Re:DOD (佐塚 藤四郎)
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Re:0「無題」
無題


※本作はNieR Automata発売日以前までの情報で考察されています

 原作設定、原作用語、及び、独自設定案、独自用語等の備忘録

 人様に見せる為というより、自身が話書く為の備忘録的面が強く、読まれる際は原作設定と独自設定の混同にはご注意ください

 備忘録の都合、ネタバレを多分に含む点ご注意ください



『岡崎夢美』

 

『北白河ちゆり』

 

『カロリーヌ(カーリー)』

 カイネの元の女がおばあさまと呼ぶ女性。おじいさまと呼ばれる伴侶と思しき男性から『カーリー』と呼ばれる。『カーリー』は愛称とし、本名は『カロリーヌ』と独自設定。英女性名キャサリンのフランス読み。ということで出身も欧州フランス地方あたりの予定

 

『朝倉理香子』

 

『ゆりの葉の剣』

 

『ヴィオレッタ・ハーン(ヴィオラ)』『八雲紫』

 東方キャラ八雲紫その人。

 

『レイム』

 

『千藤汽笛』

 ちとう きてき。

 

『宇佐見蓬子』

 うさみ よもぎこ。

 

『宇佐見董子』

 うさみ すみれこ。東方キャラ

 

『アコール』

 フランス語で調和を意味する。ウタヒメとの関わりを思うと、『調律者』とでも呼称すべきか。

 旧世界の機会人形(アンドロイド、レプリカントとは異なる技術か)オリジナルアコール『夜の国』で生まれる。いつかは定かでなく、2003~2053年の何処かとされている。

 2026.7.24付の記録

 国立兵器研究所の報告 アコール社より持ち込まれた武器と検体との親和性を確認。今後も研究用の素体に利用し、6号計画を進行する。

 にて、アコールの名前が確認出来る点には留意。このアコールがオリジナルアコールに関与、端を発したものか、多世界アコールからの干渉によるものかは不明。

 ウタヒメファイブでは『メルクリウスの扉』の認証案内するホログラムがアコールの姿がある。

 

『地軸のズレ』

 最も関わりたくない原作設定。環境想定が難しい。

 『昼の国』地域に属しているはずの日本東京で生身ニーアとヨナが北海道張りの防寒具を着込んでいるあたり、日本地域が特異に寒冷な気候になっているのか、地球全体で寒冷化が進んだのかと思われる。いずれにせよ、並々ならぬ環境影響がある。

 地軸のズレは地球の歴史上においても、マントルの移動などで起こっている出来事ではあるが、この『地軸のズレ』は月が割れたことに起因するらしい。

 このことで『昼の国』と『夜の国』ち呼ばれる地域が出来た。

 

『月が割れる』

 関わりたくない設定その2。地軸のズレの原因。

 なぜ、いつ、どういった原因で、またどの程度(オートマタで月面サーバーとあるあたり、粉微塵になったわけでなく、一部が欠けた程度か?)、不明。

 自然に割れる事は無いから、誰かしら、割る事で利を得る者が割ったか、意図せず割ってしまった結果になったかだと思うが、わからない。

 結果的に『夜の国』につながり、夜の国でオリジナルアコールができたことから、2003~2053年の間の出来事と見られる。

 

『潮汐固定』

 自転同期。潮汐ロック。現実の用語。

 

『昼の国』

 東京はこちらに属する地域らしい

 

『夜の国』

 北南米がこの地域に属するらしい。

 

『フォールダウン』

 アコール達が阻止しようとしている現象?の呼称

 元の語義 fall down は転ぶ、落ちるの他、広義で崩れる、敬意や神を崇めての平伏などを意味する。堕天も当てはめるならここか。

 数値、価値や順位などといったものらには down を付けずに fall だけで用いるのが一般的。

 逆さにして一語になった downfall は破滅そのものや、その原因の事を指す。

 『フォールダウン』が起きると全ての分岐が消滅するらしい。

 ここで注意すべき点は、『フォールダウン』そのものが破滅、または破滅を齎すものではないかもということ。

 ヨコオ氏の言を借りるに「もともとの歴史があって変えようとしても別の要因で元の歴史に収束してしまう」であり、『フォールダウン』の分岐を消滅させる性質は収束そのものである。

 

『大災厄』

 856年、イベリア半島(スペインとかのあそこ)

 

『カイム』

 血液型AB。誕生日は兄ニーアのひと月前程らしく、5月上旬のおうし座。

 王子。原作ではおそらく東京タワーにておそらく死亡。本作では生存設定。

 砂の民の言葉で王子を意味する言葉もカイムと言う。ただの偶然か、でなければカイムが生きていたか、アコールのようにカイムを王子と知り得る立場の観測者の存在と、砂の民は何かしら関係があると思われる。

 ヨコオ氏曰く、ヴァイオレンスバカ。声に出して読みたい日本語

 

『アンヘル』

 嫁。10000歳(正確には不明)。単一性、両性というよりは無性に近いイメージか。Eエンドで新宿に来た時の姿はカオス形態だったはず。

 

『由良正義』

 

『』

 

『鉄塊』

 

『』

 

『』

 

『幻想郷』

 言わずもがな。

 第二幕の幻想郷編の主舞台。

 

『ミズガルド』

 世界、または地方の名称と思われる。いつ、誰が命名したのかは不明。

 世界を指す名のか、世界の内のDODの舞台となった地方を指す名なのかは不明。

 

『ニヴルヘイム』

 国名。アリオーシュが夫、子供と暮らしていた国の名前。

 どのあたりの国かは不明だが、エルフの里のことではないと思われる。

 

『カールレオン(Caerleon)』

 カイムの生国にして亡国。女神の城に近い。肥沃な土地で豊か。東側の国らしい。追加でヨコオ氏談曰く、なんとなく内陸国、らしい

 場所は諸説あり。概ね二通りと見られる。

 一つは、イギリス。『死に至る赤』で「東の小国」の文言と共に、漫画描写での地図にて海に面した島国、DOD3での海の国、現実世界でのイギリスにあたる説。実際のイギリスにはアーサー王の城の候補地としも知られるカールレオンなる場所がある。東というのも、現実世界での東か、ミズガルド世界での東かの問題があり、ミズガルド世界での東と見た場合はこちらの説で方位は問題ないが、内陸国で無い点が引っ掛かる。

 もう一つはハンガリー・ルーマニアあたり。こちらは現実世界での「東の内陸国」の条件にあたる地域。ミズガルド世界でいうと森の国、砂の国、山の国の三国境あたりのやや森寄り側。

 竜騎士ヴラド公との話を幻想郷編で組みたいのと、「東の内陸国」の条件に妥当とし、本作では後者の説を設定で話を進める 

 

『オシルシ』

 封印の女神に現れる紋様。その紋様が現れる箇所は先代女神の罪の意識(契約における代償とは趣が異なる)に因るとされ、フリアエには先代アシラから子宮(アシラは子宮、赤子、女性という性に罪の意識があったか?)に、エリスにはフリアエから全身(この罪の意識はトラウマ「私を見ないで」に見て取れる)にある。アンヘルが封印の女神となっていた時は、エリスと同じ症状だったと思われる。

 

『アシラ』

 フリアエの先代封印の女神。黒髪らしい。オシルシの位置不明。ガアプと不倫関係にあったと思われる。フリアエに現れたオシルシの位置が子宮であったことをみるに、子宮、赤子、女性という性に罪の意識があったと見られる。

 本作の重要人物。岡崎夢美の母、といっても生みの母ではない。

 

『ガアプ』

 カールレオンの王。8代目らしい。カイムの父。クズ領主が多い中で、武に長け良い治世と有能な王様感がすごい。

 『女神と不倫していた』とあるが、ここでいう女神とはフリアエの先代アシラと思われる。王でありながら不倫とあるので、ミズガルド世界では一夫一妻の価値観があると見られる。ただ、一夫一妻の価値観はキリスト教の権威による所が大きい。慣習的に残ったものか?

 

『イウヴァルト』

 唐沢寿明

 

『イブリス』

 イウヴァルトの父。影が薄い。派生作品でも言及、登場ない。私自身どこで見知ったかは曖昧。カールレオン崩壊後、あれこれ建て直しの為に尽力していたらしい。ガープの臣下として、どの程度の地位にいたかは不明だが、そうするだけの能力と権限があり、イウヴァルトとフリアエが許嫁であることを思うに、ガープの右腕であったと見られる。DOD無印開始時点ではいないため、亡くなってるか。

 

『監視者(エグリゴリ)』

 オリジナルゲシュタルトになる前の生身ニーアの前に現れた人物。ドラマCDの他に登場した場面に記憶ない。あくまで、原作では「監視者かんししゃ」との呼び方だけで、エグリゴリとは呼ばれてなく本作の独自設定である点に留意。

 

『世界浄化機関』

 

『ハーメルン機関』

 

『国立兵器研究所』

 

『新宿封鎖計画』

 

『スノウホワイト計画』

 

『竜の会』

 

『天使の教会』

 

『シニイタルカミ教』

 オートマタの機械生命体達が進行する宗教の名称。具体的な教義、信仰対象は不明。ただ作中にて「ダレガカミニナッタ?」とのセリフは、カミをただのシンボル、偶像ではなく、カミではなかった誰か、実在する/した存在者をイメージしているかのように思えるのは興味深い

 

『神』

 詳細不明。どういった存在を指し示すのかも曖昧。

 DOD無印では人間は不完全な存在、とかで滅ぼそうとしているらしい。白塩化症候群にも関与が見られる。詳細下記。

 

『異世界の神』

 上の『神』と同じ存在か? 白塩化症候群の罹患者は『世界を無に帰せ』との命令を受ける。これは『異世界の神の呪い』という裏設定のようで、原作中では直接明言されていないだろう点には注意。命令に呼応し身を任せた者はレギオン化し、反発する者は結晶化で死に至る。

 

『偽神』

 DOD3格闘武器狂王の玩具の武器物語で偽神の玉座なる文言あり。ここでいう『偽神』は『神』のことと思われる

 

『封印の女神』

 杭と成りし女

 

『名もなき存在』

 DOD2で出てきたような気がする用語。神龍族及びレグナが、マナに憑いていた存在『神』を言い表す言葉。『神』という呼び名は暫定的なものに過ぎず、神龍族がその玉座に戻れば、『名もなき存在』に戻る。

 

『再生の卵』

 

『骨の棺』

 『名もなき存在』が創りだしたもの

 

『竜の会』

 

『神龍族』

 

『真人類』

 神龍族の"計画的な被造物"

 

『古の墓標』

 

『種の書』

 

『魔素(MANA マナ)』

 

『魔力(OD オド)』

 独自設定。

 

『D魔力(DOD)』

 独自設定。竜、アンヘルに由来する魔力。DはDragonのD。略称DOD

 『D組織』なる設定があるのを、はるとさんのYouTube解説動画で知りました(21.9.23時点)。出典元どこなのだろう。

 

『G魔力(GOD)』

 独自設定。巨人に由来する魔力。GはGiantのG。略称GOD

 『G粒子』なる設定があるのを、はるとさんのYouTube解説動画で知りました(21.9.23時点)。出典元どこなのだろう。




隙自語り
20.12.31
愚痴が過ぎたので省略
21.09.20
邂逅3まで改筆


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Re:1「真実の先へ」
0.「愚者」


プロローグ的な何か


 

 

 これは悲しい王子のお話。

 

 遠い昔にあったある王国の物語。

 闇の軍勢に攻め寄せられたその国は、赤き目をした人外の兵と空を覆う黒き竜の大群によって一夜の内に崩壊する事となった。

 敵の侵入を許した王の城では王と王妃が見るも無惨に黒竜の爪によって腹を引き裂かれ、あたり一面は血の海の様になったと言われている。

 王子と妹姫は辛くも生き延びる事が出来たが、惨劇を目にした王子はその衝撃故に復讐の鬼となってしまう事になる。

 

 これは恐ろしい王子のお話。

 

 遠い昔にあったある戦いの歴史。

 憎き敵兵を殺す事に執着した王子は、日に日に復讐という名の暴力に溺れるようになる。

 逃げ出す敵兵を引きずり倒して容赦なく殺すのは当たり前。さらには既に死んでいる敵兵を一刻以上も切り刻んでいるのを見た、という兵も出てくる有様だった。

 指揮官も扱いかねるのか、王子はさらなる過酷な戦場へ赴く事になる。

 

 これは翻弄された王子のお話。

 

 遠い昔にあった運命の行方。

 次なる戦地は女神を守る城。王子は次から次へと敵兵を叩き伏せる。腕を斬り落とし、足を吹き飛ばし、腹を引き破り、頭を刈り落とし、目をえぐり出した。

 浴びる血と自ら流すそれの区別がつかなくなった頃、傷ついた王子はとうとう倒れる事になる。血溜まりの中で、熱い息を吐きながら苦しみのたうち回る王子。

 霞む目で見上げると、そこに居たのはあの憎き竜の姿であった。

 

 これは狂った王子のお話。

 

 遠い昔にあったある竜との出会い。

 王子の目の前に現れたのは傷ついた赤き竜。

 最初は殺そうと思った。

 色は違えど両親の仇、竜の一族なのだ。剣を振りかぶった王子。

 その時、忌まわしき赤い竜は言葉を発した。貴様の命を救おう。お互いの魂と引き替えに力を与えようと。王子は考えた挙げ句、竜と契約を行う。

 たとえ何を失おうとも、相手が竜であっても、その復讐の刃をこのまま振り続けることが出来るのならば構わない。

 暗い油のような欲望だけが王子の胸の中に満たされていった。

 

 これは愚かな王子のお話。

 

 遠い昔に交わされた契約と約束。

 幾千幾万、血肉に濡れた骨の丘の向こう。王子と赤き竜が辿り着くは神の国。

 王子は竜と共に生命(いのち)を呪う神を殺した。神を殺し世界を救った王子と竜は、神殺しの咎で磔に処されることとなった。

 抗い続けた果ての不可抗の終幕。王子は竜へと手を伸ばす。掌から全て零れ出でても最期まで握り締めていたモノ。

 王子は握り締めていた拳を開いた。己が手で握り潰してしまわぬようにと指を開き、そっと手を離す。

 全てを失った。一つの骸と一振りの刃が王子の全て。だが空しくは無かった。

 火のような抱擁のような微熱が胸の中に満たされていたから。

 

 

 これは呪いのように生きて祝いのように死んだ王子のお話。

 

 




とある武器物語ですね。
DODでの王子と竜のキャラとストーリーを大まかに掴んでもらう為に用いましたが、規約に触れてはいまいかとびくびくしております。
とりあえず、頑張って続けていきます。


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1.「覚醒」

東京タワーが赤い理由(絶望)


 

「我は、我等は……」

 

 身に奔った衝撃と焼ける様な痛みが、竜の胡乱でいた意識を強制的に覚醒させた。

 一体、何が起こったというのだ。

 身体が重い。頭から尾の先、片翼すらも泥人形(ゴーレム)にでも押し潰されたが如く(ちっ)とも動かせぬ。

 瞼の裏の暗闇。

 感じるのは、鉄の臭気、苦痛、轟音、疼痛、風切音、激痛、叫喚、劇痛、―――僅かな、光。

 動かせるのは、瞼越しに微かな光を感じる眼球だけであるか。

 重い瞼を抉じ開けると、視界が端から赤に染まってゆく。

 

「……如何(どう)やら夢幻(ゆめまぼろし)の類ではなかったようであるな」

 

 血に霞む竜の金眼に映ったのは、逆さまの見知らぬ世界と遠い空。そして、曇天を抱いて崩壊してゆく『巨人』があった。

 そうだ、我等は終ぞ"あれ"を滅ぼし、それから、それから―――

 思考が纏まらぬ。睡魔にも似た甘い誘惑に意識が呑まれそうになる。暗い(くら)い微睡み。

 閉じかけた瞼を活と開き、明確な意志を持ってそれを振り払う。

 そうだ、生きるのだ。我等は生きる為に戦い、生きる為に殺し、生きる為に血を流し、抗い続けてきたのだ。

 生きる為に生きる。

 斯様(かよう)な見知らぬ世界で忌わしい"あれ"と共に尽きるつもりなど毛頭ありはしない。

 考え、考え続けるのだ。死中に活路を見出す為に。

 

 

 ―――何故、空から墜とされたのか。

 

 何故(なにゆえ)我等が空から追い墜とされておるのか。"あれ"の仕業か、又は別の何かか……。

 逆転した赤い世界の隅に、ふと二羽の鳥が映った。

 鳥にしては大きく明らかに異形。天使、いや魔物の類であるか。並び立つ塔々の隙間に姿を覗かせては見え隠れしておる。

 あれらの仕業であるか。

 我等の方へ向かってくる様子は無く、こちらの様子を窺うかのように遠方で旋回するばかり。死を待ってから喰うつもりか、はたまた別の思惑でもあるのか。少なくとも天使のような悍ましい魔力を感じられない当たり、"あれ"の手によるものではなかろう。

 一安心、ではあるか……。

 何れにせよ、我の頭上を我が物顔で飛び回る様は憎たらしい事この上ない。今直ぐにでも我の炎で焼き尽くしてくれてやりたいが、今の我には炎を起こすどころか、空に舞い戻る力すら無い。即座に襲われぬのは僥倖であったか。

 

 

 ―――何故、世界が天地がひっくり返っているのか。

 

 周囲を見遣ろうと軋む身体を起こそうと身を捩るも、それは失策であった。

 身体に力を込めた瞬間、全身に走った激痛が脳幹を痺れさせ、視界を更に朱に染めることになった。

 

「ぬぅ…。全く、何だというのだ」

 

 誰に向けたものでもない慨嘆を吐く。言葉は偉大だと改めて思わされる。独り言ちであっても、己が理性を確認でき気持ちに余裕が生まれるというもの。

 今度は首を静かに、僅かだけ(もた)げ眼球を痛覚の方へ寄せる。

 あぁ……と、息が漏れた。悲嘆ではなく安堵の溜息。

 幾多の鉄骨が両翼の皮膜を突き破り、一本の鉄骨が鱗を喰い潰し、肉を抉り、骨を砕いて我が横腹を貫いて、我を逆さに磔にしていた。

 

「―――クク、ハハハッ!」

 

 思わず嗤い声が零れた。何の事は無い。遠くで崩壊し塵と為りつつある"あれ"が、またもや世界を壊したのかと思うたが、魔物に墜とされた我が逆さ磔となり、赤い鉄塔を我の血で紅く染めていただけではないか。

 斯様に不恰好な様を晒しながら、何を愚にも付かない杞憂に(さいな)んでいたのか、我が如何に臆病になっていたかを思い知らされる。

 だが、生きている。不恰好でも不細工でも何でもよい。我等は勝ったのだ。敵を滅ぼし、こうして生きている。それで充分ではないか、のぉ―――

 

 瞬間、言い様の無い違和感が続くはずの言葉を喉に詰まらせた。

 息が乱れ、身に流れる血がザワつく。

 何か、忘れているかのような――――何だ、何なのだ、これは……。

 ふと、擡げていた鼻先が滴に濡れた。温いヌルい滴。

 雨、いや、違う。

 これは、良く知る匂いだ。そう…、

 滴の垂れて来たであろうその方、塔の先端を見遣った。

 

 

 ―――何故、何故、我は生きている。

 

 視線の先には一人の男がいた。

 世界のどの存在よりも見慣れた顔。

 見紛うはずも無い人間。

 その蒼い瞳に光は無く、右手に両刃長剣を握し締めたままの男が、赤い鉄塔の先端に胸を穿たれ力無く項垂れていた。

 

「……ィム!カイムッ!!」

 

 一も二も無く男の名を呼び叫んでいた。

 声にならない声。契約者同士を結ぶ思念の"声"。それに応える声は無く、誰にも何処にも響かない竜の慟哭が虚空に木霊する。

 我がこうして生きておるのだ。なれば、あやつも生きておる!応えないのは意識を失っておるか、あの馬鹿者が眠りこけておるからに違いない!そうでなくてはおかしい。

それが<契約>であり、世の理なのであるはずなのだ!

 そうまで思い、気が付いた。いや、感じていた違和感の正体を自覚した。

 

 無い。

 無い、無い、無い無いない無い無いいない無いい無いないなしか無いしかない。

 我の中に、――――――我の心臓しかない。

 否。事実から目を逸らさず、問題をより正確に認識する。

 カイムの心臓が無かった。

 本来あるべき場所へと収まった我が心臓は強く脈打ち、塔を血潮で染めながらも絶えず脈動し続けていた。最初から、目覚めた時から。いや、目覚める前から。

 只々、命が命として生きる為に。

 

 

 × × ×

 

 

 どれほど叫び続けたのであろう。

 彼の巨人は完全に崩壊していた。

 幾つかの都市構造物は崩壊に巻き込まれ都市の輪郭の一部を崩し、崩壊した巨人は白い塵となって霧のように街を飲み込みんでいた。澱み続けていた曇天は何時しか分厚い雨雲となり、世界を暗く温い雫で湿らせている。

 

「馬鹿者め…っ」

 

 磔の身体を雨に晒しながら呟き、ふっと小さく鼻を鳴らす。

 我を庇ったとでもいうつもりか、人間。誰よりも何よりも、我よりも生きたいと強く望み、願い、抗い続けたのはお主ではないか。

 竜は男を見上げる。

 暗く霞み始めた世界は男の顔を陰らせるも、竜には不思議とその表情が良く見て取ることが出来た。

 蒼き双眸は真直ぐと竜を捉え、歯茎までも覗かせん程に攣り上がった口角はその精悍な顔付きを不細工に歪ませていた。

 よくよく知っている顔で死んでいる男に竜は又も鼻を鳴らす。

 ―――初めて会った日にもこの男は斯様に嗤っていたなと。

 あの日、女神の城でも斯様に磔となり囚われていた我に、お主はその死しても離さぬ剣を我に向けて吐いたな。『お前に生きる意志はあるまだのか』と。

 死に体の我を前に、迫る有象無象を嗤いながら切り刻んでは血の海を創り、嗤いながら切り刻まれては自らも血の海に溺れ、『ドラゴン!見てるか!?これが生きる戦いだ!!』などと大層に叫んでいたな。

 なればこそ、我はお主のその生きる意志に誓って契約したというのに、どうして死に際となって自身の命を先ず省みぬ。どうして左様な顔で死んでいる。

 人間如きが竜である我に生きろとでも()かすつもりか。

 暫く男の顔を眺めていたが、あの不細工(つら)を見ていると馬鹿が移りそうに思い顔を逸らして都市の方に意識を向ける。

 崩壊が収まった都市は温い雨に包まれていた。雨によっても塵は晴れることなく都市を白々と包み込んでいた。少し静かになった世界では、風切音の合間に人間の喧騒が聞こえ始めている。

 再び、男の顔を見遣る。今度は、男の表情は翳って窺えない、気がした。男は変わらず磔刑台の先端で沈黙している。だが、その姿を見ると言い様の無い何かが腹の底に(わだかま)るような不快感のせいで目を逸らしてしまう。

 ―――そうか、見てしまったのだ。見て認めてしまったのだ。一つの事実を。変えられない運命を。何を失ってしまったのかを。

 吐き出したい自覚を飲み下す。身体の熱が冷めてゆく感覚。これは決して雨のせいではないであろう。

 再三、男に向き直る。

 まったくどうかしておるわ、お主は。―――そして、我も。

 決して逸らさず、決して背かず、小さな宣誓をする。

 

「カイムよ、我との約束を憶えておるか。絶対に死ぬな、と。契約は終了した。お主と我はもはや他人よ」

 

 そう契約は終了した。我とあやつを繋ぐ理は無い。それも、事故でも過失でもなく、あやつ自身の明確な意志の元に終了したのであろう。

 

「だが、約束は守ってもらうぞ」

 

 一つの考えが頭を巡る。同時に、我が内の神龍族の『血の記憶』が沸々と湧き上がり始めた。思考に本能が血が拒絶反応を起こす。それは冒してはならない禁忌だと。神の理に触れるものであると。創られた存在の域を越えた行為だと。

 

「黙れ。我はただ……」

 

 意識を内へ内へ研ぎ澄ませ『血の記憶』の深淵に触れる。元より神の理すら外れた世界にいるのだ。何者が、何を根拠に我等を縛るというのだ。

 

「血も神も……善悪も関係ない、酔狂な馬鹿者と約束した身を恨むことにしようぞ……っ!!」

 

 我が内の魔力と深淵の知識より〈契約〉と〈転生〉を同時に発現させる。

 膨大な魔力の放出と共に、竜と男を中心に天使文字の浮かぶ魔法陣が多重展開され始める。

 〈契約〉により我が半身半霊を男に強制融合させ、そのまま〈転生〉の手続きに入る。

 〈契約〉と〈転生〉。どちらも道理を越えた場所にいるお方の摂理によるもの。

 

 〈契約〉―――人間をより高みへと至らせるための摂理。互いの心臓を交換することで、より完成された生命へと昇華する手段。代償として人間側の契約者は自身の最も大事とする身体機能を失い、契約者同士は命を一つとする存在となる。

 

 〈転生〉―――管理者として被造された神龍族に与えられた創造の権利。最期の願いを以てして自己創造を成し、蘇るでも産まれ直すでもなく、血も骨も、記憶も名すらも新たな存在として創造する。

 

 今の我にある力を以てして行える最期の抵抗。

 あのお方が定め給うた摂理、聖域をも歪め、冒し、我等の為だけに行使する。『神の命令』も『血の記憶』も知った事か。

 喪われた命は神ですら甦らせることは叶わない。

 ならば、死者と契約し、この神龍族の血が流るる命を分け合い、分け合った血を以て互いの存在を新たに創り直す。死者との契約、半身半霊での転生。どちらも『血の記憶』にないこと。

 歪めた摂理が破綻し崩壊するか、発現したとて化物として創造されるか、上手くいったとて、(まさ)しく命を分けた半身半霊の状態では五体満足は望めぬであろうな。

 果たして、どうなるか―――我にも、いや神すらも見当が付かぬであろう。

 

「……我は、バカ者になっただけだ」

 

 あやつは最期まで抗い、生きる道を見出して契約の終了など馬鹿身勝手な手を打ったのであろう。それが己ではなく、我の命ではあったが。

 なれば、我も足掻くだけだ。足掻き、抗い尽してくれようぞ。

 

「やれ……生きておれば、また会えようぞ」

 

 歪めた〈契約〉と〈転生〉が発現すれば、どのような結果になろうとも、我もお主も今の存在ではなくなるのであろう。身体は勿論、記憶も名すらも忘れてしまうのだろう。これから発現されるであろう事を思うと、ふと思い至る。

 我はまだここにいて、生きている。我は今、何者なのであろうか。

 竜として絶対の『神の命令』に背き『血の記憶』にも逆らった。我を構成していた根幹の要素が失われた今、我という存在は何であるのか。神か。神龍族か。いや、竜であるかすら怪しいものだ。まして人間などと―――――。

 〈契約〉と〈転生〉が発現されれば、今の我は我ではなくなるのであろう。それは我の選んだ道であり、仕方のないことだ。では、今の我は何なのであろう。

 そう考えるとどうしようもなく怖くなった。胸に穴でも開いたかのように空しくて虚しくて、凍えそうになる。――――――寒い、さむい、コワい。

 魔法陣は予想された崩壊も消失もなく展開され、後は術式に自身の真名(しんめい)を告げるだけ。ただ一言。何の儀式も術も必要無い。我の口から我の名を言うだけ。

 それだというのに、進めなくなっていた。

 一言が、我が名がどうしても出ない。

 寒い、苦しい、我は何だ。我は、我は……。

 そんな時、鼻先が再び熱く濡れた。温い雨ではない、もっと熱く赤く暖かなソレ。

 ……何だというのだ、馬鹿者め。暖めてどうなるものでも……まったく、やはりどうかしておるよ。

 

「お主になら……名乗っても良かったやも知れぬな……」

 

 そうさな、我は我だ。何ものにも巻かれぬ。馬鹿者(カイム)と共に行き、ここまで来た(ただ)のバカ者だ。

 そう、我が名は――――――、

 告げた名は天使文字として具現し、魔法陣に刻み込まれた。完全展開した魔法陣が、竜と男を光で包んでゆく。

 

「さらば……だ、馬鹿……者……」

 

 そう小さく一言残し、竜の意識は深い暗闇へと沈んでいった。

 

 




DOD原作知識ありきな物語にしないようにしたいものですが、難しいものですね。


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2.「邂逅」-1

イヤッッホォォォオオォオウ!岡崎最高ー!!


     1

 

『――――――以上、"(the rock)"に行われた18の干渉実験は何れも反応無し。

 対象から観測される各種数値及び"岩"本体にも異常は見られなかった。

 既済干渉実験1041件の経過観察に、新たに18件を加える事が決定。

 第66次実験は2006.05.09を予定とする。

                                  報告終了。

             第65次干渉実験報告書 記録者 岡崎夢美 2006.05.02』

 

 作業的な手付きでキーボードを叩いていた手を止め深く息を吐く。

 マウスを握り幾度かクリック。作成した文書の印刷を開始させる。報告書は結構な量があり、印刷完了まで暫く掛かりそうだ。

 モニター端の時計を見ると11:32と表示されていた。酷く疲れた気がするが、というか精神面的にはQ.(クエスチョン)72時間働けますか? A.(アンサー)ました!! ばりに疲れたのだけれど、時間にして一時間と経っていないのね。

 思うに72時間働けますか? とか、あれが冗句として受け入れられているあたり、日本人ってのはとことん仕事中毒(ワーカーホリック)なんだぁと思うわけです。ソースは研究所(ここ)の研究員。

 65次実験は正に3日ぶっ通しだったわけもあり、今この個人研究室を出て廊下でもぶらついていれば、ゾンビよろしく徘徊してる研究員達に出会えることだろう。彼らが交わしてる内容と言えば研究の事と自身の睡眠時間。寝てないよアピールとかホントどうでもいいのよ。

 まぁ、それらも含め私にはどうでも良い事で、そんなの同じくらいどうでも良い仕事がどうにでも良く終わったのだ。本日の業務、これにて終了♪

 

 「クソったれめ」

 

 心の声のつもりが素で口に出てしまった。

 いや、悪態の一つでも吐かずにやってられるものか。

 印刷機から吐き出されつつある仄かな温みを持つ紙を幾つか拾い上げる。

 無数の数字の羅列にグラフ、専門用語が散りばめられた書類を印刷不備がないか確認しつつ束にしてぱらぱらと眺める。

 研究は嫌いじゃない。寧ろ大好物。真っ赤に熟れた苺と同じくらい好きといっても過言じゃない。というよりも、私は研究者であり、研究は私の本分であり生業だ。

 ただし、勿論の事それが"私の研究"であるならば、だけれど。

 

 眺めていた書類の束の一枚に目が留まる。

 そこにはおおよそ"巨人"と"竜"と形容すべき存在が写されていた。

 天を仰ぎ崩れゆく白き"巨人"と、日本国自衛隊戦闘機スカーフェイスに撃墜され、東京タワーに墜落して磔となった赤黒き"竜"。現実感の乏しい、ともすれば出来の悪い合成のような、けれど紛れもない現実の出来事が、そこに確かに記録されていた。

 ふと、デスクの電子時計に目を遣る。そこには 2006/05/02 11:42 と表示されていた。お昼はまだ遠い。なら、3年前というのはどうなのかしら。まだ3年か、もう3年か。

 

 ――――2003年6月12日、日本国東京都新宿。その日、空から"巨人"と"竜"が降ってきた。

 

 後に【6.12(ロクテンイチニ)】と称される災害。いや、その後の主要国首脳会議で合衆国がテロと認知、脅威に対する軍備拡張を公表していたことを思えば、災害と称するのは不適との声もあるかもしれない。無論、それは予想される国際緊張度の高まりへの牽制であったことは明らかであり、誰も額面通りには捉えていなかったでしょうけれど。であれば何と呼ぶべきか、災害に非ず、テロリズムに非ず。……災厄。そう、災厄とでも呼びましょうか。

 未曽有の災厄【6.12】の最終被害報告は死者数56、重軽症者320と公表されたのを記憶している。この被害規模の大小評価は未だに意見分かれるところであった。

 犠牲者数は確かに相当数に上っているが、被災地域が人口極集中の新宿かつ、落ちてきたのは直立想定時の推定全高300m超の"巨人"だ。

 例を並べるなら、宇宙で世紀な搭乗人型ロボット兵器アニメでの並の機体の全高相場が20~40m程。キング・オブ・モンスターなゴヅラ達でも並で100m、さらに進化したゴヅラ・アースで身長300mとようやく並び立つものだ。

 そんな"巨人"と"竜"が降ってきたポイントの詳細は情報規制と、そも発生想定ポイントが雲中であったこともあり、私でさえ正確には把握していない。ただ、簡易な憶測をするのであれば、当時の新宿上空は太陽も見えない厚い雲に覆われた薄暗い天候、おそらくは乱層雲に覆われていたものと考えられる。この中層雲に類される雲の発生高度はおよそ2000m~7000m、最低でも2000mの高度だ。それ程の高度からあんな馬鹿デカいものが無遠慮に落下してきたこと考慮するなら、異常とも、いや、異常としか言えない被害の小ささだった。衝撃で破砕した窓ガラスの雨が人々に襲いかかる事も無ければ、地下に張り巡らされたライフライン、電力やガスといったそれらを破断させ大規模な火災を巻き起こしたという事も無かった。被害の内、"巨人"に直撃ないし直撃した建造物の倒壊に巻き込まれた不運な事由は少数であり、その被害の過半はパニックにおける将棋倒しのような群衆事故に因るものであったことが今なお議論呼ぶ要因だ。

 ともあれ【6.12】だけによる被害は多くの非常識を孕みつつも、人的、経済的被害規模はある種、常識と捉えて問題ない範囲に留められた。【6.12】を超える被害を齎した事件事故、災害などは過去を振り返れば幾らでもある。

 "巨人"は落下後、特撮怪獣よろしく暴れ回るといったこともなく、突如として自壊し、結晶質な身体はボロボロと崩れ去り、大きな破片も急速に風化し、夥しい白き灰を残して跡形も無く消え去った。"竜"に関しては東京タワーに墜落後、暫くして全身が"巨人"と同じような白い結晶に成るも、こちらは自壊、風化することはなかったため日本国政府に回収された、らしい。この辺りの当時の知り得る状況は政府(うえ)から下ろされた情報の域を出ない。自身で調査しようにも、災厄当時の私の活動圏は関西であったし、私の助手が決して許可出さなかったであろうことは間違いないのを思うと、打つ手は無かったでしょうね。

 なんにせよ、"巨人"も"竜"も片が付き、世は事も無し。とは、当然ならない。

 未知の現象、物質、法則。世界の常識そのもの揺るがす所かひっくり返すような事件だ。各国の活動が活発になってしかるべきだろう。とはいえ、これは言ってしまえば常識の、表の脅威。では裏の、非常識の脅威とは何か。

 随分騒がしかった印刷機が萎む様な唸り声を最後に大人しくなる。どうやら全ての用紙を印刷し終えたようね。

 先の書類と組み合わせて紙束を一つに纏める。後は茶封筒に入れ、紐を括ればお終いであるけど、どうにもそうする気になれず、書類の束を速読の要領で何度もぱらぱらと幾度と行ったり来たりさせる。そうする中で頻出する単語というのには、どうしても目が付くものだ。

 

 「白塩化症候群、白塩化症候群、そして白塩化症候群……」

 

 災厄の邂逅は世界に奇病を齎した。

 【6.12】から半年ほど経過した年の瀬の頃、新宿区にて奇病感染者が確認された。特徴として、ヒト-ヒト間での感染性を持ち、発症後は全身が徐々に白く塩化していき、最終的には全身が塩化し死に至る原因不明の奇病。死後、塩の柱となったモノはいずれ塵と崩れ去り骨も残らない。この当時の初期感染者群の死亡率は100%を誇り、その死亡率と嫌でも【6.12】を思い起こさせる死に様が世間を騒がせた。ただ、幸か不幸か、初期感染者が新宿区に限られていたことと、高すぎる致死率であるが故、感染者が新宿から移動、感染拡大させる前に死亡することで大規模な感染拡大の可能性は低い、あったとしても封じ込めは十分に可能なものとして楽観視されていた。

 そこから更に半年後、奇病は終息どころか新宿を中心に拡大を続け、死亡に至らず凶暴化する変異感染者まで確認され、奇しくも【6.12】と同じその日にこの奇病は『白塩化症候群』と命名されることとなった。そこからは奇病の脅威も正常に認知され始めたこともあり、変異感染者への武力行使に対する人権集団の反発や終末思想カルトなど歴史的にありふれた(しがらみ)から、国家間でのシーソーゲーム(足の引っ張り合い)なんかまでありつつも、対策は自衛隊や武装警察、自警団といった武力を持って本格化、今現在の小康状態に持ち込めている。だからといって、予断を許さないでしょう。何せ、今の人類は何が解ってないのかすら判っていない段階なのだから。

 

 今見ている書類の束は、世界で最も重要とされる研究の一つ。当然の事、興味は尽きない。研究者として、私個人として。だが、私はこれらへの研究への関与が認められていないのだ。私の研究は、今この手にありながら、私の手の中に無いのだ。

 掴んでいた紙束を両手で真上に景気良く放る。

 放るついでに、キャスター付き回転椅子の背凭れに寄り掛かって、うんっと両腕を伸ばし背伸びをする。

 

「ンーッ! ん~、……はぁ」

 

 ぶちまけた紙の束は舞い上がり、ひらひらと落ちては床に紙の海を広げた。

 綺麗だなー、なんて思う反面、これらの紙も貴重なデータであることに変わりはない。

 機密性の保持がウンタラカンタラで、研究所にいる研究員であっても、個人での研究データのデジタルデータの保持は認められていない。当然、設置されている端末は外部ネットワークから遮断されたスタンドアロンな環境だ。唯一、デジタルデータの保持を認められているのは、この研究所の責任者であり、内閣府対策室等の各関係機関への報告義務のある主任研究員だけ。

 主任さんの名は何と言ったかしら、佐藤だったか…、加藤だったか…。報告は面倒そうだが、研究の一切合切を一任され、好きに研究できるとは、なんと羨ま忌まわしい。

 おかげさまで基本的に所内でのデータの遣り取りはアナログ、紙、プリント、レジュメ、ペーパーな手渡しスタイルで行われている。なんとも原始チックなことだ。もし紛失すれば幾らかの処分を受けるだろうが、そこは厳罰が定められているわけではないので案外、大したことないかもしれない。いわゆる、然るべき処罰、の文言を極めて楽観的に捉えられるのであればの話だけど。

 であるなら、床に散らばった、いや、散らかした機密を紛失する前に纏め上げるべきだろうと理性は訴えかけるが、自身のおしりはちっとも椅子から上がらない。

 ここの研究員、主任も含めた者達は私の事を避けるどころか嫌っている節がある。

 いや、より正確に観察と分析を行うならば、"恐怖"―――かしらね。

 その恐怖が何であるかは知ったことではない。というか、私への悪意的なサムシングなのは確定なワケで、誰だって自身に向けられる悪意(それ)の具体的な暗さは知りたくはないだろう。

 まぁ、大方の予想は付くのだけれどね。

 入力作業を終えた後、放置され続けたPC端末はスリープモードに移行し、信号を失ったディスプレイには自身の姿が反射で映し出される。なんてことない自身の見慣れた姿。

 赤い髪に赤い目をした女の像がそこにはあった。

 腕を伸ばし、その虚像の瞳を指先で何の気無しに突こうとすると、ブラウスの袖がマウスに触れたことでスリープが解除されてディスプレイは輝きを取り戻し、暗がりの中の虚像は消失した。

 

 ―――赤い瞳。それは白塩化症候群感染者に共通して見られる症状である。

 

 無論、私は感染者ではない。

 "災厄"以前から、()()

 (これ)は、何だ?

 

 腕を伸ばし、その虚像の瞳を指先で何の気無しに突こうとする。不意にブラウスの袖がマウスに触れたことでPCのスリープモードは解除されてディスプレイは輝きを取り戻し、暗がりの中にいた赤い虚像は消失した。

 

 × × ×

 

 研究所における"岡崎夢美(わたし)"の立ち位置は曖昧のそれだ。

 一応、国の招集をかけられた研究員という体裁は守られている。【6.12】から回収された試料の1つ、"岩"の研究に、私が曲りなりに関係者でいられるのは、瞳の色を抜きに、研究者として一定以上の評価が残してきたからと自負している。だけれど、現状は直接的な実験には関与の許可が下りぬまま。今後、研究に穏便且つ正式に関与出来る可能性が捨てきれない以上、下手な策を巡らせるのも難しい。これがお役所仕事の先送り、先送りしての結果論なのか、予め考慮しての一手なのか知らないけれど、上手い手と言う他無い。

 そんな中で回されてくるのは、他の研究員から上がってきたデータを報告書という形に纏めてお(かみ)に、この場合は主任研究員に提出するという退屈かつ不本意な仕事。編纂は難しい仕事ではない。私の優秀さもあるのだけれど、研究員同士での不要な確執が無いのが大きいように思う。

 本来、研究者というある種自分本位な人種が足並みが揃えるというのは難しい。国により招集、編成された研究チームという枠組みがあってもだ。研究者にとって、他の研究者というのは自分の功績を掠め取るか、いつ抜け駆けをするか分からない同業者であることは身に染みている。そんな中で秩序が保たれているのは、ひとえに私の存在のお陰なのでしょう。

 彼らは見事というか、私を"敵"とまでは言わないにしても、"異物"と奉り立てることで、チームの足並みは揃っているらしい。

 現に、研究には関与させないくせに、データだけはしっかりと定期に雁首揃えて上げてきやがります。

 

「……何をしているのかしらね、私は」

 

 研究員達の態度はさほど問題ではない。思う所が無い訳ではないけれど、"災厄"以前から学会でこの手の扱われ方には慣れている。

 それよりも、自ら研究に携われないことが、私の信じる世界に関われないことが、唯々に口惜しかった。こんなのでは、研究参加の招集が掛かった際、自分の事のように喜んでくれた助手にも示しが付かない。

 いい加減床にブチ撒けた書類を拾わなきゃなんて、デスクにうず高く積まれた資料や文献に占拠された狭い天井を薄ぼんやりに眺めながら思うも、益々気が塞いでくる。

 

 これは私の研究ではない。元より私の手に無いのだ――――――。

 

 机に突っ伏す。あぁ、このまま一眠りしてしまおうか、なんて思ったところに、研究室のドアが開く音が来客を告げる。

 

「教授ぅー、お昼ですよ……っと、何してんだぜ?」

 

 示しの付かない姿を思い切り見せ付けてしまった。

 金髪金眼ツインテールの水兵服(セーラー)少女、私の助手である北白河ちゆりがノックも無しに、気持ち良い勢いで入ってくる。

 

「ちゆり。どこほっつき歩いてたのよ」

「どこって、お昼の買い出しに……って、話聞いてたか?」

 

 ちゆりは、もーとか、まったくとかボヤきながら手にしていたお昼が入ってらしいビニール袋を手近なところに置くと、散らばった書類を手際良く拾い纏める。申し訳ないなと思いつつ、今はもう少し突っ伏していたい。

 そんな感じでしばらく腕枕に(うず)まっていたら、頭をスパコーンと良い音で(はた)かれた。この北白河ちゆり容赦せん! 因みに、良い音が鳴ったのは私の頭が空っぽだからではなく、ちゆりの凶器が筒状に丸めた書類であったからということを補足しておく。

 

「またですか」

「またなのです」

 

 と、ちゆりは一言そう言うと、丸めていた書類を束に戻して渡してくる。私は応答しつつ差し出された報告書を受け取り、それを素直に茶封筒に収めた。

 白塩化症候群の一時沈静化により東京一円の安定化が図れたことで、国が研究者に招集をかけ、それに応えて務めていた大学からこの国立超自然第二研究所に異動してきたのが2005年12月。そこから凡そ半年、ここ最近はこのやり取りがテンプレと化していた。

 

「ま、気持ちは分からねぇことねぇですがね。ワタシならとっくにブチ切れてこんなとこオサラバしてます」

「ん、ありがと。けど、まだダメよ。私はまだ"岩"も"(the dragon)"も直接見ていないのだから。押してダメなら押し倒せ!」

「流石というかやっぱりいうか、まぁ教授ですもんね。精々巻き込まねぇで下さい」

「まっさか冗談。今更じゃない、ちゃんと巻き込んであげるわ」

 

 私の大仰な言いぶりに、ちゆりはあからさまに大きな溜息を吐く。

 尤も、彼女も本気で疎んでるわけではない。現に気に病む様子はなく「お昼ーおひるー」などと言って袋を漁り始めている。

 時計の針はてっぺんを少し過ぎた頃合いだ。そうか、今はお昼時か―――。

 

「よし! ちょっと付き合いなさい、ちゆり」

「え、は? え、今からお昼ですよ?」

「えぇ。今からお昼だからよ」

 

 報告書の入った茶封筒を手に取って、ひらひらとちゆりに見せてあげる。

 互いに暫くの沈黙。沈黙からちょうど三拍。少女はこれでもかと顔を(しか)める。

 

「……教授。主任さん相手に問題起こすと事ですよ?」

「あら、ちょっと食事休憩中のナントカ(とう)主任さんに報告書を渡すという大事なお仕事のついでに、お話ししに行くだけよ」

千藤(せんどう)主任さんでしたか。まったく、お話(物理)にならねぇといいですが」

「あら、それは物理学者としては腕の見せ所ね」

「う、腕ではなく頭! 頭を使う方向で。まったく、とんだ物理違いなんだぜ」

 

 渋々といった具合にちゆりは袋から出しかけていたお昼のサンドイッチを戻し、袋ごと研究室に備え付けの冷蔵庫に突っ込んだ。何だかんだで止めるでもなく、理解した上で付き合ってくれるのだからこの子もイイ性格をしている。

 そう、たまたま、ちょろっと、食事休憩に会いに行くだけ。

 決して嫌がらせに休憩中の人に仕事を持っていく訳ではないんだからね。

 実際、時間に余裕を与えると研究を言い訳に"お話"する前に逃げるのだから、このタイミングが一番合理的でもある。

 そうと決まれば早い。椅子からさっと立ち、眼鏡をかけ直し、パーテーションに掛けていた着古した赤マントを羽織る。

 

「さて、お話に行きましょうか」

 

 全身に赤色を纏い、研究室のドアノブに手を伸ばした。

 




ちゆりの口調に自身でも違和感が拭えない今日この頃。
ではでは、閲覧頂きありがとうございました。つづく
追記2021/9/12
あまりに話の進みが読み手側にDOD、NieRの知識があることを前提にしたような流れだったので、全体的に世界観設定の話を追記。


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2.「邂逅」-2

王子という文字ゲシュタルト崩壊してきましたが、私は元気です。


     2

 

 

 ――――――目が覚めたのは血溜まりの中だった。

 

 闇。

 何処まで遠くにあるような、それでいて息苦しいまでに近しく感じる闇。

 何処までが闇だ。

 何処からがワレ―――ワ、ア、ァレ、オレワ、オレはドコだ。

 何もキコエナイ。

 何もミエナイ。

 何もナニモナイ。

 ナニモ、なにモ、何モカもガ何だ?

 ワカラナイ、解らナい、判らない。

 血、赫、黒。濃厚で噎せ返りそうな血の匂い。

 腐り掛けの血。生臭い血。

 ヒトの血。ケモノの血。マモノの血。オレの血。

 ――――――仄かに混じる懐かしい薫り。

 ワレ、俺はこの匂いを知っている。

 

 その匂いに惹かれるまま血海を漂った。

 

 

 × × ×

 

 

 どれ程漂っていたのだろうか。

 朦朧とした意識のまま漂っていると一筋の光が見えた。

 光は瞬く間に闇を喰い尽し、世界を拡げていく。

 ただ一つ、俺という黒点を残しながら、光で塗り潰していく。

 

 出来上がった世界は王城の庭園。

 それは抽象的な風景。色彩に乏しく、モノもヒトも輪郭が定かではなく、波打ってはぼやけ歪んでいる。

 そんな曖昧な舞台の中心に、二つの人影。

 栗毛を時折弄りながら蒼眼で兄を傍らから眺める妹。

 その視線の先でひたすら剣を振る蒼眼黒毛の少年。

 兄妹(きょうだい)が世界の中心にいた。

 

 二人は繰り返していた。少年は剣を振り、妹はそれを眺め続ける。

 二人して何をするでもなく、ただ二人が在るがままに在った。

 俯瞰する光景の変化の無さに、時間が緩慢になってゆくように感じられる。ともすれば、二人はこの繰り返し続ける光景の中で、世界ごと凍結してしまうのではないかと思える程に。

 俺もそれをただ宙から傍観していた。

 

 俺には少年が何故剣を振るのか解る気がした。

 彼は怖いのだ。

 目の前の膨大に広がる時間を前に、不可避な変化の到来を予感しているから。その変化はきっと優しいものではないことを知っている。

 少年にも、少女にも、この庭園にも、世界にも――――――。

 それは無慈悲に不条理に、だけれど、平等に訪れるものであることを理解している。

 だから、ひたすらに剣を振る。

 剣を振っている間は、誰も、何もかも、不可避の変化すらも遠ざけられそうで。今この瞬間(とき)、庭園の少年と妹だけの静謐(せいひつ)で充足した時間が永遠に感じられるから。

 

 少年が剣を振る。妹が眺める。俺が俯瞰する。振る。眺める。俯瞰。……。…………。

 繰り返し、繰り返しを繰り返す。

 動的に静止した世界。

 この庭園は救われている。素直にそう思う。

 少年は少年のまま。妹は妹のまま。世界は世界のまま。何も変わらない小さな箱庭。

 だからこそ、思わずにはいられなかった。こんなものはまやかしだと。不変など、永遠などはありはしないのだと。

 時間は、世界はどこまでも残酷で、望んでもいない未来を押し付けてくる。そう――――――、

 

 ――――――もう、全て失ったというのに。

 

 止めどない感情の奔流から言葉が一滴、口から(あふ)れた。

 何故、こんな言葉が漏れたのか、自身でも解らない。

 

 ―――もう。

 

 ――――全て。

 

 ―――――失った。

 

 自身の口から零れた言葉であるのに、その真意が解らない。ただ、その言葉は真実だというだけの確信めいたものがあった。

 そう、確信。俺は知っている。

 彼らが兄妹であることを、妹のフリアエを、王城の庭園を、この世界を知っている。その全てが、嘗て俺の目の前に確かに存在したことを。その全てが、もう失われてしまったことを。

 知らないのは、一つとたくさん。

 少年の名。そして、何故これらを知っているのかを俺は知らない。

 脳に異物でも蠢ているかのような不快感。尽きない疑念に思考が囚われかけるも、世界は俺の停滞を許さない。

 一つの変化が、世界の均衡を破る。

 気が付くと彼らの頭上を漂っていた俺は、少年の正面に対峙していた。

 少年が振っていた剣を下ろし、こちらを見ている、気がする。

 少年はその何も見ていないような(まなこ)を此方に向け、薄紅色の唇を開いて言葉を紡ぐ。

 

「ァ ケ … ォ」

 

 その言葉は聞き取れない。少年は繰り返し言葉を淡々と紡ぎ続ける。

 何だ、なにか言いたいことがあるのか。聞こえない。聴こえない。キコエナイ――――――。

 俯いて静止していた俺に、少年は口を噤み手にしていた剣の切先を向けた。

 再度、同じように、――――――いや、薄紅色を醜く歪め、赫い舌を覗かせる。

 

() () () ()

 

 静かな声だった。

 それこそ耳元で秘密を囁くような声。されど、それは鼓膜を貫き、脳を脊髄を心臓まで冷たく震わせる声。

 少年は口元を歪め、嗤うような泣くような顔で俺を見る。

 バケモノとは何だ。その顔は何だ。その切先は何に向けている。俺か、それとも後ろに何かいるのか。

 曖昧で歪んだ舞台。その中で意識の磨滅を感じながらも、少年の切先、背後へと振り返った。

 

 

 × × ×

 

 

 そこには石造の玉座の間が拡がっていた。

 

 先程までの庭園、曖昧な舞台は霧散し、確然とした輪郭と目が眩む極彩色の世界へと変貌している。

 目に焼き付く色は赤、赫、紅。

 血の海と、それを舐めるかのように床を這う炎。

 そこには少年が立ち尽くし、傍らの妹は兄の手に縋り、玉座には黒竜が鎮座していた。

 玉座の間一面に広がる血の海は、黒竜の太い前肢から流れ出でている。圧し挽き潰されたモノは、血液と脳漿と臓腑の欠片を血の海へと惜し気もなく注いでいる。

 唯一、鉤爪の隙間から原型を覗かせる白く細い右腕が、前肢の下にあるモノが王妃、母であること証明していた。

 黒竜に腹から咥えられた王、父は少年達に視線を向け、口唇から朱を零しながら言葉を絞り出す。

 

「        」

 

 王が語り終えるのと同時に、黒竜はその顎を静かに閉じた。

 竜の咢と牙によりソレは上下に裂かれ、下半身がぼとりと血の海に沈んでゆく

 断面からは赫い鮮血と白い骨、黄土色の脂肪が覗き、咥えられたままの上半身からは薄桃色の臓腑がだらりと垂れる。

 

 少年は踵を返し、妹の手を曳いて駆け出していた。

 扉の前に佇んでいた俺の横を走り抜けるその横顔は、庭園で見せたあの顔だった。手荒く開け放たれた扉はギィギィと鳴り、真っ直ぐ伸びる廊下の先には小さな背中が二つ遠ざかっていく。

 黒龍の方を見遣ると、王の残滓を咀嚼しながら、満足そうな表情で少年達の背を見送っていた。

 黒鱗と黒殻に覆われた顔では人間らしい表情など作れはしないだろうが、目が、口が、嗜虐に恍惚と歪んでいた。

 

 ―――何処となく、少年のあの顔に似ている。なんて事を場違いにも思われた。

 

 黒竜は僅かに顎を引き、晒した赤い口腔からは緋い魔光と魔力が漏れ出す。

 少年達に向けられたであろう灼熱の炎は、俺を巻き込み、世界と俺の意識は炎と光に呑み込まれ何も見えなくなった。

 

 




王子登場回。
精神世界を書くのは難しいですね。会話も事件も乏しい。淡々と語り続けるから、時間の進行も緩慢になり冗長になりかねない。文字数の割に書くのに体力使わされるものだと思い知りました。
しかし、如何にかこうにか、DOD原作では見え難かった王子の内面、ただの殺戮狂ではない別の側面も掘り下げていけたらと思う所。
王子は動物に例えるならヤマアラシもあり、ジレンマ的な意味で。つづく


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2.「邂逅」-3

長くなりそうなので分断投稿。
(改)分断していたのを統合 統合了21.9.20


     3

 

 

 階段を上り、白を基調とした無機質な廊下を抜けると、幾多もの丸テーブルと椅子が雑然と並ぶ開けた空間に着いた。

 ここは研究所としての最上階、地上一階にある食堂。箱物としてはさらに上層階が積み重なっているが、そちらはほとんど使われていないという。

 秘密の地下研究所というのは如何にも、な感じがして非常に胸が躍る。最終的には研究所丸ごと爆破して全て地中に沈める……というのは、パンデミックホラーのド定番、王道だろう。そういった話が実際にあったわけではないが、あからさまに上物(うわもの)を他の用途にも使わず、実験範囲と研究者を地下に限定させているあたり、隠す気もないのでしょうね。安全対策、非常時を考慮しているあたり、自身の属する組織が正気であることは喜ばしいことだ。

 大きなガラス戸からは現代風なオブジェや青々と茂る木々、遠くにそびえる『壁』の風景が望め、差し込む自然光が網膜を心地よく刺激する。

 この食堂は研究所に勤務する職員、研究職に警備、その他の職員にまで広く利用に供されており、地下暮らしの引き籠り生活な研究員らにとっても気分転換の貴重な空間である。

 研究員には個別の研究室が宛がわれてはいるけれど、研究所住み込みの仕事の為、研究室と銘は打っているものの、"研究"よりも"生活"の要素の割合が高い空間となっている。そんな事情もありプライベートを気にせず多人数が一堂に会することが出来る食堂は、コミュニティスペースとしても用いられている。

 地下にもミーティングルームは配置されているのだけれど、セキュリティー管理の都合とやらで、研究所内での飲食は基本、食堂か自室でしか認められていない。その事も食堂(ここ)に人が集う要因の一つとなっている。

 大きな干渉実験が終わった後だからだろう、中にいる人達の白衣の数は普段よりも多く見受けられる。

 

「さて、私の想い人はどこかしら」

 

 私の研究室の隣、『千藤 汽笛』とネームプレートが掲げられた研究室は先に赴いて、扉をしつこくノックしたが返事は無かった。

 気配も無かったし、室内で「ただのしかばねのようだ」にでもなっていない限りは食堂(ここ)にいるでしょう。そんなナチュラル不謹慎な事を思っていると、傍らのちゆりに肩を叩かれた。

 

「お、教授、ほら、あそこ。あそこに居るんだぜ」

 

 ちゆりが指し示す先、ドア窓の向こう側に探していた顔があった。

 痩身長躯の男性。白髪交じりの黒いオールバック。四十半ば程の顔に眼鏡を掛け、眉間に皺が寄せている男。間違いない、千藤(せんどう)(呼称仮)主任だ。

 ―――ふふん。さて、どう登場してあげようかしら。

 意気込んで来たはものの、流石にスパーンッ!と格好良く入る気分ではない。研究所に移りたての頃、ブチ上げのテンションのままにやらかし、食堂内にいた所員さん達を縮み上がらせてしまい、私と他所員との距離が物理的にも精神的にも()()開くこととなった。その後にちゆりからの小言のオマケ付きというダブル役満。

 兎も角、余計な騒動は此方としても願い下げ。同じ轍を踏まぬよう気を付けましょうか。

 

 開けた扉がギィと小さく唸る。

 ちゆりには堂外で見てるよう伝えたので、入るのは私一人。

 私がその空間に足を踏み入れると、周囲の視線が私に向けられ、堂内の空気が俄かに(ざわ)めきだす。

 うん、知ってた。うん、全然っ、傷付いてなんか、いないんだからっ!

 本当に気にしていたらキリが無いので、一切合切無視して、男の方へと歩を進める。

 

「こんにちは、主任さん」

 

 脇から明るく穏やかな社交スマイルで語り掛ける。

 先ずは軽いジャブ。

 いきなり実験参加の嘆願をしても、取り合ってもらえない事は目に見えている。止まっているモノを動かそうと、最初から大きな力でぶつかっても反作用で自身が跳ね返されるだけ。心にかかる力、言葉の大きさ、方向を理解しなければ。

 先ずはこの男を会話の土俵に立たせ、会話の流れの糸口を…。……。………。

 圧倒的沈黙。

 この男、まさかの真スルー。

 千藤(せんどう)(仮)主任はこちらの事など気付いていないかのように、左手に持った書類の束を注視したまま、右手はロボットアームの如く決まった動作でカレーライスを口に運んでいる。

 反応は、勿論のこと、無い。

 お、おちおっお、落ち着け、落ち着くのよ夢見。まだ慌てるような段階じゃない。

 ここで暴れても仕方がない。折角、実験が一段落して相手の気持ちに余裕が出来ている今こそが好機。今を逃せば、また研究だの、実験だのと言い様にあしらわれてしまう。

 押してダメなら押し倒す。ゆっくりと、されど確実に。

 

 思考を整理した私は、男の脇を抜け、対面の丸テーブルの椅子を曳いて対面に腰掛ける。

 男はそのまま一定の動作を続ける。並々でない集中力、研究者としては若い年齢で主任を任されるだけあって、優秀な人物なのは間違いないのだろう。

 休憩時間の終了までまだ時間はある。私の空き時間はもっとたっぷりある。

 ここは待ちの一手と決め込み、しばらく男の様子を観察していたら、首からゆらゆらと垂れるものに目が行った。

 

 『職員証:千藤(ちとう)汽笛(きてき) 主任研究員』

 

 送り仮名(ルビ)の振られた職員証。それを見て腑に落ちていくもの感じる。

 そう、そうだわ。チトウよ。砂糖でも果糖でもないわ。ちゆりはセンドウと呼んでいたけれど、微かな違和感があった。それがこれか。

 悲しいかな、所内でハブられている私と他の研究員との関わりは素粒子レベルに希薄。会話中に出た名前を見聞きする以前に会話がほぼ無い。出たとしても"千藤(これ)"の呼称は基本『主任』で通っている。私は研究チーム発足時、研究員の顔見せの会合で名を一度聞いていたけれど、ちゆりはその場にいなかったものね。それに、ちゆりにとって情報源たる各個人研究室のネームプレートにフリガナは無かったわけで。

 うん、うん。そうか、そうか。と一人勝手に満足していたら、食べ終えたのか、水の入ったグラスに手を伸ばす千藤(ちとう)主任と眼が合った。

 少し間を置き、男は空いた食器をテーブル端に少し寄せ、椅子に腰掛けなおす。

 

「……岡崎研究員。何を、いや。何のようだ」

「あ、いえ、美味しそうなカレーだなと」

「そうなのか。それで」

「千藤主任に少し用事があったのですけれど、集中されていたようで、邪魔するのもあれかと思いまして」

「そうか。報告書か、相変わらず早い」

「ええ、こちらに」

 

 膝上に載せていた書類封筒を手渡す。

 淡々とした会話。敢えて本題を持ってくるのは避ける。似たようなのを行動心理学では何と言ったか。確か、"foot(フット) in(イン) the() face(フェイス)"? ―――違う、絶対違う。これだとただの顔面キック。何かが足りないような、多いような。

 

「第65次干渉実験、望ましい成果は得られませんでしたね」

 

 私の発言に千藤は姿勢そのままに、眼だけを報告書から私に向け、赤瞳に視線を交錯させた。

 有象無象が恐れるこの赤を、目も晒さず、静かに見ていた。

 

 

 × × ×

 

 

 この千藤汽笛(ちとうきてき)は変わった男だ。

 

 変わっていると言っても、私が彼の人となり何なりを詳しく知っているわけではない。

 知っていることを列挙すれば、物理学の研究者であること。四十半ばで研究者として学会で実績と名を挙げていること。この国家レベル研究の一つの主任研究員に任命されていること。人格等にまで言い及ぶなら、物静か。口数が少ない。食堂ではいつもカレー。そんなところ。

 ただ、私が彼にあるイメージというのは一つ。

 

 "嗤わなかった"ことだ。

 

 

 2003年3月某日―――。

 

 開催された春季物理学学会。私が発表した一つの論文。

 集大成として世界に提示した、新しい世界と摂理。

 

 『非統一魔法世界論』

 

 世界を観察し、記録し、再現していると常に付き纏ってくる"何か"。

 世界を観察していると、今の我々が摂理、因果等と呼んでいるものらでは理解出来ないもので溢れている。

 十の中ではまだ見えない。百も、千もまだまだ。万に、億に、それ以上のデータになって漸く顔を覗かせてくる、法則のようなソレ。

 ―――人は言う、ソレはバグだと。

 ―――人は言う、ソレはイレギュラーだと。

 そんなバグとイレギュラーの集積。そんなボタ山と評されるソレに、どうしようもなく惹かれた。

 研究者は解明せずには、知らずにはいられない人種。しかし、それはまた人間の本能なのだと思う。

 人間は知らないモノを恐れる。

 視界を白に焼き潰す閃光を神と、決して見通すこと出来ない深淵を悪魔と、丘の向こうや押入れの隙間、視えない心それらを纏めて魑魅魍魎と呼ぶように。

 知らないから、知ることのできる次元に落とし込める。

 本質すらも平気で捻じ曲げる。

 

 私は違った。その視えないけど、其処にあるソレが欲しい。

 怖くてこわくて、だけど知りたくて欲しくて堪らないソレ。

 どうか真理(ソレ)が、(コレ)を証明してくれますように。

 

 そんな想いから出来上がった一つの論文。

 魔素と名付けた粒子―――。魔力と名付けた力―――。魔法と名付けた現象―――。

 バグとイレギュラーの果てに存在する新世界証明。

 

 そんな"新世界"は世界によって蹂躙される。

 学会発表の場で巻き起こったのは、人間の嘲弄嘲笑の渦だった。

 よく出来たファンタジーだと、夢物語だと、やはりまだ子供だと、その理論は有り得ないと、観客達は嬉しそうに、さも愉快気に嗤う。

 彼らは何を言ってるのだろうかと。

 聞こえるのは、私への人格攻撃と論文の存在の拒絶ばかり。

 私が視て信じるものの存在は認知すらされず、否定さえされない。

 誰も、誰彼も、私の世界を『非統一魔法世界論』を見ていないかった。私は無意識に奥歯を噛み締めていた。

 

 大口を開けて嗤う人間達の歯の白と舌の赤さが浮かぶ世界に空白が一つ。

 其処には一人の男が眉間に深い皺を刻み込み、只管(ひたすら)に沈黙していた。

 その男は最前列中央、私の正面に座っていた。黒髪のオールバック。縁なしの楕円眼鏡。その奥の切れ長な目は瞑目している。

 備え付けの机に両肘を突き、口元で手を組んで俯く姿は、眠っているようにも、祈っているようにも見えた。

 

 ―――どうしたの、あなたは嗤わないの。

 

 有象無象が起こす小さな雑音は反響と同調を繰り返し、大きな不協和音となり会場が鳴動する。

 私の声は大海に放られた小石。水面(みなも)に打ち付け小さな波紋をつくっても、すぐさま大波掻き消される。聞こえるべくもない。

 受け入れられなかったモノは仕方がない、と。この"論文(世界)"は本物だと、私が思える。それで充分だった。

 それよりも、―――何故、彼は嗤わなかったのか。

 そのことばかりに感興を覚えた。

 

 卑しい歓声が冷め遣らぬ中、議場を退場する。扉が復元力に従い徐々に閉まりゆく中、会場を一瞥すると男と眼が会った。

 今と同じように、姿勢を崩さず眼だけを此方に向け、この赤目を凝視していた。

 扉のドアクローザーの油圧が高いせいか、自身の意識が深く集中していたせいか、扉の締まりゆく速度は極めて緩慢に感じられた。

 男に見詰められた私が男を見詰めるその瞳に私が映る。

 このまま見詰めていれば心中渦巻く疑念に答えてくれそうに思えて。

 互いに目を逸らすこと許さず、逸らすつもりもない。

 (ほど)けない視線は強制的に絶たれ――――――そして、扉は閉じられた。

 

 

 その後、"岩"の研究の為、国立第二超自然研究所に配属される多分野の研究者が招集、会合する場が設けられた。

 いつぞやの学会で挙げた私の悪名は語り草となっているようで、私の事を知る者は嗤い囁き、知らない者は明らかな面倒事と赤い瞳を避けて遠ざかった。

 そのような中、やはり彼だけは嗤わず、遠方からこの赤目を見つめ、眉間に深い皺を刻み込んでいた。

 

 この千藤汽笛(ちとうきてき)は変わった男のままだった。

 

 変わったと云えば、私からの彼の認識が代名詞()から固有名詞(チトウ)に変わったことと、千藤の黒のオールバックに白髪が目立つようになったことだけだった。

 

 

 × × ×

 

 

「その、ようだな」

 

 千藤は赤目を凝視しながらも、何の感慨も籠っていないような平坦な調子で応えた。

 

「主任さん、そんなに熱烈に見詰められると照れてしまいますよ」

「そうか」

 

 千藤は短く端的に言葉を発すると、赤瞳から目を離し、報告書の束に視線を戻す。機械的な動作で書類の角を指先で弾いては捲り始めた。

 ふと周囲に目を向けると、小煩い騒めきは遠退いていた。

 私と千藤が座る丸テーブルを中心に人的真空が形成され、他の研究員達はそのバッファーゾーンの外へ自主的に弾き出される。遺憾ではあれど、私の赤目、未知の危険の可能性、それに思い至れる頭があるならこれが普通の反応だとも言える。

 ともあれ、食堂という共同コミュニティスペースで、他者に気兼ねすることなく会話が出来るスペースが確保できたのはありがたい。別段、会話を秘密にするつもりはなかったのだけれど、遠慮なく使わせてもらおう。

 

「主任さんはこの目が怖くないので?」

「どうだろうな」

「あまり見つめられていると感染するかもしれませんよ?」

「視線で感染する、そのような報告は無い」

 

 報告書の確認の片手間に応える千藤。

 千藤主任はこの場で報告書の確認を済ませようとの腹積もりのようで、その間の世間話程度には付き合ってくれる雰囲気だ。研究者の世間話は当然、研究にまつわるものだ。髪の話はオジサマが多い学会界隈ではセンシティブであるし、定番の天気の話題を振ろうにも我々研究者は基本インドア、それも活動中心は地下だ。天気のての字もない。

 

「あら、つれない。赤目と言えば、白塩化症候群について新しい報告がありましたね。白塩化症候群の発症時に『死亡』するか『凶暴化』するかは遺伝子レベルで決定される可能性。あまりつれなく当たられると、私の遺伝子の中の秘められしパゥワーが目覚めて凶暴化してしまうかもしれませんよ?」

 

 最近報告された変異感染者の調査の話題を振る。内容としては興味深いが、遺伝子差別を助長させかねない、あまり行儀の良いと言える代物ではなかった。

 

「白塩化症候群と感染者は我々の研究対象ではない。埒外のことだ。……その報告は捏造だ」

「さすが主任さん。お耳が早い。しかし、捏造というのは初耳ですが何か根拠でも?」

「論拠が『回収した感染者に、一部染色体の異常が多く見られた』などではな」

「塩化した人間が健常時のままであるとは考えにくいでしょうね。染色体の異常が事実だとしたら、それはそれで脅威ですけど。それだけで奇病の因果を語るには乏しいでしょうね。報告する前に思い至りそうなものですが」

「感染性の奇病、という扱いだ。それを預かる国立感染症研究所など権威ともなれば、……上からの期待は相応にかかるものだ」

 

 他人事ではないが。千藤主任はそう付け足すように呟くと、グラスに手を伸ばし、出かかった言葉を呑み込むかの様に水を一口静かに呷った。そこには捏造が故意的である可能性が言外に含まれているように見えた。

 上からの圧力に駆られた現場の暴走の可能性を考慮したが、仮にそれがあったとしても、組織を守る安全機構(セーフティ)が働いて、この手の不祥事が表に出ることは、そう無いだろう。少なくとも、千藤主任がそう言ったように、埒外の私達にまでこれほど早く話が出回る事は無いはずだ。とすれば、より上位の、いわゆる政治的判断というやつの可能性が見えてくる。

 日本国政府は他国から奇病の原因解明の追及を受けて続けている。とは言え、全くの未知に対しての研究は芳しくない。そうなると他国、この場合は同盟国でない国、から研究への付け入る隙を与えることになる。それら他国からの当座の追及を躱す為に、成果の一つとして捏造報告を上げた可能性はありえそうだった。捏造だとしても偽装や隠蔽の類でなく、原因の可能性の提示であれば、その後、誤りであったと判明しても幾らでも身の躱し様はあるだろう。遺伝子差別を生み兼ねない論拠も、いたずらな情報の拡散を抑えさえ、追試での確認を慎重にさせて時間を稼ぐには丁度良い方便、というのは流石に邪推というものかしら。

 しかし、世間話がとんだ陰謀論に大変身。勘の良いガキは嫌われるもの、下手なことを言って藪蛇なのはゴメンである。

 

「まったく、宮仕えはツライものですね」

「他人事か」

「失礼。現場の人間でないもので、つい」

 

 話し込み過ぎて気が緩んでいたのか、軽い悪態をついてしまう。内心ヒヤりとしたけれど、千藤主任は気分を害するわけでもなく、静かに鼻息を鳴らしただけであった。他の所員同様、主任にも厭われているものとばかり思っていたが、そうでもないのかもしれない。単にこの男が極めて割り切った性格なだけであったり、自身の希望的観測に過ぎないのかもしれないのだけれど。

 

「以上か。雑談がしたければ君の助手とするがいい」

 

 一瞬、報告書から逸れた主任の視線を追うと、食堂の扉の陰から見慣れた水兵帽と逞しいツインテールの片割れがチラチラと覗いていた。ちゆり、あなたは隠れているつもりなのでしょうけど、果てしなく無意味よ。

 しかし、目敏いな千藤主任。主任、目敏い。

 

「いえ、実験について少しだけ。18の干渉実験はどれも鳴かず飛ばずでしたね」

 

 本題に持ってきて反応を窺うも変化は無い。

 千藤主任は何構わず機械じみた所作で報告書の確認作業を続けている。こちらも構わず続けることにする。

 

「物語の読み聞かせにクラシック音楽鑑賞。童話から三編を多言語での読み聞かせに、音楽はドヴォルザークにワーグナーですか? 何時から科学者は劇作家や音楽家になったのでしょうね。本当、儘ならないものですよね。いっそのこと思い切り叩き割ってみるのは如何です。案外、"岩"から生まれた岩太郎とか生まれるかもしれませんよ」

 

 淡々と報告書の端を弾いていた千藤主任の指が一瞬止まる。

 あら、釣れた。けど、どこに喰い付いたのか。

 

「童話が人魚姫と白雪姫、灰かぶり姫と姫系に集中してますが、これのチョイスは"岩"が姫萌えという学術的判断なんでしょうかね。それとも主任さんのご趣味…」

「割れるものなら、既にやっている」

 

 食い気味で千藤が閉じていた薄い唇を開いた。

 

「そうでしたわね、つい」

 

 再び出かかった毒をぐっと抑え、相槌を打つ。

 そうね。アレに対して常識的なアプローチが通用するのならば、どんなにラクなことか。

 視線を食堂のタイル床にちらと向け、思う。

 "岩"はこの食堂の地下深く。研究所の最下層の一室で今も眠っている。

 調査開始から僅かひと月、研究は行き詰っていた。と言うのも、"岩"に対しては如何なる物理的干渉が通用しなかったからである。

 私はデータでしか確認出来ていないが、熱や圧力、流量、光、磁気その他外界からの干渉を"岩"は受け付けないとのこと。内部を調査しようとX線や超音波を用いても、波動が"岩"の外殻部で干渉遮断されているとレポートにあった。他の干渉も同様"岩"の外殻部で全て干渉遮断されているようで、加熱しても冷却しても一定の温度を保ち続け、光波や電磁波を照射しても波動は遮断。圧力を掛ければ装置の方が破損する始末で、"岩"本体からは組織の一片すらも採取が出来ていない状況だ。

 計測出来た数値は直径約1.85m、重量約75kg。"巨人"や白塩化症候群患者の塩化部に類似した白色結晶質の球体。表面温度35℃程で推移。一定の間隔で振動を"岩"側から片方向に放っている―――と、その程度の情報。実質"正体不明(no data)"のままだった。

 しかし、そんな残念極まりない情報はここの研究員であれば知っていること。この男が反応して、親切にも間違いをわざわざ指摘するような要素ではない。

 だとすれば、発言の内容ではなく、どうして発言したのかこそが重要。

 

「主任さんは"岩"(あれ)、何だと思います?」

「何とは、含意に富み過ぎる」

「色々な説が飛び交っていますよね。便宜上は"岩"と呼称してはいますけど、あれは岩石や鉱物の類ではない。【6.12】から回収されたアレ。未だ外部から干渉を拒み続けている。それは逆に外部から一切のエネルギー供給を受けていないという事。それなのに"岩"は回収されてからの間、変わらない温度を保持し続け、振動を、いや脈動を放ち、活動している」

「それがどうした」

「無尽蔵なエネルギーって感じですよね。国は白塩化症候群や感染者の為にって研究させてますけど、本当は新エネルギーを解明して世界を牛耳りたいとか考えてたりして」

「それは一介の研究職でしかない我々が考えるべきことではない。政治談議なら他所ですることだ」

「失礼、話が逸れました。つまりは"巨人"の心臓だとか、"竜"の卵だとか、好き勝手に言われてますよねって話です。私的には結構まじめに岩太郎推しなんですけども」

「―――何が言いたい」

「最初に申し上げた通りですよ。主任さんも"岩"(あれ)が、いや"岩"(あのコ)が唯の物質ではない。そうお考えなのでは、と」

「…………」

 

 千藤主任は沈黙し、報告書の束を見る目を僅かに細めた。未確認の報告書頁は残りわずかにまで減っていた。

 岩太郎の名前こそ思い付きから出た戯言であって、発言の核は別にある。

 他の研究機関の例にもれず、物質の性質や現象の解明解析、基礎研究から始まった第二研究所の仕事は、他の研究機関の例にもれず早々に行き詰まった。"岩"への積極的干渉実験も開始されていたがひと月程で、干渉アプローチは物理的なものから精神的なものへと変わっていた。研究員達自身、持っていた科学的常識を使い果たしてしまったというのもある。何より"岩"に対する認識が、他の研究員がどうかは知らないけれど、この千藤主任の中で変わりつつあったのだろう。実験案は各研究員から提案されるものであるが、それらに対して、最終的なGOサインを出すのは研究所の責任者である主任研究員の千藤汽笛だ。

 彼もその石仮面の内側では思っている、思わずにはいられないのだろう。

 

 "岩"は、生きているのではないかと。

 

 割った中に何かいるのか、あの球形全体が一つの形態なのか、はたまた全く別の何かなのかは判然としない。ただ学者の直感がそう告げるのだ、アレは物質ではなく存在である可能性を。だからこそ、彼は沈黙している。この沈黙は肯定だ。

 暫しの沈黙が空間を支配する。

 すっかり沈黙してしまい、途切れてしまった会話。

 そんな澱んでしまった流れを戻そうかと思っていたら、

 

「アレは、人智の及ぶものでは無い」

 

 千藤主任は遠く、虚空を見るような眼をして言葉を紡ぐ。

 

「干渉不可な以上、調査の仕様が無い。あれを解明できる理論を、今の人類は持ち合わせていない」

「……なら、新しい視点が必要なのでしょうね」

 

 小さく吐いた。

 小さくも、私の本懐、本心が込められた言葉。

 その言葉の裏の真意に目敏く気付いたのか、千藤は間髪入れずに返す。

 

「駄目だ」

 

 その言葉を無視し、被せるように言葉を重ねていく。途切れさせはしない。

 

「どうです、私を実験を加えてみては。私が招集された理由の一端は、多分にあの論文を発表したイロモノ枠でしょう」

 

 ―――丘の向こうを見る為には足を進めなければ見える世界は変わらない。

 

「許可できない」

 

 ―――貴方はきっと怖いのでしょう。今ある常識が、世界が壊れることが。

 

「訳の解らないモノを研究していた研究者に、訳の解らないモノを研究させれば、何か解るかもしれませんよ」

 

 ―――丘の内から見える世界で満足していたい。だけど、

 

「報告書は確認、受領した。次回の報告書を待つ」

 

 ―――丘の向こうへの道筋は私が示したじゃない。

 

「岡崎2003『非統一魔法世界論』。貴方は嗤わなかったわ」

 

 ―――嗚呼、駄目ね。こんなのは素敵じゃないわ。

 

 

 静かな言葉の応酬はそこで途切れた。

 氷河の様な冷たい静謐。

 私は瞑目して静かに息を吐き、やってしまったなと自己嫌悪に浸る。

 熱に浮かされるがまま言葉を吐き続けた。交渉のつもりで、あれやこれやと考えを巡らしていたのに結局はこうなった。

 最後の言葉は他者が聞いても理解出来ない内容。いや、この男にしても過去に邂逅していたことなど記憶の彼方になっているかもしれない。

 閉じていた瞼を開くと、虚空に向けられていた男の視線が私に向けられていた。

 その目は切れ長の目は、睨むでもなく、唯々、静かであった。

 

 

 × × ×

 

 

 食堂に備え付けられたスピーカーが、時限のチャイムを鳴らす。

 千藤主任は書類封筒と空食器の乗った盆を手に席を立つ。

 そうね、これ以上は無駄でしょうね。―――でも、

 

「一つだけ、訊いてみても」

 

 席を立った彼は、首を振るでも頷くでもなく、静かに見下ろしていた。黙っているその姿は「続けろ」とでも語るようであった。

 そうだ、明確に言葉にしてもらわなくては。仮説は実証してこそ、その正当性を示す。

 

「あなたは、『非統一魔法世界論』を信じているの」

「……君の理論を私は用いない。それが答えだ」

「だったらどうして、あの時、あの場所で、あなたは嗤わずにいたの」

「一つと言ったはずだ」

 

 千藤主任はそう言い残し、席を離れていく。

 

「そうでしたね、失礼しました」

 

 私も席を立つ。そのまま、立ち去ってゆく男の背に静かに言葉を吐いた。

 

「諦めませんから」

 

 一瞬、千藤主任は歩みを止めたが、振り返ることなく、そのまま食器盆を返却口に置き扉から出て行った。

 

 

 × × ×

 

 

 休憩時間が終了し、まばらに残ってた数少ない人も退出して各々の持ち場に戻っていく。その人流に逆流して此方に向かって来る小さな影があった。

 

「想い人への告白は上手くいったか?」

「残念。友達のままでいましょうって言われたわ」

 

 そう、交渉は見事決裂。

 それも、今までは研究だの、実験だのとで先送り、はぐらかされていたのとはワケが違う。明確な否定。僅かな期待のようなモノを抱えていただけに、流石に凹むものがある。

 身体を動かしたわけでもないのに酷く疲れた。

 

「友達と呼ぶ間柄ですらねぇでしょうに」

「ちょっと?」

「聞きましたよ、主任さんのお名前。珍しく他人(ひと)に興味持ったかと思えば、名前間違ってたとかガバガバじゃねぇですか」

「ぐ……、けどそこは『教授、大丈夫ですか』とかじゃない? 慰められる用意と心構えはできてるわ。さぁ」

「教授、大丈夫です。あまりに暇だったんで、お昼ごはん持って来ましたよ」

「ちょっと?」

 

 ちゆりは良い笑顔で右手を掲げる。

 その手には研究室で見たビニール袋をぶら下げられていた。

 一瞬、この子の中で『お昼ごはん>私』の図式が出来上がっているのかと思い、私はサンドイッチ以下の存在なのかと軽く絶望する。

 

「昼休憩終わってんです。ダラダラ居座ってたら片付けされる方の邪魔です」

「それなら自室でだって」

「もうご飯持って来てんです。それに、ずっと地下生活なんてキノコ生えますよ。陽の光浴びてください」

「わかりました、降参、こーさんです。向こうのウィンドウシートにしましょうか」

「窓際席ですか、良いですね。教授的で」

「あらあら、それはどういう意味かしら」

「頑張れって言ってんです。らしくない。お好きなのどぉぞ」

 

 ちゆりは素っ気なさそうに言うと、いただきますと呟き日本式食前礼を簡易に済ましてサンドイッチを頬張る。全くしっかりしている。私の方が3つほど上のはずだが、そうは感じさせないしっかりさだ。しかし、美味しそうに食べるもので、その様を見ていたらこちらまでお腹が空いてくるというものだ。

 

 

 × × ×

 

 

 昼食を摂り終え、風景を眺めながら紙コップ自動販売機の紅茶を啜るのんびりとした時間。

 千藤汽笛への直談判で脳は相当疲弊していたのだろうか、苺サンドの甘味と酸味は味覚に濃く感じられ、糖分が脳に染みた。

 食堂内の人間は私とちゆりだけになっていた。

 他の職員、他の研究者であれば、研究だの経過観察だのと各々にこなすべき業務があるのだろうけど、私の決められている業務は報告書の編纂、作成のみ。次の第66次実験が開始するまでは、考察するような情報も、纏めるべき報告も無い。

 消化吸収の為、血液が脳から消化器系に集中し、代わりに不足していた糖分が脳に補給されていく。止めの陽気な日差しコンボが差し込んでくるわけで、意識は確実にダイバーダウンしていった。

 

「教授、結局何を話してたんです? 遠目には静かなもんでしたが」

 

 広く静まり返った食堂の一角で、血液濃度の低下した頭をうつらうつらさせていたら、隣で同じく紅茶を啜っていたちゆりが訊ねてきた。

 何を、か。そう言われると、何を話していたのだろうか。抗いがたい睡魔に半分降伏していた私は、机にうつ伏して頬に机の心地好い冷たさを感じながら応える。

 

「何だっけ。主任さんは姫萌えなのですかとかー、岩太郎とか」

「はい?」

 

 何言ってんだこいつ? の副音声まで聞こえた気がした。

 いや、訊いておいてその反応はどうなのよ。まぁ、気にせず続けるのだけど。

 

「あー、あと政府の陰謀論とかかしらね」

「あーはい。もう結構ですよ。どうにもまともな会話じゃなさそうなんで」

「あとは"岩"は単なる物質でなく存在かもねで見解が一致したわ」

「待って。それってどういう事ですか? というか、そんな大事そうなことは一番に言って下さい」

「それに彼、『非統一魔法世界論』を用いないと言い切ったのよ? 酷いと思わない?」

「ストップ! ストップです教授! それは残念無念ご愁傷様なんで、一つ前に戻ってください!」

 

 柔らかい陽射しの中、薄らいでいく意識の中、お口から記憶垂れ流しにしていたら、ちゆりの琴線に触れるものがあったのか、席から飛び上がると私の方を掴んで起きろとばかりに激しく揺さぶった。

 彼女は私の助手ではあるが、それと同時に一介の研究者だ。興味を惹かれるのも解る。解る、解ったから揺らすのや、止め…ッ! 起きる、起きるます!

 

「うぅ…、それで何だったかしら。"岩"がどうかしたの」

 

 モソモソと居住まいを正して、一息。酸素を取り込み、脳をしかと働かせる。

 

「どうかしたいのはこっちのセリフですよ。"岩"が何か解ったんですか?」

「いいえ、解らないわ。いや、解らないことが判った、とでもいうのかしらね」

「話がよく見えてこないのですが、それは」

「ふふん。私の講義は高くつくわよ、ちゆりくん!」

「一 回 で 良 い ん で ブ ン 殴 り、」

「よよっ、よし! じゃあ、ここで視点を変えてみましょう! ちゆりは白塩化症候群の変異感染者についてどこまで知ってるかしら?」

 

 腰だめでキュッと拳を握り込むちゆり。その大きな金眼が睨むとそれはそれは迫力がある。美人は怒るとコワいとはよく聞く言い回しであるが、なるほどなと思わされれる。

 

「変異感染者? "岩"でなく? ……現時点で分かってることを言えば、白塩化症候群を発症した者の内、『死亡』には至らず『凶暴化』した個体です。『塩化』に加えて『赤目』の形質を獲得し、人類に敵対的な反応を示す人類の敵って感じです。この『凶暴化』と『塩化』と『赤目』の程度は、個体差有りの但し書きは付くものの、概ね相関するものとの見方が強いですね」

 

 ちゆりは私からの問いに僅かに疑念を抱いたようだが、即座に思考を切り替えて能う限りの答えを列挙する。流石の思考の柔軟性ではある。ただ切り替えが早過ぎたのか、拳構えた姿勢そのままウンウン考え込んでいるのがなんとも可笑しい。

 

「2004年9月の事件。政府要人が新宿区で変異感染者に殺害されての報道。あれで国内での変異感染者の認知と、新宿封鎖の世論が形成された事で『新宿封鎖計画』に踏み切れた事を思えば、万事拳王が馬ってやつかしらね」

「塞翁が馬な。世界の現状、世紀末に向けて坂道転げ落ちてる感無くはねぇですが。しかし、月の頃までよく記憶してますね。主任さんの名前はすっぽ抜けてたのに」

「他の所員なら名どころか顔すら怪しい自信あるけど?」

「おぅ、威張るとこじゃねぇんですよ」

 

 せいっ、ともっともらしい声と共、チャージされていたちゆりの拳が飛んでくる。飛んできた拳は軽く緩やかであったが、食後の弱い脇腹に刺さり「うっ」とも「んっ」とも「むっ」とも付かない情けない苦鳴が漏れた。

 ちゆりは満足したのか、席に腰掛けなおし、紙カップに入った紅茶の水面を見詰めて続ける。

 

「その事件報道もですが、変異感染者という観点に絞るなら、事件以降も新宿区封鎖域に意図的に残っていた報道系が変異感染者に襲われた映像の方が影響は大きい気がします。映像がインターネット上に出回ってますから、誰でも見ようと思えば見れるのは大きぃですよ。百聞は一見に如かずってやつです」

「突如ネットに流出、拡散した経緯的に、揉み消し指示からの反発、リークじゃないかなんて騒がれてたわね」

「そこはなんとも。映像記録に残された、並の変異感染者と異なる個体の姿と、犠牲者らの被害状況が、前線で変異感染者と対峙してる方らの間で噂話として広まっていた変異感染者の習性や性質と合致。今の相関見解の大本となってます」

「犠牲者らが『壁』設置前から封鎖域に入って活動を続けていたとなれば、最低でも1か月、変異感染者だらけの新宿封鎖域で生き延びていたことになるわね」

「……すごい、バイタリティですよね」

「彼らは、世界の誰よりも変異感染者の危険度と習性を理解していたでしょうね。そんな危険を躱し続けてきた猛者達を襲撃したと言う事実。『赤目』の顕著化、『塩化』部の巨大化など外見の変化のみならず、症状が進行した変異感染者個体の人類への敵対性、身体能力を含む『凶暴化』の評価が改められる切っ掛けにもなった。英雄と呼んで申し分ないと思うわ」

「―――えらくはっきり称賛しますね。賛否あれど、封鎖域で活動していた犠牲者らを自業自得と非難するのが当時の主流でしたけど」

「それでいいのよ。模倣者が出て来るのは、彼らの望む所ではないでしょう」

「……何が、彼らをそぉまでさせたんでしょうか」

 

 そう零したちゆりの顔はどこか寂しそうな顔をしていた。亡くなった者達のこと悼んでいるのだろう。それは美徳ではあるが、この先、決して優しくない世界で、研究者として在り続けるには不安にも思えた。

 何の慰めにもならないが、一つ無駄話をすることにしよう。研究者と言うのは無駄話しないと死ぬ生き物なのだから、仕方がない。

 

「これは完全な憶測だけれど、彼らは、既に白塩化症候群に罹患していたのでしょうね」

 

 私の発言にちゆりは紅い水面からこちらに豆鉄砲を食らったような顔を一瞬向けると、そのまま視線を自身の視覚左下に寄せる。深く思索を巡らせているようだ。

 発症しても、即『死亡』や『凶暴化』するわけではない。死亡率は100%ではあるものの、その始まりから終わりまでの経緯には個人差がある。人は己が死を自覚した時、何を思うのか。

 彼らの遺した映像は、手振れの酷い、突如録画を開始したと思しき状況から始まる。始まりの時点でどこからか、男のものとも女のものとも付かない絶叫が木霊している。カメラマンは取り乱す様子も無ければ、安否を確かめるようなこともなく、無言で絶叫の方向、塩塵舞う路地に画面を向ける。

 およそ尋常の精神状態ではない。おそらく、事前に取り決めていたのだろう。この映像を見た者の多くは先の絶叫を『悲鳴』と呼んだが、それは主観に過ぎる。客観に見るなら『絶叫』であるし、視界主の行動、精神を察するにこの者は『断末魔』と理解したに違いない。私達の悲鳴は誰にも聞こえない。地獄にいることを理解している、行動がそう示していた。絶叫は止み、路地からは大きな影が覗かせた。

 ―――並の変異感染者は、その呼称の厳つさと、死亡事故被害の脅威度の割に見た目は普通の人間と大きな差はない。それこそ人権団体が変異感染者への武力行使にデモを起こしたり、その手の議論を呼ぶ程度には、人間の共感性を誘う形をしている。

 けれど、そこから現れたのは全身が塩化部で覆われた出来の悪いデッサン人形のような姿形をした存在であった。体高は推定2m程、手足の比率が常人と大きく異なり、特に腕部が長く直立姿勢でも手が地面に届く程。映像流出当初は、人間以外の何かの可能性も疑われていたが、この存在の塩化部体組織に生前の感染者が身に着けていたであろう衣服の一部が巻き込まれていたことと、赤目の共通項から、変異感染者に連なる個体であると断定された。

 その白い巨体の赤い双眸がこちらを向き襲い掛かる。映像は逃げて投げ出される所か、ブレることすらなく対象を捉え続け、悲鳴か、断末魔か、雄叫びか、故の知らない絶叫を最後に残し映像は途切れる。

 

「事実なら、彼らの評価は改められていいかもしれませんね」

「そうね、彼らの献身的な行いは美化、正当化され、他の感染者が尖兵にされるでしょうね。自らの行いのおかげで」

「……なるほど。模倣者、は出したくないでしょうね。自身も感染者であったなら尚更」

「やりたいからやった。覚悟も決まってた。尻拭いもきちんとした。立派よ。ちなみに頃合いは同年12月初頭ね。なに、クリスマスまでには帰れるさ」

「教授、それ死亡フラグってやつですよ。あぁでも、彼らも言ってそうですね」

「なぁぁんて、ぜんぶ憶測なんだけどね?」

「む、――――そうかもしれねぇです」

 

 ちゆりはむくれ顔になりかけるも、窓の外遠くに目を向けて、少し深く息を吸う。そして、何とも言えない顔で溜息と共に呟きを吐き出すと、すっかり温くなったであろう紅茶を飲み干した。

 そう憶測だ。映像には彼らの自身の姿などは、一切、徹底的に映されていなかった。だから憶測でしかない。彼らの最期は悲惨だったかもしれない。それでも、ただ憶測として、その旅路の全てが絶望では無かったと、救いの瞬間はあったのだとも思える。

 やれ、些か無駄話が過ぎたかしらね。内心そう独り言ち、私もすっかり冷めてしまった紅茶を啜る。

 

「同じ白塩化症候群発症者でも、ここまで症状の違いがあるってのは、なんなんですかね」

「気の持ちようだったり?」

「プラシーボですか」

「じゃあ個人差ね」

「身も蓋もねぇぜ」

「とは言え、アレコレ語れる程度には観測出来てるのよね」

「感染者は"岩"と違って物理アプローチが有効かつ、サンプル元もより取り見取りですから、実験方法、実験試料には事欠かねぇでしょう。それでも研究難航してんですが。それで、変異感染者と"岩"がどぉ関係あんです?」

「どうかしらね。さて、変異感染者達は今どこで、何をしているのかしら」

 

 私の発言に怪訝そうに眉をひそめるも、「そりゃ」と、ちゆりは静かに指を窓の風景、その遠景に(そび)える『壁』に向ける。

 

「『エリコの壁』の中でしょう。何をかは見当付かねぇですが」

 

 ちゆりが指し示す先には、風景の奥からずっとその姿を覗かせていた巨壁があった。

 

 ―――『エリコの壁』

 

 2004年9月の襲撃死亡事件を受け、翌10月から実行された『新宿封鎖計画』により築かれた『壁』。聖書に因んだ名のそれは、新宿区東京都庁を中心に半径およそ3~4km程の範囲を囲むように築かれ、高さは凡そ30m程とビル10階相当にも及ぶ。壁付近の内外の建造物は、変異感染者が昇ってくる可能性を潰す為や、戦闘領域、部隊展開のスペースの為に解体されている。周囲に比肩する建造物が無いことで、見る者に『壁』の高さを実数値以上に高く感じさせる。

 日本国内の世論は新宿封鎖の方針で固まっていたが、海外からの批判は大きく多数の反対デモ、非難があったものの、封鎖策は実行され、結果として白塩化症候群と変異感染者の脅威を遠ざけることに成功した。壁周辺には自衛隊と武装警察、一部の自警団が展開され、今もなお鎮圧と防衛に当たっている。

 

「そう。彼らは『エリコの壁』により隔離された新宿区封鎖域にいる。封鎖域への突入は感染リスクを大きく増大させる都合、今なお武力行使は封鎖域の外部『壁』で膠着しているわ」

 

 彼女が指し示したものについて、互いの情報の確認も込めて補足する。

 

「教授は回りくどいんですって。つまり変異感染者が何だって言いてぇんです?」

「あら、駄目よちゆり。焦れるのは解るけど、科学者は結果ではなく過程こそを重視しないと。それに、あと二点。ちゆりは変異感染者に対する認識が足りてないわ」

「……何です」

 

 ちゆりは身体ごと此方に向けると、椅子の上で少し小さくなった。研究者としての在り方について思い直してくれたようで何よりだ。

 私は教授。「研究をする」「教え子も守る」「両方」やらなきゃいけないってのが「教授」の難しくも楽しいことね。

 シュンとした様子のちゆりは片手で水兵帽を弄りながら、上目がちにこちらを見る。その視線は時折、視線が左上に左下にと泳ぐ。今この時でも思考放棄せず、記憶と知識を洗っているのだろう。見たこと、聞いたこと、自身の内にある情報を。言われて自覚して、即行動に移す。さすが私の助手。

 そんな良い子をあまりいじめるのも良くないわね、いじるのは止めないけど。一つ目を教示することにしましょうか。

 

「一つは、変異感染者はとても働き者だという事よ。変異感染者は隔離から凡そ一年半。その数の自然減少は確認されていないわ。新宿封鎖域にはまだ、少なく見積もって数千、それか万単位にも及ぶ変異感染者が存在していると言われてる。さて、ここで疑問。彼らはどこからエネルギーを得ているのかしら」

「人間を捕食、……なんて如何にもな話は今のとこねぇです。凶暴化した個体の噛みつきに因る死傷事例は記憶の範囲だけでも幾つかありますが、そのいずれも捕食目的ではなく加害手段の1つであったと見られてます。そも、封鎖計画以後の新宿封鎖域に並の人間はいません」

「人間が無ければカップ麺食べればいいじゃない」

「……嫌過ぎるでしょう、カップ麺啜って缶詰で食い繋いでるゾンビとか。封鎖域には事業者や家庭に日持ちする食糧が相当量残されているそぉですが、それらを消費してるなんて話は聞きませんね」

ケイ素生物(シリコニアン)の可能性は? ケイ素生物と炭素生物の生存競争対立はSFではよくあるテーマだけれど」

「ねぇです。白塩化症候群罹患者の外観的特徴から真っ先に調査され、今なお行われてる続けてる追試の結果でも否定されてます。もしそうなら、変異感染者の群れがビルに齧り付いて穴あきチーズにしてたんでしょうかね」

「夢のある光景ね」

「ねぇよ。あっても悪夢の類です」

「太よ、」

「太陽光を超効率に活動エネルギーに変換している説もなしです。封鎖域及び感染者から異常な電磁波は観測されてませんし、変異感染者が日当りの良い場所を好む習性、行動も確認されてねぇです。地下での遭遇事例報告だってあるです」

「アァン、途中ダタノニ。……そうね、『エリコの壁』に目が行きがちだけど、『新宿封鎖計画』は地下のトンネルや暗渠、配管といった場所まで潰したり埋めたりと徹底してたから。その時の記録ね」

「あくまで人間への加害、殺害が目的の行動ばかり。そもそも摂食を必要とするのかも不明。……解らんです! 霞でも食ってんじゃねぇですか!?」

 

 ぬがーっ!なんて擬音語が似合いそうな感じで爆発したちゆりは、頑張っていた眼球動作を止め、キッと私の目を凝視して詰め寄る。

 悩んだ甲斐があったじゃない。答えが出たわよ。

 

「あら、良い線いってるわよちゆり。そう、変異感染者もあんなでも元人間。みんな結構忘れがちなのか、もう人間でないと無意識に思ってるのかは知らないけどね」

「通常の感染者は別として、凶暴化した変異感染者を人間と見なす人はそういねぇですよ。生きている変異感染者がいながら発症死亡率100%って言われてんのは、―――そぉ言うことです」

「死亡扱いされても、彼らは現実に在るのよ。通常の人間なら絶食後、約1日で肝臓と筋肉に蓄えているものがすべてエネルギーとなり全身で使い果たされる。それらを使い果たしたせば、次は肝臓や筋肉が、ついで肝脂肪、更に飢餓状態が進むと、体脂肪や皮下脂肪など肝臓以外の脂肪がエネルギー源となる。水分を摂取出来たとして絶食から生存可能なデッドラインは2~3ヶ月程度。この限界を越えれば死亡、餓死に至る。だけど、変異感染者達は死滅することなく未だに活動を続けている。これが生物災害(バイオハザード)とかのゾンビだったら、隔離から一年半、今頃みんな壁の向こうで人間ビーフジャーキーになってお終いだったでしょうね」

「人間なのか、牛なのか」

「人間ジャーキー」

「はい。えぇと、つまり」

「つまりは、変異感染者は喉渇いたりお腹空かないのかな? ってこと」

 

 ぺらぺらと長ったらしく説明したが、つまりはそういう事。一行で事足りわね。

 

「―――まとめだけ聞くと、何言ってんだこいつって思われそぉですね」

「だから言ったじゃない。過程こそ科学者の恋人だって」

「そこまでは言ってねぇです。で、それが"岩"と何か関係が?」

「あら、言わなかったっけ? まぁ、いいわ。それより、似てると思わない? 変異感染者と"岩"の状況。互いに隔離された状況。その中で互いに活動を継続している。活動している以上はエネルギーを必要とする。だけど、エネルギー供給無い。いや、無いはずがない。だとすれば、それこそ私達が知らない所で霞のような"何か"を摂取しているということ。これが"解った"一つ目の"解らないこと"ね」

 

 そう、"岩"も感染者も外部からのエネルギー供給無しに活動している、ように見える。見えてしまっているだけ。

 未だ常識の丘の内側で動けないでいる私達が見ているのは、感染者らが、"岩"が丘の地平線に立つその影だ。その影の裏、いや表かしらね。彼らが屹立する地平線、丘の向こうにこそ、新しい世界がある。

 

 

「……それで、もう一つはなんです」

「単純よ、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 間が空く。私は半身で彼女の方を向いたまま、彼女は真正面に私の方を向いたまま。

 決して長いものでは無く、息を一つ飲む程度の間隙(かんげき)

 

「―――教授は、"岩"が人間だって言うんですか!?」

 

 張り詰めて緊張していた空気の糸はちゆりの驚嘆によって切られた。

 そんな変わったことを言ったつもりは無かったのだけれど。

 

「どうかしらね。そうそう、私は"岩"(あのコ)を岩太郎って名付けたのだけど、良い名前じゃない?」

「ねぇです。 じゃなくて! 名前は果てしなくどぉでもいいです! というか、人間にしか感染しないと決めつけるには、」

「そうかしら、現に白塩化症候群は"人間"という種にしか確認されていないわ。犬猫は勿論、人類に近しい霊長類にも感染の兆しすら無かった。其処にどの様なプロセスが介在しているかは解らない。検証も足りないかもしれない。だけど、これは一つの事実」

 

 私の発言をちゆりは片手で帽子の縁を弄りながら黙々と聞いていた。一拍置いて、弄る手が止めてから静かに言葉を放つ。

 

「仮に……、仮にそうだとして、"岩"が感染者だと、元人間だとする根拠にはならねぇです。今まで確認された変異感染者らに"岩"のような形態をしたものは確認されてねぇじゃないですか」

「あら、私は"岩"(あのコ)が感染者だとは言ってないわ。ただ、"岩"そのものについて考えてどうしても解らないのなら、視点を変えてみればと言っただけ。感染者は視点の一つでしかなわ。そして、現状で我々が解らないモノの要素には、"人間"という要素が一緒に存在している」

「見解の一致、と言うのは主任さんもそう考えてるってことですか」

「最近の実験内容の傾向を見る分には多分にね」

「物語の読み聞かせに音楽鑑賞、どれも人間的な高度知能を試すものばかりではありますね」

「そもそも前提が間違っていたのよ。私も含め、研究者らは最近までは"岩"を未知の物質だと考えていたわ。それこそ、白塩化症候群や凶暴化を引き起こす未知の物質の塊か何かじゃないかってね。だけど、"巨人"や"竜"はおろか、白塩化症候群、その感染者にですら解っていないことを"岩"に解答を求めるのは間違いだったのよ。前提が間違っているから目的も、手段も間違う。なら、前提を問い質す必要がある。「"岩"は何だ」「物質だ」そうじゃないわ。「わからない」でいいじゃない。そっちの方が研究者としてよっぽど誠実だわ」

 

 問題の再提起を脳裏に浮かべ、言葉として発現させる。その言葉は自身の耳にも入ると、耳孔の奥から直火で脳漿を沸々とさせる。

 そう、この「わからない」の段階に千藤主任はいるというのに、その上で私の論文を蹴ったのよ。重要性、可能性とも考慮出来ない研究者ではないだろうに、そこまでして私を研究から排斥したいのか、何なのか。

 紙コップを握る手に力が籠ったのか、容器の形を微かに変形させ、紅い水面は歪な波紋を浮かべた。

 ふと、横の前の少女を見ると、質問ですとばかりに右手を真っ直ぐに挙手していた。別にこの即席講座は挙手制ではないのだけれど。

 

「はい、どうぞ。ちゆり君」

「教授がアレを人間だとする最大の根拠はなんなんです?」

「そうね。勘、かしら」

「教授の勘は馬鹿にできねぇですね。けど、もしかしたら、中から出てくるのは二十二世紀から来た短足胴長の二頭身アンドロイドだったり、M67星雲からやって来た宇宙人かもしれませんよ?」

 

 ちゆりは然も冗談めかして訊いてきた。そうね、そういう展開もありっちゃありね。だけど、やっぱり一番は、

 

「だけど、人間の方が素敵じゃない?」

 

 素直に冗談みたいな答えを出す。

 これは一つの願いだ。

 アンドロイドも宇宙人も十全に魅力的。もしそうならそれで、私はそれらを理解するのだろう。だけど、きっとそこで終わってしまう。

 人間でなければ、きっと私は、私の理解まで至らない。

 この赤髪赤瞳、私、世界は解らないことだらけだ。だから私は解き明かしてきた。それは私個人のことだって例外じゃない。

 これは研究者としてではなく、岡崎夢美個人としての探究。

 願わくば、丘の向こう側が、私の知らない世界が、私を証明しうる世界でありますようにと。

 

「よし! ちゆり、行きましょう!」

 

 ぐいっと冷めきった渋く紅い液体を胃に流し込み、紙コップをくしゃりと握り潰す。流れ込む液体が喉を濡らし、消化器系にその冷たさを、あるいは自身の身体の熱を鮮明に実感させる。

 靴音を鳴らし、席から勢いよく立ち上がる。

 

「は!? いや待つんだぜ、見に行くって何をだ?」

 

 ちゆりは驚きつつもゴミをビニール袋に押し込み始める。

 私は気にせず数歩足を進める。

 そうだ、歩みを止めていては死んでしまう。

 私は諦めない。

 丘の向こうを見るのは私。私が動かなければ何も変わりはしないわ。

 

「勿論。"岩"よ」

 

 問いに対し、片付けが済んで準備完了なちゆりに振り返り様に対峙し、左手にはためくマントを押さえながら、右手で真下を指差す。指し示す先。地下。そこに"岩"はある。あるいは、いる、か。

 

「……許可は?」

「ちゆり、いいこと? 科学の発展に犠牲はつきものなのよ?」

「おはマッドサイエンティスト。無許可ですね。計画は作戦はあんですか?」

 

 もっともらしく言い放った戯言はジト目な視線にバッサリ切られた。真下を指していた指をピンッととちゆりに向ける。

 

「ヒント。報告書の提出」

 

 少しの間が空くもすぐに得心がいったようで、ちゆりは答えた。

 

「主任さんは霞が関とか関係各所に出頭しなきゃですもんね。今まで通りなら、上長や他機関との連絡、会議で最低でも半日は第二研究所(ここ)の席空けることになりますね。他所で一泊もありえそうです」

「まとめご苦労ちゆり君」

「すんごいイラッとします。やめてください。で、その後はどぉすんです? 見ること自体は曲りなりに研究員として招集された教授を縛る規則はねぇですが、上司の命令に違反したことでの処罰は免れませんよ?」

「あとは野となれ山となれね。一縷の望みにかけて大人しくしてたけど、あぁもハッキリと私を用いないと言われたらね。なんとかするわ」

「果てしなく無計画ですね。ま、地下で腐ってるよりは、無計画な計画が立ってるだけでも、らしいんじゃねぇですか」

「それに、ちゆりも見てみたいでしょう? "岩"をね」

「ま、多少」

 

 ちゆりはやれやれといった感じで短い嘆息を吐く。

 何だかんだで付き合ってくれるちゆり、まじツンデレ! と心中でひっそり呟く。声に出して言えば、拳かパイプ椅子くらいは軽く飛んで来かねない。

 そうと決まれば早く、2人足並み揃えて食堂を後にする前、ちゆりの向こう、窓ガラスのそのまた向こうに聳える『壁』が印象的に脳裏によぎる。近いようで遠く、見ているようで視えていない。けれど、その存在は現実にそこに在る。"岩"の事に今、深く心掻き立てられているのは、似た存在である『壁』を見たからかもしれないなと、自身の心の在処を分析した。

 

「『壁』が『エリコの壁』と呼ばれるなら、神田川は差し詰めヨルダン川かしらね」

「なんです急に。その理屈だと東京湾は死海になるんですが、それは」

「東京湾文書、うーん語呂が悪いわね。……晴海文書! これじゃない?!」

「それなんて同人誌」

「新約聖書も旧約聖書の二次創作、同人誌みたいなものでしょ」

「死海文書は旧約聖書にまつわるものらしぃですけどね」

「むむむ」

「何がむむむだ。ほら。部屋に戻りますよ」

「え?」

「は?」

 

 意識と身体が自然と最下層へと向かうのを、助手に文字通り後ろ髪を引かれながら、一たび自室へと向かうのだった。

 




千藤汽笛の登場。
(改)諸々変更修正 主任の名前 レギオンの呼称はこの時点ではまだレギオンと命名されていなかったため、変異感染者と改称 他多数


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2.「邂逅」-4

超難産。王子の静かな覚醒。


     4

 

 

 黒竜の吐いた光と熱の奔流は全てを呑み込んだ。

 色も形も、闇の一片すらない赤い世界。

 己を呑み込んだ焔。肉を食み、骨を啜る、魂まで焦がす竜の業火。

 煌々轟々と、燦然と照らされる火の世界。

 その中でも、俺はただ一つの黒点として漂うだけだった。

 己の両の掌を俯いてじっと眺める。

 火は俺の境界を侵さず、輪郭を撫でるように舐めるように這うだけ。

 火そのものになったのではないかと云う錯覚すら覚える。

 熱くも冷たくもない無機質な赤色を眺め、思う。

 この"(オレ)"は何者なのだろうかと。 

 懐かしい匂いに惹かれるまま漂い、辿り着いたのは郷愁が満ちる風景。

 

 ―――凍った箱庭。燃える玉座。

 ―――嗤う少年。妹。剣。父母。

 ―――業火。黒竜。鮮血の記憶。

 

 何故知っているのか。何故懐かしく思うのか。何故こうも心臓が苦しいのか。

 世界は俺の事など構わず変化し変貌し、新しい風景を見せつける。

 見える景色は灰色で、だけど極彩色で、その進行は無慈悲で不干渉だ。

 それは劇場のようで、思い出のようで、夢みたいな世界。

 それを傍観している俺の存在は何処にある。

 何処に行けばいい。何処に帰ればいい。何処になら存在を赦される。

 

 ――――――俺は、何だ?

 

 赤一色の世界は、弾劾するかの如く"(オレ)"を浮き彫りにする。

 火に包まれているの酷く寒い。―――さむい。―――サムい。

 

『………………ィム』

 

 ―――ふと、遠くで声がキコエタ気がした。

 掌から視線を上げると、己に纏わりつく焔は風にでも吹かれたかのように掻き消され、赤の世界は火片と砕け散った。

 

 

 × × ×

 

 

 舞い散る火の粉の向こうに見えた世界は、渇いていた。

 砂埃が昇る大地。無人の城砦。沈黙した赤茶けた世界。

 荒涼とした風が黒々とした枯れ木を仄かに揺らしている。

 世界の果ては霧掛かったように白くぼやけ見通すことは出来ない。

 俺の目の前には石門が構え、赤錆びた鉄格子が冷たく閉じている。

 その鉄格子の向こう、紅い存在の後姿が見えた。

 火の如く血の如く赤い、真紅の甲殻と鱗を纏った体躯。小夜に浮かぶ満月のような金の瞳に逞しい角。畳まれた両翼は空の王者の風格を秘め、伸びたしなやかな尾は、躰を包み込むよう内側へと巻かれている。

 其処には、―――美しく鮮やかな赤竜がいた。

 向こうも気付いたのか首を擡げ、見返り姿の紅と眼が合った。

 目が離せない。目を見開き、俺の意識が、全神経が目の前の赤竜に注がれている。

 鼓動が、脈動が鼓膜を震わせる。 

 赤竜は鋭い牙が並ぶ口を静かに開き、ゆったりと間を持ってから中性的な声を発した。

 

『――――――賢者は戦いより死を選ぶ。更なる賢者は生まれぬ事を選ぶという。我等はどうであろうな、カイム』

 

 後頭部を殴打されたような鈍い衝撃に両膝が折れて跪く

 呟きのような微かな声。

 その言葉は鋭利な破片となって全身の血管を喰い破り、駆け巡った。

 脳を締め付けるような頭痛に頭を抱えて蹲る(うずくま)

 鼓動が煩い。脈動が煩い。

 息が乱れ、―――苦しい。

 知っていた知識と情報が、鮮明な記憶として再生される。

 ――――――風景が、人物が、現象が高速で再生される。

 

 

 断裂。鮮血。灼火。絶望。孤独。運命。崩壊。羨望。悲嘆。歓喜。消滅。

 慈愛。殲滅。剥奪。混沌。狂気。戦慄。快楽。荒廃。秩序。真実。彼方。

 断罪。代償。殺戮。激動。胎動。非業。深淵。喪失。狂信。泡沫。最愛。

 錯乱。支配。黙契。祝福。久遠。憎悪。狂乱。因果。憧憬。過酷。魅惑。

 刹那。鎮魂。動乱。欲望。切望。慈悲。調和。福音。無償。惨殺。永久。

 功罪。賛歌。恩恵。睦魂。残虐。反逆。発狂。甘美。惨劇。快楽。浄化。

 約定。安息。最期。汚濁。炎上。洗浄。渇望。荘厳。背徳。侵害。献身。

 静穏。無垢。贖罪。盟約。蹂躙。背信。享楽。庇護。業火。追憶。犠牲。

 救済。                  ――――――オ兄チャン。

 

 

 再生された記憶は、目元が見えない少女の柔らかな口唇の紡ぎで途切れる。

 拡散していた自我が収束する。

 俯いていた顔を上げると、目の前の赤錆びた鉄格子は消えていた。

 頭痛は収まった。倦怠感は無く、寧ろ世界は、俺の意識は鮮明としている。

 

 ――――――そうだ、此処は女神の城。

 

 全ての終わりの始まりの地。

 封印の女神。

 世界を崩壊から繋ぎ止める杭の女。

 不安定で不条理な世界を守る為、犠牲(いけにえ)となった女神。俺の妹。フリアエ。

 彼女を守る為の城であり、閉じ込める為の籠。

 玉座の間から六年。

 俺は復讐の為に兵士となり、妹は運命の所為か女神となった。

 赤目の兵士が攻め込み、天使の教会が彼女を奪い、世界(すべて)を呪った女神は自害した。

 そして、俺のいた世界は崩壊した。世界がどうなったかは知る由もない。

 終わりと始まり。

 そう、始まりの日。

 俺は女神の城(ここ)赤竜(こいつ)と出会ったのだ。

 

『………………我が名は、カイム』

 

 自ら確かめるように、音の一つ一つを噛み締めるように言葉を紡ぐ。

 折っていた足に力を入れて地を踏み締め、竜に歩み寄る。

 竜は身動ぎもせず、ジッと此方を見詰めている。

 

『……如何やら、お主は上手くいったようであるな』

 

 竜が優しい声色で語る。その顔はやはり黒竜同様に鱗に覆われたものだが、穏やかな表情に思えた。

 しかし、上手くいったとは何のことだ。こいつは何を知っている。

 

『……ドラゴン。どういう事だ、それに此処は何処だ。死後の世界か』

 

『クク、可笑しな事を言う。しかし、何と言うたものか。そうさな、お主の中、とでも言うべきか』

 

『…………?』

 

 この竜は時折難しいこと言う。竜の考えなど、人間の及ぶべきものでは無いのかも知れないが、話す以上はもっと解り易くしてくれればよいものを。

 

『まぁ、人間には理解出来ずともよいことだ。それよりも、随分と身勝手な事をしてくれたものだな、馬鹿者』

 

『―――何故、俺は生きている。いや、生きているのか?』

 

 竜は意地悪そうに、責め立てるような口調で訊いてきた。

 そうだ。何故、こいつが俺の前にいる。何故、思念の会話が成立している。

 俺はこいつと"アレ"を追い、見知らぬ世界で"アレ"滅ぼした。そして、謎の攻撃を受けたのだ。その際、俺は一縷の可能性に賭けて契約を終了し―――、

 

『生きておるか死んでおるかなど己で見極めよ。ただ言うなれば、……我もまた、バカ者だったという事だ』

 

『―――そうか』

 

 自嘲気味に語り鼻を鳴らす竜。その姿が可笑しくて少し頬が緩んだ。

 その言葉が指す真意は解らない。だが、こいつはこいつで何かをしたのだろう。その結果がこの世界なら、それでいい。理解は出来ないが、納得は出来た。この不気味な世界を理解も信用も出来ないが、こいつがした結果ならこいつを信じることにしよう。

 そんな事を思っていたら、竜は俺に向き直り、躰を横に倒す。顔が近くになり、金の瞳に俺の姿が映った。そこに居たのは、人の形をした黒点ではなく、蒼眼に黒髪、口角を僅かに上げた男がいた。

 

『―――さて、お主に訊いておきたい事がある。お主は愚かにも己の命を(なげう)ったな。お主の願いは、もうよいということかカイム』

 

 近くなった竜の顔、その鼻先をさする。触れたそれはほんのりとした熱を持ち、温かった。

 俺の願いか、何だったか。

 復讐か?守ることか?その想いを向けるもの全て無くなった。なら、願いも無くなったか? ―――違う、そんなものじゃない。こいつが言う願いは契約だ。俺がこいつに立てた誓いだ。

 俺は、自覚する。俺の願いを自覚した。なら、俺の返す答えは決まっている。

 

『ただ俺は、生きたいだけだ。どうだ、憎むか?』

 

 不敵に顔を歪めて宣言した。

 いつの日か交わした契約の前座。忘れもしないコトバ。

 

『クク……ッ。やはり減らず口はあって百害よな。………………命も魂も惜しくなったわ』

 

 竜が口を僅かに開くも、その語尾は噛み殺すように閉じられ、最後の言葉はよく聞き取れなかった。

 その時、遥か彼方から俺の名を呼ぶ者があった気がした。

 振り返ると、其処は女神の城も荒涼とした大地もなく、暗闇を背景とした骨肉が積み上げられた死臭漂う丘だった。

 獣の、魔物の、人間の死体が積み上げられ、65の凶器が突き刺さる冷たく赤黒い丘。

 凶器。剣に斧、杖、槍―――その他雑多で禍々しいそれらの数は不思議とすぐに理解できた。いや、知っていたとでも言うべき感覚。

 そして、丘の中には知った顔もあった。父に母。妹。友。戦友。司祭。俺――――――。

 その頂上に俺は居て、声は丘の麓、血の海の暗がりから聞こえてくる。

 

 ――――――――――――カイムッ!カイムッ!!

 

 その声は少女のような幼さを感じさせながらも、明確な意志を伝えてくる。

 応えろと。私はここにいるんだと。誰だ、俺の名を呼ぶ者は、其処にいるのか―――。

 赤黒い暗がりに聞こえる声の方に目を凝らしていると背後から声が響く。

 その声は振り返る事を赦さない、前を見続けろと強い口調で語りかける。

 

『鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは一つの世界を破壊しなければならぬ』

 

 その言葉を背で受ける。

 その紡がれた言の葉の一つ一つが発せられるのに従うかのように、突き立てられていた凶器も一つまた一つと姿を消してゆく。

 

『往け。お主の進む道は、お主が己で決めてきたではないか。我に縛られるな。何者にも巻かれるな。我は孵らなかった雛だ、置いて往け』

 

 その言の葉を最後に、足元の俺の死骸突き立てられていた凶器、使い込まれた両刃長剣が消える。

 

『――――――!』

 

 置いて往けとはどういう事だ。何故一緒に行けないのだ。

 振り返るな、口調に含まれる語られない意思に反して振り返ると、そこもまた骨肉の赤黒い丘になっていた。しかし、明らかな変化が其処にはあった。

 俺と竜が居た場所が丘の頂上。すぐそばに居た竜の姿は無く、其処には一振りの赤黒い大剣が刺さっていた。

 一息呑み、それに右手をかけて逆手で引き抜く。

 竜を模したような真紅のそれ。己の身の丈ほどあるそれは、剣というにはあまりにも大きく、分厚く、重い。柄に竜の顔があり、翼と後肢の部分が鍔のように膨らみを持ち、伸びる尾が刀身として鋭く伸び、刀身の亀裂からは刀身よりも赤い緋い光が漏れている。

 それは正に赤竜だった。

 それを抱き締め、額を鍔の辺りに押し付け瞑目する。

 

『……馬鹿者め、我は失敗したのだ。暖めて如何なるものでも。―――じきに我の意識は消える』

 

 姿の失った竜の声のみが暗がりから世界に響いて俺の耳に届く。

 失敗―――、その言葉が指すものは分からない。そして、俺には理解出来ないことなのだろう。察せられるのは、一緒には行けないということ。そして、それが抗えない事実だという事をこいつが言っている。なら、きっとそうなのだろう。

 竜の言う事考える事はいつだって難しい。だが―――、それでも―――、

 

『―――抗う、最期まで』

 

 瞑目したまま静かに呟いた。

 俺は生きる。生きて、生きて、生き抜いて、抗ってみせる。

 死も、別離も、運命すらも俺の剣で払い()けてやる。

 俺の宣誓を聞いたのか、竜は暗がりで鼻を鳴らす。何も見えない暗がりに、竜の穏やかそうな顔が浮かぶのを幻視した。

 そうか、なら―――と、竜の声は小さく吐いて続けた。

 

『覚えておいてもらいことがある。―――アンヘル。それが我が名だ。人間に名乗るのは、最初で最後だ。――――――さらばだ、カイム』

 

 それきり、竜の言葉は聞こえなくなった。

 目を開けると世界は再び暗闇へと包まれ、俺も骨肉の丘も何もかも見えなくなってゆく。俺を呼び続ける者の声も遠くなっている。

 そして、世界は消失喪失消滅した。

 無

 

 無

 

 無明の世界は俺だけになっていた。

 だけど、不思議とさむくはなかった。

 両の手で大剣の柄を握り、真上へと振り(かざ)す。

 

『我が名はカイム。―――バカ者(アンヘル)を連れて往く唯の馬鹿者だ』

 

 迷わない。見失わない。全ては(ここ)にある。

 振り翳した大剣を暗闇へと振り下ろす。

 闇は払われ、光が差し込み新しい世界が見えた。

 

 

 ――――――目が覚めたのは、やはり血溜まりの中だった。

 

 

 




 どうも、作者です。ご閲覧ありがとうございます。
 超難産。


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2.「邂逅」-5

教授と王子の邂逅 改筆了 21.9.26


     5

 

 

 

「そろそろ行きますか、教授」

 

 床に屈みこんでいたちゆりが革トランクの腹をポンッと叩いて立ち上がると、水兵帽をはたいて被り直し、私に語り掛けてきた。

 雑然としていた研究室はすっかり片付いてた。棚に飾っていた私物の類は消え失せ、パイプ椅子やパーテーションの類は部屋の隅に寄せられている。机上にこんもり堆積していた書類と文献の山はフォルダーで整理され、棚に整頓されていた。

 研究室は異動して初めて入った時のように小奇麗サッパリしてしまった。天井の蛍光灯の光が部屋全体へ均等に降り注ぎ、空間全体が少し明るくなった気がする。しかし、天井ってこんなに広かったのね。

 

「ちゆり、何も退去が決定した訳じゃないのよ?」

 

 キャスター付き回転椅子に腰掛け、クルクル回りながら問い掛ける。これではまるで私の退去が確定したものみたいじゃない。

 

「何言ってんです。退去で済めばまだ良い方ですよ。情報機密の為に退去させねぇことだって有り得ます。現状ですら研究職は軟禁みてぇな状況なんです。監禁くらいワケねぇですよ。その辺分かってんです?」

「だぁいじょうぶ。まぁかせて!」

「着の身着のままで本丸に突撃カマした後によくもまぁ言えますね……」

 

 ちゆりはゲンナリした様子でこちらを窺う。そんな日もあるさ。

 心配は杞憂だと思うのよね。私は"岩"の研究そのものに一切携わっておらず、私がいないと研究が立ち行かないという状況でもなければ、私だけが掴んでいる情報や手掛かりというものもない。研究に参加できれば、それこそ他者に無い知見を得ることも有り得たかもしれないが、今の私の内にあるものは、主任が把握しているだろうものの域を出ないのだ。機密として漏れ出る程のまともな情報は無く、機密と言い張るには夢物語としか受け止められないだろう仮説しかないのだから。

 それに、主任はどうだか知らないけれど、他の研究員は私を酷く恐れている。それが出て行くとなったら、彼らは別れに俯きがちに得も言われぬ笑顔で見送ってくれることであろう。

 いや、一つ、嫌な予測が無い訳では無いのだけれど。

 

「ウ=ス異本的な事は流石に無いと思うのだけれど」

「退去なら問題ねぇです。それでも出て行くの急かされるは嫌なんで予防線です」

「ウ=ス異本な展開だったら無駄にならない?」

「無視してるのをゴリ押さねぇで下さい。なんです。欲求不満ですか」

「いや、私ってこんな(なり)じゃない? 捕まったらあの手この手で実験動物(モルモット)にされそうだなぁ、なんて」

「ご存知でない? それ、人体実験って言うですよ? 今の今までにその手の要求は無かったんです、今更でしょ」

「私ならこんな格好の獲物放っておかないのに……」

「獲物の言うセリフじゃねぇですね。この国は自由と民主主義を謳ってますから。一応。教授と違って手順や行儀ってのを理解してて品が良いんですよ、たぶん」

「晴海文書に予言サレシ描写だとね」

「耳年増と処女ビッチ、どっちでもいぃですよ? なんなら合体させましょうか?」

「うーん。そうね、」

「悩むな拒否れ。何があるか分からねぇ時は逃げるに限ります。ほら、最低限の荷物だけ纏めましたから。持ち込み私物ほとんど無ぇですし、(ぜに)なんかの貴重品は身に着けてるので替えの服ばっかですが。教授はほんとに荷造りしねぇんです?」

 

 ちゆりが近付いて、私の傍ら、かつて書類が占拠していた机に腰掛ける。

 ちゆりはさしてこの手の危惧はしていないようだ。確かにその通りではある。第二の預かりではないが、回収された"竜"も研究の対象となっているでしょうし、第二(ここ)の"岩"、『壁』の変異感染者、方々の隔離所の感染者達。他人からすれば優先すべき研究対象は他に幾らでもあるのだ。

 些か自身の視点に寄り過ぎていたようだ。私のようなもでも、一度自室で準備を整えてからとなると頭も冷えて、今からマズい事を行うことに緊張するものがあるらしかった。私一人ならそんなこともなかったのだろうけど、ちゆりもいる以上うまく事を運ばなければね。助手に凭れ掛かりっぱなしなのは教授としては減点だ。

 

「私は身軽だからね。必要な物はちゆりが纏めてくれてるでしょう? なら、私にはマントとちゆりがいれば充分よ」

「教授。私ら、今から"岩"見に行くんですよ? おーけーです?」

 

 あからさまな私の物言いに胡乱気なちゆり。腰掛けた姿のまま、ただただジト目で見下ろしてくる。私の正気を窺うように顔を覗き込んで、子どもをあやすように語り掛ける。この助手、すっかり覚悟が決まり切っている。

 研究室の掛け時計を見ると、残り三十分足らずで長針と短針は時計の頂上でかち合う時刻となっていた。

 

「おーけーです。行きましょうか」

 

 ちゆりの言葉に意を決して椅子から長い後ろ髪を揺らして立ち上がり、マントの上から更に白衣を着用する。着るといっても袖は通さずに肩掛けに羽織るだけ。私の様子を見てちゆりは白衣へと袖を通しきちんと着用している。実験を行うでなし観察のみ予定なのだから適当でも構わないのに、まめな性格だなと内心綻ぶ。白衣は支給された既製品で、成人を想定した規格であるためか、18と15の私達には少々大きい。ちゆりに至ってはてるてる坊主も斯くやたる惨状である。拝んでおこうかしら。

 

「明日は、良い天気になりそうね」

「拝むな。地下暮らしの私らには関係ない、こともねぇかもな話ですが」

「俺たちに明日はない、なんてね」

「死の舞踏(バレエ)がお望みならソロでどうぞ」

 

 部屋を後にしつつ、(うやうや)しく拝む私の祈り手をちゆりが(はた)く。もったい付けた軽口は景気付けの食前酒のようなものだ。

 機会としてはまたとない絶好のものだ。千藤主任は23時頃に官邸へ再召喚をかけられ帰還が遅れる旨の連絡があったことを所員達の会話で確認している。再召喚であるあたり、大方、"岩"に対して朗読会や音楽鑑賞会など、他機関と大きく異なる方針を取っていることへの説明だろうか。無理も無い。他所が分析、解析で四苦八苦している中でのこの所業だ。

 その事を考慮すると、外野の圧に屈することなく独自の実験方法を進めているのは、主任も中々どうして骨があるようだ。昼の会話で国立超自然第二研究所にも圧力があるようなことを言葉端に零していたが、きっと無関係ではないでしょう。やれしかし、あの眼鏡。門外漢のお歴々がたへの説明とか出来るのかしら。経歴は知らないが、どうにも教壇に立つことに喜びを見出していたクチではなさそうだけれど。

 

「教授ー。電気消しますよ」

 

 その一言でトランクを手にして軽い足取りで出口にまで跳ねたちゆりは照明の電気を消した。いや、忠告じゃなくて報告なのね、教授ビックリ。

 まぁ、願わくばこの部屋の電気を再び灯すことが出来ますように、そう思う事にしよう。

 

 

 × × ×

 

 

 羽織っただけの白衣と自前の赤外套をはためかせながら、照明の無機質な灯りを冷たく反射させるリノリウムの床を踵で鳴らす。

 最下層の最奥、"岩"の実験室がある層まで何の障害も無く着いてしまった。温湿度管理が行き届いているらしく、外は梅雨の頃にも関わらずこの階層の空気は乾きっており、肌寒さを感じるのは照明の冷たい色の所為なだけではないのだろう。

 この最下層、実験棟ならぬ実験階層に立ち入るのはこれが初めての事であったけれど、NBC対策の防護服、エアロック等のものが本当に無いというのは、何とも奇妙に感じられた。誰しも白塩化症候群の発症は恐れる所でしょうに、"岩"からは感染しないとの確信があるのだろうか。

 白塩化症候群患者が確認され出したのは【6.12】から3~4ヶ月の期間が空いてのこと。災厄当初はこの期間を潜伏期間と見る説もあったが、遠方から新宿区に初入りした後、ひと月もしない間に発症した事例もあり、今やその見方は懐疑的だ。崩壊した"巨人"や全身塩化で死亡した感染者、殺処理された変異感染者らが遺した白い粒子、いわゆる『塩』と称されるものが感染源であると見られている。その見解に私個人としても相違ない。とはいえ、これだけが感染の全てではないのだろう。『エリコの壁』で防衛に当たる人員は塩塵舞う環境での活動を余儀なくされる。当然、必要な感染防護策を講じてはいるだろうけれど、完全とは得てして難しいもの。それだのに、良い事であるのには違いないが、『壁』からは新規の感染者はただ1人も確認されていない。遍く粒子を完全にシャットアウト出来ていた、なんてのは楽観に過ぎるだろう。『壁』が出来たのは昨日今日の話ではないのだから。

 他の感染者がそうであったように、何かトリガーあるいはスイッチのようなものが新宿区にいると働くのかもしれない。――――それこそ、意思、のようなものが。こんな調子だからオカルトだのと揶揄されるのでしょうね。けれど、"巨人"と"竜"はあの日、新宿にやってきた。その行動に、そうせんとする意思が無かったと、どうして言えるのだろうか。その魂の、心の、意思の存在者の不在をどうして言えるのだろうか。

 

「……儘ならないものね」

「ちょっとだけカッコよかったですよ?」

「でしょ?」

「今どのへんかご存知で?」

「……次の十字を真っ直ぐね」

「分かってんなら良いです。せいぜいスッ転ばないことです」

 

 どうにも漏れていた声がちゆりが茶化すように返す。いつの間にやら相当進んでいたようだ。記憶の経路図を思い描き、周囲の様子から現在地を割り出すと、"岩"のある部屋まで僅かとなっていた。

 思索の中で意固地になっても仕方がない。防護処置うんうんに関しては、単純に人体実験で概ね確認したか、現在進行形でここにいる所員らが人体実験の被検体かもしてないなと結論付けて思考の隅に追い遣った。

 道中、他の研究職や警備に足止めを食らうかと思ったのだけれど、ちゆりの様子を見るに呼び止められることすらなく、何事も無かったようだ。ともあれ、"岩"はこの十字路の先、この場からでも見える白く金属質な扉。その扉一枚隔てた向こう側に在るという。

 歩みは止まらず、十字路を越え扉の前に私は立ち尽くす。何の障害も、何の問題も無く、辿り着いてしまった。何とも平凡な出会い。これでは向こうに本当に"岩"が、世界を変えてくれるものがあるのか、何処か嘘っぽく、非現実に感じてしまう。

 

「ねぇ、ちゆり。帰る?」

「は? いやいや、何言ってんです?! すぐそこですよ、それに行く言ったの教授じゃねぇですか」

「いや、そうなのだけれどね……」

 

 言い淀む私の様を見て、ちゆりは声音は驚嘆のものから小悪魔的な愉悦が混じったものに変わる。

 

「もしかして、怖気付きましたぁ?」

「もしかしたら、みんなでドッキリしてるんじゃないかって思う訳よ。実は"岩"なんて在りませんでした! 残念! なんて、教授堪えられない……」

「こっちがビックリで堪ったもんじゃねぇですよ! 何か考え込んでるなとは思ってましたが、そんなワケねぇじゃねぇですか。おら、さっさと行きますよ」

 

 正直に話したが一蹴されてしまった。ちゆりの小さな私の手をグイと引く。暗がりに沈み込んでいた気分と共に重くなっていた身体を引っ張り上げられる。

 引っ張られながら扉脇の掌紋認識端末に手を翳すと、登録抹消等はされていなかったらしく白い鋼鉄の自動扉は認証の電子音と微かな駆動音を鳴らし、道を開いた。

 

 

 × × ×

 

 

「な―――、に、あれ……?」

 

 その声が自身のものだと気付くのに暫しの時間を要した。

 道の先にあったのは、間仕切りの無い大部屋。

 室内は中央を除き、最低限の光量が確保されるのみで仄暗い。部屋の隅には陰が溜り、部屋の輪郭そのものが朧気な感覚を覚える。室内には計器の類が雑然と並び立ち、それらからは幾多のコード、ケーブルの束が血管のように床に敷き詰められ、薄暗い闇の中でメーターやランプの赤や青、黄、緑と様々に色鮮やかな光点が灯している。

 微かに聴こえる音楽は、――――そう、実験内容にあったものだ。ワーグナーの舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』四部作の四作目に当たる『神々の黄昏』。経過観察の為に再度干渉の為に再生された音源から、オペラとオーケストラの旋律が調和して部屋全体を包み込んでいる。

 酷く冷たい人工的な空間であるのに、闇に光、音楽が合わさって超自然的な神秘を感じてしまう。宇宙をキュッと小さくしたら、きっとこんな感じなのだろうかなど、学者らしくもない思いを抱いた。

 そしてなにより、その神秘を放っているのは部屋中央にいる存在。直径5m程の透明な強化アクリルガラスの円柱状カプセル。そのカプセルとその中身が四方より光に照らされている。

 その空間、林立する計器の群れと透明な檻の向こう側に"()()"がいた。白い繭のような膜の中に"人間"が、影の如く揺らめく黒い"人間"が膝を抱いて浮いている。

 ――――アレは何? あれを研究員共は"岩"と評したのか?

 だとしたら、ここの研究員は全員、角膜どころじゃない、眼球ごと移植手術を受けさせるべきだ。さもなくばクビにした方が良い。あれはどう見ても"人間"じゃない。

 そんな時、傍らにいたちゆりが感嘆を挙げた。

 

「おー、あれが"()"か。何と言うか、名状し難い感じですね。しかし、ほんとに真ん丸なんですね。転がらねぇよう底にストッパーが付いてますよ」

 

 今、この子は何と言ったか。言葉を慎重に選び、音に紡ぐ。

 

「……ちゆり。貴方はあれが"(いわ)"に見えるのね?」

「は? 敢えて名状するなら"岩"で差支えねぇと思いますが、――――教授?」

 

 ちゆりが顔を覗き込んでくるも、仄暗くてその表情は窺えない。

 なるほど。眼球を疑うべきなのは私の方らしい。ちゆりには見えていない、なるほどどうして。私には、見えているわ。あら、これは全く解らないわね。あぁ、解らないわ。さっきまでの、平凡な出会い、かもだなんて、とんでもない。これは素晴らしいわ。あぁ、素敵。これならきっと世界を、変えてくれる。

 

「――――授、教授! 一体どうしたんです、急に黙って行くんじゃねぇですよ!!」

 

 後ろから聞こえた声に振り返ると、ちゆりがバタバタとコード類を踏まないように、慎重かつ器用に足場を探しながら此方に向かって来ている。

 私はと言えば何時の間にやら"人間"のすぐそばまで来てしまっていた。足が自然とカプセルの方に向かっていたようで、私の足跡は引き摺られたコードの束達と道程に落ちている私の白衣が物語っていた。少しはしたないことをしたと反省するも、仕方のないことだ。何せ、丘の向こうと思っていた存在が、今此処に、目の前にいるのだから。

 私と"人間"を隔てるものは透明なカプセルのみ。カプセルに両手を突いて凭れながら、上から下へと委細注意して観察する。白い繭、黒い人間、膝を抱くその姿はまるで胎児のようにも見えた。

 溢れ出る歓喜と執着に酔いどれながら観察していると、"人間"の左手首に光るものが浮かぶのが見えた。

 

「―――カ。―――イ。―――ム?」

 

 4つの文字が光を放ち浮かんでいた。

 記号のような文字。仮名でも漢字でも、アルファベット、アブジャド、デーヴァナーガリーでも他のどの文字でもない。現代人が使う中には存在しない文字。似ているとすれば『天使文字』。12世紀頃、魔術師と呼ばれた人間達が暗号に用いていたとされる文字に良く似ている。だが、そんな知識に頼った解読ではなく、私の脳は自然とその文字を受け入れていた。

 

「―――カイム。それが貴方の名なの?」

 

 問い掛ける。反応らしきものは無い。"人間"は膝を抱いたまま漂っている。だが、確信があった。この"人間"の名はカイムなのだと。心がどうしようもなく騒つき、熱いものが込み上げてくる。

 ……カイム、応えて、応えろッ! 応えろッ!!

 

「―――カイム、カイム」

 

 呼ぶ。名を呼ぶ。何度も、何度も。何度でも。心の声は小さな呼び声となり、小さな呼び声は次第に大きくなっていく。

 

 ―――カイム、カイム、カイムカイムカイムカイムカイムカイムッカイムッ!!

 

 応えて、応えて、お願い。貴方は今、丘にいるのでしょう。私も其処に行きたいの。この丘の内側の世界じゃなくて、貴方という存在がいる場所の先を見たいの。新しい世界。未だ見ぬ世界。私はウェンディではないし、ましてピーターパンでもない。誰かが勝手に連れて行ってくれるだなんて期待しない。だけど私は諦めない。新しい世界を、夢の国だなんて言わせはしない。私は飛べもしない人間。だったら、走って、歩いて、這ってでも辿り着いてみせる。夢の丘の先を見る為なら、世界にも常識にも足掻き抗い続ける。……だから、お願い、お願い応えて。こっちを見て、私は、私は此処に在る。私も、私も丘の先(そこ)に行かせろッ!

 

「――――カイムッ!!!!

 

「夢美」

 

 誰かが岡崎夢美の名を呼ぶ声に我に返る。

 呼吸を忘れていた肺が酸素を求めて悲鳴を上げ、酷く呼吸が乱れる。右手をカプセルに突いたまま膝を折って座り込む。動悸する胸を左手で胸を押さえるとブラウスに深い皺が出来た。

 

「『カイム』。それがこれの名前なんですね」

 

 傍らに来たちゆりが屈むように私の背をさすりながら、確かめるように言葉を紡ぐ。その顔は照明の明るさもあってかはっきりと見えた。呆れるような、安堵したような顔。その手のあたたかさはマント越しにも確かなものとして感じられ、私の内で熱暴走していたものを宥めてくれた。

 

「……そうよ、これはカイム。人間の形をした解らないモノ」

「"人間"……、岩太郎じゃねぇんだな、夢美?」

「ふふ、そうね。ありがと」

「ま、伊達に教授の助手はやってねぇってことだぜ」

 

 ちゆりはそう言うと立ち上がって落とした水兵帽を拾い上げ、(はた)いて被り直し、カプセルの周りを回っては目の前の存在の観察を始めた。

 ほんと、私はダメな教授ね。熱に浮かされて随分とはしたないというよりも情けない様を晒してしまった。ともあれ、落ち着いたわ。これからどうしましょうか。

 そう思いカイムを見ると、その姿に変化があった。胎児のように折り畳んでいた肘膝を伸ばし、二本の脚で立ち上がっていた。そして、その両手をあたかも剣でも構えているかのように頭上に振り翳し上げる。

 

「ちゆり、こっちに来なさい。離れるわよ」

 

 酷く嫌な予感がする。この変化が定期的に起きていたものなのか、今突発的に起こったものなのかは観察不十分なこともあって予測が付かない。だが、あの中の"人間"は何かをしようとしている。

 

「どうしたんですか、教―――」

 

 ちゆりが不思議そうな顔で此方を向いて問い掛けてきたが、その先は聴くことは出来なかった。

 原因は、轟音と衝撃。

 "人間"がその両手を振り上げきった瞬間、その手の内から剣のような物が突如として出現し、白い繭を内側から貫いた。そして、その巨大な剣を真下へと振り下ろす。その瞬間、途轍もなく轟音と衝撃が起こった。剣が振り下ろされた床は粉砕し、頑丈なはずの透明アクリルガラスのカプセルは振り下ろしの衝撃波で破砕した。周囲の林立して計器の幾つかも衝撃につられてなぎ倒れる。

 床に座っていた私も例外ではなく、その衝撃に襲われ身体を仰け反らされる。そして、腕で顔を覆いながら覗く視界の端には、転がってゆく白く小さな体が見えた。

 

「――――ちゆりッ!!」

 

 破壊が収束し、静寂した室内。明滅する光点は消え、音楽も止まった空間を駆ける。

 衝撃に当てられ、おぼつかない脚の所為で幾度か床のコードに転ばされるも、すぐさまに駆け寄る。ちゆりは衝撃で吹き飛び、計器の一つにぶつかって止まっっていた。

 その小さな身体は力無くぐったりとしていたが、その手にはトランクを握り締めたままであった。意識を失っているちゆりの手を取る。脈は、ある、身体も擦り傷打ち身こそしているが、大事は無さそうだ。

 

「よかった、」

 

 無事でよかった、本当に。それに、意識を失ってもトランクを離さないなんてね。まったく。さすが私の助手よ、ちゆり。

 さて、どうしてくれようかしらね。いや、どうしたものか、か。

 安堵や恐怖、歓喜、怒りが心中に渦巻くも、その一切合切無視する。邪魔なだけよ。動作と同時並行で思考を巡らせろ。止まるな、止めるな。

 どうする、何が問題だ。この状況、研究所も"人間(カイム)"も脅威だ。設定すべき条件は何だ。前提条件は第一にちゆりと私の安全。次点で目の前の存在の研究。手段はどうする、どうする。脳は思考を加速させ、一つの最適解を叩きだす。

 意識の無いちゆりを背負い、トランクを手にする。背負った少女の身体は軽いはずだが、意識を失っていることもあってか少し重く感じられた。これが今私が背負っているものの重み。大切な重さを自覚した。

 得た解答を胸に、トランクを手に、ちゆりを背に破壊を齎した存在と対峙する。

 向き直ると右手に大剣を携え、全身が影のように黒く揺らめいている"人間(カイム)"がカプセルから一歩出た位置から此方を静かに見ている。割れた繭は何処かに消失していた。その繭に満ちていたのであろう赤黒い液体が流れ出でて、砕かれたカプセルの内を血のような水で満たしていたが、その水も蒸発するかのように消えてゆく。

 待ってくれていたのかしらね。獣のように即座に襲われないのなら、見た目通りの人間なのなら、まだ活路はある。

 

「こんにちわ、いや、こんばんわかしらね。――――カイム」

「――――!」

 

 カイムとはこの存在の名のことで間違いないのか、明確な反応と共に一歩近づいてきた。うん、反応は上々ね。名には反応している。名以外の言葉まで通じてるかは不安だけど、変異感染者とは違って言葉を解すだけの理性あるいは知性はあるようね。だけど、ご免なさい。考える暇はあげない。

 

「よくもちゆりを、って復讐したいところなのだけれど。あぁ、ちゆりっていうのは今私の背にいるこの子ね。カイム、貴方の所為で気絶したみたい。まぁ、事故って事にしてあげる」

「…………」

「貴方が何者なのかは知らない。興味尽きないのだけど、此処に居たら私達は身動きが取れなくなる。貴方は、私に興味がお有りかしら。カイム」

「…………」

 

 言葉による応答は無い。だが、此方を注視している辺り、聞いていない訳ではないのだろう。なら、言葉を続けるだけ。

 

「カイム。私は貴方の名を呼んだ。呼んでしまった。何故だなんて誰も知らない。誰もがその訳を知るために私を追うでしょう」

「…………」

「私達は逃げる。逃げるしかない。私達が無事逃げられたら、貴方と、貴方の片割れ、なのかしらね。私達が"(the dragon)"と呼んでいるものについて教えてあげるわ」

「――――――!!」

 

 名前を再三読んだり、同じ単語を繰り返したりと意志相通に相応に気を払っていたが、思った以上に言葉が通じているようだ。"竜"、ドラゴンという言葉にカイムは過敏に反応して、また一歩近付く。回収地点が同じであった"竜"と"岩"、ドラゴンとカイム、何かしらの繋がりがあると見て良さそうね。だけど、

 

「今はダメ。私達は逃げないといけないから。もし、興味がお有りなら、東京タワー、……といっても分からないわね、貴方達が墜ちた赤い塔にいらっしゃい。外苑東通り国道319ご……東。東に行きなさい。東の赤い塔」

「…………」

 

 東の方向を指差す私を見てカイムは頷いた。その動作があまりに人間的でどうにも可笑しかった。どうやら、この"人間"は黒々しいなりをしているが、ちゃんと()()のようだ。

 

「―――それでは、またお会い出来ることを祈ってるわ。カイム」

 

 最低限の伝えるべき情報を伝え、私は実験室の出入り口にある、幾つもの蓋で覆われていたスイッチの蓋を外し、力強く押した。

 けたたましいサイレンと真っ赤な警告灯が寝静まりかえっていた研究所を叩き起こす。今頃、警備に研究員、他の職員はおろか所外でも大混乱しているだろう。並の警報なんて先の馬鹿みたいな破壊の折にとっくに伝わっている。その上でのこの非常警報は、実験室内に置いて敵対存在の発生危機を伝えるものだ。この混乱に乗じて逃走する。カイムがどうなるかは賭けだ。未知の何かに関わった人間、変異感染者は通常の人間と兵器を圧倒する。それに先の破壊力、分の悪い賭けではないでしょう。囮にして悪いとは思うけど、ちゆりを傷付けた罰よ。ちゆりの無事が確保出来るように注意を引いてくれることを祈っているわ、本当に。

 ―――祈る。物理学者は何に祈るのかしらね。取り敢えずはあの"人間(カイム)"にでも祈っておきましょうか。

 私たちはカイムを部屋に残し、真っ赤になった研究所を疾走した。

 

 




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2.「邂逅」-6

王子回 改筆了21.9.26


     6

 

 

 

 ――――――初めはその娘を殺そうと思った。

 

 赤い衣の、赤い髪の、赤い目の少女。

 赤、災厄の象徴。

 その色を瞳に宿す者は皆、狂人か傀儡だ。人間の皮を被った化け物共だ。その手の者は皆々、鏖殺(おうさつ)し、殲滅し、全滅し尽してきた。人間を止めた人間の敵共を。

 それがどうだ。目の前の赤目の少女は、それか?

 傷付いた少女に駆け寄り、安堵し、抱き締め、それから俺に憤怒と敵意を、隠しきれないその感情を覗かせる。

 俺には、少女が人間にしか見えなかった。

 

「―――それでは、またお会い出来ることを祈ってるわ。カイム」

 

 つらつらと語り出したその赤い少女は最後にそう言い残し、背負った少女の白い外套と、赤く長い三つ編みをはためかせながら部屋を飛び出して行く。

 その直後、耳障りな騒音が鳴り響き、回転する光源の赤い光が俺の姿ごと空間を照らし出した。照らし出された俺の身体は、黒々と影のように揺らめいていた。その黒い足首を濡らす液体は、決して光の所為だけではないのだろう、血の如き赤さを湛えている。

 床は振り下ろした大剣で粉砕し、巨大な亀裂に漏れ出た赤い水が流れ込んでいる。周囲には用途不明な金属の筐体が転がり、其処から伸びる幾多ものロープが床一面に張り巡らされている。

 少女が出て行ったそんな部屋で、俺は暫し立ち尽くす他に無かった。

 全てを把握するにはあまりに情報が多すぎる。

 

 ―――見知らぬ世界。己の黒い身体。カイムとドラゴンと言った赤目の少女。

 

 こんな時、ドラゴン。……いや、アンヘルがいれば、あの掠れた中性的な声で、適当に文句を吐きつつも話を纏めてくれただろう。右手の大剣はアンヘルの形こそ模して、アンヘルの魔力の残滓を感じさせはするが、それだけだ。アンヘルの存在は感じられない。その事が、俺は今一人なのだと改めて実感させる。

 纏まらない情報が脳内を錯綜する。

 あの赤目の少女はカイムと、確かに俺の名を呼んだ。ドラゴンのことも言っていた。あの少女は何かを知っている。暗がりの世界で、俺の名を呼び続けていた者はあの少女だったのだろうか。

 

 ―――(カイム)(アンヘル)の事を知っている赤目の少女。

 

 なるほど、この右も左も付かない状況では、十分に利用する価値はありそうだ。

 しかし、思えばあの赤い少女は不思議な雰囲気を纏っていた。少女の見た目は妹のフリアエと同じくらいの年齢に思えたが、幼さというものは感じられなかった。言動は何処か遠回しで胡散臭い印象。だが、眼だけは本物だった。あの赤目には絶望も恐怖の曇りも無く、強固な自我と抵抗の意志の光を宿していた。

 赤目でも、あのような意思の宿した眼をした人間の言葉なら信じてみるのも悪くないだろう。もし敵となるようなことになれば、斬れば済むことだ。

 纏まらない情報も、纏まらない(なり)に纏った。

 さて、今後の方針としてはあの少女を追うか否か。幾つか分からない単語があったが、あの少女は懇切丁寧にも道筋を示してきた。

 

『今はダメ。私達は逃げないといけないから。もし、興味がお有りなら、東京タワー、……といっても分からないわね、貴方達が墜ちた赤い塔にいらっしゃい。外苑東通り国道319ご……東。東に行きなさい。東の赤い塔』

 

 赤い塔、そして東。

 如何にも赤い少女の掌の上な気がしてならないが、今はあの言葉に従う事にしよう。これは選択だ。あの少女に巻かれたわけではない。少女は選択肢を提示しただけ。何を選ぶのかは俺の意思だ。

 さて、行動を移す前に先ず服だ、服が欲しい。黒々しい身体を晒している俺は何も身に着けていない。とどのつまりは裸だった。この黒い身体は、それこそ影のようだった。頭が有り、胴、四肢が有り、それらが如何にか人間らしい形を朧気に保っている状態だ。そんな状態といえど、全裸で動き回る趣味は持ち合わせていない。

 何か身に纏える布はないかと部屋を見回すと、赤い少女背負われていた白い少女が身に着けていた白い外套と同じ物が落ちていた。今はこれで良いか、そう思い外套に袖を通す。丈は膝上程、ゆったりした作りでサイズに問題ないようだ。しかし、前の留め具は無いのか、少々はためいて鬱陶しいが、何も無いより幾分マシだろう。

 袖を通した時に左手首に引っかかるものを感じた。何だと目を向けると、黒々揺らめく手首に一つのブレスレットがあった。兵士だった頃、俺の名の刻み識別票代わりにしていたもの。妹のフリアエとお揃いの品。今となっては、形見のようになってしまったもの。

 

 これだけは無くさなかったか。

 手首のブレスレットを眺めて微かな郷愁に耽っていると、けたたましく鳴っていた騒音の中に人間の声が混じるのが聞こえる。

 

「"岩"干渉実験室にて異常事態発生!」

「急げッ! 展開遅れるなッ!!」

「警備を除く他の職員は速やかに所外に避難してください!」

「突入ッ!!!!」

 

 その号令と喧しい足音と共に、幾人かの人間が部屋に闖入してきた。

 人間達は黒い軽装束に身を包み、統率の取れた動きで扉付近に陣取る。顔は黒塗りの光沢のあるフルフェイスの兜で覆われ窺えない。その手には小さな大砲のような、(いしゆみ)ような物を構え、此方に砲口を向けている。何だ、誰だ。分からないことがまた増えた。だが、分かることも増えた。

 それらは武器か? お前らは兵士か?

 目の前の人間は良い空気を纏っている。顔は見えないが空気で分かる。全身から滲み出ている。恐怖に警戒、害意で敵意なものだ。あぁ、懐かしい感覚だ。戦場に居た頃には常に晒されていた空気。とても良いものだ。だが、まだだ。それではまだ足りない。ひりつくような殺気と、死と血の臭いをお前らからは微塵も感じられない。

 あぁ、この口がきけたなら、是非に問うてみたい。

 

 ―――武器を向けるお前らは、敵か。

 

 目の前の人間達と膠着状態が続く中で、ふと少女の言った言葉が蘇る。

 

 

 ――――――『貴方は、私に興味がお有りかしら』

 

 ――――――『此処に居たら私達は身動きが取れなくなる』

 

 ――――――『私達が無事逃げられたら―――、教えてあげる』

 

 

 ―――そうか、逃がせと。そう言うのか、あの少女は。

 

 本当に、本当に妹と同じ年頃なのだろうか、あの少女は。利用するつもりでいたが、既にここまで良いように使われているとは思わなかった。どうにも囮にされてしまったか。見た目は少女だったが、実は結構な年増だったとしても驚かないな、これは。アンヘルに聞かせる話が一つ出来た。賢しく随分変わり者な赤目の少女がいたと。

 

 ―――いいだろう。益々興味が湧いた。今はお前の掌で素直に踊ることにしよう。

 

 目の前のこいつらとは違い、恐れに曇らなかった赤い瞳に誓おう。

 我が身より連れの少女を案じた姿と、俺に向けた怒りの人間らしさに誓おう。

 己すら掛金として交渉材料に差し出し、俺が動くことを信じたその度胸と信頼に誓おう。

 何より、斬ってもいい敵をくれたことに感謝しよう、赤目の少女。

 だから、上手く逃げ切れ。赤い塔で待ち惚けなのは困る。お前には色々と聞きたいことが出来た。アンヘルの事、俺の事、この世界の事、そして少女、お前自身の事。

 俺の直近の行動は決定した。少女の敵を殲滅し、少女との合流を果たす。アンヘルについてはその後、少女の出方次第だ。

 大剣を担ぐ。握る柄が手に馴染む。幾度かその触感を確かめるように大剣を振る。

 一振り、二振り、その度に己の内に熱を感じる。火、燃え盛る大火だ。血が騒ぎ、気分が高揚している。ああ、こんな身体にはなったが、やはり、俺は俺のままのようだ。

 さて、先ずはこの敵を殺すことから始めよう。

 赤い光に照らされる赤い水に俺の顔が反射した。

 黒々と揺らめく身体に人間らしい表情は見えない。だが、目と口が恍惚と歪んでいた。

 何処となく黒竜に似ている、一人目を殺しながらそう思った。

 

 

 × × ×

 

 

 ――――――ッ!!

 

 頬に弾丸が掠め、黒い血が流れる。だが、床を踏み砕く脚を止めはしない。

 突撃しながら腰に構えていた大剣を左から右へ水平に薙ぎ、一太刀で二つの命を刈り取る。大剣は胴を轟断し、上半身を吹き飛ばし絶命させる。残った下半身の切り口は鮮血を噴き上げ、慣性に従い力無く後ろに倒れる。振り抜いた大剣は通路の壁を削り斬り大きな爪痕を残した。

 その姿を傍目に確認しながら、振り抜いた大剣を逆袈裟懸け斬りに振り上げる。最後の黒服は錯乱したような悲鳴をあげ、砲口を俺に向けようとした左腕が宙を舞う。振り上げた大剣は、目の前の黒服の左脇に食い込んで肩部から吹き飛ばし、フルフェイスの黒兜を砕いて顔の左半分を削る。

 

 ―――チッ、浅い。

 

「ギッ、アガ……ッ! い、いイぃイ゛ダい、痛イッ!!」

 

 大剣の重量と勢いで吹き飛ばされた黒服は壁に激突し、右向きに転倒して悲痛な慟哭をあげた。そんな黒服に、振り上げた大剣を右手で肩に担いで即座に接近する。見逃しはしない。

 呻き蹲っている黒服の前に立ち、振り上げた大剣を振り下ろす間際、兜の取れた人間と目が合った。血に濡れる顔、横倒しの恰好のまま俺を睨み付けていた。その目は恐怖と苦痛に淀み、その口からは怨嗟と呪詛が漏れた。

 

「―――化、け…モノォ……ッ!」

 

 俺は言葉を失っているが、聞こえない訳じゃない。だから、音の紡げない口で応えてやった。

 

 ――――――俺は、人間だ。

 

 その一言と共に大剣を振り下ろす。

 黒服の絶望に歪み固まった顔が廊下に転がり、人間由来の音が消えて警報音だけが響く世界に戻る。

 火薬の炸裂音と断末魔が木霊していた空間は、硝煙の残り香と血と死の臭いが充満する空間に変わった。幾多もの人間が骸を晒して沈黙し、白かった空間は血と肉の色に染め上げられている。

 血の海の上で、頬をつたう黒い血を拭いながら思う。

 俺は人間だ。こんな身体でも血は出るし、痛覚もあるようだ。限度が過ぎれば今度こそ死ぬだろう。竜や魔物、天使の前では小さく脆い人間でしかない。

 しかし、敵は厄介な武器を使っていた。そう思い、床に転がる小火器に目を遣る。

 弩のような引き金の付いた金属体、小さな火砲のような物か。見たことのない技術だが兵器としては中々に優れている。城砦や飛空艇に備えられている大砲を、個人で運用できるようにしたものか。砲術の心得は無い俺には不要な物だな、慣れない武器はあっても邪魔なだけだ。

 大剣を一度大きく振り、こびり付いた敵の血肉を払う。

 馴染む剣だが人間を斬るには大きすぎるな。それこそ化け物を斬る方に向いているだろう。それでも結構な数の人間を斬った。黒服を10か20くらいか。白かった外套はすっかり朱に染まり、所々に弾丸を受けた穴が開いている。

 受けた傷は知らぬ間に治癒している。小火器のよる攻撃の傷自体浅かった。かつての人間らしい肉体であれば、こうはいかなかっただろう。契約者になって得た身体機能や治癒能力を凌駕している。やはり、この黒い身体はまともではないようだ。

 ともあれ、向かってくる敵はいなくなった。此処にはもう敵となる人間はいないだろう。時折、黒服以外の人間も見えたが、敵意も無く逃走しているだけだから捨て置いた。敵意が無い以上はどうでもいい。そんな有象無象より優先すべきことがある。

 

 ――――――赤目の赤い少女。

 

 幾つか階を上がってきたが、少女らしき影は見受けられなかった。捕えられていないのなら、上手く逃げ切ったのだろうか。いや、確信が無い。だから、こうして屋内で気配を探りまわっている。しかし、この建物は奇妙な圧迫感がある。まぁ、それも残り二部屋だ。それで次の階層に向かおう。

 手近な方のドアノブに手をかける。扉脇の板には『岡崎夢美』と掲げられていた。他の部屋にも似たようなものがあった。単なる紋様ではなく、文字であることは察せられたが、なんと読むのだろうか。

 この世界の常識について知る必要が出てきたな。俺は口がきけないし、代弁してくれるアンヘルも今はいない。ただでさえ、自覚する所として、他者との関わり方に難があるというのに、これではアンヘルを如何にかするどころではない。……益々、少女を頼る必要が出てきたな。

 ドアノブを捻り扉を開いた先の部屋は、証明が点いてなく暗かったが整然としていた。部屋の構造自体はこの階の他の部屋と同じだが、他の部屋は本やら紙やらが積み重ねられ雑然としていた。だが、この部屋はえらく片付いている。それに、生活感というものが感じられない。『岡崎夢美』は空き部屋か物置なのだろうか。まぁいい、少女の姿が無いなら次だ。

 最後は隣の部屋、『千藤希笛』と書かれている部屋だ。扉を開け入ろうと思ったが、鍵がかかっている。他の部屋は半分が扉が開け放たれたままで、もう半分は鍵はかかっていなかった。この部屋だけ鍵がかかっている。

 この部屋に捕えられているのか? 人の気配は無いが、確認する必要がありそうだ。力任せにドアノブを捻るとバキリッと軽快な音で取っ手が壊れてしまった。いや、壊したというべきだろう。鍵は依然として掛かったままだ。暫し悩んだが、大剣で扉を打ち付けると轟音と共に扉は開かれた。くの字に折れ曲がった扉が室内の床を滑る。先に黒服達を斬った時も思ったが、力の加減が難しい。出す力自体は上がっているようで不足はないが、制御にも気を払う必要があるだろう。少なくとも、扉の向こうに探し人がいるかもしれない状況での抉じ開け方では無かった。

 この部屋も照明は点いてなく暗いが整然としている。ただ、隣の『岡崎夢美』とは雰囲気が違った。生活感があるというのもあるが、なにより書斎のような落ち着いた雰囲気があった。部屋の作り自体、この階の他の部屋とは少し異なっているようだ。対面式に置かれている机の存在が執務室のような印象を与えてくる。ただ、この部屋にも少女の姿は無かった。鍵がかかっていたから、もしやとは思ったが、これだけ探して気配に引っかからないのなら、あの少女は上手く逃げ切ったのだろう。

 早いところ赤い塔に向かう事にしよう。少女が先に逃げ切っているのなら、合流に時間をかけるのは得策ではない。

 竜大剣を担ぎ直し、俺は未だ警報音の鳴り響く廊下へと駆け出して行った。

 

 

 × × ×

 

 

 階段を昇りきってから、抱いていた違和感の正体に気付いた。

 目の前には窓があり、其処からは月明かりに照らされた風景が広がっていた。微かに吹き込む風が血染めの白衣をはためかせる。

 成程、俺が先まで居た所は地下だったのか。どうりで窓一つ無く、息苦しい感じがしていたわけだ。

 覗く窓から見える景色には結構な数の兵士、軍隊が展開していた。車輪の付いた流線型の金属の箱が独りでに動き、中から先の小火器を携えた人間が多数出てきている。

 あの箱は何だろうか。車輪があるということは、馬車かそれに類するものなのだろうが、動力は何だ。動物に曳かせているでもないのに、高速に、機敏に動いている。魔法か、それとも箱自体が魔物の類の可能性もあるか。……いや、止めておこう。この世界は俺のいた世界とは随分と異なる。知らないことは、考えても分かることでもない。今はあるがままに受け入れて対応するのが無難だ。

 屋外で展開しつつある敵達と殺り合うのも良いが、探索に大分時間をかけてしまった。少女らが脱出したと仮定するなら、俺の囮としての役目は終わりだ。目的の優先順位を敵の殲滅から、少女との合流に移すべきだろう。ひとまず屋上に向かおうか。地下から出たが、この上にはまた別の建築物が建っている。少女らは逃走して、合流場所も指定してきた。この上の建物内に残っているという事も無いだろう。取り敢えず、屋上に向かい周囲の様子を偵察することにしようか。

 

 轟音と共に天井の一部が吹き飛ぶ。

 屋上に行くのはあっという間だった。階を繋ぐ階段が吹き抜けの構造だったため適当に跳躍を重ねるだけで屋上間際まで辿り着けた。屋上への扉を探すのは手間だったから、今しがた大剣で打ち抜かせてもらったが。

 屋上に出て、先ず目に入ったのは月だった。右側が欠けた半月。冷たい光を湛え、夜の闇を柔らかく照らしている。

 夜空の星々を見上げて大凡の方位を図る。それに地下のあの部屋で赤い少女が指し示したいた方角と照らし合わせて方位の正しさを補強する。嘘か適当の可能性もあるが、迷いなく指し示していた以上それを信じる他無いだろう。ふと、人の気配の濃い北と(おぼ)しき方角に意識を向けると、遠くに黒い巨壁が月光と指向性のある光に照らされていた。城壁だろうか、いや、さっき気にしないと決めたばかりだ。先ずは受け入れろ。

 兎も角、状況を整理して東と思しき方角を見遣ると、幾多もの構造物の向こう側、薄闇の中に浮かぶ見覚えのある塔が見えた。赤い塔。俺とアンヘルが墓標、とはならなかった塔。生き返って早々自身の墓参りをさせられるというのは因果なものだと思わずにはいられない。

 屋上から赤い塔に向け、別の構造物に飛び移ろうと考えたがその足が止まる。

 眼下に目を遣れば、未だ敵が展開を続け、その数を増している。その幾らかは、此方を視認しているようだ。黒い身体に白い外套だ、目立ちもするか。せっかく見つけた衣服ではあるが処分の必要があるな。あの兵隊が後を追ってくるようなら面倒だ。だが、一々相手をする時間も惜しい。

 

 やってみるか。

 心中で独り()ちて、竜大剣に魔力を集中させる。刀身の罅から漏れる緋光が強くなる。

 俺には遠距離からの攻撃となれば魔法くらいしか手が無い。ただ、魔術そのものに精通しているというわけでもない。剣ばかり振っていた俺には、魔術師や魔法を使う魔物の殺し方、対処法こそ知れど、魔法陣や詠唱を用いた魔術発動の理解は足りていない。俺に出来ることと言えば、『魔剣』と呼ばれる武器に秘められた魔法を引き出してやることくらいだ。

 

 ――――『魔剣』

 

 剣と名は付くが、それは総称だ。

 片手剣のように"剣"らしい物があれば、短剣や斧、槍、杖、棍棒、槌、斧槍と形は色々。大凡共通していることと云えば、それらは人を殺す為の武器であるということ。数多の血と死と共に呪い染みた呪い、祈り染みた呪いを呑み込み孕んでいる。呪いは使用者を祟り、狂気に導き、不幸に陥れる。剣は道具であり、人に使われるが、魔剣は異なる。

 魔剣は時として人を道具にする。言ってしまえば、魔剣は魔剣の形をした意思の存在者だ。それは魔剣の歴代の使用者の思念の名残であったり、その刃の犠牲者の怨嗟の残骸であったり、祈り、呪い、願いであったり、それこそ魔剣の形の如く様々だ。強すぎる思いや念はその清濁に関わらず魔と成り武器に宿り、そして魔剣が生まれる。

 俺の元には65の魔剣が集まってきていたが、今俺の手にある魔剣はこの竜大剣だけ。前は名を呼べば手元に現れていたが、今は何処にいったのか現れてこない。いや、現れているのか。そして、夢のような世界で見た血肉の丘の光景。……考えるのは後だな。

 魔力に満ちた大剣は焔のように煌めく緋光を放っている。

 この竜大剣がどのような魔法を宿しているのかなど知らないが理解る。理論や術式など難しいことを考えるな。魔剣を受け入れ、あるがままに振るうだけだ。

 この大剣は火だ。アンヘルの熱を宿している。

 俺はそれを受け入れ、剣を振るうだけ。

 屋上の縁に立ち、眼下に群がる兵隊に向けて右手一本で大剣を構える。脚を開いて重心を落とし、腕を首に絡めるように深く深く振り被り、左上から右下へ大きく袈裟懸け斬りに大剣を静かに、されど力強く払う。

 

 一閃

 

 払われた大剣から竜の息吹の如き業火の斬撃が生まれた。放たれた炎刃は、夜の(とばり)の一角を昼のように煌々と照らしながら軍団に向け飛翔する。飛翔体は着弾し、爆裂して、轟音と閃光と共に地上に地獄を齎した。

 業火は樹を焼き、地を焼き、人を焼き尽し、その一切の存在を魂まで灰燼に帰す。

 轟々煌々と全てを呑み込んでゆく火の揺らめき。樹が焼けて弾ける音。人が焼けて泣き喚く声。

 あの少女への狼煙には丁度良いだろう。

 お前の敵は殲滅したと、今から向かうと。

 地獄からの阿鼻叫喚を背で受けながら、血染めの白衣をその場に残して赤い塔目指して闇の中へ跳躍した。

 

 

 




 どうも、作者です。ご閲覧ありがとうございます。


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2.「邂逅」-7

そして、彼女と彼は邂逅を果たす。改筆中21.9.26~一先ず了21.10.1


     7

 

 

 

 バタリ、と手にしていたトランクを下ろして、額に流れる汗をブラウスの袖口で拭う。

 デスクワークで運動不足気味のこの身体には、中々に良い刺激になった。身体が酸素を欲し、呼吸が口呼吸過多になり、急激な運動で血液を送り出した脾臓が悲鳴を上げ、左脇腹に鈍痛が響いていた。滲んだ汗がブラウスを濡らし、肌に張り付いて不快な感覚を伝えてくる。背に確かな温もりと重みを感じながら崩壊した都市を疾走、とまで俊敏でもなければ格好良くもつかないけれど、如何にか東京タワーの元に着いた。

 "竜"が墜落した赤い塔は、"竜"回収の折に、損傷著しく倒壊の危険性が高い部分は解体されたが、その他の部分は検証の為に保全されたことで、今なおこの災厄の地に屹立している。災厄からしばらくの間は方々の研究機関が詰めていたが、現在では調査の手もやりつくしたようで人員、機材共に撤収され伽藍としている。近隣の民間人は退避命令・指示等で移転しているのもあり侵入を禁止するフェンス等は無く、千切れ古ぼけた黄色い立ち入り禁止テープが所々で夜風にたなびいていた。

 瓦礫が今なお転がる路上、適当に腰掛けられそうな場所に見当をつける。ちゆりには大きすぎる白衣を脱がせて床代わりに敷き、その上にちゆりを寝かせて膝枕にした。膝の上を見れば、ちゆりの顔は穏やかな表情で眠っていた。この様子ならいよいよもって安心だろう。

 暫しそのまま見詰め、穏やかで静謐とした時間が流れる。乱れていた呼吸も大分落ち着いてきた。

 ちゆりの額に掛かる金の髪を指先でそっと払いながら、塔の麓から夜空を見上げる。帳が覆う蒼空には下弦の半月が堂々と浮かび、冷たく澄んだ光で道を照らしている。

 

「ふぅ、……ほんと、いい夜ね」

 

 深く一息ついて、自然と感嘆が漏れた。

 満月じゃないのが惜しまれるほど、今宵は冴え冴えと晴れ渡った夜空だ。ビル群の割れた窓に月光が乱反射し、路上アスファルトの亀裂から逞しく葉を伸ばす雑草を照らしている。崩壊した都市の姿は世紀末な様相であるが、一方で自然と科学が共存している様は幻想的な美しさを孕んでいた。

 この風景は、かつてこの日本国の中枢都市であったもの。それはこの荒廃したビル群や、放置され錆が浮かぶ車両の数が物語っている。

 

「『カイム』、ね」

 

 近くの風景から研究所のあった方に目を移し、あの黒々した"人間(カイム)"を想う。

 私達が上手く逃げ切れた以上、計画は上手く推移しているのだろうか。

 計画、私達の安全とカイムを確保する計画。

 あの状況では情報が少なすぎた。そのクセに悪い問題ばかり想起された。

 特に、実験室にあれほどの破壊を齎したカイムの危険度。危険なのは確かだけれど、どう危険なのかは推し量れきれなかった。すぐさま襲われもしなかったし、私の話を聞いて理解する程度の知性も見え、私の話にも頷いてくれたように見えた。カイムが人間的な要素を有していると期待しても良いだろう。だが、それはあまりに不確定な要素だ。

 一方で確定している一番の問題があった。あのまま研究所にいれば、"岩"に変化を齎した存在として私は、最悪の場合ちゆりも、情報と責を追求されただろう。それこそ、ちゆりが危惧していたように監禁に陥るような事態まで。

 だからこそ、自ら警報装置を作動させた。

 あの状況から問題を避ける為に求められるのは、混乱。それも、研究所内外を巻き込む大混乱。カイムが現れただけでは足りない。

 最下層の実験室にいる人員が操作しなくては作動しない警報装置、それが作動したということが意味指すものは、"岩"の暴走だ。その鎮圧・調査ともなれば、第二研究所の警備戦力だけでなく各駐屯地、他研究機関から大規模な人員移動が期待できた。"岩"と関連があると見られる"竜"の方にも戦力が分散されるだろう。事実、緊急の大混乱と真夜中の時刻と夜闇のおかげで、人波に紛れることでうまく逃走することが出来た。

 ただ一つ、想定される最悪の事態もある。カイムの気性が穏やか・受容的で、現人類の知性・価値観を超越した存在だった場合だ。この場合、武力衝突があったとしても研究所側と和解する可能性が出て来る。そうなれば、私達は即刻お縄でしょうね。だけれど、その可能性は低いことに賭けた。これは経験則。

 あの黒々としたカイムの姿、並の人間は敵対の姿勢を取る。これは確信。

 未知の何かに関わった存在には"巨人"、"竜"、白塩化症候群そして変異感染者がいる。完全致死の奇病と、人間を殺害せずにはいられない変異感染者。人は、命は、死を想わずにはいられない。

 

 未知。常識と非常識。黒々した謎の存在。白塩化症候群。塩の柱。死。

 

 常識側を恐怖させ、非常識側を拒絶させるには充分過ぎる要因となるでしょうね。私が作動させた警報装置のお膳立てもある。カイム側に受容の意思があったとしても、人間側はそれを決して受け入れない。異端は異端として在るしかないのだから。

 いや、主任だったらどうかしらね。まぁ、その主任も今頃、官邸でお歴々に読書会と音楽鑑賞会の大切さをとうとうと語っているところに、緊急の連絡が入ったかどうかというところなのでしょうけど。

 それに、餌は撒いてある。私という存在だ。周囲に敵意を持った存在しかいない中、私という存在の選択肢を与える。一度でも交渉、会話が出来た相手だ。他の餌よりは食い付いてくる可能性は高いでしょう。

 ただ、その餌は毒入り。カイムが私に興味を示したのなら、その関係性の上位は私が頂く必要がある。カイムが私にしか頼れないのなら、カイムは私達を殺せないでしょう、私には彼にそう思わせるだけの価値を示し、与えられることが出来る。ただ、これはカイムが人間であればという希望的観測による判断。どうしようもなく暴力的でケダモノのように貪りたがる人種の可能性だってある。ただ、これは悪い賭けだとは思っていない。顔突き付け合わせてお話しての勘、ってやつなのかもしれない。

 カイムが人間らしい良い人で、私みたいな悪い人に釣られることを祈るばかりね。

 今後の見通しを脳内でしていると、夜が一瞬昼のように輝き、遠い轟音が夜の帳に響いた。微かに聞こえる人の悲鳴は幻聴ではないのだろう。

 それは国立超自然第二研究所の方角だった。

 

「……あら。食い付いたわね、素敵」

 

 研究所の方角から赤い光が発せられ、遠目に火柱が上がっているのが見える。今度こそ確かな人間の絶叫や何かが崩れる轟音が暗い空に響き渡る。

 カイムが連中より私を選んでくれたようで何よりね。しかし、私の目には優しそうな人間に見えたのだけれど、思いのほか好戦的なのかしら。あるいは陽動か。だとすれば、生真面目な気質なのかもしれない、なんて勝手に他者の人格に希望を寄せるのは止めておこう。これはあくまで分析だ。

 さて、何人死んだのかしらね。

 今こうして尋常ではない事態が所内外で起きている。ということは、カイムは研究所の警備と事を構えたということ。そして、今は方々からやって来ているだろう武力集団とも一戦構えたのだろう。構える、婉曲的な表現は避けるべきね。カイムと相対した者は残らず死んでいるでしょうね。あの実験室での破壊力をより集中的、意思を持って向けられて生きている人間はいないだろう。そして、死んでいった人々には申し訳ないけど、死んでくれたおかげで計画は相成った。死んでいった命が、カイムの中で私達の価値を釣り上げる。カイムを受け入れる人間はいなくなり、ますます私を頼らざるを得なくなる。これでカイムは私達を殺せなくなる。

 大切なものを傷付けようなんて、絶対に許さない。今回のはこれでチャラにしてあげるけど、二度とさせないわ。

 命を糧に燃え盛る大火を遠景に望みながら、膝上の少女の頬をそっと撫でた。

 

 

 × × ×

 

 

 研究所の方角を見詰めながらちゆりの頭を撫でていると、廃墟ビルの屋根から影が音も無く降り立った。

 その影は月光に晒され、その姿を露わにする。般若かと思ったが違う。

 

「あら。いい夜ね、カイム」

「…………」

 

 返事は無い。その影は"人間(カイム)"だった。

 影は腰掛けている私達の前まで来て立ち止まり、此方を静かに見下ろしてくる。実験場で携えていた大剣の姿は無かった。

 間近で改めて見るけれど、やはり不思議な姿よね。

 体表は影のように揺らめいていて、言葉では形容しがたい姿をしている。手足の先ほど漆黒に覆われ、その体表には金や赤に光り輝くの紋様が浮かんでいる。

 顔だけは揺らめきが少なく、灰色の肌に輪郭や表情がしっかりと人間らしい形をしている。目鼻があり、眉があり、耳も口もある。顔立ちは男、若い印象。20歳半ばくらいか。男前と呼んでも差し支えない程度には整った顔をしている。髪は黒く、前髪は目にかかる程の長さ。その(すだれ)髪の奥に覗く眼の白目は漆黒だったが、その漆黒の浮かぶ瞳は金、それこそ満月が埋め込まれているように光り輝いている、ように見えると記憶に付記しておく。実験室での一件、私だけが"岩"のカイムを視認していた以上、この赤目を、私自身を疑うべきなのは忘れるべきではない。後々、ちゆりからの観察が必要になるだろう。

 

「今一度確認なのだけど、貴方の名前はカイムで良いのかしらね?」

「…………」

「そう。私は岡崎夢美。眠っているのが北白川ちゆり。よろしくね、カイム。で、どうかしら。私達は逃げ切れそう?」

「…………」

 

 腰掛けたままの私の問いに、カイムはただただ首肯する。

 これで私達の安全は確保されたということだ。カイムが嘘を吐いている可能性はほぼ無い。カイムがこうして私の前で会話に応じているのだから、味方とまでは言わないが、互いに利用価値のある協力者くらいには認識してくれているでしょう。

 

「さて、色々お話する前に質問よ、カイム。貴方、言葉は理解しているわね。それでいて話さないということは、話せない、ということでいいのかしら?」

「…………」

 

 私の問い掛けにカイムは一瞬考えるように俯いてから、灰色の唇を開いた。黒い口腔から灰色の舌を覗かせ、指で指し示す。

 話せないという事かしら。しかし、口? 舌? を指差して何かしら。……見えないのだけれど。こいつは見えるように屈むといった配慮を一切しないのか。腰掛けているのもあるが、カイムの体躯は大きい。身長は180~190㎝くらいだろうか。つまり言うと、見せる気あるのかしら? カイム?

 

「あら、何? 見えないって、ほら屈みなさい」

 

 仕方が無いので、ちゆりの頭を膝から下ろして立ち上がる。マントを外して畳み、枕代わりにそっと頭の下に添える。それからカイムの両肩に手を伸ばして、屈むよう抗議する。このままじゃ私、貴方の肩しか見えないのよ。

 立ち上がる時、ふとカイムの両脚の付け根に目が行った。決していやらしいものではなく、学術的な興味に因るものだったのだけれど、それらしいものは確認できなかった。なるほど、色々と便利な身体であるらしい。

 

「…………」

 

 私の抗議行動にも、カイムは沈黙するだけだった。

 しかし、このカイム、頑健である。

 両肩に体重をかけて屈ませようとしたけど、ピクリとも動く気配が無い。私の体重がさほど無いせいなのか、カイムの筋力がすごいのか。いや、両方かしらね。体裁さえ気にしなければ、このままぶら下がれてしまうだろう。

 そんな下がる気配の無い肩だったが、暫ししてカイムが片膝をついて見える高さに顔を持ってきてくれた。

 

「そうそう、早くそうしなさい。……さて、これは何かしら。あ、ほら動かない。焼印(やきいん)、ではないようね」

 

 カイムの顔にべたべた触りながら、その口腔に遠慮なく指を入れ込み舌に撫でる。多少カイムが身動ぎしたが、気にしない。見せようとしたのなら徹底的に観察させてもらうわよ。

 その渇いた灰色の舌には、見たことのない紋様が浮かんでいた。私がカイムの名を認識した時の天使文字といった風でもない。文字というよりは紋章に近しいのかもしれない。

 

「なるほど、今はまだ分からないという事にしてあげる。喋れないことは了解よ、カイム」

 

 そう言い乾いた口腔から指を抜く。

 また解らないことが増えたことに、思わず顔が綻んでしまう。

 

「…………」

 

 案外大人しくしていたカイムは、私が指を引き抜くとやれやれといった具合で立ち上がろうとする。

 

「あら、ダメよカイム。そのままにして。これから大事なお話をするの。顔を見て話しましょう?」

 

 そう言いながら、立ち上がり掛けたカイムの肩をまた掴み力を入れる。

 カイムは一度、私の顔を見詰めて覗き込んでくる。彼の力なら難なく立ち上がれるだろう。だが、またやれやれといった具合で片膝を突く。なるほど、このカイムは中々に人間のようだ。

 主導権を握りたいというのもあるが、さっきの言葉も本当だ。カイムは髪が目にかかり、その表情が見え難い。人と向き合う時は目を見て、ちゃんと向き合わないと。カイムが顔を逸らさないように両の耳を柔らかく掴み、逃げてはダメと行動で伝える。

 

「先ずは感謝を。貴方の所為なところもあるけど、助けられたのは本当。あの状況から救われたわ、ありがとう。カイム。まぁ、少し派手にやりすぎのようだけれどね?」

 

 正面からカイムの満月のような瞳を見詰め、本心から感謝を告げる。

 最後だけは真面目臭くなり過ぎないように茶化す感じで。うん、これは悪癖ね。

 カイムは耳を掴む私の手を顔を振って払い、一度瞑目して僅かに俯く。

 あの状況。研究所での騒動もそうだし、私の世界を認めない世界もそう。貴方がいなければ私はきっと閉じられた世界で果てていたわ。だからこその心の感謝。これだけは一番最初に言おうと決めていた。

 

「次に契約のお話。筆談は出来そう?」

 

 私の問いにカイムは静かに首を横に振る。

 

「無理ね。なら、了承しかねることや質問があればその都度手でも上げて。意図はこっちで汲み取るから」

 

 私の声にカイムは顔を上げる。

 カイムはその月の瞳で私を凝視している。値踏みするような、裏を探るような真剣な瞳。

 あら、良い顔よ、素敵。

 

「私は貴方に知識と力、"竜"と声と、この世界での社会的居場所を確約するわ。足りなければ、声が出るようになってから追加要求なさい。論理の範疇なら目途を付けましょう」

「…………」

 

 とうとうと語る私をカイムは静かに見詰めている。契約の確認をしているのだろうか。

 

「その代わりに、貴方は私に協力すること。服従では無く協力。協力だから私がお願いした事に応えるか応えなないかは貴方が決めればいい。ありったけの餌で釣る事はあるでしょうけど」

「…………」

「無理難題や悪事を吹っ掛ける気は無いわ。協力は研究の助力が主になると思ってもらっていい。包み隠さず言えば、インタビューでうんざりするほど君の知る話をさせられたり、身体の恥ずかしい所までサンプルに提供してもらうことになるでしょうね」

「……!!」

「そんなに嬉しそうにしない。違う? まぁいいわ。さて契約終了のお話。私の為すことにどうしても付き合いきれないなら、貴方は貴方の好きにすればいい。そこで契約は終了。私を殺そうが犯そうが、何処へと去ろうがそれこそ好きにするといい」

「…………」

 

 カイムが私を見詰める姿に変わりはないが、一瞬、その瞳が細められた、気がした。黒い身体にこの夜暗ということもあり、その奥底にあるものは読み取れない。

 

「私の方からは契約の終了を申し出ること無さそうだから省こうかしらね。……あぁ、一点だけ確約しましょう」

 

 そこで区切ってカイムの頭に腕を回し、上半身を屈め柔らかく抱き寄せる。

 不意を突いた行動にカイムの身体は素直に動いた。

 そして、より近くなったカイムの顔、その耳に顔を寄せ、そっと囁く。

 

「――――二度と、ちゆりを傷付けないで」

 

 私が囁くと同時にカイムは十数歩の距離を一瞬で飛び退く。

 私はその反動で尻餅を突いた。何も逃げること無いじゃない。

 赤いスカート払いながら立ち直り、カイムに対峙すると、カイムは距離を置いて屹立したまま私を凝視している。悠然と佇んでいるように見えるが、その視線は一瞬でも目を離さないように私の赤目に注がれている。

 なんだ、ちゃんと人の眼を見れるじゃない。

 そんなカイムに、私はカイムの金眼を見詰め返す。そして、そのままゆっくりと歩み寄りながら語り続ける。

 薄っぺらい上辺の遣り取りで他者と繋がれるほど、私という存在は確立していない。漂泊にして軽薄なる明白。だからこそ生臭い本心を、グロテスクな内面を、私という存在を構築している微かな要素をありったけ掻き集めてぶつける。ぶつけなくてはならない。言わなくても通じるなんてのは私以上に夢物語だ。

 話せ。岡崎夢美のことを。カイムのことを。話す、ひとと繋がるのにそれ以上は無いのだから。

 

「貴方には大切なものはある? きっと"竜"のことなのでしょうけどね」

 

 憶測でもの言う私にカイムは暫し肯否せず黙したが、その後ただただ静かに小さく頷いた。

 

「私にもあるわ。そして、無数の有象無象と一つ大切なものが天秤にかけられたなら、迷わず大切なものを取る」

 

 先の研究所でその選択肢を選び取ったし、今後もそう在るでしょう。

 

「私は、何ものにも担保されていない。血縁、集団、国家、思想、宗教、文化、民族、歴史、知識、経験、記録、記憶。ありとあらゆるものから浮いている。この赤を含めて、あるいはこの赤故に。貴方が訳有りであるように、私も訳有りということ。これが私の行動原理。私は私に、世界に、私は何たるかを証明してみせんとする意思だ」

 

 カイムに語り掛けながら間近正面に相対し、少し爪先立ちになって顔を寄せる。眼を見開いて簾髪の奥の眼にこれが私だと見せつける。

 欠月の朧気な光の中、カイムの金瞳に岡崎夢美の赤瞳が映るのを見た。

 

「異端は異端であることを自覚すれば幾らで身の振り様はある。それでも他者との共通項が無いというのは、他者との繋がり、共感を得るうえで厄介なのは間違いない。それとも逆なのかもしれないわね。人並みの人にとって他者と繋がる事は当たり前の事なのかもしれない。共感を特別視しているから異端なのか、異端故に共感を特別視しているのか」

 

 告白か独白かの境界が曖昧になりつつある誰が為の語りを垂れ流しつつ、覗き込んでいた顔を引っ込めてカイムに背を向ける。素直に言えば、自身が来た道の方を振り返った。

 

「理由の有無に関わらず、隣に在り続けようとする物好きもいるから一概には言えないのだけれどね」

 

 私は遠くで眠っている少女を見た。私は彼女の事を助手と呼ぶ。彼女は私の事を教授と呼ぶ。教授と助手の間柄であれば共に在る理由になると、彼女が私の気持ちを汲んでくれてのことだ。何しろ、今の私は教授という社会的役職に就いていないのだから、彼女は私の助手だとしても、私は教授ではない。そんなことは私も彼女も分かっている。分かっていて分かち難いこの理由に名前はあるのか。

 顎を上げ見返るようにカイムの方を目を遣ると、カイムは私達の頭上を越えた向こう、赤い塔の落ち窪んだ箇所、嘗て"竜"が磔になっていた所を見上げていた。その顔は、時折ちゆりが私に向けるものに似ているような気がした。それが何たるか確固に言語化にする(すべ)を私は持ち合わせていない。

 

「…………」

「………!」

 

 かける言葉を見失い静かに見つめる他に無かった私の視線に気付いたカイムは、一息吸い込んだ所作を見せた後になって声を出せないのを思い出したのか、苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。

 

「……フフッ。貴方って本当はお喋りでしょ。今、喋ろうと呑み込んだ息を吐き出し損ねたようだし。残念ね、何て優しい言葉をかけてくれていたのかしら」

「…………」

 

 カイムは沈黙する。彼は声が出せない以上そうする他無いのだけれど、それ以上に語るまいとする意図が表情、視線の動き、なにより眉根の皺で見て取れた。

 私は先の刹那、窒息するしか能が無かったが、彼はあの感情を言語化出来るようだ。決まりね。彼、カイムは人間だ。少なくとも私以上にそうであることは違いない。そうと分かれば、そろそろ終幕を迎えよう。

 

「私は嘘を吐かない。冗談や戯言は言うし、不確定事項や嘘に騙された情報を口走ることもあるでしょう。正しい情報であってもそれを秘匿し断片的に語り、事実誤認を誘う事もする。だけれど、確約した事だけは捻じ曲げない。それが今の私に残された最後のひととの繋がり方だから」

 

 助手をして、悪魔的と言わしめる手法だけれど、仕方が無いし仕様が無い。逆説的に、悪魔のような確実にロクでもない存在でも、他者との繋がりを得ることが出来る方法論であることは確かなのだから。

 私が歩み寄るのをカイムは逃げるでも襲い掛かるでもなく、静かに見詰め続けていた。

 

「さて、長い長いお話はこれでお終い。選んで。契約か、否か」

 

 カイムの正面に至り、小首を傾げながら右手を差し出す。

 言わなくてもいい事まで馬鹿正直に話した気がするが、不思議と後悔も恥じらいも恐れも無かった。全てを出し尽くした。これ以上は何も無い。

 この手は撥ねられるか刎ねられるか、脳の脇でそんな可能性も考慮し覚悟していたが、そのような事態にはならなかった。

 

「…………」

 

 カイムは、その夜の闇よりも黒き冥い手を差し出し、私の手をそっと繋いできた。

 その手に体温というものを感じはしなかった。だけど、その握る手は優しい感覚を伝えてくる。

 

「これで契約完了ね。どうぞ末永くよろしく、カイム」

 

 今はまだわからないことだらけ。でも、それはこれから知っていけばいいこと。道は細く、険しいながらも先へと続いたのだから。

 

 

 × × ×

 

 

 私とカイムの繋がれた手が離れる瞬間、私と彼の合間で鈍い金属音が鳴った。音の方、足元を見てみるそこには黒々とした短剣が在った。

 短剣と呼ぶには大ぶりで、切先から柄頭まで漆黒のそれ。両刃は根元につれ幅広く、厚い刀身には紋様が浮かんでいる。鍔の中央にはこぶし大程もある真紅の玉が埋め込まれ、見るものに怪しい光を放っている。その特徴的な形状は、チンクエディア、ルネサンス期に欧州、主にイタリア・ヴェネツィアの辺りを起源とする短剣に類似していた。名の意味は「5本指」であり、その非常に広い身幅の体を如実に表している。主に儀礼や装飾として用いられた刀剣だったはず。

 何故このようなものがこんな所に? そう思い見下ろしていた視線をカイムの方に向けると、カイムは何とも難しそうな顔で短剣を見詰めていた。なるほど、訳知りではあるけど、この状況は訳が解らないといった所か。

 私は自然な動作で拾おうと膝を折り手を伸ばしていた。好奇心は当然あったけれど、それ以上に、それこそ無意識に物を落としたから拾おうという反射的な行動であった。

 

「……カイム! 貴方、手。血が」

 

 私の手は短剣の掴み持ち上げようとしたが、それは叶わなかった。短剣が思った以上に重かったとかではない。私が柄を掴む短剣の刃をカイムの黒々とした武骨な手が鷲掴みにし地に押し付けていた。刃を掴む手には赤黒い血が滲み、雫となって滴っていた。カイムの動きは極めて機敏であった。私がカイムの行動に気付いたのは、短剣がピクリとも持ち上がらず、意図していなかった抵抗力に身体が引っ張られつんのめってしまってからであった。私はカイムの顔を窺ったが、その時すでにカイムは私の顔を見詰め、探るような面持をしていた。手に怪我を負いながらも手の方に目を遣ること無く、おそらく私が短剣に手を伸ばし掴もうとした瞬間から私を窺っていたのかもしれない。

 カイムは刃に血を滲ませたまま、もう片方の手で短剣の柄を握る私の手を離すように促してくる。その意図に気付くまで幾瞬か間が抜けた後、私は短剣から手を離した。私が手を離しきるまでカイムの注意は深く私に向けられていた。相当に気を張っているのは一目瞭然であった。

 屈みの姿勢から直立の姿勢に戻ったカイムは短剣を逆手に持ち、その刀身を顔の近くにまで寄せて凝視している。その凝らした目つきには困惑の色が見えた。

 

「……その短剣は貴方の?」

 

 私の問い掛けにカイムは一度首肯しかけるも、その顎を下ろす手前で固まり、悩む様に首を捻りつつも曖昧気味に首肯した。微妙、といったところか。確実なのは、ただの短剣という訳では無いのだろう。

 

「それはとても危険なものだったり? 刃物だから危険という次元ではなく、それこそ触れるだけでダメみたいな」

 

 カイムは問いを受けると視線を短剣から私に移すと、今度は迷いなく首肯した。未知なる存在たるカイムが迷いなく危険と断定する未知の短剣。どれほどの脅威かは想像に難くない。カイムという大きな未知を前に感覚が麻痺していたのだろう。カイムに対しては相応に注意を払っていたのに、同じく未知であるはずの短剣には充分な警戒をしていなかった。

 

「……そう、ごめんなさい。そして、ありがとう。()めてくれて」

「…………」

「手は大丈夫? ……私に? いいの?」

 

 カイムは器用な事に、逆手に持っていた短剣を浮かすように宙に放ると、短剣を持っていた同じ手の親指の先と人差し指の腹で短剣の切先を挟むように持った。そして、短剣の柄を私に持たせるように向きで差し出してきた。

 カイムの空いている手の方は指先まで気を回しているようで、自然な構えではあるが必要とあらば瞬時に動けるように緊張してる。手だけではない。全身に気を張り巡らしていた。それ程にカイム自身が警戒しながらも短剣を受け取るように差し出してくるのはどういう訳か理解が追い付かない。本来であれば是非も無く受け取る所だけれど、まさか未知の方から歩み寄られるとは誰が予想だにしようか。

 私達は今、追われる身だ。研究所や『壁』の方は大混乱であるのだろうけど、それも時間の問題だ。ちゆりに次いで、私まで行動不能になってはどうしようもない。そういった不確実性、リスクというのは場が落ち着くまで避けるべきだ。べきではあるが、一度、不用意ではあるが短剣に触れた時に肉体的異常や精神的汚染らしきものは感じなかった。"岩"の中のカイムを見通した私の感覚だ、多少は当てにしてもいいだろう。つまりは勘、ってやつ。助手曰く、私の勘は馬鹿には出来ないらしいから。

 

 腕時計を確認し、意を決して、その黒き短剣を握る。も、何も異常な事は起きなかった。未知への接触の不安か興奮か、胸の高鳴りが手に伝わり、柄を握り込む指先の脈動が鮮明に感じられる。

 何も無かった、とは落胆しない。短剣の切先は未だカイムが握り込みビクともしない。切先から短剣の全重量を支えているようで、柄を握る私の手に短剣の重みはかかっていなかった。

 カイムの緊張は僅かにも解かれていない。私はカイムの瞳を見て告げる。

 

「大丈夫。任せて。手を、離して」

 

 その瞬間、世界は暗転し、私は夢を見た。

 

 愚かなる賢王。

 古き時代、栄華繁栄を極めたが為に堕落した民と衰退の道を辿る国。王は自らの力のみではどうにもならぬ事を悟った。王は自らの剣に神を降ろし、堕落した民を虐殺し、王国を滅ぼした。白銀であった刀身は、最期、王自身の血に染まり漆黒となった。

 

 私は夢を見た。

 

 並び立てぬ両雄。

 互いに競い、高め合い、認め合った両将軍。両雄は魔剣に魅せられ、魔剣を巡って殺し合うことになる。最期、相共に滅びるまで殺し合った両雄の様を、並び立てる存在でいながら並び立っていられなかった様を、魔剣は見つめていた。

 

 私は夢ヲ見た。

 

 優しき狂王。

 万の血を吸わせた使い手に不老不死を与えると伝わる魔剣。王は魔剣に魅せらることなく国と民に善く在り続けた。ある日、不慮の事故で最愛の后と腹の子を亡くし、王は深く嘆き悲しんだ。愛する者を失ったこと。老いた身で漸く授かった我が子を失ったこと。我が身で王家の血が絶えること。王の務めを果たせぬことで王国が滅ぶこと。正気か狂気か、王は短剣とその手を緋に染めて叫ぶ。「私が最後の王ならば、私が生き続ける限り王国は不滅なのだ!」と。最期、妊婦と胎児を前に王の心の臓は老いか病か、急激な負荷に耐えかねて爆ぜて果てた。目の前の妊婦と胎児を殺せば、ちょうど一万人だった。

 

 私ハ夢を美タ。

 

 虚ろなる女王。

 少女の家族が住む村を山賊が襲った。少女は山に打ち捨てられていたのを父が拾ってきた剣を手に取った。人を殺すのは初めての事だった。返り血で血塗れになった少女に、娘い村人、家族は怯えた。それから年を取ることのなくなった少女は村中から疎まれて旅に立つ。世界放浪の長い旅路の末、少女は無限の命と、強力な魔剣と長年の知恵、それを使いこなす力を以てして一国の女王に上り詰めた。何不自由ないように見える。だが少女は手に入れていない。あの時欲しかった父の優しさだけは。

 

 私は、我たしハ、わたシは……、

 

「――――夢、み」

 

 そう自身で呟いた言葉は酷く遠くに感じられた。

 朦朧としつつも短剣を手放すことなく、今なお自身の脚だけで私自身を支え立っているようだ。

 

「……っはぁ!! はぁ、はぁ、すぅ。……私は、岡崎夢美だ」

 

 意識が明白になるにつれ溺れていたかのような感覚が押し寄せ、膝から崩れ落ちる。呼吸は激しく乱れて額に嫌な汗がぶわっと玉の様に浮かんだ。腕時計の時刻を確認してゾッとする。私が短剣を掴む直前に確認し、カイムが短剣から手を離し、短剣の影響を受け、今こうして呼吸に喘いでから確認した時刻で20秒と経っていない。純粋に短剣の影響下にあった時間がどれ程かは考えたくない。幾瞬の間に恐ろしいまでの没入感があった。映画に没入して呼吸を忘れるような感覚というのは話に聞くが、そんな品の良いものでは無い。強烈すぎる心象は自己と他の境界を容易に浸蝕してくる。

 あの瞬間、私は私であり、賢王であり、両雄の片割れであり、優しき狂王であり、虚ろなる女王であった。明確にして強固な自我か、逸脱した共感性の欠如が無ければ、見せられた記憶のどれか、或いは複数に憑り入れられて人格が乖離・統廃合で崩壊しても不思議に思わない。人でなしであったことに感謝する日が来るとは、人生とは分からないものね。

 一つ、確信を以て断言することは、私は歴代の短剣の使用者達の記憶を見せられたということ。そしておそらくは、それは短剣の意思なのだろうということ。それが初めこの短剣に降ろされた存在なのか、記憶の人格らの総意なのか、それら集合が統合により形成された上位人格なのか、はたまた全くの別なのかは定かではない。

 短剣は私に今の心象を見せた。害するつもりなら、如何様にも手があるだろう。とすれば、そうせんとした短剣の意思は、意図は何処に在る?

 

 短剣は何をした。

 自身のありったけを掻き集めてぶつけた。

 何故だ。

 知ってもらう為だ。

 誰に。

 この岡崎夢美に。

 誰が。

 

「――――古の覇王。そうでしょう?」

 

 私は項垂た姿勢のままそう隣の男に問い掛ける。無論、返事は無い。だけれど、静かに頷く姿がそこに在るように感じられた。

 自身の汗が滴り落ちた短剣を見る。漆黒に紅玉が映えるそれ。そう、それがこの短剣の、銘と呼ぶのは無機質な感が過ぎる。であるなら、そう、名前だ。『古の覇王』、大仰な名前だ。狂的な心象体験も、とどのつまりはこの短剣のギコちない自己紹介に過ぎなかった。

 その名前と自身が何たるかの証明。もっと良いやり方だってあるだろうにと思ったが、あまり他人の事をとやかく言えるような経験を積んで無いのを自覚して口を紡ぐ。

 何故、カイムが今この場で私に渡してきたのかは分からない。短剣の意思を感じ取ったのか、何なのか。ともあれ、中々どうして電波の波長は合っているのかもしれない。私と、古の……長ったらしい。

 

「以後、君はハオだ」

 

 手の中の短剣の紅玉に向けてそう告げる。改名でなく愛称。短剣の意思が反発したりするかなと思ったけれど、思っていた以上に静かで何も感じない。受け入れたのか、狸寝入りを決めているのだろうか、(hao)だけに。

 ふと頭の片隅に、第2、第3案として『(いにしえ)のいービィ』や、『とっとと はお太郎』がよぎったが、柄を握る手からとんでもない鳥肌が立ち昇り、全身の汗が瞬く間に引いていく。わかった、私が悪かった。初期案でいこう。やはりというか、ハオは狸寝入りのようだった。

 私の方は未だに呼吸で上下に波打ち肩を深い呼吸一息に整え、短剣を杖代わりに立ち上がる。見上げたカイムの顔に警戒の色は既に無く、興味深そうに、おそらくは私を見守っていた。

 

「この結末、予想してたの?」

 

 この短剣は元はカイムが所有、というよりは所持か、していたものだ。カイム自身、私と似たような体験をしたことが有るのかもしれない。

 カイムは然もあらんといった雰囲気を漂わせている。余裕を感じているあたり、今のこの状況は彼の理解の及ぶ範疇の事柄なのだろう。まぁ、いいわ。このお話はいずれきっちり絞らせて頂こう。

 

「……それじゃあ行きましょうか。貴方の様子を見るにまだ大丈夫なのでしょうけど、だいぶ時間を食ってしまったわ。ここで捕まってちゃ台無しだものね」

 

 そう言って身を翻し、ちゆりの方へ駆けてゆく。健やかな顔のそれは、気絶ではなくただの熟睡。私の赤外套に涎のシミを作っていた。その顔を見たからか、大仕事が一段落着いた気の緩みからか、私も少なくない睡魔が襲ってきたがもうひと踏ん張りだ。

 大まかな逃走の算段を付ける。北か、西かの二択であるが、この場合は西一択だ。現段階では、日本国政府の政府機能の一部は、未だ尚、霞が関にて踏み止まっているが、最悪の事態という状況に置いては機能の移転を余儀なくされるだろう。そうなれば政府機能の中心は九州だ。それに、研究所以前の私とちゆりの日本での活動圏は関西なのもある。潜伏するなら都市圏の方が目立たないないし、諸々の調達や処分も楽だ。

 そうと決まれば早い。ハオをトランクのガワにベルトでグルグルと巻きつけて固定する。ちゆりを赤外套で包み込むように背負う。足はどうするか。使用者がいて稼働が確実な車を拝借するよりかは、稼働不安があっても放置されたままの車を拝借した方が良さそうだ。日本国内は日本車だらけだからより取り見取りだなんて小悪党な勘案をしていたら、カイムは既に横で控えていた。

 

「あら、どうかしたのかし……、ひゃあ!?」

 

 奇妙な浮遊感が足裏をくすぐる。らしくない声が出てしまった気がする。

 見れば私とちゆりとトランク雁字搦めのハオはカイムの腕で抱きかかえられていた。私がカイムの腕の中にいて、私の腕の中にちゆりがいる。私達はカイムの腕の中に一緒にすっぽりと収まっていた。

 二重お姫様抱っことは、随分とタフネスな王子様もいたものね。少なくとも、私が知っている童話にはそんな王子様はいなかったわね。子供には聞かせられないか。

 

「ふふっ、やっぱり貴方は良く分からないわね、カイム。でも、これだけは分かる。貴方は優しい人。貴方が執心するドラゴンが、貴方の何なのかは知らないけれど、そのドラゴンは幸せ者ね」

 

 カイムが首を横に振る。その心意は読めない。ただ、悲しそうな顔に見えた。灰色の顔に表情は乏しい。だけど、目が細く俯いていた。

 

「そう。でも素敵よ」

 

 そう言いながらカイムの頬に腕を伸ばし、そっと撫でる。

 カイムはそれを首を振って手を振り払おうとするが、気にせず撫でる。

 丘の向こうに行くのは私の足。そこは変わらないわ。だけど、今この時だけは王子様に連れ去られるというのもわるい気はしない。

 私達を抱えたカイムが駆ける。人二人を抱えているとは思えな速度で夜の街を疾走する。

 崩壊都市・東京の闇に私達の姿は溶けていった。

 

 

 




どうも、作者です。ご閲覧ありがとうございます。

古の覇王 ※DOD1でのデータ
重量1.5㎏(たぶん。ちなみに最終形態時の重量)
材質ダークマター(ダークマターとは?) 
魔法トールクロウ(英字不明。Tall?Thor? Claw?Clow?) 発動魔法は上から光が降ってくる感じだから、たぶんトールはTallでなくThorか

DOD1で困った時(主に赤ちゃん)はひたすらこの剣をぶん回すか、鉄塊をジャンプ切り叩きつけしてた思ひ出


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3.「静謐」-1

新3「静謐」に差し替える予定。話も時系列も多少変更が必要となったので。
旧3「静穏」になるものは消すか、公開のまま場所を移すか思案中
拙者、関西圏の地理と三人称視点の書き方、分からん侍



     1

 

 

 

 鈍い痛みで男は目を覚ました。

 ぼやける視界と鉛の様に重く動かない身体。身体の節々は鈍く痛み、酷い二日酔いのような頭痛もする。

 見上げるは白塗りの天井。どうにか首を僅かに捻って見渡した光景は鉄格子と白塗りの壁と床、1畳の無機質な独房。男は鉄格子側に頭を向けて仰向きでよこになっていた。鉄格子を挟んだ向こうにも、また似た造りの空の独房が並んでいる。

 並の人間なら何事かと自身の置かれた状況を喚き立てるのだろうが、男は妙に納得した様子で身体の力を抜いて姿勢をラクにする。

 ここは何処ぞの留置所なんやろう、と。過去にも酔った勢いでの乱痴気騒ぎやらで手前自身ぶち込まれたり、バカ騒ぎやらシノギで下手こいた奴の所為で出頭させられたりと慣れ親しんだ場所。この留置所と思しき場所に見覚えこそ無かったが、男は自身をそう納得させた。

 頭痛に霞む思考と記憶は曖昧だ。なぜ手前がここにいるのかを思い出そうとするも、頭痛の波が思考を攫って行ってしまう。大方、飲み過ぎて何処ぞの何某と一悶着やったんやろうか。留置所の預かりになってんねから、酔って独りでに転んだマヌケではないはず。記憶は不確かだが、怪我の具合は確かに酷かった。首こそ僅かに回るが、首から下はずっしりと重い。感覚はあることから脳がイカれれたワケでも無ければ、骨が折れたり、肉が離れた訳では無さそうだが。ただ、如何にも指の一本も動かせない有様。事の経緯によっては、相手方に治療費だの慰謝料だのとゆすり脅して絞ってやるか、と男は邪悪にほくそ笑んだ。

 房の外、視界に入らない所から足音が近付く。

 サツの監視か、新しい房友を連れての事かは知らないが、丁度良い。連絡付けさせて、下っ端の若いのを使いに寄越そう。男があれこれと気を回している最中、逆さの視界、白い鉄格子の向こうに現れたのは赤い女だった。

 

 腰ほどまでにある真紅の髪の女。

 

 ウチの若いのの中にも奇抜な髪色キメているのはおるが、そういった連中のはある種浮いている。金髪や茶髪でも似合わん奴はとことん似合うてない、それが赤やピンク、紫などなら尚の事だ。言ってしまえば、似合わないのが普通、当たり前だ。あの手のが様になるんは、それこそミナミのオバハンくらいなもんだ。一種のステレオタイプであって実際は滅多に見んが、おるときはおる。

 だが、目の前の女はどうか、その赤さが女とても自然なものだと男には感じられた。

 それは不自然なことに感じられた。

 男は自身が半グレ、カタギでもヤクザでもない半端な領域にいることを自覚し、立ち回ってきた平衡感覚があるからこそ感じられる。この女は普通ではないな、と。それはカタギかヤクザか、はたまた同族の半グレかという話ではなく、集団におけるイカレ、その手の類の異質さだ。組織の最上か最下の層にはたいてい一人はいる人種だ。

 男が本能的な警戒を抱いていると、女の歩が自身の房の前で止まり、こちらに向き直った。仰向けで見上げる形で逆さの視界には、はためいた赤いスカート、おみ足の奥に目が行くが、ロングスカートでその最奥までは拝めなかった。警戒していた相手に対してであっても、これは自然の摂理、生存本能、仕方の無い事。若いネーちゃんだろが、皺くちゃのバァさんだろうが、ひらひらしたもんが翻ると目が行くってのは、本能的な事なのだから。後者の場合は、防衛本能も同時働いて全力で目ん玉と首を逸らすんだが。

 秘所を拝もうとする自身の目線が、赤女の視線とかち合う。こちらを興味薄そうに見下ろす女の顔が見えた。纏う雰囲気の割に顔は幼く二十半ば、いや二十歳前後か。化粧気は薄いながらに整って見える顔はモテ系よりは美人系、身体の方もバランス良く整っていて申し分ない。店に出せばしっかり客がつくだろうなと職的な値踏みをする。ここ最近のゴタゴタでご無沙汰なのもあり、味見できるものならしてみたいものだなと男は暢気な欲望を巡らせた。

 

 【6.12】の影響は世間一般、表のみならず裏社会にも及んでいた。東西で大きく二分されて均衡を保ってきた勢力は、東京、関東地域から放逐された勢力が、方々の既存勢力と衝突を繰り返す事態となっていた。白塩化症候群や感染者、変異感染者の拡大もあり、日本国政府が軍事力、警察力に強化を図ったことで直接的な大規模抗争には発展していないものの、各都市圏では裏の勢力図が日に日に更新されている。

 男が縄張りにしていた関西、大阪の街も例外ではなかった。東からはみ出たハミ出し者達はこぞって西へと侵食し、街は表も裏も混沌としている。

 東は古い縁やら習わしへの固執もあり区割りはハッキリしてたが、西は戦後の荒廃と瓦礫を揺り籠に生まれた経緯もあり、良く言えば若い、悪く言えば不安定な土地柄である。元から路地一つ違えば、異なる勢力が犇めき合っている環境だったのが、今や一つの路地の中で点在している状況だ。

 今の関西の裏は、一言でいえば、魔窟だ。災厄前であれば適度な無秩序さが、男のような半グレの頭目でもヤクザとの抗争や暴対法の適応を逃れつつ思うままに欲望を謳歌出来ていたが、今は違う。自身を捕食者側と思い生きてきた者達は、閉じられた箱の中で少ないパイを求めて争い、捕食者同士で互いに喰らい合いもする。近すぎる食物連鎖は蠱毒の様相を呈していた。何より、この暗い魔窟の最奥には何が潜んでいるかなど、把握できている者はいない。その最奥の存在自身の他には。

 

 女は屈んで、鉄格子越しに顔を寄せる。

 縮まった距離間に、男は赤女の匂いを敏感に感じ取った。といっても、股座に響くものではなかった。香水の類のものでなく、化粧気も無いせいかメス特有の芳香も薄い。微かに香るのは、血の匂い? 女性特有のもののことでなく、流血の匂い。裏路地に慣れ親しんだ男にとっては嗅ぎ慣れた匂い。そして、捕食者の匂い。或いは、自身が被食者側であるのを理解した自分自身の匂いか。

 男は頭痛で霞む思考がクリアになるのを実感した。生唾を飲む喉がごくりと鳴り、呼吸が浅くなる。

 女の吸い込まれるような瞳は深い深い赤色だったことが脳裏に焦げ付いた。

 

「意識戻った?」

 

 女は顔を小さく傾けながら語り掛ける。その顔は微笑みであった。

 男は何かしら反応を返そうと焦る。赤女に見覚えは無いが、向こうは此方の事を知っている風だ。このロクでもない気配しかしない女と自身は関係がある、それもこちらは房にぶち込まれ、向こうは自由の身で立ち会うような関係でだ。下手な刺激は避けるべきだと本能が警鐘を鳴らしていた。

 差し当たって、こういう時は鸚鵡返しの問答で様子を窺うのが常道。裏路地の一角を仕切り、関西の裏を渡り歩いてきた男の頭は経験から答えを弾き出し、行動に移すも何かがおかしい。声が、出ない。

 

「声、は出ないか。喋れても煩いだけだし、カイムを間に挟まないとサッパリだからいいけど」

 

 女は男の心内を読んだかなのように幾つか聞き覚えの無い言葉を交えつつ語り掛ける。その顔は微笑んでいた。

 声が出ない衝撃と心を読んだかのような女の言動に、男の心臓は痛いほど高鳴っていた。それこそ、目の前の赤い女に鉄格子越しに聞かれるのではないかというほどに。

 

「なんで、って顔してるわね。――――心因的記憶障害、道理で安定しているワケだ。心に蓋をして無かった事にした。壊すつもりでの検証だったけど、中々どうして。心理的な防衛機能というのは勤勉にして有能のようね。……面倒ね」

 

 女の口調と表情も無機質な冷めたものに変わった。

 男は自身の状況を再検討する。ここは留置所ではないのか? そも、自分はなぜこのような場所に、このような状態でいるのか? この女がやったっていうのか? オレが何をしたって言うんだ。

 

「相当恨まれていたね、君。逆を言えば上手くやっていたわけだけど、手広く行き過ぎたわね。お陰で私みたいな新参者でもやりやすかったけど。君に、君が食い物にしてきた人達の怨念が見えるようだよ?」

 

 女は最後、揶揄うかのような表情と口振りで語る。

 怨念? そんなものいるワケないだろうと男は内心否定する。怪しげな霊感商法の手合いだってもう少し設定を練ってくる。それとも何か? 懺悔しろとでも? 馬鹿が、と憤る。どうしようもなく落ちぶれて、付け込まれる弱みを晒せば食い物にされるに決まっている。頭がお花畑な家畜が、欲に溺れて柵を破り野に放たれれば格好の餌食になるのは当然だ。弱肉強食であって自己責任だ。この女は復讐代行か何かで、詫びの言葉でも吐かせたいのか。

 

「君は思考が波に出やすいな、強く否定している。怨念なんてあるもんかって感じ? いやはや、君は自分の姿を自覚していないと見える。君の姿こそ怨念めいてるのにね? ――――DOD処置前後の記憶の混濁は確認してるけど、それに加え回避型の幻覚か。結果的にであれ、安定しているのを見るに、やはり精神の作用を大きく受け……」

 

 女の語りは途中から自己に向けられたようで、独り言のそれは次第に小さく尻すぼみし、最後の方は男には聞き取れなくなった。

 男の想定とは裏腹に、悪事を責め立てるようなことも無く、意味不明な話題を繰り返す女を男には気味悪くて仕方が無かった。しかし、この女は何と言ったか? 自分の姿が見えていない? 怨念? そんな馬鹿なことが有るかと思いつつも、自身の身体に目を向ける。といっても、身体は動かなから見られる範囲はごく限られる。首と眼球をどうにか捻ってみた肩先と胸元はナントモナカッタ。狂人の言う事を真に受けるなんてどうかしている、そうだと男は祈るように自身に言い聞かせていた。

 ほんの暫く、沈黙が流れる。ふと、女の視線が虚空から女が通ってきた方に顔を向ける。すると、まもなく遠くの方から一つの声と近付いてくる足音が響いてきた。

 

「教授? いるぅ?」

「ちゆり、遅いじゃない」

「なら先先行くんじゃねぇですよ。こちとらさっきまでオーナーさんトコの使いの人に応対していたの見てたでしょ」

 

 赤女の視線の先、男の視界には入らない通路の先から一人の少女が現れて言葉を交わす。赤い女と新しく来た少女の間の空気は和やかだ。赤女の異様な気配は一瞬で形を潜めていた。日常の遣り取りを垣間見たようで、少しばかり男の気持ちは現実感を取り戻すことが出来た。

 金髪金眼のセーラー服の少女。セーラー服といっても下はスカートではなくショートパンツなのが活発な印象を男に抱かせる。顔は赤い女以上に幼い。赤女と同じく化粧気の無い顔は間違いなく美人、3年、いや5年後に期待といった評価を付ける。美少女であり、細く長く伸びる手脚は自然と目を引くが、圧倒的に火力、胸の成長が足りていなかった。洋の雰囲気もあり、少女嗜好なコアな客が熱心に入れ込むだろうが、男の趣味ではなかった。

 

「……教授、なんか失礼な事考えませんでした?」

「え、えぇ!? なんでぇ!!?」

「ああ、違うならいーです」

「び、びっくり……で、使いが来るって何かあった?」

「お陰様で娘さん何ともねぇだそうです、良ぃ意味で。感謝してましたよ。今まで通りこの屋敷は煮るなり焼くなり好きに使ってくれていいそぉです。他にも一切の協力を惜しまないとの申し出を受けました」

「一つに依存するのは好ましくはないけど、あまり手広く関係結んで雁字搦めになって目立つのもアレだから、いざという時にだけね。被験者の容体とデータとGODは?」

「塩化は抑制されてます。回復はしてねぇですが、進行もしてねぇです。まぁ、凶暴化はその仕組みが不明な以上、変異の可能性は拭えねぇですが。データと、被験者から剥離した塩化組織と引き換えにお薬の方予定通りに渡しておきました。塩化組織はカイムさんに保管庫へお願いしました。預かったデータはどぉします? 先に電子化で纏めときましょうか? 紙のまま教授の部屋投げときます?」

「これの後で確認するから適当に部屋投げておいて」

「おーけーです。そぉ言うと思ってカイムさんに塩化組織の保管後、資料を部屋に運び込んでもらうようお願いしておきました」

「さ、流石すぎる……。あぁ、一つ。薬のこと、きちんと伝えてあるわよね?」

「というと?」

「効力。拡大理解の元に誤解されて、逆恨みを買うのは御免だからね。それこそ、何でもやると、私達みたいな明らかアングラな輩相手に言い切る覚悟の決まった人の恐ろしさ、知ってるでしょ?」

「ま、多少。治療薬ではなく予防薬のようなもので、完治させるものではねぇことは処方の度に念押しで伝えてます。それに、向こうさんは元から覚悟は決まってたようです。元々は手の打ちようが無かったんですから、夢美には本当に感謝してると伝えてくれって私言われたんですが、どぉします?」

「それは……、よかった、わね?」

「他人事かよ! ったく、やり口が昔と変わってねぇんだぜ。邪道と地雷原は突っ走るクセに、王道となると……」

「アーアーキコエナーイ!」

 

 少女2人は賑やかにやりあっている。男はすっかり蚊帳の外であったが、先までの赤い女からの圧力を独りでに受けずに済む状況に心安らいでいた。

 話の内容は、部外者である男には用語や状況を含め理解できない点が殆どであったが、一つだけ、気になる点があった。ここは留置所のような施設でなく、屋敷、個人邸宅の中かもしれないということ。ロクでもない事ばかりが男の脳裏によぎる。どうにか思い出そうとするたび頭痛がはしり思考を鈍らせる。

 四肢は動かず、こめかみを揉むことすら出来ない状況。あきらかにオカシイ。痛イ。何が?

 

「――――はぁ。で? 今からですか? その検体、調子良さそうですね、珍しい」

「かわいそう?」

「……慣れました。それにその人、どうあっても夢美は許さないだろ?」

「見逃さないという意味ではそうね。彼、何やったか、何やられたかも覚えてないみたい。DOD処置による記憶の混濁でなく、心的負荷に対する防衛機能としての乖離性健忘でしょうね」

「精神状態の影響、ですか。……記憶が戻った際の情動影響の観察、重要そうですね。房には常時カメラ回ってますのでいつでも無駄にはさせねぇです」

「機会の?」

「命のです。しかし、静かなもんですね。喋れも動けもするでしょうに」

「思い込みでしょうね。自身の身体の認識も幻覚でズレてるし。コイツは最後に回すと決めた都合、DOD処置前の沈静化措置で身動き取れない期間が長かったから。記憶というのは脳だけではない。動けなかった頃のことを心は忘れた気になっても、身体は覚えているんでしょう。っね?」

 

 女の瞳が男の、オレの目を見る。女の瞳は赤かった。

 女の顔は最初の微笑みを浮かべていた。今なら理解できる。その笑顔は嗜虐趣味でもなければ、愛想笑いでもない。言ってしまえば無邪気な、夢や好奇心に浮かされたガキみたいな顔だ。

 オレは、そうオレは半グレのグループを仕切っていて――――、

 

「君はミナミ圏を中心に活動していた半グレの実質的頭目。君は上手い事やっていた。権威的、組織的気質が強いのヤクザを相手に、実力主義、個人主義的気質の集団を形成した。その全てを支配しようとせず、企画と制作を繰り返し、風土を塗り替える続けるだけ。上手いやり方よね。ゴールドラッシュ時代に一番儲けたのは鉱山労働者ではなく、そういった層に道具を供給する商人たちだった。既得権益の安定を求めたヤクザが踏み固めてきた犯罪の温床に、君は鍬を差し込んで解きほぐしたわけだ。お陰でアングラに潜り易かったよ」

 

 女は滔々と語り続ける。懇切丁寧に、いやだ、嫌だ。思い出したくない。

 

「君の影響力は裏に於いて無視できないものになった。特に、花やお薬や氷菓子といった老舗が扱ってるジャンル、モノではなく、サービスや情報は君の手の中だ。そんな中でしょう? 私達の事を知ったのは。肯定も、否定もいらない。知りたいことは知っている。実験も済んでいる。君が交渉に差し出せるものは何もない」

 

 赤い女が立ち上がる。その手には何処から取り出したのか、黒い短剣の切先を此方に向ける。

 短剣の柄にはこぶし大もある赤い水晶が輝いていた。ぎらぎら眩しい照明の光を受けて、その表面にオレの姿を映す。

 仰向けで身動きできないでいる男。黒々とした影。もがく様に身動ぎし首を動かすと、その赤水晶の中の影も全く同じ動きをする。それは紛れも無く自身の姿だった。口の端が裂けんばかりに顎を開いて絶叫を上げるも声は出ない。出ないが、男の中では誰かの、或いは自身の絶叫が木霊する。頭痛によって覆い隠されていた記憶が蘇る。

 いつからか、裏路地に於いて台風の目のような空白地帯が出来た事。そこにちらつく赤い女の存在。同業か政府系か知らないが、暗部の連中が餌片手に嗾けてきたこと。明らかにヤバい案件でもやるしかなかった、やるしかなかったんだ。それから、それから――――、

 

「思い出した? 君は君の持つ戦力を私達に向けた。私とちゆりとカイムと、あとは最近の関係先もそうね。君は賢い。後方の安全域から、戦力を最初から惜しみなく全面に吐き出した。極めて正しい。ただそれ以上に私は準備していた。君自身や君のツレがこの屋敷に来てからどうなったか知りたい? 思い出した? 今この状況の理由を」

 

 クソ、クソッ! 殺す、殺してやる! 絶対にブッ殺ス!! コロス、コロス、コロス!!

 イヤだ! イヤだ! 死ニタクナイ! イタイ、死ヌ死ヌ死ヌ死死死死死――――、

 

「貴方は私の身内に手を出した。それだけの理由で貴方を」

 

 ――――縺?◎繧阪¥縺昴m縺上!!!!

 

 女の宣言を遮るように男は絶叫した。男自身でも何を言ったのか理解しなかった。

 ただただ、積み上げられた恐怖や怒りが全身を支配し、鉛の様に重かったはずの身体は軽くなり、動くようになった四肢を力任せに地に打ち付ける。反動で宙に飛び上がる身体は天上に四つん這いになる形で着地する。意図しない身体の挙動に意識の空白が生まれるも、先まで自身の頭が置かれていた場所に女の持つ短剣の切先が突立てられているを男は見た。男は理解した。赤い女の明確な殺意の意思を。殺らなくては殺られる。先まで己を見下ろしていた女を見下ろす形になった男は、天井を蹴り、鉄格子の隙間を縫って女の細首を潰さんと影の腕を伸ばす。不用意に近付くからだ、馬鹿がと男は悦に入る。無防備なその首は男の位置から良く見えた。

 男は赤い女と目が合った。いや、男自身にその刹那の判断はつかなかったが、女の瞳の赤さがどうしようもなく想起され目が合ったのだと確信した。先まで男が床に転がっていた場所に短剣を突立てておきながら、女の意識は床ではなく天井に昇った男に向けられていた。されど、宙に身体を放り出した男はもう止まれない。男は重力と蹴り出した勢いのまま伸ばた手は、首まで僅かの所で阻まれる。地に墜落した男は女を見上げる。そこには光る文字が宙に浮かんでいた。なんだとも、どうすればいいのかとも思う前に男は首根っこをキツく締め上げられる感覚と共に独房奥の壁に押し付けられ、脚が宙に浮く。背を強打したことで、肺の中の空気が押し出される。

 

「『手』と『轟壁』イイ感じね。そのままでお願いね、ハオ」

 

 女は短剣に告げるかのように短剣を寄せて囁く。短剣の柄を囲むかのような光の文字列の輪が浮かんでおり、その短剣が女の手から離れるも宙に浮いたままであった。その傍の宙空には同じ光の文字で書かれた所謂、魔法陣のようなものが浮かび、そこから黒き巨腕が伸びて男の首を絞めていた。奇しくも、男が女にせんとしていたことをやり返されていた。

 女は男の顔を覗き込み窺う。男は、もうどうでもよくなっていた。ただ最期に、その赤い瞳はもう見たくないと瞑目し顔を逸らす。

 

「……折れたか。これ以上は急激な変化観察は望めないわね。おやすみ」

 

 女は男の首元に銃型注射器を宛がい、引き金を引いた。

 男の視界は霞み、意識は暗い暗い海へと沈み込む様な感覚の中に溶けていった。




ゲシュタルト語の文字化け表現、悩み中。いずれ変更するかも。
今は、原文を『逆さ語』化、その逆さ語ひらがなを『文字化け変換』させてます

例 原:猫 neko ねこ → 逆:oken おけん → 化:縺翫¢繧

逆さ語、文字化けのサービスがあるサイト様のお陰です。感謝。


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3.「静謐」-2

八雲紫登場回


     2

 

 

 

「教授、お疲れさま」

 

 ちゆりの声を背に受ける。背後にあるその顔は見えないが、少しばかり気疲れした色が窺えた。

 黒い巨腕で壁に拘束されていた男、その黒い身体は風化するかのように崩壊し、後に握りこぶし大程の大きさで単結晶型の赤結晶だけを残して塵も残さず消えた。白塗りの独房は流血や破壊で彩られること無く、何事も無かったかのように無機質な白さが照明に映えていた。

 実験の本目的であった赤結晶を拾い上げる。

 手の内で光に照らした赤水晶は、その表面に私の姿を赤々と映した。

 

 被検体の最期の表情、諦念に支配され力無く笑うかのような顔が思い起こされる。

 この者は私達が今いる圏内の裏側で捕食者として生きてきた人間だった。今まで慈悲を請うた被食者達の末路を知らない訳ないでしょうに。わざわざ見逃さない事を宣言し、死地に追い込まれていることを自覚までさせたのに、他の被検体たちと同様にあっさり諦めてしまうとは。それとも逆か。裏で生き、生死を身近に感じる人種であったが故に、絶対に助からない状況と理解して諦念に身を(もた)げたのか。

 

 期待していたものにならなかったことにか、はたまた別の要因か、内心で溜息をつく。

 私は嗜虐嗜好ではないし、愛情をもって接したモルモットは良い結果を返してくれるなんて研究者オカルトを信じている程度には、被検体には好意的に接したいと思っている。モルモットと人間を同列に扱うなという声は尤もだけれど、人体実験を敢行している人間にかける言葉ではないし、人体実験を行っている当人が発するべき言葉でもないだろう。人体実験をしておいて、優しくすることの理由に人間の情や心を根拠にするよりかは、まだまともな理由足り得ると信じている。

 わざわざ被験者の精神を逆撫でにして心的負荷をかけて追い込んだのは、精神活動がゲシュタルトの形態維持限界に及ぼす影響の検証の一環、つまりは、どの程度で生身の人間に於ける死亡に相当する状態に至るかの検証であった。

 本目的のDOD結晶確保ついでの副次目的で、死亡を前提にした実験であることは事前に把握していたし、そうなっても構わない被験者を選定したつもりだ。

 

「諦めるなら、最初から壊れていればよかったのにね」

「悪役めいてますねぇ、教授。誰だって死にたくはねぇでしょ」

「の割に、最期は完全に心折れていたけどね」

「誰だって不屈の精神持ってる訳じゃねぇですから」

「儘ならないものね」

 

 私と助手は覇気の無い会話を交わす。

 お互い、この場にあって思う所があるのだろう。

 それが同じものだなんて烏滸がましいことは思わないけれど。

 

 この被検体の男に語りかけた内容に偽りは無い。

 事実、この男は私達の存在に感付いた結果、襲撃をかけるに至った。現実的な脅威となったから排除したに過ぎない。排除は確定、その排除の過程で拘束し、検体に転用する手段と目的があったからそうしただけ。

 

 この地を拠点に据え活動してからは、分かり易い利益の授受は避けて、傍目には目立つことを避けてきた。それでも、私達がこの地の有力なコミュニティと異常に早く、異常に深く接近し侵食していたことに頭目の男は隠れた利益と脅威を感じ取ったようで、私達の周囲を嗅ぎ回っっていた。

 手も足りず、嗅ぎ回るだけならと放置していたけれど、結果、頭目らの行動で芋づる式に政府系に発覚。頭目を中心とした半グレ達は政府系の差し金で表裏共に逃げ場を潰され、噛ませ犬のように私達に嗾けられることになり、あえなく全滅に至った。

 頭目の男は慎重な気質と知っての放置だったが、政府系が敏感に反応し積極的に仕掛けてきたのは正直意外だった。とはいえ、地域の支持と情報網、『黒の魔法』という戦力、準備は万全にして万端であり、被害は僅かにも出させなかった。正面衝突で叩きのめした、なんて映えるものでなく、襲撃決行の前夜、襲撃主幹構成員の拉致という形で呆気無く収束。襲撃方の被害も最小に抑えつつ、事件沙汰にしないことで政府系が万が一に介入してくる隙も潰した。私達の意思表示としては充分だろう。

 

 政府系については、いつまでも接触を避けられる訳も無く、いずれは再接触を図る気でいたので然したる問題ではない。半グレを嗾けたのは、彼らの、私達に対する試金石だろう。私達がどういった存在か、人類側なのか、変異感染者に連なる存在なのか、戦力的脅威の程度は、交渉は出来るのか。1年前、研究所騒動での被害を思えばまともな判断だろう。嗾けた事よりも、その積極的な判断を下したことこそ気掛かりだった。意思決定機関の内部で変化でもあったのかもしれない。私達、というよりはより具体的にこの岡崎夢美(わたし)の事を知り、信用した上での行動に思えた。近々、相手方から再度の接触があるでしょうね。

 

 確保した構成員の身柄は実験に回し、先の男を最後に抱えてる可処分検体も処理し終わった。頭目の関係者、繋がりは広かったけれど、今回はその全てに対応の必要は無いと判断。社会的はぐれ者グループかつ、マフィアやヤクザのような権威的、組織的な勢力と異なり、繋がりの薄い個人主義的な集団であったことから、報復を企てられる者は殆どおらず、その芽がありそうな者は既に頭目と仲良く検体処理されている。検体の短期的な運用は勿体無くもあるが、腰を据えて研究に没頭できる立場に無いので、痕跡を絶ち、いつでも逃げ隠れ出来よう身軽でいる為にも被検体は抱えてはいられない事情もある。

 そんな都合も相まって、研究の主軸はゲシュタルトの性質やDODの解析等の基礎研究は優先度を下げ、実用的な薬や『魔法』の応用研究に注力している。綿密な記録、観察は今のところ主眼に置いて無いのだから、いたずらに苦しめる実験は避けるべきだったか。いや、被検体は他にもいて、それらも先の男と同じように処理済みであること鑑みるに今更ではあるのだけれど。

 あの男を除く検体は、最初から全て諦めていたり、錯乱したりと正気無くどうしようもなく壊れていた。それらと比較して、男の初期態度は落ち着いており、最期に諦念に沈むまでの間、己が意思を示し、人間的であった。それ故に同情をしたか、或いは、実験動物が人間であったことを思い出したのか。

 瞑目するも、瞼の裏に答えが書かれている訳がない。

 

「――――ハオ、この赤いの。ちゆりに渡してくれる?」

 

 目を見開き、深呼吸を一つ。骨、肉、姿勢を意識する。

 魔法制御で宙に浮く魔剣、古の覇王ことハオの刀身をの腹を指先で撫でつつ語りかける。

 漆黒の短剣は静かに浮いたまま、魔法陣から伸びる黒の手を人並みの大きさに縮め、手渡した赤結晶を丁寧に掴み、ちゆりの前までフヨフヨと浮かび移動して赤結晶を手渡した。

 

「ありがとぉです、ハオ。『黒の魔法』の制御、ハオだけで出来るようになったんですね」

「簡単なものならね。そのDOD結晶は製剤しておいて」

「了解。教授はこれからどぉすんです?」

「部屋で届いた治験データ目通したら、件の最終調整かしらね」

「……本当にやるんですか?」

 

 ちゆりの声色に陰が入る。房を出る私にちゆりのジト目が刺さる。

 手持ち無沙汰気に浮かんでいるハオを掴み、腰後ろの短剣鞘へと納める。

 

「近々忙しくなる気がしてね。思索も準備も万端、横槍が入る前に済まそうかなって」

「かっるいなぁ……。教授、寝たほぉがいぃです。ここ連日、襲撃者の対処から実験続きで疲れてますよ絶対。治験データはこっちで纏めときますんで」

「ちゆりは大丈夫なの?」

 

 率直な質問にちゆりはジト目を幾度か(まばた)きさせる。

 一息おいて先まで被検体がいた独房に目を向けて続ける。

 

「教授が襲撃者に襲撃カマしてる間はカイムさんが警戒してくれましたから暇なもんでしたよ。実験も私は教授やカイムさんみたいに力で対処できない都合、直接手を下してませんからラクなもんです」

「いや、気持ち的に」

「襲撃者達の処分は正当だと思います。検体に用いたことも妥当だと思います。ただ、割り切れないものがあるのは確かです」

「それは苦しいってこと?」

「否定はしねぇですし、必要なもんだと思って受け入れてます」

 

 ちゆりの目は独房から私の瞳を真っ直ぐ見据えていた。

 その瞳にも声色にも澱みは一切無かった。

 

「そんなものかしら」

「そんなもんです。夢美も同じこと思ってんじゃねぇですか?」

「そんなものかしら」

「知るわけねぇでしょ」

「えぇ!? そ、そこはほら――――、」

 

 あっけらかんと言い放つちゆり。おセンチになりかけた心をバキバキにされたことに猛抗議せんと躍起になった瞬間、この地下独房に入るドアがノックされ、その向こう側から少し常人のものと比べ違和感のある、男の声が響く。

 

「夢ミ。いイか」

 

 大きな影が扉の向こうから覗く。

 影といっても、先の被検体と同じ黒々としたゲシュタルトではなく、並の人間のような容姿をした男、カイムの姿があった。

 ゲシュタルトの頃に見たものと変わりない顔立ちはコーカソイド系。肌色はやや日焼けした色身だが元地は色素薄い肌。深く濃い黒の髪は光の具合で微かに青くも見える。目元を隠すような長い前髪の奥に覗く濃い碧眼は遠目にも目を引き付ける。コミュニケーションを拒むように伸びた髪の割りに、肩胸を張って開かれた体癖に臆病さは見られない。

 ゲシュタルトの頃と違い、今の人間らしい形をした器を得た事でか、細かな癖も見られるようになった。ほんの少し、気にもならない程度だけれど、前傾姿勢で身体の力が前方に向いている。この男が別の世界、この男にとっては元の世界で、長きに渡り戦火に身を置いてきたことで未だ戦闘姿勢が抜けきっていない事が窺える。多分に無意識の領域で、カイム自身に自覚は無いのでしょうけど。前髪が鬱陶しくなったらしい時には手指で髪を弄らず頭を振って前髪を払うのも同じなのだろう。両手持ちで武器を振るうのがカイムの主な戦闘スタイルらしく、武器から手を離さずにの習慣が癖になったのだろう。

 カイムはチョーカー型人工声帯の締め付け具合を窺うように喉元に手を当てる。カイムは超常的事象『契約』なる作用の代償に声、より正確には『言葉』を失ったようで、喋れない聴唖の身であった。それはゲシュタルトの時もそうであり、今の器を人間の形にしてからもそうであった。

 荒廃した東京タワーの元で手を組むことを契約した際、声もあげると確約したことに対する結果。まだ完全には使いこなしていないようで、発声は常人のものと比べ少し違和感があるけれど、時期に常人と変わらないように会話できるようになるでしょう。特訓には会話あるのみ!

 

「ちょっとぉ! 今良い所なの!」

「そうか。……ちゆり、玄関に客が見えている」

「あぁーっ! 面倒くさいからって私じゃなくてちゆりにタゲ変した!?」

 

 積極的に絡みに行ったが敢え無く躱されてしまう。

 もっと最初の頃はあれこれと面倒臭そうな顔しつつも構ってくれていたのに、ちゆりの教育が行き届いているようで日に日に賢くなっていく。特に、私の処理の仕方はちゆり本家仕込みだ。

 

「取り次ぎありがとぉございます。予定にない訪問ですね」

「紙束の荷は夢美の部屋に運び入れておいてよかったな?」

「もうやってくれたんですね、助かりました」

「構わない」

「ただ、カイムさん」

「何だ」

「女性がいる部屋に返答も待たず立ち入るのは、どぉかと思いません?」

「ム、」

「私達は良ぃんです、着替え中だろうとなんだろうと。ただ、他の方を相手にやっちまったときはマジィ、ですよね?」

「ムゥ……」

 

 ちゆりがハンドジェスチャー巧みに指導が入る。その顔はとても良い、眩しい程の笑顔。

 カイムはというと、側に詰め寄って見上げながらアレコレと指導してくるちゆりを、見下ろしそうながらバツの悪そうな雰囲気を醸している。小型犬に躾けられる大型犬、という画が一番しっくりくる。

 

「まぁまぁ、ちゆりちゃん? カイムも反省してるようだし、その辺で、ね?」

「そぉは言いますがね教授、訓練で身体に沁み込ませてこそ本番で活きてくるもんなんですよ」

「……! その通りだ。改めよう」

「ほら、カイムさんもこう言ってます」

「嘘でしょ!?」

 

 まさかの裏切りであった。

 否、カイムの表情は眉根の皺がパッと消え、得心いった面持をしている。こいつ、本心で言っていやがる。日頃、勉学のみならず肉体的鍛錬も欠かしてないのは知っていたけれど、まさか訓練や本番などの言葉にほだされたか。カイムの教育に関してはちゆりに任せている面が大きく、カイムの取り扱いになれているのは明白だった。

 ちゆりは此方に詰め寄り直し、ジト目で見つめている。ここは逃げの一手である。

 

「ほら! お客さん! お客さん待たせてるじゃない!」

「関係者からの訪問予定は私に話通るよぉなってんです。急な客なんてのいないんですよ」

 

 回る込まれた! 逃げられない!

 

「ご近所さんのお裾分け、とか?」

「なんで疑問形。大規模な居住地から離れてますし、地主さんのご厚意で近場の家屋は空き家ですよ」

「半グレ残党が攻めてきた可能性だって」

「教授の夜襲を生き延び、玄関対応でカイムさんの警戒にも引っかからないのがいればですね」

「う……、営業のおじちゃんや宗教勧誘のおばちゃんとか、とか」

「それこそ待たせたらいぃですよ」

「本当、待ちくたびれましたわ」

「ほらぁ、待たされるのはヤキモキするものだからね?」

「待つのもお仕事なんですよ」

「おい」

「何よカイム」

「何ですカイムさん」

「こいつ、誰だ」

「「え」」

 

 私とちゆりの間の抜けたハモリ声が地下室に反響する。

 金髪紫瞳、女性的肉感に恵まれた、要は巨乳の黒パンツスーツ姿の美女が極自然な雰囲気で扉の側、カイムの背の陰になる場所で佇んでいた。

 

「今日和。お初目にかかりますわ。ワタクシはヴィオレッタ=ハーン。どうぞ、ヴィオラとお呼び下さい」

 

 美女はそういうと、スーツジャケットの裾端を摘み上げ、片足を斜め後ろの内側に少し引き、もう片方の足の膝を軽く曲げ、背筋は伸ばしたまま優雅にお辞儀をした。

 

 

 × × ×

 

 

 西欧圏においてカーテシーと呼ばれる古典的な礼は、その一連の動作に澱みなく優雅であり、(へりくだ)る礼でありながら見る者に高貴さを感じさせる舞のようでもあった。

 スーツという現代衣装を身に纏いつつ、ドレスで行うような礼を振舞い、謙るようで威厳を見せ付けんとする女の第一印象は、胡散臭いであった。あとは、ドレスのような衣装に着慣れているのだろうなという事。

 カーテシーの礼をスーツのパンツやタイトスカートで行う場面もあるが、その場合はジャケットの裾端をスカートに見立てて摘まむのでなく、身体の前で手を組む方が一般的だ。敢えてそうしないという事は、無意識か、意識的なら今の私は本当ではないという彼女なりの自己紹介の挨拶か。

 

「あぁん、そんなに熱烈に見つめられてしまうと――――、」

「――――照れてしまう、そうでしょう?」

 

 ヴィオラと呼んでくれという妖艶な美女の、無駄に色気を振りまきながら紡ぐ言葉に割り込む。

 女は此方の割って入った言葉を聞いて、ピタリと止まった、と言い表すのは正確ではない。止まった瞬間など知覚できない程、それこそ初めから静止していたかのような佇まいで私の顔を見ていた。

 その顔には言葉割り込まれた事への不快感や、私が発現した内容を訝しむような色は一切無い。ただただ、ひどく綺麗な顔に笑顔だと感じさせる色を滲ませている。表情筋そのものの動きは殆どない。何が変わったかと言うなれば、オーラとか空気感という曖昧な表現に留まらざるを得ない。女が笑うで妖しい、如何にか言葉にするなら妖しいと言い表すのが適当に思えた。

 ともあれ、この女、ヴィオラの所属が少しばかり見えてきた。それも氷山の一角なのでしょうけど。ヴィオラ自身、隠すつもりは無い様子であるし、試されていたのかしらね。

 ちゆりとカイムの視線は私とヴィオラの間を右往左往している。二人は二人なりに、突如現れた美女のことを推察しているようであった。私が訳知りに話しかけた事で私の関係者かどうかと混乱に拍車をかけてしまったようね。

 私の割り込みにより、張り詰めた空気が空間を支配する。その静寂を破ったのはちゆりであった。

 

「……教授、お知り合いで? 話には聞いてねぇですが」

「私は彼女を知らないけど、彼女は私を知っているようね」

「お知り合いではねぇんですね」

「それじゃ、『お知り』ね」

「日本語はそこまで柔軟万能じゃねぇですよ。カイムさん、玄関に見えてたのって」

「この女だ」

「いやですわ。どうぞ、ヴィオラとお呼び下さいな」

 

 ヴィオラはカイムに一歩寄り、上目がちに迫るが、カイムは涼しい顔をして上身を逸らして躱す。ヴィオラはあら冷たい、と残念でもなさそうに呟き、何事も無かったかのように元の姿勢に居直る。カイムの脚の付け根をまじまじと観察するがそちらも何事も無かった。

 

「カイム、聞くけど」

「聞くな。口を閉じていろ」

「その美女タイプじゃなかっモッ?!」

 

 決してセクハラ目的ではなく、カイムの今の肉体の生理反応を窺う為の質問は、ある種の当然の帰結として遮られた。カイムの大きな手がアイアンクロ―の要領で私の顔面、鼻口を塞ぎつつ鷲掴みにして、視界は暗闇に陥る。

 

「えと、ヴィオラさんでしたか? 何時、何処からここに?」

「つい先ほど。そこの殿方、玄関鍵かけて行かれませんでしたので、そのまま玄関からつついと」

「カイムさん!」

「ム、」

「そう責めないで下さいまし。何やら耳障りな音が奥から聞こえたなと思った時、殿方は酷く気を揉んだ様子で音の方へ駆けて行ったのですから」

「むー! むー!」

「あー、きっと被検体の最後の抵抗と絶叫ですね……。すみませんカイムさん、露知らず」

「構わない。不用心だったのは確かだ」

「誤解も解けたようで何よりですわね!」

「いや、……いや止めとく。どことなく夢美と似た匂いがするんだぜ、あんた」

「あらあら、ご挨拶ですわね。お近づきになれたと思う事に致しましょう。で、殿方が鷲掴みの彼女、腕をぺちぺち叩いてますがマズくありませんこと?」

「あ。カイムさんもうペッしていいですよ、ペッ」

「むーッ!?」

 

 鼻口を手掌で塞がれ声にならない声での猛抗議を最後に戒めから解放される。

 あぁ、空気がおいしい。地下の、密室の、人体実験室だけれど。

 カイムめ、肉体の制御が上手くなったようで、スンとも動けない程がっちり固定していながら、痛くも傷は付けさせないとは。鍛錬は順調に実を結んでいるようね。にしても、全く以て手酷い仕打ちだ。

 

「はぁ、はぁ……、えぇと、それで? どこまで話進んだの」

「このヴィオラさんが関係者でも何でもなく、ただの不法侵入であることが判明したくらいですかね」

「あなた方は国立超自然第二研究所の事件で行方不明、実質の死亡扱いになってますから、日本国法の庇護は当てにしない方がよろしいかと」

「知ってるわよ。で、ヴィオラ。貴方は誰の使い? 日本国? 合衆国? 第三国?」

「そう急かされずとも。こちらつまらないものですが手土産に蓬莱890の豚まんと」

「受け取るわけないでしょ、出直しなさい」

「高級いちごの詰め合わせですわ」

「これはこれはご丁寧に、」

「受け取ってんじゃねぇ。――――ヴィオラさん、手土産はお受け出来ねぇです。今日の所はどぉかお引き取りを。こちらにも都合というものがございやがりますんで、連絡先と連絡手段を提示頂ければ此方から折り見てご連絡致しますんで」

 

 ちゆりは私にこぶしを入れつつヴィオラの間に立ち、真正面から向き合う。事務的な会話でありながら、そこにはあからさまな警戒が見て取れる。

 当然だろう。岡崎夢美(わたし)に事前に察知されていないことも然る事ながら、カイムの警戒に引っかかるような攻撃的な気、敵意や害意、恐怖心といったものを持たず直接的接触を図る存在。岡崎夢美やカイムの異常性を理解しているちゆりだからこそ、それらとタメ張ってくる存在は同程度の異常性があるだろうことを理解、想定している。

 ちゆりの攻撃的な、向こうの出方を窺う為であろう物言いにもヴィオラは綺麗な笑みは崩さない。

 

「そうは仰りましても、もう一つの手土産はしっかり受け取って頂かれたようですし、お話だけでも聞いて頂きたいものですわ」

「……何の話です」

 

 ちゆりはヴィオラに問い返す。言外に、ある種の想定は見当が付いているようで、その想定はきっと正しい。

 ちゆりに下がるよう手振りで伝え、ヴィオラと再度、正面から対峙する。

 

「そう、貴方だったのね。雑多な連中を掻き集めて嗾けてきたのは」

「教授、襲撃者の黒幕って、」

「カイム。問題無いわ、大丈夫。大丈夫よ」

 

 ちゆりの言葉を遮って真面目な男に静止をかける。

 カイムはヴィオラと出入り口の扉を挟む様な位置に立ち、無意識的な戦闘姿勢の端々にまで意識が入る。出入り口を塞ぎつつ、ヴィオラの死角に回り込む流れは酷く手慣れた警戒であった。ちゆりの教育で知識と常識を得て、過度な攻撃的警戒は避けるようになったが、過去の習慣はそうは抜けないらしい。

 ヴィオラはカイムの行動に動揺する素振りもなく、ちゆりの疑問に世間話でも交わすかのように軽い口調で続ける。超然とした態度は胡散臭い、しかも胡散臭さを隠す気が無いと見える。彼女なりの自己紹介だろうか。

 

「ワタクシですわね。尤も、ご用意した数の殆どに手を付けて頂けませんでしたけれど」

「これでも(ひん)はイイ方でね。ご馳走全て平らげる程いやしくはないよ」

「それはそれは。お口に合わなかったのかと思いましたが、そうではなかったようでホッと致しましたわ」

「そう。悪いわね、気を使わせたようで」

「いえいえ、此方が勝手にやったことですので。それで如何致しましょう」

「と言うと」

「残りは持ち帰っております。お口に合っていたようでしたら、持ち寄りましょうか?」

「私が犬に見えるワン?」

「犬猫なら猫ですわニャー」

 

 何気ない会話の応酬。最後のお互いふざけた遣り取りに、一拍間を置き互いにフフッと小さく息を漏らして一息つく。傍目には和やかな会話だろう。

 少し顔を傾けてヴィオラの向こうで怪訝な表情をしているカイムに目を遣る。難しそうな顔をしているけれど、どの程度理解しているものか。今後のちゆりの教育に期待、ということにしておこう。

 目の前の女の所属を探る、というよりも女の手解きで自己紹介を受けたわけだけども、もう一歩の所で判然としない。少なくとも大陸系ではないようだ。日本国か合衆国か、あるいはその両方か。それでも今一つ、この女の浮世離れした雰囲気と、自身の勘が合致しない。

 初対面であるはずだけれども、この美女、ヴィオラは随分と話に乗ってくれる。元より、この手の回りくどい事が得意であり好きなのだろう。正面から突っ込みがちな身としてはよくやると思う。

 

「主任はお元気?」

「あらあら、急ですわね」

「急なものか。君が最初に私に向けた言葉は、研究所事件当日、岡崎夢美研究員が千藤汽笛主任研究員と最初に交わした内容そのものだ」

「研究の事ばかりかと思えば、よく覚えていらっしゃいましたね」

 

 当然だろう。この先の人生に於いて、あの日の事を忘れる事だけは無い。

 聞き取り調査をされたであろう主任にしても、当日の私との会話をどの程度記憶していたかは知らないけれど、当日の私とのやり取りを一から話すとなれば幾度となく触れる話題だろう。こと岡崎夢美の特異的な赤髪赤瞳、変異感染者と同じ赤い瞳に対してどのような感情を抱いていたか、精神状態を計る為にも避けられる話題ではない。この接点からヴィオラが日本国政府との浅くない縁があるのは疑いない。

 

「興味があることならね。それで?」

「事件後、聴取や責任の追及あったようですが誰より整然と平然としてましたよ」

「誰が主任のその後を尋ねたかしら。君の話をしていたつもりだったけれど」

「気になりませんか?」

「話だけでも聞いてほしい、君の言葉だ」

「なら問題ございませんわね」

 

 やや突き放した雰囲気を持たせた私の物言いにも彼女は動じない。

 彼女は日本国政府の中でも、研究者側、若しくは、主任個人に近しい人間なのではないかと言う先入観を持つことにする。

 

「責任の押し付け合いの際、回されてきた責任を彼は素直に受け入れ、研究職を辞する意を示した時は周囲が引き留める事態に。結果、事件の責任の所在は不明確なまま、誰も触れたがらない宙ぶらりんの処理済み案件になりましたとさ。めでたし、めでたし」

 

 何処かで見聞きした手口。全てを曖昧に、灰色にしてしまうやり口。

 まだ第二にいた頃、研究参加の嘆願も似たような手で生殺しのオアズケを食らっていた。ただの先送り主義かと思ったが、やはりと言うか何と言うか、違ったようだ。主任は私の理論を用いないとの発言もあったことから、元より意図的に研究に関与させる気が無かったのは確定した。理由は分からないけれど。

 ただ、事実として、私とカイムの接触は騒動を免れなかったであろう事を思うと、私には好都合であった。主任にしても、予知される騒動を避けられていたという点では利があるかもしれない。ただ、疑問も残る。

 主任は管理責任者であると同時に研究者だ。それも国からの要請を受けた意欲のあるはずの若手の研究者。それでいて、研究対象の変化が望める実験を避けていたこと。私が同じ立場なら実験を断行していただろうし、現にやったのが今に繋がっている。

 動機が官僚的責任回避に基づくものであった場合、その後の責任問題の追及では責任を受けようという姿勢に、如何にも違和感が拭えない。

 

「研究機関の再編までの間、他の第二研究所の所員ら一緒に第一研究所の預かりになりまして、今は第二研究所跡地での調査研究に当たってますわ」

「なるほど。やはりあの男、興味深いわね。けれど、ヴィオレッタ=ハーン。君は私の興味を引けるのかしら」

「美しく、聡明で、日本国政府側とのコネがある人材と言うだけで魅力ではございません?」

「合衆国側とのパイプもあるでしょう」

「なら一石二鳥ですわね」

「二兎追う者は一兎をも得ず、とも言うわね。鳥とも獣とも知れぬモノがどう思われるか、知らないわけないわよね」

「貴方も似たようなモノではなくて?」

「蝙蝠が咎められたのは存在自体の所為ではなく、芯の無い行動を所為よ。私も君も得体が知れない存在のようだけど、それは共感を誘う理由にはならない。ねっ? カイム」

 

 ヴィオラを躱すように上半身を大きく横に曲げ、ヴィオラの背後の先にいるカイムに話を振る。カイムは一瞬驚いたように眉を上げ目を丸くする。ニッと笑顔を向けると難しそうに眉根を寄せた。瞳の動きを見るに私達の会話を思い起こしているようだ。生真面目に深読みしてるのか、聞いてなかった話の記憶の切れ端を必死に掻き集めてるのかは知らないけれど。

 私の視線を追ってか、ヴィオラも振り返りカイムの方を見つめた。ヴィオラの顔は見えないが、カイムの表情を見るに、やはりカイムの警戒を誘うような気配は微塵も出していないようだ。

 ヴィオラが私の方に向き直る間際に見せた一瞬の顔はとても穏やかなものだった。あまり観察したことのない表情、記憶を漁るに郷愁に想いを馳せる老人がこんな顔をしていたなと漠然と思い出す。なるほど。見知らぬ人からあの表情を向けられたら、警戒も何も無いかもしれない。

 瞬きした後のヴィオラの顔は元のひどく綺麗なものに戻っていたが、先よりも纏う空気感が緩んだ気がする。気のせいと言われれば否定の仕様も無いけれど、ようやくこの女の本音が覗けた気がした。

 

「フフッ、経歴やプロファイリングの人物像とはかなり違いますわね」

 

 ヴィオラは口元に手の甲を当て上品に笑う。私やカイムの顔がおかしかったということはなく、安堵したことや、過度に警戒していた自身に向けたものに思えた。微塵も感じなかったが、やはり相応の用意と警戒はしていたらしい。

 

「私の? いつの?」

「合衆国のグループホームの頃から渡日するまでですわ」

「違って当然ね。どんな評価されていたのか聞きたくも無いわ」

「ええ、とても聞かせられませんわね」

「「でしょうね」」

 

 脇で控えていたちゆりと私の声が綺麗にハモる、ハーモニーした。お互いに目を合わせて、同じように一拍空けて小さく吹き出す。場の空気が少しばかし緩んだ気がした。置いてけぼりを食らったカイムは不思議そうに姦しい場に視線を泳がせた後、立ち寝でも決め込むかのように静かに瞑目した。

 

「ワタクシは八雲(やくも)(ゆかり)。異界より罷り越しました。どうぞ、よしなに」

「「え」」

 

 本日何度目かのハモりが静かな部屋に響く。

 ヴィオラは最初に見せた歪で優雅な古典礼の姿勢に、これでもかと妖しく綺麗でいたずらな笑みを浮かべていた。

 

 




用語等の解説回は次回


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3.「静謐」-3

用語説明回、と言ったな。アレは嘘だ。


     3

 

 

 畳の居間でヒーター無しのちゃぶ台こたつを囲む私とカイムとヴィオラ。

 部屋には、ブラウン管テレビから昼時ワイドショーの騒がしい音声がBGM代わりに流れ、少しボロのきている家庭用エアコンは唸るような駆動音を上げながら生温い空気を吐き出している。

 テレビの画面にはヴァレンタインのチョコレートをテーマにした話題や、チョコレートにまつわる商品トラブルなどが電波に流されていた。研究漬けの生活と、直近の襲撃の対応で日にち感覚を喪失していたが、今日が2月14日、ヴァレンタインデーであったことを思い出す。

 窓から伸びる陽射しは薄い。雲一つなく晴れているにも関わらずに、冬空特有の霞んだ青さは空に薄い膜が覆っているかのような息苦しさにも似た錯覚がして、一つ深呼吸をして充分な酸素を取り込み脳を活性させる。

 如何にも長くなりそうだからと、ちゆりの提案で居間の場を移した私達はちゆりに促されるままに腰掛けて(くつろ)いでいた。といっても、ヴィオラが正座で座るのを見たちゆりが正座を提案してきたので、私もカイムも慣れない正座をしている。しっくりこない姿勢にモジモジする二人をよそに、ヴィオラはと言うとスッと背筋が伸びた、それはもう美しい正座をしていた。ドレスのカーテシー礼に慣れつつ、正座にも慣れ親しんでいる貴方は本当に何なんだと、正座に悪戦苦闘していなかったならきっと叫んでいただろう。

 カイムは初め、腰を下ろすことそのものに渋っていた。おそらくは警戒態勢を維持する為なのでしょう。けれど、ちゆりが詰め寄り、何をするわけでもなく、静かに顔を突き付け合わせていると、諦めたのかその重い腰をやっと下ろした。下ろす方向でこの手の表現を使う日が来るとは思わなかったわね。

 そんな私達にちゆりがお茶を運んでくる。和風な茶飲みであるけれど、中身は紅茶だ。

 

「粗茶ですが」

「昼間からお酒とは話せますわねちゆりさん」

「茶だっつってんだろ」

 

 ちゆりの軽い蹴り、生足がヴィオラもとい八雲紫の脇腹に刺さる。

 決して強いものでは無いけれど、容赦のないツッコミと共に放たれるそれは確実に気の緩みの隙間を縫いでもするのか、あの超然とした雰囲気の美女の顔を、苦鳴こそ漏らさなかったけれど、微かに曇らせた。

 私も傍目から見たらあんな感じなのかと、妙にしみじみとした気分にさせられる。

 

「あぁん、手酷い。いいえ、足酷いかしら?」

「ちゆりちゃん? 一応お客さんよ? 一応」

「すいません。なんか教授と雰囲気の波長が似てるもんで、普段通りにやっちまいました」

「それは……、ご苦労されて、いらっしゃいますのね……」

「それはもう」

「ちょっと? そういうのはせめて本人がいないところでやってくれない?」

「研究所事件で気を失ってから起きたら、カイムさん、知らない男の人を嬉しそうに連れていたり、見るからヤバ気な短剣に向かってぶつぶつ譫言(うわごと)を繰り返す人にカイムさんの教育丸投げされたり」

「ちょっとカイムぅ。ちゆりに言われて()テテ()テッ!!?」

 

 カイムのアイアンクロ―が梟の如く無音で再び襲い来る。

 腰を下ろしているからと油断したが、カイムの腕が思ったより長かったのか、距離がそもそも近かったのか、立ち上がること無く鷲掴みにしてくる。

 先より距離がある所為か、手掌で目鼻口を覆うのでなく、指先で額と蟀谷(こめかみ)をグッとするイターイやつ。

 

「賑やかでいいですわねぇ」

「ツッコミは助手の本業じゃねぇと思うんですがね。頂きものの、お出ししてもよろしぃですか?」

「えぇ、よしなに」

「あい。暫しご歓談を。えっと、どちらのお名前でお呼びすれば?」

「どちらも本名のようなものですわ。ただ、八雲紫よりかはヴィオレッタ=ハーンの方が方々への通りは断然いいですわね」

「あい、分かりましたヴィオラさん。ちなみに、白塩化症候群の対抗手段、自衛手段はご用意されてますか?」

「……そんなものがあるの?」

「ねぇんですね。教授、ヴィオラさんに例の薬お出ししてもいぃですよね?」

 

 ヴィオラの声に驚きの色が見える。顔は見えないけれど。

 私がカイムのアイアンクロ―に腕をパンパン叩いたり、立ち上がって身体を使って振り払おうともがいている間、ちゆりは助手の職務を優先度高い順にこないしていた。

 私達は研究の都合、白塩化症候群の塩化組織を扱うため、どうしても感染のリスクがある。感染の中心は新宿区ではあるが、ヒト―ヒト間での感染がある以上、新宿という制限がいつ無制限に拡大してもおかしくない。私達はその対策を薬で一応の対策を講じてはいるが、ヴィオラは違う。初手に感染予防は極めて正しい判断だ。

 私は震える腕でサムズアップをしてGOサインを出した。しかし本当に取れない。おかしい、指一本に全体重をかける程力咥えているのにピクリともしないのだけれど。傍から見たらパントマイムの様相を呈しているのでしょうね。見えないけど。

 

「あい。豚まんついでにお薬持って来ますんで、勝手に話進めねぇで下さいよ。特にヴィオラさんの異界の話とか」

「承知いたしましたわ。こちらとしてもそのお薬のお話は大変興味深いですので、お約束いたしますわ。それにしても、疑いもせず信じるのですね」

「分からないものは分からないもの、ですから。ソレが向こうから自己紹介に来たなんて願ったり叶ったりです。あぁ、待ちの間は教授とカイムさんの相手よろしくです、ヴィオラさん」

「えっ、それは」

「製剤はどうしても先にやらなきゃならねぇんで。あとセイロ、蒸し器は流石に無いんで地主さんトコから借りて蒸してとなると一時間くらいですかね。世間話に花でも咲かせてて下さい」

「あの、そうだ、製剤の様子を拝見……」

「白塩化症候群患者の塩化組織を取り扱ってるので、防護策の()ぇ方の立ち入りは禁止です。確実に害あるとは言えませんが、確実に無害ではねぇでしょうから。――――カイムさん。教授とばっかり絡んでねぇで、他の方と交友結ぶ機会逃しちゃメッですよ!」

「……ッ!?」

 

 カイムの指の力が明らかに緩んだことで脱出に成功する。

 ハムスターの毛づくろいのように両手で両蟀谷を揉みながら見たカイムの顔は見たことが無い顔をしていた。いや、表情そのものは特別なものでない。微かに口が開き、瞼と瞳孔が開き、眉根に皺を作らない形での下がり眉。いわゆる絶望顔。ただ、カイムがその表情を見せたのは初めての事に思う。それほどなの、それほどのことなのね、カイム。

 ちゆりと目が合う。

 言葉は一切交わさなかったけれど、ちゆりがウィンクを一つ可愛らしく決める。上手くやれよといった所か。一切合切任されたようだ。

 さて、どうしたものか。和風な茶飲みに淹れられた紅茶に映る憂鬱気味な私の顔は、カイムと似た表情をしていた。

 

 

 × × ×

 

 

 ごゆっくりー、と言い残しちゆりは水平帽を片手で押さえつつ軽やかに颯爽と去っていった。

 出来た助手を持てて私は幸せ者ね、仕事が早い。お陰で仕事を理由に逃げ出すことが出来なくなってしまった。しかし、地主さんもビックリでしょうね。不治の病に侵された娘を助けた怪しいアングラ人間に、何でもやると啖呵切って言った対価に早速求められたのがセイロだなんて。

 ちゆりが襖をぴしゃりと閉めた音が居間にずっと反響している気がした。

 

「ム……、」

「えぇ……」

「あら……」

 

 三者三様情けない声を漏らす。その視線は締められた襖へと向けられていた。

 カイムが向けてきた視線を、私はヴィオラに視線を向けることで受け流すも、ヴィオラはカイムへと恙なく受け流した。暫し視線のキャッチボールを交わすも、埒が明かない。

 お茶を一口呷りして、ちゆりにさせられていた正座を立膝の姿勢に崩しで片膝を抱くようにラクにして端を開く。

 

「貴方達もラクにしたら?」

「……、」

「立つのなぁし。見上げるのも楽じゃないんだから」

「……、」

「ワタクシはこのままでお構いなく」

 

 カイムは軽い溜息の後、私と同じような立膝の姿勢に崩して落ち着きを取り戻した。

 ヴィオラは正座のままでいいと言い、私の後に続いてお茶を啜った。その言葉と顔に嘘や強がりは見えない。日常的に正座をしているのだろう。現代、日常的に正座をするのは日本国くらいのものだと思うのだけれど、彼女が来たと言う『異界』とやらは日本の影響が大きいのか、それとも古い中華の流れを汲んでいるのか、はたまた偶然か。この手の推察は聞いた方が早いけれど、ちゆりが帰ってくるまではオアズケだ。

 さて、何を話したものか。黄金の脳に蓄積サレシ会話デッキが火を噴く時が来たようだ。

 

「……えっと、良い天気ですね?」

「午後から天気崩れて、晩には雪の予報でしてよ」

「……髪切った?」

「初対面ですわね」

「ご、ご趣味は……っ!?」

「ワタクシの身の上話はちゆりさんが戻られてからの方がよろしいでしょう」

「カぁイム! パぁス!!」

 

 撃沈。そう、撃沈と言う他無い体たらくであった。誰が? どうやら私のようだ。

 ヴィオラは意地の悪そうな笑みを浮かべている。攻めっ気の強いお姉さんのようだ。人によってはゴホウビという人種もいるに違いない。最後の気力を振り絞ってカイムに応接役を丸投げの形で繋ぎ、手足を伸ばしてバタンキューとちゃぶ台に突っ伏す。

 

「……何か、聞きたいことはあるか?」

 

 控えめに言って天才かと思った。

 公私ともに常に発言する側に立っていたので、相手の立場に立って聞き手に回ると言う思考が少々足りていなかったようだ。ちゆりの教育の賜物か、カイムの元からの身に着けていた社交術か、喋繰り倒す私の相手をしている内に身に着けた適応か、出来れば前者寄りであることを願いたい。

 突っ伏した姿勢のまま首を捻り、垂れる赤髪の隙間から窺ったカイムの様子はヴィオラの方に顔を向けていた。その顔はだらしなく鼻の下を伸ばしているような事も無ければ、敵意害意の類の欠片も見られない。カイムが初対面の相手を無条件に信用するような人間では無い事は身を以て知っている。

 私の視線に気付いたのか、僅かの間、此方に視線だけ向けてくる。どことなくちゆりのジト目に似た雰囲気があった。ちょっと?

 そんな遣り取りを見られたのか、ヴィオラは上品に微笑みがこたつ向こうから聞こえてくる。

 

「あらあら。大変仲がよろしいようで」

「だってさ?」

「……、」

「……無言で渋い顔するの止めない?」

「フフッ、座り方もそっくりでしたわよ?」

「それなりに一緒にやってきたから多少はね」

「コ。……ア、あー。この座り方が染み付いているだけだ」

「わかる。立て膝が一番動きやすいものね。床座文化育ちでなければ似たり寄ったりでしょ。……カイム、貴方。チョーカーの調子悪いの?」

「ム。モん題無い」

「問題ある奴はみんなそう言うの、ヨッと。ほら、見せた見せた」

 

 掛け声とともに一息にこたつから抜け出し、長い三つ編みを払う。ヒーター無しとはいえ、こたつの吸引力から抜け出すには勢いが必要だ。

 カイムの横に着き首元に顔を寄せ、人工声帯チョーカーの具合を確認する。装置や装置との接触部の首を触れるも異常は見られない。金属の留め具の反射光に目を引かれると、ベルト穴が拡がっていた。これが原因だろう。

 

「装置の方は異常無いけど、ベルト穴ゆるゆる。締め付けが甘くなったせいね。……着けたままド派手に動いたわね?」

「……、」

「はいはい、大人しく着け直しましょうねぇー。首どんな運動してるんだか。シングルピンでダメならダブルピンでもきっとダメね。新しい留め具はGIタイプにしようか。何か要望はある?」

「スきにしろ」

「ほら、もっとシルバー巻くとか?」

「……か、るければ軽いほど良い。反射光や色合いが強いのも無しだ」

「オシャレだと思って楽しめばいいのに。あと、もう少し話す事ね。言葉の出だしが濁るのは失語の期間が長かったせいで口周りの表情筋とその動かし方の意識が衰えているから。思考に身体が追い付いてない、でしょ?」

「……、」

 

 図星、といった所だろう。カイムの顔は渋い。理屈を以て理解できるからこその苦々しさなのだろう。

 チョーカーの締まり具合を整えたのを確認し、カイムの頭を杖代わりの支えにして立ち上がる。

 

「返事! って、ちゆりなら言うわね。私は言われた。先走った思考があるライン超えると、もういいやってなる。自分を諦めるのか、他人を諦めるのかは知らないけれどね」

「その割りに、知ったように語る」

「科学者は偏見を以てして仮説を組んでナンボな生き物だからねー」

「……分かった。改めよう」

 

 こたつの元の席に戻る前、カイムの髪をクシャクシャに撫で上げながら体験談を交え語り説く。

 頭越しに理屈を語られても納得は難しい。こと、共感に纏わる事柄を説くのに共感を排除しては理解は遠退くだろう。共感、苦手だけれど、ちゆりという繋がりがあって助かった。

 カイムは首を振ってクシャクシャの髪を整えた後に、少しの緊張を溜息と共に吐き出して理解の意を示した。少しは腑に落ちたようで何より。ちゆりにばかり教育任せては教授の肩書が廃るからね。

 

「大変結構。秀判定をあげましょう」

「シュウ……?」

「えっと、殿方、カイムさんは言葉を話せないのかしら?」

「そう。理解ではなく音波としてね。といっても、理解の方も勉強中。別世界から来て一から学習してることを思えば優秀よ、優秀。優秀の秀」

「……、」

「応答は声に出さないと伝わらないわよ?」

「……理解した」

 

 無言で頷く様な意思表示をするカイムに発声での応答を指摘する。

 細かい指摘、並の人なら不快感を示しそうだが、カイムは反省したように素直に応答し、懐の手帳に何かを手早く記載する。おそらくは『秀判定』の単語なのでしょう。真面目で感心感心。

 『契約』した仲だと念話、テレパシーのような手段で意思の疎通が可能らしく、殊において言葉を失っていたカイムは言葉を端折りがちな節がある。おそらく当人は応答している気なのだろう。けれど、念話もテレパシーも無ければ伝わる訳が無い。習慣付いたものは習慣で上書きする他無い。ちゆりの教えに頷いていたのは伊達では無いようだ。

 

「別世界……、よくファーストコンタクトで意思の疎通が出来ましたわね。第二研究所の事件調査を受け、"岩"とカイムさんは同一存在、なのは掴んでおります。報告の影のような姿とは異なるようですが」

「肉体に関してはちょっとね。しかしその報告、上によく通ったわね?」

「事件調査の報告者は千藤研究員ですので。事件での黒い人間の証言と、"岩"が無くなった状況ともなれば流石に上も認めざるを得なかったようで。千藤研究員が事件以前より上層に意見していた事も相まってすんなり、ですわ。上層の方も幾つか席替えがあって、ワタクシとしても仕事が捗り大助かりですわ」

 

 ヴィオラの笑顔は笑っているようで笑っていない。その紫瞳の奥、脳の裏側ではムカつく上役をボコボコにしているのだろうか。あるいは、既に追い落とした後の姿を思い起こして嗤っているのかもしれない。

 根拠は無いけれど、日本国政府の意思決定の変化を感じていた身としては後者のように思われた。いや、席替えと言ったか、なら確実にヤることヤった後と見るべきだろう。……コワいから深堀りは避けよう。しかし、千藤主任が上層部に"岩"が存在である見解を述べていたのは意外であった。それも、ヴィオラの言いぶりからして一度や二度ではないように思われた。

 

「その千藤汽笛主任研究員のお陰ね。いや、元主任か。"岩"の頃から多言語で読み聞かせ等をしていた効果かしらね、口頭会話は難無しだったわ」

「まるで胎教ですわね」

「言い得て妙ね。しかし、そのボディーで経産婦とは、やるわね」

「イヤですわ、ただの知識です。イイ人がいれば良いのですが……」

 

 ヴィオラはそう艶めかしく言うと胸元で腕を組み、その大火力な女性的な魅力を見せ付ける。

 

「クッ……、これが乳豚(にゅうとん)が提唱した万乳引力の法則ッ! いい、カイム!? 騙されてはダメ! 男の影がチラつかない美人は大抵ヤバいんだから!」

「巻き込むな」

「あらあら、ワタクシは好みのタイプでありませんでしたか? そういえば、幼女体形のちゆりさんには(いた)く親しげでしたわね?」

「お前もなのか」

「……カイム……貴方ッ!?」

「……お前達を相手取ると、誰だろうとちゆりが恋しくなるだろうな」

 

 私とヴィオラの芝居がかった悪ノリにカイムは疲れた表情で溜息を漏らして、自身のお茶を一息の飲み干した。アイアンクロ―を飛ばす気力も無いらしい。

 

「会話に不自由は無いようですわね。咽頭の損傷や麻痺は見受けられませんけれど」

「ちょっと特殊な事情でね。今はメイドインワタシの人工声帯でどうにか」

「個人で開発から製造ですか。突飛も無い事してますわね」

「工学方面はあんまりだから期待しないでよ。メリケン仕込みのダクトテープ錬金術DIYの域を出ないんだから」

「ご謙遜を」

「うん、まぁね。カイムとの約束だったから、装置の方は頑張ったわ。うん」

 

 ヴィオラのお世辞に違うと返しそうになるのを自制する。世の中、知らなくてもいいこともあるはず。

 首輪作成において、私は一つの教訓を得た。

 ペット用の首輪は防虫剤が塗布されてるものもあり、かぶれることがある、という今後使う事の無いだろう知識を。

 カイムには肌に合わなかったとしか伝えていない。当時は原因不明だったのは本当だし、嘘ではないからセーフ。たぶん。

 犬用首輪でいっか、のノリでやってしまったことは流石に反省した。かと言って、一般に出回っている人間用の首輪の殆どは服飾、ファッションとして細かったり締め付けが緩かったりと、人工声帯を装着できるものではなかった。一部の実用品、SとMで実用的な物はあるけれど、流石にそういった謂れの物を着けさせるわけにはいかないので、チョーカーベルト部に関しては人工声帯装置以上にあれこれ自作模索している。

 

「『契約』の代償で失ったものが、このような物で取り戻せるとはな」

 

 カイムは首のチョーカーを一撫でした後、口元に手を当てる。

 少し思い耽るように口元に寄せた手首のブレスレット、カイムの名前が刻まれた亡き妹さんとの思い出の品に視線を降ろし遠い目で眺めている。そのブレスレットはカイムが元から身に着けていた物であり、第二研究所事件において私がカイムの名を知り叫ぶことになった代物。

 手を寄せる口の奥、カイムの舌には今も尚、ゲシュタルトの頃にも確認した『契約』の証たる契約紋が刻まれている。

 

「もっと嬉しそうにしたら? 大事だから『契約』の代償に持ってかれたものが戻ったんだから」

「不思議な気分なだけだ。契約者は皆、代償に苛む」

「代償に言葉を失ったからといって、言語野が喪失した訳じゃないからね。思考と意思があるならどうとでもなるわよ」

「――――簡単に言う」

 

 然もありなんと語った私に、カイムは自嘲気味に返す。

 そこには怒りか悲しみか、違和感が薄れつつある声色と、青い瞳には暗い内面が滲んでいた。

 簡単、それは私が物質的方法論を用いてカイムの代償の制約を克服したことを指してか、代償で苦しんできた契約者の心情を慮らずに語る様を指してか、どちらでもおかしくない。

 簡単にという言葉にか、あるいはカイムの表情にか、私の皮膚の裏側が騒めき出す。

 

「代償だからと簡単に諦める方がどうかしてる」

「摂理、世の理だ」

 

 私の物言いをカイムは躱すように流し、此方に目を向けることなく瞑目した。先の言葉に感情を滲ませてしまったことを戒めてのことだろうか。

 この内にさざめく波紋は大きくなっている。

 

 男が語った摂理。理。『契約』とその代償。

 カイムは代償を呪いとも言った。無論、その身体機能の制約のことだけを指してのことでは無い。

 自身が戦場で死に瀕した時、"竜"との『契約』によって生き長らえられたが、『契約』に声を、言葉を代償としたが故に、妹を、フリアエを救えなかった、自身が死に追いやったようなものだと。

 言い訳に過ぎない、とのような言葉は口には出さなかった。その言葉を口にすること自体が言い訳染みていると考える程に自責の念に駆られている。それこそ、こうして声を取り戻したにも関わらず、心のどこかで言葉を使う事に罪悪感を感じてしまうほどに。

 

「そんなもの、理由足り得ないから苦しんでるくせに」

「何が言いたい」

 

 男は瞑目したままだ。

 

 カイムの妹、フリアエは『封印の女神』と呼ばれる役を負わされていた。

 封印とは何か。カイムも全てを把握出来ていないと言った。

 封印は3つの聖地と呼ばれる場所の『神殿』と、『封印の女神』自身の最終封印からなり、全ての封印が破られることとなれば世界は滅びるとの伝承されていた。伝承の真偽は不明だが、事実、全ての神殿の破壊と女神の死によって封印が破られたことで、【6.12】での"巨人"が現れることになった。

 

 声に色を乗せないようにか静かで平坦な声調なれど、腹の奥底に響く様な圧と芯のある言葉には、言外に黙れという言霊が宿っている。

 

 封印の為の人柱たる『封印の女神』には並々ならぬ負荷、苦痛が伴う。往々にして女神は短命だという。

 平時は3つの神殿へ分散することで、女神への負荷を軽減しているが、封印解放を目論む『帝国』と『天使の教会』なる適性勢力に因り全ての神殿が破壊され、敵の手中に落ち囚われとなった封印の女神、フリアエに封印の負荷を一身に背負う事になった。

 フリアエはカイムに兄妹以上の想いを寄せていた。

 カイム自身もその想いには気付いていた。

 しかしいざ、その想いが妹の望まぬ形で暴露され己に向けられた時、その気持ちに応えることは出来なかった。

 文化的な倫理観か、生物的な本能か。父王に纏わる悪評を吹聴されて育った反抗心か、はたまた、そういった恋慕の情そのものを理解できないのか。単純で単一なものではないだろうと、男は血を吐く様に吐露していた。

 戦火と苦痛と絶望の最中、唯一にして最後の拠り所を失ったフリアエは、己が心の臓に短剣を突立て、自害に果てた。

 死に臨む妹を止めることも、死にゆく妹に言葉一つかけてやることも出来なかったと。

 

「分かり易く言ってほしい? 小難しく言ってほしい?」

「……竜は、減らず口はあって百害、と言っていたな」

 

 沈黙が流れる。テレビから無遠慮な人々の笑い声が遠く響く。ボロのエアコンは唸るように吐き出し続ける温い風は部屋を暖めるには至らない。

 男は瞑目したまま天を仰ぐように僅かに顎を上げ、冷えた部屋の空気を肺腑に満たした。入れ替わるよに自身の内から漏れ出た熱く、暗いものを自覚しつつ、重く硬い瞼を抉じ開け、私にその青い瞳を向けた。

 いよいよ以て踏み込むなと示された境界。それを蹂躙する。

 

「自らの事を都合のいい誰かに委ね、思考停止し、安心しようなんて存在は、――――滅びて当然ね」

 

 言葉を言い放った後、腰裏に携えている魔剣が微かに揺れた。

 その揺れに気を取られた意識が再びカイムの方に向けられた時、首元に圧がかかっているのを感じる。

 圧の正体は、カイムの人差し指中指から伸びる細く、黒い、魔導刃であった。黒い魔導刃は私の首元、鎖骨と胸鎖乳突筋の辺りに押し当てられていた。刃は潰された構成らしく、押し当てられても皮膚が裂けるようなひりつく熱の感覚は無い。微かな圧迫が、血の脈動や呼気や生唾に鳴る咽頭を生々しく感じさせる。

 今この瞬間、私が感じているモノは、生なのだろうか? 死なのだろうか?

 

「――――自分は死なない、とでも思っているのか」

 

 男の目は凪の海のように静かだった。

 一見穏やかに思えて狂気的でもある。波一つ許さんとする狂気染みた強大な意思そのもの。一切の揺らぎの無い黒い刃は男の心、感情と感覚の表れだ。

 これは主観ではなく客観。首元の魔法刃は微かにも揺らがない。魔法の魔素出力、魔力調整は精神活動の影響を容易に受ける。構築術式からの展開なら別だが、咄嗟の出来事で対応する間も無ければ、そもカイムは魔法そのものに明るくない。目は口程に物を言う。魔法もまたそうだということ。

 

「好きも嫌いも言えないようじゃ人形とさして変わらないわね」

 

 彼は、私の言葉が己自身だけに向けられたもので無い事を理解しているのだろう。

 自分は、とカイムは言った。どうしようもなく世界に、悪意に、人間に翻弄され、死の定めから逃れられなかったフリアエの想起。カイムの心は何処か、未だ死者に囚われている。

 

「沈黙は贖罪にはならないし、発言が背徳になることもない」

 

 この首元に突き付けられた心に在るのは、怒りだけではない。魔法刃の波紋が僅かに陽炎う。

 

「言葉は言葉でしかない。君は既に言葉に因って世界から切り抜かれて存在している。その切り抜かれた君が用いた言葉は君の中に降り積もり、君を構成する要素となっていく。言葉を用いることは、意思あること。意思あることは、生きるという事。言葉を代償にされていた君には煩わしい事この上ないだろうけどね。言葉は君を縛る呪い足り得ないし、君はどうしようもなく言葉に生かされている」

「どうしろと、言うんだ」

「最初に言ったさ。素直に喜べ。不敵に笑え。君は不条理に宝を奪われたんだ。無作法に宝を取り戻した所で何も問題無いだろう? 本当に要らなければ、その首輪を引き千切って投げ捨てる自由も君の手の中だ」

「そんな、そんなのでいいのか」

「君との確約した約束だから私は君の言葉を取り戻した。君の為じゃない。私自身の為なのは知ってるでしょう? 運が良かったと思えばいい。運が良かった、としか思う他無い事は今まで幾らでもあったでしょう?」

「……、」

「適当な肯定じゃ満足しないか。理由が欲しい。罪に罰が欲しい。理解した上で言いましょう。やめておけ。死者は蘇らない。死者は語らない。死者は笑わないし怒らない。死者に寄り添いたければ死者になるしかないわよ。――――そんなザマで、生きてるつもり?」

「勝手にそんなことを、」

「勝手も勝手さ、私は私の人生を生きているからな。私がどれだけ君の事を大切に思っているか知るべきだ。私は、私の人生に於いて、カイム、君が大切なモノだと、価値あるものだと思っている。だのに、何処かの馬鹿は、その大切なモノを大切にしようとしない。これはもう戦争でしょう?」

 

 嘘偽りなく本心を、グロテスクなエゴを口から垂れ流す。

 皮膚の裏側の騒めきの正体を理解する。そうか、私はどうしようもなく怒っていたらしい。

 カイムに言ったように、私が大切だと思っているモノを大切にしない奴のこともそうだし、そうした生き方にも苛立っていた。私はカイムに対して、他者からは得難い共感を感じている。その共感故の同族嫌悪とでも称すべき感情かもしれない。興味深い。

 カイムは瞬きをして頷く。東京タワーの元での契約の事を忘れてはいないらしい。

 

「ただね、カイム。一つ確かな事を言っておくとね? 忘我の境にある時、自分の名前を呼んでくれる誰かがいるというのは中々悪くないもんだよ?」

「――――知っているさ」

 

 冗談めかした様に言う私の言葉に、カイムはそう呟き返すと、魔法刃を霧散させ、黒い刃は跡形も無く消失した。

 力無く笑ったその顔は、やつれた様にも吹っ切れた様にも窺える。身体に張り巡らされる力と神経が少しばかり和らいだのか、姿勢の緊張が抜けている。

 私自身の内面でザワついていた波もいつの間にか穏やかになっている。

 

「よく舌を磨き、よく舌を肥やしておくことね、カイム。私は君の名を呼んだ。竜の名は、君しか呼べない。念話なんてよく分からない手段をアテにするような横着は止めておくことね。そうでなくても、電話で愛の告白を済ます奴は大抵ロクでもないんだから」

「断言とは、経験談か?」

「いいや、まさか。教授職に就いていた頃の学生らからの相談事」

他者(ひと)の事情を、お喋りな奴だな」

「知ってた? ここだけの話ってここだけじゃないのよ? お喋りするなら、私以外の奴とたくさん話す事ね。ちゆりも言ってたけど」

「何故だ?」

「私は基本的に他者を理解しても共感しない。共感できないからこそ、相手をよく見て理解に努めてる。所作、体癖、視線に眼球運動、心拍数、声色。心を読んだように話すけど、要は察しが良いだけ、とてもね。それでいて、私は君に大きな関心を向けている。他の人はここまで君の事を気にしたり、気を利かせて察したりしないわよ?」

「……言いたい事を言えと?」

「察しが良いじゃない。みんながみんな、自分自身の事であっぷあっぷのいっぱいいっぱい。それがわるいとは言わないし、それでこそ良いんだよ、たぶんね。だからこそ、そんな苦しい中で誰かに共感して、思い遣ることに人は惹かれ、素敵、だと思うんじゃないかな」

 

 気が抜けた所為か、少し熱に浮かされてたように捲し立てる私の言葉に、カイムは微かに目を見開き、まじまじと聞いていた。

 カイムが人工声帯を付け始めたのは今月、2月に入ってからの事。カイムとの会話は研究の為のインタビューが殆どであったなと思い返す。こうして面と向かって言葉、声による双方向の意思疎通をしたのは初めてかもしれない。

 それもそうだ。研究に割く時間は幾らあっても足りはしない。急な来訪者と、助手の不在による埋めがたい手持ち無沙汰な時間。人間、余裕があると、余計な事を考えざるを得ない生き物なのだろう。

 カイムが真剣な面持ちで話を聞き、ヴィオラはといえば、気配を縮め、こたつに肘突いて気の抜けた姿勢かつ穏やかな表情で面白そうに私達の事を眺めていた。

 疑念や悪意の無い、おおよそ好意的といっていい二人の視線が自身に向けられていることに気付き、少しばかり顔が火照るような気がした。

 きっと、ボロのエアコンが本気を出したのだろうと意識を向けると、何時の間にやら運転停止していた。ご臨終と言う訳では無く、タイマー切れのようだ。気付けば、ちゆりが出て行ってから暫くの時間が経過していた。

 

「なぁぁあんて、ね?」

「何がだ?」

「なんでもない……、ヴィオラもほら、静かにしたきりなんてヒキョーよ!」

「人間観察が趣味ですので、どうぞお構いなく♪」

 

 とぼけるも、時間差があり過ぎたようで、この朴念仁は嫌味も無く真顔で撃ち返してくる。

 ならばと、都合の良い位置で安楽を貪っていたヴィオラにキラーパスを差し向けるも、なぜか今日一の良い笑顔でロクでも無い事をいう始末。二人の視線に変化は無い。この手の視線はイヤではないけれど、どうしようもなく落ち着かない。

 こたつに顔を突っ込んでしまおうかと頭によぎった時、カイムが明確な意思を以てして、口とその周りの表情筋を動作させるのを見た。

 

「夢美」

「何?」

「……相談が、ある」

 

 カイムと向き合った顔で、ヴィオラを見た時、お互い拍子抜けしたような顔をしていて、お互いに小さく吹き出してしまう。

 重々しく口を開いたかと思えば、そこから出た言葉あまりに短く、あまりに普遍的であったことが、仰々しく身構えていた自身の滑稽さも相まって、如何にも可笑しく笑ってしまった。

 小さく笑う私達をカイムは居心地の悪そうな顔をしつつ、顔を背けることなく私を見詰めていた。

 

「分かった、聞いたげる」

 

 胡坐をかき、足首を柔らかく掴み、凝り固まった身体をほぐすようにギュッと背を逸らす。

 

「俺は馬鹿者だ。竜にまで言われたお墨付きの大馬鹿者だ。目が良いのだろう。……俺は、何を望んでるように見えた」

「私に言われた内容で納得したい? お世辞でもいいよ?」

「決めるのは俺だ。夢美、お前は嘘を吐かない。望むものを与えると言ったな、手を貸せ」

「貸すのは口だけどね。そして、目を凝らすまでも無いわね。君は、自分の声に耳を澄ますべきね。君の望みは、君の口から出ていた」

 

 私は微かに首を傾げ、カイムの前髪の奥の瞳を覗き込む。

 間をおいて彼の言葉を待つも、言葉は出ない。仕方ない、これからに期待ね。

 

「減らず口はあって百害、竜の言葉なんでしょ? 追い立てられて、苦しくて、心侵されるすんでのところ、走馬灯で過ったのは、妹でも、自身の暴力でも、他の何でもなく、竜の言葉だった。それは紛れも無く、君の心の内からの発露だよ」

「それを、その理由の証明はできるか」

「貴方が納得しやすいだろう例で言うなら、死に顔は嘘を吐かない、かしらね。あの時の貴方の顔、死にそうな顔してたわよ? かわいそうに」

「なるほど、分かりやすい。……しかし、追い立てた奴の台詞だとは思いたくないな」

「好意を向けたからと言って、好意が返ってくるわけも無し。それに、私は君を傷付ける覚悟を以てして大切に想ってやったことだからね。ただの意地悪だと思った?」

「――――助かる。感謝する」

 

 カイムは短く、されど明確に言葉にした。その言葉を自身の内で反芻させるかのように静かに瞑目した。

 その眉根に苦悶の皺は無い。眠るように、重く深く、静かに閉じられた瞼。その蓋の奥の瞳は私には見えない。カイムも自身の瞼の裏に答えが書いてあるのを期待しての事ではないだろう。その深海のような深い青の瞳は、自らの奥底の奥、深層意識、あるいは、そう。心に向けられているのだろうと思った。希望的な観測にして感傷に過ぎないかもしれないけれど、私はそうする男の姿を、言葉にしがたい感情を抱く。決して男女のそれでもなければ、実験者被験者の関係でもない。自身が理解できる範疇に於いて例えるのであれば、それは北白河ちゆりに対して抱いているモノと近しいのではない、そんな気がした。

 

「貴方の口から今の話のような事が聞けるとは驚きでしてよ、夢美さん」

 

 喜々として沈黙を貫いていたヴィオラが私に声をかける。その表情は相も変わらず彫像のような笑顔である。ただ、その笑顔に纏うオーラ、気配のようなものは和らいでいた。それこそ、何度かヴィオラがカイムに向けていたような穏やかな気配。ヴィオラからして岡崎夢美というのは、カイム以上に気が抜けない相手だったのだろうか。いや、ヴィオラは私の合衆国時代のアレコレを把握していると言ったか。なら、その警戒はあってしかるべきものかもしれない。

 

「呼び捨てで構わないわ、それか教授とでも呼んで。その方が言われ慣れてるから。それにしても結構な言い草ね。傍からは私らの会話サッパリだったんじゃない?」

「いいえ。ワタクシは今、とても安堵いたしております」

「気にならないワケ? そこのヴァイオレンス馬鹿が私の首元に突き付けたモノとか、私が腰に差してるヴァイブレーションした短剣とか」

「気にはなりますが、元より気になっていたことに気が取られてそこまで気になりませんでしたわ。分からないものは分からないもの、貴方の助手さんは優秀ですわね。それとも師が良い人なのか」

「私が懸念だった、そう言いたいんだ。……カイム、ここまで回りくどい言い回し覚える必要ないからね?」

「目の前の相手に集中しろ。そして、夢美。お前はもう少し遠回りを覚えてもいい」

「でしてよ?」

「ヴィオラ、私は貴方に対して遠回しに『率直に言え』と、言ったつもりだったのだけれど。あとカイム。国語の課題追加、ちゆりに伝えておくから♪」

「ム、ヌゥ……」

 

 ちゆり経由で確実にやることをカイムに伝える。途中の返しには瞑目したままだったカイムも、最後、自身に飛び火した事に片目を開け、此方に恨めしそうな視線を向けた。それを見てヴィオラもおかしそうに笑う。

 お生憎様、私は迂遠な遣り取りを好まないだけで合って、理解しない訳ではない。寧ろ、人の心や意思の動きなどについては人一倍敏感だ。自身の存在証明、自己認識こそ私のライフワークなのだから。迂遠より正面突破を好みがちな気があるのは自覚する所ではあるけれど。 

 

「――――最大の懸念点は、岡崎夢美、貴方でした」

 

 気の満ちた声の方に目を見遣ると、正座で背筋を伸ばし凛とした空気を纏うヴィオラの紫眼が岡崎夢美の赤眼を捉えていた。委細を観察するも、やはりその彫像のようなひどく綺麗な顔は綺麗なままだ。そこから読み解ける心理は一切無い。それどころか、今のヴィオラは全身に薄い膜でも覆っているかのように気配すらも読めないでいる。私を警戒して、というよりは彼女が曝け出した彼女の本質の一面、そのように思えた。

 彼女の胡散臭さはその絶対防衛ラインに保障されたもの。この手の胡散臭さは、その当人の根源が虚ろな伽藍洞、虚無であるか、決して揺るがない信念、無限であるかだ。彼女の場合は言動と所作から後者であると仮定する。

 自身の確固たる根源が不可侵領域にある以上、その領域の上に降り積もる、或いは自ら積み上げた構成要素は自己の根源を飾り、隠すための化粧、装飾品でしかないのだろう。決して軽んじるわけではないだろうが、当の本人が別に『本物』を定めている以上、本物でないモノは『偽物』となる他無い。或いは、そうした境界も含めて一つの彼女自身なのかもしれない。彼女は自らの胡散臭さを自覚しているようであるし、そうであることを気にも入っている節がある。

 彼女は言った、八雲紫と。彼女は言った、異界から来たと。それこそが彼女の『本物』なのだろう、と仮定に一定の目途を着ける。『本物』に対する懸念、流石にこの先は想像出来ないわね。

 

「それは日本国として? 合衆国として? それとも、異界、かしら」

 

 私の『異界』の言葉にヴィオラは紫眼を僅かに細め、微笑みとも取れなくも無い表情をする。

 曖昧不明が見せた感情の一端。笑みとは本来、攻撃的なものであったとのような知識が頭に過る。なるほど、走馬灯の一種か、勘か。何にせよ、これ以上不用意に踏み込むのは悪手に違いない。おそらくは察したのではなく、察せられたのだろうだから。

 

「サトリ妖怪を相手にする方が断然楽ですわね」

「心が読めるからと言って口達者とは限らないからね、でしょ? カイム」

「そういう所が女史に警戒させているのではないか」

 

 ヴィオラの背後を見透かしたように語る私の物言いに対してか、肝が据わってきたのか、カイムは狼狽することなく言い返す。竜にお墨付きを貰うほどの減らず口だ。これがカイムの本来の、というのは人間は変化して然るべきなのだから少し語弊があるかもしれないけれど、素直な口振りなのだろう。"竜"と意思疎通する機会があれば、カイムとの昔話を聞かせてもらうの良いかもしれない。

 私の問いにヴィオラは明言を避けつつ話を進める。

 

「殿方、カイムさんについては交渉の見込みがあることが予想ついておりましたので」

「私以上に?」

「ええ。理由は二点。一つは第二研究所事件の被害は武装職員に限られていた点。逃げ遅れていた研究職や事務職の人間の被害はゼロでした。この事は、所内で殺害された武装職員の内、1件の例外を除いて全て即死であったことの意味が変わります」

「八つ裂きにしたいからしたのではない、と?」

「それもあります。余計な苦痛を与える傷跡は少なかったですから。それ以上に確かなのは、獣の様に、変異感染者のように見る者全てを襲う存在ではないということでした。地上部での戦闘に於いても、巨大な火球の攻撃での被害は凄まじかったのを思えば、戦力不利だから退いたとも考えにくい。第一研究所の"竜"に向かう警戒予想も外れましたので、高度知性を有して、機が熟すのを待っているのではないかというのが、」

「千藤主任、元主任の報告と言う訳ね。一つ聞きたいんだけど、その報告書で私と事件の関連性は示唆されていた?」

「いいえ。その報告書に於いてはされていませんでしたわ。一部の者からは当然その可能性の噂はありましたし、現実こうして同行していたわけですけども」

「そ。見る目があるんだか、無いんだか」

「もう一つは、ワタクシ個人的な――――勘、ですわね。竜に騎する姿にカイムさんと竜殿との間には深い絆があるように思われましたので……。あれほど心通わせる方なら疑うよりも信じたい、そう自身の心内に従ったまでです」

「竜に騎する姿見たって【6.12】の映像あったの?」

「えぇ。ちゆりさんが戻られましたらご用意いたしましょう」

 

 ヴィオラは、いや、八雲紫はそう言うとひどく綺麗な顔に、私には言語化し難い色を滲ませる。カイムの八雲紫、ヴィオラに対する警戒心の薄さが分かった気がする。親愛や敬愛にも似たとても居心地の良い好意だ。思い返せば、カイムのヴィオラへの警戒心がそうであったように、ヴィオラからカイムへの警戒心も薄かったなと思い返す。地下室でカイムが背後に立ち、唯一の出入り口を塞いだ時ですら、ヴィオラの意識は後方のカイムではなく、前方で対峙する私に向けられていた。

 "竜"という言葉がヴィオラの口から幾度出てくるも、カイムは瞑目したまま静かに話を聞いていた。そこには動揺や焦燥、罪悪感は見受けられない。ヴィオラを見た後だと、この男が如何に正直か思わされる。それはそれで美徳だろうけれど、腹芸を少し仕込んでみるのも良いかもしれない。

 

「カイムさんについては、ワタクシにとって好ましい人物像であることを掴むことが出来ました。ですが、岡崎夢美、貴方は違う。まるで雲を掴むような気分でしたわ。合衆国時代とはあまりに精神性が異なる」

「自分が生きていくスペースを確保していただけよ」

「海の向こうでも悪さしていたのか?」

「ちょっと? こっちで悪さしてたみたいに言うの止めてくれない? 物心つく前の事はよく覚えてなくてね。話聞きたかったらちゆりに聞いて」

 

 カイムが嬉しそうな鼻息を一つふかして言うものだから、適度に反論をする。と言っても、覚えてないの言はとぼけたものではなく本当の事だ。記憶喪失とかではなく、単純に興味薄くて忘れているだけ、と言うのも不完全だ。それこそ物心つく前と言う他無い。

 いつ、どこで、何があったかは知っている。知っているだけだ。その事柄に対する主観が無いというか欠けている。幼少の頃、自身が何かしでかした出来事は覚えていても、何故そうしたのか、そのような事をした時の感情があやふやな感覚、と分析すれば、やはり物心がつく前、としか形容できない。自己の認識が今よりもずっと薄かったことが理由だとは自己分析できるものの、そこまでだ。

 

「カイムを信用してる理由は理解したわ、それで?」

「端的に申し上げましょう。貴方が善い人で良かった、と安堵したのです。単純でしょう?」

「……本気で言ってるの? それ」

「貴方はもっと自分の事を愛してもイイと思いますけれどね。不服でしたなら言い換えましょう。貴方は善い人になりたいのでしょう? それこそ、お連れの北白河ちゆりさんやそこなカイムさんのように」

「いいわ。続けて」

「岡崎夢美、正直ワタクシは貴方の事が信用ならない。一番の奥底が見えませんから」

 

 ヴィオラの顔は好意的な笑顔で私への不信感を包み隠さず言い放つ。私にしてみれば好印象ではある。私は、私自身の事を探究し続けて今がある。その道のりはまだ遥か遠く長い。それだのに、知ったように、理解したようにすり寄ってくる手合いには辟易している。要は私を信用すると言う奴を、私は信用していない。なら、付き合いを得る相手は私の事を理解できないモノになるかといえばそうではない。理解できないモノというのは受け入れ難い、というのは人間として当然の心理だ。

 私とて例外ではない。私は、私自身が理解できないモノ、受け入れ難いモノであるとしてあの手この手で自己存在、その自己を許容、証明し得る世界の研究に没頭しているのだから。

 

「お互いさまでしょ、というのは私が傲慢ね。貴方はその奥底に大事なモノを抱えてる、貴方とは違う」

「だから、貴方と隣り合う方々の様子を見て決めました。それだけです♪」

 

 ヴィオラはわざとらしい笑みを浮かべる。あれだ、勝利を確信している顔。或いは種明かしをする手品師といった所か。

 

「私の精神性に不信感があったんじゃないの? それは解決したワケ?」

「貴方の精神性が問題だといいましたかしら、ワタクシ? 合衆国時代のデータと比して余りに違いが大きいので、万が一、白塩化症候群に纏わる要因の精神作用の可能性は考慮しはしましたが、心は常に変化していくものでしょう?」

「え? ……いや、いやいや。安堵ということは、万が一ではなく相応の危惧をしてたんじゃないの?」

「勿論ですわ。自身の残酷さを理解していない狂科学者でもなく、聞き分け無く退くも進む出来ないような子供でもなく、たまさか得た幸運と力に驕り変化を拒み停滞を望む様な愚物でもない。未知を相手に研究相手取れる程度にネジと常識が外れていつつ、大切な身内がいるという人格保障兼安全機構付き。極めて好ましい人選だと思いませんこと?」

 

 ヴィオラの口振りは無遠慮にして偽悪的。されど、その評価は順当なものに思えた。

 

「……私がビーンタウンでしたこと知ってるのよね? その出来事に対する不信感じゃないの? あと第二研究所事件の発端、私なのも知ってるわよね?」

「勿論ですわ。派手にやりましたわね、と申しましても、貴方がやったことは規模の程度は異常ですけれど、それはあくまでスケールの問題であって、その時々の貴方の立場からしたらそのどれも正当性は充分にあると思いますわよ?」

「なんだ、やはり何かしら、しでかしているではないか」

「シャラップ! 外野は引っ込め!」

 

 カイムが笑いを噛み殺したかのような顔でヤジを入れる。深く詮索する真似をしないのは彼なりの気遣いか、元の世界での礼儀だろうか。

 減らず口はあって百害、念話では意思の疎通が出来ていたことを思うに、竜に窘められるほどとは面白いじゃない……。絶対に"竜"を如何にかして、恥ずかしい話を聞き出してやるんだから……。

 しかし、ヴィオラの発言には嘘が見えない。あるいは嘘は吐かない人種なのかもしれない、私のように。それだけでなく、おそらく本心からの言葉でもあるのだろう。彼女の所属はいよいよ以て異界なのだろうことを実感させられる。

 

「貴方が空虚に感じている奥底を埋め得る何かが分かるとは当然申し上げません。けれど、その大事なモノは貴方が他者に投影しているモノに見て取れると思いますわよ。貴方の自己認識の薄さは、他者への関心の薄さにも繋がっている。明確な自己の境界が無い以上、他者の境界になりますから」

 

 彼女の真っ直ぐな視線が私の瞳に突き刺さる。今、私の瞳にはヴィオラ、いや八雲紫が映っているのだろうか。

 

「心に大きな関心を抱きながら、その心を抱く個人への関心の薄さはソコに起因しているのではなくて? 貴方が本当にただの心無しの人でなしだとしたら、貴方に着いて来た愚か者は見る目無しの考え無しですわね?」

 

 彼女は最後に挑発的な物言いで締め括ると、小首をかしげて慣れた感じでウィンクをした。ウィンクをする人間は映画でも見たことが無い気がするけれど、そのあからさまにあざとい胡散臭さはキザっぽさに昇華して様になっていた。

 

「……分かった。 分かったわよ! こんなに口説かれたのは久々よ、久々。――――乗ってあげる」

「どうぞ、よしなに」

 

 ヴィオラは綺麗な姿勢のまま、ちゃぶ台越しに手を差し出してくる。差出された手は白魚のような手との言葉を体現したかのように手荒れやペンだこは、いや、止そう。今、この瞬間は彼女の顔を真っ直ぐに見るべきだろう。少なくとも、彼女は彼女なりに私の事を真っ直ぐに見つめた。彼女の言ったことが自身の全てと思う事は無いが、心が揺らいでいるのも確かだ。

 指先、手先から細く長い腕を伝って見たヴィオラの顔は私の事を真っ直ぐに見据えていた。その顔を見て彼女の手を取り握手を交わした。

 こうして私達とヴィオラの、えっと何というのかしらね? 何か契約や取引を交わしたわけでもない。まして、敵対したわけでもない。とすれば、そう。私達の自己紹介は相成った。

 

「しかし! そこまで言われて引き下がれないから戦争ね!」

「あぁん。ではワタクシはカイムさまに縋る事にいたしましょう……ヨヨヨ」

「止せ。この季節に雨風凌げる場所を吹き飛ばす気か」

「ちゆりが何も考えず席外すわけないでしょう。この家、跡形も無く消し飛ぼうとも構わない許可まで取って来てるわよ? あの子」

「日頃の行いと実験の所為だろう」

「私とカイムで抑え込めない規模の実験するわけないじゃない。白塩化症候群の対抗薬と『黒の魔法』を開発してから人体実験に望む程度には慎重派よ私。ヴィオラの急な来訪で感覚ズレてるけど私達、潜伏中の逃亡者だからね? 大喧嘩を想定しての事よ。魔法で無法な人でなし共がいつ爆発しても良い様にってね!」

「ブレーキはアクセルを踏み抜く為にあるんじゃねぇですよ」

 

 頭の真後ろから聞きなれた声が響くと同時に首根っこにちゆりの冷え切った手が差し込まれて「ひうっ」とも「はうっ」とも付かない鳴き声を漏らして床にしおしおとヘタレこむ。音も気配も無く、というよりは私とヴィオラが賑やかにしていたので気付かなかったようで、ちゆりの背の襖は開け放たれており、普通に入室したようだ。

 ちゆりの脇には魔剣ことハオがふよふよと浮いている。いつの間に逃げ出したのか、或いはちゆりの呼び声に応えたのか、『黒の魔法』の『黒の手』を制御し、その黒い手で器用に中身が紅茶の急須や、湯気を上げている木製セイロちゃぶ台に運ぶ。そんな黒い手をヴィオラは興味深そうに眼で追っていた。

 

「ヴィオラさんから頂き物の蓬莱890の豚まんとお茶のおかわりです」

「ちゆり、手、ちべたい」

「おや、こんなところにいい湯たんぽが」

「ひゅい、」

 

 平坦な口調でそう言うや否や、もう片方の冷えた手を首に差し込まれてしまう。完全に首根っこを押さえられた形だ。首を縮め、身をこたつに埋めて徹底抗戦の構えを取る。

 

「ほんと冷たいんだけど……」

「目ぇ覚めたでしょう。ヴィオラさん、こちらが対抗薬の錠剤です」

 

 ちゆりは冷えた手を私の首で暖を取りながら、ハオに目配せすると、ハオが『黒の手』を動かし、錠剤が幾つかまとめて入っている薬袋と、赤い錠剤が一つ乗せられた和風な小鉢との乗った盆をヴィオラの前に配膳した。しかし、ちゆりとハオってそんなに仲が良いのかと感心させられた。私の見ていない所でちゆりなりに研鑽に励んでいたのかもしれない。

 ヴィオラは小鉢の錠剤を摘み上げ裏表ひっくり返して見たり、照明の光に透かしてみたりと観察している。

 

「……真っ赤ですわね」

「目ぇは覚めませんけどね。ちなみに青い錠剤は無ぇですから」

「残念。サングラスは胸に忍ばせていたのですけれど。こちらの名前は?」

「名前はまだねぇです。暫定的に対抗薬と呼んでます。小難しいは一息入れてからにしませんか?」

「そう、ですわね」

「あぁ、その錠剤。いま服用して頂いても結構ですよ。服用の際は噛み砕かず飲みこんで下さい。水無しでも服用できますしお茶でもたぶん大丈夫ですけど、お水いります? まじぃ水道水ですが」

「頂きましょうか」

 

 ヴィオラはそういうと止める間もなく赤い錠剤を嚥下した。予備の薬まで手渡している以上、飲みこんだフリではないようだ。

 

「……一度退散して治験挟んでからの方が安全じゃねぇですか? 由来不明の薬ですよ?」

「あなた方の事は疑いに疑い尽しましたから、信じると決めたのです。ワタクシが、ワタクシを」

 

 ヴィオラは私の肩越しにちゆりの顔を窺っているのだろう。ちゆりの顔は見えないけれど、なんとなくジト目でヴィオラの事を見据えている顔が思い浮かんだ。溜息のような深い呼吸が後ろ髪にかかる。

 

「はぁ、んで? 仲良くなれたんですか、教授?」

「そぅ、ひゃぁ、ねぇ……」

 

 ちゆりのだいぶ暖かくなってきた手が首から離れたかと思うと、今度はまだまだ冷え切っていた手の甲側が押し当てられる。頸動脈で冷やされた血が巡ったことでか脳が冷め、思考が、意識が冴えてくる。

 ヴィオラはどうしようもなく胡散臭いけど、それは覚悟や拠り所が定まっている故であり、その点に於いて彼女は極めて信用が出来る人物。すこし年寄りくさい雰囲気を醸し出すこともあるけど、それはそれ。別世界から来た竜騎士王子を抱えておきながら、あーだこーだ言って事情を選り好みするわけもなし。だからそう、簡潔に言うなら、

 

「――――善かったわ、とても」

「だってさ、ヴィオラさん。これからコキ使われると思いますが、よろしく」

「えぇ、よしなに」

「それでは冷めない内に頂きましょうか」

 

 ちゃぶ台の小さなセイロに手を寄せる。指先が冷えていたようで湯気上がるセイロの温もりが手先に沁み、血管が拡がってピリピリと微かな痺れが心地良い。

 

「残念。手ぇ洗ってきて下さいね。教授だけじゃねぇですよ、カイムさんも、ヴィオラさんも」

「えぇ!? つ、冷たいじゃない絶対……」

「私の手が冷たいのには理由があったんですよ、ほら行った行った」

 

 ちゆりの言葉にカイムだけが素直に立ち上がり、襖横の柱に凭れ掛かっている。先々行くのかと思ったけれど、待ってくれているのか、或いはちゆりのお願いで私を担ぐことになる可能性を考慮しているのかもしれない。かくいう私はこたつから抜け出せないでいる。

 

「あぁ、ヴィオラさん。お酒こちらでご用意しましたけど、お召しになりやがりますか?」

「あら本当に? どういったものでございましょう?」

「偽電気ブランていうものらしいです。珍しいお酒みたいですよ? 飲兵衛みたいなんで、普通に美味しいよりクセのあるものがいいかなと」

「あぁん! 是非頂きますわ!」

 

 ヴィオラは嬌声をあげ今日一番の笑顔を更新した。酒類はてんで詳しくなく、一般知識の範疇ですら名すら聞かない当たり、酒飲み界隈では謂れのあるお酒なのかもしれない。

 酒好きというのは本当の事のようだけれど、私への警戒が無くなったからだろうか、随分と感情や表情と言ったのを見せるようになったものだ。それよりも気になる点がある。

 

「……未成年がお酒語ってる!」

「セイロ借りるついでに手土産の肉まんのお裾分けのお返しに頂いたんです。『酒好きな捻くれ者が嫌いとは言わないお酒』ってオーダーで。味は知らねぇですが、ヴィオラさんの反応見るに当たりで良かったです」

「えぇ楽しみですわ! ささ! はやく手洗い済ませてしまいましょうそうしましょう!」

 

 ヴィオラはこたつから軽やかに抜け出すと私の脇を抱えて立ち上がらせて、居間の外へと背を押していく。その顔はとても晴れやかだ。

 

「あぁ、でも。薬とアルコールの同時服用は一般的にアウトですね」

 

 ちゆりの声にヴィオラの顔は綺麗なまま凍ったように固まる。人間、こうまで表情筋を静止させることが出来るものかと感心すらする。居間に移った時、ちゆりがヴィオラの脇腹にツッコミキック入れていたのもそうだが、ちゆりとヴィオラは相性がわるい、いや良いのかもしれない。効果はバツグンだ。

 

「ま、対抗薬は普通の薬とは違うんで大丈夫なんですけどね」

 

 ちゆりがなんてこともない様子で言い、ヴィオラはホホホなんて上品な作り笑いを零していた。

 台所に行き、並んで手を洗っている最中、ヴィオラに訊ねる。

 

「私の助手、すごいでしょ?」

「……貴方とカイムさんを御している事実をもう少し評価すべきでしたわね」

 

 ヴィオラは初めて見る顔で苦い笑みを浮かべていた。

 

 

 




夢美視点変わらないので2と統合するか迷いましたが、長くなりそうなので分割
王子の言葉と妹と竜との対峙会
べらべら話す王子は違和感あるけど話さないとお話すにならないので
ちょっとしたケジメ回


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3.「静謐」-4

用語説明回と言ったな。あれは(ry


     4

 

 

 

「それで、2006年5月2日から3日にかけての国立超自然第二研究所の事件以降は日本中を回っていたと?」

 

 軽食を交えながらの会話で、事件後から今現在に至るまでのおおよその動きを説明し、今現在の大阪堺に至った所でヴィオラが手に持ったグラスを傾けながら確認するように聞いて来た。既に2、3杯のお酒であるが酔っている気配は無い。

 ヴィオラ曰く、他国の干渉や、それこそヴィオラがいう所の『異界』からの接触の可能性を考慮しての事らしい。不都合な場合が予想される場合、揉み消しが必要になりますから。と良い笑顔で言い放つ彼女の言に嘘の色は一切無かった。

 

「宿泊施設やキャンプ場、車で点々と左回りにね。ここに腰据えたのが……、いつだっけ?」

「去年の7月末です。一昨年の夏は北を巡ってて実感しなかったですが、梅雨明け初夏も初夏の段階で本州の夏をキャンピングカーで迎えるのはヤバいってんで、地主さんトコにちょっかい出したのが7月の中頃です」

「去年の夏はひどく暑かったですわねぇ。にしても、渡り鳥みたいな生き方してますこと」

 

 ヴィオラはちゃぶ台こたつにデンッと広げた日本国地図の各所におつまみの柿ピーを配置している。発端の東京新宿、第二研究所が在った箇所と、今現在の大阪堺の拠点にピーナツ。その他、諸々立ち寄った日本津々浦々に柿の種を並べている。ヴィオラからして柿の種よりピーナツの方がポイントが高いらしい。

 

「教授が一年は完全に身柄躱すって決めたんで止む無しです」

「普通失踪が7年、特別失踪が1年で失踪宣告で死亡扱いになるからね。研究所の件は十二分に危難扱いでしょうから。私達に接触したい者がいれば何かと都合が良いかなって」

「あぁん。では、ワタクシはまんまと釣られたというわけですわね?」

「全てが想定通りと言う訳ではないよ。私達に接触したい人の都合に合うようにしておいた方が、ゆくゆくは私達にも利する事になるかな、なんて軽い想定。実際、ヴィオラにとっては都合が良かったみたいだし?」

「ええ。とても都合が良かったですわ。財産や権利等も丁寧簡素に纏めてられておりましたので手続きも滞りなく、ですわ。よく分かりましたわね?」

「ヴィオラが言ったんじゃない、私とちゆりが死亡扱いになってるって。書面だと私の赤目は見えないからね」

「一年とは言え、その研究試料と研究員が研究から離れていたのは勿体無く思われますわね」

「研究なんて鉛筆と紙さえあれば何処でも出来るわよ。もとよりほとぼりが冷めるまで逃げ隠れするつもりだったしね。私やちゆりの容姿は日本国内では目立つけど、カイムのゲシュタルト体の姿は世界どこでも目立つ有様だったからね。もしヴィオラに真っ先に拾われていたら、相応の権限と独立性を有しつつ研究に専念できたのかしらね?」

「無理ですわね」

 

 ちゃぶ台こたつの周囲は足の踏み場が無いほどにゴチャついている。

 私とちゆりの側は、諸々の説明に必要な資料やら試料で研究者の巣となっているし、ヴィオラはヴィオラで外交官として関係各所の資料と、甘い香りのする偽電気ブランに合う(らしい)割り材やらで雑然具合は独身女のクローゼットの中のよう。ヴィオラは独り身らしいし敢えて比喩に必要は無いかもしれないが。

 混沌(カオス)混沌(カオス)がぶつかり合い、原始の地球も斯くやの荒れ具合である。生命の海の如く、新たな存在が生まれてきても何ら疑わないまである。

 

「しっかし、ヴィオラさん寛ぎ過ぎでは?」

「あぁん。そうカタい事をおっしゃらないで下さいまし、ちゆりさん。いかがです? 一杯」

「いや、未成年なんで」

「私も遠慮する。匂いだけで酔いそう」

「あぁん、つれませんこと。竜騎士殿はいかがでしょう?」

 

 私ら二人にご相伴断られたヴィオラはカイムへターゲットを変え擦り寄る。ヴィオラは酔ってもいないだろうクセに顔を赤らめている。あざとい。

 カイムのパーソナルスペースは私とヴィオラその両勢力から征服される形で見る影も無い。当の本人は、すっかり擦れてしまったのか、さっぱり慣れてしまったのか、異を唱えることも無く侵略を受け入れている。当人からすればそんな事よりも、肉まんの包装箱裏面に記載された成分表示表に大きな関心を向けて熟読している。

 文字の学習でもあるのだろうけど、味も気に入ったのかもしれない。カイムはこれで料理上手だ。料理が上手と言うよりは、刃物と火の扱いに秀でていると評すのがより正確ではあるのだけれど。ゲシュタルト体から今の人間らしい感覚の伴った器を得てからは、料理はカイムの学習の一つでもある。今の人間的な器を得た際に、五感、感覚を刺激する学習を薦めはしたが、それ以上に当人の関心があるのだろう。

 

「ム。一口いただこう」

「お注ぎいたしますわ♪」

「これが……、ハニートラップッ!!」

「失望しました。カイムさん」

「待て、違う」

 

 面白がってひそひそと耳打ちしたちゆりからのガチトーン失望宣言に狼狽するカイム。お腹を抱えて一頻り悶絶するも、ちゆりの眼差しに釘付けされたカイムからアイアンクロ―が飛んでくることも無い。まさに笑い得くだ。カイムからは物凄い眼差しが一瞬向けられるもそれまでだ。愉悦。

 カイムの教育はちゆりに任させていたのもあってか、二人の間には独特の空気感がある。年の離れた兄妹だろうか、いい意味で遠慮が無い。カイムもカイムで、私とヴィオラがダル絡みした時は諦めて流したのに、ちゆりに対してはきっちりと誤解を解こうとしている。解せぬ、いや解せる。

 投げっぱなしジャーマンはあんまりなので一応の助け舟を出すことにする。とは言え、カイムが自ら弁明するのが一番ではあるのだけれど、弁明する原因の一端は私にもあるわけで、仕方が無い。

 

「いい勉強になるんじゃない? お酒や酒造の知識が深まれば、カイムの元の世界での食文化から気候、風土にも研究になるんだし」

「そぉなんですか? カイムさん?」

「ム、」

「貴方が酒を好む人でないのを知ってるからちゆりは気にしてるのよ。美人に絆されてんじゃないかってね。さっきまで席外してたし、貴方の教育係ゆえの責任感ってやつね」

「……興味がある。どのような香りや味わいがあるのだろうとな」

 

 気まずそうに言うカイム。ちゆり不在の際の会話は無駄ではなかったようだ。

 カイムの話を受け、ちゆりは豆鉄砲を食らったような顔をしていた。ちゆりもまた感情が表情に出やすい。

 

「どうしたの? ちゆり?」

「いえ。ただ、カイムさんが気後れしたような感じ無く、自身の事を自発的に語るの初めてじゃねぇです? 教授、もしかしてイジメました?」

「ちょっと? いや、まぁ、ちょっと?」

「ま、わかりました。ただし、1杯にしといてくださいね。ヴィオラさんケロッとしてますが、度数50と高いんですから」

「うわ、道理で匂いだけで酔いそうになるワケだ」

「ですです。新しいグラスと氷持ってきてあげますから、とっとと離れて下さりやがれ」

「あぁん、手厳しい」

 

 ちゆりがカイムからヴィオラを引っぺがして床に転がし、ヴィオラが愉しそうな嬌声を上げる。ちゆりはそんなヴィオラをまたぎつつちゃぶ台周りの空き瓶もろもろのゴミを盆に纏めて台所の方へ片付けに行ってしまった。よく見れば、ちゆりの後を『黒の手』を展開してゴミを運ぶハオが追随していた。一応私の魔剣なんだけど……、いや、私の魔剣だから気を汲んでちゆりに付き添ってるのだろうか? 流石の私にも分からない事はある。

 

「楽しそうね、ヴィオラ」

「そう見えますか?」

「懐かしそう、の方が正しい気はするけどね。私自身の経験としては薄いから確固たるものではないけど、ビーンタウン時代のグループホームの年寄り連中がよく漂わせている空気感だから」

「レディに向かって無作法ですこと。けど、正解でしてよ。貴女って油断なりませんわね」

「酒飲んでつまみを広げといてよく言うわね。それで? 私らの今までは話したけど、このまま研究の話して酔っ払いの頭に入るわけ?」

「ご心配には及びません。人よりも出来の良い頭であることは自負してますので。それよりはワタクシと異界、そして日本国や合衆国など、この世界の主要国の姿勢をご説明した方がよろしいかと」

「『異界』の話ですか? 本当にしてなかったんすね?」

 

 幾つかの空のグラスと、かち割り氷で満たされたアイスペールを乗せた盆をちゆりが運んでくる。付いていったはずのハオの姿が無い。奥の方から食器を洗うような音がしているけれど、まさか魔剣にさせているのだろうか? いや、出来る出来ないの可否でいえば出来るのだけれど。

 

「ねぇ、ちゆり。ハオは?」

「少し手伝ってもらってますよ」

 

 いやぁ、まじかぁ。使いこなしているのではなく、手懐けられているやつね、これ。私が言うのだから間違いない。しかし、ペットと飼い主は似るとは言うけど、魔剣と持ち主もそうなのだろうか。うん、そんな気がする。

 

「お話はちゆりさんが戻られてからとのお約束でしたので」

「信用無いわねぇ」

「話題が無くて場繋ぎ的に事務話、学術話で時間潰すんじゃねぇかと考慮してなかったらハナから禁止にしてねぇですよ。ま、カイムさんと夢美の具合見るに善い時間過ごせたんじゃねぇですか? はい、カイムさんグラス。グラス一杯に注がないで下さいね。一口程度に止めるんですよ。ヴィオラさんは氷。飲ませといてなんですが飲み過ぎんじゃねぇですよ?」

「あぁ、ありがとう、ちゆり」

「頂きますわ。なんというか、ちゆりさんに取り入るのが貴方達を懐柔するのに一番の手に思えてきましたわね」

「謎の美女エージェントが様になってるじゃない。ちゆりに手懐けられてなければだけど」

「……!! 酷い、いや。独特な風味だな……」

 

 カイムが少し噎せながら酒の感想を述べる。噎せた事を誤魔化す為に感想が口から出ているのかもしれない。如何やら一口は一口でも、ストレートを一口で煽ったようだ。その顔は眉尻まで歪めている。度数ゆえか、味わいゆえか。

 その反面、ヴィオラは笑顔そのものだ。Sっ気からくるの愉悦か、飲み友達を開拓した事で喜びかは分からない。幾ら私でも酒の席での人の表情の変化の記録はほぼ無いので理解にも限界がある。ただ、嬉しそうなのは確かなようだ。

 

「でしょうね。その度数と甘い香気の中に薬草の青っぽさもある。蒸留酒であり混成酒、しかも少なくとも3種以上の酒が混ざってる。勉強の最初に飲むお酒じゃないわね」

「……知っていたのか?」

「知らないわよ。匂いとかでそんなかなって思っただけ。どう?」

 

 ヴィオラに顔を向けて尋ねる。

 

「良い鼻しておりますわね。概ね当たりですわ、調合の酒類は4種ですが」

「そ。ならカイム。君がその酒を理解するには最低でも4種の酒を理解する必要がある訳だ。今回の教訓は、学ぶ物事には順序がある、ということね。そこまで知る必要もないし、知らなくてもお酒はお酒として飲めるし楽しめるけどね?」

「飲まれないのに、お詳しいですのね?」

「褒められたもんじゃねぇですよ。月夜酒で身に着けた知識なんですから、ね? 教授」

「あらあら、手広くやってらしたんですのね」

「知恵を貸しただけよ。正直覚えてないわ」

 

 ちゆりが持ち出した昔話を流しつつ、私の言葉にカイムは酒の入ったグラスの底を見詰めている。まじまじと見るその瞳には酒の色味や粘度を計っているのだろう。鼻孔も微かにひくついている気がする。なんともまめな男だ。

 そんなカイムは放っておいて、ちゆりに目配せをする。ちゆりは一つ頷いてから、ちゃぶ台こたつ周りに用意していた研究者の巣から録音機材を取り出し、会話ログを録る用意を手早く整えた。

 

「それじゃ、いちから、先ずは『異界』の事から聞かせて貰いましょうか? 八雲紫?」

 

 私の呼んだ名前にヴィオラ、否。八雲紫は綺麗な笑みを浮かべた。

 金の髪、紫の瞳、赤の下、肌の白さ。彼女を彩る色彩が目が覚めたかのように色付いていく。

 何処から取り出したのか、手慣れた優雅な所作で扇を拡げ口元に当てる。

 

「――――古と変わらずに続く幻想郷。それはそれは残酷な話ですわ」

 

 妖しく笑う女。八雲紫と初めて私達は対峙した。

 

 

 

 × × ×

 

 

 

「……幻想、郷?」

 

 沈黙を破ったのはちゆりだった。聞いたことのない文言であるけれど、理解としては正解だろう。

 幻想の郷。幻想郷。それがなんだと訊ねる間抜けはいない。それこそが八雲紫が語った『異界』であることを理解した。『異界』そのものがどう定義されるものであるかの疑念はあるが、先に確認しておくことが有る。

 

「これだけは先に答えた方が良い。『異界』は【6.12】の"巨人"及び白塩化症候群の原因に連なる存在か、否か」

 

 これだけは明確に確認しなければならない。

 その答え如何に因っては友好的な関係を望んでいるであろうヴィオラとの距離を見極めなければならない。

 "巨人"に連なる存在だから絶対敵というワケではない。"巨人"の側であっても訳有りな者はいるかもしれない。ただ、"竜"と"巨人"は相容れない性質であることは忘れるべきではない。それはカイムの元の世界からの因縁でもあるし、客観的な事実として魔力の性質的にも相容れないものだ。

 なにより、"巨人"の性質は人類に極めて敵対的である以上、こちらが許容の意思を持ち合わせたところで限度がある。関心の尽きない未知ではあるが、相容れない『敵』であることは線引きしておかなければならない。手を取ろうと差し伸べた手を噛みつかれては敵わない。

 

「断じて否、であることを誓いましょう」

「何に」

「――――幻想郷に」

 

 そう言う八雲紫の表情は悲痛なまでに物悲しそうな顔をしていた。

 望郷、郷愁、懐古。幾度となく見た色、最近にも見た色だ。はて、どこで見た色だったか。視線を横にズラしカイムと目が合う。あぁ、そうだ。この男が生国にして亡国のカールレオンでの幼少の頃、妹や幼馴染と心穏やかに過ごしていた頃を語る顔、郷愁に駆られている顔に似ているのだ。

 全ては遠き、過去の面影、夢の跡。決して手の届かないモノを想う鎮魂の顔だ。

 

「ちゆり、全ての記録を停止。今現在までのも完全破棄」

「あいあい」

「……よろしいので?」

「こうした方が話聞き出し易そうだからね、私の為よ」

 

 ちゆりは二つ返事で録音機材を停止させ、記録内容を抹消していく。

 突如の対応にこちらの顔を窺うようなヴィオラに端的に返す。大儀や信念を抱く意思の強さを私は見縊らない。敵として全て奪うのでなければ、味方として全てを与える。つまりは私の都合、私の為だ。

 

「最初から『幻想郷』や『異界』と語って近付いた方が私の関心を買えたでしょうにそうしなかった。遠ざけた。隠した。何故か。大切だからだ。記録に残さない方が良いでしょう?」

「思いの外、思いやりがありますのね?」

「心にも無い事言うもんじゃないわよ」

「心無い事を言うよりはマシで御座いましょう?」

「どうだか。先にも言った通り私の為よ。他者の為の記録は要らない。私の為の記憶に在ればそれでいい。それで『異界』とは?」

「実在と影、というよりはコインの表と裏の方が良いかもしれませんね。コインそのものが一つの宇宙、世界であり、表が人間界、裏が異界との具合でしょうか」

「異界の反対は人間界なの?」

「ワタクシの勝手な呼称です。人間が沢山いて、人間が支配しているのですから人間界と呼称するのが最も適当かと。現世、と称しますと異界の方が冥界や死後の世界のイメージに囚われますでしょう? 物質界と称しても精神界と対比称されるのも不適。『異界』は幅広いので。世界を『人間界』という言葉で切り取った後に残されたモノを『異界』と認識するのが一番かもしれませんわね」

「『異界』という大きな括りの中に『幻想郷』が属するのかしら?」

「認識としてはそれで不都合は無いかと。イメージしやすいところとして天国や地獄、天界や仙界ような様々な『界』が存在致しますが、『異界』と呼ばれる『異界』は存在致しません。様々な『界』の総称を『異界』と称している、と言う方が正確でしょう。全体で共通した形式体系はありませんので、ワタクシの個人的所見にはなりますが」

「『幻想郷』としてではなく『異界』として関与はしていないと断言していた割りに曖昧ね。『界』毎に独自性、独立性があるように聞こえるのだけれど。貴方は『幻想郷』の八雲紫でしょう?」

 

 『幻想郷』、一つの『界』に根差した貴方が、どうしてそれで他の『界』の事情を知ったように語るのか、とは敢えて口にしない。私の言外の問いに、彼女は少し誇らしげな顔をしたからだ。

 

「表に非ず、裏に非ず。ワタクシだからこそ、『幻想郷』だからこそ、夜明けに、夕暮れに、境界に佇む者だからこそ見える景色もあるのです」

 

 そう語る彼女、八雲紫の顔はとても美しかった。

 表、裏、そして境界。詩的に意味深な言葉の意味は理解し損ねるが、『幻想郷』なる異界は、異界の中でも特別、或いは特殊な環境のようだ。それこそ、客観的に他の異界とは異なる優位性を有しているのだろう。

 

「八雲紫と『幻想郷』は『異界』の全域に関与できる立場にあり、『異界』の代表としてヴィオラが来た、と?」

「ええ、よしなに」

「関与してないのは分かった。なら対抗手段、その可能性はある?」

 

 関与の次に気になっていた事を尋ねるも、ヴィオラは瞑目したまま静かに顔を横に振った。

 

「御座いません。"巨人"や白塩化症候群に対抗する手段は可能性すら確認できませんでした。これはワタクシ個人ではなく、各界の賢者達とも協議、検証を重ねた上での見解です。関与していない以上、予想された結果では御座いましたが」

「全うな対抗手段でなくとも、不思議な異界パワーでドーンと出来ないの?」

「『異界』と申しましても、神話やお伽噺、天使や悪魔、魔法使いのような力は期待なさらないで下さいまし。表舞台にいられないが為に、表から姿を消し裏に居場所を『異界』を見出した存在です。並の常識から見れば"巨人"も『異界』も同じ非現実、非常識に映るかもしれませんが、表舞台であれ程の権能を振るえる"巨人"は非常識の側から見ても非常識なのです」

 

 ヴィオラはそう語ると、グラスの酒を一口呷り窓の外、冬の空を忌々しそうに見上げた。その所作に釣られて私も空を見る。薄暗いも雲一つなかった空は灰の曇天となっていた。ヴィオラが言っていた晩から雪の模様、というやつがやってきたのだろう。

 ヴィオラの視線には【6.12】に空から落ちてきた"巨人"の事を想起しているように思われた。根拠は無いが、同じ空を見上げた私は今までの話から"巨人"のことが想起されて仕方が無かった。

 

「『異界』は毒でもなければ、薬にもなれない。それは分かったわ。それで? 貴方は何をしに来たの、ヴィオレッタ=ハーン」

 

 私からのパスに幻想郷の八雲紫は一息のみスーツの襟を正してエージェントとしてのヴィオラの顔になる。

 

「『幻想郷』と『異界』の安全保障の為、世界の"巨人"が巻き起こした諸問題の解決を望みます。その為には"巨人"と敵対していた"竜"と竜騎士、そして岡崎夢美、貴方に与するのが最善であると、ワタクシの意思と『異界』の総意により、ワタクシを売り込みに罷り越した次第です」

 

 嘘ではないが、真実でもないなと鼻につく。彼女自身も隠す気はさほど無いようで、綺麗すぎる笑顔には景気の良い胡散臭さが戻っていた。

 ヴィオラの言葉に嘘は無い。とすれば嘘は行動にある。それほどに『幻想郷』が大事で、離れることが苦痛で惜しい事なら代理を立てればいいだけの事。少なくとも、私達からしてヴィオラでないといけないという事由は何も無い。関与が無い事も、対抗手段が無いことも伝えればそれで済む話だ。とすれば、彼女がわざわざ出向いた事には何か理由があるのだろう。

 

「ヴィオラの要求は理解した。与する事で私達が得られるメリットは?」

「ワタクシ、他の異界の者とは異なりまして人間社会でも密に秘密に活動しておりました。そのお陰で表でも方々に顔が利きます。穏便な橋渡し役、外交官として申し分ないかと。白黒つけたがりな貴方とはまた違った外交、利益を提供できることでしょう」

 

 ヴィオラはそう自らをプレゼンすると妖艶に微笑んだ。採用! と心の変態オヤジが叫ぶも黙らせる。確認事項はまだあるのだから。私とカイムは互いに他に縋るあての無い身の上であったが故に、寄り添う事に疑いも不安もなかった。

 ただし彼女の優先度は『異界』、……いや、『幻想郷』だ。ヴィオラがわざわざ出向いた事の理由があるとすれば、それは『幻想郷』に他ならないだろう。ヴィオラ個人の事は信頼しているし好感を抱いている。

 故に確信する。もし、彼女が『幻想郷』を天秤にかけられた時、その皿は決して揺るがない事を。

 

「ヴィオラなら、私やちゆりが交渉に当たるのと変わりない程度の戦果は固いでしょうね。それだけ?」

「人間世界の外交官としてだけでなく、『異界』との外交官としても務まりましょう。この協定が結ばれれば、『異界』が敵対する事を防げます。『異界』は先にも申した通り一枚岩では御座いません。各界の指向もそうですし、同じ界の中であっても様々な派閥がございます。それらの中には、今の表舞台の混乱に乗じて表舞台に復権、返り咲かんと狙う派閥も……。多数派ではなく、勢力の中身も現実の見えてない愚者ばかりではありますが、いざ事を起こされては面倒なのは確かです。あなた方との協定が結ばれれば、協定を提言決定した『異界』の賢者達の影響力は増し、愚者共を確実に抑え込むでしょう」

「政治ね」

 

 深々と溜息を吐く私。

 極めて、極めて甘い蜜だ。すぐにでも飛びつきたくなる。百戦勝利してもそれは最善ではなく、戦わずして事を収めることが至上の勝利だ。双方の戦力を削ぐことも無く、関係も良好なものが築けるだろう。ゆくゆくは今の問題が片付いたら、この縁から『異界』の研究をさせてもらうのも面白いかもしれない。

 それでも、どうしても拭えない懸念がある。少なくとも、ヴィオラがここに来る必然性が無いのだ。それこそ、『幻想郷』を辛そうに離れてまで赴く理由は何処にある。

 

「後背を突かれることがなくなるのは悪くないのではないか」

「『異界』の勢力が"巨人"、白塩化症候群の影響下に入り、敵対しないとどうして思えるの。カイム、貴方、元の世界で"巨人"の勢力、『天使の教会』の支配下に入った人間以外のゴブリンやワイバーンのような魔物、魔獣、果ては"巨人"と相対する性質のはずの"竜"と同種のドラゴンとも戦ったのよね。『異界』の勢力が似た事にならないと思わない? 私は私とちゆりとカイム、そして"竜"、この集まりにヴィオラを迎え入れてカールレオンのようにするつもりはないよ」

 

 カイムは静かに私を見つめ、ただただ穏やかに頷いた。今は亡き祖国を引き合いに出されたことへの怒りをあらわにするかとも思われた、そのようなことはなかった。寧ろ、そうまで語り執着する私の意思を理解してくれたようで、思案するように引き下がってくれた。

 

「その可能性も込みで敵対しない事をお約束しましょう。『幻想郷』は、『異界』は、何人(なんぴと)にも侵されません」

 

 そう語るヴィオラの視線は遠く、心ここに在らずと言った具合だ。

 未知を相手に断言してのける彼女の言葉に嘘の色は無い。そう断言するに至る要因と、彼女が今ここにいることと関わりがあるのか。

 

「八雲紫。貴方は何故ここに来た。貴方の『幻想郷』への想いは本物。だからもう一度問いましょう。何故、貴方は『幻想郷』ではなく、ここにいる。それがどうしても分からない」

 

 私の問いに八雲紫は幻想郷に誓いを立てた時のような悲痛な笑顔を見せた。私には出来ない顔だ。

 

「――――とおりゃんせ。八雲紫の名に於いて神であろうと何であろうとも境界を侵すこと能わず。全ての境界は我が手の内、『異界』の遍く境界は内と外から念入りに閉じられました。境界を操る能力は、境界を閉じる為、閉じたが為に殆ど失ってしまいましたけれど」

 

 ヴィオラは静かに微笑み、ちゃぶ台上に転がるコルク抜きに手を伸ばす。偽電気ブランを開栓する為に、ヴィオラが持ち出したもの。ただのコルク抜きではなくソムリエナイフだとか呼ばれる、要は品の良い十徳ナイフであり、畳まれていた小さな刃物を手の平に当てて一条の赤い線が引かれた。

 

「境界の妖怪、妖怪の賢者が一柱、それが八雲紫。遍く境界はワタクシの手の内、でしたわ。今のワタクシはヴィオレッタ=ハーン、ただのヴィオラですわ」

 

 ヴィオラに苦痛の表情は無い。人間と同じような赤い血が一条の傷に赤く滲む。傷そのものは浅く、薄皮一枚を裂いた程度か。

 まじまじと見る私とカイムをよそに、ちゆりが慌ただしく駆けずり回り救急箱を取り出して手の具合を診た頃には出血も止まり、傷跡さえ残っていなかった。

 

「……驚かれましたか?」

 

 ヴィオラの顔は美しくも物憂げだ。超然とした態度を好むだろう彼女にしてはらしくないように思えた。

 過去、似たような手段か状況で自身が人ならざる存在であることを知らせたか、知られた際に苦い経験があるのかもしれない。彼女は最初、『異界』の出であること、人ならざる存在であることを隠して接触してきた当たり、拒まれることの恐れ、恐れとまでいかないにしても懸念は本物であるのだろう。この物憂げな顔の全てが演技ではないように思えた。ただ、それ以上に気になることがある。

 

「……カイムの方が傷の治り早いわね」

「女史。そこの赤いのに限界まで血を抜かれたくなければ下手に血を見せないことだ」

「……あら?」

「――――フンッ!!」

「ミッ!?」

 

 研究に纏わる事を口にしたせいで、カイムが余計な口を挟む。私とカイムの発言にキョトンとするヴィオラ。彼女なりに覚悟しての告白だったのかもしれないが、気になったモノは仕方が無い。ヴィオラが妖怪なら、カイムは契約者だ。常人の域を越えているのはこの空間に於いては珍しくもなんともない。

 気を吐くとともに放たれたちゆりの拳が呆けたヴィオラの脇腹に刺さる。蹴りに続き本日二度目であるが、ちゆりは心配して救急箱探すのに駆けずり回ったのもあり、ぷりぷり怒っているようで一度目の蹴りより強烈のようだ。声にならない苦鳴を漏らしちゃぶ台に突っ伏すヴィオラに物悲し気で様になっていた美女の姿は何処にもない。

 

「……心配かけたら怒られる、ありがたいことよね」

「ふ、風情というものがありませんわね……」

「ヨーカイというのは脇腹が弱点なのか」

「何と戦う気なのよカイム」

 

 しみじみ語る私にヴィオラは苦い顔をした。彼女はあまりこの手のノリは不慣れなのかもしれない。極めて人を惹きつける容姿をしていながら人を寄せ付けないオーラ、『異界』とか『幻想郷』とかさっぱり分かんないけれど、賢者と周りから称される程度に地位・能力を持った上の立場だったのだろう。

 ヴァイオレンス馬鹿は馬鹿真面目に自分なりに推察している。良い傾向だけれども、どうしてもヴァイオレンスなのはもはやサガだろう。しかし、妖怪のイントネーションがどうにも怪しい。人工声帯の所為でなければ後で辞書を引かせよう。

 

「教授、ヴィオラさんって……」

「ええ、違いないわ。……つまり、閉め出し喰らった家なき子ね」

「もう少し労わって下さいまし……」

 

 私のざっくばらんとした評価にヴィオラは不服そうに訴える。とはいえ、的を射た物言いだろう。

 

「ねぇ。その結界? 封印? は大丈夫なの?」

「……ええ、問題御座いません。『異界』総出とワタクシの能力、全存在を賭したものなれば」

「敵対しない事の断言はそれ故か」

「解ける可能性があるとすればワタクシだけですが、肝要のワタクシの境界を操る能力は使い物にならない。境界の妖怪として自らの境界すら危ぶまれる程に力が落ちております。今は、貴方と似た長い三つ編みをした医者から餞別に少し手を加えた人間の器、実体を得ることで如何にか生き長らえているのが実情です」

「リバースエンジニアリングしたいけど、ヴィオラをバラバラにするワケいかないものね。傷治ってたけど、どこまでイケるの?」

「恐ろしいことを平気で言いますわね。この肉体を調整した竹藪医者曰く、死ねるようには調整してようなので、即死したらそれまででしょう。基本的な性能、身体能力や生理現象などは並の人間と変わりません。ただ、回復力は老化から回復する程に微調整してあるようです」

「老化を? それはすごいわね。テロメア再生? 保護? 回復と言ったなら再生か」

「さぁ。妖怪、人外の身の上でありましたので、人間の肉体の細かい仕様までは存じません。知ろうにも、扉は既に固く閉じられておりますわね」

「むぅ、まぁいっか。ヴィオラは表の世界から『異界』を閉じたらしいけど、表で力振るえる"巨人"は非常識と言ってなかった?」

「ワタクシもまた非常識格な存在だっただけのことです。ワタクシと『幻想郷』は一心同体と言っても差し支えないモノ。境界を操るワタクシは『幻想郷』との繋がりから権能行使のエネルギーを得ておりました。信仰や生贄を必要とするような脆弱な存在より自由に能力が使えただけです。『幻想郷』を閉じ『異界』とのパスも絶たれ、境界を操る権能の殆どを捧げた今となっては、肉体の維持と境界の境目を見るので精一杯ですわ」

 

 聞いた話に身体が自然と頷く様に揺れているのを俯瞰する。 

 

「エネルギー! エネルギー!! エネルギー!!! ……どんな世界でもしょっぱい話はあるものね」

「そんなものです。超然とした仙人でも霞食まねばやってられませんし、優雅な白鳥も水面下では頑張ってバタ足してるものです」

 

 お互いにとぼけたように語る様に小さく吹き出して笑った。

 

「ヴィオラの話は理解できた。"竜"と、おそらくは"巨人"も同じ手段で別世界から魔素供給をして魔力に変換し、魔法を行使しているから。八雲紫の境界に干渉、いやより上位の操る能力なるものがあれば、魔素供給のパス形成は容易いだろう。そして『幻想郷』はプールだ。供給した魔素、魔力を溜めおく器。それもただの器ではなく人間界と異界の境界にある特異点的異界、表裏双方に接続・干渉するハブであり、その最終出力端末として纏まったモノ。それが『八雲紫』、貴方か」

 

 脳から垂れ流しの言葉を受け、ヴィオラは満足そうに笑う。

 

「50点を差し上げましょう♪」

「えー、100点満点中よねそれ。厳しくない?」

「イイ女に秘密が憑き物と申しますでしょう?」

「呼称は別として大まかな仕組みは間違っていないと思うのだけれど」

「ええ。間違っては御座いません。ただ足りないのです」

「足りない、」

「誰しも、最初から今のままの姿で生まれてはこないのです。自己も他も、境界無きカオスの状態から最初の小さなモノが見出される。それから次第と大きくなっていくものなのです。誰よりも境界を知るが故に、その前段階の混沌を軽視すべきでないと、元・境界の妖怪からの金言として送りましょう」

「……参ったね。教壇に立つことはあっても、立たれたのは初めてよ」

 

 ヴィオラは口元に人差し指をあて、艶めかしく微笑む。

 ヴィオラの言は、『八雲紫』も『幻想郷』も最初からその形で存在していたのではないという事。当たり前と言えばそうだが、その当たり前のことだから故に気にも留めず知覚すらしないのかもしれない。だが、その自覚は確かに重要なものだと思えた。

 

「……溜め込んだもの吐き出してスッキリしたらしたで、今度は奇妙な空虚感が残りますわね。こう改めて自覚しますとクルものが御座いますわね」

「まぁ、なんとかなるわよ」

「竜騎士殿との会話を横で窺ってる時も思いましたが、本当、簡単におっしゃいますわね?」

「言わなきゃ分かんないでしょ? それに簡単でもない。ヴィオラはそれに値する代価を払って自身と異界の潔白を証明した。その追い詰められた状況でなお、私達の元に赴いて活路を模索した。だからこそ言えたこと。私、味方には優しいし、意思が強い人は好きよ?」

「口説いていたつもりが、何時の間にやら口説かれる側に回ってたなんて笑い種ですわね」

「さぞかし心細かったでしょうね」

 

 自然とそう口に出た。

 大事なモノの為に大事なモノを捨てなければならない。そうしてなお、自分の人生は続いていく。私にはヴィオラ、八雲紫のように故郷、或いはそれ以上のモノを想う気持ちは正直理解も共感も出来ない。私の歴史にも経験にも無い事だからだ。賢者も愚者も学びようが無い事は私と言えど知りえない。

 ただもし、その想いとやら今のちゆりやカイム、そしてヴィオラに抱いているような感情なら、それらがもし失われたとしたら、とても、とても苦しいのだろう。今の私にはそれ以上に表現の仕様が無かった。

 私の言葉にヴィオラは気を悪くすることも無く、僅かに口角を上げ微笑んだ。

 

「今はもう、平気ですわ」

 

 そう短く語りグラスに残っていた黄金の液体を飲み干した。

 

「――――私もお酒頂こうかな」

 

 私の言葉にヴィオラは目を丸くし、カイムは静かに立ち上がり何処かへ行ってしまった。何、何なの。

 何故口走ったのかは私が一番聞きたいが、答えてくれる者はいない。

 振り返って見たちゆりには鼻で笑われる始末だ。

 

「教授ぅ。ヴィオラさんの事情を窺った以上、次はこちらの研究成果の提示になると思うんですが、アルコール入れた頭で話出来んですか?」

「飲めば分かるわよ。それに、飲んでみてもイイかなと興味出ただけ」

「いぃんじゃねぇです。私のとついでにグラス持って来ますんで大人しく待っててください」

「あっ! いけないんだ! ちゆりまだ未成年じゃない」

「ヴィオラさんと教授のお陰で死亡者扱いなんで良ぃんですよ。仮にパクられたとしても、飲んだ本人には罰いかねぇですから」

「え?」

「この国の法では処罰の対象は保護責任者になるんでしたっけ、ようは何かあったら教授差し出せばおーるおっけーです」

「ノンッ!」

 

 ちゆりとやいのやいのやっていると、おそらく台所から戻ってきただろうカイムが片手にグラス二つ、もう片手に魔剣ハオを掴んで帰ってきた。

 グラス二つを私とちゆりの前に無言で差し出し元の席に戻ると、カイムは魔剣の刃毀れの確認や表面を磨いたりと手入れしている。手入れに勤しむ横顔の表情は乏しいが、如何にも私の表情を窺っているようである。

 

「……何?」

「ヴィオラに注いで貰うと良い」

 

 その一言にちゆりが一息派手に噴き出す。それに釣られたのかヴィオラまで小さく上品に噴き出した。

 この男、ハニートラップだとかで茶々を入れた意趣返しかこのヤロウ。ただの無神経、朴念仁、天然の可能性を考慮しても、わざわざ無言でグラスを取りに行き、さっさと手渡してきてこちらの表情を窺っているあたり確信犯だろう。チクショウ。

 

「そいや、頂き物のイチゴまだ出してなかったすね。持って来ましょうか、蜂蜜マシマシで」

 

 カイムから受け取ったグラスに氷を入れたものをヴィオラに手渡しながらちゆりはやらしく笑う。急に歯車が噛み合いだしたかのように、周囲の状況が次々と変わっていく。ヴィオラは手慣れた手付きでグラスに注いでいる。

 

「アー! ゴメンナサイ! 私がわるかったです!」

「わるいなんて誰も思ってねぇですよ。ただ、成長したなーって」

「ちょっと?」

「……フッ、」

「いや、カイムさんも同じレベルなんで気は抜かないように」

「……ッ!?」

「ま。こんなメンドクサイのばかりですが今後ともヨロシクです、ヴィオレッタ=ハーン」

「ええ、よしなに」

「乾杯しましょーか。何に乾杯します?」

「何にって、どこの世界の風習?」

「地球だバカタレ」

「それ頂きますわ。親愛なる馬鹿者達に」

 

 ヴィオラがグラスを掲げる。

 

「――――馬鹿者達に」

 

 カイムは酒席に慣れているのもあるのか、静かにグラス突き合わせる。

 

「え? あ、親愛なる馬鹿者達に!」

 

 ちゆりは不慣れな手付きながら楽しそうに掲げて少し酒を零した。

 

「む、馬鹿者達に」

 

 私は拭えない違和感を心のどこかに抱きながらも、合わせるように後に続いく。

 小さく打ち鳴らされたグラスに黄金の液体が揺らめき、照明の輝きを反射して煌めいた。

 雰囲気か勢いに飲まれて一息に酒の呑まれた私とちゆりが噴き出すように噎せる様を肴に酒を嗜むヴィオレッタ=ハーンの顔はとても穏やかなものだった。

 

 

 




八雲紫加入回 紫様チートすぎてナーフ不可避

◆裏話
兄ニーアの誕生日は兄の日6月6日
 カイムの誕生日は不明、ただ公式設定ではおうし座(4/20~5/20)であるとのこと
『ゴエディエ』では53番目に記される悪魔Caimから、本作独自設定ではカイムの誕生日は5月3日として、カイムが"岩"からパッカーンしたのも5月3日と決めた、という裏話

偽電気ブラン
 森見登美彦作品で登場するお酒。実在する電気ブランがモチーフ。電気ブランは各文学作品内でも登場していることもあるお酒。悪酔いするお酒としてはゴッホの耳削ぎの原因のアブサンと並んで謂れがあって雰囲気が良い
 電気ブランに関しては、東方萃夢想にて八雲紫とレミリアの掛け合いで、紫が言葉にしている。幻想入りしたものか、現実世界で手にしたか、ともあれ八雲紫にゆかりのあるお酒として、本作では偽電気ブランは八雲紫の好物の一つとした

蓮メリはいいぞ 八雲紫の瞳の色は公式設定で金か紫かの2種あり悩むも、メリーが紫瞳なので本作では紫に決めた


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3.「静謐」-5

用(ry)


     5

 

 

 

 夕刻時。陽は早くも沈みかけ、夜の帳が降り始めている。

 賑やかな室内の空気に片耳を傾けながら外に意識を傾ける。暗闇が東の空から広がってきている。

 風の匂いを嗅げないので嵐が近付いているのかは定かではないが、良いとは言えない空模様だ。

 ガラス戸には結露、外気温がより冷えてきた証拠だろう。天気予報、予言や勘、五感に頼ったものなどではなく、統計に基づいた予測で雪の予報とあったのは間違いないようだ。

 外の気配とは裏腹に、居間の気配はうららかなもの。いや、姦しいと形容すべきか。

 暖房器具の類は過労気味の機械、エアーコンディショナーが細々と稼働している程度であり、この熱気のほとんどは人のモノによるのだろう。

 

 夢美の奴は酒気に当てられたのか、髪と瞳に負けず劣らず顔を赤らめている。

 呷った酒を噎せた際に殆ど噴き出して胃に流し込んでいないのを思えば、酒気ではなく雰囲気にでも当てられたか。

 夢美はグラスの酒の残りを俺に押し付けると、八雲、ヴィオレッタ=ハーンの手土産のイチゴを取ってくると言い捨てると、長い赤髪の三つ編みを揺らして席を外した。

 匂いだけで酔いそうと言っていた辺り、得意ではないらしい。

 

 ちゆりは自身と夢美の噴き出した跡を手早く片づけた後、グラスに残った少ない酒の黄金色を光に透かしたり、顔を寄せて犬猫の様に鼻をひくつかせては匂いを嗅いだり、微量ずつ舐めるように味を確かめては慣れない味にか顔を顰めている。

 好みは合わなかったようだが、夢美よりはイケる口のようだ。

 

 それなりに一緒にやってきていれば何となく分かることもある。

 ちゆりの今の関心は、夢美が嗅覚だけで初見の酒を看破したことに起因しているのだろう。少なくとも、この酒の由縁も知らず貰い受けて来た頃には無かった関心だ。

 夢美とちゆりの関係は『教授』と『助手』ではあるが、その関係性は地位や利害などだけで言い表せるものではない。とは言え、声と言葉を取り戻した今となってもその関係性を織りなす『何か』を言語化出来ないのは皮肉だろう。ただ、素直に良いものなのだとは思わされる。

 ヴィオラが夢美を評価した際、隣り合う人間を見て決めたと語った時は共感を覚えた。

 俺も地下の研究室で初めて夢美と邂逅した際の評価基準も似たようなものであったなと懐かしくもあった。

 

 ふと、手の内の黒剣から気配を感じて見遣る。

 魔剣の声無き訴えを何となく感じ、手慰みに手入れしていた魔剣・古の覇王、夢美が名付けたハオを宙に放った。

 軽やかに宙に舞う魔剣は次第に勢いを失い、慣性の頂点に到達すると落下することなくふわりと浮遊してみせた。漂うように浮きながらハオは夢美が遺したグラスの酒を窺うと、お辞儀でもするように俺の方に一度軽く傾いてみせた後、夢美が開発した浮遊魔法を自ら行使して夢美の後を追って居間から浮き漂いながら出て行った。

 ただ浮いているだけではあるが、俺には未だ理解及ばず行使できない魔法であることを思うと、なんとも微妙な気分にさせられる。

 

 魔剣の特徴は様々、特徴と言うよりは個性だと夢美は言っていたか。

 何にせよハオほどの独立した精神性を保持したものは珍しい。『古の覇王』でしかなかった頃はあれ程の自我、精神性は見られなかった。夢美を使い手に魔剣が選んでからの変化、全く別の何かに変容したのではなく、魔剣の内に在った精神性が喚起されての形、とは夢美の言である。

 夢美が言うには、ハオは魔剣の内の女王の記憶・人格を基軸として統合された意識とのこと。

 俺が『古の覇王』に見せられた記憶は、剣に降ろした邪神の力で国と民と己自身も滅ぼした王の記憶だけであったが、夢美は俺が見せられた記憶を含めて他に幾つもの記憶を見たらしい。女王はその内の一つだそうだ。

 魔剣に見させられた記憶の共通項や整合性、なにより夢美が知るはずのない元の世界の事柄、知識を魔剣との交信で得ている事からして事実なのは間違いない。

 

 確立した自我を保持する魔剣は極少数だ。

 少数の例で顕著なものは、『ゆりの葉の剣』と『鉄塊』だろうか。

 

 『ゆりの葉の剣』は自らを裏切った恋人を我が身と共に貫いた少女の怨念が宿る魔剣。

 魅入られて剣を握った者は手が離れなくなり、自らの意思に関わらず人を殺める呪いが込められている。

 夢美が初めて『古の覇王』を手にした際、呪いを懸念して咄嗟に刃を掴んで抑え込んだ要因の一つでもる。

 他にも手にするだけで危険な魔剣は幾振りもあるので、『ゆりの葉の剣』だけがとりわけ危険という訳ではなく、呪いも一応の対処法らしいものがあるだけまだ穏当な魔剣と呼べなくもないであろうが、五十歩百歩だろう。

 呪いから解放されるには腕を切り落とすか、魔剣に宿る少女の魂を魅了すること、らしい。

 らしいと言うのも、武器の記憶に過去無事だった者がいないことと、魔剣自身が記憶の最後の最後に『少女の魂を魅了すること()()()』という付け足したような曖昧なイメージ、印象を繰り返し送り込んでくるのだから、そうと言う他無い。

 俺の勝手な想像ではなく、魔剣の自我の意思の主張である。

 恐ろしい由縁と呪いを武器の記憶から知ったのは、『ゆりの葉の剣』が武器としてかなり使い勝手が良く魔剣に込められた魔法も極めて優秀なのもあり、敵を相当数屠った後の事。幸いにして魔剣に認められたのか、魔剣の言を借りるなら少女の魂を魅了したのか、腕を切り落とさずに済んでいるあたり、そうと言う他無い。

 過去無事だった者がいない中で、魔剣の安全性とその方法論を主張できるのは魔剣に宿る少女の怨念の他にいないだろうとは夢美の推察だ。

 自我に於いて言えば、現状のハオと同等かそれ以上の魔剣だ。今はどういう訳か大人しいが、大人しくしていてくれる事に越した事は無い。

 

 単一の強靭な自我を有する魔剣『ゆりの葉の剣』に対して、『鉄塊』は統合意識による自我を宿した魔剣だとは、夢美の寸評。

 『鉄塊』の元はバッカスなる将軍の大剣であった。武器の記憶で大剣は、弱者をも悦として殺める将軍、元所有者を『冷血漢』と称していた。

 将軍は己が力を誇示する為に殺めた敵の鎧を鋳溶かし、大剣に打ち合わせる。命を奪う度に重くなる大剣。次第に持ち運ぶことも困難になり、将軍はおろか誰にも扱うことの出来ない、剣とは呼べない代物、大剣は『鉄塊』へと成り果てた。

 魔剣の記憶の最期は、将軍の惨殺死体とその屍の傍らに添う将軍の血肉で染まった『鉄塊』己自身。

 嘗ての所有者の死骸を前に魔剣が抱く心は、振るう者がいなくなった『鉄塊』を誰が振るったのだろうか、その事ばかりを強烈な印象を以てして記憶に伝えてくる。

 夢美は自我が芽生えたばかりで、無自覚なのだろうと語った。元の大剣でしかなかった頃から記憶を有している点から、その大剣を人格の核として、犠牲者の血肉や、打ち合わされた鎧などから情報を集積・補強して末に発生した自我だろうと喜々として語っていた。

 魔剣の調査で六十余振りもある魔剣の中でも、夢美が興味深いだの、素敵だのと捲し立てて取り分け喰い付きが良かったことで印象に残っている事例だ。

 

 魔剣が意思疎通の出来る自我を有する事、統合により生まれる意識など、ハオの性質は起こり得るものとして理解出来る。理解は出来るが、珍しい事には変わりない。

 大抵は狂気、妄執に囚われ、呪いに染まっていれば、穏当な部類でも記憶、自我が風化した残骸……と呼称するのは些か虚しいか。いうなれば思い出の化石のような魔剣が多数派なのだから。

 魔剣が、『古の覇王』が夢美を選んだことから相性が良いのは間違いないが、それ以上の因縁があるかもというのは、些か夢想が過ぎるか。『ゆりの葉の剣』の事例のように、訳も分からず魔剣側から好意を抱かれる場合もあるのだから。

 夢の事は夢の字に任せればいい。

 夢美が魔剣を手に譫言を繰り返す様にも慣れたものだ。その様を初めて見た時はいよいよやはり魔剣に憑り入られたのではとひどく恐れたものだが、よもや魔剣と交信、意思疎通しているとは誰も思うまい。

 あの時ばかりは、さしものちゆりも本気で夢美を殴りつけていた。赤いのは好奇心のままに突っ走るのだからロクでもない。ちゆりの面倒見の良さの訳も推して知るべしだ。

 

 ハオの行く末を目で追いながら、夢美に押し付けられた黄金の酒の残りを一口呷る。

 強い酒気が喉を焼く。

 混酒の複合的な味わいや仄かに香る薬草の青臭さなど飲み慣れていないのあるが、単純に度数の強さでまた小さく噎せる。ドラゴンではないが火でも吹けそうだ。

 元の世界ではこれ程強い酒を嗜む事はそう無かったなと昔を振り返る。どのようなものがあったかと思い巡らせるも、酒名はおろか味や香りの片鱗すら浮かばない。知識、文字列と異なり五感の記憶は鮮明に残るものだがさっぱりだ。

 祖国が在りし時も剣、剣、剣。亡国の身となり戦場を住処にしてからも同じだったなと血腥い記憶が蘇り、自虐的な溜息が複雑な酒の香気と共に鼻を抜けた。

 

 手慰みの魔剣も手を離れ、処理すべき酒も無くなったことで意識は自然とヴィオラに向かう。

 女史の名をどう呼ぶか迷わされたが、ヴィオレッタ=ハーン、ヴィオラでいいのだろう。

 名前というものが如何に大事であるかは馬鹿者なりに自覚、学んでいるつもりだ。先の夢美とのやり取りを窺えば、ヴィオラ自身、その名で呼ばれることに決心がついたように思われた。

 ヴィオラのグラスを見ると、乾杯時に満たされ、そして飲み干された筈の杯にはいつの間にやら、黄金の酒が満たされていた。何杯目なのであろうか……定かではないが、ヴィオラに酔いの気配は微塵も無い。

 酒豪、だけでは言い足りないだろう。度数だけでなくクセの強いだ。よほど飲み親しんだ酒なのかもしれない。

 ヴィオラの手元のグラスへと注がれていた視線に割り込む様に、ヴィオラが整った顔を覗き込ませ強制的に目が合う。

 

「あらあらぁカイムさん、盃が空いておりましてよ。ささ、さぁさぁ」

「不要だ。充分に愉しませてもらった。――――ヴィオラの取り分を減らしては気が引けるからな」

「あぁん♪ ようやっと名前で呼んでくださいましたね」

 

 夢美のグラスを夢美の席に返しつつ、喉元に手を宛がって人工声帯の具合を確かめながら断りを入れる。

 断りを受けヴィオラは素直に酒瓶から手を離すと、肢体を妖艶にくねらせて席を寄せ、肩、二の腕に手と胸を寄せてくる。均整の取れた柔軟にして無駄のない筋肉は猫か蛇のようだ。

 添わせる手は傷やタコ、日焼けの無い白く綺麗なもの。細く長く白い指には職業柄の傷や曲がり癖も無い。指先の爪は幅狭く縦長の女爪で化粧の類か宝石のように色付き艶やかだ。貴族的な手と言えるだろう。

 先にヴィオラが披露して見せた手の平の傷の再生具合を鑑みるに、あまりアテにならない観察かもしれないが、手は人となりを窺うのに分かり易い指標だ。全くの無駄ではあるまい。

 

 ふと背に薄ら寒いものを感じ、その気配の方に視線を向けると粘りつくような視線、ジト目のちゆりと目が合った。

 俺の態度を嗜めての事かと思われたが、その冷ややかな視線はヴィオラの豊かな女性的肉体、主に胸部に注がれているように思われた。同性としては思う所があるのだろうとは察するがそれまでだ。

 俺に出来る事は能う限り余計な言葉と表情を表に出さず、静かにヴィオラに向き直ることだけだった。

 

「……どう呼ばれたいのか分からなかったからな。八雲紫なのか、ヴィオレッタ=ハーンなのか」

「そんなにわかりやすかったでしょうか?」

 

 絡みつく腕から上目がちに見上げてくるヴィオラ。

 蒸気した頬、涙の溜まった瞳、腕への柔らかな感触、儚げに物憂げな面持ちで同情を誘う様は、夢美やちゆりには無い手段、交渉の手管に精通していると自称するだけのことはあるなと思わされる。

 

「夢美は容赦がない。アレにぶつかられたら誰であろうと揺らぐ」

「違いありませんわね」

 

 少し私怨もどき交じりの言葉を吐き捨てると、ヴィオラは小さく苦笑し、言外に肯定の意を示す。

 ヴィオラは俺の腕に絡みついていた手を離し、酒の入ったグラスの淵を白い指先でそっとなぞる。ハープのような音と共に酒の湖面が波立った。

 

「彼女も言っていたように、名前というのは世界から自己を切り取る境界。境界の妖怪であったものとなれば神経質になりも致しましょう」

 

 酒を嗜みながら語るヴィオラの言葉を聞き、俺は"竜"、『アンヘル』のことが想起された。

 あの夢のような世界、ドラゴンは何故、最後の最後でその名を俺に打ち明けたのか、託したのか。俺はアンヘルや夢美、ちゆり、ヴィオラほどに賢くない。とすれば、見出せる理由は単純なものでしかない。

 名を呼ばれたいと、そう願ったからだ。

 

「誰しも呼ばれたい名前で呼ばれる権利がある、そう思うだけだ」

「"竜"殿がそのように?」

「どうだかな」

「人は名の価値を忘れがちです。肉体が、器があるが為でしょうか。名など無くても存在し得る、存在し得てしまう。それが強さであり、弱さでもあります」

「"竜"の名を知らない、忘れたなど間の抜けた事は言わぬ」

 

 俺の言葉にヴィオラは満足げに微笑むと、無断で俺のグラスをひったくるとその淵いっぱいにクセの強い黄金酒を満たして寄越した。

 

「察しが良くて助かりますわ♪」

「夢美は直球に過ぎるが、ヴィオラは迂遠に過ぎるな」

「あれと比較されては何でも迂遠に感じましょう」

「夢美の奴は、意識か無意識か、ヴィオラと八雲、二つの名前を呼び分けている。俺にそこまでの察しの良さを求められても困る」

「あそこまでいかれるとワタクシもやりにくいので、竜騎士殿のは今のままでよろしいのではなくて。して、"竜"殿の御名(みな)はなんと」

「言えんな」

「何故です」

 

 ヴィオラの問いに思考を回す前に舌が即応する。

 即時断られたことにヴィオラは気の引けた様子も無く尋ね返してきた。

 真っ直ぐな(むらさき)の眼差しを受け、喉に詰まる何かを黄金酒を一息に呷って押し流す。腑に落ちる火酒が喉を鳴らし、首輪の締め付け、声の実感を齎した。

 景気付けと呼ぶにはこの酒は些か辛い。

 

「――――人に名乗るのは俺が最初で最後、だそうだ。知りたければ直接聞け」

 

 俺の答えをヴィオラは目を細め、ただただ静かに頷いて聞いていた。

 

 

 

 × × ×

 

 

 

「む、()んのはな()?」

「はしたねぇし」

「あらあら、苺は逃げません事よ」

 

 夢美が苺を頬張りながら、苺が山の様に盛られた皿を手に居間に戻る。

 付いて行った魔剣、ハオは夢美の腰裏の鞘に収まっていた。短剣の鍔ほどに苺の(へた)の切れ端らしきものが付着している。人斬りの魔剣が包丁替わりとは人、否、剣とは斯くも変わるものか。

 

 

「む、ふぅ。で、何の話してたの?」

「内緒ですわ♪」

「えー?」

「ヴィオラさんに色目使いされてお酌されてましたヨ」

「っ!?」

「……そうよね、男の子だもんね、ごめんね、ごめんね……」

「あらあら」

「止せ。早々話を付けろ。夜が明けるぞ」

「それを言うなら日が暮れるでしょ」

「とうに暮れている」

「もう? ……うっわ、暗。この空模様だとほんとに雪ね」

 

 夢美とヴィオラだけでも相当厳しいものを、まさかのちゆりにまで加わられては勝ち目など無い。

 ヴィオラに詰め寄られた際に振り返ってちゆりと目が合った時の仕草で不興を買ったのだろう。夢美の陰に隠れがちではあるが、ちゆりの洞察、観察力も並を外れている。こちらに非らしきものがあるのを自覚する以上、甘んじて受ける他無い。非の有無の確認など馬鹿を越えた何かだろう。

 余計な発言を許して雁字搦めにされる前に交渉、事務話を促すようにガラス戸の外を指し示す。

 夢美は手にしていた皿を机に置くと、ガラス戸に駆け寄り空の具合を窺った後に、外の誰かに手を振るような仕草をしてカーテンを閉めて席に戻った。

 この家屋は都市近郊でありながら人気の無い立地。ご近所と呼べるものはひとつとていない。とすれば、密偵の類だろうか。外から此方を窺う密偵と目でも合ったのかもしれない。ともすれば何とも間抜けな話ではある。

 

「知り合いか」

「むぅ、たぶんヴィオラの連れかな。ヴィオラ、もう閉めちゃっていい? 冷えちゃう」

「構いませんわ、『待て』が出来る程度には仕込まれております。むしろ、今の今まで開け放ちの覗き放題の方がどうかしておりましてよ」

「やましいこともやらしいことしてないもん。他者の目なんて今更だしね。我が家の王子様の丁度良い無害さアピールにもなったでしょ。あの覗き魔さん達って米日合同?」

「ワタクシの付き添いは合衆国の方らだけですわね。ヴィオレッタ=ハーンなんて名前、この国では使いにくくて仕方ありませんでしょう?」

「違いない。さて、研究についてだけど何から話そうかしらん」

「教授。ヴィオラさんの異界話の衝撃で各国のスタンスの話聞くのすっ飛んでますよ」

「……うぇ」

「研究成果の講義と苺タイムの前にちゃちゃっと済ませて下さい」

「むむむ」

「何がむむむだ」

 

 ちゆりの指摘に夢美は苦虫を噛み潰したような顔をする。己も祖国が在りし時は王の後継、王太子として政治に携わっていたのもあり、苦い顔になる気持ちは理解できる。

 元の世界はこの世界ほど科学技術が発展していない事による環境や距離の壁、魔物等の脅威もあり政治の範囲は限られたものであったが、この世界は大きく事情が異なる。

 万国が万国とヒト、モノ、カネ、思想などで複雑に絡まり合って繋がり、万国は万国の隣国のような係争関係に成り得る世界。この世界で起きた二度に渡る世界大戦が証左しているだろう。

 そんな複雑怪奇を極めた世界での政治遊戯など考えただけで眉間に手を宛がいたくなる。だが、無知無謀のままでいられなのも確かだ。世界は優しくなく、無常に流れ続ける。己で立ち向かうのを諦め、流れに身を擡げて底に沈んでは貪られるだけ。掬い上げる慈悲深い存在などありはしないのだから。

 

「ねぇ、カイム。王子様でしょう、何かこう政治アドバイスとかないの?」

「没落した王家の人間に政治的助言を求めるのか」

「亡国になっても、"巨人"に連なる敵性存在『帝国』に対抗する『連合国』その内で影響力を有していた勢力の首領の言葉、と言えば価値がありそうじゃない?」

「乗せてくれる。だが、勢力として連合国内で影響力を保持できたのはイブリス卿、腹心の臣の働きに依るものだ。元より内陸国の陸軍国家、その軍事力を後ろ盾にした影響力あってのもの。政治的手腕で得たものではないな」

 

 夢美の言葉に本心から断りを入れる。俺だけで祖国カールレオンが滅ぶに至る動乱を鎮める事は到底不可能であった。

 イブリス卿は、古き時からの友であったイウヴァルト、その父にあたる人物。

 父王、母妃からも信頼され、妹フリアエとイウヴァルトを許嫁にする程の腹心の臣。魑魅魍魎の巣であった宮廷に於いて彼の息子のイウヴァルトと共に数少ない確かな味方であった。

 武より文を好む人柄であったように覚えている。俺が父ガアプの影響で剣、武に傾倒したように、イウヴァルトがハープや歌に親しむきっかけだったのであろう。

 そんな彼であったが、王都に黒竜が襲来し、赤目の病が蔓延した動乱には自ら剣を携えて先陣に立ち上がり、祖国の再建に尽力してくれた。動乱の戦傷が元で彼は亡くなくなられたが、その働きに依りカールレオンは亡国となりつつも王直轄軍、臣下手勢は分裂離散する事無く『連合国』へと合流できた。

 当時の俺は復讐心に囚われ、心も視野も狭く浅はかで思い及ぶべくも無かったが、今ならば卿の功績の大きさを理解出来る。

 

「やはりパワー……!。パゥワーは全てを解決してくれる……!!」

「発言が馬鹿なんだぜ」

「的は射ていますけれどね。健全な暴力装置は外交の大前提でありますから」

 

 俺の内心を他所に夢美の奴は鼻息荒く拳を握り間抜けな事を言い、ちゆりが呆れ、ヴィオラが得心する。一周回って夢美の言葉が正しいように思えてしまうのが恐ろしい所だ。実際のところ、軍事力の必要性はその通りなのだが、素直に受け入れ難いのはその突飛な発言ゆえだろう。

 

「外交を担う者としてお尋ねするのですが、あなた方の要求は何なのでしょう?」

「異界を抜きに、この人間界、主要政府組織に対して、と要求先を定義するならば、相手に求めるのは完全独立の勢力として容認、それだけよ。政府方が差し出せるモノは他に何も無いわね」

「"竜"の返還要求は致しませんので?」

「ヴィオラのオトモダチが勘違いしているようなら伝えておきなさい。"竜"は誰のものでもない。"竜"自身のものであり、それと一心同体たるカイムのものよ」

 

 夢美はそう言い切ると、言葉を切って赤い視線を俺に向けた。それに合わせるようにヴィオラもその紫瞳を差し向ける。

 俺と夢美の間を行き来する眼差しは不服気だ。

 

「気持ちは重々理解致します。ですが、かの"竜"を安全確実に引き渡してもらう為には、」

「紫は"竜"に親しみ過ぎている」

 

 ヴィオラの言葉を遮るように夢美が声を挟む。

 夢美からヴィオラに向けられた言葉であるが、その言葉に己の心の臓が跳ね上がる錯覚を覚えた。

 

「"竜"の回収行動を起こさないのは政府組織に遠慮してのことではない。そこのカイムの寝起きの悪さで第二研究所の有様よ。"竜"がどうして寝起きが良いものだと思える? カイムの時を凌駕する破壊を(もたら)し得る"竜"の暴走、その可能性に備えての事。私との接触でカイムは"岩"から覚醒してああなった。私とカイムの"竜"との接触はどう足掻いても安全で確実で穏当なモノにはなりえない」

 

 夢美はそう断言すると、瞑目して小さく溜息を吐いた。

 話し中、ヴィオラは呆気に取られた顔で固まっていたが、夢美の溜息を受けて我に返ったようで、渋い面持ちとなる。

 

「……"竜"を、外交カードを握ったと思っている者達に是非聞かせてやりたいものですわね。切り札かと思いきや、とんだババ札を掴まされていたとなれば、さぞ愉快な顔を拝めますでしょう」

「鏡なら洗面所」

「あぁん、手酷いですわ。合衆国方が"竜"の身柄を押さえているのご存知でしたの?」

「まさか。研究と実験で手一杯、そんな暇ないわよ。ただ、私達に交渉を持ち掛けてくる陣営が"竜"を押さえている可能性が一番高いと踏んでただけ。そしてヴィオラは合衆国の立場でここに来た、それだけよ」

「勘ですか」

「勘ね。他に交渉材料になる要素も無いし、武力で脅そうにも、人質になるような身寄りもいなければ、私達自身が研究情報の塊そのものであり、殺してしまっては本末転倒。何より、ヴィオラが手土産、準備を欠かさないマメな性分のようだし」

 

 夢美はそう言うと、ハオを鞘から抜いて宙に放る。

 手から離れて浮遊するハオ。

 鍔に付着していた蔕の切れ端を取り払いつつ、皿から苺を一粒夢美が手渡す。ハオは『黒の手』で苺を器用に受け取ると、苺とテレビのリモコンを黒の手にテレビの前に鎮座してリモコンをいじっては思い思いの番組を鑑賞しだした。

 苺は食べる、ワケでは流石にないようだ。『黒の手』の手の平で転がしたり持ち上げたりと色や形、もしかしたら匂い、味まで感じて楽しんでいるのかもしれない。

 

 何なのだ、あの魔剣は。どうすればああなる。

 ヴィオラがハオに驚いた様子はない。ヴィオラが語る『異界』では物が浮いたり好き勝手にすることは珍しくないのかもしれない。いや、ハオに気を取られたが、ハオの事はどうでもいい。……何だあの魔剣。

 

 好物など書類に記載する事はあるまい。調べるとなれば骨な事だろう。そんな個人の好物を知っておきながら、勢力として要求されるだろうものを知らないとは考え難いか。

 思い至れば当たり前の様に思えるが、よく頭が回るものだと思わされる。好物だと飛びついてちゆりに頭を(はた)かれていたのが嘘のようだ。あれはあれで本心から飛び付いていたように思うが。

 

「それもそう、ですわね。当たり前すぎて抜けておりましたわ」

「『異界』を軸にしていた八雲紫からしたら、"竜"より人間の方に気が割かれるのは当たり前でしょうから無理もない」

「ヴィオレッタ=ハーンとして肝に銘じておきましょう」

「"竜"の管理は日米共同? 合衆国単独?」

「後者ですわ。第一研究所から移送されて、今は横須賀です。形式上は米日の共同管理という話にはなっておりますが、実質合衆国の預かりですわ」

 

 横須賀というのは横須賀基地の事を指すのであろう。

 それも日本国政府軍の基地ではなく、日本国との同盟関係の合衆国軍の基地。

 第二研究所からさらに南下した半島のように出っ張った土地、横須賀。

 祖国が内陸国だったこともあり海、海軍に関しては門外漢だが、海運・水運の重要性は知っている。要は関門だ。

 東京は日本国の首都、とすれば横須賀は首輪。ここを締め付けるだけで首都が飢え乾く。横須賀を押さえれば東京湾、首都東京を押さえたも同義、軍事的価値は計り知れない。

 政府機能、首都機能は九州地方の何処だったかに移転中、住人も方々へ散ったらしいが、それでも現首都にして係争の最前線、そこを拠点とする基地である。その規模と軍事力は推して知るべきだろう。

 アンヘルが遠のいたと憂うべきか、安全な場所に落ち着けていると安堵すべきか、何とも不思議な感覚だ。

 

「第二でカイムが暴れた時に如何にも出来なかった点を突っ込まれたら日本国は他国の介入を拒否は出来ないでしょうね」

「ええ。横槍が入る前に親切な同盟者としてそこに付け込ませて頂きましたわ。して、そんな暴れドラゴンライダーが落ち着いておられるのは夢美の入れ知恵?」

「ある意味ね。ただの事実を囁いただけ。『君は強い。暴走したドラゴンを斬り殺せる程度には強いだろうね?』て」

「フフッ、残酷なこと」

 

 赤と紫の瞳に意地の悪い色が混じって俺へと向けられる。この居心地の悪い感覚、この国では針の筵とでも言ったか。

 

「それからは焦れる余裕も無い程に知識と魔法の習熟を詰め込ませてる。素直で実直に成長するから教えがいがあって愉しいよ」

「愛のムチですわね」

「大半の教鞭を握ってるのはちゆりだけどね。艱難辛苦を蹴散らして、暴走したドラゴンも無傷で捻じ伏せて如何にかしてやれる程の強さを手にすればいいだけ。でしょ、カイム」

「あぁ。そうだな」

 

 簡単に言う、と反射的に出かかった否定の言葉を噛み殺し飲み下す。

 夢美の言葉は無茶苦茶だが嘘が無い。

 "竜"に親しみ過ぎている、これほど俺に刺さる言葉はそう無い。

 心の何処かで、アンヘルとの再会は都合の良い結果になると思い込んでいたのは確かだ。この思い込みを迂闊と捉えるか、希望と捉えるかは如何ともし難い。

 

「時が来ればどうあっても引き取りに行くから"竜"は交渉材料に足り得ない。それよりは異端の許容、までは欲張らないから、隔離しての黙認の形でもいいから完全独立の勢力として認知して欲しいのが一番にして唯一の交渉ね。人間界政府方の持つ長所は圧倒的多数派であることであり、私達の明確な短所は少数派であることだからね」

「完全独立、何処かの傘下に仲良く収まる方がスマートかもしれませんわよ?」

「『幻想郷』。『異界』でも『人間界』でもない出の貴方が言ってもねぇ、紫?」

「フフッ、違いありませんわね。異物が混入したら、排除されるのが世の常。その方針で参りましょうか。前提として、如何に独立を主張しようとも、どうしても合衆国寄りになるのも相まって現状の大陸系との協働は絶望的になる事はお覚悟を」

「おっけーおっけーよ。完全独立とは言いつつ、完全なんてのは往々にして望み得ないからね。こちらは協力の用意があって敵対の意図は無いことと、噛みつかれたら噛みつき返す程度の力を持っている事を知っておいて貰えればそれでいいわ。今後の世界の行く末次第ね。欧州の具合は?」

「国としてまともに話が通じるのは連合王国のみですわね。合衆国と協調路線を取ると伝え聞いております。他の欧州国家は体裁こそ保っておりますが、その内実、民族や思想対立で纏まりに欠いております」

「後回し後回しにしてきたツケね。かと言って下手に纏まられて独裁になられても困るんだけど」

「それについてはある意味安心してよろしいかと」

「口ぶりからして独裁アレルギーとか曖昧なモノではないわね。嫌ぁな覚悟が決まったわ。どうぞ、続けて」

「【6.12】以降の混乱は未知の出来事に対して精神主義の台頭によるものが大きな割合を占めております。そして、皮肉ではありますが、精神主義による社会不安を宗教組織が繋ぎ止めているというのが実状です」

「独裁が生まれる余地は精神主義、宗教組織が纏め押さえている、と。なるほど、確かに『ヘタ』にはならないかもね。大人しく一つの世界宗教に纏まってくれれば一番ありがたいけど」

「"巨人"や白塩化症候群などの実在する脅威のお陰で流血の伴った対立には発展しておりませんが、このままいけば宗教間の対立は時間の問題でしょう」

「社会不安が精神主義を台頭させるのか、精神主義の台頭が社会不安を招くのか」

「どちらも人間を端に発しているのを思えば、同時、両方でしょうね」

「紫が語る人間ほど客観性の保証は無いわね。やれ、暗黒時代に遡るのは勘弁願いたいわね」

「科学者にして、魔法使いにして、異端。トリプル役満ですわね?」

「火炙りはもっと勘弁。魔法の行使に精神が作用する以上、精神の励起に宗教は使えるからいいけど、暴走は面倒ね。紳士には羊飼いに徹してもらうのが一番かなぁ」

「精々三枚舌に丸め込まれないように気を払うことに致しましょう」

「舌の枚数だけでなく、指の本数も数えておくことね。さてさて、メリケンとヤポンはどうなのよ」

「日本国はかなり厳しいですわね。未知への許容、理解は高いですが、白塩化症候群による実害を被っている以上、未知の何某(なにがし)以前に現実の脅威として認識されており印象そのものが最悪です。【6.12】に始まり新宿封鎖作戦や【エリコの壁】、そして第二研究所の事件、積もり積もったのもあり武断派が影響力を伸ばしております。それでも国家、国民の性質もあり、中庸に落ち着こうという力が働いており全体で俯瞰すれば中道ではありますが」

「逆に言えば身動きが取れない状況か、やりにくいわね。私達の側から下手に接触して変な方向に傾かれる前に合衆国側から干渉して手綱握ってもらうのが一番ね」

「合衆国は歓迎の用意があります。ただ、一部からあなた方への優位性、"竜"を手放す事への拒絶反応が出ておりますので、調整は不可欠ですが」

「歓迎ね。拒絶や難色を示すのが普通だと思うけど」

「大国としての余裕が半分。岡崎夢美、貴方に執心している者達からの影響力が半分ですわね。朝倉理香子、紫髪の女に覚えは?」

 

 ヴィオラからの問いに、夢美は首を捻りつつ口元に手を宛がう。記憶を漁っているのだろう。

 アサクラ、リカコ。初めて聞く名だ。夢美の他者への関心の薄さは当人やちゆりとの話、同行しての実感として感じている身としては、夢美の記憶に残る人物と言うだけで傾注に値する。余程優秀か、余程癖が強い人物なのだろう。

 夢美の知人ならばとちゆりの様子を窺うと、ちゆりとすぐに目が合う。

 そっと微笑むちゆり、……あれは内心機嫌が良くない証拠だ。知人ではあるが、難しい仲のようだ。

 

「ボストンの茶会にいた、かな。研究狂いの賢い子、それくらいしか覚えてないけど。ヴィオラは彼女と縁があったのね。私の事を知ったのも彼女経由か」

「ご名答。彼女への良い手土産話になりましたわ。主要国のスタンスは以上。言うまでも無いですが、研究に関してはここの裾野にも達しておりませんので割愛を」

「やっと終わったぁん……。あー、ちゆりとカイムは何か聞いておきたいことある?」

 

 萎れるように机に項垂れる夢美。

 机に拡げれていた地図や物を無遠慮に押しのけて安息のスペースを確保する。片づけるという選択肢は無いらしい。間抜けな姿ではあるが、あの恰好で聞いた話を纏めているのだろう。

 目が合っていた俺とちゆりは夢美の言葉に互いの顔を窺うと小さく頷き合う。ちゆりの方から出るらしい。

 

「特に無ぇです。今後の方針も合衆国との交渉と定まりましたし上々でしょう」

「ヴィオラが言う『調整』とやらが整うのはいつ頃になる」

「年内には。情報とは漏れるもの。要らぬ時間を許しては愚か者が阿呆な事を思い付きかねません。あなた方が提示する対価、研究や魔法、白塩化症候群の対抗薬等への報酬の用意も必要ですわね。モノ・カネと違ってポンッと渡せるものでは御座いませんので」

 

 大げさに両手を広げて呆れるような仕草を取るヴィオラ。

 如何にヴィオラが優秀とは言え、流石にその一存で全てが解決できるわけではないようだ。まぁ当然だろう。夢美の要求、独立した勢力としての容認、ともなれば合衆国のみならず他国からの承認も必須。

 元の世界で独立した勢力と言えば、永世中立を謳うエルフの里がそうであったか。由来は知らないが、その独立・中立性は周辺国からの承認によるものであった。成程、まさしく『調整』が必要だろう。

 項垂れていた夢美が身を起こし一息に背を伸ばす。伸ばした勢いのまま後ろに上体を倒して大の字で仰向けになる。何とも騒がしいが、夢美の中で話が纏まったとみえる。

 

「研究が評価をされる日が来るなんて、未来なんて分からないものね」

「良かったじゃねぇですか、ほい」

「もごごごっ」

「ん? ハオもどぉぞ」

 

 仰向けになった夢美の口にちゆりが皿から一粒摘み取った苺を突っ込む。

 使い手の様子を察したのか、ハオが自分もといった雰囲気で近寄ってくると、ちゆりから苺をまた一粒受け取ってテレビ前に戻っていった。

 この使い手をしてあの魔剣あり、なのかもしれない。……元の苺は何処に? 食べたのだろうか、まさかな。

 

「白塩化症候群への対抗薬だけでも充分な成果で御座いましょう。見慣れぬ魔法を行使している様子からして、原理解析も進んでおられるようですし」

「分かりきってないけど、使えるから使ってるというのがほとんどよ。基礎研究はそこそこに応用研究を優先せざるをえなかったから」

「ですが、第二研究所の事件から僅か二年足らず。よく練り上げられたものです」

「違いますよ」

 

 凛とした声が通る。

 予期せぬ方向からの声に俺とヴィオラはおろか、夢美とハオまでもが声の主ちゆりに意識が囚われる。

 

「二十年です」

 

 ちゆりは静かで穏やかな声でただ短くそれだけ発し、続く言葉を待つ此方を他所に笑顔で沈黙した。

 二十年。夢美の齢が丁度それだ。

 

「それはそれは、大変失礼いたしましたわ♪」

「……より正確を期すなら推定、二十年だけどね」

「うるせぇ」

「もごごごっ」

 

 ヴィオラは割り込み指摘を喰らったにも拘らずご満悦といった様子。反面、夢美は寝そべったまま口先を天井に向けて尖らせてはへそを曲げている。

 本当に不満というわけではなく、素直になれない時の態度だ。まともに相手してご機嫌を立てるとなると面倒極めるが、ちゆりは手慣れたもので尖り口に苺を突き立てて黙らせた。迷いの無い見事な手際だ。

 

 暫く仰向けの恰好のまま苺を咀嚼する夢美と見下ろす形で沈黙するちゆり。

 その間に言葉は無いが、多くの事が語り合われているように思われた。

 咀嚼の最後の一噛みで瞑目する夢美。嚥下された苺が細い首を波立たせる。

 深い呼吸のち、瞼を開け放って一息に身を起こす。

 双眸の赤は爛々とした光を取り戻していた。機嫌は直ったようだ。

 

「よし、それでは講義を始めよう。出欠は取らないからね」

 

 岡崎夢美による特別講義が始まる。

 

 

 




◆小話
 ハオの名前
 漢字をあてるなら『郝』 赤に阝(おおざと、むら)
 たぶんこの設定が作中に出る事は無い

 イブリス
 イウヴァルトの父。イヴリスではなく、イブリスであることを、資料を漁り直して最近改めて知った。


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3.「静穏」-1

超説明回。 大幅改筆予定21.10.1~


     1

 

 

【緊急速報:東京都新宿『エリコの壁』崩壊】 [転載禁止] 膝ch.net

 

1 名前:名無し 2008/02/14(月) 21:48:32 ID:AyU1ka9rIz

 

 本日21時頃、新宿禁区を囲むエリコの壁が内部から壊され崩壊したもよう。

 崩壊した原因は、赤い目をしたレギオン特殊個体によるものと断定。

 政府は緊急会見で、この特殊個体を『レッドアイ』と呼称すること決定した。

 政府の見解によると、レッドアイはレギオンを統率する能力を有しているとのこと。

 禁区から大量のレギオンの群れが流出し人々を殺戮、自衛隊・武装警察隊との交戦が開始。いまだ鎮圧作戦が継続されている。

 

 

2 名前:名無し 2008/02/14(月) 21:49:46 ID:baNi77vArK

 

 †鮮血のヴァレンタイン† 明日の朝刊の見出しはこれで決まり

 

 

3 名前:名無し 2008/02/14(月) 21:50:12 ID:reD2rFv6gZ

 

 これってどんくらいヤバいわけ?地方だとあんま実感湧かないんだけど

 

 

4 名前:名無し 2008/02/14(月) 21:50:18 ID:Sd53Vai2ga

 

 俺がレッドアイだ

 

 

5 名前:名無し 2008/02/14(月) 21:50:42 ID:cMow3fAnoH

 

 地方のおまいらの家のドアをレギオンがノックしてくるようになるヤバさ。レギオンが軍隊化とかマジ皮肉だな

 

 

6 名前:名無し 2008/02/14(月) 21:51:02 ID:BifQhawUnv

 

 俺たちがレッドアイだ

 

 

7 名前:名無し 2008/02/14(月) 21:51:51 ID:kJfeIbfa87

 

 >>4>>6 通報した

 

 

8 名前:名無し 2008/02/14(月) 21:52:09 ID:34cnRawuw

 

 日本終了のお知らせ。

 

 

 ―――パタリ

 ちゃぶ台上のノートPCの画面を静かに閉じる。

 夢美に借りた眼鏡、私が昔プレゼントしたブルーライトカットの赤眼鏡を外してそのまま横に倒れる。横向きになった視界は床の畳が近くなり、い草の仄かな香りが鼻を突いた。

 窓の外を見れば、日はすっかり沈みんで、厚い雲に覆われた空は暗くなっていた。

 

「しゅーりょーか……」

 

 ネット民は何とも危機感のねぇことだと思わずにいられない。

 これはきっと終わりじゃない、始まりなんだと。

 情報収集で覗いたインターネット大型掲示板、ヒザちゃんねるに立っていたスレッドには加速度的に書き込みが増加してる。だけど、その反応はまちまちだ。

 みんなヤバいってことは分かってんだろうけど、何がどうヤバいのか分かってねぇ感じ。

 ま、私がこの問題の全容を把握してるかと言われれば、口を紡ぐしかねぇですけど。

 夢美ならこの問題と顛末がどうなるか分かってるのかもな。

 頭の中でもんもんと考えながら畳の目を数えてると、その畳に陰が、いや人影が差した。

 その影の方、頭上から抑揚の無い掠れた声が途切れ途切れに降り懸かる。

 

「ちゆり、食事だ」

 

 身を捩って仰向けになると、吊られた照明の光を浴びた黒く巨大な影が聳え立っていた。片手に皿を乗せたお盆を持ち、反対の手で発声機を喉に押し当てている。黒いといっても逆光の所為であって、今朝みたいに身体が黒いわけじゃない。黒髪に蒼眼。20代半ば程の顔立ち。ちゃんとした肉体を持った人間だった。

 

「―――カイムさん。似合ってねぇですよ」

 

「…………」

 

 そこにいたのはカイム。夢美の盟友にして、共犯者(なかま)

 カイムは沈黙したまま皿をちゃぶ台に並べる。似合っていない、私の発言だが、彼に自覚があるのだろうことを思うと少しばかり同情してしまう。大方、夢美に無理やり着せられたのだろう。

 カイムの服装は黒ジーンズに白シャツ。質素な恰好だけど、顔が良い分それだけで十分に様になっていた。うん、過去形。

 今その恰好の上には、教授印の苺のワッペンが付いた薄ピンクのエプロンが掛けられている。なるほど、夢美が着る分には似合うだろうけど、この寡黙な大男が着ると、その、何だろう? こう、言い表し難い違和感が喉奥からせりあがってくる。とにかく似合ってなかった。

 何も言わずに皿を並べ終えたカイムは台所の方へ戻る。向こうでは夢美が夕飯を作っている。今日は週に一度の夢美が料理当番の日、お手伝いとは中々従順じゃねぇですか。

 

「……あれが"未知の何か"って、まるまる"人間"じゃねぇですか」

 

 身を翻して横向きに戻り、独り言ちる。影が去って明るくなった畳だが、今度は畳の目を数える気分ではなかった。

 

 ――――――『カイム』

 

 元"岩"。元まっくろくろすけ。元人外だった化け物の人間然とした様に驚くほかない。

 今朝見かけた時は真っ黒な身体で、夢美と一緒に出掛けて帰ってきたら人間のような肉体を手に入れていたのだから。

 夢美は「ソフトに合うようにハードを改造しただけよ」と言っていたが、どういうことだろうか。

 人間のような姿になったカイムを眺め、その出会いを思い返す。

 

 

 私とカイムが出会ったのはあの研究所の事故、世間的には研究所襲撃事件として報道された日の翌朝だ。

 身体を揺さぶる振動に目を覚ました私がいたのは、走行する車内の後部座席だった。今みたいに私は横になっていて、運転席に夢美、その隣の助手席にまだ黒々していたカイムがいた。最初は夢でも見ているのかと思ったが、それはすぐに否定された。

 私が起きたことに気が付いた夢美が急ブレーキを踏み、慣性で私は座席から滑り落ちた。その痛みがこれは夢ではないことを証明してくれた。

 車を止め、運転席から身を乗り出してしがみついてくる夢美を引き剥がしながら状況説明を求めると、夢美は然もありなんと言った具合で恐ろしいことを口走った。

 

『あぁ、これはカイムよ。あの"岩"から出てきた"人間"ね。今は盟友ということで仲良くしてるわ』

 

『…………はい?』

 

『あと、カイムは声が出ないみたいなの。私はカイムの声とか"竜"とか色々と如何にかしないといけないから、ちゆりはカイムの教育係よろしく。軽く話してみたけど、どうも彼のいた世界とこの世界は違うみたい。だから、文字とか社会常識とか、とにかく詰め込めるだけの知識と情報を詰め込んであげて。……あ、待ってちゆり、静かにトランクに手をかけないで! トランクはツッコミの道具じゃないわ! 本当に大丈夫よ、ちゆり。彼は耳は聞こえてるし、言葉も理解しているから。それにカイムは優しい人よ、ね?』

 

『『…………』』

 

 夢美が淡々と話し、助手席のカイムは沈黙し、私はトランク片手に唖然するしかなかった。

 あの時は流石に夢美の助手であることを後悔したが、助手であって良かったとも感謝した。普段から夢美の奇行奇癖に付き合ってたおかげで、ワケの分からねぇ状況に対する耐性は付いていた。でなければ、私は自分がイカれたんじゃねぇかって精神科医に駆けこんでいたと断言できる。

 なんで私の教授が未知の何かと友達然に普通に話しているのか、常人であれば気を疑う所だ。だけど、彼女が『岡崎夢美』であることを考えると仕方ないかと考えてしまう自分が少し悲しかった。

 

 

 それからなんやかんやあって、私達は逃げるように東京を離れて西進し、今は広島郊外の一角に2LDK二階建て庭付きの一戸建てに居を構えている。

 犯罪者よろしく逃亡生活になるのかと思ったが、そのようなことはなかった。どういうワケか私達はあの事故で行方不明者扱いになっていた。カイムを目覚めさせて、あの事件を引き起こした人物であるのに、表向きには謎の宗教団体や北米の陰謀ではないかと報道されていた。裏ではどうかは知らないが、表では私達に捜査の手は及んでいないようだった。

 面倒くさがって夢美は全てを話さないが、全ては夢美の算段通りらしい。

 この広島の地に身を潜めているのも夢美の考えあってのことだし、研究設備も地元の大学の協力を取り付けて確保しているようだ。今使っているノートPCも彼女が設置したもの。セキュリティーはbotネットやbotカーネルだとかのお陰で問題無いらしい。そして、夢美は私に情報収集を任せて、時折カイムと二人で出掛けている。研究の為なのは知っているし、私もとやかく言うつもりはない。夢美は私を傍に置きたがるのに、それが距離を取るという事はそれなりの理由あってのことだろうことは理解していた。

 ただ正直、不安だった。

 レギオンや捜査の手が不安なんじゃない。夢美が、夢美がもっと遠くに行ってしまうんじゃねぇかって。

 私も秀才である自覚はあるけど、やはり岡崎夢美は次元が違う。だからこそ、惹かれるのだけど。

 彼女は物理学者だが、その頭脳は人間の枠を越えている。

 

『物理学では解けない物理学もあるのよ。知識には有難いことに限界があるわ。そんなのより大事なのは想像力よ、ちゆり』

 

 なんてさらっと言ってのけるのだから呆れる。理系学問だけではなく、文系学問も必要と判断した知識はすべて貪欲に吸収する。正しく知の魔人と呼ぶに相応しい。

 その知識量だけでどの大学のどの分野の教授職にも就ける程だというのに、夢美は自身の研究の為の基礎知識くらいにしか思っていない。普段はポケーっとして何考えてるか分からないのに、我が教授ながら恐ろしい。

 なにより、やる気になった夢美の行動力は人のそれを超えている。

 夢美を止められる人間はこの地球上には存在しないと断言できる。彼女は己の価値観を何よりも信じている。それを遮るものがあれば排除し、障害にもならないと判断すれば、その一切合切を無視する。それこそ『非統一魔法世界論』の研究発表の時のように、周囲に惑わされることなく、我が道を行く様は正に王様か神様だ。『カイム』という研究対象を得てから夢美は変わった。いや、元に戻ったというべきだろう。

 岡崎夢美の前には常識も倫理も無い。あるのは彼女の探究と研究のみ。その成果が今の肉体を得たカイムなのだろう。

 

「ちゆりー、情報収集ご苦労様。良い情報はあったかしら? あ、カイムお茶持ってきてくれる」

 

 台所から皿を二つ持った夢美と、皿とお茶の入った容器を持ったカイムが暖簾をくぐって出てきた。どうやら夕飯の支度が出来たらしい。

 今晩の献立は夢美特製パスタとサラダだった。切って盛った野菜の山に、茹でたスパゲティにレトルトのソースをかけた一品。なるほど、見た目は綺麗だけど手抜き料理と言って問題ねぇですね、はい。

 

「教授、エリコの壁が崩壊したようですよ。なんか『レッドアイ』とかいうレギオンの特殊個体もいるとか」

 

「でしょうね。エリコの壁は応急処置でしかないもの。いつか限界が来るわ。『レッドアイ』については後で情報を洗いましょう。それよりカイム、この肉体で初めての食事よ。ちゃんと感想聞かせるのよ」

 

「ああ、分かった」

 

 カイムが喉元に発声機を当てて応える。機械の補助付きだけど、声も自在に出せるようになったのか。黒い身体の時は発声機使っても、出てくるのは不協和音のような重低音しか出なかったのにな。

 しかし、やはりと言うか、教授にとってはエリコの壁の崩壊より、カイムの方が興味があるようで、エリコの壁崩壊への反応は薄い。それよりもカイムにぞっこんだ。もちろん、研究対象としてであるが。

 

「教授、カイムさんの肉体どぉしたんです? 私に留守番させて何の研究してたかは知らねぇですが、人間のクローンとかマッドサイエンティストなんてレベルじゃねぇですよ」

 

「あら、違うわちゆり。私はクローンなんて不完全なもの創らない。これは人間の魂を宿した器が、人間の形を模したモノ。『アンドロイド』よ」

 

 冗談半分に言った私の発言に対し、夢美の口からは否定と共に別の単語が飛び出してきた。『アンドロイド』。一瞬、機械人間を思い浮かべたが、その言葉指す意味は"人間のようなモノ"。

 

「『アンドロイド』? 私はその意味がよく解らんのですが、クローンじゃねぇんです?」

 

「ちゆりはクローン生物をどうやって作るか知っているわよね。あ、カイムも勉強だと聞きなさい。勝手に食べてわダメよ、いただきますしたの?」

 

「……いただきます」

 

 一人食べ始めようとしていたカイムを夢美が窘める。ほんと、人間らしい肉体を手に入れただけで印象が変わる。あの黒々した姿は正直恐ろしかったが、こうして肉体を持つと本当に人間なのだと思わされる。

 カイムが言葉を聞いて、片手だが合掌した様を見て夢美は満足したのか微笑んだ。そして、その顔のまま此方に目を向ける。話してくれということだろう。

 

「専門じゃねぇですから簡単にしか言えねぇですよ? たしか細胞から取り出した核を、核を取り除いた未受精の卵子に移植。それに電気刺激を与えて細胞融合させたクローン細胞を子宮内に着床、出産させる。そんなところじゃねぇでしたか」

 

「うん、概要としては満点よちゆり。そして人間のクローンは禁止されている。私は犯罪者になったつもりはないわ」

 

 いや、あの研究所事件の発端の時点で、私ら相当なワルな気がしなくもねぇんですが、それは。

 

「じゃあ、このカイムさんの肉体はなんなんです? クローン技術の産物じゃねぇんです?」

 

「そうね、クローン技術の応用も考えたけど、それは別の計画。後で話してあげるから先に食事にしましょう。グロッキーな話になるし、せっかくの料理が冷めるわ」

 

 そう言うと夢美も合掌して「いただきます」と言ってから食事を始めた。フォークを細い指で器用に回し、スパゲティを絡めて口に運ぶ。

 

「はぁ、グロッキーにグロテスク的なニュアンスはねぇです。あとでちゃんと話してくださいね。いただきます」

 

 追及を諦め、合掌してフォークをパスタの山に突き立てる。

 夢美はと云えば、もちろんよ、とでいうようにパスタを啜りながら小さくウィンクをした。その顔は美麗ではあるが、口の端に付いたソースが台無しにしている。

 これが知の魔人。これが私の目指す人だっていうんだから笑えてくる。

 

 

 × × ×

 

 

 夕食を終え、夢美が淹れた紅茶を啜るゆったりとした時間。

 ……のはずだが、夢美はカイムの体調もとい肉体の状態についてかなり執心のようで、先からカイムを質問攻めしている。

 

「どうかしらカイム? 身体の方に変化はどう、味覚や満腹感はあるかしら」

 

「人間らしい肉体だ。腹も膨れている」

 

「そう、私もお腹いっぱいよ。で? 味は?」

 

「……美味かった」

 

「あら、それなら良かったわ。冷蔵庫にデザートの苺があるから取ってきてくれるかしら」

 

 夢美、あんたそんなに凝った料理作ってないのにその質問はどうなのさ。

 そしてカイムさん。静かに立ち上がってますけど、ほんと従順ですね。

 

「カイムさん、すっかり手懐けられてますね」

 

「そうだろうか」

 

 うん、傍目にはそんな感じです。

 ちゃぶ台から立ち上がったカイムが、見下ろしながら静かに平坦で掠れた声で応えた。これが普通の声帯による声であれば、きっと少し悲哀が籠った声だったのかもしれない。

 いや、そうじゃない。それよりも優先すべきことがあった。

 

「それで教授、話の続きはどうなったんです?」

 

「そうだったわね。簡単に言えば魔術という技術を使ったのよ」

 

「魔術って、『非統一魔法世界論』が証明できたってことですか?」

 

 魔術、かつて夢美が提唱した『非統一魔法世界論』で述べられていた『魔法』を行使する為の技術。夢美のいう『魔術』はその魔術なのか、それとも何かしらの言葉の綾なのかは見当が付かない。

 

「どうかしら。まぁ『非統一魔法世界論』が完全嘘っぱちのSF小説と呼ばれない程度にはなったと思うわ。今までは実験段階で危険も伴うから秘密にしてたけど、色々解ってきたし、ちゆりにも新しく偽りの無い知識を教授してあげる。取り敢えず『魔素』と『魔力』については理解できたわ」

 

「『魔素』と『魔力』ッ!? ついに見つかったんですかッ!?」

 

 思わずちゃぶ台に身を乗り出してしまう。

 紅茶の入ったティーカップが危うく零れかける。かぶっていた水兵帽が畳の上にパサリと落ちた。

 『魔素』と『魔力』。その存在を確認できれば夢美の論文の正しさを世界に証明できる。

 

「ええ、肉眼でも電子顕微鏡でも見えない……粒子、という分類でいいのかしらね。見えないけど見えている。存在しているのに存在していない。『魔素』と『魔力』の二つの存在を確認出来た」

 

「トートロジー言われてワケわかんねぇですよ。『魔素』と『魔力』って何が違うんです?」

 

「『魔素』はどの世界にも漂っている粒子よ。空間やそれこそ体内にも存在し得るものね。この世界には極度に薄いようだけど。学名は『マナ(MANA)』。『魔力』と比較して『大源』とも呼ぶべきもの。魔素そのものは視認出来ないわ。感覚的には存在が分かるのだけどね。目に見えている状態であれば、それは魔素じゃなくて魔力よ」

 

「魔素、マナ、大源、魔力…………ん? この世界、ってどういうことです?」

 

 夢美は何を言っているのだろうか。この世界? 他にどの世界があるってんだ?

 畳に落ちた帽子を拾い、両手で抱き締める。何かに握り締めていないと、とてもじゃないが不安で仕方がなかった。

 

「苺だ」

 

 不安で巻かれていると、低く平坦な声が降り懸かり私の意識をハッとさせる。

 苺を取りに行っていたカイムが戻り、ガラスの小皿に盛られた苺をちゃぶ台に並べて畳に腰を下ろす。

 

「ありがとうカイム。あら、練乳忘れているわよ? あ、チョコレートソースも取ってきてくれるかしら」

 

「……わかった」

 

 夢美が良い笑顔で台所の方を指し示す。そして、カイムはまた素直に立ち上がる。一応、見た目ではこの中で一番の年長であるのに、夢美に良いように使われている。

 

「カイムさん、私が―――」

 

 代わりに取りに行こうかと立ち上がりかけたが、カイムに手で制されてしまった。年長者だからとかは気にしないのか、本当に夢美がいうように優しい人なのだろか。

 いや、これは自己欺瞞だ。私は少し離れたかったのだ、この知の魔人から。私が憧れ、唯一師事することを願った人間。岡崎夢美。その本性に久しぶりに触れて畏怖してしまっている。

 カイムに制止され、私は半端に立ち上がったまま固まってしまった。

 

「座りなさい、ちゆり。講義はまだ途中よ? 次は『魔力』。これは魔素が個別の存在により精錬、影響を受けたもの。学名『オド(OD)』。世界に満ちる『魔素』を『大源』と呼んだのに対し、『魔力』は個別の存在の中で精錬されるものだから『小源』。マナはオドへ変換され、魔力はその個別の性質の影響を受ける。神通力や法力、呪力、妖力なんて呼ばれる力があるけど、仮にそれらが実在するのなら『魔力』と原理は一緒だと考えるわ。何処からか魔素を得て、自身の存在内で魔力に変換し、魔法という現象を起こすのに行使する。そして、放出・消費された魔力は、物理・魔術的干渉または一定時間の経過等の要因により、崩壊して魔素に還元される。確認出来た魔力は二種類。『巨人』と『竜』の魔力。白の魔力と黒の魔力よ」

 

「……白と黒。『巨人』と『竜』ってのは『災厄』の時に出現したあれですか?」

 

「そう、あれらよ。先ずは『巨人』の『G魔力』。Gは『巨人(Giant)』のGね。学名『GOD(ジーオーディー)』。GODの干渉を受けた人間は白塩化症候群を発症するわ。レギオンの『塩の躰』と『赤目』の形質もGODの影響に因るものでしょうね。特にあの白い結晶、皮下組織からの変異組織はGODで構築されていると思って間違いない。GODはとても安定している魔力。レギオンを見るに自然崩壊は期待できないわね。GODは結合が強固で、下手な物理的干渉では崩壊しない。銃火器がレギオンに対して有効でなかったことの原因ね。

 次は『竜』の『D魔力』。Dは『(Dragon)』のD。学名『DOD(ディーオーディー)』。GODと比較するとDODは不安定な魔力だったわ。GODに比べ物理的干渉を受け易いし、自然崩壊も確認できた。だけど、面白いことが分かったわ。DODをGODと衝突させると、対崩壊を起こして魔素に還元させられたの。そしてもう一つ。DOD因子を組み込まれた存在は『ゲシュタルト』化する。カイムの黒い身体の状態よ。このゲシュタルトは世界を隔てる壁を越えて、この世界とは空間を別にして存在する異世界『多元世界』から魔素を搾取して魔法を行使できるわ」

 

「…………頭痛が痛いです、教授。なんです? 多世界解釈の話まで飛躍するんですか?」

 

 帽子を掴む手に力が籠る。

 夢美の齎す知識を必死に整理しようと努めるも、あまりにも突飛で膨大で熱暴走を起こしそうだ。

 唯一、理解出来そうな単語とは『多元世界』だけだった。多世界解釈のことだろうか。

 多世界解釈は、複数の宇宙の存在を仮定する多元宇宙論の一つだ。量子力学の解釈の一つで波動関数の収縮を想定せず、すべての解に対応した世界があるとするもの。これが証明できたのなら、ノーベル賞どころの騒ぎじゃない。それこそ、夢美が望むように世界は一変するだろう。

 だが、夢美の口からは私の思惑とは別の解答が提示された。

 

「ちゆり、知識に惑わされてはダメよ。私の話を聞いて自身の想像力を働かせなさい。私は"この世界とは空間を別にして存在する()()()"と言った。多元宇宙論の平行世界とかも面白そうだけど、私が提唱するのは『多元世界説』。多元宇宙論を証明するでも、否定するものでもないわ。それに、平行世界とかがあったとしても、それはきっと人間にも神様に辿り着けない道理の向こう側、事象の地平線の彼方よ。話が逸れたけれど、ゲシュタルトはこの異世界からエネルギー、といっても魔素だけだけど、を搾取して魔法を行使できるわけ」

 

「あー、自然科学の基本法則たる質量保存則ガン無視ですか」

 

「質量保存則は魔素なんて考慮していないわ。前提が間違っていれば全て間違う。今までその法則が正しく見えていたのは、この世界に魔素がほとんど存在していなかったからよ。今は魔素を含めた上で新しいルール、いや、本当に正しいルールが必要。そのルールは『多元世界すべてでエネルギーは保存される』ということ。これが私が世界に提唱する新しい世界。まだ仮説段階ではあるけど、確信はあるわ」

 

「練乳とチョコだ」

 

 理解を諦め、知識を受動的に吸収することに方針転換した私の前、ちゅぶ台に二つのチューブが置かれた。

 あ、カイムさんいましたね、そういえば。

 畳に腰を下ろしたカイムは小さく溜息を吐いていた。

 うん、大変でしょ、夢美と付き合うってこと。いま私も苦しんでます。

 

「ありがと、カイム。そうね、言葉だけだと解り難いかしらね。模型を使って説明してあげるわ」

 

 夢美はそう言うと、私の方を向いたまま腕をニュルっと伸ばして、苺にチョコレートソースをかけようとしていたカイムの腕を掴みストップさせる。

 

「……いただきます」

 

「違うわ、カイム。今から苺で魔素の説明するから食べるのは後にしてね」

 

 カイムの合掌を夢美は上から叩き潰した。

 カイムは静かに苺から夢美に首を向けたが、そのまま無言でチョコチューブのキャップを締め始めた。

 カイムさん、本当にお疲れ様です。私は慣れましたけど。

 夢美はそういうと、自身の皿の苺を一つだけ残し、残りを全てカイムの皿に移してしまった。

 

「さて、ちゆり。このちゃぶ台が世界、いや宇宙だと思って。ちゃぶ台の端は事象の地平線。そして、苺の乗っているこの皿の一つ一つが世界なの。苺が魔素ね」

 

 そう言って夢美は苺の一つにフォークを突き刺し、手元で振っている。

 

「世界はこの世界だけじゃない。それはカイムの話から聞いても解ること。カイムのいた世界はこの世界と明らかに異質、異世界ね。この異世界が他に幾つあるのかはまだ解らないけど、一つだけという事はないでしょう。それはさておいて、カイムのいた世界、名前が無いと不便ね。『ミズガルド』とでも呼びましょうか。ミズガルドには魔素が満ちていた、この皿の苺みたいにね。その一方でこの世界、現実世界と呼ぶのは紛らわしいから『オリジン』とでも呼称しましょう。オリジンには魔素が殆ど存在していなかった」

 

 夢美は苺が刺さったままのフォークで三つの皿を指し示す。

 カイムの前にある山盛りの皿が『ミズガルド』。夢美の前にある苺が一つだけの皿が『オリジン』。私の前の普通の皿が、その他の世界ということだろうか。

 便宜上とはいえ、この世界に『世界』以外の名前が付くとは思わなかった。他の世界の存在なんて、想像はしても実際に存在するなんて誰も考えていないだろう。

 

「オリジンには苺がほぼ無かったの。だけど、ある日に大量の苺がこの皿に盛られることになった。そう、2003年6月12日『災厄』よ。あの日、新宿上空に穴が開いて、いや繋がったと言うのかしらね。ミズガルドの皿からオリジンの皿に大量の苺が流れ込んできたわ。それも『巨人』と『竜』というトッピングごとね」

 

 夢美はミズガルドの皿からオリジンの皿に苺をドバドバと移し、練乳とチョコのチューブを捻ってオリジンの皿にこれでもかとかける。

 苺の鮮やかな赤色が塗り潰され、一部で白と黒が混じりグロテスクな色合いになっている。甘党でもこの惨状はあんまりだと言うだろう。

 元の量より減ってしまったミズガルドの皿をカイムは静かに眺めている。……後で分けてあげようかな。

 

「練乳は『巨人』。魔素を白く塗り上げる。これがGOD。この白い苺を口にしたものは白塩化症候群を発症し、レギオンとなる」

 

 構わず講義を続ける夢美は、練乳で真っ白になった苺をひとつ口に運んだ。

 美味しそうに頬に手を当てているが、もうそれ練乳の味しかしなさそぉですね。

 

「チョコは『竜』。魔素を黒に染め上げる。これがDOD。この黒い苺を口にしたものはゲシュタルト体となり、カイムみたいな姿になる。そして、ゲシュタルト体が世界の壁を越えて魔素を搾取できるというのは、こう言うこと!」

 

 そういうと、夢美は手付かずだった私の皿から苺を一つをヒョイと指先でひったくり、その苺をチョコで黒く染めて口に運んだ。

 

「一つの皿で見れば苺の数は変動しているわ。だけど、よりマクロな視点ではどうかしら。ちゃぶ台の上では苺の数は変化していない。『多元世界すべてでエネルギーは保存される』というのが私の仮説。まだ仮説だけれど、たぶん間違いじゃないわ」

 

 解説はこれでおしまい、と夢美は付け足して、苺を嬉しそうに頬張り始めた。

 カイムも夢美が食べ始めた姿を見て、ちょっと少なくなった苺にチョコレートソースをかけている。

 魔素と魔力については何となく分かった。疑問は正直尽きないけど、夢美が教授として講義する以上は正しい知識なのは間違いない。

 夢美は間違った知識を教授することを嫌う。こうして話している以上、私がすべきなのはその知識をあるがまま吸収することだ。

 

「その甘グロい皿の惨状はともかく、感覚的には解りました。で、カイムさんの肉体とどぉ関係すんです?」

 

 夢美にまだ解決していない疑問をぶつける。

 魔素と魔力についてはいい。それがどうしてカイムの肉体に繋がるというのか。

 

「それを話すには『魔剣』についても話さないといけないわね。ちゆりは魔剣についてカイムから聞いてる?」

 

「一応は。人の魂やらなんやらが封じられている剣ですよね」

 

「そうよ。封じられているというより、宿っているという感じね。そして、カイムの魂もとい魔素で形成されたゲシュタルトが彼の剣に宿っている。竜大剣ではなくて、両刃長剣の方ね。カイム、ちょっと出してくれるかしら?」

 

 カイムが右手を翳すと、その手に黒い何かが集まってそれは一振りの剣となった。

 変化はそれだけではなかった。

 カイムの肉体から肉が消え、黒い身体に戻っていた。

 

「……教授、これは」

 

「最初はあの大剣にカイムの魂が宿っているのかと思ったけど、そうじゃなかったわ。あの大剣はカイムの所持していた魔剣が、"岩"の中で融合したのではないかというのがカイムの仮説だったの。実際に大剣からこの長剣が分離できたことで、この仮説は有力になったわ。あぁ、カイム。もういいわ」

 

 そういうとカイムの黒い手から剣が霧散して、カイムの身体に再び肉体が戻った。

 

「魔剣というのは素晴らしいわね。多大な魔力を秘めている高エネルギー体よ。その容量は人ひとり分の魔素を許容しても何ら問題が無いわ」

 

 夢美はカイムの肉体が元に戻るのを見届けてから、満足そうに頷いていた。

 

「さて、ちゆり。水35リットル、炭素20kg、アンモニア4リットル、石灰1.5kg、リン800g、塩分250g、硝石100g、硫黄80g、フッ素7.5g、鉄5g、ケイ素3g、その他少量の15の元素。これが何を指すか分かるかしら?」

 

 夢美が紡ぐ言葉の羅列。最初は呆気に取られたが、私が問うた内容と照らし合わすとすぐさま答えは出てきた。

 

「人間、……ですか」

 

「そう、人間の材料よ。ちゆりは『災厄』時に東京タワーに発生した光の陣と観測された波長は知っているわね。2007年にも似た波長が確認されていた。カイムにこの光陣の記録映像を確認してもらったら、魔法陣の類であることが解ったわ。逆に言えば、それ以上は解らなかったのだけれどね。あの魔法陣に浮かんでいた文字はミズガルドの天使文字よ。カイムの知識を借りれば、天使文字はカイムのいた世界に最初から存在していた文字、まるで神の言語ね。天使文字はそれだけで力を持つから、ミズガルドの人々は天使文字を崩したものを使用していたらしいわ」

 

 ―――そうよね? と確認を取るように夢美はカイムを見詰めている。

 カイムは苺を刺していたフォークを下ろして首肯した。

 

「いや、異世界文化交流は良いんで、続き話してください」

 

「はいはい、向学意識があって何よりよちゆり君。正直言うと、魔法陣についてはそこで行き詰ったの。だからね、再現したの。"岩"を」

 

「え?」

 

 何故、ここで急に"岩"の話になるのか理解が追いつかなかった。そんな私に夢美は構わず講義を続ける。

 

「カイムは最初から"岩"の状態ではなかったの。この世界に来て、死ぬ瞬間までは人間のような肉体を持っていたらしいわ。だとすれば、あの魔法と"岩"は深い関係にあるとみて間違いない。カイムに"岩"の中での話を聞いたのだけど、なんでも昔の記憶が遡ったように再生されていたらしいわ。―――ここからは私の仮説。あまりに不確かな情報だけど、聞いて頂戴」

 

 夢美は、今から話す事が仮説であり、不確かであることを念入りに説いた。

 

「あの"岩"の中でカイムという存在は分解され、再構築されたと仮定したわ。それこそ、竜大剣の仮説と同じようにね。記憶が遡っているようにカイムが思えたのは、再構築の過程でカイムの歴史が再生されていたからと考えるわ。胎児が胎内で5億年の進化の歴史を辿るようなものかしらね。だけど、再構築の過程で何かしらの齟齬が発生した。カイムの魂は再構築されたけど、物質としての肉体は再構築されなかった。物質の代わりに魔素で魂の形を形成した。それがゲシュタルト。さっきの黒い身体ね。不安定なDODで形成された魂は依代を必要とした。そうしてカイムのゲシュタルトは彼が死に際に持っていた魔剣に宿ったというのが私の見解。

 そして、竜大剣の仮説から着想を得たわ。分解と再構築。魔素は構築式次第で自在に変化する。魔剣の魔法は火や水など生み出すけれど、それは魔剣そのものが構築式として、魔素を火や水に構築して魔法を発現させているから。魔素は魔剣の形も取れるし、魂をゲシュタルトとして形取ることが出来る。正しく神の粒子ね。この粒子を理解し、行使出来れば人間の材料を人間の形に創ることは不可能じゃないと確信したわ」

 

「ソフトに合うようにハードを改造。ソフトがゲシュタルトで、ハードは魔剣ってことだったんですか」

 

「そうよ、ちゆり。カイムの身体は剣で出来ている。私はカイムの剣を分解して、人間の形に再構築することを目指した。手段としては、再現した魔法陣にカイムの黒血で人間の構築式とカイムの名を天使文字で刻み魔法陣の起動を試みたの。岡崎夢美はじめての魔法にしては中々満足のいくものだったわ。結果は上々。陣にDODが集束して"岩"が出現したわ。研究所のとは異なり黒い"岩"だったけどね。いや、あれを"岩"と呼ぶのは誤りね。あれは"卵"。研究所の時の"岩"の画像をカイムに見せたら『再生の卵』と言っていたから、この再現実験で出現した"黒卵"を私は『再生の黒卵』と呼ぶことにしたわ」

 

「―――そんなので、人間が創れるんですか?」

 

 夢美は然もありなんと語っている。聞くには易し、やるには難しだろう。

 今この説明だって、どれ程のプロセスを噛み砕いて、省略して話しているのだろうか。

 

「創るというより、創り変えるかしらね。魔素と魔力の理解に丸1年。術式の研究に半年。魔法陣の準備だけでひと月、中々大変だったわ。まぁ、労力に見合う成果は得られた。カイムの剣は黒卵で再構築されて実験は成功。ゲシュタルトの宿る剣は人間の形を取ることが出来るようになったわ。私のお陰でカイムは肉体を取り直し、声も補助付きだけど契約通りあげられたわ。ね?」

 

「そうだな」

 

 夢美はカイムに感謝なさいといかにも尊大なポーズを取っている。

 カイムは無言で最後の苺を口に運んでから、一度だけ軽く応えた。

 いや、普通の人間であればその境地に至る為に一生かかって手に届くかどうかだと思うのだけど。

 夢美の話を脳内で必死で整理していると、一つ、どうしても噛み合わない歯車が存在しているのに気が付いた。

 

「教授、魔法を行使したんですよね。それはカイムさんがですか?」

 

「いや、私よ。カイムにはどうにも理解出来ないってお手上げだったからね、カイム」

 

「……ご馳走様だ」

 

 そう短く合掌してカイムはそそくさと食器を持って台所に逃げていった。

 カイムは魔法の理論については明るくない、それは知っていること夢美も私も知っていることだ。

 その上で、夢美の発言した情報を知識として整理する。頭の片隅でどうしても引っかかる事項があった。

 

「魔法を行使出来るのはゲシュタルト体だけって言いましたよね」

 

 私がそう言うと、夢美はゆっくりとした動作でちゃぶ台に両肘を突き、口元で手を組んで嬉しそうに私を鮮やかな赤目で見詰めた。

 

「そうよ」

 

 ―――ミズガルドのように世界に魔素が満ちていて、魔剣を使った魔法を行使するのなら話は別かもしれないけどね。と付け加えて続けた。

 

「多元世界から魔素を搾取し、理解し、行使できるのはゲシュタルトである必要があるわ。それがどうかしたのかしら?」

 

 試すような言いぶり。私の答えを待っているのだろう。

 私の中には一つの想像があった。夢美は知識より想像力が大事だという。

 

「―――夢美は何で人間のまま魔法を行使できたんだ」

 

「正解よ。さすがよ、ちゆり」

 

 夢美は短く吐き、手を翳す。その手に黒が収斂して一本の魔杖が現れる。

 杖を持つ夢美の姿は真っ黒のゲシュタルト体だった。

 着ているブラウスの白さが身体の黒さを際立てている。

 夢美が魔杖を宙に放ると魔杖はカイムの剣と同じように霧散し、夢美の姿は元に戻った。

 

「これは『賢者の意志』。竜大剣から分離してもらった65の魔剣の一つよ。カイム曰く、この魔杖が私を選んだらしいけどね」

 

 そう短く言うと、夢美は話の顔を見て少し笑った。

 私は今どんな顔をしているのだろうか。

 

「私、ゲシュタルト体になるの嫌いなのよね。あまりに色彩が無いじゃない。ゲシュタルト体はゲシュタルト体同士でしか会話出来なくて不便だしね。それに聞いてちゆり! 初めてゲシュタルトと肉体が分離した時、ゲシュタルト体が裸なのを忘れてたの。まぁ、お陰でカイムに貸しを一つ作れたのだけれどね」

 

 夢美は何の事でも無いように続け、けらけらと笑っている。

 この時も流石に夢美の助手であることを後悔したが、助手であって良かったとも感謝した。普段から夢美の奇行奇癖に付き合ってたおかげで、ワケの分からねぇ状況に対する耐性は付いていた。でなければ、私はやっぱり自分がイカれたんじゃねぇかって精神科医に駆けこんでいたと断言できる。

 なんで私の夢美がまっくろくろすけな人外の仲間入りしているのか。だけど、彼女が『岡崎夢美』であることを考えると、やはり仕方ないかと考えてしまう自分が少し悲しかった。

 

「教授、不純です。で、教授は人間止めたんです?」

 

「あら、ゲシュタルトも人間よ、ちゆり。私は人間を止めるつもりは無いわ。その為の『黒卵』の実験よ。ゲシュタルトのまま人間体を保つ『アンドロイド』技術よ。魔剣のような核が必要だから量産には向かないけどね。カイムの実験が上手くいった後、構築式と名前を私のものに私のゲシュタルトの黒血で刻み換えて術式を再起動したわ。『黒卵』を再出現させ、ゲシュタルトを『賢者の意志』に封じて黒卵に入ったわ。実験はカイム同様に成功。技術として確立できたと言って問題無いはずよ。……ただ、抜け殻の肉体の処分は流石に気が引けたけどね」

 

 さしもの夢美も少し顔を曇らせて言った。

 自分の肉体の処分。色々と考えると正気度が減少しそうだった。

 なるほど、これは食前に話せばグロッキーな気分になれる話題だ。

 

「ゲシュタルト体とアンドロイドは色々便利よ。魔法も理解できれば使えるし、DODとGODの関係性を考えるに白塩化症候群の感染も防げるはずよ。ちゆりもいつかアンドロイドになるかしら?」

 

 そう言って、夢美は最後の苺を口に運んだ。

 そんな軽い感じで、人間止めますか? と聞かれても困る。いや、夢美が言うようにあの黒い姿も人間なのか。

 ネットの書き込みにレッドアイだ宣言している奴が居たが、少しばかり本当じゃないだろうかと思ってしまう。これならネットサーフィンをするレギオンの特殊個体がいるかもしれない、そう思えてしまう。いや、流石にあの書き込みは冗句だろうけど、それくらい常識には囚われない方が良いと改めて実感した。

 常識なんて『災厄』の時に壊れていたんだろう。

 『岡崎夢美』は知らぬ間にかなり遠くに行ってしまっていたようだ。

 知の魔人を追い駆けるのは生半可じゃないけど、これが私の決めた道。

 話を聞き続けていた所為で、一人食べ損ねていた私の皿には苺が残っていた。

 何もかけずに食べるか、練乳をかけるか、チョコをかけるか一瞬迷ったが、私の手は一つのチューブを選んでキャップを捻る。

 黒い苺の甘味と酸味が口に広がった。

 

 

 




 どうも、作者です。ご閲覧ありがとうございます。
 日常回を書こう!→あれ?カイムが肉体持たないと色々と不便じゃね?→説明回前倒し
 そんな感じです。
 超解説回でした。約15000字。もう改正不可避な回です。
 DODやNieRの設定を知らない読者をふるいにかける鬼畜回で申し訳ないです。
 色々ツッコミ所満載です。ほんと、考えている設定を話に落とし込むのは難しいです。夢美視点だと更に情報を詳細に書くはめになって死ねそうだったので、ちゆり視点を借りて、設定の説明をしました。
 魔素と魔力については概ね話す事は出来た感じですが、アンドロイドはちょっと物足りない感。アンドロイドはハガレンのホムンクルス的な感じの存在だとイメージしてもらえれば幸いです。

 魔素と魔力についてGODとDODを設定したのには理由があります。
 NieRでは、『白塩化症候群の原因たる魔素を異世界に還元』とのような文言があります。ですが、NieR世界には神話の森のように魔素が満ちている場所がありますし、なにより黒の魔法が存在しています。このことから、魔素にも色々と種類もしくは形態があると考えたからです。そこから考え付いたのが、魔素そのものは害悪な物ではないということ、『巨人』の影響を受けた魔素GODと、『竜』の影響を受けた魔素DODでした。

 アンドロイドは原作でも2種類確認できます。
 一つはDOD3のアコールのような機械人間です。アコールはアンドロイドでも後期の量産型のように思います。魔法の使用に制限がありますし、傷を負えば血が出るのではなく、機械の身体が損傷するだけです。高い科学力は要求されますが、量産可能なアンドロイドだと思います。
 もう一つは、デボルポポル型。こちらは異質です。人間のような肉体を持ち、飯も食えば、酒にも酔います。そして、"黒の魔法"を使用できます。魔法は次元を越える力を得たアンヘルの培養組織(DOD因子)を組み込まれゲシュタルト化した存在が使える技術です(カイネが魔法を使えるのはテュランのお陰。エミールは魔法兵器だから)。では、何故デボルポポルが魔法を使えるのかという疑問にぶち当たりました。往き付いた結論は本作今話で説明した『アンドロイド』の設定です。魔剣を核にしたオーダーメイドです。量産出来ない分、アコール型より高性能です。ゲシュタルトが魔素により人間のような肉体を得たものと考えました。
 夢美がアンドロイド化するのに核とする魔剣は『賢者の意志』だと前々から決めていました。魔剣が人間を選ぶ。夢美に似合う魔剣は『賢者の意志』だとピンッときていました。

 世界観設定は安易なパラレルワールドにすると、マナに憑いていた『敵』もまた無数に存在することになって詰んだので、世界観設定は少し複雑にしています。原作設定でも『この世界とは空間を別にして存在する、異世界の存在を裏付けた「多元世界説」』とあって、平行世界という文言は見つからなかったので、ただのパラレルワールドとは違います。この辺は原作設定に記述の無い部分の為、完全な独自設定になりますが、生暖かい目で見守って頂けると幸いです。

 タグの擬人化は魔剣の擬人化でもありました。
 疑問が絶えない回なのでの改正不可避でちょくちょく書き換える回だと思いますが、ご閲覧ありがとうございました。

 これもう設定は別で投稿した方が良いじゃないかと思いつつ      うづく


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