銀河英雄伝説 仮定未来クロニクル (白詰草)
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序 星の灯火

 新帝国暦3年・宇宙暦801年7月26日、新銀河帝国初代皇帝、ラインハルト・フォン・ローエングラム崩御。伝説は終わり、歴史が始まる。

 

 それでも人は生きていく。昨日から今日に、そして明日へと向かって。

 

 新銀河帝国とバーラト星系共和自治政府の黎明(れいめい)期。

英雄らが屍の山と血の河を築き、涙の海を越えて得た平和。

遺された、いや生き抜いた者たちよ。

座りこんだ脚を(ひた)す、その海から立ち上がれ。

落ちた巨星の欠片を灯火(ともしび)に掲げ、人々によって地上に星の海が生まれる。

これは、伝説の後のお伽話。

 

 



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宇宙暦801年/新帝国暦3年 宇宙(そら)から大地へ
But it My Home


 宇宙暦801年9月。フレデリカ・(クリーンヒル)・ヤンは、夫と共にハイネセンの土を踏んだ。二年ぶりのことである。黒髪の夫は、二度と目覚めぬ眠りについていた。それは一年三か月前。

 

 ようやく、この星で大地を(しとね)に眠らせてあげられる。朝寝と昼寝の好きな人だったから、狭くて冷たい保存カプセルではさぞ不満だったろう。彼が最も長い時間を過ごしたのは、星を散りばめた真空の海であった。彼はそこが好きだったようだが、宇宙も彼を寵愛すること限りなかっただろう。

 

 だから、これはフレデリカの我儘だった。大気と重力の井戸の底、手の届くところに夫を留めておきたいと。いずれ、ハイネセン郊外の公共墓地の片隅に、簡素な墓標を立てて葬ることになるだろう。フレデリカにとっての義理の両親は、ハイネセンから150キロほど離れたサンテレーゼに眠っている。その傍らも考えないではなかったが、往復で5時間近い時間を墓参に充てられるのは当分先のことになる。

 

 まもなく、第一回のバーラト星系共和自治政府の総選挙を行うのだから。

 

 イゼルローン要塞からのヤン不正規軍らの退去は整然たるものだった。皇帝ラインハルトとの最終決戦で、これあるを予想していたアレックス・キャゼルヌが入念な準備を怠らなかったからだ。第一次神々の黄昏作戦の際よりも、退去者の人数は遥かに少なかったし、民間人もほとんどいなかった。また、帝国軍にしっかりと足と警備を提供させた。軍としての武力は勝っても、軍官僚の折衝能力の違いは歴然としていた。

ヤン艦隊が戦い抜いた陰には、キャゼルヌ中将の補給と兵站能力、さらには資金調達の才があってこそだった。

 

 新銀河帝国の文官らは慄然とした。約五百年続いた門閥貴族制。皇帝ラインハルトによって、貴族資本の殆どは帝国の直営企業となった。

 

 貴族の殿様商売から、国家の親方日の丸体質への変貌にすぎない。剣で勝てても算盤では負ける。キャゼルヌは卓越した経済官僚だが、彼に迫る能力の者は旧同盟政府や民間企業にもごろごろいる。

 

 (ひるがえ)って、新帝国はどうか。カール・ブラッケやオイゲン・リヒターら、貴族出身でも開明的な官僚が民生や財務に新風を吹き込もうとしている。

 

 だが、同盟では二百年前からそれに取り組んでいた。政治家が腐敗しても、末端の公務員らの多くは粛々と役割を果たしていた。救国軍事会議のクーデターや双璧によるハイネセン包囲と帝国への降伏、その後の皇帝大親征や新領土戦役の間でさえも。

 

 それらの出来事に端を発する暴動の際にも、病院は負傷者を収容し、死者らの身元を特定し、遺族に引き渡したり埋葬したりしてきた。社会サービスやインフラ整備の低下が深刻化していた同盟末期であっても。これが知識やノウハウの蓄積の差というものであった。

 

 だから、イゼルローンからの帰還者第一陣で宙港がごった返すようなことにはならなかった。重要人物であるフレデリカは、薔薇の騎士の生還者たちに警護されている。当面は、旧同盟軍の軍宿舎に入居することになっている。これもキャゼルヌの交渉の結果だ。本当に頭が下がる綿密さで、夫同様そのまま頭が上がらなくなるだろう。

 

 そう思って、フレデリカが苦笑した時であった。宙港職員の女性が一通の封書を手に彼女らの元に歩み寄ってきたのは。警護の歴戦の勇士らが身構えかける。フレデリカと同年齢ほどの女性は歩みを止めて笑顔を浮かべた。軍人が怖くて接客業はできない。お客様は神様で、下手をうつと祟り神になるのだから。やはり遠巻きに見張っていた帝国軍の兵士は、ほとほと感心した。同盟の女性は傑物ばかりだ。

 

「フレデリカ・G・ヤン様でいらっしゃいますね。

 ヤン様あてにおことづけの封書が届いております。

 大変失礼ながら、危険物等の検査は弊社がさせていただきました。

 お受け取りいただけるでしょうか?」

 

 フレデリカは首を傾げた。封書の差出人の名に心当たりがない。夫と同様に彼女自身の父母は既に亡く、双方親族とは没交渉である。だが、姓のほうはその限りではない。コンピューターにも比されたほどの、金褐色の下の記憶野から数秒のうちに心当たりが検索された。しかし、またどうしてだろう。

 

 彼女は再び首を傾げた。ミルベール。亡き夫、ヤン・ウェンリーと、短くも幸せな新婚生活を送った新居。そこの家主の姓であった。だが、家主は老齢の男性だった。彼の名は失念したが、差出人の名と筆跡は女性のものだ。そこまで考えて、フレデリカは小さな声で叫んでしまった。周囲の怪訝な顔に、慌てて何でもないと伝える。しかし、一気に体温が上がってこめかみに汗がにじんできた。

 

 同盟政府による、ヤンの不当な拘束。シェーンコップらの助けを借りて、救助に向かった時には、夫は銃殺される寸前だった。帝国の高等弁務官を人質にして、ハイネセンから脱出するという立体映画(ソリムービー)の悪役なみの所業を皮切りに、イゼルローン要塞の再奪取、皇帝ラインハルトとの決戦、夫の死、そして彼の弟子による皇帝ラインハルトとの最終決戦。

 

 その中ですっかり忘れていた。あのフレモント街の家が、貸家であったことを。記憶力がいいなんてとんでもない。ミルベール氏にとって、さぞや迷惑なことだったろう。家賃ももう二年以上不払いだ。ヤンとフレデリカの銀行口座は封鎖されてしまっていたから。

 

 そして、さまざまな家財や私物のほとんどを置き去りにしてきた。あのゴミ箱や冷蔵庫の中身はどうなったことであろうか。もちろん家宅捜索も入っただろう。帝国か同盟かどちらの憲兵かはわからないが。

 

 いろいろと考え出すと、貧血を起こしそうだった。封書の中身を読むのは、心を落ち着かせて、人目のないところにすべきだろう。無論、ちゃんと腰かけてだ。ばったり倒れてもいいように。

 

 ああ、こんなミクロのことでも気が重いのに、ハイネセンの10億人を背負っていけるものだろうか。亡きあの人が、日常の色々を被保護者に頼っていたのも今なら納得できる。結婚後の行状については、あまり弁護の余地はないが、フレデリカ自身主婦として有能とは言えなかった。これを追求されると、自分の心の方が痛む。ヤンが幸せ太りしたことはなかったのだから。

 

 彼女は気もそぞろにマスコミのインタビュアーらを追い払い、ようやく宿舎に落ち着いた。封を開け、深呼吸を一つしてから手紙を開く。ヘイゼルの視線が文字を追うにつれて、困惑から驚愕に突き落とされる。全文を読み終わるや否や、彼女は蹌踉(そうろう)と立ち上がった。

 

「大変だわ……どうしましょう」

 

 エル・ファシルからの脱出の準備の最中も、軍事クーデターの首謀者を父だと知った時も、こんなに慌てたことはなかった。自分の知らない間の出来事だったからか、黒い髪に線の細い背中の持ち主がいないからなのか。とにかく、宿舎の狭い部屋を飛び出して、頼りになる先輩の部屋のドアを叩く。迎えてくれたのは、父譲りの薄茶色の瞳。頭一つ下の位置から、きょとんとして見上げてくる。

 

「どうしたの、ヤンおばちゃま?」

 

「ああ、シャルロット、お母さんはいらっしゃるかしら」

 

「今、食堂の手伝いに行ってるわ。

 あ、ちょっと待ってて、妹に呼んできてもらうから。

 とにかく、中へどうぞ。座ったほうがいいと思うよ。顔が真っ青だもの」

 

 あの母にしてこの娘ありというべきか、12歳とは思えぬ判断だった。軍人用の宿舎は狭く、ベッド以外にこれという調度はない。その一つにフレデリカを座らせると、妹に母を呼びに行かせ、コーヒーとチョコレートまで出してくれた。インスタントでごめんね、と詫びながら。

 

 ほどなくして、下の娘に手をひかれたオルタンス・キャゼルヌが戻ってきた。フレデリカの様子にこちらも目を丸くした。

 

「まぁ、フレデリカさん、どうなさったの?」

 

「あの、何から申し上げたらいいのかしら……。

 オルタンスさん、私達の家の後始末をして下さったんですね。

 今まで忘れていたなんて、本当にお恥ずかしいですわ。

 そして、ありがとうございました」

 

 彼女のただならぬ表情に、息を詰めていた家事の達人は大きな吐息をついた。

 

「ああ、びっくりしたわ。何かと思えば、気にしなくてもよかったのに。

 あそこは私の伯父の持ち家だもの。姪の私が手伝うのは当然だわ」

 

「え?」

 

「ヤンさんもね、家さがしに大変だったのよ。何しろ国家の英雄でしょう。

 なかなか不動産屋を回るわけにも行かなくて、アレックスに心当たりがないか聞きにきたの。

 だから、私が伯父を紹介したのよ。

 とにかく頑固なおじいちゃんなんだけど、口の堅さは保証できるから」

 

 オルタンスはこともなげに種明かしをした。ヤン・ウェンリーは、あまり目立つ容貌の人ではないのだが、メディアに報道されるたび、センセーショナルな功績との二人連れで紹介されていた。

 

 エル・ファシルの、アスターテの、イゼルローンの英雄。バーミリオンで皇帝ラインハルトを指呼の間に捉え、撃破の寸前まで追い詰めた名将。最初に報道されてから、十年と少々。あまり容貌が変わっていないせいで、彼の顔は国民みんなが見知っている。下手に住居がばれたら、イエロージャーナリズムの好餌にされてしまう。だから、信頼のおける人のコネを頼ったのである。それがオルタンスの伯父だったというわけだ。

 

「そうだったんですか……では、オルタンスさんは伯父さまが倒れたことは御存じなんですか?」

 

「ええ、伯母がこぼしていたわよ」

 

 ミルベール氏は、たしかに頑固な御仁であった。帝国の憲兵が家探しに入ろうとしたところに、声を張り上げて抗議をした。曰く、中の家財はヤン元帥のものだが、家屋敷は自分のものだ。中を改めるならちゃんと同盟の法に則ってもらう。それがないなら、家に入らず捜査をすることだと。ヴェニスの商人ではあるまいに無理難題である。

 

 当然、憲兵らと押し問答になった。彼は心臓病の既往歴があったのだが、興奮してまた発作を起こした。幸か不幸か、軍人は救急救命処置は手慣れたものだ。大慌てで処置をしながら病院に搬送したおかげで、大したことにはならなかったのだが。

 

 彼は、若いころの戦傷が元で、たいそう悪筆であった。また、心臓発作の合併症で呂律が回りにくい。だから手紙は夫人が代筆した。ただし、頭はしっかりしていて、リハビリのおかげで発音は大分良くなってきた。

 

「もうすぐ九十歳なんだから大人しくしてくれればいいのにねえ」

 

 人騒がせな、と言わんばかりのオルタンスだった。

 

「おかげでね、家宅捜索や差し押さえなんてできなかったみたい。

 伯母が年寄りを殺して、財産を奪う気ですかと猛抗議をしたそうでね。

 そして、ヤン提督の家財が不当に奪われたり、

 秘密捜査で罪をでっちあげられるのも座視はできない、

 旧同盟の裁判所に申し立てするって。

 似た者夫婦なのよ、うちの伯父と伯母はね。

 だから、私がしたのはごみと生物の始末だけよ」

 

「あの、家賃のほうはどうなっていたんでしょう」

 

「そっちは、エル・ファシルに合流してから、アレックスが送金しておいたそうよ。

 ヤンさんの給与天引きでね」

 

 フレデリカは、シャルロットの先見の明に深く感謝した。座っていなければ床にへたり込んでいるところだったろう。

 

「どちらにしろ、あのヤン・ウェンリーの家を、誰かに貸したり売ったりはできないのよ。

 ヤンさんのご家族以外にはね。後から入った人が、不当に非難されることになるわ」

 

 その優しい眼差しに、この白き魔女が手紙の内容を知っていることをフレデリカは確信した。それは、生前贈与の申し出だった。夫は病後で、手紙を書いた夫人も体調が心もとない。彼ら夫婦の息子は、子供をもうける前に戦死し、未亡人は実家に帰ってもらった。彼女は再婚したが、幼い息子を残して夭折(ようせつ)。その再婚相手と子も既に亡くなっている。近親者は姪一人で、彼女に相続の諸々を背負い込ませるのも気の毒だ。今のうちに身軽になっておきたいと。

 

 その手紙にはこう続いていた。故ヤン元帥の境遇は、息子の嫁の子に似ている。私達は、彼に『孫』を見ていた。あなたのことは孫の嫁同然に思っている。もしも、受け取る意志がないならば、彼の『息子』に託していただけないか。私達夫婦にとって、『曾孫』ができるのは望外の喜びである。とにかく、一度あなたたちの家に戻ってきてほしい。家は人手をかけないと痛んでしまうから。

 

 フレデリカは逡巡のうえ、口を開いた

 

「いいのでしょうか……」

 

「あなたはもっと欲張りになってもいいと思うわ。ユリアンくんもね。

 くれるというものなら、感謝して貰っておきなさいな。私もその方が楽になるしね。

 あなたは、次の選挙で多分主席官邸に住む事でしょうけれど、

 それまでの間と、ユリアンくん達には家が必要よ。

 ヤンさんの蔵書の面倒を見てくれるのは、あの子しかいないのではないかしら。

 とにかく、一度行ってごらんなさい。伯母には私から連絡をしておくわね」

 

「はい、本当にありがとうございます……」

 

 その後、雑事を片付けてどうにか時間を取った。9月の下旬。ハイネセンに秋風の季節が訪れていた。空には雲の細波が立ち、夏の頃より涼しげな蒼が穏やかになった陽光を引き立てる。

 

 フレモント街の借家は、二年前と変わらぬ外観で、家主が手を入れてくれていたことがわかった。綺麗に刈り込まれたツゲの生け垣がその証拠だ。ミルベール氏が発奮して、この生け垣を刈りこんだが、それが祟って腰を痛めたという連絡が入っていた。姪をまたも呆れさせたが、ご老人は予定の変更を受け付けなかったのだ。

 

 車椅子の老人と、それを押す夫人。傍らには、ブリーフケースを提げたダークスーツの壮年の男性。フレデリカは、彼らに一礼した。キャゼルヌ母子も一緒である。その様子に、老夫婦は相好を崩した。

 

「今まで大変ご迷惑をおかけしました。

 それなのにこんなご厚情をいただき、心からお礼を申し上げます」

 

「いや、私ら国民はヤン元帥に何も報いていないよ。

 この家だって、今までちゃんと家賃をいただいてきた。

 ヤン夫人、とにかく中を確認してみてください。

 時々は掃除を入れたが、全部はとても無理でしたからな」

 

 ミルベール氏の口調は、ややゆっくりとしていたが、充分に明瞭なものだった。夫人が言い添える。

 

「ええ、お部屋の中をいじるわけにはいきませんからね。

 埃よけのカバーは掛けさせてもらったけれど」

 

「いえ、お心づかいに感謝しますわ」

 

「じゃあ、お入りになってください。私達はオルタンスと話をしておりますから」

 

 ミルベール夫人から鍵を渡されて、フレデリカは玄関の扉を開いた。かつての新居の匂いに包まれる。手の中の鍵を握りしめて、彼女は屋内に進んだ。熱くなり始めた目頭に力をこめながら。

 

 玄関からすぐの部屋はまだ空き部屋。将来的には子供部屋にしようと思っていた。次は小さな客間。ここもソファーとテーブルが置いてあるぐらい。新婚家庭の来訪者は、ヤンとフレデリカの先輩夫婦一家ぐらいだったから。

 

 家の中央にはダイニング、奥にキッチン。危なっかしい手つきの彼女の調理を、黒髪の夫がはらはらしながら見守っていた。さすがと言おうかキッチンは綺麗に片付いていた。食器棚の中や調理器具まで整然と整頓されている。無論、冷蔵庫や保存庫も空になっていて、彼女は大いに安心した。浴室、トイレ、水周りは完璧である。今すぐにでも使用できそうなほどだ。

 

 二階に上がると夫妻の寝室と夫の書斎。空き部屋は二つ、一つは客用寝室、もう片方は用途未定。書斎のドアを開けるのには、少なからぬ勇気が要った。またしても匂いに包まれる。古い本と古くなり始めた本の匂い。薄く香るのは紅茶の残り香か。安楽椅子の傍らのサイドテーブルに、乱雑に積まれた本。書きかけのメモが栞代わりに挟み込まれている。

 

 なのに、彼だけがいない。今にも椅子の上から、眠たげな優しい声が聞こえてきそうなのに。

穏やかな抑揚で名を呼んで、触れてくる温かく乾いて感触のよい手。髪を梳き、頬を撫で、壊れ物のようにそっと抱きしめられた。銃を握らなかったその指は、軍人にしては細く、中指にペンだこがあった。

 

 それが何百万、何千万の血で染まっていることを、彼は忘れることはなかった。だが、フレデリカは構わなかった。自分にとっては、誰よりも愛しい優しい手。血の海に座り込んで、一人ぼっちで息を引き取るのが、似合う人ではなかった。

 

「ほんとうに、化けて出てきてくれてもいいのよ、あなた」

 

 あとはもう、言葉にはならなかった。椅子の前の床に座り込み、金褐色の髪を帳に、ヘイゼルを瞼と白い手で覆って、実に一年以上ぶりに声を上げた。言葉にならない嗚咽を。

 

 

 家の外回りや庭木の様子を見て回りながら、老婦人は姪に囁いた。

 

「オルタンス、やっぱり早すぎたんじゃなかったかしらねぇ」

 

「でもね、伯母さま、

 フレデリカさんはこれからヤンさんの名を背負って立たなくてはいけないのよ。

 もう泣く事はできなくなるわ。今のうちに思いっきり悲しむ時間が必要だと思わない?」

 

 ミルベール夫人は二階の窓を見上げて、気遣わしげな表情になった。

 

「ええ、でもこれで立ち上がれなくなってしまわないかしら」

 

「私はそうは思いませんよ。ヤンさんが選んだひとだもの。

 あの人は優しいけれど自分に厳しい人だった。

 フレデリカさんは14歳のころからそれを見てきたのよ。

 簡単には折れたりしないわよ。だって、似た者夫婦だったんですものね」

 

「そう、でもそれはそれで問題ねぇ。まだお若いのに……」

 

 ヤンの母のように、息子の元妻のように、新たに愛する人を見つける人生もあっていい。

 

「それはまだしばらくは無理でしょうけどね」

 

 あるいは彼女の生涯を通じて。政治的にもそうだが、何より感情的に至難の業だ。初恋の種は芽吹いて根付き、フレデリカ・G・ヤンの精神の根幹を形づくり、交友の枝葉を茂らせ、思い出という果実を抱く。

 

 それを引っこ抜くのは、皇帝陛下でも無理だった。さて、初恋にして成就した愛の相手に勝ちうる人間がいるだろうか。

 

 宇宙の誰にも負けることのなかった、黒髪の魔術師に。

 

「確かに、文字通りの老婆心だったわね。ただねぇ、ここを貰ってくれるかしら。

 ほんと誰にも貸せないし売れないし、維持費も固定資産税も、そのうち相続税もかかるのよ」

 

 そこに、反対周りを回ってきたミルベール氏が合流した。

 

「おいおい、私はそんなにすぐには死なんぞ。

 だがなぁ、ハイネセンが新領土になってから、ここらの地価は下落が激しいんだよ。

 下手に転売すると大損なんだ。

 寄付というかたちにして、税金の類を免除してもらったほうが我々みんなが幸せになるんだ。

 むろん、最終的な相続人はオルタンスだが、そのころは建物の価値もさらに下がっているぞ。

 あちらの司法書士さんの試算によれば、固定資産税の分だけ損をすることになる。

 老人の蓄えを無駄にせんようにしてもらいたいんもんだ」

 

 ダークスーツの男性は、困った顔をした。名誉な曰くつきの物件なのである。

 

「伯父さま、早手回しがすぎますよ」

 

「わたしもね、そう言ったのに聞きやしないんだから」

 

 女性二人の呆れ顔にも、ミルベール氏は頑固に言った。

 

「善は急げだ。選挙で立候補する前に済ませたほうがいい。

 ヤン夫人が受け取らなんだら、軍司令官だったお若いのに連絡してもらう」

 

 夫人のほうは肩を竦めた。

 

「ほんとに年取ってせっかちになっちゃってね。まあ、明日があると思えないのが年寄りだから。

 だからオルタンス、あなたが頼りよ。なんとか言い含めて、ヤンさんを頷かせてちょうだい」

 

「伯母さまもりっぱにせっかちよ。まあ、ちょっとは時間を下さいな」

 

 オルタンスも、伯母に倣って二階の窓を見上げた。フレデリカが忘れていたというわけではないだろう。触れることもできない痛みだから、考えないようにしていたというのが恐らく正しい。彼女の立場に自分が置かれたらと考えると、本当に頭が下がる。

 

 この家の想い出は、愛おしくも辛いものだろう。だが、他人がここに住むのは更にいたたまれないだろう。

 

 きっと、彼女は最終的に頷く。住所をここに置いて、選挙に出馬をするといい。アーレ・ハイネセンの精神を、ヤン・ウェンリーの精神を継いで、星の海から地上に回帰する。ここは天上ではなく、楽園でもない。でもここはあなたの家なのだから。



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So What Again.前編

イゼルローン要塞からハイネセンへ。巨星を相手に、民主共和制の種火を守ろうとした者たちが、少しずつ降り立ち始めた。第一陣は、イゼルローン自治政府の主席であった、フレデリカ・グリーンヒル・ヤンを代表とする面々。

 

 第二陣は、ダスティー・アッテンボローを中心とする、イゼルローン軍の中心者たちだった。彼らは、先帝ラインハルトとの約定に基づく、バーラト星系の自治政府の選挙に出馬する予定である。

 

 後片付けはこっちでやるから、さっさとあちらで準備を始めろ。そう言って、キャゼルヌ中将は、超光速通信(FTL)で後輩のアッテンボロー中将を追い立てた。だが、鉄灰色の髪と青灰色の目にそばかすを持つ若き提督は、先輩のお達しには頷かなかった。当初は、彼はフェザーンから直行する予定だったのだが、合流したリンツ大佐の乗ってきた船で、イゼルローンに折り返すことにしたのだ。帝国軍の面々と直接に会話をし、オーベルシュタイン元帥の死によって、これはまずいと直感したのだ。

 

「軍司令官はユリアンですが、実質的な責任者は俺ですよ。

 あいつがフェザーンからこっちに戻ってくるまでに、日数を費やすのは勿体ない。

 こちらの軍の解体するのに、端緒をつけるぐらいはして行きますよ」

 

 もっともな言い分だが、薄茶色の髪と目をした事務と補給の達人は、じろりと彼の若々しい顔を睨んだ。

 

「たしかに一理あるが、おまえには前科があるからな。

 帝国が、おまえを交渉相手と認めるかどうかが問題だ」

 

 ヤンの謀殺を阻止し、ハイネセンを炎上させてまで逃亡に及んだ前科である。人質にされた高等弁務官のレンネンカンプ上級大将は自殺。それが引き金となって、皇帝ラインハルトが大親征に及んだ。あくまでも抗戦した同盟軍宇宙艦隊司令官のビュコック元帥、参謀長チュン・ウー・チェン大将らは、マル・アデッタ星域の会戦で死亡。麾下艦隊もほぼ壊滅した。そして、当時の最高評議会議長、ジョアン・レベロは、ロックウェル大将に暗殺された。その首を手土産に、皇帝に命乞いをしたロックウェルは、売国の卑劣漢として処刑され、同盟軍と同盟政府は実質的に滅亡した。

 

 ヤンと共に宇宙に逃れた者たちは、途中で『動くシャーウッドの森』と合流し、35歳以下お断りのビュコックの厳命で、マル・アデッタの会戦に参加しなかった旧同盟軍の残留艦隊を吸収。独立を表明したエル・ファシル独立政府の軍として、ラインハルト率いる新帝国軍と交戦した。

 

 負けないことを座右の銘にしていた、ヤン・ウェンリーが初めて勝つために挑んだ回廊決戦。魔術師とその右腕、エドウィン・フィッシャー中将による、巧緻にして苛烈きわまりない艦隊戦で、帝国軍はシュタインメッツ、ファーレンハイトの両元帥を失う。彼らと共に天上に赴いた将兵は二百万。

 

 わずか1.5個艦隊が、二倍以上の相手に対して与えた打撃である。少数が多数を撃破した、常識外れの数値であった。

 

 その後、講和の会談の途上で地球教徒の襲撃に遭い、エル・ファシルの政府代表者らと共にヤンは凶弾に斃れた。

 

 しかし、それでもイゼルローンの面々は膝を屈しなかった。彼の夫人であったフレデリカ、被保護者であったユリアン・ミンツを政、軍の代表として自治政府を設立。

 

 先日のシヴァ星域の会戦で、皇帝ラインハルトの旗艦ブリュンヒルトに突入、軍司令官自らが血の河を越えて、皇帝との対面を果たし、もぎとった講和であった。

 

 そのイゼルローン革命軍設立の自称黒幕が、ダスティ・アッテンボロー中将だった。次の誕生日を迎えれば32歳。頬に散るそばかすと悪童のような表情で、実年齢よりも若く見える。だが、若くとも歴戦の提督だった。アムリッツァの激戦で、壊滅状態であった第10艦隊を指揮して離脱に成功。その残存戦力と共に、イゼルローン要塞駐留艦隊、通称『ヤン艦隊』の分艦隊司令官に就任する。

 

 この時の年齢は27歳、階級は少将。同盟軍史上最年少の提督の誕生でもあった。アムリッツァの敗戦による人材の払底という事情はあるにせよ、この年齢までの昇進はヤン・ウェンリーをも凌ぐ。士官学校の先輩の昇進があまりに華々しいため、陰に隠れてしまっているが、これも平凡なものではない。同盟が存続していれば、史上三人目となる三十代の元帥が誕生したであろう。それも、ヤンよりも智勇のバランスを備えた元帥が。

 

 つまり、ヤン・ウェンリーの腹心にして左腕とも呼べる存在である。アッテンボローが士官学校に入学した16歳の頃から、ヤンやキャゼルヌとは友人関係にあった。ヤンの死後、まだ18歳だったユリアン・ミンツを旗印としたが、実質的な艦隊司令官は確かに彼だ。抗戦派の最右翼とみなされて、警戒されるのが当然だった。まったくもってそのとおりなのだから。

 

「しかしですね、他にできる奴もいないでしょう。

 ラオやスールの能力は充分だが、帝国軍連中には押しが足りません。

 メルカッツ提督も、あの不良中年もヤン先輩のところに行っちまった。

 それにキャゼルヌ先輩、俺がいたほうがいいと思いますよ」

 

「ふん、理由を言ってみろ」

 

「あいつら、骨の髄、頭の芯まで軍人ですよ。というよりも軍人バカ。

 帝都にいる間に思い知りました。国の仕組み上いたしかたないんですがね。

 戦略面は、皇帝ラインハルトが一手にやっていた。

 そっちの右腕の帝国印の剃刀もテロで亡くなった。

 で、残りの面々、書類仕事ができそうに思えます?」

 

「おまえに言われちゃおしまいだが、俺も同意見だ。

 あの皇太后陛下、たしかに頭はいい。

 だが頭になれるかというなら、現時点では疑問だね。

 皇帝の遺言だから拒否はできんのだろうが、元帥を七人か」

 

 キャゼルヌは肩を竦め、後輩相手に問題点を列挙してみせた。

 

「主たる問題は二つ、役職と人件費だ」

 

 国家公務員で、遥かに給与の低い旧同盟でも、同時期に現役の元帥が三人以上いた例はない。それは役職の問題だ。同盟の場合は統合作戦本部長と宇宙艦隊司令長官のツートップ。

 

 帝国軍ならば、軍務尚書、統帥本部総長、宇宙艦隊司令長官の帝国軍三高官。このあたりまでが、元帥にふさわしい役職というものである。

 

 七人の残り四人、その階級に見合う役職はあるのか。全員がまだ三十代から四十代の初め、定年までの莫大な人件費や福利厚生費、諸雑費をどう工面するのか。定年後も、平均寿命から計算するなら二十年は高額な年金を支給しなくてはならない。

 

 戦闘が続発していたこの五年間はいざ知らず、平時の軍事は金食い虫である。人件費など、真っ先に切り詰めなくてはならない部分だ。

 

「ヤンは元帥だったが、削減された退役年金の愚痴を随分こぼしたもんさ。

 あいつの場合は、積立期間が少ないから仕方がないんだがな」

 

「ええ、俺もね、あんな死ぬ思いをして、こんなもんかと思いましたよ」

 

「おまえだって積立期間が短いのは同じさ。それにおまえは独身だからな。

 ごっそり天引きされるのは当たり前だ。いやなら、さっさと結婚することだったな」

 

「俺の主義はほっといてくださいよ」

 

「じゃあ、ここまでにしてやろう。おまえさんも大分損しているからな。

 採算割れはヤンと同様、しかも扶養家族がいる時期もなかったしなあ」

 

「なんだか切ない話だなあ」

 

「金の話ってのは必然的に世知辛いもんだ。

 帝国元帥の給与も莫大だが、元帥には元帥府を開く特権があるそうだ。

 こいつは人事的にも問題でな。子飼いの連中で長いこと固まると組織は腐る。

 いままでみたいに、戦死による人事の流動化もなくなるんだからな」

 

 えげつないことを言うキャゼルヌだった。その戦死者の大半は、ヤン・ウェンリーが率いた艦隊によって天界(ヴァルハラ)の門を潜ったのだ。

 

「たしかに言えてますよ。あっちは二十代の少将、中将がごろごろしてる。

 勝ち戦続きの論功行賞で、階級の大盤振る舞いをしすぎたってのは俺にもわかります。

 そんなに高官がいるのに、皇帝の付き添いで偉い連中がフェザーンに急行したせいで、

 第一陣の輸送計画はこっちの案を丸呑みしたでしょう。

 次は、元帥の誰かが戻ってくるわけですよ。先輩にも愚痴る相手が必要でしょ」

 

「確かにな。誰が来るのかは知らんがね」

 

「どうします、黒猪がやってきたら」

 

「安心しろ。先例を引いて通告済みだ。こちらはこれから武装解除になる。

 負けた遺恨を暴発させる恐れのある将兵は、起用を避けていただきたい。

 こちらとしても、フィッシャー、メルカッツ両人の仇である相手に、

 全ての者が恨みを暴発させないとは保証ができないとな」

 

 さらりと告げられた言葉は、かぎりなく辛辣な意味を含んでいた。その先例とは、ヤンに二度の敗北を喫し、彼の謀殺を後押しした挙句に自ら死を選ぶことになった、レンネンカンプ高等弁務官であった。イゼルローン軍首脳部の軍事行動の発端となった人物だ。

 

 八歳上の先輩の舌鋒の容赦のなさに、アッテンボローは口の端を引き()らせた。後方本部長代理の座を、「ふん」の一言で蹴っ飛ばしてきた男だけのことはある。

 

「お見それしました、さすがはキャゼルヌ先輩」

 

「もっと褒め称えていいぞ。

 ついでに、きちんと意思疎通ができる相手にしろとも言っておいたからな。

 こちらの発言に対する反応ではなく、そちらの意志を発言してくれと。

 さすがに(ヤー)(ナイン)で折衝ができると思わんだろう」

 

 アッテンボローは思わず拍手してしまった。いや、実にお見事だ。キャゼルヌは、にやりと笑った。

 

「そうすると、あちらさんも案外と人がいなくなる。

 流石に首席のミッターマイヤー元帥は出せないし、ケスラー元帥は地球教のテロの始末で、

 フェザーンからは離れられんだろう。で、例の二人を除外すると残りは三人。

 幕僚総監のメックリンガー元帥は、この人事の調整をしなくてはならんな。

 残る二人だが、大体において外回りをやらされるのは若い方だ。

 どうせイゼルローンに船を出すなら、ユリアンらも同行させるだろうからな」

 

「うわあ……」

 

 今度は変な震えが背中を走る。二人を除外しただけで、帝国軍の中の親イゼルローン派を実質的に指名してしまった。他人事ながら帝国軍のことが心配になる。あの軍事ロマンティストの脳筋連中、この権謀術数の達人と渡り合っていけるのか。首座にいるのは乳飲み子を抱えた未亡人だ。ああ、お気の毒に。

 

「たしかミュラー元帥は、おまえと同い年だろう。

 普通なら少佐か中佐の年齢だな。鉄は熱いうちに打てというじゃないか。

 俺が旧同盟の流儀をご教示しようというわけだ。

 彼には、ハイネセンと帝国の架け橋になってもらいたいからな」

 

「キャゼルヌ先輩、念のためにうかがいますが、

 それ橋の形になるまで叩いて鍛えるっていうことですよね」

 

「当然だ。無論、ワーレン元帥でも一向に構わん。あっちはヤンと同い年だったな。

 ユリアンとも縁がある。ユリアンが好感を持つような為人だということはだ、

 味方にするとメリットが高い。功績が同等なら、年功序列と人格が人事評価の対象になる。

 つまりは、非常に近い将来の帝国軍三高官のどれか、まあ俺なら宇宙艦隊司令長官にする」

 

 笑みを浮かべる先輩が怖い。ものすごく邪悪だ。そして、帝国軍の人事が丸見えでいらっしゃるんですね。アッテンボローの心の声まで敬語になってしまった。

 

「そっちも叩いて鍛えるんですか?」

 

「それがどうした。何か問題でもあるか」

 

「いえ、ございませんです、ハイ」

 

 決め台詞を奪われて、言葉遣いが怪しくなった後輩に、キャゼルヌは苦笑いした。こいつが念願のジャーナリストになるには、かなりの修行が必要だ。

 

「実際に焦眉の急だぞ、これは。

 帝国の膨大な軍事費は、約五百年分の貴族資産を放出させて賄った。

 その資産の素は、現在国有化しているな。

 旧帝国内の衣食住を賄うだけなら結構だが、旧同盟、フェザーンと貿易を開始してみろ。

 瞬く間にこっちの資本に食い荒らされるぞ。連中は統制経済に慣れきっている。

 パン一個、菓子一個のシェアを数十社で奪い合う自由経済は未知のものだ。

 旧領土にそれが流入すれば、経済難民が何十億と出るだろう。

 コストを重視すると、国営企業は解体され、働き場所がなくなる。

 第一、フェザーンからオーディーンとハイネセン、どっちが近い?」

 

「ハイネセンですね。半分の距離だ」

 

「そして、フェザーンよりの旧同盟の星系は、

 そちらむけの商品や工業品を作っている企業が山ほどある。

 例えば、皇宮の新築のために、帝国と旧同盟の数社で入札を行う。

 材料費、工事費、人件費に輸送費も含めてな。さて、勝つのはどっちだ」

 

「そっちも同盟でしょうね」

 

「あるいは、旧同盟を孫請けにしたフェザーン企業だ。

 こういった問題は山ほどあるが、経済通になれとまでは言わん。 

 その危険性にも気がつくようにしたいのさ。俺たちとの折衝が第一関門になる。

 これすらもクリアできなければ、ローエングラム王朝は二代で潰えるぞ」

 

 補給と事務の達人、旧同盟軍屈指の軍官僚の言葉には、不吉な重みがあった。彼は、軍需物資の比類なき買い物名人でもあったからだ。彼が行った物資購入事業の落札者は、小数点以下二桁の差の単価勝負を勝ち抜いている。これと同じ真似が、帝国企業にできるだろうか。



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So What Again.後編

 アッテンボローは、もつれた毛糸のような鉄灰色の髪をかきながら自問した。無理そうだよなあ。あの皇太后陛下には、うちの姉貴らのように、少ない予算内で可愛い服や靴を探して、半日繁華街を彷徨するような経験なんてないだろう。マリーンドルフ伯爵令嬢が着ていたパンツスーツは、帝国内で市販されてはいなかった。出入りの仕立屋のオーダーメイドで、それ一着を着たきり雀というわけではない。服一着とってみても、貴族と平民との経済感覚の差は大きい。

 

「そういえば経済は戦争だと、キャゼルヌ先輩は以前言いましたっけね」

 

「経済戦争の恐ろしいところはな、庶民の台所を直撃することだ。

 防戦してくれる前線なんて存在しない。真っ先にやられるのが旧帝国領の元下層階級。

 次が旧同盟の低所得者層。飢えた連中が、右と左で暴動を起こしてみろ」

 

「退役軍人は巷にあふれてるし、同盟人の大半は兵役経験者ですからね。

 いくら宇宙で精強を誇ろうとも、船に乗り込む前に圧殺されちゃいますよ」

 

「そのとおりさ。人間なんて、拳の一撃、投石の一個でも死ぬ。

 そして、一週間飲み食いができなくてもな。

 ここまで帝国は軍事一色に金を注ぎ込んできたが、本当に金が要るのは民生だ。

 長征一万光年の十六万人から、二百年かけてここまで蓄積した、

 旧同盟のナショナルミニマムをかなり甘く見ているようだが」

 

 全ての子どもに初等中等教育を。困窮世帯には生活の保障を。

同盟末期には、十全に機能していたとは言いがたい。ユリアン・ミンツが対象となったトラバース法など、その最たるものだ。小中学生に、養育費という名の借金を負わせる。保護者となる軍人が、高給取りの独身者でもないかぎり、返還するのは実質的に不可能であった。職業選択の自由の侵害で、悪法も悪法だ。

 

 だが、そんな法でも、戦争孤児の義務教育と生活は担保されたのである。荒すぎる安全網であり、網の目から零れてしまう子どもも少なくはなかったが。

 

 だが、帝国はどうであろうか。帝国の貴族階級は統治者であり、資本家、知識者階級でもあった。

そのほとんどを排除したが、貴族に替わる統治機構ができているのか。戦時という状況下では許容されても、平時になると受け入れられない事は多々ある。

 

 キャゼルヌの示唆に、アッテンボローは考え込んだ。

 

「そうか、だからヤン先輩は互いに遠くで幸せになればいいって考えだったんだ」

 

「ああ。あっちは五百年弱、こっちは二百年。ほぼ閉鎖した経済圏でやってきた。

 旧帝国と旧同盟の自由貿易なんて危険極まりない。

 関税や為替のような障壁で保護しないと、帝国本土のほうがまずいことになる。

 俺が考え付くだけで、十や二十は火種があるな。

 なのに、政戦について両面的思考ができる人間が死んでしまっている」

 

 キャゼルヌは、ふと溜息を吐くと、長い付き合いの後輩に自分の考えを明かした。

 

「俺が、ヤン夫人をトップに据えるのに賛成したのは、

 彼女はヤンの副官として、その仕事を見ていたからでもあるんだ。

 下から回ってくる決裁文書も、あいつが部下に出す指示も、彼女を通っていた。

 幕僚会議にも出席し、議事録を作成してくれたのは彼女だった。

 あいつがそこまで考えていたわけはないだろうが、歴史好きの端くれらしく、

 きちんと文書を残すことにはこだわったよな。そして、考えを言葉で語ることもだよ。

 では、あの皇太后陛下はどうだろうか」

 

 アッテンボローは息を呑んだ。給料泥棒と揶揄(やゆ)されていた、怠け者の黒髪の先輩。他人任せにできる仕事は、適当に分配して、自分で抱え込んだりはしなかった。特に、事務関係は副官と事務監まかせで、彼はサイン製造機と化していた。

 

 だから彼の死後も、給与や補給や兵站が滞ることはなかった。戦闘は、軍隊のほんの一部分にすぎない。一回の戦闘には百倍する訓練が必要であり、それを行う人間の衣食住と給与がついてまわる。

 

 それを限りなく壮大に、緻密に計画、実施できた皇帝ラインハルトに、ヤンは戦略の天才という絶賛を惜しまなかった。戦略とは戦いを略す、という意味でもある。戦わずして勝つ、あるいは戦う前に勝負をつけ、楽に勝つ。

 

 この点において、ヤン・ウェンリーは皇帝ラインハルトに絶対的に敵わなかった。相手の思考がわかる。取ってくる手段も読める。だが、それを戦略レベルで防ぐ権力も手段もない。

 

 もしもその権力を得てしまったら、彼は第二のルドルフになる。自由惑星同盟という『国家』を守るために、市民に圧政を押し付けるのは本末転倒だ。個人の権利と、思想と言論の自由を認める、民主共和制という『考え方』こそが尊い。だからヤンはハイネセンには戻らず、エル・ファシル政府に所属したのだ。

 

「彼女は、皇帝ラインハルトの相談役だったな。

 バーミリオンの最中に、双璧を動かしてハイネセンを抑えた。

 そして、ヨブ・トリューニヒトに停戦命令を出させた。それはお見事だったよ。

 まさに間一髪だったからな。相手がヤンじゃなきゃ、あんな命令に従わなかった。

 あいつの性格まで見切ったのは大したもんさ」

 

 アッテンボローは不承不承に頷いた。キャゼルヌは不服そうな後輩に、にやりと笑いかける。人事担当の経験も豊富な彼は、その側面から才女の皇太后に査定のメスを入れた。

 

「だが、彼女はグリーンヒル少佐のような意味で働いているだろうか。

 密かに何ヶ月も産休とって、仕事に穴を開けるようじゃあ、旧同盟軍ならクビだぞ」

 

 そう言うと、キャゼルヌは親指を立てて握った右手を、首の前で横一文字に動かした。彼の動作に、そばかすの頬の血色が悪くなる。

 

「こっちでそんな真似をやらかしたら、同僚にぼろくそに言われる。

 それはな、対等な仕事仲間だからだ。何も言われず、仕事に穴も開いていないなら、

 要はお飾り、皇帝陛下のお気に入りで、周囲もそう思っていたということになる。

 皇帝に進言したり、相談に乗ったりしても、実権は大してなかったと見るね。

 引き継ぎもせずに辞めて結婚したのに、後任に支障もなさそうじゃないか」

 

 アッテンボローは呆気にとられてしまった。だが、冷静に考えれば大いに頷ける意見だった。

 

「言われてみれば、キャゼルヌ事務監の言うとおりですよ。

 グリーンヒル少佐がそんなに欠勤していたら、ヤン司令官は書類の山に潰されていました」

 

「欠勤させる甲斐性が、あいつにあれば良かったんだがなあ」

 

 とんでもないことを言い出す人事担当者だったが、後輩も同意した。実に見ていて歯痒いふたりだったのだ。

 

「いや、まったく。まあ、それはさておき、彼女に地位や権力があったら、

 自分の判断で双璧に頼むのではなく、命令なり上申なりすればよかったんだ。

 新領土戦役だって、勃発前に手を打てたでしょう。

 職権でもって、公式に憲兵や査閲担当に調査させればいい」

 

「おまえの言うとおりさ。あくまでも皇帝ラインハルトの私設秘書みたいなものだ。

 社会の仕組みがまるっきり違うんだから、一概には比べられんがね。

 その中から出現したってのは確かに凄いことは間違いない。

 しかし、出自は貴族のお嬢様だし、勝ち馬の尻にいち早く乗った。今まで苦労は本物じゃない。

 圧倒的に不利な状況で上官を支え続け、父親のクーデターに引導を渡したり、

 人を殺めてでも夫を救ったりはしていないだろう。

 しかし、仕事なんてやれば覚える。優秀な人間なら二、三か月でものにはなる。

 だが、管理職の役割にはさらに上があるんだ。ヤン夫人も言っていただろう」

 

「そうでしたね。ヤン先輩の指示に従ってきたけれど、その指示を考えることこそが難しいって」

 

「そのとおりさ。仕事を作るのが仕事なんだ、管理職ってのはな。

 それをうまく部下に割り振って、全体の統括をして責任を取ることだ。

 彼女は皇帝だけの部下だっただろう。

 命令や献策は一対一のやりとりで、他の人間に揉まれていない。

 そんな女性が、武勲を上げた年上の男を使うってのは非常に難しい。

 無理難題さね。最初の頃は、皇帝ラインハルトの遺訓やら威光が効くだろう。

 だが、十年、二十年後はどうだ。

 あの赤ん坊が、どんな大人になるかはわからんからな」

 

 先輩の指摘に、後輩はさらに髪をかき混ぜた。癖のある髪が鳥の巣のような有様になったが、彼の胸中はそれ以上に複雑だった。

 

「ああ、あの金髪美形は働き者だったでしょうからね。

 オーベルシュタイン元帥は、ナンバー2不要論者だったそうですが、

 こんなことになったんじゃなあ。

 軍部のナンバー2は、彼だったそうじゃないですか。

 それにしても先輩、随分あちらに対して親切ですね」

 

 キャゼルヌの辛口の分析は、相手を理解していればこそのものだった。

 

「俺は子連れの女性には優しくする主義なんだよ。

 まして、乳飲み子を抱えた未亡人には余計にな」

 

「ほんと、確かにそうなんですよね。

 ヤン先輩の妻と弟子に、地位を押し付けた俺らに言うべき資格はありませんが」

 

 皇太后という殻を外せば、ヒルダは思いがけない妊娠によって結婚し、子どもが生まれたばかりなのに、夫に先立たれたうら若い女性でしかない。

 

「だが、ヤンの言葉を借りるなら、それでもあの二人は自分の意志で選んだんだ。

 どんなに少ない選択肢からであってもな。しかし、あの赤ん坊には選択肢などないのさ。

 帝政を続けるのなら、玉座に立たない自由などあり得ない。

 かわいそうな話だが、父親だって幼児と乳児を利用したからな」

 

 アッテンボローは溜息と共に言葉を吐き出した。

 

「因果は巡るですか」

 

「そういう言い方はなんだが、夫の負債を妻子が清算するようなもんだ。

 正直、これ以上内輪もめしてもらっちゃ困るんだよ。

 ハイネセンの九月一日事件の再来になったら、泥沼の内乱になる。

 十回の会戦よりも、多くの人が死ぬぞ。弱者から順にな」

 

「確かにね。俺も肝に銘じておきますよ。先輩こそ、選挙に出馬しなくてよかったんですか」

 

 キャゼルヌの政治経済への見識と、行政手腕こそ政府に必要不可欠なものだ。

 

「政治家は落選したら終わりだからな。裏方のほうが長く関われる。

 バーラトの新政府に再就職させてもらうさ」

 

 後年、バーラト星系共和自治政府の最初にして最高の事務総長といわれた、アレックス・キャゼルヌの意志表明であった。彼はすでに選挙後を見据えていたのだ。

 

「そしておそらく圧勝するだろうが、ヤン夫人が首班となり、

 民主共和政権を運営することが重要なんだ。理想に近い形でな。

 彼女は、皇太后ヒルダの先行者となりうる。

 年齢、性格、天才の夫を亡くした未亡人という点はそっくりだ。

 よき先輩がいれば、後輩はそれに倣うもんさ」

 

 そう言うと、アッテンボローも頭の上がらぬ先輩は、それはそれは悪い笑みを浮かべた。黒髪の魔術師が、黒い魔道士と心中で呼んだ策略家が、久方ぶりに蠢動を開始した。

 

「とりあえず、目標は八年後、国家主席の任期上限時の改選だな。

 その時までに、ユリアンを政治にひっぱり出さなくてもいい体制を作る」

 

「そりゃまた、なぜですか」

 

「今度こそ、あの子に職業選択の自由を与えるべきだ。

 そして、共和民主制の英雄の息子が、自分の選んだ生を歩むのを見て、

 専制君主制の英雄の妻と息子は、どう感じるだろうなあ」

 

 喉の奥で笑い声を発するのは、本当に止めていただきたい。アッテンボローは切に願い、そして心の底から感謝した。彼が銀河のこちら側に生まれ、味方であったことに。

 

「キャゼルヌ先輩って、悪辣(あくらつ)だったんですね……」

 

 キャゼルヌは、後輩を鼻で笑ってから続けて言った。

 

「だからおまえは甘いんだ。ヤンはあからさまに口には出さなかっただけさ。

 なにも、戦場でドンパチやるばかりが戦いじゃない。

 これから、長い長い政争が始まる。あちらは、生まれたばかりの若い国で、首脳部も皆若い。

 武力的に負けた国家が、文化的政治的な勝者となった例なんて、枚挙に(いとま)がないんだとさ。

 さて、後世の歴史家はどちらを真の勝者と評するかな」

  

 そんな言い方をする人物は、アッテンボローとキャゼルヌの先輩で後輩だった唯ひとり。明かされたのは、ヤン・ウェンリー未完の独立交響曲の断片だった。

 

 彼と一つ年の差を縮めた後輩は、青灰色の瞳を見開いてから、黒い魔道士と同じ笑みを浮かべた。そういえば、未完の曲を弟子が完成させた例もあった。神の器(アマデウス)と称された師匠には到底及ばないものとなっても、完成させることが重要なのだ。だからこそ、天才の遺した構想が後世に評される。

 

 彼に及ばずとも、第二、第三の楽章を奏でていく。出来栄えに文句があるなら、あの世に行ってから聞くとしようではないか。

 

 無論、返す答えは決まっている。

 

『それがどうした?』



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新帝国暦3年/宇宙暦801年 スターバト・マーテル
星なきみそらに


 イゼルローン要塞の返還と、武装の解除、そしてイゼルローン自治政府国民の退去のために、新銀河帝国軍から、人員の派遣をお願いしたい。

 

 これが、イゼルローン要塞司令官代理である、アレックス・キャゼルヌ中将からの申し入れであった。帝国側にも、否やはない。崩御された先帝、ラインハルト・フォン・ローエングラムの最後の戦場で、イゼルローン軍司令官のユリアン・ミンツ中尉が、血の河を渡ってもぎ取った講和の交換条件だったからだ。

 

 約五百年にわたるゴールデンバウム王朝を打倒し、わずか五年で自由惑星同盟を打ち倒し、宇宙を統一に導いた、ラインハルト・フォン・ローエングラム。彼は、生ける神話のような存在であった。白磁の肌に、眩い黄金の髪。若い超巨星の輝きを、凍結させたらこうなるかという蒼氷色の瞳。それらをいただく顔は、人の遺伝子がこれほど完璧な美を生み出すものかと思わせた。

 

 知と戦さの女神、美の女神の寵愛を(ほしいまま)にした彼は、もはや地上には亡い。あるいは、神の寵のあまりに厚いがゆえに、かくも早く天上に招じ入れられたのか。遺された者達がそう思わずにはいられないほど、急激な発病であり、重篤な病状であった。

 

 イゼルローン軍との、最終決戦となった新帝国暦三年六月一日。この時に倒れ、亡くなるまでの一月半に、ラインハルトは死後のことを、皇妃であるヒルデガルドらに、様々に申し伝えた。己の死に対して、これほど冷静で自由であった人を、ユリアンは彼と師父のほかには知らない。

 

 そして、七月二十六日、星は墜ちた。高温の超巨星が、あまりに激しく燃え、そして寿命が短いがごとく。その生の終わりに、超新星の爆発とブラックホールの出現を伴うように、地球教徒の残党と、いま一人の伴星であった軍務尚書、オーベルシュタイン元帥の死とともに。

 

 彼の生前、ヤン・ウェンリーは部下の一人にラインハルトをこう言って評価した。彼は一万人に匹敵するような天才だ。二万人の凡人なら、彼を凌駕できるだろうが、その人間たちが意志を統一し、足並みを揃えることは、極めて難しい。だからこそ、一人が一万人の力を持つ天才は、冠絶した存在なのだと。

 

 一人の天才の死は、統一された意志を持つ一万人の力量の喪失に等しかった。その天才を陰から支え続け、彼の戦略に従って発生する種々の問題や、業務の割り振りを担っていたのが、地球教徒の爆弾テロに斃れたオーベルシュタインである。

 

 ラインハルトが、生前に出した自分の死後への指示は、ドライアイスの剣とも称された軍務尚書の存在が前提である。それが一気に突き崩されてしまった。戦艦で言えば、推進装置と制御装置が同時に故障してしまったようなものだ。だが戦艦は、慣性飛行でどこまでも航行を続けてしまう。

 

 帝国も同様だった。なんとか舵を操作し、予備の推進装置と制御装置で目的地に到達させなくてはならない。小惑星帯やブラックホールに突っ込む前に。

 

 銀河帝国と軍の首脳部は、失ったものの重大さに蒼白になった。あまりに冷徹なゆえに、皇帝からも好かれはせず、幕僚からは嫌われていた義眼の軍務尚書は、この巨大な組織を円滑に運営していた手腕の持ち主だったのだ。

 

 彼は、冷徹だが公正で、部下の力量を冷静に測り、膨大な業務を分配してきた。そしてそれを再統合し、統括してきた。アレックス・キャゼルヌを越える事務の達人だったのだ。謀臣というイメージに隠れて見えがたい、オーベルシュタインのもう一つの顔である。

 

 もしも、ヤンとキャゼルヌが同時に命を落としたら、イゼルローン自治政府として出発することは叶わなかっただろう。皇帝の葬儀式典の後に行われた、オーベルシュタインの葬儀に参列したユリアンは思った。

これから大変なのは、きっと新銀河帝国のほうだ。

 

 自治権を認められたバーラト星系は、旧同盟領で一番富裕な星系である。首都星ハイネセンは、長征一万光年の参加者たちが五十年をかけて見出した惑星だ。気候や住環境は、オーディーンやフェザーンに優る。

 

 そして、当然旧同盟の企業の本社や、フェザーンの大企業も進出している。法人税や固定資産税などの財源をたっぷりと持ち、住人も総じて所得が高い。

 

 食料などは、他星系の輸入に頼っているが、惑星規模からすると、十億人の人口というのはまだまだ余裕がある。土地を農地にしたら、資産としてのメリットが減少するし、近隣の農業惑星であるシロンやアルーシャの生産量などに、これまで太刀打ちできなかった。しかし、法律や税制を改正し、優遇措置を設ければいい。自給自足するには充分だろう。それらの惑星で、大規模農場を経営する会社の本社もハイネセンにあるのだから。

 

 だが、こちらはどうするのだろう。ユリアンの師父は、先帝となったラインハルトの天才性を公正に評価していた。その一方で、ヤンは歴史学徒くずれとして、彼の持つ美と英雄性に、ひとからならぬ憧れを抱いていたようだった。彼の姿を、水晶を銀の彫刻刀で彫上げたようだと、おさまりの悪い黒髪をかき混ぜながら賛美したものだった。

 

 ヤン・ウェンリーの外見は、中肉中背と言うにはやや肉付きが薄く、黒髪に黒目という平凡な青年であった。黒いベレーと軍用ジャンパーにハーフブーツ、アイボリーのスカーフとスラックスという、同盟軍の軍服がまるで似合わなかった。授与された勲章を律儀に付けたら、彼の広くはない胸元には収まりきらず、その重さで猫背がひどくなるような武勲の主だったが、歴戦の名将には見えなかった。よく言えば大学の准教授、正直に言えば大学院生か講師。年齢よりも四、五歳は若く見えた。伝統ある帝国軍の黒と銀の軍服が、彼の為に用意されていたかのような、皇帝ラインハルトとは対照的であった。

 

 だが、ヤンの穏やかな黒い瞳は、歴史の高みから現実を俯瞰(ふかん)するかのように、少ない情報からでも、帝国の状況を恐ろしいほど精密に分析した。

 

 特に、帝国の将帥らの為人(ひととなり)を見抜くことは、(たなごころ)を指すかのごとき的中率であった。敵艦隊を、己が術中に嵌めることは数知れず。母国人からは『奇蹟』『魔術師』と讃えられ、敵国からは『ペテン師』『戦場の心理学者』と忌々しさと驚嘆を以て評された。

 

 そのヤンが存命であっても、若さと生命力の結晶のような黄金の有翼獅子(グリフォン)が病死し、冷徹の義眼の軍務尚書が暗殺されるような状況を、予見などできなかっただろう。

 

「本当に、未来なんてわからないものだね、カリン」

 

 葬列が解散した後で、ユリアンは傍らの少女に向かって、ぽつりと呟いた。カリンと呼ばれた彼女は、無言で薄く淹れた紅茶色の頭を頷かせる。華麗な黒と銀の軍服の参列者達を、青紫の瞳に留めながら、低めた声で恋人の亜麻色の髪の耳元に囁いた。

 

「ええ。私達の合言葉がこんな形で実現するなんて思わなかったわ。

 そして、ハイネセンで草刈りをした人の葬儀に参列するなんてね」

 

「そうだね。でも、帝国はどうするんだろう。

 皇帝と僕等が結んだ協定は、きちんと守られると思うけど、

 旧同盟の他の星系はどうなってしまうんだろう。そして、帝国の旧領土も」

 

 カリンにとっては、自分のことだけで精一杯で、とてもそこまで気が回らない。ダークブラウンの瞳に真摯な光を浮かべる彼は、やはり魔術師の弟子なのだ。

 

「あんたは本当に真面目ね、ユリアン。でも、私達が考えても今は仕方がないと思うわ。

 宇宙統一は、皇帝ラインハルトがやりたくてやったことでしょう。

 それに加担した人たちが、後始末をするのは当然の責任じゃないの。

 そっちは、帝国に任せればいいわ。いい大人たちが何人もいるんだからね」

 

 カリンは、特に華麗な軍服を着た一団を見て、形のよい眉の片側を器用にあげた。そうすると、彼女に彫の深い美貌を与えた人の面影がよりはっきりする。ユリアンが皇帝の眼前に辿りつく、その盾となって亡くなった薔薇の騎士(ローゼンリッター)連隊の第十三代連隊長は、忠誠を捧げた魔術師と再会しているのだろうか。

 

「すごいわね。元帥が半ダース以上になるのね」

 

「うん。あんなに人材がいる相手とよくもここまで戦ってきたもんだと、今さらながらに思うよ。

 九割以上はヤン提督のお陰だけれどね。でも、亡くなった人を含めると、元帥は一ダースだね。

 人件費と年金はどうするんだろう。730年マフィアは七人が全員元帥になったけれど、

 最初と最後の昇格時期は四十年ぐらい開きがあるし、生前昇進は二人しかいないよ。

 それに比べると、こんなに大盤振る舞いしちゃっていいのかな」

 

「ユリアン、あんた、ヤン提督よりキャゼルヌ事務監に似てきたんじゃないの?」

 

 彼女の言葉に、亜麻色の髪の青年は心底驚愕し、少なからず傷ついた表情になった。

 

「なによ、そんな顔しないでちょうだい。まるで私がいじめたみたいじゃないの。

 でも、元帥って重職に就くのよね?七つ分も席があるのかしら。

 何かもったいないような気がする」

 

「確かにね。でも、軍務尚書の後任はすぐに必要だね。キャゼルヌ中将みたいな事務の達人が」

 

 ユリアンの発言に、カリンは眉間に皺を寄せた。細めた眼で、遠ざかっていく一団の背中をじっと見た。

 

「ねえ、そういう人はあの中にいるのかしら」

 

 いずれも名にし負う提督たちだった。ただひとり、ウルリッヒ・ケスラー憲兵総監だけは艦隊司令官ではない。地球教徒のテロの捜査が終了するまで、彼を異動させることは不可能だろう。

 

 沈黙提督という異称がある、エルンスト・フォン・アイゼナッハは、堅実な艦隊運用を行い、攪乱や伏兵といった地味な作戦も、失敗することなく実行してきた。そして、補給や輸送といった後方業務についても、高い実績があると聞く。

 

 しかし、軍務尚書とは政治家である。政治家は閣議などで意見を発言するのが主たる任務である。可能なのかと問われれば、否と答えるしかないだろう。

 

 ユリアンは、わずかに瞑目してから、カリンを見詰めて口を開いた。

 

「それこそ、僕等が考えても仕方がないよ。

 帝国のいい大人が、いい選択をすると思うからね」

 

「前言を撤回するわ。あんた、やっぱりヤン提督に似てる。逃げ方がうまいもの」

 

「おほめにあずかり光栄だよ、カリン」

 

 ユリアンの胸中はとても複雑だった。この美少女にも、君もお父さんにそっくりだよと反論してやりたいが、きっとまた泣かれてしまいそうだ。結婚生活は忍耐だ、としたり顔でヤンに告げた、キャゼルヌの言葉の意味が判ってきた。

 

 言いたいことは言えないこと、それは誰の心にもある。その言葉を一番呼びかけたかったのがカリンなのだから。

 

 そんな寸劇はさておいて、異国人の未青年にまで看破されてしまう、帝国軍の人材の偏り。武の人材は、星団のように煌めくが、では文のそれはどうだろうか。帝国軍最大の文官は、七月二十六日に亡くなった皇帝ラインハルトと、軍務尚書オーベルシュタインの二人だった。一万人分の力量を持つ者と、それを支え得た者。その後任をどうすればいいのか。まだ喪服を纏ったままの皇太后ヒルダが直面した、最初の巨大な壁であった。

 

 ヒルダは政治について、非常に明晰な頭脳の持ち主であった。リップシュタット戦役の直前、貴族連盟に加わわるつもりであった、父のマリーンドルフ伯爵フランツを説得し、ラインハルトらの陣営についた。

 

 彼女の識見を、ラインハルトは高く評価し、自らの相談役とした。中でも大きな働きは、バーミリオン会戦の最中、ミッターマイヤー、ロイエンタールの両提督を説得し、同盟首都ハイネセンを抑えて、当時の最高評議会議長ヨブ・トリューニヒトに無条件停戦命令を出させたことだ。

 

 ヤン元帥の猛攻によって、今まさに戦死しようとしていたラインハルトは、これによって救われた。彼女は、ヤン・ウェンリーが国家そのものではなく、国家の理念に対して価値を見出していることを読み取ったのだ。

 

 その後も、皇帝となったラインハルトに、様々な献策を行ってきた。それが採用され、成果を上げたことは一再ならずある。しかし、今回のことで彼女は思い知った。その献策について、上申書の一枚だって書いたことはなかった。ラインハルトとのやり取りは、いつも口頭で行われ、自分の献策がどのようなシステムを経て実施されたのかを知らなかったのだ。

 

 (さか)しらぶって、なんと自分は底の浅い人間だったのだろうか。ラインハルトの高級副官、シュトライト中将から急ぎレクチャーを受けながら、ヒルダは果てしなく落ち込んだ。夫と軍務尚書は、これほどの仕事を差配していたのだ。

 

 まるで、乳児と幼児を傀儡(くぐつ)の皇帝とした復讐を受けているかのようだ。なんてひどいことをしたのだろう。謀略の駒として使われ、行方知れずになったエルウィン・ヨーゼフ。

 

 ヒルダは、ランズベルク伯アルフレッドの考えを見抜き、アンネローゼへの警護を進言した。彼女に面会して、護衛を配備することの了解を得ると共に、弟との思い出を聞き、彼を頼むと告げられた。それで満足してしまって、あの子の誘拐については、ラインハルトの考えを受け入れた。だから、誰もあの子を助けなかった。

 

 癇の強い扱いにくい少年だったけれど、皇帝の孫として生まれたからといって、あんな人生を強いられていいはずがない。あの七つの少年には父も母も亡く、周囲の大人の愛情もなく、豊かだが冷たい贅沢品を宛がわれるような世話をされて、どうしてまともに育つだろう。

 

 そんなことも思いつかない男と女に、親になる資格はあったのか。そして、そんな母親にきちんと子育てができるのだろうか。アレクは、まだ生後三か月。首も満足に座っていない。この子には大公という称号が冠せられ、立太子こそしていないものの、既に皇帝へのレールが敷かれている。獅子帝ラインハルトと比較され続ける生涯に向かって。

 

 そして、自分は皇太后として政務を執らなくてはならない。その傍ら、将来の皇帝にふさわしい人物となるよう、子育てもしなくてはならない。どちらか一つでも重すぎる役割なのに。



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縁の下で握手を

 軍務省次官のアントン・フェルナー少将も、上官の急逝で軍務省の業務の洗い出しを急がせた。幸い、オーベルシュタイン元帥は、事務仕事について秘密主義ではなかった。次官たるフェルナーには、大綱を示して、事業計画の骨子を作らせ、それに従って各部門に業務を分配していた。

 

 それらの文書は、非常に簡潔で分かりやすいものが残されていた。まるで、これあるを予想していたかのように。問題は、軍務省が所管する業務が巨大すぎることである。これらを職員の力量に応じて分配しているため、その枝葉の量たるや、膨大なものとなった。

 

「他の省庁に移管できる業務も洗い出しておくべきだな」

 

 オーベルシュタインの下にあっても、その図太さで胃薬などの必要はなかった彼だが、この事態による激務で、コーヒーを何十杯となく流し込んだ。そろそろ胃薬が必要になりそうな気配である。

 

「問題は、この後任が決まった後だぞ」

 

 帝国軍の序列は、軍務尚書、統帥本部総長、宇宙艦隊司令長官の順である。現在、統帥本部総長は空席だ。これは先帝が兼任していたのだから仕方がない。首席元帥となった宇宙艦隊司令長官のミッターマイヤーが、一段飛ばしで軍務尚書になるだろう。

 

 いや、そうしてもらうしかない。皇帝と軍務尚書が同時に急逝するとは、不測の事態である。ラインハルトの生前の指示は、キーストーンが欠損してしまった以上、意味をなさなくなっている。新たな要石は、オーベルシュタインと同等以上の重鎮でなくてはならない。そして、宇宙に(はし)った動揺を収めるのに必要なのは信望だ。公明正大な人格者である彼を()いて他にない。

 

「よもや、宇宙艦隊司令長官を兼任していただくわけにもいくまい。

 こちらはワーレン元帥かビッテンフェルト元帥だな。

 年齢的に、ミュラー元帥では揉める。

 それに、統帥本部総長も空席のままではよくないな。

 これは、メックリンガー元帥しか適任がいないだろう。

 元帥が七人もいるのだから、役職を背負ってもらわないとな。

 だが、あと四人もいるのか。さてさて、どうしたものか」

 

 フェルナーは、鳩尾をさすりながら考えた。ナンバー2不要論かどうかは不明だが、軍務省次官が少将の自分なのはよかったのだろうか。少将が元帥の人事配置を考えているのだから。参謀出身のオーベルシュタインは、提督らのような子飼いの部下を持ちにくかった。それは考慮してやるべきだろうが、敵ながらヤン・ウェンリーという例もある。

 

 彼は、出合った人材を幕僚に指名し、自らの部下として育成したのだった。時にけなされ、時に皮肉や小言を言われても、彼は部下に慕われた。部下の力量と適性を見抜き、自分が苦手な仕事は、潔く得意な者に任せてしまった。相手を信頼し、責任者は自分だと明確にしたうえで。

 

 有能な怠け者であり、人使いが上手い。彼の死後も軍事面はともかく、後方業務の遅滞は発生していない。有能な働き者二人は、部下に任せるより自分でやった方が早かった。だからこの騒ぎが起きているのだ。

 

 そのヤン元帥の後継者の根城から、イゼルローン明け渡しに関する要求が寄せられていた。まったく面倒なことである。しかも、事務監キャゼルヌ中将から二つの条件が付けてあった。

 

 一つ目は、これから武装解除を進めるにあたり、敗戦の恨みを暴発させるような将兵はやめてほしい。こちらも血の気の多い連中が多い。ハイネセンの二の舞は、望むところではない。

 

 二つ目は、そちらの意志を会議できちんと示していただきたい。こちらからの意見に対して、反応を返されるだけでは、意志の疎通が図れない。後々、トラブルに発展する恐れもある。

 

 いやはや、完全に見透かされている。そして、反論できない正論であった。名指しこそされていないが、この二名はフェルナーとしても扱いに困る人物だった。あちらの言うとおり、微妙な判断が要求される交渉の場には出さない方が賢明である。

 

 となると、結局動かせるのは、ワーレンとミュラーの二名。どちらも、イゼルローンの面々に縁があり、彼らに対して好感を持っている。

 

 フェルナーは唸った。

 

「お見事だな、キャゼルヌ中将か。いっそ、軍務省に引き抜きたいところだ。

 彼なら、軍務尚書の代行が務まるだろう」

 

 まずもって不可能、『ふん!』の一言で席を蹴られて終わることだろう。だが、この策略に乗らせてもらおうではないか。彼ならば、将来の帝国三高官候補に、後方事務のABCから叩きこんでくれるに違いない。

 

 そして、旧領土と新領土を結ぶイゼルローン回廊と、イゼルローン要塞は、宇宙統一後も要衝であることに変わりはない。イゼルローン自治政府から返還が済み、帝国軍が駐留するとなれば、元帥を置くにふさわしい役職と言えよう。要塞司令官と要塞駐留艦隊司令官の兼任。かの不敗の魔術師と同じである。

 

「と、するとだ……」

 

 沈黙と大声の提督らにはご遠慮ねがうとして、別に人数制限は設けられていない。実際問題、二人も元帥級を回すわけにはいかないが、それ以下の階級ならうじゃうじゃいる。非常に困ったことだが。そこで思いついたのは、帝国軍の准将から中将級で、文官として適性がありそうな者も同行させたらどうだろうかというものだった。

 

 これは名案に思えた。各艦隊に、二十代の将官がダースで存在するなど異常である。勝ち戦に次ぐ勝ち戦で、前線勤務者は階級がどんどん昇進していったが、二十代で少将というのなら、本来はかつての双璧に匹敵する功績が必要だ。それほどの戦功を挙げた少将、中将はいない。大将級でもかなり疑問が残る。

 

 とにかく、これから軍部に高給取りを抱えている余裕はない。能力がある者は、文官や行政官となってもらい、帝国軍の規模も縮小しなくてはならない。この数日、業務の洗い出しと棚卸しを行って、見えてきた問題点だった。帝国軍に集中している人的資源と、民生や行政方面の人員の貧弱さだ。

 

 このままでは帝国は崩壊する。それも、同盟の統治機構が生きている新領土ではなく、帝国本土のほうが。平民に豊かな暮らしを与えるためには、膨大な費用が必要になる。現在の軍事費を継続しつつ、同時に民生への財政出動は不可能だった。これについても、新たな軍務尚書に説明して了承を得なくてはならない。

 

「よし、あちらの好意に甘えさせてもらうとするか」

 

 そう呟くと、副官に指示を告げる。

 

「統帥本部に、後方経験のある二十代から三十代前半の

 准将から中将級までをリストアップさせろ。

 その中で、イゼルローンに対して暴走しない連中を選抜するように伝えてくれ。

 そうだな、とりあえず全部で十人前後でいい。イゼルローンの返還に同行させよう」

 

「了解しました。フェルナー閣下、どちらの艦隊の人員から選出すればよろしいでしょう」

 

「卿は俺の指示をきちんと聞いたのか。その条件に当てはまる者だ。

 対象は帝国軍全体、もう一つ、それなり以上に仕事のできる人間を選べ」

 

「は、わかりました」

 

 こうして、帝国とイゼルローン政府の事務方が、暗黙の了解によって手を結んだ。フェルナーは、イゼルローンにどちらの元帥を派遣すべきか再び思案に暮れた。

 

 宇宙艦隊司令長官候補は功績と年功から、ワーレンかビッテンフェルトの二者択一だ。しかし、当面は戦闘出動が行われる見込みがないので、ミッターマイヤーが兼任していても問題はない。

 

 ならばこれは、一個艦隊の司令官から、帝国軍艦隊総司令官に必要な、技能や視野を身につける準備となるだろう。では派遣するのはワーレン元帥で決まりだ。実績、年功はむろん、剛毅で安定した人格はその地位にふさわしい。ミュラー元帥が、イゼルローンべったりになってしまうのも望ましくない。イゼルローンの客人を連れて帰る必要もあるので、ユリアン・ミンツと面識のある彼のほうがいいだろう。

 

 フェルナーはひとり頷くと、上申書の作成を始めた。とりあえず、こちらの意見を言うだけは言って、後はお偉いさんに判断をしてもらうとしよう。

 

 それにしても、魔術師の部下も恐るべしだ。完璧にこちらの人事の青写真を読まれている。そういえば、黒髪の智将とワーレンは同い年であった。薄茶色の髪と瞳の怜悧な官僚という印象のキャゼルヌ事務監が、人の悪い笑みを浮かべて、手ぐすねを引いて『新たな後輩』を待っている姿が容易に想像できる。

 

「しごかれるな、これは……。どうか、俺を恨まんでいただきたいものだ」

 

 だが、事務方にとっては両者両得である。人事を統括する部署からの報告を、命令権者は丸呑みにするものだ。アウグスト・ザムエル・ワーレンの元帥就任後の最初の仕事は、イゼルローン要塞返還に伴うものとなった。期間は、イゼルローン政府国民の退去終了まで。すでに、第一陣の帰還は終了しており、残っているのは要塞防御部門と、イゼルローンの残存艦隊、そして事務方の人員である。

 

 皇帝ラインハルトと、軍司令官ユリアン・ミンツによるバーラト星系の自治権の確立を伝えられるや否や、イゼルローンの人事管理部門は、すぐさま民間人と自治政府首脳陣の帰還準備を完了させた。

 

 ラインハルトの死去後、彼らは早々に出立した。第一回のハイネセン共和自治政府の議会選挙のために。その手回しの良さに、イゼルローンの警戒に当たっていた帝国軍艦隊の分艦隊指揮官らは頷くことしかできなかった。

 

 皇帝の病が、治癒方法が確立されていない重病であり、余命が幾ばくもないと判明し、皇帝と麾下の主な将帥は、ハイネセンを経由して、フェザーンへと急ぎ帰還した。

 

 この状態の中では、イゼルローンからの具申を上層部に報告し、上層部からの可を相手に伝えるぐらいしかできない。念の入ったことに、帝国語と同盟語両方で書かれた綿密な輸送計画書が提出され、それについてケチをつけられる能力のあるものはいなかった。結局、イゼルローン側の要求はほとんどそのまま通ったのだった。

 

 帝国軍は階級のデノミネーションを行うべきだな、とキャゼルヌ中将は後輩に語った。ラインハルトの死後早々にフェザーンを出立し、戻ってきたアッテンボローである。帝国軍の警戒部隊の最上位者も中将だったから、職責を考えれば帝国も判断なり意見なりをイゼルローンに示すべきなのだ。そんな人材がいれば苦労はしないわけで、その後輩は、心中で脳みそまで筋肉な連中と憫笑(びんしょう)した。

 

 彼も、艦艇の処理や要塞の迎撃システムの移行について、具体的な計画書を提出していた。こちらについては、イゼルローンの戦艦を人員の輸送に使用するか否かを問うていて、これにも帝国軍は即答ができなかった。

 

「あれは検討、これは報告して指示を待つという回答ばかりでは、まったく作業が進まない。

 申し訳ないが、こちらの計画に対して決定ができる責任者を出していただきたい」

 

 青灰色の目を不機嫌に細めて、クレーマーそのものの台詞を申し渡すそばかすの中将に、帝国軍も返す言葉がない。こういう場合の正しい対応は、上司を呼ぶのではない。クレームを受けた者が、事態について情報を把握し、改善方法を模索し、相手に示すことだ。同盟軍では当たり前に行っている対応方法だったが、帝国ではそうではないようだ。結局、本国に報告するので待ってほしいと言うのみ。こちらに詳しい状況の聞き取りもしない。

 

 アッテンボローはベレーを(むし)り取ると、いらだたしげに握り締めて吐き捨てた。

 

「まったく、なんなんだ、あいつら。中将に少将が雁首(がんくび)揃えて何やってんだ。

 俺だって随分早く出世をしちまったが、あいつらだってそれでも将官なんだろうが。

 これしきの判断もできないのかよ」

 

「まあまあ提督、帝国にも帝国の事情があるのでしょう。

 あんなに閣下がいるのでは、 誰がリーダーになるかも決め難いですよ。

 本来はまだ佐官級の年齢でしょうからね。

 勝ち戦の度に昇進して、ろくな経験もなしに将官をやれなんて気の毒です。

 あちらの先帝陛下は出世が苦にならなかったから、その発想がないんじゃないでしょうか。

 小官なら昇格保留をお願いしますが、あちらの将兵には断る自由もないんですよ」

 

 アッテンボローの過激な意見をやんわりとなだめつつ、さらりときつい言葉を吐くラオだった。

 

「なにしろ、元帥が一艦隊の司令官なんですからね。三階級くらい下に見れば適正でしょう。

 さっきの中将閣下も、まあ大佐と思えば即答できなくて当然です。

 そう思えば、腹も立ちにくくはなりますよ。少しだけですが」

 

 こちらはその大佐だが、アッテンボローの右腕として采配を振るっている。

 

「だが、貴官のほうが遥かにしっかりしてるじゃないか」

 

「それは、上官を支えるために鍛えられましたからね」

 

「おまえさん、毒舌まで鍛えなくってもよかったんだぞ」

 

 普段は大人しい苦労性の主任参謀は、時折ずばりと鋭い事を言う。

 

「いえ、これは真面目な話ですよ。

 帝国の高官は、頭脳面で部下を必要としないほど優れた将帥たちでした。

 ですが、せっかくの能力を部下の育成には使っていないように思えます。

 元帥や上級大将あたりとの、能力の断絶が大きいように感じますね。

 こんなに四六時中戦争をやっていては、そんな余裕もなかったでしょうが」

 

 ラオの分析力は高い。激戦続きのヤン艦隊から現在に至るまで、アッテンボローが信頼を置いた参謀なのだ。

 

「まったくだな。ヤン司令官は、なんのかんのといって、部下の育成はちゃんとやってたよ。

 特に、不良中年やメルカッツ提督、ポプランには目と手を掛けてた。

 そういや、あの馬鹿、宇宙海賊になるなんて言って、飛びだそうとしたんだって?」

 

「キャゼルヌ事務監が、コーネフ船長にお達ししてちゃんと足止めしたそうですよ。

 フェザーンに行く際に、荷物一式置いて行ったでしょう。

 マネーカードも身分証もなしに、どうする気なんだということですよ。

 辞表を出さなきゃ離職票も退職金も出せないと。

 結局、ミンツ司令官らと一緒に戻ることにしたそうです」

 

 その情報に、アッテンボローは深々と溜息をついた。

 

「本当に馬鹿な奴だよな。なにがきらきら星の高等生命体だ。

 霞を食って生きていけるわけじゃないんだから。

 まあ、先輩への義理を果たしたつもりなんだろうが、そうはさせるか。

 小学校の先生がよく言ったよな。後片付けをして、お家に着くまでがお祭りですと。

 中途逃亡は許さん。戻ってきたらこき使ってやる」

 

 ラオが同意した。

 

「ええ、艦艇の撃沈処理をするなら、スパルタニアンをどうするかが一番問題です。

 あれはDNAと脳波の照合をして、認証されたパイロットにしか動かせません。

 艦載済みの機体はいいが、宙港に係留してある機体をどうするか、

 技術者を交えて考えてもらわないと」

 

「そのとおりだ。

 ところで、結局帝国軍からは誰が来るんだ。ミュラー提督かワーレン提督か」

 

「おや、目星がついていらしたようですね。ワーレン提督のようです」

 

 アッテンボローは肩を竦めて、ラオに告げた。

 

「キャゼルヌ事務監の仕込みさ。まあ、相手だって察したろうよ。

 他に人がいないもんなあ。やれやれ、早く到着してもらいたいもんだ。

 あの皇帝陛下の部下なら、ヤン司令官よりずっと真面目だろうからな」

 

「そうですね」

 

 ラオは同意したが、心の中では思った。真面目だからできるとは限らないと。アスターテの会戦で、第二艦隊を潰走から救い、その後に第四、第六艦隊の残存艦を収容したヤン准将。その後の残務処理も、パエッタ中将に代わって完了させている。ラオも少なからず関わったのでよく覚えている。

 

 まもなく少将に昇任し、第十三艦隊の設立に関する業務を片付け、二ヵ月後にはイゼルローンを攻略した。なかなかその気にならなかった人だが、書類仕事の能力そのものは高かったのだ。仕事の内容が把握できなければ、丸投げする先もわからないし、手の抜きようもない。

 

 皇帝は丸投げなどはせず、軍務尚書のオーベルシュタイン元帥も同様だっただろう。だからこそ、綺羅、星のごとき名将たちは能力を十全に発揮できたのだと思う。

 

 苦労性のラオとしては、手放しで喜ぶ気にはなれなかった。なにしろ、現在の艦隊の責任者はアッテンボローであり、そういう会議の場には彼も出席しなくてはならない。キャゼルヌ中将の舌の鋭さたるや、さすがアッテンボローの先輩だけのことはある。

 

 どうかこれ以上、自分の哀れな胃が痛むことがないよう、ワーレン元帥の手腕を祈った。多分、虚空の女王と彼女の寵愛した魔術師と騎士に。



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手の記憶

 フェザーンに滞在していた、イゼルローンの面々もワーレン元帥の出動を聞き、キャゼルヌ事務監の顔を脳裏に描いた。しかし、皆沈黙を保った。ワーレンは尊敬すべき将帥だし、これからは銀河帝国とは外交関係を築いていく。

 

 だが、この世で一番尊ぶべきは、来し方行く末(こしかたゆくすえ)とこしえに頭が上がらぬ、財布の紐を握っている人だ。

 

 ワーレンは、ユリアン・ミンツにキャゼルヌ中将について尋ねた。青年は、形の良いダークブラウンの瞳を一瞬宙に泳がせたが、てきぱきと親しみを込めて返答をした。

 

 自分の保護者だったヤン・ウェンリーとは六つ、いや七つ違い。ヤンが士官学校の三年生のとき、24歳の若さで士官学校の事務局次官として就任してきた。若い頃からその俊英ぶりを買われ、将来の後方本部長と目されてきた。

 

「小官が、ヤン提督の被保護者になったのも、キャゼルヌ中将の計らいなんです。

 当時は、色々と常識外れの奴だから、飼いならしてやってくれとおっしゃいました。

 ヤン提督が27歳で大佐の時のことです。確かにびっくりしました。

 エル・ファシルの英雄はどんな人だろうと思ってお宅を訪ねたら、

 パジャマに歯ブラシをくわえて出てきたんですよ」

 

 そして、おさまりの悪い黒髪はひどい寝癖でぼさぼさだった。ようやくヤンの思い出を口にできるようになったが、それが温かいものであるほど、心の柔らかな部分に痛みが走る。

 

 それでも知って欲しい。ヤン・ウェンリーという不世出の戦争の芸術家の、一人の人間としての側面を。ユリアンにフレデリカ、キャゼルヌとアッテンボロー、大勢の部下達と沢山の人々が愛したのは、日常の頼りなく優しい平凡な顔だったことを。

 

 ユリアンの思い出話に、ワーレンは驚いた顔になった。ユリアン・ミンツはヤン・ウェンリーの養子だということだったが、赤の他人とは思っていなかった。

 

「卿はヤン元帥の縁者だったわけではないのか」

 

「はい閣下。トラバース法、正式には軍事子女福祉戦時特例法というものが同盟はありました。

 戦争孤児を軍人が引き取って養育すると、

 15歳までは養育費の補助があり、税金も控除されます。

 そのまま子どもが軍人になれば、養育費の返還は不要というものでした。

 つまり、それだけ孤児用の福祉施設が満杯だったのです。

 養育費は出せても、施設を作ったり、職員を配置するには予算が足りませんでした。

 熟練者不足で、インフラ施設の不調がしょっちゅうあったのに、

 それでも戦争が続いていました」

 

 ワーレンはユリアンの言葉に、虚を突かれる思いがした。帝国にとっても対岸の火事ではない問題だった。帝国軍でも戦死者は膨大な数にのぼるが、下級兵士の補償は遺族にわずかな年金が支払われるのみだ。

孤児の養育についても、身分階級や居住地による格差は大きい。

 

 ラインハルトは身分階級の是正にも着手したが、五百年近く続く慣例である。わずか二年の在位の多くを、白き美姫(ブリュンヒルト)を玉座として過ごした彼に、完遂できる改革ではなかった。

 

「卿に訊きたいが、なぜ15歳までが対象となるのだろうか」

 

「同盟の義務教育が15歳までだからです。

 中学校を卒業後、士官学校や軍専科学校に進学したり、従軍する選択がありました。

 もちろん、養育費を返還するなら違う道も選べました。

 とはいえ、通常保護者となるのは、子どものいる夫婦です。

 それなりの大金になりますから、一括返還は実質的に不可能だったのです。

 ヤン提督は、養育費なら返還するから、

 嫌なら軍人になんてならなくていいと言って下さいました。

 むしろ、小官が軍人となることに反対をされました。

 軍人なんて碌なもんじゃないとおっしゃって」

 

 15歳までの義務教育。それはさらにワーレンを考え込ませるものだった。帝国では教育も階級による差別がある。貴族階級は幼年学校に入学し、大学や士官学校に進学する。平民は国民学校に入学するが、それも収入に左右される。その後の進路も言わずもがな。

 

 門閥貴族が酷使していた農奴階級にいたっては、最低限の読み書きしか教えられなくともまだましであった。文字が読めず、簡単な計算もできず、不当な証文に縛られて搾取される。そんな領民も大勢いたのだ。いや、まだ過去形とはなっていない。彼らの教育もほとんど進んでいないからだ。

 

 ワーレンの沈黙に、ユリアンは顔を赤らめた。これでは質問の答えになっていない。

 

「ワーレン閣下、申し訳ありません。話が逸れてしまいました」

 

 慌てて謝罪すると、ワーレンは軽く手を振った。

 

「いや、謝罪する必要はない、ミンツ中尉。非常に興味深い話を聞かせてもらい、感謝する」

 

 ワーレンの言葉に込められた心情に、ユリアンは亜麻色の頭を傾げた。しかし、本来の回答をすべきだろう。

 

 キャゼルヌは、ヤンにとっては頭の上がらぬ先輩であり、補給とデスクワークの達人であること。ヤン艦隊成立後まもなく赴任し、二百万人の軍人を含めた五百万人のイゼルローンの住人らの住民行政も担っていたこと。

 

 第八次イゼルローン攻略戦では、査問会に召喚されたヤン・ウェンリー不在の状態で、後方勤務一筋だった彼が、シェーンコップ少将やメルカッツ提督と協力して、ケンプ提督らの猛攻を凌いだ。

 

 第九次イゼルローン攻略戦では、戦艦まで動員して三百万人の民間人の避難輸送を成功させている。ヤンがハイネセンから脱出する際、後方本部長代理の座を捨てて同行し、今日に至るまで、ヤンとヤンの弟子を支え続けてくれた。金策から始まって、物資の補給と輸送にしても完璧である。

 

 個人としては、子煩悩な愛妻家で二女の父である。上の子は十二歳で、下の子は九歳。利発で活発でリーダー的性格のシャルロット・フィリスと、思慮深く料理名人の片鱗を見せつつあるリュシエンヌ・ノーラ。

今頃は、賢夫人のオルタンスと一足先にハイネセンに到着したことだろう。

 

「イゼルローンに赴任した将兵が、妻子を連れて行ったというのか?」

 

「はい、そうです。小官もヤン提督の後からイゼルローンに行きました」

 

 ワーレンの驚きぶりにダークブラウンが怪訝な色を浮かべる。亡き妻との間に、六歳になる長男を設けたワーレンだが、息子はオーディーンの自分の父母に預けている。皇帝ラインハルトは、フェザーンに遷都を敢行し、皇宮や大本営は既存のホテルなどを接収した仮住まいだ。帝国の中枢がそうなのに、子どもの学校どころではない。それに、オーディーンからフェザーンまで、一か月以上は必要だった。とても息子を呼べる状態ではない。

 

「その時には既に従軍を?」

 

「いえ、まだ14歳でしたから、中学校三年生の途中です」

 

「たしか、ハイネセンとイゼルローンは三週間以上かかると聞いたが、

 では、学校はどうしていたのか。キャゼルヌ中将の令嬢たちもだが」

 

 思わぬ質問に、今度はユリアンが目を瞬いた。

 

「え、通信教育がありますので。それがどうかなさいましたか?」

 

 難しい顔になったワーレンは、腕組みをした。

 

「通信教育か……。ではミンツ中尉、それも学歴として認められるのだろうか」

 

「はい。同盟の教育は共通のカリキュラムがあります。

 地理や自然科学などについては、居住惑星独自の項目がありますが。

 中学校卒業相当の学力を認定試験で認められれば、大学の受験も可能です」

 

 実際には、そこまでの学力を身につけるのは容易ではない。通信教育の学習成果は、本人のやる気と能力に左右される。先生がいて、級友や先輩後輩のいる本物の学校にはやはり敵わない。高レベルの大学に合格できるような者は、あまり多くはない。ユリアンはそう続けた。

 

「小官も、授業内容がつまらないのでさぼって読書をしたことがあります。

 ヤン提督も、帝国語会話が苦手なのはそのせいだと言い訳をしていました。

 読み書き聞き取りはいいけれど、話す機会がなかったそうです。

 あの、ワーレン閣下、何度も話が逸れて本当に申し訳ありません」

 

「いや、本当に重要な内容の話だ。卿に感謝しなくてはならない。

 先帝陛下は、様々な改革に着手されたが、その翼の強さに我々も足元を失念していた」

 

 オーディーンとフェザーンとの隔たり。空間と時間が生み出す暴虐。それが教育にも及んでいる。

 

「私にも六歳の息子がいるが、なかなかフェザーンに呼び寄せることができないでいる。

 卿には不思議に思われるだろうが、教育施設はオーディーンが一番優れているのだ。

 ここにはまだ、教育関係施設ができていない。

 そして、統一カリキュラムによる通信教育など、夢のまた夢だ。

 これからイゼルローンに赴くとして、こちらの問題も皇太后陛下に上申をさせてもらおう」

 

 ワーレンの言葉にユリアンは敬礼した。そして、思いついたことを問うてみた。

 

「失礼ですが、一つ教えてください。今、オーディーンはどうなっているのですか。

 遷都をされて、皇太后陛下と大公殿下もこちらにおいでですが、

 まだ地球教徒の残党がいるかもしれません。テロに警戒をなさってください」

 

 ワーレンの顔に緊張が走った。ラインハルトの不予、そして死病の発覚と、急坂を転がり落ちるかのように悪化する病状に、主だった将帥はフェザーンに集結した。隠遁していたグリューネワルト大公妃アンネローゼも、弟の最期を看取るべく、星の海を越えて来た。

 

 今のオーディーンは権力の空白地帯だ。ケスラー配下の憲兵が警戒に努めてはいるが、惑星の規模と人口に比べればあまりに少ない。皇帝(カイザー)ラインハルトの死によって、オーディーンに揺り戻しが起こり得る。大幅に力を削がれたとはいえ、ラインハルトに与した貴族はまだ残っている。

 

 ほとんどがマリーンドルフ伯の縁者だが、それだけに彼と娘と孫に嫉妬し、反目する恐れがあった。つまり、国務尚書と皇太后、そして大公アレクに。

 

 旗印となりうる者までいる。ゴールデンバウム朝最初の女帝。そして最後の皇帝。いまは退位したカザリン・ケートヘン・フォン・ペクニッツ公爵令嬢だ。

 

 距離が生み出した悲劇から、まだ一年と経っていない。ハイネセンの方がずっと近かったのに、小人の暗躍と、それに便乗した地球教徒の跋扈(ばっこ)で、政戦両面に優れた僚友を彼の親友が討つということになってしまった。

 

 そして、ユリアンらが協力して制圧した地球教最後のテロ。そして、更に不可欠な人材を失った。地球教本部を攻撃し壊滅させて、安心していた己の失態でもあるだろう。この青年が敬愛のすべてを捧げていた、かの魔術師の死にも責任がないとは言えないのだ。

 

 もしも、残存勢力がオーディーンの貴族らと手を結んだらどうなる。第二のリップシュタットだ。今度はオーディーンが戦火に包まれて、あれとは比べ物にならない犠牲が出る。皇帝を(うしな)ったローエングラム王朝は、薄氷の上に立っている。こちらにも手を打たねばなるまい。

 

「重ねて礼を言わなくてはならんな、ミンツ中尉。卿はたしかに、魔術師ヤンの後継者だ」

 

「恐縮ですが、ありがとうございます、ワーレン閣下」

 

 差し出された右手を、ユリアンは握った。硬く大きいしっかりとした手だった。自分と同じく、人差し指に銃爪を引くための胼胝(たこ)がある。師父の手の柔らかな感触を思い出し、ユリアンは瞑目した。

 

 そして、ワーレン少年が早く父と同居できるようにと願った。



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賢者の問い、愚者の問い

 ワーレンは、軍務省と学芸省に上申書を提出した。オーディーンの治安維持と、同盟と帝国の教育格差についての二点である。剛毅で公正な彼は、その着想がイゼルローン革命軍司令官からのものであることを明記した。

 

 まだ十九歳の青年がこれほど広い視野を備えているとは、帝国軍首脳部にとって驚きだった。師父の薫陶(くんとう)もあろうが、彼自身の努力でもある。その下支えになっているのが同盟の教育なのだ。

 

 何から手を着けるべきなのか、重大な問題が山積していた。特にオーディーンは、新帝国の首都が(うつ)ったとはいえ、約五百年間帝国の中心だった惑星だ。有人宇宙で今もなお最大の人口を有し、多くの富や文化的資産もそのままであった。

 

 もしも総督を置くとすれば、ロイエンタール元帥と同等以上の才能が必要である。そして、その権力は皇太后や大公をも凌ぐものとなってしまう。どれほど忠誠心に優れ、高い能力を持つ者にも与えることのできない地位だ。新たな難問に、帝国の首脳部は苦吟した。

 

「どうするべきなのかしら。陛下ならばどうするのでしょう」

 

 ヒルダは自問した。ヤン・ウェンリーの後継者らが自身に問いかけたように。

 

「現在の尚書や七元帥を動かすのは無理だわ。

 位人臣を極めるのではなく、皇族をも凌いでしまう。

 かといって、今さら再遷都するわけにはいかないもの」

 

 父フランツに相談しても、これはという答えが出ない。現在、オーディーンに残る貴族には、ペクニッツ公爵を除いて高位の者はいない。そのペクニッツ公爵は、カザリンの父であるからその位を賜り、譲位によって支払われることになった娘の年金をあてにしている男だ。野心もないが、求心力や指導力もなかった。

 

 そこまで考えて、ヒルダは手で口を覆った。さもなくば、悲鳴を漏らしてしまいそうで。娘を金で権力に差し出せと命じた、フリードリヒ四世と何ら変わらないではないか。その仕打ちを憎み、玉座を奪うために、憎んだ相手と同じようなことをしている。なんという皮肉か。亡き夫に禅譲したとはいえ、彼女が前王朝の女帝だったということは消せはしない。アンネローゼのように過去に縛られて、自由な人生を歩むことはできないのではないか。

 

 では、その他の貴族はというと、ほとんどがマリーンドルフ家の係累である。いずれもそれほど高位の家門ではない。門閥貴族の多くが貴族連盟に与し、ラインハルトの才能を見抜いたヒルダの進言で、マリーンドルフ伯はリヒテンラーデ・ローエングラム陣営に属した。親類縁者にも同陣営に属するように勧めはしたが、それは強いものではなかった。そんな判断もできぬならば、滅んでも是非なしと彼女は思ったものだ。

 

 その後、大逆罪でリヒテンラーデ候とその一門を処断し、さらに貴族は少なくなった。つまり、支配者として大人口を統治するノウハウを持つ高位貴族がいない。ラインハルトが旧弊として切り捨て、憎みさえした貴族が果たしていた役割は、広大な領土を皇帝の支配下に置くためのシステムであった。うち捨てた門閥貴族制からの復讐。

 

 朽ちた大樹を切り倒し、遥か星の彼方を見つめ、黄金の翼で飛翔した。だが、倒れた樹は多くの人々の住処であり寄る辺だった。有翼獅子(グリフォン)に率いられた海鷲(ゼーアドラー)たちの、還る大地が劫火に包まれてしまうかもしれない。

 

 ラインハルトならばどうしただろうという問いは、ヒルダに答えを返さない。宇宙統一という偉業は彼だからできたことだ。その戦略の天才たる頭脳、巨星に等しい輝きと求心力。それは天与の才能であり、限りなく希少であるがゆえに彼は歴史に変革を(もたら)した。

 

 だからこそ、ヤン・ウェンリーはバーミリオンの会戦で、ラインハルトのみを標的にした。彼が急死した場合に起こる混乱を、黒い瞳は予見したのだ。あの時、ヒルダはラインハルトを救うべく行動したのだが、もしも間に合わなかったらこれほどの混乱となっていたはずだ。

 

 かの魔術師に改めて戦慄する。夫を始めとする帝国軍の将帥が、あれほど畏敬の念を払った理由をようやく知った。当時のヒルダには、そこまでのビジョンなど見えてはいなかった。ただただ、彼を(うしな)いたくなかった。

 

 そう、あれからわずか二年余りで、彼を喪うことになるだなんて。それも星の海ではなく、大地の上の病床で。

 

そして、ラインハルトの雄大な構想を、奏者たちに的確に分配した、冷厳な舞台監督もいなくなってしまった。

 

 だが、オーベルシュタインは、自分にもしものことがあった場合の指示書を遺してあった。次官のフェルナーが、それを元に部下らに業務の洗い出しと再検討をさせている。そして、軍務省からの新たな人事案が提出された。

 

 軍務尚書にウォルフガンク・ミッターマイヤー、統帥本部総長にエルネスト・メックリンガーというものである。宇宙艦隊司令長官は、当面ミッターマイヤーが兼任し、イゼルローン政府の退去を完了後にワーレンを就任させる。憲兵総監たるウルリッヒ・ケスラー元帥は、地球教テロの捜査を続行する。将来的には警察機構を統括する省庁を開設し、その尚書になるのが望ましい。憲兵らも警察官へと転属させたい。まずは妥当で、七元帥らも納得するに足る案だった。

 

 しかし、役職があと三つも足りない。将来的な案として、フェザーン回廊に建設中の二つの人口惑星要塞、『影の城』『三元帥の城』の司令官、返還されたイゼルローン要塞の司令官が候補に挙げられている。だが、いずれも何年か先の話だ。その間、無役とするわけにはいかないだろう。

 

 父が、ミッターマイヤーに国務尚書への就任を打診したということだったが、そちらの方も今すぐというわけにはいかない。

 

 そして、オーディーンについては考慮外であった。

 

 距離の暴虐。いざ事あって艦隊が出動しても、オーディーンへの到着は一月以上先になってしまう。しかも、オーディーンには帝国本土の人口の約四分の一が集中し、他の皇帝直轄領も所管することになる。オーディーンにも行政府はあり、その長はラインハルトだった。彼のカリスマで従っていた者たちも、今後はどうなることか。そして、ヒルダを悩ませる権力のバランスの問題。

 

 この問題の前には、イゼルローン要塞の明け渡しなど些細なこととさえ思えた。それにしても、本当に運命は皮肉に満ちている。テロで落命したヤンには実子がなく、病死したラインハルトは長男を設けた。

 

 だがユリアンは、ヤンの思想と思考と受け継ぎ、彼の記憶を持っている。アレクは、その一つとして持ってはいない。

 

 しかし、自らを憐れんだりしたら、きっとヤン夫人に八つ裂きにされる。

 

 なぜラインハルトの度々の発熱に、きちんと検査を受けさせなかったのだろう。早期に発見して治療をしていたら、今も存命していたかもしれないという。悔やまれてならなかった。

 

 絶対の権力を持つ皇帝。その皇帝に枷をはめるのが、憲法を作り、議会を開く立憲民主政治だという。それだったら、ラインハルトに検査を受けさせられたのかしら。ヒルダは疲れた笑みを浮かべた。古い古い政治形態だ。千七百年以上は昔のもので、着想したのは黒髪黒目の歴史愛好家だという。

 

 ヒルダはブルーグリーンの瞳を見開いた。イゼルローン政府の面々は、『彼ならどうしただろう』という問いを既に繰り返した人たちだ。ヒルダを新たに悩ませる問題の提起者こそが、もっとも真摯に自問を重ねただろう。

 

 賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶという。今のヒルダは、未経験の出来事に右往左往する愚者なのだ。切り捨ててきた旧いものに解決策が隠されていないか。ヒルダはシュトライトを呼び出した。ユリアン・ミンツとの会談を行うために。それはもう一つの、遺児と未亡人の会合であった。

 

 皇宮に滞在していたイゼルローンの面々は、皇太后からの会談の申し入れに緊張した。ユリアンへの指名に対して、難色を示したのは彼の空戦と白兵戦の師の双方だった。

 

 キャゼルヌの手回しで、ボリス・コーネフらにとっつかまったオリビエ・ポプランと、ブリュンヒルト突入時の傷の手当ての後、入院もそこそこに済ませて、アッテンボローの交代要員としてやって来たカスパー・リンツである。

 

 先日のポプランの帰還に兄弟子は喜んだが、妹弟子は青紫の視線の(きり)を突き刺した。

 

「そういう、やりっぱなしの男ってサイテーだと思います」

 

 明るい褐色の髪に緑の瞳の伊達男は、決まり悪げな顔になった。

 

「そうだぞ、クロイツェル伍長。もっと言ってやるといい」

 

 褪せた麦藁色の髪に青緑の瞳の薔薇の騎士(ローゼンリッター)連隊長は、満身創痍の身であった。左肩を脱臼し、右腕はひびが入っている。肋骨の骨折と全身の打撲もあったが、寝ているほどではないと、ユリアンらに合流した。さすがにトマホークは握れないが、銃撃や格闘戦ならば充分だということだった。

 

「今の俺は手加減ができんから、文句だけで済ませてやる。

 いい大人が、未青年に尻拭いさせるんじゃない。

 おまえのいかがわしいロッカーぐらい片付けて出ていけ」

 

「手加減って、あんた……」

 

「ああ、正確には脚加減か。俺は、貴官の首なんぞ蹴りの一発でへし折れるが」

 

「皆様、小官の浅慮により、多大なるご迷惑をおかけし、誠に遺憾の念に堪えません。

 心よりお詫びを申し上げます。……すみませんでした」

 

「誠意が全然足りない!」

 

 澄んだソプラノと腹に響くバリトンが、異口同音の二重唱で責め立てた。苦笑いを含んだテノールが、しばらく経ってから仲裁するまで、ポプランは米つきバッタと化した。それでも、彼が戻ってくれたのは心強かった。

 

 女好きのお調子者だが、数々の激戦で撃墜数を重ねてきた撃墜王だ。そして、新兵らにスパルタニアンの三機ユニットによる集団戦を叩きこみ、その生還率の向上を成し遂げた、優れた前線指揮官でもあった。判断力や分析力は無論のこと、情報の収集能力も高かった。日常においては、後者は女性に限定されるが。

 

 薔薇の騎士連隊長のカスパー・リンツ大佐も、ポプランに劣らぬ能力の持ち主である。ただし、性格面は除く。負傷していて、白兵戦能力は十全のものではないが、それでも彼と互角に戦えるものは宇宙でも少ない。なによりも帝国語が流暢である。彼の亡き上官のように、貴族階級の話法ではないが、ユリアンよりも遥かに堪能だ。

 

 だから、彼の反応が一番早かった。シュトライトの説明を受けて、リンツは間髪いれずに答えた。

 

「ミンツ司令官が皇太后陛下と会談をするのはいいが、単独でというのは賛成できない。

 この中では、小官が最上位者だ。ミンツ司令官の護衛として同席を要求する」

 

 ユリアンが回答する暇もない。リンツは皇太后と同じ色あいの視線を鋭くした。それは、この要求を容れないなら、会談には応じさせないということだ。罠だという懸念もあるが、若い男女が密談などしたらどんな悪評が立つことだろうか。

 

 それを陽気に、だがずばりと指摘したのはポプランだった。

 

「そのとおり。あのお美しい皇太后陛下との会話の機会を、

 ミンツ軍司令官が独占するのも、いかがなものかと思いますね、小官は」

 

 ラインハルトとヒルダの会話のありかたを、そのまま踏襲はできない。シュトライトは今さらながらに気が付いた。心の奥底で、マリーンドルフ伯爵令嬢(フロイライン・マリーンドルフ)を皇帝のお相手として見ていたようだ。彼は咄嗟に判断し、説明を付けくわえた。皇太后陛下には事後承諾していただこう。

 

「こちらの説明不足で誤解を招いたのをお詫びします。

 小官が書記として、キスリング准将が護衛官として同席する予定です。

 イゼルローン側からもそのように出席を願います」

 

「わかりました。小官のほかに、こちらのリンツ大佐、ポプラン中佐が出席します。

 この二名は、イゼルローン政府の皇宮滞在者で、もっとも階級の高い者でもありますから」

 

「ありがとうございます。それでは、日程の調整が済み次第、改めてご連絡します。

 明日午後となる見込みですので、予めご了承ください」

 

「了解しました」

 

 シュトライトが退出してから、イゼルローンの一行は顔を見合わせた。

 

「一体、僕にどんな話があるんでしょう。ワーレン元帥になにかまずいことを言ったかな」

 

「おい、何を言ったんだよ」

 

「だいたいはキャゼルヌ中将のことです。

 デスクワークと補給の達人で、ヤン提督の旧くからの友人で、よき家庭人ということを。

 ヤン艦隊時代から、ずっとお世話になった有能な方だと」

 

「じゃあ……」

 

雷神の槌(トールハンマー)を凌ぐ毒舌の砲火については伏せてあります、当然」

 

「よし、よくやった。おまえは正しい」

 

 そのデスクワークの達人の落とし穴に捕まったポプランとしては、帝国軍も同じ目に遭ってみるべきだと思う。敵ながら天晴れな連中だったが、すぐには友達になんてなれない。もっと苦労しろよなというのが本音であった。

 

「他には何を話したんだ、ユリアン」

 

 リンツの問いに、彼は思いつくままに会話の内容を列挙した。

 

「後は、僕がヤン提督にお世話になったきっかけのトラバース法のことかな。

 それから、通信教育について少し訊かれましたけど。帝国にはまだないみたいです。

 だから、オーディーンにいる息子さんを、なかなか呼ぶことができないとおっしゃっていました。

 後は、地球教徒の残党がいないか、オーディーンもテロに警戒をと伝えたぐらいですが」

 

 色鮮やかな瞳の持ち主たちは、一斉に大地の色の瞳の青年に視線を向けた。

 

「それだ!」

 

「そうよ、きっとそう」

 

「やっぱり、おまえはヤン提督の弟子なんだよな。俺やポプランも師匠だったが」

 

 両腕が負傷しているため、腕組みができないリンツは、代わりに顎をさすった。敬愛した亡き上官の癖を真似するかのように。

 

「皇帝が亡くなって、フェザーンでてんやわんやしていて、本国のお留守に気が付いたってとこか。

 俺もフェザーンを通って亡命してきたが、オーディーンまでは遠いぞ。

 ハイネセンまでの倍ぐらいかかった。それに、あっちの方が地球には近いしな」

 

「そうですね、ワーレン元帥は地球教本部を制圧したんです。

 でも残党が大勢の人を殺しました。より責任と危機感を感じると思います。

 僕がそうでしたから」

 

「それを言われると俺も同罪だよ」

 

 ポプランは、背の伸びた教え子の肩に手を置いた。

 

「まあ、これ以上は皇太后陛下に話を聞いてから考えようぜ。

 いまから悩んだって始まらないさ。これから三回は飯を食うんだ、

 明日の茶菓子を考える必要もない。それにしても、メニューが乏しいけどよ」

 

「たしかにそうですね。僕はコーヒーは嫌いじゃありませんが、

 そろそろ紅茶が欲しくなってきましたよ」

 

「俺は肉とパンと芋じゃないものが食いたい」

 

「それには私も同感です。隊長」

 

「それから、おまえさんじゃない女の子の顔が見たい。

 帝国軍って、本当に女性兵がいないんだな」

 

 タンザナイトの瞳がまた険しくなったが、カリンは口元に手をやって考え込んだ。

 

「それ、食事のメニューが乏しい原因かも。野菜や果物が少ないですよね。

 こんな食生活を十代から続けていて、戦争と激務をやってたんじゃ、

 それは膠原病も発症するはずよ。皇帝のお姉さんは大丈夫なのかしら」

 

 美少女の言葉に、男どもは唖然とした。

 

「おい、カリン、そりゃどういうことだ」

 

「膠原病は遺伝的な要因があるらしいんですって。

 体質的なものといってもいいけど、そういうのは親兄弟で似るでしょ。

 発症には食習慣とか生活環境が密接に関連するので、一概にも言えないらしいけど。

 それに、もともと二十代から三十代の女性に多い病気です。

 皇帝病の正式名称を聞いて、男なのに珍しいって思ったもの」

 

「どうして、君がそんなことを知っているの」

 

「母の入院先でね、隣のベッドの人がそうだったの。

 お子さんにも検査を受けさせるっていってたわ。

 彼女は症状が安定して退院しました。

 でも、悪化しないように治療と抗体値検査が欠かせないそうです」

 

 皇太后との会談の出席者達は、顔を見合わせた。

 

「リンツ大佐、今の情報もお伝えすべきでしょうか」

 

 リンツは、難しい顔で腕組みをした。

 

「ああ。体質っていうことは、大公アレクとグリューネワルト大公妃、

 二人しかいない皇帝の血族が爆弾を抱えているかも知れないということだな」

 

「なあ、カリン。その奥さんは、症状が安定したっていったな。

 つまり、完治はしないってことか」

 

「はい。自己免疫疾患ですから、一生の付き合いだって。

 でも、そういう体質でも発症するとは限らないし、

 きちんと治療すれば、それで亡くなることはほとんどないって言ったわ。

 健康的な食習慣、ストレスや紫外線、宇宙線を避け、体を大事にすればいいと。

 でもそれ、普通の生活ですよね? 特に子どもや女の人なら」

 

 しかし、皇帝ラインハルトの生活は、すべてその逆を実践していたといっても過言ではない。ポプランは、ぴしゃりと顔を叩いた。

 

「どういう風に言うか、言いようが問題だなあ。

 知らぬこととはいえ、旦那の激務を止めなかったって、絶対に気に病むと思うぞ。

 それに息子や義姉さんまでそうかもしれない、なんてものすごいショックだぜ」

 

 夫を亡くし、彼の築いた帝国を受け継いだ皇太后ヒルダに、これ以上の衝撃を与えていいものだろうか。ユリアンもそう懸念する。

 

「でも、皇帝を診た医師が気が付かないものでしょうか。

 もう、皇太后陛下はご存じかもしれませんよ」

 

「俺はそうは思えない。聞いてたらもっと浮足立ってて、俺たちと会談どころじゃない。

 劣悪遺伝子排除法のせいで帝国の医学は後退してる。そのうえ不敬罪覚悟で言えるもんか。

 皇帝病が体質的なものかもしれんし、ポプランの言う未来が起こるかもしれないとはな。

 ただでさえ、皇帝を救命できなかった医師となったんだぜ。昔なら死罪だ」

 

 元帝国人のリンツは、この二つの法律の重さを知っている。及び腰になった男性陣を、カリンは一喝した。

 

「私は言うべきだと思います。

 知らずにいて、子どもやお義姉さんが同じ病気に罹ったら、

 それこそ自分が許せなくて、生きていけないわ。

 それに、皇太后陛下ばっかりが不幸じゃないもの。

 戦争で同じような目に遭っている人は、どっちの国にも沢山いるんだから、

それを思い知るべきよ。

 みんな、皇太后みたいに裕福でもないし、心配して支えてくれる人はずっと少ない。

 でも必死で生きてるし、生きてきたわよ。

 泣き言いったら、私なら平手打ち(スパンク)をくれてやるわ」

 

 人は総じて同性には厳しい。しかし、カリンの言うとおり、ヒルダの不幸も宇宙全体でみればありふれたものだ。その不幸を生んだ、一方の責任者は皇帝ラインハルト。彼の功績も負債も、遺族は相続しなくてはならない。それはまた、ヤン・ウェンリーの死から、彼らが再起をしてきた道程でもあった。

 

「一発でいいのかい」

 

 ポプランは茶化した。

 

「ええ、ほかの未亡人と子どもたちに残しておいてあげないとね。

 実現したら、彼女ミンチボールになっちゃうと思うけど」

 

「……おお、怖い怖い」

 

 ポプランはうそ寒い表情になった。

 

「そうだね、カリン。君の言葉を伝えるよ。

 病気のことも、戦争で家族を喪った人が大勢いることも」

 

「お願いします、ミンツ中尉。でも、これからそういう人が増えることがないよう、

 この道を選んでくれた皇帝陛下には、とても感謝しているとも伝えてください。

 父達が、最後の戦死者であることを心から願っていると」

 

 少女の言葉に、彼らは悄然となった。黒髪の魔術師が時を止めた一年後、同日同時刻に天上に去った、シェーンコップ中将。彼とその部下の多くが、血路を拓いたから今がある。

 

「うん、必ず伝える。僕たちも大勢の人を殺してきた。

 帝国と一緒に責任を果たさないといけないよね。

 平和を作り、次の世代に渡せるように、ヤン提督が望んだように」

 

 ユリアンの言葉に、皆が静かに頷いた。



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スターバト・マーテル

 変わり映えのしない食事を二回済ませた後で、ヒルダとの面談の時間が告げられた。午後二時に、仮皇宮の応接室へということだった。緊張するユリアンとリンツの傍らで、鼻歌交じりに身だしなみを整えるポプランに、部下の視線は冷たい。

 

「見境いのない男も最っ低です」

 

「誤解すんなって、仮にも宇宙一のお偉いさんとの面談だぞ。

 これはマナーだよ、マナー。

 亭主の墓の土も乾いていない相手を引っ掛けようとは思わんよ」

 

「戦ったところで勝てないしな」

 

 

「そういえば大佐のおっしゃるとおりでした。ごめんなさい、隊長」

 

 あっさりと頭を下げる薄い紅茶色に、ポプランは遠い目をした。

 

「何でだろう。その謝罪の方が傷つくよなあ。

 俺の部下が、薔薇の騎士(ローゼンリッター)連隊長の方を支持するなんて……」

 

「勝手に退職しようとしたくせに、虫がいいことを言うなってことさ」

 

「みんな、その辺にしてください。キスリング准将が困っていらっしゃいますし」

 

 言わせるだけ言わせてから仲裁に入るユリアンに、ポプランは更に遠い目になった。ヤン提督の傍らで、目をきらきらさせていた素直な美少年が、どうしてこうなったのやら。男なんて、彼女ができたらそっちの味方だもんなあ。もっとも、自分だってそうするが。

 

 たしかに、先日の所業は根に持たれても仕方がない。かっこよく立ち去ったのに、のこのこ出戻るとは、かっこ悪いったらありゃしない。だが、再就職はできないと思え、というキャゼルヌのお達しは強烈過ぎた。宇宙海賊は冗談だが、金と身分証と履歴書の添付書類を盾にされれば、宮仕えなんて弱いものだ。キャゼルヌの毒舌に晒されながら、お片付けを最後までやらされるのだろう。その前に、ちょっと美人の顔を拝むくらい許して欲しいものだ。

 

 だが、その考えは少々甘かったらしい。今年一月二十九日の結婚式で、輝くばかりに美しかった、あの女性はいなかった。容姿はほとんど変化がないのに、表情一つでこれほど人は違って見えるものか。あれからまだ半年少々なのに、香り立つような青春の気配は消え、白い顔は青ざめて面立ちが鋭くなった。珊瑚礁の海の色の瞳さえ、冷たい宝石に変わったようだ。

 

 当たり障りのない挨拶の後で、運ばれて来たコーヒーをヒルダは所在なげにかき回し、逡巡してから口を開いた。

 

「急に会談を申し込んで、驚かれたことでしょうね。

 イゼルローンの方々にお訊きしたいことがあるのです。

 立憲君主制の提案をしてくれた、あなたたちならば歴史にお詳しいのではないかと思いまして」

 

「こちらこそ、皇太后陛下のお招きに与り光栄です。

 しかし、立憲君主制の立案者は、亡くなったヤン元帥でした。

 小官らの知識は、とても彼には及ばないものです」

 

「横合いから失礼します。小官は薔薇の騎士連隊長のリンツ大佐と申します。

 ヤン元帥は、生前小官にこうおっしゃいました。

 広く歴史の流れを知ろうとすると、その水深は浅くなると。

 ご自身も、素人の愛好家だと自覚をなさっていたようです。

 ミンツ司令官は、ヤン元帥からの又聞きであることをご了承ください」

 

 リンツが語る、ヤンからの言葉に一同の視線は彼に集中した。

 

「リンツ大佐、よろしければヤン元帥の言葉を教えてくださいませんか」

 

 ヒルダの言葉に、彼は頷くと言葉を続けた。

 

「あれはもう四年前ですが、捕虜交換式典の後、帰還兵の輸送に同行した時のことです。

 当時のローエングラム候のことを、こうおっしゃっていました。

 彼は一万人に匹敵する才能の持ち主だ。逆を言えば、凡人二万人なら彼を凌駕できる。

 それには二万人が意志を統一し、一つの目標に邁進(まいしん)することが条件だ。

 だが、大勢の人間に対立や派閥が生まれることは避けられない。

 だから、一人が一万人の力を持つ天才は、冠絶した存在なのだと。

 普通の人間の能力の損失は、数量で補いがつくが、天才はそうではないという意味のことでした」

 

 ヒルダの手元で、茶器が耳障りな音を立てた。受け皿に黒褐色が領土を広げていく。それを案じたキスリングが、彼女の手からそっと茶器を受け取る。ヒルダは震えて冷たくなった手を握りしめた。まさに、ヒルダと帝国が直面する問題の根幹だった。恐ろしいほどの慧眼、その人が存命であったらどれほど協力をしてもらえただろう。

 

「そうおっしゃった、ご自分も同類でいらっしゃった。

 全く自覚をなさってはいませんでしたがね」

 

「ですが、あなたがたはそれを乗り越えてこられました」

 

「乗り越えただなんて、とんでもない。

 本当に乗り越えたなら、未亡人と孤児を引っ張りだしたりなんかしませんよ。

 それは、帝国と何ら変わりはありません」

 

 ポプランは切り返した。

 

「そして、あの人の願いを尊重するなら、戦うんじゃなくて平和を手にしなくちゃならなかった。

 だが、皇帝ラインハルトはそれを勝ち取るには、戦いをもって示せというお人だった。

 だから、みんな戦ったんです。回廊決戦のヤン提督のように!

 皇太后陛下を責めても仕方がないことなんでしょうがね」

 

 ヒルダは俯いた。

 

「ええ、それこそが問題でした。

 わたしは陛下の相談役でしたが、実際の政策に寄与はしていなかったのです。

 オーベルシュタイン元帥の死によって、先帝陛下の指示は大きく狂ってしまいました。

 ですが、私にはそれを収める力量がありません。

 イゼルローン政府は、わずか二月で再出発をなさいました。

 どうして、そんなに素早く対処ができたのかと思ったのです」

 

 軍務尚書というのは帝国軍事務方のトップである、ということを皆は予め聞いていた。ポプランは、イゼルローン政府の事務方トップの名前を挙げた。

 

「うちの場合、キャゼルヌ事務監が健在でしたからね」

 

 そして、ユリアンは政治のトップに立った、ヤンの妻について言及した。

 

「もう一つ理由があります。ヤン夫人はヤン提督の副官を長く務めていました。

 ヤン提督は、事務仕事をこの二人に頼りきりにしていまして、

 指示書の清書や決裁書類の概要作成などは、みんなヤン夫人が手掛けていました。

 ヤン夫人は、大変記憶力のいい人で、ヤン提督の仕事をよくご存知でした。

 だから、独創性はなくとも日常業務は続けられたのだと思います」

 

 更に、リンツは連隊長としての発言をした。

 

「そして、ヤン提督の戦略戦術指南を受けた、ミンツ中尉もおりましたんでね。

 小官が思うに、あの会談に同行した人員も、

 ヤン提督なりの危機管理だったのではなかったでしょうか」

 

 全員の視線が、リンツに集中した。

 

「地球教徒のテロは、まったく予見はできませんでした。

 しかし、皇帝の下に赴くにあたって、覚悟はなさっていたのでしょう。

 もしかしたら、処刑されるかもしれないし、暗殺されるかもしれない。

 ですから、あの場に同行したパトリチェフ中将、ブルームハルト中佐は、ナンバー3でした。

 ヤン提督の思想なり、仕事なりを把握しているナンバー2は、

イゼルローンに残したのでしょう。

 ヤン夫人は感染症に罹っていたせいもありますが」

 

 そう語るリンツは、膝の上で両拳を握りしめた。手の甲にくっきりと血管が浮くほど強く。

 

「小官やシェーンコップ中将も同行していたらと、何度考えたことかわかりません。

 しかし、ヤン提督とフィッシャー提督とパトリチェフ副参謀長も亡くなり、

 ムライ中将が離脱された理由はよく分かります。

 ヤン提督の作戦案は、あの二人なくしては不可能なものだったからです。

 それをミンツ司令官に提示しても、害にしかならなかったでしょう」

 

「リンツ大佐、どういうことですか」

 

 ユリアンも初めて耳にする言葉に、硬い声で問いかける。

 

「ヤン提督の艦隊運動は、フィッシャー提督あってのものだというのは知ってのとおりだが、

 あの複雑さをまとめたのはムライ参謀長、うまいこと説明したのはパトリチェフ副参謀長だ。

 ヤン提督は、よく会議を開かれる方でしてね。

 小官らも、出席しては報告し、また課題を出されるという塩梅でしたが、

 自然と全体の構図が見えてくるのです。

 だから、ヤン提督の戦術構想というのを、将兵はだいたい理解していました。

 いかに説明役が重要か、その人望ごと副参謀長は貴重な人材でした。

 ユリアンには見えにくかっただろうけどな」

 

 逆に問いを返されて、ユリアンは頷くことしかできなかった。

 

「壮大な設計図はあっても、作り上げることができなけりゃ、イゼルローン軍は潰れてた。

 規模を縮小して再構築したからどうにかなった。

 その引導役を、ムライ中将は引き受けてくれたわけです。

 それは、ヤン提督という天才を、本当の意味でご存じだったからだと思っていますよ」

 

「ああ、ずいぶん演習ばっかりやって、その度にブリーフィングだった。

 フィッシャー提督は演習の鬼だったし、メルカッツ提督は輪をかけて熱心だもんな。

 あの不良中年も、ずいぶん雷神の槌と要塞砲台を撃ったもんさ」

 

 

 亡き人々に去った人の名を挙げて、大佐と中佐は説明を続けた。ポプランは言う。

 

「おっとりしていて、ヤン提督はここぞと言う時、厳しい人でしたから。

 最善案を考えないで努力をしても意味がないと、こうですよ。

 ああ、俺は騙されてたと思ったもんです。おかげで、三機ユニットがどうやらものになった。

 ずいぶん相談に乗ってくれて、フィッシャー中将も助けてくれたんです。

 ヤン提督は、組織の調整役としても名人でしたよ。人を動かすのが上手かった」

 

 絶対の存在として君臨したラインハルトとは、まったく異なる組織の長の姿だった。権力を分散化させる民主主義国家のシステムは、しばしば縦割りによる弊害を招く。隣の部署は何する人ぞ。そうなりかねない巨大な組織の、各部門の理解と連携を図ってきた。

 

 そのヤンの組織経営術の師は、アレックス・キャゼルヌだった。その意地にかけて、あの事務の達人は停滞など起こすはずもなかったのだ。ユリアンも、リンツのように両手を握りしめ、自分の手の甲に視線を落とした。

 

「ええ、でも子どもだった小官は、提督のことを怠け者だとばかり思っていました」

 

「それも間違っちゃいないがね。

 ただ、ヤン・ウェンリーは一人しかいないし、一人でできることは限られてる。

 だったら、自分に一番求められてることをやり、

 他はできる奴にやらせればいいと考えていたんでしょうね。

 いざという時の責任は取るからと。ですからね、皇太后陛下もそうなさればいいんですよ」 

 

 明るい褐色の髪に、緑の瞳をした美男子の言葉に、ヒルダははっと顔を上げた。話を聞くうちに、亜麻色の髪の美青年と同じ姿勢になっていた彼女だった。

 

「沢山人材がいるんでしょう。二万で足りなきゃ、三万人でやらせればいいでしょう」

 

 ユリアンも言葉を添えた。

 

「そうです。

 たしかに、宇宙統一は皇帝ラインハルトのような天才でなければできなかったでしょう。

 ですが、人々が学校に通って、仕事をして、まあまあの生活ができるような政治は、

 末期のどうしようもない同盟政府にもできていたことです。もちろん、課題は沢山あります。

 同盟の民生は、長征一万光年の十六万人から、二百年かけてここまで積み重ねてきたものです。

 それを、一気に帝国本土の230億人に広げようとすれば、必ず破綻をします。

 むしろ、ゆっくりと穏やかに変えていかなくてはならないと思うのです」

 

「ゆっくりと……?」

 

 くすんだ金髪の頭部を、童女のように傾げるヒルダにユリアンは胸を衝かれた。この女性はラインハルトと一歳違い、ユリアンと五歳しか違わない。生まれたばかりの赤ん坊を抱え、それだけでも育児ノイローゼになる人もいるのに、390億人を細い肩に背負うことになるのだ。怨恨に囚われている場合ではなかった。

 

「皇帝ラインハルトは、大変な早さで宇宙を変革しました。

 でも、普通の人間には、とてもその速度についていけません。

 彼についていけた帝国軍の方々は、並はずれた人たちだと思います。

 そろそろ、速度を緩めないと脱落者が相次ぐことでしょう」

 

「そうですね。

 ミンツ司令官が指摘されたように、オーディーンは放置しておけないでしょう。

 ですが、動かせる人員がおりませんの。

 あなたがたに相談するのは筋違いなのは判っています。

 しかし、皇帝が若くして亡くなり、幼い子供が後継者となった国が、

 存続した例はあるのでしょうか」

 

 この質問に、イゼルローンの面々は顔を見合わせた。

 

「申し訳ありません。小官は地球時代史に詳しくはないのです。

 オーディーンについての対処法なら考えがあるにはありますが、

 先帝陛下の改革に逆行するでしょう」

 

「構いませんわ。教えてください」

 

「ヤン提督が考えそうな方法といえば、大公殿下の直轄領にすることでしょうか。

 現在の行政府の責任者は代官に任命し、駐留軍を派遣して警護します。

 惑星の規模からいって、二個から三個艦隊は必要だと思います」

 

 ヒルダはヤン・ウェンリーの弟子の案に眼を見開いた。

 

「大公殿下の所領ではありますが、

 当面の間は保護者たる皇太后陛下がその責を代行することになります。

 この方法なら、権力が分散化はされます。対立は起こるかもしれませんが。

 だからこそ、新領土戦役のような事態には発展しにくいと思います」

 

「だがユリアン、それだと第七次以前のイゼルローンの構図になる。

 部下同士が反発しないだろうか」

 

 『奇蹟(ミラクル)』の名を冠せられることになった作戦の立役者が疑問を投げかける。

 

「ですが、直径60キロも密室のイゼルローンと、惑星のオーディーンでは規模が違います。

 一か所を制圧されれば手も足も出ないという事態では、かえって危険ではないでしょうか」

 

「たしかにそうかも知れないな。拠点の分散化はテロへの対策にもつながる」

 

 検討するに足る意見だった。ラインハルトが余りにも優れていたからこそ、帝国軍の行動は連鎖的に、一気呵成(いっきかせい)に進んでいった。兵は拙速を尊ぶが、政治はその限りではない。衆知を集めて、多数決で方向を決める民主共和制を知る者からの指摘は、ヒルダの心をわずかに軽くした。

 

「ところで、皇族の方々はテロへの備えは充分にしていらっしゃることでしょうが、

 膠原病の検査はなさっておられますか。

 小官らの部下が言うには、遺伝的要因がある病気らしいのだそうです」

 

「なんですって……」

 

「ご存じではいらっしゃらなかったのですね」

 

 蒼白な顔になったヒルダに、ユリアンは労りの言葉をかけた。

 

「そういう体質をもっているからといって、発病するとは限らないそうです。

 様々な要因が影響するそうですので。

 しかし、本来は二十代から三十代の女性に多い病気だとのことです。

 こんなことを敵だった小官らが申し上げても、信じてはいただけないかもしれません。

 しかし、もしも知識がないことによって、皇帝ラインハルトの血縁のお二人が、

 病気になったら陛下はご自分を許せなくなるだろうと、クロイツェル伍長が申しておりました」

 

「クロイツェル伍長とはどなたです」

 

「我々の中で、唯一の女性兵です。シェーンコップ中将の娘でした。

 この宇宙に大勢いる未亡人と孤児たちのためにも、

 皇帝ラインハルトが選んだ平和の道を感謝し、

 皇太后陛下にも歩み続けていただきたいそうです。

 そして、自分の父達が最後の戦死者となるように願っていると」

 

 リンツとポプランは、心中で拍手をした。あの危険発言に大鉈を振るったおかげで、優しい性格の可憐な美少女に思えるじゃないか。ポプランの部下でも上位に位置する、スパルタニアンの腕利きパイロットだとは予想がつくまい。物は言いようである。

 

「そうですね、ありがとうございました。ワーレン元帥と一緒に出立するまでに、

 またお話を聞かせてください。今度は、クロイツェル伍長もご一緒してくださいね」

 

 それを合図に、イゼルローンの面々は退出した。ヒルダは瞑目して彼らの言葉を反芻した。イゼルローン一行の中の女性兵は、まだ十代後半の美しい少女だった。旧同盟軍では、女性のほとんどは職業軍人だという。あんな年端もいかぬ子が、従軍するには相応の理由がある。彼女もまた戦争孤児なのだ。

 

 自分はどうだ。母は病死したが、高潔で人格者の父がいる。可愛い息子と、美しく優しい義理の姉がいる。有能で人格も優れた部下たちが帝国を支えてくれている。宇宙にいる大勢の孤児と未亡人の中で、最も恵まれた存在だろう。そんな自分に、父の仇の妻という恨みを越えて、わざわざ病気の危険を教えてくれたのだ。

 

 一人でできないなら、大勢でやればいいと緑の瞳の美男子は進言した。一番ヒルダを必要とする仕事以外、上手にできる者に任せる、そのための最善案を考えなくてはならないが。

 

 そして、ヤン・ウェンリーが部下に慕われ、士気を最高水準に保ち続けた理由の一端を明かしてくれた、自分と髪や目の色が似た屈強な青年。ヤンは、己が魔術を舞台のスタッフに、充分に説明をしていた。だからこそ、敵対していた帝国は、手玉に取られ続けたのだろう。

 

 彼らの話をまとめ、オーディーンへの対処法の一端を披露したのは、かの魔術師の弟子だった。いままで、ラインハルトに集中していた権力を分散化し、飛翔する速度で進んだ変革を、民衆の足並みに合わせた緩やかなものとするように、同盟の例を引いて説明してくれた。

 

 彼から実の父を奪い、尊敬する養父を死に追いやった発端は、いずれも帝国軍であったのに。

 

 それはすべて、平和のため。彼らが敬愛した黒髪の青年の心からの望みであったから、恩讐(おんしゅう)を越え、恨み言の代わりに未来への提言をする。彼らこそがヤン・ウェンリーの遺産だった。

 

 このまま平和が続くなら、ヤンは史上最高の軍事的天才と評価をされることだろう。だが、それ以上に彼は良き師であった。イゼルローンの人々は、彼の言葉を種火に、自らの心に火を灯して歩もうとする。

 

 ラインハルトの残した輝きは、巨大にすぎる。しかし、その一欠片ならば携えることができるだろう。ヒルダ一人に持ちきれなくても、姉であるアンネローゼに、ミッターマイヤーを始めとする七元帥。義父でもあるフランツを始めとする帝国の尚書たち。そして、帝国の国民が皆で分かち合うことができないだろうか。歴史上でも稀な天才だから担う事ができた重圧を、担う人間を増やすことで分散させる。それは、専制から民主政治が生まれていった過程そのものだった。

 

 ヒルダは瞼を開き、ゆっくりと顔を上げた。眼に映る部屋の天井の上には蒼穹(そうきゅう)が広がっている。そこを飛びだせば、遥かに星の海に浮かぶ幾多の惑星と四百億の人々がいる。ゆるやかに、穏やかに変えていかなくては、脱落者が出るとユリアンは語った。天才が五年でなしえたことの、十倍、いや二十倍もかかるかもしれない。こんな形で彼が亡くならなかったとしても、いずれ子孫が直面する問題であったろう。

 

「見ていてくださいますか、陛下」

 

 あなたのような天才は、五百年に一人だった。だから凡人である私たちは、身の丈にあった方法を模索するしかない。あなたの構想に逆行することかもしれない。歴史の勝者となるのはヤン元帥かもしれない。

 

 でも、あなたの原初の願いは、愛する家族が揃って、飢えず凍えぬ暮らしができることだったはず。親友と同じ学校に通い、夢を語り合って、望む未来に進むことだったのでしょう。理不尽な権力に脅かされることのない、平和な暮らしを望まれていたことでしょう。

 

「あなたの最期の言葉の続きを」

 

 『宇宙を手に入れたら、みんなで』幸せに暮らそう。私はそう信じて、彼方にある理想をめざす放浪者の一人になる。星亡き宇宙に、未来を探す長い旅に出る。でも、私は独りではない。今この時を最後に。だからこの一時だけは許してほしい。

 

「少しの間、一人にさせてください」

 

 シュトライトとキスリングは、静かに退出した。静かに閉じられた扉の音を聞いても、ヒルダは姿勢を変えることはなかった。そのままで、瞳から熱い流れが頬を伝うに任せた。

 

 それはヒルダが、ラインハルトの妻だった最後の日であった。

 

 摂政皇太后ヒルデガルド・フォン・ローエングラムは、ローエングラム王朝を背負い、390億人の母となった。その姿を、後世の歴史家は失われた宗教の象徴になぞらえた。『悲しみの聖母(スターバト・マーテル)』と。

 

 



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宇宙暦801年/新帝国暦3年 ジュースマイヤーの交響曲
二輪の薔薇(ローゼ)


 新軍務尚書にウォルフガンク・ミッターマイヤー元帥を任命する。

宇宙艦隊司令長官は当面、同人が兼任とする。

 

 統帥本部総長にエルネスト・メックリンガー元帥を任命する。

 

 イゼルローン共和政府の、要塞返還に伴う人員輸送作戦に、

アウグスト・ザムエル・ワーレン元帥を任命する。

 

 ウルリッヒ・ケスラー元帥は、憲兵総監に留任する。

 

 フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥は、

新帝都フェザーンの駐留艦隊司令官として任命する。

併せて、建設中の影の城、三元帥の城要塞の警護も命ずる。

 

 旧帝都オーディーンを大公アレクサンデル・ジークフリードの直轄領とする。

エルンスト・フォン・アイゼナッハ、ナイトハルト・ミュラーの両元帥を、

駐留艦隊司令官として任命する。双方、協議のうえ任務に当たるべし。

 

新帝国暦三年八月十日 

銀河帝国摂政皇太后 

ヒルデガルド・フォン・ローエングラム

 

 これが全宇宙に布告された、帝国軍の新体制であった。そして、イゼルローン要塞返還の責任者のワーレンの下へ、帝国軍の監視部隊から質問や報告が相次いだ。

 

 ワーレンを驚き呆れさせたのは、未だに監視部隊が要塞周辺宙域に展開中であり、イゼルローン軍からの再三の入港の勧めにも、保留の返事をしているということだった。

 

「卿らは今まで何をしていたのだ」

 

 ことさらに声を張り上げての叱責ではなかったが、剛毅な歴戦の名将の問いは、若手の将官らにとって堪えるものであった。

 

「しかしながら、イゼルローン要塞の主砲と要塞砲台の機能は健在です。

 イゼルローン軍が、双方の射程を外れた安全経路を提示してきたものの、

 正しいか否かの検証もできておりません」

 

 超光速通信の向こう側で、冷や汗交じりに弁明する青年の階級は中将だった。

 

「イゼルローン側は、信用できぬなら第九次攻略戦の際、

 見事だった包囲軍の艦隊運動と比較検証しても構わぬとのことです。

 しかし……」

 

 言葉を濁す中将に、ワーレンもまた苦い顔になった。かつての雄敵にこんな指摘を受けるとは、帝国軍の鼎の軽重(かなえのけいちょう)を問われたも同然だった。それが、核心を突いている事実であることも。

 

 あの攻略戦に参加した、ロイエンタール、ルッツの両元帥とレンネンカンプ上級大将は既に天上(ヴァルハラ)の門をくぐった。しかも全員が宇宙ではなく、地上で息絶えている。彼らの旗艦は各所に係留中で、イゼルローン攻略時のデータがどうなっているのか、すぐには調査ができないだろう。

 

 そのデータを集約、記録するはずの軍務省も、この人事などのために上に下への大騒ぎだった。イゼルローン政府は第一陣がハイネセンへの帰路につき、残る人員は十万人程度であろう。皇帝ラインハルトの崩御、軍務尚書オーベルシュタインの暗殺という状況の中で、後回しにされてしまうものが必ず発生する。それが、この事態をもたらしているのだ。

 

「そのような迂遠なことをしている余裕はない。

 こちらに彼らの軍司令官が賓客として滞在し、

 恩讐を越えて地球教徒のテロの制圧に大きな協力をしてくれたのだ。

 今後、国交を結ぶ国家に対し、信を置かずしてこの帝国が成り立つと思うか。

 あちらの指示に従い、早急に入港せよ。そして、要塞内での武力行使を厳に禁ずる。よいな」

 

 この三月の回廊の戦いで、彼の艦隊は雷神の槌(トゥールハンマー)によって大きな被害を被った。それでありながら、決断を下したワーレンの剛毅さに、相手は反論の言葉を失った。

 

「は、了解しました」

 

 額を汗に濡らした中将は、敬礼をして通信を終えた。だが、彼にしても寄るべき大樹が見つかり、叱責にさえほっとしている様子だった。彼よりも十歳は若いだろう、イゼルローンの中尉が背負ったものの重さに耐えているのに、何という差であることか。

 

 その日の内に、帝国軍がイゼルローンに入港を完了したという報告が入った。ようやく通信画面を介さずに、帝国軍責任者とイゼルローン軍の司令官代理が交渉できるようになった。途端にフェザーンにむかって、要塞事務監キャゼルヌと軍司令官代理アッテンボロ-両中将からの、計画書と質問書が送られた。

 

 艦隊の準備をする多忙なワーレンだったが、その簡潔にして要所を見事に押さえた書面に、感嘆せざるを得なかった。念の入ったことに、同盟語と帝国語双方の文書が提出され、内容に虚偽のないことを明示している。計画に変更を要するのならば、協議のうえ、双方が書面を取り交わすといういうことだった。軍務省にも確認をさせたが、ケチのつけようも、下手な変更もしようもない完成度だった。

 

 一点、気になったのは、人員の輸送に現存している戦艦を使用してよいか、というものだ。治安のため、そして独立が認められたバーラト星系にとって、惑星を防衛できる程度の戦力は将来的に必要であった。イゼルローン政府が保有していた一万隻弱の艦艇のうち、四割以上が撃沈又は大破している。さらに、ハイネセンまでの航行に耐えられるのは、残存数の三割以下だろう。その中で状態と機能のよい船を千隻選抜し、運用人数を割り振れば、一回で退去が完了できる。これが最も経済的な方法であると、民間の輸送船を使用した場合の費用試算もついている。

 

「念の入ったものだな。彼らも同じく中将だったが」

 

 ワーレンは人工の左手で口元を押さえた。いや、中将が担うべき職責は本来はこれほどの重みがあるはずだ。要塞への入港の判断もできず、責任も負えない者たちにふさわしいものだろうか。軍務尚書と宇宙艦隊司令長官を兼任するミッターマイヤーに、上申すべき問題だ。

 

「しかも、アッテンボロー中将は、旗艦の戦術コンピュータのデータを

 開示するとまで言うのか」

 

 ヤン・ウェンリーの腹心、魔術師の左手。帝国軍は、その陽動(ミズディレクション)に何度となく騙された。もしも同盟軍に充分な艦艇が残っていたら、新設艦隊の司令官になれた将帥だった。ヤンの戦術思想にもっとも近く、だが彼よりも攻守のバランスがいい。もしも彼が一個艦隊を率いていたら、バーミリオン会戦は停戦命令以前に終了し、ローエングラム朝は創立することはなかったかもしれない。

 

 数々の激戦を戦い抜いた艦艇への愛着は、誰もが抱く。皇帝ラインハルトも純白の美姫、ブリュンヒルトをこよなく愛した。ヤン・ウェンリーのヒューベリオンは、『高みを行く者』という神話の由来が、かの智将になんと似つかわしいものだったか。

 

 ユリアン・ミンツが語ったところによると、アッテンボロー中将の旗艦は、元々はヤンの新旗艦として配置されたらしい。ヤンは、『見栄えのいい船は、乗るよりも鑑賞した方がいい』と言って、後輩に譲ったそうだ。乗りなれた船から、機能を移転させるのが面倒くさかっただけではと、ポプラン中佐は語った。その遠慮のない親しみに溢れた口調から、ヤンが皆に慕われていたことがうかがえる。

 

 とにかく、アッテンボローの船であるトリグラフは、同盟末期の傑作だった。武装解除のために爆沈処理をするのなら、せめて頭脳だけでも残しておきたいというのは理解できた。いずれにしても、イゼルローン回廊の狭隘(きょうあい)な宙域で、五千隻強の艦艇を爆破させるわけにもいかない。

 

 これからは戦場としてではなく、帝国本土と新領土を結ぶ航路としての役割が重要になってくる。前年の回廊決戦、半年前の戦いの残骸処理も不十分なのに、これ以上障害物が増えるのは非常にまずい。どこかに移動させなくてはならないし、だったらハイネセンまでの輸送に使えばいいだろうという事だ。ヤンを欠いても戦い抜き、先帝から講和をもぎ取った彼らは、したたかでしなやかな人間たちだった。

 

 こちらに滞在しているイゼルローンの青年らは、ヒルダやアンネローゼとも語らいを重ね、二人の女性の哀しみはわずかでも薄らいだようだ。

 

 特に、アンネローゼは即刻膠原病の抗体検査を受けた。結果は、治療するほどではないが要経過観察というもので、帝国首脳部を大いに安堵させた。彼女には、皇帝の姉として義妹と甥を支えて欲しい。可能ならば結婚して、子供を設けることもだ。

 

 もう、あなたは、フルードリヒ四世の寵姫、皇帝ラインハルトの姉ではありません。そんな肩書きではない、ただのアンネローゼ殿下として、自由になってください。薄い紅茶色の髪とタンザナイトの瞳の美少女が、黄金と青玉の佳人に伝えた。

 

 彼女の母は、若くして彼女を生み、アンネローゼとさほど変わらぬ年齢で病死したという。弟によく似た、だがより繊細で透き通るように美しい女性は、白磁のような頬を濡らした。いつもの哀しいほどに美しい微笑みではなく、想いを露わにした涙であった。

 

「そんなことが許されるのでしょうか。

 わたしがいたから多くの人が亡くなりました。

 あなたたちの国を滅ぼしたのは、わたしの弟なのです」

 

「それは大公妃殿下が、皇帝ラインハルトにそうしてくださいと頼んだんですか」

 

 カリンの問いかけに、アンネローゼは息を呑んだ。

 

「まさか、そんなこと……」 

 

「同盟だったら、大人が自分の意志でやったことに親兄弟の責任は問えませんけど」

 

「でも、ラインハルトをああしてしまったのは、わたしのせいです。

 そして、ジークが亡くなったのも……」

 

「そうですね。そうお思いになるのは大公妃殿下の自由です」

 

 カリンはあえてそっけない口調で賛同した。

 

「宇宙を征服したもの皇帝ラインハルトの思想の自由だし、

 親友を庇って亡くなったのも、キルヒアイス元帥の思想の自由。

 何人なりとも心は自由だというのが、ヤン提督のお考えでした。

 誰にも考えを押し付けられるものではないし、誰かに押し付けられた考えでは、

 自分の考えじゃない。そういうことですよね、ミンツ中尉?」

 

「そういう意味だと僕は思っています」

 

 恋人の口調の鋭さに、ユリアンははらはらしながら相槌を打った。

 

「私の言葉で変わるなら、それは殿下のお考えじゃないのでしょう。

 何が言いたいのかといいますと、好きなだけ悩んで好きに生きたらいいの。

 隊長が言うように、幸せにならない自由だってあるんだし。

 お金の心配をしなくていい分だけ、殿下の不幸はましなほうだと思いますけど」

 

 それは、アンネローゼを取り巻いていた、哀しみの氷に(ひび)をいれる(たがね)の一撃だった。いままでの自分は、悲しみ、弟を案じながら、一方で拒絶をしていた。

 

 許せなかったから。自分の手紙が、弟がジークを疎んじて、死に追いやる結果となった。彼が憎んだフリードリヒ四世は、アンネローゼを庇護し、弟たちに栄達への(きざはし)を与えた恩人だった。あのままでは、遠からずミューゼル家の家計は破綻し、自分は身を売ることになっただろう。形を異にして、より劣悪な状態で。

 

 弟の野心を感じていた。止めることも、方向を変えることもできなかった。そんな自分を、この世の誰よりも赦すことはできなかった。

 

 世間との関わりを絶ち、あの山荘で朽ちてゆくのが自分に相応しいのだと思った。だが、下町で暮らしたあの頃。父と弟がいて、隣には赤毛の優しい少年がいた日々に、何もせずに衣食住に不自由がなかった? 

 

 いいえ、それは違う。電気代にも事欠いて、真っ暗な夜に怯えるラインハルトを、抱きしめて慰めた。いつの間にか、その困窮を忘れていた。そして、宇宙にはそんな人は大勢いる。自分の不幸を相対化できず、絶対化してしまう。それが自分と弟と父に共通する愚かさなのか。

 

 涙さえ止まり、美しい彫像のように無表情のアンネローゼを前に、ユリアンは心底肝が冷えた。カリンの袖をそっと引っ張ったが、すげなく払われる。

 

「大公妃殿下、私に言えるのはそれだけです。ひどいことを言って、ごめんなさい」

 

「いいのです。ありがとう、カリンさん。

 わたしも考えてみようと思います。今までのことも、これからのことも。

 まだ、わたしになにか出来ることがあるのなら……」

 

「妃殿下には出来ないことの方が少ないでしょう、きっと」

 

 カリンはそう言うと、立ちあがって敬礼した。ユリアンも仕方なくそれに続き、応接室を退出した。競歩選手のような足取りは、彼女が怒っている証拠だ。しかし、ユリアンとしてもあれはきつすぎるのではないかと思うのだ。

 

「カリン、きみはちょっと言いすぎじゃないのかな」

 

「だったら、あのひとは、いつまでかわいそうな大公妃殿下でいればいいの?」

 

 静かだが鋭い問いであった。

 

「本人が好きで選ぶんならそれでもいいわよ。

 周りがそう扱うから、好きな生き方ができないなんて、あんまりじゃない」

 

 青年は愕然とした。少女が怒っていたのは、彼女にそうさせていたのかも知れない、周囲に対してだった。

 

「皇帝ラインハルトは、思うままに生きて宇宙を征服したでしょう。

 彼の姉だから、その原因だから、遠慮しなくちゃならないなんておかしいわ。

 人にはみんな自由に生きる権利があると学校で教わったけど、

 帝国では、皇帝陛下でもないかぎり、そんな自由はないのよね?」

 

 輝きを増す一対の青紫の宝玉。もとから美しい少女だが、この時に浮かべたのは凄艶といっていい表情だった。

 

「それを許せなかったから、ヤン提督は戦い抜いたんでしょう。

 だから、私達だって後を継いだわ。

 沢山の人の命と引き換えにして、ようやく自治を勝ち取ったけど、

 自分だけよければ、よその国はどうでもいいの?

 内政干渉になっちゃうから、帝国のことは帝国に任せるべきなの?

 でも、なぜ大公妃殿下に、あなたは自由よと誰も言ってあげないの?」

 

 迫力に呑まれ、羅列された疑問に返す言葉がなかった。

 

「私が言ったところで、本当の自由なんてないのはわかってるわ。

 だって、宇宙で二番目に高貴な女性なんだもの。

 でも、あんなに血を流した結果がこれなの?

 あの人は、十五歳からこれまでの代償を、この先五十年も六十年も支払うの?

 私だったら、絶対に我慢できない」

 

 カリンは、優雅に顎をそびやかした。形の良い唇が紡いだのは、流暢な帝国語だった。

 

「どのみち、誰かがこの話をお聞きになっているのでしょう。

 それならば帝国の偉い方に、伝えていただきたいわ。

 いつまで、大公妃殿下の悲しみと優しさにつけこんでいるのかと。

 戦争の後始末を、喪服の貴婦人と赤子に押し付けるおつもりかしら。

 スカートの下の七元帥と歴史に称されることでしょう。恥を知りなさい」

 

 黒いベレーとジャケットにアイボリーのスカーフとスラックス。旧同盟軍の軍服姿の少女は、華麗なドレスを(まと)った姫君よりも威厳と迫力に満ちて、遥かに年長の高官らを叱責した。



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誰がために歩むか

 これは、監視者から軍の上層部に伝わることとなった。そして、イゼルローン監視部隊の体たらくもワーレンから上申される。イゼルローン政府軍との相違点を知ることになった新軍務尚書は、灰色の眼に苦渋の色を浮かべた。

 

 ラインハルトの圧倒的な天才とカリスマによって、帝国軍はこの五年で凄まじいほどに巨大化し、国内における権力を増大させていた。それを僚友に嫌われながら黙々と支えた、オーベルシュタイン。ミッターマイヤーは彼を謀臣として捉えていたが、巨大な組織の管理者としての比重に、彼の価値の天秤は大きく傾いていた。

 

 亡き金銀妖瞳の親友に、地位に応じて器量を広げると評されたミッターマイヤーだったが、軍務尚書という重責を引き継ぐのは、困難と表現するのも過小なものだった。フェルナー少将という有能な次官の存在、仕事に結果を要求され、時に胃薬の世話になりながらも、職務を果たしてきた職員らなくしては、彼の就任を待たずして帝国軍は瓦解していただろう。

 

「あのオーベルシュタインが、陛下にも否を唱えた理由を今さら知るとはな。

 それを悟らぬ俺達に、さぞや腹が立ったことだろうよ」

 

 フェルナーが見事な概要を作成したものの、到底数十ページではすまない。だが、それでも一目でわかる軍事費による国家予算の圧迫。アムリッツァの大敗で二千万人が死亡した旧同盟よりも、深刻な数値が並んでいた。同盟の場合は、国民の税金や国債から軍事費を支出していた。あの大敗で、遺族への補償に莫大な費用が発生し、艦隊の数は激減した。

 

 しかし、死者には艦艇も武器も糧食も不要だ。ランテマリオの会戦以降、動けるのはヤン艦隊のみとなって、帝国軍の将帥らは魔術師に誘い出され、操られるがままに踊らされた。あの局面では、同盟軍はヤン艦隊の面倒だけを見ればよかったのだ。

 

 一方の帝国軍はそういうわけにはいかない。第一次神々の黄昏(ラグナロック)作戦の際に、一億人体制とまで言われた規模はすでにない。ヤン・ウェンリーやその後継者らとの一連の戦い、新領土戦役を経て、一割以上が天上(ヴァルハラ)に去った。短期長期の差はあるが、戦死者の人数は二千万人に迫りつつある。だが、同盟とは異なるのは、元帥麾下の艦隊は健在だということだ。死者と生者の双方に、長期的に膨大な経費がかかる。

 

 いままでそれを支えてきたのは、解体された門閥貴族から没収した資産だった。しかし、これは親戚の遺産を相続したようなものだ。いかに巨額であろうとも、景気よく大盤振る舞いすればいずれ底を尽く。そうなる前に、定収である税制を健全化させなければならなかったが、門閥貴族資本の企業や土地は国有化された。国民を食わせ、軍需物資を賄うだけならそれでもいい。

 

 しかし、これでは金を生み出さない。フェザーンが帝国から旧同盟に売っていた物は、貴族向けの贅沢品だった。高価で希少なワイン、手仕事で作られた精緻なレースに、金襴刺繍を施した布地。伝統工芸による貴金属の宝飾品や、わずか一滴に数千の生花を必要とする香水。主な顧客がいなくなり、あるいは自身が略奪の対象となって、これらの生産者は激減した。

 

 こんな状況下で、戦いを(たしな)んでいる場合ではなかったのだ。ラインハルトの覇気は、炎のように将帥らを魅了した。

 

『本来、悲惨な戦争のはずが、彼の前では華麗に見える。危険だと思うよ』

 

 生前のヤンはそう評したと聞いた。戦争を嫌った敵将は、もっとも皇帝ラインハルトを把握していた。

 

『彼は、愛憎に己を焼いて悔いない人なのだろう』とも、弟子に語っていたという。

 

 ヒルダが覚えた戦慄を、ミッターマイヤーらも味わうことになった。自分は何のために戦ってきたのだろうか。門閥貴族を倒すためか。叛徒を平らげ宇宙を統一するためか。いや、それを考え、行動に移した皇帝ラインハルトのためだ。思想のために戦ったのではない、思想を体現する人のために戦った。イゼルローンにいるダスティ・アッテンボローが激白したように。

 

 だが、その思想を体現する人の在り方は大きく異なる。絶対の権威を求め、それを手中に収めた金髪の美青年と、個人の思想の自由と権利を守ろうとした黒髪の青年。

 

 後者は前者に語った。だれか一人のせいにしてしまえるという点で、最良の専制政治も、最悪の民主政治に劣る。この混乱もラインハルトの死によるものだ。

 

 死ぬことさえ、死んだ後さえ、それが君主の責任となる専制君主制。ラインハルトという恒星の輝きで気がつかなかった、帝国首脳部の責こそ重い。彼の政戦両面の才能があまりに優れていたから、皆がそれに縋って自ら考えてはいなかった。ただ、皇帝ラインハルトの指示のままに突き進んだ。イゼルローンの人々が、ヤンの死後に直面したことでもあった。

 

 だが、彼らはまもなく立ち上がった。『ヤン・ウェンリーならどうしただろう、どう考えただろう』という問いを携えて。

 

 言論の自由を奉じた国の住人らしく、黒髪の青年は誰かと語らうことを好んだ。自分の考えを語り、他者の考えに耳を傾けた。そして、自らも考え、相手にも考えさせた。彼の妻に被保護者、先輩後輩といった近しい部下から、末端の伍長に過ぎない少女にまで。

 

 皇帝ではない、ただのラインハルトからの言葉を聞けた者はいただろうか。いるとしたなら、ジークフリード・キルヒアイスだけだっただろう。それでも、皇太后ヒルダは立ち上がった。彼女なりの考えを携えて。

 

『一人で担えない重荷ならば、担える人数で分かつ』

 

 これが彼女の基本方針であった。皇帝ラインハルトの政策には逆行するであろう。だが、遺された者たちにできる数少ない方法だった。

 

『ラインハルトならどうしただろう、オーベルシュタインならどうするだろう』

 

 この問いの答えを知る者はなく、ならば出来ることははただ一つだ。

 

『自分はどうすればいいのだろう』

 

 自らがよりよい方法を考える。ラインハルトが統一した宇宙が、少しでも長く平和であるように、死者のためよりも生者のために、考えて進むしかないだろう。ミッターマイヤーは、自分がラインハルトに遠く及ばぬことを知っている。

 

 自分に一番必要とされることを、できるかぎりやる。そして自分以外に可能なことは、得意な者に任せる。個人の才覚に依存すること大であった、新帝国の目立たぬが重要な改革であった。図らずも、それはヤン・ウェンリーの手法に相似していた。もっとも、帝国の首脳らの勤勉なこと、ヤンを百倍してもまだ追いつかぬであろうが。

 

 亡き父への恨みではなく、異国の貴婦人を取り巻く思惑が少女を怒らせたように、揺りかごの皇子と、喪服の美女ふたりに全てを負わせてよいものではない。

 

 亡き英雄らだけではなく、遥か多くの平凡な人々に対する責任でもある。その中には、ミッターマイヤーの家族も含まれる。ミッターマイヤーの遅い帰りを待っていてくれる妻のエヴァンゼリン。ロイエンタールの許からやってきた一歳のフェリックスと、あの子のコウノトリとなった十五歳のハインリッヒ・ランベルツ。遠い帝都で、心配している老いてきた両親。そんな家族は帝国軍人の数だけあり、それさえも宇宙の390億人の一つまみでしかない。

 

 軍というのは、国のほんの一部にすぎない。それが中心となっている新銀河帝国は(いびつ)な国家だった。このひずみを直していかねば、また帝国が割れるだろう。今後の戦乱は、バーラト星系を除けば、すべて同じ旗を仰ぐ者が相打ち、殺しあうことになる。あんな思いをするのは、ミッターマイヤーとロイエンタールだけで充分だ。

 

 ようやく訪れた平和に、魔術師のベレーの中の種明かしをするという彼の腹心の部下。アッテンボロー中将はヤンの二年後輩で、士官学校時代から15年間にわたって交友があったという。そうするように進言したキャゼルヌ中将も、ヤンとの交友は長く深い。

 

「平和が訪れたからには、もう艦隊戦もなくなることでしょう。

 これは、キャゼルヌ中将の進言になるのですが、

 使い途のないものをしまいこんでおくのは無駄の元だし、

 それが未練の固まりなら、相手に疑心暗鬼を呼ぶだけだとか」

 

 ワーレンにとっても二歳下のアッテンボローは、戦術データを移管するという申し出をこんな言葉で切り出した。助言者の家庭生活が、透けて見える気がしなくもない。

 

「でしたら、いさぎよく必要とする相手に進呈したほうがよいのでしょう。

 ヤン・ウェンリーの戦術案を、帝国軍ならば無下にはなさらないはずだ。

 敗戦の検証は重要なことですから」

 

 出だしはしおらしさを装っていたが、結びの言葉は応じた者らをざっくりと切り裂いた。色めき立つ部下を、ワーレンは後ろ手に制止した。それを察したかどうかはわからないが、そばかすの上にある青灰色が鋭く輝いた。

 

「小官としても、軍事機密をお渡しするのは本意ではありません。

 しかし、あの艦隊戦術は、ヤン司令官自身の軍才と、

 艦隊運用の名人であったフィッシャー提督の合作です。

 そして、そのためのプログラムを構築し、一兵卒にまで理解が及ぶように工夫をしたのは、

 ムライ、パトリチェフの正副参謀長でした。メルカッツ提督という名将と、

 及ばずながら小官も尽力しました。だが、なによりも国や民主主義を守ろうと、

 あの絶望的な戦力差の中で、士気を保ち続けた兵士たちがなしえた奇蹟です」

 

 帝国の疑心を晴らすためのものであって、歓心を買うためのものではないと、その表情が告げていた。

 

「銀河帝国によって平和が保たれるならば、再現する必要はありません。

 そんな状況が訪れないよう、平和への努力こそが求められるのです。

 小官の考えは誤っているのでしょうか」

 

「いいや、卿の言葉のとおりだ、アッテンボロー提督」

 

「では、イゼルローン軍の現存艦艇による人員の輸送についてはいかがです。

 正直に申し上げるなら、我々はこれから金策に奔走しなくてはならないのです。

 ハイネセンに戻るのに、もっとも安上がりな方法をとらせていただきたい。

 使用した艦艇は、爆沈するぐらいなら売りたいというのが、われらが財政担当の意見です」

 

 身も蓋もない告白に、ワーレンとその配下の表情が固まった。

 

「なにしろ、我々には莫大な借金があります。

 それをバーラト星系に新設する自治政府に、そのまま受け継がせるというわけにはいかない。

 自治権の代償に支払えでは、とても国民の理解は得られないからですよ。 

 全額は不可能にしても、利子と元本の一部を返済しておかなくては説得力がありません。

 巨額の借金は悪いばかりではありませんがね。

 借り手は金以上に、貸し手の保証を得ているので」

 

 咄嗟に返答ができないでいるワーレンを、そばかすの頬をした童顔の青年は面白そうに見詰めた。

 

「まあ、こんなことを突然申し上げても、そちらとしても返答にお困まりでしょう。

 この場で結論が出せるとは、小官も思っておりません。

 貴艦隊の移動中にでも、話し合いを持たせていただければ結構です。

 実は小官にもあまり時間がないのです。

 総選挙公示一か月前には住民登録を完了しないと、被選挙権が得られません。

 つまり、小官がイゼルローンに滞在できるのはあと一か月なのですよ」

 

 ワーレン艦隊がすぐにフェザーンに出立したとしても、到着には二週間を要する。

 

『うだうだやっていないでさっさと来い』

 

 それが、彼の言葉の本質だった。これには反論ができぬ。六月一日の停戦以来、二ヶ月もあったのに、監視部隊は文字どおり監視しかやっていなかったからだ。ラインハルトの死後、すぐさまイゼルローンに戻ったアッテンボローは、まったく状況に変わりがないことに仰天した。監視部隊を締めあげていたところに、新人事が発表されて、すぐさま連絡をとったのだった。

 

 ワーレンは早急に麾下艦隊の準備を済ませ、イゼルローンからの客人を同乗させて、フェザーン宙港から出航した。新帝国暦三年八月十五日のことである。

 

 喪服をまとった皇帝の妻と姉は、乗客らとの別れを惜しんだ。ミッターマイヤーも、薄い紅茶色の髪の少女に感謝の意を伝えたかったが、叶わぬことだ。監視装置の存在を、軍のトップが暴露するわけにもいかない。

 

 そして、カーテローゼ・フォン・クロイツェルの名は、歴史にひととき埋没する。



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魔術師の眷族と銀の左手

 ワーレンは、剛毅で公正な人格者で知られている。彼の用兵も為人(ひととなり)に近しく、堅牢で火力の均衡に優れる。皇帝ラインハルトから与えられた目標のほとんどを、着実に達成してきた。

 

 例えるならばいぶし銀、それが彼の功績である。地球教本部の攻略直前、帝国軍に紛れていた教徒の毒刃によって、左腕を失った。それでも、病床から冷静に指揮を続け、独立商人を装ったユリアンらと協力のうえ、地球教本部を攻撃し、大量の土砂の下に葬り去った。

 

 しかし、ワーレンは現在の地位に、むしろ悔やまれてならない。堅実である反面、自分は柔軟には乏しいのではないか。地球教本部を壊滅させて、根を断ったかに思えたが、こぼれた悪意の種子は、ヤン元帥らを殺し、ルッツを、ロイエンタールを、オーベルシュタインを死に追いやった。

 

 ヤン元帥は、歴史に『もしも』はない、テロで歴史の流れを変えることはできないと、生前ユリアンに語ったそうだ。

 

 しかし、あの時にもっと自分が柔軟に情報の流れを追い、あるいはケスラー元帥らにも協力を要請したらどうだったであろうか。先に挙げた死者は存命し、皇帝ラインハルト亡き後を支えてくれたに違いあるまい。

 

 そして、イゼルローンの客人である亜麻色の髪の青年と、紅茶色の髪の少女は父を失うことはなかっただろう。緑の瞳と、青緑の瞳の二人の青年も、敬愛する上官で親しい友人を失ってはいなかったろう。

 

 なにより、オーベルシュタインの後を継いだミッターマイヤーが公表したことは、のこりの六元帥を打ちのめした。新旧の軍務尚書は、ラインハルトの幕僚の中でもっとも水と油の仲であった。

 

 そのミッターマイヤーが、オーベルシュタインが所管していた膨大な業務を、厳に公正に執行していたことを認め、これをそのまま引き継ぐことのできる者はいないと断言した。フェルナー少将が作成した軍務省の業務の概要が、元帥会議の場にも登場した。そこに並んだ内容は、猛将ビッテンフェルトの顔色をも蒼褪めさせるに足るものだった。

 

 遺された者たちでこの重荷を分かち担わなくば、ラインハルトが王朝を創立したよりも、短期間で潰えるだろうと。軍人を民間に返し、失業問題に対応し、衣食住と教育を充実させる。軍政一致で早急に行わなければ、旧帝国の国民の不満が爆発する。敗戦国の住民が、勝者よりも豊かに暮らし、高い教育を受けていた。今はまだ新領土軍しかそれを知らないが、いずれ本土にも伝わるだろう。

 

 そうなった時、門閥貴族に向けられた平民の怒りが、今度は帝国軍に向く。貴族は平民から富や地位を搾取してきた。しかし、多くの場合命までは取らなかった。

 

 だが、旧同盟の帝国領逆進攻の焦土作戦、リップシュタット戦役の際のヴェスターラントの虐殺。そして貴族連合軍には、多数の平民が動員されていた。その後の旧同盟への侵攻。ガイエスブルク要塞の壊滅に始まる、ヤン・ウェンリーの奇蹟の犠牲者たち。勝ち戦だったランテマリオ、マル・アデッタの会戦とて、帝国軍にも相応の死者は出ているのだ。ましてや、帝国軍の双璧が互いに噛みあった新領土戦役による死者は、どちらも帝国人だ。

 

 ラインハルトの炎の輝きに魅了されていた者も、そのうちに正気を取り戻す。死者への補償、生者の雇用。これを両立して、民生も豊かにする?

 

 それは不可能というものだ。

 

 ヤンの死後、離脱を表明した者を連れ帰った、ムライ元参謀長は知りぬいていたのだ。かの魔術師だったからこそ、できた作戦に保てた士気だった。ヤンの後継者に同じことも求めても不可能だった。

 

 ならば、やる気のない無駄飯食いを排除する。自分が汚れ役になっても、後継者の足を引っ張ることのないように。彼がやったことは、解体再構築(スクラップアンドビルド)による人件費の削減。そして、後継者の器に見合うように、盛り付ける量を減らし、美味な部分を選抜する。常識的で型どおりと思われていた彼が見せた、魔術師の参謀たる柔軟性。

 

 ユリアン・ミンツらと語るうちに、ワーレンにはそれが見えてきた。そんな人材を抜擢し、正論を言うがゆえに煙たがられやすい彼を立て、周囲に溶け込ませて一目置かせるようにした。さらに、親しみやすい説明役を配している。その配慮をした上官と部下を失えば、ムライの役割も十全には果たせない。

 

「卿の師父たるヤン元帥は、実に人を見る目のある方だったのだな」

 

 ワーレンはユリアンに語った。微かに苦笑いを浮かべながら。

 

「いや、これは言うまでもないことだった。

 我らの胸の内を、宇宙の彼方から見通したのだからな。

 我々など、至近にいた僚友の真価を見抜けずにいた。

 今になって、地球教徒の根を断てずにいたことに、断腸の思いがする」

 

「それは小官も同じです。

 ヤン提督が亡くなって、戦い続けることしか念頭にありませんでした。

 あの後すぐに講和を結んで、双方の情報を集約していたらと思わずにいられません。

 ですが、時は戻せない。進むしかないのだと、提督はおっしゃっていました」

 

「実に強い方だ。それも今さらなのかも知れぬが。

 思えばほとんどお独りで、先帝陛下と双璧らを擁する我が軍と戦い抜いたのだった。

 卿らは、よく立ち直られた。心から敬服する」

 

 ワーレンの言葉に、青年は亜麻色の頭を振った。

 

()は、十四歳の時に、ヤン提督をお守りすると約束したんです。

 それを果たせなかったなら、提督が命の次に大切にしていたものを守らないとと思いました」

 

「それが民主共和制ということなのか」

 

「違います」

 

 大地の色の瞳が、まっすぐにワーレンに向けられた。

 

「思想の自由に言論の自由。それが何のためのものなのか。

 それは、人間が自分らしく幸せになるための権利です。

 ヤン提督の望みは、戦争がなくなってみんなが幸せになることだった。

 僕を戦場に出したくなかったのです、心から本当に。

 僕がフェザーンに行く際に、渡してくれたお金の何割かは、

 返還するつもりだったトラバース法の養育費だったそうです」

 

 その十万ディナールでユリアンはフェザーンを脱出し、ヤンと合流を果たした。

 

「僕は結局、ヤン提督の願いの多くを果たしてはいません。

 でも、僕が軍人になるのも許して下さいました。

 それは僕の自由、僕の権利だからです。

 そして、皇帝ラインハルトと戦ったのもそう思ってくださることでしょう。

 多分、怒られるとは思います。

 ですが、もう一度、僕の名を二度呼ぶあの声を聞けるならば、何を引き替えにしてもいい」

 

 ユリアンは膝の上で握り締めた拳を見詰めた。

 

「でも、そう思うのは何も僕だけではない。数多くの戦死者の家族も一緒です」

 

 そこで切られた言葉に、ワーレンは先日突きつけられた戦死者の数を思う。自分とて、妻を産褥(さんじょく)に失った時、身を切られる思いがしたではないか。薄まりつつはあるが、忘れられるものではない。戦乱の時代の終焉(しゅうえん)かもしれなかった。

 

「卿と語ると、自分がいかに大事なことを忘れていたのかと思わされるばかりだ」

 

 黄金と炎と流血が、宇宙を彩ったこの五年余り。戦死者に数倍する家族の嘆きは、軍部に届いてはいない。帝国には司令官の下に、戦死者の遺族からの手紙が届くようなシステムはない。ワーレンには、考えさせられることが多々あった。

 

 ユリアンが語るのは、師父の思い出だけではなく、それを支えた部下らの活躍である。艦隊を指揮したフィッシャー、アッテンボロー、メルカッツ提督らばかりではない。

 

 旧同盟軍にとって、まったく経験のない宇宙要塞の防御部門を担当したシェーンコップ中将。帝国軍のマニュアルを訳するところから始め、地道に雷神の槌や要塞砲台の射程と死角、エネルギーの充填や照準を合わせるためのタイムラグを検証し、二度にわたる攻防戦を最少の犠牲で凌ぎ切った。

 

 五百万人都市の行政と、二百万人の艦隊の補給に兵站、さらにはガイエスブルクで被った損傷の修理に、八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍を見せたキャゼルヌ中将。ヤンを支えた両足と言える存在だった。

 

 ヤンは、ほとんど常に前線で指揮を執った。むしろ、いつ戦死してもおかしくない激戦だった。自分不在の体制を、それとなく構築していたに違いあるまい。これは、キャゼルヌ中将との会話の中で知れたことだったが。

 

「なにしろ、小官が着任して早々に捕虜交換がありました。

 帰還兵の歓迎式典のために、一月半も不在になった。

 ようやく帰って来たと思えば、二週間と置かずにクーデターの鎮定だ。

 帰ってきたのは更に半年後。そして、翌年の三月に査問会に召喚だ。

 そこにガイエスブルク要塞が来襲したのだから、小官も生きた心地がしなかった」

 

 士官学校時代からの交友関係の持ち主はそう明かした。

 

「もとから無理のある人事ではありました。

 同格者を二人置くのは下策だが、兼任させるのも論外だ。

 要塞か艦隊か、どちらかが司令官不在になってしまうのですからな。

 残念ながら、同盟軍に有力な艦隊司令官は不在だった。

 メルカッツ提督が亡命をされた際に、小官はしめたと思ったものです」

 

 これは、ユリアンも初耳だった。ダークブラウンの瞳を見開く青年に、薄茶色の目をした軍官僚は、にやりと笑った。

 

「何と言っても、小官など非力な事務屋ですよ」

 

 ユリアンは、その目をそっと逸らした。大人は嘘つきだ。自分もその片棒を担いで、こうして人間は汚れていくんだろう。ヤン提督、ごめんなさい。

 

「正統派の用兵をする老練な名将が来てくれるなら、願ったり叶ったりだ。

 逃がしてなるものかとね。先ほど、そちらにメルカッツ提督を受け入れた際に、

 旧同盟軍の軍規や、報告書などの事務処理について解説した資料をお送りしました。

 エル・ファシル時代から現在に至るまで、その法を準用して軍務を行っております。

 それは要約ですが、小官が作成したものを、シェーンコップ中将が訳したものです。

 貴官らは皆お若い。当方の軍規は、すぐに理解をいただけると思いますが」

 

 ユリアンは、こっそりと乾いた笑みを浮かべた。言葉は丁寧だが、若い連中ならさっさと頭に叩きこめと言っている。なにしろ、この通話のタイミングすらキャゼルヌの交渉の一環だった。フェザーンから出立し、引き返しにくくなる地点で話を切り出す。不慣れな相手は、イゼルローンから提示された案に反論が難しくなる。

 

 フェザーンを出立する前に、それを聞かされて、ユリアンは最初渋った。ワーレンは、公正で誠実な人格者だ。キャゼルヌの権謀術数の洗礼を受けるのは気の毒だ。

 

「ユリアン、まずはおまえさんが事前説明(ねまわし)をして地ならしをしておけばいい」

 

「ですが、こんなのは不公平では……」

 

「組織としての大きさがまるで違うのに、正攻法を使っても正直とは褒められんな。

 上に馬鹿とつけられるぞ。おまえさんによりよい代替案があるんなら聞いてやるが」

 

 そんなものあるわけがない。ユリアンはキャゼルヌの提案を呑みこんだ。かくして、帰還のボーダーを越えたところで、イゼルローンから報告書に質問状が届き始めた。それは、(せき)を切ったような密度と頻度であった。

 

 二ヶ月も時間を空費させられたキャゼルヌは、とっくに立腹していたのである。帝国の監視部隊が、宙域に張り付いているための燃料費に食糧費、そして空費されている人件費。

 

 俺なら連中、馘首(くび)にするとアッテンボローに呟いて、その童顔を再び蒼褪めさせた。そして、帝国への通信のタイミングを図りつつ、着々と準備を進めたのだ。

 

 キャゼルヌの毒舌をたった一人で受けることになった、そばかすの後輩は彼の陰謀にこう言った。

 

「キャゼルヌ先輩、あなた悪魔ですね……」

 

「ふん、なんとでも言え。俺は仕事の鬼だ。そして、仕事ができん奴は許さない」

 

 アッテンボローは慌てて弁解した。

 

「ちゃんと報告書もまとめましたし、イゼルローン要塞再奪取のプログラムも無力化しましたよ。

 トリグラフの戦術データも抽出、整理しました。惜しい気はしますが」

 

「いいや、おまえさんじゃない。送った質問状に、まだ一件も返答が来ない。

 二時間もあれば、簡単な案件ぐらい返事ができるだろうが」

 

「いやいやいや、それはキャゼルヌ事務監どのと、部下の皆様が優秀だからですよ」

 

「皇帝ラインハルトの部下に、無能者はいないそうじゃないか」

 

 皮肉たっぷりのキャゼルヌである。

 

「戦場で勇を競うのを支えているのが事務部門だ。

 当然、そっちも人材はたっぷりいるんじゃないのか。

 まさか、たった二人の人間の死で、揺らぐような屋台骨ではないよなあ」

 

「その二人は皇帝陛下と軍務尚書でしょうが。無理もないことでしょうよ」

 

「だが、その皇帝ラインハルトは戦場に出ていたな。

 テロの標的となったことも、一再ならずあるだろうが。

 それで健康診断もろくすっぽしないとは、呆れた話じゃないかね。

 今だから言うが、ヤンのお袋さんは33歳で心臓発作で亡くなってる。

 あいつの健診をうるさく言ったのは、後方勤務本部からの指示さ」

 

「そういうことだったんですか」

 

 アッテンボローは癖の強い髪をかき回した。心臓病は家族歴が大きく関与する。半分は夭折(ようせつ)した母の血を受け継いでいるのだから、当然の危機管理であった。

 

「なんのかんのと言ってもな、同盟軍の軍規はそれなりによく出来ていたんだ」

 

「それを聞くと、たしかにそう思えますよ」

 

「人事異動が後方でも三年に一度はあるだろう。人事の固着化防止だけじゃないんだ。

 人間関係が気に食わなくっても、三年の辛抱だと思えるようにだよ。

 何より軍人のトップは政治家だ。たとえ将官が戦死しても、交渉役は別にいる。

 いっそ、皇帝ラインハルトもフリードリヒ四世を見習うべきだったな。

 後継者を定めず急逝したが、国務の停滞は少なかった。

 臣下にうまいこと丸投げをしていたからだ。そして34年間も波風立てずに在位をしてたんだ。

 大多数の民衆にとっちゃ、皇帝ラインハルトよりよほどに名君だぞ」

 

「善政の基本は、平和で民衆を飢えさせないことだって、ヤン先輩も言ってましたね。

 その為人(ひととなり)、戦いを(たしな)む、か」

 

 華麗極まりなかった皇帝に対しても、キャゼルヌの舌が切れ味を鈍らせることはない。

 

「そんな悪い嗜好とはとっとと縁を切れ、と言えた者がおらんのが泣き所さね」

 

 毒舌の神様はお怒りだった。黒髪の後輩でもなだめられたかどうか。そばかすの後輩は、なんとか言葉を継いだ。

 

 

「武によって栄達したんですから、こだわりもあったんでしょう。

 ハイネセンに駐留軍を置くのはしかたないでしょうが、

 行政担当を最高責任者にすれば、

 ロイエンタール元帥の叛乱は防げたでしょうに」

 

「ああ、それかいっそ、彼に姉を嫁入りさせて爵封(しゃくふう)すべきだった」

 

 アッテンボローは目を剥いた。

 

「はあ!? 何言ってるんです、キャゼルヌ先輩」

 

「ロイエンタール元帥の功績と才能はそれほどのものだぞ。

 地位と金では報いるに足りぬ功労者を、一族に迎えるのが閨閥(けいばつ)政治ってやつだ。

 ヤンならそう言うだろうよ。そうすれば、麾下艦隊とも切り離しできる。

 この上なく名誉な理由でだ。だがクイーンを切れないから、ナイトを切ったんじゃないかね」

 

 たしかに、黒髪の先輩もそう言うだろう。もっと穏やかな調子で。あの歴史論の根底には、これほど黒々としたものが(わだかま)っていたのか。哀れな後輩は震え上がるしかない。

 

「新領土戦役は、そういうことだったんでしょうかね」

 

「もしくは、クイーンを使うべき人間が死んじまったからかもしれんぞ」

 

「……キルヒアイス元帥ですか」

 

 アッテンボローの問い掛けに、キャゼルヌはひょい、と眉を上げた。

 

「いいや、皇帝の姉君を使ってでも、帝国に繋ぎとめるべき重要人物さ」



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娘二人と姉三人、そして息子は一人ずつ

 その示唆に、アッテンボローの顔は引き攣り、問いただす声が裏返る。

 

「まさか、まさか、ヤン先輩を!?」

 

 キャゼルヌはこともなげに頷いた。

 

「ああ、政略結婚の常套手段だ。あの講和が実現していたら、ありえたかもしれん。

 というよりもだ、バーミリオン会戦後の会談で、そいつをやられたらどうしようと、

 俺は思っていたもんだ。ローエングラム公の性格上ありえないと、あいつは笑ったがね。

 だが、皇帝になれば、また違った考えが出てくる余地はある」

 

「おっそろしい。二人して、そんなこと考えていたんですか」

 

「ゴールデンバウム最後の女帝を立てただろう。

 あの時に、ヤンが言ったことが気になって、色々と聞いてみたのさ。

 うちも娘二人だが、あんなことは考えたこともなかったからな」

 

 アッテンボローは頷いた。男子相続の本質は、皇祖からのY染色体の伝達である。その血を引く男子はおらず女帝を立てた。それはゴールデンバウム朝の終焉の宣言だ。ヤンは幕僚にそう告げた。歴史学をかじったヤンならではの着眼点だった。

 

「歴史的には、女子の相続は認めないという法もあった。

 一方で、家を継ぐのは娘で、息子は他家に婿入りするという時代もあったそうだ。

 誰が父親でも娘の子だということさ」

 

 末っ子長男は、姉三人と義兄三人の顔を思い浮かべた。そして、彼らが実家に一堂に会しているところを。しかも来る日も来る日も。そんな家にはたしかに帰りたくない。顔を片手で覆って項垂れる。

 

「それはそれで厳しい時代ですよね」

 

「ああ、武力による争いはなかったが、君主との閨閥を結ぶため貴族は暗躍したそうだ。

 その国の君主だけは男子相続で、妃を(めと)れたからだとさ。ま、こいつは今は関係ない。

 とにかく、あいつによれば、歴史は戦争と政争の縮図で、血縁は武器になる。

 剣ではなく、鎖や檻だ。剣を抜かせないための抑止力となりうるんだとね」

 

「でも、皇帝ラインハルトの姉上の話を聞くに、到底実現するわけもないでしょう」

 

 ついに鳩尾をさすりはじめた後輩に、先輩は頷いた。

 

「そうだな。皇帝ラインハルトには、彼女とキルヒアイス元帥という聖域があった。

 だが、それは公爵ならまだしも、皇帝には持てないものなんだ」

 

 巨星の特異点だった二人。一人の命を失い、一人の心を失ったから、彼はひたすらに飛翔したのかもしれない。この世のどこにもないものを探して。あるいは、それに替わるなにものかを求めて。ヤン・ウェンリーは後者だったのかもしれない。

 

 アッテンボローもお返しにヤンの歴史論を披露した。こちらはずっとおとなしいものだったが。

 

「君主は法なり、平等たるべし。

 名君たらんと欲すれば、これほど厳しく孤独なものはないってやつですね。

 俺も学生の頃、ヤン先輩から聞いたことがありますよ。

 それに耐えうる者は歴史上にも稀だから、立憲君主制が生まれ、

 共和民主制へと移行していったんだとね」

 

 後輩の相槌に、キャゼルヌは得たりと頷いた。

 

「そのとおり、特別を作ることはできない。

 百歩譲って妻と子までで、無論臣下はアウトなんだとさ。

 ロイエンタール元帥は、皇帝の命の恩人の一人でもあるんだぞ。

 本当なら、帝国の双璧をキルヒアイス元帥並みに遇するべきなんだよ。

 それをしなかったのは、彼らが健在だったからだろうが、部下にも情はある。

 死者一人だけを尊ばれても、ふつうなら喜ばんよ」

 

「そりゃ、そうだ」

 

 アッテンボローは頭をかいた。こりゃ、藪蛇だったか。人事担当者の手にかかると、どうして一般論がこんなに背筋の凍るものに変貌してしまうんだろう。

 

 しかし専制君主とは、国家最高の人事担当者でもあった。あの金髪の美形は、こういう腹黒さとは無縁だろうし、その臣下もできた人物が多い。

 

「新軍務尚書のミッターマイヤー元帥は、よっぽどの人格者なんだろう。

 だが、それを基準にするのは誤りだ」

 

 一々ごもっともである。強きではなく、弱きを基準にしなくてはならないだろう。

 

「たしかにね。うちの連中を見てりゃ、よくわかりますとも」

 

 ちゃっかりと自分を除外してみるが、それを見逃す先輩ではない。

 

「おまえや俺を含めて、人間は誰しもそうだよ。それが帝政の厄介さだよな。

 人事評価に、皇帝と臣下の愛憎まで絡んできてしまうんだから」

 

「それに、こっちと違って三年の辛抱ってわけじゃないですしね。

 結果としては、五年で足らずで終わっちまったが」

 

 改めて思い返して、愕然とせざるを得ない。五年前の宇宙暦796年8月。まだ宇宙の半分は自由惑星同盟で、ヤンの魔術に沸き、その勢いで帝国逆進攻に打って出ようとしていた。あれは滅亡の前の輝きだったのだ。ヤンのその後の人生は、同盟の愚行の残務処理と言ってもよかった。

 

 後輩の表情に、一人になった先輩は薄茶色の頭を振った。

 

「それは結果論だな。

 常識で考えれば、あと五、六十年は皇帝ラインハルトの治世だ。

 その間どれほど貢献しても、キルヒアイス元帥には絶対に敵わない。

 皇帝に認められるには、結局は命を賭けなくてはならんと、

 そう結論づけても不思議じゃないさ。そして、そんな敵はもういない」

 

「あるいは自分が敵になるか、ですか?」

 

「ヤン・ウェンリーも皇帝ラインハルトの特別だった。

 味方なのに敵ほど評価してもらえなければ、面白くないに決まってる。

 不満を持っている奴は、周りには案外わかるものだよな。

 可能性が実現化する前に、謀略で除こうとしたが、見事に失敗したって線が濃厚だな」

 

「ウルヴァシー事件は誣告(ぶこく)による冤罪だったって、公式に発表されましたしね。

 それを企んだ君側(くんそく)(かん)を告発し、兵を動かしたのも誤りではなかったということになった。

 相手が亡くなった後じゃ、しょうがないでしょうに」

 

 キャゼルヌは渋い顔で肩を竦めた。

 

「でないと、ミッターマイヤー家の坊やが連座させられるからさ」

 

 アッテンボローのほうは、酢を飲まされたような顔になった。

 

「結局、大逆罪と不敬罪は廃止していないんだもんなあ。こりゃ、難儀なことですよ」

 

「頑張れよ、議員候補生どの。それにしてももったいない。

 ロイエンタール元帥がいれば楽だったろうに」

 

 人事や行政のプロでもある、キャゼルヌの言葉は重い。

 

「あの時、ウルヴァシーで死なずに済んでよかったな、皇帝ラインハルトは。

 妻と息子を得たのはせめてもだが、あと二十年は子どもが即位できん。

 女子供が三人死ぬだけで、ローエングラム王朝は断絶する。

 皇妃の館に大本営までテロの標的になる有様では、危険極まりないな」

 

「続いてほしいんですか、キャゼルヌ先輩は」

 

「正直、看板はどうでもいい。大事なのは平和の方だ。

 だが、その看板を掛け替えるとなると大騒ぎになるだろう?」

 

「じゃあ、当方としては、看板の存続に微力を尽くすしかないですね」

 

「全くだ。軍規のカンニングまで許したんだぞ。しかも訳文つきだ。

 これでピンとこないんなら、俺からはっきり言わなきゃならんな」

 

「やめてくださいよ。お願いですから」

 

 アッテンボローは手を合わせて懇願した。

 

「冗談だ。やるなら政府が成立し、国交が開始されてからだな。

 向こうが不敬罪を持ちだしてきたら、

 言論の自由の侵害、憲法違反に内政干渉で訴えられるようになったらにしよう」 

 

「いやもう、負けましたよ」

 

 全面降伏する後輩に、キャゼルヌはにやりと笑った。

 

「おや、おまえさん、俺に一回でも勝てたことはあったかな」

 

 こうして、手ぐすねを引いている事務の達人の元に、ワーレン艦隊はやってきた。半年前に、雷神の槌(トゥールハンマー)によって損害を受けたにもかかわらず、イゼルローンから送られた安全域を航行して、入港を果たす。フェルナーに選抜された、後方事務に実績のある中将以下十名も、イゼルローン返還の会議に立ち会った。そこで驚かされたのは、イゼルローン要塞返還に関する工程計画の見事さである。

 

「ああ、別に驚かれる必要はありませんな。

 ヤン司令官の当初案から、講和を結んだら当要塞を返還し、

 エル・ファシルに自治権を認めていただくつもりでした。

 要するに、エル・ファシルをハイネセンに読み替えただけだ。

 少々、距離は遠くなり、人口規模も三十倍以上になりましたが、

 財布の大きさはそれどころではない。先帝陛下には感謝をしております」

 

 キャゼルヌの先制攻撃が、帝国軍の鼻先に炸裂した。

 

「当方の軍規要約をご覧いただければお分かりになるでしょうが、

 旧同盟軍はお役所の要素が強いのです。

 作戦を計画し、予算を確保するためには、本来なら一年前から動かねばならない。

 議会を通さねばならないからです。

 昨今は、丼勘定の出たとこ勝負が続いていましたがね」

 

 先へ先へと事業を見越して、予算を計上する。皇帝の一声で、大親征が決定する新帝国とは異なった。

旧帝国の皇帝の権威は、近年そこまで絶対ではなかったし、大貴族から制肘され、フェザーンもそれを後押しした。

 

 それ以上にフリードリヒ四世は、積極的に軍を動かす皇帝ではなかった。ブルース・アッシュビーによる、第二次ティアマト会戦の人的損害の回復にも三十年あまりを要していた。喪の黒が薄まり、白熱の乱世に移行するまでの、停滞の灰色。その理由の一つである。

 

「卿の言葉のとおりなのだろう。我々は陛下の命令に従ってきた。是非を考えることもなく」

 

「失礼だが、今はそれに論評する時間も惜しい。どんどん疑問点を潰し合う事にしましょう。

 二時間ほど、資料を見ていただくために休憩としましょう。その間に昼食もお取り下さい」

 

 言うだけ言って、キャゼルヌは散会を告げた。ワーレンと若手将官らは、無礼となじる余裕もなかった。用意された資料に、二時間で目を通せということだからだ。とても読み切れる量ではない。

 

 資料とコーヒーと昼食を運んできた、淡い金髪に空色の瞳の女性士官は、無言になった帝国軍の面々に気の毒そうな表情になった。

 

「なにもいちどきに、全部を細部まで把握する必要はありませんわ。

 まずは、午後の議題となる第二陣の帰還計画をご覧ください。

 それ以外は、適宜担当者を決めて、協議をしていただければ結構です」

 

 なぜ、中佐の自分が錚々(そうそう)たる面々に補足説明をしなくてはならないのか。キャゼルヌ事務監のお灸は少々熱すぎるだろう。しかし、それにしても元帥を除いてみな若い。いや、ワーレン元帥もヤン提督と同い年だった。そうは見えないけれど。

 

 その部下らは、童顔のアッテンボロー提督と同じぐらいに見える。三十そこそこの将官が十名、もうちょっと腹が据わっていてもよさそうなものだ。彼は彼で基準を突破している人だが、この連中だって同じような階級ではないか。どうして縋るような目を向けて来るのだろう。

 

「第二陣帰還計画の概要は、32ページにあります」

 

 ちゃんと帝国語で作成したんだから、さっさと読んだらいかがかしら。そんな言葉を呑みこんで彼女は告げた。彼らの手元から、一斉にページをめくる音があがった。やれやれ。彼女は退出してから、肩を竦めた。

 

「箱舟作戦に比べれば人数は少ないし、ほとんどが成人の軍人だし、

 戦闘中でもないのに。なにを悩むことがあるのかしらね」

 

 あの激務に比べれば大抵のものは平気だ。でも、あの時はヤン提督がいて、きっと大丈夫、必ず守ってくれると安心させてくれた。だが、帝国軍のお歴々はアッシュフォード中佐を不安にさせる。というより、自分の上官から発生しそうな寒冷前線は危険であった。 

 

 彼女の夫は、紅茶の呪文プロジェクトを手掛けた企業出向の技術士官だった。ハイネセンからヤンが脱出し、イゼルローンを目指すという情報に、俺が行かなきゃ誰がやるとばかりに、彼女と息子を引っ張ってきたのである。 

 

 彼女としても、ヤンを売り、レベロ議長を殺した、ロックウェル本部長らと同じ空気を吸うのも、我慢ができなかった。後方担当の女性軍人で、ヤン不正規軍に身を投じた者も少なくはなかった。後方本部長代理の席を蹴ったキャゼルヌに、ヤン艦隊の後方職員もついて行ったのだった。



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受け継がれる魔術の欠片

 その頃、久々に自分の端末を確認したカリンは、事務部からの呼び出し通知に首を捻った。IDカードと給与支払口座の通帳を持参すべしとある。日付は一月以上も前だった。

 

「クロイツェル伍長、参りました」

 

 敬礼と共に、担当者に挨拶をする。深いワインレッドの髪に、灰色の目をした大尉がカリンに答礼した。

 

「帰着したばかりのところに、早速来てくれたのね。

 この度は大変残念なことでしたね。

 貴官のご不幸に心からお悔やみを申し上げます」

 

「な、なにをおっしゃるんですか」

 

 カリンは混乱した。

 

「貴官のお父さま、シェーンコップ中将が戦死をなさったことです」

 

 彼女は白く繊細な面に、労わりの色を乗せた。

 

「貴官は知らなかったようですが、シェーンコップ中将は生前に認知届を提出されました。

 軍に登録されたDNA情報を元に検査を行い、親子関係が確認されました。

 キャゼルヌ事務監とヤン司令官の職責において、受理、承認されています」

 

 カリンは口元を押さえた。ヤンが承認したということは、父の死の一年以上前の届け出になる。

 

「シェーンコップ中将は、美人だったらご自分の娘とおっしゃったそうね。

 ヤン提督が、確かに美人だからそういうことなんだろうね、

 貴官の夢を叶えてくれる大事な子じゃないかと、

 しかるべき手続きをと勧められて、事務監も同調をなさったそうです。

 つまり、貴官は唯一のシェーンコップ中将の相続人です。

 死亡退職金と遺族年金の受給の手続きをしてくださいね」

 

「うそ、どうしてそんなこと……それに、夢って何を……」

 

「百五十歳まで生きて、沢山の子どもや孫や曾孫に囲まれて、

 これで厄介払いができると、嬉し泣きされて看取られるということだったそうです。

 これは、ヤン提督からの又聞きの又聞きになるけれど」

 

「そんなの、誰も教えてくれなかった」

 

 呆然と呟きながら、頭の隅で当然じゃないと囁く声がする。個人情報に関する届け出。ヤン提督やキャゼルヌ中将が、そんなことを漏らすはずがない。カリンの理解を察したのか、灰色の瞳に優しい笑みを浮かべて、まだ若い大尉が説明をした。

 

「それはね、守秘義務ですもの。認知届は原則として父親が行うものなのよ。

 嫌なら、本人か母親が不受理の申し立てをすればいいんだけれど、

 それが提出されていなくて、届出が正当なものであれば受理されるの。

 あなたの戸籍にも、お父様の名前が載っているわ」

 

「……そんなこと、全然知らなかった」

 

「そうね、戸籍なんてめったに取るものではないものね。

 それこそ、結婚か遺産相続の時ぐらいかしら。

 こんな贈り物は、あなたもお父様もさぞや不本意なことでしょう。

 でも、ハイネセンに戻ったら、軍はなくなってしまうし、

 復員者が溢れていて、すぐに就職するのは難しいわ。

 その間、あなたの生活を守ってくれるはずよ。さあ、受け取ってあげて」

 

 黒髪の魔術師が遺した、ラストマジック。それを知るのが百十三年後でないことを、少女の為に残念に思う。青紫の瞳から、白磁の頬を伝う水晶を、ブライス大尉は静かに見守った。

 

「私にもわかるわ。亡くなった父は軍人だったから。

 何万ディナールのお金より、生きている父を返してと思ったものよ。

 辛いわよね。ちょっと休んでくるといいわ。せっかくの美人が台無しよ」

 

 立ちつくす少女の肩を抱いて、休憩室にそっと連れて行く。ソファに座らせると、ドアの窓のカーテンを閉めてから退出した。もちろん、表示を使用中にすることも怠りない。くぐもった嗚咽がドア越しに聞こえてきた。

 

 ブライス大尉は、長い深紅の睫毛を伏せて、回れ右をした。もう十年近い過去、同じ痛みを味わった。願わくば、あの()には好きな人生を選ぶ自由を。

 

 そして、シェーンコップ中将の書類を準備する。彼の預金も相続すれば、当面の生活には困らないし、望めば再就職の技能教育も受ける余裕はある。彼女の気に入りそうな資格をリストアップしておこうか。このくらいの贔屓は許されるだろう。この二月、戦死者にかかる業務をずっとやってきて、すんなり相続人が見つかったほうが珍しい。

 

 薔薇の騎士(ローゼンリッター)らは大半が未婚者で、片親どころか両親共に没している者が多い。そもそも困窮していなければ、危険極まりない白兵戦専門の職業軍人になどならないのだから。

 

「でも、私もこれからどうしようかしら。バーラト星系政府の試験を受けようかな。

 仕事もあれだけれど、勉強しなくちゃね」

 

 現在の財政状況では、中将の年金といえども、それほど潤沢なものではない。まして、大尉の退職金など月収の三ヶ月分ぐらいだろう。伍長にいたっては言うまでもない。就職試験の服は買えても、靴や鞄まで賄えるかあやしい。

 

「でも、私たちは生きているから。

 辛くても、苦しくても、まだまだそっちには行かないわ。ねえ、お父さんたち」

 

 此岸(しがん)で生きるには、不格好でも根を張り、枝葉を広げ、なかなか咲かない花を待つ。彼岸に咲くという天上の花の上に、亡き人たちがいるのなら見守っていてください。しばし瞑目してから、猛然と情報端末の操作を始める。あの娘の涙が止まるまでに、やるべきことがあるのだから。

 

 ポプランと宙港管制官のフクシマ大尉、そしてラオ大佐も難問に頭を悩ませていた。

 

「スパルタニアンの移動かあ。個人認証を解除して、宙港で戦艦に詰め込みますか」

 

「宙港内で曲芸飛行は許可できません。

 そんな真似、中佐やコードウェル少佐にしかできないでしょう。

 この一グロス以上、ぜんぶそうやって収容するつもりですか」

 

「だがなあ、誘導電波だと、所定数以上に積めないぞ。

 艦載機の残った残存艦もあるし、そうすると載せきれないんだが。

 イゼルローンの外に誘導して、雷神の槌(トゥールハンマー)で爆沈させますか?」

 

「却下です。今はこれ以上、一欠片も宇宙塵(デブリ)を増やすなというキャゼルヌ中将のお達しです。

 それに、また帝国軍に疑われますよ」

 

 フクシマとラオに交互に反論されたポプランだが、ラオの言葉に反応した。

 

「そんなこと言ってもなあ……。ん、そりゃ、今じゃなきゃいいってことじゃないのか?」

 

 ポプランは緑の瞳をまたたかせた。

 

「どっちみち、次に帰還するのは、選挙出馬予定者と艦隊の兵員でしたよね」

 

 フクシマは頷いた。

 

「はい、そうですね。小官ら宙港管制担当や事務管理部門は、

 帝国への要塞引き渡しがもっと進んでからになります」

 

「じゃあ、第二陣が出立してから、帝国軍主導で雷神の槌で爆沈させましょうよ」

 

 ラオは躊躇いがちに声を掛けた。

 

「ポプラン中佐はそれでもいいんですか?」

 

「まあ、愛着はあるから惜しいんですが、スパルタニアンは宇宙空間でしか飛べないし、

 跳躍航行もできないし、シャトルよりも航行距離が短い。

 要するに、戦争にしか使い道がないんですよね。

 ハイネセンに輸送しても、どうせ邪魔者扱いされるんでしょう。

 だったら、女王陛下に引導を渡してもらったほうが諦めもつくかな、ってところです」

 

「わかりました。キャゼルヌ中将にその旨報告します」

 

「後は資材として切り売りしたらという案ぐらいなんですがねえ」

 

「それこそ無理です。四十メートルもある機体を、分解収納できる資材商人はいませんよ。

 それも一グロス以上。これは軍需造船企業の工廠が必要です」

 

「やっぱりそうか。ところで、アッテンボロー中将に伝えておいてください。

 千メートル級の旗艦なんて、買える商人はいないそうですよ。

 ボリス・コーネフが言ってましたが」

 

 ポプランからの注進に、ラオは溜息を吐いた。

 

「まあそうでしょう。結局、動かせる船は動かすことになりそうです。

 キャゼルヌ中将の輸送経費の予算比較案を見せたら、びっくりしていましたよ。

 というよりね、人員輸送に民間業者を参入させることもないんですね。

 もっとも、帝国本土の企業はほぼ国営のようですが」

 

「多分、食料もそうなんじゃないですかね。

 来る日も来る日も同じようなメニューで、パン、肉、芋、以上。

 俺はね、そんなに野菜や果物好きってわけじゃないが、

 クロイツェル伍長の気持ちがわかりました。

 戦闘食の野菜ジュースでいいから出してくれとね」

 

「戦争の為に完全に計画生産をしていたのでしょうね。

 さもなければ、あんな大軍を養う事はできないでしょう。

 ドーソン大将のように、ケチで細かいだけの入札をやっていたら、

 ガイエスブルク来襲から半年足らずで、三ヶ月も三個艦隊を出して張り付けられませんよ」

 

「あれには参ったよなあ」

 

「だが、その物資を整えていた戦略の天才は亡くなりました。

 彼の右腕もね。気を付けた方がいいと、ヤン提督の幼馴染に伝えてください」

 

 黒髪に黒目という点で、ラオはヤンに似ていなくもない。参謀としての傾向にも、色濃い影響があった。勝っているときも最悪を想定するのだ。要するにどちらも悲観論者なのである。ヤンは元々がそうだったが、ラオの場合は、アスターテの会戦の経験が大きい。そして、幕僚会議に出席して、磨かれていったものだった。

 

「同盟のクーデターの時と同じで、怖いのは食料不足です。それも帝国本土の方が深刻だ。

 フェザーン商人が介入すると、軍人に煙たがられる。

 適度な距離を保ちつつ、助言や助力を与えるようにしないと」

 

「今度はフェザーンが火薬庫ですか」

 

「ええ、帝国経済とフェザーン経済ほど食い合わせが悪いものも少ないですよ。

 片や計画と統制、もう一つは自由と競争。それが同居しているんですからね」

 

 ポプランは明るい褐色の髪をかきむしった。

 

「ううん、宇宙海賊の夢も実現が難しいなあ」

 

「そんなやくざな生き方はよくないですよ。真っ当に生きましょう、真っ当に」

 

 この常識的な台詞に、ポプランは思わず訊いてしまった。

 

「ラオ大佐、貴官は本当にアッテンボロー提督の部下なんですか」

 

「小官も時々不思議に思いますよ」

 

 それでも、彼もヤン・ファミリーの一員であった。キャゼルヌの先制攻撃を受けた、フェルナー肝煎りの後方経験者らだったが、女性中佐の助言を受けて、業務責任者を決め、それぞれの部門を担当することになった。艦隊の運航計画について、アッテンボローとラオのコンビは、帝国に速攻を仕掛けた。

 

「繰り返しますが、小官は選挙に出馬予定です。

 来週中にも出港しないと、被選挙権を認めてもらえません。

 旗艦の戦術データはすべて抽出し、提出しました。

 当艦の戦術コンピュータは真っ白な状態ですよ。

 小官もヤン元帥と同様に、勝算のない戦いはしません」

 

 彼は、ビッテンフェルト元帥の無礼な挑戦状に、それを上回る返答を突きつけた伊達と酔狂の革命家である。これまでの戦いには勝算があったというわけで、しかも事実でもあった。

 

「失礼をいたしました。中将の言う事は気になさらないでください。

 しかし、嘘は申しておりません。どうぞ、戦術コンピュータを確認して下さい。

 それでもお疑いならば、提出データの検証をしてください。

 ただし、今週中にお願いします。当方の準備も必要ですので」

 

 取りなすと見せかけて、上官に賛同し、更に期限を切り詰めるその参謀。こうなると、戦術コンピュータの確認のみで諦めるしかない。アッテンボローがヤン艦隊に配属されて以来の、数々の激戦の生きた記録である。たったの三日間で検証が終わるボリュームではないのだ。

 

「了解した。貴官ら立ち会いの下、戦術コンピュータの内容確認をさせていただこう」

 

 アッテンボローはきびきびと敬礼した。

 

「感謝します。こちらの技術士官を同席させますが、帝国軍の技術者も動員していただきたい。

 やるからには徹底的に公開としましょう。

 そちらの艦隊から千人も出していただければ、半日で終わりますよ」

 

 そして、感謝と共に爆弾を送りつける。

 

「じゃあ、明後日金曜日にいたしませんか。

 帰還者予定者に、土日に半日ずつ交代で休暇を割り当てられます」

 

それに主任参謀も同調して、さらに期限を切り詰める。相手に判断の時間を与えない、これも交渉のテクニックである。

 

「少し待ってはもらえないだろうか。明後日に千人の動員とは……」

 

 いっそ優しいほどの口調で、ラオは言った。

 

「千人が無理でしたら、五百人を二回でも、三百人で三.三回でも構いませんよ。

 タイムラグが発生しない方が、そちらも安心できるのではというだけのことです。

 まあ、三百人だと明日から動員していただく必要があるんですが。

 少将閣下ならば、それだけの部下をお持ちではありませんか?」

 

「本来ならば卿の言葉のとおりだが、小官は後方担当として同行したのだ」

 

「なるほど、事務の応援でお越し下さったわけですね。それは軍務省次官殿の指示ですか?」

 

「そのとおりだが」

 

「惜しいですね。六十八点だ。そうお伝えください。

 いい線は行ってますが、頭だけではなく、手足も動かすべきでしたと。

 で、動員はどうなさいますか」

 

「協議させていただきたい」

 

「手短にお願いしますよ。こちらは停戦後の二ヶ月、監視部隊に打診を送り続けました。

 その間に手を打っていただけたら、こんなことにはなっておりません。

 アッテンボロー中将も、本来ならフェザーンから直行する予定でした。

 それをお忘れなきように」

 

 苦労性の常識論者は、心の天秤が振りきれると、相手の喉元を正論で締め上げにかかる。アッテンボローは、この部下を怒らせないようにしなくてはと、何度目かの決心をした。なにしろ、アッテンボローは当選したら、彼を公設秘書にする腹づもりだったからだ。

 

 ラオ大佐に絞られた少将は、それでも五百人の動員を決定した。三階級下に見ろという、ラオの指摘は正しいのかも知れない。勝ち馬に乗っていれば、誰しも勢いを増す。その俊足が失われた今、真価が問われているのだろう。一年前の自分たちのように。

 

 だからといって優しくしてやるつもりはない。敵ながら天晴れ、だがまだ友達じゃない。それがイゼルローンの面々の本音であった。



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みどりのゆびの悪魔

 キャゼルヌなど、帰還したユリアンを帝国軍と一緒にしごきにかかった。ラオの圧力など、彼に比べれば優しいぐらいだった。圧搾機で締めあげて、脂汗を絞りつくす勢いである。叩いて掛け橋にするとの豪語は、過大なものではなかった。

 

 皇帝ラインハルトの意志が、すべての法の上に屹立(きつりつ)した銀河帝国とは異なる。旧同盟の法を引き継いだイゼルローン軍の手法は、ずっとシステマティックだった。簡潔で定型的な書式と、その根拠となる資料。人事異動が三年単位で発生するのだから、初日からある程度の仕事ができることを要求される。それに要する引き継ぎ期間は一週間から十日。それを基準にしたスパルタ授業だった。

 

 題材として槍玉に挙げられたのが、帝国軍監視部隊との交渉の停滞である。

 

「旧同盟軍においては、少将は二十万人、中将は百五十万人の統括者でした。

 イゼルローン政府の人員規模ならば、監視部隊の責任者の職責において、

 退去を行わなければならないのです。

 せっかくワーレン元帥閣下にお越しいただいたが、

 元帥の職責にふさわしいものではありませんな」

 

 剛毅といわれるワーレンだったが、旧同盟軍屈指の軍官僚の言葉には反応ができなかった。

 

「本来は、もっと下位者が務めるべきものです。

 これは単純な輸送作業であり、政府間の交渉は政治の役割ですからな」

 

「しかし、キャゼルヌ中将。貴官は返還の折衝役に条件を付されたはずだ」

 

「ええ、そのとおりです。

 イゼルローン政府に対して、反発し、武力行使に出る恐れのある者。

 こうした席で、帝国側の意見を適切に発言する能力に欠ける者。

 そうではない者を選んでいただきたいとね」

 

 薄茶色の瞳が、極めつけに人の悪い笑みを浮かべた。

 

「小官は、一言も元帥級の高官に来ていただきたいとは申し入れておりません。

 判断をなさったのは、帝国軍の軍務省首脳部でしょう」

 

 帝国軍の高官の頭上を、一個小隊の沈黙の妖精が飛び回る。そいつはユリアンの周囲もぐるぐると旋回した。黒い髪の守護天使の囁きも、聞こえたような気がする。

 

 玉虫色の話法も、ここまでくるといっそ美しいね。いいかい、ユリアン。とにかく、先輩を敵に回すんじゃないぞ。

 

 ユリアンは、守護天使の忠告に心から誓った。心配をなさらなくたって、僕もそんな勝算のない戦いはしません。

 

「適職者が元帥という判断でしたら、それは将官の育成が不十分なのです。

 ならば、管理職が引責を受けるべきでしょうな。

 管理職の役割の半分は、目標に応じて仕事を考え、それを適正に分配することだ。

 貴官のように高い能力があり、可能だからといって、小事まで抱え込むのは下策です。

 小事を統括し、大事への集約の橋渡しをする中間管理職の育成。

 これが管理職の仕事の残りの半分だ」

 

 必要以上の仕事を持つな、捨てろ。それは下にやらせるように考えろ。それがおまえたちの仕事なのだ。勤勉な帝国の将官が、考えもしなかった組織論である。

 

「複雑な事業は割り算で考える。すなわち、集約は掛け算で行うことになります。

 だから、トップからいきなり細分化してはいけない。手に負えなくなる。

 このために中間管理職はいるのです。管理職は目標を設定し、計画の骨子を作成する。

 中間管理職に大きな骨を一つずつ割り振って、肉付けさせるのです。

 必要に応じて、さらに小割りにするのは中間管理職の判断と責任です。

 気をつけねばならないのは、事業の完成予定図を明示することだ。

 各部門が仕事をやったはいいが、背もたれが二つで座板がなく、

 脚の長さが極端に違ったのでは、椅子として使い物にならないでしょう」

 

 ワーレンはこの言葉を手元の紙面に書き留めた。皇太后ヒルダにとって、重大な示唆である。管理職を皇太后、中間管理職を閣僚や元帥らに替えれば、そのまま帝国首脳部に当てはまる。

 

「自分で考えるのが難しいなら、中間管理職から意見を集約すればいいのです。

 現場の者の方が、自分の専門についてはトップよりも詳しい。

 中間管理職に権限と信頼と評価を与えれば、自ずと職責を果たそうとするものです。

 やる気を与え、責任を負うのも、トップの役割ですな」

 

 キャゼルヌがワーレンらに例として示したのは、故シェーンコップ中将の管理職教育であった。

 

「彼は白兵戦に極めて優れていましたが、それ以上に聡明で有能な将官でした。

 しかし、元々陸戦部隊の連隊長が、数十万人規模の要塞防御司令官に着任するというのは、

 大変なことだったでしょう。故ヤン司令官も、彼の育成には手間を掛けたのですよ。

 まずは、帝国軍並みの運用ができるように、

 帝国語のマニュアルを薔薇の騎士(ローゼンリッター)総出で訳してもらいました。

 次に、同盟軍の過去の要塞攻略戦をモデルに、帝国が来襲した場合の予想を提示した。

 その図入りの三ページのレジュメが、ヤン司令官が帰還兵輸送の留守の前に出した資料です」

 

 非常に整理されていて、一見そっけないほど簡単に見えるものだった。しかし、ワーレンに同行していた、一人の中将の顔が蒼褪めた。彼は、第九次イゼルローン攻略に参加した。彼らの艦隊が航行したのは、まさにこの経路のひとつだったのだ。

 

「細かいことは割愛しましょう。これを元に演習を行いました。

 実際の誤差や稼働時間を計りながらね。

 本格的な演習ができたのは、同盟のクーデター終了後、メルカッツ提督が加わってからです。

 彼の知識に、大変助けられましたよ。

 当時のシェーンコップ少将は、書類仕事が得意ではなく、

 二十ページ近い演習計画書を出しましてね。

 司令官自ら、こんなに長ったらしいものは見ていられないと、ばっさりと朱を入れました。

 そして、先ほど小官が言ったことを伝えて、彼の部下に計画を作らせるようにした」

 

 やはり、綿密な計画書の後ろに、簡単すぎるのではないかという手書きの計画案が付いている。ヤン・ウェンリーの肉筆のコピーだ。だが分量の多い方の内容を分解し、必要人員と行動を記載してタイムテーブル化してあった。ワーレンは食い入るように紙面に見入った。宇宙最高の軍事的頭脳の持ち主は、その思考を他者にわかりやすく表現するのに長けていた。

 

「これが入門編ですな。

 次にやったのは、メルカッツ中将に客員提督となっていただくために、

 小官が作成した軍規要約を訳して説明させたのです。

 軍の基本法から、さまざまな報告書の目的やら決裁区分や何かをね。

 これは非常に有効でした。

 仕事の根幹となるものが見えてくれば、彼はそれに適応できる能力があった。

 最後がガイエスブルク襲来後の彼の作成した報告書です。見違えるようでしょう」

 

 三ページに収まった報告書。まさに一目瞭然の内容に整理されている。司令官ヤン・ウェンリーのサインの下には『大変素晴らしい』のコメントが小さく添えられていた。ユリアンが眠った後で帰ってきて、起きる前に出掛けた時に、夜食の皿の下に置かれていたメッセージ。それと同じ言葉、同じ筆跡だった。

 

「ここまでで一年半です。実質半年はクーデター鎮定に同行していましたし、

 さらに三か月は司令官が不在で、ガイエスブルク要塞まで攻めてきましたがね。

 だが、二千人の上官から、数十万人を統括する者に育てられるのですよ。

 道を示し、能力を認め、さらに課題を与えて評価する。 

 この頃には、一般の白兵戦員から、薔薇の騎士に抜擢されるのは名誉になっていました。

 もう、亡命者の逆亡命予備軍などと謗る者は一人もいませんでしたよ」

 

 そして、これほどキャゼルヌが詳しいという事は、組織工学の英才たる彼も、陰に日向に様々な協力をしたということでもあった。

 

「だから、彼らは先帝陛下の総旗艦に突入して、二百四人しか帰ってこなかった。

 彼らにとって、ヤンの価値はあまりに重かったのでしょう。それは悔やまれてなりません。

 ヤンが死ななければ、防げた流血は何十万人分かあったでしょう。

 地球教の亡霊が、平和の根幹を揺るがそうとしているのを見過ごすことはできない。

 旧同盟の手法を、そのまま使用することもできないでしょうが、

 何かの参考にはなるのではありませんかね」

 

「卿に心から感謝したい」

 

 キャゼルヌの言葉は、皇帝と軍務尚書を失った帝国にとって、重要な手掛かりを含んでいた。ワーレンを始めとする帝国軍首脳陣が感じていた、大将以下の能力の不足。それも当然だ。こんなに手を尽くした教育をしていないのだから。

 

 ラインハルトは無能者を嫌った。その羽ばたきに、追随できる人間が階梯(かいてい)を昇っていき、能力の足りないものはその場に留まるか、泉下(せんか)へと転がり落ちた。

 

「しかしですな、これから重要なのは軍事より民生ですよ。

 負け惜しみで言うのではありませんが、戦争に負けても旧同盟の市民生活は、

 おおむね保たれているでしょう」

 

 ワーレンは、新領土戦役の際にミッターマイヤーの副将の一人であった。ロイエンタールが死去した後、ハイネセンに駐留し、治安の維持にもあたっている。

 

「ああ、卿の言うとおりだ」

 

「掛けていた金の桁が違うからですよ。

 帝国と旧同盟の戦争は、こう言っては何だが、決められた小遣いの中の火遊びでした。

 第二次ティアマト会戦以降、アムリッツァの会戦まではね。

 積み上げてきたものが違うし、社会のシステムが大変貌した帝国とは異なります。

 ところで、先日の昼食の味はいかがでしたか」

 

 突然の話題の変更に、ワーレンは脱色した銅線のような色の頭を傾げた。

 

「は、昼食の味? なかなか美味でしたが」

 

「あれはイゼルローンの食糧生産プラントを改良して、生産したものですよ。

 天上の美味とは言えないが、そんなに悪くはないでしょう。改良したのは民間企業です。

 現在は、余剰生産分をフェザーンに売っていて、貴重な収益になっている」

 

「キャゼルヌ中将、何をおっしゃりたいのだろうか」

 

「つまり、軍用の食糧も、同盟の企業ならばこの程度の味にはするんですよ。

 価格の方は、あれだと一食二ディナール以下で競争させます。

 帝国本土で、この品質の物を一帝国マルク以下で買えますか」

 

 帝国軍人は誰も咄嗟に回答できなかった。というよりも、軍用食一食のコストは知らない。しかし、たったの一帝国マルクということはないだろう。

 

「どうやら、ご存じないようですな。

 国営企業とはいえ、材料費に人件費、光熱水費、輸送費は必要でしょう。

 決して無料ではありえないのですよ。

 このまま貿易を自由化すれば、同盟の産品が帝国に流入します。

 為替レートのせいで、一マルクで二ディナールの物が買える。

 庶民にとっては、一時的にはありがたいでしょう。

 しかし、帝国本土製品が売れなくなる。企業が潰れ、給料が出なくなる。

 あるいは」

 

 キャゼルヌは腕組みをすると、薄茶色の目を帝国軍の高官らに向けた。

 

「コストを度外視しても、国費で雇用を担保する方法もある。

 しかし、長期的には国庫を圧迫し、深刻な財政危機を招く。

 かと言って、安易にフェザーンや旧同盟資本を参入させるのはお勧めできない。

 腸を食い破られ、肉を貪られ、骨の髄まで啜られるでしょう。

 残った骨さえ焼かれて肥料にされますよ」

 

 一つの軍用食が見せた巨大な問題だった。

 

「これは小官の私見に過ぎませんがね。

 帝国の閣僚たる方々ならば、既にお気付きでしょう。

 なにせ、帝国は五百年、同盟は二百年自前でやってきたのです。

 それを競争させたら安くて旨い方が勝つ。この軍用食の入札と一緒でね」

 

 同盟軍史上最高の名将が、最も信頼した勘定方は、凄味のある笑みを浮かべた。

 

「人を殺すには武器など必要ありません。一週間、飲み食いさせないだけでいい。

 帝国逆進攻にそちらがとられた作戦ですな。

 だが、もう他人のせいにはできないのですよ。

 ゴールデンバウム王朝も、門閥貴族も、自由惑星同盟もみな滅びましたからね」

 

 雷神の槌(トゥールハンマー)よりも強烈な毒舌の矢が、ワーレンらを直撃した。これからの悪政は、ローエングラム王朝のせいだと。色めきたった若手将官らが席を蹴立てて立ち上がる。口々にキャゼルヌの無礼を咎めて、中には詰め寄ろうとする者がいる。ワーレンが制止するより先に、官僚的な容貌の中将は一喝した。

 

「それが支配者の責というものだ。

 国民を一身に担う、その覚悟もなくして王朝を()てたと貴官らが弁護するなら、

 皇帝ラインハルトに対する、最大の不敬にあたるだろう!」

 

 彼の毒舌に慣れたユリアンでも、驚くような叱声である。

 

「先帝陛下は、自身の意志でそれを選ばれたのだからいい。

 だが、その遺族が否応なく責を相続させられるのが、専制政治の欠点だ。

 ヤン・ウェンリーが戦ったのは、それへの反対でもあったことを忘れるな。

 たしかに皇太后陛下と大公殿下はお気の毒だが、その責は何ら軽減されるものではない。

 ならば、貴官らや閣僚が、皇太后陛下に最適な意見を示すべきだろう。

 現場の専門家としてな!」

 

 そして、薄茶色の鋭い眼光が、帝国軍の面々を一巡した。

 

「仮にも将官の階級と俸給を得ていて、職分に応じた判断もできないのでは話にならん。

 こちらからの意見を集約して、回答できる状況になってから、声をかけていただこう。

 小官も忙しいのですよ」

 

 そう言い捨てて、さっさと席を立ってしまう。残されたユリアンは言葉が見つからず、帝国軍の面々と顔を見合わせることしかできない。

 

 書記役の中佐が、ユリアンに告げた。

 

「では、ミンツ軍司令官、続きをお願いします」

 

「ええっ、続けるんですか!?」

 

「はい、そうしないと意見の集約は不可能でしょう」

 

 空色の瞳の彼女は、取り残された高官らを前に、底知れぬ笑みを浮かべた。

 

「キャゼルヌ事務監が、怒って毒舌を言ううちは、まだ大丈夫ですよ。

 本気で見捨てられると、シリューナガルの四季が訪れるのです。

 それはそれは礼儀正しく、あの星の水で清めるような対応ですのよ」

 

 それを聞いたユリアンの顔から血の気が引いた。皇帝ラインハルトにも、臆さずに対応した青年の様子に、ワーレンは不審に思い声を掛ける。

 

「ミンツ軍司令官、どうされたのだ」

 

「待って下さい、アッシュフォード中佐。あの星に冬以外の季節はないですよね。

 そもそも液体の水だってない、全部永久氷河じゃないですか!」

 

 その星は、バーラト星系の第六惑星である。クーデター鎮定の最終章、ハイネセンの軍事攻撃衛星『アルテミスの首飾り』を粉砕した、一立方キロの氷塊一ダースの産地だった。つまり……。

 

「ええ、激寒の冷戦の開始です。小官も協力いたします。

 それこそ、胃薬も病院も無料ではありませんから。

 さあ、概要書の四十ページを開いてください。

 では、第二陣帰還後から、最終の帰還までの行程ですが……」

 

 彼女は書記席から、端末を操作し、ディスプレイに計画を表示した。淡々とした口調で解説を始め、ユリアンが所々で補足する。中佐と中尉が、元帥を含んだ十数人の軍高官の説明役だという、帝国では前代未聞の光景だった。

 

 憤慨しかけた若手将官らだったが、説明が進むにつれて沈黙するしかなくなった。現場担当者が把握し、それが司令官にもきちんと伝達されている。キャゼルヌの組織論の生きた見本だった。

 

「これはまさに良薬だな。いささか以上に口に苦いが」

 

 ワーレンは呟いた。組織として、イゼルローン軍ははるかに小さい。だから手が届くのだというのは容易い。だが、前線の若手将官は職責を意識しているだろうか。この五年間の昇進に、麻痺しかけてはいないか。部下らと同年代と思われる、中佐の冷静な説明と質疑応答を聞いていると、そう思わざるを得ない。

 

 そして、この女性中佐は約十年の軍歴を持つという。彼女の昇進もかなり早いということだが、さらに若いヒルダに帝国を背負わせるのは、いかに過酷なことだろうか。ヒルダは帝王学を学んだわけではなく、四年間の毎日を政務や軍務に費やしてもいない。ラインハルトの部下ではあったが、誰の上官でもないのだ。

 

 天才が選んだ女性は、頭脳は極めて優れていても、実務的には素人同然だった。皇太后という地位にあるからといって、責務のすべてを押し付けるのは、臣下としての怠慢であろう。皇帝ラインハルトと共に宇宙を統一した者として、許されることではなかった。キャゼルヌ事務監が立腹するのも当然だ。

 

「では、双方の意見の概略について表示します。

 重複した内容は、適宜整理させていただいてあります」

 

 画面に帝国語と同盟語で、会議の内容が表示された。

 

「後ほど、正式に録音議事録を提出いたします。

 まずは大きな誤りがないか、ご確認をお願いします。

 よろしいでしょうか、ワーレン元帥閣下、ミンツ軍司令官」

 

 名指しされた二人は画面に見入って、文字に目を走らせる。ややあってから双方は頷いた。

 

「詳細はこれから詰めるにしても、基本骨子はこれでよかろう」

 

「小官もそう思います」

 

「では詳細な日程表を作成し、作業と必要人員の計算に移りたいと思います」

 

 ユリアンは、書記席を振り返った。

 

「まだ、続けるんですか」

 

 ワーレンは席の配置でそうせずに済んだが、亜麻色の髪の青年と同じ問いを発したくなった。

 

「そうしないと、事務監に出席してもらえませんからね。

 回答できる状況とはそういうものです、ミンツ司令官。

 あらあら、そんな顔をなさっても、やらないと仕事は終わりませんよ」

 

 あの上官にして、この部下あり。その表情には、イゼルローンの外壁よりも冒しがたい威厳があった。地上一万メートルの冬の澄みきった成層圏色の瞳、その気温は零下六十度。

 

「そして、仕事が終わらないと、いつまでたっても家には帰れないのです。

 小官を夫と息子が待っていますから、何としてでも終わらせます」

 

 瞳の色はそのままに、うっすらと笑みを浮かべて一同を睥睨(へいげい)する。一介の中尉のユリアンが、どうして中佐殿に抗う事ができようか。帝国元帥だとて、一言もさしはさめぬ迫力であるのに。凍りついた面々に、アッシュフォードは時計を見て猶予を与えることにした。

 

「ですが、そのまえに三十分間の休憩としましょう。

 連絡事項、小用は休憩のあいだにお願いします」

 

 本国に泣きつくのなら、今のうちにしておけという通牒(つうちょう)だった。この関門を突破しなければ、本丸のキャゼルヌには到達できない。

 

 これは荒療治である。現在の帝国軍には、叩き上げの古参兵がほとんどいない。通常だったら、士官学校出の若い少尉は、そういった熟練者に揉まれて鍛えられる。だが、その機会もなく、どんどん階級が上がっても経験が伴わないのだ。大きな鉢に木を植え替えても、水や肥料や時間が不十分では、器に見合う大きさには育たない。それと同じである。天才の上意下達(トップダウン)の弊害でもあった。

 

 彼らと同じほどに若い、ずっと階級の低い後方事務官が、複数の兵士や下士官を使いこなしている。中佐でさえ、五百から千人の長となる階級なのだ。これが少将なら二千隻二十万人、中将ならば一万二千隻百五十万人の長となりうるのである。それを満たしているのか。若手の将官らに突きつけられた問いも、重く鋭い。

 

 席を立った中性的な美人に、ユリアンは追い付いた。

 

「あの、何と言ったらいいのか、何と言うべきか、その、ありがとうございます」

 

「これも仕事だから。給料分の仕事をするって、大変よね。

 本物の給料泥棒がどういうものか、わかったでしょう」

 

「……はい」

 

「部下に上手に仕事をやらせるのは、とても難しいの。

 人に使われるのとは違う才能が必要なのよ。

 まあ、私たちも休憩しましょう。お茶でもいかが?」

 

「是非ともご馳走になります。

 あのフレデリカさんのお茶を変えた、先生の味なんですよね」

 

 ユリアンには果たせなかった偉業である。 

 

「とんでもない、私はやり方を教えただけよ。変わったのは彼女自身とヤン提督のおかげ」

 

 ダークブラウンの瞳を瞬かせる青年に、彼女は告げる。

 

「惚れた相手から、評価と感謝をされれば、大抵の人間は発奮するのよ。

 男女を問わずね。あなたも覚えておくといいわ」

 

「は、はい?」

 

 ヤンの評価と感謝を糧に、長足(ちょうそく)の進歩を遂げたのは一人だけではなかった。

 

「部下にそういうやる気を出させるのが、上司の役割でもあるのよ。

 嫌われなくて一人前、好かれて一流、超一流は惚れこまれるの。

 なんて顔してるの、これは仕事の話よ。恋愛にも通じるけれどね」

 

 悪戯っぽい表情と言葉に、表情を緩めたユリアンだったが、結びの言葉で再び硬直することになる。

 

「つまり、ワーレン元帥のお手並みも拝見ってことよ。おわかりかしら?」

 

 もはやユリアンは、顔を上下動させることしかできなかった。黒く尖った尻尾を持つ者の部下も、やはり魔の系譜に連なっていた。

 

「さあ、一服して頑張りましょう」

 

 出された紅茶は、ユリアンが感嘆するほど美味だった。それがこの日、唯一の癒しだった。その後はもう……。事務の達人の顔を拝むまで、こんなに時の長さを感じたことはない。

 

 キャゼルヌの出馬を仰ぐまで、ワーレンらは中間管理職の佐官級職員たちに、現場の状況説明を受けることになった。フェルナーが同行させた者とは同年代である。上意下達、そして下意が上層に投げ返されるシステムは、帝国よりも遥かに洗練されていた。職権に上下はあっても、身分の差がない国家の利点に他ならないだろう。ようやく門番が取次ぎをしてくれたのは、一日と半の後であった。

 

 人の悪い笑みを浮かべた事務の達人は、開口一番に告げた。

 

「いかがかな、我々は自分と家族の為に働いているのです。

 お偉方のためにでも、司令官のためでもない。

 家を守るため、家に帰るために戦ってきたのですよ。

 そして、ヤン・ウェンリーは、誰よりも将兵を家に帰してくれる司令官でした。

 だから、我々は彼を信じて支え、十全に働いてもらったのです」

 

 もう色めき立つ者はいなかった。 

 

「さて、貴官らは何のために働くのか。それを心から考えていただきたい。

 国家が何を目指しているのか。答えは身近にあるが、だからこそ難問なのだ。

 それをたった一人で実現するのは、人間には不可能だ。

 たとえ、神のような天才であってもです。

 ならば一人でやらなければいい。ただそれだけのことです」

 

「仕事は割り算で、国家もそれと等しいとおっしゃるか」

 

「民主主義国家の人間は、そう考えてきたのですよ。

 専制政治については、小官は不勉強でしてね。

 貴官らの方がずっとお詳しいでしょう。よくお考えになることですな」

 

 かくして、ようやく交渉のテーブルは修復された。亜麻色の髪の中尉と、アッシュブロンドの中佐は、静かに安堵の視線をかわした。 

 

 すべては、魔王キャゼルヌの掌の中なのかもしれなかった。

 




注:(泉)下=黄泉


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家へ帰ろう

 異国人も同国人も翻弄する者がいる一方、物わかりの悪い同僚に苦闘する者もいる。

 

「もう、怪我人はさっさとハイネセンに帰ってください」

 

 長身の女性少佐は、見事にくびれた腰に手をやって、リンツ以下の薔薇の騎士(ローゼンリッター)を説得した。ここは要塞防御部の中央制御室前の広い連絡通路だ。そこに、残留している百人ほどを集合させたのである。

 

「だが、イゼルローンの返還にあたって、要塞防御部指揮官代理が、

 不在というわけにはいかんだろう」

 

「こっちだって、帰還者の数に応じて、病院も縮小させたいんです。

 今回の帰還には、傷病者が沢山いるんですから。

 医療従事者を同乗させると、こちらでは充分な治療はできません」 

 

「しかしな、やりかけのまま放りだすわけにはいかないだろう」

 

 要塞防御部門も、要塞主砲や砲塔の射程や限界を、元の持ち主よりも詳しく解析し、運用していた。その移管にあたっては、リンツ大佐以下百余名の薔薇の騎士らが、負傷を押して取り組んでいる。それの目途が立たないと、帰れないと言うものだったが。

 

 彼女は、波打つ見事な黒髪を勢いよく揺らし、さらに長身のリンツをキッと見上げた。

 

「では、リンツ大佐に伺いますけれど。

 その要塞主砲やら砲塔の運用、帝国軍に懇切丁寧に教えて、

 彼らは誰を相手に戦うというんですか」

 

「あ」

 

 その指摘に間抜けな顔になった歴戦の猛者たちを、美しい黒い瞳が冷たく見やった。

 

「敵もいなくなるのに、意味がないでしょう。

 必要なら、帝国軍が好きなだけ研究すればいいんだわ。

 そんなことしてる暇があるなら、出発まで電子治療を受けてください。

 あれだってリース機器なんだから、返却しなくちゃならないんですよ」

 

「いやそのなあ、いいんだろうか」

 

「でかい図体の怪我人が、うろうろしている方が迷惑です。

 後遺症が残っても、退職金や年金に加算するお金はありませんよ。

 大人しく療養しててください。あっちが勝手にやってくれるでしょ。

 だいたい、あんな方法でここを二回もふんだくった相手が何を言っても、

 まともに信じるもんですか」

 

 彼女の言葉に、彼らは顔を見合わせた。言われてみれば当然だった。二度も悪どい詭計(トリック)を用いた、かつての敵の言葉を鵜呑みにする者などいない。同じ立場に立たされたら、自分らだって必ず疑う。厳重に再検証をして、兵器やコンピュータの入れ替えも行うだろう。リンツは、脱色した麦藁色の頭をかいた。

 

「たしかに貴官のいうとおりだ」

 

「じゃあ、さっさと治療と荷造りに行ってください。

 乗艦名簿のやりくりをしなくちゃならないから」

 

「いや、それは待ってくれ。事務部門やミンツ中尉の護衛ぐらいはできる」

 

 チャベス少佐は、豊かな胸の前で腕を組むと、治りかけの怪我人らをじろりと見た。皇帝ラインハルトの旗艦に乗り込み、生存したのは二百四名。その一人として負傷しなかった者はいなかった。ここに残留しているのは、中程度の負傷者である。軽傷者と重傷者は、第一陣で帰還した。前者はヤン夫人らの警護、後者は治療のためである。

 

「では、病院で診断を受けて、診断書の提出をしてください。

 一週間の電子治療で、回復できる方のみ残留を許可します。

 本当に手が足りなくなりますから、怪我人はお呼びじゃありません。

 四の五の言うなら、ハイネセンに救急搬送できる理由を、小官が作ってさしあげてもいいわよ」

 

 そして、鋭く軍靴の音を響かせて、薔薇の騎士連隊長に歩み寄った。チャベスは格闘と射撃の名手で、衛生兵としても優秀だ。人体の急所を知り尽くしている。思わず半歩後退するリンツに、病院の方向を指さして告げる。

 

「さっさと行ってきて」

 

「了解しましたっ」

 

 連隊長に従い、一糸乱れぬ右向け右で、走り去っていく百人あまり。彼女は、形の良いブロンズの額に、青筋を立てて見送る。こんなに元気な連中なら、結局ほとんど居残るに違いない。

 

「まあね、離れがたい気持ちはわかるわよ。

 ここは魔術師のお城で、あの人たちは騎士だったもの。

 主の後をその長が追っ掛けちゃったら、部下だって途方に暮れるわ」

 

 故国を捨て、あらたな国にも受け入れられなかった流浪の騎士団。温かな言葉を与え、居場所をつくり、彼らの価値を正当に評価した、最初で最後の司令官。彼女の情人だった美丈夫も、心からの尊敬と忠誠を彼に捧げた。ときおり毒舌で味付けをして。

 

「本当に男って馬鹿なんだから。あんなに大きな娘がいたくせに。

 もう陸戦隊員としてはいい歳なんだから、大人しくしていればよかったのよ。

 いやよね、中年になっても不良のままなんて」

 

 だが、彼は歳をもう重ねない。それに自分は追い付き、追い抜いていくのだろう。この平和になった世界で。

 

「でも、中年以上にはならないのね。ちょっと惜しいわね、ワルター。

 娘が、せっかく素敵な彼氏を捕まえたのに。

 あなただったら、かっこいいおじいちゃんになったと思うのよ」

 

 そして、義理の息子の養父は、優しいお祖父ちゃんになったろう。彼は、実子と同じぐらいの『孫』に恵まれたかもしれない。娘の子に、年下の叔父か叔母ができる可能性の方が高かったかとも思う。ほろ苦く、愛惜を込めて。

 

 とにかく、ワルター・フォン・シェーンコップはいい男だった。ちょっとお目にかかれないぐらいの美丈夫で、瀟洒で、女性の扱いを心得ていた。社交の場でも、シーツの上でも、本当にうっとりするぐらい。選考基準が高くなってしまって困る。金褐色の髪の友人には負けるだろうけど。

 

「とは言え、結局あと一か月中にはみんな退去するんだけど。

 住民登録しないと、被選挙権も選挙権も得られないってこと、あの人たちわかっているの?」

 

 九月のはじまり。イゼルローンの住人は、帰還を急がねばならなかった。

 

「もう、じきにさよならね、女王陛下。あの人たち以上のいい男はいなかったでしょ。

 そして、これからもきっと現れない。でも、それでいいの」

 

 戦争がなくなれば、常勝も不敗もない。そのほうがずっと素晴らしいこと。

 

 帝国を叩いて締めあげ、捩じ伏せて、第二陣が出発する。宇宙暦801年9月10日早朝。到着は9月30日を予定。急ぎ足の航海となるだろう。航法主任はフィッシャーの愛弟子マリノ准将だ。誰も予定の完遂を疑う事はない。 

 

「じゃあ、お先に失礼しますよ、軍司令官、要塞事務監閣下。

 艦隊の解体案は提出したとおりです。

 いざとなったら、超光速通信を入れてくれればいいですから。

 悪いなラオ大佐、後は任せた。貴官なら大丈夫だ」

 

「ああ、貴官の航海の無事を祈る」

 

「気を付けてくださいね、アッテンボロー提督」

 

「アッテンボロー提督、くれぐれも道中気を付けてください。

 しかし、この貸しは高いですからね」

 

 恨めし気な主任参謀にも、アッテンボローは敬礼した。

 

「俺が当選したら、貴官を第一公設秘書にするから勘弁してくれ」

 

「それは恩返しにはなりませんよ。苦労するのが目に見えてるじゃないですか」

 

「戦争と政治は悲観論で最悪を考えなきゃいけないんだとよ。

 おまえさんの天職だろ? 今までありがとうな。そして、これからもよろしく」

 

 第二陣は、どうにか翌週中の出航に漕ぎ着けた。しかし、すぐにも最終の帰還が待っている。ワーレンらは、息つく暇もなく、次の局面に取りかかることになった。それまでに蓄積された、旧同盟の後方事務のノウハウ。これは貴重なものであった。軍務省で奮闘するミッターマイヤーらの下にも、その報告は届けられた。

 

「彼らがただ一艦隊で、間断なく戦ってこられた理由が理解できた。

 メルカッツ提督が、魔術師の後継者に命がけで助力したこともだ」

 

 周囲が敵であった境遇から親友と二人で身を興し、権威と戦い続けたラインハルトには、持ち得ない人心掌握術だといえよう。第二人者が不要といったオーベルシュタインの言葉は、冷徹に過ぎるとミッターマイヤーは反発した。あの温良で公正な、ラインハルトの無二の親友、キルヒアイス元帥を失う結果を招いたのだから、なおのことだ。

 

 しかし、キャゼルヌの言葉に翻訳されれば理解できる。オーベルシュタインが表現を変えればよかったのか。だが、それに自分は聞く耳を持ったか。やれ、公正よ豪胆よと褒められても、それは表面的な思考に留まり、隠された意味を読み取れないということではないか。美点と欠点は、背中あわせに存在する。

 

「それにしても、何はなくとも金と食糧か。まったく耳が痛いことだな、フェルナー少将」

 

「御意。キャゼルヌ中将の指摘のとおり、帝国本土に新領土からの輸入が激増しておりました。

 そして、帝国の軍需物資などに加工されているものが多々ありました。

 旧同盟軍を解体して、兵員が民間に戻り、新領土は経済的に改善傾向にあります。

 一方、帝国本土は……」

 

「リップシュタット戦役からの復興も不十分ということだな」

 

「行政官が不足しております。軍部から、人材を異動すべきだと考えます。

 とりあえず、ワーレン元帥に随行させた十名を、国務省に異動させようかと」

 

 フェルナーは、彼らの一人からの伝言を思い出し、力なく笑った。

 

「しかし、小官の策は六十八点だそうです。

 頭だけではなく、手足をつれてくるべきだと。彼らは手強いですよ」

 

「考えてもみるがいい。

 氷の船で旅立ち、五十年の流浪の果てに国家を築いた人々の子孫なのだ。

 二百年の間にその精神は眠り、変質も腐敗もしたが、ヤン・ウェンリーがそれを覚醒させた。

 彼の戦いをみれば、その部下らがいかに手強いか、自明の理だろうよ。

 まったく、卿の人事案には感謝する。

 柔軟なミュラーであれば、うまく適応でき、逆に危機に気付きにくくなっただろう」

 

「いや、小官の手柄ではありません。

 先方に、おふたりの元帥を除外された段階で、

 ワーレン元帥かミュラー元帥しか選択肢はありませんでした。

 先方は中将でもよかったと言ったそうですが、

 そんな実力を持つ者は、上級大将以下には存在しないのです」

 

 ミッターマイヤーの眉間に皺が刻まれた。

 

「卿の言うとおり、実に手強いな」

 

「御意。そして恐らく、ミュラー元帥が担当をなさっても、

 こちらに同じような報告がされたことかと。

 まことに厳しいが、それも平和を願ってのことです。

 これは彼の温情でしょう。いや、ヤン元帥の遺徳というべきか。

 キャゼルヌ中将こそ、こちらに勧誘したいものです」

 

「それはやめてくれ。俺の居場所がなくなるだろう」

 

 ミッターマイヤーは、半ば本気でそう言った。ワーレン一行から送られてくる、報告書の類が見る見るうちに磨きあげられている。組織経営の英才の力量が伺えた。

 

「だが、俺も教えを乞いたいものだ」

 

「閣下にここを離れていただく訳にはまいりません。

 ですが、今後バーラト星系に駐留官事務所を置くことになりましょう。

 武官も送ることになろうかと」

 

「なるほど。人選は卿に任せる」

 

「御意」

 

 後にハイネセンへの赴任は、栄転であると同時に、猛勉強すべしとの意味となった。『キャゼルヌ学校』への入学命令だと、帝国の武官文官に恐れられることになる。その栄えある第一回生には、ミュラー元帥も含まれていた。

 

 新帝国暦三年十二月、ワーレン元帥帰還。宇宙艦隊司令長官に任命される。ミュラー元帥と交代し、旧都オーディーンに駐留。帝国軍の主要施設はオーディーンに多くが残っており、フェザーンに完全移転するための調査を兼ねてである。これにより、オーディーン駐留艦隊のアイゼナッハ元帥は副将となる。

 

 ワーレンは久々に息子と再会した。あまり会えないでいるうちに、すっかり大きくなった。大喜びで飛びついて来る、その背は伸びてずっと体重も増えた。もう、そろそろ少年に差し掛かっている。

 

「父さん、おかえりなさい!」

 

「ただいま、これからは父さんも一緒に暮らせるぞ。

 これから遠くで仕事があっても、

 きっとおまえも、おじいちゃんたちも連れて行けるようになるだろう」

 

「ほんとうに?」

 

「ああ、本当だ。父さんたちみんなが頑張れば、きっとそうなるさ。

 おまえが大人になる頃には、一万光年先の学校に通えるかも知れないな。

 もちろん、おまえが望むんなら」

 

「うーんと、まだわかんないや。

 でも、ぼくは父さんが帰ってきてくれてうれしいよ。

 これからずっと、一緒にいられるんだよね?」

 

 でも、まだまだワーレンの腰までしかない、小さな子ども。ワーレンは屈みこむと、息子を抱き上げ、頬を寄せた。

 

「ああ、そうだ。今までの分、一緒にいような。

 まあ、帰りが遅い日はあるだろうが、それでも家に帰ってくるよ。

 それが、父さんが教わった仕事の極意なんだ」

 

 家族のために仕事をした人を、ちゃんと家に帰すこと。そのことを求め続けたから、ヤン・ウェンリーは負けず、あれほど部下に慕われた。征旅の時代は終わりを告げ、これからの自分の役割は、帝国軍に属する人々を家に帰すことだった。それは、きっと神々の黄昏(ラグナロック)よりも困難な旅になる。

 

 帝国の内乱と、相次ぐ外征で、帝国本土こそ疲弊しているからだ。ゆっくりと軍を縮小し、荒廃した領土の社会資本と雇用を建て直し、教育と医療を中心に、民生を充実させていく。

 

「父さんが働いているのは、一番に家族のためなんだから」

 

「皇帝陛下じゃなくて?」

 

「ああ、そうだよ。おまえと幸せに暮らせるようにだ。

 みんなが教えてくれたんだ」

 

 自分と家族という最小単位を幸せにできない、そんな栄光に意味があるのか。元帥という地位、皇帝という地位も虚しいだろう。

 

「だから、オーディーンを大事に守るんだよ」

 

「じゃあ、ぼくも、おじいちゃんとおばあちゃんも、

 学校のみんなも、父さんが守ってくれるんだね」

 

「もちろんだとも」

 

 アウグスト・ザムエル・ワーレン元帥は、ローエングラム王朝において、第二代の宇宙艦隊司令長官と大公領駐留艦隊司令長官を兼任した。堅実で豪胆な用兵家としてその地位に昇った彼だが、後世に評価されているのは、大公領オーディーン就任後の事績によってである。

 

 剛柔併せ持ち、堅実に無理をすることなく、着実に軍縮を進めていった。その足取りは、ゆっくりとしたものに見えたが、八千万を超えた帝国軍を、十年あまりのうちに六千万人規模に縮小。失業者を出すことなく、行政の充実と民間経済の活性化に足並みを揃えて行なった。

 

 彼は、能吏の極意を見事に継承したのである。帝国軍の宇宙艦隊の中枢がオーディーンに配置されたことにより、帝国本土の民需が活性化し、退役者は再就職先に困らなかった。剣を握る手は、大地を耕し、パンを焼き、妻と子供を抱きしめる手に変わっていった。

 

 いつの間にか銃爪の胼胝(たこ)が消えた、ワーレンの右手と同じように。



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新帝国暦4年/宇宙暦802年 元帥閣下のお気に入り
魔術師のそろばん


シロン、アルーシャ、メルカルトの各惑星については、筆者の独自設定です。


 宇宙暦801年12月1日、バーラト星系における共和自治政府樹立のための、総選挙が公示される。旧イゼルローン共和政府および旧同盟最高評議会の議員らが候補者として立った。総選挙投票日は12月14日。投票率は実に93.7パーセントを数え、空前のものとなった。

 

 即日開票の結果、バーラト共和自治政府初代主席となったのは、フレデリカ・グリーンヒル・ヤン。なお、この選挙は旧同盟憲章を下敷きとした特例法によるものであり、ユリアン・ミンツは被選挙権を持つ年齢に達していないため、立候補はしていない。

 

 旧イゼルローン自治政府の主だった者たちは、政治家となるよりも官僚の道を選んだ。事務総長にアレックス・キャゼルヌ。フェザーン駐留事務所長にムライ。

 

 野党として立候補したのはダスティ・アッテンボロー。圧倒的与党による一党独裁を恐れてのものだ。これには、シドニー・シトレ退役元帥も賛同。旧同盟の軍人として、違う責任の取り方をしたいとの理由による。故ジェシカ・エドワーズが属していた反戦派や和平派であったホワン・ルイらも同様の理由で立候補、当選した。

 

 宇宙暦802年1月1日 バーラト星系共和自治政府成立。後に1月の新政府とも呼ばれ、前身のイゼルローン共和政府の異称と紛らわしいため、後世の多くの学生を悩ませることになった。そのイゼルローン共和政府と先帝ラインハルトが交わした条約には次のようなものがあった。

 

 両国を主権ある独立国家と認め、国際法を定めること。

両国間の紛争、通商、その他諸々のことは、国際法の定めに従い裁定を行う。

旅券法を定めて、旅券と査証の取得により、両国間の移動を自由とする。

将来的には、両国の憲法に「外国への移住、国籍離脱、国籍取得の自由」を加える。

 

 これによって、旧同盟の中で帝国に屈することを良しとしない者はハイネセンに移住した。将来的にはハイネセン国民となるだろう。筋金入りの共和主義者たちの分離に成功したとも言えるわけで、こちらの効果のほうがより大きいだろう。これには新帝国も舌を巻いた。これらの法律は、銀河連邦成立以前のものだ。よくも、こんな古い法律を引っ張り出してきたものだと彼らは驚嘆した。

 

 この構想は黒髪の魔術師のベレーの下から出たものであるらしい。彼が残していたエル・ファシル共和政府の講和構想がその素案だった。ハイネセン脱出後、その死までの1年程度で考え付くものとは思えない。元々は、イゼルローン攻略後の講和の方策として考えだされたものらしかった。

 

 シドニー・シトレは、亡き教え子に何度目かの謝罪をした。

 

 さて、新銀河帝国は宇宙を統一した。領土、領民は約1.5倍以上に膨らんでいる。一方、帝国軍や帝国政府の人員はそのままだ。いや、新領土戦役と二度の回廊の戦いで、軍は最盛期の9割を切っている。そのうえ、門閥貴族制を解体して、帝国本土の貴族領の多くが皇帝直轄領となった。そちらにも行政官を配置しなくてはならない。同盟政府によって地方自治が整備されていた新領土よりも、よほどに問題だった。貴族によって民政整備の格差がありすぎた。これの解消に手一杯である。

 

 また、旧同盟領である新領土。同盟軍が解体され、新領土駐留軍がそれに変わったが2.5個艦隊にすぎない。主将はナイトハルト・ミュラー元帥、副将はフォルカー・アクセル・フォン・ビューロー大将である。ミュラー艦隊が、ラインハルトの最後の親征後に置かれたハイネセン監視軍に合流する。敵対勢力となりうる相手がいないのはいいのだが、いささか以上に練度に不安を覚える主将と副将だった。

 

 彼らはどこに駐留軍を置くか検討を開始した。第一の候補は、新領土第二の惑星、シロンである。ここは新領土屈指の農産地であった。それに並び立つのがアルーシャ。長らく同盟の二位を巡って、互いをライバル視するお国柄でもある。

 

 いつもは、俺が自分がと同盟のナンバー2を奪い合っていた二つの惑星は、この時ばかりは、あなたがそちらがと駐留軍を押し付け合った。

 

 そちらの方が人口も、農業生産も多いだろう。むろん、ちょっとだけだがとアルーシャが。

 

 とんでもない、そちらの方がハイネセンには少しだけ近いし、航路の状況も安定しているとシロンが。

 

 最初はフェザーンから近いシロンに、帝国首脳部は白羽の矢を立てた。選ばれた方は舌打ちし、選ばれなかった方は小躍りした。二惑星の歴史上、おそらく初めて敗者が喜んだ例であった。

 

 星々を巡る宇宙の海。五十年の『長征一万光年(ロンゲスト・マーチ)』、それに参加して生き延びた16万人から、二百年をかけて徐々に人口を増やしていった自由惑星同盟。首都星の人口は十億人、第二、第三の惑星はそれを当然下回る。長かった戦争の影響も大きく、全体的に過疎傾向にある。

 

 ゆえに、新航路の探索というものに熱心ではない。現在の航路は最大公約数的に安全なのだから。人間の宇宙進出から、八百年以上が経過している旧帝国領とは違う。

 

 新領土駐留艦隊司令官の辞令を受けたミュラーは、すぐにシロンの行政官長に連絡をとった。新領土の統治は、旧同盟の星系自治体組織の上に、帝国の行政官を配置する方法で行われている。帝国本土で手一杯、新領土に必要な人員を配置するのは不可能だった。 たとえデータがあっても、地元民の知識には絶対に敵わない。おまけに新領土のほうが人的資源の質が高い。ミュラーが着任の旨を伝える際には、帝国の行政官のほかに、シロン自治体の助役が同席していた。

 

 褐色の肌と、黒髪と茶色の目をした、とりたたて目立たない小太りの中年男性で、名前はミゲル・フェルナンデス。ミュラーの着任予定時期を聞いた彼は、眉間に皺を寄せて、控えめにこう言った。

 

「あの、その時期はおやめになったほうがいいと思います」

 

「ヘル・フェルナンデス、どういう理由か伺おう」 

 

 ミュラーに代わって、副官のドレウェンツ中佐が問い質す。

 

「ええと、帝国はフェザーンの航路データをお持ちでしたよね。

 ならばご存知でしょうが、シロン名物の流星群の時期のど真ん中です」

 

 ミュラーは微かに砂色の視線を動かし、副官に目配せをした。同盟領の航路を消去される情報テロがあったことを、口にすべきではないと。前軍務尚書の機転のおかげで、大事に至らなかったと思えたが、小事が発生しそうになっている。

 

「無論承知しているが、それほどの規模になるのだろうか」

 

「この数年で最大の規模になりそうです。

 十年前の接近時の画像データを後ほどお送りしますが、非常に見事なものです。

 ぜひ、実物をご覧をいただきたいが、宇宙船の離着陸はお勧めできません」

 

 惑星シロンは、航路状況が不安定になる要因があった。太陽系と同じく、小惑星帯がある星系なのだが、シロンとその間には巨大惑星がある。名前はグアハティ。太陽系で言えば、土星程度の大きさの惑星で、当然人は住んでいない。年に一回、二週間ほどだが、このグアハティをシロンが内側から追い抜くような軌道をとる期間があった。このとき流星の嵐が来襲するのである。これを観測、警戒に務めていたのがシロン星系警備隊だった。

 

 旧同盟軍には宇宙艦隊以外に、二千万人規模の各星系警備部隊があり、こちらもバーラトの和約で解体されている。そのノウハウをきちんと引き継ぐもののいないまま。フェルナンデスはそう説明した。

 

「シロン星系の警備隊は、この時期、小惑星帯の外側の宇宙基地に詰めておったのです」

 

「では、そちらに入港すればよいだろう」

 

「いえいえ、それは不可能です。ここの警備隊は、他の星系よりも倍の船がありました。

 それでも二千隻、二十万人規模です。

 駐留軍の規模を伺いましたが、その十倍以上でしょう。とても入りきれません」

 

「失礼だが、卿らシロンの住人は毎年乗り切っているのだろう」

 

 ドレウェンツの反論に、フェルナンデスは丸っこい手を振った。

 

「いやいや、我々は年中行事と割り切っているだけですよ。

 シロンの象徴で、頭の痛い問題ですがね。

 これに合わせて農作物の出荷時期を調整し、各消費地に出荷をしております。

 輸入もこの流星による中断を見越して行っております。

 困り者ですが、観光資源にもなっているのですよ。

 これを見るために、わざわざやってくる観光客も多いのです」

 

 シロンは、同盟屈指の商業惑星でもある。厄介者をちゃかりと飯の種にもしているのだった。そして、その時期は宇宙船の出港も入港も停止して、危険回避をしている。豊富な食糧生産量を誇る、『同盟の金庫と台所』だからできる手法であった。

 

「収穫時期を調整していると申し上げましたでしょう。

 収穫祭をあちこちで開催するんですよ。

 今が一番、食い物の旨い時期ですから、観光客はそちらもお目当てでしてね。

 二週間もそんな調子ですので、必然的に金持ちが来てくれる。

 こっちも売り込みのチャンスですから、自慢の品を蔵出しするんですよ。

 あと一週間は早く到着できるのでしたら、是非にもお越しください」

 

 揉み手せんばかりの愛想のよさである。ミュラーとビューローは、そっと視線を交わした。シロンを本拠地とするなら、毎年定期的に訪れる問題だということだ。この時期を狙って武力蜂起をされる可能性が出てくる。それを押し隠して、ミュラーは答えた。

 

「それはいいことを教えていただいた。

 数年で最大規模ならば、よいデータが取れることだろう。

 しかし、巨大な隕石が衝突する危険はないのだろうか」

 

「ほとんどは、グアハティが引き受けてくれます。

 こっちに来るのは、そのおこぼれの塵でしてね。

 その観測も警備隊の仕事でした。今は、いくつかの天文台がやってくれております。

 まあ、宇宙で爆破するような大物はめったにありません。

 この二百年弱で両手の指に収まります」

 

 呑気な様子だが、平均して二十年に一度ということだ。これは、天文学的には異常な高率である。無言になったミュラーと幕僚に、フェルナンデスは気の毒そうな顔をした。

 

「ですから、アルーシャにした方がいいと申し上げたんですよ。

 今からでも再検討をしていただいたほうがよろしいかと存じます。

 この期間は、超光速通信(FTL)もつながりにくくなりますし、

 大軍を置かれるには向かないのですよ。

 旧同盟軍もうちを直接の補給基地とはしませんでした」

 

 かつての敵地に赴くにあたっての意気込みを、いきなり出鼻で挫かれるミュラーである。

 

「生きた貴重な情報だ。卿に感謝したい」

 

「詳しいことは、お送りする画像をご覧になってください。

 今年は、これを上回る規模の流星雨が予想されておりますので」

 

 ミュラーとシロンの現地行政官の会話は、資料を元に検討してほしいということで、ひとまず打ち切られた。そして、送られてきた画像は壮観の一語に尽きた。

 

 まさに流星の豪雨。青白い火球が頻繁に発生し、シロンの夜を明るく照らす。昼の画像にも、はっきりと見えるような流星が写っている。これでは、シャトルや宇宙船を出すことはできない。 

 

「これは……本当に災害は起こっていないのか?」

 

「資料上ではありません。この時期、シロン宙港の出入港記録は毎年ゼロです。

 この惑星に入植した当時から、このことは織り込み済みだったのでしょう。

 過去の隕石衝突がもたらした、希少金属や宝石の産出量も新領土四位です。

 いっそ、こちらの自治権を主張しそうなほど、裕福な惑星ですが」

 

 ハイネセンからの距離は約三十光年。跳躍航行ならば二回、長く見ても三日の距離だ。もう片方の候補だったアルーシャは、約二十光年離れている。こちらも所要時間はそう変わらないだろう。アルーシャは、農業のほか林業も盛んである。航路もシロンより安定している。ハイネセン方向に関しては。

 

 惜しいことに、フェザーン方向からの航路がよくない。民間レベルの船ならあまり問題はないのだが、一個艦隊が航行するとなると無補給では難しい経路だ。だが、その中継点になれるような惑星がないのだ。

 

 一方、シロンからアルーシャへは直行できないという。

 

「それでは、どうやって行き来をしているというのだ」

 

「ハイネセンを経由しております。

 二つの星系の最短距離には老齢期の球状星団があります。

 旧同盟領屈指の難所で、変光星に白色矮星、中性子星の巣です」

 

 ミュラー配下のオルラウ参謀長は、ハイネセンを中心に、四時を指した時計の長針と短針に例えた。

 

「針から針へ行くには、難所を避けて縁を大回りするより、

 針の中心を経由した方が近いということでしょう。

 同じような産品を作っているだけあって、直接売買するようなものがないようです。

 両方を行き来するのは、主に農場経営会社の社員ですね。

 その多くはハイネセンに本社があります」

 

 オルラウの説明は、非常にわかりやすかった。自由惑星同盟は、ハイネセンを中心に、放射状に発展していった国家なのだ。ミュラーは改めて実感させられた。イゼルローンの面々が勝ち取ったのは、交通の要衝でもあった。道理で、旅券法の制定を強く要望するはずである。交通網の中心を押さえている利益は、莫大なものとなろう。してやったりとほくそ笑む、薄茶色の瞳が脳裏に浮かんだ。

 

 ミュラーは砂色の頭を軽く振って、その幻影を追い払った。自治権を認めた以上、ハイネセンに駐留軍本体を置くわけにはいかない。

 

 一方で、駐留軍の誘致を行った惑星もあるのだから、旧同盟というのは一筋縄ではいかない。軍需産業の中心地で、旧同盟軍の艦艇のほとんどを製造していたメルカルトである。

 

 航行の便は抜群であった。なにしろ、旧同盟中から資材を集積し、製造した艦艇はそれぞれの配属先に自力航行していったのだから。その一部は民間船の製造に転用されているが、作られる量が違いすぎる。

 

 もっとも、この産業に携わった面々は、軍属扱いの企業出向者であった。宇宙暦796年には、当時の人事資源委員長ホアン・ルイが、少なくとも技術者二百万人を民間に戻せと主張していた。充分に民需を満たすには、その倍が必要だとも。メルカルトの技術者たちも、同盟軍の解体後、相当数が古巣に戻り経済やインフラは改善に向かった。

 

 それは新領土レベルでは歓迎すべきだが、メルカルトは閑古鳥の巣となってしまった。企業からの法人税や、転出した従業員らの所得税、住民税がごっそりと消えてしまい、だからといって、住民サービスにかかる金はそう減りもしないのである。金を落とすのなら、帝国軍の駐留艦隊でも構わない。見事なまでの割り切りである。

 

「多少、規格を変更する必要はあるでしょうが、宙港はすぐにでも使用できます。

 わがメルカルトの艦艇の修理や点検の、施設設備も技術も新領土一です。

 食糧はアルーシャやシロンからの輸入となりますが、

 どちらかに駐留されたら、他方の産品は味わえません。

 故ヤン元帥が愛飲なさった紅茶もそうなります。ぜひメルカルトをお選びください」

 

 この申し入れに、ミュラーも軍務尚書のミッターマイヤーも苦笑した。

 

「それにしても同盟の行政官は、揃いも揃って強かですね」

 

「なにしろ、あのキャゼルヌ事務総長と日常的に折衝している連中だぞ」

 

 ミッターマイヤーが、自らの前任者を呼んだとき以上に、畏怖と苦手の念が同居している口調だった。 砂色の目が、頭半分下にある灰色の目を縋るように見つめた。

 

「では、この申し入れにもキャゼルヌ事務総長の手が回っているということですか」

 

「そう思わん理由は何一つとしてないな。ああ、そんな顔をするな。

 たしかに彼の手があるにしろ、帝国軍が駐留する場所としては最適だ。

 それに、あの星は旧同盟軍のほとんどの戦艦の生まれ故郷だ。

 そこに帝国軍を受け入れるということは、武装をしないという意思表示でもある」

 

 ミュラーは、感嘆しつつも手強さに溜息が出た。

 

「なるほど、二重三重の含みを持たせているわけですね」

 

「ああ、そのとおりだ。武器を捨て、作る場所もこちらに晒した。

 だが、もはや宇宙はほぼ統一され、旧同盟ではなく新領土として考えなくてはな。

 メルカルトの経済を支え、ひいては新領土全体を安定させるのも、我らに課された義務だろう。

 まあ、これも」

 

 ミッターマイヤーは蜂蜜色の髪をかき回した。

 

「キャゼルヌ事務総長の受け売りだが」

 

 明朗なミッターマイヤーには珍しい、渋みのある表情だった。イゼルローン要塞の退去に派遣されたワーレン元帥を通して、帝国軍首脳部もその洗礼を受けたのだった。焼いて叩かれ、冷やして、また熱せられるといった具合に。彼のメッセージは明瞭だった。

 

『ラインハルト・フォン・ローエングラムは稀世の天才だった。

 その天才だからできたことを、他人に求めるのは間違いだ』

 

 ヤンの死後、彼が象徴した民主共和制の旗印をその未亡人に、軍事力としての名声を被保護者に分割してしまったように、適材適所で人を使い分けろと。その状況を安定させるには、民衆の生活を保障して、人心の安定を図らなければならない。礼節を知るのは、衣食住が足りてからの話だ。

 

「世の中、上には上がいるものだな。財務尚書や民生尚書は、開明派の英才だ。

 だが、それは帝国本土にありてこそで、新領土には一惑星レベルでも人材がいる。

 新領土には、利を与えて自治に近い体制を許していくほかあるまい。

 この帝都から遠い、帝国本土にこそ問題が山積している」

 

 ミュラーは頷いた。

 

「ええ、わかっております。とてもかつての新領土軍ほどの動員はできません。

 そして、私にはロイエンタール元帥ほどの行政手腕はない。

 エルスマイヤー新領土行政総長を上位に仰ぎ、我々駐留軍を治安維持の手足となす、 

 その方が私としても望ましいと思っております」

 

「卿には苦労をかけてすまんな。

 だが、キャゼルヌ事務総長が曰く、できない者にはやらせないのも、管理職の義務だそうだ。

 わかってくれ」

 

 灰色と砂色が見つめあった。

 

「あの、それは……」

 

「能力は高いのだが、性格面が、な……」

 

 灰色がそっと目を逸らし、壁にかかった黄金獅子旗(ゴールデンルーヴェ)を眺めるふりをした。ミュラーも目がしらを押さえたくなった。門前払いを食わされている同僚がいる。

 

「いえ、高等弁務官の扇動を考えれば、ヤン元帥の友人にとって当然の言葉でしょう。

 小官も力を尽くす所存です」

 

 ミュラーの敬礼に、ミッターマイヤーも答礼し、惑星メルカルトを駐留地とすべく行動を開始した。メルカルトの対応は、打てば響くを具現化したかのようなものだった。彼らとて、飯の種を逃すものかと必死である。宙港や造船工廠等の規格変更や、駐留軍の人員の宿舎などの対応、さらには食糧の供給案にいたるまで、きっちりと数字を詰められた回答が返ってくる。その見事なことたるや、感心する一方で、黒幕に潜むバーラト星系政府事務総長を確信せざるを得ない。

 

「行く前から気が重くなります」

 

 温厚なミュラーも、つい僚友にこぼした。壮行の酒席に誘ってくれた、オレンジ色の髪の猛将、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトがその相手だった。

 

「気弱なことを言うな。卿は帝国が誇る『鉄壁』のミュラーだろう」

 

 磊落(らいらく)に笑って、痛いぐらいに肩を叩くビッテンフェルトに、ミュラーは言葉を呑みこんだ。ならば代わってください。だが、それには相手が(ヤー)と言わないだろう。

 

「ですが、かの魔術師が戦うまえに白旗を掲げた人を相手にするんですよ」

 

「なに、あのオーベルシュタインに比べれば、ましというものではないか」

 

「そうでしょうか。そうだといいんですが……」

 

 それは極めて疑わしい。あの剛毅なワーレンの報告書の行間から、哀愁が立ち上っていた。軍務省の指示で同行した後方担当の少将と中将の十名からの報告は、はっきりと泣き言であった。黒髪の魔術師の後方参謀は、氷の魔女を従えた、腹の真っ黒い悪魔だったと。要約すればそういう内容である。

 

「正直言って、俺では務まらん役目だからな。

 単に艦隊を指揮するならともかく、同盟だったところの治安を守るには、

 俺には向いていないだろう。なんだ、そんな顔をして」

 

「いえ、卿がそうお考えとは少々意外でしたので」

 

「俺だって、あの概要書を見れば少しは考えもするぞ。

 黒色槍騎兵(シュワルツランツェンレイター)の攻撃力は宇宙一だが、もはや使い道もないだろう。

 帝都の守護として示威をするぐらいだ。俺は書類仕事が苦手だからな」

 

 ビッテンフェルトはそう言うと、頭の後ろで手を組んで、椅子に(もた)れかかった。

 

「あのペテン師の言葉を借りるなら、平和の無為に勝てるかどうかが問題なのだろう。

 俺もできることを考えんとな」

 

 走り続けてきた者が、歩みを止めて周囲を見る。そんな時期なのだろう。猪突だけでは元帥には昇れないのだ。ましてや、皇帝ラインハルトの部下に無能者はいない。

 

「ええ、私もよく考えようと思いますよ。

 今まで、敵国としてしか新領土を見ていなかった。

 これからは、同じ母国として知っていかねばならないのでしょう」

 

「そうだぞ。難しいだろうがな」

 

 そう言うと、ビッテンフェルトは送別の酒杯を掲げた。

 

「ミュラー元帥の航海の無事を祈る。再会の日まで壮健なれ。乾杯!」

 

「乾杯!」

 

 ミュラーも答礼した。彼が新領土駐留軍を率いてメルカルトに出発したのは、その一ヶ月後のことだった。

 

 『キャゼルヌ学校』の一回生として、人材育成のプロたるキャゼルヌに鍛えられることになる。人育ての名人は、温厚で敵の美徳を認めるミュラーに、管理職としての素質を見ていたのだった。

 

 若い分だけ伸びしろがあり、今は鉄壁だが叩いて鍛え上げれば、橋にも盾にも鍋にもなろう。なにより、ヤンの猛攻を四回も船を乗り換えて凌ぐくらいだ。ちょっとやそっとでは壊れないだろう。キャゼルヌの目論見は的中した。

 

 その日々を後年回想すると、砂漠の色の目が懐旧の念以外のもので湿り気を帯びる、ミュラーの新領土生活の始まりだった。



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学校が行こう

 さて、最年少の元帥を送り出した地にも、キャゼルヌは魔手を伸ばした。魔術師の元参謀長、ムライをフェザーン駐留事務所長として送り込んだのだ。彼の名と経歴を聞いた者は、当初その首を捻った。後方職経験もあるが、参謀畑の出身者である。

 

 自由惑星同盟が置いていたフェザーン駐留事務所は、帝国やフェザーンの情報収集のためのものである。

 

 しかし、帝国との国交が成立した今、主たる任務はバーラト星系共和自治領の住人が、フェザーンで活動するための支援である。たとえば、旅券や査証の取得や更新、国際法に基づく届出の受理、銀河帝国との事務レベルの折衝だ。そこに後方専門ではない元軍人、ヤン・ウェンリーの幕僚を配して仕事になるのかと。

 

 あるいは、名誉職としてかも知れぬ。そう思ったのだが、これは大きな誤りだった。

 

 キャゼルヌがムライに頼んだのは、帝国軍規の定型化を促して欲しいというものだ。

 

「帝国軍の昇進や懲罰を調べてみると、

 同じような失態を冒しても処分に随分と差がありましてね」

 

「ふむ、やはり皇帝の意志に、多分に左右されていたというところでしょうか」

 

「おっしゃるとおりだ。皇帝(カイザー)ラインハルトは相当に激情家だったようだ。

 例えばヤンの敗者でも、ゾンバルト少将は譴責(けんせき)処分の後で自殺している。

 ワーレン、シュタインメッツ、レンネンカンプ大将らには特に処分はない。

 彼らは大将ですよ。少将よりも麾下の損害も大きかったでしょうに。

 加害者がこんなことを言うのもなんですが、補給はたしかに重要だ。

 だが、兵員の命と等しい価値があるでしょうかね。

 最初の敗者に厳罰を課して、後の敗者がなぜ免責されるんです?」

 

「困ったものですな。

 法という一定の基準があって、状況に応じて加減されるのが刑罰でしょう。

 君主が法ならば、より公正さが求められるだろうに。

 帝国軍にも軍規はあるでしょうが、それが十全に機能していないとおっしゃるのですかな」

 

 ムライの指摘に、キャゼルヌは頷いた。

 

「皇帝ラインハルトが宇宙艦隊司令長官となったのは、二十歳の時です。

 彼は、フリードリヒ四世のお陰で、十五歳で少尉として任官されています。

 彼を筆頭に、帝国軍首脳部には、生きて二、三階級の昇進なんていうのが珍しくありません。

 若い連中が軍部を牛耳って、帝国を奪ったというのも一面の真実ではないかと」

 

「それでは、軍の後方や人事のトップである、統帥本部総長の力量が試されますな。

 メックリンガー元帥は、参謀型の有能な将帥でしたな。

 それゆえに、ヤン提督の情報戦に引いてくれました。冷静な人物でしょう」

 

「彼には芸術家提督という渾名があるそうでしてね。

 たしかに、彼の手記を読むと文筆家としてはなかなかなのでしょう。だが」

 

「あるいは批評家的に過ぎ、先帝の後任の人事統括者としては、

 前線型の軍人の抑えとして弱いといったところでしょうか」

 

「そのとおりです。さすがは元参謀長殿でいらっしゃる。

 なるべく早く、人事評価制度を導入しないと帝国軍は割れますよ。

 もう一戦ごとに昇進する時代ではない。年次昇進ということになれば、

 若くして出世できた者、それに乗れなかった者の差ができる。

 同じような年齢で、同じように仕事をしていて、

 階級も給料も大きく違うのでは納得ができないはずだ」

 

「そうですな。

 そして、皇太后が軍の人事を動かすのは避けるべきでしょう。

 皇帝ラインハルトの裁定ならば否やはなくとも、皇太后はその秘書官だった女性です。

 先帝に近しい者なら、彼女の価値を知っているでしょうが、それは限られた高官だ。

 帝国の女性観などを考えると、手放しで賛美する一般兵がどれほどいることか」

 

 キャゼルヌは再び頷いた。

 

「フェザーンには、皇帝ラインハルトの特に熱烈な信奉者が集っています。 

 だが、帝国本土の、戦争との関わりが少ない人々がどう考えるか。

 敵ながら天晴れでも、味方なら許せない、そういう事態も多々あります。

 同国人が言えないことを言えるのが、元敵の異国人の強みですからな」

 

「やれやれ、私はまた単身赴任というわけですな。

 ユーフォニアが再開する運びとなったそうで、家内も呼び戻されたのですよ」

 

 ムライ夫人は、ハイネセン屈指の高級ホテル、ホテル・ユーフォニアの製菓部門長だった。バーラト星系の自治を認められたことにより、新領土総督府などとして帝国軍に接収された建物が返還された。その多くは、本業を再開するのである。

 

「それは、お祝いを申し上げるべきか、謝罪をすべきかわかりませんな。

 アッテンボローとシェーンコップ中将と、ポプランを押さえこんだ、あなたが頼りです。

 連中の背筋に定規を通してやってください」

 

「まったく、それを理由にされるとは困ったものだ。

 ということは、帝国軍にもああいう者がいると言うわけですか」

 

「ええ、高い場所に声と態度の大きい者がね。

 たしか、彼もヤンと同い年だったようですな」

 

 ムライは深々と溜息をついた。

 

「努力はしましょう」

 

「よろしくお願いします。くれぐれもお気をつけて」

 

 ムライが率いる駐留事務所の職員には、警備役として元薔薇の騎士(ローゼンリッター)隊員が五十人あまり同行した。皇帝ラインハルトの旗艦に突入した者の中で、生き残った精鋭たちだ。これにムライは難色を示したが、どうせ敵地に行くのだから最善の人員を連れていくべきだと、キャゼルヌが説き伏せた。なにしろ、白兵戦や警備の技能は宇宙最高水準である。

 

 主任として敬礼した、脱色した麦藁色の髪に、ブルーグリーンの瞳の青年を見て、ムライは納得した。

 

「なるほど、リンツ大佐ならば、人の顔を見分けるのにも長けているということか」

 

「そういうわけではありませんが、このメンバーは帝国語の達者な連中を揃えました。

 自分もそうですが、生まれてから亡命をしてきた者たちです。

 帝国本土の縁者を覚えている者もおります。連絡を取れれば、情報源になるとも思いまして」

 

「たしかにいい考えだ。ちょっとした時事のやりとりにもヒントはある。

 本来、フェザーンは通商の惑星だから、人の流れも情報も守りにくいのだよ。

 その帝都守備艦隊司令官というのは、重大な役割なのだが……」

 

「ああ、明らかに手元で暴走しそうな奴を監視しようって感じですからね。

 ほら、帰還兵輸送にヤン提督がポプランを連れていらしたのは、そういう理由でしょう」

 

「彼にはミンツ元中尉もなついていたからだろう。

 ヤン提督も、彼が同年代の子どもと離れたのを気にしておられたんだよ。

 帝都守備司令官については、安易な論評は避けておくとしよう。

 それはそうと、怪我はもういいのかね」

 

 リンツは逞しい左腕を持ちあげ、上腕部を右手で叩いた。

 

「このとおり、完治しました。もう半年以上前ですからね。

 俺たちも食っていかなければなりませんが、結局就職先は警備関連でしてね。

 帝国に統一されたとはいえ、なかなか厳しい採用状況なんですよ」

 

 ムライは表情を曇らせた。宇宙が統一されても、人の心が統一されるには遥かに時間がかかる。あるいは、この王朝がその前に終わってしまうのかもしれない。

 

「そういうことか。では、よろしく頼む」

 

 ムライは敬礼の代わりに頭を下げた。リンツも同じ動作で応じるが、どうもぎこちない。しかし、軍服を脱いだのだから、それに応じた振舞いをすべきなのだろう。

 

 三年と少し前、帝国のフェザーン侵攻で差し押さえられた旧同盟の駐留事務所。返還されてから、キャゼルヌの手配ですっかり改装や機器什器の入れ替えがなされ、旅行者のための施設に生まれ変わっている。不特定多数の人間が出入りするようになるので、警備の機器は最新最高のものが導入されている。

 

 リンツらは、フェザーンに来る道々、その手引書を読んで運用マニュアルの叩き台を作って過ごした。彼らも、イゼルローンの経験ですっかり書類仕事が身についていたのだった。

 

 ムライのほうは、新たに制定された旅券法と国際法の講義を、同行していた職員らから受けていた。法案は可決され、施行が始まったが、今後不具合が出てきたら法改正や施行規則等の発令で対応せねばならぬ。なにしろ、約千年ぶりに歴史の埃の下から引きずり出された法律なのだ。これも見守り育てていかなければならないだろう。バーラト星系共和自治領と同様に。

 

 法律とは人を守るためのもの、時代に応じて変化する生き物なのだから。

 

 その傍ら、ムライは帝国軍法と旧同盟軍基本法を読んでみた。政府主席となった、フレデリカ・(グリーンヒル)・ヤンは、後者の全文を(そらん)んじていると噂されるほどの記憶力の持ち主だった。ムライはそこまでは行かない。ヤンは、副官にあれはどうだっけと訊くような人間だったが、軍部クーデターの際には、軍を(わたくし)しないように準備をしておいた。

 

 それだけ、皇帝ラインハルトの戦略を先読みできた人だったのだが、職分を遵守するかぎり、絶対に先手を打てないというジレンマがついて回ったのだ。さぞ辛かったことだろう。

 

 だから、対症療法として、法的にケチのつけようもない準備をするしかなかったのだ。文民統制からの逸脱、それはルドルフへの道。イゼルローンを味方の血を流さずに攻略した、あの魔術が帝国逆進攻への呼び水となってしまった。政府の決定に逆らう事はできなかった、同盟軍の艦隊司令官たち。当時はまだ十個艦隊が健在だった。

 

 もしも、とムライは苦く考える。本当にドワイト・グリーンヒル大将が同盟の将来を憂いて、クーデターを起こすのなら、あの時にやるべきだったのだ。

 

 だが、彼はあの時ロボス元帥の参謀長だった。アンドリュー・フォーク准将の愚策を退けることも、ロボスをよく補佐することもできなかったのに、引責人事の最中にクーデターを引き起こした。

ローエングラム候の入れ知恵を受けた、アーサー・リンチの扇動によるものだったが、呆れ果ててしまう。自分の娘の上官が誰で、どうして英雄となる切っ掛けとなったのか、まだ八年前のことではないか。

 

 そして、娘は父より彼を選び、彼は彼女を守り抜いた。義父だった男の汚名を、自らの令名をもって塗り潰してしまった。親の罪は子供には無関係、それが民主制の刑法の基本。だからこそ、法に、文民統制にこだわったのではないかと、ムライは考える。

 

 ルドルフのごとき超人になるより、愛する女性のために凡人を選ぶ。そんな生き方のほうが、あの優しいのんびり屋の青年には似合っていた。彼が昼寝をしていられるのが、イゼルローンでは平穏無事の象徴だった。立場上、ムライは厳しく咎めたが、ヤンの給料泥棒の日々が続くことを願っていた。

 

 彼の眠りは二度と覚めない。ならば、その眠りの安からんことを。生き残った者として、まだ力を尽くせるのならば。

 

最善(ベスト)よりも最適(ベター)をでしたな。私の力など、大したことはないが」

 

 それでもないよりはましだろう。型通りの常識論しか示せなくても。

 

 だが、ムライの懸念は斜め上に突き破られた。バーラト自治領からの商人は変わらず多い。彼らからの苦情が、山積みになっていたのである。フェザーンは回廊の中ほどに位置する惑星だ。もともと通商の回廊であり、惑星である。帝国の帝都としては防御力に欠ける。なので、帝国本土と新領土の出口付近に人口惑星要塞を建設中だ。この二つの要塞とフェザーンの三か所を防衛するのが、ビッテンフェルト元帥の役職である。

 

 彼の麾下艦隊、黒色槍騎兵(シュワルツランツェンレイター)が、抜き打ちで頻繁にパトロール航行をするので困っている。特に、ワープイン、ワープアウトを行う宙域での臨検を実施するため、非常に危険だ。

 

 治安上、定時的なパトロールでは意味がないのは理解する。我々は真っ当な商人だから、臨検にも協力する。だが、麾下艦隊全部を動員するのはいかがなものか。演習ならば、宇宙中に事前通達をして、航行の規制をするのが先ではないのか。なにより、安全性に配慮をしていただきたい。我々は軍隊ではない。

 

 寄せられた苦情を整理したスーン・スールは、げんなりとした様子だった。

 

「通商の道に、イゼルローン回廊の軍事行動を持ち込んだのでしょうか。

 いかにも無理があるでしょうに。軍務省はなにを考えているのでしょうか」

 

「困ったものだが、すぐに決めつけるのもよくないだろう。

 この回廊を勢力下において、まだ三年も経っていないのだからな。

 しかも、頻繁に留守にしていただろう。

 宙域の特性に応じた行動が、構築されていなくても不思議ではない。

 地球教のテロからも、時間が経ってはいない。

 最大戦力で警戒に当たるのは無理もないことだ」

 

「ですが、ミッターマイヤー艦隊も含めて動員しているようです。

 合わせると三個艦隊ぐらいになりますね。

 この回廊はイゼルローンよりも広いですが……」

 

 ムライの眉間に皺が寄った。

 

「いや、それは私の想像以上の数だが、

 このフェザーンと二つの要塞周辺の三か所に分散すれば、それほどではないはずだ」

 

「いえ、要塞が建設中で、それに携わる艦艇も多数航行しているのです。

 そこに抜き打ちで三個艦隊が往来したら、航路と宙港がパンクしてしまいます。

 二週間の商業用ビザで予定の日に入港できず、結果出航も間に合わなくなると、

 延長申請をする商人が後を絶ちません。

 商業用ビザに、一か月期間のものを制定してほしいという要望も多く寄せられています」

 

「そうか。この資料もよくできているが、

 商人から寄せられた苦情を宙域図に表示し、

 状況を整理した資料を作成するようにしてくれ。

 ハイネセンの外務省に報告し、政府間で交渉すべき案件だろう。

 とりあえず、三か月間の苦情の抽出でよかろう。一週間ほどでまとまるかね」

 

「はい、ムライ事務所長。それだけいただければ充分です」

 

「ではよろしく頼む」

 

「わかりました」

 

 前任者の急病があったにせよ、若くして宇宙艦隊司令長官アレクサンドル・ビュコックの副官に抜擢されたぐらいだ。スーン・スールは優秀で、状況に対して柔軟に対応できる。情報処理の視野も広く、堅実な正統派情報分析官であった。珍奇なのはスールズカリッターという元の苗字だけである。

 

 ムライは、駐留事務所長の職分を弁えて、越権行為とされないように慎重に身を処した。まとめられた報告書は、バーラト星系共和自治政府の外務省へと上申され、省内で協議と裏付け調査の後に、銀河帝国の外務省に申し入れがなされた。

 

 そして、帝都守備艦隊司令官、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥が、駐留事務所長のところに怒鳴り声で通信を入れてきたのだった。

 

「まったく、なんと陰険なやり方だ! 文句があるのならば、直接申し入れればよかろう」

 

 歴戦の猛将の怒声に、ムライは眉間に皺をよせ、咳払いをした。

 

「困ったものだ。

 ビッテンフェルト元帥は、我々の職分を誤解なさっているようだが、

 当事務所はバーラト星系自治共和政府の窓口に過ぎないのです。

 そちらの軍事行動について、我々には制限を求める何らの権限もありません。

 当方が行うべきは、バーラト星系の国民の保護です。

 それを外国である銀河帝国に申し入れるのは、当政府外務省の職務になります。

 帝国との省レベルでの決定は、軍務省に属する閣下が当然に従うべきものです」

 

 イゼルローンで『歩く軍規』と呼ばれた謹厳な紳士は、見えない炭素クリスタルの定規で、怒れる猪の鼻先をぴしゃりと打ち据えた。

 

「それとも、閣下の申し入れは、軍務省なり統帥本部なりからの命令や指示でいらっしゃるか。

 ならば当方としては、改めて本国の外務省より抗議をさせていただくよりほかありませんが」

 

 出鼻を挫かれたその頬を、返す刀でもう一度。

 

「いや、命令ではない。俺個人の苦情だ」

 

「ならば、当方が応じる義務はありませんな。今回は不問といたしましょう。失礼する」

 

 その声を合図に、オペレーターが間髪入れずに通信を切断した。

 

「これ以降、話の内容を確認し、法的根拠のない苦情ならば私に取り次がなくてよろしい。

 法的に抗議する必要のある苦情なら、取り次いでくれ」

 

「あ、はい。

 申し訳ありません、大変な剣幕でしたので、つい事務所長をお呼びしてしまいました」

 

 恐縮する女性オペレーターに、ムライは不器用な笑みを見せていった。

 

「いや、今回は会話が必要だった。君が気にする必要はない。

 それにしても……」

 

 言葉を切って、眉間の皺を揉みだすムライに、娘ほどの年齢のオペレーターは言った。

 

「ああいう人を『天然』っていうんですよね。

 本人には悪気はなくても、周りは大変でしょうね」

 

「どうして『天然』というんだね?」

 

「なにも考えずに突っ込みどころのある行動を取るっていう意味です。

 一種の天性なんですが、無邪気とは違いますね」

 

「なるほどな、言い得て妙だ」

 

 あの直情的な性格では、かつての司令官の格好の餌食になるはずだった。皇帝ラインハルトとビッテンフェルト元帥は、性格面で似通っているように思える。あんな調子でも憎めない奴と、行動を大目に見てもらっていたのではないか。

 

「だが、元帥たるもの軍法軍規を遵守してもらわねば困る。

 こちらも法に則った対応を心がけなくてはならないがね」

 

「わかりました。ビッテンフェルト元帥に限らず、

 事務所レベルでは対応できない申し入れについては、聞き取りのみ行います」

 

「それがよかろうな。事務職員全員に後ほど通知しよう。

 取り急ぎ、通信オペレーターには君から伝達しておいてくれ」

 

「はい、急いで伝達しますね。ところで、先ほどの通話記録はどういたしましょう」

 

「なにか使い道が出てくるかもしれん。腐るものではないから保存するように」

 

 彼女はきびきびと情報端末を操作し、通信オペレーター全員にその旨を伝える。ムライは、小さく溜息をついた。やれやれ、これは大変なことを引きうけてしまったか。

 

 それにしても、ミッターマイヤー軍務尚書は大変だろう。いかに軍の高官であっても、本国上層部も飛び越えて、下部組織とはいえ他国に直接苦情をぶつけるとは。苦情を言うにも、しかるべきプロセスというものが存在する。

 

 ビッテンフェルトは、フェザーンにいるのに、遠まわしに陰険なと思っているに違いない。

 

 だが、現場と中枢の判断が異なれば、対応が二重基準(ダブルスタンダード)を持つようになり、不信感を抱きあう原因になる。百五十年も殺し合い、憎み合い、数十億の流血と涙を糧に生まれた国交だということを忘れてはならない。厳しいほどに折り目を付けて、杓子定規で状況を計っていかなくては。無論、定規の刻みは法に基づき、常に一定であることが要求される。

 

 強大な銀河帝国の前には、バーラト星系共和自治領は吹けば飛ぶようなものだ。しかし、旧自由惑星同盟からの遺産に誇れるものがあるのなら、それは個人の権利と自由の平等という国是が築いた、民生と教育である。

 

 フェザーンに来て、皇帝ラインハルトが目指し、皇太后ヒルダが受け継ごうとしているものを知った。銀河帝国の国民にそれを与えることだ。ゴールデンバウム王朝の門閥貴族制の解体は、まさしくその端緒であった。



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魔術師のものさし

キャゼルヌのスカウトは原作中のエピソードですが、スカウトしようとした人物は筆者の創作になります。


 しかし、今のままでは国民の生活全てを国がかりで賄う、『巨大な政府』を続けなくてはならない。皇帝(カイザー)ラインハルトは、旧帝国の不平等を己が才能と武力によって、力ずくで解消した。民衆はそれを熱狂的に支持し、自らは座したまま、その実りだけを享受した。帝国軍に従軍した、一億人を除いて。

 

 これは非常に危険なことだ。パンを与えられる事に慣れ、自ら田畑を耕し、収穫をして粉をひき、こねて焼いてようやく口にできるものだということを忘れてしまう。国民がみな口を開けてパンを待つようになる前に、自らが作れと諭し、道具と方法を与えなくてはならない。

 

 この役を割り振られたのが、皇太后ヒルダなのだ。至難というのも生温い。家庭レベルでも、大盤振る舞いした父親を母親が諫めると、子どもは必ずこう言う。

 

「お母さんのケチ!」

 

 一番うるさい軍事という長男は、大きく育ちすぎた。そろそろ仕送りを減らして自活の道を歩んでもらいたい。彼の下には、もっとお金のかかる民生と教育と医療という三兄弟が控えている。

 

 亡き父は、天才でこのうえなく美しく、万人を魅了する力の持ち主だった。子どもたちは、彼の言うことならば何でも聞いたし、一番上は父のお気に入りで特に仲良しだった。

 

 遺された母は、美しく賢いが、父親と一番上によく意見をした。あまり聞き入れてはもらえなかったが、それでも多少の効果はあった。父は母の言う事は、かなり尊重したからだ。

 

 さて、絶対の権威である父がいなくなり、きかん気な長男があまり仲のよくない母の言葉を素直に聞くか?

 

「お父さんが亡くなって、お金がないの。

 おまえもそろそろ別の仕事を探して、下の子達を助けてあげて」

 

 歴史上、いくらでも例がある。母より大きく力が強い彼は、こう言い放つ。

 

「おまえの言う事なんて聞かない! ここは俺のものだ。出ていけ!」

 

 そして、新たな争いが起こり、家は壊れて住人もばらばらになり、野垂れ死ぬ者も出てくる。それほどに父たる皇帝を失った国は脆い。皇帝の遺言をいつまで強大な軍部が守るか。隣人としては、この母子家庭が壊れて大火事になったりしないように、それとなく長男に仕事を紹介してやったり、下の子の育て方を教えたりしなくてはならない。

 

 まずは、無駄な軍事行動を省かせる。商業の邪魔という、惑星フェザーンにとってこれ以上ない大義名分で。これは、帝国の侵攻でむりやり併合されてしまった、元フェザーン人の溜飲をも下げさせた。

 

 もともと、フェザーンは帝国と旧同盟のいいとこ取りをしてきた。人口の少ない金満国家ならではの利点で、これは新銀河帝国にも真似ができない。自治領主の選出方法も、同盟の選挙に近いものであったし、民生に教育や医療は同盟のものをそのまま取り入れた。

 

 フェザーン人は実利主義である。父の財産は妻と子で相応に分ければいいし、税金は所得の差で多寡を決めればいい。皆商人で身分もなにもないのだから。

 

 教育は一定までは義務にして、それ以上を望むなら学力と財力に応じて学べばいい。

 

 劣悪遺伝子排除法を恐れて、出生前診断や治療を忌避する意味もない。病気は早期発見早期治療が基本じゃないか。妊娠出産は病気じゃないが、女性の人生の一大事なんだから。

 

 そういうお国柄だから、銀河帝国に意見をした、バーラト星系共和自治政府を見直すようになった。ルビンスキーの火祭りで、焼失したハイネセンポリスの復興事業が開始すると、旧同盟領の企業を孫請けにしたフェザーンの企業が、赤字覚悟の格安価格で落札したのである。

 

 独立独歩を掲げてきたフェザーン人にとって、母国の危機を尻目に同盟に逃げ込み、生き恥を晒して往生際が悪く、死してなお余所様に放火するような人間を、自治領主にしていたなんて消去したい恥だった。

 

 その被害者が、大きな顔をしている猪を引っ込めてくれた恩人になった。一時的にはぎりぎりの利益しか出なくても、バーラトを肥えさせて、長期的に回収をすればいい。バーラト星系政府はできる連中だ。いい顧客の卵は大事に育てて、金の卵を産むガチョウにしなくては。そして、バーラトを動かして、このコチコチの帝国にフェザーンの根を張っていきたい。枝を広げて、百花を咲かせて実を結び、人間を潤して満たす。

 

 そのためには、帝国の国営企業を民間に移管せよ。旧フェザーン人とバーラト星系政府の財務省長官の意見は一致している。

 

 彼、ギルバート・ガードナーは、キャゼルヌの出馬要請を受けて当選した政治家である。約二十年前、士官候補生であったキャゼルヌの組織工学論文を評価し、己が会社にスカウトしようとした気鋭の人事部長であった。この時44歳。その後、代表取締役まで昇進し、会社の業績を飛躍的に向上させた。経済界きっての切れ者であり、定年後も会長にと慰留されたものの、健康なうちに余生を楽しみたいと引退。玩具メーカーという業種上、軍部との利益関係が生じることもなく、時候の挨拶状を送りあう付き合いは続けてきたのだ。お互いの夫人を通じてだが。

 

 選挙にあたって、議会が元軍関係者ばかりになることを危惧し、キャゼルヌは彼に声を掛けた。ガードナー自身にも、その人脈からしかるべき立候補者を推薦してもらった。大手玩具メーカーの社長だった人である。教育や出版、報道界とも関係が深く、教育や情報、文化面に強い人材を揃えることができた。かつて政界に身を置いた者は、ラグプール刑務所の騒乱で、健在なのはホアン・ルイぐらいだったからだ。トリューニヒト政権で、主戦論を唱えていた者達が立候補したところで、石もて追われるのが関の山だろうが。

 

 さて、切れ者を見出した切れ者が、手持ちから繰り出したカードは強力なものだった。その知名度と人気は抜群だが、政治家としてはまだ卵といっていいフレデリカ・(グリーンヒル)・ヤンを支え、バーラト星系共和自治政府主席としての二期八年をみごとに乗り切らせ、帝国本土の経済の活性化に重要な提言を行ったことで知られている。

 

 さて、ムライの投じた一石が、歴史に広げる波紋をまだ知らぬ頃、ビッテンフェルトは年上の僚友に不満をぶつけた。

 

「バーラトの駐留事務所長はとんでもない石頭だ。

 オーベルシュタインの奴とさしてかわらんではないか!」

 

 憤懣(ふんまん)やるかたない様子に、統帥本部総長のメックリンガーはコーヒーを勧めながら事情を聞きだし、あやうく美髯(びぜん)をぐっしょりと濡らすところだった。批評家肌で、悪く言えばお高く留まった彼が、派手にむせかえるのを見て、ビッテンフェルトは呆気に取られた。

 

「お、おい、どうしたんだメックリンガー。大丈夫か」

 

 散々に咳き込んで、珍しく顔を高潮させたメックリンガーは、遥かに体格の勝る僚友の襟元をテーブル越しに掴むと、ぐいと引き寄せて耳元に叫んだ。

 

「大丈夫かではない! 

 この短絡者の猪め、世の中にはやってよいことと悪いことがある。

 これは重大な越権行為だ。早々に謝罪しなくてはならん。

 その前に、卿の口からミッターマイヤー軍務尚書に説明と謝罪を行え!」

 

「いや、別によいではないか。不問に付すと言っているのだから」

 

「貴様、悪いのは耳なのか? それとも頭か! 

 国際問題だ。皇太后陛下によって定められた軍務省の命令に、

 一司令官たる卿が従わぬと解釈されるか否かの瀬戸際だ。

 まかり間違えれば、卿は謀反人として処断されるのだぞ!」

 

「なんだと!?」

 

 その体格に不釣合いな細面から、一気に血の気が引いた。

 

「卿がしでかしたのは、それほどのことだ。

 わかったか、この愚か者! さっさと軍務尚書のもとに行くぞ」

 

 メックリンガーは僚友の首元に掛けた手をそのままに立ち上がり、軍用ケープを緒飾ごとに握り締めて歩きだそうとした。

 

「おい、待て、落ち着けメックリンガー。手を離してくれ!」

 

「卿はもっと慌てるがいい!」

 

 七元帥の中で、アイゼナッハの次ぐらいに冷静なメックリンガーの剣幕は、ビッテンフェルトから反論の言葉を奪った。仮にも銀河帝国元帥を、嫌がる大型犬を獣医まで引き摺っていくような扱いである。

 

 そんな様子で執務室を出ていく上官を、副官のザイフェルト少佐は呆然と見送った。荒々しくドアが閉じられたあとで、ようやく我に返ると軍務省官房長フェルナー少将に連絡した。ミッターマイヤーの在席を確認し、これから統帥本部総長と帝都守備艦隊司令官が来訪する旨を告げ、用件の概要を伝達しようとしたところで時間切れとなった。内線画面の向こうで、図太いフェルナーが目と口をまんまるに開き、周囲がどよめくのが伝わってきたからだ。

 

「おふたりともそちらに到着されたようですので、直接にお話があろうかと思います。

 ご連絡が遅れたことをお詫びします。失礼いたしました」

 

 彼は敬礼して、静かに通話を切った。

 

「お二方、いくらなんでも足取りが速すぎはしませんか」

 

 そして、惨状を呈しているコーヒーテーブルを片付け始めた。幼年学校の従卒に見せるわけにはいかないからだ。 元帥閣下にして統帥本部総長の副官が、いったい何をやっているのだろうか。それにしても、床が絨毯でなくてよかった。もしもそうだったら、さぞ派手な染みが残っただろう。

 

「虚しい……」

 

 いっそ行政官に異動しようか。だが、新領土に赴任するということもありうるし、問題が山積している旧門閥貴族領に飛ばされるかもしれない。

 

 それがここよりましだと思える日までは頑張ろう。ああ、モップがけの方がずっと楽だとも。考えてみろ、これが血でないだけありがたいじゃないか。

 

 ビッテンフェルトが二人の高官から、叱責の十字砲火を食らったことはいうまでもない。さんざんに油を絞られて、その後は三人揃っての謝罪の通話である。問題児を学級委員長と風紀委員が、厳格な生徒指導の教師の前に連れてきたような図であった。もっとも、告発者も被告と同じくらいに萎縮していたが。

 

 ムライは、オレンジを中央に、蜂蜜色と黒褐色が左右に並ぶ姿に、眉を寄せた。

 

「こんにちは。本日はお揃いでいかがなさいましたか」

 

「ムライ事務所長、先日は帝都守備艦隊司令官が無礼を働いたようだ。

 卿の寛大な対応には感謝するが、銀河帝国として見過ごすことはできぬ。

 統帥本部総長として、軍規の徹底と人事の統括が不十分だったことを、

 まずは謝罪させていただきたい」

 

「軍務尚書としても、政府間の外交で決定した公約を覆すことはないと確約しよう。

 帝都守備の職務に熱心すぎるあまりの勇み足だが、そちらに不信感を与えたことだろう。

 わが国の省間の連携が不十分と思われても仕方がないが、どうか信用していただけないか」

 

 二人の高官が口々に謝罪を述べたため、当の本人はうろうろと視線を彷徨わせた。それに気が付いたメックリンガーは、通信画面の死角となっている同僚の爪先を踏みにじった。眉一つ動かさず、容赦なく力を込めて。ビッテンフェルトの背筋が強制的に伸ばされる。あの温雅だった芸術家提督が変わってしまった。これも陛下の死のせいだろうかと思い、ミッターマイヤーはなにやら切なくなった。

 

 ビッテンフェルトは悲鳴を呑みこみ、激痛を堪えてどうにか謝罪の言葉を述べた。

 

「先日は、小官の浅慮のせいで大変なご迷惑をおかけした。

 卿の温情のおかげで、大事には至らずに済んだことをあわせて感謝したい。申し訳なかった」

 

「おや、私は個人的な苦情ならば聞く気はないが、問題にはしないと申し上げたはずですが」

 

「国家同士の約定を、個人の感情で破るなど許されることではない、のだろう?」

 

 なぜ、疑問形で発言する。さてはこいつ、俺たちの説教の意味を理解しておらんのか!?

 

 ミッターマイヤーも、統帥本部総長とは反対側の爪先を踏んづけてやった。逞しい長身の背筋が、定規を通したように垂直に伸び、直立不動で悲鳴を堪える。

 

「隣のお二人が、そのようにおっしゃったのですか。

 閣下は正直でいらっしゃいますな。そして、帝国軍は随分と風通しがよくなったようだ。

 今の軍部なら、単なる発言や憶測をもって、陥れられるようなことはありますまい。

 それが帝国軍以外にまで広がってほしいというのが、私からの希望です。

 むろん、個人的なものですが」

 

 魔術師が、思考の物差しとして信頼した参謀長は、静かにそう言った。

 

「さて、わが国は個人の平等を掲げています。

 社会的な役割に応じた責任の量に差はあれど、

 人間自身の価値は皆が等しく有するという考えです。

 二つの国家も同じく、規模は違うが国として対等な関係でありますな。

 暮らしているのは人間、治めているのも人間です。その仕組みが多少違うだけだ」

 

 だからこそ専制に抗って、滅びた国の軍人の言葉とは思えないものだった。それはムライの記憶の中にある、穏やかなぼやき声。彼と同じ年頃、同じ役職の青年らに向けて、再生を開始しよう。

 

「その違いのせいで、我々は百五十年殺し合った。他にも方法があるはずだろう。

 私の上官はそうぼやいて、いつも嫌々戦いをしておりましてな。

 そのくせ、宇宙の誰よりも戦争が上手だった。

 そんなご自分を、誰よりも嫌っておられた。敵であった帝国軍よりも」

 

 かの人と同じE式姓を名乗るムライの黒い視線が、若き三人の元帥に注がれた。

 

「これからは対話をすべきでしょう。

 まだ外交自体が手探りなのです。試行錯誤をするのも止むを得ませんな。

 誤りはどんどん正し、恥ずかしがらずに認めて謝罪をしていけばいい。

 生きている限り、やり直しの連続となるでしょう。それでいいのです。

 そうしないと、いつまでたっても最適なものはできないし、

 死をもって、本当に償えるものなどありません。

 人は必ず過ちをするし、その人間が集まって国となるのですから。

 国は生き物です。皆の手で育て、余計な枝葉は払い、雑草を抜いていかねばならない。

 できるかぎりの長きにわたって。それが、ヤン・ウェンリーからの伝言です」

 

 結ばれた言葉に、三人の元帥は敬礼を捧げた。

 

 戦いではなく、言葉で和平をかなえよう。それは、ヤン・ウェンリーが望み、果たせなかった夢であった。彼は、人は歴史という大河に浮かぶ木の葉だと考えていた。その大きさに違いはあれど。

 

 しかし、流れを塞き止め、あるいは変えるほどの巨木も時にはあるのだ。倒れた木が遺した種や、あるいは枝を挿し木として、人々に受け継がれていく。彼の死は後世に、民主主義の再生と覚醒をもたらしたと評される。遺された近しき人々にとどまらず、歴史上は無名の人々にまで。

 

 そして、敵であった人々の心にも、やがてゆっくりと芽吹いて花を咲かせる。対話と外交という土壌に、平和という大輪の花を。

 

 そして、ムライは咳払いをした。

 

「もうひとつよろしいでしょうか」

 

 代表して最上位者が返答する。

 

「ヘル・ムライ、なんなりとおっしゃっていただきたい」

 

「私の上官がさらに嫌ったのは、軍人による民間人への暴行と、

 上官から部下に対する暴力による制裁でしてな。

 あなたがたも心に留めおいていただきたいものだ」

 

 厳しい一瞥を向けられ、帝国軍の二高官はそろそろと足の位置を変えた。中央にいた彼らの部下は、再び敬礼を捧げた。先ほどよりも勢いよく。

 

 ムライ事務所長の眉間に皺が寄った。咳払いに隠して呟く。

 

「まったく、困ったものだ」



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新帝国暦4年冬 薔薇とダイヤモンド
黒檀と象牙――Ebony and Ivory――


 あなたにはできないことの方が少ない。アンネローゼに告げたのは、いま一人の薔薇の名をもつ少女だった。

 

 甥を、胸元で小さく揺らしながら、彼女の言葉を反芻(はんすう)する。旧同盟では大人がやったことに対して、親兄弟の責任は問われないと。

 

 それは、ラインハルトの思想の自由。弟を庇って亡くなったのは、ジークの思想の自由。彼の死によって、弟を拒絶したのはアンネローゼの思想の自由。それぞれの考えには、等しい価値がある。正しいのか、誤っているのかは、ただその人が考えるしかない。

 

 遥か遠いと思っていた、星空の向こうの国。その国と故郷を繋ぐ回廊で、故郷を捨てたひとの娘から突きつけられた言の刃(ことのは)。個人の意見と権利を尊重するのが共和民主制だと、あの子は教えてくれた。その本質は鋭く厳しいものなのでしょう。自分で考え、自分で立ち、自分で歩む。よりよいと思ったほうへ、命の尽きるまで。

 

「ねえ、アレク。わたしには何ができるのかしら。なにか、できるのかしら……」

 

 アンネローゼの呟きに、弟の忘れ形見は小さな手を伸ばして笑う。無垢な赤ん坊にしかあり得ない、澄みきった眼で。その深い蒼は、父上より伯母上に似ていると、周りは口を揃える。髪の毛はまだ生えそろってはおらず、黄金かくすんだ金色かは判然としない。

 

 この子を育てることに、まずは力を尽くさなければ。アンネローゼが頼んだから、ジークは命がけでラインハルトを庇ったのか。同じように、フロイライン・マリーンドルフは、妻となり母となって、皇帝の亡くなったこの帝国を背負ってくれたのか。赤毛の青年に問う事はできなくなった。

 

 ブルーグリーンの瞳の義妹には、問う必要はない。重責に立ち向かう姿を見るだけで、その心の在り処は明らかだから。アンネローゼが弟に与えた影響が、世界のすべてに波及するわけではない。健やかな寝息を立て始めた、この小さな男の子を見るとそう思う。

 

 でもあの子の姉として、背負わなくてはならないものがある。

 

「カリンさん、あなたの国ではたしかに罪には問われないのでしょう。

 でも、自分の心から逃れることもできないのでしょう」

 

 それは、フェザーンに拠点を移した、帝国の若き首脳部が考えもしなかった火種だった。

 

 いまや、たった二人の先帝ラインハルトの血族。姉のグリューネワルト大公妃アンネローゼの婚姻を考えるのは、帝国首脳部にとっては当然だった。まさか、面と向かってアンネローゼ自身に告げるわけにもいかぬ。ラインハルトが崩御して、まだ半年あまりしか経ってはいない。この一年は服喪の期間中である。だが、アンネローゼは30歳を迎えていた。

 

 そろそろ、違う衣裳に着替えてもいいとは、イゼルローンの陰の主だった男が後輩に言ったことだ。花嫁衣裳にマタニティドレス。医学の発達により、医学上の平均寿命は百歳に届く。

 

 しかし、女性が健康に妊娠出産できる期間は、ほとんど伸びていない。その上限は40歳。だが、35歳までには第一子を出産しておきたいところだ。

 

 喪が明けたら、義姉に縁談を勧めたいとヒルダは考えた。しかし、貴族には釣り合う身分の者がいない。では、七元帥の未婚者はどうだろうか。だが、迂闊に彼らに持ちかけるわけにはいかないのが、摂政皇太后という身分である。実質的な勅令となるからだ。

 

 ヒルダは悩み、一人の女性に頼ることにした。ヒルダとアンネローゼ、そして亡くなった金髪と赤毛の若者達との共通の友人。ヴェストパーレ男爵夫人マグダレーナ。象牙色の肌と帝国では珍しい黒髪を持つ、才気あふれる美女だ。芸術家達への支援者としても知られ、多くの若手芸術家のサロンを主催している。なお、男爵夫人といっても既婚者ではなく、男爵家の女性当主である。

 

「グリューネワルト大公妃殿下に縁談を……。

 皇太后ヒルデガルド陛下、恐れ多いことですが、

 わたくしにはお答えすることはできませんわ」

 

「ヴェストパーレ夫人、どうかヒルダとお呼びになって。

 あなたには、どうか昔からの友人として助言をしていただきたいの。

 お義姉さまも、きっとそうお望みですわ」

 

 超光速通信の向こうの美女は、扇で口元を隠すとちらりと視線を流した。

 

「人払いはしてあります。そして、この回線は皇族用の機密のものですわ」

 

「陛下のお心遣いには、伏して感謝をさせていただきます。

 では、申し上げますが、問題は一つ二つではありませんのよ。

 まず第一に、大公妃殿下以外に、皇太后陛下が心から信頼できて、

 大公殿下の身命を託し、育てることができる方がいらっしゃいまして?」

 

 ヒルダは目を見開いたが、硬質な唇を開くことはできなかった。

 

「それが最初の問題ですわ。

 大公殿下のご成長によって、解決していくのでしょうが、時間を必要といたします」

 

「ですが、フェザーンには子供を育てる専門職に従事している人が沢山います。

 その人たちを雇用しようと考えているのですが」

 

 マグダレーナは、扇をひとあおぎすると視線を流した。

 

「陛下、フェザーン人は金で動くと思うのは誤りですわ。

 彼らにとって、新銀河帝国は故郷を奪った敵でしてよ。

 大公殿下の御身にとって、危険なことです。

 かといって、貴族のなかから乳母を選ぶのも難しいことですが」

 

「私の係累ならば、何人か心あたりがありますけれど」

 

 ヒルダの言葉に、黒髪の貴婦人は優雅に頭を振った。

 

「いいえ、貴族の血縁は五百年続いていますわ。

 その一員である以上、貴族連合に属した家門と無関係という者のほうが少ないのです。

 慎重に調査をして、人品を見定めなくてはなりません。

 常日頃から親交を結ばれ、信頼が置ける方ならよろしいでしょうが、

 皇太后陛下のご血縁というだけでは危険です。

 端的に言うなら、絶対に裏切らないような方ですの?」

 

 またしても答えを返せなかった。他愛もない社交辞令をする着飾った親類の女性たち。彼女らのようにはなりたくないと、ヒルダは自分の好きなことに打ち込んだ。ドレスではなく、男性の着るようなパンツスーツで、勉強をして大学にまで進んだ。そのうち、彼女たちのほうもヒルダを遠巻きにした。可愛くないという言葉に、それでもいいと反論した。

 

 無言のヒルダに、マグダレーナも察したのだろう。

 

「まあ、そちらの準備は徐々にお進めになればいいでしょう。

 次にご結婚相手として、どなたを考えていらっしゃるの。

 七元帥の誰かというのなら、一人はお譲りできませんわ。

 わたくしの夫となる方ですから」

 

 ヒルダはその言葉に、ブルーグリーンの瞳を瞬いた。

 

「まあ、どなたが……いいえ、愚問でしたわね。

 まさか、縁談の相談をして、あなたの婚約を知るとは思いませんでした。

 おめでとうございます」

 

 七元帥のなかに、彼女が支援していた芸術家が一人いる。ピアノの名手で散文詩人、風景の水彩画にも秀でたエルネスト・メックリンガー元帥だ。彼女の夫となるのは、彼以外にはありえない。

 

「いいえ、皇太后陛下からのお話に、不躾な真似をして申し訳のないことです。

 正式な婚約発表は、先帝陛下の喪が明けてからと思っておりましたけれど、

 絶世の美女が恋敵となるのは遠慮をしたいのよ」

 

「実は、別の方とは、私の侍女がお付き合いを始めましたの。

 結局、候補は若いお三方になるのですね」

 

 ヒルダの言葉に、マグダレーナは瞬きをした。

 

「あら、ではケスラー総監が。それにしても陛下の侍女とはフォイエルバッハの令嬢でしょう。

 また随分お若い方ね」

 

「うまくいくかどうか、もう少し先のことになるでしょうけれど」

 

「それでも、慶事が続くのはよいことですわ。

 ただ、正直に言わせていただけるなら、三元帥の誰かとおっしゃるならば、

 手放しで賛成はできませんわ。

 元帥のままで、大公になっていただくわけにはいかないでしょう。

 その方に退役していただかなくてはならないけれど、

 この一、二年後にその体制にできまして?」

 

「やはり、現役元帥のままというわけにはいかないものかしら」

 

「皇太后陛下らしくないことをおっしゃるのですね。

 大公妃の夫は大公。第三位の皇位継承者になるのです。

 その方が、強大な武力を有しているというのは危険極まりないことです。

 リップシュタットの二の舞になりかねないわ」

 

 ヒルダは思わず叫んだ。

 

「あの方たちは、そんな人ではありません!」

 

 色をなした皇太后に対しても、男爵夫人は冷静だった。

 

「いいえ、どうか聞いていただかなくては。権力は、容易く人を変えてしまいます。

 わたくしは、先帝陛下の少年の頃を知っておりますから。

 ほんとうに磁器人形(ビスクドール)のような子だったわ。

 彼は、滅多に会えない姉との面会を心待ちにし、

 その時が終わるときには、頬を真っ赤にして涙を堪えていたのよ。

 無二の親友だけを心の支えにしてね」

 

 マグダレーナは、象牙の扇をぱちりと閉じた。

 

「その子は青年となって、赤毛の親友を亡くして、姉上の心も失いました。

 帝国を割る戦いに勝利し、フェザーンと同盟を平らげて宇宙の覇者となられましたわ。

 キルヒアイス元帥が生きておいでなら、大公妃殿下が傍らにいらっしゃったのなら、

 果たして宇宙の統一をなさったかしら?」

 

 ヒルダには答えられなかった。マグダレーナは続けた。美しい瞳に、黒い睫毛で陰を作りながら。

 

「そういうことですわ。帝位とは一人だけの問題ではありません。

 周囲が、大公妃殿下とその御子を、担ぎ上げようとするかもしれないでしょう。

 はっきりと申し上げるなら、大公妃殿下の子供と大公アレク殿下が、

 後継者争いをすることまで考慮しなくてはならないのです」

 

「陛下は、能力があるものが継げばいいとおっしゃいました……」

 

 力のないヒルダの抗弁に、マグダレーナは再び広げた扇の陰で溜息を吐いた。

 

「それは先帝陛下なればこそのお言葉です。

 しかしそれに従えば、宇宙の全てで内乱になるでしょう。

 あなたがたは、フェザーンに新たな帝都を作り上げた。

 そちらには帝国本土の人間が、何人住んでいるのかは存じませんが、

 こちらに残っている、数多の人々のことを忘れないでくださいな。

 オーディーンを大公殿下の直轄領にしたことで、随分と人心は安定しました。

 それを引っ繰り返すようなことを、早々になさるべきではないわ」

 

 確かに、友人として心からの忠言だった。アンネローゼの子は、アレクと玉座を争う存在になりうる。建国の功臣を父に持つその子と、亡き先帝と摂政皇太后の嫡子だが、父母の係累には実力のないアレク。貴族連合とリヒテンラーデ=ローエングラム体制の対立そのものだ。ヒルダは溜息をついた。

 

「ありがとう、ヴェストパーレ男爵夫人。

 ですが、大公妃殿下には幸せになっていただきたいの」

 

「わたくしもそう願っています。

 ですが、大公妃殿下は、大変にお美しい方よ。殿方ならば誰しも妻としたいでしょう。

 あの方自身が選ぶなら、選ばれなかった者は身を引きましょう。

 しかし、それが皇太后陛下の差配によるものならば、選ばれぬ者は嫉妬するかも知れません。

 男の嫉妬は女のそれよりも激しい。女は邪魔者を葬り去ろうとする。

 男は、自らを選ばぬ者を滅ぼそうとする。時には己ごと」

 

 マグダレーナの指摘は、ヒルダの夭折(ようせつ)した従弟をも指していた。だが、それはヒルダの胸郭を殴りつけるような衝撃でもって襲った。ラインハルトを暗殺しようとした、余命いくばくもなかったハインリッヒ・フォン・キュンメル。彼が持たなかった健康、輝くばかりの若さ、美貌と才能を有していた夫への嫉妬。その不公平をもたらした運命へ、生の残滓を絞りつくした生前葬。この激動の日々に薄れかけた記憶、しかしまだたったの三年前だ。

 

 キルヒアイス元帥の死には過剰な厳罰を科した。しかし、ヒルダと父は免責された。これだけでも、貴族連合やリヒテンラーデ候に連なる者には怨まれて当然だ。オーベルシュタイン元帥の進言は、統治者の公平についてのものだったのだ。専制君主の難しさ。愛憎の激しかった夫は、果たして名君だったのか。

 

「そのことをどうかお忘れにならないで。

 陛下と妃殿下の友人としてなら、ご結婚には賛成です。

 しかし、ローエングラム王朝の臣下としては、お答えできる言葉は違うのです」

 

 アンネローゼが結婚するならば、相手と環境の双方を整えなくてはならない。さもなくば、国家の為には有害どころか危険である。

 

「重ねてお礼を申しますわ。

 ところでヴェストパーレ夫人、ご結婚なさったらフェザーンにいらっしゃるのですか?」

 

「ええ、もちろん。わたくしは妃殿下よりも年上ですから、

 帝国の首脳のお考えはよく分かっているつもりですわ」

 

 そう言って、艶やかに微笑む。

 

「これからも、是非相談にのっていただきたいわ」

 

 マグダレーナは、ドレスの裳裾を優雅にさばいて立ち上がり、貴婦人の礼をとった。

 

「わたくしが結婚するまでの間になりますが、喜んで」

 

 ヒルダは愕然とした。

 

「何故ですか」

 

「そう、それが最後の、最大となる問題です。

 わたくしが、男爵家の当主である今なら、陛下のご下問にもお答えができましょう。

 しかし元帥の妻となり、陛下との親交をそのままに続ければ、

 軍部を割ることにもなりかねません。

 君主は孤独なものですわ。それを補佐し、耳目(じもく)となるのが皇妃の役割でもありました。

 舞踏会や茶会、サロンを開くのも、決して虚礼ばかりではなかったのです。

 それを理解している貴族が少なかったのは事実ですが、男にできぬ女の仕事でしたのよ」

 

 まさに考えもしなかったことだった。ヒルダやラインハルトが旧弊として、切り捨てたもの。しかし、専制君主として立つかぎり、必ずや付いて回る慣習。五百年近い歳月が築いた、天才の輝きをもってしても容易には突き崩せない、時の神(クロノス)の砦。それが幾度となくヒルダらの前に立ち塞がる。

 

「皇太后陛下は、大公殿下の摂政であらせられる。

 新たな夫という相談相手を持てぬ定めです。

 陛下の相談役となれるのは、大公妃殿下しかいらっしゃいません。

 それは、あの方が皇帝ラインハルト陛下の姉上、

 大公アレク殿下の伯母上で、ほかに係累を持たぬからです。

 どなたかの妻、母になればそれは難しくなりますわ。

 ですが、皇太后陛下にその覚悟がおありになるのなら、

 わたくしの及ぶ限り、大公妃殿下のご結婚にお力添えをさせていただきましょう」

 

 扇が遮らぬ、凛とした眼差しがヒルダを見つめた。

 

「何も失わずに何かを得ることはできないのですわ。

 あの方の幸せか、王朝の安定か。

 どちらも正しく、大事な、ただ一つしか選べぬ道です。

 おふたりでよくお話し合いをなさってくださいと申し上げたいところですが、

 それが難しいからこそ、わたくしにご連絡をくださったのでしょう?」

 

「ええ、そのとおりだわ。

 私は貴族の令嬢としてのつまらない生き方をしたくないと思っていました。

 それが、こんなに何も知らない、頼れる友人はあなたしかいない。愚かでしたわ」

 

 思えば、自分にはラインハルトにとってのキルヒアイスのような親友さえいない。

 

「皇太后陛下、そんなに卑下をなさることはございませんよ。

 これだけ世界が大きく変貌したのです。

 今までのやり方が通じぬのなら、新しい方法をお考えになればいいのですから。

 あなたには、その力がおありになるのです。

 皇太后の名において、典礼省に命じればよろしいのよ。

 そして、大公妃殿下は有職故実にお詳しいわ。皇帝の寵姫でいらした方ですからね。

 いきなり縁談をお話になるのは、いかにも短兵急なこと。

 まずは、皇太后陛下の相談役として、心の扉を少しずつ開いていただくの」

 

 かつて、ラインハルトは、マグダレーナを女性ながらに大元帥の軍服が似合うだろうと評した。それも頷ける見事な回答だった。

 

「でも、ご結婚はどうすれば……」

 

 問題が一巡したかに思えて、反論をしたヒルダに漆黒の髪が左右に揺らされた。

 

「アレク殿下の養育も、ローエングラム王朝の安定もこの三年が一つの目安でしょう。

 そのころには、七元帥以外にもふさわしい方が現れるかもしれません。

 先帝陛下は矢のような早さで、様々な改革を進められました。

 でも、そんなにすぐに人々の心は変えられません。

 大公妃殿下のお心も同じですわ。キルヒアイス元帥が亡くなり、

 でも戦は終わらず悲劇が連鎖していく。

 次々に心を痛めることが起こるのに、どうしてすぐに新たな人生を探せましょうか。

 アレク殿下の成長を見守り、心をお休めになる時間が必要でしょう」

 

「それは、イゼルローンの人たちにも言われましたわ。

 ゆっくり進めないと、皆がついていけないと。

 でも、焦るばかりでどうしても忘れてしまいます」

 

 ヒルダは、瞳を伏せた。

 

「皇帝陛下は、何事も乗り越えていかれたのにと」

 

「それが天才、英雄の輝きというものでしょう。

 周囲を、世界を魅了して、時代の潮流を作り上げるのです。

 あの人が申しておりましたのよ。皇帝ラインハルト陛下は望遠鏡だ。

 しかし、顕微鏡の機能は備えていない。だからといって非難することはできないと。

 皇太后陛下が顕微鏡の役割を果たしてこられた。

 今度は大公妃殿下に、その座に就いていただくのです。

 あなたには願う権利も、命じる力もおありになるわ」

 

 その言葉に、ヒルダは瞳を瞬かせた。

 

「では、ヴェストパーレ夫人にも命じることができるということですね」 

 

 この切り返しに、黒い瞳に悪戯っぽい笑いが浮かんだ。

 

「あらあら、一本取られましたわね」

 

「ヴェストパーレ男爵夫人、皇太后として命じます。

 グリューネワルト大公妃アンネローゼの相談役に任じます。

 これならば、あなたが結婚なさっても問題が少ないのではないかしら」

 

「言う者は言うでしょうが、仕方のないことでしょうね。

 いずれにしても、フェザーンに参りますのは先帝陛下の一周忌式典になりますから。

 こちらは、ワーレン元帥やアイゼナッハ元帥のお陰で落ち着いてはいます。

 ただ、一つお耳に入れなくてはならないことがあります」



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希望の蒼――Hope Blue――

ペクニッツ公爵家、特に夫人の経歴については筆者の創作によるものです。


 色よい返事に緩みかけたヒルダの頬に、緊張の色が走る。

 

「何事でしょうか」

 

「ペクニッツ公爵令嬢ですわ」

 

 絶句したヒルダに、マグダレーナは淡々と告げた。

 

「あの父親の許で、オーディーンにいらっしゃるのは危険です。

 なぜ、あんな取るに足らぬ男に、先帝陛下に(くみ)する才覚があったと思われますか?

 その妻がオトフリート五世陛下の孫であり、リヒテンラーデ候の一門であったからですわ。

 でも、彼女はリヒテンラーデ候の反逆罪にも連座されなかった。お子がお腹にいたからですよ。

 親族の男性のほとんどが処刑され、女子供は流刑にされ、でも自分は無事だった。

 感謝するどころではなく、未来を悟りますわ」

 

 ゴールデンバウム王朝最初の女帝にして最後の皇帝。カザリン・ケートヘン一世の出自について、ヒルダは考えたことさえなかった。公爵となったペクニッツは元々は子爵で、象牙細工収集に入れ上げて借金を抱えるような男だ。ラインハルトはもとより、富裕な伯爵階層が詳しく知るところではない。これは、子爵よりも下の男爵階級ならではの知識だった。

 

「リンデンバウム伯爵家の三女でしたから、子爵に嫁いだのです。

 美しい聡明な方でしたが、親族の処刑のショックから難産で産後の肥立ちも悪くて、

 あの子が即位する前から寝たり起きたりの状態でした。

 そこに娘を女帝として差し出され、皇位を禅譲させられて戻ってきた。

 夫は娘の年金で象牙細工の収集三昧。それでも、あの方がいるかぎりは手綱も付いている。

 家令や従僕も奥方の味方で、よく差配をなさっているわ。

 でも、いよいよいけないらしいのです」

 

「ですが、父上から子どもを引き離すなんて……」

 

「あの男は、皇太后陛下のお父上とは違います」

 

 鋭い一言だった。

 

「皇孫たる伯爵令嬢が嫁ぐ家ですよ。

 あの男が継ぐ前は、ペクニッツ子爵家は豊かな名門でした。

 御輿入れの直前に、前当主が亡くなって、服喪している半年で家を傾けてしまったのです。

 そしてどうにも立ち行かなくなって、逆らえぬ相手とはいえ、

 娘を金と引き替えにしたのですよ。奥方は無論反対をなさいました。

 娘を抱えて走れる体があれば、逃げていらしたでしょうね。

 ですが、歩くのもやっとではとても無理」

 

 ヒルダは、黒髪の貴婦人を凝視することしかできなかった。ラインハルトの崩御後、親としてようやく思い知った非道を、再び痛感させられた。

 

 マグダレーナの形のよい唇から、言葉が紡がれていく。

 

「カザリン様の無事を祈り、ようやく戻ってきた娘をそれは可愛がっていらっしゃる。

 そう長いお命ではないのを悟って、貴婦人としての嗜みを教えながらね。

 そんなお体で、カザリン様のために茶会を開いては、

 貴婦人たちにお披露目をなさっているのよ。

 公爵夫人が、男爵のわたくしにまで招待状を下さって。本当に頭が下がります。

 カザリン様は利発で、それは愛らしいお嬢様でした。

 まだお若いのにどれほど心残りでしょうか」

 

「お若い方ですのね?」

 

「皇太后陛下と同い年ですわ。お気の毒に」

 

 それは壮絶な母の愛だった。幼くして数奇な運命を辿り、もうすぐ庇護してやれなくなる娘に、

女としてできる闘争の(すべ)を教え込む。一人でも味方を増やすために、少なくなった貴族を順に茶会に招いて。今少しヒルダが大きかったら、亡くなった母もそうしたのだろうか。幼すぎて記憶のない母は。そして、ヒルダが同じことをしてやれるだろうか。

 

 滅んだ貴族の中には、聡明で有為な人材がいたのかもしれなかった。過去から現在、そして未来は繋がっている。

 

 ラインハルトは現在と未来だけを見ていた。幼い黄金の記憶、そこに帰れぬようになった日から。ヒルダもいつしか、彼と同じ方向だけを見ていたのかもしれない。

 

 沈黙したヒルダには何も言わず、マグダレーナは視線を険しくした。公爵の行状を吐き捨てるように告げる。

 

「信じられまして? 

 妻が命を削っているのに、象牙商人が毎日のように出入りしているのです。

 オーディーン中の噂の的ですわ」

 

 ヒルダは口元を押さえた。

 

「初耳ですわ」

 

「お役人に、軍人さん、そういった方々が耳にはなさらないことでしょうからね」

 

 くすんだ金髪が力なく頷くのを見て、マグダレーナは再び扇を開いた。その陰で再び溜息を吐く。

 

「とにかく、あの男に子育てができるとは思えません。

 オーディーンにいるより、フェザーンで大事にお育てすべきですわ」

 

「それよりも、医師を手配いたしましょう。

 オーディーンの医師、いえ、帝国軍の軍医からでも優れた者を」

 

「男の軍医どのに、女の病を診ることができまして?

 あの方が拒否しますわ。わたくしなどとは違う、本物の深窓の貴婦人ですよ」

 

「では、フェザーンから送ります。ここには女性の医師も大勢いますわ」

 

「では、お急ぎになってください。

 あと何ヶ月持ちこたえられるかといった様子でしたから。

 奥方が回復すればそれが最上ですが、カザリン様には手を差し伸べることが必要です。

 治療中に奥方の目が届かなくなれば、あの父親が何をしでかすかわかりません」

 

 そして、優雅に手首を翻すと、通信画面に手にした扇を寄せる。

 

「皇太后陛下、この扇がお見えになるでしょうか」

 

「ええ、素晴らしい細工ですわね」

 

 それは、ヒルダの本心からの賛辞だった。乳白色の骨には精緻な透かし彫りが施され、ほのかに青みのある白い紗の扇面には、金糸銀糸で蔓薔薇が刺繍されている。

 

「母の嫁入り道具で、形見の品ですわ。この扇の骨は象牙細工です。

 あの男は、以前これを欲しがりました。

 断ったら、公爵家の名をかさに着て、買い叩こうとしましてね。

 止めてくださったのが、奥方のエレオノーラ様です。

 カザリン様への年金が、そんな形で浪費されています。

 あれだって、税金ではなくて?」

 

 ラインハルトは、帝位を禅譲させた乳児に対して、高額な年金を支払った。後ろめたさからか、金を宛がえば口をつぐむと思ったのかは定かではないが、その弊害だった。金を遣うにも、人間の格というものは滲み出る。

 

「あなたの言うとおりだわ。オーディーンはやはり遠いのですね。

 大公領の代官も宇宙艦隊司令長官も有能な方ですが、こんなお話を聞くことはできないもの」

 

「まずは、このことから大公妃殿下のお知恵をお借りしたらいかがでしょうか。

 期限を切らなくてはならない問題のほうが、逆によいと思いますわ」

 

「ほんとうにありがとう、ヴェストパーレ男爵夫人」

 

 ヒルダの謝辞に、黒髪の男爵夫人は再び優美な礼を返して、通信は終了した。そしてヒルダは気付く。結局、彼女は自分に以前のような言葉遣いでは接しなかったことに。ヒルダのことも、アンネローゼのことも、ずっと敬称で呼んでいた。

 

 賢いひとだ。友人としての関係に訣別し、臣下として接するという表明だった。アンネローゼの再婚は、ヒルダを名で呼ぶ人を失うということだった。ヒルダは、脱力したように肘掛椅子に身を埋めた。

 

「これがナンバー2不要論の本質だったのね、オーベルシュタイン元帥……」

 

 名君たらんと欲すれば、公正たるべし。汝が法、汝が正義となるのなら、人ではなく天秤たれ。傾きを歪ませる情など不要。それをもたらす特別な人間も。ただ一人、民の上に屹立(きつりつ)すべし!

 

「なんて厳しいことかしら。

 皇帝にしか自由がないのではないわ、フロイライン・クロイツェル。

 皇帝こそがもっとも自由ではないの。名君であろうとするなら」

 

 ラインハルトはその孤独を孤独とも思っていなかったのかもしれない。ジークフリード・キルヒアイスを失った日から、彼の心には埋められない空白ができた。それに比べれば、まだしも耐えられるものだったのだろうか。あるいは、君主たることの本質を充分には理解していなかったのか。

 

 オーベルシュタインは後者だと思っていたのだろう。あの度重なる冷徹な進言に込められた意味に、ようやく思い至った。

 

「ごめんなさい、オーベルシュタイン元帥。

 あなたの言葉は厳しすぎて、正しいけれど受け入れられないと思っていた。

 ですが、390億人もの人を背負うには、それほどの覚悟と孤独が必要だと、

 そういうことだったのね」

 

 だが、ヒルダはラインハルトではない。そして、アレクもラインハルトにはなれない。こんな苦労をあの子にはさせたくない。玉座の意味などわからぬうちに、そこに座らされ、その座から追い出された女の子にも、これ以上不幸になって欲しくない。

 

 ヒルダは立ち上がった。これは猶予がある問題だ。今悩む必要はない。一刻を争う問題から手を付けるべきだ。医師の手配と今後の対策を考えなくては。

 

 執務室に戻ると、シュトライト中将に告げる。

 

「グリューネワルト大公妃殿下をお呼びして」

 

 こうして、いままで皇宮の奥にいたアンネローゼが始めて表舞台へと引き出されたのだった。喪服を纏い、だがそれさえも美貌を演出する装束に変えてしまう。白磁の肌、波打つ黄金の髪、深い青玉の瞳。亡き弟によく似た、だがけぶるように優しい美貌。冬の直前の澄んだ秋の日の午後、琥珀の輝きで降り注ぐ陽光のような。その動作も優美を極め、雲を踏んで歩む天上の佳人のようであった。

 

 しかし、表情は困惑に満ちていた。ヒルダが後宮に戻れば、いつも顔を合わせるのだ。単に会いたいのなら、政治の場たる皇宮である必要はない。アンネローゼは聡くも気が付いた。

 

「摂政皇太后ヒルデガルド陛下、お召しに従い参上いたしました」

 

 そして、最上位の貴人に対する礼を執る。  

 

大公(プリンツ)アレクの面倒を見ていただいているところに、お呼び立てして申し訳ありません。

 義姉上に、お願いしたい仕事が三つありますの。

 一つ目に新たな王朝として、新しい典礼の方法を考えねばなりません。

 前王朝の作法にお詳しいあなたに、典礼省の顧問になっていただきたいの。

 次に、それにあたって私の相談役になってください。

 わたしは、このとおりの不調法な女でした。

 知らぬことばかりでは、改めるべき点もわかりませんもの」

 

 アンネローゼは、黄金の長い睫毛を瞬かせた。同意しても非礼だが、否定ができない事実であったから。美しい瞳を白黒させている義姉にかまわず、義妹は続けた。

 

「最後に、ペクニッツ公爵夫人がご病気のようです。

 医師を送ろうと思うのですが、大公妃殿下が名代となっていただけないでしょうか」

 

 アンネローゼは息を呑んだ。それは、弟が行ったさまざまな事の中で、特に新王朝への禍根となりうるものだった。たしかに、彼の妻たるヒルダの名で医師を送っても、最初の女帝で最後の皇帝、カザリン・ケートヘンの母には受け入れられまい。だが、アンネローゼも彼の姉なのだ。しかも、フリードリヒ四世の最晩年の寵姫である。国を滅ぼした女、そう囁かれているのも知っている。だが。

 

「わたしでよろしければ、この名をお使い下さいませ。

 幼くして母を亡くすほど、子どもにとって悲しいことはありません。

 わたしの母も早くに亡くなりました。母がいれば弟も違う生を歩んだでしょう」

 

 黄金の睫毛がサファイアを覆い隠す。再び現れた深い蒼には決然とした輝きが宿っていた。

 

「エレオノーラ様は、亡きフリードリヒ四世陛下の姪にもあたられるのです。

 わたしにとっても姪です」

 

 今まで沈黙を守っていたアンネローゼが、初めて自らの立場を表明したのだ。それはフリードリヒ四世の寵姫、いや伴侶であるというものだった。珊瑚礁の海と底知れぬ湖水の蒼が交錯した。

 

「お子様のためにも、ご快癒をお祈りしていますとお伝えください」

 

 いったん言葉を切ったアンネローゼは、白い手を握り合わせた。漆黒の喪服に映えて、力を込められた指先が薄紅に染まってゆくのがわかる。

 

「あの方は、わたしを育ててくださったのです。

 貧しい家で家事をして、父と弟の面倒を見ていたわたしは、

 学校にも満足に通っておりませんでしたわ。

 そんな無学なわたしに、様々な教師を付けてくださいました。

 あの方は、わたしにとても優しくしてくださったのです。

 この世でただひとり、わたしを甘えさせてくれました」

 

 思いもかけない言葉に、ブルーグリーンの瞳が大きく見開かれた。 ラインハルトの姉として、母代わりとして。その半身の永遠の女性として、崇拝めいた愛情を受けていたアンネローゼだった。彼女を等身大の人間、伴侶として寵愛したフリードリヒ四世。

 

「たしかに、わたしは金で買われた女と言えるでしょう。

 しかし、貴族の作法としては、決して間違ったものではなかったのです。

 使者を立てて妻問いをし、寵姫として迎えるにあたって婚資を贈る。

 そして、わたしに伯爵号を(たまわ)ってくださいました。

 宮廷に入って、初めて知ったことです。

 ラインハルトがあなたを迎えるよりも、ずっと礼に適ったものでしたわ」

 

 頬を赤らめた義妹に、優しい苦笑をおくる。その眼差しに陰が落ちた。

 

「わたしは、ラインハルトとジークに伝えるべきでした。

 当時のミューゼル家が破産の寸前であったこと。

 陛下にお仕えしていなければ、違う相手に同じことをしなくてはならなかったことを。

 でも、言えなかったのです。

 わたしは、あの子たちに清らかな少女として覚えていてほしかった。

 そして、父を恨む気持ちもあったのです。

 その一方で、あの子にあれ以上父を憎んでほしくはありませんでした」

 

 それを誰が責められるだろうか。ヒルダはくすんだ金色の頭を振った。

 

「ですが、それはあなたのせいではありませんわ!」

 

「いいえ、十五の時には言えなくても、二十五の時には伝えるべきでした。

 あの方が亡くなって、わたしがあの子たちの許に戻ったときに。

 そして、彼にも伝えるべきだったのです。あなたを愛していると」

 

 再び、黄金が青玉を覆う。

 

「それも言えませんでした。彼がわたしを受け入れてくれるのか。

 彼がわたしを受け入れ、わたしが彼を選んだら、弟はどうするのだろう。

 祝福してくれるのか、それとも怒るのだろうか? 

 考えあぐねて、何もしないでいるうちに、全ては終わってしまいました」

 

 アンネローゼの述懐は続く。ヒルダが掛ける言葉を見つけられぬままに。

 

「あの方はあの子の野心に気付いていらしたわ。

 兄上と弟君の権力闘争から身を守り、お二人の姫君の婚家との均衡を取ってこられた。

 とても聡い方でした。ゴールデンバウムの行く末が見えるがゆえに、諦めてしまわれた。

 だから、あの子に託したのかもしれません。王朝の幕引きを」

 

 彼が最も愛した女性の言葉は、ヒルダに反論の余地を与えない。

 

「だからといって、血を分けたお孫さんが、

 (ことごと)く不幸になるなど望まれてはいなかったでしょう。

 ブラウンシュヴァイク家のエリザベート様と、リッテンハイム家のサビーネ様。

 そしてルートヴィヒ皇太子殿下の遺児、エルウィン・ヨーゼフ様も。

 子どもに罪はありません。リヒテンラーデの一門も同様です。

 相談役としてお答えしましょう。先帝陛下の喪明けをもって、恩赦をなさることです。

 ローエングラムが、ゴールデンバウムを傀儡にして流した血を(そそ)がねばなりません」

 

 ヒルダは、アンネローゼを、たおやかな薄幸の佳人として見ていた。ラインハルト・フォン・ローエングラムとジークフリード・キルヒアイスの聖域、幼い常春の日々を彩った、白磁と黄金と青玉の女神だと。春は去り、永い冬が訪れた。悲しみの氷の扉に隔てられ、垣間見ることしかできない存在。そう思っていた。

 

 しかし、このひとは古い王朝の皇帝の妻で、新王朝の皇帝の姉であった。老いたる賢者と早熟の天才と、二人の男に違う形で愛された。外見が美しいだけでは、あれほどに愛され続けることはない。アンネローゼは、彼らに愛されるにふさわしい聡明さの持ち主であったのだ。

 

 その奥底には、計り知れない重圧のなかから生まれた金剛石が、いつしか形成されていたのだろう。遠い国から来た、いま一人の薔薇が、彼女を閉ざした氷に鋭い一撃を加えた。動く隙間がわずかにでも出来れば、ダイヤモンドは氷を穿(うが)つ。開かれた冴え冴えと輝く瞳。それはサファイアではなく、深い青の金剛石。

 

「そして、ローエングラムとして流した血にも償いをしなくては。

 先帝陛下は膨大な流血によって、宇宙を統一しました。

 二つの国の民の恨み、悲しみ、怒り。これらを鎮めずして、王朝は立ち行きません。

 皇太后陛下、あなたは白き手の王者として統治をしていかなくてはなりません。

 ゴールデンバウム王朝を否定した者が、ルドルフ大帝の道を辿ることは許されないのです」

 

「大公妃殿下……」

 

 有職故実に詳しいということは、ゴールデンバウム王朝の歴史にも精通しているということだ。ルドルフ・ゴールデンバウムは、心身障害者や同性愛者を弾圧し、異論を唱えた四十億人を断頭台へ送り込んだ。ヒルダにその道を歩むなと、アンネローゼは告げたのだった。

 

「思えば、こうなったのもよかったのかもしれません。

 あの子は、敵なくしては生きられぬ子でした。

 これからは戦場で敵を滅ぼすのではなく、民を味方にする戦いになるのですから。

 宇宙の中で、あなたにしかできぬ戦いになるでしょう。

 わたしでもお役に立てるのでしたら、お力添えをさせていただきましょう」

 

 そう言って、再び貴婦人の礼を執る。このうえなく優美で流れるような一礼だった。

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、宮廷の作法については、多くを期待しないでいただきたいの。

 生まれながらの貴顕(きけん)の方々には、とても及ぶものではありませんでしたから。

 ですから、宮廷の行事も、大半は遠慮をさせていただいていたのです。

 そのわたしが、皇太后陛下の相談役とは恐れ多いことですね。

 わたしは、宮廷のわずかのことしか存じませんの」

 

「それでも、私よりはずっとお詳しいはずです。

 私など、ドレスを着てそんなに優美に動けませんもの。

 ヴェストパーレ男爵夫人が、大公妃陛下を推薦されたのです。

 あの方もフェザーンにお越しになって、ご結婚をする運びだそうですから。

 そのご夫君にも、早く新しい典礼の方式を定めないと恨まれてしまいますわ」

 

「まあ」

 

 アンネローゼは思わず微笑んだ。

 

「それは本当によかったこと。メックリンガー元帥の求愛が、ようやく実られたのね」

 

 これにはヒルダも目を瞠った。

 

「ご存知でしたの?」

 

「宮廷では有名でしたわ。ヴェストパーレ男爵夫人は男爵家の当主ですもの。

 メックリンガー元帥は平民でいらっしゃるから、相応の出世をなさってからねと、

 随分長いこと袖にされていらしたのです」

 

 ヒルダは溜息をついた。本当に自分は貴族の女性としては失格だった。他愛ない噂話にも、大事なことはちゃんとある。馬鹿な人たちだと思っていた、自分こそが馬鹿だった。愚かさを見つめてやりなおしていかなくては。

 

「ほら、そういったお話も大事なことだったのです。 

 わたしの目も耳も、沢山のものには向けられないでしょう。

 是非、義姉上のお力を貸していただきたいのです」

 

「ですが……」

 

「では、義姉上を帝国宰相に任命したら、私の相談にのってくださいます?

 これは、あなたの弟さんが私におっしゃったのですけれど」

 

 ヒルダの言葉に、アンネローゼは困ったような笑みを浮かべた。それは、悪戯っ子の相手をするような、たっぷりと慈愛をふくんだものだった。

 

「夫婦は似るとよく言いますが、相手の悪いところまで真似をなさるのはよくないわ。

 でも、ありがとう。わたしがその弟を育てたのです。

 遅くなってしまったけれど、間違いを正すのはわたしの義務です。

 なによりも、子どもには辛い思いをさせたくはありません。

 アレクにも、カザリン様にも、ヴェストパーレ男爵夫人のお子様にも」

 

 ヒルダは静かに囁いた。

 

「あなたのお子様にも?」

 

 それに言葉はなく、ただただ澄みきった笑みが返されたのみ。秋晴れを映す、深い湖のように静謐で、奥底に膨大な質量が秘められているような。ひたすらに美しく、悲しい微笑みだった。

 

 それがなにより雄弁な答えであった。



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新帝国暦4年/宇宙暦802年 初夏  ふたりのメルカッツ
双頭の鷲、黄金の獅子


オリジナルのキャラクターが登場します。ご注意ください。


 メルカッツ提督の遺族に、彼の言葉を届けたい。そう言って、宿将の忠実な副官は旅立っていった。最後の戦いの傷がようやく癒えて、新政府が成立し、その国民ベルンハルト・フォン・シュナイダーとして、旅券と査証を取得して。宇宙暦802年の冬のことだった。

 

 やがて、それから半年に差し掛かろうという頃、ボリス・コーネフに託された文書がユリアンらの元に届いた。宇宙が統一されたものの、帝国本土と旧自由惑星同盟領の間には、航行不可能宙域が広がっている。かつて二つだった領土を繋ぐのは、フェザーンとイゼルローンのふたつの回廊のみ。前者にある惑星フェザーンは、新銀河帝国の帝都で、後者にあるイゼルローン要塞は、イゼルローン共和政府から帝国に返還された。

 

 双方向の情報が統一化されるのは、まだまだ先のことになるだろう。超光速通信(FTL)は、通信中継機器がなければ不可能なのである。それも、この二つの回廊で中継されねば届かないのだ。そこを支配している新帝国が、情報を野放図に自由化するはずがない。依然として、帝国本土からの生きた情報は少ないのだった。

 

 最新鋭の情報伝達手段が使えないとなると、復活するのは古式ゆかしい方法だ。文書や画像を、紙や記憶媒体で相手に運ぶ郵便である。有人宇宙の直径は一万光年。跳躍(ワープ)航行で光を追い越して飛ぶ、宇宙船が二番目に早く情報を運ぶ。これは、宇宙に二つの国家があったころは、どちらの国も自国内でやっていたことだ。国境を飛び越えて手紙を送るのは、フェザーン商人の役割だったが、そんなに需要の多い商売ではなかった。せいぜいが商取引の文書の取り交わしぐらいである。

 

 百五十年にわたって、殺し合い憎みあった。帝国から同盟に亡命するのは、命がけの難事業だった。そして、成功した者は、命と引き替えに故郷を失った。逃げた者の縁者や知人は、亡命を必死に隠し通した。純粋な情からではなく、国家反逆罪の処罰に連座させられるからだ。そうして別れた人々は、互いの消息を知るすべはなかった。

 

 二つの国は、このような歴史を持っていた。それがほぼ一つになったとはいえ、帝国本土と新領土で手紙を送るのは、軍人や役人とその家族ぐらいである。帝国全土の郵便といっても、実質的には帝国軍の輸送網の間借りだった。

 

 ベルンハルト・フォン・シュナイダーは、その手紙を帝国軍に委ねる気持ちにはなれなかったのだろう。沢山の便箋でふくらんだ封筒には、古典的な封蝋がしてあり、家紋の下には家名が読み取れた。彼が心から敬愛し、敵国に逃亡しても生を全うして欲しいと願った、メルカッツという名であった。

 

「シュナイダーさんからだ。メルカッツ提督のご家族が見つかったんだね。

 本当によかったなあ」

 

 ユリアンは手紙の差出人を見て、胸を撫で下ろした。さぞや困難なことになるだろう、と予測していたのだ。メルカッツ提督とシュナイダー大尉を迎え入れて間もなく、ヤンが仕送りができないものかと水を向けたことが功を奏したらしい。

 

 老練の名将の副官も、若き智将の副官に劣らず、優秀で記憶力に優れていたのだった。メルカッツの奥方の実家が、マリーンドルフ伯領にあり、そちらに身を寄せるように指示したという、小さいが重要な情報を忘れなかった。

 

 ヤンのデスクから、ペーパーナイフを拝借し、そっと封を開ける。ユリアンが住んでいるのは、フレデリカが寄贈を受けた、師父夫妻の家だった。一人暮らしには広すぎるが、カリンとの同居は周囲の反対を受けたのだから仕方がない。特に強硬だったのは、キャゼルヌ夫人である。

 

「嫁入り前の娘がとんでもないわ。

 同居するなら、きちんと結婚してからにしなさい。

 たとえ皇帝陛下がなさったことでも、歴史的な正道とは言えないのよ」

 

 いや、ユリアンとカリンだって、師父の息吹が残るこの家で、恋に酔うような神経は持っていない。いわゆるシェアハウスのつもりだったが、先に述べた反対に遭ったのだ。あの夫人に反対されて、味方になってくれる知人はいなかった。

 

 むしろ、みながキャゼルヌ夫人に同意した。ユリアン・ミンツは、ヤン・ウェンリーの衣鉢(いはつ)を継ぐ英雄だ。世間はそう見ているのだから、隙を見せるべきではないと。そう言ったのはフレデリカである。査問会の時の苦い思い出を披露してくれたのだ。双方独身の成人で、恋愛関係にあったところで、何の問題もなかった彼女でさえ、その手の捏造スキャンダルに苦しめられたのだ。

 

「本当に腹が立ったものよ。

 自分のせいで、好きな人が(おと)しめられるのですもの。

 カリン、あなたにはそんな目に遭ってほしくないのよ」

 

 国家主席とヤン・ファミリーの最強の実力者にここまで言われて、貫き通せるものではない。

 

そして、ユリアンはヤン家に、カリンはキャゼルヌ家に住むことになった。政府主席となったフレデリカには、護衛つきの官邸が用意されているからだ。まあ、カリンも門限つきとはいえ遊びにはくるし、アッテンボロー議員もなぜか入り浸っているし、受験仲間のポプランも結構な頻度で訪れる。ボリス・コーネフも商用で訪れると、必ず立ち寄ってくれた。つまりは、まだまだ心配されているのだろう。でも、ありがたいことだった。

 

 この日も、カリンがお茶菓子持参で遊びに来ていた。オルタンス夫人は、娘以外の新たな弟子を得たのだった。しかし、家事の神様の娘二人は、家事の妖精と名乗っても恥じないほどで、いまだカリンは及びもつかない。特に菓子作りについては、姉のシャルロットよりも、妹のリュシエンヌの方が名手だった。

 

「大人になったら、お菓子屋さんになりたいの」

 

 そう言ってにっこり笑う、薄茶色の髪に青い瞳の九歳児だが、腕前だけなら今日からでも人気店の店主になれる。少々、劣等感に苛まれるカリンだった。本日のオレンジ風味のマドレーヌも、製作者リュシー、助手カリンである。

 

「なんか、オレンジの味が薄くなっちゃう。もっと香りもふわっとさせたいの。

 カリンお姉ちゃん、ユリアンお兄さんに、どうしたらもっとおいしくなるか、

 意見を聞いてきて欲しいの」

 

 カリンへの質問がないのは、リュシーが『76点』と評するケーキに、欠点を見つけられないからだ。申し分なく綺麗な焼き上がりだし、文句の付けようもなくおいしい。それはユリアンも全く同意見で、異論の出ようもないのでこの難題を打ち切り、彼に肩を寄せるようにしてカリンも手紙を読ませてもらった。

 

 マリーンドルフ伯領にある、メルカッツ夫人の実家はほどなく見つかったのだという。ラインハルトの出世が、まだ寵姫アンネローゼの七光りと思われていた頃に、彼に味方することを決断した伯爵令嬢と父の判断がいかに優れていたか。

 

 シュナイダーが旅した帝国本土で、貴族連合に与した者の領土の荒廃を見るにつけ、やるせない思いが募ったと手紙には綴られていた。メルカッツこそ、帝国軍の重鎮の中で、ラインハルトの才能に最も早く気がついたのだ。家族の身の安全について貴族連合から脅迫を受けなければ、中立を貫くか辞職を選んでいたはずだ。その家族が、平穏に暮らしてくれているのならば、せめてもの救いとなっていただろう。

 

 メルカッツの夫人は離婚して旧姓に戻し、令嬢も母の籍に入った。不十分かも知れないが、そのままよりは目立ちにくい。母の実家の人々の名の後に、女性の名が二つ加わった表札。男性の名が一人、女性の名は三人。それには、広過ぎるぐらいの屋敷だった。家の外装も凝っていて、庭は広く樹木が巧みに配されている。帝国騎士(ライスヒリッター)と一口に言っても、その中でも格差がある。その中でも上級に位置する家格だと思われた。それらの手入れが行き届いていたら。がらんとして、荒廃の気配が漂う庭を見て、シュナイダーの脳裏に暗雲が立ち込め始めたと書かれている。

 

 それを読む恋人達の眉宇(びう)にも、薄雲がかかりはじめた。

 

「ねえ……」

 

「うん……」

 

 ユリアンは、二枚目の便箋を広げた。

 

「そう、父が亡くなったのね」

 

 ベルンハルト・フォン・シュナイダーを迎えたメルカッツの令嬢は、簡素な喪服を身に纏っていた。亡命する前に、何度か彼女と顔を合わせたことがあった。際立った美人ではないが、健康的で優しそうな、好感のもてる人だった。こんなに青ざめて仄白い、風に揺らぐ葦のようにか細い女性ではなかった。小さくなった輪郭に、大きくなった暗褐色の目が危うい輝きを放っている。

 

 シュナイダーは息を呑みこみ、イゼルローン要塞に最初の通信を入れたとき以上に、勇気を振り絞って口を開いた。

 

「はい。お詫びとお悔やみを申します。フロイラン・メルカッツ……」

 

「もうフロイランではありませんの。メルカッツではなく、ローゼンタールとお呼びになって」

 

「重ね重ね、失礼をいたしました」

 

 だが、ここは彼女の母の実家の住所に相違なかった。ハイネセンを発つときに、メルカッツの遺族を探すのは、困難を極めるに違いないと考えた彼の予測をいい意味で裏切ってくれた。しかし、さまざな視覚情報が、シュナイダーの脳裏に警鐘を鳴らす。表札では、男性一人と女性三人が住んでいるはずなのに、妙にがらんとした室内。そして、父の訃報に身に着けたにしては、喪服の黒は褪せて着なれたものだった。

 

「ご結婚をなさったのですね」

 

「ええ、こちらに来てすぐに。わたくしの従兄にあたるのですが」

 

「ご主人のお留守に申し訳ありません」

 

「かまいませんわ。もう戻ってこられないのですから」

 

 シュナイダーは、奥歯を噛み締めた。考えておくべきだったではないか。

 

「重ねてお悔やみを申し上げねばなりません。もしや、戦死を……」

 

 だったらどうすればいい。この女性の父を、違う旗の下に誘ったのは自分だ。ヤン・ウェンリーの指揮で戦ったメルカッツが、沈めた艦に義理の息子が乗っていたかもしれない。どんな非難を受けても、抗弁する資格はなかった。

 

「いいえ。惑星開発の仕事で単身赴任に行くことになりましたの。

 半年ほどの予定になるけれど、籍は先に入れて、

 式は帰ってきてからにしようと、アルベルトは言ってくれましたわ。

 出張手当と家族手当で、ちょっと豪勢なドレスを準備できるんだよと」

 

 左手の結婚指輪が薬指から浮いていた。失った体重は一桁ではきかないだろう。

 

「行き先は、ヴェスターラントでした」

 

「それは……」

 

 絶句するしかなかった。戦いの中で、あの虐殺を止めることはできなかった。メルカッツはブラウンシュヴァイク公に抗議し、説得を試みた。しかし、聞き入れられることはなく、ローエングラム候らの攻撃に抵抗するよりほかなかった。シュナイダーは、敗北して死を選ぼうとしていた彼を説得し、旧同盟に亡命したのだった。

 

 そして、リップシュタット戦役の詳細な被害もまた、敵国たる同盟に伏せられていたのだ。銀河帝国がフェザーンを征服し、同盟が征服されて滅び、ようやく知ることとなった情報。

 

 その一つが、ヴェスターラントの熱核攻撃である。これは、圧政に苦しめられた領民が、ブラウンシュヴァイク公の甥を襲撃し、死に至る重傷を負わせたことに端を発する。逆上したブラウンシュヴァイク公は、領民らを誅罰(ちゅうばつ)するために、禁忌とされる熱核兵器を使用。オアシスを中心に暮らしていた、二百万人のヴェスターラントの住人は全て死亡した。

 

 あの状況下のメルカッツとシュナイダーは、そこまで凄惨なものだとは把握できていなかったのだ。

 

「当主の母方の伯父は、既に亡くなっておりました。

 年の離れた兄妹でしたから、伯母は母を妹のように可愛がってくれました。

 母も、実の姉同様に慕っておりました。

 そして、お互いが実の子と同じぐらい甥と姪を可愛がったのです。

 娘が欲しかった、息子が欲しかったと言い合って。

 ここに身を寄せてすぐ、彼から求婚されたのですわ。

 戦場に行くことの多い父は知らなかったようですが、わたくしもずっと彼を愛していました」

 

 青年は頷くことさえできず、固唾をのんで聞き入った。

 

「あの報道を見て、伯母は倒れました

 そのまま意識が戻らず、二週間後に彼の許に旅立ってしまいました。

 伯母の葬儀の席で、今度は母が倒れました。心臓発作でした。

 救急車が来るまで間に合わなかったのです」

 

「なんと申し上げればいいのか……。ほんとうに申し訳ありません。

 メルカッツ閣下はブラウンシュヴァイク公を説得なさったのです。

 だが、聞き入れてはもらえませんでした。

 我々は、相手との交戦でガイエスブルクを離れることもできなかった」

 

 シュナイダーは深く項垂れた。メルカッツが客員提督(ゲストアドミラル)となってすぐ、ヤンが彼の家族のことを心配してくれた時に、手を打っていればと、後悔が胸を噛み裂く。悲劇には間に合わないにしても、彼女の孤独の助けにはなったはずだった。

 

 だが、脳裏に稲光が瞬く。

 

「しかし、報道とは一体……」

 

「熱核攻撃の瞬間を捉えたものでした」

 

 青年は目を剥いて、ローゼンタール夫人を凝視した。彼女は淡々と続けた。もはや涙も枯れ果てた、そんな声で。

 

「あの金髪の嬬子(こぞう)は、二百万人を見殺しにしたのよ。

 わたくしは知っているの。アルベルトは言っていたわ。

 砂漠が多くて人が少ない惑星で、だからとても空が綺麗だと。

 なによりシャトルや人工衛星が少ないから、動く星はほとんど流星なんだって。

 成層圏から、灼き殺された人の顔が映るような、そんな高性能の衛星はないはずでした。

 あれを撮るために用意したのよ。

 その準備ができるなら、軍を派遣して攻撃だって止められたでしょう」

 

「そんな、まさか、皇帝(カイザー)ラインハルトが……」

 

「あの報道で、貴族連盟に動員されていた平民は一気に離反しました。

 リッテンハイム候もブラウンシュヴァイク公も死んだわ。

 その遺体を手土産に降ったアンスバッハ准将が、ローエングラム候の暗殺未遂を起こした。

 キルヒアイス元帥が亡くなったのはそのせいです。おかしいとは思わなくて?」

 

 未亡人の暗褐色の目に、妖しい陽炎(かげろう)が揺らめいた。

 

「彼は、無二の親友の特権で、いつも武装を許されていたそうね。

 これでもわたくしは、メルカッツの娘でしたのよ。このぐらいのことは存じております。

 しかも、彼は射撃の名手だったそうではありませんの。

 腕を伸ばして、引き金を引けば、それで終わり。

 武器があれば、身を挺して庇う必要なんてないでしょう。

 どうして特権を取り上げられてしまったのかしら」

 

 シュナイダーの背筋を氷塊が滑り落ちる。

 

「そして、暗殺はリヒテンラーデ候の指示によるものだったのですって。

 ローエングラム候を除くために、ガイエスブルク要塞に立て篭もっていた、

 ブラウンシュヴァイク公の部下へと手を回したそうよ。

 まあ、いったいどうやってでしょう。超光速通信かしら?

 わたくしは、軍事機器には疎いけれど、周りを包囲していた艦隊の、

 誰にも気付かれずにいられるものなのですか」

 

 優雅に小首を傾げ、その唇は弧を描く。しかし、瞳は液体ヘリウムの底無し沼だった。 

 

「とにかく、暗殺未遂はリヒテンラーデ候の企んだものだということになりました。

 本人も、その一門も処罰されたことはご存知でいらっしゃる?」

 

「はい、あまり詳しくはないのですが」

 

「では、十歳以上の男子は死罪、女子供は流刑というのも?」

 

 シュナイダーは顔を上げ、彼女の顔を凝視した。蒼白の頬と真紅に充血した眼が同居し、形ばかりの微笑を捨て去った顔を。彼の顔色も、いまやローゼンタール夫人に劣らぬものになっていた。

 

「なんと言うことだ」

 

「完全な八つ当たり、親友の死を(あがな)うのに十歳の子も(にえ)にせよというのよ。

 無二の友の死を口実に、権力も我がものにしたの。

 伯母は、遠いけれどリヒテンラーデの一族に連なっていましたわ。

 その息子の、わたくしの夫は二十五歳でした。

 あんな死に方をしなければ、流刑地と断頭台に連れて行かれていたのです」

 

 これこそ、旧同盟も一般の帝国国民も知りえないことだった。双方の悲劇に関わったこの女性は、その断片からジークフリード・キルヒアイスの死と、その後のローエングラム公独裁体制の関連を読み取ったのだ。

 

「リヒテンラーデ候が暗殺計画を立てたとして、

 どうやって十歳の子どもが協力できるというのでしょう。

 そんな馬鹿げた刑罰を、どうして誰ひとり止めなかったの。

 いいえ、違うわ。あの薄気味悪い義眼の男は、ゴールデンバウムを憎んでいたからよ。

 ゴールデンバウムを倒せるならば、何でもやったし、誰でも利用したんでしょう」

 

 この女性は、よき妻よき母として貴族にふさわしい、むしろ平凡な子女教育を受けただろう。しかし、その聡明さは、やはり名将の血を引くものだったのだろう。そして、それは彼女をしたたかに傷つけたのだろうと、シュナイダーは私見を述べている。

 

 これは、彼女、マルガレーテ・フォン・ローゼンタールの推測によるものだとの但し書きの次に、

ユリアンの手が震えだす内容が書き連ねてあった。

 

 ヴェスターラントの攻撃は、事前にローエングラム候ラインハルトの知るところとなったが、オーベルシュタイン中将は攻撃の放置を進言したと思われる。貴族から平民の信望を失わせ、戦役の終結を早めるという計算だろう。皇帝ラインハルトは、その進言を受け入れたと確信できる。ブラウンシュヴァイク公の悪行を、映像記録におさめることも怠らなかった。その映像は、帝国全土に放映され、オーベルシュタインの目論見どおりの結果となった。

 

 ラインハルトの無二の親友にして、帝国軍首脳の緩衝材でもあった、ジークフリード・キルヒアイス上級大将。核攻撃の一部始終を捉えた映像は、あまりにも鮮明すぎた。オアシスを中心に、惑星を開発していた過疎の星、その上空にこれほど高性能な観測衛星はなかった。首謀者は最初から明白だったが、傍観者の存在を長く隠しておけはしなかった。明敏な彼は親友に疑念を抱き、武装の特権を取りあげられるような感情の行き違いが起こったのだろう。

 

 そして、キルヒアイスが武器の携帯を認められなかった場で、ラインハルトの暗殺未遂が発生した。赤毛の青年は、金髪の友を身を挺して庇いぬいた。たしかに悲劇であった。

 

 だが、流した血で、命の数で量るなら、天秤の重さはどう傾くであろうか。

 

 最初に顔を合せたとき、陽炎が見せる逃げ水のように揺らいでいた瞳。そこに、熱い水が実体化しようとしていた。

 

「名君ラインハルト、黄金の獅子帝なんて嘘よ。あの男は大理石の墓標だわ。

 見た目は美しくて立派でも、その下には死体が一杯詰まってる。

 ここは、その義父の領地だし、不敬罪で捕まれば死刑にされるかもしれない。

 誰も本当のことは言わないし、それで責められることもない。

 誰もが褒め称えて、死を惜しんでる。では、わたくしの夫は? ふたりの母は!

 あの男と違って、誰一人殺していない。優しい、やさしい、いい人たちだったのよ」

 

 真っ白な頬を、涙の驟雨(しゅうう)が襲う。そして、弾劾(だんがい)の嵐が吹き荒れる。

 

「姉のおこぼれで出世して、その恩人たる皇帝陛下の孫を皆殺しにし、

 そして、無辜(むこ)の民を見殺しにした男。

 ヴァージンロードを歩いてから、たった三ヶ月で子どもを生んだ、ふしだらな女。

 なんてお似合いの恥知らずな夫婦なのかしら。その子どもが将来の皇帝。

 双頭の鷲も、黄金の獅子も等しく醜いわ。人の血で染まっているのよ!」

 

 シュナイダーを衝撃が襲った。彼女に見えるものが彼女の真実。そして、それは一面の事実を含んでいた。

 

「わたくしは父を恨みます。

 こんな思いをするぐらいなら、わたくしと母を放っておいても、

 金髪の嬬子に味方をして、ブラウンシュヴァイク公を殺してくれればよかった。

 ヴェスターラントの虐殺の前に。

 そうすれば、アルベルトとお義母さまは生きていらした。

 ほら、一人は死人が減っているでしょう」

 

「しかしフラウ、いや、あえてこう呼ばせてください。

 フロイラン・メルカッツ。閣下は、お二人を大事に思われていらしたのです」

 

「では、どうして同盟に逃げたのです!」

 

「閣下ではなく小官の責任です。

 あの時、あんなくだらぬ戦いで、死んでいただきたくはなかったのです。

 いつか、お二人を迎えに行っていただきたいと願っておりました」

 

 しかし、どこまで信じてもらえるだろう。

 

「ならばせめて、同盟に攻め行った金髪の嬬子の首を。

 私と夫と母ふたりのために獲ってくれればよかったのよ!」

 

 王女サロメのように、マルガレーテは告げた。握り締めたハンカチに、血がしみていく。骨ばった爪の先が、手のひらを傷つけるほど硬く結ばれていた。

 

 シュナイダーは断腸の思いで、上官の愛娘を見詰めた。まさに、あと一撃で純白の美姫(ブリュンヒルト)を屠ふることができた。主たる黄金の有翼獅子(グリフォン)とともに。誰も納得がいかなかったハイネセンからの停戦命令。

 

 ヤン・ウェンリーはそれを受け入れた。将兵は皆憤慨し、シェーンコップ中将は、言葉に出して煽動したと聞いた。あと一撃で、ラインハルトの命と、宇宙と未来をその手にできると。

 

 だが、ヤンは停戦命令に従った。それは、シュナイダーにとっても大きな疑問だった。何故、どうして? それゆえに、メルカッツと自分は『動くシャーウッドの森』にひそんだ。ヤンも茨の道を歩むことになり、その中途で非命に斃れた。 

 

 マルガレーテの血を吐くような怨嗟(えんさ)。惨劇が悲劇を生む連鎖の根幹はなんだ。それが、シュナイダーに回答をもたらした。ヤンとメルカッツの生について、彼女にどう伝えるべきなのか。

 

「フロイラン・メルカッツ。小官は、様々な過ちを犯したのでしょう。

 しかし、ただ一つだけ誇りを持ってお答えすることができます。

 あのバーミリオンの会戦で、政府の停戦命令に応じた方を、

 お父上と共に上官として仰ぎ、その死後も後継者を支えたことです」

 

「な……なにをおっしゃるのです」



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サン・メルシ

オリジナルのキャラクターが登場します。ご注意ください。


「ヤン・ウェンリー元帥は、ローエングラム公と

 惑星ハイネセンの十億人の住民を天秤にかけたのです。

 そして、前者には後者ほどの価値はないと判断された。

 価値あるものを守るために、勝利などくれてやったのでしょう。

 あの国の、彼が率いる軍は国民の命と権利を守るためのものでした。

 たかが一人の男の命と、十億の命では比べるべくもありません。

 あなたのお陰で、小官にもようやくわかりました」

 

 敵と味方の命を天秤に乗せて、より効率よく味方を死なせ、さらなる敵を殺すのが用兵家の役割。メルカッツの副官のシュナイダーも、痛いほどに知っていた。宇宙一の名将は、誰よりも冷たく精密な(はかり)の担い手だった。ヤンは、金髪の覇者と無名の十億人の重さを量った。

 

 ここでラインハルトを殺した瞬間に、双璧が十億人が皆殺しにするかもしれない。では、尊い方を選択する。一万人分の才能をもつ、一人の天才。その人なりの才能を持つ、十億人の凡人。彼にとっての答えは一つ。

 

「ヤン・ウェンリーという方は、ただの一人も民間人に犠牲を出さなかった軍人です。

 常に旧同盟の法に従い、国民の権利と生命と財産を守るために戦われたのです。

 そして、ローエングラム公を斃す機会を前にしても、最も大事なものを見失わなかった。

 あのとき、双璧に武器を突きつけられていたのは、同盟の政府だけではありません。

 十億人もの民間人が人質となっていました。

 我々みんなが、ローエングラム公の命に目が眩んでいても、

 あの方だけは本当に尊いものを見ていた、そう小官は思うのです。

 そして、お父上は、小官などよりも遥かに早く、それを見抜いておられたのだと」

 

 大きな暗褐色の瞳が、ゆっくりと瞬きをした。大きな涙の粒が、目じりからこぼれる。透明な表情で、マルガレーテはシュナイダーを見詰めた。

 

「では、父が仕えた方は、あの嬬子(こぞう)よりも平民の命を選んだとおっしゃるの」

 

「はい。そのために給料を貰っているとおっしゃいました。

 一個艦隊で、精強の帝国軍と連戦をなさっても、給料分の仕事はすると」

 

「ふふ、おかしな方ね。そんなにお給料をいただいていたのかしら」

 

「元帥閣下でしたから、同盟軍の中では高給とりでいらっしゃいました。

 ですが、帝国元帥には比べるべくもないでしょうね。

 しかし、中尉であっても、三百万人の民間人の避難を成功させた英雄でした。

 従軍してたったの一年後、21歳の時のことです」

 

 涙の残る顔に、ゆっくりと微笑みの兆しが立ち上った。

 

「それも、ヤン元帥にとってはお給料分のお仕事でしたの?」

 

「いや……」

 

 シュナイダーは苦笑いを浮かべた。もしも、あの黒髪の司令官にそう言ったら、きっと同じ表情で髪をかきまぜただろうと思いながら。

 

「そんなことはないとおっしゃったでしょう。なによりも命あっての物種だ、

 逃げなかったら、死ぬか捕まったからさ、だからだよと。そういう方でした」

 

「では、父はあの嬬子より立派な方を選んだのですね」

 

 そう告げたメルカッツの娘の瞳には、嵐の後の凪が訪れようとしていた。

 

「皇帝ラインハルトが二百万人を見殺しにしたのと同じ歳で、

 百万人も多くの人を助けられたのね。あの男に勝てるはずもないのだわ。

 その方を知ってなお、他の者を仰ぐことなど父にはできません。

 母ならば、きっとそう言うでしょう。ですが……帰ってきてほしかった」

 

 言葉もなく項垂れるシュナイダーだったが、彼女が涙を拭うハンカチを見て驚愕した。貴族の奥方にふさわしい、白いレースのハンカチの半面に染みた血の量。それは、爪で傷付いただけの傷にはあまりに多かった。

 

「フロイライン、いえフラウ・ローゼンタール、手をどうなさいました!」

 

「手は大したことはございませんわ。ほら」

 

 開かれた白く痩せた手の、爪の傷はたしかに深いものではなかった。異常なのは、今もなお、盛り上がって赤い流れを作る血のほうだ。

 

「白血病の一種だそうです。血液を造る細胞が全部おかしくなる症例なのだとか」

 

「そんな、治療はなさっているのですか!」

 

「しても気休めです。効く薬がないのですから」

 

 骨髄移植をするには、先に抗がん剤や放射線を併用して、がん化した細胞を死滅させなくてはならない。マルガレーテが発症した骨髄異形成症候群には、特効薬がなかった。理論上は存在するが、それを使用したら、がん細胞より先に人間のほうが死に至る。そして、放射線だけでがん細胞を殺そうとしても、同じ結果となる。

 

 いくら科学や医療が進んでも、人間の肉体の強度には変わりがない。皇帝も未亡人も等しく同じ、生物としての限界だった。

 

「ですから、あなたにお会いできてよかったわ、ヘル・シュナイダー。

 余命は多く見積もっても、あと二ヶ月といったところらしいのです」

 

 慌てて止血をするシュナイダーをよそに、マルガレーテは定理を述べる学者のような声で自分の病状を告げた。その淡々とした口調に、旧同盟での治療をと、勧める言葉を失った。旅券と査証の申請に約一月。そして、ハイネセンまでの旅程は二ヶ月。その途中で死を迎えることになる。

 

「ですから、せめてここで死にたいのです。

 親娘(おやこ)そろって、あなたにお世話をかけるのは心苦しいのですが、

 あなたに貰っていただきたいものができました。

 ヘル・シュナイダー、あなたはお幾つですか?」

 

「は、小官の年齢ですか」

 

 相手の意図はわからずに、シュナイダーは年齢を告げた。マルガレーテは眉を寄せた。

 

「わたくしよりも、年上でいらっしゃいましたのね。残念なこと。

 では、申し訳ないのですが、わたくしを貰ってくださいませんか」

 

 突然の求婚に、シュナイダーの目と口が、三つのOの字を形作る。その少年のような表情に、未亡人は語りかけた。

 

「慎みのない、身勝手な女をお思いになられるでしょう。

 ですが、わたくしの養子にできない以上、他に方法がないのです。

 あなたに継いでいただきたいの。メルカッツの名を」

 

「フラウ、そのようなことをおっしゃってはいけません。

 治療をなされば、きっとチャンスはあります。

 新領土の進んだ医療が、いずれこちらにもやってくることでしょう」

 

「でも、それにはきっと間に合いませんわ。

 わたくしは、妻としての務めを何一つ果たせぬ女です。

 あなたを男やもめにしてしまうことになりますし、家名を奪うことにもなるでしょう。

 ですが、父を帰せなかったことをお悔やみになるのなら、わたくしの罰を受けて。

 メルカッツの名と共に生きて、本当に愛する方と一緒に家族を作ってください。

 そして、あなたの子どもに私の父のことを語って」

 

 もう一度、涙をこぼして、彼女は告げた。

 

「父は世渡りの下手な不器用なひとでしたわ。

 だから、元帥にもなれず、勝者に属することもできませんでした。

 私たち家族への愛情と、フリードリヒ四世陛下への恩のどちらも選べなかった。

 でも、それは誰も裏切れなかったからだと。

 そして、真に尊いものに出合い、力を尽くせた幸運な男だったのだと」

 

 彼女が浮かべた笑顔は、沁み入るほどに美しく誇らしげだった。

 

「皇帝ラインハルトの栄光を(けが)すことは、誰も口に出せなくても、

 ヤン元帥が、三百万の民を救ったことを消すことはできませんから」

 

 シュナイダーは頭を垂れた。

 

「……フロイライン・メルカッツ、あなたのお話をお受けします」 

 

 指輪のない彼女の右手を取ると、そっと甲に口付けた。それは、尊敬のキス。

 

「ありがとう、ヘル・シュナイダー」

 

 そして、彼女は姓を旧姓に戻し、シュナイダーと結婚をした。メルカッツから預かった遺品の、家紋の印章入りの指輪は、夫の左薬指に。亡くなった彼女の母の形見は、妻の左薬指に。居場所のなくなった、指から浮いていた結婚指輪は、鎖に通されて胸元へ。

 

 心臓のそばで、彼女の鼓動が止まるまでの短い間、アルベルト・フォン・ローゼンタールは見守ってくれたのだろう。

 

 結婚後、すぐに入院して、対症治療を受けながら彼女は語った。ベルンハルト・フォン・メルカッツが敬愛した上官の、家庭での顔を。彼を支えた奥方は、控えめだが芯の強い賢夫人であったことを。マルガレーテは、義母に似ているようだった。

 

 そして、ローゼンタール家の人々のことを幸せそうに語った。父の選んだ道によって、半ば逃亡を余儀なくされた短い間。そこにも、愛する人と過ごす幸福はあった。夫と義母は優しくて、趣味は園芸だった。二人揃って、よく庭の手入れをしていたという。冬枯れの名残を、マルガレーテがそのままにしていた理由だった。

 

 そのおかえしに、彼はヤン艦隊で過ごした日々を語った。まるで軍人には見えなかった、若々しくて線の細い学者のような司令官。二言目には給料と口にするせいか、マルガレーテたちへの送金と家族扶養手当について教えてくれた。魔術師ヤンの意外すぎる提言に、上官も副官も目を点にしたこと。おかげで、ここが早々に見つかった。何が幸いするかわからないものだ。夫は苦笑いし、妻は珍しく笑い転げた。

 

 戦場の名将は、日常では問題軍人だった。本と昼寝と紅茶が好きで、三次元チェスは下手で、書類仕事はサボりがちだった。まだ十六歳の被保護者に、やいやい言われてようやく散髪にいくようなものぐさだった。

 

 なにより驚いたのは、行事の際のスピーチの短さ。ガイエスブルクとの戦勝祝賀会に代読されたのも、彼の被保護者とふたりのメルカッツが、イゼルローン要塞から転属する際の送別も、本来の百倍も長かった。だが、それはたったの三分少々。周囲がいつもの百倍だとざわめいて、それと知った。帝国高官のスピーチに比べれば、普段の百倍でも二十分の一だっただろう。

 

「過去形で話すしかないことが、たまらなく残念でならないよ」

 

「ええ、その方のことを現在形でうかがいたかったわ」

 

「ヤン提督は帝国軍にとって、最大最強の敵だっただろう。

 あなたの知己にも、その手にかかった人がいたでしょうに」

 

「でも、その方は父を受け入れてくださったのでしょう。

 父こそ、四十年以上も戦場を往来して、多くの敵だった人を殺したのですわ。

 わたくしのように恨む方も大勢いたでしょうに、それでも守ってくださった」

 

 沈黙した彼に、マルガレーテはくすりと笑みを浮かべた。

 

「それに、あの方を糾弾(きゅうだん)することはできないのです。

 不敗の名将でいらしたから、彼を罵る言葉は、新帝国の諸将へとはねかえる。

 むろん、先帝陛下もそのお一人ですもの。不敬罪になりますわ」

 

 澄ました顔で、そんなことを言う妻に、夫は降参の身ぶりと共に告げた。

 

「あなたならば、ヤン艦隊でもやっていけるでしょうね」

 

「あら、光栄ね。わたくし、一度ああいう服を着てみたかったの」 

 

 だが、個性的な部下に慕われ、二人のメルカッツをその輪に溶け込ませてくれた。ヤンの幕僚の事務方トップのキャゼルヌ少将と、亡命者ながらに少将となっていたシェーンコップが通訳という、豪華な事務研修を受けて大いに助かったこと。

 

 宇宙一の名指揮官を支えていた、ムライ、パトリチェフの正副参謀長、副司令官のフィッシャー、同盟軍最年少提督のアッテンボロー、猛将グエン・バン・ヒューも、メルカッツに敬意を表し、一員として受け入れてくれた。いや、ヤンも含めて教授に教えを請う、学生のような熱心さであった。彼らの三分の二は、もうこの世にいない。しかし、生き抜いた人々は、それぞれの場所で活躍している。

 

 そして、ヤンの被保護者のユリアン・ミンツ。亜麻色の髪にダークブラウンの瞳をした端正な容貌の青年は、ヤンを失っても折れることなく歩みだした。そして、平和が訪れ、ここに帰りつけたのだ。そう夫は語り、妻は頷きながら泣き笑いの表情になった。

 

「では、わたくしはそれを父とヤン提督に伝えましょう」

 

「馬鹿なことを言わないでください。どうか、諦めないでください」

 

 手を握る新たなメルカッツに、静謐な笑みを浮かべて首を振る。聡明なこの女性は、いままでしたためていた遺言状に変更を加えて、それを夫に手渡した。メルカッツ家のささやかな資産と、ローゼンタール家のかなりの資産と不動産。その相続と処分についての指示だった。

 

 ローゼンタール家は、二十軒ほどの臣下を持つ領主だったのである。一旦、国家へと返納し、現在の借り手に説明をしたうえで、希望者へと分配されたい。土地の購入、贈与税については、ローゼンタールの資産を充てるものとする。その残額とメルカッツ家の資産は、そう多いものではないが、再婚した夫にと。いつの間にか公証人まで呼んで、きちんとした目録を作成していた。逡巡する夫に、妻は言った。

 

「わたくしは言ったでしょう? これは罰なのですと」

 

「わかりました。私はあなたの罰を受ける義務があります」

 

 そう答えると、妻は童女のように満足げな笑みを浮かべた。そして、その時は静かに訪れた。転寝(うたたね)から、目覚めぬ眠りへ、緩やかに滑り落ちるように、マルガレーテ・フォン・メルカッツは息を引き取った。入院してたったの二週間後のことだった。

 

 悔やみの言葉と一緒に、医師は死因を告げた。

 

「血小板の著しい減少による脳内出血で、苦痛はなかったでしょう。

 ご病状からして、入院なさったときには、話すのも苦しかったはずです。

 よく、ここまで頑張ってこられた。ご主人のおかげだと思いますよ」

 

 それだけがわずかな救いだった。

 

 彼女の葬儀と埋葬は済ませたが、身の回りの整理にはもう少し時間がかかる。それが済んだら、バーラト自治領に戻りたいと、手紙は結ばれていた。末尾の署名は、ベルンハルト・フォン・メルカッツであった。

 

「こんなのって、ひどい。あんまりじゃない」

 

 カリンは大粒の涙を拭う事もできなかった。応えるユリアンの目も赤い。

 

「ヤン提督がおっしゃっていた。

 いい人間が無意味に死に、不幸を呼ぶのが戦争なんだって。

 戦場で死ぬだけじゃないんだ。メルカッツ提督の娘さんも戦争に殺されたんだよ」

 

「この手紙、どうすればいいのかしら。私たちには何もできないの?」

 

「カリン、写しを取るから、キャゼルヌさんに読んでもらおう」

 

「でも、内政干渉になっちゃうんじゃないの。

 証拠だって、きっと出てこないでしょう。

 昔からの部下なら知っているでしょうけれど、だから余計に出てこないわよ」

 

 先帝の古参の部下は、獅子の泉の七元帥だった。そして、功績をもって元帥にのぼっていた、金銀妖瞳と義眼の二人もだ。それが、ユリアンの思考に閃きを与える。

 

「ああ、僕もそう思うよ。

 ミッターマイヤー元帥以下の七元帥は、きっと真実を知っている。

 だから、あんなにオーベルシュタイン元帥が嫌われていたんじゃないだろうか。

 これらの発案者が彼だったなら辻褄が合う。

 いくら冷たい性格でも、あれほどの事務の達人を、

 頭から嫌うなんておかしいと思っていたんだ」

 

 薄く淹れた紅茶の髪が、弾かれたように上がった。紫陽花の色が、雨の雫をたっぷりと含んでユリアンを睨む。

 

「勝手じゃない。進言したのはオーベルシュタイン元帥でも、

 それを採用したのは皇帝なんでしょ!」

 

 ユリアンは、それに首を振る。

 

「これには証拠がないんだ。決めつけるのはよくないよ。

 それに、共和民主制とはまったく国の仕組みが違うんだ。

 トップは常に正しい、詰め腹を切らされるのは臣下、それが帝政なんだよ。

 それをいっしょに変えていこうと、ヤン主席たちは頑張っているんだ」

 

「でも、でも、ヴェスターラントの人たちに、何もしてあげられないの?」

 

「カリンは、ガイエスブルク要塞の襲来の時に、イゼルローンにいたかい?」

 

「いいえ、私が来たのはその後よ。ユリアンとは入れ違いだわ」

 

「イゼルローンにも、ガイエスブルクの主砲の爪痕が残ってる。

 立入禁止地区がいくつかあっただろう?」

 

「ええ」

 

「来年あたりから、ようやく放射線防護服での作業ができるようになると思う。

 あそこには一万人以上の犠牲者が五年もそのままなんだ。

 ヴェスターラントの二百万人を殺した核兵器では、地表に降り立てるまで、

 何倍も時間がかかるだろうね」

 

 カリンは唇を噛んだ。二次被害を出さないためには、時を待つしかないのだ。

 

「私たちには何もできないのかしら」

 

 ユリアンは思案に暮れた。キャゼルヌやフレデリカにこの情報を届けたとして、手紙一通で動かせるほど帝国は軽くはない。

 

「この人たちを甦らせることはできないけれど、

 二度とこんな犠牲を生まない方法はあるかも知れない。

 例えば国際法で、人道に関する罪を制定するんだ。

 キャゼルヌさんが言ったんだ。法律は弱者の盾にして剣だってね」

 

「……キャゼルヌ事務総長が」

 

「キャゼルヌさんだけじゃない。アッテンボロー議員に、バグダッシュ情報管理官、

 ムライ帝都駐留事務所長に、シトレ国防長官。ホアン外務長官もだよ。

 こんな情報を逃すと思うかい、カリン」

 

「思わないわ。きっと、一分の隙もない法律を作って、帝国にも承認させるわね」

 

「それに、帝国は報いを受け続けるよ。このことを永遠には隠し通せない。

 ヴェスターラントに関わる人たちを、全て葬り去ることはできないからね。

 きっと、いずれ明るみに出る。殺人を見逃すのは重大な罪だから」

 

 カリンは、頷くと袖で涙を拭った。

 

「シュナイダーさん、ううん、メルカッツさんの奥さんって凄い人ね。

 皇帝陛下と皇太后陛下と大公殿下を、あんなにひどく言うなんて」

 

「でも、カリン、これはフェザーンには届かなくとも、

 多くの人に囁かれていることじゃないだろうか。

 きっと、もっと激しい言葉が使われていると思うんだ」

 

 まだ充血したダークブラウンが、深刻な色をのせる。少女はそれをまじまじと見返した。

 

「帝国は、旧同盟よりもずっと保守的な社会だよね。

 よき妻、よき母として育ち、夫や子を亡くした女性は、同じように思うんじゃないだろうか。

 そして、父や兄を亡くした子供が、この呪詛を子守唄に育ったらどうなるだろう」

 

 父や兄を喪った悲しみに、母や祖父母の嘆きと怨嗟(えんさ)が加わったら、どんな化学変化を起こすだろうか。カリンは身を震わせた。季節によらない、深刻な冷気を感じたのだ。

 

「恐ろしいことだわ。だって、あっちは親の罪に子が連座させられる社会でしょ?

 大公(プリンツ)アレクが即位する頃には、ものすごい数の怒りを抱えた大人が生まれてる。

 ううん、それよりもずっと早く、誰か一人でもあの子に怒りを爆発させたら……」

 

「憎しみはその人にとって絶対だよ。

 ヤン提督が亡くなった時、僕は奴らを皆殺しにした。

 あの時、人間の命の重さも、政治や歴史なんか知ったことじゃなかった」

 

 ユリアンの述懐に、カリンは息を呑む。 たった二人だけの有翼獅子(グリフォン)の血族。それが断絶したら、誰が後を襲おうと、宇宙は割れる。

 

「僕は、そいつらを殺したことを後悔なんかしてない。そういうことだよ」

 

「でもユリアン、あれは戦争中だったわ」

 

 ユリアンは一瞬瞑目し、静かな口調で返答した。

 

「バーラトの和約後に、ヤン提督を謀殺しようとしたのは同盟政府だった。

 そしてフェザーン人は、故郷を奪われたようなものじゃないのかな。

 皇帝でも八つ当たりしたのに、他の人が遠慮すると思うかい?」

 

 少女は青紫の瞳を見開き、口許を押さえた。

 

「これからは、人の心を味方にする戦いになるんだ。

 この五年間よりも、ずっとずっと長い時間がかかるだろう。

 敵として打ち負かしたら、ゴールデンバウム王朝となんにも変わりがない。

 圧政ではなく、善政でその怒りを解いていかなきゃいけないんだよ。

 とても、とても険しい道のりだ。それは、僕らも通らなければならない道だ」

 

「ええ、私たちも戦争で帝国の人たちを沢山殺したもの。

 どんなに憎まれても仕方がないわ。私もまだ許せないから。

 でもね、ユリアン、ヤン提督はやっぱり考えていたんだと思う。

 ハイネセンの十億人とエル・ファシルの三百万人はずっと恩人の味方だもの」

 

 恋人の言葉に、ユリアンは無言で頷いた。ヴェスターラントの虐殺は、様々な悲劇を生んだ。それに立ち向かっていかなくてはならない、皇太后ヒルダと大公アレクはかわいそうだ。

 

 だが、最大の犠牲者は、罪なく灼かれた二百万人の住民だろう。熱核攻撃によって、地表の形あるものはすべて灰燼(かいじん)に帰し、巻き上がった大量の死の灰が陽光を遮って核の冬を起こす。高濃度の核物質を含んだ、黒い雪が降っているだろうか。

 

 アルベルト・フォン・ローゼンタールも眠る星。マルガレーテ・フォン・メルカッツの魂は、そこに向かったのだろうか。

 

 帝国の神話に語られる、天上(ヴァルハラ)というものがあるならば、どうか常春の野で再会をしてほしい。きっと、あの物静かで気品ある彼女の父も待っているだろう。傍らに自分の保護者と、カリンの父がいるかどうかはわからない。いて欲しいと思う。聡明な彼女なら、戦争が終わったことを伝えてくれるだろうから。だが、敵なきがゆえに終わらぬ戦いが始まっていることも。

 

「とにかく、これは伝えてもらわなきゃいけない。

 平和を守り、戦争に殺される人を一人でも減らすようにね」

 

 ユリアンの言葉に、カリンは俯いた。帝国からの亡命者だった母は、健康や病気に対する知識が少なかった。 だから妊娠に気がついた頃には、あの不良親父は去ってしまっていたし、病気に気が付いたのは治癒が不可能になってからだった。皇帝も皇太后も、それは一緒。メルカッツ提督の娘さんも。それが、カリンの心の中できらめきを発した。

 

「ねえ、ユリアン。

 マルガレーテさんの言葉はそのまま言えないけれど、確実な復讐になる方法があるわ。

 しかも、誰もが恩恵を受ける。

 これが実現したら、皇太后陛下はそれだけで名君と呼ばれてもいいわ」

 

 彼女の言葉に、ユリアンは怪訝な顔を向けた。

 

「そんな都合のいい方法があるの?」

 

「医療の自由化よ。旧同盟の医療制度を、帝国に導入させるの。

 帝国に国民健康保険を作らせて、医療知識の向上も図るのよ。

 これは教育との二本立てになるんだろうけど。

 望まない妊娠をしたり、病気の知識がないことで手遅れになるような、

 そんな人たちがいなくなれば、皇帝ラインハルトへの最高の復讐よ。

 戦争に使ったより、もっと沢山のお金を使わせてやることにもなる」

 

 まだ涙に濡れた紫陽花に、夏の輝きが宿り始めようとしていた。

 

「誰も傷つかないし、誰もが喜ぶわ。

 帝国軍人も大きな顔ができなくなる。いい気味じゃない。

 バーラトから薬なんかも輸出できるし、

 帝国本土から医学を学びに来る人も増えるんじゃないかしら。

 母校って特別だから、バーラトの味方が増えると思わない?

 しかも、お医者さんよ。ロムスキー主席の卵になるかもね」

 

 その光は、大地からも水を蒸発させていく。

 

「名案だ。完璧だよ、カリン」

 

「ありがとう。じゃあ、リュシーの宿題の答えも考えてちょうだいよ」

 

「それはちょっと待ってもらえないかな」

 

 ユリアンは紅茶を淹れ直すことにした。涙の味がするうちは、本当の味もわからないから。父母を通して、帝国と旧同盟を知る、ティーポットの中身よりも淡い色の髪をした彼女。そして、帝国から旧同盟へ、またその道を往復するだろう、ベルンハルト・フォン・メルカッツ。二つの国を知る人が、掛け橋となっていくといい。

 

 ヤンの下で、薔薇の騎士(ローゼンリッター)たちが悪名を拭い、勇名を馳せていったように。メルカッツ提督の聡明な令嬢が、加わってくれればどんなによかったことだろう。彼の帰りを待とう。この情報を、カリンの提言をよりよく使ってもらえるよう、みんなで考えながら。

 

 葉が開くのを待つ間に、ユリアンも思いついたことを呟いた。

 

「もう一つは、不敬罪の緩和と言論の自由の推進かな。

 押さえつけるから、取り締まりが必要になり、怒りの圧力が高まるんだ。

 そうでしょう、ヤン提督」

 

 守護天使が頷いたかは定かではない。ただ、初夏の風がカーテンを(さや)かに揺らして入り込み、紅茶の芳香をキッチンに振りまいた。ユリアンは思わず微笑んだ。初任給でプレゼントした、ヤンのお気に入りのティーカップ。それにも一杯献じて、居間に戻るとしよう。ブランデーもたっぷり入れて。

 

 新帝国暦4年の四月の終わり。マーガレットは、美しく白く、誇らかに咲いていた。誠実と貞節という花言葉にふさわしく。ウエディングドレスを思わせる、純白のドレスでマルガレーテは天上へと旅立っていった。再び、ローゼンタールの指輪をはめて、母の形見を夫に託して。彼女の最初の夫は、妻となる女性に花嫁の道を歩ませたかったのだ。言葉のとおりの意味で。

 

 葬儀には、ローゼンタール家の所領の人々が大勢参列してくれた。前当主夫妻は、彼らにとって慈悲深い良き主だった。彼らは若夫婦を襲った悲劇に心を痛め、リヒテンラーデの名を隠れ蓑にして、メルカッツの令嬢を守ってくれていた。

 

 その後、若き未亡人は変わりなく所領を差配した。義父母と同じく、公正で慈悲深く。皆がそれに感服し、同情し、病に倒れた彼女を陰ながらに支えていた。遺言が読み上げられると、参列者から慟哭の響きが上がった。マルガレーテは決して独りではなかった。

 

 彼は最後に手のひらに口付けた。それは求愛のキス。書類だけの白い結婚、その期間はたったの二週間。あの爪の傷さえ、完全に治ってはいなかった。それでも人を愛するには十分な長さ。そして、そんな男を遺して逝ってしまった、つれなき美女(サン・メルシ)

 

 たしかに、これ以上の罰はなかった。メルカッツの名を継いで、彼は歩み始める。

 



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新帝国暦4年/宇宙暦802年~ 時の間奏曲
挽歌と子守唄


 帝国軍の人員削減と、膨大な業務を帝国の各部門に移管すること。これが新銀河帝国第二代軍務尚書、ウォルフガンク・ミッターマイヤーに課せられた役割であった。

 

「俺は、こういう書類仕事はなあ……」

 

 口の中で呟きつつ、それでもやらなければならない。前任者のありがたさを今さらながらに痛感する。

 

「まったくずるいぞ、オーベルシュタイン。

 卿は陛下の影であったが、なにも天上まで随行することはなかったろうに」

 

しかし、ラインハルトの光輝の影ならば努める価値があろう。その忠誠ないしは価値を、皇太后ヒルダに対して、オーベルシュタインが持ち得たかどうか。死者は語らない。だが、生者に突きつけられている問題であった。

 

 ラインハルト・フォン・ローエングラム、そしてヤン・ウェンリー。圧倒的なカリスマで人の心を捉え、牽引して突き進ませる、英雄という名の魔性。

 

 彼が命じれば、平凡な兵士が星の海を越えて他国に攻め入り、彼が指揮した軍は、ただの一個艦隊でその大軍に勝ち続け、巨星の喉元に牙を立てる。

 

 ヒルダが決して持たぬ力だった。そして、ミッターマイヤーにもそんなことはできない。

 

 ラインハルトだから成しえたことを、ヒルダができないのは当然だった。しかし、当然のことを帝国の国民が納得できるだろうか。特に、感情面で。帝国軍の中枢にあって、ヒルダの貢献や為人(ひととなり)を知っているミッターマイヤーらはいいのだ。皇帝夫妻の結婚を、慶事として心から祝賀した。

 

 だが、帝国本土の国民には眉を顰める者も多いことを、先日母からの通信で知らされた。

 

 雲の上の存在として、庶民の考えの外にいたゴールデンバウム王朝の皇帝とは違う。帝国軍の宇宙艦隊司令長官として、帝国宰相として庶民に顔を向け、絶大な支持を得たラインハルトだ。門閥貴族のほとんどを滅ぼし、帝位を簒奪しても、多くの庶民は喝采を送った。だが、庶民に理解できる存在となったからこそ、庶民感情から批判をされる。専制君主制から階級を撤廃しようとすると、社会が揺らぐのは避けられないのかもしれない。

 

 だが、ミッターマイヤーはヒルダの味方であろうと誓った。親友の遺児を、ミッターマイヤー夫婦が育てるために、有形無形の支援をしてくれた。ロイエンタールの叛逆を、君側の奸を告発するために行ったものだと解明し、彼の名誉を回復するのにも、大きな役割を果たしてくれたのだ。

 

 フェリックスは二歳を迎えて、言葉も増え、ミッターマイヤーの出勤と帰宅のたびに、ちょこちょこと駆け寄り、飛びついて話しかけてくる。

 

「いってらっしゃい、ファーター」

 

「ファーター、おかえりなさい!」

 

 あの子が起きている時間の中でのことだが。子どもとはなんと愛しく、かけがえのないものだろうか。それは親にとって誰しも同じだ。軍務尚書たるミッターマイヤーも、十六歳の一兵士も、誰かにとっての唯一の誰かだ。子どもを持ってようやく思い至った、当たり前の感情。

 

 だが、ラインハルトがあれほど戦いに邁進できたのは、この感情の欠落ではないだろうか。この思いを知るからこそ、ヤンは不敗を貫いたのではないだろうか。そして、これに恵まれなかったから、ロイエンタールの心は満ち足りることがなかったのかもしれない。

 

 ミッターマイヤーの問いには永遠に答えが返らず、だが問い続けなければならないだろう。自分がどうすればよいのかを。

 

 とにかく、この平和を守らなければならない。フェリックスが戦場に立つ日が訪れないように。大公(プリンツ)アレクが先頭に立って、敵を討つことがないように。

 

 そのためには書類がなんだ。ヤン元帥との会戦を考えてもみるがいい。

 

 当の黒髪黒目の魔術師が聞いたら、きっと肩を竦めてこう言っただろう。

 

「艦隊戦の行動限界は二週間。でも、事務仕事には終わりも切りも果てもないんですよ」

 

 サボリ魔の意見をミッターマイヤーが知る機会がなかったのは、双方にとって幸いといえよう。皇帝ラインハルトと前任のオーベルシュタイン元帥死去の直後、官房長のアントン・フェルナー少将が作成したのは、あくまでも概要書、すなわちダイジェストである。その根拠となる本体の書類があるわけで、その量たるや、軍務尚書の大きなデスクの天板にまんべんなく敷きつめてなお、一メートルの高さになるものであった。

 

 ミッターマイヤーは、迅速で果断な判断力の持ち主である。それが彼をして『疾風』たる名将となさしめた。だから、最重要事項が抜粋された概要書で充分、根拠書類は必要に応じて調べればいいと割り切った。でないと取りかかる前からうんざりとしてしまう。その膨大な書類は、資料室に分類して片付けさせ、綺麗になったデスクで課題に取り組み始めた。

 

 これを、バーラト星系自治共和政府の事務総長が聞いたら、にやりと笑って『正解だ』と言ったかもしれない。ともかく、まったく畑違いとはいえ、ミッターマイヤーは皇帝ラインハルト最古参の部下の一人である。門前の小僧と言うわけで、やはりその手法を肌で実感していたのだ。

 

 それに、彼は平民出身にも関わらず、二十七歳で少将に昇進した男である。まだミューゼル姓を名乗っていた、ラインハルトの麾下に加わる前のことだ。

 

 つまり、将官としての事務、人事能力も旧帝国の基準によって、きちんと教育されていたのである。この基礎能力に、彼の高い判断力が、管理職の第一段階を労せずして達成していた。それは、仕事の序列をつけて中間管理職に分配し、全体図の提示と情報の交通整理の前段階。基本の基本である『いらないことはやらない』だった。やはり、実務経験の差は大きい。

 

 さて、ワーレンらが脂汗やら涙やらを流した結果、イゼルローン要塞は新銀河帝国に返還された。その返還作業中、ミッターマイヤーは工部省を動かして、要塞返還後の大改修の調査を開始させた。悪辣な詭計(トリック)をもって、二回もイゼルローンを奪取した魔術師の部下の言葉を鵜呑みにはできない。しかし、その知識を捨ててかかるのは愚かなことだ。彼らは、旧帝国の要塞司令官と駐留艦隊司令官の誰もが及ばぬほど、イゼルローン要塞とその宙域を研究し尽くしていたのだから。

 

 帝国軍の思わぬ柔軟性に、褪せた麦藁色の髪の青年は、器用に片眉を上げたものだ。そして黒い瞳の美女に、青緑色の目で目配せをした。やはり、残っていたのは正解だったろうと。彼女は不承不承に頷いた。電子治療機器のリース期限の延長金を、どこまで叩けるかと思案をしながら。

 

 次に帝国側が唸ったのは、ガイエスブルク要塞来襲後の破損修理の見事さである。あの来襲で、イゼルローン側は主砲の硬X線ビームやミュラー艦隊のレーザー水爆ミサイルの直撃によって、甚大な被害を出していた。しかし、要塞の特性を研究していたために、次の攻撃が届かないように、要塞の外縁ブロックから人員を動かしていた。それにより、主砲の被害は一万人強で済んでいたのだ。

 

 しかし、要塞自体の損傷、とくに水爆ミサイルによる直径二キロのクレーターを修理したのは、キャゼルヌ事務監らの手腕である。とりあえずの応急処置、穴を塞いだだけだとは本人の弁だが、半年足らずであれだけの修理を済ませるとは尋常ではない。おまけに、修理代金は帝国の常識では考えられぬほどに安上がりだった。

 

「民間企業を指名競争入札して、価格を叩き合わせたからですな」

 

 理由を問われたキャゼルヌは、こともなげに言い放った。

 

「同盟では官民を問わない常識ですよ。

 アムリッツァ後、不景気でしたから、どこも仕事が欲しかった。

 イゼルローンを修理したとなれば、大いに箔がつく。

 設計図と必要な材料や工程を公開し、金額は業者に計算させます。

 発注側の我々も無論計算はします。業者が首をくくらんでも済む額をね。

 で、こちらの計算と業者の計算の答え合わせをする。一番安い者が勝ちというわけだ」

 

 以前の貴族資本にはない発想である。当時の公共事業は、貴族の誰それを指名するという形だった。それが国営企業になり、今度は皇帝の構想に応じて動かすだけであった。競争という発想が乏しいのだ。

 

「なにも、一から十まで国や軍がやらなくてはならないことでもないでしょう。

 要するに建物の修理に過ぎないわけですから、金を払って出来る者にやらせる。

 この要塞返還後も同じことですな。民需拡大のため、業者を参入させればいい。

 ああ、軍が技術協力をするのはいいことですがね。軍人の再就職への道になる」

 

 キャゼルヌは後方本部長代理として、同盟軍解体後の軍人の再就職にも取り組んでいた。二重、三重の布石を打つ、というのは何も黒髪の後輩の専売特許ではないのだ。

 

「それに、フェザーンを帝都として整備するならば、

 流通を分散化させて、リスクの軽減を図るべきだ。

 イゼルローン回廊を新たな通商の道にする。

 そして、エル・ファシルを第二のフェザーンに育てる。

 ヤン・ウェンリーの和平構想の一つです。

 エル・ファシルは非常に住環境の優れた惑星でしてね。

 なにせ、イゼルローン回廊の至近、帝国軍が住民の略奪にくるような地なのに、

 三百万人も人が住んでいましたからな。

 平和になれば、フェザーンよりも強靱な経済圏になりうるのです。

 惑星レベルで自給自足が可能だから、余所から食糧を持ってこなくていい」

 

 再び明かされる、魔術師のベレーの中身。

 

「ヤン司令官は、交易商人の息子だった。

 経済や流通の重要性を根本で理解していたわけですよ。

 国家の役割は、極論するなら国民を食わせることですからね。

 イゼルローンの大改修は、ちょうどいい機会でしょうな。

 フェザーン側で帝国本土の企業を使うなら、こちらは新領土側を使う。

 そして、両方に金をもたらすことです」

 

 直截(ちょくさい)すぎる表現に、同席していたワーレンはなんとか口を挟んだ。これだって元帥閣下の仕事ではないが、その他の面々が凍結していたので仕方がない。

 

「しかしキャゼルヌ中将。

 卿は、下手に旧フェザーンや同盟資本を参入させるのは勧められないと、

 先日発言していただろう」

 

 薄茶色の目が、悪代官の笑いを浮かべる。

 

「ええ、ご指摘のとおりだが、上手に参入させれば何の問題もない。

 むしろ、大いにプラスだ。なんら矛盾はありません」

 

 ワーレンはどうにか乾いた笑みを浮かべたものである。事務監の背後の書記が、アッシュブロンドの頭を頷かせて、にっこりと微笑んだからだ。さっさと仕事をすませないと、お家に帰れないのよ。その空色の目が語っていた。

 

 ワーレンの苦難が滲む報告書を元に、イゼルローンの大改修は工部省主導で行われた。イゼルローンは、この五年で二人の主人の間を行き来した。旧同盟軍から押収された資料には、ヤンが最初にイゼルローンを奪取し、帝国逆進攻の前線基地として整備され、その後にヤン艦隊が駐留して、さらに整備を進めた資料がきちんと残されていた。これを逆回しにすれば、基本的にはいいだろう。

 

 しかし、要塞建設から四十年近い年月が経過しているのだ。核融合炉や要塞主砲などの根幹システムとその制御プログラムは、当時からほとんど変わっていない。難攻不落の代名詞の、中核をなす部分を改変しようとは、旧銀河帝国上層部は考えなかった。

 

 イゼルローンを奪取した同盟軍も、それには手を加えなかった。最も切実には資金不足、次は技術者の手不足。三つ目は、魔術師の悪だくみの種として。ここにも、手を入れなくてはならないだろう。これまた旧帝国軍の資料が探し出され、旧同盟軍の資料と比較検証されながら、イゼルローンの大改修プロジェクトは開始された。これは結局、作業に四年半あまりを必要としたが、新領土に大きな収益を生むことになった。

 

 つまりは、地理的、企業の能力的な問題である。これほどの大改修を行うための資材、人員、艦艇などを安上がりに揃えるのは、新領土の方が楽だからだ。帝国側のイゼルローン近隣の辺境星系は、貴族領の中でも貧しかった。

 

 なにしろ、旧同盟軍の帝国逆進攻の際に焦土作戦を行っても、強硬に反対するような有力貴族がいなかったのだ。これが、ブラウンシュヴァイク公爵領ならば、ラインハルトも同じことはできなかっただろう。つまり、これほどの大工事を行えるような企業が最初から存在しない。

 

 財務尚書オイゲン・リヒターは溜息をついたものだ。

 

「旧帝国の階級の弊害と距離の暴虐だな」

 

 新領土の企業は貪欲だった。自社が競争に敗れても、入札の勝利者との取引を通じて、利益を生み出そうとする。これは国営化した帝国本土の企業には、一朝一夕に真似できない。バーラト星系共和自治政府の財務長官らや、旧同盟にフェザーンの財界人が口を揃えるように、民間に移管していくべきだろう。

 

 さて、軍が丸抱えにするのは愚かだが、技術や運輸の協力はすべきだというのがキャゼルヌの意見であり、軍務尚書たるミッターマイヤーも、それに賛同せざるを得なかった。新領土駐留軍の一部と、帝都に駐留しているミッターマイヤー艦隊の一部を割いて、半個艦隊規模のイゼルローン回廊警備艦隊を設立した。主将は、カール・エドワルド・バイエルライン大将。

 

 元帥が、一個艦隊の司令官であることの明らかな弊害であるが、これは致し方なかった。イゼルローン軍の大佐が、帝国軍人は三階級下に見ろと上官に助言したのが、いよいよ表層化してきた感があった。大将ともなれば、本来なら一個艦隊以上の司令官である。この規模に見合う階級は、少将か中将といったところだ。

 

 ヤン・ウェンリーが、半個艦隊だった第13艦隊を率いていたのは少将昇進直後である。それはアスターテの会戦で、ラインハルトの攻撃を見破り、全軍の潰走を阻止した功績による。

 

 彼が大将となったのは、イゼルローンを味方の流血なく攻略し、アムリッツァの会戦で殿軍を務めて味方の生還に力を尽くしたためだ。

 

 バイエルラインが、ヤンのような戦功を()てたのか? これには否と言わざるを得ないだろう。だが、人材は手を掛け、経験を積まねば育たない。

 

「まったく、悩ましい問題だな。

 将官、佐官級で適性ある者を他部門に異動させ、階級を是正化するほかないだろう。

 降格という形をとれば、不満が爆発するだろうからな」

 

 ミッターマイヤーの構想に、アントン・フェルナー少将は同意した。

 

「は、佐官級も年齢の割に多いかと存じます」

 

「まったくだ」

 

 ミッターマイヤーは、おさまりの悪い蜂蜜色の髪をかき混ぜた。

 

「ところでな、ミュラー元帥から連絡があったのだが」

 

「……バーラトが何か言ってきたのでしょうか」

 

「いや、新領土の地理や歴史について現地行政官に説明を依頼したら、

 小中学生の教科書を渡されたというのだ」

 

 フェルナーの眉根が引き攣った。

 

「ミッターマイヤー軍務尚書、それは本当ですか? 

 あまりに非礼ではありませんか」

 

 ミッターマイヤーは渋い表情で首を振った。

 

「ああ、俺も最初はそう思ったのだが、これが実にわかりやすくて、よく出来ていてな。

 ミュラーも中身を読んで、逆に感謝したと言うぐらいなのだ。

 こちらに写しを送ってきたので、卿も目をとおしてみるといい。

 それが、旧同盟の義務教育の基本カリキュラムというわけだ。

 そしてバーラト星系では、宇宙統一後の歴史を含んだ教科書を制定した。

 他の新領土では、どのような教育を行えばいいのかと、質問されてしまったそうでな」

 

 

 フェルナーは、天井を仰いで、ぴしゃりと額を叩いた。

 

「次は教育問題ですか……。それは軍部の仕事ではないと思うのですが」

 

「だが、新領土に赴任するのは、ほとんどが帝国軍関係者だからな。

 学芸省は、帝国本土の学制改革を進めているが、

 我ら軍人や成人は対象から外れるだろう。

 戦うならば、航路や宙域のみを知ればよいが、

 統治や守備をするとなると、さらに詳しい知識が必要になるわけだ」

 

 フェルナーは眉間を揉んだ。

 

「新領土の者は、帝国本土の知識をある程度持っていましたね。

 彼らの出自からいえば当然でありますが」

 

 我らみな、逃亡者でなければ亡命者の子孫だ。旧自由惑星同盟軍史上、最年少の元帥はそう語ったという。

 

「ああ、それに当面、新領土から帝国本土に大々的な進出はあるまいよ。

 というよりもだ、帝国本土の国民すべてが、統一基準による基礎教育を受ける状況にない。

 士官学校卒者と一般徴兵者を同様に考えるわけにはいかんが、

 多数の一般兵は同盟語が不自由だ。

 農奴階級出身者などは、帝国語の読み書きもおぼつかん。

 これは問題だぞ」 

 

「一般兵を退役させるにしても、相応の教育をしないと学力の谷間ができてしまうわけですか。

 そこへ、新領土などの資本が参入したら、教育弱者は経済弱者になるということですね」

 

 ミッターマイヤーの目が、曇り空の色と化した。

 

「ああ、そういうことだ。これを解消せんと安易な人員削減はできん。

 卿の言った懸念は、いち早く気付いたワーレンからの上申にもあった。

 黒衣(くろこ)は、バーラトにいるだろうがな」

 

 その部下は、眉間を押さえたまま項垂れた。

 

「本当に、嫌な()を先んじて打ってきますね、あの連中は」

 

「だが、まったくもって正しい。同盟軍を解体した先行者の意見は尊重するに値する。

 ただし、あちらの兵員は、最低でも幼年学校卒業程度の学力の所有者たちだ」

 

 上官と部下は顔を見合わせた。どちらともなく溜息を吐く。ミッターマイヤーは、乱雑に髪をかき回した。

 

「それでな、一般兵の中からも、このイゼルローン改修事業に参加させようと思うのだ。

 新領土企業に協力し、彼らのやり方を学び、再就職への道筋をつける。

 作業期間は三年以上が見込まれる。派遣は一年交代として、人事の固着化を防ぐ。

 兵士たちの郷愁にも配慮をしなくてはならん」

 

「御意。見事なお考えです」

 

 ミッターマイヤーは右手を振った。

 

「いや、卿の賞賛には値せんのだ。

 俺自身が思いついたのなら大したものだが、散々カンニングしたうえのものだぞ。

 しかし、発案者よりも実行者、そして当事者の努力がもっとも必要となるだろうよ。

 この案件は、比較的若年で、学習能力の高い者が望ましいだろう。

 統帥本部と協議して、適任者を選出させてくれ。一万人を一年単位の交代でどうだ?」

 

「よろしいかと存じます」

 

「だが、これは贅沢な悩みだろうな。

 一万人は、艦隊に換算すれば百隻足らずの兵員に過ぎん。

 会戦となれば瞬く間に失われる命だ。その行く末を悩む余裕さえなかったのだ。

 平和とは尊く、そして重いものだな。そうは思わんか、フェルナー少将」

 

「御意」

 

 疾風ウォルフは、傑出した名将だった。

それ以上に、平和の無為の価値を正しく理解する男だった。白き手の皇太后の下で、それに見合った軍を再構築するのに、彼以上の軍務尚書はいなかっただろう。

 

 帝国の双璧から至宝へ。オスカー・フォン・ロイエンタール元帥は、彼を地位に応じて器量を充実させると評した。それ以上の表現ができた歴史家は、ついに後世にも現れなかった。



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鳥の詩――猛禽と金糸雀――

オリジナルのキャラクターおよび設定が登場します。ご注意ください。


 メルカルトに赴任した新領土駐留軍総司令官、ナイトハルト・ミュラーを待ち受けていたのは、バーラト星系共和自治政府の敏腕事務総長の教育的指導ではなかった。教官は、もっと身近に潜んでいた。惑星メルカルトの現地行政官、ハリー・ハンターである。

 

 さて、元イゼルローン革命軍の事務監で、現在のバーラト星系共和自治政府の事務総長、アレックス・キャゼルヌはなぜ同盟軍にいたのだろうか。十億人を超える自治領の行政事務を差配できる事務の達人である。それこそ、旧自由惑星同盟の官僚も務まったであろう。答えは簡単だ。自由惑星同盟軍士官学校に入学し、卒業したからである。

 

 それにはいささか情けない理由があった。ハイネセン記念大学に願書を提出したものの、試験日時を間違えるという、人生で二つ目の大ポカをやらかしたがゆえだ。ちなみに、もう一つは女房にも言えないそうなので、親しい者も知る由はない。むしろ、恐ろしくて聞けない。彼は墓場まで持っていくつもりらしい。

 

 彼やヤン・ウェンリーが行きたかったハイネセン記念大学は、旧同盟における最高学府である。政府官僚や、地方星系政府の上級職員も、多くがここの出身者だ。キャゼルヌに迫る、あるいは匹敵する能力の行政事務のプロ。それが現地行政官の正体だった。

 

 例えば、航路が不安定になる天文的欠点を言い立てて、見事に帝国軍を門前払いした惑星シロンのミゲル・フェルナンデス。軍需産業が撤退したメルカルトに、新領土駐留軍を誘致したハリー・ハンター。閑古鳥が定住する前に追い払い、帝国軍という新たな金のガチョウを呼び込んだ。

 

 この二つの惑星は、旧同盟領屈指の金持ちだった。そこの行政事務の長が無能という事はありえないのだ。

 

 ミュラーの着任式で、進み出て挨拶をしたのは、五十代半ばに見える栗色の髪にオリーブグリーンの目の女性だった。

 

「始めまして、メルカルト現地行政官のハリー・ハンターです。

 遠路よりお疲れ様でございました。今後ともよろしくお願いいたします」

 

 ミュラーは砂色の目を、瞬かせた。

 

「は、あの、あなたが、ハンター行政官ですか?」

 

「正式にはハリエットと申しますが、皆こちらで呼ぶのでお構いなく。

 新領土では、アレキサンドラをアレックス、

 テオドラがテリーとなどいうのはざらなんですよ。

 氏名の後の性別表記を、よくご覧になるようにお勧めしますね」

 

 

 これまで、文書を中心としたやりとりであったし、彼女の上には帝国から派遣された行政長官がいるのだ。改めて考えると、直接に会話をしたことはなかった。ミュラーらしからぬ迂闊なことで、これにさりげない注意を送られたのである。

 

「これは失礼しました。こちらこそよろしくお願いします」

 

「宙港の整備や乗員宿舎に、不備な点がございましたら、各担当までお申し付けください。

 何なりと、とは確約はいたしかねますが、

 なるべくご期待に沿うように努力したいと考えております。

 ただ、互いに言語や生活習慣の差の壁もございます。

 言葉による行き違いを防ぐためにも、駐留軍側の意見を集約し、

 文書にて報告、回答という形をとらせていただく存じますが」

 

「それは、かまいませんが」

 

 ミュラーの母親ほどの年齢の女性が、一惑星の行政事務の長。これには、鉄壁ミュラーもやや腰が引けてしまった。

 

 決して怜悧な印象の女性ではない。もの言いはさっぱりとしているが、表情や口調は穏やかで、反感を抱くことはなかった。彼女は、新領土に不案内な青年層中心の新領土駐留軍に対して、まずは懐柔策に打って出たのだ。

 

 バーラトの和約により、この星の税収が厳しくなることは、同盟人なら百も承知であった。外見こそやや小柄で痩せ形の、幼稚園か小学校低学年のベテラン先生といったハンターだが、当時の政府から送り込まれた腕利きの経済行政官僚であった。財務委員会に所属し、同盟軍の予算要求と斬り合いを演じたこともある。つまり、アレックス・キャゼルヌにわかる帝国軍の弱点は、彼女にとっても丸見えだった。

 

「帝国の景気がよろしいのかなんなのか、予算執行が丼勘定過ぎますよ。

 節約できるところは、なさるべきです。

 この経費は、我が新領土からの安全保障税でもありますから、

 当方としても一言いわせていただきたいですねえ」

 

 帝国軍が必要とする膨大な物資は、銀河帝国の各所からメルカルトに送られてくる。それに対して発生した関税は、メルカルト政府の財源となるのだが、これにハンターは眼鏡の位置を直し、二度三度と見返した。そして、新領土駐留軍に申し入れをしたのである。 

 

「いいですか、ぼったくるフェザーン企業に唯々諾々と金を払うのは、

 優良で誠実な企業や一般消費者にとって大迷惑です。

 帝国軍への納入実績を元に、連中は吹っかけるようになるんですよ。

 物資量に対して、この関税は高すぎる。

 つまりは、あなた方は余計な支出をなさっています。

 もっと新領土の企業を信用して、積極的に利用なさって下さい。

 輸送費と関税だけでも相当の節約になります。

 うちの入札契約部の職員もお手伝いしますから、本国の後方参謀とも協議を」

 

 メルカルトの税収が上がっても、それは他所からの税金を循環させているだけだ。肥え太るのはフェザーンのみ、ハンターはそう喝破したのである。ミュラーと幕僚はたじたじとなった。

 

「しかし、ハンター行政官、そうなるとバーラト政府と交渉せねばならないでしょう」

 

「そんなものは不要ですよ。

 メルカルトにも、こういった物資やサービスを提供する企業の支社はごまんとあります。

 安くできる企業を選び、あとは企業の努力に任せればよろしいんです。

 いいですか、民間に利益をもたらすためには、政府や軍が手を引くことも重要です」

 

 管理職としての適性が高いミュラーには、最初からハイレベルな目標が用意されていた。軍の内部での役割にとどまらず、広く行政に通じて、民需の活性化を行えというものだった。『巨大な政府』の規模縮小を行わなければならない。

 

 その最たるものは帝国軍だ。ミッターマイヤーの後任に、一番条件が揃っているのがミュラーであろう。キャゼルヌが見抜き、ハンターも見抜いた。この二人が相補的に飴と鞭による教育を開始したのである。

 

 舌が痺れるほどに激辛の飴か。柔らかく要所を打ちすえる絹の鞭か。

 

 結論から言うなら、どちらも痛い。主に心に。新領土について説明資料を依頼したら、小中学生用の教科書が渡された。さすがのミュラーも色をなしかけたが、ハンターはにこにこして言った。

 

「まあまあ、これが一番分かりやすい優れたダイジェストですのよ。

 なにしろ、十歳の子どもにも新領土の事が理解できて、

 十五歳の少年には、社会で通用する常識を与えるのです。

 それに、同盟語の練習にもなると思うのですよ。

 閣下や幕僚の皆さんは、言葉に不自由はないのでしょうが、

 お若い兵士の方々はそうではないでしょう。

 メルカルトで生活をなさるなら、同盟語がおわかりになったほうが楽しいと思いますよ」

 

「楽しいだと!?」

 

 副官のドレウェンツが鋭い視線で吐き捨てる。

 

「ええ、皆さんも新領土の立体TVぐらいはご覧になるでしょう。

 休日に外出して映画を見るにも、何か食事をするにも、

 言葉がわかったほうが、選択肢が増えるでしょう。

 もっとも、映画は吹き替えもありますけれどね」

 

「休日が何だとおっしゃるのか」

 

 副官がいきりたって詰問するので、ミュラーは彼に任せることにした。このご婦人を、若輩者が攻略できるとは思わなかったが。

 

「大変に重要ですよ。人間の体力ややる気というのは、限りある貴重な資源です。 

 しかし、適度に休養を取ることで、それを回復させ長持ちさせることができます。

 星空の彼方からおいでになって、言葉もわからず、美味しい物も食べられないでは、

 流刑も同然でしょうに」

 

 比喩の衣は着ていたが、帝国軍の問題を抉り出す刃だった。言葉も生活習慣も、星座の形も異なる異国。ラインハルトによる同盟の侵攻から四年。帝国軍人は、ずっと黄金の獅子の旗を仰いでいた。長期間故郷の地を踏んでいない者も数多い。そんな青年たちを、ハンターは優しい表情で見回した。

 

「人生には楽しみも休息も必要ですよ。

 それはミュラー元帥、閣下も同じです。たまには休暇を取られることですね」

 

 そして返す刀で、休暇の取得推進を切り出されてしまった。それを実現させるには、部下をきちんと育て、上官の不在時に備えた体制づくりをせよということである。みな、言葉が出てこない。さらに、ハンターは聞き捨てならない言葉を口にした。

 

「故ヤン元帥は、最も有給休暇取得数の多い将官でしたが、

 キャゼルヌ元中将も実は負けておりませんのよ。

 お子さんの学校行事に進んで参加する、よき父親でしたの。

 実は今もそうなの。明日の午後は不在につき、諸連絡は午前中までとのことですよ。

 本当にいいお父さんだこと。奥様が羨ましいわ」

 

 あの激務の中、ちゃんと仕事にきりを付けて、帰宅して子どもの学校行事に参加までしている。キャゼルヌ事務総長、恐るべし。そして、ムライ駐留事務所長が語っていた、ヤン・ウェンリーの給料泥棒ぶりが事実であったとは。ミュラーがヤンから聞いた、昼寝うんぬんは冗談ではなかったようだ。

 

「まあ、非番の日にはちゃんと休んで遊んで、心の余裕を持つのもトップの務めですよ。

 軍服を脱ぐのも時にはいいものですからね」

 

 ハンターは眼鏡の奥で柔和に目を細めた。

 

「特に、若くて可愛い女の子の前ではね。

 うちの職員にも気だてのいい、可愛い子が一杯いますよ。

 よかったら、親睦会でもいかがかしらねえ」

 

 それは宇宙最強の存在、世話好きおばちゃんの降臨だった。ドレウェンツが、もつれるような口調で辞退の言葉を述べるのに、ハンターは残念そうな表情になった。副官の同僚の何人かが、彼女と同じ表情になったのにミュラーは気付いてしまった。

 

「あらまあ、また気が向いたら声を掛けてくださいな。

 言葉を習うには、恋人を作るのが一番だといいますからね」

 

 ミュラーは引き攣った笑いを浮かべ、なんとかハンターを説得できそうな台詞をひねり出した。

 

「ハンター行政官、お心遣いに感謝しましょう。

 せっかくだ、今度の休暇にこの資料を拝見したい。

 貴官のお話は、その後に検討させていただこう」

 

「おやおや、帝国の方は本当に真面目でいらっしゃるのね。

 あんまり根を詰め過ぎないようになさってください」

 

 そう言って、ハンターは辞去の挨拶をして、ミュラーの執務室から退出した。ミュラーと部下らは、安堵の息を吐いた。皆が二十代から三十代の青年たちだ。頭一つ以上小柄で、体重も彼らの六割もないのではなかろうかという初老の女性に、どうやっても勝てる気がしなかった。ミュラーは部下らを見回して、なだめる言葉を口にした。

 

「ここは異国なのだ。彼らの流儀を学ぶのも我らの役割になるのだろう」

 

「は、しかし、この資料はあまりにも……」

 

「だが、旧同盟の教育水準が高いのも事実だ。

 明日は私の非番になっている。せっかくの進言だ。読書に勤しむのも悪くはない」

 

 本は本だ。それが小中学校の教科書でも。翌日、ミュラーは久々に自宅で本を読みながら、ゆっくりと時を過ごした。思えば、非番の日に本当に休むなど何年ぶりのことだろうか。ミュラーは、「同盟の地理」「同盟の歴史」という10歳と15歳向けの教科書に、ざっと目をとおし始め、やがて一心に読みふけった。いつしか時計の針の進むのも忘れて。

 

 非番の翌々日、ミュラーはハンターに通信を入れた。

 

「まあ、こんにちは。ミュラー元帥からのお話とは珍しいですね」

 

「先日は、こちらの先入観から大変失礼なことを申しました。

 あなたがおっしゃるとおり、これらは非常に優れた説明資料でした」

 

 ミュラーの言葉に、ハンターは眼鏡の位置を直した。

 

「そうおっしゃっていただけるのなら、旧同盟の教科書会社も冥利に尽きるでしょうね。

 なかなか面白いでしょう、旧同盟の成り立ちは」

 

 ミュラーは砂色の頭を上下に動かした。アーレ・ハイネセンが開始した五十年に及ぶ『長征一万光年(ロンゲストマーチ)』は、四十万人の参加者が四割にまで減る過酷なものだった。

 

「同盟は、ゴールデンバウム王朝へのアンチテーゼから生まれた国家でしたけれどね。

 長征五十年を生き延びたのはたったの十六万人でした。

 これを二百年で一万倍近く増やすために、我らの先人は手を尽くしたのです。

 医療、教育、民生という柱で。考える時間は充分にあった。

 氷の船で飛び立ち、あてどのない旅をする、五十年の歳月がそうです。

 いつか見つかる、どこかにある、安住の地。

 それを求める日々に、ああもしたい、こうもしようと将来への夢や希望を話す猶予がね。

 永き旅を絶望せずに乗り切った人々は、とてつもなく毅いと尊敬します」

 

 砂色とオリーブグリーンの視線が、静かにかみ合った。

 

「失礼ながら、新帝国に最も必要なものが考える時間でしょう。

 国家の基本構想(グランドデザイン)というものをね。

 戦争という、人口抑制の箍はなくなりました。

 そして、帝国の階級格差も小さくなったでしょう。

 劣悪遺伝子排除法が完全に撤廃され、新領土の知識や技術が入っていく。

 次に訪れるのが人口爆発ですよ。これは喫緊(きっきん)の問題です。

 大人の一年は短いですが、子どもが産まれるには充分な時間ですからね」

 

 砂色の目がまんまるになり、次いでその頬が赤くなる。鉄壁のミュラーを赤面させるのに成功したハンターは、次なる一矢を放った。

 

「我々の通ってきた道を、帝国中枢部にお伝えいただけませんか、

 ミュラー元帥。これについては、保健体育科の教科書をお渡ししましょう。

 非常に参考になると思いますよ」

 

 新たな国を作り上げた例は、ここにもあるのだと。ハンターの言葉はミュラーの心に沁みていく。こうして、もうひとつのキャゼルヌ分校が出来上がった。ただし、ミュラーは本校の講義も受けねばならないのだが。新領土行政官総長のエルスマイヤーと一緒に行う、バーラト星系共和自治政府との折衝がそれである。

 

 非常に幸運なことに、エルスマイヤーは心強い味方であった。故ルッツ元帥の義弟でもある彼は、故ロイエンタール元帥に同行し、新領土総督府の一員であった。ロイエンタールは行政にも非凡な手腕を有していた。彼は、理詰めで冷静で判断力に優れていた。きっちりと根拠や資料を整えた上申でないと、決して頷かない上司であったのだ。

 

 エルスマイヤーは、行政手腕が優れていると先帝に評価されて前任に就き、さらにロイエンタールによって磨かれていた。なんといっても、半年間の新領土の駐在経験は大きい。ロイエンタールよりも更に厳しいキャゼルヌにも、とりあえずの合格点を出されたほどだ。

 

 この同僚からも色々教えてもらった結果、ミュラーはキャゼルヌの強烈な毒舌にはさほどに晒されずにすんだ。そして、行政と軍の『ほうれんそう』の連携が格段に向上し、良い結果をもたらす。

 

 だが、それはそれは厳しい男の先生は、これでも満足しなかった。この若手二人は、将来のトップ候補として優等生になってもらわねばならない。できる子だからこそ、課題も難しく多くなる。それは学生も役人も軍人も一緒だ。

 

 帝国から赴任した行政と軍事の代表者は、それに悲鳴を上げながら、二人で教えあい、学びあい、親友となっていった。行政だけ、軍だけではなく、色々な世界を知ること。それがいかに大切か。これもまた、彼らにとって多くの収穫であった。

 

 余談となるが、ミュラーの結婚式の媒酌人(ばいしゃくにん)を務めたのは、エルスマイヤー夫妻である。

 

 さて、女の先生は優しいが怖いところがあった。

 

 根が真面目なミュラーは、渡された中学校一年生の保健体育科の教科書を熟読した。正直に言うなら、一番頁数を占めているのは性教育についてであった。これは、ミュラーをまたも赤面させた。歯切れ悪く、ハンターにそれを伝えると、百戦錬磨のおばちゃん先生はこともなげに言ったものだ。

 

「長征一万光年の16万人の半分が女性として、

 子どもを生める年齢の人はその四分の一ですよ。

 多産が奨励され、それに伴って周産期医療や乳幼児医療が特に発達したのです。

 いや、せざるを得なかった。必ずしも人道的な理由ではなくね。

 なぜだか、おわかりになりますか?」

 

「いや、小官にはさっぱり……」

 

「一人の女性が毎年出産しても、算数的な上限は二十人ぐらいでしょう。

 実際の限界は、まあ、その半分から三分の一ですよね。

 それには、健康な子を生んで、母にも健康でいてもらわなければなりません。

 同盟の黎明期には、重大なハンディキャップを背負った子を社会が支える余裕がなかった」

 

 オリーブグリーンの瞳が、金色にきらめいた。

 

「どうするとお思いですか? 生まれないように手を打つのですよ」

 

 鉄壁と謳われたミュラーの背が粟立った。

 

「父母の生殖能力と遺伝子の検査をしたのです。

 目的は違えど、やったことはルドルフとさほど差はありません。

 なにしろ、母となれるのは16万人の八分の一、たったの二万人しかいませんでした。

 なりふりなどかまっていられなかった。

 伴性遺伝疾患の保因者は、妊娠する子の性別をコントロールされたりした。

 配偶者以外から、卵子や精子の提供を受けて、子を成した夫婦も大勢いたそうです」

 

 嫁を貰う前の青年には、衝撃的な言葉が連ねられる。

 

「そして、めでたく妊娠すると、妊産婦健診をします。だが子どもの病気が判明した。

 治せる子は、出生前、あるいは出産直後から治療する。

 治せないような病気であるなら、生むか生まざるかを選択しなくてはならない。

 そんな社会で生み育てることを貫くのは、非常に大変なことだったと申しておきましょう。

 旧同盟の医療はこうして発達しました。数多くの父母の涙と、涙も流せぬ子の命を糧にね。

 そのおかげで今がある。必要以上の検査はなくなり、障害者の社会保障も整いました」

 

「それが、旧同盟の……」

 

 逡巡するミュラーに向けられた言葉は、あっさりとしたものだった。

 

「別に秘密ではありません。中学三年生の教科書には載っていますよ。

 十六万人が、二百年後には百五十億人の国家となった。

 亡命者を受け入れたりもしたので、出生のみによるものではなくとも、

 約一万倍の人口爆発です。

 ここまで極端ではないでしょうが、帝国本土にも起こるでしょう。

 めでたいことですが、手放しにしてはいけません」

 

「なぜなのか、教えていただけますか」

 

「急激な人口増は、経済の急成長を伴わないかぎり、民生を破綻させるからです。

 それを防ぐために、我らの先人は教育を行いました。

 保健体育の最重要課題は、バースコントロールです」

 

 聞いた事のない単語に、ミュラーは怪訝な顔をした。

 

「産児制限、もっと露骨に言うなら避妊法ですよ」

 

「いや、その、しかし……」

 

 しどろもどろになる若き元帥に、ハンターは語りかける。

 

「そういった教育の問題もね、これからどうなさるのか。

 教育とは、国家の形にあわせて国民をデザインする方法なのです」

 

 再び、金色の輝きがミュラーの目を射る。皇帝陛下万歳(ジーク・カイザー)民主主義万歳(ビバ・デモクラシー)を叫んで戦いあう人間を育てるのか。国家、文化の違いを認め、手を取り共存できる人間に育てるのか。彼女は面と向かって、口にはしない。だが、ミュラーの心に撃ち込まれる言葉の重さ。

 

「国家の指針が定まらなければ、教育どころではないかもしれません。

 だが、子どもの成長は待ってくれません。

 先帝陛下のお子様も、歩き始める頃ではないのかしらね。

 停戦からもうすぐ一年。あっという間でしたね」

 

「本当に同感です」

 

「それにしても、平和とは有り難いものです。

 膨大な流血を代償としたにせよ、先帝陛下の宇宙統一は歴史上に(さん)たる功績です。

 ご自身が、その果実を味わう間もなく身罷(みまか)られたのは、残念なかぎりですが」

 

 ミュラーも万感の思いを込めて頷く。だが、こうも思うのだ。ラインハルトは、戦いを糧に育ち、輝いた人であった。強い逆風が、彼を高みにまで舞い上げた。まさに、鳥の飛翔のごとく。それは、古い帝国の理不尽な圧政であり、敵国の名将であった。

 

 それがなくなった凪の中で、その翼を休めることをよしとしただろうか。皇妃(カイザーリン)ヒルダや大公(プリンツ)アレクは、止まり木となり得ただろうか。

 

 いや。ミュラーは微かに砂色の髪を振る。これもまた、もしもに過ぎない。

 

「歴史にもしもはない」

 

 そう語った黒髪の魔術師は、実は厳しい人だったのだろう。選んだ道と結果を真摯に受け止め、現在と未来を変えていけ。本来はそんな言葉が続いたのではないだろうか。亜麻色の髪の弟子は、きっとそれに気がつくだろうと、彼は思っていたのかもしれない。

 

「これから生まれる子達は、その中で育っていく。

 戦争を知らずに生まれ、知らないままに生を全うして欲しいのです。

 そのためには、過去をなるべく正確に伝えねばならないとは思われませんか」

 

「ハンター行政官、貴官のおっしゃるとおりだ」

 

 ミュラーの同意に、ハンターはオリーブグリーンの目を柔和に細めた。

 

 

「実は、バーラト政府は、新たな教科書を制定するそうですよ。 

 バーラトの和約後、皇帝ラインハルトの大親征、そしてバーラト星系の自治権確立と、

 第一回総選挙の結果を反映した内容のものだとか。

 私たち、新領土の他の惑星はどうすればよいのでしょう。

 学校教育の担当は、帝国の学芸省でしたわね。

 そこの方に新領土の知識はおありになるのかしら」

 

 答えられないでいるミュラーに、ハンターの追撃の矢が刺さった。

 

「旧同盟には『泣く子と地頭(じとう)には勝てない』という(ことわざ)が残っていましてね。

 地頭というのは、門閥貴族みたいなものです。

 あなたがたは、そっちには勝利をおさめられましたが、

 さて、子どもはいかがかしら?」



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槌音のピアノソナタ

オリジナルの設定とキャラクターが登場します。ご注意ください。


 バーラト星系共和自治政府は、第一次ヤン政権の発足と共に動き出した。宇宙暦800年の九月一日事件、翌年のオーベルシュタインの草刈りによる騒乱、そしてルビンスキーの火祭りによる、首都の焼失。こういった事件への対応に追われながら。

 

 しかしその復興は、経済成長と退役軍人らの再雇用の場としての役割も果たしたのであった。もともと、軍に熟練者を奪われることにより、社会インフラの事故や不具合も多発していた。797年の救国軍事会議のクーデター直前は、復員兵による犯罪の増加に反比例して、警察官不足による検挙率の増加も深刻だった。

 

 政府事務総長のアレックス・キャゼルヌが、『ふん!』と席を蹴って中断されていた、軍の解体と人員の再雇用は、結局本人の手によって再開されることになった。

 

「それにしても、占領するならやりようというものがあるでしょう。

 余所様に土足で踏み込んで、散らかし放題にするとはね。

 せいぜい、謝罪と賠償を要求してやることにしましょうか」

 

 キャゼルヌの不穏な呟きに、ガードナー財務長官とホアン外務長官が深く頷いた。

 

「たんまり、(むし)り取ってやることにしようか。官民問わずにな。

 フェザーン企業を、多めに復興事業の指名業者に入れたらどうだね。

 私の古巣が、教育アニメの放送をフェザーンでも開始したんだ。

 人に迷惑をかけない。もしもやってしまったら、きちんと謝り、できるものは弁償するとね。

 なかなかの高視聴率なんだ。割合から推定するに帝国軍人の家庭も見ているだろう」

 

「ふむふむ、それはよい考えです。

 フェザーン企業といっても、ぎりぎりの予算内でやるには、

 結局、旧同盟の企業を下請けにしたり、資材を購入することになる」

 

 三人は、腹黒い笑いを浮かべて顔を見合わせた。最年少の官僚は、二人の閣僚に帝国の問題点を提示する。

 

「帝国は安全保障税を要求したが、もっと肝心なものを考えていません」

 

 経済界の切れ者として鳴らした財務長官は、すぐさまキャゼルヌの示唆に応じた。

 

「ああ、地方星系交付金だろう。

 こことシロンやアルーシャ、メルカルトあたりは不交付だったが、他はどうする気なのかね。

 帝国本土からの税収ではどうにもならんよ。まったく足らん。

 むこうが気がつくまで黙っていようかと思ったんだが、どうするね、ホアン長官」

 

 ホアン・ルイは、丸っこい手をひょいと持ち上げて、肩を竦めた。

 

「あちらさんが気がつく前に、同盟だった星が火の海になるのを見過ごしたら、

 ローエングラム侯ラインハルトを非難できなくなりますからね。

 せいぜい、親切に教えて恩に着てもらいましょう。

 そして、国際法の新条項と国民健康保険の導入への布石にする。

 で、安全保障税を値切りましょう。

 皇帝ラインハルトがいたのに、いやいたから、この甚大災害です。

 統治者としての重大な手落ちですよ。

 彼は戦争の天才だったが、統治の天才ではなかった」

 

「税制改革や刑法の改革は、一見大したものだがね。

 だが考えてみれば、その一番の対象者の貴族は、もはやほんの少数派のわけだ。

 一方で、農奴階級として、ある意味免税されていた者からも税金を取ることになるだろう。

 いいのかね、あれは。非課税世帯の制定をするにも、所得や控除のシステムはどうなんだ」

 

 元経営者のギルバート・ガードナーの指摘は鋭かった。

 

「税制を公平化するのはいい。

 だが、累進(るいしん)課税や相続の均等化は、資産を分散することでもある。

 これは貴族制を残している帝国社会と、真っ向から対立する。

 貴族の代替わりの時期に、妻子が骨肉の争いを繰り広げないかね?

 皇帝アレクサンデルだってそうなるかもしれんよ。

 相続法は階級による区別を設けた方が無難だが、皇帝ラインハルトの改革に逆行する。

 彼の妻や義父にはできんだろう。無論、子飼いの臣下にもな。

 財務尚書、民生尚書らの開明派を巻き込んでいくしかなかろうな」

 

 キャゼルヌは腕組みした。

 

「いままで、戦争で何でも片を付けてきた若い連中ですからな。

 銀河帝国の名を持ってはいるが、歴史的な知識の蓄積がなきに等しい。

 名前と規模は変わったが、自由惑星同盟の後継たる、我々よりもずっとね」

 

 ホアンはまた肩を竦めた。

 

「その孤独な未亡人と幼児を、良き隣人は手助けしてやらねばならんでしょう。

 ガードナー長官の、古巣のアニメに倣うならね」

 

「そういうことになるのかね。まったく、正義の味方は大変だ。

 地球時代のある児童文学作家が言ったそうだよ。

 もしも正義の味方があるとするなら、

 それはみんなをお腹いっぱいにしてくれる存在だとね」

 

 キャゼルヌとホアンは目を瞠った。

 

「至言ですな」

 

「絶対の真理というのは多くないが、それがその一つでしょう」

 

 こうして、バーラト政府上層部には暗黙の了解が成立した。宇宙の平和のためには、飢える者を出してはいけないということだった。すぐさま、旧同盟時代の税制や国家予算の歳入歳出といった資料が用意され、帝国へと提言がなされた。指摘された側は驚愕し、次に腹の底まで蒼白になった。

 

 国家全体で、富めるところは貧しいところを支援し、どこでも一定水準の生活を営めるようにするのが、ナショナルミニマムだ。旧同盟なら、住民はみな中学校までの義務教育が受けられたし、国民としての就労と納税の義務と共に、公的な住民サービスの提供があった。

 

 ハイネセンを筆頭に、シロン、アルーシャ、メルカルトのような裕福な星と、捕虜収容所しか産業のない人口十万のエコニア、危険地帯だったエル・ファシルなどでは財布の大きさが違う。惑星レベルで終始してしまうとどうしようもないので、裕福なところに協力してもらう。それが地方星系交付金だ。

 

 その発想は、帝国にはなかったのであった。門閥貴族制というのは、中央集権以前の統治形態だ。いわば、極端な地方分権といえよう。貴族の領土ごとに財布は別会計である。帝国に上納する税はあったが、国家から地方に下りてくる金はほとんどない。ゆえに、貴族階級でも貧富の差は大きかった。

 

 そんな旧銀河帝国から、獅子帝が絶対者として君臨する新銀河帝国への変貌。権力構造だけを見れば、五百年をかけてルドルフの即位時に戻ったともいえる。歴史の皮肉だ。ルドルフとその子孫に爵位を授けられた貴族の多くは滅び、住民は今までの怒りをその家族と代官らにぶつけ、邸宅や代官所を襲撃、略奪を尽くした。

 

 ラインハルトに集約された門閥貴族らの資産は、宇宙統一や国民の生活向上に使われた。非常に乱暴ではあるが、一種の地方交付金と言えよう。だが、彼が崩御するとそれっきりになってしまった。激動の中、現状維持ができただけでも上等過ぎたほどだ。皇太后ヒルダを責めることはできない。

 

 その第一波は去ったものの、荒れた門閥貴族領の整備にようやく着手した段階である。代官所などの襲撃で、住民記録や土地台帳などが消失してしまった所も多い。国の中枢部とのデータ連携など、旧同盟では常識の情報機構もない。出生や死亡の記録がない農奴階級も、決して少なくはなかった。皇帝直轄領となって、統治のための住民記録から作成を開始せねばならず、新帝国発足から五年以上経ったが、帝国本土の行政官らはいまだに悲鳴を上げている。

 

 一方、ラインハルトに味方して、存続している貴族領もある。例えば、マリーンドルフ伯爵領がそれだ。彼は、民生に力を入れていた名領主であったから、その領民は生活水準が高い。旧ブラウンシュヴァイク公領などとは雲泥の差だ。現在の帝国本土は、皇帝直轄領と貴族領が混在している状況である。統治していた貴族によって、民生の充実には著しい偏りがあった。

 

 どうやって、国民の生活を向上させていくのか。他からの税金を回すにしても、どう計算すればいいのか。

 

 アムリッツァの大敗以前は、人口250億の帝国が48、130億の同盟が40、20億のフェザーンが12という経済力比だった。大敗後の同盟は33に低下したが、それでも国民一人当たりの経済力では、帝国本土は最初から勝負にならない。

 

 こんなふうにして、バーラト共和自治領との外交は、帝国にとって頭の痛い問題を再認識させるものだった。その知識は確かに貴重で、提言は良薬のような効果を持つ。だからこそ苦いのだが。帝国本土のほうに力を入れなくてはならないから、優等生には目を離さずに、手を離すようにする。安全保障税は減額され、新領土復興税という名称で地方星系交付金が復活した。

 

 細かなことだが、バーラトの住民の心の安定には役に立った。帝国軍に支払うより、帝国の下で苦労している郷里や同胞に資するなら、そのほうがずっといい。復興税なのだから、ハイネセンポリスの復興にこそ金を出せと交渉し、実現させたホアン外務長官の手柄も大きい。

 

 また、シトレ国防長官、アッテンボロー補佐官も、安全保障について帝国と粘り強い交渉を行った。帝国軍と対決していた旧同盟軍宇宙艦隊は花形部署だったが、いちばん人員を抱えていたのは有人惑星のある星系警備艦隊である。一般の徴兵者は、通常は出身星系の警備隊に属する。こういった人々が宇宙艦隊へ異動するのは、アムリッツァの敗戦以降の異例であった。

 

 その規模は、旧同盟領全域で二千万人だった。宇宙船事故の救援や、密輸に宇宙海賊の摘発、あるいは小惑星などの破壊が主たる任務である。これを解体して、すべて帝国軍が代わりにやってくれるのか?

 

 底意地の悪い質問であり、青灰色の瞳の補佐官は答えなど百も承知だった。新領土駐留軍の艦艇と人員数では、逆立ちしたって無理というもの。

 

「警備隊の役割は、単に郷土を守るという点に留まりません。

 辺境の惑星にとって若年層の重要な雇用の場であり、絶好の職業訓練期間でもありました。

 それを担保しないと、失業者問題で新領土も火だるまになるでしょう」

 

 アッテンボローは更に、ろくでもない未来予想図を豊かな表現力を駆使して述べたてた。豪胆な帝国の武官も文官も、どんどん顔色が悪くなるような内容である。そして、かつて最大数の守備隊を擁していた星系に迫る危機で話を結んだ。

 

「せめて、経済的に富裕な惑星の守備隊は復活させるべきであります。

 特に、惑星シロンの天文台の観測データによれば、二年後の流星群飛来の際に、

 直径二キロの小惑星が衝突する可能性が極めて高いとの報告が寄せられています。

 是非、それまでに旧来規模でかまいませんので、守備隊の復活をお願いしたい。

 シロンの宙域の深い知識と、高い航行技術が必要とされます。

 地元のベテランに勝る者はありません」

 

 新領土駐留軍を置く旨の打診をして、それを盾にして断わられたミュラーからすると、なんであの時に言ってくれなかったのかという思いだった。それが顔に出たのだろう。二メートルになんなんとする、黒き偉丈夫がずしりと腹に響く低音で告げた。

 

「毎年起こる流星群のせいで、小惑星の軌道は変動を起こすのです。

 民間の天文台では、二年前に予測できただけで上出来と言わざるを得ない。

 シロンは、人口も農産業も税収も新領土の要の地です。

 早急に、閉鎖した宇宙基地の開放と観測の継続、守備隊の配置を要望する」

 

 これは、果断なミッターマイヤーが守備隊の配置に動いた。協議を重ねている余裕はない。小惑星の観測データによれば、シロンに衝突しそうなのは二年後だが、破壊するなら半年後がベストという試算だったからだ。

 

 自らの麾下艦隊から、二千隻規模の警備隊を割き、シロンの退役軍人を顧問として再雇用とした。一隻あたりに経験者十数名が必要で、観測要員も千人は必要だった。約三万人規模の求人となりシロンは潤った。

 

 今年も流星雨が訪れるのに、やきもきしていたミゲル・フェルナンデスは大いにほっとした。帝国の首脳部はさらに安堵の息を吐いた。シロンはいまや、帝都の重要な食糧供給元でもあったのだから。

 

 第一次、第二次ヤン政権は復興の象徴となった。フレデリカが恵まれていたのは、閣僚だけではない。キャゼルヌはもちろん、ハイネセンの官僚たちも一丸となって協力した。

 

 彼らは救国軍事会議の下で、竦みあがりながらスタジアムの虐殺の後始末をした。覚醒したアイランズ軍事委員長の下で、ヤン艦隊の奮戦を後方から支えていた。そして、双璧に武器を突きつけられた十億人でもあった。ヤン・ウェンリーを謀殺しようとした同盟政府、再び侵攻してきた帝国を横目に見ながら、粛々と住民を守るべく職務に携わってきた人々だった。

 

 中にはサボタージュして、ロイエンタール元帥に処断された者もいた。だが、考えてもみてほしい。同盟軍のクーデターからは身を隠し、帝国の第一次神々の黄昏作戦の引き金となった幼帝の亡命を受け入れ、帝国侵攻の際も雲隠れし、厚顔無恥にも降伏を選択して、ヤンに停戦を命じ、自らは一切の責任を逃れた、ヨブ・トリューニヒト。

 

 恥知らずな漁官にうんざりしたとはいえ、よりによって新領土総督の部下として任じ、彼らの上司としてふんぞり返っている。公務員だって人間だ。嫌気がささないわけがない。

 

 ヤンはトリューニヒトを蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っていたが、官僚にも同じ気持ちの人間は大勢いたのだ。肝心な時には姿を(くら)ますくせに、巧言令色でもって世論を煽動し、俗悪な政治ショーを繰り広げる。

 

 幼帝を受け入れて帝国の侵攻を招き、孤軍奮闘してきた同盟軍を見捨てて、国家を売り渡した。ヤンが停戦命令を受け入れていなかったら、逆上した誰かがトリューニヒトを殺していただろう。彼が文民統制(シビリアンコントロール)に基づき、政府の停戦命令に従ったから、多くの官僚も法の下、職務を遂行してきたのだ。

 

 まだ宇宙暦800年六月の下旬だった。民主主義を擁護した英雄、ヤン・ウェンリーの死から、一月と経っていない。国民の感情を慮ることができるなら、こんな人事はやらない。海千山千の官僚でなくても、皇帝ラインハルトの人事の稚拙さに気がつく。

 

 いや、レンネンカンプ高等弁務官の件で、抱いた疑念が確信に変わったのだった。自分と部下という関係までには、かろうじて考えが及んでいるが、部下と部下、部下の部下がどう思うかという視点が欠けている。青二才ではなくて、嬬子(こぞう)という異称に密かに納得した者は多かった。

 

 ゆえに彼らは、ロイエンタール元帥の叛乱を、むしろ当然のものとして見つめていた。好き嫌いの激しいトップが、素晴らしい部下に巡り合えた幸運を忘れ、彼にふさわしい待遇をしていない。政治も習慣も言葉もまったく違う国で、行政にも優れた手腕をふるっている名将。あの激務への精励ぶり、謀反を企む余裕などあるものか。

 

 彼を疑う一方で、どうしようもない小者をもてあまし、大きな顔をさせている。ロイエンタール元帥に釈明を要求するのではなく、査閲担当の第三者が充分な調査をするべきなのだ。公明正大かつ大々的に。

 

 言うべき相手もいないので、皆が黙っていたが、心情は一致していた。あれでは怒って当然だ。親友が皇帝側からなだめたって聞きやしないよ。

 

 案の定、帝国軍同士が噛みあって、ロイエンタール元帥が死去した。ヨブ・トリューニヒトの眉間に穴を製作してから。

 

 ロイエンタールとトリューニヒトの検死をした監察医は呟いた。

 

「お見事な腕でしたね。もっと、苦しめてやってもよかったんですよ。

 あなたがその傷に耐えた間、苦しみ抜いて死ぬような撃ち方も、お出来になったでしょうに」

 

 マスクの下の言葉を聞く者は、彼のほかにはいなかったが。

 

 その後、オーベルシュタイン軍務尚書がハイネセンに乗り込んできて、官僚たちは得心した。この人がいてこそ、あの金髪の皇帝がここまでやってこられたのだろうと。彼が正論を述べる憎まれ役となって、血の気の多い若い連中をまとめていたのではないか。自らへの反感という、逆のベクトルでもって。

 

 しかし、彼と他の幕僚の不協和音は、聞きたくもないのに耳を(つんざ)いた。挙句のはてに、帝国軍内で仲間割れして武力衝突の寸前である。敵だった元他国の首都で、それはお粗末すぎるというものだ。ラグプール刑務所の騒乱の始末をしながら、彼らは黙然と思った。

 

 冷たいほどの正論は、聞く耳持つ者でなきゃ意味はない。仕事仲間には、もっと妥協して穏当に流せばいいのに。ほらみろ、単細胞が暴発するんだ。嬬子の部下はガキか。この王朝、このままだと長くないかもしれないな。

 

 その最後の最後に、ルビンスキーの火祭りである。ハイネセンポリスの三割が焼失し、五千人もの死者とその五百倍の被害者を出した。ルビンスキーを死にぞこないだと見向きもしなかった、皇帝や帝国軍首脳陣に責任がないとは言えないだろう。ハイネセンの官僚らは、若き皇帝と帝国軍の首脳陣に懸念と疑念を抱くようになった。

 

 宇宙暦801年6月1日の停戦、イゼルローン共和政府との交渉、バーラト星系を共和民主制の自治領として認めること。そして皇帝の病死、軍務尚書のテロによる死。前者は予期していたが、後者は青天の霹靂(へきれき)であろう。ナンバー2の突然の欠落で、皇太后らが大混乱に陥ることも予測できた。

 

 貴族のお嬢様と、世間的には青二才の集団である。これは、バーラトにとってチャンスだ。こちらにまで手を伸ばす余裕などなくなる。今のうちに、復興に向けた青写真を作っておけ!

 

 ヤン・ウェンリーの衣鉢(いはつ)を継ぐ、若く清新な政治家が帰ってくる。彼女に、彼らに、我々の感謝と経験の全てをかけて、新しい国にふさわしい未来図を用意せよ。

 

 そう歓喜したのは、彼ら官僚ばかりではない。こうした出来事を経て、ハイネセンの住民たちも覚醒した。ヤン・ウェンリーが身命を削り、残そうとした共和民主制の苗。

 

 それが、この星、自分たちなのだ!

 

 フレデリカ・(グリーンヒル)・ヤンの就任演説は、自身の経歴と罪の告白から始まった。

 

「私は、ヤン・ウェンリーの未亡人としてこの場に立つことを許されたのかもしれません。

 しかし、私の父は、軍部クーデターの首謀者でした。

 夫を救うために人を殺め、ハイネセンに火を放つ結果を呼んだ者でもあります。

 もしも、親の罪に子どもが連座する社会であるなら、

 ハイネセンからの脱出が、副官として上官を守る軍事行動と認められなかったら、

 私は断罪され、この場に立つことはなかったでしょう。

 しかし、私はとうの昔に罪人だったのです。

 ヤン・ウェンリーの副官として、彼の戦勝のほんの一端を支えた日から。

 味方ではなく、敵だった帝国軍の人々を数多く殺してきました。

 しかし、かつての政権に票を投じ、戦争の継続に同意をした国民すべての罪でもあります。

 票を投じなくとも、戦争への流れを変える力は、私を含む国民すべてにあったのですから。

 罪がないのは、政権を選べなかった者たちだけでしょう。

 この平和は、彼らの為にある。私たちのやってきたことを伝え、この平和の価値を教え、

 次代に引き継いで、できるだけ長く続くように。

 それが私の願いです。そして、夫の願いでした。

 なによりも尊い、人の命のために、帝国と手を携えていきましょう」

 

 いつもより煌めきを増したヘイゼルの瞳。だが、涙はついに零れることなく、言葉は途切れることなく、彼女は最後まで語りきった。

 

 後世、夫の名声に寄りかかった、感傷的に過ぎる演説だとの批判は多い。

 

 しかし、ハイネセンの住人らは、彼女の魂からの声を聞いたのだ。父の罪、自分の罪への果てなき苦しみと、それと引き替えるほどに愛した男の存在を。彼が、思想と軍人という立場の軋轢(あつれき)に苦しみ、なによりも希求し、それに手が届く寸前で断たれた命の重みを。それでもなお自省を重ね、人の命のために平和を選択する決意に至った者の言葉であった。

 

 旧同盟の黎明(れいめい)期の理念と情熱が、バーラト星系に横溢(おういつ)する。

 

 一万人が同じ目標に向けて、団結することは極めて難しい。だから、一人が一万人の才能を持つ天才とは、冠絶した存在なのだ。

 

「ねえ、あなたはそうおっしゃったそうだけれど、

 十億人の凡人が、心の一部ででも同じ方向に歩もうとしたら、

 どれだけ凄いことができるか考えたことはないの?

 あなたは、みんなが同じことを考える社会なんて真っ平だっていうんでしょうけれど

 これが衆知を集めるというものじゃないかしら?」

 

 フレデリカは、黒髪の夫の写真に語りかけた。結婚式の時、似合わない礼服で頬を染めていた笑顔。結婚式に呼んだ友人が、古典的な銀塩写真で撮影してくれたものだった。

 

 あと一押しが足りない、と評していたクリスタ・チャベスが、今日はハンサムに撮れたと太鼓判を押し、綺麗に額装して贈ってくれたポートレイト。ハイネセン脱出の時には持ち出せなかったけれど、フレモント街の家の寝室のテーブルの上で、変わらぬ笑みで迎えてくれた。あの時には、また泣いてしまったけれど、今は泣き笑いで話してあげられる。

 

「あなたのせい、いいえ、あなたのお陰よ、ヤン・ウェンリー。

 同盟軍の二千万人が亡くなっても、ハイネセンの人たちには遠い空の彼方のことだったの。

 あなたが、アルテミスの首飾りを壊し、停戦命令に従っても守ろうとした十億人は、

 ルビンスキーの火祭りの被害で、あの戦争の悲惨さの何十分の一でも実感したのよ。

 凄いスピードで復興が進んでいるわ。政府の官僚が、本当に協力してくれている。

 閣僚も、みんな私より優れた人たちばかり。本当に楽をさせてもらっているの。

 ねえ、羨ましいでしょう。悔しかったら、生き返っていらっしゃい」

 

 答えは返らず、復興の槌音が聞こえてくる。ハンマーが奏でる、未来に向けた街への凱歌。それに楽聖のピアノソナタを連想し、フレデリカは写真をそっと抱きしめた。

 

 ベートーヴェンが作曲した時には、その曲を奏でられるピアノはできていなかった。彼が没した後に、楽譜の音を出せるピアノはできた。弾き手が生まれるまでには、作曲後二十年以上もかかり、未だに難曲中の難曲と言われる、ハンマークラヴィーア。

 

 士官学校受験のために、ピアノを止めたフレデリカにはもちろん弾けない。あの中尉さんにサンドイッチとコーヒーを差し入れする前には、いつか奏でることを夢見ていた曲。

 

 ヤンの構想も同じく、自分たちの世代だけでは完成しないだろう。いれものができ、それを使う人が育たなければ、奏でられない夢の話。

 

 でも、夢は見るものではなく、叶えるもの。十四歳の時に恋した相手を、十一年を掛けて射止めた自分にとって何ほどのものでもない。夫を射止めたのとはわけが違う。全てを自分がやらなくてもいいのだから。

 

「まったく、あなたが私の一番の難敵だったわ。

 あなたに比べれば、帝国の殿方なんてずっと楽な相手よ。

 ねえ、そうでしょう、不敗の魔術師さん。

 あなたに勝てなかった人たちが、私に勝てるわけないわよね」

 

 宇宙から降りたって三度目の秋。澄んだ風がフレデリカの髪を揺らす。豊穣(ほうじょう)の秋の色だと、夫が愛おしげに撫でてくれた髪を。

 

 不敗の魔術師は、最後の休息時間(シンデレラ・リバティ)の慌ただしいプロポーズの後、ハイネセンでフレデリカに二度目のプロポーズをした。

 

 古典的に(ひざまず)き、真紅の薔薇の花束を差し出して、宝飾店に無人タクシーで直行。あの人らしくもないそつのなさだった。参謀役は、異なる褐色の髪と目の年長の部下たちに違いない。給料の三か月分の予算を告げて、彼女も店員も唖然とさせたのは御愛嬌だったが。

 

 とにかく、ヤン・ウェンリーを跪かせたのは、宇宙でフレデリカ・グリーンヒルただ一人。これはずっとふたりだけの秘密。 

 



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新帝国暦8年8月 はじめての行啓
夏休みは魔術師の城へ


「うわぁ――すごい」

 

 幼い歓声が二重唱を奏でる。

 

漆黒の虚空に浮かぶ銀色の星。恒星アルテナを公転する人工の惑星、イゼルローン要塞の威容が、新帝国軍総旗艦ブリュンヒルトのモニターに迫ってくる。

 

 二人の少年は、色調の異なる青い眼をこぼれんばかりに見開いてそれを凝視した。

 

 一人は深い青玉色で、もう一人は宇宙から見た大気圏の最上層の色。髪の色は眩い黄金とミルクチョコレート。互いに共通するのは、性別と翼を隠した天使を思わせる愛らしさである。

 

 彼らは、銀河帝国ローエングラム朝(以下新帝国)の初代皇帝と二代目軍務尚書の長男だった。大公アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムとフェリックス・ミッターマイヤー。赤ん坊の頃からの幼馴染で、この夏アレクは五歳、フェリックスは六歳である。

 

 

 イゼルローン要塞は、直径六十キロの人工惑星だ。外壁は四重のスーパーセラミックと特殊鋼による装甲で覆われ、九億二千四百万メガワットの出力を誇る要塞主砲『雷神の槌(トール・ハンマー)』を擁する。

 

 二万隻の艦艇を駐留できる宙港、同時に四百隻の艦艇の修理が可能なドック、一時間に七千五百発のレーザー水爆ミサイルを生産できる兵器(しょう)を併設し、最大で五百万人が居住可能な大都市でもあり、それに必要な施設はすべて備わっている。食糧生産機能も完備しており、完全な自給自足が可能である。毎食似たり寄ったりのメニューが続いても、文句がなければという但し書きはつくのだが。

 

 宇宙が、まだ銀河帝国ゴールデンバウム朝(以下旧帝国と称する)と自由惑星同盟、フェザーン自治領に分かれていたころ。この要塞は建造されてから、旧帝国と自由惑星同盟の戦争の最前線であった。六度にわたる自由惑星同盟の攻略は失敗し、イゼルローン回廊は無数の人命を飲み込んできた。

 

 所有者を替えたのは宇宙暦七九六年の第七次イゼルローン攻略戦。まだ三十歳にもならない若き司令官は、旧帝国が予想だにしなかった手法で、この難攻不落の代名詞を陥落させた。味方の血を一滴も流さずに。

 

 第八次攻略戦は、これまでと逆に旧帝国が攻略側であった。ほぼ同規模の宇宙要塞をワープさせて攻略にあたるという、こちらも奇想天外な作戦だった。最初、司令官を欠いていたが、イゼルローン要塞はその不在期間を耐え抜く。そして、同盟軍の司令官が帰還するや否や、移動要塞ごと攻略軍を撃破する。

 

 ローエングラム公ラインハルトの数少ない軍事的失敗と評されている。

 

 九回目の攻略戦は、帝国の双璧のひとりオスカー・フォン・ロイエンタールが主将となった。ここで要塞の所有者はふたたび旧帝国に変わる。

 

 しかし、これはフェザーン回廊を制圧した旧帝国による侵攻作戦のため、最大の敵手であるイゼルローン要塞司令官を足止めするためのものだった。宇宙最高の知勇の均衡を誇るロイエンタール上級大将に、さんざん手を焼いたものの、同盟軍はイゼルローンをあっさりと放棄した。三百万人近い民間人を避難させ、旧帝国軍本体の迎撃をしなくてはならなかったから。

 

 その後、自由惑星同盟は滅亡する。まだ旧帝国の宰相であったラインハルトを、指呼の間に捕らえながら、同盟政府の停戦命令に従った退役元帥の謀殺を図ったことが原因で。退役元帥の部下たちは、かつての上官が犠牲の羊として供されるのを傍観してはいなかった。

 

 ハイネセンを炎に包んで、多数の血を流し宇宙に逃れる。ただ一人を救うために。

 

 第十次イゼルローン攻略戦は、攻略側にとっては不本意の極みであった。いずれは共和民主制を守るため、行動を起こすことは想定していたが、時期がくるのがあまりにも早すぎた。

 

 しかし、防衛側にしてみれば痛恨の限りであった。通信に紛れていた『凍結の呪文』で要塞の攻撃機能が強制停止され、内部への侵入を許してしまう。この侵入者は『解放と服従の呪文』を唱えて、イゼルローンを乗っ取ってしまい、帝国軍を叩き出した。

 

 こうしてイゼルローンは、三度戦いによって所有者を替えた。その後、同盟滅亡の残余戦力を吸収して、1.5個艦隊二百万人のレジスタンスに変容する。

 

 それでも、新帝国軍の布陣に比べれば寡少なものに過ぎなかった。

 

 ただひとつ、彼らを率いる司令官の軍事的才能さえなければ。

 

 後に回廊決戦と名づけられた宇宙暦八〇〇年の戦闘で、自由惑星同盟軍史上最高と言われた智将が、再び牙を剥いたのだった。数ある異称の中で『不敗』と呼ばれた彼が、『勝つ』ために駆使した戦術は辛辣にして巧緻なものだった。イゼルローン回廊の狭隘な宙域を利用し、大軍の利を許さず、迂闊に手を突っ込んだ相手の喉笛を食い破った。

 

 それでも損耗を強い続ければ、最終的には新帝国軍が勝っただろう。しかし、二名の上級大将、二百万人の兵員の命を失っては、戦い自体に否を唱える重臣が出てきた。

 

 軍務尚書オーベルシュタイン元帥は、自分が使者としてイゼルローンに赴き、人質となっても、講和の場で司令官を捕殺すべきだとまで主張した。謀殺については却下されたものの、皇帝の体調不良もあって、講和の申し入れが帝国軍からなされた。

 

 それに赴く途中、司令官は地球教徒の凶弾に斃れ、還らぬ人となる。彼の死後、彼の思想を受け継いだ家族や部下たちが、皇帝と最後の決戦に臨み、講和を結ぶ。

 

 そして、イゼルローン要塞は、四年前に現在のバーラト星系共和自治政府から返還された。

 

 イゼルローン要塞を武力で陥落したのは史上でただ一人。ここまでの事績をなしたのと同一の人物だ。

 

『不敗の魔術師』こと故ヤン・ウェンリー元帥である。

 

 幼い主君と息子に、これから赴くイゼルローン要塞の概要を説明するために、ここ十年ほどの出来事を脳裏に列挙した軍務尚書ウォルフガンク・ミッターマイヤーは、思わず眉間を押さえた。

 

「なんと言ったものか…………。まったく、ひどいほら話でないなら悪い冗談だ」

 

 これがただ一人の武勲の、そのまた一部なのだから。旧帝国の終焉から新帝国の黎明期にあって、末期を迎えた自由惑星同盟の戦功は、ほぼヤン・ウェンリーが独占していた。

 

 『不敗』のヤンに戦術的勝利を得ることは、『常勝の天才』皇帝(こうてい)ラインハルトをしても遂に叶わなかったのである。

 

 イゼルローン要塞が返還されて四年。ようやく、大公アレクの行啓(ぎょうけい)が実現しようとしている。それは、あの魔術師の影を拭い去れたと確信するのに必要な時間でもあった。

 

 イゼルローン共和政府は、要塞の返還にあたって、新帝国の立会いの下に、コンピューターのプログラムやデータの破棄、初期化を行った。しかし、二度とあんな奪還方法を取られてはたまらない。巨大な要塞の各種ハードウェアを制御するコンピューターは、巨大かつ細分化されている。これら全てを洗い出し、場合によっては新品に交換する。口で言うのは簡単だが、核融合炉や空調、温度管理などの制御を止めることはできない。

 

 これらの中枢部は、建造当時のシステムが使用されており、当時の同盟軍にも解析されていた。簡単に乗っ取られてしまった原因の一つである。その古いハードとソフトを、最新のものに入れ替える。しかも要塞を稼働中のまま。

 

 大変な難事業であった。作業と試行運転、安全確認までを四年強で完了したのは、偉業といってよい。これだけで一冊の本になるだろう。

 

 大人の苦悩など知らず、幼児二人は口まで半開きにしてイゼルローンを凝視している。

 

 さて、二人がフェザーンを出立する前のことだ。ミッターマイヤーは悩んだ末に、五歳の子どもにも分かる説明にとどめた。

 

「昔の帝国が作った要塞で、バーラト自治共和政府の人たちが一時占領していたけど、

 二人がもっと小さい頃に返してもらったんだ」

 

「どうしてハイネセンの人たちがせんりょうしてたの?」

 

 大公アレクが青い瞳をまんまるにして問えば、

 

「どうしてイゼルローンを返してくれたの?」

 

 褐色の頭を傾げてフェリックスが続く。

 

 幼い子どもたちの質問は、単純なだけにミッタマイヤーを困らせた。大人になれば分かる。それはもう、嫌というほど教育されることだろう。だが、ここで言い逃れることは、彼らの父親に申し訳が立たない。結局、かなり簡単にだが、ヤン・ウェンリーの説明をすることになった。

 

「ヤンげんすいって、すごいねえ。お父さんとどっちが強かったの?」

 

 聞いたのがフェリックスだったのは、まだましと考えるべきなんだろうな。ミッターマイヤーは内心で嘆息した。彼が答える前に、大公(プリンツ)アレクが口を開いた。

 

「その人のこと、ぼく、しってるよ。

 うちゅうでいちばん強くって、お父さまが一回もかてなかったんだって」

 

「すごいや、ほんとなの、アレク殿下?」

 

 無邪気なやりとりに、ミッターマイヤーは精神的に三歩半ほどよろめいた。

 

「大公殿下、一体誰がお教えしたのです」

 

「お母さまだけど」

 

 皇太后ヒルダは、先帝ラインハルトの『戦いを(たしな)む』姿勢には批判的な一人だった。亡き夫に対してなかなかに(から)い採点である。ミッターマイヤーは反論を試みた。

 

「いいですか、殿下、戦いと言うものはその準備が一番大事なのです。

 先帝陛下はそれが宇宙で一番でした」

 

「お母さまもそう言ってたよ。ヤンげんすいとたたかわなければ勝ててたのにって」

 

 辛いどころではない。皇太后ヒルダは、軍事的浪漫主義成分が、亡き夫より遥かに乏しい。それゆえにか、政戦略面の視界はラインハルトよりも広く深かった。ラインハルトによく似た息子に、夫の激しすぎた内面は似てほしくないのかもしれない。

 

「殿下」

 

「ヤンげんすいが生きていらしたらよかったのにって。

 ねえ、たたかった相手なのにどうしてかな?」

 

 金髪の友だちの疑問に、フェリックスは少し考えて答えた。

 

「なかなおりして、友だちになれたかもしれないよ」

 

 息子の言葉は、ミッターマイヤーの胸にすとんと落ちた。

 

「そういえば、キルヒアイス大公殿下が生前におっしゃったそうです」

 

「ぼくがお名前をもらった人だよね」

 

「はい、先帝陛下の無二の親友でした。

 『ヤン・ウェンリーは敵に回せば恐ろしいが、

 友となすことができれば、これ以上の人物はいない』と。

 皇太后陛下もそのようにお考えになったのでしょう」

 

「お父さんは、ヤンげんすいに会ったことあるの」

 

 深い青が、養父を見上げて言う。実父の右目の色で、左目も同じ。顔立ちも特に目元が似ている。

 

「いや、直接対面したことはないんだ。

 ……そうそう、おまえの最初の質問だが、父さんもヤン提督には勝てなかったよ」

 

「ええー。お父さんも?」

 

「フェリクのお父さんもなんだぁ……」

 

 二人の少年はそろって目を丸くした。この蜂蜜色の髪と灰色の瞳をした、若々しい軍務尚書は迅速果敢な用兵家で、『疾風』の異称を捧げられた新帝国の至宝である。彼らにとっては最も身近な英雄だ。その人が勝てなかった相手だと言う。興味に目を輝かせた少年達に、頃合とみたミッターマイヤーは、戦術的撤退を図った。

 

「これは話せば長くなる。今日のおやつと夕食を抜いて、

 夜も寝ないで、明日のおやつ……いや、夕食くらいまでかかるだろうな」

 

「今日のおやつは、おばさまがあんずののトルテだっておっしゃってたよ、フェリク……」

 

「アレク殿下、今夜はぼくんち、フリカッセなんだ……」

 

「それなら早く帰れるように、私も仕事に戻らねばなりません。

 イゼルローンとヤン元帥のことについては、殿下の行啓の間に学ばれるとよろしいでしょう」

 

 ミッターマイヤーは名将だ。明確に目標を持ち、それを遂行したら速やかに撤退した。

 



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旅のしおりの顛末記

 余談だが、行啓の間のテキストは彼の部下に作成させた。その不運な男の名は、アントン・フェルナー少将という。かつて、冷徹無比なオーベルシュタイン元帥にも、一種のふてぶてしさをもって仕えていた男だ。

 

 新帝国二代目の軍務尚書は、前任者の一万倍ぐらい明朗闊達で、親しみやすい上司だった。軍務省勤務者の胃薬にかかる医療費は激減した。

 

 もっともフェルナーは、オーベルシュタイン元帥相手でも、さほどに胃薬を必要としていなかった。しかし、五歳児用にイゼルローン攻防戦のダイジェストを作成すると、胃薬と鎮痛剤のカクテルを流し込んで、上司にこれを上申した。

 

「ミッターマイヤー閣下、仰せのとおりイゼルローン要塞の歴史を要約いたしましたが」

 

「ほう、ご苦労だった。おい、フェルナー少将、顔色が悪いが大丈夫なのか」

 

「ひとつ確認しておきたいのですが、小官は不敬罪に問われないでしょうね」

 

 ミッターマイヤーは無言でレポートのページを繰った。できるだけ中立の視点から、簡潔で、子供にもわかりやすい言葉で書かれている。たしかによくできたものだった。それゆえに『魔術師』が、どれほど新旧の帝国軍を翻弄したかも浮き彫りになっている。

 

「先帝陛下は虚言と追従を嫌われる方だった。

 天上に行った者も、皇帝(カイザー)には従うだろうよ。

 ミュラー元帥はヤン元帥を尊敬していたから、怒ることはないだろうし、

 メックリンガー元帥も戦ってはいないわけだからな」

 

 前王朝においては、幼い皇族の一声で不敬罪に問われ、失脚した者も多かったのである。現在の中枢部は、そんな不見識ではないと信じたいが、フェルナーを追い落とそうとする人間にとっては十分口実となりうる。彼の言葉には、冗談と本音が半々に含まれていた。

 

「……閣下、お一人抜かしていらっしゃるでしょう」

 

「奴には大きな声で言ってやればいいさ。自分の家訓のとおりにな。

 実際のところ、ヤン元帥に二度負けて生きているのは、褒め言葉ではないか」

 

「では、文責は閣下のお名前にさせていただきますよ」

 

「ああ、かまわん。いい出来栄えだ。大公殿下も航行の間、よい勉強になるだろう。そうだ」

 

 敬礼をして退室しようとするフェルナーに、ミッターマイヤーの声がかかった。

 

「早晩、大公殿下は、新帝国の成り立ちにも興味をもたれることだろう。

 それもまとめておいてくれ。学校教育の教科書の叩き台としても必要だろう」

 

「軍務省だけの手には余りますな」

 

「将来は国務省、学芸省、民生省あたりと横断的な組織が必要になるだろうが、

 さしあたって卿を中心に準備をしておいてくれ。内々のものとしてな」

 

「――――御意」

 

「とは言っても、そう急ぐことはあるまい。

 大公殿下の理解力が追い付くまでには時間がかかるだろう。

 あと五年は必要だろうよ。…………だが早いものだ」

 

 ミッターマイヤーの灰色の眼に、追想の(もや)がたゆたった。

 

「先帝陛下がアスターテ会戦で大功を立てられてから、亡くなられるまでも五年と少々だ。

 もう、あんな時代は訪れないだろうし、早々と来てもらっても困る。

 俺たちにできるのは、あの戦争を語り継ぐことだろう。

 できるだけ公正に、美化させずにな。なんとも難しいことだが、生き残った者の務めだろう」

 

 この数世紀で、最高峰の軍事的才能の激突は、戦火に黄金と真紅の輝きを与えていた。それを凝視して、幻惑されないように自らを保つのはなんと難しいことか。軍務尚書の自戒に、心からの敬礼を送り、今度こそフェルナーは退室した。

 

 フェザーンとイゼルローン要塞の旅程は、往復で約二十日前後といったところだ。大公(プリンツ)アレクの生まれて初めての恒星間旅行である。先帝の遺志で立太子はしていないが、皇位継承者第一位であることは変わりがない。アレクの随員には、フェリックスも含まれていた。

 

 当然、厳重な警戒態勢と布陣が敷かれた。随行するのはミュラー・バイエルライン混成艦隊二万隻。ただし、ミュラー艦隊はそのままイゼルローンに駐留し、バイエルライン分艦隊が帰路を守る。この配置は、宇宙艦隊司令長官のワーレンと、統帥本部総長のメックリンガーによる合作である。

 

 穏やかな為人(ひととなり)で忠誠心が篤く、防戦に強い『鉄壁』のミュラー元帥と、ミッターマイヤー直属の部下として、公私共に彼に心酔するバイエルライン大将。こんなに長い間、家や家族から離れて旅をしたことのない子どもたちに、少しでも安心感を持たせるための配慮だった。

 

 ミュラー元帥は、新帝国でヤン・ウェンリーと最も縁が深い将帥といってよい。魔術師の城に、王子達を先導する騎士としてはうってつけだろう。

 

 ラインハルトの崩御後、初めて総旗艦ブリュンヒルトが星々の大海を往く。有翼獅子(グリフォン)の幼い後継者を乗せて。

 

 そして、子どもを送り出す親の方は、もっと心配なのである。

 

「いいこと、艦隊の皆さんの言うことをちゃんと聞くのよ。

 宇宙船は冷えるから、上着を脱いでお昼寝してはだめですからね」

 

「うん、わかったよ、お母さん」

 

 素直に返事をするフェリックスだが、この注意を聞くのはもう五回目だ。

 

跳躍(ワープ)で気分が悪くなったら、すぐにお医者さんに言うのよ。

 大公殿下の様子にも気をつけてさしあげなさい。

 フェリックスのほうがおにいさんなんだから」

 

「おいおい、エヴァ、あんまり一度に言っても、覚えられんよ。なぁ、フェリックス?」

 

 母からの注意のほうはもう覚えてしまったけれど、跳躍でどうなるのかフェリックスにはよく分からない。だから、宇宙で一番詳しそうな父に聞いてみた。

 

「お父さん、跳躍で気持ちわるくなっちゃうの?」

 

「人によるなあ。でも、すぐに治るし、慣れるからな。心配いらないさ」

 

 まだまだ若々しいエヴァンゼリンは、呑気な夫を菫色の瞳で軽く睨んでみせた。

 

「まあ、ウォルフ、本当は、わたしも一緒に行きたいところなんですからね」

 

「お母さん、それだとアレクでんかがかわいそうだよ。

 ぼくだけお母さんがいっしょに来たら、きっとさびしくなっちゃうと思うんだ」

 

 夫妻は顔を見合わせて、息子に微笑んだ。ミッターマイヤーの頑丈な手が、少年の頭を撫でて、褐色の髪をくしゃくしゃにする。

 

「そうだな、たしかに不公平なのはよくないよなぁ。男同士、楽しんでくるといい」

 

 政務に空白期間を作れるはずもなく、皇太后も国務尚書も軍務尚書も行啓には同行できない。ラインハルトは、あまりにも早く人生を駆け抜け、彼の血に連なる者を二人しか残さなかった。

 

 門閥貴族制を廃したのと、建国の功臣にも叙爵を行わなかったのは、新帝国の大改革だった。だが、その結果、皇位継承者がただ二人というのも相当に危険なことだ。

 

 まだ五歳の子どもが、母と離れて数千光年の行啓をしなくてはならないのも異常だし、同年代の友だちがたった一人というのも異常なのだ。

 

 してみると、門閥貴族制にも一定の功はあったのか。血縁のつながりによる人材プールという点で。前王朝ならば、大公殿下のご学友として、ふさわしい貴族の令息が二個小隊ほどは集まった。さらに性格や容姿、頭脳の釣り合いという(ふるい)にかけられても半個小隊は残っただろう。

 

 ローエングラム朝の中枢は若い世代だ。その精粋が帝国軍である。女性は従軍しておらず、将兵の多くは未婚か家族を旧帝国領に残している。

 

 ほとんどの貴族は解体され、皇宮勤めのできるような身分の女性が少ない。皇帝の家庭としての後宮の形成すら困難だった。次世代として期待されていたフォイエルバッハ嬢は、今は憲兵総監ケスラーの夫人である。多忙な皇太后にかわって、母同然に面倒をみるのはグリューネワルト大公妃。同行させるには、あまりにリスクの高い女性達だった。

 

 銀河のほぼ全てを支配する新帝国なのに、皇室の維持にさえ人手不足だ。前王朝の轍を踏む必要などないが、大勢の中から相応な者を選ぶのと、優秀な少数に任せるしかないならばどちらがましなのか。

 

 そんな内心はおくびにも出さず、ミッターマイヤーはことさら鷹揚に続けた。

 

「イゼルローンに詳しい人達に、航行中に連絡が取れるように頼んでおいたからな。

 興味があるなら、ミュラー元帥にお願いするんだ。礼儀正しくな」

 

「お父さん、ありがとう!」

 

 飛びついてくる息子を抱き上げながら、この航海の平穏を祈るミッターマイヤーだった。

 

 初めての宇宙は、幼い少年たちを興奮させた。大気に影響されないため、瞬かない星々と永遠の夜。巨大な宇宙船の中は、見るもの聞くもの全て興味の種だった。

 

 小さい男の子というのは、乗り物と機械が大好きな生き物である。それを、黒と銀の華麗な軍服に身を包んだ、かっこいい軍人さん達が操縦しているのだから。

 

 二人とも、フェリックスが心配した跳躍による体調不良にはならず、皇帝ラインハルトが愛して止まなかった白い美姫(ブリュンヒルト)を隅々まで探検した。底抜けの元気さで跳ね回る五歳と六歳の男の子について歩くのは、体力のいることである。

 

 その役を担ったのは、ハインリッヒ・ランベルツである。故ロイエンタール元帥の従卒で、その後フェリックスと一緒にミッターマイヤー家に引き取られた少年だ。現在、士官学校の三年次を終了し、夏季休暇中に従卒として一行に加わった。少年達にとって、年の離れた兄のような存在である。ハインリッヒにとっても、フェリックスはおむつまで替えた相手である。実の兄と同然の愛情を持っていた。

 

 公私混同と言われるかもしれないが、ミッターマイヤーは、大公アレクとフェリックスのストレス軽減を第一に配慮したのである。これに異を唱える者もいなかった。ハインリッヒは、この栄誉ある任務を喜んで受けたが、それもフェルナー作『イゼルローンのれきし』の朗読を聞くまでだったかもしれない。

 

 旅程の三分の二を消化したころ、二人はひととおりブリュンヒルトに対する興味を満たし、目的地への興味を思い出した。フェルナー少将のレポートは、フェリックスによって大公アレク殿下の前で朗読された。傍らで聞いていた不幸な士官学校生は、引っくり返りそうになった。

 

 大公アレクが、父を馬鹿にするなと怒り出せば、義弟が不敬罪に問われるかもしれないのだ。そうしたら、我が身に代えてでも守らなければならない。固唾をのんで、金髪の少年を見守る。青玉色の瞳を大きく見開いて、聞き入っていたアレクは、ぱちぱちと瞬きした。

 

「ねえ、フェリク……このお話、ほんと?」

 

「ええと、さいごに『これはほんとうのお話です』って書いてあって、

 お父さんのサインも入ってるから、ウソじゃないと思うんだけど」

 

 問われた方も、形のよい眉の両端を下げて困惑の表情をしていた。

 

「ハインリッヒはしってる? このお話はほんとなの?」

 

「学校で習ったかぎりでは事実です、大公殿下」

 

 この『イゼルローンのれきし』は簡潔平易で、非常に分かりやすい。学生にとってはこのまま副教材に採用してほしいくらいである。ヤン元帥の手練手管に(もてあそ)ばれる帝国軍の、身も蓋もない描写が許されるならばだが。

 

「あのね、フェリク、ヤンげんすいは、うちゅうで一番強い方だったって、

 お母さまが言ってたんだけどね」

 

「ぼくもこの前、アレク殿下から聞いたよ。でもね、こんなにいつも勝ってたのかなあ」

 

「そうだよ! ぼくもそれがいいたかったんだ。

 ねえ、フェリク、ほんとうかどうか聞いてみようよ」

 

 ハインリッヒは、恐る恐る金髪の天使にお伺いを立てた。

 

「大公殿下、どなたにご質問をなさるおつもりでしょう」

 

「さっき、フェリクが読んでくれたお話に、

 ミュラーげんすいとバイエルラインたいしょうのお名前があったよ。

 おしえてくれないかなあ」

 

 恐れ多くも大公殿下のご下問であるから、名指しされた高官として答えないわけにはいかないが、これは殺生な話である。

 

「お二人とも艦隊の指揮でお忙しいと思います。

 私から、大公殿下のご希望をお伝えしておきますので、

 お二人にお時間を作っていただきましょう」

 

 このように、立ちそうな角を丸めるのも、従卒や副官の大事な役割なのである。

 

「まあ、いずれは興味を持たれることだとは思ってはいたが……」

 

 ミュラー元帥は、温和な顔に苦笑を浮かべた。

 

「正直、第八次イゼルローン攻略の話をするのは辛いものだ。あれは無用の(いくさ)だった。

 ケンプ提督や兵士達の犠牲を思うと、小さな子どもに聞かせてよいとは思えない」

 

「小官は、幸いぎりぎりで虎口を逃れましたが、あの用兵は今思っても魔術ですよ」

 

 恐縮しきりのハインリッヒの報告は、ミュラーとバイエルラインの副官からそれぞれに伝えられた。考え込んだ元帥と大将は、敬愛する帝国の至宝からの伝言を即座に思い出す。

 

 『魔術師』の弟子への扉の鍵を。



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The Show must go on

「こんにちは、大公(プリンツ)アレク殿下、ヘル・ミッターマイヤー」

 

 ブリュンヒルトからの超光速通信(FTL)に応じたのは、亜麻色の髪にダークブラウンの瞳をした青年だった。ハインリッヒより少し年上に見えた。気品のある端正な顔立ちで、凛とした中にも優しそうな表情をしている。

 

「私は、ユリアン・ミンツと申します。

 イゼルローンとヤン提督のことについて、ご質問がおありだとか」

 

「こちらこそ、はじめまして、ヘル・ミンツ。ぼくのことはフェリックスと呼んでください」

 

 フェリックスが挨拶をかえして、深々とお辞儀をしたので、アレクもお辞儀する。愛らしい様子に、画面のこちらとむこうで微笑がおこる。

 

「では、私のこともユリアンと呼んでください。

 実は、お二人が赤ちゃんのころにお会いしてるんですよ。大きくなられました」

 

 それは、皇帝(カイザー)ラインハルトの最後の日々でもあった。あの時の父親と同じように、この小さな息子もヤン提督のことをユリアンに聞きたがるのか。

 

 感慨が胸に迫ってくる。もう五年、あるいはたった五年。皇帝との三十日余りの日々は、ユリアンの中で終生薄れることはないだろう。師父との二千日あまりの日々とともに。

 

「ぼくたちは、おととい『イゼルローンのれきし』を読みました。

 このお話はぜんぶ本当なんですか」

 

 フェリックスの言葉に、ユリアンは苦笑を浮かべた。事前に送ってもらった『イゼルローンのれきし』は、事実を簡潔に、淡々と列挙してあった。前王朝からは考えられない内容で、書いた部下と許可した上司と、いずれも豪胆な人たちだとユリアンを感嘆させた。敗戦を率直に認めて検証する。この姿勢こそが、新帝国と旧自由惑星同盟の明暗を分けたのだ。

 

「たしかに、起こった出来事は本当です。

 でも、それをどう思うのか、人の数だけ違う見方があるというのがヤン提督の意見でした。

 そして、それぞれの見方が全部違っていても、それが全部正しいこともあります」

 

 なぞなぞのようなユリアンの言葉に、アレクとフェリックスは顔を見合わせた。周囲を飛び交う疑問符が見えてきそうな表情である。ユリアンは小さく笑うと、なぞなぞのヒントを出した。

 

「例えば、アレク殿下もフェリックスくんも青い瞳をしていますね。

 自分の目が相手より薄い色だと思うのか、相手が自分より濃い色だと思うのか、

 事実は一つでも感じ方は違うでしょう。

 アレク殿下とフェリックスくんが、どう感じるのかも一緒とは限りません。

 でもどちらも正しい。そういうことです」

 

「ええと、帝国から見たのと、ユリアンさんから見たのとはちがうってことですか」

 

 フェリックスの言葉に、ユリアンはにっこりと笑った。

 

「私は第七次イゼルローン攻略の時は、まだ中学生で留守番をしていました。

 だから、この時はヤン提督のなさったことに、びっくりして大喜びしただけでした。

 皆さんには失礼なことでしょうが、お許しください」

 

「ヘル・ミンツ、あなたの立場なら当然のことです。お気遣いをなさいますな」

 

 ミュラーの言葉に、ユリアンは決まり悪げな顔をした。

 

「第八次攻略の時はイゼルローンにおりましたが、

 ヤン提督が同盟政府に呼び出されていましたから、

 私たちは一月近く司令官がいないのに戦わなくてはなりませんでした。

 第九次の時は、私は軍務でフェザーンにおりまして、

 第十次ではヤン提督の方がエル・ファシルにいらっしゃったんです。

 こうして思い返してみると、イゼルローンの戦いで、

 ヤン提督と私がずっと一緒だったのは回廊決戦くらいなんです。お役に立てるかどうか」

 

 ユリアンはほんの一瞬ダークブラウンの瞳を伏せたが、すぐに笑顔を作った。

 

「たしかにこのお話を読むと、帝国軍のえらい方々が

 ヤン艦隊にいいようにされてしまっているように感じられるでしょう。

 でも、私たちの見方は違います。

 アムリッツァの大敗の後では、帝国相手に戦えるのは

 ヤン艦隊しかなかったということなのです。

 同盟のなかでは、ヤン提督はイゼルローン要塞と駐留艦隊の司令官でしかなかったのですが」

 

「でも、ずっと勝っていたのはほんとうでしょう? ぼく、すごいとおもいます」

 

「ありがとうございます、アレク殿下。

 しかし、私がそう言ったとしてもヤン提督はこう答えたと思いますよ。

 『ユリアン、言葉は正確に使いなさい。勝ったのではなくて、負けずに済んだだけさ』と」

 

 彼の師父は、温和な表情と口調で辛辣な言葉を口にする人だった。その人が心から感嘆し、賛辞を惜しまなかった相手は。

 

「ヤン提督は、戦争の準備が一番大事だと繰り返し教えてくれました。

 相手より多くの戦艦や人を準備して、その食料や武器に船の燃料、

 強い指揮官を沢山揃えて、兵士に充分な訓練をすること。

 アレク殿下のお父様、皇帝ラインハルトの戦略そのものでした。

 何度も戦争の天才、歴史が生んだ奇蹟だと繰り返し誉め讃えていたのです」

 

 父を誉められた大公殿下は、照れて頬を赤くした。父ラインハルトの功績は、みんなから聞いているけれど、アレクは顔も覚えていないのである。宇宙統一の業績と華麗な容姿を、難しい美辞麗句で教えられても、おとぎ話を聞いているようで実感が薄い。

 

 父の最大最高の敵手の、元被保護者の言葉は、今までにないほど分かりやすく父のことを誉めていたのだ。ユリアンの配慮もあったが、語学力の問題でもある。しかし、これはこの際プラスに作用した。

 

「そして、皇帝ラインハルトの下に集まった方たちのこともです。

 ヤン提督は『なるべく楽に戦い、負ける戦いはしない』と言って、苦心していましたから」

 

「ユリアンさん、それは七回めも、八回めも、

 ヤンげんすいは勝てると思っていたってことなんですか」

 

 フェリックスの疑問に、ミュラーは溜息を吐いた。第八次攻略戦で惨敗し、バーミリオン会戦では四回も乗艦を替えることになった身には苦いものである。もっと言うなら、バーミリオン会戦でも、回廊決戦でもヤン・ウェンリーに勝算はあったということなのだ。実際にそのとおりであったのは間違いない。

 

「まあ、手玉に取られた者としては、返す言葉もありませんが」

 

「ミュラー元帥、お気を悪くされたなら申し訳ありません。

 ヤン提督にとって楽というのは、一人でも部下の戦死が少ない方法のことです。

 軍部のクーデターの時には『ろくでもない戦いだから勝たなければ意味がない』と

 兵士に向けてスピーチしたんです。

 パーティの時は二秒で済ます人だったのに、あれがヤン提督の本音でしょうね。

 そして、『勝つための計算はしてあるから、無理をせず、気楽にやってくれ』と続きました」

 

 ブリュンヒルトの艦橋で、ユリアンと通話をしていた大人達は唖然とした。司令官として、帝国軍では考えられない発言だからだ。

 

「その計算の難しさを、誰かに見せる人ではありませんでした。

 ところでアレク殿下、フェリックスくん、

 ヤン提督は同盟では『魔術師』とも呼ばれていたのは知っていますか」

 

「はいっ」

 

 元気な返事の二重唱に、再び二つの陣営から微笑が起こる。

 

「そう、『魔法使い(ウィザード)』ではなくて『魔術師(マジシャン)』です。

 君たちは手品を見たことはありますか?」

 

「えらんだトランプをあてたり、ハトをおぼうしから出したりするのだよね」

 

「ええアレク殿下、同盟では大変上手な手品師のことを『魔術師』とも言ったんですよ。

 つまり、ヤン提督の『魔術』には種も仕掛けもありました。

 見ている相手からはそれが分からないけれど、私たちは舞台の裏方です。

 種も仕掛けも少しは分かっているつもりです。でも、驚かされることの方が多かったですよ」

 

「ヤン提督の一番弟子の卿にもですか」

 

 帝国の将兵で、ヤン・ウェンリーに直接対面した者は数少ない。その数少ない人間の中で、現在最高位なのはミュラーだろう。

 

 二度も苦杯を舐めさせられた相手だったが、バーミリオン会戦停戦後、単身ブリュンヒルトを訪れた黒髪の敵将に好感と尊敬の念を抱いたものである。線の細い学者にしか見えない、一見おとなしそうな青年は、下手な冗談さえ交えて、ミュラーを賞賛したのだった。

 

「その、何て言ったらいいのでしょう。例えば、こういう状況になったら、

 艦隊をこのように配置するという訓練や準備をしたとしましょう」

 

「ええ」

 

 ミュラーは同意した。艦隊司令官であるなら当然の準備だからだ。

 

「それで、実際に戦いの中で、そのような状況になって、指示のとおりに動いたら勝てました。

 では、どうしてヤン提督はそんな状況になることを考えついたんでしょう」

 

「なるほど、種や仕掛けを知っていても、

 その発想はヤン元帥にしか分からないということですか」

 

「いえ、奇策の鮮やかさで誤解されてしまうことが多いのですが、

 ヤン提督は勘や思い込みで作戦を考えるというのを嫌いました。

 なるべく正しい情報を沢山集めて、自分の思い込みや好き嫌いをしないで、

 いろいろな方向から物事を考えるんだよ、と私に教えてくれたものです。

 何か先のことを考えても、相手がどう出るかはわかりません。

 相手の出方もコントロールすることや、いろいろなことを考えて、

 負けないような方法を考え付くまで戦いをするべきではないと、常々おっしゃっていました。

 戦い始めたら、敵か味方かあるいは両方の、

 沢山の人々が亡くなるまで終わらせることはできないのだからと」

 

 ショーはやり遂げなければならない。ヤンの死後に何度となくユリアンを襲った、魔術師の孤独。紅茶のブランデーの量が増えていった理由を、ようやく思い知って、ユリアンは深く自嘲したものだ。僕は提督のことを、何も知らなかった。あの人はなんと強い人だったのだろうかと。

 

「そのために、どれだけのことを考えていたんだろうと思うんです。

 君達にはちょっと難しかったかな?」

 

 黄金と褐色の頭が、同時に頷いた。

 

「それでも、いつも戦ってばかりではありませんでした。

 戦闘のない時は、ヤン提督は昼寝をしたり、読書をしたり、

 ブランデー入りの紅茶を飲んだり、三次元チェスで負け続けたり、

 サインする書類を溜めてキャゼルヌ事務監に怒られたりしていました。

 イゼルローンの森林公園のベンチがお気に入りの昼寝場所でした。

 ジャカランダの樹の下のベンチです。 もう花の季節は終わってしまっているでしょうが」

 

「フェリク、どんなお花かしってる?」

 

「ぼくもはじめて聞いたお花だよ」

 

 ふたりの少年は、居合わせた大人達を順番に見上げるが、みんな苦笑して首を横に振った。代表してミュラーが質問する。

 

「アレク殿下、小官は不調法なものでして……。ヘル・ミンツはご存じですか」

 

「私もイゼルローンで見たのは、あの六月の一度きりです。

 紫色の綺麗な花が高い木の梢に咲いて、それは見事なものでした」

 

 それは魔術師のいない六月のこと。あの花の色に似た瞳の少女に叱咤され、励まされ、ようやく立とうと決めたころ、ジャカランダは既に散っていた。

 

「森林公園の木には、ちゃんと帝国語のネームプレートが付いていますから

 すぐにわかると思いますよ。ちょっと奥の方ですけど」

 

「ミュラーげんすい、ぼく、行きたいな」

 

「御意にございます。手配をするように」

 

「あの、ミュラーげんすい。ぼくもアレク殿下といっしょに行かせてください」

 

「元よりそのつもりですよ。卿は殿下の随員なのだから。

 ハインリッヒ候補生の指示に従うこと」

 

「はいっ」

 

 微笑ましい様子に、ユリアンは目を細めた。光陰矢の如しとはよく言ったものだ。ようやく歩き始めたばかりの子と、首も据わっていなかった赤ん坊がもう少年期の入口に立っている。親戚の子どもを見る叔父さんみたいだなと思い、はっと胸に迫るものがあった。ヤンがユリアンを引き取ったのは、ヤンが二十七歳の時だ。

 

 十二歳の少年を預かるというのは、かなり気を遣ったこともあったろう。学校やスポーツの成績のことは、放任といってもいいぐらいだったが、歴史や社会に関する質問についてはヤンなりの意見を誠実に返してくれたものだ。十五歳の年齢差であっても、ヤンは『父』だった。

 

 そして、この子たちは、獅子帝と疾風という父を持っている。親は子どもを選べないし、子どもも親を選べない。歴史上の偉人を親に持つ、それがどんなに重いことか。ましてや、彼らの国は専制国家である。子が親の地位を継ぐのは当然。そして、父の業績に及ばなければ容赦なく指弾されるのだ。

 

 だが、五百年に一人の天才とその覇業にずっと従いえた者と、同等を要求されるのは非常に厳しいし、それを実現されたら再び宇宙は割れる。この子たちがそれに直面する前に、政体を変革してもらう必要がある。民主共和制の苗を残すために、屍の山と血の河を作った者の一人として、微力を尽くしていくように。

 

 ――ユリアン・ミンツのその後の生涯を方向付けたのは、この行啓対談だと後世に評価される。

 

 ヤンが生前語ったように、剣より強い武器に持ち替えて、師父の本来の夢を継いだのだ。だが、それはまた別の話である。



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獅子を継ぐ君へ

 その後、イゼルローン要塞到着まで、アレクとフェリックスはあわせて三回ユリアンと話すことができた。

 

 最初の通話は、互いに小惑星帯に敷設した機雷原を縫ってランデブーするようなもので、ミュラーやバイエルラインは、ユリアンの思慮深さと自己抑制に驚嘆したものである。

 

 ヤンの死からまだ六年しかたっていないのだ。どれだけ恨み言を叩きつけられるか、あるいは帝国の敗北を赤裸々に語られるかと戦々恐々としていたのだが。

 

 しかしその後は、イゼルローンの新年パーティや幽霊騒動、電球の型が合わなくて、あのキャゼルヌ事務監が苦労したことなど、子どもが興味を持つような話が巧みに語られた。

 

 やはり全員の興味を惹いたのは、ヤン・ウェンリーのエピソードである。紅茶が好きで、珈琲は泥水だと嫌う。寝起きが悪くて、昼寝が好きで、三次元チェスは弱かった。

 

 ユリアンが教えてもらったのは、戦略戦術そのものよりも、専制と民主共和制の違いや歴史についてのことが多い。それはヤンが歴史学者志望だったからで、無料で歴史を学ぶために士官学校に入って、戦史研究科が廃止されてしまい、戦略研究科に転科させられて中の上の成績で卒業。

 

 ただし、実技科目は赤点ぎりぎりで、首から下は役立たずと先輩に酷評される始末だったという。それがエル・ファシルの脱出行で英雄に擬せられて以来、人生は変わりっぱなし。無料(ただ)より高いものはないんだぞ、と被保護者には言い聞かせ、給料と年金分は同盟政府に尽くすのさと部下にはこぼしていたそうである。

 

 不敗の名将、温厚な紳士というヤンの評価しか知らなかった、真面目で善良な帝国軍の人々はかわいそうなぐらい面喰った。

 

 特にユリアンの中学校の宿題に、偉人の伝記の感想文が出た時に『偉人を子どもに見習えなんて、善良な人間に異常者になれというに等しい』と発言したというくだりなど、年長者は顔色を様々に変色させ、こめかみや眉間(みけん)鳩尾(みぞおち)といったそれぞれの急所を押さえたものだ。

 

「大変失礼ながら、ヤン元帥は自らを省みて発言されるべきだと思うのですが……」

 

 ミュラーの言葉を翻訳するなら、『ヤン・ウェンリーにだけは言われたくない』というものだろう。

 

「ええと、ヤン提督はご自分を凡人だとお考えだったんですよ。

 外見や生活態度は本当にそのとおりでしたから。

 皇帝ラインハルトは、容姿からして美しい方だったでしょう。

 『水晶を名工が銀の彫刻刀で彫りあげたようだ』と言って、

 天は人に二物も三物も与えるもんだね、と頭を掻いていたものです」

 

 確かにラインハルトは軍神(マーズ)知神(ミネルバ)美神(ビーナス)の寵愛を一身に受けていた。だが、ミュラーに言わせるなら、ヤンは軍神と知神の寵愛と詩神(ミューズ)の加護を受けていたように思う。ユリアンから語られる、ヤンの皇帝や将帥に対する考察は、実に的確で詩的ともいえる表現が使われていた。黒髪の歴史家志望者は、軍才以外にもなみならぬ知性と感性の所有者だったと知れた。

 

「それにしても、政府や国家の偉人に対して、そのようなことを口にされて大丈夫なのですか」

 

 こちらは、現軍務尚書(ミッターマイヤー)その前任者(オーベルシュタイン)との軋轢(あつれき)に悩まされていたバイエルラインの疑問である。

 

「まあ、思想と言論の自由は憲法で保障されていましたから。

 世間に迷惑をかけない限り、何を考えても話しても自由というのが建前ですけど。

 でも、将官ともなるとなかなかそうはいきませんし、

 難癖の材料にしようと思えばいくらだってできました」

 

「やはり、そうでしょうな」

 

「しかし、難癖をつけることはできても、それだけでは罪には問えません。

 そこが旧帝国との国の仕組みの違いでしょうね。

 ヤン提督もからかいや冗談の種にされたり、

 ご自身も同じように相手に毒舌を言ったりしましたから」

 

「その、ずいぶんと自由というか……」

 

 ユリアンは、苦笑した。

 

「ええ、ムライ参謀長はよく困ったものだとおっしゃっていましたよ。

 ヤン提督は軍律に甘いとも言われてました。

 ヤン提督が絶対に許さなかったのは、民間人への暴力と、

 上官から部下への制裁くらいでしたからね。

 有能な下級指揮官に、部下への暴力行為が多かった者がいましたが、

 降格更迭されてからはぱったりとそれがなくなりました。

 『奇蹟のヤン』にそれは軍隊の恥そのもの、

 私の艦隊には不要だと言われてはそんなことできません。アムリッツァの後ですから」

 

「弱い者いじめはだめだよっていうことなの?」

 

「はい、アレク殿下。

 軍事というのは、本当だったらやってはいけないことが正しいとされてしまうんです。

 誰かと喧嘩をする時に、一人を大勢でいじめたり、後ろからいきなり叩いたり、

 おやつやおもちゃを横取りしたりすれば、お母さんに叱られますよね」

 

「ぼく、そんなことしないよ!」

 

「ぼくもそんなことしません!」

 

「すみません、アレク殿下、フェリックスくん」

 

 幼い抗議に、ユリアンは謝罪して続けた。

 

「これは卑怯なことです。

 なのに軍隊の作戦だと、やるのが当然で やられた方が馬鹿なんだと言われてしまいます。

 敵にやったことでも悪い事には違いがないんだと、ヤン提督はおっしゃっていました。

 だからせめて、味方や守るべき人達に、そういうことをしないようになれるといいねと」

 

 ユリアンは、ヤンからの言葉を自分なりに要約し、この子たちにも分かるような表現を心がけた。すこし拙い帝国語で、自分たちの質問に真摯に答えてくれる青年の態度に、彼自身と育てた人の優しさが浮かんでくる。

 

「ヤンげんすいは、やさしい人だったんですね」

 

 そうでなければ、ユリアンがヤンの言葉をフェリックスやアレクに伝えようとするだろうか。

 

「うん、普段は優しい普通の人だったよ。

 戦いの時はすごい作戦を指揮したけど、いつもの調子で、

 旗艦の机に胡坐(あぐら)をかいて座っていてね。ちょっとお行儀が悪かった。

 でも、それを見るとなんか安心できてね。

 ヤン提督がいつもどおりなら、きっと大丈夫だってみんな思っていた。

 そして、ちょっと頼りない提督だから、助けてあげたいって思ったんだよ」

 

「ユリアンさんは、ヤンげんすいのこと、だいすきだったんだね」

 

 金髪の少年の言葉に、亜麻色の髪の青年はゆっくりと頷いた。

 

「ええ、心から大好きでした。

 もしも時が戻せるなら、何を引き替えにしてもいいと何度思ったか。

 ヤン提督はきっと賛成なさらないでしょうけれど。

 ですが、愛する人を失えば誰しも思うことなんです。

 ()は彼が亡くなるまで、それを本当には理解していなかった。

 ヤン提督はそれを知り抜いていたんですよ。

 だから味方とできれば敵である帝国軍も、

 一人でも多くの人を戦場から帰すことを願っていました」

 

 静かな声に、静かな表情だったが、人はこんなに悲しい顔ができるのだと、幼い子どもたちは始めて知った。

 

「ごめんなさい」

 

 しょんぼりしてしまった大公殿下に、ユリアンは首を振って答えた。笑顔を浮かべることはできなかったけれど。

 

「いえ、こちらこそすみませんでした。君たちは全然悪くないんですから。

 ヤン提督の一番の望みは、ひとときの平和でした。

 ひとときの平和も、次の世代が責任をもって大事にしていけば、

 続いていくのだろうとお考えだったそうです。

 ヤン提督が生きている間には叶わなかったけれど、私たちは手にすることができました。

 この平和を大事にするのが私の願いです。帝国の方々も同じようにお考えでしょう」

 

「そのとおりです、ヘル・ミンツ」

 

 ミュラーは短く答えた。

 

「貴重なお話をいただき、心より感謝します」

 

「こちらこそ、お話ができてよかったと思います。

 もうすぐイゼルローンに到着なさいますか?」

 

「あと一回跳躍(ワープ)がありますが、明日には到着するでしょう」

 

「そうですか。それでは貴艦隊の航海の安全を心より祈ります」

 

 ユリアンは久々に同盟式の敬礼をした。かつての保護者と違って、教本に載りそうな一礼であった。

 

 そして、イゼルローン要塞に到着した大公アレクとフェリックスだったが、好きに行動ができるわけではない。この行啓の最大の目的は、ミュラー元帥がイゼルローン要塞に駐留し、要塞司令官と要塞駐留艦隊司令官を兼任する着任式で皇太后の名代を務めることである。それが済むまでには、宙港での歓迎式典から始まって、貴賓室への移動してそこでも歓迎の辞に応じたりと、五歳の男の子には大変で退屈な日程が続く。フェリックスも侍従見習いとして、アレクに付いてなだめたり、それとなくトイレに誘ったりという役目がある。

 

 皇太后ヒルダやグリューネワルト大公妃が、次の皇帝として教育しているアレクは、年齢に比べて聡明で聞き分けのよい子だった。しかし五歳児の限界というものがある。幼い頃のラインハルトによく似た大公アレクは、先帝への敬慕と愛惜もあって、国民の人気が高い。帝国軍人にとっては、さらに温度の高いものだった。当初はもっと過密なスケジュールが組まれたが、ラインハルトの妻と姉の反対でこれでも大幅に行事を削ったのだ。

 

 アレクの父は、この年頃は母代わりの姉にべったりで、きかん気なやんちゃ坊主として遊び回っていたものだ。

 

 地位あるものは義務を負う(ノブレス・オブリージュ)という。

 

 だが、父の顔も覚えていない、まだ五歳の子に背負わせてしまってよいものなのか。ミュラーは考え込んでしまう。

 

 ところで、旧帝国では二人の大将が同格者として、イゼルローンの要塞司令官と要塞駐留艦隊司令官を務めていた。これは両者と部下に感情の対立をもたらし、第七次攻略戦でヤン・ウェンリーの魔術の種に利用されてしまった。

 

 その轍を踏むまいと、同盟軍はこれを兼任としてヤン自身をあてた。同盟におけるイゼルローン要塞司令官兼同要塞駐留艦隊司令官は史上ただ一人である。これもまた、あちらに付くとこちらに付けずという極端な人事だった。それを何とかすべく、ヤンと幕僚は相当に苦労したものだ。しかし、それは戦時中のこと、平和になればやはり兼任が当然だろう。

 

 イゼルローン要塞はその攻撃力、防御力、生産拠点としての機能があまりに堅牢で、その気になれば独立国家になれる。ヤンが同盟政府に危険視され、彼の死後実際にそうなったように。

 

 ミュラーがいかに帝国首脳部に信頼されているか、『彼を臣下に持ったという一点だけでも、皇帝ラインハルトは後世に評価されるだろう』というヤンの言葉どおりであった。

 

 皇帝ラインハルト、ロイエンタール元帥、オーベルシュタイン元帥。ミュラーが亡くなった人々を思う時、その行政能力の損失に目の前が暗くなることがある。ミュラーは『獅子の泉(ルーヴェンブルン)の七元帥』の一人であり、軍人としての手腕に加えて温厚な人柄で人望が厚く、将来は帝国軍三官のいずれかを占めることが確実視されている。だが、恐らくはそこまでだ。自分の思考は軍事に傾いており、国家というものを構想する器ではない。

 

 また、人には向き不向きというものがある。七元帥のアイゼナッハが軍務尚書として閣議で発言できるか、ビッテンフェルトが統帥本部総長として軍部の作戦や人事、予算の計画を策定できるかと自問すると、(ナイン)というしかない。前者は統帥本部総長なら務まるかもしれないが、後者を軍務尚書にしたら舌禍が頻発しそうである。

 

 そして、国家だけではなく、父としてのラインハルトの喪失も。

 

 ユリアン・ミンツが語ったように、預かったペットに餌をやり忘れた罰として、本人に夕食を抜くように命じ、自分もそれに付き合うような、そんな父性をアレクに与えることのできる人間がいるだろうか。

 

 嫌なら軍人になんかならなくてもいい、親のことなんて関係ない、養育費なら返還すると血のつながらない少年に言ってくれるような相手が。

 

 ロイエンタール元帥の遺児は、この点ではるかに恵まれているだろう。

 

 ラインハルトにとって超克すべき父性は、姉を皇帝に売った父ではなく、姉を奪った皇帝そのものであった。父性の負の部分の集大成に勝ち、勝ち続けるために戦いを欲し、翼の力の続く限りに飛翔を続けた。彼は有翼獅子(グリフォン)であった。

 

 だが、それは幻獣、神話や伝説に語られる存在だ。飛翔する鳥は巨体を持つことはできない。そして領土、領民が1.5倍以上となった新帝国は巨躯をもつ獅子だ。身体を今さら切り捨てることは不可能だ。翼を捨て、四肢で歩むしかないのだ。

 

 だが、それは眩い先帝の残照に、目を射られながらの長い道程になる。大公アレクは、いずれそれを継ぐ。先帝は器でなければ他の者が継げばいいと言い残したが、実際そんなことになれば、リップシュタット戦役が人的宇宙規模で拡大再生産されるだけだろう。

 

 アレクが成人するまではあと十五年。七元帥はまだ五十代である。このまま平和が続けば、おそらく天上の門をくぐらずにすむだろう。それまでに、新帝国と旧同盟の共存の道筋を、少しでも(ひら)いておきたい。退屈な行事に、我慢強く笑顔を浮かべて歓迎の辞に答えるアレクを見ると、ミュラーは思うのである。



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魔術師の椅子に冬の花束

 さて、直径六十キロの要塞は、内部が一万にやや欠ける数のエリアにわかれ、すべてを回るには数年単位の時間が必要だ。新旧の銀河帝国でも、要塞内すべてに足を運んだ者はいないだろう。

 

 ヤン・ウェンリーとその部下にとってはなおのことである。同盟軍史上唯一の要塞司令官は、行動派ではなかった。彼の日常の行動範囲は、自宅フラットと司令部の往復と、要塞宙港からの出撃、休日にたまに商業区に出掛けるくらいのものだった。その狭い行動範囲に含まれていたのが、ユリアンから教えられた森林公園だった。

 

 ようやく森林公園に行く時間がとれたのは、イゼルローンに到着して四日目、新帝国暦八年八月一二日のことだった。二人の少年は再び歓声を上げた。彼らが暮らすフェザーンは、海が少なく砂漠の多い惑星で、一面に木々が生い茂るような場所は帝都周辺には少ない。広いフロアには、高木と低木、潅木(かんぼく)が配されて、その間を小川が流れ、見上げる天井には空が広がっている。この空は映像であったが、旧都オーディンの気候と時間に連動したものになっている。午後三時、西に傾いた陽射しに、そろそろ秋の訪れを感じさせた。

 

 旧都オーディンは、帝都フェザーンやハイネセンに比べて高緯度に位置し、やや冷涼な気候だ。木陰に入ると少し肌寒く感じるほどである。母の言いつけを守っていたフェリックスは、まずアレクに持参してきた上着を着せて、次に自分も羽織った。

 

 ハインリッヒに先導されて、森の小道を弾むような足取りで二人は歩いていく。静かな森だった。微かに流水の音が聞こえるが、目的地に近づくにつれ、それも遠ざかる。人工天体内では梢を揺するような風は吹かず、鳥や小動物や昆虫もいない。木漏れ日が明るく差し込む時間は過ぎていて、森は薄暗いものになっている。

 

 今日この時間しか日程の調整がとれなかったのだが、ハインリッヒは少年たちのために残念に思った。ユリアン少年の保護者が、仕事をさぼって暢気に昼寝をしていたという牧歌的な雰囲気はない。優しい魔術師ではなく、悪い魔女が怪しい笑い声と共に顔を出しそうである。

 

 いつのまにか子どもたちのおしゃべりの音程が下がり、アレクとフェリックスが繋いだ手に力がこもっていく。色合いの異なる二対の青が、心細い様子で青年を見上げ、年上の方が士官学校の制服の裾を握り締めた。

 

「大公アレク殿下もフェリックスも、心配しなくても大丈夫です。

 ここには熊や狼はいないんですから」

 

 ハインリッヒは、下手な冗談で二人を慰めた。この森林公園は、アレクの要望を受けてから一旦閉鎖され、現在まで彼らと警備陣以外の入場は禁止されている。彼らが入場した入口から『ヤン・ウェンリーのベンチ』までは、特に徹底的な検査が行われ、監視システムが敷かれている。二人の少年に同行するのはハインリッヒだが、実は十重二十重に親衛部隊が取り巻いていて、多分いま宇宙で一番安全な場所なのだ。

 

「でも、おばけは出てこない? ゆ、ゆうれいは?」

 

 ちょっと涙ぐんだアレクは大層愛らしかった。誠に不敬な感想ではあるが。ハインリッヒは、緩みそうになる頬を必死で引き締めて答えた。

 

「ヘル・ミンツが教えてくださった幽霊騒ぎは、逃げ出した兵士だったでしょう?

 今のイゼルローンにはそういう人はいませんよ。

 もしも出てきても、私がやっつけるので大丈夫。ほら、ベンチが見えてきましたよ」

 

 ものぐさなヤンが、昼休みに行き来をするぐらいの位置なのだ。子どもの足だということを考えても、そんなに時間がかかるものではない。ハイネセンとオーディーンの気候の差と、来訪する時間の違い。そして、ヤンが昼寝や思索に耽っていた時から、過ぎた年月の分だけ成長した葉陰の濃さである。いくつかの誤算が、ちょっとした肝試しを演出してしまったに過ぎない。この時ハインリッヒはそう思っていた。

 

 同盟軍がイゼルローンに駐留していた頃は、この公園の利用者は少なかったのだという。実はそれ以前も同様だった。イゼルローンには、いくらでも娯楽施設があるのだから、樹木ばかりの公園に通いつめる物好きはあまりいない。その物好きたちもあまり足を運ばない、メイン通路から外れた一角が、『ヤン・ウェンリーのベンチ』であった。傍らには丈高いジャカランダが何本か植えられていて、頭上に大きく枝を広げている。

 

 照明が欲しくなるほどの薄暗さだった。たしかにこれならば、午後の早い時間でも日差しに邪魔されずに昼寝ができそうだ。ただし、子どもたちが漠然と想像していた様子とはだいぶ違っていた。

 

「ここがユリアンさんの言ってたベンチなんだね。

 でも、ぼくが思っていたのとちょっとちがうなぁ」

 

 フェリックスの言葉に、アレクは大きく頷いた。さきほどまでは二人で手を繋いでいたのが、今はフェリックスの身体にしがみついている状態である。

 

「ほんとに、ほんとにおばけはでてこないよね」

 

「申し訳ありません、思ったよりも暗いですね。

 いま照明を点けてもらうように連絡します。 少々お待ちを」

 

 ハインリッヒは、通信端末でその旨を施設オペレーターに連絡する。その照明もベンチの真上ではなく、十メートルほど離れた場所なのだが。三人ともそれを凝視して、灯りが点るのを待ったが、なかなか明るくならない。

 

「その照明は接触が悪いのか、点くのが遅くてね。

 キャゼルヌ先輩には頼んであるんだが、部品を手に入れるのが難しいらしい。

 もう少し待ってくれるかな」

 

 柔らかな抑揚の同盟語が耳を打ち、彼らは文字通り飛び上がった。慌てて振り返ると、ほんの一瞬前まで誰もいなかったベンチに黒髪の男性が座っていた。白いシャツに藍色のカーディガン、グレーのスラックスというありふれた普段着の、目立たないがそれなりに整った容貌の青年。少年たちは一様に硬直した。青年はおさまりのわるい髪をかきまぜて苦笑した。

 

「すまないね、驚かせてしまったかな?」

 

「ヤ、ヤン提督……」

 

 ハインリッヒは、震える歯の根の間から、ようよう言葉を絞り出した。

 

「こんなに小さな子が、ここにくるなんて珍しい。君はお兄さんかい?」

 

 幽霊か、それを装ったテロリストなのか。いずれにせよ、ハインリッヒは二人を庇って、銃を向けねばならないはずだった。だが実際には、声もなく頷くのがやっとだった。

 

「ひょっとして、薔薇の騎士(ローゼンリッター)連隊の誰かの家の子かな?

 お父さんのお迎えかい、えらいねぇ」

 

 彼らの帝国語から判断したのか、スラックスのポケットを探りながら青年は首を捻った。

 

「あの連中に、こんなに大きな子がいる既婚者はいたかなあ。

 ああ、しまった、やっぱり通信端末を忘れて来てしまった。

 連絡しようと思ったのに。まあいいか、すぐにユリアンが来るからな。

 私に連絡しそうな人の家にお邪魔するんだし。

 そうそう、君たちの家の人が軍にいるなら、伝えておくよ」

 

 三つの頭が勢いよく左右に振られた。

 

「本当に大丈夫かい? みんな顔色が真っ青だよ。まるで幽霊でも見たような顔をして」

 

「だって、おじさんは――」

 

 衝動的にアレクは反論しかけた。

 

「やれやれ、独身のうちはお兄さんと呼んでほしいなあ」

 

 苦笑いを浮かべて、また黒い髪をかき回す。その手がふと止まり、アレクを黒い瞳がまじまじと見つめた。次に傍らのフェリックスに視線が移り、アレクよりも二割ほど長い間凝視する。ハインリッヒには、顔よりも服装に視線を向けたようだった。彼は微かに笑みを浮かべて、ベンチの背にもたれかかると天を仰いだ。

 

「どうやら私は天使か妖精に会っているみたいだね」

 

 そう言うと、彼はベンチから立ち上がった。いつの間にか、優しい上品な色合いの大きな花束を手にして。

 

「坊やたちのお父さんか、お母さんによろしくね。では、おやすみ」

 

 言葉と同時に、背後から白っぽい明りが差した。その明るさに注意が逸れた半瞬後、ベンチは本来の状況に戻っていた。すなわち、無人に。

 

 数秒後、盛大な悲鳴と泣き声の二重唱が奏でられ、遠巻きにしていた親衛部隊が一斉に駆けつけてきた。彼らは、遠目にスコープでアレク達を注視していた。また、監視モニターも複数のオペレーターによってチェックされている。

 

 その全てに、黒髪の青年は映っていなかった。イゼルローンの幽霊騒ぎが、約十年ぶりに再演されたのである。ユリアンが、二人の撃墜王(エース)と立ち会ったものに比べて、格段に豪華な出演者(キャスト)によって。

 

 さて、ここまでならば夏の怪談で終わりだったが、駆けつけた親衛部隊がベンチの上にあったものを発見した。丸っこい形のピンク色の立体写真キューブである。どうやら子どもの玩具のようで、変色しかけた可愛らしいシールが貼ってあった。

 

 旧同盟ではありふれたもので、画質は大したことはないが、キューブ自体での等身大撮影、録音、再生が可能だった。とっくに内部電源は消耗していて、現在の両用規格電池が使用できないため、五年以上前のものだと思われた。

 

 このデータを抽出し、再生してみたところ、出てきたのである。白いシャツに藍色のカーディガン、グレーのスラックス姿のヤン・ウェンリー元帥が。大公アレクを除外して、ミッターマイヤー家の目撃者に確認したところ、二人そろってこの人だと断言した。

 

 念入りに点検したベンチの上から、こんなものが見つかるのは由々しいことだが、キューブが誤作動した映像だと結論づけた方が、精神衛生上はるかによろしい。

 

 しかし、フェリックスがあることを指摘したのだ。

 

「この写真だと、ヤンげんすいが花束をもっていないよ」

 

「花束?」

 

「ハインリッヒも見たよね。

 ヤンげんすいが、ぼくたちに『お父さんか、お母さんによろしくね』っていってくれたとき、

 大きな花束を持ってたよ。お母さんがすきで、よく冬に買ってくるお花だった。

 ちょっとなまえがおもいだせないけど……」

 

「すごいな、フェリックス。俺はそこまで見てなかったよ」

 

「それに声は? ぼくたちのことしんぱいして、とっても親切にしてくれたよね」

 

 そこを問われると、ハインリッヒも回答できない。義弟の観察眼の鋭さや頭脳の明晰さに感心しつつ、謎は深まるばかりである。

 

 ヤン・ウェンリーの肉声は、同盟軍内での発言やマスコミのインタビューなどが残っている。穏やかなテノールで、一流アナウンサーと比べても遜色のない、抑揚や敬語の美しい同盟語である。実は通信教育の副産物だったそれが、彼を智将、温和な紳士と他人に思わせたのだが。

 

 照明がなかなか点かなくて困るだとか、所持が義務付けられた通信端末を忘れてまあいいか、などという発言はない。データを解析するかぎりでは、最初から録音をしておらず、映像は無音であった。

 

 こういう物品が発見され、持ち主も特定できる以上、帝国軍として公式に質問をすべきなのだが、それには一つ問題があった。キューブの変色しかけたシールには、『リュシエンヌ・ノーラ・キャゼルヌ』という名前が書いてあった。当時の要塞事務監、そして現在のバーラト星系共和自治政府の事務総長アレックス・キャゼルヌの次女である。

 

 彼はヤン・ウェンリーと公私にわたり、最も長く深い親交のあった人物だ。その行政事務官としての手腕は、士官学校の事務次官のころからイゼルローン要塞事務監を経て、バーラト星系共和自治政府と、権限と差配すべき人口が増大しても、最高実力者という評価が変わることはないだろう。

 

 さて、穏やかな口調で毒舌を吐くのがヤン・ウェンリーの特徴であったが、アレックス・キャゼルヌの場合はいささか異なる。

 

 彼の舌鋒は、後輩よりもずっと容赦がなかった。多少はオブラートを着脱するものの、その鋭さ苦さを緩和するには大いに不足していた。銀河帝国の文官武官で、彼の毒舌の洗礼を受けずに済んだ者は少ない。

 

 死者にとって非礼ではあるが、前軍務尚書と事務総長の論戦又は謀略合戦が勃発せずにすんだことについて、両国政府はひそかに胸を撫で下ろしたものだ。もっと恐ろしいことは考えないようにした。それは、事務の達人らが国境を越えてひそかに団結し、両国の面々をしごき抜くという地獄絵図である。

 

 温和な外見よりもずっと豪胆な『鉄壁』ミュラーだったが、超光速通信のモニターに辛辣な光を湛えた薄茶の瞳が映ると、緊張せざるを得ない。新領土駐留軍司令官として、半年前までしごき抜かれた相手である。的確に急所を抉り抜く指摘の鋭さよ。同僚のエルスマイヤーとともに、何度鬼教官の課題に悲鳴を噛み殺しつつ、対処を重ねたことか。



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First Love Stories.

「お久しぶりです、ミュラー元帥。

 まずはイゼルローン要塞司令官兼駐留艦隊司令官ご着任について、お祝いを申し上げます」

 

「ヘル・キャゼルヌ、ご丁寧にありがとうございます」

 

「それでは、お互い本題に入りましょう。

 私の次女の持ち物が、騒動の原因になったとお考えですか?

 もしくは、ユリアンが大公殿下が公園に行きたがるように仕向けて、

 我々がなんらかの工作を行ったと。

 それも、この四年間の大改修や、直近に行う総点検を逃れるようなものを、

 イゼルローンに用意できるとお考えでいらっしゃる?

 あなたもお役目とはいえ、大変なことですな」

 

 棘だらけの労りが非常に痛いミュラーであった。不敗の魔術師が最初から白旗を上げた相手に、自分が勝てるはずもない。

 

「いいえ、そうとは考えられません。

 大公アレク殿下と随員が見たものが、立体映像だったとしたら、

 警備部隊や監視員に目撃されなかったのは不自然です。

 画像には音声がありませんでしたが、三人ともヤン元帥の声を聞いたそうです。

 この立体写真キューブと結びつけて考えるには無理がある。

 ですが、持ち主が分かる以上は、事情を伺うべきだと判断した次第です」

 

「あなたが理性的な方だったことに感謝すべきなんでしょうな。

 私に話していただいてよかったですよ。

 こんなことを血の気の多い連中が耳にしたら、お祭り騒ぎを起こすでしょう。

 まあ、そちらの対応いかんによっては、私が口火を切ってもよろしいですが」

 

 この五年間、自国の行政に、帝国との交渉に、辣腕を振るってきた怜悧な行政官の長が静かに激怒している。彼がその気になって、旧同盟の各星系自治体に働きかければ、帝国から派遣された行政長官は翌日を待たずに叩き出されてしまうだろう。

 

「ヘル・キャゼルヌ……」

 

「無論、冗談ですよ」

 

 にこりともせずにキャゼルヌは続けた。

 

「皇太后陛下は、そんな対応などとらんでしょうからな。

 七年前のことをお忘れになるような方ではありますまい」

 

 永久凍土でできた極太の釘が、帝国軍人たちの心臓に打ち込まれた。

 

 ミュラーは息を呑んで答えた。

 

「肝に命じます」

 

「なによりも、あいつが一番望まんことです」

 

「キャゼルヌ事務総長、そんなにミュラー元帥をいじめるものではありませんわ。

 あの人も、私のところに来てくれればよかったんですのにね」

 

 美しい声が、事務総長の背後から会話に割り込んできた。モニターの視界が切り替わり、新たな人物が通信に加わった。金褐色の髪と、ヘイゼルの瞳をした、声に劣らぬ容姿の女性である。

 

「これは、ヤン主席……あなたにまでご足労いただくとは……」

 

 新銀河帝国の四十分の一の人口とはいえ、唯一の独立国家の首班(しゅはん)、フレデリカ・<(グリーンヒル)・ヤンである。これは一大事だ。通信に立ち会った帝国人は一様にそう思ったが、彼女はゆるゆると金褐色の頭部を左右に振り、見事な敬礼をした。

 

「いいえ、今の小官はヤン・ウェンリー提督の副官、グリーンヒル退役少佐です。

 そして、もう一人の証人はキャゼルヌ事務総長のお嬢さんですわ」

 

 歩み出て一礼したのは、ロイヤルミルクティの髪に、薄茶色の瞳をした少女だった。いかにも利発そうで生き生きとした表情が、可愛らしい顔を彩っている。

 

「初めまして。私はシャルロット・フィリス・キャゼルヌと申します。

 リュシエンヌ・ノーラの姉です」

 

「下の娘は、いま中学校のサマーキャンプに参加をしておりましてな。

 もっとも、あの写真を撮ったのは、あれが四、五歳の頃のことです。

 はっきりとは覚えておらんでしょう」

 

「あの写真は、妹が五歳の時のものです」

 

 シャルロット・フィリスははっきりと断言した。

 

「ユリアンおにいさまの初陣祝いの時だもの。

 あの写真キューブは、その前のクリスマスプレゼントだったから、間違いありません」

 

「おい、よく覚えてるな」

 

「ヤンおじさまが花束を持ってきたのは、その一年前です。

 私達がイゼルローンに着いてすぐのことよ。お父さん、覚えていない?」

 

「俺は、おまえさんが覚えていることのほうが驚きだよ」

 

 父親の顔を見せたキャゼルヌは腕組みをした。

 

「たしか、宇宙暦797年1月22日のことね」

 

 さすがはコンピューターの又従妹と評された、有能な元副官である。瞬時に脳内で上官のスケジュールを検索したらしい。

 

「日付ははっきり覚えていないけれど、多分そうです。

 だから、あのキューブには花束を持ったおじさまは映っていないはずです。

 あれは、一年後の写真だもの。服はおんなじだけど。

 それに、もっと言わせていただけるのなら、あのキューブは第九次攻略の避難の時には、

 もう見当たらなかったわ。でも、私も妹もあの公園には行ったことがありません」

 

「すごいわ、シャルロット。あの人の服装まで、よく覚えていたわね」

 

 宇宙暦797年当時、キャゼルヌ家の長女は七歳である。その詳細な記憶にフレデリカは脱帽した。

 

「あの服は、おじさまのお気に入りだったんだと思います。

 ユリアンおにいさまが見立てただけあって、よく似合ってて、大学生みたいで可愛かったし。

 母へのお土産なのは残念だったけど、初恋の相手からの花束よ。

 たった九年前のことだもの、忘れるはずがないでしょう。

 ねえ、ヤンおばさま(ミセス・ヤン)?」

 

「そうねえ、シャルロット。今、思い出したのだけれど、

 確かあなた、私が新婚の頃はフレデリカおねえちゃまって呼んでいたわよね?」

 

「ええ、お夕飯のシチューを焦がして駄目にしているうちは、

 ヤンおじさまの嫁とは認められなかったんだもの」

 

 ヘイゼルが緑の炎を発し、薄茶色には金の稲光が閃いた。銀河帝国の元帥も大将も、女の戦いの前にはまことに無力なものであった。フレデリカは頭をふった。キャゼルヌ家の長女は、瞳の色だけではなく、舌先も父親似だ。この分野の不利を覆すべく、時間という利点で切り返す。

 

「シャルロット・フィリス、あなたが恋敵でなくてよかったわ。

 でも、あの人に目を付けたのは私の方が先ですからね」

 

 驚愕したのは、彼女らの想い人の先輩だった。 

 

「おいおい、シャルロット、あいつに俺をお義父さんと呼ばせる気だったのか!?」

 

「お父さんったら、よくある幼い初恋の話じゃない。

 ヤンおばさまが副官として現れるまで、私は本気だったけどね」

 

「その、まあそういうこともありますよ」

 

 女同士の会話に少なからぬ衝撃を受けた父親に、弁解じみた相槌を打つミュラーである。立ち会っていた帝国軍の幕僚たちは、この人事を行った三高官の先見の明に心から感謝した。

 

 これが、会話を(ヤー)(ナイン)で済ませる提督や、『誉め言葉も悪口も大声で』を家訓にする猛将、はたまた実際に歳の差婚をした元帥だったらどうなったことか。

 

 周囲の大人たちの思惑をよそに、シャルロットは続けた。

 

「殿下たちがご覧になったおじさまが、『独身の間はお兄さんと呼んでほしい』

 と言ったのなら、幽霊ではないと思います。

 私がそう呼ぶと、同じことをおっしゃいましたから」

 

「では、フロイライン、あなたは何だとお考えですか」

 

 モニターの向こうの遠慮のない遣り取りに、先ほどとは違う意味での緊張を強いられていたミュラーは、ようやく現れた話の接ぎ穂に飛びついた。

 

「私は正解はないと思います。ユリアンおにいさまの話がきっかけになって、

 イゼルローンという場所が見せた幻なのかもしれないし、

 父が言うような凄腕の工作員が、絶対にいないとは断言できないでしょう」

 

 キューブ自体は紛失してしまって、思わぬ形で発見されたが、画像データそのものはキャゼルヌ家とヤン家のコンピュータに保存されていたのだ。第九次イゼルローン攻略時、そしての帝国への返還の際にデータの消去は行っているが、復元できる技術者は皆無ではないだろう。

 

「そういう奴がこちらにいるなら、我々はこんなに苦労をしておりませんがね。

 かといって、帝国の人間がやるメリットは全くない。不敬罪で処罰されるだけでしょうよ」

 

「ええ、なかなか深刻ですよ。アレク殿下はすっかり怖がってしまわれまして。

 フェリックスくんは慰めるほうに回ってくれていますが、怖いことに変わりはないでしょう」

 

「では、こういうお話ならいかがかしら」

 

 それまで聞き手に回っていたグリーンヒル退役少佐が、いたずらっぽい微笑を浮かべて言った。

 

「私はヤン提督の副官をしておりましたけれど、ひとつタネの分からない魔術がありましたの。

 ひょっとしたら、これがヒントなのかもしれませんわ」

 

 そう前置きして、フレデリカが語ったのはそれほど長い話でなかったが、ミュラーは得たりと頷いた。

 

「大変いいお話です。ヤン主席、ご多忙な中でお願いするのは誠に恐縮ですが、

 アレク殿下たちに、もう一度そのお話をお聞かせ願えませんか?」

 

「キャゼルヌ事務総長、まだ時間は大丈夫かしら?」

 

「銀河帝国との友好以上に、重大な用件などありません。

 益体もない利権屋の陳情なんぞ、待たせておいてもかまわんでしょう」

 

「では、事務総長のお墨付きをいただきましたので、喜んでお話しますわ」



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紅茶の呪文の解答編

「こんにちは、大公アレク殿下」

 

「こんにちは、ヤン主席……」

 

 アレクは行儀よく、超光速通信(FTL)の画面の美女に挨拶を返したが、彼女と同姓の幽霊を思い出してたちまち言葉に詰まってしまった。大きな青い瞳の端にじわりと涙が浮かび、それを手の甲で拭って我慢した。背後の幼馴染とその義兄が、はらはらしながら見守っている。

 

「こんなに遠くまで行啓においでになって、大変でしたわね。

 それに随分こわい思いもなさったとか。

 でもね、そのあなたたちにお礼を申し上げたいの。

 私が長い間、不思議だった疑問の答えが出たのかもしれないのよ」

 

 意外な発言に、三人は呆気に取られた顔をした。彼らの表情に、バーラト星系共和自治政府の主席は上品な笑い声を上げた。

 

「私がヤン提督の副官だったのはご存じでしょう?

 提督の作戦は、どうしてそれを思いつくのか、

 私たちこそ教えてもらいたいものが多かったの。

 その中でも、まったく種の分からない魔術があったのよ」

 

「ヤン主席、それはなんでしょうか」

 

 ハインリッヒの質問に、元イゼルローン共和政府の主席は質問を返した。

 

「私たちが帝国にイゼルローンを返還してから、

 システムの改修にかかった期間はどのくらいだったかしら?」

 

「そちらの退去と並行して設計を開始しまして、施工と点検、試運転を含めて約4年半です」

 

「そうね。かなり機器の入れ替えもなさったそうだから、そのくらいはかかるでしょう。

 でも、もしも機器の交換をしなくても、システムの大きな変更にはとても時間がかかるの。

 アレク殿下、思いついて、すぐにできるものではないのは、おわかりになるかしら?」

 

「はい、なんとなくとなくわかります」

 

「それに、システムの変更は、安全な時に行わないといけないのよ。

 何かあったら困るでしょう? 特に電気や空調が止まったら、大変なことになるわね」

 

 百五十年戦争末期の同盟各地でも頻発していたが、人工惑星のイゼルローンでそれらの供給が停止したら、寒い晩に居間でキャンプの真似事をするような呑気なものでは済まされない。早晩宇宙空間と同じ環境になってしまう。絶対零度、真空の棺桶だ。

 

 子どもたちにはピンとこなかったようなので、ハインリッヒはそっと耳打ちして二人に告げる。それが、自分たちの居場所であることに、何とも言えない顔をする二人だった。

 

「同盟にクーデターが起こっている時だとか、

 第八次、第九次の攻略戦の最中には、絶対にできないことよ。

 ましてや、一つのキーワードでイゼルローン要塞のすべての攻撃機能をとめてしまって、

 別のキーワードでそれを乗っ取ってしまうようなものならなおのことね」

 

 年少の二人は、更に首を捻るばかりだったが、士官学校生はそれに気づいた。『魔術師の弟子』は語ったではないか。

 

「ヤン提督の『魔術』には、種も仕掛けもあるんですよね」

 

「そのとおりよ」

 

 ヘイゼルの瞳を細めて、フレデリカは頷いた。

 

「第九次の時に種を仕掛けて、第十次に使った紅茶の呪文。

 『健康と美容のために、食後に一杯の紅茶』

 『ロシアン・ティーを一杯。ジャムではなくマーマレードでもなく蜂蜜で』」

 

 ルッツ艦隊も傍受した、正気とは思えないような文面。それは魔術師が女王に捧げた甘い毒。ただ一言で、彼女は救いだした祖国の騎士らを裏切り、流浪の魔術師の囁きに身を委ねたのだった。

 

「あまり、センスのいい呪文とは言い難いわよね。

 あの人は硬い文面はうまかったけれど、ユーモアのセンスは今みっつくらい足りなかったのよ」

 

「は、はあ」

 

 フレデリカの慨嘆に、ハインリッヒは心底困り果てた。それ以上に困ったのは、二人の男の子だった。互いの顔を見つめ、また画面に視線を戻す。どういうことなんだろうと、疑問が増すばかりだった。なんとも可愛らしいその様子に、フレデリカはくすりと笑った。

 

「私たちヤン艦隊は、約二年間イゼルローンに駐留していたけれど、

 そのうちの八か月以上は、ヤン提督がイゼルローンにはいなかったのよ。

 それを除くと、安全と言える期間は半年ちょっとの間だったの。

 では、あの人は、いつの時点であれを構想していたのかしら」

 

「ヤン艦隊が駐留していたのは宇宙暦796年12月から799年1月でしたね」

 

「ええ。着任した頃は、まだリップシュタット戦役も、同盟のクーデターも始まっていなかった。

 私は、ずっと不思議に思っていたの。私たち司令部も知らされていなかったから。

 つまり、口止めができるくらいの少ない技術兵に任せていたのよね。

 逆算するなら、ヤン提督がイゼルローンに来たすぐ後には、

 考え始めないと間に合わないはずなの」

 

 語りかけるフレデリカの眼は、アレク達ではなく、ここではないどこか、ここにはいない誰かに向けられていた。

 

「あのキューブに映っていたヤン提督は、花束を持っていないでしょう。

 あなたたちが見た提督の、一年後の写真だもの。

 持ち主の女の子が、797年のクリスマスに貰ったプレゼントだったんですって」

 

「どういうことですか、ヤン主席?」

 

 ハインリッヒは、怪訝な表情で彼女に問いかけたが、またしても質問を返された。

 

「宇宙暦797年2月に捕虜交換式があったことはご存じかしら」

 

 これに答えたのは、義弟の方である。

 

「はい、ヤン主席。

 キルヒアイスげんすいがヤンげんすいとお会いしたと、父から聞きました。

 あ、そうだ、思い出した! カメリアだよ!」

 

「フェリク、どうしたの?」

 

「ぼく、あのお花がなにか、ずっと考えてたんだ。あのお花は、カメリアだったよ」

 

 フェリックスの言葉に、フレデリカは小さく拍手して続けた。

 

「ええ、ご名答よ、フェリックスくん。

 その時、帝国軍の捕虜の人が、イゼルローンの修理を申し出てくれて、

 あの公園の照明も直っているのよ。

 公園の照明の調子が悪かったのは、駐留してから三か月の間よ。

 その間にヤン提督があの花束を持って、お帰りになったのは一回だけ」

 

 明確な口ぶりに、彼女が、宇宙一の名将を支えるに足る副官だったことが分かる。

 

「宇宙暦797年1月22日。

 ヤン提督がカメリアの花束を持って、照明の具合の悪い公園にいたという条件を満たすのは、

 この日だけなの。つまりね」

 

 元気のない大公殿下に向けて、彼の母にある意味でもっとも近しい女性は優しく微笑んだ。

 

「あなたたちが会ったのは、キューブの写真よりも過去のあの人。

 そして、あの人は、未来のあなたたちを見たのではないかしら。

 アレク殿下を見れば、ローエングラム候と近い血のつながりがあることは一目でわかるわ。

 でも当時、そんな子がいないことも、あの人にはすぐに分かったはずよ」

 

 当時、侯爵だったラインハルトにも、その姉君にも子どもはいなかった。

 

「あの人は神秘主義者ではないけれど、不思議な出来事を頭から否定もしなかったわ。

 そういう、不思議なお話の本を読むのも好きだったの。宇宙怪談集とかね。

 天使か妖精のような、ローエングラム候そっくりの小さな男の子が、

 二人のお供を連れただけで、イゼルローンの森林公園に来る日が訪れる。

 それを見たから、『紅茶の呪文』を考え付いたのかもしれない。そう思うのよ」

 

 長い金色の睫毛が、二度三度と瞬くと、俯いていた視線を上げた。

 

「じゃあ、あのヤン元帥は幽霊じゃないの?」

 

「私はそう思うの。あなたたちとちゃんとお話をしたのでしょう。

 そして、『独身の間はおにいさんと呼んでほしい』んですって?」

 

 そういうと、フレデリカはすんなりした指を一本立てて、悪戯っぽく片目をつぶった。

 

「ここでひとつ訂正をしましょう。アレク殿下と皆さん、元帥ではなく大将よ。

 まだ二十代だったんですもの、おじさんと言われたくないのはわかるでしょう?」

 

 金と褐色の頭が、こっくりと頷いた。彼女の白い指が、もう一本立てられる。

 

「もう一つ、本当に幽霊なら独身を自称しないわ。

 仮にも私というものがありながらね」

 

 皇太后ヒルダにも劣らぬ、美しい女性の柔らかな笑顔の中に、なんとも言えないものを感じて、副官見習いはひっそりと肩を竦めた。



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余話 幽霊とおばけと小さな魔女

※注意※

前話までの、ちょっと不思議な話がお好きな方は、これは読まない方がよろしいでしょう。
『バーラト政府最強の男』にも泣き所はあるのです。



 帝国軍との通信のあと、キャゼルヌ父娘は通信室を辞去して、事務総長のオフィスに移動した。

 

「ところでシャルロット、おまえはアレク殿下たちと話をしなくてもよかったのか?」

 

「お父さんこそ。ヤンおばさまは、本当にえらいわ。

 私は、心の広い人間じゃないから、きっとあの子たちに当たり散らしちゃうと思うの。

 でも、そういうのはよくないでしょ? あの子達には、戦争の責任なんてないんだもの。

 わかってはいるんだけどね」

 

 オフィスの応接椅子に腰かけて、シャルロットは溜息をついた。 

 

「たしかにな。リュシーのキューブに映っていたヤンのせいで、

 大公殿下がご傷心なんて言われて、俺だっていい気分じゃないさ。

 帝国の連中だって、苦労をしてるのはわかっちゃいるが、

 子どもに無理させた報いだ、ざまをみろっていうのが正直なところだ。

 ……あいつに、化けて出るぐらいの根性があるんなら、

 そもそもローエングラム朝は創立しなかったろうにな」

 

 腕組みをすると、キャゼルヌは椅子の背にもたれかかった。

 

「それにしても、フレデリカ女史の機転はいいが、結局何一つ解明しちゃいないんだ。

 いまごろになって、リュシーのキューブが出てきたのも、公園に現れたヤンの幽霊とやらもな」

 

「E式姓、特に東アジア圏の伝承だと、この時期に死者の霊が、

 死後の世界から家族のところに帰ってくるそうよ。その途中だったんじゃないの?」

 

 娘の返答に、キャゼルヌは片方の眉をはね上げた。

 

「なんだ、それは」

 

「だから、E式姓の人にとって、夏は怪談の季節なんだって」

 

 シャルロット・フィリスは、ハイネセン記念大学の文学部に合格し、九月からその門をくぐる予定だ。彼女の志望は、人類文化比較学科である。

 

「理論的な根拠に乏しいな。俺が教授なら再提出()をつけるね」

 

 キャゼルヌは娘の自説を鼻で笑うと、辛辣な評価を下した。

 

「じゃあ、幽霊じゃなくておばけね」

 

「おいおい、どう違うっていうんだ」

 

「大違いなのよ。幽霊は人に憑いて、おばけは場所に付くのよ。特別な場所が、おばけを生むの。

 そのまま消えたり、おばけのままのものが多いけど、大きな信仰を集めたものは神さまになる。

 イゼルローンという場所に、ヤン・ウェンリーの影がついたのよ。

 これは決して拭い去ることはできないでしょうね。でもねぇ」

 

 シャルロットは、アイボリーの立体写真キューブをバッグから取り出すと、スイッチを入れた。

 

「こんなに可愛い幽霊じゃあ、なんの迫力もないけどね」

 

 映し出されたのは、当時七歳の彼女が大学生みたいで可愛かったと評した、彼の六歳下の後輩だった。今はもう、その倍の差が開き、キャゼルヌが時を止めるまでは更に広がっていくのだろうが。

 

「おい、シャルロット、これは……」

 

「お父さんったら、あのクリスマスプレゼント、私とリュシーとおそろいだったでしょ。

 名前が書いてあったのはそういうことよ。私もヤンおじさまを撮っていたの。

 だから覚えてたのよ。まあ、そこまで言う必要はないから黙ってたけどね」

 

 立体写真を見つめる眼差しは、無邪気な子どもではなく、女性を感じさせるものだった。

 

「愛さえあれば当事者の歳の差は関係ないけど、恋敵との年齢差はどうしようもないのよね」

 

「初恋なんてのは、幼稚園や小学校で済ませるもんだろうが」

 

「だってあいつら、子ども(ガキ)なんですもの」

 

 娘が言い放った言葉に、応接ソファから転がり落ちそうになる父親だった。

 

「私と玩具を取り合って、鼻水たらして泣き喚いたり、髪を引っ張ったり、

 挙句におもらしまでするような連中と、誕生日には花とプレゼントをくれて、

 いつもレディとして扱ってくれる人と、勝負になると思うの?」

 

「お、おまえなあ、その割にあいつのこと『おじちゃま』って呼んでいただろうが!」

 

 キャゼルヌの指摘に、シャルロットは腕を組んでしかつめらしい顔をした。

 

「それは、ほら、私も子どもだったから。

 ヤンおじちゃまって呼ぶと、ちょっとしょんぼりして苦笑いするのが、もう、可愛くって。

 つい意地悪しちゃったのよねぇ」

 

 その時、少女の腕の時計が、小さくアラームを鳴らした。

 

「あ、時間がきちゃった。お父さん、私予備校があるから、もう行くわね。それじゃあ、お先に」

 

 颯爽とした足取りで退出する娘の後に、初恋話に更なる追撃を受けて、完全に撃破されたキャゼルヌが残された。

 

 応接机に突っ伏した彼は、顔を覆ってぼやいた。

 

「まったく、女ってやつは、何歳(いくつ)だって魔女だな…………」




どっとはらい


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新帝国暦10年5月 小さな星の誕生歌
星路のサーガ


筆者の独自設定および、オリジナルの登場人物があります。ご注意ください。


 しずしずと歩み出た少女は、衣擦れの音さえしない、優美な一礼を見せた。

 

「こたびのご招待、まことに光栄に存じます。

 摂政皇太后ヒルデガルド陛下、父母にかわりまして、ペクニッツ家より参りました。

 大公アレク殿下の七歳のお誕生日に、心よりのお祝いを申し上げます。

 お誕生日、おめでとうございます、大公アレク殿下」

 

 柔らかな声と、優しい微笑み。少年が今まで見たこともないほど綺麗な女の子だった。彼は一目で恋に落ちた。それは幼い初恋だった。

 

 新帝国暦十年五月。帝都フェザーンは祝賀の雰囲気に沸きかえっていた。ローエングラム王朝創立より十周年。大公アレクサンデル・ジークフリードは、まもなく七歳を迎える。旧自由惑星同盟、いや新領土では小学校への就学年齢である。幼児から少年への成長の第一段階だ。

 

 今年から、大公(プリンツ)アレクの誕生日の園遊会を開催することになったのである。かつてのゴールデンバウム王朝であるならば、園遊会ともなれば帝国領中の貴族らが一斉にオーディーンを目指した。新無憂宮(ノイエ・サンスーシー)の招待状を手に入れるため、典礼省の役人に賄賂を送る下級貴族も多かったことだろう。

 

 しかし、ローエングラム王朝となって、貴族の数は激減した。帝都をフェザーンに遷し、皇族の数も三人しかいない。それに応じて典礼の形式を改め、それはぐっと簡素なものとなった。新たな典礼は、先帝ラインハルトの、皇太后ヒルダの性格に見合ったものだった。

 

 ヒルダは、こういった式典を全て廃止することも考えたのだったが、それは父と義姉に止められた。皇室の行事は、経済効果を生むものだから、金を遣うのは金持ちの義務でもあるのだと。ローエングラム王朝の首脳部は、貴族の浪費を白眼視していた側であるから、なかなかそういう発想が出てこないのだ。

 

 これはむしろ、バーラト星系自治共和政府のフェザーン駐留事務所長のほうが柔軟に受け止めた。

 

「祝賀行事はよいことですな。帝国本土側の高価な物品の需要喚起の好機となります。

 リップシュッタットの内乱後、新領土への供給も減ってしまいました。

 ああいう、伝統をもつ品を欲しいという者は少なくないのです。

 是非、生産者の保護と奨励をお願いしたいものだ」

 

 招待状を届けたビッテンフェルト元帥は、何とも言えない顔になった。

 

「俺はああいう、虚飾に満ちた浪費は好かんな」

 

 ムライ事務所長は、軽く咳払いをすると続けた。

 

「ふむ、伝統は尊ぶべきものですよと、私の上官はならば申したでしょうな。

 歴史的価値あるものは、将来的には観光資源ともなります。

 旧都の建築群も大切になさったほうがよろしいでしょう。

 なにより、どんな高価なドレスも宝石も、兵器の価格には及びません。

 虚空に散る戦艦などよりも、よほど経済に資するというものです」

 

 ぐうの音もでないビッテンフェルトだった。この七年ほどで、呼吸する軍規だったムライは、経済戦争の尖兵たるセンスを身に付けた。また一人、恐ろしい存在の出来あがりというわけである。ローエングラム王朝を育てたのは皇太后ヒルダだが、彼女を支える臣下を育てたのは、魔術師の算盤と物差しだと、ユリアン・ミンツなどはこっそりと思っている。

 

「ところで、旧都からも大公アレク殿下の祝賀に訪れる方がおいでですかな」

 

「ああ、多くはないがな。ワーレン元帥も、超光速通信(FTL)での参加となる。

 なにしろ、往復すれば三か月近い日数になるからな」

 

「ほう、いないわけではないということですか」

 

「貴族の連中だ。要するに暇なんだろう」

 

 その声に込められた反感に、ムライは咳払いをした。

 

「では、皇太后陛下のご縁戚の方々ですな。

 フェザーン回廊の治安が重要となることでしょう。

 閣下も大変なことと思いますが、くれぐれもお気をつけて」

 

 普段、忘れがちな事実を突きつけられて、ビッテンフェルトの鋭い目が丸くなった。大きな手でオレンジ色の長めの髪をかき回す。

 

「そうか、そういうことになるわけか。思ったよりも厄介なことだな。

 単なる貴族のご機嫌うかがいでは済まされんということか」

 

「万が一、テロリストに襲われ、誘拐でもされたら大変なことになるでしょう。

 皇帝が皇宮から誘拐されることだとて、例のないことではなかったのですから」

 

 これにはさすがの猛将も言葉に詰まった。それもまた、ラインハルトの謀略であったのだが、そ知らぬ顔をしてあてこすりに相槌を打てるほど、彼はまだ練れていない。

 

「帝国から同盟まで連れてこられ、権力闘争の的にされた、

 あの少年は行方不明になってしまいました。

 旧同盟の一員として申し訳なく思います。

 生きているのか、死んでしまったのか、気の毒なことです。

 ちょうど、アレク殿下はあの子と同じ歳になられるのですな」

 

 ムライは、最近かけ始めた老眼鏡の位置を直した。

 

「今でも覚えております。

 銀河帝国正統政府とやらに、メルカッツ提督が軍務尚書に指名されてしまった。

 私は彼を難詰しました。これからどうする気なのかとね。

 それをなだめてくれたのが、ヤン司令官でした。

 彼は国や立場の違いではなく、人間自身を見ることができる美点の持ち主でした」

 

 ムライも帝国首脳部と接するうちに、自分の人が悪くなってきたことを自覚する。特に帝国軍の首脳部は、先帝を絶対視している部分がある。あれほど輝かしい、軍神の化身を目の当たりにしていたのだから、無理もないとは思う。ヤンとその問題の部下らは、咳払いだけで察してくれたのだが、ここまであからさまに言わないとわかってくれない。黙り込んだビッテンフェルトをよそに、ムライは話題を変えた。

 

「当事務所からは私が出席しますが、ハイネセンからは、ホアン外務長官が参加する予定です。

 後日、正式な回答をバーラト政府よりお送りしますが、

 帝都守備艦隊司令官の閣下にはお伝えしておきます」

 

 ようやく見つかった話の接ぎ穂に、ビッテンフェルトはほっとして応じた。

 

「そちらも、なかなか主席の参加は難しいと言う事か」

 

「オーディーンよりは近いものの、やはり往復に一か月は必要です。

 ヤン司令官は一万光年単位の跳躍が誕生したら、

 軍事的には大転換となると考えていたようですが、

 外交通商的には、その十分の一の距離でも跳躍できれば違ってくるでしょうな」

 

「研究と実用化にいくら金がかかるかわからんな」

 

「跳躍自体も無論ですが、航法計算も遥かに複雑になるでしょう。

 新領土の航路は、充分に開発されているとも言い難い」

 

 ムライの言葉のとおりだった。人が住みだして、二百年しか経過していない新領土の航路は、帝国本土側よりも難所が多い。アーレ・ハイネセンらが出発したときには四十万人、バーラト星系を発見したときにはその六割を失っていた。寿命を迎えた者も多いが、死因の次点は事故であった。ハイネセン自身も事故死をしている。惑星ハイネセンに辿りつき、ようやく余裕が出てきた段階で、少しずつ近隣星系へと足を伸ばしていった。それが新領土の航路開拓史だった。

 

 彼らが通ってきた航行不能宙域の中の、細い道が後のイゼルローン回廊である。敵地に隣接する場所ということで、この周辺のデータの蓄積はかなり早い段階から開始されていた。

 

 一方、フェザーン回廊の発見はその百年後だ。こちらへの航行については、旧同盟は安全性の確立された航路のみを使用した。ハイネセンらの血で記された航路図。その犠牲の大きさと新領土の星の海の厳しさに、新航路開発は慎重を通り越して、はっきりと消極的だった。国防上の問題でもあるが。

 

 フェザーンからハイネセンの宙域図上の最短距離には、故シュタインメッツ元帥がヤンに憂き目にあわされたブラックホールもある。これは他星系からでも観測で発見可能な天体だからまだいいほうだ。困るのが、惑星シロンの流星群などの、その星系に住んでいないとわからない現象である。いきおい、有人惑星伝いに航行することになったのだった。

 

 惑星は恒星の周りを公転している。虚空の中を、とんでもない速度で動き続ける。一方、ワープイン、アウトは、大質量のない場所で行わなくてはならない。星系の内部では、光速の数パーセントでしか通常航行できないのだから、できるだけ目的地に近い安全な位置へ跳躍する。これも航法士の役割の一つだ。

 

 故エドウィン・フィッシャー中将のような名人になると、急ごしらえの半個艦隊でも四千光年を二十日間で踏破することが可能だ。非常に高度な知識と熟練を要する技術である。その計算に基づいて、跳躍や亜光速航行を行う機関士も貴重な専門職だった。これらも、軍に集中していた人材である。

 

 二百年ぶりに平和が訪れて、恒星間交通の需要が飛躍的に伸びた。同盟軍は解体され、熟練した航法士や機関士は、民間企業が右から左に雇用していった。帝国軍が、教官や指導者として再雇用しようと思いついた時には遅かった。熟練した船乗りは、どこも喉から手が出るほど欲しがったのだ。

 

 旧同盟軍人は生きて平和を掴めた者ばかりではなかった。マル・アデッタの会戦に出撃した者、イゼルローン革命軍に身を投じた者。いずれも、多くが還らぬ激戦であった。この職種については超売り手市場となって、高給取りとなった者が多かった。

 

「卿の言うとおりだな。おまけに、新領土の航路を詳しく知る者は、

 そちらが囲い込んでいるも同然だろうが」

 

 このままでは、人的資源の供給が追いつかない。バーラト政府は、旧同盟軍士官学校を、航法士や機関士、通信オペレーターの教育施設として再利用した。教材も教師も施設も揃っている。一から若者を教育するだけではなく、退役軍人の再教育の場としても門戸を開いたのだ。かつて十代の青年が戦争の術を学んでいた場は、老若男女が行きかうようになった。

 

 そして、国籍は問わなかった。バーラトの国民、新領土の帝国国民、そして帝国本土の国民も。宇宙統一以前なら、亡命という形をとるしかなかった人々が、旅券と査証を取得して、星空の彼方から学びに訪れる。バーラト星系は教育国家としての戦略を取り始めたのである。

 

「誤解をされるのは困ったものですが、

 宇宙統一後の状況に応じ、再教育を行わねばいけないのです。

 新領土の星の海は、帝国本土よりも難所が遥かに多いのですから。

 今まで、軍事優先で制限されていた航路を民間に開放したはよろしいが、

 艦艇の性能が、軍民では著しく異なります。

 六百メートル級の戦艦ならば問題とはならなくとも、

 二百メートル級の貨物船では不都合がある場合も多いのですよ」

 

 理路整然と言い返されて、オレンジの髪の猛将はまたもや言葉に詰まった。それを見たムライは、不器用な笑みの欠片を浮かべた。

 

「イゼルローンの戦艦を売却しようとした際に、民間の船舶会社から散々に言われたことです。

 もっとも小さな軽巡洋艦しか買い手が付かなかった。

 標準型戦艦を旅客船に改装するには、新造するのとさほどに費用が変わらぬと。

 企業にしてみれば、中古品を買う意味がないわけです」

 

「その、なんだ、随分と切ない話だな……」

 

 ビッテンフェルトは、大きな手で長めの髪をかき回した。ムライも嘆息交じりに続ける。

 

「結局、旗艦や標準型戦艦を、バーラト星系の警備隊に配属させたのは、

 解体するにも相応の費用が発生するからです。

 そして、新領土駐留軍のいるメルカルトまで航行させねばならない。

 ポプラン元中佐が、二百機近いスパルタニアンを雷神の槌(トゥールハンマー)で爆沈処理したと聞いた時は、

 開いた口がふさがりませんでしたが、今思えば正しい処置でしたな」

 

「それにしても、卿らは本当に色々考えているのだな」

 

「貧しいからこそ、知恵を巡らせるわけです。ヤン提督の言葉を拝借するならばですが」

 

 この初老の紳士も、彼の支柱の一本だった。ビッテンフェルトは旗色の劣勢を悟った。攻撃においては宇宙最強の黒色槍騎兵(シュワルツランツェンレイター)を、二度も叩きのめした黒髪の魔術師。彼は、政治家としては性格上の資質に欠けていた。しかし、才能は非常に優れたものだったのだ。イゼルローン要塞司令官にミュラー元帥が着任し、回廊の守備が整うと、フェザーン商人の相当数がエル・ファシルに移転したのである。彼が思い描いていたイゼルローン回廊の通商の道としての利用、エル・ファシルの商都化そのままに。

 

 それはなぜか。帝都となったフェザーンは、人口が急増して土地の価格が高騰した。もともと砂漠が多く、人間の居住域の少ない惑星である。フェザーンに本社を置く法人にとって、その固定資産税は洒落にならないものだった。

 

 それに比べれば、人口三百万人から微増状態のエル・ファシルのほうがずっと土地が安い。住環境ははるかによかったし、過去のイゼルローン要塞攻略戦では、物資の補給経路となっていた。辺境の地ではあるが、国防上の理由で航路や宙港の整備が進んでいたわけである。

 

 ヤン中尉の『エル・ファシルの脱出行』の奇蹟も、その種があってこそだ。彼は、その経験やキャゼルヌとの会話によって、エル・ファシルの可能性を予見していたのだった。講和会談の途上で彼が斃れたことは、帝国にとっても大きな損失だった。ヤンが健在であったら、この統一後の世界の基本構想も考え出せたに違いない。それこそ自分の後任になっていただいたのにと、マリーンドルフ伯爵は娘に語ったものだ。

 

 ともあれ、フェザーン回廊を行きかう商船は三割減となった。混雑を極めていたうえ、ビッテンフェルト艦隊が我が物顔で出動し、頻繁に臨検を行う。これは、帝都の治安維持にはいたしかたなかったし、この七年の平穏に大きく寄与していたのは間違いはない。

 

 しかし、これでは商売あがったりだ。商人がなによりも守らなくてはならないもの、それは納期と信用である。宙港機能が優れ、商売先にも補給元にもなるイゼルローン要塞経由路の方がいい。回廊が狭い分、航行予定が厳密に組まれており、一ヶ月前までの申請は必要だったが、それでもなお、イゼルローン回廊の利点を認めた商人が多かったのだ。こちらの交通量は三割どころではなく、数十倍の増である。

 

 要するに、ビッテンフェルトの任務も暇ができてきたわけで、そうなると管理職教育がずんと圧し掛かる。戦場の雄を、平時の優に仕立て直すことは難しい。本人が一番承知している。悲しいことに、口うるさいムライが一番親切な教育役で、こういう折に至らぬ点を、ぴしりぴしりと定規で打ち据えられるのだった。

 

「そ、そうか。では、フェザーン回廊の警備について、関係諸所に通達せねばな。

 来る貴族もさほど多くはないが、参加予定者には思ったよりも子供が多い」

 

「ほう、大公アレク殿下のご学友になるのかもしれませんな」

 

「な、なんだと」

 

 大口を開けるビッテンフェルトに、ムライは淡々として続けた。

 

「私はよいことだと思います。

 お立場からして、さすがに学校に通われるわけにはいかないでしょう。

 複数の同年代の友人を作るよい機会ではありませんか。

 普段は大人に囲まれて、友達といえば一人だけというのも、お寂しいのでは?

 フェリックスくんにとっても、その立場はいささか重過ぎるでしょう」

 

 ビッテンフェルトは、一瞬息を飲み込んだ。大声を家訓にしている彼らしくもなく、低い声で応じる。

 

「たしかに卿の言うとおりだろうな」



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天と地、光と音

 人生経験からの真っ当な常識論。これもまた帝国首脳部の弱点であった。圧倒的な輝きで、臣下を魅了した皇帝(カイザー)ラインハルト。彼のカリスマに引き寄せられた将帥たちは、その蒼氷色の視線の先にのみ目を向けた。臣下同士の交友関係も、双璧たるミッターマイヤーとロイエンタール以外については、親密とまでは言えなかった。

 

 友人にも様々な段階がある。半身といえるほどの親友など、普通の人間は持たないものだ。それに恵まれたせいか、ラインハルトはごく当たり前の友人を持っていなかった。たとえば仕事仲間であったり、学生時代からのほどほどに親しい友人、社交辞令を交わす近い年齢の親戚など。これは、ヒルダも一部が共通する。ヒルダは親友さえ持っていなかったのでより深刻だった。

 

 ラインハルトの死後、そのツケを皆で支払うことになった。たとえば、大公アレクの養育を任せられるヒルダの親族がいない。ヒルダは親族の女性と疎遠にしていた。ドレスに身を包み、社交行事に日常を浪費する頭が空っぽなお人形。それはラインハルトの考えとも合致していた。ヒルダはああはなりたくないと思ったし、その価値観もまた夫が好ましく思う点だった。

 

 周囲から何と思われても、自分の価値は父やラインハルトや、わかる人にはわかっている。ヒルダはそれでいいと思っていたし、マリーンドルフ伯爵令嬢(フロイライン・マリーンドルフ)、あるいは皇妃(カイザーリン)のうちはそれでよかった。

 

 しかし、摂政皇太后ヒルデガルドとなるとそうはいかない。社交の場を敬遠していたヒルダを、詳しく知る者はいなかった。ヒルダも彼らをろくに知らなかった。国家の元首たるもの、わかる人にしかわからない存在であってはならない。国民の一員である上層階級にも顔を向け、自らの言葉を語り、理解してもらわなくてはいけない。ヒルダが最も苦手としていた分野であった。

 

 伝統的な社会に生きていた者にとって、ヒルダこそが異端児だ。一番冷たい視線を向けたのは、彼女の親族の女性だった。こういう人々こそ、ラインハルトの出自と経歴を決して忘れない。フリードリヒ四世の寵姫の弟、ミューゼル姓の貧乏帝国騎士(ライスヒリッター)。姉のおこぼれで栄達して、皇帝によってローエングラム姓を賜ったことを。そして、自分達を見下していた生意気な小娘のこともだ。せっかく再婚を勧めたのに、それを断った父親の責任でもあると。

 

 そういう二人が皇帝に皇妃になっても、すぐに敬愛と忠誠を捧げられるようにはならない。相手にも、目も頭もプライドもある。見下されていることは日頃の付き合いからわかる。どうしてすぐさま尻尾を振れるか。行動では従う。だが心までは渡さない。フェザーンへの遷都で、貴族はオーディーンに取り残された。

 

 新帝都への距離、弱体化した経済力は、皇宮への参内をしない格好の言い訳になった。それにマリーンドルフの縁者は、皇室に伺候(しこう)できるような名門ではないので、お手伝いにはあがれないというわけである。

 

 社交界という絹と宝石で飾られた世界。貴族の女性は、十代半ばからそこを往来する。変化に乏しい社会の、固定化されて蹴落とされたら二度と這い上がれぬ階級。そこは、生家と婚家の安寧を守るために戦う、女性達の戦場だった。自らを披露し、相手を見極め、友人という人脈の砦を築く場。

 

 むろん、それを理解していた者は少数だが、爵位を有する数千人の貴族、彼らの子女はその数倍。百人に一人であっても数百人にはなる。ラインハルトに与した側にその割合は多かった。

 

 そういう人々は、軍部の突出を苦々しく思っていた。オーディーンから遠いフェザーンで、軍人ばかりが集まって戦争をして、故郷たる帝国本土を蔑ろにしている。なにしろ、皇帝の行事にも軍服が我が物顔で闊歩し、皇帝自身も軍服姿である。彼らにしてみれば、パーティーの席に抜き身の剣を並べられているようなものだ。言わば、リップシュタット戦役からの味方だった勢力である。だが、その最高位だったリヒテンラーデ候の一門は厳罰に処された。

 

 そんな背景があるのに、充分に配慮したとは言えない。欠席しても不敬罪だが、下手に出席してもどんな難癖をつけられるか。リヒテンラーデ候一門のような古い家系に、まったく繋がりをもたない家はないのだ。建国の功臣の一人が、一門の女性に関わったせいで左遷されている。あれほどの戦功を建てたのに、それでも皇帝の赦免を得られないのか。そう判断した者たちは、暗澹とした心持ちになった。同じような目に遭わされるなら、せめて故郷で死にたい。そして欠席の返事が届く。

 

『弱小の当家にとって、フェザーンへの旅費と日程を捻出するのも一苦労でございます。

 なれば、わずかなりとも領地の民生に注力したく存じ上げます』

 

 ラインハルトは、招待された貴族の欠席の返事に寛容というか、興味をもってはいなかった。前王朝なら不敬罪覚悟の行為であり、決して欠席の返事などありえなかったものだが。それを知るマリーンドルフ伯も、あえて進言はしなかった。開明的な彼は、これを機に不敬罪の緩和を図り、因習を脱却しようと思っていたからだ。

 

 だが、それは逆効果だった。彼らにとっては、命を賭けて入れた探りだった。マリーンドルフ伯は、慣習に無知な皇帝に告げ口はしないが、オーディーンの貴族らにとりなしもしないと判断をされた。敗者は(ひがみ)みっぽいものだ。では、もう我々は不要なのだろう。こちらもフェザーンのことなど知らぬ。密やかに、冷ややかに溝が刻まれていく。

 

 時間という、ラインハルトが唯一恵まれることのなかった無慈悲なもの。皇帝ラインハルトの治世はぎりぎり二年を越えただけである。傀儡だったエルウィン・ヨーゼフ二世、カザリン・ケートヘン一世の在位の合計とさほど変わらないのだ。

 

 一方、フリードリヒ四世の治世は三十四年間、ゴールデンバウム王朝の皇帝の平均在位期間の三倍になる。それは決して軽いものではない。

 

 旧銀河帝国の歴史を振り切るように疾走してきた、新帝国の首脳部にとって、まことに手痛い授業料になった。絶対的なカリスマと武力、半神的なまでの美貌のラインハルトには、口を閉ざして従うしかなかった人々も、乳飲み子を抱えた未亡人にはそのかぎりではない。社交の網を編みあげていた貴族の女性は、情報の収集能力が高い。彼女達は、ヒルダには軍を動かすことはできないと見抜いていた。

 

『ローエングラム王朝の皇帝は、常に戦いの陣頭にあることを約束する』

 

 ラインハルトの戦いへの高揚と覇気が言わせた、実に彼らしい一言だった。これは、共に戦場を往来した将兵たちの士気も大いに高め、皇帝万歳(ジーク・カイザー)の歓呼をもって受け入れられた。しかし、綸言汗の如しとはよく言ったもので、彼亡き後は、これがローエングラム王朝開祖の皇帝ラインハルトの遺訓ということになる。

 

『大公アレク殿下は立太子なさっていない。

 なれば現在の皇帝の代行者、摂政皇太后陛下が陣頭にお立ちになりますの?』

 

『乳飲み子の大公殿下を置いて? あるいは戦場に連れていかれる?』

 

『ご冗談を。宇宙戦艦は乳母車代わりにはならないのですよ』

 

『幼な子の体に障りますものねえ。成人まで、ご健勝にあらせられねば困りますし』

 

『先帝陛下のご遺訓を破らないためには、戦をしないようにするしかないでしょう』

 

 意地の悪い言葉が囁き交わされた。だがこれ以上なく正確な洞察だった。 弟が言ったことを耳にしたアンネローゼは、ヒルダに詫びたものである。

 

「あの子の言葉が、あなたを縛ることになってしまったのね。

 でもヒルダさん、これが皇帝の言葉の怖さなの。

 言葉一つで誰かを処刑台に送ることもできるかわりに、自らの言葉に縛られるのです。

 あれは間違いだったと取り消すのは難しいこと。

 特に建国帝の遺訓とあらば、よほどの名君にしか取り消せないものです。

 そして、その間に育まれた考えを、完全に拭い去るのはもっと難しい。

 貴族も皇帝の言葉を利用するのです。言葉は大切に使わなくては。

 力を減じましたが、五百年近く社会を形作っていた人たちです。

 無碍(むげ)になさってはいけません。思わぬ報復をされます」

 

 ヒルダは頷くしかなかった。絹と宝石の戦では、到底勝負にならない。そんな自分が、鋼と炎の戦を取り仕切れるはずもなかった。貴族とて伊達に五百年近く権力闘争をしてきたのではない。ラインハルトの武断ぶりに息を潜めていても、彼の死により息を吹き返そうとしていた。

 

『摂政皇太后は再婚できず、子どもも一人だけ。

 先帝の姉を結婚させ、いとこ同士で帝位を争わせる方法もある』

 

『もっとも、貴族の中には見合う年齢と身分の者はいない。

 七元帥の若造どもを焚きつけたらどうか。おあつらえ向けの単細胞がフェザーンにはいる』

 

 そう考える貴族連合の参加者と近しかった一派。

 

 一方、もう争いはこりごりだという人々もいた。 戦争戦争でこれ以上国土が荒んでいくのは困る。そして、復興には我々からの税金も使われるのだ。生きていられる代償としてなら支払うのは我慢しよう。だが無駄遣いされるのは許せない。

 

『それとなく警告をさせよう。あの黒髪の男爵夫人に耳打ちするのがいい。

 七元帥を婿にするには、彼女にも手柄が要るだろう』

 

『そうだ、あの気の毒な先々帝陛下の母上もお救いしなくてはならない』

 

『フリードリヒ四世陛下の姪でリヒテンラーデ候の従弟の娘。

 彼女は炭鉱のカナリア、その扱いが皇太后の考えを明らかにする』

 

 ヴェストパーレ男爵夫人マグダレーナの警告は、実はかなりの計算が裏に働いていたものだし、彼女もそれを見抜き、納得づくで行ってもいた。マグダレーナも貴族の一員として、自分と家門と領土領民への責任を負っている。ヒルダやアンネローゼへの友情はあるが、それだけでは生きてはいけない。

 

 ヒルダにはわからなくとも、アンネローゼにはそれで充分だった。彼女は甥の養育に専念することを決心し、フリードリヒ四世の最晩年の伴侶として、残っていた貴族の慰撫(いぶ)に乗り出した。そうでなければどうなっていたことか。放置しておいたら、充満した怒りと陰謀で、帝国本土や七元帥も割れていただろう。

 

 爵位を持つ貴族だけの問題ではない。その下には貴族の家門を形成する末端、帝国騎士階級がいる。彼らの多くは帝国の文官になっていたから、旧都オーディーンがとんでもないことになるところだったのだ。ハイドリッヒ・ラングの台頭に、賊軍と呼ばれた者に連なる帝国騎士の文官らは戦々恐々としていた。いつ、その薄い血脈に言いがかりをつけられるか知れたものではない。彼らのなかには、懐に辞表と妻への離縁状、子供への遺言状を忍ばせて、出勤していた者さえいた。その緊張が続けば、軽くはサボタージュ、または情報テロに走ったかもしれない。アンネローゼの提案は、それを未然に防止したのだ。

 

 人の心、人の営み。それは星の海からは見えない。真空を越えては伝わらない。地上に降りて、目の当たりにし、耳へと届く。強く美しいものより、辛く、悲しく、醜いもののほうがずっと多い。でも、それが人間だ。

 

 ラインハルトは眩い輝きで、人間の卑小さを忘れさせてくれる、夢を見せてくれる存在だった。人間とは、かくも美しく若さと才能に溢れ、雄大な構想を持ち、意のままに羽ばたくことができるのか。それがラインハルト・フォン・ローエングラムの力。皆がそれに焦がれ、争って忠誠と献身を捧げる。五百年近い閉塞と停滞に、飽いていた若く才能ある人々は、その旗に集い疾走したのだ。

 

 しかし、斜陽に暖をとり、まどろんでいた老いた弱きものにとって、砂漠の酷暑に放り出されるのに等しかった。フリードリヒ四世の治世は、ラインハルトが親友に吐き捨てたように、無能が罪悪とはされない社会だった。皇太后ヒルダも、帝国政治機構の構造改革を着手するにあたり、大胆な人事転換を行おうとした。首を横に振ったのは、アンネローゼだった。

 

「ヒルダさん、無能とは、平凡とは悪なのでしょうか? 弱いことも悪ですか。

 心優しいがゆえに、思ったことを呑みこんで我慢してしまうような人も。

 帝国の首脳部は、有能で強い性格の方ばかりです。

 だから、そうではない者のことは、怠慢だと思いますか。

 才能や性格の弱い者を切り捨てるのは、ルドルフ大帝とどう違うのです」

 

 才能の多寡、性格で人を量り、基準を満たせぬ者を切り捨てる。その思想は、突き詰めるとルドルフに辿りつく。アンネローゼに諭されて、ヒルダは慄然とした。ラインハルトの臣下に、無能者はいない。つまり、そういうことだったのではないかと。ヤン・ウェンリーに固執し、その亡き後は軍を返した。あそこで、後継者らと講和を結べば、流さなくてよかった血がどれほどあったろう。その進言をこそヒルダは怠っていた。好敵手を失い、消沈するラインハルトしか見ていなかったから。

 

「違いませんわ、お義姉さま。それは私の傲慢と怠慢でした。

 そういう人によりそい、育てる方法を取り入れることを面倒だと思ってしまったからです。

 時間をかけなければ解決しないことばかりですのにね。すぐに忘れてしまうのです」

 

「あの子はせっかちでしたわ。それをいつもいつもジークが諫めてくれました。

 ジークが亡き後は、オーベルシュタイン元帥が、代わってくださっていたのでしょう。

 あの子はなかなか、わたしたち以外の人の言う事を聞かない子でした。

 理詰めの正論には耳を傾けるけれど。大変なことだったでしょうね」

 

「アンネローゼさま……」

 

「ジークが亡くなった時、ラインハルトを説得するようにと通信を下さいました。

 彼なりに、あの子を案じてくださっていたのだと思います。

 あの子を駆り立ててしまったのは、やはりわたしの罪です。 

 その償いをしなくてはなりません。リヒテンラーデの一門にもです。

 新領土の人が、罪ではないと言って下さったけれど、わたし自身が赦せないのです。

 ですから、わたしは、あなたを支える新たな血脈を生むことはできません。

 それを赦してください」

 

 やはり、自分はラインハルトの輝きにばかり目を向けていた。その影を歩んでいた人もまた、大きな役割を果たしていたのだ。太陽が照りつける昼間だけの世界に、人は生きてはいけない。熱を冷ます夜も必要だった。

 

 ヒルダもラインハルトの覇業の全ては知らなかった。彼にとってヒルダの進言は、ほぼ出来上がった料理のスパイスの一振り、淹れられた珈琲に加えられる砂糖とクリームのようなもの。それを知って溜息が出た。

 

 ラインハルトの構想を、まとまった形で継承した生者はいない。彼の頭脳は、書き散らしたメモワールなどを必要としなかった。早くに帝国の実質的な最高位に就いたため、上官に宛てた親書なども。それで困るのだ。

 

 こと、情報の保存と公開性という点では、帝国は新旧いずれも旧同盟に遠く及ばない。かの国とて、政府の報道にはふんだんにバイアスが掛かっていたが、複数のメディアの存在が、批評や反対意見を全土に伝えた。

 

 帝国の報道機関は、国営放送のみだ。寄らしむべし、知らしむべからずというゴールデンバウム王朝の姿勢は、戦火の悲惨さを覆い隠し、叛徒の討伐という部分だけを貴族や平民に教えていた。それも帝政のための方便だったから。ラインハルトの戦いは、圧倒的な勝利が続き、期せずしてそれを踏襲した。戦勝に次ぐ戦勝、それにはまったく嘘偽りはなかった。

 

 ただひとり、ヤン・ウェンリーなる叛徒の首魁のみが、それに抗ったが所詮は多勢に無勢。その無勢で、多勢の中心核を()いてくるのがヤンの恐ろしさだったが、彼に命令を下す同盟政府を、服従させるのは遥かに簡単だったのだ。戦争は黄金の有翼獅子(グリフォン)を飾る、真紅の彩りにさえ見えた。

 

 だが、一兵も損なわぬ勝利もない。少なからぬ帝国の死者、はるかに多い同盟の死者。遺された者たちは、仰ぐ旗が違っても同じように嘆き悲しむのに。

 

 地上からは見えない。ダゴンの会戦の最初の砲火の輝きも、百五十光年分しか星の海を進んでいない。六千光年以上を隔てたオーディーンには、あと四十倍の年数を経ないと届かないのだ。真空の中は無音の世界だ。艦艇が爆散する時の、兵士らの断末魔も愛する者を呼ぶ声も、ただただ虚空に吸い込まれる。

 

 そのことを貴族らは知らなかった。ラインハルトの宇宙統一の真実の価値を。百五十年ぶりに宇宙から戦火が消えたことを。



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黎明を支えるもの

 互いに理解をしなくてはならない。顔も見えず知らない相手だからこそ、帝国と同盟は百五十年も殺しあえた。それと同じことが、帝国の中で起こる。背を向け合っていた新帝国の首脳部と、旧王朝の貴族たち。国を治めるべき者がまとまらずして、どうして敵だった新領土の統治ができるだろうか。

 

 皇太后ヒルダは、いまや唯一の公爵であるペクニッツ夫人、エレオノーラの重病に医師を送り、ラインハルトの喪明けを以って、リヒテンラーデ候の一門を恩赦した。

 

 エレオノーラの治療は功を奏し、すんでで死の淵から逃れた。残念ながら全快とはいかなかったが、彼女の感謝を得たことは大きかった。彼女は、ゴールデンバウムとリヒテンラーデの血を引く女性で、実家は名門リンデンバウム伯爵家だった。娘を身ごもっていたがために流刑にされずに済んだが、親兄姉は死か流刑のいずれかに処されている。まだ八か月の乳児だったカザリンが女帝となり、その九か月後にラインハルトに譲位をしたことにより、ペクニッツ子爵家は公爵家に昇格した。

 

 彼女は、病身を押して娘のために茶会を主催し、自分の死後も人脈という砦を築こうとした。夫は、娘の年金で象牙細工の収集をすることにしか興味のない男で、頼れる自分の親族はいないのだから。エレオノーラにこそ、残り少なくなった貴族の女性らは同情し、力を貸そうとしてくれた。その彼女は、医師を送ってくれたヒルダとアンネローゼに感謝を送る。

 

 結果として、貴族の女性達もヒルダらを見直すきっかけになったのだ。妻たちは夫に告げる。

 

『皇太后ヒルダは、先帝よりも慈悲深いお方。

 万が一、七元帥が簒奪したらあの武断政治に逆戻りですわ。

 いいえ、皇帝(カイザー)ラインハルトほどの才を持たぬぶん、まだ悪いでしょう』

 

『あの方も女手のない家でお育ちになったし、まだお若い。

 至らぬ点は大目に見て、エレオノーラ様にもお任せしましょう』

 

『あのお小さい姫君は次代の核。わたくしたちも、お力添えしなくてはね。

 戦火が絶えたから、あの姫も母上を失わずにすんだのです』

 

『あんな武断は賛成はできませんが、先帝陛下の名は不朽のものです。

 残された貴族として、この大公領を守ることにいたしましょう。

 皇帝(カイザー)アレクサンデルの即位の暁には、その功が我らの力となります』

 

 ゴールデンバウム王朝ゆかりの女性たちが、主亡きローエングラム王朝を支えることになった。時の流れは、怒りや恨みといった鋭い棘もすこしずつ磨り減らしていく力を持っている。七年前のヒルダは、皇帝の子を生んで、死後その地位を継いだだけだった。だが、この七年間苦労を重ね、新帝国の安定に力を尽くし、皇太后という地位にふさわしい女性だと、貴族を含めた国民を納得させていったのだ。

 

 親族を処刑された恨みより、娘のために生きられた感謝を選んだエレオノーラ。親兄弟を失い、幼い娘は新王朝の礎とされ、この先の人生に大きな影響が出るだろう。恐らく、もっともローエングラム王朝を憎む理由がある女性だ。それを表面上には一切出すことなく、皇太后や大公妃への恭順を、完璧な礼儀をもって示した。おそらくは、ゴールデンバウムの誇りにかけて。

 

 皇太后らに送られてくる、なんとも優美な筆跡の四季折々の礼状。厳格な典礼の教師が見ても、満点をつけるしかない作法で、自らや家族、友人たる貴族らの消息、市井の人々の様子が綴られた貴重な情報だった。蓄積された伝統の精華を、ヒルダは目の当たりにすることになる。

 

「以前、大公妃殿下がおっしゃったけれど、これが生まれながらのほんものの貴顕の作法なのね」

 

 ヒルダはくすんだ金色の頭を振った。

 

「とても私には真似できないわ」

 

 ヒルダが馴染んだ文書は国内外への布告であったり、各省庁からの数字混じりの報告書だった。いかにも女性らしい、柔らかな言葉の並んだ時事の便りは、いつしかヒルダにとっても楽しみとなっていった。この礼状に、ヒルダが返事を出すことはできない。それが身分の差というものだ。アンネローゼの方は、フリードリヒ四世とのつながりで手紙がやりとりでき、それが羨ましくもある。

 

 しかし、様々な皇室行事への招待には、体調の不良と娘の幼さ、フェザーンへの距離を理由に欠席の返事が寄せられる。これはもっともすぎて、誰にも無礼と言い立てることはできなかった。

 

 彼女の病気は、難産による胎盤の異常が引き金となった、子宮がんの一種だった。フェザーンから送られた中年の女性医師は、患者の守秘義務の前に渋い顔をしたが、雇用主たる皇太后に乞われて報告をした。

 

「あそこまで病状が進行していたのに、優美な貴婦人としてドレスを纏い、

 茶会の主催をなさっていたなんて信じられません。

 私なら、ベッドの上で息も絶え絶えに唸ることしかできませんね」

 

 即刻手術が行われたが、それは女性としての機能を喪失することでもあった。大きな決断を必要としたのである。結局、骨盤内の臓器をほとんど摘出し、抗がん剤治療も行われた。抗がん剤がよく効く種類のがんだったのは、不幸中の幸いと言えよう。しかし、病みやつれ、髪を失った姿を見せたくないからと、超光速通信(FTL)を行おうとはしなかった。そんな彼女の代弁者となったのが、その女性医師イリーナ・イリューシンである。

 

「大変デリケートな問題でもあります。

 皇太后陛下、陛下はご健康でお美しく、男の子にも恵まれていらっしゃいます。

 支えてくださるご家族、臣下の方々にも。

 しかし、公爵夫人はそれらすべてをお持ちではない。

 陛下は命の恩人ですが、病人を労わるのは、いつだって健康な者の義務ではないでしょうか」

 

 フェザーン人らしい、きっぱりとした言葉だった。

 

「これからも投薬は続きます。それには強い副作用が伴います。

 いつ再発してもおかしくない、いいえ、薬でがんを押さえ込んでいる状態です。

 エレオノーラ様にもそう宣告させていただきました。

 あのままでは余命は三か月、手術して再発がなければ、

 三年が一つの目安、五年が一応の完治。しかし、その可能性は二割以下です。

 恐らく、何度も抗がん剤の投与が必要になり、それもやがて限界が訪れる。

 手術するより、終末期緩和医療の方がご自身にとっては楽です。

 それもお教えしましたが」

 

 フェザーンの医療は、旧同盟の方式を踏襲している。大手術、辛い投薬療法、それでも短い延命。一方、現在の生活の質を保って、本来の寿命を生きるか。こうした療法の選択も本人が行うのである。帝国の常識からは考えられなかった医療の形で、深窓の貴婦人には衝撃だったに違いない。ヒルダもまた言葉を失った。

 

「でも、その三年でも娘のために欲しいと泣かれてしまいました。

 父や母、兄姉には申し訳ない、でも女であることを捨て、生き恥を晒してもいいから、

 カザリンに教えなければならないことがある。

 四歳と七歳では教えられること、覚えられるものが違うと。

 私も泣けてきましたよ。飲食、排泄、動作の全てに制限がついて回るのです。

 この先一生、たぶんそれも十年以内となるでしょうが」

 

 イリューシンは、超光速通信の画面をひたと見据えて宣告した。

 

「とにかく、心の安定は病後の余命にまで影響します。

 安静にすべき人に、衣服や化粧を整えて通信に出ろとは酷なことです。

 手紙なら、体調をみながら書き溜めることができます。双方にとってよい方法ですわ。

 皇太后陛下、あなたはとてもお美しい。その豊かな髪も、女性らしいお体も絵のようです。

 そんな方に、やつれた姿を見せたくないと思う、

 同い年の女性のことをわかってさしあげてください」

 

 思わぬところに言及されて反論ができなかった。病死したラインハルトは、死の直前まで青春の美の結晶そのものだった。病床を離れられぬようになってさえ、彼の美しさは変わらなかった。死の神(タナトス)にも、美の女神(ビーナス)の恩寵は奪えなかったかのように。そんな病人こそ、稀有な存在である。従弟のハインリッヒの方が当然の姿だ。

 

「わかりました。先生の言うとおりなのでしょう。

 ですが、公爵家に招待状を出さないわけにもいかないのです。

 これは時候の挨拶のようなもので、出席を強いるわけではないと、

 皇太后の名において約束すると、公爵夫人に伝えてください」

 

「ありがとうございます、皇太后陛下。その方がよろしいかと思います。

 無理に出発したところで、翌日には棺に入ってお宅に逆戻りすることになります。

 先々帝の母上の服喪で、行事どころではなくなってしまいますものね」

 

 ああ、そうだった。イリューシン医師との会話の後で、ヒルダはくすんだ金の髪をかき回した。結婚前よりは長くなったが、一般的な貴婦人ほどには長くない、顎を越えた長さの髪を。

 

「フェザーンの人に言われてから気がつくなんて、本当に貴族の女として失格だわ。

 血縁に姻戚、本当に複雑なのね。

 残っている貴族の人たちも、どこかしらで門閥貴族と繋がっているし、

 もっと親戚の人の言うことを聞いておけばよかったわ」

 

 ペクニッツ公爵もまた、夫人の病に便乗してオーディーンを離れようとはしなかった。皇室の行事には、夫妻そろっての出席が基本であり、非礼にあたるということで。娘の即位と退位と、ふたつの式典で彼の小さな肝っ玉は完全に磨耗したのだった。かといって、子を産めぬ妻と離婚もできないし、側室を迎えることもできない。彼の生命線であるカザリンの年金は、エレオノーラからの血脈によってもたらされたものだ。出て行くなら彼の方ということになる。カザリンが公爵夫人となるだけのことだからだ。

 

 彼の常軌を逸した浪費が、この鬱屈にあることを見抜いたのは、カザリンの為に派遣された精神科医の資格も持つ小児科の女医である。ペクニッツ公爵もまだ若い。(いにしえ)の修道僧もかくやという禁欲生活を強いられ、その原因でもある娘を愛することができない。生きているだけでもましなのかもしれないが、不幸であることは間違いない。ペクニッツ家は年金のみの法衣貴族である。統治する領土領民でもあればまた違ったのだろうが。

 

 不平をぶちまける公爵ユルゲン・オファーの言を、小児科医のホアナ・ヒメネスはひたすらに相槌をうって聞いた。是とも非とも言わずに。一番小さな娘、彼女の本来の患者は、聞きわけのよい賢くて可愛い子だ。一番の重病者はさらに我慢強く、辛い治療の合間にも娘や夫に笑顔を絶やさない。その父で夫がなぜこうなのだろうと思ったが、それは顔にも口にも出さなかった。

 

 彼だとて、その小さな器が破裂しそうなほどに我慢をしてきたのだ。我慢が足りないと言うなら、まったくそのとおり。しかし、心の痛みへの耐久力は千差万別なのだ。

 

 親友の死、姉の心の喪失という痛みを、飛翔のための力にかえることのできたラインハルトのように。そのラインハルトが率いる帝国への叛旗を翻し、紅茶のブランデーの増量を控え目に要求したヤン・ウェンリーのように。彼らの死によって、担う事になった重荷に敢然と立ち向かう、ふたりの妻たちのように。そんな彼女たちを支えるあまたの人々のように。だが、世の中は強い人間ばかりではない。

 

 ヒメネスの職業は、そうでない人々のためにある。ペクニッツ公爵はその代表なのだった。とにかく、誰かが聞くだけでも大いに違う。しかし、旧帝国ではそれさえもできないことだった。精神障害者は弾圧の対象となり、不平不満は不敬罪や国家反逆罪に問われる社会だったからだ。医師の守秘義務など、社会治安保障局の拷問の前には薄紙も同然。ゆえに、精神科医という職業自体がなかったのである。ラインハルトの改革により、こういった医療従事者も増加するかに思われたが、帝国本土では五百年近く絶えていた分野である。

 

 結局、これもハイネセンの医科大学への留学に頼ることになった。こちらも入学資格に国籍を問わなかったのだ。しかし、入試は帝国語で受けられても、授業やテキストの多くは旧同盟語が使われている。学力と言語の二重の壁を越えられる帝国本土の人間は、まだ多くはない。

 

 なにしろ、こういう心理学用語の翻訳は、航行用語のように機械的なものではない。微妙なニュアンスを訳すには、帝国本土の専門家の協力が必須である。そういう人材は今まさに教育中。まだまだ先のことになりそうだと、帝国学芸省も溜息を吐いていたところだった。

 

 それが頭にあったヒメネスは、ふと思いついた。この公爵の相談に乗りながら、協力してもらったらどうだろうかと。フェザーン人の彼女は、二つの言語を使える。フェザーンの母国語は帝国語である。だが、フェザーンの帝国語が、帝国本土人と同一かというとこれまた違う。そして同盟語が第二言語だが、その能力は母国語には及ばない。同盟語のテキストの微妙なニュアンスが、しっくりと理解できないというのは、フェザーン人医学生に共通する悩みでもあった。

 

 同盟の用語を自分なりの帝国語で話し、帝国本土人、しかも貴族に添削してもらう好機。彼は一応大学を出ているし、貴族としての一般教養もある。学業成績は不明だが。なにかを作ることは代償行為として優れたものだ。上手に浮気をなさいとは勧められないのだから、その代わりに医学書の翻訳というのは、社会の貢献にもなり、貴族の嗜みとしては悪くない。ヒメネスは、うまいこと公爵をその気にさせた。

 

「象牙細工であなたの名を冠したコレクションを作るのは難しいですが、

 教科書の最初の訳者となれば、帝国の医学史にその名が刻まれるでしょう。

 その栄光はあなただけのものです。

 身分や血脈に関わりのない、あなた自身の手で作る名誉です」

 

 あれから六年。エレオノーラは、病後の身ながらも娘と暮らしている。精神科の教科書の翻訳も進み、一年前に帝国語版が上梓され、ペクニッツ公爵に名声を与えた。そして、帝国本土の医科大学も大いに助かったのだった。

 

 なによりも、心理学の本の翻訳を通じて、ユルゲン・オファーは自らの心と対峙することになった。何不自由なく育ち、父の死後家を継ぎ、父の選んだ女性と結婚した。彼の父は、名門だが貧しかったペクニッツ家を、皇孫を迎えられるまでに繁栄させた。周囲にも信望の篤い人物だった。ただし、跡取りである彼には厳しかった。父に言われるがままに育ち、父の選んだ妻は、美しく心根の優しい聡明な女性だった。では、自分の意志、自分の価値はどこにある。その劣等感が、父の死後迷走を始める契機となったのだろう。

 

 自分が省みないでいるうち、妻は病気にかかり、娘は玉座に据えられた。こうなると、主体性と人生経験に乏しい彼には、立ち尽くしていることしかできなかった。それを忘れるがために、唯一の趣味である象牙細工の収集に浪費を重ねる。金はあるのだ。彼に優しかった妻の親族と、揺りかごの娘を売って得たも同然の大金が。

 

 とても手元に蓄える気になどなれない。せめて、美しいものに姿を変えさせねばやりきれなかった。そんな心の奥底を。

 

 ユルゲン・オファー・フォン・ペクニッツはようやく気がついた。そんな自分には何も言わない妻と幼い娘が、最大の被害者だった。彼女たちは言わないのではなく、言えないのだ。彼の行動を自分のせいだと思っているから。その身に流れる、ゴールデンバウムの血の末流。それが原因なのだと。

 

 確かに自分には価値などない。妻と娘を守ることもせず、愛することも怠っていた。彼は、妻と娘を抱きしめて号泣し、詫びた。

 

「遅くなってしまってすまない。だがまだ間にあう。

 命がある限り、人は変わっていけると私は学んだ。

 この子を守らなくてはならないと、ようやく気がついたんだ。

 カザリンは小さな黄金樹だ。踏みにじられ、薪として火にくべられてしまうかもれない。

 だが、美しく薫り高い花となれば、そうすることを躊躇するだろう。

 誰からも愛され、敬意を持たれるような子に育てよう。私にしてやれるのはただそれだけだ」

 

 エレオノーラは、涙を一筋こぼしてから、美しい笑みを浮かべて頷いた。

 

「あなたのおっしゃるとおりです。

 この子の人生は、この子にしか切り拓いていくことはできません。

 私たちは、その道標となりましょう。みなさまのお力をお借りして、

 この子を幸せにしてあげたいの」

 

 ペクニッツ家の小さくも深刻な揉め事は、すんでで回避され、家族としての再生をも果たした。エレオノーラは、ヒルダらにますます感謝するようになり、夫も娘もそれに倣う。ついに、アレク主催の園遊会に、ペクニッツ家からの出席の返事が届いた。十歳になった令嬢のカザリン・ケートヘンがその出席者である。彼女だけではない。アレクやカザリンと同じ年頃の貴族の子弟らもである。

 

 これは、新王朝と旧王朝の貴族との関係の改善の証だった。この七年、安定した治世を行い、航路の治安も保たれた。往復三ヶ月の旅を子どもにさせても大丈夫だと、そういう判断を貴族らが下せるまでになったのである。

 

 時は無慈悲だが、公平な存在でもある。継続は力であり、伝統は信用になる。ヒルダは時間を味方にした。自らの才にあわせて、飛翔ではなく徒歩の速度で進みだした。

 

 それこそが、激動に疲れていた多くの人々が最も欲していたものだった。



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記されぬ歴史

 ところで、アンネローゼの提案も全てに実りがあったわけではない。恩赦されて名乗り出てきた、リヒテンラーデ候の一門の爵位を持つものは一人もいなかった。貴族への暴行や略奪が横行する中、流刑にされた貴族の子女がどういう目に遭わされるか、想像力が一グラムでもあればわかる。ラインハルトにはわかっていたはずだ。

 

 そしてオーベルシュタインにも。特権と後ろ盾を失くし、貴族として育てられたあらゆる年齢の女性と九歳以下の少年。この世でもっとも弱い存在だっただろう。書面上から罪を消しただけで、誰一人救えなかった。二人の高貴な女性も、七人の元帥も悄然と肩を落とした。

 

 これはドライアイスの剣、オーベルシュタインがラインハルトの怒りに便乗した復讐だったのかもしれない。障害者を差別したゴールデンバウム王朝、その柱石を打ち砕く最大のチャンスでもあった。永久氷河をいただいた活火山のように、彼の中には現状への不満と怨み、平等な社会への希求が熱い渦を巻いていたのだろうか。

 

 いまや誰にも知れぬ。しかし、これは彼の謀略の中では悪手と言えただろう。アントン・フェルナー中将はそう思うのだ。

 

 大貴族らが持っていた、さまざまなノウハウも散逸してしまった。なかでも、記されることなく、目に見えぬものが重要で、皇族としての子育てと教育などがそれである。門閥貴族から選ばれた学友、その中で育まれていく次代の臣下たち。未来の皇帝の為人(ひととなり)を熟知し、応じて補佐を行うようにという教育だった。

 

 皇子にとっては、絶対者となる自分は、対等な存在を持てないということを悟らされる。皆が臣下としてへりくだるなか、自分を冷静に保ち、人を見る目を養い、孤独に耐えることを学ぶのだ。それを、養育係の大人がそれとなく査定、矯正する。この皇子は帝位にふさわしいか。人並みの知能と性格を備えた凡君でいいのだ。暴君や暗君になりうる、激しく抑制を欠いた性格でなければ。

 

 近年、成功例が少ないことは認めなくてはならないが、それ以前の問題もある。皇帝の血を引く者は大公アレクのみ。友達となりうる者も長らく一人しかいなかった。つまり、選択の余地もなく、失敗は許されず、フェリックスに重荷を背負わせるということだ。重荷を分かつことで、安定化を図ってきたローエングラム王朝。帝政を続けるなら、そろそろ次世代にも考慮を開始せねばならぬ。いい潮時だと。

 

 この薄氷の平和を保つには、貴族を敵と見なしていた軍部の考え方こそ改めねばならない。少なくなった皇太后らの親戚、これから育っていく藩塀(はんぺい)として宥和(ゆうわ)を図るべきである。ムライの指摘はそれであり、ビッテンフェルトも目から鱗が何枚も落ちた。それには距離が邪魔をする。これもまた、ムライの会話の中の言葉だ。

 

 ビッテンフェルトが彼から聞いた言葉はそれだけではなかった。フェザーンに遷都をしたラインハルトを、ヤン・ウェンリーは行動の天才の発想だと感嘆したという。一方、ユリアン・ミンツはオスカー・フォン・ロイエンタールを守成の人と評したそうだ。彼は、三代目あたりの皇帝としてはまことに優れた人物で、その彼ならばオーディーンからの遷都は行わなかっただろうと。

 

 それを聞いたビッテンフェルトは、思わずオレンジ色の頭を掻き毟った。

 

「あの連中、魔術師というより人妖(ばけもの)の一種だ」

 

 ヒルダらに求められているのは、この守成である。主要星系を隔てる距離は、統治年数が経つにつれ、頭の痛い問題となっていた。確かに千光年単位の跳躍航行技術は必要だ。その開発には途方もない費用がかかるだろう。新帝国の国家プロジェクトとして、省庁を横断して立ちあげたらどうだろうか。再就職の受け皿にもなるかもしれない。

 

 ビッテンフェルトがそういう発想を書面で提出するようになるまで、それはもう本人も周囲もみんなが努力したのである。ムライの見えざる炭素クリスタルの定規も、何本交換したかわからないが、メックリンガーのコーヒーセットは何客おじゃんになったことだろう。

 

 愛用の優美なデザインの名陶は、一月後にはビッテンフェルトの前から姿を消し、旧同盟軍御用達の強化磁器の安価なものに替わった。簡素なデザインのコーヒーマグには、一種の用の美があった。コーヒーがたっぷり入るし、冷めにくくていい。そのうち、粉から淹れる珈琲ではなく、粉を溶かす新領土のコーヒーが出されるようになったが、これが思いのほか旨いのである。不慣れな従卒に淹れられたものよりもずっと。

 

 嫌味が嫌味にならない新領土の企業努力に、統帥本部総長も降参するしかなかった。以来、自身のコーヒーもカップも新領土のものに変えてしまったぐらいだ。

 

 それはさておき、元帥直々の上申である。メックリンガーは、自身の上官である軍務尚書の決裁を仰いだ。

 

「ビッテンフェルト元帥の提案ですが、いかがでしょうか、ミッターマイヤー軍務尚書」

 

「なんだか、感無量だな……」

 

 更生した問題児の卒業を前にした、担任と学年主任のような会話になってしまったが、二人の気分はそれに近いものであった。

 

「ええ、内容はまだまだ大掴みですが、発想の方向としては上出来です。

 技術的な難易度もさることながら、航法計算や国防上の問題も加味されている。

 この平和の中、帝国軍の士気と練度を保つためには、こういった発想は重要でしょう」

 

「ああ、宇宙統一の平和の中でしか、研究できぬものだろう。

 半世紀以上の時を必要とするかもしれんが、これは検討する価値があるだろう。

 こういった地道な内容こそ、アイゼナッハが向いていると思わないか。

 ペクニッツ家の侍医のヒメネスが、ワーレンに告げたそうなのだが、

 彼の沈黙は場面緘黙(かんもく)とやら言う、精神的なものではないのかとな。

 軍服に囲まれた緊張状態が良くないのではないか、家庭で軍服を脱ぐと、

 饒舌ではないが、きちんと家族での会話があるということを彼の夫人から聞いたそうだ」

 

 メックリンガーは瞬きをした。

 

「そんな症状があるのですか?」

 

「ああ、珍しいものではないそうだ。

 俺の親父もそうなのだが、医者の白衣を見ると血圧が上がる人間がいるだろう」

 

 ミッターマイヤーの父の話に、メックリンガーは苦笑した。

 

「はは、どこも似たようなものですな。

 私の父も同様です。血液検査の日は、行きたくないと大騒ぎでして」

 

「卿の家もそうか。男の方が度胸がないのかも知れんな。そういうものだな、要するに。

 緊張によってうまく言葉が出なくなるから、回避するために沈黙する。

 それでは仕事にならんから、指示を簡略化した問題解決法なのではないかとな。

 本人も周囲も納得して折り合いもついているが、

 他の職業のほうが適性が高いかもしれませんとのことだ」

 

 メックリンガーは口髯を撫で付けた。確かに思い当たる点が多々ある。

 

「いやはや、知らずにいれば個性だが、ストレスによる症状かもしれないということですか。

 旧王朝が覆い隠していた物は、大きな損失を与えていたわけだ」

 

「ああ」

 

 ミッターマイヤーは短く答えた。メルカルトのハンター行政官からミュラーを経由して、もたらされた保健体育の教科書は、彼ら夫妻に産婦人科の門をくぐらせることになった。性教育とは生殖のメカニズムを知ることである。その知識は、避妊にも子沢山にも、双方向に使えるものだ。結婚して三年以上、特に避妊をしないのに子どもに恵まれなければ、不妊症として治療が必要。そう書かれていた。

 

 ミッターマイヤー夫妻は、結婚してから十年目になっていた。七年前から治療の対象だったのだ。様々な検査が行われ、双方ともに問題はない。胸を撫で下ろした夫妻に、フェザーンの医師は逆に難しい顔をして告げた。

 

 夫妻のいずれにも問題がないのに、子どもに恵まれない場合もあるということを、二人は想像だにしていなかった。不妊の五パーセントは原因不明。これは新領土の進んだ医学でも、いまだに解明しきれないものだった。ひととおりの療法を行ったが、ミッターマイヤー夫妻は実子に恵まれていない。子は天からの授かりものという格言は、まだまだ廃れることなく現役である。

 

 メックリンガー夫妻は、新領土の医療の恩恵を受けた口だ。高齢出産に属していたマグダレーナは、母子ともに健康に過ごしている。妊娠中の検査で、良からぬ兆候が発見されて、食事から塩の味がしなくなった日々もあったが。

 

「とにかく、新領土の医療も宇宙統一の恩恵だな。

 そのおかげで、今度の園遊会の賓客は、母親を失わずにすんだのだ。先々帝だった方でもある。

 ビッテンフェルト元帥に特に念入りな警備をと、重ねて指示してくれ」

 

「あの時の赤子が、侍医と侍女と三人で、オーディーンから旅をするようになるとは、

 子どもの成長は早いものです。あの時から十年ですか。本当に早いものだ」

 

 メックリンガーの慨嘆に、ミッターマイヤーも頷いた。子を持って知る、乳児を帝位に据えたことへの後悔。即位の時も、退位の時も、泣いていたあの赤子はどんな少女になったのだろうか。その答えを、ミッターマイヤーは程なく知ることになった。

 

 ビッテンフェルトが困惑しきった顔で、第一報を入れてきたのだ。

 

「俺は今まで、貴族どもの馬鹿息子に馬鹿娘を軽蔑していた。

 あれは間違いだった。十歳でも姫君は姫君なんだな……」

 

「おい、まったく報告になっておらんぞ。卿らしくもない、どうしたんだ」

 

「いやもう、下賤の男が口をきいて申し訳ない、畏れ多いとなるような令嬢だ。

 ミッターマイヤー元帥、悪いことは言わん。フェリックスを会わせんほうがいい。

 あれはまずい。アレク殿下にも会わせんほうがいいと思うがなあ……」

 

「また無茶を言うものだな。彼女は主賓の一人だぞ。なにがあった」

 

 ビッテンフェルトは、オレンジ色の髪を乱暴にかき回した。

 

「グリューネワルト大公妃殿下を、そのまんま十歳にして、

 更にたおやかにした存在だと言えば近いと思う」

 

 彼らしくもない表現に、灰色の目が疑念交じりの視線を突き刺す。

 

「ああもう、俺に言えるのはそれだけだ。

 どのみち三日後の園遊会に出席するのだろう。その時に卿自身が見て判断してくれ。

 俺はもう知らん。関わりたくない」

 

 ぶつ切りにされた超光速通信に、ミッターマイヤーは唖然とした。フェルナーの視線は、上官と暗転した通信画面を往復した。

 

「何があったのでしょうか。カザリン嬢の悪い評判など、聞いたこともありませんが。

 むしろ、賢くて愛らしい、母上によく似た姫君と、

 オーディーンの貴族の女性たちにも可愛がられていると伺っております」

 

「さすがに卿は耳が早いな。しかし、その母上というのはどのような女性なんだ。

 皇太后陛下と同い年だとは聞いているが……」

 

「リンデンバウム伯爵家は、夫婦円満な子沢山でしたからね。

 兄が二人、姉が二人、彼女は五人きょうだいの末っ子だったと思います。

 先代のペクニッツ子爵はリンデンバウム伯爵の友人で、

 末娘を特に気に入り、早いうちから息子と婚約させたそうで。

 ですから、彼女は社交界にはほとんど顔を出していません」

 

「ほう、随分と詳しいな」

 

「それはまあ、小官も貴族連合の末端ではありましたのでね。

 リヒテンラーデ一門の情報収集ぐらいはしたのです。

 あの家は引き入れたいが、いかんともしがたいのは承知してましたがね。

 当主はリヒテンラーデ候の従弟。かなり歳が離れてまして、息子同然に目を掛けられていた」

 

「なるほど、それでは無理だろうよ」

 

「ええ、ブラウンシュヴァイク公やリッテンハイム候のライバルでしたしね。

 息子二人はオトフリート五世の皇孫です。存命なら、カザリン嬢より玉座に近い。

 そうでなくとも、エルウィン・ヨーゼフ二世を守る立場だ。彼らにしてみればいとこの子です」

 

 ミッターマイヤーは、難しい顔になった。

 

「名門中の名門だったのだな」

 

「はい。そんな名門の三姉妹が、珍しいことにほとんど社交界に顔を出していないんです。

 フリードリヒ四世の目にとまることを恐れたのだ、との噂もありました。

 長女と二女は、グリューネワルト大公妃殿下の二つ上と下でしたからね」

 

「いや、しかし姪だろう!?」

 

 慌てたミッターマイヤーにフェルナーは首を振った。

 

「歴代の皇帝には、あまり珍しくありませんからね。

 皇妹と言っても、フリードリヒ四世の異母妹です。許容範囲内ですよ。

 それでも、全員結構な名門に嫁げたわけですから、おわかりでしょう」

 

 ミッターマイヤーはげんなりした。

 

「ああ、そうなのか。さぞや美人だったのだろうな」

 

「恐らくは。兄二人も聡明な美男子として評判だったそうです。

 リンデンバウムの次代は安泰だ、さすがは大帝より名を賜った名門と皇妹殿下夫妻の子だと。

 二人とも先帝陛下より十歳以上は年長でしたから、

 陛下が社交の場に出た頃には、結婚していた計算になります。

 独身者の多い夜会には、出席していなかったのでしょう」

 

 つまり、若いラインハルトや、軍人のミッターマイヤーが面識を持つこともない相手だったわけだ。兄らと年齢が近く、母が伯爵家の出であった親友ならば知っていたのかもしれないが。

 

「そうか、しかしワーレンやアイゼナッハとの交流はないのだろうか」

 

 フェルナーは首を振った。

 

「仮にも公爵家の幼い令嬢を、親族や親しい友人でもない男性の目に晒すことなどありえません。

 社交界にデビューするまでは、娘は母と親族と領民の女性に育てられるのです。

 お嬢様学校もその延長ですよ。しかるべき紹介がないと入学できないのです。

 皇太后陛下の方が、貴族としては特異な育ち方をなさっています」

 

「わけがわからんな。新領土の教育の方が、よほどわかりやすい」

 

「ええ、まったくです。小官も平民出でしたから、貴族に仕えて知った風習です。

 新領土では、ほとんどの分野の職業に女性が進出していますが、帝国はそうではかった。

 そして、まだああはなっておりません」

 

 蜂蜜色の頭が頷く。

 

「しかし、こちらにも女性が進出している職業はあるでしょう。

 教師に看護婦に助産婦。そして産婦人科医と小児科医ですね。

 要するに、貴族が娘を育てるために、帝国騎士や平民の女性らを援助して、

 そういう職に就けたのが始まりなわけです」

 

「なぜだ」

 

「いくつであっても娘を男に任せるわけにはいかないんですよ。夫を得るまでは。

 結婚も家門の繁栄のために、厳密なルールがあるんです。

 先帝陛下と皇太后陛下は、銀河帝国で最初の、

 自由な恋愛結婚をなさった皇帝夫妻かもしれません」

 

 灰色の目がまん丸になった。そうすると、若々しい軍務尚書はまるで少年にも見える。

 

「いや、しかし、侍女を皇后にしたマクシミリアン晴眼帝もいただろう」

 

「いいえ、皇帝の侍女は結婚相手と同義です。世話をするのは昼だけではありませんからね。

 ジークリンデ皇后も、とある候爵家の令嬢です。

 側室腹でしたし、皇帝の敵の注意を引かぬよう、母の実家の名を名乗るようにしたのだそうで」

 

 今度は灰色の下の口もまん丸に開いた。

 

「こういう、見えないしがらみはまだまだ多いのでしょう。

 ミンツ元中尉の提案を容れると、結局バーラト政府に近い国家になってゆく。

 帝政を重視するならば、帝国貴族の慣習にも配慮せざるをえない。

 二律背反(アンビバレンツ)ですな」

 

 ミッターマイヤーは、まじまじと軍務省官房長を見つめた。

 

「卿には歴史と政治のセンスがあるな。

 ともあれ、カザリン嬢が平穏に帰ってくれることを祈ろう」

 

「そうですね」

 

 フェルナーは相槌を打ったが、内心ではかなり危惧していた。あの粗野、もとい豪放磊落なビッテンフェルト元帥が、恐れ入るような相手である。これまでフェリックスしか友達がいない、大公アレクにとっての劇薬にならないか。

 

 彼の恐れは的中した。



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記憶のレース

「ペクニッツ公爵令嬢、カザリン・ケートヘン様」

 

 典礼省の役人の呼びあげた名に、一礼して進み出た少女に、出席者たちは眼を瞠り、息を呑んだ。

白磁の肌、象牙色の豊かな巻き毛と、黄昏の群青の瞳をしたまだ十歳の少女。だが、瞳には遥かに長い時を生きたような静かな知性が宿っていた。まるで智天使の化身のような、清らかな美貌の持ち主だった。年齢にふさわしい形に結いあげた髪も、その容貌に映える優美で精緻な装飾のドレスも、母の愛情と高い美意識を存分に表すものだった。

 

 大理石の床を歩んでも靴音はせず、頭の高さや位置もぶれない。ドレスの裾を持ち上げ、一礼をしても衣ずれの音を立てない。体重を感じさせない幻のように。それは徹底的に挙措動作を学んだ証拠だった。

 

 カザリンは優美に一礼し、美しい声でアレクとヒルダに短い挨拶をした。まるで一篇の詩のように流麗な帝国語で。ただそれだけで、アレクの心を奪うには充分すぎるほどだった。だが、カザリンがフェザーンに滞在する期間は短い。一月半を掛けてやってきて、帰路にも同じ時間を必要とする。本当は、カザリンは母のそばを離れたくはなかった。イリーナ先生は、お体の具合もずっと安定してきているから、大丈夫だと言ってくる。

 

「園遊会は、大公(プリンツ)アレクのお歳なら、お昼に行うでしょう。

 いつものお茶会と一緒だわ。カザリンは普段のとおりにすればいいのよ」

 

 エレオノーラは笑顔で言ってくれた。

 

「皇太后陛下に、お母さまの代わりにお礼を言ってきて。

 カザリン、アレク殿下には礼儀正しく、優しくしてさしあげなさいね。

 でもね、大公殿下に必要以上に接してはいけないわ。

 ご挨拶をしたら、ホアナ先生のそばで大人しくしていればいいのよ」

 

「お母さま、どうしてなのか、教えてくださるのでしょう?」

 

「それはね……」

 

 カザリンの手を握り、エレオノーラは教えてくれた。大公アレクに礼儀正しく、親切にすべき理由を。

 

 カザリンは、一週間ほどの帝都への滞在に、獅子の泉(ルーヴェンブルン)の一角を与えられた。かつてならば、公爵家ならば帝都に大邸宅を構え、領地には荘園を持ったものだが、ペクニッツ家にはそのような力はない。そういう場合は、縁者や友人の邸宅に逗留するのだが、爵位ある貴族でフェザーンに在住しているのは、アンネローゼとヴェストパーレ男爵夫人だけだ。

 

 前者は身分の釣り合いがとれず、後者には七元帥の夫と赤ん坊がいる。身の安全のために、ホテルを利用させるわけにはいかず、皇宮への滞在という異例の事態になった。遷都して十年になるが、銀河を支配する帝国の首都としての機能は、まだまだ不十分なものである。

 

 これも、カザリンには気が進まなかった。客として、主人たる皇太后ヒルダ、大公アレクには、毎朝伺候して挨拶をしなくてはならない。それは問題ではない。嫌なのは、客室からその場に移動するまでに向けられる、好奇の視線であり、囁き交わされる言葉だった。聞こえなくても言われていることは知っている。

 

 エレオノーラが教えてくれたから。

 

 それでも、母に教えられた角度に顎を上げ、歩むことをやめるわけにはいかない。貴族として、ペクニッツ家を守るための出陣だからだ。そして、ゴールデンバウムの血を引く彼女は、味方を作らなければならない。大好きな母の命の終わりは、カザリンの群青の瞳にも見えていた。

 

「あなたはゴールデンバウム王朝の最後の皇帝で最初の女帝だったの。

 ごめんなさいね、カザリン。お母さまのせいよ。あの時死んでいればよかった。

 でも、死ねなかったわ。あなたを産むまでは。

 ローエングラム公が、あなたを玉座に据えることもわかっていたのに、

 それでもあなたに生まれて欲しかったの」

 

 痩せて冷たくなった手が、カザリンの象牙色の髪を優しく梳いた。それは母譲りの髪、リヒテンラーデの血族に多かった淡い金髪。

 

「男の子が皇帝を継ぐのが、ルドルフ大帝の遺言だったの。

 女の子のあなたが皇帝になるというのは、もうルドルフ大帝の言う事は聞かないということよ。

 それに、ゴールデンバウムという苗字の男の子はいなかったわ。

 あなたの息子が次の皇帝になったとしても、もうゴールデンバウム王朝ではないの。

 女の人が結婚すると、ご主人の苗字になるでしょう」

 

 母の言う事に、最初はその象牙色の髪を傾げたが、次には頷いた。お母さまも、リンデンバウムという苗字だったから、それと同じことなのだと。

 

「あなたの夫の苗字の王朝が始まるから、もうゴールデンバウム王朝はおしまい。

 あなたは赤ちゃんだったから、皇帝のお仕事はできない。

 うちのお父さまが代わっていたけれど、ほんとうのお仕事はなかったわ。

 ローエングラム公の言葉に、ヤーというサインをするだけですもの。

 結局、一年と経たないうちに、あなたから譲位を受けて、彼は皇帝に即位されました。

 それが、ローエングラム王朝の始まりよ。

 でも、皇帝(カイザー)ラインハルトは亡くなられて、

 大公(プリンツ)アレク殿下はまだ七歳だから皇帝ではないの」

 

「ではお母さま、今は皇帝陛下はいらっしゃらないの?」

 

「摂政皇太后陛下が、大公アレク殿下の代わりに統治をしていらっしゃるわ。

 とても慈悲深い名君であらせられるのよ。

 イリーナ先生とホアナ先生を、ここへ寄越して下さった、私たちの恩人よ」

 

 娘に伝えるのは、ただその言葉でいい。言葉にできぬ思いは、母が抱いて天上に赴くのだから。

 

「いいこと、カザリン、恨みより感謝を抱いて生きていきなさい。

 失い戻らぬ過去を惜しむより、今をよりよく生き、未来を手にすることを考えるの。

 あなたが皇帝であったから、私はこうして今もそばにいられるのです。

 考えようによっては、帝位という檻からあなたを解き放ってくれたのが、

 皇帝ラインハルトでもあられるのよ。

 お母さまは先帝陛下に感謝してるの。あなたを無事に帰してくれたから」

 

 細い、肉のない腕が、カザリンを抱きしめた。それさえも儚い力だった。カザリンも抱きしめ返した。大きな手術をした体に、無理がないように優しく。無心に抱きつければ、どんなによかっただろうか。その意味ではカザリンは子どもであることはなかった。四つの時でさえ。

 

「そして皇太后陛下は、いまその囚人。アレク殿下も、将来は同じ檻に囚われる。

 この世でいちばん偉いけれど、いちばん自由がないのが皇帝というものよ。

 だから、あなたはアレク殿下の味方になってさしあげなさい。

 皇帝(カイザー)アレクサンデル陛下が、皇太后ヒルダ陛下のような善政を敷くかぎりは」

 

「そうでなくなったら、どうすればいいの」

 

 エレオノーラの群青の瞳に、優しいだけではない光が点った。

 

「あなたから先帝陛下は譲位を受けられた。

 あなたには先々帝としての玉座の請求権がある。

 彼が暴虐の皇帝と化したら、彼を討つ剣を抜かせることができるのです。

 それを忘れてはいけません。でもね」

 

 一際やさしい声が、少女の耳朶に打ち寄せる。

 

「病気がひどくなってから、大騒ぎして手術するより、自分や皆が気を付けて、

 早く発見して治すほうがいいわよね」

 

 カザリンは頷いた。

 

「はい、お母さま」

 

「だから、沢山勉強して、いろいろな方たちとお話をしなさい。

 みんなに優しく親切にすれば、みんなが味方になってくれる。

 あなたは、公爵家の令嬢でもあるのですよ。

 将来は社交界の中心になって、ローエングラム王朝を守る役目があるの。

 だから、今のうちに帝都を見ていらっしゃい。

 あなたのことを、みんなに知ってもらうまたとない機会です」

 

 耳元で囁いていた母が離れ、細い手がカザリンの頬に添えられた。

 

「あなたはお父さまとお母さまの自慢の娘よ。

 とても賢くて優しくて、それに可愛くて綺麗だわ。

 どこに出しても恥ずかしくない、いいえ、誰にも誇れるペクニッツ家の跡取り娘です。

 お父さまとお母さま、二人の分までご挨拶をしてきてね」

 

 そういう母こそ、とても賢くて優しい、誰よりも綺麗なカザリンの自慢だった。痩せて、やつれ、続く抗がん剤治療に長い髪を失ってしまっても、唇の色は蒼褪めても。その母は久しぶりに楽しげに侍女らを采配し、あのドレスにこの靴、髪飾りはこれと選んでいく。

どれもカザリンのお気に入りで、よく似合って上品なものばかり。

 

「あなたもまだ社交界にデビューをしていないし、大袈裟なものはやめましょうね。

 お母さまが、子どもの頃の園遊会で着た服になるけれど、いいかしら?

 おばあさまが、ご自分のおじいさまのオットー・ハインツ二世陛下からいただいたものよ。

 私が一番おばあさまに似ていたの。背や体つき、目の色もね」

 

 カザリンは一二もなく頷いた。祖母に似た母に似合う服なら、カザリンにもよく映えるだろう。

 

「でも、髪はもっと濃い金髪で、私とあなたの髪はおじいさまに似ているのよ。

 上の伯父さまと伯母さまたちは、背が高いのはおじいさまに、髪の色はおばあさまに似たの。

 下の伯父さまは、おじいさまにそっくりで目の色も一緒。薄曇りの春空の色よ。

 ほかはみんな、おじいさまとおばあさまの間のいろいろな青だったわ」

 

 カザリンがはじめて聞く、母の家族の記憶だった。遠い眼差しの母は、窓から差しこむ早春の光に溶け込むように、儚く優しい笑みで語る。

 

「伯母さまたちは背が高くて、この服を着る歳には丈が足りなくなってしまっていたの。

 もっと困ったのは靴で、ぜんぜん大きさが合わなくて、履けなかったんですって。

 おばあさまがそうおっしゃっていらしたわ。

 ドレスと一緒の生地で作った靴でないと、正式には失礼にあたるのよ」

 

 そしてこれも、貴婦人として教育の機会。カザリンは頷いた。

 

「このドレスは、正式な場でしか着られないものなのね」

 

「ええ、そうよ、カザリン。次に着るのは、あなたの娘か孫になるでしょう。

 大事にしてね」

 

 エレオノーラは、母から伝えられた子どもの頃の衣装を、嫁入り道具として持ってきたのだった。こういったものも、貴族の女性の財産の一つだった。それは世代を超えて伝えられる。

 

「はい、お母さま。必ず大切にいたします。お母さまにも、きっとお見せいたしますから」

 

 だから、生きていらして。娘が続けられなかった言葉を、母は汲み取った。微笑を浮かべて頷く。きっと守れないことを双方が悟りながら、結ばれる小さな約束。

 

「子どもはすぐに大きくなるから、ちょうどいい時に慶事がないといけないでしょう。

 そうなるといいわね。この平和が続くように、あなたも力を尽くすのですよ」

 

「わたくしにできるかぎりのことは」

 

「お母さまがあなたと同じ歳に着たのは、ルートヴィヒ皇太子殿下の結婚式の時だったわ。

 三番目の私だけが、服も靴もぴったり合ったの。

 おばあさまはとても喜んで、お嫁入りの時にくださったわ。

 女の子が生まれたら着せてあげなさい、とおっしゃって。

 伯母さま達は背の高い方と結婚なさったから、あちらの孫には靴が履けないわですって」

 

 そして、ドレスだけではなく、袖を通した人々や、それにまつわる柔らかな記憶も共に。母から娘に、そのまた娘に。細心の注意をもって保管され、時を重ねても色褪せず劣化もしていない最上質の絹。リップシュタット戦役がきっかけで、激減した職人が編んだレースに、手の込んだ刺繍。大変に高価なものだが、三世代から四世代、百年以上にわたって少女たちの身を飾る。先祖からの来歴という香気を漂わせて。これは美術品同様の動産なのだ。

 

 仄かな青味を帯びた乳白色のドレスは、カザリンの体格に合わせて手直しがされた。ほとんどその必要もなかったが、何ミリかの差を貴族の女性は見抜くのである。共布で作られた靴は、内貼りと底を替えて調整がされる。

 

 園遊会や皇宮での服はこれらでいいとして、エレオノーラは考え込んだ。

 

「往復で三か月も宇宙船に乗るのだもの、もっと嵩張らなくて着心地のいい服も欲しいわね」

 

 そういうと、フェザーンから出店している子ども服のデザイナーを呼んで、旅行用の服も十着あまり作らせた。早春に出発し、戻ってくるのは初夏である。船内の温度が一定だから、季節は関係ないとはいかない。そんなに困窮しているのかと、同道する貴族らに値踏みをされてしまう。女の子に着たきり雀な格好をさせるのは、母親にとって最大級の不名誉である。

 

「奥方様には、是非顧問になっていただきたいものですね」

 

 納品に訪れた店主は、まんざらお世辞でもなく言ったものだ。貴族階級の磨き抜かれた美意識は、フェザーンや新領土にはないものであったからだ。たとえ貴族の搾取の産物であっても、オーディーンの街や新無憂宮(ノイエ・サンスーシー)はさながら芸術品である。百年前、二百五十年前に袂をわかった、新興国の者にとっては憧れや羨望もあった。

 

「は、承っておきましょう。しかし、本当にこの額でよろしいので?」

 

 それは、家宰の予想より四分の一以下の額だった。

 

「いやいや、当店の商品としては最高価格帯のものなんですが。

 これからも、よろしくご愛顧ください」

 

 新領土の布などは、工業化による大量生産が進み、帝国本土のものよりもずっと安い。縫製ももちろん電動ミシンを使う。職人が一針一針手縫いをする、帝国貴族の仕立屋とは違うのだった。かといって、品質の点でも決して劣るものではない。機械で丸洗いをしても、皺にならない絹のワンピースなど、帝国貴族の想像を超えた製品もあった。ただ、これらが世代を越えて着られる格があるかというと否であるが。

 

 新しい服を沢山買うと、女性がやるのはファッションショーである。それは貴族も変わらない。きちんと試着して、不具合がないか確かめるという意味もある。結局、モデルの愛らしさに、母も侍女らもあれも着てみて、これも着てとなって、カザリンもちょっと疲れたが、楽しいものだった。父は何を着ても似合う、可愛いと顔を緩めっぱなしで、評価者としては頼りにならなかったが。旅は準備している間が一番楽しいのかもしれない。

 

 始まってみると、早く家に帰りたいと思うのだけれど。

 

 エレオノーラが言っていたように、皇太后ヒルダは大層美しくて優しい女性だったし、大伯父の奥様だったという大公妃アンネローゼ殿下は、更に美しい女性だった。アンネローゼ殿下は、どこか母に似ていた。優しい笑顔の瞳の翳。カザリンは気がついてはいなかった。それが自分の瞳にも宿っていることを。

 

 そして、大公アレク殿下は、とても可愛い男の子だった。先帝ラインハルト陛下は、絶世の美青年だったそうだ。その容貌を色濃く受け継いだというより、大公妃殿下に似ていると思う。特に、澄み渡った青玉色の瞳は、父の蒼氷色とも母のブルーグリーンとも色合いを異にする。豪奢な黄金の髪は、これはご姉弟のどちらにもよく似ている。

 

 アレクは、自分とあまり歳の変わらない女の子と初めて会った。彼にとって、美貌の人間は見慣れた存在だ。母も伯母も美貌を謳われた存在だし、絶世の美青年だったという父に、自分は似ているらしい。一つ上の親友、フェリックスは可愛いというよりも、涼やかな美少年だと言われている。

 

 そういう中で育つと、耐性ができて容貌には鈍感になる。顔は顔だし、いくら美人でも母は母で、伯母は伯母。結局は大人で評価の対象とはならない。



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Daybreak Heartbreak

 そのアレクが、カザリンには一目で惹かれた。それは彼女の美貌だけではなく、全身から醸し出される、いかにも優雅で優しげな雰囲気によるものだった。柔らかに微笑みながら、大人たちが感嘆するほど落ち着いて園遊会に臨み、列席者に挨拶をしてまわった。新領土とバーラト政府の客人も、これには目を瞠りっぱなしにした。いつも謹直なムライ駐留事務所長さえ、不器用に目じりを下げて、挨拶に応じたほどだ。

 

「はじめまして、ヘル・ムライ。

 カザリン・ケートヘン・フォン・ペクニッツにございます」

 

「こちらこそはじめましてですな、フロイライン・ペクニッツ。

 ヤン主席からも、あなたによろしくとの伝言があります」

 

 そして、ヤン・ウェンリーからも。ムライは胸中で呟いた。閣下、あなたが心配をなさっていたあの赤ん坊は、もはや立派な姫君だ。あんなに悲しげな目をして、きっと自らの事を知っている。だがそれに立ち向かおうとしている。絹と宝石の戦場に、きっと力強く羽ばたいていくでしょう。

 

 そして、その隠せぬ寂寥。なんとかしてあげたいと、七歳の少年にさえ思わせる瞳のせいだった。毎朝のカザリンの挨拶は、アレクにとって楽しみでたまらなかった。七歳の五月の朝は、いつも以上の輝きに溢れていた。だが、緊張してろくに口が利けなくなってしまう。この年齢の四歳近い差は大きい。小学校一年生と五年生だ。滞在して二日過ぎ、三日過ぎ、明後日には帰りの船に乗って行ってしまう。

 

 ついに、アレクは意を決した。午後のお茶の席で頬を真っ赤に染めて、かちんこちんに緊張して、アレクはカザリンに問いかけた。七年間の人生で、一番の勇気を振り絞って。

 

「フロイライン・ペクニッツ、あの、オーディーンにもうお帰りになってしまうんですか」

 

「はい、慌ただしくてたいへんな失礼をいたしますが、どうかご容赦くださいませ。

 やはり、オーディーンの母が心配なのです。

 明後日に出発しても、オーディーンへの到着は一月以上は後ですから」

 

「ずっと、フェザーンにいてくれればいいのに……」

 

 カザリンは微笑んだ。エレオノーラが恒星間旅行ができるような病状ではない事を知っている、アレクの精一杯のわがままだとわかったから。お母さんをフェザーンに呼べばいいと言わないのがその証拠。

 

「ありがとうございます、大公(プリンツ)アレク殿下。もったいないお言葉です。

 母は、大公殿下と皇太后陛下、大公妃殿下への感謝を、一瞬たりとも忘れてはおりません。

 そして、わたくしも。四歳の時に失うはずだった母が、今も生きていてくれるのです。

 これ以上の喜びはありません」

 

 これに、思わずアレクの本音が転がり出した。

 

「ぼくが、好きですって言うのよりも?」

 

 様子を窺っていたヒルダとヒメネス医師は、一気に緊張した。

 

「そのお言葉は光栄に存じます。

 でも、わたくしは殿下からそういう想いをいただくのに、ふさわしい人間ではないのです」  

 

 群青色の瞳が、優しくアレクを見つめる。

 

「どうして……」

 

「わたくしが、先帝陛下の前の皇帝だったからです。

 大公殿下は、いずれ皇帝に即位されるのでしょう。

 帝位というものから見れば、わたくしは殿下の『祖母』にあたります。

 おばあちゃんと孫には、それ以外の関係は許されないのです」

 

 オーディーンからの旅路の間、カザリンは母の言葉を繰り返し反芻(はんすう)し、考え抜いた。自分の立場とそれが与える影響を。自分に流れる八分の一のゴールデンバウムの血は、宇宙の人々の憎悪の焦点だった。

 

 かくて、アレクの初恋は、言葉にした瞬間に粉砕されてしまった。幼年期の終わりを告げる、黄昏に沈んだ王朝の(すえ)からの言葉。

 

「ぼくのこと、嫌いなの?」

 

「いいえ、わたくしはこの世で最も殿下に感謝を捧げる身です。

 殿下のお父上は、わたくしに担えぬ玉座を継いでくださいました。

 それを殿下が受け継いで下さるのですから。

 殿下はもうひとりのわたくし。どうして嫌うことなどできましょう」

 

 それは、アレクに刻まれた最初の『なぜ?』彼は生涯、その言葉と向き合う事になる。なぜ、好きな子に好きと嫌い以外の返事が返されるのか。なぜ、自分は皇帝になるのか。

 

「よくわからないけど、駄目なの?」

 

「わたくしは、終生あなたに忠誠を誓いましょう。

 あなたが、先帝陛下や皇太后陛下のような統治者でいらっしゃるかぎり」

 

 言葉を切って、カザリンは立ち上がった。ふだんは、ほとんど音を立てぬ流麗な動作の少女が、始めてさやさやとスカートの布地を鳴らした。

 

「もったいないお言葉をありがとうございました。

 そろそろ、帰りの手配をいたさねばなりません。

 お先に失礼をさせていただきます」

 

 そして、最上級の貴人に対する礼を執った。かつて、ヒルダは義姉のそれの優美さに、驚くしかなかったものだが、上には上がいるのだと、思い知らされるような一礼であった。 アレクも見惚れることしかできなかった。母子が何も言えぬうちに、カザリンは滑らかに踵を返すと、静かに歩み去った。

 

 微かな靴音に我に返ったヒメネスが、蹌踉(そうろう)と後を追う。それらの小さな音が、いかにカザリンが動揺したかを表していた。貴夫人は、どんな時でも礼儀を守り、慌ててはいけませんと、母に躾けられたあの子が。いまや家族同然の、小さな患者に寄り添い、医師としての役割を果たすときだ。

 

 部屋に戻ると、少女は彼女に抱きつき、静かに涙を流した。

 

「ごめんなさい、ホアナ先生。もし、わたくしが処罰されたら、先生はお逃げになって」

 

「まさか、そんなことはありませんよ」

 

「いいえ、不敬罪、大逆罪に問われても仕方のないことを言いました。

 でも、ああするしかありませんでした。

 カザリン・ケートヘン・フォン・ゴールデンバウムの名において、

 旧同盟を滅ぼしているのです。

 新領土を統治なさっている白き手の皇太后陛下と、

 その後継者にふさわしい身ではありません」

 

「カザリンさま……!」

 

 ヒメネスも少女をかき抱いた。

 

「あなたのせいではありません。あなたに罪などないのです」

 

「わたくしのお母さまのご家族もそうでしたわ」

 

 小さな声に、ヒメネスは愕然とカザリンの顔を見詰めた。地球時代の天才画家が描いた、智天使のように幼くも美しい顔。ラピスラズリから作られた、金よりも高価なウルトラマリンの瞳を。

 

「この国は、血と名によって人生が定められてしまいます。

 わたくしの祖先がそう決めて、王朝が変わってもそれはそのままです。

 だから、駄目なの」

 

「誰かが、あなたにそんなことを言ったのですか」

 

「いいえ、これはわたくしの考えです。だから、誰も悪くないの。

 ホアナ先生、皇太后陛下にそうお伝えしてくださらないかしら。

 だから、父も母も誰も罰しないでくださいと」

 

 最後は震え声になった。そして、少女はもう一人の母とも言える医師の胸で泣きじゃくった。

 

「そのようなことはさせません。たとえ皇太后陛下であられても。

 でも、深刻にお考えにならなくてもいいのですよ。

 だって、初恋は実らないものと相場が決まっていますもの。

 七歳の男の子が、年上の女の子に振られるなんて当たり前のことです。

 なにより公爵令嬢が、たった四日前に会った相手に(ヤー)と言うなんてありえませんものね。

 お父様がおいでだったら、大公殿下に手袋を投げつけることになって、もっと大騒ぎですよ」

 

 ヒメネスはくすりと笑った。ペクニッツ公爵は、人が変わったように子煩悩な父親になっていた。

 

「大公殿下も、紳士らしいマナーを身につける時期が来ているのですわ。

 だから、そんなに自分を責めてはだめよ。あなたも悪くなんてありません」

 

 小さな肩を抱きしめ、象牙の髪を撫で、ヒメネスは精一杯冗談めかして慰めを口にした。この子を罪を問うならば、罪にならない国に逃げるまでだ。皇宮の門を出てたったの五分のところにある、バーラト星系共和自治政府のフェザーン駐留事務所の門を潜ればいい。か弱いエレオノーラにはできなくとも、自分ならこの子を抱き上げて走れる。

 

 だが、そんなことにはならないだろう。この子は途方もない宝物だ。過去を知り、現在を考え、未来を見とおせる。それは、統治者には必要不可欠だが、その配偶者にも求められる資質だ。あの賢い皇太后陛下が、見逃しなどするはずがない。

 

「無作法な相手にも礼儀を尽くして否と言えたのだから、あなたは正しいわ。

 今頃は、大公殿下がお母様にお叱りを受けていらっしゃると思いますよ」

 

 

 置き去りにされて、青玉色の目に涙を浮かべている息子に、ヒルダは苦笑を浮かべていた。

 

「まったく、誰に似たのかしら。

 あなたは偉いわ。好きな子に好きですって言えたのだもの。

 お父様は、私についぞそんなことはおっしゃらなかったのよ」

 

「でも、だめだって」

 

 ぽろぽろと涙をこぼすアレクの金髪を、ヒルダは撫でた。

 

「それは当然よ。ちょっと気が早すぎるわよ、アレク。

 出合ってたったの四日では、まともな女の子は、『はい(ヤー)』とは言わないのよ」

 

「四日も前から好きなのに?」

 

「それでもたったの四日でしょう。せっかちなところはお父さまに似たのかしら?

 いいこと、あれで『はい』と言ってくれる女の子は、

 あなたを本当の意味では好きになりません。

 アレクサンデルという男の子ではなく、大公アレクだからそう言うだけよ。

 あの子はとてもいい子ね」

 

 母の言葉に、泣きべそをかきながらそれでもアレクは頷いた。

 

「うん、とってもきれいで優しいんだ。歌うみたいにお話ししてくれるし、

 まるでワルツのお手本みたいに歩くの」

 

 ヒルダは眉を上げた。おやおや、いっぱしに惚気てるわ。でもよく見てること。ヒルダも同じように見て、感嘆するやら羨ましいやら、母が健在だったら、こんなことも教えてもらえたのかと思ったものだ。ただし、覚えられるという自信も持てなかった。あんな繊細な動きはできそうにない。

 

「ええ、そうよね。とても素敵な女の子よね。

 ねえ、アレク、今のあなたがふさわしいと思う?

 あなたは三つも年下で、まだまだ何にも知らなくて、ダンスだって習い始めたばかり。

 背だってこんなに小さいんだもの」

 

 カザリンもあまり大柄ではないが、アレクよりも頭一つは背が高い。

 

「背はもっとのびるよ!」

 

「背ばっかり伸びても駄目よ。こことここも伸ばさなくちゃ」

 

 ヒルダは、アレクのおでこと胸を突いた。

 

「たった一回断られたぐらいで、諦めちゃうような子に、

 素敵なお姫様は振り向いてはくれないわ。

 それはフロイライン・ペクニッツでなくても同じよ」

 

 母の言葉に、息子はむきになって言い返した。

 

「じゃあ、ぼくがんばる。フロイライン・ペクニッツじゃなきゃいやだもん。

 いいって言ってくれるまで、好きだって言うし、お勉強も他のこともがんばるから!」

 

 ヒルダは珊瑚礁の海の瞳で、まじまじとアレクを凝視した。

 

「ほんとうに、誰に似たのかしら、あなたは」

 

 

 前向きで粘り強く、そして一途だ。考え方にいい意味での中庸がある。でも、まずは親としての責任は果たさねば。アレクの無作法について謝罪しないといけない。先々帝という重荷にひっそりと耐えていた少女がどんなに思いつめることか。そう思っていたヒルダに、彼女の侍医から伝えられた言葉は、雷撃のようにヒルダを打ち据えた。とても今のアレクに(ヤー)と言ってくれる子ではない。

 

 だが、十年、いや十五年以内に諾と言ってくれるようにしなければ。アレクの教育、新銀河帝国の法制度等の改正、そしてゴールデンバウム王朝の功罪を明らかにすること。むろん、ローエングラム王朝も同様に行わなければ。

 

 アレク自身を、カザリン・ケートヘン・フォン・ペクニッツが受け入れてくれるには、それが前提条件。

 

「ああ、でも一目惚れした、大変な高嶺の花を射止めようとするなんて、

 そっちは絶対にヤン主席の影響だわ。もう、お恨みしますわ、ヤン元帥!」

 

 八つ当たりされた黒髪の魔術師だったが、彼ならばこう反論しただろう。

 

『いやいや、とんでもない。子は親を映す鏡といいますよ。

 ならその親は、本物の鏡を見るといいのではないでしょうかね』



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誰そ彼の少女 彼は誰の少年

『たそがれ』と『かはたれ』薄暮と薄明。


 もうひとつのヒルダの疑問は、まもなく解消した。破れた初恋の痛手に泣いたのは、自分の息子だけではなかった。やはり誕生日を迎えた一歳上の少年も、濃藍色を涙に濡らしていたのである。

 

「なんだ、フェリックス。そんなに簡単に泣くものじゃないだろう」

 

 息子を励ます父親の言葉に、ヒルダは腑に落ちた。アレクにとって、もっとも身近な親友の父に似たのだ。ほんとうに息子はいい人を教師としたものだと思う。そして父性の重要さを痛感する。男同士の語らいに、無粋な聞き耳を立てるのものではないと、ヒルダは静かに立ち去った。

 

 親友とは違って、フェリックスは父の言葉にも浮上しなかった。

 

「あのね、父さん。

 フロイライン・ペクニッツは一人っ子で公爵家のあとつぎだから、およめさんにはいけないし、

 ぼくも一人っ子だから、おむこさんにするとお家が困るでしょうって言われちゃったんだ」

 

「は、はぁっ結婚!? あ、や、その、そうか。そりゃあ、困ったなあ」

 

 ミッターマイヤーは困り果てた。身分の差ではなく、実にスマートな理由で断られてしまった。父さん達も頑張るとは言うに言えない。息子の教育に悪いというか、まだ早い気がする。というよりも、爵位ある貴族の令嬢にとって、交際と婚約と結婚は同義なのだ。ミッターマイヤーは、おさまりの悪い蜂蜜色の髪をかき回した。

 

「おまえには結婚はまだ早いよな、フェリックス」

 

「うん。でも、結婚するお相手でないとおつきあいができませんって」

 

 それでは軽々に平民の求愛に応じられない。返答は(ナイン)しかないわけだ。ようやく、ヒルダをなかなか貴族らが受け入れなかった訳もわかった。

 

「難しいなあ。父さんたちの知らない世界のことだよ」

 

「父さんにもわからないの?」

 

「すまんな、父さんも勉強不足だった。もっと学ぶとしよう」

 

 平民と貴族、男と女。銀河帝国には身分という水平の壁、性という垂直の壁がそそり立っていた。同じ国の中に違う世界がある。平民の男であるミッターマイヤーが考えもせず、知りもしなかったことだ。

 

 時の神の見えざる(しがらみ)は、まだそこかしこに残っていた。皆が逃亡奴隷であり、それゆえに平等を掲げられた新領土が、二百年前に乗り越えていた壁が。

 

 またも蜂蜜色の髪を乱す軍務尚書だった。

 

 しかし彼はその翌日、つれなき美女(サン・メルシ)の卵の囁きに硬直した。戦場の雄、帝国の至宝を心底から戦慄させたのは、さらに深い理由からであった。

 

「軍務尚書閣下やご子息には失礼なことを申しましたが、お許しくださいませ。

 わたくしは、コールラウシュ家にも近い血筋なのです。

 ご子息にはお教えできませんが、閣下にはお話しておきます」

 

 この少女は知っているのだ。当然すぎるほど当然ではないか! ロイエンタールは、彼女の母の家族の処罰も担当したのだ。エレオノーラは涙を呑み、息を殺し、彼の動静を窺っていたのだろう。逃げおおせた親族に、密かな援助をしたとしてなんの不思議があろうか。

 

 母に似た象牙色の髪の少女。息子の実母の髪はクリーム色。その遺伝上の相似。

 

 そして、エレオノーラとエルフリーデ。五つ違いのふたり。下位の者が、優れた親族にあやかった命名をするのは、よくある貴族の慣習だ。

 

 カザリンは群青色の瞳を、ずっと上にある灰色の瞳に向けた。

 

「そして、ご子息はマールバッハ伯爵家の血もひいておられます。

 その血は、帝国の将来の大きな力となります。

 旧帝国貴族と新帝国首脳部の融和にして、大公アレク殿下の直臣としても。

 当家の婿となられるには、もったいないお方です」

 

 ものも言えぬミッターマイヤーに、カザリンは優美な会釈をして、静かに歩み去った。

 

「……なんということだ。だから、フェリックスは断られたというわけか」

 

 落日を迎えた王朝の娘。黎明に恒星を失った王朝の息子。そして古い血を引き、新たな風が育てた息子。

 

 二つの光の狭間(はざま)に、いまだ小さな、だが新しい星々が生まれる。

 



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宇宙暦809年初夏 As Time Goes By
時の翼が越えるもの


 

 皇帝ラインハルトによる宇宙統一がいつか、という疑問の答えは諸説ある。バーラトの和約を主張する者にとっては、宇宙暦799年5月25日。新帝国暦元年6月22日の彼の即位をもって、という者は二番目に多い。

 

 いや、宇宙暦800年2月2日の自由惑星同盟政府の降伏だというのが最大多数派で、宇宙暦801年6月1日のイゼルローン共和政府との講和説を主張するものは少数派である。

 

 それらの説の最初をとるなら十年、最後ならば八年の時が流れた。第二次ヤン政権は残り半年となった。次期改選からは、もう彼女を主席とはできない。バーラト星系共和自治政府の議員の任期は最長一期四年。最大多数派の党首が主席となるのだが、

二期八年を限度としている。

 

 それはフレデリカにも望むところであった。自分は夫の巨大な七光のおかげで今の地位に就いた。

以前の同盟政府の末期があまりにひどすぎたので、何かに手をつければそれで改善になる。

これが、皇太后ヒルデガルドとの苦労の差の皮肉というものだった。

 

 ヨブ・トリューニヒト、ジョアン・レベロとラインハルト・フォン・ローエングラム。

 

 国を売り蛇蝎のごとく嫌われた巧言令色の徒で、帝国の高官に納まって、故国に帰還した厚顔無恥極まりない男。高等弁務官個人の意向におもねり、救国の英雄を謀殺しようとして、暗殺された良心的だが非力な政治家。

 

 反対に、その才能で帝国の停滞を破壊し、宇宙を統一に導いた絶世の美貌の天才。跡を継いだ者が、文句を言われずにすむにはどちらが容易いか。考えるまでもないことである。

 

 だから、政治家としてはまだまだひよっこ、ボロが出ないうちに安定した手腕の者に任せるべきだ。自分の才能を客観視し、手に余ることはできる者に振り分ける。夫だったヤン・ウェンリーの怠け者ぶりも、惚れた欲目で見ればそれなりにいい方法だったので、フレデリカも彼を倣って政権を運営してきた。

 

 事務総長室にはキャゼルヌ、情報管理室にはバグダッシュ、スープの冷めない距離には、先ごろ結婚したユリアンとカリン夫妻、フェザーンにはムライとリンツ、スーン・スールにベルンハルト・フォン・メルカッツという、素晴らしいブレーン達がいる。

 

 教育国家として歩み始めたバーラト星系には、帝国本土からの留学生も増えてきた。第一次ヤン政権の国防長官だったシドニー・シトレは、かつての名校長ぶりを買われて、教育長官に異動し、後任には次官だったダスティー・アッテンボローが就任した。

 

 この七年で、バーラト星系共和自治政府の閣僚人事も様変わりした。第二次ヤン政権で、役職がそのままなのは、主席のフレデリカ、ホアン外務長官、ガードナー財政長官の三名だけだ。ヒメネス厚生長官は、フェザーンのヒメネス医師の伯父で、そのネットワークを買われ、ハイネセンの医師会長から任命されている。

 

 彼は、帝国本土の医療の向上の必要性を痛感していた。帝国で先進医療を受けられるのは上層階級に留まっている。それでも新領土の水準からは一世代は前のものだ。まだ若い女性が、羞恥心と病気への知識がなかったがために、治療の時期を逸して死期を迎えつつある。小児科と精神科の医師で、彼女の家の侍医となった姪が、泣きながら訴えてきたのだ。昨年の晩秋のことだ。大公アレク主催の園遊会から半年と経ってはいなかった。

 

「お気の毒でとても見ていられないわ、伯父さん。

 なんとか治す、いいえ、あと二、三年の延命でいい。

 なにか方法はないのかしら。もう、今の薬は、がん細胞が抵抗性を示して効かない。

 白血球が減少しすぎたから中断したの。あの方はまだ死んではいけないの。

 皇太后ヒルダが持たない、古い知識の宝庫なのよ!」

 

「まあ、落ち着きなさい。医者は冷静でなくてはならんよ。

 バーラトで承認されたばかりの、放射線療法と併用する薬があるんだ。

 がん細胞に選択的に取り込まれてな、マーカーと放射線の感受性を高めるのを兼ねるんだ。

 以前より低量の照射で済むから、副作用が少なく全身のがん細胞を逃さず狙える。

 そちら、オーディーンに機器はあるかね?」

 

 伯父が告げた機種に、ホアナ・ヒメネスは頷いた。フェザーンや旧同盟領よりも医療水準が低い帝国本土でも、珍しくないものである。

 

「ふむ、それは幸いだ。薬はバーラト政府御用達、宇宙一の快速便で送るよ。

 安心なさい、フェザーンにも工場があって、運送会社もフェザーンにある。

 あそこからなら一月で着くさ」

 

「じゃあ、じゃあ、もしかしたら……」

 

「おまえが泣きついてくるくらいだが、あと半年は余命があるんだろう?」

 

 目を真っ赤にした姪は、幼女のようにこっくりと頷いた。

 

「薬の到着までは、保存療法中心に、患者の体力の回復に努めなさい。

 ああ、そんなに泣くんじゃない、ホアナ。

 治験でも著効が認められ、使用を開始したばかりだが非常に有望な薬だぞ」

 

 ホセ・ヒメネス厚生長官は、腫瘍内科の専門医だ。ハイネセン記念大学医学部でも教鞭を取っていた。伯父の言葉に、彼女はまた涙した。

 

「延命じゃなく、治るかもしれないのね!」

 

「ああ、そうさ。おまえの患者さんは絨毛がんだそうだな。

 あれは抗がん剤や放射線への抵抗力は低い。もとは胎盤だから当然だがね。

 そういう点ではデリケートなんだが、それゆえに増殖も速い。

 放射線は副作用との兼ね合いで、がん細胞を殺しきるのは難しかった。

 この薬だとそいつがクリアできる。患者には無理なく、がん細胞が死ぬまで叩けるんだ。

 どうだい、画期的だろう」

 

 彼の姪は大粒の涙を流しながら、首が振り子にでもなったように頷き続けた。

 

「帝国ではまだ承認されておらんが、我らはヒポクラテスの使徒として、

 自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択しよう。

 医薬品の個人輸入は、旧帝国時代から禁止されていないのさ。現在もそのままだ。

 実は、旧同盟とフェザーンが一番利潤を上げていた売り物だったんだよ。

 誰にも文句などつけられんように、うちの事務総長がうまくやるだろう」

 

 そして、予言のとおり奇蹟は起こった。この療法は劇的に功を奏し、がん細胞が消え、寛解状態が訪れた。やせ細っていた患者が、かろうじて華奢と言えるまでに肉付きを取り戻して、象牙の巻き毛が柔らかに顔を縁取るようになるまでに。顔色を良く見せ、痩せた体形をカバーできるドレスを選び、ふさわしい化粧を整えて、皇太后を始めとする恩人らに、超光速通信(FTL)で心からの感謝の挨拶ができるようになるほどに。

 

 彼女は、オーディーンの貴族らの核となり、あらたな藩塀となるべく采配を開始した。リンデンバウム家は、いずれは皇妃を出す家門と目されていた。皇妃の母や祖母という、皇室の擁護者となるべく育てられてきた女性である。ヒルダやアンネローゼが及びもつかないほどに繊細に、ローエングラムを守る絹の網を織り上げていく。

 

 バーラトのヒメネス厚生長官にも、感謝の通信は届いた。患者だった女性は、姪が死なないでと願うのが無理もないような優美な貴婦人だった。地球時代の名画、ラファエロの聖母を思わせた。傍らのよく似た娘も、心から嬉しそうに何度も礼をした。流水のような所作で。通信の後、ヒメネス長官も微笑みながら呟いた。

 

「時代は変わったものだ。

 フェザーン人が、帝国貴族の助命を、旧同盟人に嘆願するとはね。

 だが、いいことだし、いいものだ。殺し合い、子が復讐を誓うよりもずっといい。

 それにしても、実に可愛らしいお嬢ちゃんだったなあ。将来が楽しみだ」

 

 エレオノーラ・フォン・ペクニッツは、大公領の安定に力を尽くし、娘との小さな約束を果たしてから生涯を閉じた。それはもっとずっと後のことである。

 

 こうした経緯もあって、バーラト政府からの国民健康保険制度の制定と、教育や医療の拡充という提言に、帝国首脳部も乗り気であった。ただし、それにつけても金の欲しさよというのが正直なところだ。

 

 帝国の税収を一目見たアレックス・キャゼルヌは、片眉を上げて言ったものだ。

 

「はん、ガイエスブルク要塞の投入だけでもやめておけば、随分違ったろうにな。

 イゼルローンも、まだ旧同盟軍人の遺体の回収、宙葬も終わっちゃいない。

 ヤンの幽霊で騒いでないで、あと一万人けりをつけなきゃならんだろうが」

 

 これは、ヤン・ウェンリーが査問会に召喚され、その留守に抗戦しなくてはならなかった、イゼルローン要塞司令官代理の恨みがたっぷりと込められた発言である。しかし、事実から決して外れたものではない。

 

 敵地だったから容赦ない攻撃を加えたが、戻ってきたらそれで首を絞められる。現在イゼルローンで苦労しているのは、第八次イゼルローン攻略戦において副将を務め、完膚なきまでに叩きのめされたナイトハルト・ミュラー元帥その人である。

 

 あのガイエスブルク要塞があれば、フェザーンを守護する影の城、三元帥の城どちらかは建設せずともよかったわけだ。おまけに、イゼルローンには、蓋をされただけの大穴も、硬X線ビームによる放射線汚染区域も存在しなかっただろう。これらは完全に癒えていない戦争の傷痕だった。

 

 けちは平和が好きで、欲張りは戦争が好きという言葉がある。ゆえに平和が訪れると、文官らは思うわけである。

 

「ああ、なんともったいないことをしたのか!」

 

 ラインハルト・フォン・ローエングラムの数少ない軍事的失敗。が、財政的には少なくない失敗である。門閥貴族から没収した資産を、思い切りよく使ったのは。平民からの税収は、思うように元下層階級の所得が伸びていかない。旧同盟の税制に倣うのなら、こういう世帯は非課税又は税の減免対象である。その割合が新領土よりずっと多いのだった。これもまた二百年の民生の格差で、新帝国の十年あまりで解消できるものではない。

 

 先帝ラインハルトの構想であった、通貨の統一が遅れていたのは幸いだった。彼の存命中にも一度延期されたものであるが、その死でさらに後回しにされていたのだ。その間に、新領土の安価で良質な製品を求め、帝国マルクが流出していた。

 

 一方、ディナールで帝国本土製品を購入する量はずっと少ない。その生産者は、貴族相手の商売が成り立たなくなって、バーラト星系などに就労ビザで出稼ぎに行ってしまったりもした。自分が作った品は、フェザーン商人の仲介料、輸送費を上乗せしても売れるのだ。では、そこに行ってその値段で売れば、全部自分の懐に入る。

 

 リップシュタット戦役による貴族の滅亡で、こうした人々も大きな被害を受けていた。

 

『貴族相手に商売をしやがって、おまえらも同罪だ!』

 

 略奪されたり、工房に放火をされたり、襲撃された負傷者や死者も少なくなかった。帝国の伝統工業は、熟練までに長い期間を要する。こんな激動に年配の職人たちは耐えられなかった。中堅、若手層はかろうじて残ったが、先細りになる商売に見切りをつけて新領土を目指した。帝国の伝統は、思わぬところから崩壊しつつあったのだ。

 

 そういうものに興味が薄い皇太后ヒルダと、軍人や下級貴族中心の帝国首脳部が気付かぬうちに。

 

 気がついたのは、象牙細工の収集をしていたユルゲン・オファーである。あれ以来、きっぱりと購入はやめ、気に入った数点の傑作を残して、少しずつ売却をしていった。それでも手元に残した象牙細工には手入れが欠かせないし、収める箱なども修理や新調したいものが出てくる。

 

 だが、出入りの象牙細工商が首を横に振った。できる職人が減ってしまい、商売を畳もうと思っていると。驚き慌てて、ペクニッツ家で伝統工業の保護を開始し、とりあえずの歯止めをかけた。これを復興させるのは一貴族の手には余るが、新帝国上層部の態度を見るに、関心を払ってくれそうにはない。

 

 彼は考え込んだ。このままでは、文化的な勝者は旧同盟になるのではないだろうか。自分の心も、妻の重病も新領土の医療が癒してくれた。娘に笑顔を取り戻させてくれたのもそうだ。カザリンには、貴婦人としてだけではなく、新領土の教育も受けさせている。いずれも、新領土が帝国本土に勝るものだった。

 

 最初から負けているもので勝負を挑んでも勝ち目はない。帝国が勝っている点、それは人間の手を介した伝統の技術ではないのだろうか。極めて異例ではあるが、彼は妻の礼状に自身の書状を添えた。こういった現状と考察を簡潔に記して。

 

 帝国首脳部は仰天した。これをそのままに通貨を統一すれば、帝国本土は空っけつになってしまうところだった。帝国マルクだけでなく、その稼ぎ頭もどんどん流出していってしまう。ヒルダやカール・ブラッケ、オイゲン・リヒターは冷たい大汗をかいた。

 

 もう一人、それでいいのかと提言した者がいる。そのフェザーンの商人組合長は、帝国の財務省の顧問となった。

 

「さすがのバーラトだって、そこまで親切に公式に教えてくれないでしょうなあ。

 黙っていれば、丸儲けができる。それを逃したと民間から突き上げを食らいますからな。

 ま、これはガードナー氏からの内緒話です。そのおつもりでお願いしますよ」

 

「しかし、通貨を統一しなくては先々問題が出てくるだろう」

 

「フェザーンは百年間、帝国と同盟の通貨を変動為替相場で扱っておりました。

 だが、なにひとつ問題はありませんでしたよ」

 

 五十代半ばの商人組合長はあっさりと返答すると、仕立ての良いスーツに構わず腕と足を組んだ。先帝は軍事と政治の天才だったが、経済はそのかぎりではない。

 

皇帝(カイザー)ラインハルトが、宇宙を統一された直後でしたら通貨統一もよかったが、

 ここまで為替相場による貿易が発展すると、害しかありませんな。

 そもそも、現在流通している貨幣を全て刷新するのに、

 何百億帝国マルクが必要だと思われますか」

 

「試算では、そこまでの額にはならぬはずだ」

 

 色をなす財務尚書に、コモリ・ケンゾウは顔の前で手を振った。

 

「単に通貨だけの問題ではありません。

 様々な機器も変更しなくてはならないこともお忘れなく。

 すべての自販機にATM、金融機関のデータベース、その他諸々ですよ」

 

「それも当然試算に含めてある。我々もそこまで無知ではない」

 

「そうですか? 帝国本土の機器も全てを網羅していらっしゃるのでしょうか。

 それこそ、辺境も辺境、帝国軍の船でもなければいけないような皇帝直轄領もです。

 人口が数万人しかいない惑星でも、大容量の超光速通信システムがおありですかね」

 

 言葉が返ってこないので、コモリは足を組みかえた。

 

「それが整わないうちは、絵に描いた餅というやつですよ。

 我ら、日系イースタンの諺によるならね。

 通貨の切替えには膨大なデータの移行が必須になるのはご存じでしょうが、

 バーラト、フェザーン、新領土の超光速通信網の発達は帝国本土の比ではない。

 それを基準に算定したものなら、再計算をなさるべきだ。

 帝国本土有人惑星すべての超光速通信網の整備を上積みしてね」

 

 言葉を失うリヒターに、彼はきっぱりと告げた。衣料メーカーの経営者らしい言葉で。

 

「金のために金をかけるのは、もったいないとしか申せません。

 金は人間のために使ったほうが、また金を生んでくれますからね。

 経済は生き物です。先帝陛下の構想時点ではちょうどいいサイズの服でも、

 育ってしまったらもう着られません。小さな型紙は捨てておしまいなさい」

 

 天才の構想を現実が越えていくこともあるのだ。



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伊達と酔狂、日々これ闘争

 文官の人手不足については、バーラト政府が新領土に限って官僚の出向制度を提言した。なにしろ、もともと百三十億人の国家を動かしていた官僚機構はそのままに、十三分の一に国家の規模は縮小している。その人件費は馬鹿にならないし、役職だって足りない。

 

『人手の足りない、新領土の惑星はありませんか。

 人件費を出してくだされば、腕利きがお手伝いにあがりましょう』

 

 新領土の主だった惑星は、一斉に手を挙げた。一番、声が大きかったのは、フェザーン商人の移転で、てんやわんやのエル・ファシルだった。人が増えて、お金も増えたが人手が足りない。

 

 ヤン元帥とロムスキー医師の死によって、バーラト政府の前身、イゼルローン共和政府と袂を分かったのに、図々しいのは百も承知だ。だが、住民の為に力を貸していただきたい。平身低頭して乞われた、主席のフレデリカ・(グリーンヒル)・ヤンはにこやかに答えた。

 

「とんでもないことですわ。私たちが一番大変だったのは、不正規軍の時でした。

 真っ先に手を差し伸べてくださった、エル・ファシルには尽くせぬ恩があるのです。

 それに、エル・ファシルは私の亡き母の郷里で、あの人との出会いの場でした。

 できるだけの支援を行うことをお約束しましょう」

 

 そして、キャゼルヌとアッテンボローにはこう囁いた。

 

「格好の金蔓、帝国本土への橋頭保、イゼルローン回廊への入り口でしょう。

 頼まれたって、逃がしてあげるものですか」

 

「そう、そのとおり。

 ミュラー元帥がイゼルローン要塞司令官のうちに、密接な関係を築いておきたいですからな。

 選りすぐりの腕利きを送りましょう。たしか、ハンター女史の秘蔵っ子が四、五人いたはずだ」

 

 ヘイゼルと薄茶色が光を帯びて目配せを交わす。青灰色は、恐れを込めて先輩の奥方と先輩の先輩を見つめた。

 

「お見事です……」

 

 アッテンボローは状況判断に優れた男である。間違っても『あんたら似てきましたよね』などとは言わずに、沈黙を貫くのだった。執務室に戻ると、コーヒーカップに向かってぼやく。

 

「……あの可憐な副官嬢はどこに行ってしまったんでしょうね、ヤン先輩」

 

 いや、これが本質と見るのが正解か。ウチの姉貴どもだってそうじゃないか。彼女を可憐な女性にしていたのが、先輩の男としての格だったんだろう。

 

「お願いだから、戻ってきてくださいよ。

 職場が毎日恐怖の場と化しているんですよ……」

 

 秘書のラオはそんな慨嘆にはとりあわず、国防省の決裁書類を積み上げた。

 

「この決裁が終わらないと、次は修羅場になりますよ」

 

「俺に安住の地はないのか!」

 

「生きてる限り、日々これ闘争でしょう。今こそ伊達と酔狂の出番じゃありませんか」

 

「はいはい、ごもっともで。……なんだこりゃ」

 

 アッテンボローは、書類に混じったメモ書きに鉄灰色の眉を寄せた。シャープで無駄がなく読みやすい、事務屋の筆跡だ。彼にとっては、士官学校の一年の秋から見慣れた、八歳上の先輩のものだった。アッテンボローは、キャゼルヌの翌日の昼食の誘いに了承の返事を出した。場所は、政庁近くの三月兎亭の弟子の店の個室とのことだった。

 

 翌日キャゼルヌを迎えたアッテンボローは、注文もそこそこに先輩を問い詰めた。

 

「キャゼルヌ先輩、ちょっとこれはまずくないですかね。

 なんで俺にお声が掛かるんですか。今は一応政治家なんですよ」

 

「仕方がないんだろうよ。非公式のお願いというやつだな」

 

 銀河帝国軍イゼルローン要塞兼要塞駐留艦隊司令官、ナイトハルト・ミュラー元帥による依頼だった。エル・ファシル周辺宙域警護のため、以前提出していただいた、旗艦トリグラフのデータ解析に協力を願いたい。

 

 エル・ファシルはイゼルローン回廊の新領土側出口に近く、この地理的特性から第二のフェザーンになりうる可能性を秘めている。ただ、ここは回廊のボトルネックにもあたり、宇宙船事故の多い宙域でもあった。元ヤン艦隊で、イゼルローン革命軍の実質的な艦隊司令官、ダスティー・アッテンボローの知識が重要視されたのである。彼にとっては、何度となく哨戒した庭同然の場所だ。しかし、それにしても……。

 

「フェザーンにはムライのおっさんもスーン・スールもいるでしょう。

 それに、帝国軍務省がデータ解析すればいい話でしょうが。

 よりによって、俺に訊いてきますか?」

 

「あんな変態的な艦隊運動、真似なんぞできんそうだ。

 せめて、わかるように解説してくれとさ」

 

「そんなこと言ったんですか? あのミュラー元帥が?」

 

「俺なりに要約するとな」

 

 アッテンボローは、迷訳者を横目で睨んだ。

 

「800年と翌年の残骸、着任して二年強で片付け切ったじゃないですか。

 そんな必要もなさそうですがねえ」

 

 ヤン・ウェンリーは、ガイエスブルク要塞の来襲後、その残骸を雷神の槌(トゥールハンマー)で撃つという荒業を行った。これが、後の攻防戦の要となる精密な射程図の素となったのだが、当然要塞周辺にしか届かない。イゼルローン回廊の全長は数光年に及び、それぞれの末端部分に行くためには跳躍航行が必要だ。宇宙の規模からすれば、砂粒に等しい残骸の位置を把握し、的確にそこに到達するのは極めて難しい。ミュラー艦隊の高い航行技術がうかがえる。

 

「さすがは、バーミリオンに一番に駆けつけた良将だよ。

 おかげでエル・ファシルが商都化しつつあるんだ。足を向けては寝られんだろうな。

 だがな、帝国軍は、皇帝ラインハルトのお陰で、いつも正攻法に持ち込めた。

 ああいう、狭っ苦しい宙域は得意の戦場じゃないんだろう」

 

「海賊が待ち伏せするにも、格好の場所でしょうね。

 今はまだいいが、そのうちにはびこりだすでしょう。

 イゼルローン回廊はフェザーンよりも細くて長い。

 大軍を突っ込めないし、小規模を出してもイタチゴッコになる。

 俺たちが散々にやった手ですがね」

 

「要はそいつのことだな。

 フェザーンの二人は参謀であって、艦隊指揮官ではないだろう。

 そのあたりに齟齬(そご)があるらしいんだ。

 主たる考案者のヤンは二刀流の変わり種。おまえさんにお鉢が回ってきたわけさ」

 

 この発言に、そばかすの国防長官は憮然とした表情になった。

 

「キャゼルヌ先輩、結局ヤン先輩のことを変態扱いしてますけど」

 

「ああ、そうなるのか。でも、そうなんだろうさ。

 鉄壁ミュラーとその優秀な参謀長らがお手上げって言うんだからな。

 フィッシャー中将は、そいつを理解して艦隊を運用してたわけだ。

 凄かったんだなあ、まったく。彼が亡くなって、あいつが講和に応じたわけだ」  

 

「本当にそうですよ。そうだ、フィッシャーのおっさんの弟子のマリノは……駄目か」

 

 いい筈がない。バーラト星系警備軍の現総司令官である。たった千隻でも軍は軍。公式だろうが非公式だろうが、『ご相談には応じられません』である。

 

「要するに、ユリアン経由で、おまえさんにオブザーバーになってもらえないかと

 まあこういうことさ。ユリアンも参謀型だからな。

 それに、規模縮小後のイゼルローン軍の指揮しかしていない。

 ミュラー艦隊一万五千隻の参考にはできんさ」

 

「はいはい、わかりましたよ。だが、それは来年まで待ってもらいましょう。

 俺は来期は出馬しないつもりです。下野してから、清々とオブザーバーをやりますよ。

 きちんとギャラをもらってね」

 

「ほう、ついにジャーナリストに進むわけか」

 

 キャゼルヌの言に、アッテンボローは頷いた。

 

「そういうことですね。バーラト政府創立からもう二期です。

 そろそろイゼルローン政府の色を薄めていく頃合いでしょう。

 前線を張っていた俺より、いい人がいる。

 クブルスリー氏を口説き落とせたんですよ」

 

「ほお、おまえさんもやるもんだな。たしかに、あの人ならうってつけだ。

 気力を取り戻してくれたか」

 

「俺よりも、ヤン主席の功ですよ。

 クブルスリー退役大将は、シトレ長官の後継者になれる人でしたからね。

 当選できたら、国防長官はうってつけでしょう。運輸長官だってできるでしょうし」

 

 彼もまた、アンドリュー・フォークによる奇禍に遭った人物だった。同盟軍のクーデターの直前、重傷を負い、一命を取り留めたもののクーデターが発生。国民からの同盟軍への信頼は地に墜ちた。ヤン・ウェンリーがクーデターを収拾し、残務処理を行い出したころ、ようやくベッドを離れることができたのだが、その後なかなか体調が回復せず、精神的にも精彩を欠いて退役したのである。

 

 クブルスリーが、『オーベルシュタインの草刈り』を免れたのは、郷里のアルーシャで療養していたからだ。そして、皇帝ラインハルトの崩御の直前にハイネセンに戻っていた。バーラト星系を民主共和制の自治領として認めるという、講和の条件を聞いたからだ。

 

 最初の選挙の最大の争点となったのは、バーラト星系共和自治領国民の資格をどう定めるかであった。旧同盟領に生まれバーラト星系に在住するものと国民とみなし、異議ある者は国籍を離脱する案。逆に、現在バーラト星系に居住するものは、すべて帝国国民とみなして、バーラト国籍を希望するものが国籍取得を行うべきだと主張する案。

 

 前者がフレデリカ率いるバーラト共和党、後者はアッテンボロー率いるハイネセン自由党である。これは双方の言い分に利点と欠点と理念があった。有権者を考え込ませ、ヤン・ウェンリーの未亡人という肩書きに安易に飛びつかせぬものが。比例代表制選挙だったこともあり、自由党は随分と善戦した。何人かの入閣ができるほどには。

 

 いずれにせよ、バーラト国民とはハイネセンやテルヌーゼンに居住することが条件だった。バーラト国民として生きていくのは困難が予想されたが、それでも移住してきた者は、他惑星に転出した者の数を上回った。

 

 アーレ・ハイネセンが最初に掲げ、アレクサンドル・ビュコックが、ヤン・ウェンリーが、彼らが率いた数百万人が命を賭して守ろうとした、『自由・平等・自律・自尊』の精神の灯火。二百年の間に溜まり、輝きを妨げていた煤を、膨大な人血と涙が洗い流した。

 

 再び眩く燃え上がる炎を掲げるのは、英雄の精神を継ぐ者。彼が愛し、彼を愛した女性だった。豊穣の秋を、髪と瞳に具現化させたような美しい女性だ。彼女は、アンドリュー・フォークによって最愛の夫を失った。フレデリカ・G・ヤンの足跡は、クブルスリーにとってアリアドネの糸となった。

 

 クブルスリーは、シドニー・シトレ元帥の後継者と目されていた。しかしアムリッツァの大敗と軍事クーデターの負傷、退役後に同盟軍は敗北し、バーラトの和約が結ばれた。そのインクも乾かぬうちに、ヤン。ウェンリーの謀殺未遂に端を発した皇帝ラインハルトの大親征が行われた。マル・アデッタの会戦で、アレクサンドル・ビュコック元帥が戦死し、自由惑星同盟は滅亡した。翌年、回廊決戦で帝国軍に講和を申し込ませるまで戦い抜いた、ヤン・ウェンリーがテロにより死亡。

 

 しかし、クブルスリーには何もできなかった。それが彼を大いに苛んだ。帝国逆進攻の際には、彼の指揮する第一艦隊はハイネセン守備のために残っていた。三千万人を動員し、その三分の二が還らぬ、未曾有(みぞう)の大敗。引責辞任したシトレの後を継ぎ、なんとか同盟軍の再建を果たそうとしていた矢先の軍事クーデター。無傷だった第11艦隊は救国軍事会議に与し、ヤン艦隊に牙をむいた。あのアムリッツァの会戦で、殿軍を務めてなお、麾下の七割を生還させたヤン・ウェンリーに。ドーリア星域の会戦は、鎧袖一触(がいしゅういっしょく)とはかくのごとしと言えるようなものだったが、誰にも喜べるものではなかった。

 

 さらにヤンは、アルテミスの首飾りを一ダースの氷の船で打ち砕き、同時にクーデターの首謀者らの精神を粉砕した。ドワイト・グリーンヒルの自死(・・)により、クーデターは幕を下ろした。ハイネセンへ帰還したヤンは、苦手な残務処理を副官の手助けを借りて完遂させた。クブルスリーの病床を見舞った際は、入院患者の彼に劣るとも勝らぬような顔色だったものだ。

 

 そんなヤンは、数々の激戦を戦い抜いた。バーラトの和約の調印の際、立体テレビが放映した姿は、豪奢な金髪に蒼氷色の瞳の絶世の美青年の傍らにあって、貧相と言えるほどだった。

 

 クブルスリーは知っていた。あの礼服はイゼルローン攻略戦の勝利直後、中将への昇進で作られたものだった。曲がりなりにも艦隊司令官の式礼服だ。きちんと採寸されて、体型にぴたりと合うように仕立てられる。当時も軍人というには線が細すぎて、少しでも恰幅よく見せるように工夫をしたのだと聞いた。それがまったく合わなくなるほど、身を削っての抗戦だった。

 

 クブルスリーが統合作戦本部長として、支えなければいけない人々だった。ヤン・ウェンリーも、アレクサンドル・ビュコックも、チュン・ウー・チェンも。彼らは最後まで国や思想に寄り添い、死を迎えてしまった。途中退場した自分は、のうのうと生きている。クブルスリーは、一時自殺も考えるほどに落ち込んだ。

 

 退役軍人の健康保険に加入していたことが、彼を救った。何度となく送った健診通知に、まったく反応がないことに業を煮やした担当者が、クブルスリー宅を訪問したのだった。黒髪にブロンズの肌の担当者は、夫の様子を心配していた夫人から事情を聞くと、即刻精神科に入院させた。

 

 かなり重症のうつ病だったのである。投薬と行動療法、カウンセリングを組みあわせた治療が必要な段階だった。自殺への警戒と、年齢的に認知症を併発する恐れもある。在宅では危険だという判断だった。入院は二年を越え、その後も通院は続いた。ハイネセンポリスの復興と足並みをそろえるように、少しずつ、だが確実にクブルスリーは回復に向かい、三年越しのアッテンボローのスカウトに、ようやく頷いてくれた。

 

「そういうことで、あと半年ほどミュラー元帥には待ってもらいましょう。

 それにしても、あの真面目くんも、要領のいいやり方を覚えたってわけだ。

 教育した甲斐がありましたね、キャゼルヌ先輩」

 

「ハンター女史のおかげだぞ。とにかく仕事のできるお人でな。

 あの人が管理職に入った部署は、残業が劇的に減るという伝説の持ち主だ。

 リソースの再利用や、無駄な業務の洗い出しがうまいんだな。

 俺も教えてもらった口さ。国防委員会にもいたことがあったからな」

 

「ははあ、なるほどね。人脈を生かすことも教えてもらったというわけですね」

 

「帝国軍の主な将帥は、皇帝ラインハルトに選ばれし者だが、

 互いが円満に協調しているかっていうと、また別問題だったからなあ。

 皇太后が各省庁に皇帝の権限を下ろし、省庁間の均衡を取ったのはうまかったな。

 特に、憲兵隊を警察省として、軍部から切り離したのは大きい。

 この八年間、一番手柄はケスラー警察総監だよ」

 

「同感ですね。そして一番おっかない相手でもあった。

 彼こそが、簒奪(さんだつ)への最短距離にいましたからね。 

 皇太后の侍女を結婚相手として紹介し、姻戚の網で押さえ込むってのは、

 帝国ならではの手法なんでしょうがねえ。ありゃ、妙手でしたよ。

 どの貴婦人か、いいブレーンですね」

 

「おや、おまえさんも閨閥政治がわかってきたようじゃないか」



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サムシング・フォー ラプソディ

 キャゼルヌの言葉どおり、様変わりしたのはバーラト星系共和自治政府だけではない。ウルリッヒ・ケスラーは、憲兵総監から警察総監に転任した。多くの憲兵も警察官に転属し、階級の偏りの是正に大きな役割を果たした。ラインハルトの死後五年が過ぎた頃、警察機構がおおむね完成したのをきっかけに、彼は元帥号を返上した。

 

「軍民問わずに治安を維持するならば、軍の階級はむしろ支障となってくるでしょう。 

 先帝の遺恩はまことにありがたく、非才の身には余りある栄誉でありましたが、

 部下の多くも軍を退役して転属いたしました。

 警察機構の最上級者が、ひとり旧来の階級を有するのも、部下にとって不平の素となりましょう」

 

 そう奏上された皇太后ヒルダは、深い感謝とともに快諾した。治安維持の最前線で、もっとも庶民と接しているケスラーである。平和になって、いつまでも軍服がのさばりかえっていることに、不満を抱きつつある世論を慮ったのだ。ラインハルトの在位中に憲兵隊を再編制し、警察機構へと移行させた人間にふさわしい見事な判断だった。

 

 彼には、二十歳以上若い妻がいて、もともとは皇太后ヒルダの侍女だった。宇宙にあっては精強の帝国軍も、地上にあっては一人一人の人間の強さしか持たない。憲兵という地上部隊を握っている彼こそが、その気になればもっとも玉座に近い位置にいた。その気にならないというケスラーの為人(ひととなり)を見抜いたのは先帝だが、自らの遠縁の侍女との婚姻を取り持った皇太后も見事である。

 

 無論、ヒルダにはそんな意志はないだろう。その義姉の発想とも思えない。黒髪の貴婦人の知恵だと思われた。元帥という最高の軍位を賜り、さらには皇太后とも遠縁にあたる女性と結びつける。夫人のマリーカは、末端といえど貴族だ。夫への恋愛感情だけではなく、柔らかな防波堤、絹の錨鎖(びょうさ)となることも承知だろう。それは彼女の胸に秘められているだろうし、妻の隠し事を見抜ける夫はそういない。ヤン・ウェンリーが妻帯者の先輩に伝えた閨閥の意味。これも帝位を保つ、古くからの知恵なのだった。

 

「ケスラー元元帥が口火を切ったのは、さすがだと思ったね。

 科学技術省と軍、学芸省の長距離跳躍航行の研究庁に配属されたアイゼナッハ元元帥も、

 元帥位を返上したからな。よくも、口上が言えたものだが」

 

 アイゼナッハも、どうにかケスラーのような口上を述べたと思われる。もともと、彼は後方業務や輸送、索敵や補給線の分断といった、運輸流通への適性を有する将帥だった。冷静で地道、寡黙だが清廉な男でもある。というか、あまりの無口に贈賄側も打つ手なしというものだ。かつては賄賂の巣になっていた、科学技術省を含んだ組織の長としてはふさわしいだろう。そんな帝国軍三高官の配慮であった。

 

 アイゼナッハは軍服を脱ぎ、周囲が平服になると、多くはないが的確な指示を出すようになった。部下からの報告にもじっと耳を傾け、指摘すべき点は決して外さない。軍服への緊張による場面緘黙(かんもく)説は、どうやらあたりのようだった。ペクニッツ公爵家の侍医にそっと耳打ちした、彼の奥方の功でもある。

 

 『大丈夫なのか、この元帥』とバーラトの面々が危惧していた彼だが、文官としてはさらに活躍し、千光年単位の跳躍航行開発の先鞭をつけた者として、長らく伝えられるようになる。

 

「もっと風通しがよくなるに越したことはないんだが、それでも上々だろうよ。 

 皇太后が、先帝ほどの強烈なカリスマを持たないがゆえに、反感も抱かれにくいのさ。

 もっと、女性に進出してもらいたいもんだが、あと十数年は難しいだろうな」

 

「そうですね。ヒメネス長官が言ってましたよ。

 帝国の女性の一番の仕事は、夫を支えて子どもを産み育て、家庭を守ることなんだろうって。

 その典型が大公妃殿下であり、ペクニッツ公爵夫人だともね。

 女性の教育や社会進出が進めば、ああいった存在は消えていくって、

 ものすごく切ないことを……」

 

「その先は言わんでいいさ。俺だって娘の将来に夢を見てたんだからな」

 

 三人の姉を持つ末っ子長男と、四人家族の中のただ一人の男は、同時に溜息を吐いた。五百年近く女性の権利が制限されていた帝国では、(いにしえ)の劇作家の言葉がそのまま残っている。

 

 『弱きもの、汝の名は女』

 

 新領土では違う。

 

『強きもの、汝の名は女』

 

 自由と平等という点ではそちらが遥かにいい。が、持たぬものに憧れるのは人の(さが)だ。たおやかだとか、儚いほどに繊細だとか、そんな女性は新領土には多分いない。

 

 アッテンボローもそこまで高望みはしないし、手袋にピンセットで扱うようなパートナーはいらない。だが、楚々としたとか、物静かで控えめとか、せめてそのぐらいの夢は見たい。問題はそういう性格の女性が、強烈な三人の姉と、個性派すぎる両親とうまくやれるかという点だ。今まで、恋人がいなかったわけではないのだが、結婚にまで至る相手はいなかった。

 

 二十三歳上のヤンが初恋だったキャゼルヌの長女は、二歳差が小さい方については首を横に振ったものだ。

 

「アッテンボローおじさま本人は悪くないけど、

 結婚は二人だけのものじゃないわよね。私、あのメンバーとは無理。

 友人にはいい人たちだけど、家族としては。リュシーはどう?」

 

「お姉ちゃん、それはね、ヤンおばさまの再婚以上の難易度だと思うよ」

 

 聞くともなしに聞いていた父親は、新聞ごとソファーに横倒しになるところだった。母親のほうは、娘達をたしなめた。

 

「あなたたち、失礼なことを言うものじゃありません。

 アッテンボローさんは、かなり理想が高いけれど、それは間違いじゃないのよ。

 四百億の人のうち、半分は女の人で、その五分の一はお年頃。

 ざっと四十億人の中には、絶対にそんな人もいるんだから」

 

「おいおい、オルタンス。そいつはポプランの言い種だ」

 

「あら、まあ。でもそれは真理なのよ、アレックス。賢者の言だわ。

 そんな中で出会った、この人だと思う相手と結ばれるからこそ、

 いろいろと腹の底で思うことがあってもやっていけるのよ。

 これに妥協をすると、あまりいいことはないのよ、あなたたち」

 

「お母さんも?」

 

「ご想像にお任せするわ、リュシエンヌ・ノーラ」

 

 妻の言葉に、巨大な圧力を感じたキャゼルヌだった。多数決の原理に従うならば、家庭では常に野党となる宿命だ。そんなことは知らない童顔でそばかすの後輩も、そろそろ四十歳。どうしたもんかと思うのである。姉が三人もいる割に、夢を見過ぎだろうと……。

 

 複雑な思いの二人の前に、日替わりランチが運ばれて来た。アッテンボローは冷水で喉を潤し、ついでに溜息を隠して話題を変えた。

 

「その、切ない話はおいときましょう。

 なによりもユリアン経由ってのは、カリン夫人に睨まれそうですからね」

 

 昨年の宇宙暦808年秋、ユリアン・ミンツとカーテローゼ・フォン・クロイツェルは結婚し、ささやかな華燭の典を上げた。ささやかでないもののひとつは、列席者の顔ぶれである。バーラト共和自治政府の閣僚に官僚がずらりと並び、フェザーン駐留事務所の面々は、往復で一月の休暇となることもおかまいなしに出席した。送迎の役を仰せつかったのが、『宇宙一速い』を売りにした運輸会社社長、オリビエ・ポプラン。

 

「あのう、弊社の船は人員輸送むけじゃないもんで……」

 

 遠まわしにお断りを告げようとするかつての問題児の退路を、ムライ事務長は穏やかな口調で塞いだ。

 

「なに、別にかまわんよ。我々は皆元軍人だ。軽巡洋艦の乗り心地は知っている。

 ポプラン社長や乗組員に、文句をつけることはないだろう。

 すまんが、帰りの方もお願いしたいのだがね」

 

 提示された値段は、大手星間旅客運送会社のビジネスクラス料金に匹敵した。それが、ムライ、リンツ、スーン・スールとメルカッツの四人分。通常の貨物輸送に便乗するのだし、食事は船員同様でいいとのことだ。ポプランにも招待状は届いていたので、出席のつもりで仕事の日程は組んであった。この四人分が上乗せされれば、少なくない儲けになる。

 

「は、はあ……さいですか……。えー、ご利用誠にありがとうございます……」

 

 こうして、往復とも依頼を受けざるを得なくなった『きらきら星(トゥインクルスター)運送』社長であった。結婚式で新婦の友人と仲良くなって、心もベッドも温まる交友を楽しむどころではない。そんなことはお見通しのムライは、早々に釘を打ち込んだのであった。

 

 ものものしい式にはしたくはないということで、二人の結婚式はヤン家でのガーデンパーティーだった。しかし、出席者名簿のリストが豪華すぎる。列席者のはずのカスパー・リンツ退役大佐は、かつての部下を呼び寄せた。有志によってフラワーシャワーを行うから、式の終わりまで待機するようにと。現在もバーラト政府のSP等として活躍中の、白兵戦の最精鋭たちが会場を取り巻いた。

 

 師父とは違って、正装を見事に着こなした新郎は、かつての師匠に控えめに抗議した。

 

「あの、本当に大丈夫ですから、こんな警備はやめてもらえないでしょうか」

 

「ははは、誤解するなよ。フラワーシャワーをするだけだからな。

 かつての弟子が、その一番の師匠の娘と結婚するんだ。

 こんなに喜ばしいことはない。

 あの人たちの分まで、生き延びた連中にも祝福させてやってくれ」

 

「あ、ああ、そうですか。お心遣いありがとうございます」

 

 それを持ち出されると反論のすべはなく、ユリアンは平坦な口調で礼を述べることしかできなかった。リンツも、フェザーンでだいぶ狸になったようだ。外見は巨大な軍用犬といったところだが。第14代連隊長の動員令に、非番の者は全員出席し、可能な者は当番でも休暇をとってやってきた。

 

 総勢五十人の二個小隊である。揃いも揃って屈強で、眼光の鋭い猛者たちが、びしりとスーツを着こなして要所要所に立っている。紅薔薇の花弁を盛った、レースの花かごを下げて。花弁の下にはなにが潜んでいることやら、限りなく疑わしい集団だった。

 

「もう、冗談じゃないわよ。あの不良中年、どこまで私に祟る気なの!」

 

 玄関そばの控室で、麗しき花嫁の機嫌は下降する一方だった。

 

「そんなに怒ると、せっかく綺麗な花嫁さんが台無しよ」

 

 一児の母になっても、相変わらずほっそりとした赤毛に灰色の目の女性が諭す。

 

「だって、聞いてください、バーサさん。私、結婚の為に戸籍を取ったんです」

 

「ええ、それがどうかしたの?」

 

「あのろくでなし親父、宇宙暦800年の4月4日に私の認知届を出してたんです」

 

 大きな灰色の目が瞬きし、赤ワイン色の髪が傾げられる。

 

「ええと、それが何かまずかったのかしら……」

 

 カリンは、白絹の手袋に包まれた両の拳を、きりきりと鳴るほど握り締め、勢いよく振りおろした。フレデリカから譲られたという、ビンテージレースのドレスともども心配になったバーサだ。ああ、せっかくのサムシング・ニューとサムシング・オールドが、大丈夫なのかしら。

 

「誕生日だったんです! ヤン提督の! 

 それも、ヤン提督がイゼルローンで過ごした、最初で最後の誕生日!」

 

「……きっと偶然よ」

 

 一瞬言葉に詰まったバーサ・(ブライス)・ラオだったが、笑顔を浮かべてそう言った。それで押し切るしかない。ヤン・ウェンリーは誕生日の度に、歳をとるのは嫌だとごねていた。彼の周囲の者は慰めたり、からかいの種にしたり、咳払いをしてみたりと様々な反応を示したものだ。ヤンからの認知の勧めに、シェーンコップが素直でない対応をした可能性は非常に高いが。

 

「絶対に違います。ユリアンもアッテンボローさんも、ポプラン隊長までそう言ったわ。

 狙って出したって!」

 

 あの連中め、黙っていらっしゃい。ブライス元大尉は、笑顔の下で魔術師のファミリア(使い魔)に呪詛の言葉をぶつけた。

 

「こうは考えられないかしら。あなたは、その日の前に初陣を迎えたでしょう。

 あの時は無事に帰ってこられたけれど、お父様だって悟るわよ。

 次の戦いではどうなるかわからないって。

 ヤン提督のお誕生日は大規模演習がなかったの。だから手続きに行く余裕ができたのよ」

 

「どうしてそう言い切れるんです!」

 

「誕生日ということは、満年齢健診日よ。

 今だから言えるけれど、ヤン提督のお母さまは三十三歳で心疾患で亡くなっているの。

 キャゼルヌさんもクリスタ先輩も、健診健診ってうるさかったのはそのせい。

 ヤン提督もしぶしぶだけれど従っていたわ。4月4日の午前中は司令官不在により、

 大規模演習や幕僚会議は行わないと佐官や将官は知っていたの。

 だって、通知を出したのは私だもの。だからね、必然的な偶然なのよ」

 

 カリンは形のよい唇を噛んだ。

 

「そんな顔をしないで。お化粧も台無しになるわ。

 リンツさん達がいかにシェーンコップ中将を慕っていたか。

 お父様があなたの夫となる人を、可愛がっていたことも思ってあげて。

 みんな、シェーンコップ中将の代理のつもりなのよ、ね」

 

 ハンカチを差し出しながら、バーサは優しく言った。

 

「サムシング・ブルーとは言うけれど、マリッジブルーなんて結婚式には必要ないわ。

 その綺麗な青紫の瞳だけで充分。こすったら駄目よ、真っ赤になっちゃうからね。

 ハンカチは貸してあげる。サムシング・ボロゥも幸せのおまじないよ」

 

 なんとか慰めに成功し、式典は温かな祝福に包まれ、つつがなく進行した。ウェディングケーキの入刀までは。

 

 招待客の一人、ムライ夫人の手になるものだ。彼女はハイネセン一とも呼び声の高い、高級ホテルの製菓部門長である。旧同盟時代の製菓コンテストで、何度も優勝を果たしている。そんなプロが、結婚祝いに持てる技術の粋を凝らして作ったケーキは、素晴らしいものだった。

 

 何層にも重ねられた、しっとりと繊細なスポンジケーキ。間に挟まれていたのは、フルーツや生クリームなどの他に、ブランデー風味の紅茶のムース。純白の表面には、色とりどりのフルーツで作られた薔薇の花園が広がる。結婚式に出席することなく逝った、夫妻の父母と師父をも象徴する見事な作品であった。

 

 これで新郎新婦と列席者の涙線が緩み始めた。涙ぐみながら、二人はケーキカットを終える。製作者が熟練の技で均等に切り分け、列席者にサーブした。全員に一輪ずつの本物のミニ薔薇を添えて。注意深い者は、皿に描かれたホワイトチョコソースの装飾が、五稜星の頂点を形作っていることに気がついた。

 

 すすり泣きの声が混じり始めたが、みな大層な美味をせっせと堪能し、フォークの手が止まることはなかった。ムライ夫人は、予備に持ってきたもう一台のケーキも五十等分に切り分け、瞬く間に五十輪のクリームの薔薇を飾ると、フラワーシャワーに集まっていた面々にも振舞ったのだ。野太い男泣きがヤン家を取り巻いた。

 

「困ったものだ。おまえ、少々やりすぎではないかね」

 

 たしなめる夫に、夫人は肩を竦めた。

 

「結婚式は感動で盛り上げるのが、ホテル・ユーフォニアの方針でね。

 正直に言うと、泣かせてなんぼよ。まあ職業病だと思ってちょうだい」

 

「まったく、近所の人が何事かと思うだろう。

 ユリアンくん達夫妻は、しばらくはここに住むのだぞ。どうする気だね」

 

「いいのよ、変な輩が近づかなくなるんですから。

 あのご夫婦のプライベートを盗み撮りしようと思う奴に、

 男泣きするほど結婚を祝福する、屈強な二個小隊の存在を見せつけてやったから」

 

 とんでもないことを言い出す妻に、ムライは眉間に皺を寄せた。

 

「何を言い出すんだ、おまえは。そんなものに効き目があるものか」

 

 ホテル・ユーフォニアは、政界、芸能界、経済界の上層部を顧客に持つ。実直で謹厳な夫が、想像もつかない危機管理があったものである。

 

「ユリアンさんは、若くして英雄になって、平和を掴んでくれたわ。

 でも、これからの人生の方がずっと長くなるでしょう。

 もう戦わなくていいし、思うとおりに生きればいい。

 英雄でない当たり前の人生を作らなくちゃいけないわ。

 それに一番邪魔なのは、イエロージャーナリズムですよ」

 

「それは私もわかっている。逆効果ではないかといっているんだよ」

 

「私もね、ちょっとはメディアにコネを持ってるんですよ。

 外の皆さんに配ったフランボワーズクリームの薔薇のケーキ、

 うちのホテルの新作で、散々雑誌に紹介されたものなの。

 主なメディアの編集部にはわかるでしょうよ。

 彼らにちょっかいを出したら、うちからの広告料は出ないとね」

 

 ムライは実に疑わしげな視線を妻に向けた。

 

「そんな決定権が、おまえにあるのかね」

 

「あたりまえでしょう、このレベルのケーキだと三千ディナールも取るのよ」

 

 ムライは、目の前に置かれたケーキにも疑いの眼差しを向けた。今回のケーキは約百人分。つまり、これ一切れ三十ディナール。久々に帰宅した一週間前から一昨日まで、散々試食に付き合わされた。ようやく完成を見たのはいいが、彼にはすでに食べ飽きてきた味である。

 

「これがそんなに高価だとは、フェザーン人以上のぼったくりだな」

 

「主には場所代と人件費ですけどね。

 材料費そのものは、ホテルなら六分の一ってところ。

 今回はもっと奮発して、特に紅茶とブランデーは最高級品を使ったわ。

 一昨日までの試作より美味しくなってるから、食べてごらんなさいな。

 そうそう、ともかくね、ホテルのイメージを壊すような、

 イエローペーパーを抱えているところはお断り。それが私の方針です」

 

 ムライは言い返すことを諦めてケーキに手をつけた。食べている間に、反論を考えることもできよう。そう思ったのだが、妻の言葉に頷くしかなかった。

 

「前言を撤回しよう。たしかにこれにはその価値があるな。

 一昨日のものよりずっと旨いよ。彼らのために、よく頑張ってくれた。

 ご馳走さま、そしてお疲れさん」

 

 そんな会話の間に、祝辞が読み上げられていく。これが豪華すぎるものの三点目だった。バーラト政府からも、新郎新婦とは直接の縁がないため、列席していない閣僚のホアン・ルイとシドニー・シトレ。これには理解ができる。新郎の師父ヤン・ウェンリーとの関係が深い人たちだからだ。

 

 より数が多いのは銀河帝国からだった。皇太后ヒルダにグリューネワルト大公妃。大公アレクとフェリックス・ミッターマイヤーからも、可愛らしい直筆のメッセージが。そして七元帥からは、ミッターマイヤーとワーレンとミュラーが祝いの言葉を寄せてくれた。これらはムライが預かり、ポプランが運んできたものだ。

 

 カリンの職場の友人らは、呆気に取られるしかなかった。彼らも無論、ユリアン・ミンツがバーラト星系共和自治政府の生みの親の一人だとは知っている。驚かされたのは、銀河帝国にただ二人の女性皇族が、カーテローゼ・(フォン)(クロイツェル)・ミンツ様と名指しで祝辞を贈ったことだ。それに新婦は真っ赤になった。

 

「ああ、やめてよ、恥ずかしい……あれは若気の至りだったのに、 

 感謝の言葉とかほんとに勘弁して。むしろ忘れてほしいのに……」

 

 ユリアンは必死で妻となったカリンをなだめた。

 

「でもカリン、お二人のご活躍には、確かに君の影響があるんだよ。

 悲しみや過去を打ち砕くのは、若さなんじゃないのかなあ」

 

「でも、あんなに誉めそやされるようなものじゃなかったのよ!

 どうしよう、もう恥ずかしくて休暇明けに会社に行けないっ」

 

「ごめん、それは困るんだ。稼ぎの少ない夫でごめん……」

 

 なんのかんのといっても、ユリアンの師父は高給取りだった。婚約指輪は給料の三か月分という言葉を真に受けて、五万ディナールの指輪をひょいと指差し、フレデリカを大慌てさせたそうだ。彼女は、半月ほどの婚約期間のために、そんなに高価なものは困りますと言って辞退した。

 

『それなら、結婚指輪を五万ディナールのにしようか』

 

 あっさりそう言うのが、世事に疎いヤンのヤンたるゆえんである。

 

「高級車一台分、指にはめて家事なんてできないわよ。ましてや、当時の私の腕前で」

 

 フレデリカのしみじみとした述懐である。惚気もたっぷり混じっていたが。

 

「必死で説得したのよ。これから年金生活になるんだから節約しましょうって。

 ほら、あの人のお父様は骨董道楽だったそうでしょう。

 あの遺産のコレクションが本物だったら、売却すれば学者として、

 一生何不自由なく生活できるはずだったのにって、ぼやいていたけれど」

 

 ユリアンとカリンは、思わず顔を見合わせたものだ。ユリアンの職業である大学教員の生涯給与は、教授に出世して三百万ディナールぐらいだ。元帥のヤンならば、十五年かからずに稼げただろうが。

 

 歴史学者は、とかく資料の収集に金がかかる。普通なら生活できる範囲で本代を切り詰めるが、制限しなければ青天井である。それが何不自由なく、というとユリアンの想像を超えてしまう。

 

「この人はお金持ちの子だったんだなあって、あの時実感したわ。

 自分にとって使う価値があると思えば、お金を出すことに躊躇しないのよね。

 でもね、主婦にとっては怖くって、とても身につけられないでしょう。

 給料の三週間分にしてもらったの。それでも一万ディナール、少佐の給料だと三か月分。

 五万の結婚指輪だと式までにできあがらないって、お店の方も言ってくれたのよ」

 

 それに比べれば、ずっとささやかな指輪の交換。これがもうひとつのサムシング・ニュー。拍手と喝采を受けながら、誓いのキスをする二人。彼らは、新たな人生に踏み出し、希望の進路に応じた教育を受けなおした。それぞれが仕事に就いて、経済的に自立できるまで待った結婚だった。自分の母のような苦労はごめんだと、カリンが絶対に譲らなかった点だ。おとぎ話に出てくるような美男美女のカップルだが、決して甘いばかりではないのだった。



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魔術師の左腕

本作は銀河英雄伝説原作に準拠しております。アスターテ会戦時、ヤンと共にパトロクロスにいたのは、アッテンボローではなくラオですのでご了承ください。


 ユリアン夫妻の結婚式からそろそろ九ヶ月。新婚生活は円満のようだ。

長い交際期間で、互いの性格を熟知しているからだろう。夢や幻想は少なそうだが。

 

「新婚家庭にお邪魔するのもなんだし、先輩のお宅に呼び出すのもあれですし。

 ユリアンの職場ってのも、問題になりそうですからね。

 やはり、俺が独立してからのほうがいいでしょう」

 

「いや、喫緊の問題らしい。海賊うんぬんよりもな」

 

 意味ありげに言葉を切る先輩に、アッテンボローは、人の悪い笑いを浮かべた。

 

「ははーん、綱紀粛正の必要性ってわけですね。

 皇帝ラインハルトと共に戦った連中じゃなく、もっと若い奴らかな。

 狭くて長い回廊をいいことに、商人相手になにやらやってると?」

 

「察しがいいな、おまえさん」

 

「おやおや、イゼルローンに物資を補給していたキャゼルヌ事務監が、

 一番に気を遣っていた点でしょうに。

 そっちの情報も教えてやったらいいじゃないですか。

 イゼルローン回廊の宙点のどこそこだとか、待ち伏せて抑えるんなら、あっちとそっちだって」

 

「そいつを『鉄壁ミュラー』は演習でやりたいんだろうさ。

 今のうちにやめておけとな。腹芸もできるようにもなったってことだ」

 

 キャゼルヌは肩を竦めた。惑星メルカルトのベテラン現地行政官ハリー・ハンターに、徹底的にしごかれたとみえる。ミュラーは、あの手強いおばちゃんに相当に気に入られたらしい。バーラト政府との連絡会の雑談の折、いい娘を紹介しようかしらと真顔で言っていたものだ。

 

 しかし、百五十年殺し合った国の軍の首脳と、結婚しようという新領土の女性はいない。若い世代が高官となった帝国軍には、縁談を紹介してくれる年配の上官が不在であった。帝国首脳部の結婚問題も、そろそろ切迫してきたのだ。

 

「皇太后の和平政策で、法制改正がかなり進んだこともある。

 もう戦時中とは言えんからな。『軍規を正す!』で銃殺するわけにもいかんさ。

 あれを廃止してくれてよかったよ。

 将官がごろごろいる今の帝国軍では、いくらでも悪用できる軍法だったからな」

 

 

「確かにね。執行者によって正邪が左右されるんじゃ、法とは言えませんからね。

 すべての人間が、『疾風ウォルフ』のように公明正大じゃありませんよ」

 

「俺は『鉄壁ミュラー』はもっともそれに近い人間だと思うよ。

 彼はヤンに二度も負けて、敗戦の悲惨さというものを、最もよく知る将帥だ。

 なのに、俺と違って恨みを昇華させることができるわけさ。

 こいつは得がたい資質だぞ。単に忘れっぽいだけなら、

 ヤンに二度負けて、三度戦ったりはできないからな」

 

 キャゼルヌの毒舌に、アッテンボローはにやりと笑った。

 

「たしかにね。一回で終わって次はありませんよ。

 ただ、ヤン先輩に二度負けたのは、もうお一方いますがねえ」

 

「彼は彼で裏表がないという美点があるさ。

 ムライ事務長が手を焼いているが、悪気はないんだ、悪気は」

 

「だから始末におえないとも言いますよね、それ」

 

 

「そのぐらいのほうが、フェザーン守備にはいいんだよ。憎めないところがあるしな。

 たしかに政治には向かないだろうが。あれに白黒なんてものはない。

 ミュラー元帥は、世の中は灰色の濃淡だとわかってるのさ。

 だからこそ、苦手な狭い回廊でおっかけっこの練習をやる気なんだな。

 悪いものを芽のうちに葬ってしまうつもりなんだろう」

 

 その口ぶりに、アッテンボローは鉄灰色の髪をかき回した。

 

「おやおや、ほんとうにお急ぎのようで」

 

 キャゼルヌが声を出さずに口を動かした。アッテンボローには『サイオキシン』と読み取れた。髪と同色の眉が顰められる。キャゼルヌは続けた。

 

「うちに夫婦揃って呼べばいいさ。リュシーの新作菓子の試食の頭数も必要なんだ。

 どうやら、本気でムライ夫人の後継者を目指すつもりらしい。

 ハイネセン記念大学の栄養管理学科に願書を出すんだとさ。

 あれは大変な激務だと言い聞かせたんだがなあ」

 

「そのかわり、うちの政府の誰よりも高給取りですよね。

 道理で、ムライのおっさんが辞めろなんて言わんわけですよ。

 あれは一種の芸術というか、感動しましたよ。ものすごく美味かったし。

 粋な結婚祝いでしたが、ホテルだとケーキのみで二千ディナールからだそうです。

 姉貴どもが羨ましがってました」

 

「そうだろうよ、それだけの金を取ってもいい価値があった。 

 下のもあれ見て、元々の志望に火がついてしまったわけさ。

 協力してくれ、後輩よ。おまえさんのほうが若い分、胃袋も代謝も丈夫だろう」

 

 健康優良者のキャゼルヌも、そろそろ色々と気になりだす年齢だった。

 

「よろこんでご馳走になりましょう。

 それにしても先輩、いつの間にお宅に超光速通信(FTL)施設なんて作ったんですか。

 しかも、戦術コンピュータ搭載なんて代物を」

 

 間違っても一般の家電品ではない。なんのことはない、アッテンボローにこの話を持ちかけた時点で、キャゼルヌはしかるべき手を打ち終わった後だったのだ。眇められた青灰色に、薄茶色の目が案外器用に片目をつぶってみせた。

 

「事務屋には事務屋で色々な手段が必要なのさ。

 旧士官学校の機器の払い下げだから、格安だったしな。

 通信料は、あちら持ちだから心配するな」

 

 しかも、相変わらずどこまでも抜け目がない。事務屋は怖い。アッテンボローは溜息を吐いて両手を掲げた。

 

「降参です」

 

「中古のうえ、所詮は学生用の代物だ。

 それでも実際の艦隊運用は無理にしろ、解説の真似事ぐらいはできるだろ、おまえさん」

 

 だが、薄茶色の目に浮かんだ表情は、決してそれだけのものではなかった。アッテンボローは心中で頷いた。解説のまねごと、参謀長と副参謀長の役割を果たせってことか。

 

「では、せいぜい、パトリチェフのおっさんを真似てみるとしますかね。

 俺が覚えている範囲で」

 

 そして、お茶会にかこつけた魔術師の弟子と左腕、現在のイゼルローン要塞司令官兼駐留艦隊司令官との交流は始まった。ユリアン・ミンツとミュラーは旧交の挨拶を交わした。バーラト星系共和自治政府の国防長官に対しては、深々と頭を下げた。

 

「こちらの無理を聞き入れていただき、誠に申し訳ないことです」

 

「いやいや、そんなに畏まらないでください。あくまでお茶会のよもやま話ですからね」

 

 ティーカップを掲げるアッテンボローの前には、確かに見事な出来栄えの焼き菓子が置かれていた。種類と量がいささか尋常ではなかったが。

 

「実においしそうで羨ましいことです」

 

「真剣に手伝っていただきたいですよ。こりゃ、試食なんて可愛らしいものじゃない。

 大食い競争じゃないんだから。確かにうまいんですがね」

 

 リュシエンヌの志望校の試験には、オリジナルレシピによる実技が含まれる。規定の時間内に、規定の数量を作らなければならない。受験まであと一月。彼女が、必死で練習に取り組んでいる結果であった。

 

「お茶菓子のことは、この辺にしましょうよ、アッテンボローさん。

 ミュラー元帥、お久しぶりです。トリグラフの艦隊運用データのお話でしたよね」

 

「ええ、提出いただいたデータの回廊決戦時のものです。

 凹形陣から縦深陣への変形について」

 

 ユリアンは小さく息を呑み、アッテンボローは微かに眉を上げた。

 

 おやおや、さすがは『鉄壁ミュラー』。同僚が二人も元帥になった、あの戦いを検証しようというわけか?

 

 いや違う。真の目的はそうじゃない。あれは、ヤン・ウェンリーとエドウィン・フィッシャーだから出来た。

 

 何よりも、ミュラーが皇太后ヒルダに叛旗を翻すことはありえない。フェザーンならばともかく、今のイゼルローンで行う意味はない。この良将にそれがわからぬはずはなく、求められているのは艦隊運用解説なんかじゃない。困惑に満ちたダークブラウンに、そっと目配せする。

 

 魔術師の弟子よりも、いつもそばにいた左腕。ダスティ・アッテンボロー退役中将は口を開いた。

 

「艦隊運用以前に、検証すべき点があるでしょう。

 あの宙域で戦闘があったのは、ヤン・ウェンリーがあそこに布陣していたからだ。

 1.5個艦隊という兵力に対して、二個艦隊を投入できるあの位置にね。

 投入はできるが、実際はどうでしたか? 狭っ苦しくて多いほうが不利になってしまった」

 

 ナイトハルト・ミュラーの砂色の目に苦渋の陰りが落ちた。

 

「おっしゃるとおりです」

 

「あの舞台に立たされた時点で、魔術師ヤンの思惑にはまっているんですよ。

 こちらが十全に動けて、相手にはそれを許さない場所に誘導されたわけです。

 そのために、演習と哨戒を重ねて、イゼルローン回廊の特性を研究し尽くしているんです。

 ヤン司令官とフィッシャー副司令官はね」

 

 陽動や偽逃走という、魔術師のミスディレクションを担当してきたアッテンボローだ。ベレーをかぶった頭脳と魔術師の右腕のことを、熟知しなければできない役割だった。

 

 ミュラーは、『戦場の心理学者』に改めて戦慄を覚えた。

 

「……なんとも、凄まじいものですね」

 

 戦術においては、皇帝ラインハルトも勝利することはできなかった、『不敗』のヤン。

 

「まずは、そちらからお勧めしますよ。

 イゼルローン回廊の哨戒を、規模を変えて何度も行うことです。

 あそこに慣れるには、普通はそうするしかありません」

 

 ユリアンも頷いた。ヤンが亡くなり、八月に新政府を立ち上げ、翌年の回廊の戦いまで半年を要したのは、軍司令官となったユリアンが、イゼルローン回廊を理解するのにそれだけの時間が必要だったのだ。

 

「なにしろ、ヤン先輩は我々からの報告書や提出データだけで、

 そいつを見極めて戦術を構築しちまう人なんで、あんまり参考にしない方がいい。

 ほら、第八次攻略戦で、援軍五千五百隻で円環陣を組んだことがあったでしょう」

 

 ミュラーは遠い目をした。大公アレクの行啓の際、魔術師の弟子がぼやかしてくれた事を、左腕は正面から叩きつけてきた。心も古傷も疼いてくるものだ。

 

「ええ、存じています。小官も危うく死ぬところでした」

 

 アッテンボローは面白そうな顔になった。『歴史にもしもはない』というヤンの口癖を思い浮かべたのだ。ミュラーがもしも戦死していたら、バーミリオンではヤンが勝ち、しかしハイネセンは焦土と化していたかもしれない。帝国軍上層部の権力闘争で、宇宙全土が泥沼の内乱状態になっていたかもしれなかった。

 

「そうならなかったことを感謝しますよ。この平和のためにもね」

 

「恐縮ですね」

 

 ミュラーはいったん苦笑したが、アッテンボローの次の言葉で顔が引き攣った。 

 

「あの陣形は、先輩の頭の中で作られたぶっつけ本番だと思いますよ」

 

「……は?」

 

 アッテンボローは通信画面のミュラーに向かって言う。右手の人差し指を立て、それを左右に振りながら。

 

「着任して二ヶ月で帰還兵歓迎式典に往復一月半ハイネセンへ出掛け、

 帰ってきて二週間もしないうちにクーデターで半年以上留守にして、

 翌年の三月に旧同盟政府の馬鹿どもに召喚された人間が、

 何度も哨戒や演習に同行できると思いますか? 

 山ほど書類の決裁があって、当政府の事務総長にやいやい言われている時に」

 

 砂色の髪が、指の動きにつられたかのように左右に振られた。アッテンボローの隣のダークブラウンの瞳も大きく瞠られる。

 

「そんな中で寄せ集めの援軍に、円環陣から漏斗陣への変形まで訓練している。

 イゼルローンへ急行している最中にですよ。

 ちなみに、あれはフォーメーションのDとE。お蔵入りしたA、B、Cがあるってわけだ」

 

 ミュラーは宙を仰いだ。不敗の魔術師ヤン・ウェンリーの話は、聞かなければよかったと、後悔してしまう事実がそこかしこに埋まっている。

 

「キャゼルヌ先輩がこの前、ヤン先輩を変態呼ばわりしてましたが、

 思い返してみるとね、実に正しいんだよなあ」

 

 アッテンボローは嘆息すると、鉄灰色の髪を大きくかき回した。

 

「アスターテの会戦の双頭の蛇。なあ、ユリアン、聞いて驚け。

 皇帝ラインハルトの中央突破に呼応して、陣を開いて通し、後背に食らいついたあの戦術な。

 パエッタ中将に作戦案を却下されたあの人が、ちまちま入力したんだそうだ。

 うちの秘書のラオが言ってた。あいつは当時、第二艦隊の旗艦にいたんで間違いない」

 

 生涯の研究テーマをヤン・ウェンリーに定めた歴史学者の卵と、その対象に二回敗北を喫した名将は、三千光年あまりを隔てて、無言で見つめあった。ユリアンはようやく口を開いた。

 

「あの、アスターテの会戦でですか……」

 

「そうだよ。司令官が負傷して、急に指揮を引き継ぐことになった。

 その時にはもう、戦術コンピュータに艦隊運用と戦術のデータが入力されてた。

 残存艦の連中はその回路を開いて、指示のままに必死で動いたわけだよ。

 C4回路。ずいぶんと半端な番号だ。

 C1から3にも何か入ってたのか、パトロクロスはもうないんでわかりませんがね」

 

 砂色とダークブラウンが再び見つめあった。二人の脳裏に同じ言葉が渦巻く。

 

『たしかに、変態だ……』

 

「敵味方の能力の分析やら、ああしたらこうしようとか、そういう思考がね、

 とにかく尋常じゃない人だった。悲観的って言ってもいいが。

 第八次攻略戦で、イゼルローンへ向かう際にも、

 あの状況が起こり得ることを想定してたんでしょう。

 俺たちの能力も、正確に判断していたんですよ。五つも案を作っとくぐらいね」

 

 その集大成が、あの回廊決戦の芸術的な艦隊運動だったのだ。ミュラーは珍しく、砂色の髪をかき乱した。

 

「解説していただいたところで、我々には不可能かもしれませんね」 

 

 アッテンボローはにやりと笑うと首を振った。

 

「いいや、謙遜はなさらなくても結構ですよ、ミュラー元帥。

 我らヤン艦隊は、最初から最後まで『新兵と敗残兵の寄せ集め』でした。

 そいつを動かすには、一に会議、二に演習、以下その反復でしたよ。

 司令官の頭脳がいくら凄くても、一隻一隻がきっちり動かなきゃ話にならない。

 要するに、意思疎通と教育です。そして結果を検証してフィードバックする。

 こっちじゃありふれた事業サイクルで、PDCA(注)なんて言いますが、

 そいつの徹底ですね」




(注) Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)


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ポーカーフェイスのメモワール

 アッテンボローの言葉にユリアンも頷いた。

 

「ヤン提督は、よく会議をなさっていましたから」

 

「そうそう、まだ可愛かったころのユリアンが、お茶くみ係をしてくれてね」

 

「ヤン提督ではありませんが、過去形で言わないでください」

 

「今はかっこよくなったぞ、おまえさん」

 

 一言でユリアンの反論を封じると、呆気に取られているミュラーにアッテンボローは片目をつぶった。

 

「哨戒してデータを集め、演習計画の策定のために会議を開く。

 これだけでもサボっている輩には効きます。

 そして難所を洗い出して危険宙域図を作成し、回廊の利用者に公開するんです。

 交代で複数の艦艇をパトロールさせるのもいい」

 

 莫大な費用を使って、演習をする必要さえない。悪事を働く暇と隙を与えるな。おまえらの悪だくみなどお見通しだと見せつけろ。アッテンボローの政治家らしい提言だった。ミュラーは舌を巻く思いだった。イゼルローンの面々は、なんと多彩な能力を持っていることか。帝国軍の上層部が、なかなか軍人以外の道に踏み出せないのと好対照だった。

 

 しかも、帝国軍内の犯罪抑止に留まらない。回廊を利用するフェザーン、いやエル・ファシル商人と言うべきか、彼らにとってのメリットも高い。事故や海賊の防止に、密貿易をさせないという抑止力もある。

 

「とはいえ、お望みなら簡単な解説ぐらいしますよ。

 鉄壁ミュラーに対するに、退役中将じゃ僭越なんでしょうが」

 

「いや、とんでもない。是非にお願いします」

 

「もっとも、俺はあんまり得意分野じゃありませんので、ご容赦ください。

 ヤン先輩とのコンビは長かったんですがね。

 士官学校時代、戦闘シミュレーションでは、俺たちは負けなしでした。

 キャゼルヌ事務総長が機器まで準備したのに、使わないのはもったいない」

 

 アッテンボローは手慣れた動作で、シミュレーターに凹形陣を表示した。

対する帝国軍は紡錘陣を取らせる。

 

「これがだいたいの戦闘開始時のものです。

 このままじゃわかりにくいでしょうから、ちょっと表示を変えます」

 

 凹に分割線が入り、左翼、右翼、中央の本体に分けられた。次いで、それぞれの指揮官の姓のイニシャルも表示された。左にアッテンボローのA、右にメルカッツのM、中央にヤンのY、フィッシャーのF。

 

 Aの左翼が、Bと表示されたビッテンフェルト艦隊を、巧みに引き摺りこみ元の位置へと治まる。B艦隊は、凹のくぼみを分断すべく、その破壊力を発揮して突進を開始した。中央のYとFがそれを柔らかに受け止めるように後退し、左右のAとMがしなやかに腕を伸ばすように前進する。あたかも死の抱擁のように。ほとんど一瞬で完成した縦横防御陣の、V字型となった両翼から交錯するように砲火が浴びせられた。

 

 ファーレンハイト艦隊のF2が、Bを救うべく前進する。したたかに反撃を食らいながらも、F2はY・Fの分断に成功。そしてBとF2は合流を果たしたが、それは四つのアルファベットの火線の中央に立ちすくむ結果となったのである。この縦深陣は、攻防一体というだけのものではなかった。航行不能宙域に挟まれる位置まで、帝国軍を誘い込む蟻地獄の巣だったのだ。

 

 ファーレンハイトもビッテンフェルトも、攻撃に優れた非凡な将帥だ。この状況にあっても麾下艦隊を建て直し、包囲網を突き崩して、回廊の出口へと撤退する。だが、これさえヤンの誘いだった。背を向けたBとF2の背後で、するりと包囲網がほどけ、再び縦深陣に隊列が変形する。彼らほどの将帥が、凄まじい火と熱の嵐の中をひたすらに逃げることしかできない。

 

 冷たい汗が、ミュラーの軍服の背を濡らす。

 

「かなり端折りましたが、これでしょう」

 

「そのとおりです」

 

 ミュラーは固唾を呑んだ。得意ではないなど、そちらこそ謙遜がすぎるというものだった。これほどにアッテンボローが克明に記憶しているいうことは、戦術案を練りに練り込んで、その舞台へと帝国軍を引っ張りだした証左である。どうやら、かなり手痛い授業になりそうだった。

 

 ユリアンは言葉が出てこなかった。ヤンの智謀の底知れなさ。罠の中に罠があり、逃げたと思ったところに最大の罠が口を開けている。

 

『落とし穴の上に、金貨を乗せておくのさ』

 

 ブランデーを垂らした紅茶を啜りながら、穏やかな口調で教えてくれた。優しい、誰よりも戦争が嫌いな人だった。だが、誰よりも戦争が上手な人だった。あの五年間でもっとも人を殺した人でもあった。善良と冷徹が複雑に絡み合う矛盾の人。

 

『信念のために人を殺すのは、金のために人を殺すより下等なことだ。

 金は万人に価値があるが、信念は本人にしか価値はない』

 

 ヤンはそう言っていた。だが、共和民主制度という信念のために、皇帝ラインハルトにそれを知らしめるために、二百万人以上を殺したのだ。負けないために戦っていた人が、初めて勝つために戦った。その結果が、バーミリオン会戦を上回る帝国軍の死者だった。

 

 ユリアンは愕然とする。ヤンは、どれほどに孤独だったか。英雄や絶対者を否定する共和民主制。

それを掲げながら、自身は皆に縋られる存在なのだ。自分こそが、共和民主制に対する最大のアンチテーゼであるその矛盾。聡すぎるほどに聡い、ヤン・ウェンリーが気がつかないはずがない。

 

 だがその座から降りることはできない。皇帝ラインハルトにとって、回廊決戦の目的はヤンの打倒という一点だったから。

 

 みんなが思っていた。ヤン提督ならなんとかしてくれる。いつも悠然と、旗艦の指揮卓に胡坐をかいて座っていた。百五十万人、二百万人もの期待と信頼は、どれほどの重みだっただろう。だが、誰にもそんなことを感じさせなかった。ユリアンにさえ気付かせなかった。魔術師のポーカーフェイスは、無表情ではなく、穏やかで悠然とした小春日和。

 

 ヤンの後継者となったユリアンは、ようやくそれに気付かされた。ユリアンには、誰もそこまでの期待をしていなかったのに、途轍もなく重かった。へこたれて、妻となった少女に愚痴をこぼし、喝を入れられたりした。

 

 ヤンも愚痴はこぼした。年金がフイになったとか、ブランデーも満足に紅茶に入れてもらえないだとか、そんなことを。退役してすぐ、こんな厚かましい内容のメモを書き残してもいる。

 

『仕事をせずに金銭をもらうと思えば忸怩(じくじ)たるものがある。

 しかし、もはや人殺しをせずに金銭がもらえると考えれば、

 むしろ人間としての正しいあり方を回復し得たというべきだ』

 

 ちょっとあんまりにもあんまりで、ユリアンも見なかったことにしたくなった言葉だ。

 

 しかし、あれこそがヤンの本音なのではないか。自分は英雄などではなく、金を貰って人殺しをしていた人でなしだ。もう人殺しをしなくていい、ようやく人間に戻れた。犯した罪が消えることはないにしろ。

 

 そういう思いの吐露ではないのか。

 

 『評伝 ヤン・ウェンリー』を著すことは、己の無知と対峙し、ヤンの語られなかった思いを探ること。問い続けてなお、二度と答えを返さない彼岸の師父を追う旅だ。塞がりかけた傷を何度となく抉り続けることになる。ユリアンは初めて、はっきりと認識した。

 

 沈黙する亜麻色の髪の青年の傍らで、アッテンボローの解説は進んでいく。あの見事な艦隊運用は、エドウィン・フィッシャーの苦心の結晶だったこと。ヤンの構想を、単純動作の積み上げに再構築したムライ参謀長、それを巧みに艦隊全体に周知させたパトリチェフ副参謀長。客員提督メルカッツ中将には、シェーンコップ中将が細かく通訳をした。そして、一兵卒に至るまで、必死でそれに食いついて行った。

 

「当時のヤン艦隊は、マル・アデッタの会戦に参加できなかった連中が主でした。

 三十五歳以下で、ビュコックのじいさまらに門前払いを食わされたんだ。

 ビュコック元帥は最後まで、同盟の旗を掲げて抗戦したでしょう。

 あの連中も、それに倣ったんですよ。なにしろ帰るところもない。

 同盟軍人として国家に奉仕したのに、その国が潰れちまったんじゃね。

 でも、俺は後悔なんぞしませんよ。あんな連中にヤン・ウェンリーの命を捧げて、

 同盟が永らえたとしたら、俺たちこそが国を滅ぼしていたでしょう。

 その点は皇帝ラインハルトに感謝します」

 

 鉄壁ミュラーも顔色を失くすほど、強烈な皮肉だった。ダスティ・アッテンボローは、アレックス・キャゼルヌの後輩でもあるのだった。

 

「ヤン先輩の目的は、皇帝ラインハルトと講和を結ぶことでした。

 だから、イゼルローンに拠って帝国の将帥らを手玉に取ったんです。

 バーミリオン会戦を彷彿(ほうふつ)とさせるでしょう?

 戦いを嗜む獅子帝が、膝を乗り出すに決まっている状況を作るためです。

 しかし、あの時とは違う。彼には生きていてもらわないと宇宙が大混乱だ」

 

 限られた幕僚に明かされていた、ヤン・ウェンリーの戦略構想だった。

 

「勝てない戦いはしないヤン司令官は、あの疾風ウォルフを相手にした。

 引き分けか、こっちの辛勝か意見は分かれるが、負けてはいません」

 

 いつの間にか、戦闘シミュレーターの画面は変わり、ミッターマイヤー艦隊との戦闘が表示されていた。左翼を後退させ、中堅と右翼を反時計回りに半回転させて、ヤン艦隊を引き摺りこみ左側面を攻撃しようという陣形である。しかし、これはアッテンボロー分艦隊の一点集中砲火によるエネルギーの乱流で、隊列を整えることができなかった。なによりも、狭い回廊内では『疾風』と謳われる迅速性を発揮できない。

 

 そこにYからの光と熱の()が集中し、M2の艦列を削り取っていく。新たにバイエルライン分艦隊が出撃し、Aが受けて立ったかと思うと、さっさと退却を開始する。B2はあえて誘いに乗って猛進した。

 

 Yが動いた。M2を砲火で牽制しつつ、10時方向に前衛を動かしてB2を半包囲する。B2は慌てて後退し、虎口を逃れたものの、攻め手を欠いた状況は続く。

 

「これで、ヤン・ウェンリーは、帝国軍の主な将帥に負けなかったということになる。

 あの狭いイゼルローン回廊では、一対一に近い状況であたるしかない。

 ロイエンタール元帥は統帥本部総長、皇帝ラインハルトの傍にいたでしょう。

 そちらに、切れる札はない。こっちには一枚しかないが、そいつはジョーカーだ」

 

 画面はさらに変わり、シュタインメッツ艦隊が壊滅した時の陣形を表示していた。

 

「ハイ&ローをやってる限り、すぐには勝てない。

 大軍をぶつけ続ければ、こっちはいずれすり潰されたでしょうがね。

 だが、それに見合う利益が帝国にあるのか? 

 得られるものは、皇帝ラインハルトがヤン・ウェンリーに勝利したというだけです。

 帝国の事務の達人にとっては、許容できるもんじゃなかったはずだ」

 

 帝国の事務の達人。それは義眼の軍務尚書を示していた。

 

「あの時の最適な戦略は、回廊を封鎖して我々の枯死を待つことでした。

 その間に、ローエングラム王朝が盤石の体制を築き、

 我々を時代遅れの共和主義者にしてしまえばよかった。

 皇帝ラインハルトは、理想的な専制君主でした。若く、美しく、天才だ。

 そんな輝ける王者が何でもやってくれる世の中なら、みんな政治に参加するのが面倒になる。

 ヤン先輩が、もっとも恐れた戦略でした。

 それは、オーベルシュタイン元帥がもっとも望んでいた戦略だったはずです」

 

 平和な世の中を希求しながら、まったく違う方法論を選んだ二人だったのかもしれない。

 

「名君の統治の何が悪いのか!」

 

「一生を名君として過ごし、次代も名君がずっと続くなら、庶民にとっては望むところです。

 しかし、人は必ず過ちを犯すし、一生変わらない人間はいないというのが先輩の自論でしてね。

 なにより、絶対の法則がある。死なない人間も同じ人間もいないというのですよ」 

 

 

 青灰色と砂色の視線が噛みあい、砂色の方が逸らされた。

 

「これは歴史のもしもに過ぎない。

 そして歴史にもしもはない、というのも先輩の自論です。

 皇帝ラインハルトが、存命でいらしたら今がどうなっていたかということもだ。

 しかし、人間楽すると苦労した頃に戻るのは大変です。

 新領土の人々が、アーレ・ハイネセンの精神を忘れぬうちに、

 共和民主制度の苗を残しておく必要があった。

 ビュコック元帥の死は、腐敗したのは政治家と国民の問題であって、

 その理念は、いまだに輝いているのだと皆に知らしめてくれた。

 そして、エル・ファシルが独立を宣言した。

 あそこを味方につければ、イゼルローンを獲っても孤立しない」

 

 再び、砂と大地の色が曇り空を凝視した。

 

「エル・ファシルは第一次からずっとイゼルローン攻略戦の橋頭保でした。

 一方、回廊帝国側付近に、あれほど環境のいい有人惑星はありましたかね」

 

「いや、残念ながら……」

 

「そうでしょうね。だから、同盟は五十年も隠れていられたわけだ。

 戦いを挑むなら、あの時しかなかった。旧同盟の滅亡を皆が悔やんでいるうちに。

 なによりも、名君の治世に慣れてしまわないうちにやらねばならなかった」

 

 ヤンの戦術構想を最も継承した将帥は、その思考もよく知っていた。学生時代に戦史を教えてもらいながら、合間合間に語られる地球時代から現在までの歴史のエピソード。

 

「名君とは希少な存在です。ゴールデンバウム王朝はどうです?

 五百年近く続いたが、はっきりそう言える皇帝が何人いますか」

 

「おそらく、マクシミリアン晴眼帝ぐらいかと……」

 

「あなたがた新銀河帝国も、常に抱え続けるジレンマになることでしょう。

 名君が二代続き、三代続くか。これは世襲によるものでもないことはないそうです。

 地球時代まで遡ればですがね。それでも極めて珍しいんだとか。ご存知ですか?」

 

「いいえ」

 

 ミュラーは首を横に振った。

 

「帝国のモデルになったゲルマン系の国ではありませんから、

 そちらには伝わっていないかもしれませんね。

 しかし、流血帝アウグスト、痴愚帝ジギスムント、そんな連中が出ても、

 周囲はゴールデンバウム王朝そのものは支えようとしたでしょう。

 だから、皇帝ラインハルトが出現するまで存続した。それでは我々にとって遅い。

 宇宙暦800年時点ではそう思ったわけですよ」

 

 口には出さぬ。しかし、青灰色の目が雄弁に語る。あと一年待っていればどうなった?

 

 ミュラーに返せる言葉はなかった。

 

「とにかく、歴史にもしもはない。回廊決戦の戦術データを解析なさるのは結構です。

 こいつはイゼルローンの宙域特性を、研究し尽くした結果ですからね。

 悪事を企む輩には、大変に鋭い釘になるでしょう」

 

 そこまで言うと、アッテンボローはすっかり冷めた紅茶をすすって、渋い顔になった。

 

「悪いがユリアン、淹れなおしてきてくれないか。

 せっかくの菓子だ。久しぶりにおまえさんの名人芸で味わいたいんだよ」

 

「あ、はい」

 

 息詰まるような思いで、ヤン政権きっての論客の言葉を聞いていたユリアンは、むしろほっとして茶器一式を盆に載せ、台所へ向かった。アッテンボローはその後姿を見詰め、足音が遠ざかるのを待つ。

 

 そして、ふたたびミュラーに向き直った。テーブルに肘をつき、組んだ手に顎を乗せ、マイクに近づいて囁く。

 

  

「しかし、私の話を元に実際の演習をやるというのはお勧めできない。

 あなたが本物の戦闘に使うのではないか、と邪推されるのは危険だ。

 この時の統帥本部総長どのは、その後にどうなりました?」

 

 魔術師の左腕は、強烈なフックでミュラーの顎を捉えた。実際に、一瞬眩暈を感じるほどの衝撃だった。



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過去からのリンク

「こうやって、茶のみ話の与太話で、シミュレーターの画面を眺めているのはいい。

 バーラト星系共和自治政府の国防長官に、イゼルローン要塞司令官兼駐留司令官が、

 人知れずに接触し、この艦隊運用をものにするというのは非常にまずい。

 あなたも部下と四苦八苦してお考えになるといい。

 そして公表し、記録に残し、軍務省の決裁を仰ぐことだ。それがあなたを守る」

 

「一体、何から守ると……」

 

 ミュラーはようよう口を開いた。

 

「『半分が味方になれば大したものさ』。これもヤン先輩の言です。

 民主主義的には、実に正しい勝利基準だ。

 自分を含めれば過半数で、のこり半分引く一は負けです。

 それは一票、いや人間の価値が平等だからです」

 

 アッテンボローの返答は、ミュラーの疑問への直接的な答えではなかった。

 

「しかし、あなたの国ではそうはいかない。半数が味方でも危うい。

 あなたの国は、人間の価値が平等ではないからだ」

 

 ただ一人の絶対者に否定されれば命脈が断たれるのだ。回廊決戦当時の統帥本部総長、オスカー・フォン・ロイエンタールのように。

 

「あなたは恨みを昇華できる、非常に希少な人間です。素晴らしいことだと思いますよ。

 俺にはとても真似できないし、多くの人間もそうではない。

 我々ヤン艦隊は、弱兵を基準にした訓練と行動を行い、戦ってきた。

 だから、名だたる疾風ウォルフにも鉄壁ミュラーにも負けずに済んだのです」

 

 それもまた、ミュラーへの示唆であった。宇宙で一二を争う名将たちは、公明正大な人格者だと広く知られている。しかし、それほどに優れた者は、宇宙でも一人二人ではないか。真似しろと言われて、真似できれば苦労はしない。

 

「このシミュレーターの中で、帝国軍に悪さをしているAは誰なのか。

 それもお考えにならないといけません」

 

 言葉を失ったミュラーに、アッテンボローは言葉を続ける。定理を述べる学者のように淡々とした口調で。

 

「先ほど申し上げた三代名君が続いた国ですが、四代目からはもういけなかった。

 五代目は仰天するような悪法を定めた君主だった。八代目に名君が出ましたがね。

 銀河帝国が、父祖の功によって権力や富を占め、

 罪によって裁かれるうちは、いつ功が罪に転じるか。

 皇太后陛下、大公アレク殿下は、あなたを直接にご存知だ。

 しかし、アレク殿下の子や孫はどうなのか。あなたの子や孫はどうなるか」

 

 アッテンボローは、リュシエンヌ・ノーラ・キャゼルヌの菓子を一口頬張った。美味に一瞬顔をほころばせたが、すぐに真顔になる。

 

「ヤン先輩の『歴史にもしもはいない』に対になる言葉を、

 私はこうなんじゃないかと最近思うんですよ。『未来に絶対はない』」

 

 いまだ若々しいそばかすの頬の上、青灰色の瞳が見ているのはミュラーではなかった。

 

「だから、功罪が自身のみで帰結する共和民主制がまだましだと、あの人は考えたんでしょう。

 むろん、そいつは法で定めた建前です。

 愛するものを殺されたら、誰しもそいつを恨んで憎み、決して許したりはしない。

 アスターテ会戦で戦死したジャン・ロベール・ラップ大佐。

 軍事クーデターの際のスタジアムの虐殺の犠牲者のジェシカ・エドワーズ議員。

 ヤン・ウェンリーの数少ない同い年の親友だった。

 事故で天涯孤独になって、心がズタズタの十六歳の彼を癒してくれた人たちだ」

 

 ヤン・ウェンリーの後輩は、鉄壁ミュラーに凄まじい衝撃を与え続ける。考えてもみない死角からの一撃だった。ヤン・ウェンリーにとってのジークフリード・キルヒアイスだったのかもしれない二人。

 

「もっともね、本心がどうであったか、誰かに見せるような人じゃない。

 他者に心を預けきったりする性格でもないし、そういう意味では情のこわい人だった。

 だが、念頭において考えるべきでしょう」

 

 だから戦い抜いたのか。皇帝ラインハルトの招聘(しょうへい)を謝絶し、罪に問わぬという声にも背を向けた。

 

「そして、自分だって当然そう思われる。そう考える人でした。

 そいつの家族だって、同様に恨まれ謗られるということもだ。

 こいつは、エル・ファシルの脱出行で、アーサー・リンチの家族に起こったことだ。

 もっと身近には自分の義父と妻もそうですよ」

 

 

 ミュラーを打ちのめし、切り刻む言葉の数々だった。もしも自分がその立場であったなら、皇帝ラインハルトの輝きを太陽だと思えるだろうか。差し伸べられた手を、握り返すことができるのか。ミュラーがヤン・ウェンリーに抱く好感が、勝者の驕りでないと言えるのか。

 

 自分は、真に大事な者を旧同盟との戦争で奪われてはいない。いや、帝国の主な将帥はすべてそうだ。戦死した僚友は数多いが、それほどの関係を持つ者は含まれていないだろう。

 

 相手を真に慮る想像力を、自分が持っていなかったことを気付かされる。そして、それこそが戦場の心理学者、ヤン・ウェンリーの力の一端だ。魔術師の左腕は、その用兵にも劣らぬ舌鋒の矢を放つ。心を射抜く一点集中砲火だった。

 

「それだけ、人の心がわかるのに、いや、わかるからこそ人を殺せる。

 死者の無念、遺族の憎しみや悲しみを知りながら戦うしかない。

 憎まれ、恨まれて当然、家族にもその声の矛先が向かうのも承知していた。

 だが、建前こそが重要で、それがあるから血のつながりや姻戚で罪に問われることはない。

 こっちは、故パトリチェフ副参謀長の持論です」

 

 

「……それにどのような関係があると」

 

「おや、あなたほどの方がおわかりになりませんか?

 このYが、銀河帝国皇帝に何をしたのか」

 

 更に戦闘の状況が変わっていた。猛然と突進したYが、迎撃しようとする帝国軍をかいくぐり、天底方向に急激に針路を転じる。そして、下方からLを狙って砲火を浴びせかける。Lから的確な反撃を受けたものの、隊列を整えて整然と後退した。回廊決戦に出撃した、姓の頭にLを持つ将帥はただ一人である。皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラム。

 

 ミュラーは再び言葉を失った。

 

「自分だけじゃない。副官だった妻に、生まれたかも知れない子ども。

 そして部下の我々はともかく、その家族が大逆罪に連座をさせられる日が、

 絶対に来ないと言い切れますか」

 

 やはり、返せる言葉などミュラーには見つけられない。リップシュタット戦役当時の詳細な状況は、当然ヤン・ウェンリーの知るところではない。しかし、賢者は歴史に学ぶ。

 

 気に入らぬものを味方にするよう努力するより、一気に処分してしまったほうが遥かに楽だ。リップシュタット戦役のように。

 

 感情の赴くままに動いても、掣肘(せいちゅう)できる者はいない。皇帝の聞く耳だけが頼りだ。オーベルシュタインやヒルダの諫止(かんし)にも関わらず、回廊決戦に出撃したように。

 

 本来ならば、諫言には命を賭すほどの重みがある。限りなく冷徹な正論を述べ続けたオーベルシュタインだけが、それを知っていたのだろう。ゴールデンバウムを最も憎んだ者こそが、最も歴史を追い求めただろう。

 

 回廊決戦の手袋を叩きつけたヤン・ウェンリーも、皇帝の出撃に目論見の成功を知り、だからこそ深刻な危機を感じたのではないか。己が戦死を想像しない宇宙の支配者に。歴史を愛した者だからこそ、専制政治最大の弱点を知り抜いていただろう。

 

「一番偉い皇帝が、一番楽をしたくなったとき、暴君が誕生する。

 学生の頃、ヤン先輩は大帝ルドルフの評伝を読んで言ったものです」

 

 沈黙するミュラーに、アッテンボローは目の前の焼き菓子を一つつまんで、画面に近付けた。馥郁(ふくいく)とバターとオレンジの香りが広がる。この香りを超光速通信(FTL)に乗せてやれないのが残念だ。

 

「この菓子を作った、リュシエンヌ・ノーラ・キャゼルヌの父も、

 あの子が六つだか七つの時に、ガイエスブルク要塞に雷神の槌(トゥールハンマー)をぶっぱなしています。

 何万人、いや何十万人も死なせたでしょう。その罪まで娘たちが(あがな)うことになったら。

 俺の両親に三人の姉貴とその旦那と子どもを始めとする、兵員二百万人を取り巻く人々。

 そこまで累が及んだら」

 

「皇帝ラインハルトは、そのような方ではない!」

 

「ええ、彼がやってもいないことを責めているわけではありません。

 ルドルフ・ゴールデンバウムによる、歴史上の事実であるとだけ申し上げておきましょう。

 これ以上の言及は差し控えますが、ルドルフへのアンチテーゼの下に、

 新領土の人間は育ってきた。他者の罪に連座されず、不利益は不遡及であること。

 今、その恩恵を受けているのが、皇太后陛下と大公アレク殿下であることは、

 あなたも知るべきだ」

 

 ふたたびの示唆は、ミュラーの脳天を直撃する。 なぜ、新領土の人々が帝国による統治に従っているのか。たった三人の皇族、たった七千万の帝国軍に対する、泥沼の報復テロが行われていないのか。それは、ラインハルトへの怒りや恨みを、妻子にぶつけたらルドルフの轍を歩むからだ。

 

 だが、暴君が誕生すれば、その瞬間に新帝国は死を迎えるのだと心するがいい。旧同盟の百三十億人以上が立ち上がるだろう。この灼熱の五年に覚醒した者たちが。

 

 それはヤン政権きっての論客、国防長官アッテンボローとしての言葉だった。

 

 近づいてくる足音に、アッテンボローはオレンジのマドレーヌを口にした。口いっぱいに広がるオレンジの風味と香りに、思わず顔を綻ばせる。

 

「お話中失礼します」

 

 控えめな声がして、ユリアンが新たな紅茶を運んできた。

 

「とにかく、これは忠告ですよ。せっかくの部下育成のチャンスです。

 つまりはね、カンニングするなってことです。我々もこれには散々苦労した。

 俺が下野してからなら、ヒントはさしあげましょう。ちゃんと報酬はいただきますがね。

 あと半年ぐらい、宙域の分析をしている内に過ぎちまうでしょう」

 

「アッテンボローさん、じゃあ今度は出馬をしないんですか?」

 

「ああ、大分回り道になったが、そろそろ本来の志望を目指そうと思ってる」

 

 そう言って笑った顔は、悪童のようにいたずらっぽく若々しい。政治家としてのダスティー・アッテンボローに圧倒されていた、帝国最年少の元帥はようやく言葉を見つけることができた。

 

「ヘル・アッテンボロー、あなたの志望とはなんだったのですか」

 

「ジャーナリストですよ」

 

「あなたが、最初からそちらの道に進んでいらっしゃればと思いますね。

 では父上の後を継がれるということですか」

 

 半ば引退したが、彼の父パトリックは硬派リベラル系の論客だった。切れ味のするどい批評文を、ミュラーも読んだことがある。

 

「とんでもない、俺が軍人になったのは、そのくそ親父の陰謀ですよ。

 俺が名前を貰った母方の祖父さまの遺言でね。

 士官学校と志望校も受験したんですが、士官学校にしか合格しなかった。

 そこで、二人の先輩に会って、今に至るというわけです」

 

 ミュラーの砂色の目が石像のように固まった。ここにも軍人になりたくなかったのに、軍人になってしまった名将がいたのか。道理で多彩な能力の持ち主ばかりのはずだ。軍人になりたくて軍人となった、帝国軍首脳部とはそこからして違うのだ。

 

「……ああ、そういうわけでしたか」

 

「だが、キャゼルヌ先輩よりはマシですよ。

 あの人なんて大学の受験日を間違えて、士官学校しか受けられなかったんだから」

 

 なんという運命のいたずらか。眩暈がしてきたミュラーは、思いを口にした。

 

「国防の要の士官学校が、それでよかったんでしょうか」

 

 だが、きっとキャゼルヌは同じ座にいたような気がしてならない。

 

「結果としてはよくないでしょうよ。同盟は滅びちまったんですから」

 

 アッテンボローは肩を竦めて、お手上げの動作をしてみせた。

 

「あの頃は、第二次ティアマト会戦の『アッシュビーの平和』の余光が残っていました。

 金を払って兵役を逃れる者が大勢いたんで、人材確保に困りましてね。

 大学の奨学金は大幅カット、士官学校のほうには免除制度を拡充したんです。

 ヤン先輩の動機も相当に不純だが、キャゼルヌ先輩の組織工学論を読んで、

 入学してきたのもいるんですよ。学費が免除されて、こんな勉強ができるんならって」

 

 ユリアンは眉を寄せた。

 

「一体誰ですか」

 

「キャゼルヌ事務監の副官みたいなことやってた、あの人さ。

 結婚して姓が変わってたんで、しばらく気づかなかったが、顔見てわかったよ。

 あのガードナー氏が目をつけた論文を、これだと思った女子中学生だ。

 わかるだろ、色々と?」

 

 ミンツ元中尉は思わず眉間を押さえた。

 

「……ああ、色々とわかりました。そして納得しました。

 アッシュフォード中佐ですね」

 

 あの真冬の成層圏の青は、すいぶんとユリアンの心胆も寒からしめてくれた。ミュラーもひそかに居住まいを正した。友人ユリウス・エルスマイヤーをして、手強いと嘆かせる財務省補佐官の名だったからだ。

 

「本来なら、ユリアンの母校兼勤務先のハイネセン記念大に行って、

 国家公務員試験にトップ合格できる連中が、学費めあてに来てたんです。

 だから、後方系の人材はいいが、前線指揮官はさっぱりふるわなくてね。

 帝国との実戦が減って、叩き上げがいない。

 政治家に擦り寄るおべっか使いが幅をきかせて、

 有能だが政治に距離を置くまともな人の足を引っ張って、ごらんの有様ですよ」

 

「いや、しかし、なんと言っていいものか……」

 

 帝国とは逆の現象だった。第二次ティアマト会戦の『涙すべき四十分間』で数十名の将官を失った帝国は、軍部の再建に力を入れ、盛んに平民を登用した。そして、ローエングラム王朝創立時に名将が輩出する。その一方で文官は下級貴族が中心となったが、旧銀河帝国の末期から人材は失われていった。

 

 クロプシュトック候事件、カストロプ公の動乱。そしてリップシュタット戦役。こうしたことに主家が関わり、運命を共にせざるをえなかった者が少なくなかった。リヒテンラーデ候に連なる高級官僚も、やはり処刑台に消えた。国務尚書を務めた者の一族である。失われたのは経験豊富なベテランぞろいであった。おかげで平時の今、四苦八苦しているのだ。

 

 ミュラーは、帝国の体制や法制のさらなる改革の必要性を痛感した。そのためには、広い視野を持ち、想像力を養い、なにより学んでいかなくてはならないだろう。過去から現在、未来はつながっている。それを考慮して国や社会を考察し、構築すること。帝国上層部のほとんどの者に欠けている資質だった。

 

「俺は、あの五年間に至る潮流を追っていきたいと思っています。

 だから、親父とは書くものは違いますし、跡を継いだわけじゃない。

 政治家になりたくとも、選挙で勝たなきゃなれませんが、

 辞めたい時には辞められるのが民主主義のいいところです。

 相応の守秘義務はあるにせよ、あとの人生は自由だ。

 食っていかなきゃならないが、それでも好きなことをやっていい」

 

 アッテンボローはティーカップを掲げた。爽やかな風が吹く六月のはじめ。今はもういない、歳を追い越した人々と、まだ追い越さない人々にこの一杯を。

 

「未来に絶対はないが、今を自分の手で作っていくことはできる。

 そいつが過去となり歴史になる。だから歴史にもしもはない。

 だって、みんなそうやって、できるかぎりの選択肢を選んできたんだからってね」

 

 三千光年を隔てて、ユリアンとミュラーは、魔術師の左腕を凝視した。その言葉を告げた者の名は、語る必要も聞く必要もないことだった。

 

 宇宙暦809年12月、第二次ヤン政権、任期満了により解散、総選挙を行う。

 

 宇宙暦810年1月 第一次ホアン政権発足。役職を替えた主要閣僚は、外務省長官フレデリカ・(グリーンヒル)・ヤン。ギルバート・ガードナー、ダスティ・アッテンボローは惜しまれつつも下野した。

 

 新入閣を果たしたのは、国防省長官クブルスリー。同次官ラオ。財務省次官マリネスクと運輸省次官ボリス・コーネフは、フェザーン出身者がエル・ファシルに移転し、バーラト国籍を取得して閣僚となった最初の例である。

 

 種をまき、芽を育て、枝を伸ばしたのはフレデリカ・G・ヤンだが、根を張り幹を太らせたのはホアン・ルイだと後世に評される、バーラト星系共和自治政府の新政権の発足であった。



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宇宙暦810年~8XX年 二番目のPEACE
宇宙暦810年~8XX年 二番目のPEACE


※この作品は、以前『にじファン』に投稿していたものです。すでに抹消されておりますが、念の為に申し添えます。



 その薔薇がバーラト星系自治共和政府に登録申請されたのは、宇宙暦809年10月1日のことであった。半年間の審査を経て、正式に認可されたのは宇宙暦810年4月1日。登録情報が官報に掲載されたのは、次の平日となる4月4日であった。

 

 そして、宇宙暦811年6月1日、バーラト星系共和自治政府による追悼式典の壇上に登場する。

それ以後、種苗家が名付け、登録された「PEACEⅡ」という名で呼ばれることよりも、通称をもって広く知られることになった。その原因は様々な挿話にある。だが、最たるものは登録の申請書類に添付されていた、種苗家による献辞であった。

 

 

――ヤン・ウェンリー中尉に捧ぐ――

 

 この薔薇を故ヤン・ウェンリー中尉に捧げる。

 

 エル・ファシル脱出の際、私が手荷物として運び出そうとし、さんざんにあなた方とやりあった、あの苗の子孫に当たる。

 

 あなた方の立場にすれば、たかが薔薇の苗1本と思っただろう。それを恒星間輸送用の育苗ケースに収納したため、重量はともかくサイズを超過してしまったのだった。

 

 だが、これは人類が未だに地球上にのみ居住し、十三日戦争が起こる前に生まれた薔薇の末裔なのだ。そう往生際悪く主張する私に手を焼いた下士官が、まだ中尉だったあなたを引っ張ってきた。

 

 当時、乳幼児だった私の息子は今年二十三歳になった。考えてみれば、あなたは更に二歳も若かったわけだ。その青年に――今だから言うが、当時のあなたは士官学校出たてというよりも、まだ在学中にしか見えなかった――この苗の貴重さを主張した。

 

 あの苗は、私の農場の品種改良用のマザーオブローズであった。今手放したら、この脱出によって困窮するだろう私ではなかなか入手できないこと、また宇宙空間で宇宙線による遺伝子変異を防止するためには、育苗ケースに入れなくては持ち運べないこと等々。

 

 ついでに、この薔薇の来歴も滔々(とうとう)と述べたてた。名前のくだりで、私が、その戦争でなんとかいう都市が陥落した日に名付けられたのだ。そう言ったときに、あなたは穏やかに言った。

 

「西暦1945年4月29日、ベルリン陥落の日に生まれた薔薇ですか。

 なるほど、PEACEとは付けられるべくして付けられた名前ですね。

 私は不調法でして、花には詳しくないのですが、これはどんな花が咲くのでしょうか」

 

 

 当時、いやその後も長い間、PEACEは名花の中の名花ほか、ありとあらゆる賞賛の形容詞をつけられた。薔薇というものに一大変革(パラダイムシフト)をもたらしたとまで評された。直径15cmを超える剣弁高芯で均整のとれた花型。その色はクリームイエローから淡い薔薇色の覆輪にグラデーションで変わる。淡いがしっかりとした芳香、そして強健で育てやすいという、園芸種にとって絶対の美点。

 

 彼の相槌に、私はこれもまくしたてたのだった。本当に多忙な中で、よくもこんな苦情と蘊蓄の交雑種(ハイブリッド)に付き合ってくださったものだ。当時を思い返すと冷や汗が出てくる。

 

「それは綺麗な色合いですね。……まるで幸せに笑う子供の頬っぺたみたいだ。

 でも、花屋では、あまりそういう色の大輪の薔薇は見掛けませんね」

 

 軍人らしくない表現は、私が連れていた息子をご覧になったからだろうか。あなたの疑問には、一輪が大きいため、切り花よりも庭植えで鑑賞するのだと答えたように記憶している。

 

「はあ、私は宇宙船育ちでして、あまり庭園や温室といったものに縁がなかったものですから。

 ……結局、この第二次世界大戦後の平和も百年は保たなかったのです。

 でもこの苗は、千六百年以上も前の、平和への歓喜を受け継いでいるのですね。

 こういう花を生み出せる時代が来るといいのですが……」

 

 後に私が調べたところによると、西暦1945年の第二次世界大戦終了から、西暦2129年に地球統一政府ができるまでの間に、十三日間戦争とその後九十年に及ぶ戦乱の時代が挟まっているそうだ。無論、ヤン中尉はそれを知っての言葉だったろう。

 

 とにもかくにも、私は『積載許可済』のステッカーを受け取ることができた。その後の脱出行、そしてあなたの多大な戦功は、今さら私ごときが語るまでもない。

 

 あれから、私達家族はエル・ファシルに戻り、花卉(かき)農場を再開することができた。そしてその傍ら、薔薇の品種改良を再開し、あの戦火の中でも細々と続けた。結局八年前にハイネセンに引っ越ししたが、三回の恒星間旅行に耐えた、あの薔薇はいまも我が農場の偉大な母だ。

 

 そして、この花に付けた名は、偉大なる母からすると分不相応なのかも知れない。千年を超えて語られる名花と、比べるにもおこがましいのは重々承知している。

 

 しかし願わくば、久々に訪れたこの平和が、最初のPEACEの生まれた後よりも、少しでも長く続かんことを。

 

――フランシーヌ・ミーアン――

 

 

 追悼式典の壇上を飾った花の官報掲載日を、捧げられた故人の誕生日としたのは、バーラト星系共和政府事務総長アレックス・キャゼルヌの計らいによるものだった。それは直径十cmほどの、花束にしやすい中輪咲きだった。

 

 一見目立たないのがいかにも提督らしいと、自称宇宙海賊のオリビエ・ポプランは苦笑した。

 

 剣弁というには柔らかなラインの花弁は、象牙色をしていた。亡き夫のいつも穏やかだった表情にも似ていると、元イゼルローン共和政府主席フレデリカ・(グリーンヒル)・ヤンは語った。

 

 そして、PEACEを凌ぐ芳香は、ハイネセン記念大学歴史科に籍を置くユリアン・ミンツに、師父の好物を最高の状態で淹れた時のことを思い出させたという。

 

 結局、「PEACEⅡ」は、フランシーヌ・ミーアンの意図した名前では呼ばれなくなった。「ヤン・ウェンリーの薔薇」、あるいは「ヤン中尉」と。

 

 故人……いや、ヤン先輩が聞いたら、肩を竦めて、黒い髪を掻きまわしたにちがいない。そして、すこし困ったように微笑んだことだろう。

 

 一番目のPEACEほどの強烈な個性と美点はない。だが、ほどよい大きさは、花束やアレンジメントにも向いている。柔らかな色はどんな花とも調和し、主役にも脇役にもなれる。そして、紅茶そのものの香りのするこの薔薇は、長らく愛されることになるだろう。

 

 そして、薔薇(PEACE)ではない平和(PEACE)の行方は、我々とそれに続く世代の努力と自覚次第である。  

 

 ――ハイネセン・タイムス ダスティ・アッテンボロー――

 

 

「薔薇の平和――PAX ROSAE――」

 

 当初、バーラト星系自治共和政府国内で登録された「PEACEⅡ」は、追悼式典に出席したナイトハルト・ミュラー元帥の目に留まることになる。式典の花が、喪の白百合から、仄かに色づいた薔薇に変化したことが、時の流れを感じさせたのだろう。その芳香が、彼を「良将」と称えた偉大なる敵将を想起させたのかもしれなかった。

 

 そののちに、ミュラーは「PEACEⅡ」をハイネセンから取り寄せようとしたが、なかなか叶わなかった。最初は流通量の少なさによって。次は品物の誤配によって。新銀河帝国の帝都で「PEACEⅡ」を注文しても、届くのはなぜか一番目の「PEACE」だった。

 

 届いた「PEACE」が三鉢を数えるに及んで、ミュラーはバーラト星系共和自治政府のフェザーン駐留事務所に問い合わせた。その謙虚な為人(ひととなり)は、十年余りを超えても変わらなかった。老境に入りかけた謹厳な事務長に対して、私用での通話を詫び、恐縮した様子で頼んだ薔薇とは違う物が届いていると告げたのである。

 

「一昨年の追悼記念式典に飾られていた薔薇を買ったつもりだったのです。

 もっと花が小ぶりで、象牙色で、紅茶のような香りのする薔薇でした。

 ……届いたものはどうも違うようなのです」

 

 茎がぐんぐん伸びて、長身の彼が手を上げた高さに、手のひらほどもある大輪の花が咲いている。色合いもアイボリーというより、黄色と濃いピンクのグラデーションだし、花型はシャープだし、香りも淡い。

 

 あの控えめな、薫り高い花とは明らかに違う。

 

「私は花には詳しくないのですが、ハイネセンで作られた新品種だと聞いています。

 ハイネセンの方なら、なにかご存じではないかと思いまして」

 

「まったく、困ったものだ。ミュラー元帥、不手際をお詫びします」

 

 さすがに、新銀河帝国で品種登録するに際して、あの献辞を添付するわけにもいかなかった。あの薔薇は、新帝国では「PEACEⅡ」以外に呼び名はない。一方原産国では、正式名は半ば忘れられ、通称で流通している。販売経路の途中で、名称の違いによる商品の取り違えが起こっていたのだった。

 

 もっとも、三鉢すべてがそうだったとは限らない。帝国元帥が、正直に自分の名前で購入したものだから、販売者も警戒したことだろう。だが、それは口にする必要のないことだ。

 

「商品がきちんと届かないなど、まだまだ流通の整備が不十分なようです。

 私からキャゼルヌ事務総長に報告させていただきます。

 薔薇の手配も、こちらでいたしましょう」

 

「しかし、私個人が購入したものです。

 そちらの公費で手配していただくわけにはまいりません」

 

「いえ、これは私個人の買い物ですよ。

 ミュラー元帥が御不快でなければ、そちらに届いた薔薇と交換させていただきたい。

 二種類の平和の交換というのもいいものではありませんか。

 これならば贈収賄にはあたらないでしょう」

 

 呼吸する謹直と評判の駐留事務所長の、意外に粋な計らいは、ミュラーも喜んで受け入れるものだった。

 

「ところでですな、ミュラー元帥。三鉢全て交換したほうがよろしいでしょうか?」

 

「いえ、一つで結構です。それにしても、薔薇というのはあんなに伸びるものなのですね」

 

 どうやら薔薇以外にも、贈るべき物があるようだ。自分にも必要な物が。

 

 

「本当に困ったものだ。

 あなたの名で呼ばれる花を、新帝国がわだかまりなく受け入れられるようになるには、

 まだまだ時が必要だろうに」

 

 ミュラーとの通話を終えた後で、『魔術師』の元参謀長は独り呟いて、『ヤン・ウェンリーの薔薇』を三鉢注文した。ひとつはミュラーとの交換用に、そして残りは自分用に。他に必要な物品は、次の休日にでも買いに行けばよい。

 

 思いがけず引き取った薔薇の世話を、ムライは園芸入門書と二人三脚で取り組むことになる。そして、念願の「PEACEⅡ」とともに、帝国語の園芸入門書を贈られた砂色の髪の元帥も同じ道を辿った。几帳面で、基本を堅守し忍耐強い彼らは、じつに園芸向きの性格であったのだ。この二人の新たな趣味と意外な才能で、事務所と首席元帥府が薔薇の名所となるのは、もう少し後のことだった。

 

 そのうち、彼らの園芸談義は、庭師を父に持つ国務尚書をアドバイザーの窓口にしてしまった。花の季節には、元薔薇の騎士(ローゼンリッター)連隊長の警備主任と、美髯(びぜん)の帝国元帥が、趣味の写生に興じたり、ついには二人展を開いたりするまでになった。

 

 元帥府の薔薇は、皇太后や国務尚書や義手の元帥が、子連れで――あるいは子供同士で――見学に来るほどの規模になった。警察総監夫妻とその子供も、後に一員に加わった。オレンジの髪の元帥は、薔薇にかこつけて何度も酒宴を開き、奥方に睨まれたという。

 

 こうして、二つの薔薇を介した交流は、新銀河帝国とバーラト星系共和自治政府に、徐々に有形無形の実りをもたらしていった。帝国上層部は、かなり後になって、薔薇の通称を知ることになる。その頃には、それを理由に花を処分するのは愚行にすぎないという空気が、一般兵士にまで定着していた。

 

 既に引退していたムライ事務長が、生涯に一度だけ使った『時の魔術』だった。

 

 バーラト星系共和自治政府のフェザーン駐留事務所員の選考基準は、『薔薇の世話が堪能であること』という笑い話が、後世に伝えられている。

 




注:話中にある『PEACE』は実在の品種であり、誕生にまつわるエピソードも、全て事実です。フランスのリヨンで生まれた薔薇が、ナチスドイツの進攻を逃れて、海を越えアメリカに渡り、品種発表会の席上で名を考えていた時に、ベルリン陥落の報が入りました。

「これで平和がやってくる!」

 そして名花の中の名花、千年の名花と称えられるPEACE(ピース)は誕生しました。時に真実は小説よりも奇なるものです。


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宇宙暦812年~814年春 ヤン少佐の事件簿
プロローグ 四半世紀後の螺旋迷宮


 宇宙暦813年9月1日は、旧自由惑星同盟軍の宇宙暦788年度B級重要事項の公開開始日である。銀河帝国軍の軍務省は、規定どおりの公開請求に対して、規定どおりに資料を公開した。旧同盟軍の機密事項は、銀河帝国に宇宙が統一された後もそのまま保管されていたのだった。

 

 亡国の軍の機密は、勝者にとって価値は高いものではなく、さりとて廃棄するにしても量は膨大で費用も嵩む。結局、当時の同盟軍の重要事項区分をそのまま準用し、年次的に定型処理をするにとどまった。それが一番、金も人手もかからない方法だったからだ。自由惑星同盟が滅亡した後に、こういった資料の公開を求められるケースは稀であったのだ。

 

 請求者の予想よりも、ずっと呆気なく資料は届いた。鉄灰色の髪にそばかすの頬をしたジャーナリストは、そのファイルを受け取ると、悪童の笑みを浮かべて歩きだした。今にもスキップに変わりそうな弾む足取りで、旧同盟軍士官学校校歌の一節を口ずさみながら。

 

 街角のコーヒースタンドの一角に陣取ると、彼は通信端末で二十年来の友人に連絡をとった。

 

「よう、ユリアン。先輩の力作は手に入ったぜ。宿題はできているか? 

 答え合わせをしようじゃないか」

 

 その六か月と二十四日後、一冊の本が出版された。『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿――』がその題名である。題名からしてセンセーショナルなものだが、著者はダスティ・アッテンボローとユリアン・ミンツ。(くだん)の少佐の後輩と被保護者である。

 

 ヤン少佐こと、ヤン・ウェンリー元帥。宇宙暦767年4月4日生、800年6月1日没(推定)。

 

 軍人生活の中で少佐であったのが、三年十か月で最長。最短は大尉の六時間。士官学校卒業後、少尉から元帥までの十一の階級を、十二年で駆けあがった同盟軍史上最高の智将。本人が聞いたら、心にジンマシンができるといやぁな顔をしただろうが、紛れもない事実である。

 

 同盟滅亡後、彼が率いたヤン不正規軍(イレギュラーズ)は、彼が亡き後はイゼルローン共和政府軍として、皇帝ラインハルトからバーラト星系共和自治政府の独立を勝ち取った。

 

 ヤンの後輩と被保護者は、その立役者としての名声の方が、いまだに現業よりも大きかった。しかし、駆け出しのジャーナリストと歴史学者のコンビは、一冊の本によってそれを引っくり返したのだった。

 

 ハイネセン記念大学大学院の歴史学科で、講師として教鞭をとっているユリアン・ミンツのところに、政界からジャーナリストに転身したダスティー・アッテンボローが、その企画を持ち込んだのは一年半前のことだ。ユリアンの三十歳の誕生日のホームパーティーのあと、男同士もう少し強い酒を飲もうと座を変えた時である。

 

 ブルース・アッシュビーと730年マフィア

 ジークマイスター提督の亡命

 ミヒャールゼン提督の暗殺

 

 まるで『落語』の三題噺のような単語の羅列に、青年学者の亜麻色の頭の中を疑問符が走り回った。



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第一章 迷宮にアリアドネを探して

ムライの名については、筆者の命名となります。


「アッテンボローさん、なんですか、それは?」

 

「歴史学者ヤン・ウェンリーの未完の考察さ。

 あと一年ちょっとで期限が来るが、それまでは秘密だ。

 俺も一応は旧同盟軍人なんで、筋は通さないとまずいんだよ。

 で、おまえさんに頼みたいのは、彼らにまつわる資料を集めるのと、

 そこから導き出される事象を、まとめてほしいんだ」

 

「ブルース・アッシュビーというと、リン・パオ、ユースフ・トパロウルと並ぶ英雄ですね。

 ジークマイスターとミヒャールゼンというのは、名前からして帝国軍人でしょう。

 一体、どういう関係なんですか」

 

「それを調べるのがおまえさんの役目だよ。

 ユリアン、先輩の回想録もいいが、ここらで気分転換を兼ねて一儲けしないか?」

 

 四十歳を越えてもいまだに若々しい元提督は、青灰色の目に企みの色をのせた。黒髪の先輩の薫陶(くんとう)よろしき、狡猾な作戦案を練っていた時と同じ表情である。それを胡散臭げに見やり、形のよい眉を寄せるユリアンだった。

 

「急に俗っぽいことをおっしゃいますね。何を企んでいるんですか」

 

「俺も事業主としては、社員を食わせなきゃならんからなあ。

 おまえさんだって、収入はあるに越したことはないだろ。

 ヤン先輩の希望を継いで、なおかつ帝国の連中を出し抜けるんだぞ。

 なあ、興味はないか? エル・ファシル脱出行の直後のヤン少佐の秘された任務ってやつに」

 

 ブルース・アッシュビーは、歴史学者にとって魅力的な題材である。おまけに師父の名を出されて、ユリアンは陥落した。ヤンの回想録をまとめる準備をしながら、行き詰まりを感じているのを、アッテンボローは察したのかもしれなかった。

 

 ユリアンは、今日三十歳になった。少年時代には見えていなかった師父の真価を折々に思い知らされる。いつかは追いついて、影なりとも踏める日が来るのかと思っていたあの頃。

 

 自分の遥か前を走っていた人はその歩みを止め、自分は今も歩き続けている。だが、彼と自分は同一平面上を歩んではいなかったのだ。その隔絶した高みまで、急斜面を四苦八苦して登っても、届くことなく生を終えるような気がする。

 

「ただな、あんまりがっちがちに固める必要はないぞ。

 あくまで、ヤン先輩の若き日の知られざるエピソードといった位置づけだからな。

 本腰入れて取り組んだら、そいつはそいつで底なし沼さ」

 

「答えは自分で調べろということですね」

 

「そういうことさ。

 まあ、俺は俺で、当時の関係者にインタビューをするんだが、まずいよなぁ」

 

 『伊達と酔狂』の体現者は、鉄灰色の髪をかきまわして渋面を作った。

 

「どうしたんです、不倶戴天(ふぐたいてん)の敵でもいるんですか?」

 

「当らずしも遠からずだよ。ムライのおっさんがいるんだ」

 

 ダークブラウンの瞳が、驚きに見開かれる。

 

「ヤン提督は、その時にムライ参謀長と知り合ったんですね。初めて知りました」

 

「もう一人いたんだがな」

 

「誰ですか」

 

「パトリチェフのおっさんさ。

 ヤン・ウェンリーは、二十一歳の頃に将来の正副参謀長を見出していた!

 なんて、それだけでも売れそうだろ? 

 まあ、ぼちぼち進めてくれよ。重要事項の指定解除まで一年半あるが、

 そいつが公開されてからは時間がないぞ。

 先輩の四十七歳の誕生日に出版してやろうじゃないか。

 あの世でせいぜい悔しがらせてやりたいだろ?」

 

「本当にそうですね。きっと、僕らのことを羨ましく思われるでしょう。

 ところで、当時の関係者へのインタビューに、僕も参加させていただけないでしょうか」

 

 ユリアンの申し出に、アッテンボローは青灰色の瞳にしてやったりという色を浮かべた。『歩く規律』ことムライ参謀長にも、ユリアン・ミンツ中尉の受けはよかったのである。こうして、アッテンボローは緩衝材も巧みに入手したのだった。 

 

 アッテンボローは、手土産のブランデーをユリアンと自分のグラスに注ぐと、グラスを持ち上げた。

 

「では、ユリアン・ミンツの健康と今後の健闘を祈って乾杯だ。

 それにしても、おまえさんは三十歳になることを嫌がっちゃいないんだな」

 

「子持ちの既婚者に、年齢も何もありませんよ」

 

「あ、おまえね、そういう言い方は可愛くないぞ」

 

「三十男が可愛い方が問題でしょう」

 

「ま、確かに言えてるか。じゃあ、改めて乾杯だ」

 

 澄んだ音を立てて触れ合うグラスの中、揺れる琥珀の波。彼らを結びつけた人が、特に好んだ銘柄だった。

 

 それから、大学の仕事の傍ら、ユリアンの調査が始まった。宇宙はほぼ統一されたが、ハイネセン共和自治政府国民にとって、銀河帝国は『外国』である。これこそが歴史的な快挙なのだ。旧帝国と旧同盟の百五十年戦争中は、互いを『銀河連邦の簒奪者』『叛徒』と罵り合い、国家として認めていなかった。

 

 それぞれを独立した主権ある国家と認め、両国の憲法に『外国』への移住と国籍の離脱、選択を認めた。両国間で国際法を制定し、法に基づいて外交を行う。これにより、国籍を変えることなく、旅券の所持と出入国時の審査のみで、国家間の行き来を可能にしたのである。

 

 

 法に(うた)ってしまえば、たったこれだけ。だがこの法がなかったからこそ、百五十年間にわたって無数の人命を奪い、それに数十倍する悲嘆と憎悪を生み出した。

 

 この国際法は、銀河連邦成立以前、星系政府ごとに『外国』という概念があった時代の法律が基礎になっている。およそ八百年以上は前のものだ。

 

 ラインハルトの死後まもなく、この構想を聞いた銀河帝国の首脳部――特に文官――は、大いに驚かされた。エル・ファシルの独立宣言から二年弱。イゼルローン共和政府に至っては、一年足らずの歴史しかない。これは、到底短期間で構想しうるものではない。

 

 やはりというべきか、黒衣(くろこ)は故ヤン・ウェンリー元帥である。彼は、第七次イゼルローン攻略で、同盟は帝国と講和を結ぶ条件が整うと考えていたようだ。もともとは、銀河帝国と講和を結ぶことができるならという仮定の下で、考察された案だったという。これを聞かされたとき、(かえ)らなかった和平の卵を思い、人々から惜しむ声が絶えなかった。

 

 アムリッツアの大敗で、二千万人が帰還しなかった旧同盟だけではなく、焦土作戦で飢え、その後に『神々の黄昏』作戦により、数多くの死者を出した帝国からも。

 

 ともあれ、旧同盟領と帝国領との往来は、大幅に平和的なものになった。それまでの百五十年、国家レベルでは軍事侵攻、個人レベルでは亡命が交流方法のすべてだった。なんとドラスティックに変革されたことか。フェザーンにはバーラト星系共和自治政府の駐留事務所が置かれて、ハイネセンではその逆である。

 

 帝国の情報の入手も、格段に向上した。特にゴールデンバウム朝の資料は、現王朝の清新さを

強調する意味もあって、飛躍的に公開が進んだ。前王朝が続いていたら、絶対に公開されることはなかったであろう、流血帝や痴愚帝の行状まで。

 

 しかし、アッテンボローから教えられたミヒャールゼン提督暗殺については、非常に資料が少なかった。ヤンが調査していた時代でさえ、すでに三十七年が経過していた事件である。それからさらに四半世紀を(けみ)して、生存している証言者候補の平均年齢は九十歳以上。

 

 彼らのほとんどは、人事異動発表のために、軍務省に居合わせた二十代の若手士官である。当然、階級も年齢相応であり、中佐が最高位だった。彼らにとっては、中将ミヒャールゼンは雲の上の存在である。

 

 だが、多数の軍人がいる中での犯行というのが、逆に計画性を示唆するものである。容疑者を水増しさせ、一方で目撃者はいない。犯行推定時刻に、人事発表のトラブルで、千人近い士官から怒号があがる騒ぎが起きていた。これは、軍務省上層部が関与した犯行、むしろ『処置』ではないのか。

 

 軍務省の中で、中将閣下が白昼堂々射殺され、犯人は不明。こんな事件が同盟軍で起きていたら、捜査に当った憲兵の上位者が、まとめて更迭(こうてつ)される失態である。だが、当時の軍務省の資料には、該当しそうな更迭人事が見当たらない。

 

 ユリアンは資料を前に考え込んだ。

 

 そして、ジークマイスター提督の亡命。彼の家庭環境と、ミヒャールゼンとの関係。亡命したジークマイスターは、同盟軍に中将待遇で迎え入れられていた。では、何の職務を行っていたのか。

 

 同時期のブルース・アッシュビーと730年マフィアの戦果。時に戦理に背馳(はいち)した作戦でありながら、結果的には大勝利した第二次ティアマト会戦。彼は、戦局を読むことに長け、勝利の女神よりも時の女神の寵愛を受けていたと僚友に評された。

 

 やがて、ユリアンはこの三題噺の底流にあるものを推測した。それは――――。

 

 一年半が過ぎた。その間、アッテンボローからの課題の調査だけに止まらず、彼と一緒に当時の関係者に話を聞いて、若き日の師父の横顔を垣間見ることになったり、ユリアンにとっては思いがけず楽しいものだったのである。

 

 インタビューの相手は錚々(そうそう)たるメンバーだった。

バーラト星系共和自治政府事務総長、アレックス・キャゼルヌ

同、フェザーン駐留事務所長 ムライ・マサノリ

同、教育省長官 シドニー・シトレ

ほか多数。

 

 当時のエコニア捕虜収容所のナンバー3として、ヤン少佐は赴任した。本来ならば、上官二名にもインタビューがしたかったのだが、当時の所長は、公金横領と背任罪などで起訴され、懲役中に病死していた。副所長は、アムリッツア会戦で還らぬ人になっている。

 

 故アルフレッド・ローザス退役元帥の孫娘だった、ミリアム・ローザスには、ヤンの遺品の住所録の宛先に手紙を送ったが、所在不明で返送されてきた。

 

「ヤン提督が、同盟軍の人事記録を更新し続けたとは聞いていたけど、

 これ相当なものよ。人事部は何考えてたのかしら」

 

 薄く淹れた紅茶色の髪をしたユリアンの妻は、資料整理を手伝いながら、呆れたような口調で夫に言った。

 

「なにこれ、エコニア捕虜収容所在任、宇宙暦788年11月9日から11月23日って。

 たったの二週間よ。往復の移動時間の方が長いじゃないの」

 

「あ、本当にそうだね」

 

「収容所での捕虜叛乱発生が11月9日!? 着任したその晩ってどういうことなのよ」

 

「これは、ムライ事務長に伺ったことだけど、エル・ファシルの英雄が、

 辺境の捕虜収容所にやってきたから、汚職に手を染めていた所長が

 疑心暗鬼にかられたそうだよ」

 

 淡々と経緯を語って、最後に『困ったものだ』と付け加えた元参謀長を思い起こし、ユリアンはくすりと笑った。

 

「それこそ、パトリチェフ副参謀長が、ムライ事務長に言った与太話みたいにね。

 ヤン少佐が、統合本部からの特命で派遣された秘密監査員に違いないって」

 

「ちょっと、冗談でしょ」

 

「カリン、僕たちはヤン提督を知っているから、冗談にしか聞こえないよ。

 でも、当時の報道だと、ヤン少佐は大変なエリート扱いをされたそうだよ。

 エル・ファシルの脱出行で、三百万人の民間人を救い、一日で二階級を昇進したんだ。

 それが、辺境の捕虜収容所の参事官に赴任するんだからね」

 

「たしかに、普通はそんな人事はしないわよね。

 統合作戦本部とか、宇宙艦隊司令部とかそういう花形部署に異動するならわかるけど」

 

 ヤン・ウェンリーは、その敵手だった皇帝(カイザー)のような美貌の持ち主ではないが、年齢よりも若く見えて、温和そうな表情の、そこそこのハンサムだった。中肉中背で黒髪に黒目と、平凡なだけに反感や嫉視を受けにくい、得な容貌とも言える。何よりもその大功と、ずば抜けた若さから絶大な人気を寄せられたものである。

 

「多分、コステア所長には嫉妬もあったんだろうね。

 兵卒からの叩き上げで、もうすぐ六十歳の大佐と、

 士官学校を出て、たった一年で大功を()てて英雄と呼ばれ、

 中尉から少佐に二階級昇進した相手ではね」

 

 エル・ファシルの脱出行当時、ユリアン・ミンツは六歳、カーテローゼ・V・C・ミンツは四歳。当時、ヤン・ウェンリーの顔は散々報道されたが、五歳前後の子どもにとって大人は大人。おじさんでなければ、おじいさんである。微妙な年齢差など分かるものではない。年齢を重ねていくにつれて、理解することも多いのだ。

 

 こうして改めてヤン少佐の写真を見れば、年齢より二、三歳若く見えるというのも良し悪しである。率直に言って、まだ十代にしか見えない。これでは、エル・ファシルの住民達にさぞ突き上げを食ったことだろう。そして、ただ一人の味方だった十四歳の少女は、より義侠心に駆られたに違いない。

 

 士官学校の先輩と後輩の証言によると、ヤン士官候補生十八歳のみぎりには、すでにそうであったらしい。二十代後半に入れば得でしょうけど、十代なら成長の遅れですよ、とはキャゼルヌ夫人の弁である。結婚前に、ヤンとアッテンボローに手料理を振舞ったことがあるが、先輩と後輩は年齢が逆転して見えたそうだ。

 

 ヤン士官候補生の実技教科の低空飛行も、このハンデが多少影響したようだ。宇宙船育ちの本の虫という生育歴と、努力しても無理なものは無理と割り切る、本人の性格を上回るものではないだろうが。

 

「捕虜の人質になった副所長の身代わりになりに行け、って言うんだものね。

 こんな若い少佐を、叛乱している捕虜の中に放り込んだら、どんな目に遭わされることか……」

 

 カリンは溜息をついた。

 

「そんな命令、突っぱねればよかったのに」

 

「本当にそうだね。でも、上役に味方がいないからそうもいかなかったんだろう」

 

「でも、ユリアン」

 

 カリンは、デスクの後ろに回ると、椅子に座った夫の肩を抱いて、耳元で囁いた。

 

「三六〇万ディナールとヤン少佐の命が引き替えにならなくて、

 本当によかったわ。もし、そんなことになっていたら、

 きっと、私たちが出会うことも、家族になることもなかった」

 

「歴史に『もしも』はないっていうのが、ヤン提督の持論だったけどね」

 

「ユリアン・ミンツ、あんたは賢いのに時々馬鹿ねぇ」

 

 少女の頃そのままの、勝気な笑みを浮かべて、彼女は夫の頬にキスをした。

 

「『もしも』はなくても、考えてはいけないなんてことはないのよ。

 あのヤン提督のことだから、よりよい未来のために現在をどうするか、

 歴史の『もしも』から色々考えたはずじゃないの」

 

「賢者は歴史に学ぶ、か。確かに君は賢者だな。

 でも、着任した日の晩の叛乱だよ。ヤン提督がどうこうするような時間はなかった。

 どうしたのか予想はつくけどね」

 

「あら、どんな予想?」

 

 ユリアンはエコニア収容所の関係者のリストを指でなぞった。

 

「ヤン提督は、人の手を借りるのが上手だったんだ。

 自分が苦手なことは、それが得意な人にお願いしたんだよ。

 きっと、これに載っている、今はいない人にね」

 

 フョードル・パトリチェフ大尉、二十六歳。最終階級は少将。ヤン艦隊発足以来、副参謀長を務めた。司令部の緩衝材などと言われた陽気な巨漢で、司令官とは三次元チェスの好敵手だった。彼が、響きのよい声でヤンの作戦に賛意を示すと、なんとも言えない安心感が漂ったものだ。

 

 一見すると参謀向きには見えないのだが、彼は複雑な事象を、過不足なく単純化して説明することができた。実は貴重な才能である。ヤンが考案し、ムライが細部を詰めて修正した作戦案を、戦艦レベルで実行できるものにする。それを艦隊運用の名手だったフィッシャー中将が統率して、宇宙最強のヤン艦隊となったのだ。

 

 宇宙暦800年6月1日深夜、恐らくは最後まで司令官の楯となったのであろう。多数の銃創は、どれが致命傷となったのか不明である。三十八歳だった。

 

 そしてもう一人。

 

 捕虜収容所の捕虜たちのまとめ役だった、クリストフ・フォン・ケーフェンヒラー男爵。階級は、銀河帝国軍大佐。二十五歳で少佐として軍隊に入り、捕虜になったのは二十八歳。男爵号を持っているということを考慮に入れても、かなり早い昇進である。順当に行けば、ヤンやアッテンボローと同じく、二十代で閣下と呼ばれていただろう。第二次ティアマト会戦で捕虜となり、エコニアでの生活は四十三年間に及ぶ。

 

 宇宙暦789年1月1日、惑星マスジッド宙港にて、急性心筋梗塞により死去。七十一歳だった。



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第二章 魔術師の系譜

 そしてこの日。アッテンボローの新聞社の資料室に共同著作者は集合した。ユリアンは、ファイルの中身を一読し、二十五年前の大佐と少佐の推測と、自分のそれがほぼ一致していることを知った。旧銀河帝国と旧自由惑星同盟を繋ぐ、謀略の糸。彼らと自分の推測は同一の方向を示したが、それは事実なのか。

 

 ゴールデンバウム王朝も自由惑星同盟も滅んだ今、アッシュビーの勇名はヤン少佐が調査していた時とは違う。もっと詳細な情報を得ることができるし、それを双方の陣営が検証することも可能だろう。ヤンの次の誕生日までに出すには、もったいない題材だと思うのだが。

 

 しかも、そのタイトル案ときたら『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿――』である。

 

「そのタイトル案はなんとかなりませんか。ちょっとあまりにもあざといですよ」

 

 アッテンボローが机上に置いた企画書を前にして、三十二歳のユリアンは、端正な顔に何ともいえない表情を浮かべた。

 

「何を言う。馬鹿正直に『ブルース・アッシュビー提督に関する考察

 クリストフ・フォン・ケーフェンヒラー原案 ヤン・ウェンリー編 追補 俺たち二名』

 にして売れると思うのか、おまえさんは」

 

「そちらの方が有名人が沢山入っていて、いい題名じゃありませんか?」

 

 ユリアンの指摘に、アッテンボローは一瞬考え込んだ。

 

 

「お、言われてみるとそうだな。ネームバリューは確かにあるか?

 いやいや、そんなお堅い題名じゃ、手に取ろうって気にならないだろうが」

 

 すっかりやる気の新聞社社長を前に、ユリアンは溜息を吐いた。

 

「タイトル詐欺って言われますよ」

 

「そうならないようにするのが、俺たちの腕の見せ所だろ。

 エルファシルの英雄の、秘された次の任務ってやつだぞ」

 

 エル・ファシルの英雄は、アスターテでも英雄で、イゼルローン無血攻略を果たした魔術師だ。アムリッツアの大敗でも麾下(きか)艦隊の七割を生還させ、ガイエスブルグ要塞を撃破した。バーミリオン会戦では、三名の提督を手玉にとって、皇帝ラインハルトを指呼(しこ)の間に追い詰めた。帝国に叛旗を(ひるがえ)して、イゼルローンを再奪取して帝国軍を破った。テロによる非業の死まで、一度として敗れることがなかった『不敗のヤン』。

 

 それにまつわる著作を、彼らが出そうというのだから、反響の大きさは予想がつく。

 

「これってインサイダー取引みたいなものですよね」

 

「それがどうした」

 

 アッテンボローは、自称宇宙最強の台詞で応じた。

 

「当時概要を教えてもらってはいたが、本日を持って機密ではなくなったんだぜ。

 覚えていた者の勝ちだな」

 

「それは建前はそうですけどね」

 

 常識論を口にする十三歳下の友人に、アッテンボローは人の悪い笑顔を作った。

 

「滅びた国の記録だと思って、場当たり的に保管していた帝国が間抜けなのさ。

 まあ、ケーフェンヒラー大佐の名前を前面に出したから、

 当時はB級重要事項に指定されたんだ。

 おかげで、先輩の名前を見逃しちまったんだろうよ。何が幸いするか分からんな」

 

 ヤンに関わる記録は帝国に移管されて、より高レベルの機密事項に指定されている。『無駄飯食い』と呼ばれていた頃に、反故(ほご)にされた作戦案の再検証をした帝国軍務省が、職員の胃痛で医療費を圧迫していることを彼らは知らない。

 

「そういえば、僕がイゼルローンに行ったばかりのころに、

 アッシュビー提督の祝日があったんです。

 僕に教えてくれたのは、アッシュビー夫人のラブレターの話でしたよ。

 こんなことは一言も口になさらなかった」

 

「その辺、先輩は徹底してたからな。愚痴は言うけど、なかなか本音を言わないんだ。

 で、たまに口にする本心に、みんなやられちまうわけだよ。ここをな」

 

 アッテンボローは複数形を使用して、親指で左胸を指した。

 

「それにしてもあの頃は、二十五年なんて遥か先の事だと思っていたんだがなあ。

 きっと帝国との戦争が当たり前に続いていて、

 俺も生き残っているかどうか、なんて考えていたわけだ。

 まさか、ヤン先輩の言うとおり、自由惑星同盟と、

 銀河帝国ゴールデンバウム朝が共に滅亡するなんてな」

 

 コーヒーの水面を彼はじっと見つめた。

 

「その時にな、このケーフェンヒラー老人の考察には不足しているものがあると言っていたのさ」

 

「なんですか」

 

「もっと多くの情報だよ。

 ケーフェンヒラー老人は捕虜収容所に四十三年間もいたんだ。

 俺の年齢とそんなに変わらない間だぜ。それはそれで想像を絶するよな。

 ま、そんな中で彼が入手できた資料は、質、量ともに不十分だ。

 同盟のものだってそうなんだから、帝国の情報は推して知るべしだろ?」

 

「ええ、そうですね。」

 

「情報の入手については格段に向上したよな。それでヤン先輩はこうも言っていた。

 自分よりも、もっと才能のある人間が現れて、この考察を解明してくれるかもしれないってな」

 

「それはそれは」

 

 ユリアンは思わず天を仰いだ。

 

「あんまり重圧をかけないでくださいよ、アッテンボロー社長」

 

「まあ、俺もそこまで綿密な考察本にする気はないよ。

 最初に言っただろ、底なし沼になっちまうって。

 タイトルどおりの軽いものでいいじゃないか」

 

「どうしてですか」

 

「このケーフェンヒラー老人は『魔術師』の師匠だと思うんだよ」

 

 怪訝そうな色を浮かべるユリアンに、アッテンボローは真面目な顔で言った。

 

「断片的な情報から、事実を見つけることさ。

 同盟と帝国の諜報網だけの話じゃないぞ。

 この爺さま、もっと大したことをやってるじゃないか。

 一介の捕虜が収容所所長の横領を見抜いたのに、

 収容所の監査や軍の査閲部は何してたんだよ、ってことになる」

 

「おっしゃるとおりです」

 

 謀略論に気をとられていたが、当時の同盟軍にとっては捕虜の叛乱とその背後に潜んだ横領事件の方が大きなウェイトを占めていたに違いない。

 

 横領された三六〇万ディナールを、所長の平均在任期間三年で割れば、 一日約3,288ディナールである。ちなみに、十五歳当時のユリアン・ミンツ兵長待遇軍属の月給は、1,440ディナール。兵士約二人分の月給というのは少なくないが、捕虜55,400人の生活費を一人一日0.05~6ディナールずつ削減すると、ちょうどその額に近似する。四十三年間も収容所にいた老人に、わずかな差異を見抜かれたのだろう。

 

「で、ヤン先輩を犠牲の英雄にして、パトリチェフのおっさんを犯人に偽装して

 口を拭って退役する気だったんだろ。

 彼が見抜いてくれなけりゃ、ムライのおっさんは死者二名の捜査をしただろうよ。

 俺たちにとっちゃ、足を向けて寝られんほどの恩人さ。

 何の(ゆかり)もないマスジッドに、墓参りする人もなく眠らせておくのは

 忍びないじゃないか」

 

「この本がきっかけになって、ケーフェンヒラー大佐の血縁者が見つかると思いますか?」

 

「そうなったらおとぎ話なみのハッピーエンドだが、期待はできないな。

 帝国本土で、ベストセラーになるとは思えんからなあ」

 

「そうですね。どちらかといったら発禁図書でしょうねぇ」

 

「が、帝国の軍務省やら内務省はどう出ると思う?」

 

「…………なるほど」

 

 ユリアンが浮かべた表情は、年長の悪友の影響を色濃く受けたものだった。ヤンが見れば『誰に教わったんだ』とショックを受けるのではないだろうか。

 

 実は、アッテンボローはユリアンにこの話を持ちかけるにあたって、ケーフェンヒラー男爵家について、帝国内務省に質問状を送ってあった。

 

 ヤンの報告書には、ケーフェンヒラー老人の経歴がかなり詳細に記載してあった。ケーフェンヒラーは男爵だった。おそらく長男として父の後を相続したのだろう。結婚して間もなく、妻が他の男のもとに出奔し、その男との子を出産したこと。彼は妻との離婚に応じないまま捕虜となったので、子どもはいない。

 

 彼が生きていたら九十六歳、もしも弟妹がいたとしても、相当な高齢である。その子や孫には、捕虜になった彼の存在が知らされているのか。だが、それはケーフェンヒラー家が存続しているのが大前提である。

 

 それを聞かされたユリアンは、浮かない表情で言った。

 

「リップシュタット戦役でどうなったか、でしょうね」

 

「ああ、内務省に送った質問状は未だに梨のつぶてだ。

 この一年半、一月おきに催促してこれだぞ。

 単に黙殺されているのか、あちらさんにも記録がないのかも分からん」

 

 門閥貴族を武力で排除したものの、貴族階級は旧帝国の知識階級でもあった。文官不足は今なお深刻である。

 

 新領土の統治は、旧同盟の星系自治体組織の上に、帝国の行政官を配置する方法で行われている。たとえデータがあっても、地元民の知識とマンパワーには絶対に敵わないからだ。故ロイエンタール元帥に匹敵する統治能力の持ち主が現れない限り、再び新領土総督府を置くことは不可能だろう。

 

 だが、帝国本土にこそ重大な問題があった。帝国本土の貴族領の多くを皇帝直轄領としたため、そちらにも行政官を配置しなくてはならないが、地方自治が整備されていた新領土よりも、貴族領ごとの民生格差はひどいものだった。特に、大貴族ほど民生を軽視しており、農奴階級は戸籍の整備もされていないことがざらだった。

 

 これをこの十数年で挽回してきたわけだ。やはり、後回しにされるものが出てくる。

 

「激動の時代でしたから、新しい記録の方が整っていないんですよね」

 

 ため息混じりの若き歴史学者に、中年ジャーナリストも相槌をうった。

 

「同盟の記録を接収したのとは訳が違うからなあ。新帝国に余裕がないのは分かるさ。

 ただな、こいつは危険なことだぜ。皇帝ラインハルトの功績は巨大なものさ。

 あいつが、軍事政治の天才で金髪の美形だったことは否定は出来ん。

 だが、賞賛と崇拝だけで祭りあげられれば、ルドルフよりも毒だね」

 

「神格化される、そうですね」

 

「同じことがヤン先輩にも言えるのさ。いや、もうなりつつあるな。

 表面的に見れば、皇帝が勝てなかった相手で、

 奴と違って一人の民間人も犠牲にしちゃいない。

 同盟が存続している間、民主主義と法に則って行動してる。身辺も清潔この上ない。

 おまけに、報道される限りでは、温和で理性的で公正な紳士だった。

 どうだ、俺は嘘は言っちゃいないぞ」

 

「言わないことも多々ありますけどね」

 

 ダークブラウンの瞳に、懐かしい光景がよぎる。初めてヤン家を訪れた時、パジャマに歯ブラシをくわえて玄関に出てきた寝癖だらけの青年。積まれた本と、かびとほこりが同居の友だった。

 

 公的に残された発言は理性的なものが多かったが、不条理には決然と抗った。時に温和な毒舌で、時に鋭い舌鋒で。公的に残せなかったものには、より激しく。

 

 旧同盟政治家のホアン・ルイが、バーラト星系共和自治政府の政治家に転身した時に、例の査問会の内容を語ってくれたものだ。ヤンの皮肉や毒舌は、羽根布団の下の豆粒のようなもので、相手に相応の感受性を要求する。それがダイヤモンドの針と化して、身形のよい下賤の輩に突き刺ささり、惰眠から叩き起こす様子を、ユリアンはまざまざと脳裏に思い描いた。

 

「そのことを言ういい機会だろ。

 あの人が綺麗事を言うええかっこしいだった、って批評されるのはいいんだよ。

 先輩は、その綺麗事を本心から尊重して、自分の力の及ぶ限りに実行した。

 だから、みんながついていったし、民主共和制の象徴になりえたんだ。

 綺麗事も言えない、いい格好もできない指導者になんの価値がある?

 その結果、宇宙統一に無駄な流血を増やしたと言われても、

 民主共和制を残せたんだ、アムリッツァとどっちがましだと反論できる。

 だが、民主主義擁護の英雄にして不敗の名将、

 非の打ちどころのない聖人君子なんて言われたら」

 

 きっと、鏡に向かって『どちらのヤン・ウェンリーだろうね。おまえさんとは同姓同名だが大した違いさ』と顰め面をしたのではないだろうか。

 

「否定はできないんですが、納得もできませんね。

 連戦して不敗というのも、もう後のない状態で戦い続けるしかなかっただけです」

 

「そう、政府が悪い! だが、それは国民一人一人の罪なのさ。

 民主主義ってのは衆知を集めてやっていく体制だ。

 そいつが衆愚になっちまって、国民によって浄化もできなかった。

 ちゃんとチャンスはあったのにな。

 だから、先輩はおまえを、いや子どもたちを戦場に出さなくていいようにしたかったんだろう」

 

 アーレ・ハイネセンの精神を尊敬し、戦争を嫌い抜いた黒髪の青年。民主主義というものを、ユリアンに繰り返し説いてくれた、懐かしい優しい声。いつも分かりやすく、時に厳しく、自由と責任、個人の権利の尊重を教えてくれた。

 

「参政権ですね。子どもにはなかったから」

 

「ご明察」

 

 アッテンボローは冷めたコーヒーのカップを目の高さに掲げて、ユリアンに敬意を表した。

 

「ヤン提督は、運命とか宿命とか、そんな言葉を嫌っていました。

 たとえ、少ない選択肢でも自分が選んだことなんだからと。

 でも、子どもには政権を選ぶ力がない。だからなんですね」

 

「俺はそう思っている。だったら大人がなんとかすべきだと先輩なら考えたよ。

 きっと、おまえさんのおかげでな。

 あの人は欠点も多い人だが、おまえにはいい父親だったろ?

 きっと、十六歳の自分にいて欲しかった存在として振舞ったんだよ。

 本心から、でも無意識にな」

 

 ヤンが師父ならば、この人は兄のようなものだ。もう二十年来の付き合いになる。まったく、年月は早く過ぎるものだ。

 

「どうして、そこまでしてくれたんでしょう」

 

 ユリアンの質問に、アッテンボローは片眉を上げた。

 

「そりゃあユリアン、身内の縁の薄さといったら、ヤン先輩よりおまえの方が上だぞ。

 士官学校にいた頃な、俺は進学問題で親父と揉めてたんだ。

 その事を愚痴ったら、自分は墓石に文句を言うしかないって、ぽろっとこぼしたよ。

 だが、おまえが文句を言う墓石には、『ミンツ』の名が刻まれているか?」

 

 優しい声だった。

 

「おまえさんを責めてるわけじゃないよ。

 覚えていない相手や気の合わない相手に、愚痴の言いようもないからな。

 それでも、おまえの家族は、紅茶や家事の達人ぶりのなかでちゃんと生きてる。

 先輩の親父さんも、あの人の言動の中に生きていて、俺たちはそれを覚えてる。

 だが、このケーフェンヒラー大佐はどうだ? 」

 

 彼の最後の日々を共に過ごし、最期を看取った人たちはあの日天上へ去ってしまった。同盟軍の機密事項となっていたため、その存在を今まで公にすることもできず、独り惑星マスジッドで眠っている。

 

「子どもはいないし、親類縁者も所在不明。内務省からも回答なし。

 だが、軍務省と内務省が動けば、状況は変わるんじゃないか?」

 

「そんなにうまくいくでしょうか?」

 

「勝算はある。もし見つからなくても、本がベストセラーになれば、

 印税でケーフェンヒラー基金を作ろう」

 

 ユリアンは懐疑的な目を向けた。

 

「それこそ何とかの皮算用ですよ。で、基金でなにをするんです」

 

「毎週の花束と、月命日には帝国のビール。これでどうだ?」

 

「乗りました。あんまり印税がなくても、お墓参りには行きましょう」

 

「ああ、そうだな。そうと決まれば、キリキリと書いてもらうぞ。

 締め切りは二か月後だ。いいな」

 

 本業を抱えた大学准教授は悲鳴を上げた。

 

「短いですよ! せめて三か月!」

 

「それじゃ間に合わん」

 

 新聞社社長は、腕組みをしてにべもなく言い捨てた。

 

「では、二か月と二十五日でお願いします」

 

「おまえね、そういうとこはヤン先輩を見習わなくてもいいんだぜ。

 あんなに素直で可愛かったのに、汚れた大人になっちまって。二か月と五日!」

 

「何をおっしゃいますか。周囲みな教師だったんですからね。二か月と十五日で」

 

「じゃあ、二か月と十日、締め切りは11月10日だ」

 

「一日少ないじゃありませんか」

 

 冷然と見やる元中尉の瞳を、平然と見返した元中将は舌打ちをした。

 

「気付かれたか。まあ、切りもいいところで11月11日にするか。

 それでは『エコニア・ファイル』プロジェクト、始動だ」

 

「そのタイトル、絶対に再検討していただきますからね!」



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第三章 白き善き魔女

 そんなやり取りを経て、ユリアンは大学の仕事時間以外を執筆に充てることになった。睡眠を削り、食事や子どもの相手もそこそこに書斎の机に向かう。アッテンボローは、軽い読み物にすると言っていたが、アッシュビーと730年マフィアは同盟軍屈指の英雄だった。同盟の末期、ヤン・ウェンリーが台頭するまでは。

 

 だから、手抜きをすることはできないのだ。事象を単純化して、過不足なく表現をするには、内容を理解、把握していなくてはならない。そう、ちょうどパトリチェフ中将のように。

 

 ――730年マフィア――

ブルース・アッシュビー

アルフレッド・ローザス

フレデリック・ジャスパー

ウォリス・ウォーリック

ヴィットリオ・ディ・ベルティーニ

ファン・チューリン

ジョン・ドリンカー・コープ

 

 宇宙暦730年度卒の士官学校同期生たちが、十五年にわたって軍の中核をなし、偉大な業績を上げた稀有な例である。

 

 745年、第二次ティアマト会戦において大勝をあげたが、総司令官たるアッシュビーと第九艦隊司令官だったベルティーニが戦死している。同盟滅亡の五十四年前、最大の輝きであった。しかし、この第二次ティアマト会戦の戦術的勝利も、戦略的な状況の変化には結びつかなかったのである。

 

 歴史にもしもは禁物だ。だが、もしもブルース・アッシュビーが戦死せず、本人が示唆していたように政界に転身をしていたら? 『涙すべき40分間』により、将官を六十人も失った銀河帝国と講和を結べた可能性が高い。この背景を念頭に置くと、謀殺説は当時でも一定の説得力を持っていた。フェザーンの背後に潜んでいた、地球教の存在が明らかになった今日ではより一層のこと。

 

 アッシュビーという核を失って、730年マフィアは分解し、同盟軍の中核から退いていく。彼ら七人は、すべて元帥に昇進している。生前か死後かという違いはあれど、士官学校の同期生から七人の元帥が出た学年は、730年度生を除いて他にない。

 

 だが、生き残った五人の晩年は不遇であった。

 

コープは四十一歳で戦死し、残りの四人は要職を務めたのちに退役した。

 

 ウォーリックは政界に転身したものの、身近な人間の不祥事が相次ぎ、引退を余儀なくされる。隠棲して間もなく五十六歳の若さで心臓発作で急死した。

 

 ジャスパーは宇宙艦隊司令長官、統合作戦本部長を歴任、在職中に元帥号を授与された。退役後、妻とともに旧婚旅行中、帰路で宇宙船事故により夫妻そろって死去。六十一歳だった。

 

 ファン・チューリンは、厳格な為人(ひととなり)だったが、それだけに筋の通った人事と優れた実務能力の持ち主で、名本部長と称するに足りる業績を上げた。元帥に昇進した直後に退役する。家庭的には不遇で、妻とは離婚し、息子は早世していた。六十三歳の時に肺塞栓症に罹り、二度目の発作により死去。死を看取ったのはローザス一人だった。

 

 もっとも長く生きたのはアルフレッド・ローザスである。彼以外の730年マフィアの面々は、才覚ある艦隊指揮官だったが、皆、円満な性格の持ち主だとは言い難かった。その中にあって、接着剤や緩衝材として彼らをまとめたのである。大将として退役後、七十八歳で死去している。死因は睡眠薬の過剰摂取。ヤン少佐のインタビューの直後だった。

 

 これを知ったユリアンは、ヤンと先輩後輩トリオが、いかに口の堅い人々だったのか改めて実感した。ケーフェンヒラーの考察がB級重要事項になったことにより、ヤンが着手した、アッシュビー謀殺の告発文の調査もそれに含まれたのだ。そして、ヤンのインタビューとローザス提督の死という時系列が、例のファイルによって判明したのである。

 

「それにしても、二人とも人が悪いよ。

 お葬式にまで参加してて、僕には知らん顔をしてるんだからなあ」

 

 眠気覚ましのコーヒーを運んできた妻に、彼は愚痴をこぼした。

 

「今さら何を言ってるのよ。これまでの一年半、随分色々調べていたじゃない。

 あれじゃ駄目なの? 何か違うことがあったのかしら」

 

「調査の方向性は間違っていなかったんだけどね。

 これだけ資料を揃えた僕と、捕虜収容所にいたケーフェンヒラー大佐と

 同じような結論だったっていうのは、本職として忸怩たるものはあるんだけど」

 

「年季と持っていた情報が違うんだから、単純に比べてもねぇ。

 ミヒャールゼン提督だったかしら、その人が暗殺された後から

 考え始めたのなら、三十年以上の時間があったんでしょ?」

 

「うん、それは分かってる。痛いのはローザス提督のお孫さんと連絡が取れないことなんだよ。

 彼の死のきっかけが、ヤン提督の調査にあるのかはわからない。

 でも、本に載せてもいいものかどうか」

 

 考え込む夫に、カリンは呆れ交じりの笑顔を見せた。

 

「ユリアン・ミンツ、あんたって相変わらず真面目で不器用ね。

 自分にできないことはできる人に頼めばいいじゃないの。

 そういうところは、ヤン提督を見習いなさいよ。

 あなたの机に乗ってる回想録の著者は誰なのかしら」

 

 タイトルは『アルフレッド・ローザス回想録』、自叙伝だ。

 

「本の印税とか著作権って、遺族が相続するんでしょ?

 お金の絡む事だもの、出版社は絶対に知ってるわ。

 ここ、大手だから今も潰れていないし、この本はまだ書店で見かけるわよ。

 アッテンボローさんを通して、参考文献許可の件でって頼んじゃいなさいよ」

 

 がっくりと肩を落としたユリアンは、カリンを見て疲れた笑顔を見せた。

 

「そんなことも思いつかないなんて、僕は馬鹿だな」

 

 彼の手からコーヒーカップを取り上げると、カリンは威厳を込めて命じた。

 

「さあ、今日はもう寝なさい。寝不足でくよくよ考えても、碌なことにならないから」

 

 形のよい眉を上げて、シニカルに笑ってみせる妻の、彫りの深い美しい顔。彼女の父にそっくりだ。ここにも、亡くなった人が息づいている。ただ、それを言うと妻の機嫌が急降下するので、口に出してはこう答えたのみである。

 

「了解しました、ミンツ家総司令官殿」

 

「よろしい」

 

 力ない足取りで浴室に向かう夫を見て、彼女が吐いた溜息には、ほろ苦い成分が含まれていた。

 

「と、まあこういうことがあったんです。

 私としても複雑で――。こんな感情は醜いなあっていうのは頭では分かるんですけど」

 

 カリンが相談を持ちかけたのは、キャゼルヌ夫人であった。家事の神様は、ヤン家の男の妻二代にわたる師匠になってくれたのだ。ユリアンとカリンの夫妻は、欠損家庭に育ったという点で共通していた。夫は必要に迫られて家事の達人になったが、妻はパイロット専科学校から軍隊へ入隊し、ある意味で衣食住には不足しない境遇だった。

 

 これでは、家事全般が経験不足である。フレデリカと違うのは、カリンには時間的猶予が十分にあったことだ。ユリアンは、イゼルローンからハイネセンに帰還後、一年余りを準備期間に充ててハイネセン記念大学を受験した。なんとか一発合格を果たし、自分より年少の生徒が多い中で学び、大学院に進んで歴史学科の講師となった。そうして、経済基盤が整ってから、ユリアンは恋人にプロポーズした。カリンも専門学校に通って新たな技能を身につけ、再就職を果たした。

 

 その間、彼女はキャゼルヌ夫人に師事して せっせと家事の修行に励んできた。ヤン・ウェンリーは、自分ができない分、妻の家事技能には鷹揚であった。しかし、彼女の恋人は、練達の技の持ち主である。

 

 カリンにも女としてのプライドというものがある。負けず嫌いの意地っ張りは、向上心が高く自分に厳しいという長所でもある。ユリアンとささやかな式を挙げる前には、師匠から及第点のお墨付きを頂いたのである。

 

 その後も、家事に育児に、オルタンスはカリンの師匠であり、母と姉の中間の存在であった。ユリアンにとってのヤンのように。

 

「なんか、夫も父親もヤン提督に取られちゃた気がするんです。

 あんな不良中年、父と認めるのも癪なんだけど」

 

 子どもたちの保育園の帰りに、オルタンスとマーケットで出会って、近況を話すうちにふと口をついて出たのだ。カリンの表情と、膝にまとわりつく二人の男の子を見比べて、彼女はマーケットのフードコートに場を移すことにした。子どもたちを遊具コーナーで遊ばせて、目の届く席に座ると、カリンの言葉に耳を傾ける。

 

「ユリアンとシェーンコップさんは違うわよ。

 ユリアンにとってヤンさんは父親で、親の死を乗り越えるのは大変だもの。

 ましてやあんな亡くなりかたをされたんじゃあね。

 カリン、あなたにも一部は当てはまることだけれどね。

 ユリアンにとって父親を亡くすのは二度目なのよ」

 

 フードコートの安いオレンジジュースで喉を潤して、オルタンスは続けた。

 

「トラバース法の実施には、アレックスが関わっていたけれど、

 あれが最高委員会を通過した時は、なんという悪法なのかと思ったものよ。

 実の親を亡くした子を軍人が引き取って、また義理の親が戦死したら、

 その子が帝国を憎まずにいられるかしら? 自分の身に置き換えて考えてごらんなさいな」

 

 カリンの整った眉宇が、見る見る鋭角的な角度を描いた。

 

 

「絶対に無理です」

 

「ええ、悪質な洗脳となんにも変わらないでしょう。

 まったく、自分も身内も従軍していない政治家の考えそうなことよねぇ」

 

 いつもおっとりとした賢夫人は、確かにキャゼルヌの妻だった。 

 

 

「しかも軍人になれと、小中学生に養育費という借金を負わせるのよ。

 親を亡くした子どもにですよ。こんな馬鹿な話がありますか。

 奨学金目当てに士官学校を受験するのとはわけが違うわ。

 職業選択の自由の侵害、立派に同盟憲章違反ですよ。

 政府がまともなら出てくる法案じゃないし、国民がまともだったら違憲訴訟になったはずよ。

 戦災孤児という弱者に対してこの仕打ちでしょう。

 この国はもうだめなのかしらと、そう思ったわ」

 

 カリンがちょっと驚くほどに強い語調だった。この人も、軍人の妻として口に出せないこともあったのだ。

 

 

「ああ、ごめんなさい。話が逸れたわね。

 法案が通ってしまうと、現場の人間は従うしかないのよ。

 アレックスもやる偽善のほうがましだって、随分自分を誤魔化していたわ。

 上層部への意趣がえしもあったんでしょう。

 本当はヤンさんは独身で対象外だったけど、無理を通したのよ」

 

「でも、ユリアンを引き取った時は大佐だったんでしょう。

 それこそ危なかったんじゃないんですか」

 

 カリンの問いに、オルタンスは微かに微笑んだ。

 

「あなたはシャルロットと五つ違いだったわね。それじゃあ、覚えていないわよね。

 アッシュビー提督の勝利の後はね、戦争もマンネリ化して、

 政治ショーになっていた時期があってね。

 選挙が近づくと、与党支持率のために出兵するようなこともあったわ。

 あの綺麗な皇帝(カイザー)ラインハルトが台頭してくるまで、

 艦隊司令部の佐官が戦死することは少なかったの」

 

 ヤンが『無駄飯ぐらい』だとか『非常勤参謀』だと陰口を叩かれていた頃だ。

 

「だから、ユリアンを預けたのだと思うわ。

 あの人には帰るところ、迎えてくれる人が必要だったのよ。

 そういう戦況でしょう、相手にお引き取りを願うような作戦案は歓迎されなかったそうなの。

 ヤンさんは強く言う相手に、食い下がって我をとおす人ではなかったし、

 シトレ元帥派の出世頭と思われて、余計にロボス元帥派に冷遇されていたから。

 でも、自分しか頼る相手のいない子が家族になって、本気を出したのね」

 

 ユリアンを引き取った二十七歳の大佐は、二年後には大将となっている。それも二十九歳の一年間に、准将から三階級を駆けあがってのことだ。アッシュビー提督の調査をした時に、己の栄達を想像もしなかった二十一歳の少佐は、調査対象よりも五歳早く元帥に昇進し、二年早く亡くなった。

 

「もっと早くにヤン提督が昇進なさっていたら、違ったのかしら。

 でもヤン提督って、一番長く務めた少佐も四年はやっていませんでしたよね」

 

 正確には三年十ヶ月である。それでも二十五歳で中佐というのは非常に早い昇進だ。エコニア騒動の際に、タナトス警備管区参事官だったムライの階級である。士官学校卒者が三十代半ばで中佐になれば標準、四十歳でも遅いとは言えない。退役までに閣下と呼ばれる者は少数なのだから。この時点で、すでに十年ほど出世街道を先行していたヤンであったが。

 

「ええ、そうよ。それで三十一歳の時に元帥閣下ですよ。四半世紀ほど早いわよねえ。

 それは、あの人にとっては不幸なことだったでしょうけれど。

 ねえ、カリン、ユリアンのことはそんなに心配することはないわ。

 ヤンさんの亡くなった歳に近づいて、あの人と自分との差が気になりだしただけだもの。

 家でごろ寝をしていたお父さんを、就職した子どもが見直すようなものね。

 アッテンボローさんなりの温情だと思うわよ」

 

「そうなんですよね。ユリアンに影響を与えて、今の彼を作ったのはヤン提督なんです。

 逆に、ヤン提督が特別じゃないユリアンの方が想像がつかないわ」

 

 仮にそうなったら、自分は夫に精神科の受診を勧めるか、立体TV(ソリビジョン)ドラマばりのなりすましを疑うだろう。確かに想像もつかないことだ。

 

「ありがとうございます、ちょっとすっきりしました。

 ところで、私の父は違うって、どういう意味なんですか?」

 

 オルタンスは、決まり悪げな表情をした。いつも泰然自若とした彼女には珍しい態度だった。

 

「ああ、ごめんなさい。失言だったわ」

 

「気になりますから教えてください」

 

「その、怒らないで聞いてね。

 あなたとシェーンコップさんは、出会うタイミングが遅かったのよ。

 普通の人は――特に私たち女は、誰かを愛したら、

 その人と幸せになりたい、一緒に生きたいと思うでしょう」

 

「はい」

 

「でも、英雄と呼ばれる人たちは、それ以上の力で人を惹きつけてしまう。

 『あの人のためなら死んでもいい』」

 

 控えめなローズ色の唇から紡ぎだされた言葉によって、カリンの聴覚から、フードコートの喧騒が引き潮のように遠ざかった。

 

「皇帝ラインハルトが、ヤン・ウェンリーが持っていた力よ。いいえ、呪いみたいなものね。

 力という点では、あの人の方が強かったかもしれないわ。

 あなたのお父さんや、二百万人の兵士たちが自由惑星同盟よりも彼一人を選んだの。

 いえ、選んでしまっていた。あなたが先に出会っていたら、そうはならなかったかもしれない」

 

 ここまで話したオルタンスは、気遣わしげにカリンの顔を覗き込んだ。

 

「ごめんなさいね、カリン。大丈夫かしら」

 

「あんまり大丈夫じゃありませんけど、続けてください」

 

「司令官としてのヤンさんは戦争の天才だったわ。

 でも個人としては、本当に普通の優しい青年だった。

 害虫はともかく、蝶や蜻蛉は殺せないような人よ。

 その人が、巨大な責任を背負って立ち続けていた。

 一人でも多く部下を死なせないように、

 そして国民、いえ人間が自分自身でいられるようにね。

 それをみんな肌で感じたのよ。

 だから、あの人を助けてあげたい、命を賭けてもいいと思わせた」

 

 『新兵と敗残兵の混成部隊』を宇宙最強の精兵になさしめた、ヤン・ウェンリー最大の魔術。種も仕掛けもあった戦術とは異なり、彼自身の魔力によってなされた奇蹟だ。皇帝ラインハルトやブルース・アッシュビーのように、自身のカリスマで部下を牽引したのではない。

 

 カリンの脳裏に、あるイメージが喚起された。綻びの目立つ古い家を守るために、朔風(さくふう)にまだ細い幹を晒し、精一杯に枝葉を広げて立つ木。頼りない外見とは裏腹に、暴風の元凶である太陽を地に落とすことができる魔法の木だ。

 

 とても頑丈とは思えないそれを、背後から多くの手が支える姿を。その手の中に、彼女の夫や父親、オルタンスの夫がいた。二百万人にのぼる誰かの父、誰かの夫、誰かの息子たちも。

 

「アレックスがそうならなかったのは、名将でない頃からヤンさんを知っていたせいでもあるし、

 私たち母娘のおかげでもあるわ。もちろん、得意分野の違いは大きいでしょうけれどね」

 

「もっと早くに父に名乗り出ていればよかったのかしら」

 

「巡り会わせというのはありますからね。あなたの存在をもっと前から知っていたら、

 あんなに勇猛な戦い方はできなかったかもしれないわね。

 その結果、ヤンさんの部下になる前に退役していたかもしれないわ。

 だから、私にはなんとも言えないけれどね」 

 

 テーブルの上で握り締めたカリンの手を、家事の神様の手がそっと包んだ。

 

「命を賭けられるような相手と出会えたのは、

 お父さんにとって一つの幸福なのかもしれないわよ。

 どんなに喪失に苦しむとしても、出会えないで人生を終えるよりも、

 ずっと幸せだったと思うの。

 ユリアンとヤンさんのようにね。でもね、カリン、これだけは言えるわ」

 

 励ますように手を握り、限りなく優しい笑顔を見せた。孤独な少女に、幸福をもたらす白き善き魔女のように。

 

「亡くなった人には勝てないってよく言うけれど、逆もまた真なり、よ。

 亡くなった人のために、ずっと生き続けることはできないの。

 一番強いのは生きている人間よ。これから時間はいくらでもあるわ。

 あの人たちの分も幸せにおなりなさい。子どもの幸福を願わない親はいないんだから」

 

 夢中になって遊んでいる息子二人を遠目に見ながら、カリンはひっそりと涙をこぼした。




※朔風=北風


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第四章 黒い魔女の羅針盤

※オリジナルのキャラクターが登場します。ご注意ください。


 関わった人々に悲喜交々(ひきこもごも)をもたらした、『エコニアプロジェクト』の総指揮官もまた、多忙な日々を送っていた。だが、こういうことに取り組むと、嬉々として精彩を放つのがダスティ・アッテンボローという男である。

 

 当時の関係者へのインタビューの文章化と、ユリアンから提出された参考文献に関する調整。公金横領を行った捕虜収容所所長のコステア大佐の、軍法会議の記録の整理。いずれも楽な仕事ではない。

 

 第二次ティアマト会戦は今から六十八年前のことだ。それにまつわる著作は絶版されたものも多い。また、弱小の出版社は同盟滅亡の煽りを受けて、倒産している場合がある。仕方なく、伝手をたどってやっと探しあてても、直系や近い傍系の親族は亡くなっていて、甥や姪にその子、孫といった遠縁の相続人しかいないという状態だった。順調に連絡がついたのは、アルフレッド・ローザスの孫娘のみという体たらくである。幸い快諾を貰えたので、まずは第一関門突破。だが道は遠かった。

 

「まさか、ケーフェンヒラーの係累を探す前に、

 参考文献の肉親調査で大変なことになるとはなぁ」

 

 一人でやるにはきりも果てもないので、著作権関係に強いという法曹事務所に依頼をして、そういった著作の相続人探しをしてもらった。

 

 エージェントは今年二十九歳になるという女性で、小柄でほっそりとした物静かな印象の人である。名前はリー・ユイラン。E式姓で、祖先のルーツを色濃く残した容貌だった。差し出された名刺には、帝国、バーラト両国の国家資格がずらりと並んでいる。どれも難関国家資格として有名なものばかりだ。これにアッテンボローは全面降伏し、調査について白紙委任状を提出した。

 

 弱小新聞社のかつかつの報酬で雇ったにも関わらず、半月ほどで一部の隙もなく調えられたリストと、連絡がついた相続人の内諾書まで揃えて提出された。残りのほとんども回答待ちで、連絡のつかないもの、相続人不明のものはあわせて三件だけだという。

 

 

 あまりの手際の良さに、呆気にとられたアッテンボローに、リーは細い首を傾げて問いかけた。

 

「報告は以上です。なにか不備な点がございましたら、何卒(なにとぞ)お申し付けください」

 

「いやいや、不備だとかじゃない。そこまでやってもらえるとは予想していなかったよ。

 ありがとう。本当に助かった」

 

 小作りで繊細な手が卓上に置いたファイルは分厚いものだった。一方、数ページにまとめたレジュメは、簡にして要を得たもので、相当の労力を費やしたに違いない。かなり費用の持ち出しもあるのではないだろうか。

 

「超過勤務の報酬をお支払いしないとならないな。

 うちもそんなに余裕はないが、きちんと請求してください」

 

「いえ、これは私の恩返しですから、必要経費のみで構いません」

 

「それはどういうことか教えていただけますか」

 

「私は、軍人の娘でした。十二歳でトラバース法の対象になりまして、

 進路をどうしようかと思い悩んでいる時に、戦争が終わって同盟軍が解体されました」

 

 ひっそりとした笑みを浮かべた白い顔が、繊細な花を連想させる。旧同盟の女性の平均よりも、15センチは低く、20キロは軽そうな華奢な身体つき。制式銃の銃把さえもてあますだろう、小さな手と細い指。そのせいで年齢よりもずっと若く見える。

 

 アッテンボローは、側頭部を殴りつけられるような思いがした。戦争が続いていたとはいえ、もう一方の親や祖父母まで他界しているという子どもは多くない。更にトラバース法が適用される孤児は少数派である。素行や性格のよい成績優秀者が選抜されるからだ。たとえば、ユリアン・ミンツのような。

 

 この人は小学生の頃から、ずば抜けた学業成績を誇っていただろう。だが選抜された後に、順調に肉体が成長するとは限らない。この女性の体格で、士官学校や軍専科学校に入れというのは一種の虐待だ。

 

「私の養父母は優しい人たちでした。

 全然背が伸びず、痩せっぽちの私に、無理をしなくていいといつも言ってくれました。

 だからこそ迷惑をかけたくはありませんでした。ハイネセンが占領されたことよりも、

 これで養父母にお金の心配をさせなくてもいいと真っ先に思ったんです。

 だから、ミンツ氏への応援でもあるんです。どうかお気になさらないでください」

 

「しかしね、『仕事に見合う給料』をっていうのは、ヤン先輩の教えなんだ。

 あなたの善意に甘えるわけにはいきませんよ」

 

 アッテンボローの言い分に、彼女は微かに笑みを漏らした。

 

「『無料(ただ)より高いものはない』ですか? でも、ありがとうございます。

 そこまでおっしゃってくださるのなら、ふたつのご提案があります」

 

「何でしょう」

 

 提示された案の一つ目は、本にケーフェンヒラーの考察の原文を掲載するという名目で、ケーフェンヒラー家の相続人調査を行うというものだった。男爵だということから、領地の登記簿が残っている可能性は高い。相続人がリップシュタット戦役後も健在ならば、ケーフェンヒラー名義の土地があるだろう。断絶しているのなら、皇帝直轄領になった時期で、相続人途絶の理由が推測できる。

 

「そんなこと、可能なんですか」

 

 思いもよらぬアプローチを提示されて、アッテンボローはソファーの上で居住まいを正した。

 

「もちろん御社が依頼をしてくださればですが。

 それ以外に、私が帝国の調査を行う資格上の問題はありません」

 

 アッテンボローはまじまじと彼女の顔を見つめた。

 

「優秀な人というのはいるものですね。あなただったら中央省庁の官僚でも務まるでしょうに。

 どうして民間にいらっしゃるんです」

 

 彼の問いにはさらりとした返答が返された。

 

「年季奉公の最中です。大学の学費を貸してもらいましたので」

 

「政府の奨学金選考、あなたなら合格間違いなしなんですがね」

 

「貸主が大きければ大きいほど、ヒモ付きのお金は厄介です。

 ご存じでしょう、アッテンボロー提督」

 

 旧同盟軍人として、国の禄を食むことの意味は痛感している。

 

「いやぁ、一本とられましたよ。誠にごもっともです。

 ミズ・リー、しばらくの間は当社にご協力をお願いします」

 

「御社のご依頼は確かに(うけたまわ)りました。

 そして、もう一つのご提案ですが、ヤン元帥の評伝を出版される際には、

 是非、当事務所に調査をお申し付けください」

 

 一礼して、アタッシュケースから契約書を取り出す。それを受け取って一読し、依頼者の欄にサインをしながら、アッテンボローは内心でほくそ笑んだ。

 

 この繊細な美人を前にしたら、帝国の民事局だか法務局だかの職員は鼻の下を伸ばすだろう。そして、鋭い切れ味の頭脳で滅多切りにされるに違いない。ざまを見ろ。この一年半に繰り返した催促を思うと、溜飲も下がろうというものだ。

 

 たとえ見つからなくても、それはそれで構わない。出来る限りの手を尽くしても見つからなかったという経緯を、きちんと公表すればいい。その後に、遺族の申し出があれば、調査、公表、訂正という手順を踏めば済むことだ。調べることもせず、分からないと言ってしまうのがなによりもまずい。

 

 ユリアンからの依頼を、優秀な相手に白紙委任(まるなげ)し、すっかり問題が解決した気になって上機嫌になった彼だが、他人任せにできない執筆に着手をして苦吟を重ねていく。先輩に我が身を引き比べ、彼が望み果たせなかった夢を継いだことの重さを感じながら。

 

 ところで、アッテンボローは、一つ勘違いをしていた。彼は、エージェントのリーに、翻弄される帝国のお役所を未来形で想像していたのだが、それは過去と現在進行形の出来事であったからだ。

 

 彼女が就職したばかりの頃は、アッテンボローが想像したとおりに、職員の対応は不必要なほど親切だった。その親切をリーは淡々と黙殺し、次から次に登記簿や課税記録、戸籍などの謄本を申請し、不備や矛盾点を整然と指摘した。滅多切りというよりミリ単位のすだれ切りである。不用意な反論をしようものなら、違う角度からまた同様に切り刻まれる。

 

 何度も微塵切りにされた職員達は、彼女を第一級の要注意人物として扱うことにした。帝国では珍しい黒髪黒瞳に、黒いビジネススーツとパンプス。胸元のIDプレートに並ぶ資格の徽章。間もなく『黒い魔女(シュワルツ・ヘキセ)』と二つ名で囁かれるようになっていた。いつだって完璧な申請書を提出してくるため、役所も粛々とそれを受理し、必要な書類を交付して、なるべく穏便にお引き取りいただく。そのような関係である。

 

 執筆者たちの苦闘を余所に、リーは大量の資料を集め、整理をした。手数料や印紙代だけでもかなりの額に上り、新聞社の経理担当のエンドウ・エミコは渋い顔をしたが、あとで訴訟を起こされるよりはまし、と自分を納得させた。

 

 さらに三週間後、二冊の分厚いファイルと二部のレジュメが、共同執筆者達の下に齎された。結論から言うならば、ケーフェエンヒラー男爵家はクリストフ以外の子どもがおらず、彼の代で途絶。母方の又従兄弟の子が最近親者だったが、こちらは帝国民法でも七親等、通常相続権はない。どちらにしろ、回廊決戦で戦死している。

 

 もう一人、クリストフ老人から他の男に奔ったという妻も六十七年前に死去していた。

 

 こちらのほうまで調べ上げてきた『黒い魔女』を、『魔術師の兄弟弟子』はほとんど伏し拝む勢いで感謝した。七十年前の『伯爵家の次男坊で新進の建築家』というという一言から、建築士年鑑を調べて候補者をピックアップし、ケーフェンヒラーの妻と、住所や年齢が近しい者でクロスチェックしたそうだ。

 

 該当者は二名、うち一人は本人が健在だった。銀河帝国有数の建築士事務所の設立者で、いまなお顧問として采配を振るっているそうだ。オーディンとフェザーン、ハイネセンにも事務所があるという。貴族出身者には珍しいやり手である。ハイネセンの事務支所を訪ねた彼女は、顧問への取り次ぎを頼むと、程なく本人が通信に応じてくれた。百歳近いが矍鑠(かくしゃく)とした老人で、リーの質問に笑って(ナイン)と答えた。

 

「次男坊の私が人妻に手を出して、何万帝国マルクも払ってくれるほど甘い親ではなかったよ、

 お嬢さん(フロイライン)。もっとも、うちにはそんな金もなかったがね」

 

 そうなると、残りは一人。こちらは六十五年前に死亡している。同時期、同職種、似た境遇の相手を、この老人は知っていたのではないか。そう思ってた彼女は、老建築家に尋ねてみた。

 

「もうそんなになるか」

 

 彼の回答は、第二次ティアマト会戦の直後、その女性が第二子の流産により亡くなったというものだった。上の子どもも間もなく事故死。それは、親の伯爵の手によるものではという噂が囁かれたという。真偽のほどは不明だが、これは伯爵親子の間に深刻なひびを入れた。

 

 その青年にとっては、たしかに真実の愛だったようだ。例え、世間の眉を顰めさせるような始まりであっても。内縁の妻子を喪ってから、酒浸りになり、建設現場で転落死した。間もなく父の伯爵も、溺愛した息子の後を追うように死去。結局、最も長生きをしたのは、四十三年間の捕虜生活を強いられていたケーフェンヒラーその人であった。

 

「悪い奴じゃあなかったよ。建築の方も斬新でな。貴族の威光だけのものではなかったんだ。

 フロイラインのように、元同盟の、それもお若い人には分からんだろうが、

 貴族なんてのは、結婚も家門のためにあるようなものでな。

 大抵は愛だの恋だの期待をせんものだ。

 そういう点で、奴は今の時代を先取りしとったのかもしれんよ」

 

 リーの報告に、ユリアンとアッテンボローは黙然となった。憎悪や悪意ではなく、愛と善意こそがより悲劇をもたらす。そんな格言が心に浮かぶ。

 

「とにかく、ミズ・リー、本当にありがとうございました」

 

「この一年半、帝国に送り続けた質問状はなんだったんだろうな。

 もっと早く、専門家にお願いすべきだったよ。俺も心から感謝します」

 

 亜麻色と鉄灰色の頭を下げられて、黒髪の美女は面映ゆそうな表情を浮かべた。

 

「お二人ともありがとうございます。

 こちらの調査は、法律的な権利のみのものです。

 アッテンボロー社長の調査も、ぎりぎりまで粘るべきだと思います」

 

 結果を誇るでもなく、淡々と返された言葉に二人は目を丸くした。

 

「法律的な権利を有さなくても、この調査に現れない人々が、

 ケーフェンヒラー老人を悼むかもしれません。

 男爵家の使用人、友人や職場の人たち。学校で関わる人々もそうです。

 ちょうどあなたがたお二人のように」

 

 黒髪に縁取られた白い顔が、静謐な笑みと共に告げる。

 

「私は、法律は人間の感情の衝突に、折り合いをつけるためのものだと思っています。

 相続法は遺族のためのものですから、近しい人々に有利にしなくてはいけません。

 でも、人を愛すること、悼むことに血縁は関係ありません。

 この調査が全てではない、むしろこれらの書類から調査できない人たちこそが

 重要なのではないでしょうか。ヤン元帥と、ヤン艦隊の方々のように。

 この本は、その一石になると思います」

 

 それは、焦げ付きそうになっていた彼らの思考を、すっと冷却させる一言だった。後にユリアンは『言葉による澄み切った差し水』と、料理の達人らしい表現で献辞に記した。

 

「アッシュビー提督についても、これから様々な証言が寄せられるのではないでしょうか。

 当時は言えなかったことも、今なら言えるという人がいるでしょう。

 あるいは、参考文献に載せられなかった意見が出てくるでしょう。

 九十八歳でも、あんなにしっかりした方がいらっしゃるんですから」

 

「なるほどね。六十八年前の話を検証する学者が現れるなら、

 おまえさんは『ヤン・ウェンリー メモリアル』に専念できるな」

 

「だから、そういう重圧を掛けないでください。僕は既に青息吐息なんですからね!!」

 

「ところでお二人とも、著述の方はいかがですか? 

 二ヶ月と十日は七十日間、たったの十週間ですよ」

 

 最初の調査は約二週間。今回が三週間。つまり……。途端に顔色を変え、あたふたと立ち上がった二人の対面から、軽やかな笑い声が響いてきた。いつも物静かな敏腕コンサルタントが、初めて零した笑い声だった。

 

 その落ち着いた表情で、容貌の稚さを五、六歳に収めていた女性は、この時、まるで十代の少女のようであった。まじまじと見つめる青灰色の瞳の下、そばかすの頬が赤らんでいくのを、ダークブラウンの瞳が見ていた。

 

 ……二対の。

 

「ああ、アレックスくん。有能な人を紹介してくれてありがとう。

 これで一気に進みそうよ。ええ、本の方も、うまくいけばもう一つの懸案事項もねぇ」

 

 茶器を洗って、所定の位置に片付けながら、ハイネセン・タイムズ社の総務兼経理及び庶務担当のベテラン女性事務職員は、声をひそめて通信端末で通話していた。

 

 彼女の前々職は士官学校の事務職員で、二つ目の職場を定年退職後に再就職した。社長兼主筆記者よりも二十歳年長で、彼の八歳上の先輩の在学中から事務を仕切っていた。二十四歳の『アレックスくん』の部下だったこともある。どちらが真の支配者かは、ケーフェンヒラー老人と同じだが。

 

「まだあの子、気付いてないでしょうけどね。

 家庭や彼氏のある女が、あの量の調査を三週間で片付けられるはずがないって。

 帝国の建築家のおじいちゃんが一目で見抜いたそうなのに、何をやってるんだか」

 

 端末からの返答に、右手でお手上げのポーズをとる。

 

「まあいいでしょ。この調査やってたら、思うところも出てくるわよ。

 それにしても専門家って凄いものね。たしか『黒い魔女』だっけ。

 あら、知ってたの? ああそうね、資格を与える側のトップだもんね、あんた。

 でも、確かにその異称の方が似合うわね。へぇ、あの名前、そういう意味があるんだ」

 

 彼女は冷蔵庫に貼りつけたカレンダーを眺め、ほくそ笑んだ。

 

「こんど、報酬の請求書を持ってきてもらうんだけど、その時に名前の事を振ってみるわ。

 いけると思うわよ。社長の出張が入らないようにしておくから」

 

 この策謀により、とある男が主義を返上したか否かは定かではない。だが、ダスティ・アッテンボローは献辞の一節にこう綴った。

 

『――エージェントのリー・ユイランに。その名のとおり、我々に方向を示してくれた』

 

 ともあれ、これは一つの突破口であり、転換点であった。ケーフェンヒラー老人の個人史の描写の目安が確定し、二人の筆は一気に進んだ。文章が頭上から降りてくるかのように。

 

 締め切りより十日早く、11月1日脱稿。結局、銀河帝国からの返答は来なかった。それはアッテンボローをお冠にさせたが、手は休めることなく、校正や校閲などの作業を急ピッチで進め、印刷、製本、出荷に漕ぎ着けた。その作業の多くに、リーの所属事務所が多大な貢献を果たした。

 

 店頭に並んだのは宇宙暦814年3月25日。ユリアン・ミンツ、三十三歳の誕生日だった。彼がそれを知ったのは、大学の書店に並べられた『ヤン少佐の事件簿』を手にした教え子達が、大挙して押し寄せてからだった。

 

 この三年間、この本を生み出すために様々な作業を重ねてきた。それは、二十一歳のヤン・ウェンリーの追体験であったり、七十一歳の大佐の過去を探す旅でもあった。彼らに関わる人々のインタビュー、730年マフィアと帝国の二人の提督との関わりの考察。多くの人の手助けによって、それをなすことができた。家族に友人、あるいは仕事上の専門家。出版社だけではなく、印刷所や流通に関わるすべての企業。

 

 その過程で何度となく目にした装丁。実物も自分の手元に届いている。だが、これは完全な不意打ちだった。『魔術師』いや、『ペテン師』の弟子の面目躍如(めんもくやくじょ)といったところか。驚くより、呆れ、嬉しさが込みあげてくる。

 

 まったく、このために過酷な締切を設けたのか。本末転倒にもほどがある。教え子たちの大声に背を向け、教官室へと彼は走りだした。人が悪くて、秘密主義の年長の親友に、文句とお礼の通信を入れるために。

 

 それを、装丁の中のエル・ファシルの英雄が、微笑ましくも羨ましげに見つめていたかもしれない。春の訪れが遅く、ようやく満開になった白木蓮の木の下で。

 

 ――アッテンボローの献辞には続きがある。『美しきコンパスの花に、限りない感謝を』

 

 玉蘭(ユイラン)の名の由来である白木蓮には、蕾の先端が北を向く性質があり、コンパスフラワーとも呼ばれている。



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第五章 魔弾の射手

 アッテンボローの目論見どおり、『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿――』はバーラト星系と旧同盟領で飛ぶように売れた。旧同盟時代からのヒットチャートを更新する勢いで。

 

 その話題は永遠の夜を渡り、帝都に辿りつく。

 

「なるほど。閣下は、アッテンボロー氏らの著作を入手されたいとおっしゃる」

 

「ムライ事務長、ご協力を願えませんか」

 

 砂色の髪の元帥を見やり、ムライは内心で深く深く溜息をついた。前々から思っていたのだが、帝国の軍人は、若い連中が言う『天然』揃いなのではなかろうかという、ムライの疑念は一層深まるばかりである。

 

 特に、彼とビッテンフェルト元帥が双璧ではなかろうか。

 

 たしかにこれでは、あの茫洋として決して腹の底を読ませぬ司令官に、いいようにカモにされる訳だ。三次元チェスは下手だったが、ポーカーの強いことといったら。カードの引きの強さ、勝負の見切りの的確さ。ブラフを見破るのも仕掛けるのも抜群に上手かった。

 

「バーラトは独立国家です。帝国の法の及ぶところではない。

 そこで出版された本を、新領土に居住する『バーラト国民』が

 購入するのには制約はないでしょうな。

 ですが、あなたは立場がおありになる」

 

「いえ、実は軍務省が長らく放置していた件と重大な関連がありまして……」

 

「まさか、それをミュラー軍務尚書閣下が直々に調査をなさるのですかな」

 

 厳格な教師を思わせるムライの一瞥に、ミュラーは不揃いな高さの肩を竦めそうになった。まあ、それも仕方がない。彼の苦言には、不敵で不遜で不逞なヤン艦隊の面々も膝を屈したのだから。

 

「部下には部下の立場というものがあることもご存じでしょう」

 

 言外に下手な言い訳はやめろとの勧告である。

 

「ですが、閣下が密輸に手を染められるのを見過ごすわけにも参りませんな。

 『ヤン少佐』とは小官(・・)もいささか関わりがありました。

 その時の縁で、ヤン提督は小官を抜擢してくださったのだと思っております。

 『魔術師』の弟子たちも、そう思ったようです。

 義理堅いことだ。実にミンツ元中尉らしい」

 

 応接ソファから立ちあがると、ムライは執務机の抽斗からその本を取り出した。出版から約一月遅れで、2400光年の彼方から届いた『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿――』。目次の前のページに、ムライへの献辞が手書きされて、末尾にユリアン・ミンツ、ダスティ・アッテンボローの署名。献辞と前者の署名の筆跡は一致してる。

 

「この待合室に置きましょう。暇潰しの読み物にでもなさってください。

 所用でお越しいただいた際、お待たせするようなことがあるでしょうからな」

 

 ミュラーは表情を明るくした。この待合室に通されるのは、帝国の尚書か元帥級の高官のみである。わざわざ足を運ぶのは、実質彼一人だけ。ムライの最大限の温情、というか妥協案だった。この元帥には前科がある。薔薇と違って、こちらは言い逃れできない。

 

「ムライ事務長、卿のご配慮に感謝します」

 

「くれぐれも持ち出しは厳禁です。貴重な献辞入りですからな。

 それと、帝国語訳のご協力は致しかねます」

 

「は、それは無論のこと……」

 

 心理的な価値で、抜け目なく釘を刺すムライは、確かに『魔術師』の参謀長であった。だが、常識人の考えを突き抜けるのが『天然』の『天然』たるゆえんだった。あの上官と、四年あまり行動を共にしていたのに、まだまだ理解が足りなかった。ヤン・ウェンリーは、根っこの部分は常識的だったのだな、と回想するほどに。

 

「事務長。奴さん、また来てますぜ。今日は二回目ですよ」

 

「リンツ主任、みなまで言わなくていい。私の認識が甘かったようだ」

 

「事務長のせいじゃないでしょうが、随員の連中が気の毒でして。

 先日は、小官に訳してくれとせっつかれましてなぁ」

 

 リンツは逞しい腕を組んで嘆息した。

 

「無論、丁重にお断りしましたとも。

 五百頁近い本を訳せるようだったら、違う職についておりますよ」

 

 あのころよりも皺の増えたムライの眉間に、より深い皺が寄った。 

 

「まったく、困ったものだ」

 

「これはあれですな。ヤン提督に倣うべきでしょう」

 

 敬愛すべき頭痛の種を持ちだされて、警備主任をじろりと見つめる。

 

「何をだね」

 

「適材適所ですよ。あちらの有能な部下に丸投げ(おねがい)しましょう。

 軍務省だって、尚書閣下がうちに入り浸るのと、

 この本に目をつぶるのと、どちらをとると思いますか。

 賭けても構いませんよ」

 

「残念ながら賭けは成立せんよ。私も負ける勝負はしない主義だからな。

 それにしてもフェルナー大将も気の毒なことだ。

 軍務省官房長は軍務尚書が替わるたびに、

 ヤン提督の事績をまとめなくてはならんという掟でもあるのかね?

 記録をするのは軍務省の役割だが、もっと適当な職位の者がやる仕事だろう」

 

 要するに下っ端の仕事だ。本来なら大将閣下の仕事ではない。至極まともな事務長の言だが、警備主任の賛同は得られなかった。

 

「そんな、かわいそうなことをおっしゃるもんじゃありませんよ。

 ヤン提督の事績をまとめて上官に報告するなんざ、

 帝国の人間にとっちゃ、家族宛ての遺書を書いておくような任務ですよ。

 まあ、イゼルローン攻防記よりは精神的にマシでしょうが、

 普通の神経じゃできないでしょうな」

 

 無論、フェルナー大将の神経は『普通じゃない』ので、リンツは同情しない。ムライも反論はしなかったので、フェルナーへの労りが本気なのか疑わしい。

 

「他にマシでないことがあるのかね」

 

「ムライ事務長、五百頁ですよ。これを読んで、帝国語に訳すとは……」

 

「ふむ、一冊の本を一から書くに等しいな。

 では、こちらを進呈して、軍務省の精励に期待しよう」

 

 デスクの抽斗から、もう一冊の『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿――』が取り出された。

 

「ちょっと失礼……」

 

 目次の前は白紙のページだった。

 

「なんだ、事務長も買われていたんですか」

 

 ムライは、笑顔に慣れていない人が見せる笑いを見せた。

 

「も、というからには君もかね」

 

「ええ、帰還兵輸送に同行した際にね、この話を閣下からちらりと聞きまして。

 事務長とパトリチェフ少将のご活躍もですがね。

 おいおい話して下さるとおっしゃったが、聞けずじまいでした。

 ようやく謎がとけましたよ」

 

 ムライは首を振った。

 

「なに、活躍というほどのことはしていない。

 この本は同僚と部下への応援のつもりだったが、その必要はなかったようだ。

 それに私も俗物のようでな。自分がほめられるのに悪い気はしない。

 あの方は、正に天才だったが、苗の頃は低木でも仰ぎ見るものだ」

 

 すっかり板についた趣味をうかがわせる言葉で、ムライは会話を締めくくった。

 

 その日のうちに、『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿――』は丁重な挨拶文を添えて、軍務省の官房長の下に届けられた。ここ数日、目を離すと姿を消している上官の行動理由を知って、フェルナーはまず天井を仰ぎ、次に項垂れた。

 

 冷徹ながらも、公正で理性的な初代軍務尚書が懐かしくなる。バーラト星系共和自治政府の帝都駐留事務所から、やんわりと禁足令を出されるような真似は、オーベルシュタインならしなかっただろうから。

 

「で、これを訳さねばならんのか」

 

 デスクに置かれた本は、相応の厚さを備えていた。彼は数頁をめくり、黒々とした活字の密度に、はやばやと降参した。同盟語の会話や読解に不自由はないが、文学作品の翻訳にはより高度な言語力が必要だ。士官学校を卒業して、四半世紀以上。そちらの能力はすっかり錆びついている。もともと得意な教科ではなかったが。

 

 いっそ、士官学校の学生に人海戦術でやらせるか? いや、本の内容的に却下。では、軍務省の語学堪能な者にやらせるしかないか、とまで考えて、フェルナーは顔を手で覆った。著作者の質問が、二年も放置された理由に思い至ったからだ。

 

 こうして、元ヤン艦隊分艦隊司令官の思惑より早く、軍務省の中枢部を人類最強の武器が直撃した。それも、なかば省の最高責任者による、友軍誤射(フレンドリーファイア)という形で。本来の役職を交換し、アタッカーは元参謀長。ある意味、初の完全無血勝利だった。

 

 フェルナーの苦労は割愛するが、これにより軍務省は揺り動かされた。ケーフェンヒラー老人への質問状と、ジークマイスターとミヒャールゼンの事件について。さまざまな資料が発掘され、新たな検証が始まるのも、そう先のことではないだろう。

 

 そして、アッテンボローが一番に願った、ケーフェンヒラー老人への追悼。

 

 残念ながら、彼の縁者が現れることはなかった。同年代の二つの職場関係者も。だが、彼が捕虜収容所から遺品を送った捕虜の遺族や、その子、孫から感謝や追悼の手紙が少しずつ、次々に届き始めた。

 

 また、エコニアに駐留し、ケーフェンヒラー老人と関わりを持ち、惑星マスジッドに在住している元軍人は、あわせて半個中隊ほどにもなったのである。もともと中継点になっている星系である。近隣といって差し支えない。兵役による赴任者も、四十三年分積み重なれば結構な数にのぼる。

 

 彼らは元在郷軍人会の一員であり、きちんとした経理組織の基盤があった。本を読んだ人々が、手を上げて委員会を作り、ハイネセンタイムズ社に申し出た。専門家が合格点をだすような、委員会の規約なども添えて。

 

 こうして、ケーフェンヒラー基金の管理委員会は誕生した。期間を十年としたのは、委員の年齢を考慮してのことだ。この問題さえ解決するならば、無論、延長も可能という規約にはしてある。

 

 幸い、印税については、活動期間を三倍にしても大丈夫そうである。



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エピローグ 美酒に国境なし

 本の発売から九か月後。ニューイヤーの飾り付けで華やかさを増したマスジッド宙港に、著作者達が降り立った。そのまま、地上車で高台の墓地に向かう。

 

 『魔術師の兄弟弟子』は、師匠の師匠の墓前に花とビールを手向けた。和平後、ずっと入手が容易くなった帝国本土産のものだ。そして、二人の直筆による献辞の書かれた本も。

 

「まだ、新年には少し早いが、まあ勘弁してくれよ。そして、ありがとう」

 

「あなたのおかげで、僕は提督に会えたのかもしれません。

 これから、あなたの考察に、よりしっかりとした骨格が与えられるでしょう。

 本当にありがとうございました。長い間、寂しい思いをさせてすみませんでした」

 

 二人は旧同盟軍の敬礼を、もう一人は深々とお辞儀をした。彼等が手向けた以外の花束が、様々な銘柄のビールが並ぶ墓標に向かって。

 

 ユリアンには、どちらの国のビールでも酔えなくはないものだと、帝国語の墓標から笑い混じりの呟きが聞こえてくるような気がした。師父の報告書にあった、ケーフェンヒラー的な笑い声が。

 

 

 

 ――ユリアン・ミンツ畢生(ひっせい)の著作は『ヤン・ウェンリー メモリアル』だというのは、後世の歴史家の意見が一致するところである。しかし、共著であるとはいえ、彼の著作で最も売れたのは『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿――』であった。

 

 これよりさらに四半世紀後、大幅に言論や著作の自由が緩和された皇帝アレクサンデルの治世になって、帝国本土にて『ヤン少佐の事件簿』は翻訳版が公式に発売される。訳者はカーテローゼ・V・C・ミンツ及びベルンハルト・フォン・メルカッツ。旧同盟公用語から帝国語への、名訳中の名訳との評価も高い。

 

 ――そして、ダスティ・アッテンボローは、この本を皮切りに数々のヒット作を生みだしていった。彼の著作の最大の特徴は、軽佻浮薄(けいちょうふはく)なタイトルと重厚で論理的な内容の落差である。『題名のペテン師』などとも呼ばれた。

 

 例えば、『伊達と酔狂の革命論』の表紙をめくってみれば、トラバース法の導入から回廊決戦に至るまで、政治の腐敗と民主共和政治が衆愚に堕していく様子と、戦争が社会インフラの凋落に及ぼす影響が、ヤン艦隊の戦術論を挟みながら展開していくという案配である。この本もまた、各方面の絶賛を浴びたが、あの題名はなんとかならんのかという論者も多かったのである。

 

 そして、彼らの本の著作権関係を手掛けたのは、小柄でほっそりとした黒髪黒目のエージェントだった。彼女の姓は途中からW式(ウエスタン)に変わっているが、E式(イースタン)だったことを示すのは『ヤン少佐の事件簿』の第十刷までである。  



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新帝国暦16年4月 フェリックスの冒険
きらきら星に願いを!


「おお、悩め悩め少年。そいつが若さの特権ってやつだからな」

 

 男は陽気な口調で言うと、緑の瞳の片方を閉じた。鮮やかなウィンクに、フェリックス・ミッターマイヤーは毒気を抜かれてしまった。彼の周りの大人には、こんな表情を浮かべる人物はいなかったから。

 

 街灯の灯りでは少々分かりにくいが、年齢は三十代半ばぐらいか。船員服に包まれた体は引き締まってやや細身、平均身長よりは高いが長身というほどではない。明るい褐色の髪をしていて、かなりの美男子である。片えくぼを浮かべた笑顔が一層の愛嬌と華やかさを添え、こういう人がもてるんだろうなあ、と少年は場違いなことを思った。しかも強いし。

 

「どうして、僕が悩んでるって……」

 

「そりゃあ、暗い顔した坊ちゃんがこんなところに紛れ込んでたらなぁ。

 しかも制服のまんま。さあ、帰った帰った。ここは子供向けの場所じゃないぞ。

 おまえさんみたいな美少年は、悪い大人の食い物にされるか、いけない女に食われちまうぜ」

 

 男の指摘に、フェリックスはぼんやりと路上を見回した。事態の急変に頭がついていかず、随分間抜けな質問をしてしまった。学校からまっすぐ家に帰る気になれず、遠回りをして時間を潰そうと思ったのだ。

 

 普段通らない街区の、人通りのない道を選んで歩いているうちに、なんだか雰囲気の悪い所に迷い込んでしまった。辺りを見回しているうちに、向こうから歩いてきた柄の悪い男の集団に、やれ肩があたったのと因縁をつけられ、呆然としていると胸倉を掴まれた。にやにやした男が、拳を振りかぶるのを見て、咄嗟に腕を上げてガードする。

 

 だが、衝撃は訪れなかった。新たな登場人物が、胸倉を掴んでいた男の連れ二人をいとも速やかに殴り倒し、そいつが背後の音に振り向いた瞬間、一撃で昏倒させたのだ。その無駄のない動きは、明らかに訓練を積んだものだった。元軍人、それも後方勤務者ではない。帝国語には新領土訛りがある。

 

「え、あ……あの、ありがとうございます」

 

「うんうん、礼儀正しくて結構結構。さ、ここは任せて帰るんだ。

 そいつがこの連中の為でもあるからな」

 

「で、でも」

 

「ん?」

 

 男が片方の眉を上げて、続きを促す。表情筋が器用な人だとフェリックスは感心した。いや、そういう場合ではない。大変切実な問題があった。

 

「道がわかりません……」

 

「おいおい、通信端末ぐらい持ってるだろ」

 

「今日は家に忘れてきちゃって」

 

 宇宙から見た大気圏の最上層の瞳が、やや伏せられて告げてくる。忘れたのではなく、置いてきたのだろうと、彼にはすぐ見当がついた。伊達に青春の悩みの見本市を標榜していたわけではない。

 

「仕方がねぇなぁ。ほら、大通りまでなら案内してやるよ。

 フェリックス・ミッターマイヤーくん」

 

 びくりと肩を震わせる少年を見て、男はにやりと笑った。

 

「悪所通いをするんなら、名札の付いた制服はやめるこったな」

 

「あっ……。その、そういうつもりじゃなかったんです。

 たまには違う道で帰ってみたくなっただけで」

 

 彼より頭半分ほど低い、チョコレートブラウンの頭を見下ろして、襟章を見る。この少年は、生後一歳からフェザーン育ちだったはずだ。幼年学校の四年生。まだ夜は冷え込む四月の下旬、あと二ヶ月で最上級生だ。今さら冒険心を起こすような年齢ではないだろうが、健気な言い訳に、彼は追求するのはやめた。

 

「うん、まあそういうことにしておくか。

 おれは名乗るほどの者じゃないが、キャプテン・トウィンクルスターとでも呼んでくれ」

 

「はぁ……。あの、よろしくお願いします」

 

「ちょっと待ってろ」

 

 そう言って彼は通信端末を取り出すと、誰かと通話を始めた。旧同盟公用語だ。幼年学校で習ってはいるものの、これだけ早口で俗語混じりになるとフェリックスの語学力では全て理解をするのは無理だった。だが、聞き取れる単語には『賞金首』やら『サイオキシン』とか、物騒なものが含まれている。

 

 間もなく、さまざまな服装に、揃いの腕章をはめた体格のいい男達が五人ばかり集まってきた。この街の自警団のようである。自称『トウィンクルスター』と彼らは、早口で遣り取りを始めた。帝国語と旧同盟公用語が混ざり合った、独特のフェザーン訛りだ。切れ切れに聞き取れるのかなりは荒っぽい内容だった。

 

 途中、緑の瞳の伊達男が、さっきフェリックスを殴ろうとした男をブーツの爪先で示す。身じろぎしかけた男のこめかみを、さりげなく蹴りつけて、眠りの神(ヒュプノス)に延長料金を支払ってやった。

 

「で、そっちのガキは……」

 

 自警団の一人が、フェリックスにライトの光を投げかける。光に浮かび上がる秀麗な面ざしに、彼らは息を呑んだ。こんな時、フェリックスはいたたまれなくなる。銀河に居住する二十歳以上の人間なら、少年に酷似していた男性を知っている。右の瞳を黒にして、年齢を倍にすれば、ほぼそのまま実父になるだろう。

 

 せめて、髪の色だけでも実母に似ればよかったのに。義理の兄が一度だけ見掛けたその人は、クリーム色の豊かな髪をしていたという。奇しくも養母と同じ髪の色だ。遺伝の法則を学んだ後も、そう願わずにいられない。

 

「わかるだろ? おれは丁重に送ってさしあげるべきだと思うんだがね。

 で、どうだい?」

 

「確かにな。あんたに任せるよ、きらきら星(トウィンクルスター)

 賞金は明日にでも取りにきてくれ」

 

「わかった。さて、行くとしようか、ミッターマイヤーくん」

 

 長い脚を律動的に運ぶ男の後ろを慌てて追い掛ける。右に折れ、左に折れ、また左に曲がりと、方向転換が十回を越えたあたりで完全に方向が分からなくなる。

 

「本当にこっちでいいんですか?」

 

 いくらフェリックスが上の空でも、こんなに複雑な経路ではなかったはずだ。遅ればせながらフェリックスの胸中に、疑念の雲が沸き起ころうとしていた。恐らくは旧自由惑星同盟の退役軍人、彼らにとって父は元宿敵だ。自分の名字は有名すぎる。

 

「心配すんなって。俺の方向感覚は渡り鳥並なんだぜ」

 

「それにしても、なにもいきなり殴り倒さなくてもよかったのに」

 

「あの連中、札付きだぜ。船乗りにも回状が回ってる手合いさ。

 その綺麗な顔で名札つきの幼年学校の制服姿じゃ、

 カモだとスピーカーで言って回ってるようなもんだ。

 酔っ払いなんかじゃない、おまえさんを標的にしてやがった」

 

「えっ……」

 

「気がつかなかったか? 酒の臭いがしなかっただろ」

 

「じゃあ、あなたはどうなんですか」

 

 フェリックスは、目の前の背中を睨みつけた。男が肩越しに振り返り、面白そうに口の端を上げた。

 

「おお、怖い怖い。心配しなさんな。

 親への遺恨で子どもに報復なんて下らない真似はしないさ。

 金には不自由しているが、真っ当な商売がおれの身上でね」

 

 フェリックスは息を呑み、回転の鈍い頭を働かせようとしたが、相手の足が先に止まった。

 

「ほれ、目的地にご到着ってな」

 

 男が半身をずらすと、路地の先に大通りが延びていた。等間隔に街灯が並び、奥には皇宮『獅子の泉(ルーヴェンブルン)』が大きくそびえ、沢山の窓が光を投げかけている。少年の家、国務尚書ミッターマイヤーの邸宅は、皇宮から程近くにある。ここからなら歩いて十分とかからないだろう。

 

 まるで、魔法のようだった。幼年学校の方向へ戻れればよかったのに。知らず、肩の力が抜ける。それを面白そうに、だが存外優しい目で見ていた『キャプテン・トウィンクルスター』はフェリックスに声をかけた。

 

「お若いミッターマイヤーくんの悩みが何かは知らんが、とりあえず飯食って、

 ベッドの中で悶々と考えろよ。その方が他にもいろいろできるしな」

 

 ひらひらと手を振って、踵を返しかけた男の耳に小さな声が忍び込んできた。

 

「僕、ミッターマイヤーじゃなくなるかもしれません」

 

「……あぁ、そうか」

 

 

 彼の口からこぼれたのは、驚愕よりも納得の響きだった。

 

 彼が思い起こしたのは、蜂蜜色の髪に、灰色の目をした小柄な国務尚書。公明正大や実直という言葉を擬人化すれば、ウォルフガンク・ミッターマイヤーの姿をとるのではないか。彼は迅速果敢な用兵で『疾風』と讃えられた、宇宙でも屈指の名将であった。

 

 政務に転じたのは、地球教のテロで亡くなった、新帝国の初代軍務尚書オーベルシュタインの地位を引き継いだのが出発点である。皇帝ラインハルトの宇宙統一に、多大な貢献を果たしたという業績と、ほとんど非の打ち所のない人格で、皇帝が急逝したのちの帝国軍をまとめあげてきた。戦争が終わって、巨大な軍隊を縮小化するという難題を、領土の拡大に伴う航路警備や流通の安定にすり合わせて乗り切った。

 

 また、社会資本の整備のため、兵役中の一般兵は退役を前倒しし、職業軍人でも技術のあるものには職と地位を斡旋した。後者については、元同盟軍人も対象となった。帝国内でも反対の声は上がったが、ヒルダの説得にすぐ治まった。

 

――人はパンがなければ、奪い取るようになります。

 武器がなくとも、拳や石でも人はたやすく傷つきます。

 ようやく訪れた平和を乱すようなことがあってはなりません。

 そうなった時、天上(ヴァルハラ)の陛下の御霊(みたま)に、なんと申し開きができるでしょう――

 

 この政策は、皇太后ヒルダが中心となって発案したものだが、ミッターマイヤーの人望なくしては実現不可能だっただろう。その後もさまざまな難局を乗り越えて、高齢を理由に引退したマリーンドルフ伯フランツに替わって、国務尚書に就任した。それでもまだ四十代。体操選手のように引き締まった体形は相変わらずで、年齢よりも遥かに若々しい。

 

 その令夫人の名はしっかり覚えていないが、淡い金髪に菫色の瞳をした小柄で華奢な女性だった。皇太后や大公妃のような抜きん出た美貌の主ではないが、快活で優しそうな、万人が好感を抱くような顔立ちである。少女のような透明感があって、国務尚書の五歳下だと知ったときは驚いたものだ。

 

 この若きミッターマイヤーは、夫妻双方に似ていない。いや、一目見れば実の父が誰であるかは明らかである。

 

 オスカー・フォン・ロイエンタール元帥。ローエングラム王朝最大の功臣の一人である。ミッターマイヤーとは公私にわたって親交が深く、非常に高い水準で知勇の均整のとれた名将で、『帝国の双璧』とも並び称された。

 

 そして、ローエングラム王朝最初の叛逆者だった。彼自身、乱世の梟雄めいた野心や性格の持ち主だったことも否定はできない。新領土府総督として、旧同盟領の統治を任されたことが契機だったのかもしれない。

 

 あるいは、最大最強の敵手だったヤン・ウェンリーの死が、引き金となったのかもしれない。ヤン・ウェンリーが生前語ったように、簒奪を恐れた皇帝が最強の臣下を処刑した例も、その逆も歴史上枚挙に暇がないのだから。

 

 かくして、ロイエンタール元帥は潜在的な仮想敵と見なされた。その『仮想』を現実に見せかけるために、せっせと蠢動したのがハイドリッヒ・ラングという男だ。初代軍務尚書オーベルシュタインの暗黙の了解があったとも言われている。

 

 オーベルシュタインには、絶対者である専制君主には第二人者は不要という持論があった。ロイエンタール元帥は、ミッターマイヤーと並ぶ建国の功臣で、しかも独身で帝国騎士とはいえ貴族号を持つ。母方の系図をたどれば、没落した名門の伯爵家に連なる。

 

 過去の例からすると、皇帝の娘や姉妹を降嫁させて血縁を結び、貴族の筆頭に据えるのが妥当だ。功績の大きさと実力から(かんが)みるに、そういう形で報いるのが最良の方程式でもある。単に主君というだけならともかく、義理の父や兄、弟に矛を向けられる人間はそういない。そして、主君から臣下に対しても同様だ。孫や甥姪の父を容易に殺せるものではない。

 

 歴史上の専制君主が、正妻のほかにも複数の側室を持つのも、臣下との血脈すなわち閨閥(けいばつ)を形成するためだ。単に君主の色欲を満たすためのものではないのである。双方に制約と利益を生むのだ。

 

 臣下に対しては名誉にも人質にもなるが、臣下にとって君主と子孫を共有することにもなる。複数の子が生まれれば、息子には分家を与えて、また臣下の娘を妻に迎える。娘は、有力な臣下の息子に降嫁させる。矛を防ぐのに、矛や盾で対するばかりが政略ではない。血脈の網で絡めとり、血の色で相手を塗り替えること。これもまた一つの戦の形なのだ。

 

 皇帝には姉がいる。絶世の美女で、前王朝の皇帝の寵姫だったグリューネワルト大公妃アンネローゼが。本来ならうってつけの相手である。年齢もロイエンタール元帥の四歳下とちょうどいい。皇帝の元寵姫という経歴は、この場合は全く問題にならない。むしろ一種の箔付けになる。

 

 だが、この鬼札(ジョーカー)を切れないところがローエングラム王朝の泣き所であった。皇帝に奪われた姉を取り戻すという少年の願いが、皇帝ラインハルトの出発点である。フリードリヒ四世の死によって彼の元に戻り、己が過ちで半身の命と共に彼女の心も失った。

 

 その最愛の姉に、政略婚などさせられるはずがない。もしも降嫁させるとしたら、喪われた半身である赤毛の親友しかありえなかった。何度目の『ジークフリード・キルヒアイスが生きていたら』であろうか。

 

 と、なるとラインハルトが娘に恵まれて、彼女が婚姻年齢に達するまで、金銀妖瞳の猛禽を籠に閉じ込めておけるか否か。限りなくIFの多い仮定は、否、または否である可能性が大。義眼の軍務尚書は、冷徹にそう判断したのではないか。

 

 前王朝の皇帝に姉を奪われた時から数えたとしても、ラインハルトが新王朝を樹てるまでわずか十三年。まだ正妃もいない若き皇帝。その出発点からして、多くの側室を迎えて閨閥を形成できるのか。こちらは更に否の確率が高い仮定だ。ラインハルトの精神の根幹、何人たりとも変えられぬ金剛石の芯。

 

 ロイエンタール元帥に、謀反の噂が囁かれ始め、それを煽り立てる男は帝都にいる。抗弁すべき自分は、遠くハイネセンに。『距離の暴虐』は主君と功臣の前に、その無慈悲な面を見せつけた。叛逆者と指弾されたロイエンタールは、君側の奸臣に操られる皇帝を救うという名目で挙兵。

 

 この叛旗の名分はラインハルトを激怒されたが、後に出てきた事実から、結果としてロイエンタールが正しかったことが判明する。ロイエンタールの死後、叛逆者の汚名は雪がれ、剥奪された元帥号は返還された。だが、親友同士が皇帝の命によって相撃ったこと、新領土戦役により多くの帝国軍兵士の命が失われたことは変えようがない。

 

 これらの事実は、近年調査が進むにつれて判明してきたことだ。当時、ヤン・ウェンリーがテロに斃れ、イゼルローンの残留者で共和政府を立ち上げて三ヶ月そこそこ。その一員だった男にとっては、何だかわからないうちに起こって終了した帝国の内紛でしかなかった。

 

 なにしろ情報は不十分、謀反の理由は不明瞭。これは相打った双方も同様だったが。イゼルローン共和政府は、ロイエンタールから協力の要請を申し入れられたが、これを静観して不干渉を貫いた。

 

 冷静で賢明な統治者でもあったロイエンタールは、旧同盟領の住民に被害を及ぼさなかった。ただひとり、かつての最高評議長だった男を除いては。ヨブ・トリューニヒトは民主共和制に寄生し、宿主を死なせても何らの処罰を受けなかった男だが、専制君主への不敬な発言で、瀕死の男の逆鱗に触れたのである。言論の自由という民主主義の根幹を汚し続けてきた人間が、専制君主への嘲弄によって裁判もなく銃殺される。

 

 まったく、運命という奴は皮肉に満ちている。しかも、言わば八つ当たりで殺された男から、地球教との汚れた地下水路が判明した。ロイエンタール元帥は、間接的にヤン・ウェンリーの敵まで討ったことになるのだ。

 

 

 でも、そんな歴史の事実など、このチョコレートブラウンの髪に藍青の瞳の少年にとって何ほどのものであろうか。彼が、実の父を喪った事の前に、どれほどの重みだというのか。

 

「幼年学校に入るときに、僕の本当の父の事は教えてもらっていました。

 でも僕、キンダーハイムに入った頃には何となく分かってた。

 僕は父さんにも母さんにも、お祖父ちゃん達にも似てないし、茶色い髪の親戚もいないし」

 

「坊やの両親の一族は生まれついての金髪なのか?」

 

「母さんの両親は亡くなってるからはっきり知らないけど、

 どっちかが黒や茶色の髪だと、クリーム色にはならないよね……」

 

「お国柄だなぁ。旧同盟は混血が進んでるから、

 太陽のように眩い金髪(ブロンド)や、夜空の如き黒髪(ブルネット)なんて天然ものはほとんどいないぜ。

 大抵は染めてて、後になって気がつくのさ」

 

「どうしてですか?」

 

 彼に顔が似ていても、中身は当然違う。幼さを残した丸い目で、きょとんと見上げる顔は純真そのもの。歩く青少年健全育成条例違反でも、よからぬ知恵をつけるのがためらわれようというものだ。音に聞こえた漁色家の実父よりも、おしどり夫婦と名高い養父母に似たのは間違いない。

 

「どうしてって言われてもなぁ……まだ分からなくていいぞ。

 ミッターマイヤーくんは、その道ではおにいさんの好敵手になりそうだが

 ちょいとばかり若すぎる。この話はここまでだ。

 で、君が名字を変える話がどうしたって?」

 

 じつにあっさりと言われて、フェリックスは更に目を丸くした。それを見た男は、たまらず吹き出した。かつての弟子は、少年とその親友がまだ幼い頃に、超光速通信(FTL)で対面したことがある。好奇心いっぱいの色違いの子猫のようだったと評した。幼稚園児は中学生になったが、本質的な部分は変わっていないようだ。

 

「ああ、悪い悪い。ユリアンに言われたことを思い出してな。

 まぁ、そんなに深刻に考えることもないんじゃないのか?

 旧同盟だったらそんなに珍しいことじゃないぜ」

 

「おじさん、ユリアンさんを知ってるの!?」

 

「そっちに反応するのかよ。おにいさんもユリアン・ミンツの師匠だぞ」

 

「……誰ですか」

 

 再び警戒の色を強める深青の瞳。それを面白そうに陽気な緑が見返す。

 

「人に名前を尋ねる時は、まず自分の名前を名乗ってからだと

 お父さんに教わらなかったかい?」

 

 人を食った言い種である。少々むっとしないではなかったが、恩義もあるし正論でもあった。彼は素直に名乗った。最後に一言付け加えずにはいられなかったけれど。 

 

「フェリックス・ミッターマイヤーです。

 よろしくお願いします。おじさん(・・・・)はご存知みたいだけど」

 

 男は、片眉を上げて、面白そうにフェリックスの口上を聞いた。

 

おにいさん(・・・・・)はオリビエ・ポプラン。

 元スパルタニアンのパイロットで、イゼルローン軍の空戦隊隊長だ。

 ハートの撃墜王(エース)と言った方が有名かな」

 

「えっ、オリビエ・ポプランって三機ユニット式空戦隊形を考案した、

 あのオリビエ・ポプラン? う、嘘だ!」

 

 少年の大声に、今度は男の方がきょとんとした。そうするとますます若く見える。彼が知る、オリビエ・ポプランの経歴とは一致しない。

 

「えらくマニアックな知られ方でおにいさんは嬉しいが、嘘とはなんだよ嘘とは」

 

「だって、ポプラン中佐はユリアンさんの先生なんでしょ!? 

 こんなに若いはずないよ!」

 

 おじさんというのは、フェリックスにとって半ば以上嫌味のつもりだったのだが。ユリアンの師匠ことオリビエ・ポプランは、弟子よりも十歳以上年長で四十代前半のはずだ。だが、ほとんどユリアンと同年代にしか見えない。

 

「これはユリアンにも言ったことだが、実はおれはきらきら星の高等生命体なんだ。

 39歳まで年をとったら、18歳まで若返るのを繰り返すのさ」

 

 抜け抜けと言ってウインクをする男の顔に、少年は疑念の篭った視線を向けた。あまりにも馬鹿馬鹿しいが、妙に説得力のある言葉である。

 

 だが、旧同盟軍にはもっと年齢相応に見えない人物がいた。六歳の時に目撃した、イゼルローンの幻影(ファントム)。三十歳の映像でも、軍服を脱げば大学生で通るような大将が。

 

 余談だが、ヤン元主席が見せてくれた結婚式の写真では、新郎は更に若返って見えた。バーミリオン会戦の直後で、激戦でかなり痩せ、士官学校在学中の頃の体型に逆戻りしたからだ。おかげで結婚式の礼服が、まったく似合っていない。花嫁が麗しいぶん、ちょっと悲惨である。礼服や軍服を着こなすには、体に適度な幅と厚みが必要なことがよく分かる一枚だ。

 

「まぁ、かなり話がそれたが、ほんとにもう帰りなよ。

 寒空の下で、ひもじい思いをしながら悶々としてても名案なんて浮かばんぜ」

 

「帰りたくないんです」

 

 ポプランは溜息をついてかぶりを振った。

 

「おまえさんが、あと五、六歳年上で、その顔のまんまの女の子で、

 親が国務尚書じゃないなら喜んでそうしてやるところだが、ほんとに残念だよ。

 人間、誰しも欠点はあるもんだ」

 

 無茶な事を言うものだ。フェリックスは憤然として言い返した。

 

「それ、もう別人じゃないですか!」



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Little Star Go Home

 少年の抗議にポプランは大真面目に頷いた。

 

「ああ、そうともいうな。人間、どうあがいたって自分以外にはなれんのさ。

 人間には無限の可能性がある、なんて先生がよく言うが、ありゃ嘘だからな。

 おぎゃぁと生まれた瞬間に、男か女かでもう可能性は半分だ。

 男に生まれて、妊娠出産はできんだろ。その逆もしかりだがね」

 

「茶化さないでください」

 

「いやいや、真面目な話だよ。

 人間、自分で選んでどうこうできるもののほうが少ない。

 容姿や才能なんかは、努力すれば素質に応じて伸びるけどな。

 努力が大事ってのは認めるさ。だが、限界ってものがあるわな。

 正しい食生活と適度な運動を心掛け、定期的に健康診断を受ければ、

 誰しも不老長寿になれますよっていうぐらい無理だよな。

 そうなりゃ誰も苦労はしない」

 

 そこまで言うと、ポプランはフェリックスに背を向けて、すたすたと歩き始めた。皇宮の方向へと。少年は逡巡したが、結局後を追った。この辺は警備兵が巡回をするエリアだ。今から逆戻りしたところで、騒ぎになって連れ戻されるだけだろう。さっき、大声を出してしまったので、きっとどこかの監視システムにチェックをされている。

 

「詮索はしないがね。

 親に反抗するんなら、その道の先達としてアドバイスをしてやろうか?」

 

「反抗なんて、そういうつもりじゃ……。ちょっと考えたいだけです」

 

 少年の口ごもりながらの反論に、笑みを含んだ声が返ってくる。

 

「考えるにしても、作戦は必要だぜ。

 (おや)はおまえの全生命線を握っているし、社会的な立場も圧倒的に上だぞ。

 まして、宇宙屈指の名将と、それを支える賢夫人の連合軍じゃあな。

 うちの寝たきり司令官どのだって、帝国の双璧とは戦闘を避けてたからなぁ」

 

「僕の父さんはヤン提督には勝てなかったって言ったよ」

 

 六歳の夏の、最初の宇宙旅行は未だに忘れえぬ思い出だった。親友がぽろりと言った皇太后陛下のお言葉に、幼いながらも強い衝撃を受けたものだ。

 

 幼年学校に入学して、『イゼルローンのれきし』以外のヤン元帥の戦績を学んで、ひとつ分かったことがある。皇太后ヒルダの言葉は、むしろ控えめなぐらいだったということが。授業の間、教室は静まり返り、終業のチャイムがなった瞬間、一斉に「嘘だ」の大合唱が巻き起こった。

 

 フェリックスの学年は、授業を行った学級の順に絶叫の嵐が通り過ぎていった。既に年中行事として定着してしまっているため、万事規律に厳しい教師も大目に見ている。教える側も散々頭を抱えたので、生徒の反応を楽しんでいるんじゃないか、と穿った事を言った生徒もいたそうだ。この鋭い卒業生は、ワーレン元帥の長男である。

 

「ああ、回廊決戦の時だな。宇宙艦隊司令長官だったから、陣頭指揮とはわけが違うけどな。

 厳密にいうなら、国務尚書どのは勝てなかったけど負けてもいない。

 うちの司令官に、すぐさま不利を思い知らされて、お互い綺麗に引いたからな。

 さすがは双璧だと思ったよ。ああいう綺麗な勝負をしたのは、もう一人の双璧ぐらいだな」

 

 敵対していた相手からの最大級の賛辞と言えよう。二人の父を褒めてくれてありがとう、なんて口にはできないが。

 

「だから戦略を練らないといかんぜ。なにより重要なのは情報さ。

 とりあえず、親父さんが君に言ったことの意味はなんなのか」

 

「そんなの分からないよ!」

 

「じゃあ訊けばいいじゃないか」

 

 ポプランは肩越しに振りかえると、にやりと笑って歩を進めた。広い通りに、船員用ブーツと通学靴の響きがこだまする。船員服の三十代半ばに見える男と、幼年学校の生徒の組み合わせは、さぞ奇妙に映るだろうが、咎められることはなかった。

 

「いや、訊いてほしいという親心だよ。察してやれや、少年。

 難しい年頃の息子と話をしたいし、それが親友の思い出ならなおのことさ」

 

「えぇっ、そういうことなの!?」

 

「真偽のほどは親父さんに確かめればいいじゃないか。

 別におまえさん、人魚姫ってわけでもなし、白鳥にされた兄貴達のために、

 黙ってイラクサの服を作ってるお姫様でもないんだろ?

 ヤン提督は弟子にこうおっしゃいましたとさ。

 『言葉は大事に使いなさい。確かに言葉では伝わらないことがある。

 でもそれは、全ての言葉を尽くしてはじめて言えることだ』

 いいこと言うよな」

 

「耳が痛いなぁ」

 

 少年は心なし項垂れた。

 

「僕は、実の父のこと、あんまり考えないようにしてた。

 確かに名将だったし、それゆえに陥れられたのもわかるんだけど。

 名誉もちゃんと回復されてるよ。僕を叛逆者の子って呼ぶような人もいない。

 皇太后陛下のおかげで、僕がミッターマイヤー家の養子になったことが、

 なによりの証拠だと思う。そのことは別に恥じていないんだ」

 

「ちゃんと考えているじゃないか。そいつを言えばいいんだぜ」

 

「でも、私生活を聞くと女ったらしで、恨みを晴らそうと襲ってきた女を囲って

 僕を妊娠させるとか、ちょっとあんまりだと思うんだ、人として。

 父さんと母さんを見てると余計にそう思うのに、

 その人と顔がそっくりだなんて本当は嫌なんだよ、僕」

 

 更に悄然としたフェリックスに、何とも言い難い表情になるポプランだった。全く白髪のない明るい褐色の髪を、乱暴に掻きあげる。

 

「おれも耳が痛いな。無論、男の義務と嗜みは果たしているけどな!

 その顔が気に入らないなんて贅沢な悩みだが、こればっかりは好みの問題だしなぁ。

 おまえさんの悩みは分からんわけじゃないぞ」

 

 思わぬ賛同に、はっと顔を上げて先行する背中を見つめる。ぴんと伸びた背筋と上体がぶれない歩き方は、確かに軍人のものだった。

 

「俺の部下にもいたからな。どこから見ても申し分ない美人なのに、

 女ったらしだった親父似なのが気に入らなかった()がな」

 

 薄く淹れた紅茶色の髪と青紫の瞳の色彩を母から、彫りが深く端麗典雅な目鼻立ちを父から受け継いだ、掛け値なしの美少女だった。

 

「ちょっと待って下さい。ポプランさんの部下って……。

 スパルタニアンのパイロットなんですか? 女の子なのに」

 

「おう、そうだよ。それも美少女パイロットだ。

 小中学生向けの立体TV(ソリヴィジョン)ドラマの妄想が、実体化したみたいな存在さ」

 

「そんな、ありえないよ」

 

「ほんとにな。負け戦って言うのはこういうものかと思ったよ。

 十五、六歳の少年少女が、最前線に動員されるなんて世も末だ。

 おれたちは女子どもを守るために戦ってきたはずなのにさ」

 

 当時を思い返すと、いまだに旧同盟政府に腹が立つポプランだ。彼の部下になった美少女は、確かに大した素質の持ち主だった。だが、様々な意味で弱者だった。母ひとり子ひとりで、娘は婚外子(ラブチャイルド)である。亡くなった母は亡命者で、軍人ではなかったから、トラバース法の対象にもならなかった。

 

 死亡率の高いパイロットの専科学校に進んだのは、十三歳から入学でき、衣食住が保証されるからだ。士官学校の入学年齢までの三年間が、持たざる者にとっては限りなく深い谷底だった。

 

「まあ、その娘の話には続きがある。

 女ったらしの父親は、こんな大きな娘がいることを同じ職場になるまで知らなかった。

 あの不良中年が十九の時の子になるから、原因の発生時は……なぁ」

 

 フェリックスに背を向けたまま、彼は肩を竦めてみせた。

 

「最低だ!」

 

 少年の反応は、短く痛烈だった。彼は実父への反感からか、恋愛潔癖症のきらいがある。

 

「仰せのとおりで、そりゃ娘が怒るのも無理はない。

 だが、いきなり親になれないのは男としてわかる。

 俺も同じ部類の高等生命体だからな。あんなヘマはしないがね。

 何よりもこういう問題に、他人が手を突っ込むのは憚られるもんだしな。

 他にも言い訳は山ほどあるが、おれがどうこうする間に、親父があの世に逃げちまった。

 殺しても死なない奴だとばかり思っていたんだがね」

 

 声を失った少年に、なおも背を向けて彼は続けた。

 

「おれも後悔したが、あの娘の後悔はそんなに生易しいもんじゃなかったろうな。

 遠慮なんかせずに、なにかをしてやるべきじゃなかったか。

 あの娘の上官として、あの親父の友人として、余計なお節介と言われようともさ。

 『喧嘩も相手が生きていればこそ、死人には墓石に文句を言うしかない』

 ヤン・ウェンリーは後輩に言いましたとさ。まさに至言だよな。

 だから、俺は『問答無用』から『話せば分かる』に宗旨替えしたのさ。

 で、迷える子羊にはお節介なおにいさんとして、助言をしてやろうとね」

 

 ポプランの歩みは止まらなかった。フェリックスの普段の通学路とは異なるルートでも、家が近くなってきたのが分かる。

 

「その女の子はどうなったんですか」

 

 ためらいがちの質問の答えは、軽い笑い混じりのものだった。

 

「陳腐なTVドラマの結末と一緒だよ。

 やがて戦火の中で素敵な少年と出会い、時に反発しながら恋に落ち、

 戦いを終わらせて彼と結ばれるのさ。

 そして、二人は幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。

 たまにはこういうこともあるから、現実もそう捨てたもんじゃない」

 

 角を曲がって、ミッターマイヤー家の門の前に差し掛かる。ポプランは警備兵に愛想よく片手をあげると、よくとおる声であいさつをした。いつのまにか、フェリックスの右腕をしっかりと捕らえて。

 

「どうも、こんばんは。トウィンクル・スター運送の者ですが、

 ウォルフガンク・ミッターマイヤー様に二点お届けものです。

 大変に貴重なものですので、ご本人かご家族の方のサインをいただきたいんですが」

 

 二人の警備兵が、一瞬顔を見合わせ、体格のいい方が油断なくポプランを見据えた。もう一人は玄関のインターフォンに駆けつけ、何事かを告げる。ほどなくして、クリーム色の髪の華奢な夫人が玄関から現れた。警備兵がしっかりとガードしながら、二人の前に近づいてくる。

 

 ポプランは、ジャケットのポケットから、本当にそのロゴ入りのパックを取り出した。ひとまずは警備兵が受け取り、ハンディスキャンで危険物の有無を確認する。危険なしと判定されて、ようやく夫人の手に渡った。

 

 そうして、にこやかに愛嬌たっぷりの笑みを浮かべて口上を述べる。本当に羨ましいぐらい魅力溢れる表情だ。フェリックス自身もそうだが、彼の周りにはこんなに屈託のない笑顔のできる人はいないので少々憧れてしまう。

 

「こんばんは、遅くに失礼します。ミッターマイヤー様のご家族の方ですね。

 お届けものが二点、まずはこちらフラウ・キャゼルヌとフラウ・ムライのレシピ集です。

 間違いはございませんか?」

 

「ええ、間違いありません。

 まぁ、お二人とも忘れないでいてくださったのね。本当に嬉しいわ。

 ねぇ、運送屋さん。もう一つは何を運んできて下さったのかしら?」

 

 悪戯っぽい笑みを湛えた菫色の瞳が、陽気な緑と気まずそうな藍色を順に見詰めていく。

 

「銀河帝国の至宝の至宝、お一人になります。

 こちら伝票はございませんが、ご了承くださいませ。

 たいへん貴重でデリケートなものでございますので、ご家族でよくお確かめください」

 

 そう言うと、左足を軸に綺麗にターンする。あれよという間に、フェリックスは母の前に移動していた。まるでダンスのステップのように。

 

「か、母さん……」

 

 『運送屋さん』の妙技に感心した表情の母は、まず会釈をして礼を述べた。 

 

「ありがとうございます、運送屋さん。機会があったらまたお願いしますわ」

 

「はい、今後とも御贔屓に。ただ、当社は貨物専門ですので、生き物はご遠慮くださいませ」

 

 国務尚書の令夫人に向けられたのは、同盟式の敬礼と再びの鮮やかなウインク。最初に少年が見たときよりも、愛嬌が増量しているのが気のせいならいいのだが。

 

「ええ、気をつけますわ。それではおやすみなさい。気を付けてね」

 

「はい、ご主人にもよろしくお伝えくださいませ。それでは失礼いたしました」

 

 敬礼した手を下して、彼は背を向けた。悠然と歩み去る背中に、フェリックスは慌てて声をかけた。

 

「ありがとう! おにいさん(・・・・・)! 僕、よく考えてみるよ」

 

 右手が上がり、ひらひらと小さく振られた。

 

「お帰りなさい、フェリックス。お腹がすいたでしょう?

 今晩はフリカッセよ。早く手を洗ってらっしゃい」

 

「ただいま、母さん。遅くなってごめんね。父さんは帰って来てる?」

 

「今日は遅くなるみたいね。

 でも明日の土曜日は、午後お休みがとれるっておっしゃっていたわ」

 

「じゃあ僕、父さんに訊きたいことがあるんだ」

 

「ええ、お父さんが帰ってきたら伝えておくわね。

 そうそう、明日は御馳走にしましょう。新領土のレシピをいただいたのよ。

 本当は明日届く予定だったけれど、運送屋さんが気を利かせてくれたのね。

 同盟風のケーキの作り方を入れてくれたそうなの。

 すごいのよ、ヘル・ムライの奥様、ホテルのケーキ職人さんなんですって。

 あなたのバースデーケーキ、今度はそれにしてみましょう」

 

「え、バーラトの駐留事務所の事務長さん、奥さんいたの!?」

 

 今日一日で色々な話を聞いて、驚くのにも疲れてきたフェリックスだ。そろそろ打ち止めにしてほしいところである。

 

「ええ、ハイネセンの一流ホテルの製菓部門長で、

 もう三十年以上お勤めになっているんですって。

 凄く腕のいい方で、後継者が見つかるまではと慰留されているそうなの。

 だからヘル・ムライはずっと単身赴任をなさってるそうよ。

 ほら、ユリアンさんとカリンさんの結婚式の写真を覚えてるかしら?

 あのケーキをお作りになった方よ」

 

「ああ、アレクと僕が食べたいって駄々をこねたのだろ? 覚えてるよ。

 ケーキが果物の花で飾ってあって、すごく綺麗だった……」

 

「ふふ、あんなに凄いのは無理よ。初心者向けのケーキにしていただいたから」

 

 一瞬、回想の視界にノイズが走る。明るい褐色と緑の瞳、新郎新婦の肩を両腕に抱き込む屈託のない笑顔が。

 

「そういえば、とっても綺麗な花嫁さんだったよね」

 

「確かに綺麗な花嫁さんに、素敵な花婿さんだったわね。

 でもね、お父さんと私もなかなかのものだったのよ」

 

 ふいに疑問が氷解した。ポプランの言っていた現代のお伽噺の結末は、こんなに近くにあった。本当に下手なドラマなんて目じゃない。

 

 虚構ではなく本物の英雄、不敗の魔術師と、勇名を馳せた薔薇の騎士の長。その弟子と娘。亡き人々の精神と血の後継者が新たな系譜を生み出した。権力もなにも世襲はされないが、彼らを語り継ぐ子孫たちは、きっと増えていくのだろう。

 

 ひょっとしたら自分だってそうなのかもしれない。だとすると、本当に悩むのは、もっと色々な事を知ってからでも遅くない。

 

「母さん、それは結婚記念日の度に聞いてるからよーく知ってます」

 

「昔は何にも言わずに聞いてくれたのに、生意気になっちゃって。

 じゃあご飯を暖めておくから、着替えて手を洗っていらっしゃい。

 ちゃんとうがいもするのよ」

 

「うん、わかったよ。ありがとう、母さん」

 

 少年は短く母に答えた。様々な思いと沢山の感謝を込めて。



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蜂蜜とクリームとチョコレート

 伏せられていた長い睫毛が上がり、藍青の瞳が決然とミッターマイヤーの顔を見詰め、口を開く。

 

「父さん、僕の実の父親のことを教えて欲しいんだ」

 

「ああ、わかった」

 

 とうとう言ってしまったと息子は思い、とうとう言われてしまったと父は思った。四月下旬の土曜の昼下がり。居心地の良い書斎に、麗らかな春の日差しが差し込む。だが、養父子の間の空気は、季節を逆行させたかのように張り詰めていた。

 

 少年は固唾(かたず)を呑んで、養父を凝視した。亡き親友に酷似した、だが彼が浮かべたことはないであろう表情。そして、恐らくは彼が生涯欲していた、左右同じ色の瞳。どんなに顔が似ていても、この子はオスカー・フォン・ロイエンタールではない。

 

「だが、その前におまえに謝らなくてはならんことがある。

 おまえの苗字の話だが、俺も言葉が足りなかった。というよりも勘違いをしていてな」

 

 先日、息子に十五歳になったら実父の姓を名乗ることができると伝えたことだ。

 

「たしかに以前の法律では、十五歳になったらロイエンタールの姓を名乗ることができたんだ。

 だが、この十年で色々と法律が変わった。

 もちろん今でも出来なくはないが、家庭裁判所の許可が必要なんだと」

 

 旧帝国法ならば、平民は居住地の領主や代官に届け出るだけでよかったが、旧同盟法を取り入れた今では、当時と事情が違ってくる。

 

 フェリックスの目が真ん丸になった。あまりに意外な単語の出現に、驚いて父に訊き返す。

 

「裁判所って、裁判で決めるようなことなの?」

 

「まあ、裁判というより法的に正しいかどうか確認して、

 許可をもらうというのが本当のところだな。

 十五歳になったら、おまえが原告として裁判を起こすようになるらしい。

 国務尚書としては恥ずかしい話なんだが、十五歳以上は子ども本人が行う届出というのが

 新法には色々とあってな。正直ややこしくていかん。

 あれから法務省の詳しい者に訊いたんだが、呆れられてしまってな」

 

 新帝国になって法律が改正されて、貴族と平民の区分がほぼ撤廃された。前王朝では、貴族と平民の権利には著しい格差が存在し、これを平等にするのがラインハルトの理念の一つだった。皇太后ヒルダはその遺志を引き継ぎ、さまざまな法改正に着手した。

 

 貴族と平民と、その片方にもう一方を擦り合わせるのは現実的ではないので、過去の法律を参考に大改正を行った。この過去例とは、要するに旧自由惑星同盟法である。こと民生においては、国民の平等と福祉の充実が旧同盟の国是であったから。

 

 これを取り入れた結果、未成年者が全くの他人の養子になったり、その養父母から離縁をしたり、氏名を変えたりするような一生に関わる問題には、家庭裁判所の裁定を仰ぐようになった。

 

「ご子息がどうしてもと言われるのなら、お止めすることはできませんが、

 国務尚書閣下と令夫人に代わって、ご子息の保護者になる方をお探しください。

 その後で、裁判を三回、届出を二回以上、交互に繰り返すことになります、だと」

 

「そんなに難しい手続きになるんだ……。ごめん、父さん。僕には無理そうだよ。

 自由惑星同盟の人は、そんなに難しいことやってたんだね」

 

 いかにもすまなそうな顔をした息子に、さらにすまなそうな顔をするミッターマイヤーだった。

 

「いや、おまえの言うことは正しいんだ。旧同盟でも、こういうケースは滅多にない。

 未成年者が保護者を失わないために、何回も家庭裁判所の目が入る仕組みになっているらしい。

 だが、これを一挙に解決する妙案があるそうだ」

 

「なんだ、そんなにいい方法があるんだね」

 

 表情を明るくする息子と、表情が変わらない父の姿が対照的である。

 

「さっき言った手続きがすべて不要になり、当事者と証人が用紙一枚に必要事項を記入して、

 役所に提出するだけで終わりになる方法だ」

 

「すごいね。どうすればいいのかな」

 

「おまえが成人するまで待てばいいそうだ」

 

「え……」

 

 絶句したフェリックスに、ミッターマイヤーは深々と頭を下げた。

 

「すまなかった。俺も随分と気が急いていたらしい。

 十五歳という部分で、早合点をしてしまったんだ。

 ロイエンタールを名乗るのが、こんなに大変なことだとは思っていなかった。

 もちろん、おまえが望むなら俺はできる限りの手助けを惜しまない。

 だが、俺のことを気にして、無理にやらなくてもいい。それは分かってくれ」

 

 向かい合った安楽椅子の上で、平身低頭する父の顔には、目の下に隈が浮いている。そして、自分の目の下にも。なんとも滑稽で、フェリックスは吹き出してしまった。息子の反応を、ミッターマイヤーは唖然と見守った。

 

 褐色の頭の上を笑いの妖精が、蜂蜜色の頭の上を沈黙の天使が飛び回る。笑いの発作が治まって、宇宙に溶け込む寸前の空の端に浮かんだ涙を拭う。

 

「ご、ごめん、父さん。なんか可笑しくなっちゃって。

 父さんもベッドの中で悶々としてたのかと思うと……。

 あの人がきらきら星の高等生命体って、本当なのかもしれないなぁ」

 

「笑い事じゃないぞ、フェリックス。俺も色々考えたんだよ。

 結果として、裏目に出てしまったのは事実だがな。

 エヴァや皇太后陛下にまで迷惑を掛けてしまった。

 だが、俺の失敗はひとまず忘れてくれ。

 そして、おまえの最初の質問に戻ろう」

 

 笑いを収めたフェリックスを見つめて、ミッターマイヤーは言葉を継いだ。二十一歳の頃の自分を思い出しながら。

 

 

「おまえの実の父、オスカー・フォン・ローエンタールは男だったら羨望して止まないものを

 ほとんど全て備えていたよ。ただ一つを除いてな。

 だが、その一つのせいで、残りはあいつにとって無価値に等しかったのかも知れない……」

 

 

 ミッターマイヤーにとって、昨晩から今日の午前中までの自分の動揺は、皇帝ラインハルトの下、星々の波濤を越えた、一万光年の征旅の中でも体験のないことだった。

 

 

 昨晩遅くに帰宅したミッターマイヤーは、妻から息子の遅い帰宅を知らされた。息子が護衛を出し抜いた巧妙な手口に舌を巻いたり、迷子になって悪人に絡まれていたところを颯爽と助けてくれたという『運送屋さん』の正体を知って蒼くなってみたりと、前哨戦から波乱含みだった。

 

 エヴァンゼリンが言うところの、緑の瞳の『とっても笑顔が素敵な美男子』の正体は、彼女宛ての宅配便の伝票から容易に知れた。

 

 株式会社トウィンクル・スター運送 代表取締役オリビエ・ポプラン。

 

 元イゼルローン軍の中佐で、イゼルローン要塞攻防の最終決戦において帝国軍総旗艦に斬り込み、生還した二百余名の中の一人である。皇帝(カイザー)ラインハルトの当時の親衛隊長、キスリング准将と白兵戦で引き分けた男だ。彼に悪意があったら、まだ十四歳に過ぎない息子の息の根など、片手で軽くひと捻りにできた。

 

 こめかみににじんだ汗を拭い、息子の名に『幸運』の意を持つ古語を選んだ妻に感謝を告げる。息子の恩人の経歴を知っても、妻は穏やかに感心するのみだった。

 

「まぁ、それじゃあ確かにお強いはずね。

 その人がフェリックスを送って来てくれる間に、なかなかいいお話をしてくれたみたいなの」

 

 少女の頃の透明感を未だに失わない彼女は、ミッターマイヤーよりも豪胆なのかもしれない。次に告げられた言葉に、ミッターマイヤーが感じたのは、焦燥とも諦念ともつかない感情だった。

 

「だから明日の午後、フェリックスからあなたに聞きたいことがあるそうよ」

 

「やっぱりあの事か。当然か。俺のせいだからな」

 

 こめかみにじんわりと浮いた汗を拭い、新たな難問に直面する。

 

「どうしよう、エヴァ。

 フェリックスが大きくなったら、あいつの事を色々話そうと思っていたんだ。

 だが、何をどう話したらいいか、よく考えると思いつかないんだ」

 

 エヴァンゼリンは、呆れを含んだ笑顔を見せながら、軽いワインと軽食を運んできた。

 

「ねぇ、ウォルフ。あなたは判断や決断が早い方よ。しかも、大体それがいつも正しいわ。

 私は、それを尊敬しますし、美点だとも思います。

 でもね、こういうことに関しては、早ければいいというものではないと思うの。

 一度に全てを知る必要もないのではないかしら」

 

「だが、避けては通れない問題だぞ」

 

「でも、十四歳で通らなくてはいけない道でもないでしょう?

 あなたとロイエンタールさんが知りあって、あの子が生まれるまでにかかった時間のぶん、

 何度でも話をなさったらいいのよ。少しずつ、あの子の理解が追い付くまで」

 

「だがな、そう長いこと隠してはいられないだろう」

 

「正直は美徳ですけれどね、本当だからこそ言ってはいけないこともあるでしょう?」

 

 いつもは明るい菫色の瞳が、灰色の瞳に問いかける。あの日、あの時、あなたにはそれが言えたのですか。あの金髪の覇者に、と。

 

 その眼差しが、ミッターマイヤーの悔恨を揺り動かす。キルヒアイス提督の死。リヒテンラーデ候とその一門への処罰。ヤン・ウェンリーに対した、ケンプ提督を始めとする何百万の兵士の戦死。そして、親友の討伐と彼の死について。

 

「戦場ではないのですもの、時間をかけることも大切でしょう」

 

「そうだな、戦力と違って、情報を逐次投入するのも一つの戦術だな。

 とりあえず、ロイエンタールと知り合った時の頃から話すとしようか。

 ……ああ、いや、まずい。参ったな」

 

 ミッターマイヤーがロイエンタールと知り合ったのは、彼が二十一歳の中尉の時だ。一歳上のロイエンタールも中尉。これは大尉からの降格によるものだ。

 

 その原因は、ある令嬢を三人の男が取り合っている中、第四の男として登場した彼が、令嬢の心身を手に入れ、あっさりと捨てたことによる。三人の男は、第四の男に決闘を申し込み、彼が彼らを返り討ちにして重傷を負わせた結果だ。

 

 出走直後にロープに足を取られて、穴に転げ落ちた感がある。黙りこくって顔面を片手で覆った夫に、妻が何を察したのか。

 

「ふふ、フェリックスよりも、あなたが考えることの方が大変そうね。

 明日も午前中はお仕事でしょう? 早くお休みになった方がいいわ」

 

「そうするとしよう。だがな、エヴァ。

 おれも『運送屋さん』にご鞭撻(べんたつ)を仰ぎたい気分だよ」

 

 生者の中では宇宙最高の名将、新帝国の国務尚書の肩書も、一人の親としては何の役にも立たない。肩を落としている『疾風』に、妻は気の毒な事実を告げるしかなかった。

 

「でも、しばらくはバーラト駐留事務所への出入りは遠慮なさった方がいいと思うわ。

 ヘル・ムライは、結構おかんむりらしいのよ。ミュラー元帥の奥様から伺ったけれど」

 

「まったく、あいつは今度は何をやったんだ」

 

「ミュラー元帥よりもビッテンフェルト元帥の方が問題みたいね」

 

「あいつらか。仮にも第二の双璧だろう。

 いつまでも若者気分が抜けないのも困りものだな」

 

「仕方がないでしょう。この十四年、本当に目まぐるしかったわ。

 自分にとっては、そんなに時間が経ったなんてとても思えないの。

 フェリックスを見ているとびっくりするぐらいよ。

 あの子も、私達の結婚式の話を素直に聞いてはくれなくなってきたわ。

 お年頃になったのよ。だからウォルフ、ロイエンタール元帥のそういうお話は

 もっと大人になるまでお止めになったほうがいいでしょうね」

 

「そうか、そうだな。すまんな、エヴァ」

 

 我が身に置きかえても、思春期の頃に親の恋愛については考えもしないし、知りたいとも思わなかった。戦術の大幅な練り直しが必要になりそうだ。明日の午前の勤務に、重要な案件が入っていないのは幸いである。

 

 この時点ではミッターマイヤーは知らないが、『きらきら星』の予言は、子と親双方に見事的中していたのだった。



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宇宙一高貴な保護者会

 結局、ミッターマイヤーは目の下に隈を作り、生あくびを噛み殺しては、空のコーヒーカップを量産して土曜の午前中を過ごした。古くから、戦争は血を流す政治、政治は血を流さない戦争などともいうが、今ここが戦場でなくてよかったと実感する。いつも溌剌(はつらつ)とした国務尚書の珍しい様子に、皇太后ヒルダも訝しげな顔をした。

 

「ミッターマイヤー国務尚書、どうなさいました」

 

「これは皇太后陛下、お見苦しいところをお見せいたしました。誠に申し訳ありません」

 

「いいえ、謝罪などなさらないでください。

 あなたがそんな様子をなさるなんて、どれほどの一大事かと心配になりますわ」

 

 皇太后の言葉に、苦笑いするミッターマイヤーだった。

 

「実は、自業自得なのですが」

 

 彼女に説明したのは、この数時間後にフェリックスに語った内容である。話の最後を、ミッターマイヤーはこう結んだ。

 

「十五歳という部分で、早合点をしてしまいましてね。

 来年は幼年学校を卒業しますので、実の父の姓を名乗るなら、

 進学に合わせるのが好都合ではないかと思ったのです。

 ですが、そう簡単なものでもないようで、まったくお恥ずかしいことです。

 それで今日の午後に、あれと実の父についての話になると思うのですが、

 考え出すと難問が山積しておりまして」

 

「そうでしたか。あの時は陛下の許可という後ろ盾がありましたから、

 かなり私の裁量で手続きをしてしまいましたからね。

 その後の法改正もそうです。私にも責任の一端がありますね」

 

「皇太后陛下、決してそのようなことは……」

 

「いいえ、重大な責任があるのです。

 もっと早く、ラングの策謀を調査していたらと思うと悔やまれてなりません。

 ロイエンタール元帥は、戦場の名将に止まらず、素晴らしい行政手腕の持ち主でした。

 あのような誣告に踊らされることがなければ、あの流血はなく、あの子も父を失わず、

 私達が政務に苦労することもなかったでしょうに」

 

 ミッターマイヤーは、深々と皇太后に一礼した。

 

「陛下にそうおっしゃっていただけることが、ロイエンタールにとっても救いになるでしょう」

 

 ヒルダは少年めいた硬質の美貌に、翳りの色をのせる。

 

「こんなことをお話しすると、あなたはお気を悪くされるでしょうが、

 私はあの方が少し苦手でした。

 私は社交界では変わり者扱いでしたが、女の端くれですもの、なにかと噂は耳にするものです。

 冷たい美貌というのでしょうね。ああいうのも一種、損な容貌ですわ。

 私には公正な紳士でしたが、そういう評判を聞くと身構えてしまうのです。

 それでも、その評判に怖じなければ、一時でも彼を所有できる。

 女性にとっては、ある意味で堪らない魅力でもあるのですよ。

 男性として、完璧に近い人でしたものね」

 

 ロイエンタールの存命中、幾度となくミッターマイヤーが思っていたことを、(たなごころ)を指すように言葉にされた。皇太后の分析力は重々承知しているが、改めて脱帽するしかない。だが、真に舌を巻くのはこの後だった。

 

「ですが、今になってみると、ロイエンタール元帥は、

 女性がお好きではなかったように思えるのです」

 

 まさしくそれこそが、亡き親友の急所だった。

 

「皇太后陛下、どうしてそうお思いになるのです」

 

「先日、ある男性を見かけたのです。

 ヤン夫人にお願いしていた物を届けてくれた方なのですが」

 

 愛嬌のたっぷりの魅力的な男で、皇宮の女官に親しげに声を掛け、女好きなのだと一目瞭然だった。いまの皇宮の女官は生真面目な者が多いのだが、よほどアプローチが上手なのだろう。お堅い美人たちが、満更でもなさそうに会話をしている。

 

 懐かしい顔だった。ラインハルトの死で、一万人の力量を喪失したのなら、二万人でも三万人でもできる人数でやればいいと言ってくれた。明るい褐色の髪と鮮やかな緑の瞳。当時とほとんど変わっていない、相変わらず引き締まった体つきの美男子だった。

 

「私が直接言葉を交わしたわけではありませんが、

 ホールの上の回廊にいた私たちと目が合って、ウインクをしてくれましたのよ」

 

「それはまた、ずいぶんと不敬ではありませんか」

 

「ミッターマイヤー尚書、お怒りになる必要はありませんよ。

 本当のお目当ては、私ではなくて周りの女官だと思いますからね。

 上品な言葉ではありませんが、女好きとか女遊びと言うでしょう。

 あの人を見て、好きだから遊ぶのだと納得してしまいましたわ。

 そうして見ると、ロイエンタール元帥はなにかが違う、と思ったのです」

 

 ミッターマイヤーが浮かべた苦渋の色に配慮したのか、ヒルダは話題を変えた。

 

「逆にヤン元帥は、ご夫人一筋だと思っていたのですが、

 あの方にも片思いの女性がいらしたそうですの。

 ご夫人の心胆を寒からしめた方だったそうです」

 

「何ですって?」

 

 思わず敬語も忘れて訊き返したが、ヒルダは咎めなかった。

 

「ヘル・ミンツとヘル・アッテンボローの著作はご存知かしら」

 

「皇太后陛下、初めてうかがいましたよ」

 

「それでは、ヘル・ムライに、ミュラー軍務尚書への出入り禁止令が出され、

 怒鳴りこんだビッテンフェルト元帥が、バーラト星系共和自治政府への内政干渉と、

 憲法違反で提訴すると逆に一喝された件は?」

 

「昨夜、妻から聞いたような気がしますが、

 あの事務長氏をそこまで怒らせるとは笑い事ではすみません」

 

 ヒルダの説明によると、ヤンの弟子と後輩が、エル・ファシル脱出行直後のヤンの体験を基に、第二次ティアマト会戦で活躍したブルース・アッシュビーと、帝国との謀諜網が考察された話である。二十一歳のヤンの言行録としても面白く、複数の友人知人、上官に部下からのインタビューをまとめてあり、伝記としての側面も優れている。

 

 軽佻浮薄な題名を裏切るような厚さの本だが、この二種の要素が絶妙なタイミングで交錯し、二人の著者の才能をよく表している。

 

 当然のごとく、新領土の書店を席巻する勢いで売れ、なんとイゼルローン要塞にまで出回ったそうだ。その司令官として抗議のために、バーラト星系政府帝都駐留事務所に超光速通信(FTL)で怒鳴りこむビッテンフェルトもビッテンフェルトだ。

 

 だが、それなりに人は選んだのだろう。というか、ここまでの調教……いや管理職教育が実を結んでいたのだろう。これがキャゼルヌ事務総長なら、アイスピックのような毒舌の集中砲火で、一片の反論も許されないうちに大騒ぎになったであろうから。

 

 規律と秩序の使徒、地味で堅実なムライは、ビッテンフェルトの鼻先を見えない定規でぴしりと抑えるご意見番であった。だが、ヤンの遵法(じゅんぽう)精神に一番身近な者でもあった。いつもは定規の平で軽く叩くにとどめる彼だが、今回は相当に腹を立てたらしい。見えざる炭素クリスタルの定規の、目盛りの刻まれた背でもって一刀両断にしたようだ。毒舌でさえなく、法的根拠に基づいて、一切付け入る隙もなく、理路整然と論破されたという。

 

 ちなみに、さすがに帝都にまでは本が入ってこない。これを求めて駐留事務所に掛け合い、待合室の読み物として置いてもらったまではまだいい。あまりにも頻繁に入り浸りすぎて、とうとう軍務省に本を渡されて、暗に出入りに及ばずと告げられてしまったのが前者であった。

 

「しかし、帝国軍の重鎮が揃って何をやっているのでしょうか」

 

 聞かなければよかったと、ミッターマイヤーは真剣に思った。

 

「それでも、外務省に対する厳重注意の申し入れで済ませて下さってありがたいことですわ。

 ビッテンフェルト元帥が、バーラト政府や、著作者達に直接抗議していたらどうなったことか」

 

「皇太后陛下、恐ろしいことをおっしゃいますな」

 

「ビッテンフェルト元帥には厳重注意をしておきましたわ。

 私もこの本を読みましたので、あまり強いことは言えませんけれどね。

 ああ、もちろん密輸などではありませんわよ。

 ヤン夫人にお願いして、私が著作者から寄贈を受けた物ですから」

 

「陛下……」

 

 この方も、だいぶ共和自治政府に毒されているのではないだろうかと、心配になるミッターマイヤーだった。二期八年で首班の座を降りたフレデリカ・(グリーンヒル)・ヤンは、その後も政府の閣僚に留まり、今は外務長官を務めている。不世出の英雄達の遺された妻という立場も、年齢や能力、性格にも近しい部分の多い二人である。いまや良き相談相手、親友といっても過言ではない。

 

 完全に余談ながら、その美しい容姿も。くすんだ金髪とブルーグリーンの瞳のヒルダが清爽とした初夏を、金褐色の髪にヘイゼルの瞳のフレデリカが豊穣の秋を連想させる。

 

 二人の夫は、対象的な容姿ながら、どちらも冬を連想させるのが共通点だろうか。陽光を金色に照り返す真白き万年雪の下、蒼氷色の断面を見せる氷河と、深閑とした夜の闇に、音を吸い込んで積もる雪を。

 

「実際に読んでみると、本当に面白いのです。

 複数の人物から見たヤン提督のインタビューがありますが、

 色々な見方があって、みんな見え方が違うのです。

 あの方は『矛盾の人』と呼ばれたりもしたそうですが、確かに複雑な人だったのでしょうね。

 ちょうど、ロイエンタール元帥のように。あなたのように公正で実直な方には

 逃げとも取られそうですが、これは一つの戦術にはなりませんか?」

 

「と、おっしゃいますと……」

 

「あなただけからの言葉ではなく、様々な人たちからロイエンタール元帥に

 ついて、フェリックスに語ってもらうことです。

 親友であるあなた、陛下の幕僚であった私や、他の元帥がたもそうでしょう。

 それに、あなたの上のお子さんは、ロイエンタール元帥の従卒でしたね。

 いろいろな情報を提示して、彼に選んでもらうのです」

 

 

 いかにもこの女性らしい、情理を弁えた提案だった。

 

「ありがとうございます。フェリックスを引き取った時は、

 大きくなったら、実の父の事を語りたいと願っていました。

 ですが、陛下のおっしゃるようにロイエンタールは複雑な男です。

 正直、難しい年齢の息子に、言いにくい面もありましてね」

 

 ミッターマイヤーは、おさまりの悪い蜂蜜色の髪の上から、眉間を揉み解した。すこし白い物も混ざりだしたが、まだあまり目立たない。相変わらず豊かな髪だ。

 

「まぁ、どんな?」

 

 ミッターマイヤの表情が固まったので、ヒルダはくすりと笑みをこぼして続ける。

 

「と、訊くのは新領土で言うパワーハラスメントになるのでしょうね。

 取りあえず、あなたがおっしゃった方法もあることを教えて、

 ご自分の早とちりをフェリックスにお伝えになったほうがいいでしょう」

 

「いやはや、面目ないことです」

 

 珍しい皇太后の軽口に、ミッターマイヤーはかなり気持ちが軽くなった。

 

「あなたも失敗をなさるというのを、率直に見せたほうがいいのですよ。

 例の本に、ヘル・ミンツが空戦の師に言われたことが載っていましたわ。

 『ヤン提督は怠け者だからいいのさ。

  あの人が勤勉な努力家だったら、周囲の人間が救われないぜ』と。

 ミッターマイヤー国務尚書、自覚がおありではなさそうですが、

 あなたはかなり『勤勉で努力家なヤン・ウェンリー』に近い方よ。

 その人に、姓を変えないかなんて言われたら大変なショックでしょう。

 今日はもうお帰りになって、フェリックスと沢山お話をなさるべきです」

 

「は、しかし……」

 

 反論しかけたミッターマイヤーを、ヒルダが遮った。

 

「歴史上、重大な問題ですのよ、有力な臣下の親子の仲違いというのは。

 それにアレクも心配していますわ。愚かな母の言い分とお笑いになっても結構です。

 フェリックスの問題は、私達が皆、アレクも含めて背負うべきものです」

 

 こうまで言われてしまえば、臣下にとっては一礼して、その意を受けるしかない。

 

「皇太后陛下、ご厚情に感謝いたします。それでは失礼をさせていただきます」

 

「ええ、お気を付けになってね」

 

 ミッターマイヤーの辞去を笑顔で見送り、皇太后の執務室には主席秘書官のシュトライトが残った。



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宵の明星、明けの明星

「おまえの実の父、オスカー・フォン・ローエンタールは男だったら羨望して止まないものを

 ほとんど全て備えていたよ。ただ一つを除いてな。

 だが、その一つのせいで、残りはあいつにとって無価値に等しかったのかも知れない……」

 

 ミッターマイヤーはこう前置きして、フェリックスに語り始めた。二十一歳の時に、イゼルローン要塞に配属され、殺人事件の調査がきっかけで知り合ったこと。一緒に調査をするうちに、不思議と馬が合い、事件が解決するころには『かたぶつの平民』と『女ったらしの下級貴族』が、友情を育むに至ったことを。

 

「あいつはな、背は高いし、顔はいいし、軍人としての才能も高かった。

 艦隊を指揮してはヤン元帥と互角、白兵戦に臨んではシェーンコップ中将の猛攻を凌ぐ、

 そんな男は、俺の知る限りでは他にキルヒアイス大公ぐらいだろうな。

 こと智勇の均衡という点では、皇帝ラインハルトも及ばなかっただろう」

 

 帝国の『至宝』の賞讃は続く。

 

「それに行政能力は俺なんかの比ではなかった。

 イゼルローン回廊決戦直後のハイネセンに駐留して、統治するなんて並大抵のことではない。

 九月一日事件はあったが、それでも最小限で食い止めることに成功したんだ。

 それ以前に、ロイエンタールが行政的な功績を上げていたからだよ。十億人が暴動を起こす

 ことだってあり得たんだからな。そうなったら、五三〇万の新領土軍ではどうしようもない。

 兵士一人対二百人だ。艦隊を動かす前に、地上で襲撃されてたら勝てやしないんだからな」

 

「確かにそうだね」

 

「結局、今でも新領土総督府は置いていないだろう。

 場所は問題じゃない。ハイネセン以外にもシロンだってアルーシャだっていい。

 あいつほどの軍政双方の才能のある、そんな人材がいないんだよ」

 

 灰色の瞳が、神妙な様子の少年をじっと見る。その男によく似た、だがより繊細な顔立ちは、母からの遺伝もあるのだろうか。艶やかな髪も、親友よりやや明るい色をしている。

 

「まあ、性格は能力ほどに円満とは言えなかったがな。

 おまえも知ってのとおり、女性関係は褒められたものじゃなかったし、

 斜に構えたところがあった。

 なんと言ったらいいのか、理が勝りすぎているというのかな、あれは。

 誰かが何か文句をつけるとするだろう。

 カッとして言い返すんじゃなくて、鼻で笑ってからやりこめるという感じだった。

 それがまた、ああいう冷たい感じの美男子にやられると、

 これほど腹の立つものもなくってなぁ」

 

 先程、親友を賞賛した時以上に、実感の籠った描写であった。だが、よく聞かなくてもマイナス査定ではないだろうか。

 

「父さん達は、ほんとに友だちだったの……?」

 

 息子が上目遣いになって、極めて疑わしそうな表情を向ける。決まり悪げに咳払いをして、ミッターマイヤーは続けた。

 

「だが、決して話の分からない男じゃなかったぞ。

 ちょっとばかり皮肉屋だが、ちゃんと筋の通った奴だった。

 俺の命の恩人で、皇帝ラインハルトと俺を引き合わせてくれたのもあいつだ。

 あいつの判断が優れていたからこそ、俺は今こうしておまえと話している。

 勿体なくも、今の地位を賜って、至宝などと呼ばれてな。

 あいつは、キルヒアイス大公の次に、皇帝の臣下になったんだ」

 

 それから彼は、前王朝の不祥事、『クロップシュトック候事件』について語り始めた。当時の貴族の腐敗ぶり、横行する暴力と流血。老夫人を暴行し、殺害して指輪を奪った貴族の馬鹿息子を、軍規を正すべく、自らの手で銃殺刑に処したこと。

 

 フェリックスの顔が蒼褪める。艦隊戦による戦功の影にいる、何十万、何百万の死者よりも、優しい父が自らの手で引き鉄を引き、人を殺したことの衝撃は大きい。

 

「俺はそのことについては後悔はしない。信じられないだろう。

 ほんの二十年前には、貴族の腐敗でこんなことが(まかり)り通っていたんだ。

 貴族の権力闘争で、相手の貴族はおろか、その領民まで略奪や暴行の犠牲になったんだ。

 こんなありさまじゃ、ヤン元帥が専制政治に断固として抗ったのはよくわかるだろう。

 皇帝ラインハルトが、歴史上稀有な存在だということも。ああ、話が逸れたな」

 

 貴族の馬鹿息子を、少将の職権に基づいて銃殺刑にしたのは合法であったが、これが権門の怒りに触れて、拘禁されてしまった。処罰した少将は平民、銃殺された大尉は貴族であったからだ。貴族、それも大貴族の横暴は法を容易に逸脱する。生殺与奪を握られたミッターマイヤーを救助すべく、ロイエンタールは行動を起こした。

 

 権威には権威を。当時はまだミューゼルの姓を名乗っていた、皇帝の寵姫の弟に親友の救助を嘆願したのだ。対価は自身の忠誠と、親友の感謝。そして、下級貴族や平民の軍人の好意を得られると。これをラインハルトとキルヒアイスは了承し、ミッターマイヤーの救助に赴いた。拷問吏(ごうもんり)に痛めつけられ、反撃したところに現れた貴族の馬鹿息子ども(まだまだいたのだ。クロップシュトック候の討伐は、標的となったブラウンシュヴァイク公の私兵団が中核となっていたからだ)にもそれを反復し、射殺されるかというところに、親友は後の皇帝とその半身を伴って現れた。

 

 今も鮮やかに目裏(まなうら)に甦る。黄金を挟んだ真紅と暗褐色の髪の三人が。まるで一幅の絵のような光景だった。彼らは天上(ヴァルハラ)に去り、自分はこうしてその残照を守ろうとしている。

 

「その後は、俺もミューゼル大将の麾下(きか)に加わった。

 皇帝ご自身も当時は大貴族から白眼視を受けておられた。

 その点では、俺たちは似ていたのかもしれんよ」

 

 その後は、ミューゼルからローエングラムに名を変え、爵位を授かり武勲を()てていくラインハルトに従って、彼らも階級を上げていった。だが、最大の転換点は、リップシュタット戦役でのキルヒアイス大公の死であった。オーベルシュタイン元帥の機転で、これをリヒテンラーデ公排除の機とし、彼らはオーディーンに急行して玉璽(ぎょくじ)を確保した。この功績により、彼らは双璧と呼ばれ、ローエングラム候の麾下の最上段に位置するようになる。

 

「それから先は、同盟軍との決戦になった。

 相手には地の利があったが、本来は多勢に無勢だ。

 百回戦闘があれば、九十九回こちらが勝つはずだったんだが、

 ヤン元帥は強いなどという言葉では表現しきれない相手でな」

 

「知ってる。この前、学校で授業があったんだ。みんな驚いてた。僕もだけど。

 初めてイゼルローンに行く間、ユリアンさんに色々聞いたんだけど、

 あれは全部じゃなかったんだね」

 

「ああ、本当にあれが全てじゃなかったんだ。

 だが、ロイエンタールの話と関係ない部分は割愛しようか。

 バーミリオン会戦で、皇帝ラインハルトが負ける寸前、

 俺たちはハイネセンを押さえて、無条件降伏命令を出させた。

 それにヤン元帥は従い、停戦が成立して、バーラトの和約が結ばれた。

 レンネンカンプが高等弁務官となったことが、後の悲劇に結びつくんだが

 あの時、皇帝の当初の構想のとおり、

 その職にロイエンタールが就いていたらどうなっていただろう」

 

 父の言葉に、フェリックスは首を傾げた。

 

「ヤン元帥は今でもお元気で、同盟はバーラトの和約に従い、存続していたかもしれない。

 彼が生きていれば、高等弁務官のあいつを陥れようと思う者はいなかったろうな。

 だが、そうだったらおまえは生まれていない」

 

 藍色の目が大きく見開かれた。

 

「あいつがオーディンに残ったことで、おまえの母親と接触したんだ。

 彼女は、俺たちが皇帝の命によって処断したリヒテンラーデ公の一門だった。

 その命を受けて、処罰を実施したのがあいつだ。辛いことを教えてすまない。

 おまえの実の母親にとっては、皇帝も俺達二人も敵だったんだ。

 大公を失った皇帝の怒りは深くて、女子供は辺境に流刑、

 十歳以上の男子は死刑という大変厳しいものだった。

 それを恨みに思ったリヒテンラーデ候の姪の娘が、ロイエンタールを襲った」

 

 父とその親友についての業績の話がここにつながるのか。フェリックスが耳にしていた、『実母の恨み』は、痴情のもつれではなかったのだ。

 

「そうだったんだ。それが恨み、だったんだ」

 

 伯父の罪で、自分の父や兄が殺され、自分や母、姉妹は流刑に処される。他の大事な親族も、あるいは殺され、あるいは遥か遠くに引き離される。貴族としての贅沢な生活を失うことと、いずれがより辛いことだっただろうか。

 

「ロイエンタールにとっても望まぬ処罰だったさ。

 だが、帝国宰相にして元帥であるローエングラム公に、(ヤー)以外の回答はできなかった。

 思うにな、これも専制政治の欠点なんだ。同盟では自分の罪以外では裁かれることはない。

 そして、何人も裁判なくして処罰されないとある。この裁判も最大三回の機会がある。

 迂遠といえばそうなんだが、処刑されてしまった後で、

 無実だとわかっても取り返しがつかないだろう。

 これは、旧同盟でも冤罪が蔓延していた時代があって、

 より慎重になったということらしいんだがな」

 

 ミッターマイヤーは重い溜息をついた。そのことが記された『無実によって殺された人々』という本がヤン・ウェンリーの愛読書だった。この事実を彼が知ってなお、ラインハルトを望みうる最良の専制君主と評価しただろうか。

 

 そして、この旧同盟の憲法に謳われた権利を、政府自らが踏みにじって、ヤンを密殺しようとした。もはや、同盟政府は民主主義を掲げるに値せずと、彼が考えたとしても誰が責められるだろう。この原因は、ヤンに対する敗戦の屈辱を引きずったレンネンカンプと、彼におもねった同盟政府首脳部の双方にある。

 

 もし、これが当初の構想とおりにロイエンタールがその職についていれば。ヤン・ウェンリーに敗戦を喫しなかった数少ない将帥であり、皮肉屋だが冷静な親友ならば、根も葉もない噂として鼻で笑って終わりにしただろう。無論、しかるべく調査はさせただろうが。 

 

 だが、ヤンは『歴史にもしもはない』という考えを持ち、人生は自分の選択の結果だと、運命や宿命で片付けるのをよしとしなかったという。心の底から強く、毅い(つよい)人だったのだ。誰のせいにもせず、誰にも縋らず、最善手(ベスト)よりも最適手(ベター)を模索し続けたという。

 

 ラインハルトやロイエンタールは、そういう意味では強い人間ではなかった。だが、ポプラン退役中佐が息子に語ったように、人は自分以外にはなれないのだ。生育歴の重要性は語るまでもないことだろう。

 

「だから、その女性が襲って来た時に、すぐに官憲に引き渡すことをしなかったのは、

 今度は彼女が死刑になるのではないかという懸念もあったんだろうな」

 

 そして恐らくは、彼女にある女性を重ねたのだろう。

 

「父さん。こんなことを言ってはいけないのはわかっている。

 でも、どうして皇帝を狙わなかったんだろう。

 だって、どっちを狙っても、成功なんてしないのに」

 

「フェリックス」

 

「だってそうだろ。皇帝は厳重に警護されていただろうけど、

 どうせ殺されるなら皇帝に直接抗議するほうが筋が通ってる。

 僕ならそうする。だって、貴族のお嬢様が銃を撃っても当たりっこないもの」

 

「実際はナイフだったそうだ。美しい細工の、淑女の懐剣だな。

 おまえの言うとおり、あいつにかすり傷一つ負わせることは出来なかったそうだよ」

 

「じゃあ、殺されに行ったようなものじゃないか」

 

「ああ、案外そうだったんじゃないかと、今では思うようになったんだ」

 

 あの頃の自分は若く、直線的に過ぎるほどだったような気がする。もっと複雑な面のあった親友には、自分の単純さが好ましかったのではないだろうか。

 

「それはどういうこと?」

 

「ロイエンタールは、社交界でも有名な存在だった。

 母親は伯爵家の出だし、父上は帝国騎士だが事業に成功した資産家でな。

 あいつはごく自然に贅沢が身についていて、

 そこらの大貴族が束になっても敵わない気品があったんだ。

 それに最初に言っただろう。男なら羨ましく思うような容姿だったと。

 皇帝ラインハルトも、それは美しい容貌だが、大公妃殿下によく似ておられた。

 傍に寄るのはご遠慮したい、とヤン外務長官が以前言っていらしたな、そういえば」

 

「でも、ヤン長官はとっても綺麗な方だよ」

 

「ああ、俺もそう思うよ。でも、それでも比較対象にされるのは厳しいのだそうだ。

 皇太后陛下がそれに臆さなかっただけでも、敬意に値するとおっしゃっていた。

 女性というのは、よくわからんなあ」

 

 ミッターマイヤーは(かぶり)を振った。美貌と一口に言っても、ラインハルトは中性的、ロイエンタールは男性的であった。前者は社交界では令嬢がたに遠巻きにされていて、後者は何もせずとも女性が寄ってきたものだ。

 

「まあ、とにかくあいつは女性にもてた。

 彼女もあいつを知っていたのではないかな。

 金銀妖瞳(ヘテロクロミア)というのは間違いようのない特徴だ。

 自覚はないが片想いではなかったんだろうか。

 ああいう理由で没落してしまうと、結婚することもできんし、

 元貴族の女性にできる仕事は多くない。

 そうなる前に、惚れた相手の手で死んだ方がましだと、

 心のどこかで思っていたのではないかと」

 

 彼女の名は、エルフリーデ・フォン・コールラウシュだった。今でもどこかで生きているのだろうか。親友は彼女の純潔を奪ったという。そして、美しい手をしていたと。人類最古の女性の職業に就けば、前者は失われていた。そして、どんな仕事についても、象牙を彫刻したような傷一つない美しい手を保つことはできない。

 

 自らが貴族と言えるうちに、美しいうちに、生を絶ってしまえば、相手の心に何らかの形で残る。そう考えても不思議ではない。人が絶望するのは、貧困にあえぎ飢えることだ。次の食事も摂れないようになれば、明日のことなど気にしなくなる。そうなったら、自分もろとも相手を滅ぼすことに躊躇はしない。

 

 薄幸の佳人はいても、不幸な美人はいない。真実の不幸――貧困――で衣食住の全てがなくなれば、生来の美しさなど寸毫(すんごう)の間に摩耗する。

 

「それでな、フェリックス。ロイエンタールが酒に酔って、俺に一度だけ言ったことがある」

 

 ついにここまで話が進んでしまったのか。ミッターマイヤーは、膝の上で拳を握りしめた。

 

「あいつの母親は大変な美人だった。

 実家が没落して、資金援助のために帝国騎士の家に嫁入りしたんだ。

 あいつの父は、ずっと年下の妻を溺愛したが、妻の方は若い愛人を作った。

 やがて、あいつが生まれた。夫と妻は青い目で、愛人は黒い目をしていた。

 美しい手の母親は、美しい細工のナイフで、

 赤ん坊の黒い目を抉ろうとしたところを見咎められた。

 ほどなくして、狂気の中で亡くなったそうだ。『彼女』と似てはいないか?」

 

 顔も覚えていない、だが自分に色濃くその容貌を遺した母の、どこか歪んだ鏡像。自覚があったか否かは不明だが、彼も彼女にそれを重ねたのではないだろうか。

 

「あいつが子守歌代わりに聞かされたのが、

 その話と父親からの生まれたことに対する呪詛だったそうだ」

 

 亡き親友によく似た顔が、今度こそ蒼白になった。左右が同じ濃藍の瞳が、ミッターマイヤーを凝視する。ミッターマイヤーの灰色の視線が真っ直ぐに、それを見返した。

 

 ああ、これこそ親友が真に欲しかったものなのだ。自分に正面から対峙する父が。

 

「あいつが持たないただ一つ。それは家族の愛情なんだ。

 実際に血がつながっているかではなくて、心がつながっている相手だよ。

 何があっても無条件に自分の味方になってくれる。

 時に褒め、時に叱ってくれる、そんな存在がいなかったことだ。

 俺は親友だったが、そこまでの存在かと言われると否だ。残念ながらな」

 

 そういった父は、とても寂しく悲しい顔をしていた。常日頃の若々しさを失って、一気に十も二十も老けこんだように。

 

「もしもあいつにそういう存在がいれば、自分に掛けられた疑念を晴らそうと

 思いつく限りの手を打ったのではないかと思う。

 自分への執着がなかったから、疑われて、奸臣に申し開きをするぐらいなら、

 剣を以て叛くことを選んでしまったんじゃないか」

 

「いままで、皇帝に仕えてきたのに……?」

 

「だからこそ、とは考えられないか」

 

 ラインハルトが、皇帝の寵姫の弟、いわば月のような存在だったころからの二番目の臣下。軍歴はラインハルトよりも長く、その輝きの本質にも二番目に気がついた存在。あたかも月の出を導く宵の明星のように。その表現は、息子にとって思いがけないほど詩的なものだった。

 

「あいつは、キルヒアイス大公の次に長く、皇帝ラインハルトに仕えてきた。

 双璧なんて世間は言うが、樹てた戦功はあいつの方がずっと上だった。

 それだけ心血を注いで、皇帝に尽くしたのに、

 小者の讒言(ざんげん)を信じるのかという失望もあったのかもしれない。

 『狡兎(こうと)死して猟犬()らるる』とはあいつの言った言葉だ」

 

 最強にして最良の敵手、ヤン・ウェンリーは既に亡い。そうなれば、艦隊戦においてはラインハルトを凌ぐロイエンタールは、潜在的な最強の敵とも見なされた。

 

 そして、ウルヴァシー事件が起こる。皇帝ラインハルトとミュラー、ルッツの一行が帝国軍兵士に襲撃され、ルッツ元帥は皇帝の盾となって亡くなった。後に地球教徒による犯行だと分かったが、今にして思うと、ヤンの死後、すぐに後継者たちと講和会談を設けていたらどうだっただろう。

 

 彼は、『自分を屈服させる』という皇帝のこだわりを見抜き、自らの首を的にしてラインハルトをおびき寄せた。よくも悪くも、ラインハルトにとっては、ヤン以外を相手と認識していなかったのである。

 

 皇帝はお仕着せな日程の行幸を嫌った。ウルヴァシーに着陸したのは、前述の三名と、副官と随員と従卒という少人数だった。帝国軍の駐留艦隊しかいない惑星ということに、油断がなかったとは言えない。そのわずか四か月前に、ヤン元帥を殺害した地球教徒は、帝国軍兵士を装っていたのだ。そして、ユリアン・ミンツ達が地球教団本部に潜入した時に、サイオキシンによる洗脳が行われている情報を入手できていたら。

 

 まったく、賢者ならざる身としては、いくつもの『もしも』を数え上げずにはいられない。これこそが、俺と魔術師の差なんだろうさ、と父はフェリックスに漏らした。彼らしくない、自嘲の色を浮かべて。

 

 ヤンがこれを聞いたら、『そう思わないとやっていられないだけですよ』と穏やかに反論しただろうが、彼にそれを知る術はない。

 

 

「初代軍務尚書のオーベルシュタインには、皇帝にはナンバー2は不要という持論があった。

 キルヒアイス大公が亡くなったのも、半分はあのオーベルシュタインの進言のせいさ。

 だが、最終的に判断をしたのは皇帝だ。

 今度もそうなるのかとあいつが考えなかったはずはない。

 自分の無実を弁明しても、管理責任を問われて更迭されるのは間違いない。

 丸腰にされたところを、小者の言で処刑されるぐらいならと、剣を執って叛いたのだ」

 

 

 そして、太陽に叛旗を翻す。それはまるで明けの明星。




作中のモチーフは宇月原 晴明著『黎明に叛くもの』より着想しました。


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一番星に祈りを……

「俺はあれからずっと考え続けていた。

 確かにあの時に重傷を負ったが、決して治療不能な傷ではなかった。

 キルヒアイス大公や、ヤン元帥の傷とは違うんだ。

 手術をすれば延命どころか完治も可能だった。

 本当に徹底的に叛くつもりなら、まだ艦隊の損耗は低い。

 新領土の民衆に、自治権を与えると約束して協力させてもいい。

 だが、あっさりと兵を引いて、ゆっくりと死を迎えるに任せてしまった。

 トリューニヒトという害虫を退治までしてな。

 あれはロイエンタールから皇帝への抗議だったのかもな。

 『我が皇帝(マインカイザー)、あなたも無謬(むびゅう)ではない』と」

 

 専制政治の最大の欠点。君主の決定は全ての法を超越する。『綸言(りんげん)汗の如し』の言葉のとおり、一度出された決定を覆すことはできない。ロイエンタールが、リップシュタット戦役や、神々の黄昏(ラグナロック)作戦、そしてヤン・ウェンリーとの最終決戦や彼の死に際して、一度もラインハルトの決定に異論を持たなかったのか。あの理性に富んで、広い視野をもつ親友が、皇帝の決定を無謬と思い続けるはずもない。

 

 フェリックスは息を呑みこんだ。国務尚書による、建国帝への批判だ。誰かに聞かれ密告されたら、大逆罪での処罰もありうる。限りなく重い一言だった。

 

「なあ、フェリックス。さっき言った金星の話は続きがあるんだ。

 古代の地球では、宵の明星と明けの明星は、別々の星だと考えられていたんだ。

 左と右の横顔が、違って見えるあいつのようだろう。本質は同じものなのにな。

 太陽と月を除くと、地球の空で一番明るい。本当にあいつのようだ。

 誇り高く、輝かしい男だった。俺は、あいつを友と出来たことを誇りに思う。

 そして、無念でならない。あの時、なんとしても思い留まらせるべきだった。

 あいつが生きていれば、おまえという家族を持てたのに。

 そのおまえを、養子としてあいつから奪ってしまっていいのかと」

 

 父の膝の上で、拳が震えるほどに握り締められている。父が泣くのではないか。フェリックスは恐れた。自分はまだ、言うべき言葉を持たないのに。

 

 緊迫した空気を破ったのは、軽やかなノックの音。それは、二人のミッターマイヤーに顕著な効果をもたらした。親子そろって、はっと頭を起こし、水を掛けられた猫のように背筋を緊張させる。

 

「ウォルフ、フェリックス。今日のお話はそのへんまでになさいな。もうお夕飯の時間よ」

 

 ドアの外から、エヴァンゼリンの穏やかな声が聞こえてきた。我に返って窓の外を眺めれば、落日の残照もとうに消え、宵闇が訪れる寸前の深い菫色が空を染め上げていた。

 

「冷めないうちに、早くいらっしゃい。今日は新メニューに挑戦したのよ。

 そうそう、忘れずにカーテンを閉めて来てね」

 

「う、うん。すぐ行くから」

 

 気を取り直したのはフェリックスの方が早かった。咄嗟に母に返事をして、言われるがままに窓辺にカーテンを閉めに行く。フェザーンは衛星を持たない惑星だ。また、唯一の内惑星は、恒星フェザーンから非常に近い公転軌道を回っているため、地球でいう金星のような見え方はしない。

 

「父さん、今日はありがとう。色々なことを聞けてよかった。

 でもごめん。すぐにはなにも言えそうにないんだ」

 

 窓辺に立ち、カーテンに手を掛けてミッターマイヤーに向き直る。月がなく、一番星を持たないフェザーンの夜空。

 

「今日分かったのは、本当に僕が何も知らなかった、ってことだけだ。

 だから、もっと色々と教えて欲しい。父さんの知っていることを。

 何度も、何度でも。僕もよく考えてみるから」

 

 そう言うと少年は、安楽椅子に座った父の元に歩み寄り、その右手を握って引っ張った。小さい頃によくしたように、十歳を過ぎてからはひさびさに。

 

「だから早くご飯に行こうよ。母さんが待ってる」

 

 ミッターマイヤーの頑丈な手の中で、息子の手はまだまだ小さく細い。緊張に湿った手のひらから、子供らしい高い体温が伝わってくる。そういえば、ロイエンタールと握手をしたことはあっただろうか。

 

「そうだな。せっかくの料理が冷めたら、エヴァに叱られるな」

 

 二人は連れ立ってドアを開けると、階下へと降りて行った。漂ってくる嗅ぎなれない芳香に、顔を見合せながら。

 

 

 そして、少年と中年のミッターマイヤーは、目の前の深皿から湯気を上げる、見慣れない料理に揃って首を傾げた。

 

「母さん、これ何て料理? フリカッセとは違うよね」

 

「この白いのは米というやつか?」

 

 湯気を立てる白く艶やかな米の上に、フリカッセに似た色と違う香りの濃茶褐色のものがかかっている。隣の皿には、チシャの上に短冊に切られたポークカツレツとくし型のゆで卵が整頓し、傍らにはこんもりと盛られた色とりどりの粒を含んだ、クリーム色のペースト。寄り添う真っ赤なミニトマトとの対比も鮮やかな一皿だ。

 

「ええ、フラウ・ムライに教えていただいたのよ。

 イースタンの中でも、ニホンという国がルーツの人にとって、

 魂の家庭料理(ソウルフード)なんですって。嫌いな人がいないと断言できるそうよ。

 さあ、食べてごらんなさいな。熱いから気を付けるのよ」

 

 うながされるまま食前の挨拶をして、父子は一匙すくって口に入れた。途端、スパイスの辛さと香り、肉や野菜の甘みとコク、ほどよい塩味が一体となって、二人の舌を祝福する。

 

「おいしい!」

 

「本当に旨いな、これは」

 

「そうでしょう、カレーライスというの。

 フリカッセに似ているから、作りやすいでしょう、とおっしゃってね。

 あと、この白いのはポテトサラダよ。舌を休めるためにどうぞ、ですって。

 やっぱり、本職の方は教えるのもお上手ね」

 

 色とりどりのものは、細かく切られた野菜とハム。茹でたジャガイモのペーストと一緒にマヨネーズという調味料で合えたものなのだという。こちらはひんやりと冷たく、ほんのりとした甘みと酸味が舌に優しい。

 

「ハイネセンの料理というのはなかなか大したものだなぁ」

 

 ミッターマイヤーは思わず唸った。フェリックスのほうは感嘆する時間も惜しんで、せっせと匙を口に運んでいる。

 

「ええ、本当に色々なレシピをいただいたのよ。

 こんなお料理をずっと知らずにいたなんて、本当に宇宙的な損失ね。

 おかわりは沢山あるから、どんどん食べて。

 でも、デザートの分の余裕はちゃんと空けておくのよ」

 

「それもハイネセンのお菓子なの?」

 

「『ホテル・ユーフォニア』特製ティラミスよ。

 母さん用に簡単なものにしたレシピになるけれどね」

 

 ミッターマイヤーの眉間に皺が寄った。灰色の目が宙を泳ぎ、ややあってから口を開く。

 

「なあ、エヴァ。聞いたことのある名前なんだが」

 

 新領土総督府に接収された高級ホテルではなかっただろうか。ひょっとしてもしかしたら。金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の友も食べていたかも知れない。なんとも言えない表情になった夫に、妻は小さく菫色の片方をつぶって見せた。

 

「ハイネセンでも屈指の高級ホテルで、帝国でもバーラト政府の行事に参加する時に、

 よくお使いになるところでしょう。このカレーもそこのレシピよ」

 

 ちなみに、値段はカレーとサラダ、食後のデザートとコーヒーで一食三十ディナール(税、サービス料別)と決して安くはないが、帝国の文官武官双方に人気のメニューである。

 

「母さんも料理上手だけど、確かに美味しいはずだよね。

 ところで、ティラミスって変わった名前だね。同盟公用語とも違わないかな」

 

「もうあまり使わない言葉だけれど、『私を元気にして』という意味があるのよ。

 さっき味見をしたけれど、本当に美味しいの。

 これを私が作ったのかと思うと、ちょっと感動してしまったわ。

 元気になってくる味よ。楽しみにしていてちょうだいね」

 

 エヴァンゼリンはにこやかに言った。美味しいものを食べれば、いつまでも眉間に皺を寄せてはいられない。

 

 彼女は、夫ほどには息子との関係を心配はしていない。人間の三大欲求の最上位。胃袋を掴んだお袋の味ほど強力なものはないのだから。



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きらきら星変奏曲

「おやおや、大分すっきりとした顔になったじゃないか。男っぷりもあがるってもんだな」

 

 父との対話の後で、まずフェリックスが考えたのは、貴重なアドバイザーへのお礼だった。母あての荷物の伝票に、連絡先の通話番号が記載されていたため、これは造作もないことだった。だが、翌日通信をした時には、『トウィンクルスター運送』はすでにフェザーンを出発した後だった。

 

 オリビエ・ポプランはフェザーンを基点として、近隣星系を中心に、最速を売りにした貨物運送を行っている。無論、需要と燃料費の折り合いがつくなら、ハイネセンを始めとする新領土、あるいは帝国本土の旧都オーディーンまで足を伸ばすこともある。

 

 宇宙最速の売りは伊達ではない。フェザーンからハイネセンまでは通常十五日だが、トウィンクルスター運送は平均十二日。双方の惑星の公転位置と、エネルギーにつぎ込める料金次第では、十日間での航行も可能だ。退職金と餞別がわりに、イゼルローン自治政府から貸与された軽巡鑑がベースの『きらきら星号(トウィンクル・スター)』。過剰な武装を外し、貨物スペースを広げ、エンジンを改良したものだ。その後、貸与者はバーラト星系共和自治政府に移行し、半官半民の企業というのが正確なところである。

 

 社長兼機関士長兼主任航法士がオリビエ・ポプラン、ほかに航法士二名、機関士三名、機関士兼任の砲手が二名。事務部門は十名、うち半数は地上勤務である。いずれも元イゼルローン軍の士官と下士官だった。

 

 新銀河帝国と、バーラト星系共和自治政府の国交が成立し、それに伴ってさまざまな折衝を行うようになった。大半は、超光速通信(FTL)による通信で事足りるが、どうしても現物が必要なものがある。それが親書や条約等の締結文書である。バーラト自治領では政府主席の、新銀河帝国では皇太后の直筆の署名と国璽のあるもの。この距離を、政府首脳が行き来をしていたら、国務が停滞してしまう。

 

 百五十年戦争当事よりは跳躍技術も向上し、航路図の整備が進み、主要星系への所要時間は減少した。しかし、ヤン・ウェンリーが戦略戦術上の一大変革になると考えていた一万光年単位のワープは、まだ夢の夢である。こういった書面などのやり取りを命じられたのが、トウィンクルスター運送だった。

 

 なにしろ借財のある弱み、アレックス・キャゼルヌ事務総長にどうして対抗できようか。味方であった時は、補給と兵站のエキスパートとしてこれほど心強い後方主任はいなかった。だが、商売相手になると、こんなに厄介な男もいない。まあ、実際は上司の薫陶よろしき部下たちの仕事だ。

 

 実にしわい(・・・)顧客だったが、軍備をほとんど解体されたバーラト政府にとっても、信頼できる輸送業者は貴重だった。もっと参入業者が増えたら、今の一社随意契約から指名入札による価格の叩き合いになっていくのだろう。なんと恐ろしい。

 

 とはいえ、そういう荷物の輸送は年に数回程度で、それ以外については自ら糊口を凌がねばならない。そこで目をつけたのが、フェザーンと一~二跳躍内の距離にある惑星や要塞への貨物運送だ。こちらは、フェザーンで積み込んでから一両日中の到着を売り物にしており、なかなか繁盛していた。

 

 先日は、久しぶりにハイネセンまで文書を運び、その帰路に弟子と悪友の著作を積み込んだ。これは大変うまみのある仕事で、いつも燃料費とかつかつの長距離輸送の久々の潤いだった。その晩、社員たちと慰労会に繰り出した夜の街で、一番星の息子と、きらきら星の生命体は邂逅を果たしたのである。

 

 以前からのフェザーンの住民にとって、新銀河帝国の首脳部はありがたくない『よそ者』だった。だが、ルビンスキーの火祭りによる被害や、ヤン元帥と皇帝ラインハルトらがテロに遭ったこと。故郷の背後に地球教があったことは、独立独歩を掲げるフェザーン人にとって、末代までの恥であった。

 

 なにより、大多数のフェザーン人にとっては地球教などあずかり知らぬことだが、今後同様のテロが起きたら恥の上塗りではないか。特に、帝国首脳部の妻子を狙ったテロや誘拐など、なんとしても防がねばならない。百害あって一利なしだ。政局にはなんらの好影響はなく、締め付けばかりがきつくなる。末端の兵士にとっては、暴行や報復の口実ともなるのだから。

 

 大公アレクや皇太后ヒルダは皇宮奥深くにいるので、それはそちらに任せる。だが、帝国重鎮の坊ちゃん嬢ちゃんがうろうろしていたら、速やかに保護すべし。細君が買い物をされていたら、それとなく警護すべし。そんな暗黙の了解が出来あがっている。

 

 裏街に迷い込んだフェリックスは、かなり最初のうちからそれとない保護体制が敷かれていた。動員のかかった者のなかで、『子供のお守りが一番うまい』と社員の推薦多数により、社長は宴席から、まだまだ夜寒の裏通りへと追いやられたのだった。フェリックスが知る由もない大人の事情である。

 

 それから五日後、近隣星系を一巡して戻ったポプランに、事務員が少年からの通話を連絡する。当然のビジネスマナーとして、ポプランはフェリックスに返信をする。折よく彼が通信画面に姿を現した。それに対する第一声である。

 

「先日はありがとうございました。父ともっと色々話をすることにしました。それで……」

 

「なるほど、まずは情報の入手に成功か。まあ、気長にやりなよ」

 

「はい、皇太后陛下からも、もっと色々な人からあの人のことを聞いてごらんなさい、

 とも言っていただきました。それで、父に訊いたんです」

 

 フェリックスの端正な眉目に複雑な表情が浮かんだ。養父への質問は、他に実父の友だちから話を聞きたいというごく自然なものだった。あの豪胆な父の表情が一瞬固まり、「俺以外のあいつの友人……?」とつぶやいたきり、閣議でもなかなか見せないような深刻な顔で考え込んでしまった。まだ返答はない。

 

「なんか、聞けば聞くほど人格的に問題がある人だったのかなって。

 僕、すっごく複雑な気持ちになっちゃって……」

 

「ある程度は、戦時中の軍人稼業ってことで割り引いてやんないといかんぜ。

 たいていは学校でできる友達が一番多いもんだが、

 その学校があれだったからな、因果なことに。

 同盟のクーデター前で、士官学校出でも十年で三割は戦死してた。

 俺たち空戦部隊なんか、初戦で三割弱が不帰還の世界だぞ」

 

 平和と一緒に成長してきた少年は、虚をつかれて言葉につまる。鮮やかな緑の目が、その様子を面白そうに見詰める。

 

「まあ、平和がなによりさ。あの頃に生まれた子供が、こんなに大きくなったんだもんな。

 戦争を知らない子供こそ、ヤン提督の望みだったんだから。

 なにもそんな顔をすることはないぜ」

 

「そういえば、ユリアンさんも言っていました」

 

 まだ、自分のことを知らずにいた幼年期の、輝く夏の思い出。亜麻色の髪の青年が語った、黒髪の魔術師の横顔。

 

「おお、そうだ。あの人も同学年の友達は少なかったな、そういえば。

 入学直前に、事故で親も船もなくしてりゃ、無理もないけどな」

 

「無料で歴史を学ぶために、士官学校に入学したって聞いてるけど、

 そのことでしょう? 歴史や戦術分析以外はぎりぎり及第点だったって」

 

「あんまりユリアンの言うことを真に受けるんじゃないぞ」

 

 ポプランは明るい褐色の頭を軽く振って言った。疑問の色を浮かべた生真面目な顔に、片眉を上げて言葉を続ける。

 

「ヤン提督は、自己評価が低いお人だったからな。

 それを弟子は鵜呑みにしちまってたが、手抜きをして及第点取れるっていうのが

 頭のいい証拠だぞ。俺は航法士と機関士の資格を取るために勉強して思い知ったさ。

 士官学校のカリキュラムはな、国家試験に劣るもんじゃないぞ。

 内容を理解してなきゃ、ここが解答できれば六十点取れるという計算も成り立たん。

 おまえさんは真面目で頭も良さそうだから、そんないじましい努力は必要なさそうだがね」

 

  通信画面の中で、ポプランは腕組みをして嘆息した。

 

「というよりも、テストの出題傾向やら配点分布を読んでたんじゃないのか。

 奇蹟(ミラクル)のヤンの能力の無駄遣いだぜ、ありゃあ」

 

「うわ、考えもしなかったけど、それはありそうです」

 

 これも不敗の名将の片鱗と言えるのか。ポプランの見た横顔は、一番弟子のものともまた違うようだ。

 

「ま、話が逸れたが、士官学校の同期生や先輩後輩とかはどうだよ?

 同盟軍でも学年あたり五千人弱いたから、帝国はもうちょっと多いだろ。

 そういう相手に親父さんなら心あたりがあるんじゃないのか」

 

 フェリックスの回答は、はかばかしいものではなかった。

 

「僕もそう思っていたんです。

 ワーレン元帥やビッテンフェルト元帥とは同い年で、

 父さんが一つ下だから、きっと知っているんじゃないかって。

 でも、貴族号を持つ生徒と、平民の生徒は校舎も違うところにあったから、

 噂ぐらいでしか知らなかったみたいです。

 貴族号を持っていた人たちは、かなりリップシュタット戦役で……」

 

「帝国も大変だったんだな。その頃こっちはクーデターで大わらわだったぜ。

 そうそう、あの捕虜交換式の後、ヤン提督にくっついてハイネセンに行ったのさ。

 その時の事件がきっかけだな。俺が航法に興味をもったのは」

 

 そう言って、ポプランはドールトン事件のあらましを語った。妻子ある身で自分を騙した男への復讐で、ヤン・ウェンリーほか二百万人余の船団と共に、恒星に突っ込もうとした女性の話を。

 

「いやはや、女は怖いだろ。だが、彼女もちょっとおかしくなっていたんだろうな。

 『憎いあいつを殺して、私も死ぬ』まではよくある話だ。

 だが、同盟最後の砦と二百万人の人間を道連れにってのは普通じゃない」

 

 恐らく宇宙史上最大級の愛憎劇である。昨日の話を聞いても、これには口の挟みようがない。実父母の話が、普通に思えてきてしまうではないか。

 

「まあ、自分を騙くらかした男とは比べ物にならない英雄が、

 美しき副官や息子のような従卒を連れて、ハイネセンに凱旋しているわけだ。

 ミス・グリーンヒルへの嫉妬もあったんじゃないのかね。

 自分の手に入らないなら、冥土の土産に連れて行くぐらいには。

 おーい、どうした少年。顔が固まってるぞ」

 

「あの、ええと、その何をいったらいいか」

 

「ちょっと重たい話だったな。

 じゃあ、仕事の同僚っていうと、お偉いさんばっかりか。

 上官っていうと、それこそ皇太后陛下になるのかい?」

 

「はい、そうです」

 

「じゃあ、部下は?」

 

「実は」

 

 フェリックスは歯切れ悪く語った。実父の直属の部下のベルゲングリューン大将は上官に心酔していた。彼が生きていれば、きっと多くを語ってくれただろうが、ロイエンタールの死に抗議し、自らの命を絶った。

 

「こりゃあ前途多難だなあ。ぼちぼちやるしかないんだろうがねえ。

 だけどな、生きている相手を通しても亡くなった相手は見えるだろう?

 親父さんの親友のように、ユリアンの師匠のようにさ。

 ヤン提督もお袋さんを子供の時分に亡くして、親父さんを十六歳の時に事故で亡くしてる。

 ヤン提督の生い立ちの話は知っているかい?」

 

「はい、この前学校の授業で」

 

 父はヤン・タイロン。母はカトリーヌ・ルクレール・ヤン。共に再婚同士の夫婦である。タイロンは、金遣いの荒い最初の妻とは離婚し、再婚したのが未亡人の女性だった。評判の美人だったようだが、ヤン・ウェンリーが五歳の時に心臓発作により急逝。タイロンは、妻の親族から一人息子を奪われてはなるものかと自分の船に乗せて、宇宙のあちこちを交易して回った。 

 

「本当に時代が変わったよなあ。これは、あの人の父親の話さ。

 富裕号のヤン船長っていうのは、こっちの業界じゃ結構な有名人でな。

 『金育ての名人』なんて呼ばれてたんだ」

 

「はい、それも聞きました」

 

「おお、すごいな、帝国の学校は。そこまで教えるとは大したもんだ。

 じゃあ、こいつは教えてもらったかい?

 船と乗組員と積荷をまるごと失って、その負債や死者への補償をして、

 借金を出さずに済んだっていうのは、実際はえらいことなんだぜ」

 

 フェリックスはせわしなく瞬きをして、首を傾げて問い掛けた。

 

「保険じゃないんですか?」

 

「保険はあるにせよ、到底足らんぜ。つぎ込んだ資産は相当なもんだっただろうよ。

 ヤン提督は、その債権の整理やら乗組員遺族への補償を、十六歳でやり遂げた。

 その子のことを覚えていた人がいたから、あの時にフェザーン商人から借金ができたのさ」

 

「あの時っていうのは、いつのことですか」

 

「イゼルローンに立て籠っていたおれたちが、君の両方の父さんらとドンパチやった時さ」

 

 緑の瞳が悪童のように煌めき、フェリックスから言葉を奪った。まるで予測がつかなかった人と人とのつながりだった。

 

「さてヤン船長は、女房と死に別れてから、自分が亡くなるまで再婚もせずに、

 男手一つで子育てをしたわけだ。それこそ、引く手あまただったろうにさ。

 子育てを嫁さんに任せきりの男が、急にやもめになって、

 五つの子どもを世話しながらの宇宙旅行だぞ。

 大変なんて言葉じゃ片付けられないさ。しかも、遊びじゃなくて仕事なんだぜ。

 ミスをしたら、社員ともども路頭に迷っちまうんだ」

 

「あ……そうか、そうですよね」

 

「おまけにウェンリー坊やは、そんなに丈夫な子どもじゃなかった。

 最初のうちは、跳躍酔いして吐いたり、熱を出してばかりいたそうだ」

 

 ブリュンヒルトでのはじめての行啓。アレクとフェリックスを、多くの人が面倒を見てくれた。跳躍(ワープ)酔いや、16.5度の室温に、母が口を酸っぱくして注意したものだ。

 

「跳躍酔いって、そんなにひどい人もいるんですか。

 ぼくもアレクもなんともなかったから、考えもしなかった」 

 

「そりゃ、皇帝陛下の総旗艦ならともかく、中古の貨物船じゃな。

 なんともない子どものほうが珍しいんだ。

 それでも、親父さんは面倒がらずに、息子を連れて航海を続けた。

 乗組員も、邪険にせずに船長の息子の面倒を見て可愛がった。

 こいつは幼馴染のボリス・コーネフが言ってたんだがね」

 

 ヤン親子はハイネセン出身で、ヤン・タイロンの所属する会社もそこにあったが、彼の商売相手や仲間はフェザーンに多かったとポプランは語った。

 

「ヤン提督は、人を見る目のあるお人だったよ。

 だから、妻の死を嘆くより、息子を育てるために働く親父を見たのさ。

 そんな父親の姿から母親も見えていたんだろう。

 再婚する気も起きなくなるような、恋女房だったんだとね。

 その息子の自分を、手許から放したくないほど大事に思っていることもさ」

 

 父の姿を見て、大きな背が語る様々なことが、ウェンリー少年を形作った。部下の力量を見抜き、信頼して仕事を委ね、責任を負う。そんな人づかいの巧みさだ。それは部下から信頼されて、惚れこまれる司令官としてのヤンの根幹となった。

 

 彼の人を見る目は、戦場で水晶玉を覗く魔術師のように帝国軍を分析した。戦場の心理学者。圧倒的に優勢な帝国軍なのに、彼の設えた舞台にひとりずつ上げられて、その振りつけのままに踊らされることになった。授業の内容が脳裏に再生され、藍青色を瞠り、微動だにせずにポプランの話に聞き入る。

 

「だから、愛した人たちの死に対しても、自分が受けたような行動を取ったんだな。

 あの人にとって、乗組員はじいさんとおじさんに、兄貴たちだった。

 父親と家族の事故をほとんど一人で後始末して、父親が認めてくれた進路に

 できるだけ近い方法を探したじゃないのかな。

 歴史の勉強は、親父さんの遺言になっちまったようなものだったんだろう」

 

「確かに、ユリアンさんの言い方とは違ってます。

 なんか、ヤン提督はもっと割り切っていたように思えたんですけど」

 

「それが提督のペテンに引っかかってるのさ。努力しても駄目なものは駄目って、

 諦めがいいように見えるだろ」

 

 フェリックスは頷いた。ポプランは人の悪い笑みを浮かべて言った。

 

「とんでもない間違いだぜ。何事も精神論ありきでやっつけたりしなかったってことさ。

 俺が編みだしたスパルタニアンの三機ユニット戦法、何回駄目出しされたと思う?

 A案が駄目ならB案、それも駄目ならC案。場合によってはZ案かも知れない。

 とにかく、実現可能な最善案を考えなきゃ意味がないってな」

 

「なんだか、ユリアンさんの教えてくれたヤン元帥とは別人みたい……」

 

「いいや、ユリアンの言うことと俺の言うことの差は、ヤン提督の様子からは分かりにくいぞ。

 あの人は、目立たず大人しそうな顔にすごく助けられていたのさ。

 実は結構毒も吐くんだが、周りに凄いのがいたから相対的に目立たなくてな」

 

 己の事を遠くの棚に投げ上げて、かつての上官を評する。

 

「ああ、また話が逸れたな。要するに、意外なつながりから洗ってみたらどうだってことだよ」

 

「でも、ほとんど軍にいて、親戚づきあいもなくなっちゃっていますし」

 

「いやいや、財産のほう」

 

「財産?」

 

「実の親父さん、資産家だったんだろ? で、相続人はおまえさんしかいないんだ」

 

「だって僕、ミッターマイヤー家の養子ですけど」

 

 明るい褐色の髪の下で、緑の眼が面白そうに瞬く。

 

「旧同盟法を取り入れたなら、実父母の財産も相続の権利があるんだよ。

 お貴族様の管財人なら、ずっと同じ家に仕えたりしているんじゃないのか。

 祖父さんから親父さんに代替わりしたときに、きっと世話になっているはずだぜ。

 まあ、聞くだけ聞いてみたらどうだい。こんな風に通話一本ですむだろ。

 親戚がいたなら、きっとそっちの情報も聞けると思うがなぁ」

 

「でも」

 

 逡巡して口を閉ざすフェリックスに、ポプランは続けた。

 

「国務尚書閣下の心配の根っこも、きっとそのあたりにあるんだと思うがな。

 親友の家名と資産が、宙に浮いちまってていいのかっていうことさ。

 あるからといって幸福とは限らないが、ないと確実に不幸なのが金ってやつだからなぁ。

 そのあたりから攻めてみたらどうだい?

 あとな、ハイネセン、いや帝国にももっとスマートな方法があるじゃないか」

 

「え、どんな方法ですか?」

 

「おれの口からは軽々には言えんなあ。

 親父さんなら真っ先に思い浮かびそうなもんだが、こりゃ相当切羽詰まっているんだろうなぁ」

 

 大気圏最上層の空の色に、大きな疑問符が浮かんだ。

 

「だから何なんですか!」

 

「まあ、それは君が考えなさい、フェリックス・ミッターマイヤーくん。

 てんぱっている親父さんと、よく話をしてな」

 

「はぁ、そうですね」

 

 悄然とした美少年に、ポプランは一片の慈悲を与えることにした。

 

「そんなにしょげるなって。ここはおにいさんが、魔法の言葉を教えてあげよう。

 あんまり親父さんがせっつくようなら、こう言ってやるんだ。

 『せっかちになるのって、老化現象なんだってね』ってさ。五十前だったら大抵は効くぞ」

 

「それを過ぎちゃったらどうすればいいんですか!」

 

「それまでにおまえさんが決めればいいことさ。そのころには成人だろ?」

 

「つまり、時間を稼ぐってこと?」

 

「立派な戦術さ。第八次イゼルローン攻略のように、強力な味方が現れるかもわからんぜ」

 

 眉根を寄せて不服そうな顔に、ポプランはにやりと笑いかけた。

 

 

 ――新銀河帝国、初代皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラム。彼の生来の姓はミューゼルである。ローエングラムは、当時の皇帝フリードリヒ四世により、伯爵に叙爵された折に賜った姓だ。

 

 その方法を踏襲すればいい。実父が所持していた貴族号も授与されて、ミッターマイヤー夫妻との養親子関係も変わらないという、魔法のような方法だ。これを、親友であるアレクサンデル・ジークフリードの即位後、フェリックスが建てた功績に対して行えば、ロイエンタール元帥に対する、これ以上ない名誉の回復になるだろう。

 

 本来なら思いつかないはずがないのだが、ミッターマイヤーの動揺と苦悩が分かろうというものだ。刻一刻と親友に生き写しになっていく息子に、急きたてられるような思いを抱いたのだろう。

 

 あの美しき皇太后陛下なら、きっと絶妙のタイミングで双方の味方をしてくれるはずだ。かの金髪の坊やは、色々憎い相手だが、これだけは認めてやらなくてはならない。

 

 女を見る目は確かだったことを。



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外伝 無限回廊――エンドレス・ロード――

 やや小柄だが引き締まった後ろ姿がドアの外に消える。笑顔の中のブルーグリーンには、憂愁の底流があった。秘書官のシュトライトの耳には届かぬように、ヒルダは密やかに呟いた。

 

「お怨みしますわ、陛下。

 自分の両親が、無二の親友の仇同然と知ったら、アレクはどう思うかしら。

 この責任を取るまで、生きていてくださらなくてはいけなかったのに……」

 

 彼女は皇帝ラインハルト亡き後の帝国を、その細い両肩に背負って生きてきた。大胆な改革を堅実に軟着陸(ソフトランディング)させた、その一点だけに限っても、史上最高の第二代君主と言えるだろう。

 

 だが、名君として出発し、死に至るまで名君であった君主が、いかに少ないことか。地球時代から数えたとして、両手の指を越えても、両足の指を加えると余るだろう。さらに、それが二代に渡って続いた例は、片手の指で足りるだろう。

 

 ローエングラム王朝は、皇帝ラインハルト、摂政皇太后ヒルデガルドと二代に渡って名君が続いている。歴史上の奇蹟と称した歴史家たちは数多い。

 

 だが、こういう見方もある。皇帝ラインハルトが帝位を継ぎ、崩御するまではわずか二年。それ以前の、同盟軍の侵攻に対する焦土作戦、リップシュタット戦役とヴェスターラントの虐殺の放置。リヒテンラーデ候を一門もろとも処断し、独裁権力を握った手法。幼帝の亡命を口実に、自由惑星同盟に侵攻し、ヤン・ウェンリーの挑戦に応じたともいえるバーミリオン会戦で、麾下艦隊の七割という戦死者を出したことを、『まだ皇帝ではなかったから』数え上げずに名君と称するのか。

 

 彼が即位してからの、同盟への大親征とイゼルローン回廊の決戦。帝国の功臣二人が相打った新領土戦役。そして再びのイゼルローン攻略。

 

 その本質は覇王であって、名君とは呼べないという主張も一派を形成するほど多い。早世したから暴君となる時間がなかっただけだ、という者さえ後世には現れる。

 

 『歴史にもしもはない』が持論のヤン・ウェンリーが聞けば、肩をすくめること間違いないだろうが。そのヤン・ウェンリーは、政治を誰かの責任にできてしまえるという一点で、最良の専制政治も最悪の民主政治に劣ると語った。

 

 人は変わる。赤ん坊は少年になり、青年は壮年に。やがては老いを迎えてこの世から去る。心も共に変わっていく。心の柔軟性と活力と清新さを、青年のまま保ち続けられたら、それは一つの奇蹟なのだ。

 

 二十一歳のヤン少佐が、先輩や後輩にふと語る言葉。住み慣れた家でもあった富裕号と一緒に、父と乗組員を失った十六歳の少年が、やがて辿りついた思い。それが人の命と心の儚さ。

 

 永遠に続くものはこの世のどこにもない。

 

 本の表紙の中で、軍人とは思えないほど優しげで線の細い青年が、はにかんだ笑顔を見せていた。この人のどこに、苛烈な覇気に満ちたラインハルトと、対峙しうるものがあったのだろうか。だが、平凡な容姿と穏やかな言動に隠された彼の本質は、実は冷徹なまでに手強い。

 

 『半数が味方になってくれれば大したものさ』という言葉は、謙虚で自信なげに聞こえる。が、これは自分プラス半数で一票の差の過半数となり、残りの半数マイナス一票が少数意見として切り捨てられる。民主共和制による多数決の非情さを、弟子にもそうとは感じさせず、見事に表現しているではないか。

 

 父の死による不本意な進路、上官の逃亡によって祭り上げられた偽りの英雄。二十一歳のヤン・ウェンリーは、それに振り回され、急な人事異動で捕虜の叛乱に直面しても、出来ることはほとんどなかった。

 

 そのわずか八年後、司令官の負傷により敗走寸前の艦隊の指揮を引き継ぎ、潰走を食い止める。皇帝ラインハルトと、最初の艦隊指揮による対決であったアスターテの会戦。

 

 それは『不敗の魔術師』の伝説の始まり。 その後のイゼルローン要塞の攻略で名声を確固たるものにし、戦功を積み上げていった。たとえ戦力差では絶望的な戦いであっても、麾下の士気を最高水準に保つ宇宙一の名将に至る。

 

 ヤン・ウェンリーは人が変わっていくことを、自身で痛感したのではないだろうか。ラインハルトは、政戦両面の天才で潔癖な性格を持ち、望みうる最良の専制君主だとは彼も認めるところだった。だが、それが変わってしまったら? 

 

 専制君主として即位した者は、辞めること、辞めさせることができないのだ。彼がこだわった民主政治は、権力者に民衆が否を突きつけられるということが最大の理由ではないのか。まだ戦史研究科生だったヤンが、繰り返し読んでいたのが、銀河連邦の簒奪者、四十億人の虐殺者、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの史伝であったという。

 

 あのルドルフだとて、理想に燃えた強力な指導者だった時期があったのだ。だからこそ、ヤンはラインハルトに膝を屈することはできなかったのではないだろうか。ヒルダはそう思うのだ。

 

 だが、ヤン・ウェンリーの懸念は杞憂に終わった。ラインハルトは変わることなく、その時間を許されずに生涯を終えた。彼の心の聖域の定員は、黄金と真紅の髪の二人だけ。別の区画には黒い髪が佇んでいる。もっと時に恵まれたのなら、そこにヒルダとアレクは加わることができたのだろうか。

 

 彼の心の底の底、精神の核は十歳の少年のままだった。十歳では確かにわからないだろう。だが、思春期を過ぎ、青年になればわかるはずだ。ラインハルトにとって記憶の薄い母は、その夫にとって何よりも愛しい存在だったことが。彼とその姉に絶世の美貌を受け継がせ、姉に家庭的な優しさを育んだ女性なのだ。人生の宝、心のすべてといっても、大袈裟なものではなかったことだろう。

 

 皇帝に姉を奪われても、彼女は生きていて、怒りをぶつける相手にも不足はない。だが、事故で妻を失い、身分の差ゆえに加害者に償わせることもできなかった父は、その怒りを我が身に向けるしかなかったのだろう。

 

 そして再び、圧倒的な権力に、亡き妻によく似た娘を奪われる。友人と二人、皇帝になって娘を取り戻すという夢を、彼は見ることができない。子どもの心にだけ許された、夢を広げられる空間の広さと時間。それは大人には決して持てぬものだ。やり場のない怒りと絶望は、どれほどのものだっただろう。

 

 それが他者を灼くか、己を灼くのか、矛先がほんのわずかに違うだけだ。ラインハルト・フォン・ローエングラムとセバスティアン・フォン・ミューゼルはよく似た父子(おやこ)だったのだ。

 

 それに気付くには、セバスティアンが亡くなるのは早すぎたのかもしれない。だが、父が亡くなってからも彼を許すことなく、フリードリヒ四世の崩御で姉が戻ってきても、その羽ばたきを止めることなく、半身を喪い、姉の心を失っても、親友との誓約のとおり宇宙を手に入れた。

 

 彼の心には、大きな欠落があったのだと思う。多分、それをかな(悲/愛)しく思ったのだ。当時の激動の中、ほとんど夫の動揺に引き摺られるように結ばれてしまい、我が子を授かった。半ばはその責任をとるためのような結婚に思えて、ヒルダも自分の心の在り処を見失ってしまったこともある。

 

 テロリストの襲撃によって、予定よりも早い出産を迎えて、夫が散々に悩んだ息子の命名で、ミドルネームの親友の名に密やかに胸を咬むものがあった。それから一月も経たないうちに、イゼルローン軍のブリュンヒルト襲撃と停戦、ラインハルトの死病の発覚と、さらなる激動が続いた。

 

 イゼルローンからフェザーンへの夫の帰還。彼はヒルダや閣僚、幕僚たちと帝国の今後について話を重ねた。その一方で、イゼルローン軍司令官だったユリアン・ミンツとは、生前のヤンについて語らったそうだ。死してなお、死の床のラインハルトの心を離さない魔術師に、嫉妬を覚えなかったと言えば嘘になる。

 

 今にして思えば、ヒルダの初恋はラインハルトだったのだろう。相手があまりに眩しすぎて、自分が彼の恋愛対象に値するとは思えなかった。おまけに彼の女性観はアンネローゼが基準である。だから彼の手足になれるようにと励んだのだ。もっと早く、せめてどちらかの嵐の夜に、自分の気持ちに気付いていれば。

 

 ヒルダが覚えた感情を、旧同盟に伝わっていた古い小説がわずか一文で表している。

 

『可哀想だたぁ、惚れたってことよ』

 

 そして、万古の昔より恋愛の勝敗は決まっている。すなわち、惚れたほうが負け。

 

 統一後に新領土から流入してきたこれらの文化に触れたとき、ひとしきり笑って、後に涙した。これらの多様な文化が、ヤン・ウェンリーの思想を作り上げ、後に受け継がれたのだろうか。

 

「そしてヤン元帥。私はあなたの死を惜しみます。

 あなたが生きていてくだされば、どれほど宇宙の安寧に協力していただけたことか。

 民法の改正で大騒ぎになっているのに、立憲君主制へどう舵を取っていくべきなのでしょうね」

 

 旧同盟軍の宇宙艦隊司令長官だった故アレクサンドル・ビュコック元帥は、民主主義を対等な友人を持つ思想と語った。フェリックスのことは、アレクにとっても大きな問題なのだ。皇帝となる以上、国や臣下を父から受け継ぐことは理解し、納得できるだろう。

 

 だが、親友も父の遺言によるものだと知れば、どう思うことだろう。勅令なのだから、拒否などできないのだといずれ思い至る。もちろん、フェリックスとの友情が、父からの強制によるものではないことはわかるだろう。むしろ、顔も覚えていない父に反発を覚えはしないか。あの子も難しい年齢を迎えるのだし。

 

「私もフェリックスにお節介を焼いている場合ではないわね。

 アレクのことこそ、よく考えないといけないわ。……ああ、もう」

 

 美しい顔を、仄かに紅潮させて考え込むヒルダの目には、嵐の去った朝の、夏の名残りの薔薇の花束が映っていた。こちらの方こそ、とても正直に言えたものではない。新銀河帝国の皇太后という肩書きも、子育てには無力だ。

 

 とりあえず、子供に恥ずかしくない恋愛をしなさいという忠告をするか否か。悲しいかな、帝国の首脳部に胸を張ってアドバイスができそうな人物は、息子の親友の両親ぐらいだ。

 

 また問題が一巡してしまい、無限回廊を築いていきそうだった。立憲君主法の制定と、甲乙つけがたい難問であった。



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新帝国暦10年~19年 大公と女帝のフーガ
プロローグ 我が友(マイン・フロイント)


 フェリックス・ミッターマイヤーの過去への旅は紆余曲折を経て、少年に心を決めさせた。血ではなく、思いを受け継ぐことを。その過程において、彼は『法』とは何かを考え続けた。フェリックスは、進路を決める。武官ではなく、養父のような政治家でもなく、法律への道を。

 

 実の母から全てを奪い、復讐に到らせたリヒテンラーデ一門への処罰。実の父に、誣告への抗弁をすることより、剣を以て立ち上がることを選ばせたもの。

 

 それは、すべての法を超越する皇帝という絶対の存在。だが、皇帝にも枷をはめる方法がある。今はハイネセン記念大学の准教授、ユリアン・ミンツが提唱した立憲君主制。五百年もの長きにわたり、帝政しか知らない銀河帝国にとっての難問。そして、もうすぐその座を襲う道しかない親友に、できることはないのかと。

 

「進学おめでとう、フェリックス。

 でも意外だったな。君が法学部に進むなんて思わなかったよ」

 

「ありがとうございます、大公(プリンツ)アレク殿下」

 

 深々と一礼するチョコレートブラウン。海色の瞳が、微笑みを浮かべてそれを見つめた。十五歳になった大公アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムである。彼もまた、フェリックスと同じく父の美貌を受け継いでいた。

 

 しかし、剄烈な表情と鋭気に包まれ、見る者を圧倒するような威を持っていた父ラインハルトとは違う。かぎりなく優しく、透き通るように繊細な伯母のアンネローゼとも異なる。美貌では、両者にまったく劣らないのに、それで人を萎縮させることがない。晩秋の午後の海のように、どことなく静かで穏やかな容貌だった。

 

 彼は、後世に『思考し、思索する秀才』あるいは『教師と周囲に恵まれた後継者』と評されるが、

それはむしろ、父の敵手だったヤン・ウェンリーの後継者、ユリアン・ミンツに似ていたかもしれない。万事なにごとも卒なく、かなり高い水準でこなすが、突出した部分はない。性格的にも尖った才気はないが、粘り強くて、前向きで皆に優しい。

 

「それでも、君の選んだ道は、僕にとってはありがたい。

 協力してくれないか、フェリックス」

 

「御意にございます。しかし、何にご協力を……」

 

「僕は父のような絶対的な存在にはなれない。

 母のように、父の後継をひたすらに努めるようなことも無理だと思う。

 僕は、父を知らないから、その思いにあれほどには共鳴できないよ。

 ならば、道は一つしかない。立憲君主制への移行だ。君に力になってほしい」

 

 藍青色が大きく見開かれた。

 

「僕が成人するまではあと五年だ。

 二、三年のうちに立太子式があり、成人と同時に即位するのだろう。

 それまでに、立憲君主制を学びたいんだ。

 僕の教師は選りすぐりだが、さすがにこんな内容の授業は不敬だと、

 教師の方に断られてしまう」

 

「ですが、私は……」

 

「フェリク、普通に話してくれないか?

 それとも先帝最後の勅令で、定められた友人なんて嫌いになったかい?」

 

「そんな、どうして……知っていたのかい、アレク……」

 

「こういうことは、そんなに隠しておけるものじゃないよ。

 でも、君が僕と友達でいてくれたのは、先帝の命令なんて関係ないのもわかるんだ」

 

 フェリックスは拳を握りしめると、藍色の眼差しを鋭くして、アレクに言った。

 

「君を嫌いになるはずなんてないじゃないか。

 いつも一緒に遊んで、イゼルローンでヤン元帥の幻を見て、

 同じ女の子に一目ぼれして、一緒にふられた仲なんだから」

 

 豪奢な金髪が力なく振られ、美少年の口から深い溜息が零れた。

 

「フェリク、最後のは現在進行形なんだ。またふられてしまった」

 

「まだ、文通をしてたんだね、アレク……」

 

 フェリックスの長い睫毛が、大気圏最上層の色を半ば隠した。

 

「アレク、ほどほどにした方がいいと思う。

 ついに、フロイライン・ペクニッツが超光速通信(FTL)に出なくなってしまっただろう。

 絶対にペクニッツ公が差し止めたんだよ!」

 

「やっぱり、君もそう思う? 

 あの頃もそれは綺麗な子だと思ったけれど、今や春の女神もかくやという美しさ、

 という情報を聞いたんだが、会わせてもらえなくなってしまって。

 文通だけしかしていないんだ」

 

「でも文通は応じてくれてるのか……頭が下がるなあ」

 

「さすがに僕らの初恋の君だよね」

 

「殿下の場合は過去形になっていないんでしょう!

 しかし、その情報は誰から聞いたんですか、アレク殿下」

 

 機嫌が斜めになると、アレクに対して敬語を使うのが親友の癖だ。

 

「僕にも伝手があるんだよ。きらきら星の人に」

 

「な、なんで……」

 

 フェリックスの顔が硬直したので、アレクは言い足した。

 

「ペクニッツ公爵夫人の薬を届けたのは、宇宙最速の運送会社、

 トウィンクル・スター運送なんだよ」

 

 この世で一番強いのは、経済と流通と情報に携わる者なのかもしれない。

 

「そして、財務省顧問のヘル・コモリ。

 ペクニッツ公爵夫人は、大変に美的感覚の優れた方だから、

 テイラー・コモリ社の商品開発の助言役になったそうなんだ。

 カザリンにも時々意見を聞く機会があるそうだよ。

 母子ともども、とても洗練された趣味の持ち主で助かっているそうだ」

 

「公爵夫人が働いていらっしゃるんですか……」

 

「ペクニッツ公も、貴族のところで召使をしていた人を雇って、

 家政婦派遣会社を経営しているよ。

 フェザーンの会社だけれど、出資者はペクニッツ公と友人の貴族だ。

 新帝都に来ている役人や軍人のご両親の世話で、僕たちも間接的に恩恵を受けているんだ」

 

「いったい、いつの間に!?」

 

「公爵夫人の病気はよくなったけれど、もう子どもができないお体だから、

 側室を迎えられたんだ。その直後からだよ。もう五、六年ぐらい前になる。

 今はオーディーンの名士で、名ばかりの公爵じゃないんだ」

 

「それはいいことだと思いますが」

 

 更にアレクの眉が寄り、がっくりと肩が落ちる。

 

「確かにいいことだよ。オーディーンの貴族がまとまって、経済も上向いた。

 だが、皇帝の求婚に応じよと言ったところで、

 簡単に通るような状況じゃなくなったということでもあるんだ。

 一つ目には、外戚として権勢を振るわないかということ。

 二つ目は、フェザーンやバーラトとも、ペクニッツ公は交流してるんだ。

 下手をすると、一家そろって逃げられてしまう」

 

「逃げるって、どこに逃げる所があるというんです」

 

 フェリックスの眉も寄る。

 

「バーラト自治領。あの国のほうが、カザリン・ケートヘン一世には同情的だ。

 子どもに先祖の罪を着せるなんて、というお国柄だし、

 エルウィン・ヨーゼフ二世を受け入れた過去もあるんだから。

 しかも、玉座に据えられた乳児が、輝くばかりの美少女になって、

 その息子の求愛から逃れてきたなんてことになったら……」

 

 受け入れずにはいられないだろう。外交筋から苦言を呈しながら。現在の外務長官は、フレデリカ・(グリーンヒル)・ヤン。

 

 主席に就任した最初の演説で、自らの父の起こした軍事クーデターについて謝罪した。不当に拘束されたヤン・ウェンリーを救出するために、夫を殺害しようとしていた者を殺したことを告白し、さらには、旧同盟自由惑星同盟を戦火に巻きこんだことをも語った。

 

 そして、親の罪に子が連座されない社会であり、あの行動が司令官を守る副官の職分だと認めてもらえたからこそ、この場にいるのだと、国民に強いメッセージを投げかけた女性だ。彼女は出馬の時から、自らの経歴を公表していたが、そのうえで国民に選ばれたのである。

 

「亡命じゃなく、普通に国籍の選択という形で受け入れる、かな……」

 

「そうなるだろうね。それもいいか、とも思わなくもないんだけれど。

 バーラト国民になってしまえば、彼女をゴールデンバウムの末裔扱いはできないし、

 そうなれば、先々帝だから無理とも言われなくなるんじゃないかと」

 

 フェリックスは呆れかえった。

 

「アレク殿下、前々から思っておりましたが、前向きにも限度というものがあるんです」

 

 この言葉に、アレクは形のよい眉を上げて肩を竦めた。

 

「開き直らないとやっていけないよ。

 獅子帝ラインハルトが父、賢君の摂政皇太后ヒルダが母。

 僕はその土壌で育った温室育ちで、環境のお陰で身についた知識や才能しかない。

 両親の作った国を大事に治める以外の道は、僕にはない。

 二人して好きにやって、新銀河帝国と僕を作ったのに、不公平な話だよね」

 

 困惑しきったフェリックスに、アレクは小さな笑いを漏らした。このぼやきに同意しても、否定をしても、不敬にあたるのだった。

 

「ああ、ごめんごめん、君を困らせるつもりはなかったんだ。

 でも僕は、彼女以外の人は考えられない。

 だから、皇帝にも守るべき法を定め、あんなことを繰り返さない国に

 していかなくてはならないと考えているんだ。

 憲法は、こういう国にするという、国民への約束なんだって。

 重ねて言うよ。協力してほしいんだ、フェリックス・ミッターマイヤー。

 大公アレクではなく、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムに。

 天才には決してなれぬ、この僕ですまないけれど」

 

 フェリックスは首を振った。

 

「君が天才である必要なんてない。君は素晴らしいものを持っているんだ。

 僕も君の力になりたい。だって、友達だろう、アレク」

 

「ありがとう、わが友(マイン・フロイント)。では、学び考えることにしようよ。

 とにかく、この国の皇帝が絶対的な存在のうちは、

 フロイライン・ペクニッツは決して『はい(ヤー)』と言ってくれない。

 彼女の血脈を父は罪と断じた。母がそれを赦した。

 だが、許されたから許してくれるなんて、僕には思えない。

 フェリックス、ごめんね。君だって同じことだろうに」

 

 静かな初秋の午後の海が、大気圏最上層の色に向けられた。

 

「殿下」

 

 フェリックスはそう言うのがやっとだった。深い青の瞳は遥かに彼方を見ていた。

 

「僕の名は、自由惑星同盟のアレクサンドル・ビュコック元帥から

 いただいたのかもしれないと、最近思うんだ。

 彼の最後の言葉は、民主主義とは対等な友人を作る制度だというものだったそうだ。

 いまの帝国では到底望めぬものだが、それに近づくことはできないのだろうか。

 僕は考えてみたいと思うんだ。孤独なのは母上までで終わらせたい。

 僕はそんなに強くはなれないから」

 

 新銀河帝国二代皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム。

 

 皇帝ラインハルトや皇太后ヒルダに勝る、二代皇帝アレクサンデルの美点は、繊細な感受性と人を思いやる想像力だと後世に評される。それが彼の思考を支え続け、穏やかな人格が周囲の人間の人望を集めた。

 

 勝る点はもう一つあった。それは、人を見守り、成果を待つことができる気の長さだ。

 

 敵を破り滅ぼすことで、父が建てた王朝を、宥和で安定させた母の路線を引き継いで。しかし、さらなる自由と協調を目指して、立憲君主制を完成させる道を選んだ。

 

 これは彼の人格の形成に大きく寄与したとされる、『皇帝アレクサンデルの往復書簡集』の一部である。



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第一章 母の矜持

オリジナルのキャラクターが登場します。ご注意ください。


 親愛なるフロイライン・ペクニッツへ

 

 (前略)詩の勉強なんてつまらないよ。どうして、そんなの読んだり書いたりしなくちゃならないのかな。

 

それに、なんでダンスなんてこの世にあるんだろう。毎日、先生の足をふんじゃってます。先生はいたくありませんよって、言ってくれるんだけど、そういう問題じゃないよね。

 

どっちもうまくならなくて、嫌いな授業です。やらないわけにはいかないのかな。

 

アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム

 

 

 親愛なる大公アレク殿下へ

 

 すてきなお手紙をありがとうございました。殿下のお言葉から、新帝都のにぎわいが伝わってまいります。

 

 詩は、たくさんの言葉を連ねて、美しい響きになるように書かれたものです。ですから、詩を読むと、言葉を美しく発音できるようになっていくのだと、わたくしは母に教えられました。

 

 アレク殿下は、将来多くの方々を前に、お話をなさるお立場です。その時にきっとお役に立つことでしょう。

 

 詩は、星々の輝きや季節の移ろい、人の心の模様をうたいあげるものでもあります。人の心の表れを読み、色々と想像するのはとても楽しいことで、わたくしは大好きです。

 

 ダンスの勉強は、背筋をぴんと伸ばして、きれいな動作をすることにつながるのだそうです。こちらはダンスの先生の言葉ですが。よく、男性は女性の三倍は難しいと言われますが、それは女性の動きを知って、リードしなくてはいけないからです。

 

 ダンスのリードが上手な方は、優しい性格をなさっていることが多いので、お婿さんを選ぶときの参考になったのだとか。男性の方が服装は楽ですから、羨ましいと思っておりましたが、それを聞いて考えてしまいました。男性も別のご苦労をされているのですね。

 

 貴族の女性の正式なドレスは重いので、その動きのための練習でもあるそうです。園遊会でわたくしの着たドレスは、子どものものでしたから、それほど重くはありませんでした。ですが先日、母の若い頃のドレスの手入れを手伝い、びっくりいたしました。

 

 よい絹は布自体にも重みがあり、ドレスのスカートには三本も針金の輪が入っているのです。その輪だけでは、綺麗なふくらみが出ないので、内側には薄絹がたくさん重ねてありました。

 

 侍医の二人はフェザーンの人ですから、余計に驚いていました。持ち上げたドクトル・ヒメネスによると、三歳児ぐらいの重さだそうです。わたくしは、聞かなければよかったと思いました。

 

 そのドレスは未婚の女性が着るもので、母にはふさわしいものではなくなったため、わたくしが受け継ぐことになるのでしょうが、困ったことがあります。針金が入っているせいで、夜会の間は座ることもできないのだと教えられました。

 

 こんなに重いものを、三時間も着ていなくてはなりませんのに。さらにダンスまでしなくてはならないのかと思うと、今から気も重くなります。

 

 そして、もうひとつ困ったことがあります。このドレスとそろいの靴は、かかとが高くて細いのです。きちんとワルツが踊れるようになるのでしょうか。こんな靴でお相手の足を踏んでしまったら、どれだけ痛い思いをさせてしまうことか。

 

 わたくしも、殿下と同じく頑張ろうと思います。

 

 カザリン・ケートヘン・フォン・ペクニッツ

 

 

 

 始まりは、エレオノーラ・フォン・ペクニッツの病に寛解状態が訪れた頃のことだった。

 

「何を言い出すんだ、エレオノーラ。私の妻はきみだけだ」

 

「ありがとうございます、あなた。

 今まで、わたくしはあなたにご苦労と我慢を強いて参りました。

 そう長いこともないと思っておりましたから」

 

 バーラト星系共和自治領から、ペクニッツ家の侍医、ホアナ・ヒメネスが取り寄せた新薬は、彼女の伯父のがん専門医が予言したとおりの著効をもたらした。全身に転移していたがん細胞が消え、だが副作用は非常に軽いものだった。いままでの抗がん剤治療の、嘔吐に下痢、脱毛といった副作用に苛まれてきたエレオノーラは、象牙色の髪と、薄いが肉付きと、肌の滑らかさを取り戻した。

 

 そして、ユルゲン・オファーの父が婚約者だといって引き合わせ、あまり可憐さに少年に口も利けなくさせた、あの頃の面影も。

 

「縁起でもない事を言うのはよしなさい。

 きみの病はもう大丈夫だと、先生方も保証したではないか」

 

「ですが、わたくしが新たな子をもうけられぬのに変わりはないのです」

 

 そう言う妻に、彼はむきになって反論した。

 

「我が家には、カザリンという娘がいる。

 我が子ながらに、美しくて賢くて心根も優しくて、非の打ち所のない跡取りだ。

 本当にきみにそっくりだ。あの子がいるのに、どうして側室などを勧めるのか。

 それは私も男だ。その、そういう事をしていないとは言わん。しかし……」

 

 少々、尻すぼみになった夫の主張に、エレオノーラはくすくすと笑った。

 

「貴族の妻たるもの、殿方とはそういうものと母から教わっておりますわ。

 むしろ、わたくしにできぬことをしてくださった方に、感謝をしなくては」

 

 ユルゲン・オファーは気まずくなった。エレオノーラの父母、リンデンバウム伯爵夫妻は、たいそう仲睦まじく、互い以外には目もくれないとまで言われていたものだ。皇女を妻にすれば、おいそれと側室を持つわけにはいかないが、そんな必要もなかったのだ。なにしろ、美男美女ぞろいの五人きょうだいだった。その妻の母上の教育には、あまり説得力を感じないのだが……。

 

「わたくしが危惧するのは、大公アレク殿下の求愛です。

 園遊会の時は、カザリンの断りに頷いてくださいました。

 しかし、即位されて皇帝となられ、妃にと望まれれば断ることはできません」

 

「それは、きみの気にしすぎではないのかな?

 まだ七つの子どものことだ。はしかみたいなものだよ。

 しかも、フェザーンとオーディーンに離れている。

 顔を会わせなくなれば、そのうちに熱も冷めようというものだ」

 

 夫の楽観論に、妻は眉宇を曇らせた。

 

「わたくしも、正直そう思っておりました。

 ですが、あれから毎月、カザリンにお手紙を下さるのです。

 いつも沢山の便箋で封筒が膨らんで、はちきれそうなほどですのよ。

 あのくらいの子が、そんなに文章が書けるのかと感心するくらいですが、

 もう十か月になります」

 

 ユルゲンのこめかみが、ぴくりと動いた。

 

「……そうか。アレク殿下は文筆家でいらっしゃるのかも知れないな。

 ところで、カザリンはどうしているんだ」

 

「きちんとお返事をしたためておりますわ。

 宇宙で一番、アレク殿下のお心がわかるのは、あの子かも知れないのですもの。

 決して、憎いとも嫌いだとも思ってはいないでしょう。同情さえしているのかも」

 

 アレクからの手紙を読むカザリンは、時に瞳を輝かせ、笑みをこぼしていた。どんなお手紙を書いてくださったの、とエレオノーラが問うと、微笑みながらそれを見せてくれた。

 

「沢山あるから不思議でしたけれど、これは絵日記なの。

 フェザーンのことが色々と書いてくださってあるわ」

 

 沢山の手紙に、カザリンは丁寧に返事を書いた。詩の勉強なんてつまらないという愚痴には、美しい言葉を沢山知り、読み上げることで、自分の会話も磨かれていくということ。なんてダンスなんてこの世にあるんだろう、という嘆きには、同意と共に、背筋を伸ばした正しい姿勢で、相手をリードする動作の重要性を説いた。なにより、礼服での挙措動作の最良の練習にもなるのだと。

 

 それらは、三歳あまり年上のカザリンも通ってきた疑問点だった。相手のわからないことがわかる相談相手。カザリン・ケートヘンは、大公アレクの教育の一翼となった。『ペクニッツ公爵夫人の書簡集』に、十一歳のカザリンも加わったのだった。

 

 母のエレオノーラは、流麗な書蹟の持ち主であり、彼女に学んだ娘も同じく美しい字と文章を書いた。母よりも筆勢に強弱をつけて、年下のアレクにも読みやすいような配慮がされている。

 

 アレクが惚れ直すには充分だった。そして、皇太后ヒルダを唸らせるにも。大公妃アンネローゼもサファイアの瞳を丸くした。

 

「ああ、なんてことかしら。

 フロイライン・ペクニッツのように教えてくれる人がいれば、

 私も詩やダンスの勉強をちゃんとやったでしょうに」

 

 こんなふうにして、詩やダンスを学ぶ理由を二十五年ほど前に知っていればよかった。

 

「お母さまも詩やダンスのお勉強がお嫌いだったの?」

 

「ええ、アレク、あなたと一緒よ。

 なんでこんなものがこの世にあるのかと思って、真面目にやらなかったの」

 

「ぼくもだよ」

 

 決まり悪そうな息子に、母は更に顔を曇らせた。

 

「実はウエディングドレスを着た時、歩くのに大苦労したの。

 それでも、あれは新領土のデザインで、伝統のドレスよりもずっと軽かったのにね。

 かかとは低くしてもらったけれど、ドレス用の靴は爪先がとても痛いのよ。

 先帝陛下の後を受けて、スピーチをするために、草稿を作るのも苦手だったわ。

 できた原稿を読み上げるのにも、なかなか綺麗に明瞭な発音ができなくて。

 ああ、あれは、そういう時のための勉強だったのね……」

 

「伯母さまは?」

 

 アンネローゼは小首を傾げた。美しい顔に苦笑を浮かべながら。

 

「わたしの場合は、疑問に思う暇もなく、言われるがままに習うしかありませんでしたよ。

 嫌いも何も、他と比べられるほどの知識もなかったのですもの」

 

 園遊会の時の、カザリン・ケートヘンの優美な動作と歌うように流暢な帝国語。 それらもこういった勉学の賜物であったとは。

 

「ぼく、これから詩やダンスのお勉強を、もっと一生懸命やるようにするよ」

 

「遅まきながら、私も習おうかしら」

 

「お二人とも、それはとてもいいことですわ。

 それに、カザリン様は先々帝でいらしたから、

 アレクとお手紙をやりとりすることができる方よ。

 ヒルダさんが、アレクの手紙に添え書きをするのも許されることです」

 

 摂政皇太后と公爵夫人という身分差で、ヒルダからは返事を出すことができなかった手紙。これを、子ども同士の文通に一筆添える形で解消できる。そういうアンネローゼの言葉だった。

 

「まあ、そんな方法があったのですね」

 

「ヒルダさん、これも貴族の女性の知恵なのです。趣味のサロンの開催も、

 共通の趣味を理由に異なる階層の者が集い、情報や意見を交換するのですよ。

 メックリンガー夫人の芸術サロンにも、そういう役割がありました。

 エレオノーラ様のお手紙はとても素晴らしいでしょう。

 あの方のお母さまの読書会サロンは有名でした。教養の高いご一家だったのです」

 

「ええ……そのとおりです。いつもいつも、風景が見えてくるような手紙ですわ。

 どうしましょう、お義姉さま。勉強しなくては、添え書きどころではありません。

 十一歳の子が、こんなに綺麗な字で素敵な手紙を書いてくるのに……」

 

「いいのよ、ヒルダさん。一番大切なのは心が込められていることです」

 

 ヒルダは明後日のほうに眼を泳がせた。正直、そちらも苦手な教科であったからだ。彼女の息子も、ブルーグリーンとは違う方向に海色の視線を泳がせた。

 

「あらあら、ラインハルトと似た者夫婦に似た者親子だこと。

 おふたりとも、こういうことをおろそかにしてはいけませんよ。

 言葉にしなくては、何も伝えられないのです」

 

 そう言ったアンネローゼの眼差しは、透きとおっていた。くすんだ金色と、黄金が言葉もなく聞き入り、静かに頷いた。それを見て、黄金と青玉の佳人は、限りなく優しい笑みを浮かべた。だが、とても悲しい微笑みだった。

 

 アレクはそれを忘れない。イゼルローンに行啓に赴く際に見た、ダークブラウンの瞳に湛えられたものと同じだったから。

 

 

 書簡の往復は続いていく。徐々に双方の文章が上達をみせながら。子どもらしい踊るような文字の形も、少しずつ整っていく。皇帝アレクサンデルは、能書家としても後世に評価されるのだが、それは未来のこと。

 

 ペクニッツ公爵家に残る、『大公(プリンツ)アレクの書簡集』は、内容は一般に非公開であったが、彼の子孫に充分な教訓を与えたものである。相手が優しく筆まめだからよかったが、あまりしつこく手紙を送るのはいかがなものかと。

 

 彼が七つの頃から送られ続けてきた手紙は、カザリンが保存用の冊子に貼り、美しい装丁を加えたりして、丁寧に保管したのだ。それはすぐに本の厚さに達し、二十冊近くにもなっている。その数と一冊ごとの背幅を見ただけでわかろうというものだ。

 

 その時点では、書簡は一冊目の頁残りがわずかになった状態だったが、エレオノーラ・フォン・ペクニッツにも思うところがあったのだろう。

 

「だからといって、側室を迎えてあの子にきょうだいを、というのは……。

 カザリンも気に病むのではないか」

 

「わたくしは大公妃殿下とも文通をさせていただいておりますけれど、

 先帝陛下は、十歳の頃に後宮に召されたあの方を取り返さんと、

 亡きキルヒアイス大公殿下と誓われたのだそうですわ」

 

 ユルゲン・オファーの眉間に皺が刻まれた。

 

「宇宙統一は、大公殿下のご遺言だったとも耳にしております」

 

 エレオノーラは、優雅に溜息を吐いた。

 

「わたくしは心配ですのよ。大公殿下は、先帝陛下に生き写しでいらっしゃいますから」

 

「……考えさせてくれ。しかし、側室でなくとも、養子か養女ではいけないというのか?」

 

 象牙色の巻き毛が緩やかに振られた。

 

「親族が多く残られている皇太后陛下のご実家でも、

 養子にふさわしい家格と年齢の方がいらっしゃいません。

 今は公爵となったペクニッツ家ではなおのことです。

 あなたのお父様がお亡くなりになった、クロプシュトック候事件で」

 

「そうか、そういうことになってしまうわけだね」

 

 ユルゲンは胸の痛みを堪えた。

 

「だが、側室に迎えるにはふさわしい相手がいると、きみは言うのかな」

 

 エレオノーラは頷いた。

 

「あなたやわたくし、そしてあの子を支えてくださった、我が家になくてはならぬ方です。

 あなたとあの方がそういう関係ではないのは存じておりますが、愛しておいでなのでしょう?

 そのお心も、ご相談すべきですわ。

 お選びになるのは、フロイライン・ヒメネスのお心次第なのですから」

 

 彼は舌を巻き、尻尾を巻き、全面降伏するしかなかった。 

 

 こんな相談をされた女性医師は、赤面して次に青ざめ、いつもの穏やかな口調は銀河の果てまで投げ飛ばし、しどろもどろに女主人に(いとま)乞いをしようとした。

 

 妻は夫の不器用さに、溜息混じりにホアナ・ヒメネスの謝罪を遮った。

 

「ヒメネス先生、お顔を上げてくださいな。

 わたくしと主人と両方とも言葉足らずでした。

 わたくしこそ、先生のお心を患わせたことをお詫びしなくては。

 フェザーン生まれの方に、側室などとは失礼なことなのでしょうが、

 公爵家とは時に帝室を守る、範たらねばならぬことがあるのです」

 

「ど、どういうことですか」

 

「皇帝ラインハルト陛下のお子は、大公アレク殿下お一人です。

 もし、皇妃となられた方にお子が恵まれなかったり、お一人しかいなかった場合、

 皇太后陛下のご実家は、継がれる方がなくなってしまいますわ。

 今のうちに、新王朝でも側室を迎えた例を作っておかねば」

 

 怪訝な顔をするホアナに、エレオノーラはかなり苦労して、分厚い本を持ち上げて差し出した。

 

「ごらんになって。このアレク殿下からのお手紙を。

 カザリンが必死の思いでお断りしたそうなのに、諦めては下さらなかったのね」

 

 促されるままに、ページをめくると子どもらしい元気な字の躍る手紙だった。文面から、『好き、大好き』というのが溢れんばかりに伝わってくる。

 

「わたくしは、長い命ではないと思っていました。

 だから、死ぬまでは夫を独占したかったのです。

 ヒメネス先生たちのおかげで、命が助かりました。心から感謝をしています」

 

 安楽椅子に座ったまま、エレオノーラは実に優雅に一礼した。ホアナは語気を強めて反論した。

 

「医師として、当然のことをしたまでです。

 それにエレオノーラ様は、私にとっても大事な友人です。

 なんとか、生きていていただきたいと願うのは当然ではありませんか!」

 

「でも、これで夫は再婚というわけにもいかなくなりました。 

 わたくしもできることならば、ユルゲン様を自由にしてさしあげたい。 

 しかし、離縁したところで、帰る家とてないのです。

 ならば側室を迎えるしかありません。夫にも娘にも愛され、愛してくれるような方を」

 

「エレオノーラ様……。おうかがいしたいことがあります。

 どうして、あなたはそこまで他の方に尽くせるのですか。

 あなたご自身は、それでいいのですか」

 

 ホアナはずっと思っていた。この人が恨みの連鎖を止めたから、オーディーンは静穏を保っている。夫のために、娘のために生きているかのように。では、エレオノーラの幸せはどこにあるというのか。

 

「ホアナ先生、貴族というのは見栄を張るものですのよ。

 家族を喪い、あの子が至尊の冠を戴いた時に、わたくしは散々に恨み嘆きました。

 そして夫と娘が、新無憂宮に召された間、何度となく夢を見ました。

 蒼氷色の瞳に、白い喉に、黒と銀の胸に、懐剣を突き立てる夢でした」

 

 息を呑むような告白だった。

 

「血まみれの手で、揺り籠のカザリンを抱き上げると、火のついたように泣き出して、

 白い産着が真紅に染まっていく。そこで目が覚めるのです」

 

 やや細すぎる優美な手に、彼女は視線を落とした。その手がスカートの上で握り合わされる。

 

「難産のせいで、なかなか床上げもできずに、見るのはそんな夢ばかり。

 眠れた気がせず、体調が悪いのもそのせいだと思い込んでいました。

 お医者さまに診ていただくことなど頭になくて。

 やっと、二人が戻ってきた時に、倒れてそれでわかったのです。

 もう、長いことはないのだと」

 

 長い睫毛が伏せられた。これもまた、病からの回復によって蘇ったものだ。

 

「頭が真っ白になりました。

 次に考えたのは、カザリンを守れる者がいなくなるということでした」

 

 返す言葉を見つけられぬホアナに、エレオノーラはふと微笑んだ。

 

「ああ、ユルゲン様の浪費の問題ではありませんのよ。

 あれはあの方なりの復讐だったのですから。

 わたくしの家族とも、親しく行き来をしていたのに、誰もいなくなってしまって」

 

 群青の瞳に、深い寂寥の影が射した。

 

「これは、先生もお聞きになったことでしょうから、割愛いたしますね。

 カザリンは望むと望まざるとに関わらず、貴族として生きるほかないのです。

 先々帝という地位があの子を守る一番の楯。皮肉なことです。

 しかし、貴族の令嬢、夫人としての生き方を、大人になるまでに教えるのは母の役割です。

 それを全うできないうちに、わたくしはいなくなってしまう。

 ならばせめて、頼りになる方を作ろうと考えました。

 あの子を可愛がってくれる、私の友人を」

 

 それが、同僚のイリューシンが驚嘆したほどの忍耐力の源泉だった。あの病状でドレスを着て、座って歓談するなど、とても無理だと専門医に言わしめた。たおやかな微笑の下に、絶望と激痛を閉じ込めて、絹と宝石の戦場に赴く女戦士の姿だったのだ。

 

「そのためには、カザリンを心優しい、嗜みのある子にしなくてはいけないでしょう?

 一番、早道なのはカザリンのそばにいるわたくしが、理想となれるように振舞うことです。

 そして娘と夫に、わたくしは優しく美しいひとだったと思われて死にたかった。

 あの時は、そう考えていました」

 

「エレオノーラ様……」

 

「ですが、わたくしが最初に死に掛けていた頃から、もう七年、いえ今年で八年ですね。

 見栄というのは、一度張り始めると、引っ込みがつかなくなるものです。

 このまま、貴族の女性の理想として振舞うのも、

 悪くないのではないかと思うようになりました。

 ゴールデンバウムの血を引く者が、皆愚かしく非道な人間ではないと、

 わたくしや娘の生き方で示していきたいのです」

 

 凛とした瞳は、もう夕闇の色ではなかった。

 

「そう思えるようになったのは、あなたとイリューシン先生がおいでになったからです。

 わたくしがあのまま死んでいれば、夫の心は壊れ、カザリンは笑顔のない子になったでしょう。

 ずっとあなたは、我が家に力を尽くしてくださいました。

 他に愛する方がいるのでしたら、無理強いなどいたしません。

 ……いかがかしら?」

 

 この奥方は早春の光だ。儚くも柔らかな、しかし澄んで怜悧な偽りを許さぬ瞳。ホアナ・ヒメネスも彼女の夫と同じ事をするしかなかった。ただし、相手は違っていたが。

 

「……はい」

 

 この答えに浮かべられた笑みは、春爛漫の輝きだった。

 

 新帝国暦十一年の九月、旧都オーディーンの短い夏が終わり、秋薔薇の盛りを迎える頃、ペクニッツ家に側室が迎え入れられた。フェザーン出身の黒髪に暗緑色の瞳、小麦色の肌の長身の美女が。



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第二章 父の意地

オリジナルのキャラクターが登場します。


 これは、それから一年ほど後の手紙となる。

 

 

 親愛なるフロイライン・ペクニッツ

 

 ミュラー元帥がバーラトのハイネセンから取り寄せた、新しい品種の薔薇が咲いたんだ。象牙色でとてもきれいな薔薇です。フロイライン・ペクニッツの髪の色に似ていて、いれたての紅茶の香りがします。名前は『PEACEⅡ』というんだって。

 

 ミュラー元帥の元帥府には最初の『PEACE』も咲いています。宇宙に平和が訪れて、この平和に生まれた二番目のPEACEという意味だそうです。

 

 一番目のPEACEは、千六百年以上も前に生まれた品種なんだ。こちらは僕の手のひらより大きい花で、花びらのふちが薄いピンクで、内側はクリーム色。最初はもっと色が濃かったんだ。ピンクと黄色の薔薇だと思っていました。

 

 なぜかってミュラー元帥に聞いたら、

 

「手入れの仕方を間違えていました。

 ちゃんと剪定して、正しい肥料を与えないと、この色にはならないのです」

 

 大人にもわからない事はあるんだね。

 

 アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム

 

 

 

 親愛なる大公アレク殿下へ

 

 お手紙と二つのPEACEの絵を拝見いたしました。アレク殿下は、絵がとてもお上手になられましたね。お手紙をいただいた頃、オーディーンにも薔薇の季節が巡ってまいりました。新無憂宮の薔薇は特に見事なものです。花の美しさを愛でるのは、誰しも同じことなのでしょう。

 

 薔薇は花の女王と呼ばれています。では、王様の花はご存知でしょうか? 答えは牡丹です。オーディーンは冷涼過ぎて、牡丹は温室でないと咲きません。ですが、ホアナ夫人の伯父さまがお住まいのハイネセンには、大きな牡丹の庭園があるのだそうです。いただいた写真を同封いたしましたので、ご覧くださいませ。

 

 写真ではわかりにくいのですが、とても大きな花で、わたくしの両の手のひらに余るほどなのだとか。中華系イースタンの方が丹精なさっていて、この庭園には、それが一万株以上あるのだそうです。一度、この目で見てみたいと思いました。

 

 ――いつか、その日が来ることを願って。

 

 カザリン・ケートヘン・フォン・ペクニッツ

 

 

 カザリンには、三人の異母弟妹が誕生することになる。年の離れた弟妹に、少女は大喜びして献身的に世話を焼き、それは可愛がった。それ以上に喜んだのが、正室のエレオノーラだった。

 

「男の子がいるというのはいいものね。家が賑やかになるもの。

 それも二人もいるなんて、本当に幸せよ。ありがとう、ホアナ夫人。

 わたくしには兄がいたけれど、本当は弟も欲しかったの。

 もっと欲しかったのが妹よ。カザリンが羨ましいこと」

 

 新たな命が誕生するたび、二対の群青色は輝きを増していった。黄昏から黎明の色に。 正室は、側室が知らない貴族としての教育もきめ細やかに施し、立派な小公子と小公女として育てた。ホアナの子どもたちも、象牙色の髪のもう一人の母と姉に、ことのほか懐いた。

 

 側室を迎えたのは、エレオノーラが考えた、ローエングラム王朝を守る布石の一つだった。まずは、隗より始めよというわけだ。もう、ペクニッツ家は浪費家の主人と、死に掛けた女主人の家ではない。ユルゲン・オファーは、医学書の翻訳により得た印税で、医師のための奨学制度を作り、旧都の貴族らに呼びかけて、帝国本土の雇用保護に努める人物となった。

 

「このまま伝統の品を作る職人がいなくなっては、我々の娘や孫娘は嫁入り支度もままならない」

 

 身近だが切実な訴えだった。

 

「新領土の品は、確かに安価で品質もいい。手入れも楽だということだ。

 しかし、我々が炊事洗濯などのために雇っていた、平民の仕事がなくなるということでもある。

 そのための学校や職場をどうするのかという、そこまではとても解決していないのにだ。

 我らはオーディーンで、できることをしなくてはならない。

 さもなくば、帝国本土は食い詰めた者たちの貧民窟となり、

 最後に笑うのはフェザーンと新領土だ」

 

 大公アレクの園遊会に参加し、フェザーンの発展を目の当たりにした面々は、深く静かに頷いた。彼らの中には、大公府や学芸省の旧都支部の官吏も含まれている。爵位を持っていても名ばかりで、宮廷ではなく官庁に勤めるような階層の者。あるいは貴族出であっても、リップシュタット戦役以前からの企業経営者だ。子爵の長男だったユルゲンと、階級の近かった大学の学友達である。

 

 官庁勤めの下位貴族のほとんどは、リヒテンラーデ=ローエングラム側に与した。仕事を辞めては生活できず、国政の長たる国務尚書側につくしかなかったのだ。現在は、貴重な熟練者として職務を行っているが、異動してきた退役軍人からの風当たりが強く、肩身の狭い思いをしている。

 

 とはいえ、皇帝直轄領に異動するのは危険だった。滅んだ門閥貴族領であったところだ。リップシュタット戦役の後、領主の滅亡で末端貴族に至るまで、平民からの報復の嵐が吹き荒れた。貴族号を持っているだけで、昨日までの隣人から略奪を受け、女性は暴行される。そして数多くの死者が出た。住民が狂乱から覚め、後悔した時には既に遅かった。大貴族に搾取され、民生が貧弱だったところだ。その貧弱な行政データも消失してしまっていた。

 

 こんな場所に、貴族階級の熟練した官吏が行くのは無理だ。軍からの異動者である平民が行くしかない。彼らならば、門閥貴族からの解放者だという抑止になる。しかし、力量は専門職の者には及ばない。それでもこの十年余りをかけて、こういった記録の構築に励んできた。

 

 新銀河帝国の民法や税法、商法などが、旧同盟法を参考に改正されたのも、ここに原因がある。例えば住民記録や課税データの作成をするには、旧同盟のシステムや機器を利用した方がずっと効率的だ。

 

 新領土については、すでに機器が行きわたっている分野だが、帝国は全くの新規参入。これ以上ない商機に、こぞって帝国にあわせて住民記録システムが改良された。入札の勝利者は、識字率が低い下層階級のために、精度の高い音声入力機能のあるものを開発した、バーラト星系共和自治領の企業だった。旧同盟でのトップシェア企業だったところだ。この機器が、青息吐息だった行政官を救い、新帝国の民生の充実に大きく寄与した。

 

「しかしですな、このままでは新領土に呑み込まれるのは必至です。

 なにしろ、帝都とオーディーン、ハイネセンの間の距離はハイネセンのほうがよほど近い。

 新領土ほど家庭用の電化機器を使用するには、帝都のエネルギー事情はお粗末ですがね」

 

「あちらにない、銀河帝国の時が育んだ人の技、これを保護するよりほかはない。

 また、人の手でしかできぬ働きもあると思うのだ。

 なにより、新帝国の武辺にも知ってもらうのが一番だ」

 

「しかし、ペクニッツ公。

 こちらにいるワーレン元帥は、公正剛毅でまことに優れた武人だが、

 そういった奢侈を解する人物ではないように思うが……」

 

「私の妻が言うには、女手を紹介したらどうかとのことだ」

 

 彼らは首を捻った。再婚相手というのは少々難しいだろう。

 

「しかし、ワーレン元帥のご長男はアレク殿下より五、六歳は年上ですぞ。

 帝都の学校で優秀な成績を修めているそうです」

 

 もうすぐ成人の跡継ぎもいる。後妻を迎えるにも、息子との関係を考えると女性も二の足を踏むだろう。ある者は膝を打ち、息子の相手を紹介するのかと、ユルゲン・オファーに問うた。それにユルゲンは頷かなかった。

 

「いいや、ローエングラム王朝では、子が父を継ぐものではないようだ。

 ワーレン元帥のご両親は、高齢になりつつある。

 お達者ではあるが、元帥を支えるには無理も出てこよう。

 気働きのよい、勤勉な家政婦を紹介してはどうかということだ」

 

 ユルゲンの提案に、腕を組んだのは帝都代官府の次長でもあるルーデンドルフ男爵だった。

 

「たしかに、ワーレン閣下を支えるには、そろそろ大変でいらっしゃるだろう。

 一度、お宅にうかがったことがあるが、驚くほど質素というか、簡素な室内だった。

 確かに、ご高齢のお二人にとって、住み心地のいい家ではないだろうな」

 

「わが家は名ばかりの公爵家だ。召使の数をこれ以上増やすことはできない。

 往時のブラウンシュヴァイク公のような人員を養うのは不可能だ」

 

「公爵家がそうなのに、当家ではなおのことですよ」

 

「だが、そういう技術と知識を持つ者たちへの人脈は、なお失われていない。

 共同で家政婦の会社を設立し、フェザーンに赴任している軍人の親世代を

 顧客としてはどうかというのが妻の提案だ。

 家や庭ごと引越しはできず、友人知人まで連れて行けはしないのだ。

 年配の者に、フェザーンに来いと息子が言ったところで頷くまいと」

 

 ルーデンドルフは腕を解かぬまま、椅子の背もたれに体重を預けた。

 

「たしかにおっしゃるとおりだ。帝都に駐留する軍人や役人の親世代。

 そして、旧都に見切りをつけて、若い世代が帝都や新領土に流出していく。

 高齢化がはっきりと進行しています。

 わが家の女中頭の長男が、国営企業に就職したのですが、

 あそこは平民と退役軍人が中心となっています。

 暴言に無視、暴行。私物を壊され、机には汚物をかけられる。

 結局、一月で辞めて、帝都に行ってしまいました。

 貴族に関わる者への差別は、対象者が減ったせいか先鋭化している。

 従軍していた者は救世主、後方の我々は未だに敵なのでしょう」

 

「ですが、まだ我々を頼る者も多いのです。

 コルネリアス一世陛下は、元帥位だけでなく、爵位も量産しましたからな。

 わが家など、子爵と呼ばれるのも困るのですが、位を持つ以上は領民を守らねばなりません。

 百軒にも満たないが、それでも五百人弱がいる」

 

 学芸省勤務のノルドハイム子爵の言葉に、場を重い空気が支配した。ローエングラム王朝が誕生した灼熱の五年間から、十年あまりが経過した。

 

「ペクニッツ公の起業は、よいお考えだと思います。

 今までは退役軍人の処遇を推進していましたが、これから就業する若い世代のことも考えねば。

 ちょうど、新旧の教育の狭間(はざま)にいた世代ですからなあ」

 

 当時の国民学校の生徒が就職年齢を迎えているが、一家の働き手の戦死などで、学校に通うのがままならなくなり、貴族の家の単純労働と、遺族年金で細々と食いつないでいた母子家庭も多い。

 

 こちらの保護も、住民記録の不備が原因で後手に回った。ほんの二、三年が、子どもの成長にはとても大きいのだ。制度が整い始めた頃には、中断していた学校に通っても授業についていくのが難しくなっていた。

 

 彼らの教育レベルは全般に低く、少しずつ帝国に進出している新領土企業の求人条件を満たさないのだ。新領土の中学校卒業程度の学力がないと、ハンバーガー屋の売り子にすらなれない。貴族のあり方もかわった。多くの召使を雇い、豪勢な暮らしをしている大貴族がいなくなった。今まで勤めていた者も、そんなにすぐに引退はしない。

 

 それでもどうにかしてくれと、かつての領主に頼み込む平民は数多かった。土地や資産を失っても、領主としての責任はなくならないのだ。名門につながりのない子爵や男爵は、地域のまとめ役で知識階級として、領民との距離は近く、迫害をされるには至らなかった。だが、同じ爵位を有していても、門閥の一員とは資産に天と地の開きがある。

 

「新たな農産業や商業は、なんでも文書を読んで覚えろです。

 ハンバーガーの付け合わせのフライドポテトは、何グラムと決まっていて、計量して売っている。

 包装のしかたまで、事細かに決まっているのですぞ。

 新領土の中学校卒業相当の学力が必須です。帝国の旧幼年学校卒業と同等だ。

 職に恵まれぬ階級で、そんな学力を持つ者は少ないと言わざるを得ません」

 

 国有化された農地や工場は、新領土方式の生産方法が採用された。人口が半分でも、帝国にほぼ匹敵する生産力があった旧同盟は、農業や工業が高度に機械化されていた。そのおかげで、生産量が増加して物価も安くなったが、働き口は厳しくなった。

 

 一点目には、機械化により人手を要しないから。二点目はそういう機械を操作するにも、やはり中学校卒業程度の学力が必要だから。

 

 新領土の小学校中退ぐらいの学力では、まずは読み書きの学習ということになる。これでは帝国本土、新領土の企業を問わず採用されない。教育の行き届いた退役軍人の再就職よりも、はるかに難しかった。

 

「旧同盟の若年層の徴兵は、職業訓練と雇用の場でもあったそうですが、

 それは義務教育あってこそ。

 いまの就業年齢の者は、単純労働をしながら学ばせるほかないが、

 とても貴族にそのような資金力はありません」

 

 だから、ユルゲンの提唱に、皆が集まったのだ。過大な期待をかけられたユルゲンは、家政婦派遣会社について説明した。一気呵成に問題が片付くものではないことを、強調しながら。

 

「あまりに手を広げすぎては失敗したときに困るだろう。

 まずは、商売としてきちんと採算がとれるのか、なんとかなる範囲で始めようと思う。

 年配の者を教育係に配し、中堅から若年の者を十名ほどの規模を予定している。

 一日単位の当番制で、顔ぶれが固定しないほうがいらぬ懸念も防げるだろう。

 はじめは軍部の高官に、雇用を依頼する形をとるのはどうかと考えているのでね」

 

 帝都府次長と学芸省職員は頷いた。 

 

「通いの家政婦ですからな。おまけに貴族の家で働いていた者だ」

 

「我々の使用人に、平民に仕えよと言っても反発されかねないが、軍高官ならば納得するだろう。

 ただし、その者の身内に、同盟との戦死者やリップシュタット戦役の死者、

 リヒテンラーデ候に連なる者がいないことが条件だ。

 これを全て満たす者が、私では十人集まらぬのが現状で……。

 貴卿らには、そういう者に心当たりがないかをお聞きしたくて、ご足労をいただいた次第だ」

 

 眉間を押さえるユルゲンに、声を掛けられた者たちは納得した。リップシュタット戦役で、皇帝ラインハルト側に与した彼らだったが、その権益は剥奪された。爵位を持つ貴族の奥向きの使用人というのは、帝国騎士階層や平民でも高い地位に属する。そういう者は、いずこかの貴族の流れを汲んでいる。

 

 自身と配偶者の遠い親戚が、ラインハルト率いる帝国軍に殺されていたりもするのだ。父や夫、息子や兄弟が戦死していないからといって、安心はできない。従兄弟やおじに甥といった傍系でも、強い結びつきがあったりするのだから。リヒテンラーデ候の一門は恩赦を受けたが、許されたから許すと思うのなら考えが甘すぎる。リップシュタット戦役で滅びた貴族の末流ならなおのことだ。

 

「難題ですな。刃を振るわずとも、毒を用いずとも人を殺せるのが使用人です。

 手に掛ける必要さえない」

 

 建築事務所長のメーベルトは、さきほど飲んだ珈琲の苦味が倍増した気分で唸った。例えば、ワインやビールが進む、塩気が強くて油の多い食事を出す。なにも特別なものではない。手の込んだ帝国の伝統料理がそれにあたるのだ。室内には暖房をきかせ、廊下や浴室との温度差を大きくする。階段や廊下や浴室の床を念入りに掃除し、磨き上げて照明も少し暗くする。

 

 このように、病死や事故死に追いやる手段には事欠かないのである。多くの召使がいた大貴族ならともかく、抱える人員の少ない下級貴族が一番に気を遣う点だった。人を雇い、仕えられる側も配慮をしていたのである。そんな経験のない者に、すぐに可能なものではない。

 

「屋内の温度差が老人にはよくないので、建築にもさまざまな試みを行ってはいるのです。

 しかし、平民出身の軍高官の親世代は万事に質素でしてね。

 室内以外の照明や暖房なんて、もったいないと使ってくれない。

 仕方がないので、感知式の機器を入れ、主電源を埋め込み配線しているが、

 まだまだ普及していません。

 もしものことがあると、逆に家政婦が疑われてしまいませんか?」

 

 

「そこをなんとかお願いしたい。

 当番制にすることで、不埒な企みや雇い主への悪感情をそらすのだそうだ。

 週に一、二度なら多少の事は我慢ができる、そりが合わないなら担当を代える方法もある。 

 だから人員が必要になってくるわけなのだ。

 我々はまだ、平民を差別してきた積年の報いと諦めるしかない。

 しかし、あの戦争の頃に十歳にも満たなかった者に、何の罪があるというのだ」

 

 乳児だった者はなお一層のことだ。ユルゲン・オファーが言語化しなかった思いを、彼の友人らははっきりと聞き取った。ほんの十か月だけ、黄金と翡翠の玉座にあった彼の長女。あの子が行けるのは、貴族の目が届き、手に守られる場所だけだ。

 

 戦争の命を下したのも、旧同盟を征服したのも、ゴールデンバウム王朝最後の皇帝にして、最初の女帝、カザリン・ケートヘン一世の名において。代筆の署名をしたのはユルゲン・オファーだった。

生後一歳の乳児になにができよう。しかし、そんな真っ当な判断を奪うのが憎しみだ。

 

 新銀河帝国は、ラインハルト・フォン・ミューゼルの憎しみから誕生した。そう表現しても間違いとはいえないだろう。むしろ、歴史上ごくありふれた動機である。国を滅ぼし、国を興すのは、創始者の激烈な感情なくして不可能なのだから。

 

 彼は、絶対者として姉を奪った皇帝を憎悪した。貴族の血を持つだけで、既得権益に胡坐をかいている無能者を嫌悪した。先祖の功で優遇されていたことが罪だと、生き残って困窮した貴族らに言い放った。

 

 たしかに貴族は、先祖の功によって生まれ、優遇もされてきた。だが、その財を数百年にわたって保ってきたことは、その時々の者たちの努力だ。平民や農奴を搾取した領主がいた。国政に食い込み、不正な蓄財を行った者もいた。しかし、それは少数の大貴族だ。大多数の者は、保守的で凡庸だが、ほぼ真っ当な方法で代を重ねてきた。力が及ばず、没落し断絶したものも少なくない。ローエングラム伯爵家とて、その一員だったのだ。

 

 ルーデンドルフやノルドハイムのように、勤めのために国務尚書側に付くしかなかった者は、決して積極的にラインハルトらを支持したわけではない。門閥貴族らにも、一定の理はあるとも思っていた者は多いのだ。

 

 両親を亡くし、後ろ盾もほとんどいない七歳児を、姉の色香のおこぼれで出世した青二才の元帥と、老齢の国務尚書が皇帝として立てる。

 

 もう一方は、壮年の大貴族の十四歳の長女たち。門閥という後ろ盾は厚くて多い。しかも、あと六年もすれば成人を迎えるのだ。七歳と十四歳。年齢は倍だが、分別や知識は倍どころの差ではない。

 

 どちらも皇帝フリードリヒ四世の孫という点では等しい。男子相続を遺言した大帝ルドルフ自身が息子には恵まれず、長女カタリナの息子を二代皇帝にした。

 

 さて、皇帝本人にとっては、どちらが真っ当といえるだろうか。リップシュタット戦役で、賊軍になった貴族には、後者だと思った者も含まれていたことだろう。ゴールデンバウムの血を引く男子を婿にして、皇女カタリナに倣えばいい。そう思った保守派も少なくない。あの時にはまだ、そういう男性は何人もいた。年齢や家柄も釣り合い、聡明だと評判の者も。

 

 黄金樹に連なるのは、今はもう二人しかいない。ユルゲン・オファーの妻と長女。たとえ皇帝(カイザー)アレクサンデルに求婚されたとしても、彼は娘を皇妃になど差し出したくはなかった。一生、非難と憎悪を浴びせられ、暗殺に脅えなくてはならないのではないか。

 

 それならばいっそ、公爵位など振り捨てて、先祖の血を罪に問わない国の民になればいい。カザリンに代わって、勅令に署名した自分は、保護者として罪に問われても是非はない。

 

 だが、あの子には罪などないのだ。不敬罪や大逆罪も覚悟しながら、大公(プリンツ)アレクの愛の告白に『(ナイン)』と返事をし、自分の考えだから父母を罪に問わないでと、皇太后に懇願した娘には。

 

 大公アレクは、先々帝カザリン・ケートヘン一世を守り抜くことができるのか。それができない男は、娘にふさわしくない。たとえ皇帝陛下でも認めない。

 

 名ばかりではない公爵となり、金髪の嬬子(こぞう)がおいそれと求婚できないような地歩を固めねばならない。ユルゲン・オファー・フォン・ペクニッツの二度目の覚醒であった。それも、非常に厄介な。

 

「道理ですな。公のお言葉のとおりです。私は官吏に就いた時期に恵まれておりました。

 リヒテンラーデ候の一門ではありませんでしたから、

 人手不足の折もあって、そういう目には遭わずにすみました。

 しかし昨今、逆の差別が始まっているのは実感します。まことに居心地が悪い。

 私も、心当たりを探してみましょう。配当で暮らせるなら、辞職できますからな」

 

「ルーデンドルフ次官ほどの能吏にやめていただいては困りますが、

 当家にも、職の斡旋を願うものが増えました。

 貧乏子爵には過大な期待でして、思案に暮れておりましたが、

 何人かは条件にあう者がいるでしょう」

 

「よろしくお願いする。

 事業が軌道に乗って、顧客が増えれば、これほど厳しい条件の者でなくともよくなる。

 最初が肝心ということで、ご苦労をお掛けするが、ここが成功の分水嶺だ」

 

「ところで、ペクニッツ公が経営をなさるのですか?」

 

 メーベルトの言葉に、ユルゲンは首を振った。

 

「いいや、このご時勢に、貴族の商売などうまくいかぬことだろう。

 フェザーンのヘル・コモリの伝手を頼ることにした。

 経営は慣れた者に任せたほうがいい。フェザーンでも商売になるかもしれない」

 

「言えておりますな。フェザーンや新領土の家庭は共働きが主流です。

 経済が発展して、どこの企業も多忙ですから、家政婦の潜在的な需要はあるでしょう」

 

「それに、家政婦と顧客のつながりも財産になるだろう。

 平民にとって、貴族がすべて悪のような考えは、今後は害にしかならない」

 

 一同は、表情を厳しくして頷いた。全ての貴族が滅びたら、平民の敵は皇帝という考えに行き着く。新領土の知識が伝えられている今、そうなっても不思議ではないのだ。深刻な表情になったかつての学友らを前に、ユルゲンは悪童のような笑いを浮かべて言った。

 

「実は、ワーレン元帥を経由して、交流を結びたいと考えている人物がいる」

 

「ほう、一体誰です」

 

「バーラト星系共和自治政府の事務総長だ」

 

「それは、それは……」

 

 帝都代官府の次長ルーデンドルフは表情を改めた。

 

「一筋縄でいく相手ではありませんぞ」

 

「覚悟の上だ。私は精神医学の教科書の翻訳をして知ったことがある。

 人の心は、国は違っても大きく異なるものではないのだとね。

 娘を愛する親の気持ちにも、同じく違いはないと思うのだよ」

 

 なにより、娘をダモレスクの剣になどしたくない。無作法な求婚者に手袋を投げつけるかわりに、かつての敵とでも握手するユルゲンだった。新帝国に不満を持つ者が、カザリン・ケートヘン一世を擁立し、第二のリップシュタット戦役を起こす。そんな日が来てはならないのだ。

 

 身軽な若い世代とは異なり、中高年の者が帝都や新領土に動くのは難しい。新体制に不満を抱く可能性が高いのは、帝国本土のその世代の者たちだ。新帝国の上層部から見捨てられた、貧しくなったと感じたときに、昔のほうがましだったと揺り戻しが起こる。

 

 そのためには、帝国本土を豊かにするしかない。フェザーンに新領土、バーラト、どこの資本だって大歓迎だ。相手は、同じく娘を持つ父だ。共感する部分はあるに違いない。

 

「これはこれは……。健闘を祈るよ、ユルゲン」

 

 自分の上司たる大公アレクと、友人のユルゲン・オファーに。さて、どちらが勝利をおさめるのだろうか。



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第三章 星の海ゆくボトルメール

 親愛なる大公アレク殿下へ

 

 わたくしに妹が生まれました。ほんとうに、なんて可愛いのかしら。名前はクリステアィーネ。二人の弟も大喜びして、揺り籠につききりになっております。わたくしたち三人とも、勉強をおろそかにしたと家庭教師に叱られてしまいました。そうは申しましても、このようなときに、数学の問題に真面目に取り組める方がいるのでしょうか?

 

 父は、また母親似の子なのかと、すこしがっかりしておりますけれど、金髪の父と黒髪の夫人では、黒い髪になるものだと習いましたもの。それは無理というものでしょう? 

 

 でも、目の色はどちらかというと父の色です。灰色と緑の中間のような、優しい色合いです。柳の葉裏色というのだと、子ども服をお願いしたテイラー・コモリの方が教えて下さいました。オーディーンにもフェザーンの方々がいらして、銀河帝国から忘れられていたことを教えてくれます。日系イースタンでは、赤と白は慶事全般に使うのですとおっしゃっていました。

 

 『水引』という紙の細い紐で綺麗に飾って、服を納めて下さったの。ちゃんと結び方にも意味があって、子どもの誕生は何度あってもいいことだから、蝶結びにするのだとか。新領土では、結婚は一回の方がいいことだから、結び切りにするけれど、帝国貴族のお祝いにはどうしようか、迷う事でしょうと笑っていらっしゃいました。

 

 帝国と新領土と、そういうつながりが生まれれば、しきたりにも試行錯誤することでしょう。わたくしも水引の結び方を教えていただきました。このお手紙にも結んでみましたの。これが蝶結びです。この由来のように、またお手紙をお送りさせていただきますね。

 

 カザリン・ケートヘン・フォン・ペクニッツ

 

 

 

 親愛なるカザリン

 

 妹さんのお誕生、おめでとう! 僕は少し羨ましいな。仕方がないことなのは判っているけれどね。

 

 僕の目の色は、父上の両親のどちらかから受け継いだのかもしれない。伯母上に似ていると思っていたけれど、僕も遺伝についての授業を受けて、そういうことになるんだと思ったよ。でも、僕はどちらもよく知らないんだ。伯母上もお話をしたがらないし、父上からは訊くこともできなかった。

 

 僕には知らない事が沢山あった。フェリックスの事を覚えていますか?僕の一つ上の親友。ミッターマイヤー国務尚書の子どもなんだ。父上が、亡くなる間際に僕に友人をと遺言したんだって。勅令で作られた友達だったんだ。なんか、苦しくなる。

 

 あの頃に戻りたいよ。イゼルローンにブリュンヒルトで飛んで、ヤン元帥に会ったんだ。ヤン外務長官が、きっと大将だった頃の過去のヤン元帥だとおっしゃっていました。もっとお話をしていたらよかった。

 

 あの時は、震え上がることしかできなくてね。きっと、色々なお話を聞けたと思うんだ。惜しいことをしてしまったよ。とても優しそうな人だった。ヘル・ミンツが教えてくれたとおりに。

 

 ミュラー元帥は、よく森林公園を散歩したけど、結局一度も会えなかったそうだよ。今度イゼルローンに赴任するビッテンフェルト元帥は、公園になんて行かないような気がする。

 

 次に僕がイゼルローンに行くことがあったら、また会えるのだろうか。もしも会えるのなら、今度はいろいろと話をしてみたいものだ。こんな時にどうすればいいのかを。

 

 最近、フェリックスは皇宮にあまり来なくなってしまった。そのせいなのだろうかと思うんだ。他に僕に会いたくない理由もあるのかも知れない。フェリックスにも、色々な事情があるからね。

 

 でも、勅令だから離れられないっていうなら、僕がもういいよと言ってあげるべきなんだろうか。

 

 まとまりのない手紙でごめんね。せっかく、君の妹さんの誕生に水を差してしまった。僕も、蝶結びに挑戦してみようと思うけど、うまくいかなくても大目に見て下さい。

 

 アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム

 

 

 

 親愛なる大公アレク殿下へ

 

 わたくしこそ、慎みのない手紙を送りましたことをお詫びしなくてはなりません。殿下のお立場を、よく心に刻み込むべきでした。心から謝罪をいたします。

 

 ところで殿下のお苦しみは、皇帝の血を引く者が逃れられぬものなのです。わたくしの祖母は、フリードリヒ四世陛下の異母妹でした。友人として集められた貴族の令嬢は、二十人近くもいたそうです。その子たちは、やはり命令で祖母の周りに侍ったのです。何か、失態をしたら、祖母を泣かせたら、処罰が待っているかもしれないのに。それは名誉でもあったのだそうです。皇女の友人になれば、その家にも栄達の機会がある。

 

 反面、祖母はこう言い聞かされたそうです。皇女には、自分の家族以外に目上の者はいない。自分より目下の者に、どう接するかを常に量られる。心が狭く、醜い行いをしたら、人は下げた頭に隠して舌を出すようになる。そして、その行いにふさわしい場所に行くことになるのだ。皇女が降嫁すれば、多くの目上の者ができる。その時に復讐されるだろう。

 

『よく考えなさい。どのように振舞えば、集まった子が味方をしてくれるようになるか。

 皆が友人になってくれるか。皇族は真の意味で対等な友人を持てぬが、

 それでも友情とは大事なものだ』と。

 

 やがて至尊の冠を戴かれる殿下と、皇女の一人であった祖母と、単純に比べることはできないのでしょう。ですが、命令から始まった友情であっても、祖母の友人であった方々は、今でも母やわたくしを可愛がってくれるのです。どれほどそれに助けられたことでしょう。

 

 本当に友人として愛するならば、過去より現在、そして未来のほうが大切ではないでしょうか。

 

 殿下とヘル・ミッターマイヤーとの友情は、多くのお手紙から伝わってまいりました。人の心も時々に変わり、晴れの日も雨の日もございます。天気の悪い日には、人は外出を見合わせるものです。わたくしなら、お天気になるまで、時々窓の外を見ながら、お茶やお菓子の準備をいたします。雨が止めば、すぐにお友達が訪ねてくることでしょうから。

 

 天気が悪いから来なくていい、と言ってしまうのは賛成はいたしかねます。時に、嵐の中を助けを求めに飛び込んでくる旅人もいるのですから。お伽噺のそんな旅人は、運命の使者なのです。優しくもてなせば幸運を、すげなく追いかえせば不運を呼ぶのですわ。

 

 ヘル・ミッターマイヤーのお名前の意味を、お調べになってみてください。どちらを選ばれるべきか、すぐにおわかりになることでしょう。

 

 カザリン・ケートヘン・フォン・ペクニッツ

 

 

 

 カザリンの手紙は、時にアレクを励まして導き、時には穏やかに道を示唆するものであった。こういった手紙の往復は、間にオーディーンまでの航海の時間を挟む。ワープ航法の研究が実り始め、帝国軍の艦艇を中心に徐々に高速化され、一月半が一月になった。

 

 しかし、往復すれば二月はかかる。超光速通信ならば瞬時に届くが、アレクは文通にこだわった。想い人の直筆が形に残るのだし、手紙に書いて吐き出した感情を、静かに考える時間にもなった。なにより、いつ返事が来るのか。それを待ち焦がれるのも、アレクにとっては楽しみだったのだ。

 

 身の安全のため、軍や警察にがっちりと警護されなければ出歩けない。外出のたびに、事前に厳重な検査が行われることを知れば、わがままを言うのは憚られた。イゼルローンへの行啓以来、影の城や三元帥の城の完成式典などに参加したが、それは帝都からすぐ近くだ。

 

 一度も行ったことがない大公領オーディーン、新領土にバーラト星系共和自治領。宇宙を支配する玉座を継ぐ者なのに、それでもいいのだろうか。アレクは疑問を抱き、さまざまな本を読み、報道を見聞きして考えた。七歳の時からの道連れとなった『なぜ』と一緒に。

 

 皇太后ヒルダもそれを咎めることはなく、後押しをした。旧銀河帝国の弾圧で、伝えられていなかった多彩な文化。それを知ることなくして、新領土を治めていくことはできない。旧銀河帝国の伝統や慣習と折り合いをつけていくことを求められる。

 

 蒼氷色の瞳に自らの理想を写してひた走った、父とは異なる姿だった。もはや、倒すべき敵はいないのだから。いや、誰かを敵にすることなく、統治することがアレクに課せられているのだから。

 

 その海色の瞳のように、複雑にゆらぎ、多くの川から水が注がれる。心の海流にたゆたい、陽光に輝いて曇天には黒ずみ、雨に叩かれては波紋を生む。そして天上の星と、地上にある星の欠片の灯火を写し、少年は成長していく。

 

 周囲の大人の背を見つめながら。巨大な帝国を背負う、母の細い背。帝国軍をまとめる、やや小柄で引き締まった背。オレンジの髪の威勢のよい背中は、真っ直ぐに伸びたかと思うと、がっくりと肩を落とす。痩せ型の背の持ち主が腕組みをして、その傍らに立っていた。警備の先頭に立つ、姿勢の良い背はアレクをいつも守ってくれた。旧都オーディーンや新領土、イゼルローン要塞にいる人の背は見えなくても、その息吹は伝わってくる。

 

 大人の中の、ほとんど一人きりの子供。そして大人は皆忙しい。勉強や運動の時間以外は、一人になってしまう。フェリックスだって、毎日は訪ねてこない。大人の中のほとんど一人だけの子供。ユリアン・ミンツのような、ヤン・ウェンリーのような。

 

 アレクには、ユリアンのように家事をすることもなく、従卒としての仕事もない。所定の日課を終えてしまうと暇になるのだ。そうすると七歳のころからの旧友が姿を現わす。

 

『ねえ、アレク。なぜだろう。どうしてだろう。どうすればいいのだろう』

 

 

 アレクの孤独は、カザリンにも痛いほど感じ取れる想いだった。彼女の手紙は、一月遅れになることを承知しながら、いきいきとオーディーンの風景や自然を書き綴った。どこにも行けないアレクに、旧都の美しさを知らせるために。オーディーンは、少年の父が憎んでさえいたゴールデンバウム王朝の象徴。しかし、今なお宇宙最大の人口と、古い歴史を持つ少女の故郷。せめて、憎んでほしくはない。

 

 しかし、もっと恐ろしいのは、無視され忘れ去られることだから。だから、心の扉を閉ざさないで。皇族の言葉にはその力がある。時が来るのを待ってください。

 

 彼女の言葉のとおり、十五歳を迎えたフェリックス・ミッターマイヤーは、再びアレクの所に足を運ぶようになった。その折々に、実父であるオスカー・フォン・ロイエンタールに関わった人々に、すこしずつ話を聞いているようだった。

 

「正直、何を考えているか、よくわからん奴だったな。

 女にもてるくせに、ちっとも喜んだ顔をせんのだぞ。

 戦場では、あんなに冷静で整然とした用兵をするくせに」

 

 直球すぎるビッテンフェルトの返答に、少年は硬直し、居合わせた美髯の僚友は言葉を探した。ものには言い方というものがあろう。同じことを表現するにも、『人妻の午睡』と『主婦の昼寝』では大違いだ。散文詩人は敢然と難題に立ち向かった。

 

「フェリックスくん、気にする必要はない。

 単に、がさつな男には、理解の及ばぬような性格だったというだけのことだ。

 無神経なことを言う者は、ロイエンタール元帥に一笑に付されていたのだ」

 

「何を言うか。言葉を飾れど本質は変わらんだろう」

 

「わかったかね、世の中の機微を解さぬ人間というものを。

 君はそうならないように注意したまえ」

 

「は、はい、メックリンガー元帥閣下」

 

 長年、統帥本部総長を務め、軍の人事を統括してきたメックリンガーの言葉には重みがあった。

 

「ロイエンタール元帥は、一歩引いた視点から物事を見ることができたので、名将たりえたのだ。

 当時の帝国軍は、熱気に満ち溢れて猪突型の者が多かった。

 そういう中で、冷静な者は貴重だった。オーベルシュタイン元帥は、

 参謀格の後方担当であったから、血の気の多い者には煙たがられた。

 彼のように戦場では名将、後方の一流の組織運営者だからこそ、意見できたことも多いのだよ」

 

 これが、大人の言葉の選び方というものである。固有名詞を出さなくとも、特定人物に叱責の鞭を浴びせることなど造作もないのだ。

 

「でもメックリンガー元帥閣下、女の人にもてても、

 どうして嬉しそうじゃなかったんでしょう?」

 

 メックリンガーは、オレンジの髪の僚友に鋭い一瞥を送った。後で覚えていろとの思念をたっぷりと込めて。

 

「それは私にはわからないのだがね。

 単に、好みに合わない女性だったのかもしれないだろう」

 

「でしたら、付き合わなければいいと思うんです」

 

「それこそ、付き合ってみなければわからないということも多いのだ。

 逆に、付き合ったから嫌いになるということも多い。

 ただし、あくまで一般論だ。論評できるほど、私には経験はないのでね。

 どちらが原因でそんな様子だったのか、他人にわかることでもないだろう?」

 

「そうですね。お二人ともお忙しいところをありがとうございました」

 

 チョコレートブラウンが、素直にぺこりと下げられる。そのまま、統帥本部総長とイゼルローン要塞司令官は歩み去ったが、無論、前者から後者へのお説教が待っているのである。そもそも、ビッテンフェルトがここにいるのは、バーラト星系駐留事務所長にやらかしてしまった、言論の自由に対する内政干渉行為への謝罪のためである。

 

「わかっておるのか、卿は!

 舌禍で謝罪した舌の根も乾かぬうち、十五歳の少年にあんな無神経な言葉を吐くとは。

 もう一度問うぞ。卿が悪いのは、口だけか。それとも頭もか。

 ああ、これは愚問だった。口を動かすのがどこか、考えるまでもない」

 

 堅牢なコーヒーテーブルの表面から、迫力ある重低音が響く。しかし、安定にすぐれたコーヒーマグは小揺るぎもしなかった。酷使に耐える新領土製の什器への入れ替えは順調だった。

 

「もう、若さゆえで済ませてよい年齢ではない。そんなだから、卿には嫁の来手がないのだ」

 

「そ、それは今は関係なかろう!」

 

「大ありだとも。ミュラー元帥は巨大な武勲とは裏腹に温厚な人物ということで、

 文官や貴族筋からも、多数の紹介があった。

 その中から、これだという女性を選ぶことができた。

 卿の言動では、双方からさっぱりだ。軍部からでは余計に難しい。

 誰が、七元帥の義父や義兄弟になれると思うのだ。 

 皇太后陛下や私の家内だとて、友人知人を苦労しそうな男に紹介できるものか!」

 

 宇宙一の猛将を撃沈させる一撃だった。ヤン・ウェンリーにもなしえなかった偉業である。

 

「これを機に、自らを省みるがいいだろう。

 ついでに言っておくが、フェザーンと新領土の女性が卿に嫁ぐことはありえん。

 同盟との戦争とフェザーンの守備と、卿の経歴は我が国にとっては大きな功績だ。

 しかし、フェザーンや新領土にとっては、巨大な敵なのだ。それを心するように。

 イゼルローンは交通の要衝だ。

 身辺に充分に注意をして、あらたな貿易の道の守備に務めてくれ」

 

 結婚問題から始まり、ハニートラップへの注意まで。統帥本部総長というのは、ここまでやらねばならないのかとメックリンガー自身が思うのだが、ビッテンフェルトには、波の穏やかな深い港が必要だろう。まだまだ逞しい長身が、力なく退出して行く。その背を見送って、メックリンガーは独語した。

 

「どうしたものか……。これで、国務尚書夫人にはお願いできなくなってしまったか。

 ミュラー夫人に頼るしかあるまいかな。しかし、あの方は学者の家の出だった。

 その知り合いとなると、粗野な軍人との相性はどういうものだろうな。

 私がオーディーンに赴任する前に、決着しておきたかったのだが……」

 

 メックリンガーとワーレンのコンビは、巨大だった帝国軍にメスを入れ、流通や航路警備といった社会インフラに組み入れて、適正規模に是正する改革を成し遂げた。その手腕を見込まれ、まもなくの新人事で、ワーレンは新設された運輸労働省尚書に、メックリンガーはオーディーン大公領の代官府総長に異動し、共に軍服を脱ぐ。宇宙艦隊司令長官と統帥本部総長には、バイエルラインとビューローが就任する。

 

 ビッテンフェルト元帥が駐留するイゼルローン回廊は、もはや辺塞ではない。第二のフェザーンとして、順調な発展を遂げるエル・ファシル、新領土と帝国をつなぐイゼルローン回廊。今は宇宙の新たな中心点だ。宇宙海賊の増加を警戒し、機動力と個艦戦闘能力に優れた黒色槍騎兵(シュワルツ・ランツェンレイター)が配置された。

 

 彼の参謀であったオイゲンは、情報分析や折衝の能力を見込まれて、ハイネセンでの修行に赴き、経済官僚としての赴任だ。同行するミュラー艦隊の元参謀長、オルラウも同じである。彼らのコンビは、エル・ファシル商人と一歩も引かずに渡り合った。エル・ファシルの族議員たる、バーラト政府のマリネスクやコーネフにも手を焼かせたものだ。

 

 『教え子』と『上司』の闘争に、アレックス・キャゼルヌは白髪の増えた頭を掻いた。夕食のあと、書斎に引っ込むと、琥珀色を満たしたグラスを手に独語する。

 

「少々、塩を送りすぎたかね。まあ、そのぐらいでなくてはな。

 宇宙を統治するのにも、先立つものは同じだ。

 もう、貴族からの没収財産も大して残っちゃいまい。

 あの戦争の最中の世代が大人になる。早いもんだな、おい」

 

 彼の対面には、手をつける者のいない、もう一つのグラスが置かれていた。注がれた銘酒を遠慮なく減らした、黒髪の主はもういない。

 

「なあ、ここからが俺たちの正念場だ。身内の戦死の嘆きを、子守歌に育ってきた若者だ。

 おまえが言ったように、敵国との戦争より、国内での内乱のほうがツケがでかいだろう。

 旧同盟にもあったが、皇帝ラインハルトの陰謀だってぶちまけやがって、

 本当におっかない奴だよな、おまえさんは。

 おまけに、その首謀者の娘を副官として手許に置いて守り抜き、挙句に嫁さんにするなんざ、

 なかなかやるじゃないか。いつからその気だったんだ、ヤン。

 おまえに免じて、帝都の後方をお留守にしないよう、進言をしとくか」 

 

 もう一つのグラスの中身も、結局は、薄茶色の髪と瞳の主の胃に納まるのだった。



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第四章 クロニック・モザイク

本作の設定は、筆者の『ヤン艦隊日誌追補編 未来へのリンク』の『女帝と女王』に準じております。


 獅子帝ラインハルトの遺言で就任した七元帥だが、政治的地位の上昇にあわせてその数を減らしていき、現在はミュラーとビッテンフェルトの二名になった。

 

 元帥という地位は、歴史的には戦時の特別職である。この十数年続いた平和を鑑み、七元帥の退役後は上級大将をもって最上位とする。将来的に軍務尚書は退役し、政治家として文民統制を進める。万が一戦時となった場合は、上級大将が元帥になり、皇帝が大元帥の地位を兼ね、後方より軍部に指示を下す。現在、帝国軍で計画が進んでいる新たな仕組みだった。

 

 正直に言うと、政治家や行政官としての手腕を持つ者を、軍隊におくような無駄遣いはできないのだ。この十五年で、文官もようやく数が揃い、力量も向上してきた。自由経済のセンスを持つ者も増加したが、主にフェザーンや新領土に配置されている。しかし、帝国本土はまだまだこれから。それほどに五百年の社会の停滞は大きかった。その末期、圧倒的な力で改革を成し遂げたラインハルトだったが、彼の天才性は最も戦争に注ぎ込まれた。

 

 そして、没収した貴族の富の膨大さに、皆が目を眩まされていたのだ。四百億人に増えた国民に再配分すれば、一人あたりでは大したものではなくなる。兵力と財力は同じだ。集中と投入の選択、これこそが政治家の力量なのである。総花的にあれもこれもなど、到底できようはずがない。

 

 ラインハルトの死後、ヒルダは、まず帝国軍の規模適正化に取り組んだ。退役者の雇用を社会インフラ整備に結びつけることで乗り切った。軍事費を縮小し、戦死者への年金を始めとする、未亡人や孤児の保護に努めた。

 

 しかし、いかにも数が多かった。旧同盟との戦死者は、まだ対象者がはっきりしている。困ったのが、リップシュタット戦役の賊軍側の遺族の問題だ。彼らの補償には、帝国の上層部にさえ、賛否両論で言えば『否』が多かった。皇帝ラインハルトに叛いた者たちだ。旧王朝なら大逆罪で一族郎党処刑台だ。わざわざ、国費を投じて救済する必要があるのかと。

 

 ヒルダはきっぱりと言い切った。

 

「ならば、私とマリーンドルフ国務尚書も、そこに行かねばならなかったのです。

 お忘れかしら、ハインリヒ・フォン・キュンメルのことを」

 

 閣僚らは絶句した。

 

「リヒテンラーデ候の一門の処断は、先帝陛下の大きな誤りでした。

 ローエングラム王朝の藩塀になってくれたであろう人々を失ってしまいました。

 生き残りがいたのかも知れませんが、恩赦の布告をしたのにも関わらず、

 誰一人名乗り出ては来ませんでした。

 賊軍とあなたがたはおっしゃいますが、故ファーレンハイト元帥もその一員でした。

 フェルナー軍務省官房長も同じく。

 一軍の将を許し、高位をもって遇したのに、末端の者は捨て置けとは、

 陛下の御心にもそぐわぬことでしょう」

 

 一同は声もなく頭を垂れ、皇太后ヒルダの命に従った。しかし、これもまた、リヒテンラーデ候の一門の恩赦とさほどに変わらぬ結果になった。

 

 皇帝ラインハルトに、刃を向けた者の遺族と周囲に知られれば、どんな目に遭わされるだろうか。それと年金額を天秤にかけ、口をつぐむ者が半分。

 

 残りの半分は、もっと年配で、もっと疑い深かった。こんな誘いに名乗り出たら、処刑台に直行させられるのではないか。本当に困窮した者が、ちらほらと申請に訪れるにすぎなかったし、その結果、前者の懸念が的中してしまうことが多々あった。

 

 どんなに政治的にすぐれた判断、政策であっても、その対象となる人間や社会がそこまで成熟していない。そのうえ、戦死者の母や未亡人にとっては、皇太后ヒルダは最も忌むべき存在だった。よき妻たれと育てられ、文字どおりのバージンロードを歩いて、夫と結ばれた人々。旧銀河帝国の女性は早婚であった。旧帝国民法上の婚姻年齢は女性が十五歳。これは国民学校の卒業年齢だが、その後に花嫁修業に入り、だいたいは二十歳までに結婚する。

 

 一月一日に婚約、その四週間後に結婚、子どもが生まれたのはそれから三か月とちょっと。皇帝、皇妃と言っても、神ではなく人間。妊娠期間は自分たちと変わらない。息子や夫を殺した男は恥ずべきけだもの。その妻は、二十三歳にもなって、嫁の貰い手も、婿の来手もなかった女。どんな手管を使ったのやら。そんな汚らわしい手など孫や子どもに必要ない!

 

 ――皇太后陛下へ。お金ではなく、あの人を返してください。

 

 とある役所に届いた、無記名の拙い字の投書である。

 

 申請による遺族年金給付制は、結局失敗だった。地方の平民は、日頃ほとんど官庁に足を運ばない。この布告直後に官庁に行く姿を見られたら、すぐに近所にそれと知られてしまう。住民記録を整備して、寡婦や孤児世帯には給付する形式に切り替えざるを得なかった。しかし、その記録が不十分だから、申請制度としたのだ。

 

 問題の悪循環に、マリーンドルフ国務尚書は頭を抱えた。民生に注力して、善政を慕われた領主だった彼にとって、役所から通知も戸別郵送できないという状況までは、さすがに想定していなかった。かといって、通知のばらまきは論外だ。余分な費用は莫大なものとなるだろう。そのうえ、年金の詐取や、該当する家庭を狙う暴力を誘発しかねない。しかも大貴族領だったそんな惑星に、リップシュタットの戦死者の遺族が多いのである。

 

 そんな彼に、学芸尚書のゼーフェルトが更なる問題を付きつけた。

 

「通知を送ったところで、どれほど読み書きができるかが問題です。

 大貴族に選択の余地なく徴兵された農奴階級は、この案のような文章を読みこなし、

 申請書類を書くのは無理です。ましてや、その子女に」

 

「なんですと?」

 

「戦艦に乗っていても、雑用をしていた下級兵士の遺族です。

 男でもその程度の学力しか持たせぬのが、門閥貴族のやりくちでしたからな。

 たとえ住民記録が整ったところで、どのように給付をなさるのです。

 下層階級は、銀行口座も持たぬのですよ。現金を渡したら、家に帰りつく前に奪われたり、

 借金の返済や食料品の購入に使われて終わりです。

 もっと、未来につながるような形で使わなければ意味がありません。

 就学年齢者には学費の無償化、それ以上には職業訓練と雇用の整備。

 働けない年齢の者には養老施設を作る。すべてが、あらたな雇用の場にもなります」

 

「なんと……。皇帝直轄領の状況に対する、私の認識不足でした。

 帝国本土の住民記録の構築を早急に行い、対象者の年齢を洗い出し、

 学芸尚書のご意見を容れた政策に変更すべきでしょう。

 摂政皇太后陛下に奏上しなくてはなりません。

 民法の改正を行い、旧同盟のシステムを流用できるようにすべきだと」

 

 大きな決断だった。国政の根幹である国民のデータ管理法を、かつての敵国に倣うのだから。しかし、新領土ではそれを廃止することなく使っているのだ。今さら躊躇はしていられない。法務省との協議が始まり、民法改正はバーラト政府が呆気にとられるほど、早急に審議が進められていった。

  

 

「いやはや、思いきったものだねえ」

 

 当時の外務長官、ホアン・ルイが丸っこい顔を拭いながら同僚に語った。

 

「なんでも、役所からの通知も戸別郵送できないそうですよ。元、門閥貴族領だったところは。

 もっとも、そういう土地の人間は、届いたところでろくに字が読めないんだとか。

 シュナイダーじゃない、メルカッツ駐留官が教えてくれましたがね」

 

 アッテンボロー国防次官が、情報通なところを披露した。

 

「ははあ、話すのは習わなくてもできるがねえ」

 

「じゃあ住民記録を作るから、役所に書類を提出しろと言っても無理じゃないんですか。

 どうするんでしょうね。公務員が代筆なんてしていたら、とても仕事になりゃしない」

 

 ガードナー財務長官が目を光らせた。

 

「いや、いいことを教えてくれたな。チャンスだよ。

 音声入力システムのある機器の採用を、帝国に進言しよう。

 申請者の音声も記録しておけば、入力ミスや言った言わないも防げる。

 バーラトに本社のある企業のお家芸だ。公開入札でも勝てるぞ」

 

「で、企業には?」

 

「わざわざ言わんでも、仕様書が開示されれば、入札日までにはなんとかするものだ」

 

 青灰色を真ん丸にするアッテンボローに、ガードナーはにやりと笑って見せた。

 

「フェザーンの住民記録システムだって、ハイネセンの会社が作っていたんだ。

 つまり、帝国語入力は、とっくに対応済みだ。音声入力はその親会社が得意にしてる。

 帝国本土全土に、システムを設置する一大事業だ。業界一丸で取り組むことになる。

 進言だけして、黙ってみていればいい。来年の法人税収が楽しみだな」 

 

 そして、いかにも人のよさそうな様子で、ホアン・ルイがバーラトの公式見解を述べたのであった。

 

「新銀河帝国の英断には、大きな敬意を表します。

 三百九十億の住民データの作成は、容易なことではないでしょう。

 しかし、新領土民百二十億人のデータは、すでに作成されていますから、

 これを円滑に移行し、帝国住民の識字率を考慮した業務が遂行できるように、

 バーラト政府としても助言を惜しまぬつもりです。

 差し当たっては、口述による申請も可とすべきでしょう。

 代筆による業務の停滞が懸念されるが、適切な方法によれば、

 その影響は最小限に抑えることができるのですから。

 戦争からの復興は、全宇宙の人間の心からの望みです。

 バーラト政府としては、最大限の協力をお約束いたしましょう」

 

 その『適切な方法』は外交筋から伝わり、旧都の貴族を懸念させる結果につながるのだが、大多数の平民が、かつての叛徒を見直す結果にもなった。そして、新領土企業の帝国本土進出の呼び水となっていったのである。新帝国暦六年に施行された、新銀河帝国民法改正法がもたらしたものだ。

 

 それから十年、商法や税法の改正もあって、新領土の企業も帝国本土に進出を始めている。言葉の壁に教育格差、輸送費と問題が山積しているが、新たな需要が見込まれる鉱脈だからだ。しかし、新領土の民間企業に頼ってばかりもいられない。

 

 今回の人事異動は、先帝によって国営化された帝国本土企業を民間へ移管し、あわせて医療保険制度を新領土並みにするという、さらなる難関の通過点に過ぎない。現在の軍の人事責任者として、一つでも頭痛の種を減らしておきたいところなのだが。ビッテンフェルトに結婚をせっつくのは、ビューロー上級大将では荷が重かろう。

 

「悪気はないのだが、稚気が抜けんのだな。まったく、困ったものだ」

 

 メックリンガーにも誰かの口癖がうつったようだった。それでも善は急げとばかりに、メックリンガーはミュラー夫人に縁談の相談を持ちかけた。まったくと言っていいほど期待はしなかったが。彼女は、学芸省に勤務する父を持ち、皇太后ヒルダの後輩にもあたる。女性に門戸を開放した、オーディーン国立大学の卒業生なのであった。

 

 ゾフィー・ミュラーは、結婚前は父や学芸尚書ゼーフェルトの秘書役を果たしていた。この女性は元帥の妻としてふさわしいと、ゼーフェルト自らの推薦だった。真鍮色の髪に飴色の瞳の、長身の知的な美女である。国務尚書夫人のエヴァンゼリンとも怖じずに世間話ができるくらいだ。さすがは元秘書、社交的でアンテナも高く、分析能力も優れていた。

 

 子供っぽい男性なら、母性的で忍耐強く、さらには足りない言葉を汲み取れるような女性はどうか。思案したゾフィーは、該当者を友人録から探し出し、半年後見事に実を結んだのであった。いつもにこやかな、栗色の巻き毛に青い瞳の可愛らしい女性で、職業は幼稚園教諭。新領土方式の幼児教育を大学で学んだ才媛で、ゾフィーの後輩にあたる。

 

 結婚式の後、フラワーシャワーに参列した新婦の教え子たちからは、新郎に抗議の泣き声も降り注ぐという一幕があったが、これはご愛嬌だろう。猛将ビッテンフェルトも、二個小隊近い暴れん坊を相手にしてきた夫人のエルヴィラには、まったく頭があがらなかった。

 

 家庭での教育体制が整ったと安心したのか、バーラト共和自治政府帝都駐留事務所長のムライが退任。ハイネセンのホテルを退職した夫人と、フェザーンで引退生活を送り始めた。変わることなく、ご意見番として睨みを利かせ続けるのだった。

 

  実に十五年にも及んだ、ムライ駐留事務所長による体制。堅実に、帝国との折衝を進めてきたが、今後はさらなる経済進出の拠点とし、帝国本土へ手を伸ばしたい。国営企業民営化に参入するために。

 

 新体制への準備として、業務洗い出しのエキスパート、ハリエット・ハンターが二年の予定で事務所長に就任。ミュラー軍務尚書の背筋が、物差しを通されたように真っ直ぐになったのは言うまでもない。魔術師のそろばんの悪知恵は、尽きることがないようであった。

 

 ムライ夫人はケーキ屋のかたわら料理教室を始め、旧同盟の文化の紹介に努めた。アレクとフェリックスが、ミンツ夫妻の結婚式の写真を見て、食べたいと駄々をこねたケーキが、フェザーンでも買えるようになった。味も値段も素晴らしいものだったが、価値あるものには金を惜しまぬフェザーン人には大いに受けた。

 

 ムライ夫人の教室には、料理好きな帝国首脳部の夫人達が通い、教師と生徒の夫を苦笑させるのだった。その夫人の一人は、ムライにとって旧知の仲である。国務尚書夫人のエヴァンゼリン・ミッターマイヤーだった。

 

「ヘル・ムライ、その節はありがとうございました。

 以前、先生に教えていただいたティラミス、とても美味しかったですわ。

 ですが、本当に食べたいのは、ミンツご夫妻のウェディングケーキだと、

 アレク殿下や息子にねだられてしまいました。

 フェリックスはともかく、アレク殿下は王宮で作ったお食事以外は召し上がれないのですもの。

 せめて、私が習って、作らせていただこうと思いまして」

 

 妻が、白き魔女の手先だったことを知ったムライは、なんとも言えない気分になった。しかもそのレシピを運んだりしていたのは、かつての問題児、きらきら星運送の社長だというではないか。

 

「それは、ご子息にご迷惑をおかけしたのではないでしょうかな」

 

「とんでもないことですわ。あれから色々悩んだり、調べたりしましたけれど、

 自分の過去をよく知ったことで、気が晴れたようです。

 女親はいけませんわね。なかなか、年頃の男の子に、面と向かって言う事が難しくて」

 

「いや、それは父親も同じことでしょう。

 もっとも、彼には確かにそういう才能がありましたからな。

 ヤン提督も、ミンツ元中尉を弟子として預けていました。

 彼は真面目な優等生だったのですが、ポプラン社長とは馬があったのですよ。

 ヤン提督も彼を気に入って、目をかけておりました」

 

「そうでしたの。あの社長さんは、アレク殿下とも仲よくなられたようですわ」

 

「……なんですと?」

 

 ムライの眉間に、大峡谷が形成された。

 

「ペクニッツ公爵夫人の薬を届けられたご縁があったそうですのね。

 それで、フロイライン・ペクニッツの文通の郵便屋さんをしたこともあるのですって。

 とはいっても、毎回ではないそうですけれど」

 

 さまざまに聞き捨てならないことが、多々含まれていたが、このご時世に文通とは。少年少女の微笑ましい交流に、ムライの額の谷間が浅くなった。

 

「なんとも、奥ゆかしいことですな。

 大公殿下と、フロイライン・ペクニッツは筒井筒なのでしょう」

 

「ツツイ、ヅヅ……どういう意味ですの?」

 

「幼馴染という意味です。我々、日系イースタンのルーツにあった、古い物語ですよ。

 仲良く遊んでいた幼馴染の男女が、互いを意識しあい、疎遠になるのですがね。

 勇気を奮った青年は、女性に歌を送って求愛し、それに女性も歌で応えるのです」

 

「歌ですか?」

 

「歌というより詩ですな。

 日系イースタンには、十七文字ないしは三十一文字を基本にした、

 短詩の文化があったのですよ」

 

「そんなに短い言葉で、気持ちを伝えられたのですか?」

 

「そのようですな。もう、研究者ぐらいしか話せない言葉ですが。

 旧同盟公用語でも、帝国語でも、訳するととてもそんな短い言葉にはなりません」

 

「でも、素敵ですわね。どんな歌ですの?」

 

「ふむ、口で申し上げるのは、なかなか難しいのですよ。

 二千年以上昔の話ですので、単語一つとってもピンとこないのですな。

 筒井筒というのからして、『井戸』の囲いという意味ですが、

 では井戸とは何かというご説明をせねばならんでしょう」

 

 エヴァンゼリンは頷いた。

 

「そうですわね」

 

「よろしければ、本をお貸ししますよ。

 同盟語のものになりますが、さほどに難しい本ではありません。

 短編集で、一つ一つの話には直接繋がりがないのですから、好きなところを読めるのです」

 

「まあ、是非お借りしたいですわ」

 

「それにしても、あの少女が即位したのが、ついこの間のような気がします。

 アレク殿下の七歳の園遊会でお会いした時には、もう立派な淑女でしたが、

 さぞや美しくなられたことでしょうな」

 

 エヴァンゼリンははっとした。この老境に入った紳士は、カザリン・ケートヘン一世の即位の時には、ヤン元帥の参謀長であったはずだ。

 

「あの方の即位を覚えておいでですのね?」

 

「私の上官は、歴史学者になりたかった人でしてな。

 歴史における男子相続の、遺伝学的な意味を説明してくれました。

 旧同盟は男女同権でしたので、私も理解しきれたとは言い難いのですが」

 

「男子相続と、遺伝ですか……」

 

 旧銀河帝国で育ってきた者は、真っ先に劣悪遺伝子排除法を連想する。この悪法が、旧帝国の周産期医療を、開かずの箱にしてしまったのだ。ミッターマイヤー夫妻の失われた十年は、結局取り戻すことはできなかった。

 

「ええ、フラウ・ミッターマイヤー。

 どうやって、子どもの性別が決定されるかご存知でしょうかな?」

 

 クリーム色の髪が曖昧に動いた。縦とも横とも言えない方向に。ムライは、軽くうなずくと、説明を交えて語りだした。

 

「ふむ、簡単に言うなら、子どもは父母の遺伝子を半分ずつ受け継ぎます。

 性別を決定するのはY遺伝子とX遺伝子で、男性がXY、女性はXXになります。

 男性の性別を決定するY遺伝子は、父親からしか受け継がれないのです」

 

「それがなにか?」

 

「X遺伝子は、父母のどちらからも受け継がれます。

 男性のX遺伝子は、母方の祖父母のどちらのものかは不明でした。

 医学が進んで、検査ができるようになるまでは」

 

 エヴァンゼリンは首を捻った。こういう授業は、旧帝国ではなかったのである。不妊治療の際に医師から説明を受けたので、彼女も知っていたのだ。あまり理解できなかったが。

 

「ですが、Y遺伝子はずっと父から受け継ぐのです。

 男子相続は、王朝の創始者のY遺伝子を継ぐためにある。

 女性が帝位に就くと、その息子から夫の家名の王朝が開始すると。

 彼女の夫となるべき、ゴールデンバウムの男子がいないのだから、

 王朝の終焉を宣告したんだ。そのような意味でした」

 

 菫色の瞳の(まなじり)が、張り裂けんばかりに見開かれた。

 

「そんな……!」

 

「一方で、こう言ってもおりましたな。

 これは恐らく、ローエングラム公の発案ではないと。

 ルドルフの遺訓を、女帝という存在で足蹴にする。

 歴史に造詣が深く、ゴールデンバウム王朝自体を憎んでいる者だろうと」

 

 エヴァンゼリンが考えもしなかったことだった。いや、現在の帝国首脳のほとんどがそうだろう。一年もたたずに、皇帝ラインハルトに譲位した、最後の皇帝にして女帝の意味など。



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第五章 歌の言葉、薔薇の名前

 その日、どうやって家に帰りつけたのか、エヴァンゼリンは、はっきり覚えていない。それでも熟練の主婦の技で、夕食を作り、息子と一緒に食べたようなのだ。皿もきちんと洗ったらしい。帰ってきた夫の声で我に返った時には、台所はいつものように綺麗に片付いていた。

 

 ただならぬ妻の顔色に、こちらも血相を変えたミッターマイヤーに、彼女は昼間に聞いた疑問をぶつけた。豪胆な国務尚書が絶句して、瞳の灰色が顔中に拡散された。

 

 それが答えだった。夫の考えではないことと、女帝の意味を知ってはいなかったこと。エヴァンゼリンは、声を絞り出した。

 

「……あなた、ねえ、あなた。アレク殿下はご存知なの? そして、皇太后陛下は」

 

「俺にはわからん……。だが、フロイライン・ペクニッツは知っていたんだ。

 だから、あの時も、今も断り続けている」

 

「なぜ、なぜです! まさか、ゴールデンバウムの再興をお考えでは……」

 

「……わかったぞ、エヴァ。再興ではない。――逆だ。

 皇帝ラインハルトは、血統によって帝位を継ぐことを否定された。

 ローエングラム王朝は、ゴールデンバウム王朝から、宇宙を奪ったと言われている。

 しかし、大公殿下とフロイライン・ペクニッツが結ばれれば、婚姻によって帝位が繋がる。

 だからか!」

 

 これもまた獅子帝の遺訓。それを破ったと言われないがため、帝位から見ると祖母だと告げた。祖母と孫が結婚するのはおかしい。そういう意味であったのか。

 

「考えてみるべきだった。あの令嬢は、一人っ子のフェリックスを婿にすると、

 俺の家が困るからと断ったんだが、真の理由は違った。俺には教えてくれた」

 

「なんとおっしゃいましたの」

 

 エヴァンゼリンは、冷え切った指先を固く握り締めた。

 

「フェリックスの実母は、自分と近い血筋だと。髪の色が似ている。

 ああいう淡い色の金髪は、リヒテンラーデの一門に多かったそうだ。

 名前も似ているだろう。……エルフリーデとエレオノーラ」

 

 クリーム色の髪と象牙色の髪の女性たち。格上の優れた親族にあやかる、貴族の風習による名づけ方。それは、近親婚を避けるための知恵でもあった。後に知ったミッターマイヤーは、かの令嬢に更に舌を巻いたものだ。六年を隔てて、彼の妻も夫の思いを共有することになった。

 

 

「ロイエンタールの元を飛び出した彼女を、保護していたのが公爵夫人かもしれない。

 ロイエンタールが、マールバッハ伯爵の孫にあたるということも言われたんだ。

 フェリックスには、リヒテンラーデとマールバッハという貴族の血が流れている。

 帝国の至宝に育てられた宥和の象徴。大公アレク殿下の直臣としてふさわしい。

 ペクニッツ家の婿にはもったいないと」

 

 エヴァンゼリンは、夫の胸に縋りついた。息子を袖にした少女と、どこかしら共通する色合いの髪を打ち振り、瞳に涙を滲ませて。

 

「なんて、なんてことでしょう。……いけませんわ、あなた!

 フロイライン・ペクニッツをそのままになさっては。

 きっと、大公妃殿下と同じ道を選ばれるおつもりだわ」

 

「エヴァ、いきなり何を言い出すんだ」

 

「ヤン元帥がおっしゃったことを、よくお考えになって。

 大公妃殿下の子孫が、帝位に就くことがあっても、

 ローエングラム王朝ではなくなるということでしょう!」

 

「なっ……」

 

 胸郭を殴りつけられるような衝撃だった。

 

「大公妃殿下は、皇帝の寵姫だった方だわ。その意味をご存じないはずがないでしょう。

 ましてや、女帝でいらした姫君です。

 フロイライン・ペクニッツのお子には、ゴールデンバウムの血が流れる。

 もし、フェリックスと結ばれれば、アレク殿下のお子と帝位を争う存在を生み出してしまうと!」

 

 妻を抱きしめかえすことも忘れて、ミッターマイヤーは呆然と呟いた。

 

「あれは、そういうことでもあったのか?」

 

 底知れぬ群青の瞳には、皇太后ヒルダとは異なる種類の智が湛えられていたのか。そのことを、女帝擁立の一報だけで、黒い瞳の持ち主は察したのか。

 

 ミッターマイヤーは、改めてヤン・ウェンリーに恐れを抱いた。恒星の如く、その天才を輝かせたラインハルトとは異なる。星をも取り込む宇宙の闇のように、どれほど深い知性と洞察力を持っていたのだろう。凡人が衆知を集める民主共和制には、有害とさえいえる存在であることも、彼は覚っていたのではないか。給料分の仕事というのは、軍人の規範を超えないという意味もあったのだろうか。すべては疑問形だ。それが残念だった。この難問に、彼は何らかの答えを持っていただろうに。

 

 

「あなた、皇太后陛下にお知らせして下さいな。

 ヘル・ムライにもお願いして、ヤン提督の言葉を伝えていただいて」

 

 エヴァンゼリンは顔を覆った。ひそめた嗚咽の合間から顔を出した疑問は、夫を戦慄させた。

 

「国とはなんなのかしら、ウォルフ。

 十歳の女の子に、そんな悲しい決心をさせてしまうのが、先帝陛下のご遺訓なのですか?

 フェリックスは許されて、あの子は許されぬまま。

 生きていられるだけで、先の王朝よりもこの王朝は慈悲深いと、そういうことですか」

 

「エヴァ!」

 

「わたしには、国家というものは正直よくわからないわ。

 でも、十五年も前の先帝陛下の言葉が、少年少女たちを縛る。

 それでは、旧王朝と何も変わっていないということではないの?

 今を生きる子どもたちのために、お考えになってください」

 

 知らぬ者が知らぬうちに、知る者は密やかに決意を固めているのだろうか。人は、自らが生まれる場所を選ぶことはできない。それを二度と利用はさせないと、心の芯に静かに叛旗を突き立てて。

 

「ああ、そうだな。おまえの言うとおりだ」

 

 再び、宇宙一高貴な保護者の相談会がひっそりと開かれ、外部講師も招かれた。老紳士は、魔術師の言葉を伝えた。色を失うヒルダとミッターマイヤーに、彼は軽く咳払いをした。

 

「申し訳ありませんでした。私も少々、言葉がよくなかったようです。

 当時の私は、ヤン提督の参謀長をしておりましたが、

 この人は何を言い出すのかと、仰天したものですよ。

 しかし、帝国からの亡命者であった、シェーンコップ中将も、同様の反応でした。

 現に、国務尚書閣下のご夫人もご存知ないようですからな」

 

「いいえ、私も存じませんでしたわ」

 

「皇太后陛下、私も妻と同様です」

 

「なるほど、そういうことでしたか。

 恐らく、帝国の中でも知識差のある事柄なのでしょう。

 皇帝の目にとまり、皇子の母となりうる階層の人々にとっては、

 当たり前の知識ですが、関係のない者は知らないという類いのものです

 貴族の女性が、母や親族の女性から教えられるのでしょうな。

 皇太后陛下がご存じないというのなら、その可能性が最も高い」

 

 ブルーグリーンと灰色が、老眼鏡の奥の漆黒を見つめた。

 

「どういうことですの、ヘル・ムライ?」

 

「つまりですな、ペクニッツ公爵夫人や令嬢は、

 皇太后陛下がそれをご存じなかったとは、考えてもいないのでしょう。

 知っていて、大公殿下の求婚を認めていらっしゃる、

 王朝の交代を婚姻によって、さらに正統なものとなすおつもりだと、

 そう受け取っているのかも知れませんな。困ったものだ」

 

 自分達が知らないということを、相手は知らない。ムライの指摘はそれだった。男子相続の意味、王朝の交代を告げる女帝という存在。

 

「皇太后陛下は、当時のローエングラム公の相談役でいらしたのでしょう。

 カザリン嬢を帝位に就けたのは、陛下の献策であると思ってもまったく不思議はない」

 

「まさか、公爵夫人がそのように」

 

 色をなしかけるミッターマイヤーに、魔術師のものさしは正論を告げた。

 

「いや、それにはいささか無理がありましょう。

 女帝に就けられたことを、真実恨んでいるのなら、

 何も言わずに殿下の求婚を受けられるでしょう。

 ローエングラム王朝の血脈を、再びゴールデンバウムの血で塗り替えることができる」

 

 旧同盟の人間から、こんな閨閥論を聞く日が来ようとは、帝国人には想像もつかなかった。

 

「おや、驚かれたようですな。

 私や、ヤン提督のルーツである地球のアジア圏は、

 専制君主による王朝が、非常に長く続いた歴史がありましてな。

 こういう話は枚挙に暇がないのです。血を流さない、血による闘争と言えましょう。

 つまり、受けたほうが復讐になるわけですよ。

 それを拒むということは、逆の感情をもっていらっしゃるということです」

   

 二対の目でOの字を形作る貴顕らの前で、ムライは不慣れな笑みを浮かべた。

 

「私は、大公アレク殿下の求愛には脈ありと見ますな。

 深い友情と愛情なくしては、そもそも文通は続きませんよ。

 国務尚書閣下の奥方に、お貸しそびれた本のように」

 

 そして、ムライは大公アレクにと、古い古い物語を手渡した。小さな島国の、天皇と呼ばれる君主の血を引く青年が主人公だという、恋と短詩で織りあげられた、美しい物語を。

 

「大公殿下に、私からの贈り物です。

 この本では、男は濃やかに愛情を表現して、美しい歌を贈って女性の心を動かす。

 やはり、心を言葉で伝えなくてはいけないんですな。

 言葉が伝わらぬと、梓弓や白玉のような悲劇となる」

 

 謹厳な紳士の思わぬ贈り物に、ブルーグリーンの瞳をせわしなく瞬かせた保護者の一人が、首を傾げて、疑問を口にした。

 

「……悲劇ですか?」

 

「『梓弓 引けど引かねど 昔より 心は君に 寄りにしものを』

 『白玉か 何ぞと人の 問いしとき 露と答えて 消えなましものを』

 前者は女性の、後者は男性の歌です。いずれも女性の死で終わる話です。

 だが、誰であれ、置いていかれるのは辛いものです」

 

 周囲に皺の刻まれた、黒い瞳は誰を見ていたのか。ブルーグリーンと灰色も、失った人を目裏(まなうら)(のぼ)せた。

 

「しかし、見事に恋が成就する話もあります。

 筒井筒というのは、私のルーツでは、男女の幼馴染を指す慣用句にもなったほどでして。

 要するにですな、もっと文通をお続けになることをお勧めしますよ。

 首尾はどうあれ、人生の宝となるでしょう」

 

 魔術師のものさしは、なかなかに手厳しかった。アレクの恋が実らないこともありうると、そう言ったも同然である。

 

「親としては、実ってもらいたいのですけれど……」

 

「私もそう願っておりますが、恋情というのはまことに難しい。

 日本にはいろいろな古典文学がございましてな。

 この世ならぬ美女に、五人もの貴公子が求愛するのですが、

 彼女はその気がないので、貴重な宝物を持って来た者に応じると答えます。

 誰も贈り物を用意できず、すげなく袖にされてしまう。

 ようやく、君主の求愛に、本当にしぶしぶ了承するのです」

 

「は、はあ……」

 

 ヒルダが言葉を探しあぐねているので、仕方なくミッターマイヤーが相槌を打った。

 

「実は、その姫君は月の国から流罪になった貴人だったのです。

 故郷からの迎えに、君主の求愛も振り捨てて、月へと帰ってしまう。

 地位によって強制したところで、相手の心が伴わなくば、

 より強く高い理由をもって、女性の方に断られてしまう。

 獅子帝ラインハルト陛下の言葉が、月からの迎えとなるか否か。

 それは、大公殿下次第ですからな」

 

 ヒルダとミッターマイヤーは顔を見合わせた。夫人へのプロポーズに、小ぶりの黄色い薔薇を贈ってしまった者と、後朝(きぬぎぬ)に紅白の薔薇を贈った夫と、受けた妻。

 

 前者の花言葉は、笑顔で別れましょう。

 

 後者には二つの意味がある。一つには温かな心。二つ目は和合。意味を知っていたならば、考えうるかぎり最悪の選択である。あれは合意の上と、父親の前で受け渡しをしてしまった。父が、二人とも落ち着いて考えなさいと言うのも無理はない。

 

 しかし、両方とも知らなかったのだ。貴族の因習と馬鹿にしていた事柄に含まれていたので。そのエピソードを聞いたアンネローゼが、倒れそうになったのは言うまでもない。

 

 寵姫の弟として入学した幼年学校には、そういった礼儀作法の授業もあるのだ。テストの対象とはならないし、帝国の改革の野望を抱いていたラインハルトは、耳を素通りさせていただろう。ヒルダと同様に。

 

「どうしましょう……」

 

 途方に暮れるヒルダに、ミッターマイヤーは返すべき言葉を見つけられない。ムライは、咳払いをした。

 

「先日、軍務省にお渡しした本ですが、ヤン夫人のインタビューが含まれていましてね」

 

「ええ、私も拝読しましたわ。よく意味がわからなかったのですが」

 

 ヒルダの首を捻らせたのは、フレデリカ・G・ヤンの言葉の一節だった。

 

『一回目のプロポーズは、軍服のままシンデレラ・リバティの時に。

 二回目は軍服を脱いで、真紅の薔薇と一緒に。

 あの人が、よくも知っていたと思いました。

 きっと、周囲の人の知恵を借りたのでしょうけれど』

 

「ヘル・ムライ、シンデレラ・リバティというのはどういう意味ですの?」

 

 ムライの額に、山脈と峡谷が生まれた。二回目の方だけ注目してくれればよかったのだが。正直に言えるわけがないだろう。その求婚が、ヴァーミリオン会戦の直前の休息時間だったことは。ヤン・ウェンリーは、この戦いが終わったら結婚しようと、フレデリカ・グリーンヒルに申し込んだ。彼女の回答はイエス。

 

 その結果かどうかは余人にはわからない。しかし、一万隻も多い帝国軍を相手に、皇帝ラインハルトを撃破寸前まで追い詰めたというのは事実だ。ムライはもう一度咳払いをした。

 

「それは、本題とは関係ありませんので、今は割愛いたしましょう。

 ヤン提督は、苦手なことを、他人に任せられる度量があったのです。

 恐らく、真紅の薔薇はキャゼルヌ氏やシェーンコップ中将のアドバイスでしょう。

 皇太后陛下は、典礼省とその顧問に、お任せすればいかがですかな?」

 

 ヒルダははたと手を打った。

 

「ヘル・ムライのおっしゃるとおりですね。

 先帝陛下を育てた方に、この際責任を取っていただきましょう」 

 

 ミッターマイヤーは直接的な回答を避けてこう言った。

 

「皇太后陛下。大公殿下は立太子式や戴冠式について、学び始められる時期です。

 その一環となさればよろしいかと存じます」

 

 

 ムライも頷いた。

 

「左様です。将来的には大公殿下ご自身の問題にもなるでしょう。

 憲法改正をお考えならば、皇帝の婚姻や帝位の継承も関わってきます。

 徐々に、知識を蓄積しておかれたほうがよいでしょうな。

 知識は戦力とは違います。頭脳と心にとっての食べ物ですから、

 本人の消化吸収が追いつくように、少しずつ与えた方がよいと考えますよ」

 

 そして、シンデレラ・リバティについては、結局口を濁したまま、ムライは難行を乗り切った。皇太后ヒルダは、外務長官ヤン夫人と親友だから、本人から直接聞けばいいのである。何が馬鹿馬鹿しいといって、他人の惚気を他人に伝達するほど白けるものはない。当事者同士、話をするがよろしかろう。揉んだ眉間の下に、そんな思惑を隠して。

 

「もうひとつ、付け加えさせていただけるなら、

 公爵夫人は娘に自由に生きて欲しいと願っていらっしゃるようです。

 側室を迎えて、跡継ぎとなる男児と、自身の知識を伝達する女児を得たわけです」

 

 またまた、呆気に取られる皇太后と国務尚書だった。

 

「お詳しいですな、ヘル・ムライ……」

 

「これも日系イースタンの物語の一節ですよ。美貌の貴公子が位人身を極め、

 美しい正室を迎えるのですが、なかなか子供に恵まれない。

 彼女は、夫の側室の娘を大事に育てて、帝に嫁ぐような貴婦人にするのです。

 貴族の知恵は、昔も今も、姓の東西も変わらないのでしょうな」

 

「それにしても、アレクの恋心と、どう関係がありますの?」

 

「公爵夫人は、非常に母性的な優しい女性でいらっしゃる。

 カザリン嬢も、よく似た性格ではないのでしょうかな」

 

 くすんだ金色と、やや色の淡くなった蜂蜜が同時に頷いた。

 

「ええ、弟妹を可愛がって世話を焼くこと、まるで母親が三人いるようだと、

 公爵ご自身のお言葉ですわ」

 

 

「カザリン嬢にも、弟妹の世話を通じて、貴族としての子育てを学ばせているのでしょう。

 アレク殿下の求婚を受けても大丈夫なように。

 しかし、父親のほうは、異なる生き方もできるように、

 新領土の知識や、事業家としての手腕も教育しているようですな」

 

 ムライは皇太后を見据えて、静かに言った。

 

「もう、娘にあんな真似は許さないということでしょう。

 人間は守るもののためには、立ち上がり戦いを選ぶようになります。

 何も特別な感情ではなく、普通の人間が当たり前に持つのです。

 最初から天才でなくとも、強くなどなくても、人は変わることができる。

 あの本の少佐のように」

 

 ヒルダも眉間を押さえた。魔術師のものさしは、見えない炭素クリスタルの定規で、彼女の鼻っ面をぴしゃりと叩いたのだ。あの本の少佐ぐらい手強いことも覚悟しろと。

 

「……ありがとうございました、ヘル・ムライ。

 とてもためになるお話をありがとうございました。

 アレクにも、あなたのルーツのお話をしてやってくださいな」

 

「それは、喜んでと申し上げたいのですが、これらの物語の男性は、いわゆる色好みでしてな」

 

「まあ」

 

 口許を押さえて瞬きするヒルダと、無言で鳩尾をさするミッターマイヤーだ。思春期の少年に、同性の大人としては教えにくいというのは、心から納得できる理由だった。

 

「門外漢がお教えするのは、いささか荷が重いと申せましょう。

 ハイネセン記念大学の、超光速通信講座をお勧めいたしますよ。

 比較文化論の見地から教えているのですが、非常にわかりやすく面白い。

 ミズ・キャゼルヌは、いい先生になりましたな。

 しかし、ヤン提督の幽霊は、未だに謎だそうですがね」

 

 そうやって、思いは繋がれていく。時には血縁を超えて、敬愛する人の後ろ姿を追って。 シャルロット・フィリス・キャゼルヌは、あの幽霊が入りたかった学校に進学して、就きたかった職業に就いた。やや、専攻は異なるが。

 

 ほぼ時を同じくして、軍務省官房長フェルナー大将が、なんとか人員をやりくりして取り組んでいた、『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿』の翻訳が一応の完成をみた。

 

 本を渡されてから、半年以上を経過した新帝国暦十七年二月のことだった。

 



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第六章 有害図書愛好委員会

 親愛なるカザリン

 

 バーラト自治領のヘル・ミンツとヘル・アッテンボローが本を出版したんだ。ヤン元帥の弟子と後輩の名将が、今や大学の准教授とジャーナリストなんだから、バーラトというのは凄いところだね。ヘル・アッテンボローは、ほんの四年前は政治家だったのに、全然違う仕事に就いているんだから。これが、職業選択の自由ということだそうだよ。

 

 それにしても、軍人としても、政治家としても、ジャーナリストとしても功績を上げるというのは、ご自身の才能だ。それもまた凄いことだ。メックリンガー大公府総長と、似たタイプだと思う。才能的にはね。性格は全然違う人だったけれど。

 

 本のタイトルは『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿』だ。もちろん、帝国には売られていないけど、母上がちゃっかりヤン夫人にお願いして、二人の著作者から寄贈を受けていたんだ。一年近く前にだよ。

 

 フェルナー大将が大苦労していたのに、それは抜け駆けだと思わないか? これは僕の感想だから、無理に答えを返してくれなくてもいいからね。

 

 僕が読んだのは、軍務省と学芸省とで訳した物だ。大変だったことだろう。正直に言うと、訳がところどころ変で、意味が通らない箇所もあるんだよ。帝国語と旧同盟語は、似ているけれどやはり違う言葉だね。でも、医師の教科書がそれでは困る。あの本を翻訳したペクニッツ公爵とホアナ夫人の凄さがようやく理解できましたと、ご家族にも伝えてください。

 

 それでも、とても面白い本だった。だからこそ、完全な訳で読みたいと思ったよ。あるいは僕がもっと勉強して、旧同盟語をすらすら読めるようになるかだね。どちらもすぐには難しそうだけれど。

 

 ヤン元帥は、沢山の言葉を残した人だから、思いの欠片が伝わるんだ。ご家族を早くに失くされたけど、その言葉もその思いも、周りの人に伝わっていたんだ。羨ましいと思う。

 

父上が心を打ち明けられる人は、故キルヒアイス大公殿下しかいなかったのだろうか。そして、メモを残すような時間はなかったんだね。行動あるのみで、それに向かって仕事に励む、たいへんな働き者だったんだと、ミッターマイヤー国務尚書が教えてくれた。それは寂しかったからかもしれないと、最近思う。

 

 ヤン元帥はサボりの常習犯で、あのキャゼルヌ事務総長に怒られながら仕事をして、それでも手を抜いていたんだそうだ。……それもすごいことだ。僕には無理だ。きっと震え上がって仕事をするだろうな。でも、そんな時間に書かれた膨大なメモが遺されているから、彼の死後まで考えを残せたのだろう。それをまとめるのが、ヘル・ミンツの次の目標だそうです。

 

 僕も、更に旧同盟公用語の勉強をして、その本は原文で読めるようになりたいと思っている。その頃には、帝都でもバーラトの本が自由に売買できるようにしたい。もちろん、旧都でも。

 

 僕がそう言ったら、買い手がつくかが問題でもあるらしい。商売というなら、そちらも考えないといけないんだね。超光速通信(FTL)によるデータ配信だと、内容を変更されてしまうかもしれないから、紙の本による流通を選択したんだそうだ。半面、輸送費がかかるので、売れないと損をしてしまう。なるほどと思わされた。

 

 こちらはヘル・アッテンボローの言葉だ。

 

『帝国と旧同盟は百五十年も戦争を続けました。その遺恨が十分の一で消え去るとは思えません。

 今の赤ん坊が大人になったころならば、この本が帝国本土でも売れるかもしれませんが、

 まだ当分は無理でしょう。あの戦争が、時の流れに熱を冷まし、血の色を薄れさせるまでは』

 

 そっくり同じことが、新領土やバーラト自治領でも言えるんだ。それでも平和が保たれている意味を、よく考えていきたい。

 

 アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム

 

 

 そして、こちらがフェリックスが見せられた返信だった。

 

 

 親愛なる大公アレク殿下

 

 最初に、父と夫人の翻訳へのお褒めのお言葉に、お礼を申し上げたいと思います。双方とも、とても光栄に存じております。しかし、ホアナ夫人はこうも申しました。教科書は誰にもわかるような言葉で書かれているから、文学作品を訳するのとは難しさが違っておりますと。

 

 そして、父はこう申しました。

 

「人の心は、国を変えても、そう大きな違いはないものだ。

 誰しも豊かに、幸福に生きたいだろう。そして、子どもには幸せになってほしい。

 そのためにも、平和で、争いのない国に生きたい。

 それが叶わないから、人は悩み、苦しんで、心にも怪我をするんだ。怪我にもいろいろある。

 すぐに治るものもあれば、治るまで長い年月を要するものもある。

 だが、ゴールデンバウム王朝は心に怪我をするな、

 怪我をした者は役立たずだと切り捨ててきた。

 先帝陛下と皇太后陛下が、それを改めてくださったんだ。

 その恩義をわずかなりともお返しできればいいが。

 まあ、これは結果論になるな。あの頃の私は、それどころではなかったよ」

 

 わたくしにも、うっすらとした記憶がございます。助けの手を差し伸べてくださった、皇太后陛下と大公妃殿下に、改めてお礼をさせていただきたいと思いました。

 

 それにしても、軍務省のお仕事というのは、本当に多岐にわたるのですね。父の友人には大公府にお勤めされている方が何人かいますが、新銀河帝国になってからの変化には、目を瞠るものがあるとのことです。

 

 たとえば、空き家になっていた貴族の屋敷の一つを、テイラー・コモリ社が買い取りました。半分は帝国の服飾を研究、展示する博物館に、残りの半分をホテルにしました。ホテルの従業員の手配も、父たちの会社が手がけることになりました。かなりの雇用が期待できそうだとのことです。

 

 もうひとつ、庭師の方たちにも、新しい職を生むことになりました。生垣や木々の手入れに、季節の花の植え替えなど、空き家には欠かせないものです。組合で若い庭師を教育していますが、組合の顧問はミッターマイヤー国務尚書閣下のお父上です。本当にお元気で、誰よりも見事な手さばきで庭木の刈り込みの指導をなさっているのを、わたくしもお見かけして驚きました。

 

 ミッターマイヤー国務尚書閣下の灰色の瞳は、お父上譲りなのですね。お顔もよく似ておいででしたから、すぐにわかりました。大貴族の庭木は珍しい品種が多いので、若い者には任せておけないと、大いに張り切っておいででしたわ。コモリ社の方は恐縮しきりになったそうですが。

 

 痛んでいた内装やカーテンや家具も、帝国の伝統的な方法で綺麗に生まれ変わりました。伝統の様式による建築は、最近はすっかり数が減り、ひさびさに腕の奮い甲斐のある仕事だったと、職人もみな大喜びしておりました。

 

 そして、祖母や母が大事にしていたドレスも、研究用にお貸しすることになりました。伝統を生かしながら、もっと軽く、着心地良い服が作れないものかと研究するそうです。なによりも、祖母のドレスのレースや刺繍を作れる職人を育てたいと言ってくださいました。帝国本土の人の手の技を、フェザーンや新領土の人が認めてくださるのです。

 

 人が何を美しいと思うのかは、星の海の彼方でも変わりはないのでしょうか。わたくしがそう申し上げましたら、ヘル・コモリは笑って頷かれました。

 

 どんな人が美しいと思われるのか、時や場所に大きな違いはないのだと。美しい人が、貴重な存在であることも変わらず、それに近づくために装う。手の込んだレースや刺繍、金襴の布は、特に人を美しく見せてくれる素材だとおっしゃいました。そんな素材を作るための手間が、価値を高めるからで、絶えさせるのはあまりに惜しいと。

 

 また、こうもおっしゃいました。オーディーンは、宇宙有数の時間と手間を掛けられた惑星。大人が何人も手を繋がないと囲めないような太い幹をした木は、帝都や新領土にはないのですと。

 

 わたくしが、当たり前のように見ていた木々も、アレク殿下がお住まいの帝都には、珍しいものでしたのね。自分が当たり前と思うものが、そうではないことを知りました。ミッターマイヤー国務尚書閣下のお父上が、丹精して下さる理由の一つなのでしょう。

 

「このまま平和が続けば、オーディーンの歴史と美観は国の宝になるはずですよ。

 貴族の屋敷を朽ちさせるのは、あまりに惜しい。

 しかし、仇敵の資産だったものを国費で保護せよとは、一足飛びには行きますまいて。

 千光年単位の跳躍航法が早く実現するといいのですがね。

 フェザーンや新領土の者ならば、高級ホテルや別荘にしたいと思うことでしょう」

 

 わたくしは驚きました。オーディーンは、かの地にとっては敵国の中枢のはずです。

 

「我々、フェザーンは百年前に、旧同盟は二百年前に帝国から飛び出した者の子孫です。

 その間の帝国の国内政治について、我々には非難する権利はないでしょう。

 オーディーンの建築物は、帝国本土の平民にとっては搾取の産物です。

 まあ、そう思っている。実際は、普請に動員された平民にも報酬が出ているでしょうに。

 作業員は必ず飲み食いをします。すると、それを売る食料品店にも金が回るんです。

 昨今のように、節約節約では経済が萎縮して、余計に貧乏になってしまうんですよ」

 

 これも思いがけない言葉でした。経済に携わる方の意見は、貴族の者には考えてもみなかったことばかりです。

 

「私もオーディーンで、かなり市場を開拓させてもらいました。

 多少はそれを還元する意味でもありますし、なにより憧れますよ。

 集中した富が生み出す豪奢な美というのは、新領土にもバーラトにもほとんど存在しません。

 五百年近い時の蓄積があるものは、何一つないといっていい。

 そういう文化を、羨む気持ちはあるのです。このホテルは半分道楽のつもりでしたが、

 オーディーンに来るデザイナー連中が、我もと泊りたがる。需要はあるのです。

 千光年単位の跳躍が可能なら、フェザーンから一週間、バーラトからでも十日間。

 素晴らしいでしょう?」

 

 

 そんな研究が進んでいるとは存じませんでした。オーディーンからフェザーンまで、一週間で行ける日がきたら、なんて素敵なことでしょうか。

 

 カザリン・ケートヘン・フォン・ペクニッツ

 

 

 読んだ少年たちは、色合いの異なる青を互いの顔に向けた。

 

「ねえ、フェリク、この手紙どう思う?」

 

「正直に言ってもいいでしょうか」

 

「ぜひ頼むよ」

 

「ペクニッツ公が、ローエングラム王朝賞賛と同時に、

 フロイラインの手紙越しに牽制をかけてきたんだと思われます」

 

「僕も同感だ」

 

 長い睫毛を伏せて、アレクは溜息をついた。こうすると、大公妃アンネローゼにそっくりな美少年なのだが。

 

「大変高度な社交辞令だと思わないか。これが貴族の伝統の社交術なんだね。

 ロイエンタール元帥もこういう育ち方をしてたのなら、

 短気で情緒に欠けたタイプとは相容れないだろう。フェリクはどう思う?」

 

 短気者の息子は悪戯っぽい笑いを浮かべた。この表情の豊かさが、彼の美貌に紗を掛けているのかもしれない。

 

「そちらにつきましては言葉を差し控えたいと存じます」

 

「何にしても、フェリクのお祖父さんもお元気でよかったね」

 

「ほんとうにもう、何をやってるんだろうか。迷惑になってるんじゃないかなあ。

 でもわかりました。祖父が見かけた花の女神は、フロイライン・ペクニッツだったのか……。

 ついにお迎えが来たかと思ったそうです」

 

 

「それは、大丈夫なのかい?」

 

 アレクは形の良い眉を寄せた。フェリックスは眉を下げ、首を振った。いっそ、引退をしてくれればよかったのだが、完全に逆効果だった。

 

「大張り切りで若手をしごいているらしいんです。おかげで、祖母の機嫌が悪くなりました。

 綺麗な女の子に鼻の下を伸ばして、年甲斐もないって」

 

「それにしても、お二人とも、こちらに来るつもりはないのかな」

 

「父も何度も勧めているけど、住み慣れた家や家具がいいし、

 もし家ごと引っ越しができたとしても、友人知人はオーディーンに残る。

 そして、フェザーンでは仕事もできないと」

 

「国務尚書のお父さんを、庭師として雇う人はいないと思うけれど。

 むしろ、オーディーンでお仕事をしているほうが、僕には驚きだな」

 

「昔からの付き合いの建築事務所の新規事業に、押しかけたみたいです。

 そこの創業者とはずっと仕事仲間で、孫の現所長さんには断りきれなかったようで……。

 でも、さすがに帝都ではそうはいかないし、手入れする庭も貧弱なのに、

 どうやって毎日を過ごすんだと、そう言われるとなかなかです」

 

 新帝国の首脳部は、身軽な若い世代が多かった。だから、皇帝ラインハルトの翼についていけた。しかし、時は流れ、フェザーンに根を下ろすと、容易には飛び立てなくなる。オーディーンに住んでいる、アレクやフェリックスの親や祖父母の世代はなおさらだった。

 

「実は爵位貴族もそうなんだ。みんな、オーディーンに家を持つ人だよ。

 七つの園遊会の時に、何人かの貴族の子に、僕の学友にならないかと打診をしたらしい。

 でも、みんなに断られた。前の王朝なら断られること自体ありえないけれど、

 貴族にもお金がないから、子ども一人を別の星で生活させることはできない。

 では、その費用を皇室が持つのか。周囲から憎悪を買うので、お受けできないとね」

 

「そうだったんですか。申し訳ありません、アレク殿下。全然知りませんでした」

 

 豪奢な金髪が左右に振られる。アレクの表情はさばさばしたものだった。

 

「僕も最近になって知ったんだ。バーラトにはオーディーンからでも留学するのに、

 フェザーンに来る貴族の学生が少ないなって、そういう話になってね。

 ゼーフェルト尚書が教えてくれた。

 ここにも学校を作り、いい教師や設備もそろえた。

 でも、軍人や役人の師弟の中に、いじめられるのを覚悟で進学するのは難しい。

 あちらには言葉の壁があるが、そんなに差別はされないそうだよ」

 

「あの国こそ帝国が敵だったはずなのに、なぜでしょうか」

 

「『内政不干渉』だよ。カザリンの手紙にも書いてあるように、

 二百年前に帝国を飛び出して、新たな国を築いたのが新領土の人たちだ。

 百五十年戦争は、自国を守るためのものであり、帝国大侵攻は誤りだった。

 そして外国となった、銀河帝国の国内政治に口をはさむ権利はないって。

 法に触れぬ範囲で、互いに提言や折衝を行い、平和を保ちましょう。

 貴族でも平民でも、バーラト星系内にいる外国人として等しく扱いますというのが、

 あちらの公式見解だ。それに、亡命者だった人が大勢いるからね。

 名字や貴族号でいちいち詮索されないそうだ。学業成績がすべてなんだって」

 

 アレクは肩を竦めた。

 

「学校のレベルは高いし、言葉や文化の壁もあるけれど、貴族にとって、どちらが楽だろうか」

 

「アレク殿下……」

 

 海色の瞳が本棚の一角に注がれた。アレクは読書家だった。宇宙にただ二人の、皇帝ラインハルトの血を引く者。彼が出歩くには、テロに最大級の警戒をしなくてはならない。学校の帰りに寄り道をして、裏町に迷い込む自由さえない。だからアレクは、書物の中で心の翼を羽ばたかせた。奇しくも、その本のタイトルとなった青年のように。

 

「フェリク、よかったらこの本を読んでくれないか。

 君の幸運の星が言ってたことが書いてある本だ。

 君の選んだ道の参考にもなるかもしれないよ。

 この人も、お父さんとは全然違う道を選んだんだ。

 ただし、学校には持ち込まないように」

 

「ちょっとお待ちください、殿下。この本は……」

 

 裏返った声になったフェリックスに、アレクは愛嬌たっぷりに片目をつぶってみせた。その表情筋の器用さは、ある人物を容易に連想させて、フェリックスを震撼させた。

 

「もしかして……知ってる?」

 

 口に出された言葉はないが、小粋に竦められた肩が回答だった。時と場所を超えて、有害図書愛好委員会が誕生する。アレクに渡された本が、フェリックスにも波紋を投げかけていく。

 

 『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿』は非常に面白い内容だった。訳の意味が通らない部分も散見されるが、宇宙屈指の名将の若き日が活写されていた。

 

 エル・ファシルの脱出行の後、軍部やマスコミにもみくちゃにされ、退役しようかとこぼしたこと。それを引きとめたアレックス・キャゼルヌはこう述べていた。

 

『最初は芸能界に引っ張りだこになり、次は政界に引きずり込まれる。

 だから、退役するのはやめておけと慰留したのが、私の一生の後悔だ。

 彼が政治家として歩んでいたら、アスターテの会戦自体が起こらなかったのではないか。

 あれもまた、政権支持率を上げるために、ダゴンの会戦を再現しようとした無益な出兵だった。

 エル・ファシルの英雄ヤン・ウェンリーが、国防委員会の議案に待ったをかければ、

 おそらく最高委員会は通らなかっただろう。当然、イゼルローンも帝国の要塞のまま、

 アムリッツァの大敗も起きなかったかもしれない。

 さらに百年も戦争が続いたかも知れないが、

 私は大事な友人を、たった一人で死なせることにはならなかったのだ』

 

 その思いからか、イゼルローン要塞返還時には『雷神の槌(トゥール・ハンマー)』に数倍する威力の、言葉の剣が繰り出されたという。同じく、この本を読んだ運輸労働尚書のアウグスト・ザムエル・ワーレンの言葉だった。

 

「しかし、あの一言で目が覚めた。我々は先帝陛下に従い、全てを委ねてきた。

 それを妻子だからという理由だけで、皇太后陛下と大公殿下に押し付けるのか。

 現場の専門家として、意見を提示する義務があると。

 実に手痛い教訓だった。我々は確かに先帝陛下を絶対と仰いできた。

 そうではない者、もっと冷静に陛下に接していた者に、隔意を抱いていたのだろう。

 オーベルシュタイン元帥や、ロイエンタール元帥のような。

 そういった資質こそが、国政を支える重要事と意識してはいなかった。

 戦争という手段に慣れすぎていた、我らすべての病根だろうな。

 だから、ヤン元帥は講和を望んだのだろう」

 

 硬い左の義手が、出来うるかぎりの丁寧さで、訳文を綴ったファイルを携えていた。アレックス・キャゼルのインタビューは、こう結ばれていた。

 

『だが、たらればもしもの仮定など、彼は無意味と言うだろう。

 歴史にもしもはない、というのが、ヤン・ウェンリーの口癖だった。

 彼のいない平和な世界を、私の生あるかぎりは存続させて、

 あの世とやらで再会するときには、せいぜい悔しがらせてやるつもりだ。

 シェーンコップ中将ではないが、百五十歳まで生きてからだがね』

 

 対等で、友情と皮肉が()い交ぜになった、飾らぬ言葉。こんなことを父に言える人は誰もいないのだ。アレクはラインハルトの孤独を思った。

 

 だが、それは父にも問題はなかったのか。どうして、無二の親友を失うことになったのだろうか。キルヒアイス大公と伯母を大事に思うあまり、他者への天秤は著しく軽くはなかったのか。帝国においては、命の重さは身分によって違う。

 

 でも、命の数は、一人につきただ一つ。皇帝でも平民でも何ら違いはない。姉を奪われて、権力の不公平に憤った少年が、その座に立つとそれを当り前と感じる。帝政とはなんだろうか。絶対的な権力を、ただ一人に任せていいのか。五百年分の疑問は尽きない。

 

 父の輝かしい業績は、幼い頃から何度も聞き、教師からも教えられた。その相手として、必ずと言っていいほど顔を出すのが、黒い髪と黒い瞳の敵将だった。幼い日に、イゼルローンで出会った優しい幽霊。彼は、色々な情報を集めて、公平な視点から物事を考えることを教えてくれた。亜麻色の髪の青年が、金髪の子どもに伝えてくれたことだ。

 

 アレクは、ラインハルトの功績について、様々な文献を熱心に読み漁った。ヤン・ウェンリーが存命ならば、さぞ羨ましがったことだろう。その髪には霜が降り始め、もはや黒髪ではなくなっていたかもしれないが。金髪の少年は、彼の思考法を真似してみようと思ったのだ。



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第七章 筒井筒

 その資料として、『ヤン少佐の事件簿』はうってつけの入門書だった。読み物としても純粋に面白く、何度も読み返すうちに、ヤンを取り巻いた人々のインタビューや、帝国と同盟を結んだ諜報の糸、それを解きほぐそうとした老大佐と若き少佐の物語以外の部分にも、目がいくようになる。

 

 たとえば、参考文献として掲載されていた数多くの本の題名。その一冊が『無実で殺された人々』。タイトルに興味を惹かれて、内容に衝撃を受ける。旧同盟の迂遠と言われた裁判は、このことへの反省だったのか。事件のでっちあげと、暴力による無実の罪の自白の強要。そして処刑台に消えた人々。リヒテンラーデ一門の処断と同質だ。

 

 そして、それに関わったオスカー・フォン・ロイエンタールだからこそ知っていたはずだ。皇帝の怒りを買うことが、死罪と直結していることを。黄金とミルクチョコレートは、頭を寄せ合うようにして、その本を読み進めた。しかし、法の過ちを国民の手によって改めるシステムがある。それが共和民主制の利点。憲法とは、国家が国民に対して行う約束。

 

 旧自由惑星同盟憲章に、書かれていた条文。

 

『何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない』

 

 立憲君主制とは、皇帝でも憲法を守ることだ。全ての法を超越することはない。法の下に、皇帝にでも『おまえは間違っている』と言えるのだ。

 

 アレクとフェリックスの勉強会は、時に脱線しながら続いて行く。

 

「『婚姻は、両者の合意のみに基づいて成立し、両者が同等の権利を有することを基本として、

 相互の協力により、維持されなければならない』かあ……。

 それを旧同盟では憲法にしてあったんだね。でもなんで憲法にしてあるんだろう」

 

「アレク殿下、憲法は法律の最上位なんです。

 立憲君主制では、皇帝でも守らなくてはいけないということなんです」

 

 アレクは形の良い手に、白磁の頬を託した。

 

「要するに、相手がいやって言ったら、皇帝陛下でも駄目ってことなんだ……?」

 

「そのとおりです。あと、『両者』となっているでしょう。

 これは、旧同盟では同性婚を認めていたからだそうです」

 

 海色の眼が、まじまじと親友を見つめた。

 

「ほら、ゴールデンバウム王朝からのアンチテーゼから出発した国だったわけです。

 大帝ルドルフが弾圧した人たちには、同性愛者も含まれていたから」

 

「ええと、たしか、ゴールデンバウム王朝の皇帝にもそういう人はいたね。

 父上はその時代に生まれなくて、よかったんだろうなあ……。

 そうしたら、伯母上が立ち上がったんだろうか?」 

 

 この問題発言を、フェリックスは黙殺することにした。歴史にもしもはないのだ。

 

「認められていても、とても少ないそうですよ。

 大多数の人は異性を愛するのですし、ただでさえ選択肢が少ない中から、

 結婚したい相手を見つけるのは、ものすごく難しいんだそうです」

 

「そうだよね。なかなか、帝都にいる軍人や役人のお嫁さんも見つからないし。

 父上の下には、若い人材が集まったから、年頃の娘さんがいる人がいないんだ」

 

「軍部で一番年長だったのは、ケスラー警察尚書でしたよね」

 

 少年らは顔を見合わせた。彼の夫人マリーカは、つい先日まで七元帥の夫人の最年少であった。なにしろ、二十一歳差である。ヤン元帥の妻の座を狙っていたという、シャルロット・フィリス・キャゼルヌと二歳の差しかない。現在は、ビッテンフェルト夫人のエルヴィラが最年少になったが、夫との年齢差は、ケスラー夫妻を下回る。つまり、上官が部下に縁談を紹介する状況ではなかった。

 

 アイゼナッハ家には三人の令嬢がいたが、上の二人は学者や技術者に嫁いだ。末娘はオーディーン大学院に在学中で、宇宙船の機関工学を学んでいる。現役尚書の娘を、部下が妻にするというのも難しいのだ。帝国首脳部の中で、閨閥ができてしまう。これは貴族号を持つ者の知恵だったが、そこまでは少年たちに理解が及ぶものではなかった。

 

 しかし難題であろうことは、容易に想像がつく。アレクは黄金の頭を振った。

 

「僕は僕で精一杯だから、そちらは大人に任せよう。

 『すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、

 社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない』

 これを制定してプロポーズすればいけるかと思っていたけど、そっちがあったのか……」 

 

「即位してプロポーズ、結婚してから憲法制定の順にすればどうですか?」

 

「僕だって、何回も考えたよ。でも、それはフリードリヒ四世と何も変わらない。

 揺り籠の彼女を、帝位に就けた父上とも何が違うのか」

 

「アレク殿下!」

 

「そんなことをしたら、彼女はぼくの伯母上と同じになる。

 だれも対等の存在、皇妃だとは思わない」

 

 静かな口調は変わらなかった。いつも穏やかな一歳下の親友に、フェリックスは圧倒された。アレクサンデル・ジークフリードは、間違いなく獅子の息子だった

 

「父上の宇宙統一は、誰にも否定できない偉業だ。しかし、その全てが正しかったのか。

 ゴールデンバウム王朝の不公平や腐敗もまた、否定できないことだ。

 しかし、その全てが悪だったのか。

 人は生まれる場所を選べないのに、その血を持つだけで否定されるのか。

 あるいは、その血を持つだけで、尊ばれ帝位に就くのか。同じ問題の裏表だよ」

 

 しかし、その瞳は距離の彼方ではなく、時と人の織り成す世界の広がりを見つめていた。

 

「腐敗したゴールデンバウム王朝最後の皇帝、旧同盟に大侵攻せよと命を下したのは、

 カザリン・ケートヘン・フォン・ゴールデンバウムだった。

 宇宙を統一した皇帝ラインハルト、その後継者たる平和の統治者、

 皇太后ヒルダと大公アレクに、この身はふさわしくない。

 それが、ぼくが振られた本当の理由だ。ようやく、母上が教えてくれた。

 たった十歳の女の子に、そんなことを言わせるのは勇気じゃない。絶望だ」

 

 それはフェリックスの実母に実父を襲撃させたもの。実父を皇帝に叛かせたものかも知れない。

 

「こういうことを防げるのが、憲法なんだ。

 だから、彼女に求愛するより憲法制定が先だよ。それだけじゃない。

 平民を解放し、平等な社会を目指したはずだったのに、貴族への差別が始まっている。

 貴族に仕えていた人たちへも。

 そして、リップシュタット戦役の貴族連合側の遺族への差別がある。

 ちょっと前まで、自分たちが苦しめられていた仕返しをしているんだ。

 父上と同じように。どこかで連鎖を断たないといけないんだよ」

 

 フェリックスは、息を呑んでから、ようやく口を開いた。

 

「それを、目指すのですか。大公アレク殿下」

 

「宇宙の中で、僕にしかできない。そして、君にしか。

 皇帝ラインハルトの息子と、帝国の双璧の息子である僕らがやらなければいけない。

 今の宇宙で最も人を殺した者の息子たちの義務だ。

 なのに、その血によって優遇を受けている、ね。

 僕達は、ゴールデンバウム王朝の皇帝や、門閥貴族となにが違うだろうか」

 

「……違わないでしょう。精々、僕の父が爵位を持たないぐらいです」

 

「そういうことを、きちんと言ってくれる君でよかった。

 立憲君主制への移行は、いくら賢君であっても、摂政皇太后の母上にはできないんだ。

 幼少の僕を差し置いて、国家を壟断(ろうだん)したと言われてしまう。

 父上の熱烈な支持者たちが、どう動くかわかったものではないだろう。

 軍部には、まだ沢山いるのだから」 

 

 海の色の奥に、蓄えられていた膨大な質量。 フェリックスの親友は、素直で温厚で、わがままをほとんど言わない子だった。帝国の首脳部の中には、おとなしすぎるのではないか、帝国を背負っていけるのかと、危惧する声も囁かれていたほどで、それはフェリックスにも聞こえていた。

 

 

 だが、憤慨するよりも頷く気持ちの方が大きかった。優しく、愛情深い、あたりまえの少年。圧倒的なカリスマを持っていたという、先帝ラインハルトと比べれば、物足りなく思うのは仕方がない。でも、みんなの心を慮り、自分の我をとおさないというのは素晴らしいことではないのか。その逆であった、ゴールデンバウム歴代の暴君が何人いたことだろう。先帝陛下だって、持ち得なかった美点だとフェリックスは思っていた。

 

 だが、それは事実の一部に過ぎなかった。アレクの理想は、先へ先へと飛翔するものではなかった。この統一された宇宙を満たしていくもの。遥か遠い夢、皆が幸福になるための意志。その夢を見るものではなく、叶えるものにしようとしている。

 

 アレクはフェリックスの手を握った。

 

「たしかに、建前なんだ。

 旧同盟だって、差別撤廃を掲げても、亡命者への白眼視はなくならなかったと聞いている。

 でも、法に謳われているから、差別は不当で恥ずべきことなんだと世論を導いていける。

 僕と君だからできることなんだ。君にはリヒテンラーデの一族の血も流れてる。

 皇帝ラインハルトの真の功臣だった、ロイエンタール元帥の血と共に。

 その君を帝国の至宝が育てた。君は新旧の銀河帝国宥和の象徴になれる。

 これが、君をカザリンが振った本当の理由。ペクニッツ家の婿にはもったいないって。

 ミッターマイヤー国務尚書が、教えてくれた」

 

 フェリックスは、その手を呆然と握り返した。

 

「それも、フロイライン・ペクニッツが十歳の時に?」

 

 豪奢な金髪が頷いた。

 

「そうだよ。そして彼女にもリヒテンラーデの血が流れている。だから彼女でないと駄目なんだ」

 

 差別と憎しみの連鎖を断ち切る、宥和の強い意志を内外に伝える、これ以上ない切札。皇帝アレクサンデルと女帝カザリン・ケートヘンの結婚。ゴールデンバウムと共にリヒテンラーデの血を引く彼女は、先帝ラインハルトに冠を譲ったのだ。その冠の後継者が、かつての女帝を伴侶にする。

 

「そんなものなくたって、なんて僕は言わないよ。

 血の枷がカザリンを形作ったんだから。

 僕が大公アレクでなければ、僕になれなかったように。

 フェリックスが、フェリックスであるように」

 

 人は自分以外の何物にもなれないのだから。それは、オリビエ・ポプランにも言われた言葉だ。この一歳下の友は、それをいつから悟っていたのか。始めての失恋の時から、繰り返し、繰り返し、考え続けてきたのだろうか。

 

「アレク、いいえ大公アレク殿下。

 私は、あなたの友と選ばれた幸運を、先帝陛下に感謝します。

 そして、あなたがこれまで友として下さっていたことにも。

 これからも友と呼んでくださるのならば、私の友情と忠誠は生涯あなたのものです」

 

「それを聞くと複雑だな。カザリンが七つの時の僕を振ったのと似た台詞だから。

 だから、君はいつだって君の思うままにしてほしい。

 僕が馬鹿げた真似をしたら、見限ってくれても構わないよ」

 

 深い海色の瞳は、彼の伯母を思わせるものだった。

 

「でもありがとう、フェリックス。僕と一緒に行こう。みんながより幸せになる未来へ」

 

「憲法の制定は、厳しい道程になるでしょう。

 それでも断られてしまったら、どうなさるんですか」

 

 フェリックスが冗談めかして言うと、アレクは音楽的な笑い声を上げた。

 

「でも、思想の自由も憲法に含まれるんだろう?

 僕が好きだと思う事も、諦めない事も、僕の自由なんだから。

 先の女帝陛下だってどうにもできないんだ」

 

 そんなことを言う未来の皇帝陛下に、法学生の指摘が入る。

 

「フロイライン・ペクニッツにも同じことが言えますが」

 

「ああ、そうか。ままならないものだね。平等っていうのはそういうことなんだ。

 でも血のしがらみを法で解いたのなら、彼女の心も変わるかもしれない。

 すべてはそれからだ。よく考えていかないとね」

 

 相変わらず前向きな親友に、フェリックスは苦笑した。そして、励ましの言葉を贈る。

 

「でもアレク殿下、いいこともあるんですよ。

 憲法に定められているのは、こういう意味でもあります。

 殿下とフロイライン・ペクニッツが結婚したいとなったら、誰にも邪魔することはできない」

 

「なるほどね。法律は本当に奥深い。いいことを教えてくれてありがとう。

 君が僕の友であることも、これ以上ない幸運だ」

 

 

 そして、彼は、未来を目指して勉学に励むのだった。惚れた相手と結婚できなかった皇子さまなど、おとぎ話には存在しない。そう言いながら。

 

 新帝国暦十九年五月十四日、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは、立太子して皇太子となる。同日、皇太子アレクサンデルの名において、新銀河帝国憲法制定会議が招集される。会議には新銀河帝国の閣僚が名を連ねた。なお、第三者による諮問機関も設置された。

 

 主たる参加者は、立憲君主制の提唱者である、ハイネセン記念大学教授ユリアン・ミンツ。

 

 バーラト星系共和自治政府のフレデリカ・G・ヤン外務長官。同次官カーテローゼ・V・C・ミンツ。

 

 前者は、かつてのイゼルローン共和政府の主席であり、旧自由惑星同盟憲章の全条文を諳んじていると言われた。後者は帝国からの亡命者であり、二つの国家の違いに翻弄された母を持つ身だった。その母譲りの貴族的な帝国語と、帝国の女性が受けていた教育が、いかに不十分なものかという知識があった。

 

 さらには、同政府の帝都駐留事務所次長のベルンハルト・フォン・メルカッツが通訳として加わる。旧銀河帝国と、旧同盟を知る者。亡き妻の悲嘆を胸に秘めて、その名を継いだ名将を支えた副官として、素晴らしい調整能力を発揮したのである。

 

 バーラト自治領の協力を仰いだのには理由があった。憲法制定後に行われる、議会の設置に知識が必要であったからだ。第一回新銀河帝国議会総選挙が、星の海を越えて行われる。五百年以上の時を経て、銀河連邦の制度が復活する。立憲君主制と共存のうえで。ルドルフ・ゴールデンバウムに弾圧され、銀河帝国から消えた知識が、逃亡者たる旧自由惑星同盟の中心だった場所に残されていた。

 

 時の流れにも朽ちぬ、黄金の種子のように。

 

 

 親愛なるカザリン

 

 憲法の制定を目指して、僕は勉強をしています。君が教えてくれた、雨上がりにやってきた幸運の使者と一緒にね。彼の実の父上は、雷鳴の中、助けを求めて飛び込んできたらしい。囚われの友人――それがミッターマイヤー国務尚書なんだけど――を助けて欲しいと、僕の父とキルヒアイス大公のところに。

 

 あの頃は、法律が貴族の好き勝手にされていたし、身分の格差もひどいものだったそうだ。今なら考えられないが、今だって身分は公平ではない。それを完全になくすのは、皇帝が皇帝として特別扱いされているうちは、不可能ではないだろうか。ただ、一気に進めればいいというものではないと思う。帝国本土は五百年近く、その仕組みで国を動かしてきたのだしね。

 

 それにしても、法律とは難しい。反面、面白くもある。考えてみれば、社会の揉め事をうまく解決するための仕組みなんだから、揉め事や決まりごとの種類だけ必要なんだね。

 

 例えば、旧同盟の憲法で、『すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない』という条文があるんだ。

 

 一方、『思想の自由』という条文もある。法の下では平等だが、差別意識を持つことまでは、憲法をもってしても規制できないということになるんだろうね。ただ、法律に平等を定めれば、そんな意識を持つなんて、恥ずべき事だと言えるようになる。

 

 そして、思うのは自由だが、『言論の自由』には、言論による名誉毀損を罰する刑法があった。これはとても面白い。本音と建前を法律で保証しているようなものじゃないのか? 口に出すことは、よく考えなければいけないと、そういう事になるんだろう。

 

 これもヘル・ミンツから教えてもらったヤン元帥の言葉だが、『言葉は大切に使いなさい。確かに、言葉では伝えきれない事がある。しかし、それは言葉を尽くして、はじめて言えることだ』と。

 

 その言葉を思い出す。彼は戦争ではなく、対話をしたかったんだろうね。第七次イゼルローン攻略も、講和の糸口になると思っていたそうだから。ああ、だから、あの時僕らの前に姿を現してくれたのかもしれない。僕が準備を進めている立憲君主制への移行も、ヘル・ミンツが父上に提言をしたものだ。古い古い政治形態で、千数百年は前のものなんだとか。もちろん、歴史が好きだった黒髪の魔術師の、ベレーの中から飛び出した発想だ。

 

 彼は歴史が好きだった。君が女帝として擁立された時に、幕僚らに女帝の意味を教えてくれたんだそうだ。男子相続とは、創始者のY遺伝子を伝えると言う意味がある。女帝の息子は夫のY遺伝子を受け継ぐから、王朝が交代することになる。貴族連合が滅んで、ゴールデンバウムの血を引く男性はもういない。女帝の夫となるべき相手がいないのだから、ゴールデンバウム王朝は、もう終わりだということだと。

 

 この言葉を、ヘル・ムライからうかがって、僕は愕然とした。君が、幼かった僕の求愛を先々帝という理由で拒んだのは、このこともあったのかと。そして、大公妃殿下が結婚をせず、僕の養育に専念をされたのも同じ理由だったのだろう。もしも伯母上の息子が帝位を継いだら、それはローエングラム王朝ではないんだ。

 

 女帝の即位を進言したのは、地球教のテロで亡くなった、初代軍務尚書のパウル・フォン・オーベルシュタイン元帥だったという。彼は、生まれつき眼球がなくて、義眼をしていたのだそうだ。その障害による差別を受け、ゴールデンバウム王朝を激しく憎んでいたという。

 

 彼が、進言したのは君の即位だけではなかった。リップシュタット戦役末期、ヴェスターラントの虐殺の放置。その後に起こったキルヒアイス大公殿下の死と父の暗殺未遂。犯人は、リヒテンラーデ候だと父に伝え、その一門を処罰した。オーベルシュタイン元帥には、皇帝にナンバー2は不要だという持論があったそうだ。

 

 当時のことを調べていくうちに、僕はこれだと確信した。皇帝ラインハルトの孤独の原因。なぜ、あそこまで戦いに自らを駆り立てたのか。父の周囲から、対等な存在を削り取り、孤高の絶対者に押し上げる。

 

 オーベルシュタイン元帥は、能吏であり、謀臣であったという。ゴールデンバウム王朝を激しく憎悪した彼は、皇帝という存在自体を憎んではいなかったのだろうか。父を皇帝にする一方で、正義の絶対者とさせないように、打ち込んだ楔、掛けられた呪いではないのか。無二の親友の命、最愛の姉の心を代償にした。

 

 オーベルシュタイン元帥のせいだと言うのは簡単だ。しかし、そっくりそのまま、こうも言うことができる。その進言を容れたのは、皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムだと。

 

 ――だれか一人のせいにしてしまえるという点で、最良の専制も、最悪の民主制に劣る。

 

 これもまた、ヤン元帥の言葉だ。バーミリオン会戦の直後、停戦の会談で彼は父に語ったのだという。まさに、この問題の本質を衝いている。敵国にいた彼は、もちろんヴェスターラントの虐殺のことも、キルヒアイス大公の死の詳しい状況も、リヒテンラーデ候一門の処断も知らなかった。そんなことを知らなくても、彼は、歴史上の事実から専制政治の難しさや恐ろしさを学び、共和民主制が生まれていった過程を知っていた。

 

 ルドルフ・ゴールデンバウムを始めとする思想の弾圧で、帝国からは消えてしまった歴史。そして、劣悪遺伝子排除法の実質的な廃止で、徐々に意味を薄れさせていった男子相続。僕の父も、母も、新帝国の主要な人物も誰一人知らなかったことだ。そして、誰も過去から学ぼうとは思わなかった。たぶん、オーベルシュタイン元帥を除いて。新たなことを考え、作り上げるのに夢中になっていたのだろう。

 

 そして、これもまた、思考の停止なのだろう。皇帝ラインハルトの業績で、かつての銀河帝国の腐敗や悪政が明るみに出た。しかし、それだけなら五百年近くも王朝は続かない。王朝が存続し、滅びるまで支えてきた人たちがいたのだ。滅びた門閥貴族のように。それを悪の一員と、みな断罪したことが、今日の歪みを生んでいるのではないか。伝えられていなかったさまざまな知識。例えば男子相続の意味のように。

 

 僕は子どもだった。だが、君も子どもだった。君はなんと聡明だったのだろうか。カザリン・ケートヘン一世であった君に、僕が好きだと告げたところで、ローエングラム王朝の交代劇を、血統をもって正当化する気なのかと、そう思う者が絶対に出てきたはずだ。何も知らない僕と……帝国首脳部が、旧銀河帝国の歴史や仕組みを学び、理解するまで。僕には、君に求愛する資格もなかったんだ。

 

 それをようやく知り、恥ずかしくていたたまれない。でも、僕の心はあの七つの日からずっと変わらない。手紙は形に残るから、今まで書くのは遠慮していたけれど、言葉にしなくては、伝わらないことがある。

 

 愛しいカザリンへ。

 

『つついづつ いづつにかけし まろがたけ おいにけらしな いもみざるまに』

 

 ヘル・ムライにいただいた、日系イースタンの古い物語の本を贈ります。ぜひ、君にも読んでほしい。でも、僕は夜に山越えなんかしないけれど。

 

 アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム



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第八章 夜半にや君がひとり越ゆらむ

 一冊の本と共に贈られた手紙に、群青色の瞳は涙を溢れさせた。最初の求婚から九年。少女は女性へと成長し、勇気を奮い起こして立太子式へと出席した。十一歳の頃、これを着て動けるのかと心配したドレスではなく、新領土のデザイナーが帝国伝統の素材で作り上げた、軽やかなアフタヌーンドレスで。

 

 そして、あの時よりも更に優美な挙措で、皇太子と皇太后に祝辞を述べた。一篇の詩を吟ずるように流麗な発音は変わらず、声が深みと美しさを増していた。

 

「皇太子アレクサンデル殿下、皇太后ヒルデガルド陛下。

 この佳き日に立太子式を迎えられ、皇太子となられましたことを、心よりお祝い申し上げます。

 わたくしは、十八年前に旧フェザーン自治領を併合し、

 旧自由惑星同盟に侵攻すべしと命を下した者。

 そして、前王朝を先帝陛下に譲り渡した者です。

 その責任を痛感し、ここに謝罪をするとともに、不祥なるわが身を、

 このめでたき席にお招きいただいたことに、伏してお礼を申し上げます。

 この場に、わたくしがいられることが、皇太后陛下の統治の見事さを証明するものであります。

 皇太子殿下におかれましては、その道を歩まれるようにお願いを申し上げます。

 わたくしの力の及ぶかぎり、ローエングラム王朝に忠誠を捧げ、

 微力を尽くす所存にございます」

 

 

 満座の観衆が、魂を抜かれたように注視する中、カザリン・ケートヘン・フォン・ペクニッツ=ゴールデンバウムは、同じ祝辞を旧同盟公用語で繰り返した。一流のアナウンサーにも遜色のない美しく正確な発音で。

 

 それは、すぐさま全宇宙に配信された。花の女神のように、美しく瑞々しい妙齢の女性。少女の名残を残した姿から、十八年の歳月を引けば、自由惑星同盟征服の勅令が、彼女の意志によるものでないことは明白だった。

 

 自らの来歴を公表することで、明らかになることもある。『郵便屋さん』の勧めだった。

 

「フロイライン・ペクニッツ。君はおれの知る限りでは、欠点の少ない部類の女性さ。

 でもな、自分のせいでもない罪を受け入れて、唯々諾々としてるっていうのは、

 よろしくない。そいつは、人間じゃなくって奴隷だって、うちの提督なら言うだろうね」

 

「ですが、あの旧同盟の大侵攻はわたくしの名において行われたのです」

 

「あのなあ、人間そこまで馬鹿じゃないぞ。

 いまの君は、どこから見ても美しい妙齢のレディだが、十八年前はそうじゃない。

 赤ん坊に戦争の勅令が書けるもんか。

 そして、ヤン提督やビュコックの爺さまをどうこうできるもんか。

 そんなに見くびってもらっちゃ困るなあ。痩せても枯れても、我らが元帥閣下だぜ。

 大泣きしている赤ん坊の君が目の前に現れて、

 あの人らがあやさなくちゃならんというならともかくとしてだ」

 

 白磁の頬を伝う涙は、溶かした氷砂糖のような甘さだろうなと、彼は思った。お姫様を皇子様のところに連れて行くのは、いつだってきらきら星の役割なのか。そろそろ、自分の許にも来て欲しいもんだ。彼は、明るい褐色の髪をかきながらそんなことを考えた。

 

「うーん、じゃあ、こうするのはどうだい。

 みんなの前で、私が悪うございましたって宣言するのさ。

 君の気も晴れるし、全宇宙が真実を知る。美は力なり、可愛いは正義ってね。

 美少女や美女には、十トン級のレーザー水爆に勝る威力があるんだぜ。

 帝国の中枢で爆発させてみなよ。ものすごいことになるぜ」

 

「そのようなことをして、よろしいのでしょうか」

 

「いいともさ。公式の場で、先々帝として謝罪するんだぜ。

 文句のつけようもないし、そいつだって立派な戦いの手段さ。

 犬は噛み付く、猫は引っ掻く。美人なら睫毛を上げ下げするだけでいい」

 

 カザリンは、園遊会の招待状と前後して届いた、アレクからの贈り物に視線を落とした。筒井筒の女は、どうやって男の心を引き戻したか。

 

 ――いとよう化粧じて、うちながめて、「風吹けば沖つ白波 たつた山夜半にや君がひとり越ゆらむ」とよみけるを聞きて、限りなくかなしと思ひて、河内へもいかずなりにけり。――

 

 カザリンは長い睫毛を上げた。露草が雫を落としながら、繊細な花びらを開く。

 

「アレク殿下のお言葉を信じて、わたくしも勇気を出してみます。

 生きながらえ、父母を助けていただき、弟妹にも恵まれました。

 これ以上の望みが、許されるようになるのなら……。

 郵便屋さん、ひとは欲張りになるものなのですね」

 

「それじゃなきゃ、人間生きてる甲斐がないってもんだ。

 安心しなよ。もし、いじめられたら、おにいさんが宇宙の果てまで連れて逃げてやるさ。

 自由と公平の国、魔術師に守られた星にな」

 

 見事なウインクを決める緑の瞳に、群青色が微笑みを返した。またひとしずく、甘露を零しながら。

 

「宇宙最速の方のお言葉は心強い限りです。もしもの時は、よろしくお願いいたしますね」

 

「残念ながら、そんなことにはなりそうにないけどなあ」

 

  

 カザリン・ケートヘン・フォン・ペクニッツ=ゴールデンバウム。旧王朝の最後の皇帝にして最初の女帝。ローエングラム公ラインハルトの傀儡だった赤ん坊。宇宙の多くの人間は忘れかけ、戦死者の遺族のみが憎しみを抱く存在だった。曖昧模糊(あいまいもこ)とした顔のない亡霊。

 

 だが、彼女は姿を現し、高らかに声を上げた。私は生きている。課せられた過去の罪と共に生き続ける。ローエングラム王朝への警鐘として。統治により平和が続くなら、薔薇の生垣として獅子を守る。

 

 だが、宇宙統一は、膨大な戦死者と引き替えに生まれた。そのことを決して忘れてはならない。ラインハルト・フォン・ローエングラムの覇業は、子ども部屋の皇帝と、揺り籠の女帝の勅令だったことも。戦争は常に弱者を犠牲にする。

 

 それは宥和政策から立憲君主制への移行に対して不満を抱きつつあった、軍の一部に対する牽制の棘となった。ラインハルト・フォン・ローエングラムの第一次神々の黄昏作戦は、カザリン・ケートヘン一世の命ということになっていた。

 

 当時の皇帝が、ローエングラム王朝の正統性を改めて認め、後継者らの統治を、悪の象徴とされたゴールデンバウムの名において賞賛したのだ。自らの存在が、叛乱の旗印に使われることがないよう、先手を打った形になった。

 

 宇宙のすべての人々が彼女を見た。カザリンのドレスは、クリーム色の胴部から徐々に色を変え、袖とスカートの裾は淡いピンク。象牙の髪は結い上げて、翡翠と金の髪飾りがあしらわれた。母から譲られた真珠で、耳と首筋を飾り、白絹に包んだ手には父愛蔵の象牙の扇。エレオノーラの意見を参考に、テイラー・コモリ社が技術の粋を凝らして作り上げたものだ。

 

 全体のモチーフは最初の平和の薔薇。異物を包みこんで生まれる真珠、前王朝の玉座の色合いが、

二番目の平和の薔薇色を飾る。三つの国家の統一による、宇宙の融和と平和を強く主張する装い。これもまた、絹と宝石の戦いの作法。言葉には出さずとも、意志を伝える帝国貴族の文化だった。

 

 新領土の複数のメディアが報道することを念頭に置いて、カザリンは自らの武器を抜いた。黒と銀の華麗な軍服とは逆の、しかしラインハルト・フォン・ローエングラムにも負けぬ美という力。

 

 ラインハルト・フォン・ローエングラムは、自らの美貌を武器にしなかったという評伝を、ドレスの製作者は鼻で笑い飛ばした。

 

「皇帝ラインハルト本人の意志など関係ありませんよ。

 見るものがどう取るかが問題なんです。

 あなたの装いも同じで、遠慮はいりません。

 戦うとお決めになったのなら、持てる全てを尽くして戦うべきです。

 私の恩人の子のように。――ヤン・タイロンは私の最初の雇い主だったんですよ」

 

 群青色の瞳を見開き、上品に口許を押さえる顧客の母娘に、宇宙屈指の服飾メーカーの社長はにやりと笑った。

 

「そして、戦うからには、勝つか負けないようにしなくてはね。

 これに関しては、フロイラン・ペクニッツは非常に分のいい戦力をお持ちです。

 美は力なり、可愛いは正義とはよくいったものですよ。

 先帝陛下は大層な美貌だったが、残念ながら可愛いとは申せませんで。

 フェザーン人こそ、よく覚えておりますし、忘れることもありません。

 あなたには、味方が二十億人はいるのです。宇宙で最も裕福な部類のね」

 

 カザリンはその言葉に力づけられると共に痛感した。ローエングラム王朝の統治は、薄氷の下で、濁流が渦巻いているようなものだ。それは、ゴールデンバウム王朝に端を発している問題でもある。先々帝として、公爵家令嬢として、血の枷と同時に恩恵も受けている身だ。

 

 そんな自分にも、なにかできることはあるのだろうか。なにができるのだろうか。群青の瞳が、春霞の空の彼方を見上げた。帝国本土の最奥ではなく、宇宙の中心でならば、星の海を越え、真空を貫いて伝わるのだろうか。この願いが、平和を希求する想いが。そして、心と一緒にドレスの色も決まった。平和の名を持つ、二つの薔薇。少女の頃からの宝物がヒントをくれた。

 

 『郵便屋さん』は、あまりの威力に明るい褐色の頭を、がりがりとかいた。 

 

「そりゃ、美は力だとはおれも言ったけどさ、あそこまでやるとはなあ。

 戦力は集中せよ、やるからには徹底的にって、あのご夫人はヤン提督も真っ青な戦術家だ。

 ありゃ、強敵だわな」

 

 そして静かに状況を見ながら、布石を打っていた稀代の戦略家だ。その弟子は師に劣らぬ戦士で、

五月の青空さえ味方につけて、輝くばかりに咲き誇る。

 

「おまけにコモリのおっさんもやりすぎだ。帝国財務省の顧問のくせに、上司への裏切りだぜ。

 無料で全世界に宣伝できるし、モデルは最高に麗しいし、気持ちはわかるけどよ。

 こりゃ、商売うはうはだな。ま、それもいいさ」

 

 風吹けば桶屋が儲かり、ドレスが売れれば材料を運ぶ自分の会社も潤う。世の中は持ちつ持たれつだ。そろそろ新跳躍機能のある、新しい船が欲しいところだ。海色の瞳を真ん丸にしている、金髪の美少年に緑の瞳でウィンクを一つ。もっとも見えてはいないだろう。目の前の佳人に目が釘付けになっている。

 

「頑張れよ、皇子様。そのお姫様は女王様でもあったんだぜ。

 つまりは魔女の眷属さ。もっとも、女ってのはおしなべて魔物だがね」

 

 皇太子となったアレクは、ひさびさに直面した初恋の相手を呆然と見つめた。黄昏に沈んでいた瞳が、黎明の輝きを持って、海の色に微笑みかける。あの時とは違う位置。アレクの背は、カザリンをとうに追い越していた。だが、まだまだだった。もっと、色々なところに追いつき、追い越していかないと、この女性は『はい』とは言ってくれそうにない。

 

 父ラインハルトは宇宙を手に入れ、息子アレクはそれを引き継いだ。アレクが欲するならば、手に入らない物はないだろう。それが戦艦であれ、宝石であれ。しかし、人の心を手にすることの難しさよ。力では決して手に入らない。それは人に残された最後の聖域だからだ。ヤン・ウェンリーもこだわり続けた思想の自由。

 

「本当に、難しいなあ……」

 

 アレクは苦笑しながら呟いた。だが、ひとりの心も手に入れられずに、国を治めるのは不可能ではないだろうか。どんな強大な国も、そこに暮らす人がいなくては国とは呼べない。結局は人の心に帰結するのだ。父の覇業も、母の統治も、それを支えてくれた数多(あまた)の人たちも。また一人の手が、その列に加わったのだ。かつての女帝にして、藩屏の長となるべき公爵家の令嬢が。長い戦争の一つの終わりの形だった。 

 

 立太子式に出席したカザリンは、オーディーンに帰ることはなかった。帝都フェザーンにある名門のオヒギンズ商科大学の大学院に編入したからだ。彼女は同校の通信教育を受講し、非常に優秀な成績で大学の修了試験に合格していた。そして、大学院の入学試験にも合格していたのだ。父の事業を当主として引き継げるよう、彼女もまた学び続けていたのだった。

 

 そして、呆気に取られる帝国首脳部を尻目に、新領土の女性と同じ服装で大学院に通い始めた。ペクニッツ公爵の事業を通じて、あるいはホアナ夫人との縁で、カザリンにはフェザーンに多くの知人がいたのだ。カザリンの留学に際しては、財務省顧問のコモリ・ケンゾウが様々な手配をしていた。

 

 ペクニッツ公爵の令嬢が行くならと、貴族の子女も留学先を帝都に定めた者が増え、その中から、新帝国の役人や軍人と結ばれる者も出てきた。ローエングラム王朝を守るために、公爵夫人が編んだ人脈のレースが、花嫁たちを飾っていた。男性に傾いていたフェザーンの人口比が、均等となる契機となったのである。

 

 アレクとカザリンの文通は、一月おきではなくなった。学校の授業で多忙なうえ、王宮への伺候に遠慮がちなカザリンと、立太子し、勉学や公務が一気に増加したアレク。なかなか対面する機会が持てないので、文通は逆に頻繁になっていった。

 

 アイゼナッハが取り組んでいた長距離跳躍航行は、ついに一回で四百光年を跳躍するまでになり、アレクは即位を控えて、銀河帝国領やバーラト自治領への行啓を積極的に行った。皇太子親衛の大任を担ったのは、ビッテンフェルト元帥である。

 

 純白の美姫を、漆黒の槍騎兵が警護して、平和の星の海を行く。皇帝ラインハルトと似た、だが違う隊列であった。ブリュンヒルトが建造されて二十年。本来なら耐用年数のうちだが、新跳躍システム搭載には耐えられないことが判明し、皇太子アレクサンデルの御座艦が建造されたのであった。常に戦いの先陣にあった、ブリュンヒルトに抵抗を覚える者もまだ多い。

 

 新たな純白の美姫はアレクによって命名された。ブリュンヒルトより一回り小さな、優美な艦は

『ステラー・マリス』。 帝国公用語ではない、古い言語。その意味は海の星、聖母マリアの別称である。平和の統治者だった皇太后ヒルダを讃え、血に穢れることなく、星の海を往けとの意を込めて。

 

 結局、大公の時には一度も行くことができなかった、皇太子領オーディーン。想い人の両親と対面して、一生分の緊張を味わったりしたが、時の育んだ美しさに驚嘆したものだ。『新無憂宮(ノイエ・サンスーシー)』の薔薇は、ことさらに見事なもので、伯母の伴侶であったフリードリヒ四世が丹精していたのだという。今はミッターマイヤー国務尚書の父が顧問となった、庭師組合が手入れをしているそうだ。ここが父母の、周囲の大人たちのふるさと。黄金の有翼獅子を育んだ止まり木でもあったのだ。

 

 彼にミドルネームをくれた、ジークフリード・キルヒアイス大公の墓所にも詣でることもできた。墓碑銘に刻まれた『わが友(マイン・フロイント)』の文字。彼が命を賭けて父を助けてくれたから、アレクは今ここにいる。半面、彼が亡くなっていなかったら、宇宙は統一されていなかったかもしれないし、アレクも生まれていないかもしれない。

 

 歴史のもしもは、様々に心に細波を立てる。過去から現在、未来はつながっていると、ダスティ・アッテンボローの著作にあったように。今からどうしていけばいいのだろう。この宇宙はあまりに広く、アレクの手には大きすぎる。改めて実感する。父の巨大さを。

 

 そして、機能的な美しさを持つ、バーラト自治領のハイネセン。アレクはそこで、共和民主制による議会の傍聴や、政府組織の仕組みを学んだ。驚かされるのが、議場や政府に行きかう女性の多さである。男女同権を掲げていた旧同盟の頃からの伝統だが、戦死者が多かった同盟末期の影響もまた大きい。外務長官のフレデリカ・(グリーンヒル)・ヤンが、悪戯っぽい笑みで教えてくれた。

 

「私もその一員なのですけれどね。

 弟妹ではなく、ミンツ教授とあの人の差の年代の人員が入ってきています。

 あと十年もすると、戦争を知らない世代が中心になっていくでしょう。

 あの人に言わせると、恒久的な平和など人類史上に存在しなかったのですって。

 しかし、何十年かの平和で豊かな時代は存在したし、

 それを繋いでいくように努力するのは、次の世代の義務になる。

 平和を望む子どもを育てるのは、大人の役割だと言っていたみたいですわ」

 

「優しいけれど、厳しい言葉ですね」

 

「ふふ、アレク殿下にはおわかりになるのね。

 人は人、自分は自分。自分の責任は自分がとる。

 それ以上のことは、当たり前の人間にはできるものじゃない。

 そういう考えね。他人の責任を負うならば、自分の子どもまで。

 とはいえ、罪を肩代わりするというものではないのよ。

 賠償責任とか、監督責任とかそういうことです。

 少年法により、十歳未満の子は刑法の対象にはなりませんしね。

 十五歳未満も罰するのではなく、正しい生き方を教育するのですわ」

 

 アレクは眉宇を曇らせた。それを言われるとエルウィン・ヨーゼフ二世の保護者はローエングラム公ラインハルトだし、カザリン・ケートヘン一世の保護者はペクニッツ公ユルゲン・オファーだ。後者と比べて前者はどうか。

 

「では、親の罪を子が背負うというものはないんですね」

 

「原則としてはそうなりますけれど、遺産相続はその限りではありませんの。

 マイナスの遺産、借金は妻子が返済しなくてはならないのですわ。

 遺産の額を査定して、負債があまりに大きければ、相続放棄も認められるけれど、

 そうすると財産も受け継げない。難しいものですわね」

 

 ヘイゼルの瞳は、限りなく優しかった。似た立場のアレクに対する労わりに満ち、しかし誇り高い輝きがあった。

 

「私がその道を選ばなかったのは、私の自由ですわ。

 自分の責任と法の範囲内で、好き勝手ができるから、

 あの人は民主主義にこだわったのだと思います。

 そんな勝手な人間が、折り合いをつけるための仕組みですもの。

 一人がすべての責任を負うのではなく、国民皆が等しく責任を負うのです。

 それを忘れてしまったから、自由惑星同盟は滅びました。

 ヨブ・トリューニヒトだけのせいではないし、ヤン・ウェンリーだけのせいでもない。

 あの人と私を含めたみんなのせい。

 私は国民に選んでもらえる間は、それを伝えていきたいと思うの。

 この平和が、一日でも長く続くように」

 

 イゼルローン軍の人々が眠る丘には、一面のPEACEⅡが咲き乱れていた。地上車の中から、遠目に見ることしかできなかったが、それゆえわかった。広大な墓地の、ほとんどすべてに戦死者が眠っていること。それさえ、百五十年分のごく一部だった。そして、ユリアンから説明を聞いてアレクは呆然とした。ここに眠る死者のほとんどは、遺体がないのだと。

 

「私の実の父の遺体もないのです。ヤン提督と義父はここで眠っているのですが。

 ビュコック提督やメルカッツ提督も墓標だけしかありません。

 でも、きっとみんなの魂はここにあるでしょう」

 

 壮年を迎えたユリアンは、そっと胸元を押さえた。

 

「そして、アレク殿下の中に皇帝ラインハルトはいらっしゃる」

 

「僕は、全く父を覚えていないのです」

 

 亜麻色の髪がゆるく振られた。

 

「殿下を取り巻く方々の背に、皇帝ラインハルトの輝きは息づいていますよ。

 それを見ていらした殿下にはおわかりになっているはずです」

 

「でも、僕はヘル・ミンツが羨ましい。父は心を語れる人を失ってしまいました。

 母の話を聞きましたが、政策やなにかの話ばかりをしていました」

 

 ユリアンは苦笑した。

 

「皇帝ラインハルトも、皇太后陛下には照れていらしたんでしょう。

 仕事の話しかできないというのは、そういうことだと思いますね」

 

 少年は海色の眼を見開いた。

 

「えっ……」

 

「幼年学校から軍隊に入られた方ですし、私も中学の頃は同級生の女子とどう接したものか、

 見当もつきませんでしたよ」

 

 暗に思春期の少年レベルと言われたようなものだが、アレクは大いに納得した。

 

「父上も普通のところ……いや駄目なところもあったのかな……」

 

 そして、天才ではない自分は、普通のところと駄目なところだらけだ。子どもに偉人の真似をしろとは、善良な人間に異常者になれと言うに等しいといった、ヤン・ウェンリーの言葉の意味がよくわかる。でも、あなたが言うなという感想はまだ変わらない。

 

 そんなアレクが、自分の子どものためにどうすべきか。まとまりのない考えは、カザリンとの文通の中で、徐々に形を成していった。それは、憲法制定の前夜、アレクの思惟もいまだ闇の中だった。

 

 



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宇宙暦819年~XXX年 イゼルローン・ポートレイト
イゼルローン・ポートレート


※本作は、にじファンに投稿したものを、加筆修正した作品となります。


 あの灼熱と激動の時代が、あと数年で二昔前になろうとしていた。三年前に引退した事務長が残した二種類の薔薇は、すっかりバーラト星系共和自治政府の帝都駐留事務所の名物になった。今でも時々は、元事務長のムライが顔を出して様子を見ているが、日々の世話は職員の仕事の一つである。

 

 もっとも、職務外のことであるから、早出や帰宅前といったシフトを組んでのことだ。若い職員の中には『薔薇当番』なんて煩わしいという意見も無論ある。

 

 しかし、一番熱心に世話をする警備主任とその部下達の前で、どうしてそんなことが言えようか。警備主任は、色褪せた麦藁色の髪と青緑色の目をした壮年の男性だ。かつて帝国軍、同盟軍の双方に勇名と悪名をもって知られた薔薇の騎士(ローゼンリッター)連隊、最後の連隊長。カスパー・リンツ退役大佐である。

 

 壮年期も半ばを越え、炭素クリスタルの戦斧を握ることもなくなって久しい。しかし、未だに鍛錬を怠らぬ体躯は強健そのもので、折々に見せる鋭い眼光や隙のない挙措動作など、やわな文官が対抗しうるものではない。

 

 かつての所属部隊と同じ名の花が、敬愛した司令官と通称を同じくしているとあっては、世話にも力が入るというものだった。

 

 リンツ自身も結構まめな性格であった。白兵戦技の技量、陸戦指揮官の指揮能力に裏打ちされた、強烈なカリスマ性を誇った前連隊長を尊敬していたが、自分はああはなれないとも自覚していた。

彼は、部下とは意思疎通を図り、上司とは連隊の運用の折衝を行う調整型のトップであった。また帝国からの亡命者だけあって、帝国語は非常に流暢である。

 

 もう一つ、『金があったら○○になっていた』のは、なにもヤン・ウェンリーだけではない。

 

 リンツの場合は、画家になっていただろう。イゼルローン要塞駐留時代は、よく上官や同僚、部下の肖像をスケッチしていたものだ。つまり、人間の顔を覚え、見分けるのに秀でていたのである。空戦隊の元ハートの撃墜王(エース)とは違って、男女双方分け隔てなく。

 

 彼を警備主任にしたのは、あの最後の戦いで戦傷を受けた薔薇の騎士達の受け入れ場所を探した結果でもあったのだが、これ以上ない適材適所となった。不審人物を見分け、不穏な空気を察知する認識能力。そして、元部下からの信頼と実績。これらが有機的に噛みあい、半ば敵地で孤立するにも等しい駐留事務所を守り抜いてきた。

 

 なにしろ、バーラト星系共和自治政府の前身は、銀河帝国ローエングラム朝の最後にして最大の敵であった。当時の軍司令官にしてからが、先帝ラインハルトの旗艦に突入し、人血に塗れた装甲服で対面を果たしている。

 

 石もて追われるどころか、家屋破壊弾を投げ込まれても、リンツ自身は仕方がないと思う。しかし、外交的、政治的に互いにとって非常にまずい。帰還した二百余名の薔薇の騎士のうち、約半数がバーラト政府に籍を置き、そのうちの半数がこの帝都に在留し、交代で警備にあたっている。

 

 しかし、やはり戦火が途絶えて十五年余りも経てば、風も少しは冷たさを減らすものだ。『ヤン中尉の薔薇》の情報は、ムライ元事務長が見事に遮断したが、咲く花の数は年々増えていった。ミュラー軍務尚書の元帥府も似たような状況であるが、薔薇の色合いが少し異なる。元帥府は、ピンクとクリームイエローの色調が多く、駐留事務所では象牙色が多い。なによりも違うのが漂う芳香で、事務所のそれはお茶会でも開いているようだった。

 

 薔薇は古くから画家に好まれた画題である。色調と花容に樹形、いずれも数多(あまた)あるが、どれも美しい。リンツが非番の日には、画帳片手にスケッチを楽しむようになった。出来のよいものには、簡単に彩色を施すこともある。

 

 リンツ自身は、どちらかというと人物画の方が好みなのだが、警備主任としては迂闊なことはできない。まだまだ旧同盟を憎む帝国人も多いのだ。自分の家族、はたまた駐留事務所の職員の肖像画がなにかの弾みで流出し、テロの資料にされるのは願い下げである。

 

 かといって、元が半分砂漠のフェザーンには、帝都近くに景勝地がない。完成した皇宮『獅子の泉(ルーヴェンブルン)』は大きいが、質実堅固な建物だった。昔、立体写真で見た『新無憂宮(ノイエ・サンスーシー)』のように広大壮麗なものではなく、絵心をそそられない。もっとも、リンツも立場が立場だ。皇宮をスケッチしていたら痛くもない腹を探られるだろう。

 

 かくして、大人しく薔薇のスケッチに勤しむというわけだ。ムライに倣って、違う花でも植えようかと思わないでない。しかし、フェザーンの気候に耐え、余計な死角を作るような植物ではないというと種類が限られてくる。

 

「どちらも棘があるが、サボテンはちょっとなあ……」

 

 画題として、こちらも正直あまりそそられない。花は美しいが、悪友の表現を借りるなら『顔だけ綺麗でもいい女とは言わない』のである。リンツは花の種類には疎い。

 

「そのうち、ミュラー元帥にお願いして、国務尚書の父上に教えていただくことにしようか。

 ところでビッテンフェルト元帥閣下、本日は何のご用でしょう」

 

「い、いや、用事というほどのものではない。近くを通りかかったので、様子を見に来ただけだ」

 

 オレンジ色の髪の猛将は、リンツに声を掛けようとしたところで機先を制された。

 

「随員も連れずに、お独りでですか? 

 くれぐれも気をつけていただきませんと当方としても困ります。

 もしも、帰路になにかありましたら、我々バーラト政府の責任問題になりかねません」

 

「随員ならば車にいる。それにしても卿にこんな特技があったとはな。ほう、上手いものだ」

 

「素人の手すさびをお褒めいただき光栄です。

 ところで、酒宴を開くならこちらではやめてくださいよ。

 ミュラー元帥府の出来事は、ラッツェル中将から聞き及んでおりますので」

 

「本当に褒めているのだから、素直に聞かんか! まあ、薔薇の様子を見に来たのも半分だが、

 近々メックリンガー代官府総長がオーディーンから来るのだ。それでここに相談があってな」

 

「十分に立派な用事ではありませんか。

 ただいま取り次ぎをいたしますので、少々お待ちください」

 

「違う、卿自身にだ。今そう決めた。こういう特技があるなら多少は詳しいだろう」

 

「何がでしょうか」

 

「せっかくフェザーンに来るなら、旧同盟の画材を研究したいそうだ」

 

「それで皇太子領の総長閣下が、わざわざオーディーンからおいでになると?」

 

「まあ、本来の用事のついでだな。今度、奴が学芸尚書に就任するのだ」

 

「だから、それが重大事だというのです! ……そんなにうちの事務長が苦手ですか」

 

「い、いや、そんなことはない、断じてない!」

 

 結局、ビッテンフェルト元帥は三歳年下の警備主任に苦言をもらい、事務長と面談することになる。彼は性格的に、元事務長のムライを苦手としてきた。ムライが交代して、彼もイゼルローン要塞司令官に任命され一息つけるかと思ったが、残念ながらそれは長く続かなかった。

 

 三番目の後任者は、惑星シャンプール出身で、アレックス・キャゼルヌが見込んで育てた経済官僚だった。彼女は、まだ小学生のころに救国軍事政府のクーデターに遭っていた。それを鎮圧したヤン艦隊、それも薔薇の騎士連隊を命の恩人と思っていた。

 

 年齢が許せば、イゼルローン軍に身を投じていたかも知れない。しかし、当時はまだ無理だったので、彼女は代わりにできることを探した。それが亡命者だった曾祖母から、熱心に帝国語を学ぶことだった。その甲斐あって、帝国本土人同様の語学力の持ち主となった。そういう女性が、キャゼルヌに認められるほどの有能さと鋭敏さを備えていたのだ。これが氷、あるいは鋼鉄のような女傑だったら、まだ帝国首脳部にとっても気が楽だった。

 

 バーラト星系共和自治政府事務総長の、先の尖った黒い尻尾はいまだに健在だった。新銀河帝国の首脳部は、ほぼ男性だ。旧同盟やハイネセン共和自治政府の構成員の男女比に、早く慣れさせてしまえ。ついでに、いい男がいたら旦那として連れてこい。

 

 そう言われて赴任した駐留事務所長は、春の女神の侍女が勤まりそうな優しげな容姿の持ち主だった。中身の方は、事務総長の不用意発言を、微笑みと言葉一つで黙らせる『白き魔女』の系譜を継ぐ者だっが。彼女は、真綿のように柔らかく強靭に、数々の交渉に辣腕を振るった。

 

 銀河帝国ゴールデンバウム朝にあっては、女性の高等教育の体制は十分なものではなかった。マリーンドルフ伯爵令嬢(フロイライン・マリーンドルフ)は、例外も例外な存在だった。平民はなおのこと、総じて帝国の女性は今も早婚傾向にある。

 

 旧同盟では珍しくもない、高等教育を受け、官僚としてキャリアを積んだ未婚女性(フロイライン)など、帝国首脳部の思考の埒外だったのだ。まず、呼称一つにも右往左往した。昨年彼女が結婚して、今度は呼称を夫人(フラウ)と変更すべきかで首脳陣を悩ませた。結局、事務所長は業務上では旧姓を名乗り続けたので、彼らの困惑は不要のものとなった。

 

 その顛末を聞いて、駐留事務所の所員は嘆息したものである。社会的慣習、常識の擦り合わせは宇宙統一より難しいのだと。人種、文化の混合が進んだ同盟でも、氏名表記にW式とE式が混在しているのだから。

 

 それから、様々な折衝を経た約半月後のことである。エルネスト・メックリンガー学芸尚書とカスパー・リンツ退役大佐は、ビッテンフェルト元帥府で互いを紹介された。

 

 前者は、旧帝国の学術院にも認められた水彩画家であり、ピアニストであり、散文詩人だった。

後者は、素人の日曜画家で、薔薇の騎士連隊一の歌い手という程度であった。

 

 当初は、二人はメックリンガーの疑問に、リンツが答えるという形式の交流を行った。帝国の文化、芸術は古典復古調なものである。西暦十八から十九世紀の西欧の文化形態に近い。旧同盟の美術、音楽の表現の多様性は、帝国にはないものだった。

 

 画材についても、旧同盟の方がはるかに多様で、しかも安価である。旧帝国においては、画材は職業画家や貴族、富裕な中産層にしか購入できないものだった。

 

 元々、旧帝国と旧同盟では、中産階層の人数、教育の充実に圧倒的な差があった。戦後十五年以上が経過しているのに、その擦り合わせにはまだまだ試行錯誤が続いている。この問題は、教育を受ける側、すなわち子供たちがどんどん成長してしまうことだった。新帝国にとっては、喫緊の課題である。

 

 一方旧同盟では、教育課程について大きな変更はなかった。むしろ新帝国にノウハウを供給する側である。一般人の初等、中等教育にも絵画や音楽のカリキュラムがあって、そこで興味を持てば専門教育を受けなくても、趣味で続けることもできるのだ。

 

 帝国側から見れば、驚異的なことである。門閥貴族制を廃し、農奴階級を開放しても、教育や福祉の充実は一朝一夕にいかない。旧同盟のようにどの家庭の子どももみな中等教育を受け、家計が許す範囲で様々な娯楽や芸術を楽しむ日が来るのだろうか。考え込んでしまうメックリンガーだった。

 

 メックリンガー自身はかなりの富裕層に生まれ育ち、芸術を続ける為に軍人として安定的な収入を得たが、やはり支援者を必要とした。 一方、亡命者で軍隊に入ったリンツは、中等教育までの授業以降は、ほぼ独学で絵を描いてきた。あまり豊かとはいえない下士官の給与でも、それなりのことはできたのである。そのリンツの才能は、メックリンガーにとって新鮮なものであった。似たような趣味の持ち主は、その感受性にも少なからぬ共通点があるということだ。階級にして七段階――旧同盟なら六段階――、年齢も七歳違いの彼らは、やがて同好の士として交流を深めていく。

 

 特にメックリンガーの興味を惹いたのは、イゼルローン駐留時代のヤン艦隊の面々の肖像だった。モデルの階級と氏名、描かれた日とリンツのサインが記されている。

 

 やはり多いのは、要塞防御司令官と薔薇の騎士連隊の面々である。

 

 要塞防御司令官――ワルター・フォン・シェーンコップ中将――は、同盟軍で一、二を争う色事師だったそうだが、それもなるほどと頷ける美丈夫ぶりである。画家にとっては絶好のモデルだったようで、何度も画帳に登場している。時に白兵戦の訓練風景として、あるいは少し皮肉な笑顔で。

 

 童顔で純朴そうなライナー・ブルームハルト中佐は、チェスで王手をかけられて、呆気にとられた表情を切り取られている。心やさしい褐色の雄牛といった巨漢のルイ・マシュンゴ大尉が、それをなだめていた。そのほかにも、怜悧な印象の美男子に、強面で三次元的な肉体の持ち主や多くの部下が描かれている。勇者を迎える女神(ブリュンヒルト)(かいな)に抱かれて、今は去った魔術師の騎士達。

 

 艦隊司令部の面々も画帳に登場していた。

 

 目鼻のかわりに『秩序』と描き込まれているのはムライ元事務長。現在ではやや肉が落ちたが、姿勢の正しさや体つき、顔の輪郭でそれと分かるのは大したものだ。

 

 理知的で、瞳のきらめきが伝わってきそうな美貌の女性は、フレデリカ・G・ヤンだった。歳月は、彼女の上にも降り積もっていたが、今も美しさはあまり変わっていない。

 

 デスクに積まれた書類にサインをしているのは、アレックス・キャゼルヌ事務総長。現在では、絵よりもすこし恰幅がよくなり、薄茶の髪は白いものが混じり、眼鏡をかけはじめた。

 

 もつれたような髪とそばかすのダスティ・アッテンボロー。彼の二歳年上の先輩も若く見える人だったが、彼はまた違った若々しさがある。悪童の雰囲気とでも言おうか。本来の志望どおりジャーナリストに転身し、ベストセラー作家の仲間入りをしたという。

 

 まだあどけなさを残したユリアン・ミンツが、真剣な面持ちで紅茶をカップに注いでいる。師父に供するための一杯だ。繊細な印象の美少年ぶりだった。彼の息子は、この絵の少年よりもすこし年下だったはずだ。

 

 誠実な印象のエドウィン・フィッシャー中将と、陽気な巨漢のパトリチェフ少将が、作戦図を前に額を寄せて相談している。回廊決戦の最中とその後に亡くなった彼らに、歳月の波が寄せることはない。

 

 空戦隊の中で描かれているのは、二人の撃墜王だった。やはり、所属の違いによる交流の差はあり、空戦隊のメンバーは他に登場しない。陽気で威勢のいい言葉をかけてきそうなオリビエ・ポプラン。物静かな表情で、クロスワードを埋めるイワン・コーネフ。

 

 健在な者と、虚空に散った者と。今は1枚だけになったトランプの(エース)

 

 客員提督ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ中将は、さらりとした走り書きながら、重厚な宿将の雰囲気を伝えてくる。亡命を受け入れた司令官の旗艦(ヒューベリオン)と一緒に、一年遅れで天上に旅立っていった。

 

 そして、何度か登場し、大抵未完に終わっている絵が司令官たるヤン・ウェンリーだった。一年ほどの間に三階級も昇進しているのは、彼の武勲の巨大さを示している。だがその一方で、旧同盟軍の有力な将帥が激減していった事実を物語っていた。

 

「難しかったんですよ、ヤン提督という人は」

 

 メックリンガーに未完の理由を問われたリンツは、しぶしぶ告げた。

 

「まあ、小官は素人ですから、特徴をデフォルメして顔を似せているわけです。

 でも、ヤン提督には、デフォルメするほどの特徴や欠点がありません。

 専門教育を受けていれば、違ったかもしれないのですが」

 

「いや、卿に言われてみると、確かに難しいように思えるな」

 

 よくよく見ると、顔のパーツも配置も整っているのだが、美男子というにはなにか足りない。似顔絵を描くのが一番難しい顔立ちだった。

 

「メックリンガー閣下は新領土産の豆腐やバターは……ご存じないでしょうね……」

 

「いや、私は食品自体ほとんど購入したことがないのだが……ところでトーフとは?」

 

「それは忘れて下さって結構です。

 では例えとしては壮大すぎますが、イゼルローン要塞はご存じでしょう」

 

「無論のことですよ」

 

「あのイゼルローンを、背景を描かずにデッサンで表現するようなものです。

 雷神の槌を撃っているような表現も使わずに」

 

 頭の中でその描写方法を数秒検証し、メックリンガーは唸った。

 

「それは確かに難しい」

 

 相当な画力の持ち主が描いても、ただの球形にしか見えないだろう。

 

「彩色してそれらしく見せようにも、提督は黒髪黒目ですからね。これと変化がないんです」

 

「だが、この一枚は完成しているように見えるのだがね」

 

 その絵を見せられて、リンツは苦々しい表情になった。

 

「これはですね、逃げたんですよ、小官は。確かに、一般に一番流布している映像に近い。

 ヤン提督は、顔の骨格が整った人でした。だからサングラスをかけると美男子になる」

 

 サングラスをかけた、ヤン・ウェンリー大将。マスコミ嫌いと言われた彼は、数少ない映像にサングラス姿で現れることが多い。

 

「ヤン提督の一番の特徴は目だったんです。

 いつも微笑んでいるけど、とても静かではるか遠くを見ているような目でした。

 とても小官の技量で描けるものではなかった」

 

「しかし、こちらも完成していますな。確かに目は閉じているが、とてもいい絵だ」

 

 それは、いとも幸せそうな顔で、ベンチで昼寝をするヤン・ウェンリー大将だった。

 

「こちらを見せたら、もっとハンサムに描いてくれと言われたものですがね。

 ところでヤン提督は、歴史学者になりたかったそうで、

 美術や文学にも結構詳しかったんですよ。

 なんでも、歴史とその時代の文化は不可分のものだそうで」

 

「ほう、興味深い」

 

「西暦十九世紀から二十世紀にかけて、カメラの発明と普及で、

 肖像画家の多くは廃業を余儀なくされたそうです。

 風景だって、写真の方が正確ですから。でも、絵画はなくならなかった。

 ある画家は、人間や風景を構成する形を図形として

 再展開し、形に内包されるものを表現しようとした。

 また、ある画家は自分の想像の中のありえぬ幻想を形にした。

 この二人は、それこそ写真のような絵を描ける天才だったそうですが。

 一方で、ありのままの人物や風景を描いて高い評価を得た者も数多い。

 ヤン提督がおっしゃるには」

 

 リンツは冷めかけた珈琲を啜って、喉を潤すと続けた。

 

「画家は、対象を自分の心を通して表現する。

 画家と題材の対峙が人の心をうつから、絵画が廃れないのだろうねと。

 その時、小官は思いましたよ。

 提督の目を表現できないのは、自分の理解が及ばないからだと。

 その瞬間に描けない理由が分かりました。

 小官にあの方と対峙する度胸はありませんでしたから」

 

 宇宙最強の白兵戦部隊の元連隊長の、意外な告白だった。メックリンガーは目を瞬いた。

 

「ヤン元帥は、温厚で穏やかな人だと聞きましたが」

 

「確かに穏やかな人でした。

 まあ、ものぐさな人でもありましたから、怒るのも面倒だったのかもしれませんがね。

 ですが、私は、あの人が怒ったところを一度だけ見たんです。

 第七次イゼルローン攻略で、奪取したイゼルローンから……」

 

 メックリンガーの表情に、リンツは逞しい肩を竦めた。

 

「これは失礼。やめたほうがいいでしょうかね?」

 

「いや、どうぞ、続けていただこうか」

 

「イゼルローンの駐留艦隊に降伏勧告をしたんですよ。

 降伏を是としないなら、逃げろとまで言った」

 

 メックリンガーは、白いものが混じりだした美髯を撫でつけた。

 

「しかし、相手はそれをよしとしなかった。

 武人の魂がどうとか言って、突っ込んで来たんですよ。

 玉砕覚悟だとね。あの人はそれに猛然と反発しました。

 死ぬなら自分だけにしろ、部下を巻き込むなとね」

 

「何とも耳の痛い言葉だ」

 

「そして、次の命令が、旗艦だけ識別できるかです。まあ、それは可能でした。

 次にヤン提督は、雷神の槌の二射目を自分で指示し、

 旗艦以下の最小限の艦艇を撃沈させました」

 

 メックリンガーは、リンツの顔を凝視した。

 

「信じられん」

 

「一種の天才なんだと、シェーンコップ中将が言っていました。

 三次元空間の把握能力が桁違いだった。

 要塞防御部が散々苦労したのを、初見でやれたんですからな。

 ヤン提督自身が実戦で雷神の槌を撃ったのは、あの時が最初で最後なんですよ。

 今思うと意外ですが」

 

 リンツは顎をさすり、メックリンガーは溜息を隠しながら、こめかみを揉みほぐした。

 

「卿のお陰で、ようやく腑に落ちた。

 ヤン艦隊の一点集中砲火は我々も研究したのだがね。

 数光秒は離れて移動している相手に対し、狙点を定め着弾を揃えるような、

 そんな非常識な指揮能力のある将帥がいなかったのだ」

 

 ブルーグリーンが瞬きした。

 

「はあ、そうだったのですか。帝国は圧倒的大軍なので、必要がなかったのだとばかり」

 

「イゼルローン回廊の攻防を思い起こしてみてくれたまえ。

 実に嫌な宙点に布陣し、こちらの大軍など無意味な状況にしてしまったではないかね」

 

 褪色の進んだ麦藁の頭が捻られた。

 

「当時の小官は、要塞防御を担当しておりまして、なかなか出番がありませんでね。

 そんなに難しいんですか、あれは? 

 分艦隊のアッテンボロー提督もやっていましたがねえ。

 やっぱり、そのへんは先輩後輩でやり方が似てくるのでしょうか?」

 

 リンツは中空を凝視して考え込んだ。

 

「待てよ、フィッシャー提督とメルカッツ提督はあんまり得意ではなかったな」

 

「いや、もう結構。今となっては必要のない技術だ」

 

 知りたくない事を知ってしまったメックリンガーだった。あと一個艦隊の兵力があれば、双璧と鉄壁のいいとこどりをしたような奇術師が誕生していただろう。バーミリオン会戦で、停戦勧告以前に決着がついていたかもしれない。

 

「たしかに、閣下のおっしゃるとおりですね。

 地上だと方向音痴で、三次元チェスは下手くそだったのに、不思議なものです。

 イゼルローン攻略のあと、アムリッツァでも、バーミリオンでも、

 イゼルローン回廊の決戦の最中でも、たったの一個艦隊で、

 皇帝ラインハルトとあなたがたを敵に回していたのに、

 旗艦の艦橋乗組員はヤン提督の怒鳴り声を聞いたことはないそうです」

 

「卿も聞いたことはないのかね」

 

「私は、いま申し上げた戦いの際には、ヤン提督のそばにはおりませんでね。

 薔薇の騎士が彼の下に再配属されたのは、アムリッツァ会戦以降です。

 イゼルローンの攻防時には、私は要塞防御でヤン提督は艦隊司令官。

 バーミリオン会戦のときも、万が一に備えて待機です」

 

「では、卿は艦隊司令官としてのヤン元帥とは、(まみ)えることがなかったと?」

 

「いいえ、一度だけあったんですよ。

 旧同盟の軍事クーデター、ドーリア星域会戦の際です。

 あの時、ろくでもない戦いだから勝たなくては意味がないとおっしゃった。

 国の滅亡なんて、個人の自由や権利に比べれば、大したものではないと。

 実に淡々とした調子でスピーチして、味方だった第十一艦隊を叩きのめしました。

 逃げろとはもう言いませんでした。敵の犠牲も減らそうとしていた人がです。

 いや、言えなくなったのでしょうね。

 あそこでクーデター軍を逃すと、同盟は泥沼の内乱になっていたでしょう。

 今、どうなっていたことやら」

 

 リンツは言葉を切ったが、それこそが手痛い暗喩だった。旧同盟でリップシュタット戦役のような有人惑星での内乱が起きたら、新領土の現在の繁栄はありえなかった。帝国という外敵には屈したが、住民同士がいがみあうような状況を招かなかったのだ。そして、バーラト星系共和自治領という旗印を残せたことで、新領土も一気に団結した。帝国の支配に粛々と服するかに見えて、惑星自治のノウハウに乏しい新帝国の行政官を逆に教育している。

 

「どれだけのことを思っていたことか。でもおくびにも出さなかった。

 たとえ鈍感にしても、イゼルローンの外壁よりも堅固なものではありませんか」

 

 メックリンガーは絶句した。苛烈な先帝は、その怒りさえ身を飾る華麗な炎だった。部下の失策には鋭い叱声を上げたものだ。魔術師は、穏やかな水面の下に、どれほどの深淵を抱えていたのだろう。灼熱の炎と膨大な死を呑みこんでも、その温度を変えないほどに。

 

 ヤン艦隊の士気は、どんな状況下でも最高の水準にあったといわれる。その原因の一端を、垣間見た思いがした。

 

「とてもではないが、私などに対峙できる相手ではなかったのです。

 イゼルローンに戦斧で立ち向かうようなものでね。

 その一方で、ヤン提督はこうも言いました」

 

 ブルーグリーンの目が、ふと中空を彷徨い、机上に広げられた絵画材料のカタログに止まった。

 

「カメラの生まれた頃に、絵具も大量生産できるようになり、安価になったそうです。

 工業の発達で、中産階級が増えて、そういう人々が趣味で絵を描くようになった。

 まあ、大抵は下手の横好きです。

 中には役人の傍ら、近所の植物園や雑誌やポスターから着想を得て、

 行ったこともない幻想的な熱帯を描いて、賛否はあれど大いに評価された画家もいました。

 ――貴官がそうなるかもしれないし、そうはならないかも知れない。

 でも、リンツ大佐、他人の評価よりも自分が楽しいかどうかが大事じゃないか。

 こんな、むさ苦しい連中ばっかり描いてて楽しいのかい? 

 どうせなら綺麗な女性でも描いたらいいじゃないかと」

 

「しかし、卿にとってはそのモデル達こそが、

 描いていて楽しい画題だったと、そういうことですか」

 

「ええ、私もそう答えましたよ。そうしたら、

 ――貴官が楽しいならそれが一番さ。

 君が名画家になって、これが傑作と呼ばれるかもしれないね。

 そうなったら、モデル料を弾んでもらいたいな。――

 それで、先程のハンサムに描いてくれと続いたのですがね。これはあの時だから描けた絵です。

 場合によっては、私の遺作集になっていたかもしれないのですから」

 

 その後、メックリンガーとの交流を深め、二人展の開催を行うまでになっても、この画帳の出展は拒み続けたリンツだった。数枚の白紙を残した画帳の最後は、張り詰めた面持ちをしたリンツ自身が簡素な筆致で描かれていた。宇宙暦801年5月30日の日付とサインとともに。この画帳唯一の自画像であった。

 

 後年、自由惑星同盟の末期からバーラト星系共和自治政府設立までの歴史資料として、この画帳は高い評価を受ける。

 

 ヤン・ウェンリーは、歴史はそれに付随する文化と不可分であることを知っていた。芸術的価値より、歴史的価値により評価される、そういった絵画も数多いことを。日曜画家の描いた絵が、戦争で焼失した街並みの復元の資料となったことがあるように。

 

 『イゼルローン・ポートレイト』と名付けられたこの画帳は、リンツの死後、遺族からハイネセン記念大学に寄贈され、多くの歴史研究家に英雄達の素顔を伝えている。



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宇宙暦8XX年/新帝国暦XX年 フーガの舞台裏
Language Of Flowers


「ないわ。絶対にない。ありえない。とどめに紅白の薔薇だなんて!」

 

「……私の彼が同じことをしたら、その場で射殺しないか自信が持てません」

 

「あら、同感。私だったら(くび)り殺しちゃうかもしれない」

 

 イゼルローン要塞からの退去準備中、ユリアンが雑談の中でふと漏らした、新銀河帝国の初代皇帝のプロポーズのエピソードは、女性士官達から盛大なブーイングで迎えられた。以前よりは人員が減ったが、それでも女性が多い部署はまだまだあって、司令部周辺の事務部がそれだ。要するにアレックス・キャゼルヌの部下たちである。

 

 上官の薫陶がよろしいのか、歯に衣着せない意見が飛び交う。

 

「あら、ミンツ軍司令官。なに面食らった顔をしているの。

 あれが素敵なロマンスだとでも本気で思うわけ?」

 

「え、ええ、何かまずいんですか?」

 

「呆れた。貴官はワルターとオリビエにナニを教わっていたのかしらね」

 

 白兵戦と空戦の師のファーストネームを出されて、訓練内容のニュアンスの違いに気付く。

先ほどの扼殺宣言をした女性少佐である。長身で、ブロンズの肌に黒い髪と黒い瞳、鍛え抜かれた長い四肢と豊かな曲線が、軍服の上からもそれとわかる。いまさら言うまでもなく美人であった。例の二人なら、絶対に目をつけずにはおかないほどの。

 

「なにって、その何なんですか!」

 

「いいこと、プロポーズっていうのは、要するにそういうことなんだけれど、

 親にとって恋愛の戦勝結果の報告しかいらないわけ。経過報告は必要ないの。

 朝帰りした娘の相手が、俺がお嬢さんを女にしました、責任とって結婚します、

 なんて言ってきたらどう思うのよ。ねえ、キャゼルヌ事務監」

 

「俺なら塩をまいて追っ払うね」

 

「お優しいんですね、キャゼルヌ事務監は。私ならそんな男とは別れるのに」

 

 こちらは射殺未遂犯の大尉だった。赤毛に灰色の目の可愛らしい印象の人だ。ユリアンの胃が痛みを訴え始める。恐ろしい相手に恐ろしい質問をふらないでください。お願いですから。

 

「何が悲しくてそんなに優しくしてやらなきゃならん。そんなに簡単に楽にはさせんよ」

 

 薄茶色の目がにこりともせずに、ユリアンに向けられた。

 

「そいつが娘にふさわしいかどうか、全力で試してやるに決まってるじゃないか。

 微に入り細にわたってな。始末するならそれからでも遅くない。そうは思わんか」

 

「あらあら、お嬢さんは大変ですね」

 

一番穏やかな口調で、一番の難所に斬り込んできたのは、皇帝(カイザー)ラインハルトに三回も駄目出しした中佐。アッシュブロンドに碧眼で、(くだん)の皇太后にすこし似た容貌だ。

 

「でも、皇太后陛下のお父さんは偉いわ。よく許してくださったものね。

 私の息子がそんな真似したら、ふざけた花束を口に突っ込んでやります。

 そして息子を殺して、私も死んで詫びるしかないわ」

 

「えっ……なんでそんな話になるんですか!?」

 

 空色の瞳に冬の冷気を漂わせた一児の母は、ユリアンの疑問に簡潔に答えた。

 

「花束の選択が最悪よ。花言葉が俺は最低の男ですと言ったも同然ね」

 

 ユリアンは首を捻った。真紅の薔薇は情熱と愛の告白、白の薔薇は尊敬とあなたは私にふさわしい。薔薇の花言葉は有名なものだ。特にまずいとは思えないのだが。

 

「キャゼルヌ事務監の前では言えないとだけは言っておくわ」

 

 これに、黒髪と赤毛が何度も頷いた。

 

「ヒントはねぇ、混ぜるな危険。ワルターも教えておけばいいのに」

 

「そうね、ミンツ中尉。調べておいた方がいいわ。

 これは、知らなかったじゃ済まされない禁則事項よ。

 あんな綺麗な彼女に、嬉し泣き以外をさせるものじゃないわ」

 

 顔を赤らめたユリアンに、人事査定のプロはシニカルな笑いを浮かべて言った。 

 

「なに、それでも俺の試験を突破する奴も世の中に絶無じゃないんだぞ。

 まあ、男親なんてそんなもんだ。ユリアン、お前も心しろよ。

 下手を打つと奴さん、化けてでるかもしれん。

 幽霊の復讐は防げないもんだと相場が決まっているからな」

 

 その試験合格者は誰なのか、とても聞くことはできないユリアンであった。

 

 そして、紅白の薔薇の花言葉を調べたユリアンは、あの場でそれを暴露しなかった金髪美人に心底感謝した。意味の一つ目はあたたかな心。これだけならばよかったのだが、もう一つの意味があった。

 

 それは和合。朝帰りさせた女性の自宅に駆け付け、父親の面前で差し出すには、この世で一番不適切な花々であった。他人事ながら、背中を悪寒が駆けのぼる。

 

「皇帝ラインハルトは、キャゼルヌ中将の試験は不合格だろうなあ。

 たとえ皇帝陛下でも、いびりぬいてから始末するんですね……」

 

 あの人ならば絶対にやるし、出来るだろう。キャゼルヌ家の姉妹に幸あれ。そして彼女たちの未来の恋人にも。

 

「それにしても、試験合格者って誰なんだろう……?」

 

 

 また別の日。皇帝陛下のプロポーズの話が出ると、行きがかり上、亡き司令官の話題も出されるもので。ユリアンとしては、淡い初恋に打たれた終止符の記憶でもあるので、なんとも複雑なのだが。

 

 少年の初恋の相手が、青年の恋人にちらほらと語るエピソードの数々。フレデリカの惚気を聞いたカリンから、魔術師の弟子にも伝わってきたのだ。薔薇の騎士の娘はしみじみと呟いたものである。

 

「いいなあ、フレデリカさん。羨ましいなあ……」

 

 傷つくから、自分の顔を見て溜息をつかないでほしいし、ずばりどの辺が羨ましいのだろうか。ユリアンは質問してきた女性陣に概要を告げた。どんな辛辣な論評が交わされるのだろうか。戦々恐々としながら、興味も深々である。

 

「シンデレラ・リバティの時だったのね。やっぱり、ヤン提督の方からだったんだ。私の勝ちね」

 

 にっこりと笑った金髪碧眼の中佐が、赤毛で灰色の眼の大尉と黒髪黒目の少佐に手のひらを差し出す。

 

「絶対に、フレデリカ先輩から告白すると思ったのに」

 

「同感だわ。あそこで手札を切ってくるなんて、さすがヤン提督」

 

 口々に不平を漏らしながら、二人が差し出したのは十ディナール札。

 

「おい、勤務中に賭け金の徴収なんぞするな」

 

「もうとっくに定時は過ぎていますもの。

 あ、あなたたち、ちゃんとキャゼルヌ事務監にも払いなさいよ。

 後でいいってお達しだけど、忘れないようにしなさいね」

 

「キャゼルヌ中将まで参加してただなんて……」

 

 ユリアンのショックも倍増である。

 

「でも、皆さん、皇帝ラインハルトの時より随分好意的ですね」

 

 戦場でどちらも軍服のまま。花束もなく、男性側の容貌の差は、言わぬが情けであろう。紅白の薔薇ならば、ないほうが千倍もましではあったけれど。いや、師父の場合はOKだった。それも問題ではないだろうか。交際をすっ飛ばして、結婚の申し込みというのも、正直ちょっといただけない。ユリアンとしてはそう思うのだ。

 

 三色の瞳が目配せをしあってから、ダークブラウンの瞳に向けられる。

 

「だって、ヤン提督が負けて旗艦が轟沈したら、副官のグリーンヒル少佐も一緒に死ぬのよ」

 

 これは赤毛の大尉、バーサ・ブライスの言だ。

 

「そうそう。俺は死なない、おまえを守る。

 いいえ、おまえのために勝つ、ぐらいのことをおっしゃっているわけよ」

 

 黒髪のクリスタ・チャベス少佐が続きを引き取って、

 

「そして、もしも死んだらあの世で一緒だって言ったも同然。男だわ。

 息子に見習わせるなら、絶対にヤン提督の方よ」

 

 頷きながら続ける金髪のアメリア・アッシュフォード中佐。ユリアンの眼が真ん丸になった。女性とはどこまで読解力がある生き物なのか。

 

「そして勝っちゃうんだから、凄すぎますよね。

 そこまで言わせるフレデリカ先輩も凄いと思うわ。

 何と言っても、エル・ファシルが占領されるかどうかの瀬戸際で、

 ヤン提督を見初めるのが、まず凄いんだけど」

 

 凄いを連発するブライス大尉に、チャベス少佐も大きく頷いた。

 

「そうよ。もしも帝国に占領されたら、自分がどういう目に遭わされるかなんて、

 想像力が1グラムでもあったら考えるでしょ。

 その中で、頼りない中尉に惚れたってことは、

 彼が失敗するなんて思ってもいなかったんじゃないの?」

 

「そういえば、先物買いの素質があるのかも、っておっしゃってたことが」

 

 ユリアンは辺塞の短い寧日を思い出した。初恋の人は、知的で理性に富んだ才女だと思っていた。最初から、突き抜けていたんだろうか、ひょっとして。

 

「そこから士官学校を目指して、次席で卒業、副官の座を射止めるっていうのも

 ありとあらゆる面でただものじゃないでしょう。

 キャゼルヌ事務監。彼女の配置が貴官の手配というのは、そういうことなんでしょう?」

 

 青い瞳が、薄茶色の瞳を意味ありげに見つめる。問われたほうは、実にさりげなく視線を外すと、人の悪い笑みを浮かべた。

 

「さあどうだろうな。さて、そろそろ仕事を続けてくれんかね。

 おまえさんらも、日付変更線を三日連続で跨ぎたくはなかろう?

 俺だって、オルタンスの手料理で一杯やりたいからな。

 そうそう、一人二十ディナールだったな。忘れずに出していけよ」

 

 

 これらのエピソードは、後にアレックス・キャゼルヌの帝国の友人にも伝わった。

 

「いやいや、それは国の違いと言うもの、皇帝陛下のお召しを拒むことはできぬのです。

 相談役になった時点で、そういう相手に選ばれているとお考えになるべきだ。

 そちらのお国の人事とは違うのですよ。

 お話によると、ヤン元帥ご夫妻はそうともいいがたいのか。

 ともあれ、わが国では男が疎いならば、女の方が相手を教育するのです」

 

「それはそれは……」

 

 語尾を曖昧に濁すと、キャゼルは眉間に皺を寄せた。そういうお国柄では、余計に父の気持は複雑だろう。本来拒めない皇帝の求婚の延期を願えたのは、一重に若い二人が無知だったのだ。

 

「このようなことは、アレク殿下にもお知らせしないように願います。

 その点、私の妻はよくやっている。皇太后陛下や大公妃殿下への書状はそういうことです」

 

「ほほう、貴族の深謀遠慮とは大したものですなあ」

 

「なにしろ、年齢と家柄と性別、これで選択肢が定まってしまう世界でした。

 子どもには無理なこと、女親の役割です。皇太后陛下はその点がお気の毒と申せましょう」

 

「なるほど、そういう部分をご存知ないがゆえに、生まれた個性ということでしょうかね」

 

「そうでしょう。旧王朝で女性が大学に行かなかったのは、婚期を逸するからです。

 新領土の方には理解しがたいことかと思いますが」

 

「そうですな。私にも二人の娘がおりますが、高等教育を受けずに、

 はたち未満で結婚というのは、親としては反対です」

 

「宇宙統一の恩恵で、帝国もそうなりつつありますよ」

 

「恩恵ですと?」

 

「恐らく劣悪遺伝子排除法です。知らない方がいいと蓋をしてしまった。

 おかげで周産期医療が衰退し、マクシミリアン晴眼帝の英断をもっても、

 衰退した医療は復活しなかった。これは私の側室の推論です。

 帝国の首脳部は男やもめが多い。私もそうなるところでした。

 女性にとって安全な時期に出産を行うために、早婚が社会的に推奨されたのだとね」

 

 キャゼルヌは薄茶色の目を瞬いた。

 

「そういうお考えもありますか」

 

「ええ、それが解消されれば、帝国の女性進出も進んでいくでしょう。

 私の娘も、フェザーンに進学したいと申しました。

 あの子が望みを口にするのは始めてなのです。

 ようやく、そうできるような世界になってきたのです。

 皇帝陛下でも、意に沿わぬならば、否と言える時代がまもなくやってくる。

 その時は、私も貴卿に倣うことにしましょう」

 

 ユリアン・ミンツが知れば、幸あれかしと祈る相手がまた誕生したのだった。



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赤と白

 皇帝(カイザー)ラインハルトの赤と白の薔薇のエピソードに、オリビエ・ポプランは塩と酢を同時に飲まされたような顔をした。そういえば、イゼルローンの後片付けをしていたころに、女友達の一人から聞かされたような気がする。当時は、あの超絶美形の天才にも間抜けなところがあったんだな、ぐらいにしか思わなかった。

 

 種を蒔いても実らせるようなヘマはしないと豪語していた彼だ。僚友の隠し子を部下に持ち、気を遣った経験もある。一月に婚約と結婚式、大公アレクの誕生は最後の決戦直前の五月十四日。誕生のニュースを聞いたかもしれないが、それどころではなかった。そして七月。ユリアン・ミンツにくっついてフェザーンに行ったら、皇妃が二、三か月の赤ん坊を抱いていた。

 

 旧自由惑星同盟では、さほどに珍しいことでもない。諸手を挙げて賛成される類いのものでもないが。バーラト星系の共和民主制による自治を認めてもらった以上、ローエングラム王朝が存続して貰わないと困る。

 

 乳飲み子を抱えて夫に先立たれるのは気の毒だが、子を遺すことなく逝ってしまったヤン・ウェンリーよりもいいと、ポプランは考えていた。あれだけ惚れて惚れぬいた男の後釜なんて、見つかるもんじゃない。あの人に勝てる男でないと、フレデリカ・G・ヤンに新たな姓を名乗らせることはできないだろう。

 

「そんな奴ぁ、いないわな」

 

 ポプランの呟きに、イゼルローン残務処理部隊の面々は、深く頷いたものである。なお、ユリアン・ミンツはキャゼルヌ直伝の教育指導中でその場にいなかった。

 

「その点、あちらさんは忘れ形見がいるからな。羨ましいだろうなあ」

 

「ほんとに残念よね。男の子か女の子か、顔がどちらに似るかもわからないけれど、

 きっと黒髪に黒い瞳だったのに」

 

 衛生兵資格者の言葉に、みんなしんみりとした。

 

「あっちの坊やは、まだ髪の色ははっきりしないが、目は随分濃い青だったなあ。

 大公妃に似たのかねぇ?」

 

「双方の祖父母、どちらかからの由来よ。

 マリーンドルフ伯はブルーグリーンじゃないし、きっと父方似かな。

 どっちに似ても美男子間違いなしよ。結婚で苦労しそうよね。

 自分より顔のいい男なんて、そばに寄りたくもないもの」

 

 女性陣から賛同の声があがった。発言者は、黒髪に黒い瞳、ブロンズの肌の肉感的な美女だ。モデルになるには筋肉質にすぎるだろうが、イゼルローン軍でも五指に入る美貌の主。しかし、絶世の美青年というと、これまたレベルが異なるわけであった。

 

「そういえば、ミンツ軍司令官から聞いたんですけど、

 ヤン提督が美貌と遺伝子のお話をなさったことがあるそうです。

 美貌の持ち主は、遺伝子の変異がすくない傾向にあるから、

 劣悪遺伝子排除法の中での、貴族の知恵だったんじゃないかって」

 

 発言者は、薄く淹れた紅茶色の髪に、青紫の瞳と貴族号をもつ少女だった。父母は帝国貴族の亡命一世で、彼女は二世。亡き黒髪の司令官の薀蓄の正しさを、証明するような存在である。ポプランの好みからいうと、花なら蕾といったところだが、咲き誇った暁には、見事な大輪になりそうだ。

 

「ふーん、そういう見方もあんのかねえ」

 

「でも、裕福な生活をすると、人間は美しくなっていくし、

 裕福な人間が美貌の基準になっていくともおっしゃったんですって。

 貴族階級は少ないから、限られた人数の中で結婚を繰り返していく。

 だから、とてつもない美男美女が生まれるんだろうって」

 

「へぇ、そりゃ面白い。

 じゃあ、帝国には他にも絶世の美女がいるかもしれないのか。

 そいつは楽しみだ。いまや宇宙は一つ、愛の伝道に差別をすべきじゃないもんな」

 

 色あせた麦藁色の髪に、ブルーグリーンの目の屈強な青年が、呆れ果てた表情でぼそりと言った。

 

「アホか。一代に一人しかいないから絶世というんだぞ。

 他にもいたら、皇帝の網に引っ掛からんはずがないさ。

 同盟ならともかく。で、同盟なら世間に見出されんわけがない」

 

「じゃ、遥か以前の美女と、かなり未来の美女ならいるのかも知れんぞ。おれは後者に期待する」

 

 ポプランを除いた一同は、さっさとコーヒーの載るテーブルから踵を返し、休憩はそこで終了になった。

 

 そして時は流れ、ポプランは予言の的中を目の当たりにしたのだが、それは苦闘の始まりであった。妙齢を迎えたペクニッツ公爵家の令嬢が、立太子式への招待を受けることを、勇気を奮い起こして決心した。しかし、当主である父の許しを得なくてはならなかった。

 

 彼女はまだ未成年だから、パスポートの取得に保護者の署名が必要だ。貴族の場合、旅券の取得は庶民よりも少々厳しい。父母が健在ならば双方が署名しないと申請が通らない。ローエングラム朝唯一の公爵の署名だ。筆跡の偽造は不可能である。

 

「君がフロイライン・ペクニッツを説得したんだろう。頑張ってその父上も説得したまえよ」

 

「いやいや、俺みたいな若造よりも、コモリ社長のほうが絶対に適任ですって」

 

「ははは、何をおっしゃるポプラン船長。私の説得力なんぞ、到底君には及ばんし、

 君ももう、若造とは口が裂けても言えん歳なのだからして」

 

 初老と外見青年の社長達は、互いに責任をなすりつけあった。

 

「人間とは世を忍ぶ仮の姿、おれはきらきら星の高等生命体ですからね。

 おれの本当の故郷では、まだ若造どころかおしめも取れてませんよ。

 もうドレスも発注してるんだし、最大の受益者がここは一つ!」

 

「だが、もっぱら煽動したのは君だろう。素材の輸送はこれからも御社に頼むから、な?」

 

「だから、おれは逆効果ですって。

 フロイラインと話すとき、メイドがみんなこっち見てるんですよ」

 

「なあに、それは君がいい男だからだよ」

 

「そいつは否定しませんが、七十近い公爵夫人のばあやさんまで箒片手にって、

 おかしいでしょうが! なにより、目が違う。あれは殺す気の目だ」

 

「ああ、あのお人は、宮廷付きの武装女官だったそうだからなあ。

 警護官としての意識の高さゆえだよ。多分な」

 

「ちょっと、おれの目を見て言ってくれませんかね。

 それにしたって、宮廷付きの武装女官って、いったいいつの話ですか」

 

 コモリ・ケンゾウは焦げ茶色の目で、虚空を睨んだ。緑の瞳を見返すことはなく。

 

「あー、多分、オットーフランツ二世のころじゃないかね。

 オトフリート五世は、締り屋だったから廃止されたんだろうなあ。

 かわいい孫娘の学友に、武芸を仕込んだ令嬢を選んだというところかね」

 

 張りを失っていない額に、くっきりと縦皺が刻まれた。

 

「勘弁してくださいよ。

 祖母から孫までの三世代に渡って仕えてる、帝国貴族保守派の最右翼じゃないですか!」

 

 星間商人となって知ったことだが、よき妻たれとの帝国の子女教育は、気楽なポプランの想像を遥かに超えるものだった。爵位ある貴族の令嬢が、家族以外に顔を見せる異性は、婚約者とその親兄弟ぐらいなのだ。女性当主となるべき令嬢は、その限りではないが、必ず複数の人間が目を光らせている。あのばあやさんの目つきや挙措動作は、明らかに只者ではない。肉弾戦で負けるとは思わないが、容易に勝てそうにない気がするのだ。

 

「あー、そのなんだ、そうなんだよなあ。

 私も彼女から、皇女エリーゼ殿下の話を聞いたんだが、

 三人の娘の中で一番似ているのが、エレオノーラ夫人らしい。

 カザリン嬢が誰に似ているかは言うまでもない。娘や孫同然だろうなあ」

 

 旧王朝では歴史の授業は、皇帝への美辞麗句に満ちたものであった。皇帝の不行状は、国民が学校で教わることはなかった。多少の悪政ならば、それよりはましだと思えるように、流血帝や痴愚帝の悪事は教えられたのであるが。

 

 これが、女性教育となるとさらにベールで包み隠されてしまう。皇帝陛下の聖恩を讃えるのみだ。オトフリート四世が庶子を含めて六百人以上も子を為しただとか、フリードリヒ四世は、若い頃は美熟女、晩年には美少女を寵愛したとか、そんなことを学校で教えられたものではない。はしたないし、正直にそう言えば皇帝への不敬罪になりかねない。歴史学と専制政治は相性がよくないのだ。

 

 ラインハルトとヒルダの場合、公開したがゆえに帝国の保守層に忌避された。他の皇帝だってやっているじゃないか、という反論は帝国の一般庶民には通じない。旧同盟に知られているのは、皇妃選びの敗者だった貴族が報復を恐れて亡命し、その原因を怨恨交じりにぶちまけたからだ。

 

 同盟政府は、そういう情報を教育に盛り込んだ。皇帝の暴虐と専制政治の欠点をあげつらい、共和民主制を守るために戦い抜けというのに、これほどうってつけのものはない。ゆえに、帝国国民が知らないことを、旧同盟国民が知っているという知識のねじれ現象が起こった。

 

 旧同盟の者からみたら、もっとひどい皇帝がいたじゃないか、なんで自国民がそんなに嫌うんだと疑問に思う。さらに反問されたポプランが例に挙げたのが、絶倫帝オトフリート四世だったのは確かにまずかったかもしれない。

 

 ポプランにかかれば、彼らは権力に物を言わせなければ、女をものにできない腰抜けの甲斐性なしだ。その感想は胸中に留め、口にはしていない。不敬罪を気にしたのではなく、男としての慈悲である。 

 

 そんな彼らでも、正妃相手に『できちゃった婚』はしていなかった。正妃と側室、寵姫には、身分の序列がきちんと定められていて、皇帝も見合った待遇をしなくてはならないからだ。伯爵令嬢に、成り上がり者が狼藉を働いた、と見る向きも当然に存在する。皇妃の実家は貴族の筆頭となるから、公爵に昇格させなくては宮廷の序列が乱れる。先帝がそれをしなかったから、皇太后や前国務尚書にはもうできない。自らの家を昇格させるのは禁忌だ。

 

「おまけに、リンデンバウムの上の姉妹が、社交界に顔出ししなかった理由が、

 これまたまずいんだよ」

 

「はぁ? できちゃった婚以上に悪い理由なんぞあるんですか」

 

「オッドアイの美しい肉食魚が、夜会を遊泳していたからなんだとさ」

 

 ポプランは再び渋面を作った。さっきの調味料にコーヒーが加わったのである。

 

「うわあ……。あの坊やは坊やで結構大変だな。

 自分の顔が嫌いだって言っていたのは、なんて罰当たりなと思ったが、

 そりゃ当然過ぎる理由になるわな」

 

 明るい褐色の髪を乱雑にかき回す。

 

「そこへ持ってきて、プロポーズに紅白の薔薇を贈ったなんて聞けば……。

 キャゼルヌのおっさんも黙っていてくれりゃいいのに」

 

「何かあってからじゃ遅いと、娘を持つ側の考えとしちゃ当然だね。私だってそうするぞ」

 

「あれ、社長、お嬢さんいらっしゃったんですか?」

 

「いればの話さ。うちは四人とも男だ。娘も欲しかったんだがねえ」

 

 ここにもカザリンに娘を投影している者がまた一人。彼女の人名録は、自称保護者で一杯だろう。

 

「ただ、氏より育ちとはよく言ったもので、ミッターマイヤー国務尚書夫妻の評判は至極いい。

 あのお二人に育てられたのなら、滅多なことはないと言っておいた」

 

「あ、そりゃどうも」

 

 フェリックス・ミッターマイヤーも、ポプランと縁のない仲ではない。生真面目で賢い、繊細な美少年だった。かつての亜麻色の髪の少年に少し似ているところがある。巨大な才能を持っていた父二人との対比に、悩み続けることだろうという点でも。

 

「だから、こんどは君が担当するんだ。これがバーラト政府のいう機会均等の原理だろう」

 

「そりゃずるいってもんだ。明らかにおれのほうがウェイトが大きいでしょ!

 戦力の逐次投入は下策だって、ヤン司令官も言ってました。

 おれで駄目なら、結局コモリ社長がやらなくちゃならないし、

 三回目におれたちが揃って説得する頃にゃ、意固地になっちまっててもおかしくない」

 

「ううむ、一理ある。旧王朝の門閥貴族のような権力はないにしろ、

 公爵の機嫌を損ねるのは得策じゃない。

 かつての門閥貴族にはない、平民からの人望もお持ちだ。

 そのうえ、彼より身分のある男は、大公アレクだけだからな」

 

「まだ十六やそこらの坊やが対抗するには難しいよなあ。惚れた女の子の親でもあるし。

 なんで、他に高い爵位の家がないんですか」

 

「先帝がやらなきゃ、皇帝アレクサンデル以外にはできん。

 そういうものなんだ。立憲君主制に舵を切ると、臣下の爵封は難しいな。

 子沢山なら、皇太子以外を公爵に叙せばいいんだがね」

 

「ややこしいもんですねえ」

 

「ああ、七元帥じゃなくて、七侯爵とかにするのが普通の皇帝なんだ。

 公爵の対抗馬としてね。自らの宮廷を、先帝は考えなかったんだろう」

 

 ペクニッツ家が唯一の公爵家という問題はまだあった。門閥貴族制を否定した皇帝ラインハルトだが、女帝カザリンの実家を子爵のままにはできなかった。王朝の開祖が先帝の父を公爵に叙し、生涯にわたって年金を賜るということは、非常に重い意味を持つ。それを軽視していたというよりも、無知だった節がある。

 

 軍部は言うに及ばず、当時の国務尚書は宮廷の主流派でなかったマリーンドルフ伯爵だ。新帝国の者はみな、宮廷の力学は門外漢だった。その結果、オーベルシュタイン元帥がナンバー2不要論を唱えていた帝国首脳部ではなく、貴族にナンバー2が存在する。

 

「なるほど。いまや、大公領の実質的な指導者ですもんね。

 駄目男と皇太后に告げ口された人が、そこまで変わるとはね」

 

 遷都によって、切り捨てられたかに見えたオーディーンと帝国本土を、残った貴族の力を集めて復興に導いた、ペクニッツ公ユルゲン・オファーだ。伝統工芸を保護する一方、医療従事者への奨学制度や、平民の雇用先の開拓を行っている。その功績は貴族の筆頭として申し分ない。メックリンガー夫人マグダレーナが匙を投げていた男と、同一人物とは思えない活躍である。

 

「考えてもみたまえ。リンデンバウム伯爵家は、文化や典礼の名門だった。

 母はフリードリヒ四世の妹。いい意味での貴族、真の貴顕だよ。

 その可愛い末娘を、本物のろくでなしに嫁がせるわけがないじゃないかね」

 

「じゃ、公爵は根っからの駄目男じゃなかったわけですかね?」

 

「前当主のペクニッツ子爵は、一廉(ひとかど)の人物だったそうだ。

 息子は少々気が弱いが、よき妻が補佐すれば自分を超えるだろうと、

 親友を拝み倒して、夫人を婚約者にしたんだとさ。

 長い婚約時代、互いに家を行き来して、夫人の兄二人には実の弟のように可愛がられた。

 彼は一人っ子だからな。それを奪われて、荒れないほうがおかしいだろう。

 父はクロプシュトック候事件で亡くなって、買い物依存症はそれが原因らしいが」

 

 彼は趣味の象牙細工に父の遺産を注ぎ込んで、負債で首が回らなくなった。しかし、それが彼の育ちのよさからくる限界だった。酒や麻薬に逃れるという発想がないのだ。

 

「もっとも、ペクニッツ公は下戸でね。乾杯のシャンパン一口がせいぜいらしい。

 象牙につぎ込んで、麻薬代を工面できなかったのも幸いだったな」

 

「コモリ社長、なんでそこまで知ってるんです」

 

「服を注文する時は、好みや何かを口にするもんだよ。お年寄りの意見は重要だ。

 そんな話を聞くうちに、昔話も出てくる。

 要は、彼を立ち直らせたお嬢様たちが、いかに素晴らしいかという自慢だ。

 さすがは、皇女殿下の娘よ孫よと、こうさ」

 

「ははあ、あと四十年、せめて三十年若けりゃあ、俺も喜んで拝聴しますがね。

 あんなばあさん、失礼、年配のご婦人の意見が、今のファッションの参考になるんですか?」

 

 首を捻る明るい褐色に、半白になった黒髪が振られる。

 

「帝国には、ドレスの色や柄、襟あきや袖丈まで、実に細かいルールがある。

 宮廷にいた人だから、貴族から平民まで、あらゆるドレスコードを知っている。

 貴重だよ。新領土やバーラトと違って、ここでは流行より伝統が重要だ。

 そいつを取り入れて消化せんと、帝国では商売にならん。

 例えば、純白のドレスは、社交界デビューとウェディングドレスの時のみ許される。

 真珠は昼、ダイヤは夜に着けるものだ」

 

「へぇ、信じらんないな。おれなんてドレスの下ばかり気になりますがね」

 

 服飾メーカーの社長は、眼光を鋭くした。

 

「馬鹿かね、君は。女性が着飾るのは、男のためじゃない。自分のためだ。

 異性を虜にし、同性から身を守り、攻撃する武装だぞ。

 欠陥があれば、たちまちにつけ込まれて、敗北に追いやられる」

 

 色事師の口の端が引き攣った。

 

「あの、そいつは服の話ですよね?」

 

「当然だとも。こいつは、フェザーンや旧同盟でもまったく変わらんよ。

 あんなにファッション関係の情報が溢れているのはそのためだ」

 

 ポプランは、これまでの女性遍歴に思いをいたした。以前は軍服、現在は船員服が彼の交遊録の主たる衣装だ。気品ある、長い裳裾のドレスを着こなした相手はいなかった。

 

「なにやらシビアな話だなあ」

 

「とにかく、あの家はわが社の帝国本土の広告塔だからな。

 今度は宇宙全土の広告塔となるんだ。失敗は許されん」

 

「じゃあ、一緒に頑張りましょうや」

 

 二人は固く握手を交わして、決死の思いでユルゲン・オファーに面会を申し入れたのだった。

 

 

「どうしたのかね、ヘル・コモリにヘル・ポプラン。貴卿らが揃って、私に話とは珍しい。

 まさか、カザリンのドレスの納期が間に合わないのではないだろうな?」

 

 怪訝な顔で口火を切ったのは、ユルゲンの方からだった。二人が言葉の選択に迷っている間に、彼は懸念事項に思い当ったようで、表情を険しくする。それがまた二人を驚かせた。

 

「え、あ、その、ドレスの納期には問題はございません」

 

 反射的に返答したコモリを、ポプランは肘でつついて、旧同盟公用語で囁きかけた。

 

「いや、その話を言いに来たんでしょうが。なんか、話が違いませんか?」

 

「なんのことだね」

 

 公爵から返されたのは、明瞭な同盟語だった。これはポプランの手抜かりだった。側室のホアナと二人三脚で、同盟の精神心理学の医学書を訳したユルゲンは、帝国貴族らしくなく同盟語が堪能だった。ハンター行政官が、鉄壁ミュラーに語ったように、言葉を覚えるにはその国の女性を恋人にするのが一番なのかもしれない。

 

「こ、これは、失礼をばいたしました。

 じゃあ、公爵閣下は、フロイラインがそのドレスを着ていく先を、

 ご存知でいらっしゃるんですよね……?」

 

 ユルゲンは渋面になった。

 

「仕方があるまい。

 知りたくはなかったが、私の妻は内緒でドレスを誂えるような浪費家ではない。

 あの子は悩んでいたようだが、立太子式の主役直筆の招待状を、蹴れるものではないのだ。

 公爵家の令嬢だからこそ、ローエングラム王朝の(かなえ)軽重(けいちょう)を問われるような行いは許されん」

 

 コモリとポプランは顔を見合わせ、安堵の溜息を吐いた。

 

「お許しになっていらっしゃったとは、これは私どものお節介でございましたな」

 

「それにこれから、フェザーンに留学する気だというのだから、

 大公殿下や皇太后陛下に、表敬訪問をしないわけにはいかない。

 どうせなら、一度で済ませたほうがいいだろう」

 

 ユルゲンも溜息を吐いて、眉間を揉んだ。

 

「は、はい? 留学ですって!?」

 

 ポプランの相槌は、調子外れの音程になった。

 

「留学とは、フェザーンにですか? 一体、どちらへ」

 

 生粋のフェザーン人が怪訝な顔になった。科学や人文系ならオーディーン大学の方が勝る。フェザーン大学は、まだまだ研究の蓄積が足りない。

 

「オヒギンズ商科大学といったか、その大学院に行きたいとね。

 私の事業を継げるようにと、通信教育を受講していたらしい。

 修了試験の合格証と、大学院入試の合格証を見せられて、私は始めて知ったのだが」

 

 焦げ茶色の目が大きさを増して、コモリはハンカチで額の汗を押さえた。どうやら自分たちよりも、カザリンの方が三枚ぐらい上手だったようだ。立太子式の出席は迷っていたが、帝都には行く気で、着々と準備をしていたのか。

 

「聡明な方だとは思っておりましたが、フェザーンきっての名門ですよ。

 大学に通学していても、難しい授業が多いという話ですのに、

 通信教育で修了証書を手になさるとは。いや、驚きました」

 

「そうかね、そんなに難しい学校だったとは。

 学校に通ったことがないあの子が、飛び級までして、授業について行けるのだろうか……」

 

 別の意味で難しい話になってきた。よその子の学校の成績も、神経を使う話題である。

 

 

「ずいぶん早くに出発なさるのですな。フェザーンも新年度は九月からですが」

 

「ああ、正式な入学は九月からだが、六月から通信教育修了者の準備授業があるのだそうだ。

 しかし、うまくやれるのだろうか。 

 ヘル・コモリ、私は帝国の人間なので、フェザーンの大学の評価基準がよくわからなくてね」

 

 ユルゲンは、コーヒーテーブルに載せてあった、カザリンの修了証書をコモリに差し出した。

 

「その成績で本当に大丈夫なのか。忌憚(きたん)のない意見を言ってくれたまえ。

 無理なら考えないといけないだろう」

 

 ポプランは首を傾げた。

 

「あの、側室の方はフェザーン出身でしょう。お聞きにならなかったんですか?」

 

 ユルゲンは重々しく頭を振った。

 

「正室の子の相談を、側室にするのはマナー違反だ。もめる原因になる。

 子どもの頭の出来の差を、張り合うことになりかねん」

 

 社長らは顔を見合わせた。大貴族の生活というのもかなり気を遣うようだ。夫と正室は公平を、側室は正室への配慮を必要とされる。

 

「さ、さいですか」

 

「それにあちらは医学、こちらは経済学だ。学校を知る人に聞いたほうが、私が納得できる」

 

「では失礼しますよ。私はあんな一流大出ではありませんが」

 

 コモリは証書を開き、ポプランもそれを覗きこむ。

 

「う、すげ、AプラスとAばっかりだ。Aの方が少ないって、まあ……」

 

「ペクニッツ公、この成績表をフェザーンの者にお見せになって、

 さきほどのようなことをおっしゃると、喧嘩を売っていると思われますよ。

 非常に優秀な成績です。それこそ、カウフ二世になれるかもしれないほどです」

 

 コモリの言葉に、ユルゲンは愁眉を開いて、椅子の背もたれに体重を預けた。

 

「ああ、ならばよかった。ヘル・コモリ、貴卿に感謝する。

 では留学の準備を進めても大丈夫だろう」

 

 心配性の父親を、かきくどく心配性がもう一人。

 

「ペクニッツ公、フロイラインのお住まいは私に手配させてください。

 我が社の専属モデル用のマンションに、空きがございます。

 妻が管理をしておりまして、男子禁制のうえ、セキュリティーも厳重です。

 不埒なマスコミ対策も万全。お安くいたしますから」 

 

「いや、しかし、あの子は家事や炊事はほとんどやったことがない。

 コーヒーを淹れたり、茶菓を取り分けたり、ワインを開けたりぐらいはできるが。

 だから、ホテルか賄い付きの寮を考えていてね」

 

「それは大丈夫です。火傷や青痣を作られてはいけませんから、

 モデルにはその類の事をやらせません。そちらの管理も含まれておりますから」

 

 ユルゲンは、腕組みをした。

 

「こういう事は、女親に任せた方がよさそうだ。

 エレオノーラとも相談して、後ほど返答をさせていただこう。

 だが、ヘル・コモリのご厚情には心から感謝する」

 

 ポプランは、頭をかいた。男どもが気を揉んでいるうちに、当の本人はとっくに旅立ちの準備を済ませていた。父親を納得させ、満足させる成果を武器にして。戦いは事前の準備、戦略で九割九分の勝敗が決すると、黒髪の魔術師が言っていた。カザリン・ケートヘンは天性の戦略家かもしれない。

 

「でも、ご心配でしょう。おれも知り合いに頼んでおきますよ」

 

「ポプラン社長の励ましにも、礼を申し上げなくては。

 ほんとうにありがとう。どれほどカザリンが勇気づけられたことか。

 あの子に罪がないことを、私たちの口から世間に言えない。それが爵位と年金の代償だ。

 だが、カザリンには言葉で伝えられないことを伝えられる武器がある。

 それをよく、あの子に教えてくださった」

 

 ユルゲンは貴族らしく、気品ある一礼をした。

 

「はあ、武器ですか?」

 

「可愛いは正義だったかな。可愛いという形容詞は、帝国では子どものものだ。

 赤ん坊ならば更に可愛いものだろう。カザリンはそれを知ったのだろう。

 正義と自分の心のありかを」

 

 子どもの名において、門閥貴族が討伐され、赤ん坊の名において、自由惑星同盟に侵攻した。その皇帝の名を引き継いだのは、さらに小さな赤ん坊だった。

 

 時は流れ、幼児は乙女に、乳児は少年になった。自分と同じく、逃れられぬ血の重圧に立ち向かう少年。 ずっと手紙を送り続けてくれた相手が、心に占めている位置を。

 

「正直、気付いてほしくはなかった。

 だが、強要されるならば私にも考えがあるが、カザリンが望むなら話は別だ。

 先帝陛下は、欲するものを手に入れるために戦われた。

 先々帝であるカザリンが、同じことをしても非難される(いわ)れはない。

 ヘル・コモリ、金に糸目はつけん。

 あの子に似合う、最高に美しいドレスを私からもお願いしよう。

 エレオノーラが差配しているなら、そうなるに決まっているがね」

 

 公爵の灰緑の眼には、妻への信頼と愛情が浮かんでいた。

 

「そこから先は、アレク殿下次第だ。

 さて、どうなさるのか、お手並みを拝見させていただこう」

 

「少なくとも、赤と白の薔薇を贈るようなことはしないでしょうね」

 

 混ぜっ返したポプランに、ユルゲンは洗練された動作で肩を竦める。

 

「いいや、赤と白の薔薇は、場合によっては最高のプロポーズの方法になる。

 そこまで極めていただかないと、私の娘は『はい(ヤー)』とは言わんだろうな」

 

 緑と焦げ茶がOの字を描いた。帝国貴族の文化は実に奥深く、螺旋の迷宮のようであった。



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宇宙暦/新帝国暦 X年
銀河に咲く薔薇


 新帝国暦十九年五月十四日、皇太子アレクサンデルの名において、新憲法制定会議が召集されると、彼は多くの法学者や歴史学者の意見に耳を傾け、広く世論も取り入れてよりよい憲法を作れるように会議を調整したとされる。十代の少年とは思えない、人遣いの巧みさが高く評価された。よく聞き、よく考え、よりよきを目指して決断した。会議内での多数決という方法で。

 

 ゆえに、皇太子アレクの思想が表立っていないと、歴史家に評されることがある。それはペクニッツ家に残る書簡集に秘されていた。

 

 

 親愛なるカザリン

 

 (前略)専制君主制から立憲君主制への移行に際して、皇太子が主導で法を定めるのは、

その理念に反するのではないかな?(後略)

 

 皇太子 アレクサンデル・フォン・ローエングラム

 

 

 一方、皇室の文書として残されているカザリンの返答は示唆に富んだものだった。

 

 

 親愛なる皇太子アレク殿下

 

 (前略)立憲君主制への移行により、最も権力を失うのは皇太子殿下ご自身でいらっしゃいます。アレク殿下が積極的に会議に出席をなさり、多くの意見の中から、同意ができる最良の答えを探すお姿をお見せにならなくては、後々に不満や禍根を残しましょう。アレク殿下が、公明正大であらせられることを、万人が知ることが大切です。

 

 陰謀では歴史は動かぬとは、ヤン元帥のお言葉だったとのことですが、わたくしには(がえん)んじえぬものがございます。陰謀をもってしても歴史は動くのです。歪み、捩れた形に。ルドルフ・ゴールデンバウムの独裁のように。

 

 最初から傾いた土台に建てた家は、また歪み、住人を苦しませる。しかし、歪み古びた家でも、住人にとっては住み慣れた家なのです。それを壊して更地とし、新たな家を建てられる決断力や財力のある方は、稀有な存在と申せましょう。

 

 憲法とは、国の土台となる法とうかがいました。この土台をかなう限りに真っ直ぐに据えれば、ローエングラム王朝という家は、堅牢で末永く人を住まわせることができるでしょう。

 

 アレク殿下は、家を作る職人ではございません。家の建築主であられるのです。職人に、正しく注文をなさるのが、権利であり義務である。わたくしはそのように思います。

 

 家をお作りになるのに、職人任せになさっては、住みやすいものとはならないでしょう。完成した建物を後で直すのは大変なことですわ。特に土台を直すには、屋根や壁、床まで壊すことになるでしょうから。(後略)

 

 カザリン・ケートヘン・フォン・ペクニッツ

 

 

 若き皇太子がどれほど勇気づけられたのかは、想像に難くない。彼の立太子式に出席したカザリン・ケートヘンは、合成映像を疑われるほどに美しかった。

 

 バーラト星系政府の帝都駐留事務所職員の夫人に、古風な銀塩写真が趣味の者がいた。彼女が観客席から撮影した一連の写真が、それを否定することになった。夫の描いた『イゼルローン・ポートレイト』とともに、ハイネセン記念大学に寄贈されている。ただし、写真は焼き増しが可能なため、歴史的資料としての価値はやや劣る。何人もの人々の手に写真が渡っているからだ。確認されただけでも、十数枚が現存している。

 

 皇太子アレクが、憲法制定に主導権を発揮していないという評価に対する反論は、数倍して余りある。皇帝の権限を制限する立憲君主制の導入に際して、皇太子が強硬な対応をしたら、再び宇宙は割れていただろうと。

 

 一方、あまりに急激に共和民主制に移行したら、銀河帝国本土を中心に、保守層による内乱が起きたことであろうと。血統と信望、美貌とカリスマで、絶好の旗印となりうる人物が存在したのだから。しかし、女帝カザリン・ケートヘン一世が復活することはなかった。

 

 新帝国暦二十二年十一月十四日、新銀河帝国憲法公布。翌二十三年五月十四日、皇帝(カイザー)アレクサンデル即位と同時に施行。二代皇帝アレクサンデルは、立憲君主として即位した。ゆえに、立憲君主制を育てたのは、皇太后ヒルダだとも後世に評される。

 

 皇帝アレクサンデルが、皇帝ラインハルトに遥かに勝るものがひとつある。それは時という恩恵だ。二十五歳という若さで崩御し、在位わずか二年だった父とは違い、彼は充分な時に恵まれた。

 

 父のような超巨星の輝きはない。しかし、地球における太陽のように、平凡な星こそが長い寿命を保ち、生命の誕生を、文化の成長を見守ることができる。

 

 そして、彼は独りではなかった。親友であるフェリックス・ミッターマイヤーを筆頭に、かつての七元帥達の子どもたちや、新領土やバーラト星系の若い世代にも友誼を結ぶことができた。これがさらに後の、象徴君主制民主主義への移行に、大きな役割を果たすことになった。

 

 

 アレクが公爵令嬢に送った最後の書簡は、短いものだった。

 

 

 愛するカザリンへ

 

 愛しています。七歳の頃から変わらず、ずっと。私と結婚してくださいますか?

 

 皇帝 アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム

 

 

 これまでの温かな心づかいに感謝し、さらにはローエングラムとゴールデンバウムという二つの王朝の融合となるように。添えられていたのは、赤と白の薔薇の花束。それは『温かな心、和合』の意味を持つ。

 

 対する返事は更に短かった。

 

 

 愛しいアレクへ

 

 Ja.(はい)

 

 カザリン・ケートヘン・フォン・ペクニッツ=ゴールデンバウム

 

 

 皇帝アレクサンデルの死後、かなり経ってから発見されたこの書簡は、純白の紙に薔薇の花が型押しされていた。白薔薇の花言葉は、尊敬、純潔、私はあなたにふさわしい。だから、花嫁のブーケの花として使われている。

 

 そして彼の子孫を呆れさせた。書棚の彼の愛読書の間に挟んであり、その所在を忘れていたことなどありえないのだから。

 

「何を今さらというか、お亡くなりになるまで隠しておく意味がわかりません」

 

 そう言ったのはひ孫の少年だったが、その叔母はこう返した。

 

「きっとことあるごとに読み返して、勇気をいただいていたのでしょうね」 

 

 祖母の面影を宿す彼女は、甥に淑女としての嗜みを込めてそう言った。初恋の成就を海色の瞳の目尻を下げて、こっそりと反芻していたに違いないのだ。この手紙を読めば、祖父の気持ちがよくわかる。一世一代の勇気への返答として、これ以上のものはなかなかないだろう。常ならぬほどに乱れた手蹟が、彼女の心を雄弁に物語っていた。逡巡と勇気と、なによりも愛情を。これでようやく『皇妃カザリンの書簡集』が完成をみた。

 

 その手紙を抱いていたのは、新銀河帝国法令集第一巻の巻頭、憲法のページだった。象牙の髪を、翡翠と金の髪飾りで結いあげ、群青の瞳を微かに潤ませ、白磁の頬を桜色に紅潮させた十九歳のカザリンの銀塩写真とともに。PEACEの色のドレスよりも、美しい花のかんばせが咲き誇っていた。

 

『比べこし ふりわけ髪も 肩すぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき』

 

 

 

 

 一時代の終わりを、バーラト自治領のある老人が詩に詠んでいる。以前はコックとして働き、三月兎亭の跡継ぎとなった人物だ。高齢のために引退し、悠々自適の隠居生活で、ときおりうまくもない詩を作る平凡な男だった。遊びに来た孫やひ孫にふるまう菓子や、食事の味のほうが、ずっと優れていたのは間違いないだろう。

 

 

 やがて、無明の闇へと落ちていく。

彼方から聞こえる、名を呼ぶ声は、彼のひとだけが奏でた調べ。

 

 星の灯火を掲げた手が、一人、また一人、天上に還っていく。

灯火は違う手が受け継ぎ、炎を移して広げていく。

地上の星たちの輝きも、天に劣らぬほど栄え、続くことを。

遺された者は願い、生を繋いでいく。

 

 遥かな未来、恒星の終わり。

大地に眠る者も、虚空に消えた者も、星の揺り籠となる。

いつの日か星と生まれて輝くだろう。

人は誰もが星の子ども、星の種子。

 

 ――エルウィン・J・V・ランズベルク――

 

 

 彼はまもなく、家族に囲まれてひっそりと生を閉じた。一世紀以上の長寿に恵まれた大往生であった。葬儀の後で開封された遺言状には、帝国語の墓碑銘が指定してあった。

 

天上(ヴァアルハラ)では、真実の名を告げよう。エルウィン・ヨーゼフ・フォン・ゴールデンバウム』

 

 いま一人の黄金樹の末裔も、幸せに生き、多くの子孫を残したのだった。戦火の時代は一世紀も前、ローエングラム王朝の帝位が象徴となったいま、遺族が名乗り出ることもなく、ヤン・ウェンリーの薔薇が咲き乱れる墓地に彼は眠っている。

 

 時は流れても、人は星を渡り、今も生き続けている。

 

銀河英雄伝説 仮定未来クロニクル 完  




ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。


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