からするとたまったものではない。

 

「はぁ~」

「河田殿、如何致した? これから戦であるというに」

 

 軍議が終わったのを認めると龍兵衛は長い溜め息を吐く。その背後から掛けられた声は少し興奮気味でうわずっている。

 振り返ると案の定、顕泰の二度と忘れない程にくどいとまで思える濃い髭面があった。

 沼田家は鎌倉幕府の重臣で宝治合戦で敗れ、自害した三浦泰村の次男が祖とされていてその誇りを忘れない為、今回の戦は随分と張り切っている。

 何でもないと伝えると顕泰は溜め息は元気が無くなるぞと背中を叩いて数人のみが残っている陣幕を勇んで鎧の音高く出て行った。

 

「(あんたのせいだよ)」

「『あんたのせいだよ』って顔に書いてあるわよぉ」

 

 悟られないように無表情で見ていた筈だったが、背後からぬっと顔を出して来た慶次がにやっと笑って龍兵衛を真横から見て来る。

 眉間に皺を寄せて目がつり上がっていて珍しく他者からも分かる不満げな表情になっている。 

 

「ありゃ、まじか?」

 

 びくっと肩を震わせたのを誤魔化すように首を傾げて龍兵衛は作り笑いを浮かべる。

 慶次は敢えてそこを突っ込むこと無く、龍兵衛が内心で吐き続けていた程では無いが、長い溜め息を口から吐き出す。

 気持ちは分からなくないという目で慶次は彼を見て来た為、彼女も同じような思いを先程の裏表の無いお気楽な返事の裏で実は思っていたのだと龍兵衛は悟った。

 先程は顕泰を立てないといけないこちらの身にもなってくれと毒づいていたことを心で詫びながら龍兵衛は景勝に指示を出している謙信の下に向かって話を共に聞く。

 内容は先程語っていた戦略とほぼ同じだが、更に詰めた詳細を話し合っている。

 岩櫃城は西は岩櫃山、南は吾妻川へ下る急斜面、北は岩山で天然の要害。

 沼田城も利根川と薄根川の合流点の北東、河岸段丘の台地上に位置する丘城。二つの川側は崖となっていて典型的な崖城という要害。

 互いに攻め落とすには苦労するのは目に見えている。もし何か突然の事態が起きた時には独断専行を行う可能性もある。

 景勝を低く見ている訳では無いが、経験は龍兵衛や慶次の方が上である。

 謙信の話を聞いていると不意に彼女は龍兵衛を見て彼の思考を察したように口を開く。

 

「兼続も言っていたが、沼田城に派遣する軍の指揮は景勝が執る。補佐を頼むが、いざという時には代わりにお前が執ってくれ。それから顕泰のことなのだが・・・・・・」

「分かっています。暴走しないよう慶次に見てもらっておくのでご安心を」

「と、いう訳だ。慶次」

「は~い。仕方ないからぁ、しっかり守るわねぇ」

 

 まだ戦が始まってもいないのに疲れたような声を出している慶次を見ると龍兵衛も兼続もやはり謙信の下に置いておいた方が良いのではないかと思ってしまう。

 しかし、顕泰のことを考えるとやはり必要だと考え直す。

 顕泰は憲政や義清と違ってかなり故郷への執着心が強く、今回の戦より前から幾度も謙信に関東遠征を行って欲しいと懇願していた。

 謙信の方もその時には東北に切り込んでいた状況だった為、それを理由に何度もはねのけて来たが、顕泰は東北など所詮は辺境の地に過ぎない。関東を取った方が絶対に利益になると言って頭を必死に下げ続けて来た。

 ようやく念願が叶った為に意気込むのは結構なことだが、先走って周りを見ないところがある顕泰は機嫌で事を判断することもある為、誰か監視が必要なのは上杉の誰もが知っていることである。

 景勝の補佐をしなければならない龍兵衛が意気込んで前線に出るであろう彼を見て危ない時は止めなければいけないからと簡単に本陣から出る真似は出来ない。

 やはり、止めるのであれば基本的に軍隊を率いず、自由に行き来の出来る慶次が必要になる。

 

「頼むな」

「はいな~」

 

 溜め息が出そうになるのをぐっと堪えているのは互いに分かり合っている。同情の視線を謙信と景勝から送られつつ二人はやることが無くなった本陣から出る。

 しばらくして謙信から説明を聞いて解放されて真っ先に駆けて来た景勝を伴って三人は評定の間を出る。戦に向けて皆の意気込みは変わらない。

 ちょんちょんと慶次は龍兵衛の肩を指先で突っつくと横目ではきはきと指示を出している顕泰を横目に龍兵衛の耳元に顔を近付ける。

 

「ねぇ、あそこで意気込んでいる人のことはどうするの?」

「沼田城を落としたらその城主に返り咲かせる。そうすれば謙信様が関東に攻めるのは私欲だけで行っているとは思われないだろうよ」

 

 それとなく顕泰から距離を取りながら三人は北条方から調略して本陣としている石倉城の中に歩を移す。 前々から顕泰には沼田城を取った暁には本領に復帰させるという約束がある手前、約束は守らなければならない。

 それを果たした上で北条に付いている国人衆達に揺さぶりを掛けて旧領に復帰出来ると誘いを掛けることも出来る為、顕泰を無碍に追い返すことも出来ない。

 一方で、龍兵衛は腹の中では顕泰を沼田城を取った暁にはそれ以上戦いに参加させないようにしようと企んでいる。

 

「・・・・・・」

「大丈夫ですよ・・・・・・多分ですが・・・・・・」

 

 不安げに龍兵衛を見上げる景勝に励ましを入れようと精一杯努めて表情を緩めるが、ふっと顕泰のくどい顔が彼の頭を過ぎってしまい、彼も不安げになってしまう。

 釣られて景勝も効果音があればずーんという音が聞こえてきそうな程までに沈んでしまい、原因を作った龍兵衛の頭に慶次の拳が落下した。

 

「痛い・・・・・・」

「あのねぇ、もう少しかっつんに元気が出る話しなさいよ」

 

 思いっ切り喰らった龍兵衛はもんどり打たなくても痛そうに右目を瞑って頭をさすりながら恨めしそうに慶次を見る。

 

「仕方ないだろ。沼田殿の手綱を握るなんて・・・・・・」

「想像、したくない。嫌だ?」

 

 龍兵衛の意思を汲み取った景勝の問いに首肯すると慶次もやれやれと首を振って励ますのを早々に諦める。彼女も顕泰を快く思っていなかった。

 側室やその息子がいるにもかかわらず、時折自身の身体を求めるような発言をして来たり、下心が見え見えの酒席への誘いなど男としての節操が無い。

 執拗な時も何度かあったが、その時は腕にものを言わせて寝かせておいた。それでも反省などしないで次の日にも誘って来る辺り、馬鹿だと内心呆れている。

 そう思うとまだ謙信と婚姻したとはいえ浮気性のあっても一途な颯馬や危ないところがあるとはいえ普段は何も無ければ堅物を通している龍兵衛の方がましに見えてくる。

 あくまでも私的な感情故に、公的なところに不快感を持ち込むような慶次ではないが、顕泰のお目付役だけは正直勘弁して欲しかったのが本音である。

 再考をお願いしたかったが、性格が真逆でも何だかんだで馬が合う景勝のことも目が離せないのも事実。

 もし景勝に顕泰の魔の手が降りかかったりでもしたら。

 

「駄目ぇ! そんなことはさせない!」

「急にどうした?」

 

 珍しく景勝から突っ込みが入った為、慶次は一瞬ではっと覚醒した。景勝の隣で龍兵衛は慶次の突然の叫びに「大丈夫か、お前?」と訝しげな目で見ている。

 

「い、いえ、私は何にも言ってません!」

「言った。何?」

 

 間を取らずに景勝の突っ込みと何故急に大声を出したのか知りたいという彼女の視線が突き刺さる。

 

「隠し事?」

「そ、そそ、そんなのある訳無いじゃなぁい。ねぇ?」

 

 首を傾げる景勝から目を逸らして龍兵衛に助けを求める視線を送るが、興味が無いと彼は外を向いて助ける気配が一切無い。

 その間に景勝は慶次との距離を更に縮めて答えを求める。気付いた慶次は慌てて距離を取り、止まっていては駄目だと足に力を入れて「さらば~!」と脱兎の如く逃げ出した。

 

「速っ」

 

 感想だけ言って助けなかった龍兵衛を景勝は恨めしそうな目で見るが、彼は誤魔化すように両手を広げておどけてみせる。

 大体何が原因で慶次があのようなことをしたのか政治に通じていて上杉の内部をよく見ている龍兵衛が顕泰の人となりを知らない訳が無い。

 先程、慶次が思っていた通りの想像をしつつも彼女と違って既に文字通り大人になった景勝がちょっとした誘惑にふらっとなる訳が無いと確信がある。

 

「慶次、何、気にしてた?」

「しょーもないことですからお気になさらず」

「龍兵衛、慶次、何考えたか分かるの?」

 

 目を見開いた景勝を見てしまったと思った時には既に遅く。好奇の目が今度は自身に浴びせられた龍兵衛はどうこの場を脱却するべきか考える。しかし、何故か良い方法が思い付かない。

 

「そういえば、先程謙信様に何を話されていたのですか?」

「ん、北条との戦、いつ終わるか」

 

 強引な誤魔化しだったが、乗ってくれたので一安心しながらも景勝の発言に龍兵衛は眉間の皺が若干寄る。

 越後山脈によって隔たりがある越後と関東は一度上杉が土地を占有しても北条に奪還される可能性が高いだろう。

 幸いにも蘆名・佐竹領から越後山脈を越えずに迂回して新発田方面から撤退することが出来る為、冬越えはいざとなれば出来ないことではない。しかし、まだ完全な兵農分離をしていない上杉軍は秋の収穫時に農民兵を返す必要がある。

 その為にも上野は早く終わらせなければならないが、障害が多い。

 

「出来る?」

「はっきり言うと厳しいですね」

 

 後世でも有名な堅牢な城が並ぶ上野は山々に囲まれているが、北は越後、西は信州、南は関東と軍事的に見れば重要な土地であり、北条は上野にある城の普請を余念無く行って来た為、攻略には時間が掛かると見た方が良い。

 

「まぁ、東北程時間は掛からないと思いたいですし、そうだと思いますよ・・・・・・正直、籠城も選択されて小田原城を除いたらの話ですが」

 

 景勝を元気付ける為にも良い気休めを言いたかったが、どうしても我慢出来ずに漏れてしまった緊迫感のある龍兵衛の後付けが景勝の表情を引き締まらせる。

 小田原城は関東随一の堅牢な城でいざ籠城すれば五年は保つことが出来る。さすがに上杉軍も国内の治安維持や経済面で不安が出る為、それ程まで包囲することは不可能。

 関東遠征は上杉の主要な将達が現在進行形で行っている国人衆の調略や協力が無ければ厳しくなる。

 龍兵衛は正直に言ってしまった自分の口を恨みを込めて少し長い溜め息を吐きながらちらっと景勝を見る。

 しかし、景勝は暗い顔をするどころか何故か作っているのでは無く、龍兵衛を心から元気付けるように笑っているので彼は少しだけ目を見開く。

 

「大丈夫、勝てる」

「どこからその自信が?」

「龍兵衛、いる」

 

 疑問を抱く龍兵衛をよそに景勝は心からの言葉を掛ける。

 衝撃的過ぎる発言を真っ正面から受けた龍兵衛は動揺から何も無い所で躓きかけ、転けるのを必死に堪えると誤魔化す為に激しく咳き込んでしまう。

 恥ずかしさを誤魔化しているとはいえわざとらしさが過ぎる彼の様子を景勝は長時間涙を浮かべて笑っていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百二十六話 守らせて

 関東一帯を領有している北条家という勢力を見て行く中で大きな特徴は内乱が無く、家臣達の間で派閥が無いというところだ。

 国祖の早雲は相模を統治していた時から半ば強制の指出検地を行い、耕地を田と畠に区別して国人衆の介入をさせない公正な民政を行い、小田原評定と呼ばれる合議制を敷くことで家臣との絆を深めるという独自の支配体制を確立した。

 また外交面でも武田や今川と同盟を組む裏で敵対勢力である上杉も関東一帯で力を蓄え、有事には約五万の軍勢を率いることを可能にしている。

 その中で最も特筆されるべき政策はやはり四公六民の年貢の比率だろう。

 実現するにはかなりの難題がある。しかし、北条はそれを断行して見事に成功し、民の心をほぼ手中に収めたのだからその政治力は侮れない。

 体制を維持しつつ勢力を拡大している北条は積極策を用いた上杉や織田と違い、徐々にだが関東を手中に収めつつある。

 上野を完全に制圧し、佐竹派が多い下野の国人衆を少しずつ切り崩し、里見に対しても早雲の娘、氏政が国府台城を落とし、久留里城を囲んでいた。

 それだけに佐竹軍の上杉を加えた侵攻は北条にとって大きな衝撃だった。内密の同盟をまるで無かったように上杉は堂々と関東管領の名の下に北条を討つと宣戦布告をすると上野と常陸から攻め込み、結城や宇都宮といった反北条勢力も次々と挙兵を始めた。

 いずれは破棄されると分かっていた同盟だったが、現状の上杉は一向一揆との対立が深まっている。また、弱体化から徐々に回復している武田とのこともある為、まだ破棄するには時が先だろうと早雲は考えていた。

 

「謙信殿はそこまで考えていたのでしょうかね」

 

 早雲は一人、部屋で報告書に目を通し、肺から息を出すように上半身を揺らして溜め息を吐く。

 北条からしても里見や佐竹を倒すまでは保って置いておきたかった。長沼城を落としてこれから佐竹からの決戦だという時に上杉は同盟を破棄したのは佐竹と大分前から裏で繋がっていたとしか考えられない。

 謙信が行うにしては手回しが良過ぎる気がしてならないが、主君である彼女が命じなければ家臣達は動ける筈が無い。

 表向き正義を掲げているにもかかわらず、実態が全くそれと伴っていない。 

 早雲とて裏切りと謀略を使って流浪の身からここまで北条を大きくしたのだから上杉が同盟を破棄したことや時期が悪いなどと自分勝手な思いで謙信を非難するようなことはしない。

 上杉から見ると佐竹や里見を攻めている北条を他国の者の要請に従って叩くという大義名分を得た絶好の機会である。

 早雲が謙信の立場であっても間違いなく動くだろう。逆に動かない方が彼女から言わせるとかなり愚かだ。

 だが、早雲とて京から流浪を続け、苦労を重ねてようやく得た関東の地をおいそれとくれてやる気などさらさら無い。

 早雲は私的な様々な感情が入り混じった表情から一変、仕事の表情に変えると地図を広げると一人、思考に耽る。

 越後から関東に出るには三国街道を下るのが定石。上野・武蔵と攻め来るであろうが、他にも今回は佐竹と里見が別方向から上杉に呼応して挙兵している以上、上野ばかりに気を取られる訳にはいかない。

 里見は久留里城まで一度追い込み、勢力は弱体している。怖いのは何度も襲撃と強奪を繰り返す海賊衆だが、既に多目元忠に拠点の目安を付けさせて攻撃を命じている為、上杉軍と合流しない限りは怖い存在とは言えない。

 佐竹達には下野にいる娘の氏照を大将に北条与党の豪族と知略に富んだ幻庵などの何人か将を連れて行けば向かわせればいくら剛の者達の集まりであろうと足止めを食らうだろう。

 後は上杉軍本隊のことだが、正直なところ西上野は捨て駒にしても構わないと早雲は思っている。

 統一して間もないかの地は武田や上杉の影響力がまだ残っている。そこで決戦を望んだところで足並みが揃うとは考え難い。

 上杉軍本隊との決戦は武蔵の地であると早雲は考えている。

 もちろん上野には沼田城や箕輪城など優れた防衛拠点も多いが、最後にものを言うのは城の堅さでは無く、軍の結束力である。

 勝てると思えない者が一人でもいれば負け、全員が勝利するという気概で挑めば勝つ。

 言えば簡単だが、それを実行に移すのは難しく、出来る者は統率力の高い将として認められる。

 

「母上、失礼致します」

 

 声と共に音を立てずに入って来たのは早雲の娘である氏康である。

 身内贔屓になってしまうが、おそらく彼女が戦の中での統率力は一番高いだろう。

 幻庵は率いるというよりは補佐役という立場に立ち続けている為、今回のような立場にいて献策をする方が性に合っている。

 素早く表情を家族同士に見せる穏やかな戻すが、仕事の表情を崩さない娘を見て早雲は再び顔を引き締める。

 

「風魔からの報告では上杉軍本隊は二手に別れて岩櫃城と沼田城を包囲している模様です」

 

 座るや否や口を開いた氏康から地図に再び目を移すと印となる碁石を置く。岩櫃城も沼田城も要害。本来なら大軍一つで攻める戦略が基本であるが、箕輪城から援軍に挟撃される恐れがあるならば報告通りの動きが正しい。

 しかし、正しいが故に読みやすいのも確かである。

 

「氏康は箕輪城に入りなさい。武蔵に上杉軍を決して入れないように。それから沼田城の猪俣邦憲にこの書状を」

「かしこまりました」

 

 下げた頭を上げる際に母に似て腰まで伸びた黒い髪を少しうるさそうに頭を振って整えると氏康は素早く書状を受け取って控えているであろう配下に指示を出す為に部屋から出て行く。 

 敢えて武蔵まで引き付けて迎え撃つと言わないのは上野にいる北条与党の勢力のことを考えてのこと。

 氏康には教えても良かったかもしれないが、敢えて言わずに隠しておいた方が岩櫃城が落ちた後のことを考えるとやりやすい。

 箕輪城は上野と武蔵を繋ぐ中山道に通じる場所に位置する。そこを通らなければ武蔵には入れないということだ。

 上杉軍は西上野と東上野の主要な二つの城を落とした後、合流して箕輪城を囲むつもりだろう。しかし、そうは問屋はおろさない。 

 正しい戦略は虚を突くことで初めて機能する。

 当然ながら謙信とて知らない筈が無い。故に、虚を突けないようにさせておけば後はこちら側から虚を突くでも正面から兵の精強さを見せ付ける為に正面からぶつかるなり何でもすれば良い。

 兵農分離を既にほぼ完全に済ませている北条家は将兵共に戦うことで出世が決まっている為、農民から駆り出された者が多いその辺の大名とは訳が違う。

 戦の指揮は氏康に任せているが、正と虚、どちらで戦うにしても慢心さえ無ければ武蔵に敵が来るか下手をすれば小田原城まで攻め込まれるかもしれないが、三の丸などを落とされても本丸が落ちるまでは行かないだろう。

 早雲は自信があった。普請を続け、とうとう城外の城下町さえも堀で囲んだ小田原城も長年に渡って確立した独特の方法で結束を強めた将兵達との気持ちも上杉軍を上回っている。

 

「自信があっても油断は大敵。さて、これからますます数が増える上杉軍は寄せ集めの軍団で上手く戦えるのでしょうか?」

 

 誰に語り聞かせるでも無く、早雲は一人で呟きながら思考を止めると碁石を一つ一つ色通りにしまい込む。続けて地図を付いていた折り目通りに丁寧に畳み、元あった場所に戻すと早雲は自ら茶を淹れてゆっくりと啜る。

 しばらく誰もいない部屋故に出来る茶を啜る音のみが響く静寂を味わうように長い時間を掛けて飲み干すして湯呑みを傍らに置くと余韻に浸るように目を閉じる。

 じっと動かないまま時間を自身に体感させるかのように座り続け、四半刻程経った時になってようやく早雲は目を開けると西側から斜光が差す。

 既に外は太陽が頂上を通り過ぎて西へと向かっている。

 音も無く立ち上がって私的な時しか使用しない奥の部屋に入ると自身用の小綺麗な小さく区切られている戸棚の中で娘達にさえ見せることをさせない最も小さな棚を開く。

 そこには更に小さな位牌に戒名が刻まれていて埃一つ無く、落ちたり傾いたりしないように丁寧に置かれている。

 

『春松院快翁活公』

 

 早雲は来るべき時が来たという思いと共に打倒上杉へと燃える心を冷やすように長い時間、目を瞑って両手を合わせていた。

 

 

 

 それより一週間後の上野、沼田城。

 かの地は上野における軍事拠点として長年争点の地として戦が絶えないことで有名である。

 早雲はこの城に来るべき上杉もしくは武田との戦い備えて普請を続けると共に優秀でなおかつ信頼のおける将を配置していた。

 

「猪俣様、敵方から矢文が届いております」

「読まなくても良いわ。どうせ開城要求でしょう」

 

 配下からの報告にかったるそうに肘掛けに体重を任せてひらひらと手を振る女性、猪俣邦憲は長らく北条家に仕えてきた重臣である。

 本来、彼女程の者なら中央にいてもおかしくないのだが、彼女が上野という北条の本拠地である小田原城から大きく離れた所に派遣されている理由は単純で、中央にいる為の政治力がさっぱり無いのだ。

 滅私奉公の気持ちが強い邦憲を含めた直臣達はともかく北条家にも自身への利益を欲しいと思う陪臣や国人衆が多くいる。

 如何に励もうと早雲達に力を持たせたらどうなるのかと恐れられ、直臣とは違ってなかなか出世が出来ない。

 故に、かれらは中にある私欲を抑えて早雲達に忠誠を誓いつつも直臣達の揚げ足を取ったりしていざという時に自身がその立場に就こうと狙っている。

 そういった者達に対して邦憲は全く遠慮が無く、悪いものは悪いと公衆の面前で人を平然と非難することが多々あり、その都度周りから仲裁が必要になっている。

 何度幻庵達が諫めても聞かずにいたのでならばと数年前に小田原城から上野に放り込まれた。所謂、邦憲は左遷させられたのである。

 皆無な政治力の代わりに戦場での仕事において北条家家臣の中でも指折りのものである彼女は専売特許としている。

 故に、肩が凝らない防衛線の前線は邦憲にとってはたいへん喜ばしいことであり、鼻歌混じりで沼田城に城主就任当初は向かった。

 しかし、その直後に早雲は邦憲にとってあろうことか上杉と密約を結んでしまったのである。

 越後との最前線にいる為、邦憲達にはこのことは誰にも話すなという条件付きで早雲から書状によって知らされ、彼女は激しく憤慨した。

 下野への警護がある為、小田原城へと向かえない自身の無念さも加わって抗議に近い意見書はさすがの早雲も苦笑いや眉をひそめる箇所が多々あり、早雲程の包容力が無ければ問題視される事態になっただろう。

 政治的な駆け引きが苦手な彼女を再び落ち着かせる為に幻庵自ら沼田城に親筆の書状を携えて使者として赴くという苦労の甲斐あってようやく丸く収まった。

 

「如何に返答致しますか?」

「返答? そんなことする訳無いじゃない。無視! これに限る!」

 

 肩付近で切り揃えられた髪を乱暴にかいていた右手の指をびしっと上に掲げて家臣に持ち場に戻るよう命じる。 

 上杉軍が攻めて来て一週間。毎日午前に一度、午後に一度、降伏や開城勧告の文が矢に括り付けられて城内にやってくる。

 動揺を誘うことも含めての戦術だが、邦憲はその程度では動じない。また配下の兵も同様に一週間前から全く動揺を見せず、時折攻めて来る上杉をことごとく撃退している。

 

「大将、敵が攻撃を開始した模様」

「いつも通り焦らず撃退。それだけ」

 

 ひらひらと手を振ると邦憲自身も立ち上がって戦況を見ることが出来る櫓に移動する。

 外を眺めると上杉の旗が順列良く立ち並んでいて前線の部隊が遠過ぎる為によく分からないが、前線の兵達よって作られた砂埃が見え、かれらの喧騒が聞こえる。

 

「殿、前線から前日よりも敵の数が多い為、援軍をと報告が上がっております」

「ん~敵も本気出して来たか・・・・・・兵三百を三の丸に向かわせておいて」

 

 上杉軍の攻勢は本気らしく指示を出したかと思えばすぐさま別の兵が邦憲の下に駆け込んで来た。

 

「申し上げます。敵の攻勢凄まじく。このままでは屋敷一帯が制圧されます!」

「しょうがない。屋敷に配置しておいた兵を全て城内に戻して」

 

 平然と言い切った邦憲を兵は目を見開いているが、乱暴な口調とは裏腹に真剣な目で兵をそうだと言わんばかりに睨み付ける。

 そうすると兵は慌てて外へと駆け出して行き、邦憲は息を大きく吐く。

 沼田城は三の丸の外に侍屋敷という有事の際以外にも兵が駐留出来る為の駐屯地がある。そこを手放すということは職業兵の住む所を放棄すると言っているものである為、兵からすれば自分達の家から出て行けと言われているようなものである。

 しかし、邦憲の指示判断自体は間違っていない。兵は分散をするよりも集中させる方が良いのは兵法にも書かれている基本中の基本である。

 

「さぁ、私達も前に出るよ。早雲様からの援軍が来るまで負けてたまるか!」

『応っ!』

 

 配下の者達も邦憲と気持ちは同じ。小田原城からの援軍は必ず来るという思いで今日もまた勢い良く声を上げるとそのまま三の丸へと行く邦憲に留守を任された者を除いて駆け出す。

 邦憲は三の丸へと向かうが本当に前線に出る訳では無く、あくまでも城主として櫓の上で細々と指示を出して味方を鼓舞する。

 西から攻めて来たならば全軍をそちらに動かさずに北からの襲撃に備えて一隊を待機させ、すかさず北側の曲輪への援軍としてその一隊を向かわせる。

 小田原城には既に沼田城の情勢は伝わっているだろう。時間的にもそろそろ援軍が来ても良い頃である。

 数では上杉軍と差があるとはいえ沼田城城内では邦憲の巧みな戦術によって決して被害が出ていないとは言わないが、なかなかの善戦を続けている。

 ここに援軍が来れば上野で上杉軍を撃退することも可能だ。

 敵大将は謙信ではないのが唯一の心残りだが、その義娘である景勝を討ち取れば精強と名高い上杉軍とて軍の再編を余儀なくされる。

 

「大体、何で私に謙信じゃないのかしら。失礼よ」

 

 決して邦憲は傲慢でも自信家でも無い。しかし、北条の重臣としての自尊心は少なからずある。

 岩櫃城はまだ落としてから時間が短く、守っている将も氏照の家臣になって間もない国人衆。城の防御能力の差もさほど無いのにどうして謙信が岩櫃城に行っているのか分からない。

 そうこう考えている内に上杉軍の方から合図の太鼓が聞こえて来た。それを聞いた上杉軍の兵が退いて行く。

 今日も防ぐことが出来た。兵糧もきちんと蓄えてある為、このままなら後三ヶ月は保つことが出来る。

 越後の冬が厳しいのは邦憲も知っている。そこまで長く上杉軍も包囲は出来ない。上手く行けば守るだけでなく、勝てる可能性もある。

 故に、上杉軍を撃退して意気揚々と本丸に戻ったその日の夕方にやって来た早雲からの書状に邦憲は目を見開いた。

 里見の攻勢が激しさを増した為、沼田城に援軍を送る余裕は無い。いざとなれば邦憲は沼田城から落ち延びて氏康がいる箕輪城まで退却するようにと認められていた。

 

「早雲様ったら、何でこの機会を逃すの!?」

 

 怒りに任せてびりびりと書状を破り捨てると邦憲は驚いている使者を戦場さながらの鋭い視線で睨む。

 使者からするととばっちりも良いところ。あくまでも任された役目を果たしただけなのだから怒られても道理に合わない。

 一方、邦憲は舌打ちをするとすぐに傍らにあった机の前に座ると早雲に対する意見書をせっせと書き始め、どうして上野で撃退出来る上杉軍をわざわざ武蔵に近い方までに誘い込む必要があるのかという内容を認めて早く早雲に届けてこいと使者に乱暴に渡す。

 

「絶対に道理に合わないことだったら許さないからね!」

「ひぃ! ぎょ、御意に御座います!」

 

 逃げ出すように駆け出して行く使者を後目に邦憲は櫓へと赴き、夕焼けに染まる空と地上を眺める。

 上杉軍が攻めてくる気配は無い。しかし、無警戒では無い。我慢比べは上杉軍とだけだと思っていたが、まさか家中でも我慢比べの予想が出て来るとは思わなかった。

 

「(まったく、いつになく早雲様も慎重だなぁ)」

 

 苛々する気持ちを抑えながら状況を整理していると徐々に邦憲も落ち着いて考えられるようになって来た。

 早雲の策は一見大胆だが、きちんと手立てを整えてから実行する。故に、成功する確率は高く、勝てる可能性も高い。

 そもそも、邦憲は北条家に仕えてから早雲が負けたところなど見たことが無い。

 慎重さも身を助けると邦憲も知っている。しかし、今回は彼女も譲ることが出来ない。

 勝てる戦ならばみすみすその好機を逃すのは御法度である。如何に早雲が慎重でも過ぎている気がしてならない。

 動きたいが、早雲の命令が来てしまった以上、その通りにしなければ後が怖い。

 仮に上杉軍を撃退したとしても命令違反を指摘されてあの身体を射抜いてしまうような鋭い視線を一身に浴びるなどいくつ命があっても足りない。

 取り敢えず、今はじっと籠城するしかないが、早雲とて沼田城を何ヶ月も落とされずに粘れば必ず援軍を出してくれる筈だ。

 邦憲は息を大きく吐くと櫓を後にする。動かずに耐えることが出来ない程彼女は猪ではない。早雲に状況がしっかりと届けば考えを改めてくれる筈だと信じている。

 周りに夕餉の準備をしている兵がいるにもかかわらず、邦憲は大きな欠伸を口元を隠さずに腕を上げながら漏らす。

 風が出て来て邦憲の短い髪と松の木を揺らしていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百二十七話 だからその手を離して

 邦憲の下に早雲からの書状が届けられた翌日。面倒くさそうに龍兵衛は立ち続けて少し痛んできた腰を叩いていた。

 

「沼田城、落ちませんねぇ」

「・・・・・・」

 

 昼間に沼田城の戦況を見渡せる櫓の上で思わず出た本音にはっと口を噤む龍兵衛だが、隣にいた景勝には聞かれてしまい、じーっとそれを何とかするのが自分の仕事だろうと痛い視線を思いっ切り浴びせられる。

 現在、攻撃を中断し、状況を考えて軍議を行っていた後のことで、これと言った策が出ずにあまり良いとは言えない不安感に満たされた雰囲気を和ます為に冗談のつもりで言ったのだが、 苦戦の最中であったのがまずかったと思い龍兵衛は口を抑えて誤魔化すように咳き込む。

 訝しげに景勝は龍兵衛を見上げるが、それ以上は突っ込むこと無く、肝心なことを尋ねる。

 

「策、無い?」

「あるにはありますよ。策という程でも無いですけど、景勝様が了承すればですが」

 

 沼田城を守るのは猪俣邦憲という北条家の直臣。一応は豊臣との戦いの原因を作ったとされ、知恵分別の無い田舎者と史料では批判されている者だと龍兵衛は思い返す。

 この辺りのことは曖昧で龍兵衛自身の好みの問題もあってあまり北条についてはよく知らない。

 知識というものは何かと人の利益と損失の両方を兼ね備えていると前々からだが龍兵衛は思っていた。

 前もってその人がどのような人物なのか武勇なのか知略なのか裏表が無いのか腹黒いのか。大体実際に会って見れば分かるのだが、先入観が必ず付きまとう。

 人となりが違っていても龍兵衛自身の疑り深い性格も相まってなかなか信用出来ないのが尚更良くない。

 

「良い!」

「何も言ってませんよ、自分」

 

 自虐的な気持ちと先入観をそのままに策を言おうと思った途端に景勝は承諾してしまう。

 言ってきちんと説得しても採用してくれないかもしれないのにいくら何でも信用し過ぎだと龍兵衛は呆れて溜め息を吐くが、景勝は気にしない。

 

「龍兵衛の策、大丈夫」

 

 公では見せない笑みを浮かべて言われても思いっ切り私情が挟まっている気がしてならない。二人きりだから良いが、龍兵衛からすると期待されても困る。

 本当に策とは言えないよくあるような策の為、きらきらと目を輝かされても逆に重圧となって彼の背中にのし掛かるだけだ。

 手筈は整えようと思えばすぐに整えられる。

 沼田城に従軍しているのは旧領復活に燃える沼田顕泰の他に長野業正・上野家成・竹俣慶綱である。

 誰に頼んでもしっかりと仕事をこなしてくれるだろう。ちなみに慶次は軍を率いることは出来ても景勝の近くにいたがりなので除外している。

 しかし、問題は他にある。

 これは上杉軍本隊が二分するよりも前の越後を立った時からの話だが、徐々に上杉軍内で家臣同士の牽制が始まっていた。

 一度本庄繁長の乱を切欠に上杉家家中で吐き出した筈の私欲の深さだが、やはり人間は何か餌が必要なものである。しかし、その餌は他人も欲しがっていることが多い。

 欲しいが為に様々な人と 功を争おうとして互いに前へ前へと出たがるのが人間としては本来の姿である。

 上杉家家臣が欲するもの。それは領地である。越後から国外に出て謙信から領地を貰っているのはまだ手の指で数えられる程度しかいない。

 隠していても隠しきれない欲が関東という辺境の東北より遥かに豊かな土地を前にして次第に大きくなってきたのだ。

 特に家成は魚沼郡出身ということで景勝の父、政景とは繋がりが深く、件の事件の後に何かと白い目で見られ続け、戦にはなかなか先陣に立つことも振り分けられる役目上無い為、今回の戦で大きな功を立てて面目躍如と気が立っている。

 景勝が大将を務めていることもあって目の前で功を立てたいという気持ちもあるだろう。故に、それを利用して彼の逸る心を抑える良い機会として使わせてもらうのも悪くない。

 取り敢えず、さすがに景勝には考えていることを知っておいてもらわなければ困るので無礼を承知しつつ無断で口を開く。

 相槌を打ちながら龍兵衛の策を聞いていた景勝もこの状況が続くのを良しとしていなかった為、ありきたり過ぎて策とは言えないような龍兵衛の意見に膝を打ってすぐに是とした。

 景勝も景勝なりに考えていたのだが、決定打に欠けていて提案するのを躊躇っていたのだが、龍兵衛も同じような考えに一つ足した策を提案してくれた。

 

「良い策」

「ですから、策ではないと言ってるでしょう?」

 

 あくまでも沼田城にいる邦憲が中央にいられない程有能では無く、早雲から冷遇されているということを前提の策の為、成功するかは分からない。

 

「誰やる?」

「それは、まだ決めていませんでした。故に、先程の軍議でもこのことは申し上げないでいたのです。すみません」

 

 気にしなくて良いと景勝が首を左右に振るのを見て龍兵衛はほっと安堵の息を気付かれないように吐く。

 水面下で将達の戦功争いがある為に言えませんでしたなどと言える訳無く、作った理由に納得してくれた景勝に感謝しつつも龍兵衛の口からは礼では無く、盛大な溜め息が出て来た。

 

「すみません。少し離れてくれませんか?」

 

 誰もいない櫓の上で景勝は上機嫌で龍兵衛の腕にぎゅっと猿が木にいるように引っ付く。

 

「ん~♪」

「(お笑いじゃないんだから・・・・・・)」

 

 離れて欲しいと言うと更に力を込めて腕にまとわりついて来る景勝に対して内心の突っ込みを抑えるように大きく溜め息を吐く。

 景勝は何故か溜め息を吐いた途端に更に腕に込める力を強めて心からの笑みを浮かべる。

 可愛いが、龍兵衛は既に見慣れているので何ら心をぐらっとさせることは無く、更に大きな溜め息を吐いてぐいぐいと景勝を離そうと頭を押す。

 しかし、どんどん行為が過激になってきた景勝はとうとう見られていないことを良いことに目を瞑って接吻を求めて来た。

 恥ずかしいのと今までずっとまだ待てと言い続けているのに耐えることをせずに大胆な行動に出る景勝に呆気に取られて一瞬だけ強引に振り解いてしまおうかと龍兵衛は思ってしまう。

 

「む~・・・・・・」

 

 一旦目を開けて唇を元に戻すと景勝は少し目をうるうるさせて龍兵衛を上目遣いで見る。

 さすがに龍兵衛の理性にも今の景勝の目はひびを入れる効果はてきめんだった。

 龍兵衛とて恋愛は景勝が初めてでは無いので女心はそれなりに分かっているつもりだ。

 きらきらと輝いているように見える景勝の目。本当にきらきらしていると幻覚が見えているまで龍兵衛の心はぐらぐらと揺れている。

 

「(ま、まぁ、事故っということで・・・・・・)」

 

 今この時に限らず、春日山城で日々を過ごしていると景勝の慶次を見様見真似でやっているという色気作戦なるものを毎日のように受けてひびが入って来ているぐらぐらの決心の柱の一本が今日になってとうとう折れてしまいそうになってしまう。

 まずいと止まれと心は連呼し続けているにもかかわらず、身体は徐々に景勝へと向き合い、顔が景勝の顔へと近付いて行く。そして、唇と唇が重なり合うまで後もう少しというところでぎしっと木が鳴る。

 

「あらぁ、誰かそこにいるのぉ?」

「まずっ・・・・・・」

 

 慶次の声を聞いて力任せに景勝を振り解いて服装を整えるとぐっと眉間に皺寄せたり、息を吐いて腕をぶらぶらさせて近付く二人分の足音に不満げな景勝をよそに龍兵衛は備える。

 慶次と共にやってきたのは龍兵衛が溜め息の対象にしていた家成その人だった。

 

「どうかしたのか?」

「かっつんいないわねぇって思って探してたのよぉ」

 

 特に何か動きがあった訳でも無く、景勝との一部始終を見られた訳でも無いと分かっただけで龍兵衛は肩に入っていた力を小さく吐いた息と共に抜く。

 

「進展が無い故に、そろそろ動くべきではないかと前田殿と話しておりました」

「そういうことなら・・・・・・」

 

 家成のはきはきした口調の言葉を聞いて将兵達もいつまでも待つ訳には行かないと考えて景勝に目配せして良いのか尋ねると彼女は真面目にはっきりと頷く。

 

「後で上野殿には頼みを聞いてもらいたいのですが、よろしいでしょうか?」

「はい、北条を倒す為なら任せて下さい」

 

 短く綺麗に整えられた角刈りの髪型と鍛えられた体格に似合うきりっとした受け答えで家成は姿勢を伸ばす。

 抑えているつもりだろうが、龍兵衛には目の前の自身と同い年ぐらいの若者が隠している熱い闘争心がはっきりと見える。

 おそらく胸の内には好敵手の者がいるのだろう。今、その者は謙信に従って岩櫃城にいるが、それよりも先に功を立てて見せびらかすつもりに違いない。 

 意気揚々として慶次と共に下りて行く家成の背中を見送って思ったよりもあっさりと事が片付いたので一息付いていると景勝がくいくいっと裾を引っ張って上目遣いで龍兵衛を見てくる。

 

「ちゅーは?」

「しません!」

 

 きっぱりと言い切れたことに龍兵衛はある意味爽快感を覚えた。

 先程は危なかったが、今は周りの声が聞こえるまでに神経は雲散しているおかげでまた始まった景勝のうるうるな目にも惑わされない。

 心の見えない手で頬を叩くと龍兵衛は頭を下げて景勝よりも先に櫓から降りようとするが、景勝は接吻は出来なくても一緒にいたいらしく続いて降りて来た。

 さすがに皆がいる前で景勝は以前から龍兵衛に厳しく言われているのでべたつきはしない。しかし、龍兵衛との距離は普段、他の者と一緒に歩いている時よりも半歩近い。

 別段、他の将兵からすれば気にするような距離感では無い。しかし、当事者の龍兵衛はいつ景勝が変な行動を取るかとびくびくして歩いている。

 

「河田殿、よろしいか!?」

 

 ただでさえ神経を使っている状況で面倒くさいのが来たと内心でしかめっ面を作りながら表面はいつも通りの無表情で声の方向に振り向く。

 

「上野殿が息巻いていたが、出陣が近いのか?」

「ええ、ですが、沼田殿においては今回は大丈夫です」

「何故!? 沼田城を取り返すのに私は一命を投げ打つのも躊躇わないつもりぞ!」

 

 どんと胸を叩いてみせる顕泰だが、龍兵衛からすると故郷を奪還する前に死んでどうするのだという突っ込みどころが色々とある決意表明を見せられても困る。

 

「落ち着いて下さい。まだ沼田城を攻めると決まった訳ではありません」

「では、何故に上野殿はあれほど勇んでいたのだ?」

 

 睨まれるとなかなか迫力があると龍兵衛は思いながら往来のある陣屋の道では誰に聞かれているのか分かったものではない。

 それぐらい周りのことは考えろと内心毒付きながら龍兵衛は立ち話もなんだと陣幕に顕泰を促すと諭すような口調で一気に説明する。

 

「沼田殿、貴殿も承知の通り、このまま包囲を続けたところで進展はありません。それ故に、厩橋城に向かうように頼み込んだところです」

 

 隣で景勝が目を見開いているのを横目で見つつ龍兵衛は続ける。

 

「それこそ、この私に命じて下され!」

「いや、さすがに一度景勝様が命じたことを翻しては・・・・・・」

 

 顕泰は、景勝が驚いていることに気付いていないと分かると龍兵衛は口元が歪みそうになるのを必死に堪えて納得していない顕泰の説得を再開する。

 

「よろしいですか? 厩橋城を取れば沼田城は孤立します。その時に沼田城に残された道は意味の無い籠城を行うか打って出るか二つに一つです」

 

 おそらく邦憲は十中八九打って出るを選択するだろう。その時に邦憲には一つ功を立てて貰いたいと龍兵衛は思っている。

 

「誰よりも早く沼田城に入りたいのでしょう? 上手く行けば貴殿が一番乗りになるのはほぼ間違いないありませんよ」

「ま、真か?」

 

 餌を目の前でぶらぶらとお預けにされている犬のような期待感に満ち溢れている顔を顕泰はしている。

 龍兵衛はもちろんと笑みを作って大きく頷いてみせる。だが、上下させた頭を上げた時、笑みは消えて無表情な顔に口元だけの笑みを残して黒い威圧感を全面に出した表情に変わっている。

 

「このことは上野殿以外誰も知りません。誰かに知られていると分かれば、情報の漏洩として罪に問いますから。お忘れなきように」

 

 最後の台詞をゆっくりと口を一言一句はっきりさせて言うとただでさえ強面な龍兵衛の表情もあり、顕泰は恐怖に怯えながら何度も首を上下させるとそそくさと逃げてしまった。

 

「家成に言ってない」

「大丈夫ですよ。釘は打ちましたし、沼田殿とて簡単に口が滑るとは思えません」

 

 先程の言葉も意図的に威圧感を加えておいたし、敢えて龍兵衛が顕泰にまだ家成にも言っていない秘匿情報を教えたのは彼があれだけ念を押しさえすれば向こうから勝手に人に話したりはしないだろうという信頼があったからに他ならない。

 しかも、沼田城を奪還する為と言えば尚更、顕泰はこれは大事だと決して口外しないように気を配るだろう。

 面倒なことが案外早く終わって一息付こうとした途端、何故か龍兵衛は背中に受ける視線に冷や汗が出て来た。

 

「龍兵衛♪」

「あっ・・・・・・」

 

 気付いた時には絶句に近い声が口から出ていて音は大きくない筈なのに陣幕に響き渡った気が龍兵衛はした。

 辺りを見回しても陣幕の中にはおろか周りにさえ誰もいない。

 嫌な予感程当たるものであり、振り返ると先程の龍兵衛の気など大したこと無かったと景勝が至近距離で他の者なら素直に可愛いと思える笑顔をして立っている。

 

「二人っきり、大丈夫」

「嫌です。我慢して下さい!」 

 

 威嚇するように小声で叫ぶと景勝がまた腕にまとわりついて来る前に龍兵衛は外へと避難する。

 陣幕の二人きりの時間も乗り切った龍兵衛だが、しばらくすると景勝とのことも忘れることが出来、無心で歩いていると慶次が影から出て来て彼の羽織りの後ろに付いているフードをがしっと掴んできた為、ずるっと後ろに転けそうになった。

 

「痛ぇな!」

「ごめんごめん。ちょっと力が強かったかしらぁ・・・・・・」

「目が泳いでいるところを見ると意図的だな、おい」

 

 分かりやすい態度の慶次にこれ以上何を言っても意味が無いと思い、代わりに疲れた溜め息を吐く。

 

「で、何でわざわざあんなことして止めた?」

「あぁ、その・・・・・・ねぇ」

 

 一方で、どこか落ち着きが無さそうに慶次は龍兵衛に目を合わせずに少し顔を赤らめて声を潜める。 

 

「さっき櫓の上でぇ・・・・・・かっつんに『しません!』って言ってたけど、何のことぉ?」

「え、聞こえてたの?」

「いや、あたしだけだったから良いけどねぇ」

 

 まるでもう家成がいなくて良かったねと言わんばかりの黒い笑みと含みのある言い方から嫌な予感しかしない。

 しかし、ここで先に反論すれば慶次は間違いなくそれを出汁に話を誇張するだろうと考えた龍兵衛は敢えて何も言わずに後手に回ることにした。

 

「まさか、龍ちんたらかっつんと・・・・・・」

「ち・・・・・・景勝様と?(危な、違うって言うところだった)」

 

 仮に龍兵衛が「違う」と言えば「何が違うの?」と慶次は聞き返して来て尚更彼は行き詰まるところだった。

 分かっていても引っ掛かりかけるのだから龍兵衛自身も問い詰められる側に来ると弱いということだが、口に出さずに耐えるところは称賛されるべきところだろう。

 

「んもぉ、隠さなくたっていずればれるのよぉ。かっつんと・・・・・・恋仲ぁ?」

「ちげーよ」

 

 素っ気なく返す龍兵衛の内心は渾身のガッツポーズが決まった。

 慶次は自身の経験の浅さを棚に上げて人の恋模様を知りたがる好奇心旺盛な性格の為に早く知りたいという焦りが出てしまい、証拠も何も無い今、相手から言わせた者が勝つ状況で龍兵衛の口から出させる前に先に言ってしまうという失態を犯した。

 

「えぇ~嘘は良くないわよぉ。誰にも言わないからさぁ。教えて?」

「ただ単にさっきの戦略の上に付け足したらどうかと景勝様が仰られてさすがに無謀だと思って間違えて叫んじゃっただけだ」

「本当に~?」

「うん」

 

 真顔で大きく上下に首を振るとさすがの慶次も本当に何も無いと思ったのかつまらなそうに溜め息を吐く。

 内心、ほくそ笑みながら龍兵衛は面倒くさいことにならなかったことに安堵して慶次から距離を取ろうと歩き出そうと左足を踏み出す。

 

「あ、だとしらぁ・・・・・・」

 

 そう言いながら音もなく慶次は龍兵衛に近付いて耳元に口を近付ける。

 

「最近、抜いてすっきりしてるぅ?」

「ぶーっ!? ごっほ、ごっほ・・・・・・」

 

 幸い周りに建物の角や木が立っていなかった為、動揺して足の指をぶつけるということは起きなかったが、吹き出した時に何故だが何かが気管に入ったようにむせてしまう。

 それを見た慶次はにんまりと笑って更に畳み掛ける。

 

「当たりね?」

「はぁ、はぁ・・・・・・んんっ! 外れ、大外れです」

 

 息遣いを少し荒くして耳元で囁く慶次に対して息を整えながら龍兵衛ははっきりと答える。

 

「えぇ~最近は一人寝みたいだし辛くないのぉ? あ、自分でやるっていう手もあったか」

「勝手に決め付けるな!」

「だってぇ、やっちーの所にも最近行ってないからつまらないって自分で言ってたわよぉ」

「何故、弥太郎殿とそんなことを不満にしているのかは脇に置いておいて・・・・・・別に俺だって困っている、訳、じゃあ・・・・・・」

 

 慶次は良いことを聞いたと鼠を見つけた猫のような笑みを浮かべているのを見て慌てて口を手で抑えるが、笑みを浮かべたまま彼女は更に龍兵衛との距離を縮める。

 

「(・・・・・最悪)」

 

 先程、自身に言い聞かせていたにもかかわらず、早速口を滑らせてしまった。しかも、相手はよりによって間違いを訴えても聞いてもらえない慶次。

 龍兵衛に残された手段はただ一つしか無い。 

   

「今の無し!」

「逃がす訳無いでしょ」

「ぐえっ・・・・・・」

 

 最終手段の逃走を敢行とした瞬間、首の後ろを掴まれた為、一瞬だけ窒息してしまい、一瞬だけ龍兵衛の意識は暗転した。

 復活した龍兵衛は生きていることを確かめる為に大きく息を吸って吐いてを繰り返してから平静を努めて慶次に向き直る。

 龍兵衛の視界には大笑いして腹を抱えている慶次がいた。つぼだったらしくなかなか笑いを収めてくれず、周りを歩いている兵から少しずつ注目を浴び始めてきた。

 

「・・・・・・」

「痛ったぁ・・・・・・女の子を殴るなんてどういう神経してるの?」

「(無性に腹が立ったからですけど何か?)」

 

 龍兵衛の慶次の大笑いによる苛々と周りの視線による恥ずかしさの合わさった気持ちをよそに慶次は周りに誰もいなくなったことを確認すると腕にまとわりついて景勝では味わうのは到底不可能な感触を彼に与える。

 

「誰、言わないから教えて?」

「いません」

 

 無表情で言い切ると慶次は再び少し顔を赤らめて小さく甘い声で囁いてくる。

 

「なぁんだ、やっぱり溜まってるんじゃない。じゃあ、今夜どう?」

「お断り致します」

「ん~つれないわねぇ」

 

 面倒だと軽くあしらう龍兵衛につまらなそうに返す割に押し付けて形を変える胸が嫌でも龍兵衛の欲情をかき立てるが、上から理性の岩が抑え付けることを頭で想像して彼は自身の気持ちを静める。

 そして、帰れと邪魔な虫を追っ払うように手でしっしと慶次と距離を取ると素直に彼女も諦めてどこかに消えて行った為、ようやく落ち着いて近くにあった木材の山に腰を下ろすことが出来た。

 

「まったく、あいつの誘いは遊びでも辛いなぁ」

 

 戦になってもいないのに今日はかなり疲れてしまったので戦の最中だが、仕方ないと龍兵衛は仮眠を取りに夕方になっている上杉軍の陣屋を歩いていく。

 それから仮眠を取ったが、夜になって龍兵衛が身体を起こすと何故か猿が乗っかっていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百二十八話 負け犬の恨み

 岩櫃城では謙信率いる上杉軍が着々と敵の足並みが揃わない内に周辺の柳沢城や郷原城という支城を落とした勢いで岩櫃城の出丸である天狗丸を奪回し、落城まで後僅かといったところまで追い込んでいた。

 

「堅牢で名高かった城も人が変われば意味が無いものか」

「ええ、ここまでが呆気なさ過ぎたので何か敵に策があるのかと思ってしまった程ですからね」

 

 沼田城と岩櫃城を比べて岩櫃城の方が堅牢だと軒猿の報告から判断して謙信は岩櫃城に向かった訳だが、さほどの抵抗も無く、これといった敵の策も無く、一週間してあっという間に上杉軍は蟻の這い出る隙間も無い程包囲した。

 後は降伏勧告の使者出して一週間程度、警戒を怠らずに待っていればさしたること無しに箕輪城へと向かうことが出来る。

 のんびりと謙信は水を飲みながらどこかに視点を合わせるでもなく、上を見て空の中を飛び回っている鳶を眺める。

 颯馬がここにいないことも原因かもしれないが、早くまたのんびりとした春日山城での生活に戻りたい。まだ始まったばかりなのにそう思ってしまう。

 普段から颯馬と共にいるのもそうだが、目の前で渡した水を恭しく受け取って飲んでいる兼続達とも騒いでいる方が当たり前だが、楽しいのだ。

 

「御注進」

 

 段蔵が音も無く、すっと現れたことで意識を戻した。彼女は謙信の内情など考えずに普段ののびのびとした口調とは違う至極真面目で報告する。

 

「沼田城の景勝様の軍が敗れたらしいよ」

 

 謙信は落ち着いた様子で周りに報告を聞いて驚いているように目を見開いている兼続以外に誰もいないことを確認すると段蔵にもっと近くに来るように手を招く。

 

「先程、厩橋城を落としたと家成から報告が上がったばかりだというのにか?」

「その間に手薄になった本隊を叩いたみたい」

 

 謙信はおとがいに手を当てて考える素振りを見せるとゆっくりと曖昧に二度三度頷いて再び口を開く。

 

「被害はどのくらいだ?」

「五百名が戦死。負傷者はその倍だって」

 

 聞き終えた途端に顔の向きを段蔵から兼続に変える。相変わらず驚いたままだが、謙信は構わず会話の相手を彼女に変える。

 

「兼続、岩櫃城の者にこれが知られる前に開城要求を受けさせることが出来るか?」

「え・・・・・・精一杯努力してみますが、かなり難しいかと。いざとなれば強攻も考えなければなりません」

 

 まだ衝撃から身体が上手く反応しないらしく、兼続の反応は若干遅れているが、現状をはっきり言ってくれたおかげでそれなりの戦略と戦術を立てることが出来ている。

 

「兼続はとにかく交渉に全力を注げ。段蔵、岩櫃城に潜入出来るか?」

「それぐらいなら出来るけど」

 

 不安げな段蔵に謙信は大丈夫だと安心させるように笑みを浮かべて手をひらひらさせる。

 

「何、無理難題をふっかけるようなことはしない。厩橋城が落ちたことを強調して噂を広めてくれれば良い」

 

 その程度なら段蔵は簡単だと笑顔で頷くとまた音も無く消えて行った。

 

「相変わらず見事な身のこなしだ」

「ええ、敵で無くて本当に良かったです」

 

 落ち着きを取り戻した兼続は感嘆から出る溜め息を吐く。いつもならここで段蔵が珍しく褒めてくれたと兼続の目の前にいきなり現れて抱き付いて来るところだが、さすがに現れない。

 普段はふらふらとしていて堂々と春日山城で慶次と悪戯で張り合って目立っているが、実際に段蔵のおかげで上杉は国内外の情報や謀略が上手く行っている。

 裏で暗躍を続けている公はともかく、いつも軍師達が咎めるべきところだと上げているのは私生活での大道芸だ。

 何回も全員から説教を食らっているにもかかわらず、彼女は一向に改める気が無いらしい。

 謙信も段蔵がやっているのは本人には隠しているが、知っている。咎める気も無いのと城下町の民が盛り上がっているので別に良いかと思っている次第である。

 

「謙信様、それよりも如何致します? 岩櫃城がこの程度ならすぐにでも援軍を差し向けては?」

 

 今は関係無い方向に行きかけた思考を兼続が戻してくれたおかげで謙信は負けたという情報が入ってきたにもかかわらず、少し緩めていた口元を真っ直ぐに戻すことが出来た。

 

「いや、厩橋城を落としたとすれば沼田城は孤立する。さすがに城主も箕輪城に退かざるを得まい」

「それが、城主の猪俣邦憲は全く退去する素振りを見せずに抵抗を続けていると」

「ほぉ・・・・・・」

 

 興味深げに謙信は目を見開くと兼続に事の仔細を聞かせるようにと手で近くに来いと招き寄せる。

 兼続によると邦憲は上杉軍に勝利したことで気を良くしたせいか、如何に龍兵衛達が攻めようとも撤退する素振りを見せずに撃退しているらしい。

 

「遮二無二攻めて落ちる城で無いことは景勝様も龍兵衛も承知しております。いっそ、こちらから援軍を派遣しては?」

「いや、それでは岩櫃城に悟られては沼田城の情勢を教えているものだ。猪俣を逆に発奮させることになりかねないぞ」

 

 すかさず謙信は首を横に振って援軍は決して向こうから要請が無い限り送らないと言って兼続を驚かせる。

 岩櫃城の包囲は完全だが、沼田城は不完全のままなかなか突破口を見出すこと出来ずに劣勢になっている。

 小田原方面からの情報は途絶えたとはいえ、岩櫃城から援軍が来たということは簡単に掴める状態である以上、邦憲が何か手を打つことも考えられる。

 更に言えば、仮に岩櫃城に上杉軍が沼田城に援軍を派遣したことが発覚すれば順調に進めていた開城交渉が破綻する可能性もある。

 

「すぐにとは言わん。兼続、多少脅しても構わない。岩櫃城との交渉を急がせろ。決して悟られるな」

「承知」

 

 おとがいに手を当てたまな謙信は兼続が出て行くのを見届ける。

 せっかちでは無い謙信だが、さすがに事情が事情なだけに急がせなければならない。北条との戦線以外にもこれと言った戦果が報告されていない現状を考えるとそれなりにここで堅牢な二つの城を落としたという大きな戦果を見せておかなければ上杉に付こうとしている国人衆達も北条に靡いてしまう。

 早雲は箕輪城に娘の氏康を入れて上野の援軍に形ばかりは向かわせているが、それ以降、氏康は動く気配が無く、岩櫃、沼田両城を見殺しにする姿勢だ。

 しかし、北条は家臣との繋がりを重要にしている家である。しかも、沼田城の邦憲は北条の直臣。見過ごしておくことで得る北条の利益は無い。逆に直臣以外の者から不信感を抱かせる可能性がある。

 もしかするとその裏で何か謀を企んでいるのかもしれない。

 深く考えるときりがないので止めておくが、考え込まなければ相手が北条である以上、太刀打ち出来ないのは明白である。

 早雲にしろ氏康にしろ知略に長け、小田原城や河越城を奪うにも不利な状況にあったにもかかわらず、二人が敵を油断させるお膳立てを簡単に行ってみせたと聞いている。 

 未だに追い詰めている状況でも無いのに上野で右往左往していては先が思いやられて気が滅入ってしまう。

 いかんと謙信は自身に言い聞かせると一人になった陣幕の中で地図を眺める。

 憂いているのは厩橋城と箕輪城の距離がかなり近いということ。岩櫃城がもう少しである為にさほど問題ではない。しかし、もしかしたらということもある。

 密かに謙信は軒猿の一人を呼び出すと書状を沼田城に送るように命じた。

 

 

 

 

 

 

 沼田城の上杉軍は敗れた故に、軍の再編と今後の打開策を練ることに将達は追われていた。

 苛々を隠せない顕泰の貧乏揺すりの音が陣幕に響き、他に音や誰かが発する声は一切無い。あるとすれば龍兵衛が書状を丁寧にめくる音ぐらいだろう。

 彼は全てを読み終えると書状を机の上に乱雑に置いて溜め息を吐いた。

 

「周りの人からの返事はどうなの?」

「由良殿以外は未だに返答が無い。越後を立った時にはかなり良い返事を貰っていたんだが」

 

 溜め息を終わった合図と見た慶次からの問いに龍兵衛は溜め息混じりで答える。

 由良とは由良成繁のことで下野との国境付近で館林城の近くに位置する新田金山城を本拠地にしている国人衆である。

 他にも龍兵衛と兼続は長尾景長や下野の小山と宇都宮にも声を掛けていたのだが、援軍を派遣してくる気配が見られない。

 中にはすぐに上野まで馳せ参じると書状で約束していた国人衆もいた。邦憲に敗戦してから間も無いにもかかわらず、早過ぎる切り替えに一瞬、龍兵衛は首を捻る。

 だが、すぐに片目をぴくっと細めると眉間の皺を一気に寄せて頭を右手でぼりぼりかく。

 

「ちっ・・・・・・背後に風魔の手があるか」

「間違いないわね。多分、沼田城を落とさない限り静観を続けている小山や宇都宮も北条に靡いてしまう」

 

 真面目な口調の慶次程、説得力が無い人は日の本広しと言えどもいないだろうと龍兵衛は思っている。

 せっかく大きな犠牲を払ったとはいえ厩橋城を落として経路を断ったのだから邦憲が嫌でも沼田城は破棄しなければ北条の救援が無い限り生きる術は無い。

 厩橋城には既に上野家成が入り、箕輪城の北条軍に対する防備を急がせている。家成自身、武勇では兼続や龍兵衛と良い勝負程度だが、外交交渉を任されることが多いことからそれなりに頭が回り、駆け引きも得意としていている。

 だが、北条はそれ以上に素早い動きで下野などに沼田城の上杉軍が負けたことを風潮し、一度は上杉に付こうとした国人衆に揺さぶりを掛けている。

 推測になるが、その過程でそれとなく上杉が国人衆に出した味方をすることで与える予定の恩賞を聞き出し、北条に付いて上杉軍を撃退すれば  

 あざといが、上杉も人のことは言えない以上、何か手を打たなければいけない。

 

「向こうの道が断たれていることを利用して岩櫃城が落ちたことと箕輪城の北条軍が援軍を派遣して来ないと間者に城内へ入り込ませて噂を流すのは如何でしょう?」

「(うんうん)」

 

 了承されたと景勝が頷いたことで察した龍兵衛は頭を下げて陣幕から出て行こうとするが、まだ話があると景勝に止められる。

 少し目を見開いた龍兵衛だが、ちらりと景勝が地図を見たのを確認すると彼女の隣に戻る。景勝は来るのを見計らって不安げに声を掛けて来た。

 

「沼田城、どうする?」

「難しい問題を解くのにすぐに答えを出そうとするのは愚かなこと。少々、周り道をしてみましょう」

「どういうことです?」

 

 焦りに加えてのんびりしたような返答を龍兵衛が景勝に返したことで顕泰の苛々は頂点になろうとしている。だが、龍兵衛はそのような顕泰などお構い無しに顎をさすってゆっくりと口を開く。

 

「自分はてっきり猪俣という将がはっきり言うと大したことが無いから上野に置かれているものだとばかり思っていました。そのことを反省して少し戦術を変えます」

 

 いよいよ強襲に切り替えるのかと慶次や業正がぐっと身体に力を込める。それを見た龍兵衛は一切躊躇うこと無く、口を開いて二人に釘を刺す。

 

「断っておきますが、沼田城を力攻めで落とすなどという愚行は決して致しませんので」

 

 がっくりと慶次がわざとらしく肩を落とすが、無視して龍兵衛は地図を見ながら続ける。

 

「本来なら猪俣を引っ張り出して戦うのが一番の良策ですが、出て来ない以上、こちらから動かなければ勝利は難しいでしょう」

「しかし、動けば前の戦の例もある。猪俣に隙を見せるだけにならぬか?」

 

 顕泰のまるで先の戦の敗因はお前にあるというような言い方に龍兵衛は苦笑いを浮かべてその通りだと頷く。

 先の戦では邦憲に上野家成を厩橋城に派遣して隙が出来たところを二日連続での夜襲を受けて敗れた。慶次と業正の奮戦が無ければ下手をすると龍兵衛も刀を持たなければならなかっただろう。

 幸いにも慶次が景勝と共にまとめて守ってくれたのでどうにか肩の寿命を減らすことは無かった。

 そう考えると顕泰の言い方は間違っていない。まだ官兵衛達と共に常陸方面から南下している安田能元と違って気が変わりやすく扱いには困らない。また、間違ったことを言わないのときちんと空気は読んでくれるので息巻いているのを窘めればまだ許せる。

 

「いい加減、流れが向こうに傾き続けている状況を変えなければなりません。その為には負けたとはいえ動かなければ」

 

 そもそも、攻める側の軍が動かないなど本末転倒も良いところである。

 龍兵衛は普段、政治家として内部の処理や不正の摘発に法の浸透を図ることや他国の情報収集の管理、戦うべき相手を決める戦略を行うことが本来、期待されている。

 故に、今までの大きな戦では一人で戦術を考えるということは魚津城での戦ぐらいしか無い。もちろん、龍兵衛が戦術は全く出来ないという訳では無いということは魚津城で証明されている。

 故に、ここで拙攻を行えば謙信と合流して岩櫃城が落ちるのを待たなければならないことも百も承知。だが、彼とて人の子。包囲を続けて黙っているばかりは嫌である。

 

「今日の夜、動きましょう」

 

 突然のことに聞かされていなかった景勝も目を見開き、将達も隣同士で話し合って

 勝つか負けるかの世界にずっと居続けた龍兵衛は負けず嫌いで、そこに道三から受け継いだ蝮のようなしつこさを内面に持っている。

 局地戦の一度とはいえ、負けたことで龍兵衛の内心は狂ったような悔しさと怒りが負けた日から激しく燃え盛っていた。 

 

「まだ兵の中には動けない者もいるというのに攻めるのか?」

「構いません」

 

 顕泰の抗議を聞き入れずに龍兵衛は視線を図へと移す。 

 取るに足らないと思っていた猪俣邦憲という人物が戦上手であることを知らなかったとはいえ出だしから敗れたのは痛い。

 故に、その痛さは取り返し、意地を見せて仕返しをしなければ龍兵衛は気が収まらない。俗にその感情を憎悪と呼ぶ。

 

「上手く行けば今いる兵の三分の二程度で事は済むと思いますよ?」

 

 八つ当たりに等しくても勝てれば全ては勝利という大きな箱の中に消えて行く。

 龍兵衛が邪気を孕んだ笑みを必死に押し隠しているのを景勝だけが悟って悪寒を感じていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百二十九話 面倒でしょうが

 沼田城の上杉軍は粛々と撤退の準備を始めていた。

 しかし、それはあくまでも表向きのこと。既に業正に命じて五百の兵を密かに先に撤退したと見せ掛けて三国街道を繋ぐ道に伏兵として配置している。

 邦憲は小田原城からの援軍が来ていないことから沼田城を守るよりも勝利を得て早雲を見返してやろうと躍起になっている筈。故に、撤退したと聞けば喜び勇んで追撃して来るだろう。そこを伏兵で挟み撃ちにし、守りが薄くなった沼田城を奪い取る。

 上手く行けば本当に負傷兵をわざわざ使うこと無く、終わるだろうが、龍兵衛は若干の不安があった。もし、邦憲がこの少し早い撤退を怪しく感じ、城から出なければこの策は成功しない。

 そのことを景勝から指摘され、そうなった時の次善策を尋ねられた龍兵衛は表情を変えずにしれっと答えた。

 

「長野殿は厩橋城に向かって頂き、自分達はそのまま謙信様と合流します」

 

 景勝は一瞬、かなり驚かされた。しかし、良く考えればそれはまた戦術でもあると納得した。

 厩橋城が上杉の手に落ちた以上、補給路は断たれ、苦しくなるのは沼田城の方である。更に、上野の城を攻略されて行って孤立無援になるのは向こうの方。

 綿縄で徐々に首を絞めるように邦憲の進退を窮まらせるのだ。

 

「まぁ、言い方が悪いですけど。徐々に沼田城の者達には苦しみに喘いでもらいますよ」

 

 思っていた言葉よりも比較的抑えた物言いのつもりだったが、景勝は若干引いてしまった。失敗したと龍兵衛は苦笑いを浮かべて頭をかくとその様子を見て安心したのか景勝は取っていた距離を元に戻して質問を始めた。

 

「負傷兵、どうする?」

「安全な所かつ、敵から見えにくい場所に移動させ、援軍が来たように思わせれば良いかと。鬨の声を上げさせ、動揺を誘うのです」

「戦わせる?」

 

 当然、戦わせることはしないと龍兵衛は首を横に振る。彼とて冷淡な性格であっても冷酷で酷薄な性格ではない。

 兵をこれ以上傷付けるのは嫌である。なおかつ、私心になるが、顕泰から何かとうるさく言われるのが嫌なのだ。

 ただでさえ北条に背中を二度も向けられるかとこの策に反対していた彼を宥めるのにも苦労したのだから失敗すればまた間違っていないことをはっきりと言われる。それが嫌で龍兵衛は堪らない。

 

「(何でかなぁ。兼続と違って心に嫌な感じで残るんだよなぁ・・・・・・)」

 

 兼続の場合は真摯に心に刻まれ、それでも嫌な気分にはならない。一方、顕泰のそれは例えるならかつて良く受けていた運動部の顧問から浴びせられる理不尽な叱りにも似ていた。

 心に小骨が刺さったようにすっきりしない気分に以前に言われた時もなったので二度とそのような思いはしたくない。 

 逸れた思考を戻す為、額を軽く摘まむと龍兵衛は再び口を開く。

 

「後、沼田殿に殿を任せましょう。あの御方ならこの辺りの地理にも詳しいでしょうし。負けることも、特に北条相手では・・・・・・」

 

 そこまで言うと龍兵衛は口を抑えて何も言わずに咳き込むふりをする。

 形ばかりの御方という言葉が使えてほっとした龍兵衛だが、頭の片隅では他の考えも持っていた。

 もし仮に、邦憲が策を見破り、伏兵を抑えた上で殿の顕泰に襲い掛かれば顕泰とて無事では無いだろう。

 業正には邦憲が伏兵を叩こうとしているのであれば下手に抵抗はせずに素直に撤退し、本隊と合流するように指示を出している。

 つまり、顕泰は名誉の討死を遂げることが出来るのだ。沼田城という自身の故郷を取り戻そうと北条に最期まで気概を見せて抗ったという素晴らしい話だと後世にまで残るだろう。

 あくまでも最悪な状況になった時だが、顕泰の存在はそれなりに大事にしなければならない。沼田城は上野の要所であり、越後と関東を結ぶことは上杉の中で知らない者はいない。

 故に、龍兵衛は面倒なのだ。はっきりと言われて何かと心に残る物言いをしてくる顕泰がだ。しっかりしていれば彼は何も言わないが、失敗した途端に機嫌がころっと百八十度変わる。

 面白いと言えば面白いが、根が真面目な龍兵衛にとってそれは苦手な部類に入る。これからは近くにいることが少なくなるだろうが、あわよくば永遠に顔を合わせなくなっても良いのではないかと思い、この配置を景勝に進言した。

 景勝は龍兵衛の邪な腹の中を見抜くことなく、そのことを了承すると顕泰に指示し、彼も従った。

 今、龍兵衛は景勝と共に忙しく動く兵達の様子を見守りながらこれからの決戦に向けて内心、意気込んでいる。

 敗戦とは敵はつけあがり、味方の中でも良い印象は与えず、やはり変な噂が飛び交うことも有り得る。一度だけで負けは十分。敗戦の印象をかき消す勝利を得れば良い。

 内心の燃える心を隣で兵を眺めていた景勝はおもむろに龍兵衛を見た時に目敏く察したらしく声を掛けて来る。

 

「龍兵衛、負けず嫌い」

「ええ、自分とて負けるのは嫌です」

 

 珍しいものを見たと目を見開いている景勝に気付かず、無意識に龍兵衛は熱い感情を籠めた声で答える。

 命を取られることは別として基本的に一発勝負の世界に身を置き続いていた為、性格が自然とそうなってしまった。

 それが生きるか死ぬかの世界に放たれて更に汚い手段も平気で使えるようになり、

 

「負けたくないのであればどのような手段でも取ってみせる。それを自分が見せて御覧じましょう」

 

 そう言って滅多に表情に変えない龍兵衛は景勝の目の前で邪気を丸出しにした口元だけをつり上げた笑わせた。

 一瞬、驚いた景勝だが、すぐに切り替えて龍兵衛を伴い、陣屋の机に龍兵衛と対面する形で座る。そして、龍兵衛が机の上に置いてあった地図に指を当て、今一度、策を確認しようと口を開きかけた時。

 

「景勝様、謙信様より書状が届いております」

 

 

 

「『もし、三日以内に沼田城を落とせなければ、我らと合流して態勢を整えてから全軍で沼田城を攻撃する故、そのつもりでいるように』か・・・・・・ふーん・・・・・・」

 

 邦憲は曖昧に何度か首を上下させると書状を家臣達に回して行く。読み進める家臣達はざわざわと書状を指差して色々と話し合っている。

 

「なかなかの情報じゃない」

 

 かれらをそのままにしておいて邦憲はおとがいに手を当て、邪気を孕んだ笑みを浮かべる。

 今日届いた書状だとすれば後、上杉軍には三日の猶予がある。しかし、今から撤退の準備を始めているということはこれ以上の無駄な犠牲を出さない為に恥を忍んでまで謙信に頼るということだ。

 情けないと言えば武人の考えだが、邦憲は決して阿呆では無い。この決断は賞賛出来る。家臣達が情けないだの恥知らずだの蔑みながら笑っているが、良く考えれば後々の戦に支障が出ないようにしている。

 偶然、外の様子を密かに見に行き、怪しい動きをしていた者を捕らえたところ謙信からの書状を持っていた為、すぐに城まで連行してきたのだ。

 

「猪俣様、敵の策ということは考えられませぬか?」

 

 慎重な家臣の発言に邦憲はにやっと笑って首を左右に振る。

 

「実は、前にあたし早雲様と謙信が交わしていた密書を読んだことがあってさ。何となく覚えてたんだけど。間違い無く謙信の字だ」

「では、上杉軍の撤退は真であると・・・・・・」

「さっさと準備しな! 今宵、城を出るよ!」

 

 御機嫌に勢い良く立ち上がって大声で指示を下すと家臣一同がそれに勝る声で『はっ!!』と答え、出て行く。

 ただ一人、慎重な意見をしてきた家臣だけが残り、気に掛かっていたのであろうことを尋ねてくる。

 

「捕らえた者は如何致しますか?」

「そーねぇ・・・・・・」

 

 普段なら即刻首を跳ねるところだが、如何せんそれではつまらない。今、殺さなくても捕らえた上杉軍の兵はこれから仲間が死ぬのだから殺すのはいつでも良いのだ。

 そのことを考えると邦憲は実に面白いことを思い付いたように満面の笑みで手を叩く。

 

「敵の大将って上杉景勝だったよね? あれの首の前で跳ねさせるのも良いかも」

 

 無邪気に遊びを喜んでいる子供のような笑みでそう指示を出す邦憲は自身が家臣の背筋を凍らせる程、冷酷であることに気付かなかった。

 もちろん、尋ねてきた家臣が目を見開いてそのようなことを言うのかと驚いているのにも気付かない。

 思うのは早雲に怒られながらも結局は勝ったから良いと許されるという情景。

 ほくそ笑み、景勝の首を蔑む目で見る自身も邦憲は第三者の目線で見えてきた。 

 そのまま夜になり、沼田城を出た邦憲は自ら先陣を切って夕方頃にゆっくりと撤退を始めた上杉軍を追撃していた。

 様々なことに関して駆け引きという言葉は良く使われる言葉だが、その一つの言葉に様々なものがある。

 猪俣邦憲にとって生涯で一番面倒なことは政治的な駆け引きであった。

 戦のように全てを勝ち負けでは判定出来ないのが一番の原因であった。曖昧なところがあるのが邦憲が政治的駆け引きの大が付く程に嫌いな原因である。

 故に、上野沼田城に中央から追い出されるような形で入ったのだが、それなりに動きやすい場所を得た為、上杉軍が来襲した時には必ず追い返そうと意気込んでいた。

 その時が来たと上杉軍に対して邦憲は全力で戦った。相手が謙信では無かったのが残念だったが、景勝を討てば上杉に与える衝撃は大きい。

 虎視眈々と機会を狙い、先の戦で時を得たと攻め込んだ。結局、敵将の前田慶次にそれは阻まれたが、勝てる手応えは十分にあった。

 間者によると上杉軍の被害は一千にも上ると聞いた。

 そのこともあって上杉軍が簡単に退いたのは沼田城を諦めたと単純に思った。最初こそ早いと思って訝しんだが、謙信からの書状が決め手だった。

 明らかに謙信の字面であった。邦憲自身、その時は出る幕で無いとぼんやりと書状を読んで隣にいた外交僧に渡した。

 適当に読み流していたのが逆に幸いしたのかもしれない。再び同じ字面が邦憲の目の前に現れた時、一瞬で小田原城の評定の間での記憶が蘇った。

 ついている。にやっと笑いながら視界が上杉軍の背中を捉えた時、邦憲は発狂に近い声を上げた。

 

「ほら行けぇえええぇ!! 北条の意地だ。たんと食らわせてやらあぁあああ!!」

『応ぉおううぅう!!』

 

 答える兵達の声も邦憲に負けていない。

 二度のうるさ過ぎる声に上杉軍の最後尾にいた兵達は驚いて一瞬、足を止める。それが命取りとなった。

 邦憲の白刃が最後尾にいた兵達の首を飛ばし、更に飽き足らないと真一直線に上杉軍の後方に斬り掛かる。

 殿の大将らしい将が何か叫んでいるが、邦憲にとってそれは良い目印に過ぎない。その方向に突き進み、首をかき斬って景勝を討ち取る前の現担ぎにでもしよう。

 ほくそ笑みながら邦憲は思考を再び戦に切り替えると声の方向に真っ直ぐ向かう。

 

「猪俣様ー!」

 

 背後から蹄の音と共に物見が大慌てでやって来た。

 良いところだったのに見事に水を差された邦憲は玩具を取り上げられた子供のように頬を膨らませる。

 

「猪俣様、敵の伏兵が我が軍の背後を襲撃し、沼田城から煙が上がっております!」

 

 膨らんだ頬が割れたように引っ込み、時が邦憲の周辺だけ止まった。目を見開き、呆然として、わなわなと持っている刀が震える程、動揺してしまう。先程まで

 籠城戦で勝とうと欲が出てしまった邦憲の背中に冷や汗が大量に流れた。

 そのまま邦憲は是非も無いと遮二無二、敵陣に突撃しようとしたところを家臣に止められ、守られながら林の中に身を潜めることとなった。

 家臣に貧乏揺すりはしない方が良いと諫められたが、邦憲は気にせず、爪を噛んで更に貧乏揺すりの振動を激しくさせる。

 負けたことへの悔しさは無い。早雲に対する申し訳無さと籠城戦に完全な勝利を見ようとした自身の愚かさを嘆くばかり。それが怒りに近い感情を呼び、貧乏揺すりへと繋がっている。

 するとどこからか馬の蹄の音が聞こえて来た。敵かと邦憲の配下は腰を上げるが、邦憲はそのまま下を向いている。

 上杉軍が有能であることは知っている。故に、誰かがはぐれてわざわざ誰かが潜んでいるかもしれない敵地の林にやって来ることは無いと確信がある。

 

「猪俣様! 由良が館林城に攻め込み、落城した模様!」

「ああ? 由良って金山城の? 裏切ったの?」

「それが、かなり前から示し合わせたもののようでして・・・・・・」

 

 いつものような口調で答えていたが、最後に斥候ががっくりと肩を落として言った報告を聞いた途端、邦憲の表情が般若の如く険しくなり、思いっ切り持っていた刀を叩き付けると代わりに短刀を取り出して首に刺そうとする。

 不甲斐ない。自らが政治的なことを知らないが故に、そこに見事に漬け込まれた。武人である邦憲は沼田城の敗北の責任を取る方法はそれ以外方法が無い。

 慌てて配下の者達が必死に止めるが、邦憲はじたばたとかれらの手を振り解いて上から鋭く睨み付ける。

 

「あたしは早雲様の命を破った上に負けたんだよ!? 生きて合わせる面が無いよ!」

「しかし、猪俣様がここで命を落とされては下野や残る上野のお味方が上杉に走りますぞ!」

「んなこと知るかぁああぁ!!」

 

 雄叫びを上げて再び短刀を喉に刺そうとしたが、また家臣達がそれを止め、腹に拳を喰らわせてどうにか落ち着かせる。

 家臣達は近付いて来るがちゃりがちゃりという音を聞き、互いに頷き合うと半数は音の方向に突撃を掛け、半数は気絶した邦憲を馬に乗せて一路、箕輪城へと向かった。

 

 

 

 結果として上杉軍は朝日が上がる頃には沼田城へ入ることが出来た。北条軍の結束は固く、最期まで抵抗を見せる者がほとんどで何人かいた上野の国人衆が降伏したばかりで奇襲を仕掛けた割には少し上杉軍も血を多く流すことになった。

 しかし、終わってしまえば勝利であり、ずっと沼田城に入りたがっていた顕泰は一番乗りの手柄も立て、ほくほく顔で兵達と談笑している。

 気持ちは分からなくないと龍兵衛は苦笑いを浮かべながら彼を横目に邦憲の部屋であった所に入ると箪笥に手を掛け、中を一段一段丁寧に改める。そして、四半刻程、経った時に彼はにやっと笑みを浮かべた。

 

「あったあった・・・・・・」

 

 普段、決して見せないようにしている口元の片方だけをつり上げて目は一切笑わせていない笑みを浮かべながら龍兵衛は邦憲が入手した上杉軍の書状を懐に押し込む。

 龍兵衛の邦憲が策に掛かってくれるかという不安な思いを雲散してくれたのは謙信からの書状だった。利用すれば上杉軍の撤退が現実味を増し、邦憲は追撃を行ってくれるだろうと考えて書状を新たに作らせた。

 作った甲斐があったと声を上げて笑っている心を落ち着かせる為に龍兵衛は一度、深呼吸をして外に出る。

 本当は一週間以内と書かれていたところを勝手に龍兵衛が書き直させておいたものに他ならない。

 謙信からの書状は正に渡りに舟だった。邦憲が北条の重臣であることは龍兵衛は軒猿の情報で知っていた。先の戦でそれなりに戦える者だということも分かった。

 故に、現実味のありながらもありきたりな策を以て挑んでみた。

 案の定、邦憲は釣れた。一週間という期限を勝手に三日に短縮したのも幸いしたらしく、邦憲は真っ直ぐ上杉軍に突っ込んで来た。

 業正に伏兵を出す判断は任せていたが、完全に北条軍が殿の軍に目が行くところという絶妙な時に出撃してくれたおかげで沼田城も守備兵の抵抗があったが、それ以外はさほど苦労無く城を完全に制圧することが出来た。

 追手や残党狩りを出しても結局、邦憲の首を取ることは叶わなかったが、多大な犠牲を北条は払った。

 顕泰は危うく首を取られそうになったと苦言を呈したが、沼田城を取ったから良いじゃないと慶次の絶妙な慰めで事なきを得た。

 書状が燃えていく様を見ながら龍兵衛は今回の戦を思い返す。先の戦で本来なら邦憲は撤退するべきだった。彼がもし彼女の立場ならそうしただろう。

 敢えて、送った偽の書状を読んだことで邦憲は追撃を決意したと捕虜となった邦憲の家臣から聞いた時、成る程と龍兵衛は納得した。戦働きと戦特有の勘は鋭いようだ。

 しかし、そこに駆け引きが関わるとその優れたものが故障した歯車のようにぴたっと動かなくなる。例えば今回のように早雲から箕輪城まで撤退するようにという戦えるにもかかわらず、寄越された書状。

 早雲がそう指示を下したのは万が一、下野の方から上杉の援軍が現れ、沼田城の包囲に加われば間違いなく邦憲は抵抗出来ずに死ぬしかなかった。

 恐れていたのは交渉を続けていた下野の国人衆が先に上杉に寝返ることを危惧してのこと。謀に秀でている者で無くても少し頭を捻れば簡単に分かることである。

 

「(正に、戦特化型人物)」

 

 少し自身が馬鹿をしていると口元を歪ませながらそのまま龍兵衛は少し思考を脱線させる。戦に特化した将となると上杉で言えば景家だろうか。だが、景家の場合は天性の人当たりの良さが幸いして誰かと表面的な対立をするような人ではない。

 

「(ありがたいな・・・・・・面倒なことは無いに限る)」

 

 由良に関しては本当に良い働きをしてくれた。この先にある邪魔な勢力を排除してくれたのと下野にも影響を与えてくれた。

 謙信からの書状では先述の指示の後、但し書きで由良との連携が取れそうならばそれを上手く使って沼田城を取っても良いと認められてあった。

 実際、かなり良い時期に由良は動き、邦憲に上野の支配を諦めさせることが出来た。自覚があるかは分からない。しかし、最後には有益となる。

 

「本当に、謙信様って何をやられても完璧だな」

 

 誰にも聞こえないように呟き、後のことを配下に任せて自身は聞き出した情報を景勝に報告する為に沼田城の一室へと向かう。

 犠牲を払ったのは北条だけでは無い。龍兵衛にとって想定外のことが重なり、今回の沼田城攻めは無駄な時間を使ってしまったのだ。

 挽回しなければ北条との決戦に響く。籠城戦になるか。未だに下野の者達が従っていないのを見て野戦になるか。まだ分からない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百三十話 私は何をやっても駄目な女です

 蘆名領を経由して常陸から南下する佐竹を加えた連合軍は少し緊張感が強まっていた。それは戦がこれから始まるという意味でのものではない。

 史実通りならという仮定の下で龍兵衛が懸念していた通り、伊達と佐竹の間で連合軍ならではの仲違いというあまり良くない雰囲気になってしまっている。

 事の発端は政宗と義重の二人が互いに持ち前の不遜な性格が仇となり、互いにいがみ合いを始めた。

 成実や氏幹は同じ武人として武勇にて名を馳せ、性格的にも合うところがあった為、意気投合したが、当主の政宗と義重が先述の性格のせいか反りが合わず、戦略や部隊の配置を決める時から各々が反目し合っている。

 景綱や氏壁が諫めても聞く耳を持たず、親憲達が自ら陣屋を訪ねても効果は無かった。

 

「ねぇ、どうにかならないの?」

「私に聞くな。上杉ではなかなか無かったことなのだからな」

 

 成実は場慣れしているであろう弥太郎に何とかして欲しいと願いに来たが、彼女も首を振って溜め息を吐くばかり。

 上杉家では派閥同士の対立はあったが、それが表面的に出ることは滅多に無く、普段は軍師達が裏で葬り去ったり、謙信の包容力で解決してしまっている為、弥太郎達が出る幕では無い。

 手伝いをしたことは確かに弥太郎も親憲もあるが、あくまでも手伝いに過ぎず、実際に内部の処理を行っているのは軍師達である。

 軍師として官兵衛は一応いるが、彼女は一度奥州に戻って輝宗に調達して欲しい兵糧の量を頼みに行きながら南部軍の監督に綱元と共に向かっている。

 普通、軍師がいなくなるなど言語道断のことだが、官兵衛が後は何かと馬が合う景綱に任せたと言って出て行ってしまった。

 今のところは政宗も義重も弥太郎や官兵衛の言うことは聞いているのでどうにか保っているという彼女の判断だが、険悪な雰囲気の状況を続けるのはまずい。

 上杉軍の指揮を任されている弥太郎としては戦前に何とか気まずい雰囲気を雲散させたい。

 政治的駆け引きはさして苦手という訳では無いが、本職では無い為、下手に何かをして逆に仲をこじらせるようなことはしたくない。

 取り敢えず、官兵衛が戻って来るまでの三日間で何とかして足並みを揃えなければならない。

 しかし、これがなかなか難儀なことで互いに軍議の時からそれぞれの意見に批判をして全く歩み寄る気配が無い。

 数日前に開いた佐竹を交えた最初の軍議の時からかなり険悪であった。互いに互いの主張を妥協しようとしない。

 

「常陸より攻め入るのであればやはり上総の里見との合流を急ぎ、逆井城へと軍を進めるべきだ」

「否、下野の北条派の勢力を片付けなければ側面を突かれる可能性がある」

「・・・・・・伊達殿、この佐竹義重は貴方よりも関東のことには詳しい。下野の連中は腰抜けでどっち付かずが多い。

「ほう、言ってくれるではないか。しかし、追い詰められた鼠程、怖いものはない。我らに恐怖を感じて闇雲に攻めて来る可能性もある。万全を期してこそ勝利は得ることが出来るのではないか?」

 

 そこから互いに罵倒合戦が始まった。兼続と颯馬のような微笑ましい光景など一切無く、互いに互いを多く語らずに睨み合い、見えない刀で鍔迫り合いを繰り広げる。

 

「東北の田舎侍がほざくな・・・・・・」

「ふっ、いつまでも北条と戦おうとせずに謙信公に頼らざるを得なくなった者がほざくわ・・・・・・」

 

 がたりと音を立て、義重は勢い良く立ち上がる。丁度、正面に立っていた政宗をお前に言われたくないと言うように睨み付ける。

 答えるように政宗は座ったまま不敵な笑みを浮かべ、ますます義重の神経を逆撫でる。

 

「お前ら、いい加減にしろ! 今は軍議中だ」

 

 弥太郎が机を鳴らして二人は止める気配は無い。無視したかのように互いに無言で睨み合い、政宗も義重の狂犬のような睨みに表情を引き締め、若干腰を上げて迎え撃つ姿勢を取る。

 いざという時の為に親憲が気付かれないように立ち上がると事が起きればいつでも二人の間に入れるように準備する。

 隣にいた氏壁が止めるのを聞かずに義重はこめかみに青筋を立て、徐々に手を伸ばしてはならない方向に伸ばす。氏幹が身体を張って止めようと腰を浮かせようとした瞬間。政宗の左隣から声が聞こえてきた。

 

「あの。お二人とも、落ち着きになられては? 小島殿もお困りのようですし・・・・・・」

 

 盛隆の小さいが、強い抑止力のある声に義重と政宗は驚き、同時に義重から強い気が消えた。

 

「・・・・・・蘆名殿から止められては致し方ない。だが、次で必ず結論は付ける」

 

 義重は政宗を威嚇するように一瞬、睨み付けると音を立てて大人しく座ってくれた。

 盛隆が間に入ってくれなかったから二人は公の場であるにもかかわらず、刀の一閃を見せたかもしれない。

 安堵の溜め息が陣幕に響き渡るのを聞いて弥太郎は話を続ける。

 

 金上盛備は兼続程の小柄な体格で可愛いらしい女性であると蘆名家の中ではかなり男性陣の評判になっている。

 しかし、当の彼女本人はそれを決して鼻にかけること無く、ただ武人として蘆名家を支えようとしている。それが尚更、男性陣からすると魅力に感じる一因でもある。

 しかし、人間誰にでも欠点は付き物であり、なかなか修正出来ないものも存在する。

 

「ぶっはぁー! あぁ、今日の盛隆様、最高だった~!」

 

 盛備においては酒癖の悪い一面がある。酒を体内に入れて四半刻、見事に出来上がった盛備は先程から盛隆を称賛する同じ発言を既に飲む毎に十回ぐらいは言っている。

 普段は滅多に飲まない盛備だが、蘆名家の中で筆頭の地位にいる彼女は普段から抱えるものは多く、かなり鬱憤が溜まって来ると酒に手が伸びて色々と面倒なことになってしまう。

 そして、今日もまた蘆名のことでは無いが、結局、佐竹を立てることにして逆井城へと進軍することになった。

 政宗も官兵衛と景綱が説得したおかげで不承不承ながらも承諾してくれたが、今度は逆井城攻略の先陣を自身達に任せて欲しいと言い出して来た。

 案の定、義重が自分が出した意見なのだから責任を持って我々が行うと言って引かない。結局、翌日にその議論は持ち越しとなったが、そこに寄せ集めに出る欠点がはっきりと出てしまった。

 それに嫌気が差した彼女が酒に手を伸ばしたのは仕方ないことかもしれない。しかし、同じ蘆名の家臣である平田舜範は巻き込まれたことに後悔しかなかった。

 

「金上殿、ほどほどにしなければまた殿から叱られますぞ」

「うるせー! 飲む時に飲まないでいつ飲むんだよー!?」

 

 舜範の指摘に意味が分からない発言で答え、周りからまた始まったという目で盛備は見られている。

 しかし、盛備はお構いなしに溢れんばかりに杯に酒を注ぐと口に入りきらずにこぼれているのも気にせずに呷るとまた「う゛ぁあ~い」と息を吐いたせいで男女問わず引かれている。

 だが、本人はどこ吹く風と更に杯に新たな酒を注ぐとまた口から零れて喉を流れていっても気にしないとぐいっと顔を反らして酒を呷る。

 ひっくり返るのではないかと思う程に反り返って杯を呷ると「う゛ぁあ~」と周りが盛備を女ということを忘れてしまいそうな勢いの息を吐く。

 

「ったくよ~・・・・・・な~んで、戦をする前からこんなにぐだぐだぐだぐだしなきゃあなんないの!?」

「いや、金上殿、某に聞かれましても・・・・・・」

「うるさい! あんたにゃ聞いてねえ!」

 

「じゃあ、こっち向くなよ・・・・・・」という突っ込みを心に留めておき、舜範も絡まれないようにと杯を呷っておく。何でこのようなことに巻き込まれるのか。舜範は思い返してみる。

 二人は古くからの友人で舜範は盛備が酒好きだが、弱いことも前々から知っている。普段から飲まないようにとしつこく言っている。しかし、盛備が飲んでいると聞いて止めようと彼女の下に来た時には既に遅かった。

 

「おいーっす、平田! こっちゃ来て飲め!」

  

 駄目だと諦めながら舜範は盛備の隣に座った。普段はちゃんと敬称を付けるようにと言っている。つまり、今の盛備はただの酔っ払い野郎になった。

 止めるように言えば、がたがたと文句が始まる。仕方なく輪の中に入った舜範の心境は語るまでも無い。

 現在へと思考を戻し、溜め息と共に舜範は盛備を目を合わせないように警戒しながら視線を送る。

 幸い、別の家臣に絡んでいた為、それ以上は舜範に被害が出ることは無かった。だが、盛備が止まった訳でも無く、悪口が肴だと更に言葉を繋げる。

 

「ったく、小島殿もなーんで、あんなにしどろもどろしてんだってぇの。ずばばばっと、言ってりゃあ良いのによ!」

 

 素面の舜範は内心、盛備にそれは無理だと突っ込みを入れる。佐竹はあくまでも上杉に降伏したのでは無く、協力して欲しいと頼んで来た客分である。

 機嫌を損ねるような真似は出来ない。また、ここで上杉が大きく出て、まるで佐竹を下に扱っているのは傲慢な義重とて面白く思わないだろう。

 冷静な思考の舜範をよそに盛備は更に酒を呷り、今までよりも大きな声で叫ぶ。

 

「上杉では鬼小島と呼ばれる御方もやはり殿がいてこそよ。一人では味噌のような者なんだよ!」

 

 そう言うと盛備は限界を迎えたらしくいびきをかいて机に突っ伏してしまった。

 いつもより呆気ないなと思いながら舜範は男である自身が部屋に運ぶのはまずいと女兵に指示を出す。

 一部始終を見ていた為、おろおろと女兵達は周辺に上杉の者がいないか恐々と窺うが、いないと分かると安堵しつつ盛備を肩に担いで搬送していった。 

 

 

 

「はぁ~・・・・・・」

 

 弥太郎の盛大な溜め息が部屋に蔓延する。誰もいない部屋は夜にもかかわらず、蝋燭に火は灯っておらず、大きな影すらも闇に吸い込まれて行くように暗い。

 月だけが弥太郎の味方をするように淡く光を身体に当てている。普段なら誰かと飲み、ぐいぐい行く酒もちびちびと一人で口に含むことしか出来ない。

 本当に偶然だった。盛隆の下に政宗と義重の間に入ってくれたおかげで少々の言い合いで済んだことに礼を言おうと蘆名の陣屋を訪れた時のことだった。

 

「上杉では鬼小島と呼ばれる御方もやはり殿がいてこそよ。一人では味噌のような者なんだよ!」

 

 案内されるがままに陣屋の中を進んでいた際に通りかかった廊下から聞こえてきた盛備の声。場所はすぐ近くという訳では無かったが、その声ははっきりと弥太郎の耳に入った。

 本来ならすぐにでもその場に踏み込んで何か言い返すところだが、出来なかった。何ら上層部の対立を解決出来ていないのだから彼女の言っていることは間違っていない。

 弥太郎は仲違いによる大きな事態への対処をすることが出来ても上手く間を取り繕うことはあまり経験も無い為、どうすれば良いのか分からなかった。その為、軍が成り立っていないのも事実である。

 無自覚に表情が強張っていたのかその場に居合わせた蘆名の兵がどうしようと右往左往しているのを見て弥太郎は精一杯笑って何とか取り繕うとした。

 しかし、小姓は「申し訳ありませぬ」と頭を下げ続け、逆に弥太郎の足を止めてしまった。それが弥太郎にとって聞きたくも無かったことをこちらが逆に盗み聞きしているようで何とも嫌な気分になった。

 強引に小姓の足を動かせることでどうにかその場は凌いだが、盛隆の下から戻っても当然ながら気が晴れることがある筈も無く、溜め息を肴に酒を飲むしかない。

 

「戦前から溜め息ばかりでは勝運も巡って来ませぬぞ」

「水原殿・・・・・・」

 

 慰めるような口調で親憲が声を掛けながら入って来た。言わずとも分かっているであろうから弥太郎は何も言わない。言えば自身も惨めになるということも理由の中に入っている。

  

「某も副将として参陣している身として小島殿の思うことは分かります。しかし、過ぎた慎重さは身を滅ぼすことになりますぞ」

 

 蝋燭に火を灯すと親憲は座りながら弥太郎の様子を一つ一つ観察するように目を動かしている。しかし、弥太郎自身、それに特には嫌悪感を抱かずに短時間で癖になった気がする溜め息を吐く。

 

「分かっている。だが、官兵衛にもあの二人のことに関しては自分に任せて欲しいと強く願われたのだ」

 

 弥太郎はいっそのこと高圧的な態度を敢えて取ることで義重にこの戦での大将は上杉の家臣たる自身だと知らしめるべきではないかと考えた。

 そこに待ったを掛けたのが官兵衛である。義重の性格からして自身よりも傲慢な態度を取る者は気に食わないだろうと逆に連合の欠点を浮き彫りにして北条に付け入る隙を見せると強く反対した。

 そして、このことは任せて欲しいと自信ありげに胸を叩いていた。どうでも良いが、その時、弥太郎は官兵衛がそうするとただ可愛いなと嫉妬した。

 だが、肝心の官兵衛は綱元と共に戦線を離脱してしまった。しかも、何かをするようにと弥太郎には何も言わずにだ。

 つまり、二人の対立を黙って見ていても構わないということ。とはいえ、先程のように辛辣に自身を罵倒されて良い気分になるような者などいる筈がない。

 どうにかしなければならないが、どうにもならない現状を打開する為の策を弥太郎は思い付くことが出来ない。

 

「官兵衛の言う通り、佐竹はあの性格。しかも、上杉に完全に従っている訳ではない。強く言えない状況に変わりはない」

 

 愚痴を言い終えると盛大な溜め息と共に弥太郎は杯を呷る。それから更に酒を飲もうと酒壺に手を伸ばす。だが、その前に親憲が素早くそれを取り上げた。

 

「小島殿、かような状況で貴方が好きなものに頼るお気持ちはようく分かり申す。されど・・・・・・」

 

 そこまで言うと親憲は弥太郎の代わりとばかりに全てを一気に飲み干してしまった。一瞬、驚きから手を伸ばしかけた弥太郎だが、親憲の目を見てすぐに手を引っ込め、息を呑んだ。

 普段、感情を露わにしない彼の目が怒りに燃え、戦でさえも見せないような威圧感を身体中から放っている。

 飲み終え、口元を拭うと空っぽになったことを示すように酒壺を叩き割った。大きな音が響き、破片が辺りに散らばる。

 

「大将たる貴方がそれではますます佐竹の手綱を引くのは難しいのでは?」

「・・・・・・否定はしない。だが・・・・・・」

「まだ戦も始まっていないのに内で事が起きるのは避けたいと?」

 

 親憲の断定に弥太郎は間違いないと否定せずに素直に頷く。すると、親憲は成る程と小さく呟くと肩を使い、溜め息を吐く。まるで弥太郎のが移ったような大きなものであった。

 普段、あまり表情をはっきりと表さない親憲だが、今は呆れているのがはっきりと分かる。

 

「故に、自らは誇りに泥が付くような真似をしても良いと?」

「そ、それは・・・・・・」

 

 答えに言いあぐねるしかない。弥太郎とて武人としての誇りがある。少し違うが、このままでは大将としての面目が丸潰れになるのは必至だ。

 しかし、ここで下手に動いてますますあの二人の間にある溝を広げては官兵衛の中にある腹案が実行出来なくなる恐れもある。

 もどかしさもあるが、今は耐えなければならない。たとえ先程のような怒りと愚痴を大声で言われようとも。

 ふと親憲を見ると小刻みにだが、身体が震えている。まさかと思い弥太郎は親憲に声を掛けようと身を乗り出すが、彼の口の方が早かった。

 

「何があったのかは分かりませぬ。されど、察することは容易。上杉が誇る勇猛な将が蔑まれるのを黙って見ているのは某も許せないので」

 

 身体を震わせながらも表情は変えずに親憲は部屋を出ようと立ち上がる。

 

「待て!」

 

 慌てて弥太郎も立ち上がると自身の杯を蹴り飛ばしたのも気にせず、歩き出した親憲の肩を掴む。彼には出陣前に武者震いをする癖がある。

 勝手な行動は決してすることが無い彼が大将である自身の命令も無しに動くのかと弥太郎は焦り、親憲の顔を覗き込む。

 戦に出るような雰囲気ではない。しかし、それはいつもの親憲である。長い付き合いの中で弥太郎は親憲の中で思っていることは大体は察することが出来る。

 何も言わずにいれば間違いなく彼は出陣するだろう。

 やむを得ないと弥太郎は親憲にもう一度座るように促すと先程、蘆名の陣屋で聞いたことを誇張せず、ありのままの事実を話した。

 その間、親憲は言葉も相槌も挟まず、じっと弥太郎の言葉に耳を傾けていた。その為か、弥太郎は全てを話し終えるのに大した時間が掛からなかったように感じた。

 

「分かり申した。このことは口外致しませぬ故、御案じ召されることはありませぬ」

「いや・・・・・・私こそ済まない。かような夜更けに愚痴を聞かせて」

「お気になさらず。大将が不安では配下の者達も不安になってしまいますから。少しでも悩みが癒せたのならばそれは何よりです」

 

 弥太郎は頭を下げながらちらりと外を一瞥する。外を見ると夜は更に深くなり、月の影が動いて時間がどれほど進んだのか分かる。 

 励ます親憲に対して申し訳ないと思う反面。彼の身体の震えが収まっているのを見て弥太郎は静かに鼻から溜まっていた息を吐き出す。

 

「酒は春日山城に戻り次第、お返し致します」

「せっかく良いものであったのだから。買った倍の値段は負担してもらうぞ」

「ははっ、これは手厳しい。では、某なりに小島殿を励ましてみせましょう」

 

 そう言うと親憲は何か考えるように蝋燭の火をじっと眺め、意味深な笑みを浮かべると弥太郎に一礼し、割った酒壺の破片を集めると部屋を去って行った。

 何か意味があったのだろうか。残された弥太郎は転がった杯を拾いながら考えるが、親憲の蝋燭を眺めた意図が掴めなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百三十一話 今日だけは

 親憲と口論した日の翌朝、弥太郎の目覚めは決して良いものとは言えなかった。

 酒が残っているという訳ではないが、どことなく身体が痛い。きちんと寝るべき所で寝たが、身体を捻っても良くならない。首を縦横に回して音を鳴らすと少しすっきりした気がしたが、それも一瞬だけだった。

 夜襲の危険性は今のところ無い為、安心して眠れるのが唯一の救いだが、すっきりしない目覚めではさほど寝ていなくてもそれなりに起きれる方がましである。

 親憲に話したことで少しは肩の荷も降りたのか心の中は比較的軽いが、やはり昨日の盛備のこととは別である。

 盛備のあれはただ単に酔っ払いの戯れ言として片付けることが出来る。だが、もし佐竹や伊達の者達が素面で弥太郎自身のことをそう見ていたとしたら。 

 さほど暑くないのに汗が背中をだらだらと流れる。はたして自身が大将で良かったのだろうかと不安になってくる。

 今までも大将を任されてきたことは何度もあったが、ここまで大きな軍を率いる時はいつも謙信か景勝が行っていた為、ほぼ初めてと言って良い。

 そう考えると基本的に上杉軍は謙信におんぶだっこの状態だったと痛感する。痛感すると今度は溜め息となって弥太郎の口から吐き出された。

 少し外の様子を眺めようとほんの少しだけ顔を外に出してみる。特に変わった様子は無く、兵達はまだ寝ている者達を叩き起こしている。

 特に異変がある訳でも無く、幸いなことに昨日の親憲も独断専行を行うという事態にはなっていないようで安堵しながらも陣屋からは外に出ずに政宗と義重の間の軋轢にどうするべきか考える。

 もし、このまま味方内での睨み合いが続けば士気に関わってくる。また、上杉に靡いている国人衆の中でも変な動きをする者が出るかもしれない。

 今後は今朝、逆井城の包囲を固め、誰が最初に逆井城の門を開けるのかが政宗と義重の言い争いの争点になるだろう。

 主張していた下野攻めを否定された政宗は今度こそはと必ず第一陣を願い出てくる。そして、それに義重が待ったを掛けるのは必至。

 そこから互いにまた睨み合いと少ないが、激しい言い争いが始めるのだろう。親憲達が両家の景綱や岡本禅哲を通じてどうにか意見を聞いてもらえるように根回しはしている。それでも、不安は拭えない。

 今、上杉軍から城攻めによる被害を多く出す訳にはいかない。他家から先鋒を務めさせる者を出す必要がある。

 政宗と義重の仲は相変わらずだが、家臣同士の仲はそれなりに良い関係を築いている。かれらの中から主君に何かと話を付けて戦わせるという考え方もある。

 とはいえ、互いに功を立てたい。北条を見返したいという思いは強いだろう。

 

「(先ずは、あの二人に伺いを立てるところからか・・・・・・家臣だけが出ると騙したところで結局は意味も無い・・・・・・はぁ~)」

 

 溜め息が口から出て来なかったのは弥太郎の気が色々なところに散っているからである。

 互いに全く動かず、牽制し合い、どちらかが落ちたところで功を立てようという気持ちは無い。

 伊達は上杉に対してどっちつかずの態度を取った者の末路を良く知っている。かれらは取り潰しになったり、領地を削り取られるなど後で龍兵衛が主導する無慈悲な裁決が待っている。

 言い訳があれば龍兵衛も聞き入れるが、彼もまた戦場という現場に立っている人の為、全く返す言葉も無くその裁決を受け入れるしか選択肢は無い。中には家臣を養う力を無くし、上杉に改めて仕える者も少なくない。

 間近で見てきた者達にとってそれは恐怖以外の何者でも無い。百万石という大望がある政宗にとってはなおさらだ。 

 佐竹の方は弥太郎もまだ真意は分かっていないが、北条に苦しめられた今までの鬱憤があるだろう。特に鬼真壁の異名を取る氏幹などは大層溜まっているだろう。

 面倒なのは佐竹の外交を司っている岡本禅哲である。以前も上杉との交渉で謙信と龍兵衛を手玉に取り、佐竹にとって有利な条件で和睦を結んだ知者。仮に了承させたにしても必要以上の有益な条件を持ち出してくるだろう。

 断った場合、説得するのに氏幹を了承させた上で彼もこちらに手懐ければ大丈夫だろう。それから義重に事の次第を話しさえずれば彼とて不承不承許してくれる筈だ。

 指揮を誰が執るのかは後々で決めていけば良いと弥太郎は考えた。政宗と義重が自身も出させろと言うかもしれない。その時は上杉軍の将の誰かを大将にしておけば上からどうにかなるだろう。

 怖いのは平時でさえ大将である弥太郎自身でも止められないのだから他の者がやっても結果が同じになる可能性が極めて高い。 

 正直、昨晩の盛備の一件は堪えた。だが、親憲の言ったことではないが、いつまでもうじうじしていて良いものではない。

 そろそろ出るかと立ち上がろうとした時、俄かに陣屋の周辺が騒がしくなってきた。兵達の足音が聞こえ、将達の怒声も聞こえてくる。

 何事かと弥太郎は外に出ると兵達があっちこっちに指示を出しながら走り回っている。北条が攻め寄せて来た気配は無い。

 そもそも、逆井城は北条が誇る堅城の一つであり、状況的に孤立している訳では無い。小田原城からの援軍を籠城して待つのが定石だ。

 ならば、この騒がしい状況は何なのか。分からないまま弥太郎は陣幕へと歩みを進める。到着すると陣幕の警護をしている一人の兵が弥太郎の姿を認め、慌てて駆け寄って来た。

 

「如何した?」

「小島様、水原様が手勢を引き連れ、逆井城の東に位置する郭へ進軍を開始した模様!」

「なっ・・・・・・」

 

 反射的に弥太郎は陣幕の中に飛び込んだ。中には景綱と氏幹が既にいた。弥太郎の姿を確認すると二人は親憲のことについて尋ねてきた。

 

「いや、私も今し方聞いたばかりで何も知らない」

 

 弥太郎は首を横に振る。驚いている二人を見て弥太郎は自身の命令も無く、勝手に出陣したことに二人が初めて気付いたのだと悟った。

 息を呑む音が聞こえる。景綱が弥太郎の言葉をぐっと待っているのが視線で分かる。

 急いで弥太郎は二人に詳細を尋ねる。しかし、二人も良く分からず、宥めていた政宗と義重を置いて先に陣幕に着いたところ、親憲が出て来ていつものように挨拶をして去って行ったという。

 その時は厠か何かだろうと特に気にしていなかったが、しばらくして兵が飛び込んで来て親憲の出陣を伝えたらしい。

 

「その時、水原殿に何か変わったところは無かったのか?」

「いや、水原殿は元々あまり変わり無いので・・・・・・」

 

 どうして止めなかったのだと弥太郎は二人を睨み付けるが、威圧感に押されながらも景綱が言い訳のように徐々に小さくなる声で返す。

 それを見て弥太郎も他家の二人ではしょうがないかと内心、溜め息を吐く。親憲の戦前の小さな武者震いを見抜くことが出来るのは上杉軍でなおかつ親憲と付き合いが長い者という条件が付く。

 颯馬達でさえ気付いていないのだから二人に気付けという求めは実に酷だ。

 

「それで、水原殿が出陣したのが細かく分かるか?」

「おそらく、四半刻程前かと」

 

 四半刻となると既に逆井城の兵と戦が始まっているだろう。しかも、親憲が率いることが出来る兵の数となると高が知れている。

 陣中には上杉軍の兵もいたことを考えると親憲に付いて行った兵は多くても一千程度。 

 まずいと焦った弥太郎は陣幕を出て、親憲が向かったであろう方向を眺める。まだ戦列も決まっていない状況で突出されては逆に混乱してしまう。

 弥太郎は官兵衛が帰参していないなど考えること無く、家を越えて景綱と氏幹に出陣の命を下し、蘆名の陣屋に伝令を飛ばした。

 

 

 

 親憲が出陣を決意したのは今朝起きた時だった。昨晩、一度は弥太郎との話し合いで自身の決意を考え直し、朝を迎えた。

 しかし、朝早くに目が覚め、見回りを行っていた際のことだった。昨晩、弥太郎から聞いたこともあって蘆名の陣にも向かった親憲が辺りをそれとなく眺めながら歩いていると兵が寝泊まりする陣屋の裏から兵が数人で話し合う声が聞こえてきた。

 

「昨日の金上様もひどかったなぁ・・・・・・」

「まぁ、捕まった俺らも運が無かったな」

 

 どうやら二人の兵が昨晩のことを愚痴っているらしい。親憲は昨日のことが更に分かるかもしれないと立ち止まって聞いてみることにした。

 

「いくら戦線が膠着状態だからって金上様もあそこまで言う必要無いのにな・・・・・・」

「酔ったらああなると有名だし、仕方ないだろ」

「だな・・・・・・」

 

 二人は溜め息を同時に吐くとそのことがおかしかったように笑い合っている。少し期待外れだったかと親憲は歩こうと足を上げる。そして、いざ一歩目の足を下ろそうとした途端だった。 

 

「しかし、金上様の言葉じゃないが、ちょっとこのままじゃ揉め事だけで終わる気がしてきたな」

 

 親憲は足を元の場所に戻して聞き耳を大きくさせる。

 

「まったく、これじゃあわざわざ関東に来た意味がねぇな」

 

 二人の兵は頷き合いながら持ち場に向かう為か、親憲に気付かず去って行った。護衛として付いて来た上杉軍の兵が追い掛けようとするのを親憲は冷静に止め、戻ると陣を後にする。

 表面は冷静を装っていたが、それこそが親憲の心を揺らぎなき決心へと導かせた。

 親憲とて仲間を侮辱されるのは嫌である。腹立たしさが募り、静かに溜まっていた頭の血が破裂しそうになるのを堪えつつ親憲は馬に跨がった。

 自身だけなら我慢してまだ誰かに言わないで黙っていれば良い。しかし、護衛として付いて来た兵二人は先程の話を聞いて顔を真っ赤にしている。 

 兵達が感情に走る気持ちは親憲もよく分かる。もし、このことが更に上杉軍の間に広まれば蘆名軍との間に何か亀裂が生まれるかもしれない。 

 考えた末に親憲は無断での出陣を決意した。それは自身の中にある不満よりも周りの大きな不満を考慮した上での苦渋の独断専行だった。

 親憲は密かに直属の配下を出陣の旨を伝え、更に付いて来る者をかれらを使って弥太郎に気付かれない内に急いで集めた。

 中には勢いで付いて来た為、何で集められたのか分からないと首を捻っている者もいた。しかし、親憲はそのよう者にわざわざ説明するような暇も無いと一言静かに言った。

 

「逆井城に攻め掛かる」

 

 親憲は馬の胴を力強く蹴った。突然のことに戸惑う兵もいたが、ほとんどの者は彼の思いを汲み取るとすぐに背中を追い掛けた。

 皆が金上盛備の一件を知っている訳ではない。だが、伊達と佐竹の不仲を知らない者はいない。いつもまでも進軍出来ずにいるのはあの二つの勢力のせいだと思っている者もいる。

 親憲に付いて来た者は警戒を緩めていた逆井城西の第三郭に突撃した。

 完全に虚を突いた形だったが、上杉軍の中で親憲が動かせる兵のみを引き連れ、如何せん数が少ない為になかなか突破することが出来ない。

 北条軍も最初は突然の襲撃に驚いていたが、しばらくすると敵が少数であることを見抜き、討ち払おうと第三郭に集結し出している。

 徐々に上杉軍は不利な戦況になり、被害も増えてきている。しかし、親憲は決して無駄な口を開かずに戦況を見守る。

 当初は魚鱗の陣にて戦況が不利にならない内に郭を突破しようとしたが、数の少なさは城攻めに際して大きな悪条件となっている。

 

「申し上げます! 城内の北条軍の援軍が更にこちらへと向かっている模様!」

 

 親憲はその報告を聞くと戦線を維持し続けるようにとだけ指示を出す。遠くを見ると更に北条軍の旗が増えているように見えた。

 数の差があるとはいえ、かなり北条軍の兵の力が強い。ここでの増援は敵に更なる勢いを与えるだけだ。

 局地戦に過ぎないが、序盤の戦での敗北は今後に響く。官兵衛から帰ってくるまで出陣するなと言われていた以上、敗北は許されない。

 後に残る方法は劣勢をひっくり返して勝利を収めること。一度、退けない状況を作った為、親憲自身が撤退することは出来ない。

 少し息を吐き、目を細めると親憲は刀を抜き、馬を走らせる。馬の胴を何度も強く蹴り、前線に真っ直ぐ突入する。

 上杉軍に襲い掛かる北条軍の兵を背後から斬り伏せると手綱を強く引いて馬を止め、高らかに叫ぶ。

 

「某に続け! 天下に敵と存ずる者は無い!」

 

 親憲は大きく叫ぶと自ら前線に出る。劣勢になっている状況で上に立つ者が狼狽えては軍全体の士気に影響する。

 前だけでなく、左右から襲い掛かってくる北条軍の兵を次々斬り倒して行く。

 上杉軍の兵を見回すように後ろを少しの間振り返る。親憲自身は無意識だが、彼の特徴的な兜が太陽に反射して眩しく輝く。兵達は応えるように怯んでいた体勢を直す。そして、北条軍に声を上げて攻め掛かる。

 だが、北条軍もそれだけで怯む程、やわな軍では無い。前に出た親憲を討ち取って手柄にせんと四方八方から攻め寄せて来る。

 親憲は敵の動きを冷静に確認し、先ず前に馬を走らせると敵を斬り捨て、突出するように見せかけて巧みに馬を翻して他方の敵に立ち向かい、北条軍の兵を討ち取って行く。

 上に立つ者の勇姿は配下の者に勇気を与える。普段は大人しい親憲の姿となれば味方に与えるそれはかなり強かった。

 普段は景資や景家達といった直進型の将の引き立て役に回って後ろで指揮を執っていることが多い。だが、親憲は本来、弥太郎達に勝るとも劣らない武勇を身に付けている。ただ目立たない立場の必要さを重視して皆から一歩引いた位置にいるだけである。 

 更に、彼も蘆名との一件で少なからず怒りを胸に秘めていた。それが戦場という生死のみが浮き彫りにされる場であることも重なって無自覚ながらもはっきりと、誰にも分からずに表された。ここにいる者達が生死を賭けているのだから気付かないのは当然である。

 親憲に付いて来た上杉軍の中に先程の一件を知る者はいないが、彼の普段なかなか見せない闘志ははっきりと伝わった。

 再び上杉軍は北条軍に向かって力強く立ち向かおうと進軍を始めている。数の差など関係無い。士気が高揚し、今まで功を立てる機会を得られなかった鬱憤を晴らそうと上杉軍は前に進む。 

 気付けば親憲は上杉軍の後ろ側にいた。

 これなら行けるかもしれない。そのような思いが親憲の頭をよぎった時だった。

 

「水原様ー! はぁはぁ・・・・・・間に合った・・・・・・」

 

 息を切らしながら斥候が今まさに馬を走らせようとしていた親憲の前に飛び込んで来た。

 

「大変です! へ、変な敵がこちらに向かっております!」

「はぁ・・・・・・?」

 

 よく分からないが、言われるがままに斥候が指差す方向に視線を送ると南からいない筈の北条軍の新手がやって来ている。冷静に考えれば川を挟んだ先にある関宿城からの援軍だ。

 親憲はその先頭に立ってや槍を振り回しながら幾千はいるであろう戦場を無人の荒野の如く駆け回っている将に自ずと目が行く。

 槍を振り回せば上杉軍の兵が次々と討たれ、まだ足りないと北条軍の将は上杉軍の兵を手当たり次第に討ち取って行く。

 そして、親憲と目が合った時、その将はこちらに何故か薄く笑みを浮かべているように感じた。 

 

「ひぃ! 来たぁ!」

 

 件の将がこちらに来るのを見た兵は慌てて逃げて行ってしまった。目を見開いてその背中を黙って親憲は見送る。だが、背中からか聞こえてきた大きな声が親憲を再び前へと振り向かせた。

 既に齢、四十を越えている親憲だが、この時に見たもの聞いたものは今までの戦場で初めて体験したことだった。

 

「勝ったー! 勝ったぞー!!」

「まだ、勝敗は決してはおらぬのですが・・・・・・」

 

 誰にも聞こえない突っ込みが言った親憲自身の耳だけに聞こえた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百三十ニ話 胃が痛い

 暴れている様を親憲は遠くからじっと眺め続けていた。ほとんど単身で目の前の上杉軍を斬りまくり、前線で奮戦し続けている将を。

 

「勝った、勝ったー!」

 

 その将は親憲が呆然とする中、相変わらず叫び続けている。

 親憲は前線に立っていたが、そのけたたましい声は上杉軍の後陣にもはっきりと聞こえただろう。前線で何だ何だと思って声の方向に一瞬見入ってしまった者は隙を突かれてしまっている。

 

「声に目を向けず、目の前の敵に集中しろ!」

 

 まずいと思った親憲はすかさず声を上げる。しかし、彼の集中の一端も声に向かっていて、注意した後にかの将の方を見る。

 

「ふむ、確かに面妖な方ですね・・・・・・いや、面妖ではなく、面倒な方のお出ましですか・・・・・・」

 

 少し目を見開いた親憲がその将の後ろに見たもの。それは黄色地に染められた地黄八幡という旗指物。

 

「なるほど。あれが、かの北条綱成・・・・・・」

 

 納得したと親憲は軽く頷く。当然ながら彼の名前は越後にも響いている。

 北条家が誇る北条五色備とある。氏康の元に編成されたとされる部隊で、その名の通り黄・赤・青・白・黒の五色に分けて部隊が編成され、それぞれを北条一門や北条の重臣が指揮を執っている。

 中でも綱成が率いる黄の部隊は北条軍の中でも最強の部隊と言われ、他国にも勇名は響き渡っている。

 だが、綱成があのような奇妙な行為をするとはさすがの親憲も夢にも思っていなかった。普段の平静さを保ってはいるが、内心では身体中に電流を受けたような衝撃を受けていた。

 北条軍がここで切り札を切ってくるとは予想外だった。思ったよりも早雲や氏康という人物は大胆なことをするのかと考える。だが、その思考はすぐに断ち切られた。前に自ら突撃してきた綱成の槍が繰り出されたからである。

 

「おや。もう、かような所まで」

 

 平然と親憲はそう言う。だが、綱成の攻撃から身を守る為、馬からは降りざるを得なかった。もし、馬の上を望めば間違いなく腰の骨をへし折られていただろう。

 さすがに常に冷静沈着な親憲でも一瞬、死の恐怖を味わい、背筋が凍った。

 

「ふふっ、侮ってもらっては困ります。我が北条の結束、この槍にて示すと致しましょう!」

 

 死にそうになった恐怖を悟られた訳では無さそうだが、親憲に一杯食わしたことに気分を良くしたのか綱成は笑みを深めて槍を構え直す。

 戦っているのが楽しいのか親憲が戦になると収まるが、武者震いを綱成は続けている。

 親憲が綱成の後ろを見てみると一直線にこちらにやって来たのが分かる。累々の上杉軍の屍やそれに巻き込まれ、下敷きになった者達がもがいている。

 

「ならば、某も負ける訳には行きませぬな。上杉が義。武を以て貴殿に示すと致しましょう」

 

 律儀に親憲が刀を抜き、構えるまで待ち、馬から下りるところを見ると綱成はかなり真面目なのだということが分かる。

 

「では・・・・・・」

「いざ!」

 

 互いに膝を落とし、臨戦態勢から一気に加速する。綱成が槍を繰り出して来た。それを親憲は受け止めず、あえて受け流す。

 そこから刀を振り落とそうと親憲は刀を振りかぶった。だが、綱成は下半身の力を使い、身体を反転させると槍を横に薙ぎ払う。

 親憲は身体ごと地面に倒れ、転がって綱成を距離を取る。綱成も親憲に攻撃の隙は与えないと更に追い打ちを掛けて来る。

 親憲もやられっぱなしは気に食わないと綱成の攻撃を縫い、間合いを詰め、上段から振り下ろし、駄目なら心臓を狙う突きや首を狙って刀を払う。

 互いに互いの攻勢を防ぎつつ攻撃を仕掛ける強者同士の戦いは一向に決着の付く様子を見せず、一旦、互いに距離を取って得物を下ろす。

 

「前々から疑問に思っていたのですが、何故に上杉は正義を掲げながらも何ら義理もない東北の地を切り取り、あまつさえ里見や佐竹を動かしてまで関東を攻めるのですか? 民をも巻き込むような戦もあったと聞き及びますが」

「確かに我らが主君は多くの戦を仕掛けてきました。されど、正義というものは口で言わねば絵に描いた餅でしかありませぬ。何事も実行ですよ。そして、事が最後に正義へと帰結すれば良いのです」

「ならば、上杉は何故に関東を攻めるのです? 東北のような腐りきった土地ではない。我ら北条が立派に治めているというのに」

「やれやれ。いつまでも北条が関東管領の上杉に従わないのが問題でしょう? この戦の大義はそのようなものです」

「なるほど・・・・・・では、その大義を勝利にて乗り越えましょう」

 

 口での戦いはここまでと綱成は口元だけ歪ませると膝を落とし、一気に親憲に突っ込み、槍を迷うこと無く、親憲の胸に突き出す。

 親憲は身体を逸らし、かわすと共に刀を甘くなった脇へと繰り出すが、綱成もそれを予測していたのか、横に滑るように移動すると親憲の背後から槍の突き落とす。 

 それを親憲は鎧をかすめただけにとどめ、再び距離を取り、体勢を立て直そうとする。そして、互いに再び間合いを詰めようとした時だった。

 

「敵の援軍ですか・・・・・・」

 

 親憲が蹄と鬨の声の聞こえる方角を耳で判断し、苦い表情になる。数はおそらく一千程度だが、元々分が悪かっただけに上杉軍には更に悪影響になる。

 援軍が来た以上、逆井城の士気が高くなる。数では上杉軍は連合の利で一万五千にまでなるが、綱成率いる援軍の一人一人の力が圧倒的かつ皆、勇猛な為、旗色が悪くなるのは必至。

 周りには援軍を見て怯んでいる兵がいる。まだ北条との戦も始まったばかりである為、無理は出来ない。

 しかし、親憲自身、抜け駆けでこの戦を仕掛けた以上、何も戦功を立てずに帰還したなど茶番にもならない。

 何か善後策を練ろうにも好機と見た綱成の攻撃が思考を遮り、親憲の動向を進むか退くかの単純な選択肢で絞らせてしまう。

 決めあぐねている間も上杉軍は北条の援軍にぶつかって行き、乱戦となっている。数の差で劣る上杉軍ではやむを得ないと親憲が決断しようとした時。 

 

「む・・・・・・?」

 

 綱成が親憲よりも遥か後ろを見る。親憲の耳にも先程とは違う方角からの鬨の声が聞こえてくる。だが、それ以上に隙が綱成に生まれたのを親憲は見逃さなかった。

 

「ぐっ!?」

 

 呻き声とは対照的にさほど綱成の傷は深くない。隙が出来たとはいえ、彼も武人。戦場で致命的な油断はしないのだろう。

 腕に傷を付けただけでは綱成も怯まない。仕返しと言わんばかりに親憲に先程よりも激しく襲い掛かってくる。

 だが、親憲もそれで怯む程、やわな精神力では無い。攻撃を受け止めると綱成という高い価値のある首を取らんと冷静に隙を突いて攻める。

 しばらく互いに均衡した攻防戦が続き、遂に弥太郎が率いて来た上杉軍の更に後ろから伊達や佐竹の援軍が親憲の目にも見えてきた頃、ようやく弥太郎が親憲の下に辿り着いた。

 

「水原殿! 無事か!?」

「小島殿。ええ、某は大丈夫ですよ」

 

 いつものように軽く微笑む親憲だが、弥太郎は少し顔を強張らせる。

 返り血を大量に浴びた親憲の顔が笑みを浮かべたところで血に飢えた獣が欲望を満たして満足げになっているようにしか見えないのだ。

 

「援軍ですか・・・・・・もっと敵を攻撃したいですけど、この乱戦では無茶は出来ませんね」

 

 一方の綱成は弥太郎の姿を確認すると仕方ないと肩を竦める。

 

「まさか、この包囲を突破するのですか?」

 

 親憲と綱成が戦っている間、当然ながら上杉軍の兵が二人の周りを包囲していた。一騎打ちの間は誰も手を出すようなことはせず、息を呑んで戦況を見守っていたが、それが終わるとなれば話は別である。

 今度は数に任せて綱成を討ち取りたいと躍起になって武器を構えている。しかも、相手が北条一族の者となれば尚更だ。

 だが、綱成はそのような状況に立たされても余裕の笑みを崩さない。更に、城の方向へと向きを変えると自身の馬に跨がり、兵に構わず突進を始めた。 

 

「ははははは! 勝った! 勝ったー!!」

 

 綱成は狂っているとしか表現が出来ない声を上げて再び上杉の兵を蹂躙し、突破口を開いて去って行く。

 

「何だったのだ。あれは?」

 

 隣に来た弥太郎も先程の親憲と同じような思いになっているだろうという表情をしている。もちろん、親憲もそれに答える言葉は持っていない。

 

「某に聞かれましても・・・・・・何はともあれ助かりました。さ、急ぎ城に攻め込みましょう」

「ああ」

 

 その後は弥太郎の指揮の下、撤退する北条軍を追撃し、東の郭だけを奪うことが出来た。

 更に、上杉軍は郭や逆井城を落とそうと進軍したが、さすがにそれ以上の攻勢を北条軍は避け、逆井城自体を落とすことは出来なかった。

 だが、堅牢な逆井城の一角を崩したことは大きく、上杉軍は攻撃拠点を確保出来た。その代わり、上杉軍は大きな被害を被ったが、北条軍の方も更なる被害を被った。

 親憲の急襲によって混乱を招き、綱成が到来する前までに与えた被害も大きかった。

 そして、上杉軍には大きな前進があった。 

 義重が迷惑を掛けた詫びとして真壁氏幹と岡本禅哲を引き連れて上杉軍の陣屋へ謝罪に赴いた。

 本当に反省しているのか、親憲には分からなかったが、謝罪に来て頭を下げたということは北条との戦において上杉の指示に従うことを明白にしたも同じ。

 親憲の奮戦によって目が覚めたと義重は言っていたが、親憲の怒りが響いたのかもしれないが、真実は分からない。

 

「されど、佐竹も態度を改め、上杉に従うと言わせたのは大きいのではないでしょうか?」

「ああ。そうだな・・・・・・」

 

 弥太郎はどこかいつもの武人としてまとう強い気が無い。親憲に半ば強引な行動によって武人として見せるべき戦場での姿に気付かされ、大軍勢の大将という重責に気負っていた自身が恥ずかしくなっているのだろう。

 親憲はそう考え、弥太郎の前に立ち、彼女が顔を上げたのを確認すると素早く座り、土下座をする。

 

「小島殿、真に申し訳無い。貴方が愚弄されるのを黙って見ているのに耐えきれず、勝手に動いてしまい・・・・・・」

「水原殿!? いや、謝るのはこちらの方だ! 佐竹を取り纏めることが出来ず、蘆名の者達から言われたことで失われかけた上杉の名誉を挽回してもらえた」

 

 大慌てで首を横に振る弥太郎だが、親憲は座ったまま普段通りの落ち着いた様子で手でまあまあと示す。

 

「某だって人の子。怒ることはありますよ」

 

 平然と親憲はそう言うが、普段は決して怒らない彼が目を怒らせて容赦なく敵を斬り殺して行く様は同じ武人であるにもかかわらず、弥太郎も少し身体を震わせてしまった。

 綱成が撤退すると共に斬り込んで行った際、上杉軍の中で最も北条軍相手に奮戦していたのは親憲である。しかし、彼自身、決して誇れるものとは思っていない。

 

「我らは逆井城の一角を崩したに過ぎませぬ。後は黒田殿の帰還を待ち、次なる策を聞かねば」

 

 綱元が官兵衛を暴れないようにしっかりと馬の上で押さえ込んでくれたおかげで翌日にどうにか帰ることが出来たが、官兵衛は親憲達の独断専行のことを聞くと烈火の如く怒った。

 弥太郎が押さえつけても無理やり這い出てぽんっとびっくり箱のように飛び出す程であり、その日は朝から弥太郎と親憲を顔を真っ赤にして説教していた。

 

 

 小さな官兵衛が大柄な弥太郎と親憲を説教している様子を景綱は遠くから半分面白おかしく、半分訝しく眺めていた。それは官兵衛が勝利したことさえも戒めるように強く二人を叱っているからだ。

 

「あれだけ出陣するなって言ったのに、何で戦をけしかけたの!?」

「いや、黒田殿、さすがに大将が味方から貶される

「結局は私情じゃん! しかも、郭まで落としちゃって~」

 

 景綱も勝手に動いたことに対する叱責は官兵衛の立場に立てば行うだろう。しかし、勝ったことに対しても良くないとは言わない。

 信賞必罰の考えで勝ったことは称えるべきだろうと景綱は官兵衛を見て思った。

 長々と説教をしていた為、朝がすっかり太陽も既に真上に昇ってしまっている。そろそろ仲介に入るかと景綱は隠れていた所から三人の下に向かう。

 

「きりがないからもうこれぐらいにする!」

 

 両手を脇に置いて官兵衛は唐突に説教を終了させた。

 景綱は一歩踏み出したところで膝ががくっと折れてしまい、周りに誰もいないことを確認すると平静を装って官兵衛の後ろを付いて行く。

 明らかに怒ってますよと言わんばかりに足音をうるさく立てて官兵衛は歩いて行く。

 弥太郎と親憲から見えない所まで官兵衛に気付かれないように尾行する。そして、もう良いだろうと思い、背中から声を掛ける。

 

「勝ったことぐらいは素直に誉めたらどうだ?」

「わっ!? 誰!?」

 

 不機嫌さ丸出しだった為か官兵衛は本当に気付いていなかったらしい。ぐるっとばね仕掛けのように反転し、景綱の姿を確認すると「脅かさないでよ!」と官兵衛は睨み付けてきた。

 理不尽な気がしたが、ここでそれを指摘するとますます官兵衛の機嫌を損ねるかもしれないと景綱は素直に悪かったと手を静かに挙げておく。

 

「構わない。私は政宗様にこのことを密告して黒田殿を貶めるようなことはしないさ」

 

 軍師として付き合いがあると本当かそうでないか互いに分かってくる。本当に大丈夫だと官兵衛は信じたらしく、耳を貸せと景綱を手招きする。

 

「せっかく、佐竹にあのまま逆井城を勝手に攻めさせようと思ったのに・・・・・・」

「・・・・・・成る程な。確かに手懐ける機会を逸したか」

 

 官兵衛の思惑を察した景綱はそう考えると今回のことは早まったかもしれないと表情を少し暗くする。

 官兵衛が軍議の軋轢を放置し、わざわざ戦場から一時退去したのは弥太郎達では二人の間をどうにかすることが出来ないと踏んでいた為であり、未だに上杉に従う気が無い義重を衝動的に動かすことだった。

 逆井城は北条と佐竹の領地を堅牢な城として名が通っている。  

 落とせない訳では無いが、それ相応の被害を被ることは必定。まだ北条征伐は始まって間もない時に上に立つべき上杉軍がここで下手に被害を出すことは許されない。

 その為、伊達と佐竹の仲が先陣争いで未だにこじれているのを利用し、どちらかが抜け駆けを行い、単独の力で逆井城を攻めさせようと官兵衛は考えていた。

 伊達にしろ佐竹にしろ強い力を持っていることでは共通している。その強い力を少しでも戦の中で削いでいけば後々上杉の影響力を与えやすくなる。

 官兵衛の計算では自身が帰ってくるかその前後で佐竹か伊達が動くと思っていた。だが、その前に親憲が動き、上杉軍を動かしてしまった。確かに表向きの不協和音は無くなり、佐竹も上杉の指示に従う姿勢を見せている。

 このまままた持久戦になるのも構わないが、まだ序盤戦である以上、迅速に勝たなければならないという事実もある。

 

「では、上杉軍が被害に遭った今、如何にして我らに被害を被らせる?」

「人聞きが悪いこと言わないでよね・・・・・・まぁ、政宗殿が佐竹殿とあんな感じだから巻き込もうとしたのは確かだけど」

「性格が悪いのは黒田殿の方ではないか?」

「あたしは人聞きの悪いことって・・・・・・あんなこと言ってるから変わらないか」

「そういうことだ」

 

 互いに何か裏があるような笑みを浮かべると官兵衛が持ってきた逆井城の図面を見る。

 北側は崖。南に大量に兵を置ける郭がある為、攻めるとすれば東と西のみ。既に東側の郭を一つ奪っている為、そこを拠点に攻め込むのが定石である。

 だが、北条綱成の援軍が来たとなれば被害に遭った東側を援軍が固めるのは予測出来る。それが北条軍の精鋭となるば尚更普通の城攻めは難しくなる。

 

「佐竹が上杉に頭を下げた今、膠着状態のままでも構わない。けど、こっちが上杉軍を動かしちゃったからこのままだと北条軍の精鋭に上杉が怯んでいるとも見られかねない」

「動くのか?」

「北条綱成が城内に入ったとなるとこっちの動向はあまり多く入って来ないだろうし」

「ならば、北側だな」

 

 景綱は逆井城北の崖を指差す。官兵衛が頷き、互いの意見が一致した。

 

 

 

「それで、官兵衛は佐竹にやらせると言っているのか?」

 

 官兵衛と話を終えた景綱はその足で政宗の下に向かい、何を話していたのか包み隠さず、全てを洗いざらい話した。

 政宗の方は怒る訳でもなく、景綱から言われたことを全て聞き終えるまで表情を変えずに黙っていた。

 

「ああ、私達はその後方で援護して欲しいらしい」

「分かった」

「かなり早い決断だな」

 

 佐竹の後陣を務めると聞けば一昨日までの政宗なら間違いなく、不満を零し、弥太郎か官兵衛の下に向かっただろう。

 だが、今の政宗は仕方ないなと肩をすくめるとすぐに景綱に準備を進めるように指示を出す。さすがに佐竹が頭を下げた以上、無駄な張り合いを行うのは恥ずかしいと思ったのだと景綱は思った。

 

「(もっとも、仲直りした訳では無さそうだが)」

 

 相変わらず、二人の間では殺伐とした雰囲気が続いている。いい加減にして欲しいが、互いの性格では同族嫌悪も続くだろうと景綱は見ている。下手に喧嘩になって馬鹿げた理由で争いが生じないことを祈りながら景綱は用事は済んだと腰を上げる。

 

「随分と心を許されているな」

「どういう意味だ?」

 

 唐突に立ち去ろうとした背中に声を掛けられ、景綱は訝しげな視線を政宗に送る。しかし、政宗の方はさほど深い意味があって言葉を発した訳では無いようで「そのままの意味だ」と笑って手をひらひらさせている。

 景綱は政宗を見て、彼女がこういうことを言って他意が無い場合、どのような思いを胸に秘めているのか考える。すると、簡単に答えは導き出せた。

 

「羨ましいのか?」

「なっ・・・・・・そんな訳無いだろう!」

 

 大慌てで訂正するように睨んでくる政宗を見て、相変わらず素直では無いと景綱は何故だが安心してしまった。

 

「私は春日山錠に長くいたからな。その間も大分良くしてもらっていた。それこそ伊達にいた以上にな」

 

 景綱の言葉を受け、政宗は驚いたようにはっと顔を上げる。

 

「不満、か・・・・・・?」

「ああ、難儀な主君がな」

「なっ、それは、私がこのような性格なのだから仕方ないだろう?」

 

 さすがにこれ以上からかうのは良くないと思った景綱は悪いと詫びを入れる。

 

「話を戻すが、あれは私もあちらを信頼しているからだろ」

「む、まるで私が上杉を信用していないような物言いだな」

 

 内心、景綱はその通りだと指摘した。政宗の信頼は多分が謙信に向いている。上杉に忠誠が無い訳では無いが、最上や下手をすると南部よりも低いかもしれない。しかし、裏切る気はさらさらないようで配下の者達とも友好関係を築いているのも事実だ。

 何となくだが、景綱も政宗が何を狙っているのかは察しがついている。

 

「別に構わない。私が天下を欲するのは上杉が崩れた時。最後までどう転がるのか分からないのが天下だ。勢いのある上杉、織田。興味深い。だが、もし私達にも機会があればなお面白い」

「まったく・・・・・・伊達の当主は上杉に忠義があるのか無いのか・・・・・・」

 

 政宗の二心丸出しの笑みに景綱は呆れるのを通り越してしまいそうになる。以前、百万石を約束してもらった際には謙信に対してかなり恐縮してしまい、自ずと頭を下げてしまったと零していた。

 だが、そのような姿は今の政宗にはどこにも見えず、相変わらず傲慢にも見える威風堂々さを見せている。

 

「あるさ。ま、上杉の力が正義を支える時までだがな」

「崩れる時が来ると見ているのか?」

「まさか、私はそこまで楽観ではない。だが・・・・・・」

「だが?」

 

 景綱が首を傾げて更に聞き出そうとすると政宗は唇をつり上げて言った。

 

「番狂わせが私の生きている内にあれば良いな」

 

 政宗らしくない間の抜けた発言に景綱は思わずがっくりしてしまった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百三十四話 色の無い楽園

 とある家臣から上杉軍が信州を攻め込むにはかなり遅いと言われたことがある。

 武田を川中島の戦いで完全に追い込み、そこから更

に追撃をすれば今頃は信州と甲斐も東北と共に治めていた筈だが、何故謙信は好機を逃すような愚かなことをしたのかという声がかつて配下にいた寒河江や田村から聞かれた。

 しかし、軍師達からすればそのようなことは外野からの空耳にしか過ぎない。

 そもそもあの時上杉軍が武田軍を追撃していれば東北に向かうことは更に難しくなっていたことだろう。

 何しろ背後に今川や徳川、北条を控えていて前者の二家は織田の傘下にいる。今や織田は将軍家との戦いを圧倒的物量差で有利に進め、一向一揆勢の介入を許しつつも徐々に畿内の主導権を握りつつある。

 その現状を顧みて明らかなことは信州を平定したところで織田が上杉に対する警戒心を強めてしまい、上杉も織田を警戒する為にそちらに兵を割かなければならなくなる。

 颯馬の計算では一向一揆勢が織田に負けるのは必ずと断定して良いぐらいで、更に将軍家を滅ぼした後に越前・伊賀や石山本願寺を二、三年の内には必ず平定すると見ている。

 龍兵衛や官兵衛はもっと早く一年と少しぐらいかそれに満たないという決着を予想していたが、まだ近江と越前を平定して間もない織田は足並みが揃っていないことを計算に入れて颯馬は二、三年と読んだ。

 その間に上杉がすべきことは北条と武田の力を削げるだけ削いで北関東を手中に収めることである。北条との決戦はあくまでも関東の反北条勢力を手懐ける為の名目にしか過ぎない。

 しかし、武田という織田の防波堤をいつまでも放置していては大雨になった時に役目が果たせずに逆に被害を被ることになりかねない。

 故に、今この時期に武田をあくまでも牽制し、極力力を削ぐことを目的とした軍を派遣することにしたのだ。 

 謙信は信玄との決着が付いてしまうのではと冷や冷やしていたが、颯馬も義清もそこまで楽観視していない。

 最も兵力が少ない為、時間が掛かる可能性もあるが、留守の間に怖い越中の一向一揆勢は越前で蜂起し一向一揆勢の援助する為に主力の多くが出払っているので魚津城や天神山城の斎藤朝信や山本寺景長などで十分である。

 上杉軍の数はおよそ五千。他の二つの部隊が万単位になる中で最も少ない軍勢である。

 基本的な方針として北信州の武田の統治を混乱させ、川中島や織田との戦いで弱体化が進む武田を更にじわりじわりと綿糸で首を絞めるように追い込むのが上杉の立てた戦略である。

 

「はぁ~・・・・・・」

 

 緊張感の無い颯馬の溜め息が隣にいた義清を呆れさせ、他にも聞こえた者達、岩井信能などはまた始まったと盛大な溜め息を吐いている。

 今回、颯馬と謙信は信州方面、上野方面と別行動を取っている。

 表向きは軍師の割り振りで颯馬が武田に対する情報収集を最近はよくやっていたという理由だが、義清達上杉の直属の将達は二人のせいで周りに迷惑が掛かるのは良くないと思った他の将が軍師と結託して根回しを行った結果、二人を説得してこのような配置になった。

 

「公私混同は控えて欲しいのじゃが・・・・・・」

 

 呆れたような口調でどこか寂しそうにしている颯馬の隣を馬に揺られながら義清は独り言のように呟く。

 公私混同しない為の措置だと二人は上杉の皆に言っていたが、出陣前に互いの屋敷に入り浸っているのを見た慶次や景勝の報告を聞いていると一緒に行って私的に少しでも会っておいた方が良いのではないかと義清は思っている。

 会った時に今までの溜まっていた色々なものが一気に発散される様子を義清は絶対に見たくない。

 そう考えるとある意味この戦は早く終わらせたいと彼女は内心、思っている。

 しかし、武田との戦はあくまでも武田に対して上杉はまだ目を離した訳では無いという意志を見せるだけのもの。つまり、北条との戦の間は武田領に攻めたり退いたりを続けることになる。

 あわよくば葛尾城までなら取っても構わないと謙信からは言われているが、信玄がおいそれと敵に城を落とされるようなことをする筈が無いことは実際に戦ったことのある義清がよく知っている。

 一度は信玄の誤った判断を突いて武田軍を追い払ったが、その後は信玄も誤った判断をすること無く、容赦ない攻撃で村上と小笠原を追い詰めた。

 いくら御家が危機になっているとはいえ簡単に終わる筈が無い。そのことは謙信も承知済みだと言っていた為、無理をして勝利を掴むべきではない。

 

「颯馬殿、武田の内情をどう見る?」

 

 いつまでも隣の颯馬を萎えさせている訳にはいかないと真剣な問いを掛けてみる。すると、さすがの颯馬も表情を引き締め、おとがいに手を当てる。

 

「あまり良いとは言えないでしょう。しかし、武田信玄は家臣との絆が深く、簡単に近付くことは出来ないかと」

「確かに。信玄の力は侮り難い。時に颯馬殿、川中島から進む進路で武田が以前のように迎え撃って来ると思うか?」

「いや、それは無いでしょう。今川、徳川のことを考えると今までのように主力の大半をこちらに置くことは不可能です。もっとも・・・・・・」

「なんじゃ?」

 

 颯馬は何か言おうと口を開きかけたが、結局、首を振って何でもないと示す。

 突っ込んで聞いてみようかと義清は思ったが、颯馬が真剣に考え事をしているのを見て、話し掛けるのもあれだと止めた。

 任された仕事を義清はきちんと行った。更に、武田との戦というのも何だかんだで気合いが入る。だが、義清が意気込んだ途端に空から水滴が落ちて来た。

 

 

 

 善光寺の者達の手引きによって信州に入った上杉軍は川中島へと歩を進め、先ずは海津城の攻略に着手することになった。

 その前に雨の妙高山を突破したことによって生まれた疲労を癒やす為、善光寺において休息を取ることになった。

 到着し、すぐに颯馬と義清は高梨と須田に兵の管理を任せて今後のことについて会談することにした。

 

「兵の疲労はどうじゃ?」

「やはり、行軍を急いだのが響いています。まだ、掛かるでしょう」

 

 様子を見てきた颯馬は包み隠さず、はっきりと現状を義清に伝える。

 妙高付近の山々を越えるのは道を整備していたとはいえ雨という悪条件も重なってかなり辛い。更に、雨は未だに降り続け、なかなか晴れる気配が無い。

 

「義清殿、調略については?」

「既に颯馬殿の指示通りに信州の者達には声を掛けておいたのじゃ」

 

「返答はまだじゃが・・・・・・」と残念そうに義清は肩を落とすが、颯馬からすればそれだけで十分である。

 今の武田なら結束力を崩す揺さぶりを掛ければ何か動きがあるかもしれない程度に頼んだことで、最初から颯馬は誰かがこちらになびくとは思ってもいない。

 少しだけ期待していたという気持ちもあるが、現実問題、武田を甘く見てはならない。

 

「では、やはり当分の間は動かず、この善光寺で時を待つと致しましょう」

 

 そう言うと颯馬は話は終わりと立ち上がる。その背中に義清はどこに行くのか尋ねた。ここは颯馬にあてがわれた部屋である。

 

「少し周りの様子を見て来ようかと」

「私も行こう」

 

 すかさず義清は立ち上がるが、颯馬は首を横に振って断ると示す。何故と義清は当然問う。すると、颯馬は耳を貸せと義清を手招きしてくる。

 

「高梨殿や須田殿を信頼していない訳ではありませんが、やはり万一のことがあった際、義清殿がいる方が頼りになるので」

 

 信州方面には旧信州勢が主力となっている。信玄に敗れた者達の中で頼りになるのはやはり最も信玄を苦しめた義清である。

 高梨や須田も決して凡庸ではないが、武田軍も義清がいると知れば少しは警戒してくれる筈だと颯馬は考えている。

 

「二刻程で戻ります。あくまでも周りを見るだけなのでそれほど掛かりことは無いと思うので後はよろしくお願い致します」

「じゃが、武田の間者も多くいるぞ。颯馬殿のような軍師が出るよりも私が出た方が良い」

「いや、軍師である私が出ることでより抜かりなく敵の様子を見れるというもの。義清殿はどうか、私が万一戻らなかった場合に備えて頂きたい」

 

 義清が承諾する返事を聞くと颯馬はすぐに二人の配下と共に善光寺を出た。

 

 

 海津城はあくまでも川中島で上杉軍と戦う為に築かれた大きな軍営地である。城自体、難攻不落の堅牢な城とは言い難い。

 だが、武田軍の守将である虎綱春日は武田の四天王の一角を占めている者として颯馬も義清同様に簡単に事が済むとは思っていない。

 さすがに軍勢を率いていない為、八幡原を抜けて海津城の近くまで行くことは叶わない。颯馬はすぐに川中島を迂回して平野を通らずに海津城の近くまで山間部を抜け、草村に隠れた。

 雨は比較的収まってきたが、完全に晴れた訳では無く、颯馬の鎧や足は雨水によってじんわりと湿っている。

 

「(思ったよりも兵が少ないな・・・・・・)」

 

 海津城の中に入ることは不可能だが、颯馬は軍師として見る目は優れている。なびいている旗や城内の静かな雰囲気を見るに士気が低く、数が少ないことが分かる。

 詳細までは知らなくても、確実に少ないということを確信にまで持っていきたいと颯馬は思った。しかし、段蔵は今、関東に潜入している。他の軒猿を向かわせているが、返答は一切無い。

 既に捕らわれているのかなかなか抜け出せないかは不明だが、このような場合は最悪のことを考えるのが最善である。

 攻めるべきか様子を見るべきか。颯馬の頭の中で考えはまとまっている。この戦はあくまでも武田の目をこちらに向けさせ、関東にも東海道にも介入させない為のもの。つまり、勝つ必要は無い。

 一か八かの選択を行うよりも今は兵の休養とその間、武田軍の内部に揺さぶりを掛けることを優先すべきだ。

 

「天城様、これ以上近付くのは危険では?」

「分かっている。もう良い、退くぞ」

 

 颯馬は姿勢を低く保ったまま素早く馬を繋いでいた場所まで引き返す。

 雨は既に上がっているが、水滴は草や木葉に残り、袖を濡らしていくのが実に鬱陶しい。

 苛々を押し隠すように颯馬は溜め息を吐く。しかし、天気はそれを嘲笑うかのように再び雨を降らせてきた。

 颯馬はもう一度溜め息を吐く。空を見上げると雲が厚く、なかなか止みそうな雰囲気が無い。しばらく苛々が続くのかと思いながら颯馬は馬の所まで歩く。

 

「おい、急ぐぞ」

 

 颯馬は振り返りながら声を掛けて、すぐに目を見開いた。二人共に仰向けに倒れていたのである。

 連れて来た兵二人は農民から駆り出された者ではなく、上杉軍の兵として訓練させられた者。慌てて颯馬は駆け寄り、容態を見る。幸い死んではいないが、確実に急所を突かれ、見事に伸びている。

 

「一体・・・・・・むっ?」

 

 その時、颯馬は一瞬だけこちらに向けて来る殺意の籠もった視線を感じ取った。

 

「誰だ!?」

 

 その声に応じるように草村から人間が飛び出て、颯馬に襲い掛かって来る。万一に備えて腰を落としていた颯馬は最初の攻撃をかわすと距離を取り、すぐさま相手の攻撃に備える。しかし、その前に相手は腰を伸ばし、面白いものを見たような笑みを浮かべた。

 

「なかなか、上杉の軍師様はやり手のようで」

 

 袖で口元を隠しながら笑う仕草を見て、女だということは判断出来たが、何故、自身が襲われたのかを捕らえ、問い質す必要がある。

 颯馬はすぐに女へ走り出し、間合いを詰める。しかし、女は素早い足取りで避ける。

 距離を取られたが、女がどのような人物なのか颯馬は見ることが出来るようになった。そして、颯馬は女を見て息を飲んだ。

 慶次のように着崩したりせず、謙信のようにきちんと服を着ているが、それでもはっきりと女性らしい曲線が出来上がっている。

 更に、女の顔は百合や牡丹に例えるにも足りないぐらいの美しさを持っていた。

 思わず、颯馬は捕らえて茂みに袖を引こうかなどとも考えたが、冷たい雨が身体の火照りを収めてくれた。冷静になると颯馬は己を自制することが出来た。

 動きから間違いなく、かなりの手練れである。このような相手には何をしても口を割る筈が無い。颯馬は刀を抜くと下半身に力を入れ、女に襲い掛かろうとする。

 しかし、それは女によって未遂に終わった。唐突に戦闘態勢を解いた女は颯馬を未知の境地に誘うような手招きをする。

 

「海津城の情報を知りたいのであれば、私が教えて差し上げましょう」

 

 妖艶な笑みを浮かべたまま女は濡れないように木によって自然の屋根が形成されている所へ颯馬を手招きする。

 警戒して行かないのが普通だが、颯馬は今、喉から手が出る程欲しい海津城の情報と聞いて少しでも希望があるのならばと付いて行くことにした。

 兵を近くの木にもたれかけさせると颯馬は女がいつ襲い掛かっても反応出来る程の場所に立つ。

 

「先ず聞きたいことがある」

「何で御座いましょう?」

「お前は俺を殺すのか?」

「いえいえ・・・・・・」

 

 そう言うと女は颯馬の肩にしだれかかり、指を頬に絡ませてくる。それを無視して颯馬は表情を崩さずに女を睨み付ける。

 

「ならば、お前は俺を誘い、敵から何かを探ろうとしたのか?」

「まさか、わざわざ敵であれば上杉軍の御方を誘うような真似は致しません」

 

 ころころと人を食ったような笑みを浮かべながらその歩き巫女はしだれかかった颯馬の肩から離れる。

 

「(やはり、ののうか・・・・・・)」

 

 颯馬は一瞬でもこの誘惑の多い歩き巫女に邪な気持ちを抱いた自身を戒める。相手の先程の身体の使い方から察しは付いていた。しかし、それを忘れさせてしまう程に強い女の誘惑を持っている相手に颯馬は強い警戒感を抱いた。

 武田は戦乱の世で孤児や捨て子となった少女達数百人を集め、呪術や祈祷から忍術、護身術の他、相手が男性だった時の為に色香で惑わし、情報収集する方法などを教え、諸国を往来できるよう巫女としての修行も積ませた集団が存在すると聞いたことがある。

 一人前となった巫女達は『ののう』と呼ばれて全国各地に送りこまれ、彼女達から知り得た情報を集め武田信玄に伝えていると聞いたことがある。

 当然ながら上杉が武田の内情を軒猿達によって知っているのと同様に武田も上杉の内情を知っている。それもののうの者達による情報収集の成果が大きい。

 上杉の軍師もどこにののうが潜んでいるのか分かっていない。それほど潜入能力は高い彼女達は商人や遊郭に行った将兵から情報を聞き出しているのだろう。

 颯馬は妖艶な笑みを浮かべる女に細心の注意を払い、じっと女を観察する。

 なよなよしているように見えて背筋はしっかりと伸びていて、目つきは颯馬の身体や手の動きを見ている。

 

「時に、お前は何故に俺が上杉に仕えている者だと思った?」

「何事も情報が宝で御座います。ましてや、上杉の軍師様ともなれば知らない方がおかしいかと」

 

 敵を知ることが重要なのは颯馬も知っている。武田の者であれば上杉の内情を良く知る者も多いだろう。上杉もまた武田のことを知っている者が多いように。

 

「ならば、武田を裏切り、我らに情報を与えようとするのは何故か?」

「時が戦国乱世である以上、人が死ぬのは当然のこと。私は弱い信州の国衆の出であり、夫も戦に巻き込まれ、討ち死にを致しました。私達にとって生きる為に手段は選ぶべきではないので御座います。日ノ本東の流れは上杉に傾きつつある今。小勢力の出である私は強き者に従うのが道理かと」

 

 よくぞ聞いてくれたと女は長々と説明するとにこやかに微笑む。今までの何か腹に抱えているような笑みとは違い、本心からの気持ちを吐露するかのような自然な笑みである。

 それを見た颯馬は警戒心をそのままに、女の言葉に対して真剣な心持ちで耳を傾ける。 

 

「海津城を守るのは虎綱様。されど、城にいる兵は僅か一千程度。海津城はご存知の通り、決して堅牢な城とは言えません。この機を逃す方が愚の骨頂かと」

 

 真剣な表情で女は言うと懐から書状を取り出すと颯馬に渡す。颯馬は中を改めると目を見開いた。虎綱春日が甲斐に上杉軍が海津城に侵攻している為、増援を求めるという内容の書状である。

 しかし、それを本当に信じて良いのかと颯馬は思ってしまう。都合が良過ぎる為、こういうことに必ず裏があるのは重々承知している。

 一方で、海津城の情報が正しくないという確証は無い。武田は攻めてくる気配の無い上杉よりも今川に注意を払っていた。

 突然のことに対応しきれていないと考えれば女の言うことも頷ける。

 

「海津城のこと。真と見て良いのですか?」

「ええ、もちろん」

 

 再度、颯馬が確認すると微笑みながら女は頷く。一方の颯馬は女が本当のことを言っているのか皆目見当もつかなかった。仮に本当だと見たとして素直に動こうとするつもりは無い。

 

「村上様の名で声を掛けた方々は海津城を落とすことで三割、葛尾城で半数以上は上杉になびくでしょう。さすれば、上杉が信州全土を奪取するのは容易いかと」

 

 にこやかな笑みを崩さないまま女は懐から扇子を取り出し、颯馬にも届くように風を吹かせる。

 香料を使っているのか、頭の回転が鈍くなるのを颯馬は感じた。苛々する感情を抑えながら颯馬は書状だけでも貰っておこうと懐にしまう。

 帰ってから義清達と相談しようと颯馬はすぐに立ち上がると今度こそ馬を繋いでいた方向に歩き出そうとする。

 

「世に多過ぎる英雄・・・・・・」

 

 一歩目の足を地面に落とした瞬間、女は再び口を開いた。

 

「皆を従えきる器がある者こそ天下を統べる。それは古今東西、未来永劫、変わることはないでしょう」

「・・・・・・そうだな」

 

 颯馬は振り返らず、兵二人を起こすと女の方を見ること無く、馬の方に歩を進める。

 

「(一体、何が目的なのだ?)」

 

 掴めないことに恐怖を感じたのは富樫を相手にした時以来だろう。もしかしたらそれ以上に強いかもしれない。

 複雑な内心を悟られないように颯馬は馬に跨がる。幸い、雨が上がり、兵二人に悟られることは無かった。

 

 その間、頭を下げ、地面を向いたままだった女はゆっくりと頭を上げる。既に颯馬は兵二人と上杉軍の陣に戻る為に馬を走らせる音だけが聞こえ、姿は無かった。

 

「されど・・・・・・」

 

 一度、目を瞑ると歩き巫女は息を細く長く吐き、颯馬が去って行った方向を睨むように目つきを鋭くさせる。

 

「この望月千代女が失いし夫の敵、それだけは取らせて頂きます・・・・・・」

 

 風の中へ消える程の小さな呟きと共に歩き巫女は笠を被り、音も無く去って行った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百三十五話 忘れるわけないでしょ

 颯馬が陣に戻ることが出来たのは日が暮れ、夕陽さえも山に隠れそうになっている刻限だった。

 戻るとすぐに颯馬は将達を集め、軍議を開き、先程、渡された書状を全員に回す。

 信憑性が薄いとはいえ、海津城を奪う為のきっかけが出来たことは大きい。無論、颯馬も簡単にはい、そうですかと頷くような阿呆ではない。

 

「その話、真と見て良いのか?」

 

 やはりというべきか、岩井信能が先ず疑ってきた。颯馬は他の者達を見やる。義清も須田満親も眉間に皺を寄せ、承服しがたいと首を捻る。

 当然かと颯馬は内心、小さく溜め息を吐く。冷静に考えると武田軍の強みは結束力にある。確かに弱体化すれば国人衆が離反を考えることもあるだろう。

 颯馬自身もののうを信頼していた訳でも無く、かなりこのことを皆に言うべきか悩んでいた。

 ここにいる者達は信玄による様々な調略によって故郷を追われた者達ばかりで、あまつさえののうが絡んでいると聞けば疑い、裏に確実に何かがあると考えるのは当然だった。

 義清においては何故、颯馬があの女の策に乗ったのかという目を向けている。寝返りを警戒しているという訳ではなく、話を承諾し、実行に移そうとしたのか訳を問いたいという目だ。

 それに対して颯馬は首を横に振った。さすがにそこまでお人好しではない。

 

「俺とてこの話を完全に信じた訳ではありません。されど、進展の無い戦況のままも如何なものかと」

 

 兵法において戦果の無い戦はただ経費を無駄遣いにしかすぎないとある。それでも、義清達は渋い表情のままで動くのは得策ではないと語っている。

 

「海津城を攻めるのはあくまでも武田の注意をこちらに向けさせ、北条に援軍を出させない為、天城殿、それをお忘れではありますまい?」

 

 それぞれの心中を代表して言ってきた岩井は颯馬を睨み付けているが、颯馬とて女の色香に惑わされて戦の行方を変えるような愚か者では無い。

 知っている範囲での武田軍の内情と女によってもたらされた海津城の情報を考え、計算すると十分に本当であると思えたからだ。

 仮に武田軍が罠を張っているとしてもはたして対処出来ないかと言われれば出来ないことは無い。

 川中島の地理は既に頭の中に叩き込んでいる為、どこに罠を張るのかおおよそ予測は付く。それは上杉だけではなく、武田にも同じことが言えるだろう。故に、罠があるとすれば海津城付近である。

 千曲川の流れを引き込み、それを堀にしている海津城は西から北にかけて天然の防備を備えている。故に、上杉側からするとそれを突破しない限り落城は難しい。

 以前のように妻女山を通るという手段もあるが、海津城の虎綱春日が警戒を疎かにする筈がない。颯馬以下、全員が思っている。故に、岩井に続いて須田満親が慎重論に主張するのも颯馬には理解出来た。

 

「やはり、ここに止まり続け、春日山城から援軍を・・・・・・」

「いえ、戦果も無く、撤退するのは下策。また、これ以上、越後から兵を出すと本国の警戒態勢に支障が出ます。既に、最上に援軍を要請しておりますが、当面は関東が狙いですし」

 

 最上は北羽州でまたごたごたが起きた為、出陣が遅れている。ようやく動ける状態になったとはいえ、関東に援軍要請が来ていたらそちらを優先するようにとあらかじめ書状を送っている。

 冷静に考えて佐竹が足手まといになる可能性が高いと踏んでいた為、最上が信州に来る可能性は極めて低い。

 三千の兵という少なさが故に、動けないのは事実だが、動かずにそのまま待機しているのは何も戦果を得ずに帰ること。

 ここにいる者達は慎重な意見を出している。だが、颯馬は本心では故郷を追い出された恨みや旧領を奪還したいという思いを心の奥底では持っていることを知っている。

 それを利用すれば颯馬は海津城攻めを決行する方に持っていけるのではないかと思っている。

 

「少しだけです。あくまでも様子見で御座います。仮に海津城がこちらに無警戒、もしくは何も罠が無ければ攻めれば良いのです」

 

 少しだけという言葉に義清達は僅かながらも反応を示した。

 

「取るべき餌が魅力的でしょう? 海津城を奪えば信州北側を得る足掛かりを作ることが出来ます」

 

 事実を組み合わせ、颯馬は少し口調を柔らかくして決断を促す。一方の三人はそれぞれ考える素振りを見せ、沈黙を作る。

 海津城を得ることは葛尾城などを落とす為にも必要となっている。その為か義清は特に真剣な表情で考え込んでいるように見える。

 

「無論、先程の岩井殿の言は私も分かっております。それ故、無理な攻撃は仕掛けません。向こうが粘るならこちらは諦める。崩れるなら攻める。それでよろしいですか?」

 

 岩井が言ったことを踏まえると義清以外の二人も眉間の皺を解いてくれた。そして、全員が承諾したと頷いたのを見て颯馬は軍議を散会にする。

 正直なところ颯馬は出陣するべきだと思っていなかった。決して女の言を信じていなかった訳ではない。全幅の信頼ではないが、五分五分といったところだった。

 最もな原因は義清達の疑心が完全に雲散出来ていない今、出陣を命じてもはたして上手く行くのだろうか。上手く行けば良い。しかし、駄目ならば颯馬自身に対する疑心が更に深まる。

 別段、颯馬は保身を重視している訳ではないが、信州討伐の大将として赴いている以上、一番上に立つ者が他の者とぎくしゃくしているのは好ましくない。

 

「(さて、どうしたものか・・・・・・)」

「天城様、ご報告で御座います」

 

 はっきりしない思考のまま盛大な溜め息を吐いたのと同時に舞い込んで来た報告に颯馬は驚きを隠せず、思わず立ち上がった。

 

「海津城に敵の気配が無い?」

「はっ。幾度か近付き、確認致しましたが、間違い御座いませぬ」

 

 間者が言うには旗だけがたなびき、中はほとんどの兵がどこかに消えているらしい。何か裏があるのは見え見えである。颯馬はそこに何かあると考えた。

 そこまで露骨に誘い込むような真似を武田四天王の一角として有名な虎綱春日がするとは思えない。

 ならば、武田の本国である甲斐で異変があったのだろうか。それも否だと颯馬は内心、頭を振る。そうなった際、普通に報告が上がってくる筈だ。

 だとすれば、考えられるのは海津城の武田軍が上杉軍を前に撤退したということだけになる。そうだとすれば理由が分からない。

 周りに伏兵の気配を感じたか颯馬が尋ねると間者は無かったと返してきた。

 

「(空城計にしては見え透いている。しかし、単純に撤退するのか?)」

 

 こんがらがる頭をそのままに間者を下げると颯馬は一人、善光寺の境内に出る。ひんやりとした空気は頭を落ち着かせ、思考をより深くするのに丁度良い。

 もし、邂逅した女の言っていたこと。海津城に兵はさほど置いていないということが本当だとすれば動くことを迷わなかっただろう。

 間者を数人放ち、無事に帰って来た一人の者がもたらした報告故に、信じるべきだが、上手く行き過ぎている。大抵、裏があると見るのが普通だ。

 無論、颯馬もまたそうである。しかし、先程まで話していた女の言を含めるとにわかにそれを信じても良いのではないかと思えるのだ。

 武田軍に海津城から撤退する理由が思い付く範囲の中では全てが弱い。素直に考えれば罠。裏があると考えても罠である。

 動くことが出来ないようにと見せかけでやっているのだろう。

 そうなると本当にあの女が何とかしたのだという結論しか最後にはなくなる。

 

「行ってみるか・・・・・・」

 

 一縷の望みと一抹の不安。はたしてどちらを優先すべきか。選択を迫られた時に人は前者を望みたくなる。

 だが、颯馬は本来後者を選択するべき立場である。一方で、海津城という城を得る餌は絶好であることも確か。

 

「(やられる可能性よりも、魅力がある。か・・・・・・)」

 

 肺から空気を出すように息を吐くと颯馬は再び義清達を集めるように控えていた者に命じた。

 

 

 翌日、半ば強引ではあったが、颯馬は義清達を説得し、出陣した。そして、結果的にこの判断は間違っていなかったと言って良かった。

 間者の言っていた通り、海津城の中は空で何も無い。不気味な程、静寂に包まれ、人どころか虫さえもいないようにも思えた。

 

「(面妖にも程がある。しかし・・・・・・事実、誰もいない・・・・・・)」

 

 城内に入った時には末端の兵でさえも驚きのあまり辺りを見回し、颯馬達が命じるよりも前に城の周辺や部屋を確認しに向かった程だ。

 かつての戦のように霧も出ていない。空は相変わらずの曇天だが、視界ははっきりしていて、全てを調べるのにさほど時間は掛からなかった。

 

「申し上げます。どこにも武田の兵はおりませぬ」

「兵糧庫に何か仕掛けなどは?」

「全く御座いませぬ」

 

 女の意見があったとはいえ、ここまで何も無く、本当に事が成ると疑いたくなる。

 颯馬は小さく唸ると周りを見て何も気配が無いと改めて確認する。少し周りも見るべきだろうかと外へ向かう。

 

「颯馬殿、どこへ?」

「少し外を見ようかと。本当にこのまま素直に安心するのもあれですし」

 

 義清は納得したように頷くと自身も行こうと言ってきた。前とは違い、特に断る理由も無い為、颯馬は了承すると共に歩を進める。

 本丸の内部には特に仕掛けが無かった。それから二人は本丸の広場から屋敷が連なる方へと移動する。だが、当然のようにそこももぬけの殻である。

 

「こちらにも気配は無いのう」

「一体、武田軍は何処に・・・・・・」

 

 颯馬は一人、前へと歩を進める。秋の冷たい風が紅葉を連れて吹いてくる。敵の気配は一切無い。いるのは道を整備している上杉軍の兵だけだ。 

 納得いかないことをそのままに颯馬は息を吐く。周りの兵は戦後処理に勤しみ、特に何か疑問に思っている者はいないように見える。

 颯馬はかれらを見回しているとふと今まで吹いていた風の中でとびきり強い風が正面から吹いてきた。何故か砂埃も舞い、颯馬は顔を目で隠す。 

 

「なっ!?」

 

 颯馬の驚愕の声はそこにいた上杉の将兵達のそれを全て代弁していた。颯馬が気付いた時には義清の姿は無い。

 人が煙の如く消えるようなことは絶対に有り得ない。颯馬は慌てて辺りを見渡す。

 

「村上殿!」

 

 偶然、やって来た須田満親が颯馬よりも先に義清を見つけてくれた。義清は丁度、颯馬の背面にいた。義清は上杉の鎧をまとった兵によって首に腕を回され、完全に動けなくなっていた。 

 

「不覚・・・・・・」

 

 義清が奥歯を強く噛み締めているのが颯馬達にも分かる。歯を隠すこと無く、義清は女を睨み付けている。抵抗出来ないらしく、組まれたままだ。

 一方、颯馬は表情を一切変えないまま義清の首に刀を当てている女に見覚えがあった。

 

「お前は・・・・・・」

「望月千代女・・・・・・もはや、私が名を秘す意味も無し・・・・・・」

 

 前日、邂逅したののう、望月千代女は颯馬を見て小さく答える。颯馬は更に言葉を繋げようと口を開きかける。しかし、それよりも先に千代女は義清に視線を向けた。

 

「お久しゅう御座います。村上殿?」

 

 千代女は感情の欠片も無い口調で言うと義清の首に当てていた小刀を更に強く押し上げる。義清が当てられた所から血が細く流れ出てきた。

 少しでも逃れようと義清は首を仰け反らせる。しかし、千代女は更に腕に力を込め、動かすことを許さない。

 

「義清殿!」

「来るな」

 

 颯馬が一歩出ると静かで確かな殺気が籠もった千代女の声が返ってきた。そして、千代女は義清に強い憎悪の念を込めた目を向ける。遠くにいる颯馬さえも怯ませ、包囲している上杉軍の兵達を動かさない。

 

「村上義清・・・・・・我が夫、望月信頼を討ちし恨み。今、ここで晴らさせて頂きます」

「そうか。あの時の・・・・・・」

「ほう。覚えて頂いておりましたか?」

「強き者程、忘れることは無い」

 

 義清は何かを思い出したように遠い目をしている。颯馬には分からないが、おそらく川中島の激戦の中で討ち取った千代女の夫との殺し合いが脳内の情景には浮かんでいるのだろう。

 義清程の武勇の持ち主であれば数多の勇将を討ち取る技量は十分に持っている。もちろん、名を馳せれば馳せる程、討ち取った者の親族からの恨みを買いながら。

 その中に千代女の夫、信頼も含まれ、千代女もまた義清を恨んでいた。

 颯馬が隣に来た満親と共に納得しているのをよそに千代女は義清を凍るような目つきで睨み付けている。

 

「覚えて頂けているのならば、お分かりでしょう? かつて、川中島で・・・・・・」

「拙者は確かに望月と名乗る将を殺めたな。なるほど、理解した」 

 

 義清は首の傷が徐々に裂けていくのを感じながらその時のことを思い出しているのだろう。遠い目をして小さく息を吐く。

 

「敵討ちをこの場で行う為、わざわざ武田を撤退させたのか?」

「答えずともお分かりでしょう? 貴方とて生きる為に上杉を頼ったのですから」

 

 義清の問いに千代女は静かに答える。しかし、その内面には狂気を隠しているのが颯馬達にも分かった。義清を強く睨み付けている目の奥底にあるのは明らかな復讐と憎悪の念。

 なりふり構わずといったところだろう。紛いなりにも家族になった者、互いに幸せであるならばなおさらそれを奪われた痛みは計り知れない。

 千代女程の忍ならば復讐を果たす為に様々な策略を巡らせることも可能だったからこそこのような劇を行うことが出来たとも言える。

 故に、颯馬は一つの疑問が脳裏によぎった。千代女はどうして義清に固執しているような素振りを見せるのか。恨むのであれば颯馬達を含めた上杉の者達全員の筈である。

 千代女はののうである。どう考えても個人の感情でこのような動きをする筈が無い。訳を聞くまで千代女を殺す訳にはいかない。しかし、この状況を打開するにはどうすれば良いか、颯馬も分からない。

 

「待て!」

「問答無用! どうせ、誰もが何とやらと言うつもりでしょう? されど、もし仮に貴方が唯一無二の存在を消された時、同じことを言えますか?」

 

 そう言うと千代女は義清の首に当てていた小刀を振り下ろした。血飛沫が千代女の顔に盛大に飛び散り、浮かべていた酷薄な笑みが恐ろしさを増す。

 

「これが、私が貴殿へ近付いた目的で御座います・・・・・・」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百三十六話 冬前の迷路

 善光寺の僧侶が経を読み終えるとしんと静まり返った部屋の中で颯馬は彼に向かって礼の言葉を述べる。

 簡単ではあるが、主だった者達で終わらせた義清に対する読経の中、外からは微かにすすり泣く声が聞こえていた。 

 上杉軍の兵に扮していた望月千代女が義清の首へ小刀を振り下ろし、首の左横から右横へと貫いた途端、颯馬達の時間は止まった。

 千代女の発した静かで狂気を包み隠さ無い笑い声によって我に返った颯馬が駆け寄った時には既に遅かった。

 実に生々しい。戦場に行けばどこにでも転がっていそうな亡骸が颯馬には物珍しいものに見えた。

 

『これが、私が貴殿へ近付いた目的で御座います・・・・・・』

 

 あの後、千代女はその発言の後、逃げ切れないと判断すると義清の首から引き抜いていた刀を首に押し当て自ら命を絶った。その為、千代女が単独で行った事なのか、真実は闇の中に消えてしまった。しかし、颯馬は確信があった。 

 

「(明らかに望月の怨念を利用した策だな)」

 

 千代女は腐ってもののうの頭である。私情だけで動くような性格ではない。裏で誰かが糸を引いていることは目に見えている。

 果たしてそれが誰なのか。最終的に判断を下したのは信玄だろう。手段を選んでいられない状況であるというのであれば致し方ない。

 また、義清は信玄にとって何度か煮え湯を飲まされた相手である。千代女の隠された復讐心は上杉に川中島で敗れたという屈辱を果たす為の格好の的だったのだろう。

 北と南に脅威がある以上、なりふり構っていられない状況であった為、武田は上杉に何か強い楔を打ちたかった。それが義清の暗殺へと繋がった。

 痛い損害だということは言うまでもなく、海津城を得る代わりに払う代償として大き過ぎる。

 海津城の城内に戻ろうと颯馬は歩を進めていると背後から「天城殿」という声と共に早足で追い掛けてくる足音が聞こえてきた。

 颯馬は足を止めて振り返る。岩井信能の姿があった。悔しさが表情から実によく読み取れる。  

 

「天城殿。悔しい思いは我々も同じです。貴殿が思うところがあるのも重々承知しております」

 

 信能は神妙な顔付きで颯馬を慰めてきた。颯馬が僧侶の読経の間、至極残念そうな表情をしているのを見てやって来たのだろう。

 普段は仏頂面で傲慢とも思える言動をする信能だが、人としての気遣いはきちんと出来ていると颯馬は内心で思った。

 

「此度のこと、我らにも責はあります。我らがもっと気を付けていれば・・・・・・」

「いえ・・・・・・」

 

 颯馬は曖昧に誤魔化すしか出来ない。誰の責任なのかと言っていれば互いに少しずつ義清を失った心の傷は癒されるだろう。しかし、それで武田に勝てる訳がない。

 これから果たして武田がどのような手を打ってくるのか。今、考えるのはそちらが先である。義清の簡単な供養の裏で颯馬は間者を多く放ち、信州の中で何が起きているのか徹底的に調べさせている。

 今のところ情報は無いが、情報戦で少しでも優位に立っておかなければ武田に対する勝利は有り得ない。千代女の一件でよく分かった。

 

「(さて・・・・・・武田は次にどのような手を打つ?)」

 

 颯馬の頭には別の思念があった。義清を失ったということは上杉軍の柱を一本、根から持って行かれたと言っても過言ではない。

 一方の上杉軍が得た戦果は海津城という武田の対上杉に対する拠点を奪ったことだ。つまり、武田軍に対する戦はこれからである。

 援軍が見込める状況では無いとはいえ、やらなければならないのだ。武田の方も義清が死んだとなれば意気が上がることは間違いない。

 海津城が上杉の手中に収まった現状を考えればすぐに上杉を討つということは無いだろうが、信州の者達を使い、その動きを止めようとしてくるだろう。

 

「(だが、本当にそう考えて良いのだろうか?)」

 

 上杉は海津城を得たことにより、葛山城や旭山城は確実にものにすることが出来た。葛山城は上杉が建て、武田が奪回し、川中島の戦い以降、再び上杉のものになった城である。

 本当に武田が奪ったものをみすみす譲り渡すような真似をするだろうか。

 

「(ましてや、上杉と武田は因縁を超えた強い宿命のようなものがある。おいそれと争っていた地を渡すような真似はしない)」

 

 思考の海に深く入りかけた颯馬だが、それを遮る報告によって悩みは一気に解決された。

 

「葛尾城に武田の軍勢が集結している模様。おそらく、一万に上る数がいると思われます」

 

 颯馬は信能と共に目を見開き、互いに顔を合わせる。冷静に考えて武田にそれほどの力があるとは思えない。

 甲斐の精鋭達を合わせればそれぐらいはいけるだろうが、それを本当に実行したとは思えない。背後の守りは一体どうしたのだろうか。

 それに関してはすぐ颯馬も答えが出た。今川と徳川は織田の援軍に向かったのだと考えるのが常識的である。

 思考を武田に戻し、颯馬は再び深く悩む。義清が死んだことは時を戻さない限り抗えない事実。それよりもこれから海津城を拠点に葛尾城をどう落とすか、過程を戦略へと持っていかなければならない。 

 

「(やはり、義清殿の存在は大きいな・・・・・・)」

 

 義清の武勇故に頼れる戦略や戦術はいくつもあった。しかし、今となってはそれらも全て義清と共にあの世に消え、武田相手に劣勢に立たされるのは必定である。

 颯馬達の目的はあくまでも武田の意識をこちらに向けつつ、関東の謙信達を援護すること。更に、北信州の奪回である。

 このままでは武田の目をこちらに向けることも怪しくなってくる。海津城にどれほど籠城出来るかは分からないが、兵を少しでも多く回してもらう必要がある。

 いっそのこと最上の援軍をこちらに無理を言ってでも回してもらおうか。もしくは安東や南部も動かすか。時間がかなり掛かるとはいえ、武田に対抗する為の兵を集める為にはそれしかない。

 海津城でどれほど粘ることが可能かは分からないが、せっかく得たものをみすみす手放す訳にはいかない。

 しかし、更に颯馬達の意気を直訴してきた農民を嘲笑う貴族のように現実を突き付ける知らせが舞い込んで来た。

 

「武田軍が妙高山に進軍している由。数は不明ですが、大将は姿形からして虎綱春日が率いている模様」

「天城殿・・・・・・今、根知城には・・・・・・?」

「千坂殿が入られています。されど・・・・・・数は八百・・・・・・」

 

 颯馬は拳を思いっ切り机に叩き付けた。表情は悔しさと怒りがごちゃ混ぜになり、上下の歯を押し合う音が周りを不安にさせる程、強く鳴っている。

 実質的に上杉が信州から撤退することはその報告で決定的になった。武田の侵攻が本当であるのは間違いない。

 いくら武田が無理をして侵攻しているかもしれないと考えても本国の危機には変えられない。

 根知城は妙高山の西側から武田が侵攻することを考えて築かれたもの。そこが落ちてしまえば越後に武田の手が伸び、西からの武田の侵攻も考えなければならなくなる。また、葛尾城に一万の軍勢が本当にいるとすれば武田は更に上杉領へ攻めて来るだろう。

 信州でそれなりの時間を稼ぎ、南に警戒を置いていた武田の虚を付く。

 真の戦略が全て海津城という餌に釣られ、義清という信州攻略に欠かせない将が死んだことによって全て断ち切られた。

 

「謙信様に書状を認めます。しばらく、兵のことを須田殿と共にお願い致す」

 

 悔しさと怒りが底から注ぎ足され、上から押さえても全く止まらずに溢れる水瓶のような颯馬の表情から内心を悟った信能は静かに小さく頷くと音を立てずに部屋を去って行く。一人になった途端の颯馬は大きな溜め息を吐き、額にぱちんという音が立てて手を当てる。

 眉間の皺が更に深くなり、武田に対する脅威を改めて実感した。

 謙信でなければ武田には引導を渡すことは出来ない。実感が湧き、まるで信玄はそうであると嘲笑うように上杉の侵攻を片付けた。仮に無理をしていたとしても少し考えれば簡単かつ的確な策だった。

 

「終わった後だから言えることか・・・・・・」

 

 もう一度溜め息を吐き、颯馬は筆を手に取る。後悔をしているようで実に惨めな気分になった。そのようなつもりではないのに、忌まわしい記憶や出来事程、忘れられないのと同じように胸くそ悪い気分になった。

 だが、頭の中に指に付いた油の如く付きまとっているのは千代女の最後の言葉ではなく、颯馬が彼女を止めようとした途端に発した言葉であった。

 

『どうせ、誰もが何とやらと言うつもりでしょう? されど、もし仮に貴方が唯一無二の存在を消された時、同じことを言えますか?』

「否。としか言えないよなぁ・・・・・・」

 

 確かに謙信が殺されたと知った時、自身もまた千代女と同じように動いただろう。

 怨念は強い。他に人が抱いてはならない。嫉妬や強欲の感情よりも遥かに上回り、事を果たさない限りはがれにくい乾いた飯粒のように脳裏にこびり付くのだろう。

 

「(そうならないようにする為にも今、死んではならないな)」

 

 謙信だけではなく、兼続や龍兵衛といった仲間も消えてはならない存在である。かれらが死んだ際、颯馬ははたして義清が亡くなった時のように冷静にいられるだろうか。今回のように千代女が復讐心を隠さずにむき出しにしていた為、至って冷静を貫けた。では、今回とは違ってはどうか。また、謙信はどうなるのだろうか。

 想像するだけで胃が強い糸で締め付けられるような感覚に襲われる。行って良い想像と悪い想像があるようだ。

 颯馬は思考を戻し、小さく息を吐く。

 せめて、自身は後味の悪い復讐心を利用した策を使うようなことは今後なるべく避けたいものだ。軍師として手段を選ぶようなことは御法度だが、私心の中でそれぐらいは思っても良いだろう。

 颯馬は筆を進めようとしたが、なかなか進まず、終わったのはそれから一刻以上も経った時だった。

 

 

 

 上杉軍が箕輪城を包囲して数日が経った。すかさず攻め込もうとしたものの、北条氏康はこの日の為にと堀を深く下げ、兵糧を多く詰め込んでおいた。また、間者が上れないように塀に返しを付け、工作をされないようにと徹底的な対策を行っていた。

 謙信は城の外観を隈無く観察し、すぐに決戦を行えるのは不可能であると考え、包囲しつつ策を練っていた。だが、当然のように堅牢で名高い箕輪城を落とす決定的な策を立てることはすぐに出ず、いたずらに時間だけが過ぎていた。

 颯馬からの手紙がやってきたのは兼続と龍兵衛が策についてあれやこれやと謙信と景勝の前で議論を重ねていた時である。

 

「謙信様。颯馬は何と?」

「撤退すると」

「なっ・・・・・・」

 

 兼続が声を上げた。景勝と龍兵衛も声を出さずとはいえ、景勝は目と口を開き、龍兵衛は眉間に寄っていた皺を更に深くする。

 武田に対する抑えをさせる前に全く機能しないまま颯馬達が撤退してしまうこと。それは西上野が武田に攻められるかもしれないという危機が出てきたということである。

 

「(やはり、信玄は侮れないか。武田はあれがいる限り、易々とは滅びることはない。か・・・・・・)」

 

 胸の奥に宿敵への思いを多くの鍵を使って強引に抑え、三人に視点を戻す。

 

「今後の対策を立てる。もはや、東側の動きと共にとは行かぬ」

 

 龍兵衛と兼続はほぼ同時に頷く。武田が上野に進出してくる可能性は低い。しかし、無いと言い切れない。裏で織田と何かしら盟約を結んでいるかもしれない。

 利害関係が薄いとはいえ、信玄がなりふり構っていられない状況にあるのは謙信も分かっている。

 仮にそうだとしても謙信の中で撤退する気などさらさら無い。関東を制することは上杉が紛れもなく、日の本東の覇者として君臨することを明確にする。それだけではない。畿内の織田と対等に争える力を完全に手に入れ、畿内にくすぶっている足利幕府を支持する者達と打倒織田に向けて動くことが可能になる。

 

「箕輪城は早急に落とさなければならない状況になった以上、力攻めに切り換えるか?」

「せめて、最上の援軍を待った方が・・・・・・」

「そのように遅々としていては東から南下して来る別働隊に遅れを取るぞ」

「多少遅れたところでどうこうということはないだろう? 小田原城に向かう前から払う犠牲を大きくすることはあってはならない」

 

 龍兵衛の慎重論と兼続の積極論による言い争いが始まりそうになっているのを尻目に謙信は一人でじっくり考える。

 房総の里見が海賊衆を率いて相模湾を目標に暴れている。また、当主の義堯が陸から武蔵の東側を脅かしている今、要の上杉軍がここで援軍頼りにのうのうとしているのは得策とは言えない。

 

「確かに・・・・・・早急に事を終えなければならない以上、力攻めも考えなければなりませんね」

 

 龍兵衛はおとがいに手を当てながら地図を覗き込む。周りには箕輪城の支城が多く、城の位置故に、街道の要所が多い。だが、相手が相模の獅子だけにという思いの為、三人は渋い表情で地図を眺める。

 

「周りの城を落とし、孤立状態に陥るようなことになっても北条氏康が容易に箕輪城を渡すような真似を致すでしょうか?」

 

 兼続の言うことはもっともであり、謙信は間違いなく有り得ないと首を振る。氏康は北条家の正統な嫡子であり、その力は戦においての統率力は早雲さえも上回る程と言われている。

 箕輪城を落とせば三国街道と中山道の合流点まで達することが可能になり、下野への上杉直々の介入も可能になる。

 既に下野は上杉と手を組んだ宇都宮が東側から南下している弥太郎達の支援を借りて事を有利に進めている。

 彼等と合流する為にも早めに箕輪城を突破して上野と下野の支配を完全に上杉のものへしなければならない。

 また、上杉軍には急がなければならない理由がもう一つあった。時刻は既に夕暮れ時を越え、もう少しで日が暮れそうである。

 最後に見せようとしている眩しい朱色と山を支配した黄色と鮮やかな朱色が見事に調和している。しかし、人が眺めているのを許さないと言わんばかりに強い風が山から降りてくる。そして、風は身体を芯から冷やすのに十分な寒さだった。

 謙信は溜め息を静かにこぼす。あっという間に日が沈み、風が無くても野宿の上杉軍の将兵は徐々に突き刺さるような寒さに耐えなくてはならなくなるのだ。

 

「最上殿の援軍は後どれほどなのだ?」

「これより冬に入る備え故、もうしばらくは掛かる模様です」

「具体的日数には?」

 

 最初はすかさず答えた兼続だが、次の質問には少し気まずそうな表情で間を置く。

 

「二十日程度は掛かるかと・・・・・・」

「援軍を待っている前に冬に入りかねないか」

 

 おとがいに手を当て、謙信は地図を眺める。何か名案が死角から飛び出してきた猫のように突然浮かび上がってくるものではない。

 焦ることは敵に付け入る隙を与えることになる。しかし、目の前までやってきている人では抗うことの出来ない天からの危機を前にどうやって対処すれば良いのだろうか。

 

「ともかく、越冬の為に必要な準備を急がせ、箕輪城の支城、砦を落として行きましょう」

 

 沈黙が走り、誰もが決して口を開こうとせず、このまま皆が貝になりそうになったのを嫌った兼続が今やるべきことを慌てた口調で言う。龍兵衛も隣でそれしかないと小さく頷く。

 今はそれしかない。出来ることを行ってから箕輪城を落とさなければ更なる犠牲を招きかねない。冷静に対処するべき時が来た。はたして装うことが難しい状況で上手くいくだろうか。

 分からないが、謙信はやるしかないと自らを戒め、毅然とした表情になる。

 

「景家を呼んでくれ」

 

 龍兵衛が頭を下げて出て行く。その時、謙信はふと目に入った為、大事なことを忘れていたと気付いた。

 

「景勝、お前も異論は無いな?」

 

 霧のような存在になっていた景勝も更に小さく二度頷いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百三十七話 撫で撫で

 北条氏康は内心の憤りを抑えるのに必死だった。常日頃より、如何なる状況にも動揺しないよう己を律し、母より続く北条の礎を更に強固なものにさせる。

 実際にその思いは実現し、北条の関東支配は確固たるものになった。故に、強引なまでに出兵を続け、東北を支配地にした上杉に負ける訳が無いと行き過ぎない程度の自信があった。

 邦憲の過ちがあったとはいえ、簡単にやられる訳には行かない。邦憲のせっかちな性格は元々承知の上でその気迫を買って前線に配置していた。

 

「上杉の先鋒が城門や砦付近で再三挑発しております」

「見え透いた策に掛かることはありません。母上の援軍が来るまでこの箕輪城に籠もり続けます」

 

 兵が出て行くのを見届けると氏康は息を一つ吐く。外の声は聞こえないが、何となく上杉軍が近付いているのは悟った。

 氏康は立ち上がり、そのまま城外に置かれた櫓の上に上る。上杉の旗印以外には何も見えない。しかし、最上の援軍が動いているという状況もある。

 氏康の憤りの原因は最上ではない。下野が簡単に上杉の手に落ちそうになっているということだ。否、落ちたのではなく、勝手に落ちていきそうのだ。

 上杉が下野の宇都宮と盟約を結び、誼のあった下総の結城と共に敵対する那須や国人衆を挟撃させた。その過程で那須の家中で独立意識が高い者達ばかりだということを利用し、火種を放り込み、見事に放火させた。内憂外患に陥った那須は反乱を企てた那須の家臣達と共に散っていった。

 実に不快な出来事だった。元々、北条の影響力が低かった下野であったとはいえ那須や宇都宮と対立する家臣達はもう少し働いてくれると思っていた為である。

 計算外なことが起きたからといって怒りを覚えるような短気な氏康では無いが、下野の混乱状態が思ったよりも呆気なく片付いてしまったことに腹立たしく思えた。

 少しぐらいは上杉に対して損害を与えてくれるのかと思ったが、全く成す術も無く下野は上杉の手に落ちようとしている。意地が全く見えない。窮地や死地に追い込まれる程、人は団結すると言うが、逆に乱れて今にも崩れようとしている。

 すると、背後から足音が聞こえ、音が止まるとその苛々を抑えるように氷のように冷たい声で氏康は呼ばれた。振り返ると猪俣邦憲が片膝を付いて頭を垂れている。

 

「上杉が御門城を落とした模様」

 

 氏康は分かったと頷くと邦憲は静かに去って行った。少し氏康は邦憲の後ろ姿を見て背筋が凍った。

 あれだけ城を出ずに臨機応変に戦えと言っておいたにもかかわらず、上杉の手の平で泳ぎ、そのまま溺れ死にかけた邦憲だが、辛うじて箕輪城に落ち延び、そのまま早雲によって小田原城へ一旦強制帰還させられた。

 そして、一ヶ月弱して帰ってきた邦憲を見て、彼女の話を聞いて、氏康は動揺のあまり、声を漏らしそうになった。いや、堪えた氏康は凄いと言えた。

 あの上杉が来た途端に目の前に上杉軍が来ているように訳も無く暴れ回っていた邦憲が氏康を前に物静かに先の戦での失態と皆に迷惑を掛けたことを深々と頭を下げて謝罪してきたのである。

 更にその後もじっと上杉軍の動向を眺めて冷静に適格な動きでかれらを防ぎ、以前のように大声で「打倒、上杉!」などと騒ぎ立てることも無くなった。

 脳天に岩が直撃したような衝撃を受けた氏康は邦憲が早雲から託された書状を改めて読み返してみた。 

 

『少し撫でておきました』

 

 しかし、書状には邦憲のことに関して書状の中ではそれだけしか認められていなかったので詳細は分からない。しかし、大分諫められたことは確かなようで以前の目の前に獲物がいる飢えた野獣のように感情に任せて行動すること自体が大分減った。

 普段、冷静なら本来の力を発揮することが出来るのだからその邪魔立てとなる烈火のような怒りを抑えられるならそれに越したことは無い。

 人の人格を変え、更なる力を与える母の凄さに尊敬と畏怖の感情を抱きながらもどうしても収まらない怒りによる腹の虫が氏康に襲い掛かってくる。

 下野が未だに那須の残党によって混乱しているが、収まればどうなるのか。下野から上野を結ぶ中山道を通り、北と東から挟撃される恐れが出てくる。

 既に下野へ北条一族の幻庵が率いる兵を回しているとはいえ、相模の方も里見や結城の動きが活発になってきている為、大きな兵力を出すことは出来ない。

 結城と上杉が合流すれば下野にも手が延びてくるのは明白である。

 

「下野の幻庵様より書状が届いております」

 

 報告が届き、氏康は普段通りの平静を装って書状を受け取る。内容は氏康へ驚愕を与え、の不機嫌を空の彼方へと雲散させるには十分だった。

 宇都宮の当主、宇都宮広綱が病に倒れ、家臣の間でごたごたが起きているというものだった。上杉に付くのか北条に付くのかで派閥が形成され、不協和音が起きているらしい。広綱自身が上杉に与している為、すぐにとはいかないだろう。

 

「(ならば、すぐにそうなるように仕向けるまで・・・・・・)」

 

 氏康は城内に戻るとすぐに筆を取った。

 

 

 

 秋の風が吹き荒び、嫌でも人の体温を奪って行く。しかし、火を炊く為の炭や木もただではない。そもそも、冬で無い以上、当分は我慢しなければならない。

 その中でも気紛れな天候は人間の思いも特に聞き入れもせずに風を止め、春のような暖かい天気を招いてくれたりもしてくれる。

 とはいえ、戦場では気候など関係無い。その時によって対応していかなければならない。

 兼続は乾燥し、燃えやすくなったものを全てそれだけにまとめ、人がなるべく入らないように指示を出す。兵自体の様子を見ると何人かの吐く息が若干白くなったりならなかったりしている。

 

「(越冬になるのは覚悟していたが、思ったよりも早く来るかもしれんな・・・・・・)」

 

 兼続は兵達に気付かれないよう小さく溜め息をこぼす。越冬、つまり寒い冬を野宿で乗り切れということだ。

 別段、そのことは既に覚悟の上であったし、その為の装備も十分に行い、持ち込んで来た。また、春日山から派遣される兵糧を届ける部隊が雪によって三国峠を突破することが出来ないということが起きないように道の拡張、整備を行ってきた。

 

「直江様。ほとんどの荷はあちらへと運び終えました」 

「ふむ・・・・・・後の荷は良いだろう」

 

 一通り終えたところで額の汗を拭い、置いてあった資材の上に腰を落とす。寒そうにしている兵達は資材の遠い所で火を起こし、暖を取っている。

 先日、資材の近くで火を起こした際、兼続は最上よりも先にやってきた景家と共に厳重に注意しておいた。その甲斐もあってか兵達も気を配るようになっている。だからといって兼続の気が晴れる訳でもなく、溜め息を吐き、両方の頬が餅が潰れたようになる。

 周りの兵は兼続の放つ殺伐とした雰囲気に怖じ気付いて全く近付こうとしない。

 かれらの合間をぬって龍兵衛が足音を立ててやってきた。気付いている筈なのに今ここに兼続がいることを知ったと言わんばかりの口調で隣に歩み寄って来る。

 

「何だ、兼続か。つまらない演芸を見ているような表情して」

「何だとは何だ。そして、回りくどい言い方をせずともはっきり湿気た表情をしていると言え」

 

 人を食ったような笑みを浮かべてきた龍兵衛に兼続は噛み付く。龍兵衛は悪びれる様子も無く「はいはい」と形だけ頷く。その態度に呆れつつも兼続は龍兵衛だから仕方ないなと肩をすくめる。

 普段、貝のように口を開かない龍兵衛だが、主である謙信や景勝には言うべきことはきちんと言う。また、同じ軍師として颯馬や兼続や年が近い慶次や長重とはよく公私関係無く喋っている。

 更に官兵衛がやって来てからは上杉の中で通じていた龍兵衛は真面目で時々おちゃらけたり、羽目を外したりするという認識が大きく崩れた。

 官兵衛を師だと公言して、表向きは尊敬しているように振り撒いているが、実のところ師匠を師だと思っていないような振る舞いをしている。

 以前、兼続が見た時には、龍兵衛と官兵衛が一緒に歩いていたが、二人の足がふと止まった。何をしているのだろうと思い、遠くで見ていると、唐突に龍兵衛が官兵衛をからかっていた。それぐらいならまだ幾度も見てきた為、構わない。

 だが、弟子である筈の龍兵衛が師である筈の官兵衛の鼻を摘まんで「あはは」と楽しそうに笑っているのはいくら見慣れている兼続とはいえ目を見開くには十分な光景だった。

 そこから龍兵衛はよく聞こえなかったが、子供がどうこう、背丈がどうこう言っていてますます官兵衛を怒らせる。その時、兼続は正直なところ官兵衛の味方をしたくなった。

 持っていた資料を振りかざして官兵衛は龍兵衛を攻撃するが、それなりに武芸も嗜んでいる彼は簡単に攻撃をかわして笑いながら逃げ回っていた。その逃げ方も「あははのはっ」と完全に舐めきっている笑いをしながらもう少しで捕まる捕まらないというところをわざと作っているやり方だった。

 兼続はその光景を唖然として眺めていた。あそこまでやってのけると怒りや呆れを通り越して清々しく思える。

 

「(よくあの性格がばれないものだ・・・・・・)」

 

 何故か、龍兵衛は他の人なら絶対にばれるだろうという行いが他人には全くばれず、本当に確実に見たという情報しか彼個人のことは入って来ない。龍兵衛の私生活の謎を完全に解いた者には兵の間で賭金が出る程、秘匿にされている。ちなみに本人にそのつもりは無いらしい。

 しかし、と兼続は首を捻る。龍兵衛はそこまでひねくれ者では無かった筈だと。

 

「どうした?」

「へ? あ、いや。何でも」

 

 兼続が戦とはかけ離れたことを考えている間に龍兵衛は兼続の隣に資材に汚れが無いか確認して座ってきた。

 

「面倒だ・・・・・・」

「いきなり何だそれは」

「事実だろ?」

「・・・・・・否定はしない」

 

 兼続は龍兵衛の突然のやる気の無い口調から出た言葉に噛み付いた。だが、あっさりと言い返されると否定出来なくなる。

 こめかみ辺りをぼりぼりかきながら龍兵衛は箕輪城に目をやる。面倒くさいという雰囲気がありありと兼続に伝わってきた。

 

「箕輪城だけでも難攻不落の城だというのに、そこに北条家の、相模の獅子って呼ばれている氏康殿が相手とはね・・・・・・」

「それは前から分かっていたことだろう。本当に面倒なのは武田が颯馬達を撤退させたことではないか?」

 

 愚痴が止まらない龍兵衛は兼続に的確に指摘され、溜め息が自ずと出てしまった。そして、目を瞑り、少し肩をすくめるとその通りだと頷く。

 武田が上杉に勝ったことで何か上杉の土台がぐらつくかと聞かれれば、それは否と言える。変な言い方をすれば上杉の損害は義清一人を失っただけにすぎない。

 それが上杉全体にそれなりの衝撃を与えることは間違いないが、本当にそれだけなのだ。兵の損害が大きく出た訳でも無い。

 問題は武田の南にある。今川と徳川がこの情報を得てどう動くかが専らの問題である。

 もし、武田の領地に攻め入るのであれば上杉は西の一向一揆と南の今川、徳川を警戒しなければならない為、関東管領としての役目を果たすことが難しくなる。

 

「時間が無い以上、攻めるしかないな」

「そうだな・・・・・・」

「謙信様には?」

「今から行く。共に行こう」

 

 兼続は素早く立ち上がるとすぐに龍兵衛の隣に並び、歩き出す。その間も会話は止まることを知らずに続いた。

 

「下野の状態は?」

「私が聞いた限りではつつがなく事が進んでいる。だが、宇都宮の容態が重くなっているようだ。それ故、家臣の間で問題が起きているらしい」

「正直、どちらが傾くと思う?」

「北条に分があると見て良いな。あれだけ背後から支援をしていたというのに、那須を完全に滅ぼせていない」

 

 兼続はあからさまに不機嫌だというのを示すように声を出して溜め息を強く吐く。それを龍兵衛が苦笑いしながら見ているのも気に止めず、兼続は更に続ける。

 

「これでは東の小島殿達との合流が武蔵に入るまで不可能になる。それどころか下野に別働隊を派遣する羽目になる」

「それを避ける為に何か策を講じたのではないのか?」

「あまりに卑怯故に止めた」

 

 兼続は本気で宇都宮の反上杉派を暗殺を行おうとしたが、自身の中にある正義心との葛藤の末にその考えを捨て、仕方なく火種を振りまいて後は傍観することにした。

 視線を空に移して苦笑いを浮かべる龍兵衛を見て、兼続は彼が少し呆れているのだと悟る。いざという時は敵対する者を容赦なく殺しても甘味をなめるような表情をして眺める龍兵衛からすると行動して欲しかったのだろう。

 だが、兼続はどうしても違えることの出来ない信義がある。龍兵衛のように冷酷で合理的な判断を実行することはしない。

 

「不満げな表情だな」

「その辺りは、しょうがないからな・・・・・・」

「どういう意味なのかは聞かないでおこう」

「はいはい。俺は戦に関して兼続に劣るのは周知の事実だし」

 

 龍兵衛は表情を変えずに自らを卑下する。しかし、兼続はあえて答えず、その言葉を受け流す。龍兵衛が自身を卑下することはよくあるからだ。

 

「ところで、御門城の様子は?」

「落とせるものなら落としてみろ。その気概が面と向かって獅子と対峙しているように感じられたよ」

 

 兼続は少し残念そうに息を吐く。龍兵衛が景勝と共に箕輪城の支城である御門城を落とし、帰って来たのは三日前のことである。

 もし、御門城の士気が落ちていたのであれば箕輪城の中でも切り崩す何かがあるかもしれない。だが、龍兵衛の話を聞いている限りではその期待は露のようにあっさりと消えた。

 陣中の中にある最も大きな陣屋にいる謙信の下に訪れ、簡単に通されると二人はまず目を見開いて謙信の前にいた先客を見た。

 

「長野殿?」

「ああ、直江殿に河田殿。頼まれていた仕事は終えたぞ」

「ありがとう御座います。吉江殿は?」

「残って行うべきことがあると言ってな。三日以内には来ると行っていた」

 

 景資が何をしようとしているのかは分からないが、謙信もさして気にしていないところを見ると大丈夫だろうと兼続は何となく思って片付ける。

 業正と景資に兼続と龍兵衛は越後に残る者、特に常に警戒しておかなければならない一向一揆に対する警戒の強化に当たった後、下野に潜入して宇都宮が優位に立てるよう支援するように頼んでいた。

 だが、下野の状況が急に北条側に傾き出したことで自身達の身の上も考えて宇都宮から離れて戻ってきたのだと業正は説明した。

 

「さ・・・・・・二人共、こうなった以上は箕輪城を攻める他あるまい」

 

 話を変え、兼続と龍兵衛がやって来た目的を悟った謙信は問い掛ける。

 未だに進展が無い箕輪城攻めにいつもは焦らずにいる謙信も多少の焦燥感を抱いているように兼続は感じた。

 

 

 

 箕輪城を攻める為の戦術を話し合い、謙信の前から下がると龍兵衛はさっさと陣屋を辞して兼続ともすぐに分かれて陣中を歩こうと外に出る。

 すると、いきなり龍兵衛はくいくいと袖を引っ張られた。またかと思いながら振り返ると景勝が膝と膝を擦り付けて顔を若干赤く染めていた。

 

「風邪ですか?」

 

 冬に近付くにつれて徐々に気温も低くなっている。それならそれで輿を用意する必要がある。しかし、景勝は風邪ではないと首を横にふるふると振った。

 

「ちゅー・・・・・・して」

 

 すとんと周りの空気が暗転した。景勝の単刀直入の攻撃はもはや何度も食らっている。さすがに物事慣れというものがあるので龍兵衛もあまりどぎまぎしなくなっている。同時に龍兵衛の感情も瞬間的に変わった。

 

「い、や、で、す!」

 

 龍兵衛は怒った蛇のように「しゃーっ!」と舌が出てくる勢いで景勝を威嚇し、激しく拒絶する。景勝は絶対に誰にも見せない筈の上目遣いでわざとらしく目を潤ませて龍兵衛にせがんでくる。

 邪な気持ちを岩で叩き付けるようにして破壊すると龍兵衛はきっぱり首を横に振る。しかし、景勝も諦めない。以前の御門城攻めの際にも城が落ちてほとぼりが冷めた隙を見て龍兵衛を無理やり頂こうとした。その時は当然のように龍兵衛は起きていて景勝を担いで行った。

 

「じゃあ・・・・・・あのね・・・・・・」

「戻ります・・・・・・いてっ」

 

 踵を返してどこかへ逃げようとしたが、景勝が素早く背中を掴んで来た為、龍兵衛は勢い良く歩き出したこともあって尻餅を付いてしまった。立ち上がって龍兵衛は景勝を見る。一瞬、顔が強張った。

 

「(凄く良い笑顔をしてらっしゃいますね・・・・・・)」

 

 花が周りに咲いているように見える笑顔だが、龍兵衛からすると嫌な予感が背筋を這い回る虫のように駆け巡った。

 

「じゃあ・・・・・・」

 

 小首を傾げて悩む姿を見て、龍兵衛は周りに誰もいないのか冷や冷やし通しで辺りを見回すことで必死だった。

 すると、龍兵衛の不安を遮るように暖かい感触が手を包む。愛用の手袋をしているとはいえ風に吹きさらしになっている場所ではほとんど効果は無い。しかし、寒さを抑えるような感覚に龍兵衛は驚き、景勝を見る。

 両手で龍兵衛の左手を力強く握り締め、そのまま自らの頭の上に置く。

 龍兵衛は仕方ないと溜め息を吐く。周りに誰もいないことを確認すると景勝の頭の上に置かれた手を動かした。

 我慢すれば良い。今だけこれだけをやっておけば景勝も後数日間は我慢してくれる。その筈だが、龍兵衛は眼前の猫が撫でられて気持ち良さそうな景勝の表情を見ると不安しかなかった。

 

「♪・・・・・・(はーと)」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百三十八話 三国街道晩秋景色

 正午が過ぎ、徐々に日暮れが早くなった冬間近の午後。氏康は櫓の上でいつものように上杉軍の動向を見落とすこと無く伺っていた。

 とはいえ、今日も特に何も無い。普段通り、上杉の兵達の罵声を無視しながら氏康は上杉軍の動向を伺う。

 北条が北関東をまだ支配し始めて間もない。しかし、気候の変動はそれなりに理解している。そろそろ、秋の風が冬の風へと変わり、雪が降り始めるだろう。

 上杉は冬の理由に撤退する気は無さそうに見える。考えれば佐竹や東北の者達もこぞって動かしている以上、そう易々と撤退する訳にはいかないのだろう。間者から三国峠の街道を広くし、長期戦も辞さないということは前もって知っていた。

 次々と上野北の城を落とし、食糧を自身達のものにしたことで越後から送られてくる物資に頼らなくても当分は大丈夫なのだろう。

 だからといって北条の士気が挫かれると聞かれればそうでもない。箕輪城の城内には上杉何するものぞという気運が籠もり、上杉の仕掛ける攻勢を次々と退け、最近では上杉は不気味な程に動こうとしない。

 城内では上杉は我々に怖じ気付いたなどと上杉軍を卑下する将兵も出始めているが、氏康はかれらに決して便乗することはない。むしろ、そのような輩を見た場合、その場で戒め、気を引き締めさせる。

 上杉の軍とまともにぶつかったのは今回が初めてであるが、櫓から見る動きや将兵の動きを見ると東北を奪っていったことにも納得いった。

 ごたごたが続く東北勢の自滅もあったとはいえ、ほとんどの勢力でのとどめは上杉軍の攻めである。それさえ封じれば上杉軍は持ち前の兵の強さを活かすことは出来ない。

 故に、周りの城が落とされようとも箕輪城に籠もっていれば焦ることは無い。

 下野の情勢は未だに入って来ないが、幻庵に送った書状は彼にかなり有益なものになった筈だ。上杉軍の息が掛かっていても宇都宮は形勢不利になるだろう。

 

「姉上ー」

 

 思考を遮るように櫓の下から元気な女の声が聞こえて来る。その声の主は氏康の許可無しにずんずんと櫓に上り、音を立てて立っている氏康の隣に座った。

 

「上杉はなかなか攻めてくれませんねぇ」

「そう都合良く攻めてくるような相手ではない。お前も分かっておろう」

「まーね」

 

 間延びした返事をしながら女、北条氏邦は目一杯腕を伸ばして欠伸をする。氏邦は跳ぶように立ち上がると氏康の腰より少し上のところまでで止まった身長で上杉軍の動きを遠くを見るように額に手を当てて眺める。

 

「動き無し。ただ兵が挑発してくるだけ。馬鹿の一つ覚えだね」

「ああすることで自分達が有利だと思い、士気を維持しているのだろう」

「やっぱり、馬鹿決定! ところで、綱成は常陸の方でどうなってるの?」

「緒戦で躓いたと聞いたが、その後はどうにかもっているみたいだ」

「じゃあ。こっちが本隊の動きを止めれば後は東西の連携が断たれて上杉はこの冬を何もない上野で過ごすことになるのか~・・・・・・いい気味」

 

 上機嫌に人の不幸を笑う氏邦を氏康は呆れた目つきで見る。前々から無邪気な声で相手が苦しんでいるのを喜ぶところがあった氏邦だが、氏康が小田原城、氏邦が上野を支配していただけあって久々にそれを聞くと分かっていても思うところがある。

 氏邦自身に悪気が無いとはいえ、無意識の内に吐く毒の衝撃は本当に毒を持つ生物に食われたようにかなり強い。

 面と向かって氏康が言われたことは無いが、同じく箕輪城にいる邦憲の方は何度か餌食になっている。先の戦で邦憲が沼田城に向かう前に氏邦は彼女を呼び止めてこう言った。

 

「頭に血が上らないよう、馬鹿なりに頑張れー!」

 

 無邪気な笑顔で人が気にしていることを言われたのだから邦憲の傷付き具合は相当なものだっただろう。邦憲の方は氏邦の悪い性格を知っているが故に心に刺さるものがあっても決して不満を言わなかったのだ。

 邦憲から聞いた一件を思い出して呆れたように溜め息を吐く氏康の動きを遮るように突然吹いてきた北風が二人を襲う。

 

「さっむっ! そろそろ冬かな~?」

 

 氏邦は小動物のように身を小さく震わせると再び風が当たらないようにとしゃがみ込む。一方の氏康も一瞬だけ目を瞑り、寒さを堪える。

 上杉軍が動くとすればそろそろだろう。冬が近付き、これ以上、動きが無ければ軍の中でも何かしらの不満が出る可能性もある。

 しかし、この箕輪城は上野一の規模を持つ城。正攻法では簡単に落とせないことは謙信も承知済みだろう。

 今まで無駄に上杉の兵が北条を罵っていたのは退屈しのぎや本気で箕輪城から北条軍を誘き出そうとしていないと考えればそこから導かれる攻め方は一つしかない。

 

「氏邦、夜襲に備え、裏門の搦手の警備を更に強化するように皆に伝えろ」

「はいはーい」

 

 氏邦はひらひらと手を頭上で振って櫓を降りて行く。氏康は彼女を見届けると上杉軍の動きを再び眺める。

 今宵の月は新月。動くとすれば今日か明日だろう。

 謙信の首を取ることでこの戦は終わる。そこに上杉軍に負わせた犠牲の数は無いだろう。それを知っているからこそ謙信もまた容易に動いたりしない。

 だが、有限である時の終わりが近いと悟った謙信はそろそろ腰を上げるだろう。その時こそ北条が上杉を打ち砕き、上杉に変わって日の本東を制する者として君臨するのだ。

 その始まりが謙信の首である。謙信を討ち取ることで関東の上杉派の大名や東北の臣従している者達をことごとく跪かせる。 

 大き過ぎる野心かもしれないが、早雲の思いが関東の平定と安泰なら娘たる自身は更なるものを求めても良いのではないか。

 

 

 

「申し上げます。上杉軍、正面より襲来!」

「迎撃するだけで良い。深追いは無用だ」

 

 その日の夜の内に上杉軍は氏康の予想通りに動いてくれた。

 まず、夜襲として正面の大手門を攻め、北条軍の目を引いている隙に伏兵が裏の搦手より奇襲を掛ける。そう考えていた氏康は正面の上杉軍を軽くあしらっている間に搦手へと上杉軍を誘導する。

 上杉軍は搦手で分断され、辛うじて戦っている。しかし、それも時間の問題である。救援に向かっている部隊もあらかじめ氏康が配置していた兵によって合流出来ない状況となっている。

 しばらくすると裏手からかすかに歓声が聞こえ、氏康は顔を少し背後へと向ける。

 

「申し上げます。裏手より襲来した上杉軍、我が軍によって撤退を開始した模様」

「深追いは無用。私が向かうまでその場を動くことのないよう伝えなさい」

 

 氏康の言葉を聞いた途端、氏邦は目を丸くして氏康へ素早く顔を向ける。 

 

「姉上、本当にあたしが出なくても良いの?」

「お前は万一が為の遊撃だ。大手門が本隊だった場合に備えてだ」

 

 氏邦は頬を膨らませるが、邦憲程の猪では無い。氏康の言いたいことを理解し、また氏康の判断への信頼もあってそれだけで隣に音を立てて座る。

 箕輪城は規模が大きい。だからといってそれだけで堅牢とは言えない。きちんとその規模に見合った人の数がいてこそ城は初めて堅牢になる。

 氏邦は武勇の人だが、知略にも優れている為、彼女がいれば少ない兵も多くを率いているようにすることが可能になる。

 大将として動きが制限される氏康自身の代わりになってもらうことが氏邦の役目である。

 半刻程経つと上杉軍は策にはまったと知るや否やすぐに敗走を始めて行ったという知らせが舞い込んできた。

 

「氏邦。城内のことは任せた」

「本当に姉上が行くの?」

「何か不満か?」

「いーや、別に」

 

 口を尖らせている時点で説得力が無い。ここは少し機嫌直しをしておいた方が良いと思い、氏康は膝を折って氏邦に視線を合わせる。

 

「致し方ないだろう。私の後ろを安心して任せられるのはお前だけなのだから」

 

 その言葉を聞いた途端に氏邦はお菓子を貰った子供のように心から嬉しいと言っているような笑みを浮かべる。

 子供がそのまま大人になったような性格をしていると氏康は内心で肩をすくめながらも本心から氏邦を頼りにしている以上、自身もかけた信頼が損なわれるような真似をしてはならないと気を引き締める。

 謙信を討ち取るか、上杉軍を追い払うか。同じようで圧倒的に異なる戦果。得るべきは当然決まっている。それを得ることで氏邦の信頼に答えることが出来る。

 

 

 

 氏康の予想通り、裏手から攻め込んだ上杉軍の方が数は多かった。氏康はすかさず城付近に残っていた兵を追い払い、それが終わると一旦集中力の糸を切るように息を吐く。 

 

「さすがは氏康様で御座います」

 

 背後から裏手の警戒を任せていた邦憲が若干の感嘆を込めて賛辞を送ってくる。しかし、氏康からすると当然のことだった。

 今までの均衡が続いた戦況。それを打開しようとしない上杉軍の怠惰。上野に止まるということへの上杉軍が被る不利な条件。

 

 

「このまま追撃を行いましょう! 今なら上杉軍を越後に追い払うことも出来ます!」

 

 搦手で北条軍を指揮していた邦憲の配下が戻ってきて氏康を急かす。息は荒く、上杉を打ち砕くことしか頭に無いというような顔をしている。しかし、氏康は首を横に振って静かに息巻く将兵達を諫める。

 

「いや、追撃は無用。無闇に攻めては同士討ちになる」

 

 氏康は撤退する上杉軍を眺めて首を傾げた。あまりにも手応えが無さ過ぎたのである。なかなか、攻略出来なかった箕輪城をようやく攻める。

 今、追撃をしなければ好機を逃すこととなる。しかし、氏康は上杉軍が仕掛けてきた決戦にもかかわらず、あっさりし過ぎる撤退に疑問を抱いた。

 上野で冬を待つような愚行を上杉がしていると思えない。箕輪城を落とせば上野の趨勢はほぼ傾く。今日を逃せばその機会は秋の間には無くなる。冬が来てしまうからだ。

 にもかかわらず、上杉軍はせっかく均衡していた状況を打ち破ろうと動いたのにみすみすと箕輪城を落とす機会を逃そうとしている。

 氏康はおとがいに手を当て考える。

 上杉が夜襲を仕掛けながらも簡単に撤退し、北条軍をねずみを見つけた猫のように誘っているのは何故なのか。

 城内に上杉の手の者が入ることは城壁の高さなどを考えてほぼ不可能。裏手の方は警戒態勢を厳重にしている為、伏兵が騒ぎ出しても意味を成すことはない。

 

「周辺を調べよ。皆はこの城門付近の守りを固め、何処から攻められても良いように待機だ」

 

 待機と言いながらもいざという時に箕輪城へ撤退する為に上杉軍から距離を取るように下がる。

 

「北西に上杉軍の伏兵を確認。数は不明でございますが、さほどの数ではないかと」

「他に伏兵の気配は?」

「私が見た所にはおりませぬ」

 

 氏康は物見を下げると後ろで追撃とその伏兵を討ち取るべきと主張する配下の者達に前置きも入れずに指示を下した。

 

「その伏兵は放っておく」

 

 周りからどよめきが起きる。氏康には確信があった。その伏兵こそが上杉の本当の策の肝であると。この上杉軍の夜襲を仕掛け、それが悟られることも考えて実行している。 

 万一、裏手から奇襲を掛けることが失敗しても次に兵を立て直して更なる一手を打つ。否、元々の攻勢も見せかけかもしれない。

 

「氏康様。誠に良いのでございますが?」

「良い。おそらくは陽動・・・・・・本当の隊は別にいる」

 

 邦憲はそれ以上、何も言わずに氏康同様、徐々に下がる。

 氏康は徐々に慣れてきた目で周りを見る。晩秋の冷たい風だけが音を立て、静寂に包まれた北条軍を襲う。思わず、身を縮めている者もいるが、氏康は長い髪が顔にまとわり付くのも気にせずに身動き一つしない。

 枝や周辺の茂みの動きを観察するも風に乗った動きしかしていない。

 

「申し上げます。上杉軍の本隊と思われる部隊がこの先におります。数はおそらく五千程かと」

「上杉謙信の姿は見えたか?」

「夜が深い故、はっきりとは致しませぬが、姿形は間違いないかと」

 

 氏康は思考故に寄っていた眉間の皺を一気にほぐし、内心で全てが繋がったと膝を打った。

 

「なるほど・・・・・・本当の目的は箕輪城では無かったということか」

 

 推測に過ぎないことは分かっている。だが、上杉は夜襲で伏兵に次ぐ伏兵を投入している。北条にとって有利だったのはこの辺りの地理を把握し、伏兵を置くならばどこなのかを隈無く確認していたことだろう。

 

「私の目的と上杉軍の目的は同じ・・・・・・ならば、その思い通りにさせなければそれで良い」

 

 取るべき時が来た。

 氏康は軽く笑みを浮かべるとすぐに口を真っ直ぐに結び、邦憲に顔を向ける。

 

「ここはお前に任せる。上杉軍の動きを食い止めろ。鉄砲の合図で撤退するのだ」

「伏兵は如何致します?」

「私の配下を回す。猪俣はそのまま上杉軍に突撃を仕掛けろ。脇を見ず、ただ真っ直ぐにだ」

 

 静かに頷くと邦憲は兵を率いて進んで行く。城内のことは氏邦に任せている為、問題はないだろう。

 氏康は手綱を返して箕輪城に急ぐ。上杉軍の目的は夜襲を失敗したように見せかけて謙信の首を目的に城を出るであろう氏康を上杉の本陣へと向かわせること。

 氏康は箕輪城へと足を向けながらも闇の背後で行われているであろう戦の音を聞く。喧騒が徐々に大きくなり、混戦になってきているのが分かる。

 賽子が転ぶのはこちらである。北条は北条として関東の民と日の本東を統べる使命がある。この撤退はその為の布石である。今まで置いてきたのと同じような一過性の布石に過ぎない。

 全ては謙信を討つという最大の布石を置く為。早雲ではなく氏康自身の望みを叶える為。

 

「氏邦に城を任せると伝えよ。我らは左右より猪俣の隊を援護する」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百三十九話 雪が舞い落ちたら

 氏康は正面の戦線の様子を見て箕輪城にゆるゆると撤退しようかと考え、物見からの報告を受けるよりも先に城へと向かう。

 仮に箕輪城の裏手が苦戦していることに備えてだが、恐らく杞憂に終わるだろうと氏康は思った。氏邦であれば堅牢な箕輪城の中でも有数の堅さを誇る裏の搦手を利用して上杉軍を撃退してくれるだろう。

 それらは全て計算通りに運ばれるべきであり、上杉軍を如何なる形であろうとこの箕輪城で越後に追い返すのも当然のことである。

 全てのことが上手く行けば、もし仮にどこかにつまづきがあってもそれを新たな戦術で立て直すことも出来る。

 とにかく小田原城まで向かわせることは決してさせない。戦前に誓った母、早雲への誓いを改めて心で言い聞かせる。

 その思考を遮ったのは前から聞こえてきた蹄の音。物見かと思ったが、明らかにおかしい。間違いなく軍勢の数程ある音だ。

 

「氏康様」

 

 邦憲が戻ってきたのは氏康が合図すると言ったよりも遥かに前であった。

 

「どうした? まだ、こちらから鉄砲を放ってはいないぞ」

「いえ。上杉軍は我らが攻め寄せる前に撤退した模様」

「そうか・・・・・・」

 

 氏康は強く奥歯を噛み締める。退き際を知っているところはさすが軍神と呼ばれる謙信だろうか。今にこだわり、これ以上の被害を被ると今後に影響が出ると思ったのだろう。

 悔しいが、敵ながら素晴らしい判断を下したと賞賛したくなる。しかし、戦場に敵味方を越えた情が存在することなどあってはならない。

 長居は無用故、撤退すると言いかけたところで氏康は自身の口に待ったをかける。邦憲も既に下がってきている為、別段、躊躇う理由は無い。

 しかし、何か嫌な予感が氏康の背筋を電流のように駆け巡り、思わず振り返る。もちろん、そこには何かがある訳が無い。

 上杉軍の方に何かを忘れているような違和感。そのようなものなどある筈が無い。それでも氏康は心の奥で何か背中に入った違和感のようにまとわり付いているのだ。 

 

「急ぎ箕輪城に撤退する。歩の者は後から参れ。とにかく駆けろ!」

 

 突然、氏康が声を上げて命じた為、兵達は戸惑いを隠せない様子だが、氏康の命をきちんと受けて駆け出している。

 上杉が裏をかいた為、裏の裏をかいたつもりが上杉に裏を見事にかかれた。 

 

「申し上げます。上杉軍の本隊と思われる部隊が裏手より攻勢を仕掛けている由!」

「やはり、正面にいたのは本隊ではないのか・・・・・・数は?」

「他の者が今、確認しております」

「急げ」

 

 苛立ちを必死に抑えると氏康は邦憲を伴って全軍を箕輪城に返すべく口を開こうとする。すると、再び背後から物見がやってきた。

 

「氏康様。敵が追撃せんと迫っております。その数、二千弱かと!」

「二千弱? 先の報告と違うではないか」

「それが、子細は不明でございますが、初めから二千弱の数であった模様」

「謀られたか・・・・・・となると・・・・・・」

 

 氏康は狼狽するのを必死に隠す。残る三千強の兵はどこに消えた。否、元からどこに置かれていたのか。考えるなど愚かしい程、簡単な答えだった。

 

「急げ! 箕輪城に戻り次第、裏手へ迎え!」

「氏康様。背後の敵は?」

「構うな。我らが城に戻ればそれで負けは無い」

 

 邦憲の言葉には答えたが、氏康は彼女の方を向く暇もないと馬を走らせる。終わりはまだ先だ。終わりは自身が死んだ時。北条の意地が潰えることは決して有り得ない。

 

 

 

「よく燃えるな・・・・・・」

 

 上杉の本陣を守る龍兵衛は箕輪城の武家屋敷辺りから出る火を見上げ、見たままの感想を一切の感情も無く言う。

 周りからよく見えるように火を上げることで箕輪城が落ちたことを示し、他の城に上野の主導権はいよいよ上杉の手に落ちたと高らかな宣言の代わりになった。

 箕輪城を落とすという厄介事が終わり、龍兵衛は少し余裕が出来た。

 

「後で義輝・・・・・・っと」

 

 咳払いをして龍兵衛は誤魔化す。近くにいた兵が大丈夫かと聞いてくるが、平気だと手で制する。上杉の上層部の裏の裏では未だに義輝と呼んでいることもある。しかし、ここは公の場である。その名前は慎まなければならない。

 義輝もとい吉江景資は上野や武蔵で未だに北条に属している国人衆を口説く以外にも上杉に従おうとせず、隙を見せてきた国人衆を暗殺するように密かに龍兵衛の一存で頼んでいた。

 兼続が考えていた下野の宇都宮の家中にいる反上杉派の者を暗殺する。

 以前こぼしていた策を聞き覚えていた龍兵衛は景資に密かに元々業正と頼んでいた仕事のついでだと兼続の名前を出さずに頼んだ。

 どうせ兼続は己の中に正義心との葛藤の中で出来る訳が無い。ならば、代わりにやるまでだと。

 仮に兼続が嗅ぎ付けてもまだ腹案の段階だった兼続の策ならば知らない内に持っていったと片付けることも出来る。

 万一にでもばれた時には偶然同じようなことを考えていただけだと主張すれば良い。

 そう考えて龍兵衛は景資に頼んだ。しかし、景資は聞いた途端、龍兵衛を強く睨んだ。

 

「それは謙信が了承しておるのか?」

 

 決してこのことは成功しようと賞賛されることは無い。ましてや謙信ならばなおさらのことだ。だが、合理的な判断を下すのであればここで引いてしまうのは的確な判断とは言えない。

 景資の強い覇気に押されるのを耐え、平静を装って龍兵衛は了承していないとはっきり口で言う。どう景資が拒絶するか分からない。はっきりと罵倒するのか蔑んだ目で見ながら去って行くのか。

 だが、景資はすぐに気を解いて笑って諾と答え、龍兵衛の目を軽く開かせた。

 

「どうしてと顔に書いておるぞ」

「まぁ、驚かない方がおかしいと思いますが」

 

 景資は謙信に忠実で良き相談相手として愛着を持っている。それなりに謙信の理想を理解している為、てっきり汚い手は嫌いだと断られるかもと思っていた龍兵衛が驚いたのも無理も無い。

 

「暗殺など、常套手段ではないか。妾も受けたようにな」

 

 面白いものを見たように笑みを浮かべる景資を見て龍兵衛は彼女が無理をしているのではないかと若干の罪悪感を抱いた。しかし、景資が承諾してくれた以上、利用しない訳にはいかない。かつてのことを通じて暗殺に嫌悪感を抱いている様子も無かった。

 

「何を躊躇っておる。よもや、妾が失敗するとでも思うたか?」 

「・・・・・・よろしくお願い致します」

 

 冷たい刃先のような視線でそこまで言われるとこれ以上の悩みは相手の怒りを本物にしてしまうだけだ。

 頭を下げる龍兵衛に景資はうむと頷いて去って行った。その足取りは役に立てると思っているのか軽く感じたが、龍兵衛は緊張感から解放された反動でそのような余裕など無かった。

 

 懐には景資が軒猿の者を通じて密かに寄越してきた書状が入っている。まだ、開いてはいないが、じきにその時が来るだろう。その時、上杉が北関東全域を支配下に置いていると静かに祈る。

 しかし、すぐに龍兵衛の思考を上杉軍の歓声が現実へと戻した。

 

「箕輪城裏手より我が軍、城内に侵入した由」

「囮隊の長野殿は?」

「既に北条軍の追撃を開始。北条軍の後背の部隊を切り崩しております」

「よし。本陣から二百程加勢に向かわせろ。長野殿の隊を援護する」

 

 既に箕輪城の中には謙信自らが率いている伏兵が手薄になった裏手を突いて攻め込んでいるだろう。

 

 昨日から兼続と互いに意見を交換し合い。時折、謙信と景勝も参加して箕輪城攻略を考えた。最初は兼続の案に龍兵衛が少し付け足した正面から夜襲を行い、あえて堅牢な裏手を突こうということで決まりかけた。

 それに待ったをかけたのが景勝だった。普段なら謙信から何かあるかと尋ねられてからやっと意見を出すにもかかわらず、今回は自ら前に出て来た。

 目を丸くする謙信達をよそに景勝は身振り手振りを交えて夜襲の際はもっと北条軍を考えさせ、最後は素直に行くべきだと言った。

 複雑にするという案は兼続も龍兵衛も考えていたが、すぐに取り下げた。相手が氏康である以上、向こうもこちらに策があると考えているだろうとしてあえて単純気味な策で行こうと考えた。

 景勝と龍兵衛、兼続の考えた戦術には違いがあった。終いが裏手か正面かの違い。それは大きな違いである。箕輪城は上杉が陣を敷いた北西に側の裏、南には榛名沼がある。天然の堀を利用した堀や搦手によって守られている。

 そこを夜襲とはいえ攻めるのには軍師として合理的ではないと思った二人に対して景勝は裏手から攻めるとは向こうも思っていないだろうと主張して譲らなかった。

 景勝の能力を否定している訳では無い。しかし、餅は餅屋とも言う。龍兵衛、兼続に任せた方が良いのは景勝も分かっている筈だ。

 

「もうよい」

 

 いつまでも収集が付かない議論に冷たい水を被せるような謙信の声が陣幕に響く。同時に謙信は立ち上がって口を噤んだ三人を順に見比べ、一瞬だけ目を細めると景勝の隣に歩み寄ると頭の上に手を置く。嫌な予感を押し隠して龍兵衛と兼続は謙信の言葉を待つ。

 

「景勝の考えで行こう」

「「(やっぱり・・・・・・)」」

 

 頭を垂れて陣幕を出ると二人は互いの顔を見合わせて同時に溜め息を吐いた。

 

「なぁ、兼続、上手く行くと思うか?」

「謙信様が決めた以上、仕方ないだろう。そう思うなら反対の一言でも言えば良かったものを」

「まぁ、以外に行けるかもって思ったから。お前だってそうだろう?」

 

 一瞬、兼続は視線を逸らして答えにくそうにしながらも最終的には頬を少し赤く染めて小さく頷いた。

 しかし、いざ実行に移してみて、こうも言葉通りになるとは思っても見なかった。自らが立てた策なのだから自らも前線に出ると言って景勝も裏手からの攻撃に参加している。

 いくら急襲戦を仕掛けたとはいえ激戦は免れない。しかし、龍兵衛は比較的安心して箕輪城を眺めている。主力をそちらに置き、護衛として慶次が珍しく真剣な表情で手を上げて来た為、問題は無いだろう。

 

「(裏の裏は表・・・・・・その裏は裏。案外、単純に行けたな)」

 

 無論、今までの立ち尽くしていた時間があってこそのこの結果である。景勝の功であることに変わりはないが、また成長する景勝を微笑ましくも思う。

 

「河田様、如何なさいました?」

「いや、何でも」

 

 戦の最中故に笑みを見せないように下を向いたが、少し引っ込めるのに時間がかかってしまい、隣で護衛として立っていた兵に声をかけられてしまった。

 おそらく、景勝の成長が嬉しいのだろう。愚かな家臣の分際で言えた立場ではないが、子供らしさが残る景勝には周りを和ませる独特の雰囲気がある。

 面と向かって言えば「景勝、大人!」と拗ねられるだろうが。

 

「うん・・・・・・?」

 

 ふと、顔に何か冷たいものが当たり、おもむろに顔を上げてみる。

 一瞬、雨かと思ったが、雨はこのような柔らかい感触で人肌に触れることは無い。龍兵衛は空から降ってくるものが何なのか分かった途端、溜め息を付いた。

 

「雪は嫌いだ・・・・・・」

 

 誰かに語り掛ける訳でもなく、ぼんやりとした口調でこぼす。白い息が湯気のように小さく漏れ出た。

 あの日を思い浮かべると雪は降っていなかった。しかし、その丁度一ヶ月後に降り始めた季節外れの早冬の雪。まるで、自らの行いを非とするように降っていた。

 龍兵衛自身、分からなかった。どうして雪を見るとあの日のことを思い出すのか。冷たいからだろうか。あの日の自身のように。地面に降り積もり、踏み荒らされたことで汚れた雪を見て正しく自分自身だと思ってしまうからだろうか。

 否、冷たいのは雨でも同じであり、地面は常に踏み荒らされ、汚い。分かっていても雪は嫌いだった。

 だが、今となってはあの非情な過ちは人生の杖となり、確実に心を制御し、乗り越えるべきものを見た際に励みになるものへと変わっている。相変わらず、迷走を続け、確固たる信念を持てずにいる自身を脆くも支えている。

 何となく、龍兵衛は手を出して上から降ってくる雪を受け取ってみる。結晶は簡単に溶け、水へと変わった。それを見て龍兵衛ははっと顔を上げた。

 

「儚いからか・・・・・・?」

 

 多くが集まってこそ雪は積もり、ようやく人を魅了する光景を作ることが出来る。あっという間に露となる雪は結晶一つではどうしようもない。今、龍兵衛の手の平に落ちた雪のように。

 それは二つでも同じこと。あれほど仲の良かった二人が一つの事件によって脆くも簡単に離れていったのだから。

 儚いと言えば儚い。こじつけかもしれないが、龍兵衛は雪の結晶一つの儚さを愛の呆気なさと同じと思った。

 胸が無性に痛くなる。舌打ちなり歯を強く噛み締めるなりして少しでも心を楽にしたいが、周りには兵がいる。本陣の守りを任されている以上、表情を歪めては周りに変な影響を与えかねない。 

 しかし、龍兵衛の嫌悪感をまるで糧としているように雪は更に強さを増している。雪を払う為に頭をはたき、羽織りに付いている特注の被りものを被る。

 

「よく降るな・・・・・・ふぅ」

 

 息が白い。龍兵衛は身体を少し震わせる。未だに慣れない寒いを超えている極寒がこれからやってくるだろう。憂鬱な思いになりながら龍兵衛は手を擦り、陣屋の中に入った。

 後は謙信達に任せて大丈夫だろう。珍しく自身から役に立ちたいと言って出て行った景勝のことも気になるが、兼続が過保護なまでに護っている筈だから心配無用だ。

 箕輪城を落とせば後は中山道沿いの城を攻略し、上野は上杉の手に落ちる。今までは三国峠のせいで越境の統治は難しいとされていたが、街道を整備したことで上野全体を取ればその統治も可能になった。

 犠牲になった自然達には申し訳ないと思いながらも人が自然を支配しようとする性である以上、また人を跪かせようとしている以上、やむを得ないと龍兵衛は割り切るしかなかった。

 そうしなければ上杉はいつまでも関東に出征して、しただけでそれで終わりというのが続いてしまう。

 調整とは難しい。行き過ぎず、下がり過ぎず、どちらかに偏ってはならないのだから。龍兵衛は周りに聞こえないようにまた溜め息を吐いた。

 

 

 

 一週間後、弥太郎と親憲の下に上野の情勢を伝える書状が届いた。

 

「箕輪城が陥落。これでいよいよ流れは我々の方に流れたな」

「ええ。されど、流れは維持しなければ意味がございませぬ」

「分かっている。我々も我々の流れを作るまでだ」

 

 親憲は不意に弥太郎へ目をやる。静かに相手を見定め、北条軍の動きを見ている。互いに動くことは無い。北条軍を数の利のよって徐々に押して行き、官兵衛と景綱が協力して立てた戦術が上手くはまり、徐々に戦況を良くしている。

 逆井城を佐竹と伊達によって陥落させ、官兵衛の思惑通りかれらに犠牲を被らせることが出来た。もう少しで結城と合流出来るところまで来ているが、北条軍もさすがにそこまで来ると粘る。

 北条綱成は逆井城が落とされると関宿城に撤退し、再び散発的な急襲戦や周辺砦から打って出るなど上杉軍の疲労を誘っている。

 そこを官兵衛が巧みに伊達や佐竹を使い、上杉も共に動きているように見せかけていた為、上杉軍自体は伊達、佐竹程、疲労が溜まっていない。

 上杉軍は元気だと毎夜毎夜宴を開き、行き過ぎない程度に親憲と官兵衛が監視しながらどんちゃん騒ぎをしていた。

 しばらくすると綱成は宴のやかましさと一向に退く様子を見せない上杉軍に業を煮やしたのかとうとう打って出てきた。

 その報告を本陣で聞いた時の官兵衛の笑みは実に嬉しそうだったと親憲は思い返す。官兵衛の思惑通りに事が運ばれている。

 綱成が仮に冷静であっても周りの者が敵前で宴を開くという舐められた行動に怒りを感じて城から独断で出るだろう。佐竹との国境付近では国人衆の忠誠心も薄い筈と考えた官兵衛の策である。

 見事と言えば見事。それ以外に何か言うとすれば嫉妬だろう。

 外様を取り入れたことに楊北衆はまた何か言ってくるかもしれない。しかし、言ったところでかれらがどうにかなる訳ではない。

 大切なのは言った後に官兵衛に負けないぐらいの戦功を立てられるかどうかだ。口ばかりで実が無いのは愚の骨頂。

 だが、官兵衛程の知略を持っている者が存在することに不安なのは分からなくもない。親憲でさえ時折、背筋に何かが走ることがあるのだから。今の官兵衛に反逆の心が無いのは分かるが、気にかかる。

 

「おや・・・・・・?」

 

 落ちてきた冷たいそれを視界に入れ、親憲はおもむろに空を見上げる。 

 周りの兵も空を見上げて少し周りと雪が降ってきたと世間話をするように話し出す。弥太郎を一瞥すると全く動じる気配を見せずに降り出した雪のように冷たい目で北条軍だけを見ている。

 弥太郎の中で集中力が一層高まり、雑兵が向かい合えばまとう気だけで動けなくなってしまうだろう。まとう気は親憲が感じる限りでは北条軍を眺める眼のように冷たい。

 だが、弥太郎の心は燃え上がるような夏の太陽の熱くなっているだろう。長年、共に戦場に立ってきたが故に分かる。

 先の戦で不覚とまでは行かないが、醜態を晒し、親憲によって上杉の将としての名誉を守ってもらった形になった。

 故にこの戦では自らの武勇で戦場を地獄と化させ、上杉の将の誇りを見せ付けてやろうと息巻いている筈だ。

 ならばと親憲は弥太郎の心へ打ち水をするように冷静な口調で言葉をかける。

 

「小島殿。急がねばならぬようです」

「言われずともだ。行くぞ」

 

 親憲は苦笑いを浮かべた。先を行く弥太郎の背中は相変わらず燃えている。雪さえも近付けばあっという間に溶けてしまうかもしれない。

 はたしてどのような水をかければ弥太郎の炎は鎮まるのだろうか。分からない。だが、放っておくとしよう。今だけは弥太郎が面白く思えるから。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百四十話 茶の湯炸裂女子

大分飛躍しています。へうげもの要素ありってタグ付けしようかな……


 箕輪城を落としたものの、兵をかなり動かした為、上杉軍は進軍が遅々となっていた。相手が箕輪城に籠もる北条氏康とその妹であったということも原因だろう。二人は撤退して氏康、氏邦は小田原城に逃れたようだ。また、猪俣は忍城に入り、再び迎え撃つ構えを見せている。

 謙信は兵の状態を憂いて箕輪城が落ちたと共に開城勧告に応じた高崎城で休息を取ろうと考えたが、兼続がこれに反対した。まだ、下野に北条の知恵袋である幻庵がいる。幻庵が動いていないにもかかわらず、簡単に動きを止めてしまっては北条軍にも時間を与え、減らせる敵の戦力を見逃すことになる。

 相手が幻庵ということもあって何か撤退する際に何か仕掛けてくるのではないかと疑念から龍兵衛が反対したが、兼続のごり押しが効いた為、謙信は高崎城から更に東に進んだ金山城を力攻めで落とし、入城した。

 中山道を通り、上野との国境にある金山城を落とされたことを向けて下野に向かっていた幻庵はさすがに分が悪いと見たのか上杉軍の手が自身の部隊に伸びない内に素早く撤退した。

 それと同時に皆川城の皆川広照が上杉に降伏した。下野において強大な力を誇る皆川の降伏は下野に残る北条の勢力を一気に瓦解させ、揺れていた国人衆の多くを上杉になびかせた。

 やはり、箕輪城の陥落と更なる進軍がよく利いたのだと兼続は満足げだった。

 

「・・・・・・ちっ」

「なんだ。その不満げな顔は?」

「嬉しそうな顔で言うな。いつもよりお前が鬱陶しく見える」

「なっ・・・・・・つまりお前は今まで私のことを鬱陶しいと思っていたのか?」

 

 兼続は龍兵衛に堪えるような口調で静かに尋ねる。二人の間を隙間風が吹いた。

 

「うん」

 

 龍兵衛が迷いなく首を大きく上下させた途端、兼続の座っている辺りから何かが切れる音がした。

 

「貴様ぁ!」

「兼続。今は謙信様が仰られる時だ」

 

 謙信の名前を出した途端、兼続は龍兵衛に向けた牙を引っ込めて従順な犬のようにぺこぺこと謙信に頭を下げる。座りながら兼続は龍兵衛を睨むが、全く気にされていない。龍兵衛は謙信の目を真剣な表情で見ている。

 

「(遊ばれているな・・・・・・)」

 

 内心で謙信は涼しげな龍兵衛と狼のような姿勢を崩さない兼続を見比べて悪戯っぽい笑みを浮かべる。はてさて、ここに颯馬がいたらどのようになっていたか。 

 間違いなく収拾がつかない事態になっていただろう。

 そう思いながら謙信は龍兵衛に皆川への処分を決めるようにと指示を出す。一度、頭を下げた龍兵衛だが、未だに下がっていない兵の発言に心をぴくりとさせた。

 

「降伏した者の中に、北条の者ではない山上宗二という商人がおりますが、如何致しましょう?」

「山上宗二?」

 

 思わずという感じで龍兵衛は口を開く。一斉に視線がそちらに向き、龍兵衛はしまったと思ったが、後の祭りだった。

 

「知っているのか?」

 

 謙信の問いに内心の面倒くさい気持ちを押さえて頷くと龍兵衛は山上宗二という人物について説明し始めた。

 元々、堺の豪商で、茶の湯を学び、最近になって名が売れ始めた千宗易の高弟で二十年は教えを請おうていたと言われている。

 

「(北条に身を寄せるのは後十年以上も先のことの筈だけど・・・・・・)」

 

 史実では秀吉の怒りを買って高野山に逃れた後に北条幻庵に仕え、小田原城陥落直前に秀吉にもう一度仕えようとしたが、そこで彼の物言いが怒りを買って即刻処刑された。

 龍兵衛からすると世界が異なるとはいえ北条に仕える早過ぎる気もする。千利休が生きていることも分からない。そもそも宗二が男なのか女なのかも分からない。

 

「ふむ、堺の豪商が何故ここに・・・・・・龍兵衛、何か知っているか?」

「・・・・・・あ。いえ、さすがにそこまでは」

 

 思案に耽りかけ、返答が一瞬遅れてしまったことを一人反省しながらも龍兵衛はおとがいに手を当てる。

 もしも史実通りに事が起こると宗二はこれから耳と鼻を削がれて首をはねられるという残酷な刑に処せられる。しかし、目の前の謙信がそのようなことをするとは思えないし、実際にする筈がない。

 謙信が商人をただ北条に仕えていただけで咎める筈がない。話を聞くことは間違いないだろうが、その後はどうするのかはまだ分からない。

 龍兵衛からするとどうしても味方に付けて自身も含めた上杉の面々に数寄が如何なるものかを教えてもらい、身に付けさせるようにさせた方が今後の上杉の繁栄の為にも必ず利益になる筈だと考えている。

 宗易の高弟ともなれば今後の堺との取引でも上手く行くことが増える可能性がある。

 

「龍兵衛、お前は山上宗二をどうするべきと思う?」

「間違いなく、生かしておくべき人物かと。そして、あわよくば我らの味方に付けるべきです」

「兼続、お前達はどう思う?」

「堺の商人に恩を着せることで今後に良い影響が出るとは思えますが、わざわざ謙信様のお膝元に置くのは・・・・・・」 

 

 兼続は堺についての情報も聞くことが出来るだろうから聞けることは聞いておくことはするつもりだろうが、数寄に関してはあまり好意的ではないという反応を見せる。

 そこまで龍兵衛も数寄に通じている訳ではない。あくまでも天下取りに必要なものであるという認識である。

 龍兵衛は理に適った反論を探すが、なかなか見つけられない。その皆の視線を浴びたまま眉間に皺を寄せていたが、ここでまさかのところから龍兵衛に助け舟が入った。

 

「待って、私はそうは思わないわ」

 

 真の武人が持つことを許される威厳ある声。目を丸くして龍兵衛達が向けた視線の先にはこの場でその口調が一番似合わない人物が立っていた。

 

「山上宗二は何が何でも我々の下に置くべきよ」

 

 珍しく慶次がかなり真面目な口調で入ってきた為、全員が目を見開いた彼女を見る。そんな皆の様子を気にせずに慶次は真剣な口調で続ける。

 

「確かに山上宗二は商人だけど、ただの商人ではない。あれに数寄を学ぶことは必ず今後に繋がると思いまする」

「何だ。そのすきというのは?」

 

 他の者が慶次の真剣な口調に唖然としている中、兼続は本当に分からないという表情で慶次に問い掛ける。

 

「『数寄』とは茶の湯に通じる者の中で熱心な者のことを言い、簡単に言うとその道を極める者のことを言う」

「それを何故に学ぶ必要がある?」

 

 兼続の疑問には慶次の代わりに龍兵衛が間髪入れずに答えたが、彼女はすかさず新たな質問を繰り出す。

 龍兵衛はちらりと慶次を見やる。ここから先は彼女の方が明らかに長けている。理だけを知るよりも実践を以てしてこそ茶の湯は成り立つもの。

 その視線に気付いた慶次は龍兵衛の思いを汲み取ったように頷いた。

 

「数寄の力は偉大なもの。畿内では茶人に師事する大名も大勢おります。数寄のみで大名を懐柔することも可能かと」

 

 武を見せずに茶の湯で心を示し、その茶人を抱えている大名に臣従させる。後に京へと上り、畿内の諸大名を上杉に靡かせるには必要不可欠なものになるだろう。それだけでなく、堺や博多の商人とも繋がりを持てる。交易を盛んにすることも可能だ。

 

「武の力、数寄の力。この二つを持つことで上杉は天下を取れます」

 

 そう断言すると慶次はいつもの様子で姿勢をだらんと崩す。しかし、普段見せないその姿を以てしてまで慶次は数寄の力を必要だと言ったことは皆に衝撃を与えた。気が抜けたように見えたが、慶次は一瞬だけ龍兵衛を怜悧な目で見てきた。それに気付いたのは本人達だけのようだが、龍兵衛は謙信に最後の押しだと口を開く。

 

「謙信様は後々には京へと上るでしょう。さすれば、数寄によって繋がりを持つことも必要となりまする」

 

 最後に龍兵衛が深く頭を下げて一つ背中を押すと謙信は宗二を迎え入れるとまでは言わなかったものの、様子を見に行くことは許した。

 

 

 

 

「で、あたしは何で付いて行くことになったんだっけ?」

「お前が一番こういうことに長けていそうだからに決まってんだろ」

 

 謙信に命じられた龍兵衛は慶次と共に竹林の中を歩いている。慶次は龍兵衛が同行者として連れて行くことにした為だ。

 宗二は龍兵衛と出会うと静かに彼を招いて茶会をしたいと言ってきた。上杉が周辺を固めている中で逃亡を企んでいるとは思えなかった為、龍兵衛は了承した。

 その旨を伝えると謙信も自ら出張ることも考えたが、関東がこれから混乱を極める時に総大将がいないというのは好ましくないことだと颯馬と兼続が諫めた。

 

「しかし、お前が山上宗二殿を知っていたとはね」

「前に小耳に挟んだことがあるだけよ。藤っちに聞いたの。将軍家や三好と仲良くしていたら突然どこかに消えたんだってぇ」

「理由は?」

「結局分かんなかったって藤っちが言ってた」

 

 慶次の会話に出てくる『藤っち』とは細川藤孝のことで足利幕府の重臣たる人物。その藤孝から聞いた時は少し慶次も驚いたらしい。しかし、不思議なのは理由が全く分からないということだ。

 

「だいたい、龍ちんはお茶をやったことあるの?」

「いや、知識があってもやったことは無いって感じだな」

 

 平成にいた頃は基本的に伝統文化に手を出していたが、一番やったことが無い部類に入る。興味本位で調べたことはあったが、それを本当にやろうというほどまでは心が踊らなかった。それだけに慶次の同伴は頼みの綱と言ったようなものだ。

 

「頼りにしてるから、くれぐれもよろしくな」

「はーい、精々頑張るわ」

 

 龍兵衛は首を捻って慶次を見る。

 

「珍しく楽しそうだな?」

「・・・・・・うん、まぁね」

 

 そっぽを向いてぽりぽりと頬をかく慶次を見て龍兵衛は首を捻る。その後は特に会話も無く、すっかり色が褪せてしまった竹林の中を二人は静けさに飲み込まれるように歩いて行く。

 

「ところで話変わるけどぉ・・・・・・」

 

 龍兵衛はせっかく味わっていた自然に飲み込まれる感覚から引き戻され、がくっと膝が折れる。

 話が無いのを嫌う慶次は竹林の合間から入ってくる木洩れ日を浴びるという良い沈黙をいとも簡単にぶち壊した。

 

「何?」

「えっ? 何でそんなに不機嫌なの?」

 

 龍兵衛は本当に分からないらしい慶次を見て何でもないと首を横に振って呆れたと溜め息をわざと強く吐いてみせる。慶次はそれを見て全く分かっていない様子だが、もはや気にしたところで負けであると思い、話題を強引に変える。

 

「けんけんと颯馬っちって婚姻したわよねぇ?」

「うん。てか、お前もいたろ?」

 

 本当に呆れたと龍兵衛が再び先程よりも大きな溜め息を吐く。

 

「そういうのじゃないわよぉ。あたしが聞きたいはぁ、いつ赤ちゃんを仕込むかって話ぃ」

 

 結構真面目に尋ねて来た慶次に龍兵衛は話題が随分周りの雰囲気で合わないと心底呆れた。そして、自然を愛でる者なら楽しいと思える一時を諦めるしかないと悟り、内心で盛大な溜め息を吐いた。

 

「仕込むって・・・・・・お前、商人が品を取り寄せるんじゃないんだから」

「まぁまぁ、その辺のことは脇に置いてぇ・・・・・・で、いつになるの?」

 

 笑って龍兵衛を宥める慶次が謙信と颯馬がいちゃついているところに興味があるのか、はたまた赤子が見たいのか分からない。龍兵衛はおとがいに手を当てて考える。

 

「確か、北条との戦いが終わってから仕込みは・・・・・・って伝染るじゃねぇかよ!」

「あたしのせいじゃなくない? でも、意外と早いのねぇ」

 

 慶次の真意は微妙だが、おそらく武田が片付くまでは待った方が良いと思っているのだろう。しかし、龍兵衛自身、それは下策だと思っている。颯馬にも以前それとなく聞いてみたところそのようなことを言っていた。

 このままだと武田はおそらく織田に持って行かれる可能性が高い。時々入ってくる情報では織田は京を押さえ、高野山や本願寺との決戦を間近に控えている。片付けるのは織田の力を以てすれば容易いだろう。織田はその時、上杉の西への行軍に牽制を入れる為、加賀の一向一揆と武田を取ろうとするだろう。

 

 

 

 山上宗二はかつて堺で薩摩屋という店を切り盛りしていたが、まだ父の代の時にとある将による名物狩りに遭い、没落していった。しかし、宗二は一念発起して茶の湯を千宗易に習い、その才覚を大きく伸ばした。そして、得た数寄の力を以てして潰れていた自身の家を一代で立て直した。堺では宗易の高弟として名高く、自身の茶の湯も評判であった。

 

「あらーお二人が河田様と前田様ですね? 私、山上宗二と言います。以後お見知りおきを一・・・・・・で、早速ですけども、茶の準備が出来ております。さあさあ、どうぞどうぞ」

 

 そこまでは龍兵衛も元々、山上宗二のことについては知っていたが、素性までは知る筈もない。出迎えた小さな少女と言うのに相応しい者がその人物とは夢にも思わなかった。

 

「あ、いえ・・・・・・」

「いえいえいえいえ、構わさせてもらいます。そうしなければ、侘びというものがどういうものか分からせることが出来ませんからね。真の侘びを求める者としてこれから明日に輝こうとする上杉様達には是非とも侘びの素晴らしさを知って頂きませんと」

 

 期待を込めて行った先に待っていた人物がきゃいきゃいと入ってくるなり二人に話し掛けてくる子供のような人物だと誰が想像しただろう。

 現に龍兵衛もあの慶次でさえ宗二の話責めに最初はたじろぎ、続いて黙って流されるままに頷いているだけだ。

 背丈は二人の胸の辺りか、それよりも下ぐらい。兼続や景勝とどっこいどっこいので水色を基調とした清潔感ある服を着ている。しかし、堺という商人の町を生きてきただけに、目はややつり目になっていて少女とは思わせないような目つきをしていた。

 促されるままに二人は畳の上に正座をする。宗二はにこやかにようこそと頭を下げると予め準備していたのだろう綺麗に磨かれた大きな茶釜を取り出した。黒い表面が少ない窓から入ってくる太陽の光によって白く反射している。

 

「珍しい形ねぇ」

「富士の山を参考に造らせた物です。なかなかに良い物だと思っております」

 

 感心した二人は同じように頷いて天命釜を見る。

 天命釜というのは普通、丸い形をしていて富士の山のように上へと滑らかな曲線になっている代物を見るのは二人共初めてだった。

 

「あたしも京にいたことがあったけどぉ。こんな形は見たことないわぁ」

 

 慶次は身体を寝かしたり、膝立ちして釜を見ている。実に楽しそうで今にでも鼻歌が出てきそうな程、陽気である。

 

「こういうのが見たかったのよねぇ」

「ああ、だから楽しそうにしてたのか」

「そうよ♪」

 

 慶次は変わらず嬉しそうに天命釜を眺めている。触っても良いかと聞いたが、それはさすがに宗二は却下した。龍兵衛は茶道に関しては見たことはあっても実際に場を経験したことが無い素人の為、首を捻らないようにするのに必死だった。

 

「普通、茶の湯は古の思考を型通りにやると思っていたんだけど・・・・・・」

「甘うございます」

 

 宗二は手を動かしながら龍兵衛に鋭い声を突き刺す。

 

「確かに名物に捕らわれるのが、古典を踏襲致すのが決して悪とは思えません。しかし、一座建立の茶席に本来、階級も無く、名物もいらないのです。要は客を如何に自らの趣向でもてなすか。そこに真の数寄が見えてくるのでございます」

 

 あまり分かっていない為、宗二が何を言っているのか龍兵衛には分からない。一応、型にはまるのは良くないということぐらいは理解出来た。

 宗二はそれ以上、何も言わずに黙って茶碗に湯を入れると茶筅で茶を点てる。そして、茶碗を慶次の前に差し出すとようやく二人の方を向いてきっぱりと言った。

 

「はっきり申せば、数寄や美は強いのです。それは、正しく武に等しく」

 

 

 

 

「どうだった? 宗二殿の感想は?」

「何というかねぇ。気難しいけど、悪い人じゃないっていうかぁ・・・・・・肝が据わっているのは間違いないわね」

 

 あれだけ武人相手にごまをすらない商人を二人は見たことが無い。商人は力のある武人に付いて良い仕事を得ようとする者しか見てこなかった。

 

「確かに人に媚びないというかな・・・・・・他にはどう思った?」

「う~ん・・・・・・怪しい?」

「同感だ」

 

 宗二の発言を思い返すように龍兵衛は顎をさする。

 まず彼女には予め龍兵衛が来ることは知らせてあったが、慶次は土壇場で龍兵衛が彼女に助っ人として付いて来て欲しいと頼み込んだ為にこのことは伝えることが出来なかった。

 しかし、宗二は二人が屋敷に入るなり「河田様と前田様」と言った。慶次と宗二は直接の面識は無い。にもかかわらず、知っていた。

 さらに彼女は二人の帰り際にこう言った。「上杉様達には是非とも侘びの素晴らしさを知って頂きませんと」とまるで「上杉にこれから行きますよ」というような物言いをしていた。つまり、北条に見切りを付けている。

 商人故に現金な性格なのは分かるが、拾ってくれた北条に対して如何せん恩義というものが感じられなかった。

 充実な生活を送ってきた筈の宗二は恩義というものを感じる環境にいれたことは間違いない筈なのに何故だろうか。

 

「あたし達を試している?」

「かもしれないな。感じは悪くなかったけど、どこか腹に一物抱えているような・・・・・・」

「あ、それ、あたしも思った」

 

 上洛の時に出会った三好長逸といい、堺の橘屋又三郎といい、畿内にいた者達は皆が何か裏があるのだろうか。

 そう思っても不思議ではないぐらいに宗二の時々見せる態度は不信感を持たせた。

 

「悪意は感じなかったけどぉ。本当に迎え入れて良いのぉ?」

「北条がこうなったらもう頼るところに頼られりじゃないか?」

 

 先程までは恩義などのことも考えたが、冷静に考えれば相手は商人。そして、残る北条の城は下総の一部と武蔵と相模だ。

 商人は武人とは違う。利益が上と見ればすかさずそちらに首を向ける。知っていても慶次は得心が行かないように口を尖らせる。

 

「えぇ~北条の恩義も返さない訳ぇ」

「誇りや名誉で動くのは武人だけさ」

「あたしだから良いけど、他の人にはその台詞は絶対に言っちゃ駄目よ」

 

 はっきりと言い切った龍兵衛に対して少し慶次の口調に厳しさが入る。

 上杉には武人が多く、やはり謙信の為や上杉の為と走り回る者が多い。その中でそのようなことを言えば逆鱗に触れることは間違いない。 

 慶次は京などを見てきた為に商人という者の接し方をよく知っている為、それなりの理解をしている。だから龍兵衛も言えるのだ。

 

「ま。出だしは上々、と見て良いかな」

「色々と駄目出しされといて?」

「笑いを噛み締めるな。余計に心がつつかれる」

 

 龍兵衛は言われずともがな素人である。あらかじめそのことは宗二を言って、彼女の了承を得ていたにもかかわらず、いざ、茶会が始まると宗二は龍兵衛の所作に問題があるところを徹底的に批判してきた。慶次には隣でけたけたと笑われ、恥ずかしい思いしか出来なかった。

 慶次は龍兵衛の言葉通りに声を出して笑い始めた。途端に鳴いていた鳥がどこかに飛び去り、竹の葉が散っていった。

 

「まぁ、帰ってから散々笑われるよりましか・・・・・・」

「そうよぉ。感謝しなさい」

 

 慶次が胸を張ると同時に大き過ぎる胸がたゆんと揺れる。それを見ないように龍兵衛は慶次から視線を逸らすと自然的な流れで目を瞑り、息を吐く。

 話を逸らす為。むしろ、本題に入る良い機会と思った龍兵衛は険しい表情を作る。

 

「謙信様が数寄を受け入れてくれるかどうか」

 

 眉間に皺を寄せた渋い表情は慶次にもうつる。謙信は日頃から質素こそが武人の生きる正しき道だと考えている。

 

「侘び数寄と質素は似ているが、相容れられないもの」

「けんけんがそこに気付いた時、どう動くのかになるわね」

 

 数寄を広めるには己の象徴とも言える作品を作り、それが日の本の中でも頂点にあるものとして最も高い値段で売らなければならない。また、その作品を作る為に散財も辞さないという覚悟がいる。

 

「宗二殿の数寄は謙信様の肌に合っていると信じたいもんだな」

「そうね」

 

 互いに真面目な表情で頷き合うと龍兵衛と慶次は歩く速度を速めた。

 

 

 

 宗二は一見、生真面目でなかなか顔立ちが整っている強面の、灰色の服を着こなしていた男とふざけているのかという程に肌を露出している綺麗な女、二人の客人が消えた途端、口元をつり上げた。

 宗匠として仰いでいる方は常に己の築き上げようとしている数寄を至高のものとしていた。しかし、宗二は二番煎じとはならずに独自の好みを生み出すことが出来た。それは師の下を奔ってからだが、今となってはようやくという恥ずかしさ以上に満足感が心を満たしている。

 北条早雲をはじめとする数寄を理解する者達との邂逅によって名物に頼らない己の数寄を確立し、自らの好みである富士山型の天命釜まで完成したのだから。しかし、宗二はそれだけで満足することはない。宗匠が己の業を世の中に知らしめようとしているのと同様に更に自身の数寄を世の中に広めたい。

 宗匠譲りの業の深さは宗二の背中を強く上杉へと押している。上杉軍は徐々に勢力を増し、総兵力は八万以上になると言われている。如何に天下の名城と言われている小田原城でも落ちるのは時間の問題だろう。

 

「早雲様と幻庵様にはご挨拶しなければ・・・・・・」

 

 茶器を片付けると宗二は外出の支度を整える。実に宗二は愉快だった。上杉より来ると伝えられていた二人の者。前田慶次と河田長親。互いに侘び数寄を理解している。

 互いに武人である故に数寄への心得は北条の者達と変わらないが、才能を強く感じた。特に慶次という一見ふざけたような振る舞いをする者は実に興味を惹かれた。

 玄関扉を開けると枯れた竹林の間から日が差し込み、宗二を出迎えているように光を正面から浴びせてくれる。

 

「見込みあり・・・・・・ふふっ、上杉様にお会いする時が楽しみです」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百四十一話 間に合わない気がする

「……左様か」

 

 謙信は読んでいた書状から目を離して帰ってきた龍兵衛と慶次の報告を聞くと少し険しい表情をした。皆川城が片付いた後、宗二は町人故と解放したのは他でもない謙信だ。そして、宗二に是非とも上杉に来て欲しいと頼んだ。宗二はそれを茶会にて出すと言った。謙信は多忙であった為、代わりに龍兵衛と慶次が行くことになったのだが、報告を聞くと宗二という人物は媚びることが苦手なのだと分かる。

 人物を見ることに長けている龍兵衛と慶次二人をあえて宗二の下に向かわせたのも彼女の人となりが如何なるものか計る為のことだ。

 謙信は何となく宗二が京から追放された原因が分かったような気がした。武人に頭を下げることが出来ず、最後は不満を抱かれたのだろう。それが関東のように反骨心の強い源氏武者の血を受け継いでいるという自負がある北条の者には受けが良かったのだろう。

 そして、それは上杉にも同じように当てはまるだろう。秩序を維持する為、きちりと身分の差をはっきりさせるようにさせるべきという考えもあるが、謙信はその考えを好まないからだ。無論、最低限のことをしようとは思っている。

 

「宗二殿は今、何処に?」

「竹林の庵かと……謙信様、もしや自ら出迎えに?」

 

 龍兵衛が不意に顔を上げる。謙信は浮きかけた腰を再び下ろして残念だと表情に表す。

 

「ならぬか?」

「当然です。下野が完全に我らの下に付いた訳ではありませぬ」

 

 抗議が通じる相手ではない。龍兵衛の言に謙信は返す言葉もない。宇都宮と皆川が降ったとはいえ、未だに他の那須などは降伏する素振りを見せない。武蔵に南下する前に地固めをしなければ背後に上杉軍は憂いを抱くことになる。宇都宮に任せても構わないが、時間がかかる恐れがある。

 

「謙信様自ら出向くことは無用だと思いますが……」

 

 龍兵衛が内心でしまったと強く後悔したのと謙信の目が怪しく光ったのは同時だった。

 

「では、なおさら行っても良いのではないか?」

「しかし、これより武蔵に入るというのに総大将がうろうろとされては……」

「さして時間はかかるまい。案ずるな」

 

 確かに半日程度と見れば良いだろう。しかし、慎重な龍兵衛は北条が謙信の不在時に運良く攻めてきたらという予感を拭えない。その為、迂闊な自身の一言によって謙信の腰を上げさせてしまったことに強く後悔していた。苦しくなった龍兵衛は謙信に徐々に押され、最終的に仕方ないと肩を落とすしかなかった。

 

「心配するな。慶次を護衛に付けるから」

「えっ? あ、あたし!?」

 

 隣で龍兵衛の失態をにやにやしながらやり取りを見ていた慶次が目を丸くして謙信の方を見る。今度は龍兵衛が慶次へ密かにざまをみろという目を送る。

 

「お前が一番こういうことに長けているだろう。異論は無いよな?」

 

 謙信は慶次ではなく、龍兵衛の方を向いた。示し合わせたように龍兵衛が大げさにへりくだってみせる。

 

「ええ。素晴らしいお考えでございます」

「あのぉ……あたしの意見は……?」

 

 慶次が二人に行き場の無い手を送るが、二人共にそれを無視して話はとんとん拍子で進んでいくように見えた。

 

「ところでぇ、けんけんは何、見てたのぉ?」

 

 慶次は自身にとって良くない空気を切ろうと無遠慮に謙信の持っている書状を指差す。龍兵衛が慶次に対して憎悪を抱いた視線を送っているのは謙信にも悟れた。謙信はあえて無視して書状を龍兵衛の前に出す。

 

「弥太郎達は関宿城に手を焼いているらしい。苦し紛れに多気に城を築き、小田城を落としたようだが、官兵衛は数に任せて落とすよう言い続けているようだが……」

「よろしいではありませぬか。それしかないのであれば、やむを得ないでしょう」

「それが、いい加減に諸大名が不満を感じているようでな」

 

 謙信から書状を受け取ると龍兵衛の表情が徐々に険しくなっていく。伊達と佐竹、蘆名が東から進んでいく上杉軍に付き従っているが、弥太郎と官兵衛は当初の進軍の躓きをかれらの足並みが揃わなかったことだと断じ、それを良いことに城攻めの先陣や北条軍の精鋭とぶつかるように仕向け、上杉に比較的、犠牲が伴わないように戦を進めているらしい。

 特に佐竹は上杉に完全に臣従している訳でもない為、先の失態があったとはいえ、反発の声がかなり大きくなっているそうだ。弥太郎もさすがに止めることに疲弊しているようだ。

 

「あくまでも合戦の経過報告に過ぎないが、お前ならば如何する?」

「そうですね……放っておいても良いですが……関宿城を上杉の手で落とせば文句を言わなくなるでしょう」

 

 佐竹の扱いをどうするのか。龍兵衛は官兵衛に任せても良いと思ったが、あえて書状を寄越してきたところを見ると余程切羽詰まっているか、はたまた試されているのか。

 

「(どちらにせよ答えるのが無難だよな)」

 

 官兵衛の意思があるかは不明だが、とりあえず、頼ってきたのであれば答えなければならない。龍兵衛は一拍置いてから再び口を開く。

 

「されど、上杉軍だけで犠牲全てを被るのはよろしくないかと。聞けば佐竹と伊達が前線に出ていると聞いております。ならば、蘆名を用いては?」

 

 報告書を龍兵衛は読んだが、蘆名の名前が一切出てこなかった。おそらく、伊達と佐竹の影で前に出る機会が無いのだろう。ならば、功を上げる機会を与えるようにするべきだ。

 

「ふむ……」

「無論、弥太郎殿にも兵を出すように命じるべきでございます。これで上杉も関宿城を落としたことになり、佐竹も文句は言わなくなるでしょう」

 

 後はあちらの上杉軍を率いる将達の弁舌次第だ。幸い、弥太郎や官兵衛も切れ者。いざとなれば親憲の手助けがある。

 

「(これぐらいのこと、孝さんがわざわざ書状を寄越さずとも……もしかして、弥太郎殿の独断か?)」

 

 龍兵衛は頭の中で色々と考えてみるが、このことに関しては答えが出てこない。そもそも、官兵衛は師匠というよりも年上の友達という言葉がよく似合う間柄で、目の前にある難題はどこかにいるような輩よりも自身で解決しなければ気が済まない性格である。時折、師匠面してくることもあるが、本来の性格は相変わらずの子供だ。

 やはり、弥太郎の独断だと龍兵衛は考えた。その途端、官兵衛の身に何か起きたのではないかという嫌な予感が龍兵衛の背中を悪寒として走ってきた。あの天地がひっくり返ったり、冬の川に飛び込んでも病気を得ないであろう官兵衛がはたして病にかかるだろうか。

 

「どうした? 顔が引きつっているぞ」

「いえ、弥太郎殿らも苦労されているなと思って……」

「そうだな……されど、我々もこれよりが正念場だ」

 

 あまり心配していても致し方ない。また、口に出して周りを心配させ、目の前のことを疎かにさせることもやってはいけない。官兵衛に最初に教わったことがそれだった。故に、忘れることはなく、今も謙信を誤魔化して自身の抱く心配事を胸に強くしまい込む。

 今度は罪悪感が胸を襲う。爪楊枝でちくちくと刺される程度だが、早く自身を見つければそれも収まるのだろう。

 

「(いい加減、本腰を入れるべきか……)」

「えいっ♪」

「痛てえぇ!?」

 

 龍兵衛が眉間に皺を寄せていると背後から慶次が首筋に噛み付いてきた。しかも、猫や犬のように犬歯を剥き出しにして。驚いた龍兵衛は声を裏返して叫んでしまった。

 

「離せ! おい!」

「んーんんんー♪」

 

 噛みながらも慶次は楽しそうにして、じゃらされている猫のように逃げ惑う龍兵衛から離れない。それが腕を掴まないでずるずると引きずられているのだから顎の強さが良く分かる。

 

「凄いな……よくあれほどまで腕を使わず……」

 

 謙信までおとがいに手を当てて龍兵衛を無視して慶次に感心し通しである。

 

「謙信様ー!」

「ん? どうした?」

「『どうした?』じゃありません!」

 

 助けを求める声にきょとんとしている謙信は使えないと思った龍兵衛は慶次の袖を力任せに掴む。

 

「よっこいしょお!」

 

 強引に慶次を持ち上げると適当に机や椅子が滅茶苦茶にならないところにぶん投げた。

 

「っとっとぉ……」

 

 しかし、慶次は元より武芸の達人である。簡単に身体を反転させると手を上手く使っていとも簡単に体勢を整えた。

 龍兵衛は噛まれたあたりを触ってみると指で分かる程、しっかり歯形が付いている。意味が無いと分かっていながらも龍兵衛はそのまま首をかく。消えるのはいつになるかなと思いながら投げ飛ばした慶次の方を向く。

 やはりと言うべきか見事に服が乱れていて、豊満な胸は露わになって見えるところがしっかり見えている。

 

「とっとと服直せ」

「やぁん、龍ちんの助平」

 

 慶次は顔を赤らめ、身体をよじらせてみせるが、龍兵衛は何ら劣情を抱くことなどなく、呆れたと溜め息をついて謙信の方を向く。

 

「謙信様も笑ってないで助けて下さい」

「いや、悪いが、面白かったのでな。久々にそんなに動揺するお前を見た」

 

 龍兵衛も久々に謙信の茶目っ気を見た気がする。肩を落とす龍兵衛に謙信の軽い笑みの声が聞こえてくる。完全に見て楽しんでいたと言っているようなものだ。龍兵衛は肩を落とすとそのまま近くの椅子に腰を落とす。

 

「ははっ、すまなかった。少し私もやり過ぎた」

「まだ顔に笑い皺が寄っているのですが……」

「……やれやれ、そこまで凹むことはあるまい」

「……申し訳ありません。自分も少々やり過ぎました」

  

 わざとらしく凹んでみせたのは少し度が過ぎたようで謙信も興が冷めたように表情を普段通りの清廉な表情に戻った。それを見た龍兵衛もばつの悪そうな表情で姿勢を直す。

 

「宗二殿の件は私も出向くが、お前達二人の意見を通す。まだ正式に決まってはいないが、宗二殿を上杉家に迎え入れることが出来た暁には、彼女を茶道指南役にする」

「よろしいかと。京では数寄によって大名達が対立することもあります。今後、それを回避するには知識が必要でございます」

 

 龍兵衛は安堵したと息を吐く。さすがに謙信は適応力がある。後は周りがとやかく言わないように目を凝らすことだ。龍兵衛のような外様が人材を適用したとなれば、また何か言ってくるような者が現れるかもしれない。

 

「(出陣前にも散々能元に陰湿なことされたし……)」

 

 筆を隠されたり、資料をどこかに持って行かれたりと能元は碌なことをしていない。幸い、感づいた慶次や兼続によって大体のことは穏便に済んでいる。

 兼続から謙信に言ってみてはと勧められたこともあったが、やめておいた。面倒なのもあるが、能元以外にも不満を持っている者達が譜代や楊北衆の中にまだいるかもしれない。

 さすがに国を割るまでとは行かずとも家臣内での派閥化が進むのは決して良いことではない。

 

「さて……私も茶の湯のことを学ばねば……龍兵衛みたくならないように」

「えっ……?」

 

 謙信の言葉で龍兵衛は内で考えていたことを一旦、頭の片隅に追いやった。

 

「な、なんで……そのことを……」

 

 龍兵衛は決して宗二の茶会での失態を言わずにせっせと報告だけをした。故に、謙信が知る由も無いのだ。しかし、龍兵衛は何かを思い出したように顔を上げると着物を直して横に立っていた慶次を恨めしい目で睨む。

 

「慶次……」

「龍ちんが悪いのよぉ。憚りに行きたいから先に行ってくれなんて言うからぁ」

「だからって言う奴があるか!?」

「龍兵衛。慶次だぞ」

 

 謙信の言うとおり、慶次があのことを面白おかしく言わない訳がない。ましてや、意趣返しの機会を窺っていたのであればなおさらだ。仕方ないと龍兵衛は肩をすくめて諦める。復讐の機会を考えながら。

 

「さて、龍兵衛。我らはこれよりどう進む?」

 

 答える前に龍兵衛は辺りを見回して謙信に尋ねる。

 

「景勝様と兼続は?」

「景勝自らの願いで陣中を回っている。随分と気が入っているようだ」

 

 謙信はその光景を思い出したの二人から目を逸らして嬉しそうな笑みを浮かべる。母性に溢れた笑みは男のみならず、女も一瞬、目を奪われる程だ。思わず、龍兵衛も慶次も小さく声を上げた。

 

「最近、景勝もますます頼もしくなってきてな。この前も……」

「先ずはぁ……下野を押さえないとねぇ」

 

 まずいと悟った慶次がすかさず真面目なことを言って謙信の口火を切る。良くやったと龍兵衛は内心で感謝しながら続ける。

 

「最上の援軍が既に上野に入ったと聞きました。かれらと合流した後、長野殿を再び下野へ向かわせれば良いかと」

 

 話を見事に切られた謙信は不満げだが、龍兵衛と慶次が本気の目で見てくる為「そうだな」と言って関東を描いた地図に目を向ける。

 下野を押さえるといよいよ武蔵に入る。小田原城への道は武蔵を制圧してからの話になる。故に、一つ一つの城をしっかりと落としていかなければならない。その中でも重要な城と言える城を謙信は指した。

 

「忍城は必ず落とさねばなるまい」

 

 武蔵に入る入口にある忍城は関東へと下りる際に必ず必要となる場所である。かの地は中山道の合流地点ともなっている為、交通の要所としても拠点として欠かせない。

 

「その前に館林城に入ることです。下野からの道も絶たれ、北条派の将を押さえ込めます」

「そのことはお前に任せる。いつまでも上野に構ってはおれん」

 

 謙信の言葉に龍兵衛は特に異論を唱えずに続ける。

 

「忍城に籠もる成田氏長はかなり屈強な者と聞いておりますが、館林城の由良とは縁戚関係と聞いております」

「なるほど。由良に成田を口説かせるのか」

 

 あえて口にしないが、成田が簡単に折れてくれるとは思えない。上杉に対する成田への敵愾心はかなりのものだと聞いている。謙信も知らない筈がない。あえて、由良を使おうとしているのは兵を休ませる為の時間稼ぎにしか過ぎない。

 

「(その間に、俺はやることをしないと……)」

 

 龍兵衛は表情を人知れず険しくさせる。忍城といえば豊臣軍の攻勢に小田原城落城の後も怯まずに守り続けたことで知られる名城。後に関東七名城の一つに数えられたことでも有名だ。謙信ならば間違っても油断や指揮系統に乱れを生じさせることは無いだろうが、龍兵衛はどうしても気になってしまう。

 

「ともかく、兼続達が戻り次第、すぐにでも話を進めて由良を呼ぶべきかと」

「うむ……」

 

 謙信はおとがいに手を当て、考え事を始めた。何か気になることでもあったのだろうかと龍兵衛は尋ねてみる。

 

「いや。武田がやけに静かだなと思って」

 

 龍兵衛と慶次は納得したと小さく頷く。弱体化し、満足に動けない状況になっても宿敵は宿敵なのだ。

 

「おそらく、徳川や今川が怖いのでしょう。越後を攻めるにしろ、上野に出張ってくるにしろ、甲斐が空くのは目に見えております」

 

 謙信はどこか納得がいかないようだが、頷いてくれた。沈黙がしばらく続いたが、それを嫌った慶次の言葉が始まりだった。

 

「かっつん達遅いわねぇ」

「ほぼすれ違いであったからな……そうだ。待っている間で良いから聞いてくれ。先程も景勝がな……」

「……馬鹿やろう」

「ひぃ~ごめんなさぁい……」

 

 小声で龍兵衛は慶次を睨み、足の甲をげしげしと謙信に見えないように蹴る。さすがの慶次も反省しているようで、素直に龍兵衛からの罰を受けている。

 

「(景勝様ー兼続ー早く帰って来てー!)」

 

 龍兵衛は心の中で叫ぶとそれとなく隣の慶次を見る。慶次も同じような気持ちを抱いているのが丸分かりな表情で話を聞いている。

 

「(それにしても、本当に孝さんどうしたんだろ?)」

 

 

 

 

「ぶぇくっしょい!」

「仮にも女子である者がそのような汚いくしゃみをするな」

「誰か噂してる……」

 

 出てきた鼻水をすすりながら官兵衛は入っていた布団の中に顔の半分だけ出して潜り込む。

 

「しかし……」

 

 陣中に響き渡るような景綱は盛大な溜め息を吐いて地図を閉じる。

 

「まったく。関宿城を落とす為とはいえ、軍師が自ら城の弱点を見つけに陣を出るか?」

「探すのには自信があったんだよぉ……」

「そういう問題か!」

 

 景綱の正論に官兵衛はがっくりと肩を落とす。関宿城がなかなか落ちないことに業を煮やした官兵衛は自ら城の弱点を探さんと歩いて関宿城周辺を回った。

 関宿城は周辺が利根川と江戸川の合分流する地点の微高地に築かれ、水に守られた要害であるとともに古くから水上交通の要衝とされてきた。

 それ故、水源を断つことは不可能であると考えた官兵衛はあちこちを回ってどこからなら城内に入れるかを探った。

 

「収穫は?」

「無し。全く骨折り損だよ」

 

 景綱は官兵衛よりも大きな溜め息を吐く。必死に探した結果が足を滑らせて冬間近の川にすってんころりんでは褒められたものではない。

 しかし、歯痒い官兵衛の思いも分からなくはない。冬が近い今、小田原城への道を急いで切り開かなければ兵の士気はますます下がるばかりだ。

 

「結城は何をしているのだ?」

「出陣の準備が遅れているだとか、主の晴朝が病で養子の秀綱の統治が上手く行ってないとか言ってる。戦況を見据えているんだろうね」

「となると、北条の西の要であるこの関宿城を落とせば……」

「間違いなく結城は上杉に加わる」

 

 互いに窓から見える関宿城へと目が向かう。

 

「ならば、早く落とさねばな。関東の者達の気が変わらぬ内に」

 

 景綱の言葉に官兵衛は言われなくても分かっていると何も反応を示さない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百四十ニ話 目的が何であれ

 関宿城を落とすこと。それは北条の東側の守りをほぼ完全に崩すことを意味する。故に、それはかなり難しい戦になるのは必定だった。関宿城には籠もる北条綱成、元々、関宿城に詰めていた多目元忠という北条の勇将が揃っている。

 本来ならば無理せずに戦わないに限るが、利根川水系等の要地であり、関東の水運を押さえる拠点である以上、落とさなければならない。

 

「ま、分かっているから北条家きっての将達が揃っている訳ね」

 

 官兵衛はどこか抜け道でもないかと探っていると思いっきり滑って転んで足を故障した。おかげでしばらくは絶対休養を言い渡され、杖を付くか籠に乗っての移動を余儀なくされている。

 おかげで弥太郎は知恵袋を失い、再びとやかく言ってきた佐竹と伊達に頭を悩ませることになった。官兵衛に無理をさせたくないという心遣いから思い切って謙信の下に書状を寄越したのだが、官兵衛は知る由も無い。

 

「さてと……どう攻めたもんか……」

「さてと……どう動けないようにしようか?」

 

 官兵衛は驚いて後ろを振り返る。気配がなかったにもかかわらず、景綱がすぐ後ろに立っていた。官兵衛は脅かすなと威嚇した目を向ける。

 

「私は別に気配を隠していた訳ではない。気付かない程、背後を警戒していなかったお前が悪い」

 

 景綱は悪びれもせずに隣にやってくる。

 

「まったく。昨日も小島殿に怒られたばかりだろう」

「うっさいな~大したことないって言ってるじゃん」

「これでもか?」

 

 景綱は持っていた扇子で包帯が巻かれている官兵衛の足を突っつく。

 

「いたたた!」

 

 途端に官兵衛は顔を真っ青にする。支えている杖がふらふらとして転びそうになったが、景綱の救助によって辛うじて転倒は免れた。景綱はそら見ろと笑っている。官兵衛からすると転倒して悪化する可能性もあったのだから笑い事では済まない。

 

「そんな怪我をして陣中をうろつく官兵衛が悪いのだ」

 

 睨みなど利かぬと景綱は涼しい顔を崩さない。官兵衛は何か言い返したいと食ってかかったが、怪我をしている手前、官兵衛が何を言おうと景綱の方に利が多い。

 

「……陣屋に戻る」

「それが最善だ」

 

 ふてくされる官兵衛を景綱はからかった詫びに付き添ってやると一緒に陣屋に戻る。

 

「寒い……」

「冬が近いからな。雪が降るのも時間の問題だ」

 

 官兵衛は風を受けて身体を縮こませる。一方の景綱は平然として曇っている空を見上げる。てっきりすぐに冬がやってくると思っていた二人だが、寒くなってから天候は気紛れを起こしたのかゆるりゆるりと冬の気配を漂わせているに留めている。

 しかし、天候は気紛れなもの。いつ気分を変えて冬を激しくさせるか分からない。なるべくなら雪が降る前に小田原城へ向かいたい。

 本来ならば関宿城攻めの際に結城が背後から攻める手筈になっていた。しかし、結城は当主の結城晴朝の病気を理由にやって来ない。実際には上杉軍の進軍が思ったよりも遅々としている為、様子を見ているのだろう。

 

「しかし……結城も何故、今になって慎重に……」

 

 北条に対してずっと敵対関係を貫いてきた結城だが、仮に上杉にも付かずに曖昧な態度を取れば、ますます立場が悪くなることも承知の筈。景綱はおとがいに手を当てながら呟く。

 

「案外、結城晴朝の容態が悪いのが本当なのかもね」

「主の病が動揺を誘ったか。しかし、結城の軍を実際に率いているのは晴朝の養子である結城秀綱。明らかに様子見だな」

「昨日も言ったけど、関宿城は一気に攻めることが出来ない城なんだから」

 

 龍兵衛から戦前に聞いた意見。逆井城と関宿城を攻める時は決して無理をしてはならない。要害の中でも群を抜いている二つの城を強引に攻めては後の災いとなるだろう。

 その見立ては正解で、官兵衛が見ても本物の城である。幸い、綱成が逆井城の際は飛び出してくれた。しかし、関宿城ではさすがに一度起こした失態を二度はしないと決めているのか出てくる気配がない。

 

「いっそのこと、小田でも攻める?」

「あのような小者は尻尾でも引っ込めておけば良い。現に佐竹が脅しをかけたら従うと言ったろう」

「その割には兵を送って来ないんだけど」

「だからと言って、攻めて何の益がある?」

 

 もっともだと官兵衛は溜め息を吐く。

 小田が来れば少しは強攻に切り替えても良いが、如何せん数が少ない為、戦力になるのか微妙である。そもそも、当主の小田氏治が戦下手で有名である。戦力として期待する方がおかしい。

 

「里見の方は?」

「結構気張ってるらしいよ。海賊衆を使って色々と北条を脅かしているって」

「北条の対応は?」

「あまり出来ていないらしいよ」

 

 官兵衛は景綱の表情を伺う。景綱は何か面白いものでも見つけたような笑みを浮かべている。北条は里見の差し金である海賊衆の襲撃を前々から受けていたが、対応が今までは出来ていた。出来なくなってきたのは大分、力が無くなってきた証である。

 

「あ~関宿城さえ落とせればな~……」

「その前に官兵衛は怪我を治せ」

 

 いつの間にか呼び捨てで呼び合う仲になっている二人だが、そうこう言い合っている内に官兵衛の陣屋に付いた。

 中に入って官兵衛は怪我をして用意された椅子に座るとすぐに溜め息をついた。急がねばならない時、城をなかなか落とせない焦燥感、足並みの揃わない上杉軍。苛々の募る条件が上限を通り越して呆れとなって官兵衛に返ってきたのである。

 

「いっそのこと蘆名でも使うか」

 

 官兵衛は両手を頭の後ろに組んでぶっきらぼうに言った。景綱の方は何も言わない。伊達の人間である景綱にとって今まで初戦前の失態をずっと蒸し返されてきたのだからここらで他の家に被害を被ってもらっても別に構わないのだろう。

 官兵衛は表情を変えていない景綱の内心を察する。上杉の配下の大名で大きな顔をしている為には力を保持していなければならない。政宗が佐竹といざこざを起こしたので戦によって徐々に戦力が削がれている。軍を再編する際に金がいる。それは徐々に財力が削がれていくことに繋がる。

 また、蘆名は伊達と佐竹の影に隠れてさほど戦の損害を被っていない。上杉の配下で最も力を保持している大名の一つなだけに蘆名にもそろそろ被害を被ってもらいたいと景綱は思っている筈だ。

 

「何ならあたしが蘆名の所に行っても良いんだよ?」

「私は何も言っていないが」

「あたしだって人の考えていることを察するぐらい出来るよ」

 

 にやつく官兵衛は足を引きずって景綱に近付く。

 

「何のことやら分からんな」

「うわっぷ……」

 

 表情を覗き込むように下から見上げてきた官兵衛の顔を景綱は手で押さえ込んでぐいと離す。

 

「ともかく、私が蘆名の下に向かうのは得策ではない。よろしく頼む」

「素直じゃないな~これ以上、大きな犠牲が出ないことに感謝するべきじゃない?」

「我々は上杉様の為に粉骨砕身励んでいる身だが?」

 

 強情だと官兵衛は肩をすくめる。本心を明かすようなことを軍師はめったに行ってはならない。同じ立場故に官兵衛もあえてこれ以上、何も言わずに杖を支えに立ち上がる。

 

「じゃ、早速……」

「そんな足で行くよりも、小島殿か水原殿に頼めば良いものを」

「あの二人に会うんですけど……」

「おや、失礼。てっきりまた、懲りずに転んでしまうのではと心配でな」

「あたしの身体はあたしが一番知ってますから~」

 

 官兵衛は盛大な舌打ちを景綱に向かって浴びせると痛む足を引きずりながら老人のようによろよろと陣屋を出た。

 

 

 

 

「佐竹が前線に?」

「はっ、蘆名様が前線に出ると申したところ、急に……」

 

 夜になって事態が急変した。蘆名の下へ親憲を向かわせて関宿城攻めの先陣を切って欲しいと頼み、すぐに了承させた。後は、明日を迎えるだけと床につこうとした途端だった。

 佐竹は伊達同様に今まで初戦時のいざこざを起こした責任を負う形で何度も戦の先陣を任させられ、上杉のやり方に不満を一番募らせている。昨日、今日も不満げに義重が弥太郎や官兵衛自身と散々揉めていた為、今となっての手の平返しには官兵衛も驚くしかない。

 

「訳を話した?」

「いえ。ただ『憂さ晴らしをしたいだけだ』と」

「は? なにそれ?」

 

 思わず、素っ頓狂な声を出してしまう。

 何か北条軍との間に因縁でもあったかと考えたが、今まで佐竹と北条は関東の覇権をめぐって競い合ってきた間柄。因縁など有り余る程だろう。しかし、佐竹義重という人物はそういった私怨などとは無縁だと官兵衛は思っていた為、どうしてなのだろうと首を捻ってしまう。

 

「本当に良いのかな?」

「よろしいのでは?」

 

 思わず兵に聞いてしまった。兵の方も思わず答えてしまった。官兵衛は頭を音がする程、強くかきながら口を開く。

 

「じゃあ、もう一回、佐竹の陣に向かって。明朝、夜明けと共に蘆名と一緒に攻城するように」

「はっ」

 

 兵が出て行くのを見届けて官兵衛は横になる。明日、佐竹の真意を正すことも必要だが、関宿城を落とすことこそが官兵衛に課せられた重要な問題である。

 最終的に最も上である上杉に対して利益が返ってくればそれで良い。佐竹と蘆名。精鋭を揃える二つの家ならばと期待してしまうが、関宿城の北条軍もまた精鋭揃い。

 

「見物だ……」

 

 官兵衛は小さく呟くとそのまま意識を手放した。

 

 

 耳をつんざくような音と共に官兵衛が再び目を覚ましたのは一刻程経ってからのことだった。

 

「申し上げます! 北条軍、蘆名軍に夜襲を仕掛けた模様」

「あー……やっぱり」

 

 あるかもしれないと考えていた官兵衛は警戒しておくように蘆名に言っておいた。

 

「如何致しましょう?」

「戦況は?」

「混乱を極めている由」

 

 官兵衛の表情がかなり強張る。驕りがあったのか、明日、城を攻める為、英気を養っていたのか分からない。しかし、警戒していなかったというのはどういうことなのか。

 

「とりあえず、援軍を出して撃退。佐竹にもこのことは伝えてあるよね? じゃあ、水原さんをここに呼んで」

 

 手早く兵に指示を出すと官兵衛は天を仰いだ。ただでさえ、逆井城の時もそれなりに犠牲を出したにもかかわらず、ここでの夜襲の被害を蘆名とはいえ、直に受けるのは痛い。

 行き場のない苛々を誤魔化す為、官兵衛は上を向いたまま息を吐く。音だけが空しく響き、官兵衛の中に溜まっている鬱憤がますます雨水を受けた川のように増えていく。

 自ら出向きたいところだが、足が寒さのせいかより痛みを官兵衛に伝え、動きを止める。舌打ちをして官兵衛は座り直すと貧乏揺すりをしながら親憲が到着するのを待つ。

 

「黒田殿。お待たせ致しました」

「おっそい!」

 

 八つ当たり気味に親憲を怒鳴ったが、親憲は特に気分を害した様子も見せず、むしろ、笑みを浮かべた。

 

「ははっ、申し訳ありません」

 

 親憲の態度を見て、官兵衛はますます苛々が募ってきた。もう少しで血管が切れそうになっているのを必死に堪えて親憲と対面する。

 

「今すぐ手勢を率いて関宿城に向かって」

「よろしいのですか?」

 

 親憲の表情が少し険しくなったが、構わず官兵衛は続ける。

 

「関宿城に伏兵がいたとしても火であぶり出せば良いでしょ。川の浅瀬は探した所を通って」

 

 敵が動いたのであれば、逆手を突いてこちらも攻勢を仕掛ける好機でもある。蘆名軍に被害が出ても関宿城を落としてしまえばそれで十分な戦果となる。

 

「頼む」

「承知」

 

 親憲が出て行くとすぐにすれ違い様に伝令が飛び込んできた。

 

「佐竹様が蘆名様と合流。北条軍と衝突した由」

「早っ」

 

 佐竹にも夜襲の警戒を促していたが、かれらはきちんと警戒を怠っていなかったようだ。それにしても早い行軍だと官兵衛は思った。

 

「それが、佐竹義重様が直々に少数で蘆名様と合流し、真壁様らが後から付いて行っているような状況だと」

「この夜によくそこまで分かったね」

 

 目を丸くする官兵衛に伝令兵は偶然、佐竹の将と鉢合わせ、事情を事細かに聞けたのだという。更に伝令兵によると北条軍は綱成が再び陣頭指揮を取っているらしい。

 

「それは敵の情報じゃん。どうし……てって言わないでも良いか……」

 

 伝令兵も官兵衛の呆れた声に垂れた顔に苦笑いを作る。親憲以外にも当然ながら綱成の戦の際に戦場の隅々に響き渡る声は上杉軍のほとんどが聞いていた。

 

「戦況は?」

「互角かと」

「小島殿に急ぐように伝えて。いざとなったら先に騎馬を進めても良いって」

 

 官兵衛は杖を頼りに立ち上がって外に出る。星が見えるが、月は見えない。夜空を見上げ、官兵衛は盛大な舌打ちを鳴らす。月の出ない日は絶好の夜襲日和である。そのことは軍師でなくても知らなければならないことだ。

 官兵衛自身に武の心得があり、足が何ともなければ蘆名に何があったのか駆け出して直接言ってやりたいところである。

 しばらく大人しく待っていると闇の中から兵が出てきた。

 

「申し上げます。水原様の隊、北条軍により撃退された由。現在、佐竹様の陣へ向けて撤退している模様」

「伏兵いたか~……」

 

 官兵衛からすれば裏をかいたつもりだったのだが、関宿城に全て読まれていたようだ。

 

「夜襲の方は?」

「小島様、佐竹様の奮戦で徐々にこちらに形成が傾きつつも、北条軍の士気は高く、混戦となっております」

「水原殿に態勢を立て直したら北条軍の側面を突くように伝えて。あと、うちの陣から三百の兵を援軍に出すから同じように側面を……」

「申し上げます。川沿いに北条軍が現れ、我が軍に接近」

「どうせ、偽兵。落ち着いてそのまま戦を続けて」

 

 しれっと言ったものの、官兵衛のように戦況を見る暇など実際に戦っている者にはない。間違いなく混乱が波及し、全軍に響くだろう。伏兵に見せかけた偽兵は実に夜襲には効果的である。

 

「さすがに多目といったところか……」

 

 関宿城の北条軍を率いる多目元忠のことは官兵衛も知っていた。また、向こうもこちらのことを知っているようだ。

 

「撤退したいけど……それも読まれているとなると……」

 

 撤退するであろう岩付城方面にも何か仕掛けを置いている可能性が高い。ならば、出たとこ勝負に出るしかない。

 

「誰か!」

「はっ」

「佐竹に関宿城へ真っ直ぐ向かうように伝えて。蘆名は態勢を立て直すことに集中。可能なら佐竹と共に北条軍に突っ込むように」

 

 戦況が鬨の声によって大まかに聞こえてくる。まだ、戦えると判断した官兵衛の博打。果たして丁になるか半になるか。

 

「どんと来いってんだ」

 

 それに官兵衛にはまだ勝算があった。最後まで取っておいた切り札。これこそ佐竹と蘆名の突撃よりも分が悪い賭けだった。

 

「伊達に伝令を。蘆名を援護しつつ、川沿いから北条軍を各個撃破するように」

「はっ」

「あ、待って!」

 

 飛び出していく兵を止めると官兵衛は近くによるように手招きする。近付いた兵の耳を強引に摘まむと官兵衛は耳元で低い声を出す。

 

「片倉殿に出ないとどうなるか分かっているよねって伝えて」

 

 兵は自身が脅された訳でもないのに顔を青くして去って行った。また、傷が増える。伊達軍は疲弊するだろうが、官兵衛は関係無いことだと割り切る。最後に上杉が勝てれば良いのだから。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百四十三話 いの一番は畏怖

 景綱は夜空を見上げ、夜襲が今宵あるだろうと予測していた。政宗もまた、景綱の意見を聞き入れ、警戒を強くした。

 そして、草木も眠る丑の三時に差しかかろうとする刻限に北条軍はやってきた。幸いなことに北条軍は伊達軍の陣ではなく、明日の城攻めで先陣を務める予定だった蘆名と佐竹に襲いかかっている。

 好都合だった。伊達軍は今、傷が深くなっている。緒戦の北条軍との野戦は数の差で上杉軍が勝利したものの、先鋒の伊達と佐竹は北条綱成の率いる精鋭によってかなりの損害を受けた。関宿城攻めでは再び先鋒を務めることになっていたが、官兵衛の配慮のおかげで先鋒を支援する為の所に陣を敷いた。その為、夜襲を直接受けずにそのまま静観出来る場所にいることが出来た。

 しかし、そのままという訳にも当然いかなかった。

 

「黒田様より伝令。直ちに兵を進め、川沿いを進軍し、蘆名様をお救いするようにとのこと」

「やれやれ。このままではまた我々から損害が出る」

 

 政宗は他人ごとのように先鋒の蘆名と佐竹を罵倒する。動かないつもりらしい。景綱は何か言おうとしたが、止めた。景綱自身もここは動かない方が伊達の兵を失うことはないだろう。現に上杉軍も出陣しているようだ。伊達は上杉軍の本陣に敵が入らないようにすれば良い。

 

「まだ何かあるのか?」

 

 政宗は兵がいつまで経っても去らないのを見て、訝しげに尋ねる。

 

「それが……黒田様から片倉様に言伝がございまして……」

「私に?」

 

 兵は景綱に近付いて小声で景綱に先程、官兵衛から言われたことを伝える。

 

「出陣しなければ、どうなるか分かっているのか? と……」

 

 景綱は政宗を一瞥すると兵に分かったと言って下がって良いと出て行かせる。しばらく呆然と兵の去っていった方向、上杉軍の本陣を眺めていた景綱だが、政宗が背後から「どうした?」と声をかけてきた。緊張感の無い声に景綱は少し呆れたが、事情を話せば顔を青くするだろうと踵を返す。

 

「このままだと我々は再び先鋒を押し付けられ、百万石は無くなるぞ」

「なっ……」

 

 案の定、政宗は景綱の思った通りの青い顔で立ち上がる。予想通り過ぎて景綱は肩をすくめる。一方、政宗は気が気でないようで早く説明しろと景綱を強く睨んでくる。

 

「落ち着け。ここで出陣すれば良い。それだけのことだ」

「何故だ? 我々は今の段階で攻める理由は無いだろう」

「それこそ、黒田殿の思う壺だ」

 

 景綱が北条軍ではなく、官兵衛の名前を出したことで、政宗も事を悟ったのかますます顔を青くする。官兵衛の狙いは間違いなく、伊達軍が北条軍を迎撃せずにいたという消極的な姿勢によって上杉軍は勝てた戦に負けたという言いがかりを付けさせること。伊達の百万石の話は上杉の上層部の中で知らない者などいない。冷静に考えて、未だに治めている国全体の石高が三百万石程度の上杉の中で百万石を欲するなど規格外以外の何ものでもない。

 謙信自身が政宗のような規格外の器量を持ち合わせている為に許されているのである。現実重視の軍師達はそれを面白く思う訳がない。上杉軍を守ったことを逆手に取られるように仕向けることで伊達軍の戦力を少しでも削ごうという算段だろう。

 

「(あざとい……)」

「ちっ……黒田の奴、汚い手を……」

「だが、ここで乗らなければ伊達百万石の道は閉ざされるぞ」

「分かっている! すぐに成実を呼んで来い!」

 

 景綱は政宗に蹴り出されるように陣を出る。

 

「やれやれ。人使いの荒い……」

 

 昔から人使いの荒さというか、頭に血が上ると面倒になるというか。

 

「(変わらないな、そのあたりは)」

 

 景綱はすぐに懐かしさに現を抜かしている場合ではないと頭を振って成実の下に急ぐ。その間、景綱は官兵衛のことについて考えを強くしていた。

 あのあどけない少女のような顔と性格で最初は景綱も本当に軍師で、龍兵衛の師なのかと首を傾げたものだ。しかし、立てる策や考えは全て合理的で、上杉や他の配下の大名の軍師達とは異なっている。弟子の龍兵衛も時折、斬新で面白いことを言ってくるが、面白いと思っても恐怖を抱くことはない。龍兵衛の場合、何となく見合っていると景綱は感じていた。

 しかし、官兵衛の場合、あどけなさもまた武器になっているのか分からないが、何故か背筋を凍らせる時がある。生来の習性なのかは不明だが、手強いと思わせるのだ。本人が面白くやっていることを他人へどのような影響を与えているのか官兵衛はおそらく知らない。

 伊達の野望の如く、人の思いを道端の石ころを蹴るように意図も簡単に蹴ってしまう。景綱は恐怖を感じながらも今、考えても仕方ないと頭を小さく振る。

 

「成実、政宗様がお呼びだ」

 

 景綱はすぐに陣中で夜襲の知らせと共に兵に指示を出していた成実を見つけ、一緒に再び政宗の下へと戻る。

 

「小十郎、顔色悪いよ」

「む。そうか……」

 

 成実にまじまじと顔を覗かれ、景綱は慌てて誤魔化すように首を傾げる。

 

「何かあったの?」

「既に起きているだろう」

「む~怪しい……」

 

 景綱は肩をすくめながらも無駄に今日だけ鋭い成実に冷や汗を流す。とはいえ、頭の切れも切り替えの早さも景綱自身は成実には負けないと自負がある。

 

「とにかく、今は夜襲に対する指示を政宗様から仰ぐことが必要だろう。行くぞ」

 

 せっせと本題に話題を強引に持って行って景綱は成実よりも先に歩を進めようとする。成実はその後ろを慌ててついて来た。まだ、疑問は残っているだろうが、おそらく戦になればそれさえも忘れてくれるだろう。

 

「戻った」

「成実、すぐに兵を率いて関宿城に行け」

 

 政宗は不機嫌だと言葉よりも雰囲気で語っているようだった。控えている兵を景綱は一瞥すると政宗との距離をかなり取っている。

 

「えっ、関宿城攻めに行かないんじゃないの?」

「変更だ。色々とあってな」

 

 成実に今、難しい話をしている暇もないと政宗は早くしてくれと口調まで早くなっている。それが成実の何かに触れたらしい。成実は政宗の顔を訝しげに覗き込んでいる。

 

「ん~……気になるけど……」

「早くしないと、官兵衛からお前が叱られることになるぞ」

 

 政宗が警告すると成実もそれだけは嫌だと思ったのだろう。せっせと陣幕を出て、配下の者達に声を張り上げてあっという間に出陣して行った。

 

「単純で助かった……」

 

 政宗は疲れたと両膝に両肘を置いて盛大な溜め息をつく。何か言ってやろうかと景綱は思ったが、止めた。ここで言っても政宗はふてくされるだけだろう。放っておいて景綱も陣幕を出て、戦が行われているであろう方向を見やる。

 

「片倉様」

 

 しばらく松明や微かに見える旗のの動きで戦況を見ていた景綱だが、声をかけられ、振り返る。そこには赤に近い髪型をした知る顔が立っていた。

 

「支倉か。何かあったか?」

「いえ、私も出なくてよろしかったのかと」

 

 優しい性格の常長は上杉に忠誠を誓った以上、勝利をしかと納めることこそが重要だと思い、もどかしい気持ちになっているのだろう。

 

「良い。お前は後から出陣する綱元に変わって政宗様の警護を頼む」

 

 納得したのか分からない表情で常長は頷く。伊達軍が混戦状態の中に突っ込むことを憂いて、自らも出向きたいと思っているに違いない。

 

「心配ない。関宿城を落とすことに我々は集中すれば良い」

「それで、真に政宗様の思いを成すことは出来るのでしょうか?」

 

 戦況に目をやっていた景綱は驚いて隣に来ていた常長を見る。常長の目ははっきりと景綱の目を向いて離さない。このあたりは何度も上杉との交渉や他国との干渉に関わってきただけあって、引き下がらない気持ちがありありと伝わってくる。

 

「思い、とは?」

「伊達家は真に百万石を得ることが出来るのか。という意味にて」

 

 景綱は聡いという思いと共に目を細める。

 

「どういう意味だ?」

「いえ。ただ、このまま上杉様の下で政宗様は思いを叶えられるのかと……」

 

 政宗は上杉配下の者の中でも異色の存在である。慇懃無礼な態度を取ることはもちろんだが、政宗の百万石への野心のおかげで上杉から目を付けられているのは必定だ。常長もまた、政宗の行く末を憂いている。

 

「叶えられるさ」

 

 景綱は視線を再び戦場へと向かわせる。

 

「何故でしょう?」

「……さあな」

 

 上杉のことを最も良く知っている存在である景綱故に言えたことだ。根拠も無く、上杉との約束は大丈夫だと思えてしまう。理由は無いのだが、おそらく謙信ならという意味も無い思いがあるのだ。

 

「(何と言われようと決めるのは謙信殿だからな)」

 

 官兵衛も恐ろしいが、謙信もまた恐ろしい。それ以上に自然体の中にある人に見えない何かが謙信をまとい、勘の良い者に畏怖を与えるのだろう。それに名前を付けるとすれば、何であろうか。景綱には分からなかった。

 

「戦況が変わったな」

「はい……」

 

 音が徐々に大きくなっている。夜襲を仕掛けてきた北条軍の音は最初から小さかった。徐々に上杉に戦況が傾いている証だろう。

 

「申し上げます。上杉が小島様、見事に蘆名様を救い出した由。また、黒田様後部隊が混戦状態の北条軍の側面を突き、北条は撤退を始めている模様」

「伏兵がいれば面倒だ。綱元に関宿城に真っ直ぐ進み、火を……」

「片倉様。関宿城周辺から火の手が上がっております」

 

 前線の伝令兵の報告に景綱が見ると煙が徐々に立ち込めているように見える。おそらく、官兵衛の差し金だろう。川という逃げ場を塞がれた所でわざわざ伏兵が自らの首を絞めるような真似はしない。

 

「綱元に伝えろ。北条軍を追って関宿城に向かえと。佐竹と蘆名を保護しつつな」

 

 景綱は煙を眺めながら兵に冷淡な軍師としての口調で指示を出す。兵が去って行くのを見届けると同時に常長がそこに割って入ってきた。

 

「我らで一番乗りを横取りするおつもりですか?」

 

 怒っている訳ではないが、常長の口調は問い詰めているようで景綱を睨んでいるようにも感じられた。しかし、景綱はこのようなふってわいたような好機を逃すことなど出来る筈もなかった。蘆名と佐竹は混戦で疲弊している。上杉もかれらを救いに行っただけで城を落とす体力は残っていないだろう。ならば、ここで関宿城を落とさなければ目の前の馳走を見ているだけのようなものだ。

 

「一番乗りの功を取れば、上杉とて取り上げない訳にはいくまい」

「蘆名や佐竹は我々をますます嫌うでしょうけど」

「構わない。先鋒がきちんと夜襲に対応出来なかったのが悪いのだ」

 

 景綱は常長を置いて政宗の下に戻る為に歩を進める。伊達第一の野望は謙信によって砕かれた。故に、新たに立てた野望を何としてでも叶えなければ伊達は上杉から笑いものにされる。

 

「武人は、勝てば良い……」

 

 躊躇いなど覚えていては軍師として失格だ。景綱は息を吐いて自らを落ち着かせると共に無駄な良心を塵のように捨てる。再び開かれた景綱の目は怜悧な鋭い眼光が光っていた。

 

 

 

 

「ふむ……」

「また揉め事ですか?」

「む。颯馬でもないのに分かるのか?」

「眉間の皺を見れば、誰にでも分かるかと」

 

 謙信は龍兵衛の指摘を受けて額に指を当て、皺をほぐそうとする。

 

「それで、内容はどのようなものですか?」

 

 龍兵衛はそれを無視して謙信の持っている書状の方に興味を移している。少しむっとした謙信だが、龍兵衛はそのこともお構いなしらしい。目が書状に向いている。

 

「(これでは女子との噂も枯れた泉の如く、湧かない訳だ……)」

 

 人の都合よりも自身の気分を優先させる。今までの龍兵衛では考えられなかった。しかし、このところ。特に関東遠征の頃から段々と龍兵衛は人が変わったようになっている。

 試しに兼続にも聞いてみたが、急に自分勝手なところが増えたと言っていた。一方、仕事に差し障りは無いようなので謙信も兼続も特に咎めていない。それ以上に慶次の悪戯の方が上杉の中で印象強く、皆、辟易としている。

 

「伊達が関宿城を落とした際、先鋒の蘆名、佐竹を差し置いたそうだ」

「必死ですね」

 

 龍兵衛は書状を受け取るとじっくりとその内容を改めている。脇から景勝が背伸びをして書状の中身を見ようとしているのには気付いていないらしい。そう最初は思っていたが、龍兵衛の視線が時折、景勝の方を向いている。

 

「(分かっているなら見せてやれば良いものを……)」

 

 おそらく、龍兵衛は景勝の声がかかるまで放っておくつもりだろう。弄んでいるのか、後で見せようとしているのか。

 

「夜襲の被害を直接受けた蘆名もそうですが、佐竹も蘆名を救援し、混戦状態の中を戦っていたのですから伊達の抜け駆けの訴えは取り付けられないでしょう」

「(弄んでいるのか……)」

 

 咎めたいが、景勝が頑張って覗こうとしている姿も可愛らしかったので謙信は龍兵衛のことをお咎めなしとした。

 

「弥太郎も官兵衛もそこを指摘したようだな」

 

 謙信は膨れ面の景勝に書状を渡す。景勝は書状を受け取るとそちらに集中し始めた。微笑ましい光景だが、謙信は官兵衛が伊達の弁護に回っているのに疑問を抱いた。元々、官兵衛は伊達のことを危険視していて、事ある毎に何か処分を下すべきと主張していた。

 

「なるほど……孝さんらしい……」

「どういうこと?」

 

 初めて口を開いた景勝に龍兵衛は言いにくそうな表情をした。迷っているのか龍兵衛は謙信を見てくる。

 

「構わん、続けてくれ」

 

 謙信も官兵衛の思惑に今一つ合点がいっていなかった。おそらく、龍兵衛もまた謙信自身と同じ疑問を抱いていた筈だだろう。

 

「私も知りたいのだ」

 

 念を押すと龍兵衛は仕方ないと肩をすくめると景勝に近付くように促して小声で口を開く。

 

「伊達殿を試したのですよ。今後も上杉の為に動くのか。おそらく、この夜襲も孝さんは想定済みだった。蘆名殿には夜襲があると言っても何か仕掛けをしたのではないでしょうか。蘆名殿に傷を付ける為に」

 

 謙信は話の間に徐々に顔色を変え、最後に驚愕のあまり絶句した。官兵衛は苦境に立たせることで伊達を試し、同時に蘆名や佐竹も使えるのか判断材料にしたのだ。

 

「蘆名殿には夜襲はあっても、明確な日時を伝えずにその日は休ませるように仕向けた。そう考えればこの報告にも辻褄が合うかと」

 

 関宿城の戦いで最も被害を被ったのは蘆名である。平等に傷を負わせ、伊達も使えると判断した官兵衛は満足しているだろう。

 

「えげつないな」

「それが孝さんです。あの人はえげつないことを面白いと思ってもいます」

「危険か?」

「いいえ。あの人は大望のある御方の下で策を考することを己が至高としておりますから」

 

 つまり、謙信が天下を得ることが出来なくなれば、上杉を見捨てることもあるということだ。景勝も何を言っているのか理解したのかこちらを向いて目を丸くしている。

 

「あぁ、言っておきますが、これと決めた人には必ず最期まで従います」

「私はそのこれといった人になれているか?」

「それは直接お聞きになられてください。ただ……謙信様のことをおそらく面白い御方だと思っているでしょうね」

 

 謙信は官兵衛に忠誠を誓うように迫った覚えは無い。しかし、官兵衛の働きは出来過ぎている。故に、ここまで来て手放すようなことは出来ない。しかし、興味のなくなった者や使えない者を紙を握り潰すが如くいとも簡単に排斥するような一面には警戒しなければならない。

 

「謙信様」

「ん。兼続か……どうした?」

「はっ。忍城から龍兵衛宛てに密書が」

 

 謙信と景勝は同時に龍兵衛を見る。しかし、龍兵衛は涼しい顔を崩さずに手を横に振って何もやましいことをしていないと示す。

 

「自分が調略に動いた忍城の将からの返答でしょう」

「また勝手に……」

 

 謙信は龍兵衛の自分勝手さはこのあたりから気付いておくべきだったと反省している。前々から龍兵衛の独断専行は何度叱責しても変わらない。

 

「忍城は堅牢な城。確実な勝利を得る為には必要でしょう?」

 

 既に着陣を終えた。確かに忍城を落とすのは困難だと龍兵衛も兼続も口を揃えて言っていたし、謙信も景勝もそう思っていた。しかし、それとこれとは話が別である。

 

「……兼続」

「はっ」

「私が許す。思う存分やってこい」

「御意」

 

 兼続は龍兵衛に足音を立てて近付くと背中を肉ごと掴む。 

 

「ぐっ!? 兼続、ちょっと……」

「騒ぐな」

「行きなさい」

「あ、はい」

 

 兼続と謙信は龍兵衛を圧力で黙らせると引きずってどこかに消えてしまった。謙信は龍兵衛が最後に一瞬だけ景勝を見た気がしたが、景勝もすぐにそっぽを向いてご機嫌斜めに表情を作ってみせた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百四十四話 雪よりも冷たいものをあげる

 上杉軍は上野や下野に残る勢力をまとめて支配下にすると直ちに民を慈しみながら兵を武蔵へと入れた。更に、首を長くして待っていた最上からの援軍も加わり、直ちに落とすべき忍城を囲むとそこから再び膠着状態になった。

 忍城は北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地と自然堤防を生かした構造となっている。要害堅固な城であったことから戦国時代には関東七名城の一つとして後世に名を残すことになっている。

 

「何て誰も思わないだろうなぁ……」

「……?」

「……何でもありません」

 

 龍兵衛は上っていた櫓の上にうっかり景勝が隣にいることを失念していた。歴史的に忍城は有名になり過ぎている。豊臣の攻撃を小田原城の陥落後も凌いだことを知らない歴史家などいるだろうか。

 忍城は湿地帯を利用した平城であり、元々、沼地だったところに島が点在する地形だった。だが、あえて沼を埋め立てず、独立した島を曲輪として、橋を渡す形で城を築いた。当初は櫓を立てずに本丸は空き地とし、二の丸に屋敷を作ってそこを住まいとしていた。故に、攻めにくく守りやすい城である。

 

「砦も設けて島への道を塞ぎ、島にも砦を築いて一個ずつ落として行っても手薄なこちらを突くようにしている。面倒だ……」

 

 龍兵衛は頭を音を立てて櫓から身を乗り出すようにして両手を柵に預ける。城を守っているのは成田氏長。上杉のことを目の敵にしているようで、一切の交渉拒んでいる。

 

「ま、だからこそのこの書状だけどな……」

 

 龍兵衛の握り締めた書状には忍城の城内の将からの内通を約束した密書である。もちろん、猜疑心の強い龍兵衛はこれを鵜呑みにした訳ではない。あくまでも戦を動かす為の材料であるととらえている。

 忍城の中で内通を約束してきたのは成田近江守と市田太郎という正直、聞いたことも無いような将からだった。

 

「一回戻りましょう」

「(こくり)」

 

 龍兵衛は先に素早く櫓を降りて、ゆっくり降りてくる景勝を置いてせっせと歩く。景勝が慌てて龍兵衛の背中を追って行っているが、それもお構いなしだ。

 後ろで景勝が頬を膨らましているのも分かっている。あえて龍兵衛は無視し続ける。これ以上、景勝の方を向くとたかが外れそうになる。事ある毎に一緒にいたいと景勝はついて来る為、しばらく一人で自分を見つめ直したいと決めた決意もぐらぐら揺れて、信念の柱に出来たひびは限界を迎えている。その度に龍兵衛は誰もいない所で頭をどこかに打ち付けたり、気付かれないように身体のどこかをつねって誤魔化している。

 まるでそれに気付いているかのように景勝は隣に立って時々、龍兵衛の方を見て、小首を曲げてみたり、わざとらしい上目遣いをして更に龍兵衛を揺さぶってくる。龍兵衛は苦し紛れに左隣にいる景勝を視界に入れないように左目を瞑ったり、こすってみたりと試してみる。

 

「失礼致します謙信様」

 

 何とか堪えて陣幕を龍兵衛が広げて入ると謙信の他に兼続も一緒にいた。食事を取っていたのか、器と箸が二人の座っている机の前に置かれている。

 

「何か動きが?」

「いえ。そろそろ、こちらから動いてもよろしいのではと思いまして」

「お前はここに来た時に迂闊に動くのは下策だと言ったではないか」

 

 兼続がすぐに龍兵衛の意見に噛み付いた。龍兵衛は忍城に着いた二週間前に無理な城攻めをしては箕輪城のように犠牲を払うことになると主張して短期戦を主張する北条から関東を追われた者達からの意見を退けている。

 しかし、龍兵衛にとって、それは無策であるが故に発言したことである。調略が成ったのであれば、話は別だ。

 

「先の調略に応じた者からの返答です。行田口に構えている故、そちらから攻めるようにと」

「すぐにでも攻めるべきか?」

「ここはとにかく急がねばなりません」

 

 兼続が龍兵衛の代わりに謙信の問いに答える。ならばと謙信は頷いてすぐに将達を集めるように命じようとしたのか立ち上がる。しかし、不意に景勝が上を向いたことでそれは中断された。

 

「あ……」

「どうしました……あ~……」

 

 景勝に釣られて上空を眺めると曇天の空から見えてきたのは雪であった。

 

「(道理で寒くなる訳だ……)」

 

 龍兵衛は寒いのは苦手の為、これより冬であるという合図を苦々しい表情で眺めている。そして、雪には寒さをもたらすと共に道理では言えないものをもたらす可能性がある。

 人はそれを郷愁の念と言う。その念を払うのはかなり難しいことだ。思うべき雪化粧の先に見えるのは故郷。越後は今も先も雪がよく降る。雪に埋もれた我が家を思い、兵の中に脱走を試みる者もいるかもしれない。しかも、この雪は箕輪の時と違っておそらく長く降り続くだろう。

 

「このままでは……士気が下がらない内に攻めるべきでは?」

 

 龍兵衛の言葉に謙信は何も言わずに陣幕を空けて外を見て、動かなくなった。風によって白い息が何度か龍兵衛達の方に向かってはすぐに消えている。そして、謙信は一度だけ小さく頷くと振り返って三人を真剣な表情で見る。

 

「もう少し待とう」

「「えっ……?」」

 

 てっきり決戦を行うと思っていた三人は拍子抜けした表情を作っている。謙信は三人の顔を見て、笑みを作りつつ陣幕を出た。残された三人は呆然と顔を見合わせたが、すぐに我に帰って謙信の背中を追う。

 四人はそのまま城が良く見える小高い丘の上に立てられた櫓に上る。

 

「水は大層冷たくなっているだろうな……」

「……水攻めを行うつもりですか?」

 

 龍兵衛は渋い表情を作る。戦法次第、悪くはない。戦上手の謙信が事を仕損じるとは思えないが、水攻めにある効率さの裏にあるものに龍兵衛は嫌悪感を抱いていた。

 水攻めで巻き込まれるのは城だけでなく、城外の村々も入る。すると、民達は自ずと城内に避難する。食糧の補充が出来なくなり、あまつさえ民にも施しを与えなければならなくなる。食糧の急激な減少を避けようと食糧が制限され、人々は飢えていく。末路として良くあるのは死んだ人間の肉を食べるということだ。 

 

「龍兵衛、顔色悪い」

「自分は大丈夫ですよ」

 

 景勝に顔を覗き込まれ、龍兵衛は目を合わせずに素早く答える。鋭いと思いながら龍兵衛は先程のことに思考を戻す。別に反対では無い。士気が徐々に下がるであろう今、戦わずに勝てるのは最適な選択だと言える。

 

「周辺の民に土木作業を行わせるのですか?」

「そうなるな。無論、我が軍からも人は出せるだけ出すが」

「北条の間者が紛れている可能性もあります。よくよく民から目を離さないようにすべきかと」

「ならば、この仕事はお前達二人に任せる。良いな?」

「「承知」」

 

 二人はすぐに支度の為に下がろうとする。しかし、謙信はそれに待ったをかけ、兵の様子を見てくるので共に来るようにと言ってきた。何となく今日の謙信は強引だなと二人は顔を見合わせながらも命令通り、付き従う。景勝も後ろに付いて来た。 

 兵の溜まり場になっている場所に向かうと龍兵衛は兵それぞれの顔を見て、考えていたことに間違いはなかったと内心で溜め息を吐く。

 皆、空を見上げたり、落ちてくる雪を手の平に乗せたりして、どこか儚げな表情をしている。

 

「やはり、か……」

「兼続もそう見てたか」

「ああ。雪が降ってきてからな……」

 

 互いに小さく息を吐くと白い息が交互に出てきて混ざり合う。謙信は二人の会話が終わるのと同時に兵達に歩み寄り、膝を軽く折る。

 

「辛いか?」

 

 声をかけられた兵はぼんやりしていたのか驚いて謙信の方を向き、さらに声の主を聞いて目を丸くしている。構わずに謙信は続ける。

 

「帰りたいか?」

 

 兵は何も言わずに謙信から目を逸らす。謙信は表情を少し緩め、穏やかな雰囲気を晒す。

 

「私も帰りたい。私も、雪は嫌いだ」

 

 謙信の言葉を聞いて周りの兵達が徐々に集まってくる。皆、どこかに故郷への思いを抱いていると四人は見抜いた。

 

「私は帰っても良いと思っている。皆と楽しく過ごしたい。しかし、それでは織田が天下を取ることになるだろう」

 

 兵の顔色が徐々に青くなっていく。織田のことは既に越後にも届いている。どのような戦をしているのかも。

 

「家族が蹂躙される様をあの世で見たいのか? 少なくとも私は見たくない。この戦、我らの命運がかかっている。相手は北条なれど、皆、今の先を見てくれ。我らは負けることは許されない。今、撤退すること、すなわち、織田に遅れを取る。それは織田への敗北ぞ!」

 

 周りにいた兵達が徐々に立ち上がり、前に進み出す。謙信の周りに群衆が出来た。

 

「良いか? 北条に勝つことで我らの未来は安泰となる。その為に今! 皆の力が必要だ! 我らには勝利しかない! 勝利は必定! 我らには毘沙門天の加護がある!」

「応っ!!!」

「我らには勝利しかない! そして、共に誇りを胸に、越後へ戻ろうではないか!」

「応っ!!!!」

 

 兵の目の色が変わった。一部分にしか過ぎないが、この意気の上がりようを他の所にも伝えていけば良い。謙信にはそれが出来るだろう。利用する訳ではないが、これで戦に必要な士気を上げられる。 

 

「謙信様、凄い!」

「ええ、ええ!」

 

 景勝と兼続は感激したように何度も頷いている。

 

 さすがだと思いながら龍兵衛は静かにその場を去る。龍兵衛は盛り上げている所にいると便乗するのではなく、冷静になる。

 謙信がまた演説し、かれらの士気の高さを利用して城に攻め入ることも可能だ。内通の方が嘘だとしても対処出来る合理的な戦略を立てなければならない。静かな所で考えようと歩を進めていると背後から足音が聞こえてきた。

 

「待て、龍兵衛」

「なんだ?」

 

 兼続の声に振り返る。兼続の表情は険しくなっていた。何か不満の残るようなことを言っただろうかと思い返してみるが、龍兵衛は何一つ思い付かない。

 

「なんだではない。単刀直入に言おう。調略のことだ」

 

 説教なら謙信公認のせいか三日前に嫌という程、聞かされている。まだ、足りないのかと龍兵衛は静かに身構える。しかし、兼続は龍兵衛に頭を下げてきた。現実では有り得ないと思っていた行為に龍兵衛は目を見開く。さらに兼続は龍兵衛にあわや絶句させるようなことを言ってきた。

 

「此度の調略のこと、私と太田殿に手柄を譲って欲しい」

 

 龍兵衛は様々な感情が心の中で滝壺の水のようにかき乱れ、表情を無表情にするしか出来なかった。龍兵衛の内情など知る由も無い兼続は構わずに続ける。

 

「考えてみろ。此度のお前の調略、短期決戦を望んでいた者らにはどう映る?」

 

 龍兵衛は声を出すのを必死に堪えた。短期決戦を望んでいたかれらは戦を慎重に行うべきと言っていただけの龍兵衛を裏で手柄を横取りしようとしているのだと

 

「私のようなお前を良く知る者なら良い。しかし、越後の外の人間から見ればこの行いはかなり問題だぞ」

「……あぁ、分かっている」

 

 今、気付いた為、返答までに間が入ったが、龍兵衛は誤魔化すように大袈裟に頷いてみせる。幸い、兼続は龍兵衛の内心に気付いていないようで、安堵したように息を吐いている。

 

「では、良いな?」

「ああ。じゃ、この書状を書き写しておいてくれ」

 

 龍兵衛は懐から内通の書状を取り出すと兼続に投げ渡す。受け取った途端に兼続は眼を鋭くした。

 

「おい! 乱雑に扱うな!」

「構わん。見られようにもここには誰もいない」

「だがなぁ……はぁ……」

 

 兼続は何か言おうとが、諦めたように盛大な溜め息をつく。自分の空気を崩さないところが徐々に誰かに似てきているとでも思っているのだろう。

 

「最初に来た書状は万一のことを考えて燃やしたから」

「ああ。そのあたりは太田殿と話しておく」

「それにしても……いや、何でもない。じゃあ、頼む」

 

 兼続の返事も待たずに龍兵衛はさっさとその場を後にした。陣幕の外に出て、誰もいない所まで歩くと溜まっていた鬱憤を溜めた堰の水を一気に放水するように吐く。

 元々、そういう性格であることを自覚していた。故に、いじめを受けたのだということも分かっていた。友人が出来ない時もあったし、逆にその性格が受けた時もあった。

 

「(面と向かって性格のことを指摘されたのは初めてだな……)」

 

 兼続らしいと言えば兼続らしい。逆に兼続以外の者であれば、何か心にわかだまりが出来たかもしれない。今の龍兵衛の気持ちは逆に大草原で春の光を浴びているように清々しい気持ちになっている。

 

「兼続に言ったこと、嘘」

 

 龍兵衛の気持ちはすぐに曇天の中に落ちた。振り返ると景勝が物陰から出てきて、毅然とした面立ちで龍兵衛の前に立ってきた。

 

「景勝分かる。龍兵衛、何も考えてない。周りのこと、気付いてない」

 

 思い切り断じられて龍兵衛も焦る。当たっているのもあるが、景勝からはっきりと言われるのも久々で、全く予期していなかったのもある。何とか言い逃れようと言葉を探すが、景勝の強い睨みが龍兵衛の頭を困惑させる。だが、言葉はまるで見つからずに眉間の皺だけがますます深くなるばかり。

 

「龍兵衛、上杉いれなくなる。景勝、困る」

「上杉の為ですから、滅私奉公は当然でしょう?」

「誤魔化されない。龍兵衛、いなくなる。意味ない」

 

 段々と景勝の口調が強くなってくる。何か言い返したいが、龍兵衛は口が動かない。完全に言葉を失った。うなだれるように頭を下げると龍兵衛はそのまま景勝に背を向ける。珍しく景勝は追って来なかった。

 龍兵衛は何となく寂しくなった。寂しさを自覚すると肺から呼吸が出来ないように感じた。追って来る人がいないというのはこれほど辛いものなのかと実感する。

 龍兵衛はぐらっと倒れそうになったが、膝を付いて堪える。誰も手助けをしてくれない。景勝も謙信の下に向かったのだろう。はたまた、追ってくることを良しとしない龍兵衛の雰囲気を汲み取ったか。それで良い筈だ。しかし、帰るべき所に鳥は帰り、残された者はどうすれば良いのか。龍兵衛には分からなかった。

 

「悩んでいるご様子で」

 

 龍兵衛は顔を上げ、振り返る。そこには謙信直々に迎え入れられた山上宗二がいた。龍兵衛は何でもないと言って去ろうとしたが、宗二は素早く龍兵衛の前に移動してきた。

 

「商人の私ですが、武人の悩みを聞けるぐらいの頭はございます」

 

 宗二は頭の上に手を置いて、二度三度叩く。おどけているのか真剣なのか分からない。どちらにしても、龍兵衛は誰かに話すようなものではないと断りを入れる。

 

「景勝様に問い詰められていたご様子。何を話していたのかは存じませぬが、かなり苦しみを抱いていたようにお見受け致しました」

 

 玉を転がすような声で宗二は龍兵衛を精神的に容赦なく攻めて来る。龍兵衛は眉間に寄せていた皺を深くした。

 

「あまり、自分のことなので深く入り過ぎないようにして欲しいのですが」

「何か隠そうとしているのでしょう。それには私も特に咎めようなどと思っておりません。されど、気を張り詰め過ぎても良いとは限りませんよ」

 

 龍兵衛は出掛かっていた足を止めたが、すぐに歩みを再開する。宗二が「河田殿」と声をかけてきたが、無視して足を進める。

 

「茶でも如何でしょうか?」

「えっ?」

 

 唐突な誘いに思わず、龍兵衛は足を止めて振り返ってしまった。宗二は子供がお菓子を貰ったような表情で龍兵衛を陣内に作られた茶室に促した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百四十五話 不完全燃焼

 簡易的に作られているとはいえ、茶室の中は静寂によって支配され、外の戦支度の音も聞こえるか聞こえない程度になっている。

 

「壁を厚くし、音が入らないようにしております」

 

 外の様子を気にしていた龍兵衛を見て、宗二が種明かしをしてくれる。納得したように頷くと龍兵衛は茶室の中を観察する。三畳の茶室の中には一切の無駄がない。宗二の師匠である千宗易を踏襲しているのだろう。際立たせる為に外の雑音を消そうとしているのだろう。窓も少ない。

 

「一つお伺いしても?」

「どうぞ」

 

 宗二は茶釜の蓋を外しながら答える。富士形の茶釜ではなく、普通の真形窯だ。普段の穏やかな表情は消え、修験道を極めた僧のような険しい目だ。

 

「あの竹の花入れのひびをこちらに向けるのは何故でしょうか?」

 

 龍兵衛が横見ながら尋ねる。宗二はしばらく黙って湯加減を見ていたが、唐突に口を開いた。

 

「人間、誰もが不完全なのでございます」

 

 口調は変わらず穏やかで、龍兵衛は表情による威圧感を少しだけ解消出来た。

 

「誰であろうと心に決めたことを貫き通したいと思うのです。しかし、その途上で己が信念故の葛藤や苦しみが必ず人を襲います。それを乗り越えようとする者、諦めて別の道を歩む者。それぞれではございますが、私はどの選択肢を取っても間違いないではないと思いたいのです」

 

 宗二は茶碗に湯を注ぎ、茶筅を動かす。再び沈黙が訪れ、外の風が壁をもろともせずに聞こえてきた。宗二は茶碗を龍兵衛の前に出すと再び口を開いた。

 

「河田様はおそらく、何か疑問を抱いているのでしょう。このまま進むべきか。諦めるべきか」

 

 龍兵衛は茶を飲みながら少し冷や汗をかいた。まるで自分の内心を見透かしているようで、宗二に軽い恐怖感を覚えた。

 

「諦めの境地とありますが、人とは己が業や欲には抗えないのです。諦められるのは真の聖人のみ。ならば我々、人はどうなのでしょう? おそらく、抗えないのです。今の乱世が良き例でしょう」

「ならば、宗二殿はどうして北条に居続けたのです?」

 

 乱世を起こしたのは武人。それを拡大したのも武人。宗二は乱世に強い恨みを持っているような口調で答えた。宗二は武人が嫌いなのだろう。しかし、北条、上杉と関東、北陸を代表する大名によって宗二は世話になっている。

 

「最初は私も北条様の下に来る気など全く無かったのです」

 

 宗二は当時を恥じているのか頭をかいている。

 

「しかし、この地で真に数寄を望む方達と出会え、武人との真の数寄、一座建立はないと偏見に満ちていた己を恥じました。『どうして、私は早く気付かなかったのだろう』と」

 

 龍兵衛は茶を静かに飲み終えると器を膝の上に置いたまま宗二の言葉に耳を傾ける。

 

「様々な好みが人にはあります。それを私は排し続けた。しかし、何も生まれない。名物ばかりに頼り、己が好みを勝手に私は溝に捨てていたのです」

「それが、自分の悩みとどう関係あるのですか?」

 

 もはや、隠し立てしていても宗二は何かしらの言葉で自分を問い詰めるだろうと龍兵衛は諦めた。悩みがあると素直に認め、逆に問い掛ける。すると、宗二は茶室に入ってから初めて龍兵衛の方を向いた。

 

「それでございます」

 

 宗二は和やかな雰囲気にさせる笑みを浮かべる。龍兵衛は宗二を見て、寄っていた眉間の皺もとけた気がした。

 

「茶の湯では隠し立てをせずに素に帰ることが良いのです」

 

 龍兵衛は目を細めた。集中して宗二の言葉を聞こうとしている。

 

「悩みがあると尋ね、私ごときに意見を求めて下さいましたこと、感謝致します。されど、河田様の悩み、細かに申されることを河田様は嫌っているようです」

「宗二殿、茶を飲んだだけでそこまで分かるのですか?」

「いいえ。私は何度か細かなところを聞こうと罠のようなものを張っておりましたが、河田様が引っ掛からなかっただけです」

 

 ころころと笑っている宗二だが、龍兵衛は気が気でなかった。気付かれない内に人の心に入り込もうとする。

 

「失礼。たかが京を追い出された者の戯れ言です」

 

 そのようなことをしなければ京は生きていけないのであろうか。龍兵衛はますます京というものに恐怖を抱き始めた。はたして、中を見ることは出来るのだろうか。

 

「河田様。貴殿の悩みは強く、誰にも話したくもない厳しいもの。それは乗り越えるべきですが、高き富士の山を一人で何も持たずに進むもの。河田様、その苦しみは乗り越えなければならないのですか?」

 

 龍兵衛はすぐに答えることが出来なかった。妥協しても良いのだろうか。しかし、謙信からは強く言われ、景勝とは固く約束し、頑なに拒んできた。今更、何を妥協すれば良いのだろうか。考えると龍兵衛は自分の逃げ道など当に失っているのだと今更ながらに気付かされた。龍兵衛が静かに頷くと宗二は「そうですか……」と言って、身体の向きを茶釜の方に戻す。

 

「ならば、私からあえて細かなことを無理に聞きません。しかし、私も私自身で気付いたのです。一つだけ言っておきたいことがございます」

 

 宗二は相変わらず、茶釜の方に視線を向けている。だが、声は一言一言が強い。龍兵衛は姿勢を少し伸ばして真摯に聞く態勢を整える。

 

「言いにくいことですが、何かを捨てなければならないでしょう。それが私のように家族なのか。友なのかは不明ですが?」

「家族を失ったとは?」

 

 一瞬、失言だったかと龍兵衛は反省した。しかし、宗二はそれほど怒っていないようだ。

 

「厳密に言えば、私から捨てたと言った方が正しいですね」

「と、いうと?」

「親の代で私の家が営んでいた薩摩屋は没落し、茶の湯によって脈絡を保てておりました。しかし、その頃の私は武人を嫌い、松永様の平蜘蛛を酷評してからどうも居辛くなりまして……」

 

 龍兵衛は颯馬から聞いた松永久秀の評判を思い出す。もしかしたらという思いがよぎったが、そこまで松永も大人気ないことをしないだろう。

 

「遂には武人に寄り従う宗匠にも付いて行けなくなったのです」

「なるほど、ご家族はそのままと」

「左様。幸い、宗匠が面倒を見てくれたようなので……夫や子供には迷惑をかけております」

「夫と、子供……」

「どうかなさいました?」

 

 まさか、婚姻はともかくとも子を成すような身体付きでは無いのでとは口が裂けても言えない。何でもないと首を横に振ると話を続けるように促す。

 

「ともかく、一人で進むのであれば、覚悟しなければなりません。結果が如何に残酷であろうとも、捨ててしまったものが戻ることはありません」

「えっ、まさか……?」

「夫は独断で離縁を決め、子供と共に九州の大きな店に婿養子として……」

 

 宗二は悲しそうにしているが、表情の笑みは崩さない。無理やり作っているのは分かっているが、龍兵衛は何も言わない。慶次と宗二の下を訪れた際、主は客をもてなすことこそ大事にしなければならないと宗二が言っていた。

 

「私が不完全な存在であったが為、招いた結果です。悲しいとは思いますが、恨みなどありません」

「それで、あの竹の花入れですか……」

 

 茶の湯に疎い龍兵衛もようやく合点がいった。

 

「とにかく、今はお進みなさるのです。いずれ、見えてくる筈です。そして、一人で進む先に私のような不幸が無いことを祈ります」

 

 一人で進むことなど今までと変わらない。絶望や怒りなどもはや湧いて来なかった。不完全な存在ということを受け入れられればそれでも良い。後は時間と共に見つければ良いのだ。たとえ、選択を間違えてしまっても、宗二のようなひょんなことから分かることもあるだろう。

 

「結構なお点前でした……また、ご助言。感謝致します」

 

 龍兵衛は心を込めてそう言うと頭をぶつけないように茶室から出ようとする。しかし、思いっ切り後頭部をぶつけた。

 

「大丈夫、ですか……」

「……笑いたければどうぞ」

 

 震えている宗二から湿布を受け取ると龍兵衛はかみ殺している笑いが大きくなる前に去ろうと外していた刀を手に取る。

 

「あ、河田様」

 

 帯刀した龍兵衛を宗二は中から顔を出して呼び止める。

 

「まだまだ、至らない箇所があるとお見受け致しました。また、日を改めて指南させて頂きます」

 

 龍兵衛は乾いた笑みをして、逃げるように宗二から離れた。気持ちは幾分か晴れたが、新たな雲が心を覆ってきた。宗二の指南を一対一で受けるとなるとかなりの時間と体力がいる。

 

「まぁ……時間が空いていたら……だな」

 

 一人ごちると早足で雪の降る中を歩く。積もりだした雪は足跡をしっかりと刻んでいる。その上から降ってきた雪は足跡を埋めようと再びそこに積もっていく。

 

 

 

「さすが直江様よ」

 

 翌日、龍兵衛が陣中を歩いていると声が聞こえてきた。物陰から声の主を見ると軍議に参加出来る末端の将二人がいた。

 

「忍城の者から将の内応を約束させるとはな。やはり、結束力のある北条の者でも所詮、上杉の強大な力の前には屈するしか無いのだな」

 

 どうやら、一人の将がべらべらと喋っていて、もう一人は黙って聞いているらしい。しかし、聞いている方の者も面倒だとは思っていないようだ。時折、相槌を打っている。

 龍兵衛は特に嫉妬心が芽生えなかった。元々、了承してのことであった。また、先程まで行われていた軍議の前でも兼続がしつこいぐらいに念を押してきた。

 

「それにしても、河田様は何をしておられるのか……」

 

 話を続けていた将が話題を変えた。龍兵衛は何かしたかと思い返したが、心当たりがない。

 

「直江様は立て続けに功を立てているというのに、河田様のしたことは何だ? 戦略を立てて、それ以上のことは何もせずに戦を眺めるばかり。此度の内応も、本来は河田様も行うべきことであろう。水攻めの準備もせずに……」

 

 口が達者な奴だと龍兵衛は内心で舌打ちをする。驍説なのは結構だが、お喋りは過ぎると自らを侵す毒となる。どこに間者が紛れているのか分からない中で軍の情報を喋るのは阿呆だ。

 龍兵衛は注意しようとしたが、突然、背後から肩を掴まれ、物陰の奥に押し込まれる。顔を上げると龍兵衛は目を丸くした。

 

「謙信様?」

「静かに」

 

 謙信の鋭い警告に龍兵衛は口を紡ぐ。先程の者達は謙信と龍兵衛に気付かずに話を続けている。

 

「そもそも、河田様は越後では民の生活ばかりに目を向けている。確かに民は慈しむべきだが、あそこまで肩入れする理由が分からん」

 

 お喋りな将は鼻息を荒くしながら言葉を続けようとする。しかし、そこで初めて黙っていた将が口を開いた。

 

「倉廩実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る。謙信様は河田様を信頼されている。答えよう民と共に汗を流している。それに、謙信様が戦に連れて行かれるのは理由がある筈」

「分からん。俺が言えた立場ではないが、どうしてそこまでやるのか」

「お前、喋りすぎだ。そろそろ間者のことも考えろ」

「大丈夫だ。関係ない」

「(阿呆だ……)」

 

 龍兵衛は頭を抱えてしまいたくなった。全く自覚がない。よくあれで末端と言えども武将になれたものだと逆に感心してしまう。

 

「言っておこうか?」

 

 謙信が怒りをかみ殺した表情で龍兵衛を見てくる。分かってない連中が許せないのだろう。

 

「いえ、結構です。自分の仕事は言ったところで誰からも賞賛されません」

 

 内応のことはともかく、暗殺の実行や不正情報の整理など誉められない陰惨なものも多く含まれている。説明したところでむしろ反感を買うかもしれない。

 

「それよりも謙信様。忍城の内応についてですが、すぐにでも水攻めのことを伝えては如何でしょう?」

「虚偽の場合を考えるとなるべく伝えない方が良いと思うが」

 

 謙信は訝しげに龍兵衛を見る。しかし、龍兵衛ははっきりとそれは違うと否定する。

 

「水攻めを行うと聞けば忍城の者は必ず出てきます。そして、内応が真ならば我々の攻めをそのまま黙認するでしょう」

「……なるほど。試すのか」

「どちらにしても我らに損はありませぬ」

「もし、攻めて来ずに本丸に退避されれば?」

「筏を作り、奇襲を仕掛けるのです」

 

 謙信は納得したように頷くと龍兵衛にすぐに支度を進めるようにと命じてきた。

 

「水攻めの方は?」

「兼続がやってくれている。あの様子だとすぐに忍城も湖に浮かぶ小島のようになるだろう」

 

 どうやら、兼続はここで功を立てようと意気込んでいるらしい。思い返してみると関東遠征で兼続は目立った功を立てていない。それは龍兵衛にも言えることだが、当分、その考えは捨てる。

 

「あの、謙信様」

「何だ?」

「自分は軍事よりも政の方が得手と士官時に申したと記憶しております」

「うむ。忘れてはいない」

「では、自分は何故……戦ばかりに担ぎ出されるのでしょうか?」

 

 代わりと龍兵衛は前々から気になっていた疑問をぶつけてみる。しかし、謙信は困ったような表情を浮かべ、答えられないと言ってきた。

 

「何故ですか?」

 

 龍兵衛は驚いて反射的に強い口調で問い詰める。謙信は落ち着くように龍兵衛を促すと周りを見回す。

 

「実及の意見だ」

「本庄様の?」

 

 謙信が静かな声で言った為、龍兵衛も自ずと声を潜める。龍兵衛は考えてみたが、合点がいかなかった。本庄実及は上杉の政の権化とも言える存在。龍兵衛のような政務に長けた者を側に留守居の際は置いておきたい筈だ。

 

「何でも、龍兵衛を育てるべきだと言っていたな……ま、そのあたりは本人に聞いてくれ」

 

 実及はそこまで冒険するような人ではない。龍兵衛は知っている。謙信も知らない筈がない。しかし、本当に謙信は分からないようだ。適材適所を好む実及が何を考えているのか。

 

「それよりも今だ。堰と堤の準備は滞りないそうだ。数日もすれば、忍城も寒さに堪えきれなくなる」

 

 思考を強引に現実へ戻された龍兵衛は謙信に釣られて忍城を見やる。今は島と島が繋がっているような忍城も冷たい水に支配されるのだ。

 

「このあたりの住民には迷惑でしょうね……」

「そうだな。しかし、ここまで来た以上、やむを得ない」

「必要悪、か……」

 

 龍兵衛が呟く。謙信は龍兵衛の方を向き「必要悪……」と龍兵衛にも聞こえない程、小さな声で呟く。

 

「なるほど。言い得ている」

 

 謙信は顔を上げると忍城と作られている堤防を見比べ、龍兵衛に視線を移す。

 

「もしかすると、間者がいるやもしれん。頼めるか?」

「疑わしき者を罰せと……分かりました。すぐに調べます」

 

 やることは変わらない。しかし、行い続けることで何か見えてくる筈だ。自分が何なのか。生きる意味があるのか。見えてきた時、払うべき犠牲は怖いが、知りたいという好奇心もある。宗二のような末路が待っていても相手を恨まない。悪いのは自分なのだから。

 龍兵衛はそう割り切れるのか不安だった。宗二のような逞しさを持っていない。怖い。しかし、龍兵衛は決めた以上、進まなければならない。不完全な者として足掻いてみせる。

 

「ところで、謙信様」

「何だ?」

「先程の二人組、あまり喋っていなかった方の者の名はお分かりでしょうか?」

「あぁ、確か……藤田……藤田弥六郎だ。それがどうかしたのか?」

 

 何でもないと龍兵衛は首を横に振る。しかし、その視線は先程、去って行った方向をはっきりと向いていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百四十六話 水と雪の宴

 忍城では城主の成田氏長が頭を抱えていた。上杉軍を足止めせんと気張っていたのは良い。氏長は上杉の正義というのに不可能なものにすがる愚か者と見下していたからだ。

 だが、間者からの連絡が取れなくなり、情報も曖昧となった。更に、行田口を守っていた部隊が勝手に本丸に兵を退き、叱責しようと夜に呼び出そうとした。すると、その前に忍城付近の川が一気に増水し、忍城自体が浮島のようになってしまった。

 氏長も北条では名のある将。すぐに退却した成田近江守と市田太郎を呼び出し、内通しているのではと問い詰めた。しかし、二人はあらかじめ、上杉からの連絡役、河田長親からの書状を行田口で燃やし捨てていた為、身の潔白を主張した。氏長はそれでも疑ったが、成田一族である近江守が大声で言った。

 

「どうして成田一族の某やその配下である市田が裏切るのであろうか。もし、裏切るのであれば既に水攻めの被害に合わないように外に出るのが道理であろう」

 

 そう言われてしまえば、氏長も納得せざるを得ない。許す代わりに監視を付けて二人を解放した。戦況を見ると忍城は圧倒的不利である。僅か数日間で突貫工事とはいえ、堤防を築かれ、逃げ道も無くなった。また、行田口以外の守備兵の中には溺死したり、寒さで凍死した者もいる。また、ここにきて雪も降ってきた。冷たさと寒さで兵の士気は下がる一方、食糧も確実に無くなっていく。

 

「くっそ。何が正義だ、長尾め。そのこじつけのおかげでどれくらいの人がお前に怨念を抱いていると思っている」

 

 氏長は貧乏揺すりをし続けている。打つ手は無い。謙信のことだ。おそらく、堤防を壊そうとしても伏兵で対処して来るだろう。攻めることは不可能だ。泳いで移動しても敵陣に辿り着く前に凍死するのが目に見えている。筏を作ろうにもこちらに備えてあったものはほとんど水でやられ、本丸に残っているものではたかが知れている。

 

「父上、失礼致します」

 

 思案中の氏長の下に来たのは息子の長親と娘の甲斐だった。氏長は保守の人である。甲斐には女として生きてもらいたかったのだが、武人の血を濃く受け継いでしまったらしく、武芸においては長親よりも強くなってしまった。

 

「城内の者の様子は?」

「皆、寒さに震え、中には瀕死の状態になっている者も」

 

 氏長の奥歯が鳴った。城内には兵だけでもなく、民もいる。かれらにも食べさせなければならない飯の量も考えるといつまでも籠城を続ける訳にはいかない。では、開城するかと言われれば、氏長は絶対に嫌である。

 

「父上。父上が降らぬと仰られるのならば私達はそれに従いまする。されど、今の状況を如何に打開致しましょう? 内通者がいるという噂もあり、かなり浮き足立っております」

 

 甲斐の言葉に氏長は顔をしかめる。内通者においては箝口令を敷いていた筈。誰が話したのか尋ねるが、甲斐は首を横に振った。

 

「分かりませぬ。監視している者からも、近江守達の口からではないと」

「そうか……」

 

 氏長は少し残念そうに表情を暗くする。かれらの仕業なら即刻首をはねて士気を盛り上げることも出来ただろう。しかし、この城の状況では効果も薄いかもしれない。

 

「かくなる上は犠牲覚悟でこちらから動くか……」

「父上! それでは敵の思う壺。ましてや、信用ならぬ者もいるというのに」

「落ち着け甲斐。最後まで父上の話を聞け」

 

 長親のおかげで甲斐が渋々大人しくなったのを見ると氏長は一泊置いて話を進める。

 

「とにかく、動かねば、我らは飢え死するだけ。ならば、武人らしく戦場で死ぬべきだ。私は長尾ごときに降るつもりは一切無い」

 

 長親と甲斐も揃って頷く。二人共、上杉に対して徹底的抗戦のつもりでこの場を迎えていた。

 

「そこでだ。二人には大役をはたしてもらう。忍城の命運、二人の肩にかかっていると言っても過言ではない」

 

 長親と甲斐は神妙な顔付きになった。氏長の表情からは決死の覚悟とこの戦に賭ける思いがひしひしと伝わってくる。上杉を追い払う為、動くことは不可欠。状況を打開するには上杉の裏をかくこと。三人は近付いて夜遅くまで戦略を練り続けた。

 

 

 

 翌日の夜に忍城は動いた。氏長は内通者に睨みを利かせる為、城に止まった。代わりに長親と甲斐が筏で兵を城外に導き、二手に別れた。まず、甲斐が兵五百を率いて和田方面から白川戸に陣を張っていた最上軍に仕掛けた。忍城側から攻めてくると考えていなかったのだろう。最上軍はすぐに混乱状態になった。

 甲斐はすぐに撤退せず、しばらく暴れ回った。すると、最上から法螺貝が鳴らされ、遠くから返答のように法螺貝が返ってきた。 

 上杉への援軍要請だろう。甲斐は直感的にそう思った。

 策の肝は郭外の堤を断ち切ることだ。それだけで流れが一気に変わる。上杉軍は想定外の奇襲に驚き、堤防の警戒が手薄になっているだろう。最上の陣まで上杉軍をおびき寄せれば甲斐の役目は終わりだ。

 

「姫様、上杉軍動きました!」

「よし。徐々に退くぞ! 川沿いを通り、敵を更に引き付ける!」

 

 確かな手応えがある。上杉軍に勝てる。北条軍に今まで辛酸をなめさせてきた上杉軍に今度は北条軍が辛酸をなめさせる側となる。氏康や幻庵は策に警戒すべきと警鐘を鳴らしていたが、水攻めからすぐに動かなかったのが間違いだ。勢いが重要な戦において敵の士気が低くなった時に攻めるのは必定である。

 甲斐は追撃してくる最上軍に尻尾を掴めそうで掴めないように速さを調節しながら撤退する。このあたりは成田の戦好きお転婆娘と影で言われているだけある。

 追い付いてきた最上軍の兵も簡単に打ち倒すと徐々に速度を速め、筏を置いてある所に急ぐ。不意に遠くから悲鳴に似た声が聞こえてきた。甲斐はほくそ笑んだ。上杉軍恐れるに足らずと叫びたくなった。

 

「む?」

 

 川沿いに進んでいた甲斐は異変に気付いた。夜が深いとはいえ、目も慣れてきて、遠くが見えるようになった。

 

「おい。あそこに筏を繋いでいた筈だよな?」

 

 甲斐は隣にいた騎馬武者に尋ねる。間違いないと騎馬武者も答える。筏は十ぐらい用意して数往復してきた。しかし、一つも無いとは考えられない。

 

「きちんと停めてあった筈なのに何故だ!?」

 

 とばっちりを受けた騎馬武者は首を傾げる。しかし、分からないのは誰でも同じだ。そして、甲斐は一つ失念していた。

 

「姫様、最上軍がこちらに接近しております!」

「ちっ、迎撃だ。態勢を整えろ!」

「無理です。数が違いすぎます!」

「うるさい! 逃げるたってどこに逃げる!?」

 

 ここから近いのは鉢形城だが、甲斐は城内の父や堤防を決壊させ、城外で頑張っている長親を見捨てることなど出来ない。

 

「来い! 長尾の犬共、私が全て追っ払ってくれよう!」

 

 甲斐は刀を抜くと近付いて来る蹄の音に向かって高らかに叫ぶ。蹄だけでなく、敵の姿が見えてきた。先頭にいる騎馬武者に甲斐は狙いを定めると馬を蹴り、一気に前へと出た。

 

 

 

 こうも上手くいくとは成田長親は思わなかった。上杉軍は白川戸の最上軍に夜襲が起きたと知るとすぐに救援部隊を派遣し、堤防の警戒を弱めた。長親は上杉軍に気付かれないよう堤防の上に上陸した。

 武蔵は鉄の産地で有名だが、土は質が柔らかく、なかなか堤防を築きにくい。しかし、それをあっという間に行ったのはさすがに上杉軍というところか。長親は一人、感心していた。氏長のように上杉は憎いが、長親は甲斐程強い影響を受けていない。かなりの労力を使っただろうが、それだけ忍城を落としたいという気持ちの表れだろう。

 

「だが、やらないと……」

 

 上杉を倒さなければ北条は滅びる。武蔵まで攻め込まれている現状はここで打開しなければ成田にも明日はない。息を一つ吐くと配下の脇本利助、坂本兵衛らに堤防破壊を始めるように命じ、長親は上杉軍の動きを観察する。

 鋤を持った兵が堤防を壊そうとそれぞれ腕を上げる。

 

「ぐあ!?」

「なっ……」

 

 長親の顔をかすめた矢が後ろにいた兵に当たった。それを合図に次々と矢が降り注ぐ。そして、次に銃声が響き渡り、北条軍の兵は動揺し始める。

 

「狼狽えるな! 早よう、堤防を決壊しろ!」

 

 思わず、長親は叫んでしまった。同時に長親の方に矢が集中的に降ってくる。

 

「不覚……」

 

 長親は十数本の矢を身体に受けてあっさりと虫の息になった。

 

「わ、若様がやられたぞー!」

「い、如何する?」

「ええい! 狼狽え……がはっ!?」

 

 何とか鼓舞しようとした兵も次々と討たれ、北条軍は背中に寒い水が待っている以上、適当にどこかへ逃げるしかない。しかし、追い討ちをかけるように北条軍に悪夢が襲い掛かる。

 

「小島弥太郎これにあり! 北条の武者共、死にたくないならさっさと降伏しろ!」

 

 その声に大将を失った北条軍は完全に静かになった。

 

 

 

 

 

「申し上げます。姫様、大蔵大輔様、討ち死」

 

 翌朝、氏長は目を見開くとがくりとうなだれた。奇妙な呻き声を上げると拳を床に三度叩き付けた。それでも落ち着かない氏長は叩き付け、傷付いた拳を口の中に入れ、拳を強く噛んだ。

 控えていた将が何とかして止めようと声をかけようと試みるが、氏長の異様な雰囲気によって誰一人近付こうとしない。

 

「殿、一大事でございます!」

「うるさい! 分かっておるわ!」

 

 氏長は入ってきた兵を睨み付け、刀を抜く。慌てて将達が押さえた為、大事には致らなかった。どうにかして氏長を座らせると将の一人が代わりにどうしたのか尋ねる。

 

「それが、鉢形城が陥落した模様」

「なっ……」

 

 氏長は顔を上げ、兵に近付く。そして、両肩に手を置くと本当なのかと確かめるように尋ねる。兵も悔しげな表情で頷いた。

 

「氏邦様は?」

「行方も知れませぬ」

 

 氏長はがっくりと腰を落とすと憎しみと怒りを合わせた表情で将達を見る。

 

「忌々しい長尾め……この恨み、晴らさずにはおけぬ」

「殿、まさか出陣なさる気か!?」

「なにが悪い!? 貴様に私の気持ちが分かるのか!?」

「若様や姫様を失おうたご心中はお察し致します。されど、数に劣る我々は如何に戦うのでございますか?」

「黙れ! 大将さえ討てば良い!」

 

 氏長を慰めようと将が立ち上がろうとしたが、氏長は暴れてなかなか止まろうとしない。そこに再び報告の兵が入ってきた。

 

「申し上げます! 敵がこちらに攻め寄せております! また、成田近江守様、市田様、敵方に寝返り!」

 

 氏長の血管が大きな音を立てて数本切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さすが、段蔵だな……」

 

 龍兵衛は忍城の西、鉢形城と忍城を結ぶ道の脇に控えていた。向いているのは鉢形城の方面。忍城は今日中に落ちると確信していた。おそらく、外の情報が不明である為、忍城城内ではあることないことが言われ、誰が間者なのかも分からない状況になっている筈だ。

 内応も本当なのだと分かり、忍城が水に囲まれた時点で堤防の決壊に動くのは分かっていた。どのように動くのか、着陣して間もない最上軍に何かしてくるのはすぐに悟った。少数と見せて夜襲部隊に目を向かせることも。

 

「(報告通りなら、成田も大したことなかったことになるな……)」

 

 やはり、戦は経験が物を言うのだと龍兵衛は改めて感じた。そして、そこで成長するかしないかの差だ。

 

「……」

「分かってますよ」

 

 隣にいた景勝が袖をくいくいと引っ張って鉢形城の方を指差す。北条軍が近いのに少しぼんやりしていた龍兵衛にちゃんと集中しろと言いたいのだろう。

 水攻め以降、兼続と警戒していたのは鉢形城の出方だ。鉢形城を守る北条氏邦は動かない姿勢を見せていた。しかし、段蔵に北条の兵に紛れさせ、本当のことを伝えさせると救援に動くことにしたらしい。

 見殺しにしたとなれば北条の面子に関わるからだろう。はたまた、本当に助けられると思っているのかもしれない。論理的に見ると忍城城内の士気は水攻め以降、低くなり、元々籠もっていた兵も少ない。

 頼みの堤防破壊も不可能になった今、成田に生きる道は降伏しかない。しかし、それも無い。成田の上杉嫌いは上杉の中でも有名である。

 

「……」

「はいはい……見てます」

 

 景勝が再び袖を引っ張ってきた。宗二との茶会以来、龍兵衛はほぐれた。元々、周りには気付かれていなかったが、対応する時の気持ちが楽になった。特にぎくしゃくしていた景勝ともそれなりに話すことに抵抗はなくなり、兼続達程ではないが、多く話せるようになった。一方、景勝はまだ不満げだが、その点は龍兵衛も申し訳ないと思いつつも割り切ることにした。

 

「来た……」

 

 景勝の視線の先から蹄の音が聞こえてきた。龍兵衛は合図を送って他の場所に伏せている吉江達に準備をするように促す。

 鉄砲の火薬の匂いが敵に悟られないように筒を下に向け、もっと低く構えるように兵達に手で合図を送る。

 段々と音が近付き、地が揺れてきた。雪でどれほどの音がするのか不安だったが、杞憂に終わったようだ。きちんと聞こえてくる。

 

「戻ったよ」

 

 段蔵が龍兵衛の後ろに降りてきた。

 

「数は?」

「三千から四千」

「忍城がまだ落ちていないと踏んだか……段蔵、忍城に戻っていいぞ」

 

 段蔵が去って行ったのを見届けると龍兵衛は北条軍の動きに注視する。こちらに気付いている様子はない。あわよくば北条氏邦が出て来て欲しいが、それは高望みが過ぎると龍兵衛は自分を戒める。そもそも、氏邦がどのような格好をしているのか、容姿はどのようなものか。龍兵衛は知らない。

 

「あっ……!」

「きっ!」

「すみません……」

 

 思わず声を出した龍兵衛は景勝に思い切り睨まれた。咳払いをして誤魔化すが、段蔵に聞いておくのを忘れたのを後悔し、額に手を置く。

 

「(仕方ない。首実検まで待とう)」

 

 切り替えて龍兵衛は北条軍の様子を見る。先頭の騎馬隊が龍兵衛の目に入ってきた。目を凝らすと先頭で兵を急がせているのはかなり小柄な人物。背丈はおそらく景勝ぐらい。かなりの重装備で鉄砲も矢も通さないかもしれない。逆に言えば、それだけの将だということだ。

 

「来た」

「もう討つ?」

「いえ。少し通させてからです」

 

 龍兵衛は目を皿にして集中力を北条軍の動きに定める。徐々に先頭が近付いてきた。そして、龍兵衛達の前を通り過ぎた。

 

「氏邦様! …………」

 

 龍兵衛の耳に微かに入ってきた言葉。間違いなく言っていた筈だ。

 

「景勝様、聞きましたか?」

「(こくこくこく)」

 

 景勝の耳にも入っていたようだ。確信を得ればそれで十分だった。龍兵衛は口元をつり上げると腕を上げ、振り下ろした。

 

「みーつけた」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百四十七話 雪も足跡も消えてしまえ

「申し上げます。忍城、鉢形城、陥落した由。北条氏邦様、成田氏長様共々、討ち死」

「そうですか……分かりました」

 

 小田原城城内の奥。当主の間で早雲は報告を聞き終え、報告してきた者が去って行った途端、奥歯を強く噛んだ。武蔵の主要な城二つが陥落したこと、愛娘の一人である氏邦が討たれたことも憎々しい。

 

「聞いていましたか?」

「はっ」

 

 声と共に風魔小太郎が部屋の隅から姿から現した。

 

「忍城はともかく、鉢形城の落城は明らかに不自然。上杉の間者が動いていたのは必至」

「申し訳ありませぬ」

 

 静かな声の裏にある早雲の烈火のような激しい怒りを感じた小太郎はすぐに謝罪の言葉を口にする。しかし、早雲の怒りがこれで収まる筈もない。

 

「言葉でならばどうとでも言えます。いざとなれば、こちらも強引な手段を使ってでも上杉の勢いを止めなければ」

「はっ……」

 

 小太郎は早雲の言葉の意味を悟ったのか静かに返答すると音もなくどこかへと向かった。残された早雲は一つ息を吐くと感情を落ち着かせる為、目を閉じる。

 忍城と鉢形城が落ちたとなれば武蔵の守りはほぼ瓦解したと言って良い。同時に里見の海賊衆も動きを活発化させている。そして、里見も動こうとしている。東側から攻める上杉軍も謙信率いる軍勢より行軍が遅いとはいえじりじりと北条を追い詰めている。また、結城、小田、宇都宮も上杉になびいた。那須も滅ぼされては頼るところが無い。

 

「いえ、そのようなことはありませんね……もちろん、上杉も可能性の一つとして見ているでしょうけど」

 

 だからこそ風魔を動かせる。上杉の行ったことは当然の範囲。一方、北条が行うことは身内からも批判が出るであろう行い。しかし、やらなければ北条は本当に存亡の危機に晒される。たとえ批判を受けてもそれは一時のこと。上杉には一生のことかもしれないが、氏邦を殺された報いは受けてもらう。

 早雲は手を叩き、人を呼んだ。

 

「幻庵を小田原城に呼びなさい。それから、綱成を玉縄城へ。決して、無理はさせないよう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 謙信率いる上杉軍は忍城にて成田氏長を討ち取ると水を引いて入城した。それから、周りの集落に謝罪の印として多少の金銭と服などを支給した。

 

「(また馬鹿にならない出費が……)」

 

 龍兵衛は良いことをしていると思う反面、胃が痛くなるのを必死に堪えた。今回の戦の出費だけでも多くの鉱山で当たりがなければ赤字になっていたかもしれない。しかし、本当に赤字になってもおかしくない。

 

「(帰ったら本庄様と金銭のやりくりしないと……さすがに鉱山事業に頼ってばかりじゃいられないし……)」

 

 龍兵衛が考えているのは農業の本格的な展開だ。上杉が支配している領地内に農業技術を広め、多くの農村で品質の良い作物を作らせる。当然、税で半分ぐらいが飛ぶのだが、そこはいずれ四公に抑えるようにしたい。

 

「(だけど、めちゃくちゃ時間かかるんだよな。あれ……)」

 

 歴史以外の知識は高校生並みの龍兵衛だが、それなりに知っていることもある。歳入が減れば、上に立つ武人は不満を持つ。上杉の者ならまだしも、他の大名家の中には阿呆な考えを持っている者がいるかもしれない。

 更に、歳入の現象によって行いたい政策などに限りが出てくる。その中には堤を作ったり、仕事環境の改善を行うなどの民に還元するものもある。税が減っても環境が悪くなればそこから不満を抱く民も現れるだろう。その為の微調整だが、これがまた龍兵衛に面倒事となってくる。

 上杉の経済の一翼を担っている龍兵衛にとって決断が迫られるところだ。本来なら戦に次ぐ戦で連戦続きの中、あまり経済的に面から見ると良い状況とはいえない。

 

「(どっちにしろ早く戦終わらせんと……)」

 

 龍兵衛の思いとは裏腹にこれから対北条は正念場を迎える。相模の国に入りそうになれば北条も必死に抵抗してくるだろう。それに氏邦という北条一族が殺された怒りは相当な筈だ。

 配給を終えると龍兵衛は共に来ていた景勝と兼続と共に片付けを始める。龍兵衛の方は兼続の説教というおまけ付きで。

 

「龍兵衛、少しは笑って民に当たれ。怖い印象を持たれては後々面倒だぞ」

「分かってるけどさ……笑っているつもりなんだけど……」

「つもりでは意味がない。きちんと実行してこそ意味があるのだ」

「じゃあ、景勝様がずっとお前や俺の後ろや隣で俺達でなきゃ聞き取れない声で顔赤くしてたのは良いのか?」

 

 景勝は急に話題を自分に向けられて目を丸くして龍兵衛と兼続を見比べている。

 

「それはそれだ。しかし、景勝様を衆目の前で説教しては威厳に関わるだろう」

 

 兼続の言う通り周りには同行した兵が行ったり来たりしている。しかし、龍兵衛は納得がいかないと兼続を睨む。

 

「弥太郎殿のような先達を衆目で説教するのは良いのか?」

「主家と配下の差だ。問題ない。とにかく、景勝様は後回しだ」

「……だ、そうです。景勝様、逃げると更に時間が長引きますよ」

 

 説教されることを悟った景勝がこそこそと遠くに行こうとしたのを龍兵衛は見逃さない。景勝は身体を震わせて素早く元いた場所に戻って作業を続ける。

 

「それにしても、景勝様は働かなくてもよろしいのに……」

 

 景勝は兼続に向かって首を横に振る。そして、皆が働くのを見物しているのは嫌だと主張してきた。兼続は最後まで反対したが、龍兵衛が景勝の味方に付いて今のように景勝も作業をする状態になっている。

 

「しかし、万一に備えて誰かが指揮を執れるようにしておくべきではないか?」

「その為の謙信様だろうに」

 

 指摘を受けて兼続は溜め息を吐くと景勝に聞こえないように龍兵衛に近付く。

 

「先程、兵と笑いながら喋っている謙信様を見たのだが……」

「……もう駄目だ」

 

 投げやり気味に龍兵衛も兼続同様、呆れたと溜め息を吐く。そして、景勝の方を見ると気付かれないよう二人一緒に小さく溜め息を吐く。

 

「仕方ない。私は吉江殿を探して、代わりを頼んでくる」

「ああ。よろしく」

 

 兼続が去って行くのを見届けると龍兵衛は再び作業に没頭し始める。水攻めは現代でいう浸水とほぼ同じだ。城の壁は下手をすれば腐って使い物にならなくなり、城内の部屋など到底、人が住めるような環境ではない。先程まで考えていた民への支給も考えると龍兵衛は胃だけではなく、頭痛もしてきた。

 とにかく金が足りなくなってきた。織田が勢力を伸ばしている中、それに対抗する為に戦を断続的に続けるのはやむを得ないと割り切っている。しかし、資金が追い付かなくなってくると話は別だ。更に言えば、龍兵衛自身の配下の兵を養う金も危うくなってきている。

 

「(その為に、早く関東に眠っている可能性を引き出さないとな……)」

 

 意思と共に流木を担ぎ上げると龍兵衛は隣で難儀している景勝を見る。

 

「(頑張れ、景勝様!)」

 

 心で応援しながら龍兵衛はすたこらと先に進む。しばらくすると景勝が流木の塊を引きずりながら龍兵衛の隣にやってきた。頬が餅になっている。周りを憚っているのか、小さめだが、怒っていることに変わりはない。

 

「むぅ~……」

「何でしょうか?」

「……ぷいっ」

 

 龍兵衛が少し声を震わせているのに気付いた景勝は本当に怒ってしまったようで、そっぽを向いてしまった。

 

「どうもすみませんでした」

 

 さすがにやり過ぎたと感じた龍兵衛は景勝が持っていた流木の一部を取り上げて歩調を合わせる。本当なら放っておいても良いのだが、さすがに人前で目立つようなことはしたくない。あの祭りでの黒歴史を除いて。

 景勝は難儀していた流木を簡単に龍兵衛が持ち上げてしまった為、目を丸くした。それからすぐに状況を悟り、声を小さくしてありがとうと言った。俯いた表情の中で顔を赤く染めているのを龍兵衛はあえて無視した。

 その後も城内の整理を続けていると龍兵衛と景勝は謙信を見つけた。予め持っていたのか動きやすい、作業をする宿の女将のような格好をして指示を出したり、あちらこちらを動き回っている。あれが本当に上杉の総大将だと他人に教えても相手は怒って嘘を付くなと怒鳴るだろう。

 龍兵衛と景勝は揃って溜め息を吐くと謙信に近付く。

 

「護衛も無しではさすがに不用心ではありませんか?」

 

 謙信は顔を上げ、龍兵衛と景勝を見ると笑みを浮かべた。

 

「案ずるな……ほら……」

 

 謙信が後ろを振り向くのにつられて二人も視線の先を眺める。業正が人知れずに静かに掃除をしていた。気配をほぼ完全に殺し、なまじの人では気付かないだろう。

 

「景勝様に護衛は無しですか?」

「お前と兼続がいるだろうに」

「兼続は景資殿を探して今は自分一人です。いざという時、自分だけでは不安があります」

「とはいえ、他の者はほとんど鉢形城にいるからな。済まないが、もうしばらく頼む」

 

 龍兵衛は謙信の前にもかかわらず、溜め息がこぼれた。謙信は何も咎めず、龍兵衛に代案を持ちかけてきた。景勝を一人にするのはさすがに出来ない。龍兵衛の護衛では心許ないのも分かっている。そこでさほど人手の必要ない所で作業をしてくれと。

 

「確かに、多くの兵に目を光らせる必要もありませんね……分かりました。時間が空き次第、どなたか連れて来て頂きます」

「分かっている。しつこいな、お前」

「景勝様をお守りする為です。自分一人ではとても……」

 

 景勝は思わず龍兵衛に視線を向けた。嬉しかった。いつも景勝に厳しいことを言ったり、話しかけてくれなかった。

 

「とても……景勝に振り回されて適いませんから」

 

 景勝は一瞬でもときめいた感情を返して欲しくなった。言った龍兵衛だけでなく、謙信まで笑っている。

 

「む~……」

「あぁ、怒らせてしまったようだな」

「頬が焼いた餅のようですね」

「……ぷいっ」

 

 謝らない龍兵衛に景勝は完全に拗ねてしまった。龍兵衛と謙信は目配せすると同時に謝罪してきた。景勝は二人を見る。何とか宥めようとしているようだ。

 

「謙信様、龍兵衛、からかう駄目」

「分かった。もう機嫌を直せ」

 

 謙信が景勝の頭を撫でる。すると、徐々に景勝の表情が緩んできた。内心ちょろいと龍兵衛は思いながらも謙信に感謝しきりだ。

 

「さ、もう行け」

「はっ……ありがとうございます」

 

 龍兵衛は近付いて謙信に小声で感謝の弁を述べる。

 

「良い。最近機嫌が悪い時が多いのだ。少し見ていてくれないか?」

 

 龍兵衛は頷くと小首を曲げている景勝の下に適当な言い訳を言って人の少ない所を探して進む。

 しばらく兵達に頭を下げられながら二人は歩いていた。しかし、なかなか見つからない。やはり、水攻めの効果はかなり強かったようだ。至る所で水を含んだ畳だの柱の木などを片付ける作業に兵達は没頭している。

 

「(これなら鉢形城に行って忍城はゆっくりで良かったのに……)」

 

 これから武蔵一帯の完全掌握に向けて鉢形城か忍城は重要な拠点となる。しかし、わざわざ忍城と鉢形城双方に上杉軍を配置しなくても良い気がした。

 あくまでも龍兵衛の中にある合理的な判断だが、謙信の場合、合理的の範疇から離れた判断をする。むしろそれが取り柄だと言われている。忍城周辺の民を巻き込んだ罪滅ぼしだろうが、はたしてどれほどの効果があるのか。

 

「(まぁ、信長みたく城下の民を意図的に殺すよりはましか)」

 

 民を第一に考えるところは謙信の良いところでもあり、悪いところでもある。凄いのはそれが足を引っ張るような真似をなかなかしないところだ。

 

「龍兵衛」

「おっ、と……すみません、景勝様」

 

 景勝が足を止めていることに気付かずに龍兵衛は数歩先に行っていた。謝りながら景勝の指差した方向を向くと行っているのは水を含んだ城内の資料を整理している作業だった。

 雪の降っている外では行えない作業の為、城内の大部屋で行っている。人も少なく、部屋内ということもあって誰かに気を取られる心配もない。

 

「ここに致しましょうか」

「(こくり)」

 

 中に入ると作業していた兵達が二人に気付いて頭を下げてくる。そのままで良いと景勝が言っていると龍兵衛は通訳すると共に資料の整理を始めた。使えそうな資料を探し、乾かせばまだ読めるものを日に当たる場所に移すだけという簡単な作業の為、龍兵衛は徐々にぼんやりしてきた。

 早く小田原城を落として春日山に戻りたい。それから先は戦略的に武田、一向一揆、織田の順に戦うことになるだろう。ただ、武田は織田に先を越されるかもしれない。毛利との水軍の戦いにも決着が付く時はいずれ訪れる。その時、本願寺はいよいよ織田との和睦に本格的に乗り出すだろう。

 

「(畿内の豪族の反乱をこちらから誘い込むべきか? いや、それはさすがに毛利がやってくれるか)」

 

 謀神と謳われる毛利元就が未だに健在である以上、織田も毛利との戦線に気を抜く訳にはいかない。おそらく九州、四国にもなにか手を打つだろう。大友か長宗我部かと手を組み、毛利の戦線を崩しにかかる筈だ。

 

「(崩れたところを見計らって動きのうるさい上杉を動けなくする為に何か手を打ってくるだろうな。なりふり構わずに)」

 

 龍兵衛は資料を乾かす為、景勝に背を向けた。景勝もまた警戒する人数が少ない為か作業に没頭している。その為、距離が離れた時に景勝の背後に足音も無く近付いてきた兵に気付かなかった。

 

「……?」

 

 景勝は影が出来たことに気付いて顔を上げる。視線の先で兵が刀を振り下ろしていた。慌てて景勝は辛うじて切っ先をよけ、倒れ込む。その音に反応した龍兵衛が振り返ると状況をすぐに察知して景勝を庇う為に駆け寄る。

 

「景勝様!」

 

 間者は龍兵衛のことなど目にも入っていないようで景勝に再び小刀を振り上げる。飛びかかるように景勝に覆い被さった龍兵衛は辛うじて間に合った。しかし、間者の攻撃を自分で守る術など持っていなかっ。

 

「(右肩が!?)」

 

 小刀が刺さり、激痛に見回れた。龍兵衛は右肩を反射的に押さえた。血は思ったよりも出ていない。安堵した龍兵衛だが、右に隙が出来たせいで間者に景勝の身柄を一瞬で奪われてしまった。

 

「しまっ……待て!」

 

 龍兵衛は慌てて景勝に向けて手を伸ばす。だが、届かず、間者は景勝を抱えて外に出る。

 

「くそっ……」

 

 龍兵衛は痛みにこらえて間者を追って庭に出る。そして、転がっていた石を適当に拾い上げて兵に向けて投げる。力はさほど入らなかったが、後頭部に当たり、景勝を抱えた兵の動きを止めることに出来た。

 

「囲め! 一大事だー! 早く来ーい!!」

 

 珍しく切迫した声で叫んだ龍兵衛の声に部屋にいた兵が慌てて飛び出す。景勝を抱えた兵は龍兵衛の思ったよりも早く起き上がった。怪我の影響で利き腕にも力が入らなかった為に威力が低かったのは仕方ない。かなり頑丈な間者だということか。景勝の首にしっかりと腕を回して離していない。

 龍兵衛は舌打ちをして、景勝を人質にしている兵を見る。女のようだ。一瞬、景勝の方に龍兵衛は目に行った。かなり苦しそうにしている。確実に間者は景勝を殺す気だろう。

 残党の仕業かと思ったが、龍兵衛はすぐに考えを捨てた。上杉軍の鎧を盗むような暇など無かった。考えられる結論を自ずと限られる。

 

「お前、まさか風魔の……」

「……」

 

 若干ずれた笠から白い髪が流れる間者は無言で動くなと龍兵衛に圧をかけてくる。龍兵衛は足を止め、奥歯を強く噛んだ。

 龍兵衛は前日に謙信の了承の上で段蔵達を小田原城を中心に相模方面に放ってしまった。逆に言えば、内側に入り込んでくる間者に対する警戒が弱くなっている。

 

「(しかし、何故謙信様ではなく景勝様を……)」

 

 すぐに龍兵衛は結論が出た。鉢形城を守っていたのは北条一族の氏邦である。可愛がっていた者を奪われた恨みを晴らそうとしているのだろうか。

 だがと龍兵衛は内心で首を捻る。早雲はそのような感情的な性格ではないと聞いている。上杉の戦う士気を失わせようとしているのだろうか。

 

「(何故……とは聞いてくれそうにないな……)」

 

 投石を行おうにも風魔の者は龍兵衛を一番強く警戒しているように見える。周りの者に指示を出そうにもその時点で間者は景勝を殺すだろう。先程の身のこなし方は明らかに手練れ。この場から脱出する自信もあるのだろう。

 一気に間者に突進することも考えたが、景勝を盾にされては龍兵衛とて何も出来なくなる。

 

「河田様。早よう景勝様を……」

「うるさい! 分かっている……」

 

 冷静になれと自分に言い聞かせるが、龍兵衛は景勝が捕らわれるという非常を超えた異常事態に動揺をなかなか隠せない。

 どうすると頭の中で何度も問い、答えが出ないという状態を続けている内に足音が聞こえてきた。騒ぎを聞きつけた兵達が駆け寄って来たらしい。

 

「さぁ、もう逃げられまい。大人しく景勝様を渡せ!」

 

 兵の一人が威勢良く声を張り上げる。しかし、龍兵衛の顔はむしろ青くなった。この手の手練れの間者は人が少ない所を選び、油断した大物を討ち取ることを生業としている。

 もし人が大勢やって来るのであれば。龍兵衛は顔が引きつった。そして、身体が震えた。景勝の目と間者の静かな殺気が龍兵衛に悪寒として襲ってきたのである。龍兵衛は下を俯いた。間者と景勝が出た庭には雪が積もっていた。そして、足跡が二つだけ一直線に今二人がいる所まで通じていた。

 

「景勝様……」

 

 龍兵衛の小さな呟きと共に小刀が静かに振り下ろされた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百四十八話 怒りの行方

 謙信の心はいつになく怒りに燃え、それを抑えようとする理性と戦っている。それが燃え上がる炎のように絶大な覇気となって周りに伝わり、兼続や慶次でさえも近付くことを許さない。一人、謙信は忍城城内を歩き、かなり奥の部屋へと向かった。

 

「龍兵衛、景勝は!?」

「謙信様。今、眠っているところです。お静かに」

 

 大きな音を立てて入った謙信に冷たい水を被せるような龍兵衛の冷静さを保った言葉。謙信はおかげで少しは怒りの炎を鎮めることが出来た。寝息を立てているかも怪しい景勝を見て謙信も今の行いは過ちであると自分を戒める。

 

「大丈夫なのか?」

「ええ、ちょうど段蔵が戻って来なければ景勝様の傷は更に深手となり、命も危うかった筈だと手当てした者は言っておりました」

 

 龍兵衛はその時の光景を思い出しているのか視線の定まらない目を細める。

 動けない中、龍兵衛は景勝に振り下ろされる小刀を黙って見ることしか出来なかった。正直なところこのような形で肩の荷が少しだけでも軽くなるとは思えなかった。これで自分を知ることに焦らなくても良くなる。約束の代わりに時間を得ることが出来る。

 そんな龍兵衛の思いを失わせたのは段蔵だった。鉢形城からたまたま戻ってきたという彼女は侵入した形跡を見つけると城内を詮索した。すると、危機寸前景勝を見つけ、間者の背後を襲った。音の無い襲撃だったが、間者の方も慣れているのかそれをかわしつつ景勝に下ろしかけていた小刀を景勝に収めた。

 収めればそれで最後という訳でもなく、間者は小刀を引き抜くと激痛で動けない景勝に再び襲いかかろうとした。しかし、段蔵が寸でのところで間に入り、間者の動きを止め、一騎打ちのような態勢になった。龍兵衛はそれを見逃さず、兵達に景勝の保護を命じた。同時に救援に来た兵が多数やってきた為、間者もさすがに諦めたのか段蔵に目くらましの雪を投げつけるとどこかへ去って行った。

 結果として残ったのは兵達に命じておきながら一番に景勝の元へ駆け付けた龍兵衛と大量の血を流した景勝だけだった。

 段蔵は間者を追跡し、全員がいなくなった忍城に庭には雪の上にどす黒い色に変わった血が残っている。

 

「龍兵衛、景勝に適切な処置を行ったと聞いている。それが無ければもしかしたらと医師は言っていた。感謝する」 

「いえ……頭をお上げ下さい」

 

 龍兵衛は謙信から頭を下げられても慌てる様子を見せない。当然のことをしたまでと思っている。応急処置として龍兵衛は兵に酒と水を持ってこさせた。すぐに酒特有の成分を使って消毒を済ませると資料を整理していた部屋に景勝を抱えて戻る。痛みで身体を震わせている景勝の様子もお構いなしに水を手拭いに浸して傷を洗い、酒で消毒するのを繰り返した。おかげで景勝は辛うじて命を取り留めた。

 

「何でも、景勝の許可を得た上で傷を直接を触れるように服を少しはだけさせたとか」

「(少し殺気が……)ええ。まぁ、景勝様の許可を得たのは事実ですから。景勝様も助かる為にと仰っておりました」

「そうか……なら良い」

「(何がだよ)」

 

 謙信の殺気が解けたので龍兵衛は安堵の息を吐く。龍兵衛は背筋が凍りかけ、姿勢を崩したくなったが、謙信と景勝の御前ということでどうにか耐えた。景勝は規則的な寝息を立てている。龍兵衛はしばらくその寝顔をじっと見て様子を見ていたが、不意に謙信が口を開いた。

 

「このこと北条に伝わった後にどうなるだろうか?」

「おそらく……北条はこのことを広めようとはしないでしょう。あの動きは間違いなく風魔のかなり上の者であったようだったと段蔵が」

 

 謙信は最初驚いたように龍兵衛の方を向いたが、納得したように頷くと景勝の方に視線を戻す。風魔の存在は有名だ。その上の者をわざわざ使ってまで景勝を殺そうとしたということは北条もかなり切羽詰まっているのが分かる。

 早雲は北条一族の氏邦が討たれたことで北条の落ちた士気を回復させたのではない。そもそも、武人にとって道理や義に反する行為は戦の中では御法度である。成功したならまだしも、失敗した時の周りの声が怖い。今回のことを受けて北条に愛想を付かせる者もいるかもしれない。

 

「ところで、景勝のことは?」

「その場にいた兵達には決して口外しないように厳しく言っております」

 

 景勝の暗殺未遂は北条に危険性の高いものであるが、上杉に対しても次期当主が暗殺未遂に見舞われるのは恥晒しだ。これからが大事だという時に上杉の警戒態勢は肝心なところが薄いと見られては内部から不信感を抱かれかねない。

 

「もし、人に言うことがあればどうなるか、かれらも分かっているでしょう」

 

 兵達に龍兵衛は半ば脅しているように何度も言い聞かせた。怯えながら兵達も原因を作った龍兵衛がしつこいと思える程、頷いて返事していた為、漏れることはないだろう。しかし、人の口に戸は立てられないことは誰もが知っている。

 

「あえてこちらから景勝の無事を発して我らの士気を上げることに使うのはどうだ?」

「なるほど……かなり効果的ですが、賭けでもありますね」

 

 謙信の表情が険しくなる。否定されているのを快く思っていないのだろう。しかし、箝口令を敷いたとしてもいつどこで景勝のことがばれるのか分からない。龍兵衛の性格は基本的に慎重である。危険を冒してまで事を進めることはない。

 

「いや。此度は私の考えを通させてくれないか?」

 

 己を通す謙信の目は強かった。そして、龍兵衛に有無を言わさない覇気が備わっていた。表向き、普段通りの平静さを保っているのだろうが、かなり謙信は頭にきている。

 

「兼続には?」

「まだ言っておらぬ」

 

 博打をかけるということなら兼続に言うべきだろうと龍兵衛は思った。兼続の方が戦のことに長けている。根回しをしていくなら先に兼続の了承を得ておくべきだ。分かっていると言うように謙信は言葉を繋げる。

 

「お前に前もって言う理由は、お前を脅す為だ」

「と、仰いますと?」

 

 謙信の方を向く龍兵衛の様子に全く驚きは無い。

 

「いざとなれば、お前を景勝の警護を怠った罰として春日山に返す」

 

 龍兵衛は納得したように頷いてみせる。おそらく以前からくすぶっていた龍兵衛に対する不満が再び再燃したのかもしれない。謙信の耳に入ったのか気遣いなのか分からないが、ここで謙信の言葉に反対するのは龍兵衛にとって悪影響しかない。謙信はあえてここで龍兵衛に警鐘を鳴らしておきたかったのだ。龍兵衛も謙信の中では欠かせない家臣の一人。大熊の失脚後に財政面を支えているのは龍兵衛なのだ。

 

「御意。謙信様のご指示に従います。兼続には自分から……」

「いや、私から明日にでも伝えておく。お前はもう休め」

「しかし、兼続達が……」

「良い。お前は景勝の命を救った。それだけでも多大なる功だ」

「自分が護衛を行っておきながらも間者の接近を許したことは?」

「命が救われた。それだけでお前の失態は帳消しだ」

 

 さらに食い下がろうとする龍兵衛に謙信は無言で睨み付ける。それを見た龍兵衛は諦めたように身を引くと頭を下げて部屋を辞した。

 

「何だかんだで責任の強い奴だ……」

 

 謙信は龍兵衛の去っていった襖を見て静かに笑みを浮かべる。普段からよく分からない奴だと周りから思われがちの龍兵衛だが、兼続や颯馬が仲良くするのだから間違いない存在である。亡き定満もまた龍兵衛を認めていた。 

 なかなか表情を表に出さない為、勘違いされがちだが、あれで胸の奥には熱いものを持っているのだろう。

 

「颯馬達はそのことに気付かず、良い奴だと思って接している……あの三人が長生きすれば、上杉は安泰だな……」

 

 颯馬には謙信自身を構って欲しいという願望があるが、それはもう少し後のことだ。今は愛娘と言える景勝の回復を祈るばかりだ。

 

「……ん」

 

 景勝が少し身をよじらせたのを見て、謙信は景勝に近付く。しかし、景勝は再び規則的な寝息を立てて夢の中へと微睡んでいった。

 

「頼む。景勝……」

 

 謙信は景勝の手を力強く握ると静かに呟いた。同時に謙信の心は景勝から伝わる体温を養分のように吸い取り、怒りという果実を確実に成長させた。

 

 

 

 

 

「(あれはかなり頭にきているな……)」

 

 部屋を出て少しだけ歩くと龍兵衛は足を止めて謙信の言動を思い出して溜め息を吐く。気付いていなかったのかもしれないが、龍兵衛にも分かる程、謙信の表情は憤っていた。だから慎重さを破棄して積極策を取ろうとしている。

 

「(まぁ、景勝様が目を覚ませば済むことだ……)」

 

 しかし、景勝がいつ目覚めるのかは素人の龍兵衛には分からない。龍兵衛は応急処置程度の知識しか知らない。時が経てば経つ程、謙信の怒りは大きくなり、心に積もっていく。今降っている雪のように。

 

「どう?」

 

 部屋を出た龍兵衛を待っていたのは段蔵だった。おそらく部屋に入って行く龍兵衛を見て気になったので話を聞かないように待機していたのだろう。その辺りの線引きを出来ると知っているので龍兵衛も聞いていたのかは尋ねない。

 

「かなりお怒りの様子だ。さて、また忙しくなるぞ」

「さすがに風魔がここまでしてくるとなると、あたし達も外に出す人も少なくなるよ」

 

 段蔵の声が一層真剣さを帯び、龍兵衛の胸に深く刻まれる。しかし、龍兵衛が次に浮かべた表情は笑み。その笑みは苦し紛れから出るものではなく、余裕から出るものだった。

 

「だからこそ、今あれを使わずにどうする?」

「あれって……遊女達?」

 

 龍兵衛が密かに集め、段蔵も間者としての心得を教授したことのある集団。謙信が内密にその存在を黙認し、決して知られることの無い存在。

 

「まだ国内の情報を得るぐらいしか使えるのはいないよ」

「あくまでもほとんどだろ? 使える者もいる筈だ」

 

 段蔵が否定しないところを見ると当たりだと龍兵衛は確信する。まだ段蔵は不安を抱えているようだが、龍兵衛は使えるのであれば使わなければならないと景勝が襲撃された時から決めていた。それは動揺ではなく、龍兵衛の心を強く突き動かした何か。謙信の中で燃えているものを炎とすれば、龍兵衛の中でうごめいているそれは外に降る雪のような冷たいもの。否、あてられれば川さえ凍らせるようなものだ。

 

「じゃあ、頼めるか?」

「了解。誰かに言って……」

「あ、ちょっと待って」

 

 段蔵が配下の所へ行く寸前のところで龍兵衛は彼女を呼び止める。

 

「なに?」

「なぁ、あの間者は景勝様の首を狙ったのか?」

 

 龍兵衛の問いに段蔵は少し驚いた表情を見せ、すぐにその時の光景を思い出すようにおとがいに手を当てる。そして、間違いないと龍兵衛に頷いてみせる。

 

「でも、どうしてそんなことを?」

「いや、何でもない。少しだけ気になった……じゃ」

 

 龍兵衛は段蔵と別れ、踵を返して景勝の部屋の辺りを見張ることにした。周りは静けさに包まれていて、誰がいるのかも分からない。

 

「誰じゃ?」

「自分です。河田ですよ、景資殿」

 

 気配も漂わせないのはさすがに剣豪の塚原卜伝から剣術を習っただけある。一瞬、身体の動きを止めた龍兵衛だが、声を聞いて冷静さを取り戻した。一方で景資は殺気を完全に収めた訳でもなく、龍兵衛の顔を確認するまで鬼の形相を崩さなかった。

 

「何か変わったことは?」

「無い。しかし、何が起こるか分からぬ」

「あちら側の方は?」

 

 龍兵衛は景資の奥を視線で差す。景勝のいる部屋はかなり奥にあるが、間者がどこから来るか分からない。

 

「資正と犬がやってくれている。他の所の警戒を薄くする訳にもいかぬ」

「ええ、皆が此度のことでかなり責任を感じているようです。もちろん、自分もですが」

 

 景資の隣に龍兵衛は座る。互いに周りに気を払いながらだが、徐々に空気が和らいできた。

 

「具合はどうじゃ?」

「今はぐっすり眠っています。いつ目覚めるかは分かりませんが」

「助かることは聞いておる。しかし、皆は不安じゃ」

 

 龍兵衛は景資の言葉に目を見開き、彼女の方を向く。

 

「まさか、兵達にも?」

「いや、重臣の将にしかまだ伝わっておらぬ。お主の脅しが利いているようじゃ」 

 

 安堵の息を吐いて龍兵衛は立ち上がる。景資がいるのであれば安全である。資正の方も大丈夫だろう。そもそも、間者が警戒の強まった景勝の身の回りを再び襲うことは考えにくい。

 

「あるとすれば……逆か……」

「何じゃ?」

「いえ、何も……では、景勝様をよろしくお願いします」

 

 景資に頭を下げると龍兵衛はその場を後にする。景資の覇気は無くなり、また気配がほぼ完全に消えた。いると分かっている龍兵衛でも微妙にしか感じない。

 

「(確かに来る度にここで圧を掛けられたら困るよな……)」

 

 景勝への見舞いは禁止されているのだろう。謙信が景勝への見舞いもかなり限られた者しか知らないだと龍兵衛は思った。だから景資はあえて気配を無くすことにしたのだ。龍兵衛は引っ掛かっていたことがようやく解けた。同時に少しだけ気が抜けたのか寒い風を受けた龍兵衛の身も一層凍えた。

 

「うっ……」

 

 同時に龍兵衛は痛みが走った右肩を強く抑える。龍兵衛の右肩は塞がっていると言ってもおかしくない。日常生活以上のことを行うには限界がある。今はなりを潜めているが、肩の堤防の決壊がいつになるのか龍兵衛自身も分からない。

 

「さてはて……これも何かが取り持つ縁かいな?」

 

 くだらない洒落を言って龍兵衛は自分で苦笑いを浮かべる。さらに寒い風が強くなった気もする。景勝の怪我を面白おかしくしようとした罰だろうと龍兵衛はその風を真摯に受け止める。

 運良く景勝の首を外れた凶刃は肩に深い傷を与えた間違いなく、生涯消えることは無いだろう。不憫と言えば不憫だが、死ななかっただけまだ良かった。

 

「(まぁ、全ての責任は俺にあるけどな……)」

 

 他人ごとのように構えていれば足元をすくわれる。龍兵衛自身、評価がここで落ちるのは覚悟の上だが、景勝の護衛の失敗となると心証もかなり悪い。

 

「(いやに今日は冷え込むな……それに……)」

 

 龍兵衛はもう一度強く右肩を掴む。痛みが引くように祈りながら深呼吸を何度か繰り返す。このところは痛みが走るようなことも無かった。ところが、突如として今夜になってから痛みが走り出した。

 

「まさか、連動しているのか?」

 

 龍兵衛は自分の言ったことに苦笑いを浮かべる。景勝のやられた肩と元から古傷だった龍兵衛自身の肩が同じ右とはいえ現実的に有り得ない。あれだけ痛がっていた景勝のこと、今も寝ているが、いずれ痛みでうなされるのは目に見えている。

 

「しかし、これで進軍は当分出来ないかもしれないな……」

 

 謙信が景勝の襲撃を公表する気満々である為、次の進軍は少し時間がかかるだろう。不意に龍兵衛は顔を上げた。早雲の目的はそこにあるのではないかと思ったのだ。上杉を迎え撃つ時間を稼ぐ為に間者を動かしたのではないか。

 

「いや。弱いかな」

 

 わざわざ景勝の暗殺という手段を使わなくても間者に兵糧を焼かせたりした方が間者の面も割れづらいし、時間稼ぎには効率も良い。

 

「(何を企んでいるんだ。北条早雲は……)くっ……」

 

 考え事をしようとおとがいに手を当てようとすると龍兵衛の右肩が再び疼き出した。しばらく大人しくその場で待っていると痛みは引いた。龍兵衛は思わず舌打ちをする。不機嫌極まりない。今になって痛みが復活することも腹立たしいし、北条のやり方も理解出来ないことから苛々が募るばかりだ。

 

「(だけど、今は分かることも出来ないことに構っている訳にもいかないか……)」

 

 溜め息を吐くとその場を静かに後にした。内心の怒りを静かに燃やしながら。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百四十九話 秘密であるべきなのか

 景勝が目を覚ましたのは翌日の朝だった。しかも、朝の早い龍兵衛の次に起き上がって普通に人の手を借りずに歩き回った。その為、龍兵衛に見つかった時、彼の方は表情を思いっきり変えたので夜番の兵達から龍兵衛が驚かれた。

 何でもないと龍兵衛は兵達に言うと景勝の方へ駆け寄り、とりあえず人目のあまり無い所に移る。

 

「あ、あの……景勝様? 大丈夫なのですか?」

「ん……あまり痛くない」

 

 景勝は右腕を回して普通そうにしている。しかし、上に挙げた時に少し身体が怖がっているようだと龍兵衛は指摘してきた。

 

「おそらく、かなり深い傷だったので、すぐには治らないでしょう。しかし……うっ……」

 

 龍兵衛は「どうしてそのように早く」などでも言うつもりだったのだろう。そう言う前に龍兵衛は右肩を強く押さえた。

 

「大丈夫? 痛い?」

「え、ええ……昨日から少し……」

 

 龍兵衛は何かに気付いたように口を左手で押さえる。しかし、景勝はその言葉を見逃す訳にはいかない。

 

「休む」

「いや。さすがにそうはいきません。景勝様、お尋ねしたいことが山ほどあるのですが」

 

 龍兵衛はあえて危機感を出させて景勝をはぐらかそうとしている。景勝は分かっている為、首を横に振って聞かないと示す。

 

「龍兵衛、今日休む。そしたら聞く」

 

 龍兵衛は横を向いて心底嫌そうな表情を見せる。人通りが少ないとはいえ見回りの兵も定期的に通っている場所だ。兼続や颯馬ではなく、目上の景勝の前で龍兵衛が表情を変えるのは珍しい。現に兵二人が龍兵衛の背後で彼を見て驚いているのを景勝は見た。

 

「しかし、その頑固、今日は捨てて頂きたい。謙信様がかなり景勝様のことで頭にきています」

 

 少し語気を強めてきた龍兵衛は景勝を心から説得しているように感じられた。部屋を出てきた時、謙信の姿は無かった。おそらく兼続などが身体に障ると言って無理やり部屋に戻されたのだろう。

 

「景勝、諫める?」

「ええ。北条のやり方はかなり汚いと弾劾されるべきもの。しかし、我々の警戒が薄いことを諸国に知られることにもなります」

 

 ただでさえ間者はどこにいるのか分からないにもかかわらず、さらに警戒を強めろと言われては身が持たないのだろう。謙信の怒りはもっともだが、周りに迷惑がかかるようでは確かに困る。北条との戦も佳境に入っている中でさらなる重労働は将達に疲労を与える。

 

「最上には言えませんから、何卒、景勝様自ら謙信様を説得して頂きたい」

 

 龍兵衛は深々と景勝に頭を下げる。龍兵衛は人と人との調整を行うことも長けている。かなり将兵達の間で疲労と故郷を思う者が多くなっているのだろう。謙信のことを押さえるのはかなり難しいと景勝は思った。龍兵衛が難しい顔をするということはかなり謙信で苦労していると分かる。しかし、龍兵衛が頭を下げてきた。景勝の選択肢は一択にしぼられた。

 

「よろしいでしょうか?」

「ん……景勝、頑張る。謙信様、説得する」

 

 景勝が気合いを入れると龍兵衛は安堵したように小さく息を吐いた。手を焼いているのはおそらく皆だろう。景勝もまた謙信が同じようなことになった際、怒りを静められるか分からない。しかし、龍兵衛が首を差し出すように下げてきている以上、やれることをやらなければならない。心で景勝は強く決意するとさらに強い風に流されるように自分を突き動かした気がした。

 

「景勝、やれることある?」

 

 責任感の強い景勝は龍兵衛だけでなく、自分にもこのような事態に陥った一端の原因があると思っている。だから景勝は自らを奮い立たせるようさらに自分を崖へと追い込んだ。だが、龍兵衛はそれを許す筈もない。

 

「怪我が治っている訳でもありません。他のことは自分達にお任せを」

「でも……」

「襲われたことは確かに秘匿としています。しかし、だからと言って怪我を負った方をすぐに表に出す訳にはいきません」

「……」

「それ以上、何か仰るのであれば、逆に謙信様の説得以外のことはさせないように致しますよ?」

 

 龍兵衛はそう言って景勝に大きい釘を差す。景勝がさらに反論を試みようとしたのを確実に塞いできた。景勝は開きかけた口を噤み、考える。しかし、言葉が無い。

 

「よろしいですね。今は景勝様が無理をする時ではないのです」

「……こくり」

 

 龍兵衛の脅しに怯まずにさらに景勝は反論したかったが、上から龍兵衛は景勝を押さえつけた。景勝はそれに屈するしかない。龍兵衛は謙信が大分怒っていると言っていたが、龍兵衛もまたかなり頭に血が上っていると景勝は思った。 

 それはおそらく景勝自身が怪我をしている身で動こうとしているのと同時に間者の襲撃を許した龍兵衛自身への責任感もあるのだろうと思った。

 

「まさか、他人ごとのように思ってはいませんよね?」

「こくこくこく」

 

 怒りを押し殺してもそうしきれていない龍兵衛は明らかに不機嫌な表情を景勝に見せる。景勝は慌てて何度も頷いてみせるが、疑り深い龍兵衛もそれで納得した訳ではない。警戒心を解かず、景勝の表情を窺う。少し恥ずかしく景勝は思った。

 元々、二人の間で恥ずかしいという感情を抱くような間柄ではないが、一度別れてしまえばやはり変わるのだろう。それとも景勝の方が未だに赤ん坊の涎のようにだらだらと引きずっているのが悪いのだろうか。

 景勝は龍兵衛のことが羨ましく思えた。冷静に思い出してみれば景勝の方が龍兵衛の申し出を受け入れたのだから無理にでも断れば良かったのかもしれない。

 今も龍兵衛と共にいれて不完全なままでも良いと言いたい。しかし、妙なところで龍兵衛は頑固である。このことに関しては決して受け入れようとしないのだ。

 

「何か?」

「(ぶるぶる)何でもない。気にしない」

「気にしてくれと言っているようなものですよ……ま、聞かないでおきましょう」

 

 景勝は聞いてくれないのかと少しがっかりした。しかし、聞いてもらったところで龍兵衛の頑固が勝るに決まっているのだから、さらにがっかりするに決まっている。

 

「ふぅ……」

「如何しました?」

 

 溜め息の意味も悟ってくれないところを見ると龍兵衛は完全に今、一人の世界で生きている。つまり、周りとの付き合いも上辺だけのものに変わっているということだ。よく変わっていた表情も今では仕官した時の仮面を貼り付けたような無表情に変わりつつある。時折、見せる兼続達への態度が変わったのも逆に言えば味わう孤独を少しでも寂しく感じないようにする龍兵衛なりの思いではないか。

 景勝はそう考えていると龍兵衛の手を優しく握りたくなった。寒さによってさらなる孤独感を育んでいるかもしれない。もしかしたら龍兵衛が将兵の中で一番心を廃らせているのではないか。

 

「(でも、それ、帰りたいとは違う……)」

 

 郷愁の念とは違い、景勝は上手く表現出来ないが、悩みということだけ分かった。はたして龍兵衛がどれほどの悩みを抱え、心で呻き声を上げているのだろう。それを上杉の中で最も龍兵衛に近い存在だった景勝でさえ推し量ることは出来ない。そもそも龍兵衛は地べたを這いずり回るぐらいに悩んでいる筈の悩み事を全く表に出さない。

 景勝は今まで龍兵衛が一人にして考えて欲しいと言ってから彼を見かけたのはほとんど公での場である。兼続達とつるんでいる私的な場で龍兵衛は景勝を避けるようになっていた。

 

「さ……まだ朝は早いですからお送りします。謙信様にばれれば色々と言われるでしょうし」

 

 今日もまた距離を置こうとしているのか背中を押すように手を動かしている。景勝は虫になって追い払われたような気分になって少し腹が立った。

 

「とにかく、謙信様が起きるまで。もしくは、謙信様のお耳に入らないよう早く」

「……?」

 

 謙信なら起きたことで喜ぶのではと思った景勝だが、龍兵衛の深刻な表情の理由が掴めずに首を傾げる。

 

「景勝様がお目覚めになったのとは別の問題です。昨日、自分が景勝様を治療したことや、その後の面倒を見たことで色々と目を付けられてますから」

「あ……ん、分かった」

 

 景勝は龍兵衛の言わんとしていることを悟り、少し顔を赤らめる。景勝は龍兵衛の治療中、途中で気絶してしまった為、何が起きたのか分からない。しかし、肩の治療となるとそれなりに服をはだけさせる必要がある。その時に景勝の身体の内部を見たのではと疑われたのだろう。

 正直なところ二人の間でそのような恥ずかしさは遅いと言って良い。謙信が景勝のことを大切にしてくれているのは分かっているが、残念ながらと言ったところだ。

 景勝から見ると龍兵衛はかなり疑われたようでその時を思い出しては背筋を震わせている。景勝もさすがに龍兵衛の様子を見ると哀れに見えてきた為、話を変えることにした。 

 

「謙信様、どこ?」

「さぁ。まだ早朝ですから……とりあえず、お部屋にお戻りになって下さい」

 

 龍兵衛は周りを気にしているのかせわしなく辺りを見回しながら景勝を急かす。このあたりは龍兵衛らしい一面を見れて景勝も安堵した。

 思い返してみれば上野攻めの時も何度か景勝から誘いをかけると乗りかけては戻るということを繰り返していた。まだ、景勝のことは龍兵衛の心の中で一定の感情が保たれている。

 

「……♪」

「急に笑うと周りから変と思われますよ」

 

 鋭い指摘を入れられ、景勝は表情を慌てて引き締める。その時、龍兵衛が少しだけ頬を緩ませた。

 

「さ、お早く」

 

 驚く景勝をよそに龍兵衛は早く早くと急かす。景勝が龍兵衛の自然な笑みを見たのは久々だった。共にいた時の間だけ見せてきた龍兵衛自身が気付かない内にこぼされるそれを景勝は鮮明に脳に焼き付けた。

 先程の言動と今の笑み。それは景勝にまだ龍兵衛も気付かない内に共にいることを楽しんでいるのだとはっきり示した。

 

 

 

 

 景勝が部屋に戻り、寝返りを打って暇を凌ぐこと数刻。外からうるさい足音が聞こえてきた。

 

「景勝! 起きたのか!?」

「謙信様。景勝、もう大丈夫!」

 

 胸を張ってみせる景勝を見て謙信は安堵したのか。部屋に入って来た時の勢いなどあっさり消えた。景勝にゆっくり手を伸ばすと謙信は力強く抱き締めてくる。

 

「痛い……」

「心配かけおって……」

 

 謙信は全く聞いていない。景勝は小さく溜め息を吐くとしばらくはこのままでいようと痛さに堪えることにした。今回のことは景勝自身の警戒を怠ったのも要因の一つであると考えていた。

 龍兵衛という護衛がいたとはいえ、反省しなければならない。龍兵衛が景勝の護衛になることは当分ないだろうが、他の者にまで迷惑をかけるようなことをしてはならない。

 

「景勝、すまぬ。今しばらくゆるりと休め。しかし、すぐとは言わぬが、動いてもらうぞ」

 

 景勝は動きを止めた。元々、動けない状況だが、景勝の心は真剣になるべきだと言ってきた気がした。

 

「謙信様」

「何だ?」

「すぐ動く、危険。足並み、揃える。景勝のこと、気にしない」

 

 今度は謙信の動きが止まった。そして、表情も少し怒りを含んだものに変わった。先程まで見せていた景勝への母性を含んだ笑みなど、どこぞへと消えていった。

 

「ならん。景勝がこうなった以上、他の者にも影響が出る」

「北条、こうなるのきっと分かってる。今、待つ」

「景勝、私とてすぐに動くつもりはない。しかし、北条のことを私は許し難い」

「どうして……」

 

 謙信の表情がさらに険しくなった。景勝も負けじと謙信を見る。謙信も分かっているのだろう。北条が謙信の怒りを利用してあえて無理な進軍をさせようとしていることを。

 ここで景勝はふと違和感を覚えた。龍兵衛は謙信が景勝の襲撃を公にして北条の非道を訴えようとしていると聞いた。上杉が警戒を怠ったという失態をあえてひけらかすことを覚悟して。

 

「景勝、私は北条とは元より手を取り合うことは出来ないと思っていた。言わずもがな、北条は関東管領である山内殿を追い出した。そして、景勝、お前の身を狙った……」

「謙信様……」

 

 景勝は悟った。謙信の怒りと共に北条を滅ぼそうとしている。別に北条を滅ぼすことに景勝は反対しない。しかし、そこまで焦る必要がどうしてあるのだろうか。疑問を景勝が口にする前に謙信は口を開いた。

 

「景勝、お前のことを狙った北条は許せない。私は正義の下、北条をすぐにでも滅ぼす」

「謙信様、待って……」

「景勝、お前が龍兵衛から何を言われたのか分からぬが、お前からのことでも決してこのことは変えぬ」

 

 景勝は目を見開いた。龍兵衛からお願いされたことをはたして誰から聞いたのだろうか。聞き出したいが、謙信の怒りの覇気は景勝の口を完全に塞いだ。

 

「もう歯止めは不可能だ。義清がやられ、景勝まで死にかけたとなるとな」

 

 冷たく謙信はそう言うと景勝を布団に寝かしつけた。そして、早く良くなれと言ってきた。その時だけ景勝は謙信の温かい心を感じることが出来た。はたして、謙信を止める術があるのだろうか。あれほど怒りを表に出した謙信を景勝も見たことがない。

 景勝はこうして生きている。そして、上杉の為に襲撃を秘匿のものにしておき、上杉軍の士気が下がることのないようにしておくべきだ。ましてや帰りたいと思っている兵の中に愛想を尽かす者も出るかもしれない。

 龍兵衛も同じことを憂いていたのは話し方から景勝は察していたが、謙信がそのことを分かっていないとは思えない。

 

「景勝。痛みが引いた時に言ってくれ。あまり待てないが、急ぎ武州を手中にする。そして、お前のこと明らかとして北条の非道を露わにする」

 

 景勝に言ったのか自分に言い聞かせたのか分からない声で謙信は言うと部屋を去った。

 景勝は足音が消えたのを感じるとすぐに起き上がって龍兵衛を探しに密かに部屋を出る。幸い、誰もいない。景資と途中出くわしたが、厠に行くと誤魔化して通り過ぎた。

 しばらく歩いていると景勝は龍兵衛を見つけ出し、急いで駆け寄ろうとした。しかし、龍兵衛の雰囲気が近付くのを止めた。

 

「龍兵衛?」

 

 明かりが入ってこない場所の為、よく見えないが、龍兵衛程の背の高さをしている者など滅多にいない。謙信の説得に失敗したことを早く言わなければならない。しかし、景勝の足は全く動いてくれず、ただ龍兵衛の様子を見ることしか出来ない。思い切って声をかけようとしたが、それも出来ない。

 

「いっ、つぅ……何ともないのに……どうして……」

 

 蛇行しながら歩く龍兵衛の姿に景勝は本能的に手を差し伸べたくなった。だが、壁にぶつかって床に引き込まれるように屈む龍兵衛を見て、何故かそれを見ていようという気分になった。否、手を貸すべきではないと思った為、自ずと手が引っ込んだ。

 

「はぁ……はぁ……こんな、ところを……」

 

 龍兵衛はよろよろと立ち上がって蛇行しながら近くにあった部屋へと消えていった。

 

「……」

 

 景勝はそこにしばらく立ち尽くしていた。今まで右肩のことなど忘れていたかのように振る舞っていた龍兵衛があれだけ痛がっているのを見てしまった。遠くから聞こえてきた声で我に返るともしかしたらと思い、景勝は右肩に手をやる。

 完全に塞がっていない傷はやはり痛むが、龍兵衛に教えてもらった静電気のようなものが走る程度である。肩を離すと少しぴりぴりとした感覚が残った。

 

「龍兵衛、代わりに?」

 

 景勝はすぐに首を横に振った。いくら何でもそのような馬鹿げた話がある訳がない。単純に偶然、刺された場所が良かったという話だ。景勝もお伽話でしか聞いたことのないようなものを信じる程、阿呆ではない。

 

「でも、龍兵衛痛そう……」

 

 目の前で見た光景はそれだけが現実であると物語っている。どこか柱にでもぶつけたのか、戦場で知らない間に痛めたのか。

 暗くてよく分からなかったが、景勝は龍兵衛の顔から汗が一滴落ちたのを不意に思い出した。余程、痛いのだろう。しかし、景勝もまた怪我をしている身であって龍兵衛に何かしてやることは出来ない。謙信に怒られる。今、外に出てることさえ許されていないのだから。

 

「(でも、助けたい)」

「あらぁ? かっつんどうしたの?」

「……!? 何でもない」

「けんけんが起きたって言ってたけどぉ……まだ、寝てないと駄目よぉ」

「慶次、注意した。まとも!」 

「何でそこに驚く訳ぇ? 地味に凹むわ」 

「あっ」

「ん、どうしたの?」

「ううん。何でない」

 

 言うべきか迷ったが、景勝は止めた。おそらく、龍兵衛は誰かの手を借りることを今の段階で良しとしてないだろう。ならば景勝も今は胸に秘めておくべきである。再び龍兵衛の腕に抱かれる日を。

 

「かっつん?」

「ん、もう行く」

「え? あ、そう……」

 

 慶次が何か言った気もしたが、景勝は気にせずに急いで部屋へと戻った。謙信が部屋の中で待っているとも知らずに。

 

 

 上杉軍が忍城から小田原に向かったのはそれから僅か三日後のことである。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百五十話 逃げも隠れも出来ないや

 武州の一件から謙信はすぐさま軍を動かし、相模に一気に手を伸ばした。最上の援軍の力もあって八王子城などを一気に落とし、東から来る軍よりも早く単独で小田原城に到着した。僅か、三日のことである。

 好機と見た北条軍が夜襲を仕掛けてきたこともあったが、上杉軍は先の戦を戒めとして強く警戒していた為、良く対処した。以降、上杉軍も北条軍も動かないまま数日が過ぎた。

 

「弥太郎殿達の動きは?」

「後二日三日だそうだ」

 

 龍兵衛は少し安堵したように溜め息をつく。さすがに弥太郎達も謙信がここまで迅速な進軍をするとは思ってもいなかっただろう。小田原城に近付くにつれて、謙信の怒りは増幅していくのか進軍の速度は速くなった。

 それでも音を上げる者がほとんどいなかったのは上杉軍の兵は下々まで統率と鍛練が行き届いていることを示している。しかし、人である以上、体力は有限である。疲れが溜まっているのは否めない事実であり、冬の寒さによってさらに人の体力は削られていく。

 

「ここまで速く動く理由は何だろうか?」

「私が知るか。謙信様に聞け」

 

 言ったところで景勝の一件が尾を引いているのは誰もが知っている。景勝、龍兵衛だけでなく迅速な進軍を止めるべきだと兼続も主張していた。結局、謙信の意見が押し通されたことで小田原城に到着した訳だ。

 

「そもそもだ。景勝様のことを公にすることと進軍を速くしたことに何の繋がりがある?」

「だから。私に聞くなと言っているだろうが」

 

 しつこいと兼続は龍兵衛を睨んでくる。だが、龍兵衛は気にしない。

 

「いや。何か知ってそうだから」

「はあ!? 何でそう疑うのだ。お前は!」

「む……本当に違うのか……」

「だからそうだと言っているだろう!?」

「誰も言ってないけどな」

 

 兼続の顔が徐々に紅潮していくのを見て、これぐらいにしておこうと龍兵衛は話を変えることにした。謝ることはしない。

 

「さて、もう少しで弥太郎殿達が到着するということは思ったよりも利いたようだな」

「ああ、そのようだ」

 

 まだ不機嫌な兼続はぶっきらぼうな返事を返してくる。 

 謙信は兼続の賛成もあって、景勝の襲撃を公にして北条を徹底的に批判し、その噂を流布させた。龍兵衛もそうなっては仕方ないと段蔵に知らせを送り、北条を非難させるように仕向けた。

 

「それで、景勝様のご容態は?」

「良好。傷を受けた時が嘘のようだ」

「他人ごとのようだが、私が擁護しなければお前はどうなったか分からないのだぞ」

「分かってる。それは感謝してるから」

「だったら先程の態度は何だ?」

 

 龍兵衛は口を噤み、兼続から視線を逸らす。龍兵衛が護衛を怠ったということで家臣の中には彼を送還して謹慎させるべきという意見や腹を切らせるという意見も出た。しかし、景勝や兼続が龍兵衛を庇ったおかげでどうにか北条との戦の間は不問として春日山に戻ってから謹慎させることになった。

 

「あれはあれ、それはそれだ」

「なっ……はぁ、まったく、これならいっそ私も切腹させるべきだと言えば良かった……」

「景勝様がまだいるから何とかなるな」

 

 盛大な音を立てた舌打ちを兼続はしてきた。やはり、気ままな官兵衛とは勝手が違って兼続は扱いにくい。龍兵衛は肩をすくめる。しかし、龍兵衛もここは頭を下げたくない為、譲らない。

 

「とはいえ、景勝様には詫びと感謝の言葉を送っておかないとな……」

「まだ、言っていなかったのか!?」

「あの後、謙信様に呼ばれて当分、景勝様とは距離を置くように命じられた」

 

 兼続はそれを聞いて得心したのかそれ以上、このことに関して何も言うことはなかった。龍兵衛は仕方ないと思いながらも景勝に感謝の弁を言うことが出来ないことにもどかしさを感じていた。それを兼続に若干当たっていることは口が裂けても言えない。

 

「先程の話だが……」

「お前を疑っている話か?」

「それではない! いや、それもあるが。謙信様も一体どうしたのだろうか」

 

 兼続も小田原城を一気に包囲することに賛同していたが、景勝のことに関してはかなり強引だと思っていた。景勝が襲われる程、上杉が脆くなっていることが分かれば越後も危ないのではないか。そう兼続は思っているのだろう。それは確かに正しい。しかし、龍兵衛は簡単に頷くことは出来ない。

 

「まったく、お前は少し謙信様のお気持ちを考えたらどうだ?」

「さっきと違うことを言っているぞ、お前」

「え? 俺は謙信様が景勝様を思う気持ちを否定した覚えは無いぞ。景勝様のこととかなり強引な進軍をしたことを言っているんだ」

「屁理屈を……」

 

 兼続は先程から溜め息を数え切れない程ついている。その分、龍兵衛の滅茶苦茶なところに振り回されているのだが、当の龍兵衛は知らない。景勝のこともあるが、兼続も面白い為だ。

 

「腹減ったな」

「話を変え……」

 

 強い口調さえもかき消す良い音が兼続の腹から聞こえてきた。

 

「……そうだな、食事にするか」

 

 顔を赤くして頷く兼続を見て、龍兵衛は笑いを堪えるのに必死だった。

 今日も前日と同様に米と乾物だが、龍兵衛達からすると有り難いの一言である。

 食事の衛生管理の悪さは承知していたが、本当に酷いと龍兵衛は思った。直射日光は当たり放しで腐るのは当たり前だった。それを改善しようと龍兵衛は日持ちする乾物や長持ちする野菜を作った。

 

「まったく、このようなところではきちんと貢献しているのだから」

「不満か?」

「いや。しかし、完全に密封出来る箱をわざわざ作るとはな」

「腐るもの食って吐くよりはましだ。それに、どちらかというと俺は乾物の方を誉めてもらいたいな」

「……美味い」

 

 珍しく素直だなと龍兵衛は言おうとしたが、兼続の性格を考えて危険だと考え、止めた。空腹を何とかしようという思いの方が勝ったからだ。

 

「あれ? けんけんは?」

 

 慶次が陣幕に入るなり、気の抜けた声で二人に話しかけてきた。

 

「いないのか?」

「かっつんが探してるのよぉ」

 

 景勝が探しているならと龍兵衛と兼続は食事を中断して景勝と合流し、謙信を探し始める。辺りを回ってもいない為、他の軍の陣にも向かったが、謙信はいなかった。

 そして、なかなか見つからないまま時間だけが過ぎていった。ここで四人は顔を青くしてもう一度、上杉の陣幕に戻って話し合いを始めた。

 

「どこに行かれたのだ?」

 

 兼続が不安で身体を震わせながら声を上げる。しかし、謙信がそれで戻ってくるはずもない。龍兵衛は顎に手を当て、比較的冷静なままだが、内心、かなり焦っている。

 

「これだけ探していないとなると……」

「敵に捕まったぁ?」

 

 慶次は冗談めかしのつもりだったのだろうが、本当にいないのだから洒落にならない。

 

「まさか……」

 

 真に受けた兼続は腰を上げかけるが、龍兵衛がすぐに指摘する。

 

「兼続。いくら謙信様でもそのような不覚を取る訳ないだろ」

「そ、そうだな……」

「それにしてもどこに……」

「……脱走?」

 

 洒落にならないことを慶次が言ったおかげで陣内は静まり返ってしまった。

 

「慶次……」

 

 景勝が睨み付けたことで慶次も謝りながら脇に引っ込んだ。

 

「どうする?」

 

 景勝が心配そうに皆を見る。とはいえここにいるのは龍兵衛、兼続、慶次の四人。探すには規模が広過ぎる。

 

「少なくとも北条に捕らわれるようなことは無いでしょう」

「だがな龍兵衛。いないとはどういうことだ?」

「謙信様自ら小田原城の偵察とか?」

「そんなことしないって言えないのが嫌ねぇ」

 

 謙信の突発的に行う不可解な行動には皆も慣れている。しかし、景勝のことを考えると冗談も本当に思えてしまう。

 

「でも、謙信様が景勝様のことがあってから間者に気を付けるように言ったんだし、少なくとも……」

 

 徐々に龍兵衛の声が小さくなったのと比例して皆の不安はさらに増した。

 

「……」

「で、ですが! 謙信様のことです。敵の間者に見つかるようなことはないでしょう」

 

 景勝の不安そうな表情に焦った兼続が励ます。

 

「とりあえず探して来ます。私達だけではどうしようもないですし。他の方にも声をかけてみます」

 

 全員が頷き合い、慶次が景勝の護衛として残ることになった。

 

 

 

 昨日まで降っていた雪は止み、太陽の光が人々へと僅かながらも暖かさを与える。いわゆる小春日和である。

 

「ふぅむ。良い天気だ」

 

 麗らかな気分の謙信はのんびりと馬を下りると陣から持ち出した弁当を小脇に辺りを見回す。弁当の中身は乾物ばかりだが、以前よりは栄養のつくものになっている。体調も冬になって心配になったが、崩した者はさほどいない。補給も龍兵衛の越後から随所に作った補給の倉から運び込まれ、今のところは滞りない。支城を押さえておいたのも大きかった。

 

「それにしても、大きな城だ……」

 

 謙信は小田原城を見回し、息を吐く。小田原城の規模は日の本最大とうたわれている。春日山城も普請を何度か行ったが、予算の問題上、小田原城にはまだ適わない。

 

「これぐらい大きな城をよく立てられたものだ……」

 

 北条は悪政を行っていない。善政を敷き、民衆からの受けは非常に良い。これぐらいの城を築けば越後のみならず、東北、関東の者達も頭を下げてくれるのだろうかと謙信は思った。

 かつて足利義満が金閣を立てたように煌びやか、もしくは巨大なものを必要となる時も上杉に来るのだろうか。

 

「そうなったら……その時、考えれば良いか」

 

 謙信は華やかさよりも民と共に親しく生きる方を好んでいる。だから山上宗二による侘び数寄も民が出来るものとして受け入れた。華やかさが伝統的である日の本の中で異色な世の中を完成させることになる。

 

「(ま、かような世だからこそ変えられるものもあるということか)」

 

 秩序が全く機能していない日の本の中で上杉が天下を取れば、貴族や足利幕府前期の伝統的を壊す。しかし、謙信はそのことに躊躇いなど無い。足利幕府のしきたりなどを壊すことには躊躇いがあるが、それ以外のことは上杉の理想通りにするつもりである。

 

「いかん。敵地で後々のことを考えては……お……」

 

 謙信はふと足を止めた。綺麗な蓮池が謙信の視界に飛び込んできた。比較的積もっている雪と池の水が太陽に反射して眩しい。謙信は目が慣れるまで物陰に隠れる。

 

「これで鳥のさえずりでも聞ければ良いのだが……」

 

 今は冬である。鳥も晴れているとはいえ寒さから外に出たがらないのだろう。謙信の願いは空しいものにすぎない。溜め息をついて謙信は蓮池の方へ足を進める。

 相変わらず水面には眩しい光が輝いている。自然による鮮やかな光景に謙信は思わず頬を緩ませた。

 

「(やはりこのような所でのんびりするのが良いな)」

 

 周りの雪原も謙信の付けた足跡以外全く無い。綺麗な光景を目の当たりにして謙信の気分は良くなる。雪の上に座るとさすがに冷たさがある。謙信はあらかじめ持ってきた茣蓙を敷いてその上に座った。

 

「む、今日は魚も入っているのか」

 

 謙信は少し贅沢な内容に嬉しく思いながら弁当の中身に手を伸ばす。

 

「さて、早く……」

 

 謙信の独り言は銃声によってかき消された。謙信は驚いたように顔を上げる。しかし、どこかから喧騒が聞こえていない。小田原城の内部の様子は窺えないが、雰囲気が特に変わっているようには見えない。

 とりあえず、謙信は早く食べてしまおうとせっせと弁当の中身を片付ける。途中、三発程の銃声が響いた。謙信はその都度顔を上げたが、異変も無かった為、食事を再開するということを繰り返した。

 

「(さて、早く戻らぬと兼続達が騒ぐ)」

 

 謙信は蓮池のある雪原から走り去ると馬に飛び乗り、本陣へと急いだ。今のうちに帰れば陣中を適当に回っていただけと言って誤魔化せると思って。

 そして、帰った途端に謙信は兼続と龍兵衛と鉢合わせた。しばらく沈黙が続いたが、まず龍兵衛が口火を切った。

 

「おやおや、謙信様。何故に陣の外に?」

「ああ……いや、これは、だな……」

「陣中の見回りの途中にかつての川中島のように迷ってしまった。でございますか?」

 

 龍兵衛は立て板に水を流すような口調で謙信を問い詰めてくる。兼続や官兵衛で遊んでいる時のようなどこか人を弄んでいる口調だ。

 兼続の方を謙信は一瞥する。龍兵衛のことよりも謙信の方を戒めたくて仕方ない様子で無言で詰め寄ってくる。

 

「とりあえず、戻りましょうか?」

「あ、ああ……」

 

 謙信は動揺を必死に隠しながら陣幕へと戻る。背後の二人から針で刺されているような視線を浴びせられながら。

 

「そ、そうだ。鉄砲の音がしたのだが、何かあったのか?」 

「何の話です?」

「えっ……」

 

 龍兵衛は兼続に目配せするが、そちらの方も首を傾げるだけ。すぐに龍兵衛と兼続は怒りを押さえている表情で謙信の方を向く。

 

「その鉄砲はおそらく、いや間違いなく謙信様を狙ったものですね……どこに行っていたのか聞かせて頂いても?」

「あ……そうだな……確か、池があって、蓮があって……」

「……謙信様。それは小田原城の蓮池門と言われる所です」

「えっ……」

「初めて聞いた。などとは仰らないでしょうね?」

 

 龍兵衛は謙信から目を離さず、言い訳をも許さない。裁判を受ける人のように小さくなってしまった謙信だが、確かに蓮池門のことは聞かされていた為、言い逃れ出来ない。それから三人は黙ったまま陣幕まで進んだ。

 

「さぁ、謙信様、皆様がお待ちです」

 

 龍兵衛が恭しく陣幕を開ける。謙信は唾を飲み込んで中に入る。中には白い目をした慶次と謙信のことをじっと見て離さない景勝がいる。

 

「今、戻った」

「謙信様」

 

 龍兵衛が背後から刀でも立てているような雰囲気で謙信を戒める。謙信も周りの目から自分に求められていることを察し、唇を噛んだ。

 

「すまない……」

 

 謙信は風が吹けば飛んで行ってしまいそうな声で言うと頭を垂れる。思っていた以上に空気が重い。謙信は慶次からも真剣な気が出ているのを感じ、よほど迷惑をかけたのだと反省した。

 

「かっつんがどうして陣を離れたのか聞きたいそうよ」

 

 謙信が陣から離れたのは気紛れだった。しかし、小田原城までの進軍を急がせた張本人がそのような行為を働いたとなれば面目が立たない。

 

「謙信様」

 

 景勝から冷たい刀を当てられたような言葉を浴びた謙信は逃げ場が無いことを悟り、一歩下がる。

 

「駄目ですよ?」

 

 龍兵衛が謙信の背後を固める。他の三人もゆっくりと謙信の周りを囲む。陣幕の為、周りに人はいない。警護の兵も景勝と慶次が下げたのか一人もいない。どうするべきか謙信が考えている間も四人の表情は険しくなり、距離も近くなる。

 

「早く話して欲しいと景勝様が言っております」

 

 龍兵衛から最後通牒を叩き付けられ、やむを得ないと謙信は至極真面目な表情になった。

 

「私が怒りで前後不覚になっていると思っている。それを真だと思わせたまで」

「ちょっとぉ、嘘は良くないわよぉ」

「……気を紛らわせようと少し遠出したかっただけだ」

 

 素直に白状した謙信の目の前に今まで口を閉ざしていた兼続がゆっくりと歩み寄ってきた。

 

「何か他に言うことはございませんか?」

「うむ……無い、な……」

 

 蚊の鳴くような声で謙信が言うと兼続以外の者達はそそくさと去っていく。謙信は弥太郎や慶次のような無駄な抵抗をせず、素直に聞く態勢を整える。

 三人が出て行った途端、すぐに兼続の正論が聞こえてきた。

 

「けんけんも懲りないわねぇ……」

「どの口が言ってんだか……」

「あらぁ、あたしがいったい度の過ぎたことをしたのかしらぁ?」

「「……」」

 

 二人の目を見て、慶次は乾いた笑いをして、素直に「ごめんなさい」と謝った。景勝と龍兵衛は分かっているなら良いと同時に溜め息を吐く。

 

「それにしても……」

「……?」

「いえ、少し気になることがあって」

 

 それで終わらせられるような面子ではない。龍兵衛の誤魔化しも空しく景勝と慶次は話せという視線を向けてくる。口を滑らせてしまった自分を呪いながら龍兵衛は口を開く。

 

「謙信様の様子が忍城や武州を移動する時よりも変わった気が致しまして」

「確かにそうねぇ……武州にいた時は『誰の意見も聞かない!』って感じだったのに」

「気、変わった?」

「いや、それはないでしょう……」

 

 龍兵衛は言葉を続けようとしたが、喉元で強引に引っ込めた。景勝が顔を覗き込んできたが、何でもないと首を横に振る。慶次が言いなさいとせがんできたが、今度こそ龍兵衛は頑固に聞かない。

 

「とりあえず、他の所に行きましょ。ここは目立つわ」

「ああ……」

 

 三人は移動しながら黙り込む。原因を作った龍兵衛が一番話しかけにくい雰囲気をまとって前を向いているのか下を向いているのか分からない顔の角度で歩いてる。景勝と慶次は前と隣から龍兵衛の様子を窺っているが、龍兵衛は気付いていない。

 龍兵衛は謙信の言動にある矛盾点を見出した。そのことは慶次や景勝も感づいている筈である。しかし、二人は謙信のことを信じている為、あえて考えないようにしているのだろう。

 

「(俺の場合、気になったら考えないと気が済まないからなぁ……)」

 

 もしかしたら景勝と慶次は気付いていないのかもしれない。信じているからこそ見落とすところもあるのだろう。

 龍兵衛は自分が謙信を信じていないような思いを抱いていることに気付いて小さく鼻で笑う。もちろん、龍兵衛自身、謙信のことを素晴らしい人物であると思っている。

 龍兵衛はそれかけた思考を元に戻す。謙信があれほどまでに憤怒を演じるのは何故だろうか。そして、その余剰から小田原城までの進軍をかなり急いだのは何故か。

 

「……ん?」

「どうした?」

「いえ、何でもありません」

 

 龍兵衛は眉間の皺を深くした。景勝と慶次は顔を見合わせ、首を傾げ合う。

 今までの強い北風が方角を少しずつ変えていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百五十一話 師匠遊び

 弥太郎が率いる東から南下する上杉軍は謙信からの命で行軍を速め、結城や里見の手引きによって開城した城を通り、反抗する城は強攻で突破した。幸い、小田原城の雲行きが怪しくなっていた為、どの城も大きな被害を受けずに進軍することが出来た。

 好機と見た弥太郎の指揮の下、東北の大名を従えた上杉軍は見事に謙信の上杉本隊にわずかに遅れながらも予想以上の速さで小田原城に到着した。

 

「おいっす」

「師匠に向かっていきなりご挨拶だな」

 

 悪戯っ子のような笑みを浮かべて龍兵衛は官兵衛を出迎える。官兵衛は案の定、不機嫌そうな表情になった。それでも、龍兵衛の下に寄ってくるのだから信頼関係は篤いと分かる。

 

「随分早かったですね」

「あんた達の方が早かったじゃない?」

「自分はてっきり孝さんは置いてけぼりにされると思ってたんですがね」

 

 からかうように笑いながら龍兵衛がおどけてみせる。官兵衛は龍兵衛の態度に嫌な予感を覚えながらも尋ねた。

 

「どういう意味?」

「馬に乗れるようになれ」

「はぁ!?」

 

 あまりにも敬意の無い言動に官兵衛は龍兵衛に近くまで来て、思い切り睨み付けてくる。子供から睨まれているようだというのが龍兵衛の正直な感想だった。

 

「さて、遊びはここまでにして……」

「あたしは玩具か何かか?」

「手紙で言っていた愚痴は解決しましたか?」

 

 官兵衛は無視されたことを忘れ、真剣な表情になる。

 

「ま、表面上は」

「表面を剥がすと?」

「睨みを聞かせて、お互いにばっちばち」

 

 二人同時に溜め息が出てくる。幸い、謙信の下に伊達も佐竹も組み込まれる。

 

「大人しくしてくれるでしょうね。しばらくは」

「そ、しばらくね」

「具体的には」

「半年も無い」

 

 龍兵衛は小さく舌打ちする。その刻限が明確ではないのは有り難いが、分からないというのは不安を与える。また、伊達と佐竹の仲違いが謙信の下でも目を離すことの出来ない状況になれば軍全体に不安が広がる。

 

「兵の疲労は?」

「不満たらたら。特に佐竹」

「ですよね……」

 

 官兵衛から思っていた通りの返事が返ってきた。龍兵衛は苦笑いを浮かべ、溜め息を吐く。

 

「弥太郎殿はどうやってそのばらばらな軍をまとめたのでしょう?」

「ああ。それは蘆名のおかげ」

「……は?」

 

 龍兵衛は思った疑問をぶつけてみると意外過ぎる答えが返ってきた為、呆然としてしまう。官兵衛はその顔が見たかったと龍兵衛を見て期待通りの反応だと笑ってみせる。

 

「気になる?」

「もちろん」

 

 自慢げに話す官兵衛曰わく、弥太郎は政宗と義重に毅然とした態度で立ち合っている為、弥太郎の目の前では対立している素振りを見せなくなった。しかし、あくまでも弥太郎や親憲達の前での話で、官兵衛が見ている限りではかなり険悪な雰囲気になることも多かった。

 政宗は上杉に一応、忠実な為、付き従っているのは分かる。義重は上杉に完全に服従している訳では無い為、いつ勝手な行動を起こされるか分かったものではない。

 そのことは逐一、弥太郎の耳には入っていた為、政宗と義重を個別に呼んで注意した。しかし、聞く気の無い二人は互いを敵視し合うことを止めない。弥太郎はとにかく早く謙信と合流することで事態の収束を図ろうとしたが、戦続きの上杉軍内部でもその考えに不満が出るのは必至である。

 そこで義重を見事に諫めたのが蘆名盛隆だった。軍議上では見せなくなったが、それ以外の場所での険悪な雰囲気を見かねた盛隆は義重に苦言を呈した。いつまでも私事を引きずり、公事に影響が出れば被害を上杉や付き従っている我々だけでもなく、佐竹も被ることになる。その時、北条に対抗出来ずに敗れれば一世一代の恥となる。義重はその時に如何にして恥を凌ぐのか。もしかするとそのような機会は無いかもしれない。

 そう啖呵を切った盛隆に義重は最初、目を見開き、徐々に考え込み、最後にはそうであったと盛隆に頭を下げた。

 

「蘆名殿ってそんなに凄い方なんですか……」

「それ、すっごい失礼だよ」

「いや、分かってますけど、気難しいと聞いていた佐竹殿を簡単に説得してしまうなんて……」

 

 龍兵衛は何度も感嘆の息を漏らす。伊達と佐竹の仲の悪さは何となく察していたが、蘆名がここで出てくるとは思っていなかった。

 

「(単なる俺の知識不足か? あ、でも……)」

 

 龍兵衛はふと思い当たる節を頭の中で見つけ、顔を上げた。

 

「えっ!?」

「わっ!? っと……急に大きな声出すなよ!」

「あ、申し訳ない」

 

 それから隣で続いた官兵衛の嫌味をよそに龍兵衛は表情を強張らせ続けた。

 

 

 上杉軍は合流した翌日に弥太郎達を加えた軍議が開いた。

 

「弥太郎、変わらずに何よりだ」

「謙信様も御無事で何より……景勝様が傷を負ったと聞いた時は驚愕致した」

 

 途端に陣幕の空気が大きく変わった。数人の将は龍兵衛の方を見て、何かを疑うような目をしている。龍兵衛は視線を落とし、誰とも目を合わせようとしない。

 事情を知る兼続達は哀れんだ目で龍兵衛を見ている。しかし、龍兵衛は気付いていても気付かないふりをして、申し訳無さそうに大人しくしている。聞こえよがしに大きな溜め息をつく者もいたが、龍兵衛は反応しなかった。

 

「里見殿。援軍、感謝致す」

 

 徐々に部屋の空気が重くなってきたのを感じた謙信は声を張って、皆の意識を里見の方へと変える。景勝が安堵したように肩を落とした。

 

「いえ、北条を倒す為ならこれしきのこと」

 

 静かな声だが、誰もが里見義堯の目に燃える打倒北条への強い気概を感じた。北条の関東を完全に席巻しようとする勢いに圧されていたことに忌々しさを感じていたのだろう。実際、里見は上杉が関東に遠征する前まで上総の大半を失っていた。

 

「さて……他の者達もよく戦ってくれた。皆を合流したところで、北条に引導を渡すぞ」

 

 謙信はそう言うと小田原城を囲んでいる上杉、伊達、最上、蘆名、佐竹の陣を記した図面を広げる。

 

「里見殿は水軍を率いて相模湾より小田原城を脅かす。出来るか?」

「当然。私がすぐにでも書状を出せばすぐに配下も動くでしょう」

「では、頼む。次に、小田原城を包囲する陸の陣を割り当てる」

 

 謙信は小田原城西側に本陣を置き、南の相模湾を里見。他の地に諸大名を配置した。佐竹を一番遠くに置き、伊達との間に両者の仲介を目的に蘆名、弥太郎、親憲達の別働隊の面子をそのまま配置した。

 

「小田原城はいつ攻めるのだ?」

 

 憲政はここにきてかなり好戦的になっている。北条への怨恨は延焼を続ける火事のように大きくなっているようだ。

 

「すぐに力攻めとはいきませぬ。策がある者はいるか?」

 

 謙信は憲政をなだめると周りを見回す。しかし、誰も口を開こうとしない。兼続は気まずそうに視線をあちこちに移し、龍兵衛も下を向いたまま口を開こうとしない。部屋中に声を上げにくい雰囲気が漂う。

 

「何かあるか?」

 

 沈黙を嫌った謙信が先程から落ち着かない様子の官兵衛に目を向ける。

 

「ならば、私の方から……」

 

 官兵衛の方に視線を向ける。同時に官兵衛は小さく頷くと小さい身体で皆を見回し、大きく口を開いた。

 

「城内の者に内応させ、こちらの被害を抑えるのは如何でしょう?」

「北条の結束は固い。真に出来るのか?」

 

 真っ先に長野が難色を示してきた。他の旧関東の者達もそれに同調するような姿勢を取る。また、上杉の中にも官兵衛の考えに懐疑的なものを抱いているように見える。

 

「確かに北条の結束が固いことは天下が知る周知の事実。しかし、本当にそれが完全なるものでしょうか?」

「どういう意味だ?」

 

 最上と共に援軍として馳せ参じた色部勝長が得心してないと眉間に皺を寄せて尋ねる。

 

「北条の結束は関東の中で強く、その力も削がれている。抵抗する勢力もいれば、城を簡単に明け渡した勢力もいる。さらに北条は結束にひびを入れる行いをしました……景勝様の暗殺です」

 

 一斉に視線が景勝の方へと集まる。景勝は一瞬、身体を震わせたが、堪えて足に釘を刺したように動かず、我慢している。

 

「おそらく景勝様への暗殺は北条の中でもかなりの限られた者達で決められたこと。重臣の中でも知る人は少ないでしょう。そこに我々が付け入る隙があります」

「仮に誰も調略に応じない際は?」

「おそらく、北条はこちらが如何に挑発しようとも城から出てくることはないでしょう。その時はこちらから動くのです」

「小田原城を攻めるとなればかなりの犠牲を被るのではないか?」

「攻めることは致しません」

 

 謙信との応答を聞いていた諸将がどよめき、隣同士で話し合いを始めた。

 

「つまりは撤退すると言うのか!?」

 

 憲政が叫ぶ。一部の者達も官兵衛に弱腰だの色々と問い詰めて、軍議が乱れ始める。官兵衛も「そこまでは言っていません!」と声を上げるが、誰も聞く耳を持たない。

 兼続と弥太郎が急いで静まるように何度も声を上げる。龍兵衛は自分が絡んでいる件もある為、割って入るとさらに荒れると判断し、様子を見ているだけだ。

 中には上杉の将達と言い争っている他家の将もいる。龍兵衛は静かに溜め息を吐いた。これが寄せ集めの欠点である。やはり、費用のかかる諸大名も長引く戦を避けたいと思っているのだろう。

 今の状況を見ると小田原城攻めに入れるのかも微妙である。龍兵衛が内心で不安を覚え始めた時、軍議上に強い音と震動が響いた。

 

「静まれ。あくまでも次善の策。ならば、今は小田原城に揺さぶりをかけるのが先。官兵衛、子細は任せる」

「御意」

 

 しんと静まり返った中で謙信の指示と官兵衛の応答が冷たく響く。

 

「他に意見が無いのであれば兼続や龍兵衛も官兵衛の手伝いを頼む」

「「はっ」」

 

 味方同士の争いによって籠もった悪い熱を謙信の激しくも冷めた威嚇によって軍議はまとまりを見せて終わった。

 

 

 軍議が終わると龍兵衛は官兵衛、兼続と共に策を実行に移す過程を練る話し合いを始める為、三人で歩いていた。

 

「あたしのこと笑ってたでしょ?」

「あ、ばれた?」

 

 基本的に龍兵衛の官兵衛への印象はいざという時以外、馬鹿をやらかすか、面と向かって上司にもため口を聞く。それが突然、慇懃になっているのだから笑わずにはいられない。

 

「はぁ、黒田殿も大分苦労しているのだな……」

「分かってくれるー? 扱いがひどいんだよこいつー」

「悪口は当事者がいない所でやってくれませんか?」

「お前の場合、面と向かって言わなければ直さないだろう?」

「ふむ。善処しよう」

「……しない顔だね」

「はあ……」

 

 官兵衛と兼続は龍兵衛の笑い皺が上がりっぱなしなのを見逃さなかった。龍兵衛は悪びれる様子もなく両手を小さく広げて肩をすくめる。

 

「ま、悪口はいない所で酒でも飲みながらやって下さいな」

「ね? あたし達があんまり飲めないの知ってて言ってるんだよ」

 

 官兵衛が龍兵衛を指差して兼続に同調を求める。

 

「まぁ、今はとにかく小田原城をどう落とすかですね」

 

 いい加減に兼続の額に筋が立っていたことを確認すると龍兵衛はここまでにしておいた方が良いと話題を変えようと試みる。

 

「ただ包囲してても落ちないのに謙信殿も随分と呑気だね」

 

 兼続は龍兵衛を相変わらず睨んでいるが、官兵衛は乗ってくれた。

 

「焦って攻めて落ちるような城じゃないですし、仕方ないでしょ? だから孝さんも後は打つ手が無いと言った」

「ばれたか」

 

 今度は官兵衛が笑みを浮かべて肩をすくめる。小田原城を無理に落とそうとすれば、勝ったところで戦力はがた落ちする。龍兵衛の計算では間違いなく三年以上は外への出兵は不可能だろう。

 その間、織田に越前から加賀や能登に攻め込まれたり、武田の力が回復するようなことがあってはたまったものではない。ただでさえ、軍事力的に不利なのだから止まることが許されない上杉にとって動かないというのは下策中の下策だ。

 

「だからって、偵察がてらに城の近くで平然と食事を取るのは止めて欲しいんだけど」

「それは同感。というか、どうしてそれを?」

「兼続が愚痴ってた。どう思う? おかしいでしょ?」

「ま、違いないです」

 

 官兵衛の愚痴に龍兵衛は苦笑いを浮かべる。兼続を見ると大袈裟に頷いている。しかし、思い出してみるとよくもあのような度胸があるものだと龍兵衛は笑ってしまいそうになる。

 兼続の説教が終わった後で謙信は慶次が立って欲しいと言っても立てられない程になってしまい、全部兼続が悪いと拗ねていた。自業自得だとそのことを知る景勝や慶次も内心で呆れていた。

 思い出すと龍兵衛も自ずと溜め息が出てきた。立ち上がれない謙信を見た時は頭を抱えたくなったのだから仕方ない。

 

「(本当に謙信様は真面目なのか、悪戯好きなのか、無鉄砲なのか……)」

 

 とうの昔に謙信の想像は崩れ落ちているが、謙信も龍兵衛からすれば何者なのか分からない人物であった。しかし、確固たる信念があるからこそ皆が付いて来る。だから謙信に振り回されている皆も愛想を尽かさない。

 

「(人を見る目もある。か……)」

 

 裏切り者という悪しき肩書きを押し付けられた官兵衛と龍兵衛を迎え入れている。反対する者がいても家臣に任せれば何とかしてくれるだろうとはぐらかすことも多い。

 その代わり、無理だと思った時、自らいらないと言ってくれるのだから人物眼やものを見る力は恐ろしい。

 

「ま、だからこそ軍神と崇められるのかもな……」

「ん? どした急に」

 

 口に出ていたことに気付き、龍兵衛は慌てて何でもないと首を横に振る。「本当か~?」と官兵衛は顔を覗き込んでくる。誤魔化す為、龍兵衛は顔に塵が付いていると嘘を付いて誤魔化すと小さく溜め息を吐いた。

 

「少しやり過ぎではないか?」

 

 さすがに可哀想に思えた兼続が龍兵衛の耳打ちしてくる。しかし、顔を拭く官兵衛を見て龍兵衛は首を横に振る。

 

「構わないさ。一刻も経てば忘れる」

「今度は二人して何?」

「あ、いや。早く北条を倒さないとなー、って」

 

 官兵衛は龍兵衛の嘘を真に受けて、納得したと頷く。

 普段は騙しようがないのに肩の力が抜けた瞬間、扱いやすくなる。これが後世に名高き軍師として名を残すとは思えないと龍兵衛は溜め息を吐きたくなった。

 

「まぁ、何にしても、龍兵衛の言う通り早く終わらせないといけないな」

 

 官兵衛の表情が一瞬で真剣なものに変わる。龍兵衛の言いたいことが何なのかすぐに悟ったようで溜め息をついて小田原城の西方を見る。龍兵衛、兼続もまたそちらを見る。

 

「春になる……いや、少しでも暖かくなってくれば間違いなくちょっかいを出してくるだろうからね。今川が」

 

 官兵衛の言葉を合図にしたように風が西方から東方に吹き抜けた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百五十二話 何でだろう

 北条と縁を切った今川が上杉を関東から追い払う動くことには矛盾があるようにも見えて何ら不思議ではない。織田の傘下となった今川と徳川は西に進む信長に対して背後である東側の警戒を行っていた。

 織田は畿内の不穏物質を排除してから東に攻め入る予定のようだという情報は龍兵衛が指揮している間者によって掴んでいる。現に謙信の下には朝廷の名を借りた信長から屏風絵が贈られている。

 織田にとって上杉の台頭はかなり計算外だったのだろう。背後が不安だからと東北の果ての果てまで支配下に置くとは思っていなかった筈だ。それだけならまだ良い。東北は取ったところで土地の豊さ、人の多さを見て価値がある訳でも無い。

 だからこそ織田は畿内の方に目を向けることが出来た。しかし、上杉が関東に視野を向けるようになると話が変わってくる。幕府とは反目し合っている織田にとって関東管領としての役目を果たし、幕府再生の根となるであろう上杉は邪魔者である。さらに上杉が関東と取るとなれば軍事的にも力が対等なものとなり、織田にとっての天下統一が難しくなる。

 それを食い止めるには関東の趨勢を上杉に握らせず、しばらくは北条のままにしておくこと。上杉と北条のいたちごっこを繰り返し行わせ、疲弊したところを叩く。織田にとって最も合理的である。

 

「しかし、今川がな……」

 

 謙信はにわかに信じがたいと考えているようだ。謙信がふむと考え込むのを見て、龍兵衛はもう一押しいると口調を強める。

 

「確証がある訳ではありません。しかし、今まで動かなかったことを考えると間違いないかと」

「互いに消耗するところを見計らい、あわよくば関東の覇権を握るか……関東管領の立場として防がねばなるまい」

「今が内に鶴岡にて儀式を行っては如何でしょう? 今川への牽制になるのでは?」

「いや。上杉よりも今川の方が格は上。儀式を行ったところで『それがどうした?』となります」

 

 すぐに龍兵衛に考えを兼続は渋々ながらも納得したという表情を浮かべる。

 

「我々にとって最善の策は?」

「今川が箱根の峠を突破する前に北条を討つことでしょう。そのお膳立ては今、支度しております」

「万が一長引いた場合は?」

 

 謙信は兼続の方に意見を求める。兼続は躊躇いも無くはっきりと言った。

 

「今川を箱根で食い止める為、軍を動かすしかないでしょう」

「いかほど?」

「おそらくは、三万」

 

 兼続の計算に謙信は厳しい表情になる。上杉の下に馳せ参じているのは東北の諸大名を含め、十万以上。しかし、三万の兵を一気に動かすとなれば結束力の固くない連合軍では動揺を誘うことにもなりかねない。

 

「今川は北条の支配していた韮山城を落とし、相模に攻め入る為の拠点も確保しております」

「ふむ……龍兵衛、何か情報は無いのか?」

「今のところは何も。おそらく、今川は静観を装って我々を油断させた後に動くつもりかと」

「ふむ……」

 

 謙信は厳しい表情になった。未だに可能性の範囲内であるとはいえ今川の介入は上杉にとって面倒なものだ。たとえ追い返したとしても北条にかける時間を削がれ、小田原城を落とすことが難しくなる。

 

「今川との戦はなるべく避けなければならない。官兵衛に調略を急ぐように伝えろ。万一、今川が動く前に事を成すことが出来なければこちらから動く」

「小田原城を力ずくで落とすのですか?」

「それ以外に何か方法があるのか?」

 

 反論出来ない龍兵衛は兼続の方を見る。兼続は少し間を置いて口を開いた。

 

「小田原城を力ずくで落とすのは下策。仮に力攻めをするのであれば確実に落とせる箇所から道を作るべきかと」

「それはどこだ?」

「それは……まだ、城攻めを開始していないので何とも……」

「……やはり小田原城だな。我が軍師達をもってしてでもすぐさま落とせることは出来ぬか」

 

 申し訳ないと頭を下げる龍兵衛と兼続に気にするなと笑みを浮かべる謙信だが、その心境は決して穏やかなものではない。謙信は立ち上がると陣幕の外へ出て、小田原城の見える所まで移動する。

 広大な規模を誇る小田原城は北条の威容を集めてあまりある。今の北条は関東を席巻している頃の力を徐々に失っている。さらに景勝の一件でかなり武人としての誇りを自らの手で失墜させた。差し引けば小田原城の価値は北条最後の砦だ。無くなれば北条という者の存在価値は無い。しかし、小田原城を落とし、北条の価値を無に帰すには労力を費やす。労力は人であり、費やす人を補う為の金も今後を考えると使うべきではない。謙信にとって大切なのは金ではなく人である。人の命を救い出す為に義をもって天下を見る謙信は小田原城を落とす為の労力を最小限にしたいと思っている。あくまでも理想の中でだが、果たすことが出来るのだろうか。

 謙信は不安だった。官兵衛の絶対的な自信の中で行われている動きも時が遅くなれば意味の無い労力となる。

 

「兼続」

「はっ」

「此度の戦で小田原城を落とせなければ我らは如何すべきだ?」

「申し上げにくいことでございますが……」

「よい。申せ」

 

 兼続は龍兵衛の方を一瞥する。龍兵衛も苦い表情を見せつつも仕方ないと頷いて兼続を促す。兼続は息を吐くと毅然とした口調で開いた。

 

「全ての関東の地を放棄し、越後に撤退すべきかと。北条を残し、越後と関東の間にある山々を越して関東の地を支配することは不可能です」

「その為に蘆名から関東へ進む足掛かりにすべき領地を我らがものにしたのではないのか?」

「ですが、遠過ぎます。それに佐竹の領地を越えての支配は危険です」

 

 勝てないと既に悟っているのだろうか、謙信の表情が曇っていくような気が龍兵衛はした。もし小田原城を落とせず終いになれば関東は間違いなく荒れる。一族や重臣までを討たれた北条は軍の再編や失墜した信用を取り戻す為、多大な時間を費やすことになるだろう。

 

「兼続。我が軍の士気はどうだ?」

「やはり冬の寒さによってかなり下がっております。攻めるのであれば、今少し待つべきかと。調略のこともございます」

「龍兵衛、官兵衛から何か聞いているか?」

「今のところは何もありませぬ。ただ、北条の重臣である松田を口説くことにしたと言っておりました」

「官兵衛のことだから事が成ってから私に報告するつもりだろう」

 

 龍兵衛は官兵衛の真剣な表情で頭を抱え込む様子を見ていた。普段、自信しかないと表情を揺らがせない官兵衛もさすがに北条の重臣の間に亀裂を入れるのには苦労しているようだ。

 

「さて、どうなることやら……」

 

 謙信は風に飛ばされそうな弱々しい声で呟くと陣幕へ戻ると踵を返した。

 

「どう思う?」

 

 謙信が一人になりたいと陣の奥に消えたのを見届け、兼続は龍兵衛に話しかけてきた。

 

「謙信様の言動か? 何だかんだで諦めていないだろう。景勝様のこともある」

「そのことはいつまでも引きずるとは思えないが……」

「だからこそだ。何の為に伊達や最上などの東北の者達にまで号令をかけた?」

「それもそうだが、もしかすると最初から謙信様は諦めていたのではないか?」

 

 兼続の一言で龍兵衛の足はぴたりと止まった。兼続の表情は真剣でどこか確信めいたものがある。龍兵衛は思い返してみるが、そのようなこと節は無かった。

 

「どういうことだ?」

「以前、謙信様と二人で話したことがあったのだ」

 

 兼続が謙信と関東に遠征する前、二人きりで話した時のこと。謙信はぼそっと「北条とは長い付き合いになりそうだ」と言ったらしい。

 

「どう思う?」 

「どうって……」

 

 龍兵衛は困ったと表情を険しくする。ただの戯れ言と捉えるべきだと思いたいが、小田原城という堅牢な城を見るとなかなかはっきりと言えない。

 生身で見た小田原城は龍兵衛の想像よりも遥かに威容を誇り、強い気が感じられた。龍兵衛の正直な気持ちとして謙信みたく近付けるだけ近付いてよく見てみたかったりもしたが、今は我慢する。

 

「もし此度の戦で小田原城を落とせなければ東北の諸大名に不満が出るのではないか?」

「いや、それは無いだろう。蘆名や最上、伊達が謙信様に忠実なところをみれば安東や南部もそれに従わざるを得まい。問題は関東の国人衆達だ。俺達が仮に小田原城を落とせないまま撤退した後、どちらに恭順するか……」

「北条になびく者は少ないだろう。お前だって水面下で動いている」

「あれ? ばれてた?」

「おそらく私だけだが、謙信様の許可は?」

「もちろん、得てる」

 

 安堵したと兼続は息を吐く。龍兵衛は勝手に物事を進める悪い癖がある為、よく兼続の監督が入る。謙信はほぼ黙認している為、最終的に成功すれば良いと受け流されているのだが。

 

「ま、するまでもなく北条から評判を落としてくれたからな」

 

 龍兵衛がおどけるように肩をすくめると兼続もおかしそうに笑顔になった。

 

「ともかく、孝さんの調略を長々と待っている訳にはいかない。俺達は小田原城を攻略する手立てを考えないとな」

「ああ、そうだな」

 

 二人はすぐに真剣な表情に戻ると歩を進める。陣幕までの時間も惜しいと二人は周りに聞こえないように話し合いを始める。

 

「問題は如何にして犠牲を抑えることか」

「ここまでのことを考えると最上、伊達、佐竹に各方面から城を攻めてもらい、残りを遊撃として取っておくべきか」

 

 兼続は間違っていないと頷く。あくまでも戦略、戦術的なことは兼続の方が位は上である為、最終決定権は兼続にある。

 龍兵衛のあげた三勢力が選ばれたのは、最上はまだ援軍として到着した後、目立った活躍をしていない為。佐竹と伊達は言わずもがな、軍の統率にひびを入れた為である。 

 

「いつ頃攻めるべきだ?」

「黒田殿は今少し待って欲しいと言っている。調略を仕掛けている者も今こちらから攻めても逆に話が違うと北条になびいてしまう」

「機を逸することが無い程度ということも言っていた。状況に応じてということさ」

「……もしかするとかなりの大物を引き抜こうとしているのか?」

 

 兼続は独り言なのか龍兵衛に尋ねているのか分からない声で首を捻る。

 

「ま、それはそれだ。話が逸れたから戻そう」

 

 龍兵衛の指摘を受けて兼続は「すまん」と言って再び地図に目を戻す。大手門から攻めるにはまず小田原城周辺を囲む堀を突破しなければならない。北条が上杉の為に早急に作ったようだ。

 

「これはすぐに突破出来るだろう」

「そうだな。見てきたが、素人でも分かるような欠陥がいくつかある。問題はそれからだな」

 

 龍兵衛は地図に描かれた三の丸から小田原城一帯をなぞる。既に諸大名の配置は終わっている。周辺の堀を突破した勢いで攻めることが出来るかと言われれば難しい。

 

「長期戦になることは不可避……補給路の方は?」

「厩橋、高崎、忍。全て敵の城だった所だが、どうにかなる」

 

 龍兵衛は駅伝制を設け、効率性を求めた補給を目指した。量は以前よりも減っているのは確かだが、食えなくなるよりは良い。

 

「長期戦では経路で何か揉め事が起きるかもしれないぞ」

「もう釘は差しているし、刑罰の言い渡しも済ませてある。よほどのことが起きない限り心配ない」

 

 不正が無いように監督する者も置いている。監督者が癒着している場合もそれぞれの中継点で他の監督者が数量などを徹底的に監査させている。

 

「もし、兵糧をちょろまかしていると知れれば……」

「知れれば?」

「武人としての身分を生涯剥奪。農家からの者は手柄の没収」

「うわぁ……」

 

 兼続は龍兵衛の腹に一物抱えている笑みを見て、思わず呻き声のような声を出す。手柄を立て、出世したい、戦場で戦利品を得たいと思っている兵がほとんどである。願いを根から断ってしまうような罰は兵にとって苦痛だろう。さらにそのことを知られるところになれば家族にまで累が及ぶ。

 

「どう?」

「単純だが、えげつないな」

「ああ。単純だからこそ効果的さ」

 

 兼続は納得したと頷きながらも龍兵衛から視線を逸らす。兵は学を得てない者が大半である。だからこそ分かりやすい刑罰ならば浸透しやすい。儲けることが出来なくなると。

 

「後は黒田殿次第だな」

「断っとくけどあまり急かしても怒るだけだから」

 

 兼続は太い釘を差され、動きかけた足を止める。さすがに龍兵衛は官兵衛との付き合いが長い。兼続に自分からそれとなく官兵衛に伝えると龍兵衛は地図に目を落とす。兼続も龍兵衛の目と指の動きに合わせて地図の方向を追ってみる。しきりに龍兵衛は蓮池付近と上杉の陣との間を指でなぞる。

 龍兵衛は動きを落ち着かせるとのらりくらりと姿勢を伸ばす。視線は地図に向かっているように見えるが、目が虚ろになっていて定まっていない。

 

「なぁ、一つどうでもいいこと聞いていいか?」

「何だ?」

「謙信様がこの前入ったのって蓮池門の近くだよな?」

「ああ。それがどうした?」

「どうやってそこまで行けたんだろうな? しかも、愛馬と一緒に」

 

 龍兵衛の問いに兼続は言葉を詰まらせる。考えてみれば欠陥があるとしても蓮池付近に向かうには堀を越さなければならない。

 

「……さあな」

 

 ぶっきらぼうに返した兼続だが、心境は穏やかではないのだろう。身体が小刻みに震え、怒っているのか動揺しているのか分からないが顔を赤くしている。

 もしかすると堀の無い所を通ったのかもしれない。しかし、監視の兵もいる筈で、風魔の者達もあちこちに潜んでいる。悪運が強かったとしか言いようがない。

 

「あれだけ運が強い方って生まれて初めてかも」

「他にもいたら苦労しないな」

「確かに……」

 

 龍兵衛と兼続は同時に溜め息を吐くと謙信の下に向かう為に歩を進める。  

 

 

 今川が動いたと上杉に伝わったのは雪が溶けるどころかしっかりと残っている二月のことだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百五十三話 箱根越え

 今川にとって桶狭間での敗北は想定外以外のなにものでもなかった。当主の義元は軍師の雪斎からたとえ小勢の織田でも油断するなと耳にたこが出来る程言われた。

 しかし、四万の軍勢に対して僅か数千の兵の戦で油断するなと言われても必ずどこかで緊張感は解けるものである。義元は織田による奇襲の手を読むことが出来なかった。豪雨で進軍を中止し、緩みきったところを奇襲を受けた為、今川は混乱した。結果的に今川は松平の寝返りも受けて多大な損害を被り、上洛を断念せざるを得なくなった。

 その上、義元が撤退の最中で織田に先回りされて捕らえられるという事態に陥った。動揺した今川を落ち着かせたのが軍師の太原雪斎である。雪斎は駿河の混乱を岡部元信や朝比奈泰朝らと共に収めると義元の身と引き換えに自分を人質にするよう願った。

 

「義元様、そろそろ……」

「む。そうだな……」

 

 雪斎の声よって現実へと戻された義元はゆっくりと立ち上がる。

 

「如何されたのです?」

「何でもない。ただ、うたた寝をしていただけだ」

 

 雪斎は義元の嘘を見抜いているのだろう。しかし、今、優先べきことは義元への追求ではなく、急いで軍を進めることだと理解している雪斎は義元にそろそろ進軍を再開するべきだと言って出て行った。

 後で何を考えていたのか雪斎にきつく詰問されると義元は少し冷や汗を流す。織田に負けるという屈辱をいつまでも引きずっている訳にはいかない。

 思い返してみると織田の判断は当然のものだった。援軍も望めず、籠城しても意味が無いのならば野戦しかない。その野戦もまともにぶつかり合えば織田の負けは明らか。残った選択肢は野戦において今川とまともにぶつからない方法、奇襲しかない。見抜けなかったのは完全な失態だった。その点では義元も負けを認めなければいけなかった。

 義元は軍議を行っていた場所を後にすると兵馬が待機している場所へと向かう。既に雪斎を始め、岡部元信や鵜殿氏長など今川の重臣達が揃っている。義元は将兵全員を見回す。

 

「出陣!」

 

 呼応する将兵達の士気は高い。農民から徴兵したのではない兵を生業としている者達を選んだ甲斐があったと義元は思った。

 兵の数は計一万五千。春まで待てばさらなる兵数を率いることが出来るが、上杉も想定済みだろう。ならば、雪の溶けない箱根峠を無理を承知で越えた方が効率的であると義元は考えた。

 箱根峠が冬に突破出来るような代物ではないのは誰でも知っていること。仮に上杉が想定の内に入れていたとしても打ち破ることが出来る自信も義元にはあった。

 そもそも、上杉は兵を今川が集めていることさえ遮断された箱根峠によって知らない筈だ。今川が兵を集めた理由はあくまでも畿内で苦戦している織田の援軍ということになっている。駿府城を発った義元は三河の国境まで向かい、反転して韮山城まで戻ってきた。

 義元は馬に揺られながらそれとなく兵の様子を見る。特に疲労の色も無く、先程の呼応も偽りではないと分かる。これならば上杉に勝てるだろうと義元は思い、慢心は駄目だと自らを戒める。

 上杉は精兵揃いと言われ、連戦に次ぐ連戦でも将兵共に血気盛んであると聞いている。また、伊達や最上なども上杉の為にかなり貢献しているらしい。その辺りは今川が織田の思い描くことに興味を持ち、協力しているのと同じようなものなのだろう。

 その織田は畿内の勢力に手を焼いているが、毛利の水軍を破ったと聞いている。畿内の勢力が頼みの綱としていた毛利が敗れた今、流れは織田へと変わるだろう。紀伊や伊賀に反抗勢力が未だ健在だが、本願寺などに比べると脆弱である。彼らを滅ぼし、畿内統一の後はいよいよ東西の大大名との戦いとなる。

 その時は今川が徳川と共に東の先鋒になる。しかし、上杉が関東を落としてしまっては得るものが少なくなってしまう。上杉が関東を得てしまうと織田も上杉にあてる兵を増やさなければならなくなる。上杉の関東平定を防ぐ為、北条に一時の和睦を持ち掛けた時、氏康がかなり屈辱的な表情を一瞬だけ見せたと使者として向かった雪斎は言っていた。

 北条にとって今川は以前から因縁があり、同盟を破った間柄である。力が弱まれば見限り、飲み込むのが戦国の習わしであるが、因縁を簡単に拭えるものではない。氏康は都合良く手を差し伸べてきた今川を快く思っていなかったことは目に見えて分かる。しかし、北条は上杉に追い詰められた今、今川に頼るしか術はない。それはかつて義元が織田に頼らなくてはならない状況を作られた時と同じ。嫌でも提案に乗るしかない状況である。

 

「(宗匠と景春には真に命を救われたのう……)」

 

 義元は本来、桶狭間の地で死んでもおかしくなかった程の混戦であった。近藤景春が命を賭して守ってくれなければ義元は間違いなく討たれただろう。そして、雪斎がいなければ義元は織田の手中で生涯を終えたかもしれない。一命を賭しての織田との交渉によって義元は織田への臣従を条件に駿河へと送り返された。

 無論、義元も家臣も納得出来る訳がなかった。敗れ、甚大な被害を被ったとはいえ国力の差は歴然である。今川から離脱した徳川を含めても兵を立て直せば今川の勝ちだ。しかし、織田はあっという間に美濃を落とすと浅井との同盟で今川と同等の実力を付けてしまった。さらに武田も織田と盟を結び、今川を攻める姿勢を見せた。北条に援軍を求めた今川だが、色好い返事を見せるだけで肝心の兵を送る素振りを見せなかった。

 ここにきて義元は織田と盟を結ぶことを選んだのである。雪斎の後押しもあった為、家臣からの強い反対も押し切ることが出来た。足利幕府より副将軍格の地位を得ていた今川は織田によって落ちたのである。 

 

「義元様、今ここで説教をお望みですか?」

「あ、いや、結構。雪斎。兵の様子はどうだ?」

 

 どうして分かったのだろうかという疑問を胸にしまい、義元は雪斎に威風堂々と、内心おずおずと尋ねる。

 

「今のところ変わった様子は見受けられません」

 

 雪斎の静かな口調に義元は胸を撫で下ろす。同時に義元は軽く身を震わせた。箱根から下りてきた風が今川軍に向けて強く吹いたのだ。見上げると箱根の山は雪が残っていて、見るだけで体温が下がりそうになる。

 

「雪斎、峠を越えるには如何程の時がいるだろうか」

「箱根峠は険しき道。されど、半日から一日の間に突破出来ましょう。兵の疲労を考えてでも進むべきです」

「雪斎は?」

「私達はおそらく二日程かかるでしょう。義元様は先に上杉軍へ急襲を。さすれば私達と挟撃出来ます。後の足りない軍勢は北条によって補うのです」

 

 義元はもう一度、箱根峠を見上げる。雪化粧と枯れた枝が不気味に揺れているように感じた。

 

 

「義元様、私はこれにて」

「うむ。関東の地でまた会おうぞ」

 

 雪斎とは別れ、義元は本隊を率いて箱根峠へと向かった。兵は一万。雪斎の方は韮山城に残った朝比奈が駿府より来る援軍を率いて増やす手筈となっている。冬の間に進軍出来るだけしてしまい、春になった頃に今川の兵を用いれるだけ用いる算段である。

 毅然とした表情で雪斎と別れた義元は目の前の箱根峠を見て溜め息をつきたくなった。下りてくる風はある意味、今川軍を歓迎しているようだった。

 

 

 

 冬の強行軍はかなり厳しい。分かっていたことだが、箱根峠は風同様に雪も積もっている為、行軍が遅れる。あらかじめ冬の為の装備をしてきた為、凍死者が出ることはなかった。しかし、寒さによって兵の足が遅くなるのは目に見えて明らかだった。

 義元は兵の様子を見て、頭を悩ませる。今いる箱根峠の頂上付近で兵を休ませる訳にはいかない。頂上に登るまで定期的に休息を与えてきたが、強行軍である以上、時は有限である。

 義元は心を鬼にして何も言わずに馬に揺られる。織田信長という人物が成す天下を見たいが為に。

 破天荒な発想とも見れる信長のやり方を面白いと思える者もいる。義元もまたその一人であった。日の本に飽き足らずに世界までを制すると言ってのけた信長は反抗勢力が多いながらもその全てを倒そうとして、実行出来ている。行く末は本当に危ない橋渡りのようにあやふやだが、だからこそ興味が湧くということもある。はたして転がる先にあるのはどちらなのだろうか。今川もまた織田同様に守護大名でありながらも将軍家との縁を桶狭間の前に切っている。その為、織田のような新しい時代には興味がある。

 はてさてと義元は織田の進む先を近くで面白く眺めていた。尾張のうつけと呼ばれた信長はどこまで昇るのだろうかと。昇る道を作る為にも北条にはまだまだ生きてもらわなければならない。上杉と泥仕合を繰り広げてもらい、時が来ればまとめて打ち砕く。

 

「……ふぅ」

 

 義元は身体を震わせる。思考を遮るような冷たい風を背中に受けた義元が上空を見上げると既に夕日は沈もうとしている。既に箱根峠の頂上は越えている。振り返ると峠の頂がかなり遠く見える。

 今日はここで休むと義元は口にしたかったが、雪が降るかも分からない寒さの中で野営をすることなど言語道断である。しかし、兵の足取りは明らかに遅くなっている。

 

「おい」

「はっ」

「しばしここで休みを取ると伝えよ。ただし、火は起こさぬようにと厳命するのだ」

「御意。皆の者、ここでしばし休む! 腰を下ろして良いぞ!」

 

 その声を合図に兵はこぞって腰を下ろす。箱根峠の険しさは徒歩の兵にはかなりの負担なのだろう。義元も馬から降りると様子を見る。かなり疲れているのかかなり大人しくなっている。

 今川軍の足跡は雪が降っていない為か来た道をはっきりと示している。義元は溜め息を吐くと小姓が用意した椅子に腰掛ける。冬は身体が冷える為、気付かない内に体力を消耗する。義元も寒さを堪えていたのと休息による緊張感からの解放で疲れたような溜め息を吐く。

 

「将を集めよ。ここで今一度、軍議を行う」

 

 今川軍は休息を取ったことで緊張感をほとんど失っていた。義元は立ち上がって大きく口を開く。

 

「皆! ここは既に今川の地にあらず、身体を休めども心まで休めるな!」

 

 義元直々の言葉に将兵皆が顔を上げたり、背筋を伸ばすなどの反応をみせる。やはり緩みきっていたかと義元は目を細め、渋い表情になる。そして、ずっと隣に控えていた庵原元政の方を向く。

 

「庵原、兵達に交代で休むように伝えよ」

「はっ」

 

 庵原は頭を下げるとすぐに兵の下には行かず、義元に近付いてきた。

 

「如何した?」

「殿。敵に我が軍の動きを悟られぬよう火を焚かずにいるのはお察し致します。されど、兵にこれ以上寒さを堪えさせるのは危険でございます」

 

 義元は近くにいる兵が身体を震わせているのを知っている。人の通ることが滅多にない冬の箱根峠の中で火や煙が立っているのはどうか怪しんでくれと言っているようなものだ。しかし、家臣の声も見逃すことは出来ない。

 

「……やむを得まい。ただし、必要以上に焚くなと伝えろ」

「御意」

 

 庵原が伝令の為、走って行く。義元も疲労が溜まっていたのか少し瞼が重くなってきた。いかんと思いながらも近くの兵が上げた火は義元に若干の暖かさを与える。隠していた疲労が徐々に義元を襲い、遂に義元は完全に瞼を閉じた。

 しかし、すぐに異常を知らせる喧騒が義元の瞼を開けさせた。義元は顔を上げ、辺りを見回す。兵達が周りを見回しながら騒ぎ出している。

 

「狼狽えるな! 落ち着いて戦況を確認するのだ!」

 

 義元の檄が届いた者はすぐに四方八方に散る。義元が空を見上げると先程までの夕闇があっという間に夜に変わっている。思ったよりも早かったと義元は舌打ちをする。

 

「申し上げます! 後方の部隊が襲撃されている模様!」

「夜盗か!?」

「分かりませぬ」

 

 義元はすぐに状況を詳細に判断するように命じた。兵を待機させ、どこから来ても良いように備える。

 箱根峠を今川が越えることを上杉は察していたかもしれないという想定をあらかじめしていたが、箱根峠にて今川軍を迎え撃つとは思っていなかった。しかも、上杉の方から奇襲攻撃を仕掛けてくるとは義元も思っていなかった。後方からとなるとかなり地理に詳しい者を雇ったのであろう。

 

「敵軍の数は不明! 後方の部隊、敵を徐々に押し返し、北へと追っている模様」

「深追いをせぬように伝えい! 今は守りを固めよとな!」

「申し上げます! 敵によって退路が絶たれた模様!」

「想定内のこと。敵をひとまず追い返すように伝えよ」

「殿、ご無事で!」

 

 庵原が血相を変えて戻ってきた。後方から少しずつ戦闘を行っている声が大きくなってくる。

 

「庵原、兵を率い、後方の部隊との連絡を絶たぬ致せ!」

「殿、御身は!?」

「案ずるな。他の者も戻って来よう」

 

 渋る庵原を急かすように義元は出陣させると自分も後方に下がる為、馬に駆け寄る。後一歩で馬に飛び乗れる。そう思った途端に馬が急に嘶き、暴れたと思うと音を立てて倒れた。

 

「うん。弓の腕は自信がなかったけど上手く行った」

 

 義元は声がした方を向く。女武将が一人で立っていた。否、背後にも気配がある。敵将も兵も武装がきちんとしている。義元は悟られていたのかと奥歯を噛む。

 

「何奴!?」

「問答無用。今川義元と見た。潔くこの地で果てなさい」

 

 将は躊躇わずに槍を振り下ろしてくる。しかし、義元も驚きで身体を硬直させる程、やわではない。義元は刀を抜くと唸る槍を受け止める。途端に義元は顔をしかめた。想像以上に重く、義元の身体に負担をかける。強引に敵の攻撃を振り払うと義元は距離を取って次に備える。

 距離を取って相手を見る。声から女武将であることは分かっていたが、ただならぬ気をまとっている。敵将は義元が仕掛けてこないのを見ると自分から攻撃をかけてきた。

 

「っ……」

 

 速いと思った瞬間に敵将はさらなる攻撃を仕掛けてくる。不気味な程に光る切っ先が義命を刈り取ろうと動物のように義元目掛けてやってくる。義元は冷や汗が止まらない。距離を取ろうとするが、すぐに敵将は距離を詰めてくる。次に悲鳴を上げながら落ちてくる槍を義元は辛うじて受け止める。だが、続けざまに槍が突き出されると義元は思っていなかった。義元は横に転がることで何とかかわす。

 

「さすがに海道一の弓取り。なかなか簡単には討たせてはくれないか……」

 

 将の言葉の中には残念さの中に楽しさを含んでいる。相手が生粋の武人であると悟った義元はやむを得ないと将に背を向ける。

 

「逃がすか!」

 

 義元を追って将は駆けてくる。今川軍は誰もがそう思い、義元を守ろうと壁を作る為に将と義元の間に走る。義元も姿勢を低くして兵の中に紛れようとする。恥ずかしいが、総大将が討たれては何もならない。

 

「背を向けるとは愚かな……」

 

 小さい独り言の筈が義元にはっきりと聞こえてきた。もしやと義元は振り返る。

 

「殿! 危のうございます!」

 

 さすがに義元も槍が飛んでくるとは思っていなかった。身を翻そうにも義元の身体と槍の速さは比べものにならなかった。義元は刀で槍の方向だけでも変えようと試みる。しかし、放たれた槍の重さは義元の愛刀さえものともしなかった。

 

「殿!」

「防げ! 誰ぞ、殿を急ぎここから遠ざけよ!」

「この私が今川義元を討ち取った! 今川の総大将は死んだぞ!」

 

 駆け寄る将兵達と槍を投げてきた将の声が入り乱れる。義元は自らを仕留めた敵を改めて拝もうとしたが、視界がぼやけてしまい、青の服をまとっているとしか分からなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百五十四話 理由が無い

 雪斎は韮山城から足柄峠に差し掛かったところで息を吐き、兵に休みを取って良いと言い渡す。韮山城から足柄峠までは箱根峠と違い距離がある。一日で上杉軍の背後に回り込むのは難しい。

 上杉に読まれている可能性も含め、義元とは綿密な話し合いをしている。問題は上杉軍が背後を取った時である。さすがにそれは無いだろうと義元は言って流していた。しかし、雪斎の不安が拭われることは無い。

 闇が徐々に深まり、頼りになる篝火の周辺に兵は集まっている。寒さを堪えて皆が寄り添っている。雪斎も兵の苦しみをよく分かっている。今は苦しみを無視してでもやらなければならない。上杉を止めるべきという意見の大きくなった織田の中で今川に役目が回ってきたのは当然と言える。

 今川は織田の傘下に入ってからこの方。全くと行って良い程、功が立てられていない。東からの脅威を守ると共に徳川と攻め込むことになっているが、武田と北条の壁は厚い。

 かつての栄光と共に勢いまでも失ったか。そのような陰口もちらほらと出始めていた。しかし、見返そうにも今川に出来ることは西に進む織田の背後を警戒したり、援軍を差し出すことぐらいである。その為、今回の機会は正に千載一遇の好機である。今川が未だに健在であることを示し、織田の中でも侮れない関係にあるということを知らしめる為の。

 別れる前、雪斎は義元にきつく言ったが、大丈夫だと思っていた。義元が油断によって敗れたことで今川軍自体が油断への危機感を強く抱いた。

 

「おそらく承坊は今頃、箱根の峠を突破しているでしょうね」

 

 雪斎の呟きは誰にも聞かれずに空に消えていった。かつて義元が今川家の三男として生まれ、寺に預けられた際、呼称は承坊だった。義元の教育を一手に引き受けていた雪斎だからこそ呼べるのである。今では雪斎よりも年を上回っているように見えるが、相応の実力を付けている。

 織田に天下の趨勢を委ねざるを得なくなったが、義元が生きている限り、雪斎は今川に尽くす。使命でもあり、義務でもあり、義元の思いを叶える為でもある。

 雪斎は一つ息を吐くと目の前の状況に集中する。

 上杉が迎え撃つ態勢を整えていると判断して義元は箱根峠を抜けたらすぐに戦に入れるように陣形を整えておくと言っていた。

 

「大丈夫ですね。今のところはですが……」

 

 戦に絶対は無い。あくまでも可能性の高いものを予測し、有り得ないということへの対処も必要である。雪斎は夜空を見上げると息を吐き、明日に備えて眠りに就いた。

 

「申し上げます! 本隊が上杉軍による奇襲により敗北!」

 

 好機は呆気なく逸することになった。早朝、雪斎が出発すると将兵に命じようとした時、報告は舞い込んできた。雪斎は驚きながらも平静を装い、表情を変えない。

 

「足柄峠に迂回路を確保し、上杉を挟撃出来るかと思いましたが……さすがに上手くいきませんか……」

「雪斎様、如何に致しましょう!?」

「やむを得ません。本隊と合流します」

 

 落ち着いた声で雪斎は指示を出す。本隊が敗れた以上、数の少ない別働隊で上杉に勝利することは難しい。一旦、兵をまとめて義元と合流し、後続の部隊と共に再び箱根峠を越える。

 善後策も考えていた雪斎の内心から本隊敗北の報告による驚愕も既に消えていた。すぐに雪斎は兵をまとめるように指示を下すと思案を始めた。

 しばらくすると兵が皆起きたという報告を受けた雪斎はそちらへと向かう。表情を変えない為、他の者から雪斎の内心を読み取る者はいなかった。

 雪斎が箱根峠へと向かうと命じると兵は一斉に戸惑い始めた。しかし、それは雪斎の想定内のこと。雪斎は今なら味方を助けることが出来ると断言することで兵の士気を保とうとする。そのまま勢いのままに反転を命じる。

 ほんの気休めに過ぎないが、士気を落としたままにするのは良くない。雪斎も馬に跨がり、腹を蹴る。足柄峠を後ろに見て、今川軍は箱根峠へと向かおうとした。だが、蹄の音によって動きは阻まれた。

 

「申し上げます! 上杉の軍が周辺に出現!」

「やはり、伏兵を置いていましたか……件の通りに動くように伝えて下さい」

 

 周辺は開けているが、足柄峠付近には木々がある。また、他にも伏兵を置けそうな場所が数カ所ある。雪斎は事前に確認しておいたが、鬨の声を聞くと兵は思ったよりも少ない。今川軍が予期していないと思ったのだろうか。否、上杉の強さは軍の速さだけでなく、確実に相手の打つ手に対処すること。今川軍が伏兵を予期していたと考え、数を多く置くことも上杉軍なら出来た筈だ。

 ならば、どうして上杉軍の数は少ないのか。声を聞くと数は多くても二千を下回る。雪斎は口元を軽く緩ませた。

 

「伝令を。やはり、我らは密集し、敵を迎え撃ちます」

 

 雪斎はあらかじめ上杉軍の伏兵を各個撃破することで戦意を挫こうとした。兵が今川軍の兵数と同等かあるいは少し多いぐらいと。上杉軍の伏兵の数が少ないのは機動力をより欲したからに過ぎない。数の利を使うことで簡単に上杉軍は崩れる。同時に雪斎は嫌な予感を覚えた。本当に上杉は速さだけを求めて少ない兵で挑んできたのだろうか。

 雪斎は悩んでも仕方ないと頭を振ると目の前に集中する。今川軍は上杉軍の奇襲に混乱しかけたが、今は適切に対処し、善戦している。

 

「南側の敵軍、我が軍と交戦を始めた由。混戦状態の模様」

「数では我らが有利。刀を交えた者、合い言葉を言えなかった者は容赦なく斬り捨てるように伝えて下さい」

 

 雪斎は背中に流れた汗が嫌に冷えていると思った。上杉の部隊は雪斎の予想通り兵が少ない。奇襲のつもりだろうが、対処してしまえば奇襲などただの兵の少ない軍との戦いにすぎない。だが、と雪斎は状況を今一度整理する。そして、気付いた途端に雪斎は顔を上げ、足柄峠へと視線を向けた。

 

「申し上げます! 敵部隊のほとんどが敗走して行きます! 追撃の命を!」

「なりません! 全軍に直ちに足柄峠から来たる敵軍に備えるように伝えて下さい!」

 

 血相を変えた雪斎の叫びは兵を驚かせた。しかし、そのようなことを気にする暇など雪斎には無い。再び足柄峠へと雪斎が視線を向けたのと同時だった。足柄峠より鬨の声が上がり、旗が多く上がった。

 

「ま、まずい。伏兵はまだいたぞ!」

「おい! あの数、かなり多いぞ!」

 

 気付いた兵達が徐々に騒ぎ始め、動揺が広がって行く。雪斎は表情を険しくしつつもまだ対応出来ると判断し、声を上げる。

 

「落ち着きなさい! 敵軍のほとんどは既に敗走状態。勝っているのは我らなのです!」

 

 兵に広がる同様が徐々に収まる。雪斎は一度、間を置くと足柄峠に上がる旗を指した。

 

「打ち倒すべき敵は今、あの軍のみ。倒せば我々の勝利は確実です!」

 

 雪斎は言葉を発しながら安堵していた。徐々に兵の雰囲気から悲壮感が無くなってきている。周りの兵だけだが、徐々に動揺が収まっていくのを待っていれば良い。後は上杉に対処するだけだが、雪斎は足柄峠の敵とまともに戦う気など無い。

 

「距離を取り、逆落としをかけられない所で迎え撃ちます」

 

 密集したところに勢いのまま突撃をされるのは混乱を招きかねない。万が一、雪斎の思惑通りだとすればこのままでも勝てるが、何が起きるか分からない。朝日が眩しく東の空から顔を出してくる。雪斎は太陽を目に入れないようにして足柄峠の上杉軍を見る。旗印は上杉以外に最上のものもある。兵の数は同じくらいだろうかと雪斎が思っていると足柄峠の旗が山を下り始めている。

 

「初段の攻撃は矢です。竹束と木板を前に置き、指示があるまで前に出ないように」

 

 雪斎の命を聞いた者達が散っていく。それからしばらくすると上杉軍から放たれた矢が今川軍の方へ向けて降ってきた。逆光を利用して被害を大きくしようと思ったのだろうが、雪斎はそのようなこと承知済みである。

 次にどう出るのか。雪斎が動かずじっと待っていると上杉軍は一気に動いてきた。

 

「敵軍。真っ直ぐこちらへと突撃を仕掛けておりまする!」

「ならば、こちらは更に後退します。弓兵と鉄砲隊を前に。上杉の勢いを挫くのです」

 

 今川軍が罠にかかったと思っている上杉軍の士気は高い。そして、雪斎は先程の北と南から攻めてきた伏兵の不自然な撤退にも疑問が残っていた。

 

「おそらく、撤退した伏兵は態勢を立て直し、再び攻めてくるつもり……足柄峠の上杉軍が本隊だとすれば、三方向より攻めてくる……ですが……」

 

 雪斎は伝令兵を呼ぶと伏兵ごと上杉軍を撃ち破る為、陣形を整えるように指示する。義元が敗れたからこちらも負けるつもりはない。本隊と合流し、後続の部隊との数を合わせれば上杉と対等に渡り合える。仮に再編を要する数でも北条と小田原城なら後半年は保つだろう。後はどのようにでもなる。今川にとっての利益が転がり込むなら北条が如何に犠牲を被ろうとも構わないのだ。

 織田から受ける恩恵は少し減るだろうが、今川にとっての損害が減るのであれば何ら問題ではない。上杉とまともにぶつかって今川軍の損害が大きくならなければそれで良いのだ。織田の中で今川の存在が小さくならなければ良い。

 雪斎は一つ息を吐くと戦況を見定める。比較的日も昇ってきた為、上杉の位置も把握出来るようになった。上杉軍は足柄峠を背にして魚鱗の陣を整えている。

 

「関口殿に防戦に徹するように伝えて下さい。上杉は勝負を決しようと焦る筈。時が来るまで待つようにと」

 

 雪斎の言葉を伝える為に出て行った伝令兵と入れ替わりに他の伝令兵が駆け込んできた。

 

「左右より伏兵が再び攻勢を仕掛けておりまする!」

「天野殿に兵を分けて対処するように」

「それが、先程の伏兵よりも遥かに数が多いと」

「ほぅ……」

 

 雪斎は狼狽えることなく、そうきたかと少し考える。予想外ではあったが、雪斎の率いる兵の中から少し引き抜けば良い。

 

「援軍として私の隊から三百を向かわせて下さい」

 

 周りの守りが薄くなるが、雪斎は別に構わなかった。敵の狙いは間違いなく雪斎自身。ならば、到達出来ないようにすれば勝利である。

 一刻程経つと敵の動きが少しずつ弱くなってきた。雪斎は上杉の動きを見逃さず、撤退の指示を出す。上杉軍に負けなければ良い戦である以上、深追いは無用である。

 朝日もすっかり顔を出し、眩しさも和らいできた。上杉軍が追撃してくる様子も無く、今川軍は順調に進んでいる。上杉軍も本隊を破った為、別働隊にはあまり気を引いていなかったのかもしれない。だが、雪斎は少し疑問を残していた。あそこまで手の込んでいた兵の動きと最上の増援で簡単に諦めてしまうのだろうか。

 ふと雪斎は顔を上げた。箱根と足柄の間にはもう二つの移動可能な峠がある。しかし、長尾峠と湖尻峠は箱根峠、足柄峠よりも整備されていない為、軍での移動は困難であるとされている。そこに雪斎は確信を持った。

 

「湖尻峠……」

 

 横に見える峠を呟くと雪斎は全軍に急ぐように伝える。将兵は雪斎に従って更に足を速め、雪斎の後ろに付いて行く。急な命令に首を捻る者もいたが、それはすぐに解決された。

 

「後続の部隊。襲撃を受けている模様!」

「敵です。すぐに突破するように伝えて下さい」

 

 やはりと雪斎は唇を噛んだ。もし、気を抜いてただ合流する為に移動していれば今頃雪斎も巻き込まれていただろう。湖尻峠を突破すればもう箱根も近い。しかし、上杉軍も簡単に今川軍の行軍を許さない。

 

「前方に上杉と思われる軍勢が!」

「本隊を破った軍がこちらに向かっている……数は分かりますか?」

「一千かと」

 

 それぐらいなら突破しても良いが、更に増援が来ると考えて良いだろう。本隊との合流を諦めるしかないと結論付けた雪斎は前の敵に構わず進軍路を変えるように指示を出す。上杉軍も動き出したようだが、雪斎は構うなと声を上げ、統率を保つ。雪斎の指示で今川軍は一気に西へと進軍するが、上杉軍も騎馬を主力としていたのか動きが速い。

 

「全力で駆け、上杉の包囲が縮まる前に突破するのです!」

 

 今川軍は更に速度を速めるが、後続が続々と上杉軍に飲み込まれていく。引き返そうにも上杉軍の勢いを考えると反転して陣を整えるのは難しい。雪斎は前を向き、後続の軍を無視することにした。雪斎が止まってしまえば今川軍は敗北したも同然である。

 

「(少々の犠牲はやむを得ませんか……)」

 

 

 雪斎がひとしきり上杉軍を振り切ったと判断した時には既に昼前になっていた。走りっぱなしで兵の疲れはかなりのものになっている。さすがの雪斎も更に皆を酷使させる訳にいかず、休息を取るように伝えた。 戦に集中していた為、気付かなかった寒さが将兵の体を襲う。雪斎は敗れていないものの被害を多く受けた今川軍を見て、表情を険しくさせる。上杉軍にもそれなりの損害を与えたのだから良しとしたいが、予想以上に受けた損害にそうもいかなくなった。

 

「雪斎殿、ここにおられたか」

「これは関口殿、何か?」

 

 関口親永は今川家に長く仕え、幕府の奉公衆に任じられていたこともある老将である。

 

「本隊を諦めるのはやむを得ないのか?」

 

 雪斎の隣に座ると関口は険しい表情で本題を切り出してくる。

 

「残念ですが、今の私達で本隊を破った上杉軍にまともにぶつかるのは下策かと」

「それでは義元様が……」

 

 関口の顔の皺が深くなる。それだけで主を亡くすことへの恐れと今川への忠誠がよく分かった。しかし、雪斎は大丈夫だという確信があった。

 

「朝比奈殿が率いる増援も合流しているでしょう。故に、本隊に当たった上杉軍も私達に向かってきたのです」

 

 確信があるという雪斎の口調に関口はならば大丈夫だろうと少し表情を和らげる。雪斎も上杉軍は夜から早朝にかけて冬の峠では体力の消耗も激しい筈だと考えている。しかし、雪斎の胸元に残るわだかまりはどうしても拭えない。

 

「どちらへ?」

「少し、周りを見て参ります。すぐに戻りますので共は必要ありません」

 

 動くまでまだ少し時間がある。少し自分の中に流れている空気を入れ替えればどうにかなるだろうと思った雪斎は軍から離れ、散策を始める。

 林の中はすっかり葉が散っている為、淋しさを募らせる。近くにあった小池も寒さを増長させる。しかし、雪斎は足を止めずに軍から離れない程度にあちこちをうろうろした。

 本当にどうして自分がこうしているのか雪斎も分からない。ただ歩を進めていれば何となく何かありそうだと思った。林や草村、小池の周り、洞穴の中などを見たが、結果として何もなく、ただ無為に時間を過ごした。雪斎は溜め息を吐くと軍が休息を取っている方へと足を向ける。

 

「そろそろ、時間ですね……」

 

 雪斎が空を見上げると太陽の位置が軍から離れた時よりも少し動いている。冷たい風が強くなってきた。これ以上、止まっているのは兵の体調にも影響が出る。期待外れになって残念だと思いながらも足を踏み出した途端だった。

 

「あなたが太原雪斎殿ですか?」

 

 背後の声に雪斎は何故だか驚くことが出来なかった。必然的なことではないにもかかわらず、分かりきっていたことだと。本当に何となくだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百五十五話 消えた巨頭

 龍兵衛が軍からはぐれてしまったのは本当に大失態だった。義元の死を見届けた後、別働隊のことも想定していた官兵衛の案で救援に向かおうとしたが、今川軍は簡単に挟撃を突破してしまった。慌てて龍兵衛は追撃しようと指示を出したが、途中で自分が軍からはぐれてしまったことに気付いた。理由は深追いしようとした最上の部隊を見つけ、止まるように自ら向かおうとしたら道が分からなくなってしまったのだ。

 

「やらかしたなぁ……」

 

 大体、帰り道は分かるが、間違えて今川軍と鉢合わせになった時のことを考えるとあまり動きたくない。

最上のことは諦めようと龍兵衛は溜め息を吐き、軍に合流する為にそっと移動することにした。

 周りは本当に何もない。これを宗二のような茶人はわびさびと言うのだろうかと分かっていないことを適当に考えながら合流する為に歩く。

 

 それは本当に偶然だった。龍兵衛が大丈夫と分かって歩いていた方向に何故か知らない人がいたのだ。容姿、服装からかなり位の高い将だと分かる。上杉軍にはいない。かといって上杉に従軍している大名の者でもない。今川軍の者だと分かった時、相手は龍兵衛に気付いていなかった。だからこそ、背後から不意打ちを食らわせることも出来た。しかし、龍兵衛は身体よりも口が先に動いた。

 

「あなたが太原雪斎殿ですか?」

 

 自然に自分の口からこぼれた台詞に慌てて龍兵衛は口を噤む。やはりばれてしまい、相手は龍兵衛の方を向いてきた。

 

「ええ、そうです」

 

 相手は簡単に頷くと軽く微笑みかけてきた。嘘かもしれないと思ったが、龍兵衛は何となく合っていると思った。正直なところ初めて雪斎と対面し、少し拍子抜けした。義元の教育係として長年、今川の中枢に居座り続けた大物が若々しい風貌をそのままにしている。

 

「あなたは少し女子に対して失礼なことを思うようですね」

 

 少し雪斎の表情が険しくなったのを見て、龍兵衛は驚いた。景勝ならまだしも初めて会った人に思っていることを的中されるのは初めてである。だが、素直に認める程、龍兵衛の性根は真っ直ぐではない。

 

「気のせいでは?」

「……上杉の者は気骨のある者ばかりと聞いていたのですが、違うようですね」

「情報は薬にもなれば毒にもなる。自分も今川に仕える軍師殿はかなりの老年と聞いていたのですが」

「やはり失礼な方ですね」

 

 雪斎の口調から不機嫌さは全く見られない。何故だか楽しそうにしている。龍兵衛はそう感じ、違和感を抱いた。どうして自分は雪斎の思いを確証が無くても分かるのだろうか。思い返してみると先程、雪斎もこちらの思っていたことを悟ったようだった。何故、そのようなことが起きるのだろうかと思っていると龍兵衛の頭の中を何かがよぎった。

 

「どうかしました?」

「義元様が無事であることを願う……」

「……」

 

 雪斎は驚いた表情で龍兵衛を見てくる。何となく思っているのではないかということを龍兵衛は口に出してしまった。

 

「いえ、何となくそう思っただけです」

 

 慌てて言い繕うが、雪斎の表情はかなり真剣なものになっている。じっと龍兵衛を方を向き、何を考えているのか分からない。

 

「あなたからは私と同じ気を感じます」

「はい?」

 

 突破のことで間の抜けた声を発した為、雪斎はおかしそうに笑みを浮かべる。今まで浮かべていた怜悧な裏を隠したものではなく、屈託のないものだった。ひとしきり笑い終えると雪斎はむくれる龍兵衛に詫びを入れて改めて向き合う。

 

「何か術をかけられたのでは?」

 

 龍兵衛は思わず唸ってしまった。取り繕うにも雪斎はそれよりも早く問い詰めてくる。

 

「そうなのですね?」

「あなたはどうなのですか?」

「質問を質問で返すのは良くないですね」

「人は先に自分のことを話さないといけませんからね」

「残念ですが、私はあなたが思う程、良い人ではありませんから」

 

 龍兵衛は答えずに雪斎を見る。雪斎は既に構えを解いていて、攻めてくるような雰囲気はまるで無い。しかし、相手が今川の屋台骨である人物である以上、油断は出来ないと龍兵衛は刀に手を置き続ける。

 

「互いにこのような所で討ち死したとなれば恥でしょう?」

「有益なことの為なら敵の恥も関係無いのでは?」

「それは私があなたに勝った時です。負けた時のことを考えれば博打をすべきではありません」

 

 龍兵衛は鼻から息を小さく吐くと刀からゆっくり手を離す。それを見て笑顔で頷いた雪斎は少し距離を縮めてきた。

 

「話が途中でしたね……」

 

 龍兵衛を促すような口調で雪斎は答えを求めてくる。しかし、龍兵衛もそう易々と自らの身にかかった突然変異のような出来事について話すような馬鹿ではない。 

 

「そうですね……確か、少女のような容姿でありながら私よりも遥かに大人のような雰囲気を持っていました」

 

 簡単に身の上話の前置きを話し始めた雪斎に驚き、龍兵衛は慌てて口を挟もうとする。

 

「いや、自分は女性であったが……」

「そうでしたか……他にもそのような方が……」

 

 咄嗟のことであったとはいえ龍兵衛は失態に気付き、口を噤む。何とか言い逃れ出来ないか頭で模索したが、答えが見つからない。何故、あのことを言おうとしたのだろうか。龍兵衛は頭の中で考えようにも理解出来ない。

 雪斎の方は同一人物の仕業であると思っていたのか驚いたように声を漏らしている。龍兵衛は隙だらけの雪斎に斬りかかろうと思ったが、金縛りにかかったように動かない身体のせいで出来ない。おかしいと思いながらも龍兵衛は雪斎の言葉を待つしか出来ない。雪斎の方も龍兵衛の身体の異変に気付いたのか首を傾げている。

 

「何でもありません……」

「そうは見えませんが」

「近付くな!」

 

 龍兵衛の鋭い声は雪斎の足を止めたが、隙だらけであることをはっきりとさせてしまった。辛うじて動く手で刀を取ろうとする。しかし、雪斎がその必要は無いと頭を振った。

 

「私はただあなたと話をしたいだけです」

「自分は早く戻りたいです」

 

 どうしても雪斎は話を聞きたいように感じたが、龍兵衛もおいそれと話すようなことなどしない。平行線を貫こうと雪斎の誘いをはぐらかす。金縛りから若干解放された為か龍兵衛の身体中に汗が流れ出した。

 

「私は以前、あなたに術をかけた人と同じような術を持つ方に一度お会いしたことがありました」

 

 雪斎は龍兵衛の様子を見て仕方ないと判断したのか自分の話から始めた。

 

「あなたが術をかけられたのならば会うのは当然では?」

「ああ。言い方が悪かったですね……夢の中でお会いしたのですよ」

 

 分からないと龍兵衛は首を捻るが、大体のことを理解出来た。おそらく術を使える者が人の夢の中に入り込み、何か言伝のようなことを行うものだろう。自分には起きたことが無い為、どのようなものなのか知らないが、龍兵衛は信じることにした。

 

「どのようなことを?」

「……信じるのですか?」

「人が信じないことを本当だと思い、考えるのも必要なことでは?」

 

 雪斎は納得したように笑うと口を開く。

 

「『貴方に不幸と面白いことが起こる』と」

「分かりませんねぇ」

「でしょう?」

「どのような方だったのですか?」

 

 何故、会話が弾んでいるのだろうと思いながらも龍兵衛は聞かずにはいられなかった。自分に術をかけた人物に興味を持った雪斎と同じように龍兵衛も好奇心が動いた。雪斎が何かしらの術にかかっているのは間違いないが、同一人物でないというのは非常に気になるところなのだ。

 

「髪の色が中心で分かれていて、容姿も幼げであったのですが、私などよりも遥かに年を取っているようでしたね……」

 

 今の台詞から龍兵衛は雪斎の年がやはり自分の思った通りかなりいっているのだと確信したが、言わないことにした。

 

「ふふっ、あなたの思った通りです。私はかなり年ですよ」

「……どうして分かったのです?」

「分かりません」

 

 雪斎の笑みに龍兵衛は背筋を凍らせた。先程とは違い、目が全く笑っていない。気に食わなかったのだろうが、素直に謝るという選択肢などない。

 

「義元様はどうなったのですか?」

 

 雪斎が怒るかと思ったが、すぐに話題を切り替えてきた。密かに龍兵衛は安堵した。

 

「我々にとっては残念なことに逃げられました」

「そう、ですか……」

 

 龍兵衛は首を左右に振ってみせると雪斎の表情が曇った。

 

「やはり、ですか……」

「何がでしょう?」

 

 義元の最期を龍兵衛は近くではないが、見届けている。そのことを知れば冷静な雪斎でも龍兵衛に怒りを向けるだろう。しかし、雪斎は静かに顔を上げると静かに尋ねてきた。

 

「承坊は討たれたのですね?」 

「承坊……まさか……!?」

 

 悟られたことよりも龍兵衛は雪斎の口から義元の幼名が出てきたことに驚きを隠せなかった。雪斎を見ると自らの失態よりも何故、驚いているのかという目で見てきている。 

 

「年を取っていると言った際に既に気付いているのかと思いましたが」

「嘘だと思いました」

「疑り深いですね……当然ですか」

「では、あなたはやはり……いや、止めましょう」

「賢明です」

 

 雪斎の雰囲気からただならぬものを感じた龍兵衛の判断は正しかった。密かに安堵すると龍兵衛は素直に義元の最期について話した。雪斎はその話に口を挟むこともなく、運命と捉えているように黙って表情を変えずに聞いている。

 

「何かお聞きしたいことは?」

「いえ、結構です」

 

 感情の無い、冷たい横顔が龍兵衛の心に深く刻み込まれた。無性に龍兵衛は腹立たしくなった。雪斎と義元どうして長年共にいた同士のような存在の筈である。義元の死に最初に動揺こそすれ、その後は冷淡とも捉えられる程に簡単に受け入れている。

 

「何故……」

「私がかけて頂いた術によって承坊よりも後に死ぬことは知っておりました。ですから今生の別れが少し早くなっただけなのです」

「しかし、寂しいとは思っている」

「思っていても運命は変わらないでしょう? それに、夢の中とはいえ教えて頂いたのですから」

「それでも少しは感情に出すべきでは?」

「軍師が敵に真の感情を表し、利益を得ることはありません」

「それでは本当は悲しいと思っているのですね?」

 

 言動で示さずに雪斎はただ微笑んだ。龍兵衛は唖然としてその表情を見る。目を見開いている龍兵衛が端から見れば雪斎に見惚れているように見えたかもしれない。ただ怒りを通り越して呆れていたのである。

 何故、心の奥底で思っている筈の感情を言い当てられ、平然としていられるのか。もしかすると心から寂しくないと思い、義元の死を簡単に受け入れているのだろうか。たとえそうだとしても雪斎の思いを龍兵衛は理解出来ない。本当に抱いている感情は何なのだろう。相変わらず雪斎は感情の無い笑みを浮かべている。

 いっそのこと動くようになった身体で怒りにまかせて一発殴ってやろうかと龍兵衛は拳に静かに、強く力を込める。木々を利用した冬の寒い風の音が周辺に響き渡った。

 

「雪斎殿ー! いずこにおられるー!?」

 

 林の奥から聞こえる声に龍兵衛は腰を伸ばし、辺りを見回す。足音が聞こえない為、近くはない。

 

「残念ながらここまでのようですね」

 

 心底そう思っているのか名残惜しそうに龍兵衛を見ると雪斎は頭を下げ、ゆっくりと身体を反転させる。どこまでも悠然としている雪斎に羨望の思いが募った。そこまで人のことに冷淡になれるならばと思ってしまう。

 抱いた感情が身体を突き動かし、雪斎に近付くと龍兵衛は肩を強く掴む。驚く雪斎をよそに耳元を口を近付け、小声で一言囁くとすぐに距離を取る。

 

「それが自分に望ましい術をかけた人です」

 

 耳元で囁いていた時まで見せていた驚愕の表情は既に雪斎から消え、真剣なものへと変わっていた。互いに何も言わずにしばらく目と目を見合う。風が二人の髪を揺らし、木々に残った枯れ葉を飛ばす。

 

「ありがとうございます」

 

 何かを成そうという気概を全て無くし、価値の無い言葉が龍兵衛の心を満たした。そして、自らが抱いている感情に素直に向き合えた。雪斎が視界から消えても立ち尽くしたまま動かない。瞬きもせず、呆然と雪斎の去って行った方向を眺めることしか出来ない。

 

「おーい、河田よー! すまぬ、はぐれてしもうて。案内を頼む!」

 

 探していた義光の声で我に返った龍兵衛は急いで駆け出す。一度だけ振り返ったが、風だけが存在していた。

 

 

 

「謙信様。今川義元は討ち死。太原雪斎は行方知れずと報告が」

「そうか。これで今川はしばらく混乱するだろう」

 

 謙信の表情は涼しいままだった。歓声が陣幕まで響いている。外を見てみたいと謙信は立ち上がった。陣中では「今川義元、前田慶次が討ち取った!」と慶次が義元の首が入っているのであろう布を振り回している。その度に歓声が沸き立ち、徐々に下がっていた士気が盛り上がっていると伝わってくる。

 

「謙信様。このことは北条にも直に伝わるでしょう。今が内に……」

「……越後に帰るか」

「えっ?」

 

 驚いた兼続が顔を上げ、謙信の表情を伺うと本気であると悟った。

 

「し、しかし、小田原城の蓮池門から既に二の丸まで攻め入っております! 里見殿の水軍による小田原城南からの放火や黒田殿の調略によって落城まで後僅かになっております!」

「このままでは春を迎える。兵達は田植えがあろう」

「それについては龍兵衛が越後中を回って頭を下げに回ったではありませぬか」

「いや。それはあくまでも最悪でのこと。私は最悪の形で勝とうとは思いたくない。それに、関東にかかりきりだった為、他の動きも気になる」

 

 兼続は謙信の最後の言葉が本音なのだと悟った。年をまたいでまで関東に遠征を続けた上杉の疲労を狙って一向一揆や武田が越後を狙うとも限らない。 

 謙信が憂いているのは邁進に付いて行けないかもしれない民達のこと。あくまでも極力だが、民の生活を殺してまで謙信は何かを取ろうとしない。兼続もそれは承知である。

 しかし、利益を優先するならばこのまま止まっていた方が良い。北条を倒せば広大な関東の平野を得られる。龍兵衛曰わく、変えられるだけ変えれば関東は日の本随一の農産地になると言っていた。そして、商いにおいても同様だと。締めくくりに今まで苦労して得た東北よりも関東を得れば遥かに多くの利益を得られると言って。兼続は龍兵衛の言葉を借りて説得しようと試みたが、謙信は首を横に振る。

 

「それは龍兵衛から聞いた。此度は此度。今川も主を失い、この冬に強行した兵は精鋭の筈だ。立て直しには時間を要するだろう。それに、我々にも我々のやることがある」

 

 謙信の言葉が意味するところを兼続もよく分かっている。上杉軍は越冬の為、物資が不足し、兵も消耗している。しかし、土地を得なければ戦を行った意味が無い。取った関東の地を手放すことになるのが必至である以上、不満の声が上がるかもしれない。もっとも、兼続は北条との戦を続け、背後を固めた上で早く上洛をしたいというのが本音である。その為に多少の無理をしてでも勝ちたい。謙信の首を縦にさせられればの話だが。

 

「小田原城という巨大な兵器がある北条を倒すのは戦続きの我らには無理だということが分かっただけでも良い」

「武田や一向一揆との戦に目を向けると?」

「仮に北条が我らと同じ程の時を得て軍を整えたとしても我らと直接刀を交えることはない。援軍の要請が来ても伊達らに任せるようお前達は強く言うだろう?」

 

 今の北条なら残った関東の者達も十分に渡り合えるだろう。兼続は小さくはっきりと頷く。

 

「ならば、撤退しても良いだろう。皆には迷惑をかけるがな」

 

 佐竹や里見にとって北条へ引導を渡す好機をここまで来てふいにされるのは面白くないだろう。兼続もそのことを憂いていたが、謙信が決めた以上、従わなければならない。謙信の決意が固いようだと思い、兼続も不満を押さえなければと息を吐く。

 

「承知致しました。ならば撤退の時は?」

「ひとまず鎌倉にて関東管領の就任の儀を正式に行わなければなるまい。終わり次第、直ちに撤退だ」

「御意。ならば今宵にでも皆に伝えるべきかと」

「うむ……」

「如何なさいましたか?」

 

 謙信は一度何でもないと言いながらもやはりと口を開く。

 

「北条は景勝を殺めようとした。そして、我らも北条一族の北条氏邦を殺めた。これで上杉と北条は完全に相容れない者同士となったな」

「我々と武田もまた、と?」

 

 陣の奥へ向かおうとしていた謙信の足が止まったのを見て、兼続は余計なことを言ってしまったかと口を噤む。

 

「そうだな。だが……」

「報告!」

 

 謙信の言葉を遮断する兵の大声が背後から聞こえてきた。兼続は振り返ると顔を真っ青にした兵が跪いている。

 

「如何した?」

「今川義元が首、何処かに消えた由!」

 

 兵に問いた兼続も未だに小田原城を眺めている謙信も兵の言葉に息を呑んだ。兵が言うには慶次は首を見えやすい所に置いておいた。その後、一瞬の隙を突かれて首を盗られたようだ。

 

「何故に!? きちんと監視していたのか!?」

「はっ! 決して目を離すようことは……」

「現に盗まれているではないか!」

「よい、兼続。義元の首があろうと無かろうと死んだことに変わりはない。北条にも報せは届いているだろう」

 

 謙信は兵に義元の首を徹底的に探すように命じると兼続に近くへ来るように手招きする。

 

「先程も言ったが、今川が義元のおかげで織田に降ってもあれほどの大国を治めることが出来ていた。しかし、子供の方はまだまだと聞いている。当分今川も北条を救えぬ」

「ならば、一層北条を叩く好機では?」

「いや。これで北条は小田原城から出ることはないだろう。如何に北条の士気が落ちようと小田原城を落とすことは難しい」

 

 撤退する理由を前々から探していたのではないかと兼続は思った。もしかすると謙信の中で小田原城を落とすことは出来ないと確定されていたのかもしれない。兼続は何か反論を見つけたかったが、民という言葉を使ってきた謙信には出来ない。兼続も民のことを第一にしているからだ。

 

「いつか皆が平等になることはないのであろうか……」

 

 意味も無く呟いた謙信の言葉が兼続の心に深く止まった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百五十六話 叶うことの無い思い

「それは無理なことだ」

 

 兼続は龍兵衛に謙信と話していたことを伝えると一刀両断された。首が消えたことに関しては知らないと言われ、保留することにした。

 

「人は誰かに支配されないと自らを律することが出来ない。仮に例に漏れる者がいてもそれは少ないよ」

「だからこそ、皆を律するべき者がいなければならない。か?」

「そ。支配する者がいてこそ秩序は成り立つ。どんなことでもな」

 

 龍兵衛は立ち上がると空を見上げる。ただ、立ち上がりたかっただけだと兼続は直感で分かった。曲がっていた腰を伸ばそうと手を組んで上に上げ、左右に揺らしている。

 

「仮にそのような世が出来たら?」

「出来たとしてもいずれ人々は矛盾や平等から成る疑問によって崩壊する」

「絶対か?」

「ああ」

 

 頷いてみせると龍兵衛は充分だろうと腰を下ろした。しかし、兼続は納得行かないと龍兵衛の前に出る。陣幕の外から聞こえる兵の声や足音がより大きく聞こえてきた。

 

「確証があるのか?」

「うん……」

 

 自信なさげな返事の後、龍兵衛はおとがいに手を当て、少し考えると諭すような口調で兼続の目を見る。

 

「仮に皆が平等な世を作ったとしよう。先程言ったように支配者がいなければ、のところは省く。完全な平等ということは職から得る利益も平等でなければならない。分かるな?」

「つまり、成果を如何に人よりもあげようとも貰える食い扶持も成果の低い者と同じであるということか?」

 

 兼続自身、謙信の呟いた言葉に疑問を抱き、尋ねてみたのだが、確信があると強く頷く龍兵衛にやはりそうなのかと思ってしまう。

 

「だが、それはかなり極端な話だな」

「それが完全なる平等というものさ。いずれ根幹から崩れるのは目に見えている」

「だからこそ、お前が言う支配者は必ずいるということか」

「そ。支配者が謙信様や景勝様のような方であれば良いけど、明や朝鮮から聞くような暴君だと国は根幹を乱すことになる」

 

 先程から龍兵衛の口調が乱暴になっていることに違和感を抱きつつも兼続は何となく納得した。謙信や景勝ならば良き支配者として道を違えることなく民を導き、国内の平和を続けられるだろう。暴君と知られた者達は日の本、明の歴史を辿れば確実に身を滅ぼした。また、その身が果てた後に国は滅んだ。

 

「隣り合わせということか」

「不安になるのは分かる。国をまとめて盤石なものにするには一代では出来ないからな」

 

 自分の表情が険しくなるのを兼続は感じた。まるで謙信と景勝では成すことが出来ないと言っているようなものだ。誰かに聞かれていたら救いようがない。人はいない為、聞かれていないようだが、もしものことを考えれば失脚も免れない。

 もちろん兼続にも龍兵衛の考えは理解出来る。鎌倉や室町の歴史を見れば、一代で体制を安定化させたことが無い。龍兵衛はよく歴史から物事を考える。細々したことを覗いて大まかなものは一通り同じであるというのが龍兵衛の主張の根底にある。

 だが、仕えている者として前例に無いことを成せると信じている兼続としては龍兵衛の言い分をすんなりと受け入れる訳にはいかない。心の防壁が謙信と景勝なら出来ると言って不可能という主張と戦っている。

 

「それにしても、謙信様はどうしてそんなことを急に言ったんだ?」

 

 話を逸らそうとしたのか龍兵衛は首を捻り、問いかけてくる。外から数人分の足音が聞こえてきた。兼続は感心したと息を漏らしつつも突き放すような口調で「私に聞かれても困る」と言った。

 

「だよな」

「分かっていたなら言うこともないだろう?」

「気付いていたなら言うこともあるまい」

 

 龍兵衛が顎で外を差す。兼続は表情を変えずに鼻で笑った。かつての経験からか龍兵衛は人の気配に敏感なところがある。

 

「しかし、謙信様がどうしてそのようなことを仰ったのか。私も気になる」

 

 兼続は謙信の零した言葉の方に頭が行っていた為、どうして謙信はそのようなことを言ったのかについて考えていなかった。龍兵衛の言うように謙信は民のことを気遣う発言をよくしていたが、今回のように大き過ぎるような理想について口にするのは初めてだった。

 

「何かありそうだったか?」

「いや、特には」

「じゃあただの譫言か?」

「たった今、そのようなことを言ったのはどうしてなのか聞いてきたばかりだろう?」

「そりゃあ、そうだけどさ……」

 

 颯馬でもいればそれとなく彼の口から聞くことも出来ただろうが、相手が謙信ではなかなか難しいことだ。はぐらかされて終わりか、下手をすれば「そのようなこと言ったか?」と笑われてしまう。景勝に頼もうにも恐れ多い。

 

「……はい!」

「うわ!?」

 

 龍兵衛が目の前で手を叩いて大きな音を立てた為、兼続は反射的に声を上げて後ずさる。何をするのだと詰め寄るが、龍兵衛は至極真面目な表情になっている。

 

「今、そんなこと考えてたって無駄だろ? 後回しにして帰ってからでも聞けば良い」

「……確かに、そうだな……」

 

 今やるべきことから兼続の思考は完全に外れていた。感謝すべきなのかもしれないが、龍兵衛のやり方は気に食わない。どうしてもっと穏便な方法で出来ないのか。おそらく尋ねればこれが一番良かったと思ったと有無を言わさない口調で押し切るだろうから聞かないが、最近の変わり者ぶりには眉をひそめたくなる。

 一体、何が原因でそこまでひねくれた性格になったのだろう。きっかけも無く変わった龍兵衛に最初は驚き、何があったのかと調べる者もいた。しかし、自分の身の回りにはよく気を払う龍兵衛ではなかなか分からずにうやむやになってしまった。

 別に良いかと兼続は内心で適当に片付ける。人が変わったところで龍兵衛の上杉に対する忠義は変わらない。

 

「さてと……関東の反北条の連中にはどう詫びを入れるか考えないとな」

「そうだな……」

 

 渋い表情の龍兵衛に兼続は溜め息で答える。関東の大名が集ったところで北条に引導を渡すと言った以上、簡単に引き下がる訳にはいかない。理由は後付けでいくらでも出来るが、諸大名達にとって都合を全く考えていない為、信用が落ちるは明らかだ。

 

「ま、そこはまた必ず関東へ討伐をすると言えば大丈夫だろ」

「そう簡単に上手くと思っているのか?」

「いや。でも、そう信じなきゃやっていけない。撤退するのは謙信様の命令だからな」

 

 兼続は鼻を鳴らして息を吐きながら渋々頷いた。過程こそ人それそれだが、上杉の者達は基本的に謙信の命令には従順である。今、兼続達がやるべきことは撤退に向けて北条に悟られないよう準備を進めることだ。

 

「仕方ない。やるか」

「そうだな」

 

 兼続より少し遅れて龍兵衛も腰を上げる。だが、一歩だけ歩いて龍兵衛の足は止まってしまった。  

 

「どうした?」

「あるにはあるんだよなぁ……」

「何がだ?」

「それなりに皆が平等になるようにする仕組み」

「本当か?」

「だが」

 

 身を乗り出す兼続を押さえるように龍兵衛は手を挙げる。

 

「今の日の本を根底から覆す程の行動をしなければならない。下手をすれば日の本は全てを失う」

「全てとはどういう意味だ?」

 

 龍兵衛は表情を変えずに鼻で笑って答えた。一瞬、頭に血が上り、突っかかりそうになったが、兼続は踏みとどまり、聞かないことにした。その後に龍兵衛が浮かべた表情に何か言いたくないようなことも含まれていると直感的に思ったからだ。普段の兼続なら構わずに問い質しただろうが、龍兵衛の表情はあまりにも冷た過ぎた。兼続の頭に浮かんでいた考えを全て凍てつかせる程に。

 

「さ、支度を始めるとするか」

 

 呆気に取られていた兼続は慌てて龍兵衛の隣に並ぼうと駆け出す。伺うと何も考えていないような無表情になっていた。表情から伺えない以上、龍兵衛の口から聞くしかない。だが、先程見せた冷たい表情から兼続は聞くのを諦めた。

 

「それにしても、義元の首はどこに行ったのだろう?」

「さぁな」

 

 それ以降、めっきり会話数は減ってしまい、気付けば龍兵衛の姿は無くなってしまった。しかし、兼続は気にせずに作業を続けた。他の所で作業をしているのだろうと思い、夕焼けの眩しさに目を細めながら。

 

 

 

 

 地面からさくさくという残雪を踏む音が小さく聞こえる。空を見上げれば見事な星空が広がり、新月である月の代わりをしている。しかし、星だけでは月のような大物に適わず、人へ明かりを与えるには足りないようだ。なかなか分からない足元を一歩一歩確かめなければ、山道は進めない。

 狼や熊が出る危険もあるが、そのようなことを気にしている暇など無いと進む。白い息だけが闇色の中で異なる色となり、辛うじて目が慣れてきた人に自らは生きていることを示す。かじかむ手をはめている手袋の上から擦り合わせながら進むと人影のようなものが見えた。普通ならどうしてこのような時、場所に人がいるのかと思い、道を引き返すか変えるかするだろう。しかし、進むという選択肢しか無ければやむを得ない。

 

「思ったよりも遅かったですね」

「あなたと違い、自由がありませんからね」

 

 姿がはっきりしないまま相手が話しかけてきた。皮肉めいたことを言うと納得したように相手は笑う。そして、よくこのような刻限に来れたと感心した。ますます眉間の皺が深くなっていることを自覚しながら近付くと相手の姿がはっきりと見えてきた。徐々に影が光へと変化するように相手の全身も完全に見える所まで近付き、手に持っていたものを渡す。

 

「これで良いのですか?」

「ええ、ありがとうございます」

 

 雪斎は満面の笑みで不機嫌な口調の龍兵衛に応える。そして、雪斎は懐に忍ばせていた袋を取り出すと龍兵衛に渡す。龍兵衛は雪斎を警戒しながら袋の中身を確認する。中には眩しいとも思える程の金子が入っている。

 

「確かに、頂きました」

「少し多かったような気がしますが」

「当然の額です。幽霊を捕まえるような行いをお願いしたのですから」

 

 雪斎は龍兵衛の言葉がおかしかったのか口元を緩ませる。何がおかしいのは不機嫌な口調で龍兵衛が尋ねると雪斎はますますおかしいと笑みを深めた。一方、龍兵衛からすれば迷惑この上ない。雪斎は密かに上杉の陣に潜入すると義元の首を欲した。龍兵衛に術をかけられていることを広めると脅して。

 

「何がおかしいのですか?」

「いえ、幽霊になっている方の生きていた証を持ってこさせたのですから言い得ていると思いまして」

「それを如何するのですか?」

「先ずは、これを今川家の菩提寺である臨済寺にでも届けて遺体と共に供養した後、密かに見守ろうかと」

「見守っているだけ。ですか?」

「はい。義元様に生涯お仕えしようとしておりましたが、義元様がこの世から消えた今、私は義元様と共に目指したものが無くなったのです」

「目指したもの?」

 

 雪斎は空を見上げ、言葉にし難い何とも儚い表情を見せる。目を瞑り、深く息を吸うとゆっくりと目を開き、満足したように微笑みを浮かべる。

 

「あえて言うことは致しません」

「それは残念だ」

「人に言う時、それは是非とも共鳴して欲しいと思う時です」

「なるほど。では、どうやって今川の陣から抜け出して来たのですか?」

「人から話をよく聞きたがりますね」

「情報は重要なものです」

 

 短くはっきりした正論に雪斎も肩をすくめるしかなかった。

 

「少しお暇を頂いてきたのです」

「……理由を詮索しても?」

「駄目です」

 

 龍兵衛は驚いたと両手を広げる。教えてくれると思っていた為、即答で断られるとは全く思っていなかった。段々とどこまでは問いて答えてくれるのか基準が分からなくなった。

 雪斎の表情を読み取る気など全くない。その前にどうして今川を捨ててしまうのかが理解出来なかった。義元が消えた今川の後を継ぐであろう氏真の補佐をすべきではないのか。それほどまでに支えてきた家を離れるような真似が出来るのだろう。昨日に見た雪斎と変わりないところは本当に怒りを抱く。

 

「私にとって承坊は最後の望みでした。消えた望みに縋り付くよりも潔く去るのが良いと思えたのです」

「理解出来ませんね」

「私もされたいとは思っておりません」

 

 しれっと言ってみせる雪斎には悲哀の感情が全く無い。やれやれと思いながら龍兵衛は乱暴に頭をかく。

 

「ならば今後は一人で過ごすことですな」

「ええ、そのつもりです」

 

 雪斎が躊躇いもなく言い切った為、呆れ返ってしまう。今川に対する未練などまるでないと今の一言は全てを言うよりも遥かに勝っていた。

 

「これからのことは、私が信頼のおける方に渡しましたから織田の中でも体裁を保つことは可能でしょう。それに私のようなうるさい人間がいなくなり、氏真様も清々している筈です」

「誰かが主に諫言をしなければ主はあるべき姿を無くしかねないのでは?」

「ええ。きちんと人がおりますから大丈夫だと思います」

「信用されているのですね」

 

 雪斎は笑顔で頷く。悲しみの表情など一切無い。もし、義元が雪斎の立場ならどうなっていただろう。やはり、運命だと諦めたのだろうか。意味の無いことを思いながらも龍兵衛は話もこれで終いにしようと頭を下げ、踵を返そうとする。すると、雪斎の方から待ったがかけられた。

 

「一つだけ助言をしておきます」

「何でしょう?」

「術をかけられた以上、何か成すべきことがある筈です。あなたはそれをまだ知らないだけです。時と共に見えてくることもあるでしょうが、物事は動かなければ見えてこないものです」

 

 龍兵衛の胸に鋭利なものが深く突き刺さった。確かに今までどうしてこのようなことになったのか知ろうとしていたが、手緩かったのかもしれない。否、龍兵衛はやれることをやってきたという自負がある。自分のことを赤の他人に言われる筋合いなど無い。

 

「焦ることはありません。思わぬ所に宝物は落ちているものです」

 

 何となく含蓄があるような気がした。おそらく雪斎と義元の出会いも同じようなものだったのだろう。世継ぎではなかった義元が大舞台に立ったのは偶然の巡り合わせであり、雪斎も後継者争いに巻き込まれなければここまで有名になれなかった。思わぬ人の死や事件によって自分が術をかけられた意味を知れるのだろう。雪斎の場合、義元と共に天下を取ることを目的とした後に術をかけられたようだが、裏に隠れて見えない意味を知る時は必ず来る。

 

「楽しみにしてますよ。あ、今川家を残して頂きたいですね」

「まるで織田では駄目だという物言いですね」

「急進的ですからね」

 

 龍兵衛は小さく唸り、目を細くする。雪斎の表情から嘘であると思えなかったが、信用する程、馬鹿正直ではない。そのあたりは間者を使えば良いと思いながら龍兵衛は礼の言葉を言う。雪斎も応えるように頷くと西へと足を踏み出した。

 

「これから、何処へ向かわれるのです?」

「……どこでしょう?」

 

 振り返らずに雪斎は去って行く。背中を追うことはしない。出来ない。吹き荒れる風が壁となり、二人の間を裂く。別次元の空間が切り取られ、雪斎の姿は元の世界へと戻るように暗闇に溶けた。

 

 

 上杉軍が撤退したのはそれから一ヶ月後のことだった。関東の落としていった城を全て放棄し、越後へと去った。国を空け過ぎたことを理由にしたが、謙信は思う以上の引き止めを関東の諸大名に食らった。小田原城を力で落とすことによる利益と兵の損害から出る人の減少を取っても明らかに前者の方が良いと。

 しかし、謙信は一向一揆と武田の動きが不穏であるということを主張し、撤退を是とさせた。北条の疲弊を考えればすぐには今までの国力に戻すことは出来ない。その間に自分達で北条の力を切り崩せば良いだろうと。この判断によって佐竹と里見は立ち直らない北条と独力で戦うことになる。拮抗してきた三つの勢力で戦えば互いに動くことは難しく、上野や下野に残る大名達も黙っていないだろう。関東は再び荒れる。争いの結末はいつになるのか、まだ不明。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百五十七話 散り忘れ怒りの花

 関東から上杉全軍が撤退したのは春も近くのことだった。最後の部隊が撤退したのは少しだけ梅の花が咲き、風も段々と暖かくなってきた頃だった。東北の大名達はせっかく領地を拡大出来る好機を逃したと不満げだったが、上杉の力に抗える程ではなく、渋々従うしかなかった。

 

「ふー……」

 

 鳥のさえずりもよく聞こえるようになり、眠気も強くなる。仕事に一段落付けた龍兵衛は疲れたと息を吐くとそのまま仰向けになって目を瞑るが、寝るつもりではない。そのまま腕を組んで考え事を始める。「んー……」と唸りながら身体を左右に振って、時折止まってはまたごろごろと転がるのを繰り返す。

 悩みの種は財政をより発展させる為に必要な政策の立案と商業と農業の効率化である。やはり、用具を揃えたところで流通させる品が良くなければ金には変えられない。良過ぎて高い価格になっても意味が無い。上に階級が行く程に人の数は減る。もちろん、大儲けには欠かせないが、危険過ぎることもある。

 いっそ買い付けでもしようかと思っているが、南蛮のものがなかなか手に入りにくい。そこはやむを得ないと割り切るしかない。何せ、京と比べれば越後など田舎以上のど田舎と思われても仕方ないのだから。

 

「この種は慎重に扱わないと……」

 

 龍兵衛が手にしているのは南瓜の種。さる経路から密かに取り入れたものだが、あるのは僅か数粒だけ。万が一失敗すればせっかくの金や伝も無駄になる。

 

「久々に見に行くか……」

 

 状況を見るには自身で現場を見るに限る。龍兵衛は身体を起こすと伸びをして左右に動かす。腰のあたりがごきごきと鳴った。

 

城下の畑を見に行くと農家の者達が楽しそうに作業をしていた。はかどっている証拠だと安堵しながら龍兵衛は長の下に向かう。

 家の中に声をかけ、了承を得ると龍兵衛は戸を開ける。頭をぶつけないように頭を下げて長の家に入った。戦国時代の平均身長をゆうに越す龍兵衛はそこまで大きくない家に入るのにはいつも一苦労している。

 美濃にいた時、よくたんこぶを作って官兵衛に笑われていた。その意趣返しとして小さいよりはましだと言って暴れられたが、思い返すと実に清々する。

 

「河田様。その節は真に感謝申し上げます」

「そんなに畏まらずに。自分の方が年下なのですから」

 

 村長は首を横に振って深々と頭を下げる。龍兵衛の研究もとい、現代農業を学ぶ拠点であるこの村は特別に関東遠征に帯同しなくても良いという特権を龍兵衛の働きかけで得た。

 

「おかげで我らは農作業に励むことが出来ました」

「感謝は謙信様に言って下さい。最終的にお認め下さったのは謙信様ですから」

「御実城様には感謝のしるしに献上したきものを後で」

 

 龍兵衛は満足したように頷くと村長の家を出る。

 畑に出ると働いていた者達がこぞって龍兵衛に気付いて頭下げてきた。龍兵衛はかれらに構わずに作業を続けるように言って再び村長と共に歩を進める。

 

「他の村の評判は?」

「最初はやはり戸惑いがあったようですが、量の多さ、良き品質のものを収穫出来たと喜んでおりました」

 

 龍兵衛は湿田から乾田に農法を変更させただけでなく、関東遠征の間に自身の代わりに村長に頼んで新たな堆肥や腐葉土の作成や実使用を進めてきた。また、作物の作り方を根本的に変えるなど徹底した改革を行ってきた。

 

「成功したならそれで良いですね。あとは、普及ですが……」

 

 越後や東北の気候にも負けない農業に関する知識は元々持っているが、実行に移さなければ何の意味もない。しかし、従来のものからの脱却とは難しく、心から乗ろうという気にならなければ意味など無い。

 

「件のことについては感謝致します。それで、この村の者を集めて欲しいのですが」

「また何か?」

「はい、分け前は自分の方に六から七で」

「そんな……」

 

 普段、龍兵衛との間で行う農業の改革で成功した際に出る利益は半々と決めている。それを政策に反映させることで、上杉の利益は上がっている。今回の分け前には驚いた村長がいつも通りでと言うが、龍兵衛も譲らない。村長に近付くと耳元で囁く。

 

「今回の利益はそれだけで普段程の益があなた方に入ると確信しておりますから」

「なんと……」

 

 村長の目が大きく開かれ、身を乗り出してくる。尚更、利益を半々で譲って欲しいと思っているのだろうが、そうもいかない。あまりにも他の村との差が激しければ不満が出るだろう。下手をすると分け前をくれと暴動が起きるかもしれない。

 

「さ、お願いします」

 

 目が眩んでいる村長を無視して促す。しばらくすると村の者が多く村長の家に集まった。 

 

「今日は皆さんにお願いがあります。新たな品種の野菜……でいいか……野菜を作っていただきたいのです」

 

 龍兵衛は懐から包んでおいた南瓜の種。そして、甘藷の種を出す。

 

「この二つの種の品種は米の凶作を補うものにもなります。万一、米で足りなければこちらで上納してもらうように自分から謙信様に取り計らいます。ま、成功したらの話ですが」

 

 冗談めかしに肩をすくめる龍兵衛だが、農民達の反応は強い。特に凶作の時期に成り代わって南瓜や甘藷が出来ると言った時の目の色の変わりようは強かった。内心でほくそ笑むと龍兵衛は立ち上がって早速作業を行おうと外へと農民達を促す。

 

「河田様」

「何か?」

「その……毎度有り難いと思っております。しかし、いい加減に畑の数が……」

 

 村長が言い終わるや否や龍兵衛は畑に目をやる。確かに作物を作る為に規模が足りていない所がある。村では税を納める為の作物も作らなければならない以上、これ以上の実験作物は厳しい。

 

「どうして言わなかったのです?」

「益の話を聞いて、気が……」

 

 龍兵衛は仕方ないと溜め息をこぼす。ならば、開墾をして新たな畑を作れば良い。しかし、問題もある。

 

「(牛が村に多くて二頭や三頭しかない。だから鍬の改良も進めてるけど、やっぱり鉄だからな……)」

 

 牛にしろ鍬にしろ維持費と改良費は必ずかかる。生き物と鉄、どちらもかかる金は馬鹿にならない。金子は鉱山の発掘を続けている為、どうにかなりそうだが、関東遠征でかかった経費が尋常ではない。龍兵衛と兼続も計算を終えて顔を青くした。

 この村に限らずに経費を賄う為の税を納めさせるのは重要なことだが、政策のせいで出来なくなるのは本末転倒も良いところだ。しかし、ここで踏み止まっても解決にはならない。龍兵衛は村長に近くに寄るように手招きする。

 

「実は……これが成功した暁には、また新しい作品も作りたい」

「それはまた、急ですな」

「大分、周りが落ち着いてきたのですから。やる時にやっておかないといけません。もちろん、先程の話も考慮しておきます」

 

 村長は胸を撫で下ろし、自らも作業へと向かう。人にやらせることを好まないところを見るとやはり人気があるのだろう。

 

「ん?」

 

 龍兵衛はある一人の男に目を付けた。見慣れない顔で、顔のところどころに出来物がある。近くを通った者を止めて尋ねると最近になって村長が拾った源造という者だという。戦火から逃れてきて、さ迷っていたところを救ったそうだ。礼を言って龍兵衛は源造に近付く。

 

「源造というそうだな。村はどうだ?」

「実によくしてもらっているだ。皆、優しい人達だよ」

「そうかそうか……」

 

 源造から視線を逸らし、何か考えているように上を見上げながら目を瞑る。そして、龍兵衛はゆっくり目を開けると視線をそのままにして呟く。

 

「種を封に閉まって懐に入れたのは気のせいか?」

 

 途端に源造の雰囲気が変わった。一介の農民に無い筈の殺気が溢れたと思うと龍兵衛に向かって小刀を懐から取り出して向かってきた。龍兵衛は簡単に避けると持っていた鋤で源造の頭を砕いた。

 

「南無阿弥陀……」

 

 そう言って源造は倒れた。周りにいた女は子供を抱えて遠くに移る。冷めた目で龍兵衛は源造を見下ろし、目を瞑る。それから息を大きく吐くと背後に控えている若者達へと振り返る。

 

「済まないが、運ぶのを手伝ってくれ」

「あの……河田様。源造は、一体……」

「気にすることはないよ。むしろ、気にするな」

「は、はい!」

 

 冷めた口調に背中を押された若者達は慌てて死体を運ぶ準備を始めに四方八方に散っていった。

 

「(少し脅しが過ぎたか)」

 

 どうやら気付かない内に龍兵衛も怖い顔が出来てしまっていたらしい。これから先、気をつけようと心に言い聞かせた。 

 

「村長」

「何でしょうか?」

「あけびや百合根がこのあたりにあったら取って集めてくれませんか?」

「え?」

「いえ、時期がまだ先のことだというのは分かっていますけど、ちょっと記憶に留めて頂きたいのです」

「はぁ、まぁ、分かりました」

 

 頭を下げると同時に若者達が源造の遺体を運ぶ準備が出来たと言ってきた。龍兵衛は村長に礼を言うと若者達と共に山へと向かい、人が寄らないような所を見つけて遺体を置かせ、後は自分でやると若者達を追い払った。

 

「さてと……」

 

 地面を掘り起こそうと鍬を振りかぶる。すると、足音が聞こえてきた。

 

「屍一人を隠すのに一人は辛いだろう?」

 

 龍兵衛は聞き慣れた声に落ち着きを保ったまま振り返ると想像した声の主以外にもう一人立っていた。

 

「綱元殿、景綱殿」

「謙信様にばれる前に私達にばれては言い逃れ出来まい」

「冗談は表情だけにして欲しいですね」

 

 見られたことに焦りも見せず、龍兵衛は手伝って欲しいとお願いするが、景綱が女子に力仕事をさせる気かと渋る。

 

「手伝わないなら、少し考えがありますよ? 誰が被害に遭うことやら……」

 

 龍兵衛が笑みを浮かべて言うと二人共、仕方ないから手伝うと言って肩をすくめた。

 

 

 

 三人は間者の埋葬を手伝い終えると共に帰路につく。すっかり夕日が眩しくなってしまい、景綱と綱元は予定よりも遅くなってしまった。先程、龍兵衛の行動を見たのは本当に偶然だった。たまには春日山城下町を見てみようかという話になって辺りを歩いていたら龍兵衛が農民と争い、斬り捨てるところを目撃した。

 事情は源造を埋めているのを手伝っている間に詳しく聞いたので景綱も綱元も龍兵衛を責めない。綱元にとってあのように殺した間者を埋めるようなことは初めてであったが、ある意味、新鮮なことだった。もう二度とやりたくないがと後付けして。

 

「あの間者は一向一揆の手の者だと言っていたな」

「ええ」

「また戦になるのか?」

「さぁ。自分には何とも……」

「知らんと言う気か?」

 

 景綱の言葉に龍兵衛は足を止めた。綱元も景綱より一歩遅れて立ち止まり、二人を見る。龍兵衛は口元だけを歪ませ、真剣な表情の景綱を煙に巻こうとしている。

 

「まぁ、謙信様のお決めになることですから」

「伝えるのは河田、お前の役目だ。どのように伝えるかで動きが決まる。違うか?」

 

 喧嘩をふっかけるような物言いにも龍兵衛は平然と、否、わざとらしく困ったと苦笑いを浮かべている。

 

「いけませんか?」

 

 綱元は驚きのあまり軽く息を呑んだ。龍兵衛の表情は今まで見たことも無い程、黒さを滲み出し、般若でも適わないと思える。綱元の背筋は冬の北風を受けたように凍った。

 また、景綱が何事も無いように龍兵衛と相対していることも綱元を驚かせた。家の闇を司る軍師同士とはいえ、このような表情を見てこなければならないのだろうか。

 

「いや。構わないだろう」

 

 綱元の思いなどまるで目にないように景綱と龍兵衛は話を続けている。綱元は軍師の領分にわざわざ足を突っ込むこともないと傍観の姿勢を取る。

 

「出陣はいつになる?」

「おそらく、来年の春を過ぎてからか、早ければ今年の秋になるかも」

「えっ!?」

 

 思わず綱元は声を出してしまった。もちろん龍兵衛と景綱にも気付かれ、目を見開かれた。

 

「どうした?」

「だって、重要なことを簡単に……」

「もちろん、自分も普通なら言いませんよ。今、言われて困るのが上杉ではないから言っているのです」

「……あ」

 

 含みのある龍兵衛の口調に綱元は何となくだが、事を察した。諸大名は関東遠征で財政が揺れている。そこに次の戦がくれば再び諸大名は資金繰りに走らなければならない。もちろん、上杉も例外ではないが、様々な財源を持っている上杉はかなりの金銀が倉庫に眠っている。これを諸大名に配ることで上杉が得るのは貸しである。武人の恩義を重んじる心に付け込む形になるが、仕方ないことだ。さらに勘ぐれば諸大名は早めに上杉に借金をしなければならなくなる。上杉に従属している以上、どれほどの忠誠心があるのか試し、早い程、功を立てた際の餌にありつけやすくする。

 謙信にそのような気が無いとしても目の前に龍兵衛など頭の回る者達はそう考えている。たった今、伊達の重臣であるという自負がある二人の前で言ったのは脅しなのかもしれない。上杉に本気で従い続ける気ならすぐにでも借金をしろと。

 伊達側として決してそのような思惑には簡単に乗れる筈が無い。一方で、打開する何かがある訳でもない。黙る綱元の隣で景綱はふっと鼻で息を吐く。

 

「わざわざ謙信様が仰る前に言わずとも良かったのでは?」

「こちらとしても伊達殿には今後も活躍して頂きたいので、よろしくお願い致します」

 

 用事を思い出したと言って店に入って行った龍兵衛の背中を眺めながら綱元は今の言葉が本当なのか気になった。

 一つだけ分かっているのは敵として倒すべき一向一揆を早く討ちたいと上杉の上層部が思っていることだけだった。やはり上洛帰りのことで抱いた怒りを鎮める為には根を絶つしかないのだろう。龍兵衛の目が一向一揆のことを言っている時、怒りをはっきりと表している。綱元は溜め息を零さないように口を噤んだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百五十八話 見せたくない

 上杉の目の上のたんこぶと言える武田と一向一揆の存在。二つの勢力は上杉という共通の敵の利害が一致して協力関係にある。上杉にとってかれらが共に動くことが一番厄介なのだが、今まで一度も無い。ただ、時が噛み合わなかっただけなのか、互いに互いを警戒して動きたくないだけなのか。

 上杉にとっては幸いなことだが、いい加減に討伐しなければ今後の関東遠征にも障害がある。冬の関東遠征も二つの勢力に背後を突かれないようにと余剰の兵を越後に残さなければならなかった。

 

「そうか。左様なことが」

「はい。既に間者が春日山にも多くおります。このままでは我らだけでなく民にも手を出すことも考えられるかと」

 

 部屋の中に気まずい雰囲気が流れ、静まり返った。龍兵衛が農村から戻り、真っ直ぐに謙信の下を訪れたところ、景勝と兼続がいた。颯馬でなくて良かったと密かに安心しながら龍兵衛は謙信に先程あったことを死体を埋めたのは除いて包み隠さずに報告した。

 怒りによって訪れた沈黙は誰にも破れることが出来ない。謙信の言葉を待つ三人の表情は自ずと固まる。

 

「……一向一揆を討つのは武田を叩いてからと思っていたのだがな」

 

 謙信の言わんとすることを三人はすぐに悟った。否定する者はいない。国全体に負担が大きくなるのは分かっている。だが、内憂が徐々に解決されている今、外患を減らしていかなければならない。

 龍兵衛が景綱と綱元に言った諸大名のことも間違いではないが、早々に倒しておくべき相手であるとの認識の方が強い。織田が毛利との戦に勝利し、本願寺をほぼ完全に孤立させた。諦めの悪い本願寺は未だに抗うつもりだろうが、そろそろ潮時だろう。しかし、毛利が頼れなくなれば次を頼れば良いと思っている筈だ。

 本願寺の次の頼る相手は間違いなく上杉である。その際に邪魔になるのは武田と一向一揆。本願寺と一向一揆は繋がっているとはいえあくまでも表向きにしかすぎない。上杉が一向一揆を攻めれば本願寺は傍観し、こちらを攻めるようなことをしないだろう。

 

「以前とは状況が変わったが為に、か」

「はい。本願寺は味方を斬り捨ててでも新しく強力な味方を欲しています」

「だが、これまで敵対を続けていた我らと簡単に手を組むだろうか?」

 

 兼続が話に入ってくる。龍兵衛は小さくはっきりと頷いた。

 

「本願寺は今、獅子に追い込まれた犬も当然。力になれる仲間を大勢欲しいところです」

「……まさか」

 

 景勝が驚き、謙信と兼続の顔に怒りの感情が滲み出たのはほぼ同時だった。

 

「ええ、本願寺は我らと一向一揆に共に織田と戦うようにと提案してくるでしょう」

 

 兼続が勢い良く立ち上がりかけた。だが、謙信と景勝の面前であるという理性が働いたのかすぐに謝罪しながら大人しくなる。

 

「本願寺は我らの関係を把握しているだろう。幕府に送った弾劾状の返事も返ってこない。おそらくは本願寺が影で働いている。それでも尚、我らの手を取り合わせようとするのか?」

「本願寺は必死です。比叡山のように歴史を焼却されるのではと恐れています」

 

 なりふり構っていられないということだ。しかし、滅ぼされようがされまいが本願寺の勝手である。上杉にとって本願寺の救援要請は上洛する為の良い口実になるが、背後に武田の存在がある以上、全勢力をとはいかない。東北の諸大名を使う手もあるが、上杉よりも京への道は遠い。行くのであれば全てが整った段階でだろう。

 

「本願寺から使者が来るのはいつ頃だと思う?」

「遅くとも一ヶ月以内に」

「我らは関東から戻ったばかりのことも構わずか」

「本願寺もそのことは折り込み済みでしょう。おそらく手を打ってくるかと」

「何だ?」

 

 龍兵衛に三人の視線が集まる。少し動揺している心を落ち着かせるように一つ息を吐くとはっきりとした口調で言った。

 

「朝廷、もしくは京より追放された義昭様を使い、へりくだってくるかと」

「あざとい……」

 

 兼続から不満が零れるのも無理ない。高位な者が向こうからわざわざ頭を下げてくるのだから織田と対立している勢力が答えない訳にはいかない。

 

「ん……」

 

 景勝が挙手をして発言したいと示す。

 

「どうした?」

「本願寺、上杉、追い詰めた。割、合わない」

「それにはおそらく土産を持ってくるでしょう」

「何だ?」

 

 兼続が少し身を乗り出した。謙信と景勝も固唾を呑んで龍兵衛の言葉を待つ。

 

「金でしょう」

「財政が良くないと思っているのか」

「確かに戦で苦しいですが、蓄えているものから引き出せばどうとでもなるでしょう」

「(うんうん)」

 

 上杉は倹約的な面が強い為、なるべく蓄えには手を出さないようにして集める税で賄おうとしている。その為、苦しそうに見えるが、実際には交易や鉱山から得たものの蓄えを引き出せば十分に戦費を賄える。本願寺からの金は有り難いが、諸手を挙げて万々歳という程ではない。 

 

「まぁ、蓄えのことは我々でも限られた者が知ることですから。しかし、上杉と本願寺の間に軋轢があることを織田が知らないとは思えません」

「織田からも使者が来ると?」

「一向一揆と本願寺。利害は一致します」

 

 本願寺と戦うとなれば織田の背後には一向一揆がいる。軍事力を考えれば兵を二つに分けても良い。しかし、本願寺に引導を渡したいであろう信長はすぐにでも全兵力を注ぎ込みたいはずだ。なるべく被害も少ない方が良い。

 

「織田からの使者と本願寺からの使者。どちらに如何様な対応をすべきか」

「二つの誘いに乗っておくのは如何でしょう? 一向一揆を討つことは決まっております。本願寺には見返りとして邪魔する勢力を討っても構わないと言えば良く、織田にはそのまま承諾したと言えば良いのでは」

 

 どちらにしても損が大きいのは本願寺である。一向一揆の力が消えるか本拠地が消えるかのどちらかなのだから。

 兼続の考えに謙信は承諾したと頷き、さらに問い掛ける。

 

「武田と一向一揆、どちらとも倒さねばならない。織田が本願寺を倒せば一向一揆も力が弱まる。しかし、越後の民の中に一向一揆の者が紛れているとなれば話は別か」

 

 謙信をおとがいに手を当て考える素振りを見せると部屋中に響く声を発する。

 

「出陣は秋だ」

 

 三人が謙信の言葉に驚いて顔を上げたのは同時だった。

 

「何事も先手を打つことが必要だ。すぐにでも出陣したいところだが、関東より戻ったばかりの我らでは疲れも溜まっている。秋の収穫を待ってから一向一揆と武田に引導を渡す」

「お待ち下さい。武田と一向一揆を同時に討つことに異論はありませぬ。しかし、秋の収穫を待ってからではまた冬の出陣となり士気も高まらないのでは?」

「いや、一向一揆は本願寺が織田に苦戦している今こそ叩いておくべきだろう」

 

 謙信の決断力は高い。一度はっきり決めたことには頭の固い老人のように頑固になる。 

 

「武田は私自ら引導を渡す。景勝、一向一揆に関しては任せる。龍兵衛と兼続は景勝のことを頼む」

 

 景勝と兼続は驚いて龍兵衛を見る。龍兵衛もまたどうして自分が出陣するのかと謙信に向けて目を見開く。

 仕事が増えるのは自ずと様々なことに気が回らなくなる。謙信からの命を受けた以上、優先すべきことは武田に対する戦略。農業の改革に時間を割きたい龍兵衛にとって簡単に首を縦に振れることではない。ただでさえ新しいことに手を出しているのだ。どれほどの成果が出るのか逐一見たいという願望もある。さらに言えば出陣の時期が秋以降になると収穫の結果を見たり、村長と交わした約束を自分が果たせなくなる可能性が極めて高い。龍兵衛の思いを察したのか謙信の表情がますます真剣なものになる。

 

「農産物に関して見ておきたいのは分かる。しかし、お前が行かなければ他にいない」

「兼続がいるではありませんか」

「兼続には前線の指揮を任せる。お前には制圧した城下の整備などをしてもらいたい」

 

 負担の軽減だと何となく納得したが、龍兵衛は完全に謙信の言葉を鵜呑みにした訳ではない。

 

「自分が行っている農業の政策は?」

「皆には伝えているのだろう? なら問題はあるまい」

 

 謙信は楽天的だが、龍兵衛は慣れないことを人任せにして失敗することを一番恐れている。ましてや相手は農家。かれらの生活がかかっている以上、適当な方法の教授で終わることなど出来ない。殊更、初めて取り扱う品種だというのに教えただけで気が済む筈もない。

 失敗すれば龍兵衛も村も苦しい立場になる。それがいなかった為に出来ませんでしたでは言い訳だと一蹴されるのがおちだ。心の広い謙信なら仕方ないと許すだろうが、外様である龍兵衛のことを快く思っていない者達はどうだろうか。これまでも失脚の話が水面下で何度か上がっていると景勝や兼続、颯馬達から散々聞かされている。

 言い出したのだから最後まで責任を持てと言われるのは明らかだし、龍兵衛もそのつもりだ。だからこそ龍兵衛は保身の為、動かなければならない。

 農民達には口だけで教えただけで実際に農法を手で行った訳ではない。経験が何よりもの糧となる農業で何となくというのは危険だ。逆に上手く行くかもしれないが、失敗した時の危険性を考えると最初は教科書通りにしたい。

 

「もちろんお前がそちらに集中したい理由も分かる。何だったら兼続に任せられるものは全て任せても良い。な?」

「えっ、ええ……って、謙信様!?」

 

 龍兵衛の心情を考えると場違いな冗談だが、ここは乗っておいた方が良い。龍兵衛は口元をぎこちなく緩ませて承知したと頭を下げる。兼続があれこれ文句を言っているが、気にしない。それよりもどうして自分は政策の過程を踏んでいる時も戦場に駆り出されなければならないのか。理由が龍兵衛には分からない。

 ただ単に農家の人々と土いじりをしたいという願望が無い訳でもない。もちろん龍兵衛の最も望むのは越後の農業生産量が上がり、鉱山や交易以外にも農業面でも一大大国にすることだ。

 他国に売り込むことで高い利益を見込める農作物や長続きする乾物の輸出は戦が続く日の本ではどこにでも高く売れる。代わりに得る各地の特産品を上杉のお墨付きを与えて国内での売買もさらに活性化するように仕向ける。

 最終的に大金を得るのは税を取る立場にある上杉家となる訳だが、商業と農業で生きる人々の間での分け前を明確にしなければ不満が出るのは必至だ。

 

「政策のことは実及に任せても良い。何だったら投げても良いぞ?」

「いえ、さすがにそれは……」

「だ、そうだぞ?」

 

 謙信は残念そうな表情で兼続を見る。しまったと思った時には龍兵衛の隣にいる兼続は口元の両端を吊り上げていた。

 

「はぁ、仕方ありませんね……龍兵衛の代わりに精々励むことに致します」

 

 これで龍兵衛は兼続に二人分の仕事を任せることになった。

 

「はぁ……」 

 

 言ってしまった失言を取り返すことは謙信の下で兼続も便乗した以上出来ない。兼続のことだから見返りとして仕事を手伝ってもらうか、京や南蛮の高い菓子を買ってくるように要求してくるだろう。こういう時に慶次のような逃げ足が欲しいと思う。

 

「謙信様、少々曲解が過ぎるのでは?」

 

 これぐらいの恨み言は許される筈だ。

 

「いや、私は素直にお前の言を受けただけだ」

 

 ここぞとばかりに謙信は切り札を出してくる。龍兵衛は反論を見つけることも出来ずに「申し訳ありません」と頭を下げるしかない。気まずくなった龍兵衛は話題を強引に変えてみる。

 

「それで、本庄殿は何処に?」

「今は新発田にいる。戻るのは三日後だな」

 

 受け継ぎが出来ない以上、龍兵衛は自分の立てた政策を三日間は行わなければならない。逆に言えば自分の言いたいことを三日間は出来るということだ。本庄実及とは政策についての助言を貰うくらいであまり話したことが無い。定満亡き後の上杉の家臣を一手にまとめている彼女は兼続さえも話すことが憚られる存在。対等に話せるのは斎藤や弥太郎あたりだろう。

 憂鬱だが、色々と立て込むことになりそうな今、頼れるのは実及しかいない。

 

「本庄殿に政策の子細を話次第一向一揆に対する戦略を練ると致します」

 

 頭をかきたい気持ちを押さえて龍兵衛は頭を下げる。だが、謙信はそれだけで終わらせてくれなかった。

 

「これから春日山の城下に何か不穏な動きがあれば逐一報告してくれ。もし危険だと判断すれば任せる」

 

 城下町に間者が紛れていると知られれば面倒なことになる。せっかくの活気が損なわれ、疑心暗鬼の中で商売を行わなければならない。それに乗じて間者達も何か動きをみせる可能性も高い。

 それらを全て総括するのは当然ながら難しいことだ。ほとんど丸投げにしていても何も起きなかったのは国内のことを監視する軒猿の成果であるが、事件が起きた以上、いざという時にしか腰を上げなかった龍兵衛も全面的に城下町を見て行くしかない。

 先の一件は村に騒ぎを起こした非礼を詫び、決して口外しないようにと頼み込んだ。農村だったから良かったものの城下町となると話は変わってくる。

 

「もちろん、お前の仕事が増えることも分かっている……景勝、お前も手伝え」

「……!」

 

 龍兵衛は兼続と共に顔を見合わせ、景勝と謙信を見比べる。景勝は目が点になっていて、どうして自分が手伝うのだという疑問を顔で言っている。謙信は表情自体穏やかだが、目は真剣で本気だということがはっきり分かる。

 

「景勝はいずれ少なからず越後や東北を治める。様々なことを見て学ぶべきだ」

 

 龍兵衛は景勝と謙信の間に見えない壁が張られている気がした。兼続は少し落ち着かない様子で言葉を発そうか迷っている。

 

「龍兵衛」

「はっ」

「後で景勝をお前の部屋に寄越す。物事は様々な色をしている。それを景勝に見せてくれ」

 

 すぐに返答したかったが、龍兵衛は唇の乾きを癒やす為に口の中に含んで唾を付けなければならなかった。

 

「……御意。では、自分は支度に取り掛かります」

 

 立ち上がり、部屋を出る際に謙信へと頭を下げる。不安な表情をする景勝と同情的な視線を送る兼続の目が痛かった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百五十九話 骸と利

 秋の夜長と言う程、秋は夜が長く、月明かりに照らされる地平が風情である。だが、今は春である為、そのような期待は出来ない。一方で、散る梅の花びらの美しさは素晴らしい。

 池でもあればいつまでも眺められる気がすると頭の片隅で思いながら龍兵衛は両手を広げた。

 

「さぁさぁ、今宵も無礼講……」

 

 宴の時に使う筈の言葉がここで出てきているのを聞いていると周りの家臣達は慣れているとはいえ、若干の気味の悪さを感じる。

 にんまりと笑った笑みと共に龍兵衛は炭を流したような暗闇の中、静けさを崩さないようにそっと指を差す。

 その合図で後ろに控えていた数名の兵が一気に扉を開けて一軒の店に入って行く。しかし、場所は誰も来ようとは思わないような城下町の端くれ。

 形だけが店のそこには店主と小柄な男の店員がいて、一人は逃がしたが、店主の方は簡単に捕らえることが出来た。

 中を改めると床下や天井に金が蝋燭の火よりも眩しく輝いている。

 一緒に付いて来た景勝にも中を見せると信じられないと金に目を向けている。何も押し入りにまで来なくても良いと思ったが、頑固な景勝は強権を使って付いて来た。仕方ないと思いながら龍兵衛はいつも通り夜中の油断しきった時間に隠れ家に入った。景勝は手際の良さに驚き、少し悲しげな表情を浮かべていたが、あえて無視した。

 

「ふーん。呉服屋の主が犯人だったんだ」

 

 代わりにしゃがんでお縄になった商人の顔を龍兵衛は邪気を孕んだ笑みで伺う。何か言いたげに暴れているが、口もしっかりと轡をかけられている為、何も言えない。

 

「あそこにある金を貯め込んでいくら何でも一向一揆の所に持ってたら駄目だろ?」

 

 その言葉で大人しくなった商人はどうして知っているんだという目で龍兵衛を見る。面白いものを見たという目で龍兵衛は唇の片端を吊り上げる。

 

「お前は本業で儲けた金だけでなく、ある手段で鉱脈から得られる金を仕入れて船で一向一揆に送っていた。違うか?」

 

 商人は一瞬躊躇ったが、それが良くなかった。顔目掛けて蹴りが飛んできた。

 

「隠しても無駄だよ~今頃、繋がっていた連中も牢獄の中だからね~」

 

 続けて本当にやったのかともう一度問い詰めると商人は弱々しく頷いた。鼻血が出てきた為、口にはめた白い轡が赤くなる。

 

「返事は首の上下左右の動かしで良いから。質問に答えてな?」

 

 震動するように店主の首が何度も上下するのを確認すると龍兵衛は真顔で問い始める。

 

「先ず、このことは家族も知っている?」

 

 店主の首は横に振られるのを見て、龍兵衛は彼が商いを行っている本当の店に控えさせている小隊の方に退去するように伝える為の伝令を出す。

 

「じゃあ、富樫と連んだのは上杉が東北を完全に統一した前?」

 

 店主は今度は首を横に振った。後ということは晴貞は上杉が関東に向かっている間に織田との戦いを終わらせて謙信不在の間に春日山城を取りたかったのだろう。

 しかし、畿内の趨勢を握った信長の勢いと物量は今川を支配するまでに昇り、徳川の援軍によって戦が長引いた。もっとも、上杉も冬の気候と今川のちょっかいがあった為、北条との戦は長引いてしまったのでそこはお互い様だろう。 

 

「鉱脈の密輸は佐渡と安東の土地かな?」

 

 商人は頷いてから首を振った。佐渡からの密輸は当たりで安東が無関係ということだろう。安東と思ったのは未だに一揆が絶えないからだ。南部にも一揆を鎮める協力をしている為、いい加減静かになるだろう。

 

「じゃあ、富樫と本願寺のことについて聞いたことは?」

 

 商人は首を大きく横に振った。途端に龍兵衛の足が商人の腹に繰り出された。

 

「下手な嘘を付くな……直江津に沈めるぞ」

 

 のた打ち回る商人の上に足を置き、殺意を込めた声で語りかける。完全に商人の顔からは生気が失われていた。しゃがみ込んでもう一度問い掛けると商人は何度も首を縦に振った。龍兵衛は指示を出すと轡を外させる。咳き込む商人をよそにどれだけのことを知っているのか尋ねる。

 しかし、身体を震わせている商人は言えないと口を開かない。配下の一人が前に出ようとしたのを制して龍兵衛は軽い口調で言う。

 

「そうだ。この前、二つ道を挟んだ所の笠屋があったじゃない? ほら、他にも色々と売っている所。あ、思い出した? あそこの亭主、先月に死んだじゃない?」

 

 ゆっくりと語り掛けるように言う龍兵衛の目は冷徹さが飢えた野犬の如く容赦なく店主を射抜いて離さない。

 店主が怯えながら小さく頷くと龍兵衛はにっこり笑ってその肩を叩く。

 

「表向き、自害ってことになってるけど、明らかに殺されたとしか見えなかったんだよねぇ。何でだろうねぇ?」

 

 縄で縛られた口の中で必死にもがいている町人の表情にはとうとう恐怖しか浮かばなくなった。死への恐怖だろうか。それとも、今目の前で自身を殺そうという雰囲気を隠しもせずにさらけ出している龍兵衛への恐怖だろうか。

 

「来月……」

「ん?」

「来月、本願寺から使者が来る。その時に富樫様に献上する金を渡してくれと……」

「脅されてた?」

 

 使いの荷物の中を調べるのは国境に設けられた関所を仕切る者でも気が引けることだ。斎藤朝信が細工を見破るように強く指導しているが、脅されてしまえば交流が断たれる可能性もある。責任を取りたいと思える者がはたしてどれほどいるのだろうか。弱々しく頷く商人を横目に龍兵衛は溜め息をこぼす。

 

「帰って謙信様も含めて他とも話さないと」

「あ、あの……!」

 

 おとがいに手を当てながら立ち上がった龍兵衛を商人はすがるような目で見てくる。そこから次に何を言いたいのか誰でも分かる。 

 

「何? もしかして守ってくれるとでも思った? 悪いけどそんな余裕無いんだよねぇ」

 

 いよいよ町人は顔が真っ青になった。上半身が左右にゆっくり揺れたと思うと後ろに倒れた。主を気遣う者達は立ち上がりかけたが、すぐに止められた。

 

「お前らには共に不正をしていた罪で来てもらう。良いな?」

 

 恐怖が身体を硬直させているのか反応が無い。待っていても時間の無駄だと龍兵衛は外に連れ出すように指示を出す。

 目立つことを憂慮して持ってきた荷車に下手人達を押し込むと覆いを被せて夜の町を進む。誰も話さない小さな列の中で龍兵衛は首を捻っていた。

 

「妙だな……」

 

 思わず口に出てしまったが、誰も反応することは無い。いつも通りのことだから気にせずに口を噤んで変わらずに歩く。

 しかし、不意に視線を落とすと分からないと景勝は小首を曲げていた。しまったと思っても聞かれた以上、答えなければならない。

 

「あれほどの大金を隠し、隠す場所の大きさも考えると呉服屋だけではあのような隠れ家を作り上げるのは難しいと思いませんか?」

 

 いくら豊かになっている越後でも畿内の盛り上がりには叶わない。だからこそ山上宗二を呼び寄せて春日山から造りなどから変えていこうとしている。周りを気にしながら小声で話しかけると景勝はすぐにひらめいたと深刻そうな表情になる。

 

「内通者」

「ご名答です」

 

 単純に考えると上杉家の中にいると考えるのが妥当だろう。さらに糸を辿れば大きな商人が出てくるかもしれない。それが越後の中なのか外なのかは分からない。いずれにしても北条を完全に倒せなかったことで周りの反上杉が少しずつ盛り返そうとしているのは確かだ。

 少し寒気がするのは夜風が吹いているからではなく、嫌な予感が拭えないからだ。先程捕らえた呉服屋の主は城下町でもかなりの規模を誇っている。上杉との繋がりも深く、女中の間でも評判が良かった。商人や農人対象の品も扱っており、良心的な人柄で人気もあった。

 

「大物だっただけにかなり厳しく罰しなければなりませんね」

 

 それだけに怒りはかなり大きなものだろう。だからこそ厳罰は効果的である。上杉にも国の為にも。だが、心優しいからこそそれに反対する者もいる。景勝は龍兵衛を強く睨み付けてくる。

 

「店主、動かされてる」

「脅威に屈したとはいえ、上杉には損害しかありません」

「家族、人質」

「大義の為、秩序の為、主を見逃しては示しが付きません。そもそも、彼の悪事に巻き込まれた者もおります」

「斬る?」

「罪は罪です」

 

 景勝は龍兵衛を強く睨んでくる。だが、龍兵衛は意にも介さず、さっさと主を縛り付け終えた配下達に戻ると指示を出す。

 

「家族に関しても干渉は致しません」

 

 見上げてくる景勝の視線から何を言いたいのか悟ると龍兵衛は感情の籠もっていない声で吐き捨てる。景勝の怒りが視線から強く感じ取れる。周りの連中も二人から距離を置いているように見える。

 

「国が大きくなる程難しいのです。敵から誰かを守るというのは」

 

 景勝は考える為に少し間を置いてから龍兵衛を見る。

 

「人増える。守る人増える。でも、上杉、大名、変わらない」

「そうです。農商工などの人々の方が圧倒的に人は多い。国が大きくなり、人が入ってくる。我々は人ですからね」

 

 以降は龍兵衛も喋らないと景勝から目を離す。無礼と言われても文句を言えないような行いだが、咎められることが無いと分かりきっている為、堂々としていられる。

 配下の者達も二人の話が聞こえている者は気にしているのか視線を向けようとしているが、踏み込む領域ではないと知っている為、口を挟もうとしない。

 景勝も内心では分かっているのだろう。しかし、個人を保護するのは他の利用されて殺された人達にとって不平等であると言われかねない。

 国が大きくなり、富むことで光が増えると同時に影も増える。目を逸らしたくても逸らせない事態だが、物事は平等かつ定めた法令に基づかなければならない。

 

「不正と内通、死罪は免れないでしょう」

 

 冷淡な物言いに景勝は場を弁えずに頬を膨らませようとしている。しかし、龍兵衛は一瞥しただけで歩く速度を速めた。

 そして、明後日頃にはあの呉服屋に転がっているであろう家族の骸をどうするべきか考え始めた。

 

 

 翌朝、景勝は龍兵衛と共に牢に向かい、尋問を見学した。てっきり拷問のようなことをするのかと身構えていたが、証拠を突き付け怒鳴る程度で特に目を逸らしたくなるようなものではなかった。

 昼間は報告書を作り、夕方になってようやく謙信の下へ報告出来る形になった。景勝はもっと早く出来たのではと思ったが、龍兵衛の「密事を朝早くから話すことなどありますか?」と諭され、納得した。

 型破りな政策や発想で合理性を重視する龍兵衛だが、この辺りは慎重だ。以前行った法の改革では神仏に頼った決議を本当に正しいのか監督する案を出した際もかなり前から根回しをして反対する者達を見事に説き伏せた。

 兼ね合いが上手く行っていなければ腰を上げない為、兼続にあれこれ言われる時もあるが、いざという時の考えは誰もが唸るだろう。それを分からせる為の慎重さもしっかりしている。

 景勝はもっと自分を出しても良い気がするが、龍兵衛にその気が無い為、何も言えない。

 

「謙信様、件の不正に対する疑惑は真だと判明した為、関わった者達を捕らえ、牢に閉じ込めました」

「そうか。ご苦労だった」

「それから直ちに佐渡の本間殿に春日山へ来るように促して頂きたく」 

 

 目を細め、どうしてか聞く謙信に子細を説明している龍兵衛を見ると頼もしくも恐ろしく見える。 

 

「報告は以上か?」

「はい。何か?」

 

 謙信は頷くと背後に置いていた書状を龍兵衛に差し出す。恭しく受け取って中を龍兵衛が改める。文明を読んで行くごとに目が徐々に見開かれていく。

 

「これが、織田から?」

「うむ。我らの動きを知っているようだろう? 間者が動き回っているのだろうが……」

 

 景勝も話に加わりたいと書状の中身を覗こうとするが、読み終えたものを龍兵衛がさっさと謙信に返した為、叶わなかった。分かったのは織田から何やら脅迫めいたことを認められていたということだけだ。

 

「少し大きく動き過ぎたかもしれませんね……」

 

 悔しそうに下唇を噛む仕草が本当のものなのか分からない。本当なら上杉の水面下の動きを織田に悟られていることになり、嘘ならこれから気を付けるべきだという戒めだろう。

 

「どうこの書状を受け取るべきだと思う?」

「脅しという訳ではなく、敵対すれば百害あって一利無しと言いたいのでしょう。織田は本願寺、一向一揆に対して必死になっているのです」

 

 謙信は隣に置いた書状を一瞥すると「お前もか」と吐息混じりに言う。他の者にも聞いたのだろう。そして、謙信が織田と手を組むべきかと問うと龍兵衛は首を横に振った。いずれ戦う相手と分かっていて手を差し伸べるのは下策である。そもそも、織田は北条と繋がっている。北条との諍いの原因になってしまい、無駄な時を過ごしてしまいかねない。

 

「織田を助けるという名目で織田の面目を潰しながら一向一揆と戦うという手もありますが、それを是とする信長ではないでしょう」

「情はいらぬということか」

「当然です」

「一向一揆と繋がっていた者は?」

「……謙信様を裏切ろうとした。と言えば皆も処罰に納得するかと」

 

 きっぱり言い切ると許しをもらって龍兵衛は立ち去ってしまった。もう少しだけ一緒にいたかったと思っていた景勝にとっては残念だが、逆に好都合になった。

 

「龍兵衛、やり過ぎ。家族守るべき」

 

 何も言わなかった為か謙信は驚いている。それからすぐに表情を緩めると頭の上に手を置いてきた。

 

「龍兵衛が今までかようなことを幾度行ってきたか、知っているか?」

 

 穏やかな雰囲気とは裏腹に謙信の表情に知らないとは言わせないという凄みが少しある。分からないと言えない景勝だが、本当に知らない以上、何も言えない。

 一方で分かることもあった。龍兵衛の影の部分は景勝が知っていると思っていた以上になっている。前々から分かっていたが、共に仕事をしていて理解が深まり、分かってしまった。

 

「あれは上杉の為に秩序を保とうと必死なのだよ。分からぬ者には無理があるやもしれぬが、理解する者もいる。奴は自らを汚すことで上杉が潔白なままでいられると信じている」

「……」

「大きな影が動いている以上、今は店主に責を負わせるしかない。やむを得ないのだよ。景勝、お前も分かっていた筈だ」

 

 景勝は頷きたくなかった。敬愛する謙信から仕方ないという言葉を貰ったのも一因だが、龍兵衛のことを全く理解せずに喚いたのが大きく響いた。

 

「苦しいかもしれないが、龍兵衛はそれをどれほど行ってきたと思う?」

 

 かつて民を見守る目は穏やかであり、厳しくもあった。国の秩序を乱す者がいれば厳しく罰することが戦乱の中で国を保つことに繋がる。

 景勝はかつて龍兵衛が民は自分の利益を優先させることもあると言っていたことを思い出した。外を見るにつれて言っていたことを理解した筈の景勝だが、正す役目を遂行している現場を見てまだ自分は知らないのだと痛感した。そして、知らなくて良いものを知ってしまったと心に大きな釘を刺された気がした。

 龍兵衛は知らない所で血を浴びているのだ。おそらく今夜のようなことは今日だけではないのだろう。間違いなく主は殺される。残忍な富樫は家族も共に道連れにする。つまり龍兵衛は一つの何かを解決すると共に余りある負の感情を背負っている。

 景勝は無抵抗な状態の龍兵衛に容赦なく浴びせられる人の血を想像してしまい、頭を大きく左右に振る。龍兵衛に直に浴びせられた訳ではない。しかし、浴びていることは事実だ。いったいどうやって見えない血を洗い流しているのだろう。

 そう考えた時、景勝には思い当たる節があった。龍兵衛が関東遠征のあたりから性格が捻くれ始め、変わり者に見られてもおかしくないという言動をし始めた。

 皆がどうしたのだろうと龍兵衛の背中を見て囁き合っていたが、景勝はその原因がおそらく自分とのことだろうと直感的に思っていた。

 それだけではなかったのだ。公私の苦しみを少しでも紛らわせようと人に当たるしか出来なくなったのだ。怨念と血が身体中を蝕み、水を吸い込む綿のように限度へと迫っている。それを少しでも外へ搾り出そうと必死になっている。上杉が国内の秩序を整え続ける度、龍兵衛は真っ黒になっていく。

 景勝は締め付けられるような感覚になった胸を押さえた。

 

「汲み取ってやれ。皆のことをな」

「……」

 

 返す言葉も無い。謙信の部屋であることも忘れそうになり、立ち去るべきは自分だと気付いて部屋を辞した時、既に日が暮れていた。

 疲れた筈の身体が何故だか軽く感じる。もしも誰かとすれ違っていたら地に足が付いていないような状態で歩いていることを心配されていただろう。

 存在が遠くなった。景勝は想像したくない龍兵衛の変わり果てた姿を思い浮かべ、はっきりと心に刻んだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百六十話 茨道はまだ

 越後に問わず、商人というのは利益があればどこにでも飛んで行く程、金と権力には敏感である。大きな店を構えるようになれば誰にも分からない嗅覚で利益を与えてくれる領主を選び、それまで懇意にしていた領主を見捨てる。

 軍師も大概だが、商人も恐ろしいものだ。そう龍兵衛は思っていた。関東から引っこ抜いてきた山上宗二にしろ目の前にいる荒浜屋宗九朗にしろだ。

 

「河田様、如何なされた?」

「いえ、何でも」

 

 感情の籠もっていない笑みで返すと荒浜屋は特に詮索せずに話を続ける。

 

「此度は流れてしまいましたが、また機会があればよろしくお願い致します」

 

 荒浜屋は柏崎の商人で青苧の取り引きで生計を立て、上杉から関税の撤廃という特許を得て、一大勢力を築いている。

 往年の商人らしからぬ痩せ細った体格で一見頼りなさそうな雰囲気を持っているが、目はぶら下がっている肉に涎を垂らしている狼そのものだ。

 

「いえいえ、上杉様には私めもよくして頂いております故。ましてや今までより更なる厳しき戦いとなることは必定。かようなことになるのは致し方ないことでございます」

 

 偏見のある者なら「商人風情が口を出すな!」と声を荒げるだろう。もちろん荒浜屋も龍兵衛がそのようなことはしないと分かっている上で不謹慎なことを言っている。

 舐められているのではない。信頼しているからこそ少し大胆なことも言えるのだ。そして、商人の言葉、特に利益が絡んでいる時には発言の裏にある真意もよく読み取らなければならない。

 

「やはり、商品が滞っていると?」

 

 荒浜屋は表情を真剣なものに変えて頷く。

 

「河田様の所にも京より書状が届いている筈でございます」

 

「私の所に届いた書状でございます」と懐から出された書状に目を落とすと以前見たものの内容とほぼ変わらない。

 京へと向かうには陸の路と海の路の二つがある。一向一揆の領地を通らなければならない陸では関所でかかる税金が跳ね上がり、なかなか通れない。海だけの交易では利益を得ることは難しく、如何せん危険性が高い。

 

「さらに申さば京の商い仲間より織田が座と関所を撤廃したが為に商人が集っていると」

 

 龍兵衛は天を仰ぎ、両手を頭に置いた。

 

「いよいよか……」

 

 言動を理解出来ていない荒浜屋が呆然としているのを見て何でもないと慌てて手で制すると持っていた手紙に再び目を落とす。

 

「座が撤廃されるとならば我らの庇護下にある商人以外の者が流出してしまいまする」

 

 すがるというよりもこちらを少し威圧するような口調に荒浜屋がなったのは上杉も困るから何とかするだろうという思い込みがあったからだろう。だからここではいそうですと乗る訳にはいかない。

 

「座に入る制限を緩めるようにあれだけ命じておいたではありませんか。つけが回ってきたのです」

 

 品を売る人が少ない程、品は高くなり、買う側の人もその値で買わなければいけない。人が多くなれば自ずと物価は下がり、高い値段では買わなくなる。売る側の人にとって利益が減るのは面白いことではない。

 

「上杉様としても良い報告ではありますまい」

 

 確かに上杉も荒浜屋が取り仕切る座からかなりの税金を納めてもらっている為、収入が減るのは戦続きの現状では良いことではない。

 

「もちろん。しかし、自分達は幾度となく言っておいたにもかかわらず、変えなかったのはそちらです。それに、青苧以外にも商いの方法はある」

 

 龍兵衛は一つ間を置いて荒浜屋に視線を戻す。

 

「此度の謙信様は上洛を妨げる者を討伐するという名目であるが故に、決して上洛しようと思っている訳ではありません。その辺りを履き違えないように」

「承知しております。されど、このところ青苧の動きがあまり良くないので、こちらとしては何としてでも一向一揆の根を絶って頂きたいのです」

 

 すぐに龍兵衛は頷くことが出来なかった。一向一揆の団結力は確かだ。富樫の統率力もなかなかのもの。力の差があるとはいえ地の利は一向一揆にある。利用することで形成が変わるのはよくあることだ。

 荒浜屋も龍兵衛の反応を見て何となく察しただろう。しかし、関税の撤廃の見返りに上杉の庇護下に入っている為、おいそれと裏切れる立場ではない。他に寝返ったとしてもなかなか上杉のような厚遇のされ方は無い。

 

「何卒、我らをお助け下さい」

 

 領地が増え、幅が出来てもまだ飽き足らないようだ。それだけ商人の欲は深い。次に欲しいものは何かと尋ねれば間違いなく金というだろう。

 龍兵衛は一つ息を吐くと仕方無いと肩をすくめる。金と金の繋がりは深く、淡白だ。より高い利益が得られるのであれば商人は簡単に他方へ靡く。

 欲深さこそはいっそ清々しくも思える。だから利益を与えてくれる上杉には素晴らしい程に従順なのだろう。以前なら軽蔑の対象になっていたかもしれないが、今ではそれが面白いとも言える。

 少しは心が広くなったのかなと自嘲気味に笑いながら龍兵衛は口を開いた。

 

「良いでしょう。しかし、すぐにとは言えません」

「いえ、私もそこまで我が儘では御座いません。承諾して頂いただけでも感謝致します」

 

 安心したように荒浜屋は胸を撫で下ろし、緊張気味だった表情を緩める。だが、商売では売ったのであれば対価となるものを必要とする。

 

「座の規制を緩め、交易の分散化」

「えっ?」

「なるべく早く春日山城に来て下さい」

 

 口元だけ笑わせると荒浜屋の表情が引きつった。構わずに龍兵衛は続ける。

 

「此度は流れましたが、折を見て京の商人とお会いしたいものです。こちらも一向一揆が片付けば近衛様をお招きしようと思っていますから」

 

 荒浜屋が目を見開く。近衛と言えば貴族の中でも大家だ。この場で龍兵衛がそのことを言うのは荒浜屋もその会合に参加しても良いと言っているのだ。貴族と関わりを持てば商いの幅も大きく広がり、京の商人ともより昵懇になれる。

 

「真に此度の会見が実現せずに終わったのは無念で御座います。角倉殿には改めてお声をかけておくつもりです」

「頼みます」

 

 利益のこととなると俄然商人は目の色が変わる。先程の条件のことも忘れないように龍兵衛は釘を差すと少し声が詰まるような音がしたが、すぐに荒浜屋は頭を深々と下げた。

 謙信が武田と一向一揆を討伐する号令をかけたのは秋になってからのことだった。時間を調整していた龍兵衛からすれば迷惑なことだが、一応は武人としての枠に入る為、商いよりも戦を優先されなければならない。

 

「いつ頃になるかとは聞かないで下さいね?」

「無論で御座います」

 

 武田と一向一揆は宿敵同士。敵も必死に抗ってくるだろうから激戦になるのは必至である。いつ帰ってくるのか不透明な中で商人が他の者と繋がりを持ってしまう可能性もある。何本か分からないぐらいの釘を刺しておかなければ信用出来ないのだ。

 直接言わないが、荒浜屋は龍兵衛の言いたいことを悟ったのか苦笑いを浮かべる。刺し過ぎて人の動きを押さえつけようとしてもそれから逃れようとしてしまいかねない。

 これ以上の話し合いはいらないだろうと龍兵衛は終了を告げる代わりに頭を下げて立ち上がる。だが、荒浜屋が止めてきた。

 

「河田様、折り入ってご相談が……」

「ん?」

「実は河田様がご考案された農具を他国の商人に……」

「見せたのか?」

「いえいえ、その、売ろうかと……」

 

 思わず身を乗り出した龍兵衛に驚いたのか荒浜屋は歯切れが悪くなる。しかし、商人の視点になると分からなくもない。あまりにも実用的な農具は高く売れることは必定。密偵などで流れている可能性もあるが、公にはしたくない。一方で荒浜屋のことも考えると無碍には出来ない。

 

「さすがに無理だが、他のものを売るのはどうだ?」

「他のもの?」

「例えば……堆肥」

 

 荒浜屋の目が点になる。呆れているのも分かる。堆肥などどこにもあるからだ。仮に売ったところで高い売り上げを得ることは出来ない。返ってくる金も往復でかかった費用を差し引いても儲けなどほとんど無い。

 

「もちろん、堆肥を持って行けとは言いません。鰯など肥料へとなるやつを売って頂きたいのです」

「……なるほど。代わりに何を仕入れると良いでしょうか?」

「侘びたものを」

 

 答えを予測していたのか荒浜屋は笑みを浮かべて「かしこまりました」と頭を下げる。

 鰯はどこでも捕れ、越後の特産でもない。むしろ他の国の方が良く捕れている為、京で売ったとしても赤字になる可能性が高い。安く売れるものに代わるものは結局安い品。

 それを侘びた品にすることで利益を上げる。

 理由として未だに織田が京と堺を牛耳っていることと山上宗二の存在が大きい。織田は相変わらず華々しさを求めているのは言うまでもない。

 一方、越後では宗二の指導の下、越後や上杉の領内では数寄の文化が広がり始めている。

 宗二の師匠である千利休の侘びを継承しつつも創意工夫を施したものだが、侘びた品を持ち込むことで宗二の評価を得た上で価格を上げ、更なる宗二好みの品を作ってもらう。

 不正であることは百も承知だが、それが上杉の為になれば良い。以前のように敵を喜ばせ、私腹を肥やす輩とは違う。

 どこが違うと景勝や兼続には指摘されるかもしれないが、国の為になる悪であれば良いと龍兵衛は思っている。

 

「宗二殿には自分から目利きの依頼を頼んでおきまする。彼女好みのものをきちっと調べておいて下さい」

「かしこまりました」

 

 

 

 

「承知致しました。私の目を信じて下さるのであればお役に立ちとうございます」

 

 龍兵衛が会談中に抱えていた不安はこの言葉で解消された。

 未だに出会ってからの日数は短いが、宗二がひたむきな性格であることを知っている龍兵衛にとってあまりよろしくない願いだったからだ。

 今の京を治めている織田から逃れてきたと言っていた為、この上ない機会と思ったのか、はたまた師匠である千利休に成長したところを見せようとしているのか。

 

「私はけして他の方に何かと思っておりません。全ては上杉と私の数寄を完成させる為です」

 

 持っていた茶碗の動きを止め、宗二を見る。構わずにどうぞと言われ、点てられた茶を飲み干す。相変わらず上手い。

 

「確かに此度の河田様と荒浜屋様の企みは感心出来ることではございません。しかし、上杉の為に金が動くのであれば我ら商人はこれを利用しない手など無いのです」

「商人として金を稼ぎ、自らの数寄を広める為の器や道具を作り出す為の費用を。ですか?」

「左様です。越後に来て以来、良くさせて頂いておりますが、そろそろ自ら動かなくてはと思いまして」

 

 無垢な笑みを浮かべる宗二に龍兵衛は苦笑いで応える。平然と汚い金を稼ごうとする目的の先にあるのは上杉の全てを自分好みのものにすること。

 目の前に人参をぶら下げられた馬ではないが、人は自分の欲に抗えないということだろう。特に金を稼ぐのが生きる道の商人にとっては。客側に立って商売をする平成の世に対して商売の為に商売をしているようだ。そもそも、宗二ら豪商の場合、相手がそれだけの金を持っているのも要因ではあるが。

 

「心ここにあらず、と顔に書いております」

 

 龍兵衛は眉を吊り上げた。普段、表情を変えない為、宗二の言い方に少し苛立ったのである。

 

「商人の欲は深いと痛感していたので」

 

 以前、宗二は茶の湯では正直さこそが良いものとされると言っていた。その通りに答えると少し目を見開き、口元を緩ませた。

 

「ええ、ですから私も河田様の企みに協力し、おこぼれを頂こうと躍起になっているのです」

 

 穏やかな口調が胡散臭さを醸し出している。龍兵衛は相手の感情を完全に読み取る程、洞察力が鋭い訳ではない。だが、宗二に確認するまでも無かったことは分かった。

 

「河田様。あらかじめ申し上げておきますと私はただ良き物が手に入ればそれだけで満足でございます」

「それでは金は二の次と?」

「どうせ金は無くなるのです。欲しいものがあればある程」

 

 寒気がした。今までの記憶に残っているものと同等ぐらいのものだ。これも記憶の中に止まり続けるのだろう。嫌なものだが、自分に欠けている何かを得る為に必要なものなのだろう。

 龍兵衛がそう思うようになったのは思っていないとやっていけないからだ。

 欲しいものの為にやっていることで面白いとも思える。単なる虐められ好きのように聞かれるかもしれない。しかし、受け入れていかなければ悩みに心が押し潰されてしまいそうだ。

 

「宗二殿、一つお尋ねしても?」

「何でしょうか?」

「悩みは受け入れるべきか、それとも、はねのけるべきか」

 

 颯馬や官兵衛にも口に出来なかったことを聞いた途端、期待が胸の内を支配した。宗二はおとがいに手を当てる。しばらくの沈黙の後、顔を上げて微笑みながら言った。

 

「分かりません」

 

 沈黙が再び訪れる。龍兵衛は黙ったまま宗二の目を見続けている。真意が分からないのだ。単純に宗二の言葉を受け取る程、馬鹿ではない。

 宗二は笑みを引っ込め、視線を自ら考案したという富士型の天命釜へと移す。笑顔ではなくなったとはいえ表情から穏やかさは無くなっていない。しかし、目は真剣そのものだ。

 宗二の意を悟った龍兵衛は目を見開いた。驚愕からではなく、愕然としたからだ。欲するものは自分で作り得なければならない。求めている解決方法は自分のちからで見つけなければならない。分かっていたことだ。受け入れたくなかった。せめて助言が欲しかっただけなのだ。一人になるような振る舞いもあえてそうすることで何か手掛かりを得ることが出来るのではと思ったからだ。

 

「……結構なお点前でした」

 

 蚊の鳴くような声で言うと龍兵衛は茶室から出た。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百六十一話 秋雨戦線異常あり

 武田は正に今が踏ん張りどころである。上杉がそれに乗じて攻め込むのも当然であった。

 川中島の敗北。織田領への侵攻の失敗。それによる軍の被害を埋める為の多大な出費による財政の困窮。補う為の増税。最悪の循環を続けていた。

 無論、信玄も悪循環を抑える為の施策を試み、上手く行っていた。今川や徳川からの攻勢も無く、国内の立て直しに集中出来たからだ。しかし、如何せん時間がかかりすぎた。信州の国人衆の不穏な動きはもちろんのこと、甲斐自体の国力が高くないことも要因だった。

 そもそも信玄は決して民に対して善政を敷いている訳ではない。民に課している税は周辺勢力よりも重く、反感を買ってもおかしくない程であった。これまでは父の悪影響によるおかげと戦で順当に勝っていた為、声が大きく上がることはなかった。大敗を喫しても続けずに見事雪辱を晴らしていた。

 しかし、連敗を重ねた今はどうか。いくら上杉、織田と勢力が異なるとはいえそのようなことを民が理解してくれるはずがない。不満の声は徐々に広がり、小さな国人衆にも不安となって広がる。このままでは自分達の備蓄にも手を出されるのではないかと。 

 これに付け込む形で上杉は信州の国人衆を併合しようと動いた。旧信州の国衆である高梨や須田を筆頭に、寝返りそうな者達に水面下での交渉を行っていた。そして、国力が以前のようになる前に上杉は武田を完全に滅ぼす為、東北の大名にも号令をかけた。

 かつては拮抗していた両軍も川中島の戦いにて勝敗が決して以降、外征をどうにか成功させていた上杉が勢力的にも先を行っている。

 

「信玄には気の毒だが、これも因果なのかもな……」

 

 颯馬は前から聞こえた声に苦笑いを浮かべる。確かに武田の政策は紙一重だった。税を重くしたのもそうだが、専売を強化し、物価を上げた。物が売れなくなる可能性もあったが、そうしなければ甲斐が国の土台がぐらつくのは明白で、財政から武田は滅びただろう。

 どうにか国を保たせているのは信玄の成せる業かもしれない。颯馬は冷静さを装って分析する。さすがに甲斐の虎という異名は伊達ではない。

 颯馬は油断などしていない。中には諸大名を合わせて三万の軍勢ならばすぐに勝てると思い込んでいる者もいるだろう。相手が武田ということを忘れてもらっては困るが、上杉の者しか武田と戦い、恐ろしさを知らないのだから仕方ないだろう。無論、放っておく訳には行かない。

 とはいえ人というのは一度自分の身で物事の苦汁を味わなければ本当に分からない。口で分かっていると言われても信用出来ない。颯馬は小さく溜め息をこぼすと空を見上げる。

 時折、風向きが変わり、雨の匂いと微妙に感じる温度が変わった。今年の秋は雨が降るかもしれない。そう龍兵衛は言っていたが、颯馬も同感だった。

 龍兵衛の天気予報がよく当たることも確信の一つだが、雲の多い気候が秋になってから多い。

 

(霧の次は雨か……)

 

 颯馬は視線を前に戻す。左手に畑、右手に山という光景が変わらず続き、開ける気配がない。越後の南は武田との戦があり、人口もさほど多くない。多いのは万一に備えての砦と山だけだ。

 

「颯馬、先鋒の蘆名は今どこにいる?」

「おそらく、既に善光寺に到着している頃合かと」

 

 謙信は顔を少し落として考え込む。戦が始まってから崩さない凛とした表情はいつものことだ。だが、今回は少し違うと颯馬は直感的に思った。

 

「我らが到着するまで待てと厳命しろ」

 

 疑問を口にせず、颯馬は静かに息を吐くと頭を下げて返事をすると伝令に声をかけた。

 

「なぁ、大丈夫なのか?」

 

 指示を出し終えると後ろから景家が小声で話し掛けてきた。

 

「何が?」

 

 景家ではなく、隣にいる長重なら問いに問いで返すようなことはしなかっただろう。

 

「謙信様、何か近寄り難いというか……」

 

 景家の言いたいことはおおよそ間違っていない。ただ、近寄りにくい訳ではなく、謙信の中で思うことがあるのだ。それによっていつもとはどこか違うところがある為、話し掛けづらくなっているのだろう。

 どうしてかと訪ねられたが、颯馬も確信には至っていない。頭を振ってみせるとがっかりしたと景家は肩を落とす。悪いと思ったが、原因が分からない以上、何とも言えない。行軍中でなければやるせなさに頭を抱えていたところだ。

 もう一度、颯馬は謙信に視線を移す。今の話を聞いていなかったのか眉一つ動かさず、馬に揺られている。

 

 川中島に陣取った上杉軍は武田の動きを注意深く探った。海津城には虎綱が入っていることは分かっている。相変わらず武田の動きは隠密で確かな情報と偽の情報が錯綜している。

 

「さすがだな……」

 

 呟いた謙信を一瞥し、颯馬は頷く。幾度となく戦ってきた武田軍は主力がどこにいるのか悟らせず、気付けば背後にいるなど神出鬼没だ。更科あたりにいるという情報が多いが、本当は既に海津近くに潜伏しているのではという噂も流れている。

 

「戦うならば武田がどこにいるのか確かにしなければならない。颯馬、早急に斥候を増やせ」

「御意」

 

 陣幕を出ると颯馬は少しだけ振り返り、また歩き出した。謙信の落ち着きのなさが気がかりだが、今は戦に勝つことが先決。そう思いたいところだが、大元の原因は武田のことだろう。武田との戦が控えてから謙信はどうも落ち着きがない。

 いよいよ武田と完全に雌雄を決する時が近いからか、何か他に気がかりなことがあるのか。颯馬にも分からない。数の差では圧倒的に上杉が有利だが、相手は信玄。宿敵同士にしか分からない何かがあるのか。 考えても仕方ないことと分かっていても気になる。後ろ髪を引かれながらも颯馬は足を遅々と進めた。雲の厚みは増すばかりで雨が降るのは時間の問題だ。このままでは川を突破するのも危うくなる。急ぐべきか否か。最終的には謙信の決断だが、促すのは軍師である颯馬だ。

 

「おい、阿呆面してんな」

「……何か文句あるのか?」

「別に~面白い顔してたから、そう言いたかっただけ」

 

 舌を出す官兵衛をひっぱたきたくなったが、堪える。こっちは真剣に考えているのだ。邪魔されたくない。しかし、官兵衛は構わずに付いて来る。

 

「愛する人の為……なーんて夢物語でも考えてた?」

「うるさいぞ」

 

 普段なら軽口でも叩き合うようなところだが、如何せんそのような気分にはなれない。腹立たしいが、言い返したところで颯馬に分がある訳ではない。一つ息を吐くと颯馬は黙り込む。負けたと言いたいだけだ。無邪気な子供が悪戯に成功したような表情を浮かべる官兵衛が本当に癪に障る。満足した様子の官兵衛は一つ咳払いをすると軍師の顔になる。

 

「で、武田が動かない理由は分かった?」

「まったく、これじゃあ、こちらも動けない」

「武田が動かくか本隊の動きが掴めないと駄目、か……」

 

 やれやれと頭を振る官兵衛だが、上杉にとって武田とは必ず倒さなければならない相手であり、脅威である。

 官兵衛は知らないだろうが、上杉の者達には心の奥底で武田への思いがくすぶっている。

 

「謙信様も同じようなところかな?」

「ん?」

 

 小首を曲げられ、何でもないと首を振る。官兵衛は武田と戦ったことがない。敵の奇策を警戒こそすれ、上杉の物量を以て方を付けようという考えを持っている。

 

「うん?」

「どした?」

「いや、今……」

 

 顔を上げると颯馬の頬に雨粒が落ちてきた。次に官兵衛にも落ちてきたようで、二人は雨粒の当たった所に手を当てながら顔を見合わせる。それを合図に颯馬と官兵衛は別方向に駆け出した。

 

 颯馬が斥候に直接任務を伝え、官兵衛の下に向かうと既に雨の対策は出来上がっていた。兵糧が雨によって腐ることは未然に防げた。もちろん、この場に踏みとどまっている間だけの話で、進めばまた雨に濡れるだろう。あらかじめ雨に濡れないように対策はしておいたが、無事であるか否かは天候次第。

 とにかく湿った場所に置くなと口酸っぱく龍兵衛は言っていたが、これでは上から湿気が降りてきているのも同然だ。とにかく涼しい場所を選んで置くように指示を出すと颯馬は官兵衛と共に謙信の下へ戻る。

 中では謙信の他に須田満胤が眉間に皺を寄せていた。謙信はかねてより一向宗と繋がりがある須田に信州の国衆への工作を命じていた。入ってきた二人は座るよう促され、言う通りにした。

 

「信州の国人衆の動向は?」

「やはり、降伏を考える者が少ないかと。されど、戦う意志がある者がいるとは思えませぬ」

 

 義清が亡くなった為、更科や安曇郡といった旧村上の領地からは武田に残る上杉に寝返る意見がはっきりと分かれた。望月を使った暗殺も少なからず影響があったのだろう。

 須田と対面するように座った颯馬だが、どうして須田が眉間に皺を寄せているのか分からなかった。

 

「一向宗の者達は?」

「私が檄文を飛ばせばすぐにでも謙信様の下に馳せ参じましょう」

 

 颯馬の疑問は泥沼の中に落ちた小石を見つけるほど、難しくなってしまう。信州の国衆は一枚岩でないならさほど脅威ではない。ならどうして須田は渋い表情をしている。

 

「真田が武田に付くと明確に示したので御座いまする」

 

 颯馬は脳裏でどこかで聞いたことがあると探ってみる。しかし、脳裏を散らかった部屋から資料を探すようにかき分けても見つからない。

 

「確か、信州の中で切れ者って有名で、村上を信州から追放した?」

「うむ。その真田だ」

 

 官兵衛の表情が暗くなる。そういえば龍兵衛がかつて信州から義清達が越後へと逃げ延びた時に同じような表情をしていた。弟子は師匠に似るのだろうか。そのような詮無きことに行きかけた思考を元に戻す。

 

「でも、当の真田幸隆は亡くなったんじゃないの?」

「否、奴の息子である昌幸は幸隆の才をそのまま鏡で映したかの如き切れ者だ。織田との戦いで兄達が討たれたのが悔やまれることよ」

「兄達の方が凡庸だと?」

「そうは言わぬ。だが、知略においては間違いなく父譲り故、遮二無二攻めるのは如何なものかと」

 

 話す度に眉間に寄っていく皺を見るとあまり反りが合わないのだろう。

 だが、これではっきりしたことが一つある。武田の本隊は信州にいる可能性は低い。いたとしても南の松本や高遠辺りだ。真田が防波堤となって上杉の進軍を食い止め、その間に武田が迎撃の準備をする。おそらく国衆の中でも真田は忠誠心が高いのだろう。だが、颯馬の考えは官兵衛によって振り出しに戻った。

 

「もしかしたら、真田を餌にして背後を突くとか……」

「……なるほど、真田に限らず、信州は山城を根城にしている国衆が多い。伏兵の置くのも容易いな」

 

 須田も同調してしまった以上、颯馬の読みは外れたと言っても良い。しかし、可能性としては捨てきれない。希望論と慎重論というぶつかり合う筈のないもの同士。だが、颯馬はすぐに自分の考えを捨てた。

 

「だとすれば、武田の本隊は川中島……いや、横山城にいるのだろうか」

「んーもうちょっと先……真田と一緒にいるかもね」

 

 上杉としては広野でのぶつかり合いを望んでいる。だが、武田は必ず山での戦いを望んでいる。数に劣る以上、地の利を活かすことが当然勝利する為の道となる。

 三人は苦虫を噛み潰しているような表情で、北信州の地形図を見る。良い考えが浮かばない。隊を二つに分けたとしてどちらかと分断されれば意味がなく、固まっても狭い所に誘い込まれては今川のように成りかねない。

 

「さらに調略の幅を広げてみるのは……」

「南信州までとなると厳しいかと。松本、高遠には武田一族の者が籠もり、忠誠も固い故」

 

 重い空気が漂う。いっそ攻めるべきではと颯馬は思ったが、足をすくわれた時の被害を考え、内心で首を振る。ならば次なる策はと考えても別より攻めることは難しい。今更引き返しても武田に時間を与えるだけだ。

 誰も口を開かない中、努めて明るくしている声が上がった。

 

「戦ってみようではないか」

 

 思わず顔を上げた三人をよそに楽しそうに謙信は言う。 

 

「私も真田という名は義清らが信州より逃げてきた時より忘れていた。だが、須田程の者が警戒するのであれば、不足はない」

「されど、武田との戦も未だに始まっておりませぬ。今より戦うのは下策では」

「ああ。だが、いつまでも止まっていては駄目だ。この雨の中、待つのは得策ではない」

 

 言い淀んでしまったが、颯馬も同意するところはある。兵糧もそうだが、山の多い信州の地を通るのは雨の上がる前に動いた方が良い。

 だが、もしかしたら武田もそのことを計算に入れているのではないか。前に出たところを背後より急襲される可能性が高い。可能性の内だからこそ怖いのだ。何せ相手は武田なのだから。

 謙信も分かっている筈だ。にもかかわらず、戦おうと言い出した。颯馬は首を捻る。謙信があえて積極策を取ることは良くある。だが、いつもとは違うような気がした。具体的にどのようなものなのかは分からない。

 

「畏れながら、海津城は如何致ましょう? 彼の城に籠もる虎綱春日は武田の重鎮。なかなかに手強い相手でございます」

「うむ。全ては海津城を落としてからだ。虎綱は守る戦には滅法強いと聞く。如何にして落とすか……」

「開城は無論できないでしょう。ならば、力攻めしか方法はありませぬ」

「かといって、遮二無二攻め立てれば必ず大きな被害を被る。戦は始まったばかりだから無理は出来ないね」

 

 再び議論が中断される。虎綱とて武田四天王の一人。長く海津城の守備を任されている為、上杉の内情にも詳しい。お互い様だが、どちらが上手く相手を騙せるかが勝負になる。

 颯馬は息を吐いた。謙信が攻めると言った以上、攻めなければならない。

 官兵衛を一瞥すると緩みそうな口元を必死に堪えつつ戦術を考えているのが分かる。頼もしいが、単純に切り替えが早いことに羨ましさも感じた。子供っぽくて可愛らしいという邪な感情も少しあるが。

 

「颯馬。伊達や蘆名に通達を。直ちに話を進める」

「承知」

 

 謙信の声が少し低くなる。少しあった穏やかな空気がかき消される。だが、その一方で颯馬は寒気を覚えた。秋雨による冷えではない。謙信の声に背筋が伸びたのだ。

 官兵衛への羨望のようなものが謙信に若干の嫉妬を覚えさせたのだろうか。謙信はかなり苛々しているのだろう。否、悩んでいるのだ。

 おそらくは信玄に対して。しかし、積極的に戦うと言ったのは謙信であり、悩む余地がはたしてあるのだろうか。

 

(後々で、聞いてみるか……)

「颯馬。知らせた後、直ちに補給路について話すべきがある」

 

 頭を抱えるか、天を仰ぎたくなる。聞く機会が出来たとしてそれが望むべきものではない時、人の気力は一気に下がる。

 颯馬は頭を下げ、一足先にその場を離れる。そして、どう切り抜け、どう話を聞き出すか。様々な場面を想定し始めた。

 秋雨の音は颯馬を嘲笑うように激しくなり、冷たくなっていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

北陸は今日も雨だった

「雨は嫌だな」

「(こくこく)」

「口に出てるぞ」

 

 兼続に指摘され、龍兵衛は肩をすくめる。自覚があって言ったのだから良いだろうと思ったが、戦前に気を緩めるなとさらに厳しく言われてしまった。張り詰め過ぎは良くないと思ってやったことだが、逆効果だったようだ。

 雨になれば道はぬかるみ、足が汚れ、着ている物も濡れる。また、兵糧の食材にも限りが出てくる為、軍にとって良いところがまったくない。

 

「事実だ」

「口にするな。兵が聞いていたらどうする」

「誰もいないから言ったんだけどなぁ」

「ああ言えば……」

 

 牙を向けてくるが、龍兵衛は全く気にしない。魚津城に入った上杉軍は兵を休ませ、これから始まる激戦に備えていた。奥の間で総大将の景勝や共に参戦している兼続、龍兵衛。そして、城主の斎藤朝信が戦略の確認を行っていた。

 一段落付いた為、龍兵衛の言ったことは決して咎められるものではない。現に朝信は口元を緩ませて三人のやり取りを見守っている。

 救いがないと悟った兼続は咳払いをすると話を戻す。

 

「さて……景勝様の通訳だが……」

「兼続よろしく」

「何で私が!?」

「だって面倒くさいから」

「め……!?」

 

 素直に言ってのけたのが兼続の癇に障ったらしく、顔が赤くなってきている。逃げたいが、目的地が一緒である以上、逃げられる訳がない。

 

「景勝様も兼続の方が良いでしょう?」

「こくこく」

「そ、そんな……」

「お、まさか俺にやらせる腹か?」

「いえ、滅相もない!」

 

 朝信に睨まれ、兼続は慌てて首を振る。助けを求めようとそちらを向いただけだが、からかう材料にされてしまった。

 

「ま、話は俺が進めるから」

 

 笑いたくなるのを我慢して言った為か、龍兵衛は少し上擦った声になってしまった。龍兵衛の影で景勝は肩を震わせている。

 

「当たり前だ」

 

 今にも噛み付いてきそうな狂犬から逃げるように景勝と龍兵衛はせかせかと軍議場へと向かう。さすがに廊下では四人も真面目な表情になる。

 

「此度は斎藤殿にもご尽力頂き、恐縮です」

「なに、憎い富樫を滅ぼせるなら安いこと。謙信様の為だしな。何より……俺も荷が降りて楽になる」

 

 斎藤は一向一揆に対する備えとして魚津城でずっと動向を見守っていた。吉江や景資らの手伝いもあったが、最も苦労したのは間違いなく斎藤だ。しばらく見ない間に白髪も若干増えた気がする。

 つくづく頭の下がる思いだ。関東に長くいることが出来たのも斎藤の功績が大きい。今回の戦に勝利すれば間違いなく軍功第一だ。

 四人が軍議を行う部屋に入ると待っていたのは南部、最上、伊達等の面々。伊達は政宗や景綱、留守、支倉達が武田討伐に従軍している。

 話としては兼続と龍兵衛で話し合った一向一揆に対する戦略についてだ。

 

「端的に言えば、一向一揆勢は死を恐れずに城から打って出るでしょう」

「ならば、正面からぶつかるのか?」

「いや。それはさすがに……」

 

 鼻息を荒くしている景家を龍兵衛が諫める。説明を請け負っている為、当然のように視線が集まっているが、今のでさらに注目される。一度咳払いをすると平然を上手く装い、全員に向かって口を開く。

 

「一向一揆勢に正面からぶつかるのは死兵を相対すると同じ。気勢を削いで行くことが必要です」

「伏兵による奇襲か?」

 

 弥太郎の問いに龍兵衛は頷く。今後の為には効率的な勝ち方をしなければならない。

 

「小島殿、伊達軍と共に先鋒として前線の指揮をお願い致します」

「分かった」

「最上殿は松倉城へ。斎藤殿を大将として向かわせますので。睨みをきかせるだけで良いです。落とせるならば落としても構いません」

「相分かった」

 

 陣の中に緩みはない。どれだけ痛い目に遭ってきたのか十分によく分かっている。恐れていることがある。それに関しては皆が重々承知している為、言うまでもない。

 富山城には主力を、松倉城にはそれに次ぐ戦力を置いている筈だから援軍さえ押さえ込めば良い。相手が死を恐れないのであれば序戦で勝つか負けるかはかなり大きい。なるべく犠牲を少なくしてという条件付きでだが。

 

「直ちに準備に入ってくれ、と景勝様は言っておられる。諸将よろしくお願い致す」

  

 去って行く将の背中を見届け、上杉の面々も各々腰を上げる。

 

「はたして富樫はこちらの思惑通り動くかな?」

「どうでしょう……」

「随分弱気だな」

 

 斎藤は少し目を見開いて龍兵衛を見る。実際、龍兵衛に富樫の動きが分かる筈がない。攻める機会はいつでもあった。しかし、全く気配を見せずに静観していた。

 全くの失策である。特に関東攻めの際は上杉の主力がほぼ出払っていた。西の織田も浅井、朝倉を滅ぼしたばかりですぐには北上しないにもかかわらずだ。まともにぶつかり合って勝ったとしても被害が大きくなるのは明らかだ。

 あえてそうした訳はどこにあるのだろうか。もし、上杉と正々堂々とした決着を望んでいるのではないか。

 馬鹿馬鹿しい。自分の利益の為なら手段を選ばないあの富樫がそのような考えを持つ筈がない。

 

「どうした?」

 

 景勝に声をかけられたおかげで龍兵衛は自分だけが取り残されそうになっていたことを知る。

 

「兼続。後で少し良いか?」

「ああ、構わない」

 

 兼続も神妙な顔付きに隠された心情を悟ったようだ。おそらく同じことを頭の片隅に置いてあるだろう。真意など分からないが、それを探ってみることでそれなりに有利になるかもしれない。

 景勝を斎藤に任せると兼続を一室に呼び、悩んでいたことを包み隠さずに話す。少し考え込むように目を瞑り、開くとはっきりと言った。

 

「富樫については分からん」

「そうきたか……」

「事実、お前が富樫を見るべきだろう?」

 

 富樫に対する戦略や情報収集については龍兵衛が行っている。兼続の言うことは正論だが、あえて違うところからの意見も聞きたかったのだ。

 

「まぁ、お前の言いたいことも分かるがな。私とて富樫の立場なら関東に出張っている間に攻め入っている」

「だよな……だから分からん」

「分かりたくないがな」

「そうは言ってられんよ」

 

 吐き捨てる兼続の物言いは上杉の、富樫に恨みを持つ者の気持ちを代弁している。娘の長住を奪われた神保長職、紛いなりにも養父を殺された寺島盛徳。他にも上杉が富樫の支配から逃れた者を厚遇していると知った者達が流れてきている。

 この戦はいい加減、流民を抱え込むことが難しくなった為、彼等を故郷へと返す目的もあった。

 

「富樫の統治はどうなのだ?」

「相も変わらず、圧政圧政で、国は疲弊している。搾れるだけ搾り取って駄目と分かればさよならだ」

「それでも国としてやっていけるのは流石だな」

 

 兼続の皮肉は部屋の重苦しさを若干和らげた。

 

「無駄に国は豊かだからな」

 

 富樫の本国である加賀はもちろん、能登や越中は越後よりも豊かだ。正直なところ一向一揆の本拠地でなければすぐにでも欲しかった。東北は取ったところで農業は出来る範囲でしか拡張出来ないし、場所も限られる。商業的な価値の方が大きい。

 農業による経済的基盤が欲しい。越後も改革によってだいぶ変わったが、さらなる盤石な農業地が欲しい。

 

「餓えているな」

「土地にな」

「……なぁ、一つ聞いていいか? どうしてそこまで農地にこだわる? 商いでも十分やっていけているだろう」

「鉱山のおかげでな」

 

 水を差す返答に兼続の眉間の皺が深くなる。越後は全領域を豊穣な農地にしようとする龍兵衛の施策によって徐々に重農主義が強くなっている。当然のようにこれに反発する保守と商人がいる。

 

「反発する連中は米によってもたらせる商いを知らないだけだ」

「説明したのか?」

「根拠も無い推論で反発だよ」

 

 龍兵衛は侮蔑するように鼻で笑ってみせる。だが、次に放った言葉で部屋の空気が一気に変わった。

 

「鉱山のことだが。はっきり言えば、いつか枯れる」

 

 兼続の目つきが一層険しくなった。保守的な派閥からは距離を取っているとはいえ、形式的なことに関しては伝統を重んじる為、長らく越後と佐渡の支えとなっていた金山をはっきり駄目と言われて、面白くないのだろう。

 佐渡金山が枯れたのは二十世紀のことだから正直心配しなくても全然良い。知っていてもあえてそう言ったのは龍兵衛なりに重商主義よりも重農主義の方が良いと考えを持っているからだ。

 

「もちろん、金銀銅、取れる山はまだまだある。だが、あれらを金に変えても代わりとなるものがなければ意味がない」

「だからこそ、農業か……」

 

 商人とは金を扱い、利益を得ようとする為、差別の対象となる。兼続も例に漏れずだが、彼らの重要性はよくよく分かっている。龍兵衛の考えには賛同するところもあるだろう。しかし、全面的にとなれば違うはずだ。

 

「ま、今までこんなことしてこなかったからな。反発が出るのも分かる」

「だが、お前は越後の中での反発はなるべく避けようとしている」

「お見通しか」

「だからこそ、越中、加賀、能登を欲すると」

 

 兼続とてこの三国の豊かさを知っている。未だに重商主義の根強い越後で完全な改革の完成を目指すよりも他国であろうと重農主義が可能な国で行う方が効率的だ。いずれ、上杉の直轄地となるならば、そこで商業と農業の中和を図った方が良い。

 それで経済と市場が拡大するなら、なお良いことだ。龍兵衛は口元を歪ませながら大きく二度頷く。

 

「はたして此度で万事終わるだろうか……」

「終わらせないと」

「やはりな」

 

 織田が西国の本願寺との決着を付けそうになっている。ここで一向一揆を弱体させただけでは横取りされてしまいかねない。だから、本願寺の降伏前に上杉は動いたのだ。

 兼続は長く息を吐く。しかし、龍兵衛にそれを見ている余裕はなかった。富国強兵は経済が富み、人々の暮らしが豊かになってこそ成り立つ。

 農業と商業の安定こそが軍事に繋がるのだ。上杉の場合、それを行っている暇などなかった。武田が軍を編成している間に勢力を拡大しなければならなかった為、国内のことと外征を同時に行わなければならない状況下であった。

 必然的に国の経済を逼迫させているが、破産せずに済んでいるのは商いによる莫大な財産があるからに他ならない。目の上のたんこぶを取り除き、万全を期して西国に向かいたい。

 その為、大義名分上、有利に動きたいが、一向一揆は本願寺に属している為、上杉は将軍家に刃を向けていると捉えられかねない。織田を倒す為とはいえその先のことを考えているような者など少ない。

 

「幕府からの弾劾状は織田のせいで消えたから俺達でどうにかしないとな」

「義昭様は、我らを頼らずに毛利を頼ったようだな」

「こちらに来るには織田の領内を通らなければならない。吉江殿が救出を願ったが、殺されることはないからな」

「たしかにそうだが……」

 

 将軍を保護することで、どれほど優位に立つのか。分かりきっているからこそ得るべきものは得ておきたかった。兼続からその気持ちがよく伝わる。

 

「万一に備え、密書を送るようにはした。ま、どうにかなるさ……いずれにせよ、この戦で一向一揆を完全に滅ぼさないと駄目だ」

 

 集中すべきはそこだ。将軍が毛利を頼ったことで織田の西国への集中は増したと言って良い。何だかんだで力無き将軍も名前だけは一丁前だからだ。

 

「そうだな。ところで、富樫の動向はどれほど掴んでいる?」

「晴貞自身はまだ尾山にいるらしい。越中は椎名が守ってるみたいだな」

「城の普請を大分行っているようだが?」

「籠城された時はその時だ。内側から崩しても良いし、周りの城を徹底的に落として丸裸にしてやれば良い」

 

 言葉を随分選んだ方だ。冷酷に言えば如何なる犠牲を払ってでも一向一揆に引導を渡さなければならない。

 兼続にもその思いが伝わったのか、厳しい視線を向けられる。やむを得ないのだから我慢して欲しい。そう言うと龍兵衛は兼続の言葉を待たずに立ち上がり、部屋を出た。

 

 

 魚津城を出た上杉軍は斎藤率いる別働隊と別れ、海沿いの道を通り、富山城へと向かった。途中、小出と鶯野を落としたが、一向一揆の反抗はさほど激しいものではなかった。

 途中、雨が徐々に強まってきた為、行軍は予定よりも遅れてしまったが、ほぼ予想通りといったところだった。もちろん、一向一揆も黙っているはずがない。そろそろ本腰を入れてくるだろう。そう思っていた矢先、伝令が飛び込んできた。

 

「敵軍、新庄城の東にて我らを待ち構えている由」

「きたか……」

 

 新庄城辺りでの迎撃は龍兵衛、兼続共に一致していた。籠城はおそらくここで負けてからの次善の戦略。

 

「数は?」

「三万かと」

「随分、多いな。寄せ集めか?」

「そりゃあ、国内の精鋭を使いたくないんだろ」

 

 大事なものは全部自分の懐へと閉まい込んで、後のことは使える外様に丸投げ。上杉も似たようなことをしているが、明確な目的がある為、外様は分かっていても付いて来る。一向一揆の場合、上のことを崇拝している連中ばかりの為、似たようなものだ。

 

「気分が悪いな」

「向こうはこっちと違って何考えてるか分からないからな」

 

 考えていることがはっきりしているからこそ、皆は付いて来るのだ。あくまでも普通の人がだが。

 

「どうする?」

「とにかく、景勝様と相談だ。お前が皆に伝える役だからな」

 

 盛大な舌打ちと後で覚えておけという兼続の顔に龍兵衛は笑いを堪えられなかった。

 残念ながら雨のせいで凍るような手の体温は全く上がらなかった。代わりに陣屋で何故か猿に頬を叩かれたので微妙に暖かくなったが。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

飛翔するものはいずれ

 新庄城は畠山氏の要請によって越中に出陣した越後の長尾為景が新庄に陣を構えて神保慶宗らの軍勢と戦い、慶宗を敗走させて自害させた、上杉にとって因縁深い城である。

 新庄城の周辺は東側に常願寺川、西側には荒川と川に挟まれていて要害の地にあり、北陸道が通る交通の要衝として富山城を攻めるにも拠点となる場所である。

 だから新庄城には多くの軍勢がいる。三万と謳っているのはあながち間違いではないだろう。それでも間者からの報告では一向一揆の精鋭はいない。

 これに兼続は首を捻った。富樫に先見の明があるなら必ず越中で敵を食い止めようとするはずだ。国内に敵が入れば弱い者達はこちらになびく。国内で一致団結出来るような結束力があるのだろうか。

 

「馬鹿な……」

 

 強欲な富樫にそのような人望があるとは思えない、吐き捨てたくなる。しかし、実際に一向一揆の戦ぶりは正しく一糸乱れぬという言葉が相応しい。事実、戦ってきて、彼等の目的は皆一致していた。ただ、敵を殺す。

 あの戦を思い出すと寒気がする。頭を振って、記憶を外に放り出そうとするが、出来ない。鮮明過ぎる。

 

「おい、兼続。軍議が始まるぞ」

 

 龍兵衛の声に適当に答えると部屋を出た。感情のない声を聞くと本当に龍兵衛は一向一揆のことを恐れているのかと疑問に思ってしまう。しかし、敵の情報を統べ、的確にまとめる地位にある彼にそのようなことを思うのは失礼なことだ。

 

「景勝様は?」

「斎藤殿が呼びに行った」

「此度の戦、勝てるか?」

「らしくないことを言うな」

 

 笑って言われると少し癪に障る。だが、戦前に弱気になるのも確かにおかしい。怖じ気づいた訳ではないが、これから戦うことへの不安は簡単には拭えない。

 相手が悪過ぎる。正直なところ二度と戦いたくないと思っていた相手だ。しかし、京への道を近付けるため、北陸の国々は必要な場所である。

 

「やむを得ない相手でも。か……」

「ん?」

「何でもない。行くぞ」

 

 気怠げに返してしまったが、別に良いだろと龍兵衛を差し置いて部屋を出る。嫌な予感がするだけで兼続は人にそれを伝える程、夢見がちではない。

 それからの軍議は簡単に戦略を確認して終わった。先鋒の伊達が歩兵中心の一向一揆を鉄砲と騎馬で圧倒し、他の最上らが両翼から包み込んで一気に叩くというものだった。

 怖いのは今泉などの周辺砦から横腹に突かれる不安だが、それらはどちらかと言えば攻める為ではなく、防ぐ為の砦であり、上杉だけで押さえることになった。

 

「どうして私達を前に出さないんだ?」

 

 景家は苛立っていたが、ここまで行軍していて、上杉の兵は士気が低かったのを見ての当然の処置と言える。もちろん、そのようなことを公然と言える訳が無いのであくまでも伏兵や突然の援軍に備えてのことだともっともな理由で宥めた。

 

 

 

「しかし、こちらとて士気があまり上がらないのは変わらないのだが……」

「輝宗様、兵達が不安になるのでそのような言動は慎み下さい」 

 

 伊達は一向一揆と直接戦ったことはない為、どのような戦い方をしてくるのか見たことがない。だが、人の口に戸が立てられないように伊達の兵達にも一向一揆がどのような戦い方をするのか伝わってくる。尾ひれを付けながらだが、それがなお良くない方へと進む。

 

「分かっている。だが、兵の士気は戦において欠かせないことだ。俺としては此度の戦。なるべく戦をせずに勝ちたい」

「こちらの交渉に応じる者がいれば良いのですが」

 

 口ではそう言いながら、可能性は無に等しいと綱元は分かっている。先の城攻めでも、敵は最後の一兵まで戦い、殲滅するまで戦は終わらなかった。

 武田に向かわせた兵よりもこちらを多く向かわせて欲しいと言っていた謙信の心中が何となく察せられた。だから、後詰として蘆名らが上杉の援軍と共にこちらに来るように使者を出したのだろう。

 

「さ……そろそろ動かねばな。新庄城を落とすのはこの伊達だ。最上に遅れを取る訳にはいかぬ」

「はっ。太鼓を鳴らせ!」

 

 平野での戦の為、数と勢いが重要となる。先に打って出れば勝てる可能性は上がり、否が応でも士気は若干上がる。

 先鋒の士気を務める鬼庭親子は東北では名の売れた将である。しかし、一向一揆にそのような先入観などない。遮二無二突っ込んでくる様を見れば明らかだ。

 元からこちらが動いた途端、向こうも動くつもりだったのだろう。装備もままならない兵、否、民兵が攻め寄せてくる。

 左月は騎馬を下げ、鉄砲を撃ち込み、怯ませる。だが、団結力の強い一向一揆はそれに怯まずに屍を踏み越えてこちらに迫ってくる。

 

「味方をも踏み潰すか……」

 

 綱元の横で左月が憎らしそうにしている。鉄砲を撃ち込めば必ず誰かが死ぬ。本願寺からの支援を得ている一向一揆なら鉄砲の恐怖を知らない筈がない。しかし、鉄砲の音を聞いても敵は全く足を止める気配がない。

 なるほど、上杉の者達が気味悪がるのも分かる。一方、一向一揆は鉄砲を撃ち込んでくる気配がない。物資さえもまともに与えずに自分達を守る為に取っておいているのだろうか。だとすれば、何と忌々しいことだろう。早く戦を終わらせ、盾となっている民兵を救わねばならない。しかし、焦って突っ込めば多大な犠牲を払いかねない。ここは装備の脆さを突くべきだ。

 

「矢を放て!」

 

 鉄砲に怯まない分、銃撃の際に生じる隙が大きい。弓によって隙を補い、犠牲を払わせて戦線を後退させる。合戦を率いる将ならばそれなりの理性があるはずだ。一方、こちらも弾や矢の数には限りがある。いつまでもこの状態を続ける訳にはいかない。ましてや、これは富山城を取る為の緒戦に過ぎない。

 いつ頃射撃を止めるべきか、綱元は時を計る。一向一揆は徐々に距離を詰めている。本当にすごいと感心してしまう。しかし、関心はしない。あのような戦い方をさせるなど綱元には考えられない。犠牲は戦に付き物だが、少ない方が良いに決まっている。

 

「そろそろかな……鉄砲隊、撃ち方やめ! 騎馬隊、前へ!」

 

 伊達の騎馬隊は上杉に属する大名の中でも有数の強さを誇る。綱元もそれを信じて疑わない。敵の兵数を考えると新庄城を富山城へと通じる最後の砦と見て良い。

 ならばここで一気に叩いてしまえば富山城への道は開き、一番乗りも夢ではない。伊達の百万石への思いは強い。ここで功を立てればより確実に上杉から領地を拝領出来るはずだ。

 煮えたぎる思いを抱きつつ綱元も前へと出る。左月は既に騎馬隊を率いて前進している。しかし、いざ戦ってみると上杉の兵が一向一揆と戦うのを拒む訳がはっきり分かる。敵が一人で倒せないと分かるや集団で飛びかかるように襲ってくる。その目は血肉を求める獣ようなものや、ただ敵を殺すだけにしか頭になく、それ以外の意思を奪われた虚ろなものである。

 周りでは滅多差しにされる伊達の兵がいる。一向一揆の兵はまるで大勢の中で一騎打ちを演じている。自分が倒すべき相手以外は誰も見ていない。

 

「左月様! 敵の前線が崩れております!」

「よし! このまま突っ込むぞ!」

 

 聞き慣れた声が聞こえる。どうやら追い付いたようだ。騎馬に対してどう戦うのか気になっていたが、やはり所詮は民兵だ。まともにぶつかって突進力に適わないはずなのに馬鹿正直に突っ込んでくる。

 

「景勝様に一気に畳み掛けるから援軍を寄越すように伝えて」

 

 指示を出すと綱元も最前線へと躍り出た。遠くから見ていたが、一人一人の技量はどの大名の足軽にもなれないような平凡さである。

 

「父上、戦況は?」

「見ての通りだ!」

 

 苛々しているのを隠そうともせずに左月は答える。戦況は拮抗していて、なかなか打開出来そうにない。数と技量なら上であるのはこちらだが、一歩も退かない一向一揆の士気も高い。加えてこちらの士気は戦う時間が長くなるにつれて落ちていく。

 

「このまま突っ込んだ方が良いのでは?」

「ならぬ! 下手をすれば我らは孤立するぞ」

 

 一向一揆は陣を組んではいるものの、それを維持する程、訓練されていない。好き勝手に自分が倒す敵を倒している。その為、密集する場所が出来、混戦になって身動きが出来ない。

 騎馬の最大の武器は突進力だが、混戦の中に突っ込むと突進出来なくなる可能性もある。いずれ足を狩られるのならば歩兵の方がまだ良い。

 上杉に強さを示す為にも急いで道を作りたいところだが、なかなか突破出来ない。

 

「やむを得ん……綱元、お前は一旦、隊を退かせ、一向一揆を包囲しろ。安東には儂から側面に回るよう伝える」

「申し上げます! 安東隊、背後よりこちらの援軍として到着した由」

 

 左月は思わず舌打ちをした。綱元も気持ちは分かる。ここで綱元が退けば何も知らない安東が混乱し、態勢を立て直すことが出来ない。

 

「かくなる上は、上杉の援軍はまだか!?」

「今少しかかるかと」

 

 数を頼りに泥仕合を繰り広げるつもりではない。側面に置く兵を増やし、包囲してしまえば良い。しかし、希望などすぐに潰されるのは分かりきっていた。左月もおそらくそうだろう。焦りは見えない。

 

「安東にはこのまま左右に分かれ、側面を突くように伝えましょう。側面に動揺が走れば一気に……」

「申し上げます! 南より敵の援軍が接近中。数は不明ですが、一万は優に越えている模様!」

「馬鹿な!? 本郷には兵が少ないと聞いていたぞ!」

「しまった。圓光寺か……」

 

 圓光寺は決して大きい規模を持っていないが、一向一揆に協力する者などどこにでもいる。住職が周辺の村に声をかけ、決起を促したに違いない。もしくは一向一揆の大将がけしかけた。

 

「あとどれほどで到着する?」

「もう直ぐと」

「発見が遅れたようですね……」 

 

 どうするとは聞かない。左月は伊達の前線、全軍の先鋒の要。頭の中ではどれが最適解なのかを必死に考えているはずだ。

 このような時に小十郎が入れば。そう思っても、仕方ない。綱元はとにかく左月に献じることが出来る打開策を必死に考える。  

 

「敵軍がさらに突っ込んで参ります!」

 

 時は待ってくれない。援軍の到来が伝わったのだろう。一気に畳み掛けるつもりだ。

 

「安東に救援を頼め!」

「しかし、このままでは混戦状態となります!」

 

 身動きの出来ない騎馬兵などただの目標物になりかねない。まさか、と綱元が思った時には遅かった。南から銃声が響いたのだ。援軍の到来を伝える合図だろう。

 

「……撤退だ!」

 

 左月の声は近くには聞こえたが、遠くには銃声で聞こえなかった。だが、綱元はそれで良かったと思った。前後足並みが揃わずに混乱するのは目に見えている。綱元は必死に考えたが、答えを見いだせないでいた。このままでは壊滅してしまう。政宗より預かった騎馬隊の精鋭をも巻き込み、戦場の土となるのは何としてでも避けなければならない。

 

「綱元! お主は直ちに輝宗様の下へ向かえ! 殿は儂に任せよ!」

「輝宗様のお近くには安東がおります! 心配は無用!」

「申し上げます! 安東隊、撤退を開始した模様!」

「なっ……輝宗様は!?」

「分かりませぬ……」

 

 歯痒いが、安東の判断は当然の判断と言って良い。だが、味方が危機に陥っているのに助けないのは何事か。伊達の者からすればそう思うのは当然のこと。

 綱元は撤退を促す為、兵に指示を出し、自ら敵へと突撃をかけようと声を上げようとする。同時に背中から嫌な予感を覚えた。振り返ると一向一揆本隊から矢の雨が降ってくる。ここまで鉄砲も矢も使わなかったのはこの時を待っていたからか。

 避けようにも兵が密集していて動けない。先程よりは散らばっているが、皆が動揺していて声が錯綜している。長生き出来ると思っていたが、どうやら戦場で父よりも先に逝くのか。そう思ったのと鳥が飛んできたように影が動いたのは同時だった。

 

「危ない!」

「小島殿!」

 

 綱元がようやく影の動きに追い付いたのは左月が声を上げたのと同時だった。

 

「がぁ!!」

 

 呻き声と共に馬の嘶きが聞こえ、弥太郎の体が降ってきた。背中に矢が数本刺さっていて、綱元を庇ってくれた。

 

「小島殿を守れ!」

 

 左月の声で兵が弥太郎と綱元を庇うように前に出る。左月が弥太郎に近付くと肩を担ぐ。

 

「綱元! 何をしておる!」

 

 呆然としていた綱元だが、一喝が良く効いた。今、伊達軍は混乱している。一時的にでもこれを落ち着かせるにはやはり事実かつこちらに有利なことを伝えるのが良い。

 

「上杉の援軍が来てくれたぞ! ここは正念場だ!」

 

 援軍の声に歓声が上がる。実際に上杉の旗印はまだちらほらとしていて、完全に来てくれた訳ではない。援軍が来たとはいえ、一度不利になった状況を立て直すにはこの状況下は良くない。

 

「上杉軍と合流し、一度態勢を立て直すしかないか……退け!」

 

 ところが、そう単純なものではない。一向一揆は容赦なく追撃してくる。おそらく、敵大将が追撃を止めさせない限り地の果てまで追い立ててくる。

 殿を上手く務めなければ伊達の損害はますます大きくなる。だが、殿の犠牲がかなりのものになるのも必然。しかし、それを避ける方法も無い。そして、綱元が悩む間でも矢は再び放たれる。

 

「綱元様!」

 

 竹の盾を持った兵が慌てて綱元を防いでくれたが、それどころではなかった。背後から聞こえてきた呻き声に綱元は頭の中が真っ白になってしまったからだ。

 

 

「小島殿、どうしてここに?」

「安東より事を聞いて急いで来た。叱責しつつな」

 

 皮肉混じりに笑う弥太郎の口から血が流れる。それ以上、喋らないよう言うと左月は弥太郎を安全な場所まで移そうと再び走り出す。

 しかし、その背後から迫り来る第二の矢は無慈悲にも左月にも突き刺さった。 

 

「父上ー!」

 

 綱元の叫びも空しく、矢が左月の背中に更に二本、三本と突き刺さる。その度に左月の動きが遅くなり、表情も険しくなる。同時に弥太郎にも矢が刺さっていく。それ以上、二人に矢を刺すまいと兵達が必死に身を盾にしなければそこで二人は絶命していただろう。おかげでどうにか綱元が駆け寄り、二人を運んで矢の届かない所まで下がることが出来た。

 

「父上、ご無事で!?」

「……あ、あぁ……ごっほごっほ……」

 

 左月の手の平に浮かんだのは濃い赤色をした血。弥太郎程、酷い傷ではないが、すぐに手当てをしなければ危ない。しかし、この混戦状態の中ではそれも難しい。

 

「すぐに景勝様と輝宗様に伝令を! 二人を安全な場所へ!」

「待て!」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

屍の意味

 綱元は声で制された。驚いて振り返るとおぼつかない足取りで弥太郎が前に出てくる。

 

「その必要は、無い……」

「されど、その怪我では……」

 

 近付こうとした綱元に弥太郎は殺気立った目で睨む。まさか味方からそのような目をされるとは思っていなかった綱元は一瞬、足を止める。だが、足を引きずって前に出ようとする弥太郎を見て、慌てて駆け寄った。

 

「小島殿、このままでは……!」

「良い……どうせ、助からん……ならば、最期に死に花を、咲かせに……」

「ですが……」

 

 綱元はこちらに向かってくる一向一揆を見る。あの中に弥太郎が入れば命はもちろん、死体を無事に回収出来るかも分からない。滅多刺しにされ、見るも無惨な形になっているだろう。仕える家は違えども、仲間である。

 せめて、綺麗な亡骸であってほしい。

 それが武人として思う、精一杯の誠意だ。しかし、弥太郎は痛みに耐えるように歯を食いしばって、綱元を見る。

 

「一度、受けた大恩を返さずに何が武人だ!」

 

 一喝は綱元よりも長く武人を務めた弥太郎の正しくその姿だった。弥太郎が裸一貫から武勇を以てのし上がったのは知っている。

 一向一揆の兵の一団が声に気付いて将がいると群がってくる。防ぐように綱元が命じたが、勢いでは完全に押されている。突破されるのも時間の問題だ。

 

「助からないのは私がよく分かっている……」

 

 上手く笑ってみせたつもりだろうが、綱元には弥太郎が外道な鬼の笑みにしか見えなかった。血肉に飢えた笑みは正に鬼小島の異名のそれだった。

 弥太郎は全身で深く息を吸うと伊達の兵をかき分け、飛び越え、敵の前に立ちはだかった。

 

「お戻り下さ……」

「我こそは上杉が鬼! 小島弥太郎貞興! 地獄への道連れとなりたい者から前に出ろ!!」

 

 誰かが声をかけようとしたが、弥太郎の声にかき消された。

 

『おぉぉおおぉ!!』

 

 元から作法など微塵にもない一向一揆に名乗りなどただ行方を知らせる情報にしか過ぎない。将がいると分かるや、雄叫びを上げてがむしゃらに弥太郎へと突っ込んでくる。

 弥太郎が槍を振るえば、大量の血が舞った。綱元にはっきりと見えなかったが、おそらく弥太郎自身の血もそこには含まれているのだろう。

 そう思いながら弥太郎の戦ぶりを見ていると右肩が急に重くなった。左月が手を置いているのだ。 

 

「気が、変わった……」

「父上……」

「綱元。武人ならば分かるだろう……如何なる戦も、勝たねば……気が済まん……」

 

 分かりたくない。しかし、この状況では左月の申し出を引き受けるのが最適解だということを理性が嫌でも教えてくる。だから、必死に綱元は説得を試みる。

 

「されど、この戦は……」

「緒戦に過ぎぬ……最後に勝てばそれで良い」

「なら……」

「普通の敵であれば、な……」

 

 武人なら死を恐れない者の勢いの怖さをよく知っている。彼らはここで勝ち、さらに勢いをつけるだろう。それを挫く為に挑んだ戦だが、結果的に、もう敗戦をひっくり返すことは出来なさそうだ。

 

「それでも、鬼庭の人間か!」

 

 悔しそうに唇を噛む綱元を見て、左月は小さく、強い口調で激を飛ばす。はっと綱元は顔を引き締める。自分は誇りを高い家に生まれ、それに恥じないよう生きてきた。考えればたかだか一人、一族が死ぬというだけだ。

 

「けりを付けるのはお前だ。頼むぞ……」

 

 綱元の肩を二度叩くと左月は道を塞ぐ兵達を振り払い、駆け出して行った。弥太郎とは違い、名乗りを上げずに次々と敵を斬って行く。弥太郎と合流しようとしているのだろう。

 

「綱元様、このままでは左月様が……!」

「分かってる! 仕方ない……援護射撃をして」

 

 退かせろと言わなかったのに綱元は後世、自分で自分を褒めてやりたいと言った。感情を押し殺せたことだけではなく、将として勝つことに重きを置けたからだ。しかし、気が気でないことに変わりない。

 

「どうすれば……」

 

 左月も弥太郎に続いて得物を音が鳴る程強く握り、前へと駆け出す。血の量は弥太郎よりも少ないが、放っておけるような傷ではない。

 

「良いのか?」

 

 二人は自ずと背中を合わせた。一向一揆はじりじりと距離を縮めてくる。弥太郎の言葉に愚問だと左月は鼻で笑った。

 

「武人たる者、戦場に華を咲かさずに何とする?」

「そうだな……」

 

 互いに口元を歪ませると一向一揆勢へ突撃をかける。何事かと構える敵の前で一度足を止め、弥太郎は息を深く吸う。

 

「来い! 地獄への道連れだ!」

 

 二人はそれを合図に一気に敵の群れの中へと斬り込む。いかに命知らずとはいえ、二人の歴戦の将の動きに付いていける筈もなかった。最前線にいた兵は次々と餌食となり、慌てて迎え撃とうとした者達も相手にならない。

 だが、二人共に手負い。時間は有限である。にもかかわらず、上杉は全く撤退する気配がない。このままでは本当に壊滅してしまう。左月が苛ついている間にも敵はさらに押し迫ってくる。

 

「綱元ー!」

 

 遅い。未だに揺らいでいるとは何事か。やはりまだ若いのだろう。ならば背中を押してやるのが年長者として、父としてすべきことだ。

 心に強く伝わる。綱元は腹をくくった。すべては伊達の為、鬼庭の為。深く息を吸うと大きく口を開いた。

 

「鉄砲隊、構えー!」

「さえちゃん……」

 

 普段、一番槍を務める成実は今回だけ、輝宗の命で伊達本陣の警護を行っていた。

 すがるような声に綱元は一瞬だけ奥歯を強く噛み締めたが、すぐに目を見開いて刀を敵へと向けて振り下ろす。

 

「放てー!!」

 

 弥太郎と左月の合間を縫うように鉛弾が次々と一向一揆勢の身体を収まっていく。もちろん、一兵卒に二人を避けて狙う程の技量を持っている者などいない。

 誰もが当てようなど思っていない為、直撃することはないが、かすめていくのが分かる。元から傷を負っている二人にとって普段なら気にならないかすり傷も死への階段を確実に近付ける。

 

「っ……」

 

 目を逸らしたい。しかし、将としての役目を全うしなければならない。怒りと虚しさと後悔で滅茶苦茶になる心に無理やり火を付け、叫ぶ。

 

「続けて弾込めの出来た者、直ちに構え! 一斉に放て!」

 

 綱元の口の中から血の味がしだした。噛み締めた唇に傷が付き、千切れそうなぐらいだ。

 

「騎馬は前へ! 一度蹴散らしたら撤退する!」

「綱元様、されどこのまま左月様達を……」

「今はもう撤退しないと、皆死ぬよ」

 

 綱元は顔を上げ、声を上げる。黙っていれば成実も加わってますますやりにくくなっただろう。

 

「騎馬隊、一気に蹴散らせ!」

 

 指示通り、騎馬が一向一揆の歩兵達に突っ込んでいく。敵は躊躇わずに騎馬へ攻撃を仕掛けてくるが、馬の脚に人が適う筈もなく、蹴飛ばされていく。馬に攻撃が当たっても、馬が暴れ出し、乗っていた兵だけでなく自軍にも被害を及ぼしている。

 このままなら形成を逆転できそうだが、そろそろ圓光寺の援軍がそろそろ完全に合流し、包囲されそうだ。そして、あの二人も限界を向かえようとしている。

 

「……全軍! 撤退だ! ただ、疾く駆けよ!」

 

 その声を合図に伊達の兵達は一斉に退き始めた。中には弥太郎と左月を案じて足を止めて、振り返ろうとした者もいたが、敵から放たれた矢の餌食になるか、味方に踏み潰されるかのどちらだった。

 綱元もまたここまで撤退で混乱状態になると思っていなかったので、危うく愛馬の手綱を握り損なうところだった。

 

「輝宗様は!?」

「既に上杉軍と合流した模様!」

 

 一つ安心した。万が一何かあれば後で政宗から何を言われるか分からない。胴を蹴ろうと力を込めた瞬間、轡を持たれた。

 

「さえちゃん、本当に良いの!?」

「……」

 

 何がとは聞かない。あの二人は無数の兵相手にいつまでも立ち向かっている。成実は心からあの二人を助けたいと思っている。それは綱元も同じだ。

 

「……撤退するよ」 

 

 成実の顔が引きつっている。綱元自身、背中が凍ったぐらいに冷淡に言えた気がする。ただ、将として悲しんでいられないという思いから感情を押し殺しただけだ。

 成実や他の者からもしかすると避難されるかもしれない。しかし、今この状況下で他にどのような態度をすれば良いのか分かない。

 後で敬愛する父に謝らなければならないだろう。鬼庭が真の鬼のような所業をしたと。しかし、どうやって伝えるべきか。

 否、父はきっと撤退する綱元の背中を見て笑っている。振り返らなくても分かる。声にしていないか聞こえないだけか分からないが、流石は鬼庭の人間よと言っているに違いない。

 

「上杉様より伝令! 仏生寺城まで撤退するとのこと!」

「分かった! 白岩川沿いに兵を集めてまとまって退くぞ!」

 

 今ここで悲嘆にくれる暇などない。泣くのは全て終わってからだ。

 

 

 重苦しい空気だ。輝宗は報告をしている綱元の隣で周りの様子を見ている。兼続は戦略を立てた責任故か、唇を噛んでいる。隣にいる龍兵衛は変わらず表情が読めない。憤っているのか、冷静に今後のことを考えているのか。

 

「申し訳ございませぬ。私が不甲斐ないばかりに、父の左月ばかりでなく、小島殿まで」

「……」

 

 景勝は黙ってしまった。父の死を目の当たりにしても淡々と報告する綱元を哀れに思ったのだろう。しかし、それではますます綱元の心に悲しみを与えてしまう。

 

「輝宗殿、伊達の損害は?」

 

 龍兵衛が口を挟んでくれた。安堵しつつ、表情には出さずに輝宗は答える。

 

「全軍で五百から八百だと。負傷した者を加えるとさらに増えるが」

「……ありがとうございます」

 

 礼を言うと龍兵衛は景勝の方を向く。

 

「景勝様、此度の戦、各隊の連携が上手く取れていなかったと思われます。伊達殿には先鋒より第二陣に下がって頂き……」

「えっ、ちょっと!」

「何ですか? 伊達成実殿?」

「いや、だって……」

「承知致した」

 

 輝宗が間に入るように口を開く。景勝も兼続も驚いていないところを見るとおそらく決まっていたことだ。龍兵衛の一存ならともかく、上杉軍の意ならそれに逆らうことは出来ない。

 成実は悔しそうに龍兵衛を睨みつけているが、当の本人はどこ吹く風と無視している。輝宗も悔しいが、ここで伊達の面目をさらに潰すような真似は若い者達の今後に繋がる。左月とてそのようなことは望んでいない。

 

「代わりに、最上殿に先鋒を務めて頂きます」

「うむ。承知した」

 

 東北のもう一つの大勢力である最上に功を与える機会をみすみす譲ってしまった。伊達の者からはそのような悪い空気が流れてきたが、輝宗は最上という起用に意外だと思った。てっきり安東が先の戦で伊達を救援しなかったことで、その挽回の機を与えると思っていたからだ。現に、安東愛季は兼続を通じて景勝から叱責を受けていた。

 安東を見ると下を俯き、心底反省していると態度で示している。彼女は撤退したことを自らの判断と言っていたが、そのような性格だろうか。家臣が独断を行うような生ぬるい集団でもない。おそらく、誰かの差し金があったのだろう。

 

「……」

「次こそ、新庄を取り、越中の民を救う! と景勝は言っておられる」

『御意』

 

 話は以上と景勝が立ち上がると各々行動に移る。

 

「綱元、成実。お前達は兵を見て回ってくれ。綱元、すまぬが、今は左月を弔っている時ではない」

「分かっています。戦が終わるまでそのつもりでした」

 

 よく出来た娘を左月は持ったものだ。これなら安心してあの世へ行けるだろう。亡くなったばかりでそれは不謹慎だったかもしれない。今の状況を考えるとそうは言っていられないが。成実は今にも泣きそうなのを必死に堪えている。

 

「輝宗様は?」

「俺はちょっと会いに行かねばならん者がいる。すぐに戻る故、頼むぞ」

 

 輝宗は二人と別れ、あちらこちらを探し、ようやく兵糧を置いてある場所に目的の人物を見つけた。

 

「河田殿」

「これは、輝宗殿」

 

 礼儀正しく龍兵衛は腰を折る。

 

「此度は、無念であったな」

「ええ、悔しいですね」

 

 口調が変わらない。公然ではないこの場でも感情が外に出ないのだろうか。以前、景綱が一度、公の場を離れれば龍兵衛は表情豊かになると言っていたのは間違いなのか。

 否、あの景綱が偽りの報告をするようなことはないし、不覚を取るとは思えない。ならば、見ない間に変わったということだろうか。伊達の人間だから隙を見せないようにしているのかもしれない。

 

「小島殿の亡骸は」

「見つかりません。恐らく探しても無駄でしょう。もう仕方ありませんので」

 

 まるで死んだことが当たり前と言っているようだ。だが、輝宗も自然と納得してしまう。人間はいずれ死ぬのだ。それが戦場であっただけのこと。龍兵衛はそう思っている。

 

「達観しているな。若いのに」

「単に死ぬことを見ていると遠い人でも近い人でも変わらないと思って……ただ、それだけです」

「人の死とは受け入れ難いものだ。それを河田殿はすぐに受け入れた。俺にもなかなか出来んことだ」

「買い被りというものです。これでも、かなり残念だとおもっているのですよ」

「残念とな……まるで駒を失ったような物言いだな」

 

 少し考えたが、輝宗は単刀直入な言葉を選んだ。龍兵衛を試そうと、これでどのような反応を見せるかという老獪な好奇心と共に。

 だが、龍兵衛は肩をすくめて何も言わない。さすがに輝宗も予想外だった。どこか体に反応を見せると思っていたが、眉一つ動かさない。

 

「少し言葉を選ぶべきでした。左月殿のこともあるにもかかわらず、申し訳ありません」

「いや、気にすることはない。だが、俺以外の者に言うなよ」

「もちろんです」

 

 さすがにその辺りはわきまえているようだ。思い返せば龍兵衛とこうして長く話したのは初めてかもしれない。

 無愛想で、勘違いされやすいだろう。おそらく、先入観からなかなか信用されることがない部類の人物だ。

 

「何か……?」

「いや、何でもない。ところで、聞きにくいことを一つ尋ねても良いか?」

「自分でよろしければ」 

「我らは上杉に警戒されているのか?」

 

 龍兵衛の目が一瞬だけ細くなった。輝宗は先の戦いにて上杉の救援に違和感を覚えていた。弥太郎の部隊以外の上杉の将兵が全く来なかったのだ。普段の上杉の動きの速さを考えれば弥太郎の救援は当たり前。しかし、他の部隊が付いて来ないのはおかしい。

 そうなると考えられるのはただ一つしかない。誰かが意図的に救援を遅らせた。

 

「急に言われても、困るというか、驚くというか……」

「まぁ、そうだよな。しかし、聞いておきたい」

「そうですね……」

 

 龍兵衛は少し考えるような素振りを見せ、すぐにそうだと頷いた。

 

「やはりか……」

「察していらっしゃるのはこのようなことを聞いてきた時点で分かっております」

「だろうな。いや、すまない。変なことを聞いて」

 

 とんでもないと龍兵衛は頭を下げ、振り返る。しかし、輝宗が聞きたかったのはそれだけではない。これからが本題だ。

 

「もう一つ、良いか?」

「何でしょう?」

 

 龍兵衛は足を止め、こちらの目をしっかり見てくる。性格がどうであれ、人が出来ている。

 

「小島殿と左月。二人が討たれたことは如何に思う?」

「え?」

「いや、先程のとは意味が違う」

 

 そうだなと迷いながら、輝宗は龍兵衛に近付き、耳打ちをする。

 

「戦略的になどは抜きにして、人として小島殿が討たれたことは如何に思う?」

「先程も申した通りです」

 

 はっきりとした物言いが輝宗に確信を抱かせた。龍兵衛は裏に何かを隠している。決して弥太郎が死んで嬉しいという邪悪なものではない、道徳的な思いを抱いている。

 

「死ぬことに意味があるような気がするだけです。かな?」

「はい……?」

 

 輝宗は温和な笑みを浮かべ、何でもないと肩を叩くとその場を去った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

懊悩の渦中

「終わったか?」

「ああ、大体のところは」

 

 新庄城の一室で兼続が龍兵衛を迎え入れてくれた。やっとだと息を一つ吐くと彼は持っていた書状を兼続に渡す。

 

「上手くいったか?」

「どうにかな。後はあちらの勇気の問題だ」

「しかし、本当に必要なものなのか?」

「無くても良いけど、確実に行うべきだろ」

 

 書状を読みながら確かにと兼続は頷く。

 

「越中で戸惑う訳にはいかないからな」

 

 先の戦で弥太郎を失ったのは上杉にとってかなりの痛手だった。単調な攻めも原因があると考えた龍兵衛は圓光寺に奇襲をかけ、機能出来なくした。その間に兼続が新庄城城外の兵を先鋒の最上に引き付けさせ、安東に迂回させて新庄城を襲わせた。

 平城である為、かなり危険な賭けだったが、一向一揆は簡単に崩れた。先の見事な戦振りが嘘のように。

 

「結論からすれば一向一揆の団結力は正攻法に強く、奇に弱いということだな」

「おそらくな」

「何だ? まだ分からないところでもあるのか?」

 

 兼続には龍兵衛の口調が少し弱気になっているように聞こえたようだ。

 

「いや、そうじゃなくて……何か違和感があるというか……」

「確かにそれについては否定しない。だが、越中で足をいつまでも止めておく訳にもいかないだろう」

「そうだが、少し兵の疲弊も考えなければ」

 

 最上はあちこちを動き回り、かなり疲弊しているはずだ。さすがに次の戦でも先鋒を務めさせる訳にはいかない。

 

「安東には美味しいところを頼んだし、これでまた伊達に任じることになるだろうな」

「こうなることを見通していたのか……」

「呆れるなよ。正直、最初に負けたのは予想外だったんだからな」

「ま、そういうことにしてやろう」

「ひどい……」

 

 泣き崩れる素振りを見せても兼続は白い目をむけてくるだけ。結局、伊達は新庄城を攻め落とした戦では最上の城攻めを支援しただけで、目立った功を立てることは出来なかった。

 城主も安東が自ら討ち取り、囮に乗った者も最上が討った。伊達だけがおこぼれの雑魚を倒しただけで、めぼしいものは無かった。

 先の戦のことがあるとはいえ、功を立てる場を奪われた不満と上杉に対する不信感があるのは間違いない。次の戦を挽回の機会に与えれば全てよしとまではいかないが、それなりには得心してくれるはずだ。

 

「それで、要所の富山城はどうするのだ?」

「力攻めは効かない。失敗すれば肝心の加賀入りの時に苦労するからな」

「ならば、内から崩すか……その辺りのことはお前の役目だからな」

「面倒で嫌なこと、今回お前は触れないな」

「私は景勝様のお側にいなければならん。それは諸将

に伝達すべきことを回したり、戦略を練ることにもなる。つまり、お前が悪い」

 

 わざわざ表情だけでなく、口にも出して言うところに兼続の意地の悪さを感じる。押しつけたのは龍兵衛に違いないので、自業自得といえばそうだが、ちょっとは手伝えというのが本心である。

 

「あーそうですよ。自分が悪う御座いました」

 

 両手を挙げて参ったと示す。兼続もさすがに切羽詰まっているのを見れば手伝ってくれる。そうしないのはまだ龍兵衛だけで十分だからだ。

 簡単に敗北宣言をすると空気を変えるべく、龍兵衛は一つ咳払いをする。 

 

「それにしても、大元の将が逃げてしまうとはな」

 

 新庄城を落とした際、伊達もそうだが、上杉も大将を討とうと躍起になって城中を探した。

 隠れそうな所を隅々まで探し、駄目元で敵兵を捕らえ、吐かせようとした。結局彼らは「殺せ」としか言わなかった。

 

「跡形も無く消えたところを見ると早々に諦めたということか」

 

 上杉も最後に乗り込んだが、総大将がいるであろう城の奥には雑兵しかいなかった。将らしき屍も各地に散らかっていたが、どう見ても貧弱そうでよく人を指示する立場が務まっていたなと思える風貌の者ばかりだった。

 

「ああ、あれらを盾にしてな」

 

 人は見かけによらないと言うが、倒れ方が皆、背中を向けて倒れていた。結局、負けると分かれば生存本能というのが働くのだろうか。哀れだが、兵として立ち向かってきた以上、倒すのが必然だ。

 

「生きるべくして生きたのか。死ぬのが逃げ帰ったのか。どっちだろうな」

「私はそいつが生きる価値があるからこそ逃げたのだと思うがな」

「……なぁ、一ついいか?」

 

 手を挙げ、兼続を制する。

 

「何だ?」

「お前、どうして富樫と今回の新庄で采配していた奴が違うって知ってるんだ?」

「えっ?」

「俺は一言も富樫がいないとは言っていない。お前は確かに俺同様、越後より西のことを任されている。だがな、専ら京のことのはずだ」

「さぁ、お前のところに情報が集まらなかっただけではないか?」

 

 鼻で笑われたが、龍兵衛にふざけるつもりはない。机を一つ叩くと兼続に近付く。何だと睨んでくるが、構わずに片手を置いて顔を近付ける。

 

「何を隠している?」

「隠している?」

「お前のことだから内通を誘われてもそれを利用する。しかし、一人でやるのは難しいと分かっている」

 

 何を言っているのだと訝しげな目を向けてくる。だが、少しだけ兼続の口元が歪んだ。笑っているのではない。横目で兼続の表情の動きを見逃さず、悟った。

 一度離れ、周りを確認する。気配はない。いれば既に兼続の方が気付いている。意を決したように目を見開くともう一度耳打ちをする。先程よりも切迫した口調で。

 

「誰が俺を貶めようとしている?」

 

 情報をわざと龍兵衛へと届かないようにして、責任を取らせるつもりだろう。まだ自分のことを快く思っていない者がいるのだ。心当たりとすれば鮎川がまた反骨心を抱いたのだろうか。だが、それで兼続が関与する理由が無い。

 つまり、兼続が関与せざるを得ないほどに大きな動きが起きているということだ。

 知らなければ、龍兵衛はこのまま失脚する。それは許されない。上杉で居場所を失えば次はどこに向かえば良い。一度は大きな内乱の要因を作った張本人として罵られた。

 わざわざ火種を抱え込む面白い大名がいるとは思えない。それこそ上杉が東国の大半を席巻している以上、西国まで向かわなければならない。

 

「頼む。教えてくれないか?」

 

 すがるように兼続に迫る。だが、彼女の目は冷たかった。

 

「無理だ」

 

 茫然自失。とまではいかないものの、龍兵衛はその場で固まった。

 

「……表情ぐらい今は変えても良いだろう」

 

 いつもと違う、冗談めかしではない嫌味を言って、陣幕を出て行く兼続を止める気にもなれない。しかし、兼続が出ようとした時、一瞬だけ立ち止まったのを見逃さなかった。

 こちらを振り返ろうとして止めると拳を強く握り締めた。が、すぐに自然体に戻り、静かに陣幕から出て行った。

 

「そういうことか……」

 

 兼続が与えてくれたものは龍兵衛には十分過ぎるほどよく伝わった。

 元から分かっていたのは謙信と景勝は絶対に関係していないことぐらいだった。兼続ほど心を許した人に対して嘘をつかない者が口にしないということはそれほどの影が動いている証。

 彼女を脅せるほどの力と地位がある人物など自ずと限られてくる。龍兵衛は脳裏で複数の人を思い浮かべ、すぐに誰なのか確信した。しかし、その人物を敵に回すのは龍兵衛も非常に面倒なことになる。

 

「確証も無いし、下手に向こうから手を出すこともなければ、こっちから動くのも難しい……か」

 

 書状をしまうと龍兵衛は外へ出る。これはこの戦でも言えることだ。

 東越中から一向一揆は撤退した。上杉も被害は出したが、このまま進めると判断した景勝は越後に援軍を要請しつつも一気に敵の本国である加賀へと足を踏み入れることになる。

 いよいよ一向一揆は精鋭中の精鋭をそろえてくる。しかも、兼続の見立てだと富樫とは別の戦での切れ者がいる。

 もちろん、能登の勢力も数だけでは馬鹿にならない。

 

「ま、その前に富山城だが」

 

 軽く龍兵衛は頬を打つ。富山は街道を北陸街道と飛騨街道が交わる越中の要所、西を押さえるには絶対に必要な城である。

 とはいえ、かの城を築いたのはこちらにいる神保長職で、彼のおかげで落とす目処は既に立っている。

 だが、神保をしてもどうしても攻略出来ないことが一つあった。勝興寺と瑞泉寺である。富樫の後押しもあって越中で最大勢力とうたわれるまでになった二つの寺が富山城を防衛するため、動くのは必至。

 

「さーてと、内にも外にも脅威が迫ってるな」

 

 他人事のように呟くが、決して余裕があるのではない。苦し紛れだ。

 切実に味方が欲しい。だが、上杉の中にある派閥は決して表立つことはない。

 今までは上田長尾や新発田、鮎川がいたおかげで上杉の心から仕えている直臣の間では彼らをどうにかしなければという思いが一致していた。しかし、皮肉にも彼らの弱体化が内部の動きを平穏にさせると共に狂わせた。

 外様の颯馬や龍兵衛に対する嫉妬を抱いている者も少なくない。颯馬は謙信との仲がある為、おいそれと失脚を目論むことは出来ない。

 だからこそ龍兵衛なのだ。頭角を現している中で外様かつ若く、過去に黒いものがある。格好材料がここまで揃っているのだから仕方ない。

 しかし、と内心で首を捻る。上杉の上層部とも言える人はそういったことを望まないはず。

 そして、兼続はどこでそれを知ったのか。自ら首を突っ込むようなことは絶対にない。

 

(いつ知ったんだ……)

 

 一切、龍兵衛のことについて知らない素振りを見せつつ、ここまで兼続が今まで通り付き合ってきたのはさすがとしか言えない。

 とにかく龍兵衛には確認しなければならないことが多くある。

 

「段蔵」

「なに?」

「呑気だな」

「今は暇だから」

 

 段蔵はいきなり気配を現したと思えば緊張感が全く無い。

 

「俺のところに情報が入ってこないのは何故だ?」

「知らないよ。あたしは書状を書いて送ってるだけなんだから」

「何か変わったところとかは?」

「別に……無い」

 

 普段と変わらない素っ気ない返事だ。

 

「本当にか?」

「そんな風に睨まないでよ。あたしが隠したところで何になるのさ」

 

 段蔵の直接的な上司は龍兵衛である。忍びは忠実であることが求められ、主には決して嘘偽りを言ってはならない。

 思いっきり伸びをすると段蔵は龍兵衛の前に出る。

 

「何があったのか知らないけど、もっとしゃんとしなって」

「元気だね」

「うん。そりゃあ、やり甲斐があるもの」

 

 加賀の情報はなかなか集まらない。それだけ警戒されている。食い破って得た情報は忍びにとっての誇りとなる。楽しそうな段蔵には呆れてしまう。 

 

「じゃ、頑張って加賀のこと頼むぞ」

「あいよ」

 

 すぐに気配が消えた。どうやら段蔵は本当に知らないらしい。そうなると次に聞くべき相手は一人しかいない。

 どうやって切り出すべきか。今ここにはいない以上、時間は全然ある。

 

「今は目の前の戦に目を向けるべきじゃ」

「景資殿、どうして……」

「心ここにあらず、とすぐに分かった」

 

 表情に出ていたかと強く頬を叩く。だが、景資の驚いた様子を見ると、どうやら違うようだ。

 

「お主の心持ちが伝わってきたのじゃ」

 

 さすがとしか言いようがない。どうやら自分の鉄仮面は崩れていないようだ。

 

「何か用がある訳ではないのですね?」

「うむ。たまたま通りかかっただけじゃ。ま、そろそろ妾も先陣の誉れを欲する時ではあるがの」

「ま、加賀に入ったら善処しときます」

「ならば、越中を早う平定せねばな」

 

 景資は口の片端を吊り上げる。激戦がこれからも続くであろうというのにそれを楽しんでいる。

 到底分かりたくない。やはり何事も単純かつ手短に終えるのが一番だ。激戦は兵の損傷しか招かない。

 

「期待しておりますよ」

「うむ。お主も良き戦略を立てるようにな。すぐに戦を終わらせるように」

 

 肩をすくめつつも、さすがに引きつった笑みを浮かべずにはいられない。透視能力でもあるのだろうか。さすがに怖くなる。しかし、だからこそ頼りになる。聞きたいことも遠慮無く尋ねたくなる。

 

「一つ良いでしょうか?」

「なんじゃ?」

 

 去ろうとした景資の背が振り返る。金色の髪が風に揺れ、鋭い眼光も相まって絵になるような美しさを出し、同時に畏怖の念をも相手に覚えさせる。一度話をしようとしたら言わなければならない気持ちになる。

 

「貴方は……三好が、織田が憎いですか? 妬ましいですか?」

 

 景資は一瞬驚き、龍兵衛の目を見る。彼もまた真剣な話だと景資の目をしっかりと見る。

 

「何かあったのじゃな?」

 

 さすがに問いが単純過ぎたか。目を逸らしたくなるが、堪えなければ余計に深掘りされかねない。

 

「まぁよい。聞くのは野暮というもの」

 

 咄嗟に心が身構えそうになったが、景資はそれだけで、表情に穏やかさが戻った。

 

「そうじゃな。恨んでおらぬと言えば嘘となる。じゃが、もはや過去のこと。諸行無常。盛者必衰じゃ」

「敗者多くを語らず、という言葉があります。しかし、排される前に何か動きがある気配も無かったのですか?」

「無かった」

 

 景資の性格からしてやられるのをそのままにしておくようなことはない。せめてきっかけだけでも欲しかったが、それについては期待外れだったようだ。景資のような切り替えの出来る性格なら自分の立場から開き直れるのかもしれない。しかし、龍兵衛は執着心が強い。

 

「そうですか。足を止めてしまい、申し訳ありません」

「良い。悩みとは誰にでもある。最後に解決するのは己じゃが、手助けは必ず必要じゃ」

 

 そうは言われても、龍兵衛の気は晴れない。逆に言えば、自分が結局最後の砦となる。しかし今、龍兵衛は自分に全く自信を持てていなかった。

 

「そう言って頂けるとありがたいです」

 

 景資は親しげな笑みを浮かべ、颯爽と去って行った。あれだけ追い詰められた経験があるのに、自分に自信が持てている。何と羨ましいことか。

 幸いにも、最後に思った不安は悟られていないようで、安堵した。だが、吐いた息はすぐに不安を招いた。

 自信を掴むきっかけはいつ来るのだろうか。否、まずは戦を終わらせ、立場をもう一度しっかりとしたものにしなければならない。

 

「外様って難しいなぁ……」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

失態の二乗

 富山城は神通川を北に見る、四方向を水濠と河川とで二重に囲まれた北陸随一の要害である。

 

(雑誌でもよく見たなぁ)

 

 間近で見ると平城なのに平山城のような威容と堅牢さが肌で感じられる。富山城は江戸幕府に移っても何度も大改修をしている。しかし、目の前のそれはどこにも改修の余地が無いほど立派だ。

 情報から分かっていたから何となく察していたが、一番堅牢な富山城を落とさなければならない。

 水を飲みながら富山城の城壁を見る。どこの城も同じようなものだが、後世にも名高い城を見るのは良い。ましてや現物をままにしているのだから。

 

「河田様、神保様がお見えです」

「すぐに行くよ」

 

 今、龍兵衛は一人で陣中に立っている。この時間が一番の楽しみだ。誰かと一緒にいる方が嫌になってしまった。安心感が生まれ、何をやっても責められない一人の空間。これに安堵を覚えるのはいつぶりのことだろう。

 集団である軍で、本当は良くないが、これぐらいのわがままは許されるはずだ。龍兵衛の生来の気分屋な性格を分かっていればだが。

 もっと一人でぼんやりしていたい。風に当たっているだけで少しは心が癒やされる。だが、今は公私を混同させてはいけない。

 

(面倒だが……やっぱり面倒だ……)

 

 今は戦をしているのだから仕方ない。諦めて龍兵衛は振り返って歩き始めた。梅雨ではないが、湿った空気が何となく龍兵衛のことを嘲笑っているように感じる。そろそろ冬になり、空気の質も変わってこなければならない。

 日照時間の低いこの地域は冬になれば当然のように厳しい気候が待っている。せめて越中を突破し、比較的過ごしやすくなる能登や加賀の平野部に早く進軍したい。しかし、それを阻む富山城はあまりにも大きい。

 小さく溜め息をついて顔を上げる。ずっと下を向いていると周りから不安がられると何度も叱られた。あの時が懐かしい。

 また溜め息が出そうになった。郷愁の念がこの若さで来るとは思わなかった。

 

「こちらでお待ちです」

「ありがとう」

 

 簡易的に建てられた陣屋の中に入る。本当に人がいるのかと思うぐらい静かだ。不気味な雰囲気が漂い、脇から何か出てきてもいると思い、驚かないかもしれない。

 

「お待たせ致しました神保殿」

 

 一番奥の小さな部屋に神保はいた。白髪だらけの頭を見ると、とても四十過ぎには思えない。白髪混じりならまだ分かるが、黒髪が全く見当たらない。頬もこけ、まさに死へと望む老人そのものだ。

 

「河田殿……娘は無事でしょうか……?」

 

 声が弱々しい。出陣直後はいざ憎き一向一揆を滅びさんという気概をそのままに戦に挑んでいたが、先の新庄城攻めあたりから元気がなくなってきている。

 

「分かりません。しかし、信じなければ人は救えません」

「生憎、今の私には左様なことも出来ませぬ」

「(だろうね)」

 

 愛娘が攫われ、何をされているのか分からない。無事を信じようにも富樫に淡い希望など、抱く方が阿呆だ。

 たとえ周りが大丈夫だと言い聞かせても、無意味なことだ。それは隣国同士で、富樫の一面をよく知っている神保だからこそよく分かる。

 龍兵衛が励まそうにも今の神保に聞く耳など無いだろう。話を切ってさっさと本題に入った方が良い。

 

「さて、富山城のことでございますが、如何に攻めるべきでしょう」

「攻めるも何も、かの城は我が家臣、水越が手塩にかけて築いた城。力で落とすことは叶いませぬ」

 

 一応はまだ戦況や戦略を考える頭はまだ残っているようだ。

 十分だ。戦になった時に娘の長住のことをまた話題にすればすぐに戦意を戻すだろう。

 

「左様。故に貴殿のお力を借りたいのです」

「私に?」

「当然でしょう。かつてこの地は神保殿が治めていた。それを取り返すことが頼られた我らの義理というもの」

「……」

 

 表情が変わると思ったが、若干目が開いただけで、眉一つ動かない。旧領が元に戻るかもしれないというのにどうしてそこまで無頓着でいられるのだろう。外にいた神保の家臣達はいよいよと息巻いていたのに、一番上にいるはずの彼がこれでは先が思いやられる。

 呆れて溜め息を吐きたいのを堪えつつ、龍兵衛は胸元に入れていた書状を取り出す。

 

「先程、颯馬から書状が届きました。更級を落としたそうです」

 

 神保の様子は相変わらずだ。味方の戦況にも反応しないとは余程の重症だ。

 

「我らも遅れを取る訳にはいきません」

「私は娘が無事ならそれで良いのです。その為の協力なら惜しむことはないでしょう」

「ならば、よろしくお願いします」

「されど、富山城を落とすことで、どう娘を助けることが?」

「……は?」

 

 理解出来なかった。だが、神保の言葉の意図を悟った瞬間、思いっきり顔を殴ってやりたくなった。どうやら、そのようなことまで思考が回らなくなってしまったらしい。

 怒鳴りつけるなりなんなりしてやりたいが、今の龍兵衛も心持ちは似たようなものだ。兼続達が思っていなくても自分では孤立していると龍兵衛は思っている。神保のことを否定するのは自分のことも否定しているのと同じ。

 支えとなる人もいなくなり、精神的苦痛を常日頃味わっているのはお互い様だ。だからといって龍兵衛は同情すれど、譲歩するつもりはない。

 

「富山城を落とす。つまりは一向一揆を越中から追い出すことになります。それは敵の本国である加賀に向かう道が出来る」

「娘のいる加賀へと向かうことが出来る。と?」

「左様」

 

 神保の顔がようやく上がった。ようやく話を進めることが出来ると思うと疲れが出てしまう。だが、ここから本題だ。

 

「神保殿には富山城を攻めるべく、是非とも第一陣をお願い致します」

「え?」

 

 驚く神保の目に相変わらず生気が見られない。本当に娘を奪還すると息巻いていた時とは別人だ。もはや、断言しても良い。

 返事を待っていても是なのか否なのか分からない。待っても良いが、そんなことをしていると日が暮れてしまう。

 龍兵衛は勢いよく手を床に打ち付ける。大きな音に驚いた神保が身体を震わせてこちらを見てくるが、構わずに立ち上がり、部屋を出ようと背を向ける。

 

「否と申したければ別に結構。されど、尾山まで攻める時。貴殿の軍は、はたしてその包囲網の前線にいるでしょうか?」

「……どういうことだ?」

 

 それぐらい分かってほしい。かなり含みのある、言葉にも悟らせる要素をかなり入れ込んだはずなのに全く響いていない。

 龍兵衛は中指でこめかみをかく。困った時に猫を見ていて真似していたら自然と付いてしまった癖だ。

 

「あなたに娘の無事を直接見せません。越中に留まり、我々の背後を守って頂きます」

「それだけは勘弁を! 是非とも我が手で娘を……」

「なら、さっさと支度をしなさい」

 

 待ってほしいなどとは言わせない冷たい目を向けるとさすがの神保も飛び出していった。

 新庄の時といい、神保の軍勢は全くと言って良いほど機能していない。根幹たる当主がこうなのだから仕方ない。だが、それだけで収められるほど、生ぬるいことは出来ない。

 そろそろ他の大名や国人衆からも不満が出てきているし、いい加減戦功の一つ二つ立ててもらわないと困る。ただでさえ信州の方は順調に南下を続けているというのに。

 

「富山……じゃなくて……越中を向こうが松本城を落とすより前には掌握しないと」

 

 謙信がとかげの尻尾切りのようなことをするとは思えないが、責任は一番自分に大きく課せられるだろう。まだ龍兵衛も自分が可愛い。誰かに失策を押し付けることも考えたが、かえって心象も悪くなるし、兼続達も黙っていないだろう。

 

(神保の活躍を願う他ないとはね)

 

 あまり好ましいとは言えないが、待つべきでもない。今はただひたすらに富山城を落とすより他に龍兵衛の立場を保つ術はないのだ。

 

「お手並み拝見とも言えないしな」

 

 今までのように外様の力を削ぐ為、極力傍観する立場でいられない。自らの為に外様と手を組むようなことになるとは皮肉なものだ。

 龍兵衛は誰もいないことを良いことに苦笑いを浮かべてしまう。とはいえ、上杉での立場を失えば、元から良い印象を抱かれていない龍兵衛に次に行く宛など無い。

 とにかく一時的にでも立場が確保出来ている状態にしておきたい。

 

「あいつら、外に出るのか籠もるのか。どっちなんだろ」

 

 富山城を攻めるのは明日からだが、ここまで敵は一切動いていない。陣所を設計している間に攻め込んで来ると思ったが、城から外に出てくる気配も無い。

 軒猿からの報告では周りに伏兵を配置している様子もなく、兵は確かに城内にいるとのことだ。越後にもっと軒猿を派遣して欲しいと使者を飛ばしておいたおかげでだいぶ情報が入りやすくなった。

 本庄から国内の監視がしにくくなると愚痴めいた書状が一緒に来たのは余談である。

 

「普通なら、籠もるよな……」

 

 上杉の兵は被害を被っているとはいえ、越中に残っている一向一揆の兵は半分ほどだ。何故か富樫は兵の多くを加賀へと戻した。本国内に上杉が入った時に備えてのことだろうか。もしそうだとしたら阿呆だ。

 国内で戦うことだけで、戦の後のことが大変になる。勝者でも敗者でも言えるが、本国内で勝って侵入者を追い返したとしても後の処理が大変なことになる。城の修復、城下町や屋敷の復興、荒らされた農村から作物が得られない間、賄っていく為に他国から食料を買う金。

 全てにまとわりつく金の量は尋常なものではない。いくら豊かな加賀であったとしてもすぐに元に戻すことは不可能だ。

 それぐらい富樫だって分かっているはず。勝とうとしているなら越中に全兵力を導入して、決戦を行うべきだ。わざわざ本国を荒らしてまで防戦に徹しても、後のことを考えるとほぼ負けているようなものだ。それを知らない者が一国の主などしていられない。

 

「えっ……?」

 

 暗闇で騒ぎ立てていた脳内が一瞬で周辺の壁を打ち破り、光を見たように静まり返った。

 

(まさか、わざとやっている……?)

 

 有り得ないと龍兵衛は頭を振る。だが、負けるつもりでやっていると考えれば全ての疑問が一本の線となって繋がるのだ。兵を撤退させたのは加賀での戦をより激戦にする為、富山城を攻めさせる余裕をこちらに与えたのは攻城で兵をさらに消耗させる為。

 そう考えれば辻褄が合う。しかし、それはあくまで戦の中での話、戦国時代の戦う者はそれと同時に政治を行う者でもある。

 本国とは領国に対して主の政策などを伝える大切な拠点であり、最も栄えていなければならない。それを他国の軍が蹂躙し、荒れたものにしてしまうことなど愚の骨頂だと龍兵衛は考えている。

 ましてや今回の戦は桶狭間のように小国と大国の争いなどではない。大国同士のぶつかり合いだ。もし、向こうの狙いが越中や能登で敵を迎撃しつつ決戦に備えるのではなく、加賀での直接の対決を望んでいるとしたらそれは上杉にとってこれまでの労力は時間の無駄であり、この戦略を立てた龍兵衛の失態でもある。

 

「最悪……」

 

 舌打ちをしたところで何か変わる訳ではないが、せずにはいられない。

 またふつふつと龍兵衛に嫉妬している者が物申すことになるだろう。しかも今回は弥太郎と左月を失ったというおまけ付きでだ。無駄な戦を招き、将兵を失わせた罪は重い。

 このまま絶望のままに天を仰ぎたいが、まだ名誉挽回の機会はある。取り返すぐらいの戦果を上げる。加賀までの土地を全て平定してみせることだ。

 

(お望み通りなら、やってやろうじゃねえか)

 

 幸い敵が仕掛けていない以上、勝利を持って相殺してしまえばそれで良い。一人の将を失うより一戦に勝利することこそが軍師の役目だ。今、自分の保身の考えればさらに傷口は広がりかねない。

 

「景勝様の所に行かないと……」

 

 行きたくない。一気に攻める攻略法に変えるには理由がいる。それが龍兵衛が一番口にしたくない。しかし、自身の身分を顧みずに代わりに言ってくれるような者などいるはずもない。

 ましてや軍の戦略を司る軍師が他の者より相手の目論見に気付けなかったとなれば弾劾は避けられない。

 陣の外にある越中の山々を見ていると上杉の中で龍兵衛のことを不満に持っている者たちの嘲笑の顔も浮かんでくる。

 批判されるのが目に見えているため行きたくないが、行かなければさらなる被害を上杉が被り、責任が誰になるかの議論になる。

 盛大な溜め息を合図に立ち上がる。景勝にどのような顔付きと言動でこのことを言うべきか考えながら。しかし、それには距離が足りなすぎる。なぜなら龍兵衛は景勝がいる陣幕のほぼ目の前にいるからだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

孤独の身の振り

 加賀に侵攻した上杉軍の進軍は日に日に勢いを増していった。敵兵を見つければ躊躇無く斬り捨て、必要ない城と分かれば焼き、または解体して使える木材を越後に送った。

 対照的に上杉軍の将の顔付きは皆険しく、必要ない言葉を言えば斬り付けられるような雰囲気をまとっていた。

 龍兵衛の憶測の当たっていたのだ。最初は景勝も有り得ないと驚いていたが、富山城をいつまでも包囲している訳にはいかないという戦略的思いもあり、囲みを解いて進軍した。

 城の兵は追撃してきたが、兼続の伏兵によってあっさり撃退され、四散して行った。それ以降、背後から襲撃を受けずに簡単に国境を突破した。

 拍子抜けも良いところだ。兼続は溜め息をつきたくて仕方がなかった。もしここが軍議の場でなければ一人で文句を呟いているか、龍兵衛あたりと愚痴を言い合っていただろう。

 一向一揆の結束力が大岩のように固く、決して崩れない。そう言われてきた。だから慎重に木槌で様子を見るように各国撃破に徹してきた。だが、龍兵衛が突然提案した一気に喉元を突く戦略によって崖から落ちたように簡単に大岩は砕けた。

 進軍を簡単に許しただけに止まらず、ほとんどの兵が加賀に撤退した。上杉の末端の兵までが拍子抜けしていた。戦の当初はかつて苛烈に攻めてきた彼らに対して及び腰だった。そして今もいつあの無感情な目でこちらに襲いかかる彼らの恐怖を拭えない者も少なくない。そして、それは簡単に克服出来てしまった。

 その見返りに上杉の兵たちを襲ったのは驕りだった。まるで抵抗を示さない敵を見て自分たちは日ノ本を恐れさせた一向一揆の大勢力を崩したのだ。哀れな兵たちは脅かしただけで簡単に逃げ惑い、背中を向けて死んでいく。

 もはや恐れるものなど何も無い。そう言わんばかりに上杉の兵たちは一向一揆に参加した者たちを親の仇と容赦なく殺していった。それだけならまだ良い。彼らは民家を襲い、奪えるものは人や物を問わずに懐に収めた。

 景勝の耳にもすぐ入り、兼続が関わった者を厳しく罰した。しかし、それはこれまでもよくあったこと。

 上杉も規模が大きくなるにつれて一枚岩ではなくなってきている。よく訓練しているとはいえ人である以上、邪な思いを持ってしまうのは仕方ない。もちろん黙って見過ごしていれば領民から反感を抱かれる。

 

「それでは結局一向一揆と同類だ」

 

 そう言って兼続は良からぬことをした者たちを咎めた。それでも見せしめに殺すのではなく、越後に返すか最前線の隊列に配置させた。穏便な措置かもしれない。しかし、残酷なところもある。手柄を立てられないまま生きて帰る。死んだ後に家族を食わせることが出来ずに残された者が路頭に迷う。どちらも生き地獄に変わりは無い。きっかけを作った当事者が生きているか死んでいるかだけが違う。それも罪を追ったまま、周りに蔑視されて。

 

「兼続、大丈夫?」

「え、ええ……」

 

 景勝の心配そうな声が意識を現実へと戻させた。他のことを考えてしまっていた。などとは言えない。幸い誰も追及してくる者はいなかった。無意識に強く握っていた拳を緩める。戦前に整えていた爪でも手に痕が出来ていた。

 上杉は先鋒に伊達をあてて加賀を攻め込ませ、最上を別働隊に能登を牽制しつつ地固めを行わせている。どちらとも快進撃を続けており、能登の方では初めての降伏者が出たという。

 結束力が固く、死んでも立ち向かってくると有名な一向一揆の一角が崩れた。この報告は上杉だけでなく本願寺さえも驚いただろう。門徒の全てが信じるかは分からない。しかし、本当のことだと思う者は必ずいる。そこから綻びが生じれば日ノ本全国に影響を及ぼしていた宗教も終わりを告げることになるだろう。

 だからこそ上杉には兵力がいる。あえて軍律では死罪にあたる乱暴狼藉者たちの処罰を後回しにしたのはそのためだ。たとえ尾山が落ちても火種は完全に消えない。

 その時のために取っておくのが彼らだ。冷酷だが、やむを得ない。それだけのことをしなければならない可能性がある。

 そして今、兼続たちはどうやってそれを避けるようにして加賀を落とすか話し合っている。

 

「いずれにせよ尾山での戦いはかなりの混戦になるのは間違いないかと」

 

 龍兵衛が言うまでもない。景勝も分かっている。それでも口にするのはかなり警戒しているからだ。最後の決戦に賭けるのはよくある。そこで敵の心臓部分を抉れば形成は簡単に逆転する。

 

「どうする?」

「攻めについては景勝様を狙って来るのは間違いないかと」

「それ故、守りは私と龍兵衛だけでなく、竹俣殿や景資殿にも入ってもらいます」

 

 景勝の目が大きく開かれた。過ぎているほどの守りでは攻めに転じる際、支障をきたす。しかし、それほどまでにしなければならないのだ。

 景勝は龍兵衛を見る。彼が賛成だと頷く。諦めたように目を瞑り、こちらを向いて任せたと頷いた。それを見て兼続はまた口を開く。

 

「攻め手は伊達と最上、安東に任せて良いでしょう」

「不満、言われない?」

「問題ないかと。領地は少々でもそれに見合う品を贈れば」

 

 景勝は少し考えると二人の顔を見合う。兼続も龍兵衛もこのことに関しては大丈夫だという見解で一致している。感じ取ってくれたのか、景勝は力強く頷いてくれた。

 家臣として嬉しい思いになる。別に動いている謙信もまた自身のことを信じているからこそ景勝を任せてくれている。出陣の前にも龍兵衛と共によろしく頼むと言われている。武田と一向一揆という上杉にとって宿敵といえる勢力を倒す決戦であるだけでも身が引き締まるが、主から全幅の信頼を得ていると思うと頬が緩みそうになる。

 顔に力を入れて堪える。そして兼続は次に話すことになっている龍兵衛を見る。眉間にしわを寄せ、目を瞑っている。上杉に来てからしばらくしてこの姿勢で軍議にいる。当初は幾度となく注意されていたが、きちんと話を聞いていると知られると誰からも文句を言われなくなった。

 兼続が話し終わったと知ると龍兵衛はゆっくり目を開いて景勝を見る。人との会話の時、真っ直ぐ目を逸らさずに話すところは彼の良いところだ。せめて大勢でいる時もそうであってほしい。勘違いをされても困るのは龍兵衛自身だけではない。もう少し自覚を持ってほしいと思う。

 

「この戦で一向一揆との確執を断ち、日ノ本の東は上杉が覇者であることを示さなければなりません」

 

 そんな思いなど通じるはずもなく、龍兵衛は話を始めた。真っ黒な服装よろしく、話し方も低くて重い。しかし、緊張感を必要以上に与えないのは圧倒的有利な状況と彼の持って生まれた話し方だろう。

 

「だからこそ尾山という存在をこの世から完全に消すことが必要です。跡形も無く」

 

 三人の間を穏やかに走っていた空気が一瞬で張り詰めた。兼続は景勝の方を一瞥して様子を伺う。驚いた表情の中にどこか悲しげなものがある。この戦で龍兵衛が何をすべきなのか悟ったのだ。無論、兼続も分かっている。

 

「焼き討ちをしろと?」

「ああ、尾山という城を焼き払い、一向一揆の柱の一角が崩れたことを皆に知らしめる」

 

 景勝に向けられた視線がこちらに来る。焼き討ちは最も相手にとって効果的で多くの者を排除できる。もちろんその代償も大きい。復興への時間、生き残った敵に与える怨念、巡り巡って返ってくるかもしれない。

 だは。今回はそれだけではない。分かっていて龍兵衛は火を使うことを選んだ。

 

「それは……」

「お前が言いたいことは分かる。上杉がそんなことをすると思わせるのは良くない。ましてや信長が比叡山を焼いたからな」

「分かっているならどうして上杉が織田と同じ道を通ろうとする?」

 

 急進的に改革を進める織田に対して上杉は古き良きものを守り、復興せんと動いているように世の中からは見られている。だからこそ織田と同じように宗教に対して容赦ない攻めを行うのは上杉が本当に目指しているものは違うと思われる。

 兼続も一向一揆に対して降伏を勧めようとは思っていない。とはいえ尾山の街には価値観を持っている。流通の拠点としてはもちろん、農村の土も豊かであるともっぱらの評判だ。

 火攻めは城下を巻き込んでしまう。そもそも尾山御坊の城自体はそこまで堅牢ではない。周辺に立てられた寺との連携が取れて初めて巨大な城として機能する。火を使えば必ず城下をも巻き込んだ大火災が起こる。そのようなことをしてまで戦う必要があるとは思えない。

 それだけに兼続の質問への龍兵衛の解答には息を詰まらせた。

 

「そうしなければ上杉は尾山を復興させようとしていると思われる」

「事実そうだろうが」

「尾山の城をそのままにするということは上杉がまだ一向宗と繋がりを持ちたいと思われるぞ」

「何故お前はそこまで一向宗を敵視する?」

 

 龍兵衛の表情が一段と険しくなる。答えに窮したのか、何か苦い思い出でもあるのか。おそらく後者だ。用意周到な彼が答えを持たずにこのような場にいるはずがない。

 

「仏の教えは皆が信じるからだ」

「どういうことだ?」

 

 景勝も首を傾げ、龍兵衛を見ている。

 兼続も景勝も仏教を信仰している。謎かけのような物言いながら彼の目は実に真剣である。

 

「武人だろうと商人、農家の者、多くの者が仏の道を信じる。つまり、上に立っていることに鼻を高くする者もいる」

 

 言わんとしていることがよく分かった。仏教はキリスト教が入ってきたとはいえほとんどの者が信仰している。信仰するということは仏に仕える僧侶を敬うことになる。それだけならまだ良い。

 龍兵衛が恐れているのは比叡山の僧侶たちのようにそれを鼻にかけて、他の人より上であると勘違いして武人のやることに口出しすることだ。

 

「これからは武人が天下を統べる。そこに僧侶や神官を入れるような真似などしてどうする」

 

 案の定、龍兵衛はとっておきを繰り出した。かつて天皇が僧侶の言に惑わされて院政も出来なくなった。それをさせないように武人に過ぎた口出しをする者は排除しなければならない。

 上杉にとってこの加賀侵攻は一向一揆の影響を北陸から排除することである。既に一国を治めている彼らはもはや武人にとって脅威である。武人が世の中を統べるための手始めとして尾山という一向宗の象徴を焼き払う。

 たしかに合理的で正しい。しかし、兼続は決して納得したわけではない。

 

「焼き払うことで、消え去った尾山はどうする?」

「新たに城を建てて加賀は上杉の者だと見せしめる。土地の名も変えてな」

「名を改めるのは良い。しかし、一から城を建てるのでは費えが多くかかってしまう。やはり落ちたことを知らしめるように触れ回るのが良い」

「そんなことをしなくてもすぐに伝わるだろ」

 

 加賀の一向一揆は一向宗の中でも最大の勢力を誇っている。上杉が加賀に侵攻したことさえ畿内だけでなくさらに西にもこのことは聞こえているだろう。

 それぐらい兼続も分かっている。だが、一向宗の火種が完全に潰えたと伝えるには、上杉からの伝聞を日ノ本に広めなければならない。

 一向宗が害を受けた者として上杉の醜聞を広められると今後の北陸の統治も面倒なことになる。兼続が最も恐れているのは上杉が悪に仕立てられて織田の介入を許すことだ。

 一向宗の反感を買っているのはどちらも同じ。その憎悪をどちらに強く向けさせるか。牽制のし合いは既に始まっている。

 兼続は自分の眉根が徐々に深くなっていくのを感じた。それだけ龍兵衛のやり方は強引だ。加賀に住む民衆や僧侶の反感を買い、本願寺派の不満も募らせる。

 

「そもそも、何故にお前はそこまで尾山を焼きたがる?」

「僧侶たちに僧侶として道を進んでもらいたいがためだ」

「戦や欲には惑わずにただ仏の道を歩むため、尾山を焼き、武人と僧侶の関係を争うものではなく、歩み合うものにすると?」

「そうだ。荒いかもしれないが、そうしなければ一向宗は諦めない」

「だが、一向宗には我らとの敵対を望んでいない者もいるはず」

「分かっている。だからといって今は慈悲をかける余裕などあるか?」

「たしかに難しい。それでも私は反対だ。そんなことをすれば織田の二の舞になる」

「言っただろう。織田とは状況が違うと」

 

 兼続の言葉を受け入れることは出来ないと龍兵衛の表情が一層険しくなる。意地っ張りではない。心からそうするべきだと思っているのだ。だから引き下がらない。しかし、兼続にも思いがある。

 僧侶たちの中には真面目な者もいる。彼らを使い上杉の義が織田に勝ると知ってもらう。織田との間で悩んでいる畿内や岐阜の国衆たちになびいてもらい、織田の土台を揺るがす。

 兼続も一向宗を支持しているのではない。価値ある手駒として見ているだけだ。だからこそ殲滅ではなくある程度の譲歩を考えている。織田と違い、慈悲をもたらせば心ある者は上杉であれば美味いことをしていけると思ってくれるだろう。

 ここで押されるわけにはいかない。兼続は負けじと口を開く。

 

「一向宗にもまだ上杉となら和睦出来ると思っている者もいるはず。その者たちも構わず道端に転がす気なのか?」

「構わない。それが時代の移り変わりを示すならな。そもそも加賀にまともな輩がいるのか」

「分からないが、一枚岩では無いのは分かっている。それに、僧侶の他はどうする。相手にしているのはただの兵だけではない。民もいるのだ。それらも殺すと言うのかお前は」

「彼らを民として見ていては収拾がつかなくなる。下手をすればこちらの寝込みを襲われるぞ」

「民も殺めた後、誰がこの地を耕すというのだ」

「土地を求めている者は多くいる。彼らをここに移住させる」

「そのようなことを織田と接する地で出来ると思っているのか」

「織田は今、畿内の一向宗と戦いに明け暮れている。まだまだこちらには攻めてこない」

「……もう良い」

 

 二人の争いに歯止めをかけたのは景勝の小さな声だった。驚いている二人をよそに毅然とした口調で言った。

 

「兼続、任せた」

「ありがとうございます」

 

 勝った。仲間ながら好敵手としている者より景勝の心を動かせた。喜びのあまり小さく拳を握り締めた。

 

「龍兵衛」

「はっ」

「落ち着く」

「申し訳ございません」

 

 景勝は立ち上がって外に控えていた景資を伴い、見回りに向かった。見送ると兼続は隣に立つ龍兵衛を見る。心ここにあらずという表情をしている。だが、景勝の性格からして龍兵衛のやり方を採る可能性は低い。そのようなことを知らないはずがない。知っていてあれを進言したのは彼が阿呆なのか何かに裏打ちされた確信があったのか。

 

「何故、あのような策を取ろうとした」

「尾山が焼かれることで一向一揆の戦意を削ぎたかった。火は絶望を与える良い材料だから」

「では、尾山を焼いた後に上杉が城を建てるというのは」

「いや、それは本気だ。新たに上杉の城を建てた方がより加賀は上杉が取ったと知らしめることが出来る」

「たしかにそうだが……」

「民を殺すことになることも分かる。だが、一向一揆として城に籠もっている以上、やらなければならない。第一にお前のやり方でも彼らは死ぬ」

「私は、最小限に止めようとしているだけだ」

 

 また不毛な言い争いになりそうだ。そう思った矢先に龍兵衛はもう止めようと視線を逸らす。颯馬と違い、引き下がってくれるのは彼が颯馬よりも精神的に上なのか。しかし、先程までの景勝への進言を思い出すとそうとも言えないかもしれない。

 よく分からない男だ。軍議での姿勢も政策、戦略の取り方も 全て独特である。しかもそれを簡単にひけらかすことが無く、気ままにやっている。本人は本気でやっていると明言しているが、それさえも怪しい。

 

「とにかく景勝様がそうすると決めたなら俺も従う。手伝ってほしいことがあれば言ってくれ」

「じゃあ早速だが、味方の陣周辺の草木を出来るだけ刈ってくれ」

「突撃をあえて促すか……それから先は良いのか?」

「既に準備はしてある」

「分かった。すぐに行くから景勝様に伝えておいてくれ」

 

 わざわざ省略するまでもないと思うが。兼続をよそに龍兵衛は支度を整えている。

 

「お前、焦っていないか?」

「そうかもな。少し急ぎ過ぎたかもしれん」

 

 動きと彼の心の二つが焦っている。得てしてそれらは悪循環に向かう。どちらかが落ち着けば何とかなるだろう。

 

「じゃ、後よろしく。ちゃんと指示通りに動くから」

「余計なことを」

「今回はお前の方が上だからな」

 

 兼続は言い返そうとして止めた。自嘲気味に笑う龍兵衛の目は恐ろしく血走っている。気付かなかったが、まるで何日も寝ていない人のようだ。先程までの軍議では普通の目立ったはず。そこまで変わるのかと兼続も心配になる。

 

「どうした?」

「いや……自分で自分の首を絞めるような真似だけはするなよ」

「言われなくても分かっているさ」

 

 彼に過ぎた気遣いは不用だ。だが、不安にならざるを得ない。もしこの先も続くなら譜代としてやるべきことが出来てしまう。そうならないように信じたいが。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

荒城の宵闇

 兼続は腿に肘をつきながら隣に座っている龍兵衛を横目で見る。ここのところ溜め息が止まらないようだ。

 

「無理も無いな……」

「なんか言ったか?」

「いや」

 

 互いの目が横から真っ直ぐ、戦場へと向けられる。戦というより力による圧倒的な弾圧と言っても良い。

 いつから勘違いをしていたのだろう。一向一揆は最後の一兵まで戦い、死んでいく。胃が空になり、飢え死をしても最期は仏の救いを待っている。

 実際にはただの力の無い民衆である。竹槍と粗末な刀や槍を使って立ち向かってきているが、殺すには忍びないほどに憔悴しきっている。攻撃はあっさりと上杉の兵にかわされて躓いたところを討ち取られる。

 これでは鍛錬よりも緊張感が無くなりそうだ。

 何故こんな者たちのために何年もかける必要があったのだろう。

 戦友の思いを感じるのは容易い。

 だが、それは兼続自身、また上杉の誰もが思っている。

 畿内での本願寺の権勢を振るう様や加賀を乗っ取る恐ろしさを聞けばいくら武人とはいえ恐れを抱くのは必然である。盛者必衰の理を忘れるほどに民衆の国は手を出せない存在だった。

 それが蓋を開ければ総攻撃を仕掛けた途端に形勢は崩れ、簡単に勝ててしまう弱者の集まりになってしまった。このようなこと、上杉だけでなく織田や毛利など一向一揆と敵対、友好的な関係の者も思っていなかったはずだ。龍兵衛だけが警戒していたわけではない。彼のせいで西への足がかりが遅れたわけではない。

 

「(それでも、か……)」

 

 隣で貧乏揺すりをしている龍兵衛に同情の視線を送る。これで彼はまた譜代の家臣から冷ややかな目を向けられる。

 譜代の中でも古参である直江家の主が故、他の家臣たちの龍兵衛に対する視線を知っている。

 国内で揉めていただけに功績だけで嫉妬する者がいるほど上杉の家臣は腐っていない。そのようなことをしていればとっくに越後は他の大名に占領されている。

 龍兵衛の場合、いつも聞いているのか分からない評定での態度、めったに話さず、宴でも楽しまない接し方。かと思えば普段仲の良い者には饒舌になり、祭りの時は打って変わって目立つ。金にはうるさく、よく分からないところで一気に使う。

 だから彼は嫌われる。嫉妬の前に怪しまれるところから始まる。それが無ければ面白い奴と思われていただろう。しかし、人はなかなか上手くいかない。

 以前注意した時、嫌われるのには慣れていると言っていた。たしかに龍兵衛のような者に嫌悪が集まれば謙信や景勝に不満はいかない。憂うのは謙信や景勝が龍兵衛を重用していることだ。

 それだけの働きをしているのは知っている。評価できるのは僅かな者だけであり、評価できる者も上杉の理想とは違うと首を傾げる。悪循環が続いていても彼は一切悪びれなければ慎ましくなろうともしない。

 合わせようとせずに合わさせる姿勢に譜代家臣は生意気だと陰で言っている。

 兼続も龍兵衛に幾度となく忠告した。それでも変わる気配が一切無い。本人は真面目にやっていると主張している。たしかにその通りだ。龍兵衛が朝早くから夜遅くまで色々と動いているのは知っている。人に見られるのが嫌いなのか知る者は少ない。変わっている様を見ろと他の者に言おうにも聞くはずがない。

 

「(ここまで恵まれないのは、もはや運だな)」

 

 だから美濃からほうほうの体で逃げてきたのかもしれない。謀反を起こしたのは確かだが、単に恵まれない自分を変えようとした結果なのかもしれない。

 

「戦況はこちらに有利だな」

「ああ、驚くほどにな」

 

 いつ声をかけてくるか分からない彼の習性にも慣れてきた。龍兵衛のことを考えていただけではない。戦にはきちんと目を向けている。ただ余裕があり過ぎるだけだ。

 各部隊が快進撃を続けており、本陣の守りも十分に対応出来るだけの数にある。一向一揆の死んだら極楽浄土へ行けるという教えははたして何だったのだろう。

 

「そろそろ終わりにしても良いと思うが」

「いや……いや、動こう。これだけ待っても来ないしな」

「まだ動こうとしてなかったのか……」

 

 溜め息を吐きながら兼続は立ち上がる。そこまでかと思うほどに慎重な性格には毎度呆れさせる。

 

「そこまで人との間も慎重になればな……」

「あ?」

「何でもない」

 

 皮肉を言い合う時ではない。刀を抜いて真っ直ぐ先に見える尾山御坊を指す。

 

「今こそ尾山御坊を落とす時! 全軍進め!」

 

 鬨の声はかの巨大な城にも響いただろう。先鋒の部隊が城門近くまで来たと同時にけたたましい音が聞こえてきた。

 

「やはり火縄を隠していたか」

「案の定だがな。どうする」

 

 座っていた龍兵衛がゆっくりと立ち上がる。被っていた頭巾がその拍子にとれて顔が露わになる。

 

「突っ込むのは下策だと思うか?」

「ああ。ここまで楽な戦だ。ここからわざわざ無駄な犠牲を払うこともあるまい」

「なら、まずは各個撃破からだな」

「尾山自体、それほど固い訳じゃない。正面が駄目なら別から攻めれば落ちる」

「お前ならどうする?」

「橋爪門だ。あの門を突破すると兵糧や武器が蓄えられている所に出るらしい」

「分かった。伝令隊!」

 

 伝令兵が一斉に集まり、兼続を前に跪く。

 

「前線の部隊に鉄砲が当たらぬ所まで下がり敵を挑発しろと伝えろ。それから……」

「伊達軍に橋爪門に向かうよう。それから蘆名殿と最上殿に妙立寺を攻略して尾山へ向かうよう伝えろ。正面は我ら上杉軍が抑えるから心配することはない」

 

 行けと龍兵衛が扇子を前に払う。伝令兵たちはすぐさま立ち上がって離散していってしまった。呼び出した兼続の言葉を最後まで聞かず。

 

「これも政だ」

 

 なぜそこで自分の指示を止めた。そう詰め寄るより前に龍兵衛の口が動いた。

 

「橋爪門にはさっきも言ったように敵の要所がある。守りも固めているに違いない」

「伊達に手柄を譲るように見せかけておいて犠牲を払わせ、力を弱めさせるか」

「左月殿を失った伊達の怒りは強い。敵を討てる好機と知れば遮二無二攻めかかるだろ」

 

 前屈みだった龍兵衛の姿勢が後ろへと倒れる。足を組んでぼんやりしている目は戦の転機を迎えたと昂る兼続の心に水を打った。

 

「確かに伊達の力は強い。だが、最上や蘆名に手柄を譲る訳にはいかないだろう。ここはやはり吉江殿らに」

「最上や蘆名が城を落としたら非常に困る」

「じゃあ、やはり決着は正面から付けると」

「……ああ、富樫を殺すのは上杉でなければ」 

 

 目つきが鋭くなった。相変わらず話を逸らすのは上手い。だが、それで真意を聞かないほど兼続の好奇心も廃れてない。

 

「なぜ最上や蘆名に妙立寺を攻めさせる?」

「あの寺は尾山を守る中で最大の砦だ。中には仕掛けでいっぱいらしい」

「なるほど、だから最上と蘆名か」

 

 いくら上杉の支配下にあるとはいえ伊達ばかりが勢力を伸ばしている状況を同じ東北を統べる大名として両家も面白くないと思っている。

 一番乗りの功名は多少の犠牲を払ってでも欲しいと動く。実際には上杉の中での力を削ぐための布石だとも知らずに。

 そこまで考えていた兼続はあることに気付き、顔を上げて龍兵衛を見る。こちらを見ながらあくどい笑みを浮かべている。

 

「さすがに兼続だな」

「貴様……」

 

 褒められたのに全く嬉しくない。上杉は東北の大名を打ち倒し、支配下に置いている。しかし、彼らの勢力図は降伏させた頃とあまり変わっていない。

 鉱脈のある所や流通の要所のみで残る土地はほぼ元通り。万が一彼らが結託して上杉に刃向かうようなことがあれば面倒事では済まされない。さして何かを企んでいる様子は無いと報告は受けているが、不安はある。

 龍兵衛は解決するための一つとして実行に移した。最上や蘆名が持っているであろう伊達に対する思いを利用して。

 

「噂だとあの寺には尾山に通じる抜け道があるらしい。もしそれを見つければ良し。さっさとこの茶番を終わらせる」

「見つけられずにそのまま犠牲を払わせれば?」

「……そのようなこと知らなかった、申し訳なかったと頭を下げれば良いさ」

 

 愚かな行いだ。兼続は心中で龍兵衛を叱りつけた。大切な兵の犠牲を伴えば最上も蘆名も上杉に対する不信感を抱く。それを軍師一人の謝罪で済ませることなど出来るはずがない。両家の主は温厚だが、芯は強い。知らぬ存ぜぬで終わらせることが出来るはずがない。

 

「どうなっても知らぬぞ」

「大丈夫だよ」

 

 確証があるとは思えない、その場しのぎの言葉だろう。しかしこれ以上追及したところで龍兵衛の口が開くとは思えない。だから兼続は肩を少し上下させ、彼の背中に言った。

 

「無理はするな……」

「え?」 

「……何でもない」

 

 

 

 後ろから上杉軍が疾風のように駆けてくる。一向一揆に長年苦しめられてきた恨みにも似た怒りをぶつけんと片っ端から畠山の軍勢を斬り捨てる。

 畠山の兵達には降伏するという選択肢は無い。ただ逃げ惑い、逃げ遅れたらその身を屍へと変えるのみで念仏を唱える暇もない。

 勇んで前に出て戦う者もおらず、背中を刺されるか生き延びるために抵抗して死んでいく。

 それは兵卒だけでなく武将も同じである。上杉の怒濤の勢いに逃げ惑う。馬をも無くした以上走って逃げるしかない。ただ死にたくないの一心で走り続ける。それ故か足下に転がっていた物体に気付かず、転倒した。

 それでもすぐ立ち上がって逃げれば良かった。将は自分の足を取った物が何なのか反射的見てしまった。そして怯えて腰を抜かしてしまった。首だけになった味方の無惨な姿。泥だらけで誰かも分からない。

 立ち上がれないと気付くまでさほど時間はかからなかった。誰かに助けを求めようとも恐怖で声が出ない。そのみっともない姿を視界に認めた畠山の兵がいたが、無視して去って行った。

 声を上げようにも恐怖で口が回らない。既に味方は遠くに行ってしまった。やはり守るべき者などこの世にはいなかったのだ。かれらも所詮は自分が可愛いただの人。

 足が動けば他人など捨てて逃げる。それがたとえ目上の者であっても。後ろでこれまで共に戦ってきた味方が上杉軍によって無残に殺されているのも見ずに。

 彼もまたその一人である。どうにか逃げようと腰を上げようと試みる。なぜこのような状態になったのか。そもそもどうして一向一揆と共に上杉に立ち向かおうとしたのか。心の支えを守るためだったが、それも出来ずに何が乱世を生き残るだ。

 矢継ぎ早に頭を巡る思いを怒りに変えたところでもはや何も変わることなど無いというのに。震える拳を叩きつけるとどうにか立ち上がることが出来た。とにかく逃げようと足を踏み出す。しかし、それは背後からの声によって制された。

 

「その方が畠山義慶か?」

「っ! いや、私はその……違う!」

 

 義慶は突如背中から掛けられた声に咄嗟の嘘で誤魔化そうとした。声をかけてきた相手は武勇に疎い義慶でさえ危険だと思わせる威圧感を持っている。

 

「見苦しいのう」

 

 侮蔑の感情を込めた相手の声が義慶に恐怖を与え、動けなくした。また腰が抜けそうになるのをどうにか堪えるもそれ以上のことは出来ない。

 

「お主が身に纏うその具足に見覚えがある。妾を誤魔化すことは出来ぬ」

 

 怒りの声が義慶の身体を言われてもいなくのにただそこにいろと命令する。逃げなければ殺されると分かっている。しかし、逃げたら相手が持っている刀の一閃で首が無くなるのも分かっている。

 

「お主は傀儡であることを受け入れ、晴貞の暴挙を止めることが出来なかった。たとえ何があろうと息苦しさを受け入れ、逃れようと抗う心を持たなかった」

 

 静かに怒りを込めた言葉が彼の心に深く刺さる。たしかにその通りだ。しかし、あの場で従わなければ自分は殺されていた。それでは大切な妹を守る者がいなくなる。従うしかなかった。結果として妹が富樫のものになったとしても彼自身の心を支えた大切な存在を形だけでも失う訳にはいかなかった。

 必死に弁護しようとするが、口が動かない。目の前にいる将の存在感が圧倒的過ぎる。伝えたいことだけでも伝えたい。それで死ぬなら本望だ。

 

「嫌だ……」

「む……?」

「死にたくない……嫌だ!」

「愚か者が……!」

 

 抜けていたはずの腰が立ち上がり、足を踏み出そうとする。だが、その一喝は足に刺さる矛先よりも強い衝撃を与えた。振り返り、近付いてくる敵将はかつての彫り師が作った仁王像もかくやと言わんばかりの迫力である。

 

「謙信なら許したかもしれぬが、妾は許さぬ。あの世で悔い改めよ」

「ひっ……」

 

 敵将が刀を振り上げた途端、畠山の体は尾山へと向いた。妹の方を反射的に向いてしまったと言うのが正しいのかもしれない。せめて彼女がいる城だけは拝み死のう。

 

「なっ……」

 

 絶句した口が大きく開いた。邪魔な影が二つ入ってきた。互いに肥えきった体。畠山はそれらの顔をよく知っている。そもそも何故このような前線にいるのだろうか。前線に向かうべきだと富樫に進言して自らを死地に追いやったというのに。

 そう思うと同時に畠山の視界はぐらりと揺れ、首に嫌な感触を得た。

「どうして……」そう口にする前に喋れなくなり、一瞬の痛みを覚えた後に体が痺れてきた。尾山の方を見ようにも二人の顔が邪魔をする。うっすらと嘲笑う彼らの表情は彼が望んだ死の光景とは全く違った。何故ここまで天は自らを許さないのだろう。この素晴らしいほどに腐っている世の中に救済は無かったということか。はたして自分はどのような死に顔を浮かべているのか。そんなことを考えた瞬間に畠山の意識は途絶えた。

 

 屍を挟んで一対二の対談がなされようとしている。景資の前に立っている二人は蠅が集るのでは、と思うぐらいの不潔感を持っている。顔は言わなくても酒と女と贅沢に溺れていると分かるぐらい腫れ物が吹き出ている。鼻息も荒く、発情した動物の方がまだ可愛げがある。

 周りにいた兵たちは既に先へと進んでいて、後続の者たちが物珍しそうに三人を見ている。だが、皆干渉しようとはしない。景資の並々ならぬ迫力が区域を作り、阻んでいる。それを気にせずに並んでいる二人は恭しく膝を着いた。

 

「某、畠山が家臣、遊佐続光と申す」

「同じく、温井景隆にございます」

「これは如何なることじゃ?」

 

 景資は名を言わず、跪く二人を見下ろす。二人の名前は聞いたことがある。共に畠山に仕える重臣であり、一向一揆に加勢することを強く主張していたと聞いている。だが、今はそれよりも問い質すことがある。畠山の屍を一瞥したのを見たのか遊佐が口を開く。

 

「我らは降伏致す。故に此度の無益な戦の一端を担いし我らが主の首を差し出し証にと」

 

 片目が動く。耳を塞ぎたくなった。聞くだけで卑しくなり、頭が腐ってしまいそうになる。

 

「お主らはこの畠山が一向一揆に付くために動いたと申すか」

「御意。我らがどれだけ諌めても聞き入れられず……脅されやむなく一向一揆に……」

 

 必死の表情で弁明している遊佐も図々しい。それ以上に温井の視線が景資には耐え難い。

 景資の肉体は女性さえも羨むものである。視線を感じることはこれまで何度もあったが、ここまで見え透いていていやらしいものは初めてだ。

 

「あい分かった」

 

 景資が無表情で刀を抜く。虫けらを斬ることに何の躊躇いがあるだろう。遊佐の首下に刀を向けると二人の表情が一気に青くなった。本当に降伏しようとしていたのだろう。何とも愚かだ。

 

「武人たる者、恩義ある主ならば忠節を尽くすのが義理。貴様らなど、その風上にも置けぬわ」

「景資殿、止められよ」

 

 振り下ろそうとした腕が少し吊った。これから不埒な者を倒すというのに何をしてくれる。恨みがましく振り返ると全身黒い衣服に身を包んだ龍兵衛がいた。

 よもや許すなどとは言わないだろう。いくら同じように主を裏切り上杉に仕えた者だといえ、卑しき彼らの目を見れば一目瞭然である。だが、景資の思いも空しく龍兵衛は頭を横に振って刀を下ろすように促してきた。

 

「膝を付き、降伏せんとする者に何をしているのです」

「この期に及んで上杉に靡かんとしている者がおる故、いかにすべきか考えていたところじゃ」

「ほう。まだそんな人がいるとは……まぁ、良いでしょう」

「さすがは音に聞こえた河田様。良心の蒼鷹の名は伊達ではありませぬな」

「まだそう呼ばれるのか……まぁ良いでしょう。ご両名、城内へ案内していただけますかな。景資殿の隊は共に進んで下さい」

 

 嬉しそうに二人は頭を下げている。嫌悪感で表情を歪めたくなる。どうにか堪えたが、はたして城に着くまで耐えきれるかどうか。

 

「景資殿、大丈夫です」

 

 龍兵衛は強く頷く。その様には怒りを通り越して呆れてしまう。いくら慈悲深い謙信でさえも彼らは許すまい。つまるところ彼のしていることは甘い。あのような者と轡を並べることなど誰が喜ぶだろう。

 そもそも龍兵衛も分かっているはずだ。そうでなければ上杉の重きを担う軍師ではない。

 心の訴えも空しく彼は二人に向かって穏やかな口調で問いかける。

 

「ご両人、今従えている兵の数は」

「三百にございます」

「ならばそれを従えて城を攻めて道を開いてください。景資殿が後に続きます」 

「承知。では……」

 

 素早く立ち上がると二人は部下を引き連れて尾山へと向かっていった。遠くから「我らに続け!」と味方を鼓舞する声が聞こえる。

 そのまま先鋒の蘆名たちに敵と勘違いされて死んでくれないか。もしくはこの後で行う論功行賞の場で景勝が斬り捨ててくれないか。そう思っていると龍兵衛がこちらを咎めるような目つきで睨んでいた。

 

「景資殿、早く進軍を。好機を逸します」

「お主……真にあやつらを許すのか」

「ええ」

「おかしいぞ」

「何がです?」

「あのような奴らを我らの陣営に加えれば風紀に関わる。お主、分かるであろう」

「ええ。分かっています」

「ならば……」

 

 さらに問い詰めようとしたところで龍兵衛に手で制された。

 

「だから言ったでしょう。今だけと」

 

 口の形が三日月型になっている。一瞬、目を丸くした後意図を悟った。彼を睨む。

 

「お主……」

「死人に口なし。後で言い訳は何とでもなります。懐に何か仕込んでいただのね」

「お主、最初からそのつもりだったのか」

「いえ、まさか彼らが寝返るなど思ってはいませんでした。しかし、彼らは良い捨て駒です。城内のことをよく知っていますからね」

「配下の者は如何にする」

「全員殺して結構。彼らも色々と狼藉を働いていたようですから。一人も逃さずにお願いします」

 

 その場で斬る方がよほど甘かった。理に適っていると言えば良い。簡単に残酷な戦術を思い付き、躊躇いもなく実行する。しかし、それはどこの軍師や策略家もしている。何故か龍兵衛が立てると冷や汗が出る。

 かつていた所ではそれがずっと当たり前だったというのに。

 

「して、配下をどう屠るのじゃ?」

「彼らは我らがすぐに来ると思って最前線に突っ込むでしょう。合図を送るので少しずつ孤立させていくのです。頃合を見て救援に向かい、城内で斬り捨てていただきたい……さぁ、そろそろ向かわないと何を言われるか分かりませんよ」

 

 龍兵衛は馬に手を向けて景資を促す。言いたいことはまだいくつもあるが、私情を持ち込むような状況でもない。小さく頷き、馬に跨がる。

 

「自分は合図を送った後に向かうので前線は任せます」

「うむ。しかと、な」

 

「本当に彼らだけを殺すのか」そう聞こうとしたが、止めた。ここで味方割れをしたところで上杉に利があるわけではない。

 胴を蹴り、声を上げる。自らが相手をして鍛え上げた精鋭たちが後に続く。一心に付いてきてくれていることの何と嬉しいことか。上杉に来てから抱ける充足感が今ここでさらに高揚しているような気がする。

 その理由は、敵がその対局にいるからだとすぐに分かった。一つの布石で簡単に崩れる彼らとどのような状況下でも団結する自軍。実に愉快だ。

 しかしそれが今、徐々に崩れようとしている。長い浸食で割れていく岩のように。はたして完全に切れてしまうのか、気付かないうちに修復されるのか。

 考え事が深まる前に景資は気を現実へと戻す。今ここは戦場であり、邪心など不要の場。前方を見ると逃げ惑う敵が左右分かれて道を作る。

 

「かの者らは如何致しましょう」

「捨て置け。刃向かう者、邪魔となる者だけを斬れば良い」

「御意」

 

 さらに馬を早くさせ、敵陣へ突っ込む。予測通りほとんどの者が逃げ惑い、遅れた者が哀れにも命を落とした。

 景資も二、三の敵を斬ったが、恐ろしいほどに感覚が無い。人ではなく、藁を斬っているような違和感を抱きつつ景資は真っ直ぐ城へと進む。

 大手門西にある小さな門から先に向かっていた遊佐らが城に入ろうとしている。おそらく商人らの通り道で戦では使われないのだろう。敵からの抵抗もさほど無く、門を破壊しようとしている。

 兵が三人程度しか通れない細い道だと認識した途端、僅かな邪心がよぎった。ここで彼らを斬っても誰も害は無い。後は城に雪崩れ込み、一気に決着を付ければそれで終わるのだ。だが、城内で斬るようにと龍兵衛には言われている。

 理由は分かっている。敵として殺すことが出来るからだ。昨日まで敵だった者であり、突然今日味方になったためにまだ彼らのことを分かっていない味方もいる。

 だが、龍兵衛には城内まで手出しをするなと言われている。中の構図を理解して上杉だけでも攻められるようにしたいのだろう。

 士気高く門の破壊を指示している二人を見ると実に哀れに感じてきた。許せないことに変わりない。しかし、せめてもの慈悲を死の前に与えることも良いのではないか。

 そこまで考えて景資は頭を振った。そのような甘さが身を滅ぼす。かつての自分のように。あの殺伐とした場所で日々を生きていたというのに、何故ここで甘くなってしまうのか。

 

「(妾も上杉に毒された。ということかのう)」

 

 景資は自嘲気味に笑うのを堪えようと眉間のしわを深くする。

 龍兵衛のやっていることは正しい。遠回りではなく、近道を導く軍師としてあるべき姿を成している。それはかつて自身と同様に裏切りと怨念の中にいたからにすぎない。

 しかし、上杉は現当主の謙信と跡継ぎの景勝に対する信奉に近い忠誠心によって成り立っているところがある。つまるところ異端は弾かれるのだ。決して排他的というわけではない。入って上杉に合わなければ疎外されていく。

 今の龍兵衛がそうであるように。

 

「おお、吉江殿。もうじき門が開きます」

 

 景資に気付いた遊佐が声を上げて門を指差す。

 

「あれは普段、戦には使えぬ門。少ない兵を通すことしか適いませぬが、敵の士気を見れば時の問題かと」

「そうじゃな」

 

 ぶっきらぼうに答える景資の目は走ってきた戦場に向けられていた。視線の先では突破された敵の残党が孤立して右往左往している。

 それを龍兵衛の兵がことごとく斬り捨てている。戦ではなく虐殺だ。

 

「むごいのう」

「あのような者たちはああなるべきでございます」

 

 景資は刀に行きかけた右手を左手で掴み、必死に止めた。これまで戦ってきた兵をそのように呼ぶ輩など上杉にはいらない。耳を疑いたくなった。そして僅かに残っていたわだかまりも消えた。

 

「吉江殿、門が開きました! さぁ、向かいましょう。某たちで案内致す」

「分かった。皆、続け! これで一向一揆の悪しき縁を切るぞ!」

 

 声が上がり、遊佐と温井を先頭に城内に雪崩れ込む。さすがに城内では立ち向かってくる敵が多い。まだ敵の目に光がある。

 

「さて、いかにするかのう……」

 

 骨のある者を先に討つか、それともまとめてか。無意識に景資の口元がつり上がっていた。

 

 

 秋が深まると夕陽に照らされた紅葉がさらに赤く染まり、風情を漂わせる。涼しげな風を浴びてのんびりとするのは実に楽しい。

 だが、戦の中で見ることが出来る赤と言えば血と火。命を落とす代償を得て初めて見ることが出来る。

 

「……」

 

 景勝は火を見ていた。遠くに見える紅葉に重なり合うように揺らめくそれは綺麗ではあるが、心に響ものではない。

 燃やすなと兼続が言っていたが、唯一火の手が上がった箇所があった。長続連である。彼の屋敷を取り囲んだと同時に火がついたと兵たちは言っていた。

 民をも巻き込んでまで上杉に抗おうとした気概は敵ながら天晴れというべきか、それとも罪無き民を巻き込んだが故に非難されるべきかは分からない。

 正義感が強い兼続はおそらく後者の立場を取るだろう。

 景勝もまたその立場であることに変わりはない。武人として立派に散っていった続連は後世にどう解されるだろう。

 悪評高き富樫の中で上杉に対して一歩も退かず、己が信念を貫いた武人の鏡と評される日が来るかもしれない。

 だが、それは今を生きて目の前で見ている上杉の者達には分からないことだ。

 故に景勝は民をも巻き込んだこの戦を振り返り、つらつらと燃える屋敷を見上げてぽつりと呟いた。

 

「疲れた」

 

 戦が嫌になった訳ではない。もちろん戦をすることは好きではないが、それ以上にこの戦には気を使った。

 正規兵も元は農民であるが、武器を持って装備を整えているからこそ完全な敵愾心を見ることが出来る。しかし、装備もままならない民兵は本来、ここにいるべき存在ではない。

 そこまで自分が一向一揆勢や北陸の豪族達から嫌われていたとは思ってなかった。全ては本願寺や富樫晴貞が謳った上杉に対する偏見とはいえ、徹底した嫌われぶりには参った。

 民達が一番大人しそうな外見をしている景勝を見るや否や「殺される!」と喚いて逃げる程であった。

 景勝も人である。心に来ないわけがない。思い出すと胸に手を当てて強く握り締めたくなった。だが、一軍の長として弱いところを見せてはならない。

 尾山はさほどの損害もなく手に入り、城の中は今龍兵衛と景資が清掃をしている。城内での争いが一番激しかったのかかなり手間取っているらしい。城に攻め込んだのは昼を過ぎた頃だと伝令から聞いている。

 

「景勝様」

 

 横から兼続がやってきた。頷くと彼女は膝を付く。

 

「城内の清掃が終わったとのこと。もう入城して良いそうです」

「ん。長かった」

「龍兵衛が申すには城内には兵だけでなく戦わない女子供もいたと」

「まさか……」

「いえ、我らが城内に入った時には既に皆死んでいたと」

「殉死?」

「おそらく」

 

 城内に女子供を残すのも考えものだが、どうもおかしい。逃げ惑う一向一揆の兵を手放しにしておいて戦において扱いに困る戦わない者たちを殺すのは有り得ない。普通逆である。

 

「景勝様?」

 

 何でもないと首を横に振る。兼続は覗き込むように曲げていた首を戻して城内へと促してくる。様々な疑問が尽きない中、景勝は素直に城内へと足を向けた。

 日が山に消えていく。夜になるのが早くなっているのは日に日に感じていたが、今日は一番早く感じられた。

 緊張感の無い時ほど時間が早く感じると龍兵衛がよく言っていた。決戦だったにもかかわらず何故か気が抜けていた。あくびを噛み締めながら戦場を眺めていた。

 咎める者もおらず、他の者もやはり気を引き締めようとしていたように見受けられた。このような場所に長居しても意味が無い。

 

「すぐ、帰ろう」

 

 口から出てしまったが、兼続には聞こえなかったようだ。おそらく兼続もこのような戦をして逆に疲れてしまったのだろう。それは景勝もまた同じ。早く残党狩りを済ませて代官を置き、春日山へと戻るのが吉だ。

 

「ふぅ……」

 

 景勝の溜め息は月の見えてきた空に消えていく。誰にも知られることの無いこの戦の真の顛末のように。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

愉快な決戦前夜

「報告。景勝様、一向一揆を討ち果たした由」

「……ようやく終わったか」

 

 謙信は燃えている岩殿城に背を向け、陣へと戻る。紅蓮の炎を背後にした謙信は美しく、誰もが見惚れただろう。

 

「こちらも早く決着を付けなければなりませんね」

「ああ。正直なことを言うとこちらの方が早く終わると思っていたからな」

 

 背後から聞こえる颯馬の声に一切振り向かずに答える。周りでは兵たちが戦後の処理に回っており、様々なものを片付けている。

 

「霜は軍営に満ちて秋気清し数行の過雁月三更、越山併せ得たり能州の景、遮莫あれ家郷の遠征を憶う」

 

 目を瞑り、空を見上げて誰に捧げるでもなく唄を詠む。ゆっくりと目を開くと火の粉が少し目に入ってきた。少し痛かったが、これぐらい前線で戦っている兵の恐怖に比べればどうということはない。夕闇迫る時とはいえ火を焚くには少々早かったかもしれないと指示した自分に後悔する。

 

「これから甲斐に入るというのに何故」

「苦しい思いがあっただろうと思ってな」

 

 分かるだろう、と目を向けると颯馬は苦笑いで返してくる。あの恐ろしさはなかなか常人が耐えきれるものではない。よく完全に討ち果たしてくれたと皆の手を取ってやりたいぐらいだ。

 

「とはいえ、こちらも決して楽な動きではないかと思いますが」

「確かにな」

 

 浮かべた苦笑いは颯馬の的を射ている言とぎこちない敬語の両方から来ている。武田との戦に謙信は上杉の軍のみを率いることにした。伊達や蘆名に撤退を命じた時、全員が耳を疑い、反論したが、謙信は聞かなかった。

 結果として兵の数では拮抗したが、士気や足並みは明らかに上杉が有利だった。虎綱の守る海津城を兵を誘き出して落城させると信州の国人衆の大半は上杉になびいた。

 最初は武田に付くと明言した真田もあっさり寝返り、武田と縁戚の穴山もこちらに降伏をしたいと申し入れてきた。だが、武田にも忠義の士がいないわけではない。

 

「ここまで抵抗が激しいとはな」

「だから私たちは蘆名から兵を借りるように言ったんです」

「反対したがな」

「とても納得いきません」

 

 謙信は足を止めて颯馬を見る。彼の眉間のしわが語る思いはよく伝わった。未だに伊達や蘆名を撤退させたことに根に持っている。だからこそ謙信は諭すような穏やかな声を発した。

 

「……せめてもの手向けだ」

 

 分からないと颯馬は首を横に振る。さすがにかと肩をすくめ、再び歩き出す。詮無きことを言っている自分を戒めるように一つ溜め息を付くとそれを合図のように風が舞う。謙信の後ろ髪を揺れ、前にやってきたが、無視したまま足を止めない。

 

「謙信様。分からないことついでにもう一つお尋ねしても」

「何だ?」

「何故に岩殿城を焼いたのでございますか?」

 

 謙信は足を止めないまま歩みを速める。歩を止めると思っていたのか颯馬が慌てて後ろから歩き出すのが音で分かる。

 

「岩殿は交通の要所。戦においても攻めるに厳しく守りに易い。残さずにおくのが定石」

「それは私が戦の前に申し上げたことです」

「岩殿城は再び作り直す。武田の本拠を叩くまで時を稼ぎたくない」

「されど岩殿城を燃やせば要所が……」

「北条は佐竹がいる故動けない。それに焼いたのは本丸のみ。砦は残っている」

「小さい砦では兵が収まりません。これより躑躅ヶ崎を攻める拠点は」

「私がいる所が本陣であり、拠点だ」

「なっ……」

 

 颯馬の目が大きく見開かれているのが背中越しでも分かる。謙信も自分で考えて悩んでいたことがすんなりと口から出てきて驚いている。それを表情に出さず、ここまできたら言うしかないと意を決して誰にも言わなかったことを声にする。

 

「これより要害山を取る。そして一気に包囲し、信玄との決着を付ける」

「確かに要害山を取る必要はあります。しかし、それまではいかにして……」

「この地の砦はまだ残っている。足りなければ寺を使えば良い」

「甲斐の僧兵が我らに味方してくれるとは思えません」

 

 武田の上杉に対する恨みが武人だけでなく、有力な者たちにも渡っていることを知らない謙信ではない。現に岩殿城を落とした時も残党から執拗に奇襲を仕掛けられた。今も慶次や官兵衛たちが残党狩りをしている。

 

「どこかにあるだろう」

「甲斐に入るよりも前からあれほどの抵抗があったにもかかわらずでございますか」

 

 信州で松本や諏訪でも敵は殲滅するまで抵抗を見せ、開城してくれるような城は真田など国人衆の息がかかった者らだけだった。寺では僧侶が上杉滞在に断りを示し、僧兵の軍団を作って抵抗する有様で、静観してくれるのは武器を携えるほど裕福でない民ぐらいしかいなかった。

 とはいえ信州が落ち、甲斐の半分が上杉の手にある以上、各々身の振り方を考えなければいけない時がきただろう。武人と違い、生きて家を守りたい者たちなら。

 

「誰が敵で誰が味方なのか。見極めるべきだな」

「各寺に使者は送っておりますが、返事はまだ……」

「迷っているのだろう。信玄を慕うが、民の声を聞かなければならないからな」

 

 謙信は他人事のように言っているが、颯馬にとってもう一押し出来ない状態であることを示している。実に歯痒く、不甲斐ないと奥歯を噛み締めているのが後ろに目が無くても分かる。

 信玄の人望は直臣が死しても殉じる思いを抱いているほどだ。だが、元々豊かではない甲斐の土地と長きに渡る上杉や織田との戦いが仇となった。重税を課して泣くのは民であり、それはどの領土でも同じ。だが、甲斐は他の国よりも土地が貧しく、重い税をかけなければ武人の生活さえもままならない。

 そこにさらなる重税を課された農民は耐えるか、逃げるか、抗うかの三つの選択を迫られる。甲斐では上杉憎しの感情が下々まで行き渡っているが、今では話が違う。

 農民たちにとって今こそが全てであり、生きる目的である。次代のことなどを見据えるなど無理に近い。だからいくらこれまで良くしてくれた大名でも駄目になればすぐに手のひらを返す。

 その声に真っ先に応えなければいけないのが武人ではなく神社仏閣だ。彼らは民が一番に頼る逃げ場であり、受け入れる所。そして武人とは違い、逃げることが難しい。もし武田への忠誠を誓うなら民から反感を買い、今後にも禍根が残る。しかし、民の味方をすれば武田からのこれまでの恩を忘れたと糾弾され、残った武田残党からどのような仕打ちを受けるかも分からない日々を送ることになる。

 既に書状は送っているため、それぞれの主立った者が互いの動きを見極めているだろう。確かに天秤にかけると難しい。しかし、決断を下さなければならない。もし最後までどっちつかずなら上杉の主としてそれなりの処罰を考える必要がある。

 現に景勝が一向一揆を鎮めた以上、こちらものんびりしてはいられない。

 正直なところ武田攻めがここまで長引くとは思っていなかった。信州で真田ら有力な国人衆がこちらに付いたとはいえ残る者たちが武田に忠義を尽くさんと頑強に抵抗を示した。結果的にはこちらが圧倒的物量差で勝ったものの、一時期兵を休ませ、越後から援軍を呼ぶ事態になった。

 一糸乱れぬ精強な軍勢の抵抗にはさすがの謙信も参った。どうにか甲斐まで攻め寄せたが、まさか先に凱旋するのが景勝とは思っていなかった。

 

「(せっかく、景勝を労ってやろうと思ったのにな……)」

「早くこちらを対処してからに」

「うぐ……まぁ、そうだな……」

 

 颯馬に心を読まれるようになってから良いことも増えたが、悪いことも増えた。謙信は深呼吸を繰り返して気を取り直す。

 

「今の戦況を見なければな」

「はい」

「武田は信州を完全に落としてから抵抗らしいことをしなくなった。戦意の喪失か、あるいは何かを企んでいるか……」

「おそらくは後者かと」

「私もそう思う。颯馬、武田の動きを逐一調べろ」

「御意」

 

 往来を続ける兵たちの様子を見ると皆疲れの色が激しい。どうにかして被害を最小限に抑える戦いで終わらせたい。しかし、武田は最後に必ず抵抗をしてくる。

 謙信は諦めるべきかと息を吐く。最大の努力はする。それでも叶わないなら腹をくくるしかない。

 

「謙信様、あれを」

 

 不意にかけられた颯馬の声で顔を上げる。ちょうど視線の先から親憲が少し慌てた様子でやってきた。

 

「よほどのことだな。吉報だと良いが」

 

 親憲は謙信の前で膝を着く。走ってきたからか、息は荒い。 

 

「謙信様、木曽より書状が」

 

 差し出された書状は親憲が急いだためか、所々にしわがある。謙信は静かに受け取り、中を改める。一文字ずつ読み進めていくと自身でも表情が驚きに変わっているのが分かる。その様を見て颯馬が後ろから恐る恐る声をかけてきた。

 

「木曽はなんと」

「降伏する故、領地を安堵してほしいと」 

 

 颯馬と親憲の表情が少し明るくなる。確かに木曽ほどの勢力が寝返れば武田の息の根を止めたも同然。挟撃の構えを取ることも出来る。一息に攻めればもはや要害山を無視しても良いぐらいだ。

 

「直ちに返書を書こう」

「謙信様、お待ちを」

「如何した」

「木曽は武田の中でも大きく、また縁戚関係にあります。はたして容易に受け入れてよろしいのか」

「計略か……なるほど、確かに無くはない」

「故にここは、木曽に先に兵を出させて躑躅ヶ崎を囲むよう指示を与えるのです」

「試すのか?」

「謙信様、某も颯馬殿に賛成です」

「ふむ……」

 

 颯馬の言うことは確かに理に適っている。おとがいに手を当てて考える。もし木曽が偽りの降伏なら上杉が勢いで武田の屋敷を囲めば挟撃されて殲滅される可能性さえある。それを防ぐために木曽を中に押し込めば今の戦力差なら上杉が確実に勝てる。

 降伏なら命が惜しいとはいえ歓迎するべきだが、ここで諸手を挙げるほど謙信もお人好しではない。意を決して颯馬の方を向く。

 

「颯馬、返書を書く。もし何かと渋るなら警戒しろ」

「はっ」

「親憲は手筈通り要害山を落とす支度を続けろ」

「かしこまりました」

 

 指示を与え終えると謙信は一つ良いことを思い付いた。颯馬も親憲も指示された通りに動き出したため口元が緩んでいることに気付いていない。

 悪巧みまでとはいかないが、味方も出し抜ける面白さは相変わらず心が踊る。別に誰かに相談しなければならないわけでもない。

 敵を騙すにはまず味方からとも言うし、ここは一つ黙っておこう。

 笑みを浮かべるのを必死に堪える。そのために眉間に寄ったしわのせいでより厳しい表情となって周囲の兵に畏怖を与えているのも知らずに。

 

 

 上杉の残党狩りは苛烈を極めた。疑わしき者は容赦なく罰せという官兵衛の指揮の下、怪しげな者は徹底的に殺害、捕虜に取った。また反乱を防ぐため、甲斐の領民のほとんどが武器を没収され、拒めば脅してでも奪った。

 評判が悪くなることを憂う声もあったが、国を取る前から体面を気にするような相手ではないと颯馬や官兵衛がはねのけた。

 そして木曽が降伏すると言ってから五日後、上杉はすでに躑躅ケ崎を囲んでいた。

 謙信の眼前には山々に囲まれた躑躅ケ崎の館が見える。一見、ただの屋敷の集まりのように見える。しかし道幅は狭く、決して大軍で攻められても落とされないようになっている。実に様々な策略をもって領地を広げた信玄らしい。

 

「ここまでくると呆気ないな」

「真に木曽が寝返っていたためでしょう」

 

 隣に控えている親憲が館を見渡しながら答える。木曽は手土産として自らの子供を人質として送り、甲斐の地図や深志城を差し出してきた。

 これには颯馬や官兵衛も納得し、本当に恭順したのだと認めた。元々、調略は行っていたが、まさか本当にこちらに付くとは思っていなかった。おかげで要害山を攻略する手間も省け、全力で信玄に注力することが出来る。

 

「包囲は今日にも完成するが、いつ攻めるべきか」

「軍師ではない某が申すのも如何なものかと思いますが、すぐに攻めるべきかと」

「ふむ……」

「景勝様が一向一揆を鎮め、越後に帰還致します。謙信様も遅れてはなりませぬ」

「確かに、国を空けすぎたな。実乃からも蔵の心配をする書状も届いている」

「戦の大将は謙信様。全ては謙信様の差配通りに戦うのみです」

 

 親憲は馬上で頭を下げる。才能がありながらも相変わらず自ら一歩引く姿勢は旗揚げした時から変わらない。嫌味に聞こえないのも彼らしい。

 彼のように変わらない者もあれば変わっていくこともある。今の上杉と武田の勢力のように。初めて武田と戦をした時、互いに越後一国と甲斐、信州の二国を支配する日ノ本にどこにでもいるような大名だった。

 それが川中島での勝利と武田の織田との戦で敗戦したことをきっかけに形勢が一気に変わった。上杉は南の脅威が無くなり、侵攻を進めた。武田は体勢を立て直すための時間を多く費やされ、他の大名から遅れを取るようになった。

 あまりにも時間がかかるため、疑問を感じることも思ったが、思う余地が無いくらいに自分が忙しくなった。家臣に任せても良いのではと思うことも自分の目で見てみないと気が済まない。その性格が多忙を極め、颯馬や兼続から説教をくらい、龍兵衛や親憲から直談判で生活を整えるように懇願された。

 そのような日々を送りながら気付けば上杉は日ノ本の東を席巻する大大名になった。対して武田は信州を失い、明日をも知れぬ身となった。終わるとなると悲しいかもしれない。しかし、上杉の主として長引いた戦をすることは出来ない。せめて最期ぐらいは華々しい道を作ってあげようではないか。

 

「親憲。皆に明日の夜明けと共に……いや、包囲が終わり次第すぐに総攻めにかかると伝えろ」

「いきなりですな。兵たちを休ませなくてよろしいので」

「今は耐えてほしい。武田との戦を一刻も早く終わらせるためにな」 

「かしこまりました」

 

 何故とは聞かずに親憲は去って行く。察しの良い彼のことだ、言わずとも悟っているのだろう。

 

「互いに良い仲間に恵まれたな」

 

 武田四天王は確かに強かった。風林火山の一文字をそれぞれが賜り、名に劣らない才を発揮した。彼らがいたからこそ信玄は大名として名を上げ、信玄だからこそ彼らは存分に動けた。

 羨む思いもあったが、上杉も負けていないと思っている。身内贔屓かもしれない。だが、それがどうしたと謙信は胸を張る。

 四天王はいないが、古参から外様までが才を遺憾なく発揮し、働いてくれている。武田ほど自ら動ける者はいないが。

 これから先、さらに多くの者と戦う。その時に彼らが指揮を執れるかが不安ではあるが、さすがにまたいなくなることは出来ない。勢力を広げて連携が取りにくくなった今、反乱が起きたら鎮めるのが難しくなる。

 

「……あ」

 

 辺りを見回すが、今の間抜けな声を聞いたのは愛馬だけのようだ。何やっているんだと鳴いている。首を撫でてやりながら謙信はもう一つの面白いことを思い付いた。だが、これは戦が終わってからのこと。今は武田を倒す方に注力すべきだ。そう言い聞かせて謙信は数十人の配下と共に本陣へと引き返した。

 

「さぁ、信玄。この戦においてお前との因縁を絶つとしよう」

 

 そして、華のある最期を見届けてやろう。どんなに時が進み、周りが変わっても宿敵であることに変わりない。

 

「感謝しているよ。お前が最期まで武田として生きてくれたことがな」

 

 謙信の中で恐れていたことがあったのは武田が織田に降ることだった。戦略的な信玄がなりふり構わずいけばそうしただろう。許さなかったのは自尊心であり、武田としての誇りに違いない。それは正しい。

 謙信とてそうしただろう。乱世に生きる武人が誇りを失って生きるほど哀れなことはない。

 思わず口元が緩む。宿敵が誇りを失わずに逝くことへの嬉しさがそうさせた。

 

「辞世の句ぐらい見たいがな」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

それでも闘う宿敵へ

 山に囲まれた躑躅ヶ崎は日が昇るのも遅く、謙信も今か今かと足を揺すりたくなるほどだ。この日をどれだけ待っていたか。とても表現出来ない。

 

「謙信様、夜明けにございます」

「よし。親憲、狼煙を上げるよう伝えろ」

「はっ」

 

 上杉の旗が今か今かと動いている。謙信とて気持ちは同じだ。しかし、それなりに足並みを揃えなければ総大将として面目が立たない。

 

「きたな」

 

 白い狼煙が空へゆらゆらと上がっていく。待っていたかのように上杉の兵たちの雰囲気が変わる。人の皮を剥き、敵を狩る狩人となった。謙信は宥めることなく、刀を抜く。

 

「今日この日に武田との真の決着を付ける。皆、覚悟は良いか!」

 

 武人らしい雄々しい歓声が山々に響く。兵たちも武田との決着を待ち望んでいたのがよく分かる。長引いた戦で辟易とした雰囲気があったと感じていた。

 

「行くぞ! 一気に攻め立てろ!」

 

 謙信は馬の胴を蹴り、先頭を切って躑躅ヶ崎へと進む。ここまできたら面倒な戦略は無い。一気に攻勢を加えてこの館を落とす。武田の騎馬隊も入り組んで道の狭い城下町なら機能を上手く使いこなせないだろう。

 

「謙信様、城内より火縄が」

「やはりか……こちらからも撃ち返せ。鉄砲隊の援護も怠るな」

 

 相互から鉄砲のけたたましい音が聞こえてくる。謙信も最前にいて戦況を見守りたかったが、家臣たちによって無理矢理後ろへと下げられた。

 

「騎馬隊、銃撃の隙を突け!」

「謙信様、敵はまだ矢を使っておりません。今少し待たれた方が」

「構わぬ。矢が来ればこちらからも撃ち返せば良い。颯馬、これは義戦だ」

「ならば、私にも考えがあります」

「任せよう」

 

 仰々しく颯馬は体をこちらに向けてくる。

  

「火矢の支度を」

「ならぬ」

「どうして……」

 

 颯馬の方を向く。納得いかないと顔が言っているように眉間にしわが寄っていた。謙信はおもむろに颯馬の額に手を伸ばしてしわをほどく。慌てた颯馬が少し顔を赤らめたが、気にせず手をそのままに館へと視線を向ける。

 

「これは私と信玄の戦いだ。颯馬、お前には悪いが、これは私たちだけの戦い。この戦の差配は全て私が決める」

 

 額のしわがほどかれて眉根が上がっているのが指先で分かる。颯馬は軍師である。戦で勝利するために謙信に献策を立てて実行に移す。そして戦場では戦術を立てて勝利のために合理的に動く。しかし、それを禁じられた今、この戦での颯馬の存在価値は無くなってしまった。

 

「では、どうすれば良いのですか?」

「私がこうしたいと言った時、そう動けば良い。官兵衛にも伝えろ。此度は下手な細工は無用だと」

「謙信様が指揮のみに従えと」

「そうだ。颯馬、すまないが諦めてくれ。これは……もう揺るがない」

 

 颯馬は怒りで顔を歪ませている。謙信の表情はおそらく誰にも見せたことのない冷淡になっている。そのような表情をこれまで見せてくれなかったものからか、軍師としての自尊心を傷付けられたからか。

 

「……わかりました。官兵衛に伝えてきます」

 

 颯馬は諦めたと一つ息を吐く。そのまま馬に跨がり、後方へと下がっていく。

 

「済まない……」

 

 届かない声を颯馬の背中にかける。公私を分けている手前、ここで何かをすることは出来ない。謙信は城の方へと直る。相変わらず城門前で上杉と武田の攻防が続いている。しかし、徐々に上杉の兵が城門の壁まで届くようになってきた。

 

「鉄砲隊、弓兵隊。援護をさらに強めろ! 全兵士、城門だけを見て駆けよ! 鉄砲玉も矢も恐れるな!」

 

 謙信の声は両軍の怒号の中でよく響いたようだ。上杉の兵が声を上げて一気に前へと進んでいく。兵の士気は決戦前に一気に上がった。武田との決着によってどれだけ自分たちの生活が平和になるのか。皆がよく知っている。

 謙信の合図で予め用意されていた狼煙が上がる。親憲に任せた部隊や信濃の国人衆たちの陣営の動きが慌ただしくなっている。

 少しずつ上杉は城門へと近付いている。それでも武田の守りはなかなか崩れない。

 だが、謙信の表情に苛つきはない。戦を楽しむように晴れやかになっている。人生の中で最大の宿敵である武田との最後の戦で、上杉が勝利を収められる。心躍らないはずがない。 

 そう考えると少し寂しさも覚える。幾多の相手を相手にしてきたが、信玄との戦は常に一味違う面白さを感じることが出来た。負けそうな危機感も勝てそうな高揚感も、全てが塩を振るさじ加減のようで、飽きることがなかった。望むことが出来るのであれば今ここで時を戻し、再び川中島で一戦を交えたい。

 それももう適わない夢である。上杉の主として今は役目を果たさなければならない。その中でも謙信らしさを見せたい。

 だからこそ謙信は颯馬を遠ざけて一人になった。すべきことをするために。素早く馬に駆け出して跨がると刀を抜いて胴を蹴る。反応良く愛馬は前足を高々と上げた。いとも簡単に体勢を整えると謙信は刀を館へと向けて大きく口を開いた。

 

「今だ! 私に続け!」

 

 歓声と共に上杉の兵が一気に城へと進む。幾人かの将が呆気に取られて謙信を止めることも適わずにいるのを尻目に謙信は先陣を切って進む。矢や鉄砲玉が飛んでこようと構わずに城門へと駆ける。体に当たりそうなものは全て身を反らして避けていき、ついには先に城攻めを行っていた者たちと同じところまで来ていた。

 謙信は前線の兵を鼓舞しつつ城内へ向かう。主自らの出陣に兵たちは奮い立ち、それに続かんと怯んでいた者も動き出した。

 そして、謙信は城門前へと立つとそれを斬らんとして出てきた武田兵を倒すと閉まりかけていた門を兵と共に押し止める。武田軍も必死に応戦するが、次々に雪崩れ込もうとする上杉軍によっていよいよ限界がきた。上杉の兵数人が中に入ると謙信もそれに続いて門のかんぬきを力ずくで破壊した。

 

「城内へ攻め込め! 信玄を討ち取るのだ!」

 

 一際大きな歓声が響き、上杉軍が館へと雪崩れ込む。武家屋敷が均整に建っていて、平坦な道の続く躑躅ヶ崎は兵力で勝る簡単に押し込むことが出来る。戦をよく知らない兵たちはそう思っている。

 しかし、各所に道が狭くなっている所があり、そこに兵を集中されていると報告を受けている。謙信は兵と共に前に進みながら辺りを見回す。

 

「そこの屋敷を探ってみろ」

 

 所々で気配を感じれば謙信は小隊の長を止めて詮索させた。案の定、いくつかの屋敷で鉄砲や弓矢を持った伏兵を見つけた。容赦なく討ち果たすとさらに奥へと進む。

 

「謙信様」

「おう、親憲か。そちらはどうだ」

「伏兵の様子が感じられます。火を点けてあぶり出しては」

「いや。こう狭い道が続いては退路を断ってしまいかねない」

 

 道の両端に木々が立っている。道自体も五人から六人程度が通れれば良いぐらいの幅になっている。

 

「お前は兵を分けて伏兵を討て。私が屋敷へ向かう」

「いえ、謙信様がこちらに残り……」

「いや、これは命令だ。聞け」

「駄目よ」

 

 振り返ると謙信に続いて城内に入ってきた慶次が真剣な目つきでこちらを見ている。

 

「慶次」

「上杉の主でしょう? そんなに危険なことをするのは反対」

「悪いが、そうもいかん。行かせてもらう」

「万一、命は誰が預かるの? まさかこれからという時にかっつんに任せる訳じゃないでしょうね」

「言いたいことは分かる。だが、これは性分だ。お前らは伏兵の詮索にあたれ」

 

 謙信の進む方向へ慶次が素早く立ち塞がる。親憲なら無礼者と一喝出来るが、客将の彼女だと話が違う。謙信はより一層目つきを鋭くさせて慶次を見る。

 

「どいてくれ」

「これから天下を取ろうとゆう人がそんな軽率なことをして良いと思ってるの?」

「こんな、だと……」

「ええ、宿敵かもしれないけど、武田はもう終わり。何でそこまで自らの手に執着するのか理解できない」

「お前らしくもなく、理屈を述べるか」

「残念だけど、あたしは理由もなく動くようなことをしたことが無いのよ」

「理由、か……」

 

 辺りでは上杉の兵が館内や武家屋敷の中へと進んで行っている。近くの屋敷内からは叫び声が聞こえ、伏兵がいたことを教えてくれる。その中でこの三人の場所だけは安全な後方の陣営のように別空間だ。矢が飛び交うことも無ければ敵が斬り込んでもこない。

 もはや武田の抵抗は無力に等しくなっている。兵たちに任せても時間が解決してくれるだろう。そこにわざわざ総大将が出てくる筋合いなどない。

 

「理由があるなら考えてあげても良い。けど、納得はさせてね」

「……分かった」

 

 慶次の強い気が謙信に伝わる。もし納得がいかなければ問答無用で後方に送り返すつもりだろう。だから謙信は息を深く吸うと周りの兵もこちらを向くような力強い口調で言った。

 

「理由は、信玄が永久に私の宿敵である……それが理由だ」

「それだけ?」

「……だからこそ、信玄の最期は私が取る」

 

 強い信念を込めた静かな声が喧騒にかき消されることなく、二人に通じた。親憲は絶対に行かせてはならないと足に力を入れる。やはりそのような理に適っていない理由など親憲には通用しない。しかし、颯馬さえも追い返したのだ。ここで簡単に引き下がる訳にもいかない。

 謙信は強引に押し通るべく、どこか二人に隙は無いか探る。親憲は残念なことに隙が見えない。内輪揉めをしている暇も無く、簡単に戻ることも出来ない。

 諦めて慶次の方を向き、そして目を見開いた。身構えていた姿勢がすっかり棒立ちになり、槍を持つ手にも力が入っていない。

 

「……行って良いわ」

「慶次……」

 

 慶次は館へと続く道を譲るように体を引く。見定めていた目は既に呆れと諦めを合わせたものへと変わっている。だが、その中にも謙信と戦場に対する滾りは確かに残っている。

 

「納得した訳じゃあないからね。これでどうなったって知らないから」

「大丈夫だ。必ず生きて戻るさ」

「今はそれだけは信用しましょ」

「ありがとう」

 

 素直に褒められたことが恥ずかしいのか、口元を微笑ませる慶次の耳が少し赤くなっている。

 

「親憲、我が軍の指揮はお前に任せる。颯馬や官兵衛の言をよく聞け」

「謙信様……」

 

 親憲が詰め寄ろうとするが、慶次に肩を掴まれて止められた。驚く彼を宥めるように慶次は首を横に振る。

 

「もうあたしたちの知ったことではないわ。行きましょう」

「しかし……」

 

 納得いかないと親憲の目は謙信から慶次へと移る。その目は謙信を擁護することに対する抗議の思いがしっかりと込められている。

 

「これはあたしたちが言えることじゃないわ」

「されど……」

「もう無理よ。何かを持ちかけても」

 

 親憲から手を離すと謙信の方を真っ直ぐ向く。そして強く頷くと黙って武家屋敷へと存在を示すように大声を上げながら突撃していく。

 親憲も慶次がいなくなり、分が悪いと思ったのだろう。何度か謙信と慶次が去って行った方向を見比べ、観念したように頭を下げた。

 

「親憲」

「何でしょう?」

「お前に任せる。上杉の兵の命を頼む。欲を言えば、私のもだが」

 

 一瞬、呆気に取られたように立ち止まった親憲だが、意図を悟ったとすぐにいつものような穏やかな笑みに戻る。

 

「御意。謙信様の代役、見事に務めてみせましょう」

 

 意図を完全に悟ってくれた。やはり親憲も乱世に生きる武人に変わりない。だからこそ謙信を行かせてくれた。慶次と違い、上杉の直臣であることが思いを殺して諌める方へと向いたのだろう。それは決して悪いことではない。過ちを犯す前に防ぐのであれば謙信は家臣たちの言うことを聞く。しかし、今回ばかりはどうしても譲れない思いがあった。

 

「さて、私も行くか……」

 

 駆け出した。馬は既に城攻めの時に下りてしまい、頼れるのは自らの足だけ。既に謙信と共に先陣を切った兵が道を作ってくれている。とはいえ先程のやり取りでかなり時間を割いてしまい、一町ぐらい離れている。

 それでも謙信を諦めさせない原因はこの先にある。信玄という宿敵はこのような弱体化を招いても最期まで上杉の敵であらんとしてくれる。

 周りには激戦の末に命を散らした上杉と武田の将兵の亡骸があちこちに転がっている。残念なことに幾度も戦場で見かけた勇将たちも死んでいるのを認めた。

 心中で手を合わせながら謙信はただ進む。こちらも義清を失った。信州奪還を目指していた夢を引き継ぎ、彼女同様武田に信州を追われた者たちを救う。信玄が勇将を失い怒れども、こちらも奪われたものがある。

 何度か武田の残兵が謙信を認めて襲ってきたが、敵ではなかった。簡単に斬り捨てると再び走り出す。館の本丸へと近付くにつれて思いは宿敵一人になっていく。

 

(私が向かうまで死ぬなよ……)

 

 軍記物でしか有り得なかったと思っていた物語が現実の中にやってきて自身の身に降り懸かってくれた。これを行幸と言わずにどうすれば良いのだろう。

 そしてこれをめでたしで終わらせるのは謙信をおいて他にはいない。それが彼女の今を支える力となっている。

 いよいよ謙信は本丸へと駆け込んだ。邪魔は幾度も入ったが、どのような連中だったか忘れてしまった。

 これからが物語の終焉。その先があるとしても今は今を楽しむ。

 

「さぁ、いずこにいる。信玄……」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

かんばせ隠し

 屋敷内に入って謙信はまず鼻をつまみたくなった。流れて血と汗の臭いが充満して、精神を集中させていなければ頭が働かなくなる。

 普段より戦場で生きてきた中でもこの中での臭いは強烈である。それほどの激戦があったと示しているのだ。

 否、敵が武田だからだ。そう謙信は思い、屋敷の奥へと踏む込む。上杉の武田への思いと武田によって故郷を追われた信州の国人衆の怨念。そして武田の上杉に対する憎悪と川中島の屈辱を晴らさんとする執念。

 

「勢いとはここまで勝敗を分けるものか……」

 

 溜め息が自然とこぼれた。警戒しつつ謙信は館内を一人で進みながら周りを見る。倒れているほとんどの屍が武田の将兵である。上杉の兵たちも倒れているが、それでも圧倒的に武田の方が多い。

 開戦前、兵力は確かに上杉の方が幾千か多かったが、数千の差だった。何度も川中島で相見えた時、常にそれぐらいの差はどちらかにあった。それでもあのような激戦を繰り広げてきた。しかし、一度の敗北でいくら兵を集めてもこのようになってしまうのだろうか。

 信玄自ら信州に出向くことの出来ないまま甲斐への侵攻を許し、負け戦を続ける。何と嘆かわしいことかと謙信は眉根を下げる。

 

「敵将! 覚悟!」

 

 襖の向こうから突然、武田の兵が襲い掛かってきた。破れた襖が邪魔になったが、相手の刀を扱う実力が遠く及ばなかった。攻撃を簡単によけると体勢を崩してがら空きになった首を切り裂いた。

 

「新参者に本拠を守らせるとはな……」

 

 謙信の顔を知らない者など武田では少ない。知らないのは彼女のことを見たことの無い人だ。このようなものなどに本拠を守る軍に組み込むほどに人がいないのだろうか。

 だとすれば何と哀れなことだろう。天下を掴むことも出来た勢いと人材を抱えていた武田。一つの戦での敗北がここまで家を衰退させる。もちろん上杉のためだけではない。徳川や織田といった西の敵による攻勢もあった。

 他家のことを他人事と捉えるのは愚かな当主である。謙信は一つの敗北の恐ろしさをこの躑躅ヶ崎で痛感した。これまで謙信は戦で負けたことはない。劣勢に立たされようと頼れる家臣たちの力で押し退け、勝利、最悪でも引き分けに持ち込んだ。

 敵ながら学ぶことも多かったが、最後に最も初歩的で、忘れやすいことを教えてもらえた気がした。ここで感傷に浸っている場合ではない。「さて」と謙信は前に集中する。

 館内はさほど入り組んでいるわけではなく、おおよその予想を付けながらさらに奥へと進む。そして謙信が武田の評定の間に入り、ようやく上杉の兵と合流出来た。

 

「謙信様、かような所まで?」

「それより信玄は?」

「探せども見つからず。敵将とは幾度か立ち会い、討ち取り申したが……」

「その姿を見るとかなり苦労したようだな」

 

 兵にはいくつか傷が残っている。館の内に入るほど上杉軍の屍もいくつかあった。重臣たちも決死の覚悟で意地を見せたのだろう。

 

「ともかく館の中にいることは間違いない。徹底的に探せ」

「はっ」

 

 謙信は辺りを見回す。しかし、誰か敵が潜んでいる気配が無い。

 

「武田の将は討ち取ったのか?」

「我らは内藤昌秀を討ち取りました。別部隊が山県昌景を討ったと報告が」

「私は聞いていないぞ」

「それは……」

 

 兵は慌てて口を噤んだ。おそらく謙信があちらこちらに動き回っているから報告が遅れたと言いたいのだろう。 

 言わんとしていることは正しい。とはいえ言われなければ恥ずかしいこともある。兵と総大将の格の差もあるが、そこを越えていくような者がいないのだろうか。何か一つ考えなければならない。

 

「手分けして信玄を探せ。奴さえ見つければ勝利を得る。ただ、乱暴な真似はするな。私がとどめを刺す」

 

 兵たちは頭を下げると四散する。皆がどこか不満げな表情をしていたのは気のせいではないだろう。信玄が見目麗しいのは皆知っている。長年の武田との戦で鬱憤が溜まっている兵たちに釘を打たなければ何をするか分からない。ましてや先鋒を務めているのは旧信州の者たち。恨みを持つ者は多い。

 積年の恨みは己の理性を簡単に越えてくる。越後統一からここまでで謙信は身に染みてそれを感じてきた。たとえ適わない分かっていても本能を剥き出しに向かってくる目を幾度も見てきた。

 

「仮に信玄に手を出す者がいれば容赦なく罰す。命令だ。他に略奪を働けばそれも斬ると伝えろ」

「は、はっ!」

 

 兵が一人館の外へと向かう。残った者たちに手分けして館を探すように命じると謙信もまた奥へと進む。

 

「さて、いずこにいるのか……」

 

 館内は外見の質素な造りからは想像もつかないほどに広い。部屋も小分けにされていて、襖の先に何があるのか分からない。

 

「謙信様、いっそ火を点けては……」

「ならん。ここには甲斐や信州の土地や川の位置などが書かれている文献もあるはず。それを使わずにいかにして甲斐の民を治められよう」

 

 兵が弱音を吐くのも分かる。たかが館と侮っていた心が謙信にもあったのだ。慶次たちを待つかと一瞬頭をよぎったが、頭を横に振る。

 

「進むぞ。警戒を怠るな」

 

 信玄の命を絶ち、武田との因縁を断つのは謙信である。そう自身に言い聞かせてこの甲斐へと侵攻した。颯馬にさえ隠した企みをここまできて翻すわけにはいかない。

 兵たちと足並みを揃えつつ謙信は進む。途中幾度かの妨害があったものの、どうにか避けて最奥と思われる場所まで来た。十数畳ある部屋には一切華美な物が置かれていない。風林火山の文言を綴った掛け軸だけがある。これまで押し入った部屋の中で一番静かで不気味である。おそらくここが信玄の部屋だろうが、ここにも信玄はいない。

 すわ逃げたか、と思ったがそれならば外の包囲陣から連絡がくる。謙信は耳を立てる。周りから何も聞こえない他を当たっている兵たちも戦闘をしているようにも、大物を見つけた声も聞こえない。ならばと気配を窺うが、全く感じられない。どこかに身を隠すにしても人の発する気を感じ入ることが出来ないほど、柔な謙信ではない。

 

「お主らは他を当たれ。私はここで少し様子を見る」

「け、謙信様を一人にするなど……」

「行け」

「……御意にございます」

 

 組頭に凄みを利かせて皆を追い出す。一人になったところでもう一度部屋を見渡す。一見質素に見えて名器と思える茶器や刀が置かれている。少しは山上の教育が役立っているのかもしれない。さらに注意深く謙信は部屋の造りを見る。これといって変わっているところはない。だからこそ不気味に感じる。ここまで無策な信玄は見たことない。最後の最後まで何か企んでいるはず。

 生憎、外の兵たちの気配が消えたわけではない。すぐに駆け付けられる所で聞き耳を立てて待っている。愚直なことは嬉しい。しかし、今だけは少し邪魔と思ってしまう。もっと離れろと念じたところで彼らに届くはずもない。

 いっそ直接言ってしまおうかと謙信は踵を返す。だが、すぐに溜め息をつき、足を止める。

 振り返ると視線の先には誰もいないはずだった。

 

「……」

 

 どこから出てきたとは聞かない。

 目の前にいるのは赤い甲冑を身に纏った武田の当主、武田信玄その人だった。

 川中島の時に一瞬だけ現れた影ではない。彼女にも信玄たる迫力があった。しかし、真の信玄の覇気を出せるのは信玄のみである。

 故に、皆を欺こうと必死で努力したのだろう。そして得たものが謙信さえも驚愕させる代物となって現れた。だからこそ信玄は影ではなく自身が残った。

 

「心を許せる影を逃がすべくしてここに止まったか……」

「何を言うのです景虎。信玄はこの世にただ一人。私の他にはおりません」

「ふっ、それでこそ信玄。我が宿敵よ」

 

 悟られているかもしれないと分かっていても最期まで毅然として否定する。おそらく家中の者たちにも秘匿にしていたのだ。簡単に言ってみせる様は川を流れる水のようである。感心している謙信をよそに信玄は刀を抜きながら近付いてくる。

 

「己が立場をわきまえず、戦場の最前にいるとは……貴方はいつまでもか愚かですね」

「されど、そなたはそのような愚か者に負けたのだ」

「ええ、この信玄。末代までの恥」

 

 謙信は静かに口元を緩める。信玄には子供がいない。にもかかわらず、まるで武田の意志は繋がれるかのようだ。

 ここにきて信玄は僅かに落ち着きを失った。外で繕っても心の焦りが見て取れる。今の状況で落ち着くというのは無神経な者でなければ出来ない。

 

「武田の重臣たちは皆討ち取った。貴様も諦めたらどうだ」

「何を言うと思えば……武田の者が守護代の家臣である長尾に降るはずがないでしょう」

「相も変わらずそう言うか……まぁ、良い。これがお前との最後になるからな」

「笑止。戦はまだ終わってはいません。貴方さえ討てば……」

 

 思わず謙信は鼻で笑ってしまった。確かに謙信を討てば上杉は大黒柱を失い、家中に混乱が起こるだろう。まとまるのは武田が体勢を立て直した時よりもかかり、切り取った領土も諸将たちの反乱で取り戻すことも難しくなる。しかし、信玄に負ける気が今の謙信には全く無かった。

 

「残念だが、私が死んでも既に全てを託せる者がいるのでな。その期待は抱くだけ無駄だ」

「さぁ、どうでしょう。貴方たちが嫌いな謀略を持ってすれば分かりません」

「なに。全てはこれが終わってからだ」

「まるで既に勝ったかのような物言い……仮にも主たる者が前線に来ていることでさえ愚かというのに」

「ふっ……お前とは、主という顔を捨てて、一介の武人として決着を付けたいと思っていたからな」

 

 言い終えると謙信は速攻を仕掛けた。首めがけて突いた刃先は信玄にかわされる。ならばと首を薙ぎ払わんとするが、これも止められた。さらに胴元や心の臓などことごとく急所を狙うが、全て信玄に届くことは無い。

 

「鈍い」

「好きに言いなさい。まだこれからです」

 

 てっきりかわすだけで精一杯と思っていたが、信玄の反撃はなかなかに重い。油断していたら間違いなく首と胴体が分かれていた。しかし、川中島の時よりも遅くて弱い。

 あの時、後に現れたのはやはり影であり、一番目の攻撃を受け止めたのが信玄。抱いていた自身の殺意が徐々に薄れていくのが分かる。それでも信玄は謙信を殺さんと虎の如き牙を剥き出しにして向かってくる。少しでも気を許せば呑み込まれる。それを許しては越後の竜の名が廃る。ならばこちらも竜の牙を見せつけるしかない。

 決着は実に呆気なかった。本気になった謙信と信玄の攻撃が共に交わった時、互いの刀の内、信玄の刀が簡単に腕で支えきれずに崩れた。体勢を立て直そうと下がった信玄だが、謙信は素早く彼女の目の前まで移動して必殺の構えを取った。

 

「……以前より、腕を上げたようですね」

「いや、お前が弱くなっただけだ」

「そう、ですね。そうでしょう……」

 

 信玄の体が崩れる。膝を付いて咳き込む様はとても他人には見せられないほどに無様で全く威厳が感じられない。

 

「その様では私とまた戦えまい」

「全く、天はどうして私を病弱にしたのか」

 

 油断した。信玄は脇差を素早く抜くと謙信の首下へと突っ込んできた。下がっても間に合わないと身体を反らして辛うじて避けるが、頬を冷たい何かが掠めた。体勢を直すと足で信玄の膝裏を払う。体勢が整っていなかった信玄はもんどり打って倒れた。

 

「不意打ちとはお前らしい。危うかったぞ」

「兄を追放した慮外者が何を言いますか」

「まだその話が残るか。あれはもう互いに了承したというのに。ま、今その話をしても意味はない」

 

 謙信は信玄に近付き、首下に刀を向ける。信玄の殺気は衰えない。最期まで諦めない気概は賞賛出来る。しかし、それを誇るには既に時が遅すぎた。

 

「早く斬りなさい。貴方に討たれるならば本望です。さぁ……」 

「信玄、本当に良いのか。お前が死ぬことで世から消えなければならない者がいる」

 

 信玄の身体が僅かに震えた。影は本当にいるのだ。そして信玄は意外にもその者を身内のように思っている。否、本当に身内なのかもしれない。あれだけ容姿も所作も言動も似せるのは血を分けた者でなければ出来ない。長いようで短い間の後、信玄は首を横に振った。

 

「私がここで貴方に屈すれば、死んだ者たちに顔向けが出来ません。私が最後の一兵まで戦うと誓ったのです」

 

 信玄はゆっくりと姿勢を正す。見ている先は日の向きからして北の方。死を覚悟しているのか、はたまたあちらに気になるものがあるのか。

 

「家臣達はお前を守るために死んだ。ならばお前の影が為にも生きても良いのではないか」

「確かにその通り……しかし、私は貴方を宿敵と呼び、慮外者と貶めてきた。今、長尾に膝を付けば私は天下の笑いものです」

「命よりも誇りが勝るか。お前も結局は武人だったのだな」

「景虎、頼みがあります」

「聞こう」

「貴方の言うとおり、私には、私の影を務めてくれた妹がいます。あの子だけは見逃して頂きたい」

「……既に死んでいるかもしれないが」

「私が無理矢理止めました。今は虎綱春日と共に城を脱出させています」

 

 謙信は海津城のことを思い出した。信州で唯一頑強に抵抗していたのは海津城のみ。城主の虎綱は長く上杉に対する抑えとして立ち塞がっていた。包囲を解いて強襲したことでようやく落としたが、虎綱は城を脱出して行方知れずになっていた。

 

「そして……二人には北へ逃げるよう言ってあります」

「愚かな。何故南に逃がさない」

「徳川もまた我ら同様、武田を目の敵にしています。ましてや上杉から逃れた武田の者を抱えれば次に戦になるのは明白でしょう」

「なるほど。織田は今、西に注力している。徳川にとって我らと戦うのは避けたい。だから二人を匿うことはない。ならば……」

「北条も当てになりません。未だに早雲は生きているという噂もあります。上杉と北条は相容れない仲。戦になれば武田の残党など邪魔な存在。佐竹や里見を警戒しながら上杉を相手にすることなど、愚の骨頂」

「織田は?」

「あれこそ駄目です」

 

 はっきり言い捨てると信玄は兜を脱ぎ、部屋の真ん中に座った。謙信としてはもう少し話を進めて敵意を削ぎ、降伏させたかったが、やはり信玄である。

 心は決して動じず、堂々として死を待っている。謙信もその隣に刀を振りかざして立つ。

 

「織田のやり方は確かに素早く天下まで昇り詰めることが出来る。しかし、それ故に危うい」

「それは我らも変わらぬ」

「私はそうは思いません」

 

 謙信は目を見開く。忌避されてばかりだと思っていたが、信玄に上杉を受け入れられる度量があったとは。

 

「天下を取ることが出来るのは今や織田と貴方のみ……私は織田の天下など見たくもない」

「それが妹を救うのと、どういう理由が?」

「私は織田との戦には毎度信廉を使わしていました」

「……お前は、妹をまだ戦場に送らんとしているのか?」

「無慈悲と思われるなら結構。しかし、どこに逃げるにしても戦から逃れられない」

「ならば、お前の妹を家臣として扱い、織田を討てと」

「いずれそうせざるを得ない時がくるでしょう。貴方の掲げる正義を世に認めさせるなら」

 

 謙信は信玄の言葉に嘆息した。

 

「実を言えば、私は正義を掲げているが、本当に天下を取れると思っていない」

 

 今度は信玄は目を見開き、こちらを向いてきた。それに応えるように謙信は先程の彼女同様に無表情を貫く。

 

「戦をしなければ戦に呑み込まれる乱世に正義を掲げるのは難しい。それぞれが自分の正義を掲げている。私の正義は私が信じる正義である。それがあまりにも表立った。ただ、それだけだ」

「何故に東北を取ったのです?」

「家臣達がこれから越後を守るには、関東管領の務めを果たすには必要だと」

「では、信廉は……」

「案ずるな。私は織田や徳川や北条のような無慈悲なことはしない。望む者は迎え入れる」

「そうですか」

 

 本心から良かったと思っているのか信玄は少し表情を緩めた。

 

「それだけで、私は安心してこの世を去れるというものです。もう未練などない……いえ、貴方に負けたこと以外は」

「まだ言うか……」

「ええ。あの敗戦でどれだけ差が開いたか。優れた軍師だけでなく、多くの兵を失った」

「一歩間違えれば我らがそうなったのだがな。運が良かった」

「運。それだけではないでしょう。貴方たちの戦はとてもではないですが、我らの動きを読んでいた」

「優秀な軍師がいただけのことだ」

「何人もの軍師を抱えていると聞きましたが、本当に来る者は拒まずですね。聞けば謀反人も抱え入れているとか」

「奴は、決して悪人ではない」

「貴方の目で決めたならそうなのでしょう。現にその者は民の生活を豊かにして、治安を安定させているとか」

「奴の本領だからな」

「惜しいことです。逃げる先が武田であれば」

「それも運だ」

 

 信玄は静かに笑う。そして、首を横に振った。

 

「さて……外が騒がしくなってきましたし……そろそろですね」

 

 おそらく後続が館内に入ってきたのだろう。謙信を呼ぶ声も微かに聞こえてくる。信玄は改めて姿勢を正すのを見て、謙信も構えを直す。

 

「口惜しいかな信玄。互いが相容れる間柄であればな」

「ええ……本来、貴方と北条は相容れない仲なれど、上杉と武田は相容れる間柄でした。互いの性格がなければ」

「……」

「最期に改めて信廉と、春日を頼みます。それから、貴方への助言を与えましょう」

「聞こう」

「貴方のその我が侭。無くさなければいずれ家臣達が疑念を抱き、火種となりますよ」

「言われずとも、これが最後の我が侭だ。私が公でするな……」

 

 信玄は安心したように首を少し下げる。僅かながらに残っていた迷いも今の謙信からは完全に消えた。結局、自身と信玄は互いにどちらかが死ななければいけない間だったのだ。これは決して家柄から来るものではない。互いに戦の俊英であるからだ。天下を取るのは一人である。その世の中に乱世を治める英雄は一人しかいない。つまり最後は一人で生きていかなければならない。英雄は孤独なのだろう。それでもここまで来て、気持ちを分かり合える宿敵に託されたのであれば歩みを止めることは出来ない。決意を新たにするその一歩がこの信玄の命である。

 

「さらばだ。信玄……我が宿敵にして、最たる友よ」

 

 一閃。確かに信玄の命を奪うには手応えがあった。倒れた信玄を顔を整える。首筋から止めなく流れる血は確かに信玄が人であることを示す。謙信は徐に顔を近付ける。穏やかな死に顔は武田を一大勢力にのし上げた主のものではなく、ただ一人の華奢な女性の顔。

 

「主の顔を無くした時、私もこうありたいものだ……」

 

 そう言うと謙信は自身の唇と信玄の唇を重ねた。長いようで短い口付けは謙信から涙が頬を伝い、信玄の頬に流れるまで続いた。これまで義清が死のうと仲間が死のうと泣けなかった。しかし、信玄は泣けた。それは敵味方であることを捨て、互いに主という仮面を捨て、自らのあるがままに戦い、言葉を交わしたからだ。考えずとも分かる。定満が死んだ時と同じ思いが込み上げてくる。しかし、ここは戦場であり、上杉の兵を率いる大将として動かなければならない。その時が来るまでは、再び謙信という人間としての顔を覆わなければならない。

 

「……行くか」

 

 信玄の身体を抱えて部屋を出る。

 控えていた兵たちは謙信の姿を見て膝を付き、黙って後に続く。館内に突入して血眼になって武田の残党を探していた者も皆がその姿に足を止めてその姿に見入る。

 

(見ろ。これが私の歩む道だ)

 

 そのまま館の外に出ると謙信は大きく息を吸い、甲斐の山々にこだまするほどの声を上げた。

 

「武田信玄、上杉謙信が討ち取ったり!」

 

 その後、謙信は信玄との最期の邂逅を生涯誰にも、颯馬にさえ話さなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

貴方を読む

「颯馬。今後、我らは如何にすれば良い?」

 

 謙信は戦後処理をしている兵たちを見ながら問いかけてきた。

 

「武田軍の戦場に消えた兵の遺族への慰労。民や建物の復興でございます」

「甲斐の者たちの上杉への偏見はかなりのものだ。はたして上手くいくのか?」

「おそらく時間はかかるでしょう。しかし、成し遂げれば我らに何倍もの利益が返ってくるかと」

「利とは武田軍に恩義を着せ、強力な家臣団と今川、徳川への壁を作れるということか?」

「御意」

「正直、この様子を見るとな……」

 

 不安げな表情を浮かべる謙信の気持ちも分からなくはない。

 謙信が信玄を討ち取ったと声を上げた時、近くにいた上杉軍の者たちは彼女の威容に畏れを抱き、皆が膝を付いた。遠くの者は声を聞き、歓声を上げた。

 では、武田の将兵はどうしたか。全員が信玄の仇を討たんと、はたまた後に続かんと謙信に向かって決死の突撃を仕掛けてきた。誰かの指示ではなく、自ずと皆がその意志で繋がり、一つの軍となった。

 慌てて駆け付けた親憲や慶次が修羅の如き活躍で敵を撃ち返し、どうにか謙信に危害が及ぶことは無かった。しかし、多くの武田の将兵が血を流してしまった。否、全滅したと言って良い。

 たとえ颯馬の考えでいったとしても途方もない時間がかかるのは明白。

 

「謙信様らしくもない」

「相手が武田だと、そう思ってしまうのかもな」

 

 颯馬は小さく息を吐く。何となく得心がいった。謙信は武田を恐れていた。心中では知ることが出来なかった恐ろしさを自分の中に抱えていた。しかし、何を恐れる必要があるのだろう。信玄は既に討ち取り、この世から消えた。有能な将もほとんどが信玄に殉じている。

 疑問を感じ取ったのか、謙信は颯馬と官兵衛を呼び寄せて館の外れまで歩こうと誘ってきた。二人きりになれないのが残念だが、それ以上に大事な役目があるのだろう。

 館内の塀際をゆっくりと歩きながらしばらく謙信は無言のままである。周りの気配を気にしているのか、気配の無い所まで行く気だろう。

 それまでならと颯馬は辺りを見る。館の造りは質素で、時折書院造風の窓枠や部屋の内部が見える。庭は戦場の跡らしく、汚れているが、岩や木々が均一に並べられていて、信玄の真面目な性格が伺える。

 

「信玄には妹がいるそうだ。それを探してくれ」

 

 周りの気配を感じなくなった途端、謙信は平然ととんでもないことを口にした。

 颯馬と官兵衛は互いに無表情のまま固まり、思考が追い付いてようやく目を見開いた。幸いにも驚愕の声を上げることは無かったため、どこかから兵が飛んでこない。しばらくして颯馬の方が先に我に返った。目の前では謙信が二人の顔を見て笑っている。

 

「さ、されど、既に脱出しているならわざわざ探さず必要は……」

「そうですって。だいたい、信玄が上杉に身近な者を託すわけが……」

「ある」

「どうしてそう言えるのです?」

「信玄が私に言った」

 

 颯馬の疑問を謙信は簡単に、かつ予想の斜め上をいく答えで解決してくれた。

 

「妹は逃した、よろしく頼む。と」

「だけど、妹は本当に上杉に降る意志を持っているのですか?」

 

 官兵衛の問いに同調すると颯馬は頷く。上杉憎しという色に信玄から末端の兵まで染まりきっている中で信玄の妹なる人物がこれまでを洗い流して上杉に許す心を持っているだろうか。

 謙信は二人を見比べると苦笑いをして首をすくめた。

 

「それ知らん。聞いてない。だが、持っているだろう」

「……聞くのを忘れただけだな」

「何か言ったか?」

 

 謙信の言い訳を瞬時に読み取ったが、うっかり口にしてしまった。何でもないと首を横に振って誤魔化すが、おそらく一段落付いたら詰問される。颯馬は先を促して謙信の言葉に集中する。隣で興味深い話を遮られた官兵衛の視線が痛い。

 

「信玄は我が宿敵にして頼りになる存在。奴とて民たちのために天下の統一を望んだ。これ以上、甲斐の地を汚したくはないだろう。それに、信玄は妹のことを愛していた」

「つまり、見つければ必ず降る。と?」

「そうだ。颯馬に仔細は任せる何としても見つけ出せ。官兵衛はその支えだ。頼むぞ」

 

 颯馬と官兵衛は互いに頭を下げる。謙信は見つけるまでこのことは決して口外しないようにと念を押すと表へと先に戻って行った。

 取り残された二人は顔を見合わせて溜め息をつく。面倒ごとであるのは明らかであり、確証も無い中での遂行は難しい。情報も入っていなければそもそも北のどの方向へ向かったのかも分からない。

 

「八方塞がりだね」

 

 官兵衛は先に足を進める。両手を顔の後ろに組む様は仕事を頼まれて面倒くさそうにしている子供のようだ。

 

「とはいえ、命令ならやるしかない」

「まったく。謙信様も何でもっと聞き出せなかったんだろ」

「別れを優先したんだろうな」

「別れ?」

「宿敵でもあり友であった」

 

 官兵衛は何かを察したように息を吐く。友との別れにあれこれと聞き出す野暮はいない。言葉を交わさず思いで通じるのが真の友である鉄則である。

 

「その場で取引しなかったのは、さすがだと思うけどね」

「まぁな」

「問題は、信玄の妹がどこにいるのかだけどね」

「手当たり次第に心当たりを当たるか。それに信玄の影ならそれなりに妹も風貌が似ているはず」

 

 官兵衛は不満げな表情だが、仕方ないと首を縦に振った。謙信の言葉はあれで全てだろうし、信玄は既にこの世にいない。場所がはたしてどこなのかを知るのは信玄の妹しかいない。

 

「私が配下を遣わして金を撒く。それらしき者を見つけたらさらに上乗せをするとね」

「ま、それが一番無難だな。後は、信玄の妹が本当に上杉に降るのか」

「さらに言えば本当に妹がいるのか」

「まさか。死に際まで信玄は上杉を惑わすのか」

「上杉の詮索を行わせることで越後に火種を撒いてあらかじめ焚き付けていた周囲の勢力を起こす」

「考えられなくないが、あまりにも他力本願過ぎる」

「あくまでも可能性だよ」

 

 歩調を合わせる気のない官兵衛はさっさと進む。颯馬は慌てて足を並べて隣の様子を伺う。相変わらず面倒くさそうに口を尖らせている。

 

「兎にも角にも今は謙信様の命に従うだけだ。おそらく信玄の言うことが正しいと信じてな」

「はいはい。まったく、本当に甘いね」

「従うお前もいかがなものかと思うがな」

「雇ってくれた恩だからね」

 

 不意に颯馬は口元が緩んだ。官兵衛が恩や情で動くような人ではないことは知っている。上杉に利益があるから反対せずに動こうとしている。信玄の妹は本当にいると確信があり、たとえ虚言であっても何か上杉のためになることが頭の中で動いているのであろう。

 自身の頭では辿り着けないような謀とは何であろうか。興味が湧いてきてしまうのが同じ軍師の性なのかもしれない。とはいえ、颯馬がこの役目の頭目を任されている以上、動くところは動く必要がある。

 

「とりあえず、甲斐の領内にまだいるはずだ。身を隠すことが出来る寺や神社を探そう。兵ではなく、忍びを使ってな」

 

 頷くことで官兵衛は合意したことを示してくれる。信玄の容姿が皆目麗しいと知っている。おそらく影武者もそれ相応の容姿でなければ務まらない。戦続きでかつ武田という難敵との戦いが終わった今、昂りを迎えている兵も少なくない。万一にでも間違いを犯して元々低い甲斐の民たちの信頼度を下げさせるような真似はしたくない。

 そう考えると先のことまで不安になってくる。元々、甲斐という国は貧しい。そのため、土地を治める国人衆は自らの利益を強く欲している。それを利用して地位を約束した信玄は甲斐の民から好かれた。

 だが、謙信は甲斐の民から元々嫌われている。その上、上杉の組織内は謙信を筆頭に家臣達は上杉の規則に則って動く中央集権体制である。与えるものは与えてきたが、取り上げるものは取ってきた。はたしてそれが今後味方になるであろう彼らにどう写るか。

 

「謙信様はこの甲斐をいかに治めるのか……」

「適任がいるじゃん。うちに一人」

「え?」

 

 官兵衛は不意に出た言葉を簡単に返してきた。驚いて足を止めた颯馬に知らないのかと彼女は振り返る。真面目な話だというのにどこか落ち着きがなく、何故か嬉しそうだ。

 

「昔、美濃である者が斎藤家に仕官した後に領内の治安と財政は瞬く間に安定して楽園になったとまで言われたことがある。けど、その者が斎藤家を去ってからその制度が全然動かなくなって逆に混乱したんだ」

「まさかその者って……」

「さすが、察しがいいね……てか、あたしの口から言ってんだから分かるか」

「だが、奴しか知らないことも越後にはあるんだぞ」

「大丈夫大丈夫、あいつのことだから手は打ってくれるって」

 

 颯馬は官兵衛の嬉しそうな笑みを一瞬だけ楽しみが増えると思っていると考えたが、撤回した。その笑みは人の不幸を笑い、これから忙しくなるであろう弟子に向けた悪戯っ子のそれなのだ。

 

「さ、あたしたちも仕事しないと」

 

 鼻歌交じりで歩く官兵衛の後ろで颯馬は北西に向けて手を合わせた。

 

 

 謙信が甲斐を制圧した五日後の北陸。既に景勝率いる北陸討伐隊が越中の親不知近くまで帰還していた。全て将兵が精神的に参ったようで、勝ったにもかかわらず口を動かす者は皆無である。

 解放感から何か狼藉を働く者がいるのではないかと龍兵衛は配下と共に監視を怠らなかったが、彼らも他の兵たち同様に動きがままならず、結果的に兼続にも頼んで実質二人での監督となった。

 

「越後は戦を続け過ぎた。しばらくは国内に目を向けないとな」

「具体的にはどうする?」

「ありきたりだが、国を豊かにして民の困窮を救う。それに、そろそろ試したいことも色々出来た」

「お前の施策なら問題無いか」

「兼続にしては珍しく褒めてくれるな」

「私は事実を言ったまでだ。それでつけ上がって失敗したらただではすまんからな」 

「ご忠言どうも。だが、言われるまでもないさ。俺はこれ以上の失敗を許されないからな」

 

 兼続はそれ以上話さずに黙ってしまった。口元を緩めて冗談のつもりがそうは聞こえなかったのだろう。試したいこともある中で失敗を許されない立場にいる龍兵衛にとって現実味が多すぎたのかもしれない。

 それから二人は肩を並べて馬に揺られていた。その間、龍兵衛は十分に思案に暮れることが出来た。分野は違えどあれやこれやと思う内にいつの間にか親不知を通り過ぎていた。

 自分でもよく無意識に通れたと感心しながらも龍兵衛は再び思考の海に入るだが、少しして兵に扮してやってきた軒猿の者によってまた引き上げられた。

 

「……分かった。戻って段蔵に伝えてほしい。信州には気を付けろとな。だが、契約を結べそうなら結べ」

「承知」

 

 軒猿は兵の中に溶け込むとどこかへいなくなった。

 

 

「景勝様、報告が入りました。謙信様が信玄を討ち取り、甲斐を占領したとのこと」

「やっと……勝った?」

「ええ。謙信様はしばらく甲斐、信州の慰労をするため、越後のことは景勝様に任せるとのこと」

「……」

 

 不安げな表情を浮かべる景勝に龍兵衛は努めて穏やかな口調で答える。

 

「案じることはございません。朝信殿と景資殿、竹俣殿が越中より西は治めてくれましょう」

「越後……」

「自分や兼続がいるでしょう? それに、実及殿もおります」

「……ん。龍兵衛言うなら間違いない」

「それから……」

 

 龍兵衛は景勝に顔を近付ける。内々の話なのであくまでも小声で話すために行っているのに、景勝の顔が若干赤くなっているのは無視する。

 

「これも聞いたのですが、信玄には影武者がいたようです。そしてその者が武田の重臣である虎綱春日と共におり、降伏したとか」

「……!」

「やはり驚きますか。自分も正直なところ、このようなことになるとは……」

 

 龍兵衛は南を眺める。木々の狭間から見える太陽が断崖の海岸を望める北陸方面へと徐々に西へと動いていく。

 

「ですが、これで甲斐、信州は幾分か落ち着いて治めることができましょう」

「……」

「何か気になることでも?」

「龍兵衛、嬉しそう」 

「おや。顔に出てましたかな」

 

 龍兵衛はごまかすように頬を撫でる。確かに微妙に口元が緩んでいたかもしれない。しかし、公では鉄仮面を貫く龍兵衛でも表情を変えるぐらいの理由がある。

 

「上杉と武田。決して交わるはずの無かった両者の手が交わされる」

「……」

「これほど面白いことはありません」

 

 龍兵衛は景勝に対して公で滅多に見せないはっきり分かる顔つきで笑みを浮かべた。信玄は死んだ。しかし、死ぬはずの者が生き延びている。仮にも信玄として生きていた者を上杉に迎え入れることのなんと面白きことか

本物の信玄と謙信が手を取り合い戦う様も見たかったが、それは高望みなのかもしれない。

 

「信玄さん死んだ。忘れない」

「申し訳ございません。失言でした」

 

 景勝の目つきは真剣に咎めている。肉親の死がいかに辛いことか、景勝も龍兵衛も分かっている。信玄という姉を亡くした妹の思いはおそらく言葉には出来ないだろう。

 妄想を頭の外に放り出して龍兵衛は現実へと思考を戻す。

 謙信はこの二方向への遠征を最後に一度内政に力を入れると宣言している。これまでの戦で越後の開墾はなかなか進まず、東北の土地改革や金脈の捜索もままならない状況である。さらに兵の数はいたずらに増えただけで精錬された者が減っている。

 この状況に龍兵衛は舌を舐めずりたくなった。何故なら龍兵衛が美濃で台頭し、半兵衛や官兵衛とも肩を並べられるようになったのは軍略ではなく、政治によるものだからだ。

 

「これからどうする?」

「生憎ですが、自分ではなく、兼続や官兵衛殿が景勝様を支えることになるでしょう。自分は甲斐に行かなければ」

「ん……」

 

 少し残念そうな景勝は見ないように目線を落とす。

 

「官兵衛殿なら自分があらかじめ残しておいた越後での情勢を知る資料を見れば大丈夫でしょうし、兼続もいます。景勝様はどうか安心して政務を行ってください」

「あらかじめ? 龍兵衛、こうなる、知ってた?」

「ええ。あくまでも可能性の一つですが」

 

 口を開けている景勝が可愛らしい。という邪心を投げ捨てて龍兵衛は表情を引き締める。

 

「官兵衛殿もおそらく分かっていると思います。もしかすると書状が既に届いているかも……」

「遠くでも分かる?」

「一応は師弟ですから」

 

 青い空を見上げる。声が聞こえなくても分かる。官兵衛のあれをやっとけこれを残しておけというやかましい喧騒が龍兵衛の耳をつんざく。その姿を想像するとどうしてあのような子供のままなのだろうと口元が緩むのを堪えるのに必死になる。

 

「まぁ、いいや……孝さんには馬車馬になってもらわないとな」

 

 龍兵衛は無表情で南東の空を見た。

 後ろであまり構ってくれないと景勝が嫉妬と羨望を込めた目を送っていると気付かずに。 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

社畜がお好きでしょ

 謙信率いる上杉軍は武田討伐が完遂すると長かった戦後処理を終えて越後へと帰還すべく行軍していた。長かった武田との戦に決着が付いたからか、兵たちの表情は老若男女問わず明るい。越後に帰ったら何をしようと皆が話しながら隊列を乱さずに座っている。

 今は信濃の葛尾まで戻ってきた。明日からは山越えとなるだろう。冬を越す前にここまで戻って来れたとはいえ、越後と信濃を跨がる山々の頂上に雪は確かに積もっている。

 体力勝負となると考えて謙信は兵たちに休息を取らせた。皆があと少しで越後に帰れると思い、笑顔になっている中、密かに葛尾城の本丸まで上った。山に囲まれた葛尾城は城下町が非常に遠くへと見えるように感じる。

 

「取り戻したが、求めていたそなたはここにはいない」

 

 日が沈み、月も見えてきた頃合いに謙信は持ってきた杯に酒を注ぐ。揺らめく酒に映る月は力強く夜を照らす満月だった。謙信はいつものように一気に飲み干すのではなく、杯を目の前に置き、天を見上げる。月以外にも満点の星空が謙信を見下ろしている。

 

 

「最期まで故郷を思い、上杉を信頼して付いてきてくれた。これほど我らにとって嬉しいことはない」

 

 謙信は合掌を解き、目を開く。

 

 ぼんやりと外を眺めている小柄な白髪の女性に近付き、隣に良いかと尋ねる。こちらの姿を認めて快諾してくれたため、遠慮無く腰を下ろす。

 

「こちらには慣れましたか?」

「ええ。皆さんが温かい方達で助かっています」

 

 謙信は信玄の妹である信廉を捕らえた。甲斐の小寺の奥にいるのを軒猿が見つけ、颯馬と官兵衛が自ら出向いいたらしい。

 最後の最後まで信玄の身代わりとして死ぬことで姉を生かしたいと思っていたらしい。しかし、信玄の説得と虎綱の妨害で生き延びた。最後には脅しも含めた説得をしたが、信玄に一喝されて諦めた。

 

「私は、私の誇りにかけて最期まで長尾に屈しません。しかし、貴方と景虎には何の禍根も無い。ならば、もう貴方は信廉として生きなさい」

 

 そう諭された信廉は多くの未練と罪悪感を抱えながら虎綱と共に館を出た。いつ捕らえられるか分からない状況下で虎綱を苦しませてはならないと密かに命を絶とうと何度か試みたが、死にきれないまま上杉に囲まれた。

 最後まで抗おうとしたが、謙信自ら乗り込み「生きてくれ」という声でこれまでの緊張感が地に溶けて土に還るように力が抜けたらしい。それからは上杉の為すがままに様々な尋問を受けた後にそのまま謹慎を命じられた。

 とはいえ、牢や小さな部屋に入れて四六時中監視されるのではなく、屋敷を一つ与えられてそこに虎綱や武田に降った女武将達と悠々自適に過ごしている。また、城内に入ることも許されていて、こうして龍兵衛も会うことが出来る。

 

「虎綱殿は如何お過ごしで?」

「上杉の方に受け入れていただき、目を回しています。まぁ、彼女らしいですけど」

「真面目そうな御方ですからね。慶次達には度肝を抜かれたでしょう」

「ええ、それだけでなく、水原殿にもね」

 

 親憲の宴の女装を思い出しているのか信廉は笑みを浮かべる。虎綱は信玄の遺命を愚直に守り抜き、信廉の監視を怠らず、役目を果たした。そう龍兵衛が颯馬から聞いた時、虎綱のことを心から賞賛したくなった。

 生きることが一番の良きこととしている龍兵衛にとって主の命を守って主の妹を守り抜き、自らも生きたことは実に素晴らしいと思っている。

 だからこそ彼は虎綱が謹慎中にもかかわらず、真っ先に挨拶に伺った。しかし、ことごとく機会が得られずに無為な時間が過ぎた。

 

「残念ながらまだ会えていないですからね。顔も見たくないようで……」

「そうですか……」

 

 信廉の表情が沈む。龍兵衛もここまで都合が合わないのはおかしいと門を守っている兵に金を掴ませて探りを入れてもらった。分かったのは虎綱は自分には会いたくないと徹底的に面会を拒んでいたことだ。

 結論として、虎綱に完全に嫌われている。理由は全く分からない。虎綱に対して何か謀略を仕掛けることなどしてこなかった。また、基本的に武田討伐には川中島の戦い以降全く関わっていない。気になるが、今は解決しないことなので放置する。そして、それよりも気になる疑問を信廉に尋ねた。

 

「それにしても、信廉殿は何故に城まで?」

「実は、貴方に相談したいことがありました」

「なんと。実に都合の良いことで」

 

 本当にと信廉は歯を見せる。だが、龍兵衛が少し間を置いて本題へと切り出すとすぐに表情が暗くなった。そして、少し近付いて欲しいと頼むと小声で話してきた。 

 

「小幡が、暇を出したのです」

 

 龍兵衛の眉間のしわが一気に寄った。小幡晶盛は信廉が捕らえられたと知ると上杉に降り、彼女の身辺の警護をよく行っていた。虎に例えられるほどの猛将で彼の存在は上杉でもよく伝わっている。

 まさかと思いつつも事実を確認するために龍兵衛は思ったことを口にする。

 

「甲斐のある地にて必ず発する奇病。では?」

「え……」

 

 信廉の目と口が大きく開かれる。冷静沈着と聞いていた信玄とは違い、本来の彼女はかなり素直なようだ。表情を読み取られたことを悟ったのか彼女は小さく頷き、弱々しい口調になる。

 

「ええ。腹が膨れ、苦しそうな顔を必死に隠しておりました」

「しかし、それを何故に自分に?」

 

 龍兵衛は疑問をはっきり聞く。自分は医者ではない。一介の上杉家の家臣である。すると信廉は引き締まった表情で龍兵衛の目をしっかり見てきた。

 

「この病を奇病と言って先祖からの悪行が祟ったと忌む者もいます。しかし、私はこれがそのような天罰で起こるものとは思えません。必ず病には原因がありますが、病が祟りで起こるのなら加持祈祷はどうして廃れたのでしょう」

「それで、自分を病と結び付ける理由は何でしょう?」

「河田殿は越後の悪しき伝習や儀式、はてには民の作業を止めさせて多くの者が命を救ったと聞きます。可能ならばその力で甲斐の民を救っていただきたいのです」

 

 信廉が頭を下げてくる。さすが、信玄が影に使っていただけのことはある。甲斐や信濃は神仏を祀る伝聞が多いと聞いているが、彼女は惑わされずに現実を直視している。だが、自身の活躍ぶりを口にされると何ともむず痒い。

 

「……分かりました。出来る限りのことはしましょう」

「ありがとうございます!」

 

 越後や東北の改革の推進と甲斐への視察とかかる費用と時間を計算して龍兵衛はまた眠くなる日々が続くことを心で泣いた。とはいえ、まだまだ信頼の薄い甲斐の民達の心を掴む好機でもある。

 せっかくだから官兵衛にもっと働いてもらうとしようと内心ほくそ笑みながら口を開く。

 

「小幡殿は、今」

「与えていただいた屋敷で誰も通さずに伏せっているそうです。奇病であり、人に害を与えてはならないと」

「……見てみましょう」

「え?」

「医術の心得は僅かにあります。しかし、小幡殿を治すことは約束できません。あくまでも病の根源を知ることぐらいかと」

「そう、ですか……」

 

 不安げな表情を見ると信廉もまだ伝染病ではないかという思いを拭えないのだろう。

 

「案ずることはありません。自分の推測が正しければ流行病ではないかと」

 

 龍兵衛は努めて明るい口調をすることで、信廉を励まそうとするが、あまり意味を成さなかったようだ。確かに彼自身も直接目の当たりにしたことはない。聞いたことだけがあるような病を見せても本当に解決出来るのか不安に思っている。信廉の思いは手に取るように分かるが、龍兵衛も不安を拭えているわけではない。

 小幡の病ももちろんだが、他にも弊害がありそうな予感がしてならないのだ。

 

「では、案内して頂けますか」

「はい。こちらです」

 

 城を出た二人は急ぎ足で武田家のために与えられた屋敷へと向かう。上杉や他家より往来している者達のために与えられているものより狭く、少しみすぼらしい。屋敷の屋根や壁は整えられているが、塀の壁や中の襖には所々穴が空いている。

 謙信さえ武田の者達が降ると思っていなかったためにこのような最近まで使われていなかった屋敷になった。だが、信廉以下、武田の者達はそれでも仕方ないと受け入れてくれた。それがはたしてこちらの事情を悟ってか、仇敵への報いへと受け取ったのか、龍兵衛はあえて聞いていない。

 

「お入りください」

 

 床も嫌な音が所々する。よく見ると柱も腐敗しそうな箇所もあって、臭いが飛んでくる時もあった。男の者達が入っている屋敷だが、隣にあった普段信廉達がいる方もそうなのだろう。

 気付かれないように溜め息をつく。越後に来てまで因縁を付けられたらたまったものじゃない。

 考えながら進んでいると信廉が静かに立ち止まった。あまりに唐突だったため、龍兵衛は彼女の足首を踏みそうになって堪える。

 

「晶盛、信廉です」

 

 信廉が声をかけると中から男の声が聞こえてきた。慌てているようだが、当然だろうと龍兵衛は気長に待つ。

 少しして中から「お入り下され」と声がかかり、信廉を先頭に部屋に入る。中は整頓されていて慌てて片付けた形跡も無い。

 

「わざわざ来られずとも……おや、河田殿……でありましたかな? 某、小幡晶盛と申す」

「如何にも、河田長親にございます。お初にかかり、光栄にございます」

「こちらこそ……」

 

 頭を下げる晶盛の姿はいかにも死期を悟った者の姿である。頬や首には筋が立ち、代わりに腹がはち切れんばかりに膨れている。

 

「信廉様、幾度も申し上げた通り、某は流行病にかかった身。この部屋には入られぬ方がよろしいかと」

「流行病か、そうでないか。それは今から河田殿が決めることです」

「なんと。河田殿は軍師とお聞きしていたが……」

「ほんのかじった程度です。本格的に何かを治すことは、申し訳ありませんが……」

「よいのでござる。某一人で流行病かそうでないか分かるのならば、甲斐の民は喜びましょう」

 

 口元を緩めて嘘をつく余裕はまだあるようだ。戦場に華を咲かせて散らすことが至上である武士にとって病で死ぬのは屈辱的と感じる者も多い。龍兵衛にはその思いが晶盛の体の底から強く感じられてきた。

 

「では、小幡殿にいくつかお聞きしたいことがございます。もし、答えにくければ応じずに結構です。が、なるべく答えていただければ幸いです」

「分かり申した」

「では……」

 

 龍兵衛は一つ咳払いをすると真っ直ぐ晶盛の目を見る。まだ死んではいない。

 

「今の体の具合は?」

「全く駄目だ。腹が膨れ、自ら歩くことも出来ぬ」

「このような状態になったのはいつ頃から?」

「一年……いや、六月程前か」

「どのような変化が起きました?」

「腹が痛くなり、はばかりに出るのが止まらなくなった」

「それから熱が出たり、皮膚が黄色くなったりしました?」

「え、ええ……まさしく」

「正直なことを言えば話すのも辛いですか?」

「はい……真を申せば……」

「では、最後に一つ。痛みとなって体に異変が出る前に体にかぶれが出来て痒くなったりしたことは?」

「あ、あります。確か……甲斐の低地にて視察を行っていた際に水の深さを知ろうとしてからしばらくして」

 

 目を見開いてどうしてと訴える小幡をよそに龍兵衛はありがとうございますと頭を下げて立ち上がる。

 

「小幡殿、貴殿のおかげで甲斐の民が救われます。自分の推測が確信に至りました」

「さ、左様か。されど、真にあれだけのことで全てが?」

「はい。必ずや民を助け、彼らを豊かにすると約束しましょう」

「ありがたきこと……某の心も幾分か晴れ申した。安心して冥土に向かえます」

 

 龍兵衛は哀れむことも、黙り込むこともせずに頭を下げて素早く部屋を辞した。

 

「ちょっと、本当に大丈夫ですか?」

「ええ。これだけで自分は役目を果たせました」

「晶盛はどうなんです?」

「申し訳ありませんが、あと一月持てば良いでしょう」

「そんな……」

「伝えることは悪と思い、言いませんでした。病は気からとも言います」

「なるほど……」

 

 上手く誤魔化せたようだと龍兵衛は密かに胸を撫で下ろす。気分が良くなれば小幡も少しは活気が出てくるだろう。現に最後の方では彼の表情もだいぶ明るくなっているのを信廉は自身で見ていた。

 

「さて、病の根幹は分かりました。後は支度を整えて自分の方で甲斐に直接赴くとしましょう」

「やはり、甲斐の水に何かあるのですね?」

「ええ。先程の話で察したかと思いますが、厳密に言えば水ではありません……ある動物が原因です」

「動物……」

「蛍に触れれば腹が膨れる……」

「え……?」

「いえ。何でもありませんよ」

 

 龍兵衛は信廉と屋敷で別れると城へと戻り、謙信や兼続に掛け合い、甲斐へ出向くことを許してもらった。元々、行く予定だったのをその時期を早めてもらうことを願っただけなので、すんなり二人は許可をして、ちゃんと引き継ぎをしてからにしろと釘を刺された。

 それから文句を言われながら官兵衛に仕事を押し付けると逃げるように自分の屋敷に戻り、出立の支度をする。

 甲斐は上杉の領土になったとはいえ内では未だに敵対心を抱えている者もいる。

 

「誰か」

「はっ」

「段蔵を呼んで下さい」

 

 相変わらず抜けない敬語を躊躇わずに使う。自室に入ると必要そうな装備と資料を漁る。だが、それも数秒で終わった。

 

「呼んだ?」

「早いな」

「そりゃあ、訪ねようとしてたし」

「あっそ」

「呼んだくせにご挨拶だね」

「じゃあ本題。甲斐に行くことになったけど、信州と甲斐の者達の動きを探ってほしい。友好的か、敵となるか」

 

 色々と無視されて口を尖らせていた段蔵だが、依頼を聞くと表情が一変して厳しいものになった。

 

「お安い御用……と言いたいけど、かなり難しいよ。向こうは契約以上に武田への忠義を誓う人もいるし」

「とはいえ、これは軒猿の方の世界だ。俺達の入る余地があるのか?」

「まぁ、無いよね。信州で鍛えられた忍びは伊賀や甲賀に劣らず誇り高いと聞くし」

「だからこそ、お前の役目だろう? 忍びの誇りは忍びが一番良く分かっている」

 

 懇願するように言うと段蔵は諦めたように「はいはい」と頷く。部屋を出て行くのを見届けると龍兵衛は兼続の下へ向かう。

 屋敷に着くと本人が直接出てきた。こちらの姿を見ると彼女は物珍しそうに目を開く。

 

「お前から来るとはな」

「それだけのことだ」

 

 お互いの性格故か、仕事の内容もそうだが、龍兵衛は基本的に兼続と共に何かをすることはない。そのため、どちらかが屋敷を自ら訪ねることはかなり珍しいことだ。

 

「ならば、入れ」

 

 中に通されると兼続の自室に通される。華々しい物は一切無い質素な部屋だ。外には柿の木が生えているが、渋柿か食用か分からない。

 

「あれは食えるやつだ」

 

 そう言いながらも障子は閉められた。

 

「直江家がそこまで食うに困っているとは思えないがな」

「民のありがたみを皆に知ってもらうためだ。他にも柚子の木もある」

「家の者達にも質素であるように求めているのか」

「我らの財は決して豊かではないからな」

「何とかしているんだが。やはり金脈や越後の産物だけじゃあな」

「大名より得ているだろう」

 

 確かに上杉傘下の大名からは取れた年貢の一部や産物を買い取り、高く売ることはしている。しかし、それだけで上杉の財政は簡単には潤わない。

 龍兵衛は首を横に振り、「足りないよ」と言うと兼続も分かってくれたのか溜め息をつく。

 

「まぁ、だからこそ新たに得た上杉の領地の治安を良くしないといけないんだがな」

「……越前や加賀のことは任せると?」

「うん。少し甲斐に野暮用が出来た」

「表沙汰での治安を見ることは出来るが」

「ぜひとも全部やってくれないか? 多少荒くても良い」

「せっかく富樫の恐怖から解放されたのだぞ。秦から解放した劉邦のようにすべきでは」

「そうはいかん。あれは当分、あの地で戦が起きないと思っていたからこそ出来たこと。これから織田との戦が始まるという時にあまりに急激な変化は民を堕落させる。それに、他の国の民がどう思うかも分からん」

「変わらず統制を続けると?」

「信仰する対象が主家に変わるだけだ」

「ならば、我らの法令を遵守させると?」

「ああ、斎藤殿も既に了承している。残党だろうと上杉の兵だとしても狼藉を働く者がいれば容赦するなよ」

 

 そう締めると互いに無言になる。兼続は迷っているのだろう。慈悲を持って民を救うことは正しい。だが、龍兵衛の考える統制を持って人を律して治安を維持するのも必要なこと。

 

「別に統制ばかりするわけじゃない。ちゃんと施しを与えるさ。管仲のような」

「衣食住を豊かにするだけでは駄目ということか……分かった。お前のことを信じよう」

「済まない」

「しかし、施しを与えるほどの余裕はない」

「だからこそ金が必要だ。食料はまだ少しかかるがな」

「加賀は豊かな国。それで補うか」

「それは当然のことだ」

「他にあてがあると?」

「もちろん」

 

 龍兵衛は口元を吊り上げた。胸元から紙を取り出して兼続が読める方向に差し出す。

 

「ぼちぼち、直江津はもちろん東北の湊を復興させて交易にも力を入れようかと思っていてな。これを見せて謙信様にも概要だけは話してある」

「西国の毛利や大友と誼を結ぶ好機と見ているのか……博多は分かるが、堺の商人は無視出来んだろ」

「今あそこは織田が牛耳っている。下手な動きをして反感を買うのは良くない」

「だが、畿内に無関心は良くないだろ」

「だから本願寺残党と雑賀と伊賀に金を送っておいた。当分は持つ……はずだ」

「何だその自信の無さは」

「織田信長という武将は決断したらすぐ動く人間だ。それに付いていけるか……」

「それは……」

 

 言葉を濁すが、兼続も無理だと悟っているらしい。織田の意思伝達の早さは大名の中でも群を抜いている。それだけ信長の中央集権が進んでいる証だが、それ故の反感を買っているのも事実である。

 

「彼らに渡したのはせめてもの手向けだ。どうせやられるならせめてもの時間を稼いでもらった方がいいだろ」

「お前……」

「まぁ、堺には謙信様御用達の商人も何人かいるし、織田とも明らかな敵対関係でもない。情報を得て動くのが良い」

「話を逸らすな」

 

 正義感の強い兼続は利害関係の一致で動いている畿内の勢力を同盟関係と見ている。共に戦う仲間を死なせたくない気持ちが強く、たとえ負けても迎え入れるつもりなのだろう。

 

「お前の気持ちは分かるが、まだ俺たちは畿内に首を突っ込むわけにはいかない」

 

 目を吊り上げて睨んでくる彼女を嗜めるように龍兵衛は努めて穏やかな口調で話す。しかし、逆効果だったのか、さらに目つきが鋭くなった。

 

「お前の考えでは、上杉の義に背くことになる。助けているならば、救うべきだ」

「保護しろと?」

「ああ。本願寺も雑賀も伊賀も」

「顕如はもう降伏しようとしているから無理だ」

「だったら雑賀と伊賀を何とかしろ!」

「これから俺は甲斐に行くのに?」

「一緒にやれ!」

「えぇ……」

 

 無言の圧力で追い出されるように部屋を出る。兼続に手伝ってもらおうとしていたことが色々と崩れていってしまう。そもそも龍兵衛は織田と敵対している雑賀や伊賀を保護するつもりなど毛頭なかった。受け入れが発覚すれば、織田と対立するという態度が明白になる。

 北条がまだ健在な中で挟撃される形になるのは避けたい。

 織田に気付かれずに畿内の反織田勢力を支援する困難な仕事は軍師にしか頼めない。兼続はあの様子では駄目だろうし、官兵衛も他の仕事を押し付けたため、これ以上は頼めない。

 消去法でいえば颯馬だが、謙信と一緒にいる機会が多い彼に話す時に一緒にいられるとかなり面倒なことになりそうだ。

 後回しに出来れば良いが、今にも織田による反織田の掃討戦が始まろうとしている時に悠長なことはしていられない。

 

「花見なんか出来そうにもねぇな……」

 

 溜め息をつきながら龍兵衛は颯馬を探す。

 願いも虚しく颯馬は謙信といた。後で二人で話したいと言ったが、謙信の要望で三人いる中で話をすることになり、結局、畿内のことは助けられる者は全員助けるということになってしまった。

 颯馬は力を貸してくれると言っていたが、やはり自分でやらなければ不安になることも多くある。

 

(結局、自分でやった方が楽かな……)

 

 盛大な溜め息を吐きたいのを堪え、龍兵衛は颯馬にやってもらいたいことを夕方になるまで徹底的に教え込んだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

虫よ滅べ過去へ向けて

 甲斐という国は元々、豊かな土地ではなく、商売を行うにも山がちな地形のために武士達も田畑を自ら耕し、分かっていても増税を敷かなければ財務がままならない地である。

 信玄も先代信虎を追放して民に喜ばれていたとはいえ、税収を減らすわけにはいかず、畑仕事の無い冬に戦を行うことでどうにか不満を少なくさせていた。また、合議制を敷いて家臣や民が結託して反乱を起こさないようにし、漁業や寺社を保護するなど、民のためになる政治を行い、甲斐という国を一つにまとめ上げた。

 しかし、その信玄にさえ、諦めなければならない民の要望はいくつかあった。それは人であるが故、その国だから故というのがあった。

 

「うーん……」

 

 龍兵衛は田畑や用水路を見ながら腕を組む。知識を基に作り上げた越後の農業環境に比べて粗悪な環境であるのは否めない。だが、今はそれよりも人の命に関わることを見ている。

 後ろでは信廉が不安そうな表情でこちらを見ている。

 

「いかがでしょうか?」

「はっきりと確証は得られませんが、やはり、この水の中に原因がありますね」

「それでは、我らは作物を作れません」

 

 信廉の後ろに控えていた村の長が顔を青くする。この辺りで一番大きな村に協力してもらっているが、その割には随分と若く、龍兵衛よりも少し年上ぐらいに感じられる。

 彼らにとって作物を作るなというのは死ねと言うのも当然。龍兵衛は落ち着くように手で促す。

 

「厳密には水ではなくて、この水の中にいる生き物が原因です」

「生き物?」

「これです」

 

 首を傾げる信廉の前に龍兵衛は用水路に持ってきた菜箸を突っ込み、貝を一つ取り上げた。

 

「これが病の根源だと?」

「違います。この貝を依り代にしている虫が原因です」

「虫? こんな小さな貝の中に?」

「ええ。我々の目では捉えられないほどの小さな虫です」

「そんなものがいるなんて、信じられませぬ」

 

 村長が首を振って否定する。この頃、妖怪や幽霊でなければ、人の目に見えないものなど存在しないと思われていたのは常識だった。信廉も村長に同意だと頷いている。

 

「皆様はこの病を奇病であり、先祖の悪行が祟られた末路と言っているそうですが、残念ながらそんなことはこの世にありません。病には病になる理由があり、その原因となるものが必ずあるのです」

「だからといって、本当にそのような虫が……」

「いないと思うなら、長殿、今すぐこの水の中に入れば良い」

 

 有無を言わさずに村長を黙らせると龍兵衛は再び口を開く。

 

「虫は貝の中に住み着き、水の中を動いています。それ故に水の中に入ったり、飲んだりすることで体内に入り込みます」

「ちょっと待って下さい。飲んで、というのは分かりますが、触れただけで?」

「ええ。それがこの虫を最大の特徴と言えるでしょう。そして虫は体内でも生きていける力を持っていて、体の肝などに卵を生みます。その卵や返った子供が血の巡りを止めて、小幡殿のような状態にさせるのです」

 

 想像したのか二人の顔色が悪くなる。だが、説得力のある説明に納得したのか、曖昧に頷いてくれた。

 

「では、長殿。村の主だった方を集めて下さい皆に説明して、今後を話し合わなければ」

 

 第一段階は突破したと一息つく。しかし、これからさらに難しくなるのは必定。村長はかつて武田の家臣だったために分かることも多いが、これから相手にするのは生粋の農家である。どうやって自分達の利益に繋がるか、きちんと説明しなければならない。

 さらに龍兵衛を億劫にさせているのは仲間内にもある。

 虎綱春日がいることだ。

 どうも折り合いが悪いらしく、なかなか彼女は龍兵衛にだけ心を開いてくれない。颯馬や兼続に聞いてもそんなことは無いと笑って返されるので、明らかに嫌われているようだ。

 人付き合いがそこまで得意では無い龍兵衛にとって、上杉に忠誠を誓っているのであればそれで構わないと思っていた。しかし以前、春日山で信廉と話を合わせるために気にしている素振りを見せたのが悪かったのか、信廉は「良い機会ですから」と護衛で連れてきた。確かにまだ上杉の領地になったばかりの甲斐で武田の者たちがいるのは心強い。

 あくまでもかつてであって今は味方であればの話であるが。万が一に備えて龍兵衛も護衛として慶次を連れて来たが、水には絶対に足を踏み入れないと言って、すぐにどこかへ消えて行ってしまった。

 

「河田殿、如何しました?」

「いえ、少し考え事を」

 

 味方のことでとも言えずに誤魔化す。確かに今は味方のことばかり考えていられない。

 商人はこの辺りではなく、水を他から引いて暮らせば良い。

 問題は農民たちだ。彼らは否が応でも土に触れなければならない。死ぬ可能性の高い田に入りたくなくても糧を得なくては生きて行けない。

 

(はたして、どうなることか)

 

 龍兵衛は胸元に携えている書状を軽く握る。長の家はかなり大きく、周辺の村の代表が十数人以上、集まっても余裕のある部屋があった。

 中ではそれぞれの村のことについてあれこれと討議しているようで、一触即発の雰囲気となっている者達もいる。

 

「我らは皆と上手くやっているのですが……」

 

 申し訳無さそうにしている村長に大丈夫と軽く頭を下げる。そして、龍兵衛は先導しようとした村長を差し置いて襖を勢い良く広げた。

 乾いた音が部屋中に響き渡り、信廉達も中にいた者も呆然とこちらを見ている。周囲の反応をよそに龍兵衛はずかずかと中にいた者達の間をぬって一番の上座に座る。

 

「お忙しいところお呼び立てして申し訳ございません。皆様に説明をする河田と申します」

 

 連られるがままに中にいた者達は頭を下げ、その間に信廉達が龍兵衛の脇に控える。

 

「自分の方で色々と調べさせて頂きました。おかげで病の根源と対処法が分かりました」

「対処も何も、あれは先祖が悪さしたからかかるものじゃないねぇのか」

「そうだ。寺の坊さんも言うとったど」

「生憎ですが、この世にある病に祟りなどありません。そのお坊さんが言っていることもただの世迷い言。下らない戯れ言です」

 

 吐き捨てるように龍兵衛が言うと村の代表達は声を荒げ「嘘言うな!」とあちらこちらから反論を繰り出す。しかし、どれも祟りは本当にあるなど、龍兵衛にとっては馬鹿馬鹿しいものであった。しかし、この時代はそれが本当に信じられている。

 

「嘘であるならば、どうして皆様はこの場にいるのです? ここにはこの地での病は何故に起こるのか。を説明すると事前に周知させていたはずですが」

「そ、そりゃあ」

「貴方は先程から一番色々と言ってますが、何か祟りじゃないとまずいことでもあるのですか?」

「い、そんな訳あるか!」

「まぁ、そのことに今は目を瞑りましょう。それよりも、先程申し上げたように祟りはありません。皆様の働き次第で、病は根絶します。それとも、貴方は自分に病は祟りだと言って欲しいのですか?」

「……」

「説明するので黙っていて下さい」

 

 筋骨隆々の中年の農民が黙り込むのを見届けると龍兵衛は先に信廉達に説明したことを村の代表たちにも分かるようにかみ砕いて説明した。最初の内は半信半疑だった者達も、龍兵衛の説得力と力強い言葉に徐々に彼を信用するようになり、病の恐ろしさに顔を青くした。

 

「河田様の言うことは分かったが、水が無ければ作物は作れないのだぞ」

「実は自分もかつては田畑を耕していました。今も仕事の傍らにですけど、土に触れています」

「なら、どうすれば俺たちは救われるんだ?」

「簡単なことです……田を捨て、武人になりたい者はいないですか?」

 

 農民達にとって武人の身分になるということは税を払わずに威張り散らせる魅力的な身分である。しかし、その代わりに戦などで突然死ぬこともある。もちろん、彼らも徴兵されたことがあるのだからその恐ろしさは知っているだろう。

 龍兵衛は一人一人の顔をじっと見比べる。生粋の武人になれるかもしれないと顔を赤くしている人や、命と天秤にかけて眉間にしわを寄せている者も多くいる。

 しばらくの沈黙の中でそれを破らんと顔を上げた者がいた。先程、病は祟りだと抗議していた者だ。

 

「おらたちは田を捨てたくねぇ」

「つまるところ、死ぬのが怖い。と?」

「河田殿!」

 

 信廉の抗議も聞かず、龍兵衛は男に近付き、首を傾げる。そんなことはないと男は小さく呟いたが、目を逸らす。さらに逸らした方向へと顔を動かして無言の詰問を続ける。

 しばらくすると無言の空気が気まずくなったのか、観念したのか、男は諦めたように口を開く。

 

「そうだよ。戦でやられるぐらいなら病で死んだ方が良いだ」

「これから先は簡単に武人となって外に出ることは出来なくなりますよ。商人や工人になるのは結構ですが」

「そ、そんなこと誰が言った!?」

「上杉が治める国のあり方です」

 

 龍兵衛は国を発つ前に謙信や兼続達と綿密に話し合った上で、これから先は、武士と農民の区別をはっきりとさせて専業化を図る法令を発布させた。

 龍兵衛が春日山にいた頃は内々で決まっていたことなので、国中に出回るのは昨日だと兼続から二日前の内に書状が来ていた。

 

「ともかく、既に決まったことなのです。今の内に決めておいて良いかと思いますよ」

 

 皆にも伝えるように周りを見る。それぞれが表情を変えて揺らいでいるのが分かる。この貧しい甲斐で病や凶作に怯えて黙って生きていくのか、外に出て死と隣り合わせながらも最後の立身出世を夢見て動くのか。

 沈黙の中にいるはずなのに、皆の思考が頭から言葉になって聞こえてくるようだ。

 

「まぁ、正式なものが届くのはこれから先。それよりも今は、農地をどうするべきかです。当分は人足を借りますし、田畑にも正直、水路が安全になるまで入って欲しくないのですがね」

「それはあんまりじゃ」

 

 一番前の中央に座っている老人が弱々しく声を上げる。

 

「わしらは作物を作らんと生きていけん。作物を作る田畑に入るなとは死ねと言っているものだ」

「だからこそ、水路を安全にさせる工事を行い、田畑は別のものを与えます」

「そんなもの、どこにある?」

「一度、皆様の畑を借り上げます」

「わしらの命を奪う気か!?」

「人の話を最後まで聞きなさい!」

 

 突然の怒鳴り声に不意を突かれたのか、色めきだっていた部屋の雰囲気がぴしゃっと落ち着く。控えている信廉達も見たことない龍兵衛の態度に目を見開き、行く末を見守っている。

 

「これは皆様のためになるのです。今のやり方で駄目なら新たな作り方をすれば良い」

「だったら何でおらたちから畑を取り上げる?」

「皆様に病気で苦しんで死ぬのではなく、天寿を全うしてもらいたいからです」

 

 天寿という言葉が響いたかは知らないが、取りあえず農民達に意図は伝わったらしい。

 

「原因となっている水路や川から水を引いている畑の水を抜き、水田でなく、畑で採れる作物の種を蒔きます。形づくまで皆様の生活の保障は可能な限り致しましょう。そして、形づいた後に税としての徴収を再開致します」

「じゃあ、それまで年貢は?」

「代わりに人足を頼むことになるでしょうが、作物はいりません」

 

 優しい御方だと頭を下げる者もいれば、命と生活を天秤にかけてどうすべきか悩んでいる者もいる。その中で龍兵衛はしばらく時間を与えて考えさせている間に村長を議論の輪に入れ、信廉と虎綱を手招き、農民達と距離を取る。

 

「正直なことを言えば、農作物は五年十年でどうにかなるでしょうが、今の我らの力で病の根幹を絶つことは出来ません。おそらくあと、五百年は必要かと」

「五百……」

「……」

 

 小声ながら確固たる自信を持った言い方に二人は呆然としてしまう。農民達にこのことを伝えれば間違いなく田に残ると決め、何とかしろと声を上げる。

 

「申し訳ありませんが、病の原因を減らすことは出来ても根絶となると話が違ってきます故。何卒……口を閉ざして頂きたい」 

「……分かりました。未来の甲斐ために、私もこのことは秘しましょう」

 

 上に立つ者は何百年も先のことを考えて政策を行わなければならない。だが、民は今の生きていることで必死である。今の自分たちが利益が無いとなれば心からの協力など出来ない。

 水路の工事や人足で手を抜かれてしまえばいつ欠陥が見つかり、防げる病や事故で死ぬような人が現れるか分からない。

 貧しい甲斐を救うには国力を上げるだけでなく、守ることも必要である。上げようとすれば貧富に差が出る。守りすぎても、他国と遅れる。

 信玄が謙信に負けたのは国を強くしようとし過ぎたからだ。

 

「河田様……」

「これは長殿、いつから」

「今声をかけた時からです」

 

 先程の病のことは聞かれていないと安堵しつつ、耳を傾ける。後ろでは話し合いで盛り上がっていて、聞き取りにくい。

 

「私は武人に戻ることにします。病で死ぬよりは、夢がございます故」

「ありがたい。しかし、村のことは?」

「そこなのです。私の村は頑固な者が多い故になかなか米以外で何かを作るとなると説得が難しいのです」

「ああ。先程、自分が申したのは米の品種を変えたものではないですよ」 

「え……まさか……」

「田で獲る米ではなく、他のことで稼ぎませんか? と言ったのです」

 

 言い終えると口元を緩める。何を言っているのか悟った信廉と村長は驚き、龍兵衛を直視したまましばらく固まっていた。農民達は何が何だかと顔を見合わせあっている。

 

「つまりは、米を育てるのが難しいこの地で、他のものを作れば良いのです。上手くいけばこの作物で米よりも収穫が増え、税を納める負担も減ります」

「ですが、それでは……」

「長殿、確かに先程の作業と新たな作物を作るための畑の開発はかなりの時間を要するでしょう」

 

 龍兵衛は村長から視線を外して皆へと顔を向ける。村長と同じことを考えていたのか、表情は暗い。人足と一からの畑の作り直しには病に侵されている村々で対応は困難である。分かっているからこそと龍兵衛は大きく口を開いた。

 

「周辺の村から取る税を七割減らし、病に対する作業には上杉の兵を少しばかり派遣致しましょう。また、武人になりたい方達も無理に前線に出すのではなく、荷駄など後方で動いてもらえるようにはからいます」

 

 その発言に歓声が上がり、反対と訴えていた者など「村の皆に伝えてくる!」と飛び出していった。まだ確実に実行されるとは限らないと説明する雰囲気でもなく、龍兵衛は仕事が増えたと心で頭を抱える。

 

「河田様、真に感謝致します」

 

 後ろから声をかけてきた村長の声からも不安が消えている。民の不安を取り除き、生活を充実させるのは上に立つ者の役目だが、期待され続けるのも善し悪しがある。口にするわけにもいかず、龍兵衛は表情を変えないで頭だけ軽く下げる。

 

「皆様にはかなりの協力をして頂くことになります。感謝するのはこちらです」

「いえ。これまで奇病と恐れられた病を防ぐばかりか、かようなまでに慈悲のあるお心遣いをして頂き、真に嬉しゅうございまする」

「なら、長殿もわざわざ武人に戻ることもありますまい」

「いえ、実を申さば、拙者の家は代々武人でござった。しかし、父が……」

「……お気になさらず、姉はもう既にこの世にいません。また、私も上杉の下にいる身です」

 

 察していたが、やはり武田と因縁があるようだ。信廉の穏やかな表情に安堵した村長は彼女に向けていた視線をこちらに戻す。

 

「拙者の真の名は曽根孫次郎と申し、かつては……」

「え? まさか、曽根殿の……」

 

 龍兵衛は初めて虎綱の表情が変わったのを見た。それ以上にまさかの大物の出現に信廉も虎綱も目を丸くしている。

 

「左様。我が父はかつて御館様や信廉様の父君である信虎様の戦略に反対して勘気を被り、処断を恐れて出奔致しました」

「どうして、このような所に?」

「武田への忠誠を捨てきれなかった。拙者はそう考えております」

「私たちのせいで、辛い思いをさせてしまいましたね……」

「いえ……」

 

 信廉の表情を見て、龍兵衛は沈黙をあえて破った。

 

「曽根殿の父君はもしかしたら、信玄殿と信廉殿の処遇を巡った上での対立したのでは?」

 

 龍兵衛の声を聞いて、虎綱は表情を再び無にし、信廉は息を呑んだ。龍兵衛が戸惑う信廉の目を真っ直ぐ見ると彼女は曽根と龍兵衛を見比べながら唇を軽く噛む。

 

「先程、武田は上杉に降ったと仰ったのは信廉殿ですよ」

「そう、ですね。なら、迷うこともありません」

 

 背中を押すと信廉は曽根に向かって頭を下げた。突然のことに曽根も虎綱も目を見開き、頭を下げられた本人は目を白黒させている。

 

「如何されたのです? 拙者如きに」

「孫次郎には詫びねばなりませんが、なかなか難しいのです。ですが、河田殿が背中を押してくれました」

「されど、それは……」

「貴方の父、曽根三河守は私たちの内、どちらかを殺すように最後まで父上に訴えていたそうなのです」

「なっ……」

 

 曽根の表情が歪む。彼としてはこちらが害を受けた身としてそこにつけ込み、再び武田に仕えて父が果たせなかった忠義を成そうとしたのだろう。だが実際には、曽根の父は信廉にとって命を奪おうとした仇敵であり、おいそれと取り入れるわけではなかった。

 

「ですが、それはあくまでも貴方の父のこと。今更、何を問うべきでしょうか」

「では……」

「正式な帰参は謙信殿を通すことになるでしょう。しかし、必ずや戻れる支度を整えていて下さい」

 

 曽根は幾度も頭を下げて信廉に礼を述べる。どうやら、龍兵衛が思っている以上に曽根は純粋な男らしい。真っ直ぐにただ信廉を見る目は確かな忠義の者だ。第三者の目から見るその様は実に微笑ましい。 

 

「河田様。よろしいですか」

 

 口元をひくつかせていた龍兵衛は再び一文字に戻して村の代表達の方を見る。

 

「何でしょう?」

「やはり、俺達だけじゃ、決めらんねぇから村に持ち帰るだ」

「構いません。派遣する代官に伝えて下さい。それからすぐに動きましょう」

「ありがとうございます!」

 

 嬉しそうな目で皆が一斉に頭を下げてくる。龍兵衛は一通り頷いてみせると皆の顔が上がったと同時に腰を上げた。

 

「河田殿、如何致しました?」

「いえ……少し外に出てきます……」

 

 信廉が声をかけてきたが、それをかわして外に出る。先程まで東にあった太陽が、既に南の頂点を超えて西に動き始めている。

 

(今日はここに泊まらずに済みそうだな)

 

 議論が白熱すれば、と考えていたが、思ったよりも皆が理解してくれた。

 龍兵衛は心で嬉しいと思いながらも、裏に隠れて壁にもたれかかった。そして、誰もいないと確認すると盛大な溜め息をつき、持ってきた水筒の水を一気に飲んだ。

 また、人知れずに龍兵衛は自分の負担を増やした。怨嗟などの負の感情の方がまだ良かった。はっきりしない穏やかな尊敬の念を持たれた。これほど軍師となって辛くなったものはない。彼は兼続や颯馬のように義を掲げて頭を下げたり、正しいことを行う軍師ではない。

 大義や上杉のためには邪魔になる者を容赦なく粛清し、ただ冷徹に汚れた仕事を行う。しかし、かつて生きた世の中で一人の民として生きた彼はその頃の自分よりみすぼらしい生活をしている民を無視することも出来なかった。

 自分は嫌われ者に徹して成したいこと成す者の支えになるつもりだった。だから、このことを知っていても無視しようとしたが、信廉や甘利のすがる目には勝てなかった。

 未来で待つ者達の手柄を奪うようなことはしたくない。しかし、政を司る身として目の前の人を見捨てるわけにもいかない。たとえそれが日ノ本の一部だけの民だとしてもだ。

 

「甘いな……」

 

 垂れた水を拭う。拭いきれなかった水が地面に落ちて、土の色を黒くする。足でかき消すと気持ちを落ち着かせるように何度も深呼吸をする。

 

「早く越後に帰ろ」

 

 そう呟いて、屋敷へと戻った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

お姉さんは心配性

 春日山はにわかに騒ぎ立っていた。

 武田、一向一揆のことが片付き、後は織田と戦う前に北条、今川をどう倒すかという大事な時、慶次が突如としてしばらくの間、暇を乞いたいと言い出してきたのだ。

 まさか織田に戻り、上杉と敵対するつもりか、と噂になったが、慶次が頑なにそれは違うと真面目な口調で言ったため、表立って口にする者はいなくなった。しかし、疑っている者は少なくないだろう。疑いを晴らすために慶次は正式な出奔を伝える前に様々な人のところに訪れることにしたらしい。

 

「……何で俺の所に最初に?」

 

 龍兵衛は淹れた飲み物を慶次の前に放り投げる。温いお湯が少し畳に零れた。

 

「やっぱり、こういうのは近いところから堀を埋めていくのが普通よぉ」

「だから、何でそれが俺なんだよ」  

「えぇ~だってぇ……」

 

 身体を前に傾けさせて知らない人なら色気で顔を赤くするであろう体勢で龍兵衛の隣に隙間も無い程にくっ付く。顔が赤く若干わざとらしいが、息遣いも荒い。

 

「裸の付き合いをした仲じゃなぁい」

「あれをそう言うと、お前が変態と言ってるようなもんだぞ」

「もぅ。誰がそうしたのよぉ」

「誰でしょうねぇ?」 

「じゃあ、あたしがばらしても文句無いわよねぇ?」

「それとこれとは話が別。そもそも、今の状況でお前にばらされたところで俺が不利益を被ることなどない」

 

 わざと当てていた胸を外すと慶次はつれないと口を尖らせる。しかし、ここで脅しに乗るような龍兵衛ではない。

 

「やっぱり出て行くのは、駄目なの?」

「当たり前だ」

 

 武田や一向一揆との戦は、戦自体は少なかったとはいえ、激戦が多かった為、将兵の消耗が激しく、立て直しを計るには時間がかかる。あっさりとここで慶次を手放すのは上杉にとって不利益以外の何ものでもない。

 とはいえ、慶次もその状況を把握出来ないほど、馬鹿ではない。今でなければならない理由を尋ねると、彼女は視線を逸らしながら口を開く。

 

「んー……何だかぁ、たまには羽を伸ばしたいってゆうかぁ? 京も大分変わったみたいだし、藤っちにも久々に会ってみたいしね」

 

 何故か、慶次は堅物であると噂の細川藤孝とは妙に波長が合うらしく、今でも書状でやり取りをしているらしい。だが、今の都は羽を伸ばせるような状況ではなく、細川ら旧幕臣も離散していて藤孝も織田に仕えて、京にいるかは定かではない。

 

「心配するのが友達ってやつよぉ」 

「その心は?」

「京にある闇を見たい。出来ることならなるべく除いておく」

 

 滑稽に真剣が返ってきた。慶次の本気であることは真っ直ぐこちらを見てくる目で分かる。おそらくは身の丈以上の危険を踏むことは無いだろう。しかし、慶次は武人であって影で動くことは好まないはず。

 

「止めとけ。触らぬ神に祟りなしだ」

「あたしだって触れたくないわよぉ」

「じゃあ、行くな」

「あらぁ、心配してくれるのぉ? 嬉しいわぁ」

 

 途端にわざとらしくなる慶次を白い目で見ながらも龍兵衛は首を傾げる。今の状況で自身がいなくなるのは上杉にとって得策では無いこと自体、慶次も知っているだろう。京のことはわざわざこちらから派遣せずとも謙信公認の者がいる。

 織田が京に勢力を伸ばしている為、そろそろ越後に戻すべきではないかという意見もある。だから。慶次を内密に派遣するのはどうかとも思う。

 ましてや彼女は織田に顔を知られていて京の者達とも面識がある。ましてやこれから上杉にとって、北条に対する大事な時だというのに、払う損失と返ってくる利益がまるで釣り合わない。

 

「本当に、戻ってくるのか?」

「もちろん」

 

 真剣な表情で即答したところを見ると大丈夫だろう。

 

「期間はどれぐらいを予定している?」

「んー……だいたい一年ぐらい?」

「謙信様と颯馬の子供には?」

「来れたらぁ、みたいな?」

 

 目を泳がせながら返答をした慶次は何かに気付いたようで龍兵衛に近付いて耳元で尋ねる。

 

「そもそも赤ちゃん出来てんの?」

「まだだ……たぶん」

 

 素っ気ない返事にずっこける慶次を見て少しは期待していたのかと龍兵衛は悪いと心の中で一分思いながらも残る九割九分は慶次を騙したことに対する嬉しさで支配された。

 

「そう言うのは出来てから言うものでしょうに」

「あの感じだといつ出来てもおかしくないだろ?」

 

 確かにそうかもしれないと慶次は頷く。

 

「ま、気が向いたら戻ってくるんだな」

「そうねぇ」

 

 考える間もなく返事をしたところから察するに、間違いなく興味本意でふらりとまた戻って来るだろう。

 謙信と颯馬については、上杉領内に潜む一向一揆は織田という本願寺を圧倒する勢力が現れてずっと大人しく、憂うのは織田だけになっている。当の織田は将軍家と手を組んだ中国の毛利や同盟を反故し、三好と手を組んだ四国の長宗我部と戦を行わんと支度している。

 仕込むなら今だと龍兵衛は慶次や親憲と共にけしかけていたが、なかなか出来ないのが現状で颯馬が他の女に手を出し過ぎて子種が無くなったのではないかと噂していることもある。

 

「ちなみに、そういうことってあり得るの?」

「無い。単純に互いの相性の問題。そもそも、その……あれだ……」

「中に仕込んでるかも見るわけにはいかないからねえ」

「その通り」

「もっとけしかけるしかないわねぇ」

 

 互いに溜め息が出る。一応、その辺りの知識も持っている龍兵衛からすれば、どちらかの体に問題が無ければ良いと願うだけだ。しかし、ここはその作戦を立てる場所ではない。龍兵衛は手を叩いて、場を引き締める。

 

「話が逸れた。実は朝廷から謙信様に参内するようにと密かに使いが来ているんだ」

 

 声を潜ませると慶次は目を見開いてから、真剣な表情になる。

 

「その護衛をあたしが?」

「京の事に明るくて、人脈があるからな」

「何か企んでるでしょ?」

「まさか、将軍家から自分の家を守る為に織田に不承不承鞍替えした人達の説得を手伝えなんてこれっぽっちも……あ、口に出てた」

「……わざとでしょ」

 

 織田に降った細川や明智との連絡も自身を繋いでということになるだろう。悟った途端に面倒くさいと慶次は口を尖らせる。 人からやらさせるからそう思うのだろう。どの道危険なことをしようとしているのだから、変わらないと思うが、慶次の気分を読んで、あえて言わないでおく。

 

「危険な仕事なのは承知している。でも、謙信様の護衛も兼ねて、な」

「それにしても、何で今なのかしらねぇ」

「京が平穏になるからだろ」

「え?」

「織田にとって第二の大拠点である京が平穏になる。つまりは、他国に目を向けられて織田による天下が広がるのが怖いんだろ」

「自分たちの住む所を、また廃れさせてまで?」

「よっぽど朝廷に嫌われているんじゃないか? 織田家は」

「ま……誰かに頭を下げるような性格じゃないからねぇ」

「だからこそ、謙信様が非公式に会うと知られれば面倒だろ? ここは一つ、頼まれてくれ」

 

 頼むと龍兵衛は深々と頭を下げる。しかし、頼まれた側の反応はどこか得心が行っていないようで首を捻っている。

 

「まぁ、けんけんの護衛になるのは納得。だけど、けんけんも向こうだと何かと縛り付けられるのよぉ。あたしだけっていう訳じゃ……」

「行くのは俺と颯馬だけだった」

「……誰がそう言ったの?」

「本庄殿だ」

 

 

 

 二日前、龍兵衛は本庄実乃の屋敷を訪れていた。

 外見は雪の如き白さを誇る美しい髪にとても四十路とは思えない若々しい顔つきと引き締まった身体。仕草は雅で、なまじの男であれば誰もが求愛行動に出るだろう。

 彼女はそれだけに止まらず、かつては謙信に軍学を教え込む程に兵法にも長けた存在として上杉家全体の信望も篤い。

 それが本庄実乃という人物の姿である。

 かつて家臣を取り仕切っていた定満亡き後、家中の混乱が無かったのは実乃の影の働きかけによるものが大きい。 

 定満の死を知った実乃はすかさず、越後の上杉家直臣や親憲といった忠誠心に間違いがない者達に密書を送り、警戒すべき者を徹底的に監視するようにと厳重に命じ、春日山城にいた楊北衆や陪臣をほぼ軟禁に近い状態にしてその動向を確認させた。

 中には不満を持って実及に訴えて来る者もいたが、かれらに対して彼女は笑みを浮かべた。

 

「不満があるということは謙信様に逆らおうとしているのかしら?」

 

 実及はあえて冷徹な女を演じて反発する勢力を事を起こさせずに黙らせた。その時の活躍を他の者達は春日山に残っていた者達から聞き、実及に畏怖の念を抱いた。

 兼続達、直臣はさらに実乃を尊敬し、筆頭家老の地位は彼女によって引き継がれるのだと確信した。

 そして、引き継がれた筆頭家老の業務を実乃は彼女のやり方で忠実にこなした。定満のようにあれやこれやと自らも先頭に立つのではなく、あくまでも現場は見つつも自らは手を下さずに各々の思う通りに行わせる。

 結果として上杉が長年抱えていた謙信や景勝がいて、初めて動けるようになるという課題を解決出来た。

 見えないところでの功績は恐らく自身よりも遥かに大きいだろう。龍兵衛は彼女のことを定満以上に恐れていた。

 龍兵衛は実及に呼ばれ、彼女の部屋にやってきていた。普段、彼女が人を呼ぶことは滅多に無い。あるとすれば、それは言うのも憚れること。

 しかし、緊張感を持って部屋を訪れた龍兵衛とは裏腹に、実及は特に重要な話をする訳でもなく、のんびりと茶を勧め、今、話しても仕方無い話を始めた。

 

「最近、前田殿が出る出ないと騒いでいるみたいね」

 

 子供を癒やすような穏やかで、包容力のある口調。のほほんとした定満とは違い、奉行職らしい時間を無駄にしない性格が表れている少し早口気味の話し方だが、決して人を焦らせる気持ちにはさせない。そういう独特さを持っているからこそ、現場主義の上杉の中でも筆頭としていられるのかもしれない。

 

「止めるつもりです」

「損失は計り知れないからね」

 

 実乃は宙で算盤を弾くように指を動かす。使い方すら分からない龍兵衛はどういった計算方法で答えを導いているのか分からない。

 

「甲斐の方はどう? 上手く治められそう?」

「自分はあくまでも病を抑え、野菜や果樹を育てるように促しただけです。後は颯馬を筆頭に、信州の者達次第かと」

「そうね。じゃあ、加賀はどうなの?」

「如何せん、民達が心を掴ませてくれません。厳密に申せば、掴む心も無いと言えばよろしいでしょうか」

「働いてはくれるのね?」

「ええ、言えば」

「言えば」

「ええ」

 

 実乃は話題を切り替えるために短く息を吐く。いよいよ本題かと龍兵衛は身構えた。

 

「ところで、大熊はどうなったの?」

「武田の館で遺体を見つけたと。颯馬が言ってましたが」

「そう……なら良かったわ」

 

 心から嬉しそうな表情を浮かべている。同じ奉行職上がりとして実乃と元上杉家臣の大熊朝秀は反りが合わず、事あるごとに対立していた。

 余程の何かがあったのだろう。普段から家臣同士の仲には気を配る彼女が最後まで取り合わなかったのだから。

 

「ところで、最近の謙信様のご様子を、貴方はどう見る?」

 

 無理やり話の流れを変えたところを見るとやはり何かあるのだろう。しかし、あえてここで聞こうとする理由も勇気も無いため、流されることにした。

 

「すこぶる壮健かと」

「違うわ。颯馬との関係のことよ」

 

 最初から一言付け加えろと思いつつ「はぁ……」と曖昧な返事を返す。

 

「最近、謙信様も颯馬により執心のご様子。あれなら、今が内に京に上る密命を実行するのが得策でしょう」

「確かに……されどこれ以上、上杉が大きくなるのを織田や北条が黙っているとは思えません。近々動くことになるのでは?」

「北条はもう虫の息。織田も今は西に執着しているわ」

「織田に知られぬようにするのは、至難です」

「私達がどれだけ強化しても入り込んでくる間者がいるじゃない」

 

 かつての武田や一向一揆の国境と同様に、加賀や上野との境は徹底的した規制を敷いている。それでも、何としても情報を持ち帰りたいとすり抜けてくる輩がいる。しかし、それは裏を返して同じことも言える、と言いたいのだろう。

 危険だと龍兵衛は首を横に振って否定する。一方の実乃はまだ微笑みを浮かべている。

 

「だから、謙信様には船で若狭に下りてもらってそこから近畿の豪族を通じて京に行ってもらうわ」

「……早くそれを言って下さい」

 

 龍兵衛は溜め息を吐いた後、彼女から出たかなり重要な言葉を思い出したて、目を見開く。

 

「というより、京に上洛など、初めて聞きましたよ」

「ええ。まだ皆には言ってないから」

 

 怒りを拳に堪えさせる。叩けば畳を通り越して床を軋ませることが出来るのではないか。どうにか心を落ち着かせると龍兵衛は溜まっていたものを口から息にして一気に吐き出す。

 

「で、それはいつ頃来た話です?」

「昨日ね。今回は幕府じゃなくて朝廷からだけど」

「何故に帝が?」

「さぁ、織田が気に食わないからでしょう。暦を決める権限も取られそうみたいだし」

 

 曖昧な返事しか出来ない。龍兵衛にとって暦は天皇が死んでから初めて変わる世界で生きてきた。無論、この頃は暦には意味があって、不吉なことが起きれば変えるのが当たり前なのは知っている。つまり、暦を決めることは日ノ本の行く末を定める上で、非常に大切なのだ。

 

「朝廷からの要件は?」

「会ってから話す。そうくどいように書いてあったわ」

「必ず来い。ということか……」

「ええ。成功させないと駄目なのよ」

 

 龍兵衛は黙って深々と頭を下げる。他人事みたいに話しているが、彼女はきちんと手筈は整えてくれているのだろう。船から信頼出来る船頭の確保。航路の確認など、全て丸投げにはせずにきちんと練ってくれる。それが実乃だ。

 

「潜入といえば……この前、また一向一揆絡みのことがあったのよね?」

「……何のことです?」

「知らないの? それでも謙信様から西の役目を承っているわね」

「……どなたかが自分への情報を妨害しているようなので」

「あら、邪な奴がいるのね」

 

 さも自分がやったと言わんばかりのわざとらしい言動。舌打ちしたいのを必死に堪える。

 仕方ないからと教えてくれた情報に龍兵衛は眉間にしわを寄せた。本願寺の援助が絶望的になった一向一揆が残党を率いて能登で城を攻めようと画策しているというものだった。

 

「さて、どうするの?」

「決まっています。徹底的に叩き潰すだけです」

「そうね。じゃあ、誰を派遣するの?」

「吉江親子殿と竹俣殿が適任だと思いますが?」

「適任ね。でも、景資殿は京に連れて行くのが良いんじゃない?」

「人のものとなった京に連れて行くことは望みません」

「あら、優しいのね。でも、いざという時に役に立つかもしれないわ」

「では、景資殿の代わりには……」

「斎藤で良いでしょう」

「鶏に牛刀ですか」

「徹底的に潰すべき。と言ったのは貴方よ」

「それは、まぁ……」

 

 真剣な目をしていた実乃は口を噤んだ龍兵衛を見て、微笑みに変えた。面白がっていたのだ。

 

「でも、確かに斎藤は別に加賀のこともやってもらうからね。柿崎や甘粕にも辺りにもそろそろ功を立てる機会を与えましょう」

「確かに。今回は留守居で苛々してましたから、丁度良いかと」

「よろしい。じゃあ、京のことについてはよろしくね。ちゃんと謙信様を守るのよ」

「……はい?」

 

 自分はあくまでも情報を集めて選別し、護衛として向かうのは別の者だと思っていた。しかし、今の物言いはまるで龍兵衛自身も謙信に付いて行くようにと言っていた。

 

「後のことは兼続に任せなさい。将来は上杉を支える一番の柱になってもらうからね。良い経験でしょう」

「お待ち下さい。何故に、自分が行かねばならないのですか? 護衛としては力不足でしょう」

「いえ、必要なのよ。貴方には、他のことをやってもらうから」

「他のこと?」

「織田を内部から裂きなさい」

「……謙信様には?」

「もちろん内緒」

「失敗した場合は?」

「無理しないで良いわ。もちろん、生きて帰れる状況ならね」

 

 龍兵衛の眉間のしわが限界まで寄せられる。織田が畿内で様々な敵に当たりながらも生き延びて、大きくなったのはそれだけ内部の統制がしっかりしているからだ。最近では、本拠を安土に変えて本格的な天下統一に乗り出そうと部隊編成に勤しんでいるらしい。その状況下で、第二の拠点である京の警備を厳重にしないはずがない。そのような時に京を混乱させて織田を動けなくする役目の危険性を考えれば、龍兵衛が実乃からどう見られているか、すぐに分かる。

 

「捨て駒ですか……」

「どうとでも捉えて良いわ。だけど、貴方にだって原因はあるのよ」

「自分にも?」

「分からない?」

「ええ」

「だから自分のあるべき様に気付けないのよ」

 

 唇を噛む。手痛い言葉の一撃は拳骨よりも効き目があった。

 

「家臣達の中には貴方を疑う者が多くいるわ。それが上杉家中なら良かったんだけど、最近だと少し変わった噂が流れてるからね」

「噂……?」

「今教えるのは貴方のためじゃないわ」

 

 表情に余裕が無くなってきたのが自分でも分かる。他家からも疑惑の目を持たれているということは知らなかった。実乃はおそらく龍兵衛が危険な役目をきちんとこなして忠誠を誓っていると思わせる機会を作ってくれた。しかし、他家からも疑念の目を向けられている理由を教えてくれないまま役目を与えた。まるで龍兵衛のいない間に何かを行うかのように。

 

「本庄殿、一つ尋ねたいことがあります」

「何?」

「貴方は自分が嫌いなのですか? ……大熊殿のような」

 

 龍兵衛の真剣な表情で聞いてくる問いに実及はころころと笑い、それから首を横に振った。

 

「貴方は奴じゃないわ」

 

 笑っている彼女の目は鋭く龍兵衛を睨んでいる。その名前を出すこと自体がろくなことにならないと改めて知らされる。

 

「もちろん、味方よ。ま……」

 

 可愛らしく小首を曲げて実及は満面の笑みを浮かべる。

 

「ちょっと心配性なだけだから。ね?」

 

 にこりと微笑む実及は定満のように赤子をあやすような包容力では無く、大人の妖艶な雰囲気を露わにさせてくる。

 それで雄の欲情が出る程、やわな龍兵衛ではない。しかし、魅せられていた。実乃から滲み出てくる恐怖という毒に。背筋が凍るほどの笑みの裏にある恐ろしい邪気と疑惑の目。

 普通の人であれば泡を吹いて気絶していたかもしれない。幾重にもある刀が周囲に張り巡らされているかのような居づらくも動けない緊張感と恐怖がこの部屋を支配する。どうにか離れることによって彼女の恐怖を脱した龍兵衛は緊張のあまり止まっていた息を整える為、二度、深呼吸をする。

 一瞬得た解放感は、固まっていた頭を再び動かした。反動が働いたかのように、龍兵衛は思わず「あ……」と声を漏らした。

 

「まさか、自分が今まで政治が得手であるというのに戦が始まると出陣するようになっていたのは……」

「ご明察。人の心には不安というものがあるのよ。それを排除して戦に存分に集中出来るようにする。それが、私の役目」

 

 しだれ掛かる実乃の般若の如き表情と冷徹な言葉に龍兵衛はぞくりと背筋が凍った。

 定満の後、上杉の調整役は実乃に任せられている。決して実及も定満同様に酷薄な人物ではないが、私情で味方を許すような人物ではない。いざという時は斬り捨てることも辞さない。

 

「性格だけじゃない。あなたの場合は発案が新しい過ぎて付いていけない時もある。その時、いつも私と斎藤よ。あなたが根回し出来ないところを動かしてあげているのは」

 

 龍兵衛は分かっていると力無く頷く。龍兵衛の内情を知らず、長らく上杉を支えてきた実乃は彼のことを兼続達のように心を許してはいない。動いているのはただ、上杉のためになると合理的に見ただけだ。

 そう悟った時、額から汗がたらたらと流れ落ちている。今まで戦に彼が駆り出されていたのは国内に火種を置いておくことを防ぐ為であった。ならばと龍兵衛は浮かんできた疑問を実及にぶつけた。

 

「では、此度のことは何故に? 謙信様が京へと内密に向かうということは端から見れば明らかに自分は疑われます」

「ええ。でも、無事に生き延びれば私も貴方を認めざるを得ない」

 

 龍兵衛の額のしわが動く。これは実乃から課せられた最後の試練だ。

 無事に何事も無く終われば何も起きずに平穏に済む。だが、何かがあれば分からない。京という地はかつて吉江景資が言っていたように何があるのか分からない。

 実乃を含めて上杉の者全員が承知の上で謙信が京へと望むのは、不安を抱かざるを得ない。その中での護衛は最大の好機と言える。実乃が認めれば、上杉の者達もそれに従う。

 

「……分かりました。認めさせましょう」

「期待しているわ。後ろのことは私も動くし、こっちは朝信達に任せておけば。無事に帰ってくれば手土産が待っているし、大丈夫。何か讒言する人は私や朝信が何とかするから」

「……御意」

 

 上辺だけの応援されたが、龍兵衛の心は晴れない。妖艶な笑みの裏にある実及の裏にある恐ろしい狡猾さに気付いたからだけではない。

 いよいよ本当の命の危険を味わっている。幸いにも未だに実及が龍兵衛自身のことを少しは信じている為、手を出さないと言ってくれた。

 だが、実及が自身を信用出来なくなったら。

 

(間違いなく、やられる……)

 

 死というものを何よりも嫌っている龍兵衛は死なないようにと露払いや根回しを慎重に行ってきた。

 だが、実乃はそれら全ての根回しを上から叩き潰す程の力を持っている。如何に声高に叫んでも龍兵衛には敗れる道しか残されていない。

 

「お聞きしたいことが二つあります」

「なにかしら?」

「斎藤殿は、何と?」

「彼はあなたを気に入っているから大丈夫よ」

 

 安堵したと肩の力を抜く。斎藤とは一向一揆との戦い以来、あまり会う機会がない。事情を説明しなければと思ったが、本当なら大丈夫だろう。あくまでも、実乃が事実を言っているならば、だが。

 

「では、もう一つ。必ずや謙信様を無事に春日山城へと……それで自分は疑われなくなりますか?」

「どうかしらねぇ。あなた、人の噂には敏いけど自分の噂には鈍いでしょう?」

 

 そのようなことは無いと否定したくなった。しかし、思い返せば今までの自分に対する悪い噂は自身がかぎ取った訳ではなく、偶然聞いてしまったというのが多い。

 龍兵衛が口を噤んで黙っていると実乃は仕方ないと溜め息をついた。

 

「定満が死んだ時、あなたが政景殿を殺したって噂があったのは……引きつった表情、知っているみたいね」

 

 実乃の口が三日月を描く。知っていることを頷いただけだが、何が面白いのか龍兵衛には検討が付かない。疑問をよそに彼女は右手の人差し指を立てた。 

 

「じゃあ、これはどう? 定満を口封じに殺したという噂は?」

「……えっ?」

「知らないって反応ね。まぁ、仕方ないわ。その噂、広めたのは黒川よ」

 

 最初に聞いた時には脳天を撃ち抜かれたような衝撃を受けたが、相手を聞いて、さすがに舌打ちが出た。

 

「……ただの嫉妬じゃないですか」

「そうね。でも、それが人ってものよ」

 

 剥き出しの負の感情を晒すことが許される乱世だからこそ人は今が好機と邪魔者を排そうとする。念の為にと龍兵衛は実乃に黒川が相変わらず、上杉に抗おうとしているのか尋ねる。実乃が首を横に振ったのを見て、安心出来た。

 ただ意地の悪いところはなかなか変えられないようだ。恥をかかされた恨みを晴らさんとここにきて躍起になっているようだ。ちょうど上洛命令を受けた時に限って動くのは、鼻が聞いているからだろうか。

 

「その噂……信じているのですか?」

「貴方にやられるほど、定満はやわじゃないことぐらい知ってるわ。でもね、ただあの時に政景殿と死する価値があったのか……そう思うのよ」

 

 価値があるかは、人それぞれだろう。しかし、分かっていても言いたくなるのが実乃が定満のいなくなったことへの悔しさの表れなのだろう。

 

「噂は事実無根です。黒川のことはきちっと謙信様にも報告します。話が終わりなら、自分はこれで失礼させて頂きますが?」

 

 戦友を偲んでいるのは分かる。しかし、元々居づらかったこの部屋から早く逃げ出したかった龍兵衛にとっては好都合でしかなかった。そもそも実乃の部屋に長居することほど、珍しいことはない。おそらく後で兼続辺りから質問攻めに遭うだろう。

 返答も待たずに外へ出ようと痺れそうになっている膝を立てた時、実乃の目が見開かれて龍兵衛の目を射貫いた。若干血走って赤く見える眼から動くなと言われなくても伝わってくる気を感じる。

 たじろぐ龍兵衛を「大事なことを忘れてた」と顎で再び座るように促す。素早く言われた通りにすると実乃は表情を元の穏やかなものに戻した。

 

「そう言えば。この前、織田軍が越前と伊賀の一揆を完全に滅ぼした話はしたよね?」

「えっ? ええ……」

 

 胸を撫で下ろすのも束の間、生返事で返す。越前の一揆、伊賀の国の抵抗はどちらとも、頑強だったらしく、怒った信長は徹底的な弾圧を命じたらしい。

 そのことが何だと思っていると耳を貸して欲しいと実及は手招きをする。

 ふっ、と耳元で軽く息を吹きかけてきた。驚いて身体を震わせる龍兵衛の反応を面白がってから実及は「残念な報せかもしれないけど……」と本題に入る。

 

「……はい?」

 

 全て聞き終えた時、間の抜けた龍兵衛の声が部屋に響いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

自分の手を

 実乃の屋敷から戻った龍兵衛は、即座に官兵衛の下に走った。到着するや否や何だ何だと顔を覗いてくる。官兵衛を屋敷の中で、と押し戻して襖を閉めて事情を話す。全て実乃から伝え聞いたことだが、と前置きをしてから話した内容に官兵衛は徐々に目を丸くし、最後には一通り戻って無になった。

 それからしばらくして、二人は腑抜けた表情で屋敷の縁側に座っていた。

 

「何でですかねぇ……」

「ねぇ……」

 

 再び沈黙が訪れる。秋の風が枝を鳴らし、夏を忘れさせる心地良さがある。残念なことに二人にそれを味わう気が一切無い。出された茶も手を付けていない為、すっかり冷めてしまった。

 

「まさか、ねぇ……」

「冷静に考えれば仕方ないけどね……」

「先を越された感じでどうもやるせないですが」

「まぁ、半兵衛ちゃんだって好機と見てやったんだからね」

 

 事情があるのは分かる。しかし、龍兵衛のため息は止まらない。かく言う官兵衛も魂が抜けたような表情を続けている。

 実乃からもたらせた情報は、井上道勝が信長からの不興を買い、処刑されたというものだった。原因は一向一揆に加担していただのと色々と噂されている。しかし、実際にはおそらく斎藤の者たちが好機と見て一斉に動いたのだろう。

 巷では井上は斎藤の血を引く唯一の生き残りとして、懸命に戦う人格者として名が通っている。

 おそらく実乃はそれを信じて、龍兵衛に残念な報せとして伝えて面白がりたかったのだろう。それは微妙に合っていて、違うことだと知らずに。

 

「いたかったなぁ……」

「ほんとですよ」

 

 これまで何度も罪を重ねてきた者だから美濃にいれないのは当然である。それでも、龍兵衛と官兵衛はそこに加われなかったことが悔しいのだ。

 井上を倒すことは斎藤のお家騒動を知っている者達にとって悲願であった。主の娘、義龍を脅して黙らせ、彼女の弟である龍興を織田から離反させて殺した。

 勢いのままに義龍を殺すのかと思っていたが、井上はそれをしなかった。理由は定かではない。しかし、彼女は上りつめることをそこで止めてしまった。おそらく人を操ることに味を占め、快感を得るようになったからだろう。

 その隙を半兵衛が逃すはずがなかった。昵懇の秀吉を通じて井上が斎藤を乗っ取ろうとしていると信長に訴え、毛利や足利に宛てた内通をするという偽の書状を作り上げた。

 信頼していた信長の怒りは凄まじく、弁明の余地すら与えてなかった。進退窮まった井上は半兵衛や稲葉一鉄に指示をして、やむを得ずに一向一揆に寝返り、その智勇を貸すように命じた。しかし、そのようなことに二人が乗るはずもなく、あっさり織田に敗れた井上は逃亡中に討たれたらしい。

 

「首は上がってるの?」

「みたいですよ」

「呆気ないよね~」

「織田が大きくなったから、ですかね」

「……なるほど。気を緩めるなってことだ」

「でも、元々の力があったわけじゃあ無いですからね……それに……」 

「なに?」

「いえ。何でも」

 

 半兵衛が手を下したのだから仕方ない。言うまでも無いことを口にしても、気休めにならない。むしろ虚無感が増すだけで、後悔も深まるだけだ。

 

「いつか、あいつのことを伍子胥みたいに遺体を暴いて骨を叩いて良いですか?」

「馬鹿。んなことしたら上杉の印象悪くするだけ」

「冗談です」

「そうは見えないけど」

 

 ばれたかと龍兵衛は肩をすくめる。官兵衛が何年も一緒に同じ釜の飯を食っている彼の心中を分からないはずがない。

 その一方で、官兵衛も彼と同じ気持ちを抱いている。どれだけ心を落ち着かせてきても、あの井上の顔を忘れることなど出来ない。だから、龍兵衛は目の前にいる官兵衛に思いをぶつけた。

 

「だって自業自得で死ぬって自分勝手過ぎるでしょう?」

「まぁ、確かにそうだけど……逆に言えばあの塵も所詮その程度だったってことでしょ? もしかしたらぼろを出して半兵衛ちゃんが何か仕掛けたのかもしれないし」

 

 龍兵衛は諦めたようにゆっくり官兵衛から目を逸らして俯き、溜め息を吐く。推測の域を出ないが、半兵衛が井上の誤りに付け込んで密かに織田から遠ざかるように仕向けたのは確かだ。

 

「半兵衛ちゃんが頑張ったんだからそれを無駄にしちゃ駄目だよ。いくら敵同士になるとはいえ……」

「重さんの思いを無為にするような愚かなことはするな、でしょう?」

 

 分かっているじゃんと鼻息を鳴らして官兵衛は頷く。

 

「ま、織田との戦はまだまだ先ですがね」

「やっぱりね」

 

 織田と上杉の国の規模は五分五分だが、国力は畿内一帯を手中にしている織田の方に分がある。今は消耗した国力を回復して軍備の改革や治安の維持、商業や農業の促進を図り、一揆などが一切起きない国にすることが優先である。

 

「別に今から戦って勝てない訳ではないけど……」

「毛利とですか?」

「残念。上杉単体で」

「……はっ?」

 

 呆気に取ったことが嬉しいのか官兵衛はにやりと歯を見せる。

 

「えげつないことを考えてますね?」

「当たり」

 

 官兵衛は嬉々として耳打ちをしてきた。そして、聞き終えた龍兵衛は頬を引きつらせた後、笑った。

 

「確かに。それなら自分達の計画も確実に上手くいきますね。当てはもちろんあると?」

「当然」

「では、やりましょう」

「了解」

 

 官兵衛は膝を打って立ち上がる。ここまでくれば龍兵衛がここにいる意味も無い。立ち去ろうと襖に手をかける。

 

「万が一のために毛利への交渉もお願いしますよ。向こうだって思惑は一緒のはずですから」

「言われるまでもないね。もう実家には書状送ってるし」

「出奔した説教を自ら受けに行くのか……」

「あ?」 

「何でも」

 

 官兵衛が鋭い目つきで睨んでくる。全く怖くないが、大事な話をしているからここでからかうのは良くない。

 官兵衛の実家は小寺という播磨の豪族である。今は毛利に付くか織田に寝返るかで揉めているだろう。官兵衛の交渉次第になるが、毛利への扉を開けるには欠かせないものとなる。

 官兵衛は名前を捨てて家を飛び出した身であるため、実質の勘当状態である。しかし、有能であるが故に密かに戻ってきて欲しいという声をもらうこともあるそうだ。

 この状況下を龍兵衛は笑いたくなってしまう。史実では、迷う主家を織田に付かせようと説得していたというのに、ここでは毛利に忠誠を誓い続けるようになるとは。

 

「滑稽な……」

「最近独り言多いよ」

「すみません。何でもありませんから」

「あんたの正体を知っているあたしにまで隠さなきゃいけないこと?」

「ええ……ですが、悪いものではないので」

「話の脈絡が掴めないんだけど」

「聞いてくれるな。ということです」

 

 好奇心の強さから、官兵衛は納得しないと頬を膨らませる。家に帰ったら餅を買いに行こうと龍兵衛は決心した。

 官兵衛は龍兵衛がどこから来たのか知っている。だからこそ、言いたいことは言えるし、何も包み隠すことはない存在である。しかし唯一、史実で彼女がどのようなことをしていたのかは言っていない。

 歴史を変えることへの恐ろしさはあったが、上杉をこれだけ大きくさせて何もないのだから、理は読めない。言わぬが花と言うようにただ待っていれば良い。本当はどうなのか語って欲しいと言われるまで。

 

「ところで、謙信様はこのことを知っているのですか?」

「うん。毛利と手を組むのが得策なのは分かっていたみたい」

「ま、戦略的にそうなりますよね。将軍家も毛利に頼っているみたいですから」

 

 隠居しているとはいえ、元就が未だに健在である毛利ではその意見は絶大な力を誇る。家臣達には織田との対決姿勢を明確にするからと反対する者もいたようだが、鶴の一声に適うはずが無い。

 あくまでも風の噂だが、経緯が越後にも届いている。必然的に織田にも通じているだろう。毛利が同盟を求めることが出来るほどの利害関係が一致していて、互いに利益があるのは自ずと上杉になってくる。九州は今、大友が九州統一に向けて最後の決戦を開こうとしており、とても中央に構っている暇は無いらしい。

 

「さて、出立時期を決めないと」

「直接向こうに出向くということは、一回京にも立ち寄るということですか?」

「そりゃあね。織田がどうなっているのか知りたいし」

「一応、軒猿や闇商人からも情報は得ているのですがね」

「気付けないこともあるでしょう?」

「なら、自分達と時期を合わせませんか?」

「はい?」

 

 真顔で首を傾げているのを見ると本当に知らないのだろう。龍兵衛は手を添えて官兵衛の耳に口を近付ける。小さいので首が大変だが、何とか聞こえる所で上洛のことを話す。

 

「……そっち行きたい」

「駄目です」

「えー楽しそう」

「楽しかないわ」

「どうせ、あわよくば織田の重鎮をやるんでしょ?」

「そんな子供が遊びに行くような目をして言わないで下さい」

「子供じゃない!」

「そうじゃなくて……」

 

 へそを曲げないように宥めて龍兵衛はきちんと京に行く任務がどのようなものかを改めて伝えた。謙信の護衛という名目で龍兵衛が行くというようなことに疑問を持たれるのは分かっていたため、包み隠さずに実乃の名前を出した。

 

「あの妖怪ばばあ……」

 

 官兵衛は本気で怒っている。目には見えない青色の炎が雰囲気から伝わってくる。目が両端がこれまでかとつり上がり、拳は腕も震えるぐらい強く握っている。

 

「何か聞いていませんか?」

「いや、変な噂は聞いてない。だけど、あくまでもあたしの場合だよ」

「まさか、自分は……」

「大丈夫。今のところ、あんたに変なことをしようとするのはいない。あくまでも悪口」

 

「なら良かった」と言えない。唇を噛んだまま視線を外に移す。悪口は悪口で龍兵衛の心に害を成している。未だに鮮明に感じるかつての虐げられた屈辱はたとえ見えず聞こえずとも怒りとなる。

 

「定満殿がいた時は良かったですが……やはり……」

「あの人は特別」

「そう、ですよね……」

「あんた。珍しく人に期待してるの?」

「状況が状況なだけに」

 

 官兵衛は溜め息を吐きながら首を横に何度も振る。表情も呆れ返っていると口にしなくても分かる様だ。それは龍兵衛自身もよく分かっている。これまで誰かに頼ることは一際せずに自分で出来る範囲のことをやってきた。それが彼のやり方である。

 だが、今の龍兵衛はとても一人で自分を支えられるような状況下ではない。だからこそ淡い期待を心に抱き、荒れた心を落ち着かせるために現実から逃避している。自分でも分かっている。それでも、期待をすることで恵みを得られそうな気がするのだ。

 期待したところで、変わることなど何も無いというのを知っているのに。

 

「ま、あたしは何があろうと味方だよ」

「ありがとうございます」

「だけど、今のあんたはその気になれない。自分でも理由は分かるでしょ?」

 

 項垂れるように龍兵衛は頷く。おそらく孤独を貫こうとするが故に、誰かが手を差し伸べたいと思うようになるのだろう。今までは自覚したことの無いところだったが、最近の状況の変化の中で何となく分かっていた。しかし、孤独を自覚してそのままでいられるほどに龍兵衛の心は決して強くない。

 

「手掛かりは自分で探しな。あたしがあれこれ言うことじゃない」

「そうですね。それに、今はそれどころじゃない」

「……はぁ」

 

 龍兵衛は官兵衛の顔をうかがう。溜め息を吐かれるとは思っていなかった。何かぶつぶつ言っているみたいだが、よく聞こえない。何かと尋ねようと思ったが、詰めたところで言ってくれないのは分かっているから諦める。

 

「あ……」

 

 顔を引っ込めようとすると官兵衛は気付いていなかったのか、こちらを見て驚き、顔を赤くする。

 

「いつからそこに!?」

「いや、最初から……」

「うっさい死ね!」

「は?」

 

 口を開け閉めしたと思ったら、そっぽを向いて頬を膨らませてしまった。箸でも持ち込んでつついてやりたいが、先程から脱線続きの話を戻すためにわざわざ非合理的なことをすることは出来ない。

 

「ともかく、京に行く以上は細心の注意を払いましょう。毛利の方と接触する機会も得られたら儲けものです」

「……そうね。あたしもついでに準備しとく。謙信様にも相談してみる」

「お願いします。それから……義龍様も今は京で過ごしているとか」

「……で?」

「せめてもの見舞いを」

 

 分かったと官兵衛は頷く。先程までの不機嫌さはどこにも無い。ただ、脳内で貪欲に策を巡らせている。斎藤家の面々は様々な織田の家臣の配下になっている。主の義龍の下には誰もいない。

 密かに面会することは叶わないだろう。とはいえ、連れ帰るわけにはいかないが、せめて安全な所に退避させたい。そのための流れを官兵衛は必死に模索している。龍兵衛も、もちろん考えているが、なかなか妙案が浮かばない。

 

「さて、自分も言うことは言ったので戻りますね」

 

 立ち上がる前に腕を大きく上に伸ばす。固まっていた筋肉や骨が気持ち良い。一部音が鳴ったが、支障は無いので気にしない。

 

「でも、良かったよ」

 

 前に伸ばしていた腕が止まった。口を開いたのはもちろん、官兵衛の口調が明るいものからどこか寂しげのあるような雰囲気に変わったからだ。

 

「何がでしょう」

「あんたがてっきり忘れていたと思ったからさ。あの約束を」

「……忘れるわけがないでしょう。何故自分があなたに付いていかなかったのか」

 

 脳裏に蘇る記憶が龍兵衛の心にも影を落とす。内輪もめで斎藤家の勢いは一気に落ちた。そして、義龍を傀儡にした井上によってさらに美濃は死に向かった。自力で立ち直るには時間が足りなさすぎる。そう判断したからこそ、龍兵衛と官兵衛は道三と義龍に暇を乞うた。

 しかし、三人の軍師は味方の恩を何も返さないほど冷酷ではない。とはいえ、あの時の半兵衛はどこかへ旅立てるほど体調が良くなく、官兵衛も家出同然で美濃にいた。

 

「誰かが大きくならなければならない時でしたから」

「だからあえて二手に別れた方が機会は増える。そう言ってた。初めてだったよね、あんたがあたし達二人のことに意見したの」

「そうでしたか。それは覚えてませんでした」

「別にどうでも良いけどね。ただ、あの時は驚いたし、少し嬉しかった」

「何故?」

「え……成長したな~って」

 

「にはは」と笑う官兵衛の表情はどこかぎこちない。とりあえず、口元を緩めて答える。吹いていた風が一瞬だけ強くなり、龍兵衛は不意に外へと視線を向けた。ここまで上杉を大きくするために上杉の者達が嫌う汚い仕事を背負い、褒められずに過ごしてきた。それでも、動き続けられたのは上杉への恩もある。だが、それだけではない。

 

「確かに自分達は上杉の天下統一のために動いています。それは紛れもない事実であり、願いです。が、自分を雇ってくれたおかげで力を付けれたのは道三様の計らいがあったからこそ」

「それから、受け入れてくれた斎藤家だからこそ。でしょ?」

 

 首を勢い良く大きく縦に振る。さすがに長居し過ぎたと立ち上がり、固まった腰を伸ばす。そして、官兵衛にも自分にも言い聞かせるような小さい声で決意を改めた。

 

「斎藤家の復興は決して忘れることの無い悲願ですから」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

上弦の月

 謙信が護衛を伴って上洛する上杉の中でもかなり秘匿事項とされた。臣のみが知るものとされ、知った者の多くが危険だと反対した。しかし、重鎮の実乃、斎藤、兼続もなどがこぞって賛同したため、反対意見は見事に押し潰された。

 若狭から陸路を取り、謙信達は京に入った。信長が関所の多くを撤廃して、偽造された免状も簡単に信じてもらえるほどに質が低下している。

 関所が無くなれば、人の流れが良くなり、経済的には効果がある。決して悪いことではないが、戦乱の世の中ではせめて質を高めなければならない。

 もしかすると、毛利や畿内の豪族の討伐に向けて人が出払っているからかもしれない。そう考えた謙信は先行していた段蔵や繋がりのある京の商人に連絡を取り、これが現状なのか、他国を欺く罠なのか確認をすることにした。しかし、宮中からの要望もあり、歩みを止めることも出来ない。

 結果として京に到着することは出来たが、目立ち過ぎるのは良くないと考えた謙信は商人達が使うような宿を使うことにした。朝廷側が用意してくれた宿には申し訳が立たないが、詫びとして大量の金を送ることで、密告を防いだ。

 朝廷への謁見は官位を持っている謙信と顔が知られていないという理由から慶次が護衛として向かった。慶次は様子を見る時間が減ると渋っていたが、唯一官位を持っていて宮中に参内出来る存在だからと我慢してもらった。

 不満げな彼女を尻目に龍兵衛は官兵衛や景資を伴って密かに動き始めた。謙信には京の様子を見て、あわよくば味方に付いてくれそうな商人や牢人を引っ張るのが目的と言っている。

 龍兵衛が外に出て商人や酒屋の酔っ払いと話をして、官兵衛が屋敷で具体的な策略を練ることになった。景資にも具体的なことは一切話さず、あくまでも謙信と同じように説明している。一番京を知っているからこそ、外に出るべきなのは自分だと言っていたが、肝心な時に屋敷と官兵衛を守る者がいないと断った。

「来た意味が……」と愚痴を言っていたが、肝心の拠点を守る者が官兵衛じゃ心許ないと説得して不承不承首を縦に振ってくれた。

 龍兵衛は京に到着してすぐに行動に移った。織田が京の警護に当てている者や地形を歩くことで頭に入れ、怪しまれないように刀は持たずにただ京に見物に来た者を装った。

 

(案外楽だな)

 

 毛利などと戦を行うため、畿内から軍の派遣するのに重要な地である京。かなり警戒されていて当然だろうと思っていたが、何故だろうと思うほどに武士がいない。

 上杉と繋がりのある商人は、皆が今の京は外敵から身を守るべく、兵たちが日々監視をしていると言っていた。だからこそ裏があるとしか思えない警護の薄さに混乱している。

 信長は既に天下を取ったつもりでいるのか。上杉や毛利を無視してまでそのようなことをすることが出来るのか。あえて間者に京の繁栄を見せつけることで、織田の力を示しているのか。

 真綿で首を絞められるような思いに龍兵衛は見えないものを外すように首をかく。

 とはいえ、収穫は得た。京の道や町並み。どのような店の並びになっているか。先だって潜伏していた段蔵が送ってくれた地図と変わっていることはあまりない。つまり、考えていた通りに事を進めることが出来るということだ。

 

(実行出来るか出来ないかじゃなくてやるかやらないかだからな……)

 

 立ち寄った茶屋で温くしてもらった茶をふくんだ後に盛大な溜め息をつく。一度座ると歩き回っていたことでたまった疲れがどっと足にのしかかる。

 畿内の情勢を知る担当をしているが、龍兵衛はこれまでさほど関心は持たずに越後の治安維持と産業の発展だけに心を砕いてきた。そのために情報を突貫で仕入れ、繋ぎ合わせている。さらに実乃からの脅迫も精神的に追い詰める負担となっていた。

 

(色々疲れるな……)

 

 普段から何事も自分でこなしてきたため、体力的には問題無い。しかし、上杉にいられなくなるかもしれないという恐怖は拭えない。恐怖が体を突き動かすことは滅多になかった。

 

「お隣。よろしいですか?」

「どうぞ」

 

 顔も上げずに女性の声に答える。不意にかけられた声に驚きも感じられないほどに疲れていると実感する。これまでの重圧ははね除ける材料があったが、今回は正に背水の陣であり、龍兵衛の命もかかっている。実乃という巨大な存在では謙信も無視することは出来ないだろう。龍兵衛は額に手を当てて俯く。

 

「お悩みですか?」

「ええ……」

「かつての同朋を忘れるほどに?」

「え……あっ……」

 

 声に導かれるように隣を向くと目を疑い、確信を得ると絶望を感じた。隣の者が向けてくる微笑みの裏にある詰問の目は誤魔化せない。

 

「あっ……何故、光秀殿……」

「貴方の変装は美濃の頃よりよく見ておりましたので」

「自分を信長の下に連れて行くおつもりですか?」

「何かそれだけのことをしているのであれば」

「決して織田に害が被ることではありませぬ」

「本当に?」

「ええ」

 

 間髪入れずに龍兵衛は偽りの力強い頷きを見せる。光秀はじっとこちらの目を見てくる。ここで何か動きを見せたら負けだと彼女の目を真っ直ぐ見る。見えないはずの実乃が突き立てる刀を背中に感じ、正面から銃口を向ける光秀を必死に抑える。

 数秒の時が四半刻ほど経ったように感じられた。幸いに光秀はつり上がっていた目を緩め、微笑みを浮かべた。

 

「どうやら、疑わしきことは無いと信じて良いみたいですね」

「ありがとうございます」

「ですが、完全に信じた訳はありません。何をしに来たのか。問うてもよろしいですか?」

「少し商いを」

「商い?」

「人が欲しくて」

 

 納得したと光秀は頷く。笑っていなかった目も比較的警戒が解けたようだ。事実ではあるために龍兵衛からすればそれ以上の答えは出来ない。運ばれてきた団子を頬張ることで示すと彼女も話は終わったと注文をし始めた。

 

「改めてお久しゅうございます」

「ええ。お変わりないようで」

 

 色々あったと言いたいが、我慢する。あの頃は景勝とも寄り添っていた。親友とも再会して廃れていた心が充実していた。それが今、孤独になり、上杉譜代の者からの重圧に耐え忍ぶ日々が続いている。過去の真実を知り、同家の者なら言えたであろう愚痴。だが、彼女もまた智略に富んでいて何か愚痴を言えば上杉の結束にひびを入れるだろう。

 

「将軍様が追放された後、織田に降ったとお聞き致しておりましたが、お変わりないようで何よりで御座います」

「藤孝殿も忠興殿も織田に降りました。細川家という高貴な家柄を守る為には致し方なかったので御座いましょう」

「貴方はどうなのです?」

「意地の悪い」

「性分です」

 

 怒っているように見えてどこか嬉しそうだ。相変わらず捻くれているところを見て、安堵したのだろうか。

 

「明智は土岐の血を引く家。下剋上の波に呑まれたとはいえ、守らねばならないものがあるのです」

 

 光秀は一つ溜め息を吐くと落ち着いた口調で話してくれた。義昭は信長に対抗出来ずにあっという間に追放されたらしい。しかし、諦める様子も無いようで、再三光秀や細川にも書状が届くらしい。

 大切なものは一度失ってからその価値に気が付くと言うが、義昭はどうやら足利の誇りを取り戻す気概を見せ始めたようだ。

 謙信から聞いていたような雰囲気とはまた少し変わっている。

 

「将軍様は大分躍起になっているのですね」

「河田殿。ここは通り故に、もう少し……」

 

 失礼と龍兵衛は頭を少し下げる。人通りはまばらだが、京は都であり、多くの者が集まる場所。一段と声を潜めることを心掛けて口を開く。

 

「義昭様は?」

「毛利様を頼って鞆の津へと向かわれたとお聞きしております」

「なるほど、水軍ですか。京に織田の方々がいないのは、堺にいるからでしょうか?」

「さすがに鋭いですね。私は留守居を預かっております」

「信頼されている証ではないですか」

 

 光秀は眉間にしわを寄せ、首を横に振った。

 

「見せたくないだけですよ。私や細川殿が未だに義昭様と通じていると恐れているだけです」

「ですが、都たる京の守りを任されているのは誇って良いかと。それに、聞けば畿内の領地を与えられているのが何よりの証では?」

「違います。信長様にとって京や畿内はそれだけの価値しか無い。ということです」

「そのように仰っている割には、嫌そうにしているようには見えないですね」

 

 光秀は苦笑いしながらその通りだと頷く。信長は降った光秀や細川親子三人を冷遇せず、むしろ落ちぶれた将軍家の権威をそれなりに持ち直させた能力を買って城や領地まで与えてくれた。最初こそ保守的な家から移ったために革新的な動きに戸惑うこともあったが、今では割り切ることも出来るようになり、理に適ったことを信長はしていると気付いたらしい。

 

「良い刺激を得ているようですね」

「ええ、本当に」

「では、何故に将軍様と文を?」

「来るべき時のために、ですよ。変わらない京をまた見れる時を夢見て」

「まさか、京に呼び戻すおつもりで?」

「さすがに信長様へすぐに義昭様の赦免を申し上げることは出来ません。折を見て、ということになりましょう」

 

 

 

 

 官兵衛が龍兵衛の部屋を訪れたのは深夜のことだった。

 夕方に謙信から帝や公家が生きにくい世の中になったと不満を漏らし、もし信長を討つのであれば必ず味方に付くとお墨付きをもらったと報せを聞いた。

 明日はまた関白に会うと言っていたため、今日はもう大丈夫だろうと既に布団に潜り込み、まぶたを完全に閉じ掛かっていた頃に官兵衛は龍兵衛の脇腹を蹴った。

 何でこのような時にと愚痴りながら身を起こすと息の音も聞こえるぐらいの至近距離で官兵衛が見下ろしていた。早くしろと連続した蹴りを入れてくる彼女を睨み付けながら龍兵衛は話を聞く姿勢を整える。

 

「何の用です?」

「ほれ」

 

 官兵衛が龍兵衛の目の前に広げたのは半分寝ていた彼を完全に目覚めさせるには十分だった。

 

「上京だけでなく、下京の地形もこれほどまでに鮮明に……」

「全部、あんたが放ってくれた間者が調べてくれたものの結晶だよ」

 

 官兵衛は本当なら自分でやるべきだろうにと不満げだが、地図の出来を見て満更でもなさそうだ。

 

「闇商人には話してある。裏切らない人達であることも約束するよ」

「やるんですか?」

「うん。あたしも考えたけど・……やっぱり、この方法が一番、織田の動きを止めて、あたし達を動かすのに丁度良いから」

 

 上杉が動けば織田もまた然り。実力は拮抗しているが、京や畿内といった発展し、人口の多い国々を席巻している織田の方が断然有利だ。朝廷や堺の商人の一派が上杉になびいたとしても乱世である以上、最後に物申すのは軍事力である。

 

「謙信様には?」

「内緒に決まってるでしょ」

 

 龍兵衛は少し戸惑ってしまう。謙信に黙って行動したことは今まで何度かある。しかし、今回は規模や危険性を考えると実行すべきなのか強く心を左右させている。この世界に来て人を殺すことに躊躇いが無くなった訳ではない。何故か、首を縦に振ることが出来ないのだ。

 

「怖がってる?」

「保身を第一にしてきた心が騒いでいます」

「でも、やるしかないよ。あんたみたいな過去がある人を雇うところなんてどこにも無い」

「痛いところを付きますね……まぁ、自分の心は既に上杉に預けていますから別に良いですけど」

「へぇ。あの打算的な龍兵衛がそう言うの」

「変わりましたよね」

「うん。まぁ、上杉はいて飽きない」

「からかうのはやめて下さい。人が心から仕えている御家を宿屋みたく言うのは」

「本気なんだ……」

「ええ。もちろん」

 

 意外だと官兵衛は目を丸くしたままこちらを見ている。龍兵衛にとって上杉に忠誠を誓っているのは紛れもない事実であり、それ以上でも以下でもない。たしかに斎藤家の復興は忘れていないが、あくまでも一番は上杉のことである。どうやら官兵衛は勘違いをしていたようだ。

 

「受け入れられるかも分からない中で受け入れてくれただけなく、重要な役目も与えられて、なおかつ孝さんを呪縛から解放した。これ以上の恩義、どれだけ嬉しかったか」 

「うっわ、肌に粟が立つ~」 

「本当に引いているところがまた腹立つな……」

「あんたが冗談も本気も同じ口調で言うのが悪い」

「性格ですから」

「そこで嫌われるか嫌われないか変わるのに」

「もう諦めてます」

「本当、あんたに心から信頼を寄せる人の頭を覗きたいわ」

 

 龍兵衛は溜め息をつく官兵衛に近付き、真上から上から見下ろす。影に気付いた彼女が慌てて部屋の隅まで後ずさる。それ以上近付いたら人を呼ぶと言わんばかりの形相でこちらを睨んでくるので、龍兵衛は地味に傷付いた。

 

「な、なに?」

「え? 頭覗こうとしてただけです」

「な、なんで?」

「その答えを自分で今言ったじゃないですか」

「あ……別に許して無いから!」

「あら残念」

 

 肩をすくめると官兵衛は舌打ちをしてそっぽを向いてしまった。さすがにからかい過ぎたかと少し反省し、龍兵衛は真剣な目つきになる。

 

「信長は明日か明後日に堺から京に戻るそうです。三日後に貴族達と会談をするとか」

「誰から聞いたの?」

「光秀殿から」

 

 官兵衛は頭をかきながら溜め息をつく。

 

「呆れた……いくら昔の同朋だと言っても、敵同士でしょうに。ましてや龍兵衛は軍師でしょうが」

「美濃にいた頃はまだまだ性根は腐ってなかったですし。自分は明後日には帰ると言ったので」

「最初にぬかしたのはどうでも良いけど、後に言ったことは少しぐらい嘘と思って良いと思うけど」

「警告もあったのかと思いますよ」

「……なるほど、信長が来るまでに急げってことか」

「見慣れない者がうろうろしていれば警戒されるでしょう。もしかしたら信長派の貴族が密告するかもしれません」

「いざとなったら謙信様は近衛様御用達の宿に入れる準備は出来てるよ」

「ありがとうございます。自分は変装しますから大丈夫です」

「あたしは?」

「何とか中国まで逃げて下さい」

「投げ槍過ぎない?」

「本当の役目はそっちでしょう?」

 

 官兵衛は渋々首を縦に振る。構って欲しそうだが、無視して龍兵衛は地図に目を落とす。計画の手順と実行日は決まった。最後に重要かつ難題が残された。元々、行き当たりばったりの策略故に苦し紛れなところがあるのは否めない。そのために肝要なところが今になって決まるという惨状が二人にとっては現実逃避をしたくなる思いに繫がる。

 

「指示したのは京に止まっている明智で良い?」

「いえ、光秀殿はあくまでも監視を怠っていたとしましょう。信長が上京の者達と対立していたのを理由に密かにどこかの工作して火を放った。この方が道理に適っています」

 

 更に言えば、光秀は今の京の景観は足利幕府の名残が残っていると考えている。龍兵衛は昼間の邂逅で悟った。

 仮に信長が実行しろと言っても光秀は頑なに否定し、信長を説き伏せるだろう。そして、光秀の人となりは京の商人達の間でも評判がある。

 

「信長が否定してもあたし達の風聞が上京の人達には受け入れ易くて、明智と織田の仲を違わせることも可能……でも、駄目だね」

 

 官兵衛は龍兵衛の意見に感心する素振りなど見せず、一刀両断に策を斬り捨てる。肩透かしを食らったような表情をしたが、龍兵衛はすぐに官兵衛が厳しい口調で駄目だと言ったのか手を叩いた。

 

「実行するのが光秀殿でなければ道理に合わないということですか?」

「そ。否定されたら信長が動かない可能性もある。代わりになるほどの価値がある人がいるなら別だけどね。そっちの方が後々のことも楽になりそうだし」

 

 確かにと龍兵衛はおとがいに手を当てる。信長であると周りが叫んだところで信長は自身ではないと主張し、あらゆる手段を講じてでも、下手人を探し出し、黒幕の大名を討とうとするだろう。

 しかし、龍兵衛は官兵衛の言葉にすんなりと承諾出来なかった。先程の光秀に京を焼くなど出来る筈もない。あれほど京に愛着がある者が急に京を焼き払うなど誰もが疑うに決まっている。

 

「間者がやったことで済みませんか?」

「……身代わりを作ってその人を殺せば大丈夫だよ。目的は果たして自害した。そういうことにすれば」

 

 さらっと官兵衛は言ってのける。背筋が冷えたが、やらなければ自身の身に災いが降り懸かると考え、冷酷になるしかないと割り切る。

 ならばと考える。死人に口無しということにしてしまえば捕らえた者から自身が無実で信長の指図など受けていないという否定をすることが出来なくなる。

 また、信長が否定しても京の商人達は彼女を憎み、光秀、細川との間にも不協和音が生じる可能性もある。そして、当の信長は黒幕が誰なのか疑い、周辺勢力との仲が悪くなる。その時、上杉は毛利と結託して東西から織田を挟撃する。二つの家に関与する者達では織田も京の商人もやはりと思い、怒りをそちらに向ける。何故と思わせられる人物こそが相応しい。

 

「……あ」

「いるんだね?」

 

 違うと首を横に振りたかったが、官兵衛の目は普段では考えられない鋭さを持ち、龍兵衛を離さない。唇を口の中に引っ込め、歯で強く血が滲む程、噛み締める。

 今朝、見掛けた人物が本人ならそれに十分な条件を満たしている。決して反織田に対しても反感を持たず、何かしてもおかしくない。

 

「本人か確証は持てません」

「確証したら、やれる?」

 

 龍兵衛は口を噤み、意味もなく舌を動かす。合理的に考えれば他家の力を削ぐ機会だが、度外視をすればすぐに結論が出た。

 

「……やっぱり、光秀殿で行きましょう。ちょっと天秤の傾きが」

「だったら何で一回考えたのよ」

「光秀殿のことだけを案じていました」

「自分から言い出しておいて、都合の良い」

「誰でも良ければすぐに用意したので」

「あーあ、冷酷な弟子だこと」

「育てておいてどの口が言ってんだか……」

 

 これ見よがしな官兵衛の得意げな表情に腹が立つ。しかし、それで気が晴れるほど龍兵衛は楽観的ではない。人の命を天秤にかける愚かなことをしている。昔からだが、友が関わると自覚を生み、自己嫌悪に陥る。喉から湧き出るような不快感を押さえようと意味もなく軽く胸に手を当てる。

 

「どちらにせよ、かつての友人を堕とすことになるのか……」

「親友だろうとも利用して、されるのが乱世での運命だよ。それに、死にたいの?」

 

 首を横に振る。生きるためにこれまでやってきたのだ。望んで死を受け入れるなど龍兵衛はまっぴら御免だ。それに、これのために京の内通者も作った。ここまで来て戻ることなど出来ない。

 腹をくくったと龍兵衛は大きく息を吐く。その様子を見た官兵衛が胸を撫で下ろす。迷う中での謀は敵に隙を与える。しかも、織田の間者も決して対処が簡単な訳ではない。これまで何人もの犠牲者を出しつつようやく実行に移すまでのところまでやってきたのだ。軒猿の指揮を執っている龍兵衛が実行せずに引き返せば彼らは上杉から離れ、情報収集の柱を失うことになる。信頼と力を失えば価値など無くなる。龍兵衛は一度目を瞑り、見えない覚悟を目に植え付け、開く。

 

「実行はそちらに任せます。俺は下京に向かいます。よろしいですね?」

「変な気を起こさないように」

「……ならば、軒猿の精鋭の数人をこちらに回して下さい。念の為にね」

「あいよ。武運を祈る」

 

 官兵衛にも通じたのか何も言わずに部屋から出て行った。

 決断した以上、もはや戻ることは許されない。

 そして、歴史の大局を変えることは出来ても、変えられない運命もある。弄ばれているのか、連れてきた者がそうしているのか。

 異端者であることを忘れないように仕向けているとしか思えない流れに龍兵衛は溜め息をつくしか出来ない。もはや、抗うことさえ難しいと諦めるしか道はないのだ。

 すっかり目が覚めてしまった龍兵衛は朝が来るまで外を眺め、止みそうにない雨をぼんやりと眺めていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狂った夜

 降り続けていた雨がようやく止み、庭に咲く紫陽花が滴を受け止めて味を噛み締めるようにゆっくり下へ導く。滴ももう少しと花びらの下で粘るが、無情な紫陽花は風の力を借りてそれを振り払った。

 光秀はその様を見届けると部屋で茶をすすりながら書物に目を落とす。

 信長が昨晩遅くにいち早く京に戻ったため、その日の内に留守の間のことを報告した。光秀は労いの言葉をもらい、京の守備を分担していた村井貞勝に全て任せることになり、毛利攻めに加わることになった。

 将軍家を保護して明確に織田に対する抵抗意識を見せた毛利を圧倒的実力差で倒すことで静観をしている諸大名に力を示すのが信長の描いている構想である。畿内に続き、中国を取れば天下の半分を治めたも同然である。そう彼女は考えているのだろう。

 しかし、光秀は上杉もまた警戒すべきに値すると考えていた。北の国を討伐して何の意味があろうと小馬鹿にしている者もいたが、かつて将軍家に仕えていた身として諸勢力の情勢を伺っていた自身からすれば恐ろしいほどに発展を進めている。

 まず民の生活が非常に豊かで、法令がきちんと遵守されている。万が一、何か不正でもあれば必ず取り締まりが行われ、無情の刑罰が執行される。

 代わりに貧しい者には援助が施され、堤の建築や鉱山の開拓など、仕事が与えられる。農民も上杉から無償で農耕具が支給されるなど、恩恵もきちんと受けている。商いでも格差の出ないようにしつつ、競争を生んでより質の良いものを出そうと専売すべきものは徹底をさせ、他については誰でも商売が出来るような仕組みを作り上げた。

 これらを支えられるだけの財が上杉にあるということを示している。そして、これらの政策を請け負っているのがほとんど河田龍兵衛だというから恐ろしい。思えば彼が美濃を追放されてからというもの斎藤の財が上手く回らなくなり、いつの間にか国を支えるだけで手一杯になったことがある。あの時は半兵衛や官兵衛がいなくなったからと思っていたが、半兵衛と再会してあれは自分達ではなく龍兵衛のおかげであると言われ、驚愕した。そして、先日の彼との邂逅で確信に変わった。

 彼は商人を探すと言っていた。おそらく上杉の商いに新たな風を吹き込もうとしているのだろう。野放しにしておけば必ず織田の脅威になる。しかし、光秀は止めずに黙認した。それぐらいのことはどこの家でも行っているからだ。

 商人は利益が大きければ誰にでもなびく。弱肉強食の世の中で、上杉が強いと思われたなら織田を恐れるようにすれば良い。もし重要なことを漏らすのであれば首をはねれば終わることだ。龍兵衛を捕らえなかったのもここで無駄な上杉との間に火種を作り、毛利や長宗我部と挟撃を受けることを恐れたからである。

 上杉は国ごとに特産物を定めてそれを税の代わりにしている。それだけでなく、米や野菜なども新たな品種を作り、質の良いものを惜しみもなく国内では売り捌いているらしい。国外には持ち出し禁止とされているために光秀も口にしたことは無いが、間者曰く、今までの物が全く食えなくなるのではと震えてしまったらしい。

 その原動力の紐を辿れば必ず龍兵衛に繋がる。もし上杉がこれから戦に備えて兵の鍛錬にさらに力を入れ、毛利と手を組めばこれほど恐ろしいことはない。気になった光秀がそれとなく毛利について聞いたが、龍兵衛は平然と「毛利は強いですが、織田と大友の間では適わないでしょう。毛利の両川も二人だけではね……」と機密情報を言っていた。もし、上杉が毛利との同盟を頭に入れているなら龍兵衛は毛利のことから話を逸らしただろう。しかし、その後も龍兵衛は毛利の置かれているであろう状況下をつらつらと言っていた。

 仮にそれがわざとだとしても京の西側の関所から龍兵衛らしき容姿の者がいたという報告も無い。昨日、密かに龍兵衛が訪ねてきたが、忍びに追わせたところ確かに東の関所から出ていったと報告が上がった。

 念の為、信長にも名は明かさずに潜伏者がいると報せたが、放っておいて良いと笑っていた。新型軍船が完成して機嫌が良かったことも幸いしたのかもしれないが、彼女はあえて見せつけることで他家とは異なる威容を知らしめようとしているのだ。

 確かに信長の天下はこれまでの日ノ本を大きく変えようとしている。恐れを抱かせ、目指す先を示して魅了し、忠義を誓わせる。彼女の配下はある種、信奉者なのかもしれない。だからこそ、前例に無い命令も驚きつつも受け入れて実行する。理解出来ない者は彼女から離れていく。明確に家臣として付いていく者と敵対する者がはっきりしていて良いことかもしれない。

 斎藤や将軍家の時はどっちつかずの者も上手く手懐けなければならない主の苦しむ様を見てきた。信長は反抗する者は明確に意志を示すのだから、それを討つだけで事が済む。

 信長らしい体制の取り方には本当に驚かされるが、理に適っている以上、あれこれと言うこともない。そもそも自身は仕えて日の浅い外様であり、最初からあれこれと口に出すのは信長や譜代家臣の心象も良くないだろう。現に光秀は意見を求められた時だけ進言をするようにしている。これから先、天下の秩序が徐々に戻ってきており、下剋上は少なくなる。その時勢の中で仕官先を失った後に再び仕官出来るだけありがたい。無論、ただいるだけでは実力主義の信長は許してくれない。その恩に報いる時がもう少しでやってくる。

 明日には坂本に戻らなければならない。今、休める時に休まなければ、また戦でろくに眠れない時が続く。

 かつて仕えた主がいる御家を攻めるのは気が引けるが、試されていると思い、腹をくくらなければならない。明智には将軍家や細川家のような家格も無く、滅ぼそうと思えば誰も文句など言わない。これまで生きるために必死に生きてきてようやく得た安息の地は主が変われどそのままにしていかなければならない。

 光秀は茶を飲み干すと自身の滞在している寺へ戻る。既に坂本から兵馬の支度は整えてあると連絡は来ており、後は光秀を待つばかりだそうだ。

 

 滞在している寺は東山の近くにある。山中に向かう途中に建てられ、通りにも出やすい場所にあるため、旅の者たちも時折ここを使う。それ故に小綺麗で庭にも規模に似合わない風情がある。

 

「戻られましたか」

 

 住職とは将軍家にいた頃からの付き合いで、読経よりも庭の手入れに時間をかける変わり者である。それ故に贔屓が多く、食べていけると胸を張っていたが、仏に仕える身として如何なものかと思う。

 

「明日の朝にここを発ちます。また機会があれば」

「お待ちしております。そういえば先程、客人が訪ねております。本堂にてお待ちです」

「私にですか? 珍しい」

 

 織田に仕えてから日の浅い自分に誰かと思いつつ、光秀は住職の言葉通り本堂へ上がる。

 

「お待ちしておりました」

「徳川殿、安土より堺に向かっていたと聞いておりましたが」

「堺の見物も終わり、三河に戻る前に挨拶をと思い、参りました」

 

 徳川家康は笑顔で深々と頭を下げる。穏やかな雰囲気をまとい、桃色の髪に小柄な背丈。一見、町娘と思われてもおかしくない。

 

「安土では明智殿に饗応役を務めて頂きながら、御礼の挨拶も出来ず、失礼を致しました」

「いえ、私が急遽役を解かれ、中国への援軍を求められたのですから。致し方の無いことです」

「それが今度は京の守備ですか。相変わらずのようですね」

 

 苦笑いを浮かべる家康を見て、かつて彼女が織田の人質であったことが思い出した。分かってくれているのは織田の家臣だけでなく同盟国の主までもとなれば心強い。

 

「しかし、信長様の下には行かぬのですか?」

「生憎、今は貴族の方と会見しているそうなので」

 

 おそらく官位についての問題だろう。貴族側は信長を何としても味方にしようと関白、太政大臣、征夷大将軍の地位を与えようとしているらしい。しかし、天下統一が目的である信長にはどれも意味の無いものらしく、平行線のまま今日まで来ている。

 

「時に、明智殿はいつまで京に?」

「明日までにございます」

「それは良かったです。ぜひ、明智殿とは一度こうしてお話をしたいと思っておりましたから」

 

 おそらく、新しく入った自分の品定めだろうが、笑顔で言われると悪い気にはならない。

 

「それはそれは……では、茶の支度をさせましょう」

「大丈夫です。先程、住職殿から頂きましたから。京の方は羨ましいです。あれほど美味しい茶と菓子を頂けるのですから」

 

 今度は光秀が苦笑いを浮かべる。客を確保するためとはいえ、相変わらず手が早い。家康の前で無ければ盛大な溜め息を漏らしていたところだ。

 

「それで、話とは?」

「ああ、そうでしたね。先程も申したように今日は以前の御礼に参りました」

「ですから、そのことは……」

「いえいえ、きちんと御礼はさせて頂かないと。それに、明智殿はこれまでも苦労されているのですから。ささやかながらこちらを……」

「これは……」

「堺で商人から勧められた茶器です。明智殿の好みでは無いでしょうか?」

「いえいえ、とんでもない」

 

 光秀が好きな色である淡い水色の茶碗。手触りが極限まで滑らかにされていて、厚みもなく、これまでのような唐物の模倣品でもない。

 

「本当に、よろしいので?」

「はい。それとも、お好みではなかったですか?」

「いえいえ。しかし、このような物をどこで?」

「私が明智殿にと仰ったところ、ある商人が貴殿のことを知っていると申されて」

 

 咄嗟の嘘だと光秀は思いつつも「では、有り難く」と礼を述べる。自身に堺の商人とはそこまで繋がりは無い。おそらく家康自身、商人の押しに負けて買った物を価値が本当にあるのか分からないから折角。といったところだろう。だが、このような物は信長も持っていないだろう。

 

「商人曰く、城が一つ買えるそうですが。本当なのでしょうか?」

「私も目利きは素人故に、正確には分かりませぬが?…もしかすると、一国とも取引出来るかもしれませぬ」

「そ、そんなにですか?」

 

 価値を本当に知らなかったままだったのようで、家康は目を見開いて光秀の手にある茶碗を見る。一気に自身の良心が痛むのが分かった。

 

「やはり、こういう物は徳川殿こそが持って相応しいかと」

「それは違います。やはり価値ある物はその価値を真に知る方が持つべきです」

「いえ、そのような……」

「良いのです。明智殿は美濃や京などを渡り歩き、風情の価値を分かっています。私は三河の田舎大名。そのような者に持たれていて、茶碗も喜びません」

 

 家康が経歴を知っていることに驚いた。その上で、価値を知ってもなお、渡そうとしているのは光秀のことをそれだけ信用出来る者としてくれたのだ。

 

「徳川殿、真によろしいので?」

「はい。これからも共に、天下の泰平のために戦いましょう」

「有り難き幸せにございます」

 

 信頼されることの嬉しさ、織田に仕えてから味わえなかった喜びが甘く胸に染みる。疑念も忘れ、光秀は額を床に付けんばかりに深々と頭を下げた。

 

 

 少ない休みはあっという間に過ぎてしまうもので、家康と別れた頃には既に夕暮れ時に差し掛かり、住職が掃除した庭を散歩している間にとっぷりと日が暮れてしまった。

 光秀は夕餉を取った後、特にすることも無いと確認し、早々に床に着いた。明日からは寝られない日が続く。深い眠りに付こうと何も考えずに目を瞑る。夢も見ない穏やかで、疲れの取れる眠り。隙間から吹く夏の夜風に当てられて気分良く意識を手放し、すぐに朝を迎える。そう思った矢先だった。外からうるさい足音がこちらに向かって来た。

 

「明智様、大変です! 本能寺より火の手が!」

 

 共に連れてきていた斎藤利三が甲高い声で許可無く、襖越しに報告してきた。だが、そのようなことを気にしてなどいられない報告が舞い込んできた光秀はすぐに起き上がった。

 

「鎧をここへ。直ちに手勢を率いて、本能寺へ!」 

 

 長い髪を振り乱して利三は慌てて走って行く。外に出ると確かに本能寺の方が赤くなっている。一瞬、夢かと思ったが、床の冷たさと湿った風が現実だと教えてくれた。

 

「さぁ、殿、お早く!」

 

 妹のような存在である彼女が鎧を着るのを手伝ってくれながら情勢を教えてくれた。突然、本能寺から火の手が上がり、あっという間に燃え広がったらしい。利三も今日は信長も帰ってきて、平和だろうと気を緩めていた矢先のことで、炎が完全に見えるまで気付かなかったそうだ。

 

「誠に不覚です」

「構いません……これで私も出られます」

「馬は既に用意しております。こちらへ」

「私はひとまず数名で村井殿に状況を伺います。利三は主力を率いて本能寺へ。仔細は任せますが、信長様をお守りすることを最重視するように」

「御意」

 

 光秀は利三と分かれ、村井貞勝が陣を構えているであろう向かった。屋敷から本能寺の場所と兵を動かすのに最適な場所を推測し、そこへと向かう。だが、その地に向かうため、通り過ぎようとした村井の屋敷で光秀は馬を止めた。あまりにも騒がしく、中から薬師を呼ぶような声も聞こえる。嫌な夜予感を覚えつつ馬を下りて屋敷の番人に声をかける。

 

「何者か!?」

「明智日向守。村井殿はどちらへ」

「失礼致した。急ぎこちらへ」

 

 通された屋敷に入ってすぐの客間に鎧姿の白髪の老人が横たわっていた。屋敷の主である村井貞勝その人が怪我を負っている様を見て、光秀は慌てて駆け寄る。

 

「村井殿! お気を確かに」

「あぁ……明智、殿……」

 

 頭に受けた傷は深く、動けないようだが、意識はまだあるようで安堵する。

 

「信長様は?」

「本能寺に……明智殿、やはり、我らは謀れたようですな……」

「どういう意味です?」

「今は、ともかく信長様を……拙者の手勢をお貸し致す」

 

 力尽きた村井はそこで意識を手放した。屋敷の者に彼を委ねると周囲にいた彼の手勢を率いて本能寺へと向かう。信長を狙う頃合としては確かに間違いない。しかし、今日本能寺で彼女が貴族と会見することは織田の家臣の中でも上の者しか知らないことである。

 

「斥候より報告。本能寺を囲む兵の数は二千とのこと」

「それほどの兵が……どうやって」

 

 こちらの兵は二百程度で、とても戦えるとは思えない。一瞬、思案に入ったが、すぐに頭を振って光秀は本能寺へ顔を上げる。しかし、それだけの兵が京に入るなら関所から報告がくるはずだ。確かに信長が関所の廃止を進めてから京の関所も減ったが、質まで落ちてしまったのだろうか。

 それとも知っている者だから素通りさせたのだろうか。だとすれば首謀者は限られてくる。嫌な予感を覚えつつ、光秀は本能寺へと急ぐ。その途上、抱いていた違和感が確信へと変わった。

 

「旗印が見えない……」

 

 夜襲は気付かれないように動くために旗を多く掲げない。しかし、同士討ちを防ぐために最小限の旗は掲げておく必要はある。余程、統率力に自信があるのだろう。だが、怯んではならない。

 光秀は真っ直ぐ境内へ突撃をかけた。周辺の屋敷は既に焼け落ちていて、あちこちで喧騒が聞こえる。信長に忠誠を誓う者達が謀反人に向かっているのだろう。しかし、多勢に無勢。すぐに声は聞こえなくなった。

 申し訳ないと思いつつ、本堂に向かう。信長を探すため、また味方を安堵させるために声を上げようとした時だった。

 

「な……本堂が、爆発?」

 

 見上げると瓦や何かの破片やらが飛散して降ってきている。同時に火の勢いは増え、とても中に入れるような状態ではない。

 呆然としている間に第二の爆破が襲ってきた。瓦や壁が光秀達に降り懸かり、頭や顔に望まぬ傷を負う者もいる。光秀は素早くその者たちを後方に回して、後方の者を前線に交代させ、消火と本能寺の中の捜索へと移らせる。

 しかし、中の捜索は火の勢いを考えるとかなり難しい。光秀自身も歯ぎしりしながら本能寺を見るしか出来ない。

 

「何故これほどの爆発が……」

「昨日、火薬がこちらに運び込まれたからです」

 

 聞き覚えのある声に振り向く。怒りよりも何故ここにいるのかという疑問がまず浮かんだ。仮面を被っていても分かる。ゆったりと近付いてくるその人物は光秀の表情と燃え上がる本能寺を見比べて、優越感に浸っている。

 

「貴方が……」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

咎人の末路

「おお~……官兵衛ちゃん見てください」

「うん。言われなくても見てるよ」

 

 京の東山にある寺から二人の小柄な女性が二人、本能寺と二条城を見比べている。どちらからも激しい炎が上がっていて、京の街どこからでも見えているだろう。

 そして、炎が同時に見せてくれているのは謀反人の旗印。桔梗の紋は紛れもなく明智光秀のものである。全ては半兵衛が毛利攻めに出ている秀吉のためにと触れて借用したもの。病で床に伏せっていても出来ることがあると言うと光秀は感銘を受けたような表情で快諾してくれた。

 その見返りがまさか今、光秀自身に返ってきているとは思っていないだろう。

 

「松永様より報告。明智を捕らえ、例の所に送ったとのこと」

「了解。龍兵衛にも伝えておいて。彼にそれからのことは任せるともね」

「はっ」

「……あれが軒猿ですか。確かに良い草ですね」

「まぁ、あれだけ使い回されればね」

「ふふふ。情報は宝、龍兵衛ちゃんの口癖でしたね」

 

 鼻で笑いながら官兵衛は視線を本能寺へと戻す。美濃にいた頃はよく言っていた。たしかに情報が多く、正確であれば何事も有利に進む。しかし、上杉に来て彼の口からその台詞を聞いたことは無い。

 言うまでもないと思うようになったのか、それとも持論を言う暇も無いほど、追い込まれているのか。

 

「そういえば家康さんが京にいると聞いたので一緒に倒したいのですが、生憎、見失ってしまいまして」

「ああ、それなら大丈夫。生きていようが死んでいようが変わりないって」

「そうなのですけど。美濃を取られちゃうかもしれないのでーなるべく手を打っておきたいのです」

「んー道中どこを通るか分からないし……何ともねー」

「とりあえず、半兵衛さんも義龍さんの下に行きます。あの方が避難してくれないと困るので」

「大丈夫なの? 播磨で療養していることになっているのに」

「はいー道三さんが取り持ってくれているので」

 

 ならば大丈夫と官兵衛は頷く。三人で誓った斎藤の復興。天下がいかに変わろうとも美濃斎藤を守る。その上で最も邪魔である織田の排除は秘めたる宿願であった。だが、織田包囲網は全く機能せず、上杉と武田との和解も上手くいかずに滅ぼさなければならなくなったため、破産してしまった。結果として織田は畿内を平定し、紀州の雑賀を除いて中央のほとんどを制圧した。

 しかし、諦めるわけにはいかないと官兵衛と半兵衛が上杉と毛利による挟撃策を講じ、丁度、龍兵衛が織田への工作を命じられた。官兵衛は彼から命令の内容を聞くとすぐに半兵衛に手紙を送り、毛利に向かう前に京に立ち寄ることにした。その後、龍兵衛を含めた三人で密かにやり取りを行い、影の協力者を集めて無事実行に移せた。

 官兵衛と龍兵衛だけでは不完全なものになっていただろう。しかし、半兵衛が仮病で毛利との戦線から戻ってきたことで、確実な京の情報が入手出来た。

 

「ほんとにありがとね」

「いえいえ~御礼されるほどではありませんよ」

「でも、井上を倒すために頑張っていた後なのに無理させちゃったから……」

 

「大丈夫ですよー」と笑顔で首を振る半兵衛を見ると胸が痛む。生来、病弱である彼女は戦場でも気を失うほど危ない時もある。

 だからこそ、斎藤の宿願である井上道勝の排除ではかなり力を入れたのは想像に難くない。立て続けに信長の暗殺という負担の重い任務のために内側で暗躍してきた。その代償は着実に彼女の体を蝕んでいる。

 

「また会えなくなるけど、元気でね」

「ええ。龍兵衛ちゃんにも無理はしないでご自愛を。と伝えて下さい」

 

 穏やかな笑みを浮かべる半兵衛に官兵衛もまた無邪気な笑顔で応える。半兵衛と接しているとこの時が一番辛い。

 明日、突然彼女が死んでいるかもしれない。

 一緒にいる時から時折来る不安から眠れなくなる時があった。離れ離れになればその不安は常に付きまとうようになる。いつ敵味方になるか分からない時に他家に仕えている者同士で手紙のやり取りはいらぬ疑いを持たれる。ならばいっそ、と思った時、背後から声をかけられた。

 

「半兵衛さんのことは大丈夫です」

「え?」

「道三さんも義龍さんも稲葉さんも生きてます。秀吉さんも良くしてくれています。だから……」

 

 半兵衛は官兵衛の目を真っ直ぐ見る。

 

「三人で会える日が来るまで死にません」

「……ずるいなぁ」

 

 聞こえないよう呟く。普段の穏やかな雰囲気とはかけ離れた毅然とした表情。いずれ刃を交えるかもしれない間柄なのに、信じていられる固い信念。半ば諦めていたはずなのに、ふつふつと実現したいと思わされてしまう。官兵衛は嬉しさで綻ぶ顔を見せないように本能寺へと目を向ける。

 

「そろそろ行かないと……」

 

 信長が死に、畿内は再び荒れる。それに乗じるため、毛利の下に向かい、戦をけしかける。

 

「上手くいくと良いですね」

「大丈夫だよ。成功させるから」

「楽しみにしています」

「ん。じゃあね」

「お元気で」

 

 官兵衛は半兵衛を置いて一足先に山を下りた。最後に向けられた言葉に返事をするべきか、悩んだが、すればまた会話が続き、ずっと一緒にいたいと思ってしまっていただろう。

 再び真っ当な環境の中で三人が揃い、暮らせる日を祈るしか出来ない。それを叶えるために官兵衛は西へと歩を進める。

 

 

 外から聞こえてきた足音で光秀は目が覚めた。不意を突かれて気を失い、ここに運ばれたのだろう。頭だけ動かすと窓一つも無い殺風景な部屋に一本の蝋燭が辛うじて灯りを灯している。案の定、腕は後ろ手に縛られ、下手に動くことが出来ない。

 しかし、このままではまずいことも事実。信長が死に、村井もあの様子では長くはもたない。自ずと容疑が自身に向けられる。かの者が信長を討っただけで自身の復活を遂げたと宣言はしないだろう。その先に何を求めているのだろうか。

 廊下からこちらに近付く気配。近付く足音は重く、女性のものとは思えない。扉が開かれ、相手の顔を認めると光秀は怒りよりも先に納得してしまった。

 

「おはようございます。光秀殿」

「……河田殿。やはりそうでしたか」

「あの者だけではあれだけのことは出来ない。ならば黒幕がいる。それで、でしょうか?」

 

 無言で頷く。千以上の兵力を死んだ人間が持てることなどあり得ない話だ。現に光秀は裏にある存在を感じた時、真っ先に龍兵衛を疑った。

 

「まぁ、時の都合が良すぎましたからね」

「ですが、真の黒幕は別にいるのでは?」

「随分と飛躍しましたね。残念ですが、それはありません。首謀者は自分です」

「河田殿が首謀者ではありません」

「何故? 他に首謀者がいるとでも?」

「何故に、貴方は今ここにいるのですか? それが一番物語っているでしょう」

 

 薄ら笑みを浮かべる龍兵衛を睨みつつ、嘘だと悟る。謀略の首謀者は自ら手を下すことはない。おそらく龍兵衛の企みは織田の調略であり、信長を殺すことまでではないだろう。それは先日会っていた時から分かっていたことであり、目を瞑っていた。

 信長を脅かす存在を炙り出すことで、より織田の盤石を築ける。それぐらいの余裕が織田にはあり、重臣達の結束も信長の下で固くなっている。

 

「……これ以上の追及は貴方のためになりませんよ」

「なら、問いを変えましょう。信長様を討伐した後、再び義昭様を天下に呼び戻すのが上杉の考えですか?」

「生憎、謙信様がそのつもりでも、そのようなことは自分がさせません」

「なっ……まさか……」

「決めたのです。上杉が作る新たな世を目指し、日ノ本を統べる。そこに足利など関係ない」

 

 僅かながらび抱いていた希望を裏切られ、心から怒りの炎があがる。

 

「義昭様を殺すと?」

「あの炎はその合図。正に新しきを進みすぎた織田が滅び、そして古き足利幕府の終焉を迎える。その布石です」

 

 縛られた手首を力任せに動かす。しかし、玄人のものはそうやすやすとほどけるものではない。無駄な抵抗だと龍兵衛は光秀の手首を静かに押さえる。

 

「光秀殿、貴方は本当に偉いお方です」

 

 龍兵衛は唐突に光秀を褒めた。彼女も目を見開く。何故、龍兵衛が称えたのかという疑問よりも言い出したのか分からないという疑問の方が強く、訳を聞かせて欲しいと目で訴えると彼は頷き、口を開いた。

 

「しかし、貴方は潔白で偉過ぎるのです。だから、何か裏があるのではと疑う者が多い」

 

 立て続けに龍兵衛が駄目出しを言うと光秀は眉間に皺を寄せ、唇を噛み締めて苦悶の表情を浮かべた。

 龍兵衛の答えは他にあったのだ。しかし、光秀は受け入れることの出来ないことを言われてただ黙るしかない。確かに足利幕府再興の為に他のことには目が疎かになることもあっただろう。光秀にとってそれは拾ってくれた恩義に報いようと滅私奉公をしてきたがためであった。

 

「ただ、主のために尽くしていた結果がこれですか……」

「少しぐらい己の欲を見せた方が良かったかもしれませんね。信長殿の下でも同じようにしていたのでは?」

「故に、怪しまれていると……なるほど、貴方はあえて先日は本当のことを言わずにいたことで、今宵のことを実行しやすくしたのですね」

「貴方が義昭様のことをまだ想っているとも感じたので」

 

 光秀は否定したいが、口を噤む。義昭が追放されたとはいえ将軍の彼女を慕い、着いて行った者もいる。光秀も付いて行こうと考えた時もあったが、共にいた細川親子が織田に降った以上、付き従うしかなかった。

 未練はあったが、それを忘れるように信長に尽くした。もしかしたら信長もそれを見抜いていたのかもしれない。

 龍兵衛は疲れたのか座り込むと眉間にしわを寄せて口を開く。

 

「貴方の前ですが……この世に人がいる限り、いずれまた戦が起きます」

「そんなことはありません! きっと未来永劫に続く太平の世は必ず創ることが出来ます!」

 

 光秀は普段の冷静さを無くし、声を上げる。考えを真っ向から否定されて平然としていられるほど、図太い者などいない。鬼気迫る怒気は多少の者なら怯んでそれ以上は言えずに言われるがままになっただろう。だが、龍兵衛は真っ直ぐに光秀を見る。哀れむような目を向けないでほしい。しかし、彼女が口にする前に彼の言葉が先になった。

 

「否、歴史で今まで未来永劫に続いた平和など、日ノ本にしろ朝鮮や明にも南蛮にさえどこにもないのです」

 

 南蛮については分からないが、確かにその通りかもしれない。だからこそ、これまで出来なかったことを光秀は見てみたかった。身分にとらわれず、生きとし生けるものが手を取り合い、平穏に生きる世を。

 たとえ今にように惨めになっても夢を見続けたい。光秀は体を許す限り乗り出す。

 

「ならば、貴方は何故そのような世を創ろうとしないのです?」

「人が国を創るのです。人は神や仏と違い、邪な欲を多く持つ。だからこそ、一度世を治めても必ずどこかで滅ぶのです」

「ええ。故に今、私は足利、織田と可能性を探っているのです」

「未来永劫に続く平和な世を? 冗談じゃないです。不可能ですよ。人がこの世に生きている限りは、必ず醜い争いがたとえ戦で無かろうと続きます。だからこそ、自分はどのような手を使ってでも一時の平和を望んでこうしているのです」

「されど、諦めていては何も始まらないのではありませぬか?」

「光秀殿、貴方は人と時を見誤ったんです。何故にそこまで物事に固執するんですか?」

「平穏な世を作るには我々、人が清廉であり、等しくなければ。そのために、上に立つ我々が示していかなければならないのです」

 

 龍兵衛は溜め息をつき「あと四百年遅ければ……」と意味深なことを呟く。

 

「光秀殿の理想はとてもではないですが、空論に過ぎません。残念ですが……今のままでは手を取り合えないでしょうね」

「ならば、貴方は私を情勢に乗って他家に寝返った者としての汚名を着させるつもりですか?」

「そうです」

「卑劣な。いつから貴方はそのようになったのですか?」

「美濃を追われた時からですよ」

 

 光秀は唇を噛む。龍兵衛はかつて汚名を負い、追放されることになった。

 

「汚名……まさか」

「光秀殿を殺すならせめて寝ている間にしていましたよ」

「……結局、乱世では信義など無いということでしょうね」

 

 ゆっくり近付く龍兵衛に非難の目をぶつける。しかし、それで彼の足が止まるはずもない。むしろ嬉々としているようにすら感じる笑みを浮かべている。

 

「ええ。人の本質は悪なのですから」

「ならば、それに習い、貴方は私に謀反人としての誹りを受けさせようと?」

「……」

「その無言は肯定ですか?」

「どう捉えられても結構。しかし、貴方が謀反人ではないことを叫んだところで、誰も信じないでしょう」

「そうでしょうね。それ故に私は自ら死なないようにこうして捕らえられている。汚名を被るために」

「それでこそ、貴方は明智光秀殿として生きた証となるのです」

 

 龍兵衛がそう言い終えた同時に背後に人の気配を感じた。正面にしか気を配っていなかった光秀は背後から突然襲って来た忍に気付かず、手刀をまともにくらってしまい、視界が一気に狭まった。

 

「隙を見て、死のうとしているのは分かっていましたが、貴方にはまだ生きてもらわなければなりません。最期はまたこの後、大舞台でお願いします」

 

 大舞台では自身が惨めに裏切り者として誅殺される。分かっていてそう言うとは龍兵衛も口が達者になった。その詫びの代わりだろうか、彼は光秀を抱えて丁寧に横にする。

 思うように言葉が出ない。怒りと恨みを込めた言葉をせめてぶつけたい。外道、鬼畜。それらの言葉を並べても龍兵衛に届かないだろう。しかし、考えとは裏腹に彼の口調は非常に穏やかであった。

 

「さらば、光秀殿……」

 

 龍兵衛は待機していた配下に監視を命じ、深々と頭を下げて外に出る。

 何故、頭を下げる必要があるのだろう。光秀は疑問を口にすることも出来ず、意識を手放した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

薄紅の華が散る空に

 本能寺のみならず、上京にも燃え移った火は住んでいた人々に悪魔が火と化して襲って来たように思えただろう。

 逃げ遅れた者は火の海に飲まれ、逃げ切れたとしても着の身着のままで逃れた人々は生活の糧を一夜にして失い、目の前で金が全て海の底に沈められたような衝撃を受け、膝から崩れた。 

 そして激怒し、このような事態に陥らせた者を憎んだ。

 世間で魔王と騒がれていたとしても自分たち商人の発展のために様々な政策を立て、治安維持に努め、生活を豊かにしてきた信長は大恩ある御仁である。彼女がいたかこそ成し得たものは死ぬまで続く。そう信じていただけに京の商人は突然のことに大きな衝撃を受けた。

 それ故に明智光秀が反乱を起こしたと知ったことで、商人たちはこぞって丹羽、羽柴、柴田といった有力家臣を頼った。信長の下で団結していたはずの商人が割れたことは支援を受ける家臣達も思惑が変わり、そこから徐々に対立が起こる。その隙に機会を逃さずに謙信を急いで京から脱出させ、関東平定へと動き、背後を万全にして京に上る。

 

「……如何でしょう?」

「うちは悪くはないと思います」

 

 特有の訛りのある口調で千宗易は答える。彼女の屋敷から少し離れた山林の中にある三畳半の茶室はその狭さ故に身を引き締められる思いがある。

 宗易が一段落付いた龍兵衛に対してまだこれからだと思わせるために招待したのだろうか。否、と龍兵衛は志で首を横に振る。ある時まではここは無限の広さを感じるほどに錯覚を起こし、寝転がりたくなるような落ち着きがあった。だが、今の茶室は異様に狭く、居心地が悪い。その中で動かずに入れるのは茶室が暗く、まるで恐怖で体を動かせないような状況にしているからだろう。

 

「悪くはないとは?」

「関東の北条は佐竹と里見で手一杯。一気呵成に京に来られれば良いものを」

「あいにく、佐竹や里見もまだ完全に服従した訳ではないので」

「武威を示してから、と……ほんにお武家さんは難しく考えることで」

 

 宗易は溜め息を吐きながら手際良く湯を茶碗へ入れる。

 

「北条はいつ頃倒せるとお考えで?」

「一年で必ず」

「ほんまに?」

「さる御方に依頼して調略をしております」

「道二はんは息災で?」

「ええ」

 

 自然と宗易の表情が緩む。愛弟子の無事を心から安堵していると悟った。

 茶を立てる音が消え、龍兵衛の前に碗が置かれる。すぐには飲まず、彼は鉄扇を上に乗せ、しばらくして何も変化が無いことを確認するとゆっくりと茶を一口飲む。そして、少し間を置いて息を吐くと一気に飲み干した。

 

「そんなに気にせんと河田殿に毒など盛るはずがありません」

「隣にいる御仁を見て、安心出来るはずがないでしょう」

「まぁ、それは否定しません」

 

 微笑む宗易を見て、龍兵衛は背筋が冷えた。彼女もまた、そういう人なのだと確信し、利用するかされるかの争いを繰り広げていかなければならないと思い、内心の疲労が一気に溜まった。

 碗を宗易の方に置き、彼女が拾うのを見計らうと龍兵衛は口を開く。

 

「唯一の目撃者である村井貞勝も死に、松永殿が実行したと言っても信じてくれる者はいないでしょう」

「それでも、この御方は好みが強さ故、ひびが入れば元には戻りません」

 

 隣で倒れている松永久秀その人を一瞥しながら、宗易は終い支度を始める。

 

「それは自分も否定はしませんが、力を抑えておけばなかなかに働いてくれたのでは?」

「心にも無いことを……河田殿とて、いずれは松永殿を殺すつもりだったのでしょう?」

「否定は出来ません。しかし、まだまだ京に上るのが先である以上、彼女にはもう少し手駒として動いてもらいたかったのですがね」

「信長殿が死んで、畿内は混乱の中、そこで松永殿が一気に領土を回復するかもしれませんよ? まさか、それも踏まえても構わないと思うておるのです?」

「ええ。松永殿がそこまで大きくなるとも思えないですし。もし見当違いでもそれはそれで……」

「ふふ……面白い人どすなぁ。まるで謀を楽しんでいるかのよう……」

 

 龍兵衛は苦笑いをして頭を振る。謀を駆使しているのは上杉を天下統一の立役者にするため。それを邪魔する者を消すために行っているのだ。

 

「宗易殿とて、よほどの策士かと」

「松永殿は元々死んでいた方。いなくて当然でしょう」

「しかし、謀略に生きた極悪人の末路がこれとは、いささか残念です」

「世ではすでに火の中で無くなった方。今の内に死んだ方が幸せでしょう」

「貴方は恐ろしい」

「いえいえ、河田殿には叶いませんえ。信長殿を殺める提案は貴方はんからもろたことですし」

「されど、その提案を受け入れ、実行まで動きやすくしてくれたのは宗易殿です。この恩は感謝しきれないものです。しかし……上京まで焼き払うのは自分も想定外でした」

「ええ。あれはうちがやったことです」

「あなたは堺の出ですが、ここまですることはないでしょう」

「勘違いをせんと……あれはうちが京を好みに変えるためにやったことです」

 

 表情は変えないが、龍兵衛の宗易への危険視がさらに強まった。上京が燃え、再興には多大な資金がいる。そこに宗易が手を差し伸べ、介入しやすくして宗易好みの街を作ろうとする。しかし、そのために関係の無い者を殺めることを平然と行う。

 

「案ずることはありまへん。謙信殿はご無事だったでしょう?」

「今頃は近衛殿との会見をしているかと」

「あの関白様も随分と剛胆なことで」

 

 宗易は呆れたと肩をすくめる。謙信が延期を申し出たにもかかわらず、関白近衛は向こうからこういう時だからこそ隠密行動が出来るということで予定通り実行されることになった。

 

「後、河田殿に一つ勘違いをしないで欲しいことが」

「何でしょう?」

「上京への放火。うちはうちだけで決めた訳ではありまへん」

「まさか、松永殿が……?」

「いえ。この方にも知らせてはいまへん」

「……まさか」

「はい。お墨付きをもろてます」

 

 前のめりになっていた姿勢を戻す。宗易に湧いていた殺意に近いものが一気に冷めた。宗易の独断でなければ何か考えがあってのことだろう。もちろん、京復興の資金を上杉が出すことで民の評判を高めることは当然である。しかし、さらに深い考えがあるからこそ、あえて上京を焼き払うというかなり危険なことを許可した。

 

「理由は?」

「うちは何も」

「やはり、か」

「気になるのであれば、直接会いに行けばよろしいのでは?」

「あまりこそこそと動いていては謙信様が疑われます」

「確かに、今あの地に出向くのは少々不自然どすなぁ」

「書状にてやり取りは続けております。それ故に、教えてもらえるのは時の問題かと」

「あの方に教える気があれば、の話やろ?」

「ええ。しかし、今回のことは説明無ければ得心がいきません。宗易殿とは違い、明確な利益がない」

「うちのためだけに動く人でもないでしょうし」

 

 宗易も本当に見当が付かないらしく、目を伏せてしまった。

 

「時に、宗易殿はこれからどうするおつもりで?」

「当分は羽柴殿に付こうかと」

「柴田殿や丹羽殿は?」

「柴田殿も丹羽殿も上に立とうという器量がありまへん。堺や京を守るにはやはりそれなりには導く方がおらんと」

「なるほど。やはり信長殿の力は強力だったと」

「ええ。察しのええことで」

 

 宗易は穏やかに微笑む。上杉に助力したとはいえ、身近に頼るところは、やはりこの辺りは商人といったところだろう。そして、龍兵衛がここで彼女を殺さないと分かっているから、平然と誰に付くのかも言える。

 恐ろしい人だと思いつつ、彼はこれで話を終わりにしておく。

 

「時に、お願いしていた金や銀の交易はいかがです?」

「堺は信長殿が倒れ、動きやすくなったので大丈夫かと」

「対となる品の支度は?」

「万事つつがなく。南蛮の物から茶器、様々な品を見繕っております」

「感謝致します。それから……」

 

 龍兵衛は袖の下に隠していた袋を取り出し、宗易の前に置く。

 

「これは?」

「密かに南蛮より得た価値の高い石。宝石と呼ばれるものです」

 

 宗易は重みを確かめるように何度か袋を上下させてから紐をほどいて中をあらためる。色は茶色く、輝きは緑色や透明なものとは程遠い。

 

「ふむ……」

「黒はなかなか難しく、これから腕を磨くことが必要かと」

「そもそも、日ノ本で売れるもの違います?」

「確かに、日ノ本ではまだまだ価値など無いでしょう。しかし、外つ国人にはいかがです? ひけらかさず、隠さずに……闇商人なら腐るほどいるでしょう?」

「……ふふふ。河田殿、貴方も随分と人が悪い。惹かれてしまいそう」

「悪い冗談は脇に置いて。では、これはお譲りします」

「まぁ。それほどうちのことを信頼してよろしいので?」

「死線にわざわざ飛び込んでくれたのです。それだけの見返りは必要でしょう」

「手付けだけでもあれほどやったのに……ほな、貰っておきます」

「では、これに判を」

「お待ちを」

 

 宗易が龍兵衛を鋭い口調で止める。何故だか喉元に刀を突き立てられている感覚に襲われ、背筋が凍る。

 

「何か」

「金の価値を下げるような真似をしてよろしいので?」

「我々が売ることで金の価値はむしろ上がります」

「出し惜しみはするな、と?」

「左様。価値のあると思わせるのは外つ国人にのみ。彼らの銀を自分は欲しているのです」

 

 宗易は目を丸くする。龍兵衛の思惑を全て理解し、驚き、最後には笑ってしまった。

 

「これほど面白い人に会ったのは久しぶりや」

 

 龍兵衛の出した書状を宗易は受け取り、一読すると迷い無く署名をした。書き終えた書状を確認し、龍兵衛はそれをしまう。

 

「銀山の価値が落ちてしまうのやろか……」

「銀はあくまでも中継ですよ」

「はて?」

「琉球や蝦夷、朝鮮にはまだ見ぬ代物があるのでしょうね。そして、それを元手に侘びの美が見出されることも……」

 

 宗易は龍兵衛の大きな独り言を聞いた途端、滑るように彼に近付き、耳元に口を寄せる。

 

「その商いの才、本気で惚れてしまいそう」

「冗談には乗らないほどには」

「うちは別に本気にされてもええんやけどなぁ」

「今は現を抜かす時でもないでしょう。それに長々とここに留まっていると自分が怪しまれます」

「致し方ないですね」

「そもそも、亡骸の隣でなど、その気にもなれません」

「あら、うちは一興やと思うとります」

 

 宗易が自らの欲望に忠実であることを忘れていた。彼女は自ら望むものなら、天下人や修羅の道を歩んだ同胞さえも石ころのように蹴落としてしまう人間だ。もし、謙信も自ら望む世と違うと悟れば再び動くだろう。そのような危険人物はさっさと亡き者にするのが一番だが、彼女の名声は轟いており、下手に動いてこちらの首を絞めるようなことになるのは下策。

 龍兵衛は宗易の目を上目で見る。一見穏やかで、虫さえも受け入れるような表情をしているが、眼の中は静かかつ確かに己の望む世の創造に向けて燃えている。何となく史実で秀吉が宗易を徐々に疎むようになった理由が分かるような気がした。

 

「では、もうこの場はこれにて……結構なお点前にございました」

「お招きに応じていただき、感謝申し上げます。また、今後とも末永きお付き合いを」

「ええ。いつしか、上杉が京に上る時に」

「あ、そういえば、あの方がそろそろ目的も果たせそうだから、と仰っていましたけど……何のことです?」

「……なるほど」

「分かるのです?」

「ええ。宗易殿、改めて此度はありがとうございます」

 

 宗易は静かに頭を下げる。京とのつながりは今まで越後から派遣していた者に任せていたが、直接、影響のある者と誼を結べたことは上杉にとって大きな収穫となる。たとえ宗易が腹の内では上杉を裏切るつもりでも情報が集まるのは大きい。

 龍兵衛も今後の成果を期待しつつ頭を下げる。信長の死んだ後、儲けのために繰り広げられる競争に上杉が立つ、次の一手を考えながら。

 

「それで、この遺体は?」

「うちで片付けますさかい。ご安心を」

 

 茶器の片付けに手を動かして遺体に見向きもせず、宗易は返してきた。龍兵衛もそれに習い、振り返らずに茶席を立った。

 松永久秀という悪党の最期の場所が戦場ではなく茶席というのは数寄者である彼女にとってはある種良かったのかもしれない。居城で死ぬよりも生き恥を選んだのは紛れもなく彼女自身である。

 だが、信長の暗殺を手伝う代わりに大和の所有を保証するという嘘を信じるほどに執念に燃えていた割には随分と呆気なく感じるのも事実である。

 松永久秀という梟雄とも呼ばれる人物ならこれを足がかりにさらなる飛躍を遂げようと画策できたはずだ。以前会った時に見た彼女の目は野心と欲望に満ちていたが、結局表舞台には全く立てずにただ三悪を成した生涯にあの世で彼女は何を思うのだろう。

 

「まぁ、考えても仕方ないか」

 

 尋ねようにも死人に口は無く、久秀の野望の終着点はとてもではないが見えない。おそらく理解しろと言われても分からないだろう。だからこそ、人が彼女を避けて完全な独立をして大名の舞台に立てなかったのかもしれない。

 彼女がどのような態度で人に接してきたのかは推測の域を出ないが、同じ謀の人間でも道三のように人間味を家臣に見せていればもう少し変わっていたかもしれない。

 結果、宗易殿も信用しない人間になったのだから人の猜疑心はいとも簡単に揺れ動くものだと龍兵衛は肩をすくめる。

 人は少しぐらい本性を垣間見せることが必要なのかもしれない。それが誰であろうと一人ぐらいには。

 

(まさか……)

 

 龍兵衛はあることに気付いて足を止める。

 宗易が久秀をわざわざ龍兵衛の前で殺したのは彼に対する警告でもあるのではないか。

 誰か御家の中に真の自分をさらけ出し、欲を素直に出せる者を置くことが身を守ることであり、そうでなければ、久秀の二の舞になる。

 

「とはいえなぁ……」

 

 龍兵衛は首をかきながら再び歩き出す。官兵衛にさえ本当の自分として接していないと悟られていたと思われていたのは予想外だ。実際、そうなのかもしれない。

 本当の自分を知っている人など上杉にはいないのだから。

 何度目か分からないほどの溜め息を吐き、龍兵衛は顔を上げる。

 まだ京の街は焦げ臭く、肉の焼ける匂いがしていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

葉隠れの出逢い

 龍兵衛は千宗易と会談を終えた後、謙信達と無事再会し、宿に戻った。幸いにも全員が無事であり、怪我を負った者もいない。しかし、皆の顔には疲労の色が伺える。京に来るまで全く予想だに出来なかったことが起きたのだから無理も無い。

 

「官兵衛は無事に京を抜け出せたのか?」

「護衛に付けていた手の者が先程、問題なくと報告をしてきました」

「……」

 

 龍兵衛の答えに応じず、謙信は置かれている地図に目を落とす。京の守りは織田によって厳重なものとなり、謀反を起こした明智光秀の行方もまだ分からずじまい。噂では明智の一族郎党が織田による策略ではと疑い、戦支度を坂本で行っているらしい。

 代償として信長が死んでいるにもかかわらず。やはり、巨大な者の死は思考を正しいものでは無くすのだと龍兵衛は一人納得する。巷では信長の亡骸が見つからないことから密かに逃げ延びたという噂もあるらしい。幾度も起きた爆発によって死体をあえて見つけにくくさせたことが功を奏したようだと唇が上がりそうなのを堪える。

 数秒の後、謙信が考え事に整理がついたと「ふぅ……」息を吐いたため、顔を上げる。謙信は皆が揃っていることを確認するように順番に顔を見定めると口を開いた。

 

「さて、近衛様は織田討伐について話し合っていたが、この様とは、と笑っていた。そして、信長が消えたとはいえ、まだ織田の家臣は健在であり、信長の妹である信行が近江にいることも憂いていた」

「つまり、早く越後に引き返し、毛利との盟が成った後、織田を討てと」

「ああ。近衛様も耐えているようだが、宮中の者はなかなか……」

 

 颯馬の問いに謙信は肩をすくめる。どの道、貴族は誰かに保護されるのだから誰が上洛しようとも変わらない。心証の問題だろうが、どこの武家が上洛しようと貴族は武士の下に置かれる。分かっているからこそ関白近衛は諦めている。

 

「龍兵衛、織田の守備だが、どこか突破出来るところはありそうか?」

「近江に抜ける道こそ最も安全かと」

「あえて敵中に入るのか?」

「御意」

「しかし、近江は織田の本拠。越前には柴田勝家が待っている。そうやすやすと抜け出せるか?」

 

 謙信のもっともな発言に皆が頷く。この状況下で近江の関所もかなり厳しくなっている。そこで領内から出るのは怪しんでくれと言っているようなものだ。まだ忍びや傭兵集団の方が正体を知られた時のことを考えても生き残れる可能性があると皆が踏んでいるのだろう。

 

「本能寺の変により織田の目は京に向けられています。近々、信行を祭り上げる者と自ら天下を取ろうとする者の間で跡目争いが始まるでしょう。近江や越前は確かに今は危険ですが、早い内に逃れなければさらに本国に戻るのは難しくなります」

 

 ここは引けないと龍兵衛は口調を強める。

 

「伊賀を越えて東海道沿いに進み、甲斐へ出ることも可能ですが、危険なことに変わりはありません」

「織田の主だった者が四散している今、混乱に乗じる必要があるということか」

 

 謙信は一呼吸置いて「分かった」と頷き、今夜には脱出すると命じた。

 謙信以外の者が出ていくのを見計らい、龍兵衛は最も気になっていたことを尋ねる。

 

「近衛様との会談はいかがで?」

「良い返事を得ることが出来たぞ。後は我らが無事に越後に変えることが出来ることを祈ると」

「戻ることへの助力は無しですか……まぁ、致し方ないですね」

「貴族にも疑いの目を向けられている。やむを得ぬだろうが、これ以上は限界だろうな」

「関白様のお墨付きを我らのような者が持っていると怪しまれても仕方ないでしょうから」

「龍兵衛まさか……」

 

 訝しげな表情を浮かべる謙信に無表情で頷いてみせる。それによって彼がどうしようとしているのか察したのか、謙信も覚悟を決めたように顔筋が引き締まる。

 

「手はあるのか?」

「京に向かう道中、内通に応じた者に今一度使いを遣わし、協力を求めております。本能寺のことを聞けば織田への従属から解放されると思ってもらえればどうにかなるかと」

「その仔細は任せる」

「御意」

 

 謙信が立ち上がると龍兵衛もまた外に出ようと腰を浮かす。それと同時に謙信も何かを思い出したように手を叩く。

 

「それから、大友にもよろしくと言っていたな」

 

 龍兵衛は立てかけた膝の動きを止め、謙信を睨むように見る。

 

「大友も反織田になると?」

「毛利との諍いを義昭様と近衛様が仲介したらしいぞ」

 

 龍兵衛は立ち上がり、おとがいに手を当てる。大友が織田に対抗するということは毛利との争いを休戦するということだ。もし可能であれば誼を通じておく必要がある。そして、大友との仲を取り持つ役を今、謙信は誰もいない部屋で彼らのことを伝えたというのは、龍兵衛に任じたようなものだ。いつものように失敗した時には彼一人の責任であるということにさせられる。幸い、大友には伝手がある。とはいえ期待の出来ないものであるが。

 気は進まないが、やるしかないと龍兵衛は溜め息を付いた。

 

 龍兵衛も他の上杉の者達と同様に上京に滞在していたが、大友の面々が一泊していたのは知らなかった。手の者からの連絡が無かったところを考えると大友もかなり隠密に動いている。近衛はそれを見越して謙信に情報を伝え、信長の死後でも諸国の大名が協力し合い、貴族を守ってもらうように仕向けているのだろう。

 武家に守れらたままでいればいつまでも天皇や貴族は実権を取り戻すことなど出来ないが、そこまでの考えを近衛程の人物が持っていないのだろうか。龍兵衛は近衛のことも調べなければと思いつつ、大友の拠点を探す。

 未だに明智の兵が目を光らせているが、気の弱い商人のふりをしていれば咎められることはない。しかし、大友の潜んでいる所に手掛かりが無い以上、見つけることはかなり至難である。そして、謙信は準備が出来次第明日にでも京を離れると言っていた。

 

「八方塞がりじゃねえか……」

 

 命じた謙信自身も分かっているだろう。無理にとは言っておらず、努力義務で龍兵衛に言ったはずだ。それでも行うのは、ただ彼自身の身を守るためである。手掛かりとなる場所を聞き出そうにも商人達は皆、互いに声をかけるような素振りも見せず、下を向いてただ店のことに没頭している。

 早めに諦めて逃げるかと元来た道を戻ろうと踵を返す。

 

「そこで何をしている?」

「……」

 

 背後からかけられた声に咎められた絶望感も命を失う恐怖感も感じなかった。足が一歩も動かなかったのは呆れからである。

 

「まるで威圧感の無い声だ」

「……少しは殺意を入れたつもりなんだけど」

「それぐらい戦でもどこでも向けられている」

「それもそうね」

 

 背後から溜め息を聞こえてきた。戦乱の世で少しは変わると思っていたが、少し安堵して振り返る。相変わらずの長い髪を後頭部で一つに縛り、背中まで下ろした髪に、やや吊り上がった目。女性にしては背が高く、一八〇はある龍兵衛の頭一つ下ぐらい。変わったのは激戦の中を生き抜いた証である傷の跡がいくつか頬や首元などに残っていることぐらいだ。

 

「久しぶりだな」

 

 会えないと思っていた人と会った時、一体どのような表情をすべきだろうか。表情筋の動きが分からないまま由布惟信の顔を見る。

 

「笑顔が笑顔じゃないよ」

 

 近付いてきて両手で頬を引っ張られる。少し痛いが、しばらくされるがままになっておく。惟信が無邪気に再会を喜んでいるのだからそうさせてやっても良いだろう。しばらく「うりうり」と楽しそうにしていた彼女だが、飽きが来た途端に「ところで……」と勢いよく頬から手を離した。

 

「何かうちに用事?」

 

 痛いと目で訴えるも届かなかったようだ。

 

「何でそう思う?」

 

 わざとらしく頬をさすりながら答える。

 

「宗麟様が上杉によろしくって言われたんだって」

「……それで、上杉も京にいて大友と繋がりを持つきっかけを探っているんじゃないかと?」

「その通り。まぁ、まさか貴方が探っているとは思わなかったけど」

「その口振りから察するに、お前も主からの命で色々と探っていたのか?」

「その通り」

 

 互いに笑ってしまった。偶然の産物はとんでもないことになってしまうものだ。

 

「時に、宗麟殿は?」

「生憎、今は不在よ。許可無く屋敷には誰も入れないことになっているから、悪いけど、また改めてね」

「あー、それは……」

「困るよねぇ。だから良いよ」

「は?」

「私が良いって言えば大丈夫」

「疑われたら体を張って俺を守れよ」

「素直じゃないなぁ。嫌われるよ」

「元々だ」

 

 惟信は反応に困ったのか何も言わずに苦笑いをしている。少しは否定してくれても良いと思うが、正直さは相変わらずに良くも悪くも残っているらしい。

 

「こっちよ。案内するわ」

 

 若干の沈黙の後、話を逸らすように彼女が手招く。一歩後ろでついて行くと話は自ずと再会するまでの話題になった。

 

「上杉は随分と勢力を大きくしているね」

「皆が頑張っているからな。だが、大友もなかなかだと思うが」

「まだまだよ。というか、何で知っているの?」

「どこで情報が利くか分からないだろう? 九州の統一を叶えられたのは流石だ」

「皆で頑張っているから」

「お前がいるからじゃないのか?」

「まさか、私は君と違って歴史は疎いの。でも、少しは役立っているみたいだけどね」

「大筒や鉄砲の大量生産による戦術の転換か?」

「……機密情報よ」

 

 惟信の目つきが鋭くなる。

 

「嘘付け。戦場で思いっきり音を響かせていると聞いたぞ」

「でも、知る必要の無いことでしょ」

「あるさ。もう戦場に出せるくらいの精度を誇る大筒のことは。まだまだ海外より入ってきたばかりのものを使う程ということはかなりの技術がいる」

「……欲しいの?」

「ああ」

「本当は使えないような代物かもしれないのに?」

「使えるから使っているんじゃないのか? 宗麟殿や立花殿はその辺りには厳しい方だと聞いているが」

 

 数秒の沈黙の後、でまかせを言っているわけではないと悟ったのか、惟信の表情が柔らかくなる。久しぶりに見る彼女の表情の変わりぶりには自身の鉄仮面と比例して面白い奴だと再認識させられる。以前、再会して依頼、特に書状でやり取りをしていたわけでもなく、袂を分かってまた会えるとも思っていなかった。

 しかし、あの頃に比べると随分と彼女に劣等感を感じる。景勝との交際を絶ち、自ら孤独の中に身を投じて心を殺したまま様々なことをしてきた。誰からも評価されることもなく、否、評価してくれる理解者も表立って喜ぶことの出来ない。

 

「盟約のこと、前向きに検討しておくように伝えるわ」

「本当か?」

「それだけ私達を評価しているのなら悪い気はしない……それにそろそろ、毛利とも和睦しようとしてたから」

 

 龍兵衛の目が見開き、それから自ずとおとがいに手が向かった。

 

「……どしたの?」

「いや……博多のことは良いのか?」

「全面的に大友のものよ」

 

 龍兵衛は記憶を辿るように額を指で叩く。数ヶ月前に得た情報の中にその記憶がある。

 

「確か海戦に勝ったんだよな?」

「それに将軍様が毛利を頼ったタイミングもばっちしはまったからね」

 

 龍兵衛の眉間のしわが深くなる。

 

「お前、まさか現代言葉をまだ使っているんじゃないよな?」

「しないよ。君だからするの」

「……鳥肌が立った」

「ひどくない?」

「話を戻すと……」

「無視された……」

 

 よよよ、と泣いた振りをしている彼女を虫を見るような目で無視しながら龍兵衛は話を続ける。

 

「成立したら四国征伐か?」

「うん、そうなると思うよ。長宗我部や西園寺は織田に付くらしいから」

「ただ、それは信長がいたからこそ。今の織田とはたして組むかどうか……」

「組むと思うよ」

 

 首を捻るが惟信の目は真っ直ぐに彼を見ており、少し目を見開く。

 

「断言するね」

「こっちから喧嘩を売ったから」

 

 彼女の言葉が真実だとすれば大友が毛利と和睦した理由とその先の考えが繋がる。あえて口には出さないが龍兵衛は顎を一回さするとよく分からないと首を傾げる。その様が嬉しかったらしいのか糸口を言った本人は満面の笑みを浮かべている。

 

「さて、ならこれで俺の仕事は終わった」

「もう良いの?」

「ああ、大友と上杉が手を組むためのきっかけを作るのが俺の役目だ」

「実現したら教えてあげる。じゃ、これで私も仕事は終わり」

 

 嬉しそうに惟信は音が出ないよう静かに手を叩く。

 

「……お前も上杉と近付くように言われてたのか」

「うん。宗麟様が直々にね」

「俺だって謙信様直々さ」

「じゃあ、話はこれで終わりね」

 

 部屋を漂っていた緊張感が一気に隙間という隙間を縫って無くなる。

 

「まさか、また京で出会うとは思わなかけど」 

「全く。本当に人生何が起きるか分からないものだ」

 

 互いに言葉を交わしながら、惟信は正座から足を龍兵衛の方に伸ばし、それを見た龍兵衛も体を後ろに反らし、両手を床に付いて体を支える姿勢になる。

 晴れやかに笑っている惟信は心底、再会を喜んでいるようだ。悪い気はしない。御家の域を越えて友を作れるということはなかなか無い。最近、謙信と信玄の話を聞いていたからなおさら心に染みるものがある。

 

「京の街はどうだ?」

「大分賑わっていたわね。貴族の人達も舞や楽器を楽しんでたみたいだし」

「楽器か……昔はお前がバイオリンを弾いて、俺は篠笛を吹いていたな」

 

 互いに思い浮かべるのはそれぞれの自宅で静かに鳴らす楽器音。それも特にこれをやろうと伝え合わずに奏で合う狂想曲。

 

「そうね。いつもお互いに気ままな曲で合わせながら」

 

 今思えばよく家族からの苦情が入らなかったと思う。

 

「お前は練習出来ないから辛いな」

「変わりに三味線を覚えたけどね。全然駄目だけど……そっちは出来るの?」

「物の質は劣るが、それなりにはな。それに、尺八もあったし」

「尺八も吹けるようになったの?」

「もう四、五年前かな。篠笛は他に吹ける人もいるしと思って」

「へぇ~いつも周りを気にせずに我が道を行くっていう君がね」

「ただ人と被るのが嫌なんだよ。それぐらい分かれ」

「変わったねぇ」

 

 惟信の笑いが部屋に響く。そのまま自然と互いの楽器の準備を終えて合図を送ること無く互いに息を合わせて演奏を始めた。

 三味線と尺八の音色は本人達の芸の高さもあって実に綺麗でどのような邪な存在さえをも浄化させてしまうような清廉さを持っている。そして、吹く者の内心を描くことも可能だ。

 

「何かあったの?」

「分かるか?」 

 

 小首を曲げて表情を伺ってくる。顔を離す前に吐息を強く吹いてきたのはおそらくわざとだろう。

 

「怒りと悔やみ、若干の嬉しさ……かな? 最後はあやふやだけど」 

「嬉しさか……あまり心当たりはないが」

「私に会えたから?」

 

 にっこり笑う惟信が何となく腹立たしいので冷徹な口調で切り返す。先程の下手な誘惑への意趣返しも兼ねていないわけでもない。

 

「それは違う」

「ひど」

「らしくて良いだろ?」

「ま、確かに」

 

 沈黙が落ちる。元々、話を繋げることが苦手な龍兵衛を助けるのが惟信の役目だったが、無限に言葉が出てくるわけではない。互いに目を合わせつつ無言が数秒続いた後、龍兵衛から口を開いた。

 

「そろそろ戻る」

「次に会うのはいつかしら……」

「さぁな」

「味方同士だと良いけど」

「ああ」

「敵になったらどうしよ?」

「勝ちに来い」

「全力で受けて立つ?」

「もちろん」

 

 即答してみせると意外だと彼女は目を見開く。手加減したところで誰が得するというのだろう。むしろ、あらぬ疑いをかけられることぐらい分かっていると思うのだが。気まずい雰囲気を断ち切るため、龍兵衛は腰を上げかけるが、惟信の発言で動きを止めた。

 

「それにしても……君があんなことをするような人になっていたとはね」

 

 彼女は外へ視線を向ける。空いている窓からは焦げくさい臭いが若干入ってきて、人へ不快感を与える。

 

「あんなこと?」

「織田信長は家臣、明智光秀の謀反に遭い、炎の中に消えた」

「……」

「色々と黒幕説があるって言ってたよねえ。まさか、上杉だったとは……」

 

 胸騒ぎを押さえつつ龍兵衛は表情を変えずに彼女を見る。

 

「何のことだ?」

「本能寺の変の時、織田の家臣を殺して、明智光秀を攫ったでしょう?」

「根も葉もないことを……」

 

 鼻で笑い、冗談で済まそうと首を横に振る。しかし、彼女の攻勢は止まない。

 

「そうね……写真が無いこの時代、人の言葉ほど人に疑心を与え、信じ込ませるものはないわ」

「思い違いをしているようだが、上杉が関わったという証拠も無ければ信憑性も無い」

「お金や武器を密かに提供していたと言えば遠くからでも合点がいくけど」

 

 龍兵衛は長い溜め息をつき、彼女の目を見る。確信を持ち、追及を止める気配が無い雰囲気が伝わってくる。しかし、ここで大人しく項垂れるようでは謀を完遂できない。苛立ちを覚えつつ、小さく息を吐くと毅然とした表情で彼女の目を見る。

 

「そこまで言うならはっきり言おう。上杉はそのような姑息な手を使うことはない」

「なら、謙信殿は家臣の面倒も見切れない主ってことかしら」

 

 心の中で何かが折れるような音がした。同時に龍兵衛の目に敵愾心がこもる。

 

「いくらお前でもその発言は考えものだが」

「だって間違ってはいないでしょう?」

「それは俺が本当に本能寺にいたという証拠があれば言って良いかもしれないが、やってもいないことに勝手にあれこれと推測をされるのは非常に困るね」

 

 怒りが徐々に隠せずになり、口調が早くなる。焦っては負けだが、尊敬し、忠誠を誓う主を愚弄されて落ち着いていられるほど、龍兵衛も人は出来ていない。

 

「どうしても違うって言うの?」

「今回のことは明智光秀の起こしたもの。上杉は明智を支援していない。それ以上言うのではあれば盟約の件も考えさせてもらうぞ」

 

 最後通告を下すとさすがに困ると思ったのか惟信も黙り込んでしまった。そもそも、盟約の話を持ちかけておきながらこうしてその御家の家臣の疑いを探ること自体問題がある。

 

「……」

「何だ?」

 

 何か言いたげに唇を動かす惟信をじれったく感じ、思わず苛立った口調で尋ねてしまう。しかし、彼女の反応は彼の期待とは大いに外れていた。

 

「んーん、何でもない。もうお開きにしない? これから道雪殿に会うの」

「自分の目で見たことを言いにか?」

「ううん。だってあなたがやったということを証明するものが無いから言ったところで無駄だし……」

 

 心底残念そうにしている惟信を見て、龍兵衛の心は固まった。彼女は上杉に害を与える滅ぶべき敵である。

 

「いや……」

「えっ?」

「長い長い宴はまだ終わらないよ」

 

 意味深な言葉に惟信は小首を曲げる。その様を見て、龍兵衛は笑いつつも困ったような表情を浮かべる。そして、頬をかいて少し迷った後に「仕方ないな」と口だけを動かすといつも通りの無表情になる。

 

「なぁ、お前は親が本当の親じゃないって知ったらどう思う?」

「えっ?」

 

 惟信が突然のことに眉根をひそめる。

 

「俺は嫌だった」

「嘘……」

「俺は母親が一夜の過ちを犯した際に出来た。知っていたのは当事者だけだったらしいけどな」

「でも、何でそのことを今?」

 

 全てを察した彼女の目が一層吊り上がる。疑い、というよりは嫌悪感が如実に見える。惟信はたとえこのような乱世であろうとも根は真っ直ぐであり続けている。かつて裏切られたことも構わず嬉しそうに龍兵衛と邂逅する様は正にその通りだ。自身の生まれた経緯がどうであれ、信じた道を進む。

 だからこそ、その心を汚し、現実を見せてやりたい。

 それが龍兵衛の現世の被虐と乱世の無情を自身で受けてきたが故に生まれた歪んだ性根である。

 

「お前の前では真っ直ぐでありたい と思ったのだがな……」

「は?」

「何故なら……」

 

 惟信が表情を強張らせているのを確認すると龍兵衛は目の前まで歩み寄る。表情は変えず、殺気による凍て付くような恐怖を惟信に与えながら。

 

「今日でお前と会うのは最後だからさ……」

 

 そう言って龍兵衛は片目を瞑ると惟信を組み敷いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

現代人の密室邂逅

「やられた……」

「ちょっとびっくりしたけど、これぐらいはしないと武人は務まらないよ」

 

 子供が虫を捕まえたように無邪気に笑われて龍兵衛は少し恥ずかしくなった。流れのままに不意を突いて組み敷いたつもりだったが、取ったと確信した途端、惟信は龍兵衛の大柄な身体をもろともせず、翻して逆に組み敷いてしまった。持っていた小刀もいつの間にか奪われている。 

「私は貴方と違って頭も知識も無いからね」

「代わりに腕があるから良い。と?」

「女の子に向かって言う言葉じゃないよね。昔から本当に容赦ない」

 

 わざとらしい不機嫌な惟信の口調に龍兵衛は鼻で笑って応える。

 

「自分で言わせたようなものだろ?」

「皆まで言うな、ってこと」

「そりゃあ、無理だな。気を許した相手ならなおさら」

「じゃあ、私の疑問に答えてくれない? 皆まで言わずに分かるでしょ?」

 

 この助けも来ない孤立無援の状態、言わば二人だけの空間の中で尋ねようと思っていることはただ一つ。

 

「どうして、俺はお前を見限り、最後まで求めを拒んだのか。か?」

「さすが」

「お前の考えていることは玩具を欲しがる目をした子供ぐらい簡単に分かる」

「あらら、それは不覚」

 

 言葉とは裏腹に龍兵衛の襟元を掴む力はさらに強まる。

 

「俺からもいいか?」

「なに?」

「さっきの俺の動きに無駄があったか?」

 

 惟信は龍兵衛の問いに唇を吊り上げる。称賛しているようにも見下した嘲笑とも捉えられる表情に龍兵衛の表情はますます険しくなる。

 

「無いよ。私が君のことよく知らなければ多分傷は付けられたと思うよ」

「俺のことを知っている?」

「右肩を庇うように動く癖。直ってないよ」

 

 龍兵衛はそういうことか、と溜め息をつく。右肩に爆弾を抱えている彼は無意識に庇う癖があった。そう指摘してきたのは他でもない目の前の彼女だが、どれだけの時が経とうとその悪癖が治ることは無いということだ。

 

「反撃を怖がって微妙に右肩を引いたからそこに隙が出来たおかげね。それに左利きのおかげで右腕がさらに引いていたし」

 

 納得したと龍兵衛は鼻で笑う。左手で刺そうとした刀に向かって惟信は彼の右側に移動した。そして、左手を交わすと足をかけてあっという間に彼を床に叩きつけた。

 

「さて……どうしてこんなことを?」

 

 小刀を扇子を扱うかのようにひらつかせながら上に跨がったまま微笑んでくる。その微笑みが何を意味しているのか、龍兵衛には分からない。昔はいとも簡単に悟れたはずだが、どんなに彼女の目を見ようとも見えてこない。故に龍兵衛は投げかけられた言葉をそのまま返すしかできなかった。

 

「どうして? まぁ、見ての通りだが」

「はぁ……期待したのが馬鹿だったわ」

 

 失望感が部屋中を埋め尽くす。龍兵衛は覚悟を決めながらも震える唇を開く。

 

「俺を殺す?」

「自分が死ぬのを一番嫌がっている人が死を覚悟してるの?」

 

 意味ありげな笑みを浮かべる惟信を見ると全て分かっているのかと龍兵衛は苦笑いを浮かべる。肩をすくめて鼻で笑う。確かにこの部屋には誰もいない。

 

「周りには間者が多く潜んでいる。俺が叫べばそれと共にお前も死ぬ」

「あら、八方塞がり?」

「せめてもの情けだ。何か遺す言葉があれば聞こう」

 

 どうとでもなれという思いのままに言葉を繋いだ。しかし、龍兵衛の背筋を走る冷たいものは流れ続け、身震いするのを抑えるのに必死だ。軒猿がいるのは確かだが、あくまでも謙信の命令で本能寺の件を探っているに過ぎない。それ故に龍兵衛自身の危機に変わりは無い。彼女が腕を上下すればそれで命は尽きる。

 

「そうね……じゃあ、一つお願い」

「何だ?」

「……一緒に逃げない?」

 

 眉間のしわが極限まで強く寄った。それを見た惟信は彼の心を落ち着かせるように優しく微笑む。

 

「私には三つの顔がある。武人、数寄者。そして……恋する女子」

 

 最後は少し恥ずかしそうに長い髪を指で回しながら惟信は蚊の鳴くような声で呟く。わざとらしいかと思ったが、頬と耳を赤くしているのは偽りがないことの証だ。

 

「無駄を省いて一つのものを残すとすれば、残ったのは……」

「本気で言っているのか?」

「本気も本気よ」

 

 泣きそうな上目遣いで見られて動揺しないほど、龍兵衛も朴念仁ではない。しかし、何事も耐性というのが生まれる。

 

「お前に残ったものがそれとするなら、俺に残ったものが共通のものだと言えるのか?」

「だからこうして奪おうとしているのよ」

「欲にまみれたか……」

「私だって自分に驚いているのよ。あんなに努力して忘れてきた感情が貴方を今日見た瞬間に一気に湧き上がってきたことに」

「あれは誘ったのか」 

「私の本当は、最後の女子だって遅蒔きながらに気付いた。でも、もうそれは叶わない夢。なら、残った二つの中で大きいのはどちらか……それは武人としての私。そう思っていたはずなのにね……」

 

 龍兵衛はか細くなる声を聞いていると肩に入っていた力が抜け、恐怖感が収まってきたのを感じた。

 

『人間、生来備わっている欲には抗えないもの。欲しさや見たさに生きたいと思い、大切な人や身内も犠牲にしなければならないのです。それでも、根付いたものは大木の根の如く完全に取り除くのは難しいのですよ』

 

 山上宗二の言葉が脳裏で蘇る。目をつむり、溜め息が零れた。

 

(こいつは叶わない夢と思っていながらも心の隅では淡い希望を持っているのか)

 

 同情出来るような立場では無いが、少しだけ惟信のことを哀れに感じた。だが、許せなかった。それは無碍に命を捨てようとする者に彼女もまた成り果ててしまったことにではなく、自覚した上で自らを大切にしなくなったことである。

 平和な世の中を生きてきた者だからこそ自己保身に努め、醜くとも生き抜こうとする精神が生まれた。龍兵衛はそれこそ平和の象徴であると思っていた。

 故に、龍兵衛は表情を引き締め、立ち上がって惟信を見下ろしながら厳しい口調で言った。

 

「もはや、お前に何も浮かばない。大友に殉じることも不可能なお前に待っているのはただの犬死だ」

 

 惟信の表情が一瞬だけ苦しそうに歪んだ。

 氷のように浴びせられる容赦ない無慈悲かつ全てを否定するような言葉が続けざまに惟信の心に突き刺さっているのだろう。

 彼女もまた死ぬことを恐怖と感じ、ただ生きることだけを求めてきた時代から来た。それ故に生きるために誰かを殺めることは躊躇わないが、我が身に降り懸かってくると分かれば隙が出来る。

 そう思っていたが、彼女の腕に込めた力が緩むことも監視する目が泳ぐこともなかった。

 以前の少し抜けていたところがあった彼女ならと思っていたが、やはり成長するものなのだろう。口調が毅然としたものになっただけではなく、精神力も強くなっている。

 だが、龍兵衛とて譲れないものがある。上杉の天下と自身の保身のためにここで惟信をやらなければ全てを闇の中に葬ることは出来ないが、今は惟信に命の手綱を握られている。

 いかにしてこの状況を打開するか。彼女への注意を払いつつ思考を巡らせていると不意に抑え付ける腕の力が弱くなった気がした。

 

「ふふっ……馬鹿ね。私って」

「急にどうした?」

「敵同士でも分かり合える友だっているじゃない。だから、こうして無理やり奪おうとしなくても良いのに……」

「そんな都合の良い物語のように行ってたまるか。ここは乱世だぞ」

「相変わらず鋭いのに鈍いね」

「生憎、俺に逃げる度胸は無いよ。おそらく、生涯変わらない」

「そうね。貴方はそうやってそういう振りをしてきた」

「どういうことだ?」

「逃げるには勇気がいる。それを貴方はよく知っている。でも、勇気が無いからと言って嘘をつく」

「何故そう思う?」

 

 惟信は問いには答えず、胸元から一輪の小さな紫色の花を彼の下に置いた。苧環の花であった。

「これは?」と問う前に惟信がもう一つ胸元から静かに置いた物に彼は大きな衝撃を受けた。

 

「その様子だとまだ勇気があるということよ。これを忘れないぐらいにはね」

 

 不協和音の狂想曲が耳の鼓膜を破壊するかのように頭蓋に反響し続ける。突如の激しい頭痛が襲い、視界が霞む。

 

「駄目なのね? それでも」

 

 上杉の下で孤独に生きるか、彼女と共に心を満たすか。これだけなら龍兵衛とて迷い無く後者を選ぶ。しかし、彼にとって一番大切なのは自分自身が惨めな思いをせず、生きること。その定義は心を満たすのではなく、人間らしい豊かな生活を送ることである。

 首を微かに縦に振る。その様を見た惟信は疲れたと溜め息を吐き、龍兵衛の拘束を解く。そして抱き起こすと持っていた小刀を彼の手に添える。

 

「眠る勇気。未だに目を覚ませる気がないのなら、目覚めさせましょう」

「な……」

「ふふっ、未だに未練を残して逝くと思っていたけど、どうやら全て終わったみたいだね……願いが、叶ったし」

 

 そう言うと惟信は小刀を持つ龍兵衛の手を取り、呆然としている龍兵衛など気にせずに自身の胸にそれを突き立てる。その様を見て彼女が何をしようとしているのか悟り、我に返ると体を揺さぶり、抵抗する。

 

「動かないで」

「駄目だ。何故お前が死ぬ必要がある?」

「私がそう望むから」

「意味が分からん」

「もう嫌なのよ。人を殺してまで生きていくことが」

「だから平和な世の中を作ろうと奮闘しているんじゃないのか」

「それでも私達は平和な未来から来たのよ」

「人の死を受け入れられないと?」

「私は貴方と違って頭が良い訳でもないし、歴史に詳しい訳でもない。だから色んな失敗をしてきた。でも、こうして生きていられるのは人を殺してきて、代わりに死んでくれた人がいるから」

「それは俺も思うところはある。だけど時代が違う」

「私は割り切れないわ」

「なら武人を辞めれば?」

「どうやって生きるのよ?」

「……宗麟殿の側仕えとか?」

「……もういいよ。疲れたわ」

「悪くないと思うけど」

「ほんと自分勝手……せめて、一緒に逃げてくれるって言って欲しかった……」

 

 美しい惟信の目に薄らと浮かぶ涙を見て心を打たれない人などいないだろう。

 心はすでに鬼となっていたはずの龍兵衛もまた例外ではない。明日をも知れない中に身を投じて想われる恋を選び、共に全てを捨てて逃げるか、確実に生き延びる為に情を捨て、怨念をさらに増やすか。懊悩の中で龍兵衛は改めて自身の信条を省みる。これまで自身が命を賭けて動いたことなどあろうか。確実に生き残る算段があったからこそ行動してきた愚かな自身が突然変わったところで運は巡るのだろうか。

 生きることこそ自身がこの乱世の中で定めた信念であり、死を美徳とする思想に一石を投じるのが役目だとしてきたのではないのか。

 改めて龍兵衛は静かに首を横に振る。

 惟信はそれを認めると声を上げて笑い出した。腹を抱え、正に抱腹絶倒と言うべきほどに。数分が経った後、彼女は涙を吹きながら震えた声を発する。

 

「あー笑った……やっぱ、君は君だったんだね。あの時から変わらない」

 

「ほんとにすっきりした」と言うと惟信はすんなりと自身の胸に小刀を立てると迷いなく刺した。

 その間、龍兵衛はまるで異次元の光景を第三者の視点から見ているようで全てを眺めることしか出来なかった。

 我に返った時、すでに彼女はもう手遅れとなってしまい、倒れた彼女を抱える他無かった。

 

「お前は、残酷だな……」

「どうかな?」

 

 微笑みながら言うと惟信はゆっくりと瞼を閉じた。

 死に際に微かに動く惟信の唇。その動きを見て龍兵衛は全身を風刃で裂かれた。生きた心地が刹那的に奪われ、体内の臓器が全てもぎ取られた気がした。

 

「全て、お前の筋道通りだったのか?」

 

 指輪を元通りに薬指に戻し、両手を胸に置くと花を両手の甲に添える。

 両手を合わせると龍兵衛は彼女に戻した指輪と花を外し、自身の懐に入れる。形見である以上は枯れようとも遺せる間は遺しておかなければならない。たとえ、怒りや恨みの声を浴びようとも、知る者としての義務を果たすべきである。

 

「捨てられた恋人か……確かにそうだな」

 

 封印していた罪悪感が蘇り、龍兵衛の心を容赦なく串刺しにしていく。改めて自身が相手のことを分かることのできない愚か者だと嘆き、溜め息を吐く。

 それでも行かなければならない。孤独を忘れさせてくれた人達が待っていると信じて。しかし、なかなかその一歩が出ない。まるで何かを盛られて身体が痺れているように微動だにしない。

 

「行かなくては……」

 

 動かない。何故と問いても龍兵衛の身体は動いてくれない。問いに答えを返してくれない。ならばと龍兵衛は頼み込んでみる。動いてくれと心の中で身体へと土下座をする。罰ならば既に惟信に受けている。

 それでも、気付かされることで気付いただけでは天は飽き足らないらしい。だが、戻るべき場所があるのであれば、龍兵衛は一歩を踏み出さなければならない。

 

(いや、上杉に待ってくれる人がいるのか?)

 

 官兵衛も不在にしている。颯馬や兼続、慶次達同年代ぐらいの者達にとって自身はもしかしたら邪険に扱いたい存在かもしれない。何故なら自身は上杉を影から支え、正々堂々戦う者たちから忌み嫌われる存在であり、理解ある者といえども眉根をひそめている。だが、ここで一番の難点がある。

 

(上杉を捨てたとして行くべきところなにかあるのか?)

 

 裏切りを働き、拾ってくれた恩を捨てて出奔。ましてや決して褒められるような功績もさほど上げておらず、行っているのは調略や政務、工作の指示など武人が嫌うようなことばかり。主君に迎えられても讒言によって命を落とす危険もある。

 それならたとえ一人のままであろうと上杉で孤独に生きるほうが良い。所詮、軍師とは孤独であり、それを乗り越えてこそ一人前である。

 自然体を装い外に出る。辺りは人の気配が無く、不気味な雰囲気さえも感じられる。

 

 

「河田様。如何なされました?」

「いや。何でもない」

 

 突然背後から現れた軒猿の者に振り向きもせずに応える。

 

「そうでございますか。汗が凄いので何かあったのかと」

 

 指摘されて龍兵衛は額に手を当てる。確かに滝のような汗が流れていた。道理で外に出た時に涼しく感じたと思いつつ、手に付いた汗を振り落とすと手の者に努めて冷静な口調で命じた。

 

「これは燃やしてくれ」

 

 先程までいた屋敷を見て言うと手の者は怪訝そうな表情を見せる。

 

「織田の目が厳しい故、危険かと」

「構わない。やってくれ」

「承知」

 

 表情を見せまいと下を向いたまま龍兵衛は静かに歩き出す。

 

「燃えてしまえ。罪もお前も……」

 

 心を許し合えると信じ、互いに想い合っていた者を殺めた大罪はいかなる罰で償われるのか。意識に苛まれた中でも龍兵衛は謙信達が待つ屋敷へと足を止めることは出来ない。愚かにも自分が生き延びることしか考えられない彼の思想は心の部屋から一人を追い出し、穴を空ける代償を支払い、境地に達した。

 

 しばらくして本能寺近くで火災が発生し、住民の怨念の感情はより一層強くなった。

 本当に明智がやったのかと疑問を持った敏い者もいたかもしれない。しかし、それらの少数の声は愚かな大衆の声にかき消された。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

末期の茶席

 本能寺にて織田信長が死去してから三日後。

 未だに混乱が続く京の中核から離れた山科では現世とは結界を張られている常世のように良く言えば自然豊かな悪く言えば田舎臭い空気が漂っている。今の武人や商人が見れば顔をしかめるような貧相な屋敷がまばらにある程度で喜んで移住しようとは思えない街並みが続いている。

 逆に言えば世捨て人や事情のある者達の格好の隠れ蓑であるとも言える。

 その中で異彩を放つ者が一人、身支度を整えて自邸からゆったりとした足取りで出てきた。白く腰まで伸びた髪の毛は優雅に揺らめき、背筋をしゃんと伸ばしている姿はとてもお尋ね者とは思えない。端から見れば何故こんなところに住んでいるのか眉根をひそめてしまうだろう。

 今日は気分が良いようで彼女は楽しそうに外で跳ねるように屋敷の周りを歩き回る。

 一周りすると満足したのか、彼女は屋内に戻り、囲炉裏の傍にに少ない家財をまとめる。

 もう一度外に出ると女性は火打ち石を取り出し、手際良く備えてあった藁の束に付けると躊躇うことなく自邸に放り投げた。あらかじめ油を撒いていた廊下はあっと言う間に燃え広がり、全体を炎で包んだ。

 女性は微笑みながら自分の屋敷の前に立ってその様を眺める。今まで住処として使ってきたみずぼらしい屋敷が囂々と紅蓮の炎を上げて燃えている。

 今までの己としての人生を終えてさらに奥深い闇に落ちる支度の始まりである。中では彼女が彼女であるために認めた茶についての本や道具も燃えている。

 だが、本人は嬉しそうに眺めている。決して茶の湯を捨てる訳ではないが、新たな自分として生きる為にと思うと心が躍るのだ。

 ここに何の未練も無い。しかし、せめて今まで使っていた屋敷を処分するのを見届けるのはせめてもの礼儀である。考えた結果がこの場を炎によって浄化し、全てを無に帰することで新たなものを一から生み出すきっかけとなる。  

 

「あんたはん、随分と変わりましたなぁ……」

 

 女性の隣にはいつの間にか京訛りの口調をした女性がいた。屋敷の主より頭一つほど高い背をしており、桃色の着物を基調とした浅緑色の羽織りを身にまとい、落ち着いた様子で燃え盛る屋敷を眺め続けている。

 

「活き活きとして、ほんで顔に力が漲っている感じや」

「分かる?」

「やはり、新たな己に会えると思うているが故に?」

「うん。やっぱり私にはこの道は合わないと分かったから。これからしばらくは名も無く生きようかなと」

「だからって屋敷を焼くとは……うちもさすがに思いもよりまへんでした」

「そう、なの?」

 

 不安そうに小首を傾げる定満を見ると本当に実年齢とは思えない程に可愛らしいと思えてしまう。だが、本来の年齢は彼女の功績を知る者であれば信じられないほどに上である。

 少々の羨望を抱きつつ宗易は深々と頭を下げた。

 

「丿貫としての最期、ほんに見事過ぎます」

「これが私のけじめだから」

「まさか、道具や書物も焼いてしまうとは、思いませんで。あまり、感心致しまへんけど」

「人の栄華は身と共に終わる。だから、宗易さんもそうすると良いと思う」

 

 女性の不安を和らげるように千宗易は頭を横に振った。

 

「うちはうちの色をこの世に広めるまでは生き続けます。そのために貴方達に付いたのですから」

「欲深いの」

「ええ。それがうちという人でありますから」

 

 にっこり笑っている宗易から真っ黒な欲の気が見える。何年も京に滞在し、多くの欲を見てきた中で彼女は欲の表す色や気を感じられるようになってしまった。

 おぞましい。

 それが宗易に対する丿貫の評価である。彼女の欲に比べれば信長や武人の抱く欲など生易しい。彼女は自身の願いのために躊躇いもなく主を斬り捨てる。

 今回の本能寺の事件を手引きしたように。

 信長を明智が殺したように見せるために京に光秀を呼び出し、茶会を開いたのは紛れもない宗易である。信長に毛利攻めの援軍に向かう明智軍の激励を行うことも兼ねてと進言した彼女の暗躍は見事に成功した。

 信長を本能寺に止め、火薬を仕込み、明智を京に置いて主犯をすげ替える。さらに光秀が素早く京に到着したことも幸いした。火を付けた光秀が失踪したのは明智軍をいち早くまとめ上げ、京を支配下に置くための支度を整えるべく動いたからという憶測も上手く民衆に流れた。

 しかし、光秀も流石である。自身が無実であることを示す書状を織田の諸将に巻き、黒幕の存在を謳い、今一度織田の家中がまとまることを訴えた。また京にも御触書が立ち、冷静さを取り戻した京の人々は疑心暗鬼ながらも光秀を信じる空気が出始めている。

 それを良しとしない宗易や丿貫といった反織田の者達がさらに行動し、光秀が信長の持つ天下の茶入を奪ったのではないかと流言をした。これによって光秀に対する疑いは再燃した。当然、光秀もそれについても対応しようと動いた。しかし明智が陣を構えていた場所に本当に茶入が置かれていたため、さすがの彼女も動揺を隠さざるを得なかった。

 仕込んだのは当然ながら闇商人の一味だが、息のかかった者を派遣したのは丿貫である。

 彼女が懐柔した商人達は本能寺の変の混乱に乗じて明智軍の陣に忍び込み、件の茶入を置いた。

 息のかかった者からの連絡では家臣の中には叩き割って証拠を隠滅する意見も出たらしい。しかし、律義者であり数寄者である光秀はそのようなことなど出来るはずもなく、言い訳ができないと悟って潔く茶入を保護したと公にした。

 奪取では無いと言ったところに最後の抵抗を感じたが、もはや意味はなく、光秀は信長を殺して天下に名高い茶入を奪い、号令をかけたと認識された。

 

「これから明智殿は大変なことになりますなぁ」

「柴田、丹羽、羽柴が続けて各戦線からの撤退を始めているみたい」

「最も早く明智を討伐した者が次の中央の覇者となる。やけど、丿貫殿にそのつもりはない」 

「私は必ず天下を取ってもらいたいと思う方がいるか」

「だからこそ、力強い目を呼び戻した」 

 

 そう言って宗易が微笑むと丿貫も図星だと苦笑する。

 京にいる間、怠惰を貪っていたわけではない。だが、織田による統治が上手く機能してくるにつれて動きが思うようにいかなくなり、二の足を踏むことが多くなった。信長の死は再び畿内を混乱に陥れ、彼女が動くに易い環境を生むことに成功した。

 受け入れる度に気持ちが滅入っていた丿貫にとって新たな動きは喜びと楽しみを返り咲かせるには十分だった。

 

「華は一つあれば良い。宗易さんがそう言うなら私も、新たに一つの華を見つければ良い。拾った華を捨ててもね?」

「明智殿は元から拾うつもりではなかったの違います?」

「私が拾ったのは明智じゃない」

 

 宗易は本当に驚いたと目を見開く。屋敷から燃えた紙くずが宙を舞い、二人の間を通って地面に落ちた。場をつなげようと宗易は口を開く。

 

「信長が死に、京は混乱を極めております。これからうちらも身の振り方を考えませんと」

「すでに決まっているんじゃないの?」

「ふふふ。さすがに読まれますか」

 

 丿貫は頷いて宗易の目を覗き込む。辞めてほしいと宗易は手で目線を遮ると溜め息を付いてはっきりとした口調で言う。

 

「うちは当分羽柴殿に付きます」

「柴田さんや丹羽さんは?」

「あの人らは根っからの武人やから、侘び数寄のことをただの嗜みと思うております」

「羽柴さんは違うと?」

「あの御方は全てを受け入れる心を持ち、万人の上に立つ器を持つと考えております。少なくともうちが見た中での話ですが」

「そう……」

 

 丿貫は素っ気無い返事を返し、その様を見て宗易も諦めたように溜め息をつく。

 宗易に定めた人物がいるように丿貫にも尊敬する人物はいる。未だ出会ったことも無いが、丿貫や弟子である山上宗二からの手紙を読む限りはかなり魅力的な人物なのだろう。

 宗易が秀吉に魅せられたように。

 そう思いつつ丿貫に目をやる。相変わらずつぶらな瞳をこちらに向けて、改心を促してくる。

 最初に彼女と出会い、この目を見た時には同性でも誘惑に負けてしまいそうになり、危うく良い茶器を渡しそうになった。宗易は既に見慣れたが他の商人仲間の中にはこれにすっかり当てられてしまった者も少なくない。

 宗易は心を無にして丿貫の攻勢をはね退けると自然体で口を開いた。

 

「いずれ、分かる時が来るでしょう。その時にでも考えさせてもらいます」

「分かった。でも、時が来れば……ね」

「言われるまでもありません。清廉なあの御方とその息女殿であればうちもむしろ動きやすい。利害は一致しております。案じることはありません」

「でも、秀吉も同じじゃない?」

 

 さすがだと宗易はわざとらしく首を横に振る。否定しているのではなく、見透かされていることに若干の嫌悪感を覚えたからだ。

 宗易にとって重要なのは己が絶対と信じて疑わない価値観を世に知らしめ、至高のものにすること。それが叶えば天下の趨勢がどうなろうと構わない。

 信長の価値観と合わない宗易は彼女を扱うの難しいと判断したからこそ庇護を受けていた恩を簡単に忘れて他者に移った。

 丿貫の策に乗っかり、新たな主の下で己の価値を天下に知らしめるために必要な行動であった。おそらくろくな死に方をしないだろう。だが、現世から後世にかけて己の価値が至高とされる世の中とされるのであれば生きている内に動かなければならない。

 だからこそ扱いやすく、信長の次に天下に一番近いと判断した秀吉を選んだ。

 

「まぁ、しばらくは敵となることに変わりはありません」

「手強い」

「しばらくですよ。しばらく。どちらかが負ければそれに降り、へつらう」

「商人だね」

「魚問屋ですから」

 

 人に対する考えは最後まで相容れなかった。たとえ劣勢になろうとも最期まで主に忠を尽くす武人と主が変われば心付けを送って従う商人。

 生きている世界が異なった二人はその性格を捨てきることが出来ないままだった。

 冗談のつもりで言ったのか笑う宗易と笑えないと真っ直ぐ彼女を見る宗易。

 

「本当に最後まで分からない人」

「あら、なかなか長い間共にいらっしゃったのに……」

「私の前で平静としていられたのは、貴方とあの御方だけぐらいだから」

 

 丿貫は他者の性格や状況を読み、自身の世界に巻き込むことで行動を操ることに長けており、絶対の自信を持っていた。その誇りを見事に打ち砕いたのが宗易の巧みな話術と自然と体から出てくる圧倒的存在感である。

 初めて彼女の茶会に出た際に丿貫は負けという感情を生まれて初めて抱いた。

 話をしながらこちらの流れに引き込もうとしたが、例え難い威圧感に口を開くことができないまま彼女の話をただ曖昧に相槌を打って聞いていただけだった。その後、場所を移したとしても彼女は意志を強く持ち、彼女とのやり取りに応じた。

 丿貫にとって自身の掌中に相手を引き込まなければすなわち負けである。

 それ故に、宗易を警戒し、いざとなれば排すべき存在として見てきた。

 今後、敵対するのであれば今ここで殺めることも考えた。だがしないのは彼女との戦闘が面倒であるからであり、決して情を抱いているからではない。商人であるにもかかわらず彼女の個人的な戦ぶりは一流であると自身の目で何度も見てきた。速さでは確実に敵わず、柔能く剛を制す戦いにも手慣れている。さらにここで実行に移し、逃げられれば畿内における土台が宗易よりも脆弱な丿貫では影響力の差から追われる身となるのは確実で、そこまでの危険性を背負ってまで動くほどの価値が今ここには無いと判断した。

 それを分かっている宗易は無防備の姿勢を崩さないまま微笑み続けている。表面的に友好的な関係性を築いているように見えるが、利害関係が一致している機会が多かったためというのが正直なところである。

 だが、それを楽しむ自分がいたことも確かであり、命を賭けた駆け引きの時ほど心躍る時があった。だからこそ京にいて天下のために動き、こうして後世に伝わる大きな事変に携わることが出来たのは誇りであった。

 それ故に千宗易という商人であり、天下一の茶人は京の孤独の中で出来た唯一の友である。

 

「いかがです。最期の茶会に招きましょ」

 

 宗易は殺風景な道に向けて手を誘う。震えるその腕は悲しみなどではなく、自身が掲げる一切の無駄を省いた名も身分を捨てた客を招くことで究極の茶会を開けることへの喜びである。

 

「喜んでお受けするの」

 

 丿貫は屈託の無い笑みを浮かべた。宗易の様に思いを察しただけでなく、彼女もまた共にいた喜びを最後まで分かち合い、別れを惜しんだからである。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

堕落の光

 謙信達が無事に越後へと戻ったことが伝わると事情を知る上杉の重臣達はこぞって諸手を上げた。

 今は織田が支配している京に密かに入っただけでなく、信長の死による混乱が謙信達に降りかかるのではないかと不安視し、兼続や実乃は裏で景勝の正統な当主移行を進めていたほどである。

 その不安を裏切るように皆が傷一つ負わずに帰還したことも皆が大いに喜ぶ要因となった。

 確かに苦労が無かったと言えば嘘になる。だが、想定よりも大したものではないというのが京に赴いた者達の正直なところであった。

 しかし、それ以上に謙信を無事に越後へと帰還させたことが彼らにとって何よりも喜びを与え、僅かに湧いた疑念も忘れ去った。

 慶次と景資が奔走して京から無事に脱出し、越前でも織田の追撃に集中していた一向宗の散発的な襲撃も退けたおかげと噂になり、彼女達の評価も大いに上がった。

 だが、謙信は一切の褒美を与えず労いの言葉をかけただけだった。

 まるで何事もなかったかのように。

 謙信は追従した者達にしばらくの休息を与えたが、戻ったその日の内に龍兵衛だけを呼び出した。

 

「謙信様、無事のご帰還、誠に恐悦至極でございます」

「うむ。私も正直驚いている。まるで私達の周りだけ何事もなかったかのように揉め事が起きなかったのだからな」

「強運ここに極まれり。ということでしょう」

「まぁ、以前の帰還の時よりは簡単に戻ってきたからな」

 

 答えに窮した龍兵衛は無言のまま口元だけ笑いを作った。思い出したくない事実はなかなか口に出せるものではない。上洛した軍を襲撃するという逆賊甚だしい行為をされてきたあの事変は上杉にとっても隠蔽すべきという声もあったほどのものだった。

 

「此度は越前の一向宗残党も織田の攻勢でそれどころではなかったようですから」

「これほどまでに上手く行き過ぎると裏があると考えてしまうな」

「しかし、明智ももう少し遅くに信長を討ってくれれば皆様に心配をかけることがなかったというのに」

「機会が丁度良く来てしまった。ということでしょう」

「こう考えると運が良かったのか分からなくなる」

 

 謙信が深く聞いてこなかったことに安堵しつつ、龍兵衛はさらに話を別へと移す。

 

「時に、帝とはどのようなことを」

「そういえば色々とあって話せていなかったな」

 

 謙信は居住まいをわざとらしく正すと真剣な表情になる。 

 

「我らは帝より直々に織田の脅威を退けるように命を受けた。だが、信長が死んだ今、織田を潰す理由が無くなった」

「御運が恵まれましたね」

「端から見ればな。だが、私が強者との戦を望むのは知っているだろう」

「御意。しかし、自分達からすれば多大な戦費が減るだけでも良いと」

「まぁな。それで帝に信長が討たれた後に再び呼ばれたのは知っているだろう?」

「そこでは、何と?」

「織田が滅んでも臣下は滅びず、そう仰せられた。そして、天下に昇る竜となれ。とな」

「重いですね」

「達成感があって良い」

 

 謙信だからこそ簡単に言ってのけてしまい、何とかしてしまう。慣れてしまったのはいつからだろう。

 家臣達もそれが当たり前になって、謙信のために命を捨てる。外様も最初は驚き、不信感を抱いても自ずと従う不思議な人望がいつまでも龍兵衛は疑問に思っていた。

 それが理由で他の家臣達とは距離が出来ている。最近になって気付き始めたが、もはや治す気にならない。

 

「人手を増やす必要がありますね」

「やはりか」

「ある程度の余裕が無ければ人は無駄を省くだけに留まらず、やるべきことまで楽をしようとします」

「颯馬や兼続であれば『私の力で何とか致しましょう』と力強く言ってくれそうだがな」

「人間、根性だけで物事が上手くいけば苦労しません」

「まぁ良い。それより、お前を戻ってきたばかりで呼んだのには訳がある」

 

 袖の下から謙信は一枚の書状を取り出し、龍兵衛に向ける。

 

「これがお前に与える位と役目だ」

 

 受け取った書状に目を通す。最初に目を見開いたが、徐々に読み進めていく内に元に戻り、最後には何かを感じ取ったように目を細め、謙信に頭を下げた。

 

「謹んで命に従います」

「何も不満はないのか?」

 

 驚いたように謙信は龍兵衛を見ているが、首を二、三度横に振る。

 

「最初は驚きましたが、自分とて謙信様のお考えを少しは察することは出来るかと」

「申してみよ」

「天下を正義で治めること。これは他者の正義を否定することに繋がります。つまり、表だけの正義で天下を制するほど、この世は甘くない。しかし、謙信様は軍神として天下を正す使命を負われた。誰かが泥を被らなければならないと」

 

 努めて穏やかな口調で語り終えた龍兵衛の前に謙信は立つと膝を付き、床に頭を擦り付け、深々と土下座をした。

 

「誠に、申し訳無い」

「頭をお上げください。このようなこと、自分にしか任せられないのは知っています」

「正直、己の血を浴びる覚悟もあったのだ」

「自分は噂とは違う忠義者です」

「知っている。だからこそ、良いように扱っている気がしてな」

「構いません。自分は人の無意識の中に偽りを装って入り込むことしか取り柄の無い人間ですから」

 

 謙信が驚いたように顔を上げる。龍兵衛はその目を強い意志を持って見返す。決して逃げているのではないと伝えるために。しばらくの後。謙信は元いた場所に戻り、穏やかな笑みを浮かべた。

 

「ようやく、己を見出したか」

「朧げながら……これまで井の中にいましたが、大海を見たようでした」

「これからも期待しているぞ」

「上杉の天下のため、精々精進致しましょう」 

 

 静かに頭を下げる。まだ完全に見出せたわけではないが、きっかけを惟信とのやり取りの中で掴んだ。

 

「官兵衛に任せていたものをお前にほぼ任せることになる。かなり大変だが、辛くなったら言えよ」

「有り難いお言葉ですが、成すべきを成す前に弱音を吐くつもりはありません」

「師を超えることは難しい。だが、継ぎ、並ぶことは可能だ。これよりはお前の政の力が必要となる。同時に未だに敵はいる故に軍略も欠かせない。官兵衛に見事に並んでみろ」

「難しいですね」

 

 弱気になっているのではない。事実、全てを流れ作業のように進め、善後策も巧みに動かす官兵衛の手腕は、実力は上杉の家中で随一の切れ者ではないかと評判され、ぜひとも教えて欲しいと依頼が来るほどに高まっている。

 龍兵衛も努力しているが、天性というものなのかなかなか手が届くところに行けないのが現実である。

 それを知っているからこその発言であり、謙信も咎めるような素振りを見せない。

 

「出来る。必ずだ」

「……まるで、謙信様にも師がいたように仰るのですね」

 

 一瞬、謙信は驚いたと目を見開き、破顔した。

 

「人たる者、時代の中で師弟の関係を築くのは当然だ。そして、時代が変わればまた新たな師弟となる」

「では、謙信様にとっての師とは?」

 

 謙信は笑みを浮かべるだけで答えてくれなかった。立ち上がると襖を開け、後ろ手を組んで外を見る。既に日が西へと傾き、夕闇が迫っている。すこしだけ口元が歪んだのを龍兵衛は見た。しかし、それはすぐに戻り、真剣な表情で振り返って彼を見てくる。

 

「改めて伝える。お前の力、存分に発揮してみせろ。そして、上杉をよく支えてくれ」

「言われずともそのつもりでございます」

 

 深く頭を下げる。骨を埋めるべきところは既に上杉の下と決めている。大切な者を失ったがために得た喪失感や残された者からの怨念を振り払い、今後も真の自身を偽り続けて天下を泰平へと導く。

 決意を秘め、龍兵衛は謙信の言葉を待つ。その表情を悟った謙信も小さく漏らす。

 

「残る主な敵は織田、徳川、北条か……」

「謙信様としては即日に決戦をお望みで?」

「腹を読むのは颯馬だけにして欲しいのだが」

「僭越ながら、颯馬との愛を隠し切れていなかった御方が言う台詞ではないかと」

 

 気付かれていたのかと驚き、しかし龍兵衛なら納得だと謙信は笑みを浮かべる。

 

「まぁ、察しの良いお前なら良い」

 

 他の皆も知っているという指摘を辛うじて喉元で押さえ込み「左様ですか」と相槌を打つ。

 

「織田も信長の死によって土台が崩れています。徳川も傘代わりにしていた織田が脆くなっております。叩くのであれば足並みが揃わない内です。ですが、北条は佐竹や里見の足並みが揃わず、息を吹き返しております」

「織田は毛利のことがあるからこちらに目を向ける余裕は無いだろう。ならばここは関東管領としての仕事を果たすとするか」

「早雲が病に倒れているという情報も草から上がっております。さらに関東を手中に収めれば西へ攻勢を取る際、相手をその防衛に分散することが出来、我々は越前、遠江、美濃という豊かな土地へ一斉に攻勢を仕掛けることが可能となります」

「氏康も相模の獅子と呼ばれるほど強いが」

「早雲ほど老獪ではないだけ容易い相手でしょう。他にも今回は上杉だけでなく、佐竹や里見にも呼応してもらい、小田原城に籠もるであろう北条軍の兵糧の外からの補給手段を完全に無くすのです」

「籠城戦は覚悟しているが、それでは時間がかかる上にまた冬になれば雪の影響も考えねばなるまい」

「越後から上野や下野などからの道を整備するのも必至ですが、帰りは甲斐や信州から帰る道を整備するのも一つの手かと。また、兵の中にいる農家の者は半年に一度、村ごとに動員と帰還を繰り返すことで作業を滞らせないようにする制度を整えることも考えております」

「良い策だ。民を思うとは流石だ」

「自分はただ農業を思っているだけです」

「ただ、冬はやはり越後から信州を通る道も厳しいだろう」

「関東へ繋がる山脈よりはまだ道を作ることは可能です」

「かなり人足や金がかかるぞ」

「越後から信州へ、ゆくゆくは関東へと繋がる道を確保出来なければ、上杉の商いはいつまでも海を頼るしかありません」

「その先も考えて、か……」

 

 謙信はおとがいに手を当ててしばらく考える。そして何かを悟ったように目を見開き、龍兵衛を見る。

 

「お前、まさか本拠を春日山からどこかへ移動すべきと思っているのではないか?」

「……御意」

「理由を申してみよ」

「春日山は軍を動かし、守る点では適しています。ですが、商いや農業を行うには難点が多く、将来的にお膝元に置くには適しておりません」

「それ故に春日山は捨てろと?」

「滅相もない。これからも兵を動かす拠点として残しておくべきです」

「越後の中となると国衆の力が強い。お前が徹底的に彼らを抑圧し、他国に移したのもそのためか」

「当初は、上杉の力を強くすることが目的でした。しかし、まさかこのようなことに繋がるとは思ってもいませんでした」

「それは本当か?」

「はい?」

「私はお前が裏切らないことを知っている。が、お前がこの日ノ本のどこまでを見ているのか。それは私にも分からない」

 

 龍兵衛は謙信の目を見たまま口を閉ざす。返す言葉が無く、しかしここで目を逸らせば隙を作る。好奇心が強い主はその様を見逃さず、容赦なく質問してくるだろう。数分の間に感じる数秒間、謙信は眉間に寄っていた皺を解き「そうか」と呟く。

 

「ま、平和になるならそれで良い」

 

 謙信が少し目を逸している間に肩に入っていた力を抜く。

 

「さて、北条に時間をかけてはいられないが、織田、徳川はさらに侮り難いぞ」

「仰る通りです」

 

 畿内一帯を手中に収めた織田とは長期戦になれば物量の差が出てくるのは必至である。

 

「我らはこれまで速攻を武器に倒してきた。此度もそうするつもりだが、いかに考える」

「自分も同じ考えです。しかし、兵站を確保しなければ勝っていたとしても先の北条との戦の二の舞となるでしょう」

「それは私も思うところがある。以前よりお前は兵站の充実を訴えていたから、その役を任せたい」

「すでに関東への道の整備は手筈を整えております」

「流石だな。いずれ畿内への道をも任せることになるが」

「すでに確保すべきと考える砦や城の目安はついています」

「……私は本当に家臣に恵まれたな」

 

 謙信は満面の笑みを浮かべた。眩しいと思えるような表情に少しだけ心が晴れたような気がする。

 

「勿体無いお言葉です」

「そんなことはない。さて、急がねばならないな。私が上杉の主として立っている間に織田を倒し、天下を上杉のものとしたい」

「天下の趨勢が定まった後、景勝様に家督を譲るおつもりで?」

「私が戦の象徴たる軍神として名が通っている以上、天下は下剋上の気運をそのままにしてしまう。そう思えてならない」

 

 龍兵衛は心で嘆息した。謙信こそ皆が思う主である。己の欲のままに国を支配し、君臨し続ける者もいる中で、立場を弁えて引き際を見定めている。

 謙信の前でなければ、彼女こそ真にあるべき主君の姿だと讃えたに違いない。

 

「では、一刻も早く天下を統べなければならないでしょう」

「うむ。そのために使えるものは出来るだけ使って、あらゆることに動かねばな」

「孝さんを使者として毛利へ向かわせておいたのがその理由では?」

「その通り。頭は間違うことがあっても血は間違わない。住み慣れた地を愛し、それを踏み込まんとする者を嫌うからな」

「なるほど……」

 

 謙信はもう一度、立ち上がって外に視界を向ける。毛利が天下に興味を示さず、中国を守ること。それは謙信もまた越後を愛するのと同じである。それを揺るがそうとしている織田、徳川を倒す。それが結果として天下に近付くのであれば受け入れる。

 

「毛利に誰を使者を向かわせるか問うた時、官兵衛を向かわせるべきと進言したのはお前だが、理由は、あれが播磨の出だからか?」

「左様。万一、播磨の者達が織田や羽柴になびいたとしてもこちら側が真っ当な上杉の使者であることを示す為、どなたか他の方を向かわせるべきかと」

「お前では駄目なのか?」

「自分は畿内で悪名高いですから」

 

 龍兵衛が畿内に潜伏しているのが露見すれば特に美濃国の者達が黙っていないだろう。まだ悪名については押さえることが出来、地元である官兵衛が良い。

 それが二人で話し合った結果であり、彼女が上杉に忠誠を誓っていることを示す機会にもなる。

 紆余曲折あったとはいえ、未だに彼女のことをお客様扱いして、距離を取る者は少なくない。

 

「ともかく毛利は天下を望まず、中国を治めることを望んでいるので、それを必ず約束すれば大丈夫かと」

 

 あえてそれ以上は触れずに話を戻す。

 

「分かった。仔細は官兵衛に任せて我らは我らの成すべきことを成すか。明日からまた忙しくなるだろうから頼むぞ」

「承知。ですが、外ばかりではなく……」

「分かっている。だからこそ、お前に官位を与えた」

「失礼を承知で申し上げますが、今更のような気もします」

「気付いていただろう。お前が動くために朝信や実乃が裏で動いていたのを」

「官位を自分に与えることで、家中での格を上げ、その負担を減らそうと?」

「そうだ。それに、今後は河田豊前守として行動してもらえば、今までの苦労は無駄にならん」

 

 龍兵衛は小さく唸る。これまで龍兵衛は全く位を持たない外様の家臣であり、人望においても兼続や颯馬より遅れを取っている。だからこそ、裏で不穏分子の排除や法令で裁けない不正を始末することが出来るのだが、上杉の家風に傷を付けると思っている者は相変わらず多い。

 尻拭いを簡素にするために官位を与え、上杉にとって彼が欠かせない存在であり、忠誠を誓う者だと示すことで家中に安心感を持たせる。

 言いたいことは分かる。だが、一抹の不安は拭えない。

 

「他の者が嫉妬しないか、心配ですが」

「お前の働きは家格に胡座をかいている者らより断然良い。私や実乃から言えば表立っては動かんだろう」

「個人的には裏で陰湿なことをされる方が嫌なのですが」

 

 過去の忌わしい記憶が蘇るだけで龍兵衛の腕に鳥肌が立ち、背中に寒気が走る。

 

「案ずるな。そういう者は力が無い者だ。いざとなれば他国に移せば良い。お前の方が力はあるのだからな」

 

 それを読み取ったのか謙信は努めて穏やかな笑みと口調で答える。内容は少し物騒だが、確かに過去とは立場が違い、いざとなれば多少の血が流れても誰もすぐに咎めるようなことはしないだろう。

 そういう意味も含めてなのだろうか、謙信は視線を少し後ろにある刀に目をやり、口元を緩ませる。

 

「……お気遣い、痛み入ります」

「これから私の代が終わった後、景勝の時代となる。これから景勝のことも頼むぞ、河田豊前守長親」

 

 話は終わったと謙信は一つ頷き、それを合図に立ち上がる。

 

「それから、一つだけ言っておく」

 

 背中越しに声をかけられ、振り返ると謙信が真剣な表情でこちらを見ている。

 

「何でしょう?」

「お前は確かに己を見出した。だが、まだもう一枚手札が足りない」

「はぁ……」

「一つ手がかりを教えてやろう」

 

 龍兵衛は何も言わないが、知りたいという気持ちをそのままに体が自然と謙信に正対していた。

 

「意外と近くにいる。だ」

 

 満面の笑みを浮かべられ、主とはいえその顔を引っ叩きたくなった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

己以外己じゃない

「(ん……?)」

 

 龍兵衛は休む間もなく、謙信との会談を終えて城内を歩いているとふと何かが聞こえた気がした。しかし、周りには誰もいない。城の奥になるため、間者に入られるような場所ではない。

 気のせいだと思い、龍兵衛は歩き出す。するとまた何かが聞こえてきた。

 どこから聞こえてくるのか全く分からないという疑問と共に師匠譲りの好奇心が生まれ、龍兵衛はその場に立ち止まってどこから聞こえてくるのか耳に全集中力を込める。

 音源はすぐに分かった。今まさに通り過ぎようとしていた部屋の中、景勝が執務を行う部屋から聞こえてくる。

 苦しそうな声をしていると思い、周囲に誰もいないことを確認すると静かに襖に近付き、隙間があると分かるとそこに目を当てる。

 一見で何をしているのか分かり、溜め息をつきたくなった。何故そのようなことを覚えたのかなどとは思わない。景勝に対して快楽というものを教えたのは他でもない龍兵衛なのだから。

 声をかけるわけにもいかず、彼は静かに部屋から襖から離れる。

 申し訳なさが心にしみる。しかし、手を差し伸べる資格も自身にはないと自覚している。 

 龍兵衛はそのまま城を出て、自邸へと帰った。

 

 

 

 次の日、謙信が無事に帰還したことを広める評定が行われた。

 謙信は留守の間、城を守ってくれた感謝の弁を述べると本能寺の件を話し、京の状況を告げる。そして、無事に帰ってこれたのは護衛の皆のおかげだと締める。その様に皆が改めて謙信に対する忠誠心を高めた。

 それから重臣達のみが残った評定にて改めて帝との会見の内容を伝えた。

 織田、徳川を討伐し、天下に泰平をもたらせと強く静かな声で命令された。

 その言葉にそこにいた者達は皆、誰が合図した訳でもなく、頭を下げた。

 帝の許可の下、謙信が天下を取れる。つまり上杉に対して刃向かう者は皆、逆賊であると見なすことが出来るということだ。それだけの評価を帝直々に与えられた謙信はやはり真の天下の英雄であり、仕える我々は果報者だという思いが重臣達を動かした。

 

「これからのことは、改めて皆に伝える。それまではこれまで以上に皆、鋭気を養うようにしてくれ」

 

 評定が終わると各々与えられた役目を果たさんと目を輝かせて屋敷へと戻る。その中で龍兵衛は重苦しい気分を外に出さないように努めながら颯馬や兼続と共に歩いていた。

 

「本当に謙信様に大事は無かったんだな?」

 

 もっぱら内容は京でのことである。

 

「颯馬、しつこいぞ」

「だがな……」

「今回ばかりは私も颯馬と同じ思いだ。謙信様に何かあれば私は……」

「泣きそうになるな。現にあのように普通にしていただろ」

「信長が死ぬなんて大事変の中にいたんだ。京が混乱していたのが簡単に想像できるのに、謙信様が普通にいるのが俺には不思議なぐらいでな」

「気持ちは分かる。もう現実に無事でいるんだから落ち着け。それに、これは好機だ」

 

 場を引き締めると先程まで右往左往していた二人の表情が軍師としてのそれになる。

 しばらく無言で進み、三人は兼続の部屋に集うと誰かが合図をかけたわけでもなく地図や資料を並べる。

 

「信長が死に、次の織田は彼女の妹が継ぐとの噂だ」

「信長に妹が? 聞いたことがないな。颯馬は?」

「いや、俺も知らなかった」

「無理もないさ。昔、信長に歯向かって幽閉されていたからな」

 

 過去のある龍兵衛が言ったから二人から申し訳なさが漂う。何を今さらと思いながら何とも言えない雰囲気を無視して続ける。

 

「公にはされていなかったが、家中ではすでに復権が宣言されていたらしい」

「そのような者に織田の当主が務まるとは私には思えないが」

「お飾りにされていずれ誰かに奪われるかだろうな。俺は柴田辺りだと思うが」

「いや、意外と助け合うかもしれないぞ」

「龍兵衛らしくない予想だな。何故そう考える」

「尾張で内乱が起きた際、これが信長と信行の共謀だという噂がある。それが本当だとしたら重臣達はその内情を知っているとしたら」

 

 流石、かつて斎藤に仕えていただけはある。あえて言うことはしないが、二人は納得したように頷き、資料に目を落とす。全て織田や北条に関するものであり、三人が官兵衛と共に必死になって集めてきた。

 

「確かにそれなら信行のことをよく知る者達が動くということか。だが、それで何も知らない者はどう見るだろうな」

「だからこそ根回しをして復権させたのだろう。それだけのことをするということはあの姉妹にはかなり強い絆があるんじゃないのか。現に信長はこれまで信行を生かしたままにしているのが証明じゃないか」

「だがこれまで何の力も持っていなかった信行が上に立ったとしても納得していない者もいるんじゃないのか? 私も一つに断定するのは好きじゃないが」

「いるだろうが、羽柴や丹羽、柴田が信行の復権に動いていたとの情報もある。もしそのまま擁立に動けば話が分からなくなる」

 

 颯馬と兼続が納得いかないように地図と資料を見比べる。上杉からすれば分裂してくれていた方が有り難いため、二人が希望的観測を持つのも致し方ない。だが、と龍兵衛は低い声で二人を諌める。

 

「何事も最悪を想定しないとな。織田がこのまままとまればいつ上杉に矛先を向けるかも分からん」

「分かった。龍兵衛は畿内の方を引き続き頼む」

「ああ、とりあえずこれまで以上に調略を行うつもりだ」

「あてはあるのか?」

 

 颯馬の問いに龍兵衛は地図上の近江に置かれている黒い碁石の右隣に白い碁石を置く。

 

「織田が一つにまとまろうと分裂しようと外様の将への感触は悪くない。信長が死んだ今、再度独立をしたいと考える残党勢力にも声をかけるつもりだ」

「私の方からは特にないが、仔細は任せる。官兵衛殿から連絡は?」

「毛利は中国を確保出来るのであれば良いらしいが、羽柴の攻勢に思った以上に疲弊しているらしくてな。思ったより織田に付こうという考えを持つ者もいるらしいが、信長が死んだ後はまだ連絡が来ていない」

「状況が変わったからな。最初は信長を打倒することで動いていたが、毛利の内部も混乱しているのだろう」

「……やはり何人か消えたか?」

 

 二人が同時に頷くのを確認すると溜息が漏れる。間者がいるのは百も承知であり、その排除を担っていた龍兵衛だが、捕らえれば捕らえるほどに相手も老練な者を使ってくるため、尻尾を掴むことがなかなか難しくなっていた。

 元締めがいなくなると今後、見捨てられるのではないかという不安か急遽国に戻るように通達が来るかで息のかかった者達は失踪する。全てを捕まえられていなかった悔しさが龍兵衛の心に強く突き刺さった。

 

「この前俺が城下で聞いた話だと使用人をきちんと管理していない店が早速店を畳むという噂があるぐらいだな」

「それは自業自得だが、主要なところまで潰れて今後我々の動きに弊害が出るのはまずい。またやるか……」

「やるって、何をだ?」

「いや、ただの改善計画だ」

 

 そう言って兼続の追求をはぐらかす。

 人手不足で商売が厳しくなるのは今も昔も変わらない。龍兵衛はそう思いつつ、闇商人に他国の市場から人を貰ってくるように書状を認めようと決めた。

 

「逃げた者達については捕らえるように斎藤殿に私から言っているから気にするな」

「分かった。助かる」

「……畿内については大方まとまったな。龍兵衛、斎藤殿と合流して越前から織田の様子を探ってくれ」

「兼続、それは機があれば動いても構わないというふうに捉えても良いか?」

「構わん。だが、逐一連絡をするようにな」

 

 龍兵衛は言質を取ったと唇の片端を吊り上げる。以前に比べると大分家臣が自身の判断で動きやすくなっている。とはいえ出来るのはかなり限られた者になるが、最近それでも良いと思うようになってきた。

 上杉は当主である謙信に力が集中しており、判断の多くを彼女の決定によって決めており、戦においても同じような状態であった。昔はそれが上杉の欠点とも捉えていたが、自分の判断で動ける者も多少は増え、変わらず謙信に権力が集中しているままである状況ならば反乱が少なくとも譜代家臣から起きる可能性も少なくなる。

 謙信が決めたことを忠実に守ってきたのだからこれからもそうしていこう、と。

「さて」と龍兵衛は気持ちを切り替えるように手を叩く。

 

「ここは正攻法で、北条を攻めるのが定石だな」

 

 龍兵衛の発言に二人も同時に頷く。三人は続いて関東の地図を取り出して碁石を黒白と細かく置いていく。

 

「俺が不在の間、北条の状況は?」

「俺や佐竹が調略を繰り返しているおかげか、北条方の将にも連絡を取れる者が何人かいる。里見も変わらず海からの物資を遮断すべく、海賊と連携して襲撃を行っているらしい」

「さっさと滅んでも良いのに、よく粘ることで」

「やはり善政が利いているようでな。俺らも見習いたいよ」

「あれだけ民を大切にしているんだからな。いつか我々もそうしなければならないだろう」

「民がいてこその国だ。俺が思うに、関東は今後、北条を滅ぼした後も民との戦いが待っているだろう」

「龍兵衛の言う通りだが、なかなか難しいだろうな。俺達と北条の体制は違うところが多いような気がする」

 

 北条は家臣の意見を大切にしており、合議制で物事を決める。これが謙信を頂点に中央集権の上杉とは異なる点であり、北条を降した後、関東を治めていく上で最も課題とすべき点だと三人は考えている。

 

「体制が変わっても民を思う気持ちは変わらないことを伝えるように兼続とは話している」

「具体的には?」

「噂を流している。上杉もいずれ北条と同じような年貢を納めるだけで良くしている。そして、次男や働けない者にも働ける場を与えると」

「それで結果は?」

「何とも言えないな。実際に侵攻してどうなるかだが」

「しかし、家臣や民に手を出されているのを許したままにしているところを見ると、北条はやはり追い込まれているのか」

「ああ、だからこそ今年の内に北条を完全に叩くように俺から謙信様に上申しようと決めている」

「それが良いな。ところで、関東を押さえたらだが……」

「心配せずとも分かっている。お前の腹案通りに進むようにすでに手は回しているさ。私も協力する」

「済まないな」

「……正直、全て任せても良いと思うが、御目付役が必要になる気がしてな」

 

 兼続の口調が暗くなると同時に颯馬と共に申し訳ないという思いが雰囲気から伝わってくる。龍兵衛は仕方ないと頭をかくと身を乗り出した。

 

「……讒言はどれぐらいあった?」

「私を介する者と本庄殿を介する者で二十はいた」

 

 兼続は呆れたと溜息を吐く。毎日のように対応に追われていたのだろう。謙信が不在の間はただでさえ仕事が増えるのにその邪魔に入る連中ほど、鬱陶しい者などいない。

 

「無駄な労力を使わせて申し訳ないな」

「いや、いいさ。私も本庄殿に聞いたが、特に謙信様に言うことでもないと思い、伝えていないらしい」

「悪いな」

「ま、謙信様に伝えたところでお前に対して何かするとは思えないがな」

「だから伝えなかったのか」

「もちろん。颯馬にも言ってきた者もいたらしいが」

「それは俺が放っておいた。しつこい奴は謙信様に伝えて、陸奥の直轄地に配置しておいたよ」

「横暴な……」

「お前のためにやったんだが」

「ありがとーございまーす」

 

 颯馬はわざとらしく首を前に出す龍兵衛に諦めた肩を落とす。兼続も颯馬に同情的な視線を送るが、お構いなく話をまとめにかかる。

 

「まぁ、いいや。とりあえず北条は任せるよ。俺は斎藤殿と合流して越前を攻める支度を進める」

「攻めるの前提かよ」

「当たり前だ。体制を立て直されたら無駄な犠牲が出る」

「……本音は?」

「越前から越後にかけて米の産出量を日ノ本一にしたい」

「やっぱりな」

 

 聞いてきた颯馬だけでなく、兼続も呆れた目で見てくる。龍兵衛はその様を見て、目を見開く。

 

「実際に成果は出ているだろう? 今や越後の石高はもう少しで百万石に達するんだ」

「それは認めるが、本当にお前はどこまで農民を豊かにさせれば気が済むんだ?」

 

 颯馬と兼続が少し不安そうな目をしてくる。だが、龍兵衛は構わないと首を横に振った。

 

「まぁ、いずれ来たる時のためにな」

「相も変わらずだな。隠す必要性があることなのか?」

 

 兼続の追及に颯馬も同調するように目つきを鋭くする。龍兵衛は困ったように肩をすくめる。ただ彼らに理解されないような数百年先のことだから言っても意味が無いと思い、口にしないだけで、これといって何か二心があるわけではない。

 だからこそ聞かれた時の対応に常々困っている。

 

「決して悪いことではないさ。とにかく、今は北条をどうするかを考えるのが先だろ?」

「露骨に話を逸らすな」

「だが、北条を倒さなければ今話したこともお流れになる」

「ちっ……分かった。とりあえず北条に話を戻そう」

 

「疑いはまだ向けたままだがな」口には出さなかったが、兼続の目はそう言っている。しかし言ったところで何か変わるわけでもない。評価されるかも分からない政策に徹底してこだわること自体、疑われているのだから、それを晴らすには龍兵衛の考えを捨てろと言っているのようなものだ。

 龍兵衛は二人に気付かれないように安堵の息を漏らすと二人の会話に加わり、納得いくまで北条に向けた戦略を練り続けた。

 

 

 

「ふぅ……」

 

 龍兵衛は柄にもなく熱く喋り過ぎたな、と先程の会議を振り返る。

 故郷である地方を取り戻せる機会となって少し気持ちが昂っていたのは事実であるが、自分が赴かない予定にもかかわらず、何故そこまで話に入る、と颯馬と兼続から一回ずつ突っ込まれたのには恥ずかしくなった。

 長らくこちらの世界に来て、気付けば気兼ねなく酒を飲める年齢も過ぎてしまった。だが、いつまでも変わらないこだわりと熱意は胸に残っているものだな、と改めて実感する。

 しかし、どれぐらい『今』の関東に作り上げることを目指すか、攻略は同僚二人の役目だが、その先は龍兵衛の役目である。どれだけ農地と商業地帯を築き、先の者にさらなる発展を頼むか。

 今の者達に必要な程度の利益を与え、過ぎたことをしてはその先の発展の芽さえも潰してしまう。

 これから攻略を行う越前でも同じことが言える。米どころである越前から越後の国々を『今』に近付け、近付け過ぎないようにする加減をその時に住んだことも訪れたこともない龍兵衛にとっては難しい。

 

「まぁ、調べるか……」

 

 両腕を上に伸ばして左右に腰を曲げる。気合いを入れ直すように息を吐く。

 そのため、後ろから小さな声をかけられる前まで気配に気付かなかった。

 

「龍兵衛」

「これは、景勝様……」

 

 二人だけで話すのは別れを告げた時依頼だろうか。そう思い返しつつ龍兵衛は表情を変えずに頭を下げる。

 

「話ある。来て」

 

 有無を言わさないとそれ以上は何も言わずに振り返る。付いて来なければ分かっているな、という圧力が背中からひしひしと感じられる。

 ここしばらくは仕事でも関係が無い立場にいられるように根回しをしていたため、久々に二人で会話することになる。正直、逃げ出したいが、立場上そうもいかない。

 頭の猿もこちらを見てちゃんと付いて来いと訴えてきているのもあり、静かに息を吐くと景勝に従った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

時を見定めし

「……」

「……」

 

 沈黙が続く。

 いつの間にか染まっていた空の曙色が障子を通じて部屋に差し込んでくる。

 かれこれ何時間もこの状態が続き、互いが互いを牽制し合うように口を開かない。とはいえ、龍兵衛は景勝に話があると言われて付いて来た以上、自ら声をかける訳にはいかない。

 そして、景勝も迷っているのだろう。声をかけたまでは良いが、久々に話し合う際、どうやって切り出すか迷ってしまう。よくあることだと龍兵衛はこの後にやるべき仕事が残っていないことを祈りつつ口を真一文字にし続ける。

 

「龍兵衛」

 

 景勝がゆっくりと口を開いた。真剣な表情の裏にある感情は例えがたいものだろう。どのような言葉を浴びせられるのか、腹をくくり、龍兵衛は口を開く。

 

「何でしょう?」

「京行って、何かあった?」

「いえ、何も」

「……」

 

 景勝は無言で真っ直ぐに目を見てくる。嘘だと彼女の直感が訴えているのだろう。だが、ここで信長の死に龍兵衛が関わっていることや許可も得ずに他家の武将を殺めたと言えば彼の首は飛ぶ。

 

「本当に何もありません」

 

 毅然とした口調で念を押すが、景勝は表情を変えずにこちらを見続けてくる。

 龍兵衛は疲れが原因か、段々と頭に血が昇ってきた。早く屋敷に戻って風呂に浸かりたい。明日も休む予定のため、さっさと寝て昼まで布団に入り浸りたい。

 

「無礼を承知で申し上げますが、これ以上自分を問い詰めても何も出ませんよ」

 

 表情をあまり出さず、口調にも抑揚が少ないが、今の声は多少荒くなったと自覚できた。珍しいことだと知っているはずだが、それでも景勝は何も言わない。

 普通ならすぐにでも立ち上がって部屋を辞するところだが、今日の景勝は動くなというかなり強い威圧感を感じる。そのまま動かずに目を見続ける。数秒の後、景勝は一つ頷くと彼女にしては大きく口を開いた。

 

「景勝、龍兵衛、心配」

「何故?」

「苦しそう」

「どこを見てそう思うのです?」

「目の色」

 

 思わず手が動きかけたが、冷静に元に戻す。だが、景勝の目をごまかすことは出来なかった。目の動きが明らかに手に向けられており、これみよがしに溜め息を吐かれた。

 

「目、色無い」

「はぁ」

「色、消えちゃう。龍兵衛、消えちゃう」

「いやいや。何を仰るのですか急に」

「心配。嫌?」

「いや有り難いですが、どうしてわざわざ呼び出したのかが分かりません」

 

 景勝とは距離を取っていたこともあるが、ここ数年来、仕事のことも含めて声をかけたり、呼び出されることが一切無くなっていた。

 その最中で龍兵衛を気遣うために呼び出したのは何か裏があるのではないか。疑い深い彼にとってそう思わせるには十分であった。

 だが、その疑う心など察しもせず、景勝は龍兵衛に近付き、目を覗き込んできた。

 嫌悪感を露わに顔を背けるが構わずに両手を使って添えようとしてくる。案の定、手を払うわけにもいかないため、簡単に景勝に捕まった。

 龍兵衛は顔を固定され、されるがままになるしかない。早く離れてほしいという思いは叶わず、景勝は目の周りに手を当てて目の中を真っ直ぐ覗き込んでくる。

 一通り様々な角度から見終えると何か納得したように頷き、元いた所に座る。龍兵衛はやっと終わったと静かに息を吐き、次の行動を待つ。

 

「さっきのこと、本当?」

 

 またか、と内心舌打ちをした。ここまでしつこいとそろそろ表情にも出てきてしまいそうになる。

 

「本当ですよ」

「……」

「……」

 

 また沈黙してしまう。帰りたくとも今の景勝はおそらく屋敷に乗り込んででも聞いてこようとするだろう。そうなれば屋敷の者達に何か良からぬ噂を立てられかねない。この場での最適解は景勝から折れてくれること。我慢比べであれば負ける気がしないが、景勝もなかなかにしぶとい一面がある。

 だが、龍兵衛から折れてあのことを言うわけにはいかない。それ故に口を閉ざして一切話さない。待つことは苦痛だが、動けば自分の立ち位置を失う。

 ここに来てから白い目を向けられ続けた中でようやく得た地位を失いたくない。

 揺らぐことのない固い意志を改めて実感し、景勝が折れるのを待つ。浮ついた感情など捨て、波すら起きない水面のように心は平静を保っている。

 感覚的にさらに十数分ほどの時が経った。景勝は未だに何も言わずに龍兵衛を見ている。どのような思いを抱いているのか分からないが、いつになれば解放してくれるのかがむしろ楽しみになってきた。同時にここまで無の感情を引き出せる自分を褒めた。黒く、何も無い心中が動じずに時の流れに身を任せている。

 危うく自分に酔いそうになったが、久々に景勝が口を開いたおかげで意識を現実に戻せた。

 

「龍兵衛、隠し事、誰でもある」

 

 鼻で笑いたくなったのを堪える。語り聞かせるような口調も相まって苦し紛れにしか聞こえない。密かに拳を握りながら黙り続ける。

 

「……何も言わない。逃げる?」

「いえ、そのようなことはありません。自分は景勝様に対して隠したいと思うようなことは何もしていない。ただそれを分かってほしいだけです」

「……ん」

 

 景勝が頷いた。落ち着いていたはずの感情の波が嵐が来たように荒ぶり始めた。

 

「分かっていただけましたか」

「……駄目、分からない」

「何故です?」

「龍兵衛、噓付いてる」

「それは景勝様が疑り深いだけです。自分は決して何も隠すようなことはしていません」

「ほんと?」

 

 景勝が目つきを鋭くするだけで部屋の雰囲気が一気に変わった。

 嘘は許さない。ただ真実のみを言えという圧倒的威圧的をどこに備えていたのだろう。

 謙信が熱い炎を持って敵味方を圧倒するのであれば、景勝は冷たい怜悧さを持って畏怖させる術を持っている。今は謙信が主であるために隠しているのだろう。それでも代替わりをしても上杉の先を支える新たな大黒柱は確実に固められた。

 しばらく見ない内にそこまで強くなったのか。

 龍兵衛は感心しつつ、上杉の未来を安堵した。だからこそ、龍兵衛は力強く嘘を重ねられた。

 

「本当です。自分は決して京で何かやましいことなどしていません」

 

 媚を売るような口調は一切なく、毅然とした声ではっきりと伝えた。これで景勝の自身に対する疑いも少しは晴れるだろう。

 今後、景勝の代になったとしても龍兵衛の地位は保たれ、上杉の家臣の中にいることが出来る。

 誰も傷付かない正に大団円。

 目の前の景勝も屈託のない笑顔を浮かべ、ただ「良かった」と一言だけ口にした。

 龍兵衛は静かに胸に溜まっていた空気を吐き出し、内心では渾身の拳を握り締めた。

 

「これ、龍兵衛、言ったらどうしようって思った」

 

 痺れた足をごまかすようにつま先を意識して立ち上がろうとした瞬間だった。

 景勝がおもむろに袖の下に取り出した黒い紐に巻かれている書状、正しく官兵衛や京にいる協力者との密書である。

 龍兵衛は笑顔のままの景勝と書状を見比べる。書状は改めて観察しても密書であるという目印として官兵衛との間で約束した紐が巻かれている。

 先程の言動から中身も見られていると考える。大方を察した龍兵衛の表情筋は引きつり、唇が微かに震え始めた。

 景勝は相変わらず笑顔を浮かべたまま書状を見せてくる。

 

「何故、それを……?」

 

 気持ちを落ち着かせてもなお、震える手で書状を指差す。

 

「教えない。龍兵衛、知ってるはず」

「……どのように屋敷に入ったかは知りませんが、いくら景勝様でもそれを持ち出したことはいただけません」

「龍兵衛、それ以上のことした」

 

 話を逸らすなという強い口調に押し黙ってしまう。だが、もう一つ確認しなければならない。

 

「その書状の中身を誰かに知らせましたか?」

 

 景勝は首を横に振った。聡い故にこれを外に出す恐ろしさを知っている。

 龍兵衛は分かっていたことだが、と思いつつも安堵した。

 

「それで、これ、何?」

 

 何故このようなことを裏でしていたのか。

 龍兵衛は景勝がそう問い詰めてきていると察しつつ、口を簡単に開かない。

 景勝が手にしている書状は最新のものであり、まだ返書を認めてはいない。内容は信長の京滞在中の予定と実行場所となるであろう本能寺の見取り図、信長が共として連れて行く予定の家臣の数、さらに明智光秀が京にいるという情報と彼女に罪を擦り付けるためにいかにすべきか、仔細を龍兵衛に任せることや協力者も支援は惜しまないと了解を得たことも書いている。

 おそらく景勝は全て読んだ上で聞いている。もしかしたら春日山城下や上杉領内全体の不穏分子の存在やその排除方法についてなど、誰にも読ませられる代物ではない書状にも目を通しているかもしれない。

 

「中を見ましたか?」

(こくり)

「ならば、早く自分に処罰を申し付けください」

「理由、聞く。逃げるな」

 

 頑固なところが出ている。こうなると景勝はてこでも動かない。

 だが、ここで折れて全てを話せば確実に処刑される未来しか見えない。逃げ道を塞がれた今、黙っていればまだ可能性があると信じ、龍兵衛は口を真一文に塞ぐ。

 

「景勝、龍兵衛、知ってる。龍兵衛、死ぬの嫌」

 

 生きることが何よりも勝る善行である。龍兵衛がその信条を貫き、生粋の武人とは距離を置いていることを景勝は誰よりもよく知っている。

 黙っている時に警告を与えてきたということは、このままでは龍兵衛の首と胴体が離れ離れになるのが確定である。

 諦めたと龍兵衛は溜め息を吐く。

 

「謙信様の下、上杉は義を掲げて天下を平定するために動いています。ですが、表面上の悪を断ったところで見えない悪を根絶しなけれ、果たしてそれは義と言えるでしょうか」

 

 開き直った口調に怒りを覚えたのか景勝の目が細くなる。だが、黙っていれば処刑すると脅したのは彼女であり、今の行動について咎められる筋合は無い。

 龍兵衛は構わず口を動かす。

 

「正義を成すために鬼畜に墜ちる。誰かがやらなければならないのであれば自分がやれば良いと思っただけです」

 

 納得がいかないと景勝は徐々に眉根を動かし始める。

 

「義の下、鉄槌を下せる悪などたかが知れている。そう言えば分かるでしょう?」

 

 その様を見て今度は諭すような口調を心がけた。景勝は相変わらず目を細めて黙っているだけ。納得するまで口は開かないつもりだろうか。それともまだ出番ではないと思っているのか。

 自身の番であると龍兵衛は口を再度開く。

 

「見えない悪は、武人と民、どの立場であっても蔓延るもの。それを全て滅ぼすことは出来なくても対処しなければ、上杉は足元すら見えていないただ空想に過ぎない理想を追い求める愚かな大名だと言われるだけです」

 

 まだ最後の切り札を出していないが、まだだと判断し、龍兵衛は口を閉じ、力の入っていた肩を落とす。

 景勝の方は目線を下にして考え込んでいる。龍兵衛の言っていたことについて思うところがあるのだろう。死ぬのが嫌かと言った手前、話すべきことを話した相手にどう答えれば良いか分からなくなるのも無理もない。

 上杉のためにと言っているが、褒めるべき所業を行っているわけでもない龍兵衛をどうするか悩み、決断をしかねている。

 その間、龍兵衛は景勝を待ちながら今後について考える。これで景勝が自身を詰問し、処断するのであればその前に逃げなければならない。南の北条はもはや風前の灯、行くとすれば西の毛利だ。だが、今まさに上杉と同盟を結ぼうとしているところに罪を被り、出奔してきた者を迎え入れるとは思えない。

 万事休すの中でも龍兵衛は変わらず無表情のまま、景勝の次の動きを待つ。だが、かなり悩んでいるのか眉間のしわがますます深くなっている。

 仕方ないと龍兵衛は最後まで隠していたとっておきの言葉を出した。

 

「上杉のためにやったことは確かです。しかし、自分は無理やり付き合わされたのですよ」

 

 景勝は目を丸くして顔を上げる。あたかも全て自分の手でやったような物言いで語っていたのだから当然だろう。

 

「誰?」

 

 案の定、真の主犯を聞いてきた。ここまできてもったいぶればさすがの景勝でも怒りを爆発しかねない。そう考え、龍兵衛はあっさりと白状した。

 

「しげ……いえ、官兵衛殿にです」

 

 名前を発すると景勝の表情にまさかという思いと確かにという思いが交錯しているのが伝わってくる。彼女はとっさに書状の黒紐に手をかけ、中身を改める。筆跡は官兵衛が書いたものではないが、その名前は入っていて、くれぐれもよろしくと認められている。

 景勝に密書を見られたのは衝撃だったが、内容を覚えていて良かったと思い、少し安堵した。

 

「そういうことなら、そうする」

 

 意味ありげな物言いに龍兵衛は顔をしかめる。

 

「そういうこと。とは?」

「龍兵衛、死ぬの嫌。だから、官兵衛のせいにした」

 

 油断しているところに心臓へ一直線、強力な拳を喰らったようだ。そこに景勝は容赦なく追撃を打ってくる。

 

「龍兵衛、全部嘘付いてる。でも、そういうことに景勝、する」

「言わなければ良かったのでは?」

「言わないと伝わらない」

 

 龍兵衛は参ったと両手を挙げたくなった。しかし、ここで簡単に折れるほど、精神的に追い込まれているわけではない。

 

「それは景勝様の憶測です。自分はあくまでも関係しているだけです」

「嘘」

「本当です。断じて認めません」

「景勝、頭下げる」

「やっていないことを認めることはしません」

 

 龍兵衛は景勝の両目を強く真っ直ぐ見て答える。毅然とした態度を崩すつもりはない。たとえそれが次期当主を欺こうとしてもそれ以上に自分を守るためだ。たとえ佞臣を嘲笑われようとも死ぬことに価値など無い。

 

「本当のこと、墓場、持ち込む?」

 

 景勝も真相を聞こうと譲らない。しかし、これは何日かかろうとも認めるわけにはいかない。

 

「先程が申し上げていることが真実です」

 

 部屋は完全に襖を閉め切っていたはずだったが、二人の間をどこから来た隙間風が通った。

 これで信頼を失う代わりに命を得た。そう確信し、龍兵衛は体の力が抜けていくのを感じた。

 

「……ありがと」

「……は?」

 

 だが、景勝から返ってきたのは、侮蔑でも罵倒でもなく、ただ優しい笑みである。景勝の思いがけない発言と態度にこの場で初めて眉根をはっきりと寄せた。

 

「景勝、分かる。どれだけ言っても、龍兵衛、変わらない」

「ならば、どうしてここまで時間をかけたのです?」

 

 相手が景勝でなければ何かしらの行動で沸騰寸前の怒りをぶつけていただろう。

 口では言わないが、龍兵衛にだって仕事がある。しかも引き継げるようなものではない内容もあるため、溜まっている量は想像したくないほどだ。

 時折、龍兵衛が見せてきた苛立ちを見逃すほど、景勝が盲目とは思えない。

 つまり、問い詰めていた理由はただ時間を稼いでいただけに過ぎないのだ。

 

「夜、待ってた」

 

 龍兵衛は外を見る。景色は襖に遮られて見えないが、確かに蝋燭が着いていなければ部屋の中も真っ暗になっていただろう。

 

「夜を待っていた理由は?」

「夕方、人がいる。景勝、人として振る舞えない」

 

 そういうことかと龍兵衛は下唇を一瞬だけ噛む。そうしている間に景勝は答えを待たずに次の行動に出た。

 

「人として聞く。教えて」

 

 景勝が両手を前に添えて畳に額を付ける。このような姿を誰かに見られたら、たまったものではない。

 

「顔を上げてください」

「や」

 

 そのままの姿勢で拒否される。同時に龍兵衛の中で何かが切れる音がした。

 

「なら、ご無礼ながら自分も人として景勝様に申し上げます」

「ん」

 

 景勝は相変わらず土下座したままである。龍兵衛は大きく息を吐き、小さく口を開いた。

 

「いい加減、しつこいですよ」

 

 低い声で不快感を露わにすると景勝が驚いた表情を見せてくる。

 龍兵衛は立て続けに怒りと呆れをこれでもかと表情に見せ、早く解放しろと目で訴える。

 これでようやく景勝も諦めてくれるだろう。そう思いながら固まっている景勝に次なる言葉を投げ付ける。

 

「自分には自分の立場や仕事があります。それを捨ててまでこのような茶番に付き合わせるのはやめていただきたい」

 

 鏡で自分を見ればおそらく周囲から人が離れていくであろうほどの黒い怒りを表す表情をしているのだろう。歯茎を押し潰さんばかりに強く噛み締め、眉間のしわを押し破らんばかりに寄せている。

 だが、景勝が返してきた表情は今までに無いくらいに良い笑顔だった。

 

「何がおかしいのですか?」

 

 怒りが徐々に殺意に変わろうとしているのを必死に堪えている状態である。衝動にかられる相手ではないからこそ保っている理性だが、相手が格下であれば確実に崩壊している。

 

「だって、龍兵衛、怒ってる表情。本当の感情、出してる」

「え?」

「龍兵衛、本当の感情、出すの。初めて見た」

 

 そこで初めて龍兵衛は表情が変わっていることを自覚した。しまったと思い、戻そうとしたが、もうすでに遅い。

 

「新鮮」

「うぅ……」

 

 屈辱感が龍兵衛の表情をさらに歪ませる。

 思い返せばいいここまで本当の感情をはっきりと出したのは何年ぶりだろう。

 仮面に仮面を重ねてどれが本当の感情なのか分からなくなっていた。それを景勝はたった数時間で長らく悩み、諦めていたことを簡単に奥底から引っ張り出してくれた。

 

「龍兵衛、それで良い。景勝、龍兵衛、よく知ることができなかった。けど、やっと全部知れる。それが嬉しい!」

「今後、自分がこのような表情を景勝様の前で見せなければそれで良い話です」

 

 景勝が見せびらかすように書状を掲げる。分が悪いことを察して口をつぐむ。

 同時に明るい表情を続ける景勝がかなり羨ましく感じた。そして同時に痛みが走った。まるで感情があふれ返るような、そして不快感も合わせ持つ。

 正しく嫉妬だった。

 景勝の器の広さが妬ましい。

 何故そこまで慈悲の心を持つのか。

 何故そこまで自身を許そうとしてくれるのか。

 

「良い表情……」

 

 自分は唇を閉じて横一杯に広げ、左目にしわを寄せている。正しく嫉妬の表情を景勝に向けている。だが、負の圧に構うことなく彼女はよだれを垂らして嬉しそうにしている。

 手拭いがあればすぐに拭いてやりたいが、名誉のためにあえて指摘しないでおく。

 

「あのね。それでね……」

「よりを戻さない限り、自分は上杉で生きていける立場ではなくなっても知らない。と……?」

 

 笑顔で頷く景勝が実に忌々しい。だが、はいそうですかと簡単に頷くわけにはいかない。

 

「すでに自分の罪は今から先で償えるものではないのです。あの部屋を見たなら分かるでしょう?」

「景勝、受け入れる」

 

 決意を秘めた強い瞳を改めて向けられる。屋敷に勝手に入り込み、外に出せない資料を漁った。罪を自覚していながらやったのはそれだけ龍兵衛に振り向いて欲しかったからだ。

 しかし、と龍兵衛は首を横に振る。その行動を見て景勝の目に滴が溜まり始めた。

 

「景勝、不満あるなら、直す」

「違います。景勝様に非はありません」

 

 ならばと景勝が身を乗り出す。龍兵衛はそれに冷徹な最後通牒を突き付けた。

 

「では、話しましょうか? 自分が景勝様と共に歩めない理由を」

「うん」

 

 景勝は迷いなく頷く。逃げるつもりは無いという強い意志がこもっている。

 もはや逃げ道を完全に塞がれた龍兵衛は大きく息を吐く。

 

「嘘を付き続けるつもりでした……」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

絶対的一方通行

 龍兵衛は外を見る。襖を閉め切っているため、細かな状況を把握できないが、すでに太陽は完全に沈み、影のある話をするには丁度良い刻になっている。

 改めて景勝を視線の正面に置く。いつでも全てを受け入れる覚悟を持ったと目で言ってくる。

 龍兵衛はそれに応えるように口を開いた。

 

「政景殿が亡くなった時のことです」

 

 景勝の表情が一気に暗くなる。あの時、政景の実娘である彼女にも波紋が及んだ。謀反を企む者の娘など跡継ぎにするのかと訴状が来たことに景勝の心はかなり傷付いていたのをよく覚えている。

 謙信が全て政景の責任として景勝を守ったことで、事態は収まったが、未だに長尾家内で続く、見えない争いに決着が付く様子は無い。

 

「あの時、自分は越後に一足先に戻って色々と工作をしていたのは覚えてますね?」

 

 景勝が頷く。

 少し間を置いて龍兵衛は今までより小さく口を動かす。

 

「政景殿を殺害したのは、定満殿と公にはされています」

「……!」

 

 景勝の表情が驚愕から始まり、今にも泣きそうな顔へと変わる。

 だから言いたくなかった。

 しかし、今さら後には引けない。景勝もまたその覚悟でこの話を聞くと言っていたのだから咎められる筋合いも無い。

 

「察しの通り、あの方を殺したのは本当は自分です」

 

 景勝に容赦ない追撃を食らわせる。龍兵衛とて正直、ここまで素直に言いたくなかったが、自然に口から出てしまった。

 

「自分が自分の意志で殺したのでは無く、殺すように言われたのです」

 

 今さら罪を擦り付けるのか、と景勝の目が鋭くなる。しかし、事実を全て話すと言ったことを思い出したのか、今度は彼女から疑問を投げかけられた。

 

「……定満に?」

「いえ……」

 

 景勝の様子を伺う。察しが良い彼女は口を震わせ、亡き父への怒りを堪えている。しかし、言わなければならないという覚悟が龍兵衛の口を動かした。

 

「政景殿本人です」

 

 自然と語気が強くなった。

 心の内で枷をしていた筈の秘密の檻が嫌な音を立てて開く。同時に景勝も握っていた拳を自身の太ももに叩きつけた。

 

「どうして?」

「推測ですが、政景殿も自分が上杉にとって邪魔な存在であると知っていたのではないでしょうか。景勝様の実父であるあの方が代替わりをした後、最も力を持つのは誰もが知っていましたから」

 

 景勝は口を強く結ぶ。心中で込み上げるのは悲しさか怒りか、察することは出来ない。

 しばらくすると景勝ははっと何かを思い出したと顔を上げた。

 

「でも、龍兵衛、違う所いた」

「そんなの嘘に決まっているでしょう? だいたい、あれはかなり無理やり帳尻を合わせたのですからいつばれるかずっと冷や汗をかいていたんですからね」

 

 あの時、湖にいたのは政景と定満の二人のみであり、二人はくるみ合ったまま湖に沈み、死んだというのが正史とされている。その前提を覆すこの告白はとても受け入れがたいものだろうと容易に想像できる。

 

「止めましょうか?」

 

 景勝は首を横に振る。ここまできて飼い殺しのような真似はされたくないと思ったのだろう。

 夜空のような暗い闇が彼女の心を覆っているのかもしれない。だが、望まれているのであれば応えなければならない。

 

「あれは、定満殿が自分を守ろうとしただけです。自分もそれに甘えてしまいました。あの頃は自分への風当たりが今よりも強かったですから」

「龍兵衛、お父さん、どうして殺してって言った?」

「景勝様のため。そう言っていました。そして、どうせ謙信様が殺さずとも家臣の誰かが自分を殺すのであろうと」

 

 御家騒動の最中だったとはいえ、政景は謙信に刃向かった。そして、降伏すると謙信のために奔走し、自身の娘を彼女に養子として渡した。

 それが譜代の家臣からは危険視されていたことを政景自身も察していたのだろう。

 あの時、彼が見せた清々しい表情は今でも忘れられない。

 

 

 

 

 定満に気絶させられた龍兵衛は意識を取り戻すと急ぎ、政景の居城である坂戸城に向かった。外はすでに虫も鳴かないほど、深い夜となっており、月明かりがあるおかげで辛うじて自身の理性と居所を保てている。

 門番からはかなり入城を渋られたが、謙信からの命令を政景に伝えに来たと告げ、無理やり通してもらった。

 中に案内されると政景は突然の来訪にも驚くことなく、快く通してくれた。

 そして、客を座らせることなく、開口一番、飲みに行かないかと誘った。

 龍兵衛は戸惑ったが、政景の安否確認という一番の目的はすでに果たされ、密命を受けて密かに越後に戻っているとはいえ、目上の政景の誘いを断る大きな理由も現状、特に無いため、受けることにした。

 

 湖に浮かぶ満月は実に綺麗で酔っていなくても呑み込まれそうになる。

 飲もうと誘われ、どこに連れて行かれるかと黙っていればいつの間にか船の上で政景と二人きりになっていた。

 手はずの良さから全く疑惑を抱かずに盃を片手に船床に座っているが、我に返ることが出来たのは乾杯の音頭を政景が取った後に発した言葉だった。

 

「実は、君が来る前に定満殿がいらっしゃってな」

 

 口に運びかけていた盃が止まる。顔を上げた龍兵衛を見て、政景は納得したと頷く。

 

「共にいたと思っていたのだがな」

「別で動いていたので知りませんでした」

 

 政景はしばらく考えるように盃を揺らし、納得したと曖昧に二度三度頷く。そして、一気に飲み干すと次の一杯を注ぎ、盃を船床に置いた。

 

「別行動とはいえ、定満殿より言われたことを君には話しておくべきだろう。目的は同じであろう故な」

 

 龍兵衛は察しの良さに舌を巻くが、表情に出すことなく、お願いしますと軽く頭を下げる。

 わざわざ同行させずに一人で赴くほどに機密性の高いものだとすれば、政景が明かしてくれるほどありがたいことはない。

 期待膨らむ龍兵衛の心とは裏腹に政景の顔に影が出来る。

 

「定満殿からは、上杉のこれからについて話を受けた」

「どのようなことを?」

「……あまり良い話ではない」

 

 政景は一杯飲み干すとゆっくりと湖に目を向け、口を開いた。

 今、上杉は織田と並び、天下を取れる大名となった。さらに領土を拡大すれば自然と新たに傘下となる者は増える。上杉の者達は基本的に誰であろうと受け入れる広い心を持っているが、義を掲げている謙信を崇拝しているためか、曰く付きの者達への風当たりが強い。

 政景は親の代から謙信に直接刃向かった者の筆頭でありながら、家格は同族かつ武功も多いことから一、二を争う立場にある。そのような彼を嫉妬し、疑う者は多くいる。

 謙信は気にすることではないと訴えに聞く耳を持っていないが、これから先、景勝やその後と続いていく中ではたして耳を傾けないままなのだろうか。

 

「……そのようなことを、政景殿の前ではっきりと言われたのですか?」

 

 心に怒りを抱きつつ、平静を装って問うと政景の首が縦に揺れた。

 

「ああ。面と向かってはっきりとな」

 

「むしろ清々しい」と笑いながら政景は酒を注ぐ。

 特に気にしていない素振りを見せているが、言葉の刀ほど恐ろしいほどに人の精神を切り刻むものはない。龍兵衛は身を持ってよく知っているからこそ、定満への怒りで手に力が入る。指が震えるのをごまかすように盃を一気にあおる。

 久々に飲んだ酒は体に染み渡るが、まるで飲んだ気がしない。

 政景は龍兵衛のような曰く付きな者達の筆頭でもある。

 彼が彼らを謙信に立ててくれるため、影で何かを言われても着実に身を立てていくことができている。

 大恩があるからこそ、定満の言動には疑念を持つ。人のつながりを大切にする彼女にとって政景のような存在は欠かせない。たとえ、害すべき者となろうとそれなりに丁重に扱うべきではないか。

 

「そこで、君に頼みたいことがある」

「何でしょう」

「私を殺せ」

 

 政景の言葉に躊躇いは無かった。表情を伺っても普段通りで何か思い詰めたような素振りが無い。

 

「……正気ですか?」

「無論」

 

 政景は何事も無かったかのように盃を揺らし、酒の水面を眺めている。

 

「私は私自身があまりにも大きすぎる存在になったことに残念ながら今日まで気付けなかった」

 

 龍兵衛は全てを懐かしむような政景の目を見ると本気で死を迎えるつもりなのだと悟り、表情を歪ませる。

 

「最期まで振り回される人生だった。謙信様に刃向かった時。そして今も周りの者に振り回され、家にも振り回され、全てを思うがままにさせられてきた」

 

 勢いのままに酒を飲み干す。そして、無言のまま龍兵衛を見てくる。何を伝えようとしているのか分からないが、気まずくなり、視線を逸らす。

 

「君にはここで私を殺して欲しい。だが、突き落とされるのは性に合わない。腹を切る故、解釈を頼む」

 

「死を偽り、逃げるという手段は無いのですか?」

「それは武人としての誇りを捨てることになる。出来ぬ相談だ」

 

 政景の目は真っ直ぐに龍兵衛に向けられている。

 

「……残念です。謀反を起こし、降伏された貴方なら分かってもらえると思いましたが」

「あの時、私は死のうと思ったのだが、妻に止められた。景勝のことや私の必要性を問われてな。理に適っていたが故、流されるがままに降った」

 

 政景は鼻で笑う。自身の未熟さを蔑むように。それが龍兵衛の心を一気に冷めさせた。政景が生きることを選び、臣下として振る舞っていたのかと思っていた。しかし、実際には武人らしく死を選んでいたが、やむを得ずに生きているという。

 龍兵衛はわざとらしく天を仰ぎ、失望していることを表に出さず、いつもの無表情で口を開く。

 

「承知致しました。そこまでお考えが固いのであれば、もはや自分は止めません」

「すまぬな。私も武人故、御家のために果てると思えば、誉れに思う」

 

 そう言うとあらかじめ支度をしていたのか、政景は素早く懐から短刀を取り出し、着物の前を開く。龍兵衛も遅々として携えていた刀を抜き、政景を介錯できる場所に立つ。

 本来なら同じ御家に仕える者同士の宴で刀などを携えるのはご法度とされているが、お互いに色々と抱えているため、常に護身用として何かを持っていることが多い。

 舟に乗る前に気になっていたが、やむを得ないな、と笑いながら政景は短刀を抜く。

 

「本当によろしいのですね?」

「最期に一つだけ良いか?」

 

 辞世の句だろうか。そう思いつつ、刀に込めていた力を緩める。

 

「お主に頼みがある」

 

 龍兵衛は一瞬だけ目を細めた。

 

「何でしょう?」 

「……景勝のこと、よろしく頼む」

 

 突然のことに目を見開く。だが、ここでとぼけても死に行く人を前に何も良いものは生まない。

 

「……気付いていたのですか?」

「娘の変化を気付けぬほど、父として失格者ではない」

 

 政景は鼻で軽く笑う。

 

「だが、まさか君を選ぶとはな」

「それには同意します」

「景勝は謙信様以上に純粋だ。故に正しきを信じる。君にように影を担う者を恐ろしく嫌うと思ったのだがな」

「どうも景勝様はそれよりも自分のように微妙な立場にいる自分を同情していたようでした」

「光と影、か……だが、どちらがどちらかに呑まれるようでは全てが瓦解しよう。その恋路は厳しいものになるぞ」

「自分が貴方の死を止めず、介錯しましたから、やむを得ないでしょう」

 

 淡々と言ってのける龍兵衛を政景は睨んでくる。さすがに過ぎたかと思い、俯くが、次に聞こえてきたのは愉快そうな笑い声だった。

 

「いかにも君らしい。最後までその通りの君であれば景勝とも添い遂げられよう」

「そう上手くいくでしょうか?」

 

 政景は躊躇うことなく頷く。

 

「たとえ君が懊悩したところで、景勝の君への想いは私への想いよりも強い。そう信じている」

 

 確かに景勝が権力を傘にして龍兵衛を囲えばそれに従うしかない。だが、あの優しい景勝がそのようなことをするだろうか。

 

「案ずるな。たとえ時がかかろうと、必ず成せる」

 

 首を捻る龍兵衛を見た政景が元気付ける。これから死を迎える者とは思えない。何も言えないまま長いようで短い時間が過ぎていく。その雰囲気を絶つかのように政景はひときわ強い口調で声を上げる。

 

「さぁ、時が惜しい。見事に果てるとしよう」

「景勝様に何と言えば……」

「あれは芯が強い。私がいなくなってもやっていける。それに謙信様もあいつのことは自分の娘のように可愛がっている。あれが思うがままにやれば良い」

「しかし、言う人は言います」

「言わせておけ。どの道、私はここで果てるのだからな。万が一、君が疑われるのであれば勝手に落ちたようにすれば良い。体良く、この辺りには石や岩が多い」

「……承知致しました。後はお任せ下さい」

「我ら影ある者の手引は君がするのだ。頼むぞ。景勝も共にな……」

 

 政景は龍兵衛が覇気に押され、頷いたのを見届けると笑みを浮かべ、短刀を腹に刺した。

 深々と刺しており、もはや苦しみを続けるだけ。

 龍兵衛は目一杯刀を振り下ろした。

 

 

 

「これが事の顛末です」

 

 景勝を気遣うことなく、淡々と物語の終焉を伝える。

 

「……みんな、自分勝手」

 

 小さな声を聞いて龍兵衛は嘆息する。

 政景が景勝を守ろうとして行っていたことを全て否定された。心優しい彼女にとってこの残酷な現実は受け入れがたいものなのだろう。全てを受け入れる覚悟を持って聞くと言ってもやはり、人の心はこれほどまでに脆い。

 

「龍兵衛、景勝、離した理由。お父さん?」

「政景殿の言葉にあの時は景勝に向き合う力が無いと思ったのも事実です。しかし、それ以上に景勝様と共にいるのが辛く感じられたのです」

「景勝、嫌い?」

「そういうわけでは……」

 

 景勝の実父を殺したこと。そして、過去に愛すべき彼女の父を死に追いやった要因を作ったこと。その忌まわしき記憶は簡単に拭えるものではない。

 いつまでもまとわり付くのだから切り替えることも出来ない。誰から言われようとも景勝と共にいると政景の面影が見えてしまう。

 

「定満、生きてる?」

 

 唐突に話題を変えてきた。少し驚いたが、定満のことは全く話していなかった。もしかすると答えられない龍兵衛への心遣いかもしれない。

 

「それは、自分からは言えません」

「生きてる。間違いない。どこ、いる?」

 

 龍兵衛は首を横に振る。

 

「教えて」

「それを教えれば、景勝様もこちら側に来るということになりますが?」

「構わない」

「そこまでして、景勝様は何をしたいのです?」

「龍兵衛、助けたい。傍にいたい」

 

 分かっていないと龍兵衛は首を横に振る。

 

「主となるべき御方は将兵、民から慕われ、手本とならなければなりません。景勝様もその道を歩む御方です」

 

 景勝は諦めずに言ってくれと目で訴えてくる。耳飾りを捨てた彼女がどこに消えたのかを知るのは龍兵衛のみ。墓場に持っていきたいという心理を理解しても好奇心か、闇に触れる覚悟があるのか、どちらかは分からないが、知ろうとしている。

 

「行きはよいよい、帰りは怖い」

「どういう意味?」

 

 睨み付ける景勝を見て、やはり知らないかと龍兵衛は目を瞑る。

 

「来るのは容易いですが、抜け出すのは困難を極めます。それは自分がよく分かっていますから」

 

 聡い景勝は何が言っているのか分かったのか、いよいよ絶望の淵に落ちたような表情を見せる。

 これまで龍兵衛が景勝と距離を取っていたのは罪の意識の他に彼女への思いやりであった。英雄として生きていかなければならない景勝が父の仇をどうして受け入れられるだろうか。

 愛していた者がただ振り向いて欲しいと思いで動き、讒言などから彼を庇い続けてきた。だが、それは父の仇をただのさばらせていただけという愚行であり、暗中に自ら身を投じた者への冒涜に等しい。

 そして、それを言わない優しさによって守られていたのだ。

 地響きを立てて二人の間に完全な隔たりが出来た。

 

「景勝様、あなたはこちらではなく、光ある道を歩むべき御方。もはやこれ以上言うべきでは無いでしょう」

「でも……」

「貴殿は英雄となられる方です。受け入れ難いことも全て受け入れ、越えなければなりません」

 

 景勝の体が震えている。精神の弱い者ならすでに発狂していてもおかしくない。だが、頭を抱えたいと持ち上がっている腕がそろそろ限界であることを物語っている。

 

「景勝、嬉しかった。龍兵衛、ずっと嘘付いてくれた。優しかった」

 

 先程、嘘を付いて欲しくないと自分で言ったことを忘れたのだろうか。それとも怒鳴った際、何も考えずに無意識に出た言葉だろうか。後者なら龍兵衛が尊重すべき景勝の言葉ははっきりしている。

 

「聞かない方が良かった……」

 

 結末はやはりこうなったか、と龍兵衛は天を仰ぎ、溜め息を吐く。分かりきっていたからこそ言いたくなかったが、どうしても景勝の脅しと熱意に心を動かされてしまった。

 そして、何と愚かな家臣だろうと自己嫌悪に陥る。

 景勝の表情に次はどのようなものを見せてくれるのか、楽しみにしている自分がいる。目を背けてはいけない。彼女がはたしてどうなるのか、そして素晴らしいと褒めるのか、残念だと肩を落とすのか、行く末を見守る義務がある。

 

「どうして……どうして!?」

 

 景勝はそう言いながら龍兵衛の胸倉を掴んできた。

 

「景勝、分からない。龍兵衛、お父さん殺した。なのに、龍兵衛、恨めない。憎めない!」

 

 政景を殺したことを告白した今、景勝は龍兵衛を殺すことが出来る。しかし、景勝の心にある情念が勝ってしまっているのだろう。

 思い出したくない思い出が重なり、頭の中で様々なものが回っては龍兵衛の精神を貫き、景勝に味方し続ける。

 

「景勝様。自分は一体、どうすればよろしいのですか?」

 

 小さく震えた声のはずがやけに部屋に響いた。

 今の景勝に向き合うにはどうすれば良いのか。どう受け答えれば良いのか。考え、搾り出した言葉は正に愚問だった。

 呆れた表情を景勝が見せる。心中では眼前の仇をどうするべきが迷っているのだろう。暗中で脱出すべき道を探すかのように見えない答えを探し続けている。

 政景の思うがままにやれば良いという遺言は伝えた。それを決めるのは彼女自身である。

 どちらを選んでも龍兵衛には受け入れる準備は出来ていた。罪を自覚し、景勝が抱えている懊悩も受け入れなければならない使命感がただ勝っていた。

 しばらくして龍兵衛の胸倉を掴んだまま、彼女は震える唇を動かした。

 

「自分勝手……」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

儚き者

「自分勝手……」

 

 景勝の一言は龍兵衛や亡くなった政景に向けられた言葉であるとすぐに理解した。だが、龍兵衛が欲するのは自身に対する景勝の意志である。それを待ち、黙って彼女の口をじっと見続ける。

 しばらく沈黙が落ち、蝋燭がそろそろ途切れそうになっていることに互いに気が付かないまま、時間が過ぎていく。

 そして、意を決したように景勝は無理矢理作った笑顔を向けた。

 

「だ龍兵衛、仕方ない。お父さん、きっと龍兵衛いなくても、一人で、そうした」

 

 何かを堪えるような震えた声だが、龍兵衛にはこれまでの言葉より倍以上の効果があった。

 これまで何人もの人間を陥れてきた。その時、皆が表情を歪ませ、顔の皮をむしり取るように爪を立てて指を引っ掻く。もしくは頭を抱え、壊れた音声機のように同じことを呟き続ける。

 今まで彼らを見て、何の感情を持たずに生き地獄へと突き落としてきた。それをまさか自分自身で味わうことになることになるとは思わなかった。

 距離を取り続けていたから分からなかったが、景勝が気付かず、調べずにいたからこそ何事も無く生きていられた。しかし、龍兵衛自身が政景殺害の実施していたと告白した今、彼女ははたしてどうするか。

 

「……許す」

 

 呟いた言葉に龍兵衛は思考回路を完全に中断し、少ししてすぐに我に返り、下唇を噛み切った。滲む血が口の中を鉄の匂いで覆うが、不快な味覚に構わず、景勝を睨む。

 

「今、言ったこと。証無い」

 

 意図を悟った景勝は感情の無い声で告げる。

 彼女の言う通り、龍兵衛の告白は上杉家中に伝えられている政景の死に関する情報を根底から覆すものである。

 万が一、それを景勝が龍兵衛から聞いたと言っても何を今さらと思われるのが目に見えている。たとえ景勝が地位を利用した強権を行使したとしても政景の名誉が回復するわけでもない。

 定満の死もすでに命をかけた反乱分子の排除という誇り高いものと差れている。

 それを龍兵衛という外様で曰く付きで有名な者が実は、となったところで定満の名誉を踏み潰し、上杉の歴史に泥を塗ったと言われるだけである。

 つまり、龍兵衛は景勝の心を抉っただけで、何も誰かのためになったことをしていない。

 悟った途端、遂に景勝の顔を見れなくなり、髪が乱れるのも構わず頭を押さえ、うずくまる。

 

「景勝の目、見て」

 

 顎を持ち上げられ、無理やり景勝の顔を見せられる。

 

「龍兵衛、現実から目、背けない。見て、景勝、龍兵衛を許している」

「なら、その目は何ですか? 人を蔑むような怒りに満ちたその目は」

 

 政景を殺めたことでまた、自身を信じてくれていた者を裏切る。目を背けたいが、出来るはずも無い。彼女は信じていたがために傷付き、自身を罰したりしない。

 だが、景勝には恨みという感情を抱いたはずである。言葉で憎むことができないと言えど、政景が信じると言えど、肉親を失った悲しみは全ての理性を消し去る威力を持っている。

 

「龍兵衛、逃げるから。景勝から逃げて、自分から逃げて、自分が特別でいようとする」

「それは、先程も申した通り……」

「甘えていたのは龍兵衛だけじゃない」

 

 どういうことかと目を細める。

 

「龍兵衛、全部危ないことやってくれた。景勝、やらなきゃいけないことも全部。だから景勝、皆から褒められてた」

 

 震える声で発せられた景勝の懺悔。しかし、龍兵衛にとって中和される甘美なものではなく、傷口に塩を塗られているようなものである。

 

「止めて下さい。それ以上言われると自分がますます甘えていた自覚が……上杉のためと、格好良くしていただけなのに……」

「辛かった。頑張った……お父さん、分かってた。これまでも、これからも」

 

 景勝以上に龍兵衛もまた狂ってしまいそうになっている。父の仇を討つとしてそのまま突き放してしまってくれた方がまだ良かったかもしれない。

 彼女から受ける甘美な対応が心に狂気を妊む毒となって心に染み渡る。その甘い感情にほだされていたことを、今までずっと見えないところで庇ってくれていたことを自覚させられる。

 

「許してあげる……」

 

 自分にも言い聞かせるような景勝のその言葉が龍兵衛の濁っていた脳内を鮮明にした。

 

「では……景勝様が公に許しても私的に許さない事実を告げましょう」

「え?」

「証が無いため、これは独り言になります」

 

 景勝が頷く。全てを受け入れる残酷なまでに甘美な毒が無意識なまでに体内へ入ってくる。

 

「景勝様、自分は京である者を殺めました。ですが、それは信長ではありません」

「……?」

「今も昔も自分の最愛で唯一の理解者だったものです」

 

 龍兵衛の顔を押さえていた景勝の手が震え、目を見開き、無言で訴えてくる。

 嘘でしょ、と。

 その目を穏やかに龍兵衛は見返し、本当だと一つ頷く。

 死してもなお愛すべき者だと定めた者がいる。他者にはその間に入り込む余地は古今東西無い。

 景勝は龍兵衛のことを最も好いている。しかし、想い人は何度もの葛藤の末に過去を知る幼馴染を選んだ。

 

「どうです? 景勝様、それでも自分を許しますか?」

 

 歯ぎしりが聞こえ始める。生涯、彼女は想い人から選ばれない事実を知り、許そうと思っていたはずの心が再び怒りと悲壮を覚え、揺らぎ始めているのが手に取るように分かる。

 その様を見て、龍兵衛の背筋に何かが走った。

 同時に自己嫌悪に陥る。

 怖気付いたわけではなく、景勝の姿を見続けた結果、面白い、さらに見ていたいと思ってしまった。

 これまで誰がそうなっても何も思わず、蹴落としてきた。それが景勝を見て快感を覚えてしまった。今までくすぶっていたのか、彼女故の現象か、分からない。

 だが、景勝を見て喜びを感じた事実は確かである。それに対して微温い、ぬめり付くような水に沈んだような不快感が襲う。

 その感覚を抱いたままいつまでも互いにそのままにしておくのも如何なものかと思ったが、おそらく景勝も今、声をかけても届くことは無い。

 代わりと言うにはおかしいが、景勝の表情を観察する。

 憤怒、憎悪、慈悲、悲哀、嫉妬。

 すべての感情が入り乱れ、交じり合う表情が愉悦を引き立て、体を震わせる。

 何ということだろう。先程、抱いたはずの嫌悪感を簡単に踏みにじるほどに彼女の所作が素晴らしいと思ってしまう。

 生き甲斐に感じても良いかもしれない。

 そう思った時、不意に過去の記憶が呼び覚まされる。 

 

『己を知れ』

 

 面と向かって謙信に言われてからずっと気にしていた。

 悩み続けていたのは龍兵衛自身だけではない。もちろん、景勝が様々な悩みを持っていたことはよく知っている。自分勝手と言われるのは大いに結構。だが、許されざるものをただ甘んじられて許されることや景勝への抱いた感情に乖離を自覚し、気付いた。

 彼女は、ただ人として軍師として悪役となり続ける自身を認めてくれる。

 

「良いんだ。もう、自分が何者だろうと……」

 

 呟くと景勝の目を鋭く見つめる。あいも変わらず、歪んだ表情を浮かべ、悩んでいる。

 

「景勝様……」

「むにゅ!? ん、ぬー!?」

 

 景勝を抱き締め、龍兵衛は唇を奪った。突然のことでじたばた動く彼女を離さないと腕に力を込める。

 ぱっと身体を離すとまだ足りないと再び引き寄せる。

 今度は抵抗が無い。先程の唇を合わせるだけとは違う濃厚な舌の絡め合う。

 少しだけ瞼を開くと彼女は顔をほんのりと赤くしている。そして、一筋の涙が頬を伝っていた。それを見て、龍兵衛は自分が行った突発的な行為に気付いてしまった。

 

「申し訳ありません」

「急……」

 

 謝りつつも景勝を離しはしない。彼女も嫌だと言わず、口元を押さえながら龍兵衛を睨んでくる。

 

「最愛たる者はいなくなりました。自分が迷いを抱いたがために招いた種です。しかし、彼女を殺した時に気付いたのは孤高でいられたのは一人でいたからではなかったということです」

 

 景勝は今の状態を咎めず、独白を聞いてくれている。

 

「景勝様、自分は最悪な人間です。迷いを抱き続け、そのために最愛と気付くのに遅れ、その者を殺し、ようやく気付いた後、貴方様に最愛でないことを伝えながらも許されざる罪を許してほしいと甘えようとしている」

「もういい……」

 

 言葉をつなぐ唇が指で押さえられる。

 龍兵衛が俯いていた顔を上げると頬を少し赤らめた景勝がこちらを見ている。

 

「景勝、龍兵衛がどう思っても良い。景勝にとって一番じゃないか、大事」

「では、あのようなことをした後でも景勝様にとって自分は最愛であることに揺るぎないと?」

「うん。不思議、龍兵衛にちゅーされて、嬉しいって思ってる」

 

 恥ずかしさなど捨て去ったと言わんばかりに背中をかきたくなるような台詞を言われ、表情を変えないように眉を下に落とす。

 

「自分が景勝様を最も想わなくても良いのですね?」

「それが龍兵衛の道。景勝の道。でも、景勝、全部無くなっても、一緒に地獄行く覚悟」

 

 自分から唇を重ねてきて何を言っているのか、と景勝が睨んでくる。確かにその通りだと自身で自嘲気味に笑いたくなるが、堪えてその覚悟に対して応えなければならない。

 

「……分かりました」

 

 景勝の覚悟が本物であるのは知っている。どれだけ龍兵衛に恨みを植え付けられようと踏み潰し続ける優しさと彼からの行動させる天然の恐ろしさを持って、離れかけていた崖の間を繋ぎ止める橋を強引に作り、駆け寄らせた。

 呟くような回答であったが、彼女の目が嬉しそうに開かれる。室内の空気も一気に重苦しさを払拭されたように彼女の明るさが戻り、視界も少しだけ広がった。

 外の静けさからもう城には見回りの兵だけしか起きていない。いたとしても仕事が溜まっている者達だが、すでに疲れから眠っている刻限になっている。

 さすがにこれ以上、時間をかけるのは互いに良くないと考え、結論を付けるため、息を深く吸い、景勝の目を射抜くように見る。

 

「景勝様は自分のことを嫌いにならないのならば自分はそのつもりでいたい。そう思っただけです。ですが、これだけは覚えていてください」

 

 何度目か分からないが、景勝が強く頷く。

 

「自分は、景勝様と共にいることを拒否しません。ですが、あくまでも惟信がいなくなったがためであり、肉親を失った悲しみと狂気を共有し合えるためです」

「うん。お互い、心埋める。甘える者同士」 

「景勝様、受け入れられるのですか?」

「そうしないと景勝、駄目になる。約束でもいないといけない」

「空しくないですか?」

「景勝、いたいから。それだけで良い」

 

 朗らかに笑う景勝を見て、先程までの苦悶の表情はどこにいったのかと呆れたくなる。

 そして、龍兵衛には嘘を付いていることも容易に分かっていた。本当なら二人が互いに心から愛し合う関係を望んでいるはずだ。それをある種、交わることの無い陰陽の調整をする生贄のような難しい間柄を強いられることで、唯一、甘えられる者同士でいることにさせられている。

 持ちつ持たれつと言えばまだ聞こえは良いかもしれないが、互いに自覚をしているこの関係性に名前を付けるとしたらどのようなものだろう。

 

(悪魔の取引かな)

 

 景勝が首を傾げて覗き込んできたため、何でもないと首を横に振る。

 

「しつこいようですが、自分の最愛の女性は心と記憶に残します。ですが、これからは景勝様の思いを踏みにじって、一方的に別れたことを贖罪させてもらいます」

「なら、もう離れない?」

「ええ。景勝様が自分を許してくれるなら」

 

 行き過ぎた緊張は熱くなった心を冷ます。しかし、慎重にならなければ不安を拭うことは出来ない。

 ここまで来ても人が行動しない限り信頼することが出来ない性格に嫌気が差す。しかし、それが自身の持ち味と今は開き直り、景勝の答えを待つ。

 

「許す」

 

 寸分違わず、景勝は答えてくれた。

 肉親の恨みは物語でも現実でも決して拭われることの無い怨念となって末代まで続く。その怨念を簡単に踏み潰した景勝を龍兵衛は呆れながらも恐ろしく思った。

 景勝は飛びつくように首に手を回してくる。龍兵衛の喉仏に直撃したが、堪えてあげる。

 

「龍兵衛、お父さん殺した。でも、お父さん、龍兵衛、分かってた。きっと……ううん。絶対、喜んでる」

「深い傷を負わせた罪、それを自分も償うつもりです」

「傷の共有」

 

 龍兵衛は先程の疑問を容易く解決してくれたことに少し眉を吊り上げる。

 一方で、全く気付かずに懐いた猫のように頭を頬に押し付けてくる景勝に呆れ、表情筋を緩ませてしまう。

 

「さて……」

 

 しばらくして、いい加減眠気に誘われてきた。明日も溜まっている仕事を片付けなければならないと思うと早く屋敷に戻って休みたい。

 

「景勝様、今宵はこれぐらいで……」

「や」

「しかし、明日もやるべきことが……」

「ん。分かってる。けど、遅い。一緒に泊まる」

「えっと。つまり、この部屋でですか?」

 

 景勝はこくこくと頷き、手慣れた動きで布団を敷く。もちろん布団は一式だけだが、枕を二つ置いている。

 

「景勝、眠い。龍兵衛、疲れた」

 

 布団の上に座ると龍兵衛が来るのを待つ。礼儀正しい犬のようだと思いつつ、添い寝なら構わないかと肩をすくめ、了承したと頭を下げる。

 布団に入り込むと景勝も体を密着させ、足を絡ませてくる。少し冷たさが足裏から下半身を通して全身に渡り、心地良さを生む。それがさらに睡魔の味方をしてまぶたを重くする。

 景勝を見るとすでに寝息を立てている。無防備と思いつつ、たった数刻でここまで信頼を取り戻せるのは予想外だった。

 だが、これで精神的に悩まされる日は無くなる。互いに傷を容赦なく付け合い、散々なまでに塩を塗り合い、治らない跡を埋め合うことで、心の平穏を保つことが出来るようになった。

 純粋な恋とは異なる必ず最期まで続く関係性を築き上げたことがはたしてどのような顛末を迎えるのか。それは龍兵衛自身、景勝さえも分からない。

 考えても意味が無いと思考を停止させ、蝋燭の火を消し、もう一度景勝を強く抱き寄せる。

 限界がきていたまぶたはすぐに閉じられた。

 

 

 池の船着場、政景の殺めた後、龍兵衛は舟を付けて呆然として水面を眺め続けている。

 本当に正しいことをしたのだろうか。

 本当に上杉のためになったのだろうか。

 本当に政景は死を望んでいたのか。

 上げてしまえばきりがない。

 しかし、事実として政景がここにいない。

 思考を巡らせていると草陰から物音が聞こえ、首だけ振り返る。

 明らかに腹に一物抱えているような満面の笑顔を浮かべる定満が近付いてくる。耳飾りは隠密のために外されている。

 

「お疲れ様」

「定満殿、これで良かったのですか?」

「うん。龍兵衛君なら来てくれると思ってたの」

「しかし、政景殿のこれまでの武功が全て潰されます」

「大丈夫。全部、景勝様のため、なの」

「そう言われると……分かりました。定満殿を信じましょう」

「うんうん。じゃあ、これで私は失礼するの」

「定満殿、貴方はどうするのですか?」

「んー。とりあえず、京で色々と頑張ってみるの。そして、謙信様や景勝様のために、頑張るの」

「しかし、そのためには定満殿は越後からいなくなることになり、それを謙信様がお許しになる……まさか……」

「後のことは、よろしくなの。このことは秘密にね」

「全て罪を、負っていただくことになります」

「大丈夫。それは私がもう手を回したの」

「政景殿が死んだ後、謀反人であり、定満殿は政景殿を弑して共に亡くなった英雄となる。そういう筋書きですか?」

「ここでそうしないとどうなるか。分かるよね?」

「……分かりました。謙信様には上手く伝えます」

「ん。良い子」

 

 定満が近付いてくるのを見て、頭を撫でるつもりだろうと頭を少し下げる。しかし、置かれると思った手は肩に落ちてきた。

 その手を拍子抜けした目で見ていると逆側の耳に呟かれた言葉に龍兵衛は心身が一瞬凍った。

 

「ようこそ。こちら側へ」 

 

 意識が覚醒する。

 外はすでに日差しが差し込みはじめており、慌ただしい足音が遠くから聞こえる。太陽の角度からして寝坊はしていないが、いつまで寝ていても仕事が増えるばかり。

 不意に隣を見やるとまだ景勝は寝息を立てている。起き上がろうとしたが、腕を掴まれてしまっている。

 そっと指を解こうとするが、かなり力が入っており、取りにくい。

 鼻で笑い、丁寧に一本一本指を伸ばしていく。それが終わると起こさないように立ち上がり、景勝に頭を下げる。

 

「ありがとうございます」

 

 龍兵衛は部屋を静かに辞すと素早く屋敷へと戻った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

名を捨てて何を得る

 謙信は京より帰還すると帝より賜った下知と彼の地で起きた事の顛末を皆に伝え、上杉が天下を正すためにさらに日ノ本統一に向けた取組を強化することを宣言した。

 その一環として伊達や最上、蘆名ら傘下の大名に動員令を発し、準備期間に半年弱をかけて秋の収穫を終えた後、上野より北条の、越前より織田の領内へ侵攻を開始した。

 また、他にも上杉の功績を称えた帝から重臣達にも相応の官職を与えられ、皆が慎んで受けた。

 これにより上杉家全体が帝から認められた存在で、織田に代わる可能性があると世に示された。

 龍兵衛も以前から謙信に言われていた官職を予定通り授かることになった。

 

「やはり名を呼ばれぬのは慣れんか? 豊前守殿?」

「ええ。もうどうぞお好きに呼んでください」

 

 龍兵衛は諦めたと斜め前にいる斎藤朝信に向け、手を振る。

 茜色の夕日が掌で遮られ、差し込みを繰り返して自ずと目つきが険しくなってしまう。

 今、二人は越前との国境に位置する加賀の日谷城にいる。

 目的は越前の占領である。

 大聖寺城を本陣としてその支城であるこの城に入り、国境で織田軍と睨み合いを続けていた。

 

「じゃあ、遠慮なく河田と呼ばせてもらうか」

「そう仰ってくれるのは斎藤殿だけです」

 

 龍兵衛はわざとらしい嬉し泣きを少しだけする。だが、あまりうけなかったため、すぐに元の姿勢に戻る。

 肌寒い風が頬を撫でる中で、さらに空気を冷え込ませてしまった。

 頭の中で切り替えて、今置かれている状況を再度整理する。

 

(これも全て、歴史通りなのか……)

 

 いずれはなるかもしれないと思っていたが、正式に豊前守に就任するとは思ってもいなかった。

 というのが龍兵衛の心中の呟きである。

 

「もうなると決まったのだから気にすることは無いだろう」

「謙信様の言う通りだ。上に立つ者として然るべきものは必要だぞ」

 

 断ろうとしたが、謙信と兼続はそう笑って背中を押された。

 元々、龍兵衛という通称は歴史上は無いものであった為に折を見てそう名乗るのは止めようと思っていたのである意味渡りに船ではある。

 河田長親が歴史上、豊前守であったため、拝命もあるかもしれないと思っていたが、随分と突然のことであったので心の準備というものが出来ていなかった。

 だが、既に外堀は謙信と景勝が近江河田家の養子に入った時から打診もしていたようなのですっかり埋められていた。 

 

「こっちの意見は通らないんですか?」

「無理」

 

 謙信にお口添えしてもらおうと踏み切った最終手段も笑われて景勝に無情な宣告を受けた以上、受け取らざるを得ない。

 豊前守は従五位下の位に相当して昇殿が許される殿上人である。 

 皆からは羨まれるか嫉まれるかのどちらかである。無駄な争いはしたくないが、とりあえず自身の都合と箔はいるかと考え、承ることにした。

 そして、良い機会と考え、今の名を呼ぶことを止めてもらうように働きかけをした。

 だが、前々から付き合いのある個性的な者達は彼の願いを聞き入れることは一切無かった。

 笑われたが、かつて受けたような冷笑ではなく、新たな門出を祝う温かな笑みに救われたことも事実である。 

 

「……まぁ、お前は今、書かせている上杉軍記には通称を絶対に使わず、官名を使うように厳命しているらしいな。いずれお前の呼び名は歴史から無くなるが、それで良いのか?」

 

 斎藤は何も聞かずに当たり障りない話題にすり替えてくれた。

 心の中で感謝しつつ、いつも通りの無表情に戻る。

 

「ええ。元々、名も無い時に仮で師匠達に付けてもらったものです。ことさら誇るものでも、受け継がれるものでもありません」

 

 斎藤は少し目を見開く。おそらく、生まれてからもらった名前だと思っていたのだろう。

 この時代で生きていく中で必要であると思ったことがまず現代風な名前を捨てることだった。奇異な目を向けられることをとにかく嫌った龍兵衛は師匠二人に名を付けてほしいと願った。そして、生まれたのが今の名前である。

 

「名付け親は泣くのではないか?」

「ええ。いずれ捨てることになっても良いと言われてますから」

「不思議だな。それでも長らく使ってきた名だろう」

「機会が無かった。というのが正直なところです」

 

 納得したように斎藤は鼻を鳴らす。

 不思議なことに龍兵衛も自分で驚くほどに愛着が一切無かったらしく、名を改めるだけでなく、今後は一切『龍兵衛』という名前を公式の書に認めることはもちろん、その名で呼ぶことを止めるように願い出ることに何ら躊躇いを持たなかった。

 周囲からはかなり驚かれたが、逆にそれに驚くほどだった。

 謙信以下、重臣達が執り成したおかげで周囲から恩知らずという根拠の無い噂が立つことは無かったが、名を付けてくれた親への不孝ではないのかと思われただろう。

 目の前にいる斎藤が思ったように。

 言われずとも分かる。出自を知らない上杉の者達が龍兵衛の徹底した『龍兵衛』の排除を訝しんだ。

 だが、すでに周囲から疎まれていることに慣れている彼にとってそのようなことは些細なことである。

 

「ま。もう、このことはよそう。それよりも、名に恥じない戦を期待しているからな」

 

 官位の価値がこの時代。どれほどのものか分かっている。だからこそ斎藤に対して比較的力強い口調で答えた。

 

「そのつもりです。謙信様と景勝様のためにも」

 

 斎藤と龍兵衛は春日山を立った際の微笑ましい光景を思い出し、唇を吊り上げる。

 景勝は自分が織田への侵攻に大将として出ると最後まで訴えていたが、謙信が引き続き内政をよく取り仕切るようにと言って頭を撫でていた。

 傍から見れば景勝が戦で頼りないと思われたが故に出陣を許されなかったと思うだろう。だが、謙信の狙いは全く違っていると上杉の重臣、皆が知っている。

 

「天下を謙信様の代で治める。その覚悟が故、景勝様に政を任させている」

「景勝様も言われずとも理解して留守を守っているのです」

「変わりなく事が進むにも俺達が一層奮起しなければな」

 

 龍兵衛はその通りだと頷く。

 諸大名全体にわざわざ根回しするようなことでもないため、謙信の意を汲むことなく、景勝が戦が苦手だと受け取った者もいるだろう。

 家臣として主の不幸を思うなど言語道断だが、斎藤も万が一のためにを考える現実主義である。

 謙信に万が一のことがあれば景勝が継ぐことは決まっている。それが未だに乱世が続いている中であった場合、上杉の中で揉め事が起きては、これまでの苦労が全て水泡に帰す。

 そのため、上杉の重臣達は何としてでも早期決着を付けなければと躍起になっている。

 それは悪いことではない。しかし、何かが起きれば上杉が天下を取ることが難しくなってしまう恐れがある。

 斎藤も龍兵衛も上杉の中では数少ない客観的な目で物事を見ることが出来る存在である。だからこそ、越前攻略を失敗できないものであると気を引き締めている。

 それからしばらく斎藤は目の前にある地図を、龍兵衛は頭の中で越前の道筋を考えていると「報告」と扉の外から兵が声をかけてきた。

 

「何だ」

 

 斎藤が応答し、龍兵衛も声の方向に顔を向ける。

 

「斎藤様、謙信様より書状が来ております」

 

 龍兵衛が立ち上がり、兵から受け取るとそのまま斎藤へ渡す。中身を検めると顔が徐々に明るくなり、全て読み終わると満足そうに何度も頷き、こちらを見てくる。

 

「謙信様は北条を降伏させ、氏康、氏政姉妹を降したとある」

「さすがですね」

 

 龍兵衛も斎藤から渡された書状を読む。

 越冬を覚悟した出征だったが、思った以上に佐竹や里見の

 

「そうなるとお前は関東に赴くことになるな。支度は出来ているのか?」

「滞りなく。兼続にも引き継ぎ出来る資料は残してあります」

 

 龍兵衛は謙信に願い出て関東が収まり次第、自身をその後の統制に携わらせてほしいと頼んだ。

 当初、考案したものを兼続に任せようとしたが、やはり自身でやった方が早いだろうと改めて謙信に依頼した。

 結果、快諾され、兼続が交代で越前攻略に向かうことになった。

 彼女は謙信の命令ならと不承不承承知していたが、後で呼び出されて何故このような願いをしたのか問い質され、苦言を足がしびれてひっくり返るまで続けられたのは別の話である。

 

「ならば良いが、いつ頃経つ?」

「兼続が来てから向かいますので、ご案じ召されることはありません」

「織田は信長が死んだ後、妹を担ぎ出したそうだが、内側の混乱は耐えないからな。別に俺達だけでも構わないが」

「報告でも確かにその通りのようです。しかし、追い込まれた者ほど何をするか分かりません」

 

 織田は信長の死後、子供がいなかったこともあり、妹である織田信行を当主として立てた。

 しかし、彼女は元々信長に反乱を起こして地位や名誉を奪われ、ほぼ軟禁状態で過ごしていた。それが信長のやり方を反故する統治を行うのではないかと不安を抱いた者達が反対しており、収拾がつかない状況となっている。

 潜入させている者達の報告では、柴田や丹羽、羽柴といった重臣達が明智を討伐した後、信行を担ぎ上げ、彼女をもり立てると宣言した。

 そのため、大分落ち着いているらしいが、納得出来ない者達がくすぶっていることは事実である。 

 だが、窮鼠猫を噛むとも言う。織田は未だに勢力としては日ノ本で随一であり、上杉も単独で挑むにはかなりの支度と苦戦を強いられるだろう。

 その間に織田が再び団結すればひっくり返される可能性もある。

 

「お前のことだ。官兵衛を通じて一石投じるつもりだろう?」

「さすがに斎藤殿を騙すことは出来ませんか……さらに内部を崩せば容易く越前も奪えるのは確かです。すでに畿内に揺さぶりはかけています」

 

 隠し立てする理由も無いため、素直に白状する。

 斎藤の表情から特に龍兵衛を咎めようという機はなさそうだと見た。

 

「柴田と前田。織田の重鎮達が押さえている越前を奪えば奴らの喉元に刀を突き立てたも同然だ。この調略が意味するところは大きい」

「毛利も羽柴が撤退したことで守勢を転じて攻勢に出るそうです」

「東西から挟撃か。こいつは随分と大胆だな」

 

 斎藤は頬に手を添えて肩を震わせながら笑う。

 信長が倒れ、明智という重臣を欠いた今、抑圧されていた畿内の豪族達が一斉に動いているらしい。

 詳細は分からないが、徐々に織田に被害を与えているらしい。

  

「そういや、織田のことで思い出したが、信長を殺った明智が生死不明っていう話は聞いたか?」

「ええ。そのようですね」

「お前は昔、明智と一緒にいたことがあると聞いたが、生き延びる質か?」

「誇り高くも理想を見る御方ですから、どちらとも言えません。ですが、生きたところで織田の領内ではまともに生きられないでしょう。ましてや、明智殿はなかなか美しい御方ですから」

 

 朝信は察したように表情を暗くする。

 乱世の世で、女性という生き物が男の慰み者となって生きる術を選ぶことはよくある。しかし、それが望んでか、望まずかでその心を保てるかは別である。

 

「お前の言う通りの人だとすれば……いや、今はそれよりもこれよりのことだ。かなり話が逸れたが、越前にいる織田の状況は?」

「一乗谷周辺に陣を構えているようです」

「俺達を囲い込み、包囲するつもりか」

「陣を動かすのは難しいでしょう。しかし、各個撃破するにも敵は山々に砦を建てています」

「時間がかかると秋や冬になり、行軍に支障が出る。誘いに乗り、犠牲覚悟で攻める他ないか」

 

 火を付けて周囲から敵をあぶり出すことも考えたが、火攻めを極端に嫌う龍兵衛はあえて提案せずにいた。

 勝てる見込みがあるからこそ言わずにいれたのである。

 

「案ずることはありません。必ず犠牲を抑え、勝利致しましょう」

「敵の援軍も畿内が不安定なおかげで出すことが出来ない。眼前の敵だけなら、俺達が薙ぎ払ってやる」

 

 斎藤が笑みを浮かべ、龍兵衛を見てくる。それに静かに頭を下げて答えた。

 越前方面には斎藤と龍兵衛の他、吉江景資や最上が合流している。数の上では上杉の方が有利だが、地の利は織田にある。それを覆すには知略も必要だが、柴田や前田といった織田随一の猛将に相手出来る将も欠かせない。

 

「全ての支度、整いました」

 

 外から兵の声が聞こえ、二人は頷き合う。

 

「今向かう。全軍に出陣の号令を出せ」

 

 兵が返事をして去っていく。足音が聞こえなくなると同時に斎藤が立ち上がった。

 

「策はお前に任せる。織田を徹底的に叩くためにもこの戦を取るぞ」

「御意。ひとまず、丸岡城を落とし、拠点を確保した後、一乗谷へ向かっていただければと」

「一気に抑えるつもりか。随分とお前らしくない」

「敵も見え透いたように一乗谷へ誘っているとなればさっさと取れば良いのです」

 

 斎藤は納得いかないと眉間にしわを寄せている。大将には説明しておいた方が良いと考え、龍兵衛はそちらに体を向ける。

 

「直江様、到着致しました」

「……えっ?」

 

 それよりも前にやってきた報告に龍兵衛の表情が青くなり、一気に冬の到来を予感させる体感温度の寒さを感じた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

零に還る土地

 故郷に帰れば否が応でも過去の記憶が蘇る。

 だが、脳裏に浮かぶのはこの時代から約五百年近く後のことである。

 眼前の痩せた土地にまばらにある家々のある土地が夜も光輝き、暗くなることを知らない街となるとは想像できない。

 この世界で将来、関東に遷都される可能性は低いかもしれない。しかし、どのようなことがあったとしても故郷が寂れたままなのは心に来るものがある。

 そのために様々な土地を切り拓き、田畑を作るために木を切り、港を作るために海を埋めていかなければならない。

 戦果のみならず、生活のために自然を切り崩して際限なく湧き出る欲を解消し続ける愚かさに笑いたくなるが、そうしなければ民からの支持を得られない。

 人々が豊かに暮らせるようにする犠牲に感謝と畏怖を示すように龍兵衛は土地の神に深々を頭を下げ、小田原に向かった。

 

 

 

 謙信は小田原城に入り、城下町を片付ける兵達を視察していた。

 本来なら北条の主城であるこの城を廃城させて新たな城を築き、北条の関東支配が終焉したことを示すべきだが、越冬の時期と重なってまでの関東遠征は上杉にもかなり負担を抱えてしまった。

 新たな築城による出費を押さえ、長年、善政によって北条に心を奪われている関東の民を上杉のものにしなければならない。 

 

「河田様、ご到着」

「すぐに評定の間へ通せ」

 

 謙信は視察を中断し、小田原城内にある評定の間に向かう。

 関東の民を北条から上杉に向けさせる。その鍵となる配下はすぐに部屋へと入ってきた。

 

「謙信様、此度の関東制圧、祝着至極に存じます」

 

 形上の挨拶を済ませ、頭を下げたままの龍兵衛を近くに来させる。

 

「さて、北条は降したことだ。関東を手中に収めた後のことを進めねばならん」

「自分の我儘を聞いていただき、誠に感謝致します」

 

 既に龍兵衛の提出した関東を如何にして上杉の下で豊かにしていくのかという資料は読んでいる。

 それぞれに土地や海や森林をどのように活用し、政策を進めていくことで上杉と民にどれほどの利益を分配するか、実に理論的に認められていた。

 その過程も合理的に出来ており、却下する理由もなく、あの兼続でさえ唸らせた政策である。彼女でも当然実行できるものだったが、土壇場で彼がやはり自分の力でやりたいと言ってきたため、応諾した。

 

「よい。お前が責任を感じるのも分かる。越前の方は抜かりないか?」

「万事つつがなく。春までには必ず制圧出来ましょう」

「なら良い。では早速、関東を興すために励んでもらうことになるが、何から始める?」

「まずは、農具の改良や肥料の改良を促し、土地を開墾していくことからです。それには自分が既に越後で取り入れている例の物達を使おうかと」

「他国には商人の流れで任せていたが、国として全面的に支援するのは既に書面で見せていたため、分かっている。しかし、関東の民はかなりの数だ。品数は問題なかろうが、如何にしてそれらを運ぶ?」

「それも問題なく。こちらに来る前に一度春日山に戻り、試作していたものをこちらに持ってきました」

「ほう」

 

 見せろとは言わなくとも龍兵衛は「こちらです」と外へと案内を始める。

 城の外に出て、貯蔵庫の方へと向かう龍兵衛の背中に付いて行く。

 つくづく彼の隠しきれない体の屈強さには驚かされる。これだけ背が高く、肩幅の広い者が出てくれば知らない者は名のある勇猛な武将と勘違いするだろう。

 

「あちらをご覧下さい」

 

 詮無きことを考えていると貯蔵庫に着き、示された方向を見る。

 目の前には並の人一人では運べないぐらいの大きさがある木箱が数十並べられている。

 

「おう、颯馬か」

 

 先客が既に龍兵衛が持ち込んだものを見て、呆気に取られていた。声に反応してこちらへ振り返り、謙信がいたことに気付いて慌てて頭を下げている。

 

「見かけないと思ったらここにいたのか」

「兵糧や武具を見ておこうと思ってな。ところでこの大きな代物は?」

「これから謙信様にも説明しようとしていたところだ」

 

 颯馬とも合流し、さらに置かれている巨大な箱たちに近付く。改めてよく見てみると幅と高さは二間(約3,6メートル)ほどの物と幅が三間(約5,4メートル)ほどで高さ三尺(約90センチ)ほどの物が二種類ある。

 かなり光沢のあるような材質で、触ってみるとかなり滑らかでなかなか癖になりそうである。

 よくよく見てみると薄く削った木板を隙間なく並べている。

 

「これらを用いて今後、こちらに必要になる物資を運び込みました。これらを使うことで雨風などによる腐ることのない運搬が可能になります」

「見た目よりも軽いのか?」

「そういうわけではありませんが、崩れ落ちる危険性はかなり下がります。また、食材などを運ぶ際に中の物が駄目になることも少なくなるなど、明らかに安全性は高くなります」

 

 謙信は再度木箱たちに目を向ける。

 龍兵衛の言う通り移動を伴う戦で物資の運搬は武働きと同様に非常に重要な役割である。しかし、戦果が評価されがちな現状、なかなか重臣をこの立場に回すことが出来ずにいたことも事実である。

 彼は以前から戦場での食事にはかなり気を配っており、とりわけ兵糧の保管には神経を尖らせている。

 食えれば良いだろうという大多数の意見を汚い食事を与えることで疫病で死ぬほど、戦で無意味なことは無いと退け、兵站の流れをより円滑にするため、中継地点の管理や移動日数を徹底的に管理する制度を確立した。

 結果として兵が飢えによる略奪行為や病の発生を劇的に減少させたため、白い目を向けていた重臣たちも一切文句を言わなくなった。

 意識を目の前の木箱たちの処遇に戻す。龍兵衛の言う通りこれらが量産できれば屋外に物を置くことも可能であり、わざわざ屋根を作る作業が減る。

 人足についても龍兵衛が貧民層と言っている者たちから引っ張ることで対価を与え、生活を保証できれば彼らによる盗みなどの被害も無くなり、治安向上につながる。

 

「ゆくゆくは鉄を用いたものも作る予定です」

「今のままでは駄目なのか?」

「先程、謙信様が触れていて分かったかと思いますが、表面はかなり滑りやすくなっているのは木が腐るのを防ぐ特殊な油を塗っています。これでは火が着いた際の対応が難しくなる弱点があるのです」

「なるほど。しかし、鉄となればかなり費用がかかるのでは?」

「それだけの対価をもたらすと考えています。陸や海の運搬に新たな風を吹かせ、越後の品を傷付くことなく他国に渡すことも出来ましょう」

 

 謙信は納得したように頷く。しかし、他国にこれを使うということはこの技術を見返りも無く売り渡すということになる。もちろん、龍兵衛もそれをよく知っている。そのことを承知で動くということは、敵味方問わずに彼の中でもう上杉が天下を取ることが確実であるという目処が立ったのだろう。

 

「だが、国を越えるということはこの技術を他国にただで売り渡すことになるぞ」

「構わないかと。これで上杉は他国と比べ、国力も技術も上回っていると示すことになり、より優秀な職人と商人が利益を求めてやってくるでしょう」

「随分大きく出たな」

「もはや、御家の領地が畿内を治める織田よりも暮らしが豊かであることは隠しきれない事実です。ここに関東の復興が成功すれば国力の差から明らかに織田との決戦で有利になります」

 

 後ろに控えていた颯馬に目をやる。一度頷いたのを見ると彼もまた同じ考えを持っているのだろう。

 

「分かった。量産と使用を許可しよう」

「ありがとうございます。それから、今回は間に合いませんでしたが、もう一つ移動に使える物を作っております。大八車に代わる物になります」

「ほう。それは楽しみだ」

「大きな違いは馬などを使わず、人の手で運ぶことが容易となりました」

「ますます興味が湧いた。やはり共に帰ってくれないか?」

「あ、それは……申し訳ございません」

 

 謙信は残念だと肩をすくめる。

 龍兵衛のこれまでの試み全てが上手くいかないこともあったが、結果として領地の民の生活と上杉の財を豊かにし、いわゆる公共事業というもので多くの貧民を救った。

 さらに良い物が生まれるとなれば早くに見たいが、残念ながらそれはまだ先となってしまった。

 命令を下すことも出来たが、これから龍兵衛に任せることはおそらくそれを遥かに凌ぐほどに大きなことである。

 謙信はよしと一人頷くと二人を再び小田原城内へと促し、評定の間へ戻る。

 

「二人に聞きたいのは北条を今後、どう対処するかだ」

 

 座ると同時に謙信は口を開く。

 

「多くの者が厳罰を下すべきと言っているが、兼続は越前に向かう前に私に北条の主だった者は生かすべきと言っていてな。お前たちの意見はどうだ?」

 

 目の前にいる軍師二人は思案するように床に目を落としている。

 多くの者は強い口調で徹底した北条への弾圧を主張し続けている。背景には保護した前の関東管領の山内憲政の存在とこれからの関東支配がある。

 憲政の方はもう関東に未練は無いと口では言っているが、北条に対する嫌悪感を隠し切れていない。憲政の肩を持つのは兼続自身、癪だと思っていたらしく、謙信にも非公式の場で気にすることはないと言っていた。

 しかし、謙信が上杉の名を継いだ以上、北条を生かすのは道理に反する。

 さらに北条の土台を作り、関東の覇者に押し上げた早雲は既にこの世にいないが、それを支えた娘達も生かしておいては上杉が関東管領として北条を討伐した理由が無いことである。

 

「恐れながら、私は兼続の意見に賛同です」

 

 先に口を開いたのは颯馬だった。

 

「北条は武田のように民に過酷な税を強いたことはありません。家臣や民を従えるのであれば、北条一門を許さなければ彼らは我らを敵とみなすでしょう」

「自分も同意見です」

 

 すかさず龍兵衛も追従してきた。おそらく元から北条を生かすべきだと考えていたのだろう。意見の対立を恐れて颯馬に先手を譲ったのは保身を第一にする彼らしいと言える。

 

「早雲が戦が終わる直前に腹を切ったことは聞いております。武田は信玄が上杉に従うよう遺言を残したため、残党による反乱はありませんでしたが、早雲は何も言わずに死んだと聞いています」

「早雲は重い病の中で、後先無いと悟り、自らに北条の罪を全て背負わせた。主としては正に鑑だ」

「本来なら、最も関東の民達を上杉に向けさせるにはその力を雁べきだったのですが、今さら後悔しても遅いですね。幸い、氏康、氏政おや……んっ、姉妹は既にこちらの手中にあります」

「二人を他国に移し、北条の時代は終わったが、上杉に降れば命は保証すると示せるな」

「御意。兼続から聞いた通り、氏康、氏政姉妹は助命し、川中島に追放。これが無難かと」

 

 謙信は龍兵衛を見る。同意だと簡潔に述べたため「よし」と息を吐く。二人に明日に北条の姉妹への裁定を下すことを告げ、同時に護送と追放場所の確保を命じる。

 すかさず下がろうとする二人に「まだ話は終わっていない」と呼び止め、少し近くに寄るように促し、龍兵衛の方に視線を向ける。

 

「これより私と颯馬は越後に戻る。関東のことはしばらくお前に任せる。慶次と親憲、信綱、業正を補佐に付ける故、よくよく相談するように」

 

 龍兵衛は無言で頭を下げる。

 今後、関東の支配を当面は龍兵衛が主体で行い、落ち着いた後、別の代官を派遣することで既に決まっている。胸中ではそのまま龍兵衛に頼もうかと思っていたが、本人が譜代を差し置いて関東管領の主たる地を代官として治めるのは周囲も納得しないだろうと固辞された。

 

「お前の具申書は見事だった。理論上、上手くいけば何ら問題はない」

「有り難きお言葉。謙信様も憂いているように北条の領地のみを見るだけではありませんこともよくよく理解しております」

 

 龍兵衛はこちらを見て返答しているが、頭の中ではさらに先を見据えているのだろう。

 これから先、扱いが難しい佐竹や里見を上杉の下に置いておくためには色々と調略が必要になってくる。

 既にお互いに今の所領とさらに加増を条件に上杉と盟約を結んでいるが、伊達や最上と違い、戦に負けて屈服しているわけではないという自負が見え隠れしている。

 力の差を見れば圧倒的に上杉が勝るが、下手に上から何かを言えば火種になりかねない。

 

「彼らへの対処は謙信様が仰っていた通りに加増を認めつつ、我々が脅威となるように示す必要があるかと」

「そのための関東の再建だ。お前の手腕次第でこの地は安寧となるか、荒地になるか。分かっているな?」

 

 あえて圧をかけ、龍兵衛の覚悟を見定める。間髪無く「必ずや」と返したところを見て、大丈夫だと確信し、改めて彼に尋ねる。

 

「ところで、お前が私に言っていた。上杉による新たな関東の主要となる地とはどこだ?」

 

 肩に自然と力が入り、身を少し乗り出す。

 龍兵衛は謙信たちに関東の新たな主要な地を小田原から変えるべきと主張していた。なかなか切り出す時が無かったため、聞くことが出来ずじまいだったが、いい加減知っておかなければならない。

 

「江戸で御座います」

 

 龍兵衛の答えを聞いた二人は驚き、互いに顔を見合わせる。

 

「江戸といえばここより東にある地のことか?」

「その通りです」

「かの地はたしか太田道灌によって整備されていると聞いているが、小田原と比べていささか不釣り合いではないか」

「お言葉ごもっとも。されど、小田原を中心とすれば北条の二番煎じとも言われかねません」

「なら、鎌倉はどうだ?」

「かの地は既に源頼朝公によって栄えた地です。さらに鎌倉は軍事に有効な地形ですが、商いを行うには陸路が険しいかと」

「それら全てが江戸では可能だと申すか」

「さらに江戸も鎌倉同様に守りに長け、侵攻にも長けております」

 

 一旦、質問を区切った。龍兵衛は揺るがない信念のこもった声で答え続ける。よほどの自信があるのだろうと思いつつも不安は拭えない。だが、彼の確固たる自信がある言動は成功する根拠があるのだろう。

 

「……分かった」

「謙信様」

「よい。龍兵衛、何故にかほどの自信があるのか、後程詳しく聞かせてもらうぞ」

 

 納得がいっていない颯馬を制する。謙信も半信半疑だが、これだけの自信を持っているのだから任せても良いだろう。無論、そのまま意見を通すわけにはいかず、聞かなければならないことは多くあると龍兵衛に目で訴える。

 

「颯馬。下がって作業を続けてくれ」

 

 人払いを済ませると謙信は睨むように龍兵衛を見る。

 

「先程の続きだ。何故に江戸にこだわる? その確信はどこからくる?」

「江戸の地形、周囲の環境。関東の全てを江戸に繋げて考えることが出来るからです。かの地は東に港を置ける湾を、西に軍を退ける山を、北と南には軍や商いを東西へ行き来させる街道の基点となります」

 

 龍兵衛は言い終えるとすぐに懐から江戸を中心とした関東一帯の簡易的な図面を広げる。

 謙信も先程、言われた通りに東西南北全てに視線を巡らせる。彼の言うことは確かに的を得ている。一切、反論の余地が無いほどに見事であり、先の具申書とまとめると確実に関東の地を栄えさせることが出来る。また、継続的な成長を見込んだ彼の考えは今後、数百年さえも江戸を中心に日ノ本が動くようにも感じられた。

 だが、大きな問題もある。

 

「これでは、越後を超える日が来るやもしれんぞ」

 

 躊躇いなく懸念事項を告げる。その瞬間、部屋の空気が一気に重くなったのを感じた。

 越後が上杉の本拠であり、それを凌ぐ土地が生まれるのはあってはならない。たとえこの地を直轄地にしても、越後より栄えるのは越後という国が上杉の限界を表し、新たな下剋上を招く恐れもある。

 織田のように栄えている土地に本拠を変えることが出来れば良いが、謙信は長尾の時代より越後に愛着が深く、周囲も越後こそが至高であるという考えが強い。

 その思いをくみ取ったと龍兵衛は一つ頷いた。

 

「確かに、今のままではそうなるでしょう」

「策があると?」

「謙信様の御心次第です」

「どういう訳だ?」

「春日山をこれ以上、栄えさせるには土地が足りません」

 

 謙信は眉根をひそめ、彼を睨む。目はこちらを捉え、強い訴えを覚悟を持って伝えてきている。

 

「……本拠を春日山より変えよと申すか」

「春日山は西に親不知、南に川と山、北に海と要害であります。しかし、将来の財を成し、権威を示すには、恐れながらいささか不安が残るかと」

「ならば、お前は代わりとなる地を把握しておるのか?」

「反対なさらないのですか?」

「越後のためだ」

 

 長くいた土地を離れるのは抵抗がある。しかし、我がままで国を傾けるのは愚かな行為。龍兵衛のような越後出身ではない者だからこそ、考えられる政策だろう。そして、良策であると感じたなら民や国のために実行しなければならない。

 心中で先祖に詫びを入れつつ、謙信は候補となる地の名前を求める。

 

「新潟でございます」

「新潟……」

 

 かつて北方の蝦夷支配の拠点として渟足柵が設置された土地であり、今は湊や津を多く抱え、直江津をも凌ぐかもしれない勢いを持っている。

 

「越後の平野で出来た米は越後から持ち出し禁止となっている物を除けば、現状、全て新潟津から輸送しており、盛況さは越後随一です。ここを拠点とすれば蒲原や沼垂と合わせた主要な港を押さえることになり、直江津で行われている焼物や青苧の交易と合わせていけば財政を盤石させ、開墾と街の整備を行えば関東の盛況さなど遥かに凌ぐ越後となるでしょう」

「しかし、ここは周囲が全て平野だぞ。城を建てるとすれば西にある山に建てるが、砦や支城となる場所が無い」

「南は険しい山があり、西からの守備は春日山、東からは新発田の城を使うべきかと」

「越後全体を砦とする気か……」

「当然、今すぐに出来るとは思っていません。越前を取り、関東に平穏を取り戻した後に動けば、周囲の脅威は取り除かれ、国を富ませるために時を使えます。そして、然るべき時に織田を討つことで、謙信様が天下を」

 

 俯き、思考を巡らせる。

 越後を日ノ本一栄えさせることが謙信の願いであることに間違いはない。だが、それは春日山を基点にしてすべきことだという念頭の元で行われていたはずだった。その思いを簡単に踏み潰すように龍兵衛は新たな地へ移れと簡単に言ってのけた。

 春日山の開拓を推し進め、そのために治安と技術の革新を積極的に行っていたのが彼だった。もし、それら全てが新潟への移転を行うための布石であったとしたら。

 聞くことは出来なかった。彼がこの手のことで本心を言うことは決して無い。本心がいかであろうと否と答えるだろう。

 その口車に簡単に乗って良いものだろうか。

 新潟は新発田を討伐した後、上杉が直轄地として支配している。だが、伝統を重んじる古参の家臣は黙っていないはずだ。

 また、越後を全て砦のように扱うということは、万が一が起きた際、国中の民が戦乱に巻き込まれる。

 

「越後に戻り次第、皆に聞いてみよう。それまでは他言無用だ」

 

 その危険性を知らずに提案するとは思えないが、ここですぐに回答することは出来ない。

 即答することが出来ない事案であることは分かっているであろう龍兵衛もすんなりと頭を下げた。

 

「……実は、かなりの費用を使うので、具申書やこれまでの口でも言ってこなかったことがあるのですが」

 

 話は終わったと思い、腰を浮かしかけたところで、龍兵衛の口が開く。勿体ぶるような口振りは好ましくないが、どうしても聞いてほしいという訴えを鋭い目つきでしてきているため、聞く姿勢を整える。

 

「小田原城のように堀を用いて街全体に幾重も囲い、街全体を城とする方法です」

「街を要塞化するとなれば、民をますます巻き込むではないか」

「いえ。むしろ城外にいる民を守ることになります」

「……確かに」

「民を守り、幸せにすることが謙信様の理想であることは知っております」

 

 謙信は腕を組む。即断できるものではないが、くすぐられるような説得に先程より天秤が傾き始めている。

 

「費用がかかるというのは、やはり規模か?」

「普通に行う築城より……倍はかかるかと」

 

 龍兵衛は空中で素早く計算すると険しい表情で伝えてくる。

 財産も多くの鉱脈を抱えているが、無限に続くものではない。倍かかるという言葉の重さは謙信にも響く。だが、龍兵衛が未来へつながる出費と言って様々な取組をしていることと同じと捉えれば、費用が月とすっぽんの差とはいえ、許容できる範囲だろう。

 

「分かった。それらを踏まえ、相談する」

「御意。北条のようにならないように精一杯、関東を治めてみせます」

 

 背中から不安が伝わる。おそらく、本拠移転という大掛かりな提案が通らない場合のことも考えているのだろう。

 もし、反対意見が強く、提案が適わない場合、彼は関東の再建をほどほどに済ませ、越後と足並みを揃えるだろう。それが越後や関東の民のためになるかと言われればおそらくならない。

 中途半端な行いは足元をすくわれ、失敗する。

 

「全く……随分と強かなことを言ってくれた……」

 

 民に豊かな暮らしを提供し、確固たる現在と未来を確保するために妥協を許すことは出来ない。

 上杉と民のために動かざるを得ないとそれとなく警告し、北条のような出遅れを危惧していた。

 真っ向から言えば心を動かせることが出来たはずなのに、あえてしなかったのは、今ここで言っても決められることではないと分かっていたからか、謙信にも自身の頭で気付いて欲しいと思ったのか。

 後者だとすればかなり不敬だが、ここに咎めるべき者はもういない。

 

「北条のように。か……」

 

 龍兵衛はおそらく北条が合議制を用いて戦に出遅れたことを言っているのだろう。

 今回の戦で、北条は籠城か野戦かで家臣の間で意見がまとまらず、領地の深いところまで侵攻を許し、流れるままに籠城せざるを得なくなった。それが不満で上杉に寝返った者もいたため、戦の主導権を握ることが適わなかったことが今回の敗因であると言いたいのだろう。

 彼の言いたいことは分かる。しかし、本拠の移転は謙信さえも迷っていた。

 新潟となれば揚北衆らの縄張りの中に入ることになり、反乱分子はほぼ消滅したとはいえ、彼らを不安がらせることになるかもしれない。

 無論、龍兵衛も知っているだろう。それでも主張したのは絶対に誰も逆らわない自信があり、その裏付けがあるということだ。

 

(聞くだけ聞いてみるか……)

 

 関東を平定し、ようやく一息つけるかと思ったが、また一波乱起きそうだ。

 謙信は部屋中に響き渡る溜め息を吐き、倒れるように仰向けになった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

哀のまほろば

「うーん……少し肌寒い……」

 

 慶次は小田原城近くで見つけた草原で一人、左右の腕を摩擦しながらぼやく。

 越後よりは幾分ましだが、やはり深秋は冬に近付いていることをよく分からせてくれる。

 北条を降して既に一週間が経ち、小田原城を中心に関東の仕置がほぼ完了しかけている。残党狩りもほぼ終わったため、武働きが中心の慶次は仕事がほとんど無くなってしまった。

 今頃は颯馬たちが城内について調べているだろう。

 

「さて……と」

 

 慶次は勢いよく立ち上がり、両腕を上げて伸びをする。

 ほとんど無くなっているとはいえ、これからまた謙信に頼まれたことをしなければならない。

 早く越後に帰って戦で疲れた体を癒やしたかったが「頼りにしているからだ」と言われればやる気が出ないはずもなく、勢いのままに首を縦に振った。

 具体的にはまだ聞いていないが、関東に残ってこれからやってくる龍兵衛の手伝いをしてほしいということだけは聞いている。

 以前から関東のことを変えていくとか言っていたのは何となく覚えていたが、はたして成功するのかは分からない。

 昔からこの地は軍事拠点として多くの反乱や砦を建てられてきていたが、豊かな暮らしを提供することが出来ていたという記録は無かったはずだ。

 彼は民の暮らしにも手を伸ばすつもりらしいが、それが功を奏するかどうかは彼自身の努力ではなく、いかに民の心を掴むかにかかっている。

 残党狩りの中で民が北条の者たちを匿っているのを何度も見てきた。打算的な民たちがあれだけのことをしてきたのだから、本心から彼らが新たな支配者を迎え入れてくれるか微妙なところである。

 

「ま、どうなるか。お手並拝見ね」

 

 頭の後ろで左右の腕を伸ばしながら体も左右に揺らす。

 細かいことを考えるのは主たる役目を担う龍兵衛がやれば良い。何かあればそれに対応すれば十分役目を果たしたと言えるだろう。

 気楽な気持ちで慶次は小田原城へと帰る。

 

「ただいま〜って……来てたのね」

「おう。探したぞ」

 

 城に戻ると既に龍兵衛が到着して色々と支度をしていた。

 いつもの濃い灰色を基調にした服ではなく、農民が着ているようなみずぼらしい格好をしている。

 もっとも、彼が越後でも同じ格好で農民たちの手伝いをしているため、そこまで目に止まることはない。

 

「どこか行くの?」

「明日から周辺の民の視察をするための準備だ」

「あたしも?」

「もちろん付いて来い」

「はぁーい」

 

 溜め息と承諾を半々にしたような応答をして、城内を見て回ろうと背を向けるが「待て」と呼び止められた。

 

「水原さん見てないか?」

「いやぁ、見てないわ……って、水原さんも来るの?」

「そりゃあ、一緒に関東に残ってくれるんだからな」

「あっ……そっか……」

 

 謙信に頼まれた際はあまり細かく気にしていなかったが、自分のような居候が龍兵衛と二人で関東を任されるとは思っていなかった。

 

「あと、誰かいるの?」

「後は、信綱殿、業正殿と……上野殿がこっちに来るって謙信様が仰っていたな」

 

 なかなかの大所帯になるな、と慶次は肩を落とす。

 信綱、業正は元々、北条に追い出された上杉に身を寄せていたから分かる。

 龍兵衛が関東の改革を行った後、越後に戻ることは聞いているため、親憲と上野家成が関東を治めるのだろう。業正も関東に戻りたがっていたのは知っていたので、旧領を保持しつつ上杉の支配を固めていくのが目的と慶次は悟った。

 

「あれ、わんちゃんは?」

「資正殿はまだ病が癒えていないらしくてな」

 

 太田資正は関東への出陣前に熱を出していた。旧領奪還のため、体を押して戦に望もうとしていたが、無理やり謙信に止められていた。

 戦で疲れていたため、少し犬で癒やされようと思っていたが、帰るまでおあずけのようだ。残念だと口を尖らせつつ、仕方ないとすぐに切り替える。

 これ以上ここにいても龍兵衛は作業に集中していて、ちょっかいを出せば烈火の如く怒りをあらわにすると考え、よく分からないものたちを色々と整理している背中に「じゃあね〜」と言って振り返る。

 応答が無いところを見ると佳境に入っているのだろう。

 何やかんやで付き合いも長くなったためか、龍兵衛の行動は大体予測することが出来るようになってきた。

 今の彼は完全に集中しており、謙信や景勝のような主や高い地位にいる重臣に声をかけられる以外の声はほとんど入ってこない。無理やりにでも興味をもたせようとすれば、滅多に聞けない怒鳴り声を上げ、周囲が一気に凍り付いた雰囲気になっただろう。

 悪戯好きとはいえ、自分の寿命を縮めるほど体を張ったことはしたくない。

 城内を歩いていると今度は兵たちがあちこちに資材を運んでいるのを監視している謙信と親憲を見かけた。

 やはり、本拠地を落としたこともあって戦後処理が一朝一夕で終わるはずもない。

 誰かと暇を潰すのは無理そうだし、草原で寝ていた方がまだ良かったかな、と後悔し始めた。

 とはいえ、宛もなく歩いていたので少しでも時間が潰せるならと二人の方へ歩みを進める。

 

「やっほ。一緒にやらないの?」

「兵たちから止められてな。仕方ない」

「某としては、その方がありがたいのですが」

 

 見張りの緊張感がより必要になり、戦後だというのにより神経をすり減らすようなことはしたくないからだろう。

 

「私が向こうにいると、見張るのが大変だからだろう?」

「いえ。そのようなことは……」

 

 珍しく親憲が回答に詰まっているが、明らかに謙信が悪戯心を持って聞いているのが悪い。だが、退屈していた慶次も止める理由が無いため、笑みを浮かべながらそのやり取りを眺める。

 不意に彼と目が合った。途端にいつもの落ち着いた笑みを浮かべ、こちらを見てくる。

 

「しかし、前田殿がいるのであれば……」

「ああ。なるほど、一人では確かに大変だがな」

「げっ……」

 

 慶次はやぶ蛇だったと口元を引きつらせる。

 見張りは一人ひとりがきちんと動いているかを監察し、動くことも一切無い。退屈凌ぎとはいえ、体は動かしてなんぼの彼女にとってある意味苦痛な仕事である。

 

「あ、あ〜そういえば頼まれてたことがあるんだったぁ……じゃ、待たね〜」

 

 そそくさと痛い視線をかわしながら逃げる。

 曲がり角を利用して二人が視界から見えなくなる所まで来たが、また暇になってしまった。

 盛大な溜め息を吐いても返してくれるような人もいない。

 

「今日はとことんついてないわねぇ……」

 

 日の高さからして夜になるまで後、二刻はかかる。もう一回、草原に戻ることも考えたが、無駄に体力を消費するだけではと思い止まる。

 仕方ないと宛てがわれている部屋で新しい悪戯でも考えるかと再度、歩みを再開する。

 堅牢な城と言われるだけあり、規模もかなり広大であり、改修した春日山とも劣らない。

 

「ん?」

 

 不意に前方から人の気配を感じた。この先は特に何も無いため、こんな時間にここに来るような者など慶次ぐらいしかいない。

 腰を落として足音を出さないよう、すり足で廊下を進む。少し進むと染法の曲がり角から微かに物音が聞こえてくる。

 いつもの得物は既に片付けてしまっているが、護身用に持ち歩いている小刀を手に取り、顔を覗かせる。

 女中の格好をした者が一人、一心不乱に何か書いている。

 

「何をしているの?」

 

 様子を見ていても埒が明かないと判断し、正攻法に出る。女中は驚いたように振り返り、慶次の姿を認めると奥へと逃げる。

 

「逃がさないわ」

 

 素早く回り込むと女中は反転する。

 

「無駄よ。そっちには謙信がいるわ」

 

 その言葉で女中は観念したのか、慶次へ小刀を差し向けてくる。だが、慶次は簡単にかわすと無防備な膝の裏を蹴落とすと体勢を崩した女中に一気に近付き、腹に重い拳をぶつける。気絶し、もんどり打つのを見届けると一仕事終えたと息を吐く。

 

「……喋らないわよねぇ」

 

 手応えは無かったが、間者である以上、敵の城内に忍び込むということはそれ相応の覚悟を持っている。

 女中の懐をまさぐり、先程書いていた文面を検める。慶次は内容を見て押し黙る。宛先は北条氏康となっており、小田原城を上杉がどう扱っているか、さほど重要そうではないことばかり書かれている。

 

「やっぱり下っ端か」

 

 気配を隠すことや一連の戦闘での動きから判断してあまり手練ではない。だが、北条氏康が敵地となった小田原にこのような者ばかりを向かわせるとは思えない。

 まさかと思って立ち上がる。外が見える所まで出ると近くに立っていた木の枝が傷付いているのが見えた。

 あの女中が囮だとすれば、既に本命の間者はここから去って行ったということだ。

 どのような情報を得たのかは知らないが、おそらく他にも間者はいると思った方が良いだろう。だが、相手は北条を影で支え続けてきた風魔である。自身のような表で生きる者が携わるのはおそらく余計な面倒事になりかねない。

 

「段ちゃん来てたし、会いに行きますか……あ、この子どうしよ」

 

 未だに気絶している女中を見て、おとがいに手を当てる。引きずって行っても良いが、周囲から不安がられる可能性もある。ここに放置して後で戻ってきていませんでした、となるのも面倒くさい。

 

「仕方ない……よっと」

 

 慶次は軽々と女中を抱え、段蔵の下へ向かう。謙信たちとは会わないように別の道を使っていき、彼女たちが詰めている場所ヘ着く。

 当の本人はいなかったが、事情を説明すると配下の者が不備を詫びて、適切に対応すると言ってくれた。

 一仕事したと慶次は肩を揉む。寒い秋風が肌を襲い、思わず身震いしてしまう。きっと一日分働いたし、もう十分だろうと知らせてくれたのだろう。

 良い方向に考え、部屋へと戻っていった。

 

 

 朝日が外から零れてくる。慶次はその眩しさに目をこすりながら体を起こした。

 大きなあくびをすると体を左右に揺らす。昨日はあれから何もすることが無かったので、早々に自分で布団を敷くとそのまま朝まで眠ってしまったようだ。

 気付かない内に疲れが溜まっていたのかもしれない。もう少し寝ていたいが、そうも言ってられない用事がある。

 布団をたたむと身支度を整え、厨で簡単な朝餉用の握り飯を貰うと食べながら約束の集合場所へと向かう。

 外は雲一つも無い晴天で、昨日より風も無く、比較的過ごしやすい。

 約束の城門に着くとすでに同行予定の者たちは皆、全員揃っていた。

 

「おはよ〜」

「おや、前田殿。おはようございます」

 

 丁寧に信綱が返してくれる。他には親憲や業正といった面々が談笑している。その後ろには兵が十数人ほど集まって周囲を見張っている。

 

「あれ。肝心の人は?」

「河田殿はまだですね」

「珍しいわねぇ。寝坊かしら?」

「あの方に限ってそれは無いでしょう」

 

 刻限がまだだが、皆が余裕を持って来ているのには理由がある。

 龍兵衛は時間には人一倍厳しく動いている。慶次も何回か遅刻した際に長々と説教をさせられ、さすがに懲りた。そのため、彼絡みだとこうして寝坊せずに刻限通りきちんとやって来るようにしている。

 他の者も時間通りかそれよりも早く動く彼に申し訳無さを感じて普段以上に真面目になってしまうのだろう。

 龍兵衛が最後になるのはおそらく慶次は初めてかもしれない。

 

「待たせて申し訳ない」 

 

 龍兵衛が背後から息を切らし気味でやってきた。

 

「おはようございます。珍しいですね」

 

 信綱が落ち着かせるような口調で声をかける。

 

「最後の準備に手間取ってまして……いや、本当に申し訳ない」

「準備……ずっと作業していらしたのですか?」

 

 親憲が少し目を開く。龍兵衛はその問いに大きく深呼吸をして「はい」と答える。

 慶次は他人の心を読むことは出来ないが、おそらくここにいる者たち全員が呆気にとられただろう。

 

「まぁ、そんなことはどうでも良いので……では、行きましょうか」

 

 龍兵衛は良くない空気を感じたのか、場を切り替えるように馬に乗り、先頭に出る。

 皆もそれ以上、追及する意味も無かったため、黙って付いて行く。

 慶次は沈黙が続くのは苦手だが、面子が面子のため、この真面目な雰囲気の中で話題を振っても反応してくれるのが龍兵衛と親憲だけでは面白みが無い。そもそも、先程からここにいる者たちとは異なる気配も少々ある。他の者たちも気付いているだろうが、特に気にしている様子も無く、向こうから襲ってくる気も無さそうだ。

 

「着きました」

 

 小田原城から一里強離れたのどかな農村が目の前に見えてくる。

 住居の数から見て、おそらく住んでいるのは五十ほどだろうか。大きいとも小さいとも言えない所で龍兵衛が一体何をしてくれるのだろうか。

 到着すると年老いた村長が出迎えてくれた。だが、その後ろに控えている男たちは敵意むき出しの目つきで睨んでくる。北条は善政を敷いていたが、本当だったのだろう。追い詰められた際にはやむを得ず、税を上げたと聞いたが、それでも移ろいやすい心を新たな支配者へと受け入れることの出来ないほどに北条は慕われていたという意味だろう。

 龍兵衛は心を刺す視線を持った者をいったいどうやって思い通りにするのか。彼と民を見比べ、ますます不安が大きくなる。

 こちら側が全員馬から降りるのを確認した龍兵衛が民たちに向かって前へ出る。民の視線が全て彼へと向けられたので少しだけ気持ちが楽になった。彼は民の顔を一人ひとり見ていき、一つ頷くと腰に付けていた人の頭ぐらいある大きな袋から一口で食べられる大きさの握り飯を入れる竹の葉で作られた入れ物を取り出す。

 

「これを召し上がってください」

 

 民たちが互いに顔を見合わせ、慶次たちもそれぞれ目を丸くしたり、眉間にしわを寄せたりする。

 

「安心してください。毒など入っていません」

 

 表情も口調も全く感情がこもっていない。見慣れ、聞き慣れているため、慶次たちは龍兵衛の言っていることが容易に本当だと分かる。しかし、民たちからすれば、その言葉は本当に必要だったのかと不安にさせるには十分な味付けだった。

 龍兵衛は彼らが全く動かないのを見て、呆れたように溜め息を吐く。そして握り飯を一つ掴み、口の中へと放り込んだ。よく噛んで食べ終えると再度、包みを民たちの前に出す。無言で突き出されたそれを見て、さすがに文句を言えなくなったと悟った村長を一番に次々と握り飯を手にする。

 民たちは特に何も言わずに全員が完食した。

 龍兵衛は全員が食べ終わったのを確認すると馬に下げていたもう一つの袋を持ってきた。中身はおそらく同じものだろう。

 

「続いてこちらを食べてください」

 

 民たちは訝しそうに握り飯に手を取る。龍兵衛は民たちに一通り渡ったのを見て、振り返ると先程の袋と共に慶次たちの前に出す。

 

「食べ比べてみてください」

 

 全員が交互に隣にいた者と龍兵衛の持つ二つの袋を見比べる。どういう意図でこのようなことをしているのか、誰も分からないからただ握り飯を食べるだけでも毒味をするような気分になってしまい、手が動かない。

 ましてや村長以下、民がが視線の先で一口食べた後、体を固めたまま微動だにしないのを見るとなおさらである。

 だが、全く譲る気のない龍兵衛を見て観念した親憲が肩をすくめつつ、双方の握り飯を交互に口に運ぶ。そして咀嚼した後、納得したように何度も頷き、溜め息を吐いた。

 

「いやはや、お人が悪い」

「実際に知ってもらうのが一番ですから」

 

 会話をしている二人を訝りながら他の者も双方の握り飯を手にして見比べる。どう見てもただの握り飯にしか見えず、何か種や仕掛けがあるようには思えない。

 全員が後から取った握り飯を口に運ぶ。

 普通にいつも食べる美味しい握り飯だ。

 

「今食べてもらったのが越後で取れる米で、こっちがこの辺りで取れた米です」

  

 そう言われ、全員が困惑の表情を浮かべる中、慶次が続いて一口食べる。だが、一度咀嚼した途端に思わず噴き出したくなった。

 筆舌に尽くしがたい味の差に体を震わせ、周囲から好奇な目で見られないようにするのに必死だった。正面から表情の変化を見られた龍兵衛は唇を引きつらせているが、仕方ない。

 まだ食べていなかった他の者たちも一斉に食したが、皆が眉間にしわを寄せている。

 その反応に満足したのか、龍兵衛は再び民の方へと体を向ける。

 

「食して分かったでしょう。貴方たちが作っているものは所詮、この程度なのです。ああ、細工などしていませんよ。何でしたらまた作ってみましょうか? 今ここで」

 

 皆、沈黙している。絶対的な自信を前に民の数人が言い返そうとしていたが、それら全てを押し潰す龍兵衛の言葉に口を縫い付けられたようになる。

 

「貴方がたは今、我らは作って終わり。武人になど味は分かるまいと思ったでしょう」

 

 ほとんどの民が表情に何かしらの反応を見せる。どうやら図星だったらしい。

 

「武人とはいえ、分かる人には分かるのです。このような米では貴方がたは生きていけるとお思いですか? いずれ貴方がたはこの村を貧者の集いにさせるのは目に見えています。そのまま飢えに苦しむ人生を歩みたいならそれで結構」

「しかし、税は……」

「いずれ米ではなく、金や産物に変えると言った時、貴方がたはどうやって対処するつもりですか?」

 

 民たちだけでなく、慶次たちも目を見開く。そのような話は聞いていない。

 

「選ばれない米を作る村を守って何の意味がありますか?」

 

 絶望したように民たちは俯く。上の者たちにとって民など代わりはいくらでもいると思われている現状、北条の施政時には言われたことが無かったであろう冷徹な言葉。

 

「しかし、必要とされるように変えることはできます。そして、それを知っているのは自分です。なに、悪いようにはしません。貴方がたを含む関東の皆様が豊かになる手助けをするために手間は惜しまないように謙信様も仰っております」

 

 驚愕と希望の表情を龍兵衛に向ける。北条を慕っていた民が簡単に心変わりするとは思えなかった。しかし、手にしている握り飯を食せば誰もが関東を変えることに賛同しただろう。さらに発展させるための術を持っていると言われれば宗教にすがるように頭を下げるのは必至である。

 

「では、まず田畑の様子から見せてください。自分の推測が正しければここでは米は作り方を変え、梅やみかんを栽培する方が……」

 

 専門的な話に切り替わったので慶次は馬耳東風状態になり、意識を別の方へと向ける。付いてきていたはずの気配はすでに無くなり、ただ肌寒い風が吹いているだけ。どうやら上杉の面々がこぞって村に行くのを追っていったらしい。そして、目的を知ったため、深追い無用と帰った。

 

(風魔かしらね……)

 

 北条が風魔という忍衆を雇っているのは聞いている。おそらく軟禁されている北条氏康からの指示で上杉がどのように扱うのか観察しているのだろう。

 今頃、結果を氏康に伝えに向かっているのだろうか。いずれにしても氏康たちの監視はもっと強めなければならない。

 

「おい慶次、そろそろ行くぞ」

「え……あ、了解」

 

 龍兵衛が訝しそうにこちらを見てくる。思った以上に長考してしまったらしい。今日はここの村だけでなく、いくつか回ることになっている。

 村長に挨拶を済ませると次の村へと行く。これを各国の主だった村に続けて行い、心から関東の再興を行うというのだから随分と熱が入っている。

 

「しかし、実際に見て聞かせて行うとは、驚きました」

 

 移動中に親憲が龍兵衛に声をかける。

 

「ああしないと分かりませんから」

 

 対する龍兵衛の返答は素っ気ない。だが、的を得ている。農民は武士と違ってどこか遠くにに出かけることなどない。そのため、自分たちが絶対であると信じて疑わず、口で言ったところで信用しないだろう。

 

「そういえば、河田殿は米はいずれ選ばれるようになると言っていたが、それについては?」

 

 業正の疑問はもっともであると全員が龍兵衛ヘ視線を向ける。農民の税は米で納められている。先程の言い方ではまるで農民も金で税を納めるのような口振りだった。

 

「いずれ税を米ではなく、金で納める時が来ます。その時、民は商人に選ばれる米を作らなければ生きていけなくなるでしょう」

「……近々、ではないのか?」

「我々が生きている内にそこまでの動きをすることは出来ないでしょう。いずれ、誰かが気付いた時にそれが来ます」

 

 龍兵衛は時折、先々の話をする。それが嘘か真か分からない。確証が無く、有り得ない話でもないからだ。

 

「分かった。それが龍兵衛殿にとって御家のためになると思っているのであれば」

 

 業正は諦めたと口を閉じる。

 

「そういえば、さっきからの気配は消えたわね」

 

 順番的にそろそろかと慶次は口を開く。

 

「風魔でしょうか?」

「多分ねぇ」

 

 信綱の問いに答えるが、慶次の意識は龍兵衛に向けられていた。

 

「龍ちんは気付いてた?」

「もちろん」

 

 即答され、少し安堵する。気付いていない中で色々と話していたのであれば今後のことを考えなければならなくなった。これでまたさぼる時間が増えるというものである。

 

「ならば、あの者は放置してよい、と?」

「大丈夫でしょう。これで北条も上杉は関東を悪くしないと分かったでしょうし」

 

 最後まで不安そうにしていた親憲もそこまで断言するならと引き下がる。

 

「利用して氏康を黙らせる。随分と悪どいわねぇ」

「慶次、そんなくだらないことを言っている暇があるなら、もう少し城内の警護を厳しくしてくれ」

「あら、苛々してる。かねやんにこってり絞られたかしら?」

「……今度余計なことを言うと口を縫い合わすぞ」

「いやん」

 

 図星だったらしい。本来なら龍兵衛ではなく、兼続がやる予定だったことを無理やり代わって行うように根回しをした。不機嫌な兼続が龍兵衛を引きずってどこかに向かったのを見た時は思わず、合掌したほどだ。

 

「でもぉ。何でそこまでしてこだわるわけぇ?」

「いずれ関東は越後に次ぐ豊かな土地になる。そして、直轄地として動かすことが出来れば必ず天下のためになる」

「……我らの地もですか?」

「業正殿や信綱殿たちの旧領はお返しします。ですが、土地を変えることに協力いただくことはお忘れなきように」

「それは、構いませんよね?」

「ああ、民と国がより豊かになるのであれば」

 

 龍兵衛は二人の返事を聞き、静かに礼をする。

 どうやら、彼の計画はかなり壮大らしい。はたしてそれが上杉とその未来にどのような影響を与えるのか。

 慶次には分からないが、凄まじい勢いで関東を変える計画を決行するために奔走し続けて彼を見てきたため、きっと成功に導くのだろう。そして、そうであってほしいと思う自分もまたいる。

 戦友としての願い。

 今はそう思って龍兵衛の支えを自身なりにしていく。たとえ血生臭い真似事をしてもだ。

 らしくないと思わず苦笑いを浮かべてしまうが、心からそう思っているのだから仕方ない。

 あくまでも今は友として支える。

 それだけで良いのだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縁故

 龍兵衛が関東から戻り、数ヶ月が経った。

 年が明けても未だに冬模様続く春日山の廊下を身を震わせながら歩いていた。

 関東の改革は幸いにも身を結び、兼続が来る頃には万全の状態で引き継ぐことができた。その代わり、新年を共に迎えることが出来ずに景勝のへそを曲げることになったが、最も成すべきであったことを成したのだから、よしとしようと切り替えつつ土下座した。

 北条一族の処遇も含めて比較的上手くいったため、これだけ早く帰ってこれたと反論したかった気持ちもあったが、景勝の機嫌を取ることを優先した。

 今は謙信に提出するべき資料を颯馬に託し、足早に自室に戻る最中である。

 珍しく仕事が少なく、後は来た仕事を受動的に片付ければ問題ない。休む暇も無かったため、座布団を並べて疲れた体を横にしてもばちは当たらないだろう。

 だが、そう考えることだけでも天は黒と判断したのだろうか。

 三人。

 龍兵衛は小さく舌打ちすると刀を手に取り、後ろから聞こえる足音の方向に振り向く。

 

「どこの手の者だ?」

 

 薄汚れた衣で顔を覆っている三人の刺客は何も言わず、着実に距離を詰めてくる。

 龍兵衛は謙信や慶次のように相手の構えを見て、実力を判断できるような目は持っていない。しかし、城の奥に忍び込んできたことを考えるとかなりの手練ではないかと推測を立てることが出来る。

 さらに問題なのはどうやってこの状況を切り抜けるかだ。龍兵衛も人手が多い所に後退しているが、刺客たちはそうはさせまいと刀を抜き、素早く距離を詰めてくる。

 もう一振りすればそれぞれの刀の切っ先同士が届くだろうという所まで来てしまった。このところ忙殺されていたせいで全く鍛錬をしていなかったため、腕は完全になまっている。

 龍兵衛は致し方ないと息を大きく吸う。

 

「曲者だ!」

 

 何年ぶりに張り上げた叫び声はそれなりに城内に届いた。

 「何事!?」と微かに声が聞こえてくる。

 だが、同時に刺客たちをせっかちにさせてしまった。一人が一気に距離を詰めてくる。何とかかわしたが、次の者への襲撃に対応出来る時間を失った。やむを得ないと横に飛ぶようにして避ける。

 素早く立ち上がるも三人が三方向から同時に襲いかかってきた。一か八かと龍兵衛は間隔が比較的空いていた右と真ん中の刺客の間を滑り込むように潜る。

 三人の体勢が崩れているのを見て、味方の声が聞こえた方へと走る。

 しかし、足の速さは向こうが圧倒的に上である。多少は人がいそうな所に出たが、味方の気配を感じられない。

 龍兵衛は仕方ないと反転し、一人に向かって刀を突き出す。向けられた者は驚いたように足を止めたが、間に合わずに腹に致命的な傷を負った。素早く刀を引き抜き、残された二人の対処に臨む。

 味方の死を全く気にしていない様子で龍兵衛に詰め寄ってくる。

 万事休すかと思った矢先、茶色の物体が刺客の一人の腕を引っ張りながら目の前を通り過ぎた。驚きの余り、倒れた者を見ると三毛猫が腕に強く噛み付いている。

 遅れて犬が三匹やって来て、龍兵衛を守るように刺客たちへ立ち塞がった。

 

「やってしまいなさい!」

 

 角から聞こえた声を合図に二匹が残った刺客に襲いかかる。連携良く右腕と左肩に噛み付き、完全な隙を作ってくれた。龍兵衛は容赦なく胸に刀を突き立て、とどめを刺す。

 生き残った一人は拘束から逃れようと暴れている。だが、戦闘を終えた二匹が加勢し、龍兵衛も刀を目の前に突き立てたため、抵抗を止めた。

 結局、二人は死に、一人は怪我を負わせ、逃げられないようにした。 

 

「資正殿、ご助力ありがとうございます」

 

 振り返り、近付いてきた太田資正に頭を下げる。

 

「いえいえ、お礼などいりません。お怪我はありませんか?」

 

 資正の問いに「大丈夫です」と手を挙げる。

 

「しかし、誰がこのようなことを……」

「分かりません。しかし、資正殿はよくお気付きなりましたね」

「あの子たちが教えてくれたのです。においに敏感ですから」

 

 資正は病が癒え、犬の鍛錬を行っていた。そこで犬たちがせわしなく龍兵衛のいる方向に警戒をしていたらしい。さらに先程の声を聞いて何か起きているといつも戦場に出している三匹を向かわせた。

 彼らがいなければ龍兵衛は今頃どうなっていたか分からない。御礼として撫でてやりたいが、拘束を任せているため、後日、骨付き肉でも持っていこうと決めた。

 

「この者は如何致しましょう?」

「こちらで適切に処理しておきます」

 

 資正の後ろに視線をやると続々と人が駆け寄ってきている。

 彼女もそれを見て分かったと頷き、犬たちを連れて戻っていった。

 それから景勝を筆頭に多くの者から心配と襲撃された理由を代わる代わる問われた。結局、刺客への対応も含めて夕方まで落ち着くことは無かった。

 

 

「はぁ……」

 

 日が完全に暮れ、ようやく解放された龍兵衛は部屋で仰向けになって疲れを取る。

 このまま目を瞑っても良いが、一つだけやらなければならないことがある。

 もう一度溜め息を吐き、起き上がると部屋から出る。外には護衛のために控えていた兵が三人、立っていた。一人で大丈夫だと付いてこようとする兵を無理矢理制する。景勝の厳命でしばらくは警護を付けて行動するようになった。しかし、これから向かうのはとても彼らに聞かせられるような話ではない。

 普段は静かな廊下だが、昼のことがあったため、少し巡回する兵が多い。龍兵衛を見て、声をかけてくる者もいたが、断りつつ城の奥へと進む。目的の部屋は襖が閉じられている。だが、中に人がいる気配はあった。

 

「本庄殿、今よろしいでしょうか?」

「どうぞ」

 

 小さく息を吐くと襖を開く。

 実乃は龍兵衛の姿を認めると穏やかな笑みを浮かべ、座る場へと促してくれた。いつもの白を基調にした着物に薄い水色の羽織をしている。

 

「夜分の仕事中に申し訳ございません」

「いいのよ。せっかく貴方から来てくれたのだし」

 

 相変わらず胡散臭い台詞を言いながら今度は妖艶な笑みを浮かべてくる。

 このまま相手の雰囲気に呑まれるわけにもいかないため、さっさと本題を切り出す。

 

「本日、何者かの刺客に襲撃されました」

「あら。道理で騒がしかったのね」

「……どうやら、違うようですね」

「疑っていたの? 心外だわ」

 

 わざとらしい怒りの表情を見せてくる。ここで実乃が主犯ではないと決めるのは早計だろう。彼女はこれまで偽りと誠意を兼ね合わせて上杉家中での権力を強め、適切な政治を行えるように内部を動かしてきた。

 これも自身の権力を強める一つとすれば疑り深い方が良い。

 

「自分はこれを内部の者だと睨んでいるのですが」

「証拠はあるの?」

「確実なものはありません。ですが、自分のような者を襲うのは外からではなく、内からであれば辻褄が合うからです」

「どうしてかしら?」

「春日山から新潟ヘ本拠を移す話です」

 

 実乃の表情が一瞬無になり、何度か頷くといつもの余裕のある笑みへと変わる。

 

「やはり貴方の提案だったのね」

 

 三日前の評定で謙信が切り出した。やはり、多くの者が驚愕し、反対する者もそれなりに出た。

 

「内容が内容だったので、根回しをしなかったのは自分に非があります。取り下げても良いのですよ」

「だからね。違うって言ってるでしょ?」

「では……」

 

 さらに詰問する龍兵衛だが、実乃に手で制される。表情が先程とは打って変わってかなり真剣で、怒りを含んでいる。

 

「その必要は無い。貴方の提案なら繋がりが出来た。それに越後と上杉のためになる」

「説明しなくても分かるのですか?」

「何年越後にいると思っているの?」

 

 実乃は唇をつり上げる。謙信が幼い頃から家臣として師として支えてきた彼女は上杉を支える最古参である。

 

「なら、何故本庄殿はこのことを進言しなかったのですか?」

「私は上杉に綻びが出ないように皆を調整するのが役目。わざわざ立場を危うくするつもりはない」

「つまり、今回自分が言うのを待っていたと?」

 

 明言せずにただ笑みを深めるだけで何も言わない。肯定しつつも口にせず、いざという時は知らん顔するつもりだ。

 きりが無いと考え、本題へ戻るべきと小さく息を吐く。

 

「刺客については、内からの可能性が高いため、明日から調べるつもりです」

「そうね。それが良いでしょう」

「反対しないのですね」

「当たり前よ。これでも私は貴方を買っているし、感謝しているのよ?」

「感謝?」

「大熊を追い出してくれたの。一生忘れないわ」

 

 龍兵衛の脳内で一つの歴史が思い浮かぶ。

 正史では、実乃は大熊朝秀と対立し、執政の座を奪い合っていた。この世界では龍兵衛が大熊を失脚させることに加担し、その座に龍兵衛が座っている。大熊ほどの地位では無いが、官位を貰った今、正に実乃の片腕と言って良い。

 本人は日々、戦々恐々としているが。

 

「貴方はあれと違って選り好みしない。敵味方だろうときちんと公平にかつ越後を発展させてくれている。十分、十分よ」

「何が言いたいのです?」

「貴方が私を疑うのは当然。それほど家格があるわけでも、代々仕えてきた訳でもない貴方が私のような者に嫌われやすい。だからしょうがない。颯馬のように誰からでも好かれるような愛想も性格もしていない」

 

 語りを始め、真意を全く言おうとしない。このまま粘っても長々と関係の無い話をされるだけだ。

 

「いたぶるのが目的なら……」

 

 立ち上がると同時に実乃が袖を掴み、全く目が笑っていない笑みを浮かべる。大人しくすべきと直感が働き、元いた場所に居直る。

 実乃は近付いたまま、今度に満足そうに目を笑わせた。

 

「先に言ったように私は貴方に恩義を感じている」

「ですから?」

「刺客については、任せさない?」

「……闇に葬るおつもりですか?」

「真実は貴方に教えるわ。それでどう?」

 

「いいわね?」と有無を言わせない鋭い目つき。龍兵衛は反射的に首を縦に振った。

 そして、後悔した。もっと確実な保証と見返りを求めれば応じてくれただろう。だが、実乃は真実を突き止め、それを教えてくれると言っていた。今はその言質だけ取れただけでも十分だろう。

 

「では、お言葉に甘えさせていただきます」

「そう。じゃあ、明日から取り掛かるから。どういった経緯で襲われたか教えてくれる?」

 

 龍兵衛は頷くと襲われた時の状況を事細かに伝えた。実乃は一つ一つに頷きながら、眉間にしわを寄せながらと様々な所作を見せる。そして、一通り話し終えるといつになく真剣な表情で天井を見上げ、ゆっくりと視線を合わせてくる。

 

「情報をありがとう。必ず首謀者は捕まえるわ」

「あ、ありがとうございます」

 

 少し気圧されながらも表情を変えずに感謝を伝えることが出来た。

 それで話は終わりと実乃から威圧的な雰囲気が一気に消え、人差し指を立てる。

 

「あと、話が大きく変わるけど、近江から貴方の親戚らしき人が上杉に仕官したいと言っているのだけど」

「……自分は天涯孤独なのですが」

 

 少し心音が大きくなる。とぼけたが、実乃には全く通用せず、嘘は駄目と首を横に振られる。

 

「知っているわ。まぁ、名は勝手に貴方が借りたんでしょう? 借りを返すと思って対処して」

 

 仕官するのは確定らしい。だが、面倒を見ろとは言われていない。

 

「いざとなれば恩を仇で返すことも?」

「貴方の面子が潰れない程度でね」

 

 確認が取れ、承知したと頷くと同時に安堵する。元々、官位も利用価値がある道具と見ているような龍兵衛にとって面子など、あって無いようなものだ。かえって無能な輩の後処理を任される方がずっと面倒であると考えていた。

 

「それより、我らの力になりそうですか?」

「穏やかそうな人柄だったし。まぁ、城代ぐらいなら出来ると思うわ」

「何という方です?」

「たしか……河田六郎だったかしら」

 

 龍兵衛は納得したように頷く。河田重親は北条と対立と同盟の時期を巧みに生き抜き、越相同盟を取り持つなど功績を上げている。家中の対立抗争に敗れる末路があるが、その災いはすでに取り払っている。

 記憶通りの実力があれば関東と越後の取次という重要な役割も任せられるだろう。

 

「分かりました。とりあえず、自分も会っておきます」

「助かるわ。あ、あと、もう一つね」

 

 話は終わったと思い込み、上げかけていた腰を嫌々戻す。

 

「……もう。本当に良いことだから、そんな顔しないで」

「表情には出していませんが?」

「態度よ態度。まったく、自分でも分かってやってるでしょうに」

 

 母親が子を叱るような口調で言われても全く心に響かない。これだけ不快感を与えているが、実乃は口元を手で覆いながら笑う。それを楽しむようなその態度がますます苛立ちを増長させる。

 

「何でしょう?」

 

 聞くと姿勢で示すと実乃は嬉しそうに笑みを浮かべる。

 龍兵衛は心中で、先程の刺客の件で感謝した思いを返してくれと叫んだ。

 

「越前の情勢は聞いている?」

「ええ。一向宗の反抗が未だに続いているとか」

 

 龍兵衛の考えた戦略によって斎藤率いる越前攻略隊は無事に織田を追い出し、越前を攻略した。だが、それで終わりでは無かった。

 織田によって殲滅されたはずの一向一揆がまた蜂起し、軍を分断せんと動き始めた。この動きは誰も予想しておらず、上杉軍は対応できずに防衛線の形成に各地で失敗しており、苦戦を強いられている。

 

「……それで、良いこととはいったい」

「例によって貴方を糾弾する者がいるのよ」

「厄介払いをするのは自分の役目では?」

「まぁまぁ。誰も彼も切り捨てたら人がいなくなるし、そこは私が上手くやっておいたから安心して」

 

 龍兵衛は素直に感謝しておくべきと頭を下げる。家臣の不正を監察し、実乃に報告して処分するかを決めて適切に対処するのは彼の仕事である。今回、実乃が自ら素早く対応したということは、彼女なりに貸しを作ったつもりだろう。

 

「では、越前への救援は自分が行いましょう」

「察しが良くて助かるわ。でも、条件付き。景勝様を連れて行ってね」

 

 実乃が静かにこちらに近付き、耳元に口を寄せる。

 

「越前のほとぼりが冷めたら、謙信様は隠居されるわ」

「真ですか?」

「ええ。けど、まだ口外禁止よ。貴方にしか教えていないわ」

 

 実乃は片目を瞑る。本性をしらない男なら理性の柱を容易く折られていただろう。龍兵衛は冷静に思慮を巡らせると先程の越前への出陣と組み合わせると彼女の真意が見えてきた。

 

「景勝様に武功を立てさせ、威容を示すのですね」

「頼むわね。私も頃合いを見て、身を引くつもりだから」

「……え?」

 

 龍兵衛は呆然と実乃を見たまま固まる。だが、実乃は構わず、至って真面目に話を続ける。

 

「安心して、すぐじゃないわ。きちんと頃合いを見てあげる」

 

 龍兵衛も思考まで滞ってはいない。すぐに彼女の言わんとしていることを脳内で理解し、本当なのか尋ねる。真剣な表情のまま頷く実乃の目は雪のように冷たく感じられた。釈然としない疑問さえも全て相手の中で凍らせ、口にしたことがさも当たり前だというような気にさせられる。

 

「分かりました。そこまで仰るのであるなら」

「ええ。悪いとは思っているわ。けど、謙信様が下がるのであれば、私もね」

「本庄殿の謙信様への忠誠、見習わなければなりません」

「大丈夫。貴方は十分、上杉に貢献してくれたわ」

 

 目を見開き、実乃を見る。常に容赦ない対応で、龍兵衛を苦しめ、何とか対処する度に笑顔で知らん顔をされてきた。ひとえに彼女が自身を嫌い、きっかけを作り、上杉から追い出そうとしていたからだと思い続けてきた。

 

「試していたのよ」

「やはり」

「でも、それをはね退ける力が無ければ、駄目とも思っていたのも事実」

「嫌われていたとばかり思っていました」

 

 実乃ははっきりと言われたのが意外だったのか、苦笑いを浮かべる。

 

「自覚があったから、何も言えないけど、はっきり言われると傷付くわね」

「申し訳ございません」

「感情がこもってない。意趣返しにしては、弱いわね」

 

 もちろんわざとそうしたのだが、口元を指で押さえて笑っているのを見ると逆効果だったらしい。実乃は数秒笑うと一つ息を吐き、真剣な表情に戻る。

 

「貴方は見事に家中での孤立に耐え、上杉を良い方へと導いた。そして、景勝様が主として立たれる時、貴方もあの御方を支えるべき者として十分成長したわ」

 

 表情は全く変えずに頭を下げる。手放しでそこまで褒められると彼女の掌で調子に乗ってしまいそうになる。だが、どこで掌を返されるかも分からない。

 

「順当にいけば、家格や実力を見て兼続が家臣を引っ張るでしょう。でも、景勝様を影で支えるのは貴方。これまで私が行ってきたことを貴方たち二人に託すつもりでいて頂戴」

「颯馬ではなくてよろしいのですか?」

「彼は謙信様と共に身を引くつもりだから。それに、彼は少し優し過ぎる。この役目は、妥協ばかりでやっていけないわ」

 

「そしてね」と実乃は人差し指を立てる。

 

「初めて見た時に思ったわ。貴方こそ、上杉を影から支える人物に相応しいとね」

 

 心臓の鼓動が激しくなる。嘘か真か分からないが、普段は静かに人を追い詰める彼女からここまで強い口調で言われると信じてしまいたくなる。

 信じて考えるのであれば兼続が筆頭家老として景勝を支え、政務を取り仕切る。だが、正義感の強い彼女は理に適わないことを思うように回していくことは出来ないだろう。これまでは実乃が双方を巧みに扱って物事を移してきた。

 龍兵衛が知識を活かした取組を容易に行えたのも彼女のおかげである。

 一方、実乃がこれまで一人で動かせたからこそ、円滑な動きをすることが出来た。それを兼続とは相反する立場にて影となるべき者も必要になる。律儀で生真面目な彼女と上手く付き合い、冷酷に物事を運ぶことが出来る人材こそが影の立場に相応しい。

 だからこそ、実乃は龍兵衛に厳しく当たってきた。

 そう考えれば、龍兵衛を守るようにしてきた彼女の行動に何かと合点が行く。彼が一部の者から支持を持っていた事実も彼女の家中での権限を使えば簡単に事実を捻じ曲げて追放することも出来た。

 全て龍兵衛に期待していたからこその裏返しであり、古来の酷吏にも似たほどに冷酷に動けるようになっているか見定めていた。

 龍兵衛の脳裏に景勝との約束を交わした日と惟信を殺した光景がよぎる。約束を果たす土台に正式に立ち、最愛の人を殺す冷酷な心をこれ以上痛めつけることなどあろうか。

 

「改めて言うわ。真に私の跡を継ぐのは貴方よ。やって頂戴ね? 上杉と景勝様のために」

 

 真剣な口調で問う実乃に龍兵衛は強く頷いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

北陸より愛を込めて

「……」

「状況を説明してほしいと景勝様が」

「各地で劣勢です」

 

 景勝が龍兵衛を介して兼続に命じる。 

 上杉軍が撤退した豊原寺城の空気は重い。越前の援軍に景勝と共に出立した龍兵衛だが、予想以上に一向宗の反撃は激しく、規模が大きかった。

 上杉軍本隊は越前西の拠点をほとんど失い、何とか戦線を維持しようとしている。防衛線の維持に失敗しているため、いくつかの砦がすでに孤立している。報告によればすでに西側は完全に一向宗の支配下とされ、中央の敦賀郡や丹生郡はすでに上杉軍の砦が落ち、さらなる攻勢が予想されていた。

 

「よもや、一向宗が生きておったとはのう」

 

 援軍の将の一人として同行している吉江景資が溜め息を吐く。ここには他に甘粕長重や柿崎景家といった将も揃い、難しい表情を浮かべている。

 

「申し訳ございません。自分もまさか、一向宗が生き残っていたとは思っておらず」

「気にするな。どうせ、城内でまた何か言われたんだろ?」

 

 朝信が謝罪を制し、東の空を見ながら眉間にしわを寄せる。

 越前の状況を報告する場において謙信は龍兵衛を叱責せず、すぐに援軍を率いる一人として向かうように命じた。その一方で、越前の一向宗の存在を見逃すとはいかがなものかという讒言が個別に謙信に伝えられていることも実乃から聞かされていた。

 

「お前の策に間違いはなかった。気にすることではない。まさかここまで一向宗が残っているとは思ってもいなかった。兼続や颯馬も想定しなかっただろ?」

 

 朝信は兼続に目を向ける。彼女はそれに反応するように強く頷く。

 

「なら、お前がそこまで気に病むことはない。言いたい連中に言わせれば良いだけだ」

「妾も勘違いさせるような物言いをしてしもうた。すまぬ」

「お二人とも、お気遣いありがとうございます。しかし、今はこの状況をどう打開するかです」

 

 龍兵衛は丁重に礼を述べつつ、視線を地図の方へと向ける。

 報告からこの一向一揆の首謀者はすでに大坂から退去している本願寺の重鎮、下間頼純と七里頼周。さらに一向宗に降伏した朝倉景健と聞いている。

 頼純はあまり聞いたことが無いが、頼周と景健は聞いたことがある。

 頼周は内部から弾劾を受けるほどに残虐な性格が災いして織田との戦で大敗した。景健は朝倉が織田に降伏した後、名字を変えて本領安堵をされたが、一向宗の攻撃に降伏。さらに信長の目こぼしで蟄居していたところを本能寺の変で脱出し、一向宗と手を組み、情勢を見て蜂起した。

 懲りない奴とは思うが、自身も似たような境遇であると龍兵衛は自嘲気味に内心で笑う。

 意識を現実に取り戻すと兼続が必死に口を開いていた。

 

「最もすべきことは孤立している味方の救援です。補給路を確保でき次第、総攻撃を仕掛ければすぐに瓦解するでしょう」

「そこは自分も同感です。相手は戦を知らぬ民や僧たち。動揺させてしまえばこちらが一気に有利になるかと」

「ですが、一向宗は武人ではない者も多くいます。普通の軍を相手にするつもりでは危険かと」

「正攻法では勝てぬと?」

 

 景資が兼続を横目で睨む。誇り高き将にとって正々堂々たる戦で威厳を示すのが誉だろう。だが、そのような訴えをひらりとかわす。

 

「彼らは戦を知りません。それ故に我々の常識では測れない動きをするでしょう。先の加賀でも見てきたように」

 

 皆が眉間にしわを寄せる。人が人であることを捨て、操り人形のように主の意のままに敵を襲撃してくる。そして、死しても痛みを感じない救済者のような表情を浮かべて倒れていく。

 脳裏に蘇る記憶とこの戦の意味を天秤にかけ、否定したいが、否定できない迷いが口を閉ざしている。

 兼続が龍兵衛に視線を向けてくる。意をくみ取り、頷くと彼は口を開いた。

 

「先の戦で我々は兵はもちろん、金、物資と多大な損害を受けました。織田が内紛を起こしたおかげで攻略出来ましたが、織田に遅れを取っていたでしょう」

「そこで、此度は犠牲を抑えるために策を講じる……兼続はどう考える?」

「私も賛同致します。これまで戦ってきた中で、彼らはかつての一向宗との戦いを彷彿させるものがあると感じました」

 

 沈黙する空気が徐々にこちら側へと来ている。龍兵衛はさらに駄目押しを与えるため、発言しようとした途端、袖を突かれた。振り向くと景勝が彼を見上げている。

 

「一向宗。滅ぼさないと駄目?」

「そうしなければ今後に響くかと」

 

 景勝は他の者にも目を向ける。兼続は強く頷き、他の者が唇を噛んだり、眉間のしわをさらに深くさせたりしている。結局、少し考えた後、二人の意見に賛成の意を示すように分かったと頷く。 

 そして、少し悲しそうな顔をしつつ、龍兵衛に声をかける。

 

「ならばやむを得ない。仔細は任せる。と言っております」

「承知致しました。早速だが、お前ら二人はどう考える?」

 

 朝信の号令から数刻、龍兵衛と兼続を中心に議論が重ねられ、越前の完全な掌握に向けた支度が始まった。

 

 

 

「龍兵衛、ちょっとこっちに来てくれ」

 

 龍兵衛は軍議が終わるとすぐに朝信から呼び止められた。断る理由も無いため、導かれるままに付いて行く。

 足が止まったのは間者が来てもすぐに気付くような広さと近寄る理由も無い陣中の隅だった。

 朝信は龍兵衛へと振り返ると睨むような目つきで口を開いた。

 

「此度の援軍、本庄殿からの指示か?」

「……さすがに斎藤殿には誤魔化せませんか」

「当たり前だ。あいつとは何十年の付き合いだ。胡散臭くても考えることぐらい分かる。さしずめ、景勝様に華々しい軍功を立てるように伝えられたんだろ?」

 

 龍兵衛は全くそのとおりだと頷く。朝信は「やっぱりな……」と頭をかいて溜め息を吐いた。

 

「まぁ、それが上杉のため、景勝様のためになるなら、仕方ないだろう」

「だからこそ、この戦は難しいのです」

 

 朝信も頷く。景勝が大将である以上、下手な負け戦は出来ないことはもちろん勝つまでの過程も重要になってくる。

 彼女の威厳を示すには堂々と誇れる勝利をもたらし、謙信の跡継ぎとして内外誰もが認められる存在となれるようにしなければならない。

 

「工作など以ての外です。出来たとしても奇襲といった類いでしょう」

「面倒な戦になるな」

「援軍も含めて将兵の数は揃っています。さらに兵の質はこちらが圧倒的に上ですから特に問題は無いでしょう」

「だが、先程も言ったように此度の戦は正攻法で戦えば分が悪い。兵たちは士気が低く、一向宗との戦を怖がる者もいる」

 

 龍兵衛は少し目を細める。越前の一向一揆は織田が全滅させなければ意味が無いと判断するほど、激しいものである。本願寺という元締めはすでに織田によって瓦解しているが、影響力は未だに強いのだろう。戦う信者は死ねば極楽へと行けると信じて戦うため、死を恐れず戦ってくる。

 こちらとしてはなるべく調略や工作を用いて犠牲を抑えた戦を行いたい。それ故に景勝の存在は厄介である。

 彼女が指示していなくても大将である以上、その責務は全て返ってくる。

 

「此度の戦で分かったが、一向宗はかなりしつこい。どこかで終着点を見つけないとまた面倒になるかもしれないぞ」

「今は景勝様の御前です。後々のことは自分たちが残って適切に処理をするべきかと」

「……分かった。何か考えがあるのならお前に任せる。俺に出来ることがあるなら遠慮なく言ってくれ」

 

 何か悟ったように朝信はその場を離れる。協力はしてくれるだろう。しかし、一切の責任を取るつもりは無い。言動の浅さとすぐに立ち去った態度からすぐに察することが出来る。

 珍しく立場を約束されている朝信さえも保身に走る。それだけこの戦にかかる重圧は凄まじい。彼らに景勝がもうじき当主となることは伝わってはいないだろう。だが、このような戦後処理に等しい戦にわざわざ彼女が出向くということ自体、聡い者なら容易に察しが付く。

 単純な正攻法も難しく、工作をすることもご法度。戦術での勝利が物を言うことになる。しかし、最も苦手分野である戦術を巧みにこなせるか、彼自身も自信が無い。

 いっそのこと兼続に戦を丸投げしてしまいたいが、実乃から景勝のことをよろしくと言われた以上、それなりに働かなければ後々が怖い。

 それらをふまえて全て彼女の思い通りだったのだろう。これまでのことを返上するような素振りを見せてその気にさせる究極の手段で龍兵衛を翻弄した。

 悔しさで自然と拳に力が入る。だが、すでに現実となっている以上、乗り越えなければならない。

 女狐のような性格故に、ここまでくるとあの日の夜の発言さえも怪しくなってくる。だが、今は口車に乗ってしまった自身を恨んで行動する他ない。

 軒猿を呼ぶため、彼らが控えている場所へと向かう。工作専門の部隊もあるが、隠密性を高める必要性がある。

 今にも崩れそうな外れにある小屋の前で足をと止め、外から戸を弱く叩くと内から小さな音が返ってくる。龍兵衛が隠密をしている際に声を出すのはいかがなものかと取り入れたものだ。戸を開けると重苦しい雰囲気が体中を覆ってくる。

 

「段蔵は?」

「物見に」

 

 紙と筆を借りると伝えるべき内容を認め、丁寧に折る。

 

「段蔵に見せておいてください。仔細はまとめています。何かあれば我々に損害が出ない限り自己判断で。責任は自分が」

 

 次席の老いた忍びが無言で受け取る。用件が終わり、龍兵衛はすぐに外に出る。周囲を見回すが、誰かに付けられている様子も無い。急いで兼続たちと合流するため、足を早める。

 周囲の兵を通り過ぎるごとに見ると恐れているのだろう。動きがいつもより遅かったり、会話が少ない者ばかりである。

 これでも景勝が来る前より良くなった方だと聞いているが、不安は拭えない。

 

「龍兵衛」

 

 前方から声をかけられ、顔を上げる。

 

「これは、景勝様」

 

 主の姿を認め、深々と頭を下げる。護衛もつけずに不用心だと思いつつも遠くから景資がこちらを見ている。景勝が二人で話したいと離したのだろうと思いつつ、彼女に視線を戻す。

 

「大丈夫?」

「何がです?」

「さっき、朝信と話してたの見えた。暗そうな顔してた」

「えっ。表情に出ていましたか?」

 

 普段らしくないことをしてしまったと徐ろに左手が頬にいく。景勝はそれを見て、慌てて首を振った。

 

「何となく、そう見えた」

 

 そもそも景勝が朝信との会話を見ていたとは思ってもいなかったが、追及せずにおく。

 

「この戦をいかにして勝利するか考えていたのです」

「難しい?」

「一筋縄ではいかないでしょう。もう少し遅滞戦術を素早く実行できれば良かったのですが」

 

 現代の遅滞戦術を応用した戦術を兼続や颯馬には教えていたが、一向宗の素早い攻勢には対処できなかった。兼続からも謝罪を受けたが、起きてしまったことだと流している。

 景勝を見ると悲しそうな表情で俯いてしまっている。自分では力不足なのではという不安が波となって彼女の体を覆っている。

 

「大丈夫です。必ず、景勝様に勝利をもたらします」

「……ん。分かった。期待してる」

 

 景勝は少し穏やかな表情に戻り、去っていった。

 頭を下げている間、唇を噛む。

 嘘をつかない。

 痛みを共有し合うと言ったにもかかわらず、また嘘をついた。

 やはり、無理なのかもしれない。

 気遣うつもりで言った台詞が自身に罪の意識を向けさせる。黙っていなければならない。しかし、寄り添える人がいるだけでこれほどまでに脆くなってしまう。

 

「景勝様、お待ちください」

 

 無意識に口にしてしまった。景勝は小首を曲げて振り返っている。

 後に戻れなくなってしまった。だが、それ以上に目の前の愛しい人が魅力的に見えた。深い森に差し込む一筋の光のように自身を救ってくれると言ってくれた彼女に溺れてしまった。

 

「……こちらによろしいでしょうか?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

儚き名の為に

 朝倉景健は朝倉、織田、一向宗、織田、一向宗と何度も主を変えて生きてきた。

 他者を捨ててまで死にたくないというわけではない。彼自身、朝倉義景の代理で幾度も総大将を務めるなど、常に死と隣合わせの日々を送ってきた。

 子を持たない景健は正統な朝倉の名を持つ最後の者でもある。名を残すため、天命尽きるまで生き抜き、由緒ある名柄を後世に正しく伝える役目がある。

 それ故に、いかなる屈辱にも耐えてみせる。

 そう自負している彼でも今の環境にはかなり精神を擦り減らしていた。

 名も知らぬ将が数名下段に控え、左前には二人がこちらに見向きもせ豊原寺城を攻める段取りを進めていた。

 右側に年故に皺が目立つ坊主頭に似合わぬ左右に広がる白い口髭と長い顎髭を蓄えた七里頼周。左側に青年らしい日焼けした顔に頭巾を被った濃い眉毛と細い目をした下間頼純。

 両大将は本願寺より代官として一向宗が越前で領地を得るや否や派遣されてきた。

 時折、上杉軍など大したことがないと言って嘲笑を浮かべては越後制圧後の話などしている。

 本来なら慢心しないように諌めるべきだが、景健は発言さえも許されない立場に置かれている。何度も主を変え、一向宗の信徒でもない彼は坊主たちにとって異教徒同然であり、戦が出来るために生かされている駒でしかない。今も次席に座っているのは朝倉という名を持ち、戦国時代を渡り歩いてきたからである。

 今の扱いに堂々と不満を言える、誇れるような生き方をしているとは思ってない。だが人である以上、それなりの尊厳は持っている。踏みにじられる怒りは袋に溜め込んだ空気のように膨らみ続けている。

 二人は意見がまとまったのか、将たちに指示を出し始めている。中央や西の孤立している敵を叩き次第、上杉の本隊を総攻撃するという形で動く。すでに援軍が来ている情報も得ており、総大将には謙信の娘である上杉景勝が指揮を取っている。付き従う将は斎藤、直江、河田と重臣が続いているため、油断出来ない。しかし、下間と七里は仏を敬わず、遠ざける者どもに先などないとたかをくくっている。

 確かに上杉は政治と宗教を切り離し、神仏に携わる者たちを絡ませることをしなくなった。それが本願寺など宗教を司る者たちにとって面白くないのだ。今まで室町幕府には強訴や武力衝突を辞さない構えで要求を通すようにしてきたが、上杉の領内では神社仏閣にある武器は理由を付けてほとんどが回収されているらしい。武器に頼らず、言葉で訴えろと言っているようなものだ。

 滞りない政治を行う上では正しいだろう。だが、曲解すれば上杉が寺院の権威を落とそうとしている罰当たりな行為をしている。

 本願寺の過激派はそう捉えて越前の混乱に乗じて一向宗の国を再興しようとしていた。結果、緒戦の攻勢は見事に成功し、織田残党と上杉を越前のほとんどから追い払った。

 その混乱の中、織田家臣である柴田の配下にいた景健は逃げることが出来ないと判断し、一向宗に降ったのである。

 全く歓待されないこの状況を予想はしていたが、発言さえも許されないのはさすがに参るものがある。

 しかし、現状で最も一向宗が優勢に立っている以上、ここに留まる他ない。机の下に怒りの拳を握りながら早く軍議が終わることを祈る。 

 

「申し上げます! 敵軍が金ヶ崎城を攻撃しております!」

「何!?」

 

 突然、舞い込んできた報告に総大将の一人である下間が勢いよく立ち上がり、周囲もざわつき始める。続いて景健と共に冷静さを保っていた七里が口を開く。

 

「誤った報告ではないか?」

「し、しかし、見た者は間違いなく上杉の旗印が掲げられており、鬨の声が上がっていたと」

 

 下間と七里は首を捻りながら互いを顔を見合わせる。

 

「いかに思う?」

 

 下間が低い声で尋ねると問われた七里は白髭をさする。そして、老人とは思えぬ冷淡な眼光を下間に向けた。

 

「敵は上杉。奴らは正義を重んじている故、背後より奇襲などせぬ。そも、いかにして我らの網を潜った?」

「分からぬな。越前の寺にはすでに念書を書かせておる。やはり、虚報であろう」

「左様じゃな。おい、無闇に味方を惑わす報告をした物見は何処にいる?」

「はっ。呼んで参ります」

 

 青ざめた表情で兵が飛び出ていく。味方さえも怯んでしまう七里の眼光にはやはり昔の悪癖は変わっていないと呆れるしかない。

 しばらくすると物見が左右を挟まれるような形で中に入ってきた。捕らえられているわけでもないが、どこか罪人を裁くような雰囲気が出ている。それを感じ取ったのか、徐々に物見の顔つきが引きつり始めた。

 

「おい。先の金ヶ崎城の報告をしたのはお主じゃな? お主はそれを金ヶ崎城の様を見たのか?」

「はっ、間違いございませぬ」

「……にわかには信じ難い。お主、臆病風にでも吹かれたのであろう」

「い、いえ、左様なことは……」

「お主のような者がいる故、士気が乱れる。誰か。この臆病者を斬り捨てい」

「お待ち下され! 拙者だけではござらぬ。他の者もその様子を……!?」

「問答無用。斬れ」

 

 物見は両脇を掴まれ、外に連れ出されていく。両足を暴れさせて聞き取れない言葉を喚いていたが、無駄な抵抗だった。

 出ていくのを見届けると景健は周囲の様子を伺う。誰かが止めるべきだが、皆が下を俯いて口を開く素振りも見せない。仏の道は慈悲の心があるべきとあったはずだが、それを無視した行為を止められる勇気など誰にも無いようだ。

 外から断末魔が聞こえ、すぐに先程、物見を連れ出した兵の一人が入ってきた。

 

「処刑致しました」

「首をはねて晒しておけ。見せしめじゃ」

 

 興味が失せたと七里は再び下間との談笑に戻る。かつて、彼は越前の一向宗をまとめていたが、その際に敵対していた勢力の大将を見事討ち取った者を命令していないからと処刑したことがある。他にも自分勝手な行為や徹底した圧政に耐えかねた領民から本願寺に訴えられるという問題を起こし、国を去った。

 今回、復帰したのは本願寺の頭である顕如が信長によって大坂から退去したことで人手不足になったための人選であり、改心したと認められたわけではない。そのため、内心では彼の復帰を快く思っていない者も多くいるだろう。監督者として派遣されているはずの下間頼純も若さ故か、血気盛んで七里と波長が合う性格らしい。

 彼の同族たちなら七里を諌める冷静さと権力を持っているのだが、彼らは織田の衰退を見越して本願寺復権による中央での動きにかかりきりのため、出てくることはないだろう。

 

「さて、敵は兵を一点に集中させておる。故に我らはこの機を逃さず上杉軍の補給路を断ち、撤退するところを叩く。聞けば上杉の跡継ぎや直江、斎藤といった重臣もいるらしい。必ずや討ち取り、越前のみならず、越後までを一向宗に旗で覆い尽くそうではないか」

 

 全員が無言で頭を下げる。配置を決める段階に移り、景健は城攻めの最前線を指揮することとなった。

 攻城が成功すれば手柄を奪い、失敗しても降ったばかりの将故にと逃げるつもりが見え見えである。そして、景健が兵を退くような真似をすれば後ろから刀を突き立てられるだろう。

 

「三日後までに補給路を見つけ、遮断する。後に攻城を開始する。最前線の指揮を朝倉殿、頼むぞ」

 

 死地に向かう将への言葉が七里からの感情のこもっていない一言で済むのであれば苦労しない。朝倉が健在の頃から総大将を何度も経験している景健だからこそ分かる。

 前しか見ていない二人に鼻で笑ってやりたい。

 陸にしか目が無いのか、と。

 金ヶ崎城が本当に攻撃されているとなれば味方の兵の数を考えれば必ず落ちる。どうやって背後を取られたかも分からない一向宗の連中では上杉の歴戦の猛者たちが率いる軍勢に勝てるとは思えない。

 越前は東と西の間に目立った要所は無く、山が続いている。西最後の要所である金ヶ崎城が落ちれば一向宗は補給路と退却路を同時に失い、挟撃に遭う。陣の配置も城攻めしか考えられていないため、このままでは一向宗の全滅は必至である。

 景健は自陣に戻り、配下から紙と筆を貰う。誰もいなくなったことを確認すると筆を走らせ、書き上げると素早く懐にしまい、外に出る。

 

「御大将、何処に」

 

 配下とは名ばかりの一向宗の監視役が声をかけてくる。

 

「我らは最前線を担う故、城周辺の様子を見てくる」

「左様なことは物見に任せれば良いのでは?」

「戦に出る大将たる者、自ら地理を知らずに何とする。護衛は無用故、出立の支度を整えよ」

 

 急かすような物言いになってしまったが、監視役は素直に頭を下げてくれた。

 そのまま馬に跨り、陣の外に出る。視線が痛々しく、陰口を叩かれているのがよく分かる。気付いていないように真っ直ぐ前だけを見ながら外に出る。後ろから門番たちが背中を刺すような視線で見ているのが分かる。振り返ったりすれば疑われるだろう。そして、死角に入ったと思ったところで馬の腹を強く蹴った。

 

 

 豊原寺城は織田によって再建され、越前に侵攻した上杉によってここから東にある丸岡城共々、拠点としてより拡大されている。また、至る所に砦と櫓を築いており、これを攻めるとなれば兵法通り守備兵の三倍から五倍の兵力が必要となるだろう。

 金ヶ崎城攻略に兵を割いたと考えれば現状ならすぐに兵を使って強襲すれば落ちるかもしれない。しかし、三日も猶予を与えれば上杉の思う壺である。今さら意見をしてもあのような戯言を真に信じるのかと言われ、冷徹な眼光を浴びせられるだけだ。

 旗の数を見ると一向宗がここを包囲した時からさほど変わっていない。下手に数を増やしても不審に思われると考えているのだろう。

 さすがに上杉の重臣たちが集っているだけはある。どれだけ劣勢だろうと策をもって対応し、守備兵が誰も脱走していないところから統率が行き届いていると見て良い。

 一人納得したように頷くと景健はさらに城に近付くため、馬を降りて手綱を木に巻く。

 

「誰かな?」

 

 進もうとした獣道から声と共に人影がゆっくりと現れる。

 濃い灰色の羽織を着た六尺(180センチ)はあろう大柄な男。無表情故に相手の感情は読み取れない。しかし、いつでも臨戦態勢に移れる腰の落とし方を見ると上杉の武将だと認識する。

 

「貴殿は上杉の御方がであらせるか?」

「……」

 

 相手は黙ったままこちらの様子を伺っている。よくよく見ると内側に着込みを仕込んでおり、背後にも護衛らしき気配が感じられる。音に聞く斎藤や直江の容姿は聞いたことがあるが、それらには当てはまらない。それでも名の通った将であるのは間違いないだろう。

 

「失礼。某、朝倉孫三郎と申す」

「朝倉……一向宗に付いたと聞いていますが?」

 

 表情を変えずに尋ねてくるのを見るとかなり冷静な切れ者だろうと悟った。

 

「上杉様に内応致したく、ここに参上した次第」

 

 驚く素振りも返事もせずにこちらを観察してくる。

 上杉軍は武断派の将が多いと聞いていたが、どうやら認識を改めなければいけないようだ。記憶が正しければ上杉軍の中に直江同様に軍師をしている河田という者がいたが、まさか景健の頭一つ以上は超えている恵まれた体格を持った眼前の者がその人とは思えない。だが、今はそのようなことを考えても仕方ないと相手の回答を待つ。

 しばらくすると男は納得したのか何度か頷き、景健の目を真っ直ぐ見てくる。

 

「……分かりました。しかし、すぐに中に通すわけにもいきません。何かお持ちですか?」

「これを」

 

 懐から書状を取り出す。男は受け取ると中をあらためる。相変わらず表情は全く変わらないため、少々面白みに欠けるが、受け入れてくれるのであればそれで構わないと前向きに捉える。

 

「……なるほど、随分と詳しく書かれていますね」

 

 景健は彼の発言が受け入れてくれる合図と悟り、頭を軽く下げる。中には一向宗の陣形や配置されている将、兵糧の在り処などが事細かに書かれている。

 金ヶ崎城の別働隊に加え、本隊が一向宗の致命的な場所を叩けばこちらの瓦解は必然だろう。

 

「これより主に伺い立てをするので、こちらでお待ちいただけますか?」

「承知致した。ここにて待っておりまする」

 

 男は丁寧に頭を下げると獣道を軽々と登って行った。その背中を目で追っていくが、一介の兵が通るには難しいだろう。刺々しい枝が道端から出ており、一歩でも踏み出せば膝をついてしまいそうになる急な斜面。やはり名のある武将だろう。

 

(さて、上杉の跡継ぎが頷いてくれるだろうか)

 

 先程の将も気になるが、やはり上杉軍の総大将である景勝が首を縦に振らなければ意味がない。

 四半刻(三十分)ほど待つと突然、眼前に人影が現れた。

 

「お待たせ致した」

「そなたは?」

「上杉の使い」

 

 若い女の忍が膝をついている。将から裏で工作や諜報を行う草に相手の地位が落ちた。一気に対応が冷たくなった気がするが、偶然将と鉢合わせた方の運が良かっただけだ。景健は努めてくの一を見下すような視線をしないように耳を傾ける。

 

「我が御大将は貴殿の言を受け入れると」

「ならば、上杉様も我が降伏を受け入れると言ってたか」

「は。条件として最後まで一向宗の中におり、情報を流すようにと」

 

 監視下に置かれている中で難しい条件だが、景健にとっては次が出来ただけでも十分である。

 

「承知した。ならば、今申すべきことがある故、言伝を頼む」

「何なりと」

「下間頼廉率いる援軍が密かにこちらへ向かっておる。急がなければならぬ。それから三日後に一向宗はこの城を攻める」

「はっ」

 

 忍は将と同じ道を通って戻って行った。

 

「よし」

 

 景健は自然と拳を握った。上杉は北陸から東北を席巻する大大名である。これでようやく安住の地を得て朝倉の名を後世につなげることが出来る。景健は年だが、子を作れないほど衰えているわけではない。誰でも良いから美人を娶ってしまえば後はゆっくり隠棲する。

 馬に跨り、腹を蹴る。豊原寺城の守りの堅さはよく分かったため、一向宗たちに何か聞かれれば攻める支度をきちっと整えてから動くべきと進言すれば良い。

 金ヶ崎から戻ってくる上杉の別働隊のために時間を稼げば先程の条件以上の働きをしたということで地位も保証してくれるはずだ。

 景健は先のことを考えて口元が緩むのを押さえるのに必死になりながら帰路についた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

命を軽んじている

「朝倉か……」

 

 直接受け取った書状を読みながら龍兵衛は呟く。豊原寺城内にある広間にて行われていた軍議はすでに終わっており、ここに残っているのは彼と景勝だけだ。

 相手が誰であれ、内通者がいれば戦は格段に楽になる。書状を認めた朝倉景健はかつての朝倉義景の代わりに朝倉軍の総大将を務めるなど、優れた将として聞いている。

 紆余曲折あって最後は一向宗に与したことで織田に討たれて生涯を閉じるはずだった。だが、ここでは信長が帰参を許したらしい。結果として再度、一向宗に戻って肩身の狭い思いを続けているらしい。自業自得だが、見返りが安住の地だけとあるため、もう乱世の動きに疲れたということだろうか。

 それならば早くどこかの寺で出家してしまえば良いと思う。しない理由は分からないが、何かしらの矜持でもあるのだろうと深く考えずにおく。

 

「おい、龍兵衛。朝倉の内応、どう考える?」

 

 いつの間にか近くに来ていた兼続が話しかけてくる。

 

「どうって、これが策かもしれないということか?」

「用心するに越したことは無いだろ。万が一に備えるべきだ」

 

 不機嫌そうだが、それだけ不安視しているのだろう。朝倉、織田、一向宗、織田、一向宗と渡り歩いてきた景健を信頼できない気持ちも分かる。しかし、龍兵衛には別の考えがあった。

 

「兼続の言い分はもっともだが、これだけ寝返ってきたということは、逆に寝返りに関しては信用して良いということじゃないか」

「あー……まぁ、そう言われれば、そうだが……」

「別に大丈夫だろ。それに金ヶ崎城も落ちたと連絡があった」

 

 先程、上がってきた報告を伝えると兼続の眉間に寄っていたしわが一気にほどけた。

 

「本当か?」

「ああ、今こちらに向かっているらしい。明日の夕方には到着するらしいが、景勝様とも話し合って夜にしてもらった」

 

 言いたいことを察したのか再び兼続の眉間にしわが寄る。

 

「夜襲か」

「一向宗は三日後に攻めると朝倉は言っていた。これを信用して良い場合、明後日まではこちらに攻め込むことはしない」

「仮に嘘だとすれば?」

「奴らはこれまで夜襲をしてきたことは無い。攻城を行うとすれば日中だろう」

 

 兼続は景勝の方ヘ視線を向ける。すでに承諾済みの彼女も一つ頷き、納得させる。

 

「景勝様もそう思われるなら、承諾致しました。万一に備え、兵の配置も整えておきます。龍兵衛、後で仔細を聞かせてくれ」

 

 そう言うと兼続は足早に外へと出て行った。

 

「……終わった?」

「ええ」

 

 様子を伺っていた景勝が静かに龍兵衛の方へ近付き、横に密着してくる。表情は懐いた猫が飼い主に撫でられているように嬉しそうに目を閉じている。

 

「外では誰が見ているか分からないので勘弁してほしいのですが」

「〜♪」

「……聞いてます? 先程は兼続の足音が走ってきたから分かったのですよ」

「声、かけられる。問題ない」

 

 兼続が突然声をかけてきたのは龍兵衛の集中力が周りに行っていなかったからのようだ。

 よりを戻してからというもの、以前より懐き方に手段を選ばなくなってきている。人の目が付きやすい所は避けておこうと互いに言い聞かせているが、やはり空白期間の寂しさを埋めたいと積極的になっている。

 先程も兼続が来るまで、景勝は龍兵衛に寄り添っていた。いつの間にか定位置に戻っている彼女を見て驚いたが、全て合点がいった。

 おそらく、再びの押し問答が始まるだろうと考え、地図に目を落とす。

 金ヶ崎城が落ちた以上、一向宗は退路を失い、劣勢になるのは必定である。朝倉の情報から彼らがその情報を虚報と信じ込み、報告した者を処断したと聞いている。これで情報が入らない彼らはあっという間に瓦解するだろう。

 それ故に、龍兵衛の目はその先に向けられていた。

 だが、思案し続ける彼を遮るように景勝が目の前に入ってきた。

 

「龍兵衛、おでこ、凄い」

 

 躊躇いなく眉根に指を置かれ、なぞるように左右に広げられる。

 

「止めてください」

 

 嫌だとさらにしわを寄せるが、構わずより強い力をもって解こうとする。可愛らしい指で愛でられるのは嫌いではないが、集中したい時のそれは鬱陶しい以外の何ものでもない。

 

「戦に負けても良いんですか?」

「これぐらい、集中切れる。良くない」

「そう開き直られても……」

 

 笑顔で言われてしまい、ますます龍兵衛の眉間にしわが寄る。それに気付いた景勝は「あ」と指差し、再び解こうとする。ここまでくると頑固者同士の勝負になってしまいそうなので、負けたことにして彼女に向けて和らいだ表情を見せる。

 それを見て、景勝もさらに眩しい笑顔で応えてくれる。このまま時間が過ぎてくれれば良いが、ここは戦場。このひと時も一瞬のうちにしておかなければならない。

「もうよろしいですか?」と思考を戻したいことを告げると物分かりの良い景勝も素直に頷いてくれた。

 

「勝てる?」

「勝つでしょう。問題はその先に」

「……?」

 

 小首を曲げる景勝の耳元に近付き、周囲を伺ってから口を開く。

 

「朝倉の処遇、任せていただいても?」

「……!」

 

 龍兵衛の裏を知っている彼女はその意図を察して口を真一文にする。しかし、彼には必ず承諾してくれるはずだと確信があった。

 

「……分かった」

 

 景勝は自分も手を汚すことを覚悟している。だが、それは彼女の思い込みに過ぎない。見えない所で自身のみが手を汚す。平和の象徴になる天下の主は潔白であり続けなければならない。

 目の前にある晴れやかな笑顔を曇らせないためにも。

 しばらく景勝で癒やされていたが、いつまでもそうしているわけにもいかず、地図をまとめると立ち上がる。

 

「兼続の所に行ってきます」

「ん……」

 

「頑張れ」と言葉にしないが、笑顔を向けてくれる。戦場という公の場でなければ頬が緩んでいただろうが、堪えて頭を下げて広間を出る。

 

「さて、どこに行ったのやら」

 

 兼続からどこで何をするつもりなのか聞けば良かったと後悔しつつ、辺りを探す。存外、軍師としての気持ちで動くと同じような道を辿ることになる。

 兵糧庫で見つけた彼女に先程の意趣返しではないが、背後から小さい声で「おーい」と話しかける。

 

「何をする!?」

 

 秒速の速さで壁際まで下がってしまった。内心、渾身の握り拳を作ったが、周囲の兵たちが目を丸くして驚いているため「さっきの件で話したいから来てくれ」と無表情で声をかける。

 

「だったら普通に声をかけろ!」

 

 そう言うと龍兵衛の首根っこを掴み、小柄な体とは思えない力で巨体を引きずっていく。衆目で恥ずかしいところを見られてしまったのがいけなかったのだろうか、少し話し合いが長くなることを覚悟しながら、されるがままにされておく。当然、注目している兵たちを笑わせるために兼続の頭上に鬼の角に見立てた指を立てたり悪戯をしながら。

 おかげで皆も声を堪えながら笑って見送ってくれた。

 しばらくして、空き部屋になっている所を見つけたのか立ち止まり、容赦なく放り込まれる。

 

「痛い……」

「当たり前だ! 恥ずかしい思いをさせおって。いいか、あのような公衆の場でだな……」

「そんなことより、一向宗のことを話す方が先だが」

 

 正論をぶつけるといつもの説教態勢を緩め、後で覚えておけと目で睨みつけてくる。

 龍兵衛も多少のことは覚悟の上での悪戯だったので別に構わないと思いながら持ってきた地図の内、越前の情報をまとめられた方を広げる。

 

「ここの兵糧はどれぐらい持つ?」

「補給路を断たれている以上、もって後五日から七日だな」

 

 兼続の表情は言葉とは裏腹にそこまで厳しくない。

 

「なら、決戦までには支障は無いか」

「……そんなことのために別室に移動させたわけではないだろう?」

 

 龍兵衛は穏やかな雰囲気を持って対応していたが、彼女の言葉で一気に重苦しくなった。

 

「ここで一向宗を壊滅させる。降伏も許さない」

「それは私も賛同だが、まさか……」

「不慮の事故もやむを得ないだろう?」

 

 兼続は腕を組み、唇を真一文字にする。言わんとするところの真意を容易に察したのは良いが、本当に実行すべきか悩んでいるのだろう。しかし、彼女が了承するという確信もある。一向宗との争いをいつまでも続けるわけにはいかないが、向こうが手打ちを拒否している以上、一方的に終わらせる必要があると軍師たちは考えている。

 さらに今回の戦では景勝という重荷がどのような扱いとなっているのか、彼女もよく知っている。

 

「……景勝様はどうする?」

 

 案の定、皆が苦慮していることを尋ねてきた。少し迷いを抱きつつ、一度間をおいてから龍兵衛は口を開く。

 

「存じ上げていない。戦後に俺たちが残って処理するからな」

「少し無理がある。せめて、落ち着いた後に……」

 

 兼続の言葉を制するように手を彼女に向けて出す。

 

「あくまでも存じ上げていない、だ。いいな?」

「……言ったのか?」

「景勝様の覚悟に魅せられた」

 

 冷徹な殺気を浴びせられたが、臆することなく目を見る。兼続は舌打ちすると乗り出していた態勢を直し、仕方ないと右手で顔を覆う。

 

「知らない体で、間違いないな?」

「もちろん、関わろうとすれば手段を問わずに止める」

「……分かった。正直、やりやすくなったのは確かだからな」

 

 戦後になれば敵は散ってしまい、残党狩りを行う。手掛かりも無い以上、村々を無作為に回らなければならないため、金や手間がかかる。出来ることなら、見えるところでさっさと処理する方が良い。

 暗黙の了解を得られたことは兼続も口では不満を言っているが、内心ありがたいと思っているだろう。それ以上は追求せず「ところで」と話題を変えてきた。

 

「肝心なのは戦の方だ。負ければ元も子もない」

「金ヶ崎城を落とした斎藤殿が率いる別働隊が明日、明後日には来るとすれば、ここで一向宗を壊滅させられる」

「降伏は時間の問題だろうと言いたいのか? 奴らがそうするとは思えんが」

 

 これまでの一向宗との戦いで兵たちが降伏してきたのは皆無であり、殲滅するまで一歩も引かないのは有名である。首を捻る兼続にだが、と龍兵衛は手首を上げる。

 

「今回は無理やり徴兵させられた者もいると聞く。その者たちと信者の生き残りを選別すれば良い」

「頭を叩かないのか?」

「挟み撃ちの中で死んでくれれば儲けものだが、織田との戦でも大坂に逃げているからな。それに本願寺は弱くなってもこうして息を吹き返せる。代わりはいくらでもいるだろう」

「山を崩すために土を一掘りしたに過ぎないということか……」

 

 兼続は肩をすくめる。はっきりとは言っていないが、了解したと解釈して良いだろう。

 すかさず龍兵衛は持っていた地図を広げる。

 

「一向宗をこの地で追い詰め、一気に片付ける。そのためには彼らを包囲するように兵を配備しなければならない。しかし、問題は兵の数だ」

 

 兵の質は圧倒的に上杉の方が上だが、数は圧倒的に一向宗が勝っており、下手な鉄砲も何とやらと言う。

 

「どこかに敵を集中させるようにする必要があるが、幸いにも良い所を見つけられた」

「ああ、この前か。朝倉のことでそっちに意識が行っていたが、見つけたのか」

「いや、逆だ。むしろ一向宗が陣取る西側は開けていて、奴らはこちらを威圧するためか、広々と陣を構えている」

「なら、どうする?」

 

 龍兵衛は兼続から目を逸らす。少し思案すると良いことを考えたと彼女に向き直り、一つ頷いた。

 

「夜襲を今宵かけよう」

「何?」

 

 兼続の眉間のしわが深くなる。だが、その真意を察したのか、おとがいに手を当てると「なるほどな」と呟き、立ち上がる。

 

「共に景勝様に上申しよう。そうすれば通りやすい」

「よし。どれだけの兵を連れて行く?」

「三千もいれば良い。指揮は私が執る。景資殿を連れて行きたいからお前は景勝様や安田たちと城を守ってくれ」

「いつでも援護できるように支度しておく。西の丸から退却してくれ」

「分かった。朝倉には伝えるのは任せるぞ」

 

 龍兵衛が頷くと矢継ぎ早に決めた方針を話すべく、景勝の下へと急ぐ。

 景勝は二人が改めて部屋に来たのを見て、驚いていたが、鬼気迫る雰囲気を察して何事かと身構えている。

 

「突然の無礼をお許し下さい」

 

 兼続が一言断ってから二人は話し合ったことを分かりやすく伝える。景勝も意図を理解し、二人がそう言うならばと承諾し、無理はしないようにと激を貰った。

 二人は支度を行うため、すぐに部屋を辞し、並んで急ぎ足で歩く。先に口を開いたのは兼続だった。

 

「これから私は兵を集める。他のことは任せて良いか?」

「景資殿を探した後、武具の支度を任せて書を認める。怪しい動きをする者がいればすぐに捕らえるのはお互いだぞ」

「分かっている。半刻後に本丸中央の広場で会おう」

「了解」

「ところで、どうやって一向宗を殲滅する?」

 

 龍兵衛は心中で舌打ちをした。上手く話を逸らしたが、さすがに忘れるほどではなかったらしい。

 

「……地形を利用する。今言えるのはそれだけだ」

「……分かった。だが、戦が終わるまでには聞かせてもらうぞ」

「もちろん」

 

 それを合図に二人はそれぞれ行動を始める。

 一向宗との因縁を断ち切りたいという思いは一緒である。だが、戦にて全てを決したい兼続と戦後処理を利用し、汚いことも承知で事を進めようとする龍兵衛とで若干のすれ違いが残ったままであるのは事実である。

 

 

 その日の夜に上杉軍は一向宗の陣に南北から挟む形で夜襲を行った。正面にしか目を向けていなかった敵は度肝を抜かれ、あっという間に混乱状態になり、同士討ちも始まる始末だった。

 徐々に覚醒した各陣から「上杉、天誅ー!」という声が聞こえたが、兵の練度と士気の差が決め手となり、一向宗はじりじりと撤退せざるを得ず、兼続が頃合いを見て撤退する頃には三千近くの被害と逃走兵を出し、緒戦の勝利は明らかとなった。

 一向宗の大将は怒りに任せて翌朝、城を攻めようとしたが、兵の被害と士気の低下、さらに日程を前倒しにしたために支度が出来ていないままの攻勢から防御を固めていた上杉軍によって簡単に追い返された。

 そのまま正午を過ぎ、処理が落ち着いたのを見計らうと上杉軍の重臣たちは広間に集まり、軍議を始めていた。

 

「ここまでは予定通りのようじゃな」

 

 一向宗は豊原寺城の西にある丸岡城を中心に兵力を集中させた。これでは数で劣る上杉軍は手を出せず、再度、防御を固める。

 

「ええ。景資殿、突然の戦でしたが、ありがとうございます」

「よい。久々に血が滾る戦だった。こちらこそ感謝するぞ」

 

 右隣にいる景資が頭を下げてきたため、龍兵衛は慌てて手で制する。

 

「しかし、一向宗の頭は随分と気性が荒いですな」

「全くだ。まさか、被害を被ってろくに支度をしていないままに攻めてくるのだからな」

 

 二人の真向かいで兼続と安田能元が呆れたように呟いている。

 

「河田殿、指示がなかったため、朝倉の陣も襲撃しましたが、良かったのですかな?」

「ええ。朝倉は味方内で孤立無援。兵が減っても構わないようですから」

 

 能元は相変わらず人を見下したような物言いをしてくる。だが、以前よりは皮肉は減りています素直に人の言うことを聞くようになった。傲慢さはお坊ちゃま故だろうが、実力はそれなりになってきたため、家中では皆から近過ぎず遠過ぎずの関係を築けているらしい。

 

「ならば良いのですが、あの場で朝倉を討っても良かったのでは? いつ寝返るか分からぬ者を家中に置くのはいささか不安があります」

「生真面目に逐一、一向宗の情報を入れてくれますので最大限利用しましょう。それに、彼が願っているのは隠棲です。これ以上、求めてこないならそれで構わないでしょう」

 

 安田は景勝様の御前であるためか、それ以上の質問はしてこなかった。

 心配そうに景勝がこちらを見てくるのが分かる。気付かないふりをしつつ、前を向いたまま目を瞑る。

 いつもの姿勢のため、誰も咎めずに軍議は粛々と進んでいく。そして、一通り戦術が固まると景資と能元はさっさと準備に向かうために外に出ていく。

 一つ間を置いて龍兵衛と兼続も外に出て、彼女に促されるように人気が少ない場所に向かう。

 

「朝倉の件だが、具体的にはどうするかまだ聞いていない」

「当然だが、信用できない以上、誅する」

「事故に見せかけると言っていたが、そう上手くいくのか?」

「そこは任せてくれ。抜かりなく行っている」

 

 その回答を得て満足したのか、兼続は大通りに戻ろうと促す。

 そこからは特段会話も無く、並んで歩き、城外が見える櫓へと登る。二人の視線は一向宗が拠点としている丸岡城に向けられている。昨日まで、かの城を中心に横に広い包囲陣営が築かれていたが、今は兵を集中させ、突貫する陣形が築かれている。

 

「あれを見る限り、背後からの襲撃は全く警戒していないな」

 

 一通り見終わった兼続がため息交じりに口を開く。

 

「楽な戦になるな……ん?」

「どうした?」

 

 兼続の問いに応えず、龍兵衛は目を凝らす。

 

「……敵兵が逃走している」

「何?」

 

 兼続も龍兵衛が向いている方を向く。「見えないな……」とぼやく彼女をよそにその様子を眺める。三人が気付かれないように北西に向かって走っている。

 しかし、逃走劇は一向宗の陣から出てきた騎馬兵によってすぐに終わった。無慈悲に背中を突き刺された兵たちはその屍を放置されたままになる。そして、これから起こる戦でその存在すら忘れ去られるだろう。

 

「諸行無常だな」

「仕方あるまい。私たちもそうだろう」

 

 兼続の指摘に否定できず、龍兵衛は無言で丸岡城ヘ視線を戻す。

 上杉軍も統率力が高いとはいえ、逃走した兵がいないと言えば嘘になる。その兵たちを取り締まるのが上に立つ者たちの役目である。仮に今、ここで同じことが起これば自分たちも同じことをしなければならないだろう。

 命のやり取りとはそれだけ重く、立場によって軽くなるものだ。

 今回の朝倉や一向宗への処遇を振り返る。哀れにも龍兵衛自身も命を軽く見ることが当たり前になっている。自覚した時は自己嫌悪に陥ったが、すっかり慣れてしまった。良くないことだと分かっている。しかし、分かっていてもやるしかないのだ。そうして自分を自分で殺していくことで人を殺める心情を破壊する。

 この苦しみは決して誰にも、たとえ景勝でさえも理解されないだろう。

 何故なら、皆は生粋の戦国人なのだから。

 

「直江様、河田様、いずこに」

 

 下から聞こえてきた声によって現実に戻され、兼続と共に声がした方向を覗く。兵が辺りを見回しながら歩き回っていた。

 

「どうした?」

 

 兼続の声に兵は足を止めて膝を着き、こちらを見上げてくる。

 

「ここより失礼、お二方とも、景勝様がお呼びです」

「了解。すぐに向かう」

 

 口を閉じるや兼続は梯子から降りていき、龍兵衛もそれに続く。

 すぐに広間へと戻ると既に景資と能元は座っていた。

 遅れたことを二人で詫びつつ、着座する。すぐに景勝が口を開いた。

 

「朝信、今宵、攻める」

 

 手にしている書状は斎藤からだろうと推察する。

 

「手筈通り、こちらが先に攻勢を仕掛け、敵の目をこちらに集中させ、少し遅れて別働隊が背後を叩く。これで一向宗は混乱し、なし崩し的に勝利出来るでしょう」

 

 兼続の言葉に誰も反論せず、景勝の方を向く。それに応えるように彼女は勢い良く立ち上がり、大きく口を開いた。

 

「この戦、勝つ!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ああ親不知

 上杉軍からの夜襲があった翌日の夜、朝倉景健は陣屋で武具を着たまま寝床に着いていた。

 軍議では顔を真っ赤にした下間が攻城の時期を一日早めて三日後から今日に変えようとまくし立てたが、さすがに兵の損害を立て直してからにすべきだと七里の諫言によってその場は収まった。

 代わりに兵を丸岡城に集約し、上杉軍が同じことをしようものなら兵力を集中的に運用して叩く陣を築いた。

 さすがに連日に渡っての夜襲は無いだろうと下間と七里は結論付け、兵の慰安に日中、注力し、夜になると将兵が静かに眠った。

 だが、景健はその様を嘲笑うかのように潜伏している上杉の間者にこの様を報告した。その結果、上杉は再び夜襲を仕掛けることにしたのである。

 

「申し上げます! 上杉軍が夜襲を仕掛けております!」

 

 報告を受けて寝たふりをしていた景健は起き上がると鎧を着て外に出る。

 あちこちで兵たちの悲鳴が聞こえ、矢が近くまで飛んできている。

 

「そのようだな。すぐに迎撃をするぞ」

「それが、皆、混乱状態になっており、とても……」

 

 見れば分かると言いたいが、構わずに「迎撃しろ」と命じて下げさせる。景健も行動に移そうと動いたが、入れ替わりに別の兵がやってきた。

 

「朝倉様。七里様より至急、広間へ参るようご命令が」

「兵たちが混乱している中で将が戦列を離れろと?」

「下間様や七里様は既に兵をまとめるべく動いております。朝倉様も広間に集うようにとご命令の由」

「迎撃はせぬのか?」

 

 言い訳を続けるが、兵はいい加減にしろと反抗的な目を向けてくる。

 

「既に他の者が当たっている故、案じ召されることはありませぬ」

 

 将の中で下っ端の扱いを受けている自分に報告が来るぐらいだからやはりかと頷き、本陣へと向かう。

 広間に近付くにつれて聞こえてくる下間を中心とした怒鳴り声。溜め息を吐くと外から声をかける。

 

「朝倉にございます」

「遅いぞ! 早くせい!」

 

 入った途端、下間から理不尽な言葉を浴びせられたが、無言で所定の場所に座る。他の者は既に全員揃っており、動揺しているのがよく動く表情で分かる。

 

「おのれ上杉め。何故こうも我らの裏をかく!」

「下間殿、落ち着かれよ。兵の数はまだ我らが優勢。動揺を静めつつ反撃すれば良い」

 

 七里の諫言が耳に届いたのか、舌打ちしながらも激しい貧乏揺すりを収める。

 それからすぐに物見が転がり込んできた。

 

「申し上げます。西より軍勢がこちらに向かっております!」

「真か!?」

 

 下間が立ち上がり、物見に問う。

 

「敵味方の把握は夜陰故に判別できませぬが。確かにございます」

「間違いなく援軍だ。天はまだ我らを見捨ててはおらぬ!」

 

 下間の機嫌が一気に良くなっていく。確かに金ヶ崎城が落ちていなければ補給路は確保されていたため、ありえないことではなかった。そのためか七里の方も徐々に顔が赤くなっている。

 

「七里殿、援軍と合力して上杉を打ち破ろうぞ」

「うむ。だが、この丸岡城も豊原寺を攻めるに重要な拠点。ここを守る者も必要じゃ」

「ならば……朝倉、貴様が行え」

 

 無感情な下間の声が朝倉の耳に届く。先程、誰彼構わずに八つ当たりしていた状態よりは落ち着いたのだろう。

 

「……はっ」

 

 朝倉は口元が緩むのを必死に押さえて応え、あくまでも彼らの操り人形であることを演じる。

 

「他の者は我らに続け! 共に上杉を討ち、手柄を立てようぞ!」

 

 熱烈天を衝く士気の下、一向宗の将たちは広間を出て行く。静まり返った場に一人残された朝倉は彼らを侮蔑するように鼻で笑うとゆっくりと立ち上がる。

 ここまで彼らに感付かれていないかと不安だったが、本陣の守りを任せるあたり、監視の目は掻い潜ったらしい。

 落ち着かせた兵をまとめて迎撃を行うために城外に出て行った一向宗を見送るとすぐに行動に移した。

 

「城門はそのまま開けておくのだ」

「全てにございますか?」

「援軍を迎え入れ、迎撃に向かった者たちの退路を確保しておく故な。責任は俺が取る」

「……はっ」

 

 門番が渋々、命令に従う。彼らもまた一向宗の熱心な信者である。しかし、戦において素人であるため、何か理由を付けてしまえば朝倉の意のままであるほど

 

「よし。城内の兵は味方と上杉の動きから目を離すな」

 

 そう言うと景健は密かに馬屋に向かい、愛馬に跨がる。周囲に誰もいないことを確認すると西門に向かった。

 先程、下した命令によってほとんどの者が東に目を向けており、反対方向に進む景健のことなど気にしていない。

 難なく西門に到着すると周囲を確認する。兵は見当たらず、目の前にいる門番二人だけがこちらを訝しげに見ている。

 

「朝倉様、いずこ……」

 

 景健は無言で問い詰めてきた門番二人に刀を突き立てる。

 

「なっ……」

 

 訳の分からないまま絶命した二人は驚いた表情のまま倒れていった。そして、近くにあった松明の薪を一本持つと西門から外に出る。

 西から来ていた軍の旗が見えてきた所で止まると松明を頭上で大きく左右に振った。それを認めたのか、静かに待機していた軍勢が一斉に丸岡城側に向かってくる。

 そして、先頭に立っていた大将と思われる男が進軍を止めさせて声をかけてきた。

 

「お前が朝倉か」

「然り」

「斎藤下野守だ。城内はどうなっている?」

 

 斎藤は上杉の重臣中の重臣である。黒い鎧に白い羽織を着た威風堂々とした佇まい。景健は気圧されそうになるが、落ち着いて口を開く。

 

「既に多くの者が豊原寺城に進軍しており、城内は僅かな守備兵のみ故、攻めるのであれば今かと」

「重畳、道案内を頼む。皆の者、一気に丸岡城を落とすぞ!」

 

 斎藤の号令と共に良く訓練されている上杉軍が素早く陣形を固めると城攻めに移行する。

 門番がいなくなり、見張りもいない西門から一気に丸岡城に雪崩れ込む。ここまで来て悟られないのを見ると一向宗は上杉軍を自軍の援軍と勘違いしているらしい。

 

「朝倉よ。一向宗は如何した?」

「ほとんどの者が豊原寺に向かっております。城攻めは後に回し、直ちに挟撃すればよろしいかと」

 

 斎藤はすぐにその提案を受け入れ、一向宗がいる東側に一気に駆け抜けて行った。

 自身の提案が受け入れてくれたのはいつぶりだろうか。一向宗ではありえなかったことが今ここで起きている。これから戦から身を引く者となるが、最後に良い戦が出来た。

 朝倉も斎藤に続いて馬を走らせる。

 東側に集中していた兵たちはさすがに蹄の音に気付いたのか、こちらを振り返ってくる。そして、その正体が上杉軍だったと気付いた時にはすでに命を落としていった。容赦なく斬り伏せられる一向宗は為す術もなく、城から追い出され、前線の一向宗に助けを求めに向かう。

 だが、前線も数に勝る一向宗が夜襲で先制した上杉軍を必死に押さえている接近戦による乱戦が続いていた。ここに上杉軍の別働隊が背後より突っ込んできたため、一向宗は完全に混乱状態に陥った。

 

「一向宗の者たちよ。お前たちは完全に包囲されている。降伏する者がいれば武器を捨てよ!」

 

 斎藤の声が戦場に響き渡る。

 真摯な信者と無理やり徴兵された者で分けられている一向宗は今の一声で完全に分裂した。

 武器を捨てて逃げようとする者。掟に従い、逃げる者を殺す者が戦闘を繰り広げる。

 そこに上杉軍が加わり、いよいよ地獄絵図が完成した。 

 夜も明けてきた頃になれば、死屍累々の有様が丸岡城の周辺には出来上がっていた。

 一向宗三万の軍勢はこの戦で半数以上が討死し、残った者たちは降伏するか、辛うじて金ヶ崎城ヘの道を伝って逃げていったという。

 その金ヶ崎城もすでに上杉の手中にあるため、さらに多くの一向宗が討たれるだろう。上杉と朝倉、織田を苦しめた北陸の一向宗はこれでようやく沈静化した。

 下間と七里の行方は知れないままとなってしまい、数年後に京に再建された本願寺で姿を見せるまで生死不明となった。

 その他の一向宗は上杉に捕らわれることを良しとせずに潜伏する者と降伏する者で二分されたが、前者は上杉の容赦ない残党狩りで徹底的に排除された。

 そして、後者は故郷に帰りたいと願う民兵を除き、ほとんどが越後へと一旦連行されることになった。

 無論、その中に景健の姿もあり、戦後処理を終えた上杉本隊に付き従って帰還している最中である。

 既に越中と越後の国境付近まで来ていた。

 昨日、降った雨で水たまりが多く、行軍が上手く進まない。しかし、その雨の影響で昨日から予定が遅れていると進軍は強行された。

 それが理由か、いつも以上に一向宗の捕虜たちの雰囲気が険悪な感じがする。

 

「何故に、仏敵と共に……」

「朝倉め……いずれ仏罰が降ろうぞ」

「越後に捕らわれようと必ずや顕如様と教如様は我らをお救い下さる」

 

 景健は恨み言を言い続ける一向宗たちを見て、静かに鼻で笑った。戦の後、彼が内応していたことが広まり、真摯な一向宗から目の敵にされ続けている。だが、いかに睨まれようと勝者と敗者では差が付いており、彼らに何も出来ない。

 既に上杉本隊は先に進んでおり、後から降った者や捕虜が着いて行く形で越後へと向かっている。当然、その後ろからも見張り役が立てられており、脱走を許さない構えになっている。既に越中で数人が脱走したが、全て捕らえられ、処断されている。

 上杉軍はそれから心から降伏した者を先に、捕虜や渋々付き従っている者を後ろに分けた。

 景健は連行を統括している河田長親の指示で、捕虜組の最後尾に付いている。彼らがよからぬことを企んでいないか監視してほしいとのことだが、直江兼続もいるため、自身が不要だと思ってもしまう。

 念には念を入れておきたいと言われ、上杉の配下になったばかりで強く言えないため、従っている。一方で、自身が内応して仕えたばかりで信用されていないからやむを得ないと割り切るしかないと納得させる。

 それ以上にようやく安住の地を得られることが嬉しくて仕方ない。朝倉の名を捨てざるを得ない時期もあったが、保ったまま余生を過ごせるのはこの上ない喜びである。

 小さな領地に庵でも建てて、短歌や朝倉の伝記でも認めながら暮らすことを思い浮かべ、景健の表情は自然と綻んでしまう。

 それを見た一向宗から、自身たちを蔑んで笑っているとさらに恨みを買っているのには気付いていない。

 しばらくすると一行は親不知に差し掛かった。音に聞いていたが、崖下から見る険しい峰々は恐怖を与える。さらに、今は潮が満ちているのか、波がかなり近くまで感じられ、濡れないように列が徐々に細長くなっている。

 

「おっ、と……」

 

 上下に気を取られていると横から兼続の声が聞こえてくる。馬を止めており、後ろに続く兵も進軍を止める。

 

「如何なされた?」

「いや、少し手綱が緩んだ。悪いが、先に行ってくれ」

「承知致しました」

 

 景健は兼続が馬を降りたのを見届け、自馬を進ませる。珍しいと思いつつも一向宗を野放しにするわけにもいかないため、勝手に進んでいる彼らの背中を追う。

 

「ん?」

 

 馬を十数步歩かせた所で、僅かな地響きを感じた。周囲を見渡すが、何も起きていない。しかし、揺れと音は確実に大きくなっている。

 

「な、何事だ?」

 

 前を歩く一向宗も異変を感じて周囲を見渡している。すると、ある者が上を見上げ、指を差すのが見えた。

 

「落石だ!」

 

 その一声が周囲を混乱状態に陥らせる。

 

「逃げろ!」

「押すな! 前はつかえておる!」

「ならば後ろへ!」

 

 前から聞こえる叫び語をよそに馬首を翻す。いつの間にか兼続たちが遠くまで離れており、既に安全な所まで退避している。

 

「直江殿! お助け願う!」

 

 声を上げたが、聞こえていないのか上杉軍の将兵は振り返りもしない。

 必死に馬を走らせるが、無情にも目の前に岩が複数落ちてきて道を塞いだ。さらに右往左往している内に足元にも落ち、驚いた馬が前足を上げて暴れ出す。押さえようにも岩が次々と落ちてきており、自身の身を守るのに精一杯でとにかく前に走るように胴を蹴る。

 だが、続けてやってきた岩が馬の脚に当たり、投げ出されてしまった。景健はのたうち回る馬をよそに急いで逃げ道を探す。だが、周囲は岩で道を塞がれ、進むも引くも出来ない。このままでは落ちてくる岩の下敷きになるのは必至。

 景健は腹をくくり、一か八かで海に飛び込んだ。そして、身に付けていた鎧兜を外し、岩が落ちてこない深い方へ泳いでいく。肩まで浸かるぐらい深さまで行った所で陸を見る。

 

「何ということだ……」

 

 岩に潰される者、海に投げ出される者は数知れず。泳いで陸に上がろうとする者もいたが、昨日の雨で波が高くなっており、上杉軍が万が一にと着せたままにしていた鎧によって一向宗は体の制御が効かずに水面に消えていった。

 落石はようやく収まったが、景健も下手をすれば巻き込まれたかもしれない。そう思うだけで、背筋が凍る。

 いつまでも海に浸かっているわけにはいかないため、泳いで陸へと向かう。荒波にもまれながらも何とか辿り着き、岸で一息つく。

 岩が無造作に落ちており、下敷きになった一向宗の亡骸が多数ある。海の方ではまだ息のある一向宗たちがもがきながら岸を目指している。いずれ鎧の重さと荒波で力尽きるだろう。

 

「明らかに上杉の仕業だ……」

 

 景健は奥歯を強く噛む。

 一向宗の捕虜たちに鎧を脱がせずに帰還。雨後の強引な進軍。頃合いを見計らったような突然の落石。条件が上手く揃い過ぎている。

 それ以上に腹立たしいのは殺害する対象者の中に景健自身も含まれていたことだ。 

 おそらく、景健が何度も仕える家を変えているからだろう。だが、朝倉という名を後世につなげるためで、野心は無いと何度も主張し続けてきた。それさえも嘘であると思われていたのであれば、何と惨めなことだろう。

 信頼を裏切られたことへの怒りはどす黒い怨念となって景健の心を支配していく。生き延びるため、という信念など簡単に塗り潰された。

 上杉が正義を重んじ、人を慈しむという評判など全て嘘だった。あの温厚そうな景勝の目の前で起きたのだから、彼女が指示したに違いない。たとえ、他者が提案したとしても了承しなければ、あのようなことは出来ない。

 今後のことを考えて浮かれていた自身も迂闊だったが、このような処刑方法を用いるとは思わなかった。

 疲れている体に鞭打って立ち上がり、先を行っている景勝がいるであろう方向へ岸沿いに進む。

 問い詰めるだけでは飽き足らない。

 必ず報復をしてみせる。

 怒りが景健の足を動かし、岩で塞がれた道も隙間や登れる場所を見つけて通り抜けていく。

 出口に着いた頃にはすでに日も傾き始め、空が茜色になりそうにである。急いで追い付かなければと休む間も無く、歩を進める。だが、少しした所で人影を認め、慌てて物陰に身を潜める。  

 おおよそ二間(約三、五メートル)ほど距離にいるため、緊張感が高まる。

 僅かな供回りに囲まれ、景勝と河田が親不知の崖上に続いているのであろう道から降り、吉江がそれを出迎えている。

 崖上には道が無いと聞いていたが、謀れていた。よくよく見ると整備は不十分だが、人馬や簡単な荷物が通れるほどの道が出来ており、下の道よりも安全なのか、納得したように景勝が頷いている。

 すぐにここを発つのかと思ったが、皆が上を向いている。後続する部隊がいるのだろう。

 しかし、時間が経てどなかなか降りてこない。

 

「兼続たち、遅いな」

「まぁ、仕方あるまい。処分の後処理には時間がかかる」

「景資殿が言うと言葉の重みがありますね」

「ふふふ、褒め言葉として受け取っておこう」

 

 会話の内容を聞き、景健の手は自然と小刀に添えられた。太刀はすでに海に消えたが、護身用として常に懐へ備えていたのが役立った。

 狙うは一瞬。景勝を刺し、謀った者に制裁を下す。

 様子を伺っていると景資が崖上に向かって手を上げた。兼続たちが到着したのだろう。彼女が崖下に向かって歩き出し、眼前には景勝と河田しかいない。供回りも崖上に目を向けている。

 景健は今しかないと思うや物陰から飛び出した。

 

「上杉、天誅ー!」

 

 供回りも突然のことに動けずに道を空けている。そして、あっという間に恐怖ですくんでいる景勝の目の前に来た。ここだと思うや小刀を心臓に目掛けて突き出す。

 体を刺す特有の感触に、確実に仕留めた感触を得た。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

夢見

 景勝は動けずに目を瞑るしかなかった。

 復讐の狂気に囚われた目で景健が自身に向けて突っ込んでくる。

 供回りも突然のことに足を動かせずにいる。

 頼みの景資も距離から間に合わない。彼女自身も完全に気を抜いていたため、刀を取るはずの腕も上手く動かずに接近を許している。

 徐々に周りの時間の流れが遅くなるのを感じ、これが走馬灯というものなのかと思い耽る。

 謙信の娘として立派になろうと努力してきたが、幕引きがここまで呆気ないとは思わなかった。

 刺さる音は聞こえない。だが、何となく未だに立っていられる力が残っていることは感じられる。

 しかし、いつまでも立っていられる自身の状況にいい加減違和感を感じ、恐る恐る目を開く。

 

「え……?」

 

 心臓を見ると刺さっているはずの小刀が無い。代わりに目の前に龍兵衛の巨体が立っていた。まさかと思い、彼の正面に回り込む。そして、信じ難い光景に手で口を覆った。

 

「残念だったな……」

 

 ほくそ笑む龍兵衛の右脇腹に刺さる小刀から血が流れ出ている。驚いて顔を上げる景健を見ると刺す際に目を瞑っていたのだろう。引き抜こうとする手は龍兵衛によって強く固められている。

 

「おのれ!」

 

 景資が怒りの声を上げて景健を問答無用で斬り捨てる。

 倒れてもなお、歯を剥き出し、目を見開いた表情から景勝を殺せなかった後悔を全面に出しているのが分かる。

 

「龍兵衛、大丈夫か!?」

 

 死んだのを確認すると景資は龍兵衛に駆け寄り、刺さったままの小刀を抜こうとする。

 

「抜かずにいてください」

「何を言うておる! 傷が深くなるぞ!」

「血を流してしまいます……絶対に手当をするまでは……」

 

 弱々しい声だが、鋭さを増した強い目つきが景資を止めさせる。

 

「分かった。ええい、何をしておる! 急ぎ薬師を呼べ!」

 

 突然のことに呆然としている供回りに景資の怒声が響く。

 

「あ、あの……言うまでもないでしょうが、下手に動かしたり、きちんとした治療を……」

「お主も喋るな!」

「……そう、ですね。そうさせて……」

 

 そこで龍兵衛は目を瞑り、口が動かなくなった。

 

「おい、気を確かにしろ!」

 

 いつの間にか近付いていた兼続の声が響く。

 周囲では将兵が右往左往して、突然の出来事に対処している。その中で、景勝は全く何も出来ずにただ彼を見ているしか出来なかった。

 正しいとされる治療法や対処法、身を守る術を龍兵衛から習ってきた。そして、彼が抱える黒い部分とひた隠してきた内面を吐露出来る安息の地を自身の中に与えた。

 それら全てが何を意味していたのだろう。

 こうして目の前で守りたかった人を守れず、周囲に流されたまま、ただ時間だけがゆっくりと過ぎていく。今、この辛くても何も出来ない状況を味わえと言わんばかりに。

 わずかに目を見開く。

 これが互いに距離を置いていたことに対する罰ではないのか。理解する時間を得て、再び歩み寄ったにもかかわらず、これを許さないという天からの判決ではないのか。

 喧騒が響く中で、景勝はただ呆然と龍兵衛を見ることしか出来ない。

 それからの越後に戻るまで、景勝は現実と思考の狭間でぼんやりとし続けた。

 龍兵衛は薬師によって治療を受け、意識不明のまま屋敷で眠ったままになった。彼女としてはずっと見舞いをしたかったが、仲を秘匿にして、次期当主という立場からそうもいかなかい状況が続いた。

 彼が請け負っていた仕事は兼続と颯馬が引き継いだが、かなり独自に動いていたため、分からないところも多々あり、遅滞するものも珍しくなかった。だが、その手法自体が合理的かつ冷酷なものもあり、それが原因で兼続が顔を赤くしていたが、景勝と颯馬が宥めることで何とか収まってくれた。

 そのような日々が続いて早五日。

 景勝は一日の仕事を終えて龍兵衛の屋敷へと向かう。

 ようやく、合戦後の処理に落ち着きが見え、後事を家臣たちに任せられるほどになった。

 見舞いに来たことを伝えると家人がすぐに彼のいる寝所に案内してくれた。

 

「まだ、寝てる……」

「目覚める素振りを見せず、いつになるかも分からぬと申しておりました」

 

 独り言に応えた家人が外に出て行くのを見計らい、景勝は眠っている龍兵衛の真横に座る。

 一命は取り留めたはずだが、何故だか目を覚まさない状況が続いている。

 そっと頬を撫でるが、微動だにしない。普段なら互いに頬や頭を撫で合い、今日起きたことを脈絡もなく話し合う。もしくは互いに背中を寄せ合って各々が読みたい書物を読む。

 無意味な時の流れを感じることが非常に楽しかった。しかし、今はまるで景勝だけがこの時間を過ごしているかのようである。

 

 龍兵衛が飼っている三毛猫が入ってくる。今では猿とも仲良くなっており、空気を察しのか一緒に外へと出て行った。

 再び彼に視線を向ける。相変わらず起きる気配がない。深く溜め息を吐く。自身が来ればもしかしたらと思ったが、奇跡などはそう簡単に起こるものではないらしい。それでも、同じ空間にいて生きている内は時間を共有していたいという思いが部屋を立たずにいる理由である。

 目を瞑り、物思いにふける。再び向き合うきっかけを作ったのは何だったのだろうか。やはり、最愛と言っていた由布惟信を殺し、心の拠り所を求めたが故だろうか。

 たとえ、二番手でも景勝を愛してくれるのであればそれで良いのである。彼女にとって、彼が傍にいてくれることが最も幸せなことだ。

 このまま一緒にいれる時間が嬉しい。残念なことに愛する者は起きていないが。

 

「……?」

 

 不意に顔を上げると景勝は目を見開き、周囲を見渡す。先程と全く異なる光景が眼前に広がっている。

 いつの間にか外に立っており、辺りは彼岸花が広がっている。また、遠くを見れば川が見え、舟がいくつか停泊している。

 夢を見ているのだ。

 景勝はすぐに察した。そのつもりは無かったが、目を瞑ったため、無意識に眠ってしまったのだろう。

 しかし、ここまで縁起の悪い夢は初めて見た。怖い夢に違いないと早く覚醒してくれと心で願うが、なかなか上手くいかない。

 溜め息を吐き、再度遠くを見る。すると、初めて他人を見つけ、その人物に目を丸くし、顔を青くした。

 龍兵衛らしき男が謎の人物に腕を引っ張られている。舟に乗せられようとしているのを拒んでいるようだ。

 彼の現実での状況とこの場所。全てを察した景勝は一目散に走り出す

 

「悪いですが、ここより先へはいかせません」

 

 突然、横から現れた人影と正面衝突する。体で受け止められ、特有の柔らかい感触から相手が女性だと分かる。相手の腕が込める力に耳に入ってきた言葉が幻聴でないと理解する。

 しかし、時間が無いと抗議するべく、顔を上げる。

 景勝が知っている相手だった。

 長い黒髪と引き締まった顔立ちをした女性。一度だけ遠くから見たことがある。しかし、それだけで十分に覚えていられるほどの美貌。改めて近くで見ると同性でも見惚れてしまい、息を呑んでしまう。

 

「お初にお目にかかります。上杉景勝殿」

 

 腕から解放し、頭を下げてくる。何故、会ったこともないのに知っているのか。そのような疑問さえも簡単に消し飛ばしてしまうほどに落ち着いた対応。景勝はとぼけることもできずに口を開いた。

 

「由布、惟信さん」

「ええ。あれから聞いていましたか?」

 

 小さく頷く。

 抵抗を続けている龍兵衛の下に駆け寄りたいが、惟信は全く通してくれる素振りを見せない。

 さらに自身の体を思うように動かすことが出来ない。

 

「お察しかと思いますが、ここは夢の中。夢を見ている者が自由に動けては困るのですよ」

「……」

「ああ、そんなに睨まないでください。私はもうこの世にいない身。それ故に自由なのです」

 

 疑問に抱いたことをいとも簡単に応えてくれた。死者であり、自由である身を誇るかのように口を三日月に吊り上げている。

 腹立たしいが、ここで彼女に敵うものが無いのはよく分かっているため、黙って彼女の言うがままにさせておく。

 そのような心境の景勝をよそに惟信は龍兵衛のいる方へ視線を向ける。

 

「まだ、あれはこの世に未練があるみたいでしてね。まったく、どこまでも生きることには執着が強いんだから」

 

「まぁ」と言いながらこちらに呆れた表情を向けてくる。

 

「信長を殺すように明智を利用し、それを悟った私を殺した。信用できないという理由でね」

 

 景勝は目を見開き、龍兵衛を見る。

 かいくぐって彼に真偽を問い質したいが、相変わらず惟信が道を塞ぐ。

 

「お気持ちは分かります。しかし、彼の黒さは分かったでしょう?」

 

 彼が惟信を殺したことは知っている。一方で、信長を殺したことは最後まで否定し続けていた。あくまでも明智の一存であり、自身は疑いをかけられ、それを大友の領内で広めようとした彼女を殺したと。

 だが、事実は本当に信長を殺した黒幕として暗躍していたのだ。そして、疑った惟信を殺したのは事実を広められるのを恐れたからであり、全てを完全に闇に葬り去るつもりだった。

 理由が不純であるが故に黙っていたのだろう。

 保身を大切にする彼らしい。そのような彼でも愛しいと思っている景勝の答えは決まっている。

 苦笑するのを堪え、惟信の目を見る。

 

「知ってる」

「ならば、彼には然るべき罰を受けさせるべきでは?」

「嫌」

「え?」

「嫌!」

 

 聞こえないと耳に手を当てていた惟信が大声に驚いて、のけ反る。

 景勝自身も人生で一番大きな声だと感じた。

 だが、惟信はそれ以上に答えに驚いているようで、怪訝そうな表情を向ける。

 

「しかし、彼の作る壁は高く、とても越えることは出来ません。お分かりでしょう? 私と景勝殿なら」

「越えない。壁、壊す」

 

 自身でもとんでもない暴論を言っていると思う。

 だが、そうしたいほどに彼が愛おしくてならない。どれほどのことをしていようと自身の手を汚してでも欲しくてたまらない。

 

「本気ですか?」

 

 惟信の問いに頷くと二人の間に緊張感が走る。

 だが、彼女の表情には迷いが見えている。すかさず景勝は一気に畳み掛けるべく、口を開いた。

 

「由布さんも同じ」

「はい?」

「龍兵衛、好き。なら、頑固なこと、分かる」

 

 惟信はそれを聞いて笑みを浮かべ、うつむく。

 何となくだが、彼女が次に発する言葉が分かった。

 

「どうして我々はあのような馬鹿に惚れたのでしょうね」

 

 揃って龍兵衛を見る。

 未だに舟には乗らないと抵抗を続け、死神たちもいい加減に往生際が悪いと苛立っている。

 

「良いでしょう。彼のことは貴方に託します」

 

 惟信はそう言って、ため息を吐きながら道を譲る。

 景勝は感謝の意として頭を下げ、仰々しく彼女の前を通る。数歩歩くと振り返り、頭を下げたままの彼女に向けて口を開く。

 

「やっと勝てた」

「え?」

 

 惟信が顔を上げる。その眼に向けて満面の勝ち誇った笑みを見せる。

 

「龍兵衛への愛」

 

 惟信が彼を連れて行こうとしたのは、死んだ後に景勝が彼を再び振り向かせたことへの嫉妬。

 そう考え、最初から龍兵衛への愛が惟信よりどれだけ上か、訴えることに注力した。だからこそ、彼女に勝ち、取り戻すことができた。

 

「はぁ~どうやら私は簡単にあの世には行けないようですね」

 

 惟信も悟ったのかわざとらしく額に手を当てて、悔しそうに首を横に振る。だが、唇が若干震えているところからむしろ清々しさを感じているのだろう。

 景勝は相手の心を覚ることはできないが、今なら彼女の心が容易く見える。

 

「たとえ死んでも必ず私は貴方たちの心で生き続けてみせますよ」

「……?」

「人の死には二つ。一つは肉体的な死。そして、もう一つは忘れ去られる死です」

「大丈夫。景勝も龍兵衛も忘れない。大友も」

「そうでしたね。宗麟様たちもきっと私を生かしてくれるでしょう」

 

 惟信は遠くを見ている。大友には彼女の死がまだ伝わっていない。彼女の死を信じられない者も出てくるだろう。それでも、それは彼女が大友の中で生きていることだ。

 

「あ、最後に1つだけ。気を悪くしたら申し訳ないですが、彼が刺された場所、覚えていますか?」

 

 景勝は何故そのようなことを聞くのかと首を傾げたが、惟信が知りたいと目で訴えてくる。

 

「右、脇腹」

「そうですか」

 

 惟信はため息を吐くと「私って何でこうなんだろ」と天を仰いでいる。しかし、すぐに切り替えると晴れやかな表情で景勝を見てくる。

 

「彼のこと、頼みます」

「うん」

「さぁ、お急ぎを」

「うん!」

 

 二人は再度、礼をする。長いようで短い、互いに心からの感謝と謝罪を込められている。

 景勝は顔を上げると迷わず龍兵衛に向かって走り出した。

 振り返らず、ただひたすらに真っ直ぐ。

 

「龍兵衛!」

 

 驚いて振り返る龍兵衛の腕に触れた途端、彼女の視界は光に包まれた。

 

「景勝様?」

 

 声をかけられ、勢いよく体を起こす。

 顔を上げると龍兵衛が上体を起こして不思議そうにこちらを見ていた。

 

「あれ、川?」

「え? 何の話ですか?」

 

 眉間にしわを寄せる龍兵衛を見て、どうやら自身だけの夢だったと理解する。

 寝ぼけ眼をこすり、改めて彼を見る。

 傷が痛むのか体を揺らすと眉をしかめるが、顔色に生気が戻り、完全に取り戻したのが分かる。

 死んだはずだったのか、景勝がここにいることが不思議なのか分からないが、何よりも彼が目を覚ました。それが彼女にとって嬉しいことだった。

 

「おはよう」

 

 景勝は震える口調で言う。色々と込み上げるものがあったが、思考が一周回って出てきたのはそれだけだった。

 

「おはようございます」

 

 龍兵衛は律儀に返事をしてくれた。

 ようやく自身が生きているという実感が持てるようになってきたのか、目覚めたことに安堵したと何度も辺りを見回して頷いている。

 

「かなり眠っていたようですね」

「ん。七日ぐらい」

「あの後、何かありましたか?」

「大丈夫」

 

 龍兵衛はようやくその回答で心の底から安堵したと体を脱力させる。

 実際、あの後に一向宗の討ち漏らしがいないか確認があったが、ほとんどが岩の下敷きや海に流されており、辛うじて生き残っていた者も後続部隊によって全員を斬り捨てた。

 景勝も彼の落ち着いた表情を見て、ようやく自身の戦いが終わったと大きく息を吐く。

 

「あの、それで川とは?」

「ううん、何でもない」

 

 首を傾げる龍兵衛に首を横に振る。

 おそらく彼は罪の意識から自身を再び突き放すかもしれない。それどころか、上杉から出奔する手段を取る可能性もある。

 普段なら追及してくる彼だが、まだ寝起きで思考が安定していないのか「そうですか」と言って引き下がった。

 安堵すると同時に何かが背筋を走る

 何となく彼が嘘を隠す理由も分かったかもしれない。

 幻滅されないようにされるために必死になる気持ちを知り、彼のことをより愛おしくなってしまった。

 互いに嘘を共有しておく方がさらに惹かれる。そして、隠すという行為に伴う背徳感が面白く思ってしまった。

 これはあまり味を占めてはいけないと心中で深呼吸をし、改めて口を開く。

 

「傷、大丈夫?」

「ええ、痛みますが、起きたということはこれから快方に向かうでしょう」

 

 普通に話せているため、これから良くなるだろう。

 飛びつきたいが、まだ傷が痛むのであれば無理をさせたくない。無意識に動いていた指をそれとなく両手を被せることでごまかす。

 

「ゆっくりでしたらどうぞ」

 

 見られていたらしく、龍兵衛は動かせる左腕を広げる。

 

「良いの?」

「ええ。たまには我慢してみせます」

 

 珍しく目元も緩ませている。起きたばかりで自覚するまで判断が及んでいないのか、今は心を許せる状態なのか分からない。

 久々に見ることができたため、それだけでもお腹いっぱいだが、戦続きだった自身の体にも直に温もりを感じたい。

 そっと景勝は龍兵衛に寄り添い、左腕にしがみつく。彼は体と相談するように徐々に背中に手を回してくる。

 体が密着し、互いの体温が伝わり、心音が聞こえる。

 

「おかえりなさい」

「ただいま戻りました」

 

 今の二人にはそれで満足であり、それ以上の言葉はいらなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。