姫と兎の聖譚曲 (eldest)
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序章
00


 何時(いつ)からだろう。憧憬(ゆめ)を憧憬だと、自分には手が届かないモノだと諦めるようになったのは。

 

 少女は御伽噺(おとぎばなし)が好きだった。母が枕元で読み聞かせてくれる絵本。優しい声音と、数々の登場人物が織り成す聖譚曲(オラトリオ)。少し怖い物語も、最後には『めでたしめでたし』と綴られていた。

 少女が特に好きだったのは恋物語(ラブロマンス)。囚われの姫を救い出してくれる王子様が現れて、二人は恋に落ちるのだ。何時しか、少女は自分もそうなりたいと願った。

 

 そこからが、少女にとって不幸のはじまりだった。

 

 少女は農家の娘ではなかった。町娘でもなかった。修道女でもなく、ましてや乞食でも娼婦でもない。――少女はお姫様だった。

 

 憧れとは本来、自分から遠くにあるモノに抱くものだ。けれども、少女の憧憬(どうけい)は、現実(しょうじょ)と余りに近過ぎた。

 

 だから、乖離(それ)は必然だった。

 

 少女の国は小さくはあったが資源に恵まれ豊かだった。また、あらゆる分野において日進月歩の発展が見られる。国土を高い山と広い海に囲まれ、唯一国境が接した隣国は野蛮ではあったが、少女の国は長いながい年月存続してきた。

 隣国が国号を何度も変える中で、少女の国は少女の一族が建国以来統治を続け、民衆もまたそれを支持していた。そして、民衆は王家と国のためなら血を流す覚悟だった。

 しかし、少女の父は臆病だった。争わずして平和が保たれるならばと、隣国へ貢ぎ物を贈り続けた。

 何年も、何年も、何年も。

 貨幣や宝石、家畜、工業製品――。ありとあらゆるモノを、相手の望む全てを。

 

 ――そして、少女の番がやって来た。

 

 その日は、少女にとって一八回目の誕生日だった。生まれてこれたこと、生まれてきてくれたことを神様に感謝してお祝いする日。同時に、今日は少女が成人になったことを祝うための日でもあった。おめかしして、ケーキを囲んで、一年で一番幸せな日になるはずだった。

 だが、少女の父は――王である少女の父は、祝いの席で少女に言った。隣国の王に嫁げ、と。

 少女は耳を疑った。会ったこともない男である。

 そもそも、何故自分なのか。

 少女は三女だ。姉が二人いて、そのどちらもが未婚だった。

 呆然とする少女の様子に痺れを切らせたのか、少女の父は席を立ち、少女の元へとやって来た。その手には、額縁が握られている。

 無言で手渡す父の顔をまともに見ることもできずに、少女は肩を震わせ、受け取ったソレに目を落とした。

 息を吸い込む音だけが広い部屋に大きく響き、次の瞬間にはスッと消えた。

 額縁の中には、男の肖像画が収められていた。

 恐らくは、高名な画家に描かせたのだろう。それでも尚隠すことのできない、滲み出る醜悪さと下品さ。

 男は――隣国の王は、少女と数倍も歳が離れていた。

 肥え太り、禿散らかした頭部に華美な王冠をのせ、下卑た笑みを浮かべている。少なくとも、少女にはそう見えた。

 少女は声にならない悲鳴を上げた。

 顔を上げ、少女は助けを請うた。兄に、姉に、継母(ままはは)達に。しかし、その誰もが少女から目を逸らした。

 

 嗚呼……。

 

 少女は悟った。

 この場にいる人間にとっては、既に納得済みのことなのだと。少女の味方となってくれる者は一人として存在しないのだと。少女はようやく理解した。

 

 継母も異母兄弟も、少女が幼い頃は少女に対して優しかった。例えそれが憐れみから来るものだとしても、実母を早くに亡くした少女にとって、それは少なからず救いになっていた。

 しかし、少女が成長するに連れて、彼ら彼女らの心情は変わった。女神と見紛うばかりに美しく成長した少女に、継母と姉たちは嫉妬を、兄たちは邪な感情を抱いた。

 だが、少女は彼ら彼女らの変化に気付いていた。継母たちは上手く取り繕ってはいたが、少女は人並み以上に勘が鋭かった。

 それでも、少女は信じていた。信じていたかった。家族の絆というものを。きっとどんなに貧しい家庭にでもある、そんな当たり前のものを。

 

 …………そう、なのですわね。

 

 その呟きを皮切りに、光る雫がぽたりぽたりと床を濡らした。少女には、自分が悲しくて泣いているのか、それとも悔しくて泣いているのか――涙の理由さえも解らなかった。

 

 そしてその夜、少女は城から姿を消した。

 行く宛ても無い旅。それでも、少女には一つ決意があった。

 

 迎えに来てくれないのなら、こちらから捜しに行こう。

 自分だけの、王子様を捜しに。




更新予定日は活動報告の方でお知らせさせて頂きます。
また、別作品(黎明の女神)と平行して書くことになると思いますので、更新頻度に関してはご容赦下さい。


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01

 少女は城を出た後、城下町を抜けて港へ向かった。目的は、端的に言えば他国への密航であった。

 少女の国は先の理由で貿易に陸路が使えない。その為、唯一の輸送手段は船である。故に、造船技術も当然発達していた。

 暗闇に紛れ、少女は貨物船に乗り込み、輸出品の陰に身を隠した。船の行き先は東の大陸であった。

 船員達に見つかることなく、少女は数日を船内で過ごした。その間輸出品である加工食品をくすねて食べていたのだが、少女は船賃も含めて銀貨を数枚重ねて置いた。銀貨から足が付く可能性を承知の上での、良心からの行為だった。

 こうして船は無事港に辿り着き、貨物に紛れて少女は見知らぬ土地へと降り立った。

 見慣れた町とは明らかに異なった街並みと人々の服装が、少女に自分が異郷に来たのだと痛烈に意識させた。不安が心に忍び寄るが、引き返すことなど出来はしない。少女は母が読み聞かせてくれた童話を、そしてその温もりを思い出し、冷えた心を温めた。

 

 第一関門にして最大の難所を潜り抜けた少女がまず向かったのは宿屋だった。何しろこの数日一度も湯浴みをしていない。潮風で肌がべた付いているし、何より体臭が気になった。

 ところで少女の衣服だが、王女である少女は生憎庶民の衣服など持っていない。しかし、ドレスは地味なものでも目立ち過ぎる。そこで少女が思い付いたのは、使用人から仕事着であるエプロンドレス――所謂メイド服を借りるというものだった。

 体格の似通ったメイドの一人に頼み込み、少女はエプロンドレスを手に入れた。メイドは王女の気紛れな戯れと思ったようだったが、本当の理由を話せるわけもなく、少女は心の中で謝罪した。

 さて、このエプロンドレスだが、少女が城を抜け出す際に非常に役に立った。使用人の多くは王女である少女の顔を間近で見た事などなく、従って使用人という記号は、少女の王族という属性を覆い隠すのに充分な効果を発揮したのだった。

 そんなわけで、ここまでの道中少女を目立たなくするのに一役買っていたエプロンドレスではあったが、ここに来てその長所が短所に変化していた。何故なら、ここは異郷の港町。言うまでもなく、メイド姿は非常に目立つ。

 

(……何か服を買わないといけませんわね。それも、可及的(すみ)やかに)

 

 宿屋で受付をする最中周囲の視線を一身に浴びて、少女は心の内で溜め息を吐いた。

 

     ×     ×     ×

 

 一晩宿でぐっすりと眠り、翌朝少女は町の服屋へと向かった。久しぶりのベッドの上での安眠に袖を引かれる思いだったが、この出で立ちを早くどうにかしたい、という気持ちの方が(まさ)ったのだ。

 

「いらっしゃい」

 

 少女が店に入ると、恰幅のいい女主人が彼女を出迎えた。

 店内は女主人の他に人はなく、色取り取りの布や出来合いの衣服が棚の上に陳列されている。

 少女が物珍しそうに視線をあちらこちらに移動させていると、それを不審に感じたのか、やがて女主人は眉間に皺を寄せ、少女をまじまじと見詰めた。

 

「珍しいお客さんだね。この辺りでは見ないが、その服はたしか使用人の仕事着だろう? まさか仕えてる屋敷から逃げ出して来たんじゃなかろうね? あたしゃ面倒事は御免だよ」

 

 女主人の予想は当たらずと雖も遠からずといった具合だった。

 少女は暫しの間思案する。

 

(しらばっくれても良いですけど、後で可笑しな噂を立てられたら却って面倒ですわね……)

 

 そう結論付けた少女は、女主人の懐疑を逆に利用することに決めた。

 純真無垢に。或いは道化のように。少女は可愛らしく小首を傾げてみせる。

 

「……面倒事とは何ですの?」

「決まっとるだろ。アンタが逃げ出した使用人で、あたしがアンタに服を売ることで結果的にアンタの逃亡を手助けしちまったら、アンタを捕まえに来る連中に腹いせに何をされるか解ったもんじゃない。酷けりゃ店を焼き討ちされるかもしれん。実際、隣町じゃそういうことがあったそうだよ」

「それは物騒ですわね……。けれど、安心なさってくださいまし、おばさま。わたくしは、寧ろ追い出されたのですわ」

「追い出された?」

 

 少女が悲痛な声でそう嘯くと、女主人は目を丸くする。それだけ、少女の演技は堂に入っていたのだ。

 そして、少女は悲惨な過去を思い出すように涙を浮かべて続ける。

 

「ええ……ええ、そうですわ。追い出されたのですわ。旦那様が大切になさっていた壺をわたくしが割ってしまい、旦那様は大層お怒りになられて……」

 

 何処かで聞いたような話である。が、それを悟らせない程に、少女の演技は更に熱を帯びていく。

 

「けれど、それは誤解なのですわ……! 旦那様は使用人であるわたくしに対して、とても、とてもお優しい方でしたわ。けれど奥方様は、そんなわたくしのことを憎んでおいででしたわ。自分を差し置いて旦那様の寵愛を受けるわたくしを、大層憎んでおいででしたわ。だから、奥方様は壺をお割りになった。わたくしに、罪を被せる為に。他の使用人は奥方様の命令で、(みな)わたくしが割ったのだと口裏を合わせましたわ。嗚呼……でも、彼らを責める事はわたくしには出来ませんわ。だって、自分の身が可愛いのは、誰だって同じですもの」

「そ、そりゃ気の毒だねぇ……」

「ですから、今更わたくしを連れ戻そうなどと、誰も考えはしませんわ……。これで、おばさまの愁いは晴れましたかしら?」

「あ、ああ……」

 

 こうして上手く誤魔化すことが出来た少女ではあったが、胸に小さな棘が刺さる思いだった。

 ――誰だって自分の身が可愛い……。

 それは、父や姉たちだけでなく、少女自身もまたそうであることに少女は気付いた。

 それでも、溜め息が零れそうになるのを何とか堪えて、少女は小さく笑みを浮かべる。

 

「ではおばさま、そちらのフードの付いたケープとワンピースを頂けますかしら?」

 

 

 買い物を済ませ、少女は服屋を出た。無理を言って、既に店内で着替え済みである。少々胸の辺りが窮屈ではあったが、出来合いのものなのだから仕方がない。

 

(おばさまが値引いてくださったお蔭で、路銀が少し節約出来ましたわね。――さて)

 

「もし、そこのおじさま。少々お聞きしたいことがあるのですけど――」

 

 道行く人に尋ね、次に少女が向かった先は、町外れの大きな納屋だった。目的は馬の購入である。

 仮に自分を連れ戻す為に追手が差し向けられたとして、徒歩では直ぐに追い付かれてしまう。だから馬が要る、と少女は考えたのだ。

 納屋の扉を開け放つと、馬房と馬の毛並みを整える数人の男が見える。少女が中へと入ると、少女に気付いた男の一人が近付き話しかけてきた。

 

「こんにちは、別嬪なお嬢さん」

「あら? お上手ですわね。嬉しいですわ」

「ハハッ。オレはマイクだ。馬が欲しいのかい?」

「ええ、馬と馬具一式を。馬は……出来る事なら長旅にも耐えられて、足の速い子が良いのですけど」

「そいつは数が限られるな」

 

 そう言って、マイクは馬房の前へと向かい、腕を組んで考え込む素振りをする。

 

「よし。なら、コイツなんかどうだい?」

 

 マイクの手招きに応じて、少女も馬房の前へと歩いて行く。

 

「この子ですの?」

「ああ、そうだ」

 

 マイクが勧めたのは、見たところ何処にでもいそうな鹿毛の牡馬だった。

 

「触ってみても宜しいかしら?」

「ああ、勿論構わないよ」

 

 マイクの了解を得て、少女は柵から出た馬の頭部にそっと触れる。すると、鹿毛の牡馬はびくりと怯えるように頭部を揺らし、馬房の奥の方へと逃げてしまった。

 

「あらあら」

「おかしいな……。臆病な性格ってわけじゃないはずなんだが」

「だとしても、この子は駄目ですわね。もし振り落されでもしたら、わたくしの細い手足なんて簡単に折れてしまいますもの」

 

 そう言って、少女は困ったように苦笑する。そしてそんな少女の発言につられて、マイクの視線は自然と少女の肢体に注がれる。

 腰まで届く(つや)やかな黒髪に、紅玉のようなルベウスの瞳。肌は白磁のようにきめ細かく、整った相貌は(あで)やかな笑みで彩られている。また、少女が言うようにその身体は抱き締めれば簡単に折れてしまいそうなほど細く、しかしながら出るところはきちんと出ていた。

 まるで話に聞く美の女神のようだ、とマイクは思う。マイクは少女の美しさに魅入られていた。

 

「――あの、マイクさん? 聞いていますの?」

「え!? ああ、すまない。少し考え事をしていたものでね。もう一度言ってくれないかな」

「はぁ……仕方ないですわね。ですから、あそこにいる白い毛並みの子はどうなんですの? と、お聞きしているのですわ」

「ああ、アイツか……」

 

 少女が指差すのを目で追うと、その先にいたのは一見白馬に見える青い瞳の馬だった。マイクは内心弱ったなと思いながらも、それらしい理由をでっち上げる事に成功する。

 

「悪いがコイツは牝馬なんだ。お嬢さんの要望には合わないよ」

「……? たしか牡馬と牝馬でそこまで能力に差はないはずですし、体格もさっきの鹿毛の子とそこまで変わりませんわ。何か問題があるのなら教えてくださいまし」

 

 が、そこまで言われると黙っているのが悪い事のように思えてくる。更に縋るような目付きで見上げられれば罪悪感も一際だ。マイクは参ったとばかりに両手を挙げる。

 

「……降参だよ。実はコイツは佐目毛っていう希少な品種でな。オレらの間じゃ吉兆の証しだって言われてる。だから正直売りたくはないんだが――お嬢さんが気に入ったって言うんなら、特別に売ってもいい」

「……宜しいんですの?」

 

 少女が驚きを露わにすると、マイクは踏ん切りをつけるように頷いた。

 

「ああ。コイツもこんな所で飾られてるよりは、人を乗せて走る方が嬉しいだろうさ。まあ、少々値は張るがね。こればかりはオレの一存じゃどうにもならん」

「構いませんわ。文字通り命を預けるのですもの」

 

 そう言って、少女は先ほどと同じように牝馬の頭に手を乗せる。すると、牝馬は一瞬びくりとしたものの、知性を感じさせる青い瞳で少女の瞳を見詰めてきた。

 

「この子は大丈夫そうですわね。お幾らですの?」

「六〇万ヴァリス」

「……っ」

 

 マイクから提示された金額に、少女は思わず息を呑む。

 

(かなり吹っ掛けてきましたわね……っ!)

 

 馬など名馬と呼ばれる類いのものでも精々が一〇万ヴァリスである。幾ら希少であろうと、これは余りに法外な価格だ。

 

「……もう少しどうにかなりませんの?」

「無理だ」

「そこを何とかお願いしますわ。わたくしを助けると思って」

「……。よし、五五万ヴァリスまでなら考えよう」

「四〇万ヴァリス」

「それは流石に無理だ。……五三万ヴァリスでどうだ」

「もう一声ですわ! 五〇万ヴァリス」

 

 そこからは互いに一歩も譲らず、数分の間二人は笑顔で睨み合っていたが、根を上げたのは――やはりと言うべきか、マイクであった。

 

「あー! 解った、解った。オレの負けだ。五〇万ヴァリスで手を打とう! ついでに馬具代も込みだ!」

「きゃ~! 太っ腹ですわ~!」

 

 少女の歓声にマイクは顔を赤らめるが、黙って彼らのやり取りに耳を傾けていた同僚たちの妬みの籠った視線がマイクに集中し、一転その顔は怪物にでも遭遇したかのように急激に青ざめた。

 

「……? 顔色が優れませんけど、どうなさいましたの?」

「いや、大丈夫だ。それで支払いの方だが……今払えるかい?」

「ええ、問題ありませんわ。どうぞお確かめくださいまし」

 

 そう言って少女は財布を開き、そこから硬貨を数枚取り出してマイクに手渡す。

 

「ハイランド金貨か……。今更だが、お嬢さんハイランド王国から来たのかい? 目的は――」

「ふふっ。わたくし、自分探しの旅の真っ最中ですの」

 

 マイクが言い終えるのを待たず、少女はお道化るようにそう答えた。当然、マイクに余計な詮索をされるのを防ぐためだった。

 

「じ、自分探しの旅?」

「ええ、そうですわ。面白いでしょう?」

「…………」

 

 ふざけた理由だ、という言葉を呑み込むのにマイクは苦労した。要するに、金持ちの道楽というわけだ。マイクはそう理解した。

 

「……確かに五〇万ヴァリス相当で間違いない。鞍の付け方は解るか?」

「ええ、存じておりますわ」

「なら、馬を連れてサッサと出て行ってくれ。まだ今日の分の仕事が残ってるもんでね」

 

 マイクは慣れた手付きで頭絡を取り付け終わると、手綱と鞍を少女に持たせ、口速にそう急き立てた。

 そして、礼を言う暇もなく納屋を半ば追い出されてしまった少女は、小さく苦笑し肩を竦めた。

 

「どうやら、あの方の逆鱗に触れるような事を言ってしまったみたいですわね……。やれやれですわ」

 

 そう独り言ちてから、そういえば、と少女は自らの唇に指先を当てる。

 

「おばさまが仰っていましたわね。隣町の民家が燃やされたとか。……いい迷惑ですわね」

 

 要するに、この町の住人は金持ちに対する心象が良くないのだ。

 少女は自分が割を食ったことに僅かに眉根を寄せてから、やがて諦めるように鞍の取り付けに取り掛かかった。



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02

 鞍を取り付け終え、馬を引いて少女は一旦昨夜泊まった宿へと戻ってきていた。正確には、宿の中庭で佇む少年のところに、だが。

 

「あ! お姉ちゃんお帰り!」

「ええ、ただいま戻りましたわ」

 

 少女の姿を認めた少年が大きく手を振り、少女はそれに笑みで答えた。

 少女はこの少年――宿で下働きをしている一〇歳くらいの子供――に出かける前に荷物を預けていた。下着などの衣類や雑貨の入った旅行鞄(トランク)と、矢筒にも似た革製の筒である。前者は比較的小さめではあったが持ち歩くには骨が折れるし、後者はある事情から余り人目に触れさせたくはなかったのだ。少女が買い物する間荷物を預かっていて貰ったのはそのような理由からだった。

 少女は少年から荷物を受け取り手早く中身を確認してから、遠い昔に少女の母がしてくれたのと同じように少年の頭を優しく撫でた。

 

「ありがとう、坊や。お蔭で凄く助かりましたわ。これ、余り多くはありませんけど……」

 

 そう言って、今度は少年の小さな手に銀貨を数枚握らせる。

 

「これで、何か美味しいものでも食べてくださいまし。ご主人には内緒、ですわよ?」

 

 しぃ~、と唇に人差し指を付けて少女がウィンクすると、少年は頬を赤らめながらも大きく頷く。

 

「うん……! ありがとうお姉ちゃん!」

 

 それから少女は昨日のうちに買っておいた一週間分の食料とエプロンドレスを左右の鞍袋に納め、更に鞄と筒をそれぞれ鞍袋の上に紐で括りつけた。これで出発の準備は整った。

 少女は少年の頭をもう一度撫でてから、町の出口を目指し手綱を引いて馬と一緒に歩き始めた。

 

「お姉ちゃんまた来てね~!」

 

 少年の声が背中に降りかかるが、少女はもう振り返らなかった。少年の純真さに少女は心洗われる思いだったが、同時に自分が(けが)れているような気持ちになったからだ。少年が何か盗んではいないかと勘繰ってしまった。もはや自分は、名実ともに『大人』になってしまったのだろう。そう思うと、少女はもう一度あの少年の顔を見ることは出来なかった。

 町を抜け、民家が疎らになってきたところで少女は馬に乗った。乗馬の経験はあったが、長いスカートのせいで少々手間取った。

 その後は快適だった。鞍は中々に良いものだったらしく、馬の気性が穏やかなのも相まって乗り心地は悪くない。

 町を出発してから数刻が過ぎ、小さな丘を越えた辺りで少女はふと気付いた。

 

「そうでしたわ。まだ貴方に名前を付けていませんでしたわね」

 

 馬は少女の足であり、旅の仲間である。名前が必要だ、と少女は思う。それから少女は瞑目し、むむむっと唸り始めた。

 

「……白王号。……ああ、そういえばこの子雌でしたわね。では、スノーファイアなんてどうでしょう? ……駄目ですわね、パクリ臭いですわ」

 

 それからも少女は次々と名前を列挙していったが、どうにもどれもこれもしっくり来ない。だが、数がとうとう三桁に達しようとしたところで、少女に閃きという名の電流が走った。

 

「ハッ……! そうですわ。白王……ハクオウ……ハクトウ……白桃……。良いですわね、白い桃。この子の毛の色にぴったりですわ」

 

 佐目毛というのは純粋な白ではなく、淡いクリーム色なのである。それが昔食べた桃の色と重なったのだ。

 

「流石わたくしですわね。我ながら、素晴らしいネーミングセンスですわ」

 

 ふふん、と大きな胸を張り、口角を片方だけ吊り上げるという器用な真似をする少女にツッコむ者は……今はまだ、誰もいない――。

 

     ×     ×     ×

 

「――火起こしって、一体どうすればいいのでしょう……?」

 

 途方に暮れ振り仰げば満天の星空。はぁ~~、と少女は感嘆の溜め息を漏らす。

 

「綺麗ですわねぇ……。人がいない地域だからでしょうか? ……まあ、人がいないということは、火起こしのやり方を尋ねることも出来ないということですけど」

 

 詰みましたわね、と少女はがっくりと項垂れる。これでは今晩の夕食は冷や飯確定だ。船内での食事とさほど変わらない。

 取り敢えず枯草や乾燥した木の枝を集めてみたまでは良いものの、肝心の着火方法が解らない。常識がないと言われればそれまでだが、少し前まで少女は正真正銘のお姫様だったのだ。火起こしのやり方が解らないくらい大目に見てほしい、と少女は思う。しかし、大目に見てくれる人間もまたここにはいない。

 

「弱りましたわねぇ……。そろそろ冷えてくる頃でしょうし……」

 

 問題は温かい食事にありつけないことではなく、夜間の冷気だ。今はまだ辛うじて空気に昼間の温もりが残っているが、それも時機に消えるだろう。

 少女の周りには、何処までも続くかのような草原が広がるばかり。当然、風を凌いでくれる壁などありはしない。

 そして、最大の懸念は――。

 

『ザッ』

 

 風に揺れる草の()とは明らかに異なる異音。少女の鋭敏な聴覚は、確かにそれを聴き取った。そして、少女の『勘』もまた告げる。己に危機が迫っている、と。

 

「……っ! 生憎と、今夜の逢瀬は受け付けておりませんわよ……!」

 

 少女は舌打ち混じりに悪態を吐くが、その後の行動は迅速だった。

 荷物は捨て置き、白桃に直ぐさま飛び乗った少女の手には細長い革製の筒。

 

()く走りなさいな白桃! 追い付かれては駄目ですわよ!」

 

 少女の発破を受け、白桃は全速力で走り出す。そして少女は自らを追うモノの正体を見極める為、手綱から手を放し見返った。

 結果的に焚き火が出来なかった事が功を奏した。光源が月と星明かりのみだったが故に夜目が利く。少女のルベウスの瞳は敵の姿を正確に捉えた。

 ――それは、奇妙な生き物だった。

 

「……っ!? 話には聞いてましたけど……これが」

 

 魔物(モンスター)。――太古に地上へと現れた、他の生命とは異なる器官を持つ怪物だ。

 少女は知る由もなかったが、少女を獲物と見定め追い縋るのは『リザードマン』と呼ばれる人型爬虫類のモンスターである。個体によっては非常に知能が高く、石器や骨角器を用いて『狩猟』を行う。実際このリザードマンも、その手に無骨な石槍を握り締めていた。

 絶体絶命。誇張ではない。少女の細い身体など、槍など使わずとも腕のみで易々と引き千切る事が出来るだろう。

 だが、少女は悲鳴を上げて取り乱すような真似はしなかった。『王族』のプライド。(いにしえ)より続く王家の『血』がそれを許さない。そして何より、少女にはある秘策があった。

 

「……!」

 

 意を決し怪物に背を向け、少女は革筒から『それ』を抜き放つ。

 月明かりに照らされ、鈍く光るは薜蘿(ツタ)と葉の銀細工。そして、それらが絡み付くクルミ材製の銃床と三本のバンドで固定された銃身。

 ――《フリントロック式.69口径マスケット銃》。神聖ハイランド王国で開発され、しかし『欠陥品』の汚名を受ける事となった『火薬』を用いた試製武装。少女はそれを城から逃げ出す際に持ち出していた。

 モンスターの存在は以前から聞き及んでいた。だが、如何に巨匠の鍛えた名剣を携えようと、女の細腕では満足に扱う事すら叶わない。剣を振るう前に、こちらの首が先に落とされているのがオチだ。

 ならば、何を持ってすればあのような怪物と渡り合う事が出来るのか。――さあ、答え合わせの時間だ。

 銃を水平に構え、撃鉄を僅かに起こしハーフコック・ポジションとし、フリズンを開く。次いでケープの下に忍ばせていた『紙製薬莢』を一発取り出し、

 

「……んっ」

 

 何処か蠱惑的な吐息を漏らし、噛み千切る。そして、開いた穴から少量の火薬を火皿へと注ぎ、フリズンを再び閉じる。更に今度は銃を垂直に構え、銃口から残りの火薬と球形弾をともに槊杖(かるか)を用いて底まで押し込む。最後に撃鉄を更に起こしてコック・ポジションとすれば発砲準備は完了だ。

 振り返り、両手で銃を油断なく構える。

 リザードマンは未だ追って来ている。人の少ない平原だ。恐らくは久方振りに見付けた獲物なのだろう。向うも生きる為に必死なのだ。だが、少女も大人しく食われてやる気は毛頭ない。

 

(……目標までの距離はざっと一〇〇メートル――駄目ですわね)

 

 《マスケット銃》の有効射程は約一〇〇メートルとされている。だが、揺れの激しい馬上での射撃だ。おまけに少女は経験も乏しい。ぶっつけ本番も同然だった。

 

(もう少し、距離が詰まらないと……)

 

 そう思った矢先、白桃の走るスピードが急激に緩みだした。少女の意思を汲み取った――のでは勿論なく、全速力で走っていた為にスタミナ切れを起こしたのだろう。だが結果として、怪物との距離は徐々に縮まり始め――。

 九〇……八〇……七〇……六〇……。

 

(……五〇。今ですわ……!)

 

 目標に照星を合わせ、引き金を引く。それにより撃鉄が作動して火花を散らし、銃身内の火薬に点火した。

 

『パンッ』

「くっ」

 

 乾いた破裂音。硝煙の香り。そして――ドサッ、と血飛沫を撒き散らし、呆気(あっけ)なく崩れ落ちる怪物。弾丸は見事に心臓へと命中し、怪物を絶命させるに至った。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 汗がドッと噴き出す。優雅さの欠片もありはしなかったが、命のやり取りを演じたのだから当然だろう。少なくとも、少女は無事生き残ったのだ。

 

「……荷物を取りに戻らないといけませんわね」

 

 呼吸を落ち着かせた少女は最後にそう呟いて、もと来た道をゆっくりと戻り始めた。



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03

 少女が旅を始めてから既に四ヶ月が経とうとしている。今では焚き火もお手の物であるし、射撃の方も毎分二発は安定して撃てるようになっていた。

 そんな少女ではあるが、不安がないわけではない。この先一体自分は何処へ向かえばいいのかだとか、こんな事を続けていて本当に大丈夫なのかだとか、そういった将来への漠然とした不安である。

 

(一体、わたくしの王子様は何処にいるのでしょう……?)

 

 そう。こんな目的の為に旅を続けているのだ。不安にならないはずがない。若干子供っぽいところがあろうと、少女の精神年齢は年相応なのだから。

 王子様とは言ってはいるが、何処かの国の王子と恋に落ちたい、という意味で言っているわけではないのだ。言うなれば、運命の人と巡り合いたい――そんな誰しもが一度は持つであろう在り来りな願望である。

 

「何処に行けば会えるのでしょうねぇ……?」

「人捜しでもしとるのかい?」

「え?」

 

 何時の間にか、心の声が口を吐いて出てしまっていたらしい。しかし少女は否定はせず、何処か真剣な面持ちで小さく頷いた。

 

「ええ。人捜し……それから、自分探しを。この世にこうして生を受けたのですから、きっとわたくしにも果たさなければならない役割があるはず。……ですから、それをわたくしは見付けたい。わたくしは――」

 

 ――あんな男の妻として、生涯を終えたくない。

 その言葉だけは呑み込んで、今度は少女が尋ねる。

 

「そう言うおじさまこそ、一体何をなさっている方なのかしら? 見たところ、商人のようですけど」

(わし)かい? 儂は仲介人みたいな事をやっとる。売りたい人間と買いたい人間の橋渡しさ」

 

 そう言って、初老の男はニヤリと笑ってみせる。

 現在少女たちがいるのは、周りに草木の生い茂った池の畔だった。この辺りは乾燥地帯であり、数少ない給水ポイントの一つであるこの池の周辺では、今夜も多くの旅人が集まって暖を取り、各々(おのおの)酒など酌み交わしつつ語り合っていた。

 

「吸ってもいいかね?」

 

 男は懐から煙管(キセル)を取り出し振ってみせ、少女に尋ねた。断る理由もなく少女が頷くと、男は煙管に煙草を詰めてから何やらブツブツと呟き、やがて美味そうに吹かし始める。

 

「ぷはぁ~。……にしても、果たさなければならない役割、か。お嬢ちゃんは運命論者なのかい?」

「いえ、ちょっと待ってくださいまし」

「ん? 何かね?」

「……今、どうやって火を点けたんですの?」

 

 そうだ。この男は、如何(いか)にして煙草に火を点けたのか。

 少女は当初こそ火の起こし方が解らなかったものの、フリントがフリズンの当たり金と擦れ火花を散らすさまを見て火打石の存在に辿り着いた。他にも、摩擦による火起こしの方法がある事も今では知っている。だが、男はそのような道具は一切持っていなかった。何もないところから火を出すなど、それではまるで――。

 

「魔法使い、のようですわね」

 

 ――魔法使い。少女も本の中で慣れ親しんだ御伽噺の住人だ。灰被りにカボチャの馬車と素敵なドレス、そしてガラスの靴を杖一つで用意する――そんな、超常の存在。

 男は自分の事を魔法使いと言われどう思ったのだろう。飽きれか、それとも怒りだろうか。しかし、少女の予想は外れた。

 

「はっはっはっ。バレては仕方ない。そう、儂は魔法使いなんだよ」

 

 男はお道化るようにそう言って、少女の言葉を肯定した。

 

「……馬鹿馬鹿しいですわ」

 

 だが、少女は不機嫌そうに唇を尖らせる。少女は自分がからかわれていると思ったのだ。

 

「ほう、それまたどうしてだい? 元はと言えばお嬢ちゃんが儂を魔法使いだと言ったはずだが。予想が当たったのだから素直に喜べば()い。残念ながら景品は出ないが」

「はぁ……。どんな手品を使ったのか知りませんけど、よりにもよって魔法だなんて。……とんだお笑いですわね」

「……よく解らんが、お嬢ちゃんは相当(こじ)らせているようだな。目にしたモノを歪曲(わいきょく)して捉えていると、そのうち手痛いしっぺ返しを食らう事になるぞ?」

 

 それは、年長者としての教訓か。或いは、実体験から来る戒めだろうか。どちらにせよ、少女は到底信じる気にはなれなかった。

 

「ならば、信じられるようにしてやろう。――見ていろ」

 

 しかし、少女の内心を悟ったように男は強い口調でそう言ってから、人差し指をピンと立て、そこへ視線を――いや、意識を集中させた。

 

「【全てを灰燼(かいじん)へと帰す、火の精霊サラマンダーよ。汝は火を司る者なり。我の願いを聞き入れ、只一時、その能力(ちから)を貸し与えん。――フレア・バースト】」

 

 果たして、それは呪文だったのか。男の指先に、揺らめく小さな灯りがともる。少女は目の前で起こった不思議な出来事に只々目を丸くした。

 

「えっ……あっ……そのっ……」

 

 言葉が、上手く出てこない。

 

「どうだ? 信じられそうか?」

「……そう、ですわね。……信じますわ」

「なら結構。実は、魔法(こいつ)は非常に疲れる。若い時分のつもりでやっていると、途端に魔力が尽きてしまう」

 

 これだから年は取りたくない、と男は苦笑する。すると、指先の炎は一瞬にして消失した。

 少女は自分が今見たものを己の中で整理する為か俯き、垂れた前髪がその美麗な相貌を覆い隠す。やがて、少女は俯いたまま、ポツリと小さく呟いた。

 

「……一つ、お聞きしても宜しいかしら?」

「言ってみなさい」

「火を出せるならっ! カボチャの馬車も出せるのかしらっ!?」

 

 少女は顔を上げ、くわっと眼を見開き男に問う。男は少女の迫力に若干たじろぐが、態とらしく咳払いをして申し訳なさそうに切り出した。

 

「あー……残念だが、儂にはカボチャの馬車は出せん」

「……そうなんですの」

「そんな目に見えてがっかりする事なかろう!」

 

 案外現金な子だ、と男は溜め息を吐く。

 

「なら、仮にカボチャの馬車を出せる魔法使いがいたとして――」

「妙にカボチャの馬車に拘るな?」

「だって、カボチャの馬車は乙女の浪漫ですもの。……続けますわよ。――その魔法使いに師事すれば、わたくしもその魔法を使えるようになりますの?」

 

 少女がそう問うと、男は我が儘を言う孫を諭すように、首をゆっくりと左右に振った。

 

「根本的にお嬢ちゃんは勘違いをしとる。儂らの使う魔法というのは、そんな万能なものじゃない。一つの魔法で起こせる事象は一つのみだ。例えば、今儂が使った魔法では、火を起こす事しか出来ん。まあ、火力の調節くらいは出来るがな」

 

 男は箸休めでもするかのように再び煙管を吹かし、一服してから更に続ける。

 

「それと、魔法――少なくとも儂が使ったようなやつはだが――は誰かに師事して教えを乞うて習得するようなものでもない。神の恩恵と鍛錬によって自らの才能を開花させる事で――って何だ? 呆けたような顔をして」

「今、神の恩恵と仰いまして?」

「ああ。正確には神の恩恵(ファルナ)と言うんだがな。……それがどうした? 神なんてそこまで珍しくもなかろう? 最近は海を見た事のない子供より神を見た事のない子供の方が少ないくらいだ」

「ちょっと待ってくださいまし。……もしかして、『お天道様が見てる』みたいな……何かを神格化して言ってるだけの事では……?」

「違う、違う。『暇潰し』なんて理由で天界から降臨した本物の神々だよ。今から千年くらい前だったか、最初の神が現れたというのは。まあ、流石の儂も当時は生まれてすらいないから、実際にこの眼で見たわけじゃないがな」

「――――――――」

 

 少女は、今度こそ絶句した。しかし、そんな少女の様子を見て、男も真顔になって少女に問い掛ける。

 

「何だ? もしかしてお嬢ちゃん、本当に神を見た事ないのか?」

「そんな風に気軽に尋ねられても、正直反応に窮しますわね……」

 

 少女は頭痛でもするのかこめかみを押さえる。

 

「では、神の誰かと契約を結べば、わたくしでも魔法を使えるように――いえ、それだけでは駄目なのでしたわね。鍛錬……つまり、己を成長させなければ、契約しただけでは魔法を使えるようにはならない……?」

「ほう? やはり儂の見込んだ通り、お嬢ちゃんは聡明な子だ。頭の回転が速い」

「それはまあ……これでも、一応大学は出ていますので」

「大学……?」

 

 今度は男の方が首を捻る番だった。

 

「まあ、それは良いか。――兎も角、神と契約する事でその神の眷属(ファミリア)となり、そうする事で神の恩恵を得る事が出来る。只、魔法が使えるようになるか否かは本人の才能によるところが大きい。契約して一週間で魔法が使えるようになる者も()れば、一〇年鍛錬しようとトンと使えんヤツも居る。そういう意味では、儂はついていたな」

 

 男は煙管をひっくり返して灰を落とし、新しい煙草を詰めてから、先程と同じように魔法を唱えた。

 

「ふぅ~。……それと、どんな魔法を使えるようになるのかは、本人も解らぬし、神でさえ知り得ん。儂が炎の魔法を操るのもまた、偶然……或いは運命、か。だから、さっき儂はお嬢ちゃんに、お嬢ちゃんは運命論者なのか、と問うたのだ。――おっと、信じては駄目だぞ? これは流石に後付けだ。……そう怖い顔をするでない。夢に出てきそうだ」

 

 男は嘆息すると、遠い昔を思い出すように皺を深くする。

 

「儂の主神――二柱目の方だが――も、怒ると今のお嬢ちゃんとそっくりな顔をしおった。いやはや、美人の睨みは蛇すら石に変えるの。……まあ、魔法に興味が湧いたのなら、オラリオを目指してみると良い。あそこは世界の中心だ。神も大勢居る。神と契約し、神の恩恵を得て冒険者となる――それが、魔法を習得する一番の近道だ」

「オラリオ……冒険者……」

 

 少女は瞼を閉じて小さく反芻すると、やがて小首を傾げて男に尋ねた。

 

「冒険者って、何をする職業なのかしら……?」

「平たく言えば、魔物(モンスター)と戦うのが冒険者の仕事だな。オラリオには迷宮(ダンジョン)と呼ばれとる魔物の巣窟があって、そこから魔物が世界に拡散しないよう食い止め取る」

「……それは可笑しいですわ」

「可笑しいとは?」

「だって、魔物は既に彼方此方(あちらこちら)にいますわよ? 魔物を外に拡散しないよう食い止めるのが仕事なら、職務怠慢もいいところですわ」

 

 少女が膨れっ面で言うと、男は思わずといった風に失笑した。

 

「くっくっくっ。まあ、お嬢ちゃんがそう思うのも無理はない。だが、迷宮で生み出される魔物と、地上に住み着く魔物は別種に近いのだ」

「そうなんですの。――おじさまも冒険者なのですわね」

「いや、冒険者稼業はもう引退して久しい。お嬢ちゃんの言った通り、今の儂は只のしがない商人だ。だが、【劫火(ごうか)】のウォーレンといえば、当時のオラリオで知らぬ者は相当のモグリ――ってお嬢ちゃん、またそうやって疑わしそうな顔をする。さては、まだ儂の言う事信じとらんな?」

「いえ……御免なさい。そんな事はありませんのよ? でもわたくし、職業柄どうにも疑り深くなってしまって……」

 

 少女が申し訳なさそうに謝罪すると、男は片方の眉を吊り上げてみせた。

 

「ほう? お嬢ちゃんの職業か。興味深いが、聞かなかった事にしよう。それよりも、だ。人を疑うというのを悪い事のように思う者がどうにも多いが、儂はそうは思わん。無条件に他者を信じる方がどうかしとる。――良いか? 何でもかんでも信じてしまうようなヤツはな、悪い商人の恰好の獲物だ。そうだろう?」

「悪い商人? それって、もしかするとおじさまの事かしら?」

「馬鹿者め。儂ほど清く正しく商売やっとる商人はそうそう居らんぞ?」

 

 男が大真面目な顔でそう言うと、少女は堪え切れなくなったのか小さく吹き出した。

 

「……ようやく笑ったな。世の中憂い顔の方が映える美人も居るが、お嬢ちゃんは違う。お嬢ちゃんは、そうやって笑っている方がずっと綺麗だ」

「……もしかして、今わたくし口説かれているのかしら?」

「はっはっはっ。儂のような(じじい)戯言(ざれごと)に心動かされるほどお嬢ちゃんも初心(うぶ)ではなかろう。それに、お嬢ちゃんにはもっと相応しい相手が居るさ」

「…………」

 

 実は結構心動かされていた少女ではあったが、悔しいので頬の赤みは焚き火のせいにした。



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04

「魔法だけではない。オラリオでならきっと、お嬢ちゃんの探し物も見付かるはずだ」

 

 別れ際、老魔法使いウォーレンは、餞別とばかりにそんな言葉を少女に贈った。

 

「――おじさまの言う事を信じ……いえ、口車に乗せられてみたわけですけど!」

 

 そんな言い訳めいた事を口にしながら、小さく切り分けたローストポークを口に運ぶ。

 あれから更に数週間掛け、少女はオラリオ近辺のとある村までやって来ていた。神聖ハイランド王国の首都アルケニアからここまで実に何千里もの道のりを走破してきた事になる。

 

「残りの弾数は二ダースと六発……。はぁ~……心許ないですわね」

 

 また、少女はこれまでの道中、何体もの魔物と戦い、そして確実に仕留めてきた。だが、当然の事ながら殺した分だけ弾薬も消費された。これからオラリオへと入り、上手い事神と契約を果たして冒険者になれたとしても、弾薬の問題は今後もついて回る事になるだろう。

 

「そもそもの問題として、火薬が手に入るかどうか……」

 

 フォークを口に咥えた恰好のまま、テーブルの上に突っ伏したくなる衝動に少女は駆られる。

 迷宮都市オラリオ。曰く、世界の中心。世界で唯一迷宮(ダンジョン)を有するオラリオは、その内部で発生する魔物(モンスター)の胸部に存在する『魔石』なるものを摘出、加工、輸出し、巨万の富を得ているのだと言う。実際、宿に隣接するこのレストランの天井にも『魔石灯』と呼ばれる照明器具が取り付けられていた。

 

「アルケニアでは城はおろか大学の研究室にもありませんでしたわよね……」

 

 ハイランドで照明と言えば専ら燭台である。少なくとも、少女が魔石を材料とした工業製品を見掛けるようになったのは、旅を始めて暫く経ってからの事だった。

 これらの事を踏まえて考えてみると、今まで見えなかった事が見えてくるような気がする。ハイランドにおいて様々な分野で技術発展がなされているのは、恐らく神と魔石が存在しない(、、、、、)からだ。

 魔石という万能の資源、そして神の恩恵(ファルナ)の存在によって、結果的に選択の幅が狭められてしまっている。そもそも道具というのは必要であるからこそ発明され、生産され、大衆へと根付くのだ。だが、オラリオでは魔石をエネルギー源とする事で大抵の事が可能であり、更には魔法という『大量破壊兵器』を個人レベルで運用する事が出来る為、そもそも火薬が発明される事も――仮に発見されたとしても見向きもされないだろう――、大砲や銃を製造する必要性もありはしないのだ。また、医療関係も『ポーション』と呼ばれる液体の存在によって同じ事が言える。飲めば立ち所に傷が癒える魔法の薬があれば、軟膏なんて必要なかろう。

 そこまで考察しておきながら、少女はそれ以上考えるのを止めた。

 

「――まあ、この際その手の面倒な問題点は脇へ置くとして、オラリオに入ったらまずは火薬の原料から探してみましょうか」

 

 世界の中心と言われているくらいだ。木炭は当然として、硫黄も苦労せず手に入れる事が出来るだろう。問題は、酸化剤か。

 あればいいですけどねぇ、と最後に少女はそう呟いてから、すっかり冷えてしまった豚肉へとフォークを突き立てた。

 

     ×     ×     ×

 

 夜風に当たりたい。そう思い立ち、少女は宿へは戻らずにふらふらと大通りを歩き始めた。通りはまだ早い時間という事もあって、疎らながら人々が行き交っている。

 頭がボーっとする。この歳で知恵熱なんてありはしないのだが、論文を一本書き上げた後のようないい意味での倦怠感を少女は感じていた。

 ――まあ、そんな状態であったから、起こるべくして起こったと言える。

 前をよく見ていなかったとか、足元がふら付いていたとか、そういった月並みな理由で少女は前を歩いてきた通行人とぶつかった。そして――。

 

「痛ってぇなぁ! 何処見て歩いてやがんだ!? これ骨にひび入っちまってるよ。どう責任取るつもりだ? あぁ!?」

 

 ぶつかった理由が月並みなら、ぶつかった後に起こる事象もやはりまた月並みであった。

 チンピラというのは何処にでもいるらしい。まるで鼠である。

 

「あらあら……それは申し訳ありませんでしたわ」

 

 肩と腕がぶつかった程度で折れてしまうなど、どれだけカルシウム不足なのだろうか。きっと、この男の骨は相当にすかすかである。まあ、あくまで折れたというのが本当であればの話だが。

 そんな事を少女が内心考えていると、ぶつかった男の連れらしき男が軽薄そうな笑みを浮かべて、まるで嘗め回すかのように少女の全身に視線を這わせた。

 

「……いやぁ、それにしても君、可愛いねぇ~。どう? オレらと一晩遊んでくれたら水に流してやってもいいよ。楽しい事しようぜ? お前もそれでいいだろ?」

「そうだな、それで許してやるよ。オレは寛大だからな」

 

 そう言って、男二人は舌舐めずりをする。

 そして、ここに至ってようやく、少女の頭は正常に機能し始めた。

 てっきりこちらの不注意だとばかり思っていたのだが、どうやら向うの方から態とぶつかってきたらしい。

 

(……やれやれ、ですわね)

 

 本来ならこの場で射殺――いや、そこまでしないにしても、脅すなりして追い払うところなのだが、生憎と銃も含めて荷物は全て宿に置いてきてしまっている。

 どうしたものかと周囲の様子を伺ってみるが、皆一様に見て見ぬ振りをして遠ざかっていくばかりだ。

 

「ふっ……」

 

 その光景を見て、少女は思わず鼻で笑ってしまった。

 ――誰だって自分の身が可愛い……。

 まさかオラリオを前にして、再びその結論を突き付けられる事になろうとは。

 

(全く……わたくしは、何を期待していたのでしょうね……)

 

「もしかして、お二人ともわたくしと交わりたいんですの? でも、残念ですわ。わたくし、面食いなんですの。貴方がたには全く食指が動きませんわ。申し訳ありませんが、他を当たってくださいまし」

「あ?」

「何だってこの野郎!?」

「……っ」

 

 自暴自棄になった少女の挑発に乗り、男の一人が少女の細い手首に掴みかかった。少女は痛みで顔を顰めるが、抵抗はしなかった。

 ここで純潔を散らす事になるのなら、それもまた運命だったのだろう。都合よく助けが現れるはずもない。ここは現実で、御伽噺の中ではないのだから。

 

(……だけど)

 

 それでも、と少女は思う。

 それでも、もしこの状況で自分を助けてくれる人が現れたとすれば、それはきっと――。

 

「あの、すみません! その人僕の姉です! それと僕ら急いでるんで、これで失礼します!」

「あっ! おい待て!」

「姉弟とか絶対嘘だろ!!」

「ごめんなさいぃぃぃ~!」

 

 ――それはきっと、王子様に違いない。

 

     ×     ×     ×

 

 少女は走った。腕を引かれるままに、只ひたすらに。

 こんなに一生懸命に走ったのは、一体いつ以来の事だろう。

 苦しい。脇腹が痛い。なのに、こんなにも笑みが溢れる。

 

「はぁっ……はぁっ……。こ、ここまで来れば、多分もう大丈夫だと思います」

 

 そして、少女をここまで引いて走ってきた少年は、背後を振り返って追手がない事を確認してから、息も絶え絶えにそう言った。

 少女は改めて、自分を窮地から救ってくれた少年の姿を見詰める。

 身長は少女よりも幾分大きい。しかし、恐らく歳は下だ。処女雪のような白髪に、少女のそれにも似たルべライトの瞳。何処となく、兎のような印象を与える少年だった。

 

「……!? ご、ごめんなさい!」

 

 と、突然少年が真っ赤になって謝罪する。何事かと少女は首を捻るが、やがて手を握り合ったままである事に気が付いた。少し名残惜しくもあったが、何時までもこうしているわけにもいかず、少女の方からそっと手を離す。

 

「こちらこそ申し訳ありませんでしたわね。それと、ありがとうございます。危ないところを助けていただいて」

「い、いえ! 僕は、別に、そのっ……」

 

 少女が(あで)やかに微笑むと、少年は再び顔をかぁぁっと真っ赤に染め上げる。

 そして、そんな少年の様子を見ていると、どうにも心が色めき立つのだ。その意味を、少女はまだ測りかねている。

 

「何かお礼をさせてほしいのですけど、ご希望はございまして?」

「い、いや! そんな、受け取れませんよっ!」

 

 少女は思う。少なくともこの少年は、何か下心があって自分を助けたわけではない。まるで、その髪色と同じように穢れを知らない純真さ、そして純朴さ。誰もがこの少年と同じ心の持ち主ならば、きっと全ての争い事がこの地上から消え去ってしまうだろう。

 

「なら、せめてお名前を伺っても……?」

「は、はいっ……! ベル・クラネルって言います!」

 

 どうにも少年――いや、ベルは先ほどから緊張しているのか、語尾を上擦らせながらも名を名乗った。

 

「ベル・クラネル……」

 

 対して、少女はテイスティングでもするかのように、瞼を閉じて彼の名前を口の中で反芻する。

 

「素敵な名前ですわね。特に、音の響きが」

「……あ、ありがとうございます」

 

 どうにかそれだけ言ったベルだったが、彼は知らない。

 

(本当にいい響きですわね……(ベル)だけに。……ふふふっ)

 

 少女が神妙な面持ちで、内心そんな下らない事を考えているなど露ほどにも。

 

「――ああ、わたくしったらいけませんわね。相手に名乗らせておいて、自分は名乗らないだなんて。……大変失礼致しましたわ」

 

 そして、少女は両手でスカートの裾を摘まんで、軽く持ち上げお辞儀してみせる。

 

「わたくしは、アリス。アリス・フランシスと申しますわ。以後、お見知り置きくださいましね、ベル」

「…………」

 

 少女の堂に入った立ち振る舞いに、ベルは今度こそ言葉を失ってしまった。しかし少女は気にした素振りもなく、にっこりと笑んで尋ねる。

 

「ところで、大きな荷物を背負ってらっしゃいますけど、ベルはこの村の方ではないのかしら?」

「え? ――ああっ……!!」

 

 すると、何か重要な事でも思い出したのか、ベルは素っ頓狂な声を上げた。

 

「ごめんなさいアリスさん! 僕冒険者になる為にオラリオに向かってる途中で! もうすぐ今日最後のオラリオ行きの乗合馬車が出るところで……!」

「まあ、それは一大事ですわ! わたくしには構わず、早く行ってくださいまし!」

「で、でも……」

 

 尚も心配そうにこちらを見詰めるベルに、少女は言い聞かせるように言った。

 

「さっきの今で何を言っているのかと思われるかもしれませんけど、わたくしなら大丈夫ですわ。ですから、ね?」

「……解りました」

 

 実際、出発まで残りあと僅かなのだろう。ベルは頷き、少女に背を向けて走り出した。しかし、途中で振り返ってから、こちらに向かって大きく手を振って叫ぶ。

 

「気を付けてくださいね~!」

 

 そして、今度こそ振り返らずに少年は走り、やがて姿が見えなくなった。

 

「……またお会いしましょうね、ベル」

 

 少年の行き先はオラリオ。それは少女も同じである。同じ街にいれば、いずれ近いうちに再び出会う事になるだろう。

 

「ふふっ。今から楽しみですわね」

 

 再会のときを夢見て、少女は一人宿への道を歩き始める。

 きっとオラリオは、自分の期待を裏切らない。そんな確信も、胸に抱きながら。




【アリス・フランシス】

年齢:18
身長:158cm
スリーサイズ:B85/W58/H88

所属:神聖ハイランド王国
ホーム:城
種族:ヒューマン
職業:王女
武器:マスケット銃
所持金:不明

《フリントロック式.69口径マスケット銃》

・神聖ハイランド王国で開発された先込め式の滑腔式単発歩兵銃。
・命中精度が悪く、長距離狙撃には向かない。
・散弾も発射可能である。
・『紙製薬莢』を使用する事で射撃間隔をある程度短縮する事が可能。


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第一章 ダンジョンに出会いを求めるのは間違っていますわ
05


 レアケース――いや、もはや前代未聞と言ってもいい上層でのLv.2のモンスター(ミノタウルス)の出現。運悪くその場に居合わせてしまった新米冒険者ベル・クラネルは、ミノタウルスとの早過ぎる邂逅を果たす。しかし、冒険者となって一週間そこらの少年は、戦うどころか逃げる事すら叶わず、己の最期を覚悟し目を閉じた。

 だが、結果として少年に最期が訪れる事はなく、(まばた)く間に全ては決した。

 

『ブッシャァァァ!!』

 

 生温い何かが降り注ぐ。それを返り血だと理解するのに数秒の時を要した。

 少年は眼を見張る。身の丈を優に超える怪物を難なく屠ってみせたのは、たった一人のうら若き乙女。

 その光景は余りにも血生臭くて、しかしとても美しかった。

 

 少年は彼女に恋をした。同時に、強い憧れを抱いた。

 いつの日か、彼女と同じ場所で、彼女と肩を並べて立ちたい。そう少年は強く思った。

 ――だからこそ、その屈辱は耐え難かった。

 

「それでそいつ、あのくっせー牛の血を全身に浴びて……真っ赤なトマトになっちまったんだよ! くくくっ、ひーっ、腹痛えぇ……!」

 

 そう言って腹を抱えて笑うのは、【ロキ・ファミリア】所属の獣人の青年だ。どうやらかなり酒が入っているらしい。

 

「アイズ、あれ狙ったんだよな? そうだよな? 頼むからそう言ってくれ……!」

 

 アイズ――アイズ・ヴァレンシュタイン。昨日(さくじつ)迷宮の上層で、ベルをミノタウロスから救った金髪金眼の少女である。

 アイズは感情の乏しい顔で、それでも眉根を顰めた。

 

「……そんな事、ないです」

 

 抑揚のない小さな否定の声は、大きな笑い声によって掻き消された。獣人の青年は当然として、男とアイズ以外の残りの【ロキ・ファミリア】の面々は失笑を、別のテーブルで彼らの話に聞き耳を立てていた部外者は釣られて出る笑みを噛み殺しているようだった。

 彼らは誰一人気付いてない。彼らの侮蔑の対象が、今この時、同じ空間に存在している事を。少年の心の中で、どれだけの嵐が吹き荒れているのかも。――いや、訂正しよう。

 

「つっめてぇ!? 誰だこの野郎!?」

 

 突然の怒声に、店内は一気に静寂に包まれる。

 声を上げたのは獣人の青年だ。頭の上から水でもかけられたのか、まるで雨の日の捨て犬のように毛先から雫が滴り落ちている。

 勿論、やったのはベルではない。少年もまた、その光景を呆然と見詰めていた。

 獣人の青年が立ち上がり、己の頭を水浸しにした人物の胸倉に掴みかかる。獣人の青年は第一級冒険者だ。一発殴られるだけでも致命的である。だが、

 

「あら? あらあらあら」

 

 心底楽しげな、まるで御伽噺に出てくるお姫様のような、とても美しい声。余りにも場違い過ぎて、青年の手が反射的に止まる。

 フードの付いたケープによってベルの位置からではその横顔を見る事は叶わないが、少年は不思議とその女に以前何処かで会った事があるような気がした。

 そして、左手にワイングラスを持ちながら、女は歌うように続ける。

 

「もしやわたくし、このまま狼さんに食べられてしまうのかしら? だとすれば、わたくしが恋心を抱くのはこの狼さんに対して? それとも、わたくしを腹の中から助け出してくださる猟師様に対してなのかしら?」

「な、何言ってんだてめぇ……」

 

 獣人の青年は困惑を隠せない。

 狼はまだ解る。恐らく狼人(ウェアウルフ)である青年の事だろう。だが、漁師がどうやってこの女を助けるのだ。(もり)でも使うのか。それに、胃の中に入ってしまってからでは、たとえ神であろうと助けられはしないだろう。いや、そもそも何の話をしているんだ。――そんな思考に、店内の誰もが囚われる。

 

「なんや、けったいな()やなぁ~」

 

 だが、それも神であるロキは例外だ。好奇心を刺激されたのか、女に気さくに話しかける。

 

「それにしても、いきなり頭の上から水ぶっかけるって……思い切り良過ぎるわ。初めて見る顔やけど、一体誰の眷属(ファミリア)なんや? うちに教えてーな」

「――ああ、でもわたくしが被っているのは、見ての通り赤ずきんではありませんし……」

「無視かい!」

 

 ロキがショックで声を荒げる。ぞんざいな扱いを受けるのは慣れっこであるが、流石に初対面の相手に無視されるのは珍しい。だが、女は気にも留めず、

 

「何より、顔が好みではありませんわ。狼さんのお気持ちは嬉しいですけど……御免なさい」

「聞けや!」

「何だかよく解らないけど……振られたみたいだね、ベート」

「……団長」

 

 小柄な少年が面白がるように言い、露出の多いグラマラスな少女がそれを窘める。

 そして、ここまで挑発されて狼人の青年――ベートが黙っているような性格ではない事を知っている団員たちは、この後起こるであろう騒動を予想しつつ、いつでも対処が出来るように身構えた。悪いのは挑発した女の方ではあるが、行き付けの酒場で死人が出るのは望ましくない。だが、そんな予想を裏切るように、ベートは女からあっさり手を放すではないか。

 団員たちが唖然とする中、女は何事もなかったように懐から懐中時計を取り出すと、大仰に肩を竦めてみせる。

 

「あら、もうこんな時間。急がないと、お祈りの時間(、、、、、、)に遅れてしまいますわ」

 

 そう言うと、女は猫人(キャットピープル)の店員の一人を呼び付け、彼女にグラスと一緒に金貨を数枚手渡すと、そのまま店の入り口の方へと歩いて行く。そして扉の前まで辿り着いたところで、くるりとスカートを花開かせ振り返った。

 

「お騒がせして申し訳ありませんでしたわね。――それでは皆様、ご機嫌よう」

 

 女は両手でスカートの裾を摘まみ上げ、軽くお辞儀をする。その優艶な動作に誰もが目を奪われる中、ベルはようやく女の正体を悟った。

 女が悠然と店から出て行く。その後ろ姿をベルは慌てて追いかけた。

 

「――君も追いかけなくていいのかい?」

 

 そんな光景をちらりと横目で見つつ、小柄な少年がベートに問う。それに対し、青年は鼻を鳴らした。

 

「……どうせ只の水だ。ほっときゃそのうち乾くだろ。目くじら立てるほどの事じゃねえ」

「うわっ……なにベート、熱でもあるんじゃないの?」

 

 常からは考えられないような青年の発言に、これまた露出の多いスレンダーな少女が割と本気で心配する。

 また、彼らのやり取りを静観していたハイエルフの女性は、彼女にしては珍しい事にくすくすと声を出して笑い始めた。その小鳥の(さえず)りの如き響きに、酒場を再び静寂が包む。そして一頻り笑い終えると、ハイエルフの女性は自分を睨むベートに問い掛けた。

 

「……ふぅ。どうやら、文字通り冷や水を浴びせられて酔いが醒めたようだな、ベート?」

「うるせえ……上手い事言ったつもりか? ババア」

 

     ×     ×     ×

 

「待ってください! ……アリスさん!」

 

 女の後を追って『豊穣の女主人』を飛び出したベルは、彼女の背中に向かって彼女の名前を呼び掛ける。すると女は立ち止まり、フードを下ろして少年の方へと振り返った。

 

「覚えていてくださったようで、わたくしとても嬉しいですわ。一週間振りくらいですわね、ベル」

「やっぱり……アリスさんだったんですね」

 

 月明かりに照らされて輝く漆黒の髪に、少年のととてもよく似たルベウスの瞳。その女神にすら匹敵する美貌は、一度見れば忘れる事など出来はしないだろう。それはベルも同じだった。

 

「あれから少し心配でしたの。ベルがちゃんと冒険者になれたのか、と。でも、無用な心配だったようで安心しましたわ」

「……ありがとうございます。でも僕は、まだまだ全然駄目で……情けなくて……っ」

 

 きっと彼女があのような行動に出なければ、いずれ自分はあの場から逃げ出していたはずだ、とベルは思う。だが、少女は首を振って否定する。

 

「初めから上手く出来る人間なんて、そうそう居りはしませんわ。例えばわたくしも、今でこそ一通りのダンスは踊れますけど、習い始めの頃は同じミスを繰り返して先生によく叱られたものですわ。それはきっと、狼さんだって同じですわよ」

 

 だから大丈夫だ、と少女は言う。

 

「それでも悔しければ見返してやればいいのですわ。強くなって、彼をく~んと鳴かせて差し上げましょう?」

 

 少女のお道化るような犬の鳴き真似に、ベルの頬が緩む。

 

「そうですよね……。それに、僕には強くなりたい理由があるんです」

 

 だから頑張れると、ベルは決意を新たにするように頷いた。

 それから少しの間沈黙が続いたが、どちらにとっても決して不快な時間ではなかった。

 やがて、ベルが思い出したように尋ねる。

 

「ところで、アリスさんはどうしてオラリオに……?」

「貴方に会いに」

「えっ!?」

 

 突然の艶っぽい声での告白に、少年の心臓が兎のように飛び跳ねる。だが、

 

「って答えたらどうします?」

「驚かさないでくださいよっ!」

 

 少女の(たわむ)れにベルは顔を赤らめた。それこそ、トマトのように真っ赤に。

 

「それだけ大声を出せれば本当に大丈夫そうですわね。――わたくしがオラリオへと来た理由はベルと同じですわ」

「……冒険者になる為に? じゃあ、もうファミリアにも?」

 

 ベルがそう尋ねると、少女は困ったような笑みを浮かべる。

 

「いえ、実は色々と準備に手間取りまして……まだ何処のファミリアにも所属していませんの。ですから、ベルさえ宜しければ、ベルの主神様にお口添えいただけませんこと?」

「口添えって……えっ!?」

 

 言葉の意味を理解したところで、ベルは仰天する。

 

「そ、それって……僕らのファミリアに、入りたいって事ですか……?」

「ええ、そうなりますわね」

「うち、零細ファミリアですよ……? いいんですか?」

「わたくしは見ての通りか弱いですから、引き取り手はきっと多くはありませんわ。それに、知り合いがいるファミリアの方が何かと安心出来ますでしょう?」

 

 ご迷惑であれば別ですけど、と小首を傾げる少女にベルは一生懸命首を振って否定を示す。

 

「いえ、迷惑なんてそんな事ないですよ! 僕は勿論、きっと神様だって歓迎してくれるはずです!」

「そうでしょうか?」

「そうです! アリスさんさえ良ければ、今からでもホームに案内しますよ? 神様は昼間バイトで留守にしている事が多いので、寧ろ夜の方が都合いいはずですし!」

 

 自分を含め二人目の眷属になってくれるかもしれない少女を何とか説得したい。その思いでベルは必死に捲し立てる。すると、少女は一旦迷うような素振りを見せてから、やがてこくりと頷いた。

 

「では、折角ですしお言葉に甘えましょうか。ホームの場所はどちらなのかしら?」

「ここら少し北に行くと第七区画なんですけど、そこにある廃教会が僕らのホームなんです。正確には地下室ですけど」

「まあ! わたくしが今住んでいるアパートメントがあるのもその辺りですわ。へぇ……あの廃墟が。気が付きませんでしたわ」

「凄い偶然ですね! もしかしたらもう神様とすれ違った事あるかもしれませんよ!」

 

 じゃあ早速行きましょう、とベルが少女に背中を向ける。

 

「ええ……本当に、凄い偶然(、、、、)ですわね」

 

 だから、そう言った少女がどんな表情を浮かべたのか、少年は知る事が出来なかった。




活動報告の方には既に書きましたが、今回からは水曜日定期更新となります。


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06

「神様ただいまー! ……って、あれ? ……神様?」

 

 ホームである廃教会の地下室へと帰ってきたベルは、室内を見回して首を傾げる。いつも元気よく出迎えてくれる少年の主神――ヘスティアの姿はそこにはない。どうやらヘスティアは不在であるらしい。

 

「そうか……神様バイト先の打ち上げなんだっけ」

 

 しかも、結局ベルには理由が解らなかったものの、ヘスティアは今日に限って(すこぶ)る機嫌が悪いのだ。

 やってしまった、とベルは頭を抱える。初の団員獲得のチャンスに舞い上がって、色々な事を見落としていた自分を恥じた。

 冒険者にとって大切なのは、何も強い装備やステイタスの高さばかりではない。罠や魔物の弱点などを見逃さない事も、冒険者にとって大切な能力の一つなのだ。

 

「アリスさんすみません……まだ神様帰ってきてないみたいで……」

 

 一旦家に帰りますか、とベルが尋ねると、少女は人差し指を唇に当て考え込み、やがて口を開いた。

 

「いえ、入れ替わりになってしまっては面倒ですし、ここで待たせていただきますわ。それと、キッチンをお借りしても宜しいかしら?」

「え? それはいいですけど……何の為に?」

「キッチンでやる事は一つしかございませんわよ、ベル」

 

 そう言って、少女は抱えていた紙袋を示すように上下させる。

 ホームまでの道すがら世間話をしていたのだが、ベルは普段どんなものを食べているのか、という話題を少女に振られたのだ。そして少年が正直に答えると、冒険者用に昼夜問わず開いている食品店に少女は立ち寄り、何やら色々と買い込んでいるようだった。

 ベルは一人暮らしの少女が明日以降に食べる食材を買い込んでいるものとばかり思っていたのだが、どうやらそれは誤解だったらしい事にようやく気付く。

 

「全く、ジャガ丸くんばかりの夕食だなんて、そのうち健康を害しますわよ? 栄養面もそうですけど、カロリーの取り過ぎも心配ですわ」

「か、カロリー……?」

「言っておきますけど、ポテトは野菜に含みませんわよ」

「えっ!?」

 

 ベルにとって衝撃の事実である。ジャガイモが野菜じゃないのなら、一体何だと言うのだろうか。だが、そんな事を訊けるような雰囲気ではない。

 

「ポテトは野菜だからヘルシー? そんな訳がないでしょう。……ふふっ、ふふふっ、ふふふふふっ」

「アリスさーん!?」

 

 それは紛れもなく怨嗟の声である。少女の突然の豹変に、ベルは涙目で悲鳴を上げるのだった。

 

     ×     ×     ×

 

「ただいまーベル君! さっきはすまなかった――って誰だその女はぁぁぁ!?」

 

 部屋へと入った瞬間眼に飛び込んできた光景にヘスティアは絶叫する。

 あの奥手なベルが部屋に女を連れ込んでいる。それも飛び切りの美人を。しかも、ソファーに二人並んで座っているではないか。

 それらの容認し難い現実に、ヘスティアの脳内は次第に埋め尽くされていく。

 

「あ、お帰りなさい神様」

「どういう事だいベル君!? よりにもよって、よりもよってっ、ボクらの愛の巣に他の女を連れ込むなんてぇ……っ!」

 

 ヘスティアはあくまで普段と変わらない様子のベルに詰め寄り、彼の胸をそれこそ幼子が父に物を強請(ねだ)るが如くポカポカと叩き始めた。

 

「もしかして……神様酔ってます?」

「酔ってなーい!!」

 

 涙目で憤慨するヘスティア。ベルは完全に冗談として受け取ってしまっている。

 

「それに君はさっきから何を食べてるんだ!? ちょっとは動じろよ! 美味しそうじゃないか!」

「トルティージャにサーモンのマリネ、それからごぼうのポタージュですわ」

「何言ってるのかさっぱり解らないよ! ボクに解る言葉で話せよ!」

「やっぱり神様酔ってますよね?」

「だから酔ってな~い!!」

「痛いです神様!?」

 

 臨界点に達したヘスティアの右拳がベルの鳩尾に炸裂した。

 

 その後どうにかヘスティアを宥める事に成功したベルは、これまでの経緯(いきさつ)を語り始めた。

 

「――それで?」

「え、え~っとですね……神様を待っている間、夕飯を食べ損ねた僕の為に、アリスさんが手料理を振る舞ってくれる事になりまして……」

 

 ベルはそもそも『豊穣の女主人』には夕食を食べに行ったのだが、あの騒動のせいで殆ど手を付ける事も出来ずに店を飛び出してしまったのだ。

 

「手料理ぃ~? ……アリス君とか言ったね? うちのベル君は見ての通り純情なんだから、勘違いさせるような事しないで貰えるかな?」

「別に勘違いしてくださってもわたくしは一向に構いませんわよ?」

「どういう意味だそれはー!?」

 

 やはりこの女は敵だ。ヴァレン何某に続いて一体全体どうなっているんだ、とヘスティアは内心頭を抱える。

 

「お、落ち着いてください神様。アリスさんはファミリア発足後、僕たちが待ちに待った初の入団希望者なんですよ!」

「そ、そうなのかい? それは嬉しいけど素直に喜べないなぁ……ぐぬぬ」

「でも、一昨日二人で話したばかりじゃないですか。アリスさんが加入してくれれば神様の負担も減らせますし、僕もやっとソロを卒業出来ますし、いい事尽くめですよっ!」

 

 ベルの力説にヘスティアは折れかかるが、いやいやと首を振る。こんな都合のいい展開あってたまるか。

 

「……自分で言うのもなんだけど、うちは零細ファミリアだ。知名度だって皆無だし、ボクの眷属(ファミリア)は現状ベル君しかいない。なのに、好き好んでうちに入りたがる理由は何なんだい?」

 

 ベルの隣から追立ててもう一つのソファーの方に座らせた少女をヘスティアは睨み据える。

 

「ベルにも先ほど言いましたけど、知り合いがいる方が何かと安心出来ますでしょう? それに、どの神の眷属になろうと、神から与えられる恩恵に差はないそうですし」

「確かにそうだけどさ……。というか、さっきから思ってたけど、君たち今日が初対面なんじゃないのかい?」

 

 気心知れた――とまではいかないまでも、少女の言う通り確かに知り合い程度には親しい関係に見える。

 

「え、えっとそれは……」

「実はオラリオに来る前に近くの村で知り合いましたの。暴漢に襲われそうになっているわたくしをベルが助けてくださったのですわ」

 

 言い淀むベルの代わりに少女がゆっくりと二人の出会いについて語った。

 

「なのでこの料理はその時のお礼ですのよ。ですから、ヘスティア様が心配されるような事(、、、、、、、、、、、、、、、、)は何一つございませんわ」

 

 そして、少女はにっこりと微笑む。

 

「……っ」

 

 ヘスティアはその笑顔を見て背筋がぞくりとした。だが、人間(子供たち)に神が気圧されるなど、本来有り得ない。その逆はあってもだ。

 

(この()は……何だ(、、)……?)

 

 ヘスティアが無言でソファーの上から立ち上がる。隣のベルが驚いた様子でこちらを見上げているのが解ったが、それに構っている余裕は今のヘスティアにはなかった。

 

「解った。なら、君をファミリアに入れるかどうか、これから個人面接をしよう。二人きりになれる場所、何処か知っているかい?」

「それならわたくしの借りてる部屋はどうでしょう? 少々散らかってしまってはいますけど、ここからすぐ近くですわ」

「構わないよ、長居するつもりもないし。――おっと、ベル君はここで待っていてくれよ?」

「か、神様……?」

 

 不安そうに自分を呼ぶベルに、ヘスティアはその幼い容姿とは不釣り合いな大きな胸を張ってみせる。

 

「なーに、心配する事ないさ、ベル君。ボクに任せてくれ」

「は、はぁ……」

 

 ヘスティアの意図が解らず、曖昧に頷くベル。

 

「じゃあ、案内宜しく頼むよ? アリス君」

「ええ。では参りましょうか」

 

 こうして女性二人が部屋を出て行き、ベル一人が取り残された。

 

「だ、大丈夫かな……? 二人だけで」

 

 ベルの心に不安が募るが、その問いに答えてくれる者は誰もいない。



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07

遅くなってすみません!


「今明かりを点けますわね」

 

 恥じらうようにそう言って、少女は壁に掛けられた魔石灯に灯りをともす。

 ぼんやりと明るくなっていく室内。露わになった部屋の全貌に、ヘスティアは目を剥いた。

 

「これの何処が少々(、、)だー!?」

 

 確かに部屋が散らかっているとは事前に聞いていたが、ここまで酷いとはヘスティアも予想していなかった。

 

「ボクだってここまで散らかさないぞ! そもそも何だいこの部屋は!? 人が住むような環境じゃないぞこれは!」

 

 部屋の中央に置かれた大きな木製の机。その上に乱雑と置かれた大小様々なフラスコと試験管。その中では、正体不明の液体がコルク栓によって封じ込められている。他にもすり鉢やら鼠の死骸やら変な草やら色々と散乱していた。

 しかし、一番目を引くのはそれらではなく、床一面にまるでカーペットのように敷き詰められた羊皮紙の山だ。よく見れば、一枚一枚に数字や記号が全面に渡って書き殴られている。それにどういう意味があるのか、ヘスティアにはサッパリ解らなかった。

 だが、こんなものを見せ付けられて、神であるヘスティアはツッコまずにはいられない。

 

「何処の悪の秘密結社だ!? ボクをこんな所へ連れ込んでどうするつもりだ!? ボクを生贄に捧げても悪魔召喚は出来ないぞ!?」

嗚呼(ああ)……ぞくぞくしますわ。わたくしが求めて止まなかったのは、きっとこれなのですわ!」

 

 少女は頬に手を当て恍惚とした表情を浮かべる。それを見て、ヘスティアは恐怖で顔を青ざめさせた。

 

(嫌だぁ! まだ天界には帰りたくない! ベル君助けてくれ~!!)

 

「――まあ冗談は兎も角、そこの椅子にでもお掛けになってくださいまし。羊皮紙ですから多少踏み付けても問題ありませんわ」

「……君、テンションの上がり下がりが激しいってよく言われるだろ?」

「ヘスティア様、珈琲で宜しいかしら?」

「聞けよ!」

 

 しかしやはりと言うべきか、少女はヘスティアの返答を待たず、サッサと二人分の豆をコーヒーミルの中へと入れてレバーを回し始めた。ガリガリガリ、という粉砕音とともに、室内に珈琲の香りが広がっていく。

 

「……中々いい香りじゃないか」

「ヘスティア様もそう思いまして? わたくしの周りは紅茶派ばかりでしたので、理解のある方に出会えるのはとても嬉しいですわ」

 

 そうして豆を挽き終ると、少女はガラス製の器具を戸棚から取り出し机の上に置いた。ヘスティアはそれを興味深そうに見詰める。

 

「これは……?」

「サイフォン――珈琲を抽出する為の道具ですわ。フラスコと試験管の大量発注の条件としてガラス職人の方に特別に作っていただきましたの」

 

 苦労しましたわ、と少女は苦笑するが、苦労したのはその職人の方だろう、とヘスティアは思う。そもそも珈琲自体オラリオで見るのは珍しい。一部の南方出身の神が好んで飲む程度の品に過ぎないからだ。

 少女が作業するのを眺めながらヘスティアは考える。

 

(悪い子……ではないはずだ。邪悪な気配も感じない。それに、さっきの様子から見ても、これから先ベル君とも上手い事やれるだろう。……まあ、仲良くなられ過ぎるのは困るけど。――問題は、この子の発言の真偽がボクにも解らない事だ)

 

 ヘスティアは神である。たとえ神の力(アルカナム)を封印されていようと、子供たちが真実を話しているのか、それとも虚言を吐いているのか、それくらいは簡単に見抜く事が出来るのだ。

 だが、何故かこの少女に限っては、発言の真偽が解らない。そういう意味では全くの対等。少女との対話は、神同士でのそれに近い。

 

「って、何に注ごうとしてるんだ君は!?」

「見ての通りビーカーですわ。サイフォンで淹れビーカーで飲む。これこそ正しい作法ですわ」

「そんな特殊な作法聞いた事ないよ!」

「……? ああ、ちゃんと洗ってありますから大丈夫ですわよ。死にはしませんわ」

「何に使った後なんだよこれ!?」

 

 ヘスティアの息が上がる。対等どころか完全に押され気味である。しかも、少女が妙に愉しそうなのが余計に腹立たしい。

 結局少女はビーカーではなくマグに注いでヘスティアに手渡し、シュガーポットと自分の分のマグを机に置いてからヘスティアと対面するように座った。

 

「では、まず何からお話しすれば宜しいのでしょうね? やはり趣味とか特技とか資格についてでしょうか?」

「それはそれで興味あるけど、ボクが聞きたいのはそういう事じゃないよ。――君、本当に人間(、、)かい?」

 

 核心を突く。謀略とは無縁に生きてきたヘスティアは、その手の言葉遊びは得意ではないのだ。だから取れる手段は正々堂々正面突破のみ。

 

「……? わたくしは確かに可憐ですけど、見ての通りエルフではありませんわよ?」

 

 しかし、少女は髪を掻き上げ右耳を露出させてから、からかうようにくすりと笑うだけだ。その飄々とした態度からは内心を読み取る事は出来ない。知っていて隠しているのか、そもそも何も知らないのかさえも。

 だが、これまでの会話から解った事もある。

 

「うん、君の性格は大体解ったよ」

 

 とんでもない自信家か、或いは、そうであろうと努力しているのか。

 もし少女が前者であるなら、ヘスティアは自分の眷属にするつもりはない。選り好み出来るような立場ではないのは重々承知しているが、いずれ団員が増えた時、この手の鼻持ちならない輩はファミリア内に不和を招きかねない。そんな因子は事前に排除するべきだ。だが、後者であるなら話は別である。

 慣れない土地への不安。知らない人間への不信。それらの感情から来る、自己防衛の本能。――つまりは、只の強がり……。もしそうであるなら、女神の慈悲の対象だ。そういう人間にこそ、仲間(ファミリア)は必要なのだから。

 だから、ヘスティアは賭けに出る。今だけは上位の存在()としてではなく、対等な存在(人間)として少女を見極めるために。

 

「何か隠しているなら、正直に答えてくれ、アリス君。今から聞く事は他言しないと、神であるボク自身に誓うよ。君が望むなら、ベル君にだって話さないさ」

 

 ヘスティアは出来得る限り誠実にそう言った。実際、本心からの言葉である。

 ベルに隠し事をするのは心が痛むが、もう既に別件で実行済みだ。隠し事が一つから二つに増えても大して変わらない。

 ヘスティアの言葉を受けて少女は暫くの間逡巡していたが、ヘスティアが辛抱強く待っているとやがて根負けしたように肩を竦めた。

 

「……はぁ~。やれやれですわ。ええ、ええ、わたくしの負けですわ。こうなっては仕方がありませんわね、ヘスティア様を信じましょう。元よりいずれは話さなければならないと思っていましたし」

「いずれは、ね……」

「ええ。話す必要があれば話したでしょうし、話さずにすむのなら、永久に話すつもりはありませんでしたわ」

「そこは認めるなよ」

 

 少女が目を逸らし、ヘスティアは苦笑する。

 

「まず、アリスというのは偽名ですわ。わたくしの国では最もポピュラーな名前であり、わたくしにとっては最も思い入れのある名前……。わたくしはこれからも『アリス』を名乗り続けるつもりですわ。でも、ヘスティア様にだけはわたくしの本当の名を明かしておきましょう」

 

 そう言って、少女はヘスティアの眼を真っ直ぐと見詰める。

 

「改めまして自己紹介を。わたくしの名はアイリス・フランシス・ハイランド。神聖ハイランド王国第三王女にして、第五位王位継承者ですわ――って、あら? ……ヘスティア様?」

「――――――」

 

 ヘスティアは気絶していた。

 何故こんなにも気苦労の種ばかり自分のところに降って湧いて来るのだろう。視界が暗転する前にヘスティアはそんな事を思った。

 もしその問いに答えがあるとすれば、それはもう――『神の悪戯』に他ならないだろう。



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08

(アイリス)ねぇ~……いい名前じゃないか」

 

 名前とは、その人物を定義するための重要な要素の一つだ。だからこそ、名に意味を持たせたりもするし、強い名前にはそれだけ力がある。言霊思想などと呼ばれる考え方だ。そういう意味では、少女の名は中々に強烈だった。

 虹は神にとって特別な存在だ。北欧の神々にとっては天上の神界に通ずる(ビフレスト)であり、極東の神々の始祖であるイザナギとイザナミが下界に渡るために使った道でもある。また、インドラが雷の矢を放つための弓でもあり、イリスという名の神そのものでもあった。

 対して、ミドルネームであるフランシスは子供たちにとって特別だ。フランシスとはつまりはフランシスコ――アッシジの偉大な聖人に由来するからである。

 そして――。

 

「現実逃避されるのは結構ですけど、わたくしをファミリアに迎えてくださるのか否か早く決めてくだしまし」

「簡単に言うなよ!!」

 

 そして、ラストネームはあの(、、)ハイランドときた。彼の国の事はヘスティアも多少は知っている。神秘の廃絶された科学の地であると。

 そもそも西の大陸は、魔物(モンスター)はおろか神ですら踏み入る事が許されない。それが何故なのかは神ですら解っていないらしい。可笑しな話ではあるが、少なくともヘスティアはそう聞いている。

 また、二つの大陸を隔てる魔の海域を横断出来るのは、ハイランド王国が所有する明らかにオーパーツである絡繰(からく)り仕掛けの船のみであり、船員以外の人の往来は許可されておらず、物資の輸出入だけが多少ある程度だと聞く。

 そんな神にとって神秘の国であるハイランドのお姫様が、何故オラリオの、しかも自分の目の前にいるのか。ある程度察しの付いているヘスティアは、だからこそ意識を手放してしまったのだ。

 

「君、家出して来たんだろ、そうなんだろ? だから偽名なんて使ってるんだ!」

「ええ、まあその通りなのですけど……あそこまで言えば子供でも解りますわよね?」

「……君、本当にボクのファミリアに入りたいのかい?」

 

 少女――アイリスの余りにもあんまりな言い様に、ヘスティアは疑惑の眼差しを向ける。しかし、アイリスはやはり何処吹く風で、

 

「それに、家出なんて可愛げのある行為ではありませんわ。国家の重要機密を所持して国外へ逃亡、しかも密入国。捕まれば確実に――」

 

 そう言って、首に手を二度当てるゼスチャーをした。その意味は当然『君、クビね』ではなく『君、首切りね』である。

 

嗚呼(ああ)、わたくしヘスティア様に見捨てられたらきっと殺されてしまいますわ。国へ帰ればギロチンが、ギルドに捕まれば絞首台が待っていますわ。どちらにせよ、碌な死に方ではありませんわね」

「自分の命を人質に交渉ってどんだけだよ!?」

 

 オラリオは独立都市なのだから密入国も何もないだろとか、そもそも王女を処刑する国が何処にあるんだとか、ヘスティアとしては他にも言いたい事は山ほどあったが、このままでは埒が明かないとも思い、話を先へ進める事にした。

 

「それで? 何でまた家出なんてしたんだ? この際全部吐き出しちゃえよ、ボクが聞いてやるからさ」

「……父に、わたくしの意にそぐわぬ結婚を強要されたからですわ」

「何だ、案外普通だなぁ」

 

 平凡な理由だな、とヘスティアは拍子抜けしたように言った。

 

「政略結婚なんて珍しくもないだろう? そりゃ君にとっては一大事だろうけど、王家の次女や三女を他国の貴族の嫁に出すってのはよくある話さ」

 

 そういう意味では面白みに欠ける。別に他人の不幸を酒の肴にするような趣味は持ち合わせてはいないが、あっと驚くような理由を期待していたのも否定できない、とヘスティアは嘯く。

 そして、ヘスティアの挑発にまんまと乗せられたアイリスは、くわっと目を見開くと、溜まりに溜まった鬱積を吐き出し始めた。

 

「はぁ!? 珍しくもない? そんな台詞はあの肖像画を見た後なら絶対に言えませんわ。あそこまで醜悪な男、そうそう居りはしませんわ。寧ろ頻繁に居てたまるものですか。まあ、そういう意味では非常に珍しいですわよ。しかもわたくしとは一回りも二回りも歳が離れている始末。……でも、わたくしだけが特別不幸と言うつもりはありませんのよ。それでも、それでもですわよ? あの男と結婚すれば、毎晩あの男の夜伽をしないといけないのかと思うと……! その度にアレと結合しないといけないのかと思うと……! 下手をすれば数年後には下の世話までしなければならなくなるかもと思うと……! 逃げ出したくなるのも当然と思いませんこと!?」

「やめろォ!!」

 

 ヘスティアは耳を塞いで叫んだ。ヘスティアは処女神である。その手の話に耐性がない上、思わずその光景を想像してしまったのだ。

 だが、アイリスは止まらない、止められない。塞き止められていた水が流れ出すかの如く、激流に身を任せて呪詛を吐き続ける。

 

「大体何ですの……? わたくしをまるで貢物のように相手の要求通り差し出そうとするなんて……。――解っていますわ。わたくしを差し出す事で戦争を回避出来るなら、それで誰も泣かずに済むのなら、そうする事が正しいんだって事ぐらい、わたくしだって解っていますわ。娘一人の人生と、国民全員の生命――天秤に乗せるまでもなく、どちらが重いかなんて解りきっていますもの。でも……それでも……っ! 断って欲しかった、護って欲しかった……捨てないで欲しかった! たとえそれで国が戦禍に包まれる事になったとしても、王ではなく父として、わたくしを手放さないで欲しかった……!!」

 

 いや、それは呪詛などではなく、小さな子供の我が儘のようなものだった。

 頭では解っている。自分が度し難い利己主義者(エゴイスト)である事を。

 だが、頭で理解していても、感情が、心が、それを受け入れる事を阻むのだ。優しかった父が、自分に犠牲になる事を強いたという事実を、アイリスは未だに受け入れられずにいるのだ。

 そして、自分が逃げ出したがために、王国は今頃戦禍に包まれているのかもしれない。自分の身勝手のために、多くの人間が死ぬ。それは、自分の手で殺すのと何が違うと言うのだろうか。

 それでも、もう後戻りは出来ない。どれ程泣き叫ぼうと、時間は巻き戻ってはくれないのだから。

 いつの間にか、アイリスの目尻は真っ赤になって、頬は涙で濡れていた。そして、自分が何か温かくて柔らかいものに包まれている事に、幾許かの時を要してようやく気が付いた。

 

「ヘスティア様……?」

 

 アイリスはヘスティアに横から抱き締められていた。

 

「溜まっていた感情(もの)は全部吐き出せたかい? まだ泣き足りないなら、今日は大いに泣くといいさ。特別にボクの胸を貸してやろう」

 

 幼い容姿とは不釣り合いな豊満な胸に半ば無理やり顔を埋められ、アイリスは頬を真っ赤に染める。

 少し力を入れれば簡単に振り(ほど)けるのだろうが、アイリスは何故かそうする事が出来なかった。

 どれ程の時間そうしていただろうか。涙が止まり、目尻の赤みも引いた頃、アイリスはぽつりと小さな声で呟いた。

 

「……何だか……お母さんみたい」

「失敬な。ボクは処女だぞ」

「……ふふふっ」

 

 まだその声は若干上擦ってはいるが、笑えるくらいには心に活力が戻って来たらしい。そう判断したヘスティアは、アイリスから離れて机に身体を預けた。

 これで一件落着――のような雰囲気だが、実は何も問題は解決していない。それをアイリスも解っているが故に、儚げな微笑を浮かべる。

 

「取り乱して申し訳ありませんでしたわ。……やはりこんな面倒な女、ヘスティア様だってお断りですわよね」

 

 遠回りしてしまったが、全ての道がローマに通ずるように、結局はそこに辿り着く。ファミリアに入れるのか否か。答えは二つに一つ、イエスかノーかだ。

 しかし、答えが出る前にアイリスは諦めてしまっている。自分の素性を明かしてしまった時点で、アイリスの負けは確定しているからだ。

 厄介事を自分から好き好んで引き受ける人間なんてそうはいない。誰だって自分の身が可愛い。人間は、利己的な生き物なのだ。

 だが、アイリスは一つ重要な事を忘れていた。

 

「誰がそんな事言ったんだい? ボクはそんな事、一言も言っちゃいないぜ?」

「――――え?」

 

 ヘスティアは人間ではない。嘗て、十二神に名を連ねられない事を嘆いたとある神を哀れに思い、自らのその座を譲った慈悲深き女神である。その結果、周りからはニートなどと揶揄される事になった訳だが、本人は至ってのんびりとしたものだった。

 

「ボクを誰だと思ってるんだ? 炉の女神ヘスティアだぜ? そりゃ最初は驚いたけど、お姫様一人匿まえるくらいの度量は持ち合わせているさ。それに、君が王女だってバレなきゃ何も問題ない訳だしね」

 

 頼むぜアイリス(、、、、)君、とヘスティアは冗談めかして笑った。

 アイリスの視界がぼやける。それでも、もう涙は流さなかった。

 

「……バレなければ問題ないとか、色々と台無しですわね」

「幻滅したかい? でも、下界に降りて痛感したよ。綺麗事ばかりじゃ世の中回らないってね」

「いいえ、同感ですわ」

「なら、君の意思は変わっていないね? 言っておくけど、今更他のファミリアに入りたいって言っても逃がさないからな?」

 

 アイリスは大きく頷く。いつの間にか打算ではなく、心から彼女の眷属(ファミリア)になりたいと思っている自分に気が付きながら。

 

「よし、じゃあ上着を脱いでくれ」

「嫌ですわ、こんなところで柔肌を晒すなんて。出来れば……そう、ベッドの上で」

「君がどんな想像をしているのか知らないけど『恩恵』を刻むだけだからな!?」

「ふふふっ、冗談ですわ」

 

 嗚呼……そして、こんなにも楽しい。

 会話が止まり、衣擦れの音だけが微かに聞こえ始める。薄暗い室内でそんな音を聞いていると、女のヘスティアでも変な気分になってくる。

 

(やっぱりベル君を連れてこないで正解だった――って)

 

「お待たせしましたわ」

「何で下も脱いでるんだ君は~!?」

 

 ヘスティアが思わず叫んだのも無理はない。アイリスは何故か下着姿になっていたからだ。

 上下ともにレースをふんだんに使ったシースルー。更にショーツの下にはガーターベルトとストッキングまで身に付けている。そして、そのどれものが、夜の(とばり)のように黒一色だった。

 これで妖しく微笑んでみせさえすれば、美の女神ならずとも世の男共は軒並み陥落だろう。それ程までに艶めかしい姿である。

 突然降って湧いた貞操の危機に、ヘスティアは目を瞑ってガタガタと震え始めた。しかし、暫く経っても何も起こらない。恐る恐る瞼を開けてみれば、そこには頬を引き攣らせたアイリスがいた。

 

「何をしているのかしら……? 寒いのでやるなら早くしてほしいのですけど」

「アッハイ」

 

 冷静になって考えてみれば、アイリスが着ていたのはワンピースだった。

 ワンピース――言わずもがな、上下一体の衣服である。上を脱げば下も付いてくるのは当然だった。

 

「はぁ~……。それじゃあ、留め金も外してこっちに背中を向けてくれ」

「ええ、解りましたわ」

 

 アイリスは言われた通り後ろ手にブラのホックを外し、腕でブラを押さえながらヘスティアに背中を向ける。

 そして、ヘスティアはアイリスの背中に手を置き、『神の恩恵(ファルナ)』を刻み始めた。

 

(君は、どんな物語を綴るのだろうね?)

 

 染み一つない白い背に、徐々に漆黒の文字が刻まれていく。

 

(いや、この子はとても綺麗な声だから、歌った方が華やかでいい。楽曲は勿論――聖誕曲(オラトリオ)だ)

 

 やがて刻印が終わり、ヘスティアは告げる。

 

「さあ、これで君は晴れてボクの眷属だ。ようこそ、ヘスティア・ファミリアへ。歓迎するよ、アイリス君!」

 

 こうして今ようやく、少女の物語は幕を開けたのだった。




アイリスがファミリアに加入し、『姫と兎の聖譚曲』本格的に開幕です。

ところでお解りの通り、このヘスティアは神話補正増し増しです。オリュンポス十二神の名は伊達じゃない。原作と少し違うヘスティア様を楽しんで頂ければ幸いです。

次回は早めに投稿出来るようにします。


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09

『貴方にとって、魔法とは何?』

 

 そんな声が頭の中で響いた。落ち着いた女性の声だった。

 

「カボチャの馬車に決まっていますわ」

『即答ね……』

 

 声の主は苦笑する。

 

『本当にそう?』

 

 再度、声の主は問う。

 

『真面目に答えてね』

 

 更に念を押されてしまった。

 だから、アイリスは真剣に考えてみる事にした。

 

「わたくしにとっての魔法」

 

 だが、答えは直ぐに出た。

 

「盾……かしらね」

『盾?』

 

 怖がらせるもの、傷付けようとするもの、それら全てから護ってくれる強固な盾だ。

 

『お父さんのように?』

「ええ、お父様の代わりに」

 

 普段なら出るはずもない本音が、何故だかスッと出た。きっと、夢の中だからだろう。

 そう、これは夢。もう直ぐ目が覚める。

 声の主は何か言いたげだったが、言葉を呑み込んだようだった。代わりに、三度(みたび)問い掛ける。

 

『護りたいものは、自分だけ?』

「いいえ。悪い商人に騙されそうな少年と、お人好しの女神様――わたくしに優しさを向けてくれた、あの二人を護りたい」

 

 アイリスがそう答えると、声の主は満足そうに微笑んだような気がした。

 

     ×     ×     ×

 

 ヘスティアと眷属(ファミリア)の契りを結んだ翌朝、アイリスはファミリアのホームである廃教会の隠し部屋を訪れていた。

 昨夜、ベルにアイリスがファミリアに入団した事を報せると、ベルは満面の笑みを浮かべて喜んだ。そして、早速明日にでも二人で迷宮(ダンジョン)に潜ってみようという話になった。取り敢えずの目的は、互いの戦力や戦術の把握である。折角パーティーを組んでも、それが解らなければ連携の取りようがない。今後の為にも、互いの戦力や戦術の把握は急務だった。

 ソファーに座り、アイリスはカップに注がれたグリーンティーを啜る。ヘスティアの神友であるタケミカヅチから譲られた極東産の茶葉から抽出したものらしい。独特の渋味に、アイリスは顔を顰めた。

 

「……正直、わたくしの好みではありませんわね。ところで、先程からわたくしに熱い視線を注がれているようですけど、明るいうちからそのような行為に及ぶのは、わたくしはどうかと思いますわ。けれど、ヘスティア様がお求めになるなら、わたくしは一向に構いませんわよ?」

「ボクが構うよ! そうじゃなくてだなぁ~……。君、ホントにその恰好で迷宮に行くつもりかい?」

 

 ヘスティアが訝しむのも無理はない。アイリスが着ているのは、鎧でもなければギルド支給の軽装でもなく、赤と黒を基調にした風変りなドレスだったからだ。

 背中が大胆に開き首や胸元も露わになった上衣に、肘まである長手袋。スカートの丈は膝が隠れる程度で、ストッキングを履いている。靴はロングの編み込みブーツだ。防具になるような部分は一切見当たらない。これから行くのは迷宮ではなく舞踏会だと言われた方がまだしも納得出来る。

 しかし、アイリスも馬鹿ではない。アイリスにはアイリスの考えがあった。

 

「わたくしは射手(シューター)ですもの。間合いに入られた時点で殆ど負けみたいなものですわ」

「射手ぅ? 君の得物は弓矢なのかい? ボクには変わった形の棍棒にしか見えないけど?」

 

 ソファーの横に立てかけられた武具を見て、ヘスティアは胡乱げな目付きをする。

 

「見えているものだけが真実とは限りませんわ。実際、スカートに隠れて見えませんけど、太腿にダガーの入ったホルスターを巻き付けていたりしますのよ?」

 

 そう言って、アイリスはスカートをちらりと捲ってみせた。

 

「それと同じように、この棍棒にも種が仕掛けてありますの。何が隠れているのかは、開けてみるまでのお楽しみですわ」

「君は奇術師(マジシャン)か何かか!? ……まあ、君がそこまで言うならそれに付いては目を瞑ろう。問題はこっちだ!!」

 

 柳眉(りゅうび)を逆立てたヘスティアは、アイリスの結われた黒髪を指差して叫んだ。

 

「何でよりにもよってツインテールなんだよ!? キャラが被るじゃないか!!」

 

 昨夜は確かに下ろしていたはずのアイリスの長髪が、赤いリボンによって二房に結われていたのだ。知らない人間が二人並んでいるところを見れば姉妹と勘違いしそうである。

 

「良いではありませんの、良いではありませんの。ふふふっ」

「良くな~い!!」

 

 そんな女性二人の姦しい会話を朝食の支度をしながら聞いていたベルは、自分の頬が自然と緩むのを感じた。

 

(一時はどうなる事かと思ったけど、二人とも仲良さそうで良かった)

 

 ベルにとってファミリアは家族だ。

 オラリオへと来る前に、ベルは育ての親である祖父を亡くしている。住んでいた農村の近くで魔物(モンスター)に襲われ殺されたのだ。その場に居合わせなかったベルは、村人から祖父の死をただ呆然と聞く事しか出来なかった。

 あの時の喪失感と無力感を今でも鮮明に覚えている。独りは耳が痛くなるほど静かなのだ。自分は孤独なのだと否応にも理解させられる。だから、この騒がしさがベルには嬉しかった。

 

「神様~アリスさ~ん! ご飯出来ましたよ~!」

 

 コンロの火を止めて、フライパンからカリカリに焼いたベーコンと目玉焼きを皿へと移す。ベルが朝食に作ったのはベーコンエッグだった。アイリスほど凝ったものは作れないが、簡単なものならベルにも作れる。

 

「わたくしも運ぶのお手伝いしますわ」

 

 いつの間にか背後に立っていたアイリスがそう言って、ライ麦パンの入ったバスケットと皿を一枚ひょいと持ち上げた。

 

「……っ!?」

 

 ベルは思わず息を呑む。アイリスが前屈みの姿勢になった為に、彼女の白いうなじと【神聖文字(ヒエログリフ)】の刻まれた背中が目に留まったのだ。自分にだって同じものが刻まれているはずなのに、アイリスのそれは彼女の服装と相まって頽廃的な色香を放っているように感じられた。

 

(な、何を考えてるんだ僕は……!!)

 

 邪な考えを振り払うかのように、音が出そうな勢いでベルは首を左右に振った。けれど、頬の赤みは増すばかりだ。そんなベルをアイリスは心配そうに見詰める。

 

「べ、ベル……?」

「だ、大丈夫です。ありがとうございます。冷めないうちに食べましょう!」

 

 そう言って、ベルが残りの皿を持って慌てて振り返ると、頬を大きく膨らませたヘスティアと目が合った。

 

「ベ~ル~く~ん?」

「ご、ごめんなさい神様ぁ~!」

 

 訳も解らず反射的に謝るベル。結局、食事が始まったのはそれから三〇分後の事だった。



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10

「それじゃあベル君、くれぐれも気を付けて行って来るんだよ? くれぐれも、ね」

 

 くれぐれも、を執拗に強調して言うヘスティアに、アイリスは苦笑する。

 ヘスティアはベルを誘惑でもするものと思っているようだが、それは杞憂というものだ。流石に、戦場でふざける馬鹿は何処にもいない。

 

「はい! じゃあ、アリスさん行きましょうか」

「ええ。ではヘスティア様、行って参りますわね」

 

 二人連れ立って部屋を出て、階段を上っていく。その先にあるのは本棚の連なった薄暗い小部屋だ。この小部屋の最奥の本棚の裏に、短いながらも地下へと続く階段はある。

 どういう意図を持って教会の地下に隠し部屋など造ったのだろう。裏で密教でも信仰していたのだろうか。アイリスはそんな事を考えながらベルの背中に続いて行く。

 そして、祭壇の前まで来たところで、アイリスは急に立ち止まった。

 

「ちょっとお待ちになってくださいまし」

「どうしました!?」

 

 ベルは慌てて振り返ったが、アイリスに特に変わった様子はない。

 

「少々お時間をいただいても?」

「それは勿論いいですけど……」

 

 ベルは首を傾げた。一体、こんなところで何をするつもりなのだろう。そんな無言の問い掛けに、アイリスは微笑を浮かべる。

 

「お祈りですわ」

 

 短くそう言って、アイリスはひび割れた床の上に膝を付き、瞼を落として手を組んだ。朝の暖かな光に照らされたその姿は、まるで高名な画家が描いた絵画のようである。

 

「何をお願いしたんですか?」

「今日も一日無事に過ごせますように、と。実はオラリオに来てからは、毎朝ここで祈りを捧げるのが日課になっていて……ベルがこの廃教会を出入りしているのは以前から知っていましたわ」

 

 瞼を開けて立ち上がったアイリスは、そう言って悪戯っぽく笑った。

 

「そうだったんですか」

「居住空間が何処かにあるのだろうとは思ってましたけど、そこをファミリアのホームにしているとは予想外でしたわ。それに、もう一人出入りしていた可愛らしい女の子が、まさか神様だったなんて」

「ああ、僕も初めて神様に会ったときは迷子の女の子かと思いましたよ」

 

 アイリスとベルは顔を見合わせ、同時に小さく吹き出した。

 悪いと思いつつも一頻り笑った後、二人は迷宮(ダンジョン)に向かって歩き始めた。

 

     ×     ×     ×

 

 人類が持ち得る、最も優れた武器とは何だろうか。

 何者をも斬り伏せる剣だろうか。何人(なんぴと)も寄せ付けない盾だろうか。それとも、本人の腕力か。はたまた、魔法か。少なくともアイリスは、そのどれもが違うと考える。

 人類が持ち得る、最も優れた武器――それは知恵だ。

 人類の始祖たるアダムとイヴは、知恵の木の実を食べてしまったが為に楽園を追放されたのだという。

 他の動物よりも身体能力が劣った人類に唯一優れた点があるとすれば、知恵を持つ事以外に他ならない。より凶悪な魔物(モンスター)と相対するのならば、知恵を絞って然るべきだ。

 だがある日、神々が地上に降りてきた。神々は人々を己の眷属(ファミリア)にし、彼らに神の恩恵(ファルナ)を与えた。

 人類は、嘗てないほどの強大な力を得た。それ自体を否定するつもりはアイリスにもない。だが、別の視点に立って見れば、人類の足元には巨大な落とし穴が掘られた事にやがて気が付く。

 穴の中心には蟻地獄。力に溺れ、考える事を止めた者たちを待ち構えて貪り食う。

 

「ベル、前方から『ゴブリン』が五体やって来ますわ」

 

 アイリスのルベウスの瞳は、遠く離れた暗がりにいる標的を正確に捉えていた。光源の殆どない夜間戦闘を熟す度に、夜目が鍛えられていったお蔭だろう。

 アイリスとベルは予定通り迷宮に潜っていた。現在位置は一階層の中間付近。他の冒険者が通った後らしく、ここまで魔物と一切出くわさなかった。

 

「まだ僕らに気付いてないみたいですし、チャンスですよ!」

 

 そう言って、先手必勝とばかりに走り出そうとするベル。しかし、アイリスはベルの上着の襟首を掴んで引き寄せる事でそれを制した。

 

「ぐぇっ……! あ、アリスさん……?」

「いえ、ここは一旦下がりましょう」

 

 アイリスに促される形で二人は来た道を足早に戻り、曲がり角を曲がったところでアイリスは立ち止まった。

 

「どうするつもりですか?」

「このまま『ゴブリン』がこちらへ近付いて来るのを待ちますわ。ここは死角になっていますから、奇襲をかけるには打って付けでしてよ」

「でも相手は――」

「たとえ『ゴブリン』が相手でも、決して油断してはいけませんわ。幾ら加護を受けているとは言っても、所詮わたくしたちは人間――転んだだけで打ち所が悪ければ死んでしまう……そんな、とてもか弱い存在なのですから」

 

 冒険者の死因の五割は不注意という名の慢心だというのがアイリスの分析だった。なまじ【ステイタス】によって身体能力が強化されている為に、冒険者の多くが自分はそう簡単に死ぬわけがないと高を括ってしまう。ところが、人間というのは驚くほど簡単に死ぬ。それは、神の恩恵を得たところで変わりはしない。

 だからこそ、死なない為に万全を期す。敵がどれだけ弱くても策を弄する。獅子は兎を狩るにも全力を尽くすとは、つまりはそういう事なのだ。

 アイリスは後ろ手にウエストポーチの中から薬包(カートリッジ)を取り出し、相変わらず妙に艶めかしい吐息を漏らして噛み千切る。そして、手順通りに素早く弾薬と弾丸を詰めていった。

 出来る事なら迷宮に踏み込む前から装填しておきたいところだが、暴発を防ぐ為にも弾丸は発砲の直前に込めるのが望ましい。

 一方、ベルは通路へ顔を僅かに出して警戒を続けていた。

 

「アリスさん、『ゴブリン』がもうすぐそこまで……!」

「距離は?」

「え~っと……多分、一〇メートル弱だと思います」

「了解ですわ。わたくしも準備が整いましたし、そろそろ仕掛けましょう」

 

 アイリスの落ち着いた声にベルは頷き、短刀を握る手に力を込めた。

 アイリスが小石を通路に向かって投げる。小石は放物線を描き、『ゴブリン』たちの頭上を越えて彼らの背後に落下した。

 カラーンという音が周囲に反響する。背後に得物がいると誤認した『ゴブリン』たちは一斉に振り返った。その隙を逃す事なく、ベルは通路へ躍り出る。

 

「せあっ!」

『グボァ!?』

 

 気付いたときにはもう遅い。振り向きざまに胴を斬り裂かれ、崩れ落ちていく『ゴブリン』。残りの四体は、何が起こったのか解らないといった様子で恐慌状態に陥った。

 

「ふふっ。無様ですわね」

 

 冷たい笑みを顔に貼り付け、アイリスは無慈悲に引き金を引いた。

 

「ご愁傷様」

『パンッ』

 

 炸裂する火薬。撃ち出される弾丸。穿たれる頭部。飛び散る脳漿(のうしょう)。悲鳴を上げる間もなく、『ゴブリン』はドシャリと血の海に沈んだ。

 生まれて初めて聞く銃声と死体の有り様にベルはギョッとするが、構わず三体目に向けて短刀を振るう。混乱していた『ゴブリン』たちも流石に態勢を立て直していた。

 

「アリスさん!!」

 

 残りの二体がアイリスに一斉に飛び掛かる。コイツは危険だ、という本能に従った結果だった。

 『ゴブリン』の一体が荒削りの棍棒を振りかぶった。ネイチャーウェポンと呼ばれる迷宮が作り出した武器の一種だ。迷宮は、生きている。

 

「ふっ、甘いですわ」

 

 迫り来る棍棒。勢い良く振り上げられる右足。両者が激突し、『ゴブリン』の手の中で棍棒が砕け散った。

 

『グァ!?』

 

 緑色の顔が驚愕に染まる。一体、その細い足の何処にそんな力があるというのか。

 アイリスは昨夜ヘスティアの眷属になったばかりだ。故に、【ステイタス】は白紙も同然。つまり、身体能力は常人と同じ――いや、寧ろ劣っているとすら言っていい。

 ならば、どうやって棍棒を蹴り砕いたのか。そこには必ず、種が隠されている。

 

「止めですわ!」

 

 アイリスは、武器を失い放心している『ゴブリン』の横顔に回し蹴りを叩き込んだ。ミシリと嫌な音が鳴り、床の上をゴム鞠のように転がっていく。

 種を明かせば、アイリスのブーツの爪先には鉄板が仕込んである――という、只それだけの事だった。まあ、手品というものは、種さえ解れば総じて下らない。

 

『グラァッ!!』

 

 残る最後の一体となった『ゴブリン』が、それこそ最期の悪足掻きとばかりにアイリスに掴み掛ろうとした。アイリスは、それを冷めた目で見詰める。

 

「残念ながら、当店はお触り厳禁ですわ」

 

 次の瞬間、アイリスへと伸ばした掌にダガーが深々と突き刺さった。先ほど棍棒を砕く為に足を振り上げた際に、太腿に巻き付けたホルスターから抜いておいたダガーを投擲したのだ。

 だが、刺さったのは掌だ。動くには支障がないはずだった。それなのに、

 

『ギョボァァァァッ!!』

 

 口から泡を吹きながら、断末魔の悲鳴を上げてのた打ち回る『ゴブリン』。

 ダガーの切っ先には、激痛を伴って死に至る猛毒が塗ってあった。アイリスが手袋を履いているのは、万が一にも毒を自分の体内に入れない為だ。

 やがて『ゴブリン』は動かなくなった。どうやら絶命したらしい。

 迷宮に静寂が戻り、アイリスはベルの方を振り返った。

 

「さて、これで無事戦闘は終わったようですけど、わたくし『魔石』の取り外し方が解らなくて……。ご教授お願い出来まして?」

 

 だが、ベルの返事がない。アイリスは可愛らしく小首を傾げた。

 

「……? ベル? 顔色が優れないようですけど、具合が悪いなら今日はもう帰りましょうか?」

 

 実際、ベルは蒼白い顔をしていた。額にたっぷりと汗を掻き、頬は引き攣っている。

 

「いえ、大丈夫です。……大丈夫です」

 

 この日、少年は心の中で固く誓った。絶対に、この女性(ひと)を怒らせはしない、と。




単位がメドルではなくメートルなのは仕様です。


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11

お盆休みという事で、今週二度目の更新です。


 夕刻。迷宮(ダンジョン)から帰還したアイリスとベルは、そのまま真っ直ぐギルドの換金所を訪れていた。

 団長兼パーティーリーダーであるベル――アイリスが頑なに固辞した為無投票当選した――が代表して窓口へと行き、本日の戦果である『魔石の欠片』やドロップアイテムと引き換えに金貨の入った麻袋を受け取る。

 その場で袋を開いて金貨の枚数を確認したベルは大きく目を見開き、何かの間違いじゃないかと頬を抓った。

 

「……痛い」

 

 痛い。つまり、この光景は夢ではなく、確かな現実だという事だ。

 そう確信したベルは、少し離れたところで壁に背を預けて待っているアイリスの元まで急いで戻り、開口一番歓喜の声を上げた。

 

「凄いですよアリスさん! 二〇〇〇〇ヴァリスですよ! 二〇〇〇〇ヴァリス!!」

 

 Lv.1の五人組パーティーが一日掛けて稼げる額が大体二五〇〇〇ヴァリスと言われている。つまり一人頭平均五〇〇〇ヴァリスという計算になる。

 対して、アイリスとベルが今日稼いだ額は端数飛ばして二〇〇〇〇ヴァリス。計算するまでもなく、一人頭一〇〇〇〇ヴァリス稼いだ事になる。『魔石欠片』の大きさやドロップアイテムの個数など運が絡んでいる部分もあるが、それも引っ括めて今日二人は一般的な冒険者の二倍の戦果を上げたのだ。

 ソロだった頃の稼ぎが微々たるものだったベルにとって、これは間違いなく快挙である。

 

「凄いです! 今夜はご馳走ですね!」

 

 満面の笑みで喜ぶベル。対して、アイリスは何故かアンニュイな表情を浮かべている。

 不思議に思ったベルは、毒物の件もあって恐る恐る尋ねた。

 

「あ、アリスさん? 嬉しくないんですか……?」

「……! い、いえ……決して、そんな事はないのですよ? 只……」

 

 ハッとしたアイリスは、やがて取り繕うように苦笑する。

 

「危険と隣り合わせな割に意外とシビアというか、世知辛いというか……。お金を稼ぐというのは大変な事なのですわね」

「……アリスさん、もしかして――」

 

 シビアという言葉の意味はベルには解らなかったが、彼女の発言がある事実を明確に物語っている事に気が付いた。

 

「――働くの、これが初めてなんですか?」

 

 言葉遣いや身形の良さから察するべきだった。ベルは今、アリス(、、、)の正体を知った。

 一方、アイリスは内心冷や汗をかいていた。まさか、ベルは自分の正体に気付いたのではないか、と。

 ベルが口を開く。言わせてはいけない、とアイリスは咄嗟にベルの口を塞ごうとした。だが、一歩遅かった。

 

「アリスさん――貴族だったんですね!?」

「――……え?」

「どうして教えてくれなかったんですか!? やっぱりでっかいお屋敷に住んでたりしたんですよね!?」

 

 目を輝かせて尋ねてくるベルを見て、アイリスは小さく安堵の溜め息を吐いた。

 

「いえ、そんな大層なものではありまんわ。――それより、ご馳走で思い出したのですけど、ヘスティア様は今夜ご友人主催のパーティーに出席されるそうで、理由は解りませんけど数日は帰れないかもしれないと仰っていましたわ。ベルはご存知でして?」

「い、いえ……今初めて聞きました」

「今朝はバタバタとしていましたし、恐らく伝え忘れたのでしょうね」

 

 どうやら、上手く話題を逸らす事に成功したらしい。アイリスは肩を竦めて続ける。

 

「実は昨夜、神の恩恵(ファルナ)を刻んだ後に出来ればドレスを貸してほしいと頼まれましてね。何でも急遽参加する事になったらしくて、衣装を用意する事が出来なかったそうですわ」

「そうだったんですか。……あれ?」

 

 ベルはアイリスの話に微かな違和感を覚えた。だが、その理由が解らず首を傾げる。

 

「どうかしまして?」

「え? ああ、いえ。――それじゃあ夕食はどうしましょうか? 本当は今日、アリスさんの歓迎会をしたかったんですけど」

 

 結局違和感の正体は解らず、ベルは気のせいだったと無視する事にした。

 

「あら、それはとても嬉しいですわ。では折角ですし、今夜は外食にしましょうか。ヘスティア様だって今頃美味しいものを食べてる事でしょうし、文句はないはずですわ」

「そうですね。なら、『豊穣の女主人』にしませんか? 実は昨日の朝、店員さんに夕食を食べに行くって約束したんですけど、結局食べ損なってしまったので」

 

 打算がありつつも、自分の朝食を快く譲ってくれたシル・フローヴァの顔をベルは思い出す。

 

「そうだったのですか。なら、異存はありませんわね。責任の一端はわたくしにあるわけですし」

「いやいや! だったらその原因をつくったのは僕ですよ!」

「ふふっ……本当に、ベルは優しいですわね。それでは、お詫びの代わりに沢山注文しましょうか。恥ずかしながらわたくしお腹がペコペコなんですの」

 

 そう言ってアイリスは微笑み、ベルは顔を真っ赤に染めた。

 

     ×     ×     ×

 

 アイリスとベルが『豊穣の女主人』へ向かっている頃、ヘスティアはガネーシャ主催の『神の宴』に参加する為、【ガネーシャ・ファミリア】の本拠である『アイアム・ガネーシャ』にいた。

 

「あ、これ美味しい」

 

 ヘスティアはウェイターに勧められた赤ワインの入ったグラスを傾けつつ、周囲をきょろきょろと見回して目当ての人物がいないかどうか捜す。

 

(え~っと……ヘファイストスは何処にいるのかな?)

 

 ヘスティアが急遽『神の宴』に参加する事にしたのは、神友であるヘファイストスにある頼み事をする為だった。ヘファイストスは仕事熱心で、広大な都市の中をしょっちゅう飛び回っている。その為、こんな場でもない限り会う事すら難しい。

 ところで、ヘスティアはヘファイストスを捜すのに意識を集中している。その為、自分の周りが俄かにざわつき始めている事に気が付かなかった。

 

『お、おい……あれってロリ巨乳だよな……?』

『マジかよ……あいつドレス着てるぞ』

 

 ヘスティアは目立っていた。オラリオにおいては貧乏神で有名なヘスティアである。そんな彼女がドレスを着ているのだ。それだけでも充分驚くに値するが、髪を下ろして薄く化粧をしたその姿は普段のヘスティアからは想像も付かないほど大人びて見えた。おまけにヒールなんか履いていれば尚更だ。

 

『ヘスティアが着てるドレスって結構いい物よね? 誰かからのプレゼントかしら?』

『あんな風に背中を大胆に開けたドレスは見た事がないわ。何処の店で買ったのかしら?』

 

 とある女神も似たようなドレスを着ているが、アレとこれを同列に扱うわけにはいかない。

 

『それにしても、裾がズタズタなのはそういうデザインなの?』

『そういうデザインなんでしょ。折角のドレスを誰が好き好んで引き裂くっていうのよ?』

 

 当初は男神の困惑の声だったのが、いつしか女神のドレス論評に変化していた。ヘスティアも流石にその頃になると、自分が会話のネタにされている事に気が付いていた。

 

(いや、あの子が躊躇なく引き裂いたんだけどね……)

 

 ヘスティアは昨夜の出来事を思い出す。

 王女様ならドレスの一つや二つ持って来ているのではないか、という思い付きが切っ掛けだった。アイリスに確認してみると、本当に幾つか寝室のクローゼットに掛けてあるのだという。

 夜会に出席する為にドレスを貸してほしいと頼み込むヘスティアに、アイリスは笑みを浮かべて快諾した。

 

「夜会に着ていくならイブニングドレスですわよね? まあ、元々わたくしが持って来ているドレスはホルターネックのものしかありませんけど」

 

 そう言ってアイリスが取り出したのが、ヘスティアが今現在着ている黒色のバックレスドレスだった。

 しかし、実際に試着してみるという段階になって、今更ながらに致命的な問題点がある事に二人は気が付いた。

 

「……裾、凄く余りますわね」

 

 バストやウエストは特に問題なかったものの、ロングのスカート丈だけはどうしようもなかった。考えてみれば、二人の身長は二〇センチ近くも違うのだから裾が余るのは当然である。

 

「このまま引き摺って歩くわけにもいきませんし、かといって仕立て屋に出している時間もない……。仕方ありません、思い切って切ってしまいましょう。……ふふっ。ああ、ここは笑うところですわよ?」

「全然笑えないよ!!」

 

 だが、素人がそんな事をすればドレスが台無しになってしまう。そこでアイリスが考え付いた奇策が、裾を態とズタズタにするというものだった。

 

「こうしてビリビリに破けばパンクっぽいでしょう? きっと元々そういうデザインなのだと勝手に勘違いしてくださいますわ」

「ちょっとはその行為に躊躇いを覚えろよ!!」

 

 だが、そんなヘスティアの叫びも虚しく、アイリスのナイフによって高価なドレスは無残に引き裂かれていったのだった。

 

「はぁ~……」

 

 思い出しただけで胃が痛くなってくる。このドレスが幾らするか考えていると食欲も消え失せていった。これが、ヘスティアが先ほどからワインしか飲んでいない理由である。

 

「思い切りがいいと言うか何と言うか……。あれがブルジョアってヤツなのか?」

 

 アイリスは気前良くこのドレスをプレゼントしてくれたが、これではどちらが主なのか解らない。完全に主従逆転である。

 

「はぁ~~……」

「溜め息など吐かれてどうされたのです?」

 

 重い溜め息を漏らすヘスティアに、突然そんな声が掛けられた。

 声のした方に目を向けてみれば、柔らかそうな金髪を首の辺りまで伸ばした細身の男神がこちらへ近付いてくる。

 

「ディオニュソス……? ディオニュソスじゃないか!」

「お久し振りですね、伯母上。今日は一段とお美しいです」

 

 そう言って、邪気のない笑みを浮かべたのはディオニュソス。オリュンポス十二神の一柱にしてヘスティアの甥であった。




最近はのんのんびよりが心の癒しで、ニコ生のEDで発狂コメ打ってる者の一人です。日常系アニメが特別好きなわけではないのですが……変ですね。もののあはれ。

因みにディオニュソスですが、彼はソード・オラトリアの方に登場するキャラです。原作では今のところヘスティアとの絡みは一切ないですけどね。

感想に付いてですが、全て拝読しています。ネタバレ等の理由で返信出来ていないものもありますが、ご理解頂けますようお願いします。

最後に、次回更新は通常通り十九日水曜日となります。それでは、また次回。


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12

「珍しいですね、伯母上がこういった場所に来るなんて」

 

 ディオニュソスは意外そうに言う。そこに悪意は一切ない。実際、彼は心底驚いていた。

 

「伯母上はこの様な騒がしい催しはお嫌いなのかと思っていました」

 

 ディオニュソス自身も神ではあるが、伯母であるヘスティアを神聖視しているところがあった。その為、ヘスティアの言動を勝手に良い方向に捉えてしまう。

 

「どうしてそう思ったのか知らないけど、ボクは別に賑やかなのは嫌いじゃないよ」

「そうだったのですか。という事は、当然フィリア祭にも?」

「うん、一応顔は出すつもりだよ。そもそも今夜の宴って、ガネーシャがフィリア祭の協力を要請する為に開いたものだろう? でも、どうだろうなぁ? ちょっとまだ行けるかどうか解らないよ」

 

 怪物祭(モンスターフィリア)が開催されるのは例年通りの三日後。それまでにヘファイストスが頼み事を聞き入れてくれれば問題なく行けるだろうが、そうでなければ無理だ。ヘスティアに、諦めて帰るという選択肢はない。

 

「……そうですか。――ああ、そのワイン」

 

 ディオニュソスの視線が、ヘスティアの持つワイングラスに注がれる。

 

「実はこのワイン、デメテルのところのファミリアが栽培した葡萄を使っているそうですよ。ご存知の通り、私は少々ワインには五月蝿いですが、このワインは本当に美味しい。これが目に留まるとは、流石伯母上です」

 

 実際はウェイターに勧められるがままに受け取っただけなのだが、否定したところでディオニュソスには謙遜と受け取られる。長い付き合いもあって、その程度の事はヘスティアにも簡単に予想する事が出来た。なので、態々訂正はしない。

 

「デメテルも来てるのか。……ん? いや、ちょっと待つんだ」

「どうかしましたか?」

 

 デメテルは、ディオニュソスと同じようにオリュンポス十二神の一柱ではあるが、ヘスティアにとっては同時に妹でもある。つまりは、

 

「ディオニュソス。君、デメテルの事を何て呼んでる?」

「デメテルですが」

「じゃあ、ボクの事は?」

「伯母上、と」

「………………」

 

(デメテルだって君にとっては伯母だろうがぁぁぁぁ!!)

 

 流石に衆人環視の前で叫ばないくらいには分別があるヘスティアだが、心の中の絶叫までは止める事が出来なかった。

 

「何でデメテルは呼び捨てで、ボクの事は伯母上なんだよ?」

「……?」

 

 何を当たり前な事を言い出すんだ、とでも言いたげな顔をするディオニュソス。ヘスティアは内心イラッとした。

 

「伯母上は伯母上でしょう? それ以上はあっても以下はない」

「それ以上って何だよ!?」

「それに、アテナだって伯母上の事を伯母様と呼んでいたはずですが?」

「そ、それは……!」

「アルテミスもそう呼んでいますし、差異はあれ、基本的に皆伯母上と呼んでいますよ。まあ、例外もいますが」

 

 ディオニュソスは冷静に事実だけを述べた。

 

「うっ……」

 

 ヘスティアの完敗だった。もしここでディオニュソスに伯母と呼ぶのを止めろと言えば、他の甥や姪たちにも同じ事を言わなければいけなくなる。そもそも、長年染み付いた呼称を今更改めろと言う方が無理があるのだ。

 すると突然、ディオニュソスが笑みを消し、表情を引き締めた。周りには聞こえないほどの声量で小さく囁き始める。

 

「ところで伯母上、これはまだ正確な情報ではないのです――が!?」

 

 だがその途中で目を見開き、驚きの声を上げるディオニュソス。まるで幽鬼でも見たかのようだ。

 

「す、すみません伯母上。急な用を思い出しました。これで失礼する事をお赦しください」

 

 そう早口で捲し立て、人混みならぬ神混みに消えていこうとするディオニュソス。しかし、最後に振り返り、

 

「伯母上、今のオラリオは危険です。どうかお気を付けください」

 

 そんな意味深な忠告を残して、ディオニュソスは今度こそ神混みに紛れて見えなくなった。

 

(オラリオが危険? そんなのいつもの事なんじゃ……?)

 

 しかし、ディオニュソスの真意が解らない以上、ヘスティアには身辺に気を付ける程度の事しか出来そうにない。

 

「何よ、あいつ。私の顔見るなり逃げ出すとか失礼にも程があるでしょ。あんたもそう思うでしょ、ヘスティア?」

 

 振り返ると、そこに立っていたのは右目に大きな眼帯をした麗人だった。髪も瞳も燃えるような紅で、ドレスの色もそれに合わせている。彼女こそが、ヘスティアの捜していた人物だ。

 

「ヘファイストス!」

「ええ、久し振りヘスティア。驚いたわ……見違えたじゃない」

「ああ、これかい? 実は新しく眷属(ファミリア)になった子に貰ったんだ」

 

 ヘスティアが胸を張って言うと、何故かヘファイストスは天を仰ぎ見て溜め息を漏らす。

 

「嘘でしょ……? あんた、遂に子供たちにまで集り始めたの?」

「し、失敬な! プレゼントだよプレゼント!」

「そう、ならいいけど」

 

 流石にヘファイストスも、ヘスティアがそこまで堕ちていると本気で思っていたわけではない。冗談を早急に取り下げたのは話題を戻す為だ。

 

「で、さっきの質問の答えは?」

「……ヘファイストス、君まだディオニュソスの事怒っているのかい?」

「別に私は怒ってなんかいないわよ。あいつが勝手に逃げるだけよ」

 

 だが、言葉とは裏腹に、その声は怒りに満ちている。

 

「私は只、あいつが他の女神たちには紳士みたいに思われているのが気に喰わないだけ。女を酔わせて連れ去ろうとするなんて下衆のする事よ」

「やっぱり怒ってるんじゃないか! ディオニュソスはあの時、ああする以外の方法を思い付けなかったんだ。いい加減に許してやってくれないか? 頼む、ボクの顔に免じて!」

「誰の顔に免じるって? あんた、自分が私にどれだけ借りつくってるのか解ってて言ってる?」

「うっ」

 

 それを言われると、ヘスティアは二の句が継げなくなる。

 そもそも、現在ヘスティアとベルの住居兼【ヘスティア・ファミリア】のホームとなっている廃教会はヘファイストスの持ち物だった。それを雨風が凌げる場所を発見出来ないと泣き言を言うヘスティアに無償で譲渡したのだ。

 これ以上例を挙げればキリがなくなるので割愛するが、ヘスティアがヘファイストスに多数の借りをつくっているのは紛れもない事実だった。

 

「大体、あんたは自分に子供がいないからって、昔からディオニュソスに甘過ぎるのよ。いいえ、ディオニュソスに対してだけじゃないわね。他の姪っ子や甥っ子たちにも甘々。なのに、何で私に対してだけは甘くないのかしらね? やっぱり、私もヘスティア伯母さん(、、、、)って呼ばないと駄目なのかしら?」

「止めろォ!!」

 

 ヘスティアとヘファイストスは神友であるが、実は同時に伯母と姪でもあったのだ。天界の世間は地上に比べて驚くほど狭い。

 

「オバサンなんて酷いわね、ヘファイストス。ヘスティアなんてこんなに肌モチモチなのに」

「いや、そういう意味で言ったんじゃないから」

「……?」

「ふ、フレイヤっ?」

 

 いつの間にそこに立っていたのか。ヘファイストスとの会話に夢中で、自己主張の塊のような彼女の存在にヘスティアは気が付かなかった。

 容姿の優れた神たちの中でも一際整った美貌。銀糸のような長髪に、黄金律を体現したかのような完璧なプロポーション。女性の美徳と悪徳を全て内包するとされる女神フレイヤである。

 

「いいドレスね、ヘスティア。眷属の子に貰ったそうだけど……その子、とてもセンスがいいと思うわ。是非とも一度会ってみたいわね」

「そ、そう……」

 

 どうやらフレイヤは、贈り主であるアイリスの美的感覚にシンパシーを感じているらしい。

 

(不味い……嫌な予感がする……!)

 

 厄介な事に、神の勘というのは良く当たる。

 フレイヤは美に魅入られた女神だ。異性同性を問わず、自らの美貌を持って相手を『魅了』する事が出来る。

 『魅了』された者は、『魅了』した者に意のままに操られる。自分が命令に従っている事に疑問を持つ事もない。

 相手の心を支配し、束縛する。それが、美の神の歪んだ愛の形だ。

 そしてアイリスにも、他者を『魅了』する才能があるとヘスティアは思っている。勿論、美の神のソレとは雲泥の差があるだろう。しかし、他者の心を惑わせるという意味では同じ事だ。

 朱に交われば赤くなるという。だから絶対に、アイリスはフレイヤと関わってはいけない、とヘスティアは思う。

 偽りの愛ほど哀しいものはない。アイリスを護る為にも、彼女の才能を開花させるわけにはいかないのだ。

 それに、それらを抜きにしても、ヘスティアはフレイヤが苦手だった。美の神というのは、総じて食えない性格をしている。関わらないのが吉だ。

 

「やっぱり血筋かぁぁぁ!?」

 

 どうやってフレイヤの興味を逸らそうか。そう考えていたヘスティアの耳に、聞き覚えのある声が耳に届いた。

 

「げっ」

 

 ヘスティアの口から心底嫌そうな声が漏れる。

 ヘスティアの視界に入ったのは朱色の髪と同色の瞳。髪を夜会巻きにし、細身の黒いドレスを纏っていた。

 

「あっ、ロキ」

 

 ヘファイストスもその存在に気付き声を発する。

 現れたのはロキ。天界一のトリックスターにしてヘスティアの天敵である。

 だが、今夜のロキは、普段の飄々とした態度とは明らかに違った。

 

「何でドチビがドレス着とんねん!」

「ボクがドレス着てたら悪いのか!?」

「悪いわボケ! 折角笑いに来てやったのにとんだ無駄足やったわ! 気分悪い!」

「気分悪いのはこっちの方だ!」

 

 質の悪いツンデレ発言とも取れそうな事を言うロキに、ヘスティアは思わず掴み掛りそうになる。だが、肩をヘファイストスにがっしり掴まれ静止させられた。

 

「ヘスティア、落ち着きなさい」

「放せヘファイストス!」

「おまけに何やそのドレス? 悪趣味やなぁ~」

「「あっ」」

 

 ロキの次なる煽りに、しかしヘスティアとヘファイストスは同様の反応を示した。

 

「へぇ……」

 

 フレイヤの浮かべた微笑が、凍り付きそうな笑みに変わる。心なしか、手に持ったシャンパングラスも小刻みに震えていた。

 

「何や、フレイヤいたんか」

「いたわよ? 貴方が来る少し前から」

「あっそ。――いや、ドチビのドレスなんてどうでもいいんや! 興味ないし!」

 

 だが、ロキはフレイヤの変化に気付かない。何故なら、彼女の関心は別のところにあるからだ。

 実は、ロキはヘスティアたちのところに来る前に、ディオニュソスとデメテルに会っていた。つまり、デメテルにはあって自分には決定的に欠けているものを散々見せ付けられた後である。

 ロキはヘスティアに目を向け、次いでヘファイストスに同様の視線を浴びせる。ある一点に集中して。

 やがて、ロキは俯きわなわなと震え、遂には絶叫した。

 

「何でドチビの家系みんなおっぱい大きいねん!? やっぱり血か!?」

「はぁ!? そんなのボクだって知るか!」

「それなら自分の全身の穴という穴から血ィ噴き出させて浴びてやるわ!」

 

 それは奇しくも、昨夜眷属の狼人(ウェアウルフ)の青年から聞いた血塗れ兎から着想を得ていた。

 

「君は吸血鬼か何かか!?」

「そこ動くなよドチビ!!」

「動くなと言われてホントに動かない馬鹿が何処にいるんだ!」

 

 ヘスティアが脱兎の如く逃げ出し、それをロキが追う。

 

『ロキのヤツが遂に嫉妬で狂ったぞ!』

『誰か止めろ!!』

『いや、その必要はない!!』

 

「「ぶへっ」」

 

 ヘスティアとロキが同時に素っ転び、鼻を強かに打ち付けた。

 ヘスティアは勿論の事、普段は男装のロキもヒールなんて殆ど履かない。故に、起こるべくして起こったと言える。

 しかし、それでも執念――或いは怨念に衝き動かされて、ロキの手がヘスティアのスカートの裾を握り締めた。

 

「放せロキ! そんな事をしても、君の胸は決して大きくならないんだ!」

「五月蝿いわボケ! やってみなきゃ解らんやろ!?」

 

『ヘスティアの血を浴びてもロキは無乳のままに一〇〇〇〇〇ヴァリス』

『万が一奇跡が起きて巨乳になっても一瞬で萎むに神の毛一本』

『お前の毛なんかいらねぇよ!!』

『打ちひしがれたロキたんを俺が全力で慰めるに星の欠片(スターチップ)全部』

『賭けになってねーじゃねぇか』

 

 見物だ見物だ、と取り巻きだす神々一同。熾烈な争いを続ける女神二柱。そして、それらを呆れて眺める隻眼。

 神たちの狂宴は続く――。



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13

「店員さんのお勧めがあったら教えてほしいのですけど」

「……昨日の今日でよく顔を出せたものニャ」

「実はわたくし猫が大好きですの。この後お茶でもどうかしら?」

「……見ての通り仕事中ニャ。と言うか人の話聞けニャ」

「では、お仕事が終わった後に」

「その頃には喫茶店なんて何処も閉まっているニャ……!」

「ええ、ですからわたくしの家で。美味しいスコーンがありますの。苺のジャムをたっぷりと載せて食べると絶品ですのよ。紅茶にも合いますし」

「……ごくり」

「それでお茶を飲み終ったら、食後の運動がてら謎解きでもしましょうか。貴方の身体には一体どんな秘密が隠されているのでしょうねぇ? 全身隈なく調べて差し上げますわ」

「この女怖いニャぁぁぁぁ!!」

 

 涙目になった猫人(キャットピープル)の店員は注文も聞かず、俊敏さを遺憾なく発揮して厨房へと逃げ込んでしまった。

 

「あら、振られてしまいましたわ」

「何やってるんですか……」

 

 テーブル席へと戻って来たベルは、彼にしては珍しく呆れたような表情をしている。アイリスの言動に慣れてきた証拠かもしれない。

 

「店員さんとお喋りしていただけですわ。でも、店員さんに素気無くされて……わたくし、傷物にされてしまいましわ。ぐすん」

「ホントに傷物にしてやろうかい、不良娘? うちの上客にいきなり喧嘩吹っかけやがって」

 

 冗談なのか本気なのか。怒気を含んだ声がアイリスに降りかかる。

 椅子に座ったアイリスを見下ろすのは、ドワーフにしては非常に大柄な女性だった。

 

「ですから、昨夜のうちにお詫びは済ませたはずですけど。それとも、女将(おかみ)さんは山吹色のお菓子はお嫌いでして?」

「嫌らしい言い方するんじゃないよ。勿論、アタシだって嫌いじゃないけどね」

 

 そう言って、『豊穣の女主人』の女将(じょしょう)――ミアは丸太のような腕を伸ばし、テーブルの上にワインボトルを置いた。ラベルには葡萄畑が描かれている。

 

「だから、コイツで水に流してやろうじゃないか」

「あ、あの……わたくし、まだ何も注文していないのですけ――」

「坊主にさっき聞いたよ。詫びとして今日は沢山注文してくれるんだろう?」

 

 確かに、そのような事をベルに言った覚えがある。アイリスは豪傑――豪快ではない――に笑うミアとボトルの間で視線を行ったり来たりさせ、やがて引き攣った笑みを浮かべて尋ねた。

 

「こ、このワイン……お幾らでして?」

「一〇万ヴァリス」

「一〇……!?」

 

 ベルが驚愕の声を上げる。

 

「嘘だよ。一本一〇〇〇〇ヴァリスだ」

「どちらにせよ高いですよ!?」

 

 ベルの言葉は尤もである。五〇ヴァリスもあれば充分腹が満たされるだけの食事が出来るからだ。

 しかし、考えてみれば『豊穣の女主人』が提供する料理はどれも割高だった。パスタだけで三〇〇ヴァリスしたりする。

 一方、アイリスは内心ホッとしていた。ワインというのは銘柄や酒造された年代によって価格がかなり異なる。もう一桁上の物もざらにあるくらいだ。そういう意味ではまだ良心的な価格と言える。

 

「致し方ありませんわね。では、白ワインに合う料理を二、三品お願いしますわ」

「ふっ、そう来なくっちゃねぇ。坊主はどうする?」

「え!? あー……じゃあ、ミートパイを」

「了解だ。まあ、ゆっくりしていきな」

 

 二人の注文を受け、ミアが厨房へと消えていく。それを見届けたベルは、アイリスに小声で話し掛けた。

 

「アリスさん大丈夫なんですか……?」

「ええ。数日節制すれば大丈夫だと思いますわ」

「それって大丈夫じゃないんじゃ……」

「それより乾杯しません? ベルだって、少しは飲めるでしょう?」

 

 そう言って、アイリスはベルの返事を待たずにボトルの栓を抜き、黄金(こがね)色の液体をグラスに注ぎ始める。

 

「じゃあ……一杯だけ」

「では、乾杯」

 

 半分ほど注いだグラスをベルへと渡して、互いのグラスを軽く当てた。

 桜色の唇をグラスに付け、傾ける。一口含んで舌の上で転がすと、口の中で葡萄の香りが一杯に広がった。充分に味を楽しんでから飲み込み、最後の余韻まで味わい尽くす。

 

「美味しいですね」

「ええ。どうやら安物というわけではないようですわね」

 

 憎まれ口を叩きつつも、アイリスの顔には自然と笑みが浮かんでいた。

 

『中々いい雰囲気ではないですか?』

『何処がニャ!?』

『でも、アレを見る限り少年は押しに弱いようニャ』

『それはもう知って――じゃなくって! もう放っておいてください!』

『流石にいじり過ぎたニャ~!!』

 

「何だか騒がしいですわね」

「そ、そうですね」

 

 アイリスは首を傾げ、グラスを数度回してもう一口飲み下す。

 

「ところでベル、貴方は迷宮(ダンジョン)をどう思いまして?」

「ど、どうって……?」

 

 突然の問い掛けにベルは咳き込みそうになるが、どうにか押さえてそれだけ尋ねた。

 

「そうですわねぇ……。例えば、迷宮はいつ、誰が創ったのか?」

 

 ベルは大きく目を見開いた。その疑問は、実は彼自身も抱いていたものだったからだ。

 

「元からそこにあったのか、或いは地殻変動か何かによって突然出現したのか?」

 

 アイリスはテーブルにグラスを置いて、ウエストポーチの中からガラス製の小瓶を取り出し、その中から換金せずに取っておいた『魔石の欠片』を摘み上げる。

 

「有り得ませんわよねぇ。そもそも、魔物(モンスター)とは何なのでしょう? 毒物が有効なのは今日確認出来ましたわ。血液は確かに循環している。つまり、ポンプである心臓は必ず存在するという事ですわ。同じく、命令を下す為の脳味噌も。そこまでは、他の生物と同じ。けれど、決定的に異なる器官がある。それが『魔石』ですわ」

 

 ペシッと音を立てて『魔石の欠片』をテーブルの上に置くと、アイリスは口を湿らせる為に再びグラスを煽った。

 

「『魔石』は彼らにとっての燃料。『魔石』を砕かれた魔物が絶命するのは、『魔石』を動力源としているから。けれど、おかしな事に地上にいる魔物には『魔石』がない。それを退化と言う人もいるでしょうけど、わたくしは逆だと思っていますわ。何故なら、彼らは『魔石』と引き換えに生殖能力を得たと推測出来るから」

 

 アイリスはベルの瞳を見詰めた。ルベウスとルべライト。異なる赤が交錯する。

 

「ここで着目すべきは地上の魔物ではなく、あくまで迷宮内の魔物の方ですわ。彼らには、生殖能力がない。生物にとっては致命的な欠陥ですわよね? 種を存続出来ないだなんて、バクテリアにだって劣りますわ。けれど、実際は彼らにその必要がないだけ。何故なら、彼らは迷宮の壁の中から生まれ落ちるのだから。全く、お笑いですわよねぇ。まるで魔物の生産工場(プラント)ですわ。恐らく、迷宮は――生きている」

 

 ベルには、バクテリアやプラントが何であるのか解らない。だが、話の内容は概ね理解していた。

 

「魔物は何故生み出されるのか? 可能性は二つありますわ。一つは、植物が光合成を行う過程で酸素を発生させるように、何らかの運動の副産物である可能性。もう一つは意図的に生み出されている可能性。もし後者だとすれば、一体誰の意思で行われているのでしょうねぇ?」

 

 アイリスが口角を吊り上げ、遂に核心へと触れる。

 

「わたくしは疑念を抱いていますわ。これは、神々のマッチポンプなのではないかと、ね」

 

     ×     ×     ×

 

「本当に丸くなったわ、ロキ……」

 

 フレイヤがぽつりと呟く。

 結局、会場が血に染まる事はなく、それどころかロキの方が涙を撒き散らして退散するという結果に終わった。

 

「ロキは子供たちが大好きみたいね。彼らの成長が彼女にとって一種の娯楽になっている。だから、あんな風に変わったのかもしれないわ」

「……娯楽かどうかは兎も角、子供たちが好ましいっていうのは概ね同意するよ。大変遺憾だけどね」

 

 そう言いつつ、ヘスティアは床の上からよたよたと立ち上がる。

 

「へぇ……。前まで『ボクのファミリアに入ってくれないなんて見る目がなーい』なんて言ってた癖に。急な心変わりはベルって子のお蔭?」

 

 立ち上がるヘスティアを後ろから支えてやりながら、ヘファイストスが可笑しそうに尋ねた。

 

「ふふん、まぁね。ボクには勿体ないくらい凄くいい子だよ」

「確か白髪に赤目のヒューマンだっけ? ファミリアが出来たってあんたが報告しに来たときは驚いたなぁ……。それがここ数日で更に一人に増えるとはね」

 

 ヘファイストスがうんうんと頷いていると、その隣でフレイヤが動いた。コトン、と持っていたグラスをテーブルの上に置いて、銀の長髪を翻す。

 

「じゃあ、私もそろそろ失礼させてもらうわ」

「え、もう? フレイヤ、貴方用事があったんじゃないの?」

「もういいの。確認したい事は聞けたから」

「……貴方、ここに来てから誰にも聞くような真似してなかったじゃない」

 

 パーティーの最初から彼女と行動を共にしていたヘファイストスは怪訝な顔を隠さない。

 そんなヘファイストスを無視する形で、フレイヤはヘスティアを見下ろし、これまでとは少し違った笑みを浮かべた。

 

「それと出来ればヘスティア、貴方のドレスの贈り主と会わせてもらえると嬉しいわ」

「……機会があればね」

「ええ、今はその答えを聞ければ充分よ。それじゃあ、また」

 

 そう言い残して、フレイヤは犇めく神たちの中へと消えていった。

 

「フレイヤも行っちゃったけど、あんたはどうするの? もし残るんだったら、久し振りに飲みにでも行かない? ……ヘスティア?」

 

 遂にこの時が来たか、とヘスティアは思う。ここまで言い出す機会を逸していたが、これを逃せば後はないような気がした。

 もしかしたら絶縁されるかもしれないな、と内心怯えつつ、ヘスティアは温めていた言葉を吐き出す。

 

「実は、ヘファイストスにお願いがあるんだ。――ベル君にっ……ボクのファミリアの子に、武器を作ってほしいんだ!」



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14

 マッチポンプとは、自分で起こした揉め事を解決し報酬を得る事なのだとアイリスは説明した。この場合の報酬とは、魔物(モンスター)を倒す事で得られる『魔石』の事か、或いはもっと別の何かなのか。兎も角、神々にとって利益になる事だろう、とアイリスは言った。

 ベルは当然反論した。根拠など何もなかったが、ヘスティアたちがそんな事をしているとは思いたくなかった。ベルの祖父は魔物に殺されたのだから。

 だが、意外にもアイリスは頷いた。あくまでこれは仮説であって、根拠など殆どありはしないと。

 

「でも、仮にそうだとすれば、寧ろ厄介ですわよ。神に匹敵し得る力を持った何者かが存在する、という事ですもの」

 

 そう締めくくって、アイリスは出された魚料理を切り分け口に運んだ。

 

 あれから数日が経つが、ベルは同じ事を繰り返し考えていた。勿論、アイリスが語った仮説に根拠はない。はっきり言って空想である。だが、迷宮(ダンジョン)を創ったのは神に匹敵する力を持った何者かである、というのは概ね同意だった。

 同じ考えを持つ者に出会えた事、そしてそれがアイリスであった事にベルは嬉しいと思う反面、言い知れない不安が胸中に渦巻いた。

 

「ベル、まだあの夜の事を気にしてらっしゃるの? わたくしもお酒が入っていましたし、一夜の過ちとして忘れるべきですわ」

「何か言い方が如何わしいですよ……!?」

「なら、言い方を変えますわね。答えの出ない問いを解くほど無意味な事はありませんわ。どちらにせよ、わたくしたちに出来る事は一つだけ。――違いまして?」

 

 とん、とアイリスは手を銃に見立て、ベルの鼻先に人差し指を当てた。

 

「神様を、信じる事……ですよね」

 

 ベルが途切れ途切れにそう言うと、アイリスは曖昧に頷き、やがて困ったような笑みを浮かべた。

 

(そういう感情論ではなく、今は地道に経験値(エクセリア)を貯めるべきだ、と言いたかったのですけど……。まあ、ベルらしいといえばらしいですわね)

 

「それにしても、ヘスティア様は一体何処で何をしているのでしょうね? 確かに、数日戻らないかもしれないとは言われましたけど」

 

 ヘスティアが『神の宴』に出掛けてから今日で三日目。その間、何の音沙汰もない。ヘスティアと親交のあるミアハに尋ねてもみたが、彼もヘスティアが何処にいるのかは解らないという。

 面倒事に巻き込まれていなければいいが、とアイリスが思っていると、ベルの顔が茹で上がった蛸のようになっている事に気が付いた。

 

「ああ、御免なさい」

 

 ベルの鼻先に触れたままだった指をスッと離し、アイリスは中断していた作業を再開した。

 銃腔にこびり付いた煤や火薬の残り粕を油に浸した布の付いた棒を突っ込んでこそぎ落としていく。銃は手入れを怠ると暴発する危険が高まるのだ。

 同様に火皿の汚れも落とし、次いで黒く光る銃身を磨いていく。錆びるのを防止する為だが、アイリスは銃身に使われている金属が何であるのか知らなかった。少なくとも色からして、只の鉄でない事だけは確かだが。

 そんな様子をソファーの上から眺めながら、ベルはぽつりと感想を漏らした。

 

「結構手入れも大変なんですね……」

 

 ベルは初めて銃弾が発射されるのを目にした時はまるで魔法のようだと思ったものだが、発射までの工程や日々の手入れを思うと、剣や弓の方がずっと手軽に思える。勿論どちらも手入れは必要ではあるが、二撃目を放つのに三〇秒も時間を要しはしない。実は『欠陥品』の汚名を受ける事になったのも、やはりこの射撃間隔の長さ故だった。

 この弱点を補う為にアイリスが思い付いたのが、毒を塗ったナイフや針の併用だった。相手の動きを封じる事で、こちらの隙を相殺する。だが、毒の通じない魔物も多いのだろうからと、他の手段も検討しているところである。

 やがて銃の掃除を終えたアイリスは、スカートを軽く払って床の上から立ち上がった。

 

「お待たせして申し訳ありませんでしたわね」

「いえ、僕も観ていて面白かったので」

 

 そう言って、ベルもソファーの上から立ち上がる。

 ポーションが差し込まれたレッグホルスターを脚に装着し、短刀を腰に差す。最後に防具の上からバックパックを背負えば準備は完了だ。

 一方、アイリスはウエストポーチを腰に巻き、銃を抜き身で携えた。旅の道中使っていた長筒は邪魔になるだけなので使わない。それに、銃を銃だと知らない人間にとっては、ヘスティアがそうであったように少し変わった形の棍棒にしか見えないのだ。なので、態々隠す必要もなかった。

 

「では、準備も出来ましたし、そろそろ参りましょうか」

 

 二人連れだって地下室を出て、廃教会を後にする。

 西のメインストリートをゆったりとした速度で歩いていると、やがて『豊穣の女主人』が見えてきた。店先に立っている猫人(キャットピープル)の店員がこちらに気付いたのか、大きく手と尻尾を振った。

 

「おーい! 待つニャ、そこの白髪頭とコスプレ(オンニ)ャ―!」

「ベル、いいですわね? わたくしたちは何も見なかったし、何も聞かなかった」

 

 アイリスは真顔でそう言って、ベルの手を引いて店の前を突っ切ろうとする。しかし、それを猫人の店員が立ち塞がって止めた。

 

「目の前にいるのに無視するニャー!!」

「はぁ……、厄介事の臭いがプンプンしますわね。わたくし、貴方に負けないくらい鼻が利きましてよ」

「嗅覚は嗅覚でも大分意味が違うようですが。アーニャ、余り詰め寄るものではありません。クラネルさんが困惑しています」

 

 遅れてやって来たエルフ族の店員が猫人の店員――アーニャを窘める。が、ベルが困惑している理由は別にあるのだが。それも、アイリスが手を放した事で氷解した。

 

「済みません、クラネルさん。呼び止めてしまって」

「い、いえ……それはいいんですけど。僕らに何かご用ですか?」

 

 ベルは人知れず感動していた。あのエルフ族に名前を憶えてもらえるなんて、と。

 そんなベルの内心は露知らず、エルフ族の店員は淡々と事情を説明し始める。

 

「実はシルが財布を忘れてしまいまして、クラネルさんに届けてもらいたいのです」

「この通りミャーたちは店番の最中ニャ。他の皆も店の準備で手が離せニャい。ニャのにシルのヤツ、一人店番サボって祭りを観に行ったニャ」

「そういう訳ですから、こうしてクラネルさんにお願いをしている次第です。これから迷宮に向かう貴方には悪いとは思うのですが……」

 

(本当にそう思うのなら、初めから頼んだりしないでしょうに。というか、わたくしは勘定に入っていないのですね)

 

 アイリスはそう思ったが、流石に口には出さず、二人のやり取りを静観する事にした。まあ、結果は見えているのだが。

 

「別に僕は構いませんけど。……アリスさんは大丈夫ですか?」

 

 振り返って尋ねてくるベルに、アイリスは然もありなん、と軽く首を振って了承した。

 

「でも、シルさんがお店をサボっちゃったって本当なんですか?」

「サボる、という言い方には語弊があります。ここに住まわせてもらっている私たちとシルとでは、雇用条件からして違うので」

 

 エルフ族の店員曰く、シルは彼女たちとは違い住み込みで働いている訳ではなく、ちゃんと休暇も取っているらしい。

 

「祭りって……もしかして、怪物祭(モンスターフィリア)の事ですか?」

「はい。シルは今日開かれるあの催しを観に行きました」

 

 怪物祭。その名前は数日前に摩天楼(バベル)の中で聞いていた。

 中身まで知らないベルは、当然のように興味を惹かれる。

 

「初耳ですか? この都市に身を置く者なら知らない事はないはずですが」

「実は僕たち、オラリオに来たのがつい最近で……。良かったら教えてくれませんか?」

 

 ベルがそう申し出るが、アイリスはその必要はないと言わんばかりに溜め息を吐く。

 

「悪趣味な見世物。嘗ての闘技場(コロッセオ)のようなものですわ。人間の剣闘士の代わりに、調教された魔物を使うようですけど」

「……ご明察の通り。悪趣味、というのも個人的には同感です」

 

 エルフ族の店員は最初驚いた様子だったが、やがてアイリスの悪趣味という感想に共感したらしく苦笑を浮かべた。

 

「魔物を調教する事が出来るなんて……」

調教(テイム)という技術自体は確立されています。素質に依るところも大きいようですが」

 

 ベルの疑問に、エルフ族の店員は淀みなく答える。その様を見て、アイリスの中で疑念が確信に変わっていく。

 

(変だとは思っていましたけど、彼女たちも元冒険者のようですわね)

 

「闘技場に繋がる東のメインストリートは既に混雑しているはずですから、まずはそこに向かってください。人波に付いて行けば現地には労せず辿り着けます」

 

 つまり会場は大混雑。その中から娘一人を捜すのは、砂漠で米粒を探すようなもの――とまではいかないまでも、相当な労力が必要な事は間違いなかった。

 もしかしたら、今日一日丸々潰れてしまうかもしれない。いや、間違いなく潰れる。そんな予感がアイリスにはあった。

 

「シルはさっき出掛けたばっかだから、今から行けば追い付けるはずニャ」

「宜しくお願いします」

 

 エルフ族の店員がベルに財布を手渡す。財布は布袋状で、見慣れないエンブレムが刻まれていた。

 

「解りました」

「猫さん、今度お茶しましょうね?」

「まだその話続いてたのニャ!?」

 

 兎も角も、受けてしまったからには見つけ出す他ない。

 ベルとアイリスは、東のメインストリートに向かって歩き始めた。

 



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15

「予想通りですわね……」

「これは……凄いですね」

 

 人波に揉まれるようにして東のメインストリートまでやって来たベルとアイリスは、目の前の光景に只々圧倒されていた。

 人、ヒト、ひと。何処も彼処も人だらけ。道の両脇には沢山の露店が並び、幾つもの人垣が出来上がっている。

 

「兎も角も、引き受けたからにはこの中からフローヴァを見付け出さねばなりませんわね」

 

 腕組みをしてアイリスが思案する。自然胸が強調され、擦れ違う男共の目が引き寄せられるが、そちらへは一瞥すらしない。一方、ベルは居心地の悪さを感じていた。

 何故あんな餓鬼が、あんな美人の隣に立っているのか。そんな嫉妬と羨望の入り混じった視線が、ベルの胸や背中に突き刺さる。

 

(いや、それは僕の被害妄想なのかもしれない……)

 

 ベルはアイリスに引け目を感じていた。

 初めてアイリスと出会ったあの時、ベルは直感的に助けないといけないと思った。もし自分がそこで動かなければ、この人は夜の闇に溶けて消え去ってしまうのではないかと、そんな不安すら抱いた。けれど、オラリオで再会して、パーティーを組んで一緒に戦って、そして気付いてしまった。あの時の直感は、全くの間違いであったと。

 アリス(、、、)は、強い。彼女の操る銃の威力もさる事ながら、機転や度胸、対応能力――冒険者に必要なもの、その全てを持っているように思える。ならば、魔物(モンスター)にすら遅れを取らない彼女が、只の暴漢如きにいい様にされるわけがない。きっとあの時、自分は余計なお世話をしたのだ。

 

「――ベル……?」

「……ッ!」

 

 アイリスに心配そうに声を掛けられ、ベルはハッと我に返って顔を上げた。いつの間にか俯いてしまっていたらしい。

 

「ど、どうかしました?」

「どうかしたのか、というのはわたくしの台詞だと思うのですけど……まあ、いいですわ」

 

 腑に落ちない違和感を軽く首を振る事で追い出し、アイリスは続ける。

 

「残念ながら、やはり人捜しは足を使わないといけないようですわ。――二手に別れましょう。ベルは闘技場の方へ行ってくださいまし。わたくしはこの辺りを捜してみますわ。一時間後、フローヴァを見付けてもいなくても、そこのお店の前に集合……で、宜しいですわね?」

 

 そう言って、アイリスは大通り沿いにある喫茶店を指し示す。

 

「はい。ああでも、僕がお財布を持ってたら、アリスさんが見付けてもシルさんに渡せないんじゃ……?」

「ええ、ですから一時間後に必ず集まるのですわ。もしも、わたくしがフローヴァを見付けて、彼女が何か買いたいと言えば立て替えておきますわ。合流後、すぐに返金して貰いますけど」

 

 そこまで考えてあるなら断る理由もない。ベルは大きく頷いた。

 

「じゃあ、一時間後にここで」

「ええ、また後で」

 

 ベルが闘技場に向かって人垣を縫うように走り出す。その後ろ姿をアイリスは手をひらひらと振って見送った。

 白髪が完全に見えなくなったところで、ようやくアイリスもゆっくりとした足取りで歩き始める。しかし、一旦立ち止まり、くるりと背後に視線を向けた。見詰めるのは、喫茶店の二階。

 

「……嫌な感じがしますわね」

 

 何が起こるのかまでは解らない。けれど、良くない事が起こる予感だけが漠然とある。自分からベルを遠ざけたのは、これから起こるのであろう、その良くない事に彼を巻き込まない為だった。

 

「まあ、いいですわ。それよりも、今はフローヴァを捜さないと」

 

 自分に言い聞かせるようにそう言って、アイリスは再び大通りを歩き始めた。

 

     ×     ×     ×

 

(今、目が合った……?)

 

 そんなはずはない、とフレイヤは思う。地上からではこちらの顔は陰になっていて見えないはずだからだ。

 だが、直感的に、フレイヤは理解していた。理屈など関係ない。確かに、少女と視線が合った。あの、呑まれそうなルベウスの瞳と。

 

(太陽のような眩しくも暖かな光。なのに、ぽつんと一点影が見えた。そう、まるで黒点のような……)

 

 興味をそそられなかった、と言えば嘘になる。あんなモノ、長い年月多種多様な魂の輝きを見続けてきたフレイヤも見るのは初めてだった。

 

「お~い、聞いとんのかフレイヤ? 窓の向こうに誰かおるんか?」

 

 けれど、今は――。

 

「御免なさい、急用が出来たわ」

「はぁっ?」

「また今度会いましょう」

 

 フレイヤが席を立ち、ロキが訝しげな声を出す。一方、同席していたアイズは雑踏に消えていった白兎の事を考えていた。

 

(……あの子も、来ているのかな)

 

 見間違いかもしれない。確信も持てない。けれど、何処かで期待している自分がいる。会えるかもしれない、と。

 

「なぁアイズたん、誰かいたん? めっちゃ気になるんやけど」

「……御免なさい。何でもないです」

 

 アイズは窓から視線を外し、小さく首を振って答える。しかし、ロキは納得がいかない様子で、尚も胡乱な目付きでアイズを見詰めた。

 

「何やねん、フレイヤもアイズたんも。うちだけ除けもんみたいで面白くないわ」

 

 これは何かあるな、と確信したロキは、暫くの間アイズに蛸のように纏わり付いてみた。が、冷静に捌かれるだけで、一向に口を割る気配がない。

 結局、入店当初に頼んだ朝食が運ばれてきたところでロキの方が音を上げ、アイズへ伸ばしていた手を止めた。

 

「まあ、ええわ。その代り、うちが満足するまでデートに付き合ってもらうで」

 

 パンに齧り付きながらそう言う主神を、アイズはやはり感情の乏しい顔で見詰め、やがて小さくこくりと頷いた。

 

     ×     ×     ×

 

 時刻は少し遡る。

 薄暗い工房で、女神二柱が顔を見合わせた。丸一日に及ぶ格闘の末、ようやく目当てのモノが完成したのだ。

 漆黒刀身を持つ小振りの短刀。一見簡素ではあるが、特異な能力を秘めていた。

 使い手の力量に応じて切れ味が変化する、という掟破りの特性。成長する武器。それが、鍛冶の神ヘファイストスが自ら鍛え上げた業物の正体だった。

 

「ご要望には応えられたかしら?」

「うんうんっ、充分充分っ! 文句なんてあるわけないさ!」

 

 ヘスティアの喝采を受け、ヘファイストスは隈の浮かんだ目を細める。

 

「今更だけど、よく引き受けてくれたよね、ヘファイストス」

「本当に今更だわね。まあ、強いて言うなら、あんたがその子を大切にしてるってのがちゃんと伝わったからよ。あとは、伯母としてではなく、あくまで友人として頼んできたところかな。伯母の権限で強制してきたら絶縁宣言させてもらうところだったわよ」

 

 ヘファイストスが苦笑してそう言うと、ヘスティアは心外だと柳眉を吊り上げた。

 

「ボクが君に対して何かを強制するなんてそんな事、するわけがないだろ! 冗談でも怒るぞ!」

「はいはい、悪かったわよ。いや、何で私が怒られてるのよ……」

 

 眠気のせいで頭が上手く回らない、とヘファイストスは凝りを解すように首をぐるぐると回した。長時間同じ姿勢を保っていたせいもあり、全身が凝り固まっている。

 

「反省したならもういいさ。そんな事より、この武器の名前はもう決まっているのかい? 決まってないならボクが付けようか? そうだね、ボクとベル君の愛の結晶って事で『ラブ・ダガー』とか!」

「止めいっ、駄作臭がぷんぷんじゃないのッ。……でも、そうね。これはあんたの武器としか形容しようがないし――『神の(ヘスティア)ナイフ』、ってところかしら」

 

 ヘファイストスがそう零すと、ヘスティアはご満悦な様子で頭に手をやって、にやけ笑いを浮かべた。

 姪として複雑な心境で伯母の照れ笑いを見ていたヘファイストスだったが、やがて思い出したように柏手を打つ。

 

「そうよ! あんたがそのベルって子を執拗に可愛がってるのは解ったけど、新しく入ったっていうもう一人の子の事はどう思ってるのよ? 私が言うような事でもないけど、対応に差があり過ぎるのはどうかと思うわよ」

 

 そう、ヘファイストスはずっと引っ掛かっていたのだ。

 分け隔てなく、何者にも平等に接するというのは神でさえ不可能だ。そんな事が出来るのは、感情を持たない絡繰りくらいのものだろう。

 だが、ヘスティアはベルの武器を作ってほしいと頼みはしたが、もう一人の眷属の事には触れさえしなかった。それは幾らなんでも極端だろう、とヘファイストスには思えた。

 

「あー……うん。いや、君を侮辱するわけじゃないけど、あの子には君の作る武器は必要ないよ。ボクがあの子にしてやれるのは、きっと、もっと別の何かだ」

 

 そう言ったヘスティアの顔は先ほどとは異なり、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。それは正しく、女神の微笑みだった。

 

(全く、オンとオフの差が激しいのよ、この女神サマは)

 

 無用な勘繰りだったか、とヘファイストスは肩を竦める。

 

「それに、二振りも注文したら、一体幾らになると思ってるんだ!? ボクに何百年ローン組ませるつもりだ!!」

「あーもう! 私の感心返しなさいよ!」

 

 へファイストスが頭を抱える傍らで、ヘスティアはいそいそとこの場を出て行く準備を始めた。

 

「もう行くの?」

「ああ、悪いけど!」

 

 ベルに早く渡したいのだろう。居ても立っても居られないといった様子で、アップに纏めていた髪を解きながら扉に向かう。

 

「ヘスティア、あんたも少しは休みなさいよ! あと、借金はちゃんと返済する事!」

「解ってるよ! 色々ありがとう、ヘファイストス!」

 

 本当に解っているのだろうか、と溜め息を吐きながら、ヘファイストスは白い小さな背中を見送った。

 

 その後、ヘスティアはベルが怪物祭(モンスターフィリア)に向かったと推測し、彼の後を追うべく馬車に乗った。目指すのは、東のメインストリート。

 しかし、大通りはどの道も混んでいる。東のメインストリートを目前に、とうとう馬車は止まってしまった。

 運転手の青年にここまででいいと告げ料金を支払い、ナイフの入った小箱を大事に抱え、裏通りに徒歩で向かった。

 

 こうして、時計の針は現在を指し示す。

 

「あれ? もしかして、フレイヤかい?」

「……ヘスティア?」

 

 細く薄暗い裏通りを少し歩いたところだった。ティー字路になっている部分で偶然にもヘスティアが出くわしたのは、数日前にも顔を合わせた女神フレイヤだった。

 何故か紺色のローブで全身を隠しているので確信は持てなかったが、フードから覗く綺麗な銀髪には見覚えがあった。どうやら人違いではないらしい。

 

「君も怪物祭を観に来たのかい? こんな道を通るなんて、随分と急いでいるようじゃないか」

「……ええ。人通りが激しい処は堂々と出歩けないから、こうして人目を忍んで先を急いでいるの」

「あー……美の女神も大変だねぇ」

 

 成る程、とヘスティアは思う。確かに、美の女神であるフレイヤが表通りに現れれば、只でさえ混雑している道がパニックに陥るのは否めない。つまりこのローブ姿も、自身の美しさを隠す為の手段なのだろう。

 フードの下で微笑するフレイヤに、ヘスティアは数度頷く。

 

「あっ、そうだ。フレイヤ、ボクのファミリアの子を見なかったかい? 今捜しているところなんだ」

「…………」

「白い髪に赤色の目をしたヒューマンの男の子で……そうそう、こう、兎っぽい!」

 

 身振り手振りで説明するヘスティアは心ここに有らずだった。だから、フレイヤの表情の変化に気が付かなかった。

 

「そういえば、さっき見掛けたような気がするわ。黒髪の女の子と一緒にいるのを」

「本当かい!? やっぱりアリス君も一緒か!」

 

(二人で、って事はもしかしてデート……!? ボクがいない間になんて羨ましい真似を~!)

 

「真っ直ぐ闘技場を目指していたようだから、この道を左に曲がれば上手く先回り出来るんじゃないかしら」

「ありがとうフレイヤ! ベル君、早まっちゃ駄目だ~!!」

 

 フレイヤのアドバイスを受け、全速力で駆けていくヘスティア。その後ろ姿を眺めながら、フレイヤはフードの下で笑みを浮かべる。深い、深い笑みを。

 

「そう、あの子が……」

 

 一時だけのガラス越しの交錯。けれど、それは偶然か、或いは必然か。

 

「困ったわね。彼女も欲しくなってしまったわ」

 

 もしかしたら、彼女なら――。

 誰にも気取られる事なく、フレイヤは期待に胸を膨らませ、独り細く薄暗い路地を歩いて行った。



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16

少々遅くなりました。


「おーいっ、ベールくーんっ!」

 

 聞き慣れた声が耳朶を打つ。自身の名を呼ぶ声に驚いたベルは、反射的に声のした方向に目を向ける。

 人垣をかき別けてこちらへやって来るのは、ここ数日所在が解らなかったヘスティアだった。夜会に着ていった黒のドレスではなく、普段の白いワンピース姿をしている。

 

「神様!? どうしてここに!?」

「おいおい、馬鹿を言うなよ。君に会いたかったからに決まっているじゃないか!」

 

 ベルの目の前で止まったヘスティアはそう言って、何処か誇らしげに豊満な胸を張る。しかし、思い出したように周囲をきょろきょろと見渡し、やがて首を傾げた。

 

「あれ? アリス君と一緒だったんじゃないのかい?」

「え、ええ……さっきまで一緒でしたけど。今僕ら、人を捜している途中でして――」

「どうやら近くにはいないみたいだね。これは好都合だっ」

 

 何故アイリスがいない事が、ヘスティアにとって都合がいいのか。ベルには訳が解らない。只、ヘスティアが妙に上機嫌な事だけは理解出来た。

 

「か、神様? 凄くご機嫌みたいですけど、本当に何があったんですか?」

 

 困惑混じりのベルの問いに、ヘスティアはニヤリと笑みを浮かべる。

 

「聞きたいかい? でも、今はまだ駄目さ。――ベル君!!」

「は、はい!?」

「君には、これからボクとデートをしてもらう!」

「で、デートって……えぇぇぇ!?」

 

 数瞬の間をおいて言葉が浸透し、ベルは仰天した。

 デート――つまりは、逢引である。

 神様とデートなんて烏滸がましい。そう思ったベルは、当然のように断ろうとした。

 何より、今は一刻も早くシルを見付け出して彼女に財布を届けなければならない。アイリスばかりに任せて、自分だけ遊んでいていいはずがない。そういう想いがベルにはあった。

 

「もしかして、ベル君はボクなんかとデートするのは嫌なのかい……?」

 

 だが、青い瞳を潤ませて、上目遣いでそんな風に尋ねられたら、男だったら断れるはずもない。

 

「そ、そんなっ! 嫌だなんて、そんな事ありませんよ!」

「なら何も問題ないね! 折角のお祭りだ、楽しまなきゃ損だぜ?」

 

 が、次の瞬間には再び笑顔に戻るヘスティア。

 嵌められた事に流石のベルも気が付いたが、今更断れるはずもない。それに、嫌ではない、というのは本当の事だった。

 

「で、でも、さっきも言いましたけど、僕人を捜してる最中でして……!」

「ああ、そんな事を言っていたね。でも大丈夫さ! デートしながらだって人捜しは出来る!」

 

 小さく柔らかい指がベルの手を絡め取る。手袋越しに温もりが伝わる。そして、それを意識してしまえば、頬が色付くのを止める術はない。

 ベルはヘスティアに手を引かれ、人混みの中を歩いて行く。遠方で花火が弾け、人々の気分を一層高揚させる。

 色取り取りの火花が舞い散る空を眺めていたベルは、ふと疑問を抱いた。

 

「神様、花火ってどうやって打ち上げているんですか? やっぱり魔法で?」

「んー? 違うよ。火薬を使って打ち上げてるんだ。アリス君の銃と原理は同じだね」

「え!?」

 

 驚きの事実に、ベルは瞬きを繰り返す。

 

「そんなに驚く事じゃないだろう? 銃っていうのは、要するに大砲を小型化したものだから、打ち上げ花火と出発点は同じなんだ。武器として進化させるか、見世物に転化させるか。目指した場所が違っただけさ」

「なら、どうしてオラリオには同じものがないんでしょうか?」

「必要ないからだと思うよ。上級の冒険者なら、神の恩恵(ファルナ)の影響で銃を撃つより弓を射る方が強いだろうからね。何より手軽だ」

 

 必要とされないなら、道具が生み出される事はない、とヘスティアは言う。

 ならば、逆に銃が必要とされるのは、どういった環境なのだろうか。アイリスの故郷は、どんな処なのだろうか。知りたい、とベルは思う。

 

(あれ……? どうして、僕はそんな事を知りたがっているんだ……?)

 

「まあ、そんな事はいいじゃないか! それよりデートを楽しもう! おじさーん、そのクレープ二つくださーい」

「か、神様ぁー!?」

 

 だが、ベルの中で生まれた違和感は、ヘスティアに振り回される事で霧散した。

 

 ベルは未だ知らない。――【憧憬一途(リアリス・フレーゼ)】。己の懸想(おもい)の正体を。

 

     ×     ×     ×

 

 アイリスは壁に身を預け、通りを歩く人々を見詰めていた。

 ふと目に留まるのは、獣人の家族連れ。親子三人で手を繋ぎ、仲睦まじく歩いている。真ん中を歩く女の子は無邪気に笑い、両親も娘を慈しむような笑みを浮かべていた。

 そんな光景を見ていると、少し考えてしまう。女の子なら、誰もが一度は夢見るだろうお姫様。けれど、物語のそれと、現実のそれは全然違って。もしも普通の家庭に生まれていれば、有り触れた、細やかな、しかし温もりのある日々を過ごせたのではないだろうか。そう、あの女の子のように。

 

「はぁ~……。らしく、ないですわね」

 

 感傷に浸るなど、らしくない。自分は寂しいのだろうか。嗚呼、そうかもしれない。アイリスは自問自答する。

 屋台で買ったジャガ丸くんソイソース味の最後の一欠けらを口に運び、包み紙を丸めてポーチに仕舞った。代わりに、懐から懐中時計を取り出す。

 ベルと別れてから、既に一時間以上が経過していた。思えば、ベルは時計を身に付けていない。時計を持っていなくても時間を知る術はあるだろうが、約束そのものを忘れていればその限りではないだろう。

 アイリスは結局、シルを見付ける事が出来なかった。元々彼女を捜すのに消極的だったせいもあるだろうが、胸中に渦巻く不安のせいで集中出来ていなかった。漠然とした良くない事が起こるという予感は、まるで真綿で首を締めるようにアイリスの神経をすり減らせていた。

 あれから、まだ何も起こっていない。だが、そう思っているのは自分だけかもしれない。認識していないだけで、既に何かが始まっている可能性は充分にある。

 自身の願いとは裏腹に、ベルの方が何か厄介事に巻き込まれてしまったのではないだろうか。そう思う一方で、シルと運良く合流し、時間も忘れて二人仲睦まじくデートしている可能性だってある、とも思う。それは少し腹立たしいが、ベルが傷付くよりは余程いい。

 もう少しここで待ってみようか。それとも、こちらから捜しに行こうか。待つのも嫌いではないけれど、このままでは埒が明かない、とアイリスは思った。

 迎えに行こう。そう決めた時、突如として異変は起こった。

 

「きゃっ……!?」

 

 地が揺れた。まるで何者かが地中を這いずっているかのように、大地が震動している。

 この世の終わり、というものを有り体に想像する。嗚呼、自分が感じていた不安の正体はこれだったのか。

 だが、周囲の反応は冷ややかだった。アイリスに対して、という訳ではなく、またか、という感じだ。

 流石にその様子を見ていれば、自分が大袈裟に捉え過ぎていた事に気が付く。心が落ち着くと共に、羞恥で頬が染まっていった。

 

「もしかして、この辺りは地震が多いのかしら……?」

 

 アイリスが暮らしていた西の大陸では地震は稀だ。軽い揺れでも、一〇〇年に一度あるかないか。アイリスにとって地震とは、天変地異そのものだった。

 だが、オラリオ一帯はそうではないらしい。案外、地震は頻繁に起こるようだ。周りの落ち着きようがそれを示している。

 やがて揺れが収まり、アイリスは銃を杖代わりにして何とか立ち上がった。驚いて、腰が抜けてしまっていたのだ。

 スカートに付いた砂埃を払って、改めて周囲の様子を伺う。彼らは、一様に首を捻っていた。

 ――あれは地震か? それにしては、揺れが小さいような……?

 不味い、とアイリスは直感的に思う。それと同時に、自然と身体が動いた。

 地面に穴が穿たれる。土煙が舞い、何者かのシルエットが、まるで影絵のように浮かび上がった。

 沸き立つ悲鳴。我先にと逃げ惑う人々。それらに構う事なく、アイリスは弾丸を装填する。

 視界が晴れるのと、銃を構えたのはほぼ同時だった。

 目に映るのは、黄緑色の巨躯。四メートルはあろうかという、芋虫型の魔物(モンスター)だった。




夏アニメは軒並み佳境ですね。日常系はその限りではありませんが。のんのんびより……3期あるでしょうか?

それは兎も角、お祭りが一転――というところで今回は終了です。
アイリス大ピンチ!次回に乞うご期待!


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17

 美しい金糸の髪を風に揺らし、アイズは闘技場の上から街を見渡す。

 ギルドの職員によれば、祭りの為に用意された魔物(モンスター)の一部が、闘技場地下の檻の中から何者かの手引きによって脱走したらしい。鎮圧の協力を依頼されたアイズに断る理由もなく、やはり表情の乏しい顔で苦もなく引き受けた。職員の目には、そんなアイズの態度は超然としたもののように映ったようだった。

 逃げ出した魔物は、ギルドが把握出来ているだけで計九体。それらが、街の東部一帯に散り散りになってしまっているらしい。被害状況は不明だが、このままではそう遠くないうちに犠牲者が出るだろう事は明白だった。

 

「……見付けた」

 

 風に乗った震動で感知出来たのは八体。残り一体の捕捉を諦め、腰に下げた愛剣――『デスペレート』を涼しげな音を立てて鞘から抜き放つ。

 

「【目覚めよ(テンペスト)】」

 

 それが引き金(トリガー)だった。アイズの全身を風の気流が包み込んでいく。

 【エアリアル】。それが、【剣姫】アイズ・ヴァレンシュタインが使える唯一の魔法だ。

 観客の歓声を背に、アイズは人知れず宙へ身を投げ出した。

 目指すは最短。金の瞳が目標を射抜く。

 

「リル・ラファーガ」

 

 瞬間、壁を蹴り付けた。まるで砲弾の如く、アイズの身体は一直線に降下する。

 

「!?」

「な、何だ!?」

 

 着弾。同時に『デスペレート』を閃かせ、『トロール』の緑色の巨躯を貫いた。肉塊が周囲に飛散し、巨体が音を立てて崩れ落ちる。

 

(……まずは、一つ)

 

 巨人と対峙していた冒険者や市民が唖然とする中、アイズは血に染まった石畳を抉り削って反転――。勢いそのまま、突風と共に十字路を疾走し、二体目を切断する。

 

『――ガッ!?』

 

 驚愕する(まなこ)を尻目に、アイズは三階建ての民家の屋根へと跳躍した。その肢体には、返り血一つ浴びていない。

 

(これで、二つ)

 

 着地し、止まる事なくアイズは幾つもの建物を一足飛びに駆け抜けて行く。

 迷う事はない。その必要もない。

 地面に降り立ち、視界に捉えた目標に向かって、全速力で迫撃する。

 

(三つ!)

 

 敵の位置を事前に把握したのが功を奏していた。多少は相手も移動しているだろうが、それも誤差の範囲。風を纏ったアイズにとって、障害物は障害物足りえない。縦横無尽なその様は、まさに疾風怒濤だった。

 高速で移動する鹿型の魔物『ソードスタック』にも圧倒的な速度で肉薄し、物理法則を無視するかの如く、建物の壁を足場にして難無く斬り伏せる。

 

(四つ!)

 

 金の暴風が剣を提げ、街中を駆け巡っていった。

 

     ×     ×     ×

 

 銃を油断なく構え、眼前で蠢くソレをアイリスは冷静に観察する。

 芋虫――。それ以外に形容し難いが、実物とは大きく異なっている。

 その大きさも然る事ながら、長い下半身に乗る恰好で上半身は小山のように盛り上がっていた。厚みのない扁平状の器官は先端が四つに別れており、腕の役割を果たしている事が伺える。また、黄緑色の皮膚は、所々が濃密な極彩色を刻んでおり異様に毒々しい。その姿は、生理的嫌悪感を抱くには余りあった。

 少なくとも、上層に生息している魔物ではない。だとすれば各階層を突き破り、地中を掘り進んで地上までやって来たとでも言うのだろうか。

 ――いや、それは有り得ない。もしそんな事が可能なら、オラリオはとっくの昔に壊滅している。

 ならば、闘技場から逃げ出して来たのか。恐らく、それが最も合理的な解釈だろう。

 だったら、勝算はある。生け捕りにするよりも、息の根を止める方が簡単だ。

 【ガネーシャ・ファミリア】の構成員の練度がどれ程のものなのかは解らないが、殺すだけなら自分にも出来るはずだ、とアイリスは思う。何故なら、魔物には共通の弱点がある。彼らにとって、生命の源である『魔石』――それを砕いてしまえばいい。

 都合がいい事に、怪物はまだこちらを視界に捉えていない。目が退化しているのか、それとも地上の明るさに目が眩んでいるのかは解らないが、兎も角これはチャンスだ。

 

(さて、『魔石』は何処かしら……?)

 

 だが、それも直ぐに見付かった。

 人間ならば腹に当たる部分。そこに、奇妙な膨らみがあった。肥大化し過ぎた核が、内側から肉を押し上げている。

 

(そこ、ですわね)

 

 目標に照準を合わせる。狙うは『魔石』、ただ一点のみ。

 祈るように引き金を引いた。火薬が炸裂し、銃口から弾丸が射出される。辺りに銃声が響き渡り、硝煙の香りが立ち込めた。

 狙いは違わなかった。命中率に難のあるマスケットだが、目標との距離が二〇メートルもないのだから当然だ。

 

「嘘……」

 

 だが、それでも外した(、、、)。怪物は倒れない。

 石畳から煙が上がる。銃弾によって僅かに開いた傷口から紫色の粘液が流れ落ち、地面に浅い穴を穿った。

 ――酸か、或いは未知の物質か。

 鉛で出来た銃弾も、同じ様に溶かされたのだ。魔物の体内であの液体に触れたが為に、『魔石』に到達する事なく消失してしまったのだろう。

 

「間抜けですわね、わたくしは」

 

 自嘲の声が思わず漏れる。

 解っていたはずだ。相手は人知の及ばない、正真正銘の化け物だという事を。

 流石に怪物も、自らを傷付ける(アイリス)の存在に気が付いた。顔面と思しき位置から口腔が開かれる。

 

「けれど」

 

 ここで諦めてしまえるほど潔い女なら、そもそもこんな処には立っていない。

 怪物の一挙手一投足を見逃すまいと、アイリスはルベウスの瞳を見開く。

 

『――――ァァ!!』

 

 いきり立つような咆哮。魔物の口から、先ほど傷口から流れ出たものと同様の体液がアイリスを狙って吐き出される。だが――

 

「その程度でわたくしを射止めようなどと、少々考えが甘いのではなくて?」

 

 ――当たらない。踊るようにステップを踏み、アイリスは次々と吐き出される溶解液を躱していく。

 アイリスの動きは特別速いわけではない。寧ろ、冒険者の基準で言えば鈍重なくらいだ。にも関わらず当たらないのは、流れるような動作で不規則に動き回り、狙いを付けさせないからに他ならない。また、ダメージを与えられない事は理解しつつも、牽制目的でダガーを数本投擲する。

 『魔石』を破壊出来ない以上、アイリスに勝てる見込みはない。だがそれでも、負け戦を引き分けに持ち込む事ならば可能だ。

 つまりは逃走。戦略的撤退。

 そして、これまでで一番大きな塊をバックステップで躱したところで、魔物の攻撃に間隙が生まれた。体液を生成する速度が、吐き出す速度に追い付けなくなったのだろう。要するに、弾切れだった。

 このチャンスを逃す手があるはずもなく、アイリスはこの時初めて背後を振り返った。

 

「な、何で……」

 

 信じられないものが映った。

 視界に捉えたのは、蹲る小さな背中。泣いているのか、肩が小刻みに震えている。

 顔を確認するまでもない。先ほど、アイリスの目の前を両親と一緒に通り過ぎて行った獣人の少女だった。

 

「何をしていますの!? 早くにお逃げなさい!!」

 

 悲鳴に近い声を上げながら、アイリスは脇目も振らずに少女に駆け寄る。

 少女が顔を上げた。目尻を真っ赤にして、大粒の涙を零している。

 

「ぐすっ……ぐすっ……立て、ないよぉ……」

 

 見れば、少女の姿は酷い有り様だった。

 転んだ拍子に擦り剥けたのか膝には血が滲み、長めのスカートは破れてしまっている――が、それはまだいい。問題は、右の脹脛が赤く腫れ上がってしまっている点だ。恐らく転んだ後、逃げる誰かに踏まれたのだろう。これでは、立ち上がれなくて当然だ。

 

(この子を担いで逃げる……?)

 

 ――無理だ。子供とはいえ、二〇キロは間違いなくあるはずだ。そんな重石を持って走れるほど、アイリスには体力もなければ筋力もありはしない。

 

「あははっ……まあ、仕方ないですわよね」

 

 少女を背後に、アイリスは怪物と相対する。

 

「安心してくださいまし。貴方の事は、わたくしが必ず守りますわ」

 

 優しく少女に語り掛ける。それが自身の最期の言葉になるだろう事を理解して、それでも気丈に笑みを浮かべる。

 少女を見捨てる選択肢は当然あった。けれど、もしもそれを選んでしまえば、その瞬間アイリス・フランシス・ハイランドという人間は死んでしまう。それはきっと、本当の死よりも恐ろしい。

 

「嗚呼、でも」

 

 怖い。怖い。怖い――。

 怖くないわけがない。

 逃げ出したくて堪らない。

 こんな処で終わりたくない。

 

「もっと――」

 

 けれど、これでもう終わり。

 

「――二人と、一緒にいたかった」

 

 涙が一筋頬を伝う。

 怪物が、再び口を開く。

 

 そして、耳の中で声が響いた。

 

『――――――――』

 

 世界が、静止する。

 

『――――――――』

 

 それは、いつか見た夢の記憶。

 

『――――――――』

 

 導かれるように左手を前に突き出し、祈るように言葉を紡ぐ。

 

「【我が身を護れ】」

 

 王女の願いに答えるように、掌に光が集まっていく。その光景は、まるで夏の夜の蛍火のようで――。

 世界に、時間が戻って来る。

 魔物が吐き出した体液が、全てを溶かさんとアイリスに迫り、

 

「【イージス】」

 

 瞬間、光の盾が顕現した。

 




前回に引き続き次回に続く、という終わり方になってしまいましたね……。

因みに、最後の方の時間が止まったというのは本当に止まってるわけではなく、車に轢かれた時などに周りの景色がスローモーションで見えるみたいな感覚的な話です。

また、ステイタスを一度も更新していないのに魔法が使えるようになった理由については、後々作中で語られるかと思います。


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18

 自身の命を天秤に載せた、恐らくは人生における最大級の賭け。勝算などあるはずもなく、それどころか実行可能かどうかも不確かなまま賽は投げられた。

 

「これは……盾?」

 

 だが、アイリスは賭けに勝った。半透明の光の盾――正確には障壁か――が、溶解液の浸食を防ぐ。然しもの酸も、光までは溶かせない。

 

(これが、わたくしの魔法……)

 

 自分が魔法を使っているという実感が湧かない。何故使えるのかも解らない。しかし、現実は疑問の解消を待ってはくれなかった。

 

「くっ……!」

 

 己の攻撃を防いだ光の盾に、魔物(モンスター)がこれまでにない反応を示した。色めき立つような咆哮を上げたかと思えば、自身の巨躯を活かして体当たりを仕掛けてきたのだ。

 盾が軋みを上げる。衝撃が掌にまで伝わるが、後退りはしなかった。それどころか、アイリスの左腕は先ほどから一ミリたりとも動いていない。どうやらこの盾の魔法は、地面に杭を打ち込むかの如く空間に固定され、術者が衝撃でノックバックするのを防いでくれるらしい。だが、逆に言えば、魔法を解除しない限り逃げる事は叶わないという事でもある。

 二度目の衝撃。やはり盾はビクともしないが、魔物は諦める事なく、何度もその巨体をぶつけてくる。度重なる衝突によって、黄緑色の皮膚は破け、血の代わりに溶解液を周囲に撒き散らす。

 自傷すら厭わない苛烈な攻撃。これを当初からしていれば、アイリスは今頃この世にはいないはずだ。ならば何故、初めからそうしなかったのか。いや寧ろ、何故積極的に攻撃してくるようになったのか。

 

(魔法に――魔力に反応している……?)

 

 そう思ったときだった。これまでで一番の衝撃が掌に伝わり、盾がぶれた(、、、)。幸い一瞬で元の形に修復されたが、代わりにアイリスの身体を異変が襲った。

 視界が暗転――。次いで、白熱した。

 

「あっ……ああああああああああ――!!」

 

 まるで、熱した鉄の板を押し当てられているかのような激痛がアイリスの背中を蝕む。

 これまでに味わった事のないような痛み。アイリスは、喉が引き裂けんばかりに悲鳴を上げ続ける。

 もしかしたら、これはルールを犯した罰なのか。

 何だっていい、とアイリスは思う。今は、この焼け付けるような痛みが有り難い。どういう訳か、先ほどから意識が飛びそうなのだ。手放しそうになる意識を、この痛みが繋ぎ止めてくれる。

 

『……どうしてそこまでして、赤の他人のこの子を護ろうとするの? その盾を消してしまえば、今からだって、貴方は逃げられるかもしれないのに』

 

 それは、悪魔の囁きか。

 極限状態まで追い込まれた為か、遂には幻聴まで聴こえ始めたらしい。

 

『……このまま続けても、ジリ貧なだけ。生きたいなら、その子を置いて逃げなさい。いい具合に、囮になってくれるはず』

 

 悲鳴が消えた。しかし、痛みが消えたわけではない。やり場のない怒りを抑える為に、歯を食い縛ったに過ぎない。

 

「……ふざけないで」

 

 この幻聴は、決して己の内から湧いて出てきたものではない。そして、このダウナーな声の主は、いつか夢で見た人物ともまた違う。自分も彼女も、絶対にそんな事は言わないという確信があった。

 アイリスは眼前を見据える。相変わらず魔物は自分が傷付くのも厭わずに身体を打ち付けている。今だって、アイリスの頭上に体液を落とせば簡単に殺せるだろうに、それを考え付けるだけの知能は最早ないらしい。それでも、あの巨体に押し潰されれば確実に死ぬ。認めたくはないが、幻聴の主の言う通り、このままではジリ貧である事は否定出来ない。

 やがて、重々しい溜め息がアイリスの耳朶を打った。

 

『……貴方には、こんな処で死んでもらっては困るのよ』

 

 幻聴の主は続ける。

 

『……死にたくなければ、続けて。――【装填】』

「【装填】……? って……え!?」

 

 アイリスは今度こそ驚愕した。役に立たない事を理解しつつも握り続けていたマスケット銃のフリズンが独りでに開閉し、更には撃鉄が引き起こされたのだ。

 

『……これから貴方が撃つのは、必中の魔弾。けれど、用心する事ね。射手の意思に従うのは六発だけ。七発目の弾丸は、私の望んだ場所にいく』

 

 私が望むのは貴方の心臓、と幻聴の主は言う。

 死ぬのは困ると言いながら、今度は逆に殺すと言う。明らかに矛盾しているが、そんな事を指摘している余裕はアイリスにはなかった。

 

『……それと、もう一つ。この弾丸は、あくまで望んだ処へ当たるだけ。弾丸が消滅すれば、その限りではない』

 

 さあ、どうする――と、幻聴の主がアイリスの耳元で囁いた。

 

     ×     ×     ×

 

 アイズは風を纏って疾走しながら、周囲の音に耳を澄ませていた。

 闘技場から逃げ出した魔物のうち、既に八体は討伐出来ている。しかし、最後の一体だけがどうしても見付からない。何処かに息を潜めて隠れているのか、それとももっと遠くに逃げてしまったのか。アイズは眉を顰めてどうするべきか考える。――その直後だった。

 風に乗って聴こえてきたのは、痛みに耐えるような女性の悲鳴。次いで、何かが激しく衝突する音。

 ――あそこか。

 アイズは地面を蹴り付け民家の屋根に跳び乗り、目的地に向かって一直線に駆けて行く。奇しくもその場所は、今朝アイズがロキと共にフレイヤに会った喫茶店の近くだった。

 

「……見えた」

 

 喫茶店の近くまで、ものの一、二分で到達したアイズは、高い位置から周囲の様子を伺う。

 そして、目に飛び込んできた光景に唖然とした。

 

「どうして、あの魔物がここに? それに……」

 

 こんな街中にいるはずのない、先日迷宮で遭遇した新種の芋虫型の魔物と、第一級冒険者である【ロキ・ファミリア】の面々を苦しめた魔物の攻撃を悉く防ぎ続ける盾の魔法。

 

「あの人は、確か」

 

 盾の魔法を操るドレス姿の女性。彼女の事をアイズは知っていた。間違いなく、あの時酒場でベートに冷や水を浴びせたフード姿の女性であるという確信がある。そしてその事実は、アイズにとって別の意味があった。

 

(あの子の、知り合い……)

 

 アイズがミノタウロスから助け出した、兎のような白髪の少年。彼はあの時、偶然にも同じ酒場にいたのだ。

 ドレス姿の女性が、ベートにいきなり冷や水を浴びせたのは、きっと怒っていたからだ。少年を侮辱したベートに対して、きちんと自分の気持ちを行動で示した。それは少し羨ましい、とアイズは思う。アイズはあの時、何も出来なかったから。

 そして、今はどうだろう。ここに来て、どうすればいいのか解らなくなっている自分にアイズは気が付く。

 彼女なら、たとえ自分が手を貸さずとも、あの魔物を倒してみせるのではないか。

 少なくとも、あの盾の魔法は非常に堅牢だ。もしも今、攻撃魔法の詠唱中であるのなら、自分が横から出て行ってあの魔物を倒してしまえば経験値(エクセリア)の強奪になるのではないか。

 普段なら考えもしない事が、次々と頭の中に浮かんで来る。先ほどまではあんなに遠くの音まで聴こえていたのに、今はもう全ての音が遠くに聞こえる。

 だが、それでも――。その澄んだ声だけは、不思議とハッキリ耳に届いた。

 

「ヴァレンシュタイン! 風を纏わせてくださいまし!」

 

 何に、とは聞くまでもなかった。

 アイズは小さく息を吸い、風を操るべく声を発した。

 

     ×     ×     ×

 

 必中の魔弾――。言葉通りなら、左手を使えない今の状態でも、狙い違わず目標を撃ち抜く事が出来るだろう。問題は、『魔石』に到達する前に、魔物の体液に弾丸が溶かされてしまう事だ。

 何か、ないか。

 ここまで反則級の特権を与えられておきながら、負ける事など許されない。何より、もう二度と諦めたくない。

 活路は必ず存在する。只、自分が気付いていないだけ。

 

(見付け出せ……!)

 

 己を叱咤し、霞み始めた両目を見開く。

 そして、それは現れた。

 陽光を反射して煌めく金色(こんじき)の髪と、同色の瞳。

 忘れるはずがない。オラリオ最強の一角にして、ベルの命の恩人である少女。【剣姫】アイズ・ヴァレンシュタイン。

 アイリスはここ数日、アイズについて少しだけ調べていた。得られた情報は、殆どが下らない与太話で、有用なのは二つしかなかった。彼女がLv.5の冒険者であるという事と、風を操る魔法剣士であるという事だけ。だが今は、それが突破口になる。

 

「ヴァレンシュタイン! 風を纏わせてくださいまし!」

 

 聞こえるだろうか。通じるだろうか。少しだけ不安に思いながら、アイリスは懇願する。

 反応は直ぐにあった。携えていた細剣を鞘に納め、アイズは口を小さく開いた。

 

『……運がいいわね。告げる言葉は――』

 

 祝詞(のりと)を耳にしながら、銃口を天へと突き上げる。まるで、祝砲でも撃つかのように。

 幻聴が止み、アイリスは迷わず引き金を引いた。

 狙うは、心臓(魔石)。違う事なく――打ち砕け。

 

「【フライクーゲル】……!!」

「【エアリアル】」

 

 二つの声が、重なった。

 上空へと放たれた闇色の弾丸に風の衣が纏われ、射手(アイリス)の意思に従って急カーブを描き出す。

 

『――――――――ッ!!』

 

 それは、最後の悪足掻き。破鐘(われがね)の雄叫びを上げて、魔物は溶解液を吐き出した。

 だが、その最期の攻撃も、消えかけた残照に阻まれる。

 

『――――』

 

 蛍火が散り、白い花が咲いた。

 『魔石』を撃ち抜かれた魔物は死体すら残さずに、灰の山と化す。

 薄れていく意識。迫り来る地面。もう、焼け付くような痛みは感じなかった。

 アイリスは瞼を閉じ、安堵しながら眠りに付いた。




アイリスとアイズの共闘。これを書く為の第一章だったと言っても過言ではないでしょう。

次回は原作主人公の奮闘とエピローグになる予定(あくまで予定)


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19

 あれから、自分はどうなったのだろう。ヴァレンシュタインの力を借りて、魔物(モンスター)を倒して、それで――。

 微睡みの淵から意識が浮かび上がり、アイリスは重い瞼を開けた。全身が怠い。まるで徹夜明けのようだ。

 

「お姉ちゃん大丈夫……?」

 

 目に飛び込んできたのは、こちらの顔を覗き込む二つの顔。

 

「……何をしてらっしゃいますの?」

 

 妙に柔らかい感触を後頭部に感じながら、アイリスはアイズに尋ねる。

 

「……膝枕?」

「何故貴方の方が首を傾げるのかしら……」

 

 もしかして、天然なのだろうか。

 溜め息を零しそうになりながら、アイリスはゆっくりと起き上がった。

 

「貴方の方こそ大丈夫でして? 怪我は――ああ、ヴァレンシュタインが治療してくれたのね」

 

 傍らに立つ獣人の少女が負っていた傷や打撲は、すっかり痕も残さず消えていた。少女に微笑みかけると、少女の方も笑い返してくれる。

 

「アイズ、でいいよ。みんな、私の事そう呼ぶから。それと……ごめんなさい。貴方のポーション、勝手に使ってしまって」

 

 ペコリと頭を下げるアイズの姿を改めて見てみれば、ワンピースの上から剣帯を帯びているだけで細剣以外は持ち合わせていないようだった。

 念の為にポーチの中も確認してみると、確かにポーションの入っていた試験管が二本空になっている。

 

「それはいいのですけど……この子の怪我、ポーションを二本も使わないといけない程酷かったのかしら?」

 

 アイリスがそう尋ねると、アイズは小さく首を振る。

 

「なら、貴方も何処か怪我を?」

「……違う。ポーションの効き目が、酷く悪かった。恐らく、粗悪品。今度から、買う店を変えた方がいいと思う」

「……そうなの。貴重なご意見、助かりましたわ」

 

 アイリスはポーションの製造主である犬人(シアンスロープ)の少女の顔を思い出し、酷薄な笑みを浮かべて立ち上がろうとした。

 

「あ、あら……?」

 

 しかし身体がふらつき、アイズに支えられて再び地面に腰を下ろす。

 

「多分、精神疲弊(マインドダウン)。自分の限界を超えて魔法を行使したときに起こる症状。もう少しこのまま休んでいれば、自然と良くなると思う」

「精神疲弊……」

 

 アイリスは掌を数度、確かめるように開いて閉じる。やはりまだ何処か、あれが夢の中の出来事だったのではないかと思っている自分がいる。

 

(カボチャの馬車ではないけれど……)

 

 あの力を望んだのは、紛れもなく自分自身。自分を、そして誰かを護る為の力。

 ありがとう、と心の中で礼を言ってから、今度はアイズに向かって深く頭を下げる。

 

「ありがとう、助かりましたわ。貴方が来てくださらなければ、間違いなく――」

 

 自分とこの子は死んでいた、と続けようとして言葉を呑み込む。折角助かったのに、今更少女を怯えさせるのは不憫に思えた。

 

「ねぇ、座ってもいい?」

「ええ、構いませんわ」

 

 少女にせがまれ、アイリスは自分の膝の上に少女を座らせる。頭に手を載せて撫でてやると、ふさふさの尻尾がブンブンと揺れた。

 

「……優しいんだね」

「さあ、どうかしら? ……アイズはどうしてここに?」

「闘技場から逃げ出した魔物を追ってきたの。でも、アレは違うと思う。アレを調教(テイム)出来るなら、【ガネーシャ・ファミリア】は今頃オラリオ最強のはずだから」

 

 それだけ凶悪な魔物だったのだと、アイズは暗に言っていた。同時に、出所が違うとも。

 

「なら、さっきの魔物は何だったのでしょう?」

「解らない。でも、私たちが五一階層で戦った新種の魔物と同種だと思う」

「五一階層……」

 

 通常、魔物は階層を移動するにしても上下に二つ三つまでらしい。それを無視したとしても、やはりそれだけの層を上って地上までやって来たとは考え難い。やはり、何者かの手によって迷宮(ダンジョン)から連れて来られたのだと考えるべきだろう。

 どんな手を使って、というのはこの際問題ではない。犯人を捕らえれば自ずと解る事だからだ。考えるべきは、ここに現れる前まで、あの魔物は一体何処にいたのか、という事だ。

 まさか、迷宮から直接来たという訳ではあるまい。必ず、潜伏場所があるはずだ。更に言えば、まだ犯人がそこに留まっている可能性すらある。

 

(地中を掘り進んできたとは考え辛い。でも、あの巨体が通れる空間なんて……)

 

 いや、あるだろう。一つだけ、可能性が。

 

「下水道……?」

「え?」

「だから、下水道ですわ! これだけ人口の多い街なら、下水施設もそれなりの規模のはず」

 

 しかも、ここは東のメインストリート。恐らくここの地下に、ここら一帯の建物の生活排水が集中しているはずだ、とアイリスは考えたのだ。

 アイリスが仮説を説明すると、アイズは目を見張り、次の瞬間には穴に向かって走り出そうとする。アイリスは慌ててアイズの手首を掴んで引き留めた。アイズは振り払おうとするが、それを牽制するようにアイリスは捲し立てる。

 

「流石の貴方でも単身は危険ですわ。それに、わたくしの予想通りなら、その穴の下では汚水が流れているのでしょうし、また複雑に入り組んでいるのでしょうから、図面がないんじゃ絶対中で迷いますわ。地上を行った方が安全且つ確実だと思いましてよ?」

「……冷静なんだね」

 

 アイリスの説明に納得したのか、アイズは腕の力を緩めて空を見上げた。

 

「……私は取り敢えず、取り逃がした最後の一体を捜してみようと思う」

「最後の一体って……複数逃げ出したという事ですわよね? 幾らなんでも管理が杜撰過ぎではないかしら……」

 

 初めて聞く情報にアイリスは眉根を寄せるが、

 

「魔物は、何者かの手引きで逃げ出したらしい。そのうち八体は倒せたけど、最後の一体が見付からなくて……。もう誰かが倒したかもしれないけど、念の為」

 

(誰かが故意に逃がした……?)

 

 街中に、別口で魔物が放たれる。そんな偶然、果たして起こり得るのだろうか。

 

(まさか、こっちが本命で……闘技場の方は陽動目的……?)

 

 根拠はないが、反証も現段階ではない。

 考え過ぎだろうかとアイリスが首を捻っていると、いつの間にかアイズがいなくなっている事に気が付く。一体何処にと周囲を見回せば、簡単にその姿を見付ける事が出来た。やって来たときと同じように、民家の屋根に上ってこちらを見詰めている。

 

「最後に、訊かせて。貴方の名前は……?」

 

 それを聞く為に待っていたのだろうか。

 不思議とよく通る声での問い掛けに、アイリスは同じようにハッキリと答える。

 

「アリス・フランシスですわ。以後、お見知り置きを」

 

 聞きたい事を聞き終えたからか、アイズは何事かを呟いて方向転換し、民家の屋根を駆け抜けていく。ものの一〇秒足らずで、その後ろ姿は見えなくなった。

 

「ありがとう、ね……。では、わたくしは貴方のご両親を捜す事から始めましょうか」

 

 そう言って、アイリスは少女の脇を持って一緒に立ち上がる。

 一向に現れないベルの事も勿論心配ではあったが、少女をここに独り置いて行くわけにもいかないだろうし、そもそもそんな選択肢はアイリスの中には存在しなかった。

 

「きっと、パパもママも大層心配なさっているはずですわ。早く、元気な姿を見せてあげましょう」

「……手、繋いでもいい?」

「ええ、勿論構いませんわ」

 

 少女の小さな掌をしっかりと握り、少女の両親が逃げただろう方向に向かって歩き始めた。

 

     ×     ×     ×

 

 少女の両親は、呆気ないほどに簡単に見付かった。半狂乱で少女を助けに戻ろうとしたところを、ギルドの職員や冒険者に力尽くで止められたらしい。そして、憔悴しきっていたところに、アイリスに連れられて少女は現れた。生還した愛娘と再会出来た少女の両親が何を思ったのかは想像に難くない。

 謝礼を固辞して早急にその場を後にしたアイリスは、足早に目的地に向かった。もしかしたら、という予感があったのだ。

 

「あっ! 神様、アリスさんいましたよ!!」

「全く、無事なら無事って返事をしろってんだ。アリス君、ボクら凄く心配したんだぞ! やっとの思いでここまで辿り着いたと思えば君はいないし、地面には大穴空いてるし!」

「……理不尽ですわね」

 

 もしも運命の女神がいるのなら、今度ばかりは心底呪ってやろうとアイリスは思う。

 

「聞いてくださいよ! 闘技場から魔物が脱走して、僕と神様も散々追い掛け回されて……!」

 

 最後の一体は、どうやらベルとヘスティアを追い掛け回していたようだ。しかし二人とも無事だという事は、アイズが間に合ったのか、それとも――。

 

「ええ、その話は後でゆっくり聞かせてもらいますわ。でも今は、出来る事ならゆっくりと湯船に浸かりたいですわね。埃っぽいですし、何より待ちぼうけで足が棒になってしまったようですもの」

 

 そう言いつつ、アイリスはチラリとスカートを捲り上げ、視界に黒い布地が僅かに入ったベルは、一瞬で顔中を真っ赤に染める。

 

「何をやってるんだ君はぁぁぁぁ!! こんなっ、こんな公衆の面前で! 大体君は――」

「だって、わたくしを放って他の女とデートしていたなんて……妬けてしまうじゃありませんの」

 

 ぼそりと吐いた呟きは、幸い喧噪に掻き消され、ベルの耳には届かない。

 

「聞いてるのかアリス君!? ボクは君のそういう態度がっ」

「ええ、ちゃんと聞いていますわ。ところで――」

「こらー! 話を逸らそうとするんじゃないっ! ベル君もいつまで放心してるんだ!」

「え!? な、何ですか!?」

「フローヴァに、ちゃんと財布は届けられましたの?」

「「あっ」」

 

 アイリスに指摘され、ベルとヘスティアはようやく思い出す。ああ、そんな話もあったな、と。

 

「ど、どうしましょう……?」

「言い訳は幾らでも出来るでしょうし、今からでも本人に渡しに行けばいいのではないかしら?」

「本当に君はその辺豪胆だよね。ある意味尊敬するよ」

「ヘスティア様に褒めて頂けて嬉しいですわ」

「褒めてない!」

 

 しかし、ベルとヘスティアから異論が出る事もなく、本日の夕飯は外食に決定したのだった。

 




ベル君の活躍は割愛しました。読みたい方は原作を買って、どうぞ。
また、話の都合上ヘスティア様には不眠を続行してもらってます。

それと、全然関係ですけど、のんのんびよりが終わって心が折れそうです(´ー`)


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20

 ベルたちが夕食に訪れたのは『豊穣の女主人』だった。既に店に戻っていたシルに無事財布を手渡し、その後は細やかながらアイリスの歓迎会を催した。この三日間碌に眠っていないヘスティアは終始テンションが高くベルを困惑させたが、アイリスは心底楽しげだった。賑やかな食事は随分と久し振りの事だった。

 食事を終えて家路につく。酒で火照った身体を夜風が撫でる。暫く三人並んで歩いているとホームである廃教会が見えてきた。

 

「ベル君、先に帰っていてくれるかい? 爆睡したいのは山々だけど、アリス君の【ステイタス】を更新しないといけないからね。どうせ君たち、明日も迷宮(ダンジョン)に行くつもりなんだろう?」

 

 それくらいはお見通しだよ、とヘスティアは苦笑する。

 

「解りました。それじゃあアリスさん、また明日。お休みなさい」

「ええ、お休みベル」

 

 ベルと別れ、二人はアイリスのアパートへとやって来た。たった半日振りの事だが、アイリスは随分とこの部屋が懐かしく、また安らぎを感じた。

 

「眠気覚ましにコーヒーでも淹れましょうか?」

「いや、要らないよ。――それより、これでやっと二人きりになれた。君に色々と訊いておかなきゃいけない事があるんだ、アイリス君」

「……色々、とは具体的にはどのような事でしょうか?」

「そうだねぇ……例えば、背中の【神聖文字(ヒエログリフ)】が何で真っ赤に変色してるのか、だとかかな」

 

 そう言われ、アイリスは危うくコップを落としそうになった。

 

「い、今なんと仰いました?」

「気付いてなかったのかい!? まあ、無理もないか。自分の背中を自分で見る事は出来ないからね」

 

 アイリスは部屋に置かれた姿見と手鏡を使って己の背中を映し見る。ヘスティアの眷属(ファミリア)になったあの夜にも、同じようにして自分の背中に刻まれた文字を確認していたが、その時は黒かった文字が確かに真っ赤に染まっていた。

 

「……どういう事なのでしょう?」

「こっちが聞きたいよ。何か心当たりはないのかい?」

 

 ヘスティアにそう尋ねられても、アイリスは直ぐには声を発する事が出来なかった。心当たりはある。あり過ぎると言ってもいい程だ。だが、果たして信じてくれるだろうか。

 そう不安に思っていると、ヘスティアはアイリスの内心を見透かすように苦笑を浮かべる。

 

「ボクには君が言ってる事が嘘か本当なのか解らないけれど、だからこそ信じる事に決めたんだ。関係がありそうな事は、どんな些細な事でもいいから話してほしい」

 

 真摯な瞳で見詰められ、アイリスは自分の頬が熱くなるのを感じた。少しでも誤魔化そうと考えた自分が恥ずかしかった。

 言われた通り、アイリスは事の発端と思われる数日前に見た夢の話から、新種の魔物(モンスター)と戦いアイズの助力を得てこれを仕留めた事、戦闘中に聴こえた幻聴の事まで包み隠さず語った。

 

「背中に感じた激痛か……。今はもう痛くはないんだよね?」

「ええ」

「なら試しに、その盾の魔法というのをこの場で使ってみてくれないかい? もしもまた痛むようなら、早めにミアハに診てもらった方がいいだろうからね」

 

 ヘスティア曰く、自分の知る限りミアハ以上に医術に長けている神はいないのだという。『神の力(アルカナム)』を封じた今の状態でも、視診などは問題なく出来るらしい。それならば病院でもやればいいのにとアイリスは思うが、考えてみればポーションによって怪我の大半は治ってしまうし、冒険者の多くは病気で死ぬ前に魔物によって殺されてしまう。オラリオでは医者の出る幕はないのだ。

 

「解りましたわ。……では、少し離れてくださいまし」

 

 恐怖がないわけではなかった。再びあの激痛に襲われるかもしれないと思うと足が竦みそうになる。しかし、先ほどとは大きく異なる点が二つ。一つは、痛みを感じれば直ぐにでも魔法を中断出来る事。そして、二つ目にして最大の違いは、今のアイリスは独りではないという事だ。心許せる人間が傍にいるというのは、それだけで萎えそうになる心を奮い立たせてくれる。

 アイリスは小さく深呼吸をしてから、左手を前方に突き出し呪文を口にした。

 

「【我が身を護れ】」

 

 王女の祈りに応え、掌から蛍火が溢れ出す。薄暗い室内をぼんやりと揺蕩(たゆた)いながら、次第に一箇所に集まっていく。

 

「【イージス】」

「っ!?」

 

 その魔法名を聞いて愕然とするヘスティアを尻目に、再び光の盾は顕現した。今度は、身体の何処にも異常は感じない。幻聴が聴こえるという事もなかった。

 

「ふぅ……。問題は……ないようですわね?」

 

 安堵の溜め息を零しつつ、アイリスは開いていた掌を閉じた。それに伴い、盾は一瞬にして光の粒に戻り薄闇に溶けて消えていく。

 

「こうなると、やはり【神聖文字】の変色が痛みの原因と推察出来ますけど、ヘスティア様の方こそ何か心当たりはありませんの? ……? ヘスティア様?」

「へっ!? な、何だい!?」

「いえ、ですから何か心当たりはないか、と尋ねているのですけど……」

「ない! ないよ!? 何もない!!」

「……そうですの」

 

 どうにも、先ほどからヘスティアの様子がおかしい。そうは思いつつも、神を詰問するのもどうかと思いアイリスは押し黙る。

 

「と、取り敢えず【ステイタス】を更新してみようか! 君が見た夢や聴いた幻聴が何某かの神の能力によるものなら、『神の恩恵(ファルナ)』が何らかの変調をきたしてる可能性があるからね。ほら、解ったらサッサとベッドに移動するんだ!」

「え!? 嫌だ、わたくし、まだ心の準備が……」

「そのボケにはもう突っ込まないからね!?」

 

 ヘスティアに背中を押される形で、アイリスは隣の寝室に移動した。

 部屋の内装はリビングと変わらないが、ゴチャゴチャと物が置かれていないだけで随分と印象が変わる。が、どちらにせよ、やはり女の子の部屋という感じではなかった。家具は少し大きめのベッドと衣装ダンス、それから物書き机があるだけで、リビングとは対照的に物が少な過ぎるようにヘスティアには思えた。

 

(必要なものだけ持てば、いつでも逃げ出せる構えだね)

 

 その日が来ない事を祈りつつ、ヘスティアはアイリスをうつ伏せの状態でベッドの上に寝かせ、その後アイリスの腰に跨った。

 

「うっ……胸が苦しいのですけど」

「直ぐに終わらせるから我慢してくれ。――さあ、始めるよ」

 

 チャリッ、と僅かな金属音がアイリスの耳に届く。

 懐から針を取り出したヘスティアは、自らの指に軽く突き刺し、アイリスの背中に溢れた出たそれを滴り落としていく。神が流す聖なる血液――即ち『神血(イコル)』を。

 次いで、ヘスティアは血液を落とした箇所を中心に指を這わせ、刻印を施していく。

 

「んぁっ」

「変な声出すなよ!」

 

 音声のみ聞けば嬌声と勘違いしそうな声を出すアイリスにヘスティアは顔を顰めつつ、その後は無言で作業を続けていく。

 やがて、【神聖文字】が淡く発光し、書き換えが完了した事を告げた。相変わらず文字は赤いままだったが、『神の恩恵』そのものには異常がない事にヘスティアは安堵した。

 

(さて、【ステイタス】はどうなって――)

 

 しかし、安堵も束の間、ヘスティアの思考は空白に埋め尽くされる。

 

 アイリス・F・ハイランド

 Lv.1

 力:H109 耐久:I0 器用:D504 敏捷:G283 魔力:H176

《魔法》

【イージス】

・詠唱は『我が身を護れ』。

・光の盾を形成する。

 

 (むら)が酷いものの、全アビリティ熟練度、上昇値トータル一〇〇〇オーバー。

 だが、これはまだ許容の範囲内だ。【ステイタス】が完全に白紙状態だった事を思えば、獲得した【経験値(エクセリア)】の量次第で充分に起こり得る。実際、アイリスは殆ど単独で大型の魔物を倒してみせたという。得られた【経験値】の量は相当なものだったはずだ。

 また、魔法の方も簡潔に書かれているだけで特に突っ込みどころは見当たらない。少なくとも、魔法名以外は――の、話だが。

 問題は、この次だった。

 

《スキル》

魔弾の射手(デア・フライシュッツ)

・自動装填

 ・弾丸と弾薬を自動的に装填する。

 ・『装填』と念じる。口に出す必要はない。

魔弾(フライクーゲル)

 ・射手の望んだ場所へ必中する。

 ・但し、弾丸その物が消滅すればその限りではない。

 ・使用に際しては、『装填』の後に『魔弾』を追加する事。

・残弾:6

 

 まずヘスティアは、文字を読むという段階で大きく躓く事になった。

 

(何だよこれ!?)

 

 ヘスティアに理解出来たのは、末尾に書かれた六という数字のみだった。それ以外は何と書かれているのか、皆目見当も付かない。

 書かれている文字が、ヘスティアの慣れ親しんだ【神聖文字】である事は疑いようがない。只、文字は同じでも、読み方が決定的に異なるのだ。まるで、別の言語(、、、、)を書き表しているかのように。

 そして、極め付けは――。

 

「【ランクアップ】可能……」

 

 呆然として、ヘスティアは思わず呟いた。

 『偉業』の達成による、高次への昇華。それ自体は、特段珍しい事ではない。だがアイリスの場合、余りにも早過ぎるのだ。

 オラリオの短くない歴史の中で、Lv.2到達最速記録保持者は他ならぬ【剣姫】アイズ・ヴァレンシュタインである。しかし、そんな彼女でも、そこに至るまでには一年の時を要したという。対して、アイリスが【ランクアップ】に要した時間は僅か数日。しかも一日中迷宮に潜っていたわけもなく、実際に要した時間は更に短くなるはずだ。

 

「……いい加減冗談抜きで辛いのですけど、まだ終わりませんの?」

「え!? ああ、ごめん、もう大丈夫だ。直ぐ退けるからちょっと待ってくれ!」

 

 ヘスティアが慌ててベッドから跳び降りると、アイリスは緩慢な動作でのそりと起き上がった。そして、怨めしそうな目付きでヘスティアを見やる。

 

「これでもしも形が崩れたら、ヘスティア様には責任取っていただかないと。わたくしがプロポーションを維持する為に日々どれだけ苦労していると――」

 

 それ以降はヘスティアには聞き取れなかったが、アイリスの鬼気迫る雰囲気に背筋が寒くなる。

 

「あー……君に訊きたいんだけど、君の立場上目立つのは極力避けたいところだよね?」

「ええ、見付かって連れ戻されるなんて御免ですもの」

「なら【ランクアップ】は当分見送った方がいいかな。アビリティの熟練度は【ランクアップ】後も持ち越されるから、出来る限り上げておいて損はないしね」

 

 アイリスに筆記用具を借り、ヘスティアは【ステイタス】を共通語(コイネー)に訳して書き記していく。

 

「取り敢えず、目標は耐久をGまで上げる事。ベル君に聞いたよ。君、自分は射手だとかボクには言っておいて、近接戦闘もちゃっかりしてるらしいじゃないか。強烈なの一発貰う前に、弱い魔物相手に慣らしておくのが賢明だとボクは思うよ」

「善処しますわ」

「それと、君の魔法は使える場面なら積極的に使っていく事。消費が激しいようだから、やっぱりこれも地道に上げていかないとね。詳しい話はギルドの子にでも訊いてくれ。――あと、これ」

 

 【ステイタス】の書き込まれた羊皮紙と一緒に、所々破けてしまった包みをアイリスに手渡す。

 

「これは……?」

「魔物から逃げてる途中で包装はボロボロになっちゃったけど、中身は無事なはずだから」

 

 開けてみてくれ、というヘスティアの指示に従い、アイリスは包装紙を丁寧に開いていく。

 中から出てきたのは、小さな赤い帽子の付いたヘッドドレスだった。

 

「まあ、まあまあまあ! これをわたくしに?」

「ちょうど展示されてるのが目に留まってね。あのドレスのお返しにしては安っぽ過ぎるけど、今のボクじゃこれが限界というか……」

「プレゼントというのは、何を貰うかではなくて、誰から貰うのかが重要ですのよ? 付けてみても宜しいでしょうか?」

「……構わないよ。もう君のものだ」

 

 ベルに自分の名を冠する武器をプレゼントしたとき以上に小っ恥ずかしい気分になりながらも、ヘスティアは平常を装って頷く。

 鏡と睨めっこするアイリスの後ろ姿を眺めながらヘスティアは思う。アイリスに関する謎は、減るどころか益々増えた。けれど、アイリスを二人目の眷属に選んだ事は、決して間違いではなかったと。

 

「どうでしょう? 似合っているのかしら?」

「うん、いいんじゃないのかい?」

「では、早速ベルにも見せに行きましょうか。満足のいく感想を訊き出すまで今夜は寝かせませんわ」

「ちょっと待てぇ! それはベル君を誘惑させる為に買ってきたわけじゃ――……ふぅ。相変わらずヒトの話を聞かないねぇ、君は。いいだろう。そっちがその気なら、ボクにも考えがある! ベル君は渡さない! ベル君はボクのだぞッ! 聞いてるのかアイリスくーん!!」

 

 喧噪が過ぎ去り、室内に静寂が戻って来る。

 後に残ったのは、少し大きめのベッドと衣装ダンス、それから物書き机。カーテンの開けられた窓からは、月明かりが差し込んでいた。

 

 これは、姫と兎と女神様――三者で織り成す聖譚曲(オラトリオ)




これにて第一章完結です!

次回は舞台裏で起こっているもう一つの物語をお送りします。

※10.14

ご指摘を受け、アビリティの数値を変更しました。内容そのものに変更はありません。

※10.16

一部「様」が抜けていたので修正。


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断章一
21


「小娘一人見付け出せないとはどういう事だ!?」

 

 赤毛の青年が卓に拳を打ち付け怒鳴り声を上げる。怒鳴られた小太りの男は、額に脂汗を浮かべて弁解する。

 

「し、しかしながら殿下……! 相手が相手だけに大々的に捜索するわけにもいかず、何より国外となると……!」

「言い訳は聞き飽きたわ! 一体何ヶ月前に追っ手を放ったと思っている!? これだけ時間をかけておきながら居場所を特定出来ぬなど、諜報員が聞いて呆れるぞ!!」

「そ、それは……」

 

 赤毛の青年の指摘は尤もだった。諜報員とは情報収集のプロである。それが成人を迎えたばかりの右も左も解らぬ娘一人捜し出す事が出来ないというのだから、無能と謗られても仕方あるまい。但し、その前提が正しければ、の話だが。

 現段階になっても、判明している情報は極めて少ない。

 一つは、娘が貿易船に紛れ込み、東の大陸に密航したらしい事。これは、積み荷の一つだった保存食が食い荒らされ、代わりに数枚の硬貨が残されていたという酒場での噂話を捜索隊の一人が偶然耳にした事で判明した。その話を口にした船員は、随分と気前のいい鼠がいたものだと普段より上等な酒を飲んで笑っていたという。

 これは捜索隊にとっては完全に想定外だった。捜索隊は当初、対象は国内に身を潜めているものとばかり思っていた。

 

「おいおい、俺らが捜しているのは慎ましやかなお嬢さんじゃなかったのか? とんだじゃじゃ馬じゃねぇか」

「違いない。見付かった暁には、今度は逃げ出せないように手綱をしっかり握ってやらないとな」

 

 しかしこの頃はまだ、そんな軽口を叩けるくらいには彼らにも余裕があった。

 娘の足跡を辿り、捜索隊が向かったのは東の大陸のとある港町だった。聞き込みを行ってみると、驚く事に住人の多くが娘の事を覚えていた。何でも、非常に目立つ格好をしていたらしい。

 ここでまた一つ、有力な手掛かりが見付かった。マイクという男の証言によれば、娘は彼から大枚を叩いて馬を購入したらしい。また、その時には既に、娘の服装は目立たないものに変わっていたという。

 その後も聞き込みを続け、娘が東の方角に向かったらしい事までは解った。だが、そこまでである。捜索範囲は余りにも広く、また娘が町を訪れてから既に二週間が経過していたのも痛かった。おまけに――。

 

「な、何だこの化け物は!?」

魔物(モンスター)だ! 逃げろ、逃げろォ!!」

「ぐああああああああああ!」

 

 運悪く『リザードマン』の群れに襲われ、捜索隊は半壊した。彼らにも戦闘の心得はあったが、所詮それは人間相手のもの。怪物と戦うなど、正気の沙汰ではない。これは英雄譚ではなく、しがない諜報員の物語なのだから。

 その後は捜索隊の規模を更に縮小せざるを得ず、碌な手掛かりも見付からぬまま現在に至る。

 

「や、やはり、アイリス殿下は既に亡くなっているのではないかと……」

「滅多な事を言うものではないぞ、アルバート公」

 

 と、今まで沈黙を守っていた黒髪の青年が、小太りの男――アルバートを諫めた。

 

「し、失礼しました! 何卒お赦しを!」

 

 アルバートは自分の発言が意味する事に気が付き、二人の青年に向かって何度も頭を下げる。頭頂部が禿げ上がる年の頃の男が青年に頭を垂れる様は、傍目から見れば異様な光景に映るだろう。だがそれは、アルバートと青年たちの地位の違いを如実に物語っていた。

 赤毛の青年はアルバートを見下しつつ、小馬鹿にするように口の端を歪める。

 

「ハッ。あいつがその程度で死ぬ玉かよ。蛙の子が蛙であるように、魔女の娘も等しく魔女だ。案外、その怪物とやらも上手い具合に手懐けて――」

「お前も口が過ぎるぞ、ジュリアス。たとえ母が違おうと、アイリスが妹である事に変わりはない。それは、私にとってお前が弟であるのと同じ事。肉親を悪く言うものではない」

 

 黒髪の青年が赤毛の青年――ジュリアスを窘めるが、ジュリアスは一転、然も可笑しそうに腹を抱えて笑い出した。

 

「ハハハッ! おいおい兄貴、アンタそれ本気で言ってるのか? 世の中の兄貴は、妹に性的な視線を向けたりしねェよ」

「ジュリアス、貴様……!」

「気付いてないとでも思ってたのか、フェルディナント? アンタ、アイリスの結婚に最後まで反対してたよな? そりゃそうだ。自分が惚れた女を他の男に取られたくはないよなァ? しかもあんなジジイに穢されるのかと思えば、(はらわた)煮えくり返る気分だった事だろうよ」

 

 ジュリアスは哄笑し、更に挑発を続ける。

 

「まあ、確かに顔はいいからなァ。しかも、小柄な割に胸も尻もデカいときてる。餓鬼っぽい性格だけが難点だが、それも抱くだけなら関係ないしな。けどよ、普通は勃たねェだろ。幾らイイ女でも、所詮は妹だからな。どうしても、本能的に歯止めがかかっちまう。つまり歯止めの利かねェアンタは充分に異常者ってわけだ。これも魔性のなせる業かね?」

 

 そこまでが限界だった。

 黒髪の青年――フェルディナントは椅子を倒して立ち上がると、腰に帯びていたサーベルを抜き放ちジュリアスに向けた。

 

「貴様、覚悟は出来ているだろうな?」

「図星を指されて頭に血が上ったか、フェルディナント? その物騒なものを早く仕舞え。アルバートが狼狽えているぞ?」

「知った事か。私に対する暴言を撤回しろ。然もなくば、この場で殺してやる」

「王子の言葉とは思えないな」

「貴様が言えた義理か」

 

 一触即発の空気――。それを打ち破ったのは、勢いよく開け放たれた大扉と闖入者の第一声だった。

 

「おやおや、お取込み中でしたか? これは失敬。出直す事に致しましょう」

「待て、待て待て待て! 出直さなくてよいファウスト伯! 戻って来い!」

 

 回れ右をして帰ろうとする燕尾服をアルバートは慌てて止め、これ幸いとばかりにフェルディナントに忠言する。

 

「殿下、どうか剣をお収めください。交渉の結果次第では、アイリス殿下をガレリアへ嫁がせる必要はなくなります。そうだな、ファウスト伯?」

「ええ、確かに。実際、アイリス殿下を嫁に出す必要はもうなくなりました」

「そ、それは誠か? いいだろう、聞かせてくれ」

 

 フェルディナントはサーベルを鞘に納めると、椅子を戻して着座した。ジュリアスも、驚きつつも聞く態勢に入る。アルバートはホッと胸を撫で下ろした。

 燕尾服の男――ファウストは、被っていたシルクハットを外し、何処か芝居染みた動作で恭しく礼をする。

 

「フェルディナント殿下にジュリアス殿下、ご尊顔を拝し恐悦至極――」

「前置きはいいからサッサと話せ」

 

 ジュリアスに急き立てられ、ファウストは挨拶を中断し頭を上げた。

 

「では、簡潔に。先方に最後通牒を突き付けられました。ガレリアは我が国に宣戦布告するそうです。正式な表明は後日改めて宣言されるかと存じます」

 

 誰もが、自分の耳を疑った。

 フェルディナントは引き攣った笑みを浮かべる。

 

「ファウスト伯、冗談が過ぎるぞ。……笑えない冗談だ」

「ジョークならよかったのですが、残念ながら紛れもない事実ですよ」

 

 あくまでも淡々と答えるファウストに、次の瞬間、アルバートが掴み掛った。

 

「馬鹿な! 有り得ん! たかだか婚儀が破綻したくらいで宣戦布告だと!? そんな話、儂は信じんぞ! 我らを謀るのは何が目的だ!? 言え!」

「信じようが信じまいが、現実は変わりませんよ。それと、襟首を掴まれると苦しいのですが」

「貴様……!!」

「取り乱すな、アルバート」

 

 冷や水を浴びせるように冷静にそう言ったのは、意外な事にジュリアスだった。

 

「解らん話でもないさ。今まで従順だった羊が、突然反旗を翻したんだ。ご主人様としては我慢ならんだろうよ」

「ふざけるな! 我が国は独立国だぞ!? ガレリアの属国ではない!」

 

 皮肉るジュリアスに、フェルディナントが食ってかかる。しかし、ジュリアスは尚も嘲るように続ける。

 

「確かにな。兄貴の言う通り、我が国は独立した主権国家だ。だがな、軋轢を回避する為とはいえ、長年に渡って朝貢染みた真似をしてきたのは紛れもない事実だ。どんな命令でも二つ返事で聞く馬鹿がいたとしたら、ソイツを奴隷か何かだと勘違いするのは無理もない事だろうよ」

「くっ」

 

 反論出来ないのか、フェルディナントは口を噤む。

 

「だがここに来て、従順だった奴隷が初めて命令を無視しやがった。驚くと同時に、怒りが込み上げてきた事だろうな。まあ、奴隷にも言い分はある。貢ぎ物が足を生やして逃げ出すなんて完全に不測の事態だ。でもな、ご主人様にとっては、奴隷の事情なんぞ知った事じゃないんだよ。命令違反という事実があるだけだ。そりゃ折檻されるだろうよ」

 

 そして、ジュリアスはニヤリと笑う。その眼光は、肉食獣のそれだった。

 

「だが、こちとら奴隷でもなけりゃ羊でもないんでな。折檻されるのを大人しく待っててやる謂われはねェ。殴ってくるなら、殴り返すまでだ」

 

 獰猛な笑みを浮かべたまま、ジュリアスはファウストに尋ねる。

 

「この事を親父には?」

「いえ、まだご報告していませんが」

「なら、直ぐに報せに行け。自室に引き籠っているはずだ」

「御意に」

 

 ファウストは身を翻し、応接間を出て行く。

 

「それから、アルバート」

「な、何でございましょう?」

「明朝議会を招集しろ。くれぐれも内密にな」

「お、仰せの通りに!」

 

 アルバートも大慌てで応接間から出て行き、室内には兄弟二人だけが取り残された。

 

「さあ、始めようか」

「な、何をするつもりだ?」

「決まっているだろう。――反撃だ」




【西の大陸】

オラリオがある東の大陸とは海を隔てており、移動手段は船のみである。しかし、この海域は潮の流れが複雑で、古くは難破船が絶えなかった。近年ハイランド王国で蒸気船が発明された事で東の大陸と交易が始まる。
人種はヒューマンのみ。魔物が生息しておらず、従って魔石も存在しない。その為、独自の文化が形成されている。

【神聖ハイランド王国】

アイリスの母国。建国以来君主制を採用しており、ハイランド家の当主が代々国王として国を治めている。
国土を海と山に囲まれ、唯一国境が接している隣国のガレリアから一方的に搾取されている。
資源に恵まれており、特に科学技術に関しては目覚ましい発展を遂げている。
初等教育を行う小学校と、高等教育を行う大学が存在する。

首都:アルケニア

セントフィエナ城:ハイランド家が住まう白亜の城。多くの使用人が従事し、また警備も厳重である。

通貨:ユルド(金貨・銀貨・銅貨とあり、通称ハイランド~)。貨幣価値は金貨一枚で約一〇万ヴァリス相当。

【ガレリア】

ハイランド王国の隣国。支配体制が変わる度、国号もその都度変更している。
国土面積はハイランド王国の六倍、人口は四倍。また、多民族国家である。
強大な軍事力を保有しており、外交は極めて高圧的。
アイリスとの婚姻を持ち掛けるが、当人が出奔した為に縁談は破綻。一触即発の状況が続いている。


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22

 宵闇が濃くなる刻限。茜色に染まった空では、夕星(ゆうずつ)が燦然と輝いている。

 その光景を窓辺越しに眩しそうに見上げ、やがて皮肉げな笑みをファウストは浮かべた。

 

「やれやれ、陛下はここにもいませんか」

 

 自室を訪ねても王の姿はなく、ファウストが次に訪れたのはアイリスの部屋だった。

 使用人が毎日掃除を欠かす事なく行っている為か、主をなくした今でも人の気配を感じる事が出来る。

 部屋の内装は、ファウストですら驚くほどにシンプルだった。調度品はどれもが高価そうではあるものの、必要最低限のものしか置かれていない。ファウストが知る限り王侯貴族というものは、誰もがその膨れ上がった虚栄心――自己顕示欲を満たす為に贅を尽くしていたものである。

 

「そういう意味では、アイリス嬢は稀有な人間と言えなくもない。しかし――」

 

 まるで聖域を侵すかの如くファウストは部屋に踏み込み、そのまま衣装ダンスの前まで直進したかと思えば、取っ手を掴んで躊躇なく引き開けた。

 

「一度蓋を開けてみれば、こんなものです」

 

 中には、豪奢なドレスや部屋着などが掛けられていた。勿論、王女である彼女の衣装がそれだけであるはずもなく、この中に収められているのは数あるものの内のほんの一部でしかないだろう。

 

「自らを飾り立てる事に余念がない。所謂、色欲というヤツですか。多かれ少なかれ、どんな人間でも欲望を内に秘めているものです。寧ろ、自らを無欲だと語る者の方が、根深い問題を抱えている事の方が多い。アイリス嬢はごく普通で在り来りな人間だ。だからこそ、健全であると言える。ええ、安心しましたよ。――おや、これは?」

 

 タンスの二段目を引き出したファウストの目に飛び込んできたのは、透けるように薄く黒い布地。それを手に取り、まじまじと見詰める。

 

「いやぁ……エロいですねぇ。おっと、これもまた色欲」

 

 ファウストは言葉とは裏腹に無表情で布をタンスに戻すと、引き続き王を捜す為、足早にアイリスの部屋を後にした。

 

     ×     ×     ×

 

 ガラス張りの中庭に男は一人佇んでいた。いや、正確には庭の手入れをしているようだった。花壇には、白薔薇が幾重にも咲き誇っている。

 男は白髪に同色の髭を蓄え、頭には王冠を載せて背にはマントを羽織っていた。しかし何より特徴的なのは、まるで全てを見透かしているかのような紅玉(ルベウス)の瞳だった。

 男は振り返る事もせず、背後の訪問客に問い掛ける。

 

「何用だ、ファウスト?」

「おやおや、ばれていましたか。気配は完全に消えているはずなのですがねぇ……毎度の事ながら不思議なものです」

 

 口角を吊り上げたファウストは恭しく礼をしてから、飄々とした態度で尋ねる。

 

「陛下、吉報と凶報、どちらからお聞きになりたいですか?」

「下らない問いを投げ掛けるな。どうせどちらも聞かねばならぬのだからな」

「では、凶報から。ガレリアが貴国(、、)に宣戦布告するそうですよ。良かったですね、陛下の思惑通りです。人目を憚らず喜んで頂いて結構ですよ?」

「まだ喜ぶような段階ではないな。随分昔に蒔いた種がようやく芽吹いたに過ぎん。だが、これで後の世に禍根を残す事はなくなった。我が国が、あくまで被害者であるという体裁を手に入れる事が出来たのだからな」

「ええ、ええ、そうでしょうとも。人間にしては中々に深遠な計画でしたからねぇ。道化を演じる苦労が報われたというものです。おめでとうございます」

 

 ケタケタとファウストは笑うが、男は平常を崩さない。しかし、それも次の一言で脆くも崩れ去るのだが。

 

「次にご息女の件ですが――」

「娘に何かあったのか!?」

 

 男が振り返った。その鬼気迫る表情は、とても娘を売ろうとした男の顔ではなかった。

 ファウストは内心ほくそ笑む。

 

「いえいえ、ですから吉報ですよ、吉報。私の使いが先ほど連絡をよこしましてね。ご息女が見事に魂を昇華させたそうですよ。実に喜ばしい。出来ればこの眼で直に見たかったものです。魂の輝く様は、何度見ても良いものですからね。ご息女の事だ、明けの明星もかくやというほどに輝いていた事でしょう」

「……そうか。肉体の老化を遅らせ、寿命を延長させる――不老不死に最も近く、何より確実な手段……。お前の言葉に偽りはないのだろうな?」

「ええ、それは勿論ですよ。クライアントに嘘を吐かないのが私の信条ですので」

 

 ファウストはそう嘯くが、男は疑念の籠った眼差しを向けた。

 ファウストは肩を竦め、態とらしく溜め息を漏らす。

 

「信用がありませんねぇ。或いは人望が、でしょうか? 兎も角、ご息女の身の安全に関しても、出来得る限りの配慮をさせて頂いていますよ。ご存知の通りあの銃は、ティタノマキアの遺物から製錬した金属を用い、更にこの私自ら(まじな)いをかけた特別製ですから。問題は使いこなせるかでしたが、それも杞憂に終わった事ですしね」

「問題と言うのなら、どうやって持たせるか、の方が問題であったろう」

「ええ、それに付いても恙なく事が運びました。これ見よがしに壁に飾り立てる事によって、ね。ご息女が賢明で助かりました。丸腰で行かれる可能性もない訳ではありませんでしたから、我々は見事に賭けに勝ったという訳です。まあ、保険もかけてありましたが」

 

 そこまで言ってから、ファウストは徐に被っていたシルクハットを外し、つばを右手で持って逆さまにした。そして、ぽっかり空いた暗闇に左手を突き入れる。

 

「では、お手を拝借。(アイン)(ツヴァイ)(ドライ)

 

 果たして、抜かれた左手に握られていたのは、アイリスのそれとは違う、何の変哲もない一丁のマスケット銃だった。

 

「さて、多少性能に差はあるでしょうが、怪物相手でも有用なのはご息女が証明して下さりました。人間相手であれば尚の事。数は足りていますか? 何でしたら、私がご用意しますが」

「無用だ。生産ラインは既に整っておる。第一陣が間もなく完成予定だ」

「それは素晴らしい。問題は兵の練度ですが……まあ、運用上そこまで問題にはなりませんか。多くを求め過ぎるのは良くありませんからね。それは強欲というものです」

 

 言うが早いか、ファウストは持っていたマスケット銃の銃口を男に向け、躊躇いなく引き金を引いた。

 ポンッ、とポップな音を立て、煙と共にバネ仕掛けのヒヨコの玩具が飛び出す。

 

「……………………」

「ノーリアクションですかぁ、冷たいですねぇ。それは怠惰というものですよ」

「話は済んだか? ならば行け。私は見ての通り忙しい」

 

 怒気の孕んだ声で男が言うと、ファウストは渋々といった調子で指を鳴らした。それだけで、マスケット銃――を模した玩具は、まるで割れたシャボン玉の如く一瞬で消え去った。

 

「今宵は月が綺麗だそうですよ。花見酒もいいでしょうが、月見酒というのもまた乙な物かもしれません。まあ、私には解りかねますが。それでは陛下、ご機嫌麗しゅう」

 

 ファウストは恭しく礼をすると、シルクハットを頭に戻して庭園を後にした。残された男は一人、すっかり暗くなったその場所で天を仰ぐ。

 残照を残すばかり宵の空には白い夕月が上り、星が二つ三つほど輝いていた。




前回は事前告知なしに休んでしまい申し訳ありませんでした。今後は出来る限り事前に告知しようと思います。(まあ、休まないのが一番ですが…)

取り敢えず断章は一旦ここまでとして、次回から第二章に移りたいと思います。
それでは、また次回。


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第二章 ご存知でして?最も重い罪の名を
23


「……何か嫌な予感がしますわね」

 

 オラリオへの帰り道。アイリスは胸騒ぎを覚えて独り言ちる。

 アイリスはこの五日間、アパートを留守にし、それどころか街からも離れていた。

 目的は二つ。一つは、オラリオ近辺の地理を自分の目で見て把握する事。そして、もう一つが野草や菌糸類の採集だった。

 それらの目的から野山で活動するにあたって、アイリスは山の麓のとある小さな村を拠点に選んだ。というのも、この村には以前にも一度立ち寄った事があったからである。

 オラリオは確かに大きな街ではあるが、移動手段は専ら徒歩が好まれる。特に冒険者の場合その傾向が強い。ホームと迷宮(ダンジョン)の往復に馬は邪魔になるだけであるし、ステイタス如何で馬よりもずっと速く走れるようにもなるのだ。つまりアイリスの旅の友だった白桃を仮に手元に置いておいたところで、彼女は狭い馬房に押し込められる事になっただけであろう。

 その辺りの事情を伝聞で事前に知ったアイリスは、村で牧場を営んでいる夫婦に白桃を無償で譲った。彼らならば彼女を大事にしてくれるという確信と共に、連れて行けない寂しさを胸の奥に仕舞って。それでも、久し振りの再開に涙を流したのだけれど。

 そんな訳で初日から山での採集に勤しんだアイリスだったが、予想よりも早い段階で多くの収穫を得る事が出来、予定を繰り上げて帰路に着いたのだったが――。

 

「……またしても厄介事の気配。いい加減慣れてきましたわね」

 

 そう愚痴を零し、足を速めようとしたところで――アイリスは小さな違和感を覚えた。

 

「わたくしの勘って……ここまで正確だったかしら……?」

 

 少なくとも以前のアイリスは、自分が隣国であるガレリアの王に嫁がされるなど夢にも思わなかった。ここまで予知能力染みた勘の良さなど発揮した事はないはずだ。

 ――本当にそうだろうか。

 そんな疑問が頭の隅に浮かぶが、そんな事に構っている余裕などなくなった。

 

「全く、前にもこんな事がなかったかしら?」

 

 上空から迫って来る黒い影を注視しつつ、背負っていた革筒の中からマスケット銃を取り出し素早く構え、心の中で短く念じる。

 

(――【装填】)

 

 いよいよ敵の姿がはっきりと見えてきた。鬼女の如き形相を湛えた半人半鳥の怪物――『ハーピィ』という名の魔物(モンスター)である。

 本来はオラリオの真北である『ベオル山地』に生息するはずなのだが、狩りに来たのか、或いは群れと逸れたのか、少なくとも『ハーピィ』の猛禽のような瞳は、アイリスを獲物と見定めた事だけは確かだった。

 

「獲物を狙う狩人の眼、ですわね。……でもね、小鳥さん? 貴方は今回狩る側ではありませんのよ」

 

 憐れむようにそう言って、アイリスは薄く微笑み引き金を引いた。

 

     ×     ×     ×

 

 オラリオに無事到着しアパートに帰宅したアイリスは、荷物を置くと休む事なく部屋を出た。出来れば直ぐにでも旅の垢を落として眠ってしまいたかったが、食料品を買い出しに行かなければならなかった。

 平素よりも幾分か重い足取りで通りを歩いていると、もう充分に見知ったと言っていい後ろ姿が目に留まった。しかし、辺りをきょろきょろと見回している様は少々不審であった。まるで迷子である。

 

「ベル、そんなに慌ててどうなさいましたの?」

「アリスさん!?」

 

 白髪にルべライトの瞳の少年は予期せぬ遭遇に驚いたようだった。

 

「予定だと一週間だったはずじゃ……? それにその恰好は……」

 

 ベルは頬を染めて視線を逸らし――それでも気になるのか、チラチラと遠慮がちにアイリスを見やる。

 今のアイリスは長い黒髪をハーフアップに纏め、ディアンドルと呼ばれる民族衣装を着ていた。普段のドレス姿に比べて僅かに神秘性が薄れ、何処か素朴な印象を与える。只、襟が深く刳ったブラウスからは深い谷間が覗き、どちらにせよ目に毒である事に違いはなかった。

 

「ベルに早く会いたかったから、という理由じゃ駄目かしら?」

「うぇ……!?」

 

 アイリスに蠱惑的に微笑まれ、ベルの口から可笑しな声が漏れ出る。心臓が早鐘のように打ち付け、顔がカッと熱くなる。

 

「え、えっと……駄目じゃないですけど、でも僕は……って――あれ?」

 

 余計な事を口走りそうになるものの、既のところではたと気付いた。似たような台詞を以前にも言われた事を。

 

「アリスさん、もしかしなくてもからかってますよね?」

「あら、ばれてしまいましたわ」

 

 ベルに看破されたアイリスは、しかし悪びれもせずにそう言ってくすくすと笑う。

 

「何なんですかもう……」

「ふふっ、御免なさい。目当ての物が思いの外早く見付かったものだから早めに帰って来ましたの。でも、ベルに会いたかったというのは本当ですのよ? 因みに、この服は泊まらせて頂いた家のご婦人が昔着ていたのを譲ってもらったのですわ」

「そうですか……」

 

 自分で尋ねた事とはいえ、ベルの気分は完全に白けてしまった。それに伴い、返事もぞんざいになってしまう。それでも、アイリスは気分を害したりはしない。

 

「どうやら落ち着いたようですわね。ではそろそろ、一体何があったのかわたくしに教えてくださいまし」

 

 先ほどまでと比べてずっと真剣味の増した調子でアイリスにそう問われ、ベルは自分が何をしていたのか思い出す。

 

「じ、実は――」

 

 ベルが語るこれまでの経緯を黙って聞きつつ、アイリスは頭の中で要点を整理していく。

 アイリスがオラリオを離れてからもベルは単身迷宮に潜っていた。しかし、今朝になってその状況に変化が生じる。サポーターの少女に自身を売り込まれ、アイリスの不在もあって人手不足を補う為に取り敢えず一日限りの短期契約で雇う事にしたらしい。因みに、少女の種族は犬人(シアンスロープ)なのだそうだが、その時点でアイリスには余りいい印象を与えない。

 少女のパーティー加入により、迷宮探索は飛躍的に楽になったとベルは言う。それにはサポーターと冒険者の役割分担による効率化という側面も勿論あるのだが、何より役立ったのは少女の経験に基づく知識だった。

 そして今日の探索を無事に終えたベルは少女と別れ、少女の事をベル担当のアドバイザーであるハーフエルフの少女――エイナ・チュールに相談する為ギルドの本部へと向かった。ベルは他派閥のファミリア所属である少女をパーティーに加入させる事に問題はないのか不安に思ったのだという。取り敢えずその不安は払拭されたのだが、別れる直前、エイナの指摘によってより大きな問題が露見した。それは――。

 

「《ヘスティア・ナイフ》の紛失――この事実に誤りはありませんのね?」

「……はい。念の為バックパックの中も確認したんですけど、やっぱり何処にもなくて……」

 

 何処かに落としてしまったんです、とベルは沈痛な面持ちで項垂れる。

 だが、アイリスは既にもう一つの結論を導き出していた。いや、そこまで大層なものではない。大人(、、)なら、誰しもが思い付く当然の帰結だった。

 

「話を聞く限り……ベル、それは落としたのではなく、その犬人に――」

「違う……っ!」

 

 しかし、結論を口にする前にベルの怒声によって遮られ、アイリスはビクリと肩を揺らす。ベルが声を荒げるのをアイリスは初めて耳にした。

 

「ごめんなさい、アリスさん……怒鳴ってしまって……。でも、僕が落としたんです。僕の不注意です」

 

 悲愴の滲んだ声でそう言いながら、ベルは何度もアイリスに頭を下げた。その姿を呆然と見詰めながら、そうか、と今更ながらにアイリスは気が付く。

 ベルはお人好しではあっても決して馬鹿ではない。本当に落としたと思っているのなら、真っ先に最も可能性の高い迷宮に向かっているはずなのだ。こんな処をいつまでも彷徨いているはずがないのだ。

 

「……落とした処に心当たりはありまして?」

「アリスさん……?」

 

 ベルには最初、アイリスが何を言っているのか解らなかった。しかし、その問いの意味を理解するに連れ、余計に解らなくなってしまった。アイリスは言外に、ベルの嘘に付き合うと言っているのだ。

 鴉に白いペンキをぶちまけるかのように、偽りで真実をねじ伏せる。その行いは決して褒められたものではないだろう。間違っているだろう。それなのにどうしても、ベルには差し出された手を払い除ける事が出来ない。

 

「間違っていてもいいではありませんの」

 

 そんなベルの内心を見透かすように、アイリスは最後の一歩を踏み出させる。

 

「たとえ問いが間違っていようと、正しい答えを導き出す事は出来る。そしてベル、貴方は既に答えを出しているのではなくて?」

「……はい!」

 

 ベルは決意を込めて頷いた。間違ったまま突き進む――その覚悟を決めたのだ。

 

「多分、『冒険者通り』――北西のメインストリート辺りで落としたんだと思います。アリスさん、付き合ってもらえますか?」

「ええ、喜んで」

 

 こうしてベルとアイリスは、《ヘスティア・ナイフ》を取り戻す為、北西のメインストリートに向かって走り始めた。




※11.11

面倒事→厄介事に修正。内容そのものに変更はありません。


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24

「な、何っ!?」

「何かがぶつかる音……のようですわね」

 

 北西のメインストリートに辿り着いたベルとアイリスだったが、路地裏の方向から聞こえた不審な音に思わず足を止める。次の瞬間、

 

「うわっ!?」

 

 裏道から跳び出して来たのは無数の猫だった。何者からか追い立てられるように、一目散に通りへ四方八方に逃げ出していく。

 ベルたちと同じように足を止めていた通行人らがその異様な光景に(どよ)めき始める中、ベルは人混みを縫って裏道に近付いた。好奇心からの行動というよりは、ある種の予感めいたものがあったのだ。

 案の定と言うべきか、小柄な人影がベルの足元に倒れ込んでくる。それをギリギリのところで抱き留めて、ベルはフードに隠れた相手の顔を伺った。

 

「リリ……?」

「ふ、ふあぁ……」

 

 倒れ込んできた人物の正体は、ベルが雇ったサポーターの少女――リリルカ・アーデだった。奇しくも、尋ね人の方から現れた恰好である。

 しかし問題は、リリルカが明らかに満身創痍である点だ。頬は何か丸いものでもぶつけられた(、、、、、、)かのように真っ赤に腫れ上がり、小さな身体を生まれたての小鹿のように震わせている。もしかしたら、何処か他にも怪我を負っているのかもしれない。

 

「リリ、大丈夫? 一体何があったの?」

「そ、その声は……ベル様っ?」

 

 どうやらリリルカは、自分を抱き留めたのがベルだとようやく気が付いたらしい。ベルは恐る恐るという手付きでリリルカを地面に座らせる。

 

「実は凶暴な女……じゃあなくってっ、野良犬に襲われてしまいまして……」

「野良犬――? ……取り敢えず手当しないと」

 

 ベルは首を捻りつつ、ポーションが差し込まれたレッグホルダーへ手を伸ばす。その瞬間、思わぬ人物が路地から姿を現した。

 

「まさか逃げられるとは……」

「今度はリューさん!?」

 

 聞き覚えのある声に反射的に顔を上げたベルの目に飛び込んできたのは、精巧な顔立ちと先の尖った長い耳――『豊穣の女主人』の店員であるリューだった。

 リューは買い物帰りなのか、林檎などの果物が入った紙袋を抱えている。そして、その紙袋の中に、抜き身のナイフが入れられている事にベルは気が付いていた。

 

「クラネルさん? 丁度良かった。実は貴方の――」

 

 そこまで言いかけて、リューはスッと目を細める。リリルカはそれを見て、怯えたような表情をすると何事かをブツブツと呟いた。

 

「クラネルさん、退いてください」

「えっ、ちょっと!?」

「ひゃっ!」

 

 リューはベルの返事も待たずに彼を押し退けると、リリルカのローブを掴み躊躇なく剥ぎ取った。

 露わになったのは、くりっとした大きな茶色の瞳と同色のぼさぼさの髪。そして、頭部に生えた獣の耳だ。片頬を赤く腫らしている以外はベルが今朝見た姿と何も変わらない。

 顔を恐怖で引き攣らせたリリルカを一瞥したリューは、「失礼しました」と一言詫びてからフードを戻す。しかし、リューの視線はリリルカに注がれたままだ。

 

「何しちゃってるんですか貴方は! リリ、大丈夫!?」

「は、はぃ……」

「すみません……ですが、失礼序でに一つだけ質問に答えて頂きたい」

「な、何ですか……?」

「その頬はどうされたのですか?」

「……っ」

 

 リリルカの口から息が漏れ、反射的に指先が頬に触れた。自身の頬が腫れている事にたった今気が付いたらしかった。

 

「こ、これは……っ」

「これは?」

 

 リリルカは咄嗟に上手い言い訳を思い付くことが出来なかった。そもそも何か言い訳をしたところで、「ならばこの林檎を頬の痣に重ねてみても?」などと問われれば逃れようもない。完全に詰んでいる。

 だが、そんなリリルカに、思いもよらぬ相手から助け船が出された。

 

「――リリ、まだ治療してなかったの?」

「へっ?」

「クラネルさん……?」

 

 ベルは今度こそレッグホルスターからポーションの入った試験管を引き抜き、何が何だか解らないといった様子のリリルカに手渡す。

 

(……間違ったまま突き進む。僕はもう決めたんだ)

 

 既に結論は出ていた。だからベルに焦りはない。

 

「リリ――彼女とは、今朝から迷宮(ダンジョン)に潜っていたんです。魔物(モンスター)との戦闘中に負傷してしまって……。内出血でも、放置したら駄目だって言ったんですけど」

 

 何処かの誰かのように淀みなくそう言って、ベルは試験管の先をリリルカの口に押し当てる。

 

「ほらリリ、幾らポーションの味が苦手だからって、ちゃんと飲まないと駄目じゃないか」

「べ、ベル様……?」

「ごめん。子供じゃないんだから、自分で飲めるよね。はい」

 

 リリルカの口から試験管を離して、その小さな手に握らせる。

 その光景を黙って見詰めていたリューは、やがて深く腰を折った。

 

「すみません、人違いでした。どうやら私は、少々気が短くなっていたようです。そもそも、彼女は小人族(パルゥム)ではない……」

「小人族……?」

 

 今度はベルが驚く番だった。

 

(僕はもしかして、何かとんでもない勘違いを……!?)

 

「あ、あのっ――」

 

 ベルが口を開きかけた時、裏道からパタパタと足音をたてて、これまたベルの見知った人物が現れた。リューと同じように紙袋を抱えたシルである。

 

「リュ……リュー! 食べ物をあんな風に使っちゃ駄目! お母さんに怒られるよ!?」

「それは、困ります……」

 

 気まずそうにリューは視線を逸らす。その姿を見て、リリルカは意外なものを見たといった顔をする。

 

「あ、ベルさん。こんな処で奇遇ですね」

「ど、どうも……」

 

 律儀に頭を下げてくるシルにベルは生返事を返してしまう。

 リューは二人のやり取りを少しの間見守っていたが、やがて率直にベルに質問した。

 

「クラネルさん。貴方は今、あの黒いナイフを持っていますか?」

「い、いえ……。ここを通りかかったのも、そもそもはそのナイフを探してなんですけど……」

 

 ベルが正直にそう答えると、リューとシルは視線を交わし合う。

 リューは視線をベルへと戻すと、切れ味の失われた抜き身のナイフを紙袋の中から取り出した。

 

「これですか?」

「は、はい。間違いないです。でも、何処でこれを……?」

 

 本来なら歓声の一つも上げていたところなのだろうが、今のベルはそれどころではなかった。

 心此処にあらずの状態でベルはリューからナイフを受け取ろうとして――指先が彼女の手に触れる。

 

「ご、ごめんなさいっ!!」

「い、いえ……?」

 

 慌てて手を引っ込めるベルを余所に、リューは不思議そうに己の手を見詰める。

 

「リュー?」

「え? ……ああ、そうでした。クラネルさん、受け取って貰わないと困るのですが」

 

 しかしシルに促さられ、リューは再度ベルにナイフを差し出す。今度こそ、ベルもちゃんと受け取る事が出来た。

 ナイフの形をしただけの金属の塊が、主の手に戻った瞬間紫紺の光を帯び始め、《ヘスティア・ナイフ》へと舞い戻る。

 その光景を見たリリルカの瞳がぎょっと見開かれた。

 

「あ、ありがとうございます。いつの間にか落としてしまったらしくて、ずっと探していたんです」

「そうですか。このナイフは小人族の男性が所持していました」

「小人族の男性……? じゃあ――」

 

(僕はあらぬ嫌疑をリリにかけていた……? 最低じゃないか……!!)

 

 ベルは沈黙するが、それをどう受け取ったのか、リューは頷く。

 

「はい。先ほどまでその小人族を追い掛け回していたのですが、逃げられてしまい……この場にいた彼女を疑ってしまいました。言い訳になってしまいますが、背格好が似ていたもので」

「そうですか……」

 

 リリルカは小人族ではなく犬人(シアンスロープ)だ。おまけに男性ですらない。

 

「身近に男性の小人族はいますか? 何か見覚えは?」

「いえ、ないですけど……」

「ベルさん……?」

 

 流石にベルの様子がおかしい事に気が付いたのか、シルが心配そうに声を掛けてくる。

 

「す、すみません。何だか、安心したら力が抜けてしまって」

「そうですか。余程大事なものなんですね?」

「なら、尚更取り返す事が出来て幸いでした。昨日、路地裏で貴方のナイフを見ていたお蔭で一目で解った」

 

 やがてリューたちとは、彼女たちが買い出しの途中という事で別れることになった。ベルがもう一度礼を言うと、リューは無言で会釈し、シルは自分は何もしていないと苦笑しつつも、「そのうち、またご飯食べに来てくださいね!」とちゃっかり営業トークするところは彼女らしかった。

 彼女たちが去るのを見送ってから、ベルはリリルカに向き直る。

 

「リリ、僕はリリに――」

 

 ――謝らないといけない事がある。そう言い掛けて、しかし口にする事が出来なかった。

 

「ベル様、ご迷惑をお掛けしてすみませんでした。リリもそろそろ失礼します」

「り、リリ……? でも、怪我がまだ」

「それも含めて、ご迷惑をお掛けしました。リリは大丈夫ですから」

「そ、そう……? それならいいんだけど」

「はい。それではベル様、さようなら」

「う、うん。また明日……」

 

 別れの挨拶を交わし、二人の距離は徐々に離れていく。致命的なまでの齟齬に気付かぬまま。

 

「どうしよう……。兎に角、明日会ったときにリリにちゃんと謝らないと。――あれ……?」

 

 そして、今更ながらにベルは気が付く。

 

「……アリスさん?」

 

 彼女の姿が、いつの間にか消えていた事に。



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25

「一体、ベル様はどうしてあのような事を……」

 

 路地裏を歩きながら、リリルカは思考に没頭する。

 ベルの言動自体は明快極まりない。終始あの女エルフから自分を庇っていた。だが、その意図が解らない。自分を助けて、一体彼に何の得があるというのか。

 彼の目的は何だ。彼の狙いは何だ。自分を――陥れようとしているのか。

 

(騙されない。騙されない。騙されない。騙されない。騙されない――)

 

 優しい人間には裏がある。ふとした拍子に豹変する。それはまるでオセロのように、白から黒へ、いとも容易くひっくり返る。

 この世に無償の愛なんてない。必ず対価は要求される。それは家族ですら例外ではない。それを自分は、痛いほど知っているはずだ。

 

「リリは、リリは……」

 

 なのに、どうして迷う事があるのか。

 幾ら考えてみても、答えは一向に出る気配はなく。

 

「……何にせよ、ベル様とはこれでお別れです」

 

 心の隙間を縫うように、自分自身に言い聞かせるように。リリルカは、決然とそう口にした。

 恐らくは、今生の別れ。寧ろ、そうでなくては困る。二度と顔を合わせる訳にはいかない。

 あのナイフは惜しいが、もう自分の前で彼が警戒を解く事はないだろう。もしかしたら、報復という事もあるかもしれない。そんな危険を冒してまで、あのナイフに執着する理由なんてない。

 

「――ここまで来れば充分ですか」

 

 いつの間にか、随分と遠くまで歩いて来ていた。

 リリルカは周囲を警戒してから、フードを下ろして耳に触れ、解呪の詠唱を口にする。

 

「【響く一二時のお告げ】」

 

 すると、灰でも塗されたかのように、灰色の光膜がリリルカの頭を覆っていく。

 数瞬後、先ほどまでは確かにあった獣の耳が消失していた。同じく、腰の尻尾も、何の痕跡も残さずに。

 再びリリルカは歩き出そうとする。しかし、足音が続く事はなかった。リリルカの歩みを止めさせたのは、場違いな美しい笑い声だった。

 

「ふふふっ、ふふふふふっ」

「……っ!?」

 

 リリルカは息を呑む。この場には、自分以外は誰もいないはずだった。だとすれば、この声は一体何処から聞こえてくるのか。その疑問に対する答えは、呆気ないほど直ぐに出た。

 

 ――空の上から、少女が落ちてきた。

 

 そう文字に書き起こせばまるで絵本の中の出来事のようだが、その光景に物語のような神秘性はまるでなく、少女が無造作に民家の屋根から地面に降り立っただけであった。

 しかし、少女の容姿がリリルカの認識を屈折させる。リリルカには、少女が村娘に身をやつしたお姫様のように思えた。

 

(いや、お姫様にしては流石にお転婆が過ぎるでしょう……)

 

 ああ、屈折したのなら、それはきっと虚像だろう。翻ったスカートから見えた黒い布地が殆ど紐だったのも、きっと幻影に違いない。

 

「嗚呼、嗚呼、羨ましいですわ……! 一二時の鐘の音で解ける魔法……! 女の子にとっては永遠の夢ですわ!」

 

 そして、これはきっと幻聴だろう。こんな綺麗な声で、こんな阿呆な事を言っていると思いたくない。

 

「何ですか、と言うか誰ですか貴方は? すみませんけど、リリに知り合いのお医者様はいないので紹介出来ませんが」

「差し詰め、魔法名は灰被り(シンデレラ)というところかしら? ねえ、貴方カボチャの馬車は出せまして?」

「人の話聞いてましたか!? リリは結構失礼な事言ったはずですけど! 第一、カボチャの馬車を出すのはシンデレラではなく魔女でしょう!」

 

 リリルカが錯乱気味にそう叫ぶと、少女は可愛らしく小首を傾げた。

 

「あら、それは何故?」

「な、何故って……」

「だって、灰被り自身が魔女でしょうに」

 

 そう言って、少女は薄く笑う。リリルカの背をゾクリと悪寒が襲った。

 幸か不幸か、そのお蔭でリリルカは我に返る事が出来た。何を馬鹿正直に相手をしている。早くここから逃げなければ。この少女は危険だ。

 

「逃がすと思いまして? 可愛い泥棒猫さん」

「――っ!?」

 

 リリルカは声にならない悲鳴を上げた。少女が投擲したナイフが頬を掠めたのだ。――否、僅かに切り付けられていた。傷口から溢れ出た血が雫となって、ぽたりぽたりと地面に零れ落ちていく。

 

「本当に猫なら良かったのですけどね。生憎、わたくし犬には特に愛着ありませんの」

 

 だから、何の躊躇もなく殺せると。少なくとも、リリルカは少女の言葉をそのように受け取った。

 

「……リリ、貴方に何か恨まれるような事しましたか? どれだけ思い出してみても、貴方の顔、リリの記憶の中にはないんですけど」

 

 自分とは似ても似つかない、絵本の中から出てきたかのような綺麗な相貌。ああ、怨めし過ぎて会ったら最後、二度と忘れる事はないだろう。だから、間違いなくこの少女とは初対面のはずだ。

 

「ええ、確かにわたくし自身が被害を被ったわけではありませんわ。けれど、間接的には貴方から被害を受けてますのよねぇ。それも、結構手酷く。これでもわたくし、心底傷付いていますのよ? 女の子の心は硝子細工だというのにね。だから、これは半分八つ当たり」

「そ、そんな――」

 

(――ふざけた理由で殺されて堪るか!!)

 

 奥歯が軋む。恐怖よりも怒りが上回る。

 頭の中から、和解という選択肢は既に消えている。いや、この少女の様子では、そんな選択肢は端から存在していなかった。

 ならば、残された選択肢は二つだけ。逃走か、或いは闘争か。

 リリルカは、迷いながらも後者を選んだ。逃げたところで、待っているのは破滅だけである。ならば、一か八かに賭けるしかない。

 懐から、一振りのナイフを取り出す。赤熱した鉄を思わせる、紅の刀身。その切っ先を少女へと向ける。

 ――ごめんなさい。

 口の中で謝罪の言葉を呑み込んで、リリルカはナイフを閃かせた。

 ナイフの切っ先から放たれるは、紅蓮の火球。その現象は、紛れもなく『魔法』だった。しかし、通常の魔法と異なり、リリルカは呪文を一切詠唱していない。つまりは予備動作なし、相手に防ぐ機会すら与えない。

 少女の上半身を焼き尽くし、脂肪の燃えた悪臭が鼻を突く――それは、避けようのない未来だったはずだ。それなのに、

 

「え――」

 

 少女は無傷だった。突き出した左掌から発生した光の膜が、少女の身を火球から護っていた。

 終ぞ少女にダメージを与える事なく火球は燃え尽き、それを見届けてから少女は光の膜を消滅させた。その口元は、不敵な笑みで彩られている。

 

「まあ、早口言葉の要領ですわよね」

 

 事もなげに少女は言うが、それにしたって早過ぎる。それこそ、未来予知でもしたかのようなタイミングの良さだった。

 

「……随分と、舌に脂が乗ってるご様子で」

「あら、手癖だけではなくお口も悪いのね」

 

 苦し紛れの憎まれ口も平然と返される。寧ろ、少女はそれを楽しんでさえいるようにリリルカには感じられた。

 じっとりと、脂汗が滲み出る。蛇に睨まれた蛙のように、身体に力が入らない。それが死への恐怖からなのか、それとも安堵からなのか、それすらもリリルカには解らなかった。

 だが、そこでふと、今更ながらにリリルカは小さな異変に気が付く。

 

(そういえば……)

 

 動かすのも億劫な右腕を持ち上げて、切り付けられた頬を撫ぜる。傷口に無造作に触れて、ゆっくりと掌を目の前に持ってくる。

 傷口がまだ塞がっていないのだろう。指にはべっとりと血が付着していた。

 

「……な、んで」

 

 どうして、傷口に触れたのに、全く痛みを感じない。

 

「……な、にを……リリに……にゃに、を」

 

 呂律が回らない。瞼が重い。もはや立ってはいられずに、よろよろと地面に倒れ伏す。

 

「本当は林檎を用意したかったのですけど、何分急だったものでご容赦くださいましね」

「……こ、にょ――」

 

 ――魔女め。

 搾り出そうとした悪態はしかし声になる事なく、リリルカは深い眠りに落ちていった。




灰被りからの白雪姫。奥様は魔女ならぬ、お姫様は魔女ってところですかね。

因みにグリム童話の灰被りは中々にエグい内容です。現地では普通に子供に読ませているのだろうか?

という事で、次回は監禁された幼女(15)と尋問官のお姫様(18)な内容になる予定。それでは、また次回!


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26

「『私の可愛い子。お母様は、もう貴方の傍にはいられないの。けれど、天国からいつも貴方を見ているわ。私のお墓の傍らに、小さなハシバミの木を植えなさい。そして、何か欲しいものがあれば、その木を揺するの。どうしても、どうしても困った事があったなら、その時は助けを求めなさい』」

 

 子供に語り聞かせるような、ゆっくりとした優しい口調。本来眠気を誘うであろうその声は、しかし、今は寧ろ意識を覚醒させていく。母は一度たりとも、こんな風に絵本を読んでくれる事はなかった。

 声の主は、何か絵本を読んでいるのだろう。これは――そう、『灰被り(シンデレラ)』だ。

 

「『私の死をどうか悲しまないで。いつも神様に祈りを捧げて、何があっても、誰かを怨んではいけません。神様は善良な人を助けるの。善良でなければ、酷い罰を下される――どうか、それを忘れないで』」

「……それはリリに対する皮肉ですか?」

「あら、目が覚めましたのね?」

 

 まるで今気が付いたとばかりに少女は言うが、白々しいにも程がある。何故なら、これは物語の冒頭部分。灰被りが母と死に別れる場面なのだから。

 少女がパタリと本を閉じ、足を組み替える姿をリリルカは黙って睨め付ける。

 部屋は薄暗く、机の上に置かれた燭台の明かりがぼんやりと互いの姿を照らす中、向かい合うように椅子に座っている。両者の違いは、只一つ。こちらの両手両足が、縄によって縛られているという点だけだ。

 そこまで冷静に分析してから、リリルカは内心首を傾げる。一体、この少女の目的は何だ。まさか、善良な人間になれと説教がしたい訳ではあるまい。

 

「わたくしの家の庭にハシバミの木はありませんでしたけど、代わりに小さなバラ園がありましたわ。白い薔薇、母が好きだったの」

 

 相も変わらずこちらの問いには答えずに、懐かしむように少女は言う。

 

「父は、今でも母を愛しているのだと思いますわ。使用人に任せずに、今でも自ら手入れをするくらいですもの。……だからこそ、わたくしの事がお嫌いなのでしょうね。わたくしを産んだから、母は身体を壊して亡くなった。わたくしの母との思い出は、病床で読んでくださった絵本の数だけ」

「……まともな思い出があるだけマシじゃないですか」

 

 リリルカは苛立たしげに言う。

 こんな話を自分に聞かせてどうしようというのか。同情でもしてほしいのか。その程度で不幸などと笑わせる。

 いいではないか、父に愛されてなくても。少なくとも母には愛されていたのだから。

 

(リリは……どちらにも……)

 

 両親との思い出など自分にはない。思い出したくもない。

 

「ですから、子供の頃は母との思い出の絵本を何度も読み返しましたわ。それこそ、諳んじられるまで。特に、わたくしはこの灰被りが好きで、いつの日かわたくしの元にも王子様がやって来てくれるのではないかと夢見たものですわ」

「……へぇ。夢は叶いましたか?」

 

 随分と世間知らずで能天気な夢だ。余りにも馬鹿らしくて、失笑混じりに少女に問う。

 

「いいえ。何年待っても一向に現れなくて、残念ながらタイムリミッドを迎えてしまいましたわ。ガラスの靴を置き忘れる事もなく、城から逃げ出したの」

 

 何かの比喩――いや、言葉遊びだろうか。

 リリルカが何も言えずにいると、構わず少女は続ける。

 

「けれど、考えてみれば虫のいい話ですわよね。向うの方から現れてくれるのを待つなんて。――物語と現実は違う。本当に欲しいなら、自分から手を伸ばさなくてはね」

「…………」

 

 少女の言葉は、リリルカの胸の奥の方にちくりと刺さった。少女にそんな気はないのだろうが、まるで自分が糾弾されているような気分だった。

 しかし、少女はリリルカの内心など知る由もなく、ハッとした表情を浮かべると、次いで自嘲するように笑った。

 

「あら、御免なさい。わたくしったら、自分の事ばかりぺらぺらと話してしまいましたわ。今まで、同年代、特に同性の友達っていた例がないの。だから舞い上がってしまって……ご容赦くださいましね」

「友達いなさそうですもんね。いいですよ、別に。さっさとこの縄を解いて解放してくれるなら、リリは気にしません」

「流石に、そういうわけにもいきませんわね」

 

 少女はそう言って、机の上からナイフのようなものを取り上げる。

 リリルカにはそのナイフに見覚えがあった。

 

「そ、それはリリの魔剣! 返してください!」

「わたくしを燃え殺すのに、こんな物騒なもの必要ありませんわ。貴方の魔法で猫耳と尻尾を生やせばそれで事足りるのですから」

「……は?」

 

 この少女は、一体何を言っているのだろう。

 先ほどまでとは別の意味で、リリルカは困惑する。

 

「ところで、猫耳メイドに興味はありまして?」

「ありませんよ! というか、さっきから真顔で何を言ってるんですか!?」

「試しに、語尾に『にゃん』と付けてみて貰えないかしら」

「付けませんよ!? あと何地味に可愛く言ってんですか! 勝手にマイブームにでも何でもしてください!」

 

 思わず大声で叫んでしまい、喘ぐように息を吐く。

 そんなリリルカを尻目に、少女はそのルベウスの瞳を煌めかせる。

 

「この打てば響くようなツッコミ! 嗚呼、やはり、わたくしの目に狂いはありませんでしたわ。わたくしが捜していたのは、丁度貴方のような人材でしたのよ」

「…………」

「あら、またわたくしとした事が。突然こんな事を言われたら、驚くのも無理ないですわよね」

「ええ、確かにリリは驚いてます。驚き呆れてますよ」

「実は、迷宮で彼とわたくしの二人きりだと、わたくしのボケ倒しになってしまって……。誰も突っ込んでくださらないと、まるでわたくしが馬鹿みたいではありませんの!」

「リリがいつ説明を求めましたか!? それに、敢えて言いますけど、馬鹿みたいじゃなくて馬鹿そのものだとリリは思います!」

 

 言ってから、しまったと後悔する。

 余りにも馬鹿馬鹿しくて、つい本音を口走ってしまった。生殺与奪の権利を奪われたこの状況で相手を罵倒するなど、それこそ馬鹿のする事だ。――と思ったが、思い直せば先ほどから悪態を吐きまくっている。

 

「酷いですわ! わたくしが馬鹿だなんて、馬と鹿に失礼ですわ!」

「何で更に自分で自分を貶めてるんですか!?」

「いえ、わたくしって勘違いされ易いのですけど、どちらかといえばサドではなくマゾなのですわよね」

「いきなり性癖カミングアウトしないでくれますか!?」

「ということで、是非貴方をうちのファミリアに勧誘したいのですけど、どうかしら?」

「何が、といことで、ですか! 嫌ですよ絶対!」

 

 ぜぇぜぇ、とリリルカは荒く呼吸を繰り返す。こんなに叫ぶなんていつ以来か。

 

「えぇ……こんなに頼んでいますのに? なら、貴方がこそ泥なのとその手口をばらしてしまおうかしら?」

「ここに来て脅し!? こんな馬鹿げた脅迫リリは聞いたことありませんよ! 前代未聞です!」

「昔、お父様が仰っていましたわ。欲しいものが目の前に転がってきたのなら、決して手を伸ばすのを躊躇うな、と」

「いや、そこは躊躇ってください! 大いに躊躇してください!」

 

 何だ。何だ。何なんだ。

 この少女と話していると調子が狂う。まるで調律の失敗したピアノのように、可笑しな音ばかり奏でてしまう。

 

「でも、これは貴方にとっても決して悪い話ではありませんのよ? 毎月不自由なく暮らせるだけのお給金を支払う事を約束しますわ。貴方だって、盗みをしたくてしているわけではないのでしょう?」

 

 当たり前だ。誰が好きで盗みなんて――。

 本当に、好きでやっているのではないと言えるだろうか。

 ざまぁみろと、一度でも思った事がないと言えるだろうか。

 言えない。言えるわけがない。

 

「……? どうかなさいまして?」

 

 俯いたのを不審に思ったのか、少女がリリルカに尋ねる。

 

「そんな都合のいい話があるわけ……。貴方も、リリを騙そうと――」

「わたくしが、嘘を吐いてるように見えまして?」

「そ、それは……」

 

 確かに、少女が嘘を吐いているとは思えない。この美女は、真正のアホの子であるとリリルカは確信している。しかし、

 

「貴方は良くても、他の団員の方もそうだとは限らないでしょう。第一、主神様がお許しになるとも思えません」

「そうですわね。その辺り、面倒な制約があるのでしたわね。まあ、それは追々解決するとして、わたくし以外の団員は一人しか居りませんから、彼と顔を合わせればそれで済みますわ」

 

 随分と、簡単に言ってくれる。

 

「貴方のファミリアに入る事が決定事項のようになってますけど……まだリリは、受けるなんて一言も言ってませんが」

「拒否権があるとでも?」

「…………」

「冗談ですわよ。本当に嫌なら、断ってくれても構いませんわ。けれど、貴方は必ずわたくしたちのファミリアに入る事になる」

「……随分と自信満々ですね」

「ええ、わたくしには見えていますから」

 

 そう言って、少女は意味ありげに微笑む。

 ――本当に、馬鹿馬鹿しい。

 

「ここに彼との待ち合わせ場所が書いてありますわ」

 

 折り畳んだ紙に重ねるように魔剣を机の上に置くと、少女は椅子から立ち上がった。

 

迷宮(ダンジョン)に潜る事になると思うから、そのつもりで準備をしておいてくれると嬉しいですわ」

 

 言うべき事は言い終えたとでも言うように、少女は真っ直ぐ扉の方へと歩いていく。しかし、ドアノブに手を添えたところで振り返り、

 

「ああ、言い忘れてましたけど、わたくしがマゾというのは真っ赤な嘘ですわ」

「この大嘘吐きィ!!」

 

 前言撤回。真っ赤というか真っ黒だった。腹黒だ。

 ふふふっ、と楽し気に笑って、少女は部屋から出て行った。

 ――いや、ちょっと待て。

 

「ちょっと!? これ! 縄解いてください!」

 

 叫んでみるが、少女が戻って来る事も、ましてや返事もなく。

 

「このっ! え~っと……あれ?」

 

 思えば、少女の名前さえも聞いていない事に、リリルカは今になってようやく気が付いた。

 




?「猫耳の悲しみを癒すのは猫耳しかない」

という事で、猫耳とツッコミ要員確保の為の勧誘回になりました。前回後書きで尋問とか書いた手前、肩透かしになってしまった感は否めませんね。

先週は投稿出来ずすみませんでした。来週は諸事情で少々忙しいのですが、恐らく投稿出来るだろうと思います。


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27

少々遅れました。


 リリルカはいつにも増して憂鬱な気分だった。気持ちに連動して、足取りも自然と重くなる。それでも、引き返すわけにはいかない。

 昨夜、縄で椅子に縛り付けられたまま放置されたリリルカだったが、やけくそ気味に暴れていると数分と経たずに縄が千切れ、床とキスする羽目になったものの無事抜け出す事が出来た。どうやら、縄に予め切れ込みが入れてあったらしい。

 何処まで人をおちょくれば気が済むのだ、と少女に対する怒りで頬を上気させ、机に置かれた紙を引っ手繰るようにして取り上げ目を落とす。しかし、共通語(コイネー)で書かれた文章を読むに従い、その熱は急速に冷えていった。

 円形の大区画――中央広場(セントラルパーク)に辿り着く。見上げれば、白亜の塔。そして、視線を正面に戻せば、ルべライトの瞳と目が合った。

 

「リリ……」

「……やはり、ベル様でしたか」

 

 皮肉のつもりで笑みを浮かべようとするが、どうにも顔が引き攣り上手くいかない。

 紙に書いてあったのは、時刻と場所。朝とも昼とも付かないこの時間は完全にピークを過ぎており、他の冒険者の姿は殆ど見当たらない。だから、これが偶然という事は有り得なかった。

 

「もう来ないんじゃないかと思ったよ」

 

 何処か安心したような、それでいて緊張しているような、そんな微妙な声音でベルは言う。

 

「まさか、リリが来ないなんて有り得ません。少々支度に手間取ってしまいまして、申し訳ございませんでしたベル様」

 

 来ないなんて有り得ない。何故なら、お仲間の女性に脅迫されているから。

 

「そっか。また何かあったんじゃないかと心配したよ。でも、無事で良かった。昨日の怪我も大丈夫そうだね」

「ええ、お蔭様で」

 

 リリルカはにっこりと笑った。余りにもベルの言葉が白々しくて、自然と笑う事が出来た。

 ベルも笑みを返そうとするが、流石に罪悪感があるのか表情が陰る。

 

「……リリ、僕は君に謝らないといけない事があるんだ」

「必要ありませんよ。リリはサポーターですから」

 

 冒険者に蔑まれるのは慣れている。謝られたところで、逆に虚しくなるだけだ。

 ベルは一瞬口を開きかけ、しかし噤んだ。

 ああ、それでいい。リリルカがそう思っていると、ベルは突如として予想外の行動に出た。地面にひれ伏し、額を擦り付けたのだ。

 

「べ、ベル様!? 一体何をしてるんですか!?」

「……土下座です。神様が、最上級の謝罪の意を示す作法だって」

「リリが聞きたいのはそういう事ではありません!」

 

 冒険者がサポーターに謝るなんて前代未聞だ。少なくともリリルカは、そんな冒険者に出会った事はこれまで一度たりともなかった。それなのに、どうして――。

 

「な、何でそんなっ……リリにベル様が謝る必要なんて――」

「あるんだ!」

「……っ」

 

 今にも泣き出しそうな声に気圧され、リリルカの肩はビクリと跳ね上がる。

 

「僕は、ナイフを盗んだのは君なんじゃないかと疑ったんだ……! 君をリューさんから庇ったのは、君が盗みを働くような子に見えなかったから……絶対何かそうしなきゃいけなかった理由があると思ったんだ。もしそうなら、僕に出来る範囲で力になりたいとも思った……!」

 

 止めてくれ。聞きたくない。

 

「でも、全部僕の勘違いだった。君は無実だった。無実の君を泥棒扱いしながら、僕は英雄願望(ヒロイズム)に酔ってすらいたんだ。僕は、最低の人間だ……!」

 

 違う。貴方は最低な人間なんかじゃない。

 

「僕が君に顔向け出来るようなヤツじゃないのは自分でも解ってる。それでも、どうしても謝りたかった。……ごめん、ごめんリリ」

「止めてください!! ベル様が悪いんじゃありません!!」

 

 もう、限界だった。

 

「ベル様のナイフを盗んだのはリリです! 本当に謝らなければならないのはリリの方なんです……!」

「り、リリ……?」

 

 嗚呼、なんて悪辣なんだ。卑劣にも程がある。

 こうなる事をあの少女は見越していたのだ。見透かしていたのだ。ベルがどのような行動に出るのかも、そしてそれを受けてリリルカがどんな反応を示すのかも。

 ベルは何も知らなかったのだ。リリルカがナイフを盗んだ事も、魔法の事も、監禁や、勧誘の事も全て。何も、少女から聞かされていなかったのだ。この場所にいたのも、朝からずっとリリルカが来るのを待っていたのだろう。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 泣き崩れるリリルカを、ベルは呆然と見詰めていた。

 

     ×     ×     ×

 

「ベルに嫌われてしまったかしら」

 

 アイリスは自嘲して笑う。

 もしそうなら正直とても悲しいが、それならそれで受け入れる他ない。あれ以上の最善の策をアイリスは思い付く事が出来なかったのだから。

 

「それにしても、困りましたわね……」

 

 思いの外、問題は根深い。リリルカがどちら(、、、)なのか現段階では解らないが、どちらにせよ本丸に乗り込む必要はありそうだ。

 

「困る事などなかろうよ。まさか注文しておいて、出来上がってから払えません、などと戯けた事は言うまいな?」

 

 そう言いながら奥の座敷から現れたのは、着物と呼ばれる変わった衣服を纏った黒髪の女性だった。その顔立ちは美麗といって差し支えなく、目尻に赤い化粧をしている。この店の主である金屋子神(かなやごかみ)だ。

 

「母様、お客様に失礼ですよ」

 

 続いて入って来た女性が金屋子神を窘める。金屋子神と同じように黒髪で着物を着ているが、金屋子神の着物が藤色なのに対してこちらは藍色だ。化粧はしていないようだが、肌が雪のように白く、涼しげな面差しだった。

 彼女の名前はシモヅキ・千歳という。金屋子神の唯一の眷属であり、また彼女の養女でもあるらしい。主神を母と呼ぶのはその為だ。

 

「どうぞ、粗茶ですが」

「あ、ありがとう」

 

 スッと湯呑を差し出されるが、生憎とアイリスはグリーンティーが苦手である。

 手を付けられずにいるアイリスを尻目に、金屋子神は自分の分の茶を一口啜った。すると、何故か目を見開く。

 

「千歳! お前これ玉露じゃろう!? 何をこんな小娘に出しとるんじゃ!」

「玉露?」

「煎茶の一種です」

 

 首を傾げるアイリスに千歳は簡潔に説明するが、アイリスとしては煎茶からして解らない。

 

「煎茶も解らぬ者に飲ませるなんて勿体ないわ! 小娘、口を付けなくで良いぞ。後で儂が飲む」

「は、はぁ……。それは別に構いませんけど」

 

 アイリスとしても苦手なものを飲まずに済むならそれに越した事はない。金屋子神に湯呑を差し出そうとするが、それを止めたのは千歳だった。

 

「いえ、構います。これはアリスさんに淹れたものです」

「うっ……」

 

 千歳は案外顔に似合わず頑固なのかもしれない。それに、そう言われてしまえば飲むしかないだろう。

 アイリスは口に広がる苦味を覚悟し、湯呑を煽った。

 

「――あら?」

 

 しかし、その味はアイリスの予想に反したものだった。ヘスティアが淹れたのとは違い、独特の渋味は感じられない。それどころか、甘味すら感じたのだ。

 

「美味しい……」

 

 そう言って、思わずもう一口啜る。その姿を千歳は笑みを浮かべて、金屋子神は面白くなさそうな顔をして眺めていた。

 

「それで、依頼の方ですけど」

 

 茶を飲み終り、アイリスがそう切り出す。ここに来たのは世間話をする為ではない。

 

「こちらに」

 

 千歳が桐箱をアイリスの目の前に置き、蓋を開ける。箱の中には、同じ大きさの金属球が幾つも収められていた。

 

「普段は鍛造ばかりで鋳造をする機会はないが、まあ出来に問題はあるまい。何しろ、千歳は儂の弟子じゃからな」

 

 金屋子神は得意げに言う。結構な親馬鹿なのかもしれない。

 

「計五〇発ある。価格は……そうじゃなぁ、切り良く二五〇〇〇ヴァリスとしておくかの」

「……材料は鉛ですわよねぇ?」

「ああ、そうじゃが」

「些か……いえ、大分高くはないかしら?」

 

 幾らなんでも安価な鉛で出来た球に五〇〇ヴァリスは高過ぎる。

 

「口に障子は立てられぬと言うが、口を噤ませる事は可能じゃ。たった二五〇〇〇ヴァリスで秘密を守れるなら安いものじゃろう?」

「……そうですわね」

 

 背に腹は代えられない。それは向うも同じだろう。

 代金を支払うと、千歳は持ちやすいように桐箱を風呂敷に包んで渡してくれた。

 

「それと、これはまだ試作品ですが」

 

 そしてもう一つ、小さな巾着袋を手渡してくる。

 

「これは?」

「散弾じゃ。特殊な樹脂でコーティングしてある。火薬の熱で溶けて撃ち出す際にはバラバラになっておるはずじゃが、如何せん実際にやってみない事には解らん」

「特殊な樹脂というのは……」

「それは企業秘密というものじゃ。技術というのは隠匿する事で利益に繋がるからの。簡単には教えられんわい」

「こっちは銃の事を根掘り葉掘り聞かれているのですけど」

 

 アイリスとしてはアンフェア過ぎて面白くない。文句の一つも吐きたくなるというものだ。

 

「そりゃ、訊かねばなるまいよ。銃などオーバーテクノロジーにも程があるわ。剣と魔法の世界にとんでもないもの持ち込みおって」

「でも、金屋子神様は銃の事ご存知でしたわよね?」

「当然じゃろ。お主らに文明を与えたのは誰だと思うておる。切っ掛けは、何処ぞの神が火を与えた事じゃった。其奴の独断だったものだから、高天原……いや、天界中が大わらわじゃったが、兎も角もそれで方向性が決まった。お主らの能力に見合うよう、技術を小出しにしていくというものじゃ。扱いきれぬ力は身を滅ぼすからの」

 

 予定を狂わせおって、と金屋子神は眉間に皺を寄せる。

 

「しかしまあ、起こってしまったものは仕方ない。時計の針は巻き戻せん。せいぜい、扱いには気を付ける事じゃな」

 

 さあ、今日はもうとっとと帰れ、と金屋子神に急かされて、アイリスは席を立った。

 




誰かが貴方の右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。マタイの福音書の有名な一説ですが、悪事を働いた相手が聖人君子だと、良心の呵責に耐えられなくなるというのはままある話です。

リリルカが改心し、めでたしめでたし――などと、そうは問屋が卸さないわけで。ある意味、ここからが本番です。


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