比企谷八幡がイチャイチャするのはまちがっている。 (暁英琉)
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だから八幡は無視をする

八幡「うっす」

 

雪乃「あら、比企谷君いらっしゃい」

 

八幡「あれ? 由比ヶ浜は? 俺より先に教室出たはずだけど」

 

雪乃「女性の行動を逐一知ろうなんて下卑たことはやめた方がいいわ、ストー谷君」

 

八幡「…………」

 

雪乃「……比企谷君?」

 

 

 八幡は無言で自分の椅子に座ると本を取り出す。

 

 

八幡「…………」

 

雪乃「どうしたのかしら? もしかして誰とも話さないせいでついに言語能力を失ったのかしら?」

 

八幡「…………」

 

 

 八幡は雪乃を“いないもの”としているかのように無言で文章を目で追っている。

 

 

雪乃「あの、比企谷君?」

 

八幡「…………」

 

雪乃「ここまでこの私を無視すると言うことは、それ相応の覚悟はあると言うことよね」

 

八幡「…………」

 

雪乃「あまり私を……怒らせない……方が……」

 

八幡「…………」

 

雪乃「あの……」

 

結衣「やっはろー!」

 

八幡「おう、由比ヶ浜。俺より先に行ったのにいないから驚いたぞ」

 

雪乃「ぇ……あ、由比ヶ浜さんいらっしゃい」

 

結衣「ごめんねー、ちょっと途中で優美子と話しこんじゃって」

 

八幡「あー、ガールズトークは長引くもんな」

 

結衣「そうなんだよー。楽しいからいいんだけどね」

 

雪乃「そうね、比企谷君には一生できないことだわ」

 

八幡「…………」

 

雪乃「ぇ……あの……」

 

結衣「あれ? どうしたのゆきのん?」

 

雪乃「い、いえ。なんでもないわ」

 

結衣「ふーん、そういえば今そこに……あ、やっぱりなんでもない」

 

 

 途中で歯切れを悪くすると、由比ヶ浜は自分の席に向かう。

 

 

結衣「そういえば、ゆきのん聞いてよ。今日戸部っちが私のクッキー食べてからずっとしゃべらなくなって、教室のテンション超低かったんだよー」

 

雪乃「勉強に向いている落ち着いた空気になったなら問題はないのではないかしら?」

 

結衣「いやけど、いつもと違う空気になっちゃったから皆困惑しちゃって……ねえ、ヒッキー?」

 

八幡「いや、確かに空気が悪かったと言えなくもないけど、勉強はしやすかったぞ?」

 

結衣「ヒッキー戸部っちに厳しい!?」

 

八幡「むしろ戸部には皆厳しいまである。というか、男にプレゼントするならおいしくなくてもいいって言ったの俺だけど、せめて自分で味見してからにしろって。戸部が生贄になったからよかったけど、そうじゃなかったら葉山グループ全滅まで見ててたからな?」

 

結衣「全滅とかそそそ、そんなことありえないし!」

 

八幡「いや、戸部のあれ無言じゃなくて白目剥いて気絶してたからな? なにを食わせたら気絶するんだよ」

 

結衣「これ、だけど……」

 

 

 差し出されたのは結衣曰くクッキー……ではなく明らかにダークマター。炭とかいう次元はすでに飛び越えて、混沌とした闇を思わせた。さらに昨日作ったであろうはずのクッキー? だと言うのに、立ちこめる匂いは禍々しい腐臭だった。

 

 

八幡「なんでランクアップしてんだよ!?」

 

結衣「えっと、ヒッキー食べ――」

 

八幡「すまん、さすがに無理」

 

結衣「即答!? ん~~、もうヒッキーのバカ! ヒッキーマジキモい!」

 

八幡「…………」

 

結衣「あれ? ヒッキー?」

 

 

 八幡は手元に目を落とすとまた無言で読書を再開する。

 

 

結衣「ヒッキー?」

 

八幡「…………」

 

結衣「ヒッキーってば!」

 

八幡「…………」

 

 

 結衣が目の前で手をひらひらさせたり、肩をゆすったりするが八幡は反応しない。

 

 

結衣「ゆきのん、ヒッキーどうしちゃったの?」

 

雪乃「私にもわからないわ。私もさっきから無視され続けているのよ」

 

結衣「むー、よくわかんない。ずっと無視とかマジキモいしありえないし」

 

八幡「…………」

 

結衣「ゆきのーん!!」

 

雪乃「私に泣きつかれても……」

 

結衣「もうヒッキーなんて無視しよ! あ、そうだゆきのん! 私のクッキー食べて感想聞かせてよ!」

 

雪乃「……え?」

 

結衣「どこが悪いのか私にはわかんなくて……。ゆきのんに教えてもらえばもっとうまくなるかなーって思ったんだ!」

 

雪乃「いえ……私は……」

 

結衣「ゆきのん……だめ……?」

 

 

 結衣の泣き落とし! 雪乃には効果が抜群のようだ!

 

雪乃「わかったわ由比ヶ浜さん。友達のためなら全力を出しましょう」

 

結衣「さすがゆきのん!」

 

雪乃「では……ごくり」

 

 

 意を決してダークマターを口に運ぶ雪乃。彼女の口からボロッ、バキッ、ずちゅっ、ぐちょっととてもクッキーを食べてるとは思えない音が響く。

 

 

雪乃「ふっ……くっ……んっ……」

 

 

 恐怖に震えながら謎物質Kを咀嚼し、嚥下する。

 

 

結衣「ゆ、ゆきのん……どう?」

 

雪乃「はぁっ、はぁっ……そ……うね……」

 

 

 決死の覚悟で感想を伝えようと口を開き――

 

 

雪乃「ぐふ……」

 

 

 無情にもその身体は崩れ落ちた。

 

 

結衣「ゆきのーーーーーん!」

 

 

 ちなみにこの間、八幡はずっと読書中である。

 

 

結衣「一体、一体どうしてこんなことに……」

 

八幡「…………」

 

結衣「私は……どうしたら……」

 

いろは「こんにちは~!」

 

結衣「あれ? いろはちゃん?」

 

いろは「はい! 皆のアイドル、いろはちゃんですよ~!」

 

八幡「しょっぱなからあざといな」

 

いろは「ぶ~ぶ~、あざとくないですよ~」

 

結衣「そんなことよりいろはちゃん! ゆきのんが! ゆきのんが!」

 

いろは「そんなことってひどくないですか~? 雪乃先輩……あぁ、きっと寝不足ですよ~。疲れちゃったんですね~」

 

結衣「ねぶ……そく……?」

 

いろは「きっとそうですよ~。ところでせんぱ~い」

 

八幡「っ!? おいやめろ! 抱きつくなって!」

 

いろは「ちょっと生徒会の方手伝ってもらえませんか~?」

 

八幡「は? いやお前はそろそろ助っ人なしで仕事できるようにした方が……」

 

いろは「今日は他の役員皆別の仕事で出払ってて、私一人じゃ今日中に終わらないんですよ~」

 

八幡「そんなこと言ってもな……」

 

いろは「私も一生懸命やりますから、手伝ってくださいよ~」

 

八幡「涙目で懇願してくんなよ……。てか、いつもより妙に謙虚だな」

 

いろは「せんぱいはYESというまでこの体勢を維持します」

 

八幡「謙虚じゃない!?」

 

いろは「おねがいしますよ~。おいしいケーキのお店紹介しますから~」

 

八幡「ほんと今日謙虚だな。はぁ、その謙虚さに免じて手伝ってやるか」

 

いろは「やった~! せんぱい大好きです!」

 

八幡「都合がいい奴だな……」

 

いろは「じゃあ、結衣先輩。せんぱい借りていきますね~」

 

結衣「う、うん……」

 

いろは「あ、雪乃先輩保健室で寝かせてた方がよくないですか? それじゃあ、失礼しました~」

 

 

 いろはは八幡を連れていってしまった。残されたのは結衣と気絶した雪乃のみ……。

 

 

結衣「ヒッキー、いろはちゃんといっぱいしゃべってたな……。なんで無視したんだろ……」

 

結衣「ていうか、私一人だとゆきのん運べない……」

 

 

*   *   *

 

 

 生徒会の仕事が終わるころには完全下校時刻になっていた。八幡と一色は一緒に帰路についていた。

 

 

いろは「今日はありがとうございました~」

 

八幡「おつかれ。まあ、今日はお前が謙虚だったからな」

 

いろは「私はいつも謙虚ですよ~」

 

八幡「ウソつけ……まあ、理由はわかってるけどな。どこから気付いてた?」

 

いろは「せんぱいが『罵倒されたら無視する』ようにしていたことですか?」

 

八幡「あぁ、お前の対応完璧だったからな。いつもの勝手に振られるパターンもなかったし」

 

いろは「実は雪乃先輩をせんぱいが無視しだしたころから見てました」

 

八幡「あぁ、由比ヶ浜が入ってきた時に何か言いかけたのは、お前がいるってことだったのか」

 

いろは「ですです」

 

いろは「それで、なんであんなことしたんですか?」

 

八幡「あー、最近あいつら、というか特に雪ノ下の罵倒がいわれのないものが多すぎてな。昨日も由比ヶ浜が着崩しすぎて服が乱れてたから指摘しただけでセクハラ谷とか言いだすし」

 

いろは「あ~、それは……」

 

八幡「まあ、あいつらの口の悪さも含めてあの空間は俺にとって悪くないものではあるんだが、さすがに不条理すぎたから少しアプローチを変えてみた。予想外に効果があって無視するの大変だったけどな」

 

いろは「なるほど~。けど、私はいつでもせんぱいの味方ですよ!」

 

八幡「はいはいあざといあざとい」

 

いろは「そのあざといはいわれのない罵倒じゃないですか!」

 

八幡「いや、お前のあざとさは最近ちょっとかわいいし、一概に罵倒ではないだろ」

 

いろは「か、かわっ……。はっ、頭撫でながらそんなこと言われてもごまかされないですからね!」

 

八幡「はいはい」

 

いろは「適当すぎます!」

 

いろは「それで、そのアプローチは明日もやるんですか?」

 

八幡「どうだろうなー。とりあえずあいつら次第かな。由比ヶ浜は空気読めるからあまり気にしてないけど、雪ノ下が相変わらずなら続行」

 

いろは「ふへ~、私も気を付けないと……」

 

八幡「お前演技得意だから大丈夫だろ」

 

いろは「得意でも疲れるんです! 疲れたので今からケーキ食べに行きましょ!」

 

八幡「え、やだよ帰りたいよ」

 

いろは「私が疲れたのはせんぱいのせいなんですから!」

 

八幡「わーったから腕を組んでくんな! 自転車倒しそうで危ない!」

 

八幡「はぁ……じゃあ行くか」

 

いろは「なんだかんだ最近のせんぱい私に甘いから、余計な罵倒しなくてもいいんですけどね」

 

八幡「別に甘くないと思うが」

 

いろは「自覚ないならいいで~す」

 

八幡「はいはい」

 

 

*   *   *

 

 

 翌日放課後。

 

 

八幡「うっす」

 

雪乃「ぁ、あら、比企谷君、いら……しゃい」

 

結衣「ヒッキー、や、やっはろー……」

 

八幡「おう」

 

雪乃「ほっ、今日はちゃんと返答してくれたわね」

 

八幡「まあな」

 

結衣「ヒッキー、私、今度からちゃんと味見してから皆にあげるね……」

 

八幡「そうしてくれ。戸部のためにも」

 

結衣「なんで戸部っち?」

 

八幡「あのグループで最初に食べるの戸部だろ?」

 

雪乃「ふふっ確かにそうね」

 

八幡「雪ノ下、冷汗すごいぞ」

 

雪乃「いえ、なんでもないわ。決して昨日の異次元の食感と臭気と味を思い出しているとかそういうことでは決しないから大丈夫よ、問題ないわ」

 

いろは「仲よさそうですね~、せんぱいたち!」

 

 

 入口にいる八幡の腕に一色が抱きついていた。実は八幡と一緒に来たのだが、八幡の反応に戦々恐々していた二人は声がするまで気付かなかったのである。

 

 

結衣「いろはちゃん、やっはろー! ってなんでヒッキーに抱きついてるし!?」

 

いろは「だってこうしないとせんぱい逃げちゃいますもん」

 

八幡「いや、ここから逃げたら平塚先生が世界を縮めるから逃げられないんだけど」

 

いろは「まあ、そうですけどね~」

 

結衣「世界? 縮める?」

 

 

雪乃「一体何をわけのわからないことをのたまっているのかしら。それにしても、学校という神聖な場所で歳下女子に抱きつかれて鼻の下を伸ばしているだなんて、とんだ変態ねロリ谷君は」

 

 

八幡「…………」

 

いろは「…………」

 

雪乃「あ、あれ……?」

 

結衣「ゆきのん……空気読もうよ……」

 

 

その後一週間ほど、雪乃は八幡といろはに無視されるづける生活を送ったのであった。




たまには会話形式でサクッと書いてみようと思って書いたやつ


これはこれで難しいですね
地の文を完全になくして会話だけで表現したかったのですが、私には無理でした


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夢とアザレア

 夢というのは不思議と認識できることがある。

 それはあまりにも現実離れした内容の時だ。空を飛ぶ夢やファンタジー。現実離れすればすればするほどそれを夢と認識できるものだ。

 

「せんぱい……」

 

 だから、これは夢で間違いない。一色がこんなあざとくない笑顔を俺に向けるわけがないのだ。

 多少素の笑顔を俺に向けることはあっても、こんな、慈愛に満ちた笑みを、俺に向けるなんて……ありえない。一色いろはにとって、比企谷八幡という人間はただの便利な先輩というだけの存在なのだ。

 だから、これは間違えようのない夢。俺が夢想した夢。だからこそ気づいてしまうのだ。自覚してしまうのだ。

 

 

 俺は、一色が好きなのだと。

 

 

 お笑い草だ。理性の化物、自意識の化物と言われた俺が、懲りずに恋をしているのだから。

 しかも、決して叶わぬ恋だ。葉山隼人が好きだと明言をしている彼女にこんな感情を向けるべきではない。この感情を悟られるわけにはいかないのだ。あざとく、しかしひたむきに努力を重ねる彼女の心に要らぬ刺激を与える権利は……俺にはない。

 俺はただ、後ろ向きに、卑屈に生きる。比企谷八幡が比企谷八幡であるためにそう誓ったのだ。叶わないのなら、せめて少女の幸せを願いたいのだ。

 

「せんぱい……」

 

 だから、そんな声を上げないでくれ。そんな切なそうな表情を向けないでくれ。それが夢だと分かっていても、鼓動がはずむ自分に吐き気がするのだ。

 

「せんぱい……私は……」

 

 お願いだから、早くこの幸せな苦痛から俺を解放してくれ。頼むから……頼むから……。

 必死にもがく意識の中で、俺は、なにかを掴んだ。

 それは温かくて、優しくて、包み込むように俺の意識を浮上させた。

 

 

     ***

 

 

「せ、せんぱい……?」

 

「……ん?」

 

 瞼を開けると、顔面が柔らかいものに包まれていた。黒を基調としたそれは学校の……ブレザー……?

 

「っ!?」

 

 慌てて飛び退くと、視界が開け、顔を真っ赤にした一色が目に入る。どうやら、寝ているうちに彼女に抱きついていたらしい。俺、寝相そんなに悪いわけではないんだが。

 

「すすす、すまん……っ」

 

「い、いえ……別にいいんですけど……」

 

 お互い赤面。いや、さすがに今拒否されると恥ずかしさのあまり窓から飛び降りる勢いだったから助かった。本当に申し訳ないと思っているけど。

 少し落ち着くために深呼吸をしつつ周囲を見回してみると、最近ではだいぶ見慣れてしまった景色。生徒会室の中だった。

 

「もう、せんぱいってば仕事中に寝ちゃうなんてひどいですよぉ……」

 

 そういえば、今日は一色に生徒会の仕事を手伝わされていたのだった。正直、夏休みの受験生にそんなものを手伝う義務はないと一蹴したかった……いや、したのだが。“本物”だの“責任”だの、俺には一色に対して弱みが多すぎるのである。逃げることはできませんでした。辛い。

 

「すまん……」

 

「だいたい終わったから別にいいですけどね~。せんぱいも受験勉強とかで疲れているでしょうし」

 

 そう思うなら仕事を手伝わさないでくれと思うが、口には出さない。実際、一色に会うことを楽しみにしていた自分もいるのだから。

 生徒会の手伝いを、時々葉山との恋の手伝いをするだけの先輩後輩関係。それが俺達の関係だ。そこに後退はあっても進展はない。だから、そんな理由ででも一色に会えることが、俺には嬉しかった。

 

「いや、手伝うって言ったのに寝ちまった俺が悪い。何か他に出来ることはないか?」

 

 依頼が終わったら一色といられなくなる。俺は必死に何か別の仕事を求めた。この姿は滑稽に見えていないだろうか。いつもと違うと思われてはいないだろうか。そんな不安が生まれるが自身を止めることができない。

 

「ほ、本当にいいですから……。それに、本来の目的はこれからですし」

 

 一色の声が次第にフェードアウトしていき、赤くなりながらもじもじと身体を揺らす。後ろ手に回していた一色は何か覚悟を決めたようにその手を前に突き出してきた。

 

「せんぱい! 誕生日おめでとうございます!」

 

「……え?」

 

 一色が持っていたのはかわいらしいラッピングのされた小さな箱。

 あまり自体に思考が一瞬止まるが、いまさらになって今日が八月八日、俺の誕生日なのだと理解した。友達はおろか、最近では家族に祝われることも久しい誕生日。それを、彼女に覚えてもらえていて、あまつさえ祝ってもらえたという事実は嬉しすぎて、思考が完全に飛んでしまうほどだった。

 

「あ、ありがとう……これ、開けてみてもいいか?」

 

「はい!」

 

 好きな少女からのプレゼントがこんなに嬉しいものだとは思わなかった。きっと一色からしたら「どうでもいい先輩の誕生日覚えている私すごい」アピールや「葉山先輩にプレゼントを渡すための練習台」くらいにしか思っていないのだろうが、それでも嬉しいものなのだ。

 叶わぬ恋。届いてはいけない想い。けれど、いやだからこそ、せめて心の内でこの瞬間を喜ぶことくらいは許されるはずだ。

 丁寧に包装を解いて、そっとふたを開けて――

 

「え……?」

 

 思考が、止まる。

 そこに入っていたのは銀のネックレス。正直、ちょっとした小物を予想していたので、身につけるアイテムというだけで完全に予想外のものだった。俺なんかのためにこんなものをプレゼントしてくれたと思うと嬉しさのあまり、思わず小躍りしてしまいそうになる。

 しかし、その全容を把握したとき、俺の思考は本当に止まってしまった。

 ネックレスの先端にあしらわれた白い花のデザイン。白く小さなアザレアの花は、しかし確かな存在感をそこに示していた。

 アザレアの全般的な花言葉は「節制」「禁酒」「恋の喜び」。普段の俺なら一色が俺に節制をしろと言っているのかと考えただろう。しかし、白いアザレアには「あなたに愛されて幸せ」という花言葉もあるのだ。

 いや。

 いやいやいやいや。

 そんなわけがあるはずがない。きっとただの偶然なのだ。一色にはきっと花言葉なんて考えは微塵も存在していないに違いない。ひょっとしたら逆に、ここで俺が花言葉について聞いて、いつものようにフるまでの一色なりのギャグかもしれない。ならば、そのどちらにも、もしくはそれ以外にもある可能性も考慮するために一色を観察するべきだろう。

 そう思って顔を上げた俺は、思わず息を飲んでしまった。

 

「……せんぱい」

 

 目の前に相対する一色の声色は澄んだように優しく、その表情はどこか儚げだった。まるで、あの夢からそのまま出てきたように。

 あぁ、これは夢だ。

 きっとあの夢の続きなのだ。連続夢オチなんて芸がない。これが夢だと確定させるために、手の甲を思いっきりつねった。

 

 

 ……痛い。

 

 

 俺の痛覚は正常に作動していた。では……ではこれは……。

 

「せんぱい……私、せんぱいにお話があるんです」

 

 あぁ、そんな声を出さないでくれ。そんな切ない表情を見せないでくれ。思考を止めようとしても、言う事を聞かない思考は俺の意に反して先の言葉を夢想する。理性の化物が、予防線を張ろうとするが、鈍った思考の前ではそれは追いつかない。

 

「せんぱい……私は……」

 

 

 紡がれた続きの言葉に俺は……。

 

 




八幡の誕生日に書いたSS


久々にちょっとシリアスなラブコメ的なの書きたいなと思って書きました




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「責任――取ってくださいね?」  ――カット!

「責任――取ってくださいね?」

 

 

 ――カット!

 

 

 監督が少し唸った後、OKのサインを出すと現場の空気がふっと弛緩した。既に自分の出番が終わっていた俺もふうっと息をつく。

 あ、どうも。八幡――ではなく戸部です。いや、正確には戸部役の俳優、なんだけど、分かりやすいし戸部でいいよね? 今はドラマ「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」の収録が終了したところ。今日の収録はクリスマスでの一色さんの名台詞のところまでだった。ドラマだと一旦区切るらしいけど、日付が変わるシーンまでは一気に撮ろうってことになったんだ。

 え? 俺の口調がらしくないって? まあ、演技だからね。いつもべーべーとかだべとか言ってるのが現実ってありえないでしょう? この髪もドラマのために染めたし……おかげで今期はこのドラマしかドラマ出演できないんだよね。というか、今期テレビ局はこのドラマに全力を注いでいるらしく、相応のギャラを出して他ドラマからのオファーを断ってもらってたみたいだ。比企谷君とかドラマオファー三本断ったとか聞くし。

 

「お疲れ様です」

 

「お疲れ、比企谷君」

 

 ちょうど比企谷君が伸びをしたり首を回しながら戻ってきた。俺の方が年上なので収録中以外はしっかり敬語で話してくる。律儀だよなー。

 比企谷君は俳優歴五年目のベテラン俳優だ。この現場の演者はほとんどがアイドルやモデルが本職の中で俳優が本職なのは珍しい。しかもまだ十八歳なのだ。

 

「あ゛ー、さすがに目が疲れましたよ」

 

 おっさんみたいな声を出しながら目からコンタクトを外した。外したコンタクトはドラマのために作られた特注品でこれをつけることで『腐った目』になることができる。というか、腐った目ってなんだよ。特注させられたクリエイターが心底困っていたってディレクターとカメラマンが話してたなー。笑い話にされて制作者も激怒プンプン丸だろう。

 

「はちさん、お疲れ様です」

 

 比企谷君に程良く冷えたスポーツドリンクを渡したのは小町さん。当然ながら実の兄弟ではない。めちゃくちゃ仲はいいけど。

 

「おう、ありがとう小町」

 

 ドリンクを受け取ると男でもドキッとするような笑顔で小町さんに笑いかけていた。ドラマ「俺ガイル」でしか比企谷君を知らない視聴者ならギャップに卒倒しかねない。この前のドラマでは無垢な少年役を完全にやり遂げていた。映像制作者の間では超演技派と話題になっている。

 

「む~、八幡。タオル使って!」

 

「ぶ、ぶふっ。……サンキュ、いろは」

 

 むくれた一色さんが比企谷君にタオルを押し付けていた。顔面に押し当てられて苦しそうだったけど、あんまり嫌がってないし気にしなくていいよね?

 小町さんは比企谷君の事務所の後輩で読者モデルから契約モデルになった口。劇中だと活発な妹キャラだけど、本来は大人しい愛され系妹キャラで売り出されている。演者なのに比企谷君のマネージャーみたいに献身的なのはいつものことで、本人が全く譲らないので彼女のマネージャーも比企谷君のマネージャーも基本ただのカカシになっている。そういえば、「本物」の次の家でのシーンの後はやばかったな……。

 

 

「はちさんごめんなさい、ごめんなさい。あんな生ごみを見るような眼をしたばかりか足を踏んでしまうなんてだいた……無礼極まりないことをしてしまってごめんなさいごめんなさい」

 

「いや、そういう演技だから仕方ないだろ? 俺もちょっとミスってリテイク出しちゃったしごめんな」

 

「そ、そんな。はちさんが謝る要素なんてないですよ。むしろ小町をもっとののし……注意してもらわないと。なんならお仕置きをしてもらわないと」

 

「そんなことしないからね!? 小町は頑張ってるだろ? それでいいじゃないか」

 

「優しい言葉もうれしいですけど、時には思いっきり罵倒してくれてもいいんですよ? 他にもおうちで……」

 

「ストーーーーップ!! そんなことした事はありません! 音声さん、その携帯どこにかけるつもりですか! 事実無根冤罪も甚だしいです!」

 

 

あれはすごかった。何がすごかったって謝っているはずの小町さんが恍惚とした表情を途中から浮かべていた辺りが。ひょっとしたらマゾヒストなのかもしれない。

 対して一色さんは本職はグラビアアイドルだけど、前のドラマの準レギュラーとして比企谷君と共演したらしい。ちなみにそのときは小町さんも付いて行って意気投合したとか。もう小町さんが正式なマネージャーでいいのでは?

 演技でなくてもあのあざといキャラクターで売っていて、今回の抜擢は型にはまったかららしい。実際、あんまり演技してる印象ないんだよな。

 この三人の取り合わせは初めてらしいけどかなり勝手がいい。特にお互い比企谷君と二人での演技の時は生き生きしている。気心が知れた相手との内輪ノリにも似た空間は「俺ガイル」らしい演出に繋がっていた。まあ、三人の関係を知っていれば納得なんだけど。

 

「そういえば、今日は早めに終わりましたし、この後ご飯でも……」

 

「やっはろー! 相変わらず仲良いね、三人とも!」

 

 そんな三人に結衣さんが声をかけている。相変わらずテンションは高いけど、今のタイミングは最悪だと思う。比企谷君はともかく後の二人がすごい顔で睨んでて怖い、後怖い。それに気付かない結衣さんは更に怖い。

 

「明日の撮影はお昼からだし、今から飲みに行こうよ!」

 

「いや、俺達未成年ですから」

 

 いや、今三人で食事に行こうとしてたんだからそっとしておいてあげてくださいよ……。総武高校生役の中で数少ない成人している彼女は毎日のようにキャストを飲みに誘っている。平塚さん曰く悪酔いが死ぬほどひどいらしい。しかも絡み酒。それで無理やり飲まされてスキャンダルになったらこの業界生きていけません……。お馬鹿アイドルな上に倫理観も微妙に緩いからなこの人。マジで未成年に酒飲ませそう……。

 

「ぶぅ、じゃあ隼人君飲み行こうよ!」

 

「ああ、いいよ」

 

 イケメンボイスで答えたのは俺ガイル一のイケメン葉山君……の声の微妙な顔のメンズ。ノン○タ井○並のびみょメン。

 何を隠そう彼が葉山隼人である。演技中はわざわざ元ハリウッドの特殊メイク技師を呼んでイケメンに改造している。なんでわざわざそんなことをしてまで、と思うかもしれないが纏う雰囲気と声がイケメンそのものなのだ。このドラマは基本的に『自然体』を軸にしているから採用の最優先は雰囲気や性格なのだ。俺や比企谷君のようなのは例外だ。割とアドリブも入るし、展開が変更されることすらある現場だ。

 ちなみに葉山君は今回が芸能活動初仕事らしくて、素顔で外に出ても誰にも気づかれない。そんな一般男性と変わらない人間と結衣さんが飲みに行っていたらフライデーされかねないが、数人のスタッフも一緒に行くだろうから大丈夫だろう。スタッフの皆さん頑張って! 俺も未成年で助かった。

 フライデーと言えば、比企谷君も三回くらい雑誌記者にパパラッチされてたなー。一回目は小町さんとディスティニーランドに行っているところを、二回目は一色さんとカフェで食事しているところだ。小町さんのときは同じ事務所の後輩ってことでそこまで大きくならなかったけど、一色さんの時は結構騒がれたよな。双方の事務所は交際を否定してて、小町さんも合わせて三人そろって仲がいいって堂々と公言して以来、三角関係とかでいじられることはあっても食事や遊びに行く程度で雑誌記事になることはなくなった。さすがに家にまで行ったことは記事で大々的に取り上げられてたけど、「仲のいい人を家に招待するのは普通のことでしょう?」と言われたら記者もそれ以上深入りしなくなっていた。若干男子からの風当たりは強くなったけどね。

 そして三回目はまさにこの撮影中のことである。新人“女優”の戸塚さんが比企谷君に演技の相談をしていたところを撮られたらしい。いや、それ自体はすぐに否定して真実を報道したら世間の誤解も解けたんだけど、やばかったのはその後の撮影だ。小町さんと一色さんが半ストライキを起こして撮影が全然進まなくなってしまった。説得する比企谷君の姿は浮気相手がばれた夫そのものだし、やっぱりこの三人ってそういう関係じゃないの? 誰も言わないけどみんなそう思ってるよね? 屋内セットでの撮影じゃなかったら確実にマスコミのおいしい餌になってました。

 

「じゃあ皆早くいこ! 静ちゃんも呼ぼうか!」

 

「平塚さんは今バラエティの収録中ですよ」

 

 ぞろぞろと出ていく大人一団。それを見送っていると比企谷君のスマホが震える。それをいち早く見つけた小町さんが発信元を確認して、一色さんに見せて、二人して怖いかをしながら着信ボタンを押した。

 

『フハハハハ、我が同胞八幡y……』

 

「材木座さん、はちさんはこの後予定がありますので」

 

「というか、勝手な電話は許しませんって言いましたよね?」

 

『ブヒィッ!?』

 

 即座に通話が終わった。あの二人材木座さんに厳しすぎる。一応メイン、準メインキャストの中では最年長なんだけど。今年確か三十歳を迎えた材木座さんは本業は芸人さんだ。中二病をネタにした勢いのある芸で人気を出して、最近では役者の他にもグルメリポートなんかもやっている。本人曰く「我は第二の石ちゃんになるのだ。いや、むしろ石ちゃんを超えてみせるのが剣豪将軍たる我の務めであろう!」とのこと。今演じている中二キャラを即座に取り入れる辺り中二病芸人として尊敬……いや、尊敬はできないかな?

 

「翔ぅ。この後ご飯行かない?」

 

「私達数日収録ないから今日はぱーって行かない?」

 

 声をかけられて振り返ると、三浦さんと海老名さんから食事に誘われた。たぶんその流れでカラオケとか行きそう。まあ、楽しいけど。

 ドラマ内で仲良しグループに入っていたり、俺が海老名さんを好きだったりと接点が多いのでよく食事に行ったりする。収録の時間も被ること多いしね。結衣さんは食事=酒だから必然的に除外されて、流れで葉山君は結衣さんに引っ張られる。となるとこの三人で遊びに行く時間は必然的に多くなるのだ。大和や大岡? あいつら下手したらマネキンでもいいからなー。むしろチェーンメールの時以降省こうかって話すら上がってたし、戸部役でほんと良かった。

 で、三人でよく過ごしていると色んな一面を見せてくれるわけで、そういうところに不覚にもドキッとしてしまう事もある。しかし、俺ガイルの収録をしていると不思議と『比企谷八幡』というキャラに毒されてしまうもので、「あれ? ひょっとしてこの二人俺のこと好きなんじゃね? ……いやいや勘違い乙」という流れが一瞬で構築されるようになったしまった。まあ、俺みたいな中途半端な人間よりいい奴が芸能界にはうじゃうじゃいるし、ほんとに勘違いなんだろうな。こう、体のいい遊び相手みたいな、何それ泣きそう。

 まあ、楽しいからこういう関係も悪くないか。

 

「いいよー。どこ行く?」

 

「ふふーん、この間なかなかおしゃれなレストラン見つけたんだよー!」

 

 この後の予定を立てていると、視界の端をとてとて歩く影がちらついた。顔を向けると雪ノ下さんがおどおどしながら比企谷君達に近づこうとしている。

 

「あ、あの……比企谷君……」

 

 撮影の時はすごいハキハキ堂々としているのに、撮影外ではめちゃくちゃおどおどしているし、声も小さい。俺も注目していたからなんとか聞き取れただけで、比企谷君達は聞こえていないようだった。

 

「じゃ、早くご飯行きましょう!」

 

「限定メニューがなくなっちゃう!」

 

「分かったから引っ張んなよ! 服が伸びる!」

 

「ぁ……」

 

 三人はそのまま出て行ってしまった。かすかに聞こえた「ていうか、限定メニューってなんだよ」「シェフの賄いドカ盛りステーキ!」「なにそれ……次の日体型変わってたらプロデューサーに怒られそう」という話声もやがて聞こえなくなった。

 そして残されたのは俺たちと数人の撤去担当のスタッフ。そして……

 

「また……お疲れ様って言えなかった……」

 

 一人しょぼくれている雪ノ下さん。なんか雨の日に捨てられている子猫みたい……。

 あー、こういうときどうするのが正解なんだろう……。近くの二人に目配らせすると二人とも同意見のようだ。こほんと咳払いをして彼女に近づく。

 

「あー、雪ノ下さん。俺らと一緒に飯食いに行かない?」

 

 とりあえず、愚痴とか聞いてあげよう。ゆきのんがんばって!




ネタを振られて、その場のテンションで内容を詰めて書いた即興SS


俺ガイルがドラマ化されてそれの収録舞台裏という設定
最初は八幡を視点主にしようと思ったけど、ネタを出している内に八幡がクソリア充になったのでちょうどよく転がっていた戸部を採用


葉山の設定に悪意はありません
材木座の見た目で芸人だと、どこかカンニング竹山さんと被りそうと思った(見た目が)

まあ、設定の段階で下手したら3Dグラフィックで済まされそうになったんだけどね、材木座


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八幡、怪談話をする

「夏と言えばホラーでしょ! だから怪談話しましょうよ!」

 

「はあ……?」

 

 夏休み。残暑ってレベルじゃねえぞってくらいのうだるような暑さの中、学校に呼び出された俺達奉仕部を待っていたのは、なぜかドヤ顔の一色生徒会長であった。二年に入ってだいぶ会長として板についてきたが、同時に職権乱用が激しい気がする。んなもんのために平塚先生に俺達呼び出させるなよ。曲がりなりにも今年無事入学できた小町以外の部員は受験生なんですよ? 由比ヶ浜とか受験絶望的でほぼ毎日雪ノ下の個人授業受けてるんですよ?

 

「……一色さん。奉仕部はあなたの遊び相手ではないのだけれど。それに私たち三年生は受験勉強があるのよ?」

 

 ええぞ、ゆきのん! 常識知らずの生徒会長を言い負かしたれ!

 

「えー、いいじゃんゆきのん! 怖い話って“夏”って感じでわくわくするじゃん!」

 

「い、いえ、でも……」

 

「それに、勉強もたまには息抜きした方が効率いいよ! それとも……、ゆきのんって怖いの苦手なの?」

 

「っ! そ、そんなわけないじゃない。いいわ。怪談話をするとしましょう」

 

 が、だめ。相変わらず由比ヶ浜に弱い上に挑発にも弱い。こんなのが奉仕部の活動の決定権持ってるとか八幡心配。まあ、あと半年くらいで卒業だけどさ。

 

「こ、こわいはなし……」

 

 そして、現在奉仕部一自由の身であるところのマイラブリースイートシスター小町は青い顔をしている。ここでは一番年下だから、なんだかんだ言い出しづらそうだな。ここはお兄ちゃんが助け船を出してあげよう。

 

「小町、帰っていいぞ」

 

「ふえ?」

 

「あらシス谷君、何を勝手に決めているのかしら?」

 

 押しにくそ弱い奉仕部最高権力が何か言ってくるが、そんなことは関係ない。というか、妹の心配をするのは普通のことじゃないか。普通のことだよね?

 

「小町はホラー物が昔から苦手なんだよ。苦手を通り越してホラーに食われるレベル」

 

 実際今でもテレビでホラー特集があると音速で番組を変えるレベルなのだ。小町が中一の頃、「苦手克服!」とか言ってホラー物のDVDを借りてきたことがあるのだが、あれは特にひどかった。

 真剣な目でDVDを――テレビではなくDVDを――睨みつける小町に夜更かしするなよと軽く注意して自室に戻った当時受験生の中学生八幡。日付が変わるちょい前まで勉強をして、さて寝るかとベッドに横になったわけだが、少し経つと、とっ、とっ、と忍ばせるような足音が聞こえてきた。何事かと思いつつ薄目で入口の様子をうかがっていると、やがて扉がきぃっと小さな音を立ててゆっくりと開き――――ガチ泣きしている小町が飛び込んできたのだ。どうやらDVDの内容が怖すぎて一人で寝ることに耐えられなかったらしい。本来なら中学生にもなって何を、とか、自業自得だろ、とか言って一蹴するところなのだが、いかんせんすでに大号泣だったし、とても一人で寝れそうな状況ではなかったので、結局一緒に寝ることになった。二週間ほど。ちなみに俺の記憶が正しければ小町が睨みつけていたDVDは『トイレの花子さん』だった気がする。え、あれってコメディじゃないのん?

 林間学校の肝試しの時は出発のアナウンス担当だったし、そもそも衣装がもはやギャグだったのでこいつらが知らないのも無理はないが。

 

「そう、それなら仕方ないわね。まだ日も沈む前だし、早めに帰った方がいいわ」

 

「そ、そう言うことでしたら小町は退散させていただきます。じゃ、じゃあ皆さんまた後日~……」

 

 既にビビりまくりなんだけど、あの子帰り大丈夫かな? お兄ちゃんちょっと、いやかなり心配です。

 そのまま部室を出ていこうとした小町は扉に手をかけたところで「あ、そうだ」と振り返った。ひきつった笑みを浮かべながら。

 

「お兄ちゃんの怖い話ほんとやばいんで気を付けてくださいね?」

 

「え、なんでハードル上げたの?」

 

 いや、確かに怖い話で小町を泣かせたことはあるが、それって小町が小学校低学年の時だろ。思い出補正甚だしくない? 案の定一色が満面の笑みを浮かべている。

 

「へ~、せんぱいの怖い話楽しみですね~」

 

「その満面の笑みの期待に添える気がしないんだが……」

 

「まあまあ。じゃあハードル上げないためにヒッキーが最初に話すってのはどう?」

 

 最初は最初でハードル高い気がするのが……まあ、いいか。さっさと自分の番終わらせた方が楽だわな。

 小町が帰ってからしばらくは適当に雑談とかをしながら時間を潰した。さすがに夜中とかまで学校にいるのは無理だが、せめて夕方くらいに部屋の電気を消してやろうということになったのだ。まあ、雑談の内容は特に関係ないことだったり、戸塚が怖いの大好きだった話だったり、逆にサキサキが超絶苦手でお化け屋敷に走り出した話だったりなので割愛しよう。

 

「さて……それじゃあ始めましょうか」

 

 部室の電気を消すと夕日の明かりがほんのり入ってくるだけで十分薄暗い。夜も当然ホラー向きの時間帯だが、案外だんだんと世界が光を失う夕方という時間にする怪談話も雰囲気が出ていいかもしれない。

 

「じゃあ、せんぱいよろしくお願いします」

 

「はあ。まあ、自信ねえけど」

 

「あ、そういうのいらないんで」

 

「…………」

 

 くそっ、謙虚になることで話のハードルを下げる作戦が一色には効かない。あれだけ無駄に上げられたハードルの上で話すとかそっちの方がホラーだわ。

 しかし、今更そんなことを言ってもしかたない。大人しく今回の趣旨に従うとしますか。

 

「ふう……これは昔、とある教師から聞いた話なんだが」

 

「「「…………っ」」」

 

 声のトーンを一気に落とすと場の三人が息を飲む。いいね。掴みは上々。

 

「大学時代に入っていたサークル、いわゆる飲みサーとか言われてる奴にラグビー部と掛け持ちしてる人がいたらしいんだ。これはその人から聞いたって話なんだけど……。

 その大学ってラグビーは正式な部活だったわけだけど、そんなに強いわけじゃなくて。女子マネなんかもいない男性率100%の部活でさ。だから合宿とか、大会とかで止まる時もでかい座敷の部屋一つとって雑魚寝になってたらしいんだ。

 その時も泊まり込みの大会で、ちょっと古いけど、良く言えば趣のある旅館に泊まってたんだ。試合で体力を使った部員は夕飯を食べて風呂に入ったら適当に布団を敷いて、思い思いに寝始めたわけ。その人、ここでは仮にAさんとしておくけど、Aさんもその中で適当に寝ていたんだ。ごっつい男ばっかりでむさいし、いびきとかもうるさいことこの上なんだけど、疲れていたのもあってAさんもすんなり眠りについた。

 どれくらい時間が経ったのかはわからない。けど、いきなり太腿のあたりを圧迫される感覚にAさんの意識がぐっと浮上した。どうやら誰かに太腿を掴まれているらしい。ぐっちゃぐっちゃに寝ていて、その上から掛け布団を乱雑にかけているから首を動かしただけでは誰なのかもわからないが、あまりにも強い力で掴んでくるから痛くて仕方がない。叩き起こして文句の一つでも言ってやろうと布団をはがすと――蒼白な顔で黒い髪をぼさぼさにした女と目があった」

 

 「ひっ」と一色がか細い声を上げる。由比ヶ浜は小さく震えながら雪ノ下にしがみついていて、雪ノ下は雪ノ下で由比ヶ浜の服の端を掴んでいる。こんなときにゆるゆりを見せないでくれませんかね。興が削がれる。

 まあいいや。話を続けよう。

 

「男しかないはずの部屋にいるはずのない女。Aさんは思わず『うわっ』と声を上げて飛び起きた。その声に周りの何人かも目を覚まして何事かと電気をつける。Aさんは慌てて『今そこに女が!』と自分の足元を指差すが、そこには誰もいない。結局皆、女に飢えてるせいで変な夢でも見たんだろと各々再び眠りについた。Aさんも夢を見ていたのかと思おうとしたが、やけに生々しく頭に残った記憶のせいで結局その後は眠れなかった。

 次の日、同じように試合でクタクタになるまで体力を使った部員たちは飯と風呂を済ませると早々に寝始めた。特にAさんは寝不足もあって眠くてしかたなかったんだけど、昨日のことが頭から離れなくて同じ場所で寝たくはなかったんだ。結局、入口近くの場所で寝ることにした。まだ皆が明日はどうするだの騒いでいる間に瞼がとろんと落ちてきて、一足先に夢の世界に旅立った。

 そのまま朝を迎えられればよかったんだが、突然足首から走った激痛に強制的に目を覚まさせられた」

 

 もう既に三人とも目に見えて震えている。あまり自信はなかったが、ここまで怖がってもらえたなら話した甲斐もあったな。まだ終わってないけど。ていうか一色、いくら近かったからって俺の服は掴まないでくれませんかね。なんか小動物みたいでかわいくて勘違いしちゃうから。

 

「物凄い強い力で足首を握られているとわかった。男みたいな握力だけど、Aさんは直感した。これは昨日の女だ。夢じゃなかったんだ、って。逃げようとするけど、恐怖で視線も動かせない。昨日みたいに布団をめくることもできない。どうしよう、どうしようって答えの出ない問いで頭の中はショート寸前だった。

 そうして、なんのアクションも起こせないでいると、足首に込められた力が握り直すように増した。そして…………

 

 ずざざざざざざざっ!

 

 と、引っ張られた」

 

「ひぁっ!!」

 

 SEのところで一色が思いっきりしがみついてきた。平静を装うので精いっぱいです。だって、柔らかくてあったかくていい匂いするんだよ。勘違いしちゃうからそういうのやめろって!

 普段ならここで雪ノ下の小言の一つでも来るところだが、当の雪ノ下雪乃もそんな余裕はないみたい。

 

「寝ているはずの他の部員たちを押しのけてありえないほどの力で引きずられる。仮にもラグビー部員を引っ張るほどの力だ。ここにきてAさんは真の意味でパニックになった。それと同時にこれはまずい、絶対まずいと感じて、慌てて手をばたつかせて何かを掴んだ。

 これを離したらどうなるかわからない。Aさんは必死に掴んだ物を離すまいとしがみついた。その間も未知の力にずるずると引きずられていく。そして足が何かひんやりしたものを感じた時――パチッと明かりがついた。

 恐る恐る目を開けると他の部員が起きてざわざわと騒ぎ出していた。部屋を分断するようにAさんを引きずった跡が残っていて、Aさんがしがみついていたのは部員の一人の脚だった。そしてAさんの身体は、腰近くまで涼を取るために開けていた窓から投げ出されていた。ちなみにそこは四階。もしあのまま引きずられていたらどうなっていたかを考えるとAさんはゾッとしたそうだ。

 Aさんは事情を説明しようとするが、恐怖と助かったという安堵から声が出ない。そうこうしていると何人かの部員が口々に言うんだ。『窓に投げ出されたAさんの足元に女を見た』と。

 これはさすがに何かあると考えた部員たちは部屋中を総出で調べて回った。そして見つけたんだ。床の間の掛け軸の裏に、古くなってぼろぼろのお札が貼ってあるのを。

 どうやらその部屋では数十年前、宴会中に女が誤って窓から転落してしまったらしい。その後、近くの寺の坊さんが来て新しくお札を張り直したんだと」

 

 そこでようやく息をつく。久々に怖い話なんてしたが疲れる。噛んだら台無しだし。

 

「俺の話は以上だけど……大丈夫か、お前ら?」

 

 ゆきゆいペアはお互い全力で抱きついてゆるゆりがガチゆりになってるし、一色は俺にしがみついたまま顔をうずめてしまっている。小刻みに震えないで! 八幡変な気分になっちゃう。

 

「あー、じゃあ次は誰がはな……」

 

「いえ、比企谷君の話が予想以上に長かったから今日はもう帰った方がいいわ。夏休みにあまり遅い時間まで学校にいるべきではないもの。ただ、私は全然怖くなかったけれど、他の二人が怖がっているようだから次があるかは疑問だけれど。本当に全然怖くなかったのだけれどね」

 

 あー……。

 雪ノ下、それ以上話さない方がいい。怖がっているのがバレバレだし、なにより由比ヶ浜と抱き合ったままでは説得力のかけらもない。ただ、それを指摘するとどんな制裁を食らうか知れたものではないので何も言わないのが吉だろう。

 

「あー、じゃあ帰るか」

 

「そそそそそそうですね……」

 

 一色が慌てながらも答える。俺に顔をうずめながらだから変な音波みたいなのが身体に響いてぞわぞわするんだけど。

 鍵を返して四人で学校を出る頃には夕日もだいぶ沈みかけていた。

 

「由比ヶ浜さん、今日もうちで勉強するわよね」

 

 雪ノ下ができるだけ平静を装いつつ由比ヶ浜に訪ねているが、あれは明らかに勉強会など二の次なのだろう。一人暮らしだから一人になりたくない。しかし、それを口にするのは雪ノ下雪乃のプライドが許さない。だから、勉強会を口実にしているだ。

 

「う、うん。そうだね。今日は泊まり込みで勉強頑張ろう!」

 

 そして由比ヶ浜もそれに乗っかる。わざわざ『泊まり込み』と明言して夜一人になることを回避しようとしている。自宅でも寝るときは一人だ。その点、雪ノ下と一緒なら寝る時も少なくとも同じ部屋で寝るだろう。ひょっとしたら一つのベッドで寝るのかもしれない。なにそれ、俺の怪談話でゆるゆりが発展するの? 怪談怖い。

 そういうわけで、方向の違う雪ノ下邸に向かう二人と途中で別れた。となると、残る問題はさっきからずっと俯きながら俺の袖を握っている一色だ。

 

「一色、お前どこまで送ればいい? 駅までで大丈夫か?」

 

「っ…………ぁ……」

 

 うわ……。

 部室でもずっと顔が見えなかったし、さっきまでうつむいていたが、一色は今にも泣きそうに顔を歪めていた。何か言おうと口を開けては閉じてを繰り返して……。

 

「せんぱいの家に行っちゃ……だめですか?」

 

「……は?」

 

 か細い声で爆弾を投下してきた。

 

「いえ、その……今日お母さん出張でいなくて……お父さんは単身赴任してて……」

 

「……なんでそんなときに怪談話なんてしようとか考えちゃうかなー……」

 

「だ、だって! あんな怖くなるなんて思ってなかったですもん! せんぱいのせいじゃないですか!」

 

 今度は怒りだした。女の子ってよくわからん。そもそも俺を呼び出したのもお前なら小町の忠告を聞かなかったのもお前なんだけど? いや、俺自身こんなに怖がられるとは思ってもみなかった。ぼっち故の経験不足がこんなところで露呈してしまうとは……。

 

「私をこんなに怖がらせたんですから、責任、取ってくださいよ……」

 

「……はあ」

 

 今までのこともあってこいつの“責任”にはどうも弱い。実際俺にも多少なりとも非があるのは事実な気がしなくもないのがまたたちが悪い。

 

「わあったよ……」

 

 まあ、小町の部屋に寝てもらえば俺は何もせずとも大丈夫だろうし、妹の友達が来たと解釈すれば自室に引きこもっていれば万事解決だな。よかった! これで解決ですね!

 

「ほんとですか!」

 

 だからそんな『ぱあっ』とかSE付きそうな顔しないで、くっそかわいいから。

 その後、女の子を泣かせたと小町からゴミいちゃんの烙印を押されたり、俺の黒歴史を勝手にばらされたり、風呂入っている間に部屋を漁られたり、夜中に一色と小町がベットに忍び込んできたりしたけど重要なことでもないので割愛させていただく。

 

 

 

 そして、夏休みも終わって、まためんどくさい学校生活が始まってしまった。いつものように文系の授業を受けて、理系の授業は寝て、体育は一人で壁打ちをして、昼食はベストプレイスで風に当たりながら。三年になったからとか夏休みあけたからとかそんなことで俺の日常は変わりはしない。

 あえて変わったことがあるとすれば……。

 

「せ~んぱい!」

 

「うぉっ!?」

 

 一色のスキンシップが過剰になったことくらいだろうか。廊下であったら抱きついてくるし、部室に来たら抱きついてくる。生徒会の手伝いをしてたら後ろから抱きついてくるし、帰るときには腕にしがみついてくる。ハグが日常とか欧米人かよ。ていうか、なんで三年の二学期にもなって俺は生徒会の手伝いをしているのでせうか。これがわからない。

 由比ヶ浜や葉山から付き合っているのか、と聞かれたが、答えは『付き合っていない』だ。俺と一色はそういう関係ではない。

 

「後ろから抱きつくなよ。びっくりするだろ」

 

「別にいいじゃないですか~。私みたいなかわいい女の子にいつも抱きつかれて、お得なんですから」

 

 正確には、そう。『取り憑かれた』と言うべきかもしれない。怪談は怪談を呼ぶ。俺は一色いろはという怪談に取り憑かれたのだ。女の子なんて訳わからないし、実際怪談のようなものかもしれないと考えれば、妙に納得できる。

 

「ったく、しゃあねえな……」

 

「えへへ~」

 

 まあ、これが嫌かと聞かれれば、全然そんなことはないのだが。




夏だし怪談話とかいいよね
そんな軽い気持ちで書いたSS
ちなみにガキの頃にこの話(ちょっと改変あり)を教えてくれた先生曰く

実話

らしい


まあ、書こうと思った本当の理由は一色幼馴染物で小町の渾名が「まーちゃん」が多いけど、ぶっちゃけ「こまちゃん」の方が自然だよね

こまちゃんって言ったらのんのんびよりのこまちゃんだな?

小町がホラー映画見たこまちゃんみたいになったらかわいくね?

っていう理由だったんですけど、気がついたら八色な上に、小町はあっさり退場しました
あれれーおかしいぞー?


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夏の思い出

 ――チリーン。

 

 

 夏休みという事もあり、少し遅めに起きてリビングに下りると心地よい風と共に澄んだ音色が鼓膜を刺激した。出窓の方を見ると小町が外に足を投げ出しながら座っていた。

 

「ふ~ん、ふふ~ん」

 

 上機嫌に鼻歌なんぞを歌っている小町の佇む窓の淵には水玉の小さな風鈴がつるされていた。どうやら音色の音源はこの風鈴らしい。冷蔵庫からマッカンを取り出して出窓の方に向かう。

 

「よう、おはよう」

 

「あ、お兄ちゃんおはよー」

 

 俺を視認するとにひっと笑いかけてくる。他の女子にやられたらドキッとする上に勘違いしないように自身をいさめるところだが、実の妹相手にそんなことになろうはずもなく、なんだこいつくっそかわいいな、と思いつつ頭をぽんぽん撫でて横に腰を下ろした。あれ? 結局ドキッとしてない? ドキッの意味合いが違うから大丈夫だな。大丈夫だよね?

 くぴっとマッカンを口に運ぶと心地よい甘さが舌を刺激する。いつもより少し低めだが、十分残暑というべき気温の中、キンキンに冷えたマッカンの冷たさが心地いい。思わず「ほふぅ」と変な声が出てしまった。やめて小町ちゃん、そんな親父に向けるような目をお兄ちゃんに向けないで。

 

「ゴミいちゃん変な声上げないでよ」

 

「す、すまん……」

 

「罰として、そのマッカン小町にもちょうだい!」

 

「あ、こらっ」

 

 小町は俺からマッカンをかすめ取るとくぴくぴと飲み始めた。いや、別に兄妹だから間接キスなんて俺はさして気にしないけど、年頃の女の子がそういうことするのはどうなの? お兄ちゃんだから関係ないよね! なの?

 

「ぷはー、冷たくてあまーい」

 

「お前、前マッカン飲んでる俺に変な顔してなかったか?」

 

 てっきり小町は千葉県民にあるまじきマッカン嫌いなのかと思っていたのだが……。尋ねると小町は「んー」と口元に指をあてる。ちょっと頬が赤く感じるのは夏の日差しのせいだろうか。

 

「小町の中で少し意識改革があったんだよ。それに、お兄ちゃんが好きなもので小町が嫌いなものなんてないよ! あ、今の小町的にポイント高い!」

 

「……最後がなければなー」

 

 くしくしと頭を撫でると気持ちよさそうに目を細める。小町の中でどういう意識改革があったのかは分からないが、俺の好きなものを妹も好きと言ってくれるのは悪い気分じゃない。

 

「あ、でも飲みすぎはさすがの小町も引いちゃうよ。箱買いしてもすぐなくなるし、お兄ちゃんの身体が小町は心配なのです」

 

「…………」

 

 飲みすぎかな? マッカンは千葉県の水だから大丈夫だと思うけど……。しかし、妹に心配させるわけにはいかないな。これからは少し飲む量を抑えよう。……家では。

 小町から返されたマッカンを再びくぴくぴと口に運んで体内から涼を取る。

 

 

 ――チリーン。

 

 

 思えば、聴覚を刺激されるだけで少し涼しく感じるというのは人間都合よくできているなと思う。その事実に気付いて風鈴というものを発明した日本人マジ天才。ところで、波の音とか川のせせらぎとかなら分かるけど、なんで風鈴の音で涼しく感じるんだろ。固定概念?

 

「そういえば、この風鈴もう何年も使ってるよな。もう結構古いし買い替えてもいいかもなー」

 

「だ、だめだよ! まだ十分使えるし、もったいないお化けが出ちゃうよ!」

 

「お、おう……」

 

 なんとなく言っただけなのに全力で否定された。もったいないお化けとか久しぶりに聞いた気がする。けどこの風鈴、もう十年近く前からあると思うんだが。カマクラが動きに反応して飛びついたりしてるから割とぼろぼろだし。

 

「まあ、買い替えなくていいなら別にいいけどさ」

 

 身体をフローリングに投げ出す。マッカンと風鈴の音で心地よい温かさに感じる気温の中、だんだんと瞼が重くなってくる。起きたばっかりなのにまた眠くなるとかまじ優雅な生活。こんなことができるとか夏休みの俺は貴族に違いない。

 

 

 そういえば、エアコンも扇風機もあるのに風鈴なんて誰が買ってきたんだ?

 

 

     ***

 

 

「お兄ちゃん、あーつーいー」

 

 うだるような暑さの中、ぐでーとフローリングに転がっている、今よりもっと小さい小町。たしか、俺が小学校2、3年くらいの頃か。エアコンが壊れて修理に出してしまった上に、出かける前に親父が扇風機を出すのを忘れたせいで涼を取る文明の利器が存在しない比企谷家はなかなかの地獄だった。

 

「あついよー……」

 

「暑いって言うから暑いんだぞ」

 

「言わなくてもあついよー」

 

 いやまあ、そうなんだけどさ。昨日降った雨のせいで湿度も高く、じっとりと額には汗がにじむ。俺もソファーにだらしなく身体を投げ出して、時々身体をずらしてソファーに熱を発散する。すぐにソファー生地がぬるくなるから、ごろごろと転がることになるんだけど。ごろごろごろごろ。

 それでも結局暑いことには変わりない。というか、この家にいる限り暑さからは逃げられない。

 

「図書館とかに行くかー?」

 

 図書館なら空調も万全だし、本を読んでいれば時間も潰せる。俺としては完璧な案だったのだが。

 

「外はもっと暑いから出たくないー」

 

 妹様はお気に召さないらしい。涼めることよりも出かけることが嫌とかさすが俺の妹と感心せざるを得ない。いや、じゃあどうしろとって話なんだけど……。

 

「うーん、……あっ」

 

 ソファーから飛び起きて、小町と共同で使っている部屋に行って自分の机に置いてある豚の貯金箱に手を伸ばす。ちなみに割るタイプではなくおなか部分についた蓋を開けるタイプ。蓋を開けて机の上に中身をぶちまける。小銭の種類に分けて財布の中のお金と合わせて金額を数える。

 お小遣いを少しずつ貯めていたからだいたい二千円位。相場は分からないけど、足りるだろうか。いや、考えていても仕方がないし、善は急げって母ちゃんも言ってた!

 

「小町! お兄ちゃんちょっと出かけてくる! すぐ戻るから!」

 

「え? あ、うん。分かったよ」

 

 めいっぱいお金を入れた財布だけ持って家を飛び出した。暑さも日差しの強さも忘れて住宅街を駆ける。少し行くと、よく買い物に行く商店街についた。いつもは母ちゃんの後をついて行くだけだから、どこに何の店があるのかあまり覚えていていなかったが、うろ覚えの記憶を頼りにキョロキョロと目的の店を探した。

 

「……あった」

 

 二年ほど前に母ちゃんと一度だけ来た雑貨屋。ちょっとぼろい外装が怖いけれど、勇気を出して中に入った。店員を務めるおばあさんの「いらっしゃい」という声にびくつきながらも会釈をして目的のものを探す。

 

「……高い」

 

 目当てのもの、風鈴のコーナーを見つけた俺は愕然としていた。正直風鈴なんて千円位だと思ってたんだが、四千円……完全に予算オーバーだ……。ここまで来たのに完全に無駄足だよ。善は急げじゃ駄目だったよ母ちゃん……。

 

「坊や、どうしたんだい」

 

 後ろから声を掛けられてびくっと震える。おそるおそる振り返ると店主であろうおじいさんが立っていた。

 

「えっと……あの、その……」

 

 ひとつ自己弁護をしておくが、どもってしまったのは決してコミュ障ということではなく、小学生からしたら知らない大人は超怖い。だってでかいじゃん。だから、このどもりは決してコミュ障というわけではない。決して。

 

「風鈴、欲しいのかい?」

 

「はい。……けど、お金が足りなくて……」

 

 お金が足りなきゃ買う事もできない。ここは帰るしかないなと思って店を出ようとすると、おじいさんに呼び止められた。

 

「どうしても風鈴が欲しいのかい?」

 

「エアコンが壊れてて、妹が暑がってて。……風鈴だったら俺でも買えるかな……って」

 

「そうか、妹のためなんて、いいお兄ちゃんだね」

 

 いいお兄さん……なのかな? 扇風機の場所も分からないしエアコンも修理できない。風鈴だって直接涼しい風を送ってくれない。小町は喜んでくれるかわからない。

 

「そんな優しいお兄ちゃんには特別にこれを二千円で売ってあげよう」

 

「え……」

 

 二千円。半額の値段だ。そんなことをしてお店は大丈夫なのだろうか。

 

「いいんですか……?」

 

「ああ、君みたいな子に買ってもらえたら、この風鈴も喜ぶだろう」

 

 おじいさんはにかっと笑いながらぽんっと俺の頭に手を置いた。その行為は不思議と怖くなくて、むしろ心の奥が温かくなるような心地よさがあった。

 

「ありがとうございます!」

 

 水玉模様のかわいらしい風鈴を購入して、俺は帰路に着いた。帰りはガラス製のそれを傷つけないようにゆっくり歩いて。

 

「ただいまー」

 

「お兄ちゃん、おかえりー。それなあに?」

 

「へへー」

 

 駆けよってきた小町に見せるように箱を開ける。きらきらと宝石のように光る水玉のガラス細工に小町がわあ、と声を上げた。出窓を開けて、椅子を踏み台にして風鈴を吊るす。少しすると外から穏やかな風が流れ込んできて――

 

 

 ――チリーン。

 

 

 澄んだ音が部屋に響いた。

 

「いい音だね、お兄ちゃん!」

 

「そうだな、綺麗な音だ」

 

 チリーン、チリリーンと風鈴が奏でる音色はどこかやさしくて。なるほど、確かに不思議と涼しく感じる気がする。

 小町は隣で目を輝かせながら「すごいね!」「綺麗だね!」ときゃっきゃと楽しそうに笑っている。

 “いいお兄ちゃん”というのがどういうものなのか分からない。けれど、小町が楽しそうにしてくれているのなら、俺はそれでいいと思った。嬉しそうにしている妹がなぜだかいつも以上にかわいくみえて――

 

「ふあ?」

 

 あのおじいさんにやってもらったように小町の頭に手を乗せていた。そのままゆっくり撫でてやると「んふー」と気持ちよさそうに目を細めた。

 

「お兄ちゃん、大好きだよ!」

 

「ああ、俺も大好きだよ」

 

 

     ***

 

 

 そっと意識が浮上する。どうやらあのまま普通に寝てしまったらしい。

 

「そういえば、俺が買ってきたんだっけ。風鈴」

 

 今考えると、普通に団扇買ってきた方が涼しいまであっただろうに。あの頃から思考おかしすぎだろ俺。まあ、小町が喜んでくれたからよかったけど。

 それに、そんな昔のものを今でも大切に使ってくれていると思うと、うれしい。毎年欠かさずに飾ってくれるもんな。

 

「……ん……」

 

「ん……?」

 

 そういえば、なんかやけに身体の右側だけ温かいと思ったら、小町が俺にくっついて丸くなっていた。親猫にすり寄って寝る子猫かよ、と苦笑しながらあの時のように小町の頭を撫でる。

 

「お兄ちゃん……すきぃ……」

 

「……俺も好きだよ」

 

 こんなベタベタとじゃれあう兄妹関係がいつまで続くだろうか。それは分からないけど――せめて今だけはこの関係を楽しんで、もっと小町の笑顔を見ていたい。そう思った。




pixivにある俺ガイルSS書きのグループであった【夏】をテーマにしたSSを書くという企画で、書いてみたやつです


風鈴って実家だと吊るしてるんですけど、一人暮らしだと付けないんですよね
実家に帰ったら風鈴が吊るしてあったので、なんとなくこれで書こうと思って話を広げました


小町のSSって千葉の兄妹的なあれしか書いてなかったので、こういう普通の兄妹愛っていうのもまったりしててありだなーと思いました
小町SSもっと増えて!


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俺と彼女の距離

 放課後、いつものように奉仕部で過ごす日常。無理やり入部させられた当初は嫌々行っていて、雪ノ下からドMなのとか言われていたが、決してMではない。むしろこれは毎日行きたくもない仕事に行く会社員と同じで、慣れなのだ。もはや義務だから仕方ないのだ。あれ? 社畜であること認めちゃった? 働きたくないというのに。

 まああれだ、奉仕部って基本は何もやることなくて自由だし、家で本読むのも学校で本読むのも変わらんよなってのはある。メールでの相談も週一で見れば十分だし、基本的には俺と雪ノ下が読書をしていて、由比ヶ浜が携帯を弄りながら話を振って、一色がそれに混じって――

 

「……なんでお前ここにいんの?」

 

「なんですか藪から棒に~」

 

 あまりにもナチュラルに居すぎてツッコミするのに一時間近くかかったけど、お前ここの部員じゃないよね? 生徒会の人間だよね?

 

「いや、お前生徒会はどうしたよ」

 

 この時期って来年の予算とか卒業式の準備とかいろいろ忙しいんじゃねえの?

 俺の疑念の視線をものともせず「んん~」と口元に指を当ててあざとく考えていた一色は、パッと表情を輝かせて胸の前で手を打つ。……あ、嫌な予感する。

 

「今生徒会やばいんですよ~、だから手伝って下さい!」

 

「いや、生徒会でがんばれよ。もしくは葉山頼れよ」

 

 本当にこいつはあの時提示した一年生徒会長の利点をほとんど利用していない。生徒会関係で葉山が関わったのもクリスマスの時のディスティニーランドだけだし、そもそもあれは手伝いではないだろう。そう考えていると一色はまるでゴミを見る主婦みたいな視線を向けてため息なんぞついてきた。やめて、俺そっちの趣味ないから。ゴミ扱いしていいのは小町だけだから。あれ? 小町に対してはそっちの趣味あるのん?

 

「いいじゃないですか~。せんぱいには私を会長にした責任があるんですから~」

 

「いや、しかしだな……」

 

「本物……」

 

 おい、その技は卑怯だからやめて差し上げろ。PP無限のクソ技でゲーム崩壊不可避だから。

 

「……はあ、わかったよ……」

 

 どうせ奉仕部に居ても読書するだけだし、テストはもう少し先だから今急いで勉強する必要もないから手伝う分には構わないか。それに最近は本当に忙しい時以外は生徒会だけで頑張っているみたいだし、頼んでくるということは本当に忙しいんだろう。

 

「じゃあ、ちょっと行ってくるわ」

 

「待ちなさい、比企谷君」

 

 しかし、どうやらうちの部長様はお気に召さなかったらしい。俺のこと備品とか言っていたし、あんまり監視外に出したくないのだろう。

 

「奉仕部としては部活中にあまり他のとこで行くのはよしと出来ないのだけれど」

 

「別に依頼は来てないわけだし、来た時はメールででも連絡してくれればいいだろ?」

 

「それは……そうだけれど……」

 

 なんだろうか。どこか雪ノ下の歯切れが悪い。クリスマスや初詣、マラソン大会を経て雪ノ下の態度に多少の緩和が見られることには気付いていたが、この反応は俺の記憶にはあまりなかった。

 

「せんぱ~い、早くして下さいよ~」

 

「うぉっ!? こら! 引っ張るなよ!」

 

「先輩が遅いからですよ~」

 

 しかし、一色に引っ張られ、俺の思考は中断されてしまった。とりあえず今はこいつの手伝いをさっさと済ませるとするか。だから、そんなに引っ張らないでくれない。掴まれた腕に柔らかい手の感触とか体温とか伝わってきてドキドキするから。

 

「ぁ……」

 

 勘違いしないように努めていたせいか、ふと耳に入ってきたか細い声が誰のものか、俺には分からなかった。

 

 

     ***

 

 

 翌日、昼休みになるといつものように購買に向かう。生徒数の多い総武高の昼の購買は戦争である。しかし、幻のシックスマン並の影の薄さというパッシブスキルを持っている俺ならば、人気の焼きそばパンなんかも確実に手に入れることができるのだ。

 

「ヒッキー!」

 

「ん?」

 

 無事今日の昼食を手に入れて購買戦争の集団から抜け出すと、呼ばれて恥ずかしい渾名トップファイブに入りそうな名前を聞いた。プークスクス、誰だよヒッキーって。引きこもりかよ。……俺だわ。

 テンション低めに声のした方を見ると、俺にトラウマ級の渾名をつけた張本人、由比ヶ浜が駆け寄ってきた。やめろよ、こんな人の多いところで呼ばれたらさすがのステルスヒッキーも効果がなくなっちゃうんだから。超恥ずかしいし。

 

「飲み物買ってたのか」

 

「うん、ヒッキーは……うわっ、あの人ごみの中、パン買ってきたの?」

 

 うわってお前、あの程度の人ごみ、ラッシュ時の京浜東北線と比べればなんてことはないだろ。乗ったことないけど。ラッシュ時に乗るとか馬鹿じゃねえの?

 

「まあ、俺にかかればあの程度なんてことはない。水流に身を任せる川魚みたいなもんだな」

 

「ヒッキーなに言ってるの? 意味わかんないし」

 

 いや、分かれよ。人の流れに身を任せればいつの間にか購買前まで行けるでしょ? え、行けない? ひょっとして俺がおかしい?

 衝撃の事実に戦慄していると、視界の端に見覚えのある黒髪が見えた。由比ヶ浜と同じく飲み物を買いに来たらしい雪ノ下は目が合うと居心地悪そうに目線をそらした。あぁ、由比ヶ浜を見つけたけど俺もいるから声をかけづらいのか。ただでさえ人目を引く雪ノ下だ。部室以外で俺と会って変な噂が立つのを良しとはしないだろう。

 

「じゃあ、俺行くから。雪ノ下、待ってるぞ」

 

「え? あ、ほんとだ。じゃあねヒッキー!」

 

 胸の前で小さく手を振った由比ヶ浜は「ゆきのーん!」と声を上げながら雪ノ下の方へ駆けていく。なにあれ、くっそ恥ずかしいから他人のフリしたい。そして、雪ノ下は……。

 

「ぁ……」

 

「っ……?」

 

 何か言いたそうに、少しだけ眉尻を下げて、由比ヶ浜ではなく、俺を見ていた。

 なんでこっち見てんだよ。ステルスヒッキー再起動させたから大丈夫だろうが、誰かが気付いたら変な噂になりかねんだろう。いや、きっとこっちを見ているという事自体が俺の勘違いだ。さっさといつもの定位置に飯を食いに行こう。

 軽く頭を振って雑念を振り払い、踵を返した。

 背中には、ずっと視線を感じたまま。

 

 

     ***

 

 

 放課後、いつものように部室に向かう。教室を出る段階で由比ヶ浜から今日は部活を休む旨を聞いていた。一色は昨日仕事をだいぶ片付けたので、残りは自分たちで頑張ると言っていたので今日は来ないだろう。

 そうなると、今日は雪ノ下と二人だけか。

 なんだか久しぶりな気がする。生徒会選挙以降、由比ヶ浜が休みの時でも一色がよく来ていたから基本的に三人以上部室にはいたし。いや、本当になんで一色はうちに入り浸ってんだよ。ていうか、あいつマネージャー業はやってるのん?

 

「うーっす」

 

「こんにちは、比企谷君」

 

 いつもの席に座って鞄から文庫を取り出す。栞を抜いてページを開く。

 

「…………」

 

「…………」

 

 互いに会話は存在しない。ただ時々、ページをめくる音だけが室内に小さく響く。由比ヶ浜や一色のいない奉仕部とはこんなに静かだったのかと少し驚きこそすれ、この静けさが俺は決して嫌いではなかった。

 ふと。

 長机を挟んだ雪ノ下に視線を向ける。

 

「…………」

 

 やはり、綺麗だ。そう思う。

 およそ高校生とは思えないような大人びた綺麗さ。まるで絵画の一部が飛び出してきたかのように様になっていた。

 俺はこの少女の事を知っている。成績優秀で何をやらせてもそつなくこなす。体力が少なく、それでいて大の負けず嫌い。どこまでもまっすぐで強く、そして弱い女の子。

 

「…………っ」

 

 ずっと眺めてしまっていたせいか。

 雪ノ下と目が合ってしまった。

 思わずバッと目をそらす。そして、次に来るであろう彼女からの罵倒に備える。

 …………。

 ………………。

 ……来ない。

 恐る恐る目線を戻すと、頬をほんのりと赤らめた雪ノ下がいた。顔をこっちに向けたまま、DVDの停止中画面のように固まっている。その表情は、いつも見る彼女よりも子供じみていて、かわいらしかった。

 俺は彼女のことを知っている。知っているが知らない。こんな表情は知らないし、このタイミングで嫌味の一つも飛ばしてこないことも今までなかった。教室でいつもどう過ごしているのかも知らないし、読書以外の趣味も知らない。知っているようで、何も知らない。

 思えば、雪ノ下と俺の関係はこの部室にのみ存在しているように思う。校外で会う時もそのほとんどが奉仕部に関係していて、校内では部室くらいでしか会わない。由比ヶ浜のように同じクラスでもなければ、一色のように休み時間に会ったり、しょっちゅう連れ回されたりすることもない。

 一番長い付き合いだというのに、ひょっとしたら彼女のことを俺は一番知らないのかもしれない。

 今までの俺ならば、余計なことには首を突っ込まなかっただろう。めんどうくさいと切り捨てていただろう。しかし、俺はもっと奉仕部のことを、雪ノ下雪乃のことを知りたいと思ったのだ。“本物”が欲しいと、あの時願ったのだから。

 

「なあ……」

 

「……なにかしら?」

 

 どこか期待を感じさせる声。彼女も知りたいと思ってくれているのだろうか。分かりたいと思ってくれているのだろうか。もしそうなら、それはとても素敵なことで、幸福なことなのかもしれない。なぜかその思考を、俺の捻くれ脳は勘違いとは認めなかった。

 だから、この言葉はきっとまっすぐで、シンプルな方がいい。

 

「俺は、もっとお前を知りたい」

 

 まっすぐと雪ノ下を見つめる。雪ノ下は小さく息を飲んで……小さくほほ笑んだ。

 

「私を知りたいなら、もっと私を見て、私の声を聞いて、私と接することね」

 

「……あぁ、善処する」

 

 きっとこれから、俺と雪ノ下はお互いをよく知ろうとし、知られようとするのだろう。それが、俺の求める“本物”に繋がるのかは今は分からない。

 けれど、これは前進だ。たとえ小さくても、その一歩には意味がある。だから、歩みだそう。ゆっくりとでも、俺たちの速度で。

 

 

     ***

 

 

「じゃあ、とりあえずよく知る第一歩としてアドレスの交換をするか」

 

「それはいいのだけれど、私あまり携帯を使わないからアドレス交換のやり方が分からないわ。由比ヶ浜さんの時は彼女にやってもらったし」

 

「……お前もか」

 

「……後で由比ヶ浜さんにメールでお互い教えてもらいましょうか」

 

 由比ヶ浜、なんかいつも馬鹿にしてすまん。ちょっと頼らせて……。

 やはり、俺たちの第一歩は前途多難すぎる。

[newpage]

 あとがき的な何か

 

 八雪って難しい(´・ω・`)

 

 八雪って一番早くに知り合ったのに交流のほとんどが奉仕部ですよね

 というわけで、「仮に八雪がいちゃつくならまずはお互いがお互いを知ろうとしないとだめだろ!」と思って書いてみました。

 

 もっとこう、原作チックな感じにしたかったんですが、超難しくてそれどころじゃねえな?

 けど、ゆきのんの控えめな感情表現って一色や小町にはないものなので、そういうところをかわいく書ければなー次はもっとうまく書きたいなーと思ったり

 もう次書くとか言っちゃってた

 ネタ思い浮かばないんで次があるのかは分かりません

 

 ではでは




なんか八色とか八小とか八色小とかばっかだな?
練習として八雪に挑戦してみるやで


で、書いてみた


ゆきのんと八幡って関係がほぼ「奉仕部」に帰属してて、お互いの距離あんまり縮まってる感じしないよなー
じゃあ、まずはお互いを知ろうとするところからだな

と思ってこういう話にしてみました


さっぱりしたラブコメというか、そういうものを目指した感じ


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比企谷八幡に添い寝するだけ

 世の中には時間が経っても変わらないものがある。俺がいつまで経ってもリア充とはほど遠いプロぼっちなのもそういう世界の不変部分を再現しているからだと言える。なにそれ泣きそう。

 しかし、変わらないものがあれば当然変わるものもある。たとえばベストプレイスに吹く風。冬の間は身を切るような冷たさだったそれは、春になり、新しい学年になって少し経った今はふんわりと身体を包み込むような心地の良いものになっていた。

 気温もだいぶ上がってきていて暑すぎない陽光がじんわりと身体に沁み込んでくる。ポカポカ陽気とはこういうことを言うのだろうか。自然と瞼が下へ下へと降りて行きそうになる。こんな陽気の中で昼寝をするのはさぞ幸福な気持ちになるだろう。

 というか、本当に眠い。次の授業は数学でどの道寝てしまうのだし、一回くらいサボっても大丈夫なんじゃないだろうか。教室は戸部とかがうるさいし、ここで寝た方がいいかもしれない。

 

「ふあ……」

 

 一つ大きなあくびをして、校舎の壁にもたれかかる。一応昼休みが終わる時間にスマホのアラームをバイブに設定して、ゆっくりと意識を手放した。

 

 

     ***

 

 

 久しぶりに由比ヶ浜さんが「罰ゲームじゃんけんしようよ!」なんて言ってきたから乗ってみたら負けてしまったわ。敗北なんて雪ノ下雪乃一生の不覚。今度挽回しなければいけないわね。

 

「あら……?」

 

 自販機に飲み物を買いに行くついでにいつも彼が昼食を取っている場所を覗いてみると、壁に背を預けて腕を組んだ状態で眠っていた。こんなところで寝てしまって、風邪でも引きたいのかしら。

 そう思ったけれどなるほど、温かな日差しと風が肌を撫ぜる感触がなかなか気持ちよくて、寝てしまいたくなる気持ちも分からなくもないのだけれど、午後の授業を控えた昼休みに寝るのはどうなのかしら……。

 

「それにしても、本当によく眠っているようね」

 

 目の前まで近づいても起きる様子はない。試しに軽く肩を叩いてみても、返ってくるのは規則正しい寝息だけだった。こうして目を閉じて黙っているとそこそこ整った顔立ちなのよね。自然とそう考えている自分につい苦笑が漏れてしまう。これを素直に口に出せれば彼との関係も変化が起こるかもしれないが、今の関係も悪くないのが悩ましいところなのよね。

 

「それだけ好き、ということよね。彼女のことも、あなたのことも」

 

 奉仕部という空間はそれだけ私にとって大事なものなのだ。それに、一色さんや小町さんとの関係も楽しい。皆が集まってにぎやかになるのも、三人でまったり過ごすのも心地がいい。

 

「今はもう少し、こういう関係でも許されるわよね……?」

 

 誰に言うでもなく、強いて言うなら寝ている彼に向けた言葉はゆったりと吹いた風に流されて消える。

 おもむろに彼の右隣に腰を下ろす。普段は隣に人がいると無意識に警戒してしまうのだが、今はむしろ隣に彼がいるという事実が嬉しく、心が落ち着く。そっと彼の肩に頭を乗せてみると、男性にしてはほっそりとした見た目に反して大きなそれに、不意に彼の男らしさを感じた。

 中途半端な、ぬるま湯のようなゆるやかな関係。いつまでも続くものだとは思わないけれど、せめて少しでも長く、この穏やかな時間を過ごしていたい――そう、思えた。

 

「あ、せんぱ~い!」

 

「ああ! お兄ちゃんと雪乃さんがイチャイチャしてる! あれ、してる?」

 

「…………」

 

 短かったわね、私の穏やかな時間……。声の方を見ると、一色さんと小町さんが駆け寄ってきた。二人一緒の所を見ると生徒会の仕事を一緒にしていたのかしら。無事に総武高校へ入学した小町さんは比企谷君の勧めで生徒会の手伝いをしている。まあ、部員が私たち三人しかいないのだから、奉仕部に入るよりはずっと有意義になるでしょう。

 

「お兄ちゃん寝てるんですか? ……ああ、お兄ちゃんの寝込みを襲ってたんですね」

 

「え~! 雪乃先輩ずるいです!」

 

「ちょっと待って!」

 

 私は寝ている比企谷君の隣に座っていただけで、いえ確かにちょっと肩に頭を乗せたりはしていたけれど……い、イチャイチャしていたわけでもあまつさえ寝込みを襲っていたわけでもないのよ? そもそも一色さんの「ずるい」の意味もわからないのだけれど……。

 混乱している私をよそに、二人はとてとてと比企谷君に近づく。私の反対側、左隣に二人して腰を下ろすと、頬を擦り合わせながら彼の顔を覗きこんでいた。まだお互い直接会ってから一月も経っていないのにずいぶんと仲良くなったものね。比企谷君が二人はあざといところが似ているから正直会わせたくないなんてぼやいていたけれど、確かにこの二人は波長が合うらしい。

 

「それにしても……本当によく寝てるね、せんぱい」

 

 一色さんが比企谷君の頬をぷにぷにとプッシュして――

 

「お兄ちゃんって寝付きはかなりいいんで、一度寝ちゃうとなかなか起きないんですよ」

 

 小町さんが彼の鼻をふにふにと触る。なにそれ、私もやりたいのだけれど……。さすがに寝ている比企谷君にそんなことをしたら悪いと思って自重した私の努力って何だったのかしら。

 ぷにぷにふにふにと比企谷君の顔を触る二人。小町さんはともかく、一色さんもこんなに積極的なスキンシップを取っていたのね。先を越されたみたいでちょっと複雑だわ。

 

「あれ? けどせんぱいって、教室でもいつも寝てるんじゃなかったっけ? こんなにぐっすり寝てたら授業前に起きなさそうだけど……」

 

 ぷにぷにしていた指を止めて一色さんがはて、と首をかしげる。そういえば、由比ヶ浜さんが「ヒッキーって休み時間ずっと寝てるよね。全然声掛けられないじゃん!」と言っていたわね。確かに、なかなか起きないのなら授業を寝過して平塚先生からの鉄拳制裁をいつも受けていそうなものだけれど、特にそういう話は聞かないわね。

 一色さんの疑問に、同じく指を止めた小町ちゃんが渇いた笑いを浮かべた。

 

「実は、お兄ちゃん教室だと寝たふりしてるだけらしいんですよね」

 

「「え?」」

 

 思わず漏らした声が一色さんと被ってしまった。なぜわざわざいつも寝たふりをしているのかしら。彼は読者家なのだし、教室でも本を読んでいそうなものだけれど……。

 

「前に結衣さんに『本読んでる時に笑うヒッキーキモいよ』って言われたのが割と堪えたみたいで、それ以来教室で本は絶対読まない! って言ってました」

 

「ああ……」

 

「結衣先輩……」

 

 彼女の一言って、たまにグサリとクるのよね。無邪気故の毒というか、時々私よりも残酷だと思うこともあるもの。ひょっとしたら、比企谷君にとっては、私に何か言われるよりも由比ヶ浜さんに何か言われる方が辛いのかもしれないわね。

 

「じゃあ、こんなに無防備なせんぱいはそうそう見られないってことですね! あ、この隙にキスしちゃってもいいかな?」

 

「どうぞどうぞ!」

 

「いやどうぞじゃないでしょう!?」

 

 な、なぜ私がツッコミなんて……。いつもは比企谷君がツッコミ役をしているけれど、こんなに大変なのね。むしろ当の本人が寝ているせいか、数割増しでやっかいな気がするわ。そもそも、いたずらにしてもキスはその、うらや……いささか度が過ぎるのではないのかしら?

 頭を抑える私に、「え~でも」と一色さんが声を上げる。

 

「私って、せんぱいのこと好きじゃないですか~」

 

「え、ええ。そうね」

 

 ドキリとする。彼女自身の口から今まで明言されたことはなかったけれど、一色さんが比企谷君をそういう対象として見ているということには薄々気づいてはいた。それを面と向かって宣言されるのは――

 

「でも、せんぱいって結構攻略難易度高いですし、いっそのことキスしちゃえば勘違いもなにもないと思うんですよね~」

 

 まるで、宣戦布告をされているようだった。

 

「せんぱいを狙ってる人とか、他にはいなさそうですし~。しちゃっても構わないですよね?」

 

「それは……」

 

 にっこりと笑う一色さんに喉が詰まる。いつもなら間をおくことなく切り捨てる話。だけど今の彼女の表情を見ると、そんなことはできなくて……。

 

「それは……だめ、よ……」

 

 ようやく絞り出した声は自分でも驚くほど小さかったけれど、しっかりと聞こえたらしく、笑みがより深くなる。

 

「よかったです。ここではぐらかされてたら、本当に奪っちゃおうと思ってたんで」

 

 …………。

 この後輩は本当に……誘導がうまくて、狡猾で、それなのに決して自分の幸せだけを求めない。彼のことも、私たちのことも考えてくれている。そんな彼女だから、私たちもあの空間へ自然と招き入れるのだろう。

 

「私も、いつまでも逃げているわけにはいかないわね」

 

「そうですよ~」

 

 どちらからともなく笑いあう。きっとこのライバルとは、どんな結果になろうとお互い納得できて、関係が壊れることなんてないだろう。

 

「くぅ……」

 

「あら?」

 

 二人の笑い声にかすかに混じってきたかわいらしい声の方を向くと、いつのまにか小町さんが静かに寝息を立てていた。しかも、彼の左腕にしがみついた状態で。

 

「あ! 小町ちゃんずるい!」

 

 どうやら自分が彼の腕に抱きつきたかったらしい一色さんは、ぷくっと頬を膨らませる。というかそれ、男の子の前以外でもやるのね。ああ、一応比企谷君の前ではあるわね。

 ひとしきり頬を膨らませて形だけの憤慨を見せた彼女は、一度冷静になると今度は「どうしよう」とにわかに動揺し始める。奪われた腕の先、彼の胴体に何度も手が伸ばされようとしては止まり、弱々しく下ろされる。

 

「抱きつけばいいんじゃないのかしら?」

 

「そうしたいのは山々なんですけど……いざやろうと思うと結構勇気がいると言いますか……」

 

 その目には怯えというか恐怖すら見えていて、さっきまで私を翻弄していた彼女とは思えない、かわいい後輩の女の子になっていた。抱きつくだけでこんなになっていたら、きっとキスも無理だったに違いないとつい笑みが漏れてしまう。比企谷君が一色さんに甘くなってしまうのもしかたないわね。私ですらこんな彼女のことをかわいいと思うのだから。

 

「今は……これくらいで……」

 

 悩みに悩んだあげく、一色さんは緩く比企谷君のシャツを摘まむと、そっと寄りかかった。その顔は見間違えようのないほどに真っ赤でガチガチに緊張しているのが見てとれたけれど、ぴと、ぴと、と遠慮気味に彼の胸元に頬を触れ合わせては表情を緩めている。なにそれ、かわいいわねあなた。

 

「へへぇ、せんぱいあったか~い」

 

「……やっぱり、そういうところは羨ましいわね」

 

 私はそんなに彼に密着することはできそうにないもの。まあ、一色さんも起きている比企谷君にこんなことはできないでしょうけど……できないわよね?

 

「ふふふ~……ひあっ!?」

 

 にこにこというよりもにやにやとしていた一色さんが突然変な声を上げる。よくよく様子を注視してみると、彼女の影で比企谷君の腕ごと小町さんが抱きついていた。さらにすりすりと頭を擦りつけていて、その度に一色さんがくすぐったそうに声を漏らす。これ本当に起きてないのかしら……。

 

「ふぁっ、小町ちゃ……くすぐったいよぉ……ひんっ」

 

「っ…………」

 

 落ちつきなさい、雪ノ下雪乃。女の子同士が多少スキンシップを取っているだけで、特に何かおかしな感情を持つことなんてありえないものよ。ただでさえ、最近由比ヶ浜さんの影響で比企谷君からゆるゆりなんて呼ばれてしまっているのだから、自分までゆるゆりとやらの自覚を持ってしまってはいけないのよ! あら……この時点で自覚があるのでは……。

 

「……えへ……お義姉ちゃん、いっぱぃ……小町も、鼻高々だよ……お兄ちゃん……」

 

「「……………………」」

 

 こ、この子はなにを言っているのかしら。さっきお互いをライバルと認識してしまった手前、どうしても気まずい空気が流れてしまう。そもそも、“お義姉ちゃん候補”ではなく“お義姉ちゃん”がいっぱいとはどういうことかしら。ハーレム、ハーレムなの? 比企谷君の分際でハーレムなんて……むしろ今の状況がハーレムなのではないのかしら?

 

「……なにやってるの?」

 

 小町さんの隠し持っていたアブない思想に恐れ戦いていると、どこか呆れたような声が聞こえてきた。さっきとは違い、あまり聞き覚えのない声に思わず身体が強張ってしまう。まずいわ、一色さんや小町さんならまだしも、他の生徒にこんなところを見られては比企谷君にとって不利な噂を流されてしまうのは必至。下手をしたら比企谷君が私達から離れようとしてしてしまうかも……いえ待って、さっきの声、高校生にしてはやけに幼くなかったかしら?

 

「あら? あなたは千葉村の……」

 

「あっ、クリスマスの時に主役やってくれた子!」

 

「ん、久しぶり」

 

 視線の先には千葉村でいじめにあっていた小学生、鶴見留美さんが立っていた。最後に会ったのはクリスマスイベントの時だったけれど、数ヶ月見ないうちに少しだけ成長したように見えた。

 それにしても、なぜ留美さんがここに。今年中学に上がったであろう彼女が私服で総武高校に来る理由などないと思うのだけれど。

 そう思っていたが、どうやら風邪気味で学校を休んだので母親の勤めているここの保健室で休ませてもらっていたらしい。……そういえば、家庭科の先生の名字が鶴見だったわね。

 

「それで、保健室で休んでいるはずのあなたがどうして外を出歩いているのかしら? 他の生徒に見つかると騒がしくなってしまうのだけれど」

 

「保健室退屈だし、午前中寝てたらだいぶよくなったから外の空気吸いたくなったの。それで八幡が昼休みはここにいるってこと思い出して……」

 

「ちょ、ちょっと待って!」

 

 いやその「説明してる最中に遮るとか、なに?」みたいな目で私を見ないで。

 

「どうしてあなたが比企谷君がいつも昼食を取っている場所を知っているのかしら?」

 

 そう、同じ学校の生徒ならまだしも、この少女がここの存在を知っているのはおかしいのではないかしら。小町さんとも親しいわけではないでしょうし、ベストプレイスの情報が彼女に漏れることなんて――

 

「どうしてって、八幡から聞いたから。この間LINEで」

 

「LINE!?」

 

 あの比企谷君がLINE!? 比企谷君なら「LINEなんてリア充御用達ツール、俺には必要ねえだろ」とか言いそうなのに。

 

「クリスマスの時に交換した。相談とか乗ってもらってる」

 

「あ~、せんぱいってメールよりもLINEの方が返信早いからな~。相変わらずそっけない内容だけど」

 

 え、ちょっと待って。まさか一色さんも比企谷君とLINEをしているというの。比企谷君全くぼっちじゃないじゃない! いやそれよりもなによりも――

 

 

 ひょっとして、連絡先を知らないのって……私だけ?

 

 

 いけない、いけないわ。連絡先の交換程度、さしたる問題ではないと思っていたけれど、由比ヶ浜さんのみならず一色さんまで交換して、しかもそれを使って交流しているということは、連絡先交換とは大きなアドバンテージになるということではないかしら? ここにきて友達がほとんどいなかったツケがきてしまうなんて……。これは早急になんとかしなくてはいけないわね。

 

「ところでなにしてるの?」

 

「せんぱいが寝てるから、皆で添い寝してるんだよ~」

 

「……ふーん」

 

 私が決意を新たにしていると、留美さんがとととっと駆けよってきて、比企谷君の正面で立ち止まる。比企谷君、私、一色さん、小町さんを順に見て、少し考える仕草を取った彼女は「うん」と小さく呟いて――彼の股座に腰を下ろした。

 

 

 股座に、腰を下ろしたのだ!

 

 

「ん? どうしたの?」

 

 完全に固まってしまった私と一色さんに留美さんが首をかしげる。一色さんですら座れなかった彼の股座に堂々と座ったのに、どうしたのなんて聞かないでほしい。これが、歳下故の無邪気さだとでもいうのかしら。

 そう思っていたけれど。

 

「……ここが空いてたから座っただけだよ。背もたれも付いてて極楽」

 

 そんなことを言う留美さんの顔が朱を帯びていて、小さく震えているのを見て、つい「あぁ……」とため息をついてしまった。

 同じ想いを抱いているからなのか分かってしまった。彼女も比企谷君のことが好きなのだと。幼いなりに精いっぱいアピールをしているのだと。まったく、こんなにかわいい女の子たちに慕われているなんて、比企谷君はきっと総武高校で一番のリア充に違いないわ。

 それにしても、本当にいい天気だわ。臨海部から吹いていた風が元いた場所に帰るように風向きを変える。その変化も温かな日差しも心地よくて、ついうとうとしてしまう。隣に彼もいるし、たまにはちょっとイケないことをしてもいいかもしれないわね。

 

「あー! ゆきのんこんなところに……ってなんで皆ヒッキーと一緒に寝てるの!?」

 

 意識が落ちる直前、由比ヶ浜さんの声が聞こえた気がした。

 

 

     ***

 

 

「ん…………?」

 

 なにか大きな声が聞こえて意識が浮上した。薄目を開けると由比ヶ浜がなにやらわめき散らしている。どうやら怒っているようなのだが、寝ていたことがそんなに悪いのだろうか。悪くないよな、うん。

 それにしても、なにやら身体のいたるところから太陽光とは別の熱を感じる。由比ヶ浜に起きていることがばれるのもあれだったので薄目のまま周りを確認してみると、右肩に雪ノ下が頭を預けて寝ていて、左腕はぐーすか眠っている小町に取られていた。さらに左胸部に頭を乗せる形で一色がくっつき、膝にはルミルミが乗っていて、満員電車かよと突っ込みたくなるくらいの密着具合だ。ん? ていうか、なんでルミルミがいんの?

 なにこれ、と珍百景を見るような眼をするよりも先に俺の脳が即座に答えを導き出す。

 

 

 あ、これ夢だわ。

 

 

 この一年でそこそこ人と関わったせいで、ぼっちとしての人間強度が下がっているんだな。だからこんなうれし……恥ずかしい夢を見てしまっているんだ。今一度自分のあり方を見直すべきかもしれない。いや、そんなことしたら皆から怒られそうだからやらないけど。

 夢だと分かればもう少し寝るとしよう。夢のはずなのに皆がくっついている部分が温かいし柔らかいし、ふわりといい匂いするしで、夢だけどこのまま起きていたらよからぬことをしてしまって、起きてから罪悪感に苛まれそうだ。

 ゆっくりと目を閉じて、もう一度意識を手放す準備をする。ドキドキしてもう眠れないかと思ったが、この温かさが心地よくて、思いの外すぐに意識はぼやけ始めた。

 

「皆ずるい! あたしもヒッキーと一緒に寝る!」

 

「ごめんね、おっぱいピンクさん。この八幡は四人用なの」

 

 ……ルミルミ、お前本当に容赦ねえな。

 

 

 

 その後、放課後になって平塚先生に起こされ、めちゃくちゃ怒られた。まさか熟睡しすぎて六時間目の現国の授業まですっぽかしてしまうとは……。

 凝り固まった身体を伸ばしながら部室に行くと、部屋の隅で体育座りしている由比ヶ浜を雪ノ下と一色が宥めているというよくわからん光景に遭遇した上に、一色から「せんぱいのせいですよ!」なんて怒られた。わけがわからないよ。理由を聞いても答えてくれないし、ほんと理不尽。

 さらに、帰りに雪ノ下からアドレス交換をせがまれた時にはもう思いっきり警戒してしまった。一年連絡先交換しなかったのだから、どうして今更と思うのが普通だろう。しかもそのこと言ったら、いじけた顔するからまるで俺が悪者みたいな錯覚に陥るし。いじけた表情とかちょっとドキッとするからやめていただきたい。

 

 

 

「いやあ、お兄ちゃんモテモテですなあ」

 

「は? 意味分からん」

 

 反射的に返したら小町にドン引きされた。なんだろうか、今日は厄日かなんかだったんですかね……。




R-18の間の息抜き短編


まあ、ガハマさんがオチ要因なのは私のSSの様式美ということで


最初は三人くらいの予定だったし、コメディ色強いSSになる予定だったけれど、気がついたら一人増えて微妙に中盤シリアスになりまみた
おかしい・・・


次の更新は久々に妹シリーズの予定です


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八幡、私の唇見すぎ

 コンビニとは最高の販売店である。

 

 

 まず、二十四時間営業というのが大きい。学校に遅刻しそうな時や小腹がすいたときにパンなんかをいつでも買いに行けるのは非常に便利だ。あんなに狭い店舗なのに大抵の物は置いてあり、目的の商品にすぐたどり着けるのも魅力である。

 さらに、弁当やホットフードが美味い。特に数字だけの名称の赤いコンビニの食べ物は、もうそれだけで十分商売として成り立つのではないかというくらいのクオリティの高さだ。まあ、あそこの食べ物は昼食で重役の人たちが一つ一つチェックしてるらしいもんな。エビマヨおにぎりにエビが入っていなかった青いコンビニは許されない。

 なぜそんな話をしているのかというと――

 

「いらっしゃいませー」

 

 実際にコンビニに来ているからなわけだ。当然来たのは赤い店舗。日曜の昼時に起きてみたら、小町が塾に行っていた上に食材もまともになかったので、渋々休日外出という禁忌を犯すことになってしまった。いや、たかが休日に外出ただけで大げさだろ。俺だって休日に外に出ることくらい……ほとんどないですね、はい。

 最近はコンビニに入ると、まず芳しいコーヒーの香りが鼻をつく。コーヒーはマックスコーヒーを至高としている俺だが、このほろ苦さを漂わせる匂いも嫌いではない。人生が苦々しいからほとんど飲まないけどな!

 まあ、昼食を買いに来たわけだから弁当のコーナーに直行するのが普通なのだが、ここがコンビニの恐ろしいところで、狭い範囲に様々な種類の商品が密集している関係上、ついつい目的外の物に目移りしてしまう。なんだよ“ペヤングニンニクMAXやきそば”って興味湧いて買っちゃいそうになるだろ! 臭そう。

 そんなこんなで多少のお菓子とか飲み物とかをカゴに入れつつ目的の弁当コーナーに着くと――

 

「あ、八幡」

 

 珍しい知り合いと出くわした。

 いや、知り合いというほど知り合っているわけでもないのだが、俺の中ではそこそこ知っている部類に入るやつだ。

 

「あー……、ルミルミか。久しぶりだな」

 

「ん、久しぶり。あと、ルミルミ言うな」

 

 こいついつも「ルミルミ」に対して律儀に反応するよな。そんなに嫌だろうか。俺の中では抜群なネーミングセンスだと思うのだが。なんか呼びやすいし。

 夏休みの千葉村、そしてクリスマスイベントで多少交流を行った小学生、鶴見留美はいつかのピンクを基調とした服装に落ちついた色合いのダウンコートを羽織っていた。その手には空の買い物カゴがあって、つい周囲を見渡す。

 

「……一人か?」

 

「……まあ、うん」

 

 歯切れの悪い返しをしてくる彼女に、それ以上首を突っ込むことは躊躇われた。そうか、と口にして弁当の物色に入る。たまにはがっつり食べたい気分だったのでミックスグリルプレートとラーメンサラダを手に取った。新商品とかはよく目が行って衝動買いすることはあるけれど、最終的にはいつものメニューに落ちつくよな。店員から裏で「ラーメンサラダの人」とか呼ばれてないか心配。あ、それよりも「目の腐った人」って呼ばれてそうだわ。何それ悲しい!

 自分で無駄に傷口を作っていると、視線を感じたので目線を落とす。その先ではおにぎりとブリトーを手に持った留美がぼーっとこちらを見つめていた。

 

「……なんだよ」

 

「いや……別に。……ちょっと羨ましいなって」

 

 何がだよと思ったが、自分のカゴと今の留美の手持ちを見て納得した。おそらく留美の財布の中身はそんなに芳しくないのだろう。まあ、高校生と小学生なのだし、最近は小学生でもいろいろとお小遣いの利用用途も多いのかもしれない。

 まあ、財布事情の格差がどうしたという話だが、少ないお小遣いに苦心している小学生の目の前で「八幡、豪遊!」みたいなことをするのも気が引けるわけで、しかしこのメニューは外せないわけで……。

 少し逡巡して彼女の前で人差し指を立てた。

 

「さて、鶴見留美さんに質問です」

 

「……いきなりなに。キモいよ?」

 

 ぐはっ! 心臓を一突きされたようだった。小学生の「キモい」がここまで破壊力のあるものだとは……ルミルミ、恐ろしい子! そういえばクリスマスイベントの時も言われてたわ。

 なんとか平静を装って、ゴホンと咳払いをして仕切り直す。

 

「まあ、聞けよ。鶴見留美さんが今一番食べたい物はなんでしょうか?」

 

「ぇ……?」

 

 俺の質問が意外だったのか留美は小首をかしげる。そこから顎に軽く手を添えて考える動作をすると、ゆっくりと「これ」とミートソーススパゲッティを指差した。ふむ、なかなか子供らしいチョイスだ。

 

「よし、わかった」

 

「あ……」

 

 彼女の選んだスパゲッティを手早くカゴに入れてレジに向かい、温めを頼むといつもの癖でホットフードのケースを見る。最近のコンビニのホットフードはメンチカツとか焼き鳥とかフライドポテトとか、いろいろあってやけに充実している。その中でもやはり個人的にはチキン系を推したいわけだ、特に揚げ鶏。他のコンビニのチキン系とは一線を画したこのホットフードの魅力は、コンビニに寄るとついつい買ってしまうほど。他店のチキンがスナックなのに対して揚げ鶏は完全におかずと呼ぶべき代物だ。なにあれジューシーすぎるでしょ。

 

「あ、あと揚げ鶏を……」

 

 いつもの調子で頼もうとして、一瞬止まる。そのまま、立てていた指を一本増やした。

 

「二つで」

 

 

 

「ほら、行くぞ」

 

「ま、待ってよ八幡っ」

 

 コンビニを出ると留美が呼びとめてきた。とりあえず、こっちも聞きたいことがあったので足を止める。

 

「お前、どこで昼飯食うんだ?」

 

「え? 近くの公園かなって……」

 

「アホか!」

 

「いたっ!」

 

 チョップした。もう手加減とかなしにチョップをかました。結構痛かったのか留美はちょっと涙目になっている。こいつ今何月だと思っているのだろうか、二月だぞ二月。こんな寒い中外で食べるアホがどこにいると言うのだろうか。え? お前も昼休みは外で食ってるだろうって? よそはよそ、うちはうちって名台詞を知らないのかよ!

 

「はあ……ほら、行くぞ」

 

 袋を自転車のカゴに入れて、乗らずに押して歩き出すと留美も慌てた様子でついてきた。

 

「「…………」」

 

 しばらく互いに無言で歩く。小学生の小さな歩幅に合わせるから、自然とペースは遅くなる。昼の日差しの中でも衰えを知らない冷たい風に多少身をすくめるが、こういうのも嫌いではなかった。

 

「……ありがとね」

 

 しばらしくして、ぽそりと留美が口を開く。そこに弁当を奢ったこと以上の意味が含まれているように感じて、けれどそれを決して表には出さずに短く「おう」と返すだけにとどめた。

 

「さっきね、友達と喧嘩しちゃって……」

 

 きっかけは些細なものだったらしい。所謂コイバナ。頑なにはぐらかす留美に友達が怒り、それに彼女も応戦してしまい、ついには飛び出してきてしまったらしい。達観している気のあるこの少女が、コイバナでそんな感情的になるとは……まあ、女の子にもいろいろあるんだろうな。男の、しかもコイバナ=黒歴史な俺が余計なことを言うべきではないだろう。

 

「むぅ……、こういうときは優しく慰めるところでしょ」

 

 そう考えて短い返事で返していたわけだが、どうやら隣の姫君は御不満だったようで、小さく頬を膨らませながら抗議してきた。いや、というかここで俺が優しく慰めたりしたら最高に気持ち悪いことこの上ない。うん、実際キモいとか言われそうだから言わないけど。

 “友達”とは至極面倒くさいものだ。空気を読まなくてはいけないし、内輪ノリにも対応しなくてはいけない。隠し事は許されないし、内輪揉めで簡単に壊れかねない。いや、本当に面倒くせえな。

 ただ――。

 

「っ……八幡……?」

 

 ポンと空いた手を彼女の頭に乗せると、嫌がるでもなく、不思議そうに顔を上げてきた。

 

「まあ、あれだ。面と向かって喧嘩できる相手ってのも悪くはないだろ」

 

 夏の千葉村、あの時は喧嘩ですらなかった。一方的な優劣の押しつけ、差別、蹴落とし。そこに対話は存在せず、嘲笑とハブりだけが彼女たちの間にはあった。冬のクリスマス、あの時は対話すらなかった。相互不干渉による歪な関係は、どこか去年の俺と外との関係に重なって見えて、俺の行動が招いた結果だと自覚すると、ひどく不快で、何度も自分を殴りたくなる衝動に駆られたものだ。

 それに比べれば、きっと今の留美達の関係はとても面倒くさくて、それ以上に大切なことに違いなかった。あのとき切り捨てなかったこいつだからこそ、俺とは違ってその関係を得ることができたのだから。

 

「八幡…………ちょっとキモい」

 

「お前な……」

 

 マジで泣いてやろうか……。いやまあ、自分でもちょっとかっこつけたかなとか思わなくもないけれど、そうだね……キモかったよね……。けど、それを面と向かって言いますかねルミルミさん。

 

「でも、そっか……悪くない、かもね」

 

 口の端を引くつかせている俺に小さく笑った留美は、「ちょっと待ってて」と携帯を取り出した。少し緊張した様子で耳に当て、こきゅっと息を飲んだ。

 やがて繋がったのか、つっかえながらも言葉を紡ぐ。申し訳なさそうに謝った彼女の表情は、会話が進んでいくと徐々に和らいでいく。どうやらさしたる遺恨もなく仲直りできたようで、俺もほっと息をつく。というか、最近の小学生すごいな。子供用の携帯じゃなくて普通の携帯を持っているなんて、マモリーノ涙目だな。……ん? 電話を切る直前に留美の顔が赤くなったが、どうかしたのだろうか。

 

「どうかしたのか?」

 

「っ! ~~~~なんでもない! 八幡のバカ!」

 

 なんか怒られてしまった。

 

 

     ***

 

 

「お、おじゃましまーす……」

 

「おう」

 

 自宅に戻った俺に続いて留美も恐る恐る入ってきた。怖いことをするわけでもないのだから、別にそんなに緊張する必要はないのだが。いや、傍から見たら小学生を自宅に連れて行く高校生とか完全に事案物なのだが、今回は緊急事態だ。知り合いが風邪を引かないようにという正当な理由があるのだから、近所の奥様方は警察に電話することは控えていただきたい、まじで。

 リビングに案内して袋から弁当を取り出す。留美の席の前にスパゲッティと揚げ鶏を置くと、彼女はその小さな紙袋興味深げに持ち上げた。

 

「……これ、なに?」

 

「まさかお前……揚げ鶏をご存じない!?」

 

 なんということだ。この次世代を担うであろうジャンクフードを知らないとは! 大げさな態度を取った俺はじとっと睨まれてしまった。そういう表情ほんと雪ノ下に似てるよな。ガチで親戚を疑うレベル。

 

「だってあんまりコンビニって行かないし……」

 

「なるほど」

 

 まあ、確かに小学生がコンビニに行くことは少ないかもしれない。母親と買い物に行くならスーパーの方が多いだろうし、一人で買い物することも多くはないだろう。

 しかし、だからと言ってこれの美味さを知らないのはもったいない。ここは全力で布教するとしようじゃないか!

 

「ま、試しに食ってみろよ。美味いから」

 

 話しながら俺も小袋を手にとって、ミシン目からピリッと破く。顔を覗かせた黄金色の鶏肉に大口を開けて齧りついた。柔らかい肉を噛み切ると同時に、濃厚な肉汁が口の中に広がる。買ってから少し経っているとはいえ、まだ熱々なそれをハフハフ言いながら食べるのが醍醐味だ。うん、やっぱり美味い。

 そんな俺を見て、留美も見よう見まねに袋を開けて、はむっと口に含む。ゆっくりと咀嚼をしてこくりと飲み込むと、続けて二口、三口と食を進めた。

 

「……おいしい」

 

「だろ?」

 

 勧めたものを気に入ってもらえるのはやはりうれしいもので、ついこちらのテンションも高くなって少し距離を近づける。留美も小さく笑いながら振り返って――

 

 

 ――ドクン。

 

 

 心臓が大きく鳴る。揚げ鶏というものは肉汁が多い。そして、今ちょうど彼女はそれは食べているわけで、その唇はまるでグロスを塗ったようにテラテラと艶を帯びていた。そのせいだろうか、やけに色っぽく見え――

 

「八幡……?」

 

「っ……なんでもないっ」

 

 何を考えているんだ俺は。相手は小学生だと言うのにこんな感情を抱くだなんて。慌てて自分の食事に戻ろうとするが、どうしても視線が隣の少女に、その小さな唇に吸い寄せられてしまう。目の前の弁当よりも、その二枚の花弁の方が、何倍も、何十倍もおいしそうに見えてしまった。

 心臓は痛いほど強く鼓動を鳴り響かせる。箸は全く進まなくて、視線を離すことができなかった。

 落ちつけ比企谷八幡。お前は今、知り合いのちょっと違う一面に冷静さを欠いているだけだ。いや、そもそも冷静に考えるなら、俺の今日の行動こそいつもと違うことではないだろうか。なぜ俺は数回しか会ったことのない知り合いを家に招き入れたのだろう。風邪を引かれては寝覚めが悪いからだ。いや本当にそうだろうか、それだけだろうか。

 

「八幡」

 

 名前を呼ばれて思考の底から引き戻されると、目の前に留美の顔が合った。肉食なグロスを乗せた唇がすぐ近くにあって、ごくりと生唾を飲んでしまう。

 

「ど、どうした……?」

 

 決して平常とは言えない情けない声を上げると、留美はじとっと三白眼で見つめてくる。責めるような視線に思わず視線を逸らしそうになるのをグッとこらえた。

 

「さっきから私、ううん……私の口見すぎ」

 

 …………ばれてた。しかもピンポイントで唇を見ていたことまでばっちり。どうして女の子はそういう視線に敏感なんですかね。ぼっちの俺だってそこまで敏感じゃないのに。

 

「でも、八幡なら見られても、いい」

 

「ぇ……それって……お、おいっ」

 

 気がつくと距離はさらに近づいて、甘い吐息が鼻腔をつく。身体はガチガチに硬直して、首に回された細い腕から逃れることはできなかった。

 

「私、八幡のこと……好きだから」

 

 ぁ…………。

 声が出たかすら、自認することはできなかった。唇から伝わる、柔らかいぷるんとした感触。口のわずかな隙間から入り込んでくる空気は、かすかに揚げ鶏の風味を漂わせながらも、びっくりするほど甘かった。いくらでも味わっていたいと思うほど、初めてのキスは甘美なものだった。

 

「……八幡のせいだよ」

 

「え……?」

 

 そっと唇が離されると、ぽしょりと留美が呟いた。

 

「八幡があんなに見つめてくるから、我慢できなくなって……。それに、八幡のせいで友達とも喧嘩しちゃって……」

 

 ……ああ、ようやく合点がいった。留美が頑なにコイバナをしなかった理由。数回しか会ったことのない高校生が好きだなんて、特殊すぎて引かれないか怖かったのだ。怖くて言えなくて、けれど普段の自分からはありえないほど怒ってしまうくらい、どうしようもなく好きで好きで仕方がなくて。

 確かに……それは俺のせいに違いなかった。

 でも、と留美は続ける。

 

「八幡のおかげで仲直りできた」

 

「いや、俺はなにも……」

 

「ううん、八幡の一言がなかったら、きっと謝ることなんてできなかった。ひょっとしたら、また見捨てちゃってたかもしれない。だから八幡のおかげで、だからやっぱり私は八幡のことが――好き」

 

 その目から伝わる想いは、勘違いと切り捨てさせることは決してできないものだった。そんな目で見つめられたから、自分の想いすら自覚する。なぜ今日この少女のことを心配したのか。いやもっと言えば、なぜクリスマスイベントで再会した時にあんなにも気にかけたのか。きっと俺にとって留美は、俺とどこか似ていて、それでいて別の道を選んだ彼女は、この上なく眩しくて、時間すら無視してしまうほど魅力的だったのだ。

 自覚してしまったら、もう抑えることはできなかった。

 

「ん…………っ」

 

 小さな背中にそっと手を添えて、今度は俺の方からその唇を奪う。まだ残っている食用グロスを味わように唇同士を触れ合わせると、彼女もそれを受け入れるように腕により力を込めてきた。

 

「はぷっ……ちゅっ………ちゅむっ……」

 

 唇同士が離れそうになる度に、再び吸い寄せられる。頭の奥がじりじりと痺れて、その痺れが際限なく相手を求め続けた。

 やがて、どちらからともなく唇が離れる。ほとんど酸素を吸えていなかったのか、それともキスの熱に当てられたのか、留美は荒い息をしていた。

 

「お弁当……冷めちゃったね……」

 

 そういえば、昼食の途中だったことを思い出す。自分でも驚いてしまうほどムードのないタイミングだったと苦笑しつつ、温め直すかと席を立つ。

 ぬるくなった弁当を持って台所に向かおうとして、同じく立ち上がった少女にそっと手を差し出す。

 

「ぁ……へへっ」

 

 スパゲッティを片手に持った彼女は少し考えた後、うれしそうに空いた手を俺のそれに乗せた。

 

 

     ***

 

 

「じゃあね、八幡」

 

「おう……」

 

 夕方になる頃、さすがに日が暮れるのも早いので留美の家の近くまで送ることにした。幸いなことに、職質も通報もされずに済んだ。最近は変な言いがかりで通報する奴も多いらしいから本当に怖い。

 

「「…………」」

 

 別れの挨拶をしたが、どちらも動かない。いや、動けない。正直、もう一時も離れたくはなかった。ずっと一緒にいたかった。

 しかし、現実的にそういうわけにはいかない。踵を返して、行きでは押していた自転車に跨る。

 

「八幡っ! ……また、遊ぼうね」

 

 後ろを振り返ると、今にも泣きそうなのを必死に堪えている留美が、絞り出すように声を漏らした。そんな表情もするのだという驚きと、自転車から飛び降りて抱きしめたい衝動を必死に抑えて、俺はにっと口角を釣り上げた。

 

「当たり前だろ!」

 

「そっか……うん、そうだねっ」

 

 納得したように踵を返して歩き出した彼女を確認して、自転車のペダルを力いっぱい踏み込んだ。寒い空気に晒されているはずなのに、心の奥は春のように温かくて、ぐっと力を入れていないと、引き結んだ唇はすぐに緩んでしまいそうだ。

 けれど、温かい感情にはすぐに寂しさが混じってしまう。こんなに自分が脆い人間だとは思わなかった。とりあえず、帰ったら久しく使っていなかったメールでも打ってみよう。件数の少ないアドレス帳に新たに登録されたそれを思い出しながら、ペダルにかける力を一層大きくした。




揚げ鶏って肉汁すごいよね 超ジューシーだし、食べると口元テカるんだよなぁ
あれ? つまり揚げ鶏食べた後の女の子の唇ってエロくね?

というアホな思考から生み出されたもの


ついでに八留単品にも挑戦してみました


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俺がラッキースケベを連発してしまうのはおかしい

 さらさらの柔らかい髪。きちんと手入れを欠かさないのであろう亜麻色のそれが、頬に当たってこそばゆいような心地いいような不思議な気分にさせてくる。仄かにアナスイの香りが鼻腔をつき、息を吸いこむと肺がその香りでいっぱいになって、愛用しているのであろう少女を否が応でも意識してしまう。

 

「あぅ……っ」

 

 緩めに着崩した制服の襟から覗く鎖骨、そこから続く喉は純白と錯覚するほど白く綺麗で、こんな美しいものの前で息をすることすら禁忌のように思えてしまう。しかし、そう思う俺の思考とは反対に、息は荒くなっていく。どんどん、どんどん、上限を知らないのかと苦言を呈したくなるほど、いつまでも息の荒さは酷くなっていく。

 

「ふぁっ……んくっ……」

 

 時折漏れだす声は底抜けに甘くて、鼓膜から脳みそを甘味漬けにしてくる。いや、脳どころか細胞の一つ一つ、赤血球の一つ一つまで甘さで飽和させているのではないだろうか。ただでさえ痛いほど早鐘を打ってくる心臓のせいで体内酸素が不足しているというのに、脳の回転は著しく遅くなり、視界は霞みがかってしまう。乱れた呼吸では十分な酸素補充はほぼ不可能と言えた。

 いや待て、脳の回転が遅い割にすごい変な思考を延々繰り返しているじゃないか。落ちつけ比企谷八幡、脳みそは甘味漬けになんてされない。むしろ糖分はブレインちゃんの無二の親友だ。細胞に砂糖をまぶしたって砂糖味の細胞はできないし、そもそも赤血球の砂糖事情なんて知らん。気が動転して状況判断能力が鈍っているだけだ。ここはかの魔王も認めた理性の化物で冷静に状況を分析するのだ。

 …………。

 ………………。

 ……なんで俺は一色を押し倒しているんだ?

 いや落ちつけ、ちょっと状況を見ただけで押し倒したなんて判断するのは早計が過ぎる。冷静にあらゆる方面から状況を分析、精査して結果を導き出さなければいけな――

 

「んんっ……ひぁ、ぁ……はぁ……ん……」

 

 ちょっといろはす変な声出さないで! 今このお前を俺が押し倒している状況を理解しようとしているんだから……押し倒しているって認めちゃってるじゃん!

 というかそもそも、なんでそんな、その、色っぽい声を出しているんだよ。そういえば、さっきから右手が幸せな気が……。

 

 

 ――ふにょん。

 

 

 ……うん、なんか右手が柔らかいおまんじゅうのような部分に添えられていますね。むしろマシュマロ。よくよく考えてみると、割と心地のいい感触だからって何度か手のひらに強弱をつけた気がしないでもない。なるほど、そりゃあ変な声も出るよな!

 それにしても、いつも制服姿とかを見ている分にはそこまで気にしなかったけれど、一色って意外に大き……いやいやいやいや待て待て待て待て! 今はそういうことを考えている場合じゃないだろう!

 

「はぅっ……せん、ぱい……」

 

「っ……!」

 

 あああああああああそんな潤んだ瞳で俺を見ないで! 理性の化物が二〇〇五年日本シリーズの阪神並みにフルボッコにされているから! 八幡のアイデンティティ死んじゃう! クライシスどころかデスっちゃう!

 なんかツッコミしまくったら逆に冷静になってきた。ツッコミってすごいわ、さすがフェスでボケチームに勝っただけのことはある。よし、この冷静になった思考で状況を整理してみよう。

 こういう時、どこから記憶を掘り返すべきか。……ああ、たぶんあの時からだ。先週の金曜、放課後に一色とあれをした時の話。

 

 

     ***

 

 

「一色、この資料の整理終わったぞ」

 

 その日の放課後、俺はいつものように生徒会室で一色の手伝いをしていた。いやごめん嘘、いつもではない。三日に二度くらいだ。それってほとんどってことですね、はい。

 まあ、年度末の資料整理はさすがに四人だと人手が足りないということで、生徒会長殿から俺に白羽の矢が立ったのだ。一色が生徒会長になったのには俺の責任もちょっと、ほんのちょっとくらいはあるので断るに断れないんだよなぁ。

 

「ありがとうございま~す! こっちにあるのが最後なんで、せんぱいは休んでてもいいですよ」

 

 一色も、最初の頃に比べるとだいぶ仕事をこなせるようになってきた。元々要領はいい方だったと思うが、いくつかイベントをこなしたことが自信に繋がっているのか、学校の中心、生徒の中心になってきているように思える。今回は相当忙しかったので仕方がないが、俺や奉仕部を頼る機会も減った。まあ、それをちょっと寂しく思ってしまう俺もいるわけだが。

 

「いや、手伝うぞ」

 

 それに、一色に頼られるのは、俺としても嫌な気分ではない。なんだかんだ一生懸命仕事に取り組む姿はどこか庇護欲をかき立てられるし、ふとした姿にドキリとしてしまう。この感情が一体何なのか判断は難しいが、少しでもこいつの手助けができれば……とは思った。

 だから、一色の手から書類を半分抜き取る。あざと生徒会長が何か言いたそうにこちらを見てきたが、こいつの思考はよくわからんところが多いので気にしないことにした。

 

 

 

「はい! じゃあ、今回のお仕事はこれで全部おしまいです! お疲れさまでした!」

 

 最後の資料を確認した一色の声と同時に張り詰めていた空気が弛緩する。今日の仕事は全て終わったので、副会長達はいそいそと帰宅の準備を始めだした。最近はほとんど完全下校時刻まで作業に追われていたからね、早く帰りたいよね。

 俺もさっさと帰って小町成分を補おうと、床に置いていた鞄に手を伸ばそうとして――裾を弱々しく引かれた。

 

「ぁ……」

 

 上着の裾をちょこんと摘まむ一色は、まるで皿を割ってしまった子供のような顔をしていて……俺は声を出すこともできなかった。

 お疲れと声をかけて、他の役員たちは生徒会室を後にしていく。残るのは動けない俺と、動かない一色だけ。

 

「「…………」」

 

 沈黙が、重い。呼吸をすることすら躊躇われる静寂がまるで永遠に続いてしまうようだった。

 やがて裾を掴む手にぐっと力がこもり、小さく数度息をつくと――

 

「ちょっとおもしろい恋愛のおまじない見つけたんですよ~。葉山先輩とやる時のために練習したいな~って思いまして~」

 

 いつものあざとさマシマシの甘ったるい口調と男受けしそうなしぐさでそう言ってきた。

 葉山隼人と一色いろは。クリスマスイベント前に行ったディスティニーランドで彼女が振られてしまったのは、いやそもそも告白してしまったのは、きっと俺のせいもあるのだろう。不覚にも聞かれてしまったあの言葉。『本物』というその言葉を聞いて彼女が何を感じ、そんな行動に出てしまったのかは分からないが、俺にはそんな彼女の恋愛をサポートする責任があるのだと、思う。

 

「あざとい。……はあ、それで? 一体何をするんだ?」

 

 だから、頭をガシガシ掻きながらその“依頼”を引き受ける。これはある種当然の流れだ。当然であり自然であるはずなのに、どうして胸が締め付けられるのか。……俺には理解なんてできなかった。

 

「それで、おまじないってどんなのなんだよ」

 

「ふふふ~、それはですね~」

 

 なんだ「ふふふ~」ってそんな笑い方する奴が現実にいるとは……ああ、そんなこと言ったら材木座とか存在が消えてしまうまであるな。材木座だしいいか。

 どうでもいい奴に思考を取られていると、一色は真新しい用紙を取り出した。それを半分に折って、はさみを入れていく。鼻歌なんぞ交えながら器用に切り出したのはハート形。半分に折って切り出したので、同じものが二枚でき上がっていた。

 

「それじゃあせんぱい! こっちに自分の名前を書いてください!」

 

「お、おう……」

 

 ハート形の紙きれを受け取る八幡、この時点で超絶キモいまである。まあ、そんな事を気にしていても仕方がないので、さっさとボールペンで『比企谷八幡』と書き込んだ。書いてから思ったけれど、ハートマークの中に自分の名前があるって最高に気持ち悪い。キモいより気持ち悪いの方が精神的ダメージがでかいのは、たぶんカレーの歌とか作り出してしまったあのキャラのせい。俺はあいつ結構好きだけどね。

 一色も同じように名前を書き込んだようで、俺のものと交換してくる。そして、俺の名前が書き込まれたそれを、折りたたんで生徒手帳に挟み込んだ。どうやら、俺もこの一色の名前が記された紙を持っておく必要があるらしい。え、なにそれ超恥ずかしい。俺に拒否権なんてないんで従うんですけどね。財布にでも入れておけばいいか。

 

「これで完了です! へへっ」

 

 なんでそんな嬉しそうなんですかね……勘違いしそうになるから、そういうかわいい表情を不意打ちで見せるのはやめていただきたい。

 そもそも科学的根拠もないこんなオカルトを練習する必要があるのかという疑問も当然存在するのだが、一色には一色なりの考えがあるのだろう。そこに、俺が余計な口出しをする理由はなかった。

 

「こんなので効果なんてあるのかね」

 

「せんぱい夢がないですね~、こういうのはやることに意味があるんですよ~」

 

 なにその参加することに意味がある的な言い方。ちょっと参加しない系男子の八幡にはよくわからないですね。

 その後は特になにかがあるわけでもなく、一色と別れて帰路に着いた。ベッドに寝転がって、おもむろに財布からさっきの紙を取り出す。

 

「…………」

 

 こんなものはただのガラクタだ。小さな子供が、そこら辺に落ちている石をまるで宝物のように大事にしているようなもの。それでも、それを俺はくだらないと一蹴することはできず、丁寧に折りたたみ直して財布にしまってしまうのだった。

 

 

 

「うっす」

 

 土日を挟んだ憂鬱な月曜日の放課後。なんとか授業という修行の時間を乗り切った俺は部室にやってきていた。決められた時間に決められたことをきっちりする俺マジ修行僧。

 

「あら、何か依頼でしょうか?」

 

「おい、部員の顔を忘れるんじゃねえよ。学年一位の頭脳が泣くぞ」

 

 いや、その前に俺が泣くまであるな。八幡女々しすぎない?

 俺を心の中で泣かせた張本人である雪ノ下はクスクス笑いながら「冗談よ、こんにちは比企谷君」と返してきた。うん、最初から普通にしてくれるとありがたいんだけれど。

 

「生徒会の仕事は終わったのかしら?」

 

「ああ、年度末で一番面倒な書類の整理とか活動まとめは終わったし、後はあいつらだけでもできるだろ」

 

 自分の席に腰を下ろして文庫本を取り出している間に、雪ノ下が紅茶を差し出してきた。軽く冷まして口に含むと、渋みのないさわやかな茶葉の風味が舌の上に広がり、冷えた身体がじわりと温まってくる。やはり、雪ノ下の入れる紅茶は美味い。ほっと息をついて読書を始めると、雪ノ下も自分の席に戻って本を開きなおした。

 やがて由比ヶ浜も遅れてやってきて、いつもの奉仕部が始まる。読書をする俺と雪ノ下に、携帯を弄る由比ヶ浜。ときどき由比ヶ浜が話題を振る時以外はほとんど会話が発生しない。けれど、俺にとってそんな空間は決して居心地の悪いものではないのだ。沈黙にも種類があるが、どこか温かいこの沈黙は……嫌いじゃない。

 まあ、こんなことを思っている時に限って、沈黙とか平穏はすぐに崩れてしまうのだけれど。八幡のフラグ回収が音速な件について真面目に話し合いたい。

 タッタッタッと廊下を駆けてくる音。普段ほとんど人の通らない放課後の廊下に、こんな軽快な足音を響かせるのは一人しかいない。ほら、雪ノ下と由比ヶ浜も気付いて扉の方見ているし、もはやこれも日常と化してしまっている。

 

「こんにちは~!」

 

 俺達の予想通り部屋の扉が開き、今日もあざとい甘々ボイスな一色が入ってきた。毎度思うが、その猫撫で声どこから出しているんだ? 女声の神秘だな。

 

「いろはちゃん、やっはろー!」

 

「こんにちは、一色さん」

 

 ああ、二人も嬉しそうですね。やっぱりこの部活って一色に甘いよな。そりゃあ、生徒会の手伝いも舞い込んでくるわ。手伝うのは大抵俺だけど。ひょっとして、俺が一番甘いのでは……?

 

「えへへ~、今日は生徒会お休みなんで遊びに来ちゃいました!」

 

 生徒会が休みならサッカー部に行かなくていいのか、マネージャーだろお前。……まあ、ここ数日放課後はずっと生徒会室に籠りっきりだったからな、息抜きも大事だろう。いや、そんな言い方をするとまるで奉仕部が暇な部活みたいに……基本暇な部活でしたわ。

 二人から目を離して、定位置に座っている俺の方を向いた一色はトテテと駆けよってきて――

 

「せんぱ~い、なに読んでるんですか……ひゃっ!?」

 

 こけた。何もない教室の床で盛大に足を滑らせた。座っていた俺は腰を浮かせる程度しか反応できず、無情にも一色の臀部はワックスがかけられた床に落ちてしまう。

 

「おい、大丈夫か……っ」

 

「いたた……せんぱい、ちょ~痛いです……ふぇっ!?」

 

 駆け寄ろうとして、思わず顔を逸らした。後ろのめりにこけた彼女は両足を大きく投げ出して、その白く意外に肉付きのいい太腿を見せつけ、あろうことか大きくめくれ上がったスカートからは……いや見てない、俺はなにも見ていない。類稀なる反射神経で見る前に顔を逸らしたからな、ほんとだよ? だから一色ちゃん、顔真っ赤にしてこっち睨むのはやめてくれないか。

 

「……せんぱい、見ましたよね?」

 

 HAHAHA、見てないって言っているだろ? まったくしょうがないなあ。今の一色は突然の事態にだいぶ動揺しているようだし、ここはこちらが理性的に対応して収束を図るべきだな。

 

「な、なにも見てないぞ! 白地に紅いリボンなんて俺は知らない……ぁっ」

 

 八幡君、それのどこが理性的なのか説明してくれません?

 いや……うん。

 白状します、見ました。赤い小さなリボンがついた純白の下着を俺の網膜はしっかりと焼きつけていました。予想外に初心と言うか清楚な感じにちょっとドキッとしたりしなかったり……いや、むしろそれがあざといまであるな。……あざといってなんだっけ?

 

「比企谷君……?」

 

「ヒッキー……?」

 

 あの……気のせい、かな? 室温が一気に低くなったような気がするんだけれど。室温どころか紅茶で温まったはずの身体まで冷たくなっている気がするんだけれど。

 身体が俺の意思に反して小刻みに震える。さーっと血の気が引いているのに、心臓はバクバクと飛び出しそうなほど大きな音を鳴らしていた。勇気を振り絞って声の方に首を捻ると、雪ノ下と由比ヶ浜がもはや女の子がしてはいけない表情で仁王立ちしていた。端的に言って鬼の形相。

 

「いや待て、落ちつけ。これは事故だ、不可抗力だ、俺は悪くねえ!」

 

 だって目の前でいきなり女の子が転んで、M字開脚パンモロしてくるなんて予想できるわけがないし、その状況を見る前に回避するなんて無理無理無理のかたつむりだ。つまり俺は悪くないし、まして一色が悪いわけでもない。つまり誰も悪い人間なんていないのだ。なんて優しい世界なんだ……。

 しかし、目の前の氷の女王様は優しくなんてなかった。

 

「いいえ、一色さんが転んだことをいいことに舐めまわすように彼女の身体を見た視姦谷君が悪いわ」

 

「俺の行為を捏造するのやめてくれない?」

 

 確かに見ちゃったけど一瞬なわけで、いや一瞬でも十分焼きついちゃったけれど。

 しかし、謎理論を展開する雪ノ下には何を言っても無駄なわけで、由比ヶ浜も完全にあちら側でキモいキモいと連呼している。ガハマさん、語彙を増やそう!

 一色に助けを求めようとするが、顔を真っ赤にして口をパクパクさせているわけで……っていうか、こいつまだスカートまくれたままじゃねえか。

 

「一度ならず二度までも……これは情状酌量の余地なしね」

 

「ヒッキー、マジキモいし!」

 

 り、理不尽すぎる……!

 その後、部活が終わるまで正座で読書を強要されました。冬の床は冷たいなぁ……。

 

 

 

 そんなことがあった次の日ともなると、正直一色に会いづらい。結局昨日はうやむやになってしまったが、不可抗力とはいえ見てしまったのは事実だ。その点においては、俺も謝らねばならんだろう。とりあえず、放課後に一色が部室に来たら謝るか……。

 

「ぁ……せんぱ、ぃ……」

 

 そんな俺の言霊が聞こえたのか、昼休みに購買に行くと、列に並んでいた一色と目があった。いや、謝るって考えてはいたけれど、心の準備的なあれがですね。

 しかし、ここで逃げると放課後余計に謝りづらくなる。つまりは、ここで謝るしか選択肢は存在しないと言うことだ。一つしかないのに選択肢とはこれいかに。

 

「よ、よう……」

 

「ど、どもです……」

 

「「……………………」」

 

 沈黙が辛いんですけれど……。あ、俺が謝らなきゃいけないんだから、俺が黙っちゃだめじゃねえか。落ちつけ八幡、ここは土下座……じゃねえな。さらっと謝ってしまうのが最適だろう。

 

「その、なんだ……昨日は不可抗力とは言え、悪かったな。すまん」

 

「い、いえっ! せんぱいは悪くないです、から……」

 

「お、おう。そうか」

 

 とりあえず、怒ってはいないようだ。さすがに唯一の後輩に嫌われるのは八幡的にダメージでかいので、ちょっとホッとする。すると、俯いていた一色がハッと顔を上げ、「ところで」と声を上げた。

 

「せ、せんぱいはその……私の、見て……どう、でしたか……?」

 

「え……?」

 

 なにその質問、フェルマーの最終定理並みの難問じゃね? ところでフェルマーってなに? いや、この際フェルマーはどうでもいい。どう答えればいいの? なにが正解なのか全く分からないんですが……。

 

「その、ほら! かわいかったとかいろいろあるじゃないですか!」

 

「お、落ちつけ一色、後近い超近い」

 

 顔を真っ赤にするくらいならそんなこと聞かないで欲しいんですが……。思わずのけぞるほど近いしめちゃくちゃいい匂いするしで、もうわけが分からん。

 一色に迫られるという謎の状況に注意力が散漫になってしまったのか――それ以前にそもそもここが購買ということを忘れていたわけなのだが――、思わず後ずさってしまい。

 

「おっと、すまん」

 

「いてっ!?」

 

 後ろを通ろうとしていたのであろう、いやにガタイのいい男子生徒に思いっきりぶつかってしまった。

 

 

     ***

 

 

 その結果、一色を巻き込んで前のめりに倒れてしまい、現在に至るというわけだな。つうか誰だったんだガタイのいい男子生徒。一瞬また交通事故にあったのかと思ったぞ。

 

「んぁ、んっ……」

 

 だから一色はそんな悩ましげな声出さないで! 後俺の右手は早くそこからどけよ! 俺がどかさなきゃいけないのか! なるほど!

 ……というか、この状況はやばい。なにが一番ヤバいって、ここは購買なわけですよ、しかも昼休みの。当然昼食や飲み物を買いに来た生徒でいっぱいなわけで、無数の視線がずっと突き刺さってきているわけで……。

 八幡、冷汗だらだら。なにこれ、既に人生詰んでる節があるんですが……。諦めるな比企谷八幡! 社会的に詰むにはまだ早いぞ! いや、社会的には元々半分くらい詰んでる気がしないでもないけど。

 と、とにかくなんとかしなくては……!

 

「一色、ちょっとすまん!」

 

「せんぱい? ……ふえっ!?」

 

 まずはどうするにしてもこの場に留まるのはまずいと考えて、一色を連れて走りだした。まさに脱兎。今なら葉山よりも速く走れそうだった。それどころかウォールランもできそうだけれど、俺ができたらゴキブリタニとか呼ばれそうだから試すのはやめておこう。

 購買を抜けて、なるべく人のいないところを目指す。ベストプレイスは……テニスコートから見えてしまうし、部室はゆるゆり空間だし、生徒会室は一度鍵を借りに行くのが手間だ。となると、候補は……あそこか。

 廊下を駆け抜けて階段を上る。時折感じる視線を全て無視して二階、三階と駆け上がっていくと、やがて階段が途切れた。南京錠で施錠されている扉。しかし、俺はこれが壊れていることを知っている。形だけかけられている錠を外してその奥、屋上に転がり込んだ。

 

「ここなら大丈夫だろ」

 

 ふう、と息をつく。時々川中のようにここを利用する女子もいるようだが、多少温かくなってきたとはいえ、この時期の昼休みにここに来る生徒はいないだろう。

 

「せ、せんぱい……」

 

「ん?」

 

 ああ、そういえば一色を連れてきたんだった。風になるのに夢中で一番の理由を忘れてしまうとは、八幡一生の不覚……って――

 

 

 なんで一色が俺にしがみついてるのん? いや正確にはなんで俺、一色をお姫様だっこしてるのん?

 

 

 あれ? いつのまにこんな状態になっているんだ? ひょっとして最初から? 何それ、恥の上塗りじゃん。ここに来るまでに絶対いろんな人に見られてるじゃん。むしろ一色に対しては罪の上塗り。

 つうか、こいつ軽くない? 小町もそうだけれど、女の子軽すぎでしょ。女の子の重力だけ他の六分の一なんじゃないの? 女の子月人説。

 とりあえず、抱きかかえていた一色を下ろす。なんか、ここ最近こいつの赤面しょっちゅう見るんだけど……勘違いしちゃうからやめてほしい。あ、今回は間違いなく俺のせいですね。

 一色がしっかり自立したのを確認して、一安心した俺は……逆に膝を折った。

 

「すみませんでした!」

 

「えっ、ちょっとせんぱい!?」

 

 今までの人生で一番なんじゃないかと思えるほど綺麗な土下座が決まった。押し倒した上に柔らかいあれまで触ってしまって、さらには大衆の面前でお姫様だっこだ。金を要求されても仕方のないレベルである。

 もう俺には、全身全霊で土下座することしかできなかった。

 

「あ、頭上げてくださいよ……」

 

「いやしかし、これは俺が悪いと言うか、注意力散漫だったと言うか……」

 

「仕方ないですよぉ。その……触られたのは……あれでしたけれど……」

 

 いや、本当にすみません。大変幸せな気分に……反省してねえぞこいつ! ちょっと八幡君いい加減にして!

 

「けど、ちょっとあれの後だと購買部には行きづらいですね」

 

「まあ、そうな……」

 

 今戻ったら、好機の視線とか敵意の視線とかで針のむしろにあいそうだもんなあ。まだパン買ってなかったんだけれど、今日は昼食抜くか……。マッカン飲めば午後は乗り切れるだろう。

 

「あ、あの……」

 

 そう考えていると、一色が袖をちょこんと掴んできた。相変わらずその仕草好きね。庇護欲かきたてられてあれなんだけれど……。ていうかなんなのん?

 

「あの……私お弁当あるんで、分けてあげられますよ? 生徒会室で、一緒に……どうですか?」

 

「え……?」

 

 いや……え? 確かに俺は昼食にありつけるけれど……それってお前に利点なくないか?

 返答に躊躇している俺に、一色は何かを考えるようなしぐさをして、「そうですよ!」と手をポンと合わせた。

 

「私も今の状態じゃ教室で食べるのはちょっと嫌かな~って。でも、生徒会室で一人で食べる気分でもないんで……それでチャラってことでどうですか?」

 

「まあ……お前がそれでいいなら」

 

 いや、さっき押し倒された人間と一緒に昼食って気まずくないのかな。いろはすのコミュ力高くて八幡のコミュ力も……上がりませんね、うん。

 結局なし崩し的に、二人で昼食を食べることになった。一色の弁当はなかなかおいしくて、気がつくと七割くらい俺が食べていた。あんまり食べてなかったけど、いろはすお腹いっぱいになったのん?

 

 

     ***

 

 

 おかしい……。いや、俺の性格とか目がおかしいと言うわけではなく、ここ数日の一色と俺の間での出来事がおかしいこと続きなのだ。とにかくお互いよく転んだり躓いたりつんのめったりする。外で話していたりすると風が吹いてスカートがまくれる。昨日なんて一緒に歩いていたら水道の蛇口が突然破裂して、一色の服がびしょびしょスケスケになってまた目のやり場に困ってしまった。

 明らかによくわからないアクシデント、いわゆるラッキースケベが連発しているのだ。さすがにこれはおかしいということで、試しに雪ノ下や由比ヶ浜、小町と近くにいても、一色と一緒にいるときのようなことにはならなかった。むしろ雪ノ下には道端のゴミを見るような目で見られて罵倒されたし、由比ヶ浜にはキモいキモいと連呼され、なぜか傍にいた海老名さんに葉山のところまで引っ張られた。小町には「お兄ちゃん、さすがにシスコンが過ぎるのは小町的にポイント低いよ」と言われた。超絶凹んだ。

 つまり、なぜか知らないが月曜から、突然一色限定でラッキースケベが起こるようになってしまったようなのだ。最初は一色の悪戯か何かだろうかとも思ったが、あいつは悪戯でスカートの中を見せたり、きわどいボディタッチをしてくるほど自分を軽く見てはいないし、俺自身も謎の転倒なんかをしている点を見ても悪戯の線は消えるだろう。

 となると……何か他の原因、理由がないか考えてみる。月曜の放課後まででなにがあったかを考えると、思い浮かぶのは先週の放課後にやった恋愛のおまじない、財布に入っている紙きれのことだ。ただの根拠のない夢見がちな女子たちのありふれたオカルト。そんな馬鹿なと思いつつも、それくらいしか心当たりが存在しなかった。

 

「…………」

 

 財布から紙きれを取り出す。もしこれが何かしらの効力を持っていて、それが俺と一色の間に何かを起こしているのだとしたら、これを捨てるだけで問題は解決するかもしれない。それは分かっている。分かっているけれど――捨てることができない。そっとそれを財布の中に戻してしまう理由が喉のすぐそこまで出てきているはずなのに、ほんの一息のところで止まってしまうのだ。自分のことなのに分からないということが、こんなに歯がゆいものだとは思いもしなかった。

 結局何も策を講じぬまま、一色に呼ばれた俺は生徒会室に向かった。

 

 

 

「ぁっ、せんぱい……」

 

 生徒会室の扉を開けると、一色は椅子に落ちつけていた腰を上げた。室内には一色以外いない。まあ、生徒会の手伝いとは言われなかったし、なんとなく予想はしていたけれど。

 

「よかった……」

 

 何事かをぽそりと呟いた一色をよそに、部屋の中に入って扉を閉める。そんな俺に彼女はいつものようにとててと近づいてきて――俺は密かに身構えた。

 

「今日はなんの用なんだ?」

 

「えっとですね……ひにゃっ!?」

 

 そして案の定、一色は何もないはずの床でつんのめってしまう。前のめりになった先にいるのは当然俺だ。さすがに何度もこういう事態に遭遇すると、反射的に警戒するし、いやでも慣れる。一色の奴は軽いし、そっと肩を抑えてさせてやれば大丈夫だろう。脳内で瞬時にシミュレートして、そのとおりに彼女の身体を受け止める。

 しかし――

 

「なっ!?」

 

 一色がぶつかってきた衝撃。体格差的にも何の問題もなく受け止められるはずのそれを受けた途端、俺も足元をすくわれた。まさかの謎現象二段構えに対応できず、思いっきり尻もちをついてしまう。

 

「いっつ……っ!」

 

 ドスンという鈍い音と共に重い痛みが下から上に駆けのぼる。怪我をするほどのものではないので俺は問題ないが、まともに受け止められなかった一色が怪我をしていないかと言う心配が先行して、慌てて目を向けた。

 

「一色、だいじょう、ぶ……か……」

 

 息が、詰まる。俺に支えられなかった彼女は一緒に倒れてしまったようで、俺の腹上、マウントポジションに乗っかっていた。右手は俺の胸にそっと添えられていて、接触している部分から心地のいい一色の体温と仄かな重さが伝わってくる。

 

「ぁ…………」

 

 そして、二人の顔が――近い。お互いの顔が正面と正面、目と鼻の先にあって、彼女の真っ赤に熟れた頬、整った眉、ぷるんとした唇、その全てが眼前に広がっていた。漏れだす呼気すら極上の甘味料に錯覚してしまう。

 そして、その距離は少しずつ、しかし確実に近づいてきている。ほんの少し、あとほんの少し首を前に動かすだけで、その紅色の唇にキスをすることができる。エデンのりんごのように魅惑的なそれを、欲望のままに奪ってしまいたい衝動に駆られてしまう。

 床についていた手は気がつくと彼女の肩に添えられていて……。

 

「せん……ぱい……」

 

「っ……!」

 

 理性の化物に、いやもっと違う何かに心臓を鷲掴みにされた。一種の非現実から一気に現実に意識が引き戻される。

 俺は今、なにをやろうとしていた? よくわからない事故で倒れて密着してしまった後輩に、それをいいことに肩なんぞを掴んで、その無垢な唇に近づいて……。

 俺は、そんなその場の勢いにまかせてしまうような関係なんて求めちゃいない。よくわからん事象に巻き込まれた、なし崩し的な関係にこいつとはなりたくなかった。俺は、俺は、俺は……!

 

「……すまん」

 

 気がつくと、生徒会室を飛び出していた。後ろからかすかに聞こえた声を気にする余裕もなく、行き先もなく廊下を駆ける。冷たい空気が身体を突きぬけていくが、ぐるぐると渦巻くどす黒い何かを凍らせてはくれなかった。

 

「ハッ、ハッ、ハッ……」

 

 ろくに運動もしていない身体に限界が来て、思わず足を止める。乱れに乱れた息を整えることすら忘れて、今自分が立っている、見慣れた場所を認識した。

 人は逃げるとき、潜在的に自分の一番の拠り所に身を置こうとするらしいが、俺にとってはここか。ぼっちの俺にはお似合いだな。

 ベストプレイス、誰からも干渉されない俺だけの空間に座りこむ。テニス部の声が聞こえるが、今は戸塚を眺める気にはなれず、ただただ天を仰いだ。赤く染まる夕焼けは、到来する闇と歪に交わっていて、まるでボロボロの俺の心を映し出しているようだった。

 

「捻くれた生き方をした結果が、これか……」

 

 なんてお似合いな結果だろうか。なにも得られずに、全てを失う。気付くのはいつだって全部が終わった後。柄にもなく溢れた涙は頬を伝い、漏れ出そうになる嗚咽はぐっと唇を噛んで押し殺した。

 俺は、ただ一色と一緒にいたかった、他愛のないことで笑いあって、一緒に仕事をして、適当にあしらって……。恋仲になりたくないと言えばうそになるだろう。けれど、そんな大事な関係に、あんななし崩し的になりたくはなかった。それはきっと勘違いで、偽物だから。

 いや、それ以前の問題だろう。一色が、あの一色いろはが俺なんかを意識しているはずがないのだから。だからこの想いは届かない、届けない。

 だからせめて、近くであいつを見守りたかったのに……。

 

「……まったく、余計なことしやがって」

 

 財布から取り出した折りたたまれた紙。こいつが原因である可能性には気付いていたはずなのに手放せなかったのは、これが俺とあいつの繋がりの一つだったからか。

 これを捨てれば、また一色の近くに行けるだろうか。やり直せるだろうか。

 

「無理だな……」

 

 これを捨てて、あのよくわからないアクシデントが起こらないようになったとしても、今までのことは消えない。きっと互いに気まずくなって、そのままフェードアウト。消滅。

 ならば余計に、俺はこれを捨てることができない。今となっては、これが俺とあいつの唯一の繋がりなのだから。何とも女々しい、くだらない足掻きだ。けれど、いっそ近づけないのなら、せめてこれくらいは許してほしい。丁寧に紙を折りたたみ直して、財布に戻した。

 もう、一色には会わない方がいい。俺のためにも、彼女のためにも。だったら、接触の可能性を極力減らそう。そのために、スマホを操作してほとんどかけたことのなかったあいつの電話番号をコールした。

 

『もしもし? ヒッキーどうしたの?』

 

 数回のコールの後に返ってきた明るい声に、つい躊躇してしまう。何か言われるかもしれない。却下されるかもしれない。根掘り葉掘り問い詰められるかもしれない。

 それでも、臆病になる自分をぐっと押し殺して、俺は電話越しの由比ヶ浜に短く告げた。

 

「しばらく……奉仕部休むから」

 

 

     ***

 

 

 昼休みになると、いつものように購買部に……向かうことなく、朝コンビニで買っておいたパンを持って教室を出る。ステルスヒッキー全開で人込みを縫って進む。

 電話で伝えた俺の休部申請は、思いの外あっさりと受理された。由比ヶ浜も、それを聞いていた雪ノ下も詳しく聞いてこようとはしてこなかった。電話越しになにかを感じたのだろうか。わからないが、教室でもなにも聞いてこないのは好都合だった。

 一色との接触を避けるために購買部に行くことをやめ、いつも昼食を食べていることが知られている可能性のあるベストプレイスではなく、屋上に足を運ぶ。ばったり会ってしまうのだからあんなアクシデントが起こるのだ。ならば、会わないように気をつければいい。

 そう思っていたのに――

 

「ぁ……」

 

 屋上へと続く階段の前で、一色を見つけてしまった。互いに目が合う。この時間帯に彼女がここにいる理由はないはずなのに、なぜ……。

 身体の奥が震える。彼女の口から、どんな言葉が出るのか分からない。なによりも、拒絶される可能性を想像してしまい、言い知れぬ恐怖が沸き上がってくる。

 

「せんぱ……っ!」

 

 気付いた時には踵を返して、その場から逃げていた。完全な敗走、プライドも何もない戦線離脱。一色の顔を見るだけで胸がせつなく鳴くのに、声を聞くだけで心が叫び出すのに、それを見続けることも聞き続けることも、俺にはできなかった。

 

「くそっ……」

 

 ほら、結局あの紙きれを捨てていたって、やり直すことなんてできなかったんだ。

 一度逃げ始めてしまえば、もう逃げ続けるしかないのだから。

 

 

 

 それから、俺は学校での行動を各所変更した。学校に着くのは遅刻ギリギリ、休み時間になれば教室から逃げだして、トイレなどで授業開始まで時間を潰した。一色の気配を常に注意深く探って、見つかる前に離脱する。一度平塚先生の授業に遅れてしまったが、先生は俺の顔を見て、「次は気をつけるんだぞ」と軽く肩をたたいただけで、鉄拳制裁もなにもなかった。

 昼休みはいち早く教室を抜け出して適当な空き教室で食事を取り、放課後は誰よりも先に帰宅する。やけに帰りの早い俺に小町が不思議そうな顔をしていたが、前のように何かを聞いてくることはなかった。その代わりに、やけに夕食が豪華になったが。

 早く帰ったところで特に何かをする気にもなれず、ベッドに身体を投げ出す。頭の中に思い浮かぶのは一色のこと。自分から逃げだしたはずなのに、なにをしていても、夢の中にさえ彼女の姿を幻視する。離れれば離れるほど、会いたくて仕方がない。こんなにも彼女のことが好きだったのかと自覚させられる。

 

「気付くのが遅すぎるんだよ……」

 

 もっとこの気持ちに早く気付いていたら、正々堂々告白もできたかもしれない。いや、それでもうやむやにしていた可能性はあるけれど、少なくとも今みたいな宙ぶらりんな関係ではなかったはずだ。

 何もすることがないと、財布からあの紙を取り出して手遊びをしてしまう。なにが恋愛のおまじないだ、むしろ逆効果じゃないか。……いや、単純に俺との相性が悪いだけか。外部からの介入なんて、理性の化物の警戒心を逆なでするだけだからな。

 

「……ん?」

 

 自嘲し、自傷していると、ほとんど鳴ることのないスマホが震える。届いたメールを確認すると、スパムメールみたいな差出人……ああ、由比ヶ浜か。危うく未読でゴミ箱にシュートするところだった。中身を開いてみると、ゴテゴテとした絵文字を交えて依頼が来たから顔を出してほしいとの内容が書かれていた。もう帰宅してしまっていたが、幸い服も着替えていなかったので、短く『了解』と返事を返して家を出た。

 これも、一種の逃げなのかもしれない。なにもやっていないと一色のことばかり考えてしまって、彼女に会いたいという想いに押しつぶされそうだったから。

 

 

 

 自転車を置いて、特別棟にある部室に向かう。それにしても、直接奉仕部に依頼が来るなんて珍しいな。大抵の相談はメールでの対応で終わることが多いので、直接部室に相談が来るのは月に一度あるかないかだ。それに、大抵は葉山達や材木座のようないつもの連中からの物が多い。由比ヶ浜からのメールにはあいつらの名前はなかったから、恐らく別の人物だろう。一色のは依頼というよりも手伝いの方が正しいので、俺の中では依頼に勘定されていない。あいつ、特に用事がなくてもしょっちゅう来るしな。そういえば、もうそろそろ終業式の準備とかがあるはずだが、あいつは大丈夫――

 

「今あいつのことは関係ないだろっ」

 

 小さく舌打ちをして、頭を振って思考を乱す。一色のことを考えないために部活に向かうのに、これでは本末転倒だ。冷静に、落ちついて、思考から一色いろはを切り離せ。……意識して切り離せればどんなに楽なことか。

 くだらないことを考えている間に、部室の前に着いていた。いつものように扉を開けようとして、脳が違和感を伝えてくる。

 依頼人が来ているにしては、中から何も音が聞こえてこない。いや、仮に依頼人を帰していたにしても、依頼が来たのなら何かしらの会話が聞こえてきてもいいはずだ。それなのに、明るい由比ヶ浜の声も、澄んだ雪ノ下の声も……聞こえてこない。

 一度沸き上がってきた違和感を拭うことができず、扉に手を伸ばしたまま躊躇していると――

 

 

 ――ガラッ。

 

 

「えっ!?」

 

 突然目の前で扉が開き、伸ばしていた腕を引っ張られた。完全に油断していた俺には踏み留まる力もなく、たたらを踏みながら部室に引き込まれる。

 部室に足を踏み入れた俺の胸元に、ぽすっと何かが触れる。柔らかそうなさらさらの髪、鼻をつくのはアナスイの香り。それだけで、抱きついてきているのが誰か理解した俺の警戒レベルはマックスを振りきった。

 

「一色……!」

 

 一色と接触してしまえば、またなにかしらのアクシデントが発生するかもしれない。いや、むしろこの状況すらアクシデントの結果なのではないだろうか。俺の心を勘違いさせるための、神様の気まぐれな罠なのではないか。そんなものは、そんな偽物はいらない。そんなものを俺の前にぶら下げるな。

 とにかく、ここにいるのは危険だ。背中に回された彼女の腕から逃れようと身をよじり――

 

「せんぱい!」

 

 身体の動きが、止まる。それは一色に呼ばれたからと言うよりも、その彼女の声の質を敏感に感じ取ったからだろう。

 

「お前……」

 

 泣いている……のか? 俺よりもだいぶ小さい肩は不規則に震え、背中にある両の手は何度も、何度も強く俺の服を握りしめていた。

 どうしてこいつが泣いているのか。なにかあったのだろうか。葉山か、生徒会か、クラスか、それとも……。

 

「なんで、私を避けるんですか……?」

 

「っ……それは……」

 

 俺の、せいか。俺を見上げる少女の瞳に宿っているのは、不安と恐怖。それは、俺の行動が間違っていたという事実を、ありありと俺自身に突きつけていた。

 

「それは……俺が近くにいると、お前に迷惑がかかると思ったから……だ」

 

 ああ、平塚先生にばれたら鉄拳制裁物だ。やはり俺は人の心の機微に疎い。大事な奴のために行動して、その結果傷つける。まるで成長していない。むしろ退化だ。

 

「迷惑なんかじゃ、そんなんじゃ……私は、私は……」

 

 大好きな女の子すら身勝手に泣かせてしまう。そんな自分が殴りたいほど、いっそ殺してしまいたいほど憎くて仕方がなくて、ギリッと歯を食いしばる。

 一色は俺から離れると、ポケットから生徒手帳を取り出した。そこに挟んであるのはあの時の紙きれ。俺のものと対になっているそれを広げた彼女は、ぼそりと呟く。

 

「せんぱいと私が一緒にいるとあんなことになるのって、たぶんこれのせいですよね」

 

「そう、だな……」

 

 確証はない。しかし、互いに不思議な確信はあった。このおまじないを解かないと、俺達の間に平穏は訪れないと。

 せんぱいもこのおまじないは捨ててないんですよね、という質問に、短く肯定を返す。むしろ、接触を避けるようになってからはそれまで以上に肌身離さず持ち歩くようにすらなっていた。

 

「それじゃあ、どうしてせんぱいはそれを捨てなかったんですか? 私と会わないようにするなら、どうして手放さなかったんですか?」

 

「それ、は……」

 

 その質問への返答には少々声が詰まる。その答えは自分の内をさらけ出すものだから。自分の心を丸裸にしてしまうようなものだから。

 けれど、伝えなくては。今ここで伝えられなければ、一生何も伝えることはできないと思うから。弱い心を、必死に奮い立たせる。

 

「それが、お前と俺の思い出だと思ったら……捨てられねえよ……」

 

 傍から見たらままごとの産物のような紙きれ。それでも、俺にとっては大事な思い出だった。それを捨てたら、俺とこいつの今までの思い出を全て捨ててしまうような気がして、二人の関係も、繋がりも本当に何もなくなってしまうような気がして仕方がなかったのだ。

 自分でも驚くほどか細く漏れ出た声は、しかし彼女にはしっかりと届いたようで、「そっか……そうですよね……」と彼女は頷いた。

 

「私も、同じでした。せんぱいとの思い出のものって、これくらいしかなかったですから……」

 

 しみじみとおまじないを眺めていた目を伏せ、「でも……」と畳み始める。

 

「これはもう、私にはいりません。だって……」

 

「うおっ!?」

 

 おまじないから手を離して、その手で俺を引き寄せる。よろめいて膝をついた俺の後頭部にそっと手が当てられ、その胸に優しく抱かれた。額から伝わってくる柔らかさや温度は、どこか安心できて、まるで心が洗われるようだった。あの日からずっとぐるぐると渦巻いていたどす黒い何かが拭われていくような錯覚すら覚えた。

 

「あんなおまじないがなくたって、私はせんぱいと、こういうことがしたいんですから」

 

「それって……」

 

 いや。

 思わず聞き返しそうになって、口をつぐむ。ここで余計なことを口にするのは野暮というものだ。そんな事をしなくても、今の俺には彼女の言葉の意味を正確に理解できるのだから。

 だから、それに答えるように。

 慎重に、ゆっくりと、決して壊してしまわないように優しく、けれど絶対に離さないように強く――彼女の背中に腕を回した。

 

 

 

 不思議な力に導かれた俺達の心は、近づいて、離れて、もう一度近づいて……寄りそうようにくっついた。




トイレの蓋を閉じた瞬間に振ってきたネタ

当初の予定だと いろはすLOVEる とか いろはToLOVEる って感じだったんですが、さすがにリトさんではないし、やけにシリアスになったんで変更しました
全然読んでないけど、最近のリトさんはショーツの中にカメラ連写するらしいから、ほんとすごいですね
それで好かれ続けるリトさんしゅごい



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八幡「影武者メーカー?」

 高校三年生は否が応でも受験生という肩書きを背負わされるわけだが、だからと言ってまだ新年度が始まったばかりのこの時期は余裕がある。俺のような成績優秀者ならなおさらだ。

 となると、休日にまで必至こいて勉強する気にはなれずに読書などを嗜むわけだが、最近はスマホを弄ることも度々ある。暇つぶし機能付き目覚ましの“暇つぶし”機能もなかなか馬鹿に出来ない。適当なアプリをインストールして遊んでいたら夜だったということもあるくらいだ。うーん、実に堕落的。

 そして、休日であるその日も、最近人気らしいアプリゲームのリセマラでもやろうかとベッドに寝転がりながらスマホに手を伸ばした。課金しなくても何度でもガチャが引けるリセマラってマジ神。けど、最低レアリティが100回連続で来るとめちゃくちゃストレス溜まるんだよな。やっぱリセマラってクソだわ。まあ、それでもやるんですけどね。

 スマホを手に取り、ホームボタンを押してメインメニューを開いて――

 

「……ん?」

 

 乱雑に並べられたアイコン達。その中に見覚えのないアイコンがあり、操作する手が止まった。棒人間が二人並んでいるようなシンプルなアイコンに『影武者アプリ』という名前。はて、こんなものいつインストールしただろうか。試しにアイコンをタップしてみるとアプリが起動する。

 

 

『やあ。このアプリを開いたということは、君は影武者が欲しいんだね。このアプリ“影武者メーカー”は名前の通り、現実世界で君を手助けしてくれる影武者を作り出すアプリだよ』

 

 

「……うさんくせえ……」

 

 マジで胡散臭いことこの上ない。新しい詐欺商法なのではないだろうか。“影武者を作る”ボタンを押したら多額の架空請求が来るとかそういうやつ。いや、天下のリンゴ社製品でそういうことができるだろうか? アプリになっているということは審査通っているってことだしな。やっぱりインストールしたこと自体を忘れていたゲームアプリか何かだろうか。

 

「影武者……ねぇ……」

 

 そんなものを気軽に作ることができたなら、どんなに楽だろうか。奉仕部への依頼や生徒会の手伝いのせいか、最近は特によく疲れがたまる気がする。新学期になってからやること多すぎるんだよな……。

 

「いや……それだけじゃないか」

 

 雪ノ下に由比ヶ浜、それに一色。彼女たちを特別に思っているという自覚はある。けれど、いやだからこそか、接し方が分からない。傷つけたくないからこそ、伸ばす手は慎重になって尻込みしてしまう。近づきたいけれど、間違えたくない。考えて考えて考え続けて、答えは出なくて気疲れしてしまうのだ。

 そんなときに、上手くやってくれるような影武者がいれば。

 そう考えると、自然と指は画面をタップしていた。

 

 

     ***

 

 

 結論から言うと、“影武者メーカー”は本物だった。画面をタップすると、どういう原理なのかスマホの画面から俺そっくりの人間が出てきたのだ。ホログラフではない、実態を持った人間が。声まで一緒なのだからさらに驚きだ。CV.江口拓也って感じ。

 試しに月曜日に学校に行かせてみたが、誰かに違和感を持たせることもなかったらしい。雪ノ下にはいつも通り罵倒され、由比ヶ浜にはキモいと言われ、一色には手伝いをさせられたと涙ながらに語られて、俺も涙目になった。心の傷を共有できるとかそれだけで影武者メーカー最高なのではないだろうか。いや、実質心の傷二倍だから駄目な気もする。

 後で気づいたのだが、どうやらこの影武者メーカー、全くのコピーを作れるだけではないようだ。数学を得意にすることもできれば、コミュ力をカンストレベルまで上げることもできるようで、俺は嬉々として影武者を量産した。便宜上、作った七人は一幡から七幡と名前をつけた。一幡は最初に作った俺の完全コピーで、二幡はテスト対策で理数系特化。三幡はコミュ力マシマシにして、四幡は奉仕部や一色と接するために話術を高めた。五幡は俺以上のステルス性能を持たせて誰からも認識されずに作業ができるようにして、六幡には喧嘩の強さを与え、七幡は用事のブッキング対策に完全コピーを作った。いや、本当は四幡くらいで留めるつもりだったのだが、いかんせん当の四幡が言葉巧みに女子を口説いたりしてダブルブッキングやら喧嘩やらを呼びこんでしまうために増やさざるを得なくなってしまったのだ。帰ってきた四幡から雪ノ下、由比ヶ浜、一色とそれぞれ休日にデートすることになったなんていうトリプルブッキング事案を聞いた時の俺の絶望は誰にも想像できないだろう。

 そうやって七人も影武者がいると、極論オリジナルの俺が学校に行かなくてもなんとかなるもので、最近は一幡にスマホを渡して俺は部屋で自由に過ごしている。ぶっちゃけ高校三年の文系の授業なんてさして新しいことも出てこないし、自宅学習した方がなにかと効率がいい。気分が乗らない時は好きに読書やゲームもできるからな。

 

「あー、ぼっちさいこー!」

 

 なんという自由な生活だろうか。思えばここ一年、平塚先生によって強制的に奉仕部に入れられて以来、なにかと一人になれる時間も少なかった。あの空間は俺にとってもはや失いたくないほど大切なものだが、ぼっちとして十六年半生きてきた身には一人の時間も大切なのだ。

 

「ゲームでもするか」

 

 いや、ひょっとしたら俺ってば今日本で一番自由まであるな。時間割に縛られない学生とか俺くらいなのではないだろうか。マジで影武者メーカー神アプリだわ。

 

「あ、新刊買ったんだっけ」

 

 マジ悠々自適な生活 is GOD。

 

「そろそろ勉強でもするか……」

 

 本当にこの生活……。

 

「…………」

 

 楽しくない。

 さっきからゲームも読書も勉強も全然続かず、すぐに飽きてしまう。どこか身が入らなくて、背もたれにべったりと身体を押し付けて上を見上げる。ようやく見慣れた天井に焦点が合って肺からくはあと空気を吐き出すと、空気の抜けた胸の奥がぽっかりと虚無感に苛まれた。

 一度感じたそれは肺を空気で埋めてもなくならなくて、むしろ思い出したように広がっていき、全身を包み込んだ。暇ともまた違うその感覚は、あえて言葉で表現するなら……。

 

「寂しい、な……」

 

 呟いて、思わず乾いた笑いが漏れてしまう。どうやら俺は、俺が思っていた以上にあの騒がしい連中が大切だったようだ。孤独が心地いいと感じなくなってしまったあたり、ぼっちとしては落第レベル。もうプロぼっちなんて名乗れないかもしれない。

 でも……それでも構わないのかもしれない。

 

「……行くか」

 

 一度自認した寂しさはいつまで経っても拭えず、時間が経つにつれてどんどん溢れだしてくる。俺はそれに身を任せて、準備もそこそこに部屋を飛び出した。

 

 

 

 学校に着いた頃には既に放課後で、運動部の元気な声がグラウンドや体育館から聞こえてきていた。声のする方には目もくれず、一直線に昇降口を目指した。進級で場所の変わった自分の靴棚の蓋を開くと――上履きではなく、見覚えのある靴が入っていた。間違いなく俺の靴だ。

 

「チッ……」

 

 影武者が俺の代わりに学校に来ているのだから当然なのだが、どうにも苛立ちが収まらずに舌打ちをしてしまった。仕方がないので靴をその場に脱ぎ捨てて、何も履かずに校舎内に入る。迷いなく向かう先は特別棟の三階。

 人気のない廊下を足早に進む。固い床を裸足で踏みしめる度に地味な痛みを訴えかけてきたが、気にしていられなかった。そんな事よりも、少しでも、一秒でも早くあの空間に、奉仕部に行きたかったのだ。

 そんなに遠くない距離。しかし、それがやけに遠くに感じられて、永遠に届かないのではないのかと錯覚してしまう。まあ、所詮そんなものは錯覚なわけで、やがて俺の身体は部室の目の前にたどり着き、ほっと息をついた。入口の引き戸に手を伸ばして――

 

「せんぱ~い、ここってどう解くんですか~?」

 

「ん? ああ、そこはな……」

 

 扉に触れる前に止まった。中から聞こえてくるのは一色と俺……の影武者の声だ。つうか、あいつまた部室に来てんのか。生徒会がないならサッカー部に行けばいいものを。

 しかし、焦りすぎてすっかり忘れていたが、今部室には俺の影武者がいるんだよな。そんなところに俺が入ってきたら、あいつらは混乱してしまうに違いない。あまりことを荒立てるつもりもないし、少し様子を見てみるか。

 小さく扉を開けて中の様子を覗くと、どうやら一色に勉強を教えているようだ。いつもの定位置の隣に一色が座っていて……いや待て、気のせいか一色と影武者の距離が近い気がする。

 

「こういう問題は主人公の心情部分がキーになるんだから、この話ならここを読み込むんだ」

 

「ふむふむ、なるほど~」

 

 影武者がテキストを指差すと、一色がぐいっと顔を近づける。肩が触れ合うどころかもはや密着するが、影武者は動じた様子もなく解説を続ける。あんなにくっつかれて動揺しないところを見ると、あれは四幡だろうか。いや、四幡にしては口調が固い気が……。

 

「ヒッキー、あたしにも勉強教えてよ!」

 

 一通り一色の講師を終えた影武者に、今度は由比ヶ浜が席を立って近づく。教科書を持って座ったのは一色の反対側で、やはりいつもよりも俺――この場合は影武者だが――との距離が近い気がする。

 

「はいはい、じゃあ中学校の教科書出して」

 

「なっ!? あたし高校生だし! これでも受験生なんだからね!」

 

「冗談だから、あんまり怒んなよ」

 

 犬が威嚇するように犬歯を覗かせる彼女を宥めながらそいつは……そっと頭を撫で始めた。突然の事態に思わず漏れそうになる声をなんとか堪える。お兄ちゃんスキルのはずの頭撫でを受けた由比ヶ浜は、少し恥ずかしそうに頬を染めながらも「別にいいけどさ……」と尻すぼみに答えていた。

 あれは……本当に俺なのだろうか。俺の影武者なのだろうか。

 

「比企谷君」

 

 あっけにとられながらそう考えていた俺の耳に、澄んだ声色で俺の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

 部室の中央に置いてある長机。俺の定位置とちょうど反対側にある席に座っている少女伏せていた顔をすっと上げる。

 そうだ。部室で平然とこんなことをやっていたら彼女が、雪ノ下雪乃が黙っているはずがない。女たらし谷君とかそんな感じの不名誉なあだ名を交えつつ罵倒してくるだろう。厳密にはその相手が俺ではないから、あまり問題はないのだが。……ん? どうして雪ノ下の頬は若干赤らんでいるのだろうか。

 

「その、私にも勉強を教えてもらえないかしら……?」

 

「なっ……!」

 

 今度こそ声を抑えられなかった。幸い吹奏楽部の演奏音に掻き消されたのか誰も反応しなかったが、俺の動揺は計り知れなかった。だってあの雪ノ下雪乃が、現状の影武者を見て注意することなく、さらに勉強を教えてほしいなんてのたまったのだ。一瞬、本気で息が止まったかと思うほどの衝撃だった。

 

「学年一位の人間に何教えろっていうんだよ……」

 

 しかし、そんな彼女に対しても影武者はなんでないとばかりに、いつもの会話のように呆れながら返事を返した。

 

「平塚先生から聞いたのだけれど、確かにあなたは点数では私に劣るけれども、論述形式の問題ではあなたの解答の方が綺麗だと言っていたのよ。私が比企谷君に負けるわけにはいかないわ」

 

「相変わらずの負けず嫌いっぷりだな」

 

 影武者は少し考えて、頭を掻きながら「しゃあねえな」と返事をする。それを聞いて、雪ノ下の表情が明らかに優しくほころんだ。

 

 

 ――なんだよ……これ……。

 

 

 こんな空間、俺は知らない。彼女たちのこんな表情……知らない。俺の知らないところで俺達の関係が変わっている。それが……果てしなく不快で仕方がなかった。

 

「おい!」

 

 沸き上がる感情のまま、乱暴に扉を開く。俺の姿を認識した三人は目を見開き、俺と影武者をせわしなく見比べている。影武者は、動かない。椅子に座ったままただじっと、俺を見据えていた。

 

「そこは俺の場所だ! その場所を勝手に乱してるんじゃねえ!」

 

 俺のいない空間で変わる俺達の関係なんて許されない。なによりも、俺自身がそんな偽物の関係を望まないと決めたのだから。

 

「影武者はただ俺の代わりに動くだけでいいんだよ! 誰がここまでしろなんて言った!」

 

 そうだ。俺は少しだけ、少しだけ休みたかっただけだ。頭の、心の整理をしたかっただけだ。その間の現状維持をするための影武者だったのに、こいつは、こいつらはそれを無視した。それに対する俺の感情は、まぎれもない怒りだった。

 今まで出したことのないほどの怒声に、一色や雪ノ下がビクッと肩を震わせる。雪ノ下は絶えずオロオロと俺達を見比べていて、当の影武者は――比企谷八幡らしいポーカーフェイスに少しだけ悲しそうな影を見せていた。

 何度か小さく口を動かして、そいつの口は俺と同じ音を発する。

 

「俺が望んだから変えた、それだけのことだ」

 

 プツンと、頭の中で何かが切れた。

 

「オリジナルに意見してんじゃねえ!」

 

 怒気をそのまま伝えるように一歩一歩足を進める。相当酷い顔をしているのか、一色は今にも泣きそうな顔で影武者の影に隠れた。それがまた俺の怒りを増長させる。

 一歩、また一歩奴に近寄る。眼前にいるそいつはポケットからスマホを取り出した。間違いなく俺のスマホだ。そうだな、と言いながら、片手でそれを操作して――

 

「お前が、オリジナルだったらよかったのかもな……」

 

「え……」

 

 あと一歩で殴れる距離、そこで足が止まった。液晶に映っているのは影武者メーカーの画面。影武者の帰還ボタンが表示されているそこには――

 

 

 ――九幡――

 

 

 そう書かれていた。

 

「ぁ……あ……」

 

 目の前の比企谷八幡が帰還ボタンをタップすると、身体が完全に動かなくなる。実体を持っていた肉体が光の粒子に分解されて、どんどんスマホに吸い込まれていく。意識に靄がかかり始めて、何も考えられなくなってしまう。

 

「ごめん、九幡」

 

 あぁ……。

 身体の全てが消える直前、本当に申し訳なさそうな声が電子信号になった身体を震わせた。

 暗転。

 

 

     ***

 

 

「ごめんね、比企谷君……」

 

 こじゃれたカフェの対面席で珍しく自分の非を認めているらしい雪ノ下さんが肩を落とした。

 何を隠そう、影武者メーカーを製作して俺のスマホにインストールしたのは彼女なのである。アプリを使い始めて少し経った頃に電話が来て教えてもらった。ていうか、どうやったらこんなものできるんだよ。やっぱり天才って怖い。

 

「別に、雪ノ下さんのせいじゃないですよ。そもそも、これを使ってズルをしたのは俺自身ですから」

 

 ミルクと砂糖を多めに入れたコーヒーを口に含みながら言う言葉は、まぎれもない事実だった。無理やり使わされたならともかく、あれを使ったのは俺の意志だ。彼女が謝罪する理由にはならない。

 使っていて分かったことだが、雪ノ下陽乃製“影武者メーカー”には致命的な欠陥が存在した。影武者を作れば作るほど、影武者自身に不具合が発生するのだ。兆候が見えたのは四幡のあたりからだった。俺の指示を無視して、すれ違った女子をナンパし始めたりしたし、五幡はステルスのしすぎで欠席と勘違いされてしまうし、六幡は完全に加減ができずに、突っかかってきた不良を病院送りにしたりしていた。

 そして、完全コピータイプの七幡は特に不具合がなかったことに安心して作った九幡は、自分自身を比企谷八幡と認識してしまっていた。実体化させたあいつは俺と邂逅した途端パニックに陥り逃亡してしまったのだ。速攻雪ノ下さんに連絡をして、九幡が落ちつく時間を作るためにホテルなどを用意してもらったのだから、むしろ彼女には感謝するべきだろう。

 

「けど、それって今回のことを話したからなんでしょう?」

 

「……まあ、そうですね」

 

 未だに熱を持っている頬にそっと触れると、じわっとした鈍い痺れが走って思わず顔をしかめた。

 九幡を帰還させた後、俺は三人に全てを話した。雪ノ下さんのことは伏せたが、アプリに手を出した理由も何もかもを全て。その結果、一色には力いっぱいに怒られ、由比ヶ浜には何度もバカと言われ、雪ノ下には頬を叩かれたのだ。ズルをしたのなら罰を受けるべし、とはその時の雪ノ下の弁。

 

「いいんですよ。この痛みは、俺の間違いを教えてくれただけですから」

 

 何度でも俺は間違える。自分以外の力で最高の結果を手に入れようなんて虫がよすぎるのだ。そんな事をした俺に、ビンタ一つの罰しか与えなかった雪ノ下のなんと慈悲深いことか。

 

「自分の欲しいものは、ちゃんと自分で手に入れます。自分の力だけで、たとえ届かなくても、正々堂々ね」

 

 今回もまた間違えた。けれど、それだけで終わりではない。間違えたのなら、次は間違えないように気をつけよう。傷つけないように逃げたって何も変わらない。傷つけるかもしれないと恐れながらも、前に進む。きっとそれが、人と共にあるということだと思うから。

 スマホに指を滑らせて、影武者メーカーのアイコンを長押しする。現れたバツボタンをタップすると、『アプリを消去しますか』と無機質な文字列が出てきた。

 

「ありがとう……」

 

 もう一度タップすると、いともあっけなくアプリは消滅した。

 九幡は俺に教えてくれた。俺もあんな風に感情的に動くことができるんだということを。そんなになってしまうほど、今を大事にしているのだということを。

 俺は間違い続ける。間違えて間違えられて、傷つけて傷つけられて、それでも泥臭く本物を探し続けるのだ。




いつもとはちょっと違う感じのお話をペタリ

叙述トリック的なものに挑戦したかった
そこら辺がちゃんと伝わっているか心配(´・ω・`)


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死んだ目男子が人気になっても比企谷八幡に春は・・・

 土曜日とは一週間で最高の日だ。スーパーヒーロータイムのある日曜日も素晴らしいが、次の日も休みという安心感が八幡的にポイント高い。目覚ましをかけずに昼ごろまでのんびりと寝て、もそもそと飯を食ってから読書やゲームをだらだらとして無為な時間を過ごす。なんて至福な時間だろうか。

 そして土曜日である今日も、十時ごろに目が覚めた俺は遅めの朝食でも取ろうかとリビングにやってきた。

 

「あ、お兄ちゃんおはよー。相変わらず土曜日は遅いお目覚めですなあ」

 

「おはよ。いいだろ、土曜くらい」

 

 ソファでだらだらしていた小町が声をかけてくる。受験が終わり、無事に総武高校への合格を果たした小町は入学までのモラトリアムを満喫している。なんだかんだ受験勉強も頑張っていたし、だらだらしたい気持ちも分かるので特に何か言うつもりはないのだが、その相変わらず偏差値25くらいしかなさそうな雑誌読んでいるのはお兄ちゃん的にポイント低い。変なファンタジー知識を持たないことを祈るのん。

 台所を漁って、適当な菓子パンを引っ張り出す。雑誌を見ながら「ほうほう」と唸っている小町を横目に席について、パンの袋を開けた。っていうか、こいつは何に対して感心しているんだ? 本当に変な知識すりこまれたりしてないよね? まあ、どこぞの由比ヶ浜と違って常識のある子だから、そんなに心配しなくても大丈夫だろう。

 そう思ってパンに齧り付こうとすると――

 

「お兄ちゃん!」

 

 トテテと小町が傍に寄ってきた。その手にはさっきまで読んでいた低偏差値雑誌。

 

「小町ちゃん、お兄ちゃんは今食事中だから、後で相手してあげるからね」

 

「そんな事は知りません! それよりもお兄ちゃんはこれを見るべきなのです!」

 

 そんな事って……朝食は大事でしょ小町ちゃん! あなたはお兄ちゃんの健康が心配じゃないの?

 まあ、単に今は目の前のことが重要なだけなんだろうな。諦めて小町が開いたページに目を落とすと、でかでかと目立つタイトルが飛び込んできた。

 

「……死んだ目男子?」

 

 どうやら巷では、死んだ目男子、非目力系男子というものがトレンドらしい。なんで女子って、何でもかんでも造語にしてしまうのだろうか。挙句の果てにネットスラングをギャル語とか言いだすし、その言葉、君たちが気味悪がっているオタクが作った言葉ですよって言ってあげたい、超言ってあげたい。やだ、俺って親切すぎ!

 そんな俺の感想は置いておいて、これがどうしたと顔を上げると、小町が瞳をキラキラさせて身を乗り出していた。かわいい。

 

「死んだ目男子ってつまりお兄ちゃんのことじゃん! ついにお兄ちゃんの時代が来たんだよ!」

 

「は?」

 

 この子は何を言っているんですかね? 確かに俺の目は死んでいるが、記事に掲載されている有名俳優たちの名前を見ると、明らかに俺とは別の人種の人間たちだ。確かに彼らに目力はなさそうだが、俺の目には女心をくすぐるような魅力は存在しない。

 

「あのね小町ちゃん、こういう○○系男子っていうのは基本頭に“イケメン”ってのがつくんだよ。そうじゃなくてもぼっちの俺の時代なんて一生来ないまである」

 

 やばい、自分で言ってて泣きそう。しかし、悲しいけどこれって現実なのよね……。

 だが、俺の反論を聞いた小町はついさっきまでキラキラと輝かせていた瞳をどんよりと腐らせて、じとっと睨んできた。やべえ、かわいくない。さいかわな存在である小町ですらかわいくなくなってしまうのだから、やっぱり俺の時代が来るなんてありえないな、うん。

 

「お兄ちゃんがぼっち? ……はあ?」

 

 事実を言っただけのに、なんでそんな呆れた顔されなきゃいけないのん? 腰に手を当てて大きくため息をついた小町は再びじとっとした目を向けてきた。

 

「この一年でぼっちからリア充ハーレム野郎にワープ進化したお兄ちゃんが何言ってんの?」

 

「小町ちゃん、ちょっと口が悪いわよ?」

 

 口以前に、ワープ進化って俺はどっかのデジタルなモンスターかよ。確かに奉仕部に入ってから一年弱、昔に比べるとまわりとの接点を持つようにはなったが、リア充になった記憶はトンとない。

 首をかしげる俺に小町はもう一度大きく息を吐いた。あまりため息をつきすぎると小町の幸せが逃げていかないかお兄ちゃん心配になってしまうんだが……。ため息をついていいのは俺みたいにお先真っ暗な人だけだぞ! 俺の人生が暗黒面過ぎる件について。

 

「じゃあ聞くけど、お兄ちゃん先週雪乃さんがうちに来た時、帰る時に送ってったよね」

 

「ああ、結構遅い時間になったからな」

 

 マンション住まいでペットの飼えない雪ノ下が猫成分が足りないと言っていたので、渋々うちのカマクラを提供した。うちに来て早々無言でカマクラをモフモフしだして、ひょっとして猫好きというものは病気なのではないだろうかと背筋が凍ったのをよく覚えている。

 雪ノ下が飽きるまでそっとしておこうと思いソファで本を読んでいて、気がついたときにはだいぶ辺りも暗くなってしまっていた。さすがにこんな時間に女の子を一人で帰すわけにもいかず、一緒に夕食を食べた後に送ったわけだ。こうして文章にしても、極々普通の理由。小町の教育の賜物と言えよう。

 

「いや、確かに遅い時間になったら女の子を送るようにって言ったのは小町だけどさ。……それと“手を繋いで送る”っていう行動は別物じゃない?」

 

「ふむ……」

 

 確かに小町の言うとおり、ただ女の子を送るだけなら隣を歩くだけでいいわけで、手を繋ぐ必要はまったくない。さらに周りから見たら「あいつら付き合ってんの?」と勘違いされかねないので、誰も得をしないのも厄介な点だ。

 しかし小町よ、考えてみてほしい。相手はあの雪ノ下雪乃なのだ。

 

「あの超方向音痴のくせにズンズン前に行こうとする雪ノ下だぞ? 放っておいたら勝手に迷子になりかねん。そこを指摘したら、『そんなに心配なら手でも繋いでおくことね』とか言ってきやがった。だから手を繋いだだけで、つまりは必要に迫られたからだ」

 

 オクラホマミキサーでも仕方ないから手を繋いだりするだろ? 俺は繋いでもらえずに一人オクラホマミキサーだったけれど……。そもそも思春期の男女に手を繋ぐダンスを踊らせる学校側に問題があると思うね。プリキュアを踊らせれば皆幸せになれる。え、なれない?

 ……話が逸れた。つまり何が言いたいかと言うと、雪ノ下と手を繋ぐという行為は仕方のないことであり、雪ノ下雪乃と手を繋いだ事実と俺がリア充という項目はイコールにならないということだ。

 

「……なんか騙されている気がするけど、確かに筋は通ってる気がする」

 

「だろ?」

 

「じゃあ先々週のは?」

 

 先々週……何かあっただろうか。平日は普通に学校や奉仕部があって、土曜日は悠々自適な至福のぼっちライフを過ごし、日曜はスーパーヒーロータイムを見た後……。

 

「ああ、由比ヶ浜か」

 

「そうっ! 先々週の日曜日、お兄ちゃんは結衣さんとデートしたじゃない! ぼっちがデートなんてありえないよね! 完・全・論・破!」

 

 君はいつからブロンティストになったのかな? 小町に余計な知識与えた奴、ハイスラでぼこるわ。あ、俺かもしれない。じゃあ仕方ないな!

 それに小町よ、全く論破できていないということをお兄ちゃんは証明できてしまうのだよ。

 

「あの時は由比ヶ浜とハニトー食べに行ったんだよ」

 

「やっぱりデートじゃん!」

 

「待て。あれはそもそも、文化祭の時にあいつにハニトーを奢られたからその礼だ。修学旅行とか一色の生徒会選挙とか色々あって先延ばしになってたからな」

 

 文化祭で出された一斤ハニトー――あれを本当にハニトーと呼んでいいのかは別として――の礼。自分からすると言いながら、壊れそうになったり、離れてしまったり、自分たちのことを考えなおしたり。それがようやく落ち着いた今、ずいぶん遅くなった礼を果たしたのだ。

 

「人に何かをしてもらったらお礼をする。当然のことだろ? ぼっちでもそれくらいはするんだよ。つまり、先々週由比ヶ浜と出かけたのは俺がリア充になったという証明にはならない。はい論破」

 

 ドヤ顔で返すと、小町の目の腐りが一段階増した。ほんとその目かわいくないからやめてほしい。またひとつ幸せを逃がすと、小町は「じゃあさ」と腐った目のまま次のカードを切ってきた。

 

「一昨日の夜」

 

「小町の合格祝いパーティがあったな」

 

 小町が総武高校に合格したことを雪ノ下達に伝えると、合格パーティをしたいと言われたので、うちでやることになったのだ。参加者は雪ノ下と由比ヶ浜、そしてなぜか一色。……いや、一色さん小町と面識なかったよね? あざとシスターズの結成を遅らせるためにできる限り遠ざけていたというのに、まさか一色の方から我が家に乱入してくるとは思わなかった。

 

「そう、私が言いたいのはそのいろはさんだよ!」

 

「お前らもう名前で呼び合う仲になってたのか……」

 

 さすがのコミュ力というか、あざとシスターズの同一性というか。これは本当にあざとシスターズが結成してしまうかもしれない。これは八幡ピンチの可能性がある。今から既に小町が入学する四月が怖い。

 

「で、その一色がどうしたんだよ」

 

「お兄ちゃん、パーティではなにをしましたか?」

 

「何って、普通に飯食っただろ」

 

 雪ノ下と一色お手製の料理だ。既に実力を知っている雪ノ下は当然として、お菓子作りが得意と豪語していた一色の料理の腕も相当なもので、学生の手作りパーティとは思えないほど豪華な食事がテーブルに並んだ。ちなみに、由比ヶ浜は四人で必死に説得して、飾り付けを担当してもらった。パーティを火サス会場にするわけにはいかないからな!

 

「小町達は普通に食べたけど、お兄ちゃんはなんでか一色さんにあーんされてたよね。あれがリア充の行動と言わずに何だって言うのさ」

 

 あー、あれな。俺が口にするものは全て一色にあーんをされたのだ。うん、あれは俺としても恥ずかしくて仕方がなかったのだが、決して俺と一色がそういう関係という訳ではない。

 

「あれはな……罰ゲームだ」

 

「罰ゲーム……?」

 

「三日前の放課後なんだが、一色と雪ノ下達がゲームをしだしてな。その罰ゲームが『勝った二人の前で俺にあーんをする』だったんだ」

 

 俺は読書に耽っていて外部情報をシャットダウンしていたのでどんなゲームをしていたのかは知らないが、気がついたら既に決着がついていたようで、負けたらしい一色から罰ゲームの内容を言い渡された。だから当日に雪ノ下の罵倒なんかもなかったんだけどな。ところで、終始二人が「ぐぬぬ」という表情をしていたのはなんだったのだろうか。

 

「……その罰ゲームにお兄ちゃんが従ってる時点でおかしいじゃん」

 

「いや、俺だって断固拒否したからね?」

 

 当然である。なぜ俺の知らないところで俺を使った罰ゲームをされなきゃいかんのだ。いや、中学の時までは割とよくされていたけれど、あいつらにそれをされるのはなんかあれであれであれなわけで……とにかく聞いた瞬間に抗議した。徹底抗戦した。

 しかしだ小町、相手はあのあざと生徒会長一色いろはなのである。おそらく対八幡兵器を一番持っている彼女には、いかな論理武装で固めた俺でも全くの無力なのだ。正確には“責任”の一言であえなくノックアウトしてしまったわけなのだが。今回の責任はどの責任だったんですかね……既にどれかを考えること自体放棄しちゃっててよく覚えてない。

 

「つまりあの時、俺は『罰ゲームのアイテム』でしかなく、これも俺がリア充という証明には繋がらないわけだ。オーケー?」

 

「……おーけー」

 

 あれ? なんで小町ちゃんの目が俺以上に腐っちゃってんのかな? そこまでいったら俺と同じ運命をたどることになってしまうから帰ってくるんだ妹よ!

 しかし、俺がリア充とかハーレムとか、本当に荒唐無稽すぎる。それが事実ならきっと俺の目は今頃キラッキラに輝いていることだろう。……なんか想像したらそれはそれでキモい気がしてきた。

 

「……ん?」

 

 自爆して目じりに涙を浮かべているとポケットに入れていたスマホが震えた。明るくなった液晶に表示された名前は――

 

「ゲッ……」

 

 一色いろはだった。いやだなぁ、怖いなぁ。けれど、ここで出ないで無視するともっと怖いんだよなぁ。なんか俺、一色に対してはやけに逃げ場がないこと多くないですか? いろはす、恐ろしい子!

 仕方なく、通話ボタンをタップする。

 

「もしも……」

 

『せんぱ~い、おはようございま~す!』

 

 朝から元気にあざといなこいつ。正直こいつと電話するの苦手なんだよ。ほら、なんか耳元で囁かれているみたいでディスティニーの帰りのあれとか思い出すから。

 

『せんぱいって明日暇ですか? 暇ですよね!』

 

 俺が暇なのを確定事項にしないでいただきたい。大体、明日は日曜日だ。

 

「明日用事あんだけど……」

 

『スーパーヒーロータイムは朝だから、その後なら問題ないですね!』

 

「え、あ、はい」

 

 はっ、なんかナチュラルにニチアサ用事をニチアサだと理解されたせいで、混乱して肯定してしまった! 俺の馬鹿!

 

『明日映画見に行きましょうよ~。ほら、この間せんぱいが見たいって言ってた映画あるじゃないですか~』

 

「……あー」

 

 そういえば、前に奉仕部で話していた映画が最近上映されたんだったか。一色も興味持ってたもんな。

 けどなー、映画なんて上映中は話さないんだし、一人で見た方が気楽なんじゃないかなーと八幡思うな。

 

『二人で見れば、見た後に気兼ねなく感想言えるじゃないですか~』

 

「むっ、確かに……」

 

 映画を見た後に苦労するのは「話さないこと」だ。まだ見ていない人間に映画のネタバレをするのはマナー違反と言えるし、SNSでもそれは同様である。自分が見たから皆も見たなんて考えてはいけない。ぼっちはそもそも話す相手がいないだろって? 確かにそうだが、当然、内容を話したい欲はないわけではないのだ。その点、二人で見てから話せばネタバレにはならない。

 

『それに、これってアクション映画じゃないですか~。気軽にこういうの一緒に見ようって言えるのせんぱいくらいなんですよ~』

 

「いやしかし、お前かわいいんだから俺とは行かない方が……」

 

『せんぱいが私にこういう系勧めて、私をせんぱい色に染めてきたんですから、せんぱいには一緒に見る責任が……』

 

「分かった! 分かりました! 是非一緒に見させていただきます!」

 

 だからそういういい方やめて! 確かにアクション物とかSF物とかファンタジー物のどちらかと言うと男子向けな作品を勧めたのは俺だが、“せんぱい色”とか言う表現はやめてほしい。くっそ恥ずかしくてアホ毛が破裂しそうだから。

 

『じゃあ、明日の十時にいつもの駅集合ですからね~。遅れないでくださいね~』

 

「はい……」

 

 そうして電話が切れた。さようなら、俺の日曜日。

 そのままスマホを閉じようと思ったのだが、どうやら通話中にメールが来ていたらしい。はて、密林に何か頼んだかしらとメールアプリを開くとスパムメールだった。邪魔だし削除しておくか。

 と思ってもう一回見たら由比ヶ浜からだった。マジでスパムだと思ってしまうから、そろそろ本気で名前変えることを考えよう。

 

『やっはろー! 明日暇? 美味しいハニトーのお店姫菜に教えてもらったから、一緒に行かない?』

 

 という内容がゴッテゴテの絵文字を交えて書いてあった。相変わらず超絶読みにくい。読めなくはないのが逆に腹立つ。

 しかし、残念だったな由比ヶ浜。明日は既に先約があるのだ。こればかりは正当な理由を用意してくれた一色に感謝だな。……あれ、そもそも俺の貴重な日曜日が潰れるのは変わらなくね? やっぱ感謝なんてしねー。

 

『明日は用事があって出かけるから無理』

 

 簡潔に要点だけを記載するメール、仕事って感じがするぜ。事務的とも言う。

 

「メール誰から?」

 

「由比ヶ浜から」

 

 兄妹の短い会話の間にまたスマホがメールが来たことを知らせてきた。相変わらず返信はええな。女子高生の神秘だわ。

 

『じゃあ、来週は? ダメ?』

 

 うぐっ……想像できる。しょぼんとした顔で耳としっぽを情けなく垂らした犬ガハマさんが容易に想像できてしまう。そんな姿を脳裏に思い描いてしまうと、拒否するのも気が引けるというか、気が起きないというか……。

 

『別に、用事はない』

 

 速攻返信が来る。

 

『やった! じゃあ、土曜日に行こうね!』

 

 うわぁ、今度の犬ガハマさんはブンブン楽しそうに尻尾振っているのが想像できてしまうぞぉ。楽しそうですねこの子。用事がないと言った手前断るわけにもいかず、『了解』と短い内容で返した。

 まだ土曜日なのに、来週の土曜日の平穏すら崩されてしまった……辛い。

 

「小町、お兄ちゃん明日と来週の土曜日出かけてくるから」

 

「分かったよリア充」

 

 そのリア充ってマジでお兄ちゃんの事を指しているのかい? ハハハ、冗談は時々露呈する頭の悪さだけにして欲しいぞ?

 

 

 ――ピンポーン。

 

 

 反論をしようと口を開いた辺りで玄関のチャイムが鳴り、声を発するタイミングを失ってしまった。ただ間抜け面を晒すという失態にいたたまれなくなり、一言断りを入れて玄関へと向かった。

 

「どちら様……都築さん?」

 

「おはようございます、比企谷様」

 

 扉を開けると、ピシリと身なりを整えた老人紳士が立っていた。雪ノ下家の使用人である彼は好感の持てる笑みを浮かべながら「突然のご訪問、申し訳ありません」と恭しく頭を下げてきた。俺、そんな対応されるような人間じゃないんですけれど……。

 

「唐突な質問で申し訳ないのですが、比企谷様は直近の休日でお暇な日はございますでしょうか?」

 

「暇な日……ですか」

 

 なんか嫌な予感がする。俺の一色に爆破されかけたアホ毛が必死に訴えかけてくるが、下手な嘘は雪ノ下家以前にこの人にすら見破られてしまいそうで怖い。とりあえず、明日と土曜は無理。となると……。

 

「来週の日曜日なら、空いてますね」

 

 それを聞いた老紳士は「なるほど」と小さく呟くとさらさらとメモを取った。

 

「雪乃お嬢様と陽乃お嬢様が比企谷様と食事をなさりたいようですので、来週日曜日の午後五時に雪乃お嬢様のマンションに向かって下さい」

 

「は……?」

 

「では、私はこれで」

 

「え、あの……え?」

 

 なんか言うだけ言って都築さんは姿を消した。あの人忍者かよ。いや、それ以前にその連絡のためだけに来たの? 御老体を伝書鳩のように使うのはやめてあげてほしい。電話とかメールで……雪ノ下とはアドレス交換していないな。陽乃さんは……相変わらず着信拒否に設定したままだったわ。

 しかし、誠に不幸なことに来週の日曜までの予定がびっしり埋まってしまった。埋まってしまったものは仕方がない。この比企谷八幡、一度予定が決まってしまえばちゃんと待ち合わせには遅刻せずに行く男だ。まあ、それも小町の教育の賜物なんだけれどね。

 とりあえず、これ以上都築さんに無理をさせるわけにもいかないから、今度雪ノ下のアドレスとか聞いておくかと頭を掻きながら振り返ると――もう身体全体が腐ってんじゃねえのレベルの目の腐りを見せる小町が仁王立ちしていた。

 

「で、リア充ハーレム野郎。何か言い訳は?」

 

「は? 何が?」

 

「何がじゃないよ、この鈍感ジゴロ草食系リア充ハーレム野郎!」

 

「長い! 超長い! つうか痛い! すねを蹴るなすねを!」

 

 結局、なぜかその日一日「リア充ハーレム野郎」と呼ばれ続け、最終的に平日の放課後に毎日小町とデートをすることになってしまった。

 俺のぼっちライフは最近ちょっと騒がしい気がする……。




あけましておめでとうございます。
と言うわけで新年一発目のお話。
まあ、大晦日のお昼に書きあがってたんですけどね。

この前ニコニコで見つけた記事を見て、「これは書くしかねえ!」と思って書きました。割と勢い。
死んだ目見たら庇護欲そそられるってちょっと怖い。後怖い。

小町の口をちょっと悪くしたのは初めてだけど、それでも小町は可愛いなぁ。欲を言えば、雪結衣一色の三人との絡みももうちょっと書きたかったんですが、予想以上に長くなったので泣く泣く圧縮。

のんびりペースですが、今年もよろしくお願いします。
ではでは。


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俺が修学旅行でホームシックになるなんてありえない

「修学旅行……なぁ……」

 

 学校生活で必ずある修学旅行だが、プロぼっちである俺には地獄のようなイベントである。なぜなら基本的にクラス行動なりグループ行動を強要され、空気の読める俺は迷惑をかけないようにグループの三歩後ろを気配を消して歩くようにするのだが、じっくり見たいところに限って皆興味ないとばかりにスルーし、お土産屋で行動時間の大半を消費するのだ。学校に金払わずに、一人で同じところに行った方が数十倍は楽しめそうなんだよな。

 ちなみに総武高校の修学旅行は京都だが、個人的には海外より全然いい。海外の世界遺産とかも興味がないわけではないが、水とか食べ物が合わなそうなのが怖いからな。日本人観光客はぼったくりにあいやすいって聞くし。

 

「……めんどくせ」

 

「もうお兄ちゃん、せっかくの修学旅行なんだから楽しまないと損だよ」

 

 配布されたしおりをぺらぺらとめくりながら呟いた俺に、受験勉強の休憩がてらコーヒーを注いできた小町が呆れた声を漏らした。

 しかし、楽しむったってなぁ。

 葉山から渡された一日目、二日目のスケジュールを見る限り、有名どころを抑えている感じではあるが、あーしさんも一緒だから、あいつが飽きたらすぐに切り上げられそうで怖いな。というか、なんで葉山達と一緒のグループになったんだっけ? 戸部……告白……それは別世界線の話だな。俺と戸塚がどのグループに潜り込むか決めあぐねているところを由比ヶ浜に引っ張り込まれたのがアンサーです。全く知らない奴らよりかは幾分マシだからいいけどね。

 

「大丈夫、お兄ちゃんにはVitaちゃんがついてるよ」

 

「それ、京都楽しむ気ない人間のアイテムだよね?」

 

 さすがに神社仏閣などいろいろ見るところの多い京都でそれはいかがなものか。極論スマホの電子書籍で時間を潰そうかとは思っていたけれど……せっかくの戸塚との旅行なのだ! 京の街並みと戸塚とのコントラストを眺めるだけで時間を潰せるのではと俺は睨んでいる。大天使トツカエルが清水寺なんかに行った日には神格化して崇め奉られるかもしれん。

 ……ないか。そもそも宗教的に違うか。

 

「あ、そだそだ。お兄ちゃん、はいこれ!」

 

 突然ハーフパンツのポケットをごそごそ漁りだして、小町が差し出してきたのは折りたたまれた紙きれ。妹にゴミを渡されてお前とこいつは仲間だよ、なんて言われたのかと一瞬凹んだが、綺麗に畳まれているところを見るとそうではないらしい。どうやら開いて中を見ろと言うことのようだった。

 

「早く見てってばー」

 

「はいはい」

 

 何か伝えたいのなら目の前にいるのだから直接言えと思ったが、女子というのはこういう回りくどいことが好きなのだろう。観念して中身を確認した。

 

 小町おすすめ! おみやげリスト!

 第三位! 生八つ橋

 第二位! よーじ屋のあぶらとり紙(ママンの分も!)

 第一位! 発表はCMのあとで!

 

 …………いや、これくらいマジで口頭で言えよ。あぶらとり紙ってあれだろ? 弾丸も止めちゃう最強の紙。小町とお袋は何かに狙われてるのかしらん?

 というか、一位の切り方がめちゃくちゃムカつく。

 ムカつくから、触れないことにしよう。

 

「生八つ橋はどの店でもいいのか? 京都ならどこにでも売ってそうだが……」

 

「そのノリの悪さが、ゴミいちゃんのゴミいちゃんたる所以だよねー」

 

 酷くない? どう考えてもこんなウザいノリに付き合せようとしてくるマイシスターが悪いはずなのに、あたかも俺が悪いみたいなその言い方酷くない? 俺は悪くねえ!

 しかし、ここで折れないと延々ゴミいちゃんを連呼してきそうだ。それはお兄ちゃん的にとても辛いから折れざるを得ない。俺の家庭内カーストはやっぱり低いのんな……。

 

「……で、一位は?」

 

「そ・れ・は、お兄ちゃんの素敵な思い出だよ!」

 

 …………うぜえ。

 

「アホなこと抜かしてないで、お前は勉強でもしとけ」

 

 頭を少し強めにわしゃわしゃ撫でると、わーきゃー言いながら逃げだしていった。チッ、逃げ足の速い奴め。

 

「あ、そうだお兄ちゃん。小町がいなくて寂しくなっても電話かけてきちゃだめだよ?」

 

「んなことするか」

 

 まったく、こいつは兄をなんだと思っているんだ。

 

 

     ***

 

 

「はちまーん!」

 

 駅についたら天使がいました。

 中学の頃と明らかに違うのは修学旅行中ずっと戸塚と一緒ということだ! 何を修めた旅行なのかと鼻で笑っていたが、これは神イベントに違いない。ありがとう、修学旅行という行事を考えたどこかの誰か。

 

「京都楽しみだね!」

 

「ああ、戸塚との京都は楽園かも知れんな」

 

「もう、冗談言わないでよ八幡」

 

 冗談のつもりはなかったのだが……戸塚に想いが届かなかったようで、八幡悲しい。ほんとなんで戸塚は男なのだろうか、天使なのに。いや待て、天使は両性具有と聞くから、実は戸塚は女の子にもなれる……?

 

「はっちまーん!」

 

「どちら様ですか?」

 

「は、はちまーん!?」

 

 突然知らない人間に下の名前で呼ばれた。今のは一体誰だったのだろうか。

 

「うわぁ、中二あいかわらずだ……」

 

「よう、由比ヶ浜」

 

 材木座の声で俺達を見つけたのか、駆け寄ってきた由比ヶ浜に声をかけると、おはよーと返してきた。毎度思うのだが、こいつの中で「おはよう」と「やっはろー」はどこで区分けされているのだろうか。アホの子の考えることは俺にはわからん。

 

「そういえばヒッキーって、三日目はどうするの?」

 

「三日目か……」

 

 三日目は自由時間なのだが、どこに行くかは決めていなかったな。小町の言っていた八つ橋とあぶらとり紙を買うのとどこかで学業お守りを買っておこうとは思うが。俺の自由時間小町に取られすぎじゃね?

 

「特に決めてないな」

 

「そっか……そっかー、まあヒッキーだもんね」

 

 なんで俺貶されたのん? 誰とも一緒に行く予定がないから? 戸塚と色々見て回るという選択肢もなくはないが、なんだかんだ二日目まで一緒だし、一人で色々見てみたい気持ちもあるんだよなぁ。

 まあ、ここはプロぼっちらしく一人で散策すると予定に入れておきますか。

 新幹線に乗る時に戸部がべーべー騒がしかったが、周りもテンションが上がっているのか同じくらい騒がしいから問題はないだろう。いやほぼ貸し切り状態だから苦情は出ていないが、公共交通機関で騒ぐなよ。

 周囲に配慮する常識人の八幡君は静かに窓から見える景色でも眺めようと思って――ぶっちゃけ景色を愛でる趣味はなかったのでそのまま夢の世界に旅立った。

 目が覚めたら天使が隣で眠っていて、ちょっと幸せになりました。

 

 

 

 一日目はクラス単位で行動する。本日の予定は無難な京都スポットである清水寺らしい。材木座が中二を拗らせて清水の舞台から飛び降りないか心配だ。そんな事があったら戸塚との修学旅行が中止になってしまうからな! かっこよさそうとか言って飛び降りるなよ? あいつにそんな度胸ないか。

 

「列長いね」

 

 平日の昼間、紅葉も盛りを過ぎた時期だがさすがは天下の清水寺、観光客が多い多い。拝観入口はうちの生徒と観光客がごった返し、結構な列になっていた。

 団体入場口は別にあるが、それでも複数のクラスが待機しているところを見ると当分入れなさそうだ。

 季節が秋でよかった。夏や冬なら死人が出ていたかもしれない。

 

「ヒッキー! 面白そうなところ見つけたから、ちょっと行ってみようよ!」

 

 なぜ由比ヶ浜さんは列から外れているのでせうか。団体行動乱すなって学校で教わるでしょ? ガハマさんそういうの全部聞き逃すか忘れてそう。

 

「大人しく並んどけよ。ちょっとだけとか言ってはぐれたりしたら周りから白い目で見られるぞ」

 

 ソースは中学の修学旅行の俺。ちょっとじっくり観光スポットを見学していたら、いつの間にか誰もいなくなっていた。影が薄すぎてついに幻想送りされたのかと結構ガチで不安になったのは内緒だ。

 

「大丈夫だって。そんなに時間かからないっぽいし、隼人君達も行くって言ってるから」

 

 それはグループの一員として一緒に行動しろということだろうか。残念ながらそのグループは二日目のだから、葉山グループのお前らだけで言ってくださ――

 

「八幡、僕もちょっと興味あるかな」

 

「よし行こうすぐ行こう、急ぐぞ由比ヶ浜」

 

「ヒッキー変わり身早すぎ!?」

 

 戸塚が行きたいと言うのなら、俺に行かないと言う選択肢はないに決まっているだろう由比ヶ浜。

 先導役のはずの由比ヶ浜すら置いていく勢いで列を飛び出して進むと、威勢のいいおじさんが呼びこみをしている小さなお堂が見えた。どうやら胎内めぐりというものらしい。暗いお堂の中を巡ることで御利益があるとか。

 

「あ、ヒキタニ君たち遅いっしょー! 早く早く!」

 

 お堂の前には既に葉山、戸部、海老名さん、三浦、川中が待っていた。というか、戸部がすっげーナチュラルに呼ぶから一瞬友達かと思っちまったわ。名前間違えてるけど。

 

「悪いな。つうか、学校だと俺の事ネタにしてたのに、外だと普通なのな」

 

 文化祭の件で浮いた俺を一番ネタにしていたのは他ならぬこいつだった。というか、あまりにもくどくネタにするせいで周りからもちょっとウザがられている節すらあったが。

 

「いやー、その話はメンゴ! けど、やっぱりせっかくの修学旅行だし? 一緒のグループになったんだから、やっぱ仲良くしなきゃでしょー! 今までのことも全部水に流す感じで、清水寺だけにさ!」

 

「……それ全然うまくないからな?」

 

「マジで!? っかー、ヒキタニ君のダメ出しまじっべーわ!」

 

 うん、やっぱこいつめちゃくちゃウザい。まあ、いい奴なんだろうけど。やっぱウザいな。材木座とは真逆のベクトルでウザいわ。

 

「それじゃ、せっかくだし男女ペアで入ろうよ!」

 

 なにがせっかくなのか分からないんですけど? 男女ペアとかガハマさん俺を殺す気ですかね? 俺は何も悪いことをしていないはずだが……まさか、普段馬鹿にしているのを怒っている!? 事実を怒るのは理不尽じゃないか!

 一人戦慄している俺をよそに、由比ヶ浜の「男女ペア」という言葉を聞いてあーしさんは葉山に、戸部は海老名さんに声をかけていた。ほーん、葉山三浦は妥当として、戸部と海老名さんは少し意外な組み合わせな気がする。そういえば千葉村で海老名さんに興味があるとか言ってたっけ。案外、あれ本気なのかもな。

 さて、そうなると俺は……。

 

「戸塚、一緒に行こう」

 

「ヒッキー、人の話聞いてた?」

 

 戸塚の手を引いてさっさと向かおうと思っていたら、ジト目のガハマさんに釘を刺されてしまった。いや落ちつけ、残っているのは由比ヶ浜に川島、そして戸塚だ。この中で一人を選ぶのなら戸塚一択だろう。え、違うのん?

 

「わーったよ。それで、どっちと入ればいいんだ?」

 

「えー、と……サキサキはどうする?」

 

「サキサキって呼ぶな。別にどっちでもいいけど、あたし戸塚とあんまり接点ないし……」

 

 確かに川端は戸塚とあまり接点がない。実は一学期のサキサキ不良化阻止作戦に戸塚も一枚噛んでいるのだが、本人と直接会って交渉したのは奉仕部の三人と小町だけだったからな。かと言って俺と組むのも躊躇われるのだろう。遠慮がちにチラチラとこっちに視線を送ってきていた。

 

「ぁ……じゃ、じゃあ、じゃんけんで決めよう! 負けた方がヒッキーとね!」

 

 おい、ナチュラルに罰ゲームの景品を俺にするのはやめてくれないか。

 

 

 

 お堂の中は予想以上に暗い。暗いというかマジで何も見えないぞ、これ。数珠状になった手すりを掴んでおかないと方向感覚を完全に失ってしまいそうだ。

 耳を済ませると数歩先で三浦が念仏でも唱えるように「暗い」と「やばい」を連呼していて、三浦自身の方がやばいまである。大丈夫? 取り憑かれたりしてない? ペルソナ発動とかしない?

 

「マジで何も見えねえな」

 

「そ、そそそそそ、そうね……」

 

 ………………。

 

「あの、サキサキさん……何をやっているのでしょうか」

 

 じゃんけんに負けて俺と組んだ川西は視界がほぼ完全に暗闇に包まれたあたりからずっとシャツの裾を握りしめてきていた。真っ暗で確認はできないが、女子にしては高身長な身体を限界まで縮こまらせているのではないだろうか。ちょっと小刻みな振動も伝わってくるんだが。

 

「べ、べべべ別に……なんでも……」

 

 もはやサキサキ呼びを訂正する余裕もないようだ。こいつ、怖いの苦手だったのか。意外に乙女チックですね川越さん。ここ別にお化け屋敷じゃないけどね。

 こうやってしがみついてくる感触には覚えがある。そういえば、昔小町とお化け屋敷に行った時もずっと服の裾を握りしめられてたっけか。お化け屋敷の中で終始瞼を固く閉じていたのには思わず笑ってしまいそうになったが、千葉のお兄ちゃんはそんな無粋なマネはしない。

 

「ったく、ゆっくり歩くから、ちゃんとついてこいよ」

 

「わ、わかった」

 

 特にいつもの彼女の位置よりかなり低い位置にある頭にぽふっと一回だけ手を乗せて、心持ちさっきよりゆっくりと歩を進めた。

 足元からぞわりと上ってくる冷気に俺自身わずかに恐怖を覚えつつ、黒に塗りつぶされた通路を何度か曲がっていると、単色だった世界にぼんやりと仄白い灯りが現れた。

 灯りの近くにまで歩み寄ると、灯りにライトアップされるように丸い石が置かれていた。その上部には、何やらよく分からないマークが掘られている。確か入口に石を回して拝めって書いてあったな。これがその石か。

 

「ここで石を回して拝むみたいだぞ」

 

「ぇ? あ、ああ……わかった」

 

 ひょっとして川岡さん、今までずっと目つぶってました? ぶっちゃけ、目を開けてても変わらない暗さでしたよ?

 ようやく裾を離してくれた川内と石を回そうと手を伸ばして、はて、そういえば願い事とは何をするべきなのだろうかと疑問にぶち当たった。うーむ、特に信じていない神様に何をお願いしてやろうか。

 まあ、とりあえずはこれかな?

 

「いくぞ?」

 

「ん」

 

 川崎の同意を得て中華テーブルのように石を回す。あ、そう言えばこいつ川崎って名字だったわ。

 ところでこれって、回し終えてから拝むのか、回しながら拝むのかどっちなんだろうか。きちんと説明しなかった方が悪いから、勝手に回しながら拝むということにしておこう。

 

「……さて、行くか」

 

 石を離れると、出口へ続くであろう道はまた暗闇だ。当然のように川崎は俺の裾を掴んできたが、どうやら出口はすぐそこのようですぐにぼんやりと光が見えてきた。

 そういえば、相手にとっては罰ゲームとはいえ、ペアになった相手だ。どんな願い事をしたのか多少の興味がないこともない。川崎は何を神頼みしたのだろうか。

 

「ぷっ……」

 

「……なに?」

 

 そこまで考えて、案外あっさり答えが出てしまった。つい笑いが漏れてしまった俺に川崎が不機嫌な声をあげる。別にお前の怖がりな一面を笑ったわけではないから安心してほしい。

 

「なんでもねえよ、ブラコン」

 

「っ……ふんっ、あんたには言われたくないね、シスコン」

 

 受験生の妹弟を持つ兄姉の願いなんてほぼ一つだろう。

 ちなみに白い目をされることはなかったが、クラスには少し遅れてしまった。ガハマさんの大丈夫は信用ならない。八幡覚えた。

 

 

     ***

 

 

「ただいまー。……あれ?」

 

 塾が終わって帰ってみると、家がやけに静かだ。いつもこれくらいの時間ならお兄ちゃんがリビングで読書しているかVitaちゃんと戯れているはずだけど。

 

「あ、そうか。今日からお兄ちゃん修学旅行だったっけ」

 

 完全に失念していた。朝の事を忘れるなんて小町、自分の頭がちょっと心配になってきた。もっと勉強に力を入れよう。

 

「お兄ちゃんがいないと静かだね、カー君」

 

 とてとてと寄ってきたカー君を抱き上げると不機嫌そうに「なー」って短く鳴いた。たぶんお腹が減ってるんだな。小町のお出迎えをする良い子かと思ったら、給仕係を待っていただけのようだ。ふてぶてしい。けどかわいい。

 

「わかったよカー君、今ご飯用意するから待っててね」

 

 リビングでカー君を下ろすと、餌皿の前に直行してテシテシとお皿を叩きだした。待っててねって言ってるでしょ。君はいつからご飯をせびるルフィみたいになっちゃったのん?

 キャットフードを取り出して餌皿に盛ると、もそもそと食べだす。ご飯を食べる姿までふてぶてしい。いっそ貫禄があるまである。少しの間そんなカー君を眺めて、鞄を自分の部屋に置くとお風呂へ直行。だいぶ涼しくなったけど、晴れの日のお昼とかは結構温かいから、しっかり汗を流さないとね。女の子のたしなみです。

 ちゃんと全身を洗い流して浴室を出るとタオルで水気を拭き取る。おお、最近あんまりお外で干せなかったけど、このタオルふかふかだ。これは新しい柔軟剤が効いてますね。お母さんとリピートを検討せねば。

 あらかた拭き終わっていつもパジャマ代わりにしているお兄ちゃんのお下がりジャージに袖を通す。お下がりって言っても、小町が勝手にもらっただけだけど。

 

「今日から三日もお兄ちゃんいないのか」

 

 何気にお兄ちゃんがそんなに家を空けるのは初めてだ。一番長かったのはたぶん中学の修学旅行で二日。小町もあんまりお泊りとかしないから、何気に三日は比企谷兄妹の新記録だ。なにその新記録、すっごいどうでもいい。

 普段あんまりしゃべらないお兄ちゃんだけど、それでもいなくなったら予想以上にうちが静かになるんだなー。ちょっと新発見。心なしかリビングも広いように感じる。引っ越しのために荷物をまとめた時に「あれ、この部屋こんなに広かったっけ?」って思うらしいけど、それと同じかな? 別にお兄ちゃんが荷物って意味ではないけどね。ゴミいちゃんではあるけど。

 

「とりあえずご飯食べよー」

 

 今日は結構遅くなっちゃったし、簡単なメニューですませちゃおうかな。確かお魚がチルド室に残っていたはず。

 お兄ちゃんがいないって、小町もプチ旅行してる気分。旅行してるのはお兄ちゃんなのに、変なの。

 

 

     ***

 

 

 修学旅行二日目はグループ行動の時間である。俺達のグループは映画村に行くことになっていた。時代劇テーマパークである太秦映画村は精巧なセットだけでなくコスプレ体験や忍者屋敷なんかのアトラクションもあるようだ。USJとはまた別の意味で楽しめる娯楽観光施設といえるだろう。

 しかし、完全に油断していた。まさか、映画村までが地獄だったとは。

 

「八幡、大丈夫?」

 

 映画村までのバスがこんなにぎゅうぎゅう詰めだとは!

 わずか五百円で一日市バスが乗り放題になるというフリーパスに惑わされて利用してみたら、乗車率百五十パーセントは超えるであろう満員バスにすし詰めである。実はここ、通勤ラッシュの京葉線なのではないだろうか。やば、マジで押し潰されそう。

 そんな混雑の中に戸塚を放り込むわけにはいかない。俺は身を呈して戸塚を守っていた。

 

「安心しろ戸塚、小町から満員の乗り物ではスペースを作ってあげなきゃだめだよと言われているからな。戸塚は俺が守るぞ!」

 

 あれだよね、今までは正直馬鹿馬鹿しいと思っていた小町のアドバイスが、今年に入ってからすっごい役に立ってるの。小町、お兄ちゃんは小町の力を借りて戸塚をしっかり守れてるよ。

 

「それって普通女の子相手にするもんじゃないの!?」

 

「何を言っているんだ由比ヶ浜。お前らは三浦と川崎に守られているだろ? だから俺は戸塚を守っているんだ。無駄のない役割分担ってやつだ」

 

「そう、かな?」

 

 そうだよ。

 実際、由比ヶ浜と海老名さんは周囲を威嚇しまくる三浦と川崎によって作られたサンクチュアリによって完璧な守護を受けていた。まあ、仮にサンクチュアリが存在しなくても俺が女子を守るとかありえない。だって女の子怖いもん。

 そういえば、前に小町と出かけたときに満員電車に巻き込まれたことがあり、今と同じような体勢を実践したことがあるのだが、その時はなぜか小町が抱きついてきてせっかく作ったスペースが無駄になったんだよな。兄の配慮を無にする妹、八幡的にポイント低い。

 

「次で降りるから忘れないでくれよ」

 

 この苦行も後一駅か。最後まで戸塚を守りきらねば。

 さっきからエルボーかましてくる戸部は許さん。この満員バスの中だから仕方がないけど、許さん。

 

 

 

 満員バス地獄を抜けると、そこは映画村でした。ところで、どうして京都にあるのに江戸の街並みなのだろうか。それ、日光江戸村でよくない? 江戸村行ったことないけど。

 まあ、そんな事は置いておいて、おいらん道中や突然始まる殺陣指南など、中にいるだけでなかなかワクワクしてくる。戸部が「刀で斬り合いとかマジ興奮するわー」なんてはしゃいでいたが、否定できねえな。日本刀はロマンだ。

 

「小町もこういうとこ好きだよなぁ」

 

 村というよりはアミューズメント施設に近い映画村は、いかにも小町が好きそうだ。けど、さすがに京都はほいほい来れないよな。千葉に映画村を作ろう。雪ノ下議員がんばって!

 

「ヒッキー、こんなところでも小町ちゃんのこと考えてるし……」

 

 由比ヶ浜、お前はなんて失礼な奴なんだ。……いつでもどこでも考えているに決まっているだろう?

 

「ははは……あ、八幡! お化け屋敷あるよ!」

 

 なぜか乾いた笑いを漏らしていた戸塚が通りの先を指差して声を弾ませる。その先にあったのは史上最恐のお化け屋敷なるものがあった。自分からハードルを上げるあたり……できる!

 

「戸塚、お化け屋敷とか好きなのか?」

 

「うん! ホラーゲームとかも好きなんだ!」

 

 やけにテンションが上がっていると思ったらそういうことらしい。天使の意外な一面を見てしまった、かわいい。

 

「お、お化け屋敷とか激アツっしょ!」

 

「いいね。行ってみようか」

 

 葉山達もだいぶ乗り気のようだし、三浦や海老名さんも反対ではないらしい。というか、三浦に至っては葉山の服を掴んで怖いアピールをして楽しんでいる。あざとい、あざといぞあーしさん! お前はおかんキャラだったはずなのに、ギャップ萌えなのか!?

 戸塚が行きたいと言っているのだから、俺だって拒否する理由はない。しかし……。

 

「お前……外で待っとくか?」

 

 川崎は昨日の胎内めぐりだってあの調子だったのだ。さらに驚かし要素のあるお化け屋敷に放り込んだ日には、屋敷内のスタッフを殴って傷害事件に……いやさすがにそれはないか。

 

「は、はあ!? べ、別に怖くないし! あたしも行くよ!」

 

「いや、意地を張るところじゃ……」

 

「意地なんて張ってないし! ほ、ほら、行くよ!」

 

 本人が大丈夫って言うならいいけどさ……史上最恐だぞ? 後悔しても知らないぞ?

 

 

 

「ひっ! い、今……ひいぃぃぃぃ!」

 

 だから言ったじゃないですかサキサキさん。本当にどうしてあそこで意地を張ってしまったのか。

 胎内めぐりのお堂よりかは幾分明るい通路に入ってから、川崎はずっとこの調子だ。昨日のように俺の上着を握りしめて――あの、あんまり引っ張ると脱げるからやめてほしいんですが。

 

「しかし、本格的だな。史上最恐の名前に偽りなしだ」

 

 恐らく江戸時代をモチーフにした通路はところどころにおどろおどろしいシンボルが配置されていて、最小限の灯りがそこに視線を巧みに誘導してくる。

 なにより演者のスタッフの動きがプロい。どうすれば客が驚いて叫び声を上げるか理解しつくしているようだった。

 

「やばい! ここやばいって! ひいっ!」

 

 今は川崎が過剰なまでに驚いて騒いでくれているおかげであまり怖くはないが、一人で入っていたららしくもない叫び声を上げていたかもしれない。

 

「ヒッキー結構冷静だね。ヒッキーも彩ちゃんみたいにお化け怖くない系?」

 

「いや、怖いもんは怖いだろ」

 

 西洋ホラーのようなビックリ系は初見なら盛大に肩が跳ねるし、和製ホラーのじわじわ迫ってくる恐怖は背筋に嫌な汗が流れてしまう。ホラーゲームやホラー映画は嫌いではないが、それと怖くないはイコールではないのだ。

 

「ただ、お化け屋敷は実質二回目だからな。小学校の時に小町と行って以来か」

 

 今思うとそんなに怖くないちゃちなお化け屋敷だったが、当時小学校低学年だった小町がワンワン泣いてしまって、お化け屋敷を出てから帰るまでずっと怒られた。行きたいって言ったの小町なのに。

 それ以来完全にお化け屋敷嫌いになってしまった小町とこういうアトラクションに行くことはなくなった。ディスティニーランドのゴシック風マンションにも入ったことねえんだよな。さすがに夢の国だからそんなに怖くはないと思うが。

 

「ヒッキーって小町ちゃんのことばっかり話すよねぇ……」

 

 え、なんでそんな呆れた顔されてんの? ここお化け屋敷だからもっと怖がってあげなよ。

 

「八幡達は仲良しだもんね」

 

「けど、あんたのシスコン話のおかげであたしも冷静にひいぃぃぃぃ!」

 

 よく分からんが冷静になったらしい川崎が俺の服から手を離した瞬間、通路の影からグワッと血みどろの女性が現れた。完全に油断していた川崎は脇目も振らず全力疾走。呼び止める暇もなく闇の中に消えてしまった。

 

「すごいなあいつ。小町でもあんなにビビってなかったぞ」

 

「やっぱり比較対象小町ちゃんなんだ!?」

 

 あたりまえなことを言う奴だ。俺の対人経験の八割は小町で占められるから当然だろう。

 やけに騒ぐ川崎がいなくなると、怖さのレベルがぐっと上がった。なるほど、ここからがこのお化け屋敷の本番なんですね。サキサキカムバック!

 

 

 

 映画村である程度遊び倒した俺達はタクシーに乗って仁和寺……を軽くスキップして龍安寺に来ていた。マジでほとんど滞在しなかったぞ仁和寺。なんでコースに入れた葉山……。

 龍安寺に入ってすぐの鏡容池と呼ばれる大きな池を通り過ぎ、石段を上っていく。方丈というお堂に入ると、龍安寺の名物とも言える石庭、枯山水がある。虎の子渡しの庭や七五三の庭などの別称もあり、配置されている石はどの位置から眺めても必ず一つの石が見えないようになっているんだとか。

 そんな事を言われたら、きっとどこかに全部の石が見えるところがあるのではないかと考えてしまうのが、斜に構えた比企谷八幡だ。割と広い石庭、隙はどこかに存在するはずだ。……俺はいったい何と戦っているのん?

 

「なにをしているのかしら……」

 

 少しずつ位置をずらしながら全ての位置を確認していると、よく澄んだ声を呆れた感じでかけられた。振り返ると予想通り、奉仕部部長の雪ノ下雪乃が佇んでいた。こいつ、割と着物とか似合いそうだからお堂とか枯山水の背景が合うな。一応断っておくが、似合うと言うのは胸部的なサムシングではない。こうね? 雰囲気的なやつだから。

 

「お前も来てたのな」

 

「ええ、有名所だからね。それで、あなたは何をしていたのかしら?」

 

「いや、どっから見ても全部の石は見えないって言うが、絶対見えるスポットあるだろと思ってな。見つけたら小町に自慢できるかもしれん」

 

 いやしかし、本当に見つからん。作った人すごすぎるだろ。どうやったらこんなもん考えつくんだよ。あれか? この庭と一緒で人間も全ての部分を見ることはできない的なやつか? 昔の人が俺と同じ思考だった説が微粒子レベルで存在している?

 

「こんなところでも小町さん中心で動いているのね……」

 

 なぜか雪ノ下に盛大に呆れられてしまった。

 

「由比ヶ浜達にも言われたが……俺そんなに小町のことばっかり話してるか?」

 

「今までもそんな調子だったのね……」

 

 いやいや、確かに小町は大事な妹ではあるが、そこまで小町小町言っているわけではないはずだ。どうせ小町は神社仏閣には興味がないだろうから、興味を引きそうなネタとして考えていた節はあるが。いや確かにそう言われると小町中心で動いている説は無きにしもあらずだが、それは小町が思い出をお土産に待っていると言っていたからだ。あれ、それって小町中心ってことじゃない? なんでそうなってるの?

 

「学校でも小町さん至上主義な調子だったけれど、今のあなたは輪にかけてそれが強くなっているわね。まさか、ホームシックにでもなっているのかしら?」

 

 え…………?

 ホーム……シック……? 小町と離れて……? いやいやいやいやちょっと待て。

 

「そんなこと……あるわけ……が……」

 

 確かに小町と三日も離れて過ごすのなんて初めてだが、さすがにたかが三日だぞ? それでホームシックとかないないありえない。いやけど、昨日の夜は小町の夢を見た気が……しなくも……。

 

「まさか……そんな……」

 

 いや、そう考えたら無性に小町に会いたくなってきた。たった二日、されど二日だ。あと二日も小町に会えないなんてありえないだろう。誰だよ、戸塚と三泊四日の修学旅行が神とか言ったの。

 

「あの、比企谷君……?」

 

「ヒッキー……?」

 

 二人が心配そうに声をかけてくれているようだが、今の俺にはまったく聞こえてこなかった。ああもう駄目だ。頭の中が小町でいっぱいで、もはや見えない石とかどうでもよかった。小町に早く会いたい。俺小町好きすぎない? 好きだよ当たり前だろ! あんなかわいい奴好きじゃないわけがないじゃないか!

 あぁ、これマジでやばい。心の中で叫んでいただけのはずなのに酸欠で頭がクラクラしてきた。

 

「すまん由比ヶ浜、先にホテルに戻っとくって葉山達に伝えといてくれ」

 

「ぇ、あっ、ちょっとヒッキー!?」

 

 ふらつく足をなんとか進めて、方丈を出る。もう、早くホテルに泊まって寝たい。寝て起きれば朝だ。それでもう一回寝れば千葉に、小町のところに帰れる……。

 

 

     ***

 

 

「あっ……しまった……」

 

 お兄ちゃんがいないのを忘れていて、夕ご飯を作りすぎてしまった。しかも、それに気付いたのが作ったハンバーグを二つの皿に盛り付けたあたり。ちょっとうっかりにしては気付くのが遅すぎないかな?

 仕方がない。お兄ちゃんの分として作ったハンバーグは明日の晩御飯に取っておこう。小町の手作りハンバーグが食べられないとは、お兄ちゃんも残念だったね!

 

「いただきまーす」

 

 いつもは小町の声に紛れるようにぼそぼそ呟く声はない。お兄ちゃんは今頃京都のおいしいご飯を食べているに違いない。小町の手料理より京料理ですかそうですか。いや、お兄ちゃん全然悪くないけど。

 ハンバーグを箸で一口大に切り分けて、あーんと口に運ぶ。

 

「……あれ?」

 

 なんだろう。おいしいにはおいしいんだけど、なんかいつもよりいまいちな味だ。いつもと同じように作ったはずなのにおかしいな。けどまあ、作っちゃったものはちゃんと食べないとね。

 もぎゅもぎゅとハンバーグを食べる。うーん、やっぱりいまいち。本当に何やらかしたんだろ。

 っていうか、さっきからずっと感じる違和感は一体……。

 

「ぁ……」

 

 そうか、目の前にいつも座っているお兄ちゃんがいないから、目の前がどこか殺風景なんだ。お兄ちゃんがいないだけでこんなに違うとか、ちょっと小町やばくない? ひょっとして、お兄ちゃんがいないからご飯がおいしくないんじゃ……。

 ……いやいやないない。

 それはちょっとブラコンすぎて小町的にポイント低いし。

 なんかどんどんおいしくなくなっている気がするのも、気がするだけだろうからさっさと食べて勉強しよーっと!

 

 

 

 むぅ、全然勉強分からないなりぃ。

 いや嘘、小町も総武高校を狙う受験生だし、全然分からないなんてことはない。けど、英語はちょっと苦手。なんで述語が主語の後に来るの? 現在完了って過去形とどう違うの?

 分からないところが出ると、途端に集中力も切れちゃう。これは家庭教師を無料で雇った方がいいね!

 

「お兄ちゃーん、ちょっとここ教え……ぁ」

 

 またやっちゃった……。お兄ちゃんがこんな時間に家にいないなんてありえなさ過ぎて、全然小町の頭の中で切り替えができてないよ。

 なんか余計に勉強する気がなくなっちゃった。お兄ちゃんのラノベでも読もうかなと思って適当な本を取り、ベッドにポスッと腰を下ろす。パラパラとページをめくっていると、どんどん身体が布団に沈んでいって、最終的に仰向けの状態に落ちついた。最近のラノベって異世界物多いよね。それでも面白いものは面白いし、人気だから多いんだろうけど。

 それにしても、このベッドはやけに落ちつく。どことなくお兄ちゃんの匂いがするからかも……いやちょっと待って!

 

「ほんと、今日の小町おかしくない?」

 

 お兄ちゃんの匂いで落ちつくなんて変態ではないか。いや、だけど……けど……。

 本を閉じて今度はうつ伏せになる。枕に顔を埋めてゆっくり深呼吸をすると、十五年連れ添ってきた匂いが肺いっぱいに入ってきて、それだけで少し幸せな気分になってしまう。

 これじゃあ、お兄ちゃんに会いたいって言ってるようなもんだなぁ。一度認識しちゃうと会いたくて会いたくて震えてきちゃう。ひょっとしてお兄ちゃんは危険なお薬の可能性が……それだと、お兄ちゃんが規制されちゃうよ……。

 

「お兄ちゃん、連絡くらいくれればいいのに……」

 

 そう思ったけど、よくよく考えたら連絡しちゃだめだよって言ったの小町だった。だってしょうがないじゃん。お兄ちゃんはともかく、小町までこんなになっちゃうなんて思わなかったんだから。

 お兄ちゃんは明後日まで帰ってこない。後たった二日だけど、このままじゃ小町自身が持つ気がしないよ……。

 

「だから……ちょっとくらいいいよね」

 

 頭から布団を被ると、全方位からお兄ちゃんを感じられて、まるでお兄ちゃんに包まれているみたいだ。これなら、とりあえず今日一晩は持ちそう。

 

「お兄ちゃん、おやすみ……」

 

 感じないはずの温かさを感じながら、小町の意識はゆっくりと夢の世界に沈んでいった。

 

 

     ***

 

 

 

 目が覚めたら家だったらよかった。そんなことはあり得なくて、昨日泊まったホテルの布団からのそりと体を起こす。部屋をぐるりと見渡すけれど、当然最愛の妹の姿はない。

 

「あ、八幡おはよ」

 

「あぁ……おはよう」

 

「どうしたん、ヒキタニ君。まだ調子悪いべ?」

 

「大丈夫か? 無理そうなら先生に言いに行くけど」

 

 天使が挨拶をしてくれたのに、いつもみたいな返事ができていない。そんな俺に同室の連中も声をかけてくるけれど、ほとんど頭が理解していない。起きた瞬間から思考の大部分は小町で埋め尽くされていた。

 なんとか理解できた葉山の言葉に首を振って答える。さすがにこれで休むなんてありえない。そんな俺を見て葉山は息をついて、朝食に促してきた。食欲はないが、少しは食べないと今日の活動に支障が出るだろう。なんとか着替えて、葉山達についていく。

 朝食はバイキング形式だったのでバターロール二個と牛乳を取って適当な席についた。他にも色々おいしそうなおかずとかあったが、ぶっちゃけこれですら食べきれるか分からなかった。

 

「おはよー! ……ヒッキーまだだめみたいだね……」

 

「ヒキタニ君それはさすがに少なくない?」

 

 遅れてやってきた女子メンバーが俺の目の前に置いてある皿を見て声を上げる。俺だって普段はしっかり朝食を食べるのだ。しかし、今はちょっと、というか全然――

 

「……食欲ない」

 

「朝はちゃんと食べなきゃダメだし! そんなに調子悪いなら休んでたら? 先生たちが付き添ってくれるだろうし」

 

 あーしさんが優しすぎてマジおかんみたいに見えてきた。ていうか、こいつら皆いい奴すぎる。

 

「いや、それはだめだ……」

 

 しかし、三浦たちの好意を受け取るわけにはいかない。

 三日目は各自自由行動だ。小町リクエストのあぶらとり紙と生八つ橋を買わなきゃいけないし、学業のお守りも買わなくてはならない。それに、それになにより……。

 

「小町に聞かせる思い出を、作らないと……」

 

 なんと言っても小町のお土産ランキング一位だ。今のところほとんど京都らしい思い出を作れていない。その上自由に散策できる今日を休んで過ごすなんてすれば、なんとか明日帰っても小町を楽しませることができない。

 

「……ここまで沈んでると、シスコン乙とも言えないね」

 

 いやほんとごもっともです。全校生徒敵に回すメンタルを持っていたはずなのに、今の俺はちょっと雪ノ下の罵倒を食らっただけで死んでしまうまである。八幡君HPが既に一しかないよ……。

 

「はあ……しゃーない。結衣と戸塚はヒキオと一緒に行ってやんな。できるなら雪ノ下さんも連れて」

 

「ゆ、優美子?」

 

 きっちりと決めている縦ロールを指先でクルクル弄りながら、少し不機嫌気味な声を三浦が漏らす。おそらく、できるなら由比ヶ浜と一緒に回るつもりだったのだろう。

 

「そんなヒキオ放っておけないっしょ。この中ならあーしらじゃヒキオの対応分からないし、あんたらが適任でしょ」

 

「そうだな。妹さんのことになると、ヒキタニ君は頑固だし、お願いできるか?」

 

 三浦と葉山に頼まれて断れる人間はそうそういない。というか、由比ヶ浜はともかく戸塚はそのつもりだったようで、天使の微笑みを浮かべて了承した。それを見て由比ヶ浜もしょうがないなぁと首を縦に振る。

 

「後は雪ノ下さんがいてくれればもっと安心なんだけど……」

 

「大体の話は理解したわ」

 

 噂をすれば影が立つ、という奴だろうか。いつの間にかバイキングスペースに入ってきていた雪ノ下の声に全員が振り向く。平常時の俺ならトレイを持つ姿も嫌に様になってるなとか思っていたかもしれないが、残念ながら今の俺にその余裕はない。

 

「うちの部員の事ですもの。部長が面倒を見るのは当然のことよ」

 

「そ、じゃあヒキオのこと任せたよ。本当に無理そうなら先生とか呼びな。別にあーしでもいいけど」

 

 あーしさんマジ頼りになる。マジおかん。

 

 

 

 その後、三人に気遣われながらあぶらとり紙や生八つ橋を買って、北野天満宮で学業祈願のお守りも確保した。その後は学校の誰よりも事前調査をしていた雪ノ下のおすすめスポットを巡った……はずなのだが、全然覚えていない。

 一歩歩くごとに思考が小町に埋め尽くされていくのだ。金色に輝く小町が現れたと思ったら、金閣寺だったときはさすがの雪ノ下も全力で心配してきた。皆優しいのに、その優しさを感じるよりも小町に会いたくて仕方がなくて、それがさらに申し訳なかった。

 

「ごめんな、お前ら……」

 

 もうね、いろいろ迷惑かけたことはあるけれど、こんな迷惑のかけ方初めてで八幡マジで泣きそう。

 

「いいよ、八幡。小町ちゃんとあれだけ仲がいいんだから、こんなこともあるって。僕は気にしてないよ?」

 

「ヒッキーはいっつも一人でなんとかしようとするんだから、たまには頼ってよ」

 

「文化祭ではあなたに頼ってしまったから、その借りとでも思ってちょうだい」

 

 ほんとなんなんこいつら。優しいよ、優しすぎるよ。八幡頑張る。この捻くれ体質少しでも治して、少なくとも今回世話になった奴らと仲良くできるように努力する。

 けれど、そう思いつつも今はどんどん小町に会いたい想いが溢れてきて、どうしようもなかった。

 

 

     ***

 

 

「小町ー、……大丈夫?」

 

「ふぇ?」

 

 登校早々友達に心配されました、小町です。大丈夫ってどういうことなんだろうか。頭? 頭なの? 小町そんなに心配されるほど頭悪くないから!

 

「なんかすごい疲れてるみたいだけど、寝てないの? テストでもないのに徹夜で勉強でもした?」

 

「えっと……その……」

 

 確かにいつもより睡眠時間は少ない。昨日、お兄ちゃんのベッドで寝付いたまではよかったけれど、純度百パーセントのお兄ちゃんの夢を見て途中で目が覚めてしまったのだ。お兄ちゃんが壁ドンしながら「愛してるぞ、小町」なんて言ってきた時には、夢の中なのに卒倒しそうになった。あんなお兄ちゃんだったら小町普通の生活送れてない。いや、今も若干普通の生活送れてないけど。

 まさか本当の理由を言えるはずもなく、ちょっと寝付けなかっただけだよとはぐらかすしかなかった。友達は何か言いたげだったけれど、ちょうどチャイムが鳴って担任の先生が来たので、何も言わずに自分の席に戻っていってくれた。

 

「じゃあ出席を――比企谷さん、大丈夫かい? 少し顔色が悪いようだが」

 

「い、いや……大丈夫、です」

 

 先生が生徒の中から見咎めるほど、今の小町の顔色は酷いのだろうか。寝不足だけならともかく、お兄ちゃんと会えないだけで顔色にまで影響が出るとか普通ありえないでしょ。いや、お兄ちゃんと三日会えないだけで寂しくなっている時点でかなり普通から逸脱しちゃっていると思うけど。

 いけない。あんまりお兄ちゃんのことを考えたら、お兄ちゃん会いたい病が進行してしまう。それにしても、小町が見咎められてしまったのはクラスでそこそこ目立っているからかもしれない。お兄ちゃんみたいにステルスヒッキーを発動できれば……って考えないようにって考えてたばっかりなのに、もう考えちゃってるじゃん!

 けど、明日にはお兄ちゃんも帰ってくるし、明日は休みだからすぐに会える。実質今日一日の我慢なのだ。そんなこと考えたら今日一日がものすごい苦痛になっちゃいそう。むしろ現時点で死ぬほどつらい。

 お兄ちゃんの事考えない作戦は無理だ。もう考えてない時間がないもん。会いたい、会いたいよお兄ちゃん。

 

「小町、あんた本当に大丈夫? なんか目の焦点合ってなくない?」

 

 目の焦点というか、気を抜いたら泣きそう。会いたくて泣きそうになることがあるなんて……人の感情ってすごい。というか、小町のお兄ちゃんへの兄妹愛がすごい。

 

「なんか昨日も様子変だったし、受験前に風邪引いちゃったら元も子もないから、無理は禁物だよ」

 

 え、昨日も小町変だった? 自覚したのは昨日の夜だったけど、まさか昼のうちからお兄ちゃんレスの弊害が出ていたなんて……。

 まだ一時間目だけど、早く学校終わってよぉ。もう帰りたいよぉ。

 そんな駄々をこねても帰れるはずもなく、ホームルームが終わって一時間目が始まる。国語の授業はさすがにそこまで根つめて勉強をする必要はないので、頭の中をちらつくお兄ちゃんの幻想を意識の外に追いやるために、今の授業で扱われている物語を読むことにした。

 芥川龍之介の羅生門。有名な話だし、小町も一度お兄ちゃんに借りて読んだことがある。こういう暗めな話はいかにも捻くれたお兄ちゃんが好きそうと思うかもしれないが、お兄ちゃんはあんまり辛い話を好んで読まない。読まないことはないけれど、明るかったり切なかったりする物語を読んでいることの方が圧倒的に多い。

 そういう意味では、ハッピーエンドの多いライトノベルはお兄ちゃんとの相性抜群なのかもしれないな。それにしても、現実ではリア充爆発しろとか言ってるのに、ハーレムラノベの主人公にはほとんど言わないよね。ただし二次元に限るってやつかな?

 

「ああああああああああああああああああああ」

 

「!? ど、どうしました、比企谷さん!?」

 

 いえ、なんでもないんです先生。結局がっつりどっさりお兄ちゃんの事を考えていて、何のために教科書を読んでいたのか訳分からなくなっただけなんです。教科書は勉強するためのものですね。これはその報いですか、そうですか。

 お兄ちゃん、早く帰ってきて。せめて声聞かせて……。

 

 

     ***

 

 

「着いた。やっと着いた……」

 

 新幹線で東京駅まで向かい、流れるように京葉線に乗り込んで千葉に帰ってきた。本来であれば自宅の近くまでのバスを待つのだが、いかんせんその時間すら惜しい。そこそこの荷物を持っているが、それを運ぶ労力よりも小町に会いたいという想いが振り切る勢いで勝った。

 そう、俺は走った。根っからのインドア派とは思えない全力疾走で、休みも速度も緩めることなく駅から自宅まで走り抜いたのだ。今なら葉山にだって勝てるかもしれない。小町がいない状態じゃないと勝てないなら勝たなくていいです。

 息を切らしたまま玄関のドアノブを握って……いや、と思いとどまる。

 もう一刻も早く小町に会いたい、それだけの想いでここまで来たが、実際そう思っているのは俺だけのはずだ。落ちつけ比企谷八幡、ここで衝動のままに小町を抱きしめようものなら嫌われて小町成分を補充できない上に、既にオワタ式状態の八幡のHPが無に帰すのは必須だ。

 ゆっくりと深呼吸をして脳内シミュレーション。まず小町と会ったらただいまと言いつつ、いつものように頭を撫でよう。小町成分は一気に補給するのではなく少しずつ補っていく方向で。

 ドアノブを握り直し、意を決して扉を開ける。

 

「ただいま……ん?」

 

 三日もいなかった我が家に多少の感慨を抱いていると、二階の扉が閉まった音と共にバタバタと階段を下りてくる音が家中に響いた。だいぶ乙女らしくない足音を響かせて現れた小町は――

 

「お兄ちゃん!」

 

 なんかやけにテンション高かった。どうしたの小町ちゃん、何かいいことでもあったのかい?

 

「おう、ただい……うぉっ!?」

 

「おかえり!」

 

 さっきのシミュレーションどおりに実行しようとしたが、足早に迫ってきた小町は止まることはなく、そのまま俺に抱きついてきた。

 ん? んん? これはどういう状況ですか? 可及的速やかに小町成分が補給できるから、俺としてもこの小町の行動にはグッジョブと言いたいところだが、普段の小町なら突然抱きつくことはそうそうないはずだ。この後、俺はどういう行動を取るのが正解なんだ?

 分からない。分からないから、本人に聞くことにした。

 

「なんかあったのか?」

 

「…………寂しかった」

 

「は?」

 

 俺のみぞおちに額を擦りつけたまま発せられたその言葉を、最初理解できなかった。それは短い、一言だけのその言葉が普段の妹とは無縁のものだったからか、その声がわずかに震えていたからか。思わず聞き返すと、小町が顔を上げて――思わず息を呑んだ。

 

「お兄ちゃんと会えなくて……寂しかったの!」

 

 今にも涙がこぼれ落ちそうなほど二つの瞳は潤み、うっすらと朱に染まった頬はふるふると戦慄く小さな口に釣られてヒク、ヒクと震えていた。なんで泣きそうなの? 泣きそうなほど俺に会いたかったの?

 まさか、妹と俺が全く同じ想いを抱いていたなんて。三日も不安な気持ちにさせてしまった心苦しさを抱きながらも、俺と一緒にいれなくて寂しいと思ってくれたことが嬉しかった。

 

「俺も……」

 

 だからこの喜びを、今感じている喜び全てを表現するために右手を頭に、左手を腰に回してしっかりと抱きしめた。柔らかい髪を撫ぜるように右手を滑らせると、小町は甘えるような声を上げた。さすが我が妹、最高に可愛い。

 

「俺も、小町と会えなくて寂しかった。まさか、三日も離れるのがこんなに苦痛だなんて思わなかった」

 

 本当に思いもしなかった。小町と離れ離れになることがこんなに苦痛になるだなんて。

 

「えへへ、じゃあ一緒だぁ」

 

「一緒か? 俺なんて葉山達にまでめちゃくちゃ心配されたぞ?」

 

「小町は先生にも心配されたよ?」

 

 二人してククッと喉を鳴らす。お互いどんだけこの数日に周りに迷惑をかけたんだか。月曜には葉山達にもう一回謝っておこう、そうしよう。

 ああ、謝ると言えば、小町にも謝らないとな。

 

「すまん小町、お土産の楽しい思い出……あんまり持って帰れなかった」

 

 小町リクエストのお土産リスト一位を完遂できないとは、八幡一生の不覚だ。もう今思い出そうとしても、ほとんど小町の事を考えていたことしか思い出せない。俺は本当に旅行をしていたのだろうか。

 

「いいよ」

 

 しかし、当のマイリトルシスターはいつものようににひっと笑って、なんでもないようにまた俺の胸に顔を埋めた。

 

「お兄ちゃんが元気に帰ってきてくれただけで十分だもん」

 

「そっか……」

 

 まったく、この妹はどれだけ俺に妹分を補給させれば気がすむんだ。可愛すぎるから際限なく補給で来てしまうぞ。

 

「けど、それだとお兄ちゃんはあんまり京都観光できなかったんだね」

 

「まあ、そうだな」

 

「じゃあ、いつか二人で行こうね!」

 

 それはそれは。なんて嬉しい申し出だろうか。インドア派の俺だが、妹からの旅行の申し出ともなれば話は別、断る理由なんてない。

 

「そうだな。次は一緒にな」

 

 もう一度シンクロするように笑いあって、小町の腰に回していた腕を引き寄せた。

 絹のように柔らかい髪も、細くて大切に扱わなければ壊れてしまいそうな身体も、そこからふわりと香る匂いも俺を安心させるもので。

 俺は、俺達は三日ぶりにいつも通りを取り戻したのだった。




小町の誕生日だし、久しぶりに千葉の兄妹を全力で書きたいなと思って書いてみました。ちょっと予定より文量が増えてしまって、前後編に分けようかとも思いましたが、せっかく書いたし一気にということで。

当初はもうちょっと穏やかなホームシックにするつもりだったんですが、気がついたらこんなことに。後一日修学旅行が長かったら、二人とも廃人になってしまっていたかもしれません……。

たぶん原因は、最近一気に読破したノゲノラ。最近兄妹物が好きすぎて仕方がない病気にかかっています。


そういえば、最近Vitaちゃんのヴァーチャルコンソールでメガテンをやっているのですが、やっぱりあのダークなストーリーいいですね。自分の作品で暗いストーリーってあまり書けないので、あんな感じのシナリオよく書けるなぁと尊敬しちゃいます。


ではでは、またどこかの作品で。


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一色いろはとの昼寝はなかなか寝付けるものではない

「ねむ……」

 

 高校三年の二学期も始まり、その昼休み。受験生である俺は――いつもどおりベストプレイスにいた。

 過去二年の経験でこの場所が一番心地よくなるのがこの時期だ。ほのかに夏の名残を残す気温の中、臨海部から流れてくる風が微妙に熱を帯びた肌を涼しく撫ぜる。寝転がると丈の低い雑草たちがカサカサと擦れあう音が聞こえてきて、心拍が穏やかになり、段々と瞼が落ちていく。

 午後の授業はなんだったっけ? まあ、さすがにそれまでには目が覚めるだろう。

 …………。

 ………………。

 こうして目を閉じて音だけの世界に身を投じていると、存外いろんな音が聞こえてくる。遠くのコートで戸塚が引退したテニス部がラケットと黄色のボールを弾ませる音や、校舎の方から聞こえてくる談笑。秋の鳥たちや夜に向けて合唱の練習にいそしむ虫たちの声。視覚的には真っ暗なのに、まるで音がその黒を塗りつぶして景色を彩ろうとするかのようだ。

 そして、その音の色の中に、別の色が入ってくる。とととっとコンクリートの通路を跳ねるような音。その音を、俺はよく知っていた。

 そして、次に聞こえてくる声も。

 

「あれ? せんぱい寝てるんですか?」

 

 予想通り、我が唯一の後輩のあざとボイスが聞こえてきた。瞼を透かしてわずかに入ってくる陽光がチラチラと揺れ動くことから、おそらく顔の前で手でもひらつかせているのだろう。

 

「せんぱ~い?」

 

 ひらひらと顔の前方に淡い風の流れができて鼻先をくすぐる。ちょっとくすぐったい。

 

「お~い」

 

 チラチラと陽光の残滓がブレて、それだけでわずかに意識が持ち上がってくる。

 というか、寝ていると思っているのならちょっかいを出すのはやめていただきたい。寝起きにちょっかいを出されるのは一昔前の芸人だけで十分だから。寝起きドッキリって今もやってるのかな? あんまりテレビ見ないからわかんねえや。

 何はともあれ、先輩の安眠を邪魔するこの後輩生徒会長には一言文句を言ってやらねばならん。この傍若無人な性格、卒業までにどげんかせんといかん。そういえば、あの元芸人知事が知事やめてから南の方のマンゴー県はどうなったんだろ。ぱったり話題に出なくなったから全然わからん。

 閑話休題。

 さて、いざ対決のとき、と閉じていた瞼を開けると――

 

「あ、起きましたね、せんぱい」

 

 楽しそうに笑う亜麻色の髪の後輩の顔と――

 

「…………」

 

 純白の布があった。正確には、総武高指定のスカートから伸びた白磁のように白い足の付け根に付属している、純白の布が見えた。

 ……ふむ、これはわざとやっているのだろうか。俺が指摘したらいつもの早口で捲し立てるつもりかもしれない。そのためだけに下着を男子高校生に見せているのだとしたら、一色の将来が心配なのだが。

 いや、この状態で気付いていないのもそれはそれで将来が心配になる。つまりどっちも心配。

 こういう時どうすればいいのかなんて、俺の対人指南役である小町からは聞いていないし――聞かされていたらいたでそれはなんか嫌だ――、ここはいつも通り接する方がいいだろう。

 とりあえずコテンと首をかしげて顔をのぞき込んでくる一色の目を見て、少し瞼を落とす。いわゆるジト目というやつ。さらに一色のコテン度――なんとなく使ったが、まるで一色の古さを表しているようだ――が増したのを確認して、口を開いた。

 

「……清楚系狙っててあざとい」

 

「は?」

 

 一色は何を言われたのか分からなかったようで、割と素のトーンで口を半開きにするというなんともおまぬけな顔をして見せる。俺が露骨に視線を移動させると、一色も視線の先を追って……。

 

「なっ!? ……なっ!?」

 

 ババッとスカートを抑え込んだ。その顔は真っ赤。どうやらさっきの俺の疑問は後者だったようだ。こいつ、男への警戒緩すぎでしょ。真面目に将来が心配だわ。

 

「てててっていうか、乙女の下着まじまじと見て、淡々と“あざとい”はなくないですか!?」

 

「……わざとやってると思ってた」

 

 上体を起こして後頭部をガシガシ掻いていると、その上からペシンと叩かれた。こいつ力ねえな。全然痛くない。

 

「わざとで下着見せるとかビッチじゃないですか! わたしそんなことしませんから!」

 

 いや、割とビッチだと思っているんだが。お前何人うちの学校の男子手玉に取っておいてその発言してんの?

 まあ、わざとでないならわざとでないで、一度諫めておいた方がいいだろう。若干涙を滲ませている一色の方を振り返って、やはりジト目でため息をついて見せた。ちなみに今は一色もジト目だが、原因はお前なのでその目は理不尽でしかない。

 

「お前さ、寝てる男がスカートの中見えるような位置に立つなよ。俺だったからまだよかったものを……」

 

「いえ、せんぱいに見られた時点で十分恥ずかしいんですけど」

 

 ……それもそうだな。ただしかし、それでも他のどこの馬とも分からん男に見られるよりかはマシなはずだ。たぶん。

 だって――

 

「……俺のいないところで襲われたらどうしようもできん」

 

「なんですかわたしのこと心配してるんですかそういうのは学校だと恥ずかしいので家でやってくださいあと心配かけてごめんなさい」

 

 まーた早口言い出しましたよこの子。アナウンサーでも目指してるのかしら? それとも声優? 艦隊のアイドルで地方遠征やりまくる?

 つうか、俺んちでやっても同じような返しやるくせに。

 

「まあ、わたしがこんなに近くまで行けるのって、今じゃせんぱいくらいですけどね~」

 

「嘘つけ、今までのお前見てきて誰がそんな言葉信用するか」

 

 再びごろんと身体を寝かせると、「唯一の後輩を信用しないなんてひどくないですか~!」と抗議してきた。知らん知らん。後「唯一の後輩」って言うな。自分では自覚してるけど、他人に、特にお前に言われると普通に腹立つ。

 

「とにかくもう教室に返っててご……男子たちとでも遊んで来いよ。俺はもうちょっと寝たいから」

 

「今手駒って言おうとしませんでした? 手駒なんかじゃないですよ~。どれ……仲のいいお友達ですって」

 

「お前……いつか刺されるぞ」

 

 手を手首からひらひらさせて冗談ですよ~と一色ははにかむ。まあ、最近葉山や由比ヶ浜から聞く一色の評判を聞いている限り、本当に冗談っぽいけど。女子グループにも入れるようになってきたとも聞くしな。

 ……それならなおさら、こんなところで俺なんかの相手をしていないで、教室ででも談笑を楽しんだりすればいいと思うのだが。

 

「……っていうか、何やってんの?」

 

 思考に意識を埋没させかけていたら、いつの間にか一色が俺の隣に寝転がっていた。いや、俺寝直したいから邪魔しないでもらえるとありがたいんだけど。

 

「せんぱいは何も気にしないで大丈夫ですよ~。私もここでちょっとお昼寝するだけですから」

 

 なぜに俺の隣? 昼寝スポットならそこらにあるだろうに。

 そうぼやくと「私はここで寝たいんですぅ」なんて言ってコロコロと左右に転がりだす。そんなことしてたら制服が草まみれになるぞ。

 まあ要するに退く気はないらしい。そして俺も退く気はない。つまり現状維持が一番平和的ということになる。なんかこれ以上労力使うのも休んでいる意味がないし、大人しくこいつを受け入れることとしよう。

 

「っていうか……ああまったく。やっぱり草ひっかけてるじゃねえか」

 

 ひとしきりコロコロ転がってケタケタ笑っている一色に目を向けると、服だの髪だのに芝生の短い草がひっついてしまっていた。仕方ないのでとりあえず髪にひっかかっている葉っぱを落としにかかる。微かに香る緑の匂いに混じって、アナスイの香りが漂ってきて手が止まるが、それも一瞬。手早く葉っぱを摘まんで反対側の地面に捨てる。なんか猿の毛づくろいみたいになってるんだが……。

 

「ったく、あのまま教室に戻ってたらクラスの笑いものだぞ」

 

「森ガールってやつですかね!」

 

「どちらかというと青臭いガキ」

 

 ああこら、暴れんな。また余計な葉っぱが髪につく。というか、今のお前が森ガールだったら全国の森ガールが助走付けて殴ってくるぞ。なんでナチュラルに女を敵に回そうとするかな。ある意味才能だぞそれ。

 俺のネーミングセンスが気に入らないらしい一色は、頬を膨らませてじとっと俺を睨んできている――ようなのだが、位置関係的に見上げてくる形になっているので、さして怖くない。それでは単なる上目遣いだ。

 

「……せんぱいのあることないこと雪ノ下先輩たちに吹き込みます」

 

 こえぇよ。ここで重要なのは怖いのはあくまでその後の氷の女王の行動であって、一色自体は別段怖くないところだ。そうやってすぐ人にチクるとチクり谷って呼ばれるようになるんだぞ? あ、それは俺だけでした。

 

「っていうかせんぱい、頭の位置が低くて寝にくいです」

 

 話題をコロッと変えて――チクらないよね? チクはすにならないよね? なんかいろはす~ちくわ味~みたい。絶対不味い――一色はチラチラと俺を、正確には俺の左腕に視線を送ってくる。

 ほーん。その視線はなんですかな? 八幡くんにはちょっと意味が分からないなぁ。

 

「せんぱ~い、このままだと寝づらいです。ていうか眠れなくて寝不足になっちゃいます」

 

「まだ昼なんだが?」

 

 なに? そんながっつり寝るの君? さすがに夜に外で寝袋もなしに野宿は風邪ひくと思うぞ?

 寝れないな~、寝れないな~と再び視線を送ってきていた一色は、俺が動かないと悟ると今度は左二の腕を人差し指でぷにぷにとプッシュしだした。

 

「それ、くすぐったいんだけど……」

 

「知りませ~ん。せんぱいが悪いんです~」

 

 ぷにぷに、ぷにぷにとさして筋肉質でもない二の腕をつついたり、指で軽くつまんだりして来る後輩を無視して瞼を閉じ……ようとしたのだが、やばいくらい惰眠をむさぼることに集中できない。いや待て、そもそも集中すると言うことは脳が活発に動くということだから、その状態じゃどの道昼寝に興じることはできないのではないだろうか。

 とにかくこのぷにぷに攻撃をうざったいと思いながら無視していると、二の腕から指が離れて別の感触が伝わってきた。片目だけ開けて確認してみると、半袖シャツの裾を小さく摘みながらクイクイと軽く引っ張ってきている。目が合った瞳は相変わらず上目遣いなのだが、さっきとは違ってくりくりとした大きな目でじぃっと見つめてきていた。さっきただの上目遣いって言ったけど訂正するわ。確かにあれは睨んでいたしこっちは上目遣いしてる。同じ角度で別表情とかあれだね、いろはす百面相だね。

 このまま無視し続けたら昼休みが終わるまで延々ちょっかいを出してきそうだ。それではいつまで経っても意識を手放すことは叶わないだろう。

 

「……ほらよ」

 

 仕方なく頭の後ろに枕代わりに組んでいた腕の片方を解いて一色のほうに投げ出す。俺の顔と自分の近くに投げ出された腕を交互に確認した後輩はぱあっと表情を明るくしてポフッとさっきまで自分が触っていた二の腕部分に頭を乗せてきた。何度か具合を確かめるとむふーとその小鼻から満足そうな息を漏らした。

 

「せんぱい枕、なかなか気持ちいいですね」

 

「俺は重いけどな」

 

 なんですかそれ~! と語気を荒げてくるが、普通に考えて人一人分の頭の重量が二の腕に集中するのだから重い。頭蓋骨は硬いものだし、何なら痛いまである。人間の頭の重さは体重の約十パーセントほどらしいし、薄皮に覆われた四キロほどのカルシウムのボールが乗っかっていると思うと……普通に鈍器だなそれ。

 逆に重いということをポジティブに考えてみよう。人間の頭部で結構な割合を占めるのは脳みそだ。つまり、頭部重量も結構な割合で脳が占めているのではなかろうか。つまり、腕枕をしているこの状態で重いということは彼女の頭にずっしりと脳が詰まっていると褒めているようなものではないだろうか。仮に相手が由比ヶ浜だったらめっちゃ軽そう。軽すぎてカラカラ頭から音がなるまである。いや、あいつにやるつもりは一切ねえけど。

 

「せんぱいって、そういうところデリカシーないですよね」

 

「お前相手に気を使ってどうすんだよ……」

 

 この後輩と俺の間に、気を使うという緩衝行為は必要ない。やっても互いに一文の得にもなりはしないし、自分たちの間でそんな誤魔化しをするのは……なんというか、嫌だ。

 

「ま、せんぱいだからいいですけどね〜」

 

 さして気にしていないようにカラカラと笑う一色は、身体を俺の方に向けて腕の付け根にそっと小さな手を乗せてきた。若干俺よりも高い体温がカッターシャツ越しに伝わってきて、生暖かい風がゆっくりとその熱を剥がしにかかる。

 というか……。

 

「あー、ったく。動き回るからまた顔に草ついてるじゃねえか」

 

 間抜けなことに一色の左頬にはまたしても短い芝の欠片が、まるでご飯粒のようにくっついていた。言葉で指摘をすると、少し考えた後に二の腕を圧迫する重さが頭半分ほど肩の方に近づいてきた。目を見る限り、どうやら取れということらしい。こういう時の一色は強情でこちらが折れるまで意地でも動かなくなってしまうので、必然的に俺の方が折れるしかない。

 左手は腕ごと生徒会長の頭でホールドされているので、必然的にもう片方の、右の手を使うことになる。左にいる一色に右手を伸ばす形になり、自然と互いが向かい合うような状態になった。ということは視線的に距離が近くなり、排除目標である緑の欠片の近く、彼女の唇をすぐ近くで視認することになる。

 プルリとした血色のいい二枚貝は、リップでも塗っているのか太陽の光をわずかに反射させてより立体的に見える。時折その結び目がほぐれるたびに、貝の合わせ目からちらりとより紅い何かが顔をのぞかせた。

 ――とくん、と。

 かすかにそんな音が聞こえた気がした。果たしてそれは何の音で、誰が発した音なのか。熱さを孕んだ風が俺の身体を包み込んで、その熱を身体の内に内にと浸食させてくるような錯覚を受けた。

 

「……ほれ、取れたぞ」

 

 頬についていた緑片を二人の間に落とすと、少し頬を赤らめた一色がはにかみながら、俺の腕に乗せていた手ににぎにぎと強弱をつけてくる。かすかに筋肉が圧迫される感覚が少しくすぐったかった。

 

「あ、せんぱい今照れましたね?」

 

「……照れてねーよ、ばーか」

 

 向かい合っていた状態から元の空を見上げる体勢に戻って、心持ち視線を右の方に流す。左の方からクスクス聞こえてくるあざとい後輩の声は、この際無視することとしよう。

 恋に落ちる音が聞こえた気がしたと歌ったのは、どんなシンガーのどんな曲だったか。そんなものが存在するなら、万年発情期で恋愛脳な人類の恋に落ちる音で、地球は常時音楽会になってしまうに違いない。

 けれど、そう鼻で笑っていても。

 ――とくん。

 もう一度聞こえてきた、さっきよりもいくらかはっきりとした俺にしか聴こえない音は、どこか安心できて。それでいて俺の鼓動を早くしてしまうのだった。




暗殺クロスを書いていた時期に息抜きでちょこちょこ書いていた八色のお話でした。
こう、無自覚なイチャイチャと言うか自然な交流をさせて、ふとした瞬間にそれが恋心に変わる瞬間を書こうと思って書いたお話でした。

久しぶりに書くとやっぱり八色は楽しいなぁと。遠慮がないやり取りというか、そういうものを書けるのが八色の魅力ですね。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


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比企谷八幡だって恋人と離れると寂しいと思う。

 ピピッ、ピピッという無機質な音が眠りの海に沈んでいた俺の意識をゆっくりと浮上させる。まだ少し重い瞼を上げると見知った天井が目に入った。正確には、ここ一年ほどほぼ毎日見てきた天井。シンプルなクリーム色に不思議な意匠が主張しすぎない程度に施されている。この部屋の家主――まあ、俺もこの部屋の住人なんだが――が言うには、わざわざ海外で有名なデザイナーにデザインしてもらったらしい。

 ベッドのスプリングで小さく反動をつけて起き上がると、綺麗に片付いた部屋の全容が目に入る。木の木目をうまく主張させた、シンプルだが上品な箪笥の上には去年の夏季休暇を利用して二人で行った沖縄での写真が黒縁の写真立てに収まっていた。

 それを見て、どうしても顔を歪ませてしまうのもある意味日課だ。どこまでも透き通った海をバックにツーショットで撮ったその写真の中の俺は、相手に抱きつかれて顔を真っ赤に染めた上なんとも珍妙な表情をしている。

 どうも写真ってやつは苦手だ。撮る分には気にしないが撮られる側となると仏頂面しかできない。かと言って、無理に笑おうとすると自分でドン引きしてしまうほど気持ち悪くなってしまうのだ。大学に提出するための証明写真は合計三回も撮り直した上で、買い物ついでについてきた小町に「いっそ無表情の方がまだましだよ」なんて言われた。写真を発行した後にしずしずと涙を流したのは比企谷兄妹だけの秘密だ。

 まあ、俺のそんなところを分かっている彼女は気分を紛らわせようと抱きついてきたのだろうが、その結果がこの表情なのだからなんとも言えない。写真立てに収めた本人が気に入っているらしいので、今では諦めているのだが。

 

「くぅ……くぅ……」

 

 そんな彼女、雪ノ下陽乃は俺の隣、同じベッドで静かに寝息を立てている。こうして悪戯心満載の瞳を閉じて規則正しく豊かな胸を上下させている姿は普段の魔王なんて呼んでいる姿とは全く違っていて、ほぼ毎日見ているというのに未だに胸の鼓動が早くなってしまう。おかげで重かった瞼も完全に見開かれるのだから、俺も男なんだなと変な自覚を持ってしまう。

 

「ん……八幡くんの、えっち……」

 

「…………」

 

 この人は一体なんの夢を見ているのだろうか。ひょっとしたら狸寝入りをしているのかもしれない。ありそう。すごくありそう。いや、それならそれで俺を誘ってるんですかね? 欲求不満なの? いくら理性的な俺だって一応男なんですからね?

 さすがにこんな朝早くから盛るつもりはないけれど。

 

「っと、急いで準備しないとな」

 

 もう少し天使のような悪魔の笑顔――こんなこと言ったらめっちゃ怒られる――を眺めていたい衝動に駆られるのをぐっとこらえて時計を見ると、目が覚めてから三十分ほど経っていた。一般的な大学生からすればまだ寝ているかこれから寝る時間だろうが、生憎俺はちょっと事情が違うせいもあって最近では早寝早起きの規則正しい生活を送っていた。いやちょっと待て。俺はひょっとして三十分も陽乃さんの寝顔を眺めていたのか? 体感十秒くらいだったんだけど、この部屋って実は精神と時の部屋なのではないだろうか。

 リビングを出て洗面所で顔を洗う。冷たい冷水で本格的に眠気を吹き飛ばし、そのまま台所に向かうと、予約機能をセットしておいた炊飯器が白米を炊き上げ終えていた。今日の朝食は塩鯖にするか。味噌汁は昨日からの続投ということで。

 陽乃さんに憧れて無理して国立の同じ大学に進学して二年弱、同じ屋根の下で寝食を共にするようになって一年、さらに言えば家事の大半を俺がこなすようになって半年弱。高校までは小学六年生程度の料理能力しか持っていなかった俺も今では立派な自炊系男子に成長していた。この間なんて陽乃さんから満点の評価をもらったんだぞ。ふふん。

 ついでに陽乃さん用のお弁当の準備にも取り掛かる。昨日の晩に下ごしらえをしておいた食材を朝食準備の間に流れるように調理する姿にはかのフォードシステムもびっくりだろう。作業してるの俺一人だけど。なんだよフォード関係ないじゃん。

 

「フンフフーン~~」

 

 自然と鼻歌なんかを口ずさみながらお弁当のメインに用意したから揚げを包丁で半分にして、俺からすればおやつでも入れるのかというサイズの弁当箱にご飯とおかずを詰めていく。デザインはなるべくシンプルに。前調子に乗ってキャラ弁にしてみたら、会社で物凄く恥ずかしかったと怒られてしまったからな。

 弁当の準備を終えて時計を見ると、まだちょっと朝食までは時間があった。リビングで本でも読んでおこうかと思っていると、寝室の方からゴジラのサウンドが聞こえてきた。目覚ましではなく、陽乃さんが特定の人物に設定している着信音だ。……普通に考えて、友好な相手に設定する着信音じゃないよな。

 

「……おはようございます、部長。はい、はい……今からですか? 分かりました。すぐに出社します!」

 

 寝起きとは思えないはっきりとした電話対応が聞こえてきた後、バタバタとクローゼットやら何やらを広げる音が聞こえてきて、一分後にはスーツをピシッと着込んだ陽乃さんが出てきた。何度見てもすごいな、雪ノ下流早着替え術。化粧まで完璧に施していて、もはや変化の術と言われたほうが納得いくくらいだ。全国の化粧に数時間かける女性たちにやり方を伝授したらいい金になりそう。無理か、この人くらいしかできないか。

 

「ごめん八幡くん、取引先でトラブルが起こっちゃったらしくて……」

 

 両手を合わせて謝りつつもてきぱき準備を進める陽乃さんに気にしないでくださいと返すと、もう一度ごめんと付け加えた彼女は予備で買っていた菓子パンを手に取る。どうやら行きの車で朝食を済ませるようだ。

 

「あ、陽乃さん。お弁当の用意できてますけど……」

 

「持ってくー。いつもすまないねぇ」

 

「それは言わない約束でしょ?」

 

 そんな約束してないけどね、とカラカラ笑って再び寝室に入った彼女を確認して、オレンジ色の巾着袋に弁当を詰め込んだ。それをテーブルに置いて待っていると、仕事用の鞄を手に提げて完全体社会人になった陽乃さんがでてきた。首から下は完璧なのに、首から上は億劫そうな表情を隠すことなく出しているのがちょっと可笑しい。たぶん玄関を出た瞬間にこの表情をひっこめるんだろうけど。

 

「これお弁当です」

 

「うん。それじゃあいってくるね」

 

「はい、いってらっしゃい」

 

 お弁当を鞄にしまうと、タッタッタッと走る直前の早歩きで陽乃さんは部屋を出て行った。彼女が出ていくと、途端に2LDKの室内は無音かと思うほど静かになる。自然と伸びた腕は後頭部の髪をガシガシと掻き始め、肩は少しなで肩に落ちてしまう。

 

「……飯食うか」

 

 陽乃さんが好きな和風の朝食を自分の分だけ準備する。二人分作ってしまった残りのおかずは、昼にでも食べてしまおう。

 

「いただきます」

 

 静かに手を合わせて鯖を箸で切り分け、口に運ぶ。絶妙な塩加減の鯖はいい感じにしつこくない脂が乗っていて、自然と口の中に唾液が溢れ出してくる。

 

「…………」

 

 ただ、その出来を自画自賛する気にはなれなかった。ただ黙々と食べ進めて、作業のように朝食をカラにすると、流しで調理器具と一緒に食器を洗って乾燥機に投げ込む。

 

「……洗濯するか」

 

 俺が大学に入学して一年半弱。俺が順当に大学二年生になったのと同様に、陽乃さんは順当に大学を卒業して雪ノ下建設の社会人一年生になっていた。自分の娘ということで会長であるママのん――さすがに目の前では決して呼べないけど、なんかすごいこう呼びたくなる。愛嬌あるよね、ママのん――も期待しているのだろう。現在メインで手掛けている事業に配属されたそうで毎日忙しそうだ。今日のように朝食も食べずに出かけることも少なくない。

 それに比べて、俺は普通に四年延長されたモラトリアムを謳歌する大学生だ。特に夏季休暇の今ともなればほとんど部屋から出ずに生活することも少なくない。理系ならともかく、文系ともなれば夏休みに大学に行く用事なんてほぼ皆無。大抵の学生は友達と遊び倒すなりネットサーフィンで一日潰すなり、高校生以下のそれ以上に怠惰な夏休みを送っていることだろう。まあ、俺も多少はそういう生活を送っている自覚はあるが。

 洗濯機のスイッチを押して終了時間までを確認してから、互いの本やらなにやらで半分物置になっているもう一つの個室に入り、すぐ手前の机に置いていたやたらでかくて薄っぺらい冊子とルーズリーフ、それに筆記用具を手に取ってリビングに戻った。

 

 

     ***

 

 

 陽乃さんを目指して国立まで追いかけて振り向いてもらい恋仲にはなれたものの、いかんせん俺には本人以上に大きな壁が存在していた。ウォールマリアくらいの高さがありそうなその壁は、名を親と言う。

 雪ノ下家からすれば陽乃さんは一番の跡継ぎであり、対して俺は家柄も普通なら能力も普通の凡人凡人アンド凡人。千葉で圧倒的な権力を持っている彼らからしたら、俺なんかが陽乃さんと交際していることすら認められないはずだ。

 ならば、せめて少しでも自分の能力を上げなければ。そう思って始めたのが資格の勉強だった。仕事に直結しそうなパソコン系と経済系の資格を中心に勉強していて、今やっているのは日商簿記二級だ。最初は数字を扱うというだけで頭が痛かったが、おつむが壊滅的だった由比ヶ浜がお金の計算は得意だったことを思い出し、意識を変えて見てみると案外何とかなって、去年のうちに三級までは取ることができた。初めて勉強のことで由比ヶ浜が役に立った瞬間だったな。ああ、目を閉じるだけで「それ全然褒めてないよね!?」なんて少ない語彙力で怒ってくる由比ヶ浜が目に浮かぶ。最終的に「バカ」と「キモい」だけになるところまで脳内の由比ヶ浜は完璧に再現してみせた。まあ、俺の脳内だしね。俺の考えている通りに動くのは当たり前だよね。

 

「あ、そろそろ夕飯の準備始めるか」

 

 朝から昼食とトイレ以外ぶっ続けで勉強していたが、集中すると時間が過ぎるのもあっという間だ。準備の前にベランダに干していた洗濯物を取り込もうとして、まだ乾ききっていないことに気づいた。今日は結構いい天気だと思っていたんだが……。仕方がないので浴室乾燥の力を借りることにしよう。雨の日も洗濯ができる部屋干し乾燥。人類の発明ってすごい。

 夕飯は生姜焼きにするかと冷蔵庫から豚バラ肉を取り出す。比企谷家では基本的に豚バラなのだが雪ノ下家はロースのようで、初めて出した時は大変驚かれた。豚バラだと生姜焼き丼とかにしやすいから個人的には好きなのだが、それを言うと「男飯だー」となにやら笑われてしまい、不機嫌になったところをまた笑われたのは去年の秋頃だったか。結局おいしそうに食べるものだから怒るに怒れなくて、妙にモヤモヤしてしまったのも今は昔だ。竹取の翁は出てこない。

 竹と言えば、前に居酒屋で食べたタケノコのから揚げがやけに美味かった。タケノコにから揚げ粉を付けて上げただけだというのにあの美味さは衝撃。……なんか話が逸れだした。修正しないと。

 

「ん?」

 

 豚バラの下ごしらえを終えて、先に付け合わせでも作っておくかと思っていると、ポケットに入れていたスマホがブーと一回だけ鳴った。何かゲームアプリの告知でも来たのかと思って開いてみたら、通知に表示されていたのは陽乃さんからのメール。

 

「…………」

 

 「ごめん」から始まる文面には、トラブル対応が長引いていていつ帰ることができるか分からない旨の内容が書かれていた。それを確認してから特に考えもせずに「分かりました。晩御飯はどうしますか?」と打ち込んで送信する。まあ、十中八九外で済ませると返信が来るだろうが。

 付け合わせ用に取り出していた材料を冷蔵庫にしまって、残っていた味噌汁を温める。十分に温まった味噌汁を茶碗一杯分だけよそうと、少し考えて残りは流しに捨ててしまうことにした。まだ夏らしい暑さの残るこの時期は料理が傷むスピードも早い。自分の料理で恋人の体調を崩させるわけにはいかないし、たぶん明日までは持たないだろう。

 後は同じく白米を茶碗一杯だけよそって、いやに味気ない味噌汁をお供に飯を口の中にかき込んだ。ほぼ汁気で飲むように数分で食事を終えて、さっさと食器を洗うと再び広げていたテキストで勉強を再開する。

 好きな人間が、恋人になってくれた人間が特別な存在だということは分かっていた。誰よりも期待されて、誰よりも結果を残して、誰よりも輝いている。そんな彼女に憧れて、そんな彼女を支えることができればと追いかけてきたのだから。

 去年は楽しかった。大学一年なんて簡単な全学部共通の授業ばっかりだし、陽乃さんも早々に雪ノ下建設に内定を決めた大学四年生だったから、暇を見つけて遊びに行ったり、彼女の料理に舌鼓を打ったり、時には一日中のんびりと読書やゲームをして過ごしたり。

 今だって充実している。朝はあの人のちょっと子供っぽい寝顔を見て癒されて、陰の労働なんて呼ばれる家事を一手に担って、資格の勉強をして。俺自身日々自分のスキルアップを実感しているし、社会人一年目のスーパールーキーとして頑張っている陽乃さんを支えることができていると……思う。

 ただ――

 

「……はあ」

 

 思わず溢れてしまったため息に、内臓がズンと重くなったような錯覚を覚える。

 今朝といいさっきといい、陽乃さんが仕事を優先しているのを見ると胸の真ん中にモヤモヤとした気持ちの悪い何かが溜まっていくのだ。家事や勉強で紛らわすことはできるが、ふと気を抜くとまたモヤモヤが外に飛び出んばかりに溢れてくる。

 彼女と恋人と呼ばれる関係になった時、こうなることは分かっていたはずなのに――

 

「覚悟が、足りなかったのか……」

 

 それとも、自分が思っていた以上に弱かったのか。理性の化け物というものは、案外そこまで強いものではないようだ。

 

「陽乃さんと……一緒にいたいな」

 

 なんとなしに漏れ出したそれは……たぶん俺が今一番欲しいものだった。

 

 

     ***

 

 

「つまり、あなたは姉さんに仕事よりも自分を優先してほしいのね」

 

「いや、そうは言ってねえだろ……」

 

 次の日、地場企業の社長が出席する講演会で一緒になった雪ノ下のよく分からない言葉に、ため息をつきながら小声でツッコミを入れた。ちなみに陽乃さんは今日もトラブル処理ということで朝食も食べずに出社していった。

 ことの発端は会って早々に雪ノ下から言われた「目の腐り方が高校の頃に戻っている」という一言だった。自分ではよく分からないのだが、違う学部で時々会う程度の雪ノ下から見ると、大学に入って俺の目の腐り具合は良好な経過を迎えていたらしい。いや、俺の目は別に病気じゃないから、診察みたいな言い方されても困るのだが。

 それが講習会で久しぶりに会ってみればまたどんよりと腐っていたようで、割とガチな目で心配されてしまったのだ。高校時代に比べるとだいぶ丸くなったこいつに心配をされると、それはそれで凹んでしまうから悲しい。高校の頃はドヤ顔で罵倒してきてこちらをイラッとさせていたので、どうあがいても絶望という言葉の意味を理解することになってしまった。

 なんだかんだ二年もあの空間で一緒にいたこいつに隠し事はあまりできない。観念して昨日のことを話したら、その感想がさっきのよく分からん物だったので俺のため息も仕方がないだろう。

 

「けど、あなたは姉さんともっと一緒にいたいんでしょう?」

 

「まあ、そうだけど。……改めて言われると恥ずかしいんだが」

 

 なにこれ、新手の羞恥プレイか何かですか? どうして俺は彼女の妹――もっと言うなら同級生で部活メイト――にこんな恥ずかしい思いをさせられているのだろうか。おかげで全然講習を行っているどこぞのお偉いさんの言葉が頭に入ってこない。ハッ、まさか俺のレポートの質を落とすことが目的か! おのれ雪ノ下……あ、冗談なんで冷気出すの抑えてください。

 

「茶化すのはやめなさい。で、その姉さんは仕事が原因でほとんどあなたと一緒にいられない」

 

「社会人だからな」

 

「つまり、あなたの願いを仕事が邪魔しているということじゃない」

 

 ……そういうこと、なのだろうか。しかし、社会人が仕事を優先するのは仕方のないことだ。ましてや陽乃さんに大事な仕事よりも自分を優先してくれなんて言えるはずがない。

 だからこれは、俺が我慢するべきことなのだ。

 そう呟いた俺に雪ノ下は額に手を添えてため息をついた。

 

「……なんだよ」

 

「あなたのその、大事なことに限って話さない癖はなかなか治りそうにないわね」

 

「…………」

 

 たぶん、俺が今突発的に思い浮かべた思い出と雪ノ下が思い返しているのは同じものだ。俺が相談せずに突っ走った修学旅行での偽告白。そしてクリスマスイベントの時に、他ならぬ俺自身が口にした“本物”という言葉。

 

「……ま、人間そうそう変われるもんでもないな」

 

 あの時の失敗は、対等な対話ができていなかったことがそもそもの問題の一つだった。周囲に流されていた由比ヶ浜結衣、周囲を切り離して変えようとしていた雪ノ下雪乃、そして周囲から逃げていた俺。皆未熟だったから、皆で少しずつ前に進もうとして、けれどやっぱり俺は度々こうして“悪癖”を繰り返す。

 

「それに、俺なんかが陽乃さんに我儘言うわけにはいかねえよ」

 

 それをこうして近くで指摘して、相談に乗ってくれる彼女の存在は、なんだかんだありがたいものだ。まあ、口にすることは絶対にないんだけど。

 

「はあ……二人揃って面倒くさい」

 

「二人?」

 

 頭にクエスチョンマークを浮かべる俺に、雪ノ下は「何でもないわ」と小さく首を振る。余計にクエスチョンマークを増やしていると、意識の端でやる気のなさそうな声が講演会の終了を伝えてきた。結局ほとんど内容を聞いていなかった。まあ、別に単位に関係するものでもないから、レポート提出はしなくてもいいか。

 

「比企谷くん」

 

「あん?」

 

 全く使用しなかった筆記用具やルーズリーフを鞄にしまっていると、ぞろぞろと退出する人ごみのざわめきの中で雪ノ下の澄んだ声が聞こえてきて、再度隣に首を捻る。

 

「あなたは自分が我儘を言うことが、姉さんの迷惑になると思っているのよね?」

 

「当たり前だろ。それに、大型ルーキーな娘を振り回す男なんて、お前らの両親がいい顔しねえだろうが」

 

 ただでさえ何度か会った時も、愛想が悪いせいで悪印象持たれていそうなのに、その上束縛するなんて交際を辞めさせられるまである。

 しかし、そんな俺に雪ノ下は口元に手を当てて上品にクスクス笑い出した。普段人を罵倒するときと由比ヶ浜に会った時くらいしかまともに笑わないお嬢様の突然の笑みに思わず固まっていると、彼女はバッグのポケットからスマホを取り出した。

 

「あなた、やっぱり自己分析能力が低いのね。むしろ分かっていて謙遜するのかしら」

 

「何の話だよ」

 

 話について行けずただでさえ丸まっている背を丸めた俺をよそに、雪ノ下はスマホを操作して耳元にあてる。どうやら電話をするようだ。

 

「うちにとって、比企谷くんは凡人でもなければ悪印象を持ってもいないということよ」

 

 そう楽しそうに笑って、通話が繋がった相手に自然な調子で“要求”を始めた。

 

「もしもし母さん? 姉さんとあなたたちのお気に入りを潰したくなかったら、姉さんに休みを用意してちょうだい」

 

 

     ***

 

 

 で、時は午後六時半。いつもならまだ一人で部屋にいる時間帯。

 

「……ただいま」

 

「……おかえりなさい」

 

 玄関先で久しぶりに定時で帰宅してきた陽乃さんと出迎えた俺はどうすればいいのか分からない表情をして見つめあっていた。どうしても昼間のことが思い出されて、顔に熱が集まってしまう。なぜか陽乃さんの頬もほんのりと染まっていた。

 講演会終わりに雪ノ下が陽乃さんの会社の会長にかけた一本の電話。はっきり言って無茶だろうと思われた要求はあっさり通り、陽乃さんは今日の定時退社と三日間の休日を獲得することになった。

 というよりも、後から聞いた話では、そもそも今までの残業が異常だったらしい。

 

「……なんでそんなに仕事引き受けてたんですか」

 

「だって、あの部長無能すぎるんだもん。……まあ、初めての大きなプロジェクトだから、張り切りすぎたっていうのもあるけどね」

 

 残業の原因になっていた大量の仕事、本来ならそのほとんどが部署の上司の仕事だったらしい。しかし、上司にそれをこなしきる能力がなく、その上今一番力を入れている事業故に遅れは許されない。だからそのほとんどを期待のスーパールーキーが一手に担っていたそうだ。

 今回の雪ノ下による直談判でそのことが会長に露見。怒りのママのん権力で部長とその部長を指名した人事部は入れ替えになるとのこと。陽乃さんの能力を考えると、今後の残業や早朝出勤はほぼないとは雪ノ下の弁だ。

 

「それにしても、雪乃ちゃんがあんな大胆なことするとはね。八幡くんの相談がトリガーになったみたいだけど、私もポロッとこぼしたからなぁ」

 

「こぼしたって、何を?」

 

「『八幡くんが私のせいで悲しい思いをしているんじゃないか』って、この前メールでね」

 

 昨日とかも寂しそうな顔してたからさ、と困ったように笑う陽乃さんにグッと心臓がせり上がるような切なさを覚える。うまく隠していたつもりだった。ポーカーフェイスには自信があるつもりだった。けれどどうやら俺の心象の変化を、目の前の最愛の人は敏感に感じ取っていたらしい。

 それを理解すると、途端に情けなくなってくる。迷惑をかけないつもりだったのに、そう思っていた結果逆に心配させていたら意味がない。

 

「ごめんなさい……」

 

「なんで八幡くんが謝るのよ。……けど、そうだね。二人とも悪かったのかな。私も八幡くんだからって甘えてたのかも。そうだよね、私を追っかけてくる子が今日までの生活で寂しくないはずないよね」

 

 なにか耐え切れなくなってフローリングに目線を落とした俺を陽乃さんは優しく胸に抱いてきた。今日も朝から働きづめだったのだろう。ふわりと甘い汗の匂いが鼻腔をかすめる。

 

「今後は言いたいことがあったら言ってね。八幡くんのこと、もっと知ってたいから」

 

「……陽乃さんも隠さずに言ってください。俺も、陽乃さんのこと知りたいですから」

 

 玄関先で抱き合いながら二人して喉を鳴らして笑っていると、俺の腹が間抜けな音を漏らした。そういえば、講演会前の昼食は食べる気がしなくて抜いていたんだったな。

 

「生姜焼きならすぐ用意できますけど、食べますか?」

 

「男飯だ!」

 

 ……その俺の生姜焼き=男飯の図式はどうにかなりませんかね。どうすれば男飯のレッテルを脱却できるのだろうか。バジルでも振りかけてみるか? 違うな。それはそれで違うな。

 

「あ、八幡くん」

 

 陽乃さんの鞄を代わりに持ってリビングに向かおうとしていると、後ろから彼女に抱きしめられて心臓が一際大きく跳ねた。さっきの優しい抱き寄せとは違う色香を含んだ抱擁に、肺の中の空気が二度は高くなったように錯覚してしまう。

 固まってしまった俺にクスリと笑った恋人は、Tシャツの襟から露出した鎖骨を指先でつつっと撫で、耳元に熱い呼気を孕んだ唇を寄せてきた。

 

「今夜は、たっぷり愛してね?」

 

「――――」

 

 ボンッと破裂音がしそうなくらい顔を熱くした俺に、いつものような悪戯心全開のカラカラとした笑みを浮かべた陽乃さんは、俺から鞄を奪うと着替えるために寝室に駆けていった。肩くらいまである黒髪の隙間から覗いた耳はほんのり赤くなっていて。

 

「……ったく」

 

 ようやく再起動した体をギシギシとロボットのような不自然な動きでリビングに向けながら、ガシガシと後頭部を掻いた。その少し下、Tシャツ一枚だけの背中にはまださっきまで触れていた熱いくらいの体温の名残が残っていて――

 

「俺だって、男なんですからね」

 

 果たして“今夜”まで俺の理性は持つのだろうか。

 寝室で着替えている彼女に聞こえないように口の中で転がした言葉は、ひどく熱くも楽しげで、心地のいい熱を持っていた。




久しぶりに八陽を書いてみました。大体短編ってなると付き合うまでの過程とかを書くことが多いんですが、今回はその過程をすっ飛ばして同棲までしている大学八陽に挑戦してみました。結構こういうのもありかなーって。

ゆきのんのところなんかは原作で語られていない――たぶん今後語られると思うけど――家族との和解があったことを匂わせる感じが書けたかな? どうかな? とか思っていたり。
ガハマさんが出せなかったのは、さすがに国立は無理かなって思った次第で。八幡なら理数系だけ死に物狂いで頑張ればなんとかなりそうですけど。決してガハマさん書くのが面倒だったとかそういうことではないから! ないから!

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


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大人になるってどういうこと?

 ペラリ、ペラリとページをめくる音が耳をくすぐる。八畳のワンルームに聞こえてくるのはそんな音だけで、静かすぎて眠くなってきそうだ。

 

「…………」

 

 手に持っている本から視線を外して、隣に座っている人物をちらりと覗き見てみる。同じベッドに並んで座っている少女は、長い黒髪を時折揺らしながら手に持った文庫本にじっと目線を落としている。集中しているせいか、その呼吸はずいぶんと浅い。

 日々成長している、そう実感せざるを得ないその顔は、改めて見るとまた少し大人びたように感じる……気がする。出会ったばかりの頃はあんなに小さくてガキガキしていたのに、不覚にもその横顔にドキッとしてしまう自分がいた。

 

「……? どうしたの、八幡?」

 

 あまりにずっと見とれ……見つめていたせいで、相手に気づかれてしまった。彼女、鶴見留美は不思議そうな目でこちらを覗き込みながら、首をコテンとかしげてくる。つい先日、一つ下の後輩にも同じようなしぐさをされたのだが、いかんせんこっちはまったく計算していないのだから困ったものだ。一色の場合は適当にあしらってもあいつ自身そこまで計算して絡んでくるから本気で怒ることはないが、こいつの場合は基本的に行動に裏がないので、対応を間違えると怒って数日は口を利いてくれなくなってしまう。

 

「別に、なんとなく留美を見てただけだ。お前かわいいからつい視線が吸い寄せられて困る」

 

 ここは事実を伝えるだけが正解だろうと、まだ新品と言って差し支えないベッドにさらに深く腰掛ける。コミュ障なりになんとか就職活動を乗り越えて社会人になったついでに一人暮らしを始めたので、ベッドも含めて大抵の家具はまだ真新しいものだった。

 再び読書に戻ろうと思いながら、なんとなくもう一度隣の留美に視線を向けて――クッと喉の奥が小さくなってしまう。

 

「……八幡、唐突にそういうこと言うの……禁止」

 

 どうやらさっきの受け答えは、間違いではなかったが正解でもなかったようだ。どちらかというと大ファンブル。普段はあまり変わらない表情をきゅっと恥ずかしさに染めた留美は、瞼を限界まで引き上げてじっと俺に熱い視線を向けていた。

 

「そういうこと、言われたら……」

 

 手に持っていた本を脇に置いて、少しずつ、少しずつ俺との距離を詰めてくる。

 元々人一人分もなかった距離はすぐになくなって、俺の腕に女の子らしい小さな手をぴとっと乗せてきた。筋肉の形を確かめるようにふにふにと指先が這い回る。

 大丈夫。そもそもそういう関係なのだから、この程度は極々普通のスキンシップの範疇のはず。少し恥ずかしいが、そう思ってなすがままに腕を放り出す。ゆっくりと二の腕へと這いあがってきた手はそこを通り過ぎて俺の肩に乗ってくる。

 

「はち……まん……」

 

 そして、頬にそっと触れてくる柔らかい感触。軽く吸い付いただけの唇は一度離れると、次は少し顔の中央に近い位置にまた吸い付いて、離れる。何度も何度も、ちゅっという淡い水音を立てながら降り注いでくるキスの雨に、頭の奥でキィィと耳鳴りのような音が聞こえた気がした。

 大丈夫。恋人同士なのだから、キスをするなんて化学反応のように自然の摂理と言えるだろう。結局高校卒業まで化学とかよく分からなかったが、たぶん恋人がキスをするのなんて化学反応みたいなもんだ。

 少しずつ頬から顔の中心に、正確にはそこに触れ合わせている部分と同じところに接近していた留美の動きは止まる気配はなく――

 

「ん……」

 

 当然のように俺の唇と重なった。上唇をついばむように何度もプルンとした唇で軽く挟まれては解放される。飽きはこないのか、一定のリズムで、絶え間なく。

 その行為がやむことはない。けれど、その行為で満足できるというわけでもなく、やがて何かを催促するようにチロリと這い出た舌が唇の継ぎ目をつつっと滑りだした。

 大丈夫、頬へのキスは親愛の証と言うし、唇へのキスが愛情を意味するのなら恋人同士のキスはこっちが自然。さらに深い愛情という意味でその唇の奥へ進むのもきっと自然なはず。耳鳴りのような音はより大きくなった気がするけど、大丈夫だと結論付けて口内にひっこめていた味覚器官を解き放った。

 

「ん、ちゅ……んぁ、……っ」

 

 人が最も使うであろう粘膜器官を擦れ合わせる行為は、何度やっても気持ちよくて仕方がない。あまりの気持ちよさに頭がぼんやりとしてきて、警戒信号のような不快な音はかき消されてしまう。

 大丈夫。きっとこれは、気持ちいいから……だいじょう、ぶ。

 

「八幡……はち、まん……っ」

 

 気が付くと、ベッドに押し倒されていた。離れた唇の間にきらきらとした水の糸が橋を作っていて、その先の濡れた唇の持ち主は、羞恥とは別のもので頬を上気させて、感情が溢れだす一歩手前のような瞳は石を投げ込まれた水面のようにふるりと震える。ついさっきまでは浅く穏やかな呼吸をしていたはずなのに、今では肩を震わせて荒い呼吸を漏らしていた。

 

「…………っ」

 

 彼女の感情が伝播したのか、その光景にあてられたのか、自分の意思とは関係なく生理現象のように喉がゴクリと音を鳴らし、欲望が出口を求めて一転に集まりだした。俺の変化に気づいたのか、留美は泣きそうな目を一度下に動かして、クスリと妖艶に笑う。

 

「八幡……しよ……っ?」

 

 それが何に対しての誘いなのか、そんなことは分かりきっている。俺たちは恋人同士なのだ。互いにそういう気分になったら、そういうことをするのも摂理だろう。許されることだろう。

 ……いや待て、何か許しちゃいけないことがあったような……?

 靄のように揺蕩っていた思考がふと流れに逆らったとき――

 ――――~~~~♪

 

「ぁ……」

 

 遠くから聞こえてきた夕刻を知らせるサイレンにおぼろげだった意識が弾けるように覚醒した。途端に押し寄せてくる罪悪感を押し込めながら馬乗りになっている留美にそっと手を伸ばす。

 

「だめ……なの?」

 

 優しく頭を撫でると絞り出すような声が聞こえてきて、一瞬言葉を失ってしまう。別の言葉を口にしたい衝動に駆られながらも、それでもなんとか……いつもと同じ言葉を吐き出した。

 

「大人になったら、な?」

 

 頭を撫でながら上体を起こす。俺より一回りは小さい身体を抱きしめると、ピクリとかすかに肩を震わせた留美は一瞬迷うように手のひらにぐにぐにと力をこめ……ゆっくりと抱きしめ返してくる。ポスッと胸元に顔をうずめて、精一杯に密着しようと背中に腕を回してくる姿に、胸の奥が淡く締め付けられた。

 

「明日も学校だろ? 家まで送るから、今日は帰りな」

 

「…………ん、分かった」

 

 返事までの間が長かったなと苦笑――することもできず、無言で帰る準備を始める彼女を見つめることしかできなかった。

 

 

 

「……ふう」

 

 愛車で留美を家まで送った帰り、ちょうど赤信号になった交差点で止まった車内でため息をつく。

 一人になるとどうしても物思いに耽ってしまうのはぼっちだったあの頃のせいだろうか。いや、今がぼっちではないとははっきり言えないんだけど。……自分で言ってて悲しくなってきた。

 高校大学と学業に勤しんで、無事に社会人一年目になった俺は、留美と付き合っている。まあ、付き合いだしたのは数年前だし、世間から見たら微妙に社会人なのか怪しいところなのだが。

 恋人同士なのだからデートくらいは普通にするし、キスだってする。けれど、性交渉は一切していない。

 俺自身安易な欲求で肉体関係を結ぶ気は毛頭ないのだが、俺の行動に一番のセーブをかけているのはあの言葉だ。

 

『二人に別れろとはいいません。けど、留美が大人になるまでは、エッチなことはしないように。お願いしますね、八幡さん』

 

 付き合い始めてしばらく経った頃。当時中学生と大学生という傍から見たら完全に事案な間柄だったということもあり、留美の両親に会いに行ったことがある。その時彼女の母親から言われた言葉が、それだ。

 その時は当然のことだと首を縦に振ったのだが、時が過ぎて冷静に考えるようになると、思考が困惑してしまう。

 大人、という明確で、曖昧な単語について。

 大人。それが成人という意味ならば、二十歳を指すのだろう。成人式とも言うし、酒もタバコもその年齢ならば許される。しかし、彼女の母親が言ったのはそういう意味での大人だろうか? 無駄に歳を重ねただけで、中身がガキな人間もいる。

 今年二十三になった俺だって、自分が大人だと胸を張って言えるわけではない。仕事では失敗もするし、思考も未だにガキっぽい。

 「許されるもの」が増える年齢はいくつか存在する。十六歳、十八歳、二十歳、二十五歳、エトセトラエトセトラ……。

 考えれば考えるほど分からなくなって、考えれば考えるほど手を伸ばすのが怖くなって、彼女のふとしたエロティカルな表情に、俺を求めている誘惑に浅ましい欲望が顔を覗かせても、すんでのところで立ち止まってしまう。

 間違えることは怖いし、そのせいであいつを悲しませたくない。

 けれど、そうして俺を誘惑してくる彼女に最後の一歩を踏み出さないことが、逆に傷つけているんじゃないと考えると、何が正解なのかも分からなくなってしまう。

 分からないから、俺も「大人」なんて曖昧な定義に逃げてしまう。

 

「……はっきりしねえな、俺って奴は」

 

 本当に、歳を重ねてもこの面倒くさい性格は治ってくれない。喉の奥を自嘲に震わせながら、青に変わった信号にアクセルを踏み込んだ。

 なんとなくつけているだけのラジオからはアナウンサーが抑揚の薄い事務的な声でニュースを読み上げるのだけが聞こえてきた。

 

 

     ***

 

 

「……はあ」

 

 八幡に車で送ってもらって、そのままベッドに倒れ込んだ。制服にシワが寄っちゃうのも気にしない。というか、さっきも八幡の部屋のベッドで色々やって、ちょっとシワになってるし。時すでに遅しってやつ。

 

「今日も、できなかった……」

 

 八幡がお母さんに言われたことは覚えてる。いつも呪文みたいに口にする「大人」って単語を聞くと、私を大切にしてくれてるんだってちょっとだけうれしくなる。

 でも……。

 

「大人って、なんなんだろ……」

 

 お酒を飲むことが許されたら大人? 確かにそうかもしれない。そうかもしれないけど二十歳、大学二年生って考えると中途半端に感じてしまう。

 例えば女の子は十六歳で結婚できる。結婚するってことは夫婦になるってことで、じゃあ十六歳で結婚した女の子は大人に違いない。成人式は迎えてないけど、大人。

 けど、ポルノなんとかとかいう法律? だと十八歳未満の女の子の水着写真とかを持ってたらいけないらしい。未成熟だからとかそんな理由みたいだけど、そうなると十八歳が大人なのだろうか。けど、本屋さんとかでエッチな本が置かれてるところには、十八歳でも高校生はダメ、みたいに書いてあるよね。ということは高校を卒業したら大人?

 

「……わかんない」

 

 今年受験生だっていうのに、考えても答えは出てこない。八幡は私よりずっと頭がいいから、「大人」の日を決めているのかもしれない。私以上に一人で考える人だから、ひょっとしたらずっと悩んでいるのかもしれない。真剣に私のことを考えてくれているなら、それはすごくうれしい。

 けど、自分のことを理性の化物なんて言っておどけて見せても、八幡だって男の人なんだ。最近、私をよく“そういう目”で見ていることにも気づいてる。たぶん本人は気づいてないと思うけど、ずっと我慢していることを私は知ってる。

 私を大切にするために自分をないがしろにしてほしくないし、八幡のためならなんだってできる自信がある。八幡には、私の全部をもらってほしい。

 

「むー……」

 

 そう思うんだけど、そんな気持ちをどうしても“大人”が邪魔しちゃう。この単語をどう論破すればいいのか分からない。

 

「どうしたらいいの……八幡」

 

 別れ際に撫でられた頭にそっと手を乗せてみる。まだ八幡の大きな手のぬくもりが残っているように感じるけど、答えは出そうになかった。

 

 

 

「ぷふっ……それって……ふふふ……あなたたちってほんと、ブフッ……もうダメ、ギブ……」

 

「…………」

 

 いくら考えても分からなくて、勇気を振り絞って事の原因であるお母さんに相談したら――テーブルに顔をうずめて大笑いしだした。ひどくない?

 

「いや、ごめんね……ごめ、ぶふっ……ほんとごめ……ふふ……」

 

 バンバンとテーブルを叩いているお母さんをじとっと睨みつけると、目尻に涙を溜めながら謝ってきた。謝りながら笑ってたらまったく謝られた気がしないんだけど。

 目尻の涙を拭いながら「だってしょうがないでしょ?」って笑いかけてくるお母さん。なにがしょうがないの? 「あー留美だからね」みたいに言われても納得しないんだけど。

 

「もう二人ともそういうことしてると思ってたんだもん」

 

「……え?」

 

 そういうこと、そういうことって……。

 女子高生にもなると、ガールズトークで一足先に初体験を済ませた子の話を聞いたりもする。他にも、ちょっと過激な少女漫画を読んだりしてるから、“そういうこと”がどんなことか理解はできてる。想像の中とか夢の中ではもう八幡に……いや、今はそんなこと関係なかった。

 

「お、留美ってば顔真っ赤だぞ?」

 

「っ……知らないっ」

 

 そもそもお母さんが中途半端な約束事をしたからこんなことになってるんだ。つまり、今顔が赤いのもお母さんが悪い。……さすがにこれは無理やりすぎる気もするけど……まあいいや。

 とりあえずお母さんが悪いと決めつけて顔を上げると、当の悪人殿は「そっかー」とか呟きながら楽しそうに何度も頷いていた。

 

「なに?」

 

「んー? 八幡さんが留美を大切にしてるんだなぁって思ってね」

 

「っ――!」

 

 なんだろう。さっきからお母さんは私を恥ずかしがらせて楽しんでるんじゃないだろうか。顔が熱すぎて、自分の熱で火傷しそう。

 けれど、頬杖を突きながら楽しそうに笑うお母さんはからかっている様子は全然なくて――

 

「二人が真剣に考えてそういうことをするなら、お母さんは普通に許すつもりだったのよ?」

 

 そんなことを言ってきた。私たちの人生なんだから、お互いが納得して行動するなら止める権利も怒る権利もないって。むしろ喜ばしいことだって。

 けど、挨拶に行ったときは私は中学生で、八幡も未成年だったから、「若気の至り」で失敗しないようにって釘を刺したんだ。一瞬の感情に任せて失敗したら、後悔するのは私たち二人だから。

 

「お母さんとしては『よく考えて行動してね』って程度のつもりで言ったんだけど……」

 

「八幡は……そういうこと難しく考えちゃうから……」

 

 相変わらず捻くれてのらりくらりしてるのに、こういうことばっかり真っ正直に考えるんだから、本当に面倒な人だ。まあ、そんなところも好きなんだけど。

 

「ふふ……」

 

「……なに?」

 

「八幡さんのこと考えてる時の留美は楽しそうだなって思って」

 

「…………」

 

 決めた。今後お母さんの前で八幡のこと考えないようにする。……ごめん、たぶんそれ無理。

 それにしても、お母さんから答えは聞けたけど、じゃあどうしようかと考えると……答えが出ない。

 たぶん八幡にお母さんが言ったことをそのまま伝えても、いきなりそれじゃあ……みたいな感じで関係が発展するとは思えない。むしろ今度はちゃんと考えているかって延々と悩みだしそうだし。というか絶対悩む。しかも一人で悩むな、八幡だし。

 

「留美はちゃんと考えられてる? 二人のこととか、将来のこととか」

 

「うん」

 

 即答できる。八幡が私たちの今後をちゃんと考えてくれていることにだって自信を持てる。伊達にほぼ毎日八幡のところに押しかけてないしね。高校を卒業したら私は大学に行って、もちろんお母さんたちの許可はもらうけど八幡と一緒に住んで、卒業したらちゃんと就職。二人で働いてお金を貯めて結婚して、子供は……最低でも二人だ。一人っ子は寂しいってのは経験則で知っているし、八幡と小町さんを見ていると兄弟って大事だなって思うから。

 

「やだ……うちの子の将来設計が予想以上に遠くまで見据えてて怖い!」

 

「そう?」

 

 そんなにかな? むしろ将来のことを考えない恋愛って私には想像できない。そんな中途半端な気持ちでお付き合いはしたくないって言うのが本音だ。他の子から見たら“重い”って思うのかな? まあ、八幡も同じような考えみたいだから気にならないけど。

 ちゃんと考えてくれている八幡だから、私を壊れ物みたいに大事にしてくれている八幡だから、こういうことくらいは感情的になってもいいのにって思う。

 けど八幡の感情は、欲望はすんでのところで「大人」って言葉に止められちゃってる。それを綺麗に取り払ってあげないと、きっとあの人はずっと自分の想いを縛り付けたままになっちゃう。

 なんとか、できないかな……。

 

『……いろいろ調べてちゃんと考えて……』

 

 なんとなく耳に入ってきた声にすっと視線を向ける。つけっぱなしだったテレビは夜のニュースを流していて、私と同い年らしい男の子がインタビューを受けていた。

 

『入れる瞬間は大人になったなって思いました』

 

「あ……」

 

 そうか。私がもう“大人”だっていうことを、八幡に示してあげればいいんだ。八幡の逃げ道をなくしてあげればいいんだ。

 自分に今年から与えられた権利をこんな不純なことに使うのはちょっと気が引けるけど――

 

「私にとっては、大事なことだもん」

 

「お、何か思いついたの?」

 

 にこっと微笑んできたお母さんに小さく頷くと、リビングを後にして自分の部屋に戻る。そうと決まれば善は急げだ。明日早速実行に移さなくては。

 

 

     ***

 

 

「……よし」

 

 学校が終わって少し寄り道をして、昨日は八幡に送られた時間に彼のアパートに到着した。私はよく分からないけど、たぶん八幡ってホワイト企業? に就職したんだと思う。土日はきっちり休んでるし、お父さんみたいに夜遅く帰ってくるってわけでもない。むしろ帰ってくるのは早いほうだ。デートの時に「仕事で使う」って言ってちょっと写真とかメモを取る以外はほとんどお仕事の話とかしないからよく分からないけど。よく分からないって二回言っちゃった。

 今日ももう家にいるみたいで、ドアの横についている小窓からは室内灯の光が漏れ出していた。いつもより緊張して震える指でなんとかチャイムのボタンを押すと、無機質なピンポーンという音から少し遅れて、ドアノブがガチャッと回った。

 出てくるのは当然、私が一番好きな人で。

 

「よう、今日は遅かったな」

 

 いつも通りどこか気だるげな目をした八幡に促されて部屋の中に入る。かすかに自分とは違う、たぶん八幡の匂いっ

て表現するのが適切な香りが鼻をかすめてきて、ちょっと緊張がほぐれた気がした。

 

「ん、ちょっとこれに行ってきたの」

 

「ん? ……ああ、選挙か」

 

 十八歳に引き下げられた選挙。投票日はもうちょっと先だけど、期日前投票をしてきたんだ。受験生で忙しい時期だけど、事前に新聞とかニュースとか色々見て、誰に投票するかは決めていた。

 学校の先生とかに口を酸っぱくして言われたからってのも否定はできないけど、たぶん一番の理由は八幡だ。「誰に投票しても変わらねえ」なんて言いながら真剣にそれぞれの公約とか実績とかを調べているあべこべな姿を見ていたから、それのマネっこをしただけ。

 

「どうだった? 初めての選挙は」

 

「ちょっと……緊張した」

 

 初めて入った投票場は普通の施設のはずなのにちょっぴり怖くて、また今度にしようかな? なんて考えてしまった。候補者の名前を間違えて書いてないかなって五回くらい確認して、近くで用紙に書き込みをしていたおばあちゃんに笑われてしまったのは今後の黒歴史になってしまうに違いない。

 

「けど、ちゃんと投票したよ?」

 

 投票箱に自分の書いた用紙を入れる。ただそれだけの行為は、だけど確かに少しだけ“大人”になった気がした。

 

「自分で考えて、自分で責任を持って選んで……」

 

 自分でも雰囲気が変わったことが理解できた。そしてそんな私を見ている八幡が身を強張らせるのも。

 覗かせた欲望を抑えようとする、“大人”っていう鎖も。

 その鎖は、もういらない。そんなもの、消してあげる。

 

「私もう――大人、だよ……?」

 

「っ……」

 

 新しく責任を持つ。大人になるっていうのは、きっとそうやって責任が増えていくことなんだ。

 私が紡いだ“大人”に八幡の目から迷いがゆっくりと消えていく。結局のところ、この面倒な人もきっかけを探していただけで、理性の化物なんて言っても男の人には変わりないんだなと思うと、ちょっと笑ってしまいそうになる。

 

「……――――」

 

 じっと八幡の目を見続けていると、迷いのなくなった目が一瞬揺れて――

 

「ん――――ッ」

 

 気が付いた時には唇を奪われていた。閉じた玄関に背中を押し当てられて両腕と身体で逃げられないように包み込まれる。他の人にやられたら恐怖しか感じないであろう拘束は、不思議とどこか心地よさすら感じた。

 

「わりい……加減、できそうにない」

 

 謝っているのに、その目は獲物を狩る肉食獣のようにギラギラしていて、全力疾走をした後のように荒い呼吸を繰り返す唇から溢れてくる吐息は火傷しそうなくらい熱くて。

 

「っ……う、ん……」

 

 どうやら私は、とんでもないものの鎖を解き放ってしまったのかもしれない。

 まあ、こっちとしては大歓迎なんだけど。

 

 

     ***

 

 

「なあ……」

 

 二人で横になったベッドの上。まだ少し息が上がっている私を優しく撫でながら、八幡が声をかけてきた。枕に沈めていた顔を上げると、少し緊張したような、迷うような表情が目に映る。

 

「なに?」

 

「いや、その……なんだ……。まだ留美の受験も終わってないのに気が早いって思うかもしれねえけどさ」

 

 自分の緊張を紛らわすように私の頭に手を這わせながら、八幡はつっと天井を見上げた。一度瞼を閉じるとゆっくり息を吐き出して、今度は迷いのない目を私に向けてくる。

 

「大学生になったら……一緒に住まねえか?」

 

 そのお誘いに私は――

 

「ふふっ」

 

 思わず笑ってしまった。

 ほらね? やっぱり私が八幡のことを一番理解できてるって自信をもって言える。

 だって、私と八幡は同じ未来を見ていたんだから。

 

「な、なんだよ……?」

 

「なんでもない……ふふっ」

 

 もう一度だけ笑って――

 

「もちろん。よろしくお願いします」

 

 撫でてくれていた腕に抱きついた。少し汗ばんだ腕がぴとっと肌にくっついてきて、また笑みがこぼれそうになってしまったのは私だけの秘密。

 

「おう。よろしくな」

 

 ひょっとしたら、ばれちゃってるかもしれないけどね。




お久しぶりです。生きてました。

なんとなくルミルミが書きたくなったのと、ついったで「まるで童貞捨てた人みたい」と話題になった選挙でのインタビューのやつを元に書いてみました。八幡もルミルミも、どっちもこういうこと行き過ぎなくらい深く考えちゃいそうだなーと。しかも八幡の方が絶対一人でずっと悩んで、面倒なことになっちゃう。
しかしそこがいい。

■おしらせ■
夏コミに受かってました。一日目東カ-33bの「やせん」というサークルで、さくたろうさん、あきさん、ねこのうちさん、山峰峻さん、高橋徹さん、私の六人で俺ガイルSS合同誌を配布します。
R-18と一般1冊ずつあって、私は高橋さんとR-18の方、「一色いろはがエロかわすぎる!」というタイトルの本になります。看護師になった一色と警察官になった八幡のちょっとエッチなお話です。
もうちょっとしたらサンプルをpixivの方に投稿する予定です。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


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彼がその感覚に戸惑うのなら

 放課後の部室。夏至を過ぎてもまだまだ昼は長く、キラキラとした西日が室内に注ぎ込んで、開いている本を明るく照らす。葉山君や戸塚君が引退した運動部はまだ熱心に練習に打ち込んでいるようで、グラウンドやテニスコートの方からかすかに声が聞こえてくる。

 

「「…………」」

 

 そんな中、部室はいつものように静かだ。聞こえてくるのは黒板の上にかけられた時計がカチ、カチ、と時を進める音と時々ページをめくる音。それに思い出したようにカップや湯呑が動く音だけ。

 高校三年の二学期も始まって、同級生たちも段々と受験モードに移行していく中、奉仕部は……というか私と比企谷くんは特に変わらない。自慢ではないが私の成績は人にそうそう文句をつけられるものでもないし、比企谷くんだって、受験に関しては特に問題はないだろう。

 今部室にいるのは私たち二人だけ。今年無事に入学した小町さんは一色さんと一緒に生徒会の手伝いをしているし、由比ヶ浜さんは……絶賛補習中だ。二学期明けの実力考査でひどい点数を取ったようで――最後まで点数は見せてくれなかったけれど――平塚先生を始め赤点教科の先生たちが強化プログラムを組むことにしたらしい。テスト前には私もちゃんと教えたつもりなんだけれど、毎回点数は芳しくないのよね。何がいけないのかしら。私のテスト対策プログラムは完璧なはずなのに。

 まあ私も教師というわけではないし、これ以上は平塚先生たち本職の方々にお任せするとしましょう。

 それより今は――別に気になるところがあった。

 

「…………」

 

 気づいていないとでも思っているのだろうか。本を読みながら湯呑に入れた紅茶をすする比企谷くんは、チラチラと私を盗み見ていた。口にしているはずの紅茶も、ほとんど減っているようには見えない。本のページも進んでいないのはないだろうか。

 たぶん、数日前からずっと。

 比企谷くんの様子がおかしい。私と由比ヶ浜さんが気づいたのは先週の頃だったのだけれど、妙に落ち着きなくソワソワしているし、本は読んでいるふりで全然進んでいなくて紅茶も全然飲んでくれない。帰る頃に丸々残っていることに気が付いて慌てて一気飲みをした結果、咽てしまうまでがここ数日録画された映像のように繰り返されていた。

 そして、部活が終わるまでの間ずっと、チラチラを私たちを盗み見てくるのだ。最初は早々に指摘して問いただそうかとも考えたが、いつもの捻くれて飄々としている姿からは想像もできない小さな背中に、口を噤まざるを得なかった。

 それに、時折見せる泣きそうに歪んだ表情。まるであの日の彼を思い出させるようなそれに、安易に問いただそうとする考えは押しとどめられてしまう。

 なにかまた、私たちに大事なことを隠しているのではないだろうか。一人で悩んでいるのではないだろうか。その悩みは私たちが相談に乗ってなんとかできるようなこと?

 もしどうにもできないことだったら。そう考えると……怖い。

 そう思っていたけれど……。

 

「ぁ……っ!」

 

 そんな泣く一歩手前のような、辛そうな顔を見せられたら、“怖い”よりも“なんとかしてあげたい”という気持ちが勝ってしまった。

 

「比企谷くん」

 

「…………っ」

 

 私と目が合って、さっと顔を逸らした彼の名前を呼ぶと、猫背に丸まった身体がビクンと大きく跳ねた。

 しばらく比企谷くんの反応を待っていると、ゴキュッと大きく喉を鳴らした彼はいつもと同じようにやる気のない目を私に向けてきた。あくまで“同じように見せようと努力した目”だったけれど。

 

「……なんだよ」

 

 ぶっきらぼうに尋ねてきた声が震えているように感じて、また喉の奥が詰まってしまう。けれど勇気を出して……問いかける。

 

「何か……あったのかしら……?」

 

「――――――」

 

 一瞬の間。ピシッと固まってしまった彼は錆びた機械のようにギギギと音が響きそうなほど鈍い動作で廊下の方を向いて――

 

「……別に何も」

 

 それだけ答えて黙りこんでしまった。

 ――嘘よ。

 反射的にそう口に出そうになるのをグッとこらえる。私だって伊達に一年以上同じ部活で一緒に過ごしてない。小町さんほどではないにしても、比企谷くんのことはある程度分かるようになった……つもりだ。

 だけど、否定できない。いつか心だけがバラバラになりながら形だけの部活を続けていた時、事情を尋ねた小町さんですら比企谷くんと喧嘩をしたと言っていたことを思い出す。彼は深く悩むほど自分一人でなんとかしようとするタイプの人間だ。自分の殻の中に閉じこもる人間だ。あの時は小町さんや平塚先生がその殻にヒビを入れてくれたけれど、私にそんな芸当ができるとは……思えない。

 なにが学年一位か。なにが天才的な頭脳か。す……気になっている異性が悩んでいるのに、その力にもなれないなんて。あまりにも無力で、小さくて……。

 

「……雪ノ下?」

 

「へ……?」

 

 比企谷くんの声に伏せていた頭を上げる。急に視線を動かして焦点が合っていないのか、若干ぼやけた視界の中の彼はいつもの力ない目を困ったように歪めていて――

 

「なんでお前が泣くんだよ」

 

「ぇ……え……?」

 

 反射的に目元に手を添えると生温かい温度に触れた。それが涙だと自覚した途端、うっすらとぼやけていただけだった視界がぐにゃりと歪む。熱い雫が後から後から溢れだしてきて、次第に喉を押し上げる嗚咽を抑えることができなくなり、また頭を垂れてしまった。

 

「ぁ、あの……ゆきの、した……」

 

 嗚咽に鳴る喉が鼓膜を直接震わせる中、比企谷くんの戸惑う声が聞こえてきて――余計に情けなさが涙に変わっていく。

 最悪だ。なんとかしたいと思った相手を逆に心配させてしまうなんて、本末転倒もいいところだ。私はこんなにも弱かったのだろうか。少しは成長したつもりでも、結局自分一人ではなにもできないのだろうか。

 流れた涙の分身体が縮んでしまうように背中が丸まって、膝に置かれた自分の手には青筋が立ちそうなほどギュッと力がこもる。

 頭の中はぐちゃぐちゃになって何も考えられなくなって。

 そのまま……そのまま……。

 

「っ……」

 

 ぽすっと頭の上に何かが乗せられた。温かくて大きい何かはゆっくりと頭の上をスライドしてきて、それだけで沈み込もうとしていた心が掬い上げられる。

 そっと顔を上げると、いつの間にか自分の席を立ち、いつもは由比ヶ浜さんが使っている椅子に腰を落ち着けた比企谷くんがこちらに腕を伸ばしていて。つまり今私の頭を撫でているのは彼の手なわけで。

 少し角ばった私のものよりも一回りほど大きいその手に撫でられると、不思議と心が落ち着いてきて、ミルクを中途半端に混ぜたコーヒーのようにぐちゃぐちゃに波打っていた頭の中もゆっくりと元の形に戻っていく。これだけ心地いいのだから、小町さんだけでなく一色さんまでも比企谷くんに撫でてもらって頬を綻ばすのも無理はないだろう。

 

「すまん……だめだな。迷惑かけないようにって思ったときに限ってお前を泣かしちまう」

 

 私を直視せずに、少しずらした視線で眉を歪めた彼の呟きに、徐々に涙が収まってきた目をすっと細める。きっと思い出しているのはクリスマス前のあの出来事だ。

 お互い同じように悩んでいるのがおかしくて頬を濡らしたまま笑ってしまうと、一瞬キョトンとした彼も息をつきながら苦笑を浮かべた。

 私が彼の力になれるか分からない。相変わらず私はできないことが多くて、臆病な人間だから。

 けど、だけれども……。

 

「なあ、雪ノ下……相談があるんだけど」

 

 きっと、彼の相談を聞くくらいはできるはずだ。

 

 

 

「胸が……痛む?」

 

 彼からの相談は、予想の斜め上な上に、深刻そうなものだった。

 

「時々、なんだが……こう、心臓がきゅーっと締め付けられるような感じになるんだ」

 

「…………」

 

 一瞬、死にそうになった。

 何その「きゅーっ」て表現。戸塚くんならともかく、一般的な男子高校生が使う表現ではないわよ……。前から思っていたのだけれど、比企谷くんって微妙に乙女っぽいところあるわよね。海老名さんが妄想してしまうのはこのせいかしら。

 あ、というか今はそんなことで悶えている場合ではなかった。

 胸が、というか彼の説明を聞く限り、心臓が痛むことがある……ということ。真っ先に思い浮かぶのは何かの病気の可能性だ。いやしかし、あまり外に出歩かない性質とは言っても、比企谷くんは十分に健常者だ。というか、彼の場合心臓病を発症する前に糖尿病を発症しそうね。

 ここは、もう少し情報を集めてみましょうか。

 

「どういうときに痛くなるのかしら? 例えば運動の後とか、特定のものを口にした後とか」

 

 アレルギーなどの可能性も考慮した質問に、彼は首を捻りながら考え始める。やがて、「教室で」とか「家で」とかポツリポツリと単語が口から漏れ出してきた。その言葉を拾っていくが、今のところ何か共通点があるようには思えない。

 

「あと……部室で、お前を見てるとき……とか……」

 

「へ?」

 

「あー……そう考えてみると、教室でも家でもお前のこと考えてる時に痛くなってる、気がする」

 

 それって……。

 人間は精神状態で体調を崩すこともある。緊張から頭痛や腹痛を訴える人がいい例だろう。ひょっとしたら、比企谷くんもその方向性なのかもしれない。

 けどそれって……それってひょっとして……。

 痛みは痛みでも、切ない痛みというものなのでは……。

 

「なあ、これやっぱり病院に行った方がいいと思うか?」

 

「え? えっと……」

 

 心配そうに普段あまり変わらない表情を悩ましげに歪めた彼に、私はさらに戸惑うことになってしまう。

 

「今もな、さっきからずっときゅーって痛むんだよ」

 

 さっきから……ずっと?

 

「ズキズキではなくて?」

 

「ああ、きゅーって感じ」

 

「私を見てると?」

 

「ああ。見てるとっていうか、話しててもずっと」

 

 ……これは遠回しな告白なのだろうか? 普段からかわれる立場の彼が、ここぞとばかりに私をからかっているのでは……。

 そう邪推しようとしてみるが、目の前で私に告白まがいのことをしている彼の目は真剣……というか、真面目に心配そうにしていて……いや、と内心首を振った。

 ――結局、本当に人を好きになったことがないんだろうな。……君も、俺も。

 最終学年に上がる頃、葉山くんがそれとなく教えてくれた言葉。過去に何度か告白をしたことのある比企谷くんでも、たぶん本当の意味での恋はしたことがないのだろうと、どこか自虐を孕んだ声が脳内を流れた。

 もし、もしも葉山くんの予想が正しいのだとしたら。

 比企谷くんは今、本当に……自分の感情に気づいていないということになる。自分の心が分からなくなっているということになる。

 そこまで分かりやすく身体が反応を示しているというのに、私が好きになった人は相変わらず面倒くさい性格をしている。まあ、そこが魅力の一つなのだけれど。

 さて、それはともかくとして、どういうアドバイスをするべきなのだろうか。どうやら原因は私のようなのけれど、本人が自覚していないと告白をしても彼らしくのらりくらりとかわそうとしてくるだろう。それはなんというか、単純に嫌ね。

 

「……私も医学にそこまで精通しているわけではないのだけれど、おそらくそれは病院に行く必要がないものね」

 

「そう、なのか?」

 

「ええ」

 

 とりあえず、放っておくと本当に病院に直行しそうな彼に釘を刺しておく。というか、彼は病院に行ってどう説明するつもりだったのかしら。生憎、「私のことを考えると心臓が痛む」なんて私も巻き込んで赤面になりそうな症状説明を心臓外科の医師に暴露させる趣味はないしね。

 

「比企谷くん。今も心臓が痛むのよね?」

 

「ああ」

 

「じゃあ……」

 

 自分でも少し弾んだのが分かる声を上げながら、私はそっと――自分の手を彼の手の甲に乗せた。彼の指が少しだけ曲がって固まり、身体がビクッと跳ねるのを感じたが、手は離さない。

 

「こうすると……どう?」

 

「え、や……その……」

 

 少し下がった視点から見上げてみると、今にも泣きそうな表情をしている彼と目が合った。すぐに逸らされた彼の目が溢れだそうとする感情を抑えきれないと言わんばかりに揺れ動いているのが分かる。

 

「なんつーか……余計ひどくなったというか……もやもやしてくるっつうか……」

 

 おかしくなって笑ってしまいそうになるのを必死にこらえる。姉さんが命名した理性の化物とやらは、どうやらそうとう鈍感な化物であるらしい。そこまでの感情の奔流に浸っていながら、答えに行き着くことができないのだから。

 彼の反応を見るに、この程度では意味がないのだろう。むしろ物足りなくて仕方がないのかもしれない。

 

「それなら……」

 

 それなら……。

 

「え……?」

 

 甲に乗せていた手で手首を掴んでみる。キョトンとした声を上げた彼が状況を理解する暇を与えないように彼の身体を引き寄せて――そっと胸に抱いてみた。ちょうど彼の頭があまり過剰には自己主張をしていない私の胸に埋まる。

 

「お、おい……雪ノ下っ」

 

「静かに。……あなたも、私の背中に腕をまわしてみて……」

 

 左手を彼の後頭部に、右手を肩甲骨のあたりに添えながら囁くと、一瞬逡巡の空気を醸し出した彼が大きく息を吐いた。温かい吐息が布を通り抜けて肌にしみこんできて、むず、と身体がうずいてしまうのだが……今は我慢ね。

 ゆっくりと、まるで焦らすように彼の手が伸びてくる。まあ、彼のことだから「本当にやってもいいか」と悩んでいるだけなんでしょうけど。

 手のひらがかすかに背中に触れ、布地をシュルシュルとかすめながら腕と背中の接触面を増やしていき、やがて腰の位置で二本の腕が完全に私を拘束してきた。それだけで、温かい気持ちがじわっと溢れてきて、彼の視界に入っていないのをいいことに顔がほころんでしまう。

 

「今は……どう、かしら」

 

 胸に顔をうずめている彼は何かを求めるようにその位置を少しだけ下にずらして――

 

「今はなんか、安心する……というか、満たされる、というか……よく分かんねえ。分かんねえけど、少なくとも痛みはない……かな」

 

 戸惑いと安心を混ぜ込んだような声を漏らしながら、腰に回した腕に少しだけ力を加えてきた。

 本当におかしな人だ。そこまで行き着いておいて、あと一歩の答えに手が伸ばせないなんて。

 

「どうやらこれが胸の痛みへの特効薬のようね」

 

「たぶん……」

 

 けれどその答えは私が教えるべきではないから、後頭部をそっと撫でながら彼に気づかれないように笑ってみる。

 

「大変だわ。あなたの胸が痛くなるたびにこうしなくてはいけないわね」

 

 比企谷くんだって鈍感というわけではない。きっと今は初めての感覚に戸惑っているだけで、いつか答えへの一歩を踏み出すだろう。

 だからそれまでは、何も言わずにそばにいよう。その“いつか”まで待っていよう。辛くなったら、今みたいに少しだけ甘えさせてあげよう。

 だから……だから……。

 

「これからもよろしくね、比企谷くん」

 

「……ん」

 

 今はもう少し、このままで。




久しぶりに八雪成分オンリーの話が書きたくなって書いてみました。個人的に八雪は甘々よりもちょっと控えめな感じが好みです。変な言い方をすると、付き合った後の話はあまり書きたくないなーって感じ。もちろん悪い意味では無くですけどね。

折本デートの時に葉山が言った「結局、本当に人を好きになったことがないんだろうな。……君も、俺も」っていうセリフから、実際に八幡が明確な恋心を抱いても自分で理解できないんじゃないかなって思って書いてみました。あと、八幡に「きゅー」って言わせたかった。ポイントポイントで女子力を発揮する八幡かわいい。


ところで、ポケモンGO始めました。めっちゃ楽しいんですが、私の家は本屋も近くにないクソ田舎にあるため、あんまりレベルが上がりません。わざわざアキバに行ってフィーバーしてる某俺ガイル書き手を恨めしい目で見ながら散歩ついでに遊んでます。一日10km前後歩くようになるなんて、ポケモンの力ってすげー!
というわけで、健康のために執筆ペース落ちると思います。申し訳ない。


それでは今日はこの辺で。
ではでは。




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鶴見留美とのスイパラはちょっとだけ甘い……気がする。

 学生の規則正しい生活ってやつは、基本的に長い休みで崩壊する。その代表例が夏休みだ。一ヶ月以上も休暇が続く中、生活リズムを一切崩さずにいられるのは雪ノ下雪乃くらいのものであろう。由比ヶ浜とか絶対生活リズム崩して勉強なんて一切……普段からやってないな、あいつ。

 

「ふぁ……十時かよ」

 

 欠伸交じりにベッドの上で伸びをして時計を確認すると、目覚ましのセットすらしていなかった時計はなかなかに遅い時間を示していた。未だにぼーっとしているので顔でも洗ってこようかと思っていると、バサッと乾いた音を立てて文庫本がベッドから転がり落ちた。どうも読書中に寝落ちしてしまって、今の今まで本と添い寝をしていたらしい。

 本に変な折り目がついていないことを確認して洗面所に直行。心なしかぬるめの流水をバシャバシャと数度顔に叩きつけ、タオルで拭いながらふと鏡を見るといつもどおり腐った眼をした自分の顔――

 そして、黒髪ロングの少女が映っていた。当然のことながら、うちの妹は黒髪短髪である。

 いや、ホラーってわけでは決してないんだけど。

 

「八幡、起きるの遅い」

 

「いいだろ、休みなんだから」

 

 顔を拭ったタオルを洗濯籠に放り込みながら投げやりに答えると黒髪ロングの少女、鶴見留美はむすっと眉をひそめた。それに苦笑しながら連れ立ってリビングに向かう。

 

「あ、お兄ちゃんおはよー」

 

「おう、おはよ」

 

 リビングのソファでは小町がぼけーっとテレビを眺めていて、首だけを気だるげに動かして朝の挨拶をしてきた。こいつもこいつで夏休みに入ってからだらけきってるなぁ。まあ、去年は受験もあってほとんど勉強に費やしていたし、あまりガミガミ言うことでもあるまい。そもそも俺が現在進行形で怠惰な生活送ってるしね!

 兄としてちょっと自分の生活を見直そうかななんて考えていると、シャツの裾を引っ張られる。視線を下に向けると留美がさっきにも増してむすっと眉間にしわを寄せていた。そんな顔ばっかしてるとデフォルトでしわがついちまうぞ?

 

「どした?」

 

「……私、挨拶されてない」

 

 なに? そんなことで不機嫌になってたの? ルミルミの感性が俺には分からん。まさかこれがジェネレーションギャップってやつだろうか。違うか。違うな。

 そもそも挨拶よりも先に「遅い」だったもん。八幡悪くない。

 まあ、こうなってしまうと永続魔法並にこいつの不機嫌は続いてしまう。黄泉転輪ホルアクティみたいな速攻の特殊勝利条件をかまさない限り勝ち目はないだろう。

 俺はそんな勝利条件知らないから折れる、つまりサレンダーしか方法はないんだけどな。

 

「じゃあ、おはよう」

 

「ん、おはよ」

 

 互いに挨拶を交わすと眉間に集まっていたしわがゆるゆると消えていく。それでも少し下がっているまぶたのせいか傍から見ると不機嫌そうに見えるのだろうが、しょっちゅう顔を合わせているからか俺には機嫌がいいように見える。

 鶴見留美と知り合ってそろそろ一年になる。千葉村からクリスマスイベントまでは会っていなかったから、実質それ以下と言えるのだが、うちに招くような関係になるとは誰が想像していただろうか。

 小学校を卒業して中学生になった留美が、俺たち兄妹が卒業した中学校に入学したことを知ったのは今年の春。

 黒歴史は多くても母校には違いない。悩み相談以外にもよく雑談をするようになり、メールよりも直接話した方が早くね? という相互認識によってメールから電話、電話から直接会って話す、と段階を踏んでいったわけだ。

 そして最近では留美は俺の家に自由に上がり込むまでになった。最初に連れてきたときは小町からゴミを見るような目をされたが、俺は元気です。目は腐ってるけどこれはデフォなんで元気です。

 まあ、今では留美も小町も数年前からそうしていたかのように仲良いんですけどね。

 

「ん? ……なんだこれ」

 

 遅めの朝食を摂ろうとパンを片手にテーブルに向かうと、新聞の上に一枚の広告が置かれていた。ゴテゴテと目が痛くなりそうな配色のそれには複数のお菓子の写真。

 

「んー? あー、それスイパラの広告だよ。新しくできたんだってさ」

 

「ほう」

 

 スイパラ。スイーツパラダイス。つまりスイーツ食べ放題だ。甘いお菓子を好きなだけ食べられる女子の楽園。故に食べ放題なのに男子には敷居が高い場所だ。プリクラと違って普通に男だけでも利用できるだけに逆に辛いまである。

 甘党な俺としては一度は行ってみたいのだが、いかんせん一緒に行くような友達なんていない。小町と行くという選択肢はなくはないのだが、この目のせいで周りから嫌な視線浴びそうだよなぁと断念してきたのだ。そもそもこの目が原因なら俺一生スイパラ行けなくない?

 この目どうにかならないのかなと割と真面目に考えながらチラシを眺めていると――

 

「全席個室?」

 

 小さく印刷された文字を見咎めて、気が付いた時にはポロッと読み上げていた。

 

「そう! 飲食スペースは全席個室! 周りの目を気にせずにスイーツが食べられるって寸法だよ!」

 

 なぜかドヤ顔で解説する小町だが、これを考えたのはこの店の人であってお前ではない。ドヤ顔かわいいから許すけど、これが川崎大志だったら東京湾に沈めているところだ。いや、大志だったらうちにいる時点で死罪だわ。おのれ大志め。

 

「これならお兄ちゃんもその目を怖がられながらスイーツを食べなくてすむね! あ、今の小町的にポイント高い!」

 

「全然高くねえよ。むしろマイナスだろそれ」

 

 ていうか、お前もそう思ってたの? やっぱりこの目はなんとかしなくちゃいけないの?

 とまあいつも通り冗談交じり――さっきの発言は冗談であったと信じたい――のじゃれあいをしていると、留美が俺の脇からチラシを見ていることに気づいた。見ているというか凝視。今に目からビームを出してチラシに穴をあけそうなほどの凝視だ。ルミルミはデ・ジ・キャラット知らないだろうな。いや、俺も再放送で見たんだけど。

 

「私、スイパラって行ったことない」

 

「え? ぁっ……いや、あー……」

 

 文字情報ではまるで分らない唸り声のようなものを漏らしてしまった。いや、最初は「スイパラって全女子が無条件で行ってるもんだと思ってた」という驚きがあり、次に「そういえばこいつぼっちだったじゃん。最近少しは友達いるみたいだけど、休日積極的に遊びに行くレベルではないじゃん」という察しが続き、最終的に「そもそもこいつそんなに小遣いもらってないからホイホイスイパラには行けんよな」という納得からくる唸りなのだが。説明なげえよ。

 つまり、それを要約すると「え? ぁっ……いや、あー……」なのである。小町が割と親父から金巻き上げていたせいで、女子中学生ってやつは皆父親の財布にダイレクトアタックをかましているもんだと思っていた。改めて考えるとうちの妹怖い。

 まあ、小町の性格の悪さはこの際置いておいて、興味津々だが金銭的に行けない場所ということでどことなく落胆している留美を見ると……なんとかしたいと思ってしまう。それは未だに千葉村のことを引きずっているのか、いつだったか雪ノ下に言われたように俺が年下に甘いのかは分からないが、それはさして重要なことでもないだろう。

 

「じゃあ行ってみようぜ。奢ってやるから」

 

「……………………いいの?」

 

 たっぷり時間をかけて俺の言葉を飲み込んだらしい彼女は申し訳なさそうに首を傾げる。小町や一色なら喜び勇んでたかりだすだろうに、初対面の頃から呼び捨てで敬語も使わない割に、こういうところは変に慎重な奴だ。

 

「金には余裕あるからな」

 

 その金はスカラシップで浮いた予備校代なんですけどね。……俺、小町のこと言えないな。比企谷兄妹揃っていい性格してるわ。

 

「でも……」

 

「いいんだよ」

 

「お金……」

 

「だから余裕あるんだって」

 

「……むう」

 

「なんで不機嫌になんの?」

 

 女心ってやっぱよく分かんねえなと思いつつ、女子中学生の了承を――無理やりとは言え――得ることに成功した。いや、別に女子中学生とどうしてもスイパラに行きたい男子高校生とかそんなロリコン構図ではないから……ないよね?

 まあどの道ここに小町が入ればいくら目が腐っていても、保護者としてついてきた男子として認識されるだろう。そこまで保険をかけないとスイパラにも行けないなんて現実の不条理を感じる。

 そう画策していたのだけれど――

 

「じゃあ、せっかくの休みだし二人で行ってきなよ」

 

 策士八幡の計略は実の妹の一言によってあっさりと瓦解してしまった。

 

「え、お前も行くんじゃねえの?」

 

「んー? 小町は結衣さんと雪乃さんと一緒に行くから大丈夫!」

 

 や、小町的に大丈夫でも八幡的に大丈夫じゃないんだけど。ルミルミを無理やり説得した手前、「やっぱこの話はなかったことに」なんてできないんだけど!

 

「それじゃあ、がんばってね!」

 

「…………うん」

 

 留美に対して小町がかけたエールは一体何のことなのだろうか。

 そんなことを考える余裕もなく、俺の頭の中は一つの不安で埋め尽くされていた。

 ……二人ともスイパラ初めてだけど、大丈夫だろうか。

 

 

     ***

 

 

「おお、お菓子の山だ」

 

 目の前には数十種類に及ぶ様々なスイーツの数々。ケーキやタルトだけでもかなりの数があるし、シュークリームやプリン、さらには和菓子まで取り揃えてある。クリームやフルーツの甘い香りが充満していて、嗅覚だけで幸せになりそうだ。

 

「わあ……」

 

 ルミルミも普段は半分近く瞼が閉じている目を開ききって、ゆるゆると表情筋を緩ませている。いつもは擦れているというか大人びているイメージが強いが、こうして見ると年相応の中学生だな。

 

「? どうしたの?」

 

「いや、なんでも」

 

 そんなことを口にしてしまえば彼女が不機嫌になることは必至なので、適当にはぐらかす。比企谷八幡は争いを好まないのだ。

 

「あ……スイパラってスイーツだけじゃないんだね」

 

 大きめの平皿をそれぞれ手にしてお菓子を物色していると、意外そうな声が聞こえてきた。留美の視線を辿った先、バイキングコーナーの奥の方のテーブルには――

 

「へえ、軽食もあるんだな」

 

 パスタやカレーなどの軽食が並んでいた。小町から「昼食ついでに行ってくれば?」なんて言われた時には昼飯にスイーツとか正気かよなんて思ったが……なるほど、この軽食を昼食にすればということか。さすがプリティシスター、お兄ちゃんは信じていたぞ!

 鮮やかに手のひらを返しつつ、せっかくなので軽食系に手を伸ばす俺であった。

 

 

 

「八幡……ここスイパラ」

 

「そうだな」

 

 呆れた声を漏らすルミルミに適当な返事をしながら個室の席に腰かける。その間も彼女のしらーっとした目は俺と俺の席に置かれた皿を見比べていて、微妙に居心地が悪い。

 いや、言わんとしていることは分かるんだよ。だって、俺の皿にはパスタとかサラダしか載っていないのだから。

 

「デザートは軽く飯食ってから食うから、最終的にスイパラ状態になるだろ」

 

 パスタだけで十種類くらいあったし、あんなの見せられたら舌が完全にパスタ食べる準備をしてしまうのはしょうがないではないか。俺は悪くない。この店が悪い。

 

「ふーん。じゃあ、一口ちょうだい」

 

「や、自分で取って来いよ」

 

「めんどう」

 

 こいつ……まあスイパラは時間制限もあるわけだし、ここで変に押し問答を繰り返すのは時間の無駄か。ここはこっちが折れるのが賢明。俺、こいつに対して折れること多くない?

 仕方なくいくつか取っていたパスタの一つをフォークとスプーンで掬い、留美の皿の空いているところに――

 

「あーん……」

 

「は?」

 

 カチリと音を立てて固まってしまった。少し身を乗り出した彼女は下の歯を見せるように口を開いていて、何かを催促するような目でじっと俺を見つめている。

 いやー、一体何を求めているのか、対人スキルゼロどころかマイナスな八幡君には分からないなー。

 ……すみません、ルミルミの要望はさすがに分かります。むしろこれで分からん奴おるん? もしいるならそいつは鈍感系どころか盲目系だよ。

 ただ、分かったところでおいそれと従うわけもなく。

 

「……皿に移してやるからちゃんと座れよ」

 

「このお皿はスイーツ用だから」

 

 …………。

 ……や、言っていることの意味は分かる。ペペロンチーノソースとかがケーキについたら嫌だもんな。

 そこで小皿すら持ってこないあたり、意図的に選択肢を狭められている感じがしてあれだが。

 

「……しゃあねえな」

 

 取り分けるつもりで掬っていたパスタをフォークにくるくると巻き付ける。自分の一口より心持ち少なめに少なめにしたそれをゆっくりと目的の小さな空洞に、慎重に、慎重に運ぶ。気を抜くと遠近感が分からなくなってしまいそうだ。人に食べさせるってこんなに難易度高いのかよ。

 それでもなんとか運搬ミッションを完遂したわけだが……。

 

「あむっ。……んむ、んむ……。あ、これおいしい」

 

 複数本が絡まったパスタをフォークで食べるということはどうしてもフォークを口に含まなくてはいけないわけで。

 ……俺、このフォークで食わなきゃいけないのん? 新しいフォーク取ってくるべき?

 

「…………?」

 

 内心うんうん唸って――たぶん外見では呆けてた――いると、目の前に何かが差し出された。思考から浮上した意識を向けた先には半分に分けたショコラケーキ。それが刺されたフォーク。フォークを掴んでいる俺のものより二回りは小さな手。

 

「あ、あーん」

 

 詰まるところ、留美が俺にショコラケーキを差し出していた。今度はこっちに食べさせようということだろう。

 なんつうか、ルミルミ今日は大胆ですね。初めてのスイパラでテンション上がってんだろうなぁ。その結果俺に精神的ダメージがガンガンきているわけなんですが。

 まったく、こっちの気も知らないで。

 

「むぐっ」

 

 ケーキを一口で食らい、むぐむぐと咀嚼する。最初にデザートを食べたらわざわざ軽食だけを持ってきた意味がないのだが、この際どうでもいいや。カカオなんて知るかと言わんばかりのミルクチョコの甘さが襲ってきて幸せだからな。

 

「美味い」

 

 ウーロン茶で口の中をリセットしながら呟くと留美は小さく頷いて……何かに気づいたようにハッと身を硬くした。錆びた機械のようにぎこちなく動く双眸は俺……の口元と自分のフォークの間を二度、三度と行き来する。さっきの意趣返しとばかりに俺もがっつりフォークを口に含んだからな。ククク、同じ苦しみを味わうがいいわ。大人げない? ちょっと何言っているか分かんないです。

 留美があたふたしている様子を眺める俺は、最高に意地の悪い表情をしていることだろう。自分の手にしているフォークのことは意識の片隅に置いて、目の前の女子中学生がどういう選択をするのか見届けることにする。

 まあ、さすがに新しいフォークを持ってくることを選ぶだろう。ギブアップした時点で自分の分と一緒に取ってく――

 

「あむっ」

 

「――!」

 

「……ど、どうしたの。は、八幡?」

 

「いや……」

 

 濁した声を漏らしながら、俺はただただ動揺していた。留美は俺が使ったフォークをそのまま使ってケーキを食べだしたのだ。

 しかも、平然としていればまだよかったのに、緊張しているのか若干どもっているし、頬は林檎のように真っ赤に染まっている。こういうところこそ普段のクールキャラを維持してくれませんかね。

 これ以上彼女の観察を続けていたらこっちの心臓が持ちそうにない。ぐっと意図的に視線を逸らしてパスタを口の中に放り込んだ。

 ……ペペロンチーノなのにどこか甘く感じたのは、気のせいだと信じたい。

 

 

     ***

 

 

「食べた食べた」

 

「もう当分ケーキはいらねえな」

 

「同感」

 

 軽食からケーキ、プリン、和菓子まで時間いっぱい舌鼓を打った俺たちは食べすぎのせいか気だるくなった身体を引きずるように店を後にした。いやほんと、幸せだけど食べすぎた。むしろ帰宅部の俺があれだけ食べられたことが驚きだけど。

 

「そういえば……結構男の人いたね」

 

「あー、そういやそうだな。カップルとかだろうけど」

 

 チリチリと照り付ける太陽に目を細めながら歩いていると、留美がぽしょりと声を漏らす。

 正直男は自分だけ、というのも覚悟していたが、実際には男女比は1:3くらいだったため、好奇の目を向けられることはなかった。全席個室なので他の男たちがどういうグループで来ていたかは分からないが、大方俺の予想通り恋人と来ていたのだろう。俺は甘党だから男女比を除けばああいう場所は大歓迎だが、彼女に無理やり連れていかれた人とかは大変だろうなぁ。まあ、彼女がいるだけでも妬ましいな爆発しろと思うので、それくらいの苦労は甘んじて受けていただきたい。後爆発しろ。

 なーんていつかのように心の中で犯行声明――さすがにもうあんなレポートは出していない――を唱えていると、クイッと弱々しくシャツの裾を引っ張られた。視線を向けた先を歩いている留美は俺とは反対側に顔を向けていて、どんな表情をしているかは窺えない。

 

「私たちは……どう見られてたのかな」

 

「さあ? 兄妹とかじゃね?」

 

 高校生と中学生。場合によっては大学生と小学生と見られてもおかしくはない。兄妹と思われなくては逆に通報されかねないだろう。

 

「……兄妹じゃないし」

 

 しかし、どうやら未だに裾を掴んでいるお姫様はその解答に納得しなかったようだ。いや、そりゃあ兄妹はないのは百も承知なんだが。

 

「例え話だろ」

 

「例え話でも、やだ」

 

「さいですか……」

 

 いや、そりゃあ俺みたいなのの妹だと思われるのは嫌ですよね。やっぱり無理にでも小町を連れてくるべきだったかなぁ。それはそれでカオスだったかもしれんが。いやけどやっぱ嫌かぁ、妹。

 少なからず気落ちしていると、裾を引っ張る力が少しだけ強くなる。今度は立ち止まって留美を見ると、少しだけ身を寄せてきた彼女は俺の右腕を持ち上げて、自分の頭の真上まで誘ってきた。

 

「ん……」

 

 いや、「ん……」ってお前……。

 

「……はあ、ほれ」

 

 たまにやらされることなので、何をすればいいのかは分かっている。持ち上げられていた手をポスッと彼女の頭に乗せ、黒髪をゆっくりと梳くように撫でる。表情は見えないが、纏う空気が柔らかくなったのを感じて内心苦笑すると同時にほっと息をついた。

 ストレートの長い髪は一切絡まることなく指の間を流れていき、その一本一本が柔らかく指の間をくすぐって、気持ちいいような落ち着くような不思議な気分になる。

 

「えへへ……」

 

 いつの間にか俺の胸板に額を当てて楽しそうにはにかんだ声を漏らす彼女に、俺の心臓は穏やかで規則正しいリズムを刻みながら、確かにそこから吐き出される血液を、想いの温度を熱いくらい高めてきた。

 

「…………可愛いな」

 

 だから、俺の口からは極々自然に、いっそ俺の意思とは無関係とまで思えるほど無意識にその言葉は溢れていた。

 

「ぇ? ……っ!」

 

 その溢れ出た声は当然すぐ近くの彼女にも聞こえたわけで、勢いよく顔を上げた留美は次の瞬間には首の付け根まで真っ赤に肌を上気させていた。捻くれていても去年まで小学生だった女の子。むしろ捻くれているせいで耐性はなく、慌てるその姿はいっそ年相応よりも幼い。

 そんな普段見せない姿すら可愛くて、切ないほど愛おしくて……。

 

「~~~~~~っ、バカっ」

 

「あっ……」

 

 その想いを形にするように小さな耳をくすぐりながら頭を撫でていると、胸元にあったぬくもりがなくなって思わず情けない声が喉の奥を転がった。

 

「八幡、変態」

 

「や、なんでだよ」

 

 最初に撫でさせたのはそっちだろうに。

 理不尽だなぁと思いつつ苦笑して見せると、もう全身赤くなるんじゃないかと思うくらい頬を染めた留美は「知らないっ」と俺の数歩先に駆けていってしまう。

 体格差故にすぐにでも埋められる距離。けれど数歩で埋めてしまうのはもったいない。秒速五センチメートルよりもずっとゆっくりとした速度で、その微妙な距離感すら楽しむように歩を進めてみる。夏の太陽を複雑に反射する髪の煌めきを楽しむように。

 そんな無駄な時間すら共有することが許される仲だと思うから。

 自分たちの関係を言葉にしたことは一度もない。きっとまだその時ではないと思うから。今言葉なんてものにしてしまったら、俺も、留美も、その“言葉”で縛られた関係から前にも後ろにも踏み出せなくなりそうだから。

 けれど――

 

「八幡」

 

「はいはい」

 

 いつかは言葉にする時が来ると信じている。きっとそのいつかがそんなに遠い未来でないことも。

 

「まだお昼だし、映画見に行こうよ」

 

 だからそれまではもう少しだけ、夏の熱さすらぬるく感じるようなぬるま湯に浸っても……いいよな?




 こちらではお久しぶりです。今回はルミルミでした。甘党だけど、近くにスイパラやってる店がないので、ガーナのミルクチョコ貪りながらかきかき。
 ルミルミを書くときは、小町と同じくらい何気ない会話を書くのが楽しいです。程よく年が離れているので八幡も気を張らなくていい感じがしますし、ルミルミの性分的にもローテンションな日常会話が活きるんですよね。

 何よりルミルミが高校生の時に八幡が大学生または社会人なのがね! いいですね! 小学生と高校生だと離れすぎじゃね? って思うけど、中学生と高校生や高校生と大学生・社会人は妙にしっくりくるんですよ!


 お知らせを二つほど。
・冬コミ受かりました! 二日目(12/30)東ア-50b【やせん】にて、今回の一般とR-18の俺ガイルSS合同誌を1冊ずつ出します。今回も私はR-18担当で、20歳の誕生日を迎えた八幡がはるのんと初めてのお酒を飲むところから始まるえっちな八陽を鋭意執筆中です。

・夏コミで配布した本のうち、私と高橋徹さんが執筆したR-18誌「一色いろはがエロかわすぎる!」のDL販売が始まりました! 詳しくは活動報告でご確認ください。

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


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俺と君の違うところ

 結衣の様子がおかしい。

 少し前、修学旅行で俺がやらかしてしまってから結衣はどこか沈んでいた。おそらく奉仕部と、比企谷とうまくいっていないのだろう。時々彼に視線を投げては力なく俯くだけ。

 友達のために何かしようと思って、けれどなにもできていない。比企谷に自分の価値を知ってもらいたくて、彼を大事に思っている人たちがいることに気づいてほしくて、同じ中学だったという折本さんとの遊びに連れ出したりもしたが、逆に彼を傷つけることになってしまった。

 そもそも、自分の慢心で彼らの関係を壊してしまったのに、何をいまさらというものだろう。根本的なところが“あの頃”からなにも変わっていない。きっと「皆仲良く」できると信じて、信じるだけで何もできなくて。戸部の熱意に折れて彼らを頼ってしまった。姫菜のスタンス上画期的なプランがなければ、彼が文化祭の時のような行動を取ることは分かっていたのに。

 最低だ。俺は本当に最低な人間だ。「皆仲良く」なんて言いながら、結局は自分のことしか考えていない。「皆」の定義が恐ろしく自分勝手だ。

 

『犠牲なんかじゃねえよ。勝手に決めつけんな』

 

 彼にそう言われてから、もう何もできなくなった。これが俺じゃなかったら、戸部や優美子や姫菜、あるいは他の誰かだったら、何とかできたのだろうか。

 考えても――答えは出てこない。

 

「はあ……」

 

 そうして数日経った今、明らかに結衣の様子が変わった。相変わらず落ち込んでいるが、落ち込み方の性質が変わったのだ。ため息をつくことが増えたし、時折何かを思い出したように眉間にシワを寄せているのを見る。

 その様子はまるで、何かを悔しがっているみたいだ。

 

「結衣、あんたほんと大丈夫?」

 

「えっ、……ああ、大丈夫だよ。ちょっと今までの行いを後悔してるだけだから」

 

「後悔って……あんたほんとに結衣?」

 

「ちょっと優美子、それどういう意味!?」

 

 後悔。結衣の口から洩れたその言葉に、喉に刃を突き立てられたみたいに息が詰まった。幸い戸部たちは三人で話していて気づいていないようだ。めっきり冷え込んできた冷気に冷やされた窓に背中を押し付けて、身体に溜まる嫌な熱を吐き出す。

 なにか彼らの関係に変化が訪れた。そう考えるべきだろう。結衣の反応を見る限り、それは結衣にとっていい方向ではなさそうだ。

 ひょっとしたら、ひょっとしたら……。

 嫌な可能性が、考えないようにしてもどうしても湧き起こってくる。嫌な熱と薄ら寒さの混じった不快な体温がぐるぐると渦巻いて、今にも吐き出してしまいそうだ。

 その不快感に耐え切れなくて、恐怖にあっさりと降伏してしまって――

 

「……比企谷、ちょっといいか」

 

 なにもできないと分かっていながら、また彼と関わってしまった。

 

 

 

「で、話ってなんだよ」

 

 テニスコートの見える校舎裏――彼は大抵ここで昼食を摂っているらしい――につくと、気だるげに壁に背を預けた彼が口を開く。自分で呼び出しておきながら、その問いかけになんて返せばいいのか分からなかった。

 性格も違う。環境も違う。価値観も違う。何もかもが違って、何もかもが相容れない。そんな俺が仮に説教をしたところでこの間の二の舞になることは必至だろう。

 

「結衣の……元気がないから、さ……」

 

 だから、結局そんな当たり障りのない切り出し方になってしまう。そんな俺に彼がついたため息は一体どんな意味を孕んでいたのか。

 

「そんなの今更だろ」

 

「そうだけど……最近はいつもより落ち込んでるからさ……」

 

「ああ、なるほど」

 

 よく見てんのな、と呟くような声に、我知らず唇を噛みしめてしまう。彼にそんなつもりはないはずなのに、

「気づいても何もできないくせに」なんて裏があるように感じてしまう。

 比企谷は顎に手を添えて何か考え込んでいるようだ。雪ノ下さんたちが「腐っている」と称する目からは、考えていることが読み取れない。気だるげな瞳孔は一切の動きもなく暗い色を宿している。

 

「お前、一色って知ってるよな」

 

「いろはのことか?」

 

 自分の部活のマネージャーを知らないわけがない。よくタオルや飲み物を用意してくれているし、買い出しだって積極的に行ってくれるいい子だ。

 しかし、なぜ彼女のことを比企谷が知っているんだ? 彼はお世辞にも社交的なタイプではない。同じクラスでも接点を持っている人間の方が少ないのに、どうしていろはと交流があるのだろうか。

 俺の疑問は、すぐに解決することになる。

 

「……雪ノ下が生徒会長に立候補することになった。勝手に立候補させられた一色の代わりにな」

 

「なっ……!」

 

 そういえば、掲示板に掲示されていた生徒会選挙の立候補者、会長の欄にはいろはの名前があった。自分で立候補したものだと思っていたけど、まさか勝手に立候補させられるなんてことがあったなんて……。

 いや、確かにそれも重要だが……。

 

「雪ノ下さんが……会長に?」

 

 生徒会選挙について詳しくはないが、いろはを候補者から辞退させることが難しいのなら対抗馬を用意するしかないだろう。そういう点では成績優秀で教師からの信頼も強い雪ノ下さんの立候補は恐らく最適解だ。折本さんたちとの遊びを利用した作戦の際、俺も結衣たちから立候補を打診されたが、当のいろはが俺に迷惑をかけたくないと言っていたから彼女の方が依頼的にも適任だろう。いくらいろはと言えども、高校の選挙で彼女に勝つことはほぼ不可能。

 けれど、部長が生徒会長になってしまったら――

 

「奉仕部は、どうなるんだ……?」

 

 会長になれば、彼女は普通以上の結果を出すことだろう。しかし、うちの生徒会は学校行事との結びつきが強い。文化祭や体育祭のようなお祭りごと以外にも球技大会や持久走大会なんかも一部生徒会主導なのだ。

 そんな環境で常に“普通以上”を求めていれば――どうしても生徒会運営に重きを置かねばならなくなるだろう。

 

「まあ、十中八九なくなるだろうな」

 

「そんな……」

 

 部長である彼女の影響力は大きい。実績を公にしていない部活でも「雪ノ下雪乃」がいるというだけで大多数の人間が「すごい部活」と妄信してしまう。

 逆に言えば、そんな彼女がいなくてはいくら社交性の高い結衣がいても依頼者が依頼を口にすることは難しいだろう。目に見えて活動が減ってしまうことは必然。

 そんなことは分かっている。比企谷だって分かっているからこそ、特に考えることなく「なくなる」なんて口にできたのだ。結衣も、その未来を理解したから落ち込んでいたのだろう。

 

「君はそれでいいのか? 君にとってあの部活は――」

 

 自分のことなのにまるで他人事のように振舞う彼に、無駄なことと分かっていてもつい荒げてしまった声は――

 

「……正直、俺にとってあの部活なんて“どうでもいい”」

 

「っ!?」

 

 酷く平坦な彼の声に、途中から喉を通らなくなってしまった。

 

「元々無理やり入らされた部活だし、特別棟の四階なんて行くだけで面倒だしな」

 

 なんで、なんでそんなことが言えるんだ。楽しそうにしていたじゃないか。雪ノ下さんも、結衣も、君も。あの部活で過ごす君たちは、三人とも楽しそうだったじゃないか。

 

「ま、どの道もう賽は投げられた。雪ノ下の立候補はもう受理されたし、平塚先生もこの案に同意してる」

 

 ――俺たちは、代案を用意するつもりはない。

 何も言えなくなった俺にそう言い残して、彼は教室に戻っていった。

 

「……結局俺は、また何もできない」

 

 葉山隼人に、体裁に、人間関係に、環境に縛られる。縛られて身動きが取れなくなって……脇道に逸れることが許されない。

 次の授業の開始を知らせるチャイムが聞こえたが、教室に戻る気には……なれなかった。

 

 

     ***

 

 

「比企谷! どういうことだよ!」

 

 二人っきりでもないのに思わず声を荒げてしまった場所は生徒会室。引き継ぎや荷物整理をしている雪ノ下さんやいろはが驚いた顔をしているが、今は気にしていられなかった。

 雪ノ下さんの追加立候補が発表されて、選挙は予想通り彼女の圧勝――とはならなかった。そもそも会長職は彼女のみの信任投票になったからだ。

 いろはは候補者がいなかった会計に立候補を変えて、選挙演説では「雪ノ下先輩の学校運営の考えに感動して、ぜひともサポートしたいと思いました!」と彼女を褒めちぎっていた。確かに決選投票で雪ノ下雪乃に負けても、いろはを無理やり立候補させた生徒たちは難癖をつけて彼女を貶めようとする……かもしれない。俺はそんなこと信じたくないけれど、比企谷なら十分そう考えそうだ。

 だから生徒会に入り、かつ新会長の考えに共感したということで生徒会活動に前向きな姿勢を見せる。いろはのデメリットを極力減らす、ということか。

 だが、俺が驚いたのはそこじゃない。

 新生徒会の名簿、その庶務の欄に比企谷の名前があったのだ。

 生徒会には会長、副会長、書記、会計、庶務の役職がある。その中で庶務だけは選挙を必要とせず、新会長の権限で任命することができる――ということを、ついさっき生徒手帳を見て知った――のだ。

 

「なんだよ。俺が庶務になることなんて、わざわざお前に言う必要ないだろ」

 

「そうだけど……」

 

 しかし雪ノ下さんが会長になって、君まで生徒会に入ったら結衣は一人だけ奉仕部で取り残されてしまうじゃないか。それじゃあダメだ。三人のあの空間が壊れてしまったことに変わりは……。

 

「やっはろー! ゆきのん、なんか手伝うことあるー?」

 

「え?」

 

 沈んでいく暗い考えは、明るい声が発する特徴的な挨拶によってかき消された。声の主は間違おうはずがない。俺の思考の中心にいた結衣だ。

 

「あの、由比ヶ浜さん。あまりその呼び方をここではしないでほしいのだけれど」

 

「えー、なんで? いつもゆきのんって呼んでるじゃん」

 

「ここは生徒会室なのだし、私にも会長としての威厳が……」

 

 入室と同時に雪ノ下さんを見つけた結衣は、前までと変わらない明るさで話している。いろはとも楽しそうに話す様子に、ここ最近の沈んだ表情は見えない。

 

「あ、ヒッキーやっはろー!」

 

「おう、折り合いはついた感じか?」

 

「おりあい?」

 

「……納得したかってことだ」

 

 額を抑えてため息を漏らす比企谷に、彼女は慌てながらコクコクと肯定した。修学旅行から明らかにぎこちなくなっていたはずの二人の空気も、修学旅行前のような……いや、それ以上に打ち解けたものになっている気がする。

 まるで、今ここに奉仕部があるかのように。

 

「だから言っただろ? 正直部活なんて“どうでもいい”って。そんなもんでわざわざ縛る必要はねえんだよ」

 

 雪ノ下さんに呼ばれた結衣を見送りながら、比企谷はぼそりと口を開いた。

 たとえ奉仕部がなくなったところで、それまでの関係がなくなるわけじゃない。“奉仕部”という枠組みがなくても離れ離れになるわけじゃない。

 

「お前と折本に連れ出された次の日にな、三人で話し合ったんだよ。修学旅行も含めて、今までのこととか、お互いの腹の内とかな。……あ、一応海老名さんのことは伏せておいたから安心してくれ」

 

 比企谷が普段から行ってきた、俺からすれば自己犠牲に見える行為。それを見てきた二人の想い。やってきた彼の想い。彼の行動で悲しむ人がいるということ。そして、互いのこれからやりたいこと。放課後、完全下校時刻になるまで話し合ったそうだ。

 それを経て和解し、いろはの依頼も今までとはやり方を変えた。今までの比企谷なら、選挙そのものをめちゃくちゃにするとかやっていたかもしれないから、今回の方法は明らかに違うと言えるだろう。

 

「けど、なんで君まで生徒会に入ったんだ?」

 

「バッカお前。文化祭の時の雪ノ下見てただろ? いつまたワンマンでやって、勝手に潰れるか分かったもんじゃねえじゃん。俺はそういう時のストッパーだよ」

 

 なにかいつもと様子が違っていたとはいえ、文化祭の時の彼女は確かに見ていられなかった。すぐにあの時の二の舞になるとは思わないけど、彼女の性格上、一人で全部やろうとしないとは言い切れない。比企谷の事務能力は文実で見ていた限り高い方だと思うし、そういう点でのサポートもできるだろう。

 

「それなら結衣だって庶務で入れば……」

 

「それはさすがに私物化しすぎだろ。それに、由比ヶ浜には大事な任務があるからな」

 

 ……任務?

 なにか依頼でも受けているのだろうか、と視線を結衣に向けて――

 

「由比ヶ浜さん、さすがに毎日来ては駄目よ。ちゃんと勉強をして、とりあえず次の期末テストで平均点を目指しなさい」

 

「う、……がんばる」

 

「結衣先輩! ファイトです!」

 

 ……全部納得した。そもそも普段の結衣を見ていても事務仕事の多い生徒会に向いているとは言いづらい。一人だけ奉仕部の人間を入れるのだとしたら、その点で既に比企谷が適任だったのだろう。その上で、部活がなくなった時間を利用して苦手な勉強に力を入れるようにしたわけか。

 詰まるところ、結衣の落ち込み方が変わった理由は「奉仕部では仲直りできたけど、自分の能力不足が祟って生徒会には入れなくて後悔していた」ということか。

 いろはの依頼に対するプランは分かったし、奉仕部がなくなっても関係が消滅することはないとは分かっていても、やはり今まで過ごしてきた空間がなくなることをすぐには納得できなかったのだろう。自分の心に折り合いをつけるのに今までかかった。

 結局、俺の知らないところで三人の関係は修復、発展していたのだ。

 

「……それならなんで、あの時あんな言い方したんだよ」

 

 あれのせいで、てっきり奉仕部崩壊の危機だと勘違いしてしまったじゃないか。

 少しだけ棘を持たせた視線を避けるように頭を掻くと、彼は「んー」と低く唸る。その声に罪悪感とかそういう感情は感じられない。

 どちらかと言うと、からかっているような声色だった。

 

「まあほら、折本やお前に無理やり引っ張り回された直後だったし……腹いせ?」

 

「こいつ……」

 

「おいおい、トップカーストの人間がそんな顔すんなよ。悪かったって」

 

 一切悪びれた様子を見せずに薄ら笑いを浮かべる彼に、ついつられて笑ってしまう。まあ、あれは結局俺の空回りで比企谷を振り回してしまったわけだし、おあいこ……なのか?

 

「ちょっとせんぱい、暇ならこっち手伝ってくださいよ~。ストーブ重いんですから」

 

 喉を鳴らし合っているといろはが上履きをペタペタと鳴らしながら近づいてきて、「せんぱい」の単語を聞いた瞬間に比企谷が隠す気のない仏頂面になった。まあ、比企谷はこういうタイプ苦手そうだもんな。いい子なんだけど。

 

「その猫撫で声、あざといからやんな」

 

「え~、これでも抑えてるんですけど……」

 

「それで抑えてるって、普段のお前どんな声出してんだよ。猫撫で通り越して猫そのものになってんじゃねえの?」

 

「猫そのものって……はっ、まさか猫みたいでかわいいって口説いてるんですかすみませんちょっと一瞬ドキッとしましたけどそういうのは好きな人に言われたいんでなんか無理です、ごめんなさい」

 

「ねえ、なんで今俺振られたの? 告ってないよね?」

 

 苦手……なのか? 対話が驚くほどスムーズだったけど。というかいろはすごいな。あんな早口できたのか。後輩の意外な特技を発見してしまった。

 

「む~、せんぱいに性格変えろって言われましたけど。人ってそうそう変わらないって言ったの先輩じゃないですか~。すぐにガラッと変えるのは無理っていうか~」

 

「別にガラッと変えろなんて言ってねえだろ。お前の失敗は味方以上に敵を増やしすぎた点って雪ノ下も言ってたわけだし、少しくらい敵を減らすように立ち回りを考えろってことだ。そうしねえとまた似たようなことやられるぞ」

 

 なるほど。今回の依頼解決方法、見方によっては魚を与えていて奉仕部の理念に反しているように見えるが、今回の経験と生徒会の仕事を経ていろはの意識改革を図ろうとしているわけか。ここだけ搦め手で乗り切っても、結局いろはが変わらなければ別の場面で同じことが繰り返される。

 最後の最後は正攻法なところは、どこか雪ノ下さんらしいな。

 

「まあ、それは……いやですね。ぼっちのせんぱいに言われるのは癪ですけど」

 

「俺はいいんだよ。なんてったってプロぼっちだからな」

 

「うわぁ……」

 

「露骨に引くのやめてくれない?」

 

 やっぱり仲いい……よな。苦手と言いつつなんだかんだ波長は合うのかな? もしくはこれが前小町さんの言っていた捻デレ……ってやつだろうか。

 

「比企谷くん、サボってないで手伝ってもらえないかしら。いつまで経っても終わらないわ」

 

「ヒッキー早く!」

 

「へいへい……」

 

 二人に呼ばれて気だるそうに背中を丸めながら彼は立ち上がる。その口元は、少しだけ緩んでいるように見えた。

 もう奉仕部は存在しない。けれど、形としての“奉仕部”はなくなっても三人は変わらなくて、むしろいろはや他の役員も合わさって前に進んでいるように見えて――

 ――君はそうやって、俺にできないことを簡単にやってのけるんだな。

 湧き上がってきたのは敬意、憧憬、嫉妬といった俗な感情。俺がそういう感情をいだけることに、他ならぬ俺自身が一番驚いていた。

 それは“葉山隼人”にはいらないものだと思っていたから。存在しないものだと思っていたから。

 

「ん、どうしたんだよ。じっと見てきて」

 

 だから俺は、そんな感情を湧き起こす原因になった君のことが――

 

「いや、やっぱ俺は比企谷のこと、嫌いだと思ってさ」

 

 俺の持っていないものを持っているから。俺にできないことができるから。

 俺の言葉に一瞬目を見開いた比企谷は「ふーん」と小さな声を一度挟むと。

 

「奇遇だな。俺もやっぱお前のこと嫌いだわ」

 

 ニヒルに口角を上げて笑ってきた。俺にはできそうにない笑みに、また釣られて笑ってしまう。

 俺たちは決して交わらない。理解しえない。性格も、環境も、価値観も、何もかも違うから。

 けれど、いやだからこそ。

 交わることのない道の端で、俺は彼に憧れ続けるのだろう。




 イチャイチャ? まあ、あくまでこのシリーズは俺ガイルSS短編集なんで、許して!

 八幡のからかいに翻弄される葉山というか、そういうやり取りを書きたいなーと思って、思うがままに書いてみた話。
 割とよく書いたり妄想したりするんですが、八幡と葉山はなんだかんだ悪友みたいに関係になれそうだよなぁと思います。大学が一緒になった葉山が八幡をコンパとかに連れまわして、グチグチ言いながらも八幡もなんだかんだついて行ったりみたいな友人関係はやはちは……滾る。

 今絶賛冬コミの原稿の最終チェックをしています。修羅場です。超修羅場です。色々と一段落したら、pixivの方にサンプルをのっけようかなと思います。
 ちなみに今回も私はR-18組なので、18歳未満で読みたいと思ってくれている方、申し訳ない><

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


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小説家になりました。

 カリカリ、カリカリと慣れ親しんだ四百字詰め原稿用紙に黒鉛を滑らせていく。六方晶系の黒い炭素が真っ白な紙の上に文字を成し、それが連なって文となっていく。さしたる意味を持たなかった文と文が合わさり意味のある物語へと変貌する。

 頭の中に存在した世界が現実で形を成す瞬間は痛快の極みだ。物書きというものを職にしてから何度も辞めたいと思ったものだが、なんだかんだと続けているのはやはり何かを作り上げるという行為が好きだからなのだろう。

 一度入ると驚異的な集中力、とは担当編集者の評価だ。学生の頃からそうだったが、没頭すると周囲の音がなくなり、大抵のことは気にならなくなる。……まあ、以前そのせいで担当からの再三の電話に気づかず叱られてしまったのだが。……あそこまで怒ることはないだろうに、カルシウム不足だろうか。

 

「ふう……」

 

 ただ、いくら集中できるとは言っても限界はある。高校時代同級生だった完璧の塊のような社長令嬢や弁護士と医者が親なんていうラノベキャラかよと突っ込みたくなるようなトップカーストの主にも欠点があったように、我の集中力も六時間もすれば切れてしまうのだ。

 一人称を見てこれを読んでいる皆の衆はお気づきだろうか。そう、我は剣豪将軍材木座義輝である。八幡かと思ったか? 甘い、甘いぞ諸君。マックスコーヒーコーヒー抜きくらい甘いではないか! ……それもはやただの練乳であるな。

 齢二十と八つ、一応“小説家”と臆面もなく名乗れる地位にいる。先月は初めてのサイン会も開催できたのだぞ。うれしいことではあるのだが、コミュ障にあの催しはなかなかに辛い。やはり我は孤高の存在……ふひっ。

 高校の頃も生活の大半を執筆に充てていたが、強制される学業もない今は真の意味で小説中心の生活を送っている。出かけるときも大体取材であるからな。

 今も新しい小説を一つ書き上げたところだ。我の自慢はその圧倒的執筆速度である。調子のいい時は二週間で一冊書き上げるからな。もはや新生西尾維新大先生と呼ばれるのも時間の問題であろう……と前に担当に漏らしたら、調子に乗るなと原稿で叩かれた。紙だって五百枚も集まれば凶器になるというのに。

 

「あやつは我の扱いがぞんざいすぎる」

 

「誰がぞんざいですって?」

 

「っ!?」

 

 突然後方から響いた声に振り返ると、作業場と一つ続きになっているリビングのテーブル――一人暮らしなのに見栄を張って四人用を買ってしまった。将来への投資だと信じたい――に担当編集様が腰を下ろしていた。社会人ということで短く切り揃えられた髪は、しかしどうしようもないのか一房だけピョコンと跳ねており、読書の最中だったようで若干猫背気味に文庫本を開いていた。

 

「電話にも出ないし、チャイムにも反応しないから勝手に上がらせてもらいましたよ、材木座先生」

 

 パタンと本を閉じると、どんよりと気だるげに八割くらい瞼を開けた目を向けてきた。こうして文字に起こしてみると、こやつの容貌特徴しかないな。

 そう、我の担当こそ皆大好き比企谷八幡なのだ。高校を卒業してから我が電話をするくらいしか接点がなかったが、こやつはあろうことか大手出版社に就職を果たしておった。そして小説大賞で遺憾ながら大賞を受賞した我と八幡は受賞会場で再会し、しかも偶然にも小説家とその担当という関係に至ったのだ。我を担当することを知った八幡の顔を我は一生忘れないであろう。……この世の地獄かと思うほど露骨に嫌そうな顔をしておったからな。あの時ばかりは高校時代並みに目を腐らせておったし。

 

「というか、今日は打ち合わせの予定でしたが、ひょっとした一冊書き上げたんですか?」

 

 仕事中の八幡はよせと言っても敬語を解かぬ。旧知の仲だというのに他人行儀なのは悲しいが、あの八幡がちゃんと仕事をしているだけで我嬉しい。さすがに専業主夫になっていたらドン引きしていたところであったからな。

 机に広げていた数百枚の原稿用紙をまとめていると、少しだけ目を丸くしながら近寄ってくる。高校時代は事あるごとに一蹴してきていた八幡を驚かせることができるのはちょっとした優越感に浸れていい。これでも一応プロ小説家であるからな。ワナビだったころとは違うのだよ。

 

「そうなのだ。先週頭にインスピレーションが浮かんでな。打ち合わせをする暇さえ惜しくて先に書き上げてしまった」

 

「一週間で書き上げるって……また記録更新ですか……」

 

 賞賛を通り越して逆に呆れられてしまった。まあよい。こんなことは中途半端に高スペックな八幡にはできないことであるからな。我は特化型ハイスペックなのだ。

 

「で、どんな話なんです?」

 

 さすがに一冊分の本をこの場で読むことは難しく、本の卵を受け取りながら問いかけてくる。我自身の作り上げた小説だ。あらすじを伝えることなど造作もない。

 だから我は、今世紀最大の決め顔でこう言った。

 

「百年後の未来からタイムスリップしてきた主人公が、時空の歪みでファンタジー世界と混成した現代日本を救う物語だ!」

 

「…………」

 

 …………。

 ………………。

 あ、あれ? なぜハチえもんは無表情になっているのだろうか。我の決め顔そんなに微妙だった? というか、なんか原稿用紙がグシャッって歪んでる気がするのだが。それ我の傑作小説なのだが……。

 

「材木座」

 

「な、なんであるかな。ムハハハハ……」

 

「その笑い方やめろ」

 

「アッハイ」

 

 ドカッと机の上に腰を下ろし、無表情のまま原稿に目を落としている担当様の声はひどく平坦で、いつのまにか我への敬称も敬語もなくなっていた。端的に言って怖い。初めて雪ノ下嬢に酷評された時より怖い。

 

「お前、職業なんだっけ?」

 

「……小説家、です」

 

 居住まいを正して何とか答えると、担当様は一瞬だけ瞑目して首を横に振った。そして再び原稿を読みながら――速読で読んでいるのであろう。既に六枚目だ――表情を崩さずに問いかけてくる。

 

「なに小説家だっけ?」

 

「えっと、あの……」

 

「…………」

 

「……………………歴史小説家……です」

 

 白状しよう。確かに我は念願の小説家になったのだが、高校の頃から書いていたライトノベルではなく歴史小説なのだ。毎年名だたるライトノベルレーベルの小説大賞に応募し続けたが、何度応募しても一次選考落ちでむしゃくしゃしていた時になんとなく目についた歴史小説大賞に応募したのが最大最悪の失策。あろうことか大賞を取ってしまって

「歴史作家:材木座義輝」の肩書にガッチリとハメられてしまった。

 

 なぜ息抜きに書いた適当小説があんなに高評価を受けてしまったのか。某お船のゲームをやっていた時に調べたことを適当に脚色して書いただけだというのに、ネットでの評価はどれも大絶賛なのだ。おかげでおいそれと「適当に書きました」なんて言う事も出来ず、高校の頃からずっと歴史小説ばかり書いていたと嘘をついてしまった。

 

「お前時々ラノベの原稿こっそり書いてくるけどさ、なんでラノベになると主人公自分でヒロイン満載ハーレムになるんだよ。未来から来た主人公の一人称が“我”とかおかしいだろ」

 

「そう……でしょうか。キャラが立ってていいのでは」

 

「よくねえだろ! つうかこの『異世界にある宝物庫から多種多様な武器を出す』って能力で敵を「雑種」って言ってる時点で駄目じゃねえか! パクんなって言ってんだろ!」

 

 あ、やっぱダメかぁ。なんかノリで押し通せるかと思ったけどダメかぁ。

 

「しかし、お前ほんとラノベ書くと文章力ガバガバになるよな。歴史小説の方は最初読んだときゴーストライターでもいるのかと思ったくらいなのに」

 

 ほんとなんでなのだろうか。それは我にも分からない。分かる人間がいれば我に教えてほしい。

 

「もうパッと読んだ時点でボツ。うちでも指折りの稼ぎ頭がこんな駄作出版したら大問題だ。会社が潰れるまである」

 

「そんなに……」

 

 ひどくない? 八幡ひどくない? ジャンル違うとはいえ我プロだよ? さすがにそこまで酷評されるような出来なわけがないではないか。

 

「じゃあ、試しにこれ小説サイトにアップしてみるか?」

 

「それはやめろ! 顔の見えないのをいいことに酷評してくるような奴らに見せたら我が死ぬ!」

 

 ハッ! つい過去のトラウマを思い出してしまった。ハハハ、仮に投稿したとしても我の作品が酷評されるなんてありえはせんわ。……絶対投稿しないが。

 

「別に匿名で投稿サイトとか同人で書くのは構わねえけど、うちで出版するのは歴史小説一本だ。分かったな?」

 

「はい……」

 

 まあ、サイン会を開けるまでになれたのは八幡が担当だったから、というのも大きいので担当様の意向にはそうそう背けるものではない。こやつ社内では「新人ブリーダー」なんて呼ばれているらしいからな。ほんと、なんだかんだできる男よ。……チッ。

 

「つうか、今歴史作家で十分売れてるんだから、どの道当分はこれ一本で行こうぜ。この間発売した新刊も売れ行きいいんだから」

 

 確かに我の本の売れ行きはいい。小説家デビューするまではフリーターだった故極貧生活が続いていたが、今では下手な社会人よりいい収入を得ているだろう。

 しかし、しかしだ八幡よ。我は金のために小説を書いているわけではないのだ!

 

「歴史小説では……声優さんとお近づきになれないではないか!」

 

「動機が不純すぎるわ!」

 

 しょうがないではないか。本が売れても平均購買層は三十代四十代なのだぞ? 十代二十代で我を知っている人間などほとんどおらぬし、歴史小説ではアニメ化はほとんどありえん。サイン会だって来るのはおじちゃんおばちゃんばかりで、若くてかわいい声優さんとお近づきになる機会は一切ないのだ。成功者のはずなのにある意味苦行とかおかしいではないか!

 

「アラサーにもなって夢見すぎだろ。付き合うなら普通の人と付き合えよ」

 

「それ、貴様にだけは言われたくない」

 

 マジでこやつにだけはそんな夢のないことを言われたくないのだ。戸塚殿から言われるのはよくてもこの比企谷八幡からは絶対に言われたくない。いや、戸塚殿が言う事は大抵許せてしまうから比較対象としてはおかしいかもしれないのだが。

 閑話休題。

 まあ、八幡とて前世からの縁を持つ相棒。大抵のことは許容できよう。だがしかし、「声優とお近づきになるなんて夢見すぎだ」なんて文言だけは一切許すことはできぬ。

 なぜなら――

 

「アニメ好きに知らぬものがいないほどの人気声優、一色いろはと付き合っているお主が夢見すぎなどと言うな! しまいには泣くぞ!」

 

「泣いてる。もう泣いてる」

 

 総武高校の生徒会長を務めた一色嬢は大学生の頃に――八幡の勧めで――声優オーディションに応募。合格したかと思えば甘い声、整った顔立ち、トーク力であれよあれよという間に人気を博し、今季アニメでは六作も出演している人気声優になっている。

 そして、あろうことか八幡はその一色嬢と付き合っているのだ。しかも事務所公認! 我の夢を八幡が叶えるとかおかしいであろう! おかしくない? おかしいよね? なんでこうなった? 神様残酷すぎない?

 ……失礼、少々取り乱してしまった。まあ、そもそも一色嬢が声優になる前からこの二人付き合っておったのだが、だからと言って納得できるものでもなくてだな。未だにちょっと複雑な心境になるから我に対して声優の話をするのはやめてほしい。……そもそも話題を出したの我だった、テヘペロ。

 

「キモい」

 

「痛い!?」

 

 殴られた! この人殴りました! グーです! ものっそい固めたグーです!

 ……二十八歳のテヘペロは普通にキモいな。我に至っては高校時代からキモいまである。……ぐすっ。

 

「ったく、お前がラノベだの一色だの話題を逸らせるせいでもうこんな時間じゃねえか」

 

 腕時計を確認してため息をついた八幡は原稿の束をファイルに挟んで鞄にしまう。一応持ち帰ってくれるのだな。さすが八幡、優しい。我は信じておったぞ! というか、未だにこやつ一色嬢のこと苗字呼びなのか。もう八年以上付き合っておるのだから、いい加減下の名前で呼べばいいのに。いっそのこと結婚しろ。末永く爆発しろバカップルめ!

 

「というわけで、改めて次の小説の打ち合わせをしましょうか、材木座せ・ん・せ・い?」

 

「ぇ、あ……はい」

 

 再び仕事モードに戻った八幡に逆らうことなど不可能な我である。つうか、ちょっと怒ってない? 我の心の中読んだ? 我もお主のことは好きだが、それはちょっと怖いぞ相棒よ。

 些末事は意識の脇に追いやって仕事の話を進めていく。内容はもちろん歴史小説で、我の一番書きたいものではない。嫌いではないのだがな。

 高校時代に思い描いていた夢とは少し違ってしまったが、なんだかんだと今の生活を楽しんでいるのも事実なわけで、少なくとも後悔はしていない、と言えるだろう。

 まあ、ラノベ作家デビューを諦めたわけではないがな。また今度仕事の合間にこっそりと書くとしよう。

 

 

 

 後日、あのラノベ原稿を八幡が匿名でサイトにアップして当然と言わんばかりに酷評され、三ヶ月ほどラノベを書こうとも思わなかったのは別の話だ。八幡ひどい、でも許す。




 結構前に「コナン・ドイルって歴史小説で売れなくて半ば適当にホームズ書いたら売れちゃって苦労したんだってね」って話をしてたときに思いついた材木座に真逆の立場になってもらおうってお話。八色風味なのはご愛嬌。
 個人的に材木座って天井がないとどこまでも突き進む性格だと解釈しているので、史実である程度のルートが決まっている歴史小説とか架空戦記モノを書かせると案外大成しそうだなって思ってます。本人が納得するかは別として!

 ハチトツの和気藹々とした雰囲気も好きなんですが、ハヤハチやハチザイみたいな殺伐というかオブラートなしのぶつけ合いをする関係も書いてて面白いと思います。八幡が徹底的に無遠慮になるのが個人的に好み。あ、もちろんホモの話ではないです。男友達的なサムシングでね?


 少しお知らせを。冬コミまで一週間ほどになりましたが、pixivにサンプルを上げています。URLは活動報告に貼ってあるのでよろしければ。
 他メンバーも各々サンプルを投稿していますので、興味があればそちらもご覧になってみてください。

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


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あなたを追いかけて。君を待ちわびて。

 四月。新年度である。並木道には開花宣言よりも少し遅めに咲いた桜が咲き乱れ、俺を含めた四桁を超える人間を出迎えてくれていた。

 総武高校で三年を過ごし、つい一月前に卒業した俺も今日から大学生だ。初めて公共の場で着る真新しいスーツに緊張しつつも並木道を抜け、入学式が行われる会場――二千人以上の人間を収容できるスペースが学内にないようで、公共の体育館だ――に入る。

 上回生らしきスーツ姿の人に誘導されて学部ごとに並べられたパイプ椅子に腰を下ろすと、ふぃーと小さく息を漏らした。脱力したわけではなく、逆に緊張が強くなって浅い呼吸しかできなかったためだ。

 周りも多少ざわついているがそのほとんどが観覧席に座っている保護者のもので、周りの人間はチラチラとせわしなく周囲に視線を巡らせていたり、時間を確認するためにスマホを何度も取り出したりと各々が緊張を滲みだしている。っていうか、大学の入学式に親って来るもんなんだな。今日は平日だし、俺の両親は当然のように社畜してるのに。や、休日でも来ねえわ。絶対寝てるわあの二人。

 両親の社畜具合に心で泣いていると、会場内に響いていたざわめきがスッと引いた。顔を上げると壇上脇に設置されたマイクスタンドの前にスーツ姿の女性が……あれれ、おかしいぞ? なんか見覚えがある顔なんですが?

 

「それではただいまより、千葉大学入学式を始めさせていただきます」

 

 多少雑味の入った、それゆえに完璧を漂わせる声。雪ノ下陽乃の声が会場中に響き、来賓席と観覧席から拍手が溢れだす。

 マイク前に立つ陽乃さん。そしてその口から発せられた大学名。もうお分かりだと思うが、俺は国立千葉大学に入学したのだ。え、お前私立文系志望じゃなかったのかって? や、確かに二年の頃はそんなことも言っていたが色々と事情が変わったのだ。理系が絶望的な俺だったが、学部の試験が文系に大きく比重が傾いていたので割と何とかなった。学費も安くなったから両親も喜んでたしな。国立受かったことより金に関して喜ぶなんて、うちの親は息子の進路にドライすぎる。別にいいけど。

 それにしても、入学式の進行あの人かよ。あの人が前にいると気まずいというか恥ずかしいというか。

 そう思いつつも一度反らした顔を元に戻して――

 

「っ!」

 

 思わず喉の奥から変な音が鳴りそうになってしまった。さっきまで少し猫背だったのに背筋がピシッと伸びてしまったせいで隣の入学生が不審そうにこっちを見てきたようだが、あいにくそれを気にする余裕はない。

 なぜなら目線を進行マイクの方向に戻した一瞬、彼女が俺を見て微笑んだように見えたのだから。

 ……いやいや、八幡くんちょっと自意識過剰すぎるでしょ。いくら雪ノ下さんが俺の入学を知っているとは言っても、二千数百人がひしめいている中から見つけられるわけがない。あれだ。ライブでアイドルが「愛してる」って歌詞のところで俺を見た! って絶叫するドルオタのあれみたいに錯覚しただけ。ライブとか行ったことないし、さすがにああいう発言はやばさが天元突破してると思うから一緒にしたくないけど。

 意識して視線を彼女から外す。メインステージである壇上では学長やら偉い人の挨拶やらチアリーディングサークルのパフォーマンスなどがつつがなく行われていた。ちなみにここのチアリーディングサークルの名前、某アイドルゲームのユニット名と一文字違いだったりするらしい。……めちゃくちゃどうでもいいなこの雑学。俺の千葉愛がこんなところで発揮されてしまうとは。

 そんな壇上の光景をぼーっと眺めているうちに少しずつさっきことは頭の隅に追いやられていった。節目節目で声は聞こえてくるので、あの人の存在感自体はバッチリ刻み込まれてるんですけどね。

 

「それでは、以上で入学式を終了いたします。新入生の皆さんは出口よりご退場ください」

 

 雪ノ下さんの締めの言葉に静まっていたざわめきが再燃し、それぞれ席から立ち上がった新しい同期たちが会場の外へと流れていく。まあ、この二千数百人のうち俺が関わるのは一桁ぐらいだろうけど。むしろゼロの可能性まである。さすがプロぼっち、一般人にできないことを平然とやってのける。

 俺もそんな人の流れに身を任せて外に――

 

「ひゃっはろー! 比企谷くん!」

 

「うおっ!?」

 

 出ることは叶わなかった。いきなり腕を掴まれたかと思うと、集団の中から引きずり出されたのだ。人の流れに逆らう力になすすべなく引っ張られていくと、やがて身体が人込みから抜け出る。空気中の酸素濃度が高まったような錯覚を覚えながら、疲れをため息に変えて吐き出した。

 

「つら……いきなりなんですか、雪ノ下さん」

 

 まあ、俺に対してこんな横暴を働く人間はこの空間に一人しかない――そもそも知ってるやつが二人しかいないけど――わけで、顔を上げるとさっきまで壇上横にいたはずの千葉の魔王がニッコニコと満面の笑みを浮かべて佇んでいた。なんでそんな楽しそうなんですかね。俺に会えて嬉しいの?

 ほんと、そういうのはやめていただきたい。勘違いしてしまうから。

 

「比企谷くんと久しぶりに会えたからねぇ。今のうちにお話しとこうと思って。合格のお祝いもしてないしね!」

 

「まあ、そうっすね……」

 

 最後にこの人に会ったのは文化祭の頃――去年も有志で参加していた。暇なのだろうか――だったか。それまではことあるごとに奉仕部にちょっかいを出していたというのに、それがぱったりとなくなった。平塚先生曰く受験生である俺たちに遠慮しているとのことだったが、当の妹は逆に不気味がっていたな。さすがに失礼じゃない? いくら雪ノ下さんだってそれくらいの配慮は……や、まあ俺もちょっと不気味に思ったけど。

 そんなこんなで自分から合格報告をすることもなく今日まできたわけだ。まあ、報告しようか考えはしたんだがな。あれがあれであれだったから。

 

「というわけで合格……は今更だし、入学おめでとう」

 

「……ども」

 

 入学式中とは違って真っ正面から、明らかに自分にだけ向けられた微笑みに、思わず顔を逸らしてぶっきらぼうな返事をしてしまう。

 これだから報告したくなかったのだ。たった一言だけで顔から火がでそうなほど恥ずかしくなってしまった。直視なんてできようはずもなく、スーツ姿の上回生たちがパイプ椅子を片づけている光景を意味もなく眺めながら静かに跳ねる心臓をなだめ続けるので精一杯。

 

「それにしても、雪乃ちゃんからここに合格したって聞いたときはお姉さん驚いちゃったよ。比企谷くんって私立志望って聞いてたけど?」

 

 そんな俺の内心を知ってか知らずか、変わらない口調を響かせてくる。

 

「まあ……平塚先生とかに『もっと力を試してみろ』って言われたんで」

 

 嘘は言っていない。進学校である総武校はどうしても生徒により良い――主に偏差値的に――成績を求める節がある。能力の高い生徒――自分でこんなことを言うのは二年前を思い出して嫌なのだが――には志望大学より上の大学を、私立志望者には国立を勧めてくる。雪ノ下なんてとりあえず東大を受けてみろなんて言われたらしいしな。とりあえずってなんだっけ……?

 まあ、いかにもやりづらそうに国立の受験を勧めてきた平塚先生の言葉に乗ったのは他ならぬ俺なわけだし、逆にその勧めを蹴ってうちの大学の法律政治関係の学科を受験、合格したのは雪ノ下自身の意志なわけだが。

 

「そっかぁ。てっきりお姉さんを追いかけてきてくれたのかなって思ったんだけどなぁ」

 

「そんなまさか――」

 

 思わず、本当に脊髄反射で口から否定の言葉があふれ出して――

 

「だよねぇ。そもそも比企谷くんは雪乃ちゃんのだしね」

 

「っ……!」

 

 次の瞬間には喉の奥から音が消えてしまっていた。

 この人はいつもこうだ。会えば俺をからかってくる。まあ、あの妹と同じ部活で卒業までの丸二年を過ごした男子ということでかまわれているのだろうが、こちらの気持ちも少しは考えてほしい。……考えた上で、あえてこんな対応をされている可能性もあるんだけど……やっぱ魔王怖い。

 

「それでさ、比企谷くん。もしよかったら……」

 

「あれ? 陽乃先輩なにしてるんですか?」

 

 表情を綻ばせたままなにか提案をしようとしてきた彼女の声に、聞き覚えのない声色が重なった。揃って声のした方に振り向くと、上級生だと思われるスーツ姿の女性たちが近づいてきているのが見える。相変わらず友達多いっすね……あれ? はるのんなんでちょっと顔ひきつってんの?

 

「陽乃先輩、暇なら片づけ手伝ってくださいよぉ。椅子めっちゃ重いんですから」

 

「ごめんね、後輩に会ったからちょっとね」

 

 ひきつっていると言っても些細な変化だったので、近づいてきた集団は気がつかなかったようだ。

 むしろ彼女の口から出てきた「後輩」という単語のせいで、瞬時に興味が隣にいた俺に移ってしまったみたいで……。

 

「あ、新入生の子かな? 初めまして~」

 

「初めまして! ハルせんぱいの後輩ってことは総武? わー、超頭いいじゃん!」

 

「総武って?」

 

「千葉でもかなりの進学校だよぉ」

 

 おかしい、挨拶をされたはずなのに圧倒的会話密度でどもることもできないんだが。これが……コミュ力……。

 

「緊張してるのかな? 黙っちゃってかわいー」

 

「いや、あの……かわいいはあまり嬉しくないと言いますか……」

 

 ほとんど口を利かないなんて普段ならマイナス印象まっしぐらものなのだが、入学式という状況のせいかそれとも大学生の余裕という奴なのか、いずれにしても微妙に好印象に受け止められているようだ。

 しかし、千葉の魔王だけならともかく――それでもめちゃくちゃ緊張するのだが――全く未知の存在も出てきて、俺のライフはゼロどころか余裕でオーバーキルものだ。早々にこの場を離れたい気持ちでいっぱいである。むしろいっぱいいっぱい。

 

「あっ、いいこと思いついた! 今夜コンパしましょ、コンパ!」

 

「いいね! 後輩くんも一緒に!」

 

「いいですよね、ハルせんぱい」

 

 え、なにその提案。出会って即引っ張り回されるとか、ちょっと俺の理解の範疇越えてるんですけど。雪ノ下さんの作戦かとも思ったが、彼女も驚いているところを見るにどうやら違うようだ。

 ということは……。

 

「……分かりましたよ。参加します」

 

「やった! じゃあ場所どこにする?」

 

「えっとねぇ……」

 

 了承の言葉を漏らすと女性陣――そもそも今この集団に男は俺だけなのだが――のテンションが一段階上がったようで、早速場所や時間の打ち合わせを始めだした。

 

「よかったの、比企谷くん?」

 

 大学周辺の地理にそこまで明るくないため、その集団から二歩ほど離れて一時の平穏に身を委ねていると、同じく抜け出してきた雪ノ下さんが近づいてきた。魔王たらしめる仮面をしていても分かるくらい申し訳なさそうな表情をして、「ごめんね」と謝ってくる。

 

「まあ予定もなかったですし、問題ないっすよ。……疲れそうですけど」

 

 雪ノ下陽乃の後輩という肩書きがある以上、ここで断ると間接的に雪ノ下さんのマイナス評価になってしまう可能性がある。この人ならその程度のマイナス簡単にプラスにしてしまうだろうが、個人的理由でここは乗っておくのが吉と判断した。

 

「比企谷くん……大学では予定、作れるといいね」

 

「心配してるように見せかけて傷抉るのやめてもらえませんかね……」

 

 予定。予定ね。

 本当なら今日の夜は別の予定を入れたかったのだが、そんな度胸はそもそもなかったので問題ないだろう。実質達成みたいなところあるし。

 とりあえず目下の問題は、小町にコーディネートを頼む際の質問責めをどう切り抜けようかということだった。

 

 

   ***

 

 

 コンパって聞くと俺ガイル読者――読者って言っちゃった――の高校生とかは静ちゃんが足繁く通っているような出会いを求める集まりを想像するかもしれないけど、要は飲み会の通称みたいなものだ。サークルとかゼミとかの人間で集まって、食べて飲んで雑談するだけ。今回のコンパもそういうものだ。

 ……まあ、その中心にいるあの子はずいぶん疲れてるっぽいけど。

 

「あ、比企谷くんグラス空いてるじゃん。はい、これおかわり!」

 

「いやあの、俺未成ね――」

 

「大丈夫大丈夫! 実質ジュースだから!」

 

 差し出されたグラスを最初は断って、けれど勢いに押されてなし崩し的に受け取ってしまっている。気づかないうちに数杯お酒が入ってしまっているようで、目尻の下あたりがほんのり朱に染まりだしていた。大丈夫かな。さすがに後輩たちも最低限の節度は守ってくれると思うけど……。

 

「比企谷クン、高校では部活とかやってたの?」

 

「あー……奉仕部って部活に……」

 

「奉仕部!?」

 

「いかがわしいやつだそれ!」

 

「お姉ちゃんにもご奉仕して!」

 

 というか、比企谷くん以上に周りの酔い方がまずい。君たちちょっとテンションおかしくない? ただでさえ人間不信気味の比企谷くんが引いちゃってるから自重してあげてほしい。女の子の闇を見せないであげて……。

 そんなわたしはどうにもあの輪の中に入りきれず、微妙な位置から比企谷くんと後輩たちのやりとりを眺めてお酒を口にするだけ。質問の内容もわたしが知ってることばっかりだしね。

 本当なら今日は入学祝いに比企谷くんと二人で行きつけのレストランに行こうと思ってたのに。比企谷くんだし、誘ったところで来てくれる保証ないけど。

 頭の中でもやもやを噛み砕いて、お酒と一緒に飲み下す。お酒は好きな方だけど、今日のお酒はなんとなくおいしく感じないのが残念だ。

 そんなわたしにはお構いなしに、完全にできあがった女性集団のペースでお酒の席は進んでいく。

 こういうとき、女子の行き着く先は決まって一つだ。

 

「比企谷くんって彼女とかいるのぉ?」

 

 いわゆる恋バナ。質問をした当人だけでなく、さっきまで思い思いにはしゃいでいた他の子たちも興味津々といった具合に口を休めて新入生の答えを待つ。

 そんな中、質問を受けた比企谷くんは一瞬だけわたしを見て、瞑目しながらちびりと小さくお酒を口に含んだ。

 

「いませんよ」

 

 主張の少ない声が紡いだ声に、一瞬の静寂が錯覚であったかのように皆またしゃべりだす。まさに水を得た魚のような元気具合だ。

 

「ほんとにぃ? 比企谷くん顔いいのに、意外」

 

「目がもうちょっとキリッとしてたらあたしの好みドストライクだったなぁ」

 

「バッカあんた、この目がいいんじゃない。ね、お姉ちゃんが彼女になってあげよっか」

 

 さすがに元気すぎない? 会って一日で告白してる子までいるんだけど。

 まあ、彼女たちの気持ちも分かる。初めて出会った二年前と比べると、比企谷くんはすごくかっこよくなった。奉仕部で雪乃ちゃんたちと交流してきた影響か、「腐っている」とまで言われた目は「気だるげ」くらいまで改善され、元々の目鼻立ちの良さも相まって十分イケメンと言って差し支えないレベルだ。会話の時にどもることも少なくなったし、二年の頃の諸々がなければ隼人ほどではないにしても告白の二、三回はされていてもおかしくなかっただろう。

 けれどそれを別の、雪乃ちゃんですらない人間が口にするのはなんというか……イライラするというか……。

 あれ? そもそもなんでわたしはイライラしているの? お気に入りの後輩がちやほやされているから? ちやほやしている側も後輩だ。仲のいい後輩同士が仲良くなることは、むしろ喜ばしいことではないか。

 いや待って。そもそもなんでわたしは今日、比企谷くんを食事に誘おうとしたの? 合格祝いをできなかったから入学祝いと一緒にお祝いするため? それなら同じくこの大学に入学した雪乃ちゃんも一緒に誘うのが筋というものだろう。どうして二人っきりで行こうとしたのか。

 分からない。彼をして完璧と言わしめた頭でも答えに行き着かない。

 

「手を出しちゃダメだよ。比企谷くんは雪乃ちゃんのものだからね」

 

 だからなのか。まるで防衛本能のようにわたしの唇は、その言葉を口にしていた。

 自分でもいろんな意味でよく通ると自負している声を聞いた彼女たちが数瞬かけて意味を理解し、好奇心に駆られた目で興味をわたしに――

 ――ガンッ!

 移すことはなかった。その前に響いた鋭い音に視線が集中したのだ。

 

「俺は……」

 

 音の発生源、空になったグラスをテーブルに押しつけたまま比企谷くんは俯いていて、陰になった表情はよく見えない。

 けれど、なぜか彼の肩は小さく震えているのが見えた。

 

「…………」

 

 誰も、なにが起こったのか、なにが起こるのか分からず、静まりかえってただただ比企谷くんを見つめている。わたしも声をかけることすらできなくて、彼から目を離せなくなっていた。

 やがて、薄布を丁寧に剥がすようにゆっくりと彼が顔を上げる。一気にお酒を飲み干してしまったせいかさっきよりも明らかに顔を赤く染めた彼は、いつもの気だるげなものよりも明らかに力を込められた目を――まっすぐにわたしに向けていた。

 

「俺は……俺が好きなのは、陽乃さんです」

 

「ぇ……?」

 

 なにを言われたのか分からなかった。五回ほど頭の中で彼の言葉を反芻させて、ようやくその意味を理解できたほどに唐突で、わたしにとっては突飛な言葉だったから。

 比企谷くんが、わたしのことを……好き? LOVE?

 いや、いやいやいや。

 一体いつから君はそんなに冗談言うようになったの? だって、だって君、わたしのこと苦手だったじゃない。会ったら露骨に嫌そうに顔を歪めるし、わたしがどれだけ誘っても……誘って、も……。

 

「散々人のこと誘ってきたくせに、いざこっちがその気になったらパッタリ来なくなって。私立から千葉大に進路変えたのも陽乃さんと同じ大学に行きたかったからですよ。ええさっきあなたに言われたように、『あなたを追いかけてきた』んです! 悪いですか? 好きな人と同じ大学来ちゃ悪いですか!?」

 

 こちらの思考はまとまるよりも先に、堰を切ったようにまくし立てられる言葉に塗り潰されてしまう。

 

「俺は俺のものだし、仮に誰かのものになるとしてもそれは雪ノ下雪乃じゃない。雪ノ下陽乃、あなたじゃなきゃ嫌なんです」

 

 溶かされてしまう。絆されてしまう。いや、その表現はきっと間違っているだろう。

 だってわたしはきっと、ずっと前から彼に溶かされ、絆されているのだから。

 なぜ同じ高校とはいえ入れ違いに入学しただけの後輩をあんなにも構ってしまったのか、何度も遊びに誘ったりしたのか。なぜ妹も一緒ではなく二人っきりで合格祝い、入学祝いをしようなんて考えたのか。そしてなぜ、後輩と話す彼の姿にイライラしてしまったのか。

 ……答え同然の大ヒントをもらわないとこんな簡単な問題も解けないなんて、どうやら雪ノ下陽乃は自分で思っていたほど完璧ではないようだ。

 だってしょうがないじゃない。こんな熱い、茹だってしまいそうな感情。自覚したらなにも考えられなくなってしまうんだから。

 

「わたしの相手をするのは大変だよ?」

 

「俺の相手をするのも大変だと思うんで、おあいこってことで」

 

 微妙に回りくどい問答はわたしたち同士でしか瞬時に伝わらなかったのか、数時遅れて周りから拍手で包んできた。後輩の前での告白――しかも完全な不意打ち――なんて公開処刑ものだし、実際楽しそうにニヤニヤ笑っている子もいるけれど、それ以上に嬉しさが溢れだしてつい笑ってしまった。比企谷くんも笑っているし、きっとこれでいいのだろう。

 なにはともあれ、わたしの最後の大学生活、そしてきっとそれからの毎日は今まで以上に楽しいものになるはず。

 不思議な確信の中口にしたお酒は、今日で一番おいしく感じた。

 ……酔いの覚めた彼に、もう一度告白してもらおうかなと思っちゃったのはご愛敬ということで。




 あけましておめでとうございます。今年も私のSSで楽しんでいただけると幸いです。

 新年一発目は八陽でした。このお話を書くに当たって千葉大学の受験科目とかを調べていたら案外理系が軽い科があって、八幡ならちょっと頑張れば安定圏内行けそうだなと思いました。センターなんて穴埋めだしね! 行ける行ける!
 ゆきのんと同じ大学んい行きたくて国立目指す八幡もいいと思うんですが、先に大学に入っているはるのんを追いかけてって構図もね。いいよね。一年しか一緒にいられないとかそういうのガン無視した、その一年のためだけの努力ってのがね。いい(語彙力喪失


 そうそう、年末に行われた冬コミで発行した俺ガイルSS同人誌の委託予約やら夏コミの本のDL版委託やらやってたりします。興味のある方は活動報告までどうぞ。

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


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誕生日占いなんて、信用できるものではない。

「せんぱい! ちょっとこれ見てくださいよ! ……あ、あけましておめでとうございます!」

 

 騒音。新年、新学期早々部室にやかましいのがやってきた。みんな大好き一色いろはの襲来である。え、今の告白じゃないかって? 俺は“みんな”に入れないことで有名な比企谷八幡だから、ははは……はぁ。

 というか、普通「あけましておめでとうございます」が先に来るもんじゃないんですかね? 今更そんなことをツッコむ人間がここにいるのかと言われれば否なのだが。この部活ほんと一色に甘すぎない?

 

「あけましておめでとう、一色さん」

 

「いろはちゃんあけおめー!」

 

 由比ヶ浜は特に気にした様子もなく、雪ノ下も一瞬眉を寄せつつも迎え入れる。俺? 俺はそんな形式ばった挨拶をするだけでキモがられる逸材だからな。ここはいつも通りスルーを――

 

「せんぱい、挨拶もできないなんてちょっとキモいです。キモいというか哀れです」

 

 ……こっちでもキモがられちゃうのかぁ。もうなにが正解なのか分かんねえよ……。

 

「それでいろはちゃん、何か用だったんじゃないの?」

 

「あ、そうでした! せんぱいがキモいせいですっかり忘れてましたよ」

 

 追加攻撃で抉るのもやめていただきたい。初撃でもう瀕死だから。ワンターンキルだから!

 そんな今にも突っ伏してしまいそうな俺を気にした様子もなく、一色はポケットから取り出したスマホを長机の中央に置いてきた。三人揃ってのぞき込むと表のような画像が表示されていて――

 

「……『二〇一七年最も運のいい誕生日ランキング』?」

 

「あー、あれか」

 

 表の上部にあったタイトルを由比ヶ浜が読み上げたのを聞いて、一人合点がいった。

 確か冬休み中にテレビでやっていたやつで、熱心に見ていた小町が六三位だったとか言って喜んでたっけか。全体の五分の一以上とはさすが大天使コマチエル。来月には受験を控えているが、今年も楽しんで過ごせるならなによりだろう。……まあ、面倒だったからって俺の誕生日は探してくれなかったらしいけど。や、俺も興味なくてゲームしてたしね。小町が悪いじゃないんだ。こんな企画用意したテレビ局が悪い。

 

「せっかくなので、これで今年の運勢を見てみましょうよ!」

 

 わざわざこんなものを見せてきた時点でそういう提案になるのは当然か。ほんと占いとか好きね、女子って。

 だが一色よ、忘れてはいけない。ここにはそんな一般大衆に染まらないアウトローが二人も在籍しているということを。

 

「めんどい。勝手にやって――」

 

「あ、せんぱいに拒否権なんてありませんから」

 

「横暴すぎない?」

 

 一言で一般大衆に放り込まれたアウトローがいるらしい。……俺だわ。いやまあね、一色が持ってきた時点で俺の力じゃ逃げられないことは分かってたよね。悲しい……。

 となると、頼みの綱はもう一人のアウトローだけ。

 そんなアウトローにして奉仕部部長、雪ノ下雪乃は小さく息をつくと一色を見据える。整った顔立ちも相まって、神妙な面もちの彼女に見つめられるとこう……睨まれているわけでもないのに顔を逸らしたくなってしまうもので、視線の受け手である一色も居心地悪そうに目を泳がせ始めた。すごいぞー、部長強いぞー!

 

「一色さん、こんなものは神社のおみくじよりも信憑性がないわ。日本の人口だけで一億二千万人、それをたかが三六六に分けて順位とつけただけですもの。単純に計算しても一位が三十三万人ほど出ることになるわね。残念だけれど、私はこれに意味があるとは思えないわ」

 

「あ、えっと……」

 

 バッサリ、バッサリである。一刀両断が三回はぶち込まれたくらいのバッサリ具合に、一周回って一色が不憫になってきた。ほらゆきのん、いろはす落ち込んでるじゃん。俺知ーらない!

 このまま順当にいけば雪ノ下が勝つだろう。そして一色は泣くだろう。いや、それはさすがにない……か? まあ何はともあれ、一色の提案が完全に却下されるのも時間の問題だ。

 ――あくまでここにいるのが二人だけなら、の話だが。

 

「えー、いいじゃんゆきのん。こういうの楽しいよ?」

 

 なぜならここにはゆきのんキラーのガハマさんが標準搭載されているからである。通販の「今なら特別に~」並みの二個一感。お得かどうかは分からんけどな!

 

「いえ由比ヶ浜さん、これはただ順位を見るだけのものであって、こんなことをするくらいなら今すぐ神社に言っておみくじを引いた方が有意義よ。おみくじなら願事待人失物縁談病気商売学問など細かい項目についても記されていて……」

 

「そういうのは初詣でやったじゃん? 別に有意義だとか変に難しく考える必要ないよ。みんなで見てみてわいわい楽しめれば楽しい! それだけなんだよ!」

 

「それは……そうかもしれないけれど……」

 

「ね? やろ?」

 

「……分かったわ」

 

 早い。早いよゆきのん。確かにゆきのんキラーとは言ったけど、ここまで速攻だとは思わなかったよ。攻撃力百倍の特効武器なんじゃねえの、ガハマさん。

 まあ自陣の最後の砦も無事(?)陥落したということで。

 

「それじゃあ、早速自分たちの誕生日を探してみましょう!」

 

 女子高生のお遊びに付き合うことになったのである。はあ、めんどい。

 

 

 

 さすがに小さなスマホの画面を四人でのぞき込むのは――主に俺のメンタルが――まずいということで、一色から全員に画像が送信されてきた。各自で自分の誕生日を探そうというわけだ。それぞれが目を皿のようにして探しているのを横目に、俺も自分の誕生日を探し始める。っていうか、いざやるってなるとめっちゃ必死だな雪ノ下。ノリがいいのか悪いのか分からん。

 さて、いざ三六六から一つを探すとなると面倒この上ない。エクセルやワードなら検索で即発見できるのだが、残念なことにこれは画像データである。軽くウォーリーを探せ状態に辟易しつつ、地道に探すしかないと早々に諦めた。

 この場合人はどういう順番で探すだろうか。上位に入ったことを信じて一位から下っていくか、傷を浅くするために悲観主義を発動させて最下位から上っていくか。普段の俺なら間違いなく後者なのだが、所詮は遊びだ。そこまで躍起になることもないだろうと一位から見ていくことにする。

 

「っていうか、一色は自分の順位もう知ってんじゃねえの?」

 

 画像を持ってきたのはこいつだし、確か小町がこの番組を見ていたのは五日ほど前だったはずだ。それなのになぜこいつも必死に順位表に視線を這わせているのか。葉山の誕生日でも調べてるのん?

 単純な疑問だったのが、当の一色はぷっくりと両頬を膨らませて「そんなの決まってるじゃないですか!」なんて怒りだした。なんで俺怒られてんの? 一色いろはマジ理不尽。

 

「わたしだけ知ってたらおもしろくないじゃないですか! せんぱいたちと一緒に探してわいわいしようと思ってたから、調べるの我慢してたんですよ!」

 

 え、こいつ五日間ずっと我慢してたの? 俺らと楽しむために? なんだこいつかわ……あざといな。

 危ない危ない、危うく一色の評価が鰻登りになって危険信号が鳴り響くところだった。どんだけ“危”使うんだよ。

 それにしてもこの順位表、なかなか自分の誕生日を探すのに時間がかかる。なにせ数字と「月」と「日」だけで構成されているのだ。見間違いが多くて多くて、遅々として進まない。お願いだからCtrl+Fを使わせてくれ。

 

「あ、あった!」

 

 内心この表を作った人間に悪態をつきながら視線を這わせていると、さっきまで静かだった由比ヶ浜が声を上げた。

 

「一七四位かぁ……なんか微妙」

 

 日付の後に順位を目にしたのか、ややテンションの下がった声で自分の順位を読み上げる。しかし、微妙と言っても真ん中よりは上だ。平均以上ということはいい方ってことである。勉強で平均取れない反動かな?

 

「「「………………」」」

 

 なんて軽口を挟む者はこの場に一人としていなかった。むしろ由比ヶ浜以外に口を開く人間がいない。由比ヶ浜も明らかに沈んだ空気を察したのか俺たち三人を心配そうな目で見てきたが、誰一人としてそんな彼女を気にかけることはなかった。できなかった。

 

「百位台なんてよかったわね、由比ヶ浜さん」

 

 なぜなら――

 

「私なんて三三三位だもの。こんな低い順位、屈辱だわ」

 

「え…………ええええええ!?」

 

 雪ノ下“でさえ”後ろから数えたほうが早いのだから。あと一つ順位が低かったらネット民的には「なんでや!」と関西弁で流せたものだが、ゾロ目というだけではネタとしても弱い。

 そして“でさえ”ということは……。

 

「お前はまだいい方だろ。俺たちなんて……なぁ?」

 

「三五四位と三五九位ですからね……」

 

「みんな低すぎない!?」

 

 そう、俺と一色に至ってはあわや最下位争いレベルだったのだ。あまりにも近すぎて両方とも同時に見つけちゃったよね。

 いやまあ、お遊びだってのは分かってるよ? 毎朝のニュース番組でやっている星座占いと大差ないってことくらいね、分かってるんですよ。

 けどさ、それでもさ……。

 

「へこむ」

 

「ヒッキー、マジで落ち込んでる!?」

 

 確かに普段、生まれながらの負け組だとか負けることに関しては最強だとか言っているが、まさかこんなところでも負け組になるだなんて……。

 

「わたしたちの一年はお先真っ暗ですね……」

 

「いえ、まだ諦めるのは早いわ一色さん。これを知るのが早かったのが不幸中の幸いよ」

 

「なるほど、今のうちに厄落とし的な感じでお祓いしてもらうか。……三人で」

 

 こういうお祓いって予約とかいるんだっけ? と調べてみると、近くの神社で予約不要のところがあるようだ。まだ時間に余裕はあるし、今から行くか。……依頼料を俺が払う未来が見えるが、まさかな。

 なにはともあれ、善は急げと帰る準備を始める。というか、一色はなんで最初から鞄をここに持ってきてるんだよ。生徒会にも部活にも行く気なかったなこいつ。

 

「ちょっとみんな何で帰ろうとしてるの! まだ部活中だよ!?」

 

「「「黙れ勝ち組」」」

 

「嬉しい単語なのに全然嬉しくない!!」

 

 勝ち組ガハマのことは放っておいて、さっさと神社へ行こう。悪いものは早く吐き出すに限る。吐き出したところにいいものが来ることを祈る。神頼みに次ぐ神頼みぃ。

 そう思って三人連れ立って部室を出ようとすると、何の前触れもなく扉が開いた。

 

「ん? なんだもう帰るのか? 普段はまだ部活をしている時間だと思うが……」

 

 まあ、部員以外でノックをしない人間はこの学校で一色かこの人くらいだよな。いつも通り白衣を羽織った平塚先生は、今まさに帰ろうとしている俺たち三人と、逆に帰る準備を一切していない由比ヶ浜を見比べて首を傾げた。

 正直今、先生の相手をしている暇はない。俺たちにはさっさと神社に行かなくてはいけないという大事なミッションがあるのだ。

 しかしそんな俺たちとは逆に、由比ヶ浜は天の助けを得たように表情を綻ばせる。

 

「先生いいところに! あ、そうだ。先生も自分の順位確かめてみましょうよ!」

 

 なるほど、先生の順位に俺たちの興味をシフトさせる作戦か。確かに気になる。順位がよかったら今年先生に春が来るかも、とか思ってしまうくらいには興味がある。顔を動かすと雪ノ下や一色も興味を持ち始めたようだ。由比ヶ浜、お前いつからそんな策士に……。

 さて先生の誕生日は……あれ……?

 

「あれ……?」

 

 こっちでも探してみるかとスマホを取り出した俺の内心と、既にさっきの画像から探し始めていた由比ヶ浜の声が重なった。

 

「あたし、先生の誕生日知らない……」

 

「そういえば、私も知らないわね。一色さんは?」

 

「雪ノ下先輩たちが知らないのに、わたしが知ってるわけないじゃないですか~」

 

 そう。この場の誰も、平塚先生の誕生日を知らないのだ。当然俺も知らない。先生って割と自分のプライベート話すのに、なんで誰も知らないんだ? 由比ヶ浜なんて真っ先に聞いてそうなもんなのに。

 

「そういえば一学期の頃聞いたけどはぐらかされた気が……」

 

「ほ、ほら。女性がみだりに生年月日を教えるものじゃないだろう?」

 

 …………。

 ………………。

 

「先生……」

 

「な、なんだ雪ノ下?」

 

 まさに開いた口が塞がらなくなっている俺たちを代表して、頭が痛そうに眉をひそめて額に手を当てている雪ノ下が口を開く。

 

「誰も何年生まれかなんて聞いていません。何月何日生まれかと聞いているだけですよ」

 

「い、いやしかしだな。ほら誕生日を祝われると何歳になったのかとか聞かれたりな……」

 

 まあ、普通の知り合いとかには聞くかもな。平塚先生にそれ聞いたら確実に俺のみぞおちが死ぬから絶対言わんけど。

 ただ、さすがにそれは……。

 

「はあ……さすがにそこまで過敏だと引きますよ。アニメの技を叫ぶよりもずっと引きます」

 

「――――――」

 

 あ、先生が膝から崩れ落ちた。声をかけてあげるべきかと隣にいた一色と視線を絡ませたが、言葉にせずとも同じ結論に至って静かに首を横に振った。

 だって、ねえ。雪ノ下の言い分も尤もだし。技名に関してもな、俺も中二で卒業したし。

 

「さて、急がないと間に合わなくなってしまうわ。比企谷くん、一色さん、早く行きましょうか。ぁ……勝ちぐ、由比ヶ浜さんも一緒に行く?」

 

「おう」

 

「お祓いって初めてなんで楽しみです!」

 

「ゆきのんまだ引きずってるよ! けど行く! 連れってってよぉ!」

 

 うずくまったまま割とガチな嗚咽を漏らしている先生を横目に、ゾロゾロと部室を後にする。鍵は先生が閉めてくれるだろう。確か雪ノ下の使っている鍵とは別に予備があったと思うし。

 部活を早く切り上げた元々の理由はランキングが低かったというローテンションものな理由だったはずだが、三人ともどこか楽しそうだ。まあ、こうして楽しめるのなら三六六分の三五九位も悪くはないのか、なんて思ってしまうくらいには俺も楽しみだったりするのだが。

 

「比企谷くん、遅いわよ」

 

「ヒッキー早く早く!」

 

「急がないと置いてっちゃいますよ!」

 

「……わーってるよ」

 

 やっぱりあんなランキングなんて信用ならない。いったい誰があんな企画を打ち立てたのか知らんがその時間をもっと別の面白企画に充てるべきだろう。

 あんな下の順位だったというのに、俺は今年一年が運の悪い年になる気がしないのだから。

 

 

 

 ちなみにお祓いを終えて帰宅してからスマホを見ると、平塚先生から恐ろしいほどの着信が来ていて割と怖かったのは別の話。




 Twitterで知ったランキングを見てみたら、何ともネタになりそうな順位だったので書いてみました。特にカップリングのない話はかなり久しぶりかな?
 最初ははるのんも出そうかと思ったんですが、順位がガハマさんと大差なかったのと、さすがに大学あるだろってことで断念。

 静ちゃん好きはごめんね! 少し前に原作読み返してて「生年月日ならともかく誕生日も隠すなんてさすがにこじらせすぎでは?」って思ってたからどこかでネタにしたかったの! ごめんね!

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


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出席からまた彼の横顔を

「ふあ……ねみぃ……」

 

 春の暖かな陽光を浴びていると、思わず大口を開けて欠伸なんて漏らしてしまう。微妙に覚醒しきってしない身体で自転車を漕ぎながら、大学の正門をくぐっていく。

 総武高校を卒業した俺は、当初の予定通り私立大学の文系に進学することができた。通い慣れたこのキャンパスとの付き合いも今年で六年目だ。

 ……え? 医学部でもないのに六年もいるとかヒッキー留年したのかって? ハハハ、馬鹿を言っちゃいけない。留年なんてあの由比ヶ浜だってしていないのに、成績はそこそこ優秀な俺がするわけないだろう。や、数学系の単位はちょっと危うかったけど。なんで文学部なのに数学の単位なんてあるんだよ、詐欺か。

 四年の学部課程を修了した俺は――就職ではなく大学院への進学を選んだ。今の俺の肩書は大学院二年生というわけだ。

 大学院という組織は、どちらかと言えば研究機関としての色の方が強い。確かに講義もあるし教育機関としての様相もあるが学部時代に比べて必要な単位数自体かなり少ないし、講義室で教授の講義を聞く時間よりも研究室に籠って論文やレポート――理系なら実験もかもしれんが――をつらつらと書き連ねる時間の方が多いのだ。極論を言ってしまえば研究室に行かずに家で書くことだってできるのだが、そこは研究室の方が集中しやすかったりするから一長一短。

 で、今日は研究室でレポートを書くわけでも、はたまた講義を受けに来たわけでもない。まあ、研究室には顔を出すことになるだろうが、ちょっと教授と話してすぐに帰る。絶対に帰る。すぐに飲みに誘う教授とか飲みサーより性質が悪いんだから。奢ってもらえるから経済的ではあるが。

 ……話が逸れた。ではなぜキャンパスに来たのかと言えば、端的に言えばアルバイトというやつだ。

 駐輪場に愛車を止めて学部棟に足を踏み入れる。事務の職員から必要なプリントを受け取り朝一番の時間でまだ学生もまばらな廊下を通り抜けると、増築したように色の違う壁が目に入ってきた。正しくはその壁を擁する建物自体が独立した建築物なのだが、ピッタリとくっついているせいで増築したようにしか見えない。

 観音開きの扉を片方だけ開けて中に入る。電気が付いておらずシン、と静まり返った室内は窓という窓全てのカーテンが開けられているにも関わらず外より三度は温度が低く、思わず身震いしてしまった。室温が低いのはこの部屋自体通常の講義室の三倍は広いからかもしれない。

 扇状に備え付けられた席にはチラホラと生徒の姿がある。ざっと人数を確認してから指定の位置、左最前列に腰を下ろして机上に先ほど受け取ったプリントを広げた。

 

「少し早いですが、来てる人たちは出席取りに来ていいですよ」

 

 本を読んだりスマホを弄ったり、静かながら思い思いに過ごしていた学生たちは俺の言葉を聞くと作業の小休止とばかりに席を立って近づいてくる。その手に持っているのは一世代前のスマホ程度のサイズをした顔写真入りのカード。

 いわゆる学生証というやつである。

 手渡された学生証の写真と本人を確認して名前の記載された名簿にチェックを入れ、学生証を返すと次の学生証を受け取る。そうしているうちに段々人が増えてきて、俺の前に列が形成されていくのだ。まるで大手サークルみたい。列形成手伝ってくれるスタッフさんはいないけど。

 あくまで仕事のいったんではあるがこれが俺のバイト、ティーチングアシスタント、TAというものである。名前の通り教授のサポートをする仕事だ。

 デジタル化の進んだ今日、出席を取るのだってその例外ではない。実際この講義室にも学生証を当てるだけで出席登録ができるタッチ型のカードリーダーが用意してある。

 しかしまあ悲しいかな、その出席登録をする教授は俺たちより一回り二回りお年をめした方々なわけで、特に文系教授ともなればアナログの方がいいという人も多いのだ。カードをタッチするだけという手軽さから、代弁をしたり出席だけして帰る学生が後を絶たないのも原因の一つではあると思うが。

 この講義の教授もそんなアナログ派の一人で、しかもいちいち本人確認をさせるほどの徹底振りだ。当然ながら代弁は一切存在しない。……まあ、それをTAにやらせるのはどうなの? とも思うのだが、教授は今大量の配布用プリント運んでるから、多少はね。

 代弁は一切存在しないが、いかんせん時間を要するのが玉に瑕だ。かと言って適当にやるわけにもいかないというジレンマ。できる限り作業を単純化しつつ、かつ決して流れ作業にならないよう捌く感覚が去年一年で身についてしまった。もう俺も出席取り熟練者である。適当にやってばれたら面倒だからね!

 学生証を確認、本人を確認、名簿にチェック、学生証を返却。それを何度も繰り返していく。傍から見たらまったく無駄のない動きに惚れ惚れすること間違いなしだ。ねえな。そもそもTAなんて注目されるわけがない。

 俺もそうだったが、大学生というやつはだいたい講義開始三分前くらいに一番多く来る。雪ノ下がいたら「彼らは五分前行動もできないのかしら」なんて悪態をつきそう――というか実際についたことがあるらしい――だが、たとえ遅刻したとしても大抵の教授は何も言わないのだから仕方のないことかもしれない。逆に遅刻したらめっちゃ怒る人もいるけどな! そういう教授の講義は大抵不人気だったりする。大学生マジ自堕落。

 そんなわけでさらに長くなった列を淡々と捌いていく。

 時間内に済ませなければいけないのは少々骨だが、案外この作業は楽しい。名前というのは所詮自分の意志とは無関係につけられた記号に過ぎない。しかしそれが数十人も集まれば見ているだけで面白いものだ。俺の名前である“八幡”のように珍しい名前を見つけると親がどんな意図でつけたのか気になるところだし、かっこいい苗字を見つけると年甲斐もなくワクワクしてしまう。“~寺”系の苗字の安定したかっこよさよ。寺が付くだけでかっこいいとか逆説的に寺がかっこいい存在ってことでは? あ、仏門に下る気はないです。

 

「あの……ぇ」

 

「あ、すみません。学生証を……」

 

 いかんいかん、余計なことに思考を割いていたせいで仕事が疎かになっていた。あわてて学生証を受け取り、顔写真と本人を見比べる。

 綺麗な女子だ。目鼻立ちが整っているのもあるが、長くつやのある黒髪がそれを何倍も引き立てている。少々目つきがきつい印象を受けなくもないが、クールビューティと考えればむしろプラス評価になるだろう。高校時代はさぞおモテになったか、雪ノ下のように高嶺の花として遠巻きから眺められる対象になっていたに違いな――

 

「つる、み……るみ……?」

 

 思考が凍ったように止まる。学生証に記載された、見覚えのある名前を知らず口に出してしまっていた。

 学生証とそれを手渡した女子学生――思い返してみると、さっきからずっと表情を強張らせている――の間を、視線が二度、三度と往復する。

 改めて見れば、確かに面影がある。まともな交流は千葉村とクリスマスイベントの二回だけだというのに、もう七年も八年も前だというのに、目元、口元、様々なところから名残を感じ取ることができた。

 同姓同名の別人なんて考えられようがない。間違いなく目の前にいるのは、俺の知っている鶴見留美に違いなかった。

 

「ぁ……えっと……」

 

 ただそれに気づいたからと言って……なんと声をかければいいのか分からない。

 そもそも関わったのは二回だけ、しかも一回目は彼女の周囲をめちゃくちゃにした主犯だ。主犯のくせに自分の手は汚さなかった卑怯者だ。

 そんな俺が、今更なんて話しかければいいのか。

 それに……。

 

「はち…………比企谷先輩」

 

「え、あ、ああ。学生証な」

 

 耳に馴染まない呼ばれ方をして手を差し出された。半ば反射的に返したカードを受け取った彼女は財布にしまいながら部屋の反対側、右側の席の方に歩いていく。

 

「……はあ」

 

 途中まで見送ると無意識に息をつき、出欠確認の続きに入る。

 その息がどんな意味を持っていたのか、自分でもわからなかった。

 

 

 

「それに対して近代日本文学における最も顕著な傾向は――」

 

 開始のチャイムから少し遅れて入ってきた教授が講義を始めると、基本的に俺がやらなくてはいけないことはない。講義内容なんて数年前に受けたものと同じだし、たまに手伝いがある以外は読書や論文作成など自由に過ごすことができる。これでバイト代もらえるとかぼろい仕事ですわ。時給は少ないけどな。

 昼食後だったらさぞいい睡眠導入曲になるであろう講義をBGMに、図書館で借りたハードカバーの文字列に視線を這わせていく。同じ研究室の同期に勧められた本だが、なかなか面白い。え、他人と交流できるとかお前八幡の偽物なんじゃないかって? さすがに今は多少のコミュニケーションくらい取るわ。うちの研究室の人間なんて大抵文学馬鹿ばっかりだから本の話となれば周りが引くくらい話弾むから。……引いちゃうんだよね、周りは。

 しかし残念なことに、今はいくら頑張ってもパルプに記載された痛快活劇な文字列に集中出来そうにはなかった。

 

「…………」

 

 自然と息をひそめながら目だけを動かす。盗み見るのは講義室の反対側、前から数えたほうが少しだけ早い席に座っている長い黒髪。

 板書に集中しているのかずっと俯いたままの彼女の表情は、垂れ下がった前髪に隠れて分からない。しかし時折垣間見える大人びた輪郭が、時の経過を確かに教えてくれていた。俺の肩程度しかなかった身長も、十センチは伸びたのではないだろうか。

 ……考えてみれば当然か。あの時は小学生だったもんな。

 中学、高校を経て大学生になった。俺が院生になっていることを考えれば至極自然なことだが、実際にその姿を目にすると不思議な気分だ。得をしたような、損をしたような、そんな変な気分。懐かしい存在と再会できたという気持ちはもちろんのこと、どうせなら中学校や高校の頃の姿も見たかったな、なんて妙な欲も顔を覗かせてしまう。

 

「……いやいや」

 

 実際に当時遭遇したとしても周りからやばい目で見られることは必至だっただろうけど。っていうか、中学高校の姿も見たかったって考えてること自体やばいのではないだろうか。なんというか、そこはかとない変態臭。

 まあほら、これだけ歳の離れた関係は俺の人生でもあいつと川崎の妹くらいのもんだからな。親戚のおじさんみたいな心境なのだろう。俺まだ二十代だけど。

 あくまで数奇な偶然が重なった結果。この再会にさしたる意味なんてないのだろう。人によっちゃこんな再会を運命と宣う人間もいるだろうが、比企谷八幡の思考からすればそんなものは勘違いに違いない。そもそもちょっと顔見知り程度の俺みたいなやつから声をかけられたら、あいつも迷惑だろうしな。

 

「…………」

 

 そうは思いつつも――講義の声を聞き流しながらついつい彼女を見つめてしまうのだった。

 

 

     ***

 

 

 マズい。状況は非常にマズい。

 私、鶴見留美は切羽詰まっていた。

 まるでそこしか選択肢がなかったとでも言うように総武高校に通った私は、特に大きな障害もなく大学に進学できた。

 学歴社会を生きる私の生活はとてもスムーズ、何の問題も存在しない――と思っていたら大間違い。大学生活初っ端から想定外のアクシデントに遭遇してしまった。

 まさか八ま……比企谷先輩と、五歳も歳の離れた顔馴染みと学内で再会するなんて誰が想像できようか。講義の出欠を取っているのを見つけたときは、あまりのことに文字通り固まってしまった。比企谷先輩マジメデューサ。

 交流らしい交流をしたのは小学校最後の夏と冬の二回だけ。それでも忘れられないちょっとやる気がなさげな、達観した瞳を見たら、それがあの人だと確信するのはすぐだった。

 かと言って、一ヶ月経った今でもまともに会話することすらできていないんだけど。

 

「はい、学生証返しますね」

 

「は、はい……」

 

 出欠確認のために渡していた学生を受け取り、そそくさと空いている席、意図的に少し離れたところに逃げ込んだ。ルーズリーフと筆記用具を取り出しながら、ちら、ちらと前の席にいる彼を盗み見る。

 は……比企谷先輩と会うのは週に二回。もうそろそろ十回は会ってると思うけど、ただ短い返事をするだけでも緊張してしまう。私ってこんなタイプだったっけ。もっとずけずけ物事を言う方だったと自負してるんだけど。……それはそれでどうなの?

 講義が始まってからも気が付くといつもの席に座る横顔に目が行ってしまう。目どころか意識そのものが持っていかれて、正直講義内容なんて一切耳に入ってこない。俯いて垂れ下がった前髪の隙間から見ているからあの人には気づかれていない……と思うし、たぶん先生からは必死に板書を取っているように見えるだろう。……板書どころかプリントに印すらつけていないから、後で友達に見せてもらわなくちゃいけないんだけどね。

 不真面目極まりない授業態度だけど、仕方ないよね。だってあの人がいるんだから。

 どうすればいいのか分からなかった、まだ幼かった私にきっかけと勇気をくれたあの人が、もう会えないかもって思っていたあの人がまた同じ空間にいるんだから。

 捻くれてて、遠回りで、分かりづらかったけど、あの優しさのおかげで今の私がある。それは紛れもない事実だから。平静を保てないのも仕方のないことだった。

 また前髪の隙間から覗き見る。私とは正反対にあの人は落ち着いていて、分厚い本を広げながらルーズリーフにカリカリとペンを走らせていた。授業のレポートだろうか。それとも修士論文ってやつ? いずれにしても、ペンが止まっている時間の方が少ない。

 集中している横顔。隣で一緒に折り紙を折ったあの時も見た、いつもより少しだけ真剣さが窺える瞳に喉の奥がク、と小さく鳴った。あの頃より少し大人びた姿に、また釘付けになってしまう。

 どれくらい見ていただろう。机に前のめり気味になっていた背中を背もたれに浅く預けた彼は開いていた本に手を伸ばして――

 

「っ――!」

 

 思わずより深く、机に齧りつきそうなほど深く顔を隠した。

 彼が一瞬、こっちを見たような気がしたから。

 見てたこと、ばれちゃったかな。いや、この距離なら前髪に隠れた目の動きまでは分からないはず。たぶん、恐らく、きっと……。

 そもそも、そもそもとして、私のことなんて気にしていないのかもしれない。初めて私に気づいた時こそ驚いたみたいだけど、今では他の人たちと同じように話してくるし……そもそも話すのだって出欠の時だけだし。

 だからこっちを見たなんて気のせい。仮に見てたとしても、たぶん授業の監督とかそういうのだ。そう、きっとそう。

 だから、茹だってしまいそうな頬の熱さを冷まさないと。このままじゃ変になってしまいそうだ。

 

「あー、今日はこれくらいにしておこうか」

 

「ぁ……」

 

 結局、今日の講義内容も何一つ頭に入ってこなかった。

 

 

 

「あっ」

 

「お、っと」

 

 ばったり。そう表現するのが適切な遭遇だった。

 夕方まであった今日最後の講義を終えて帰ろうとしていると、T字路になっている廊下の角から八……比企谷先輩が出てきたのだ。食パンを咥えて走っていたらラブコメが始まっていたことだろう。いや、そんなベタなラブコメ、今時漫画の世界だってあるか怪しいけど。

 

「おお、わりいな。今帰りか?」

 

「は、はい」

 

 彼は大きめの鞄を肩にかけて、コピーしたものらしいA3サイズの紙の束を抱えていた。相当な枚数あるようで、今にも零れ落ちてしまいそうだ。

 そんな姿を見たら、手伝えないだろうかとつい思ってしまった。

 

「あの……半分持ちましょうか?」

 

「え、マジで? 助かる。アホ共にまとめてコピー頼まれちまって、割とやばかったんだ」

 

 抱えられていた束を半分程度受け持つ。軽くなった自分の紙束を軽く整えた比企谷先輩が歩き出したので、その後ろをおずおずと付いていく。目的地は普段私が行かない区画にある会議室のようだ。

 

「定例報告会の資料でな」

 

「報告会……」

 

 自分の抱えた一番上のプリントに目を落とすと……なるほど、確かに印刷内容はレジュメのようだ。グラフなんかの図もいくつかあるけど私の知らない単語も書き連ねられていて、即座に内容を理解できそうにはなかった。

 ――すごいな、大学院生ってこんなのも作るのか。

 そう思いもしたけれど、口には出さなかった。出していいものか分からなかった。

 

「…………」

 

「…………」

 

 そうなると会話は途切れてしまうわけで、ただ黙々と廊下を歩くだけになってしまう。雑談をしながら通り過ぎる人たちの声もどこか遠くから聞こえているみたいだ。

 後ろを歩きながら顔を上げてみると、すぐ目の前には猫背気味の背中がある。あの頃よりも身長は近づいたはずだけど、やっぱり頭の先まで見るには見上げることになるし、むしろ背中は余計に大きく感じた。

 それは私の心持ちのせいか、私が成長したようにこの人も成長したせいか、それともその両方か。

 それを知るのはなんだか気恥ずかしくて、やっぱりなにも話さない。

 

「ここだ。鍵開けるからちょっと待ってろ」

 

 歩みが止まった背中にぶつかりそうになるのをすんでのところで踏みとどまると、取りづらそうにシャツのポケットから鍵を取り出した彼は引き戸の鍵を開けて中に入っていく。その後を追って恐る恐る中に入ると、コの字型に長机が並べられた会議室の冷えた空気が頬を撫でた。

 誰もいないのに感じる厳かな空気。場違いなところにいる居心地の悪さを感じて、運んでいた資料の束を机に置くとそそくさと外に出てしまう。

 

「ふう……」

 

 扉一枚の隔たりを抜けただけでも気持ちは和らぐもので、ため息とともに少しだけ身体の固さが抜ける。ちょっと後ろを見てみると、資料を分け終えたらしい比企谷先輩が出てくるところだった。

 

「サンキューな」

 

「いえ……」

 

 荷物運びのお手伝いは完遂。つまり、私がこの人と一緒にいる理由もなくなってしまった。このままお別れして、それで終わり。

 けど、それは分かっているけど……。

 

「…………」

 

 まだ――離れたく、ない。

 せっかく二人っきりで話すことのできる機会なのに、何も話せてない。そうじゃなくても……もっと一緒にいたい。ここで今日は終わり、なんてしたくない。

 一度湧き上がってしまった気持ちは抑えようがなくて、かと言ってその気持ちを素直に伝えることもできなくて、ただただ足が縫い付けられたように立ち尽くすだけ。

 

「あー……」

 

 バリバリと頭を掻く音に俯いていた顔を上げると、困ったように眉をハの字に歪めた顔と目が合った。私の視線に気づいた彼は小さく息を飲むと、つ、と首を明後日の方に向けて、また「あー」と意味のない音を漏らす。

 やっぱり、迷惑……だよね。早く帰らないと。重い足を一歩踏み出してこの場を離れようとして――

 

「この後、その……暇か?」

 

「ぇ……?」

 

 耳が拾った意味のある音に、右足が踵を中途半端に上げた状態で止まった。傍から見たら情けない姿勢だと思うけどそれを気にする余裕も残ってなくて、首をそっぽに逸らしながら目だけをこっちに向けてくる彼をじっと見つめてしまう。

 

「や、手伝ってもらったしな。奢るから、一緒に飯でも……どうかと、思ったんだが……」

 

 意味を理解するのにいつもの三倍はかかったと思う。ほっぺたをほんのりと赤らめた彼からの食事のお誘いだとようやく気づいて、けど驚きのあまりすぐに返事をすることすらできなくて思わず呆けてしまった。

 だって、ほら、高校の時は小学校の友達なんて誤差だとか、一人でなんでもできるとかドヤ顔してたぼっちの塊みたいなあの人が誘ってくるなんて、想像もしていなかったから。

 返事を返さない私に、彼の表情が段々「しまった」というものに変わっていく。気恥ずかしそうに――ひょっとしたら落ち込むように……?――視線を誰もいない廊下の奥に投げた彼に、私も「しまった」と表情筋を歪めてしまう。

 お互いしまったしまったでもうカオス。正直悪いの私なんだけど。

 

「すまん、迷惑だったな。忘れて――」

 

「行く! ぁ……行き、ます……」

 

 ここを逃したら次いつこんな機会に遭遇できるか分かったものではない。むしろ八ま……比企谷先輩ならもう二の轍は踏むまいって一生誘ってこないまである。……本当に普通にありそうだ。それは困るの!

 そんな思いのまま、思わず食い気味に返事をしてしまった私にたじろいだ彼は「それじゃあ行くか」と来た道を歩き始める。

 

「早く行くぞー」

 

「は、はいっ」

 

 これから一緒にご飯、二人っきりでご飯。改めてそう認識すると、じわりじわりと顔が熱くなってきて――

 けれど、さっきまで踏み出すことすら困難だった足は、いつもより軽くすら感じた。

 

 

     ***

 

 

 

 どこに行くのか聞かされることなくついていく中、ずっと過度な期待はしないように努めていた。だって見るからに食事とか気にしなさそうだし、そもそも学生の夕食なんて定食屋とかラーメン屋とかが精々だろう。……うん、ラーメン好きって聞いたことがあるし、たぶんラーメンだよね。間違いない。

 そう思っていたのに。

 

「ん、どうした?」

 

「いえ……」

 

 曲名も分からないお洒落な曲――ジャズ、かな? たぶんジャズってやつ――が響く落ち着いた雰囲気の店内。通された個室のテーブルは主張をしない控えめな意匠が施されたもので、自然の木目と合わさって品の良さを醸し出していた。

 お洒落な洋風居酒屋に連れてこられるなんて、誰が予想できるだろうか。金髪のイケメンさんならさらっとこういうところに連れてくるのも分かるけど、何度も言うけど相手はあのプロぼっちって堂々と言っちゃうような人だよ? ちょっとこのクイズは難易度高すぎた。

 まあ、何が言いたいかというと――

 

「鶴見は何飲む? あ、さすがに酒は駄目な」

 

「え、と……」

 

 予想の斜め上どころか真上からのダイレクトアタックを受けた私は、ガッチガチに緊張してしまっていたのだ。とりあえず無難に烏龍茶を選ぶと、慣れた様子で注文してくれる。

 

「比企谷先輩って……」

 

「ん?」

 

 おだて上手な子なら、ここで「こんなお洒落なお店知ってるんですね~。連れてきてもらえてうれしいです~」とかさらりと言ってしまえるんだろうけど、緊張以前に私にはそんなこと到底できない。そんな受け答えは由比ヶ浜って人とかあの栗色の生徒会長さんみたいな人の特権だ。

 

「一人でこういうところ来るんですね。一人居酒屋ってハードル高い」

 

「いや、研究室の連中とかと極稀に来るだけだから」

 

 だからつい、そんな憎まれ口を漏らしてしまった。ガクンと首を落とす勢いで俯いた彼の言い分によると、一人居酒屋は未経験のようだ。たぶん一人バーよりハードル高いよね、一人居酒屋。

 他の人にしたならたぶんそれ以降呼ばれることはなくなるであろう会話。

 

「お前変わんねえな」

 

 けれどそう、これが私たちのスタンダードだ。好きなように言い合える。何年経とうがそれは変わらないみたいで、喉を鳴らす彼につられて私も少し笑ってしまった。さっきまで緊張で固まっていたはずなのに、それを認識できただけで身体から程よく力が抜けていく。案外私の身体は単純なのかもしれない。

 

「じゃあ変わらないついでに、呼び方も敬語も前のままにしてくれ」

 

「……いいの?」

 

 小学生だったあの頃ならまだしも、もう私も大学生だ。さすがに顔見知りとはいえ、いや顔見知りだからこそ敬語じゃなくてはという強迫観念めいたものがあったんだけど。

 

「いいんだよ。なんか鶴見に“先輩”って呼ばれるのはムズムズする」

 

 口元をもごつかせる彼はどこか七年前の表情を感じさせて。

 当時の彼より自分が年上になったからだろうか――なんだか、かわいく見えてしまった。

 

「それじゃあその……八、幡」

 

「……なんかそれはそれでムズムズするな」

 

「えぇ……」

 

 ポリポリと頬を掻く彼に、呆れながらもつい笑ってしまう。八幡が不機嫌そうに眉をひそめたけど、恨み言の一つも口にするまでに頼んだ飲み物を店員さんが持ってきて、くっと表情を取り繕った。なんかちょっと勝った気持ちになって店員さんに気づかれないようにまた浅く喉を震わせる。

 昔に戻って、ちょっと笑って、だいぶ気が緩くなってきて……そうするとふと私も注文したいことがあるのを思い出す。

 

「じゃあ鶴見……どうした?」

 

「八幡も、昔みたいに呼んでよ」

 

「昔……ルミルミ? いてっ」

 

 あ、思わず蹴っちゃった。そんなに力入れてないしセーフ……だよね?

 最初こそ痛そうにしていた八幡はケロリと表情を和ませると「悪い悪い」と軽く謝ってくる。いやまあ、私のことを「ルミルミ」なんて呼ぶのはこの人くらいのものだし、その呼び方でも問題はないと言えばないんだけど――やっぱり普通に名前も呼んで欲しかったから。

 そんな私の空気を察したのか改まったように椅子に座り直した八幡は、浅く拳を握った右手を口元に当てて咳ばらいをする。

 

「あー、それじゃあ……留美」

 

 気恥ずかしそうな、けれど前と変わらない音にタイムスリップしたみたいな懐かしさを感じて、なんだか心の奥が温かくなった。

 ただまあ……やっぱりあれから七年経って、私ももう大学生なわけで。

 

「なんか……恥ずかしいね」

 

「お前から言わせたんだろうが」

 

 大げさにため息をついた八幡は、けれど微笑みながら自分のグラスを差し出してきた。そっとくっつけるように自分のグラスを触れ合わせるとガラス同士がぶつかる澄んだ音が鳴る。

 少しだけ露の浮かんだグラスから喉に流れ込んでくる冷たい烏龍茶は、温かくなった心に心地よい冷たさを伝えてくれた。

 

 

 

「え、お前総武校なの?」

 

 適当に注文した食べ物を摘まみながら話をしていく上で、一番八幡が驚いたのが私の出身高校の話だった。自分の母校だとそんなに驚くものなのかな。まあ、総武校って偏差値高いもんなぁ。私も受験はだいぶ頑張ったし。

 

「うん。入学式で平塚先生見つけてびっくりしちゃった」

 

「あの人まだ総武勤務なのか。長くね?」

 

「さすがに私が二年に上がる頃に転勤になったよ。それまで色々構ったり構われちゃったけど。……愚痴とか」

 

「あっ」

 

 いや、ほんとね。私の学年では唯一の顔見知りってことで構われたんだろうけど、月二ペースで合コンとか友人の結婚式の愚痴を聞かされるのはね……なんであの人結婚できないんだろ。先生としてはいい人だと思うんだけど。

 どうやら八幡も私と同じ体験をしたことがあるようで、空気が何とも微妙なものになっちゃった。ひょっとして、私たちの間で先生の話題は禁句なのではないだろうか。ごめんね先生、バイバイ。

 

「そ、それにしても高校も一緒で大学も、学部まで一緒なんて、妙な偶然もあったもんだな」

 

「っ……」

 

 空気を変えようとして八幡が切り出した話題に、思わず喉が引きつってしまった。

 勇気が足りなくて肩が震えてしまう。適当に話を流そうかって思ってしまう。「そうだね」なんて言えばそれだけで簡単に別の話に移ることができる。

 けれど、今ここで言わなかったら一生後悔しそうで。このままズルズルと何も変わらない関係になってしまいそうで。

 

「…………偶然じゃ、ないよ」

 

「え……?」

 

 掠れる喉からなんとか絞り出した声に、間の抜けた声が重なった。

 

「八幡がここの大学に行ったって、先生から聞いた。だから、受けたの。八幡が行ったところに、行きたかったから」

 

 驚きのあまり持っていた箸が取り皿の上を転がったことも気にせずに薄く口を開けている八幡に、つらつらと真実を伝えていく。最初こそ呆けていたけど、段々とその唇が引き結ばれていって、真剣に私の声を聞いてくれる。

 

「そりゃあ高校も大学も、行っても八幡はいないけど。けどせめて、同じところに通いたいな、って」

 

 一度堰を切ってしまえば、つっかえながらも想いは止まらずに言葉にできた。

 学生として普通に生活する間も、どこかでこの人の面影を探していた。街中で偶然会えないかなとか思ったりもした。出不精な八幡に外で会える確率なんて宝くじの一等並みに低かったと思うけど、それでもいつも心のどこかで会えないかって気持ちが、会いたいって想いが燻っていた。

 そんな思いのまま八幡がいた大学に行ったら、本人がいるんだもん。びっくりして、固まっちゃって、だけどすごく嬉しくて。

 

「……俺もさ」

 

「?」

 

「俺も、留美に会えて嬉しかった。あの後どうなったかって心配な気持ちもあったし、短い間だったけど、色々話した奴だからな」

 

 別の個室からの談笑が転がる廊下に視線を投げる彼の頬がほんのり赤く染まっているのはお酒のせいだろうか。それとも恥ずかしいからだろうか。

 

「……そっか」

 

 後者だったら、ちょっと嬉しい。

 ただ――

 

「それなら、話しかけてくれればよかったのに……」

 

 出欠の時にちょっと話す時も敬語だし、講義が終わるとすぐに出て行っちゃうんだもん。話しかけたら迷惑かなってずっと不安だった。

 つい気持ちが沈む私に「一応仕事中だしな」って苦笑しながら、彼はグラスに残っていた鮮やかな色の液体を飲み干す。ふう、と少しアルコールの匂いが混じった息を吐いて、何かを思い出すようにそっと瞑目する。

 

「それに七年ぶりだから話しかけていいのか分かんなかったし、お前めっちゃ美人になってるし」

 

「え?」

 

「あっ……」

 

 それって……。

 

「俺は何も言ってない……ちょっと酒のせいで口が軽くなった……じゃなくて、いやその…………忘れてくれ」

 

 私以上に狼狽した八幡はこっちが何か言う暇も与えないと言わんばかりに店員さんを呼んで空になったグラスの代わりや食べ物を注文していく。

 昔はちょっと情けなく見えた必死に取り繕う姿が微笑ましく見えてしまうのは私もあの頃から少しは大人になったからか、それとも「美人」なんて言ってもらえて浮かれているからか。

 

「八幡」

 

「なんだよ……」

 

「ふふ、なんでもないよ?」

 

「なんでもないようには見えないんですが……」

 

 まあいずれにしても、ちょっと忘れるのは無理そうだよ、八幡。

 

 

 

 七年もあれば富士山くらい積もる話はあるもので、だらだらと食事を摘まみながら昔話だとか大学の勉強の話だとかを縷々綿々と交わしていた。授業をまともに聞いていなかったことをポロッと漏らしたときは苦言を呈されたけど、八幡のせいって言ったら顔を赤くして黙り込んじゃって、それもまたかわいか……コホンコホン。

 

「終電、なくなっちゃったね」

 

「悪い、失念してた」

 

 その結果、気が付くと終電の時間を完全に過ぎてしまったのだ。さすがに四時間も話すとは思わなかった。自覚すると途端に喉が痛い気がしてくる。

 

「どうしたもんかな。この近くだと知り合いはいねえし……」

 

「そもそも知り合いとかいるの?」

 

「同期と飲みに行くって言ったよね?」

 

 反対方向を向いて嘆息した八幡はどうしたものかと首を捻りながらのろのろと自転車を押し始める。その横を同じ歩幅で歩くと春とはいえ少し冷たい空気にブルリと身体が震えた。

 

「……ま、悩んでもしかたねえか」

 

 腕を交差させて春用の長袖シャツの上からさすって暖を取っていると八幡が一瞬だけ立ち止まって、今度は普通の歩幅で歩きだした。いきなり三歩くらい開いた距離を慌てて追いかける。

 

「俺の部屋に行くぞ。このままぶらついてても風邪引いちまうだけだ」

 

 ――――。

 喉の奥がク――、と高い音を出した。

 だって八幡の部屋に行くなんて昼間の私は想像もしていなかったし、いつもの私なら緊張で逃げ出してしまいそうな提案だったから。

 私の中から鳴った音が聞こえたのか、八幡の頬が少し引きつって、視線が右へ左へ泳ぎ出す。

 

「ぁ……や、これは応急処置というか慈善行為というか……まあそんなもんなわけで、決して手を出すとかそんなやましいことは考えていなくてだな」

 

 けど、そんな緊張をはるかに上回る、このチャンスが到来したことへの喜びも確かにあったわけで。

 

「やましいこと……してもいいのに」

 

「え」

 

 ギョッと双眸を見開いた八幡が何か言う前にその腕に抱きつく。ほんのり赤みを帯びていた頬がみるみる真っ赤になる様子を見ながら、それ以上何も言わずに絡めた腕に力を込めた。

 ――やっぱり、忘れるのは無理だよ。絶対忘れないよ、八幡。

 

「ったく……」

 

 まあ、どうしようもなく早くなっちゃってる心臓の音のせいで、言葉にしなかったことまで、それ以上までばれちゃってるかもしれないけどね。




 久しぶりの八留書きました。

 仮に八幡が大学院に行ったらって考えたら、院二年でルミルミが大学生になるということに気づいて書いてみた話。私の八留には珍しく一年以内に再会していない話になりました。
 大学生のルミルミとか絶対美人に決まってる。ついでにスタイルも絶対いい。

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


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“ノーカウント”を何度でも

 プッツリと途切れていた意識が、まどろみすらショートカットして帰ってきた。最初に感じたのはサウナにいるような妙な息苦しさ。

 

「……あー」

 

 首を下に向けてみると、暑苦しさの原因はすぐに分かった。毎晩俺の身体を寒さから守ってくれている掛け布団くんとは明らかに材質からして違う藍色の厚い布地。我が家で毎年寒くなってくると引っ張り出される炬燵の掛け布団だ。

 なんで炬燵なんかで寝てんだ俺……。

 後ずさるように上半身を炬燵から出すと、室内とはいえ十分に寒いと言っていい空気が火照った身体を冷やしていく。

 

「やっぱさみい……」

 

 最初こそその温度差を心地よく感じていたのだが、やはり冬――しかも今時計を確認したら真夜中だ――の冷気は寒いの一言に尽きる。特に手先がすぐに冷えてしまい、もう一度炬燵の中に突っ込んだ。

 

「ひゃぅっ!?」

 

「うおっ!?」

 

 突っ込んだ手がやけに柔らかくて温かいものに触れ、同時に聞きなれた声が普段より半オクターブ近く高い音で鼓膜を震わせてきた。触覚の方はともかく聴覚は完全に不意打ちで、こっちもビクリと肩を跳ねさせてしまう。

 

「お兄ちゃん……冷たい……」

 

 音源の先、正方形の炬燵の隣辺を覗き込むと、掛け布団を首までかけたマイリトルシスターが恨めし気に睨みつけていた。と言ってもこちらも寝起きのようで若干目の焦点が合っておらず、一切怖くな……小町が怖いことなんてあるわけないだろいい加減にしろ!

 

「炬燵で寝てると風邪引くぞ」

 

「お兄ちゃんもじゃん」

 

 そうなんだよなぁ。兄らしいところを見せようとしたのに、痛いところを突かれてしまった。今までコツコツと溜めていた兄の威厳が……え、そんな貯蓄一切ないって? そんなー……。

 コホン。まあ威厳とかプライドなんて、「とりあえずやばくなったら土下座」精神の俺からすればどうでもいいものなのでこの際置いておく。だから足でつついてくるのはやめていただきたい。こそばゆいから。

 

「あ。あー、ラスト見逃した……」

 

 小さな欠伸を漏らしながら残念そうな声を漏らした小町が見やったテレビでは、嫌にテンションの高いスーツ姿の男性が通信販売の商品紹介をしている。

 ああ、ようやく思い出した。そういえば今日は金曜特有の映画上映番組で、一時期話題になった映画の地上波初放送をやってたんだっけか。兄妹揃って映画館に見に行くほど興味はそそられなかったが、家で見れるなら見てみるかということで夕食と風呂もそこそこにすませ、テレビに齧りついたのだ。

 まあその結果は御覧の通り、二人揃って夢の中に旅立ってしまったわけだが。

 いや、勘違いしないでほしい。学校でも話題になって――いるのを俺でも小耳に挟んで――いただけあって、話自体は面白かった。ちょっとフルスクリーンに大音響で見たかったなとも思った程だ。

 最大の誤算と言えば炬燵の温かさと日常シーンのスローペースなBGMが見事な化学反応を起こしてしまったことだろう。もうマジで最高の睡眠導入剤でした。炬燵の魔力がすごすぎて、炬燵にAIが内蔵されたら容易に人類を絶滅させられるレベル。炬燵怖い。けど愛してる。

 

「……今度BD借りてくるか」

 

 俺もラスト気になるし。

 

「お兄ちゃんのお小遣いで?」

 

「ひでえ、まあいいけど」

 

 間違いなくこいつの方が小遣い多くもらってるんだけどな。俺もなー、親父たかって小遣い増やしたいよなー。絶対無理だけど。

 

「くあ……」

 

 肺の奥から込み上げていた欠伸は予想以上に大きい。自発的に目が覚めたと言っても普段なら熟睡している時間だ。もうひと眠りするのが吉という奴だろう。

 意を決してぬくもり拘束具から抜け出すが、やはり寒い。スウェットの上でも身体を冷気がかじかませてきて、また炬燵に戻りたくなってしまう。

 

「早く出ろよ。部屋で寝直すぞ」

 

 しかし、誘惑に負けて炬燵で二度寝をするべきではないだろう。なんか炬燵で寝ると身体に悪いとか聞いたこともあるが、それ以上に絨毯を乗っけただけのフローリングで朝まで寝たら身体がガッチガチになってしまいそうだ。この若さで腰痛持ちにはなりたくないもんな。

 というわけでさっさと妹を起こして柔らかな自室のベッドに戻りたいのだが――

 

「えー、炬燵の外寒いから小町はここで寝るー」

 

 当の妹がこの調子なんですが、どうすればいいんですかね。ほんと兄の言う事を聞かないんだからこいつは。日頃の行いのせいかもしれないけどね!

 しかしはてさて、どうしたものか。外に引きずりだす策を考えている間にも小町は瞼を閉じて浅い呼吸を始めている。あと五分もあればこのまま夢の中に再出発してしまいそうだ。

 けどなぁ、俺の正攻法じゃ言う事全然聞かないしなぁ。身体に悪い云々言っても「一晩くらい大丈夫だよ」とか言って無視してきそう。兄の言葉が弱すぎて泣きそう。

 それにしても……。

 

「すう……すう……」

 

 耳をすませばテレビの音に紛れて聞こえてくる規則正しい呼気。俺のものより小さく、けれど少しだけ肉厚な二枚の唇が時折ふるふると震える。思い出したかのように薄く開いた隙間が閉じられると互いにむにっと押し潰し合って、柔らかさを強調しているようだ。

 うーん。

 ふむ……ふむ……。

 一度外国人が大げさにレビューしているフライパンの映像を眺めて、なんとなく瞑目して――――今にも完全に寝付いてしまいそうな唇に……キスをしてみた。

 

「っ!? んん!?」

 

 あ、起きた。

 さっきまでのまどろみは何だったのかと思うほどパッチリを瞼を開き切った小町は、状況を確認するようにせわしなく目を四方八方に動かす。

 まあ、状況はと聞かれれば兄にキスされている妹としか言いようがないのだが。

 

「!?!? ――――~~~~ッ!!??」

 

 当然目と鼻の先で混乱していたこいつもその結論に至ったようで、よくわからん声を上げながらバッと頭を炬燵の中に引っ込めてしまった。途中俺の口に鼻先が当たったけど大丈夫かしら。

 

「くしゅっ!」

 

 ……微妙に大丈夫じゃなさそう。というか、さすがに炬燵の中に全身埋まるのは熱すぎるのではないだろうか。蒸し小町にならないかお兄ちゃん心配。

 割とガチで心配しながら様子を窺っていると、しばらくして口元を抑えた小町がうつ伏せ状態で顔だけ出してきた。完全にコタツムリという奴だ。ふむ、これは写真に収めたら絵になるかもしれない。写真コンクールに出してみるか。そういうコンクールいつ募集してんのか知らんけど。

 

「な、なななななんでお兄ちゃん妹にキスしたの!?」

 

 真っ赤。名前がジョナゴールドに改名されてしまいそうなほど真っ赤である。やだ、うちの妹がグローバルになっちゃう。

 まあ小町の名前がアメリカチックになるかどうかなんて些末事として、兄たるもの妹の質問に答えないわけにはいかない。

 なぜキスをしたのか。そんなことは明白である。

 

「なんとなく」

 

「はあ!?」

 

 うるせえ……。しかし事実だから仕方がない。目の前に妹の唇があって、なんとなーく興味をそそられたからキスをしただけ。

 あれ? 俺ひょっとしてめっちゃ変態みたいじゃない? いやいや妹だからセーフ……かな?

 

「別にいいだろ。減るもんじゃねえし」

 

「減るよ! 少なくとも小町の中でファーストキスの概念がなくなったよ!」

 

 まじか、概念って減るものだったのか。お兄ちゃんそれは知らなかった。

 しかし安心してほしい妹よ。そういうことならその概念を奪った加害者は俺ではないはずだ。

 

「小町、お前のファーストキスの相手は間違いなく――親父だ」

 

「死のう」

 

 即答かよ。さすがに親父がちょっとかわいそうになってくるぞ。けどあの娘溺愛男は絶対赤ん坊だった小町にキスしまくってんだよなぁ。なんなら生まれた瞬間にキスしてるまである。……絶対キモいから絶対に想像はしないが。

 ちなみに赤ん坊の口の中に虫歯菌が入ってくる最大のルートは親からのキスらしい。世の中の親、子供にキスしすぎでしょ。それとも、俺も子供ができたらキスしたくなるのだろうか。あ、そうか。たぶんつい今しがた妹にキスしたくなった感覚と似たようなもんだな。それなら子供が生まれたら俺もキスするわ。間違いない。

 閑話休題。

 思いの外ガチで顔を青ざめさせて頭を抱えていた妹は、けれどいきなりガバッと顔を上げた。見開かれた瞳を見た感じでは、なにやら名解釈に行き着いたらしい。

 

「お父さんはあれだよっ。親だからセーフなの! ……もう絶対やられたくないけど!」

 

 なるほど、然りだな。親ならば、家族ならば許されることがある。考えてみれば、確かに親のキスをファーストキスだと宣言する人間はいないだろう。なんか最後に親父が号泣しそうな念押しがあったが、少なくとも親とのキスはノーカウントということだ。

 …………。

 そこでふと考えてみる。

 

「じゃあ、兄である俺とのキスもノーカンでよくね?」

 

 親子と兄妹では一親等しか変わらない。親等数で言えば祖父母にキスされるのと同じというわけだ。世の中、孫にキスするおじいちゃんおばあちゃんも少なくないだろう。そのキスを人々はファーストキスだとのたまうだろうか。少なくとも俺はしない。

 つまり、兄妹でのキスもノーカンというわけだ。Q.E.D。

 

「そ、それは……あれ? そういうこと?」

 

 妹は混乱しているのか炬燵から伸ばした首を右へ左へ捻りながら、上唇と下唇を二度、三度薄く触れ合わせては離している。しかし、いつもは俺の持論に「はあ?」とちょっと目を腐らせている――あれ? 目の腐りが遺伝してる?――ことから考えるに、もうひと押しで丸め込め……納得させられそうだ。

 

「そゆことそゆこと。しかも逆説的に俺のファーストキスもまだ守られてる。WinWinって奴だな」

 

「WinWin」

 

 WinWin。いつかのクリスマスイベントの時は頭が痛くなる単語だったが、お互い不利益を負っていない状況を表す素晴らしい単語だ。今なら玉縄と仲良くできそう。絶対無理だわ。

 

「じゃあそんなわけで――」

 

「ぁ――――」

 

 プルンと震える唇になんとなく、気の赴くままに……自分のそれをまた押し当てた。息が止まったように少しだけ固くなった、それでも十分に柔らかい感触をひとしきり楽しむ。漫画で見るキスシーンは総じて瞼を閉じているものばかりだが、なるほど、自然と目を瞑ってしまうものだ。

 唇を離そうとすると触れ合っていた肌同士が名残惜し気に少しだけ吸い付いて、けれどやがて耐え切れずにゆっくりと剥がれて二つに別れた。

 

「……もう、また」

 

「いいだろ、ノーカンなんだから」

 

 炬燵の熱に浮かされたのかほんのり頬を赤らめた妹が恨めしそうに見上げてくるので、くしゃくしゃと頭を撫でておく。

 

「つうか、早く部屋で寝ようぜ。寒い」

 

 炬燵から出てだいぶ久しい。もう身体の端はだいぶ冷え切ってしまっていて、早く暖を取りたくて仕方がない。

 

「だから小町はここで――」

 

「炬燵の電源切るぞー」

 

「鬼!?」

 

 むしろ電気代的には天使なんだが、早く追い出すために炬燵布団を捲り上げる所業は確かに鬼のものかもしれない。八幡幻想生物説あるな。ないか。

 

「はーさむさむぅ……。ベッド絶対冷たいのにぃ……」

 

 渋々コタツムリから人間に戻ってきた妹の言い分も確かに一理ある。冬の布団は冷たすぎて、入った瞬間全身総毛立つのは必至。根気よくくるまっていれば最高に心地いいんだけどな。ひょっとしたら冬の布団って奴はツンデレなのかもしれない。できれば最初からデレててほしいものだが。

 

「それじゃあ……一緒に寝るか?」

 

 俺としても布団の冷たさを和らげる存在が欲しいわけで、階段を上りながらなんとなく提案すると、小町の足が止まった。俺を見て、自分の足元を見て、もう一度俺を見た妹は――いたずらっ子のようにニッと笑みを浮かべる。

 

「ノーカンだから?」

 

「ノーカン、だからだなぁ」

 

 やがて二人して喉を震わせながら、また階段を上り始める。向かう先は二人揃って俺の部屋。

 兄妹だから、家族だから、俺たちはノーカウントを繰り返していく。




 誕生日SSというわけではないですが小町のお話を。

 なんとなく免罪符みたいなものがあると兄妹ってキスくらいしそうだなって言う妄想。もちろん実際にそんなことはないんでしょうけど、あったらあったで私的に捗るのでポイント高い。

 そういえば最近更新ペース落ちたりしていてますが、来月から引っ越したり色々環境がまた変わるので、ひょっとしたら今以上の亀更新になってしまうかもしれません。その時は申し訳ないです。オリジナルとかにも手を伸ばしてるから許してくださいなんでも(ry

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


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変わって、変えられて、見守って

「あのな葉山……数学、教えてくれねえか」

 

 それは唐突な切り出しだった。そもそも彼が自分から話しかけてくること自体が稀なのだが、それにしたっていつにも増してなんの脈絡もないアクションだった。

 場所は大学の第二体育館。主にバドミントンや卓球など、狭いスペースでできる球技を行うための場所で、今日は午後から講義のない数人で集まって、バドミントンに興じている。

 彼、比企谷がそんな依頼をしてきたのは、並んで館内の壁を背もたれに一息ついていた時だった。思わず首ごと動かして隣を覗き込むと、当の本人はこっちを一切見ることなく、ネットを張ったエリアで十点先取の試合――という名のお遊び――に興じている学友たちをいつも通りの気だるい目で眺めている。

 いや、少しだけ……焦ってる?

 

「どうしたんだ急に。数学の講義なんて取ってたっけ?」

 

 大学の講義は基本自由選択。そして俺と比企谷が在籍する学部は数学系の講義こそ存在するが、必修科目ではない。そしてこの比企谷八幡という友人――だと俺は思っている――は今遊んでいるメンバーを含めた十数人で行った講義選択会議で「大学に入ったからには数学なんつうもんから一切縁を切る! 数字なんて四則計算ができりゃあ何の問題もないからな!」なんて堂々とのたまった男だ。間違ってもその手の講義を受講はしていないだろう。

 

「や、教えてほしいのは高校の数学なんだが……」

 

 ぼそぼそとまるで言い訳をする子供のように聞こえるか聞こえないかレベルの音量でぼやく彼の言葉に、少し思考を巡らせてみる……必要はなかった。

 

「いろはの受験か?」

 

「ッ――!」

 

 ズバリ言い当ててみせると、気づいてくれと言わんばかりに露骨に猫背気味の身体が強張った。視線だけはバドミントンコートに向けられたままだが、それだって“見て”はいないだろう。たぶん焦点もろくにあっていないと思う。

 俺の後輩とこの同級生が恋人と呼ばれる関係になったのはいつ頃だっただろうか。自分自身が下手に突っつくべきではない人間筆頭だったが故にお節介のおの字もできず歯がゆい思いで見守っていたが、ふと気づいてみればずっと前からそうだったかのように付き合っていた。

 で、一つ年下のガールフレンドは高校三年。あと一月もすれば夏休みなことを考えれば、そろそろ本格的に受験勉強を始める頃か。間違いなく、受けるのは俺たちと同じところだろうけど。

 当然予備校や塾にも通うとは思うが、隣の先輩兼彼氏も教えるつもりなのだろう。普段は何か頼まれたらほぼノータイムで断るのに、たまにありえないほど積極的に世話を焼き始めるから困ったものだ。

 まあ、さすがにここまでするのは彼女であるいろはか妹である小町ちゃんくらいと思う。高校時代も月一ペースでいろはから「せんぱいが~~で困るんですよ!」的な旨の惚気話を聞かされていたし。

 

「あいつ、選択科目は数学にするつもりらしくてな」

 

「なるほどな」

 

 うちの学部の一般入試は国語、数学、英語の三科目から二科目を選択して受ける形式だ。記憶の通りならいろはは英語が苦手だと言っていたはずだから、国語と数学を選択するつもりなのだろう。ちなみに言わずもがなだが、比企谷は国語と英語。この前試しに去年の数学の入試問題を解かせてみたら九点だった。九点ってお前……マックスコーヒー一ダースで釣ったから割と本気で解いてたのに九点って……。

 そんな点数を取る人間が受験生に教えられるはずもない。元来一人でなんでもこなそうとする性格だから、たぶん相当独学で勉強して――挫折したんじゃないかな。昔ほど仲が悪いわけではないが、彼にとって俺を頼るのなんて最終手段の中の最終手段だろうから。

 教えるのは俺としてもやぶさかではない。告白され、それを振った間柄ではあるが、俺にとっても彼女がかわいい後輩であることは紛れもない事実だ。そもそも先輩歴なら俺の方が長いし。

 ただ――

 

「なんなら俺が直接いろはに教えようか? 毎日は無理だけど、週に二、三回は放課後に時間作れると思うし」

 

 それわざわざ比企谷に教える必要はないんじゃないかなと思う次第。明らかに二度手間だし、なんなら九点なんて取る人間に教えるほうが明らかに難易度高い。これでも高校時代は雪ノ下さんに次いで卒業まで学年二位を維持し続けてきた身だ。知らない仲ではないし、直接教えたほうが効率がいい。

 

「は?」

 

 自分としてはなかなかいい提案だと思ったのが、返ってきたのは不機嫌さを全力で乗せた短い音。これがSNSの投稿なら後ろに「(威圧」とかついてそうな、若干凄みのある声だ。

 

「そんなに怒るなよ。冗談だからさ」

 

 まあ、その反応は想定の範囲内――というかド真ん中なので、笑ってごまかしてみるわけだが。余計に睨みがきつくなったけど気にしない気にしない。

 俺といろはの間ではしっかりと決着はついているし、比企谷と彼女の関係が壊れるなんて、今の二人を見る限り想像もできない。固結びのように強固な絆は、いつか彼が求めてあがいていた本物……なのかもしれない。

 しかしまあ、それでもいろはが過去に俺に好意を向けていたという事実は変わらないわけで――

 

「……お前、そういうとこ性格悪いよな」

 

 ようやくちょっとした幸せを掴んだこの捻くれ者はどうしても心配になってしまうのだろう。それだけ評価されている、と思えば、悪い気はしないかな。

 

「悪かったって。それじゃあ、明日から始めるか?」

 

「今日から」

 

「え」

 

「今日から」

 

 本当に君は急だなぁ。俺にだってスケジュールってものがあるのに。……まあ、今夜は特に用事らしい用事もないからいいけどさ。

 それにしても、あの数学嫌いをここまで積極的に勉強しようとするとは……さすがいろは、伊達に二年連続生徒会長をやっているだけのことはある。生徒会長全く関係ないや。

 

「比企谷くーん、葉山くーん! 次入りなよー!」

 

 今日の自炊の予定を某比企谷お気に入りのファミレスに脳内で変更していると、ひとしきり羽を飛ばしあったらしい友人たちが声を張って手招きしていた。短く返事をして背を預けていた壁から身体を離して立ち上がる。

 

「はいはい」

 

 立ち上がった俺の隣で、友人たちに聞かせる気がなさそうな音量で返事を漏らしながら比企谷も立ち上がった。

 相変わらず若干猫背なせいで実数値以上に身長差を感じる横顔を見やってみる。瞳は相変わらずやる気なさげだが、少なくとも嫌々やっているようには見えない。

 二年前の生徒会選挙。あの時こいつと関わってから、一色いろはは変わった。より可愛らしく、より誠実に一途に、実直に。時々見せるあざとさと誰から刷り込まれたのか捻くれた思考も少し混ぜながら、より一層魅力的な女の子になった。それはだれの目から見ても明らかだ。

 けど、それは彼だって同じだ。

 人と関わろうとしなかった彼が、人間関係なんて糞食らえだと一蹴していた比企谷八幡がこうして素直に友人関係を楽しんでいる。楽しめている。

 あの奉仕部という空間も起因しているだろう。生真面目で完璧な幼馴染や、底抜けに明るいあの子の影響も確かにあっただろう。

 しかし、一番の要因は間違いなく彼女だ。小町ちゃんが言うところの捻デレな彼を最も変えたのは、一色いろはという少女に他ならない。少なくとも、俺はそう確信している。

 昔は仲良くなれないとのたまった。嫌いだと互いに宣言しあった。

 

「ペアはどうする?」

 

「……お前以外と」

 

「さすがにひどくないかな……」

 

 今同じ話をするとしたら、きっとまた別の答えを口にするに違いない。

 まあ、そんな話するだけ無駄なんだろうけど。

 

「じゃあ俺が勝ったら夕飯奢りな」

 

「おま、俺今月ピンチなんだけど!?」

 

 決して言葉にしない答えの代わりに、とりあえず今夜から全力で勉強を教えることにしよう。




 はやはちしか出てこない八色っていうのに挑戦したお話。葉山には八幡と同じ大学学部に行っていろんなところに連れまわしてほしいです。
 奉仕部や一色との出会いを経て少し変わった八幡なら、振り回されながらも楽しむんじゃないかなぁ。


 ちょっとここでお知らせを。
 過去に投稿していた「二度目の中学校は“暗殺教室”」シリーズですが、高校編を書く書くと言いながらいまだに全然書いていません。さすがにもう一年くらい経つし、シリーズが増えることになってしまいますが、書き始めようかなとは思っています。
 ただ、今年から生活環境が大きく変わったので、更新ペースはかなーーーーーーーーり遅くなるということはご了承いただけると嬉しいです。

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


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暑くなってしまうから

「暑い……」

 

 学校指定の白のワイシャツ。その下がじっとりと汗ばんできているのが分かる。玉のような汗、というわけではないが、肌と服の間に薄い膜が張っているような違和感はなんとも気持ち悪い。ここが家だったら最優先でI LOVE 千葉Tシャツに着替えて扇風機を引っ張り出すところだ。なんならエアコンをつけてもいい。

 

「せんぱい、余計に暑くなるから暑いなんて言わないでください……」

 

 しかしまこと残念なことにここは家ではなく総武高校生徒会室。エアコンどころか扇風機もなく、涼を取るため開かれた窓からは申し訳程度に生温い風が入ってくるだけの地獄スポットだ。向かいの席では肩書が一年生生徒会長から二年生生徒会長にトリビアライズされた一色いろはが気だるさマックスなだらけ顔を精一杯引き締めて、俺に注意の目を向けていた。まあ、全然一ミリも引き締められていないのだが。

 さて、多少メタな発言をしてしまうことになるが、ここまで読んだ読者諸君は「夏の話か」と少なからず思ったことだろう。六月とか七月とかそこら辺。正直俺もその時期であってほしかった。

 今ね、四月なんですよ。四月の下旬。春真っ只中。

 

「しょうがないだろ、暑いもんは口にしなくても暑い」

 

「それはそうですけど……」

 

 今年は新学期が始まってからというものほとんど雨ばかりで、降っていなくてもせいぜい曇りが関の山だった。そのせいか少々空気もひんやりしており、年度初めだというのに布団から出たくない病の進行が激しかったのだ。

 で、そんな雨続きの日がようやく終わり、念願の晴れである。春の陽気はさぞ気持ちいいものだろうと思っていたら……ポカポカなんて生易しい表現では許されないほどの熱気に襲われたのだ。いつもなら冬服の黒に満たされているはずの教室は、全員が上着を脱いで袖を捲りだしたために白がかなりの割合を占めていた。いつもはうるさいくらいべーべーはしゃいでいる戸部でさえべーべーだるそうに机に突っ伏してたからな。どっちにしろべーべー言ってんなあいつ。

 さすがに夏の暑さほど気温は高くない。しかし、不意打ちのような温度変化を受けたせいなのか夏本番レベルのだるさに見舞われ、勉強も今一つ身に入らなかった。一応俺受験生なんだが。たぶん全校――教師も含めて――の九割は俺と同じ状態だったと思うからまあ、多少はね。

 それにしても放課後だというのにまだ気温が下がる気配はない。カリカリとシャーペンが紙の上を走る音と二枚の下敷きがうちわ代わりに使われてベコベコ鳴るやかましい音に耳を傾けていると、窓の外から蝉の声が聞こえてしまいそうだ。

 

「これが温暖化っていうのですかね~」

 

「それならせめて冬をもっと暖かくしてくれ」

 

 夏も冬も厳しいのが温暖化だとすれば、温暖化まじでやばすぎる。可及的速やかに世界規模で対策を練っていただきたい。

 しかしまあ、だるい暑いと悪態をついていてもどうしようもない。ただただエネルギーを無駄に浪費するだけだし、それ実質ヒッキーまである。

 

「…………よし」

 

 というわけでおもむろに腰を浮かせ、せっせと作業をしている一色――とは反対方向にある小型の冷蔵庫を開き、中から少々派手なデザインの小袋を引っ張り出す。さすが文明の利器、キンキンに冷えてやがるぜ。

 

「ん? せんぱい何して……あー! アイスじゃないですか!!」

 

「うるせえ……」

 

 突然声を荒げ始めた一色を無視して封を切る。伸びていた木の棒を手に取って引っ張り出すと、鮮やかなスカイブルーが輝きながら顔を覗かせた。

 言うまでもなくアイスである。より正確に言うのならラムネ味のアイスキャンディ。ペロリと舐めて甘さと冷たさを舌に乗せるも良し、シャクッと齧って口の中を急速冷凍させるも良しのスーパースイーツである。しかも安い。

 

「なんでアイスなんて持ってるんですか!?」

 

「さっき売店で買った」

 

 ここに来る前にマッカンを買うために売店に寄ったら、クーラーボックスで売っているところを見かけたのだ。この暑さに急遽取り寄せたのだろう。うちの学校のおばちゃん商売根性たくましすぎる。

 俺が買った時でも結構な生徒が並んでいたし、今行っても間違いなく売り切れているだろう。この暑さの中、アイスを見かけて買わないわけないもんな。

 元の席に腰を落とし、背もたれに体重を預けながら口をいつもの食事より幾分広げ、アイスを頬張った。

 

「……ふー、冷てえ」

 

 ラムネの清涼感のある味も重要だが、やはり今はこの冷たさが何とも言えない。嚙み砕かれてシャーベット状になったアイスが咽頭、食道を抜けて胃に落ちていくのが分かり、身体が中からじんわりと冷えていくのを感じる。

 しかし相手は自然現象による熱。いかにアイスといえど一口だけで足りるものではない。もう一口、もう一口と空色の欠片を口の中に放り込み、そのたびに冷たさに震えた。

 

「あー、もう神だわ。アイスほんと神」

 

 自分で言うのもなんだが語彙力が低すぎる。現国三位とは一体……。

 しかし、こうなってしまうのも無理はなかろう。暑いときに食べる冷たいものほど劇薬たるものはない。もう夏場のアイスとか法律で規制されるレベル。実際規制されたら全国で暴動が起こるのは必至だ。

 

「ぐぬぬ……」

 

 そしてその劇薬、もといオアシスにたどり着けなかった砂漠の旅人一色は恨めしそうに食べかけのアイスを凝視している。そんな熱視線を浴びせたらアイスが溶けてしまうじゃないか。既に外気温のせいでちょっと溶けてるというのに。

 

「っていうか、くつろいでるなら仕事手伝って欲しいんですけど……」

 

 ……はあ。本当にこいつはなーにを言ってるんですかね。

 

「なんで生徒会経験もない一般生徒な俺が、生徒会長がやるべき仕事を手伝わんといかんのだ。自分でやりなさい」

 

 そもそも新学期だからなんて言い訳をして、学校への提出書類の作成を先延ばしにして遊びほうけていた一色が悪いのだ。他の役員は全員数日中に自分の仕事を済ませていたというのに。

 しかし、いくらサボっていたとはいえ誰も一切手伝わないとは……生徒会、案外一色に対してスパルタなんだな。普段振り回してくるこいつへの仕返しの意味合いが少なからず混在していそうだが。

 

「それならなんでここにいるんですか!」

 

 なんかめっちゃ怒りだした。カルシウムが足りていないのではないだろうか。カリカリ怒っているせいでシャーペンのカリカリが止まってしまっている。こうしていろはすの帰宅時間が遅くなるのね、わかるわ。

 まあ、確かに手伝いもしないならなぜこんなところにいるのかという不満は正論かもしれない。アイスで多少の避暑に成功しているが、普通に考えればさっさと帰宅して空調の効いた自室に籠ったほうが快適だろう。

 ではなぜ下校もせずに生徒会室にいるかと言えば――

 …………。

 ………………。

 

「外が暑いから」

 

「それくらい我慢してください!」

 

 怒髪天一歩手前な一色を無視して、また一口アイスを頬張る。窓から見える空は未だ澄んだ青を広がらせていて、当分は気温を下げる気がなさそうだ。

 俺が話を聞くつもりも手伝う気もないと悟ったのか、一色は深いため息とともにまたシャーペンを滑らせ始めた。カリカリ、カリカリと控えめな音が耳に心地いい。

 そんな音をBGMに再び涼を求めて口を開いたわけだが。

 

「……あれ?」

 

 不意に聞こえてきた困ったような声に、開いた口が中途半端な形で固まってしまった。窓ガラスにうっすらと見える自分の影がなんだかひどく間抜けに見えて、音の出来損ないのような咳払いをしながら閉じてみる。

 

「えーっと……」

 

 つ、と視線を向けた向かいの席では、筆の止まった一色がしきりに首を捻っていた。なにかそんなに難しい項目でもあったのだろうか。

 

「どうかしたのか?」

 

「えっ? いや、なんでもないです。大丈夫です」

 

 なんとなく気になって問いかけてみても、大丈夫と言いながら書類とにらめっこするだけ。

 まあ、自分でも言ったように生徒会役員でもない俺が、半年近く会長を務めている一色に分からないことが分かるわけがないのだが……。

 うーん……。

 なんというか……気になる。頼られないと頼られないで無性に気になる。

 好奇心を抑えきれず、アイスを持ったまま席を立つ。長机二つ分の幅を歩いて近づけば、さっきまではよく見えなかった細かい文字列が見えてくる。はてさてなにで詰まっているのだろうか。

 印刷文字と手書き文字が交互に並んでいるA4用紙の内容を読んでいき――

 

「…………ん?」

 

 分かったことはその書類が既に完成していることだった。

 

「隙あり!」

 

「んお!?」

 

 時すでに遅しとはまさにこのこと。声に気づいたころにはすでに胸元には彼女のつむじが見えていて、喉の奥が小さく音を立てたのが分かった。

 そして自分の鳴らした音の後に聞こえてくる、シャクッという軽やかで涼しげな音。

 

「冷たーい! あまーい!」

 

 さっきまでのカリカリプリプリはどこへ行ってしまったのか、顔を上げた一色は満開の花畑すらかすみそうな笑顔を浮かべている。もうほんと嬉しそう。カマクラが我が家の一員になった日の小町だってここまで嬉しそうな顔はしていなかったのではないだろうか。

 たかがアイス一口でまあよくこれだけ喜べるもんだ。つうか、あんな演技までして必死すぎるでしょ。や、気持ちは分からんでもないけどさ。

 

「ほんとよく平然と男の食いかけ食べれるなお前……」

 

 意図しない形に欠けたアイスを眺めながらぼやく。日頃こんなことをしているから女子を敵に回すのだ。

 

「こんなことするのせんぱいだけですよ~」

 

 けど、満面の笑みのままそう言われてしまえば――

 

「……そうかよ」

 

 “惚れた弱み”故かそれ以上なにも言えなくなってしまうのだ。

 

「つうか、仕事もう終わったのか?」

 

「えっ? あー……もうちょっと……です……」

 

「はあ~……半分貸せ」

 

 「わーい! せんぱい大好き!」なんて調子のいいことをのたまう彼女を受け流しつつ、棒についたアイスの残りを一口で平らげて自分の席に腰掛ける。鞄から筆箱を取り出して書類に向かい、結局いつもの光景に行きついてしまったわけだ。

 まあ、それが嫌なわけでない。自分でも驚くほど全くない。

 別に放課後すぐ帰ってもよかった。確かに気温も日差しも暑いことこの上ないが、チャリを走らせれば忘れ去ってしまう程度の些末事だ。

 けどそれをしなかったのは。あまつさえ本来の自分の居場所でもないここにいるのは。

 

「? どうかしました?」

 

「……いや、なんでもない」

 

 少しでも長く、こいつといたい。ただそれだけの理由なのだろう。

 半分だけ開かれた窓から流れ込んできた風は、また少しその温度を上げたような気がした。




 なんか久しぶりに晴れたなぁって思ったら春とは思えないほど暑くて、むしゃくしゃした気分のまま書きました。アイスは爽のバニラが好きです。いやまあ、大抵のアイスは大好きなんですけど。
 天気がいいのは別に構わないんですが、せっかく春なんだから過ごしやすい気温であってほしいです。半袖で暑いってどんだけ……もうやだ家で引きこもりたい。

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


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お兄ちゃんだから怒るときは怒るのである。

『……ふっ、お兄ちゃんにわかれっていうほうが無理か。まあ、いいや。小町あと五時間くらいかかりそうだし、なんなら一人で帰るから、あとは二人で頑張って!』

 

「…………は?」

 

 電話越しに小町からそんな発言を聞いた瞬間、自分でも信じられないほど低い声が漏れた。隣で袋の隙間から先ほど買ったらしいパンさんのぬいぐるみを眺めていた雪ノ下が驚いたようにこちらを見てくるが、今は無視である。

 

『何、雪乃さんと二人っきりだと緊張する? 心配しなくても大丈夫だよー、たぶん』

 

「いや、そういうことじゃないんだが」

 

 どうやら電話越しの小町は気づかなかったようで、気の抜けた声で訳のわからんことをのたまっている。初邂逅の頃ならともかく、今更雪ノ下と二人で緊張することなどないに決まっているだろう。……むしろ初邂逅の頃のがないわ。あんな毒舌受けたから別の意味で緊張したが。

 

『それなら大丈夫でしょ。じゃあねー』

 

「あ、おいっ」

 

 音のしなくなったスマホの画面に目を向けると、通話が終了したことを知らせる画面が表示されていた。試しにもう一度かけてみる。

 …………。

 ………………。

 電話は繋がらない。電源を切っているのではなく、マナーモードにでもして無視しているのだろう。

 

「あいつ……」

 

「小町さん、なんて?」

 

 珍しく少し不安そうな顔をした雪ノ下が尋ねてくる。不安になるのも無理はない。こいつららぽは初めてらしいしな。

 そう、俺たちが今いるのは千葉の学生御用達のららぽーとである。「とりあえずららぽ行こう!」でだいたい時間を潰せる名スポット(小町談)なのだが、議員兼社長令嬢であるこいつにとってこういった大衆施設は縁のないもののようだ。

 ではなぜそんなららぽーとに雪ノ下が、それも俺と一緒に来ているのか。一応弁明しておくがデートではない。決してデートではない。そもそも俺にとって雪ノ下雪乃は邂逅から二ヶ月が経った今でも“嫌な奴”の枠から出きっていないし、雪ノ下からしても俺の評価は不審者とかそんなところだろう。……自分で言ってて泣きそうだけど、事実なのよね。

 第一、ここには本来小町もいるはずなのである。

 俺が関係のリセットを行った結果奉仕部に来なくなった由比ヶ浜、その誕生日を祝うため、そして願わくば部活に戻ってきてもらうためのプレゼント選び。それを雪ノ下から頼まれたのだ――小町が。

 そう、俺ではなく小町が。

 

「これは……お仕置きだろうなぁ」

 

「ひ、比企谷くん?」

 

 ぼそりと呟いた俺に雪ノ下が震えるような声を漏らす。ん? なんで雪ノ下はそんな怖いものを見るような目をしているんでせうか。八幡全然怖くないよ?

 ちょっと本気で怒ってるだけだよ?

 

「すまん雪ノ下、ちょっと最優先で行かなくちゃいけないところができちまった。悪いけど付き合ってもらえるか?」

 

「え、ええ。いい……です、よ?」

 

 なんで敬語なんだ。まあいいや。

 リアルに東京駅で一時間迷子になりそうなほど方向音痴な雪ノ下とつかず離れずな距離を保ちつつ、目的の場所を目指す。途中の案内板によればこの先のはずだが……。

 

「あ、あそこか」

 

 俺に方向音痴は搭載されていないので、迷うことなく目的地に着くことができた。施設の特性上人もまばらで、休日のららぽから隔絶された空間のような錯覚を覚える。

 

「え、ここ……え?」

 

 隣で雪ノ下がなんとも間の抜けた声を漏らして施設の看板と俺を見比べている。お前が驚く気持ちもわかるが、残念ながらここで間違いない。

 いやほんと、この歳になってこれだけは使いたくなったのだが。

 

「すみません」

 

「はい、どうなさいました?」

 

 シンプルなデザインの窓口で待機している従業員の女性に声をかける。多少訝しげな表情を浮かべられたのは俺が若すぎるせいだろう。さすがにこんなところで目を理由に警戒されたり……しないよね? 大丈夫だよね? ここで見た目で判断とか八幡泣いちゃうからない。きっとない。

 閑話休題。

 とにもかくにも対人スキルの乏しい俺、ここで噛むなんて失態は絶対にできない。なにせ俺は怒っているのだ。

 多少大げさになってしまうがゆっくりと息を吐き、言うべき言葉、対妹スキルの奥の手を――俺は使った。

 

「迷子の呼び出しをお願いしたいんですが」

 

 

     ***

 

 

「お、お、お、お兄ちゃあああああああん!? 何してんのおおおおおおおっ!?」

 

 迷子センターの控室の扉を蹴破りそうな勢いで小町が飛び込んできた。受付のお姉さんに頼んで迷子の呼び出しが行われてからわずか三分である。相当全力疾走してきたに違いない。へたり込んだ我が妹は肩で荒い息をしていた。

 まあ、小町がそんな韋駄天の動きで来るのも無理はない。

 

『○○からお越しの比企谷小町さん。緑のブラウスにハーフパンツ、赤い肩掛け鞄を持った“中学三年生の”比企谷小町さん。お兄さんがお待ちです。迷子センターまでお越しください』

 

 なにせ、服装に加えて学年までアナウンスされたのだから周囲からの好奇の目はさぞかし痛かったことだろう。そんなもの、大抵の奴は耐えられなくて元凶を潰すためにここに来る。

 まあ、仮に無視を通して来なかったら、十分ごとに新しいプライベート情報を付与しながら再度アナウンスしてもらうつもりだったが、そこまでするのはさすがの俺でも心が痛む。いやあ、すぐに来てくれて本当によかった。

 

「ハッ、はっ……はあ……はぁ。お兄ちゃん酷くない!? 休日のららぽだよ!? 学校の友達とかが来てたらどうするのさ!」

 

 ようやく息が整った小町がまくしたててくる。まあ、うちの近くに別の商業施設ができたとはいえ、未だにららぽの人気は健在。しかも小町自身学校では生徒会役員をこなしていることを考えれば――こいつのことを知っている人間はかなり高確率であのアナウンスを聞いただろうな。

 だがそんなことは今はどうでもいい。

 

「小町、そこに座れ」

 

「いや、まず小町の質問に……」

 

「正座」

 

「ちょっと待っ」

 

「Sit down」

 

「……はい」

 

 最初は反論しようとしていた小町だったが「座れ」としか言わない俺が発する有無を言わさぬ空気に気圧されたのか素直に目の前でちょこんと正座をしてみせた。

 さて、それではお説教を始めるとしよう。幸い今は迷子の待機はいないようだし、なぜか従業員の人は奥の部屋からこちらを伺ってくるだけなので多少騒ぐことになっても大丈夫そうだ。

 

「小町、お前……今日何のためにここに来た?」

 

 俺の問いかけに、目に見えて小町は動揺する。まあ、たまに俺を便利アイテム扱いするこいつだって人の子。罪悪感がないわけがない。その証拠に泳ぐ瞳が何度も俺の後ろ、雪ノ下の方に移っていた。

 なぜなら――

 

「……雪乃さんが、結衣さんに送る……プレゼント選びの、手伝い……です」

 

「だよな」

 

 こいつのさっきの行動は所謂ドタキャンである。雪ノ下に対する裏切りである。

 そもそも昨日雪ノ下から相談を受けたとき、こいつは二つ返事で了承したのだ。なんなら食い気味にOKしていたまである。

 

「それが蓋を開けてみればこのザマだ」

 

 そも雪ノ下にとって今回重要なのは比較的由比ヶ浜と趣味趣向の近い小町であって、同じ目的で買い物に来ているとはいえ俺は立場的には付き添いに近い。そんな俺を残して「後はがんばってね!」なんて無責任にも程があろう。なんなら小町の信用にも傷がつく。

 

「いやけどさ……」

 

「けどもクソもあるか。開始五分で『やりたいことあるから約束はなかったことにしてね』みたいにいなくなるなんて俺だってやらんぞ」

 

 まあ、むしろ俺は約束事自体が存在しないのだが、今はそんなことどうでもいい。

 

「お前がどんな悪だくみをしていたかはあえて言わないでおいてやる。だいたい想像もつくしな」

 

「……はい」

 

「で、ここまで言えば、何をするべきか分かるよな?」

 

 腰を屈めて少々涙目になっている愛妹の顔を覗き込むと小町は二秒ほど瞑目して……しっかりと俺の後ろの方に目を向けた。

 

「……え? 私?」

 

 つまり、その先にいる雪ノ下を見たのだ。

 今回小町の行動で誰が一番迷惑を被ったか。俺も多少被害を受けたが、それ以上に雪ノ下への被害がでかかったと言えよう。

 小町がちゃんとアドバイス役を全うしていれば、今頃ミッションコンプリートは行かなくても数点の候補に絞れるまでにはなっていたはずだ。それが現実は雪ノ下の個人的買い物が一つ済んだ程度である。彼女が本日のスケジュールをどう組んでいたかは知らないが、どう贔屓目に見ても予定通りとは言い難い。

 

「雪乃さん、勝手にいなくなってごめんなさい」

 

 それを小町も分かっているから、雪ノ下に謝るのである。

 

「べ、別に謝らなくてもいいのよ。わざわざ休日に付き合ってもらおうとしたわけなのだし……」

 

 幸い、部長様の反応を見る限り怒っている様子はなさそうだ。というか、なんか今日はやけに大人しいというかマイルドですね雪ノ下さん。普段からそうしていればもっとクラスでも人気者になれるだろうに。

 まあ、今はそんなことどうでもいいか。

 

「わりいな雪ノ下。この後は小町もちゃんと手伝うから」

 

「それはありがたいのだけれど……」

 

 椅子に置いていたらしいバッグを手にした雪ノ下がキョトンとした顔で見つめてくる。ほんと今日はどうしたんですかね、いつものサディストの権化はどこに行ったの?」

 

「なんだよ」

 

「いえ、いつもは意味も分からないひねたことばっかり言っているのに、小町さんには正論というか、普通のお説教をするのね。いつもはアレなのに」

 

 訂正。いつもどおりでしたわ。え、今ので驚かれるほど普段の俺酷いの? そう言われるとちょっと今後の身の振り方考えちゃうんだけど。

 

「ま、プロぼっちの俺と違ってハイブリットぼっちの小町には人間関係のしがらみも大事だからな。今回みたいな愚行を『おうそうか、気を付けて遊ぶんだぞ』とかで流すわけにはいかんだろ。小町が周りから嫌われてただのぼっちになってみろ。俺がもらわなくちゃいけなくなるだろうが」

 

 そもそも当分小町を嫁に出すつもりはないけどな! 俺(と親父)の判断基準はシビアだぞ。シビアすぎて合格できる相手がこの世にいないまである。

 と、そこまで言外に伝えると……なぜかさっきまで驚いていた雪ノ下がいつもの蔑むような眼をしていた。あれれぇ? おかしいぞぉ?

 

「シスコンも極まるとここまで恐ろしい存在になるのね」

 

「どうしよう。お前の脅威になれても全然嬉しくない」

 

 ため息を漏らしている隙に「先にお昼にしましょう」と雪ノ下が迷子センターから出ていこうとする。壁にかかっている時計を見てみると、なるほど。確かに昼食にはちょうどいい時間だ。

 それはいいんですが、雪ノ下さん先行するのはやめてください。今度はお前の名前をアナウンスしてもらうハメになってしまう。

 

 

     ***

 

 

「はー、疲れた」

 

 あれからフードコートで昼食を食べ、なんとかプレゼントも選び終わり雪ノ下と解散する頃には時刻は四時を回っていた。今は帰りの電車の中だ。

 

「なんか、パワフルな人だったね、雪乃さんのお姉さん」

 

「だな。あれが外面なんだから、中身はきっと魔王だぜ魔王」

 

 途中で偶然遭遇した雪ノ下の姉を思い出す。今にして思うと狙ってこちらに接触してきたのではないかと思うほどの存在感だった彼女だが、あんな姉が上にいるとさぞ妹の肩身は狭いことだろう。まあ、姉の外面も社交界交流などの賜物らしいし、やっぱ金持ちも楽じゃねえんだな。

 まあいいや。どうせもう会うことはないだろう。

 

「そういえばさ、お兄ちゃん」

 

「んー?」

 

 何をするでもなく車窓から溶けて流れる街並みを眺めていると、隣に座っている小町がコテンと肩に頭を乗せてきた。いきなりどうしたのかと思ったが、慣れない休日出勤の疲労もあって首を動かす気にもなれず、意味を持たない音で返事をしてみる。

 

「さっきさ、小町がぼっちになったらお兄ちゃんがもらってくれるって言ったけど、あれ……ほんと?」

 

「おう、当たり前だろ」

 

 むしろぼっちにならなくてももらうまである。そのときは親父とバトルだな。負けないように今のうちに鍛えとくか。親父もひょろいから案外今のままでも勝てそう。

 

「……バカ、ボケナス、八幡」

 

「なんで八幡が悪口みたいになってるんだよ」

 

 ほんと、この妹は時々何を考えているのか分からん。分からんから、視線を動かすことなく喉をせりあがってきた言葉をそのまま口にする。

 そんなことより今は親父をどう倒すかだな。やはりまずは金的か目潰しか。これは戦争だ。正々堂々なんて甘ったれたことは言ってられ――

 

「そんなこと言ってたら、本気にする……からね?」

 

「…………え?」

 

 鼓膜を震わせたその声に、さっきまで疲労で首を動かすのも面倒とのたまっていた身体は俺が考えるよりも先に首を一八〇度近く動かしていた。

 

「…………」

 

 右肩に俯くように乗った小町の頭は、顔の部分が影になっていて表情を伺うことはできない。髪の合間からわずかに見える耳介の頭がほんのり朱に色づいているように見えるのは、夕方の陽射しのせいだろうか。そうだ、きっと夕日のせいに違いない。

 

「……まさかな」

 

 アクティブな妹も疲れたのかかすかに寝息が聞こえてきて、ため息交じりに言葉を転がす。きっとまどろみの最中だったのだろう。寝ぼけてるとやけに幼くなるからな、こいつ。

 ただ――

 ――本気にする……からね?

 普段聞かないような声色に不覚にもドキリとしてしまったのは事実なわけで。

 

「……生意気な奴」

 

 顔が熱いのはきっと夕日のせいに違いない。熱くて仕方がないからさっさと沈んじまえバーカ。




 原作で小町がいなくなるところのからのIFなお話でした。あそこ原作だと小町の心配しつつドタキャン容認しているわけですが、実際それ兄としてどうなんという(謎の)思考によってできあがったのかこれです。

 八幡も説教するときはちゃんと説教すると、普段とのギャップですごくいいと思うの!

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


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俺の抱き枕が作られるとか普通に考えておかしい。

 大学食堂に併設されたカフェ。そこに俺が腰掛けているという絵は、自分で言うのもなんだが大変似合わないものだろう。俺はどこぞの雪の同級生のように絵になるような見てくれではないのだ。

 まあそれでも、授業がないときには割とここで過ごすことが多い。昼休みには他の学生たちが雪崩れ込んできてうっとうしいことこの上ないが、それ以外の時間は程よく空いている。ドリンクを傍らに置いて読書や勉強に勤しんでもいいし、愛しのVitaちゃんと戯れてもいい。邪魔するものは誰もいない。

 そう、普段ならば。

 

「……なんか今、邪魔者扱いされた気がする」

 

「別に……つうか、なんでいるんだよ――海老名さん」

 

 向かいの席に座る眼鏡女子、海老名姫菜は自分のカップ――確かレモンティを頼んでいたはずだ――を両手で包むように持ちながら口を尖らせている。そこはかとなくうざい顔だ。

 俺と奉仕部の関係も一応のエンディングを迎え、比企谷八幡はさしたる障害もなく総武高校を卒業。志望校であった私立大学の文学部に入学した。大学生活というものは予想していたよりも幾分忙しいものではあったが、もうすぐ丸二年にもなる今となっては気になるほどの苦労もない。想定の範囲内というやつ。

 そんな中で唯一と言っていい誤算が、目の前にいる高校時代の同級生だ。まさか数少ない知り合いと同じ大学、同じ学部になるとは思わなかった。一年の必修科目の授業でばったり遭遇して、あまりの驚きに丸一日無視してしまったのはいい思い出だ。なぜか小町にそのことをチクられていて、一晩中お説教食らったけど。

 

「いいじゃん、ゼミまで時間あるわけだし」

 

 その上、一切話し合ってもいないのにゼミまで同じになるとはどういうことなのか。うちのゼミ――というか教授――は学部の中でも三本の指に入るほど人気で、毎回高倍率らしいのに。これが千葉有数の進学校の力か。違うか、違うな。

 まあ、今は運命のいたずらなどどうでもいい。そもそも俺や海老名さんの興味や学力が被っただけの必然に過ぎないのだ。決して運命などではない。

 今重要なのは――

 

「どうでもいいけど……要件は分かりやすく明確に言ってくれよ?」

 

 彼女が何かを隠している、ということだ。

 

「あ、バレた?」

 

「そりゃあもう」

 

 分かるに決まっている。だって今の海老名さんがまとう雰囲気には覚えがあるから。修学旅行前、奉仕部で見せたものと同じ雰囲気だ。

 

「面倒事じゃなければなんでもいいけどよ。もう恋愛云々の助力を請われるのは勘弁……」

 

「あはは……ごめん」

 

「別に、もう済んだことだし」

 

 あれは俺にとっても海老名さんにとっても黒歴史だ。いっそのこと修学旅行の記憶を跡形もなく消し去ってしまいたいほどの。今も自分で話題に出しておいて自分でダメージ受けちゃったしね!

 まあ、だからこそ彼女の口から俺に対して恋愛事に対する相談がなされるはずもない。分かってはいるのだが、それでも警戒してしまった。ほんと、自分の中であれはかなりの傷になっているようだ。

 

「そういうのじゃないんだけど……うーん」

 

 何やら言いにくそうだ。普段は俺に対してずばずばといろんな意味で言いたい放題なこの腐女子がここまで言い淀むとは、一体どんな面倒事をよこしてこようというのか。いや、マジでなに頼もうとしてるの。俺の平穏な大学生活を脅かすようなことはやめてくれよ?

 冬も真っ只中だというのに、空調の効いた屋内なのも相まって嫌な汗が頬を伝ったように錯覚する。

 そんな俺の心境を知ってか知らずか、たまに唸りながらたっぷりと時間をかけて俯いていた同級生は不意にパッと顔を上げる。その目が真剣そのもので、思わず息を飲んだ。

 

「ヒキタニくんさ、大晦日って……暇?」

 

「大晦日?」

 

 大晦日。言うまでもなく一年最後の日のことである。友人と過ごしたり、家族と過ごしたり、テレビの特番を見て過ごしたり、あるいは外でカウントダウンイベントなんてものに参加したり。普通に考えると暇とは言えそうにない日だ。

 

「俺を誰だと思ってんだ。百人中百人が忙しい日でも予定を作らない男だぞ」

 

 近場の大学に進学したので実家暮らしではあるが、今年は小町の受験もあるということで、どうせ家でも年越しそばを食べるくらいである。うちの両親は相も変わらず社畜で、年越し前に帰ってこられればいい方とか言ってたしね!

 

「だよねー。さすがヒキタニくんだー」

 

「全然褒めてねえよな、それ」

 

 や、一応弁明させてほしい。さっきも言ったように、予定を作らなかったから暇なのである。予定ができなかったわけではない。そもそも今の俺は高校の時ほどぼっちではないのだ。ゼミの同期とつるむことも多いし、学部にも友人……とまではいかないまでも知り合いは多い。

 ……まあ、家で小町の邪魔をしないようにひっそり過ごすのと同期でバカ騒ぎするのとを天秤にかけて、面倒くさくて前者を選んだ部分が少なからずあるし、なんならその知り合いたちだって大抵は目の前の海老名さんづてで知り合った面々なのだが。だって初対面で話すのとか怖いし、あと怖い。

 詰まるところ、俺の大晦日は空いているのである。

 

「そんなヒキタニくんの大晦日お昼の時間をお譲りしてほしいんだけど」

 

「なんでへりくだったの……つうか、昼間は海老名さんの予定が空いてないだろ」

 

 口調が変になった彼女にツッコミを入れながら、脳内のカレンダーを確認してみる。

 大晦日、十二月三十一日、今年最後の日。その日は海老名さんにとって重要な日であるはずだ。大事な戦いの日であるはずだ。戦場は国際展示場。

 そう、コミックマーケット冬の陣、その最終日である。他二日と比較すると参加者が単純に十万人は増えると聞くイベントの開催時間に海老名さんがそこを離れるわけがな――

 

「あ、まさか……」

 

「そう、そのまさかです。ヒキタニくんには……コミケでうちのスペースの売り子をやってほしいのです」

 

「やだよ他当たれよ」

 

 自分でもびっくりするくらい即答で拒否してしまった。や、確かに、俺もコミケというものには興味がある。これでもオタクに片足くらいは突っ込んでいる身。興味がないわけがない。今まで近場でありながら行かなかったのは、単純に早朝起きて数時間並ぶとかいう苦行が嫌だっただけだし、売り子ということはサークル参加であろうから、その点は随分と楽ができる提案だろう。

 しかし、いやしかし。一見魅力的な提案に見えて、これがとんでもない罠なのは確定的に明らかなのである。

 だって――

 

「海老名さんのスペースに男とか……ありえんでしょ」

 

 この女のスペースは十中八九腐女子向けのBL島なのだから。腐ったお姉さま方がひしめくホモ空間に男を放り込もうとか、どういう精神してるんですかね。やだよ「え、あの人腐男子?」みたいな目で見られるの。いや、偏見かもしれないけどさ。

 

「そこをなんとか! いつも売り子お願いしてるネット友達が当日仕事で不参加なんだよぉ……」

 

「うわぁ、社畜怖い……」

 

 ここにも大晦日まで仕事に明け暮れる人がいたとは、うちの両親のアイデンティティが死んでしまう。そんな面倒なアイデンティティはさっさとくたばればいいと思います。

 じゃあ別に俺以外でも――と口にしようとして、考え直す。その質問が愚問にもほどがあるからだ。

 そもそも俺にこの話が来る時点で、状況は逼迫しているのである。

 

「ネットの知り合いもだいたい三日目にサークル参加してるし、そもそも今までずっと同じ子に売り子してもらってから、今更他の人に頼みづらいというか……」

 

「ネットも面倒だなぁ……」

 

 普通ならここで大学のオタク友達は? なんて尋ねるところかもしれないが、ここでリアルの話をしないのがなんとも俺たちらしい。そもそも大学でも――恐らく牽制のため――腐女子であることをひけらかしている彼女であるが、リアルの同士というものを意図的に作らないようにしているきらいがある。漫画サークルにも入っていないし、彼女が友人と定義している同級生はほとんどが葉山や三浦あたりを彷彿とさせるリア充ばかりだ。

 趣味にリアルのしがらみを入れたくないのか。理由は定かではないが、とても「ホモ本の売り子やってください!」とは言えそうにない。

 つまり、ここが最終防衛ライン。俺もダメとなれば、当日彼女は一人でえっちらほっちらサークル運営をこなさなくてはならないわけだ。海老名さんのサークルの人気とかよく知らないが、たぶん一人では大変なのだろう。

 いやーけどなー、やっぱりBLサークルはなぁ……。

 

「往復の移動費と、マッカン一ケース出すから!」

 

「やはりコミケか、いつ出発する? 私も同行しよう」

 

「頼んでいてなんだけど、手のひら返しが鮮やかすぎるよ……」

 

 うん、自分でもそう思う。いや、しかし、これはしょうがないではないか。ほぼほぼ無料でコミケの雰囲気が楽しめる上に、マッカンまでついてくるともなれば、少しくらい好奇の目で見られたっておつりがくるというもの。確かに視線は攻撃力を持っているが、ぼっちは視線を受け流すアビリティも持っているから頑張ればノーダメ攻略も可能だし、これを参加しない手はないだろう。

 

「ま、別にコスプレするわけでもないし、売り子の顔なんて誰も見ないだろ」

 

「えっ、あっ、うん……そ、そうだね」

 

 え、何その反応。実際はめちゃくちゃジロジロ見られたりするのか?

 

「いや、そういうわけじゃないんだけど。ヒキタニくんは例外というか、実質コスプレというか……」

 

「すまん、話が見えてこないんだけど……」

 

 実質コスプレとか意味が分からん。あれか? 目が腐ってるからコスプレみたいなもんとか言いたいのか? いや、雪ノ下ならともかく――あいつも最近はじゃれ合い以外でそんなこと言わなくなったが――海老名さんがそんなことは言わんだろ。

 であれば、一体どういう――

 

「今回の配布物、はやはち本と…………ヒキタニくん抱き枕カバーなんだよね……」

 

「はあぁ!?」

 

 

     ***

 

 

 その日、海老名姫菜は荒れていた。もうあれに荒れていた。冬コミの新刊であるはやはち本――という名の一次創作――の原稿が完全に止まってしまったからだ。

 どうも納得がいかない。しかし〆切が間近に迫っているのもまた事実なわけで、このまま放置していては「進捗駄目です」から「何の成果も、得られませんでしたあああああ!」となるのは必至。

 しかしやはり納得がいかず、原稿に線を引いては消し、引いては消しを繰り返す。溜まっていくのはストレスだけ。

 

「ああああああ、もう駄目だ! 息抜きしよう息抜き!」

 

 とうとうストレスがキャパシティを大きく振り切り、乱暴にマウスを操作して新規キャンバスを開く。絵の息抜きに絵を描くというのもおかしな話のように思えるが、絵描きとは割とそういうものだろう。文字書きも小説の息抜きに小説書いたりするもの。

 さらさらと、気の向くままに筆を走らせていく。溜まった鬱憤をすべて吐き出すように殴り描いていけば、常ではありえないほど短時間で線画と言っていいレベルにまでイラストは形になっていた。いやほんといつもの十倍は早い。ストレスドーピングの恐ろしさを感じる。

 

「なんか、抱き枕っぽいな。ヒキタニくん抱き枕……需要マシマシなんじゃない?」

 

 沸き立った創作意欲のままに抱き枕の裏面となるイラストも描いていく。

 

「ただ脱がせてデレさせるなんてヒキタニくんじゃないな。ちょっと反抗的に、けど誘い受けオーラ満載で!」

 

 途中から入ったアルコールも相まって、加速度的に作業は進んでいった……と思う。正直、酔いのせいで完成した頃の記憶は朧げなのだ。なんとか完成した瞬間に「完全受注生産で冬コミ配布する」と投稿サイトにアップした記憶だけは残っていた。

 そして外から沁み込んでくる寒さに目覚めたあくる日――

 

「え、これ本当にわたしが描いた……?」

 

 寝ぼけ眼で発した第一声がこれだった。クオリティがいつもの倍は高く、一瞬リアルのヒキタニくんの写真を張り付けてしまったかと錯覚してしまうほど。いや、普通に考えてあり得ないのだけれど。残念ながら、ヒキタニくんがシーツの上で半脱ぎになって誘ってくる写真は持ち合わせていない。

 そしてキャプションに掲載していた受注受付用のメールアドレスには――二百件あまりの問い合わせメールが届いていたのだ。

 エイプリルフールでもない十二月半ば。今更「酒の勢いで言った冗談なんです!」なんて言えるはずもなく……。

 

「抱き枕……出すか」

 

 斯くして、同人作家「ウミヒナ」の冬コミ頒布物が急遽増えたのであった。

 

 

     ***

 

 

 一つ言わせてほしい。

 ――オタクってほんとアホ。

 なんで一般男子の抱き枕に二百も需要がつくのか。いや、正しくは海老名さんのオリジナル漫画「捻くれ者のハチくん」シリーズの主人公、ハチの抱き枕なのだが。それはそれで、生ものを勝手に同人にするとか海老名さん鬼畜すぎやしませんかね。葉山が知ったら卒倒しそう。今回の本、俺と葉山のエロBL本――無事〆切には間に合ったらしい――だし。

 つうかこのハチとかいう俺の分身、アホみたいに俺そっくりなんだが。そりゃあ俺がコミケで、それも海老名さんのスペースにいたらコスプレ扱いされるよ。私服でコスプレ扱いとかもう訳分からん。

 前言撤回だ。こんな売り子に赴くだけで確定公開処刑を食らう場所に誰が進んで参加するものか。落ちたサークルの方々に申し訳ないから渋々頒布は認めるが、売り子なんて絶対にやらん。新刊に加えて二百件の抱き枕配布対応なんて一人じゃ無理? 知るかよ、俺はこれ以上巻き込まれたくないんだ!

 そう、思っていたのだが。

 

「…………」

 

 年の瀬大晦日、午前八時。俺は今、ビッグサイトの中にいます。

 言うまでもないかもしれないが、結局断れませんでした。いや、違うぞ。拒否権がなかったとかでは決してないんだ。それだけは真実を伝えたかった。

 

『打ち上げの時に、この間ゼミで行ったお店奢るから』

 

 それが決定打であった。うちのゼミ、二ヶ月に一回くらいの頻度で食事会がある。その店は毎回教授が決めてくるのだが、めちゃくちゃ美味い代わりにめちゃくちゃ高いのだ。忘年会で行った件の店なんて、一人一万五千円もかかった。バイトをしていなければ小遣いが死んでいたレベル。

 あんな店、行きたいと思っても気軽に行けるものではない。低時給のバイトで小遣いを捻出している身からすれば、かなり美味しい提案だ。しかも移動費とサクチケとマッカンケースがついてくる。大盤振る舞いすぎてやばい。

 まあ、それで折れてしまったわけであるが――正直既に心が折れそう。二段階で折れるとか、俺の心ぼろ雑巾じゃん。

 

「「わあ、本当にできてる」」

 

 文字に起こすと全く同じなのだが、実際の声色は正反対なものだったりする。

 その原因が今しがた段ボールから出てきた頒布物。綺麗に折り畳まれてビニールにしまわれたそれを海老名さんが広げると、俺そっくりの男性が半脱ぎになっている全身イラストが二枚プリントされていた。

 およそ八時間で実質二万くらい。バイトより断然ボロいと思っていたが、全然そんなことなかった。精神的ダメージがやばい。なぜ俺は自分の抱き枕カバーなんて眺めているんだ。つうか似すぎなんだけど、ここのサークル主の画力舐めてたわ。

 その上葉山似の男と絡んでるエロBL本まであるとか、たぶん阿鼻地獄の方が優しそうなくらい地獄。

 いやしかし、ここでやっぱやめた帰るとはさすがにできない。プロぼっちと言えど、そこまで人間腐ってはいないのだ。

 とりあえず本の表紙が描かれたポスターをスタンドに貼り付け――

 

「え、あれってハチ? ハチじゃない?」

 

「わ、ほんとだ。生きてる……」

 

「生きてるよ……」

 

「目が腐ってるところまで再現してる……はあぁぁぁぁ、神秘。尊い」

 

 まじで帰っていいですか。たぶん初めてこの目のこと褒められたけど全然嬉しくない。

 つうかちょっと待て。抱き枕カバー二百件の時点でもしやと思っていたが……このシリーズ人気ジャンルなのでは……。

 

「まあ、もう三年くらいコミケで出してるし。元の部数が少ないのもあるけど、毎回完売してるからね」

 

「高校時代からかよ……」

 

 そうか、もう三年も俺の痴態(創作)は世に出回っていたのか……。大丈夫かな。今日帰ったら首括ろうとしないから、俺。

 まあただ……。

 いそいそと設営を手伝いながら周囲を見渡してみる。どのサークルもせっせと自分のスペースを着飾らせ、テーブルの上に創作物を広げていく。イベントでしか会わないのだろう。表情を綻ばせながら会話を弾ませている人たちもいる。

 自分が普段一切関わらないジャンルだとか関係なく、彼女を含めた誰もが楽しんでいるのが伝わってきて――まあ、手伝いを引き受けて正解だったかなと思わないでもない。

 

「ん? どうしたのハチくん」

 

「……いや、なんでも」

 

 そんなこと、おくびにも出すつもりはないのだが。

 

「よし、設営もあらかた終わったし、ちょっと近くのサークルに挨拶してくるから留守番よろしくね!」

 

「え、あ、ちょ……」

 

 制止する暇もなくスペースを抜け出した海老名さんは、早歩きともダッシュともつかない絶妙な速度でサークル参加者の波に消えてしまう。

 となると、後に残されるのは男一人なわけで。

 …………。

 ………………。

 え、俺これ今絶賛羞恥プレイでは? やめてよ、八幡そんな特殊性僻持ち合わせてないよ!

 いや、落ちつけ八幡。こういう時こそクールになるんだ。アイアムプロぼっち。視線無効アビリティは習得済み。

 

「おはようございますー。あのウミヒナ先生は――えっ!? ハチくんが生きてる!?」

 

「~~~~~~」

 

 ウミヒナ先生早く帰ってきて! 音速で帰ってきて!

 顔を見られるのすら耐えられなくて、俯きながらLINEにヘルプを送ることしかできなかった。

 

 

     ***

 

 

「お疲れ様ー」

 

「お疲れしました……」

 

 アルコールの入ったグラス同士が触れ合って、小気味いい音を響かせる。もっとも、そんな音を鳴らした二人の表情はまるで違うわけだが。具体的に言えば、満足と満身創痍。

 

「もうコミケ行きたくない……」

 

「いや、ごめんて。そんなに落ち込まないでよ」

 

 別に落ち込んでいるわけではない。灼熱極まる夏コミではないから熱中症になることもなかったし、なにか失態をやらかして海老名さんに迷惑をかけることもなかった。新刊も抱き枕カバーも午後二時前には全て捌けて、予定より拘束時間も短かった。

 ただね、ただね……。

 

「あんなに話しかけられるのはコミュ障には辛い……」

 

 事あるごとに声をかけられるのほんとなんなの。ひょっとして海老名さんより話しかけられたんじゃないかってレベル。おかしいよね、俺私服で参加してる売り子なのに。

 挙句の果てに写真を取るためにコスプレスペースに誘われたときはリアルに泣きそうになってしまった。しどろもどろになりながら断ったらそれはそれで受けがよかったようで、海老名さんに被害はなかったけど。

 

「まあ、涙目になってるヒキタニくん結構可愛かった。ごちそうさまです。次のクオリティが上がりますわ」

 

「鬼かよ……」

 

 つうか、次も俺で描くのか。また俺のねつ造黒歴史が増えるのか。

 

「まあまあ、さすがに売り子頼むことはもうないと思うからさ」

 

「そうしてくれると助かる……」

 

 まあ、言っても無駄だと思って諦めてるけど。

 

「けど、海老名さん結構有名なんだな。昼前に挨拶来た人、小町がよくサイト見てる人だったし」

 

 運ばれてきた料理に舌鼓を打ちつつ、昼間のことを思い出す。海老名さんが口にした名前に聞き覚えがあって、交換で出された本の表紙を確認したら、小町がしょっちゅう投稿サイトで見ている絵柄だったので驚いた。あいつ受験生だけど、あの人の更新だけは通知で確認できるようにしてるからな。しょっちゅうランキングに乗る人らしいし。

 

「有名というか……ハチシリーズを向こうが読んでくれてて知り合ったんだけどね」

 

「ガチ読者かよ……」

 

 小町、小町の好きな絵描きさんにお兄ちゃんの痴態漫画が読まれてるらしいよ……辛いよ……。

 

「なんならあの人、夏はハチシリーズの二次創作出そうかなとか言ってたよ」

 

「やめて!?」

 

 そんなことをされたら、サンプル作品が小町に読まれてしまうではないか。死ぬって。家に居づらくなって残りの大学生活を一人暮らしにしなくてはならなくなる。

 というか、二次創作が検討されるオリジナル漫画とか、プロ一歩手前では。まさかこのシリーズで商業デビューなんてことになるんじゃ……。

 ありえる。正直絵も上手いし、大学で本格的に文学研究もしてるせいか話も割と上手いのだ。絶対にないとは言い切れない。

 もしそうなったら……どうしよ。俺が拒否すれば取りやめてもらえるのかな。もうすでに黙認状態なのに今更ってなっちゃうよなぁ。

 まあ、たらればの話なんてしても仕方ない。取らぬ狸のなんとやらだ。

 今は美味い飯と美味い酒で疲れを癒すとしよう。

 コース形式の料理が運ばれてくる間も話は絶えない。正直売り子が忙しすぎてほとんど回ることはできなかったが、常日頃人間観察が趣味と豪語している俺。個性的な人や会話をつい見つけてしまうもので、そこに大学の話や海老名さんのオタク話も加われば会話は尽きない。

 

「くはっ……」

 

「どしたの、いきなり笑ったりして」

 

「や、なんでもない」

 

 高校時代の自分からすればあり得ないことだ。それが一周回っておかしく感じられて、ついつい笑いが漏れてしまった。余韻を酒と一緒に飲み下す。喉が薄くひりつくのが心地いい。

 はてさてしかしながら、そんな時間も長くは続かないのが世の常。最後の料理であるデザートが運ばれてくる。乾杯時の満身創痍はどこに行ったのか。今となっては満足感と満腹感しかない。やっぱ人の金で食う飯って……最高やな!

 なーんて屑なことを考えながらデザートスプーンに手をかけた時、ピロロン! となんとも間の抜けた音が聞こえてきて、思わず動きを止めてしまった。

 

「ありゃ、通知?」

 

 音源は海老名さんのスマホ。どうやらSNSの通知が来たようだ。片手でさらさらとスマホを操作し始める。

 なんとなく自分だけ手を付けるのは申し訳なく感じてその様子を眺めていると、彼女の目が見開かれた。素直な驚きの表情だ。

 一体何があったのだろうか。声をかけるべきか悩んでいると、唐突に顔を上げてこちらを見つめてくる。

 ただじいっと。

 

「……なんだよ」

 

「べっつにー。ヒキタニくんは人気だなって思ってさ」

 

「は? おっと」

 

 訳が分からなくて思わずスプーンを取り落としそうになっていると、目の前に彼女のスマホが突き出された。SNSの個人宛返信機能の画面には、先ほどの有名絵描きの名前と、一枚の写真が貼られている。

 

「……は」

 

 今日配布したての抱き枕に抱き着いている写真が。

 あくまでイラスト。しかし何度も言うようだがとんでもなくクオリティが高いのである。

 つまり何が言いたいかというと――

 

「わあ、自分が抱き着かれてるみたいで恥ずかしいんだ。顔、すごい赤いよ」

 

「違う。これは酒に酔っぱらってるだけだから。マジでマジで」

 

 もうコミケには絶対行かねえ。これ以上恥ずかしい思いなんてごめん被る。

 乱暴に口に放り込んだデザートのゼリーは、ほんのりと甘かった。




 八姫? のようなものでした。こう、葉山とも奉仕部とも一色とも違う感じ。書いてて楽しかったです。
 二人とも文系型っぽいだし、同じ大学の同じ学部に行くとか普通にありそう。

 ネタとしては八幡抱き枕が発売されたときから温めてはいたんですが、小町抱き枕を機に筆を取った次第。海老名さんにはハヤハチとかトツハチを全国のオタクに広めてほしいですね(他人事

■お知らせ■
 12/29(金)コミックマーケット93で小説本を出します。FGOのフランちゃん本です。詳細は活動報告に掲載しているので、興味がある方はそちらまで。

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


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★New★解けて無くなってしまう前に。

「…………よし! これでいいかな?」

 

 シャーペンを机に置いて、一度じっくりとさっきまで書き込んでいた紙とにらめっこをする。ほぼ隙間無く埋められた文字列、その内容を確認して、思わず息をついた。まあ最低限、納得できる内容だろう。

 

「うわ、もう外真っ暗だ……さすがに時間かけすぎたなぁ」

 

 のびをしながら何気なく視線を窓の外に向けると、空は群青を通り越して漆黒に染まっていた。まあ、冬至はだいぶ前に過ぎたと言っても、完全下校時刻間際まで残っていれば仕方ないか。

 公立高校であるうちはナイター設備なんて禄に整っていない。グラウンドの方角からは運動部の声も聞こえないし、日が沈む前に引き上げたみたいだ。

 たぶん文化系とか屋内スポーツの部活あたりはまだ残って、そろそろ帰り支度をしている頃だと思うけど――

 

「せんぱいたちは……もう帰っちゃっただろうなぁ」

 

 思い浮かべるのは特別棟四階の部室。奉仕部という特殊な部活は一応文化系に分類されると思うけど、基本的に日が沈む前くらいに活動を終了して解散するのだ。きっと、とっくに皆帰ってしまったに違いない。

 ――せっかくだから、最後にあそこで話でもしたかったんだけどなぁ。

 今日は二月の最終日。そして明日、三月一日は総武高校の卒業式だ。二年生であるわたし、一色いろはは在校生の代表、生徒会長として送る側。

 そして、せんぱいたち三年生は送られる側。学校に来るのも明日が最後。

 結衣先輩は言わずもがなだけど、雪ノ下先輩やせんぱいにもなんだかんだ他のコミュニティがある。私も生徒会長としてやることがたくさんあるし、明日は個人的に会うことはできない可能性が高い。

 だから、せめて今日は遊びに行きたかったんだけどなぁ。

 まあ、仕方ない。今まで書いていたものも、せんぱいたちを送る上で大事なものだ。

 在校生送辞。生徒会長であるわたしから、卒業生の先輩方へ送る言葉。

 別に今の今まで全く手を付けていなかったわけではない。去年のものを参考に今月の頭には既に書き上げていた。

 けど、卒業式が近づくにつれ不安が、いや不満が募ってしまう。

 こんな、当たり障りのない、定型文に当てはめたようなもので本当にいいのか、と。

 いや、いいのだろう。所詮は生徒会選挙の演説と同じだ。一体どれだけの人がわたしの言葉を聞くことか。

 だったら、最低限非礼にあたらない定型文で何の問題もない。

 何の問題もない、はずなんだけど……。

 

「……めぐり先輩たちが聞いたら、怒られちゃうかもしれないけど」

 

 去年の卒業式と今年の卒業式じゃ、わたしの中にある気持ちがまるで違う。

 二つ上の先輩にだって、仲のいい人はいた。だけど、一つ上の先輩たちは、あの空間は、あの人は……特別、そう特別なんだ。

 定型文では伝えきれない。ありきたりでは物足りない。中途半端じゃ満たされない。

 今日の予行練習で自分の中に渦巻いていたもやもやの正体をようやく理解して、書き直しに至ったというわけ。

 

「まあ、その結果がせんぱいと碌にお話もできてないこの現状って考えると……なんだかなぁ」

 

 ただでさえ三学期から自由登校になった三年生とは会う機会が減った。明日を過ぎれば、その少なかった機会もなくなってしまう。

 大学生と高校生になっても、こちらから自発的に誘えば遊びに行けたり――なんて考えたりもしたけど、相手は面倒くさいが服を着て歩いているような人だ。何かと理由をつけて断られるのは想像に難くない。そもそもわたしも来年は受験で忙しいし。

 

「……未練たらたら」

 

 生徒会室を後にして、下駄箱に向かいながら思わず自嘲してしまう。こんなことなら少しでも顔を出しておけばよかった。まあ、それはそれで後ろ髪を引かれて下校まで居座ってしまっていたと思うけど。

 人の気配のない校舎玄関はシン、と静まり返っていて、まだ冷たい空気をより一層冷たく感じさせる。マフラーを巻き直して首元の露出を減らし、身体を震わせて暖を取る。

 早く帰ろう。帰って温かいココアでも飲んで気を紛らわしたい。

 

「…………ん?」

 

 なんてぼんやりと考えながらだったからか、下駄箱を開けた拍子に目に入った見慣れないものがなにか把握するのに結構な時間を要した。

 白地で飾り気のない封筒。ただ、それが下駄箱の中に置かれていた、となれば……ラブレター、と考えるべきだろう。ラブレターらしからぬ見てくれも、男子が送るものとしては極々普通だ。

 しかし、今時下駄箱にラブレターとは珍しい。呼び出しなんてメール一本で事足りるだろうに。それともアドレスも交換していない相手?

 さすがに全く面識ない人だったら反応に困るなぁ、なんて苦笑しながら便箋を取り上げて――

 

「っ……!」

 

 喉の奥がキュッと小さく鳴った。

 封筒の表に書かれた「一色いろは様」の文字。その筆跡を、わたしは知っている。伊達に一年以上関わっていないのだ。見間違えようはずがない。

 せんぱいの文字を、見間違えるはずがない。

 シンプルなシールで留められた封を開けようとして、モコモコの手袋が邪魔をする。何とか封を切っても中にたたまれた紙がなかなか取り出せなくて、あまりのもどかしさに乱暴に手袋を外すことになった。

 家や電車の中で、なんて考えられない。今すぐに中を確認しなくてはと義務感にも似た衝動に駆られ、中身を取り出す。

 夜の帳が連れてくる寒さすら忘れて、わたしは取り出した簡素な便箋に目を落とした。

 

『まず最初に、手紙という形を取ってしまってすまない。たぶん面と向かって話そうとしても、なんだかんだはぐらかしてしまいそうだったから。

 ずっと謝りたいことがあった。去年の選挙のことだ。メリットだのなんだのを揃えて「お前ならできる」なんてのたまったが、正直あの時の俺はお前がめぐり先輩みたいなまともな運営をできるなんて考えてなかった。奉仕部を、雪ノ下や由比ヶ浜を留めるためだけにお前を焚きつけた。

 結果お前は生徒会長になって、クリスマスはしょっぱなから苦労させちまった。本当にすまない。』

 

「……そんなの、知ってましたよ。最初から」

 

 思わずひとりごちた言の葉が、校内の静寂に溶けていく。誰もいない空間で独り言なんてまるでぼっちではないかと苦笑するけど、ついそうしてしまうくらいその謝罪は今更だった。

 そもそも、あの時のわたしはただの依頼者でしかなかった。選挙への勝手な推薦も立ち回りを間違えた自分の自業自得。そんなわたしを優先する理由なんて、せんぱいにはただの一つだってなかった。

 むしろ、もっと残酷に切り捨てることだって可能だったろうに、彼の提示した選択肢はあの時取れた中でもダメージの少ない部類だったと思う。学内でのわたしの地位が安定している現状がその証拠だ。

 ならば感謝こそすれ、恨む理由はないのだ。

 ……まあ、そんなこと言ったところで、あの人は気にし続けるんだろうけど。変なところで頑固だからね。

 

『ただ、実際にお前が生徒会長になってから、お前を推したことは間違いじゃなかったと思えた』

 

「……っ」

 

 一瞬息ができなくなった。気管が焼けたみたいに熱くなって、入ってきた冷たい空気もすぐに熱を帯びる。読み進める目の焦点が不意に揺れてしまう。

 だって……だって……。

 

『雪ノ下みたいになんでも普通以上にこなせるわけでもない。由比ヶ浜みたいに普通以上に多くの人間から好かれるわけでもない。めぐり先輩みたいに周囲を和ませながら鼓舞できるわけでもない。

 お前だからできる柔軟で、いい意味で高校生らしい生徒会があったこの一年半は、俺にとっても楽しい時間だった。

 やっぱ、お前はすげえよ。誰よりもすごい。』

 

 ――そんなこと、全然言ってくれなかったじゃないですか。

 

 部室に遊びに行った時も、生徒会の仕事が行き詰ってヘルプをお願いした時も、迷惑そうに眉をひそめるか、出来の悪い妹を見るようにため息を漏らすばっかりだったのに。

 せんぱいが心の底からわたしに「すごい」なんて言ったのは、去年の冬の、あの夜だけだったじゃないですか。

 周りは皆敵わない強さを持っている人たちばかりで、自分はそんな周りを振り回して巻き込んで、それでなんとか人並の成果を出せる程度の凡人で。

 あの人からも、きっとそんな風に捉えられているんだろうって、そう思っていたのに。諦めていたのに。

 ああ、なんてずるい人なんだ。完全な不意打ちだ。これだからせんぱいの捻デレには調子を崩されるのだ。

 認められていたって分かっただけで、こんなに嬉しいなんて。

 

『そんなお前だから、きっと俺は』

 

「?」

 

 改めて続きを読もうとして、不自然に文章が途切れていることに気が付いて首をかしげる。ここに来てこんな半端なことしますか? ひょっとしてこれがせんぱいクオリティですか?

 少し気を削がれた思いで未完成の手紙を睨みつけてみる。“惚れ直した”ところでこれですか。なかなかいい度胸してますよ全く。

 

「あれ?」

 

 ここにいない本人の代わりに、悪態の一つでも投げかけてやろうかと手元の手紙に再度視線を落として、首を傾げる。よくよく見てみれば、途切れた文章の先には消しゴムで消した跡が残っていたのだ。

 何度も書いては消して書いては消してを繰り返したのか、うっすらと残った書き跡を読み解くことはできそうにない。ところどころ一文字単位なら読めるところもあるけど、文章として把握はまず無理そうだ。

 なんだかなぁ、なんて声を漏らしつつ手紙をたたむ。まあ、そうそう拝めないせんぱいのデレをいただいただけでも十分か。欲をかくのはいけないいけない。

 いい加減寒さが骨身にしみてきた。早く帰って炬燵で温まろう。そしてこの手紙をもう一回読んでにやけよう。

 動きの鈍くなった指先に手袋への名残惜しさを感じながら元通りにしま――おうとして。

 あるものが目に付いて動きを止める。

 封筒の中、まるで隠すように入れられた小さな紙きれ。

 差出人があの人じゃなければ、確認することもなくゴミと断じていたであろう。あるいはそこに何が書かれていたとしても気にも留めなかったであろう。

 けれど、そうだ。今でこそ多少丸くなったとはいえ、元来比企谷八幡という人は捻くれているのだ。

 だからこそ、その意味のなさそうな紙切れをそっと摘み上げ――

 

 ――お前を好きになったんだ。

 

「っ――!」

 

 小さく記された想いを目にした次の瞬間には、外履きをひっかけるようにして走り出していた。

 普段は通らない道を、朧げな記憶を頼りに駆けていく。走るのに向いていないローファーが恨めしい。

 早速窮屈な痛みを発しだす足に顔をしかめながら、何を馬鹿なことをしているんだと心の中の冷めた部分が愚痴を漏らす。仕草をつけるとすれば、やれやれと肩を竦めながら首を左右に振っていることだろう。

 手紙がいつ置かれたのかも分からない。そもそも自転車通学のあの人に追いつけるほど早い足でもない。

 けれど、走りださずにはいられなかった。追いかけないわけにはいかなかった。

 この想いを抑えることなんて、できるわけがなかった。

 

「あっ!」

 

 丁字路を曲がった先に見慣れた猫背を見つけて、思わず声を上げる。なんとか規則性を持って肺を行き来していた空気がいきなり吐き出されて、息苦しさに喉奥が痛くなる。

 わたしの声が聞こえたんだろう。自転車を押していたせんぱいが振り返り、その双眸を見開いて立ち止まった。

 

「わぷっ」

 

「うおっと……!」

 

 せんぱいの前で立ち止まろうと足を緩めたけど、自分の想像以上に疲れていたみたいだ。止まり切れなくてせんぱいの背中に激突してしまった。反射的にハンドルから手を放したんだろう。ガシャンと音を立てて自転車が倒れてしまう。

 

「お前、いきなりタックルかましてくるやつがあるかよ」

 

「だって、だってぇ……」

 

 ああ。今の自分の顔は絶対見たくないし、見せたくない。走るための燃料になっていた感情が、暴れる場所を失って両の目から溢れ出して視界を滲ませ、頬を滝のように濡らす。たぶんお化粧が崩れて酷い有様のはずだ。

 コートの背中に額を押し当てる。ジワリと伝わってくる体温はどこか安心できて、けれど身体の中を暴れまわる感情は逆にどんどん膨れ上がっていく。

 

「ずるいじゃないですか! これでお別れなんて、返事すらさせてもらえないなんて! 人の気も知らないで勝手に全部終わらせようとして!」

 

「っ……!」

 

 見せたくないのに、昂った想いのままに顔を上げてしまう。くっ、と喉を詰まらせたせんぱいは申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 ああ、やっぱりずるい。そんな顔をされたら、それ以上憎まれ口も愚痴も叩けないではないか。

 

「……そうだよな」

 

 ぼそりと呟きが聞こえてきたかと思うと、密着していた身体が離れ、少ない露出部分が冷えた空気に晒される。

 反転してわたしと向き合ったせんぱいは「ひっでえ顔してんな」と一瞬だけ苦笑して、すぐに優しい笑みを浮かべてきた。あの夜、わたしのことを「凄い」って言ったくれた時と同じ笑みだ。

 ああ、今思えば。

 きっとあの時には既にわたしの心は決まっていたのだろう。

 それから一年も放置してくるとは、やはりずるい人だ。

 

「言い逃げどころか書き逃げじゃあ、さすがに格好つかなすぎだよな」

 

「そうですよ。しかも勝ち確定なのに逃げようとするんですから……」

 

 臆病な想い人は自信なさげにまた眉尻を下げた。どうやら未だに「負けることに関しては最強」とかいう持論を持っているらしい。

 そのどこか弱々しい表情をじっと見つめる。まっすぐに、言葉を発せずとも想いが届くように。

 

「……はあ。ほんと、格好つかねえなぁ」

 

「ですね」

 

 やがてまた苦笑いを浮かべたせんぱいは天を仰ぐ。そういうちょっと格好悪い部分も好きだとは口が裂けても言えず、短い賛同に留めた。

 群青から漆黒に変わっていく空に向かって大きく二度、息が吐き出された。温度差で白く染まった呼気が解れて溶けていく。

 やがてゆっくりと降りてきた視線がわたしのそれと絡む。よく人の顔から逃げていくそれは、今は放さないとばかりに熱く締め付けてきた。こんな表情もできるのかと、少し落ち着いてきていた心臓がまた跳ね直す。

 もう一度小さく息を吐き出した口が、むにむにと数回もどかしげに擦り合わせられ――

 

「好きだ」

 

 飾り気のない、シンプルな言葉。せんぱいらしからぬ、それ故に本気だと分かる告白。

 解けて消えてしまいそうだった繋がりを離さない意思表示。

 

「わたしも、せんぱいが好き、です」

 

 だからわたしも、シンプルに、実直に、その繋がりへと手を伸ばした。

 

「……ふふっ」

 

「……ふはっ」

 

 しばらくの沈黙の後、どちらからともなく笑いが漏れた。いい加減涙を拭こうとハンカチに埋めた顔が熱い。どうやら存外に恥ずかしかったみたいだ。

 

「……帰るか」

 

「ですね……」

 

 倒れた自転車を起こしたせんぱいの隣を陣取る。ちょこんと袖を摘まんで俯いたのは、見ず知らずに人たちにお化粧の崩れた顔を見せないためだ。決して、今更になって好きな人の隣を歩くの結構恥ずかしいなとか思っているわけではない。

 だからその、全部分かってるみたいに隣で笑うのはやめてほしいんですけど!

 

「むー……」

 

 なかなか笑いが止まないので、少しだけ顔を上げて睨んでみる。謝罪の言葉が返ってきたけど、言葉尻が笑ったままなので説得力が皆無だった。

 まあ、そういうのも悪くないと思えるわけで。何よりも、繋がりがなくならなかったことが嬉しかったわけで。

 自然とわたしも笑みが漏れてしまったのだけど。




 八幡たちの卒業式前日のお話でした。素直じゃない八幡には手紙から入ってほしい。手紙書いてる間、あーでもないこーでもないって何度も書き直してほしい。そんなお話。

 昨年は仕事の環境がだいぶ変わってあまり創作できない一年でしたが、今年はもっと捜索に力を入れていきたいと思います。業務にも慣れてきたからね、たぶん。


 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


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俺が転校生の帰国子女と接点を持つことなどない
俺が転校生の帰国子女と接点を持つことなどない


 転校生が来た。

 教室で嫌でも聞こえてきていた噂話をいつもの部室で由比ヶ浜が話している。

 一月末という中途半端な時期に、それも三年生。しかも帰国子女の女子生徒と目立つ要素てんこ盛りなので学校全体が色めき立つのも仕方ないだろう。まあただ、俺にとっては至極どうでもいい。

 そもそも学年が違う時点で交流がない。今の三年生で交流があるのはかろうじてめぐり先輩だけだし、そもそも三学期になると三年生はほぼ自由登校になる。ただでさえ上級生のクラスに赴くこともない俺にとってはその顔を視界におさめることもないだろうし、そもそも後二カ月もすれば三年生は卒業だから噂話もすぐに終息するだろう。

 そんなこんなで噂話とは無縁な奉仕部はいつもと変わらぬ開店休業状態。紅茶飲みつつ読書とか高校生にしては優雅すぎやしませんかね? 俺だけ湯のみだけど。湯のみで紅茶って……。

 相変わらず部活と呼ぶべきなのか甚だ疑問ではあるが、この時間は悪くない。一度は壊れかけたこの空間をもう一度手にすることができたと思えば、居心地もいいというものだろう。

 

 

 ――トントン。

 

 

「邪魔するぞ」

 

「邪魔するなら帰ってください」

 

「新喜劇のノリはできんぞ、比企谷」

 

 ガラにもないことを考えていると、教室の扉がノックされ、間をおかずに開いた。開いた主は顧問の平塚先生。だからノックするなら返事を待てと……もし俺が全裸だったらこの人はどうするつもりなのだろうか。俺が社会的に死にますね。

 

「それで平塚先生。今日はなんの御用でしょう……か……」

 

 本を閉じて顔を上げた雪ノ下が固まってしまう。まあ、無理もないだろう。なにせ平塚先生の後ろには――

 

「ひゃっはろー、雪乃ちゃん!」

 

 恐怖の魔王、雪ノ下陽乃がいるのだから。今日も今日とて絶好調の強化外骨格スマイルを振りまいている。というか、なんで行事もないのにこの人学校に来てるの? やっぱり暇なのだろうか。

 触らぬ神に祟りなし。触らぬ魔王に祟りなし。ここは妹殿にネゴシエーターを務めてもらおう。そう考えて再び本に目を落とす。

 …………。

 ………………。

 

「……?」

 

 いつまでたっても話が始まらない。一体どうしたのかと顔を上げると。

 

「……………………」

 

 雪ノ下が硬直していた。由比ヶ浜や先生が声をかけても反応がない。いくら姉が突然来たからって動揺しすぎじゃないですかね。そんなに予想外だったのかしら。

 

「ヒッキー……」

 

「……はあ、しょうがねえな」

 

 雪ノ下があの調子では仕方あるまい。由比ヶ浜に任せるのは不安だし、俺がやるしかねえな。

 

「それで、今日はどうしたんですか?」

 

「よくぞ聞いてくれたぞ比企谷君! 今日は奉仕部に依頼を持ってきたのだ!」

 

 面倒事の間違いじゃないですかね。……ん?

 ズビシッとポーズを決める雪ノ下さんに半ば呆れていると、入口の方にもう一つ人影があるのに気がついた。「ほら“友音”! 入ってきなよ!」と雪ノ下さんに促されたその人物が部室に入ってくる。

 

「Buon giorno……じゃなかった。こんにちは! 白露友音(しらつゆ ゆね)です!」

 

 少し高めの澄んだ声色が部室に響く。白露友音と名乗る少女はゆるーく手を上げてニコニコしていた。ボブカットの栗色の髪に人懐っこそうな表情。顔立ちは非常に整っていて、こんな美人に話しかけられたら中学の俺ならば容易に勘違いしていたに違いない。

 

「あ! 転校生の人だ!」

 

 こら、由比ヶ浜。人を指差すもんじゃありませんってお母さんから習わなかったのかい? 習ってても忘れそうだわこいつ。

 しかし、この人が件の三年転校生様か。なるほど、確かにこれだけ美人なら学校中で噂になっても仕方あるまい。と、ここまで考えてそういえば挨拶を返していない事に気がついた。挨拶は実際大事。古事記にもそう書いてある。いやうちの古事記には書いていない。

 

「ども」

 

 軽く会釈をすると転校生、白露さんはきょとんとした後、少し悲しそうな表情をする。

 

「ひょっとして私、歓迎されてない?」

 

 いえ、別にそういう事じゃないです。むしろあなたの隣にいる歓迎されない魔王のせいです。

 

「そうじゃないよ、友音。比企谷君は恥ずかしがり屋なんだよー。ねー、うりうりー」

 

「恥ずかしがり屋じゃないんで、そういう事やめてくれませんかね……」

 

 たたたーと寄ってきて肘をうりうり押し付けてくる。決して恥ずかしがり屋なわけではない。こんなことされれば誰だって恥ずかしいでしょう? だからもうやめて何か近いしいい匂いするから。

 

「それで、依頼とその……白露さん? が何か関係があるんですか?」

 

「そうだよー。友音のことでお願いがあってねー」

 

 ようやく離れてくれた雪ノ下さんは依頼内容を大まかに説明し始めた。

 

「私とこの子はうちの会社関係で知り合ったんだけど、この子六歳から海外に住んでてね。日本の知識とか文化とか曖昧なのよ。これから日本で過ごすんだし、それじゃあ不便でしょ? 最低限周辺の環境とか知っておいた方がいいし、日本のマナーとかもしらないとじゃない」

 

「つまり、とりあえず千葉周辺の案内をして欲しいっていうのが奉仕部への依頼ですか?」

 

「うん、比企谷君への依頼」

 

 …………ん? なんで今言い直したんだこの人。これが分からない。分からないが、ここはきっちりと訂正しておいた方がいいだろう。

 

「奉仕部に依頼に来たんですよね?」

 

「うん、奉仕部の比企谷君に依頼しに来たの」

 

 今度こそ訳が分からない。そういう事なら奉仕部三人でやった方が絶対効率がいいし、別に俺が個人的に受けなければいけないような依頼でもないと思うのだが。大体一人で依頼を全部こなすとか面倒くさいことこの上ない、なんなら面倒事は全部押し付けたいまである。

 

「待ちなさい、姉さん」

 

 おお、いつの間にか再起動したらしい雪ノ下が声を上げた。このタイミングで声を上げたという事は俺一人に依頼をすることに不満なのだろう。そうなればきっと奉仕部全体の依頼という事になるはずだ。がんばれゆきのん!

 

「その依頼は奉仕部全体で受けた方がずっと効率的で……」

 

「じゃあ、雪乃ちゃん。文化祭の借りってことで比企谷君個人に依頼するね?」

 

 雪ノ下さんの発言に雪ノ下はぐっと声を詰まらせる。数秒目に思案の色が見えた後……。

 

「……わかったわ」

 

 あっさりと引き下がった。

 論戦の終結がが予想以上に早かったことに由比ヶ浜は唖然としている。俺も唖然。しかし、理由は違う。あの雪ノ下さんがこんなに簡単に、しかも他人のために自分の手の内から有限のカードを切ったことがあまりにも意外だったのだ。

 

「それじゃあ、さっそく明日からよろしくね!」

 

「はあ……」

 

 にこやかに笑うと雪ノ下さんは先生を連れて出ていった。ていうか、俺に拒否権ないんですね。知ってた。

 残されたのは奉仕部三人と白露さん。雪ノ下は我関せずで読書に戻ってるし、由比ヶ浜は自分の立ち位置が分からずオロオロしている。

 

「ごめんね、突然こんなこと頼んじゃって」

 

「いや、気にしないでください。そういう部活ですし」

 

 申し訳なさそうにしている白露さんだが、実際そういう部活だ。それに、出生上は地元でも十二年も離れていれば最早異世界だろう。千葉の事を怖いなんて思われるのは俺の千葉愛が許さないしな。

 

「そっか。じゃあよろしくね、えっと……」

 

「あ、比企谷八幡っす」

 

「よろしくね、ハチマン!」

 

 あー、外国育ちだからかフランクな感じだ。普段は名前で呼ばれたら思わず固まってしまうのだが、あまりにも様になっていてむしろ好感すら持てた。

 しかし――あんまり前かがみにならないでもらえますかね? 雪ノ下さんや由比ヶ浜に勝るとも劣らないふくらみが強調されて目のやり場に困るんで。

 

「ヒッキー……」

 

「エロ谷君……」

 

 やめて! そんなゴミを見るような目で俺を見ないで! 俺無実だから! 不可抗力だから!!

 

 

     ***

 

 

「ハチマン、待った?」

 

「……いえ、時間通りですよ」

 

 翌日、自由登校の白露さんと校門で待ち合わせになった。日頃小町から鍛えられている俺はぬかりなく予定時間より早めに到着していた。白露さんは時間通りだったわけだし、文句を言う理由はないのだが――俺は少々疲弊していた。

 いやほら、雪ノ下と一緒に由比ヶ浜の誕生日プレゼントを買いに行った時は小町も一緒だったし、由比ヶ浜と花火大会に行った時は駅だったわけで……。まあ何が言いたいかというと、校門で待ち合わせとか超目立つよね! 千葉駅とかで待ち合わせればよかった!

 それに……。

 

「ん? どうしたのハチマン?」

 

「いやその……似合ってますけど、その服露出多くないですか?」

 

 白露さんはクリーム色のコートを羽織っていたが、その中の服は胸元が大きく開いたもので、豊満なあれの谷間に目が吸い寄せられる。もう吸引力がやばい。しかも、それを見ないように目線を下に向けると程良い肉付きのおみ足がミニスカートとニーソックスに映えて……これが生絶対領域っていやいやいやいや。目のやり場が存在しないだと!?

 

「そうかな? 向こうだと皆こんな感じだったけど、日本だともっと大人しめの方がいいのかな?」

 

 いえ、日本でもそういう服普通に着るでしょうけど、超目立つんですよ。ここ学校だから! 後俺が恥ずかしい。けど、目が吸い寄せられちゃう!

 一人で待っている間も十分目立ってしまった自覚があるが、白露さんが来てから余計に目立ってる。ぼっちの敵、視線の嵐が超絶怖い! まだ白露さんが帽子を被っているのと、噂の美人帰国子女転校生の顔が浸透していないおかげでそこまで大きな反応を周囲が示さないが、帽子取っていたら俺の命がやばかったかもしれない。何この依頼命が関わるものだったの?

 

「じゃあ、とりあえず出かけるわけなんですが、行きたいところとかありますか?」

 

「アキィバ!」

 

「……へ?」

 

 ノーテンポ。考えるそぶりも見せずに即答。思わず顔をしかめてしまった俺に白露さんがこてっとかわいらしく小首をかしげる。くっ、一色ならあざとく見えるしぐさが普通にかわいい。何この人強い。

 

「私日本に来たらアキィバに行きたいって思ってたんだよ! とらのあなとかメロンブックスとか行って帰りに秋HUBだよ!」

 

「待って、ちょっと待って!」

 

 なんで同人ショップ直行なの? 後秋HUBは未成年だからだめだよ? ていうか、なんで「アキバ」だけちょっと舌巻くの?

 

「……白露さん」

 

 とある可能性に行き当たり、恐る恐る聞いてみることにする。一応ね、ある程度相手のこと知ってないと案内とかがね?

 

「好きなアニメは?」

 

「最近だとソードアート・オンラインとグリザイアの果実」

 

「グリザイアで好きなヒロインは?」

 

「一姫とさっちん」

 

「好きなゲームは?」

 

「世界樹の迷宮、ルーンファクトリー、牧場物語」

 

「クラナドは?」

 

「人生」

 

「…………うん」

 

 うん。

 うんんんんん?

 どうやら、かなりジャパニメーションに明るいようだ。ていうか、萌え方向にかなり強そう。こんな美人でオタクとかハイブリットすぎませんかね?

 俺の困惑が伝わってしまったのか。白露さんの表情がどんどん雲っていってしまう。

 

「……あれ? こういう会話、嫌……だったかな……? 日本のアニメ文化はすごいから学校の友達とはその話で持ちきりだったけど、ハルノがこっちではあまりしない方がいいって言ったのは本当なんだね……」

 

「あーまあほら、最近そういうのに偏見持ってる人も少なくなってはきましたけど、高校生とかだと『友達と遊びもせずにアニメやゲームなんて子供』って考えてるやつが多いですから。まあ、俺は友達いませんけど」

 

 必死のフォローに軽く自虐を挟むと「ふふっ、なにそれ」と笑みを浮かべる。どうやら少し機嫌を戻してくれたらしい。

 

「まあ、俺はそこそこ分かるんで、話したいときは話してくれて構いませんよ」

 俺もたまに誰かとアニメ談義したいと思う事あるし。

 

「ほんと!」

 

「けど、アキバは行きませんよ」

 

「えぇ……」

 

 そんなこの世の終わりみたいな顔することないでしょう。そもそもまだ俺のセリフは終わっていないんだから。

 

「今から行くとあんまりいれませんよ? 昼間とかに行った方が……」

 

「じゃあ、来週の土曜日に行こう!」

 

「え? あ、はい……」

 

 コロコロテンションを変えられて八幡タジタジ。完全に空気に飲まれていつの間にか休日が一つ潰れるのが決定してしまった。まあ、平塚先生みたいな強制力のある言い方ではないからか不思議と嫌な気はしないんだが。

 

「じゃあ、とりあえず今日は学生らしい所に行きましょうか」

 

「うん! しっかりエスコートしてね」

 

 笑顔でそんなこと言われても自信は全くないんだけど。エスコートって何するの? エースコンバット?

 

 

     ***

 

 

 というわけで、案内したのは学生御用達のららぽーとである。時間もちょうどよくちらほらと学生の姿が見える。知り合いに会う可能性を考えるとあまり気は進まなかったが、大学生でも頻繁に来るだろうし最初に案内しておいた方がいいだろう。そもそも知り合いとかほとんどいないしな!

 

「わあっ……!」

 

 白露さんは新しいおもちゃを見つけた子供のようにぱあっと表情を輝かせている。その表情は十八歳らしくなく、更に言うなら年上らしくなくて、素直にかわいいと思った。そして、きょろきょろと辺りを見渡す彼女に疑問を覚えた。

 

「海外ではあんまりこういうところに行かなかったんですか?」

 

 今の私服も結構おしゃれだと思うし、てっきり外国の超オシャレな店とかを利用していたと思っていたが。

 

「あぁ、私イタリアに住んでたんだけど、ミラノから少し外れた町に家があったんだよね。買いものとかも近くの少し大きめの商店街とかでやってたし。こんな大きいモール? は初めてだよ!」

 

 なるほど。なんか海外って言うと大都市と田舎と両極端な情報しか入ってこないが、当然少し栄えた町とかもあるよな。完全に失念していた。

 反省してふと横を見ると白雪さんが消えた。おやあ? 神隠しかな? Missingかな? 慌てて探すと彼女はきゃぴきゃぴした女性用の洋服売り場に突撃していた。いやあの、俺がそこにあなたを追いかけていくのは幾分ハードル高いんですけど。帰っていいかな?

 

「ハチマーン! 早く早く!」

 

 残念。呼び止められてしまった。いやまあ、さすがに帰らないけど。

 

「これなんてどうかな?」

 

 出来るだけ怪しまれないようにショップの方へ向かうと、自分の身体に商品を当てて見せてくる。今着ている、少し大人びた服とは違うピンクを基調としたかわいい系の服。ジャンルが違うのにその服もびっくりするくらい似合っている。綺麗系もかわいい系もイケるとか、この人最強?

 白露さんはキラキラした目でこちらを見つめてくる。つまり、感想が聞きたいという事なのだろう。ここは落ちついて普通に感想を言えば大丈夫。

 

「に、似合ってましゅ……似合ってますね」

 

 噛んだ。超噛んだ。言い直したけど時すでに遅し。ぷふっと吹きだした白露さんはそのまま肩を震わせている。

 

「…………店の外で待ってます」

 

「ああ! ごめん! 悪かったから一緒に洋服見てよー!」

 

「っ!?」

 

 引きとめるためだろうが後ろからがっちりと抱きしめられてしまった。ちょっと待ってマジで待って! なんかね! 背中にね! 超絶柔らかいのが二つね! あのね! 待って!

 突然の事態に固まっている間もきゅっと女性らしい力が腕に込められる。さっきも言ったように彼女の服は胸元が大きく開いているのだ。なんかこう、服越しとは違う温かさとか柔らかさとかががががががが。ていうか、店員さんとかお客の視線が痛い。やめて! そんな生温かい視線俺に向けないで! 八幡溶けちゃう!

 

「わ、分かりました! 出ていきませんから離れて!」

 

「そ? よかったー」

 

 にこーと笑って解放してくれる。別に温かいのとか柔らかいのが離れて残念とか思ってない。思ってないんだから!

 本当に年上は厄介だ。雪ノ下さんといい白露さんといい、完全に振り回されてしまう。まあ、一色にも小町にも由比ヶ浜にも振り回されるけど。あれ? 結局年齢関係なくない?

 

「これもよさそー!」

 

 次に見せてきたのは春物であろう水色のワンピース。余計な装飾の無いシンプルなデザインで清楚なイメージを醸し出していた。身体の前面に押し当てて見せてくるが、これもとてもよく似合っている。彼女の纏う雰囲気そのものが清楚なものになった感じだ。

 

「すごいですね。綺麗系もかわいい系も清楚系もなんでも似合うって」

 

「あー、それハルノにも言われたなー。ハルノはかわいい系とか似合わないから羨ましいって言ってた」

 

 確かに雪ノ下さんがキャピキャピした服を着る姿は想像できない。今まで接してきたお姉さん然とした性格に対しての固定概念もあるだろうが、ある意味白露さんの才能もあるのだろう。どんな服も完璧に着こなす。そういう才能もあるのかもしれない。

 

「そういえば、ハチマンは普段どこで洋服買ってるの?」

 

「親が買ってきます」

 

「自分で買ってないんだ!?」

 

 そんな驚愕の表情しないでもらえませんかね? 別にいいじゃん、服とか着れれば別に気にしないんだから。

 

「いいんですよ。親が服を買った方が家計の把握が楽ですし、俺はわざわざ出かけなくて済む。お互いウィンウィンな関係なわけです。俺の服を買わなきゃいけない時点で親のメリットないまでありますけど」

 

 ついいつものように話してしまって、しまったと気付く。こんなつまらないを通り越して変な話をする奴に近づこうという奴なんてそうそういない。依頼完遂のためにはこんな序盤での関係悪化は避けるべきだ。恐る恐る白露さんの様子をうかがうと、きょとんとした顔をした後――

 

「ふふっ、ハチマンってやっぱりおもしろいね」

 

 自然に笑いかけてきてくれた。いや、それはそれでなんか恥ずかしいんだけど。これが一色だったらいつもの早口お断りを展開しているところ。まあ、あいつの場合別に照れ隠しじゃないだろうけど。

 

「……俺のことをそんなふうに評価したのはあなたと雪ノ下さんくらいですよ」

 

 なんなん? 年上からしたら俺は面白い奴なん? けど平塚先生には面倒くさいやつって言われたな。いや、ひょっとしたらアラサーはまた別の感性が……何か寒気がしたからこの話はやめておこう。

 白露さんは「ふーん、そっかー」となにか考え事をした後、パンと胸の前で両手を打つ。そして俺の腕に手を伸ばして。

 

「じゃあ、次はハチマンの服を身に行こう!」

 

「は? え、ちょ、ちょっと!?」

 

 制止の声すら上げる暇もなく、強引に連行されてしまった。待ってこれ転びそうだし超恥ずかしい。白露さんの手あったかいんだから~。

 

 

 

「これなんてどうかな?」

 

「……あれ? せんぱい?」

 

「俺に服の良しあしなんて聞かないでくださいよ……」

 

 いつもの私服だってタンスの一番上の服を適当に着ているから、服のセンスなんてわからん。どうせ家から出ないんだからどうでもいいけど。

 

「けど、さっきは私の服普通に褒めてくれたじゃない?」

 

「そりゃあ、いいものはいいって言うでしょう。そこまで捻くれちゃいませんよ」

 

「せ~んぱ~い」

 

 なんかさっきから呼ばれてるぞせんぱい。周りに迷惑だからさっさと反応してあげなさい!

 

「じゃあ、これとか……あ、かっこいい!」

 

「かっこいいはありえな……」

 

「てりゃぁっ!」

 

「ぐはっ!?」

 

 背中に衝撃を受けて危うく白露さんにぶつかりそうになる。必死に踏みとどまって振りかえると、激おこプンプン丸なあざとい生徒会長が仁王立ちしていた。

 

「なんだ一色か。いきなりどつくなよ、危ないだろ」

 

「せんぱいが何度呼んでも反応しないのが悪いんじゃないですか~!」

 

 あぁ、さっきのせんぱいコールはこいつだったのか。だから「せんぱい」だけじゃ誰かわかんねえって。その頭に「比企谷」って付けてくれるだけで反応できるというのに。いや、それでも無視しそうだな、そんなこと口に出さんけど。

 

「いろはすー? あ、ヒキタニ君じゃーん」

 

 どうやら戸部と部活の買い物に来ていたらしい。戸部の手には大量のプロテインの入った買い物袋。そんなにプロテイン飲むの?なんか選挙の頃もプロテイン買ってなかった? サッカー部プロテインまみれかよ。

 

「それにしてもせんぱい部活サボってこんなところにいていいんですか?」

 

「いや、一応部活中なんだけどな」

 

「パシリ?」

 

 このやろ……。

 ナチュラルな顔で俺を貶してくる一色に青筋を立てていると俺の肩のあたりから白雪さんが顔を出す。一色を見て「ほよ?」と声を上げると――ほよ? ってなんですか――あっ、と声を上げる。

 

「生徒会長ちゃんだ!」

 

「あれ? 転校生先輩じゃないですか」

 

「この人が噂の転校生? っべー、マジ美人じゃん!」

 

「戸部先輩は黙ってて下さい」

 

「……っべーわ」

 

 戸部……強く生きろ……。応援はしておく。フォローはしないけど。

 一色は白露さんにいつもの愛想笑いを向けた後、俺の方に顔を向け……目が笑ってないんですけど。それ白露さんに向けてねえだろうな。

 

「せんぱい、部活サボった上に転校生さんに手を出すとかちょっとあり得ないんで雪乃先輩に言いつけますね」

 

「いや、だから奉仕部の一環だって。人の話聞けよ」

 

 仕方なく一色に事情を説明する。魔王による強制だし、俺にはやましいところが全くないので特に隠さず話すと、ようやく一色は納得してくれたようだ。

 

「……でも、案内するのになんでせんぱいの服見てるんですか……」

 

 あ、あんま納得してねえわ。つうか、なんでそんな不機嫌なんだよ。俺がどうしようとお前は関係なくね?

 

「白露さんが見たいって言ったからだよ」

 

「私のお願いはなかなか聞いてくれないじゃないですか~」

 

「なんでお前のお願いなんて聞かなきゃいけないんだよ」

 

「理不尽!?」

 

 いや、理不尽ではない。強いて言えば一色のお願いはその大半が面倒くさいことだ。生徒会の手伝いだったり、対葉山戦略だったり、買い物の荷物持ちだったり。いや、荷物持ちはだいたい戸部の役目だな。あれだけぞんざいに扱われているのに荷物持ちに付き合う戸部がいい奴すぎる。報われそうになり“いい奴”で涙が出てくるまである。ごめん、出てこないわ、戸部だし。

 ここまで特にしゃべらずに俺たちの様子をうかがっていた白露さんが――

 

「二人って付き合ってるの?」

 

「「は?」」

 

 なんか爆弾を落としてきた。

 

「なになに? いろはすとヒキタニ君付き合ってんの? っべー、こりゃ大スクープっしょ!」

 

「戸部、黙ってろ」

 

「……ヒキタニ君、っべーわ」

 

 あ、なんか戸部が三歩くらい下がって小さくなっちゃった。一色に言われるのは慣れているけど、他の人に言われるのは堪えるのね。覚えておこう。

 まあ、戸部のことなんてどうでもいいから、まずはこの誤解を解かなければ。

 

「別に付き合ってませんよ。俺と一色はただの先輩後輩です」

 

「そうなの? なんか楽しそうに話してたけど」

 

 楽しくない。いや、楽しくなくはないけど、今はむしろ説明で疲れた。

 

「そうですよ、白露先輩。私と先輩はそんな関係じゃ……はっ、まさか白露先輩を使って私とせんぱいが仲良いんだぜアピールですか? ちょっと回りくどいし、私的にはタイマンで攻めてくれた方が好みなのでその作戦は少ししか効きません、ごめんなさい」

 

「なんでわざわざ振ったの?」

 

 前半のセリフ、後「~ないですよ」で終わりだったよね? わざわざ振る上に長文早口に切り替えるとかマジいろはすやばい。何がやばいって狡猾過ぎてやばい。ちなみに狡猾の象徴とされるハイエナは、言うほど狡猾な生き方はしていない。普通に狩りだってする。これマメな。

 

「あやしーなー。二人とも仲良さそうだし」

 

「怪しくないです」

 

「そうですよ。せんぱいは私に責任があるだけです」

 

 あ、馬鹿。思わず一色の方を向くと「いっけな~い」と舌を出して頭をコツンと叩いていた。なんだそれかわいいなお前。

 

「責任?」

 

「いや、こいつを一年生なのに生徒会長に推したのは俺なんで、それの責任ってことですよ。時々生徒会の仕事付き合わされますし」

 

 これも俺にやましいところはないのでスラスラ口をついて出てくる。偽アカウント? それやったの材木座だから。まあ、勿論葉山のことは話さないけど。その必要もないし。

 それで白露さんも「うわ、大変だったんだね」とか言いつつ理解したみたいだが。

 

「それで白露先輩」

 

「なにかな?」

 

 なぜか俺を挟んで二人が対峙しているのかな? なんか浮気がばれた彼氏みたいな心境なんだけど。俺何も悪いことしてないんだけど。

 

「なんでせんぱいの服を選んでたんですか?」

 

 まあ、それは俺も思うところではあった。俺の服を選ぶよりも自分の服を選んだ方が幾分生産的に思える。しかし、白露さんはにぱっと笑うと、事もなげに言ってのけた。

 

「だってハチマンってかっこいいから、オシャレしたらもっとかっこよくなりそうじゃん!」

 

 ……は?

 かっこいい? 俺が?

 HAHAHA。白露さん、さすがにそれはお世辞でも無理がありますって。ほら一色、ここは反撃のチャンスだぞ。俺なんで自分の事否定されるのを待ってるのん?

 

「ぅ……」

 

 あれ? 一色ちゃん? なんで黙りこむのかな? ほら、いつもみたいに俺を罵倒してきな? 別に俺は罵倒が好きなわけじゃないんだからね!

 

「あ、そうだ。ハチマン、向こうのお店もよさそうだから見てみようよ!」

 

「ふあ!? ちょ、ちょっと白露さん!?」

 

「早くしないと時間無くなっちゃうもん! じゃあね、生徒会長ちゃん」

 

 またしても腕を掴まれて連行されていまう。ただ、確かにここで話しこんでいればいるほど店を見て回る時間が短くなってしまう。残してしまった一色と戸部に挨拶をしようとして――

 

「せんぱい。このことは雪乃先輩と結衣先輩に報告しておきます」

 

 …………。

 一色マジ怖いよ。後怖い。

 

 

     ***

 

 

「今日はありがとうね、ハチマン」

 

「いや、こっちも服買ってもらいましたし」

 

 あの後数件店を回った。ウィンドウショッピング程度の予定だったが、白露さんは余程日本の服が気に行ったらしく、結構な量を買っていた。その上、俺の服まで購入して俺に押し付けてきたのだ。最初は断ろうとしたが、今日のお礼と笑顔で言われたら何も言い返せない。

 

「どうでした? 日本のモールは」

 

 白露さんを送るために駅まで歩いているときに尋ねる。あまり上手くエスコート出来た自信はないが――むしろ振り回されていた自覚すらあるが――、つまらなかったと言われるのはちょっと不服である。しかし、白露さんはニコニコしながら「楽しかったよ」と返してきた。

 

「いろんなお店があって楽しかったよ。千葉でこれなら東京はもっとすごいのかな?」

 

 おいおい、千葉を東京の下位互換みたいに言われるのは心外だ。東京だって西の方は結構田舎っぽいし、千葉にだっていいところはいっぱいあるんだぞ。ディスティニーランドも千葉にあるしな! ……なんか言ってて悲しくなってきた。本当になんで千葉ディスティニーランドにしなかったんだ……。

 

「それに、どのお店も接客がすごくて気分良くなっちゃった」

 

 あぁ、どうやら日本の接客水準が高いというのは本当らしい。まあ、無愛想な店員とかもいるけどね。俺がバイトしたマックとか目の腐った店員がいて怖いって苦情来てたし。俺のことじゃん。

 

「ここまでで大丈夫ですか?」

 

「うん、じゃあまた明日ね!」

 

「え?」

 

「え?」

 

 あれ? ひょっとして明日も案内するのだろうか。そもそもこれってどれくらい案内したら完遂なのん? いやそもそも……。

 

「俺は大丈夫ですけど。白露さんは大丈夫なんですか? その……勉強とか……」

 

 受験生にあまりこういうことは言いたくない。しかし、日本に慣れるために受験をおろそかにするわけにはいかないだろう。白露さんも俺の言わんとしていることを理解したようで、あー! と声を上げる。

 

「私、イタリアのハイスクールの推薦でもう大学受かってるんだよ、ハルノと同じ大学の文系。向こうだと本来六月卒業だったんだけど、ハルノが掛けあってくれて、早めに日本に戻ってきたんだよね」

 

 なるほど。もう受験が終わっているのならあまり気にすることもないということが。それじゃあ、本人が納得するまで依頼を続けるとしますか。

 しかし、雪ノ下家の力って海外まで届くのか。本当に県議かな?

 

「分かりました。じゃあ、明日も校門前で」

 

「分かった。それじゃあ、またね!」

 

 白露さんが駅に消えたのを確認して、ほっと息をつく。ほとんど知らない、しかも年上とこれだけの時間を過ごして、話をしたのは少なくとも高校生になって初めてだった。

 しかし、このため息は決して疲れたというものではなく――いや、多少はあるけど――あまりにも自然に過ごしていた事実に対する驚きから来るものだった。

 

「……明日もこんな時間を過ごすのか」

 

 不思議と口元が緩んでいることに、その時の俺は気付いていなかった。

 

 

     ***

 

 

 明くる翌週の月曜日。先週は平日の放課後、毎日白露さんをどこかしらに案内していた。パルコだったり、の買い物スポットや、近場の観光地など。観光関係はともかく、買い物スポットなんてよく知らないから由比ヶ浜達に協力をあおいだら、ららぽでの事を一色がしっかり報告していてなぜか怒られた。なーぜー。まあ、ちゃんと教えてくれたけどさ。

 さすがに土日は休ませてもらったが、今週土曜はアキバに行く約束をしてしまっている。そして、今日は先週とは勝手が違うのだ。

 

「……行きたくない」

 

 俺がいるのは三年生の廊下。三学期になると三年生は自由登校になるが、毎週月曜には定期報告などのため受験などの生徒以外は登校してくるのだ。そして、金曜日の別れ際に白露さんから「教室まで迎えに来てね?」とお願いされてしまった。いや、別に校門でよくない? と家に帰ってから思ったが、後の祭り。ふえぇ、三年生の「誰こいつ」みたいな視線怖いよぉ。

 しかし、迎えに行かないと白露さんを見捨てるという事になり、バックについているアラサー教師と魔王に何をされるか分かったものではない。男だろ、比企谷八幡! 覚悟を決めろ!

 出来るだけ怪しまれないように――既に怪しさマックスな気がするが――白露さんの教室に向かう。確か3-Cだったはず、と記憶を頼りに向かい、そっと中を覗くと白露さんの姿を見つける。どうやら他の三年生と話しているようだ。まあ、三年生も今日で会って二日目なわけだし、まだまだ興味は尽きないのだろう。ひょっとして俺、総武高で一番白露さんに関わっているのでは? なにそれ優越。……ヒッキーキモい、という由比ヶ浜のボイスが脳内再生された。辛い。

 さて、早くした方が時間も取れるのでそろそろ呼んだ方がいいな。しかし、直接呼ぶのはちょっと、いやかなり恥ずかしいので誰かに呼んでもらおうかとキョロキョロしていると。

 

「あ、ハチマン!」

 

 白露さんが先に気付いた。鞄を掴んでとてとてと近づいてきたので挨拶をしようとして。

 

「白露さん、どう……うぇっ!?」

 

「ひっさしぶりー!」

 

 真正面から抱きついていてきた。いわゆるハグ。

 いやいやいやいや。待って、ちょっと待って。毎度思うけどこの人感情表現がフランクなんだよ。海外に住むとすぐ抱きつくようになるの? しかも今までみたいに帽子被ってる訳じゃないし、周りは白露さんのこと知ってる人達だしでいつもよりいろいろやばい。やめて! そんな目で俺を見ないで!

 

「は、早く行きましょうっ!」

 

「あ、ハチマン照れてるー」

 

 ……あーもう!

 まるで雪ノ下さんを相手にしているみたいだ。手玉に取られている感じ。

 しかし――

 

「じゃ、行こっか!」

 

 にぱーと笑う彼女を見ると、雪ノ下さんのような計算高さは感じられず、やっぱり素でやってるんだろうなと思わざるを得ない。天然型はるのんとか一周回って恐ろしい。恐ろしいと感じさせないのが恐ろしい。

 

 

 

 今日はアクアマリン千葉。スケートリンクがあるのである。アイススケートである。まあ、俺も小学校の時来て以来なんだけど。

 ぶっちゃけ、三回くらいしか来た経験がない。千葉を愛しているのでここ以外で滑ったこともない。つまり、アイススケート経験三回。まあ、普通に滑るくらいはできるんだけど。

 

「ハチマーン! 早く早くー!」

 

「……滑るのうますぎ」

 

 白露さんは滑るのがめちゃくちゃうまかった。なんか一人だけ場違い感すらあるうまさ。なんかもうお客の八割くらい滑るのをやめて白露さんを眺めている。栗色の髪は氷上に反射した光でキラキラと輝き。滑る姿はスケート靴のブレードの先まで絵になっていた。

 もうすでに、スケートリンクそのものが彼女一人のための舞台だった。俺も、その姿に、不覚にも見惚れてしまった。

 

「ハチマーン! どうだった?」

 

 しかし、そんなことをおくびにも出すわけにはいかない。見惚れましたなんて気付かれようものなら、蔑んだ目で見られるものだ。ソースは雪ノ下との邂逅の時の俺。

 

「すごいですね。俺、あんな上手く滑れませんよ」

 

 だから、あくまで普通に返す。勘違いなどしてはならない。させてもならないから。

 

「えへへー、そっかな? 住んでた近くの湖が冬になるとカチカチに凍るから、毎年滑ってたんだよねー」

 

 どうやら、俺のポーカーフェイスはしっかりと機能していたようで、ケラケラと笑いかけてくる。

 しかしなるほど、凍る湖とか本当にあるんだな。ブリザードアクセルでそんなの見たことあるな。

 

「けど、自然の氷だから結構デコボコしてるんだよねー。こんなに滑りやすくないよ」

 

「まあ、ここは整備してますし、人工リンクですからね」

 

 滑りつかれたのか、ベンチに腰を下ろす。はしゃぎ過ぎたのか少し息が上がっているようだ。うっすらと汗をかいていて色っぽ……ではなく! 近くの自販機で飲み物を買って持っていく。午後ティーのミルクでいいかな? 俺は勿論マッカン。

 

「どうぞ」

 

「あ、ありがとー。気が効くなー」

 

 この程度誰でもやると思うのだが。しかし、褒め上手な人だ。これが一色ならそれが当然ですよ! とか言い出すし、雪ノ下ならゲス谷君のことだから何かよからぬものを入れていないかしらとか言ってくる。いや、最近は言わないかもしれないけど。由比ヶ浜は……わーい! とかアホみたいな顔して普通に受け取るな。アホだし。

 プルタブを開けて、コクコクと飲み始める。どうして女子はそんなちみちみ飲めるのか。男とは身体的構造が違う説がある。あ、戸塚もちみちみ飲むな。まあ、戸塚だもんな。

 しばらく「おいしー」とか言いながらちみちみ午後ティーを飲んでいた彼女だがふと俺の方をぽーっと見つめてくる。

 いや、正確には俺の持っている黒と黄色の警戒色の缶を。

 

「それなあに?」

 

「マックスコーヒーっていう千葉のソウルドリンクですよ」

 

「なんですと! 私知らない!」

 

 千葉で生きるにあたってマッカンを知らないのはやばいな。ここはしっかり布教しておかねばなるまい。もう一缶くらい買ってこようかと考えていると――

 

「飲ませて!」

 

「あっ」

 

 手元からマッカンが消えた。イリュージョン、ではなくその警戒色の缶は白露さんの手元に移動していて。それに何の躊躇もなく口をつける。当然、俺が口をつけた部分と重なるわけで。彼女の白い喉がこくこくとかわいらしく動くわけで。

 

「甘くておいしいじゃんこれ! さすが千葉のソウルドリンク!」

 

 知り合いの誰からも得られなかった賛同の声も、俺の耳には入ってもどこか別世界からの伝聞のように聞こえて。返されたマッカンをただただ眺める。

 

「じゃ、もうちょっと滑ってくるね!」

 

 何でもないかのように、少しも気にしていないかのようにリンクへ向かう白露さんを眺める。

 そして、視線を再びマッカンに。

 持ち慣れたその缶には、まだだいぶ中身が残っていて。それを飲まなきゃいけないわけで。飲むためには彼女の唇が触れた部分に触れる必要があるわけで。

 

 

 

 その後の記憶はどこか曖昧で、気がつくと自室のベッドの上にいた。手元にあったはずのマッカンがどうなったのかは覚えていないし。白露さんをしっかり送り届けたかも曖昧だ。

 けど、俺の口の触れた部分に彼女の唇が触れる光景はありありと思い出されてしまって――

 

「あー、くそ……」

 

 こんなことで動揺するとか中学生じゃあるまいし。あれだ、全部年上って属性のせいだ。

 その日、結局眠ることはできなかった。




八オリというジャンルに挑戦してみたSS

ちょっと長めの3話編成


こう、外国人のようなフランクさで八幡を攻めてみようと思って書いてみました


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俺が年上のお姉さんに惹かれることなんてない

「お兄ちゃん。小町明日、塾行ってくるからね。休みだからってあんまりぐうたらしてたらダメだよ?」

 

 金曜の夜。マイラブリーエンジェルコマチエルの口からそんな言葉が出てきた。まあ、こいつも後一月弱で公立高校受験だからな。休みの日も勉強に集中して、お兄ちゃんと同じ高校に行こうとしているのは、八幡的にポイント高い。

 しかし、お兄ちゃんが休みのたびに家でぐうたらすること確定みたいに言わないで……いやまあ、家で勉強かゲームか読書かアニメ見てるかしかしていない気もするけど。しかし、明日はちょっと勝手が違う。

 

「いや、小町。お兄ちゃんも明日用事があるから朝からいないぞ」

 

「……へ?」

 

 あの、小町さん? 確かにお兄ちゃんが休日に用事があることは少ないかもしれないけど、そんなアリアハン周辺でバラモスゾンビが出たみたいな顔して固まられるとさすがのお兄ちゃんのメンタルにも大ダメージなんだけど。むしろ小町の一挙手一投足に俺のHPが削れるまである。

 

「明日は白露さんを東京の方に案内する約束してるんだよ。さすがに帰りが遅くなるから休日に行くことになったんだよ」

 

 そう、初日にさらっと交わされた約束は当然無効とはならず、明日は白露さんお待ちかね秋葉原観光の日なのだ。ここ最近平日は毎日帰りが遅いので、小町には白露さんの事は伝えてある。まあ、案内する場所とか小町からアドバイスをもらっている部分も多いしな。

 なので小町の理解も早い。即硬直解除して「ふむー」とかわいらしく顎に手を当てる。それ白露さんもやってたけど流行ってんの? そして、にっこりと笑うと「なるほど、白露さんとデートかー」って……いやいやなんかおかしい。

 

「小町、前も言ったがこれは日本に不慣れな帰国子女殿を案内するという依頼だ。決してデートではない」

 

「えー?」

 

 なんか小町からこいつ何言ってるのかにゃー? みたいな目で見られた。お兄ちゃんなにも間違っていないと思うのだけれど。ちょっと小町ちゃん理不尽よ?

 

「お兄ちゃん、昨日はどこ行った?」

 

「カラオケだな」

 

 日本のカラオケボックスはすごいと聞いていたらしい白露さんが目を輝かせていたので、誠に遺憾ながら案内した。二人でカラオケとか初めてでメッチャ緊張して、普通にアニソン入れてしまった! と思ったけど、よくよく考えたら白露さんはオタクだったからセーフだった。

 

「その前は?」

 

「本屋巡り」

 

 本が好きらしい白露さんのために総武高周辺と進学先の大学周辺の書店を案内して回ったのだ。白露さんのメインジャンルはミステリーのようだが、その他にもいろいろ読むらしい。イタリアではライトノベルをほとんど手に入れられないため、ライトノベルコーナーでは一層目を輝かせていた。もうなんか瞳の中に星が瞬くレベル。

 さらに、途中で見てみたクイズ系の棚の時はやばかった。適当に冊子を取って開いたかと思ったらスラスラと解き始めて、あっという間に一冊読了してしまった。

 

「私これでもハルノに天才少女って呼ばれてたから!」

 

 とは彼女の弁。なるほど。雪ノ下さんのお墨付きなら間違いなく天才に違いない。あの人をして天才と言わしめるなら、それは世界レベルの本物の天才であろう。ていうか、この人のドヤ顔かわいすぎない?

 そういえば、Twitterとかで回ってくる「これが解けたらIQ120以上!」とかって絶対嘘だよな。めちゃくちゃ簡単だし。なーんてことを考えていると、小町が露骨にため息をついて来てお兄ちゃんのライフを削ってきた。

 

「お兄ちゃん、それ完全にデートじゃん」

 

「馬鹿言うなよ。依頼の上で多少遊ぶことがあるだけだろ」

 

 あくまで大前提にあるのは白露さんが日本に慣れるという雪ノ下さんからの依頼だ。それがなければ、俺と白露さんはこうして出かけることはおろか、まず出会いもしなかったのだから。

 

「はあ、まあお兄ちゃんが楽しそうだからいいけどね。あ、今の小町的にポイント高い!」

 

「……え?」

 

 俺の口から洩れた声は小町には聞こえなかったようで、「おやすみー」とリビングを出ていく。残されたのは俺一人。

 固まっていた身体を弛緩させ、ソファにズブズブと沈み込む。そっと頬に指を這わすが、そんなことで自分の今の表情が分かるわけもない。そもそも今の俺の顔は驚きの表情が貼り付けられているはずだった。

「楽しそう……か……」

 伊達に十五年、同じ家に住んでいるだけに、小町の言葉には説得力がある。だから、きっと俺は楽しそうにしていたのだろう。しかし、なぜそんな表情をしていたのか、俺には分からなかった。

 何度も自問自答を繰り返しても答えは出ず、もやもやした気持ちのまま、俺は眠りについた。

 

 

 意識が落ちる直前、なぜか鮮明に白露さんの笑顔が浮かんできていた。

 

 

     ***

 

 

「うわぁっ、ここがアキィバなんだね!」

 

 翌日、千葉駅で待ち合わせた俺たちは電車で秋葉原に来ていた。改札口を抜けて、大量のアニメ広告によってカオスな印象を受ける街中を目にした途端、白露さんのテンションは最高潮に達していた。しかし、本当になんで「アキバ」だけ舌巻くんだろうか。

 ちなみに白露さんの今日の恰好はいつものクリーム色のコートに白を基調としたカジュアルなデザインのトップス。紺色のショートパンツから伸びる足が相変わらず眩しい。対して俺はいつもの小町プレゼンツ……ではなく、この間白露さんに買ってもらった一色……間違った一式を身に纏っていた。軽いダメージの入ったジーンズに上は数枚のシャツとアウターを重ね着していて、明らかにいつもの俺ではない。出かけるときに小町に見せてみたら、「お兄ちゃん! そんな恰好したら、もう目をつぶってるだけでタダのイケメンだよ!」と褒めてくれた。いや、そこはもう目とか関係なしに褒めてほしかった。微妙にお兄ちゃんうれしくない。

 

「どこ行こうか? とらのあな? メロンブックス? まんだらけ?」

 

「……同人ショップに行きたいのは理解しました」

 

 思わず苦笑が漏れてしまう。多少テンションに押されぎみにはなるが、別に嫌というわけではない。この人の笑顔はどこか幼さを感じさせるもので、つい年上であることを忘れてしまいそうになる。そんな無邪気な雰囲気が俺にマイナスの感情を起こさせないのかもしれない。

 

「じゃ、とりあえずとらのあなに行きますか」

 

「おー!」

 

 その後、午前中いっぱい同人ショップを巡ることになった。ネットが普及したとは言っても、海外から同人誌の取り寄せをするのは面倒くさいらしく、あまり読んだことはなかったらしい。目をキラキラ輝かせた白露さんがテンションあがりすぎて危うく成人向けコーナーに特攻しようとした時は焦ったが、それでも悪くない時間だったと思う。

 まあ、その結果……俺の両手にはずっしりと大量の同人誌、同人グッズの入った袋がか変えられているわけなのだが。

 

「ごめんね、ハチマン。やっぱり私も半分持つよ」

 

「いえ、大丈夫ですから」

 

 女性に重い物を持たせるなと小町に躾けられているので、この荷物を渡すわけにはいかない。多少重いが普通に運べるし、白露さんに海老名さん的趣味はなかったから持っていても精神力を削られることもない。

 

「えへへ、ハチマンは優しいね!」

 

「……そんなことないですよ」

 

 まったく。優しいって言えばいいと思わないで欲しい。そんなことで俺が舞い上がるとでも思っているのだろうか。めちゃくちゃ舞い上がるけど。あれ? 俺ってチョロすぎ?

 

「そろそろお昼かー、どこで食べる?」

 

「そうですね。いうて俺もアキバはそんなに来ないんで店とかは分からないんですけど」

 

 そもそも電気街発祥の秋葉原に白露さんに似合うような店があるのだろうか。たまに来ても、チェーン店のファーストフードしか食ったことがないから全然わからない。

 

「ふむー、そうだなー……あっ! あれとかいいんじゃない?」

 

「ん? どれです……か……?」

 

 白露さんの指差した先に目を向けて、強制ストップモーション。俺、ストップモーションうますぎだろ。これならプロ狙える。……ではなく!

 

「あそこ、ですか?」

 

 俺たちの目線の先にはカラフルな外装にいわゆる萌えキャラの女の子の看板。そして、派手な色のメイド服を着た呼び子さんが甲高い猫なで声で客引きしていた。

 いわゆるメイドカフェ。川……川……川中? の弟、川崎大志の依頼の時に一度訪れたことはあるが、そうか、この人オタクだからこういうのに興味あるんだな。

 

「「「いらっしゃいませ、ご主人様! お嬢様!」」」

 

 おうふ……。

 店内に入ってみるといわゆるメルヘンな感じの内装に、色とりどりのメイド服に身を包んだ女の子たちから恥ずかしいお出迎えを受けてしまった。なんでメイドカフェのメイド服ってカラフルなのが多いんだろうか。なんかそういう系のお店に見えてしまって仕方がない。

 丸テーブルに案内されてメニューを開いてみる。そういえば、サキサキの時は何も頼まなかったなと思いつつ目を落とすと、『萌え萌え❤』とか『つん★でれ❤』とか『ろりっこ』とかの単語が見えて少し頭が痛くなった。いや、そういうお店なんだけどさ。

 それ以上に気になるのが……。

 

「「「「「……………………」」」」」

 

 周囲のお客の視線。まあ、メイドカフェという性質上男性の比率が高い、というかほぼ男性なわけで。偏見だが、得てしてこういうところに来る男性とは女の子に免疫がなかったり――材木座参照――、女の子に飢えていたりするもの――材木座参照――なのだろう。男性客の視線が軒並み俺たちに集中している。帽子を被ったままとはいえ、女性であることは明らかだからな。スタイルいいし。

 メイドカフェ側からしたらちょっとした営業妨害状態。ていうか、男性客が俺と目があった瞬間ため息ついて視線そらすんだけど。「なんでこんな奴がリア充してんだよ」とか思っているのだろうが、そもそも俺はリア充ではないし、だからと言ってそんな露骨にため息つかれていい気がするわけでもないんですか?

 

「あの……」

 

 まあ、気にしても仕方がないとメニュー表に目を落とすと、ふりふりしたものが視界の端に揺れて、かわいらしい声が降ってきた。顔を上げるとメイドさんが白露さんに声をかけているようだ。

 

「ん? なにかな?」

 

「実は当店ではメイドの無料体験ができるんですが、よろしければお嬢様もやってみませんか?」

 

 ほむ。そういえば、入口の所のポスターにそんな貼り紙があった気がする。サキサキの件で行った店もそうだが、メイド体験ができる店は多いのだろうか。まあ、メイド服に憧れる女性もいるだろうし、女性客の確保にも繋がるのかもしれない。

 

「わあ! ハチマン、メイド体験だって!」

 

 そして、ここにも興味を持った女性が一人。そういえば、さっきメイド物の同人誌を何冊か買っていた気がするし、昼食にここを選ぶくらいだし、やっぱり好きなのだろう。いや、単純に物珍しいのかもしれないけれど。

 

「ハチマン……やってみてもいいかな?」

 

「俺に聞く必要ないですよ」

 

 なにその質問。やってみてくださいっていうのが正解なのだろうか。なにそれ、彼女じゃない女性のメイド服姿みたいとかヒッキーマジキモいじゃん。いや、そんなこと言わんけど。

 しかしまあ、多少興味はあるわけで。

 

「まあ、いいんじゃないですか?」

 

 それとなく了承すると、ぱあっと顔を輝かせる。そんな表情をしないでほしい、ドキッとして顔が熱くなっちゃうから。そんな俺の動揺には気付かなかったようで、白露さんはメイドさんと一緒に奥に引っ込んでしまった。いや、ついでに俺の注文とかも取ってくれると嬉しかったんだけど……。

 仕方がないからこっちから呼ぶか。

 

「すみませーん」

 

「なにかご用でしょうか、ご主人様!」

 

 …………。

 え、白露さん戻ってくるまで一人とか辛くない!?

 

 

 

 なんとかキョドらないように――たぶんキョドってた――注文を終えると、念のために持ってきていた本を取り出す。いや、本当に持って来ていてよかった。なにも持ってきていなかったら待ち時間の間ずっとメルヘンな店内とかカラフルなフリフリとかいかにもなおっさん達を視界に入れることになっていた。なにそれ地獄?

 こんなことなら白露さんをメイド体験に行かせるんじゃなかった。白露さんとの会話があればこの待ち時間もどれだけ気が楽だったか。いや、どれだけ楽しかったか。

 

「…………いやいや」

 

 何を言っているんだ。どうも昨日から少しおかしいな。確かに楽しくないと言えば嘘になるが、この場合“気が楽”の方が俺らしいだろう。いつもの理性の化物の俺が頭の中でそう結論づけるが、どこか説得力が感じられない。“楽しい”の方が正しいのだと、何者かが頭の中で囁く。

 本当にらしくない。これじゃあまるで……。

 

「……ないない」

 

 軽く頭を振って無理やり思考を中断させる。再び本の文字列に目線を落とそうとすると、視界の端でさすがに見慣れてきたカラフルなフリフリが揺れた。

 

「お、お待たせしました、ご主人様」

 

「あぁ、どう……も……」

 

 いや、どもってしまったのは俺のせいではない。俺は悪くない。

 少し恥ずかしそうだが新人さんなのかな、とか思いながら本を閉じて顔を上げると、モノトーンのシックなメイド服を見にまとった白露さんが立っていた。その手には俺の注文したオムライス。どうやら着替えのついでに運んできたらしい。

 

「…………」

 

「あ、あの……そんなにじっくり見られると……恥ずかしい……」

 

「あ、いや……その……」

 

 言えない……。あまりにも似合いすぎていて、かわいすぎて言葉を失っていたなんて。そんなことを知られたら恥ずかしさで死んでしまいそうだ。

 

「それで……どう……かな?」

 

「え、ぅ……それは……」

 

 目が泳ぎ過ぎて視界がぐわんぐわんぶれる。落ちつけ比企谷八幡。相手の服装を褒めるなんてこの一年で何度もやってきたじゃないか。いつもどおり触りだけ褒めて、「知らんけど」とか入れれば完璧だ。よし!

 

「その……綺麗……です……」

 

「そ、そっか……ありがとね」

 

 誰だお前は。てめえ捻デレじゃねえじゃねえか。自分で捻デレって認めちゃった死にたい。いやそのあれだ。こんな期待の混じった目で見られたら素直になっちゃうじゃん。

 その時、店内の視線が再び俺たちに集中しているのに気付いた。さっきよりも明らかに鋭く、まるで鋭利な刃物のように突き刺さる。なぜ、と思ったが、答えは簡単だった。

 メイド服を着るという事は、頭には当然フリルのついたカチューシャを付けるわけで、そうなると当然帽子はかぶれない。つまり、さっきまで若干隠れていた白露さんの顔がしっかりと表に出ているわけで、その美貌を晒すことになっていた。

 無遠慮な視線が、四方八方から注がれる。その光景に……なぜか胸の辺りがもやもやした。

 なんだろうか。上手く自分で表現できない。ただなんというか、白露さんのこの姿をここにいる輩達に晒すのは……すごく……。

 

「ハチマン? どうしたの?」

 

「っ……。な、何でもないですよ」

 

 不思議そうな白露さんの声に思考を止める。上手く表現できないことを考えても仕方ないだろう。

 

「じゃ、オムライスどうぞ!」

 

 少しずつ慣れてきたのか、いつもの明るい表情でオムライスを差し出してくる。メイドカフェってあくまでメイドさんを愛でる場所だから、料理はそこまで期待していなかったが、トロトロの卵が食欲をそそる。思わずごくりと喉を鳴らす。

 

「ケチャップかけてあげるね!」

 

 一緒に持ってきたケチャップの蓋を開けて逆さにする。そして、器用に「ハチマン♡」とケチャップ文字を書いてきた。なにそれくっそ恥ずかしいんですけど。ていうか、俺の目の前に置かれたオムライスに文字を書いているからいろいろ近い。というかちょうど目の高さに白露さんの豊満なあれがあって終始目のやり場に困った。

 そして、白露さんはスプーンで一口オムライスを掬うと。

 

「さ、ハチマンあーん」

 

 ……待って。

 何でナチュラルにあーんとかしているの? 何も言わずにスプーンで掬ったから止めることすらできなかったよ?

 

「あの、白露さん……」

 

「あーん」

 

「いやその……」

 

「ご主人様、あーん」

 

 無理です、勝てません。こっちが折れないといつまでもやってきそう。そうなるとせっかくの美味しそうなオムライスが冷めてしまうわけで、そんなオムライス食べたくないわけで。

 

「あ、あーん」

 

 慎重にスプーンに口を運ぶ。トロトロの卵やケチャップライスが味覚神経を刺激してくるが、残念なことに俺の脳はドキドキしっぱなしでまともな味覚情報を処理できなかった。ごめん、店の人。きっと美味しいはずなのに。

 

「どう?」

 

「あ……悪くないです」

 

「ふふっ、なにそれ」

 

 だってしょうがないじゃん。うまいか分からないんだから。

 俺の反応を楽しそうに見ていた白露さんはふとテーブルを見て、あっ、と声を上げた。

 

「そういえば、私のご飯頼んでなかったね」

 

「あー……」

 

 彼女が何を食べたいのか分からなかったので、とりあえず自分の分だけ頼んでしまった。こんなことならオムライス二つ頼んでおけばよかっただろうか。

 

「すみません……」

 

「仕方ないよ。注文する前に着替えに行っちゃったし」

 

 不甲斐ないところを見せてしまい申し訳なく思っていると、それじゃあとスプーンの柄を俺に差し出してくる。自分で食べろってことかな?

 

「ハチマンがそのオムライス食べさせて、あーん」

 

「ひえ!?」

 

 もうなんかこの人実は計算づくで俺を弄んでいるのではないだろうか。周りの視線が増したし。しかし、雪ノ下さんなら絶対計算づくなのだが、この人は多分天然なんだろうなと納得してしまう。いや、天然の方が性質が悪い。

 

「あーん」

 

「あの……」

 

「あーん」

 

 あ、これさっきの逆パターンだ。知らなかったのか? 白露さんからは逃げられない。いや、というかスプーン一つしかないんですけど。既に俺が使ったスプーンなんですけど。

 

「ハチマン、口疲れる」

 

「……はあ、あ、あーん」

 

 大丈夫だ八幡。きっと間接キスなんてイタリアじゃ普通のことなんだ。イタリアってそういうの緩そうだよな、偏見だけど。だから、ちょっと俺が神経質になっているだけなんだ。

 差し出したスプーンをぱくっと含まれる。伝わる振動がどこか生々しくて、思わず少し震えてしまった。俺の使ったスプーンを含んだ彼女の口元に釘付けになってしまう。微妙な唇の動きに鼓動が早まる。

 

「へへー、おいしいね!」

 

 にこやかにほほ笑むその頬がほんのり色づいているのを見て、胸のもやもやが濃度を増す。

 

 

 あぁ……もう。

 本当にままならない。

 

 

     ***

 

 

「お兄ちゃん、電話ー」

 

 秋葉原から帰宅して自室で休憩していると、小町に呼ばれた。あの後、ゲーセンなどで夕方まで時間を潰したが、正直俺は上の空だったと思う。いや、上の空は少し違うな。少しイライラしていただろうか。別に白露さんにというわけではなく、主に白露さんに向けられる視線に。

 ゲーセンでダンエボをしたときに彼女帽子を外すと、ただでさえ集まっていた視線がなお無遠慮なものになった。その視線を感じて、白露さんの踊る姿に見惚れながらも、どこかイライラしている自分がいて……自分のことなのに、なぜそうなっているのかが全く分からなかった。

 階段を下りてリビングに入ると、小町から無言で受話器を渡された。わざわざ家に電話してくるなんて誰だろうか。

 

「はい」

 

『ひゃっはろー! あ、切っちゃ駄目だよ?』

 

 あっぶねえ。「ひゃっは」の時点で受話器下ろしきるところだった。ていうか、前は携帯にかけてこなかったっけ? あ、着信拒否にしてるわ。

 

『着信拒否』

 

「解除しておきます」

 

 何この人マジ怖い。魔王怖い、逆らわんとこ。

 

「それで、なんの用ですか?」

 

 この人が用もなく俺に電話してくるとは思えない。その予想の通りなのか、電話越しに含みのある笑い声が聞こえてきた。

 

『いやー、今日友音とデートに行ったみたいだから、どうだったかなーって』

 

「デートじゃなくて案内ですよ、依頼の」

 

 デートとは恋愛感情のある男女が行うものだ。白露さんから俺に対してそんな感情があるわけが……あれ? 何かが引っかかる。

 

『それは、理性の化物として?』

 

「は? 何を言って……」

 

『君の本当の気持ちはどこ?』

 

「っ…………」

 

 息が詰まる。口は開いたが、喉から音は発せられなかった。この人に真面目に付き合っても意味がないのだ。適当にはぐらかせばいいだけ。それなのに、なにも言えない。

 

「……なんの……こと……」

 

 ようやく絞り出した声は、ひどくか細い上に途切れ途切れで、情けなくて仕方がなかった。そんな俺に嘲笑が向けられると思っていたが、返ってきた声はいつもより低めで、どこか諭すようなものだった。

 

『君のその理性の化物はお姉さん好きだけど、理性で頭ごなしにすべて否定するんじゃなくて、少しくらい、自分に素直になってもいいんじゃない?』

 

「……今日はやけにお節介が過ぎますね」

 

 今まで俺の周りをひっかきまわしながら、雪ノ下を誘導するようなことをしたことはあったが、こんな直接諭そうとしてくることなんてなかった。ましてや俺を相手にそんなことをしてくるなんて。

 

『まあ、お姉さんとしては友音ももう一人の妹みたいなもんだからね。あの子も雪乃ちゃんみたいに下卑た視線や欲望に晒されてきたからね』

 

 海外といえど人間の本質は変わらない。白露さんのような美少女には当然男の羨望や下心、女の妬みという感情に晒されてきたのだろう。

 

『そんな環境だったからかな。あの子は恋愛に関して特に拒絶的だったんだ。告白してくる男子は彼女の容姿や日本人っていう特異性で寄ってきただけだから。友音本人も友達しての“好き”はあっても、恋愛対象としての“好き”は、少なくとも私と出会ってからは持ったことがなかったよ』

 

 まるで光に集る羽虫のよう。そう雪ノ下さんは続けた。ひどい言い方だが実際そうなのだろう。多すぎる羽虫は光すら遮る。雪ノ下雪乃が世界そのものを変えようという考えを持つことになったように、雪ノ下陽乃が全てを掌の上で転がそうとするように、白露友音は自分の世界から恋愛というものを切り捨てた。

 

『けどね、私が比企谷君の話をした時は違ったんだ』

 

「は?」

 

『交通事故の話や静ちゃんから聞いた千葉村の話、文化祭のことやクリスマスのことをね。そしたら友音、君の話のときはビデオチャット越しでも分かるくらい目を輝かせるんだよ。だから、あの子が日本に戻ってきたら君に会わせようって思ったんだ』

 

 なるほど。だから俺個人に依頼をしてきたのか。大事な妹分のために、実の妹に対して切り札の一つを切ってまで。しかし……。

 

「前に雪ノ下さん、俺は雪ノ下のものとか言っていませんでしたか?」

 

 自分を物扱いされるのは少々癪だが、雪ノ下さんは確かにそう言った。それを他の人間に渡してしまうようなことをしていいのだろうか。完全に自分を物認識してていやだわ。俺の問いに「確かにそうだけど」と雪ノ下さんは続ける。

 

『だって、何も進まないのに待っていて、なんてかわいそうじゃない』

 

 

     ***

 

 

 電話を終えて、ベッドに倒れ込む。雪ノ下さんとの会話が頭の中でリフレインし、その合間に白露さんの顔がちらつく。その度に胸のもやもやがどんどん増していき、呼吸ができなくなるほど苦しくなる。

 この胸の苦しさがなんなのか分からない。いや、そうじゃない。分からないふりをしていた。程度は違えど、俺はこの感情を抱いたことがあるから。

 

「好き……なんだろうな……」

 

 ぼそりとつぶやいた言葉はすんなりと腑に落ちた。しかし、胸の苦しさはその程度を更に増して、心臓を押しつぶすほどきりきりと締め付けてくる。

 二週間。まだ会ってたった二週間だ。そんな短い時間で抱いた感情なんて、勘違いに決まっている。

 

 

 ――結局本当に人を好きになったことがないんだろうな。君も、僕も。

 

 

 いつだったか葉山に言われた言葉が浮かぶ。人の感情を読むことに劣っている俺は、自分の感情を読むことすら不得手であるようだ。今まで抱いたことのある恋愛感情が、今抱いているこの感情が、本当に“好き”というものなのか自信が持てない。

 

『比企谷君も私のお気に入りだからね。自分の気持ちに素直に生きてほしいな』

 

 無茶言わないでくださいよ、雪ノ下さん。俺に素直になれなんてハードルが高すぎる。それに……。

 

「俺なんかが白露さんの中に入り込めるわけがないんだ……」

 

 俺みたいなちっぽけな人間が、恋愛感情を持てない彼女を変えられるわけがない。俺なんかを、彼女がそういう対象として見るわけがないんだ。

 だから、この勘違いはそもそも外にさらけ出されることはない。さらけ出さなければ、理性で抑えつけてしまえば、それでいいんだ。

 魔王をして理性の化物と言わしめたそれで、湧き上がる感情を握りつぶす。

 

 

 胸のもやもやは消えてくれた。

 けれど……そこはどこか寒気がするほど空っぽになってしまった。

 

 

     ***

 

 

「今日も楽しかったね、ハチマン!」

 

「そうっすね」

 

 あの日以降も依頼は続いていた。もうすでに千葉の主要スポットは回りきっており、最早普通にデー……遊んでいるのだが、白露さんから依頼完了の旨は伝えられていない。俺も、その点に関して突っ込んだことはない。俺はこの関係が続くことに甘えているのだ。自分の浅ましさに反吐が出る。

 そろそろ駅に着く。今日の関係もここで終わり。変化がなかったことに、依頼終了を言い渡されなかったことに安堵していると、白露さんから声をかけられた。

 

「ねえ、ハチマン」

 

「? なんですか?」

 

 一瞬どきりとしてしまったがおくびにも出さない。俺の予想していたものとは違うようで、いつもの明るい笑顔で白露さんは俺を見ていた。たたっと駆けると俺の目の前に回り込んでくる。

 

「はい! ハッピーバレンタイン!」

 

「……あぁ」

 

 そういえば、今日は二月十四日。バレンタインデーだったか。いつもは心の中でリア充を呪いながら小町がくれるチョコを食べるのだが、今年はそもそも存在を忘れていた。

 

「イタリアだと男性からプレゼントするんだけど、日本式に則ってみたよ!」

 

「ありがとうございます」

 

 握りつぶしたはずの感情が溢れだす。空っぽだったはずの胸はすぐにいっぱいになり、また苦しくなってきた。丁寧に包装されたそれを、何とか平静を装って受け取る。愚かしいことに、それだけで鼓動が高まってしまう。本当に男って奴は単純だ。

 

「ひひー、頑張って作ってみたんだよ。イタリアの伝統のお菓子でバーチ・ディ・ダーマって言うの。日本語だと……貴婦人のキス、だったかな?」

 

 説明してくれる彼女の頬は見間違えようのないくらい朱に色づいていて。湧いてくる「ひょっとして」を理性が必死に塗りつぶす。あり得ないのだ、勘違いなのだと思考を切り捨てようとする。

 

「あの、あのねハチマン……」

 

 あぁ……。

 だめだ。そんな表情をされたら駄目なんだ。そんな表情をされたら勘違いだと自分ごまかせなくなる。俺はその感情を受け止める覚悟も、資格もないのだから。何もない俺では、こんな素晴らしい人の隣に立つことも、この人と向かい合う事も許されない。

 だから、だからこそ、逃げるしかない。いつも通り、卑屈に、卑劣に、最低に。こんなことしかできない自分を殴り倒したくなるのを必死に抑える。

 

「ハチマン……私……」

 

「白露さん」

 

 ぴくっと。白露さんが震える。彼女の表情を見ないように静かに、静かに声を紡ぐ。見てしまえば、決心が揺らいでしまいそうだから。

 

「白露さんがもし、俺に特別な感情を抱いていると思っているのなら、それは勘違いです。知り合ってまだ半月ほどの相手に向けた恋愛感情が、本物なわけがない。それに、俺にはそんな感情を向けてもらえる資格なんてない。俺といたらきっと白露さんは幸せにはなれない。だから……っ」

 

 だんだんと感情が抑えきれなくなり、思わず顔を上げてしまった。

 彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。そんな顔をして欲しくない。あなたにはいつも笑ってもらいたいと思っているのに、この表情に、俺がしてしまったんだ。そう思うと、続きの言葉は出なくなってしまった。

 

「すみません……」

 

 何とか一言絞り出して、踵を返す。これ以上声が出そうになかったから、口だけで「さようなら」と言って、走り出した。

 

 

 最低だ。最低だ。

 最低の気分だ。自分の首を加減なく握りつぶしたくなる。

 

 

 無我夢中で走って、気がつくと家についていた。びっくりした顔の小町も無視して、二階の自室に直行する。扉を閉めて、そのままベッドに倒れ込んだ。

 

「……くそっ」

 

 本当にクソだ。なにがこんな自分が大好きだ、だ。こんな自分、こんな自分なんて好きでいられるはずがない。大っ嫌いだ。

 拳に込められる力を増やすとカサリとかすかな音が鳴った。見ると、さっきもらったバレンタインのプレゼントだ。どうやら大事に大事に離さず持ってきたらしい。ベッドに腰掛けて、丁寧に包装を外す。袋の中にチョコをサンドしたクッキーが入っている。一つを手にとって口に含む。サクサクでしっとりとしたアーモンドクッキーとチョコレートの程良い甘さが口の中に広がる。

 

「…………」

 

 もう一つ取り出して、おもむろにサンドしているクッキーを別けた。それはまるで俺と彼女の今の関係のようで。

 

 

 甘いはずのバーチ・ディ・ダーマは、狂おしいほどの苦みを口の中に広がらせた。

 

 

 

 次の日、白露さんから依頼完了の旨が奉仕部に伝えられ、由比ヶ浜から俺も聞いた。二人が何か聞いてきたが全て無視した。いや、違う。全く耳に入らなかったという方が正しい。

 ただ依頼が解決しただけ、むしろいいことのはずだ。これからはまた今までのように放課後は紅茶を湯のみで飲みながらだらだらと本を読む生活が始まるのだ。なんて優雅なんだろうか。

 それなのに。

 あぁ、それなのに。

 本を開いても心に響くはずの文章は全く頭にも心にも入ってこず。

 絶品なはずの雪ノ下の紅茶を飲んでもどこか味気なかった。

 

 

 口の中には、常に苦々しい何かが残っていたのだ。

 

 

     ***

 

 

 半月ほどの時間が流れて、今日は卒業式。小学校のような無駄に面倒くさい卒業生の言葉や在校生の言葉はないが、数回のリハーサルがあった。俺はそれを全てサボったわけだが。

 平塚先生からなにか小言を言われた気がするが、正直覚えていない。どこか寂しそうに、もしくは悲しそうな顔をする先生に意味がわからなかったが、どうでもよかった。

 まあ、さすがに本番は出席するわけだが、起立や礼などのタイミングは前のやつなんかを参考にすればいいから何の問題もなかった。卒業生の各クラス代表への卒業証書授与や、校長や教育委員会からのありがたくもない長話を終えて、生徒の答辞、送辞に入っている。

 送辞は生徒会長の一色。生徒会選挙の時に比べれば幾分堂々とした態度で多少は生徒会長として板についてきたことをうかがわせた。いや、妙にきりっとしている一色の姿はちょっと笑いそうになってしまうのだが……何か今睨まれた気がしたが気のせいだろう。

 答辞は前生徒会長のめぐり先輩だ。相変わらずのほわほわオーラで、厳粛なはずの空気が少し和らぐ。推薦がもらえて三学期は余裕のあったらしいめぐり先輩はよく一色の手伝いをしていた。俺の責任で余計な手間をかけさせてしまったと思うと少々申し訳ない。めぐり先輩なら気にしなくていいと言ってくれるだろうが。

 その後も式はつつがなく進んでいき、卒業生の退場になる。卒業生が退場しきるまで在校生は手を叩き続けるのだが、これがなかなかにしんどい。教師陣が生徒の上腕筋を鍛えようと画策しているのではないかというくらいしんどくて、途中で適当にやったりちゃんと叩いたりを繰り返す。

 これで卒業式も終わりだという、そんな油断もあったのだろう。

 

「……ぁ」

 

 今まで意識的に視線を逸らしていた3-Cの列をうっかり見てしまった。

 

「っ……!」

 

 しかも、ちょうど白露さんと目が合ってしまう。半月ぶりに見た彼女はやはり綺麗で、かわいくて。胸のもやもやが一気に増して吐いてしまいそうになる。ここを乗り切れば、ここで何もなければ俺たちの関係は終わりで、白露さんは大学で新しい出会いが待っているのだ。だから……だから……くそっ、何をイライラしているんだ。ただいつも通り、気付かなかったふりをしてぼーっとしていればいいじゃないか。

 頭を振って再び列に顔を向けて――今度こそ息が止まった。

 白露さんはずっと俺だけを見ていて、いつものように明るい笑顔を向けてくれて。いや、違う。いつものようにじゃ決してない。だって彼女は……彼女の瞳は……今にも泣きそうに揺らいでいるのだから。その瞳がまるで俺を非難しているようで。今すぐここから逃げ出したくなった。

 その後は白露さんが退場するまでただただ目で追って、気がついたら式は完全に終わっていた。

 

 

 

 式が終わると俺は逃げるように体育館を後にした。教室に向かう気もなれず、静かな場所を求めて自然と足は部室に向かっていた。鍵のことなど全く考えていなかったが、幸いなことにカギは開いていた。

 中に入るが誰もいない。平塚先生でも鍵を閉め忘れたのだろうか。フラフラと自分の席に腰を下ろすと、ほうっと息をつく。まだ胸の苦しさは収まらないが、いずれは収まるだろう。

 これでいい。これでいいはずなんだ。いいはずなのに……。

 ゆっくりと瞼を下ろすと白露さんとの思い出ばかりが浮かんでくる。まだ会って一ヶ月ちょっとしか経っていないというのに、こんなにあったのかと驚くほどの思い出の放流が俺を襲う。程度を和らげていたはずの胸の苦しみはまたどんどん程度を増す。

 愚かしくも、この時になって初めて俺は、白露さんの事が好きなのだと本気で思えた。本当に愚かだ。もう俺たちの関係は終わってしまったというのに。こんなに苦しいなら、こんなに悲しいなら――いっそのこと出会わなければよかったのに。

 

「ヒッキー!」

 

「っ……由比ヶ浜か」

 

 声をかけられて思わず瞼を開ける。いつのまにか、由比ヶ浜と雪ノ下が目の前にいた。未だにぐるぐると渦巻く思考の放流を断ち切ろうとして、雪ノ下の声に意識を持っていかれる。

 

「こんなところで何をしているのかしら、比企谷君」

 

「何って、人ごみに疲れたから休憩してるんだよ。それに、部員の俺がここにいても何ら問題はないだろ?」

 

 俺の返答に呆れたとため息をつきながら、「そういうことではないわ」と続ける。一体なんだというんだ。

 

「どうしてあなたは白露先輩の元へ行かないでこんなところにいるのかしらと聞いているのよ」

 

「……行く必要なんてないだろ。むしろ、式が終わったんだから楽にしたい」

 

「そんなに泣いてるのに?」

 

「……え?」

 

 由比ヶ浜の言葉に、頬へと手が伸びる。そこは熱い何かでじんわりと濡れていた。

 

「なん……で……」

 

「なんでって、ヒッキーが友音先輩のこと好きだからでしょ? 好きになっちゃったからでしょ?」

 

「そんなこと……」

 

「ないとは言わせないわよ。あなたが柄にもなく泣いているのが、なによりの証拠なのだから」

 

 隠し通せない。自覚するとどんどん俺の腐った瞳は涙を溢れさせ、頬へと流れ落ちる。ひょっとしたら隠す以前にすでに二人には気付かれていたのかもしれない。だから、毎日のように部室にも行かずに白露さんと出かける俺に何も言わなかったのかもしれない。けど、だけど……。

 

「もう……無理だ……。それに……俺なんかが白露さんを好きになる資格なんて……」

 

「馬鹿!」

 

「っ……!」

 

 柔らかく、温かい感触に包まれる。由比ヶ浜に抱擁されたのだと気付くのに数瞬の時を用した。俺よりも小さく、少し高い体温の身体いっぱいに俺を抱きしめてきている。

 

「ヒッキー……人を好きになるのに資格なんていらないんだよ」

 

「そのとおりよ、比企谷君。本当に好きなら、泣いてしまうほど好きだというなら、せめてそんな時くらい、自分の気持ちに正直になりなさい」

 

 そうなのだろうか。俺は彼女を好きになっていいのだろうか。自分の気持ちに正直になっていいのだろうか。自分の幸せのために選択をして、いいのだろうか。

 

「いいんだよ」

 

「由比ヶ浜……」

 

 俺を抱きしめながら、まるで子供を諭す母親のように頭を撫でてくる。気恥ずかしさよりも、どこか心地よさを感じた。

 

「ヒッキーは今までたくさん頑張ったんだから。いっぱい、いっぱい、幸せになっていいんだよ」

 

「そのとおりよ。今まで尽力していたあなたにはその分幸福を手にする権利……いえ、義務があるわ」

 

「義務……か。そうだな」

 

 思わず笑みが漏れてしまう。幸福になるのが義務とは、なんと傲慢な考えだろうか。けれど、今はそれがうれしくて仕方なかった。由比ヶ浜に離してもらって立ち上がる。

 

「行くのね」

 

「ああ」

 

 扉に手をかける。胸の苦しみは収まろうとしないけれど、さっきまでのぐるぐるとした思考は綺麗に消え去っていた。

 本当に、二人には感謝しなければならない。聡明な少女、雪ノ下雪乃と快活な少女、由比ヶ浜結衣。この二人のおかげで、俺は前に踏み出すことができるのだ。

 

「俺さ、この部活に入ってよかったよ」

 

「そんなのいまさらだし」

 

「ふふふ、そうね」

 

「ありがとな」

 

 本当に、この部活に入ることができてよかった。

 

 

     ***

 

 

 部室を飛び出したのはいいが、今白露さんはどこにいるだろうか。教室か、在校生と中庭辺りで談笑しているか、それとももう校外に出てしまっただろうか。スマホを取り出すが、今の俺たちの関係で電話を取ってくれる自信がない。

 

「せんぱ~い!」

 

「一色?」

 

 途方に暮れていると、天下のあざとい生徒会長が駆け寄ってきた。なぜか頬を膨らませているが、一体どうしたというのだろうか。

 

「こういうときはすぐ反応するんですね」

 

「?」

 

 もういいです、と鼻を鳴らした一色は真面目な顔に戻る。送辞の時は笑ってしまいそうになるなんて思ったが、やはりこういう顔もだいぶ様になっている。こいつもこいつで成長しているんだな。

 

「白露先輩のこと探してるんですよね?」

 

「……お前も気付いてたのかよ」

 

 俺の心、周りに感づかれすぎでしょ。自分でだって最近になって気付いたっていうのに。

 

「まあ、せんぱいが探しているっていうのは結衣先輩からメールが来て知ったんですけどね。体育館裏に引きとめてるんで、早く行ってあげて下さい」

 

 ……まったく。

 どいつもこいつもお人よしが過ぎる。こんな俺のためにそこまでしたって何も出ないというのに。本当にお人よしすぎて、魅力的すぎるやつらばかりだ。自分が恵まれた環境にいるのだと改めて自覚する。

 

「バシッと決めてくださいよ! 私のせいでせんぱいの黒歴史が増えたなんてことになったら、寝覚めが悪いんですから」

 

「本当にお前はいい性格してるよ。……ありがとな」

 

「ご健闘をお祈りしています!」

 

 こいつもいい表情をするようになった。小町が入学する来年総武高校は、きっと今年よりもいいものになるに違いない。こいつが生徒会長になったことはきっと間違いなんかじゃないのだ。

 

 

     ***

 

 

 体育館裏に行くと、白露さんは壁を背にして空を見ていた。そんなどうってことのない姿にすら心臓の音は高鳴った。もっと近くに行きたいという感情と、ここから逃げ出したいという感情がせめぎ合う。

 

「っ……ハチマン!」

 

 感情の衝突に立ちつくしていると、白露さんが俺に気がついた。一瞬驚いた顔をした彼女は近づいてくる。最初はいつも通り明るくしようとしたであろう表情は期待、不安、恐れ、そして思慕、いくつもの感情が混ざり合い。なんとも形容できないものになっていった。そんな表情ですら愛おしいと思っている間にどんどん距離は縮まり。

 

「ハチマン!」

 

「おっと!」

 

 抱きついてきた白露さんを多少ふらつきながらも受け止める。胸に顔をうずめた彼女の表情はうかがいしれないが、その肩は小刻みに震えていた。

 

「もう会えないかと思ってた……」

 

「……俺も、もう会わない方がいいと思ってました」

 

「そんなこと……!」

 

「でもっ」

 

 もう感情を押しとどめるのはやめだ。素直に、ただ素直に自分の思いを吐露する。

 

「白露さんと会わない半月、紅茶は味がしないし、マックスコーヒーは苦い。小説は全く頭に入ってこないし……気がつけば白露さんの事ばかり考えてしまうんです。何度勘違いだ、俺には白露さんの隣に立つ資格はないって自分を否定しても、胸のもやもやは消えてくれませんでした」

 

 彼女は小さくうん、うん、と聞いてくれた。一度気持ちを否定した俺の言葉を受け止めてくれて、それだけで彼女への愛おしさが更に増した。彼女を抱きしめる腕にそっと力を込める。

 

「白露さんの気持ちを勘違いなんて言った俺が言うのはおこがましいにもほどがあることは百も承知しています。ただ、俺は――あなたのそばにいたい。あなたを隣で支えられるような、隣に立つことを周りが認めてくれるような存在になりたいです。

 まだ時間はかかるかもしれませんが、絶対に追いつきますから、待っていてくれませんか?」

 

 ギュッと目を閉じる。俺は一度拒絶した最低野郎だ。ここで拒絶されることだってある。だから、怖い。怖くて仕方がなくて、彼女の顔を見ることができない。

 そんな俺に彼女がクスリと笑いかける気配を感じて目を開けたのと同時に――

 

「ん……っ!」

 

 唇に柔らかい感触が広がった。じわりと熱いほどの熱が流れ込み、脳に浸食してくる。ただ唇をふれ合わせるだけの行為のはずなのに、初めてのそれはマックスコーヒーよりも甘く感じた。

 どれくらいかも分からない時間をかけて、ゆっくりと互いの唇が離れる。至近距離で見た白露さんは顔全体が真っ赤になっていて思わず笑ってしまいそうになるほどかわいかった。たぶん俺も真っ赤だと思うけれど。

 

「待ってるからね?」

 

「……はい」

 

 互いの体温を確かめるように抱きしめあう。さっきまで胸に感じていた苦しさに変わって、じわりと温かい物を広がっていく。これが幸せって奴なのだろうか。それはきっと、これからこの人が教えてくれるだろう。離れ離れになってしまうけれど、その分努力を重ねよう。

 

 

 春の風に揺れる桜は、まるで俺達を祝福してくれているように見えたが、それはさすがに都合のいい解釈というものだろう。

 まあ、たまにはそういう解釈をするのも悪くないと思うのだが。




八オリ話の2話目です


理性の化物が物の一月で落ちているけれど、案外八幡ってこれくらいストレートに攻められるとあっさり沈むんじゃないかしら

ヒロインズはアピール弱いですからね


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俺が年上の彼女とイチャイチャするわけがない

 ――絶対に追いつきますから、待っていてくれませんか?

 

 

「……そう言ったはずなんだけどな」

 

「比企谷、何をぶつぶつ言っているんだ」

 

 四月、俺と雪ノ下は何の問題もなく三年生に進級した。由比ヶ浜? うん、超大変だった。どれくらい大変だったかと言えば、追試次第では留年もありうるから手伝ってやってくれと平塚先生から依頼されるほどだった。正直、高校で留年なんて相当休んだりしていない限りあり得ないだろうと思っていた俺は、あまりの衝撃に椅子から転げ落ちてしまったほどだ。由比ヶ浜からはキモいと言われたが、雪ノ下と先生にはガチで心配された。だよな! 俺の反応間違ってないよな!

 まあ、そんな由比ヶ浜もなんとか……なんとか三年生になることができた。この間の入学式で小町も入学してきて、俺の周りは一段と騒がしくなったように感じる。

 そして、今俺はまたしても平塚先生から呼び出されて職員室に来ていた。いや待て、弁解させてくれ。最近俺は前みたいな捻くれたレポートなんて提出していないし、今日は遅刻もしていない。先生の婚活の心配は少ししているが、恩師の将来を心配するのはむしろ生徒としてポイントが高いだろう。

 

「今日呼び出したのはこれのことなのだが……」

 

「進路志望表……ですか」

 

 三年生の一学期が始まってすぐに進路志望表の提出を命じられた。進学校である総武高校においての進路志望とはすなわち進学先志望であり、俺の希望表にも第三志望まで大学の名前が入っていた。その一番上、第一志望の欄を先生が指差す。

 

「君は私立文系志望じゃなかったのかね?」

 

「そうですね」

 

「ではなぜ、第一志望がここなんだ?」

 

 第一志望には千葉の国立大学、雪ノ下さんと白露さんがいる大学の名前が書き込まれている。学部は文系の法学部。これも白露さんと同じだ。

 

「……少し自分の中で意識改革があったもので」

 

 意識改革と言えば聞こえはいいが、要は白露さんと同じ大学に行きたいだけだ。好きな人と同じ大学に進学したいなんていう、いかにもな青春を俺がすることになるなんて、去年の俺が聞いたらどんな顔をするだろうか。たぶん、さいっこうに気持ちの悪い顔をしてしまうだろう。

 

「君は変わったな」

 

「……変わってなんていませんよ。人はそうそう変われるものじゃないし、相も変わらず俺は捻くれているのでしょう?」

 

「いいや、変わったさ」

 

 俺の声を遮って「変わった」と否定する声は教育者らしい、どこかやさしい声だった。本当に、この人もこの人で十分にあざとい。いや、この人の場合はずるいというべきか。いずれにしても、あまり生徒をドキドキさせないでほしいものだ。

 

「この一年で、君は悪くない変化をしている」

 

「……それはどうも」

 

 気恥ずかしさから少しぶっきらぼうになってしまうのは許してほしい。顔は赤くなっていないだろうか。軽く頬に手を添える俺に「しかし……」と平塚先生が心配そうな声を上げる。

 

「君の理系成績では、文系とは言え国立は厳しいんじゃないのかい?」

 

 なるほど。今日呼び出された理由はそこらしい。確かに今まで理系の授業はほとんど寝ていたし、テストも壊滅的だったのだから、先生の心配も当然だろう。まあ、国立大学一本ではなく、私立大学も受けるつもりだから、浪人するつもりはない。それに……。

 

「大丈夫ですよ。怖いくらい心強い味方がいますから」

 

 

     ***

 

 

 学び舎も別々になり、白露さんと会う機会も少なくなる。少し寂しいが、お互いに将来や新しい生活があるのだから仕方ないと割り切って、その寂しさを昇華させて勉強に取り組む。不安な理系分野もその勢いで頑張ればきっと大丈夫だろう。

 

「ハチマン、おかえりー!」

 

「そう思っていた時期が、俺にもありました」

 

「何言ってんの?」

 

 奉仕部の活動――最近は主に部室で受験勉強なのだが――を終えて帰宅すると、玄関に家族のものではないブーツが置いてあった。まあ、いつものことだし、今日は一つしかなかったのでそのまま自室に向かうと、我が物顔でくつろいでいる白露さんがいた。

 いやまあ、うちって大学から充分近い距離にあるんだけどさ。なんならここから通えるんだけどさ。

 

「俺の覚悟ってなんだったのかなーって思ってですね」

 

 普通にうちに来てるんだもん。卒業式の俺の決意返して! 今思うとくっそ恥ずかしいんだから。

 

「ハチマンの覚悟は変わらないでしょ? 私に追いついて、隣に立ってくれるんだから」

 

「まあ、そうなんですけどね?」

 

「それに、ハチマンに追いついてほしいのは私も一緒なんだから。協力は惜しまないよ」

 

 ……そんな事を言うのは卑怯だ。本当に、年上ってこういう事平気で言うからずるい。俺の心をどんどん揺さぶってくる。

 まあ、白露さんの言うとおり、俺の覚悟は変わらないし、そのために白露さんも協力してくれている。ここにいるのもそのためだ。

 

「じゃ、始めようか」

 

「はい」

 

 

 

「んー、二年中頃までの基礎は大体身についた感じかな。応用にはまだ使いこなせてないね」

 

 俺が返したプリントを確認しながらふむふむと分析してくれる。内容は数学。彼女こそが“怖いくらい心強い味方”の一人だ。

 まあ、どうしてこうなったのかと聞かれれば、時を少し遡ることになる。

 

 

「そういえば、ハチマンって理系苦手って言ってなかった?」

 

 あの告白の後、二人で帰っていると横から尋ねられた。思わずうぐっ、とか変な声が出てしまう。

 

「確かに苦手ですけど、まあほら、高校入ってから勉強してなかったからってのも大きいですし、今から見直しすれば……」

 

「一人でできるの?」

 

 やめて! そんな真剣な眼差し向けられたら「一人でできるもん!」とかネタに走れないから!

 いや、しかし実際のところ自学自習で二年の遅れを取り戻せるのかちょっと不安になってきた。親に頼んで塾に行こうかしら。国立大学に行けば学費抑えられるし、将来的に見て親もメリットがあるはず。

 そう脳内で画策していたが、いきなり腕に抱きつかれて思考が放り出される。腕にもたれかかってくる白露さんの温かさにドキドキしていると、ニコニコしながらふふーんと鼻を鳴らす。

 

「ハチマン、私って天才なんだよ?」

 

「知ってますよ、自慢ですか?」

 

「むー、そういうことじゃなくてさ……」

 

 膨らました頬を擦り当てないでいただきたい。超柔らかくて仕方ないから。

 

「その、さ……ハチマンがいいなら、私が勉強、教えてあげても……いいよ?」

 

「え……?」

 

 いや、確かに白露さんみたいな頭のいい人に教えてもらえるなら、俺としても願ったりかなったりなのだが……。待っていてくれって言った手前気が引けるというか、男としてのプライドが許さないというか。

 

「だめ……かな……」

 

 あぁ、その言い方はずるい。そんな言い方されたら、揺らいでしまう。断れない。

 

「だめじゃ……ないです」

 

 あっさり折れた俺に、頬を赤らめながらにへっと笑いかけてくる。抱きつく腕に力が込められて、意識の全てが彼女に向けられて、もう怒る気にもなれなくなる。

 

「ごめんねー」

 

「笑いながら謝っても説得力無いですよ……ったく」

 

 離れ離れになると思ったその日から、その本人が家庭教師として近くに来てくれたのだった。いやまあ、それはうれしいんだけど、うれしいんだけど! ……いやまあ、うれしいからいいか。

 その後、帰りに数学基礎の参考書を買って、俺宅に二人して帰宅した。小町は突然の白露さんの来訪に驚いていたが、一緒に食事をして一時間も話すと、もう下の名前で呼び合うまでになっていた。それはいいけど、「友音お義姉ちゃん」はやめて。その、いろいろ想像しちゃうから……ね?

 

 

 そんなわけで、白露さんはそれからほぼ毎日うちに来て理系の家庭教師をしてくれている。まあ、理系といってもほとんど数学だけだけど。白露さん曰く、「文系なら理科は生物選択すれば遺伝のところ以外はただの覚えゲーだから文系と変わらないよ! まずは計算力をつけましょう」とのこと。確かに去年までも生物分野はそこまで成績悪くなかったからな。

 それにしても――。

 

「……ん? どうしたの?」

 

「いや……」

 

 春も深まってきてだいぶ温かくなってきた頃だが、それにしても白露さんの服装が薄い。黒のタンクトップに薄手のブラウスを緩く羽織っていて、死ぬほど目のやり場に困る。目のやり場に困ってテキストに向かっているのに無意識に細い首筋とか、綺麗な鎖骨とか魅惑的な胸元に目がいってしまう。驚きの吸引力に商品化したらバカ売れしそう。……主に独身女性に。先生また合コン失敗したって言っていたな……。

 俺がテキストを解いている間、彼女は本棚から適当に俺の蔵書を取り出して、パラパラと読んでいる。一月以上も通いつめていれば、俺の部屋だというのにもはや自分の部屋のようにくつろいでいる。最初の頃は借りてきた猫みたいでかわいかったのになー。いや、今は完全に油断しきった猫みたいでまたかわいいわけだが。

 で、油断していると多少なりとも人間だらしなくなるものなようで。

 

「っ……」

 

 ふらん、ふらんと振り子のように揺れながら読んでいると、羽織っただけのブラウスが肩からずり落ちて、女性的な丸みを帯びた肩があらわになる。白露さんはそれを直そうともせず、俺も目を離せない。視点がロックされてしまったかのように彼女から目を離せなかった。

 

「こらっ!」

 

「ひゃいっ!」

 

 ノーモーションで顔を上げた彼女に驚いてメッチャへんな声が出てしまった。どうやらずっと見ていたことに気付いていたらしく、「まったくぅ」と呆れた声を上げられてしまった……申し訳ないでござる。

 

「集中できてないぞ?」

 

「すみません……」

 

「まあ、ちょっと休憩しようか」

 

 本を閉じて立ち上がる。俺の横を通り過ぎるのを見て、飲み物でも取りに行くのだろうかと思っていると、ふわっと後ろから温かくて柔らかいものに包み込まれた。

 

「ちょっ、白露さん!?」

 

「ふふ、彼女にハグされたくらいで慌てすぎだよ。本当にハチマンはウブだなー」

 

 無茶を言わないで欲しい。白露さんみたいな美人に抱きつかれて、ドキドキしない方がおかしいではないか。いや、俺以外に抱きついたりしたらその相手この世から消しちゃうけど。

 

「それで? そのウブなハチマンはお姉さんのどこを見ていたのかな?」

 

「え、や、その……」

 

 言えるわけない。もう胸とか肩とか鎖骨とか首すじとか唇とか、「どこ?」って聞かれても「白露さん」としか答えられないくらい見ていたなんてそんなの恥ずかしくて言えるわけがないではないか。何だよ俺メッチャ恥ずかしい奴じゃね?

 

「むふふー、ハチマンも男の子だねー」

 

「……恥ずかしいからあんまり弄らないでください……」

 

 なにこれ、恥ずかしすぎて死にたい。恥ずかしいとか思いながら、抱きついてきている白露さんの柔らかさとか体温とか、ふわっと香る優しい匂いを心地いいとか思ってしまうのが更に恥ずかしい。ていうか、頬と頬をくっつけて擦り寄せないで! むにむにして気持ちいいから!

 すぐ近くに白露さんの顔が、唇がある。色つきリップを塗っているらしくプルンとした艶があって、ついつい、視線が吸い込まれる。それはさながらエデンの禁断の林檎のようで、今すぐにでも食べてしまいたい衝動に駆られる。欲望のままにむさぼりたいと思ってしまう。

 

「ハチマン……」

 

 そして、禁断のはずの果実の方から食べられようと迫ってくるのだから性質が悪い。互いに首を軽くひねって相手と正面からしばし見つめあって、その距離をゆっくり縮めながら瞼を下ろしていく。かすかな吐息が頬を撫でて、それで……。

 

「ひゃっはろー! 勉学に励んでいるかな、少年!」

 

「「っ!?」」

 

 勢いよく扉が開かれて、反射的に互いの距離を離した。もう少しで触れあっていた彼女の唇を名残惜し気に眺めて、扉の方を睨みつける。扉を開けた張本人である魔王、雪ノ下陽乃は右手を高々と掲げたちょっとお馬鹿なポーズのまま固まっていた。

 

「あ、あれ? ひょっとしてお姉さんお邪魔だったかな……?」

 

「「…………」」

 

 いや、お邪魔とかではないんですが、今日は来訪の日だったし。ただ、そのことを二人してすっかり忘れていたところに完全な不意打ちが入ってしまったわけで、脳の処理が追いついてなくて声が出ないといいますか……。

 

「……ごめんね。お姉さんリビングの方でイヤホンして待ってるから、二人とも気が済むまでイチャイチャしてね」

 

「待て待て待て待て!」

 

「はははは、ハルノ!?」

 

 二人がかりで必死に引きとめた。ていうか、なんでイヤホンのところ強調したの? 俺たちが何をすると思っているんだ、この人は。

 

 

 

 まあ、なぜ雪ノ下さんがうちに来ているのかというと、この人も俺の家庭教師だからだ。つまり、二人目の「怖いくらい心強い味方」。魔王を味方につけるとかマジ俺ら魔王軍。この場合、勇者は雪ノ下だろうか。雪ノ下さんに勝てる気がしないんですが。倒しても裏ボスのママのんが控えているな。

 雪ノ下さんは週に二回ほどのペースでうちにくる。あの自由主義の魔王様がなぜ俺の家庭教師を、などと申し出を出された時は思ったが、彼女曰く「私と友音の後輩になろうっていうなら失敗なんてさせるわけにはいかないじゃない!」らしい。要は、妹分の幸せのために努力は惜しまないという事だ。そういう素直なところをもう少し雪ノ下にも見せてあげればいいのにと思うが、まあそこらへんは家庭の事情なのだろうな。

 彼女の教え方は妹に似てスパルタだ。しかし、天才型で教えることが苦手な雪ノ下と違い、雪ノ下さんの教え方は上手い。分かりやすいのではなく、上手いのだ。無理やり脳に情報を刷り込まれる感じ。

 

「はい、ここのジャンルで一番頻出しやすいのがこの公式だから死ぬ気で覚えてね。この公式を基準にすればこの公式とこの公式を忘れても自力で思い出せるからね。それからこういう問題は毎年出ているから、特に集中して勉強しておくように」

 

 勉強を教えてくれる時の雪ノ下さんは隙がないというか、空気がピンと張りつめた感じになるので少し怖い。いや、元々俺にとっては充分怖い人なんだが。その分こちらも集中して勉強に望むことができる。

 ここ一ヶ月半ほどは雪ノ下さんにまとめて教えてもらったところを、彼女が来ない間に白露さんと復習して理解を深めるというサイクルが定着していた。事前に大まかな理解が済んでいるので学習ペースが驚くほど速い。おかげで一年半ほどの学習範囲を一ヶ月半で網羅することができたわけだ。まだ基礎くらいしかできてはいないが、そこは数をこなすことで何とかなるだろう。

 

「――さて、今日はこんなもんかな?」

 

「……ふひぃ。ありがとうございました……」

 

 ただ、雪ノ下さんの集中講義を受けた後はどっと疲れが襲う。集中している時はランナーズハイのような状況になっているのだろうか。そこまで相手を集中させるとかマジで雪ノ下さん人間じゃないわ。

 

「じゃ、私は帰るねー」

 

「お疲れ様です」

 

「後は二人でしっぽり楽しんでね」

 

「……訳わかりませんから」

 

 なんだよしっぽりって。そんなことやるわけがないだろ。……少なくとも今は。

 雪ノ下さんが帰ると今度こそ完全に気が抜けて床に寝転がろうと後ろに倒れ込んだ。

 

 

 ――ぽすっ。

 

 

 カーペットを敷かれたフローリングに着地するはずだった頭は何か柔らかいものの上に不時着した。不思議に思って目を開けると、すぐ上に白露さんの顔が見えた。気付かなかったが、どうやらずっと後ろで本を読んでいたらしい。

 

「お疲れ様」

 

「あ……どうも」

 

 いまさらになって、自分の頭が白露さんの膝の上に乗っていることを理解した。いわゆる膝枕。認識した途端、鼓動は急速に速度を上げて、顔どころか身体中が熱を帯びる。慌てて起き上がろうとすると、肩に手を置かれてその動きを制される。

 

「いいから」

 

「いやでも……恥ずかしいっす……」

 

 いや、本当に恥ずかしい。けれど、恥ずかしいのに程良い柔らかさとかぬくもりとかがどこか懐かしくてずっとこうしていたいとも思えてしまう。甘えたいと思ってしまう。そんな子供じみた感情がまた恥ずかしい。

 それでも、頭にそっと乗せられた手でやさしく撫でられると、つい身をゆだねてしまう。

 

「いいんだよ。私がこうしたいんだから」

 

「……じゃあ、少しだけ」

 

 そこまで言われたら断れない。起き上がるために込めていた力を抜いて、彼女の膝に沈み込む。あいかわらず心臓はドキドキしっぱなしなのに、同時にひどく落ち着く。思えば、最後にこうして誰かに甘えたのはいつだったろうか。ひょっとしたら、今までなかったかもしれない。それなら、その最初の相手が白露さんだというのなら、それはきっと幸福なことなのだ。

 

「ハーチマン」

 

「なんですか?」

 

「ふふー、呼んでみただけ」

 

 瞼を閉じたまま応答する。見えてはいないが、彼女がコロコロと笑っているのは感じ取れた。バカップルのような会話も、どことなく楽しく感じる。プロボッチだとか、孤高を好むだとか言っていたはずなのに、だいぶほだされたものだ。

 

「ハチマン……」

 

「今度はなんで……っ!?」

 

 再び瞼を閉じたまま応答しようとして、思わず目を見開いた。唇には柔らかい感触が重なり、視界いっぱいに白露さんが映される。ゆっくりと離れた彼女の顔は、優しげだけど少し赤らんでいて、とてもかわいらしかった。

 

「ひひー」

 

「……いきなりとか反則ですよ」

 

 本当に反則だわ。完全に油断していた。そっぽを向いた俺の視界の端で、白露さんはなにかをたくらんでいるように笑った。

 

「じゃあ、いきなりじゃなきゃいいのかな?」

 

「それは……」

 

 いや、それでも恥ずかしいことに変わりはないのだが。というか、キスってどんな時にやるのが一番恥ずかしくないのだろうか。いや、告白した日も結局後から恥ずかしくなったわけで。しかし、恋人同士ならキスをすることはごく普通のことであるわけで。

 

「……いいですけど……」

 

 やっぱり年上は厄介だ。簡単にペースを持っていかれてしまう。彼女はにぱっと微笑むと再び顔を近づけてきて。

 

 

 再び優しく、唇は重なり合った。

 

 

 

「そういえばさ」

 

「はい?」

 

「そろそろ名前で呼んでくれてもいいんじゃないかなって思うんだけど」

 

「……善処します」

 

「うん、待ってるね?」

 

 

     ***

 

 

 そんな日々もあっという間に過ぎて行って、気がついたら夏休みに入っていた。受験生の俺は、学校が休みになっても来る日も来る日も勉強である。天才と魔王のコンビプレイによってあっという間に高校の文系数学の範囲をカバーしたので、今は数学の応用と生物の遺伝子を中心に勉強している。もちろん他教科も勉強しているし、雪ノ下さんは文系教科にシフトしてくれている。

 おかげで期末テストは全体的に成績が上がった。今まで壊滅的だった理系分野は平均より上くらいまで一気に上がったし、文系分野も軒並み成績は上がっていた。特に元々得意だった現国と雪ノ下さんに重点的に教えてもらった世界史、英語は念願の学年二位になることができた。雪ノ下はどうせ満点だろうから、あまり目標にしていなかったが、葉山を超えられたのは嬉しかった。

 というか、英語に関してはめちゃくちゃ恵まれた環境にいると思う。完璧魔王と日本よりも海外での生活の方が長い帰国子女の英会話を直に聞くことができるのだ。期末のリスニングは「うっわ、堅苦しい言い回し」と思わず笑ってしまいそうになってしまった。

 しかし、テスト結果を見せた雪ノ下さんから「どうせなら雪乃ちゃんも抜いちゃった方が面白いよね!」とか言われて魔王ゼミナールは余計にスパルタになりました。無茶ぶりも甚だしいとは思いませんか? まあ、やるけど。

 というわけで、夏休みに入っても特に遊びに行くこともなく――そもそもいつも進んで遊びに行こうとは思わないんだけど――ひたすらテキストに向かう毎日を送っていたのだが……。

 

「……お兄ちゃん」

 

「……はい」

 

 なぜか朝から妹に正座させられています。俺何かしたかしら。おやつのプリンも盗っていないし、洗濯物の下着も綺麗に干したはずだが……。

 俺のそばにはどうすればいいのか分からずにオロオロとしている白露さんがいて、小町の隣では雪ノ下さんがしたり顔でうんうん頷いている。何なのんこの構図。

 

「お兄ちゃんは勉強のしすぎです」

 

「え、だって俺今年受験……」

 

「シャラップ!」

 

 小町ちゃん、性格変わっていますよ? そんなV系みたいなシャウトする子じゃないでしょ?

 

「というわけで、比企谷君は今日の夏祭りに行ってもらいます!」

 

「は?」

 

「友音さんと一緒にね!」

 

 ……あぁ、そういうことか。

 ちらりと白露さんを見ると彼女も理解したようで、俺にどうしたものかとアイコンタクトを送ってきた。まあ、愛する妹からのお節介だ。ありがたく受けるのが兄として当然の行動であろう。

 

「……わかったよ」

 

「よし、じゃあ今日は勉強お休みで、比企谷君は五時に駅集合ね! 友音は浴衣見繕うから、今からうちに行くわよ!」

 

「え? え? ちょ、ハルノ!?」

 

 夏祭りに行くことが決まると、雪ノ下さんは白露さんの手を引いて慌ただしく出て行ってしまった。大企業のお嬢様がそんなバタバタとはしたない事をして大丈夫なのだろうか。

 

「まったく、ほんとゴミいちゃんなんだから」

 

「……苦労をかけるな」

 

「いいよ。家族なんだからね」

 

 にひっと笑うと手を伸ばしてくる。その手を握って立ち上がって、軽く頭を撫でてやった。本当に世話好きでお人よしな妹だよ、お前は。

 さて、まだ朝だし、少し勉強しておこ……。

 

「さて、お兄ちゃん行くよ!」

 

「は? 行くってどこへ……?」

 

「もちろん、お兄ちゃんのデートのために小町が新しい服を用意してあげるんだよ! 今日はお兄ちゃん、勉強しちゃダメ!」

 

 受験生なのに勉強するななんて言われる日が来るとは思わなかった。

 

 

     ***

 

 

「ハチマン、おまた……せ?」

 

「なんで疑問形なんですか……」

 

 去年由比ヶ浜と待ち合わせをした駅で五時少し前に白露さんと落ち合った。

 

「あの……ハチマン……なの?」

 

「正真正銘比企谷八幡です」

 

 小町コーディネートに時間ぎりぎりまで付き合わされて、その場で全着替えさせられた。白とグレーのボーダーTシャツにネイビー? の七分袖ジャケット、ライトグレーのデニムパンツという、またしても普段の俺からしたらあり得ない服装になってしまった。

 その上、白露さんが俺であることに確信が持てないのは、おそらくこの顔面に装着されているものだろう。金属フレームにガラスの鏡体を組み合わせた視力補助具、眼鏡である。まあ、これは伊達眼鏡なのだが。

 

「お兄ちゃんはイケメンな格好似合うんだから、後はその目を何とかすれば完璧なんだよ! だから眼鏡を買います!」

 

 服を一式そろえた小町の一言によってわざわざ眼鏡屋で買う事になってしまった。全部で結構な額だが、どうやら雪ノ下さんから資金が供給されていたらしい。雪ノ下さん白露さん好きすぎでしょ。

 

「あー、その……。浴衣も似合いますね。すごく……綺麗、です」

 

「ふふ、ありがと」

 

 対して白露さんはいかにも質のよさそうな浴衣。青を基調とした水玉に赤い金魚がアクセントになったデザインだ。普段の白露さんのイメージからすれば、もっと明るい感じの色を連想するのだが、落ちついたデザインを着た彼女はいつも以上に“年上”を感じさせた。

 

「それじゃあ、いこっか! 花火の前に屋台見なくちゃ!」

 

「人多いですからあんまりはしゃがないでくださいよ」

 

 気をつけるー、と言った早々先行し始めて危うく見失うところだった。思わずため息をつきながらも苦笑して追いかける。

 普段は静かな海辺の広場は、雑多な屋台とオレンジ色の電灯、そしてお祭り騒ぎの人、人、人でかなり賑わっていた。年二回ある同人誌即売会の人気ジャンルスペースのような足の踏み場もない状態ではないが、だいぶ混んでいる。そういえば、来年は二人でそのイベントに行こうとかいう話になっているが、初参戦が夏コミはちょっと怖い。熱中症とか色々。

 地元民の俺としては毎年よく見る光景なのだが、白露さんには存外“和”を感じさせるようで、屋台や赤い提灯をキラキラした目で見つめていた。俺のそばを歩きながら、時折ちらちらとこちらを見てくるが、ここでその理由がわからない俺ではない。

 

「何か買いますか?」

 

「っ、うん! まずあそこ行こうよ!」

 

 どうやら少し遠慮していたらしい彼女は、それから堰を切ったように屋台に特攻を仕掛け始めた。お好み焼きは丸く平べったいイメージしかなかったらしく、はしまきお好み焼きを見た時は思わず現地の言葉っぽいのが出ていた。林檎飴や綿飴など、屋台を本当に片っ端から回ってしまうのではないだろうかと思うほど次々と興味のある店に吸い寄せられていく。ちなみに、どことなく日本製っぽい林檎飴も綿飴も、発祥はアメリカらしい。林檎に飴のコーティングするようなキチガ……発想力は日本独自のものかと思っていたよ。

 久しく行っていなかったお面屋台では、ひょっとこがやけに気に行ったらしく即購入して頭に斜めに引っかけていた。なんでこんなのまで似合っちゃうんですかね。これが才能か。ちなみに、俺も何か買うようにけしかけられたため、なぜか置いてあった某怪談話でお馴染のタレントさんのお面を購入した。今度これを被って小町に怪談話をしてみよう。めっちゃ怒られそうだけど。

 ああ、一番やばかったのは射的だ。何度か射撃場に連れて行ってもらったことがあるらしい白露さんが、粗悪な射的用の銃でポンポンとコルクを景品に当てて掻っ攫っていた。俺もこういう一人遊びは得意なので彼女ほどではないが景品を倒していたのだが。

 

「むむむ、ハチマン。あれは強敵だよ」

 

「さすが目玉の景品ですね」

 

 一番の目玉らしいWiiU獲得のための札が何度当てても倒せない。的が小さい上に、屋台の主人曰く、軽く足をテープで固定されているらしかった。そこで、二人同時に札の下部分に当てると許容量を超える衝撃を受けたテープはあっさり剥がれ、札はズズッと少し後ろに下がって、こてっと倒れた。その時点で既に泣きそうだった屋台の親父が完全に号泣しながら、「これ以上は勘弁してくれぇ」と懇願してきたので、さすがに退散を強いられてしまったがね。まあ、千円も稼いでいないのに三万越えの景品を取られるとは誰も思わないだろう。大赤字である。自分でやったことだが、ちょっと同情してしまった。まあ、返すわけがないけど。

 で、そうやって柄にもなく祭を満喫した結果。

 

「大丈夫? 重くない?」

 

「まあ、何とか平気ですよ」

 

 荷物で両手がふさがってしまった。この人ごみでWiiUを持っているとか衝撃が怖すぎる。さすがに受験生だから、それまでは小町や白露さんに遊んでもらう事になるだろうから、こんなところで傷をつけるわけにはいくまい。はあ、俺もイカちゃんと戯れたい。

 時計を見るとだいぶいい時間だったので、屋台の通りを抜けて花火の見やすそうなところを探すことにした。有料エリアの近くに行くと、今年も名代を任されている可能性のある雪ノ下さんにからかわれる可能性がるので、反対方向に向かう。

 

「あ、こことかどうですか?」

 

 人垣から少し離れたところにそこそこの広さのスペースがあった。去年と同じ轍は踏まないと用意しておいたレジャーシートを広げて二人で腰かけた。ふぅ、と息をついて。

 

「すみませんでした」

 

「え?」

 

 白露さんに頭を下げる。なぜ謝られたのか分からないようで、彼女はこてんと首をかしげた。

 

「なんのこと?」

 

「その……せっかく付き合っているのに、まともにデートにも行ってませんでしたし……。俺、自分のことに手一杯で、白露さんの気持ちを考えていませんでした。本当にすみません」

 

 付き合って四ヶ月。俺たちは全くデートらしいことをしていなかった。この四ヶ月で出来ること、行けるところはたくさんあったはずだった。花見にも行っていないし海にも行っていない。七夕だって無関心。平日も休日もひたすら勉強で、それにいっぱいいっぱいで。依頼を受けていた一月ほどの間の方がいろんなところに出かけていたのだからひどいなんてものではない。今回、小町と雪ノ下さんが手を組んだのも、そんな俺達を心配してくれてのことだったのだろう。

 下げ続ける俺の頭にそっと彼女の手が触れ、くいっと引き寄せられた。夏の暑さの中でも心地のいい温もりを感じる。それが、荒んだ心をゆっくりと宥めてくれる。

 

「気にしなくてもいいんだよ。ハチマンは私に追いつくためにがんばってくれてるんだから」

 

「でもっ……」

 

 思わず頭を上げた俺の口元に、白露さんの細い人差し指当てられる。制止のポーズをとった彼女はそれに、と続ける。

 

「私はハチマンと一緒にいられるだけで充分幸せなんだよ? 一緒に勉強して、休憩の時にちょっとじゃれあうだけで今は充分幸せ。一緒に出かけることだって、来年になれば出来るんだから、ね?」

 

 そう言って頬笑みながら頭を撫でてくれる白露さんを見て、少しこそばゆくて、それ以上に嬉しかった。今すぐ大声でこんなにいい彼女を自慢してしまいたいくらい。

 けど、それは恥ずかしいから。最愛の彼女に向けて、改めて誓いの言葉をかける。

 

「白露さん、俺、絶対に――――――」

 

 

 ――ドンッ。

 

 

「…………」

 

「…………」

 

「……ぷふっ」

 

「……死にたい」

 

 もうびっくりするくらいタイミング悪く花火の爆音によってかき消された。花火師のアホ。また俺の黒歴史が増えちまったじゃないか。

 

「ハチマンは本当に面白いなー」

 

「……ほっといて下さいよ」

 

「けど、うれしかったよ?」

 

 俺の方に頭を乗せてくる白露さんはやはり綺麗で、ちらりとこちらを見る瞳はどこまでも優しかった。その瞳で、俺の言葉がちゃんと届いていたことを理解した。

 

「いつまでも待ってるから、早く追いついてね?」

 

「……はい」

 

 断続的に何発も撃ちあがる花火は、大きな音を立てて夏の大輪の花を咲かせ、すぐにパラパラと散っていく。様々な色は炎色反応によるもので、神秘的でも何でもない化学反応の一種だ。

 けれど、そんなことは分かっていても。

 今はただ、その光が美しかった。

 

 

 

「あ、でも。申し訳なく思ってるなら、私のお願い聞いてほしいなー」

 

「? なんですか?」

 

「名前」

 

「ぁ……ぅ……その……」

 

「だめ?」

 

「………………友音……さん……」

 

「ふふっ、今はそれで勘弁してあげる」

 

 あぁもう。だから年上は苦手なのだ。

 

 

     ***

 

 

 季節は巡りに巡って再び四月。先月総武高校を卒業した俺は、気慣れないスーツに身を包んで大学の入学式に参加していた。在学生代表が雪ノ下さんだったのは少し驚きだが、既に雪ノ下建設への就職が決まっているのだからいろいろ自由に動けるのだろうなと納得する。

 大学の入学式と言っても高校とそこまで変わるようなものではない。椅子に座ってぼーっとしていればいつの間にか終わる。しかし、なぜかやけに雪ノ下さんの方から視線を向けられている気がしてぼーっとすることもできず、終始背筋を伸ばす破目になった。

 ようやく式も終わり、凝り固まった身体をほぐしながら会場を出ると通路の両脇に何十人といった人が群れをなしていた。各々が手作り感満載のチラシなどを持っていて、どうやらサークル勧誘というものらしい。あの中を突っ切るのは面倒くさそうだなー、どうせこの後予定もないし勧誘の人達がいなくなるまで会場に残っていようかしらとか思っていると、勧誘の集団の一人と目があった。相手はぱあっと表情を輝かせると群れから飛び出し、スピードを緩めずに突っ込んできた。

 

「ハッチマーン!」

 

「ゴブッ……ゆ、友音。人前だから離れて……」

 

 最近ようやく呼び捨てで呼び慣れてきた彼女は俺の動揺など歯牙にもかけず「やだー!」と拒否しながら胸元にぐりぐりと顔を押しあててきた。何それくっそかわいいけどマジで恥ずかしいんですが!?

 前々から行っている通り友音は美少女である。そんな美少女がいきなり抱きついてくるものだから、新入生もサークル勧誘の在学生も何事かとざわつき始めた。いや、みなさん気にせず勧誘したり勧誘されたりしちゃってください。

 

「おやぁ、二人ともお熱いなぁ」

 

「ちょっ、雪ノ下さん!?」

 

 後ろから友音とは別種の柔らかさとか温かさに包まれる。人をからかう気満々の声で誰かは一目瞭然だ。在校生挨拶で新入生の大半の心を鷲掴みにしたであろう雪ノ下さんの突然の登場とハグに、ざわつき程度だった周囲は軽いパニック状態になってしまった。

 そしてこの時俺は悟ってしまったのだ。たぶん、俺に平穏な大学生活は訪れないと。大半の学生に顔見られちゃっただろうしな。そもそも天才彼女と魔王に囲まれて平穏でいられると考える方がおかしかったな。

 

「ハチマン! 早く行こう!」

 

「行くってどこへ……」

 

「比企谷君の入学祝いを兼ねてお花見だよ!」

 

「……あぁ」

 

 それは去年、友音とできなかったことだ。それを断ることなんて、俺にはできないし、そもそも断る気もない。

 まったく、本当に年上は厄介すぎる。完全にペースを持っていかれて、いつの間にか掌の上で踊らされてしまう。それはひどく面倒くさくて、時にはイライラすることもあった。

 でも……。

 

「ハチマン早く!」

 

「分かったから、あんまりくっつかないで!」

 

 きっと今の俺は笑えているのだろう。それなら、多少振り回されることくらいどうという事はない。




八オリ短編(短編?)のラストです

実はこの短編はオリキャラのお姉さん家庭教師とかよくない? というネタからはじまりました
つまりこの話が原点だったり

その割には家庭教師シーンすくねえな?
まあ、メインがすげ変わったからね 仕方ないね
大人の家庭教師とかいろいろやりたいネタはあったけど、まあそれは後日別な形で書ければなーとか思っていたり


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比企谷君が抱きついてきた!
比企谷君が抱きついてきた!


 壇上でぼてっとしたお腹の教授が眠そうな目で教鞭をとっている。講義の声をテキスト片手に聞き流しながら、私、雪ノ下陽乃は考えていた。とてもとても考えていた

 

 

 …………暇。

 

 

 実験なら結構面白い講義も多いけれど、座学系の講義は正直聞かなくても問題ない。出席確認と配布プリントのために出席はしているだけで、だいたい講義内容もテキストに載っていることを纏めているだけのものが多い。それでも、あたかもちゃんと講義に取り組んでいますっていう姿勢を見せなくちゃいけないのは“雪ノ下”故の面倒なことだよなーと思ってしまう。居眠りも許されない。

 ただでさえ昼食後の満腹中枢が刺激されて眠たくなってくる時間帯な上に冬という事で講義室の暖房は付けられている。ぬくぬくとしたあったか空間は生徒たちの眠気をいたずらに刺激していて、既に何人かの学生を夢の国に誘っていた。まあ、教授ですら夢の国に旅立ちそうだものね。

 

「あー、はい。じゃあ小テストをやって講義は終わります」

 

 講義という名のテキスト内容確認が終わって、小テストのプリントが配られ始める。プリントの行く末をぼーっと眺めていた私だけれど、不意に肩を叩かれた。

 

「雪ノ下さん! 今日こそは私が先に提出してみせますわ!」

 

 振り向いた先には金髪の長い髪をアップツインテールにまとめた女生徒。私の同級生で名前は洞爺湖文子(とうやこ・あやこ)という。父親が食品関係の中堅企業社長らしく、入学当初から私を目の敵にしているようで、事あるごとに勝負を挑んでくる。いつも見るからに高級そうな生地を使っているフリフリのドレスを着ているけれど、いかんせん、顔が純正日本人なのでそんなに似合っていない。いや、顔はいい方だと思うけどね。

 まあ、いい暇つぶしになるから適度に相手をしてあげている。この程度の子だったら基本的に私が負けることなんてないしね。前に学食で早食い勝負を持ちかけられたときは周りを利用して丁重にお断りしたけれど、それでいいのか社長令嬢。

 それにしても、服装といい口調といい髪型といい、見事に似合っていなくて面白い。今どきそんな「~ですわ」なんていうお嬢様口調が許されるのは橘シルフィンフォードくらいではないだろうか。あのうざキャラはなかなか癖になる。ツインテールも、二十歳になった女性がやっているとこんなに残念な雰囲気を醸し出すものなんだな。ぶりっこアピールというか、若づくりしているというか。いやそもそも、高校生でもツインテールは割とギリギリだと思う。雪乃ちゃんのツインテはかわいいけれどね。あれだ、二次元に限るってやつだ。まあ、この子にそんな話をしても半分も分からないんだろうけれど。

 そこまで思考して、ふと今後の予定を思いついた。思い浮かべたのはこの子よりももっと面白い男の子。

 

「いいよ、文子ちゃん。じゃ、私の勝ちってことで」

 

「な! 早すぎですわ!?」

 

 そうときまればこんな子を長々と相手している暇はない。配られた小テストに手早く答えを記入して荷物を持って立ち上がる。プリントを今にも舟を漕ぎだしそうな教授に渡すと退室の許可をもらったので足早に講義室を出ていくことにした。

 

「ぐぬぬ……。次は負けませんわよ、雪ノ下さん!」

 

「洞爺湖君、講義中は静かにしようね」

 

 私の足取りは軽い。彼以上に面白い人間もそうそうないのだから、多少口元が緩んでしまうのは勘弁願いたい。

 さてさて、今日はどんな面白い物を見せてくれるかな?

 

 

     ***

 

 

 いや……。

 いやね? 確かに面白い物が見たいとは言ったんだけれど……。

 

「ね、姉さん……」

 

「雪ノ下さん……あのですね、これはですね……」

 

 雪乃ちゃんが高校に入ってから始めて見るくらい狼狽している。多少慌てる程度の場合は早口で捲し立ててくるけれど、今はそれすら通り越して声が出ていない。口をパクパクさせて閉じてを繰り返すという、今まで見たことのないくらいの狼狽っぷりだ。

 そして比企谷君は顔を真っ青にして必死に言い訳をしようとしている。その姿はまるで浮気のばれた彼氏みたいで面白いんだけれど、全く体勢を変える様子はない。

 

「えっと……その……あれ?」

 

 対する私も思いの外狼狽してしまっていて、上手く言葉が出てこない。落ち着きなさい陽乃。相手は年下で私は雪ノ下の長女。こんなところで狼狽した姿なんて見せるわけにはいかないわ。そう、まずは深呼吸をして落ち着きましょう。ひっひっふー、ひっひっふー……よし、落ちついた。

 そしてもう一度二人を見据えて――

 

「……なんで」

 

 なんで?

 ねえねえなんでなんで?

 

 

「なんで雪乃ちゃんに比企谷君が抱きついてるの!?」

 

 

     ***

 

 

「ふう……」

 

 出された紅茶に口を付けて一息つく。目の前には雪乃ちゃん。比企谷君には図書館で時間を潰して置いてもらうことにした。これは姉として妹としっかり向き合って話さなくてはいけない事だったからからだ。

 

「雪乃ちゃん、男女交際をするなとは言わないけれど、ああいう大胆なことは……」

 

「待って。姉さん、待って!」

 

 何かな、雪乃ちゃん? お姉ちゃん今珍しく真面目に雪乃ちゃんの将来のために話をしようとしているんだけれど。珍しくって言っちゃった。雪乃ちゃんの制止を無視して話を続けようかとも思ったけれど、本当に待ってほしそうだったので押し黙る。

 

「まず、姉さんの誤解を解かないといけないわ」

 

「誤解?」

 

「私と比企谷君は男女交際なんてしていないわ」

 

 ……え?

 いやいや御冗談を。

 だってあの比企谷君が女の子に抱きついていたんだよ? そんなことを彼がするのは小町ちゃん以外なら恋人でしょう?

 

「雪乃ちゃん。お姉ちゃんは別に比企谷君と付き合っていることを怒っているわけじゃないんだから、そんな嘘はつかなくてもいいんだよ?」

 

「う、嘘じゃないですよ! ヒッキーとゆきのんは付き合ってません!」

 

「あれ? ガハマちゃんいたの?」

 

「陽乃さんひどい!」

 

 いや、本当に気付いていなかった。いや、これは仕方ないでしょう? だって、奉仕部の扉を開いたら雪乃ちゃんに比企谷君が抱きついているなんて図を見せられたら、それ以外の情報が入ってくるのは困難を通り越して不可能だと思う。

 

「じゃあ、なんで“あの”比企谷君が雪乃ちゃんに抱きついてたの? あの比企谷君だよ?」

 

 私をして理性の化物と言わしめた比企谷八幡は、あんな行為の出来る人間ではなかったはずだ。ていうか、恋人でもない異性に抱きつくなんて、隼人だって難しいに違いない。

 

「あの行為は全然比企谷君らしくないよ」

 

 しかし、そんな私に雪乃ちゃんはふるふると首を横に振った。

 

「あれも立派な比企谷君らしさよ。いえ、正確には本来の比企谷君というべきかしら」

 

 そして雪乃ちゃんは、どこかやさしい目をしながら話はじめた。

 

 

 

 私は、いや以前の私達は比企谷君に一つだまされていたことがあった。

 確かに彼は中学以前もぼっちで、他者との交流も少なく、変なあだ名も付けられていた。しかし、こと失恋に関する黒歴史はそのほとんどが作り話であるらしい。じゃあ、あの折本さんへの告白の黒歴史はなんだったのかと思うが、そこでさっきの“抱きつき”が出てくる。

 比企谷君は感情表現能力が乏しい。さらに“甘える”ということにも飢えていた。おそらく、子供のころから両親に倣って小町ちゃん優先に生活をしていた影響なのだろう。そして、そんな中学生までの比企谷君は嬉しいことや恥ずかしいことがあると抱きついてしまう癖があったらしい。

 そんな癖のある比企谷君だったけど、学校ではぼっちだったためにその癖が出ることはなかった。中学で折本かおりに出会うまでは。

 彼にとって誰にでも、自分にすら優しい折本かおりは未知の生物だった。最初は避けていたが、少しずつ気を許すようになって会話も増えていき――ある時、つい抱きつき癖が発動してしまったのだ。

 彼女自体は特に問題はなかったが、その光景を偶然見た生徒がいたようで、ぼっちの比企谷君とクラスでそこそこ人気のある折本ちゃんに対する下世話な噂が立ち始めた。最初は比企谷君よりも自分の方がいい、などという告白祭が始まった程度のかわいいものだったが、次第に性に乱れた交際などといった悪意のある噂も流れ始めた。

 だから、彼は一計を案じたのだ。当時流行りだしたSNSなど多方面の手段を用いて、「ヒキタニが折本にこっぴどく振られた」と。

 噂とは悪意のある方が早く広がる。経験からそれを知っていた比企谷君はそれを利用したわけだ。彼の計画通り、噂は上書きされた。折本さんからしてみても比企谷君が流したその噂に乗っかる方が楽だった。だからこそ今の二人の関係になったわけだ。

 そして、彼は抱きつき癖を抑えるために自分に対する好意を須らく勘違いと判断するようになった。それが彼の理性の化物の正体だったのだ。

 

「けれど、それが最近になって崩れ始めたのよ」

 

「一体何があったのやら……」

 

「「…………」」

 

 あれ? なんで二人とも黙りこむの? これはお姉さん気になっちゃうね。まあ、それは後日調べるとしようかな。

 

「ま、まあ詳しい原因は分からないけれど、三学期が始まってすぐのころに彼とマイナーな海外文学について話すことがあって、話の合う相手がいたことがよほどうれしかったのか、いきなり抱きついてきたのよ。それからは度々ああして抱きついてくるようになったわ」

 

「あたしも時々……」

 

 それを二人とも拒絶はしなかったと。

 その点を聞いてみるが、二人ともいまいち要領を得ない。ガハマちゃんはともかく、雪乃ちゃんまでこうもはっきりしないとはどういうことだろうか。ちょっと調子狂うな……。

 

「……だってしょうがないじゃない。あんなの卑怯よ……」

 

 ぽしょりと紡がれた雪乃ちゃんの一言の意味を私は掴みかねた。

 

「それにしても、比企谷君がねえ……」

 

 ちょっと近づいただけで顔を真っ赤にするような子がそんな大胆なことをするなんて、やっぱり想像できないな。けれど、それが雪乃ちゃんやガハマちゃんには最早自然なんだよね。なんていうか、少し羨ましいかな。

 

「二人は比企谷君にとっての特別になれたんだね」

 

 いや、ひょっとしたら私が羨ましいと感じているのは特別な存在を見つけることの出来た比企谷君なのかもしれない。特別の存在しない私と特別を作らない彼。どこか似ていると思ってしまっていたのかも。

 

「そ、そんなことは……」

 

「そ、そうですよ! それにあたしたち以外にも抱きつかれた人とかいますし!」

 

 は?

 

「由比ヶ浜さん、今の発言はちょっと……」

 

「……あっ」

 

 ガハマちゃん、今頃口抑えても遅いよ。もう全部聞こえちゃったからね? ばっちりお姉さんの鼓膜通っちゃったからね?

 

「他にもいるんだ」

 

「えっとその……それは……はい」

 

 いるんだ……。ていうか認めちゃうんだ。比企谷君が女の子をどんどんたらしこんでいるらしい件について。マジ比企谷君っべーわ。なんか隼人の友達が乗り移った。

 

 

 

 聞くところによると相手は生徒会長の一色いろはちゃんらしい。生徒会選挙とかクリスマスイベントで結構比企谷君と関わっていて、よくここにも遊びに来るとか。

 その日も生徒会そっちのけにして奉仕部でくつろいでいたらしい生徒会長ちゃん――静ちゃんに色々言われていた私が言うのもなんだけど、生徒会長がそれでいいのかしら――だったんだけれど。会長に推薦した比企谷君的にはそれがあまりに目に余ったようだ。

 

「おい、一色。お前他の役員にばっかり仕事押し付けてないでちゃんと生徒会の仕事しろよ」

 

「え~、けど私は最低限の仕事はやってますよ~。事務仕事は副会長や書記ちゃんがやった方が丁寧ですし~」

 

 どうやら副会長からメールで会長ちゃんへの愚痴を聞かされたらしい比企谷君だけれど、当の本人はどこ吹く風。適材適所などと言いながら本当に最低限の事務仕事しかやらないらしい。イベントとかを取り仕切るのは好きみたいだけど……あれ? どことなく私に似ている気が……いやいや、私苦情とか来たことないから一色ちゃんもまだまだだね。ていうか、比企谷君は副会長とメールとかするんだ、なんか意外。

 

「はあ、もう少し頑張るだけでそれに見合ったリターンが来るんだからちゃんとやれよ。お前は思いの外優秀なんだし、別に進んで敵を作る必要なんてないだろ?」

 

「それ、せんぱいにだけは言われたくないです。なんですか、俺はお前のことちゃんと心配してるんだぜアピールですかすみませんちょっとドキッとしましたけど不意打ちすぎたんで改めてにしてくださいごめんなさい」

 

 一色ちゃんが比企谷君に使うお断り芸というものが炸裂したみたいなんだけど、それ断ってないよね? ツンデレなのかしら?

 しかし、そのテンプレにはもう慣れているのか比企谷君はあまり内容を聞いていなかったようで「なんで俺また振られてんの?」と小さくため気をついたみたいで。一色ちゃん、そのアピール明らかに逆効果だよ。

 すげなくあしらわれた一色ちゃんは少し寂しそうな顔をした後に「けど……」と続けた。今度は少しだけ優しげな笑みを浮かべながら。

 

「せんぱいのそういうところ、私好きですよ?」

 

「っ!」

 

 彼女がよくやるという軽い告白。きっと彼女にとってはいつものように軽く流されると思って言ったであろうその告白は、理性の化物の剥がれかけている比企谷君には非常に有効だった。一瞬で顔を赤くした彼は――

 

「ひゃっ!?」

 

 一色ちゃんに思いっきり抱きついた。

 

 

 

「し、しかもヒッキー、いろはちゃんの胸に抱きついたんですよ! わざわざ肘を落として!」

 

「由比ヶ浜さん、それを言うなら膝よ。肘を曲げてもなにも問題は発生しないわ」

 

「あ、あれ……?」

 

 ガハマちゃん……なんとなくお馬鹿だと思っていたけれど、やっぱりそうなんだね……。

 

「ていうかさ、それって意識してやってたの?」

 

 もしも意識して女の子の胸に顔を埋めたとしたら完全にセクシャルなハラスメントである。いや、意識してやっていなくても問題あるけど。

 

「たぶん意識してはいないと思うわ」

 

「うん。それに、いろはちゃんもまんざらじゃないみたいだったしね」

 

 つまりそれって一色ちゃんも比企谷君に好意があるってこと? 悪い噂ある割に比企谷君がモテている。ぼっちってなんだっけ……。

 

「ええ、顔を真っ赤にしながらも全然抵抗していなかったし、『せんぱいっ、いきなりそういう大胆な行動は本当に私の心臓に悪いと言いますかっ。あぁ、そんなかわいい顔されたら私我慢できなくなっちゃいますよ……っ』なんて言っていたわね」

 

 ゆ、雪乃ちゃんが声を変えて解説している……。いや、私生徒会長ちゃんの声分からないけど、私の中での雪乃ちゃんのイメージが……。

 頭を抱えたくなるのを雪ノ下陽乃の威厳でなんとか回避していると、勢いよく部室の扉が開いた。同時に聞こえてくるさっきの雪乃ちゃんの声に似た声。

 

「ちょっと雪ノ下先輩! でたらめ言わないでくださいよ! 私あの時そんなこと言ってませんから!」

 

「あら一色さん、いらっしゃい」

 

 どうやらこの子が件の一色いろはちゃんらしい。あぁ、どこかで会ったことがあると思ったら、折本ちゃんと隼人のダブルデートの時に見た子か。作りこまれたかわいさと言えばいいだろうか、まあ充分にかわいい部類だ。比企谷君に近づく子ってやけにレベル高いよね? 比企谷君将来刺されそう。

 

「けどいろはちゃん、あの後結構長い間ヒッキーに抱きつかれてたよね。ヒッキーが離れるまでそのままだったし」

 

「いやそれは確かにそうですけど、だってあのせんぱいは卑怯すぎるじゃないですか! そ・れ・に、私あんな恥ずかしいこと言ってません!」

 

 なんなのだろうか、皆して比企谷君を卑怯って言うけど、抱きつかれただけだよね? 異性に抱きつかれたことのない女の子たちが好きな男の子に抱きつかれてチョロインしているだけじゃないの?

 

「一色さん」

 

「……なんですか、雪ノ下先輩」

 

「私がさっき言ったことは一字一句間違っていないと自負しているわ」

 

「うぐ……証拠は、証拠はあるんですか!」

 

「得てして犯人とはそういうものよ。『証拠はどこにあるんだ』『大した推理だ、君は小説家にでもなった方がいい』『殺人鬼と同じ部屋になんていられるか』」

 

 雪乃ちゃんは小説の読みすぎじゃないかな……。証拠云々は犯人じゃなくても結構いいそうな気がするし。それに、最後のはむしろ被害者側のセリフでしょう。

 

「でも、でも……」

 

「それにね」

 

 雪乃ちゃんが笑みを浮かべる。もうすっごいいい笑顔。比企谷君を罵倒している時によく見る表情だ。なんで人を罵倒する時が一番いい表情しちゃうんだろうか、この子は……。

 

「私、嘘や虚言は吐かない主義なの」

 

「うわあああああんっ!」

 

 あ、一色ちゃんが泣き出しちゃった。後輩をいじめるなんて陽乃的にポイント低いぞ? え、私はいじめたことないよ? 雪ノ下陽乃の行動にいじめは存在しません。

 

「うっうっ。私だけじゃないのに……めぐり先輩だって……」

 

「「「え?」」」

 

 聞き捨てならない言葉に思わず三人して身を乗り出してしまった。一色ちゃんがびくりと震えるけれど、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 

「一色さん、その話詳しく聞かせてもらえるかしら」

 

「いろはちゃん聞かせて!」

 

「お姉さんも聞きたいな!」

 

「あの……どちら様ですか?」

 

 あ、そういえば初対面だった。

 

 

 

 いろはちゃん――知り合いになったし、向こうも「はるさん先輩」って呼ぶようになったから下の名前で呼ぶことにした――は時々比企谷君に生徒会の仕事を手伝ってもらっているらしい。その時は抱きつかれた時の仕事をさぼっていた件を多少は引きずっていて、仕事を頑張るために一週間ほど連続で手伝ってもらっていたみたい。……ちょっと手伝いすぎじゃないかな? 何か弱みでもあるの?

 文化祭の頃の仕事ぶりで知ってはいたけど、比企谷君がいると彼一人で事務仕事はかなり進むらしく、いろはちゃん以外の役員は全員校内の見回りや部活の御用聞きに行かせることが多いみたい。決して比企谷君と二人っきりになりたい訳ではないとはいろはちゃんの弁。全然信用ならない。

 その日も二人で書類仕事をしていたのだけれど、普段は一般生徒がめったに近づかない生徒会室に珍しく来訪者が来た。

 

「こんにちはー。調子はどうかな?」

 

「あ、めぐり先輩こんにちは~!」

 

 前会長のめぐりは生徒会長引退後も一年生で生徒会長になったいろはちゃんを心配して度々様子を見に来るようだ。三学期になって三年生は自由登校になったはずだし、推薦で大学も決まっているみたいだから基本的に卒業式まで学校に来る必要はないのに、普段ぽわぽわしているけれど、やっぱりこういうところはしっかりしているな。

 生徒会室に入ってきためぐりは比企谷君を見とがめるとにこりと笑って近づいた。文化祭で多少の誤解はあったみたいだけれど、それも今は解消されたようだ。

 

「比企谷君も手伝ってくれてるんだ?」

 

「ええ、まあ」

 

「ふふっ、やっぱり比企谷君はやさしいな」

 

「俺は一色から無理やり押し付けられただけですよ。自発的に手伝いにくるめぐり先輩に比べたら全然やさしくなんてありません」

 

 比企谷君って、普段は恥ずかしがって全然人を褒めないのに、時々さらって褒めるよね。いろはちゃんは「やっぱりせんぱいの方が何倍もあざといです!」とか軽く憤慨していた。わからないでもない。

 

「そんなことないよ」

 

 そんな比企谷君にめぐりは変わらず微笑みかける。やさしく、諭すように。しっかり先輩やっているんだな。

 

「一色さんが今学校で一番頼れるのは比企谷君なんだから」

 

「え、いや、そんなこと……」

 

「そんな一色さんを比企谷君はちゃんと支えてあげてる。不承不承でもね」

 

「あ……えっと……」

 

「だから、そんな比企谷君はやっぱりやさしいんだよ、私なんかよりもずっとね」

 

 この時点で彼のキャパシティは既にいっぱいいっぱい。三年生で唯一の先輩と言えるめぐりにそこまで言われた彼はやはり他に表現の仕方を知らなくて……。

 

「ふぁっ!? ひ、比企谷君!?」

 

 抱きつくしか方法がなかった。めぐりの胸に飛び込むように抱きついて精一杯腰に手を回しながらいやいやと彼女の胸に頭を擦りつけ……ってそれやっぱりわざとやってない? わざとじゃないの?

 そんな彼の豹変ぶりにめぐりは……。

 

「ひぁっ、んっ、ひき、がや……君っ。にぁっ、んんっ、ぁぁ……」

 

 

 

「「「待って!」」」

 

 思わず三人して話に割り込んでしまった。

 もうなんか比企谷君の行動は“そういうもの”って事にしておくとして、めぐりのその反応はなんなの? 抱きつかれただけだよね? いや、なんか胸に刺激を受けている気がするけど、実はどさくさにまぎれてお尻とか触られてない? やっぱりセクハラなの? ハラスメントなの?

 

「なんかめぐり先輩って相当な敏感体質らしくて。ちょっと触られたりするだけでもくすぐったいというか、びっくりしちゃうみたいなんですよね」

 

「敏感……ぁ……」

 

 そういえば、高校時代にめぐりとじゃれ合った時とかやけに色っぽい声を上げていた気がする。あれってそういうことだったのか。

 ごめん、めぐり。次からはそこもちゃんと理解した上でボディタッチ多用するよ。え、だめ?

 

 

 

 しばらく比企谷君の凶行に対して喘いでいためぐりだけど――喘いでいたって言っちゃった――彼女にもちゃんと先輩の威厳というものは存在していたみたいだ。

 

「んくっ、比企谷君は、ふぃっ、いつも、頑張ってる、んんっ、もんね……っ! ぁんっ、いいよ、たまにはいっぱい、甘えて……ね? ……ひぅっ」

 

 ごめん、全然威厳とか無かった。ところどころ混じる喘ぎ声で全部台無しだよ。それでも比企谷君の目にはめぐりが優しいお姉さんに見えたようで、にこりと微笑むと――あの比企谷君が微笑んだ!?――再びぎゅっと抱き締め直した。

 

 

 

「まあ、めぐり先輩の貞操のために私が責任を持って止めましたけどね!」

 

 ドヤ顔のいろはちゃん。なんだろうこのうざかわいい感じに覚えが……そうか、小町ちゃんに似ているんだ。いろんな要素を付加した小町ちゃんって感じだな。

 

「止めたって……よくあの比企谷君を止められたわね」

 

「ああなったヒッキーって無理やり離そうとしてもなかなか離れないよね」

 

「それはその……えへへ……」

 

 テレテレと頭をかいてはぐらかすいろはちゃん。これはなにかあるなと聞き耳を立てると「あの時のせんぱい子供みたいにすり寄ってきてかわいかったな……へへぇ」なんて声がぽしょりと聞こえてきた。この子、比企谷君の抱きつく矛先を自分に変更したというの? しかも、後輩なのにめぐりを引き継いで先輩プレイをした可能性も。プレイって言っちゃった。いろはす、恐ろしい子!

 まあ、なんとなく事情は分かった。まだ伝聞程度だけど、それを聞く限り……非常に面白い事態になっているということだ。嬉しくなったり恥ずかしくなって女の子に抱きついてしまう高校生男子なんて早々いない。捻くれ者なだけじゃなくてそんな側面もあるなんて。

 

 

 やっぱり比企谷君は面白いな。

 

 

     ***

 

 

 さて、雪乃ちゃん達からの事情聴取も終わったので比企谷君にも戻ってきてもらったんだけど……。

 

「…………」

 

「…………」

 

 入ってきて早々に比企谷君が土下座し始めた。それはもう綺麗な動きから決められたスライディング土下座は思わず十点満点を上げたくなってしまうくらい芸術性すら感じてしまうものだった。いやまあ、妹に抱きついているところを姉に見られたらそうしちゃう気持ちも分からなくはないけど、比企谷君の土下座ってすごい軽い。なんかやり慣れてる感じがひしひしと伝わってくる。

 

「すみませんでした……」

 

「いや比企谷君、私別に怒ってないよ?」

 

 比企谷君がばっと顔を上げるけれど、その顔はいぶかしげで、信じていないのが丸分かりだ。

 

「怒らないわけないじゃないですか。妹に男が抱きついてたんですよ? 千葉の妹持ちがそれを見てはたして怒らないだろうか? いや怒る!」

 

 ……なんで反語?

 比企谷君の中で千葉の妹持ちがやけに概念化されているけれど、さすがにそんな兄姉ばっかりじゃないでしょ。いや、確かに私も最初は何してんの!? って思ったけどさ。事情を聞いたら、比企谷君だしいいかなくらいには思っちゃうわけで。

 それに、今はそうなった比企谷君で遊びたい気分だしね!

 

「なあに、比企谷君は私に怒ってほしいのかな?」

 

「ぇ……?」

 

 彼の表情が強張る。私が一歩近づくと土下座の体勢のまま器用に後ずさっていく。しかし、さほど広いわけではない部室の中だ。すぐに壁に行きついてしまった。

 

「ちょっとうれしくなったり恥ずかしくなっただけで女の子に抱きついちゃうなんて、比企谷君は変態だね」

 

「ぁ……ごめ……」

 

 嗜虐心を煽ってくる表情に背筋をなにかがゾクゾクと駆け上がってくる。もっと、もっといじめたくなっちゃうじゃん。

 

「本当にどうしようもなくて抱きついてるのかな? 実はそれで相手が慌てたり、恥ずかしがったりするのを見て楽しんでるんじゃないの?」

 

「そんなこと……」

 

 比企谷君の顔はみるみるうちに赤くなり、口は「あわあわ」とか言いそうなくらい戦慄いている。あわあわってなに? ちょっと比企谷君があざとすぎてやばい。いや、彼が言ったわけじゃないけど。

 雪乃ちゃん達の話が本当なら、もうちょっと押せばきっと――。

 

「けど、そんな比企谷君も面白くて――かわいいね」

 

「っ…………!」

 

 わあっ。

 本当に抱きついてきた。背中に回された少しごつごつとした腕や胸元にうずめられた頭部から伝わる熱がどこか心地いい。男の子に抱きつかれたことなんて今まであった記憶はないけれど、こんなに落ち着くものなのだろうか。

 

「もう、比企谷君かわ……」

 

 本当に弟ができたみたいでつい頭を撫でようと手を伸ばして――固まってしまった。

 

「はるのさん……」

 

 比企谷君が見上げてくる。その表情は高校生とは思えないほど幼くて、女の子のような儚さを醸し出していた。特筆すべきはその目だろうか。特徴的だった彼の腐った目はなりを潜め、キラキラと輝いている。目が腐っていないだけでただの美少年になってしまった。誰この子私知らない。

 なによりも、あぁなによりもこの表情はまずい。雪乃ちゃん達の言っていた“卑怯”の意味がやっとわかった。これは卑怯だ。まるで何かを懇願するような、甘えたくて甘えたくて仕方のないような。うれしくて恥ずかしくて怖くて楽しくて、そんないろんな感情がいっしょくたに混ぜられた表情は普段のふてぶてしい彼すら忘れさせて、激しく庇護欲をかきたてられる。このままずっと抱き寄せていたいと思えてしまう。

 

「っ!?」

 

 しかし、私の脳が、“雪ノ下陽乃”という存在が警報を鳴らす。このまま比企谷君に抱きしめられていたら、この表情を見続けていたら、二十年かけて築き上げてきた“雪ノ下陽乃”が完璧な仮面がいともたやすく壊されてしまいそうで。それは私にとって耐えがたい恐怖で、長い時間をかけて形成された本能には抗えなくて。

 

「っ、離れて!」

 

「うわっ!?」

 

 気がついたら彼を突き飛ばしてしまっていた。床に尻もちをついて呆然としている比企谷君と驚きに固まってしまっている雪乃ちゃんとガハマちゃん、慌てて比企谷君に駆け寄るいろはちゃんの視線が集まってくる。いけない、なんとかごまかさなくては。

 

「ごめんね、つい反射的に手が出ちゃった。私の後ろに立つなってやつだね。正面だったけど」

 

 いつも通り、努めて冷静な仮面を貼りつける。ちょっとちゃんと付けられているか分からないけれど、大丈夫なはずだ。大丈夫な……はず。

 

「じゃ、じゃあ私はそろそろ帰るね。また遊びに来るからね!」

 

 ごめん無理。全然大丈夫じゃない。早くここから撤退しないといつボロが出るか分かったものではなかった。出来るだけ普通に見えるように帰ったつもりだったけれど、私の主観では完全な敗走に違いなかった。

 

 

     ***

 

 

「……はあ」

 

 帰ってきてすぐにベッドに倒れ込む。頭の中はさっきまでの出来事でいっぱいだった。今日遊びに行くべきじゃなかったかな……いや、失敗だったとすればきっと比企谷君が抱きついてくるように促したことだろう。まさか私の仮面、比企谷君風に言うなら強化外骨格に浸食してくるほどとは思ってもみなかったのだから仕方ない。

 いくら完璧超人と言われる雪ノ下陽乃と言えども、対応できない事態は存在する。それは分かっている。分かっているのだけれど――

 

「……納得いかない」

 

 その相手が比企谷八幡だという事実が納得できない。私が比企谷君より優位であるということは自惚れではなく事実であるはずだ。これは私の、雪ノ下家長女のプライドの問題だった。

 だから、このままで終わるわけにはいかない。雪ノ下陽乃に苦手なものなんて存在してはならないのだ。

 携帯を取り出す。電話をしたい相手は私がかけると決まって無視をするから、こういうことに協力的な彼の身内の番号を選択する。

 

『もしもし!』

 

 三コールで元気な声が聞こえてきた。兄と違って元気がよすぎるくらい元気がいい。本当に兄妹か疑ってしまいそうになって、つい笑みがこぼれてしまう。

 けれど、今回電話の目的を考えると自然と笑みは引っ込んだ。今回は厄介な捻くれ者に対して私の優位性をはっきりと示すことが目的なのだから。

 

「もしもし、小町ちゃん。今度比企谷君とデートがしたいから、電話変わってくれないかな?」




八陽というジャンルに挑戦してみるターン


たぶんはるのんは俺ガイルキャラで二番目に書きづらいキャラだと思う
一番はガハマさん
あの子視点で地の文とか書けないよ
あの子どういう言葉なら知ってるんだろうか


この話は三話構成で考えています
三話形式の話書くと短編と言うよりも中編みたいな長さになるんですけどね!
後無駄に頭を使う


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比企谷君が抱きついてこない・・・

「ひゃっはろー! 比企谷君!」

 

 土曜日、十時の五分前に千葉駅に着くと、比企谷君はちゃんと来ていた。まあ、小町ちゃんを経由していたから大丈夫だとは思っていたけれど、少し安心する。もし来てなかったら比企谷君の家まで迎えに行かなくちゃいけないから手間だもんね。

 

「ども……」

 

 うわぁ。

 会ったばっかりだって言うのにもうびっくりするくらい露骨に嫌な顔をされてしまった。美人なお姉さんとデートできるっていうのにそんな表情するのは特殊性癖持ちか比企谷君くらいだよ、まったく。

 まあ、それでも律儀に来てくれる比企谷君はやっぱりあざといけどね。

 

「じゃ、行こうか」

 

「行こうかって言われても俺、どこに行くのかとか聞いてないんですけど」

 

 文句を言いながらもちゃんとついてくるところとかかわいいな。なんか弟ができたみたい。

 今回は傍から見ればデートには違いない。けれど、正確には少し違う。これはいわゆる一つの修行に近い。

 あの日、私は抱きついてきた時の表情に戦慄した。恐怖すらあったかもしれない。雪ノ下陽乃の根幹を揺るがされそうな気配があった。このデートはそれを払拭するためのものだ。

 

 

 

 学生御用達の複合施設ららぽーとにやってきた私達は、その一角にある映画館に来ていた。休日ということもあってなかなかに人が多い。人ごみに慣れていない比企谷君は挙動不審になってしまっている。いや、たぶん私と一緒にいることで晒される視線に居心地の悪さを感じているんだろう。

 

「今日はこれを見ます!」

 

「……えぇ」

 

 事前に決めていた映画のポスターを指差すと嫌な声を出された。いやまあ、君がこういう系苦手なのは知っているけど、取りつくろわなさすぎでしょう……。

 私が選んだのは今結構人気のあるR-15指定の恋愛映画。ちなみに自立行動できる熊は出てこない。結構ぎりぎりなシーンもあるらしくて、大学で友達がキャーキャー話題にしていた。

 

「ちなみにもう二人分のチケットは用意してるし、比企谷君に拒否権はないからね」

 

「俺の人権どこに行ったんすかね。……まあ、ホイホイついてきた時点で断れないと思ってたんでいいっすけどね」

 

 券売機で予約していたチケットを購入して、売店でポップコーンと飲み物を買ってから指定された上映室に入る。席は中段の通路寄り。個人的にこの位置が見やすいし、比企谷君は隣に知らない人が座る可能性があるのをあまり好ましく思わないだろう。まあ、実は隣接した席は全部押さえているから、人が来ることはないんだけどね。

 映画泥棒とか口から手足が生えた変な生き物とか吉田君とか例の熊とかのCM(?)が流れ、映画の告知が終わると本編が始まった。どうでもいいけど、映画って本編が始まるまでかなり時間かかるよね。本編の後に告知やってくれないかな? それじゃあ誰も見ないね。

 

 

 

 ふむ……。

 R-15指定なのは分かっていたけれど、まさか開幕早々ベッドシーンとは。しかも、肝心なところは見せないけれど、洋画特有の濃厚な奴。知識でしか知らないからあれなんだけれど、そのシーツの下ではナニが行われているんですかね。いや、私が男性経験ないのは雪ノ下の娘として仕方なくであって決してモテないわけではない。こんな美人が大学でモテないわけがない!

 まあ、私でも多少、多少は恥ずかしいということは、隣で見ている比企谷君は……。

 

「…………っ。……ぁ……」

 

 予想以上に動揺していた。暗くなった上映室内では顔色までは確認できないが、視線が超高速で泳いでいるし、なんかモジモジしている。あ、手で顔隠した。隠したのに指を広げてしっかり見ちゃっている。

 うーん。

 何この子かわいすぎない?

 恥ずかしがらせるためにこの映画を選んだんだけれど、予想以上の反応にこっちの恥ずかしさが倍増してしまいそう。

 しかし、ここでもだえるわけにもいかない。まずは比企谷君が私に抱きつくように促さなければ、今回の目的を達成することはできない。比企谷君の方へ身体を倒してそっと囁きかける。

 

「比企谷君恥ずかしいんだ」

 

「っ……そんなことないですよ」

 

 意地を張ってぷいっとそっぽを向いてしまった彼の頬にすっと手を触れてみる。じわりと掌に伝わる熱は明らかに普通よりも高い。きっと今の比企谷君が真っ赤に違いない。

 

「そんなわけないってことは、あのシーツの下でナニやってるか分かるんだ。あの中でどんないやらしいことが行われてるのか」

 

「そ、そんなの……」

 

 ふふふ、慌ててる慌ててる。ここでもうちょっと押せば、この間みたいに抱きついてくるよね。より一層彼の耳元に口を近づけて、口の中いっぱいに温かな呼気を含ませた。

 

「もう……、比企谷君もえっちな男の子だなあ……」

 

 比企谷君は耳に息がかかってびっくりしたのかびくりと身体を震わせる。そしてまた小刻みに目線を泳がせるとそのまま身体を私の胸に――

 

「別に、男なら多少はそういうのあるでしょう」

 

 飛び込んでくることはなく、小さくため息を吐いて私とは反対の腕置きに肘をつくとぼーっとスクリーンを眺め始めた。

 ……あれえ?

 おかしいな。雪乃ちゃん達の話やこの間の事を見る限り、こうすれば比企谷君は抱きついてくるはずなんだけれど。今の彼はまだ動揺を引きずってい入るみたいだけれど、抱きついてくる様子はない。時折ちらっとこちらを見てくるだけで、それ以上はなにもしてこなかった。

これはどういうことだろうか。ひょっとして恥ずかしいことを言われることに対して耐性でもできちゃったのかな? いやけど、どうしようもないくらい動揺していたし、その線はなさそう。もしかしたら、抱きつき癖の再発は一過性のもので、もう今は抱きつくことはないのだろうか。それならば、私が抱きつかれた時に動揺する自体を忌避する必要はないからいいと言えばいいのだけれど。

 ……なんか、勝ち逃げされたみたいでもやもやする……。

 私も映画に集中しようとしたけれど、あまり内容は頭に入ってこなかった。

 

 

     ***

 

 

「案外コメディ部分はしっかりしてましたね。話題になってるだけのことはあると思います」

 

「……そうだね」

 

 映画を観終わって映画館から出てきたけれど、正直全然内容は覚えていない。覚えているのは最初のベッドシーンくらいなので、比企谷君の言っているコメディ部分でどんなことがあったのか全然わからない。知らないのも癪だし、今度また見にこよう。

 しかし、これからどうしようか。本来の目的である比企谷君に抱きついてもらう――正確にはそこで私が動揺しない――ことが不可能というか必要ない状況になっているということは、今回のデート、じゃなかった修行の意味が失われてしまった。

 

「さて、この後どうします? 帰ります?」

 

 む、確かにその可能性はなくはなかったけれど、ターゲットに先に提案されるのは癪に障る。映画の時の反応を見ると抱きついてこないだけで今までと変わらないみたいだし、こうなったらいつも通り苛めて、照れたり慌てるところを見て楽しんでやる。照れた表情を写メで激写してもいいかも。

 

「帰りません! 比企谷君は私についてきなさい!」

 

 比企谷君の提案は無視して、彼の腕を掴む。一瞬びくっと震えたのは無視して手を引いて次の行き先に連れて行こうとして――

 

「あれ? 八幡?」

 

 突然聞こえた声につい動きを止めてしまった。八幡と言う名前は大分珍しいものだと思う。少なくとも千葉では彼くらいのものではないだろうか。大分には地味にいそう。八幡神社の総本山だし。

 つまり、今呼ばれたのは十中八九私が手を引いている比企谷八幡に違いないということだ。声のした方に振り向いて、声の主を見つける。

 

「おお、ルミルミか」

 

「やっぱり八幡だ。ていうか、ルミルミって呼ばないでって言ってるじゃん」

 

 黒い綺麗な長髪に幼いながらもどこか凛とした表情をしている女子小学生だ。十分に可愛い部類ではあるけれど、どこか雪乃ちゃんに似ていて少々人を寄せ付けない雰囲気を感じた。

 

「あー、悪い。る、留美……でいいのか?」

 

「ん、それでいい」

 

 ルミルミ、留美と呼ばれた少女は満足そうに頷いた。そして小学生の名前を呼んでいるだけなのにちょっと頬を染めて照れている比企谷君。これは……アブナイ!

 

「雪ノ下さん? なんで携帯を取り出しているんでしょうか? まさかその番号に通話するわけではないでしょうね?」

 

 くっ、国家権力へ向けた三桁の番号を打ち込んだところで比企谷君に見咎められてしまった。

 

「小学生にデレデレしているロリコン比企谷君がいるからちゃんと通報しないといけないじゃない?」

 

「デレデレなんてしてませんから、言いがかりはやめてください」

 

「けど、比企谷君シスコンだし……」

 

「それは関係ないでしょう!」

 

 あ、シスコンなのは認めるんだ。まあ、最初から警察になんてかける気は毛頭なかったんだけれど。

 

「ところで、八幡。その人誰?」

 

 私がスマホをしまったところで件のロリっ子ちゃんが口を開いた。その目は警戒色に溢れていて……あぁ、やっぱりこの子は雪乃ちゃんに少し似ている。容姿もそうだけど、初対面の相手に対して不安や期待ではなく警戒が先に来るあたりは比企谷君や雪乃ちゃんに通じるところがある。

 

「ああ、この人は雪ノ下陽乃って言ってな、雪ノ下の姉ちゃんだ」

 

「ひゃっはろー! えっと、留美ちゃんだったかな?」

 

「ん。鶴見留美、よろしく」

 

 鶴見留美ちゃんか。だからルミルミなのね。私的には結構かわいいあだ名だと思うけれど、彼女はお気に召さないらしい。そういえば、私が声をかけた時に何とも言えない顔をしたけれど、一体どうしたのだろうか。ひょっとしてこの子も比企谷君みたいに初対面で私の外面を見抜けるような子なのかな?

 それはそれで面白そうだと思っていると、留美ちゃんは比企谷君の袖を引っ張って彼に腰を落とすように促していた。

 

「八幡、この人そうは見えないけど、ひょっとしてお馬鹿の人?」

 

 ……は? 何この子。彼の耳元でささやいているからだいぶ小声だったけれど、お姉さんの耳にはちゃんと入っているからね?

 

「は? 何言って……あ、いやそういうことか」

 

 え、比企谷君はどうして納得しているの? お姉さん天才だけれど、ちょっとよくわかんない。

 この後輩をどういじめようかと考えを巡らせていたら、比企谷君は留美ちゃんを正面に見据えて「いいか、留美」と切り出す。

 

「雪ノ下さんの『ひゃっはろー!』は面白いからと遊び半分でやっているものだ。由比ヶ浜の『やっはろー!』みたいに本気で挨拶として機能していると考えているわけじゃないから、一緒にしちゃ失礼だぞ」

 

「あ、そうなんだ。ごめんなさい」

 

「う、うん。いやそれはいいんだけれど」

 

 ガハマちゃん、小学生にもお馬鹿認識されているんだ……。なんか一緒にされるのもショックだからちょっと使うの控えようかな……。

 

「それにしても、留美はどうしてここに? 友達と映画でも見に来たのか?」

 

 仕切り直しの比企谷君の質問に留美ちゃんは首を横に振る。

 

「ううん。今日はお母さんと見に来た」

 

 そう言って彼女が指差した先は券売の列で。なるほど、列の中ほどに長い黒髪を一つにまとめた留美ちゃんによく似た女性がいた。おそらくあの人が彼女の母親なのだろう。

 それを聞いて私は納得したのだけれど、比企谷君の表情はどことなく暗くなった。

 

「留美、学校は楽しいか?」

 

 比企谷君の質問の意図は私にはわからなかったけれど、留美ちゃんは「八幡、お父さんみたい」と笑った後に小さく頷いた。

 

「楽しいよ。前みたいなことはもうないし、そこまでベタベタしないけど友達もちゃんといるよ。八幡と違ってね」

 

 最後のは余計だ、と嘆きながらも、彼の表情はふっと和らぐ。あぁ、たぶん比企谷君はこの子のために何かやったのだ。そういえば、夏休みに千葉村に行って小学生のボランティアをしていたんだっけ。そのときに知り合ったのだろうか。

 

「八幡のおかげ」

 

 短くそう口に出した彼女の表情はまっすぐな感謝の情が溢れていて、私ですら少しドキッとしてしまった。その表情をまっすぐに受ける比企谷君は一瞬たじろいだけれど、頬をぽりぽりと掻きながら視線を外す。

 

「……俺は何もしてないぞ。千葉村の時も最後に実行したのは葉山達だし、クリスマスの時はあくまで生徒会の付き添いをしたにすぎん」

 

「それでも八幡はいろいろしてくれたよ。川辺で小学校の友達なんて誤差だって励ましてくれたし、肝試しの時もあれを考えたのは八幡でしょ? クリスマスのときだって一人でいる私を心配してよく一緒にいてくれたし、劇に誘ってくれたおかげで学校の皆との距離もちょっと縮まった。だから、八幡のおかげだよ」

 

「……そ、そんなもん副産物にすぎん。やっぱり俺は直接何もやれていないからな」

 

 多少赤くなりながらも落ちついた声を出して立ち上がろうとする比企谷君だったが、肩に留美ちゃんの手がそっと乗せられて、動きが止まった。

 

「八幡がそう思っていても、私が八幡のおかげって思ったんだからそれでいいんだよ」

 

「それ……は……」

 

 きっとそれは彼女の本心なのだろう。まっすぐな目で本心を隠さないのは小学生故の純粋さか。本心をしっかり伝えられる雪乃ちゃんとかちょっとハイスペックすぎない?

 

「だから、ありがとね八幡」

 

「……ぁ……」

 

 留美ちゃんの言葉に頬の赤みを増した比企谷君は小さく声を上げると、立ち上がろうとしていた腰を再び落として――

 

「っ! は、八幡……?」

 

 留美ちゃんの胸に飛び込んだ。

 え、この身長差でも胸に飛び込むの? たぶん六歳くらい歳下の留美ちゃんに宥めてもらうように抱きついている姿は普通なら異常なはずだ。けれど、今はなぜかそれがやけに様になっているというか、自然なことに感じられた。

 最初は困惑していた留美ちゃんは比企谷君の表情を一度うかがうときゅっと口を結び、次にはふっと微笑んだ。

 

「ふふっ、変な八幡」

 

 変とか言いながら普通に頭撫でているんですけどこの子。小学生が高校生の頭を普通撫でるだろうか。彼女の母性が高いのか比企谷君の発する庇護欲は凄まじいのか。

 というか、比企谷君の抱きつき癖はもうないものだと思っていたんだけれど、どうやら違うようだ。映画のときは攻めが少し足りなかったのだろうか。それなら次はもっと攻めるだけなんだけれど……。

 

「八幡ってこうしてると結構かわいいね」

 

 …………なんか。

 小学生に後れを取ったみたいで気にいらない。こう、胸の上あたりがムカムカしてくる。

 

「比企谷君、そろそろ次の場所に行くよ」

 

 名画のように絵になっている二人に悪いと思いつつ、未だ抱きついている比企谷君を引き離した。

 

「ぐえっ」

 

「ぁ……」

 

 襟を引っ張ったことで比企谷君がヒキガエルみたいな声を上げたけれど、気にせずにそのまま踵を返す。今は比企谷君の状態とか気にしていられない。別に今じゃなくても気にしないけれど。

 

「ごめんね、私たち他に行くところあるからさ」

 

「あ、うん。じゃあね、八幡」

 

 留美ちゃんを残して比企谷君を引きずりながら映画館を後にする。それでもなぜか、胸の上のムカムカは消えなかった。

 

 

     ***

 

 

「けほっ、ららぽのほぼ端から端まで襟掴んで引きずるとか、あんた悪魔かなんかですか……」

 

「えー、女子小学生に抱きついていた男子高校生を通報もせずに逃がしてあげた恩人を悪魔なんてひどいなぁ」

 

 多少咳こみながら気だるげに首をさする比企谷君に正論を告げると、ぐっと苦々しげに喉を鳴らした。まだぐうの音は出るんだね。

 そんな比企谷君を従えて割とよく来るアパレルショップに来ていた。女性用専門の店なので彼は露骨に嫌な顔をしていたけれど、私に逆らえないと悟ったのか、ため息をつきながらもついてきた。なんか、「チッ、しょうがねえな」って言われているみたいで癪なんだけれど。

 

「比企谷君、この服とかどうかな?」

 

「俺にファッションの評価とか期待しないでくださいよ。……まあ、似合ってるんじゃないっすか?」

 

 文句を言いつつもなんだかんだで感想はくれるからやっぱり比企谷君は捻デレてるな。そんな彼を見ると、ついつい虐めたくなってしまう。

 

「比企谷君が似合ってるって言うなら、ちょっと試着しようかな」

 

「それなら俺先に店出てるんで」

 

 流れるように出ていこうとする比企谷君の首を掴む。また「ぐえっ」とヒキガエルみたいな声を上げられるけれど気にしない。そのまま試着室前まで引っ張っていくと観念したのか抵抗はしなくなった。

 

「ここで待っててね、いい?」

 

「ふぁい……」

 

 うん、従順な比企谷君、陽乃的にポイント高いぞ!

 試着室前で居心地悪そうに立っている比企谷君を残して試着室に入る。手早く着ていたコートを脱いで、アウターとブラウスも脱ぐ。上半身を包むものは薄いピンクのブラだけになった。最近また少し大きくなってこのブラもきつくなってきたから買い替えないとなとか考えながら持ち込んだ長袖チュニックに手を伸ばして――いいことを思いついた。

 

「比企谷くーん」

 

「っ!? な、なんすか?」

 

 カーテンの隙間から顔だけを覗かせると、約束通りちゃんと待っていたらしい比企谷君と目が合って、彼の顔が一気に朱に染まる。たぶん、私の肩が見えて服を着ていないことを察したんだろう。察しのいい恥ずかしがり屋って……いじめがいがあるなぁ。

 

「ちょっとこっち来てよ」

 

「……分かりました」

 

 渋々私のいる試着室に近づいてくる比企谷君。彼と私の距離がどんどん近付いていき、私の手の届く距離に入った瞬間に――

 

「うおっ!?」

 

 一気に試着室に引きこんだ。狭い試着室内でたたらを踏みつつ、壁にぶつからないように踏みとどまった比企谷君は抗議の目を向けようと振り返って、慌てて腕で目を隠そうとして、「あれ?」と疑問の声を上げた。

 

「どうしたの?」

 

「え……いや……」

 

 私の上半身はブラ一枚ではなく、持ってきたチュニックがしっかりと身につけられている。これぞ、雪ノ下流早着替え術! 見事慌てる比企谷君の姿をこの目に収めることができた。

 けれど、ここで満足するつもりはない。頭にクエスチョンマークを浮かべている比企谷君との距離をさらに詰める。

 

「比企谷君はなにを想像して顔を隠そうとしたのかな?」

 

「……別になんでもないですよ」

 

 顔を真っ赤にして冷静ぶられても全く説得力ないんだけどな。

 

「ひょっとして、お姉さんの裸でも想像してたのかな?」

 

「っ……だって、さっき肩が……」

 

「肩? なんのこと?」

 

「うぐ……」

 

 墓穴を掘ったことに気付いた比企谷君の目が打開策を出そうとせわしなく動く。まあ、それを許すつもりはないので、比企谷君との距離を詰めて彼の思考を乱す。

 

「あ、あの……」

 

「なあに?」

 

 狭い室内でさらに一歩近づく。ちょっと身じろぎしただけで身体に触れてしまいそうなくらいまで距離は狭まる。この状況に比企谷君の顔は熟したトマトみたいに赤くなり。

 

「~~~~~~~~っ」

 

 声にならない声を上げながら試着室から出ていってしまった。抱きつくどころか器用に私の身体に触れないように避けて。

 

「むぅ……」

 

 抱きつかせようとしているのに、なぜかまったく抱きついてくれない。一体この間と何が違うというのだろうか。

 

 

     ***

 

 

「はあ……」

 

 結局あの後も何度か抱きついてこいアピールをしたのだが、ことごとく回避されてしまった。下手なデートや男友達との遊びよりは楽しめたけれど、目的未達成で私としては不満足だ。

 その不満足感は日曜を挟んだ平日になっても収まらず、もやもやとしたものを吐き出そうとついついため息も増えてしまう。友達に心配されるけれど、内容が内容だから誰かに適当に流すこともできない。後輩の男の子に抱きついてほしいとか、コイバナに飢えた女子大生が食いつかないはずがない。絶対根掘り葉掘り聞いてこようとするに違いない。何それ超面倒くさい。

 水曜になって昼食でいつも好んで食べるメニューがあまりおいしくないと感じてから、これはだいぶ深刻なのではとハッとしてしまった。私の昼食にまで影響を与えるなんて、比企谷君……恐ろしい子!

 さすがに残すわけにもいかないので、皆の会話に相槌を挟みつつ少しずつ口に運んでいると、ポケットの中でスマホが震えた。

 

「……めぐり?」

 

 液晶に映った名前に首をかしげる。あの子とはよくメールはするけれど、電話をかけてくることはめったになかった。最後に電話をしてきたのは推薦で合格が決まった時だったかな?

 友達に声をかけて少し離れたところで通話ボタンを押した。

 

「もしもし」

 

『あ、もしもし、はるさん?』

 

 聞こえてきたのは彼女の代名詞のようなほんわりとした安らぎボイス。電話越しですらほっこりした気分になるから侮れない。私にはない才能だと、ちょっと感心してしまう。

 

「電話なんて珍しいじゃん。どうしたの?」

 

『うーん、なんか久しぶりにはるさんと話したくなったんですよ』

 

 なにこの子すっごいかわいい。こんな天然物でかわいい子はそうそういないよね。だからこそ仲良くなったんだけれど。

 まあ、今話すことと言ったらやっぱりあのことかな。

 

「そういえば、めぐりって敏感だったんだね。高校時代に言ってくれればよかったのに」

 

『ふにゃっ!? ななな、なんではるさんがそれを……』

 

 この間の話の経緯を話すと電話の向こうから『うぅ、もうあの子たちと顔合わせられないよ……。一色さんのイジワル……』とかかわいらしい声が聞こえてきた。

 

「ごめんごめん、いろはちゃんも悪気はなかったみたいだから許してあげなよ」

 

『うぅ……ま、まあ、抱きついてきたりするのははるさんくらいだったから特に気にはしてないんですけどね。……あ、あと最近は比企谷君もか』

 

 む。なんか『比企谷君もか』のところで電話越しの空気がちょっと桃色になった気がする。それを認識したのと同時に身体の中のもやもやが強くなった気がしたけれど、思いっきり無視した。

 

「そういえば、比企谷君に抱きつかれたんだっけ? すごい声上げてたって聞いたよ」

 

『そんなことまで聞いたんですか!? ……だって、比企谷君のあの表情で抱きつかれたらしょうがないじゃないですか……』

 

 めぐりまで完全に籠絡されてしまっている。甘えん坊状態の比企谷君恐るべし。これはひょっとしてめぐりも比企谷君争奪戦に参戦なのかしら。比企谷君は私の玩具……雪乃ちゃんのモノなのに。

 

『一昨日も学校に行ったら抱きつかれちゃいまして。あれはすごいですね、ちょっと癖になっちゃいそうです』

 

「え?」

 

 一昨日って月曜日? 冬だというのに背中にタラリと汗の流れ落ちるような感覚。

 正直土曜日の留美ちゃんへの抱きつきは例外というか局所的なもので、実際比企谷君の抱きつき癖はほぼ治っているのではないかと思っていた。そう考えていたから、比企谷君に抱きつかせる目的のデートは当分やるつもりはなかったのだけれど……めぐりにも抱きついているということは、彼の抱きつき癖は治っていないということだ。

 

「……気にいらない」

 

『ふぇ?』

 

「あ、ごめん。なんでもないよ」

 

 言葉では取り繕いつつも顔に笑みを貼り付けられている気がしない。まだ情報は少ないけれど、どうやら比企谷君に抱きつかれなくなったのは私だけの可能性がある。それはあたかも私だけハブられてしまっているようで、やっぱり気に入らない。

 その後、しばらくめぐりと話してから通話を終えた私は、スマホをしまうことなくメールを送る。相手は件の捻くれた後輩。

 少し考えた後に手早く文面を打ちこんで送信する。今は向こうも昼休みのはずだからメールは見るはず……いや、ぼっちの彼の場合携帯をほとんど見なさそう。小町ちゃんからの着信、メールだけサウンドを変えてそれ以外は無視するまである。あ、普通にありそうじゃん。

 むう、どうしたものか。電話した方がいいかな? けれど、電話だと絶対居留守使われそうだな。なんて考えていると、後ろから声をかけられた。いや、大声をぶつけられたと言った方が正しい。

 

「あ、雪ノ下さん! 見つけましたわ!」

 

 橘シルフィンフォ……間違った、文子ちゃんが腰に手を当てて仁王立ちしていた。なぜこの子はこんなにも声量があるのだろうか。周りの学生たちが何事かとこっちを見てくるからやめてほしい。

 

「なに、文子ちゃん?」

 

「ふふふ、お昼一コマにある試験で勝負ですわ!」

 

「試験? あぁ、そういえば今日だったっけ」

 

 本来なら期末試験はもう一週間ほど後なのだが、試験期間が教授の海外研修と重なってしまうということで次の講義だけは今日に変更されたのだった。すっかり忘れていたけれど、講義内容は全部頭に入っているから問題はない。

 しかし、私の反応を見て文子ちゃんの目がキラリと光る。どうでもいいけれど、デレマスをやってアイマスに触れるまで“トキメキラリ”を諸星きらりの曲だと思っていたのは私だけだろうか。凛ちゃんかわいいよね、雪乃ちゃんみたいで。

 

「ふふーん、試験のことを忘れていましたね。ということは試験勉強なんてしていませんわね! これは勝ちましたわ!」

 

 …………うざっ。

 この雪ノ下陽乃を試験勉強をしなければ満足な点数も取れない一般大学生と一緒にしている時点で万死ものである。そもそも、点数開示のされない試験でなにを競うというのだろうか。

 

「勝負は解答速度ですわ! 全ての問題を解き切って提出するまでの早さで勝負しますわよ!」

 

 それ、相手がちゃんと全部解いたか確認できないからズルし放題なのでは……。まあ、本人が納得しているからいいか。

 私もストレス解消になるからね。

 

 

 

 時間になったので講義室の指定された席につく。結局休み時間の間に比企谷君から返信は来なかった。気づいていないならともかく、無視されたらどうしてくれようか。それがさらに胸にもやもやを募らせる。

 

「雪ノ下さん! ズルはなしですからね! 真剣勝負ですわよ!」

 

 というか、今日はやけに文子ちゃんがうざく感じる。そもそも試験直前に大声を出すものではない。試験担当の教授の顔も引きつっているではないか。

 まあ、それも含めて存分にストレス発散に利用させてもらうからいいけどね。

 問題用紙と解答用紙が配られる。A3サイズの片面にしか問題が表記されていないようなので問題数はそこまでないのだろう。多くても穴埋め問題が関の山だ。

 

「それでは、始め」

 

 教授の合図で伏せていた問題用紙をめくる。予想通り、ほとんどが穴埋め問題だ。最後に論述が用意されているけれど、この程度なら……楽勝。

 思わず舌舐めずりをしてしまいそうになるのを堪えて解答用紙にペンを滑らせる。こういう勝負事で本気でストレス解消をしようという場合、圧倒的大差をつけるのが陽乃流だ。この程度の問題なら答えを考えるタイムラグも存在しない。あっという間に最後の論述まで解き終えて立ち上がる。時計を見ると経過時間は十分程度。まあ、こんなものだろうか。

 

「教授、終わりました」

 

「な!? いくらなんでも早すぎますわ!」

 

 教授に声をかけたのに別のところから声が発せられる不思議。ほら、教授もうこめかみに青筋立っているよ。

 

「洞爺湖さん、この試験終わったら僕の研究室に来なさい」

 

「……はい、ですわ……」

 

 しょぼんとうなだれた文子ちゃんをしり目に、教授に解答用紙を提出して退席する。ふう、少しはストレス発散になったかな? 多少は胸のもやもやも収まった気がする。

 

「あ……」

 

 一息つきながら鞄からスマホを取り出すと、受信メールがあった。内容を確認してついつい頬がゆるむ。あぁ、今きっとだいぶ悪い顔していると思う。

 

 

 さてさて、今日はどうやって比企谷君に抱きついてもらえるように仕向けようかな。

 

 

     ***

 

 

「ちゃんと待っててくれたね、お姉さん的にポイント高いぞ!」

 

 放課後の時間を見計らって総武高に顔を出すと、校門の隅に立っている比企谷君を発見した。私が近づくと比企谷君は「うわっ、この人本当に来たよ」みたいな顔をする。露骨にそんな顔されるとさすがのお姉さんもちょっとショックなんだけれど……。

 

「こんなメールあなたから送られてきたら、怖くて拒否もできませんよ。もはや脅し」

 

 見せられたのは私が送ったメール。『今日の放課後にデートしよう! 嫌だって言ったら……分かってるよね?』って送っただけなんだけれど、これが脅しだなんて失礼しちゃうな。

 

「部活休むこと伝えたら雪ノ下からは謂れのない罵倒を受けるし、由比ヶ浜からは白い目で見られるし……もう踏んだり蹴ったりですよ」

 

 ああ、それは嫉妬かな? 嫉妬だね。二人とも比企谷君のこと好きすぎでしょ。面白いから絶対比企谷君には教えてあげないけれど。

 それに、今は私の相手をしてもらわないとお姉さんは困るのですよ。

 

「じゃあ、早く行こう!」

 

 このままこんな綺麗なお姉さんと校門で話していたら比企谷君にあられのない噂を立てられかねないからね。あ、今の陽乃的にポイント高い! そんな心配するなら駅集合とかにしろって? そんなのつまらないじゃん!

 

「はあ、行くってどこへです?」

 

 ため息をつきながらもちゃんとついてくる。こういうところがいろはちゃんの言う“あざとい”なんだろうな。

 行くところはもうすでに決めている。放課後の少ない時間で楽しめて、私たちみたいな学生らしい遊び場。

 

「楽しい楽しいカラオケだよ!」

 

 あ、うへえって顔するのは陽乃的にポイント低いぞ?

 

 

     ***

 

 

 というわけで駅の近くのカラオケで二時間ほど歌うことにしたんだけれど、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ愚痴を言わせてもらいたい。心の中だから言ってはいないんだけれども。

 …………全然この子誘惑に乗ってくれない。

 この子、確かに抱きつき癖の比企谷八幡君だよね? 実は私の知らない比企谷九幡とかじゃない?

 土曜日に見た留美ちゃんをまねて、純粋な好意を向けてみたり、めぐりみたいな優しいお姉さんで攻めてみたり、ちょっとこの部屋空調効きすぎじゃない? とか言いながら服脱いで胸元見せてみたり……いやごめん、最後のは私でもないと思った。エロ同人っていうくらいベタというかなんというか。とにかく、いろんなアプローチを試したのに抱きついて来てくれなかった。ちょっとドキドキしてくれているのは伝わったけれど、いつもみたいにかわされてしまって私的に納得できていない。これではただのデートだ。

 というか、意外に比企谷君って歌がうまい。高音はあまり出ないみたいだけれど、低音がズンっとお腹の奥に響く感じ。

 まあ、その低音でアニソンばっかり歌っているんですけどね! 私の前だからって遠慮なさすぎじゃありませんかね? 私もアニメとかそこそこ見るから結構分かりはするけれども。

 

「比企谷君ってさ、普通のJ-POPとかは歌わないの?」

 

 なんとなしに質問してみると首をかしげて「俺がAKBとかEXILEとか有名どころ歌ってるのとか変じゃありません?」とか言ってきた。いやまあ、普段の比企谷君を見ていると確かにって思わず納得しちゃうんだけれど、そういう曲は全然知らないのかなとは思いはする。

 

「知らないわけじゃないっすよ。小町から勧められるのとかは聴いたりしますし、気にいった曲は歌手とか気にせずよく聴いたりもします。ただ、曲名覚えないんですよね。アニソンならアニメタイトルソートとかできるじゃないですか」

 

 歌えるけれど、わざわざ探すくらいなら探しやすいアニソンを歌うって感じなのか。確かに単純なシングル曲よりも検索方法が一個多いものね。

 

「最近は小町も受験勉強に忙しいんで新曲とかはほとんど知りませんけどね」

 

 ふむふむ。逆に言えば少し前の曲とかは結構知っているということだろうか。それならばと検索機器をタッチする。予約曲がなかったのですぐにイントロが流れ始めた。

 

「これは歌える?」

 

「え? いや、まあ歌えるとは思いますけれど……え、まじですか」

 

 マイクを差し出すと諦めたように受け取ってくれた。自信なさげに小さく息を吐くとマイクを口元にそっと近づける。

 

 

 

 ――今すぐに 抱きしめて 君だけを見ていたい~♪

 

 

 やばい。

 何がやばいってマジでやばい。ひょっとしたら私はとんでもない化物を目覚めさせてしまったのかもしれない。

 原曲に比べると低めの声で紡がれるラブソングはお腹の奥どころか身体全体を震わせる。なんでそんなに情感込めて歌えるの? 日頃勘違いってことで我慢している結果なの?

 

「ふう、これでいいですか?」

 

「えっ。う、うん、なかなかうまいじゃん!」

 

 危ない、危うく意識を持っていかれるところだった。さすが基本ハイスペックと自負している比企谷君。自己評価はなかなかじゃない。べ、別にドキドキとかしてなんてないんだからね!

 

「勘違いしないでよね!」

 

「は?」

 

 あ、つい口に出してしまった。慌てて検索機を操作する。

 

「別に次はこれを歌ってほしいわけじゃないんだからね!」

 

「……なんですかその突然のキャラ変更。はあ、分かりましたよ。歌えばいいんでしょう?」

 

 よし、なんとか誤魔化せた上に次の曲を指定できたぞ。あ、次のもラブソングじゃん。超やばい。

 

 

 この後めちゃくちゃソロステージさせた。

 結論。比企谷君にラブソングを歌われるとちょっと心揺れる。これは雪乃ちゃん達には知られないようにしよう。

 

 

     ***

 

 

 結局二時間普通に歌ってフロントからの電話を受けて退席することにした。会計をしようとする比企谷君を制して私が会計をした。さすがに自分から誘っておいて奢ってもらうわけにはいかない。

 

「あれ? お兄ちゃんと陽乃さん?」

 

 会計をしていると後方の自動ドアが開いて聞き覚えのあるかわいらしい声が聞こえてきた。振り向くと小町ちゃんが同じ制服の子たちと一緒に入ってきたようだ。それを見て比企谷君の顔が不機嫌になる。

 

「小町ちゃん? カラオケに行くなんてお兄ちゃん聞いてないんだけど?」

 

 あぁ、これは言外に「こんな時期にカラオケはしない方がいいんじゃないの?」って言っているね。確かに高校受験ももう大詰めなのだから遊ぶのは受験が終わってからの方がいいのだろう。比企谷君の優しさが垣間見える。

 しかし、肝心の妹君は口をとがらせて抗議の意思を示している。

 

「私立の試験が終わったから、とりあえずのお疲れ様会なの! 帰ったらまた勉強するからさ!」

 

 両手を必死にパタパタさせて――なにそれかわいい――言い訳をする小町ちゃんに、比企谷君ははあ、と息をついて「しょうがねえな」と呟く。

 

「あんま遅くなんなよ」

 

「分かっているであります!」

 

「夕飯は俺が作っとくから、寄り道せずにな」

 

「わーい! お兄ちゃん大好き!」

 

 捻くれお兄ちゃんの心遣いに抱きつく妹。相変わらずこの兄妹は仲がいいな。雪乃ちゃんもこれくらい甘えてくれればもっとかわいいのに。無邪気に大好きと告げる妹に比企谷君は少し赤くなりながら軽く咳払いをする。そしてそっと小町ちゃんの背中に手を回した。

 

「俺も大好きだよ」

 

 細い腰に添えられた腕にぐっと力を込めて抱き寄せる。ちょうど彼の胸に小町ちゃんの頭が収まる形だ。

 兄妹の普通のハグにしてはやけに情が感じられるというか、なんで比企谷君の目はあんなに輝いているの? ひょっとしてああいうパターンもあるというの? イケメンお兄ちゃん的抱きしめとかちょっとよくわかんないくらいうらやまし……なんでもない。

 

「ふにゃぁ、お兄ちゃんの匂いぃ……」

 

 この妹はなにをトロ顔で言っているんですかね? いやこれ本当に兄妹のハグなの? まさかこの二人、家でもこんなふうに抱きついているんじゃ……。比企谷家の将来が心配でならない。

 

「お兄ちゃん……」

 

「小町……」

 

「ちょっ、ちょっと二人とも!」

 

 頬を染めて見つめ合う二人に本気で危機感を覚えて、思いの外大きな声を上げてしまった。しかし、その甲斐あって二人ともハッと反応する。

 カラオケ屋の入口ということを思い出したのか、比企谷君は慌てて小町ちゃんから離れる。全く、TPOも倫理観もあったものではない。小町ちゃんの連れの子たちも唖然として……いや、顔を真っ赤にして挙動不審になっているね。二十代後半っぽい店員さんまで顔を真っ赤にしてあわあわ言っていた。乙女か!

 

「じゃ、じゃあ、飯作って待っとくからな」

 

「うん、じゃあねお兄ちゃん! 陽乃さんもまたねです!」

 

 それから小町ちゃんは何事もなかったかのように友達を連れだって受付に向かった。それを見届けてから私たちもカラオケ屋を出る。比企谷君がなにか言ってくるが、私の耳はそれを言語として認識できなかった。

 気がつくと比企谷君と別れたようで、うちの車の中。それだけ認識すると再び思考が沈む。先週からいろいろあった。奉仕部に行ったら比企谷君が雪乃ちゃんに抱きついていて、私の知らないうちにいろんな子に抱きついていたみたいで、私にも抱きついてきて。

 それから二回デートしたけれど、私には全然抱きついてこないのに他の子には事あるごとに抱きついているみたいで。

 

「……ずるい」

 

 ずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるい。

 

「ずるい!」

 

 突然私の上げた声に都築がミラー越しに反応したようだけれど、頭の中が「ずるい」で埋め尽くされた私に気を回せる余裕はなかった。

 この「ずるい」が何に対して、誰に対してのものなのか、今の私にはまったく理解することが……できない。




2話目です 投稿するのを忘れていたぞ?(大問題



ルミルミって初めて書いたけど、案外書きやすい
ちょっと素直なゆきのんって感じで書くと個人的にすごいしっくりきます


あと、小町で少し本気を出してしまった
あふれ出る兄妹愛が私のタイピングを支配したから仕方ないね


あれ? はるのん・・・


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比企谷君に抱きつきたい!

「はあ……」

 

 どうしてもため息が漏れてしまう。頭の中を占めるイライラが身体の中に靄を作り出し、それを体外に出そうとため息をつくのだが、靄はなくなるどころか薄まりすらしない。

 

「はあ……」

 

 意味のないことだとは分かっていても、ため息をやめることはできずにまたついてしまう。それもこれも全部あの捻くれた後輩、比企谷君のせいだ。

 あの日、彼が抱きついてきた時に感じた危機感を払拭するために、再び彼を抱きつかせようと二人でデートをしたが、どれだけ誘惑しても今までの彼同様に理性の化物で回避されてしまった。その上、他の女の子には抱きついたり抱きしめたりしちゃって……。

 結局目的未達成のまま二回のデートは終わってしまい、私だけ比企谷君に抱きつかれなくなったという事実だけが残った。元々の目的が抱きつかれた時に平常心を保つことだったから、抱きつかれないのなら何の問題もないのではと思うのだが、それはなにか逃げているようで納得できない。

 それにしても、抱きつき癖があったというだけでも驚きなのに、デートに行ってみて私の知らなかった比企谷君の一面をいろいろと見せられた。苦手そうな映画でも案外しっかり見て感想を言ってくるし、ファッションには興味なさそうなのに、私の服を選ばせてみるとなかなかにいいチョイスをしたりする。カラオケはイケメンボイスでかっこよ……まあまあいい感じだった。そんな一面を見せるくらいならもう一度抱きついて私の修行につきあってもらいたいものだ。

 

「はあ……」

 

 しかし、次はどういう作戦を取るべきか。弄って恥ずかしがらせる作戦もダメだったし、お姉さんオーラで攻めるのもダメ。ていうか、抱きつくどころか落ちもしてくれない。こんな美人なお姉さんにあそこまでさせておいてむしろ警戒するなんて彼くらいだ。傍から見ている分には面白いのに、いざ対峙するとここまで厄介とは……。

 思わず机に突っ伏しそうになった時、くしゃっという音が手元で響く。目をやるとB5サイズのザラ用紙。はて、こんなものさっきまであったかしら。思わず首をかしげたが、その紙の内容を確認して思わず固まってしまう。

 

「雪ノ下さん、今日こそは勝ちますわよ!」

 

 今は先週と同じく小テストで終わる講義の最中だった。少し離れた所から聞こえてくる文子ちゃんの声によると、また勝負をすることになっているらしい。つまり手元にあるのは小テストプリント。

 やばい。

 何がやばいって、プリントの内容どころか講義すらまったく聞いていなかった。プリントが配られてどれくらい経っているのかもわからない。

 所詮は学生同士の戯れの勝負。それでも、たとえその程度のものでも敗北は“雪ノ下陽乃”が許しはしない。

 

「くそっ……」

 

 ついつい淑女にあるまじき悪態をつきながら、プリントに目を通した。

 

 

 

 まあ、ハンデがあったとしても勝つのが雪ノ下陽乃なわけで。

 特にテキストに書いてある内容以外の問題じゃなかったから、速攻で解いて提出した。正直、後少し気付くのが遅れていたら危なかったかもしれないが、過ぎたことを考えても仕方ない。

 まったく、こうなってしまったのも全部比企谷君のせいだ。これは早急になんとかしなくてはならない。しかし、一体私と他の子達で何が違うのだろうか。今まで散々警戒させてしまったから? いや、それなら最初から抱きつかないはずだ。分からない。

 

「しかたない……」

 

 分からないなら、調べるしかない。

 

 

     ***

 

 

 というわけで翌日の金曜日。講義と実験を自習休講することに決めた私は朝から総武高校に来ていた。相手のことを調査するなら伝聞なんかの二次情報よりも直接見聞きした一次情報の方が正確だ。まあただ、私みたいな美人がそのまま入ったりしたら人目を引いてしまって非常に面倒くさい。比企谷君達にばれてしまえば私の得たい情報は得られなくなってしまうだろう。

 そういうわけで、昔来ていた制服に身を包み、地味な眼鏡をつけている。これで目立たない総武高校生のでき上がりだ。登校する生徒の波に乗って校門をくぐる。……とりあえず、私に気を向けている生徒はいない。そのまま校舎に吸い込まれる彼らから抜け出して人気のない校舎裏に身を隠す。ここでまずは比企谷君を待ち伏せることにする。

 

「……きた」

 

 校門の方に視線を向けていると、気だるそうに自転車を漕いで比企谷君が登校してきた。校門で自転車から降りると猫背になりながら駐輪場に自転車を止める。校舎に向かう彼の目は相変わらず暗く淀んでいて、何もする気がないオーラが半端ない。あれが抱きついているときだけはキラキラ輝くんだよなぁ。

 そのまま比企谷君は昇降口に消えようとしたので、私も中に潜入しようと身を乗り出した。

 

「はちまーん!」

 

 が、珍しい彼の名前を呼ぶ声に慌てて再び身をひそめる。まさか彼の下の名前を呼ぶ人間が校内にいるとは思わなかった。留美ちゃんは小学生なのでまあいいとして、文化祭とかで悪目立ちした高校内で比企谷君と親しい子が雪乃ちゃん達以外にいるとは。件の生徒の姿を確認するためにもう一度校舎裏から顔を覗かせる。

 

「おお、戸塚か。おっす」

 

「うん、おっす」

 

 戸塚と呼ばれた子は非常に整った顔をしていた。ジャージに身を包んでいるところをみるに朝練のある部活動生だろう。こんな寒い中、朝から外で練習なんてずいぶん熱心な“女の子”だ。にこにこと人のよさそうな笑顔をしているし、さぞ男子にモテるんだろうな。

 

「今日はやけに明るいな、なにかいいことでもあったのか?」

 

 にっこにこしている戸塚ちゃんに比企谷君が尋ねると、彼女はきょとんとした後に――かわいい――ぱあっと表情をほころばせる――かわいい――。

 

「今日は朝から八幡に会えたからね! いいことがありそうだなって思ったら嬉しくなっちゃって」

 

 戸塚さんの言葉に比企谷君がクンッと息を飲む。あ、はるのんその表情知ってるよ。それ比企谷君が抱きつく時の表情だよ。

 

「戸塚!」

 

「おっと。ふふ、八幡に抱きつかれちゃった」

 

 私の予想通り、比企谷君はあのいろんな感情をないまぜにした表情をしたまま彼女に抱きついた。お互いの肩に顎が乗る対等……というべきだろうか、そんなハグだ。というか、そんな校舎の入り口近くで抱きついたら周りが騒ぎたて……。

 

「なに?朝から美少年同士が抱きついてる!」

 

「と、戸塚たんが……あぁ、けど俺よりも断然イケメンじゃねえか!」

 

「ホモ乙」

 

「ハチトツ!? ハチトツだというの!? キマシタワー!」

 

 ……うん、騒ぎたてられてはいるけどなんか全然悪い感じじゃないね。抱きついている時の比企谷君は別人みたいに目が輝いているからなあ。なんか赤い噴水が拭き出ているけれど、あの水源って隼人の友達の眼鏡ちゃんでは……救急車呼んだ方がいいんじゃないかな。

 というか、さっきから美少年同士だとか、ホモだとか聞こえるんだけど……え、男の子なの? まっさか、あんなかわいい子が男の子なわけ……あっ、はるのんレーダーが男って言っている。そっか、男子だったのか。

 

「八幡、そろそろ時間だよ。教室いこ?」

 

「……もう少しだけ」

 

「もう、しょうがないなぁ」

 

 うん、男の子同士だよね? そうなんだよね? 私は今、人類の神秘を垣間見ているのかもしれない。

 その後もしばらくハグしていた二人だったけれど、予鈴のチャイムが鳴ると名残惜しそうに――本当に男の子同士だよね!?――離れて、教室へ向かっていった。

 

 

     ***

 

 

「ふむ、授業中はそもそも抱きつく要素なんてないか」

 

 さすがに教室に忍び込むわけにもいかないので、木陰から双眼鏡と読唇術を駆使して観察していたが、文系の授業の時は真面目に聞いているし、理系の授業の時は机に突っ伏して寝ていた。捨てているとは聞いていたけれど、さすがに教科書も出さずに寝るのはどうなのよ。休み時間も基本的に本を読んでいるか寝ているだけで、誰とも交流しない。こうしてみるとぼっちみたいだ。

 

「あ、次は体育なのか」

 

 三時間目が終わると、女子はバッグを手にとってぞろぞろと退室していく。女子が全員になくなると、男子達は各々体操服に着替え始める。比企谷君の身体にはちょっと興味あるけれど、有象無象の身体を見るのはちょっと生理的に受け付けないな……。

 

 

 あ、戸塚君の身体はちょっと興味あるかも。

 

 

 

 今日の体育は男女ともにマラソンのようだ。皆面倒くさそうにグラウンドにやってくると、準備体操をした後に各々グラウンドを走りはじめる。皆だいぶ流しているようで、まるで覇気は感じない。そりゃあこんな寒い中ただ走るとか気乗りするはずがないよね。なんで持久走大会を冬にやるのだろうか。やるならせめて春にやればいいのに。

 だらだらと走る生徒たちの中、比企谷君もやる気なさげに走っている。むしろ一番やる気ないオーラを発していて、浮いているまであった。一定のリズムで黙々走り続ける姿は……地味。面白くない。

 

「テニスとかだったら面白かったのに……」

 

 愚痴を漏らしても仕方ない。授業が終わるまで休憩しとこうかなと視線を外すと聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 

「ひっ、ヒッキー……っ」

 

 視線をグラウンドに戻すと、やはりガハマちゃんだ。私よりも大きいのではないかと思われる二つのあれをぽよんぽよんさせて、息切れしながら比企谷君に追いつこうとしている。

 気だるげに走っているとはいえ、その速度は特に運動もしていない彼女にはきついのだろう。さらに声も出していればなおさらでどんどん足元がおぼつかなくなっていく。

 

「ヒッキ……先、行くなし……うわっ」

 

 そして案の定、足をもつれさせて転んでしまった。前のめりに倒れたけれど、胸部のエアバッグが正常に作動して、地面とキスをすることはなかった。……うん、やっぱりあれ私より大きいよね。

 

「いたた……」

 

「なにやってんだよ、お前」

 

 うずくまったままのガハマちゃんにさすがに比企谷君が歩み寄る。呆れたように溜息をついているけれど、その表情は若干焦っているようだ。もっと素直に心配すればいいのに……比企谷君だし無理か。

 

「だってヒッキー止まってくれないし……いたあ……っ」

 

 立ち上がろうとしたガハマちゃんは顔を歪めて再びペタンとお尻を地面につけた。足首をさすっているところを見ると捻ってしまったのだろうか。それを見て比企谷君は頭をバリバリとかいて、もう一度小さくため息をついた。

 

「ったく、しょうがねえな」

 

 先生の元へ向かって二、三言話すと、戻ってきてガハマちゃんに背を向けてしゃがみこんだ。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………いや、保健室まで連れてくから乗れよ」

 

「え!? あ、うん……」

 

 比企谷君……声にするのは恥ずかしいんだろうけれど、さすがにおんぶするならおんぶするって言わないと伝わらないよ。

 おずおずと彼の背中にガハマちゃんが身体を預けたのを確認すると、よっと持ちあげて足早に保健室に向かっていった。あんまりもたもたしていると周りからの視線がどんどん集中しちゃいそうだもんね。実際隼人の友達の「っべー」の子が「ヒキタニ君、女の子おんぶするとかマジかっこよくね? マジリスペクトっしょ!」とか言って騒ぎ始めている。あ、彼の近くで相槌うっている子のガハマちゃんに向ける視線がいやらしい。あの子絶対童貞だ。

 童貞君の行動もちょっと気になるけれど、今日来た目的は比企谷君だ。彼を追って、私も校庭を後にした。

 

 

 

「すみませーん。……あれ? 先生いねえのか」

 

 保険医がいないことを確認するとガハマちゃんを椅子に下ろして医療棚からシップと包帯、消毒液などを取り出す。どうやら膝を擦りむいてしまったらしい。消毒液をガーゼに沁み込ませると、かすかに鼻をつく匂いが室内に広がった。

 

「……ていうか、狭い……」

 

 思わず声が漏れてしまいハッと口元を抑えたけれど、どうやら二人には聞こえていなかったみたい。ほっと胸を撫で下ろして隙間から様子をうかがう。

 私がどこにいるかというと、入口近くに設置された掃除用具入れの中である。いやだって隠れられるところないし、何か起こりそうだから読唇術よりも直に聞きたいしで仕方がなかったんだよね。雪ノ下の女は目的のために手段は選ばない! けど、ベッドの下の床に寝そべって隠れるのはいやです。

 というか、なんで掃除用具入れって隙間空いているんだろうね。スマイルが閉じこもるためかな? いじめ用じゃんそれ!

 

「沁みると思うけど、我慢しろよ」

 

「うん……いたっ」

 

 消毒液の沁み込んだガーゼが傷口に触れると、ガハマちゃんの顔が痛みに歪む。「大丈夫か?」と声をかけつつ消毒を終えると、新しいガーゼを当ててテープで固定する。剥がれないように軽く包帯を巻くと次に捻ったらしい足首の方に手を伸ばす。

 

「どこらへんが痛いんだ?」

 

「えっと……つっ、そこっ」

 

「ん、ここか」

 

 手慣れた手つきで湿布を貼るとそこにも包帯を巻いた。湿布だけだと、靴下を脱ぐときなんかに一緒に剥がれたりするからそういうのを考慮したのだろうか。

 

「こんなもんだろ」

 

「あ、ありがと……」

 

「別に、おかげで堂々とマラソン、サボれたからな」

 

 腰に手を当ててドヤ顔をする比企谷君だけれど、ガハマちゃんから視線を外した彼の耳は真っ赤に染まっていた。相変わらず素直な好意に弱いんだな。本当にどうして私に抱きつかないのか。……私のは素直な好意ではないというの!? やだ比企谷君酷い!

 そんな彼に「うわっ、ヒッキーサイテー」と苦笑しながらも、ガハマちゃんはもう一度お礼を言った。それを見て居心地悪そうに彼は頭を掻く。

 

「ヒッキー、お礼させてよ!」

 

「いや別に……」

 

「私がしたいだけだから、はい!」

 

「……っ」

 

 そう言いつつ両手を広げるガハマちゃんに比企谷君は思わず息を飲む。お礼で比企谷君にそのポーズをするということは、抱きついてこいということだろうか。そんな彼女を見て固まっていた比企谷君はキョロキョロと周りを確認してから――

 

「じゃあ……ちょっとだけ……」

 

 ゆっくりと彼女に抱きついた。私や留美ちゃんに抱きついたときのような感情任せのものではなく、ワレモノに触るように優しいハグ。豊満な胸に顔をうずめると、とろんと目尻が下がった。

 

「ふふ、ヒッキーかわいい」

 

「……うっさい」

 

 悪態をつく声はいつもと変わらないけれど、とろんとした表情でそんなことを言われたってかわいいだけだ。実際ガハマちゃんも嫌な顔一つせずに比企谷君の頭を撫でている。撫でる度に自己主張の激しい一房がピコンと元の形に戻ろうとする。

 

「ヒッキーのアホ毛全然なくならないねー」

 

「やめろ……それがなくなったら俺のアイデンティティもなくなる」

 

 よくわからないことをぽしょりと呟きながら、比企谷君はズブズブとガハマちゃんの身体に沈み込む。比企谷君アホ毛にどれだけこだわりがあるのだろうか。そういえば、小町ちゃんにもアホ毛あるけど、あれって遺伝するものなの? 人類の神秘を感じる。

 その後もニコニコしながら比企谷君を撫で続けていたガハマちゃんだけれど、ふと時計を見て「あっ」と声を上げた。

 

「ヒッキー、もう結構時間経ってるよ。そろそろ戻らないと怒られるんじゃない?」

 

 隙間から時計を見ると、ここに来てからもう二十分ほどが経っていた。怪我の手当て程度にしては長いと思われるだろう。しかし、チラッと目線を上げた比企谷君はもう一度ポスッと顔をうずめる。

 

「……もう少しだけ……」

 

 なにその駄々のこね方。中学校の時に寝ぼけた雪乃ちゃんがぼんやりとした眼で「もうちょっと寝かせて」って言った時もかわいかったけれど、それを上回る勢いで今の比企谷君もかわいい。ガハマちゃんも「しょうがないなぁ」と再び撫でることを再開し始めた。

 

 

 比企谷君がようやく離れたのは授業終了五分前で、ガハマちゃんは比企谷君の肩を借りて出て行った。よ、ようやくこの狭い空間から出られる……。

 

 

     ***

 

 

 四時間目の授業も終わったので学校は昼休みに入る。昼休みになると比企谷君がテニスコートの見える特別棟の陰で一人購買部のパンを食べることは既にリサーチ済みなので、先回りをしていた。

 

「さむ……もうちょっと着こんでくればよかったかな」

 

 海から流れ込んでくる風は真冬ということもあってかなり冷たい。どうしてこんな寒空の中、わざわざ外で食べるんだろう。教室が嫌なんだろうけれど、もっと別のところもあるんじゃないかな。

 

「みんなー、早く練習するよー!」

 

「部長食うの早すぎっすよ」

 

「うひぃ、さっむ!」

 

 どうやらテニス部が昼練を始めるようだ。こんな寒い中昼練なんて頑張っているんだな。うちのテニス部ってそんなにやる気なかった気がするけれど、いつの間にやる気を出したんだろ。

 そう思っていると、彼らの中に聞き覚えのある声が混じっていることに気がついた。聞き覚えがあるというか、今朝がっつりとしっかりと聞いた声。見ると予想通り、戸塚君がコートで練習を始めていた。どうやら彼が今の部長のようだ。

 

「ううぅ、寒いっすよぉ……」

 

「動けばあったかくなるでしょ! 来週は練習試合もあるんだからがんばろう!」

 

 あんな女の子みたいにかわいい子に部長が務まるのかと思ったけれど、存外に部を引っ張っているようだ。昼練を提案したのも彼なのだろうか。そういえば、比企谷君と仲よさそうだったよね、彼。なんか比企谷君も見たことないくらい楽しそうに話していたし。……はっ、まさか比企谷君にそういう趣味が! ……戸塚君なら仕方がないかも?

 

「……予想以上の寒さね」

 

 あれ? 今の声は雪乃ちゃん? 後方に振り返ると、私のキューティシスター雪乃ちゃんがやってきた。手にはお弁当を持っていて、その隣には――

 

「だからお前は部室で食えばいいじゃねえか」

 

 私が待っていた比企谷君がいた。二人で昼食とか青春ラブコメですかな? なんかすでに比企谷君が追い返しにかかっていてお姉さん的にポイント低いけれど。

 

「足を怪我した由比ヶ浜さんをわざわざ部室まで呼ぶわけにはいかないでしょう? 今日は三浦さんたちと食べるのが彼女のためだわ」

 

「いや、だからお前は部室で食べればいいだろ」

 

「今日は部室で食べる気分ではないのよ。 ……その、あなたが来るのなら別に部室でもいいのだけれど」

 

「俺は飯を食いながら戸塚の舞を見るっていう日課があるから、いくらゆるゆり空間じゃなくても部室では食わん」

 

 ああ、やっぱりこんな寒い中ここで食べるのは戸塚君を見るためなんだ。小町ちゃん、あなたのお兄ちゃんは特殊な性癖を持っている可能性が微粒子レベルで存在しています。というか、ゆるゆり空間って何? 奉仕部で何が行われているの?

 

「なら、私も同じ場所で食べるのなら問題ないでしょう?」

 

「はあ、勝手にしろよ」

 

 結局二人で食べることにしたようで、揃って階段に腰をおろす。さりげなく雪乃ちゃんのところにハンカチを敷く比企谷君、あざとい。雪乃ちゃんはお弁当を膝に置き、比企谷君は購買部で買ったパンとマックスコーヒーの缶をいそいそと取り出した。

 

「ひょっとしてあなた、いつもそれだけしか食べないのかしら」

 

「俺は燃費がいいからな。そんなに食べなくてもいいんだよ」

 

 確かに男子高校生で総菜パン二個の昼食と言うのはいささか少ない気もする。まあ、運動部ってわけでもないからそんなものなのかもしれないけれど。

 比企谷君の言葉に納得したらしい雪乃ちゃんは、自分のお弁当に箸を伸ばす――ことはなく、じぃっと比企谷君を、正確には比企谷君の持っているパンを見つめていた。

 

「……なんだよ」

 

「いえ、それってパンに……焼きそばが挟まっているのかしら……?」

 

「え、まさかお前……焼きそばパンをご存じない?」

 

 比企谷君の表情が驚愕に染まる。ああ、そういえば私も初めて焼きそばパンを食べたのはここの購買だった気がする。雪乃ちゃん購買使わなさそうだから、本当に知らないまであるね。

 

「前に由比ヶ浜さんが焼きそばパンなるものの話をしていた気がするけれど、それがその焼きそばパンなのね。炭水化物に炭水化物を挟んでおいしいのかしら?」

 

「うまいぞ? ラーメンにチャーハン付けたりするし、関西人なんてタコ焼きおかずに飯食ったり、お好み焼きおかずに飯食ったりしてるんだから日本人には普通なんじゃねえの?」

 

「……それは、私が一般的な日本人とは価値観が違うという意味かしら」

 

 むすっとわずかに顔を歪めた雪乃ちゃんに、「んなこと言ってねえだろ」と困惑しながら焼きそばパンに齧りつく。雪乃ちゃんは自分のお弁当に箸を向けて……向けるだけ向けて未だにチラチラと彼に視線を送っていた。視線に敏感な彼がそれに気付かないはずもない。

 

「……なに? 食いたいの?」

 

「べ、別に食べたいわけではないのだけれど、あなたがどうしてもと言うのなら、そうね。庶民の味というものも理解しておいて損はないでしょうし、さすがにあのラーメンよりはカロリーも高そうには見えないから、食べてあげてもいいわ」

 

 庶民……雪乃ちゃん庶民って、若干キャラがブレてるよ。雪ノ下家が王族である可能性が浮上してきたけれど、比企谷君は「なんで上から目線なんだよ」と苦笑するだけだった。

 

「じゃあ、一口食うか? ……あー、けど、中に入ってるのが焼きそばだからちぎると悲惨なことになりそうだな」

 

 確かに、焼きそばパンという食べ物は分けることに向いていない。高校時代にクラスメイトがラップにくるまれた状態で定規で切り分けていたけれど、さすがに今そんなものは持っていないだろう。

 

「あら、そんなことなら問題ないじゃない」

 

「え?」

 

 どうしたものかと決めあぐねている比企谷君に近づくと、手元の焼きそばパンに小さく齧りついた。

 

「おま……っ」

 

 雪乃ちゃんの小さい一口ではパンの胴部分に齧りついても中央の焼きそばまで届かない。パンと焼きそばを同時に食べようとすれば、必然的に比企谷君が食べた部分と重なることになるわけで、つまりそれは間接キスなわけで。

 

「ん……まあ、なかなかおいしいのではないかしら。アレンジ次第でもっとおしゃれな味にもできるかもしれないわね。……どうしたのかしら?」

 

「どうしたってお前……」

 

 きょとんとした顔をしているけれど、雪乃ちゃんの頬はさっきよりも明らかに朱を帯びていて、本人も相当恥ずかしがっているのが見てとれる。しかし、それ以上に動揺している比企谷君は残念ながらその様子に気づくことはなかったようで「どうすんだよこれ……」と二人が齧った焼きそばパンを眺めている。比企谷君純情だから、間接キスとかそういうのに敏感なんだろうな。

 

「あら、まさか私が食べた程度で食べられないなんて言うんじゃないでしょうね。家畜だって餌はちゃんと食べるものよ、家畜谷君?」

 

「っ……ああもう、分かったよ」

 

 顔を真っ赤にしながら比企谷君は意を決したように大口を開けて、残りの焼きそばパンに食い付いた。

 

 

 

「……疲れた」

 

 パンをマッカンで流し込みながらなんとか食べ終えた比企谷君は肩で息をしていた。食事しただけで疲れるなんて、かわいそう……。

 マッカンの残りを飲み干して息をつくと、くあっと欠伸を噛みしめた。しょぼしょぼと目を擦る姿はいかにも眠そうだ。

 

「あら、今日は数学があったはずなのに眠いのかしら、惰眠谷君」

 

「んあ? あー、まあ数学は寝たんだが、昨日本読んでたら寝るのが遅くなってな。体育もあったし、飯食ったらやたら眠くって」

 

 数学で寝ることは確定なんだね。満腹中枢を刺激されたことで眠気がピークに達しているようで、比企谷君は何度も小さく欠伸を繰り返してぼーっとテニスコートの方を眺めていた。

 

「そんなに眠いのなら、休み時間の間寝ていたらどうなのかしら」

 

「そうだな、教室は葉山達がうるさいけど、早めに戻って寝るかな」

 

 面倒臭そうに頭を掻いて立ち上がろうとする比企谷君を雪乃ちゃんが制止する。あれ? なんで止めちゃうの? 寝た方がいいって言ったの雪乃ちゃんだよね?

 

「別にここで寝ればいいのではないかしら?」

 

「え、地面で寝ろと?」

 

 何それ鬼畜!? こ、これはいじめの現場なのでは……。大変、お母さんに頼んでこの事実をもみ消してもらわなくちゃ。

 そう思っていたけれど、雪乃ちゃんは小声で否定する。そして比企谷君の腕を掴むと、ぐいっと引き寄せた。

 

「うぉっ!?」

 

 あれは……合気道! 力の流れに流されて体勢を崩した比企谷君はそのままポスっと頭を雪乃ちゃんの膝の上に不時着させる。まさか膝枕をするためにわざわざ合気道を使ったというの!? そういうための武道じゃない上に回りくどいよ雪乃ちゃん!

 

「こうすればいいでしょう?」

 

「お前……これは……」

 

「あら、あなたに拒否権なんてもの、あると思っているのかしら?」

 

 そう言って笑う雪乃ちゃんの頬はさっき以上に赤くて、その表情には不安の色が見え隠れしている。雪乃ちゃんの表情をじっと見つめていた比企谷君は小さく息を吐くと起きあがろうとしていた頭を再び膝に沈めた。

 

「……じゃ、お言葉に甘えて」

 

「最初から素直にそうしていればいいのよ」

 

 声はいつも通りなのに、雪乃ちゃんの表情は通常の三割増しくらいで明るい。比企谷君は既に瞼をおろしているのでこの表情の雪乃ちゃんを拝めていないだろう。何あの子、天使かな? 妹でした。

 テニス部の練習している声に混じって、かすかに彼の寝息が聞こえてくる。目が輝くだけでイケメンになってしまう比企谷君は、つまり目を閉じるとイケメンになってしまうわけで、穏やかな寝顔のイケメンを優しい表情の美少女が膝枕している光景は驚くほど絵になっていた。絵になりすぎていて、写真にして大賞に送れば最優秀賞をもらえてしまうレベル。

 

「うおっと」

 

 二人を眺めていると、風向きが変わった。さっきまでの臨海部から吹き込んできていた風が、まるで帰っていくかのように陸側から流れていく。

 

「ん……」

 

 その風の変化に雪乃ちゃんの膝の上の比企谷君はぶるりと震えて、暖を取ろうとしたのか腰にしがみついた。下腹部に顔を押し付けてもぞもぞと動いて熱を吸収しようとしている。

 

「ひぁっ……」

 

「ぁ……ごめん、嫌だった、よな……」

 

 驚いた声を上げた雪乃ちゃんに、申し訳なさそうに謝って離れようとする。彼の表情はうかがえないが、おそらくこの幼くすら感じる声からして甘えモードになっていることだろう。その証拠に、雪乃ちゃんは比企谷君の腕に手を添えて小さくかぶりを振った。

 

「別に、嫌ではないわ。ちょっと驚いてしまっただけで。……だから、もう少し寝ていていいのよ」

 

「ん……」

 

 雪乃ちゃんの言葉に安心したように再び眠りにつく。その光景はやはり絵になって、どこか羨ましかった。「ずるい」とどろりとした感情がまた身体の奥から湧いてくる。前は何に対しての「ずるい」なのかわからなかったこの感情はおぼろげに形を作ろうとしていた。けれど、その焦点がなかなか合わない。そのことが、さらに私の中にもやもやを募らせていった。

 

「せんぱ~い! ……あれ? 雪ノ下せんぱ……って、先輩達一体何してるんですか!」

 

 キャピキャピとした声に意識を引き戻された。どうやら、いろはちゃんがやってきたようだ。そうだよね。そうやって慌てるのが普通の反応だよね。最近私の常識が本当に常識なのか不安になっていたところだったもの。

 

「あら、一色さん。別に大したことはしていないわ。この寝不足谷君が眠そうだったから、私の膝を提供しているだけよ」

 

 いけしゃあしゃあとのたまう雪乃ちゃんについつい頭を抑えてしまう。生徒会長という立場でもあるいろはちゃんはうつむいてふるふると肩を震わせている。

 

「……ずるい」

 

 ん?

 

「ずるいですよ雪ノ下先輩! 私も甘えん坊なせんぱいに膝枕したいです!」

 

 あの……あの子生徒会長だよね? 生徒会長が学校の風紀乱しにかかっているんだけれど。風紀委員仕事して! そういえばこの学校の風紀委員って見たことない!

 いろはちゃんはトトトッと二人に近づくと雪乃ちゃんとは反対側に座り、比企谷君の膝枕役を変わろうとする。睡眠を邪魔された彼は状況が飲み込めていないようで、混乱しながら二人になすがままにされていた。傍から見れば修羅場にも見える光景。だけれど、当の本人達はどこか楽しそうで――

 

「…………っ」

 

 私は静かに総武高校を後にした。

 

 

     ***

 

 

 結局、比企谷君が私に抱きついてくるヒントはなにも見つけることは出来なかった。男の子――かわいいけれど――にも抱きついていたし、ちょっと強引に迫ったり、素直に誘ったりしても抱きつくようだ。年上は対象外なのかとも考えたけれど、月曜にめぐりにも抱きついていたみたいだし……本当にわからない。となると、今まで通りもっとデートに誘って誘惑するしかないのだろうか。でも、毎回あの嫌そうな顔されるし、そもそも誘惑と言うのも結構恥ずかしいもので……それをいなされるのはそれ以上に恥ずかしいわけだ。

 

「…………さん……」

 

 やっぱり、そもそももう私には抱きついてこないわけだし、気にしない方がいいのかな。ここまでずっとやってきてそれは逃げに見える。ここまでやって逃げるなんて、悔しいというか……。

 

「雪ノ下さん!」

 

「っ!?」

 

 名前を呼ばれて我にかえる。声の主はコートの向かい側にいる文子ちゃん……ってコート? 周囲を見渡すと、大学内にある屋内テニスコートだ。私はそのコート内に立っていて、お互いテニスウェアに身を包んでいた。……ああ、つまりはそういうことか。

 

「なにをぼーっとしていますの? 早く勝負を始めますわよ!」

 

 うざい。

 普段は息抜きに使うおもちゃが、今日はやけに煩わしく感じる。あーあ、なんでこんなのに関わっちゃったかな。今は静かに一人で考えたいって言うのに。

 本当に面倒くさい。

 けれど、自分の撒いた種だ。ストレス発散ついでに遊ぶとしよう。

 レシーブのために立ち位置をずらして、構える。高校の頃はテニス部だったらしい彼女は、まあ上手い方だろう。私は負けたことはないけれど。高い打点で放たれたサーブの軌道をとらえ、余裕を持ってサイドに打ちか――

 

「つっ……!」

 

「アウト……ですわね」

 

 私のレシーブはあらぬ方向に飛んでいってしまった。インパクトの瞬間に頭の中に比企谷君の姿がちらついたせいで、打点がずれてしまったのだ。さすがに、文子ちゃんは考え事をしながら相手できるほどやわな相手ではない。集中しなければ……ああでも、そういえば比企谷君も結構テニス上手いらしいな。割となんでもできるし、やっぱり磨けばかなり光る逸材かもしれない。

 ……って、集中と言ったそばから全く集中できていない。ちらちらと彼の影がちらついてその度に身体の動きが鈍る。それが細かいミスに繋がり、どんどん点差は開いていく。観戦にきた友達も困惑の声を上げていそうだが、視界の狭まっている私には知覚できない。

 このままだと、負ける。たとえ学生の遊びでも、雪ノ下陽乃に負けは認められない。ここで負ければ今まで築いてきたカリスマにひびが入ってしまう。それなのに、私自身の存在の危機だというのに、追い込まれれば追い込まれるほど頭は猫背の後輩の気だるそうな姿で埋め尽くされていく。どこか達観した姿に塗りつぶされていく。全力で甘えるギャップのあるあの表情に覆い尽くされていく。

 

 

 ――ずるい。

 

 

 ここ最近、ずっと心の中に渦巻いていたその言葉の意味をようやく理解できた。そうか、私は比企谷君のことが……。

 気づくと足は完全に止まっていた。もう勝負のことなんて頭の中からなくなっていたのだ。このまま負けてしまうことを悟って顔を上げると。

 

「文子……ちゃん?」

 

 文子ちゃんが目の前にいた。こんな近くにいたのに気づかないなんて、どれだけ比企谷君のことで頭がいっぱいになっていたのだろうか。

 彼女は普段は見せないような神妙な顔で私を見つめて、小さく頷く。そしてギャラリーの方に振り向くと、いつもの口調で彼女たちに声をかける。

 

「どうやら雪ノ下さんは体調を崩されていらっしゃるようですわ。それに気付かないなんて、私もまだまだのようです。私が彼女を保健室まで連れて行きますので、皆さんは授業の準備に戻ってくださいませ!」

 

 そのまま私の腕を掴むと、更衣室に引っ張っていった。更衣室に入ると、ベンチに私を座らせてその前にしゃがみこむ。その目は驚くほど真剣でまっすぐで、こういう目もできるんだと、場違いなことを考えてしまうほどだった。

 

「雪ノ下さん、私は毎度あなたに勝負を挑んでいますが、わざと負けてもらおうなんて考えたことはありませんし、そんなことをされて嬉しいとも思えませんわ」

 

「ち、違うんだよ文子ちゃん! 私、わざと負けようなんてそんな気……」

 

 そんな気があるわけがない。どんなことでも勝負である以上、負ける気でいくことなんて一度もなかった。

 

「それじゃあ、さっきの試合はなんですの? いつものあなたのような優雅さも華やかさもない。体調が悪いわけではないのでしょう? 一体どうしてそんなことになっているんですか!」

 

「そ、それは……」

 

 吐き出したい。自分の自覚した気持ちを吐き出したくてしかたがない。それなのに吐き出そうとしても吐き出そうとしても声に意味を持たせることができなくて、それでも無理やり出そうとした結果。

 

「ゆ、雪ノ下さん……?」

 

 それは涙となってあふれ出した。

 

 

 

 最後に涙を流したのは何年前だろう。少なくとも中学校以前だったと思う。久々に流した涙はなかなか止まらなくて、そんな私の背中を文子ちゃんはなにも言わずに撫でてくれていた。やさしいな。こういう一面もあったなんてちょっとびっくり。

 

「そんなの押せ押せですわ!」

 

 そして、ようやく私が今の自分の状況を話した結果がこれ。ド直球ってレベルじゃないよね、それ。

 

「雪ノ下さんはその殿方のことが好きなのでしょう? それならば自分の気持ちに素直になればいいのではなくて?」

 

「けど……私から行くのは……」

 

 どうしてもついて回る雪ノ下陽乃の肩書き。自分から男に惚れ込んでしまうなんて、どこか負けた気がしてしまう。それにやはり私はまだ、彼のあの表情を見ることで己の芯が揺らぐ感覚に恐怖があるのだ。だからあのときだって彼を拒絶して……。

 

「ぁ……」

 

 そこまで考えて、ようやく気付くことができた。きっと彼はあのとき、私が突き飛ばしてしまったことで抱きついてこなくなったのだ。彼は優しいから、人が本当に嫌がることはしないから。

 なんだ、私のせいじゃないか。それなのに、雪ノ下陽乃のプライドのせいで彼から向かってきてほしいなんておこがましいにもほどがある。

 それなら……。

 

「覚悟は決まったようですわね」

 

「……うん。ありがとう、文子ちゃん」

 

 私は何もしていませんわ、笑う文子ちゃんを見るとおかしくなって、ついつい私も笑ってしまった。まだ胸の中にはもやもやが残っている。それでも、その靄の先に淡く優しい光が感じられた。

 

「じゃあ、私行くね」

 

「ええ。後顧の憂いが晴れましたら、今度こそ全力のあなたに勝たせていただきますわ!」

 

 いつもの調子でビシッと宣言する彼女にひらっと手を振って更衣室を後にする。なんとなく、次の勝負が楽しみな私がいた。

 

 

 まあ、当然負ける気はないのだけれどね。

 

 

     ***

 

 

「……雪ノ下さん?」

 

 比企谷君を捕まえられたのは彼の帰り道の途中だった。下校時刻を過ぎていた時はかなり焦ったけれど、とりあえず会えて一安心。……けど、ここからどうすればいいんだろう。やばい、なんも考えていなかった。

 

「ひゃ、ひゃっはろー……」

 

 発する声も緊張からか少し小さい気がする。私らしく振る舞えていないと思いつつも、どうすることもできなかった。

 

「どうしたんですか?」

 

「あ、え、えーっと……」

 

 どうしよう。本当にここからどうすればいいかわからない。頭の中がぐるんぐるんするよ……こんなの初めてだ。

 まったく意味をなさない“どうしよう”で頭の中が埋め尽くされていたけれど、「あー」という声にはっとする。比企谷君は何か考えるように頭を書くと、「ちょっと公園寄っていきません?」と促してきた。

 もう夜に近い時間の公園には人の姿はなく、外套が淡い光を伝える。二人して座ったベンチで、お互いしゃべることはなかった。正確には私が話すのを比企谷君が待っていてくれたと言った方が正しいかもしれない。隼人だったらきっとここで「大丈夫? 何があったの?」なんて不躾に聞いてくるだろうな。今は、この沈黙がありがたかった。

 けれど、いつまでも黙っているわけにもいかない。黙るためにここにいるわけではないのだから。

 

「あの、ね。私、君に謝りたいんだ……」

 

 ぽつりと、始めの声が漏れる。そこからは堰を切ったように言葉が続いた。抱きつかれた時のこと、抱きついて欲しくてデートに誘ったこと。けれど、全然抱きついてもらえなかったこと。

 

「比企谷君に嫌われちゃったかな……って……」

 

 やっと“好き”を自覚できたのに、嫌われちゃったらどうしようもないな。きっと今の私の関係はゼロどころかマイナスだ。今のは気にしないで、と立ち上がろうとしたけれど、比企谷君の発した声に止まる。

 

「俺は、雪ノ下さんを嫌いだと思ったことはないですよ」

 

 彼を見ると、どこか照れたようにそっぽを向いていた。いや、これは本当に照れているんだろうな。

 

「確かに、苦手だと思うことはありますよ。拒否すらさせてもらえないし、からかってくるし。けど、嫌いだと思ったことは一度もありません」

 

 ほんと? と聞くと、少し顔をこっちに向けて小さく頷く。外套の白い光にうっすら照らされる彼の顔は、ほんのりと朱に染まっていた。

 そっか、嫌われてないのか。比企谷君がそう言ってくれたのが、思いの外嬉しくて――

 

「ゆ、雪ノ下さん……?」

 

 比企谷君を抱きしめていた。胸に頭を沈めた比企谷君が困惑の声を上げたけれど、そんなことを気にする余裕もなかった。

 

「比企谷君も、抱きしめて?」

 

「……大丈夫なんですか?」

 

 ああ、やっぱり彼は優しい。また私の“雪ノ下陽乃”が拒否反応を示さないか心配してくれている。そんな彼に笑いかけて、私は被りを振った。

 

「比企谷君なら、大丈夫だよ」

 

 小さく息を飲むと、比企谷君がおずおずと背中に手を伸ばしてきて、ギュッと抱きしめてきた。少し釣り目気味の目尻はとろんと垂れて瞳は寝起きの子供のように幼くなる。

 

「はるのさん……」

 

ああ、これはダメだ。何がダメって、“雪ノ下陽乃”の発する警鐘よりも、もっと抱きしめたい、仲良くなりたい、好きで好きで仕方がないという想いの方が何倍も勝っていた。彼の前では、もはや雪ノ下家の長女ではいられない。一人の女の子になった自分がいたのだ。

 強く、比企谷君に負けないくらい強く、彼の背中にまわした腕に力を込めた。

 

 

     ***

 

 

「……ふふ」

 

 すっかり日も落ちた夜道を一人歩いていると、どうしても緩む頬を正すことができなかった。あの後、気恥かしくなって彼とは別れたけれど、それで正解だっただろう。彼が近くにいたら、いつまでも抱きついていなければ気が済まなかっただろうから。

 けれど、これで私はようやくスタート地点に立ったに過ぎない。彼の周りには、妹も含めて魅力的な女性がいっぱいいる。そんな中を、学校も違う私が遅れて参加するのだ。今の旗色は正直厳しい。

 それでも負けは許されない。だって私は雪ノ下陽乃だから。

 携帯を取り出して、アドレス帳から見知った名前を呼び出す。数回流れたコールの後に聞こえてきたのは実年齢よりも落ちついた、それでいてかわいらしい声。

 

『もしもし、姉さん? 何の用かしら?』

 

 電話に出た雪乃ちゃんはいたっていつも通りだ。そんな妹に今から爆弾を投げ込もうとしていると考えると、ちょっとだけ心が痛んで、それ以上に面白かった。

 

「雪乃ちゃん! 私、絶対比企谷君を振り向かせるから! 雪乃ちゃんには負けないからね!」

 

『え、ちょっと、姉さん!?』

 

 困惑している雪乃ちゃんにちょっと笑いそうになりながら通話を切る。次会ったときに宣戦布告された雪乃ちゃんがどんな反応をするのか少し楽しみだった。

 そして、再びアドレス帳から名前を呼び出す。愛おしくて仕方のないその名前についにへらっと緩んだ頬をできるだけ引き締めて、通話ボタンを押した。

 出遅れたのなら、誰よりも積極的になるだけだ。

 

『もしもし?』

 

「比企谷君、さっきぶり! 週末、またデートに行こうよ!」




というわけで完結です


今回は露骨な八陽というわけではなく、はるのんがはちまん争奪戦に参戦する話にしてみました
なんかハーレム物になってしまった感


ただ、今回同時にめぐりんやルミルミを初めて書いてみましたが、この二人もかわいいなあ
特にルミルミがすっごい書きやすかったです
気が向いたらルミルミ単体も書いてみたいかな


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