七つ夜に朔は来る【未改訂ver】 (六六)
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第零話 原初

それは、とある部屋の中で起こっていた。

 

どう表現するべきだろう。

 

男の首が根こそぎ食い千切られた。形状をただ簡潔に表すならば、きっとこれが正しい。男の首元、筋肉繊維から喉笛、そして頸椎に到るまで、その中心部が猛獣の牙によって暴力的な破壊を成されたような形状を見せ、不気味な空洞が男の首にあった。もはや頭部と肉体の繋がりは皮膚によってのみ。

 

そして首が、ずれた。

 

鮮血が天井を濡らした。

 

吹き出る血は畳を、男の肉体を赤く彩る。

 

撒き散らされた血飛沫はまるで赤い花のようであった。

 

 人間の体は血液が絶え間なく循環し、それによって生かされている。肉体を運用させるために血液は栄養及び酸素を運ぶ。その巡りは止め処なく、人間という生命を生かすためには必要不可欠なもの。そのために血管は体中をかける。人間の血管は完全を成している。どこにも不備なく、穴もなく、欠ける事もなく、人間を生かす。しかし、血管を破り、出血は起こる。血液の無い人間はただの死体だ。人間ですらない。肉体は壊死し、その活動を停止させる。

 

 故に、男は死体に成り果てる。

 

 暫し、男は今自分がどのような状態に陥っているのか、理解が出来ていなかった。しかし、男の理解が追いつくよりも早く、その意識は霞み、そして途絶える。

 

 それを見ている、男がいた。

 

 研ぎ澄まされた抜き身の刃のような男だった。死に逝く人間を見る視線は鋭く、獲物を見つめる鷹のよう。その手には鋼の輝きを放つ、撥のような、あるいは擂り粉木のようなものが握られている。

 

 男は微動だにせず、死んでいく人間を見続けた。

 

 その目に感情はない。死に逝く者への憐憫、あるいは同情、あるいは嫌悪、あるいは畏怖。何もその瞳には映らない。感情も宿らぬ瞳は、男が死んでいく様を最後まで見続ける。痙攣する五体、根幹を失って後方にずれた頭部、座り込むように崩れる肉体。噴出する血飛沫は男の肉体をも染め、そしてそれも納まり、やがて動かなくなった。それを確認した男は踵を反す。そしてそこには一つの死体。

 

 室内から抜けた男を、跪いた数人の男たちが出迎えた。

和装の黒衣に身を包んだ、屈強そうな男たちは男の出た部屋に入りゆく。その内の一人が男に無言で手ぬぐいを手渡すが、男は何も言わず其れを引っ手繰るように受け取った。顔を拭い、撥を拭い懐に仕舞う。

 

 武家屋敷の中、男は無言で歩く。滑らかな重心移動、尖る気配が男の存在が尋常ではない事を告げている。血染めの衣服もまた其れを増長させているのもあるが、しかし、それ以上に男の目が際立っていた。

 

 先ほど、男は自身の兄を殺した。

 

 だと言うのに、男の瞳は何も変わらない。兄を殺した瞳から、その様はまるで変わっていない。まるで通常の瞳がそれであるかのように、瞳はただ冷たく、凍えている。

 

 男の兄は、禁忌を犯した。

 

 身内殺し。近親相姦を重ねる一族で、間引き以外の殺しにおいては最も重い罪だった。殺されたのは男の伴侶たる女。今しがた子を産んだばかりの女をその場で殺し、今廊下を歩く男の手によって首を破壊し尽くされ、命潰えた。

 

 男の兄は狂っていた。殺害に悦を見出した人間だった。元からそのような徴候はあったが、近年其れは悪化し身内の静止にも耳を貸す事もなくなり、そして遂には伴侶を殺し、女が死にゆく姿に、笑みを浮かべた。

 

 兄は殺人に快楽を感じてしまうような人間だった。一族はある事情からそのような人間が存在する一族だったが、兄の場合はそれが過剰であった。最も殺しに魅入られ、そして殺された。粛清と言う名の下。

 

 それを男は成した。当主と言う立場故に。

 

 だが、男は兄を殺してもまるで変わらなかった。揺らめかず、翳りなく、瞳はひたすらに鋭いまま。

 

 兄の姿は歪であった。理性をなくし、獣のような笑みを浮かべたあの顔。自身の弟が殺しに走ると言うのに、人間を壊すことに喜びを感じた悪鬼めいた表情。狂気に走る以前は情の分かる人間だった。少なくとも男以上には。だが、それもかつての話だった。男を身内と見ていない事なぞ、すぐさま知れた。獲物を見つめる愉悦の瞳。それが、かつて男にとって兄だった男の末路だった。

 

 無言で歩く男に罪悪や戸惑いはない。そのようなモノ、男には無縁であった。感情を削いで落としたような、無機質な鋭さだけが男の存在を表していた。

 

「御館様。ご無事で何より」

 

 廊下に突如として一人の老人が現われた。どのような術理を成したのか、音もなくその場に出現したのである。顔に刻まれた掘りの深い皺が枯渇した大地を思わす老人である。頑健とした体付きが老人の顔と実に合っていない。

 

 男は老人の声に立ち止まり、何も言わずその鋭い瞳で言葉を促す。

 

「奥方様は回収しました。現在お体をお清めしております」

 

 心臓を潰され、血に体を汚された女。兄の妻は即死であった。

 

 せめてもの慰めに、亡骸は綺麗にして手厚く葬る。幸であったのが、既に子供が生まれた後であった事だけであろうか。

 

 ただ殺されたならば、あまりに報われない。

 

 連れ添いの男に殺されるとは、女も思うはずがなかっただろう。

 

「御子でありますが、元気な男児であります。御子をここに」

 

 老人の呼び掛けに、一人の女が現われた。男と良く似た雰囲気を持つ女である。女はその腕に今しがた生まれたばかりの嬰児を清潔な布で柔らかに包みこみ慎重に抱えている。その慣れない手つきは少々危うい。

 

 重心の安定しない手つきで女は男に嬰児を手渡した。

 

 男は何故自分が受け取らなければならないのかと暫し時を置いたが、老人の視線と目前に突き付けられた嬰児、そしてそれを支える女に他意がないことを視ると、仕方なく子供を受け取った。

 

 男は己の腕の中にいる嬰児を見る。

 

 ふやけた肌、産毛のような髪、閉じられた目蓋。

 

 弱々しく、そして儚い、新たな命。

 

 二人の関係は、はっきりとしていた。兄を殺し、父を殺された二人。誕生の瞬間に母を父によって殺され、父は男によって殺された。生まれた時には、両親は亡骸だったのである。それをこの子供はどう思うのだろうか。果たして父を恨むのか、それとも男を恨むのか。

だが、男は何も思わなかった。何も感じなかった。

 

 自身の手で殺めた兄の子を自身が抱くという、男への皮肉のようなこの状況に対しても。

 

「御館様」

 

 老人の呼び掛けに声を返す事もなく、男は腕の中にいる嬰児を女に手渡そうとする。自分が抱いている事に意味は無いだろう、と何とはなしに考えた。

 

 だが。

 

「――――――――――――――――っ!!」

 

 叫び声。嬰児の割れ響く産声だった。顔面をしわくちゃにしながら、自らの存在を証明するかのように大きく、それでいて脆く儚い声だった。それはこの世に誕生した命の最初の訴えだった。

 

 それを感慨もなく一瞥し、男は女に嬰児を手渡そうとする。しかし、嬰児はそれを嫌がるように、よりけたたましく産声を上げた。まるでここがいい、離れたくないと語るかのように。

 

「……」

 

 男は再び嬰児を見た。

 

 今しがた自分の親を殺した男に一体なにを求めているのだろうか。だが嬰児は泣き止まない。母の温もりを求めているのか、それとも父の温もりを求めているのか。だが、二人とも既にいないのだ。死んで、亡骸と化した。しかし、嬰児はそのような事知るはずもなく、ひたすらに叫ぶ。

 

 不可思議な視線を嬰児に投げかける男を見て、女は躊躇うかのように腕を引き、老人は笑みを浮かべた。その顔に相応しい好々爺のような笑みであった。

 

「御館様。私はどうにも他の者から呼ばれているようなので失礼します」

 

 白々しく、そしてわざとらしい言葉を重ね老人はほくそ笑んだ表情のまま、男の目前から姿を消し、女もまた名残惜しそうな瞳を嬰児と男に向けた後、老人の姿を追うようにその姿を暗ませた。

 

 そして、残されたのは男とその腕に抱かれた嬰児のみ。女と老人の気配が遠ざかっていき、それに合わせ嬰児の産声も次第に小さくなっていった。

 

 腕の中にいる嬰児を揺する事もなく、男は再度歩み始める。軋む廊下の音。老人が何を考えているのか理解できなかった。それに比べ、男と嬰児を心配する女の感情は容易く読めた。だが、それが一体何に対する心配なのかは視えなかった。

 

 男は嬰児を見た。小さな命。弱く脆い存在。自分が殺した、兄の子。この子供が何をやりたいのかは知らない。理解も出来ない。ただ子供の好きなようにやらせるべきだろう、と男は考えた。腕の中の嬰児の体は大人の体温、それこそ先ほど浴びた血飛沫よりも温かい。

 

 何となく、ではあるが男は嬰児の小さな手に人差し指を触れさせてみた。嬰児が我儘によって男の腕の中にいるのだ。理由のない行動ではあるが、しかし、それでも興味があった。

 

 すると、嬰児は男の指先をたどたどしくも、だが確かに握りしめた。嬰児が指を握る力は存外に強い。生まれた子供が何かを握るのは霊長類としての特徴でもある。しかし、それを考察しても力強い。

 

 いつの間にか、男は屋敷を出ようとしていた。

 

 律儀にも玄関から出ようとする男の姿を光が照らした。

 

 それは朝焼けであった。深い深い森の遠くから夜を打ち消す太陽が姿を現していた。その光は暗いこの森を柔らかく照らしだす。温かくて、優しい。男は立ち止まり目を細めた。男の目前には時の流れに置いていかれたかのような、暗く荘厳な森が広がっていた。視界を覆う雄々しい木々、鬱蒼と生い茂る緑が影を指す。

 

 昇りゆく太陽を見て、男はこの嬰児に名が未だ無い事を思い立った。朝焼けの中、男は暫し太陽の光に身を温めた。

 

 そして、男はポツリと、小さく呟いた。それは呟きと呼ぶにはあまりに無機質な声音であった。

 

「七夜、朔。それが、お前の名だ」

 

 全ての始まりの名を、嬰児に与える。

 

 男の無表情が、ふと変化を遂げた。

 僅かに、本当に見逃しそうなほど少しだけ、小さく口角が上がり、瞳の形が変わる。

 

 それは笑みと呼べる表情であった。あまりに不器用な、だからこそ男に相応しい小さな笑みだった。

 

 あの朝焼けのように、世界を照らすように。嬰児、朔に笑みを向けた。

 

 退魔一族七夜現当主、七夜黄理。

 

 それが、男の名であった。

 



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第一話 黄理

求められている事は、わかっていた。

 望まれている事は、わかっていた。

 成るべきモノは、知っていた。

 為すべきコトは、知っていた。

 己が何なのか。

 そんなの、生まれた時から知っていた。

 それだと言うのに。

 

 今、己は何をしているのだろう。

 

 □□□

 

 咽喉へ迫る銀の斬撃は、冬に照らす月光のように冷たく輝いていた。

 

 空気を薄く切り裂いて袈裟に振り被られた小太刀の刃は、あまりに速過ぎて刃の形が目視できず、線の軌道は鋼色を伸ばし断頭を狙いに来る。それを寸での所、頭部を傾けることでかわすが、首の薄皮一枚をもっていかれた。僅かな痛みを無視している間に遅れた黒髪が数本散り、相手の鋭い眼差しに翳りをもたらした。

 

 しかし、相手はそのような僅かな支障を障害とせず、せせら笑うかのように返しの一撃を揮う。握る腕に捻りも加わり、切っ先は肉を抉ろうと呻りを上げた。

 

 どの角度から小太刀が襲い掛かるのか判断できない。

 しかしそんな思考は無視されて、無慈悲に煌く刃が殺しに迫る――――。

 

 全身が警鐘を打ち鳴らす。

 

 ――――ぞわり、と。

 

 背筋を戦慄が舐めた。

 

 横から脳を穿つ閃光。それを万全の体勢で迎え撃つ事は出来ず、回避する事も出来ない。自身を震わす戦慄と風を突破する刃の音に、真横へと刃を回した。正確な位置も把握できない勘による判断だった。

右手に握る小太刀の腹で受け流そうと、腕では事足りない衝撃を耐えるべく左手の掌を添えた。滑る刃に撃たれた瞬間、骨が響いた。

 

 ぐらつく。脳まで震えるその衝撃に抑え切れず足元が浮ついたが、それを好機と、重心を後方へとずらし、地面を叩く。結果、追撃の小太刀を回避。

 

 開いた彼我の距離は十五メートルもない。

 その時になって、ようやく呼吸を行う。

 

 刹那の交差は瞬きも許さず、呼吸を忘れさせた。酸素が足りない。意識が揺れている。

 荒れる息遣いに、肩で呼吸をする。

 

 思考が雑だ。何を考えているのか定かではない。

 酸素が足りず、痛む肺を堪えて呼吸を果たそうと口を開く。

 

 だがそのような事、相手が、七夜黄理が許すはずが無かった。

 

 息を吸い込んだ瞬間を狙い澄まし、黄理は彼我の距離を一息もつかせずに詰めてくる。

 揺れる視界。突風のように走駆してくる。

 瞬きの内に、黄理は眼前に迫っていた。

 

 研ぎ澄まされた抜き身の刃の気配。切っ先を思わす鋭い視線を象るそれは、獲物を狙う猛禽のそれである。男は冷たい殺意を滲ませて、小太刀を真っ直ぐ心臓の位置へと向けてきていた。

 

 ――――嗚呼、あまりに疾い。

 

 思考は最早役に立っていない。感慨だけが浮かんでは消える。

 

 幾度と無く繰り返された切り結びは優勢とはあまりに遠い状況にあった。

 劣勢以外の言葉さえも見つからぬ、厳しい現状だった。

 

 高められた錬度が違う。鍛えられた密度が違う。

 七夜黄理が修める技量の底は見据える事も出来ず、こちらが拵えた稚拙な攻勢は幼子をあやす子守のようにあしらわれ、転ばされ、飛ばされた。

 

 それは自身が子供という事もある。成長過渡期にある未成熟な肉体では、完成された大人の圧力と拮抗できない。あまりに体重が軽いのだ。攻撃は通らず、防御は果たせず。

 自身の現状は把握している。既に追い縋るだけで精一杯だ。着流しには泥がついて、転んだ拍子に出来た擦り傷や、打ち込まれて回避できず打ち身も到る所にある。小太刀を握る手には力も入らなくなってきている。酸素も足りず肺が痛い。

 

 しかし、相手はどうだ。無傷で、疲労もない。まるで変化がない。

 両者の力量は歴然と横たわっている。

 

 それはそうだ。

 その様な事、全て承知していた。

 

 ――――迫る、刃。

 

 腕を伸ばせば届く距離に黄理はいた。

 

 黄理の構える刃はぶれることなく、明確な死を突きつけていた。

 死神の刺突である。死神から逃れる術などない。

 では、死神に対してどうする。

 

 このままあっけなく倒れるか。それとも――――。

 

「――――っ」

 

 肉体は容赦なく反応を示す。躍動を始める筋肉が血管を圧縮する。

 

 それは、敗北を喫しようとする者の最後ではない。

 

 瞬時、風が轟く。足が思考を超えて、関節の稼動を果たした。

 

 心臓へと突き刺さるはずだった小太刀の揮いを屈み込んでかわしていく。

 頭上に残酷な刃の輝きと、無機質な男の瞳が過ぎる。

 

 体勢は低い。四肢は土をなぞり、地面を這うような姿勢と化した。

 蟲の如きその姿に黄理は右手に握る小太刀を指の動きのみで逆手へと組み換えて、背面へと突き立てんと振り下ろし。

 

 ――――その眼球を、小太刀が捉えた。

 

「――――」

 

 肉体が限界まで高められた速度で腰元から捻られ、地を這う姿勢から回転を果たす。その胴は天へと向けられ、連動する腕は躊躇い無く小太刀を射出した。

 

 彼我の距離は言うまでも無く超近接。心臓の鼓動まで伝わりそうな間隙。こんな距離で、こんな合間で己の武器を投擲する。それを無謀と嘲う者はここにはいない。ただ結果だけが巻き起こる。

 

 飛来する刃を黄理は回避ではなく、小太刀によって打ち払う。

 

 甲高い鋼の悲鳴。

 襲撃した刃は弾かれた。

 

 企みが失敗したのではない。

 

 むしろこれこそ――――。

 

 左腕が地面を叩きつける。指先まで込められた力が強引に身体を起き上がらせ、無理矢理右足を動かして地面に突き立てた。嫌な音を立てて筋肉繊維が膨れ上がる。その痛みを無視して、奥歯を噛み締めた。

 

 すると、どうだ。

 

 ――――黄理の顔が、最早目の前にある。

 

 推進力は上へと立ち上る。全身は押し込められたバネ仕掛けだった。緊張を保つスプリングは螺旋を描いて解放を喜び、右腕は振り上げられた。勢いのままに振りぬかれる腕は真っ直ぐに黄理へと突き刺さるために、駆動を果たす。

 

 黄理の小太刀は遠い。迫る身体に突き刺すには、遡る右腕と比べればあまりに遅い。

 

 頭蓋を破壊し、脳をぶちまける膂力が込められた一撃。

 拳の形は掌底。顎を打ち砕く威力を余すことなく一点へ。

 

 それが真っ直ぐに肉体へと突き刺さり。

 

 不可視の衝撃が米神を撃ち抜いた。

 

 □□□

 

 不意に、目が覚めた。乾いた土の固い感触が背中にあり、どうやら自分は倒れているのだと気付く。そのまま倒れているわけにはいかぬと朧に起き上がろうとするが、なぜか身体に力が入らない。

 

 これは、一体なんだ。

 

 何故自分は立ち上がることが出来ないのだ。肉体は立ち上がろうとしているのに、どうにもまともに動いてくれない。

 

「起きたか、朔」

 

 不可思議な現象に暫し時を置いていると、その頭上から無遠慮な声音が降り注いだ。

 聞き間違える事のない、朔と名を呼ばれた子供には特別な声だった。

 

「御館様」

 

 力も無く横たわり、起き上がる気力も揮わないまま、頭部を覗き込むような位置に佇む男、七夜黄理を朔は見上げた。

 

 そして、自分が負けたことを朔は悟った。

 

「負けました」

「そうだな」

 

 声が少し変だった。そして今しがたになり咽喉が渇いているのだと朔は気付いた。

 

「どうして」

「小太刀を弾いたが、そのまま捻って左手に持ち替えた」

 

 そして柄で打ったのだと、黄理は静謐に言った。

 

 確かに、あのまま右手に小太刀を構えていたら迎撃は叶わなかった。それゆえ振りぬかれた右腕を背面へと勢いのままに運び、そこで右手に持ち替えたのだと言う。

 

 それを安易に言葉にするが、それがどれほどの技量であるか。瞬時の判断、実際に行える技巧。どれもが並みの事ではない。

 

 だが、ああ、そうかと納得してしまうのはこの男の実力ゆえだった。

 

 七夜黄理。殺人機械、鬼神、殺人鬼。幾つもの仇名を冠された退魔一族七夜の現当主。

 

 目の前にいる男はひたすらに強く、その差は目に届かないほどにある。朔など歯牙にもかけぬ遥か高みに存し、手加減されて尚勝てない。

 

 本来、七夜黄理の得物は小太刀ではない。黄理自身の得物はもっと別のものにある。それでいて今回の組み手では黄理は小太刀以外を使用しないという枷まで課していたにも関わらず、無様にもこうして倒れ伏している。いや、そのような枷があっても朔では黄理には未だ届かないだろう。どれだけ幸運が巡り、例え目前の男が組み手最中にすっころんだと言うありえないような事態が起ころうとも、朔は黄理に勝てる映像が浮かんでこない。

 

 つまり、七夜黄理はそういう存在だった。挑むのも無謀な果て無き極地を闊歩する鬼神である。核が違う、そもそも立っている場所が違う、次元が違う。勝つ事も、越える事も叶わぬ七夜最強の男である。

 

 だが、それがわかっていても――――朔は。

 

「次を」

「あ?」

 

 七夜黄理の背中を朔は追い続けるのみである。

 

「次をお願いします」

「……お前一人に構える時間はもう無い」

 

 にべも無く、切って捨てられた。

 

 しかしそれもそうか、と朔は思う。

 

 早朝から行われる訓練において組み手は冷めた熱を帯びて次第に殺し合いへと昇華し、今では正午になっていた。

 

 黄理との訓練に於いて気を抜けばあっさり死体と化す。それは訓練とは呼べぬ濃密な本番であった。事実これまで行われた組み手で朔は死にそうな目に幾度と無くあっている。瞬時の判断を誤り咽喉を潰され、骨を折られ、肉を裂かれた。意識を奪われる事などざらで、黄理の訓練はいつも苦痛を伴っている。

しかし、これほどまでに充足される瞬間を朔は知らない。

 

 故に時がどれほど流れても全く気付かないのだ。

 時間は訓練終了の時間である正午へと辿り着いたのだろう。

 

 気付けば黄理はその場から立ち去ろうとしていた。倒れ伏し、脳を揺らされた朔を介抱する気なぞないのだろう。朔もそれを望んでいないのだから構わないが。

 

「……―――さーん!」

 

 すると、遠くから声が聞こえてきた。それと同時に地面へと接触する朔の背に規則的な振動が伝わり、近づいてくる人間の気配があった。

 

「父さーーーーーーーーーん!」

 

 幼い子犬を思わす、子供の声。

 

 声が聞こえる方角へ首を傾けると訓練場に一人の子供、それも朔とそう歳の変わらなさそうな男の子の姿があった。子供は元気良く腕を振り回して黄理へと駆け寄っていく。

 

 あの子供こそ黄理の息子である七夜志貴だった。

 

 そして、朔は見た。

 

「志貴」

 

 それまで無機質めいた男の姿に、確かな温度が生まれた瞬間を。視線を僅かに緩ませて、黄理は志貴を迎える。そのぬくもりは、朔には向けられる事のない温度だった。

 

 七夜朔は七夜黄理の子ではない。身内殺しを行った黄理の兄の子供である。身内殺しは一族に於いて禁忌でしかなく、兄は朔が生まれた瞬間にはこの世には命を散らしたのである。目前にいる黄理の手によって。母と呼ばれる人物も出産に伴って亡くなっている事から、朔に対し黄理は温度を生み出さない。それもそうだろう、と朔は思う。禁忌を犯した者の子に対し、何を傾ければいいのか。

 

 それゆえ、この自身の待遇は恵まれたものであった。少なくとも朔は冷遇されても可笑しくは無い状況にある。それでも朔がこうやって生きているのは、朔を黄理が引き取ったからに他ならない。

 

 ただ、それをどうこう思う感慨を朔はまるで抱いていない事が問題であった。

 

 視線の向こうで黄理と志貴はなにやら楽しげに会話をしている。何を話しているのかまでは把握も出来ず興味もなかったが、それでも視線を外す事はなかった。出来なかった。

 そうしているうちに、黄理の子供である志貴がちらちらと視線を寄越してくるのがわかった。好奇心だろう。隔絶された扱いを受ける朔に興味を抱いたのかもしれない。しかし、そんな納得をする朔だからだろう。

 

 志貴の表情が心配そうな影を差し込んでいるのが理解できなかった。

 

 確かに、起き上がらぬ人間がじっと見てくるのは気分を害するだろうと、朔は視線を外した。そして空を見た。

 

 鬱蒼と茂る森の合間から差し込む太陽が眩しい。

 それを、無機質な瞳で見続けた。

 

 □□□

 

 求められている事は、わかっていた。

 望まれている事は、わかっていた。

 成るべきモノは、知っていた。

 為すべきコトは、知っていた。

 己が何なのか。

 そんなの、生まれた時から知っていた。

 それだと言うのに。

 今、己は何をしているのだろう。

 退魔組織から抜け出した七夜。最早修めた術理を行使することもない。

 しかし、自分は退魔の術理をひたすらに極めようとしている。

 一体、何を得ればいいのだろうか。

 己は、得てもいいのだろうか。

 一体、何を求めればいいのだろうか。

 己は、求めてもいいのだろうか。

 

 己は、一体何を為せばいいのだろうか。

 

 □□□

 

 七夜朔。七歳。

 訓練にて黄理に敗北する。



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第二話 父親

人里を遠く離れた太古の森。退魔一族七夜が根城、通称七夜の里。

 侵入者を防ぐ結界によって保たれた、七夜たちの住処である。森の周囲に施術された結界には、一般に生きる人間にはそこにあるのに認識できない暗示がかけられる仕組みとなっており、この森に入るのは必然的に裏の人間ということになる。

 七夜のほとんどはここで生まれ、ここで育ち、そしてここではないどこかで死ぬ。

 生業が生業なだけに、七夜の者は布団で死ぬ者が多くない。混血への暗殺を主とする仕事上、どうしても生還できない者はいる。血なまぐさい世界の住人たる運命だろう。人としての形のまま死にゆく者は稀で、任務に失敗する=死という図式が当たり前のように出来上がったこの世界では、そのようなものも珍しくなかった。

 

 まだ古い時代の話だ。

 使い捨ての超能力者の血を長らえさすことに成功させた七夜は、近親相姦を重ねることでその血を保ち、それと同時に暗殺の術をひたすらに研鑽することで、退魔組織七夜と名乗るに到った。

 しかし、七夜はあくまで人間である。

 どれだけ人間としての限界を極め、また突破し人外の力を得てもなお、七夜は人間だった。それゆえ魔のモノたちとはもともと相性が悪く、専ら混血専門の暗殺を担ってきた。

 七夜の里。危険な仕事を生業とする一族の最後の安息地でもある。

 

 そんな七夜の里の奥、木製の小さな屋敷が点在する空間で一際大きい造りをした屋敷のなか、一人の男が唸り声を上げていた。

 場所は囲炉裏の間。機能していない囲炉裏のそば。そこには鋭いのだか鈍いのだかよく分からない雰囲気を放ちながら苦悶の表情を浮かべる男が胡坐をかいて座っている。

 男の名は七夜黄理。七夜一族の現当主である。

 

 黄理は七夜でも最強と謳われた男であり、混血の者たちからは鬼神と呼び恐れられた存在である。ただひたすらに人体の活動停止の術のみを磨き上げた黄理は、かつて殺人機械として何の感慨も何の感情もなく殺戮を重ね続け、今では名を呼ぶことも憚れる存在と成り果てている。

 それは前線から退いた今でも変わらず、練り上げた暗殺術はなお健在、鬼神の名を欲しいままにした最強はいまだ最強だった。

 

 そんな男が今表情を歪ませ、腕を組んで思考を巡らし、ある問題を解決しようとしていた。

 

 ことの発端は五年前。男に息子が生まれたことにある。

 跡継ぎの問題のためだけにもうけた息子の名は七夜志貴という。

 

 七夜の一族は生業上早くに子供をもうけ鍛えられるのが望まれている。

 それはいつ死ぬかも判らぬ退魔業。次の世代を残すのはとても重要なことである。

 

 ゆえに黄理もそれに習い、子をもうけた。

 確かに七夜の里には他にも子はいた。極めて幼少の頃から七夜として鍛えられたそのなかには、すでに頭角を現し、他の子とは比べ物にならない才をもった子も現われている。

 七夜の当主に求められるのは最強の人間である。それは現当主である黄理の血を引いていようがいまいが一切関係ない。七夜には世襲制など存在しないのだ。純粋に七夜を引っ張るに相応しい存在が求められているのである。ならば競争相手は多いほうが良い。互いに意識しあうことで更なる高みに進む者もいるだろう。そういうわけで黄理も子をもうけたのだが。

 

 殺人機械と化して感慨もなく人体を解体し、鬼神として呼び恐れられた殺人鬼七夜黄理。

 

 

 

 

 

 自分の血をひいた子供がひたすらに可愛くて仕方がない。

 

 

 

 

 

 いや、確かに里には子が何人もいるし、ある事情から黄理は以前から一人の子を育成している。だがその子には何も感じることなく、ただ作業として面倒を見ていたに過ぎない、と思う。

 

 そして黄理は鬼神と呼ばれた殺人鬼。殺人機械。老若男女容赦なく殺害してきた。

 呪詛を吐き出す老人を殺し、絶望に力を失った若人を殺し、自暴自棄となって向かってきた男を殺し、慈悲を乞うた女を殺した。

 

 無論、そこに子供の姿もあった。

なにがなんだかわからず、ただ恐怖に泣き叫ぶ子供を何の躊躇いもなく殺した。

 

 殺して殺して殺して殺して殺して殺し続けて。

 肉と中身の混ざり合った血だまりのなかを、無機質に泰然と立ち尽くす殺人鬼。

 迷いなく、惑いなく、躊躇なく、容赦なく 慈悲なく、恐怖もなく殺す鬼神。

 

 七夜黄理という人間は積み上げられた屍の上に出来上がっている。

 

 だと言うのに、だと言うのにである。

 生まれた志貴はやたらに可愛く、そして愛おしかったのだった。

 

 それからの黄理は変わった。

 それまでの憑き物が落ちた黄理の姿は豹変と言ってもいいだろう。

「志貴がいるのに危ないこと出来るか!!!!」

 と一族ごと退魔組織を抜け出し、

「志貴を危ない目に合わせる気かこの■■■■(聞くに堪えない罵詈雑言)!!!!」

 と叫んで里の結界の強化を開始。本来ではありえないが外の魔術師を招いて結界の強化を重ねては重ね。今となっては魔の存在が近づくだけで森の植物が襲いだすというとんでもな自然要塞と化している。

 これ腑海林じゃね?と思った七夜がちらほら。当主の変貌っぷりに頭を痛めた七夜が続出。そんな彼らの目の前で当主は結界を合作した魔術師と共に、にやりと笑みを浮かべた。

 その姿を見て全員が思った。

 

「「「(だめだ、この当主はやく何とかしないと……っ!)」」」

 

 とにかく黄理は何でもやった。その姿はまさしく子煩悩な父親である。

 息子のために何でも行う姿は世の父親の鏡とも言えるだろう。

 ただもう少し周りのことも考えて欲しいとは一族の言。

 そりゃ結界の影響で森の動植物たちが突然変異を起こしたとあっては笑えない。

 実際ある者は二足歩行のキノコを目撃している。生憎と最近は目撃情報はないが、証言によれば空中を漂いながら横回転するそうだ。

 

 それはともかく志貴が可愛くて仕方ない黄理だが、それと同時にあるひとつの悩みも抱えることとなった。

 

 

 

「翁」

「なんでございましょうか御館様」

 

 すっと、音もなくいつの間にか囲炉裏の対面に男が現われた。

 初老の男である。頑健とした身体を黒装束で包み、掘り深く顔に刻まれた皺がひび割れた大地を思い起こさせる男である。

 翁と呼ばれたこの男。その役割は一族のご意見番であり、黄理が誕生する以前から七夜の当主に尽くした古参の男である。年老い、七夜としての力も衰えているが、長年培われた経験と、幾つもの修羅場を乗り越えてきたその度量は貴重であり、今では黄理の相談役としての顔を持っていた。しかし見かけはただの好々爺にしか見えない。

 

「……朔は、どうしている」

「朔さまは現在里のものによって離れに移されております。私が見たところなかなかに疲労が溜まっているではないかと」

「……そうか」

 

 そうか、と黄理はため息を漏らした。

 

 黄理が抱えている問題。それは現在黄理が育てている七夜朔にある。いや育てているとは語弊が生じる。黄理は朔を預かっているだけだ。世話もしていない。

 七夜朔。身内殺しを行った黄理の兄の息子。七年前に自分が預かった子。

 その存在は別に問題ではなかった。狂ってしまった男の息子ではあったが、当主が名目上預かる事となったため混乱は起きず、表面上は一応問題なかった。

 

 朔と名づけたあの時。夜を終わらす朝焼けのなか、黄理は笑みを浮かべた。

 殺人機械だった男が笑みを浮かべたのである。

 自分はなぜあの時笑ったのか。

 志貴が生まれるまで、結局それがなぜなのかわからなかった。

 しかし今ではなんとなく分かっている。それは志貴が生まれて始めて気付いた。

 志貴と名づけたのも、朔に似せようと思ったり思わなかったり。

 

 

 

 

 ただ、それに気付くのが、あまりに遅すぎた。

 

 

 

 

「御館様も気になるならば自分で行けばよろしいでしょうに」

 呆れながらも微笑み翁は言う。

 しかし、それが出来ないから黄理は困っているのである。

 

 預かっているとはいったが、黄理と朔は同じ住居で生活していない。

この屋敷の離れ、小さく、隔絶されたようなその建物の中で朔はひとり生活している。

 

 あの頃、情もなかった黄理は屋敷の離れに朔を放り込み、世話の一切を使用人に任せていた。志貴が生まれるまで黄理と朔は指で数えるほどにしか顔を合わしたこともなく、会話などありもしなかった。

 

 当時の黄理には朔と共にいる理由もなかったし、それを必要としていなかった。それが当然と感じ、そしてそれを受け入れていた。

 

 しかし志貴が産まれたことで黄理の憑き物が取れ、黄理はだいぶ人間らしくなった。今までの殺人機械はなりを潜め、朔への対応に疑問を感じるようになった黄理は朔と顔を合わすこととなったのだが……。

 

「翁。今の朔をどう見る」

「……すさまじいですな。このままゆけば当主の座もありえないものではないかと」

「……」

「恐ろしいお方です。七夜の鬼才とは朔さまをいうのでしょうなあ」

 

 

 現在朔は七歳。通例に習い、早いうちから訓練を施すこととなった。退魔組織から抜けた現在においてもそれは変わらず、七夜の技は脈々と受け継がれる形となっているが、そこでわかったのは、朔はとても才のある人間だったことである。

 さすがは黄理の兄の子ということだろうか。

 鬼神の兄は狂気に飲まれはしたが、それでも黄理を凌ぐ強かさを練り上げた男だった。

 

 黄理が感慨なく解体する殺人機械なら、兄は圧倒的な力をもって相手を蹂躙する爆撃機だった。

 事実兄が殺した相手は肉片ひとつ残さず爆散し、彼が通った道には死体すら残されない。残念ながら殺人を楽しむ人間になってしまったが、ちゃんとした理性をもっていたならば、間違いなく七夜の当主となるはずの男だった。

 

 そんな人間の子である。

 驚異的な速さで成長する朔は今となっては同年代の子供らを遥か後方に置き去りにし、それでいて更なる飛躍を見せている。下手をすれば大人の者すら凌ぐ強さである。

 朔が掴まり立ちを成功させてから始めた戦闘訓練。七夜の子は幼いうちからその戦闘訓練を始めるが、それでもなお速い。最初それに難色を示す者もいたが、当主命令をちらつかせたことでそれは抑えられた。

 そうして始まった訓練。

 幼すぎる朔には身が重いだろうと思い込んでいた里のものは面食らうことになった。もの覚えよく、文句ひとつ言わず、訓練を受けた朔。

 朔は周囲の予想を裏切りメキメキと力をつけていった。

 今となっては鬼才と称すものも現われ、鬼神の子と呼ばれることも少なくない。

 

 その証拠に先ほどの訓練。

 無論手加減はしていたが、それに喰らいつこうと追随するのである。

 現当主に、七歳ばかりの子が。

 

 最後の交差。あの瞬間朔はこちらを殺そうとしていた。

 刃を重ねるごとに増す殺気。ひたすらに研ぎ澄まされた朔の殺気はただひとつ、黄理の命を狙っていた。通常ならありえないようなことである。しかし、事実朔は最後の最後まで諦めはしなかった。

 結局訓練は黄理が朔を気絶させることで幕を下ろしたが、顎を狙ったあの掌底。それを避けるため、力んだ一撃を撃ってしまった。当主の名は伊達ではない。本気の黄理の一撃は今だ訓練段階の子供に目視など出来ぬ速度で朔の米神を打ち抜いた。

 恐ろしいのはそれを打たせた朔にある。

 顎を狙った掌底。あれは確実に頭部を砕く力を秘めていた。再度言うが朔は七歳。

 末恐ろしいとは朔をいうのだろう。

 

「しかし翁……」

「はっ」

「朔は一体誰に似たんだろうな」

「それはもう、御館様以外の誰と言うのでしょうかのう」

「……」

 

 それを聞き、黄理はため息を吐く。

 七夜朔。七歳の子だというのに、妙に黄理に似ている。

 

 無論顔が似ているとかそんなんではない。黄理と朔は叔父という関係で、どこかに通っているような顔立ちはしているが、問題はそんなことではない。

 

 怜悧に鋭く、無機質な瞳。

 研ぎ澄まされた刃を思わすその雰囲気は間違いなく以前の、志貴が生まれる以前の黄理のものだった。

 今だ小さな子供が、殺人機械と称された男と似ているのはどういうことだろうか。

 

 殺人機械の黄理なら問題ないのだが、今の黄理は父性あふれた父の鏡。

 ほとんど放棄していてが、やはり何とかしたい。

 しかし本当に今更の話である。

 

 とりあえず一緒にいる時間を増やそうと朔の訓練は黄理が全て受け持つことにした。当主が訓練を受け持ち、しかもたったひとりを受け持つなどまさしく前例にないことである。

 だが、訓練中は必要最低限の会話しか交わさず、朔は訓練に没頭して黄理を会話を楽しむ対象として捉えていないし、黄理は黄理で今までのことがありどうにも話しかけづらい。

 そうして朔はどう思っているのかわからないが、気まずい時間だけが過ぎていくのである。

 これではあまりに意味がない、と黄理は頭を抱えることになったが、そこから先どうすればいいかまったくわからない。

 

 なのでこうして翁と相談するのである。

「一緒にご入浴などはいかかでしょう」

「しかし……それはあまりに難易度が高くないか」

「いえいえ何を言いますか御館様。家族として近づきたいなら、四六時中一緒にいるのは当然のこと。事実志貴さまとご入浴などしょっちゅうではありませんか」

「それは確かに、そうだが……」

「ならば何を迷いますか。朔さまとご入浴をすることで親密度を上げ、フラグを立てればよろしいのです。そうすればいずれ朔さまは心をお開きになり、確実に父様発言フラグが発生するかと」

「おお……!!なるほど、さすがだ翁!!」

「感謝の極み」

 

 

 

 しかし、この男。本当に鬼神と呼び恐れられた殺人鬼なのだろうか。

 




憑き物が落ちた黄理が親馬鹿になったら、という妄想。

七夜黄理ファンの方々ごめんなさい。

あとオリキャラが登場。
なにかと登場してくるかも。

アドバイスなどがあったら嬉しいです。


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第三話 月下

月が里を見下ろしている。

 

 翳ることもない月を美しいと思わない自分はどこか壊れているのだろうか、と朔は庭先が広がる離れの縁側に腰掛けながら考えた。

 夜である。戌の刻ばかりだろうか。里は静まり、外に出ているものの姿はない。

 頭上には満月。歪みない月が夜空に吊り下げられ、目下に広がる地上を睥睨していた。

  

 静かだった。ただ静かだった。

 

 生き物が発する物音は聞こえず、風に揺れる草のざわめきも聞こえない。無音にも似た沈黙が里を支配している。

 この耳鳴りがするような沈黙を朔は気に入っていた。ともすれば死者の眠る墓場を連想させる静寂の世界。

 生きている者のいない世界はなによりも自分がいるべき世界に思えて仕方がない。

 少なくともこの生者溢れる世界で、自分の居場所を見つけることの出来ない朔にとって、それはひどく相応しく感じられた。

 

 自分は一体何なのだ、一体何をすればいいのか、何になればいいのか。

 それを考えるたびに朔は諦観めいた感情を抱く。特に独りのとき、その絶え間ない自問自答は加速し、朔を更なる深みに手繰り寄せる。

 七夜として自分が何を求められているのかは分かる。七夜の業を教え込まれているのも、やがて一族の担い手として、侵入者を排除する尖兵となるよう望まれているからだ。

 誰かに言われたわけではない。命令されたわけでもない。ただそのような蠢く意志を里の者から感じる。

 その証拠はいくつもある。今日の訓練もそうだろう。

 通常、当主は子を鍛え、指導しない。それは七夜の暗黙の了解のようなものだった。

 しかし、それが朔の登場で破られている。朔は訓練を始めてすぐ、当主が朔を預かって訓練の全てを面倒となっている。

 

 

 

 

 

 それは黄理からすれば朔との時間を増やそうという魂胆から始まったことなのだが、何分どうやって朔と触れ合っていいのかわからない黄理は事務的に相手してしまっているので、彼の狙いは今だ効果をあげているとは言えないだろう。

 その本人は当主が子供の手解きを行う理由をあまり考えていなかった。

 

 

 ただ、それまで会話もほとんどなかった黄理がそばにいることを不思議に感じていた。

 

 

 

 

 

 黄理が指導する訓練。それは子が行うにはあまりに苛烈で厳しく、とてもではないが訓練を始めたばかりの子供には耐え切れることの出来ないハードなものだった。

 基礎的な体力作りのために突然変異を起こした地帯を走り回り、それが終われば朔が動けなくなるまで組み手を行う。例え朔が気絶したとしても肉体的に問題がなければ目覚め次第すぐに組み手を再開する。しかも使用するのは真剣である。本物の刃は扱いを誤れば自身を傷つけ、さらには相手を殺してしまうという禁忌を抱かされる。そしてその全てを黄理自身が受け持つのである。

 そしてその黄理が持つのも真剣。それが持つ怪しげな危険性と、黄理が放つ殺し合いさながらの殺意は実戦さながらで、朔は幾度となく無残に殺された自分を妄想した。

 だがしかし。

 朔は泣き言を漏らさなかった。あまつさえ耐え切ってさえみせた。

 これが朔を異常足らしめんとするものだった。

 朔はひるまない。

 訓練を開始する子供はある程度の事柄をこなしてから本格的に訓練を始める。でなければ本人が危ないし、七夜の戦闘技術に耐え切れない。さらには将来、殺し合いというステージに精神が耐え切れない。そのための準備に何ヶ月かの時をかける。じっくりと時間をかけて肉体を準備し、精神を鍛え上げていくのである。

 だが、朔はその準備期間がなかった。

 だというのに、朔は耐え、こなしている。

 今となっては黄理に牙をつきたてようとしてさえいた。

 

 

 それを人は才能といった。

 朔を鬼才と評し、鬼神の子だと称した。

 

 

 事実朔は里の子では並ぶことのない高みへと上がり、大の大人との組み手であっても対等以上に渡り合っている。今では朔の組み手が務まるのは黄理ただひとりになっていた。

 

 しかし、

 

「まだ、遠い」

 

 ―――脳裏に焼きつくのは黄理の姿。

 戦闘技術、重心移動、移動速度、気配遮断、神速の斬撃、死角からの奇襲、さらに全方位に目がついているのかと思うような勘のよさ。

 何よりも、油断なく、慢心なく、鋭く射抜くあの瞳。

 泰然とし、遥か高みに存する男。

 今日の訓練でも黄理には届かなかった。朔が黄理の訓練を受け五年以上経つが、朔は未だに黄理へ一撃を食らわせていない。当主相手に組み手をこなす朔だったが、それは黄理が手加減をしてのこと。

 朔は知っている。黄理の本気、黄理の戦闘を。

 感慨なく、感情なく相手を殺す殺人鬼。殺人機械。鬼神。

 暗殺者として遥か高みに座する黄理との距離は果てしなく遠く、見えないほど。

 だが、それでも、朔は黄理に追いつこうとしている。

 ずっと見てきた。

 その姿を目に入れてきた。

 それがなぜだか分からぬが、朔は黄理のようになりたいと、漠然に思ってきた。

 

 離れに放りこまれ、使用人の世話を受けてきたが、朔の周りに大人らしいものの姿はなかった。

 ただ遠目に、黄理の姿だけがあった。

 だからだろうか、朔には黄理を追いたいと考えるようになった。

 あのような殺人鬼に。あのような殺人機械に。あのような鬼神に。

 

 

 

 

 

 

 朔が影響を受けたのは、状況も考えれば、黄理しかいなかったと言える。

 隔絶された場所に放り込まれた朔にとっては、人間とはとても遠い存在だった。

 だが、そこに黄理がいた。黄理だけが見える位置にいた。

 だからだろう。朔は黄理を見るしかなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 無論そのようなことは朔には分からない。分からないが疑問には思う。

 だが、自分はなぜ黄理になりたいのだろう。

 志貴が産まれ、七夜一族が退魔組織を抜けることで状況は一変している。生業からも手を引いた。七夜は殺し屋ではない。

 だと言うのに、自分は鍛えられ、望まれている。

 人を殺す技術、人を壊す精神、人を解す肉体。

 何のために?何のために?

 自分はなぜ黄理になりたい。

 自分はなにになりたい。

 一族の担い手。里の尖兵。

 そうなるように望まれている。

 そうなるように求められている。

 それは分かっている。分かっている。

 

 だが、自分は――――

 

「朔」

 

 不意に、声がした。

 

 いつの間にか、離れに黄理がいた。

 母屋からきたのだろうか。今は淡く染められた着流しを見につけている。

 黄理が離れに足を運ぶのは珍しいことだった。黄理は基本この離れにやってきたりはしない。

 それにしてもなんなのだろうか。黄理からなにやら戦意のようなものが滲み、妙に意気込んでいるように見える。

 ただの用事には見えなかった。ただ事ではない雰囲気が黄理にはある。

 

「なんでしょうか、御館様」

 

 朔の返事になにやら黄理が動きを止めた。

 一体何なのだろう。

 しばらくして、妙に落ち着きのない黄理だったが、どうやら決心をしたらしい。

 

 

「風呂には入らぬか」

「もう入りましたが」

 

 

 

 間断なく応えられた返事に黄理は呻き声をあげた。

 朔は今、黄理と同じように着流しをまとっている。色は藍色。使用人が昔着けていたお古らしい。

朔は先程母屋にある風呂に入ってきたばかりなのだった。

 

 そしてしばらくすると「そうか……」と力なく声を漏らし母屋へと帰っていった。その際に背中が煤けて見えたのは朔の気のせいだろう。

 

 志貴が生まれてから黄理は変わったと話は聞く。それはそうだろうか、と朔は思ったりしたが、別にそれは問題ではないしどうでも良かった。

 

 黄理を見て、黄理になんとなくなりたいと思っているが、彼の性格面はどうでもいい朔だった。

 

 

 七夜黄理

 朔と一緒に入浴イベントを起こせず。

 



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第四話 志貴

志貴にとって朔は非常に不思議な存在である。

 七夜黄理の子として生をうけ、健康的にすくすくと成長している志貴だったが、生まれて僅かでしかない志貴にとって疑問を受けざるを得ない存在がいた。

 それが朔である。

 志貴が住んでいる家の離れに住んでいる自分よりも年上の子供。母屋には入浴するときのみしか訪れず、睡眠食事は全て離れにて取っている、らしい。

 幾度か目撃したのはいいものの話しかけることも出来ず、またあちらも志貴に気付いていない、もしくは気にも留めていなかったようで完全にスルーされていた。

 一体誰なのかと話を家のものに聞いてみると、どうやら黄理が面倒を見ている子供らしく、志貴とは従兄弟の関係にある、らしい。

 話を聞いているうちになんだか気になって仕方がなかった志貴は好奇心の赴くままに朔が生息しているらしい離れに忍び込むことにしたのだが。

 

 

 

 

 

 ――――現在離れの中で志貴と朔は正座して対面していた。

 

 

 

 

 

 なんだこの状況、と志貴は内心どぎまぎしながら対面に座る朔を見る。

 

 

 

 

 

 なんだが微妙に睨まれた。

 

 

 

 

 

 それがなんだか怖くて漏らしそうになったのは志貴の秘密である。

 

 

                        □   

 

 

 そもそもなんでこのような状況になったのか。

 それは志貴が思い立って離れに忍び込んだことにある。志貴の父親である黄理と朔が訓練を行っている時間を見計らって決行したのだが、離れに朔がいなきゃ意味無くね?と思いつかなかった志貴はただいま五歳児。国民的アニメのジャガイモ頭と同じ年齢である。それぐらいのうっかりは許してほしい。

ただ里には電気が通っていないので家電製品が無いので志貴はアニメの存在自体知らなかった。

 

 とにもかくにも離れに侵入を果たした志貴だったのだが、離れには見事にも何もなかった。押入れの中にある和箪笥には藍色の着流しが数着あるだけで他には何もない。それ以外探してみてものの特に何も見当たらず、畳が敷き詰められた部屋の中には本当に何もない。これは困ったと志貴は考えてみた。朔に関して何かしらのヒントを得たいがために行動したのはいいが何も見当たらない。果たしてどうしたものか。

 

 困り果てた志貴は畳に寝っころがってみた。

 畳のいいにおいがして心地よく、目をつむる。

 

 そして朔のことを考える。

 

 いつも見かけるとき朔は一人でいる。それは母屋でも里内でも変わらない。ただひとつ例外があるとすれば黄理だろうか。朔の訓練のときのみ朔は誰かといる。当主の子供として生まれた志貴の周りには何かと人がいる。それは家族だったり、里にいる子供だったり、一緒に訓練を受けるものだったり、はたまた当主に用事のある一族の者だったりと、志貴は生まれてこのかた一人でいることが少なく稀だ。だからいつも一人でいる朔の存在が気になったのもその要因ではないだろうか。

 そして朔はが一人でいないときがある。それが黄理と訓練しているときだ。

 

 朔の訓練を幾度か見たことがあるが、あれは凄まじい。志貴だって七夜の通例に習って訓練を始めて一年以上経つがだいぶ力をつけてきたと思う。同年代との訓練では常に標準以上の動きを見せていて、志貴としてはそれが密かな自慢でもある。

 しかし、それは朔の訓練を見て粉々に砕かれた。

 

 なんなのだろうかあの動きは。ひたすらに速く、疾い、二人の組み手が目に焼きついて離れない。朔は黄理との戦闘訓練をこなし、あまつさえ追随しようとさえしていた。

 志貴が七夜の戦闘訓練を受け始めたとき、父の話を幾度も聞かされていた。

 曰く殺人機械。曰く鬼神。曰く七夜最強の男。

 七夜の一族において自分の父が一番強いという話を聞いて、朔は父に尊敬の念を抱いた。

 

 

 そんな父と、朔は対等に組み手をこなしていた。

 

 

 そして傍観者たる志貴だったから分かったことがある。朔はあのギリギリの訓練のなかでさえ更なる動きを見せていた。

 それはつまり朔が更なる飛躍を見せているに他ならない。あの訓練で朔は研磨され、鋭くなって黄理に喰らいつこうとしている。

 当主に自分と年のそう変わらない子供が、である。

 

 

 更に驚くべきは黄理である。

 志貴は父のことが大好きであるが、同時に怖い存在と認識している。立場ある一族の当主としてなのだろうが、黄理の威厳と言うか鋭い雰囲気が志貴は苦手だった。そして常に鋭い目つきなのもその要因であろう。どうにもあの全てを射抜く視線が志貴には怖くてたまらなかった。

 その父が朔との訓練で微笑んでいるのである。何度か朔の戦闘訓練を覘いていた志貴であったが、その時黄理が笑んでいるのを見たことがあった。それは朔が一撃でもって叩きのめされ気絶したときのことである。表情のあまり変わらない黄理であったが、気絶していた朔を見下ろすその顔は周りのものは分からないだろうが、志貴の目には笑みを浮かべているように見えた。

 それがなんだか悔しく、朔が意識を取り戻して訓練が再開される前に志貴は黄理のもとへ駆け寄って訓練の邪魔をしようとしたが、結局訓練は行われなかった。

 

 志貴は朔が黄理に笑みを向けられているのがなんだか面白くなかった。

 自分の父が他の子供の面倒をしているのは当主だから、と許容できたのだが、そればかりは受け入れられなかった。他の子供に父が微笑んでいるのは自分の父がその子供にとられているような気がしてならないのである。

 

 更に朔の力量を見て志貴は自分自身が情けなく思えた。自分はあのように苛烈な訓練をこなせないし、早朝から昼まで組み手を行えるような体力も無い。あんなに速く動くことも出来ないし、なにより父と組み手を行うのも叶わない。

 それが悔しくて情けなくてしかたがない。同年代でも優れていると思い天狗になって、上を見ていなかった。上には上がいるのだと志貴は思い知らされた。だって志貴では朔に敵わない。

 

 この話を聞けば黄理は喜びのあまり滂沱の涙を浮かべ更なる結界の強化に励むことになりそう(無論里の者に全力で阻止されるだろうが)だが、あいにくそのような話を志貴は出来なかった。自分がかっこ悪いようにも思えたし、そして楽しそうにしている父にこの話を聞かせるのはなんだか忍びないような気がしたのだ。志貴すげえいい子。

 

 なので今回の調査である。

 朔を知り己を知ればなんとやら、と勢い込んで行動してみたはいいが成果はまったく無い。そもそも知ってどうするのかとか考えていなかった。

 

 

 だが、志貴の思い込みというかほとばしる熱いパトス溢れた脳にノンストップはない。

 

 

 そうだ。そうだとも。自分がやらなければ誰がやる!!

 

 

 寝っころがる志貴の身体に熱が灯り始めた。

 

 

 自分がやるべきことは終わっていない。否、始まってもいない!!

 

 

 自分はこの達成困難な任務を遂げることで始めて終息を得、この天井の向こうにある大空を抱いて羽ばたくのである。

 

 

ならば今こそ自分を奮起させるとき。このまま眠ってなんかいられない!!

 

 

 ――――少年よ、神話になれ…………!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして志貴は目を開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目前に朔がいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ふぇ?」

 

 

 

 

 

 

 

 志貴と朔のファーストコンタクトはそんな志貴の間抜けな声と共に幕を開けた。

 

 

 

 

 




この時点で志貴は殺人を忌避していません。
むしろ特になにも考えていません。
やっぱり先生の影響はすごいのです。


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第五話 対面

空を翔けてはならない。

 

 それが黄理の言だった。

 

 即ち空中に足場は無い。そして人間には空を羽ばたく羽が無い。だから空中で攻撃されたとき、身じろぎもしくは防御姿勢をとることでしか攻撃を回避できない。しかしそれは選んではならない方法だった。七夜は人間である。もし身じろぎして回避できないほどの範囲、防御して凌ぐことが出来ないほどの火力で攻撃された場合、七夜はあっけなく死ぬだろう。

 近親相姦を重ね人知を超えた能力を保有し、いくら人間の限界を超えた身体能力を得てしても、あくまで七夜は人間だった。ゆえに空中で移動するという手段を持つことが出来なかった。

 だから空中を翔けるな。空中では格好の的だ、と黄理は言う。

 しかし、選択肢として空を封じられたとき、空中しか回避できない攻撃を受けたときどうやって回避すればいいのか。

 

 黄理は言う。空間を移動しろ。

 

 常に足場から足場へ移動することで七夜は高速機動を可能とする。足場は地だけではない。壁、天井、足場として利用できるものは全て利用しろ。

 全ての遮蔽物は七夜の足場だ。

 それが黄理の言葉だった。

 

 閃鞘。

 閃走。

 

 七夜の空中利用術である。

 

                       □

 

 

 

 生い茂る森の中、木々の合間を縫って朔は移動していた。

 それはどう見えるだろうか。朔がいるのは地上二十メートル以上もある木々の間である。それを朔は脚で木を蹴っては他の木に移動し、腕で身体を突き飛ばしては他の木に移動するという芸当をこなしている。この動作を延々と繰り返している。無論それは通常の人間ならば目が追いつくことの出来ない速度である。

 空中を縦横無尽に移動する様は果たして人間に見えない。人間以外の何かのよう。

 

 それはまるで獲物を追いつめる虫のような――――。

 

 朔が違う動きを見せる。延々と繰り返された動きの中で。始めて動きを止めた。

 木の幹に足をつけ。地面と直角のままに。地面へと身体を向けて

 そしてそこからゆっくりと。

 

 朔は堕ちていった。

 

 最初はゆっくりと。だが次第に速く落下していく。

 景色は視界から後方へと流れていく。身体を突き上げる風が頬を撫でる。

 迫りくる地上。叩きつけられれば死は免れない。

 人は一メートルの高さから落下し、着地を誤れば死ぬ。

 人は簡単に死ぬ。それは抗えない。

 死が近づく。

 だが。

 

 地面。朔の視線の先。

 そこに七夜黄理がいた。

 

 地面との距離はもう僅かばかりも無い。だが地に叩きつけられるようなまねはしない。

 視線の先の黄理は泰然と落下する朔を睨んでいる。

 接触まであとコンマ何秒か。

 だがそれを、朔は選択しなかった。

 

 木が爆ぜる音。

 

 朔の足が足元の木を叩く。爆発的な速度で朔の身体が移動する。

 落下速度も相まり、朔は風のように空間を凪いだ。

 その軌道は斬撃に似ていたのかもしれない。

 直線的な飛翔はそう呼ぶに相応しい。

 そして先程よりも対面五メートル以上あった木へ着地。

 先程よりも下方の位置だった。

 黄理の背が見える。そこに向かって真っ直ぐに往く―――!

 

 地面を滑空するように黄理へと進む。

 彼我の距離は僅か。

 そのまま斬りかかることも出来る距離。

 

 だが、朔はその選択をしない。

 

 急制動。足元に負担をかける事で生まれる急停止。

 そのまま真横へ直角に駆け曲がる。

 背後は黄理の死角ではない。いや、暗殺術を極めた七夜最強の男に死角など存在しない。ゆえにあのまま斬りかかるのはナンセンスな選択。

 朔は加速的に考える。黄理に届く算段を、必勝の戦術を。

 だが考えれば考えるほどに黄理は雄々しく圧倒的な姿で、朔を容易に下す。

 しかし、それが分かっていたとしても朔は黄理に届いてみせたかった。

 いつもそうだ。いつだって朔は全力で黄理に挑む。それは訓練段階の子供からすればあまりに困難なことだ。

 だが、それでも自分は――――。

 

 

 

 

 

 

 瞬間。

 悪寒が朔の危機を救った。

 

 

 

 

 

 

 

 そしてただ一歩。ただ一歩踏み込んで朔は再び駆ける。

 

 

 

 

 

 甲高く木霊す金属音。

 

 

 

 

 目の前に、黄理がいた。

 音の正体は黄理が斬りつけた小太刀を朔が握る小太刀が防いだ音。

 刃が狙ったのは首。すんでのとこで防いだ。

 

 だが接近戦には近づきすぎる。

 しかし、それは同時に。

「――――っ!!」

 超接近戦の距離。

 小太刀を抑えたまま体を捻ることで生んだ加速が右足を俊敏に振るわせ黄理の左鼠径を強かに打つ。鋼鉄めいた硬さが足を痺れさす。肉の感触ではない。

 それを同じくして、黄理の小太刀を握らぬ手が朔に向けて打ち込まれた。拳の形は貫き手。そのままそれは目前の小太刀を無視して朔の喉笛を貫かんとする。

 右足は不安定。

 だが、かわせないわけではない。

 

 

 縦に回転。朔は飛んだ。

 

 

 軸を真横に朔は回転蹴りを放った。

 跳ね上がった右足が唸りをあげ貫き手を打ち落とす。

 乾いた、鞭を打つような音がした。

 そのまましなる右足は黄理の小太刀を打ち払おうとするが、それは黄理が小太刀の向きを変えることでかわされた。

 

 

 

 そしてそのまま、どうやったのか。

 黄理が握る小太刀に先程打ち落とした手が添えられて

 

 

 

 

 

 

 朔をそのまま吹き飛ばした。

 

 

 

 

 ――――――――――――。

 

 

 

 

 空に吹き飛ばされ朔は地面に叩きつけられる衝撃を最小限に抑えながら、先程の衝撃

の正体を看破する。

 

 おそらく、あれは発勁の応用。自身が生み出した力を導くことで放たれた不可視の衝撃。だが、それは七夜の体術には存在しないもののはず。しかも物質を伝って、朔に襲い掛かった。

 しかしそれを黄理は放った。おそらく自ら調べ、鍛え、研鑽したものだろう。

 どれだけ巧く人体を停止できるかのみ追求してきた過程の産物か。

 

 

 

 

 ―――――努力を惜しまない殺人鬼は正に化け物だ。

 

 

 

 

 起き上がる朔は新たに加わった戦力をどう攻略すればいいかと考えるが、更に黄理との距離が延びたことを痛感する。

 

 立てた対策は接触を避ける他ないと結論付けた朔は、再びどうすれば黄理に届くのかと考え出したところで。

 

 

「時間だ」

 

 

 粛々とした黄理の声が訓練の終わりを告げた。

 

                   □

 

「移動は今の段階では上出来だ。だが今だ甘い」

「はい」

「七夜が蜘蛛と呼ばれる由縁を知れ」

「もうしわけありません」

 訓練後の反省もそこそこに二人は別れた。訓練の後は黄理が朔の悪い部分を指摘するのみで他の会話は交わされない。あくまで事務的なスタンスは崩されないままだった。ある程度話しが終わったところで、黄理が微妙な空気を滲ませたのが気になりはしたが、話しかけも来なかったので大したことではないだろうと判断し、先に戻ることにした。一体なんだったのだろう。

 

 訓練場として使われた場所から朔の生活する離れはわりかし近い場所にあった。朔は訓練を済ますと真っ直ぐに離れに向かう。

 離れに向かう途中、朔は何人か里の者とすれ違った。里の者は何やらもの言いたげな表情をしていたが朔はそのことごとくを何なのだろうと思いながら、結局何も話しかけてこないのでそのまますれ違っていた。

 朔は訓練以外の全てに受動的だった。

 特殊な生活をしているからだろうか。里の者と触れ合うことも無かった朔はひどく我の無い人格を形成してきている。

 

 

 何をするのも受動的なのはそれ以外の受け答えを知らないから。

 我の無い人格なのはそれ以外の生き方を知らなかったから。

 

 

 もしかしたら。朔はものすごく愚直な性格なのかもしれない。

 ただ黄理の姿だけを見てきた朔にとって、それ以外はどうでもいいことなのかもしれない。少なくとも、同じ里に生きている者だというのに、朔は里たちが自分とは全く違う生き物で、遠くに生きているように思えてならなかった。

 

 里の者たちを見る。現在朔は里の開けた場所を横切ろうとしている。そこは一族の広場みたいなもので、よく人が集まる場所だった。

 そこで里の者たちは楽しそうにしている。

 女は会話を楽しみ。子供は遊びに笑顔をこぼしてはしゃぎ。男は仕事に励み。年老いたものはそれらを眺めて安らいでいる。

 

 

 それを見て。朔はなにも思わなかった。

 何も、感じなかった。

 

 

 ただそれが彼らが楽しそうなのは、感情が豊かだからなのかと考えたが、それはきっと何か違うのだろうと瞬時に打ち消した。そのような安直な理由からではないと思う。

 ただ、それらに何の感慨も抱かない自分が壊れているからなのだろう。

 

 彼らの笑顔は尊いものなのだろうか。彼らの感情は素晴らしいものなのだろうか。

 朔の間断無い自問自答には答えが無い。ただ疑問に思うことはとても大事だと理解してのこと。それ以外のことはない。

 そうして導いた結論はどうでもいいことだ、という思考放棄だった。

 

 広場から朔は離れていく。

 どこか空気が寒かった。

 

                     □

 

 離れにたどり着くと朔は違和感を感じた。何者もいないはずの離れに何者かの気配がある。

 離れに朔以外の人間がいることは一人を除いたら稀で、その一人とは使用人である。だが、室内から感じる気配は使用人のものではない。

 幼く、まるで子供のような――――。

 そこまで考え、朔はふと気付いた。

 

 ―――この気配は知っている。

 

 朔は息を潜め、気配を絶つことで離れの中に入ろうと、開かれたままの襖から中を覗いてみた。

 

 

 

 

 志貴がそこにいる。

 

 

 

 

 やはりか。

 

 呟くことも無く、朔は一人思った。そして疑問を解決したものの今だ志貴がなぜこの離れにいるのかがまだ解決できていない。志貴はこの離れには今まで近づいたことも無かったはず。

 

 

 七夜志貴。

 朔が見続ける黄理の実子。

 自分とは違う、温度のある子供。

 

 

 志貴の存在は朔にとって黄理に次いで気になる存在だった。

 現当主の息子として生れ落ちた志貴の存在は黄理を変えた存在だと認識している。事実彼が生まれることで七夜は生業だった退魔組織を抜け、今は森の奥で暮らすただの村人だ。

 その原因は間違いなく志貴に違いない。志貴が生まれたことで当主は何かしら影響を受け、今のような一族へ変えたのであろう。

 

 だが、それは一体なぜ?

 

 朔は何度か志貴の姿を目撃している。それは母屋でのことであったり、訓練を行っている際のことだったりで、その度に志貴が自分に視線を投げかけていた。ただ、話しかけてきたりはしなかったので朔は気にしていなかったのだが、今回をしてその志貴が離れにいる。これはなぜだろう。

 気になった朔はとりあえず、何やら寝転んで目をつむる志貴の側にすり足で近寄る。無論気配は断っている。当主仕込の気配遮断だ。黄理にはやはり劣るものの、式神並みの隠密行動に届こうとしている気配断ちは、ただの人間には視覚さえ出来ない。それが朔とさして年の変わらない幼子ならなおさらだろう。

 

 事実、すぐ側で見ているのに志貴は気付いていない。

 

 二人の距離は近い。志貴と朔の額がくっついてしまいそうなほどだ。

 視線を落とせば幼少期特有の突き立った唇があったが、なにやらぶつぶつと呟いている。

 なんだこれは、ととりあえず何を言っているのかと聴力に意識をまわし音を拾おうとすると。

 

 

 

 

 

 

 

 志貴と目が合った。

 

 

 

 

 

 

 

 それを無感動に感慨なく見つめる朔。志貴が目を開き、見詰め合うことに問題は無い。

 

 

 

 

 

 

 

「――――――――――――――――――――――――――――っふぇ?」

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、志貴の気の抜けた言葉は少しだけ面白かった。

 



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第六話 価値

空気が重い。

 

 離れの内部は現在なんとも言えない微妙な沈黙の空気に支配されていた。志貴としては何でこんな目にあわなければならないのかと、内心涙目だったのだが、それは朔にしても似たような状況だった。

 それはそうだろう。自分が世話に(?)なっている相手の子供が、いくら敷地内とはいえ自分の住処に不法侵入しているのである。それが今まで交友のある人物だったら、このような空気にはならなかっただろうが、第一前提朔にそのような存在はいない。得てして指南役である黄理、もしくは使用人の女、それか黄理の相談役である翁ぐらいで、それも個人的な友好関係とは程遠いような関係だ。彼らの内心を知らない朔としてはそれぐらいの僅かで細い関係でしかない。そしてそれ以外の人物と朔は会話を交わさない。だからこの離れにやってくるのは三名のみに限定されていた。

 はずなのだが、なぜか志貴がいる。そもそも志貴とはいままで接触も無い。だというのにである。現に志貴は離れにいて、目の前で正座をしている。

 

 とりあえず戸惑っている、というかひたすら答えを自問自答し続けている朔、そして志貴は互いになぜか正座状態である。

 

 この微妙な空気がそうさせているのかどうか、志貴としては本来の目的である朔本人がいるのだから速く何かしら話をするべきなのだが、なかなか切り出せない。

 朔は朔でひたすらに考え、目の前にいる人物が一体何が目的なのかと観察している。だったら聞けばいいのでは、と思うかもしれないが今まで興味はあったが近づくことのなかった人物が急接近してきたので、やはり朔としても戸惑っていた。

 そして朔の観察をどう間違ったのか、志貴は睨まれたと勘違い、結果漏らしかけるというある意味馬鹿らしいような状況が完成していた。

 

つまりめっちゃ気まずい。ただそれだけである。

 

 互いに緊張しているという前提で見る光景はお見合い会場の二人だと見ようとも思えば見え、ない。全然見えない。残念ながら、何が残念なのかも分からないが兎にも角にも見えなかった。

 

 しかしこのままではどうしようもない、と考えを導いた朔は声をかける。

 ただ、なんて話しかければいいのだろう。そもそもなんて呼ぶべきか。

 呼び捨てはない。相手は当主のご子息。それに対しこちらは預かられている立場の人間である。志貴のほうが立場としては上だ。ならば他の者と同じように志貴様、と呼ぶべきだろうか。

 それが妥当のような気がした朔はとりあえず、

 

「志貴様」

 

 そう話しかけてみた。

 

 

 

 

 

 

 

 ビクつかれた。

 

 

 

 

 

 

 

 空気は変わらない。

 

 志貴としては話しかけられたのは有り難かったが、なんだろうか、里にいる他の子(自分も含め)とは全く違う雰囲気を持つ朔に正直どのように接すればいいのか掴みかねていた所でのことだった。

 

その声は静謐で落ち着き払い、かつなんとも感情のない無機質な声音だった。

 

いきなり話しかけられ、少しばかりチワワ並みの小刻みな震えを起こしてしまった志貴である。軽くちびった。

やっべちびった、と軽く自己嫌悪しながら志貴は目の前で自分と同じように正座している朔を見た。

 

 朔は話を聞くところ年上。だからだろう背が高い。子供は年齢でだいぶ肉体の成長の差が現われやすいが、志貴と朔は頭ひとつ分以上差がある。おそらく里の同年代の子らと比べて最も高いのではないだろうか。体つきもよく、訓練用として使われる動きやすい服からは筋肉の盛り上がりが薄っすらと確認できる。それもただ筋肉を搭載したものではなく、引き絞られ引き締められた肉体だ。

 さすが自分の父の教えを受けている。おそらく朔は次世代を担う子供たちの中で最も当主の座に近い成長を見せている。それは自分たちと比べて作り上げられた身体の違いや、志貴が目撃する訓練の密度や質などから考えた結果である。

 

それがなんだか悔しかったが、それも当然かと漠然に思った。

なんて言ったって自分の父が鍛えているのである。そうでなければ父が教える意味がないだろう。

 

 次に顔つきだが、やたらと目つきが鋭い。そのくせに瞳は茫洋としていてどこを見ているか把握できない。今でも本当に自分を見ているのだろうか。視線が志貴に向けられているだろうかその判断が出来ない。本当にこの相手は自分と同じような子供だろうか。見かけからも幼さが見られず、少年と言うよりも大人のような顔つきに見える。

 

 そして、志貴にはそれがなぜだか終ぞ分からなかったが。

 

 

 

 

 

 志貴にはその風貌がどこか自分の父と似ていると思った。

 

 

 

 

 

「志貴様。なぜここに」

 

 気付けば目の前で朔がこちらに言葉を投げかけている。これには答えなければならないだろう。だって忍び込んだのは自分だし。

 

 でも何を言う? 

 そもそもこの離れに侵入したのは志貴の衝動的なもので計画なんて全くなかった。しかも侵入した理由は『朔が一体どんな人物か知る』というものだ。それを「君のことが知りたかったから」と馬鹿正直に言えるほど、志貴は頭が悪くは無かったし、人並みの羞恥心も持っていた。

 ただそれをただ志貴の理由と行動のみで考えてみると、まるで志貴が朔を恋い慕ったから故の行動のように見える。恋する人は大よそ想像では飽き足らないものだが、それが暴走することも有り得る。

しかし今回はそもそもそんな理由じゃないし、志貴が抱いたのはそんな感情でもない。また志貴はまだそんな甘ったるい感情を知らなかった。

 

だいたい二人は男の子同士。そんな事は無い。ないったらない。ないんだってば。

 

 しかしなんて答えようか。子供ながらに考えて悩み脳内が熱を持ちスパークするんじゃないかと自分を褒めたくなるほど考えた結果、志貴は、

 

 

 

 「…………」

 

 

 

 だんまりした。

 

 いやいやちょっと待てよ僕。

志貴はかなり焦り始めている内心に困惑しながら自分の声の無い返事にくらくらし始めた。そもそも黙ることを返事とは言わない。

 しかし焦れば焦るほど志貴は口元を固く結んだまま縮こまるように俯く。そしてこんなことをして一体何がしたいんだ僕はと自分を奮い立たせようとするが、志貴の身体と意志はそれとは反対の行動しかとろうとしない。

 

 そして某福音の少年のように「動け動け動け動け!」と内心で叫びどうにかして朔に目を合わせようとするが、沈黙が痛くてどうにかなってしまいそうだった。その沈黙を増長させたのは志貴自身である。最早どうしようもない。

 

 朔は何も言わなかった。何も言わずに志貴を見ている。そのどこを視ているのか分からない瞳が今の志貴には辛かった。

 

 ともすれば下を俯く志貴の目には涙が出そうだった。だって何をしてるんだろう。こんなかっこ悪くて、しかも何も出来なくて。

 

 凄く惨めな気分だった。朔に抱いた悔しさや、自分自身に抱いた情けなさとも違う、棟の中心に重い石を入れたような感覚が身体を苦しめる。しかしそれをどうにかする術を志貴は知らなかった。

 

 次第に潤んでぼやける視界。身体は緊張してがちがちに固まっているくせに震えて俯いたまま。怒られているわけではないのに、なぜだか凄くこの時間が怖くなってきた。

 

 だけど。

 

 

 

「志貴様。理由はないのですか」

 

 

 

 朔の容赦ない追求にぐらりと意識が揺れた。それに答えられずよりいっそう俯く。だって答えられるはずなのになんでこんなに自分は答えられない。それを考えて、ひたすらに考えて。なるべく目の前の朔を視界にいれず考えたくも無いのに意識は朔にばかり向かう。

 

一体沈黙はどれほど流れただろう。生憎時計などない離れに時間を知る術などない。一分か十分か。結局朔の言葉に答えることのできなかった志貴はひたすらに俯いたままだった。実際はほとんど時間も経っていないのだが志貴の体感時間はひたすらにおかしくなっていた。

 

 するとその時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぽふっ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 頭部に何かの感触があった。

 

 よく分からないが、その感触が温かくて、ふと視線を上げてみると

 

「―――え?」

 

 朔が志貴の頭を撫でていた。

 

「なぜ志貴様がここにいたのか知りません」

 

 そういいながらも慣れていないのだろうか、機械的に志貴の頭を撫でて

 

「ただ」

 

「今言いたくなければ、また次に言えばいい」

 

 そう言った朔は無表情だった。

 声音は相変わらず無機質で温度が無く、鋼のようだ。頭を撫でる手も全く優しくないし。

 でも、それは無骨ながらも、まるで父のような――――。

 

「…………あ」

 

 そして気付いた。この感触は黄理に、父に似ているのだと。

 

 

 

 

 

 しばらく撫でられ続けどうにかして落ち着いた志貴は次第にその心地よさに身を委ねていた。それは内心合点がいったからである。

 この人は黄理に似ている。だからなぜか気になったのだと。

 果たしてそれがあっているのか間違っているかの判別がつくほど、志貴は大人でもない。だが子供心の純粋をそのままに、志貴はなんとなく思った。

 

「(兄ちゃんってこんな感じかなあ?)」

 

                     □

 

 目の前で何も答えず、こちらを何か驚いた顔で見る志貴。

 なぜこのような顔をするのか分からないが、朔はそれを分からないままに志貴の頭を撫でている。なぜ志貴の頭を撫でているのかすらも、朔には分からない。

 何か痛みをこらえるような志貴の姿を見て、自分は何かしただろうかと考えてみた。しかしそれは結局朔には無い答えだった。

 

 ただ、こんなとき黄理はどうするのだろうと夢想した。彼は志貴の父親である。父というものに関して想うこともない朔ではあるが、黄理が志貴を大切にしていることはわかる。それが自分にはない温度の行方を捜索しても追いつくことも理解することも出来ないことであることはわかっている。だが父という黄理は子である志貴になにをしていただろう。

 

 残念ながら二人が触れ合う姿を朔はほとんど見ない。それはタイミングもあるだろう。自分がそうゆうモノとは無縁なこともあるだろう。だがそれ以上に、朔にはその光景が価値あるものとしては映らなかった、という自分自身の壊れ具合を再確認する作業にしかならなかったのだった。

 

 それは尊いのだろう。美しいのだろう。もしかしたら、温かいものなのかもしれない。だが、それを判断する価値観が形作られなかった朔が、それを判断しようとしても人が持つ情や義はたまた悪や邪に価値が見出せない。

 

 

 

 この時。いや、もっと遥か昔、おそらく朔が成長過程のことだ。

 特殊な一族のそれ以上に特殊な扱いを受け、事情を持つ朔は壊れてしまったのではない。壊れるとは、得てして形として一応の完成を成していたものが欠損することである。

 だが、朔はそれがなかった。

 人が当然として持つ倫理や価値観。それが形として作られることもなく成長していった。

 ゆえに。朔は壊れているではない。

 徹底的な欠陥がある。

 それはただ、それだけのことだった。

 

 

 兎にも角にも目の前の志貴にどうするべきかと考え、こんなとき黄理ならばどうするのかと考察し、朔の圧倒的に足りない判断材料から吟味した結果、朔がとった行動は志貴の頭頂部を撫でるというものだった。

 

 それだけでとりあえず行ってみようと考える朔も朔だが、突然とはいえそれを受け入れている志貴も志貴だった。

 

 

 

 

 

 

 

 しかしこの行為に一体何の意味があるのだろうかと考えた朔だったが、落ち着いた様子で目を細める志貴の姿を見て、これにはそのような効果があるのかと認識した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ。あの、ね?朔、さん」

「なに?」

「あの、その、えっと……」

「別に何かあるなら今度でもいい」

「次も来ていいのっ?」

「はい」

「うんっ。(やった!)」

「?」

 というやり取りがその後あったとか無かったとか。

 

 

 

 

 

 七夜朔七歳 

 なでポ(仮)体得



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第七話 骨師

それは、おそらく運命と呼ばれるものだったのだろう。

 

 男はそのような曖昧なものを信じるほど夢を見るたちではなく、非常に現実主義な男だったはずだ。一族を束ねる棟梁としてそういう生き方を選び、行動してきた。時には身内を切り捨てて一族を永らえさせたこともある。そのようなモノとなるよう自身を戒め、そのように自身も、自覚していた。

 だが、この肉体を燃え焦がす激情を抑える術を、男は知らなかった。

 ともすれば身体が内側から破裂してしまいそうな感覚。血が煮えたぎり、骨が熱せられ、肉が震える。それは歓喜の感情。思考はそれに塗りつぶされ、精神はそれに押しつぶされている。このような感覚は知らない。今までに無い、経験もしたことも無い感覚。それが肉体を駆け巡り、そして、それに陶酔しきっている自分がいた。

 

 

 

 だからこれは運命なのだろう。

 

 

 

 その時、男は一人の少年と出会う。

 少年の名は七夜朔。

 男が自身の全てを捧げる子供である。

 

 

 

 その日、七夜黄理は当主として自身の屋敷の客間に座していた。

 太陽は天に差し掛かり、少しばかり冷たくなった空気を温めようとしている。季節はそろそろ秋になるのだろうか。一族が住む森も鮮やかな彩りを見せ始め、生き物はそろそろ冬支度を始めようとしている。

 最近では二足歩行のキノコが増え、報告によれば多数の群れが確認されている。秋だからだろうか。どうやら繁殖しているらしい。それが群れを成して回転をしながら浮遊していたということらしいが、生憎と黄理は今だ目撃していないので何ともいえない。被害があるわけでもなく、ただ浮遊しているだけなので今のところは放置している状況である。ただきのこは緑の傘には白い斑点、そして目のあたりがやたらと輝いているらしく、それが群れを成して浮遊している様はオカルトでありながら少々コミカルだ。結界強化をしまくった影響から生まれた突然変異種の中では特に進化した植物(?)として恐れられているとか。

 現在、黄理は客間にてしばらく目を瞑っていた。この時間帯、いつもならば朔の訓練時間である。早朝から始まり昼となって天上に太陽が昇るまで行われる訓練は、訓練と言う大義名分を使った朔とのふれあいタイムである。その時間だけは黄理が朔の面倒の一切を見ており、他のことは後回しにすることが一族の暗黙の了解だったりする。

 しかし今日はそれを行なっていない。と言うのも黄理に客が来るからである。

 七夜は退魔組織を抜け出してからは人里離れ閉鎖された空間で生きているが、それでも外部との繋がりはある程度存在している。それは情報の交換であったり資源の回収であったりと、いくら一族が励んでも足りないものは多い。ゆえに外部との繋がりは切っても切れないのだった。

 そして今回訪れるものは七夜に於いても重要な存在で、蔑ろにすることの出来ない相手である。七夜とのつながりも長く、黄理の先代から交流が行われているため黄理が相手をしなければならない。ゆえに黄理は今日ばかりは朔の相手が出来ず、泣く泣く訓練の中止を申し立てたのだが。

 

「翁め……」

 

 その一言にありったけの罵詈雑言怨念憎悪を込めて呟くが、果たしてそれは届くはずも無い言葉であった。

 訓練を中止したは言いものの、それでは朔はどうするのかというちょっとした問題が起こったのだが、それを解決したのが七夜のご意見番にして黄理の相談役でもある翁である。

黄理が朔の相手を出来ないと決まると、朔の座学教授として名乗りを上げたのだ。

 朔には座学をあまり行わせていない。黄理としてはそういうものは実戦で学ぶことで必要なものは自然と身につく。興味を覚えれば自分で調べ研究するだろうと考えていた黄理は朔に対し座学をやってこなかった。

 それに待ったをかけたのが翁である。

 確かに実戦から覚えることもあるだろうが知識は必要である。知識を学んで備えを知れば選択の範囲も広がり、敵の対応にも役に立つ。それを蔑ろにしてはならない。

 大体その考え方は黄理を対象に前提とさせた話である。人体をどれだけ巧く停止させるかを探求していた黄理は興味の幅は狭いが、それなりの武術などには興味を覚えていた。しかしそのように活発的な七夜は稀であり、黄理にのみ限定したことであった。だから前提からしていかがなものか、とそう言い争って長いが、今回黄理が相手を出来ないということで翁が名乗りを上げたのである。

 朔はほとんどを黄理との組み手で費やし座学をほとんど行っていない。それに対して危惧を抱いた翁は朔の世話を行う女性と共謀することで今回の運びとなったのである。

 事実今日黄理は朔と会っていない。訓練は無いが顔を合わすぐらいは構わないだろうと来客が来る時間前に思った黄理は朔がいるはずの離れにむかったのだが、

 

「おや。御館様」

 

 なぜか翁がいた。

 翁は畳に座り茶を啜っていた。正座で湯飲みを傾けるその姿はいっそ優雅と言える。だが離れにはなぜか朔の姿が見えない。それに疑問を抱いた黄理は朔の居場所を聞いてみたのだが、

 

「さあ? 私も存じませぬなあ。ご自分でお探しになったらいかがですか?」

 

 なにやら好々爺の顔に人を食ったような色を混じらせてのたまったのである。

 それを聞いて黄理確信。

 

 こいつ会わす気ねえ。

 

 だいたいこの時間帯に翁がここにいるのがおかしい。翁は当主の補佐を任された人材で、今の時間は来客を出迎えているはずである。里は結界を張らせていて普通に危ない。なので来客には案内役が必要である。ただでさえ広く雄大な森で、突然変異種やら植物に襲われたら堪ったものではない。そしてその案内役には翁を指名していたのだが、

 

「おやこんな時間でしたなあ。私もついうっかり和んでしまいました」

 

 なんか翁は目の前にいる。

 案内役は今森のルートにいるはずである。しかし翁が離れにいるということは、おそらく案内は他のものに任せたのだろう。でなければこんな落ち着いて茶を飲んではいない。しかしそれはなぜだ。なぜそのようなことを、と考えた結果、翁が何かしら謀をしていると導き出したのである。

 では朔はどこだ、と考えた黄理は翁なんかにわき目も振らず朔がいそうな所に手当たりしだい出向いたのだが。

 

「おや。御館様」

「これまた奇遇ですな御館様」

「そろそろお時間ではないですか?御館様」

 

 そのことごとくに翁がいた。

 離れ、母屋、鍛錬場、はたまた確立は少ないが広場。片っ端に探してみたものの翁としか会わない。朔には会わないし志貴もなぜかいない。

 そういえば近頃になって志貴が朔となぜかしらいる。それはいままでにはなかったことで、朔が拒絶もしていないことから、それまで顔馴染み以下の関係でしかなかった志貴がどうやって朔に近づいたのかと思いはしたが、結果としては良いことである。

 未だ成功もしていない『朔の黄理父さんは発言イベント計画』には大きな足がかりであると言えるだろう。志貴の父としては嬉しいことである。ただその自分に朔がそのような感情を抱いてないと感じている黄理としては残念である。実際自分よりも先に朔と心理的距離を縮めた志貴に少しばかりの嫉妬心を抱いたとか抱かなかったとか。兎に角今後も朔との仲をよくするのは黄理的最重要事項である。

 その朔になぜだか会わせないように動いている翁は黄理からすれば大変うざい。

 先代から七夜のために尽力する翁の存在は一族にとっても黄理個人にとっても欠かすことの出来ない存在である。その知識、経験、修羅場を幾度と無く超え、死線を幾つも潜り抜けた胆力。得がたい人材だと黄理は思っている。

 が、こればっかりはさすがにない。

 彼が貴重な存在だとか欠かすことのできない人材だとか、そんなこと一切関係なく黄理は思わず本気の殺気を翁に叩き込んだ。退魔から退いたとはいえ、鬼神として今もなお恐れられている男が放つ殺気は、胆無き者が触れればあっけなく気がやられ、動物は本能のままに逃げ出す。それを翁に叩き込んだのである。黄理実に大人気ない。

 しかし翁もさる者。そんなの全く関係ないと涼しい表情で受け流した。しかも若干鼻で笑った。

 なんだこいつはと思った黄理は臨戦態勢に突入しようとしたが、来客の時間になってしまい、有耶無耶になってしまったのである。

 ゆえに現在黄理は少しばかり朔成分が足りていない状況である。朔成分ってなんだ。

 客間で見かけ泰然としているものの、少しばかり落ち着きが無い。果たしてどうしたものか、むしろ翁どうしてくれようかと考えを巡らせていると、襖の向こうから人の気配が近づいてきた。

 

「御館様。刀崎様です」

 

 襖の向こうには翁がいた。あいつめぇ、と内心思ったりしたがさすがに客が来ているのに怒気は発しない。

 そうして襖の向こうから男が現われた。

 

 男は、妖怪のような老人だった。

 

 座布団に座る黄理からすればそびえるような高さの身長。2メートルを優に越える身長で、着ているのは擦り切れた着物でよくよく見れば、筋骨隆々な肉体をしていたが、着物から覗く手足が不自然なほどに長く不気味な印象を与える。

 更に特筆すべきはその顔だろうか。深い皺に豊かに蓄えられた白髪と白髭。それだけ見ればただの老人に見えなくも無いだろう。だが、そのギョロリと大きすぎる眼が無ければの話だが。その風貌から黄理には伝承に残る妖怪爺に見えて仕方ない。

 

「邪魔するぞい、糞餓鬼」

 

 妖怪は合わさりあった金属のような声を軋ませ、不遜に備え付けられた座布団によっこらせ、と声を上げ座した。

 

「お前と会うのはいつ振りだ糞餓鬼」

「さてな。もう覚えていない」

「全く。お前らが退魔業から離れたと聞いたときは驚いたもんだ。混血からは鬼神と呼ばれた男の突然の引退。冗談にしては呆れたもんだ。ったく、お前は何様だ」

「それこそ分からん。それより梟。来訪とはどうした。早々に用件を話せ」

「うるせえこの糞餓鬼が。久しぶり交流を楽しむことも知らんのか」

 

 そういて妖怪、刀崎梟は快活に笑った。

 刀崎。

 混血の宗主遠野の分家のひとつ。

 そして刀崎梟は刀崎の棟梁である。

 混血と混血の暗殺を担う退魔の一族だった七夜が交友を結んでいるのは少しばかりわけがある。

 混血は人と魔が交じり合った者のことで、それは超越者であったり幻想種であったりと種は多々いるが、日本において混血とは鬼種と交じり合ったものを指す。そしてその混血を纏め率いる立場にいるのが遠野と呼ばれる混血の宗主たる家である。

 その宗主である遠野の当主はある特別な務めが存在する。それは反転した者の処刑または処罰である。そのため混血は退魔とは時には協力関係を結び、時には天敵となる存在なのである。

 その一例が今黄理の目の前にいる老人、梟である。

 刀崎と七夜は協定が結ばれており、黄理の先代から交流が行われている。それは七夜という武装集団と刀崎の相性が悪くなかったからだ。

 刀崎は骨師と呼ばれる鍛冶師の一族である。武装を造り、刀を鍛える刀崎と暗殺に武器を用いる七夜は売り手と買い手という関係が昔に生まれ、そのおかげで協定が結ばれた。

 

「お前、変わったなあ。機械だった糞餓鬼はどこに消えた」

「……消えたわけではない。ただ、他の行き方を見つけただけだ」

「はっ。今のお前は詰まらんな」

 

 人を馬鹿にするような笑みを浮かべながら、いつの間にか入れられた茶を啜る梟は一拍おいて、

 

「どうも遠野に動きがある」

 

 と言った。

 

 

□□□

 

 

「対象が自分よりも強い存在ならばどうしますか?では志貴様?」

「ん~っと。一度退いてから倒せる準備をする?」

「それもひとつの手で御座います。しかしそれは七夜としては正しくありません」

「そうなの?」

「そうで御座います。では朔様?朔様はどうしますか?」

「殺す」

 

 朔は臆面無く、瞬時にそう答えた。

 そこは里にあるこじんまりとした平屋である。当主の屋敷からは少し離れた場所にあるそこでは現在、朔そして朔についてきた志貴への座学教授が行われていた。

 先生役は翁。長机に並んで座る朔と志貴を相手に和やかな雰囲気で座学を進ませている。生徒役の一人である志貴はなんだか楽しそうにそわそわとしながらこの時間を楽しんでいるようだ。

 それに対し朔であるが、こちらは微動だに動かず、楽しいのかつまらないのかも分からない無表情。その茫洋な瞳は果たして翁を見ているのだろうか検討もつかない。

 今日は朔の訓練が行われなかったため、翁が訓練の時間を使って座学を教え込んでいた。そのために朔の世話を行う方と相談し、来客のある今日に計画を決行。そして黄理の行動を先回りすることで今回の実現と相成ったのである。

 朔は才のある子供で、子供の中では里一番の成長を見せており、その成長速度は黄理が瞠目するほどのもの。だがいかんせん戦闘訓練ばかりである。これはいかんだろうと前々から翁は危惧していた。何者にも座学は必要だ。ついては思考力を備え、戦闘での思考停止を減少させ、生きる確立をあげる七夜にとっても欠かすことの出来ないものである。だが黄理が如何せん戦闘訓練を重視するばかり朔には座学が全く行われていなかった。確かに実戦でのみ得られることもあるという黄理の言も分かる。知っている事と分かっている事の差だ。事前に知識として得たものが実戦に於いて通用しないことなどごまんとある。実戦でしか得られないことがあることもまた事実。だが、それでも知識は身を救う。それが長年七夜として生きた男の言である。

 そういう訳で黄理から朔を一時的に切り離すことで座学を行い始めたのだが。

 

「朔様……。確かに結果的にはそうではありますが……」

「やることは変わらない。殺す。相手が強くても殺すことに変わりない」

 

 いかんせんこの様である。

 黄理の訓練の賜物かはたまた影響か、朔は非常に極端な思考を持っていた。戦闘での問題では七夜として相応しい答えを持っているが、それもまた非常に極端的である。

 曰く、殺す。それだけ。

 それが戦闘における座学で朔が持ちえるたった一つの答えだった。それにいよいよ焦りを感じ始めた翁は志貴にも問題を振るい、選択の幅を広めようとするのだがどうにも功をそうしていない。志貴の答えを全く聞いていないとは思えないが、歯牙にかけていない様子。志貴は志貴で朔にかっこよさを見出しているらしく、朔が答えるたび瞳をきらきらと輝かせて尊敬の眼差しを向けている。どうしようもない。

 だからと言ってここで諦めるのは翁に在らず。これぐらいの困難幾度となく超えてきた。

 

「まあ、実戦はこれぐらいにしておいて、次いでは七夜が持つ魔眼についてお教えしましょう」

 

 とりあえず切り口を変え、攻めを変化させてみた。

 七夜の一族は超能力を保持している。七夜は本来一代限りの超能力を近親相姦によって色濃く継承し、退魔としての活動を可能とさせた一族であり、一族の人間は無制限で超能力を保持している可能性が高い。

 そして、七夜が保持し、望まれ、多くいるのが淨眼と呼ばれる魔眼の一種である。

 それは魔術師などが行使する一工程の魔術行使ではなく、本来から備わっている能力である。目としての機能と認識能力の向上によって備わった視界は通常では視えないものが見えるもので、七夜の淨眼は本来見えないものを視るという能力を期待されたものだ。しかし、もちろんそれが継承されないものもいる。

 

「七夜の魔眼は見えないものを視る能力です。しかしながら一族の人間全てが同じものを見るというわけではありません。私のように継承していない者もいれば、御館様のように人間の思念を視れる方もおられます」

 

 翁は魔眼を保持していなかった。それに気付いたのは早く志貴と同じ頃のことだった。そんなの関係ねえ、と叫んで敵陣に突っ込んだ記憶が懐かしい。

 

「思念って何なの?」

 

 志貴が不思議そうに首を傾けた。

 

「思念とは思っていることで御座います。人間が内で考えていること、それが思念です。普通それは視えないものですが御館様は視えます。この能力は淨眼と呼ぶには余りに弱いもので御座いますが、御館様はこれを用いることで多くの暗殺を完遂しておられます」

「どうしてなの?」

「志貴様は気配の消し方を習いましたか?人は気配を隠せても、思念は隠せないものなのです。ゆえにそれを辿ることで隠れたものさえも見つけ出し暗殺されたのです」

「へえぇ、お父さんすごーい!」

 

 志貴が父である黄理の株を上げているが、これを知った黄理がほくそ笑む姿が思い浮かぶ。しかしながら朔は反応もしていない。こうやって他人から黄理の評価を聞くことで朔の反応も変わるのではと少し考えてのことであったが、それは失敗したらしい。少し無念。だがここで終わってはならないだろうと話を振る。

 

「しかし、朔様は御館様に聞くところ魔眼は未だ発現されていないとか」

「はい」

 こうやって素直に肯定する様は同年代の子供たちと変わらないのだが、無表情で頷くのは少しばかり怖い。

「ふむ……。私は魔眼を持っていないので何とも言えませんが、どうですか?普段不可思議なものが視えるということはありませんか?」

「ない」

「ふうむ……。こればっかりはその人のものですからなあ。外部からの影響から発現することもあると聞きますし、これから焦らずに待つのがよろしいかと思われますよ」

 

 ただそれがいつになるかは誰にも、その人にも分からないが。教授を進めようとすると、一族の者が休憩用に茶と菓子を少々持ってきた。時間的にもちょうどいいのでそのまま休むことになった。

 

 

□□□

 

 

「遠野がどうした」

 

 眼前で茶を啜る梟を睨みつけ、黄理は言った。

 

「さあてな。詳しくは俺も知らんぞ。ただ遠野が何かしらの動きを見せた。ただそれだけのことだ」

 

 梟は黄理の視線を気にするわけでもなく不適な態度を見せるのみ。しかしその内容が、それだけ、という話ではない。

 混血の宗主遠野。古来に鬼種と混じった最も尊き混血。表向き財閥として活動しているが、その影響力は計り知れず。分家も多く刀崎もその一員だが、おそらく組織としては日本一の規模を誇っている。

 その遠野が動く。しかも刀崎の報告から秘密裏のことである。何やらきな臭い、不穏な空気を感じる。七夜は退魔組織を抜けたが裏の人間であることは変わりない。前線から退いたとはいえ、黄理はそのようなことに鼻が利く。

 遠野の動き、狙いを考えるが何もわからない。これは長く生業から離れたこともあるのだろうか。勘が鈍っている可能性がある。

 だが、それでも黄理は七夜の当主。一族最強の男である。

 いざというときには……

 

 

 すると、その時、拉げた笑い声が聞こえた。

 

 

「ひひひひひひひひひゃひゃひゃひゃひゃ」

 

 それは目の前にいる梟の笑い声で、何とも耳障りな笑い声だった。金属が擦れ合わさる悲鳴のような音が客間に響いた。その様は真実妖怪のよう。

 

「なんだ、梟」

 

 内心苛立ちまぎれに声を突き刺す。しかしそれを受けても梟の笑い声は止まらなかった。

 

「ひひひ……。ああ、ああ!笑った。笑ったぞ黄理。久しぶりに面白かったぞ」

「……」

「糞餓鬼。さっき変わったっつったが、あれ訂正するぞ」

 

 

「糞餓鬼、お前全く変わってないな」

 

 

「なに……」

 

 ぴしり、と黄理は固まった。

 

「機械じゃないなんていって悪かったなあ。お前は変わらん。変わるはずがない。人間がそんな簡単に変わるはずがねえんだよ。俺らの原始は動かない。変わるはずがねえのさよお」

 

 そういって、梟は未だ愉快そうにくつくつと笑う。

 しかし黄理にはそれが受け入れられない。朔を預かり、志貴を授かってから黄理は変わった。憑き物が落ちた黄理は自他共に認めるような変化があった。それはただ人を殺めるだけの機械が始めて温度を得たのである。

 それを変わっていないと、変わるはずがと、目の前の妖怪は言う。

 そして、今の黄理にその言葉は許せるものではなかった。

 

「訂正しろ梟」

 

 若干の殺気を込め梟に言う。それはいつでもお前を殺せるという黄理の自信だった。そして黄理は事実目の前の妖怪を殺そうと思えばいつでも殺せる。梟自身は戦闘は可能としているが刀崎の生業が戦闘向きではないのであまり戦闘を行わない。ゆえに殺し合いの場では不利。

だと言うのに、妖怪は、刀崎は、梟は、侵しそうに笑う。

 

「何だ。気付いてないのかお前」

 

 それさえも可笑しそうに、

 

 

 

 

「だってお前、殺人機械の顔になってるぜ」

 

 

 

 

 そう言った。

 それは、黄理に衝撃を与えるには充分なものだった。

 殺人機械?殺人機械?

 誰が?俺が?

 そうして黄理は自らの顔に触れた。

 

 硬く、機械のように冷たい無表情がそこにはあった。

 

「ひひひ……。全く、わからねえ野郎だ。詰まらんヤツだと思えば、いつの間にかいつものお前だ。俺が知っている糞餓鬼だ」

 

 そうして笑い疲れたのか、茶を飲んで梟は笑いを収めた。

 しかし、その言葉が黄理にどれだけ突き刺さったのか、梟は理解して言っているのだから質が悪いと言える。

 昔から梟はこのような男だった。変わらないと言えばこの男も変わらない。

 先代当主に付き従い、始めて出会ったときもこの男は黄理を糞餓鬼とのたまい蔑ろにしていたが、それは今でも変わらない。そう言えばその頃から梟は刀崎の棟梁だったはず。一体年齢はどれほどなのだろう。不老と聞いても案外納得しそうな自分がいることに黄理は気付き、少しばかり口元に笑みが浮かんだ。いつの間にか動揺は消えている。消えていくだろう。

 

「へ、また詰まんねえ奴に戻りやがって。詰まんねえ糞餓鬼は嫌いだ。俺は帰るぞ、こんなわけの分からんとこさっさと退散するに限る。おい糞餓鬼、俺はここにたどり着くまで空を飛ぶキノコを見てるんだぞ。なんだあいつ幻想種か?いつのまにここはテーマパークになってんだこら」

 

 キノコの存在を訴える梟の姿がなんだか無性に面白い。それを見て驚愕する梟の姿を想像すると余計におかしい。シュールにも程がある絵だ。

 しかし、次の梟の言葉は聞き捨てならなかった。

 

 

「そういや、糞餓鬼。お前子供いたな。おい、いつ二人目生んだ?糞餓鬼の子が二人いるとは聞いてなかったぞ。会わせろ」

 

 

□□□

 

 

 最近、志貴が身近にいることが多い。それが良いことなのか悪いことなのか朔には判断しかねるが、おそらくあの日、志貴が朔の離れに訪れたときからだろうか、次の日から志貴が離れに訪れることが多くなった。朔が住む場所は当主の屋敷の敷地内であり、朔が住んでいるのはそこの離れに当たる。志貴はその屋敷の母屋に住んでいるので、当然顔を見ることもあった。だがそこに会話もなく、離れに訪れるような関係でもなかったはずだ。しかし、どうだろう。事実志貴は朔の側にいて、共に時間を過ごすことが多くなった。

 それは離れにいる時だったり、朔が母屋にいる時だったり、はたまた里の内部のどこかだったり、更には訓練の時であったりと多岐にわたる。さすがに朔の訓練に参加することは今の志貴には出来ないが、志貴の言によれば最近頑張っているとのこと。自主訓練も行い始め、今では朔以外の子供のなかで一番強くなったとのこと。何が面白いのか楽しそうに報告する志貴を無感動に見ながら、朔は志貴の話を聞いていた。

 そしてそれに伴い朔と志貴にある変化が現われ始めた。それと言うのも、

 

「兄ちゃん、饅頭おいしいね」

「ああ」

「兄ちゃん饅頭もっと食べる?まだあるよ?」

「いい。いらない」

「そうなの?んじゃ僕が食べていい?」

「ああ」

 

 こういうことである。なぜだか志貴は朔を兄と呼び始めた。そして敬語の禁止を命じられた。敬語はいいだろう。もとからあまり固執していたわけでもなく、本人からの許可をもらってからあっさりといつも通りの口調に戻した。そもそも曖昧だった口調であったため、あまり意識もしていなかった。

 だが兄とはどういうことだろう。自分と志貴に直接的な血の繋がりはない。本来は従兄弟と言う関係だ。それがたまたま当主に預かられた朔を、志貴が兄と呼ぶのである。肉体的には近い存在なのだろうが、果たして事はそんなに単純なことだろうか、と考えたが、

 

「なんで兄ちゃん?」

「ええっとねえ。……なんとなく?」

「そう」

「そうだよ」

 

 と言うことらしい。ならば別に何か問題が起こるわけでもないしと朔は放置していた。事実志貴が朔を連れ回すことはあるがそれも多くはない。訓練の邪魔をするわけでもない志貴の存在はそれだけの存在である。あるのだが。

 

「? 何、兄ちゃん?」

 

 首を傾げるようにこちらを見る志貴。

 その姿は里の子供と同じように幼い。だが自分はどうだろう。朔は考える。自分は他の事はまるで違う。それは見かけとかではなく、存在が別の生物だ。いや、自分は本当に人間か? 確認する術はなく、認識する事も出来ない。だが、志貴の存在を見て、自分との違いを発見することは可能だろうと考えた朔は志貴から離れることもしないし、思わないようになった。それは他人を見ることで自身の異常性を再確認する作業と同等の行為であったが、朔にはこれ以外の方法も対応も思いつかなかった。

 

「なにもない」

「そうなの?変な兄ちゃん」

 

 おかしそうに笑う志貴。変なのか自分は。変なのだろう自分は。きっとそうなのだろう。そして志貴はなぜ笑うのかも理解できず、朔は静かに湯飲みを口元に運んだ。

 現在朔と志貴は里の平屋にて菓子を食していた。本来ならば朔は黄理相手に訓練を行う時間だったのだが、今日は黄理に来客があるらしく訓練は行われないことになった。ならば今日は、ということで名乗りを上げた翁の教授により訓練の代わりに座学を行うことになった。朔のみの話だったのだが朔と共にいた志貴が興味を覚え、急遽志貴も参加という訳で今回の運びとなったのだったが、今は休憩時間とのこと。教授役の翁、生徒役の朔、そして志貴は使用人が運んできた茶と茶の子を楽しんでいた。と言っても朔は茶の子にほとんど手を伸ばさず茶を飲むばかりだったが。

 

「しかし朔様、よろしいので?」

 

 一通り落ち着いたのか、茶を啜りながら翁が口を開いた。

 

「なにが?」

「いえ。座学と今日は言いましたが、朔様は一切何も言わなかったのですから少しばかり心配を」

 

 今日の訓練の中止は昨日に言われたことである。そしてその場で、座学を行うと言われたのだ。翁の言葉で。それに朔はあっさりと従ったのみで、文句も驚きも言わなかった。だが、朔からすればそのようなことはどうでもいいことなのであった。

言われた。それだけで充分だった。それで朔は動く。それしかない。

 

「別に、問題ないから」

「そうで御座いますか……」

 

 朔の言葉を聞く翁の顔の色は一体何なのだろうか。痛ましいような、悔しがるような。それは朔に向けた色なのだろうか。それとも自分に向けた色なのだろうか。

 わからない。わからないから考える。

 考えてみたが、朔には分からないことだった。

 

「さてと、そろそろ休憩は終わりにしましょうか」

 

 いつの間にか茶菓子が無くなっていた。そして志貴を見ると頬いっぱいに茶菓子を含めていて、二人同時に見られたのが恥ずかしかったのかアワアワと慌てていた。それに翁は微笑み、朔は何で慌てているのだろうと思った。

 

「それでは座学の続き参りましょうか」

 

 しかし、もう口の中の茶菓子を飲み込んだのか、志貴が文句を言う。

 

「ええー。まだ座学やるのお?もう飽きたよ翁ぁ」

「ふうむ。それは困りましたなあ、座学が終わりましたら御館様に志貴様のことを報告せねばなりませんのに」

 

 そう言ってニヤニヤ笑う翁にふてくされながらも、結局座学を受けることにする志貴なのだった。やはり父は怖いらしい。

 

「では、今からは人体の構造を――――――――っ!」

 

 突然のことだった。

 強烈な存在感が里を覆っていた。それはまるで殺気を出す黄理のような恐ろしい存在で、ぬかるんだ汚泥のような感触が空気を淀ませる。

 それがこの平屋に近づいてくる。

 肌が粟立つ。筋肉が収縮し、意識が次第に鮮明になる感覚を朔は覚える。

 隣にいるはずの志貴を見る。この存在感に呑まれたのか、震える手は朔の袖を握りしめている。翁を見た。先ほどの好々爺の男は消え去り、その目はひたすらに鋭く近づく存在感を睨みつける。方角は玄関。平屋作りのこの場所からして、それはすぐそこ、左の方向。

 だが、朔は身を襲う不可思議な衝動に身体を固まらせる。

 なんだこの衝動は。これは知らない。これは知らない。

 身体が何かを訴え熱を持つ。精神が何かを叫んでいる。だがこの感情は何だ。

 なぜこんなに突き動かされる衝動が湧き上がる。

――――――――、―――――――――。

 最早内側は雑音が混じり始めている。視界が定まっていない。だが、その存在感だけはやけに知覚できる。

 揺れる、淀む、濁る。

 鮮明。鮮麗。鮮烈。

―――――――――、―――――――――。

 だけど、意識が何かに呑まれていく。それは存在感にではない外部からではない内部から。

 それを抑える術を自分は知らない分からない学んでいない習っていない倣っていない。

―――――――――――、――――――――――。

 音が消えた。

 だが心臓の鼓動がはっきりと脈打っている。

 それは激しい激情を訴えていた。

 だがそれが何なのか朔は分からない。

「           っ」

 誰の声だろう。いや、この声はなんだろう。誰を呼んでいるのだろう。

 身体が震えた。だが何に。精神が咆哮した。だが何に。

 意識が消える。

 もう限界だった。意識が消えることを抑えるのに?

 いや、身体を抑えるのに。

 それはなぜ?なぜ身体を抑える?

 それは、それは、それは、それは、それは、それは……

 それは?

 

 

 

 

 

 

「                 」

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――。

 

暗転。

 

□□□

「子供に会いたい?それはなぜだ梟」

「なに、ほんの興味だ。糞餓鬼の子供っつうんだから期待も出来るってもんだ」

「興味、だと?」

 

 目前の妖怪の言い分を信じれるほど、黄理は間抜けでも警戒心が強い訳ではなかった。

 確かに嘘は言っていない。だが、真実を口にしているわけではない。目的を本意に隠している気配がある。それが自分の子供の命を狙っているのならば話は早かった。懐に忍ばせてある黄理の武器を使用し、首を断てばいい。その後面倒なことになりそうだが、子供の命に代えられるものではない。黄理はあの二人のことは大切に思っているし、未だ関係は微妙な朔もいるが自身の子供として守っていきたいと思う。

 そのためには容赦なく躊躇いなく感慨なく感情なく殺す。殺してその後の面倒も排して殺す。

 まるで殺人機械だと、黄理は思った。そして、それが以前の自分なのだと、認めた。だが、今の自分が機械であるとは、受け入れられない。自分には守る者が、守りたい者がいるから。

 しかし、梟を注視する。そのような気配無く、空気も無い。目的は不明だが殺害が目的ではないことは分かる。衣服を見ても武装を隠し持っているようには見えない。いや、この男も混血。人外のものであることは確か。ならば子を殺すのに武装など不要か。

 ではどうするか。梟を会わすことでメリットはあるだろうか。七夜との協定上は問題ないだろうが、だからと言って会わす必要性はないだろう。

 

 まて、メリット……?

 

「梟、まさか。お前は未だに諦めていないのか?」

 

 脳裏に過ぎった僅かな可能性が黄理の口を開かせた。

 そして梟は質問に答えることも無く、意地の悪い笑みを浮かべるだけだった。

 

 刀崎。混血の一族、遠野の分家。だがそれ以上に彼らは職人なのだ。

鍛冶師として自身の腕で武具を生み出すことを誇りにした者達。そして、それは目の前の男も変わらない。

 刀崎梟は鍛冶師として数々の名刀を生み出した男として遠野でも重宝されてきた男だ。だが、それほどの腕を持っていながら梟の望みはシンプルに至上の武具の作成である。そしてそれは彼が刀工職人であることから生み出されるのは刀に限定されている。

 至上の刀。極上の真剣。それだけを求め続けた。

 この世界には概念武装と呼ばれる反則級の礼装が存在しているが、刀崎梟が求めているのはそれに近い。刀崎には、自身の腕を差し上げる者を見つけた時、その腕の骨を材料に作刀する事を可能とする秘術がある。

 そうして生み出された大陸の山絶の剣に似て非なる性質を持っていると聞く。そして梟は自身が生み出す最高の刀をそれとしている。

 だが、梟は未だにそれを作れていない。その証拠に、梟は五体満足。肉体に欠損は無い。

 理由は単純に梟の目に適う使い手がいなかったのだ。梟は刀崎の棟梁として長く刀を鍛え続けた職人気質な男だった。その梟の目にはどれほどの使い手も、稀代の達人と呼ばれる人間すらも価値の無い人間にしかならなかった。

 黄理が梟の望みを知っているのは、黄理もかつて彼の篩いにかけられた人間だったからであった。

 殺し屋として活躍し始めた頃の話だ。突然現われた梟は黄理を見て、お前じゃない、と言われたのだ。

 そして、お前が最後だったんだがなあ、と小さく呟いたのを、黄理は覚えている。

 それから幾年経った。最近ではめっきり梟は作刀していないと聞く。

 

 だが、もしまだ梟が自身の望みを諦めていなかったら。

 もし、その候補に志貴か朔を見に来たのなら。

 そして、そのために七夜の里にやって来たのなら。

 

「会う必要性は?」

「糞餓鬼の子供と会うのに理由があんのか?」

 

 言葉面だけで考えればその通りのようにも聞こえる。だが、

 

「俺はここの当主だ。俺の子もある程度の立場がある。そして価値もある。ゆえに子を使えば七夜の危険ということにも繋がりかねない」

「はっ、それこそまさかだろ。そんなことやって俺に何がある」

 

 恐らく見当違いな話を振ってみても、梟の表情は変わらない。意地の悪い笑みが梟の本心を曖昧にさせる。だが、黄理は梟の執念を知っていた。

 疑念は疑念を呼び、想定はさらなる想定を生む。そうした結果、黄理が導いた結論は。

 

「お前と会わせても意味が無いだろう。諦めろ梟。お前には会わせない」

 

 僅かにでも疑いがあればそれを排除する。臆病者の発想だ。だが、一族を率いる立場、子を守る立場を考えた結果、会わせないという選択に到った。

 梟は面白くなさそうに、んだあとぉ、と息巻いた反応を見せたが、それもあっという間に消えうせた。

 

「はいはいそうかよ。まったく詰まんねえ奴だ」

 

 ぶちぶちと文句を言いながら、結局そのままその場はお開きとなった。

 

 だが、黄理は知らなかったのだ。

 刀崎梟という男の執念深さを。

 最早、それが梟の生の全てであることを。

 そして疑念を抱くべきだった。

 そんな男が黄理の言葉などに止まることがないことを。

 

 

 

 

 それはだから、それだけの話。

 

 

□□□

 

 

 刀崎梟は混血の一族として生を受けた男だった。それに関して思うことはない。ただそうなのだろうと受け入れた。刀崎は混血として骨師と呼ばれる鍛冶師の一族だった。梟もその一族に習い鍛冶師としての道を歩み始めていった。刀崎の鍛冶とは刀工を指す。長い年月をかけて刀を作ることで、自ら刀崎と名乗ったと梟は幼少の頃に聞いた。そして刀崎の鍛冶は全工程を全て一人が請け負う。砂鉄を集め火にて溶かし、鋼を鍛えて形を造り、刃を研いで鋭さを増し、柄に銘を刻んで名を宿し、刀に合わせて鞘を生む。その全ての工程を誰の手も借りずに行い、そうして完成した刀は一切の歪みなく、ただただ武具として美しい。それは作刀者自身を映す心鏡。刀崎が刀崎たる由縁は、詰まるところ彼らが生み出したものが彼らの象徴たる刀だったのだ。

 そして彼もまた刀崎が生み出す武具に心奪われた一人だった。幼い頃から刀崎が生み出すものを見てきた。ゆえに彼が一族としての義務ではなく、自らの信念を持って鍛冶師となるのは当然の事だったと言える。

 

 砂鉄を見極め、玉鋼を生み出すのは心が弾んだ。

 熱気滾る鋼を鍛え、刀としての原型を作り出すのは歓喜の瞬間だった。

 鍛えた刀を水で冷やし、冷たい輝きを放つそれを見るのは心が安らいだ。

 刀を研磨し、ひたすらに鋭さと美しさを求める時間は至福の時だった。

 柄を生み出し刀と合わせ、その刀の名を刻むのは涙が出るものだった。

 そして刀に見合った鞘を作成し、出来た鞘に刀を納めた瞬間は背筋が震えた。

 

 最初の作品など疾うに忘れたが、それでもそこから梟が始まったと考えれば、それは彼の原始であった。

 刀鍛冶こそ自身の全てであり、それ以外には何もいらないと生き方を定めてからは早かった。梟は多くの失敗と試行錯誤を重ね、駄作を生んでは血涙を流し、完成間際に己が力量不足を感じた時など、身体が分解せんばかりの絶叫を上げた。そうして幾重の刀を生み出し、時間が流れた時、梟はいつの間にか刀崎随一の鍛冶師として堂々と棟梁の座についた。それが大よそ梟、が三十を過ぎたばかりの頃だろうか。

 棟梁として刀崎を導きながらも鍛冶師として多くの武具を生み出し、時は直ぐに過ぎていった。梟が生み出した武具は宝剣として買われることもあれば、その価値に目をつけられ難癖によって奪われることもあった。

 だが、梟は自身が生み出した刀には興味を持てなかった。他の鍛冶師が到底登れない頂にいながらも、常に最高傑作を目指し続け、そして年を取った。年を取ってもなお梟の生み出す刀剣に届く刀崎はおらず、彼は未だに健在であるが、しかし彼は未だ諦めきれていなかった。

 至高の刀を。最上の刀を。人がまだ見ぬ、自分の最高傑作を。

 それをただ目指し続けた。それだけをただ追ってきた。だというのにそれは未だ叶わず、時間ばかりが過ぎて梟の時間はどんどん短くなってきた。年を取りすぎたのだろう。鍛冶師として刀を生み出すことが減ってきた。それだけのことであったが梟にそれは致命的だった。このままでは望み叶わぬまま死んで行く。それは嫌だった。死ぬことはどうでも良かったが最高傑作を作り出せぬまま死ぬことだけは許せない。決して許されざることだ。

 ゆえに梟はある賭けをしていた。

 それは誰にでもない、自身による賭けだ。

 

 刀崎は鍛冶師である。そして刀崎は骨師と呼ばれる一族だった。

 

 骨師。

 

 混血の種族たる刀崎は、人間には不可能な領域に到達できる可能性が秘められている。

 刀崎の者は生涯において、これは、という使い手に出会う時、自身の腕を差し出し、その骨でもって刀を生み出す。

 そして生み出された刀は鍛冶師として最後にして最高の逸品。大陸に伝わる山絶の剣と似て非なる性質を持つとされる。

 梟の狙いはそれだ。

 自身の身を捧げることによって生み出される究極の形。最高の武具。刀崎の最終到達点。例えそれが鍛冶師としての人生の終わりであり、再び刀を生み出すことが出来なくなろうとも、それが自信の全てだと信じ、そして終わりが近い梟にはそれだけが縋れる最後の術だった。事実、梟は自身の腕を差し出して刀を鍛える刀崎を幾人も見てきた。そして出来上がった刀は確かにその刀崎の最高傑作と言える輝きを持っていた。だからだろう。梟には確信があった。自分が生み出すものは、刀崎が未だ到達しなかったものであると。

 だが、同時に問題があった。

 肝心なのは自身の腕を差し上げる者の存在。使い手によって武具は更なる輝きを放つ。ゆえに自身の望むべくもない使い手に差し上げることなど言語道断。

 そうして見極め続けた結果、梟の目に適う存在がいなかったのだ。

 しかし、それでも彼は諦めきれなかった。例え命が尽きようともそれだけは認められない。認めるわけにはいかない。それは自身の否定に他ならない。今までの行き方、自身の理想、信念。全てを裏切ることに他ならない。

 それは妄執、あるいは執念と呼ばれる感情だった。

 ゆえに、賭けた。

 

 七夜黄理。

 

 殺人機械として混血に恐れられ、混血の天敵として恐れられる殺人鬼。鬼神の名を欲しいままにした男ならあるいは、ただ殺人術を磨き続けた男ならばあるいは、と思ったのはいつの頃だろう。

噂はあった。強い男がいると。それはかつてあった男だった。

 出会いはあった。縁もあった。だから見極めにいった。

 その結果。

 

 梟は賭けに負けた。

 

 確かに黄理は素晴らしい男だった。ひたすらに鍛錬し続ける男。己を昇華させ続け、殺し屋としての格は高く、凄まじい。鬼神と呼ばれるだけのことはあった。

 だが、黄理は梟が惹かれる使い手ではなかった。

 殺人機械。

 黄理は殺すことに感慨も感情も持たない人間だった。それはいいだろう。それもひとつの果てだ。だが、黄理の殺意には魅力がなかった。冷たく、無機質な殺意。絶対的な死のイメージを叩きつける殺意。

 梟は古い人間で職人気質な男だった。何かが違う。何かが違うと彼の本能が訴えていた。こんなものではない。自身が捧げるのはこれではない。自身が求めているのはこんな人間ではないと、梟は感じた。

 

 だから、梟は負けたのだ。

 賭けに。人生に。信念に。理想に。

 

 その賭けから幾年経っただろうか。

 梟は刀を鍛えるのを止めた。諦めたのだ。もうじき寿命も終わる。だからそれでもいいだろうと、自分を納得させ、理解させた。これでいい。これでいいはずだと、自身に言い聞かせながら。

 若い者を育成させ、棟梁としての最期を選んだのだ。

 その証拠に、梟の身体は五体満足。欠けることのない身体。

 そうして梟はそのまま終わり、朽ち果てる。

 

 はずだった。

 

 妙な噂を聞いた。

 七夜が退魔組織を抜けてから子供を育てている。殺人機械だったあの男が子をもうけていることも意外だったが、黄理に子供が二人いるという。

 それはおかしいと思った。なぜもう一人いるのだと。

 黄理に子供が生まれたから七夜は退魔から身を引いたなどと聞いた時は冗談にしか聞こえなかったが、しかし、その計算だと子供が生まれたのは五年前。

 七夜と刀崎が協定を結んで長いが、刀崎でもある程度の情報はある。それによれば黄理が子供を育て始めたのは七年前だという。この違い。この差。この二年という年数は一体どういうことなのかと。考えることで梟は憶測した。黄理には子供が二人いる。

 憶測の域を出ない稚拙な考えだと思いもしたが、考えてみると妙に気になりもする。何分昔見極めようとし、違和感に見切りをつけた男のことだ。違和感がなくなっているのではと、消し炭の理想が少し揺れはしたが、梟は見極めには自信があった。だから、それだけはあり得ないと。

 だから、この確認はただの暇つぶしにすぎない。それだけのことでしかないと鼻で笑い、刀崎の棟梁として得た情報、遠野に何かしらの動きが見える、という情報を手土産に、梟は懐かしい七夜の里に向かったのだ。

 そして梟は再び黄理と出会った。随分と顔を合わすのは久しかった。だが、梟は黄理にあった違和感が増したと見えた。それは黄理の変わりようもあるだろう。だがそれ以上に梟の目がフィルターをかけていたのかも知れない。こいつでは、自分の望みは叶わない。

 子供の話を振ってみると。すぐさま反応した。噂と自らの憶測の正しさが真実めいてきたが、黄理は梟に疑念を抱いていた。それの正しさを認めながら、梟は強引な方法を取ることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、今。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 刀崎梟は、畏れに身を震わせた。

 空気を壊死させる、殺意。

 質量を持った殺意が生命の動きを許さない。

 身体は軋み、肉体が悲鳴を挙げた。

 視界はノイズ交じりの砂嵐。

 だというのに。その姿だけははっきりと見える。

 小さい身体。鋭い目つきに無機質な瞳。身につけるは藍の着流し。

 

 

 少年。

 少年だ。

 

 

 今しがた平屋の内部から飛び出してきた子供が、姿勢を殊更に低くし、梟を見ている。無機質なその瞳が梟を捉えている。

 七夜の子供。七夜の人間は近親相姦を繰り返すことによって人の退魔衝動を特出していると聞いた。 ならば混血たる梟に反応するのは当然のことだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、震えが止まらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この少年が放つ殺意。

 膨大な殺意が周囲に放たれている。

 凍るような殺意ではない。冷たく無機質な殺意ではない。

 圧倒的な殺意が梟を、いやそれだけではない里中を飲み込んでいる。

 それは、ただ七夜の人間だからという理由では説明のつかない殺害意思。

 ともすれば、あの鬼神七夜黄理をはるかに凌ぐ圧倒的な殺人衝動。

 眼前に獅子がいる小鹿のような心地が梟にあった。

 こんな子供が持てるようなものではない。

 まるで超越種のような次元の違う存在のように思えて仕方がない。

 それはまさしく恐れだ。自分よりも上位に対する畏れ。

 

 だが、それ以上に。

 刀崎梟の、鍛冶師の、骨師の肉体と魂と精神が子供から目を離させない。

 溢れる殺意に誤魔化しきれない才気。

 そしてそれを揺ぎ無く昇華させる執念。

 それは、機械には無い、もののけの気配。

 まるで黄理のような才を感じさせ、梟に訴えかける。

 そして、梟もまた自身に訴えかける。

 

 これだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだ――――――――――っっっっっっっ!!!!!!

 

 梟の意識が爆発する。眩い光が輝きを放ち、今目の前に現れた子供を目に焼き付ける。魂が歓喜の咆哮をあげた。それは絶叫にも似た、まさしく梟の叫び声。それが刀崎梟の身体を震わせ体中を駆け巡る。誰にも見えなかった、見出せなかった。自分の上位者。自分の腕を差し上げる者、自分の全てを捧げる者――――!

 

 そうして梟は、遂に見つけ、出会ったのだ。

 

「お前……。名は?」

 

 震える身体を抑えることも忘れ、梟はそう問わずにはいられなかった。

 

「■■■■■■!!!」

 

 最早人の言葉ですらない咆哮。発音器官を解していないような大絶叫が梟を突き抜けた。

 

□□□

 

 

 爆発。

 それを表現するにはそのような安易な言葉の他になかった。

 平屋の襖が内側から爆ぜた。事象を短い言葉にすれば、それだけのことだった。

 襖は粉微塵に炸裂し、散弾の如くに平屋の前にいた男、梟に襲い掛かった。それを梟は避けることなく、ただ襖を突き抜け眼前に現われた朔を注視した。

 

 

 その様は虫。

 地面に舐めるようにひたすら低い体勢は狡猾に獲物を絡めとり、肉を貪りつくす蜘蛛の名を借りた蹂躙者に似ていた。

 それが、襖を突き破り、地に四足を這わせながら梟の目の前に出でた。四足に収束された力が解放を訴え、ぎちぎちと筋肉の引き絞られる音が、不気味に静まる里に沈む。

 そう。里は余りに静かだった。ともすれば沈黙のような静寂が里に訪れている。人が生活するうえで音が無いことはありえない。本当の無音とは無のなかにのみ存在している。だが、この沈黙が朔には相応しい。

 

 朔には何もない。自身のものなど何一つ与えられず、手に入れてこなかった。人間の殺め方などは幾つも学んだが、それは自身に帰る望みから来るものではない。それだけが彼にはあったのだ。だが、殺人術すらも自身が望んで手に入れたものでもない。それ以上に、朔には望むなんて大層なものは入っていなかった。中身のない空。空の殻。

 だからだろう。この沈黙こそ朔の居場所に思える。

 その茫洋だった瞳は最早何も写してはいない。光すら届かぬ無機質な瞳は、今この時その無機質すらも無くした暗闇が覗く。だというのに、その目は梟を視ている。

 朔には何もない。それは人格を形成され始める時期に人間との接触がほとんど無かったことに他ならない。離れに放り込まれ、ほっとかれた。周りには使用人しかおらず、それ以外には誰もいない。ただ、遠くに黄理の姿があっただけ。

 今でこそ訓練のために里内に姿を現せてはいるが、それ以前、朔が訓練を始める以前、朔は屋敷から足を踏み出したことが無かった。外を知らず、他人を知らず、人を知らずに育った。

 

 だからだろう。朔には人が育まれるはずの感情がごっそり欠けている。感情は他人から与えられ、そして覚えていくもの。しかし、朔にはそれがなかった。ゆえに今となってはそれが理解できずにいる。

 欠陥の子。持っていない朔はそう呼んでも良い。

 

 だが、だが。

 今この時、この瞬間の刹那に於いて。

 朔の虚無な内側に朔の知らない衝動が宿った。

 いや、宿ったというのは正しくない。それは朔が生まれた時には既に存在していた。無から何も生まれない。ならばそれは最初からあった。

 ただそれに誰も気付いていなかった。志貴も、翁も、黄理も、そして朔自身も。

 

 考え直して欲しい。

 

 

 七夜朔。

 

 

 七夜の鬼才。鬼神の子。

 里の中で朔はそう呼ばれている。七夜当主黄理の手解きを受け、それをこなしあまつさえ黄理を喰らおうとする七歳の子。その才は折り紙つき。里の子では群を抜いて成長し、今となっては大人の者ですら抑えきれない。

 以前、朔の組み手の相手を黄理以外の里のものが受け持ったことがある。たまには違う相手と行うことも大事だという翁の説得から行われたそれだったが。

 結果から言おう。朔の相手をしたものは完膚なきまでに敗北した。現役として活躍していた七夜が、当時まだ七歳ですらも無かった朔に反応も出来ず、喉を潰され四肢を折られた。

 それを知って里の者は言った。

 

 さすが鬼神の子、と。

 さすがは黄理の息子だと。

 

 だが、だ。

 七夜朔は一体誰の子供だったか。

 里の者は故意にか、はたまた自然に忘れていた。

 生まれたのは七年前。黄理に育てられ、いささか噛み合っていないが一緒に生活していると言えるかもしれない。その様は子供にどうやって接すればいいのか分からず距離感に戸惑っている親とそれに無関心な子のように見える。

 

 しかし、朔は黄理の実子ではない。

 

 朔は甥なのだ。二人には直接的な血の繋がりはない。

 

 

 では、朔の父親は一体誰なのか。

 

 

 かつて、七夜に一人の男がいた。男はその類稀な膂力から爆撃機のような蹂躙を得意とし、好みとしていた。殺めることに愉悦を見出し、そして最期には狂気に呑まれた男。

 

 黄理の兄。

 

 それが朔の本当の父親だった。朔が生まれた直後に妻を殺め、黄理自身の手によって討たれた男だった。

 黄理の兄が狂った原因。七夜は近親相姦を重ねることで超能力を保持させたが、それは七夜の者に人が持つ退魔意思を特出させる結果を生んだ。退魔意思とは自身とは存在そのものが違う魔に対して遠ざけたい、排したい、殺したいという人間が隠し持つ意思である。そして黄理の兄はこの特質を色濃く継承し、その結果殺人の快楽であり、狂気に呑まれた。

 はたして、それに気付いていた者はどれだけいたのだろう。

 黄理の兄の子として生まれた朔に才があったのならば、その男の特質を引き継いでいるなどと。

 

 それは梟の混血に反応したものだった。

 初めてだった。突き立ちは始めてこの時魔的存在と対面したのだ。だからだろう。だれも気付かなかった。

 

 

 

 朔はこの時、始めて感情を宿した。

 

 

 

 殺める意思。殺める意識。殺す気配。殺す正気。

 それらが朔のなかに蠢き、解き放たれる。殺気が鳴動し里の空気を軋ませ、生者の正気を奪う。

 感情と呼ぶには余りに禍々しく、荒々しく。

 だが、それは自身から生まれ出でた純なるモノ。

 その存在は濁りなく混ざりの無い朔の感情だった。

 

 

 

「お前……。名は?」

 

「■■■■■■!!!!」

 

 

 

 瞬間、朔の姿が掻き消えた。

 影すら残さぬ瞬間の移動。七夜の体術。それを梟は目前で見ていたのに視認することが出来なかった。霧散するかのように朔が消えた瞬間、梟の老いた身体に警戒音が木霊す。それは長年棟梁として一族を率いてきた混血としての五感の鋭さにあった。

 骨が軋むほどの殺気。

 肌が粟立つ。

 それを梟が回避出来たのはほとんど偶然だった。

 ただ、回避できぬと判断した梟は前方へ無様に転がった。朔の位置も分からぬ故の判断だった。

 梟が飛び込んだ瞬間、梟がいた空間を何者かが通過した。いや、通過とは言い難い。梟には視認不可能な朔がいづれかの方向からか襲撃をかけたのだ。ただ、それが一体どこから来たのかすら梟には分からない。まさしく瞬間の英断。

 だが、一度回避したからといってどうなる。梟には対応できない。梟は混血であるが戦闘を行わないため、そのような手段など取れるはずも無い。しかし、その瞬間にもアレは来ようとする。

 

 再び、気配が近づく。

 風を切り裂きながら、空気を突き抜けながら。

 

 依然梟は転がったままの不恰好な状態。動くには体勢が不十分。回避不可能、回避不可能。梟の生存本能が悲鳴をあげる。死が近づく。

 

 だと言うのに、梟は笑んでいる。楽しくて仕方ないと、肉体が、精神が、魂が興奮し歓喜の声を上げている。事実、朔が強大であればあるほどに梟は子供のように笑うのだ。

 

「ひひひひ―――っ!いいなあ、お前はいいなあ!」

 

 回避不可能な不可視の朔の攻撃を身を捻ることで何とかやり過ごす。しかし身につける着物の裾が引き裂かれた。その瞬間に感じた力強さに心が躍る。肉を引き千切られたような感触が梟を襲った。

 

「何なんだろうなお前、お前って奴は一体何なんだい!こんな奴いなかったぞ、今まで出会わなかったぞ!だと言うのにお前は、お前は――――!」

 

 興奮で何を言いたいのかすらも定まっていない。だが、梟はこの出会いの素晴らしさを教えたくてたまらなくなる。一世紀近く生きてきた。出会うために、巡り合うためだけに。この瞬間をどれだけ待ち望んでいたか、憧れていたか、焦がれていたか。伝えたい、教えたい。この身が張裂けそうな衝動と歓喜の正体を。

 襲い掛かる不可視の攻撃。それを何とかしてやり過ごしていく。だが回避するたびに、梟の身体はかすり傷を受ける。少しばかり掠った指先。紙一重に横切った拳。知覚できぬままにそれらは梟に教える。僅かに触れた攻撃の感触は人間を一撃で絶命させるものだ。

 

「ひひひ―――はははははははははっ――――!!」

 

 朔が、眼前に現われた。

高速で移動し、真正面から梟に向かって真っ直ぐ突っ込んでくる。それは、ほんとうに偶々だった。流星の如くに梟へ襲い掛かる。その時は刹那。朔を視認してから梟に接触するまでの時間は瞬きほどの時間も与えられず―――――――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「貴様……!…………どういうつもりだっ!!!!!」

「そのままお前に返そう。お前は一体何をしたっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 梟の眼前に、背中が現われた。人外の膂力を秘めた背なの筋肉が盛り上がりを見せる。

 男は、黄理は、梟を守るようにして現われたのだ。

 その手に握られているは撥のような鉄棍二振り。それは黄理の本来の武器。訓練では使用されない、殴打のために使用されるそれを斬殺に用いる、黄理の正真正銘人間を解体する愛器だった。

 それを交差させ、目前にいる朔の腕を抑えている。ギリギリと力がぶつかり合い、朔を抑える腕が小刻みに震えていた。

 梟は激昂した。それは自分の楽しみを台無しにされた子供の癇癪のような、けたたましい激怒だった。だが、黄理はそれに冷酷に返し、朔を見た。

 

「朔!おい朔!どうしたっ!!」

 

 あきらかに正気ではない。黄理の言葉に反応を示さず、その空洞の瞳は何も見ていない。黄理の姿だけが瞳の空洞に映っていた。

 何よりこの尋常ではない殺気。梟が何やら気配を大きくし始めた時点で動いていた黄理だったからこそ、この瞬間にここに来れた。そして、超絶な殺気を感じたのだ。七夜の者でもここまで錬りきることの出来ない、超越種が発するような暴力めいた殺気。嫌な予感に駆られた黄理が見たのは、梟に襲い掛かる朔の姿だった。

 無表情ながら、ひたすらに力を篭めた朔の力みが突如として消えた。

 その瞬間だった。

 

「――――――っ!!」

 

 黄理に真横からの衝撃が襲った。

 

「っく!」

 

 場所は腋の真下。肋骨に重く衝撃が響いた。

 朔が移動していたのは気付いた。瞬間移動めいた動きによって移動した朔に完全に対応していたはず。だと言うのに、黄理は朔の攻撃を防ぎきれなかった。

 朔は現在武器を持っていない。身につけている藍色の着流しにも、武器になるような細工は施していない。先ほどの一撃は防御した黄理の腕を掻い潜って放たれた拳の殴打。幸い骨に異常はない。ただ衝撃が重く残る。

 問題なのは、それを防ぐことが出来なかったという事実だった。

 

「どういうことだ……?」

 

 疑念が黄理の思考を埋め尽くす。

 朔は黄理には届いていない。黄理の実力に届いていない。それは毎日行われている組み手でも明らかだ。朔は確かに強い。だが、黄理に一撃を入れるまでには及んでいない。

 しかし。

 

「っ――!」

 

 またもや、一撃を喰らった。空気の弾けるような音。しかも今度は防御体勢に移ることもできずに。

 真正面に、朔はいた。その爪先が、黄理の腹に突き刺さっていた。固めた筋肉を突き破らんばかりの威力がその爪先にはあった。内臓に少しばかりの痛みが走った。それを無視する形で、再び内臓を狙う追撃の膝を打ち下ろす形にて握られた撥で迎撃する。

 しかし、その疾さのなんたること。目の前で展開される刹那の攻防が梟には見えない。残像すらも残さず、一瞬の過程が省略でもされているかのように疾い。気付けば接触している。

 

 こんな化け物に自分は襲われていたのかと、梟はにたついた猛禽の笑みを漏らした。

 

 黄理の握る撥と膝が打ち合った。

 打ち合った瞬間に鈍い音がした。短い撥がしなり、襲い掛かる膝を打った。折れていてもおかしくないそれを、朔の骨は耐え切ったのだ。

 そして、その時点でようやくその正体に気付いた。

 

「まさか、朔――――っ」

 

 今度は側頭。雷光のように放たれた右蹴りを寸でのとこで防ぐ。地面に四肢でもって着地した朔の目は空洞。それが何かを視ている。梟か、それとも―――。

 明らかに、朔は疾くなっている。それも、黄理がやっと追いつくほどの速度。七夜最強の男が対応できないほどの早さに朔はなろうとしている。

 だが、昨日はここまでではなかった。強くなってきてはいたが、ここまで異常ではなかった。ここまで異様ではなかったはず。だが、現実はどうだろうか。追随なんてものではない。これではまるで―――――。

 

 

 

 

 

 

 黄理の脳裏に、自身が殺めた兄の、狂い姿が一瞬過ぎった。

 

 

 

 

 

 

 

「―――――――っ!!!!!!!」

 

 その音は、自動車が追突事故を起こしたようなけたたましさだった。

 肉体を地面に這わすことで蓄えられた方向性の無い力。四肢は地面と縫いあわせるように、身体は低く、顔は上げられて。その力が解放される寸前のことだった。

 黄理の踵が唸りをあげ、朔の顎を捉えた。

 本気の一撃。

常人であれば頭部ごと弾け飛ぶそれを黄理は放った。

そしてそれを喰らってなお、朔は生きている。

 叩き飛ばされた朔は意識をその時には失っていたのだろう、受け身を取ることもできず地面に叩きつけられ勢いのまま転がり、やがて止まった。

 あの重圧のような殺気は今では消え去っている。七夜の里に生気が戻った。だが、朔を打ったままの姿で、黄理はしばし苦悶の表情を作り上げた。

 

 余韻が沈黙の里に染みる。

 それは、何かの始まりを終えた瞬間でもあった。

 

 だが、その静けさすらも里には許されなかった。

 

「黄理」

 

 金属の合わさりあった音が、不愉快な感覚を里に滲ませる。

 

「お前、あれがお前の子供だな……?」

 黄理の背中に問いかける梟。それは質問ではない。最早梟には確信があった。間違いない、あれは確かに黄理の息子だと。あれ以上に黄理の子供と呼べる存在はいないだろうと。

 

「なぜ、教えなかった、なんて言わねえぜ。そんなもんどうだっていい、どうだってよくなった。なぜなら俺は見たのだからなあ」

 

 その表情のなんたる禍々しい。邪悪にさえ見える笑顔を嫌らしくにたつかせ、梟は言う。

 

「だからよう、俺は――――――――――」

「五月蝿い」

 

 冷たい殺気が、梟を殺す。殺してなどいない。だが温度の無い殺気が梟の息を止めんばかりに襲い掛かる。

 梟の喉元には鉄の撥。それが突きつけられていた。

 お前を殺す。完全な意思表示。

 事実黄理は梟をこの場で殺す。何かしらの原因で交戦状態に入ったかは知らないが、十中八九梟に原因があるだろう。その証拠は先ほど感じた梟に肥大した気配。あれは恐らく焙り出し。そうやって七夜を刺激させ、目的の、黄理の息子に出会うつもりだったのだろう。

 それを見抜けなかった、考えなかった自身を黄理は恥じる。自分の考えが足りないばかりに、このような状況になった。判断が甘かったと痛感する。

 梟は最早殺す。その原因となったこいつを許しはしない。黄理の視線が真っ直ぐに梟を射抜く。返答次第殺す。返答しなくても殺す。嘘も、真さえも許さない、機械の目。

 

「なんだ?気に喰わないってか?」

 

しかし、梟は笑みを深めるばかり。殺気など風の如く、より深く、より深く邪は色を増す。

 

「……」

「だんまりってか。はっ、そんなもん、どうだっていい。ああ、糞餓鬼、お前のことなんてもうどうでもいい」

「どうでもいい、だと?」

 

 黄理の殺気が増す。この状況で、この現状においてなお、梟は不遜。

 そして梟は笑うのだ。声を上げて、歓喜の声を上げて、黄理など知らぬとばかりに。その姿のなんて邪悪。梟は緩慢な動作で立ち上がり、ギョロリとした眼の狂気にも似た瞳は朔を見ていた。

 

「俺は見つけたぞ、黄理」

 

 そして梟は言った。

 

「俺は止まらん。もう止まらない、止まるわけがない。なにせ一世紀だ、それだけ待っていたんだよ糞餓鬼お前にはわからんだろうこの気分がこの幸せがどれほど焦がれていたかお前如きにはわかるはずがねえだろうだがだがだが俺は俺は俺は俺は遂に見つけんたんだよ糞餓鬼ぃハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!」

 猛る気持ちが梟を包み込む。諦観と絶望を吹き飛ばして。

 黄理は静かだった。不気味なほどに静か、梟が声を上げれば上げるほどに黄理は静まっていく。梟の望みは知っていた。だが、それは黄理には関係ない。知ってはいるがその価値を理解はしていないのだ。だから、梟の歓喜が耳障りだった。

 最早。殺す。

 そうして黄理は自身の撥を振るう。それはあっけなく梟の首を飛ばし―――――――。

 

「いいのかい、黄理。子供が見てるぜ」

 

 撥が首に食い込む寸前。梟の言葉に黄理の腕が止まり、黄理は反射的に朔を見た。だが離れた場所にいる朔は未だ気絶したまま動いていない。つまりは……。

 

「おとお、さん……」

 

 その声は小さかった。囁きよりも小さな呟きだった。だが、その声を黄理が聞こえないはずがない。

黄理は振り向いた。襖の無い平屋。そこに志貴が怖がるように立ち竦んでいる。その姿、その弱い姿を見て、黄理の殺気は消えてしまった。

 殺人機械。黄理は殺人機械だ。血も涙も無く感慨なく殺す、血濡れの機械だ。だが、それでも、黄理に温度はある。

自分は父親だ。自分は父親なのだ、と噛み締めたのはいつだったのだろう。おそらくそう思った時、黄理は父親になったのだ。

だから、子供が不安になっている時、側にいなくてはならない。

 鎮まる殺気を前に、梟は歩み始めた。黄理に背を向け、里の外へと。黄理は自分を殺さないという確信が梟にはあった。

 

 黄理は詰まらない。理由はたったそれだけだった。

 

 そして黄理も歩み始めた。志貴が不安がっている、少しでも早く側に行ってならなくてはならない。

 

「梟」

 

 遠ざかる、梟に向かって、黄理は背中を向けながら言った。それは事実黄理の敗北宣言に近かった。黄理は梟という男に、梟が持つ執念に結局勝てなかったのだ。

 

「お前には里の出入り禁止を宣告する」

 

 里に金属の合わさりあう、邪悪な哄笑が響いた。



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第八話 その後

黄理の屋敷にぽつんと立てられた離れ。人の寄り付くことの少ない、簡素な離れ。家主に似た温度の無い寂しい離れ。そこに朔は寝かしつけられていた。

 三日前、あの男―梟という混血との衝突後黄理の本気の一撃を受け、急激な脳震盪を起こされたことで現在朔は意識不明となり、この離れにて深い眠りについている。

 その呼吸は死んでいるかのように静かで、耳を澄まさなければ息をしているかどうかすらも判断がつかない。布団の僅かばかりに上下する胸の動きだけが朔が生きている証拠に見える。その眠りにつく表情は微動だにせず、精巧な人形を思わせた。

 それを志貴は見ていた。その表情は不安や恐れ、はたまた彼自身にも判断つかぬ感情が複雑に絡まりあっている。

 

 

 豹変した朔。

 襖を突き抜け、男に襲い掛かる朔。

 朔を止める黄理。

 黄理に攻撃を仕掛ける朔。

 黄理に吹き飛ばされる朔。

 動かなくなる朔。

 笑う男。

 殺そうと動く黄理。

 

 全てを、志貴は見ていた。 

 

 

 朔が意識を失い、既に三日経った。

 隣にいた朔が豹変した時、志貴は声すら上げることもできず、その雰囲気に呑まれた。今まで感じたもとも無いような重圧を感じ、同時にそれは起こった。

 空気が硬くなった。軋むように動かなくなる深海のようなそれは、朔が放つ殺気だった。志貴自身訓練を受けている際、殺気に慣れるよう幾ばくかの殺気を受けた経験がある。だがそれとは比べ物にならない殺気を朔が放った。その時、志貴は自身の死を幻視した。いまだ戦場を知らず、本番(ころしあい)さえ行っていない志貴にとって、朔は真実怖い存在となった。息が出来ない。息をしてしまえば、それが自身の最期だと思うような感覚。

 だが、朔が黄理と不可解な事に対峙し、黄理に吹き飛ばされたとき、朔は死んでしまったのではないかと、恐怖を覚えた。

 志貴と朔の交友は未だ短く、始まったばかりだ。兄と称しているがその距離感は曖昧なままで、志貴が縮めていっても朔は何も反応しない。そればかりか朔からは何もしてこない。志貴としては朔は友達という感覚ではなく、それよりも近い場所にいてほしいと感じている。同じ敷地内に生活しているのもあるだろう、本来の関係が従兄弟ならば朔とはもしかしたら家族になれるのでは、と志貴は思ったのだ。志貴は一人っ子だ。家族といるのは好きだが、兄弟というものに憧れている部分があった。里の七夜たちを見て、自身と同じ年齢の子供に友達とは違う、歳の近い家族がいるということがひどく羨ましかったのだ。だから朔と交友を深めることで、兄弟のような関係になりたいと、子供ながらに思っていたのだが。

 

「兄ちゃん……」

 

 志貴は布団でまだ意識覚めない朔を見る。

 あきらかに他の子供とは違う存在。黄理に似た、自分の従兄弟。

 朔が豹変したあの時、志貴は朔に恐怖を覚えた。尋常ではない殺気。自分とは違う、まるで獣か鬼のような存在に朔は果て、それが怖くて怖くてたまらなかった。一体どうしたのだろうかと、朔に勇気を出して尋ねてみても、また側にいた翁が止めようとしても、朔は無反応でひたすらに前を見て、翁の拘束を振りほどいて飛び出した。

 だが、黄理が朔を気絶させたことで志貴はそれを恥じ、朔が死んでしまったのではないかと恐怖した。どれだけ変わっていようとも朔は朔のはずで、自分が兄と決めた従兄弟なのだ。それを自分が怖がってどうするのかと。

 そう思い、思ったけれども、本能は理解を超える。いまでも、ここにいて怖い。もし目が覚めた時、朔は自分の知っている朔ではないのではないか。いや、むしろあれが朔の本当の姿ではないのか。そして、もし、朔が目覚めたとき、あの殺気が自身に向けられるのではないか。

 志貴の中は感情がごちゃ混ぜになって、自分自身でも持て余している状況だ。だけど、それをどうすればいいのだろう。未だ志貴は幼く、人生の経験などほとんど無い。志貴が七夜であるということもあるだろう。特殊な生活を行っているせいもある。外界から隔絶され、人間としての向上や経験を増やせるには向いていない場所だ。回答を導くには志貴はあまりに七夜として馴染みすぎていた。

 僕は朔を兄と呼んでいいのだろうか。近づいてもいいのだろうか。側にいてもいいのだろうか。そもそも、朔は自分をどう思っているのだろうか。

 恐怖や不安が志貴を襲う。それは朔への気持ちを揺るがせるには十分なものだった。しかし、志貴は朔から離れることも嫌だった。

 恐怖さえも超えて、朔と志貴は家族になりたかった。父や母とは違う自身の居所を見つけた。拠り所を欲した。

 でも、どうすればいいのか分からない。分からない。分からない。だから、志貴はただ黙って朔を見守り続けた。

 震える心を抑え付けながら。

 

□□□

 

 それは、屋敷内部に一瞬の余韻すら響かせること無く、どよめきと怒号によって遮られた。

 

「どういうことですか御館様!」

 

 翁は吼えたて、自身が当主として仰ぐ黄理に向かい噛み付いた。 

 ことは朔と黄理の衝突から三日と経過し、里内部の混乱も抑えられ一族の者が当主の館に召集されたことに始まった。黄理から刀崎との協定を検討しなおすむねが伝えられたまでは良かった。あの日、梟の行動は里に混乱を与え、決して好意的に受け止められるべきものではなかった。そして大人の者は挙って梟の討伐を狙っていた。子は家から出さず、一重には発見されぬ隠密によって確実に梟を仕留める算段を一族はつけていた。結局それは黄理の命によって叶わなかったが、危険分子は排除されるのが世の常だろう。無論それに気付かぬ梟ではないことは知られていたが。

 現在梟に襲い掛かり、黄理と衝突した朔は意識を失っており、昨日から未だ起きてこない。黄理が召喚したヤブ医者の処置により肉体的な損傷はある程度回復していたが未だ目覚めていない。そして今朔は離れにて安置されているが、それは隔離にも近い状況であることは現在この場に召集された者も承知していた。

 朔の豹変。

 それが七夜に動揺をもたらした。

 常軌を逸した殺気。かつて黄理の兄がそれに近しかったが、朔のあれもそれに近いだろう。正気を失った朔は梟に襲い掛かり、あまつさえ当主である黄理にも襲い掛かったのだ。今までの朔を知る黄理や翁にとってもそれは衝撃を与えるには充分なものだった。更に二人はかつて黄理の兄を粛清した身だ。あの殺気を知らぬほうがおかしいだろう。

 ゆえに黄理はある決定を下した。

 

「くどい翁。何と言われようとも決定は変わらん。……皆聞いたな。お前たちには

 

 

 

 

 

 今後七夜朔との接触の一切を禁じる。

 

 

 

 

 以降朔と接触するのは俺を除きその一切を許しはしない。これは提案ではなく最早決まったことだ」

 

 黄理は冷たい表情のままに宣言した。もともと朔と話す人間は極僅か。動揺は広がり、そして反対する物もいた。それが先ほど噛み付いた翁だった。

 

「しかし御館様。朔さまは未だ十にも届かぬ子。人との関わり無くばどのような影響が出るかわかったものではありませぬ。いくら朔さまが御館様の兄の子とはいえそのような……」

 

 

「口を慎め」

 

 

 瞬間。黄理が発する威圧に屋敷内にいる七夜の全てが呑まれた。

 

「――――――――っ」

「翁。朔が兄上の子である事実は変わらぬ。俺がどれほど朔に触れ合おうとも、その事実に変わりは無い。ならば、朔が持っている殺人衝動を抑えるため、あいつには暫く行動を厳守させ、衝動を抑えるための枷を作る」

 

 それは、ついては朔の為にもなるだろう。彼らは未だ覚えている。黄理の兄の圧倒的な姿、その蹂躙、その狂気を。肉片すら残さずに散っていく生者。亡者ですらない死を幾重にも見せ付けた男を。

 だが、だがそれを黄理が言い、認めたことがこの場の空気を変えた。

 黄理は志貴や朔に言いはしないが子煩悩だ。自身の子(と予定の子)のためになりふり構わず行動し、それは七夜の常識と化している。もちろん彼のそんな気持ちは子供には伝わっていないが。

 子煩悩な黄理が朔を縛り付け、枷をつける。

 それがどれだけ朔を苦しめる結果になるか。それは黄理自身もわかっている。わかっているが、それ以外の方法がない。あの悲劇、身内殺しを再び起こさせることなど断じてあってはならない。朔がそれを苦しいと思うような人間ではないことは百も承知だ。なぜなら朔は確実に黄理と同様な存在になろうとしている。ただ殺すだけの殺人鬼に成って果てようとしている。しかも、黄理の殺人機械としての冷たさと、兄の圧倒的な殺人衝動を併せ持っている可能性がある。

 それはいかほどの怪物になるのだろうか。

 黄理は朔に自分のような人間にはなってほしくないと願っている。あのような人外にはなってほしくはない。だが、事実朔はそのような人間になろうとしている。圧倒的な暴力と冷酷な意思を持った鬼になろうとしている。

 今の朔、そして三日前のあれはその片鱗だろう。人間味の薄い人格と、殺気。しかも動きの切れは増して黄理には対処できないほどになろうとしている。

 いや、最早化けているのか。人外の鬼に。

 ゆえに黄理は精神的に束縛することで、強靭な精神力を朔の身につかせようと考えたのだ。これは親心とは違う、当主として、あるいは保護者としての処置だった。

 

 

 

 

 

 

 だが、この時点で、黄理は選択を誤っていた。

 結局のところ、黄理もまた七夜の人間だったのだろう。

 朔は黄理を目指し、なろうとしているのではない。

 それ以外のものが何もなかった。

 それだけしか、見えるものがなかったのだ。

 ゆえに、他人との接触を禁じ、黄理とのみ関わらせても、朔をよりいっそう加速させる結果しか生まなかった。

 だからだろう。

 

 

 

 この選択があのような結末となったのは。

 

□□□

 

 

 

 

 ―――――――――――――――――――――。

 

 目が覚める。

 見覚えのある天井が目前に広がった。

 そして手を握っている感覚に気付く。

 視線を辿る。

 そこに志貴がいた。

 志貴は泣きそうな笑みを浮かべ「おはよう」と呟いた。

 それを聞いても何も感じない。何も思わない。

 ただ、

 目の前にいる子供を見て、

 

 殺す、と精神が吼える。

 

 それを朔はよく分からない。ただ、どうすればいいのかわからず、それを無視し、なんとなく志貴の手を握りしめる。

 

 そして、この解体を促す内側を、朔は悪くないと感じた。

 



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番外話 とある女性の一日

東の地平から太陽が顔を出し、日差しが里にかかりだす頃に目覚めるのが私の習慣で、それはもうずいぶんと長く続いてる。

 

 鶏が鳴くのと同じ時刻に起きてしまうのは少し眠い。だがそれも馴れてしまえば早くに起きないほうがもったいないと思い始めた。だって寝ている時間よりも、起きている時間のほうが楽しいことはきっとあるだろう。

 

 起きて先ず私は布団の上へ立ち上がって背伸び、全身の血のめぐりを良くする。こうすることでスッキリとした目覚めとなるらしいと聞いたが、それは本当だろうか。曖昧なことだが、なんとなくこれをやらないと一日が始まらないような気さえしてしまうので、最早日課だ。

 

 数箇所の関節から小気味よい音が小さく鳴って背伸びをやめる。全身に脱力感。だけど、少し身体が温かくなった気がする。

 

 布団を畳んで押入れの中にしまい、庭先に向かう。木製の屋敷、言うなれば武家屋敷のような造りをした屋敷の中を移動し、縁側へ。私の部屋は屋敷の端にあるので、縁側は近い。

 

 縁側から見える光景は密かに私が好きな場所だ。この屋敷は里の中で一番に高い場所、と言ってもそこまでだが、開けた視界が見える。そこから見えるのは里に点在する屋敷や平屋、その向こうには深い森が広がっている。

 

 東の木々の隙間から太陽が昇り、日差しが里を明るく染めていく。私は目を細めて暖かくなっていく地と澄んだ空を眺めた。

 

「今日もいい天気になりそうだ」

 

 くぅっ、と再び背伸び。

 さて。身支度を済まし、食事の準備を開始しよう。

 

 部屋の中に戻り、寝巻きを着替える。

 

 下着を着けている以外では何も着けていない状態で私は、ふと部屋の中に設置してある姿鏡の前に立った。

 

 女性にしては高い身長。肉付きの少ない身体。そして引き締まった肉体。良く言えばスレンダー、悪く言えば男性的な身体の私が鏡に映る。

 

 その顔つきも色気が無く冷たい印象を受ける。更に目は若干鋭い。ここらへんは私の家族(まだ私は未婚なので夫や子ではない)の血を色濃く受け継いでいるようだ。その顔つきは私の兄様(あにさま)と似ているような気がする。

 

 兄様は七夜の当主であり、七夜としては最強の座にいる男。そんな人間に似ているのは女性としてどうだろう。出来れば私は義姉様(あねさま)のような姿に似たかった。

 

 義姉様は兄様と夫婦の契りを交わしたお方で大変女性的なお方だ。朗らかで身体も女性らしい。豊かな胸など見るたびにため息が出る。私とは比べるまでもない。七夜としては別に問題ないのかもしれないが、女性としては少し、いや少々、いやいや結構考えものだ。

 

 内心、なんで見てしまったんだろう、と思いながらさっさと着替えも済ませ、台所場に向かった。

 

 今日の朝餉は昨日の晩に食した川魚が余っているので、これを焼いてほぐす。しかしそれだけでは寂しいので、汁物と漬物を添えて彩りを増そう。あ、あと米も炊かなくてはならない。

 

 身支度を済ませた私は台所場に向かう。

 

 まずは米を炊く。あらかじめ井戸から汲んであった水で米を研ぎ、そのまま釜の中に。竈に運んだらさっさと炊いてしまう。火をつけるのは面倒だが、それも手馴れたもの。少しばかりの藁に火打石で火種を点ける。僅かな時間で火種がつき、それを竈の下に敷き詰めた藁に投入。そのままでは消えてしまうので火吹き竹を使う。

 

 暫く息を吹き続けていると火が点いたので、更に強く吹いていく。目に見えるほど火が安定してきたのでそのまま少しの時間放置しておく。

 

 七夜の里は人里離れた森の奥にあるので電気が通っていない。なので電化製品が使えない。これは少し面倒かも知れない。生まれた時から七夜にいる私にはあまり関係ないのだが。

 

「~~~~~~~♪」

 

 料理をしているうちにちょっと機嫌がよくなってきたので鼻歌交じりに竈で川魚を焼いていく。昨日採ってきたものだが、まだまだ鮮度はよく、取った直後にしめてもあるので味は大丈夫なはずだ。あ、ちゃんと下ごしらえはしたぞ?

 

 焼き加減を確かめながら、汁物を作ったり漬物を小皿に盛ったり。ちなみに私は白味噌が好きなのでいつも白味噌。今日はほうれん草や甘い人参を入れた野菜汁だ。肉は入っていないが野菜のほのかな甘みが絶妙だ。

 

 ま、私だけが食べるわけではないのだが。

 

 用意する食事は二人分。魚は二匹だけ。川魚はこれで終い。この料理を食べるのは私と、私が世話をさせていただいているお子。いつも無表情で無感想。おいしいともまずいとも言わない。一度試しにとんでもなく苦い食事を一品用意したが、その時も何も言わずに食べ、むしろ作ったのは言いけれど食べられなかった私のものも食べてもらった。反省。

 

 と言うか私の話をちゃんと聞いているのかも怪しい。だからその子においしいと言わせるのが私の密かな目標だ。

 

 そうしているとちょうどいい時間となった。釜から炊き立ての米の香りが漂ってくる。魚もいい感じなのでそろそろだろう。釜の蓋を除くと蒸気がふわっと登ってきた。それもまた良い匂い。お米の甘い匂いが食欲をそそる。だからだろう。

 

 お腹から音がなった。

 

 くぅ、と小さな音。

 

 恥ずかしくて思わず辺りを見渡す。ちょうどよく人もいなかったのでちょっと安心。これが義姉様に見つかったら微笑みながら「早く食べましょうねえ」と言うに違いない。少し顔が熱い。

 

 落ち着いたところで、米、川魚、野菜汁に漬物を盛って朝餉を完成させる。今日の朝餉もおいしそうに出来上がっている。密かに料理を得意としている私としてもまあまあな出来ではないだろうか。見た目は少なめにも見えるが、朝の食事なのだからそこまで大目でもきっと食べられないだろう。

 

 それらを大き目の盆に二人分乗せる。では運ぼう。台所場を抜け、目的地を目指す。玄関に一度向かって草履を履き、無作法だが足で引き戸を開ける。場所はこの屋敷の敷地内にある離れ。小さい建物だ。この屋敷が大きいからか余計にそう思う。

 

 今、時刻で言うところの六時前ぐらいだろうか。いつも台所場から私が立ち去った後で義姉様が朝餉の準備を始める。

 

 どうせなら一緒に調理すればいいと思われるかもしれないが、私が早起きすぎるのと義姉様が朝に弱いので合わせることが出来ない。決して義姉様のマイペースに巻き込まれるのが嫌だとかそんなわけではない。

 

 離れには縁側が小さいながらもついているので、そこに越し掛け一度盆を置いておく。

 

「失礼します」

 

 襖から声をかけるが返事はない。これはいつものことだ。なのでそのまま襖を開く。

 

 するとそこには壁に寄りかかって座る子、朔がいた。

 

 目つきは鋭いのに茫洋な瞳はどこを向いているのだろう。天井あたりに顔を向けているが果たして天井を見ているのだろうか。私には判断できない。

 

 布団はしまわれているようで畳みの上には何もない。朔は大変早起きらしく、私が朔を起こすなどほとんどなかった。なので朔の寝顔などレア中のレアだ。

 

「朔さま、朝餉をお持ちしました」

 

 話しかけても朔は無言。しかし無反応ではない。いつも食事を取る自身の定位置へと移動する。

その動きの何と滑らかなこと。重心がどの位置にあるか把握できない。私も七夜として幼少から訓練を受けてきた身だがこんな何気ない動きの中で訓練の成果、朔の才が見えるのだから凄いことだと思う。

縁側に置いてあった朝餉を室内に入れ配膳。朔が座るのは部屋の中心。朔の目の前に一人分を配膳し、その対面にもう一人分、私の分を配膳した。

 

「では食しましょう」

 

 配り終わり、食事を開始する。ただ私はまず手をつけない。目の前で朔が食事を口元に運んでいく。それはほぐされた魚。食べやすいようにあらかじめほぐしておき、絶妙な塩加減と焼き加減をした今日の会心の朝餉。それを食べ、朔は反応するのだろうか。

 

「……」

 

 個人的な目標で内心緊張する。ただそれを悟らせるのは愚の極み。見かけは装い、朔を見守り続ける。ただ、悟らせたとしても朔が何かするとはとても思えないが。

 

 徐々に運ばれていく魚の身。それに合わせ少し開く朔の口元。ただそれだけの事だというのに時間が遅くなっていく。スローな時の中で朔の姿だけがリアル。無表情な朔。淀みの無い動き、そして―――――――。

 

「っ!!」

 

 はむ、と朔が魚を食した。そのまま味わっているようなわけでもなく咀嚼していく。口をもごもごと動かす仕草は無表情ながらに子供らしく少し可愛い。

 

 しかし、今は朔が反応をするのかが肝心だ。名残惜しい気もするがいったん我慢しよう。結果が肝心で、朔が反応を示すかどうかが重要だ。そして朔がおいしいと、その口で言ってくれるだけで、私には充分だ。

 

 そして嚥下。

 

 魚を飲み込み、そして朔は。

 

 美味いともまずいとも言わず、そのまま食事を進めていった。

 

「(……わかってた、わかっていたさ)」

 

 密かな挫折感があった。

 

 悔しいがそれを表に出すわけでもなく、二人は無言のままで食事を進めていった。うちひしがれるのは慣れている。

 

□□□

 

 食事を済ませ、朔が兄様との訓練に向かった後、私は家の家事を行っていた。その時ふと思ったのだ。食器をかたし、洗い物をして、掃除。普段と変わらない、私の時間のことだった。

 

「(そういえば、もう七年経つのだったな)」

 

 竿に洗い物を干しながら、私はなんとなく思った。

 

 私が朔の世話を行って七年経つ。思えば随分と早い。

 

 兄様が連れてきた時など、生まれたばかりの赤子だった。世話をする人間がいないと知った私はすぐさま朔の世話係を名乗り出た。それが長兄の子であることに関係ないと言えば嘘になるだろう。

 

 七夜朔。

 

 私たち三兄妹の長兄の子。生まれた時には親を亡くした子。

 

 長兄は一族の掟を破ったことで名を排されており、その名を呼んではならない。私自身長兄に対し肉親だった感情はない。

 

 長兄は強かった。圧倒的な力量で、単純に言えば暴力で蹂躙する様を強かったと言うのは少し語弊があるかもしれないが、それ以上に私はその存在が恐ろしかった。

 

 七夜の者は退魔衝動を色濃く特出させる。そして長兄は通常の七夜より遥かにそれを継承し、その影響で長兄は本人の気質と交じり合い殺人に快楽を見出す人間だった。その姿、その在りかたが、私には長兄は魔物に見えた。私たち七夜に存する異物。人間のようなナニカ。私と血をわけるはずに人間を、私はそう思った。

 

 だから私は長兄からはなるべく離れて生きていた。長兄が死んだ一年前には気がおかしくなっていたため余計に遠ざかっていった。だからだろう、長兄が粛清されたと兄様から聞いた時、私は安堵した。

これには私自身の気質も影響していると言えなくもない。

 

 私は七夜でありながら魔を殺せぬ七夜。色濃い退魔衝動は反転すれば、それだけ魔へ過敏ということだった。

 

 アレが恐ろしい、アレが怖い、アレは嫌、アレは死。

 

 そんな認識が脳髄に叩きつけられ、とてもではないが前線で活躍することは出来なかった。

 

 例え認識を克服しようとしても、本能的、あるいはこの身体、もしくは魂が恐れを抱く。ゆえにだろう。私は魔的なものに排他的だ。もとより私は七夜。それは最早本能に近い気質。

 

 しかし、私は許すことが出来ない。魔的なものがいる事も、生きていることも、呼吸をしていることも、地に立っていることすらも。思考の隅に過ぎっただけで、私は耐え切れなくなる。

 

 そんな私を七夜は当然のように受け入れた。七夜全てのものが退魔として生きれるわけではない。ゆえに私は七夜として活躍することも、女盛りでありながら誰かと契りを行うこともしなかった。跡継ぎの問題は自分には関係ないことだと、考えていた。

 

 そんな私に変化があったのは、朔の世話を始めた頃。

 

 そもそもなぜ私が朔の世話を名乗り出たのか。

 

 世話をする人間がいなかったこともある。当時の七夜に朔を世話する人間がいなかった。そして死した長兄の子、というものに興味を覚えたのかも知れない。狂気に飲まれた長兄が、手にかけなかった子。ただひとり生かされていた子が朔だった。

 

 もうどのような理由で名乗り出でたのかは正確には覚えていない。だが、一ヶ月経ち、半年が過ぎ、一年を跨ぎ。

 

 朔に目立ったことはなかった。いや、何もなかったといえば嘘になる。

 

 何も無かったということがあった。

 

 離れに放り込まれ、そこで世話を受けていた朔。だが、朔と関わる人間は私を置いて誰もいなかった。朔を連れてきた兄様でさえ離れには近づかず、存在を忘れているのではないかと思えるほど話題にすら上がらなかった。推論したところ、朔の存在は当時施行令が敷かれていた可能性がでた。ゆえに朔は当時存在していなかった可能性がある。

 

 ゆえに朔が関わるのは私一人。この里の中で朔は誰にも知らされず、存在していない子。

 

 私が朔の歪みに気付いたのは直ぐだった。

 

 笑わない。泣かない。喋らない。

 

 たった一人で世話を行っていた私だったから分かったのかもしれない。あるいは、側に兄様という殺人機械がいたからかもしれない。

 

 子は訴える。生きるために訴え、そして生かされる。それは七夜の里の赤子も例外ではない。生まれえたばかりの子は生きようと反応する。

 

 だが、朔にそれはなかった。

 

 訴えようとしない。時折どこかを見ているのは知っているが、それはどこだったのかわからない。少なくとも私ではなかった。

 

 そして気付いた。この子は異常だ。

 

 だが、処理とは違うだろうとわかっていた。

 

 異常だ。確かに異常ではあったが、害はない。

 

 ただ、憐れだった。

 

 誰も側にいない子。誰も守ってくれない朔。

 

 そして何も訴えず、ただ在るだけの赤子。

 

 恐らくこの時、私は朔の側にいようと決めたのかもしれない。

 

 七夜ではない七夜の私が、始めて自分から進もうと決めた。

 

 朝になれば起こして食事を共に食べ、昼も夜も同じく。最初の頃は共に風呂にも入っていた。そのような生活がもう七年以上。朔は私をただの使用人としか考えていないだろう。いや、朔の思考の隙間に私がいるのかと不安に思うこともある。

 

 だが私が感じた七年は、朔と共に過ごした七年であると言える。

 

 そう思うと、少しだけそんな自分が誇らしい。

 

 干し終えた洗い物を見渡す。暖かな日差しにあてられたそれらは緩やかな風に踊っている。

 

 その中に一着だけ干された藍色の着流しが、ひときわ軽やかに揺れていた。

 

□□□

 

「どうすれば朔と食事をとれるのだろうか」

「知りません。そうしたければ、そういえばいいのです」

「っぐ、それが出来ないからお前に聞いているのだ」

「それこそ知りません。そのようなことを意識したことなどありませんので」

 

 そう言うと目の前で当主、兄様は苦虫を噛み潰したような表情をし、私を睨む。ただそれはお門違いだと直ぐに考えたのだろう、兄様は落ち着きを取り戻したようだ。

 

 昼になると兄様との訓練が終了するので、朔との昼食を済ませた後(もちろん朔に反応はなかった)、母屋の囲炉裏の間で朔の持っている着流しにほつれを見つけた私は裁縫を行っていた。長いこと家事を行っているので裁縫などお手の物だ。チクチクと裁縫を行っていると、その場に兄様が現われた。

 

「だいたい、今こうしている間に朔に会いに行けばいいのでは?」

「だが……私は朔と何を話せばいいのだろうか」

「(うざいぞ、こいつ)……兄様、別に無理に話さなくてもいいのですよ」

「何?」

 

 ほとんど補修が出来上がっていた時のことだった。ゆえに兄様に視線はほとんど向けず、手元のみを注視する。しかし応答は行っているので問題はないはずだ。

 

「何かを話そうとしなくても、共に過ごす時間が多ければそれだけで変わるものもあります」

「なるほど……」

 

 私のそれとない提案を受け、兄様は思案を深め、言葉を止めた。

 

 その思案顔を見て思う。兄様が変わったのは兄様のお子である、志貴が生まれたからだった。それから兄様は憑き物が落ちたように豹変し、その影響で七夜は退魔の生業から離れることとなった。

それはいい。退魔業から抜けた七夜は平穏そのもので、実に穏やかな日々を私自身過ごしている。それを得難いものだと気付いたのは、私自身の進歩だろうか。元から事情により前線に出ることの出来なかった私には、あまり関係ないことと思われるかもしれない。だが、七夜の雰囲気が変わってきていると肌で感じている。里に生きて戻らぬ者も在り、日々暗澹と殺人術を磨き続けた七夜とは一変し、実に安穏とし、温もりのある里になりつつある。これは、素晴らしいことだろう。

 

 しかし、懸念するのは朔のこと。

 

 朔はこの七夜が過ごす平穏とは隔絶された場所にいる。朔は人とのかかわりをほとんど持っていない。兄様、翁、私、そして最近になってそこに志貴が加わったが、それだけだ。温もりがわからず、温度の有難みがわからない子。それは一体どうしてかと、考えた時、要因が目の前にいる兄様にあるのではないかと思いついた。

 

「(ただ、それも今更なのかもしれないな……)」

 

 確かに要因かもしれない。だが、それを考え始めたのが最近。動き出すには遅すぎたのだろう。根付いた習慣は拭えず、朔は以前の兄様のような性格になりつつある。

それをわかっていても朔を変えることの出来ない自分が腹立たしい。

 

 ……そういえば。

 

「以前翁と話し合っていたご入浴の件はどうしましたか」

「……」

 

 兄様が固まった。いつだったか朔と一緒に入浴したいと兄様は言っていたが、今ではすっかり話を聞かなくなっていたのを思い出した。

 

「それが、なあ……」

 

 硬いままに兄様は私に視線を合わせず妙に動揺していた。

 

「私が提案してもだいたい朔は既に入っている状態がほとんどでな……」

「それで、本当は?」

「いや……、一度断られてから、全く聞いてもいない……」

「(このへたれがっ)」

 

□□□

 

 どんよりとした空気を纏い始めた兄様を無視し、修繕の完成した朔の着流しを離れに持っていく。この時間帯、兄様との訓練が終わり食事を済ませた朔はだいたい離れの中にいることが多い、というかほとんどだ。それは朔自身が用もないのに外出することを理解していないかもしれない。しかしそれ以上に兄様の訓練が厳しいことに尽きるだろう。

 

 兄様はあれでも七夜で一の強さを誇る七夜の当主。その力量は折り紙つきで、七夜の鬼神とは兄様を指す。混血の天敵として恐れられ、前線を離れた今もなおただただ強い。その強かさはほとんどの七夜では対応が出来ないほどのもの、なのだが、それに朔はついていっているとのことだ。しかも、時たま兄様を凌駕しようとさえしていると聞く。

 

 それを聞いて、少し嬉しくなり、そして悲しくなったのはいつの日か。

 

 朔には才があると知り、嬉しくないはずはないだろう。私が朔を今まで育ててきたと考えるのならば、自分の身内が褒められるのはいいことだ。

 

 だが、今の七夜でその訓練が必要なのだろうか。退魔組織から抜け、人里離れた場所に住まう七夜に、必要はあるのだろうか。外敵から身を守ると考えればいいのかもしれないが、それは大人の仕事であって、朔のような子供には訓練もまだ早いと感じる。

 

 ただでさえ朔は訓練を開始するのが早かった。未だ歩けたばかりの子供に課すには疑問を抱く事態。だが結局兄様の当主としての命令で、朔は訓練を行わされた。

そして兄様の訓練は苛烈。ただの子供が行うにはあまりに厳しい。それに朔は追随していると言うのだ。

 

 もう七夜は退魔ではないのだ。だからそれだけ鍛えられても、ほとんど意味は無いのではないのかと、私は思い、そして過酷なことをさせている朔が文句を言わずに過ごしていることが、悲しかった。

 

「おや?」

 離れにやってくると、離れの中に朔以外の気配を感じた。襖の中を覗いてみる。堂々とすればいいのかもしれないが、ちょっとした好奇心だ。

 

 ……あとで気付いたが、襖を覗いている私の姿はなんと間抜けだったのだろうか。

 

 そして中を覗いてみると、なんとそこには横になって眠りについている志貴と朔がいた。

 

 志貴が朔と距離を縮めたのは最近のことだった。理由は結局わからずじまいだが、朔が誰かと仲を結ぶのは大変いい事だ。ただでさえ人との関わりのない朔に近しい人間の有無は微妙なところだろう。私は言うに及ばず、兄様や翁に繋がりの情を感じているのか。

 

 だから志貴の存在は稀有だ。得がたい存在だと思う。従兄弟という関係ではあるが、今まで近づいていったこともなかった。それに歳が近い。ほとんど同い年同士だ。志貴にはぜひとも朔とより仲良くなって欲しいと思う。

 

 二人はお互い近づいて眠っている。志貴が近づいているだけかもしれないが、志貴に手が朔の着流しを掴んでいる。その光景は微笑ましく、温かみのある絵だ。

 

 ただその光景は少しばかり私には刺激が強い。

 

「(おっと、よだれが)」

 

 使用人と思われている女性。

 クールビューティー。

 七夜黄理の妹。

 少年嗜好者。

 密かに朔を喰ってしまおうと目論んでいる。

 

 七夜黄理。

 七夜黄理は『へたれ』の称号を手に入れた。




六です。またまたオリキャラです。申し訳ありません。

ただ一言。

朔逃げて。超逃げて。


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第十話 蠢動

七夜は決して最強ではない。

 

 思えば、七夜黄理との訓練の際、教えられた全ての事柄は否定から始まった。

 七夜は最強ではない。決してこの世界で最も強い存在ではない。ただ超能力を保持し、人外の身体能力を持ち、暗殺術を伝えている、だけの存在。それ以上でも以外でも以下でもない。それは隠しようのない、紛れも無い事実。もし七夜がこの世界で最強だというのなら、なぜ七夜のものは死ぬのか。

 

 それが答え。七夜は死ぬ。簡単に死に絶える。それは我々が弱いからではない。人間と言う領域ならば七夜は極めて高い場所に座する一族。長い時をかけて繰り返された近親相姦は、七夜の血を澄まし不純物のない身体を持つに到っている。ではなぜ七夜は死ぬのか。

 

 この世には人間ではない存在が溢れている。人外の化け物。悪鬼羅刹の魑魅魍魎が跋扈する現界の地獄。これが世界の現実。

 

 そのような者に七夜が勝てるのか。

 勝つこともあるだろう。川原の砂金を発見するような確立で。

 勝ちを拾うこともあるだろう。

 

 だが、それは絶対ではない。

 

 世界は化け物に満ち満ちている。裏に、夜に、影に、闇に、あるいは無にそれは潜み、あるいは闊歩している。そんな世界では、人間の想像を超える存在が当たり前のように存在している。

 

 超越種と呼ばれる人間という種よりも上の存在がいる。それは血を好む吸血種とでも考えればいいだろう。中には肉を捨て事象に成り果てた存在もいると伝え聞く。そのような存在に七夜は勝てるのか。

 

 勝てない。七夜は容易に死ぬ。ゆえに絶対は無い。七夜が勝つという絶対は無い。

 

 覚えておけ。

 

 七夜は退魔組織では混血を相手にしていた。それはつまり七夜にはそれ以外の道が無かったといえる証明。そして七夜はそれ以上の相手には相性が悪い。純粋な魔という存在に七夜は太刀打ちが出来ぬまま殺されるのみ。

 

 だが、それでも七夜がなぜ蜘蛛として恐れられ、禁忌の存在となっているのか。

 

 それは偏に、殺す殺さないという領域で、七夜に敵う存在がいないからに他ならない。

 

 七夜は殺しを目的とし手段とし結果とする一族。

 ゆえに殺すことを第一に、必殺を教え学び考え鍛え磨く。

 

 他の退魔組織ではどうか。確かに彼らもまた魔を対象に動く集団。だが彼らの目的は七夜とは異なる。彼らは魔を相手に討伐し封印し祈祷し祓うことを目的にした一族であり、殺しは手段の一つあるいは結果でしかない。

 

 これが魔なら更にはっきりとしている。魔が行うのは暴力。彼らはその自らが生まれ持った素養や能力を行使し、相手を圧倒する術を持っている。それは鍛えて得たものではなく、また望んで手に入れたものではない。彼らは自らが持っている力によってのみ暴力を行使し、その結果が死ということに他ならない。

 

 七夜は違う。七夜は殺す。確実に殺し、必ず殺す。

 それ以外は出来ぬ。それ以外をやろうと思わない。

 それが七夜にとっての最善であり、存在証明でもある。

 だから七夜は恐れられる。

 

 七夜は殺人鬼だ。殺しを目的とし手段とし結果とする殺人鬼だ。

 

 

 これほど最悪な者がいるだろうか。

 

 

 七夜は生きているから殺すのではなく。

 

 

 殺すために生きているなどと、自ら証し立てているのだから。

 

□□□

 

 呼吸は深く長く。五体の隅々の先、指の末端にまで酸素が行き渡るように息を吸い、そして吐く。吐く息が白い。肺と胃の中にある酸素を吐き出し、肉体の中身を搾り出すようにして吐き切る。それが終わると再び息を吸う。それを繰り返すこと数回。冷たい空気が体中に染みる。姿勢は直立、あくまで自然体。そうすることで意識は次第に澄んでゆくのがわかる。雑多なものは消え去り、余分なものは取り払われ。

 

 その呼吸は空手などに伝わる呼吸法に似ている。特別な呼吸によって全身の筋肉を刺激させ、更なる動きの発展へと結びつける。武道家が行うそれは、例え殺しの術を磨き続ける殺人鬼であっても変わりはしない。肉体を駆使する、という意味では両者共に同存在だろう。

 

 夜。朔は訓練場にて一人佇んでいた。冬となって訓練場は夜の静寂(しじま)が増していったような気がする。

 

 時刻は幾ほどばかり経っただろうか。黄理との訓練は疾うに終わり、朔は訓練場を動こうとせず、黄理に教えられた動き、黄理の行っていた動きを吟味していた。反復運動を繰り返し、自分なりの最良を見つけ出す作業。最短の動きで最速となる動き、肉体。それらを手にするため訓練が終わった後も一人鍛錬を行っている。食事を取ることなく、休息を取ることなく。

 

 呼吸を整え、静かに目蓋を下ろしていく。疲労からか意識が解けていきそうな感覚が数回、それをあの日の残像で拭っていく。

 

 あの時、目の前に現れた異物。

 

 それを自分の内側は殺せと吼えたて、同調するように肉体が猛っていく。筋肉は痛いほどに熱を持ち、ともすれば自身の意識さえも侵食してしまいそうな感覚。

 

 だが、これではない。こんなものではない。あの時の自分はこんなにも静寂な存在ではなかったはず。

 

 意識を沈め、自分の中に潜り込み、あの混血という魔の姿、存在そのものを思い描く。姿ばかりが似ていても意味がない。魔。それにならなくてはならない。自分とは違う、人間とは違う、人間ではないもの、人間以外のもの、正真の化け物。

 

 だが、脳裏で創造しようとすればするほど混血の姿は歪と化し、あの日の存在とは似ても似つかない存在に成り果てる。違う、これではない。

 

 創造と否定の作業をどれほど繰り返したのだろう。元から出来ぬことだとわかっている。だからと言ってやらない理由にはならないが。しかしこの作業は混血と出会ったあの日から始まりこれまで続けられてきた。それはどのような反応を自分は示したのかと確認するためであり、そして自分自身の変化に対する問答でもあった。

 

 変わったのは周囲だけではない。朔自身も変わっていった。取り返しがつかぬほど遅くなりながらも。

 

 朔には人間がわからない。それは自分が周囲の人間と違うからだと思っていたからだった。だが朔はそれでもなぜ自分は違うのかと思い、ひたすらに思考を重ねていった。それだけが朔に出来る解答への至りだった。だが、今となって、朔は疑問を疑問と思わないようになってきていることに気付いた。自分が以前なら疑念を抱いたような事柄に対し、朔は以前よりも淡白、無機質になっている。それを良いことか悪いことかの判別はつかない。だが、そのような判断すらも朔にとっては価値の見出せないものになりつつある。

 

 だからだろう。あの日の自分へと近づき、その答えを見つけようとしているのは。

 

 梟と朔が対峙した後、朔の生活は一変していった。

 

 朝、目が覚めると、縁側に朝食が置かれ、誰が作ったかもわからぬそれを誰も訪れることのない離れの中で一人食す。食した後、黄理との訓練が始まり、食事を取ることも休息を取ることもなく昼が過ぎるまで訓練を行い、その後夕刻となるまで一人訓練場で肉体を酷使する。そして疲労がピークに達する頃、黄理の命によって鍛錬を止める。その後食事を取った後、一人で就寝する。

 

 そんな生活を自発的に朔は行っていた。自発的にだ。黄理によって気絶させられ、目が覚めたあの時から。自身を苛め続け、更なる高みを目指す。現在生活の全てが以前と比べ、はっきりと高みへ登るためだけに消化され続けている。一日中動かし続けた肉体は痛みの危険信号をけたたましく鳴り響かせ、それに合わせ意識は次第に澄んでいく。痛みが増すほどに意識の蒙昧さはどこかへと消え去り、あの日混血と対峙した自分と同じ状態へと近づいていく。

 

 だがそれも一定以上凝らしていくと、意識が飛んでいく。そして気付くと離れで寝ている。おそらく誰かが運んでいるのだろうと推測し、その誰かを予想することなく再び訓練場に向かう。その度に朔は視線を感じたが、それもどうでもいいことだと思った。そんな生活も幾ほど経っただろうか。最早覚えていない。

 

 最近志貴が六歳になったと、誰かから聞いた。その誰かは女性で、なぜか自身の表情を隠していたような気がする。震えるように感情を隠して。そして会話は禁止されていて、この会話も秘密なことだと言われた。

 

 だが、果たしてあれは誰だったのだろう。

 

『食事はちゃんと取っていますか』

『休息は充分ですか』

 

 あれは自分と親しかったのだろうか。柔らかな表情と、暗い色を湛えたあの女性。

 

 記憶の中に似たような存在がいたような気がする。

 

 だが、それが誰だったのか、わからない。

 

 しかしそこでどうして自分は疑問に思っているのだろうかと、考えてみる。だが、その考えは果たして必要なのかと考え、そもそも自分に疑問は必要なのかとも考え、その考えを切って捨てた。

そして、それも、最早どうでもいいことだろう。自分にはきっと意味の無いことなのだろう。そもそも意味を求めること事態間違いなのかもしれない。そして朔はそれを間違いと決め付けるほど朔は判断材料を持っていなかった。

 

 今となっては黄理とほとんど言葉を交わさなくなってきている。それは普段の生活のみならず訓練の時においても。その理由を朔は求めはしなかった。ただそうなのだろうと、変化していった周囲を受け入れた。疑念を抱くこともなく。

 

 だがそれでも、変わらないものも、もしかしたら―――。

 

「兄ちゃん……」

 

 気付けば、そこに志貴がいた。

 

 終わらぬ精神統一を図る朔の側に、いつのまにか志貴がいた。夜の鮮やかな黒に紛れることなく、小さな少年は朔の側にいた。

 

「兄ちゃん。もう、夜だよ?家に、帰ろうよ……」

 

 志貴は揺れる感情を持て余しているようにも見えた。落ち着きなく揺れ動く瞳が朔を見つめている。その感情が一体何なのか朔にはわからなかった。

 

 いつからか、ひと気のなくなった朔の側。だが志貴だけはなぜかそこにいる。いつも変わらずに志貴は朔の側にいる。それが不思議でならなかった頃もあった。だが今となっては朔にそれの答えを求める感情は芽生えることもない。

 

 しかし、帰りを促す志貴の存在を考え、志貴は黄理の代わりにやってきたのだと推測した。

それを、黄理とはもう会うことも出来ないのか、と漠然に思った。

 

 残念とは思わない。

 

 ただ、内側に余韻が虚しく響いた。

 

「兄ちゃん……?」

「……」

 

 ――――視界が僅かに霞んでいる。

 

 しかし、自身の瞳が濡れていないことはわかっていた。

 

 時折だ。朔の視界に突然微かな靄がかかることがある。

 

 それはこの時のように志貴に見つめられている時だったり、あるいは離れに一人でいる時だったり、母屋にいる時だったり、はたまた訓練場にいる時だったり。高い頻度で靄がかかる。

 

 だが、この靄。色がついているようにも見える。ただその色彩の判別が朔にはつかない。

 

 そして視界いっぱいに靄が広がるのではなく、道筋のようにどこからか繋がり漂っている。これが何なのか朔にはわからない。他の人間、例えば志貴にもこれは見えるのだろうか―――。

 

「……」

 

 そこで朔はかぶりを振る。

 

 ―――そんなことを考えてどうするのだろう。考えたところ、自身に答えなどわからないだろう。

 

 朔は志貴の視線、不安そうな志貴の目を受け、離れに向かって歩いていく。この靄が何なのかわからないが、見ていても感慨が浮かびはしない。

 

 はんば志貴が見えていないように動こうとする朔。

 

 その身を、引っ張る力があった。

 

 着流しの袖を志貴が掴んでいる。だがここに押し留めるような力はそこに無い。だと言うのに志貴は朔の袖を掴んで離さない。

 

「……」

 

 志貴は俯いている。俯いて、黙り、朔の袖を掴んで離さない。

 

 そして朔には、この手を振り払おうと思うことが、なぜか出来なかった。

 

 そのまま二人は歩いていく。朔が志貴を連れて行くように。

 

 頭上には月。冬の冷たく澄んだ空気で月の輪郭がよく見える。

 

 満月まで、あと少し。

 

□□□

 

「御館様」

「翁、か」

 

 屋敷の中、囲炉裏の間。火の灯る囲炉裏の前。そこに黄理と翁はいた。と言っても翁は先ほどになって現われたばかりだ。黄理は静かに座布団へ座し、黄理は力なく側にいる翁を見る。その翁を視界に納める瞳に僅かな疲労が見えた。それは肉体的なものでなく、精神的なものだと、翁にはわかっていた。

 

 翁は先ほど見た光景を見て微笑みを湛えた。それは孫を見つめるような好々爺の表情だった。

 

『なんで兄ちゃんと会っちゃ駄目なの?』

『どうして誰も兄ちゃんと一緒にいないの?』

『なんで!?答えてよ、お父さん!』

『もう知らない!お父さんの莫迦!!』

 

 目前で繰り広げられた志貴と黄理の問答。 

 

 その光景は正に親子の喧嘩にしか見えず、翁は密かに笑いを堪えていた。こんな何気ない光景が、七夜には生まれている。いつかと比べれば、七夜は変わっている。癇癪を起こす志貴、受け流すことも出来ない不器用な黄理。これを親子喧嘩と言わず何と言う。

 

 だが、今現在の事態が重いことを翁は充分に承知していた。

 

「朔様が離れに戻ったようです」

「……そうか」

 

 朔の名を聞き、黄理は僅かに視線を床に向けた。

 

 あの時から始まった朔への接触禁止は今のところ滞りなく進んでいるようにも見える。だが、それは里の中に僅かな、逃してしまいそうなほどに小さな亀裂が生み出されていた。もとより朔と関わるものは少ない。だが、それでも皆朔を大事にしていきたいと思っている。それは朔が優秀だからとか、やがては当主になる可能性が高いとか、そういう打算のようなものも含まれているが、それ以上に通常、七夜の仲間意識は高い。

 

 朔の父、名を排された黄理の兄は禁を破ったことで粛清されはしたが、それ以外の事態ならば七夜の意識は覆されない。

 

 だが今回、黄理の命によってそれに動揺が生まれている。なぜ朔の扱いが変わってしまったのか、その原因を七夜の者は知っている。圧倒的な殺気。それを皆知っている。だが、それでも朔は十にも満たぬ子供。人の温もりが必要だ。例え朔がかつての父のようになろうとも、それだけはなくてはならない。

 

 ゆえに皆接触を禁じられた朔に憐れみ、黄理に疑念を抱いている。

 

 事実、黄理の妹は密かに朔と接触している。それはほんの数分の出来事。だが、そんな僅かなことでも咎めなくてはならない。しかし、いざそれを妹に言って、妹の冷たい視線に晒された。

 

『兄様は、それでいいのでしょうね』

 

 あの言葉が、耳から消えない。

 

 そして黄理自身、自分の行いが本当に正しかったのかと、後悔に身が震えた。

 

 当主としては正しいのだろう。事実あの時感じた朔の気配。あれはかつて黄理の兄が発していた存在感そのものだった。遠からず、朔はそれに極めて近い存在になるという予感が黄理にはあった。

 

 だから朔を隔離した。

 

 精神的な枷を作り、もし朔が暴走しても他の七夜に危害が及ばぬように。そして、もし朔が狂気に呑まれた時、その時黄理は―――。

 

「……っく」

 

 だがその答えを理性で捉えようとしても、黄理の父としての顔が歪んでいく。当主としてこれはきっと正しい。だが。

 

 朔が徐々に変わりつつある。

 

 それを肌で感じなくとも、黄理ははっきりとその目で見てきている。

 

 より無機質に。より機械的に。それでいて暴力的に。

 

 あの目。朔の目。

 

 無機質だった目が、今では何者も見つめていない。それはかつての自分を思い抱くには、黄理には充分すぎるものだった。

 

「翁」

「はっ」

「今の朔。お前には、どう映る」

 

 それはかつて、黄理が翁に問うた言葉だった。

 

 朔が変わったのは、それだけではない。

 

 飛躍的に伸び、そして今もなお昇華していく運動能力。

 

 打撃は重く、鋭さを増し、より狡猾に敵を、訓練の相手である黄理をしとめようと動いていく。その姿は正に蜘蛛だった。

 

 今となって黄理は自身の得物、二本の撥を使用し組み手の相手をしているが、抑えているのがやっとの状態。いや、それも危うい。さながら暴風雨のように動き回る朔は、最早黄理と同等の力量にたどり着こうとしている。

 

 僅か、八歳の子が、だ。

 

 ゆえに黄理は時折、朔に対し怖気のような感情を抱く。それは畏れと言ってもいいだろう。

 

そう遠くない未来。

 

朔は黄理を超える。

 

それは、はっきりと、異常。

 

「そうですな……。ただただ恐ろしく思います。あのままではどうなってしまうのか、と」

「そうか……」

 

 最早予想のついていた答えだった。このままでは朔はどうなってしまうのだろう。

 

「ただ……。御館様は正しいと、里を守る者からすれば正しいと思います。しかし、御館様。あなたは胸をはれますか?」

 

 翁の言葉が響く。それは黄理を確かに揺さぶるほどの力を秘めた言葉だった。だが。

 

「……翁。私は、どうすればいいのだろう」

 

 黄理はどうしようもないジレンマに陥っている。最近では志貴との関係もうまくいっていない。今回の喧嘩がいい証拠だろう。志貴は黄理に向かって反発し、そしてそのまま朔のもとに駆けていった。

 

 疲れていると自覚する。だが、どうしようもない状況に気が休まらない。朔のことが一時たりとも頭から離れないのだ。こうして悩んでいることも朔のことばかりで、解決策が見当たらない。

 

 答え見当たらぬ泥濘の中、黄理は悩んでいく。

 

 それでも月は関係なく輝いていく。

 

□□□

 

 鮮やかな月が天上に吊り下げられ、地上を照らし出す。

 

 だが、月の光は眩くとも儚く、触れてしまえば消えてしまいそうに淡い。

 

 だからこれは、月にも映し出されぬ宵闇の中。

 

 暗い底の会話。

 

「それで、お前はいいのか。確か刀崎は七夜と協定を結んでいたのでは」

「構いはしねえよ。そんなもの、今となってはどうだっていい」

「どうだっていい、だと?」

「ああ、そうだ。今の俺にとっちゃそんなもんどうでもよくなっちまったよ」

「ふむ。……ならば、いい。私にとってもどうでもいいことだ。約束を違えなければそれでいい」

「ひひ。あんたは話がわかるからいいな」

「……。では手筈を整える。お前は道筋を教えればいい」

「あいよ。その代わり、だ。条件を破るなよ」

「本来なら、それも破り捨てるところだが、ルートを知るのがお前しかいない今、条件は守る」

「七夜朔の確保。これだけでいい」

「しかし、知らぬぞ。もし確保できなければ、殺してしまう」

「何言ってんだあんた?」

「なに?」

「ひひひひひひひひひひひひひ!これは愉快だ。あんたら如きじゃあいつは捕まれねえ。気を抜けば、いや、気を抜かぬとも口の中さ。あっという間に喰われちまうぜ」

「……」

「だから安心しな。あんたらは油断なく殺していけばいい。きっと残った中にあいつはいる」

「……」

「あぁ。久しぶりのご対面だ。ハハ、身なりを整えなけりゃならねえなあ」

「……そうか。まあ、いいだろう。では頼んだぞ

 

 

                                          ――――梟」

 

 

 暗がりで密かに物語りは進んでいく。だが、それは月にも映されぬ闇の中に溶けて消える。

 

 だと言うのに、天上に吊るされた月は、あいも変わらず地上を睥睨し照らし出していく。

 

 満月まで、あと少し。

 




 今の朔の状態について補足いたします。

 現在朔は梟と対面したことで、潜在的なたがが外れました。なので爆発的な身体能力の獲得と成長を得ました。
 しかし、黄理が行った隔離により、もとから薄かった人間味が磨耗。興味の幅がより狭く深く、それ以外、例えば人物に対する記憶力も薄れています。

 普段接する人物、黄理や側にい続ける志貴は別ですが、直接会うことを禁じられた妹様はだいぶ忘れてきた状態です。

 あと七夜襲撃は手引きする人間がいなけりゃ無理だと考え梟の登場です。
 
 それでは次回お会いしましょう。


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番外編 ななやしき君の冒険

諸事情により番外編です。

 では、どうぞ。


「森の奥ってどうなってるのかなあ」

 

 その日はそんな言葉から始まった。

 

 志貴は目の前で何やら翁と会話している父の黄理に向かいそう言った。話の所々で「……朔が…しかし……」「朔はやはり……」「風呂……朔……」と朔の名が頻繁に出てくるので一体何を話しているのだろうと思ったが、それを聞いても微妙にはぐらかされるので少し拗ねた。そんな父に最近朔の世話を行っている叔母から聞いた『へたれ』という単語を黄理に浴びせかけ黄理が落ち込み翁が励ますなど、なかなか混沌とした空間を作り出したのでとりあえず志貴は満足していた。

 

 志貴の何気ない一言が飛び出したのは、その空気が落ち着き始めた頃のことだった。志貴としては本当に何気ない一言であった。志貴はこの七夜の里から出たことはなく、当然外界がどのようなものか知らない。さらに人里から離れたことはなく、遠くはなれることは子供たちには禁止されていた。朔と黄理が早朝森の奥に向かい基礎訓練を行っているのは知っているが、しかしそこが一体どういう場所なのか全く教えられていない。だから志貴としては未知なる場所に興味を持ち、気になっているのだ。

 

 志貴の幼い冒険心が燻り訴えているのだ。森はなんだかすごいところに違いない、と。

 

 だがそれを聞いて黄理と翁が固まる。

 

 里の外、つまり人里から子供を出すのを禁止させたのは黄理を含めた七夜大人組の総意である。

 

 七夜の里は森の内部にあり、そこは外部の敵を撃退する罠で埋め尽くされている。撃退と嘯いているが、対人地雷がいたるところに設置されていることからどう考えたって殲滅を念頭に置いた罠である。

そもそも七夜は裏の人間であるため敵は多い。混血との協定を結んではいるが、それは薄氷の協定。七夜の安全が確保されているとは程遠いのである。

 

 それゆえ森には数多くの罠が設置され、その種類は七夜のものですら完全には把握することが出来ず、正規のルートを通らなければあっという間に死体と化す。それゆえに子供は里から出してはならない。

 

 と、これが建前である。

 

 本当の所、そんな罠が云々より、七夜の森にかけられた結界がヤヴァイ。

 

 過去志貴が生まれた黄理はそれまでの人間性が嘘のように変わり、言ってしまえば、はっちゃけた。さすがにモヒカン軍団のような奇声を発声することはなかったが、その行動から自重が消し飛んでいた時期が黄理にはあったのである。

 

 その頃黄理は生まれてきた志貴のために、といままであった結界を強化することを決意。そのために異例であるが外界の魔術師と協力するほどの徹底振りである。そんでもって完成した結界により、森の生態系が突然変異を起こしたのは完全に黄理のせいである。植物が獣を襲い、獣がおかしな姿で動き回っているのである。幸い現在確認されている獣の中に七夜の脅威となるような存在はいなかったが、それでも危険なことに変わりない。最近の目撃例では空中浮遊のキノコが大量発生し、独自のヒエラルキーを生み出したとある。その他にも生き物を捕食しようと蠢く蔦や、闊歩する大樹など、とんでもない場所なのだ。

 

 そんなわけで七夜の森は現在子供たちだけで進むことは硬く禁止されている。今の森は言わば黄理の黒歴史であり、それを指摘すれば、あの頃の俺は若かったと視線を逸らすことも出来ずに身を捩じらせる黄理が見れるだろう。

 

 そんなこんなで人里を離れるのは大変危険である。生命的にも黄理の体裁的にも。

 

「志貴様。森は危険がいっぱいですので、子供をいかせるわけにはいかないのです」

 

 二の句が告げられない黄理に変わって対応に出たのは翁である。黄理は大した変化なく泰然と志貴を注視しているようにも見えるが、長年黄理に仕えてきた翁は黄理の額に浮かぶ脂汗を見逃さなかった。

 

「でも、それは子供だけでいくのは駄目だって事でしょ?だったらお父さんといけばいいってことじゃないの翁?」

 

「ふむ……確かに、そうでございますな」

 

 確かに大人の者といくのは認められていなくもない。子供のみでいかせるのは大変危険であるが大人の者、つまり安全な道筋を知っているものが一緒についていれば罠にかかることはないだろう。

 

 ただそれだけだと少し問題が起こる。先ほど言ったとおり森は黄理の黒歴史そのものであり、そこから誕生した突然変異種はほとんど調査が行われていない。調査が行われようとしてはいるのだが、昨日向かった場所の地形が変化していたり、生態系が一日だけで変わっているなどざらで、調査が追いついていかないのである。わかっていることと言えば、その影響が里にまで及ばないことであろうか。結界の影響か、里を守る方向性を持っていることからか、突然変異種はなぜか里に現われず、植物たちもその足を伸ばさないのだ。

 

「しかしそれでも、子供をいかせるのは大変危険でございまして……」

「じゃあなんで兄ちゃんはいいの?」

「むぐっ……」

 

 それを言われてしまえば翁としても何も言えなくなる。

 

 朔は黄理の預かりとなって早朝には森の奥に向かって基礎的な訓練、つまりは足腰の強化、俊敏性の強化、持久力の強化、空間把握と判断能力の強化を備えるため走りこみのようなものを行っている。走りこみと言っているが、覆い尽くす木々の合間を七夜の移動術をもってして縦横無尽に飛び交うそれを走りこみと言うのは少々、どころかかなりの語弊が生じるだろうが。

 

 その走りこみの中で判断能力の強化を期待されているのは、走りこみを行う場所に訳がある。

 

 黄理の暴走の末、森は七夜の者も吃驚な変化を遂げ、ここは腑海林かと突っ込みたくなるほど植物が暴れまわっている。獣を襲い捕食する植物が今日も活発に育っているのである。夜中など植物に襲われたのか獣、あるいは侵入者の断末魔が響き渡るのでかなり怖い。子供としてもあれは普通に怖い。悲鳴はやがてか細くなっていき次第に聞こえなくなる様など普通にトラウマとなる。

 

 想像出来るだろうか。四方八方から襲い掛かる植物たちを。それは蔦のような柔らかいものだけではない。視界を覆い尽くすような大木が向かってくるのである。それもいたるところから。それゆえ黄理は森に着目し、朔の訓練、危険把握能力を高めるため森にて走りこみを行っているのである。

 

 とは言え、正直にそれを志貴に言ってもいいのかと翁は吟味する。これで森の中はこれこれこういうことで、こんな理由があるから危険なのですと教え、その原因が自分の父と知った時志貴はどのような反応をするのだろう。少なくとも評価が上がることはない。

 

 翁はちらりと黄理を見た。なんか獣が死んだふりをしそうなほどの凄みで睨まれた。

 

 しかしこのまま答えないのもなんだかアレである。はぐらかす事も出来るだろうが、そのまま放って

おくと勝手に森に行きそうだ。

 

 なので朔に関しては。

 

「私としましても、朔様がなぜ森に行ってもいいのか疑問に思っていたのでございます」

 

 まとめて黄理に丸投げしてみた。

 

 一瞬黄理の表情が「なにぃっっっっっ!」と歪み、翁に向けて憤怒の殺意を向けた。しかし翁はそ知らぬ顔をするばかり。

 

 この老人、自分が仕える相手を窮地に立たせるなどなかなかいい性格をしている。

 

 そして困ったのは黄理である。

 まさかお前のためはっちゃけちゃいましたとは言えない。一時期暴走してはいたが、常識らしい常識は情報から隔絶された場所に生きてきた黄理でもある程度持っている。後悔は微塵もしてはいないがかなり痛い過去であることには違いない。

 

 しかし志貴はそんなこと知らない。子供の穢れない純粋な瞳で「どうして?」と訴えている。その輝きが黄理には辛い。

 

「朔は、な」

 

 散々考えあぐねた結果、黄理はおもむろに口を開いた。

 

「朔は特別だ」

「なんでなの?」

「朔は私が訓練を付けさせている。だからだ」

「どうしてなの?」

「それはな……つまり……」

「ねえお父さんどうしてなの?なんで兄ちゃんがよくて僕は駄目なの?」

 

 答えに窮した黄理に対し、志貴は次第に機嫌を損ねてきたらしく、軽くぶーたれ始めている。その瞳が興奮か少し潤んでいた。どうしたものかと黄理は翁に視線で助けを求めた。

 

 翁は優雅に茶を飲んでいた。翁しかとである。

 

 黄理はこの世全てから裏切られたような衝撃を受けた。

 

 □□□

 

 結局、あの後黄理は志貴が納得するような理由を話そうとはしなかった。いや話すことが出来なかった。黄理としては志貴に話したい内容ではなかったが、話さずにいると志貴が不機嫌になり、もしかしたら嫌いとか言われるかもしれない。そしたら黄理には灰になる自信がある。

 

 しかしだからと言ってあの黒歴史を志貴に教えるには些か辛い。主に父としての威厳が。ゆえに黄理は当主としての仕事が未だ残っていたと、そそくさいなくなってしまったのである。もちろん逃げるための口実である。しかも志貴の視界から消えた瞬間閃走を使用するほどの徹底振り。黄理実に大人気ない。

 そうするとそれに追随するように、それでいて「今度教えて差し上げます」と口ぞえしながら翁もどこかに行ってしまった。

 

 不満なのは志貴である。事実一人残された志貴は憤っていた。誰も教えてくれないのだ。志貴の頭の中でこれは、皆自分に対して意地悪しているのだと解釈した。子供ながらの素直な思考であるが、それゆえ思い込みと決定は固い。

 

 実はこの話、黄理に話す以前に何人から聞こうとしたのである。

 

 例えば母。

 

 母にどうしてなのか、と問うてみると母は「大人になればわかるものよ」と優しい微笑を浮かべ言った。

 

 そして叔母。

 

 自身が兄と慕う朔の世話を行っている叔母に聞いてみると、叔母は視線を背けながら「とても私の口からは言えない」と若干苦味のある引き攣った笑みを顔に貼り付けていた。

 

 更には里の大人。

 

 そこらにいる里の大人に聞いてみても「いや、あれはなあ……」と遠い目をしてしまい聞くに聞けなかった。

 

 そういう訳で誰も答えてくれないと、思い込んだ志貴。しかしどうしたものだろうか。大人に聞いても答えてくれない。でも子供だけで行くには危ないらしいし、とウンウン考えた。

 

 必死になって考えるその様はなかなかに微笑ましく可愛らしい姿である。だが本人はいたって真剣。

子供ながらに考え考え、考えすぎで頭が痛くなってきた頃、ハッと閃いたものがあった。

 

「――――ってことなんだ」

「……」

「結局お父さん理由言ってくれないし……。だから僕考えたんだ」

「何?」

「兄ちゃんと一緒なら大丈夫なんじゃないかなあって」

 

 七夜当主である七夜黄理の住む屋敷の離れ。簡素な部屋である。物らしい物がない、ひどく寂しい内部だ。そこに志貴は訪れていた。

 

 その対面にいるのはこの離れの住人、朔である。二人はいつぞやと同じようになぜか正座で対面していた。

 

「なぜ?」

 

「んとね、だって大人の人は教えてくれないし、でも僕たち子供だけじゃ今まで行った事もないから危ないし。だからね、何回も行った事ある兄ちゃんなら大丈夫だって、僕思ったんだ!」

 

 すごいでしょ、と志貴は満面の笑顔で言った。

 

 志貴の考えではこうである。

 

 子供だけでは駄目、大人は教えてくれない、ならば朔と一緒に自分の足と目で確かめればいいんじゃね? である。

 

 こんな流れが志貴の頭の中で完成され、そしてそれは最早朔さえよければすぐさま発動可能な計画でもあった。大人は駄目だから、志貴と同じ子供でありながら里を離れることが許されている朔ならば外に出ても問題ない。子供だけ、と言うのは懸念事項ではあるが、もしなにか問題あっても朔は志貴よりも遥かに鍛えられているし、志貴自身も最近は頑張っている。七夜の移動術もある程度ならば使えるようになった。だからきっと大丈夫だろう、と考えたのである。

 

 何とも子供らしい安直な考えではある。だが志貴としてはこれ以上の案はないだろうと踏んだのだった。

「……」

「だからさ、兄ちゃん」

 

 志貴は真っ直ぐに朔を見て言った。とても楽しげな笑顔で。

 

「森に連れて行って」

 

 駄目かな? と若干小首を傾かせながら志貴は頼み込んだ。

 

 そんな志貴の姿を、朔はその無機質な瞳でじっと見ていた。

 

 今現在昼を過ぎた頃。朔は僅かながらにもコロコロと表情を変える使用人と昼食を済ました後、特にやることもなく離れの中に寝転んで無意識のうちに黄理の動きを脳裏に描いていた。そして想像の中、朔と黄理の対戦で朔の殺された回数が十を越えた頃だった。離れに志貴が訪れたのである。

 

 そして用件は森に連れて行って欲しいとの事である。

 

 この頃朔は志貴と共にいる時間が多くなってきた。閉鎖された里というのも在るだろうが、一日で会わないことはない。常にいる、と言うことはないが極めてそれに近い。遊戯に付き合うことはあまりないが、時たま共に夜を過ごす事もあった。無論二人で眠っただけのことだったが、次の日使用人の鼻息がやたらと荒かった。

 

 兎にも角にも人里を離れることを志貴は望んでいる。朔は考える。以前から朔は訓練のため森の中に向かうことが許されている。なぜ許されているのか。森は子供には大変危険、らしい。全方位から襲い掛かる植物たちに、突然変異を起こした生き物たち。自然のヒエラルキーは逆転し、植物が生き物を喰らうという関係が形成された森は同じく生きた者である人間にとっても危険地帯に変わりない。それでも朔が森に行けるのは朔自身の生存率が極めて高く、無傷で生還が可能だからである。幼少の頃、気付けばそんな場所へ当たり前のように行けた朔だからだろう。

 

 そんな朔にとって森は危ない場所と思うことが出来ない。確かに危険な場所ではある。朔自身判断を誤り、命を落としかけたこともあった。

 

 だが、朔にとって自身の命の価値を判断することは難しく、死ぬことに厭いはない。ゆえに森の中に行くことは命を落とすことはあるだろうが、別に問題らしいことはない。

 

 朔は改めて志貴を見た。その茫洋な瞳に期待をしている志貴の姿が見えた。

 

「……」

 

 不意に立ち上がった朔に志貴は少しばかりの戸惑いを覚えた。

 

 もしかして駄目なんだろうか、と不安が過ぎる。

 

 朔はそのまま歩き出し、外に向かおうとする。そして座ったままの志貴に振り返ることもなく、

 

「行かないのか」

 

 と言った。

 

 始め朔が何のことを言っているのか分からなかった志貴であったが、次第に朔の言葉に思考が追いついた。

 

「行く!うん、絶対に行くよ!」

 

 嬉しさと楽しさが混じりあったような笑みを浮かべ、躍動するように朔の後姿を追った。

 

 朔の判断では、志貴が自ら森の奥に行きたいと志願したのは詰まるところ、森の奥に行っても生還できる自信があると判断したからに他ならない。森は大変危険な場所であるが、志貴は行きたいと言った。動物の本能には危険な場所には近づかない生存本能が存在するが、志貴は森を危険ではないと判断したのだろう、だから行きたいのだ、と朔は考えたのだ。

 

 当然の事ながら。

 

 志貴は森が危険な場所であると知ってはいるが、分かってはいない。志貴の想像する危険とは、精々危ない場所と言うことで、怪我しても仕方がない場所である、ぐらいのものでしかない。つまり朔の考えた志貴の判断は、全く見当違いなものであった。

 

 それ以前に子供は行くことを禁じられていると、朔は知っていて、それではなぜ断らなかったのか。

 

 朔自身、なぜかは知らないが、志貴の話はなんだかんだで断ることが出来ないと、未だ自覚していなかった。

 

 兎も角、他の七夜が聞けば全力で阻止しそうな朔の思考経路によって、志貴は里の外に向かうこととなったのである。

 

 □□□

 

 始めていく場所ほど興奮する場所はないんじゃないか、と志貴は密かに思っている。

 何しろ七夜の里は、外部から隔絶された場所にあり、志貴自身人里から離れた経験は無い。里は確かにいい場所ではあるが、未だ幼い志貴にはそれはわからない。この変化のない里はなんだか詰まらない所としか思っていなかったりする。

 

 自身と同じ子供と遊ぶのは楽しいし、訓練も辛いがやっているうちに面白いと感じるようになった。だが、いかんせん里は娯楽が少ない。外部から志貴の好奇心が満たされるようなものは入ってこないし、僅かにある楽しみと言うのも発展性が少ない。

 

 そんな折、志貴の前に現われたのが朔である。

 

 朔は兎に角凄い。志貴と同じくらいの子供でありながら、黄理と訓練が出来て、志貴には出来ないことが何でも出来る。志貴の思い込みも多々とあるだろうが、志貴の中で朔のイメージ像は大変膨れ上がっている。だからだろう、従兄弟という関係であるが、朔を兄と呼んでいるのは。兄は凄い。未だ朔と話したこともなかったあの頃は、朔は志貴にとって未知の塊で、朔の話を聞けば聞くほど志貴の好奇心は高まっていった。そして実際に会って、話してみて、共にいる時間が多くなり。志貴は朔と共にいることで、家族といるような安心感を見出していた。

 

 そんな訳で、朔と一緒にいるなら大丈夫だと思った志貴は森の奥に行きたいと朔にお願いしたのだった。

 

 志貴の視界には広大な緑。そして地面、そして空。それ以外の雑多なものはない。家もなければ、人もいない。いつもよりも濃い自然の香りが鼻腔に満たされる。それを吸って、吐いて。

 

 そして志貴のわくわくはピークに達しようとしていた。

 

「うわあ、なんだか凄いよ兄ちゃん!何もないよ!」

「ああ」

「ほら、里があんな所にある!さっきまであそこにいたのに、凄い小さい!」

「ああ」

 

 興奮冷めやらぬ志貴の言葉に、朔はまともに聞いているのか聞いていないのか判別のつかない返事を返した。

 

 今現在、二人は人里を少しばかり離れた場所に入る。そこは朔や志貴の他に里の者が使用する訓練場を抜けた先の所だった。

 

 里を離れ、森に向こうのは良いが、果たしてどうやって行くか。いざ向かわんと意気込む志貴の目の前にそんな問題が現われたのだった。

 

 志貴と朔が話し合った結果、家のある場所からは少し離れた訓練場から向かうことになった。里には何人かの見回りがいて、外部からの敵の侵入を監視し、里から安易に子供が出ないように回っている者がいたが、そこは朔の出番。朔は人の視線の間隙を縫っての移動を敢行。同じ七夜の志貴ですら分からぬ、人からの視線。それを感じ取り、何者からも視線を感じない瞬間、二人は里から離れたのである。

 

 実際、里の実力者ですら容易には行えない芸当を苦なくこなせる朔の凄さが垣間見えた瞬間であり、志貴の中の朔への尊敬がまた大きくなった。だが既に限界値を突破しているので、意味がなかった。

 

 さて、そうして里を離れていった志貴と朔であるが、始め朔が先行していたのだが、高まる胸の鼓動を抑えることが出来なかった志貴の歩調が次第に速くなっていった。

 

 普段見慣れる風景。里から少しばかり離れただけだというのに、志貴にはこの空間が別の世界のように見えた。

 

 苔むした植物たちの匂いは遥か太古の原始を感じさせた。果てしなく広がり途切れることのない大樹は志貴の冒険心をくすぐらせた。そして後ろに振り返ると里がもう見えない。側には朔。朔がいるだけで冒険心を高ぶらせながら、その存在に安心感があった。

 

 怖いものなんて何もない。

 

 幼い冒険心は未知への好奇心を飛躍させるばかりだった。

 

 目的地なんてどこにもない。ただ気の向くままに進んでいく道がきっと正しい。

 

 だから志貴はそのまま進んでいこうとして。

 

「待て」

 

 朔に呼び止められた。

 

 朔の言葉に振り返ったなぜ呼び止められたのか不思議に思い、朔に聞こうとして。

 

「何かいる」

 

 その冷たくも意志の有無を許さぬ言葉に固まった。

 

 何かいる。なにかいる。ナニカイル?

 

 志貴は慌てて辺りを見回した。しかし志貴の視界には取り立てて生き物の姿は見えない。ではなぜ朔は呼び止めたのだろうと、不思議に思い、再び聞こうとしたその時だった。

 

 志貴の後方、朔の視線の先にある茂みから、草を踏む擦れた音が聞こえた。

 

「―――――――っ!」

 

 突然現われた。一切の気配を志貴に感じさせることなく、志貴の直ぐ後ろに何かがいる。慌てて朔の後ろに隠れた志貴は、その茂みにいる何かに僅かな不安と多大な好奇心を揺らめかした。そんな志貴のことなど知らず、朔は携帯していた小太刀を鞘から抜き、腰を落として茂みを見つめいていた。

 

 その何かが何であれ、朔は殺す気満々だった。

 

 次第に大きくなる茂みの音。

 

 志貴の喉が鳴った。

 

 そして一瞬の静寂。

 

 その瞬間だった。

 

 茂みから、何かが現われた。

「―――――――――――っ!!!!」

 

 びくつく志貴。襲い掛かろうと低い姿勢になる朔。

 

 だが。

 

「――――――――……………………………………………………………ゑ?」

 

 呆然とした志貴の口元から表記しにくい音が漏れた。

 

 緑の傘。

 

 白い斑点。

 

 デフォルメされたように輝く眼に、淡い黄色のぼでぃ。

 

 あえて言えばキノコ。頑張って言えばキノコ。苦しいかもしれないが、キノコ。

 

 それが二足歩行で、なんかそこにいた。

 □□□

 その日、私は悩んでいた。

 

 恥ずべきことだとは分かっていた。だが、自らを律しようとする理性と、私を掻き乱す本能がせめぎあっているのだ。羞恥や背徳を超越する欲望によって。

 

 胸の鼓動が高まり、鳴り止まない。恐る恐る手を伸ばそうとして、いや、やはりやってはいけないとその手を押さえる。だが視線はそれに釘付けで、逸らすことが出来ない。

 

 それでも、私は、私は……!

 

 正座で座る私の目の前の座布団に置かれた布。それは何者にも価値がなく、はっきりと取るに足らないものだと認識されるだろう。だが、それが私には、とても甘美なものに見えて仕方がない。

 

 だが、だが、私は、私には―――!

 

 切欠は些細な、それこそどこにでもあるようなことだった。

 

 今日、私はいつもと変わりなく屋敷の家事を行っていた。朔のために朝餉を作り、朔と共に食事を取り、その後訓練に向かう朔を見送り、昼食には再び朔と食事を取った。食後しばらく朔の部屋にいたかったが、まだ家事が終わっていなかったので朔と少しばかり言葉を交わし母屋に向かった。

 

 屋敷の家事は私が全て受け持っているわけではない。この屋敷には使用人はおらず、主に家事を担当しているのは私と義姉様だ。

 

 義姉様は私と違って大変女性らしい方で、私の憧れでもある。料理は美味しく、その身のこなしも参考になることばかり。さすがあの兄様と契りを結ぶ方で器量良く、何一つ取っても私なんぞでは逆立ちしても太刀打ちできない方だ。

 

 だが、だからと言ってこの屋敷の家事の全てを行えるわけではなく、私としてもそれは忍びない。家事は数少ない私の趣味でもある。なので家事の負担を減らすため義姉様だけにやらせるのではなく、私も家事を行っている。

 

 そして私は母屋にて溜まっていた服を纏めて洗っていた。それもあと少しのところで、ふと何気なく残った洗濯物を確認したのだが、その中にひとつ、あるものを見つけてしまったのである。

 

 いつもならば、いつもの私ならばそれをそのまま洗い物として洗い済ましていた。だが、その時は止まってしまった。それがなぜだか、今となっては検討もつかない。ただ、私はそれ以外の洗濯物を洗い終わると、それを衝動的に着流しの袖の中にしまい、他のものを干し終わると急いで部屋に戻ってきたのだ……。

 

 改めて目の前にある品を見る。

 

 ……はっきりと言ってしまえば、朔の下着だ。

 

 それが目の前、敷かれた座布団の上に乗っかっている。

 

 果たして私は何でこれを掴み取ってしまったのか理解できない。ただ朔の汗やら体臭やら、その他諸々が染みている可能性があり私としても何とも甘美な予感があの時はして思わず手に取り匂いを嗅いだり口に含んで唾液に混じり滲み出た汁くぁwせdrftgyふじこlp!

 

「―――っは!」

 

 危ない危ない。

 

 もう少しで踏み出してならない領域に足を届かせようとしていた。

 

 だいたい朔はまだ子供。調べた限りでは精通もしていない。それなのに手を出しても意味は無いだろう。

 

 伸ばしかけた手を息を吐きながら戻そうとし、一瞬過ぎる未来の展望にそれは空で止まった。

 

 待てよ? 私は七夜なのだし近親相姦は全然構わないのでそこらへんは問題にしていない。むしろばっちこいだ。

 

 七夜は早い内に子供を授かるのが望まれている。何せ七夜の家業はあれだ。将来現役は難しく、肉体の衰えなどで第一線を引く事が多くない。

 

 翁?あいつは駄目だ。あの狡猾な突撃莫迦を当てはめて考えてはならない。

 

 この歳になって私が未だ誰とも契る事が無かったのは、私自身身を固める必要性を感じなかったこともあるだろう。しかしそれ以上に七夜の男に感じ入るものがなかったのだ。魅力と言えばいいのだろうか、それがこの里に生きる者には感じられず、好き合ってもいない者と結ばれる事もいただけず、ずるずると時は流れていった。そしてそのまま私は老いていくのだろうと思う。思っていた。だがそれは朔の存在で覆される事となる。

 

 朔と触れ合うこと七年以上。着実に私たち兄弟の血をひいた成長を見せている。それを側で見守り続け、同じ時を過ごしていくうちに、私の中のナニカが産声を上げたのだ。

 

 今まで感じたことも無いような温度。朔の事を思うと胸が締めつけられるほどに切なくなる。始めこの感覚はなんだろうかと戸惑い、しかし誰かに相談することも出来ず我慢していったのだが。

 

 最近になってそれが抑えつけられなくなってきている。

 

 朔は子供ながらにその肉体は早くも男性的な引き締めを成しているが、ふとした時に見せる歳相応の幼さ、それに目を奪われる。訓練後の僅かに乱れた着流しの隙間から覗く身体。あれは素晴らしい。胸の鼓動が早くなり、少女のように赤面したものだ。

 

 朔の近くにいる志貴にも時たまそれに近い衝動が起こる。だがそれは朔以上ではない。志貴には感じられぬ、私を突き動かさざるを得ないナニカが私の中にはある。

 

 朔が寝静まった後の茫洋な気配がなりを潜めたあどけない寝顔など興奮した。思わず全力で気配を消し、その頬に触れ、挙句の果てには興奮の末、頬を舌で舐めてしまった。あれは良かった。気配を読む事に長けた朔からこのような事が出来ることは全くといって良いほど無い事だった。いつ朔が目覚めるかも知れぬ緊張の中、沈んだ夜の空気に頬を舐める湿った音のみ聞こえてくるのだ。

 

 あの時はそれ以上進めば止められなくなりそうだったのでそこで止めたが、もし次同じような機会があれば次はもう少し大胆に行ってみたいと思う。

 

 それは兎も角。

 

 問題となるのは朔の年齢。未だ子供であるから性交は出来ない。意味が無い。だが、もし今後朔を狙うような輩が現われた場合はどうだ。朔は受動的だ。もしかしたらそれを受け入れ、挙句の果てにはそのまま……。

 

「駄目だ。それだけは駄目だっ」

 

 朔がまだ赤子だった頃から育ててきたのは私だ。そんなどこの馬の骨かも分からぬ女に青い果実を掠めとられるなぞあってたまるかっ。

 

 そうだ、私には責任がある。朔を育てている私には朔の成長を確認する責任があるのだ。ならば朔に関する事の大抵は私自身の目で知っておかなくてはならない。

 

 朔のためならばこの下着をどう扱おうとも問題ない。むしろ誇るべきではないか!

 

 ――――答えは、得た。

 

「ならば。……躊躇う必要は、無い」

 

 良心の呵責やら理性によって震える手に力をこめ、恐る恐る朔の下着に手を伸ばし掴んだ。その厚みの何て頼りない事。このような薄布で、朔のあ、あ、アレは包まれているのか。赤面を自覚する。

 

 しかし、手に包まれた下着を見て、迷う。

 

 私は本当にこれを行ってもいいのだろうか。決定的な間違いを犯そうとしているのではないか。

 

 不意に浮かんでは消えを繰り返す私の弱さ。そして私は弱気な私を叱咤した。

 

 そう、これは私のやらなければならない事。私の責任、私だけの義務だ。私がやらずに誰がやるっ!

 

 心臓が痛いほど脈打っている。全身が熱を持ち、眼前にある布しか目に入らない。

 

 そうだ、躊躇うことない……!

 

 そして私は、ゆっくりと朔の下着を嗅ぐ。

 

「――――――――――――――――――っ!!!!」

 

 禁忌を犯すような背徳感が、私の背筋をなぞる。

 

 鼻腔が朔の匂いで満たされていく。少しばかり汗の混じったその匂いは、あっという間に私の中を蹂躙していく。痺れにも似た感覚が全身を駆け巡り、私の頭の中は次第に白くなっていく。

 

 嗚呼、これは、良い。

「あ、ふぁ……」

 

 全身が幸福感で包まれている。

 

 深く鼻で呼吸を繰り返す。その度に朔の匂いが私を染める。

 

 私が満たされる。私は満たされる。朔が満たされる。朔に満たされる。

 

 今まで私は、これを知らずにいたのか。なんて、愚か。なんて、無様。

 

 朔、朔、朔、朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔朔さくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさく―――――――――っ!

 

 呼吸が幸せとは、考えたことも無かった。

 

 だけど、これでは足りない、これだけでは足りないと私の中の欲望が熱を持って訴える。

 

 朔の下着。それは今、私の息で少し湿っている。

 

 これを、もし、口に含んだら……。

 

「はぁぁ……っ」

 

 それを思うだけで、艶めいた吐息が私の口から漏れる。そして、そんな女らしさを持っていた自分に多少の驚きがあった。

 

 そして私は内側から起こる衝動のままに、ゆっくりとその布を私の口元の中へ――――。

 

「……あの、少し、よろしいですか?」

 

「わああああああああぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああ!!?」

 

 突然話しかけられた。

 

 それに義姉様の声で今気付いた私は、思わず悲鳴をあげてしまった。そして声の方向に全力で顔を向けると、開かれた襖、そこには困ったような表情をした義姉様が私を見ていた。その苦味の混じった視線の先には私の口の中へとっさに入れた朔の下着。

 

 ……終わった。 

 

 □□□

 

「……」

「……」

 

 茂みの中から現れたモノを見て、志貴はほとんど反応することが出来なかった。

 

 だってそうだろう。志貴としては始めての冒険である。その場所で出会うものは未知なものがいいなあ、と期待してはいたが、目の前にいるアレはなんだろうか。志貴の想定の範囲内を超えている。

 

 キノコ。見かけはまるでキノコであり、見事なキノコっぷりである。形状的に考えてキノコ以外の何者でもない。だがこれをキノコと呼ぶにはあまりに強引過ぎ、志貴としても些か首肯するには戸惑う。

 

 キノコとは本来、菌から発生した植物であり、その性質は花に近い植物である。そしてそれらは食用として食されることもあれば、命を脅かすような毒を持つものもある種類豊富な植物である。

 

 そして志貴の知識では、キノコは生物ではない。

 

 しかし、改めて目の前にいるモノを見る。

 

 キノコ。形状はキノコである。

 

 傘の部分は妙に毒々しい色をなし、その黄色のぼでぃには丸っこい手足のようなものがついている。そしてその顔面(この時点でおかしい)には輝く瞳。大きさは志貴よりも少し小さいが、何と言うかずんぐりむっくりとした感じであり、それが上目遣いで二人を見ている。

 

 部分的に鑑みるにキノコではある。正直、キノコと呼ぶにはキノコに対して失礼な気もするが、それ以外に呼び方が無い。だがどうにも納得できない。

 

 戸惑いを覚えながらも志貴はどうするべきかと朔に視線を投げかけたが、朔は朔で既に腰を落とした前傾姿勢。臨戦態勢である。その手に握られる小太刀はまっずぐに目の前の命を狙っていた。それを見て志貴は思った。駄目だ話にならない。

 

 朔にとって志貴が戸惑う未知の存在など、さして興味も沸かない奴なのだろうか、と志貴は考え、改めてキノコを見た。

 

 キノコは茂みに姿を現した状態のまま、そのつぶらな瞳で志貴と朔をじっと見つめている。キノコとしても二人に対し興味を持っているのだろうか。なんだかデフォルメされた瞳の虹彩が先程よりも輝いて見える。

 

 しかし、ここで何もしないのはちょっといただけない、と志貴は次第に落ち着いてきた頭で思った。突然の出会いに混乱はしたものの目の前にいるのは志貴の望んだ未知である。想像の斜め上に突っ走っているが、冷静になってみると志貴の好奇心がむくむくと大きくなっていく。

 

 志貴は再び朔を見た。キノコが未だ何も行動を起こしていないからなのか、朔に今のところ襲い掛かる気配は無い。しかし、このまま何もしなければしないで、朔が目の前の存在を廃絶するのは時間の問題である。その証拠に朔の身体から僅かながらに殺気が滲み出ている。それは朔といる時間が多い志貴だから分かる、朔の機敏であった。

 

「兄ちゃん。どうしよう?」

 

 朔にとりあえずどうするべきか聞こうした。

 

 朔は既に足を踏み込んでいた。

 

 志貴の気配読みはあてにならなかった。

 

「って、うわああぁ!待って待って兄ちゃん殺しちゃ駄目だよ!」

 

 本気で焦った志貴は今にも飛びかかろうとした朔の目の前に回りこんだ。キノコを背に庇うように。

 

 そして志貴の目前で朔は止まる。その手に握られた小太刀は志貴の鼻先。あと少し志貴が遅ければ頭部が串刺しにされていた。

 

 志貴ビビる。

 

「うわもうびっくりしたっ。兄ちゃんまだ駄目だよ!」

「なぜ」

 

 志貴の焦りように朔は静謐な声を返した。そしてまだってことは後でならばいいのだろうか。

 

「なんでも!」

 

 志貴は軽く怒ったように朔に言い、そして今しがた自分が守ったキノコに振り向く。

 

 キノコは朔の殺気にあてられたのか完全に怯えていた。

 

「あの、えとごめんね大丈夫?」

 

 とりあえず刺激しないようになるべく優しく接してみたが、キノコの瞳は潤んでいる。

 

 この時、志貴にはやばい予感が過ぎった。

 

 なにか自分たちはやってはいけないような、とんでもない事をしでかしてしまったような気がする。

 

「べ、別に君に何かしようとか思ってないよ?うん、まずは落ち着こう深呼吸して深呼吸は大事ってお父さん言ってた、あれでも君呼吸しているの?違うそうじゃなくてとりあえず落ち着こう、うん、そうしっ――――!!」

 

 森が、ざわめく。

 

 急激に接近する気配。

 

 何者か、それも複数の気配がいっきに近づいてきた。

 

 ニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロ。

 

 志貴の脳内で逃亡を促すアラートが鳴り響く。しかし、志貴がそれに従い逃げるよりも早く、それらは急激に近づきその姿を現した。

 

 キノコ。

 

「え、あの」

 

 キノコキノコキノコ。

 

「え、え、あ、あれ?」

 

 キノコキノコキノコキノコキノコキノコキノコキノコキノコキノキノコキノコ。

 

 志貴の視界にキノコが現われた。しかも複数。いや、今こうしている間にもキノコたちはその数を増やしていく。なんだかキノコ以外にもいるような気もするが。

 

「…………えぇぇ」

 

 森に志貴の力ない絶句が沈む。

 

 目前、いや周囲に渡って姿の似たキノコが蠢き犇めいている。数えるのが莫迦らしくなるほどのキノコたちが志貴や朔を取り囲んでいた。その光景の何とコミカルなことか。それら全てが二人を見つめているのである。しかし、数の脅威と言うべきか。同じ造形の生物に取り囲まれている志貴は怯えた。

 

 こいつはやべえ。

 

「に、兄ちゃん……」

 

 志貴はそもそもの原因である朔に縋りついた。あまりの事態にすっかり先ほどの出来事が頭から飛んでいったのだが。

 

 その朔は朔で、周囲に殺気を撒き散らしキノコたちを威圧している。瞳にキノコを映して。その増大な殺気にあてられキノコたちもなんだか怒っているような。その体を目一杯使って私たち起こってるんですアピールをする様はなかなかにシュールである。

 

「兄ちゃん怖がらせちゃ駄目だよ!」

 

 しかし今度は志貴の言葉に朔は耳を貸さず、両者の睨み合いは次第に熱を帯び始めた。色めきたつキノコの群れとそれに対峙するのは朔。志貴は朔を止めようとしているが、朔と関わる合間に志貴が朔を止められること等なかった。

 

 それは詰まるところ、今この時点で志貴は役立たずということ他ならない。

 

 なので、

 

「「「―――――――――――――――――――――――――――――――――!」」」

「……」

 

 しばらくお待ちください。

 

「ああもう!殺しちゃ駄目だからねっ!」

 

 志貴は身の危険を感じ、とりあえず近くにそびえる木の枝に駆け寄った。あのままあそこにいたら巻き込まれるだろうと判断した結果だったのだが、おそらく正しいだろう。

 

 眼下には正面から衝突した朔とキノコの大群である。

 

 あきらかに数の対比がおかしい。朔一人に対し未知の生物であるキノコ。五十は確実にいる。これで正面から襲い掛かる朔は凄い、がもう少し何とかして欲しかった。

 

「うわあ……」

 

 見渡す限りのキノコの山に向かって襲い掛かった朔。とりあえず志貴の言葉を守っているのか、気付けばその手に小太刀はない。直接的な殺傷能力はこれで下がった、と思うかもしれないが、朔の膂力の凄まじさを考えればこれでも安心できない。

 

 だってそうだろう。

 

「――――――――――――――っ」

 

 キノコが宙に舞っている。

 

 群れの中に突入した朔は体当たりを敢行するキノコ共を千切っては投げ千切っては投げ。

 

 キノコ乱れ舞である。

 

 朔によって殴り飛ばされ、投げ飛ばされ、蹴り飛ばされるキノコたちは何やら悲鳴のような音を漏らしながらポンポンはねられていく。そしてその度にキノコの体から胞子が飛んで視界が悪くなっていく。キノコの色からして毒のような気もするが、とりあえず志貴は着流しで口鼻をガード。

 

 そして高い木から俯瞰している志貴にも分かるが、このキノコたち戦闘能力自体はあまり高くない。先ほどから行っている攻撃手段は相手に近づいての体当たりのみであり、その他のような行動は見せていない。

 

 だからだろう。朔の独壇場である。

 

 碌な抵抗も出来ずポンポンとすっ飛ばされていくキノコたちの目には涙。ホントにこれ植物か?

 

 相手が悪かったのもあるだろう。キノコたちが挑んでいるのは朔である。移動速度、膂力、急所へお的確な攻撃など根本的な七夜としての素質では七夜一。化生と殺しあうために存在した七夜において尚際立つその技量と膂力。さらに朔自身の努力でそれは更に磨きがかけられ続けている。そのような存在を相手に戦っているキノコが憐れでならない。いや、これは戦いとすら呼べぬ蹂躙だ。朔の動きに反応できているキノコがいないのがそもそも問題だろう。なにしろ木にいる志貴ですら朔の動きに目が追いついていないのだ。

 

 暴風雨の如くキノコたちを蹂躙していく朔。

 

 気付けばそこに動いている者はただ一人となった。

 

「……」 

 

 無論朔である。

 

 ぼっこぼこにされたキノコたちの亡骸が横たわる地面に朔は立っていた。

 

 倒れ伏す異形のモノどもに対し残心なく油断はなく。

 

 あいも変わらず茫洋な目。

 

 その姿に志貴は自身の父である黄理の姿を重ね合わせた。

 

「あの、兄ちゃん?」

 

 動くものがいなくなっても未だ臨戦態勢のままである朔に心配を抱き、志貴は木を降りて朔の側に寄った。

 

「……」

 

 しかし、朔の返事はない。志貴の存在に気付いているのかも微妙だ。

 

 そんな朔に懸念を抱きながらも、志貴は改めて倒れ伏すキノコたちを眺めたが、なんだろうか、漫画のように傘の部分にヒヨコが回っている。これを植物のカテゴリーと呼ぶには芸が細かすぎるだろう。

 

 そして志貴は今がチャンスと、ぴくぴくと痙攣しているキノコたちにおっかなびっくり近づいていった。朔が志貴の事を視界に納めながらも何も言わないのはきっと大丈夫だって事だろう。

 

 気絶していたり、ダメージからか動くことの出来ないキノコたちを憐れに思いながらも、それ以上の好奇心に罪悪感は薄れていき、目の前に倒れていたキノコの一匹。それに近づき、手で触れる。

 

 ざらついた手触りがした。そして妙に生暖かい。

 

 それを触りながら志貴は今更ながらに朔へ問うた。

 

「兄ちゃん、これなんだろう」

 

 不思議な生物がこの森にいるなんて聞いてもいなかった。もしかして黄理や翁が言っていた危険とはこれに関係するのだろうか。

 

「知らない」

 

「そっかあ」

 

「でも」

 

「でも?」

 

「前に見た」

 

「そうなんだあ……って本当っ?」

 

「ああ」

 

 朔は無表情に無機質に志貴の問いに反応する。

 

「兄ちゃんはこれいつ見たの?」

 

「訓練中に」

 

「森に入ってる時?」

 

「ああ」

 

 話しによれば、黄理との訓練中の際何度か遭遇していたのだとか。

 

「それってお父さんは知ってるの?」

 

「伝えていない」

 

「どうして?」

 

「聞かれなかった」

 

「……そっかあ」

 

 実に朔らしい事である。

 

「それで、その時にはどんな感じだったのこれって」

 

「変わらない。この形」

 

「それで、殺したの?」

 

 そう聞くと、朔はしばし時を置き緩やかに首を振った。

 

「殺した。だけど、殺せなかった」

 

「え?それって、どういう……」

 

 その時である。

 

 志貴の触っていたキノコそれが。

 

 むくり、と。

 

 ぎこちない動きで起き上がったではないか。

 

「うひゃぅ!」

 

 そしてそれに呼応するかのように、周囲に横たわっていたキノコたちが起き上がり始めたのだ。

 

 突然動き出したキノコたちに驚いてしまった志貴は朔の側に慌てて戻った。

 

「こいつらは殺せない」

 

 そして志貴を庇うよう前に出た朔は再びその殺気を滾らせた。

 

「どうして!?」

「何度でも甦る」

 

 それを聞いた志貴は愕然とした。なんだそれは。本当にこのキノコたちは何なんだ。

 

 ふらつきながらも起き上がったキノコたちは先程よりも怒っているようにも見えた。志貴は予想も出来ぬ展開にどうすることも出来ず、最早置いてかれているような状態だった。

 

「そして」

 

 そしてキノコたちは怒りの興奮そのままに、志貴の目前にわらわらと集まり始めた。

 

 やがてそれはひとつの集合体となり、塊となり、なんだか蟻の巣のような凄い光景である。

 

 その時、森に突風が吹いた。

 

 あまりに強い突風に志貴は目を覆う。

 

 森のざわめきが再び起こった。ざあざあと擦れる葉の音は何かの前触れにも聞こえた。

 

 目を閉じる志貴の体に舞い散る葉が何枚をあったっていく。

 

 だがその側にいる朔は目を隠すことなく、目の前の存在を見ていた。

 

 しばらく経ち突風は収まっていき、森のざわめきが消えていく。

 

 それに志貴は覆い隠していた目を徐々に開いていった。

 

「あれ……?」

 

 そして、志貴の目の前にいつの間にか山が出来ていた。

 

「合体する」

 □□□

 それを見たとき、志貴は言葉も忘れて見入ってしまった。突然目の前に現れた小山は志貴にとって想定外もいいところ。無論魅了だとか、憧憬だとかそんな肯定的な感情ではないが。

 

 大きい。ひたすらに大きい。

 

 大人の者でさえも見上げてしまうような、そびえるキノコが、そこにはいた。

 

 小山の如きキノコだった。先ほどまでの愛嬌はどこにやら。見かけ、腕を組んだ筋骨隆々なキノコである。一頭身であったはずのキノコは今では人間のような構成と化していた。

 

 岩の如き大胸筋、見事な割れ目を成した腹筋。筋肉繊維まで見えそうな上半身であり、その下半身もまた然り。それでも顔に当たる部分はキラキラとしたデフォルメの眼が何とも言えない。子供ながらに志貴はその肉体の脅威に晒され瞠目した。だが何だろうか、この何とも言えぬ虚脱感。言葉にもし難い様相を成している。しかし。事はそれどころではない。

 

 志貴が見上げるような高さを誇るキノコであるが、その身体の造りは男性の構造に酷似している。つまり、それが確認できると言うことは、キノコは男性の肉体でありながら、裸体を曝け出していることに他ならない。裸体である。裸体、なのである。大事なことなので繰り返す。

 

 そして、志貴にはそれが見えた。

 

 人間的構造、それも男性体に極めて酷似したキノコ。

 

 それの股間部分。志貴は見上げてしまったので、はっきりとモロである。

 

 その部分に、先ほどまで散らばっていたサイズのキノコがちゃっかりと、おられている。

 

「うっわ……」

 

 志貴絶句。

 

 誇るように其れを突き出す巨大キノコ。何処からか「投影拳!」と聞こえてきたのは気のせいだろう。そう信じたい。仁王立ちのそれに時折その部分にいるキノコがピコピコと動いているのが、何とも不可思議である。

 

 それが、二人を見下ろしていた。腕を組み、股間を誇張する巨大筋肉キノコ。どこぞのボディビルダーもかくやのマッチョっぷりに志貴はドン引き。既にドン引きしていたが。そしてそれは、志貴たちを見てその顔を歪ませた。それは企みが成功し、そのまま勝利を確信したような表情であった。

 

 組まれた腕が解かれる。

 

 そしてその手が高く高く、その巨体からかゆっくりと持ち上がっていく。天高く上げられた拳が暗い森から、僅かしか入り込まない日差しを遮る。

 

 恐らく、その馬鹿らしい大きさの手を叩きつけるつもりなのか。その動きは愚鈍であるが、巨体から鑑みるに決して軽く見ることは出来ない。当たれば二人なんて轢き殺された蛙と化す。

 

 しかし、人は突発的な事態に遭遇した場合、動きが止まるものである。それは志貴もまた例外ではなかった。いや、だってこんな相手と対面するのだ誰が想像できるだろう。志貴の視線は巨大キノコ、股間のキノコに釘付けであった。

 

 が、何事もうまくいくようには出来ていないのがこの世の常。

 

 この突発的な事態を既に体験していた人間もここにいたのが、キノコ最大の不幸だった。

 

 ――――志貴の隣で、朔が動いた。

 

 呆然とし動けないでいる志貴には目もくれず、臨戦態勢を解き放ち、キノコに向かって飛翔した。ハッとし、志貴は朔の姿を見る。無茶だと思った。あまりに巨体、あまりに巨大。そのようなものに挑むのは無謀だと。朔が負ける姿は想像できないが、しかし確実に手痛い目に会うことは容易に想像できた。

 

 しかし、朔はそのような志貴の慮りなぞ知らないかのように、拳を打ち下ろすキノコに向かっていった。

 

「兄ちゃん!!」

 

 激突の寸前、志貴は思わず目を瞑ってしまった。朔が叩き潰された姿を恐れたのである。

 

 砂を打つ様な、くぐもった音がした。

 

 それが耳に入り、志貴は朔が負けたのだと思った。信じられるはずなかった。だが、あまりに両者の差は広がりすぎていたのだ。それを埋めることが、出来るはずがない。そう志貴は思い込み、次は自分なのだと思った。

 

 だが、待てどもその時は訪れなかった。何が起こったのかと志貴は恐る恐る目を開き。

 

 ――――巨大キノコの股間のキノコに拳をめり込ませた朔の姿が見えた。

 

「うわ……」

 

 志貴、この短い時間でまたも絶句。

 

 朔の拳は真っ直ぐに股間キノコへと突き刺さり、見るからにその形状を陥没させていた。どの様な威力を込めればそのようになるのか。朔の渾身の一撃にキノコの顔は潰れ、皺が寄り、ほとんど確認出来ない。その手足が痙攣しているのが痛々しい。

 

 しかし、それ以上に痛そうなのがそのキノコの親玉、巨大キノコである。

 

 股間とは男女問わず急所である。人間の身体には様々な急所が存在するが、最もポピュラーな急所として股間があたる。そこを陥没するほどの威力で打たれたのである。

 

「(あ、腰が引けてる)」

 

 朔の攻撃に晒された巨大キノコであるが、あの堂々とした態度から一変、仁王立ちが内股と化し、膝に力が入らないのかガクガクと震えている。あのキラキラの瞳は今では涙目である。そして志貴もそれを見て、少しだけ内股になった。

 

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!」

 

 数瞬遅れ、キノコが絶叫を上げた。すわ怒りに襲い掛かってくるのかと、志貴は身構えたが、キノコはその場に座り込み、股間を抑えていた。地響きを鳴らし、内股の女の子座りである。

 

 そりゃ確かに痛いわなぁ、と志貴は納得していたが、その志貴にいつの間に戻ってきた朔が話しかける。

 

「志貴」

「どうしたの?兄ちゃん」

「逃げる」

「え、そうなの?」

 

 志貴の問い返しにコクンとひとつ朔は頷く。志貴はそこで先ほど朔がこれは殺せないのだと言っていたのを思い出す。合体キノコやマッチョやら股間のキノコやら立て続きに見てしまい、脳がすっかり動かなくなっていた志貴であった。

 

 一先ずこのキノコが股間を抑えている間は安全だと教えられた志貴は朔の言にしたがい、その場を離れることにする。怒り心頭と化したアレを相手するのは嫌だったし、志貴としても流石にそのような倒せない相手にもう一度会いたいとは思いたくない。頭からあの姿が離れないので暫くは夢に出てきそうだ。もし今日そうなったら朔と一緒に寝ようと考えた志貴は、ふとある疑問を感じた。

 

「兄ちゃん。もしかして前にアレとあった時も、あれやったの?」

「ああ」

 

 無表情に答える朔に志貴は若干の戦慄を感じたのであった。

 

 男の象徴をそんな簡単にポンポンと潰せてしまうなんて!

 

 男として生まれた朔にもあの痛みは分かるだろう。分かってやるのかそれを!と、内心朔は絶対に怒らせたくはないと誓う志貴だった。

 

 □□□

 

 時は進み、志貴と朔は森を進んでいた。暗がりの森は方向感覚を狂わせ、自分が何処から来て何処に向かいたいのか惑わせる。志貴は自分が飽きるまで進むと決めており、朔はそんな志貴を先頭についていくのみである。そもそも目的地があるわけでもない。

 

 あの巨大キノコから逃げおおせる事に成功した二人はとりあえず現在地がどこかも分からぬまま好きな方向、主に志貴の進みたい方向へと進んでいる。倒壊した巨木を乗り越え、苔生した岩石に腰掛け、幾重もぶら下がる蔦をかわし。最早森は暗さを増して木々の隙間から差し込む光は少なく、湿気が生じ空気は少し涼しくなってきている。その仄かに暗い森を進むのは若干の不気味さが生じるものなのだが、志貴の目的は冒険であり、また散策である。これくらいバッチコイと意気込んでいた。

 

「ねえねえ、兄ちゃん」

「何?」

 

 それでも多少の不安はあるため、志貴はひっきりなしに朔へと話しかけていた。いくら冒険心という火薬があれども、それは爆発するだけのものでありそれを揺ぎ無く持たせ続けるのは困難である。森はその本性を曝け出し、やがて志貴に己の幻想がどれほど輝かしく、そして脆いものかを時機に教えることになるが、それを知らぬ志貴はこの身に巣くう不安を持て余しており、それは朔と会話をすることで何とか誤魔化していたのだった。

 

「兄ちゃんはいつも森で何してるの?」

「訓練」

「どんな訓練?」

 

 志貴としてはそれも気になるところであった。朔は黄理に直に教えを受ける。それは志貴でも出来ぬことであった。確かに志貴自身、黄理の子という事で才はある。この若さにしてその片鱗を見せているだけでも充分だとは思うが、しかし、それは朔を見ると少々見劣りせざるを得ない。

 

 七夜朔は里で密かに鬼神の子と呼ばれているように、その才は留まることを知らない。黄理の訓練に喰らいつき、更には大人の七夜との戦闘に勝利するなど、志貴には出来ない事を達成している。志貴にはそれが凄くて、そして少しだけ悔しいと感じていた。志貴と朔は同年代の子供であり、その歳の差も二つしか違わない。しかし、差は縮まるどころか更に離れているような気がするのだ。なので、この機会に何か特別なことをやっているのか聞こうと思ったのである。

 

「閃鞘、閃走で森を動き回る」

「……それだけ?」

「ああ」

 

 しかし、朔の答えは志貴の望むようなものと違っていた。

 

 閃鞘、閃走。それは七夜に伝わる空間利用術である。関節の可動域を広げ強化することで可能な、人間には本来出来ない急制動及び加速を生み出す七夜の術理である。

 

 無論、志貴は七夜であるので、それは使える。朔を除けば志貴は里の子供の中で一番にそれを使えるようになったのだ。当然自信もある。なので朔の答えは少し期待はずれであった。

 

「むむむむ。んじゃなんで兄ちゃんはそんなに強いの?」

 

 倒れた巨木の上を進みながら志貴は言う。どれほどこの場所にあったのだろう。その樹皮は苔むしている。

 

「強くない」

 

 朔はそんな志貴を見ているのかも分からぬ茫洋な瞳。その瞳に森の姿が写されている。

 

「え、なんで?兄ちゃん強いじゃん」

「強くない」

 

 志貴の言葉を跳ね返し、朔は言う。

 

「御館様のように、強くない」

 

 なんだそれ、と志貴は思う。黄理は志貴の父親であり、七夜の当主なのである。それはつまり父はこの七夜で誰よりも強いという事で、その父のようにとは如何な事だろう。

 

「御館様には、まだ遠い」

 

 目標が高い、という事なのだろうか。それならば朔はまだ先を見据えていると言う事か。

 

「ふうん……」

 

 そうして志貴は流したが、誰が知るだろう。

 

 朔には、其れだけしかないのだと言うことを。

 

 志貴はちらりと、朔を見た。

 藍色の着流しを着た子供。鋭い目つきに、あいも変わらずの茫洋な瞳である。子供らしくない雰囲気を持った、志貴と同じくらいの歳の少年。抜き身の小太刀を左手に握るその身のこなしは今でも重心にブレがなく、いつでも戦闘可能なポジションへ極自然に移動している。

 

 ――――もしかしたら、僕を守ろうとしてるのかな。

 

 何となく志貴は思い、朔に真意を聞こうとして。

 

 その姿が掻き消えた。

 

「あれ?」

 

 そして志貴はそれと直面した。

 

 最初、志貴はそれが何なのか理解できなかった。

 

 何か、影が躍り出たのだと思っただけだった。

 

 だって信じられないだろう。

 

 今しがた朔がいた場所に。

 

 蔦が襲い掛かってきた。

 

「な、なにこれ……」

 

 生きてるように、蠢くように、その苔むした色の蔦は幾重にも襲い掛かってきたのである。森を構成する木々の隙間から、地面から、草葉の中から、それは何本も現われ朔がいた場所の埋め尽くす。その様はまるで触手。

 

 視界一杯に現われたそれは、まるで捕食しているのかのようだった。

 

 そして、それらは志貴を見た。音にしたらぐりゅん、とした感じで。

 

「ひっ!?」

 

 ヤバイヤバイヤバイ、と志貴の本能が悲鳴をあげた。いきなりのピンチである。なんだか分からぬが、アレに捕まえられると十八禁もしくは「ヒギィっ!」どころではない展開がやってきそうな気がした。

 

 もしかして朔はそれを知っていて姿を消したのか!?

 

 ―――瞬間である。それらが志貴に向かって襲い掛かってきた。

 

「う、うわああああああああああ!!」

 

 志貴は悲鳴をあげながら逃げた。咄嗟に閃走でそれらを振り切ろうとしたのだが、其れよりも早く触手は志貴を捕らえようと動きまわる。襲い掛かるそれらはまるで土石流のようであった。

 

 束となって迫るそれを寸でのところでかわし、次は何処から来るのかと確認をする前には地面に振動。咄嗟に飛んでみると、そこから木の根っこのようなものが生えてきて、これまた志貴を狙う。それを間一髪と安心する暇もなく、飛んだ志貴の背後から蔦が左右分かれて襲い掛かってきた。志貴は飛んだことが間違いだったと、何とかして身体を捻り、それを避けた。

 

 しかし、志貴の閃走、また閃鞘は未だ使えるのみであって、極めているわけではない。何が言いたいのかと言えば、朔と比べ圧倒的に修練が足りないのである。次いで状況判断、または空間把握に関しては今までこのような体験もしていなかったので論外である。なので志貴は簡単に追い込まれていたりする。志貴としても必死である。次々と襲い掛かる植物たちに対処が追いついていない。何とかして回避はしているが、どうにも危うい。そして志貴自身このような状況に対応することも出来なかった。予測を立てることもなく、目の前に現れる障害をやり過ごしていく。

 

 故に、志貴はピンチだった。

 

「こんのおおおおおお!!」

 

 目まぐるしく変化していく状況に志貴は避けるために、倒れた大木の苔むした樹皮を走っていく。何とか気合で乗り越えようとするが、既に視界は襲い掛かる植物で覆われていた。最早脱出するには包囲網が完成しつつある。僅かな隙間しかなかった天井は覆われ、日の光は遠く轟く植物たちの動きだけがあり、志貴が逃げる樹皮の先に、なにやら枯れ木の化け物が鎮座していた。

 

 それに気付いた志貴、動きが一瞬遅くなる。

 

 そして、植物たちは当然それを見逃すはずがなかったのである。

 

「あ」

 

 やべえ、これ死んだ、と志貴は視界に迫る植物たちを見た。植物たちは呆けるような志貴に容赦なく殺到していく。

 

 志貴は、自分の未来を想像し。

 

「ぐえぇっ!?」

 

 その首根っこが思い切り引っ張られていく。

 

 突然の衝撃に志貴は噎せる。そしてそのまま志貴の体はバウンドするように樹皮を進んでいく。引っ張られる感覚に、志貴は何事かと着流しを引っ張る存在を見やれば。

 

 朔が、いた。

 

 どこからか現われた朔はそのまま志貴をその背に乗せて、おんぶの体勢となる。

 

 その時点で朔に助けられたのだと状況を把握した志貴は、朔に礼を言おうとしたのだが、朔の軌道に唖然とし言葉を失った。

 

 加速。急制動。地上にいるかと思えば、いつの間にか二人は空にいた。視界が流れる、なんてモノではない。急激な移動に、志貴は気付けばそこにいたのである。天を覆い尽くす木の葉が手を伸ばせば触れられそうな距離にあった。空にいる朔めがけ、再び触手が襲い掛かってくる。志貴はその量に悲鳴をあげた。どういうわけか、先ほどまでとは段違いの触手がやってくる。それはまるで鉄砲水の勢いで、複雑に絡まりあうかのように迫る。

 

 だが、再び志貴は時間を加速させたような感覚を受ける。空気が圧力を持った。それに志貴は突っ込んでいき、自分が大海に包まれたような気がした。

 

 その急加速に景色が見えない。

 

 思わず目を瞑った次には、朔は樹皮を走っていたのである。どういう軌道を描いたのか目を瞑ってしまった志貴には分からないが、あの決して近くはない間隔をどう詰めたのか。しかも着地の瞬間が分からなかった。

 

 志貴が驚いている合間に朔は風を切って走る。その直線状にいる、枯れ木のような化け物に向かって真っ直ぐに。

 

「ににに兄ちゃん!?前、前前前!」

 

 志貴の慌てように気付いているのか、朔は反応すらせず、それに向かっていく。真逆、そのまま突っ込んでいく気か。ヤバイ、朔ならやるっ、と志貴は恐怖を抱いた。

 

 目前にいる枯れ木は、巨木がそのまま枯れてしまったような木でありながら、それには長い枯れ木の手足がついていて、その胴体のような場所には顔らしき穴があった。先ほどのキノコもそうだが、この森は何なんだと志貴は始めて来た森に改めて恐れを感じた。しかし、そんな志貴なぞ関係ねえ、と朔は走る走る。朔の行進を止めるかのように植物たちが襲い来るが、それを軽々と朔はかわしていった。

 

 すると、志貴はこの状態にあって何気なく後方に振り向いた。なかなかいい神経をしているが、ぶれる体勢と突き進む朔に現実逃避を始めたのである。

 

 だが、それが間違いだった。

 

「げっ!」

 

 なんか巨大キノコが腕を組みながら浮遊し迫ってくる。それも夥しい数のキノコたちを引き連れて。回復したのかとか、またこいつかとか、股間のキノコは無事だったのかとか、なんで浮遊しているのかとかは考えなかった。

 

「もう、いやだなあ」

 

 ただ志貴は森に来たのを後悔し始めた。

 

 その呟きも力なく、思考は現実逃避をしたままである。

 

 そんな志貴を置いて行き、朔は迫るキノコ、待つ枯れ木の化け物に挟まれてしまったのであった。

 

 もうやべえ、もう死ぬ、と志貴は今日何度目かも分からぬ死を予想した。

 

 そして朔は枯れ木に突撃していき、

 

 するりと、その隙間を通っていった。

 

「あ、あれ?」

 

 予想と異なる展開に戸惑い、志貴は横切り後方に置いていった枯れ木やキノコを見る。

 

「「―――――――――――――――――――――――っ!!!!」」

 

 なんかガチバトルしていた。

 

 キノコは組んでいた腕を解き、枯れ木は鎮座から立ち上がり。

 

 拳と拳が唸りを上げながら互いの顔を殴打していた。なんだろうか、彼らが殴るたびに囲う木々が揺れる。怪獣大作戦もかくやの戦いっぷりである。

 

「ああ……」

 

 しかし、志貴はそんな光景を見ても納得するしかなかったのだった。

 

 いや、なんかもう受け入れるしかないなあ、と志貴の脳は判断するのであった。

 

 なかなか賢い脳である

 

 □□□

 

 時が少し経ち、志貴はある程度進んだところで降ろされた。植物たちはもう襲いかかってこず、森は落ち着きを取り戻し、あの怪獣どもの殴り合いは夢だったのだと志貴は自身にそう言い聞かせた。

 

「あ、ありがとう兄ちゃん」

 

 朔に助けられたのが嬉しくも恥ずかしかったので、志貴は少し頬を赤くしながらそっぽを見る。

しかし、朔は「別に」とそっけない態度であり、ちょっと怒っているのか、と志貴は思ったが考えてみればいつも通りの事だった。

 

 だが、落ち着くと今自分は何処にいるのかと志貴は不安が増す。最早森には常識が通用しないと知った志貴は帰りたくなってしまった。だが、帰ろうにも今自分たちが何処にいるのか分からず、里が何処にいるのかすら分からなくなってしまった。迷子だと自覚が芽生え始めたのである。

 

「ねえ兄ちゃん。ここ、どこか分かる?」

「分からない」

「ですよねー」

 

 とりあえず朔に聞いてみたが、朔は首を横に振るだけだった。

 

 さて、本格的に焦り始めた志貴は考える。幼い脳を絞って考えてみる。やれる事は少ない。帰る手段としては来た道を戻ればいいだけなのだが、植物たちに襲われたのと、朔に行き先を任せっきりだったので、そんなもの把握していなかったりする。闇雲に森を進んだら、それこそ森の餌食になりそうだし。

 

 あれ、帰れない僕?と志貴は絶望する。ではここで野宿もありえるのか、と志貴は赤みを帯び始めた空を見やる。夕刻が近い。

 

 周りは更に深さを増した森。ジメジメとしていて空気の冷たさも増している。現在二人がいるのはそんな森の開けた場所であった。そこには苔むした地面と、志貴ほどの大きさがある石がチラホラとある位である。この場所で自分は寝るのか、と志貴は思った。

 

 幸だったのが朔がいる事だろう。朔ならなんか普通に野宿ぐらい余裕そうだ。適当に食べ物も取ってきそうだし、寝床も確保できそう。いや、寝床は無理だろう。朔はそこのところ無頓着っぽいし。ただ、朔がいるという事が良かった。寂しくない。自分が兄と慕う少年の存在に志貴は感謝した。

 

 だが、そんなすぐさま野宿に気持ちを持っていけるほど志貴は大人ではない。普通に里に帰りたいし。

 

「でも、兄ちゃん。どうしよう」

 

 取り敢えず志貴は再び朔に聞いてみた。

 

 隣に朔はいなかった。

 

 志貴から離れるように朔は歩いていた。

 

「兄ちゃん?」

「……」

「ちょ、兄ちゃんっ」

 

 慌てて朔に追いすがる志貴だったが、朔は言葉も返さなかった。

 

 それを不信に思った志貴は取り敢えず朔の後ろについていく。はて、朔がこのように志貴の言葉を無視するのは珍しい。勘違いされがちだが、朔は話しかければ反応を示す。ただ極端な無愛想と無口なだけである。話しかけても言葉を返さぬこともあるが、しかしそれは無視ではなく、他に優先するべき事があるからなのである。

 

 いつも朔の側にいる志貴だからこそ気付いた事。これが訓練以外は最低限しか関わることのない黄理や、食事を作り世話を行っている叔母も気付いているかもしれないが、志貴としてはそれを自分だけで気付けたことが嬉しかった。

 

 朔は進む。木々の合間を抜け、広場を少し離れ、岩場に囲まれた場所に出た。

 

 静謐な空間だった。冷たい湿気漂う、森の聖域のようにも思えた。

 

 そしてその中央。苔むした地面。

 

 そこに、一輪の赤い花があった。

 

「志貴」

 

 それは、彼岸花と呼ばれる花だった。

 

 美しい花であった。葉もなく、花弁だけの植物。赤い花弁が咲き誇る、たった一輪の花。他に彼岸花は見当たらず、これしか生えていないようである。

 

 しかし、志貴にはこれが一体どんな花なのか知らなかった。

 

「なあに、兄ちゃん?」

 

 彼岸花へと近づき、朔はそれを見下ろしたまま話しかけてきた。

 

「これは、綺麗?」

 

 たった一人で咲き誇る彼岸の花を志貴は見入った。その孤高にも似た存在感は、まるでこの場所がこの一本の花のためだけにあるようにも感じられた。その独特の姿と、細く長い赤の花弁は、今にも折れてしまいそうで儚い。

 

「うん……綺麗なんじゃ、ないかな」

「そう」

 

 そして朔は少し間を空け、

 

「これは、綺麗なのか」

 

 と一人呟いた。

 肯定や否定の混じらない、更には納得すら滲んでいない、透明な声であった。

 

「兄ちゃん。もしかしてここ来た事あるの?」

「ああ」

「!なんで言ってくれないのさっ」

「そう聞かなかった」

「分かってるって事じゃん」

「ここが何処なのか、分からない」

「そうなの?」

「知っているだけ」

「……」

「……」

 

 □□□

 

 後日談。と言うかその後の話。

 

 志貴と朔は帰り道を知っていたと発覚した朔の先導にしたがって里に帰ってきた。その途中仰向けに倒れ伏した巨大キノコと枯れ木を見たが、どうやら引き分けに終わった様だった。

 

 志貴と朔が里に帰ってきたのは夕刻も過ぎた真夜中の事であった。流石にお腹が減ったなあと思いながら里に帰ってきた志貴は、里の大人全員による捜索隊が組まれていて、運よく、あるいは運悪く、そこで志貴と朔がいかに可愛らしいか演説している黄理と出くわしてしまった。

 

 そこで志貴と朔がいかに素晴らしいかを声高々に語っている黄理の姿に一瞬驚いた志貴は、その話している内容に照れてしまったがそれは割愛。

 

 討伐隊が森に向かう前に帰ってきた二人は良かったものの、志貴は母に頬をはたかれた後、どれだけ心配したかを教えられ申し訳ない気持ちになった。翁にも軽い説教を受けてしょんぼりした。その側では朔も叔母に怒られていたが、全く話を聞いていないようだった。ただ叔母の手に朔の下着が握られていのが気になった。

 

 その二人を見て大人たちは良かった良かったと喜んでそのまま宴会へと突入した。無論一番はしゃいでいたのは黄理だったとここに記しておく。

 

 さて、大人たちが里の広場にて宴会騒ぎで盛り上がっている頃、志貴は朔の離れに訪れていた。夕餉を済まし、風呂にも入り今夜は朔と一緒に眠るためであった。

 

 離れに訪れた志貴を朔は特に何も言わず受け入れ、二人はひとつの布団で就寝についた。

 

 そして、今日の出来事を思った。

 

 今日は大変だった。意気込んで森に行ってみれば歩くキノコに遭遇するは、そのキノコと朔は乱闘するは、敗れたキノコたちが合体するは、植物に襲われるは、枯れ木の化け物に遭遇するは、その枯れ木と巨大キノコのガチでセメントを目撃するは、迷子になるは。

 

 兎も角一言では語りきれぬほど、今日という日は濃い一日であった。

 

 確かに森は危険で、一杯怖い思いをしたが、それ以上に楽しかったと志貴は満足していた。未知との遭遇はドキドキしたし、言ったこともない場所に行くことはワクワクした。

 

 勿論、また行きたいとは思わないが。

 

 志貴は隣で寝ている朔を見る。朔は耳を澄まさなければ聞こえないほど静かな寝息をたてて眠っている。志貴はそんな朔の無防備な寝顔が好きだった。この時だけは朔は自分とあまり変わりのない子供のように見えるからだ。

 

 朔はどうだったのだろう、今日という日を楽しかったと思っているだろうか。

 

 あの彼岸花を思い出す。あの場所で誰にも知られず咲いているたった一輪の花。それは凄く寂しくて、儚くて、その彼岸の花に志貴は朔の姿を重ねていた。

 

 もし、志貴があの彼岸花ならきっと寂しくて凍えてしまう。あの湿気冷たく鬱蒼とした森の奥地。きっと誰も訪れず、そのまま枯れてしまうだろう。

 

 だけど、朔はそのまま何も思わず、ただひとりで咲いて、そのまま枯れてしまうに違いない。きっと寂しいだとか、辛いとか思わずに。

 

 それは凄く悲しいことだと志貴は思った。

 

 志貴は眠る朔にそっと抱きついてみた。

 

 温かい、だけど何の反応もしない。寝ているから当然だ。

 

 あの赤い花と同じように、朔もまた一人なのだろうか。

 

 誰とも心混じらず、ただひとり朽ちていくような、そんな在り方。

 

 彼岸の花のように。

 

 それを思うと少し泣きたくなって、志貴は強く、自分の温度が朔に伝わるように強く抱きしめた。

 

「何?」

 

 朔が軽く目蓋を開け、志貴に聞く。

 

 その僅かに開いた茫洋な瞳には志貴の姿が映し出される。果たして、朔は志貴の事を見ているのだろうか。

 

 だけど、それを聞くのは怖かった。もし朔が志貴なんか見ていないと知ったら志貴はきっと泣いてしまう。

 

 だから、志貴は何も言わず、朔の身体を抱きしめる。

 

 それだけでもいいような気がしたのだ。側には自分がいるのだと、伝えたかった。

 

 そんな志貴にどう思ったのだろう、朔は志貴の頭をその手で撫でた。

 

 今までも、こんな風に朔に頭を撫でられる事があった。朔の掌は無遠慮で、全然優しくない。だけど、志貴はその掌に安心を抱くのだ。

 

 その掌に気持ち良くなり、志貴はそのまま眠りについた。

 

 □□□

 

 遠いどこか。

 月の光に照らされ、彼岸の花が、風に揺れた。

 

 




この番外編は悪ふざけで出来ています。六です。
この番外編はプロットが出来上がっていたのですが、出来上がったの七夜襲撃の真っ只中。流れの雰囲気をぶち壊さないためにも投稿しませんでしたが、今投稿しても何かおかしいなあ、としか思えません。

さて、本編の流れがあらかた出来上がりましたが、流れを見て一言、これは酷い。
いや、もう月姫ファンの皆様方からボコボコにされる予感しかしません。戦々恐々あなおそろしや。

しかし、其れで行ってみようと思います。朔を主人公にするために!
これからも応援よろしくお願いします。
それでは、また。

以下今回のおさらい。
叔母は朔たちが里に戻るまで志貴の母に延々と説教を受けていた。


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第十一話 満ちる

食事を作る。

 

 それだけの作業が楽しくなったのは、いつからだろう。

 

 食事を作りながら相手に満足してもらいたくて、もっと頑張ろうと思った。

 

 今度こそは反応してくれると期待しながら、無表情の少年の姿を想った。

 

 そしていつもどおり何の反応も示さない少年に敗北感を覚え、次こそは、と執念の炎を燃やした。

 

 何よりも、二人で食事を取ったあの瞬間は、何よりも温かく思えた。

 

 何を考えているかわからない少年だったが、私が作った食事は欠かさず食べてくれていた。

 

 それでよかった。

 

 それだけで、私は良かったんだ。

 

 だが、それはもう、訪れない。

 

 □□□

 

 母屋の居間にて一人昼食を取る。今屋敷内部には私以外の人間はいない。たまたまそのような事になっただけであって、私自身この状態を望んでいた訳ではない。稀な事だ。

 

 屋敷の中は本当に静かで、自分が屋敷の中ではなく、暗い宇宙に一人だけでいるような孤独感があった。

 

 たった一人の食事。それだけだと言うのに、なんて味気なく、寂しい気持ちになる。以前ならば美味いと感じていた食事だったが、箸の進みは遅い。

 

 胸の内に寂寞が巣くっている。それはいつの間にか私の中に宿って、そのまま離れてくれない。そしてそれを自覚するたび、私はどうしようもなく叫びたい衝動に駆られる。この状況、理不尽から生まれたこの現状。そして自分。それら全てを纏めた感情の一片までも吐き出して、そのまま洗い流してしまいたくなる。

 

 だが、そんなことをしても意味がないことは百も承知していた。私は子供ではない。子供でいられる時間は、疾うに過ぎている。駄々をこねて泣き叫んでいるだけの子供でいてはならない。子供では、ない。

 

 だけれど、あの子は、朔はどうだっただろう。

 

 朔は今、私と同じように昼食を一人でとっているのだろうか。そも食事をとっているだろうか。

 

 兄様の決定、朔に対する接触禁止令による隔離から幾ばくか経った。時は流れて季節は移ろい、冬の冷たい空気が里を支配している。朝には地面に霜が降り、本格的な冬の訪れはもう僅かだろう。

 

 そしてその冬の中で、朔は生きている。たった一人で。

 

 あの日から直接的な接触を禁じられた私は朔といることが出来ない。一緒に食事を取ることも、何気ない時間を共に過ごすことも叶わない。私に許されていることは、ただ朔の食事を作るだけ。共に食事を取ることは許されていない。食事を作って朔と顔を合わすことも出来ず、縁側に置いておくだけ。

 

 無論、私はこの状況を受け入れられない。当初、隔離の旨を一方的に告げられた後、私は兄様に問いただした。

 

 なぜそのようなことをしたのか。

 

 真実朔の事を考えたつもりなのか。

 

 だが兄様は私に朔の現状を言ったうえで、里の者を守らなければならないと、当主の顔で私に言ったのだ。

 

 兄様はこの七夜の当主。七夜を守り、続けさせていくことが彼の義務。そのためならば、何かを切り捨てていかなければならない。そのためなら、かつて私たちの兄だった人間を、父となったばかりの男すらも排さなければならない。

 

 それはわかる。わかっている。私は当主としての兄様の姿を幾度となく見てきた。それが必要なことなのかもしれないと、暗がりで囁く自分がいることも事実。だが、だが。 

 

 噛み締めた唇から鉄の味が滲む。

 

 気付けば箸が止まっていた。

 

 この身に宿る感情は後悔か、悲嘆か、あるいは罪悪か。

 

 少し前のこと。私は自身の衝動を押さえつけることが出来ず、朔に会った。誰にも知られず、秘密裏に。

 

 懸念もあった。手をつけた形跡の見られない食事や、屋敷に戻る時刻の遅さ。遠目に見ても明らかに休息を取っていない。だから、この目で確かめたかった。だが。

 

 今、ここに告白しよう。私はあの時、安心したいがために朔へ近づいていったのだ。愚かな私は、自身の不安を払いたいがため朔のもとに向かったのだ。朔の事を考えていると自身では思っていながら、それは自身に返る行動でしかなかったのだ。

 

 それがどれほど、愚劣な行いだったかも、考えぬままに。

 

「朔……」

 

 思い浮かべる。夕闇の中、朱にも黒にも溶け込むように佇んでいた朔の姿を。

 

 茫洋な気配、記憶よりも少し高くなった身長、それに対し削げた肉体。引き締められ、以前よりもその身体は子供特有の丸みを消失させていた。

 

 あの時、私には朔の姿が幽鬼に見えた。

 

 そしてあの目。

 

「朔っ……」

 

 無機質な目。何者にも興味を持たず、何者にも関心を持っていないあの目。それが、深くなっていた。鋭い目つきながらもその中身は虚無そのもので、どこか闇色を孕み、それが私を映し出している。

いや、あれは私を見てはいない。朔の視界の中に私がいるだけだ。

 

 兄様の禁止令から幾ばくの時が過ぎた。それは短いと言うにはあまりに長く、長いと言うにはあまりに遅く、致命的だった。朔は、変わってしまっていた。

 

 いや、朔を変えてしまったのは、果たして誰だ。

 

「――――っ」

 

 何もかもが言い訳だ。

 

 何者からも隔絶された子供にどのような影響が及ぶのか想像することもできないと言うのに、安直な決定で私たちは朔の人間らしさを奪ったのだ。

 

 唇を噛み締める。そうしなければ嗚咽が漏れそうだった。

 

 だが、そんなこと私に許されるはずがない。

 

 朔は何も言わなかった。そして泣くこともない。

 

 ならば、私が泣いていいはずがない。

 

 ―――わたしは、さくのそばに、いようと、きめた。 

 

 かつての誓いが、虚しく響いた。

 

 □□□

 

「僕は兄ちゃんと一緒にいたいのに、だけど皆駄目って、行っちゃいけないって言うんだ。……僕は一緒にいたいだけなのに……、ねえお母さん、何で皆は兄ちゃんと一緒にいちゃ駄目だって言うの?」

「……」

「お父さんも答えてくれなくて、翁も何も言ってくれないし」

「……」

「だから僕、お母さんに聞きたいんだ」

「そうですか……」

 

 そう呟いて、布団に潜り込んでいる志貴の額を母は優しく撫でた。

 

「志貴は優しいのですね」

「僕は優しいの?」

「皆怖いのです。何かを失うことが、誰かがいなくなることが。傷つくことが、傷つけることが。だから朔を遠くに置いた」

「どうして?」

「皆そこでどうしてと思わない。いえ、思わないようにしています。それが一番悪くない事だと、自分に言い聞かせているのですよ。だけれど、それが一番皆痛いと皆気付かないふりをしているのです。しかし、志貴。あなたは違った。気付いた。痛みに向き合えた。だから、あなたは優しいの」

 

 志貴にとって母は誰よりも優しい人だった。厳格な父や拠り所の朔、朔の世話をしている叔母や相談役の翁とも違う、柔らかな雰囲気を持った女性。それが志貴の母だった。そして志貴はそんな母から優しいと言われることが、くすっぐったいながらも少しだけ誇らしく思えた。

 

「痛いことは悲しいです。だけど痛くないと思うことが一番悲しい。だからまだ大丈夫だと私は思っています」

「なにが?」

「私たちはまだ踏み出せません。でも、志貴、あなたならもしかしたら……」

「お母さん……」

 

 そして母は少し微笑んだ。

 

「もう夜も遅いです。おやすみなさい、志貴」

「……うん、おやすみなさい、お母さん」

 

 襖を閉じる母に、そっと志貴は呟いた。

 

 夜。敷かれた布団の中、志貴は天井を見つめていた。

 

 僅かばかり開いた障子の隙間から差し込む月光が眩しい。

 

 脳裏には朔の姿があった。

 

 変わっていく朔の姿があった。

 

 それをどうにかしたくて、でもどうすることも出来ない自分はただ傍にいるだけ。それが悲しくて、父と喧嘩して、母に泣きついた。

 

 そして今日もまた、志貴は朔を迎えにいった。

 

 父は朔と会いたくはないのだろうか。その判別はつかない。

 

 ただ、その役割は自分がやりたいと思った。せめて、たった一人でいる朔のその側にはいたかった。

 

 だけど、それ以上に近づくことが出来ない。

 

 朔は見ていない。何も見ていない。誰も見えていない。茫洋な瞳はそこではないどこかを映し出しているように思える。

 

 それが志貴には悲しくて、その度に志貴は朔の袖を掴む。それ以上のことは出来ない。

 

 だけど、ここで立ち止まっては駄目だと気付いている。

 

「僕が、頑張らないと」

 

 周りが変わらない限り、朔は変わり続けてしまう。きっと志貴の手の届かない場所に行ってしまう。

 

 それは、それだけは嫌だ。側にいたい、側にいて欲しい。あの兄と慕う少年のもとにずっといたい。

 

 だから、志貴は決めた。

 

「明日、一緒にご飯食べよう」

 

 もっと近づいて、あの頃の二人に戻ろう。そうすれば、他の人もきっと元通り。父は普段通り気難しい顔で朔の訓練をして、母は微笑んでいて、叔母は冷たいながらも優しくなって、翁は温かくなっている。

 

 だから、僕が頑張る。

 

 そう決めた。

 

 だから、今はお休み。

 

 目蓋を閉じる。

 

 冬の外気に部屋が少し寒い。志貴は布団にもぐりこんだ。

 

 部屋に入り込む月光は閉じた目蓋でも痛いほどに眩しい。

 

 そのまま志貴は眠気に乗っかり眠りについた。

 

 □□□

 

 月が、満ちる。

 

「槙久どの。足並み揃いました。行けます」

 

 夜の帳の紛れ込み、化生は訪れた。

 

「これは、粛清だ」

 

 かつての恐怖を抱き込んで、男は呟いた。

 

「行くぞ」

 

 その懐には鬼。人外の化け物。

 

 殺人鬼を滅するために鬼を引き連れて、男はやってきた。

 

 頭上には満月。忌々しいほどに輝く月明かり。

 

「七夜黄理を殺れ」

 

 逢魔が時。

 



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第十二話 月輪の刻

題名は、がちりん、と読みます。



 七夜の森は果てしなく広大であり、鬱蒼を成す森は正しく樹海と呼ぶに相応しい。太古の匂いを感じさせる緑の要塞、生者が入り込めば抜け出すことの叶わぬ自然の墓場である。

 

 周囲を結界が囲み、その内部には罠が至る場所に設置され、結界によって変異した動植物たちが跋扈する七夜の城塞。

 

 だから大丈夫だろう、とは誰も考えはしない。もとより七夜には敵が多すぎた。

 

 例え退魔から抜け出そうとも、その血の業はあまりに深く、いつまでたっても忘れはしない。

 

 それゆえに今日の夜は当然のことだった。あまりに必然だった。

 

 片やかつての苦痛を、恐怖を忘れることが出来ずにいた混血。

 

 片やかつては魔を狩る絶対の殺し屋。

 

 その関係性は簡潔に尽き、雑多なものを含みはしなかった。

 

 即ち殺しあう仲。

 

 仮初の協定を結んではいたが、薄氷と呼ぶに相応しい薄っぺらさの関係は安易に瓦解し、やはりこうなるのが運命であったと、誰もが思っていた。

 

 馴れ合いは無く、歩みよりもまた然り。互いに理解はすれども共感は得ず。

 

 今宵は殺し合い。どちらかが滅ぶまで戦い続けるのみ。

 

 その様はきっと、天上の月輪(がちりん)のみが覚えている。

 

 □□□

 

 森の中を武装した男たちが駆けていく。

 

 物音は限りなく静かに、それでいて獣のような素早さで。満月を頭上に掲げ、獣道さえないような森の中、木々の合間を縫って、夜の森をひたすらに進んでいく。その手に銃器を携え、身に纏うのは戦闘服。顔を隠すような酸素マスクを点けたその出で立ちはこれから戦争に向かうかのごとくに見えた。

 

 男たちは無線機と手信号のみで連携を取り合い、僅かながらも着実に進んでいく。目標は未だ遠い。がさがさと森の中、不規則のように、それでいて足並みの乱れぬ進行は正にプロのそれであった。

 

 しかし、それが破られたのは、森に侵入して二十分も足らずの事だった。

 

「いぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」

 

 突然、どこからか仲間の絶叫が聞こえた。

 

「!?っ、状況報告っ」

 

「状況不明っ、何者かの襲撃にあっていますっ、う、うわあぁぁぁ!!」

 

 散開していた仲間たちに無線で状況を聞くが、返ってくるのは悲鳴のみ。

 

 そして森の中、それが契機だった様に、遠くを進んでいた者たちからも次々と悲鳴が木霊した。

 

「た、助けてくれぇ!!」

「いやだ、死にたくない死にたくない死にたくっ――――っ」

 

 そして、何かが潰される音。

 

 暗い夜の森の中、そこ等彼処から悲鳴が聞こえてくる。状況は分からずじまい。だが、仲間が今この瞬間何者かに襲われているという事実に揺るぎは無い。

 

『孤立するな!全員密集し周囲を警戒しろ!!』

 

 しかし、返ってくるのは悲鳴、そして銃声。いたるところで絶叫が聞こえ、そして遠のいていく。まるでどこかに連れ去られていくかのようにも聞こえた。

 

 そして、男の声に集まったのは僅かに五人ばかりだった。

 

「一体何があったんだっ」

「分かりません、何か生き物のような者がいたとしか……」

「生き物、だとっ」

 

 その報告に絶句が漏れる。

 

 そんな訳も分からないようなモノに、自分たちは窮地に立たされているのかっ。

 

 そうしている合間にも仲間達が何かに襲われていく。何かに引き摺られる音、何かを潰す音、砕く音。水っぽいモノが叩きつけられて様な音までする。瞬時にパニック状態と化した森に周囲を警戒しても木々が揺れるのみ、悲鳴をバックサウンドに地獄が展開していく。

 

 そして、誰とも言わず、何かに気付いた。

 

「おい、なんだ、あれはっ」

 

 月光が影となり、詳細は分からない。

 

 視線の先、森の中、何かに引っ張られるように自分たちの隊員が宙吊りにされていた。

 

 先ほどから悲鳴が聞こえる。最早何を言っているのかも理解は出来ない。

 

 なにか触手めいたものがその隊員の体に絡みついていて、それはやがて強く手足に巻きつき、そして。

 

「―――――――――――――――――――――――っ!?」

 

 その体をいとも簡単に引き千切った。肉の千切れる形容しがたい音がして、ぼくん、と骨の解体された音が隊員達の耳に届く。

 

 影でも分かる、隊員の中身が零れて見るも無残な光景が。

 

 ここに来て、生き残っている隊員は恐怖を覚えた。

 

 ここはどこだ、俺たちはいつの間にか奈落に堕ちたのか。

 

「きききき、来たぞぉっ!?」

 

 いつの間にか、周囲を囲まれていた。そしてここまで近寄って、その触手が植物だということに隊員たちは始めて気がついた。のたうち蠢く植物は生き物の一部のようにも見えて、ここがこの世ではないような気がした。

 

「なんだ、ここは」

 

 それは誰の呟きだったか。

 

「なんなんだここはっ」

 

 そしてまた一人、一人と植物に連れ去られ、飲み込まれていった。血飛沫を撒き散らしながら。

 

「なんなんだお前らあっ!!!!」

 

 足元の地面から、何かが生えてきた。

 

 ズン、と重く響く。

 

 それが何かさえ分からぬまま、男の体は半身となった。縦に裂かれた男の意識は消える。倒れる間際、中身を零しながら、差し掛かる月光に照らされたその様は花にも見える。

 

 そして木霊すのは悲鳴ではなく、ナニカの咀嚼音。

 

 □□□

 

 武装。

 

 それが示すことは自分が弱いことを公表していることに他ならない。銃器を装備し、防護服を身にまとい、呼吸器によって顔を覆い。その様は一見屈強のようには見える。だが、それだけだ。それ以上のことは期待できない。

 

 男に自信などない。先も見えぬ森を老人の先導に進み、周りを武装した私兵に守らせ、しきりに辺りを警戒してはいるが、それは即ち不安と恐怖が綯い交ぜとなっているからに他ならない。

 

 かつて受けた恐怖。それを思い出す度、男は男でなくなってしまうような気がした。あの目が忘れられない。斎木を売り、七夜の手に巻き込まれたあの時、倒れ伏す自らを見て、あの男は笑っていたのだ。

 

 ―――七夜黄理。

 

 それが、あの男の名。混血の天敵であり、男に恐怖を刷り込ませた死神の名だ。

 

 あの屈辱、あの陵辱を忘れはしまい、と自身に呟いた日々。だがそれは恐れを忘れることが出来ぬ自身の弱さであった。

 

 目前、先頭を歩む老人に目を見やる。まるで妖怪のような男だ。異様に高い身長と長い手足、擦り切れた着物を着た老人。

 

 この男の先導によって男たちは進んでいる。

 

 ……先ほど、先行していた部隊が壊滅したと報告があった。

 

 妖怪の言を無視し、先ずはルート外から展開し侵入をしていたのだったが、ものの三十分にも満たず、無線の向こうから救助要請があったが、それすらも無駄に終わった。

 

 悲鳴のままに助けを求めた隊員が、何物かによってその後食い殺されたらしい。

 

 それを聞き、焦燥を感じる男を見て、妖怪は笑ったのだ。

 

『ほれみろ』と。

 

 その金属のような声を軋ませて、妖怪は言ったのだ。その全てを嘲うかのような表情は男に向けられていた。

 

 神経を逆撫でるような言動。それがひたすら気に障り、不快だった。

 

 ぎしり、と奥歯を噛み締めて男は妖怪を睨んだが、それすらも妖怪を楽しませる要因にしかならないようだった。

 

 男にとって妖怪はただ不快な存在であった。一世紀近くも生きた化石でありながら、その発言は決して軽くなく無視できるものではない。それでいてその欲求や言動の勝手さに腸が煮えくり返ることもしばしば。

 

 男は妖怪を信用はしている。だが信頼は微塵も無い。

 

 もとから被虐意識の強い男だった。他人に信を置くなど先ずありえない。

 

 しかし、妖怪がいなければ男たちが既に骸だった可能性もあった。

 

「ここから先は大丈夫だ。獣道を辿ればまず死にはしねえだろう」

 

 森の中、月光を纏い妖怪が口ずさむ。その楽しみようは出来の悪い劇を観賞しているように、見下している。

 

「俺の案内はここまでだ。なあに、安心しな、油断なく殺し合えばいい」

 

 そして拉げた笑いを漏らした。背筋に寒気が走るような不快を感じ、男は鼻を鳴らす。

 

「いいだろう。案内感謝する」

 

 心にも無い言葉を口にするが、不機嫌さが丸分かりの声音に妖怪は愉快さを増した。

 

「ひゃひゃひゃ……、老人への感謝痛み入るな。それじゃ気張れ、気張って殺されろ。それと」

 

 ずいっと、老人は男に近寄り、その耳元に囁く。

 そこにいたのは先ほどの嘲う老人ではなく、百年近くを生きてきた妖怪の醜悪な邪笑だった。

 

「約を違えるなよ」

 

 そう言って妖怪は森の中に消えていく。その確かな足取りはこの森の全てを分かっているような自信が見えた。

 

 その背に感じる殺気の混じり視線さえも可笑しいと体を揺らしながら。

 

 そしてその場にいるのは武装した男たちのみ。

 

 いつの間にか、あの妖怪が発していた空気に呑まれていた隊員達は急いで状況を把握していく。その中心、そこにいる男は呟いた。

 

「……ああ、いいだろう。やってやる。条件は守ってやろう」

 

 誤魔化しきれない緊張が男に中に宿る。冷や汗とも脂汗ともつかぬ滴が頬を垂れた。それを拭うことなく、男は身に巣くう恐怖を押しつぶして命令を下した。

 

「状況、開始。散開しろ」

 

 男の言葉に私兵隊は散っていく。その手に装備された弱さを武器にして。

 

「守っては、やる」

 

 例え粉微塵な肉体であろうと、ちゃんと確保してやる。

 

 男は、遠野槙久は浅く笑った。

 

 数は揃えてある。古い通説を信じはしないが、やはり殺し合いは数こそ全てだろう。

 

 それに、布石は既に打ってある。

 

 鬼札。

 

 鬼に敵う者など、ありはしない。

 

 □□□

 

 天上に吊り下げられた月。夜だと言うのに明るく月光は輝き続けている。本来夜は魔の時間。人間以外が跋扈する魑魅魍魎の世界。生者が入られぬ亡者の領域。そこにおったが最期の時。この世と今生の別れ。あの世への誘い。

 

 それならば自身も化生の類に違いはない。

 

 森の中をただひとり歩み行く男もまた、何かに誘われるかの如くに月の光も隔たる鬱蒼の森を進んでいく。

 

 己の生に実感を得られない。

 

 それがなぜなのか男は知らない。

 

 生まれいずったその時には男は男として在った。

 

 強大すぎる生、濃すぎる血。周囲に人はいなかった。

 

 ただ孤独のままに。誰とも触れ合うこともなく、そして遂には身内の手にかかる運命となった。

 

 だが、彼は死ななかった。

 

 死なず、そして一族を滅ぼした。気付けば、焦土にも似た場所に彼は在った。

 

 それに罪悪はない。ただ、疑問のみがあった。曖昧模糊の生の中、自身が生まれいずった意味とはなんだったのか。

 

 森の奥に生き、修験者の如くに生を送れども未だ答えは得ず。解脱の境地には到れていない。しかし、かつて一族を滅ぼした後、ある男と会い見え、この右目を奪われたあの時、自身は何かを分かりかけた。何かを見たような気がした。

 

 あれは一体なんだったのか。

 

 それが分からず、だからこそ、ここまでいずった。

 

 森を彷徨うこと僅か。月光が輝くはずの森の中、生い茂る木々は影が差し、己が生の如くに先も見えない。植物たちは襲ってこない。分かっているのだろう。この男が一体何なのか。

 

「それで、わらべ。お前が道先案内人か」

 

 突然、人間がそこにいた。

 

 目前に現われた子供。藍色の着流しをはためかせ、その手に握られるは小太刀。

 

 そしてその目。その目は最早、人間の眼ではない。

 

 茫洋な空洞を成した硝子のような瞳が彼を映している。

 

 幽鬼の如き存在が、目の前にあった。

 

 その子供の口が微かに動いたのが見えた。

 

「―――」

 

 ――――瞬間、森が悲鳴をあげた。

 

 殺気。

 純然の殺意が、男を飲み込もうとする。人間の発する殺気とは思えない。質量を持った気が男を殺そうと風景を歪ませた。空気は軋み、森は泣き、生き物はそれに抗うことも出来ずに死に絶えるだろう。ただ立っている男にもそれが分かる。お前を殺す、と溢れかえる殺気は男に叩きつけてくる。

 

 常人ならばそのまま死に絶えるだろう殺気。だが男は、その男だけは、その殺気あてられ、脳裏に何かが過ぎっただけだった。それは、かつてあの男の――――。

 

 しかし、何も分からない。あれに近しいような気がする。それとも遠いような気もする。

 

 だから――――。

 

「……わらべと思ったが、悪鬼の一種だったか。鬼の相手に鬼とは、確かにこれは共食いか」

 

 そう呟き男は、軋間紅摩は、一歩踏み抜いた。

 

 □□□

 

「御館様、準備は整いました」

「そうか」

 

 何者かの襲撃の報があってから僅かばかり、里の広場に黄理はいた。その身を黒の衣服で纏い、当主として、あるいは殺し屋としてその場にいる。その横に控える翁もまた剣呑とした空気を滲ませ、黄理の側にあった。

 

「数は」

 

「はっ、実質出られるのは三十にも満たぬかと」

 

「充分だ」

 

 そして二人の目前には、跪いた七夜達。その身には刀剣を武装し、自らの主に仰ぎ従う尖兵共達。

 

 黄理にも、そして他の七夜にも検討はついていた。おそらく敵は、遠野。どういう訳か森に侵入を果たし、そして突き進んでくる。その理由は簡単に見当がついた。もとより両者は相容れぬもの共。かつて痛んだ古傷を思い出したのだろう。

 

 しかし、この森にやってきた。それだけで、七夜が戦うには充分すぎた。思い知らせてやる。その者たちが何を敵に回し、そこに攻め入ったのか。

 

 そこにいる者たちの目に暗い光が灯る。それは理性はあれどもあまりに暗い。今日この夜に、ここにいるのはただの殺し屋ではなく、ただの殺人鬼なのだ。

 

「戦闘は久しいな」

「確かにそうで御座います」

「だが、それも関係ない。我らがやることはただひとつ」

 

 黄理の目は冷たい。そこにいたのはかつての黄理だった。黄理が厭い、それでも逃れることの出来ない殺人機械がいた。

 

 今この時、身内のことは忘れる。志貴も家内も、そして、朔も屋敷の中にいるはずだ。

 

「迎撃に出る。殲滅しろ」

『応っ』

 

 黄理の声ひとつで、目前にいた七夜たちはすぐさま行動に出た。掻き消えるような速さで七夜は森に向かっていく。

 

「俺も出るぞ」

「あい分かり申した。畏れながら私もお供に」

 

 かしこまり深々と頭を垂れる翁の声に反応することなく、黄理は駆け出した。

 

 だが、

 

「兄様!!!!」

 

 そこに黄理の妹が駆け寄り黄理を止めた。

 

「屋敷の中にいろといったはずだが」

 

 妹を見る黄理の目はひたすらに冷たい。女子供戦闘に出られないものは現在、家の中に隠れているように命が下されている。妹は戦闘が出来ないのだ。ゆえに妹は外に出てはならない。

 

 しかし、黄理の視線に晒されても妹は怯むこともなく、動揺したままその言葉を口にした。

 

「兄様っ。朔の姿がどこにも見当たりません!!!!」

 

 □□□ 

 

 何ものかが森に入ろうとしている。

 

 先に気付いたのは、奇しくも七夜の大人ではなく、朔ただ一人のみだった。深夜。深く眠りにつくことも出来ない朔は庭先に出て地上を睥睨する満月を見ていた。最近あまり寝ていない。だが、寝ようとも思えない。体が反応しないのだ。

 

 天上に居座る月を見ても感慨は浮かばない。浮かばなかった。そしてそれに対して、最早感情を抱くような無駄な機能を朔は持っていなかった。

 

 亡(ぼう)と、瞳は月を映し出している。

 

 何も思わない、何も感じない。

 

 今この時、夜の月光に照らされても、朔に変化はない。

 

 その姿はいっそこの世のものとは思えぬほどに儚い。

 

 幽鬼の如くに、朔はそこにいた。

 

 そしてその時だった。何者かが森に近づいている感覚が、朔には感じ取れた。七夜の森に展開する結界よりも尚早く、朔は感じ取った。

 

 朔だから気付けたのかもしれない。ひたすらに自身を追い込み、精神を削いでいった朔だったから、極限にまで高められた朔だったから、自己を磨耗させ続けた朔であったから、その気配に気付いたのかもしれない。

 

 辺りに靄が漂っている。

 

 様々な色が入り混じりあいながら、森の向こうからそれが漂っている。

 

 その中でただひとつ、紅い朱い靄が波濤のように流れ込んできた。

 

 気配は未だ遠く、この里には遥か先の場所。

 

 そこに何かが、いる。

 

 普通の人間では気付かない、七夜のものですら気付かないような極僅かな気配。

 

 だが、それはあの時、混血に感じた存在感など桁違いの化け物の気配。それが音となり、匂いとなり、そして形となって朔の耳に、朔の鼻に、朔の目に届いてくる。

 

 それは詰まり、真正の人外がいるという事実。

 

「――――」

 

 気付けば、朔は走り出していた。

 

 侵入者がいる、という事は既に頭にはなかった。それがどのような結果であれ、朔にとっては最早瑣末に成り果てていた。

 

 この気配、この匂い、この靄。

 

 それに近づくほどそれは強烈となり、朔の体に化け物の存在を叩きつけてくる。森の中を縦横無尽に翔け、それでいて直線的に近づいていく。それに朔の内側が歓喜した。喜び勇んで絶叫を木霊させる。

 

 ―――殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。

 

 思考は殺意に埋め尽くされる。あの時よりも、あの刹那よりも強く、激しく、朔を揺さぶる。だけれど意識は澄んでいき、余分な物など何もなくなった。

 

 温度が消えた。

 

 体を突き刺すような冷たさを感じなくなった。

 

 口中の感覚が消えた。

 

 最早自分が口を閉じているのかさえ定かではない。

 

 記憶が薄くなっていく。

 

 既に自身という存在は消え去ろうとしていた。

 

 しかし、朔という存在概念は朔自身が消え去ろうとしても消えはしない。

 

「それで、わらべ。お前が道先案内人か」

 

 目前に、男がいた。

 

 頑健な肉体。体を締めつけるような胴衣。そして左目だけ覗く修験者のような顔。

 

 そしてその気配の何たる。男が無自覚に発する存在感に朔は自身の死を幻視した。それはまるで、黄理に対するような圧迫感。気を抜けば圧死するような重圧が男からはあった。

 

 だが、朔は動じない。動じることも出来ない。

 

 もし朔の中に、理性や本能と言うような珠玉全うな感覚さえあれば、目の前の存在に怖じ、振るえ、怯え、そして自身を奮わせただろう。朔にはそれがない、最早それさえ出来はしない。

 

 この気配。この独特な重圧。

 

 混血の気配。

 

 朔がやることなど、決して変わらない。

 

 いつだって朔はそれだけのために存在し続け、育てられてきたのだ。

 

 そして今こそ、その時。

 

 そうだ、いつだって朔はそうだった。

 

「殺すだけ」

 

 そっと、久しぶりに喉を介して音を漏らした。しかしそれは声にもならない音でしかなかった。いつ振りに言葉を発しただろう。それは掠れ、かつて出会ったあの混血のようにひどく不快な音だった。

 

 肉体の高ぶりが抑え切れない。血は熱く沸騰し、肉を温めている。

 

 最早、姿勢に意味は無い。

 

 ただ真っ直ぐに、男の命に向かうのみ。

 

「……――――――――――――――――――」

 

 男が何かを呟いている。だが、朔の耳に届きはしない。

 

 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。

 

 呪詛のような衝動のみ。それだけがある。

 

 視界は朱の靄。その中で男の存在だけがはっきりと見える。

 

 そして、それ以外に考慮することも忘れ。

 

 男の踏み込みと同時に、朔はその場から掻き消えた。

 

 七夜の技は必殺。それゆえ小手先調べを必要としない。

 

 そしてここは七夜の森。七夜の領域である。

 

 周りには障害物となる木々。本来邪魔でしかないそれらを七夜は覆す。

 

 閃鞘。閃走。三次元移動を可能とする七夜の空間利用術。地を、壁を、天井を足場にして動くその様は蜘蛛。そしてそれは、障害物であろうとも変わらない。

 

 森の中を縦横無尽に翔ける。地上に、木に、空に。男を撹乱させる。目まぐるしく動きを変化させ、目視できぬ速さと化す。

 

 そして狙うは背後。目標は男の背。やや左側に収められた心臓。そこを貫く――――!

 

 確認は出来た。ならば穿つのみ。

 

 弾丸めいた疾さ。朔はより速くなる。あの時よりも、黄理との訓練よりもより速く風を切り裂いて、真っ直ぐに心臓へ。

 

 加速は既に最速と化した。

 

 男は未だ反応できていない。

 

 既に男との距離は然程開いていない。一秒にも満たぬ刹那には握られた小太刀が命を殺す。

 

 それがきっと、朔の始めての殺人となる。

 

 感慨はない。思想もない。

 

 殺意以外の感情は持っていない。

 

 ゆえにこの時こそ朔の満願成就。

 

 朔の生まれ出でた意味を貫くのみ――――。

 

 ガキン、と甲高い音がした。

 

「――――――っ?」

 

 朔には一瞬何が起こったのか理解できなかった。だってそうだろう。小太刀は朔の速度、膂力、体重をかけ、男の背中に突き立てられた。突き立てられたのだ。

 

 即ち、肉の中に入り込まず、突き刺してはいない。肉を突き破り、骨を砕いて心臓を貫く威力を秘めた朔の一撃が、肉に入り込むことも出来ない。どれほど鍛えられた筋肉なのか。盛り上がっているのは分かるが、それでも刃が通らぬ理由はならない。

 

 背中に何か仕込んでいるのか。

 

 いや、それはない。

 

 小太刀を突き立てた朔の手には確かに人間の肉体の感触があった。だが、一瞬だった。

 

 それが金属と化したのだ。

 

「俺の身体には通用しない」

 

 声が、聞こえる。重く響く男の声がする。

 

「いつの頃からか分からぬが、身体を硬化させる術を身につけていた。お前のそれでは、俺の身体を裂く事は出来ない」

 

 そして、圧迫感。男が振り向きざまに拳を振りかぶっていた。

 

 一瞬のことだった。

 

 威圧感を放つ拳が巨大化したようにも見えた。

 

 それを回避する朔。身を霞ませての回避。背筋に嫌な感覚が這いずり回った。最小限の動きでいなし、防いだ時、何かが起きる。

 

 一瞬にして消えた朔に対し、少しばかり驚いた表情をした男。だが、男の拳は止まらない。突かれた拳は推進力を持ち、男の踏み込みと相まって。

 

 決して細くはない木に突き刺さる。

 

 そして、木が爆ぜた。

 

 その力の何たる。殴りかかった場所は砕け、そこからゆっくりと、みしみしと悲鳴をあげながら、木は倒れていった。

 

「疾いな」

 

 男は呟いた。

 

「だが、それだけだ」

 

 そして男は朔に振り向いた。

 その様はまるで、鬼のようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ここはどこぞ。もし悪鬼と会わば。

 ここは地獄ぞ。奈落の底よ。

 




七夜朔。特大死亡フラグと遭遇。

途中の植物の触手は宇宙戦争のあれを想像してください。

では、また


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第十三話 紅き鬼

「ひひ、ようやく動いたか」

 

 暗い、暗い森の中、月光にも照らされぬ黒い影の獣道。騒ぐ森に愉悦を撒き散らし、一人の妖怪が歩みを進める。

 

 妖怪は、刀崎梟は、笑う。

 

「いいね、いいねえ。戦場の空気だ。殺し合いの匂いがここまで伝わってくる」

 

 梟の歩みは淀みなく、夜の森をゆったりと歩いていく。

 

「死ね。全員死ね。そうだ、あいつ以外は全員滅べ」

 

 その顔には邪悪が張り付いていた。そして楽しくて、待ち遠しくて仕方がないと嘲う。

 

 冬の冷たさと相まって空気が乾いている。それに漂って熱が伝わってきた。殺し合いの空気。梟にとっては懐かしくも、嗅ぎ慣れた匂い。

 

 一世紀近く生きた人生の中で、殺し合いに巻き込まれたこともあった。刀を作るだけで良いと思ってはいたが、いかんせん梟は刀崎の棟梁。その肩書きに呼び出され、切った張ったも幾星霜。

 

 しかし、今日だけは棟梁の肩書きに感謝した。それが巡り巡って、梟の求めた存在を見つけ出したのだ。

 

 そしてこの夜。混乱に乗じて梟は森にやってきた。再開を果たすために。

 

「嗚呼、待ち遠しいなあ」

 

 その目は愉悦交じりでありながら、どこか恍惚としている。

 

 梟を突き動かす執着心。それは紛れもなくただ一人のためだけに向けられている。そのためならば全てを利用し、淘汰する所存で梟はいる。

 

 あの日から、あの出会いから、あの子供が忘れられない。黄理の言葉で知った、朔という名。それが思考から離れない。

 

 朔の事を考えるだけで口から笑みが零れてくる。桁違いの存在、あの時は未熟であったが、遠くない未来、やがて梟も初見の存在となるに違いない。

 

 あの殺気にあてられた時から、梟は朔に参っていた。あの目、あの軌道、あの容赦と言う言葉さえ知らぬような攻撃。それがいつも梟の脳裏に鮮明な映像となって映し出される。その度に梟は熱を帯びるのだ。

 

 あいつだ、あいつこそ、と。

 

 ……もし、言葉を許されるのならば、梟は朔に恋をしたのだ。

 

 歪み、逸脱してはいるが、方向は正しく紛い物もないそれは正しくそれだ。

 

 そのためだけに梟は行動を起こしたのだ。

 

「ま、懸念と言えばあいつぐらいか」

 

 準備はしていたが、まさかアレを引っ張り出せたとはなあ、と梟は誰ともなく呟く。

 

 遠野分家軋間最後の当主、軋間紅摩。

 

「世俗からは離れたと聞いてたんだがなあ、どうやって呼び寄せたんだか」

 

 あれはヤバイ。存在自体が神秘めいた混血。未だに正気が残っているのが驚きだ。

 

 もし、あれが朔と当たるならば……、想像はしたくない。確かに朔は素晴らしい。おそらく人間の限界に迫っている。

 

 だが、軋間紅摩。あいつだけはヤバイ。もとから存在が違うのだ。莫迦らしくなるほどに差は歴然。人間と魔との混ざり者。差ははっきりとしている。

 

 朔と軋間がかち合う。それが梟の気になるところではある。朔が死んでは意味がない。この計画、この人生、そして梟そのものに意味がなくなってしまう。それはいただけない。

 

「んでも、あいつなら、て考えるのは贔屓が過ぎるかねえ」

 

 どうしても期待してしまう自分がいる。

 

 もっと、もっとだと、朔の可能性に触れてみたい老人がいる。

 

「まあ俺にはどうしようもねえけどなっ」

 

 くつくつと笑う。

 

 梟如きではどうしようもならない事もある。なにせ自分は刀鍛冶、それ以外はまるで駄目だ。

 

「んじゃ、迎えに行きますか。……待っていろよお、朔。お前は、俺のものだ」

 

 そして梟は暗闇の中に紛れて消えた。

 

 □□□

 

 軋間紅摩を語るのに、多くの言葉はいらない。

 

 その存在そのものが彼という神秘の体現であるからに他ならない。

 

 混血ではあるがその血は遠野よりも濃く、かつて血のみではなく肉まで混ざり合った一族。狂気のような経過を経て、軋間という血族は混血と成った。ゆえに軋間の血はあまりに濃く、その結果軋間の当主は代々先祖返り、すなわち紅赤朱と成る事が宿命付けられている。彼はつまりそういうものだ。そういう風に出来ている、と言ってもいいだろう。

 

 記憶の中、かつて彼の周りにいた一族にもそれに成り果てようとしていた者は多くいた。そういうものは大概人とは呼べぬ化け物と化していたが。

 

 そして軋間紅摩はそれら全て、軋間の者悉くを滅ぼした過去を持つ。

 

 全身を硬化させ、大木を握りつぶす人外の力。

 

 軋間が目指した成れの果てこそ軋間紅摩だった。

 

 それに恐れを成した一族の手により、軋間紅摩は拳銃で頭部を撃たれた。

 

 だがそれでも軋間紅摩は死ななかった。血すら流さなかった。

 

 そしてそれにより自制を無くした軋間紅摩は、一族の者を皆殺した。

 

 それほどまで強大な生命を生まれながらに与えられていた。

 

 ゆえに軋間紅摩とは言葉通りに桁違いの存在であり、真実人外の化生に最も近い混血とも言えるだろう。

 

 だが、それだけに代償はある。

 

 紅赤朱に成る事が宿命付けられた彼だからだろう。その思考が、徐々にではあるが人外のものに成ろうとしている。もとより幼少の頃は言葉が理解できなかった。それが紅赤朱にいつなるかは定かではない。だが、いつの日かやがては真実化生になるだろう。

 

 ゆえに、紅摩はここまで、七夜の森までやってきた。

 

 遠野槙久に呼ばれ、命じられたから、と言うのも確かにある。

 

 だが、紅摩は確かめたかったのだ。

 

 かつて、紅摩の右目を奪った人物がいた。

 一族を滅ぼした後、斎木の者に監禁されていた頃のことだった。

 反転した斎木の当主を殺すため、そこに鬼神が現われたのだ。

 紅摩はその鬼に出会い、右目を潰された。

 それが紅摩、十の事だ。

 

 

 あの時、紅摩は何かを見て、そして感じた。だが、それが何だったのか、未だに分からずにいる。だから、紅摩はここまでやってきた。自分が誰かの役に立つならばと、思いここに来たのもある。だが、あの時感じたあれが一体なんだったのか、もう一度確かめるために、答えを得るために、自身が暮らしている森を離れ、この森にやってきたのだ。

 

 

 ――――そして、今。

 

 軋間紅摩は一人の子供と対峙していた。

 

 紅摩と比べ、あまりに脆弱な命。

 

 だが、その身から発せられる殺気、気配の恐るべきこと。目の前の小さき子供から噴出する殺気は紅摩にとって少なくとも目を見張るべきものではあった。

 

 ただそれは、目を見張るだけの話。

 

「兜神」

 

 紅摩の踏み込み。爆発的な踏み込みに地面が砕け、弾ける様に子供との距離を刹那のうちになきものにさせた。

 

 紅摩の生まれ持った肉体の性とも言うべきだろうか、世俗を離れ森の奥で手慰みに武術の真似事をしているが、それ以上に彼の強さと言うのはその肉体の潜在能力にあった。

 

 絶滅種の血を色濃く引き継いだ紅摩の肉体は、鍛錬を行っているわけでもなく自然に作られている。

 

 鋼の如く、と言う表現がある。それはものを硬いものを形容するのに用いられる言葉ではあるが、紅摩の肉体は正にそれに当たる。

 

 鋼の肉体。特に鍛えたわけでもなく、事実紅摩の肉体は鋼の如く硬度を秘めている。生まれながらにあった肉体を硬化する術、そしてその俊敏性もまた、彼が生まれながらに持ちえた彼の才だった。

 

 それゆえに紅摩の踏み込みは、瞬く間に子供との距離を詰めた。

 

 突進。爆発的な踏み込みと紅摩の鋼の肉体による体当たり。単純極まりない攻撃手段。しかし紅摩のそれは朔を引き千切るのは充分の威力を持っていた

 

 だが、当たる寸前、子供の姿が掻き消えた。

 

 そして。

 

「―――――――っ」

 

 体に数度の衝撃。肉を切りつけられた。

 

 振り向くと先ほどと同じような距離で、そこに子供はいた。

 

 四肢を地へと突き刺し、殺しきれぬ移動速度に地面が盛り上がりを見せている。

 その這う姿勢から、瞳は紅摩を捉えていた。

「……」

 

 その体には切りつけられたような跡はあれども、引き裂かれた跡はなく、血は流れていない。

 

「その小太刀では俺に通用しない」

 

 そう言って再び紅摩は踏み込む。

 

 先ほどからこの展開が続いている。紅摩が攻撃を仕掛けても、子供の驚異的な速さに追いつけず、そして子供は回避しながら紅摩に切りつけ、再び姿を現す。この繰り返しだった。紅摩は子供の速さに反応できず、子供は紅摩の肉体に歯が立たない。このような千日手が続いていく。一度目の交差から始まった状況は依然として膠着状態のままであった。

 

 自身に切りつける瞬間も紅摩は当然狙った。だが、子供が放つ人外の殺気に茫洋な子供の気配が隠され、子供の位置を把握することが出来ない。

 

 何処を見ているか分からぬ無機質な目、その幽鬼のような気配、そして驚嘆する身のこなし、技量。首、心臓、動脈、それら全てを正確に狙い切りつけてきている。

 

 惜しむべきはその小太刀であろうか。確かに刃物であり、真剣だ。だが軽く、そして少しばかり間引いてある。訓練用なのか、小太刀本来の切れ味はなく、肉は切れども裂く事は出来ない代物だった。それでも人間相手ならば殺傷は可能だろう。肉を絶ち中身を穿ち命を殺すことが出来るだろう。それは子供の技量だ。間引いた刃で切り裂く。凄まじい技である。

 

 だが、そんなもので紅摩の体に傷を負わす事は出来ない。

 

 軋間紅摩は別格なのだ。存在そのものが桁違いな生命。化け物揃いの混血の中で、より恐れられた化け物だ。そのようなモノを相手に常道の技が通用するはずがない。

 

 朔では紅摩を殺すことは出来ない。だが、紅摩の攻撃が当たればあっけなく勝負は決まる。おそらくその時、朔には肉片も残っていない。紅摩の肉体は朔程度の生命を粉微塵にさせる事が可能なのだ。掠ることさえ致命傷の一撃となるこの理不尽。

 

 しかし、紅摩が朔を捉え切れていないのもまた事実だった。

 

 紅摩の突きや払い、または蹴りには朔を殺す程度造作もない。だが、それは当たればの話。

 

 再び踏み込み。朔との距離を縮める。だが、朔は霞むように紅摩の視界から消える。七夜の移動術。人間ではありえない変則的な動きを可能とさせる七夜の技。それを捉える事が出来ない。

 

 そしてまたも斬撃が迫る。この攻撃さえ、何処から打っているのか未だ捕捉出来ない。

 

 依然として変わらない展開。人外としての力を揮う紅摩、七夜の体術と自身の技量によってそれをかわし、刃を揮う朔。

 

 それを紅摩は厭わない。むしろどこかこの状況に身を委ねようとする己がいた。

 

 この飽くなく続く殺し合い。いや、これは果たして殺し合いなのかと、紅摩は思う。互いに命を燃やし、相手の生命を絶たんと動いている。

 

 思えば、殺し合いとは始めてだ。紅摩は殺し合いは行ったことがない。紅摩の戦い、それはただ一方的な蹂躙だ。強すぎる生命である紅摩を相手に、命はなす術なく潰れていく。圧壊の腕。鋼鉄の肉体。技量に秀でた者がいた。胆力ある者がいた。人間とすら呼べぬ化け物がいた。そのどれもに、紅摩は一方的な死をもたらしてきた。

 

 しかし、目前の子供はどうだろう。紅摩に傷をつけていない。歯が立たない。だが、今も尚殺しに向かってきている。

 

 この緊迫した状況の中、紅摩はふと考えた。この心持はなんだろうかと。僅かながらに疼く内側に疑問を呈す。殺気立ち込める殺し合い。始めての経験である。これが尋常の殺し合いであれば互いに命は消えていた。

 

 今この時、紅摩は朔と出会った。紅摩には紅摩の目的がある。あの鬼神と再び会い見えるため、この森に来た。

 

 しかしこの子供と出会った。不可思議なことに、紅摩はそれを良しとしている。良しと思おうとしている。

 

「……――――っ」

 

 朔が攻勢にでた。驚異的な加速に朔の姿が霞む。そして気付けば懐に小さな子供がいた。

 

 身体を開き、そこから突きを放つ。だが、それよりも速く朔の脚が動いた。紅摩の拳が加速されるよりも速く、朔の踵による前蹴りが紅摩の腹を貫いた。

 

 硬化した身体の中身に衝撃が来る。その衝撃に目を見開き、だがそれ以上に紅摩は驚く。

 

 紅摩に接近戦を挑むと言うのか。痛みを感じた。この殺し合いで始めてのことだ。

 

 そして朔の抜き手が再び紅摩を襲う。

 

 紅摩に対し、人外の肉体を持つ軋間紅摩に対して、その攻撃範囲に自ら入り込み接近戦を仕掛ける。それがどれほど危険なことか、朔は考慮さえしていない。

 

 斬撃が通らない。幾重の交差で把握したのは、目前の混血が生命という領域において場違いな強さと硬さを持っていることだった。

 

 紅摩の一撃。質量を持ったそれに、朔は当たってもいないのに自身が粉微塵と化した未来を見た。その一撃ひとつずつが砲弾と化している。それが刹那のうちに打ち込まれてくるのである。

 

 そして紅摩は体術を収めていると見えるが、それは力の揮うままに戦う術。それだけだ。だがその全ての動作が桁違いに速い。威圧を放ちながら直線的に突き進んでいくその様は正に化け物の闘争だ。

 

 そんな者が目の前で拳を振り上げた。未だ小さな朔には有効にも見える上段からの攻撃。それは鉄槌のように振り落とされ――――。

 

 だが、それよりも速く死角へと動いた朔はそのまま左の抜き手で再度紅摩の腹を貫く。

 

 紅摩苦悶は浮かべず舌打ちのみ。人間の肉とは思えぬ硬さに指が軋む。だが、それでもその一撃は紅摩の中身に衝撃を与えた。

 

 以前の七夜朔ならばこのような動きは出来なかった。しかし、あの時、梟と対峙してから身体が軽い。今まで感じたこともないような膂力の向上。劇的に変化した朔の身体能力は一体何なのか理解できる者はいない。だが、しかし梟という化け物との対峙に朔の退魔衝動が鼓動を始めたのは確か。

 

 そして今、朔は軋間紅摩と対峙している。あの時よりも濃い魔の気配。化け物として核が違う。

 

 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。

 

 退魔衝動の叫びが止まらない。内側から歓喜交じりの絶叫を上げて、紅摩の命を奪おうとする。強まる一方の退魔衝動。それは梟よりも強い反応だった。

 

 朔は滾るような感情をもっていなかった。そんな朔に始めて生まれた感情は殺意でしかなった。人間を理解することも出来ない朔にそれまで感情はなかった。在る、それだけ。それはまるで人形のような生命だ。

 

 しかしそれがいま、温度を持ち始めている。感情が強くなっていく。内側から張裂けそうなこれは一体何なのか。

 

 朔はそれに身を委ねた。悪くない、悪くないと温度を思い、だから紅摩に近づいていく。

 

 そして始まった接近戦。一撃離脱の動きから一変した動きを見せた朔と、それに応じる紅摩。

 

 そこは爆心地と化した。

 

 紅摩の攻撃が激化する。炸裂するかのように、一撃一撃が朔を殺しうるそれが幾度となく朔の小さな身体を狙う。だが、それを朔はひたすらにかわし、かわしていく。いなすのは良くない。防御など最悪だろう。防げばそのまま潰されてしまう。

 

 だが、それを正面から受けるほど、朔は猪突猛進ではない。

 

 朔は把握していた。この男の長い髪によって隠された右顔面の目は潰されていて、そこは視覚範囲外ということに。

 

 接近戦の最中、朔の動きはその死角に移動し続け紅摩に打撃を与える莫迦らしい戦術だった。嵐のように攻撃を繰り出す紅摩、その一撃は朔如きあっけなく死に絶えるだろう威力が込められている。それを目の前の距離のぎりぎりの場所で回避しているのである。正気の沙汰ではない。

 

 顔面の横を通る下段突きに朔の顔面が剥がれる。

 

 錯覚とは分かっている。だが、紅摩の攻撃は朔に破壊のイメージを叩きつけるには充分すぎる。

 

 しかし、恐怖はわかない。恐怖を抱くような、上等なものなどありはしない。

 

 朔の攻撃には確かに人を殺める膂力はある。だが、未だいかんせん未熟な子供の肉体。ものには限度があった。紅摩のように人外に近い者であるならば桁違いの潜在能力を秘めているだろう。だが、朔は未だ人間である。

 

 斬撃が通じない。どういうわけか、紅摩の身体に刃が通らない。目前の相手に自身の攻撃が通じないなど直ぐにわかった。そして今こうして爆心地の中にいて近距離の攻撃を繰り出しても、衝撃を与えるのみだとは、感触で分かっている。ダメージには及んでいない。しかし、これ以上に朔には術がなかった。

 

 朔では、これを殺せない。

 

 その事実が朔の目の前に存在する。

 

 存在が違う。桁が違う。核が違う。最早人間の範疇には属することも出来ぬ混血。それに対し、朔は歯が立たない。

 

 状況は変わらない。だが、朔ではこれに届かない。

 

 放たれる威圧感。それと朔が発する望外の殺気が交じり合い、今この瞬間ここは異界と化している。その場に二人。他には誰もいない。朔のいるべき場所。朔の望まれた空間。

 

 しかし、蓋を開けてみればどうだろう。朔は未だ殺せず、混血の脅威に晒されている。

 

 恐るべき威力を秘めた上段蹴りが朔の頭を潰そうと放たれた。目視も出来ぬ速さ。当たれば頭部が爆ぜるだろうそれを身を地面と平行になる姿勢となって回避。そしてそのまま飛び上がろうとする朔の頭上に、かつて黄理から喰らったアレよりも威力を持った踵落しが襲い掛かる。稲妻めいたそれを身体を捻る事ですんでに避け、紅摩を見やる。無機質な朔の目にはこの状況に薄く口端を持ち上げた鬼の顔。それは笑っているのか、はたまた皮肉なのか。

 

 朔に判断できない。把握もしない。しかしこのままではジリ貧で危うい。

 

 そもそも、戦闘になった時点で朔に勝ち目は少なかっただろう。

 

 七夜は殺し屋、即ち暗殺者。戦闘になった時点で暗殺者としては失格に尽きる。

 

 だが、朔は此度が始めての殺し合い。あの時は邪魔が入ったが、今回ばかりは違う。襲い掛かる混血、殺そうとする七夜。この関係は簡潔で分かりやすい。

 

 だから朔は殺す。

 

 それに、内側が先ほどからけたたましい。

 

 紅摩の殺害を促し続ける内側に頭が支配されている。

 

 思考はそれのみに割かれ、如何に混血を解体しえるか。

 

「殺す」

 

 弾幕めいた攻撃をひたすらにかわしながら朔は再び呟いた。

 

 それは自己暗示に近い。必ず殺す。殺す。殺す。

 

 それが朔の意味、意義。

 

 

 だが、変化は唐突に訪れた。

 

 

 紅摩と対峙し、所詮拮抗状態などありはしないのだ。

 

「―――っ?」

 

 がくん、と足場が崩れた。

 

 繰り返される交差、変化していく攻防。嵐のような攻撃を避け、常に紅摩の威圧感に晒され。意識は常に紅摩のみに向けられていた。

 

 朔自身は気付いていなかったが、朔の肉体には無視できない疲労が蓄積されている。

 

 ゆえに、気付けなかった。

 

 紅摩の踏み込んだ地面が砕けている。不安定な足場。踏み込むには、あまりに拙い。

 

 中途半端に沈下した地面に、足が取られた。一瞬、動きが止まる

 

「――好機」

 

 そこに影がさす。見逃す事はありえない。

 

 軋間紅摩の右腕が無慈悲に振り落とされた。

 

 回避不可能。体勢不十分。迎撃開始。

 

 唸りをあげて迫りくる豪腕に右手の小太刀が煌く。月光を浴びた冷たい輝きが拳に向かって突き立つ―――!

 

 しかし、体勢も整わぬままに右腕の力のみで放たれた斬撃が紅摩に通じるはずがない。小太刀の迎撃はあっけなく弾かれた。

 

 そして訪れる、凪ぎの一撃。頭部を狙った、拳。

 

 迫る、死。

 

 朔に、選択肢はない。

 

 □□□

 

 許さない。許せない。許しはしない。決して許すことは出来ない。

 

 銃声と悲鳴の鳴り止まない七夜の森を疾走する。暗い森の中だが、七夜には大した事ない。生まれた頃から生活してきた森だ。ここは七夜の庭。例え先が見えない夜の暗闇であっても安易に進める。

 

 だが、今そこに憎たらしい人外が入り込んできている。

 

 許さない。許せない。許しはしない。決して許すことは出来ない。

 

 憎悪で命を殺せるならば、すでにあいつらは絶滅している。奴らは犯してはならない罪を犯した。生きていることでさえ許せない事であるのに、この森に踏み入ったのだ。

 

 許せられる事ではない。

 

 断罪だ。絶滅だ。何を敵に回したのか、思い知らせてやる。

 

 衝突は始まっている。今もこうして七夜の誰かが死に絶え、それ以上の数の敵が殺されていく。しかし、数の暴力というべきだろうか。敵の数は多い。更に暗視スコープを用いた遠距離からの射撃。七夜が近づくよりも前に七夜が死んでいく。

 

 通常の人間相手ならばこうはならなかった。七夜の隠密技術そして移動術は人間相手には有効だ。だが、今七夜の相手は化け物どもの混ざり者だ。身体能力は高い。人間よりも。ならば七夜が押されるのも納得はいく。故に七夜は押されつつあった。

 

 だが、立ち止まることは許されない。

 

 死ねや死ねや。お前たちは死ななければならない。それだけの事をしたのだ。滅んで償え。そしてこの世からその存在の一片まで消滅しろ。

 

 七夜の退魔衝動が語りかける。殺せと。殺して殺せと訴える。それに嬉々として了承。

 

 敵は確実に七夜よりも多い。物量作戦だろう。

 

 だが、そのような事は関係しない。

 

「いたぞっ、七夜だぁ!!」

 

 混血の声。怒声にも似た悲鳴だ。化け物の側に人間が降り立った。この世には幾重にも理不尽が存在する。今この時、この森に入り込んだ遠野の私兵隊。混血である彼らは人間に劣ることはない。カテゴリーがそもそも違うのだ。故に比べることが誤り。だがこの時、彼らは確実にこの世の理不尽と遭遇したのである。

 

 自身の得物を握りしめる。何の変哲もない短刀。しかし、それだけで充分だった。

 

 血に塗れた七夜を目の前に恐慌もなく動けるとは、やはりプロだろうか。だが、しかし、それだけでは足りないのだ。

 

「っっっっっっ!」

 

 何処からか悲鳴が聞こえた。位置にして七夜の悲鳴だろう。今もこうして七夜は死んで行く。敵を殺しながら死んでいく。数を減らしながら。絶滅の道を歩もうとしている。

 

 だが、それを是とする。死んで生き様を示すのみ。

 

 何かおぞましいものでも見たような悲鳴が聞こえた。

 

 血塗れの、殺人鬼が、にたりと笑みを浮かべた。

 

 □□□

 

 衝撃。

 

 それはありえない光景だった。

 

 人が宙を舞う。言葉にするならばそれだけのこと。だが、それがありえない。

 

 成人した男の一撃とそれをぶつけられた子供の肉体。体重差は歴然としている。

 

 だが、それでも人間が宙を飛ぶという非現実的な光景。

 

 打撃で地上を遥かに飛ばされるという現実が展開された。

 

 朔の身体が、冗談の様に、宙に弾け飛んだ。

 

 衝撃。

 

 地面に叩きつけられた。しかし、それさえも朔には理解できない。

 

 咄嗟だった。

 

 無意識のうちに、朔は後方に飛びながら、全身を脱力させ、頭部を狙った一撃をずらし防御した。まさに奇跡としか呼べないようなタイミング。日頃から黄理に叩き込まれた戦闘訓練による賜物なのだろうか。

 

 だが、そんなことを気にする余裕など、朔にはない。

 

 紅摩の攻撃を不完全ながらに防いだのだ。衝撃は凄まじく、視界はドロドロ、呼吸が出来ない、吐き気が込みあがる。口から滴る血。全身に苛烈な痛み。地面に叩きつけられた状態のまま、朔は動けないでいた。地面が赤く染まっていく。

 

 そして。それは朔を追随するかのように宙を舞い、地面に落ちた。

 

 地面に落ちているそれは朔にとっても見慣れたかつての身体の一部分だった。

 

 僅かに指先が開かれた手。

 着流しごと引き裂かれた腕。

 その様は出来の悪い人形の一部にも見えた。

 もげた、左腕。

 

「―――――――――――――――――――――――――っ!!!!」

 

 それが紅摩の一撃を防いだ代償だった。

 

 紅摩の一撃を防いだはずの左腕は関節を破壊し、筋肉を引き千切って朔の腕を根元から奪った。

 

 もがれた肩からは白い骨と千切れた筋肉繊維が晒されており、今もそこからは夥しい血が漏れていく。月光に照らされた鮮やかな紅が、朔の命を流していく。熱が失われていく。

 

 痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛――。

 

 痛い。脳が蕩けそうなほどに痛い。喪失感を感じるよりも先に今まで感じたこともないような傷みが侵食していく。

 

 だが、たったそれだけ。それだけだ。

 

 たったそれだけの犠牲で紅摩の一撃に生きながらえた。

 

 正に満身創痍。ただの一撃で朔の身体は壊れかけた。

 

 だが、死んでいない。

 

 遠くの方で、紅摩の視線を感じた。朔を待っているかのような視線だった。あやふやな意識でありながら朔は今、立ち上がろうとしている。辛うじて無事な右腕を支えに、その身を持ち上げようとする。だが、無視できないダメージに身体の各部が言う事をきかない。

 

 朔はこれまで黄理を相手に戦闘訓練を行ってきたが、今肉体を襲う痛みは何ものにも勝っていた。これほどの苦痛を朔は知らない。痛みで身体が潰えてしまいそうだ。全身が熱を持っている。

 

 だが、その目、最早何処を向いているのかも分からぬ瞳は敵の姿を映し出していた。視界は揺れている、だけど、紅い靄に包まれた混血の姿ははっきりと見える。そうだ、敵はいる。殺す相手がいる。ならば朔が殺す。

 

 ずくんずくん、と失われた左腕が悲鳴をあげている。幻痛。最早なくなったものが痛い筈がない。しかし、肩からの出血は軽視できない。危険な怪我だ。身体の熱が失われていく感覚。

だが、徐々にではあるが朔の身体が起き上がっていく。

 

 そして、思う。紅摩は答えを探している。求めている。そこに理解はなく、共感もなく、漠然とした認識。だが、それ以外を朔に期待するのが間違っているのだろう。

 

 朔と紅摩。生まれは違えども、二人はどこか似ていた。孤独を知り、その才によって恐れられた二人だ。独りを受け入れた二人だ。温もりが分からぬ二人だ。確かに二人が置かれてきた環境はどこか似ていた。

 

 違いがあるとするならば、己の生に意義を見出したことにあるだろう。

 

 紅摩は世俗を離れ、解脱を目指し生の実感を求めていた。

 

 しかし、朔はそのようなことなど疾うに定められていた。

 

 朔は殺す者。殺すだけの者。

 

 殺すために生を受け、殺すために育てられ、殺すためだけに教えを受けてきた。

 

 朔はそれだけだ。それだけの存在なのだと自分を定めている。

 

 それ以外のモノに興味も持たず、それ以外のものを求めず、また視野にもくれない。

 

 全ては黄理のようになるために。

 

 情は理解できない。心など見出せない。

 

 ゆえに立ち上がる。

 

「―――――づぁっ―――ぎ」

 

 歯を食いしばって、立ち上がる。力も入らぬ右腕に口元から呻き声がもれた。

 

 だってそれだけしかないのだ。それしか理解できないのだ。殺す、殺すために存在している。それだけが朔の全てなのだ。黄理に届くためにそうなる事が朔の存在理由なのだ。

 

 全身が言う事を聞かない。抜けてくれないダメージ。痛みに意識が持っていかれそうだ。

 

 左肩の出血が止まらない。致命的な傷だ。動脈諸々引き千切られたのだ。止まるはずがない。

 

 しかしそれだけでは止まらない。止まることはない。

 

「ぐぎっ―――」

 

 硬いものが口の中で砕ける感覚。奥歯が噛み砕かれた。

 

 あの時、紅摩の一撃に死を見た。鬼の豪腕に全身が砕かれた。

 

 しかし、何も感じなかった。

 

 痛みは痛い。しかし、それにどうすればいいのか分からない。痛がればいいのか、泣けばいいのか、苦しめばいいのか、怯え恐怖し、紅摩に対して許しでも乞えばいいのか。

 

 だが、それが出来ない。

 

 自身が死ぬかもしれない、いや、あの時朔は死んだ。今生きていることがおかしい。

 

 だが、それはきっと、何も感じることの出来ない自分こそが最もおかしい。

 

「が、ああああああああああああっ」

 

 動く。未だ、身体は動く。動かなければならない。ここまで声を上げたのは生涯で始めてだ。

 

 敵は目の前。殺す相手は目前だ。ならば動かなくてはならない。未だ殺していない。

 

 そうだ。朔は未だあれを殺していない。朱の鬼を殺していない。殺意は消えはしない。

 

「……」

 

 知らず、紅摩は動けなかった。

 

 殴り飛ばした朔が、こちらを見ながら立ち上がったのだ。

 

 拳には朔の身体を打ち砕いた感触がある。決して完全とは言えぬ一撃ではあったが、それでも朔を打ち砕くには充分すぎる一撃だった。

 

 しかし、それでも朔は立ち上がった。その身体は満身創痍。藍の着流しは土に汚れ、肩から流れる血に染まっていく。地面に打ちつけた全身は擦り傷だらけ。しかしそれ以上の故障は幾つも見える。根元からもがれた腕のない左肩が不気味な様相を見せていた。その身体も支えきれぬのか辛うじて立ち上がっているよう。

 

 だが、殺気は消えない。あろう事か更に鋭さを増している。

 

 悪鬼のような子供だ。打ち砕いても死なない。自分では敵わないとは、当然ながら分かっているだろう。それでも立ち上がった。その姿はまるで死にたがり。死に向かって邁進する愚者。足掻いているその姿まで虫のようだ。

 

 しかし、紅摩はその姿を笑わない。笑うことが出来なかった。

 

 微かなシンパシー。生き方を定めていながら、それに縋るしかない子供。生を求めると言う意味では、二人とも同じ求道者であった。しかし、その生の実感を得られない紅摩にとって、例えそのような生き方であれ、生き方の定められた生は羨ましからぬ事であった。

 

 立ち上がり佇む朔は明らかに衰弱している。出血による影響、痛み、疲弊。既に声が聞こえているのかも怪しい。しかし、紅摩は語りかけた。

 

「問おうわらべ。お前にとって生とは何か」

 

 佇む子供の姿が、何処となくあの男に似ていた。森に朔の苦しい呼吸が沈む。痛いはずなのに、朔は相変わらずの無機質な目。無表情。不気味だ。だが、それ以上にその反応のなさが痛ましい。

 

「殺すだけ」

 

 紅摩に向けられた言葉ではない。それは己に向けた言葉だった。

 ひどく掠れた、子供らしくない、始めて紅摩が聞いた朔の声。

 

「そうか……」

 

 残った左目を閉じる。そして朔の生を思った。殺すためだけの人生。七夜という一族ならばそれはきっと正しい。何とも七夜らしい答えだ。だが、その人生、あまりに儚い。そのためだけに存在しているのだ。

 

――――それは、まるで自身と同じような存在。所詮殺すことしか出来ない紅摩と、殺すことこそ全ての朔。一体何が変わるのだろう。

 

 朔の出血は著しくショック死も可笑しくない。止血も行っていないのだから尚更だ。それでいて身体を自らの意思で動かし、紅摩を殺そうと殺気を滾らせているのである。その精神力は計り知れない。

 

 だが、最早決着はついている。どれほど朔の精神が強靭であろうと肉体が限界だ。動かすには最早血が足りない。

 

 終わり。この殺し合いは終わりだ。

 

 紅摩は漠然とそう思い、そしてなぜか僅かばかりの落胆を抱く自分に気付いた。それがなぜなのか紅摩は分からず、その気持ちもやがては消えた。

 

 しかし、紅摩は知らなかった。分かっていなかった。

 

 七夜は殺し屋。殺すことを糧とする一族。故に殺すことへの執着は最早拭うこともできない。

 魔へと対抗するために永の時を暗殺術の昇華へと費やし、近親相姦によって人間が持つ退魔衝動を特化させた彼らなのだ。

 

 その肉に流れる血の中へと刻まれた七夜の系譜は真に度し難く。

 七夜の血は最早、人としての規格すらも越えようとしていた。

 

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!」

 

 地を舐めるような低さで朔は霞んでいく。骨まで晒す肩の断面から血を撒き散らし、ただまっすぐに。影も置いていかんばかりの疾さで向かっていき、弾丸のようにそれを射出した。

 

「――――っ」

 

 ――――それは、朔のもげた腕だった。

 

 

 今しがたもがれた人間の腕が、真っ直ぐに恐るべき速さで紅摩へと投擲されたのだ。

 

 恐るべきは朔だろう。自分のもがれた腕を拾い、それを投擲したのだ。不気味や恐れを感じることもなく。およそ通常の子供に出来る選択ではない。

 

 紅摩もまた、自身に飛来する腕を見て目を見開く。

 

 そしてそれ以外の方向から何かが空気を切り裂いてくる。

 

「な―――」

 

 ―――全く別方向から、金属が飛来する。

 

 それは、紅摩にも見たことがあるものだった。

 

 月光を浴びて煌く刃。

 

 小太刀。朔が振るっていたはずの小太刀が、飛来する腕とは逆の方向から飛んでくる。紅摩の視界ギリギリに刃が見える。しかもそれは投擲された腕と同等の速さ。刹那のうちに腕と全く同時に着弾する速度で紅摩に襲い掛かってきたのだ。

 

 しかし、紅摩の身体にそれが傷を与えるのか。

 

 朔は分かっているはずである。己では紅摩を殺すことが出来ぬことを。

 

 ならばこの攻撃は囮か。だが、向かってくるそれらはどういうわけか、今まで朔が攻撃してきた手段で最も疾く、紅摩に突き刺さらんと迫ってくるそれらは、紅摩でも無視できぬ威力を秘めている可能性がある。

 

 しかしここにきて、紅摩は違和感を覚えた。

 

 朔の気配が、ない。

 

 先ほどまで感じていた殺気が嘘のように消え去り、森のざわめきも収まっている。どれほど気を巡らせ、あの曖昧な幽鬼の気配を読もうとしても、朔は何処にもいなかった。

 

 撤退。それが浮かぶ。あるいは途中で息絶えたか。投擲の攻撃は少なくとも撤退のためのものだろうか。

 

 瞬間の中、紅摩はそう思い、飛来するものから身を守るために、それらを何とかして同時に打ち払う――――。

 

 ―――刹那、紅摩の首筋を、ナニカが撫でた。

 

「っ!!!!」

 

 紅摩の頭上、夜空に吊るされた満月を背に、朔は宙に飛んでいた。

 □□□

 

 七夜最秘奥、極死・七夜。

 

 それは回避不可能な正しく必殺の一撃であり、それを放てば必ず殺す、必ず殺さなくてはならない七夜の最高技術。

 

 武装の投擲に追随し、投擲された武装と同時に相手に到達、そして武装を回避しようとすれば接近した術者に首を捩じ切られ、術者を回避しようとすれば武装によって致命的負傷を負う二段構えの攻撃である。だが、言うは易し。行うは難し。

 

 この技術を会得するものは暗殺集団である七夜でも少ない。それは正確無比な投擲を要求し、更に投擲した武装と同等の高速移動。それに合わせたしなやかな動き、武装の追突と首を捩じ切るという行為を同時進行させる要領の良さなどが必要とされるからである。

 

 それら全てを混合させることで始めてそれに近い動きを可能とする。

 

 もちろん、可能とするだけでそれは完璧とは程遠い。

 

 暗殺とは完全でなければならない。完全でなければ死ぬのは自分であり、それは即ち一族の危機にも繋がりかねない。ゆえに七夜には完全、または完璧が要求される。

 

 だからこの最秘奥を完全に体得することは七夜として最も必要とされ、また課題でもある。だが、これを体得するのは容易ではないため、これを会得する七夜は正しく七夜の最高戦力と言っても過言ではない扱いを受ける。

 

 極死・七夜を会得する者は七夜の体現であり、それ即ち七夜一族の指針となるべき存在。

 

 そして、朔もまたその術理を会得した七夜であった。

 しかし、それを朔は知らない。

 七夜朔は極死・七夜を授けられていないのだ。

 七夜黄理に教わったわけでもない。

 翁に口ぞえされた訳でもない。

 誰からも、それを教わっていないのだ。

 だが、七夜朔の中に滔々と流れる七夜の血は七夜の歴史を刻んでいる。

 ならば、七夜朔の脳が、肉が、血が七夜最秘奥を知らぬはずがない。

 七夜朔は純潔の七夜。

 誰にでも無く、七夜朔はそれへと辿りつく。

 

 ――視える。

 

 紅い靄。それが、気体のようでありながら質量を持ち始め、朔の視界に展開されている。

 

 そしてそれらは、紅摩の周囲を覆い、紅摩自身から発生していた。

 

 紅いそれは紅摩を覆い隙間なく展開されており、どういうわけかそれは時折変化して一部が伸びたり、大きくなったりしていく。

 

 最早考える意識もない。血が、足りない。

 

 身体が冷たくなっていく。

 

 人間が出血で死ぬ致死量は体を流れる血液の三分の一。

 

 おそらく朔はそれに達しようとしている。

 

 やがて、朔は死ぬだろう。肉体は限界だ。心臓の鼓動が激しい。命が燃え尽きる。

 

 

 だが、駆けることは止めない。

 まだ、死ぬわけにはいかない。

 

 肉体を動かすのは意志。意思は既に消えかかっている。紅摩を殺そうとする意志のみが朔の体を突き動かす。森の中を駆け回り、木を走り空を走り、気配遮断を無意識のうちに行う。全てはアレを殺すために。

 

 無意識の殺人行動。退魔衝動は既に朔そのものと化した。

 

 動き続けるその様は腕を一本失ったことにより安定していない。更に意思の曖昧なその動きは退魔衝動による極めて本能的な動きであり、人間の機動ではない。

 

 最早それは投げ出された人形のような、不気味な姿であった。

 

 弾丸めいた朔の千切れた腕、満身創痍と化しても握り続けた小太刀。それが同時に紅摩へと向かっていく。移動と共に投擲されたそれらは、速度は違えど全く同時に着弾していこうとする。

 

 ――そして視えた。

 

 紅摩を取り囲んだ紅い靄が形を変えた。

 

 同時に迫る弾丸に向かって紅が薄く伸びていく。

 

 そして、紅摩の頭上。

 

 そこに靄はかかっていない。消えている。

 

 靄の正体はわからない。それが一体何なのか見当もつかない。

 

 だが、その空白に。その僅かな間隙に。

 

 ――勝機を視た。

 

 朔は紅摩の頭上へと飛翔し、残された右腕が紅摩の頸部を破壊しようと奔る。それはどう映るだろう。突然気配もなく音もなく空に朔が現われたのである。

 

 その瞳は、蒼い。虚空を思わす空の蒼。

 

 だが、最早それは死んでいる。瞳は既に生気を無くしていた。無機質だった瞳には力もない。それでも視えた、僅かな勝機。それに向かって最早意識も消えようとする朔は滑空する。

 

 そして、弾丸が着弾。

 

 その瞬間朔の手が紅摩の首に僅かに触れ――――。

 

 ――――朔の頭部を、無骨な掌が掴まえた。

 

 □□□

 

 紅摩の拳に握られた小さな子供の頭部。

 

 振り向きざま、僅かな感触に反応した紅摩の腕が、いつの間にか朔の顔を掴んでいた。打ち払うはずの腕をそのまま頭上へと伸ばしたのである。

 

 その体、心臓の上には肉にのめり込んだ腕と、首筋に僅かばかりに突き刺さった小太刀。そこから微量の血が滲み出た。朔の投擲は紅摩の皮膚を破れども、結局肉を裂く事は叶わなかった。

 

 そして、吊り上げられる。垂れ下がる朔の肉体。抗う力さえ残っていないのだろう。掴んだ拳の隙間から、輝きのない蒼の瞳が見えた。

 

 ――魔眼発現。

 

 七夜の超能力、淨眼。ここに来て、朔は魔眼を発現させたのだ。

 

 だがそれも及ばず、今朔は死のうとしている。

 

 血は止まらない。流れ流れ、朔を殺す。

 

 そして、目前の存在もまた、朔を殺す鬼であった。

 

 恐るべき紅摩の握力に朔の頭部が悲鳴をあげる。

 

 しかし、朔には声を上げることも出来ない。時折、ピクリとその身体が動いた。

 

 その様を見る紅摩の瞳は感情が読めない。朔では紅摩を殺しえない。分かっていたことだ。これは詰まるところ、必定の結末。

 

 だが、少しだけ、ほんの少しだけその瞳が揺れた。

 

「……」

 

 朔を掴む紅摩の腕が、尋常ではない盛り上がりを見せる。筋肉は膨張し、それはやがて熱を生み出し。

 

 紅摩の生み出す熱に、陽炎が現われた。自身でも制御できぬ熱をそのままに、紅摩は次第に力を増していく。

 

 朔の頭部が軋む。それは紅摩にとって硬いが、それだけのもの。紅摩の握力は人間の頭部などあっけなく握りつぶす―――。

 

 ―――圧壊。

 

 

 瞬間だった。

 

 朔を潰そうと力をこめた紅摩の腕に、強かな痛みが奔った。

 

「―――――っ」

 

 そして反応も出来ぬ、風斬り音。

 ナニカが紅摩の側を通った。

「なに―――」

 

 気付けば、紅摩の腕に朔はいない。

 

「餓鬼。俺の息子に、何してくれてる」

 

 

 いつの間にかそこに、男がいた。

 

 鋭い、研ぎ澄まされた抜き身の刃を思わす男。空気を切り裂くような雰囲気を滲ませ、

その場に佇んでいた。そしてその瞳。蒼く、ひたすらに鋭い視線は得物を狙う鷹のよう。それが殺意を孕み、紅摩を睨む。しかしその瞳は笑っている。嘲っている。殺したくて仕方がないと、紅摩を見て笑っている。

 

「貴様は……」

 

 黒い装束。細く、しなやかな肉体。

 そしてその腕には、命消えかかる朔が抱かれ、握るは鉄の輝きを放つ二本の撥。

 

「七夜、黄理――――っ」

 

 男は、七夜黄理は、当たり前のように、そこにいた。

 

 




 勝てません。軋間紅摩に勝てるわけがありません。

 どうも、六です。

 紅摩の理不尽なまでの強さを表現したかったのですが、どうです?無敵っぽいですか?
 私の中で紅摩の理不尽さはバーサーカーに匹敵しています。これで紅赤朱状態になったら手がつけられません。
 
 あと、なんで黄理よりも先に朔を紅摩にぶつけたのか。
 ぶっちゃけ黄理よりも後に戦ったら余裕で殺されます。紅摩ヒャッハーーしてます。スイッチ入った紅摩を相手に朔が敵うわけがありません、
 なので黄理よりも先にかちあってギリギリ生存させる形となりました。

 この話となる以前ですが、いくら書いても朔が死ぬ結果になり頭を抱えました。紅摩に殺され、紅摩に潰され、紅摩に焼かれ、紅摩に紅摩に紅摩にetc……。
 どう考えても紅摩に殺されるシナリオしか思いつかない。なので無理矢理この形となりました。それでも死に掛けていますが。

 以下今回のおさらい。
 七夜朔は厨二病(魔眼)を手に入れた。
 七夜朔はロケットパンチを会得した。(ただし一回限り)
 七夜朔は紅摩との強敵フラグを立ち上げた。回収は未定。
 七夜黄理は美味しい所を持っていった。
 七夜黄理はドサクサに紛れ朔を息子と公言した。


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第十四話 鼓動

 世界が、死を望んだ。

 

 この時、七夜の森にいる生命は自身の死を見た。無残に殺されていく死を幻視した。それは人間、混血も例外ではなかった。原型を留めぬほど殺されつくした自身の造形を見たのである。

 

 森にいるあらゆる生命は自らの死を望み、自ら息絶えていった。虫は共食いを始め、鳥は飛ぶことも出来ずに堕ち、動物は壮絶に死に絶えていく。この世界そのものから逃げていくように。

 

 動物は本能で生きているが故に賢しい。自らの死に敏感であり、読み取る力に優れている。老いた狼などには死期を悟り、群れを離れる習性がある事がそれを証明している。故に、今この時、七夜の森を飲み込んだ殺気。それに中てられ、生命は自らの死を選択した。今この時こそ自身の死期であると悟ったのである。

 

 森の中、対峙するは人間と人外。

 

 片や混血。人外の力を揮い圧倒的な力で命を押しつぶす絶滅種。

 片や人間。長の時間を混血殺しとして歩んできた暗殺者。

 

 遠野分家最後の当主、鬼種の末裔軋間紅摩。

 退魔一族七夜現当主、鬼神七夜黄理。

 

 七夜と遠野が殺し合いを今正に行っている。銃声は絶え間なく降り注ぎ、悲鳴は天にも届かんばかりに響いていく。しかし今、両者に於いては喧騒は遠く、互いの存在しかいないよう。

 

 今この時。かつて出会った二人は、今この時遂に会い見えた。

 

「……」

 

 気がつけば黄理の後方、その側に翁がいた。

 

「朔……」

 

 黄理は腕に抱かれた朔を見た。腕のない、今にも逝き絶えてしまいそうな朔の姿。着流しは血に染まり、身体は赤に塗れ、ボロボロの姿で、動かない朔は黄理の腕の中にいた。

 

 久しぶりに朔の姿を真正面から捉えた。思えば、朔を抱いたのは、生まれたばかりの朔を運んだあの時のみだった。それ以来黄理が肉体的な接触を行なったことはない。だからだろう、朔は黄理が思っていた以上に軽かった。

 

 丸みなく、削げた肉体。子供には似合わない、引き締まった身体。朔よりも未熟な志貴と同等かそれ以下の重さ。それだけしかないのに、朔は黄理の訓練についていき、化け物紅摩との戦闘を行った。

 

 そんなことも黄理は今まで知らなかった。知らず、朔に押し付けていたのである。厳酷な訓練、里の者からの隔離。声をかけることも無く、自分は一体朔の何を見てきたのか。

 

 腕の中、朔は動かない。輝きのない蒼の瞳。浅い呼吸。表情は虚ろ。血の気の無い顔。

 

 死んでいるかのようだった。死にいくようだった。

 

 だが、未だ朔は生きている。死んでいない。

 

「朔」

 

 朔がいないと知り、黄理は前線で敵を殺しながら全力で朔の姿を探した。人数は多く中てられない。現状、七夜は押されようとしている。人外に対し、前線を保っているが、それはいつまで持つか。

 

 魔眼を使えども、朔の思念が見えなかった。黄理の魔眼は人の思念を視る。人は気配は隠せども、思念を隠すことなど出来はしない。この魔眼により、黄理は今まで暗殺を達成してきたのだ。だが、朔の思念が視えない。多くの思念に呑まれたのか、あるいは、朔は既に倒れたのか。

 

 そんな時である。

 

 森が悲鳴をあげた。

 

 身も凍るような殺気が七夜の森を震わせたのである。それと同時であった。紅い思念を捉えたのである。

 

 黄理を動かしたのは予感であった。頼りなることも、頼ることも無い予感であった。ナニカ化け物がいて、そこに朔はいると。

 

 そして黄理はたどり着いたのである。一瞬たりとも遅ければ、黄理の腕の中に朔はいなかった。紅摩と子供の死体のみがいたはず。

 

 声をかけたかった。だが、自分は一体何を言えばいいのか。何を言うべきなのか。分からない。今までの影がちらついてくる。当主として朔に接してきた。酷な事をしてきた。

 

 だが。それでも黄理は―――。

 

「よく、やった」

 

 朔の父になりたかった。

 

 意識もあるか分からぬ朔に、微かに笑む。

 

 不器用な笑みだった。

 

 それは奇しくもあの時。

 

 生まれたばかりの子供に名を与えた朝焼けに似ていた。

 

「翁。朔を連れて退き、治療を行え」

「はっ」

 

 恭しく翁は朔を黄理の腕から引き取った。

 

 翁は何も言わず、朔の着流しを肌蹴、一部分を裂いてその布切れを使い止血を始めた。腋の下にある動脈を圧迫させることで応急的な止血を瞬時に行ったのである。しかし、これは応急処置。大小多くの傷が見える。だが、何よりも左肩。赤く赤い傷口が曝け出されている。引き千切られた筋肉繊維、赤い色に塗れた白の骨止血すれども血は勢いを殺したのみ。早急な治療が必要である。

 

「御館様。朔様を運びます。……御武運を」

 

 翁は消えていく。その腕に朔を抱きしめて。

 

 そして残されたのは黄理と紅摩。互いに無言。ただ殺しあうためだけにめぐり合ったのだ。言葉は不要。交わすような言葉などありはしない。

 

 ここに来て、黄理の内側に激情は無かった。我が子である朔が死にかけた根源が目前にいるのにである。それなのに心は落ち着き払い、ひたすらに表情は冷たい。

 

 心は何も無い。殺人機械。

 

 ――――目前に、金属が迫った。

 

 猛り、紅摩が襲い掛かる。

 

 瞬時に黄理の姿が消える。

 

 瞬きも追いつかぬ疾さ。影すら置いていき、風すら起こさずに。

 

 黄理は、紅摩の首を凪いだ。

 

 交差が始まる。殺し合いが、始まる。

 

 そしてこれが。

 

 

 

 朔と黄理の、最後の会合だった。

 

 □□□

 

 七夜の森を全力で進みながら、翁は現在の戦況を鑑みる。

 

 状況は不利。人外どもの戦術に七夜は押されている。七夜最強戦力である黄理は前線ではなく、一人の混血の相手をしている。遊撃の攻勢が減少したのは紛れもない事実。今こうしている合間に、七夜は死んでいく。死に向かって歩んでいく。これからどれほど耐えられるかが鍵だ。

 

 しかし、問題はあの混血だ。

 

 あれは危険すぎる。些か、黄理にさえ手に余りそうな存在。真正の化生の気配だ。あれがどうなるかで、おそらく勝敗は分かれる。七夜が滅ぶか。混血が死に絶えるか。

 

「ふむ、早く戻るのが得策ですかな」

 

 指揮を行えぬはまずい。だが、それを抑えてなおも、あれは止まるかどうか。

 

「朔様。もう少しの辛抱ですぞ。今しばらくその命、彼岸に持っていかれまするな」

 

 腕の中にいる朔はもう戦えない。目に見えるほどの重態である。肩は捥げ、失血が激しく、意識が無い。チアノーゼが出始めているのが確認できる。今も尚、僅かに開かれている蒼の瞳に生気はない。死に逝く者の目である。翁としてもこれ以上朔が戦うことは許容できなかった。

 

 朔は子供にしては異常な子供だった。高すぎる戦闘能力、早過ぎる成長速度。虚無に支配されたかのような様相。七夜の鬼才。鬼神の子。黄理の実子、志貴よりも次期当主として将来を囁かれ期待された子供である。

 

 だが、それは翁にとってあまり関係のない話である。短くない時間を七夜として生きた。この里に生きる七夜は翁にとって、朔がどうだろうがあまり意味など無い。可愛い里の子供である。

 

 翁としても朔を救いたい。志貴と共にいた朔の姿を覚えている。虚ろにも似た朔のそれまでとはどこか雰囲気に生じた差異そしてそれを翁は子供らしさと感じた。

 

 死なせない。死なせるにはまだ幼すぎる。朔には生きてもらわなければならないのだ。

 

 胸の中、朔の鼓動は弱いながらも伝わってくる。

 

 その鼓動だけを頼りに、翁は森を走った。

 

 その道を、止まることのない朔の血が点々と続いていった。

 

□□□

 

 遠くから悲鳴が聞こえる。

 

 七夜かあるいは混血か。判断はつかない。ただ状況からして悲鳴は近い。悲鳴がどちらのものであれ、前線は下がりつつある。

 

 それを知りながら、私は何も出来ない事に唇を噛んだ。

 

 万が一のため屋敷は出払っている。最も前線に近い平屋の中で、私は震えている。本当なら屋敷の中にいるべきなのかも知れない。だが、それでも私はここにいたかった。

 

 私たち七夜が暮らすこの森に、人外共がいると言う事実。七夜の領域に今唾棄すべき存在がいると言うだけで身体が憎悪に震える。しかし、混血が近くにいると言う現状に、身体が、精神が怯えを示す。空気から伝わる歪の存在。人間以外の気配が森に充満している。それが堪らなく怖い。

 

 だがそれ以上に、朔が何処にもいないことが怖かった。

 

 朔が何処にもいない。この夜に、朔の姿が見えない。混血の襲来を知り、慌てて朔が寝ているはずの離れに向かった。だが、中には誰もおらず、温もりの無い布団だけが敷かれていた。血の気が引くとはあのことだろうか。それから私は狂乱しようとする精神を堪え、兄様に報告しに行った。

 

 朔がいない。それだけで、私は足元が竦んだ。

 

 禁止令から幾程後悔を重ねただろう。悲嘆に明け暮れただろうか。側にいることも出来ぬ自らを罵倒する日々を重ねても、時間は過ぎていった。しかし、私が朔を想わぬ瞬間などなかった。

 

「大丈夫です」

 

 気付けばそこに、義姉様の姿があった。

 

「義姉様っ?なぜここに?志貴はどうしたのです」

 

 義姉様は現在屋敷の中にいるはず。だが今目の前に義姉様がいた。

 

「心配だったので、こっそりと。志貴なら今は眠っています。あの子寝付きがいいから、直ぐには起きませんよ」

 

 そう言って義姉様は少し微笑まれた。

 

「ですが……」

 

 それが納得いかなくて私は反射的に口を開こうとする。

 

 だが義姉様は、そんな私を見て相変わらず微笑まれていた。

 

「納得出来る出来ないは問題ではありません。……私も、あの人を待っていたいから」

 

 義姉様は言う。貴方と同じように、私も心配なのですよ、と。

 

 義姉様は兄様と結ばれてからそれなりの歳月を過ごされてきた。前線に出ることも少なかった義姉様は、兄様が暗殺に向かう背中をこうやって待っていたのだろうか。

 

 白く細い腕が私の拳に添えられた。いつの間にか、力強く握りしめられた私の拳から血が滲んでいる。気付かなかった。それを柔らかな手つきで解しながら。

 

「待ちましょう。あの人を、朔を。大丈夫です。二人は強い。だから――」

 

 

 

「朔様を見つけました――!!」

 

 

 

 翁の声が聞こえた。突然聞こえたその声に一瞬理解が遅れた。だが、朔という言葉に身体が反応した。急ぎ外に駆ける。平屋を抜けた私が嗅いだのは血の匂いだった。夜に血が染みこんでいる。

 

 翁は直ぐに見つかった。平屋から出てきた私に翁は真剣な鋭い眼差しを向ける。

 

 

 そして、それを視た。

 

 

「え……」

 

 

 イラつくほどに眩しい月光に照らされ、朔の姿が視えた。

 

 

「さ、く―――?」

 

 

 七夜の森を駆けてきた翁の腕の中、そこに朔はいた。

 力の抜けた身体。傷だらけの姿。

 なぜだろう、朔のうでがいっぽんない。

 ひだりのかたから、先がない。

 そこから血、血が血がながれて。

 からだじゅうが血で塗れて。

 朔の着た着流し。きれいだったあいいろは黒ずんで。

 朔は、さくは、さくは。

 おきなのなかで、うごいていない。

 すこしだけひらかれた、めが生きていなくて。

 それは、まるで、さくが死―――――。

 

「―――――――」

 

 乾いた音。

 目前が暗闇に閉ざされようとする私の頬に衝撃があった。

 

 見れば、義姉様が私の頬を張ったと気付いた。

 

「何をしているのですか?」

 

 そして先ほどとは打って変わって厳しい表情の義姉様。

 

「あなたは何をしているのです?」

「……わ、わたしは」

 

 だって、だって朔が―――。

 

「動きなさい。失神するのは構いませんが、それではあなたは何故待ち続けたのです」

 

 それに見なさい。朔はまだ生きています。

 

 義姉様の言葉が耳に、届いた。

 

 朔を見る。すると僅かながらに、本当に見逃しそうなほど少し、胸が上下していた。

 

「あ……」

 

 朔はまだ、生きている。

 

 それが分かり、身体に力が入る。

 

 そうだ。私は、何をしている。まだ決まったわけではないと言うのに。

 

「翁っ!!朔はどうなった!!」

「混血との戦闘により負傷。その際に多量の出血が確認され―――」

「生きているんだな!!」

「はっ。命まだ繋がっておりますが、しかし失血が夥しく危険な状態で御座います。至急治療を行わなければ時期に」

「ならば良い。誰か、ありったけのお湯を沸かせっ。それと増血剤を持ってこい。至急治療に当たるっ」

 

 翁から朔を受け取る。軽い。どれだけ強くなろうとも、朔は子供だった。

 

「それでは、朔様をお頼みします」

 

 頭を下げた後、翁は消えていった。おそらく、兄様の側に行ったのか。

 

 私が朔を育ててきたのだ。私だけが、朔の側にあったのだ。そして幼い朔を守りきれなかったのも、私だ。

 

 ならば、私が朔を救わなければならない。

 

 これは贖罪であり、そして私だけの責務。

 

 腕の中。朔は動かない。その僅かに開いた蒼の瞳。おそらく魔眼を発現させたのか。高みを更に登っているのか。

 

 しかし、そんな事はどうでもいい。

 

 僅かに伝わる命の声音。微弱ながらも、未だ朔が死んでいない何よりの証拠であった。それだけを頼りに、私は動く。それだけで私は動ける。それだけで、充分だ。

 

 □□□

 

 死んでいく。

 

 先ほどまで生きていたはずの命が、死に絶えていく。死んで、殺され、共倒れていく。七夜の森の中、鬱蒼と茂る夜の森に、死が蔓延していく。

 

 人間と混血。七夜と遠野。冷たい冬の満月がぶら下がる中始まった混血による七夜襲撃。戦闘開始当時、前線は互いに譲らなかった。だが、それでも勝敗の天秤は傾きつつある。

 

 数。

 

 単純ながらに何とも分かりやすい暴力。数によって礫殺する。明快かつ分かりやすい力の象徴である。遠野が引き連れた私兵と七夜の対比は明らかに前者に分があった。

 

 更に戦闘。

 

 七夜は戦闘によって生き続けた一族ではない。長い間練り上げてきた暗殺術。それだけで退魔として混血を殺めてきた一族である。戦闘を前提とした術ではない。どれほど巧く命を解体しえるか。それを念頭に置いた一族。

 

 状況は七夜の不利だった。

 

 戦場に於いては七夜が有利だ。森全体に展開する結界、襲い掛かる植物たち、敷き詰められた罠の数。七夜には慣れ親しんだ森であり、この森での戦闘は七夜有利に傾くはず。

 

 だが、それらを掻い潜り、混血たちはやって来ている。それが意味するところは、どういうわけか混血たちはそれらに対応する術を持っていたということ。幸運が幾たびも重なり、偶然に掻い潜ったなどは在り得ない。偶然に偶然が重なった結果は必然以外の何物でもない。

 

 つまり、内通者の可能性。七夜の情報を持つものが、あちらにいて情報をリークさせている可能性がある。

 

それが起因し、七夜は今、滅ぼうとしている。

 

 鳴り止まない銃声に肉体が舞いながら死んでいく。原型を留めぬままに死んでいく。仲間の死体に重なるかのように死んでいく。

 

 止まない銃声。止まない悲鳴。止まない死。

 

 それでも戦うことを止めない。殺すことを止めはしない。確実に滅びようとしているのに、七夜の者が退く事は無かった。皆死んでいく。殺しながら、死んでいく。

 

 混血たちは進む。七夜が死んでいく様を、せせら笑うかのように。

 

 鼓動を奏で、終わりが近く。

 




以下今回のおさらい。
七夜朔は台詞がなかった。軽く死んでた。
七夜黄理は朔をちゃっかり自分の子供扱いした。
妹様は黄理の嫁に気合を打たれた。


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第十五話 ひとつの終焉の始まり

感想、アドバイス、意見、はたまた批判など。
もしよろしければお書きください。
私の血となり、肉となり、骨となります。

では、どうぞ。


 ――――――――――な――――――――――――――――――――――――――っ―――――――――、―――――――――――――ぁ――――――――――――――――――――――――――。―――――――――――――――――――さ―――――――――――――――――――。

 

 音が、聞こえる。

 

 ……………………………………遠く、果ての方から。音が。

 

 ――――――い―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。     ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。

 

 ……だが、それも、やがて薄れ。

 

 そして、消えた。

 

 …………………………………………………………………………………………。

 

 沈黙に、身を委ねる。

 

 ――――それが少しだけ、心地よく思えた。

 

 …………………………………………  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。

 □□□

 

 始めて朔を抱いたあの日。それ以降、朔と関わる事など無かった。朔は妹が世話を名乗り出て、自分はあの頃朔に興味を覚えなかった。殺人を考察し続ける殺人機械。それだけの男だった。朔の存在はすぐさま記憶の奥底に消えていった。

 

 それからも変わらぬ暗殺の日々。ひたすら己の腕を磨き、どれだけ巧く人体を解体できるかのみに思考は置かれた。リノリウムのように黄理にとっては変わることのない時間。そのまま黄理は自分は一生を殺し屋として生きていくと考え、決めていた。だが、それが変わったのは志貴が生まれてからだった。自分の息子。跡継ぎのために生まれた子供。その存在が黄理を変えたのである。そしてその時になって、黄理は朔の存在を思い出したのだ。

 

 自身が殺した兄の子供。元より黄理の兄妹は七夜としての血が濃く、妹は魔に怯え、兄はそれに飲み込まれていた。殺人に酔い、狂いの果てに子を産んだばかりの妻を殺めた。里の掟により兄は黄理の手によって粛清されたが、それが意味するところは、朔には親がいなくなった事だった。父は粛清され、母は父によって殺された。そして、朔は生まれながらに一人となったのである。

 

 後悔は無い。兄ではあったが、理性をなくした獣と化した兄に情をかけるほど、あの頃の黄理は人間ではなかった。

 

 ただ、未練はあった。過去に兄と過ごした日々を思い出すこともあった。そして、志貴が生まれた後、それが何であるかを知った時、黄理は未練を知ったのである。

 

 その兄の、子供。

 

 理由はどうあれ、黄理が朔の父を奪ったのは消えない事実。

 

 この気持ちは罪悪なのか、それとも贖罪なのか。それは黄理には判断しかねる。

 

 故に黄理は自身の手で兄を殺しておきながら、父となろうとしている。

 

 ただ、日増しに成長していく朔の姿を見るのは心安らぎ、訓練で頭角を現す朔に目を見張り、志貴と共にいる朔を見ていると和んだ。志貴が生まれたあの時から、黄理は人間らしさを手に入れたのだ。

 

 この気持ちが何か、未だ分からない。ただ、それでも、黄理は朔の父に成りたかった。

 

 傲慢だ。自らの手で父親を奪っておきながら、自らが父に成ろうとしているのである。

 

 無機質な子供。空虚が形を成したような子供。

 

 かつての自分を思い起こさせるには、朔はあまりに黄理と似すぎている。

 

 殺人機械と呼び恐れられ、血水を浴びる殺人鬼に。殺戮を重ね屍の道を成すだけの存在に。七夜の自分はそうなるように求めている。

 

 だが、父である自分はどうだろうか。

 

 父である黄理は朔を自身の子供のように思っている。故に朔には自分のようにはなってほしくない。しかし、今更何を言えるのだろう。存在さえも忘れて、今更父親面など。

 

 接し方が分からない。志貴とは違う、自身の罪のような子供である。故に黄理には、戦闘訓練以外の接し方が出来なかった。それだけが黄理に出来る朔との時間だった。

 

 だが、黄理が朔との時間を増やすため訓練を重ねるごとに、朔は黄理の姿に近づいていく。風貌が、ではない。無情。無機質。黄理の内包する全てが朔にはある。それをどうすることも出来ずに、時は過ぎ、朔は力をつけていく。

 

 無力。朔に近づきたいのに、近づくほどに朔は黄理がなってほしくない存在へと近づく。黄理のように、あるいは兄のように。

 

 それでも、黄理は朔の父でありたかった。

 

 何て我儘。自分の都合でしか考えられない愚者。

 

 しかし、それでも、黄理は――――。

 

 

 

 

 故に。

 こいつだけは、生かしておけない。

 

 

 

「―――――――――っ」

 

 交差の瞬間に振りぬかれた撥。殴打器であるそれは鉄の輝きを放ちながら、混血軋間紅摩の肉体を刻む。七夜最高の七夜である黄理の技量により、ただの殴打器は人体を解体しせる威力を秘める――――。

 

 迫る威圧。迸る殺気。

 

 そして。

 

 ――――甲高い、金属を打ち付けたような悲鳴が響いた。

 

 激情は無い。憎悪は無い。

 心はただ凍てつき、温もりは消えた。

 

 身体を捻り、独楽のように回転しながら、紅摩に反撃する思考すら与えず一撃を放つ。地面が抉れた。関節の軋み。足の指から伝達される力は分散することなく脚を、背骨を、腕を通る。閃光の如く、鋼色が延びる。狙いは人中。顔面を砕かんばかりに突きの一撃。

 

 やることはかつてと変わらない。

 いつもどおりに、殺すのみ。

 

 顔の中心、紅摩の急所に突き刺さる鋼を無視し、僅かばかりに仰け反る紅摩の側頭部に左の撥が奔る。それは米神を強かに打ちつけ、紅摩の脳を撒き散らそうとする。だが、硬い。人間の感触が、伝わってこない。骨の硬さではない。密度の高い金属の山に打ち付けたような痺れが腕に伝わってくる。

 

 黄理は機械だ。

 殺人を考察し続ける殺人機械。それがかつての黄理の姿であった。

 志貴が生まれ、憑き物が落ちはしたものの、人間の本質はそう簡単に変わらない。

 黄理は機械でしかないのだ。

 

 そして、その首筋。

 

 紅摩の巨木めいた首筋に僅かばかりに突き刺さる、銀色。

 

 朔の小太刀。紅摩の首筋に突き刺さり、血が僅かに滲んでいる。

 

 柄に向かい、掌底を叩き込む。

 

 小太刀の柄が破砕した。だが、少しだけ、小太刀の刃が紅摩の首筋に入り込み、血の滲みが増していく。紅摩の鋼の肉体に、血が滲んでいく。

 

「っ!」

 

 鋭い痛みを、紅摩は感じた。今まで、紅摩が感じたこともないような、刃物の痛み。紅摩の肉体に刃物が勝る。それは今まで体験もしたことのない痛みを、紅摩に与えた。僅かな、本当に極僅かに皮を裂いて肉に入り込む。そして肉が切れた。これだけの事。それだけの事である。だが、その痛みを、紅摩は知らなかった。

 

 かつて、掠れそうなほど遠い記憶の奥底。子供だった紅摩は軋間の一族の手によってその米神を拳銃で撃たれたことがある。そしてその時には、血すら流さなかったのだ。

 

 その紅摩の肉体に、血が滲んでいる。

 

 この意味。朔の一撃は、紅摩に確かに届いていたのだ。

 

 命を奪う事は敵わなかった。想い遂げられず、朔は敗北した。

 

 だが、その起死回生の一撃は、紅摩の肉体に傷を負わず所業を成し遂げていたのである。

 

 そこを黄理は強かに打った。肉を裂く刃。紅摩の傷は深くなる。

 

「――――――――――!」

 

 豪放。

 

 それを表現するには、その言葉しかなかった。

 

 紅摩の直線的な拳の一撃が、黄理の身体目掛けて放たれる。唸りを上げて迫る拳。黄理に瞬きを与える事もさせず、空気を突き抜けて放たれた拳を、黄理は周囲に乱立する木へと閃走で回避。その木を足場に、再び跳躍。駆ける術理である七夜の空間移動術閃走。足腰の可変を強化することによって可能な変則的な移動は、人間の動きではない。

 

 朔と同等以上の疾さで駆け巡る黄理の姿を、紅摩は視認できていない。

 

 月明かり眩しい夜の森。影に暗闇に鬱蒼と茂る森の中、黄理の姿は溶け込んでいく。身につける黒衣、式神にも勝る隠密に紅摩は対応できない。

 

 そして紅摩の頭上。木々よりも高く夜の空を突き破り、黄理は急降下していった。夜を滑る黄理の目には紅摩の姿。

 

 迫る黄理に気付いた紅摩であったが、時既に遅い。

 

 黄理を相手にするには、あまりに遅すぎる。

 

 紅摩が迎撃するよりも、防御し回避するより疾く。

 

 黄理の踵。それが紅摩の頭頂、唐竹に突き落とされた。

 

 かつて朔にも食らわしたそれよりも圧倒的膂力、それに加え落下速度、自身の体重が込められたその一撃に、紅摩の膝が怯み足元が沈む。

 

「っく!!」

 

 呻き声にも似た呼吸が聞こえる。僅かに沈んだ膝を跳ね直すと同時に、紅摩の掌が頭部に突き刺さった足に向かい伸ばされる。朔を掴んだ圧壊の拳。子供の朔すら潰せた人外の握撃は黄理の肉体などあっけなく握り潰す―――。

 

 しかし、それは空を切った。

 

 翻る。空間を柔らかく舞い、旋回する黄理に紅摩の拳が外れた。そして背中から黄理の足が伸びる。鞭の如くにしなりながら、刺突の爪先が紅摩の首筋に襲い掛かった。

 

 黄理の全身は言うに及ばず、黄理の限界まで鍛えこまれている。長く鍛えられた身体は正に凶器であり、例えば爪先の一撃は鋭ささえ得ている。人間であればそのまま首を落とすような一撃を、紅摩は嫌い打ち払おうとするが、防御に回された腕を掻い潜り、黄理の爪先が紅摩の首筋に突き刺さる。深く刺さる衝撃に紅摩の筋肉が痛み、爪先が刃を打ち付けた。更にめり込んで行く刃。それが紅摩の肉を裂いていく。それを紅摩は突進を敢行することで無理矢理黄理を弾き飛ばし――――。

 

「っがぁ!!?」

 

 紅摩の後頭部を、衝撃が襲った。

 

 後頭部が人間にとってどれほど危険なのか。背筋に近く、神経の集中する頸部、脳幹、脊髄を脳髄を守るにはあまりに薄い骨。後頭部を強打するだけで人は簡単に死ぬ。

 

 そしてその部分に、紅摩は言い難い鈍痛を受けた。頭が割れんばかりに痛む。

 

 ―――何が、起こったのか。

 

 理解が追いつかぬ紅摩の視界に、黄理の姿が見えなかった。

 

 その光景を客観的に理解できるものはどれほどいるだろうか。

 

 吹き飛ばされた黄理が、瞬時に紅摩の後方に現われ、その後頭部を撃ったのである。

 

 紅摩の突進を黄理は確かに喰らった。だが、それはほんの刹那に過ぎない。

 

 確かに衝撃は凄まじい。人間如き安易に磨り潰す突進を足の裏で受け、衝撃を殺した黄理は後方に飛びながら、吹き飛ばされる方向を修正し、木に着地して紅摩の背後に向い、反応すら出来ぬ疾さで翔けたのである。

 

 言葉で現すにはあまりに疾く、言葉だけではその絶技を表すこともできない。

 

 だが紅摩が黄理を探るよりも先に、後方に着地音が聞こえた。

 

 振り向く。

 

 そこには既に、撥を振り上げた、黄理の姿があった。

 

 状況は黄理が優勢だった。

 

 そもそも、黄理は朔の指針であり、そして師範である。朔に動き、技、重心移動、はては気配の消し方、効率のよい人体破壊術。それら全てを教え込んだのは黄理だ。確かに朔の成長は目覚しい。時期に里一番の七夜になる。だが、黄理は七夜最強の男である。その黄理が朔よりも劣っているはずが無い

 

 紅摩に反撃させる余地を与えず、黄理の波濤は止まる事を知らない。紅摩を殺す。解体する。生きたまま解体してやる。殺し尽くしてやる。黄理の瞳、その蒼の瞳は嘲いながら紅摩の姿を捉えている。

 

 黄理の魔眼は思念の可視化。人は思念を隠すことが出来ない。その瞳に紅摩の姿はいる。赤い思念を噴出させて。

 

 人間の思念は濁った透明だ。その流れは緩急によって感情を映し出すが、稀にそれ以外の色を持つ存在がいる。そしてそれは人間と呼ぶこともおこがましい人外の化生であるが、黄理の視界には朱の色が激しく噴出していく。

 

 流石は紅赤朱であると言えようか。その存在は完全に化け物だ。軋間には人間の血も混じっていると聞くが、それは本当だろうか、と黄理は思う。

 

 そう、この気配。そうだ、昔暗殺の際にかつて感じたことのある、圧倒的化け物の感覚。

 

 それが今、こうして黄理の目前にいる。

 

 あの頃よりも、更なる化生と化して。

 

 ―――それを証明するかのように、黄理は未だ紅摩を殺していない。

 

 鍛えこんだ技量。人体をどれだけ巧く解体できるかのみ探求し続けた黄理の技を、紅摩は身に受けながら、未だ生きている。黄理が全てをかけてきた殺す術を、紅摩は血を僅かに流す呑みでいる。これは驚嘆に値する事である。それがこうして、殺し合いという結果を招いた。

 

 こんな化け物を相手に、朔は立ち向かったのか。

 

 

 ――――そして、こいつが、この餓鬼が、朔をあのような姿に変えたのか。

 

 

 地に降り立つ黄理の視界に、それが映る。踏み込む地面は赤黒い。

 

 地面に落ちた朔の左腕。千切られた腕は力なく、地面にある。

 

 肉体の一部が欠損する事はどれほどの事か。肉体的精神的影響は計り知れない。特に肉朔は体を千切られたのだ。黄理では想像もできぬ痛みが朔を襲ったに違いない。

 

 

 ――――心がざらつく。

 

 

 朔を傷つけただけでこの混血は許されない。紅摩は黄理の禁忌に触れたのだ。死しても許しはしない。殺してもう一度殺す。殺し尽くしてやる。

 

 紅摩の分厚く高密度の筋肉、生命力は今まで黄理が暗殺してきた混血とは比べ物にならない。黄理の技が通用しない。

 

 だが、それが何だと言うのか。

 

 通用しないなら、届かせるまで。

 

 紅摩の首筋に突き刺さった、光る冷たい刃に血がつたう。

 

 あれは紅摩の肉を裂いている。朔が紅摩に届いた証。肉に刃が突き刺さっているのだ。ならばあれは殺せる存在。

 

 それを執拗に狙うことで、紅摩を殺す算段を立てる。

 

 決定打、ではない。

 

 決定打には位置が違う。刃が刺さっているのは首筋。分厚い筋肉に覆われた首の筋。

 

 狙いは喉。確実に破壊することで、人外の命を潰す。

 

 人外を殺すための段取りを考える。

 

 殺し合いは黄理には始めてのことだ。暗殺者として大成した黄理はその圧倒的な強さにより、何かと勝負し殺し合う事は今までなかった、このような殺し合いと言う始めての経験の中、それでも黄理は馴れない状況でありながら、紅摩を殺すと動き続ける。

 

 空間を立体的に動くその様。

 

 周囲の木々を足場に、移動するその姿。

 

 狡猾に、確実に、対象を狙い殺すその暗殺者を。

 

 人は蜘蛛のようと称し。

 

 混血は黄理を鬼神と呼び恐れた。

 

 ―――鋼が冷たく輝いた。月光を浴び、閃光を放ちながら撥の打ち下ろしが迫る。

 

 それを紅摩は無理矢理の突進で回避。地面を踏み砕いて突き進むその姿は硬質な身体と相まって、紅摩の姿を犀のように思わせる。幾度黄理が打ちのめそうとも、ダメージを与えようとも、紅摩は黄理に迫ってくる。風を巻き起こし、混血は止まらない。軋間紅摩は止まらない。

 黄理を轢殺せんばかりに奔る。今この時に至って、紅摩はこの時を待ち望んでいた自分の正しさを実感していた。この森に訪れた自身の判断を認めた。

 

 なぜなら、この森で紅摩は多くの始めてを体験したのだ。

 

 始めて殺し合いをした。

 

 始めて血を流した。

 

 始めて、人間に圧倒されている。

 

 知らず、紅摩の肉体が熱を帯び始めている。

 

 それに戸惑いを覚えることも無く、紅摩は黄理に突っ込む。

 

 だが、その姿がまたもや消えた。

 

 それと全く同じに、

 

「ぐっ!」

 

 胸骨が痛みを感じた。打ち据えられた痛み。心臓の上。そこは、投擲された朔の腕がめり込んだ場所である。そこに殴られたような痛みがあった。

 

 おそらく、朔の投擲により元からその部分は傷めていた可能性。真っ直ぐに心臓を狙ったその一撃は、紅摩の胸骨を強かに打ち、罅を与えていたのである。

 

 そこを狙った黄理の一撃に、紅摩の胸が痛み出す。亀裂の走る紅摩の骨が、軋みだした。起点は既にある。朔の一撃。後はそこに衝撃を与えれば、いくら紅摩の肉体であろうとも耐えることは出来ない。何せ紅摩の相手は黄理。純粋な戦闘力であれば、朔以上。

 

 だが、それもまた、紅摩には始めての事だった。

 

 痛みを感じるごとに紅摩の身体が熱を帯びていく。痛みがあるということは生きていることだ。痛みは肉体からの訴えである。すべからず、生命活動に支障を起こさせる可能性を訴えている。

 

 それは、軋間紅摩が生きているからに他ならない、はず。実感はつかめない。いまだ紅摩に理解は出来ない。

 

 故に、それらをもっと感じたくて。

 

 あの日感じた何かを分かりたくて。

 

 届かないと分かりながら、紅摩は拳を振るった。

 

 そして紅摩自身も気が付かず、紅摩の全身が、みしり、と音をたてた。

 

 みちみち、と筋肉が盛り上がり、鋼鉄の身体が彫刻のような陰影を更に深め、一種異様としか言いようがない姿へと、肉体が変わっていく。

 

 その表面には陽炎。体温と呼ぶにはあまりに高温。

 

 それは、いっそ炎だった。

 

 熱が、空気を焦がす。

 

 □□□

 

「触診の結果罅が二箇所、完全骨折が肋骨を含み七箇所。粉砕骨折は左鎖骨一箇所のみ。膝周囲の筋肉が断線している可能性あり。腱に損傷はなし。今現在内臓に影響ないようですが、左の折れた肋骨が少々危ういかも知れません」

「朔の止血はどうなった!」

「肩以外は大丈夫です。しかし、依然肩からの出血は完全には止まっていませんっ!」

「糸を用意しろっ、暗殺に使うもので良い。それを肩に縛って止血を完成させろ!傷口は洗い邪魔なものを落とせっ」

「縫合はしないのですかっ」

「傷口が荒れすぎている!縫合は今は不可能だ!今は綺麗にして包帯を巻くんだ!」

 

 平屋の中、朔を中心に多くの七夜が動き回る。この平屋はかつて、朔と志貴が共に座学を行った場所であった。普段は使われていない平屋は火がついたかのように騒々しい。横にされた朔を中心に七夜の者が慌しく動き回っている。

 

 木張りの床に寝かされた朔の姿。物言わぬ死体のような姿である。ここに到るまでに朔が流した血は決して楽観視出来る量ではない。お湯を浸した布によって拭われた身体には幾つものチアノーゼが現われていた。血が足りず、肉体に血液が回っていない証拠である。顔色は既に土気色。唇は青く、その姿は死人。

 

 左上半身は破壊されている。人外紅摩の一撃のみで朔の鍛えられている肉体は破損した。引き千切られた左肩。そこから先には腕がない。

 

 それでも、朔はまだ生きている。僅かに、ほんの少しだけ上下する胸の動きと、脈の鼓動。それだけが、朔の存命を伝えてくれる。

 

 ――――だが、ここに運ばれるまでの出血を考えれば、朔が助かる見込みはかなり薄い。朔はこのまま死に絶えるのではないだろうか――――。

 

「五月蝿い!増血剤はまだかっ」

 

 自身の内側から囁きかける妄想を掃う。

 

 医者はいない。いたにはいたが、流れ弾に巻き込まれ既に死人だ。故に朔を本格的に治療できる人間はこの場所にいない。頼れるのは訓練の際に習っていた応急処置のみ。

 

 しかし、死なせない。死なせはしない。

 

 まだ朔には、これからがある。

 

「増血剤今届きました!」

「よし、至急朔に投与しろっ!」

「っ!お待ちくださいっ。止血も終わっていない今増血剤を投与しても出血が増すだけですっ」

「その出血を止める前に朔が死んでしまうっ。血が足りないんだ、今直ぐ投与しろっ!」

「!分かりましたっ、朔様に嚥下させます!」

「――――!待て、それは私がやるっ」

 

 そう言って私は一族は運んできた増血剤を引っ手繰るように奪った。手の中に握られた瓶は、以前里の結界を強化させた魔術師から買い付けたものだった。薄黒い瓶の中に液体状の薬が入っている。失われたものは戻らない。流れた血は戻りはしない。なら今あるものを増やせば良い、と内臓を活性化させ強引に造血させるこの薬は作られたと聞く。効果は期待できる。即効性の薬は瞬く間に骨髄へと染み渡り、造血細胞を無理矢理作り上げていく。

 

 だが、無論副作用が存在する。

 

 この薬。云わば劇薬である。肉体に負担をかけ、その効果を発揮することで人工的に血液を作り上げるのだ。血液を構成する成分は無論、心臓を強引に脈動させることで、全身に血液を流し込んでいく。衰弱している朔にはあまりに酷。死にかけの身体に文字通り追い討ちをかけるのである。無い物を無理やり作り出していくのだ。反動に服用したものは暫く目が覚めない。少なくとも一ヶ月。魔術師の実験からすれば平均三ヶ月以上、目が覚めない。

 

 ――――それに、朔の肉体が耐え切らなければ、朔は死んでしまうかもしれない。

 

「朔……」

 

 力なく横たわる朔の頭部裏にゆっくりと腕を回し、持ち上げる。

 

 何処を見ているのかも分からなかった瞳は虚空を思わす蒼。だが、それも輝きはなく、生者の瞳とは程遠い。まるで死んでいるかのよう。身体は冷たい。熱がない。

 

 死なせはしない。自分は朔の側にい続けると決めたのだ。かつての誓い。側に誰もいない朔の側にい続ける、果たすことの出来なかった誓い。

 

 それは私の弱さだった。長兄に抱いた恐怖を、朔に対して抱いてしまったのだ。あの時、混血と出会った朔の豹変に私は長兄の姿を重ねたのだ。厚かましい女だ。恐れを誤魔化すように、兄様に当たったのだ。

 

 朔を信じることも出来ない莫迦な女。どうしようもない愚か。

 

 だが、朔の事は何よりも大切だった。朔といる時間は心安らいだ。気付けば朔の事ばかり考えている自分がいた。訓練に傷を作った朔の事が心配だった。朔がいない事は何よりも辛い事だった。

 

 私は愚かだ。救い様もない愚かな女だ。自分に都合の良い、最低な女だ。

 

 それでも、

 

「戻って来い」

 

 朔が好きなんだ。

 

 どうしようもないくらい、朔の事が好きだ。

 

 だから、朔を失いたくない。

 

 朔を死なせたくない。

 

「――――――――っ」

 

 瓶の中身を一気に口に含む。

 

 形容しがたい匂い、味が充満する。以前外界から手に入った珈琲に甘ったるい苺が絞られたような、臭みのある酸味が更にぶちまけられた様な、身体に悪い味だ。

 

 だが、これで朔が救われるならば―――。

 

「……ん」

 

 力もない朔の唇に口付け、舌をねじ込み、喉を開かせる。舌根が喉に落ちていかないように舌で絡ませ抑えておく。口内から液体が朔へと流れていく感覚があった。

 

 始めて味わう朔の口内に背筋が痺れた。こんな時でありながら、結果的に朔へ口付けを交わした事で、少しだけ内側が疼いていく。甘く、痺れるようなもどかしい感覚。口元は増血剤と唾液に濡れた。私たちの口元を伝い、透明な滴が落ちていく。

 

「んむぅ……」

 

 朔の口内に、硬いものがある。柔らかな口内の異物に気付き、欠片のように転がされていくそれを、取り除くため舌を這わしていく。舌先で歯をなぞる様に伝っていた先、奥歯の辺りへと深く侵入していきそれを見つける。それを慎重に私の中へと運んでいく。

 

 唇を離す。唇に透明の糸がつながった。口に中にあるものを吐き出すとそこには、歯の破片があった。恐らく衝撃に耐え切れず割れたのか。

 

 そして、増血剤の効果は私の想像以上の速さで現われ始めた。

 

「朔っ!?」

 

 びくん、と一度朔の身体が震えた。劇的な速さで、死に掛けた顔色の血色が次第に良くなっていく。染み渡るように肉体の冷たさは、徐々にではあるが温かみを増していっている気がした。

 

 心臓の鼓動が加速していく。朔の肉体が発熱し、命を生かせようと脈打つ。

 

「止血完了いたしましたっ」

 

 止血を行っていた七夜が声を上げる。見やると、朔の左肩に清潔な白い包帯が巻かれていた。ギリギリ間に合ったらしい。

 

「そう、か……」

 

 緊張状態が、ふと弛緩した。

 

 増血剤の効果で朔は暫く目が覚めない。長の間、眠りの底についているだろう。しかし、これは応急処置の段階でしかない。本格的な治療には医者がいない。

 

 その間まで、どうにかしてこの襲撃を凌がなければならない。

 

 ここは私たちの森、七夜の故郷。

 

 七夜はここで生まれ、ここで育ち、ここではないどこかで死んでいく。

 

 ならば、この森を守らなければならない。

 

 

 ――――だが、私の願いは叶いはしない。

 

 

 願いは叶わない。私の願いなど、叶う事はありはしなかった。今まで朔の側にすらいることも出来なかった私如きの願いなど、一度たりとも叶った事はなかった。

 

「報告しますっ」

 

 突然、平屋の中に血相を変えた七夜が入り込んできた。全身に返り血を浴び、肩で息をしながら。

 

 その者は、前線で動いているはずの七夜だった。

 

「前線崩壊しましたっ!迎撃は失敗、混血がやってきます!!」

 

 悲鳴交じりの報告。

 

 

 それは、確かにひとつの終わりを告げる声音だった。

 

 

 視界が揺れた。

 

 頭部を激しく打たれたかのような感覚が私の脳を揺さぶる。

 

 前線崩壊。迎撃失敗の報告。

 

 七夜が負けた?七夜の森で、七夜が敗北を喫したのか?

 

 グラグラと、グルグルと。それが脳内を流れていく。

 

 少なからず動揺している七夜が見える。何かを考えているような義姉様が見える。

 

 では、混血はどうする?混血は、何処に向かってくる?

 

 決して遠くない未来が、七夜にとって最悪の未来が見える。

 

 それを塗り替えたのは、腕の中にいる朔の重さだった。 

 

 腕の中にいるひとつの命。死ぬ一歩手前だった朔。止血し、血を無理矢理増やしはしたが、依然危険な状態は脱していない。だが、何もしなければ、確実に死んでいた。失血死か、あるいはショック死か。血の巡りが及ばず、脳死になる危険性もあった。

 

 しかし、まだ朔は生きている。生き長らえた。ならば、ここは死に場所ではない。死なせはしない。私がそうはさせない。

 

 だが、状況はどうだ。

 

 前線は崩壊し、七夜は滅亡の危機にある。

 

「そうですか。それでは皆さん、表に出ましょうか」

 

 思考を繰り返し、どうしようもなく行き詰った状況の中、動揺する七夜たちの耳に、その声は澄み渡って届いた。本当に気軽な、まるで近場に遊ぶにいく様な軽やかさ。

 

 その声は、義姉様は私たちを見回して言う。

 

「状況は芳しくないようです。時期にここにも敵はやってくるでしょう」

 

 そうだ、その通りだ。だから私は考えているのだ。

 

 だが、私ではどうしようもならない。殺す術を学んだ。殺す技量を学んだ。だが、殺す心胆がない。魔を相手に私は怯える事しか出来ない。

 

 今こうしている合間にも、混血共はやってくる。獣の臭気を撒き散らし、悪意を孕んでやってくる。

 

 もし。もし兄様がここにいるならば、兄様はどうするだろう。

 

「ここで無残にやられますか?何もせずに、ただ死んでいくのみですか?」

 

 反応することも出来ない七夜を、義姉様が飲み込んでいく。決して狭くない平屋は今や義姉様の独壇場と化した。

 

「迎撃は失敗です。だけど、まだ私たちは負けていません。いまだ滅びを迎えていません。そして私は、このまま死んでいくのは嫌です。拒否します。だから抗います。抵抗して、七夜を示そうと思います。皆さんはどうしますか?」

 

 義姉様は女性的な方だった。物腰柔らかく朗らかな女性。だが、今窮地に追い込まれた七夜を前にして、その表情は凛として、怯えも恐れもないよう。その姿はまるで、兄様のようだった。

 

 そして義姉様は言った。

 

「立ち向かいましょう。立ち向かって、敵に思い知らせましょう。だって皆さん、あなた方は何ですか?あなた方は一体何ものですか?」

 

 声は消える。そして、怒号のような合唱が平屋を埋め尽くした。

 

 自分たちは七夜である。退魔の一族七夜である。敵を殺し、葬るだけの存在である。殺しの果てに殺しを目指す殺人鬼。

 

 その我らが、迫る混血相手に何もしないなど、言語道断。

 

「そうです。私たちは七夜。私たちはそれ以上でもそれ以下でもない、ただの七夜。殺すことが私たちの生きる術、生き様です。だから行きましょう。最後の一人になっても、倒し続けましょう。それに、私たちにはあの人がいます。黄理がいます。あの人は負けません。あの人は、きっと誰よりも強い」

 

 無条件の信頼。兄様に対して、義姉様は真っ直ぐな眼差しを作る。兄様は七夜最強の存在。私たちの御館様。そんな兄様が、きっと何とかしてくれる。私たちの中にある、兄様への信頼を、共通意思として感じる。

 

 熱気が高まっていく。気付けば蔓延するはずだった動揺は鳴りを潜め、七夜は意気込んだ。殺すことこそ我らの――――。

 

 そんな七夜を、見て義姉様は言った。

 

 それは宣誓であった。宣言であった。

 

 

 

「それでは皆さん。殺しにいきましょう」

 

 

 

 そう言って、義姉様は表に出て行く。その後姿に、平屋にいる七夜すべてが着いていく。

皆がいなくなった後に、私は朔を抱えて外に出る。冷たい空気が私を包み込んだ。

 

 そして目前。そこには、

 

「――――――――――――――――っ」

 

 里の七夜が出揃っていた。彼らは皆武装し、その表情は鋭く、それでいて恐れのない。

 

 中には前線には出ていなかった、女、果ては未だ幼い子供までいた。その表情はこれから死にに行くものの表情ではない。ただ殺すだけの、七夜としての表情だった。瞳。その瞳は嘲っている。混血を殺そうと、嘲っている。

 

 その先頭に、義姉様はいた。

 

「あ、義姉様……」

 

 声が自然と震えた。震えを無理矢理押さえ込もうとして、失敗した。

 

 七夜。退魔の一族七夜。近親相姦を繰り返すことで人が潜在的に持つ退魔衝動に特化した一族。魔への衝動。それは最早感情であった。

 

 そして瞳は笑う。皆、魔眼を発動させて笑っている。

 

 早く殺そう、と、今すぐに殺そう、と嘲っている。

 

 それに、私は、恐れを抱いた。

 

 だけど、そんな私を見て、義姉様は緩やかに笑まれた。怯える子供に向けるような、自愛を秘めた笑みだった。

 

「あなたは、逃げなさい」

「―――っえ?」

 

 理解の及ばなかった私に、義姉様は何が可笑しいのだろう、くすくすと笑いを零した。

 

「ここから先は、あなたには無理です」

「そ、そんなこと―――!」

「もし行きたいのならば、その身体の震えを抑えたらどうです?」

「っく!」

 

 私は強がるだけしか出来ない。感情的に言葉を返そうとして、何も返すことが出来ない。それでも頭では理解していた。私は立ち向かえない。私では立ち向かえない。混血に怯えるしかない私では、役に立たない。私は七夜でありながら、七夜の存在価値を持っていない。殺すことも出来ず、ただ怯えるだけの女。

 

 唇を噛み締める。口の中に鉄の味が広がった。無力感。鼻がツンとする。涙が出そうだった。

 

 嗚呼、私は結局、何も出来ない。

 

「そんな事、ありません」

 

 だけど、そんな私を見て、義姉様は優しく、柔らかに笑む。

 

 死にいく彼らを、見ている事しか出来ない私に、義姉様は笑まれる。

 

「貴方には、貴方にしか出来ない事をお願いしようと思います」

「私、にしか出来ないこと……?」

「そうです。貴方にしか出来ないこと。……それは 、朔を医者に連れて行く事です」

 

 意識が沸騰した。自分の弱さ、愚かさを跳ね除け、義姉様に食って掛かる。

 

「――――ッ私に、逃げろと言うのですか!!」

 

 それだけは、許されない。それだけはやってはいけない。敵前逃亡。七夜にとっての生き晒しになれと、義姉様は言った。七夜の誇り、それらを捨てて生き延びろと。魔を殺すことの出来ない私であっても、七夜として生きることの出来ない私でも、それだけは、駄目だ。

 

「そう、貴方は逃げて、朔を助けてあげてください」

「何故!?」

「理由は必要ですか?」

「――そんな事っ」

「朔が死ぬにはまだ早いです。朔はまだ生きていない。大丈夫。あなたが逃げれるだけの時間は稼ぎます」

 

 ね、皆様?

 義姉様の声に、そこにいる全ての七夜が、吼えた。

 

「「「応っ!!!!」」

 

 大気が、震えた。

 

「――――っ」

 

 涙が出そうだった。朔を助けたいがために、それ以外を切って捨てろ。一族を切って捨てろ。義姉様はそう言っているのに、一族は皆それを肯定するのだ。

 

「朔様の事、頼みます!」

「どうかご無事で!」

「時間稼ぎぐらいぼくたちにもできますっ」

 

 男も、女も、子供も言う。熱を帯びた口調で朔を助けて欲しいと、口々に言う。

 

「皆、朔の事が好きなんですね」

「……っ」

「私たちは、前に踏み出すことが出来なかった。ずっと、見て見ぬふりをして、朔の側に入れなかった。自分たちの望みを無意識に朔へと押し付けて、苦しむ朔を見てあげられなかった。……でも、あなたは違う。いつも朔の事を考えたあなたです。朔の側にいてください」

「しかしっ、義姉様はどうするのです!志貴はどうなってもいいのですか!?」

 

 そうだ、義姉様は志貴がいる。志貴は未だ六歳。義姉様はこんなところで、死んでいいはずがない。

 

「私は、あの人の妻です。当主の妻である以上、私は逃げてはなりません。確かに、志貴を連れて逃げるのは、出来ます。出来ますが、それは選んではならない事。最後の最期まで、私は当主の妻として全うしなければならないのです」

 

 凛々しく、私を真っ直ぐに見つける瞳。静謐に言葉を紡ぎ、意思を示す。

 

 そして私は、何も言えなくなった。

 

 義姉様を動かす強い意志は私如きでは揺るがすことも出来ない。当主の連れとしての自覚をはっきりと述べ、逃げることはしない。私には、出来ない。そんな義姉様に、私は何を言えばいいのだろう。

 

 そんな私を尻目に、義姉様は私の腕の中、意識なく眠り続ける朔を見る。

 

「朔。あなたには、負担ばかりかけてしまいましたね」

 

 少しだけ、眉を悲しげに震わせて、義姉様は朔の頭に触れた。

 

「ごめんなさい。私は、あなたを見てあげることが出来なかった。貴方が怖かった、気が触れた人間の子供と言うだけで、あなたを遠ざけてしまった」

 

 優しげな手つきで朔の頭を撫でる姿は、まるで朔の母親であるかのようにも思えた。

 

「あの人が変わって、あなたを自分の子供のように接し始めた頃、実は私はそれが嫌だった。嫌な女でしょう。私は家族に亀裂が走るのではないのかと、思っていたのです。だけど……あなたといて、志貴は笑っていて、あの人は楽しそうで。皆、あなたといる時間を大切にしていた」

 

 言葉を切る。 

 

「もし。もし、あなたが良ければ、志貴の事を守ってあげてください。厚かましい事ですけど、志貴にはあなたが必要です。あの子は寂しがりやだから、だから、お願いします」

 

 

―――お兄さん。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやあ、感動するねぇ。お涙頂戴ものの喜劇だわなあ」

 

 

 以下血迷ったNG。

「――――――何をしているんだ、お前たち?」

 朔に増血剤の投与が終わり、周囲を見回すと、何と言うか微妙かつニヨニヨとした表情を浮かべながら私たちをちらちらと見てくる。何だろうか。

「ええっとですね?」

「何でしょうか義姉様」 

義姉様が微妙な表情で私に話しかけてきた。

「その、朔はまだ早いと思うのですけれど……」

「……何を言って――――――っ」

 義姉様が何を言っているのか理解できず、そして瞬時に理解した私は慌ててその場にいる七夜を見回した。所々で「やっとこさ契りを結ぶ相手を見つけたか」「しかし朔様はいまだ幼い。子種はまだであろう」「いき遅れ、か」「愛さえあればそんなの関係ありませんっ」「えっちぃのはいけないと思います!」など一族の者が好き勝手に喋っている。

 ああ、私は朔との接吻を見られていたのに、自分の世界に入って周囲に気付いていなかった。莫迦だ莫迦だと思っていたが、これほどまでとは。

 混乱する内心を落ち着かせようとする。自然と力の込められた全身は、朔を抱きしめるような格好を生む結果となった。

「「「おぉおおおっ!?」」」

「喧しいぞ貴様らっ!」

「あのお、朔様の止血完了しましたよ?」

「「「あ」」」

 何か雰囲気が色々とぶち壊れた。



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第十六話 Un dawn

 声が、聞こえた。

 

 金属を擦り合わせているような、哄笑を混じらせた不快な音が、内臓を這いずり回る虫けらの様に、七夜の脳髄を支配した。その音は人間の笑い声だと気付くのに、少しばかりの労を必要とした。

 

 私たちは皆、今から殺しに向かおうとするものさえ、死にに向かう者でさえ。一斉に声の聞こえた方角に顔を向けた。

 

 そこには、妖怪がいた。

 

 2メートルを優に越す身長で、擦り切れた着物。筋骨隆々の身体ではあるが、着物から覗く手足が不自然なほどに長い。皺の刻まれた顔面には豊かに蓄えられた白髪と白髭、そして何よりも異様な目。ギョロリと大きな眼球は魚類を思わす。

 

「ひひひ、面白いな手前ら。そんな三文芝居な喜劇を俺に見せてどうしようってんだ?」

 

 ひたりひたりと地面を踏み歩きながら、妖怪は大げさな身振りで私たちに近づいてくる。ここにいることが不自然なほど気楽であり、それでいて何か嫌な感覚を滲ませながら笑っている。嘲っている。

 

「まあいいさ、どうだっていい。そんな事どうでもいいしなあ」

 

 その笑いを私は知っていた。私たちは知っていた。空気に亀裂を走らせながら、軋むような笑い声。七夜にとっては慣れ親しんだ、忌むべき者の到来を告げる笑い声だった。

 

 だが、愉快そうな笑い声は、邪悪を孕み、その瞳は決して笑っていない。

覗けば、背筋が凍るような悪意を放ちながら妖怪は、刀崎梟は言った。

 

「さあ、朔はどこだ?俺がわざわざ迎えに来てやったぞ?」

 

 そう言いながら、梟は立ち止まる。後一歩踏み出せば、いや半歩踏み出せば七夜たちの間合いだった。踏み込んだ瞬間七夜が飛び込んで行くというのに、その手前でわざとらしく止まりながら、梟はにたついた表情を見せる。

 

 瞳が、私を捉えた。

 

「あ、ああ、ぁ―――――っ」

 

 ぞわり、と身体が震えた。

 

「ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!?」

 

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて――。

 

「んだぁ?まだ何もしてねだろうが。逢いも変わらずだなアンタ。ホントに黄理の妹か?」

 

 何か言っている。何か音を発しているが、何を言っているのか理解できない。

 

 梟の視線を感じる。混血の視線を浴びる。魔の意識を感じる。人外の気配を感じる。

 

 相反するもの、人間以外の化け物の匂いが伝わる。

 

 姿が、声音が、形が、精神が、魂が、気配が、存在が。

 

 アレを構成する全てが臭気を放ち、私を捉える。

 

 それら全てが、私には耐え難い恐怖そのものだった。

 

 恐れを誤魔化すことも出来ず、胸の中の朔を抱きしめた。

 

「っち、うっせえぞ餓鬼。手前には何もしねえよ」

 

 そしてその瞳は私に少しばかり興味を覚えたようだった。だが、その色もすぐさま消える。どうでもいい、お前などどうだっていいと、瞳はまざまざと語っていた。

 

「それよりも、だ。なんで手前が朔を持ってやがる。そいつは、俺のだ。手前如きが触っていいもんじゃねえんだよ糞餓鬼」

 

 梟の視線の先、そこには私の腕の中で眠る朔の姿があった。

 

 梟の瞳。そこには先ほどとは打って変わった熱があった。まるで恋しい者を思うような、何とも似合わぬ不気味な表情。

 

 口を動かすことも出来ず、何か其れまでとは違った危険を感じ、朔を梟から隠すように強く抱く。

 

「しっかし、あんの糞野郎が。……随分と派手にヤッテクレタじゃねえか」

 

 私のことなど眼中にないと言わんばかりに、梟の独白がここではない場所にいる誰かへと向けられる。言の葉の端に憎悪すら滲ませて、罵倒を投じている。

 

「糞、糞糞糞、あの餓鬼め。しかも、まだ足りねえだと?ありえねえよ、マジ蛆沸いてんだろ莫迦野郎が。くそったれめ、造る前だったから良かったもんだが、腕一本はでけえなあ。足じゃなかったのが幸か。いや、死んでねえ事が幸か?ああもう、回収はできたがそれどころじゃねえだろボケが」

 

 ぶつぶつぶつぶつと何もの視界に入っていないかのように、私たち七夜などいないかのように、梟の独白は加速していく。

 

「感応者を使うか?いや、確かあそこは没落したと聞くな、いや待てよ?そういやあいつ、確か巫淨分家筋の餓鬼何人かを引き取ったって話があったな。それを使って何とか戻すことは可能か?しかし、繋がってねえものを繋げるなんて芸当は無理か。部分的な問題としてそもそも生命力を増幅させるものであって離れた部品を繋げるにはお門違いが―――」

 

「よろしいですか?」

 

 熱を帯びる梟の独白を義姉様が断ち切った。その視線は鋭く、そのような鬼気迫る表情は今まで見たことがない。

 

「何故あなたがここにいるのかは知りません。……しかし、ひとつだけ答えてください。あなたは私たちの敵ですか」

 

 義姉様の言葉に呼応するように、その場にいる七夜たちの踵が地面から離れ、軽い爪先立ちと成りいつでも梟に飛び掛るような姿勢となる。事実、梟の答え次第では次の瞬間ひとつの屍が出来上がっているだろう。今この瞬間、梟が呼吸しているのは、単に義姉様がいるからに他ならない。今義姉様がこの場の暫定的なまとめ役だ。その義姉様がまだ指示を出していない。もし、ここに義姉様がいなければ、とっくに梟は死んでいたはず。

 

 充満する殺気。男も女も、子供でさえも殺気を滾らせ、目の前にいる混血に対し敵意をむき出す。空気を覆う殺しの気配に、私は少しだけ安心すると共に、息苦しさを感じた。

 

 大丈夫だ。七夜がいる。この殺気が私の怯えを拭い落とそうとする。

 

「ん、手前は。確か黄理の女、だったか?」

 

 しかし、梟は実質六十名弱の七夜を前にして、緊張するわけでもなく、だからと言って怯えるわけでもなく、不遜に鼻を鳴らした。

 

「はっ、俺はなんでもねえよ。あんたらの敵かといえば敵だ。敵じゃないと言えば敵じゃねえ。第一、俺は混血で、手前らは退魔だ。そんな判断、生まれた頃からわかってんだろうが」

 

「……」

 

 その言葉に、明確な敵対宣言を前に、七夜の者が踏む混もうとして―――。

 

「ちょい待て」

 

 待ったをかける様に、その掌を私たちに突き出した。

 

「なあに。敵かそれ以外かの判断はまだ早え。俺はな、提案を持ちかけにきたんさ。それ次第じゃ、七夜は生き残れる。どうだ?悪くはねえ話だと思わねえか?」

 

 気軽に話を振る梟を不信に見つめながらも、七夜は義姉様の出方を伺う。義姉様は何も言わず、梟の話を促した。

 

 気付けば、私たちは目の前にいる混血に空間を支配されている。混血ならば、ただ殺せばいい。そう思いながらも、目の前の人外に未だ飛び掛っていない。梟が発する邪悪な気配。何か良くないものを滲ませ、梟は何とはなしに言う。

 

「話しがわかんじゃねえか。何、大した事じゃねえ。ほんのちょっとした事だ」

 

 

 

 

「七夜朔を俺によこしな」

 

 

 

 

「「「っ!!」」」

 

 その話しを聞いて、我慢のならなかった七夜が飛び出そうとするのを、義姉様が手で制した。顔つきは厳しく、だが梟の話しを聞こうとしている。私自身驚愕に心揺さぶられながらも、そんな事を口にした梟に七夜は憤怒を抱いた。

 

「何を言ってるんだ貴様っ!?」

 

 溜まらず、嫌な感覚を無理矢理押し殺し、思わず叫ぶ。しかしそんな事を意に介する風もなく、梟はここにいる全ての七夜に話しかける。

 

「何を?当然のことだ、交換条件だよ、交換条件。朔の身柄を渡すことで、俺直々に口利きしてやって手前らを助けてやろうって言ってんだよ」

 

「何を莫迦な……」

 

「莫迦?んな訳ねえだろ?少し考えれば分かることじゃねえか。手前らのうち誰かを俺に渡すことで、手前ら全員生き残れるんだぜ?釣り合いどころか釣銭が出る話だろうが」

 

 そんな事も理解できないのかと、にやにやと悪意ある笑みを顔に貼り付けながら、梟は私たちを見回した。動揺が生まれ始めている。そして既に何人かは、私を、いや朔をちらちらと見るものが現われ始めた。感情は見えない。彼らが何を考えているのかわからない。だが、このような条件、たった一人を差し出せば自分たちが助かるなんて、破格の条件に揺れないはずはない。

 

「それで、朔を引き取ってどうするつもりなのですか?」

 

 それでも、このような状況であっても、義姉様はただ静謐に梟を見つめていた。私たちの同様など意に介さないように。

 

「ひひ、決まってんだろ。側に置いておくのさ。そんで朔の為だけに刀を作り、進化していくそいつを見続けてやんのさ。何せそいつは俺が見つけた使い手だ。これからの短い寿命、そいつに捧げようと決めてんだよ」

 

「それはつまり、朔に人殺しをさせようということですか?」

 

 その声に温度はない。ひたすらに無機質な声音。私情を一切殺すかのような、そんな声だった。それに私は、少しだけ不安を覚えた。

 

「そりゃそうだろうが。俺がつくんのは所詮は人殺しの道具。殺さずに飾る刀に刀としての価値はなく、それを持つものは殺し続けることで自身を成す。古くから伝わるもんだろ?そういうのってのはな」

 

 何を今更と愉快に顔を歪め、梟は笑う。

 

 其れを聞き、義姉様は小さく、そうですか、と呟いて。緩やかに私を見た。底冷えするような瞳が私を、朔を見つめていた。

 

 心臓が激しく鼓動した。嫌な予感が体中を激しく蹂躙していく。骨まで恐れで震えながら、それでも私は朔を放すまいと抱きしめた。

 

 しかし、時は待ちはしない。嫌な予感が作り出す最悪の未来が頭の中を駆け巡った。

 

 先ほどまで、朔を逃がそうとした意志は何だったのか。自分たちが生き残れるならば、朔を引き渡してもいいのか。私は声を張り上げて訴えることも出来ず、喉は緊張に張り付いて巧く呼吸が出来ない。

 

 涙が零れる。悔しさや理不尽が瞳から零れて、頬を伝い地面に落ちた。嗚咽はまだ出しはしない。

 

 しかし、それでも分かっている。その選択こそが今の最良であることぐらい、私にだって分かっている。一族を永らえさせる。決められた滅びの未来を回避するためには、切り捨てなければならないこともあるだろう。

 

 皆が私を見つめていた。何か居た堪れないものを見つめるかのような視線。その瞳を私は直視することも出来ない。

 

 義姉様の声がした。いつもならば柔らかな声が、今は聞きたくもない。

 

「刀崎。その提案に、おこたえしましょう」

 

 足に、力が入らなくなった。地面に崩れ、目の前が真っ暗なる。

 

 七夜が私たちを見つめている。何人かは、私の側に近づいてくる。

 

 月光に伸ばされた影が近づいてくる。私は朔を渡すまいと、力強く朔を抱きしめた。胸元に、鼓動を感じる。朔のまだ生きている証拠。それが、温かかった。

 

 分かっている。分かっている。其れしかないのかもしれない。私たちが助かるには、それだけしか、無いのかも知れない。

 

 それでも、私は、例え七夜が朔を見捨てようとも、私だけは――――。

 

 

 

 

 

 

「七夜はそれを拒否します」

 

 

 

 

 

 

 不意に、目前に壁が出来た。

 

 それらを見やると、七夜たちが梟から私を遠ざけるように、周りを囲んでいた。

 

「え―――?」

 

 私は声を上げることも出来ず、ただ呆然と彼らを見ることしか出来なかった。そんな私を見て、彼らは笑った。私を安心させるかのように、暖かく笑んだ。

 

「なに?」

 

 彼らの行動に、義姉様の返答に梟は心底不思議そうに顔を歪めた。

 

「聞こえませんでしたか?私たちは拒否すると言っているのです、刀崎梟」

 

 そして、七夜は裏切らないのです、と義姉様は言った。

 

「わっかんねえな。身内がそんな上等かね」

「ええ。私たちは何よりも一族が大切です。貴方には理解出来ないでしょうね」

 

 不機嫌を隠そうともせず、義姉様は梟を睨む。それは最早蛇蝎の如き憎悪をぶつける凄まじい形相であった。

 

「それに、朔に殺しなどさせません」

 

 その言葉に、梟が反応する。

 

「何言ってやがる。殺しは七夜の専売特許だろうが」

 

 確かに、それはそうだ。七夜が退魔組織で揺ぎ無い地位を気付いていたのは、暗殺によるもの。その為、近親相姦を重ねることで私たちは退魔衝動を強化させるに到ったのだ。

 

 つまり、義姉様の言葉は、その我らの行き方を覆す発言に他ならない。

 

「そうです。だから私たちは朔に背負わせた。七夜の業を背負わせようとしてきた。それが結局、朔の幸福を奪ったのです。朔は優しい子です。しかし、それを歪めたのは私たち七夜。あの人も、きっと望んでいません」

 

 だから朔に人殺しは行わせない。

 

 何もかもを背負わせすぎたのだ。

 

「だから貴方に朔を渡しません。それは朔の幸せではありません。朔に血は似合わない。あの子には、そんなもの似合わない」

 

「手前……、七夜を否定してんぞそれ」

 

 いっそ呆れた梟の表情。

 

 それを受けて、それがどうしたと言わんばかりに、七夜はその手に武器を握る。最早交渉は決裂した。交渉と呼べるほどのモノではなかったのかも知れないが、私の不安は拭われていく。迸る殺気は限界を迎える。何か切欠も必要とせず、七夜は梟を殺そうと迫る。

 

「その為には、滅んでもいい、ってか」

「はい、本望です」

 

「ったく……莫迦ばっかか。さすがは糞餓鬼の一族、融通の聞かない」

 

 そう言って、梟はため息を零した。心底面倒そうに。

 

「ま、どうでもいい。原因は俺ではねえが、間接的は……しかし、これで手前ら死んだぞ。跡形もなく七夜は滅ぶ」

 

「其れもまたひとつの未来。しかし、ただでは死にません。今この時もきっとあの人は戦い続けているでしょう」

 

 その時だった。梟は突然、身体を震わせたのだった。

 

 それを訝しげに、其れでいて警戒心を鋭くいつでも殺せるように、七夜が動く。

 

 そして梟は、笑うのだった。

 

「ひひひ、ひひっひひひひひひひひひ!ああ、なんだつまりそうか、てめえらはまだそうだったか!そりゃそうだは、知らなきゃそうなるわな!」

 

 不快な、軋むような笑い声が響く。

 

「そうか、糞餓鬼か、糞餓鬼か!あいつか!」

 

 最早堪えきれないと、身体を捩りながら、首を捻りながら梟は笑った。哄笑。邪笑。それは収まることを知らず、七夜の里、広く暗い森の奥底にまで轟いていく。

 

 その姿の、存在のおぞましさに誰かが息をのんだ。

 

「なるほど、なるほど!手前らは見てはいないのか、気付いてはいないのか!なら、だったらアレを見なっ」

 

 犯しそうに梟はある一方を指差す。その指先につられる様に、私たちは梟の指先を見た。

 

 すると、どうだろう。

 

 夜の帳は平等に森を包んでいる。今は夜だ。太陽も昇りはしない。

 

 だと言うのに、私たちの視線の先は、仄かに明るい。

 

 まるで朝日を告げるかのように、暗い森にそれは浮き出る。紅く赤く朱く。

 

「前線は崩壊している。手前らが知ってるのはそんな所だろ?」

 

 軋む。空気が軋んでいく。梟に空気が覆われていく。

 

「それが意味すんのはなんだ?組織だった行動が出来なくなっちまったとか、動けるものが少なくなったとか、んなところか?だったらてめえら救い様のねえ莫迦だ。なんで前線は崩壊した?なんで奴さんがやってくんだ?」

 

 金属の声音が響き、そしてそれを告げた。

 

 

 

 

「全員おっちんじまったんだよ。それはつまり、糞餓鬼、黄理も含まれてんのさ!!!!」

 

 

 

 

 瞬時に、誰かが馬鹿なと声を上げた。

 

 しかし、それは。

 

「「「――――――――――――――――――っ!??」」」

 

 近づいてくる何かの気配に、音は死んだ。

 

 何か、とんでもない存在が、桁違いの雰囲気を放ちながら、徐々に近づいてくる。

 

「あいつも、俺とおんなじで朔に執着持っちまったからよ。出来るだけ早く確保したかったんだが、こいつはやべえなあ」

 

 そうは思えぬような狂った血走る瞳。

 

 七夜は動く。瞬時に動いた。その場にいるのは危険だと判断したのだろう。

 

 だが、私は動けなかった。動こうとはした、だが、足に力が入らない。

 

 近づく気配に、私は既に飲み込まれていた。

 

「――――ぁ―――!」

 

 遠くから、私を呼ぶ声が聞こえる。だが、それを私は果たしてちゃんと聞こえていない。ともすれば幻聴のようにも思えた。

 

 木々がなぎ倒され、真っ直ぐにそれは駆けてくる。地響きのような、足踏みを感じた。

 

 そして。

 

「ぁ―――う、あ――――――」

 

 熱が。肌を焼く。見えない炎が空気を焦がした。

 

 強大な生命。最早声を出せない。

 

 鋼鉄のような身体。視線が逸らせない。

 

 僅かに血を浴びたその身体。それは誰の血か。

 

 修羅を体現するような厳格な表情。

 

 鬼神が、そこに現われた。

 

 

 

 

「――――――――――――わらべは、どこだ」

 




以下今回のおさらい。
七夜朔は相変わらず目覚めない。単に脇役なオリキャラと化しつつある。
刀崎梟は惚気話を始めた。
妹様涙目。


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第十七話 鬼神二人

 鬼神の腕が迫る一瞬を永遠の如くに感じる。想定外とは安易に言い難い悪夢のような存在。質量や気配、存在果ては概念に到るまで、最早核が違っている。根本的な部分から、目前で拳を揮う存在が違うことをまざまざと見せ付けられた。辺りは破壊の跡。鬼の拳に巨木は抉れ、鬼の踏み込みに地面は割れた。鬼神が何か動くたびに、何かが形を変えて壊れていく。

 

 その腕の一撃が腹を目指して放たれた。拳は重く、其れでいて冗談のような威力を持ちながら、黄理を殺そうと、潰そうと迫る。黄理自身人間の頭部を身体にめり込ませた過去があるように、通常の鍛えられ方では持ち得ない膂力を持っているが、目前にある拳はそれ以上。生物としての原型を留めることも出来ずに黄理は擂り潰されてしまう。

 

 その一撃を寸でのところで避け、頭部を横切る握りこぶしに一瞬脳が揺れた。僅かに歪む意識に視界が淀みかける。それは紅摩には正に好機。

 

 豪腕は止まる事を知らず、逆の腕が跳ね上がった。筋肉が膨れ上がり、血管が浮き上がる。急激な回転に紅魔の立つ地面が沈む。足元から始まる回転力は足を伝わり、腰骨を捻る。筋肉の連動は正確に拳へ走り、近代ボクシングで言う所の右フックに近い拳が迫る。だが、紅摩の筋肉から放つそれが所謂スポーツの範疇で収まる事はない。紅摩は混血、人間以上の存在をその身に混ぜた一族の最終地点。そのような男が放ったモノが、人間程度の威力で収まるはずがない。

 

 それは雷光だった。紅い雷光であった。

 

 時の止まるような刹那を伸ばした空間を、紅摩の一撃が迫る。光速にも似た拳が限界にまで引き絞られ、黄理の肉体を破壊し尽くさんと鎌の如く襲い掛かり――――。

 

 其れよりも尚早く、銀の斬撃が紅摩の目を打った。

 

「――――っ!」

 

 残された紅摩の左目を強かに打つ。眼球が眼底ごと潰れても何ら不思議ではないはずの威力に、紅摩は堪らず視界を閉ざす。目測を失った拳を黄理は後退によって回避し、距離を離す。空気の弾けた音が、紅摩の拳から生まれた。

 

 気付けば地形は変わり、そこは草原だった。気を一瞬でも逸らせば己が命を代償として支払わなければならぬ緊張状態の中、繰り広げられる攻防以外に気を囚われてはならない。特に黄理はそれをひしひしと感じていた。無論肌で感じたのではなく、勘ですらない、純粋な経験則だった。

 

 だってそうだろう、幾程の交差を重ねたのか、黄理には既に定かでない。その中で、黄理は幾度となく死んだ自分を見た。かつて退魔として暗殺を行う時の中ですら感じたことのない死の気配。

 

 濃厚な死が焦げ付いた臭いを放って黄理の鼻腔をくすぐる。黄理は夜を凪ぐ草原に、炎に焼かれた焦土を幻視した。

 

 呼吸が少し荒い。殺すことに息を乱すなど、有りはしなかった。

 

 それを覆した存在、軋間紅摩。

 

 対して紅摩もまた、この状態に言い様のない違和感を覚えていた。始めての経験、殺し合い。そう、両者共に殺し、合う事は無かった。なぜならば彼らは死そのものであったからだ。

 

 卓越した暗殺術に一方的な死を与える七夜黄理。

 

 超越した生命で太刀打ち出来ぬ死をもたらす軋間紅摩。

 

 彼らは、そのあまりの強さに、今まで殺しあう事が無かった。

 

 それこそ、この違和感の正体。命を奪い合うという状況、馴れはしない攻防の連続。神経は尖り、肉体は過剰に反応を示す。猛る筋肉は見逃せぬ疲労を蓄積し、だが、それでも止まらない。攻防は拮抗している。

 

 この状況に、幸か不幸か黄理はこのタイミングで、この殺し合いに精神が高揚しているのを感じた。ただ一方的ではない殺し合い。

 

 殺しに、殺しの中で、生を感じたのである。

 

 それは黄理には感じたこともない、熱であった。

 

 しかし、今この瞬間である。この刹那の間隙において、黄理は算段を見つけ出した。

 

 目前の敵、軋間紅摩の視界は不明瞭と化した。元より紅摩は視界に不利があった。かつて黄理自身が潰した右目。それにより紅摩の右側には死角が存在する。そして今、紅摩は黄理の打ち据えた撥により、左目の機能を低下させている。黄理からすれば、今の一撃で眼球が健在である事に脅威を感じた。かつてよりも生命としての規格が進化している証拠を示されたのである。

 

 人外の混血。規格外の化け物。紅赤朱。恐るべき化生であると、真実黄理は戦慄を抱いた。戦慄を抱くと言うこと事態、黄理にはありえなかった。攻撃が通じない。あらゆる手段を講じても、紅摩を殺すには至らない。状況開始直後に紅摩に届かせようと決めたものの、それは未だ実っていない。理不尽が形を成したような存在である。眼球を突いても潰れるどころか失明もしているようには見えない。

 

 最早一刻の猶予も無いはず。戦況はどうなっているのか、紅摩を相手にしている黄理には判別もつかない。しかし決して楽観視出来ない状況であることに変わらない。紅摩の相手をしてる間に、刻一刻と滅びへの秒針は進んでいく。

 

 ならばと、黄理は決断する。状況を考じるならば、それは極自然の事であった。

 

 そして全てが終われば、今までと何ら変わらない日々へと戻る。

 

 志貴と過ごし、女と在り、朔と家族になり、一族の長として何も変わらない、この暗く鬱蒼とした静かな森に生きていく。

 

 それでいい。それが良い。それこそ黄理にとっては新鮮な日々だ。望むべくも無い。

 

 だから、こいつが邪魔だ。

 

「お互い、損をしたな。小僧……っ!!」

 

 本当に損をした。こんなものを、生の熱を知らず、未来を思うことも知らずに、遠野の狗と化した紅摩に言う。自分にはそれがある。今、分かった。今、理解した。それは果たして紅摩も感じているのだろうか。

 

 息を吸い込む。筋肉を動かすのには酸素が必要だ。それは七夜も変わらない。そして動こうとする筋肉たちは熱を放ち、黄理の全力を許容する。例え疲労がたまり極度の緊張状態に在ろうとも滞りなく。それは即ち黄理が持つ機能を動かすエンジンに他ならない。

 

 そして黄理は、前方に倒れこむようにして、走り出した。

 

 地面に擦れるギリギリまで傾けられた前傾姿勢。地を舐めるような滑走。

 

 加速は一気に最高速度へ。地面が爆ぜる。

 

 この時、黄理は草原を凪ぐ一陣の風と化した。

 

 狙いは始めから決めてある。

 

 そのための布石は幾つもあった。

 

 左目の打撃。

 

 頸部への執拗な攻撃。

 

 そして、かつて黄理自身が奪った右目。

 

 左目の殴打により、紅摩の視界は万全ではない。

 

 頸部に刺さる刃に注意を向け、それを狙うと見せかけた頸部への攻撃。

 

 執拗に狙われた紅摩の首は確かな悲鳴をあげている。例え紅摩が化生であり、人外の固さを誇ろうとも、人間の構造である以上、首の軋みは確かに生まれている。

 

 遥か昔に奪った右目の死角へと潜り込み、そこからの一撃。それで終いとする。

 

 紅摩の喉。

 

 そこを潰す――――!

「―――――――っ?」

 

 紅摩も接近する音に気付いたのだろう。抑えた左目が、黄理を見た。

 

 打撃によるものか、その目は紅く赤く朱く血走っていた。

 

 まるで鬼の如し。

 

 表情は厳しく、迫る黄理に拳を放つ。

 

 しかし黄理が眼前に迫ったその時だった。

 

 紅摩の視界から、黄理の姿が消えたのである。

 

 今までなら紅摩も対応できただろう。反応できただろう。

 

 だが、紅摩の左目は黄理の打撃により、ほとんどその機能を果たしていない。

 

 霞の如くに姿を掻き消した黄理は、その瞬間には既に紅摩の死角にいた。

 

 紅摩の右側。踏み込みと共に、黄理は右手に持った撥を投げ捨て、右手を左手に持つ撥に添える。下から鋭角に突き出された黄理の一撃が、鋼色を残して紅摩へと伸びた。体重、踏み込みの力、地面の硬さすら加わって、それは紅摩の首を破壊せんと奔る。

 

 今こそ勝負の時。

 

 これぞ乾坤一擲。

 

 終いの一撃必殺――――!

 

 紅摩の喉に、金属が肉薄する。

 

 それが、皮膚を押し潰し、筋肉を破砕し、喉笛を噛み千切る――――。

 

「――――っあ?」

 

 ずんっ、と表すればいいのだろうか。

 

 言い様の無い、鈍い衝撃が腹部から生まれた。

 

 何かを引き千切るような、そんな音と共に。

 

 不思議に思い、腹部を見ようとした。

 

 最初に見えたのは、草だった。赤い草原だった。

 

 そして、下半身が消えうせていた。

 

 否、ギリギリ皮膚によってくっついている。

 

 腹から溢れた臓物が場違いな彩りを持っている。中には原型を留めていない胃袋があった。

 

 赤い液体は止め処なく零れていった。液体は、草を赤く染めていく。

 

 あと少し、あと少しで、紅摩の首を壊せた。僅かばかり、体重を傾ければ、破壊できた。

 

 だが、踏み込もうにも、黄理には脚がなかった。

 

「……死角は、慣れた」

 

 どこか、遠くから、ナニカの声が聞こえた。

 

 そちらを見やる。なぜか力が入らない。ゆるゆると定まらぬ視線の先、紅摩がいた。

 

 その喉には鉄の撥。突き刺さっているはずの銀色。それによって紅摩は死ぬはずだった。

 

「貴様が、来る前」

 

 しかし、紅摩は死んでいない。生きている。喉は潰れているはず。それに近い感触が黄理の手にはあった。

 

「……似たような、奴が、幾度も狙った」

 

 掠れる声で在りながら、その声ははっきりと黄理の耳に聞こえた。

 

 似たよな、奴。

 

「……さ、く?」

 

 呟く声が、己の耳には聞こえない。

 

 朔もまた、黄理と同じように、死角からの攻撃を狙い、それも幾度となく行っていたのならば、紅摩はどれほどその攻撃に晒されたのか。そして紅摩は次第に適応し、死角を死角と思わないようになったならば――――。

 

 思考は続かない。

 

 闇へと解けるように、意識が消えていく。

 

 視界は失われつつある。

 

 その中で、黄理は見た。

 

 遥か昔、自身が朔を抱いたあの時を。

 

 そして、それから時が流れ、暗い森の自分の屋敷。そこの縁側に黄理は腰を下ろし、自分の視線の先で、志貴と朔が遊び、隣で女が笑んでいる光景を。

 

 その中で、朔は振り向き、今まで一度も変わることのなかった表情が、少しずつ笑みへと変わり、黄理に向かい、父上と呼んだ。

 

 それを自分は嬉しく思い、朔の名を呼びかけ、優しく、抱きしめて―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――………………………………………………………………………………………。

 

 □□□

 

 物言わぬ屍が、そこにはあった。

 

 身体は半分なく、その顔も爆ぜたように散り散りだった。

 

 良く見ればその周囲に、その中身だったものが散らばっていた。

 

 それを見て、紅摩は不思議と昂っている自身を思った。

 

 あの瞬間、黄理の一撃に、紅摩は死を見た。回避できぬ、死を見たのである。迫る銀の一撃は確実に紅摩を食い破り、彼に死をもたらすはずだった。それを塗り替えたのはひとえに黄理よりも前に殺しあった、子供の存在があったからである。

 

 あの子供の戦闘方法は、紅摩の死角へと執拗に移動し続け、そこから紅摩を狙う戦法であった。幾度となく、紅摩は子供の攻撃に晒された。それにより紅摩は死角からの攻撃に、適応を見せたのである。

 

 あの時、確かに紅摩は黄理の姿を見失った。黄理の打撃により、左目は酷く痛み、視界は驚くほど狭くなっていた。歪む視界に、黄理の姿はない。

 

 それが分かった刹那。紅摩は死角への一撃を放ったのである。

 

 そしてその結果が、今紅摩の前にあった。

 

 屍、骸、死体。それこそ、紅摩が生き残った結果だった。

 

 紅摩は、僅差のところで黄理に打ち勝ったのである。

 

 其れに対し、喜びはない。

 

 ただどうしようもなく、自分の死を思った。そしてそれは反面、黄理との殺し合いは熱を感じ、それを紅摩は楽しいと思えたのだった。

 

 この熱は、紅摩が生きている証に他ならない。

 

 身体が昂る、精神が温度を放つ。

 

 それを紅摩は忘れたくはなかった。始めて紅摩が手に入れた生の実感。

 

 熱い。気付けば、草原に火が灯り始めた。

 

 それは次第に広がっていく。嗚呼、熱い。それが心地よい。

 

 やがて草原は炎の海と化した。周囲は明るく、ひたすらに燃えていく。

 燃える。燃える。

 

 空が紅く焦げて燃える。

 夜を染め上げて、紅く燃える。

 

 紅摩は、その光景に見入っていた。

 

 この熱さに、一入酔いしれたのである。

 

 そして、これを忘れたくないと、再度思った。

 

 では、どうすればいいのだろうか。

 

 もしかしたら、黄理と同じような姿、技ならば、それを実感するかもしれない。

 

 それならば、と。紅摩は進んだ。

 

「嗚呼……」

 

 そう言えば、黄理に酷く似た存在がいた。

 

「さく」

 

 黄理の死に際に聞こえたナニカの言葉。それを名前だと、紅摩は漠然と感じた。

 

 何故だかわからない。だが、それは紅摩に確信を与えた。

 

 あいつなら、あるいはあのわらべならば、この熱を感じさせてくれるのではないか。

 

 そう思う。そしてそれを紅摩は、素晴らしい事だと思った。

 

 しかし、先ほど紅摩は既にその子供を破壊しかけた。

 

 未だ、生きているのだろうか。

 

 ―――いや、きっと生きているに違いない。アレは随分と生き汚い。死に掛けの身体で紅摩を殺しかけた存在である。黄理に似た子供である。

 

 それならば、期待できるやも知れない。

 

 燃える草原。歩むは赤い鬼神。

 

 その後方、鬼神の死体がひとつ。

 

 目指すは、わらべ。

 

 

 

 

 

 鬼神の口角が、僅かに持ち上がった。

 

 




以下今回のおさらい。
軋間紅摩はストーカー予備軍と化した。
七夜朔は男にモテて仕方がない。


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七夜編最終話 朔

 始まりがあれば、終わりが来る。

 終わりがあれば、先に何がある?

 

 □□□

 

 ふいに、目が覚めた。

 

 広い屋敷の中は誰もいなくて、痛いほどに静かで、僕は寂しくなって外に出た

 

 離れに向かっても兄はいなかった。皆何処に行ったのか分からない。中には敷かれた布団だけがあった。

 

 静かな夜に何処からか音が聞こえた。遠く耳を澄ませばそれが森の方からだと分かり、誰もいない事が嫌になって森に向かった。森の中は子供だけで行っては駄目だと言われていたけれど、誰もいない屋敷にいるのが怖かった。

 

 森は暗くて、冬の空気がシンと身体に痛い。息は白く、先も見えない暗がりを進んだ。

 

 流れる黒のヴェールに月の光は届かない。森は深く深く、先に何があるのか分からなくて、僕は少しドキドキしながら音の聞こえる所に進んでいた。

 

 ナニカが弾ける様な音、硬く乾いた様な音が、聞こえる。それはどこにだろう。

 

 森を進んでいると、誰もいなかった。人も、動物も、皆いなくなっていた。誰かとすれ違うこともなく、鳥の鳴き声も聞こえない静かな森が横たわり、夜には森の向こうから聞こえる音しかなかった。

 

 ――――――し、き―――。

 

 名前を呼ばれた気がして、そちらに向かう。

 

 ――――――――――わからない。

 

 広い場所に皆いた。

 赤い赤い、赤い地面。赤い水が、広がっていた。

 その中に、皆いる。だけど皆ナニカが欠けてて、バラバラになっていた。

 手がない。足がない。身体がない。頭がない。

 赤い水の中を泳ぐように、皆倒れている。

 

 ――――――――――わからない。

 

 誰かが僕の前に現われた。僕をバラバラにするために、やってきた。

 そして、誰かが僕の目の前に飛び出て、僕の変わりに倒れていった。

 赤い水を浴びる。

 僕の代わりにバラバラになった、お母さんと言う人は、そのまま動かなくなった。

 

 ――――――――――わからない。

 赤い水が目の奥に染みこんでくる。

 それを拭おうとは思わなかった。

 

 ――――――――――わからない。

 

 僕の前に、誰かが来る。僕をバラバラにするために、やってきた。

 ナニカ鋭いものをその手につけて、僕に向かって突き刺す。

 痛いとは、思わなかった。

 だけど力が入らなくて、そのまま地面に座り込んだ。

 この人は僕をどうするのだろう。

 僕を皆みたいにバラバラにするのだろう。

 

 そして―――――。

 

 

「―――――――――――――――――っ」

 

 

 その背中が、見えた。

 

 僕の前で、僕を守るように、その背中があった。

 半身は肌蹴ていて黒ずんだ藍色の着流しは破れていた。

 僕よりも少しだけ大きな背中は引き締まり、だけど細く。

 その左腕は短くなっていて、巻かれた白い布には赤色が滲んでいる。

 

 その背中は、なくならない。

 それに僕は安心して、涙が出そうになった。

 

 力がなくなって、僕はそのまま倒れてしまう。

 

 頭が靄にかかったように曖昧で、自分でも何を考えたいのかよく分からなかった。

 

 倒れて、空が見えた。夜の空に、月が独りぼっちで吊るされている。

 

 そして、思う

 

 ああ、何で気付かなかったのだろう。

 

 見やる空に浮かぶは、満月。

 

 

 

 

 今夜は、こんなにも、つきが――――――きれい―――――――――――だ―――。

 

 □□□

 

 七夜。

 

 その名を聞けば、混血の者は忌み嫌い、そして恐れた。人間の身でありながら混血を打倒する術を長の時をかけて練り上げてきた一族。それは最早本能に刷り込められた退魔衝動によるものもあるだろう。七夜の退魔衝動は何よりも恐ろしい。

 

 だが、それ以上に彼らが恐れたのは、その徹底振りにあった。

 

 暗殺のプロ、と言えば聞こえはいいかもしれない。徹底されたスペシャリスト。依頼達成の為に如何様でも身を振るその賢しさ。一族に伝わる技量もまた然り。その技法、手際のよさ。鬼神と呼ばれた七夜黄理の暗殺は芸術とさえ呼ばれたこともある。

 

 しかし、それ以上に混血が恐れたのは、その執念にあった。

 

 必ず殺すと書いて必殺。それを生き様の如きに体現させる集団。

 

 そのためならば、命を投げ出すほどに。

 

「おや、どこに行かれますかな?」

 

 暗い森の中、前線の掃討を完了し七夜殲滅へと向かった本隊へと合流するため、後方にて待機していた別働隊が森の中を進んでいる時だった。

 

 彼らの頭上、暗い森を構成する木々のひとつ、そびえる樹木の枝に座り込むように、一人の老人がいた。顔に刻まれた皺が枯渇した大地を思い起こさせるような老人である。

 

 その衣服、雰囲気から老人が七夜だと判断した別働隊は有無を言わさず老人へ発砲を仕掛けようとして。

 

「ふむ、数は大よそ五十を下りますか」

 

『!?』

 

 彼らの中心部に、突如として老人が現われた。

 

 先ほどまで腰掛けていた枝には姿は既になく、気付けばその場所にいた。まるで空間を飛んだかのように、音も気配も感じさせず、老人はそこで周囲を見渡していた。私兵隊が銃を構える。

 

「この老いぼれがあ!!」

 

 そのあまりの穏やかさに苛立ちを隠せなくなった混血の一人が、衝動的にその手にある銃火器で老人を射殺しようとする。

 

「いいのですかな?お仲間方にも当たりますが」

 

 老人の立ち位置。森を進む私兵隊の編隊のど真ん中である。老人を取り囲むようにして私兵隊はいるが、逆を返せばそれは好機とは一様に言いがたい場所であった。フレンドリーファイアを考慮するならば、この密集地帯で銃を撃つのは仲間に対して危険が伴う。

 

「っく!」

「ほっほ。それで良いのですよ」

 

 仲間への誤射を考えるのならば、銃の選択はナンセンスだと気付いた混血は舌を噛む。だが依然銃に狙われていることに変わりない。

 

 戦力は歴然である。老人には見たところ武器らしいものはない。黒衣の老人は丸腰に見える。既による殺害も出来なくはないが、それは効率が悪いだろう。其れに対し私兵隊は銃火器をそれぞれ所持し、今も尚老人を狙っている。もし何らかの動きがあるのならば射殺の可能性は充分あるが、しかしたった一人相手にわざわざフレンドリーファイヤの危険性を抱える必要はない、と私兵隊は判断した。

 

 だが、七夜に対し近接戦闘を挑むのもまた不安であった。混血たちは確かに人間以上の力を秘めているが、七夜はその混血に対し暗殺を仕掛ける一族。身体能力は計り知れず、先ほどの移動を見てもそれははっきりとしている。

 

 故に私兵隊は勇んで行動するのが憚られる状況にあった。

 

 それを肌で感じながら、老人、翁は言った。

 

「さて、ここで皆さんに教えておきたいことが御座います」

 

 その口調は朔や志貴に話しかけるのとはまた違った穏やかさ。その中には見逃すことも出来ぬ冷たさがあった。

 

「皆様が現在お立ちのこの場所。実は地雷原でしてな」

 

「「「!?」」」

 

 翁の言葉に驚愕した私兵隊は慌てて地面を見やる。そこで動き出さないのも、彼らの経歴を表している。

 

 しかし。

 

「いや、ここは正規のルートなはずだぞっ?」

 

 兵たちの動揺を抑えるように一人の混血が言う。確かに、今彼らがいる場所は罠なども設置されず、また植物たちの襲撃にも逢わない安全なルートとして教えられている。そのような場所に、地雷原があると聞かされても、其れが果たして真実なのか判別はつかない。

 

「まあ古いものですから、最近は作動しないモノも多く御館様には全品交換を申し立てているのですが、なかなか巧くゆかぬものでして。なので踏んでも別に問題はないのです」

 

 困っているように翁は頭を掻いた。

 

「しかし、このまま放置していても罠として活用できぬ。それで私は考えたのですが、これを地雷としてではなく、ただの爆弾として使ってみればいいのではないかと思ったので御座います」

 

 

「なので、皆様。ここで私と死にましょう」

 

 

 翁の発言にこれから何が起こるか思いついた混血たちは慌てて翁を射殺しようとするが、それは七夜を相手取るにはあまりに遅すぎた。いつの間にか翁の手に握られた起爆の仕掛けらしきスイッチが目に入った。

 

 ―――思えば、随分と遠くまで来たものだ。

 

 七夜として、存分に生きた。老年に差しかかろうとも一所懸命に生きたつもりだ。

 ここ数年では、今まで感じたこともないような穏やかな日々を過ごした。

 暗殺集団として長い間生きた翁には、そのあまり血生臭くない日々がとても楽しかった。

 

 志貴様、朔様。

 懸念は二人。

 二人は未だ幼子。ここで生涯を閉じるか、はたまた先を見出し生き残るか。

 

 そこで翁は思考を振り払った。

 

 いや、自ら死にいこうとする人間が、そんな事考えてはいけない。未来は未来を見るものが考えればいい。

 

 黄理の助けに間に合うことも出来ず、辿り着いた時には全てが終わっていた。そして、燃えさかる草原に黄理の亡骸を見て、翁は七夜の終わりを悟った。

 

 嗚呼、不甲斐なし。黄理の相談役でありながら、死ぬその時に立ち会うことすら出来ず。

 

 なので、翁はここで死ぬ。死んでいく。

 

 ただ、一人のまま死ぬのは御免被る。

 

 やはり、翁は七夜だった。

 

 死ぬ時は、殺して死ぬ。

 

「今、向かいます。御館様」

 

 仕掛けを発動する。

 

 地面からの激しい爆発に翁の思考は一瞬で消えた。

 

 その爆発の向こうに、黄理の姿が見えた。

 

 □□□

 

 其れの登場に、時が止まる。声を上げることが出来た人間は、其処にいなかった。

 

 軋間紅摩。赤い鬼神。

 

 其れの存在に、皆恐怖を抱く。紅摩の肉体から放たれる威圧感。人間サイズの生命でありながら、その規格は人間以上の化物であり、今まで出会った混血共を遥かに凌ぐ事が最早瘴気となって七夜に伝わる。それが、彼らの目の前に現れたのである。

 

 紅摩を見た七夜たちは、経験ではなく直感で、その存在が朔を瀕死に追い込み、梟の言を信じるならば黄理を殺した相手であると知った。

 

 そして、それは立つ事も出来ぬ女の腕の中に朔の姿を見つけると、しばし時を置いて女の下に歩み寄り、そのままゆっくりと腕を振り上げて。

 

 造作もなく、それを、振り下ろした――――。

 

「―――――――――っ!?」

 

 鉄槌めいた腕が放たれる。見掛けからして鋼の如き硬さを持った筋肉によって振り下ろされた一撃は、あっけなく女を磨り潰し、出来の悪い標本のような体を成す―――。

 

 悲鳴が、聞こえた。

 

 だがそれは、女の声ではない。

 

「何をしているのです!早く朔様をつれてお逃げください!」

 

 紅摩の身体に三人の七夜が張り付き、その急所に己の武器を叩き込んでいた。首に、動脈に、心臓に、鋭利な刃物が切りつけられていた。

 

 心臓の辺りに長刀を突き立てた七夜が言う。焦燥を隠すこともなく、鬼気迫る表情を浮かべながら、動くことも忘れ呆けている女に叫ぶ。

 

 七夜の攻撃に対し、紅摩の身体は無傷。かつては現役で活躍し、幾度も暗殺を行ってきた三人の攻撃に紅摩の身体は皮膚さえ傷つけられない。

 

 女はその絶叫に身を一瞬強ばらせ、思い出したかのように力も入らぬ足を無理矢理立たそうとして。

 

 その顔に、肉片がついた。

 

 そして、女は見た。

 

 先ほどまで紅摩に取り付いていた七夜たちが、腕の一振りのみによって、無残に身体が千切れていく様を。ある者は腕を、ある者は首を、ある者は胴がなき別れを果たす。一体どういう膂力を持ってすれば、そんな結果が生み出せるのだろうか。

 

 撒き散らされた肉と血が地面に赤い花を咲かせ、紅摩は返り血に更なる紅みを増す。ただ無造作に振られた腕に秘められた桁違いの力。確かに、其れと同じ結果を生み出せることは可能だろう。だが、それはこのような力技の成せるモノではない。

 

 崩れ落ちる七夜。紅摩の前に彼らはあっけなく死ぬ。

 

 そしてそれらを一瞥することもなく、紅摩は再び歩み始める。

 

「―――――っあ、あ、ああああああああああああああああああああああああ!?」

 

 女が動けたのは偏に恐怖であった。恐怖に身体がすくみ、生存本能が逃走を促した。ふらつきながらも立ち上がろうとする女は、腕の中にいる朔を決して離すまいと抱きしめた。自身が七夜であるとか、敵前逃亡だとか、そんな事は頭に過ぎることはなかった。ただ、女は紅摩から離れたかった。

 

 恐怖に駆られた身体は反転する暇すら惜しいと、閃走によってその場を離脱し―――。

 

 眼前に突如として、紅摩が出現した。

 

「―――――っ!」

 

 恐怖に竦む肉体と言うのはどうしようもなく反射能力に鈍る。精神が恐慌状態であり、正常な心理状態でない今、女の動きは僅かに遅く、その遅さを紅摩が狙わぬはずがない。今まで朔や黄理に翻弄されていたのは、紅摩の反射能力がその疾さに適応できなかった事に他ならない。しかし、今や紅摩はその二人さえ撃破し、それ以下の使い手である七夜に追いつけぬ道理はない。それを証明するように、紅摩が先ほどいた地面は爆発的な踏み込みに割れていた。

 

 目前に現われた紅摩の姿に恐怖しか抱くことの出来なかった女の判断能力では、紅摩に太刀打ちは出来ない。足が、止まった。

 

 瞬きほどの膠着に動きの止まった女を嘲うかのように、無慈悲な一撃が迫る。それは中国拳法にある崩拳と呼ばれる打突に似ていた。風を突き抜ける轟音を生み出し、拳は女を撃ち殺そうとして。

 

「!!!!!!」

 

 風が、紅摩の動きを止めた。

 

 急激な突風。それは七夜のものだった。回避できぬ女を引っ張りその場を離脱させる。その刹那の中に行われた動きに、紅摩は狙いを外し拳は空を切る。

 

 そして、その場に七夜たちが現われた。突然の攻防、紅摩の異常さに動きを忘れた七夜たちが紅摩を殺そうと動く。

 

「っ駄目だぁっ!!」

 

 それは誰の悲鳴だっただろう。

 

 悲鳴を無視した七夜たちは急激な加速と共に紅摩を撹乱させようとするが、それには反応すら示さない紅摩に一気に攻勢をかける。

 

 そして惨劇が始まった。

 

 紅摩の命を狙った七夜の数七人。

 

 その悉く、あっけなく死んでいく。

 

 ある者は心臓を狙い急襲をかけ、その頭が拳に爆ぜた。

 

 ある者は後方から走り寄り、胴回し回転蹴りに上半身を失った。

 

 ある者は頸部を狙い上空から滑走し、そのまま頭を握られ人外の握力に潰された

 

 死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。

 

 大よそ尋常の死に方ではない。まるで枯れ花のような脆さで、人間が形を変えていく。そして七夜は知った。これに自分たちは太刀打ちできない事を。

 

 立ち向かってきた七夜を破壊した紅摩の姿は正に鬼神の如く。

 

 返り血が月光に照らされ、人間の力の及ばぬ存在の姿をまざまざと映し出す。

 

「待たんか糞餓鬼っ」

 

 走り寄る声の主、刀崎梟は愉悦交じりの嘲笑ではなく、その顔に憤怒を塗りたくり紅摩を睨む。その視線の鋭さは大きな眼と相まって爬虫類を思わせた。

 

「おい軋間。……てめえ今何しようとしてた?」

 

 腹の底を震わす、怨嗟さえ込められた声に紅摩は無反応を示す。その瞳は梟を見ていない。ただひたすらに、女の腕の中にいる朔だけを見つめていた。何を考えているか判断は出来ない瞳だが、その狙いは明確だった。

 

「ふざけんなよ?こいつは、俺のだ。餓鬼はすっこんでやがれっ」

 

 応えなき紅摩に梟は紅摩に歩み寄ろうとした。

 

 だがそこに、七夜の悲鳴が聞こえた。

「遠野を確認っ!来ます!」

 

 其れを聞いた七夜たちは悪化していく状況に舌打ちを漏らす。鬼神軋間紅摩、更に遠野私兵隊。明らかに危険なのは紅摩である。だが、私兵隊も危険であることに変わりはない。

 

 黄理も生存不明。七夜に生還の術はない。

 

 そして。

 

 銃声。

 

 それに合わせ、七夜が動いた。

 

 皆殺しを心に秘め、七夜は動く。

 

 紅摩には敵わない。だが、それでも殺してやると、今誓う。

 

 今現在確認されている遠野私兵隊の損害は全体の約三割。

 

 そして七夜の残存兵力五十二名。状況は圧倒的不利。形勢逆転の策はない。

 

 虐殺が、始まった。

 

 つんざく悲鳴。鳴り止まない銃声。

 

 七夜が死ぬ。七夜が死ぬ。七夜が死ぬ。

 

 銃弾を掻い潜り、混血の懐に潜りこもうとする七夜を別の混血が狙い打つ。

 

 闇夜に紛れ襲撃をかけようとする七夜が十字砲火に粉微塵と化す。

 

 そして接近した七夜には混血としての能力で打倒する。

 

 七夜は暗殺を担う退魔の一族であった。それは正面から混血と対峙することの危険性を充分承知の上での選択であり、それ以外では劣る事の証明であった。人間としては上位の領域に入り込む規格であろうが、それは混ざり者の混血に対しては、あまりに力不足。それゆえの暗殺。

 

 しかし、今この時、七夜の暗殺術は完全に封殺されていた。

 

 暗殺とは気付かれずに果たすものであり、気付かれてでは遅すぎる。

 

「―――――――――っ!!」

 

 また、一人、死んだ。

 

 男も、女も、子供さえも関係なく、混血の暴力に生絶えていく。

 

 死体が積み重なる。血が湖のようにたまっていく。

 

 その光景を、私は加速しながら呆然と眺めていた。

 

 死ぬ、死ぬ。死ぬ。

 

 溢れかえる死のにおいに、硝煙と血が混じる。それは今まで嗅いだこともないような臭いで、私の鼻を詰まらせる。

 

 周囲は混血によって囲まれている。包囲網は徐々に狭まり、この虐殺に終わりを告げるのだろう。七夜の滅亡と共に。

 

 感覚が麻痺している。あれほど恐ろしかった混血が近くにいると言うのに、それが現実感を抱かせない。これは私がおかしくなったのか。混血が可笑しいのか。

 

 しかし、それでも朔だけはやらせはしない。

 

 生き残りはどれほどいるのだろうか。

 

 判断はつかない。七夜と混血が入り混じり、殺し合っているのだから。

 

「――――――っち!」

 

 駆け回る私の肩に、銃弾が掠る。肉が多少持っていかれたがまだ大丈夫。朔には及んでいない。それに、アレと比べれば遥かにマシだ。

 

 背中に悪寒。

 

 

 急激な旋回に膝が悲鳴をあげるが無視する。視界を流れる惨状の光景は加速し、それを判断する暇もなく、足首の力で前方へ回避する。息を吸い込んだ瞬間血煙が肺に入り込む。耳をつんざく轟音。回避した後方を見やると、地面が割れ、砕けていた。そこには地面に拳を突き立てる紅摩の姿。あれを喰らっていたら、などと考えたくもなく、人知を超えた力の一撃が私に向けられてきている。それを回避するのに必死で、その他の混血に対し注意が払えない。

 

 アレに比べれば、銃創はまだ可愛げがある。喰らえば傷どころではなく、ただの肉塊。

 

 軋間紅摩の存在が状況をさらに悪化させていく。朔を狙い続け、朔を抱く私を必要に狙ってくるが、それを刀崎梟が邪魔する。しかし紅摩の蹂躙に、紅摩を狙った七夜は原型を残さず破壊された。

 

 紅摩の発する熱気、圧力。人外の気配に感覚が狂う。

 

 しかし、私にはやるべきことがある。

 

 朔を連れての脱出。

 

「っくそ!」

 

 激情が破裂する。

 

 一族を見捨て、朔を助ける。それが、酷く悲しい。

 

 だが、そんな私の嘆きなどこの地獄を彩る事もない。

 

 炸裂するマズルフラッシュに夜が光る。

 

 銃声の果てにまた誰か死んでいく。

 

 ―――――託された。朔をよろしく頼むと。

 

 里にいる七夜の全てが、朔の事を心配し、生きていく事を願った。

 

 皆、朔の事など、考えていないものだと思った。

 

 朔に関わらぬ者共に憤りと嘆きを抱き、彼らを恨んだ事さえある。そして何故朔はこのような生を強いられているのかと、自らを棚に上げ、悲しんだ事もあった。

 

 しかし、それは私の思い違いで、皆朔の事を大事にしていたのだった。それに気付きもせず、私は何も出来ず。なんて愚かな女。

 

 だから、朔を助ける。それが私に出来るたった一つの事。

 

 何とかして密集する混血たちを出し抜いて、この地獄と化した森を脱出し、朔を医者に連れて行かなくてはならない。

 

 そして私は――――。

 

「―――――――――――――――――あ」

 

 胸に、痛みを感じた。

 

 背中から、ナニカが突き抜けて、肺を食い破った。それは私の心臓すらも打ち抜いて、そして朔に掠りながら飛び出した。

 

 弾丸は、周囲の肉を焦がしながら、私を打ち抜いたと気付くのに少し時間が掛かった。流れ弾。戦線を離脱する私に、偶然にも打たれた弾丸が、私の命を打ち抜いたのだ。

 

「――――っくう!!」

 

 一瞬の間を置いて、苛烈な痛みが襲い掛かる。火傷のような痛み。

 

 しかし、足を止めない。

 

 こんな所で、倒れることは出来ない。

 

 未だ、戦線の中にいる。ここで倒れることは、朔が巻き込まれることにある。

 

 朔を死なせはしない。未だ腕の中に生きているのだ。

 

 足は動く、まだ動く。

 

 喉から血がこみ上げてくるが、朔にはかかって欲しくはないので、それを無理矢理飲み込む。胸が痛い、傷が痛い、心臓が痛い。心臓は人間の急所でしかない。全身へ血の運搬を行うこれが損傷してしまえば、死ぬ。

 

 だが、それでも動く。

 

 心臓は破損部分を無茶に動かし、何とか稼動している。しかしそれがいつまで持つのか分からない。

 

 それでも、動く。

 

 この全身全霊に、身体に熱が生まれる。それは死ぬ直前の前触れ、蝋燭の灯火が消えかかる時、激しく燃え散るように、最後の一片までその存在を示すのと同じ。

 

 だが、今ではない。死ぬにはまだ早い。

 

 足を踏み出す。私は、こんな所で、朔を死なせるわけにはいかない。

 

 しかし、現実は無情だった。

 

 逃げようとする私をせせら笑うかのように、背後に威圧感。

 

 再び、来る―――――!

 

 しかし、その一撃を回避することは、私には、出来なかった。

 

 足を、破壊された。

 

「が、あああぁ!?」

 

 水面蹴り。地をから救い上げるような一撃が、肉体を抉り、骨を破砕した。

 

 たまらず、踏ん張ることも出来ず、地面に倒れた。

 

 後方を見やる。血の流れ。胸の地が、朔を濡らしている。

 

 拭う事も出来ず、胸元の血を止めることも出来ない。

 

「……」

 

 そんな私を、それは見続けていた。

 

 まるで、お前のことなど興味がない、と。そして、朔を見ている。

 

 僅かに上がる口角は、笑み。

 

 死なぬはずと、誓いながら、このざま。

 

 虫けらのように。

 

 腕の中、朔を見つめる。

 

「朔……」

 

 そこには、私の知っている、朔がいた。私の好きな、朔がいた。

 

 意識が、消える。

 

「さ、く」

 

「ごめんな、さい」

 

 □□□

 

 そして、物語は終幕を迎える。

 朔。それは始まりであり、始まりの前に終わりを告げる。

 

 漂う。

 

 揺蕩い、彷徨い、意識は散り散りとなりながらも、この柔らかく温かみのある暗闇をあてもなく漂い続ける。先の見えない暗い闇は真っ黒で光も見えなかった。果ては見えない。いや、果てはあるのだろうか。何となくそのようなものは何処にもないような気がした。

 

 幾程の時の中を揺られ続けた。不快ではない。疑問も浮かばなかった。ただそれを受け入れようとした。居心地のよい無の空間に己と言う存在は何処までも広がっていき、肉の持たぬ意識は固体としての定義を曖昧にさせた。

 

 だが、自分は何故ここにいるのだろう。疑問ではなく、漠然とそう思った。

 

 記憶はない。覚えもない。ただ、気付けばここにいた。

 

 それを不思議とは感じなかった。不安を覚えなかった。しかし。この音も聞こえないこの場所、あるいは世界が、自分の居場所のように思えて仕方がなかった。沈黙にも似た深遠だけがこの場所にはあった。静かですらない、無音。

 

 そこで、ふと思った。自分は死んだのだと。

 

 そう思えばあとは楽だった。曖昧模糊な所在はつまり死んだ自我そのものであり、故に肉を持たないのだ。そして自分は死んだ精神が漂った状態で、果てもなくあてもなき存在でしかなく、精神であるからこうやって思考を重ねることも出来るのだと。それに対し何も思わない。だがそれが自然な事だと思った。

 

 しかし、疑問が生まれた。肉も持たぬ身であるならば、何故温もりを感じるのだろう。漂っていると分かるのだろう。考えを巡らせども、答えらしい答えには辿りつかなかった。

ノイズ交じりの音声の果てに、見えた。

 

 それは誰かだった。誰かの背中だった。

 

 大きく、其れでいてしなやかな造りをした背中であった。自分は、確かいつもそれを、見つめていたような気がする。見るようなものが何もなかった生に、遠くに見えた人の背中だった。周囲に人はいなかった。誰かはいた気がする。だが、それを果たして見ようとも思わなかった。

 

 その人は、その人だけが見えた。誰もいないような空間に、生に、その人だけが現われた。だから次第に自分はその人の背中を目で追っていた。

 

 ―――――――――。

 

 景色は変わる。

 

 自分は立ちながら、誰もいない空間、目の前に現れたその人を観察した。その人は男だった。目つきは鋭く、何を考えているかも分からないような無表情だった。男は御館様と呼ばれていた。だから自分も御館様と呼んだ。

 

 御館様が自分に話しかけてきた。そうだった。御館様が自分に話しかけるとき、自分はいつもそれを真っ直ぐに聞いていた。

 

 ―――――お前が、朔か。

 

 朔。それは確か、自分の名前だったような。そうか、自分は朔と言うのか。

 

 ―――――――――。

 

 景色は変わる。

 

 朔は自分の腕と同じくらいの長さがある刃物を持っていて、それで目前に佇む御館様に斬りかけた。

始めての訓練。自分の一族は訓練を重ねる一族なのだと教えられ、そうなのかと納得した。しかしそれは届くこともなく、朔は刃物の重さに負けて転んでしまった。その時御館様は見ているだけで、朔には手も貸さなかった。転んだ朔が立ち上がるのをじっと待っていた。

 

 その佇む姿を、朔は見つめていた。

 

 ―――――――――。

 

 景色は、変わる。

 

 訓練の途中のことだった。組み手に失敗し、手の骨が折れた時、御館様は黙々と添え木を当てて手当てをしてくれた。その表情は少しだけ柔らかかった。

 

 景色は、変わる。

 

 景色は、変わる。

 

 景色は、変わる。

 

 変わる景色の全てに、御館様がいた。

 

 次第に朔は御館様しか見えないようになっていった。様々な人間がいた気がする。誰かが話しかけたような気がする。だが、誰も側にはいなかった。御館様だけが、見えた。それを自分は何も考えず、ただ見続けていた。その背中を、姿を、追いかけていた。

 

 しかし、それはある時変化があった。

 

 ―――――――――。

 

 突然現われた異物。朔の側に其れはいた。それは子供で朔よりも幼く、其れでいて子供らしかった。そして志貴はそれが御館様の子供であると理解していた。とりつめて関係らしい関係も今まで持っていなかったその子供の提案に、朔は答える術もなく、ただ受け入れた。そうして朔の側にその子供はいつの間にかいるようになった。

 

 子供は気付けばそこにいた。朔が今まで知らなかった知識を誇らしげに話し、父である御館様の事を自慢げに話していた。更に表情をころころと変え、いつも楽しそうにしていたのを覚えている。

 

 時には何もしない日もあった。遊ぶわけでもなく、朔が住んでいた離れの縁側に朔が腰掛け、その隣に子供は寄り添うように座った。交わす言葉は少なく、しかしそれでも子供は側にいた。次第に朔はそれを受け入れていた。

 

 景色は生まれては消え、そして霧散していく。

 

 そしてまた景色は変わる。

 

 ―――――――――。

 

 朔の視線の先に、御館様と子供がいた。

 

 二人は朔の視線の先で話し合っていて、時折子供がじゃれ付く様に御館様の身体に寄りかかっていた。それを御館様は受け入れて、少し笑んでいた。その光景には温かさがあった。穏やかさが、あった。そしてそれは、朔には無い物だった。

 

 それを朔は見続けていた。

 

 二人は朔に気付くわけでもなく、ただ楽しそうにしていた。そして朔にはその光景がよく理解できなかった。二人が親子として戯れていると言う認識は出来た。ただ、それに何の意味があるのかと考察し、朔には答えがなかった。

 

 あんな風に、誰かと戯れた記憶がなかった。だから、理解できないのだと、思った。しかし、そこにある感情、穏やかな笑み、空気、それは朔にはないのものと理解はした。そして二人がどこか遠くにいるような、朔だけが遠くにいるような、そんな感覚を味わった。

 

 それを朔は、見続けた。

 

 ――――――――よく、やった。

 

 暗闇にそれは見えた。

 

 朧気で、今にも霞んで消えてしまいそうな視界に、御館様はいた。いつもの無表情でありながら、御館様は朔に笑んでくれた。その腕は、その身体は温かかった。

 

 何か、聞こえた。

 

 ――――――――戻って来い。

 

 静寂の世界に音が生まれた。

 

 何処からか聞こえてくるそれは、確か誰かの声だったような気がする。いつも傍らにいたような、気がする。だが、身体が何かに包まれた。それは少しだけ朔に温もりを与えてくれた。

 

 ――――――――志貴の事を守ってあげてください。

 

 沈黙の世界に音が生まれた。

 

 何処からか聞こえてくるそれは、確か誰かの声だったような気がする。いつもどこかで聞こえていた声だった。そして、あの子供が志貴であることを思い出した。それを頼まれたのかどうかは定かではない。だがその人の手は穏やかだった。

 

 連続する記憶の断片を掠れた意識のままに朔は見ていた。

 

 それはどこか淀んでいて、今にも消えてしまいそうな映像だった。

 

 そして、それを聞いた。

 

 ――おっちんじまったんだよ。それはつまり、糞餓鬼、黄理も含まれてんのさ。

 

 急速に広がっていた意識は集まり始め次第に質量を伴い、ひとつの集合体と化した。それは朔の意識、朔の自我であった。ただ薄れていくばかりの精神は今この時、再び朔としての意味を見出した。

 

 死。死。死。

 

 御館様が死んだ。

 

 御館様が、死んだ。

 

 御館様、が、死んだ。

 

 おやかたさまがしんだ。

 

 おやかたさまが、しんだ。

 

 おやかたさま、が、しんだ。

 

 記憶の中の黄理を思い出す。圧倒的強さを保持する黄理が、死んだ。死ぬのか。御館様でも死ぬのか。朔よりも強い、御館様でも死ぬのか。

 

 ………………………………………………………………………………………。

 

 ………………………………………それは、如何ほどの化物だろうか。

 

 殺す。肉体が脈動を始めた。

 

 殺す。殺す。だが、精神では動かない。

 

 殺す。殺す。殺す。最早朔の意識は肉体に動かす力を生み出せない。

 

 殺す。殺す。殺す。殺す。だが曖昧な意志はある。

 

 殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺気ではない。

 

 殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺意が精神を塗りつぶし、それに肉体は反応を示す。

 

 殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。

 

 殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!!!!」

 

 咆哮。

 

 それは、そうとしか言いようのない、まるで雷鳴のような絶叫だった。

 

 蠢く。それは、子供の姿を借りた悪鬼であった。

 

 跳ね上がる。息絶えた女の拘束を抜け出して、それは宙に飛び立つように跳ね上がった。

 

 起き上がることも出来ぬ肉体にありながら、朔は動いた。地に降り立つ朔の姿は奇妙な出で立ちであった。佇むそれに下を俯き、肩を落とした様は動く死体のよう。その眼光は濁り、意識があるようには見えない。ただ、その瞳の蒼は深く、全てを映し出すかのように深い蒼である。 

 

 そして、それを確認できたものは、ほとんどいなかった。空に響き渡る絶叫に何事かとそちらを見れば、それは既にその場にはいなかったのである。そして、その近くにいた混血の襲撃者はいつの間にやら首を失ったのだ。

 

 首のない死体。引き千切られたように首を無くした混血は血をその頭のなくなった断面から噴出させて倒れていく。鎌鼬のにも似た所業に気付いた混血は警戒心を強める。だが、それも甲斐なく、その全てが首を奪われた。

 

 そして、それは軋間紅摩にも襲い掛かった。

 

 それの存在を見た紅摩はその顔に凄みさえ感じさせる気迫を張り付かせ、不可思議な惨劇に躍り出た。その合間にも首なし死体が生み出されていく。それに向かい、地面を砕きながら紅摩は突進していった。

 

 何処にいるかは正確には分からない。だが、紅摩の目は確かにそれを見ていた。

 

 それを頼りに、紅摩は拳を振りぬき。

 

 ――――その首に、手があった。

 

「―――――――――!!」

 

 僅かな感触を頼りに、その場所に向かって拳を伸ばしたが、それは空を切る。しかし、首にあった圧力は消えうせ。

 

 そして、それを見た。

 

 地上に、朔がいる。

 

 せせら笑うかのように、月の元、その姿を曝け出した。血の赤の川に。

 

 アンバランスな姿。手当てしたばかりの包帯には血が滲んでいる。

 

 蒼い蒼い瞳は輝きを放っているが、それは意識ある者の目ではなかった。

 

 なのに朔は動いている。意識のない身体が、動くと言う事実。

 

 だが、それを考慮することも出来ず、紅摩、そして朔の存在に気付いた混血、あるいは七夜はそれを見た。

 

 頭。

 

 朔の片方の手に、頭が掴れている。

 

 そして、その口にも頭が咥えられている。引き千切られた筋肉繊維に噛み付き、人間の頭部が揺れて

いる。

 

 それは、いっそ恐怖と呼べる感情を混血たちに与えた。それは紅摩もまた然り。そして、七夜もそうだった。

 

 ナニカとんでもない者の生誕を垣間見てしまったような、そんな気配。

 

 そして朔は、宙に駆ける。

 

 その背後には、憎らしげな満月があった。

 

 



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真月譚月姫編
プロローグ 月


 幼い頃――――
 ――――魔法使いに逢った事がある。



 目が覚めた僕が始めに見たのは、落書きだらけの天井だった。

 

 それは天井のあちらこちらに走っていて、黒い線は亀裂のように伸びていた。

 

 僕は白いベッドにいつの間にか眠っていた。起き上がって辺りを見回す。落書きは天井だけではなく、壁や人にも見える。点滴装置があってその時に僕は自分が病院にいるのだと気付いた。

 

 誰かの温もりが、腕の中にあった。温かい訳ではないけれど、腕の中や身体にあった。そこがぽっかりと空いていて、だけどその隙間に誰がいたのか思い出せない。でもその熱を失いたくなくて、僕は自分の身体を抱きしめた。

 

「始めまして、遠野志貴君。回復おめでとう。私の言っていることが分かるかな?」

 

 気付けば僕がいるベッドの横に、白衣を着た男の人と女の人がいた。お医者さんだった。

 

「まあ、無理もないか」

 

 何を答えていいのか分からず、黙って見ているだけの僕にその人は一人で納得をしていた。

 

 そしてその人は、僕に起こった事を落ち着いて説明してくれた。

 

 道を歩いている時、自動車の交通事故に巻き込まれたこと。

 

 その時、胸に硝子の破片が突き刺さったこと。

 

 それが、とても助かるような傷ではなかったこと。

 

 僕が助かったのは、奇跡に近いと言っていた。

 

 僕は、自分が知らぬ間に死にかけていた。でも僕にはその実感がなくて、辺りを何とはなしに見回す。落書きが消えない。

 

 でも、それ以上に、僕には気になっていることがあった。

 

「あの、聞いてもいいですか?」

 

「何だね?志貴君」

 

「僕の側に、誰かいませんでした?」

 

「……ふむ、そのような事は聞いていないな。君は知っているか?」

 

「いえ、遠野さんに見舞いはまだ来ていません」

 

 僕の質問に、お医者さんとナースさんは首を横に振った。本当に知らないらしい。

 僕自身、其処に誰かいたか、分からない。

 でも、誰かが遠くへ行ってしまったような喪失感を、僕は持て余していた。

 

「もう、質問はないかね?」

 

「あ、もうひとつだけ」

 

 どうしてみんな落書きだらけなんですか?

 

 

 

 僕の話しを、誰も信じてはくれなかった。

 

 ベッドも、壁も、床も、誰かの悪戯みたいに黒い線をした落書きが走っている。それを見ていると気分が悪くなって、誰もいないとき、ふと触れてみると指が沈んだ。其れが気になって、たまたま置かれていた果物ナイフで線をなぞってみると、その部分から綺麗に切れた。そのまま僕はベッドをバラバラにする。熱で溶けた発泡スチロールのように綺麗な断面。

 

 その綺麗さが、不気味だった。

 

「先生もう一度聞くけど、どうやってそのテーブルを壊したのかね?」

 

 お医者さんは僕がどうやってモノを壊したのか問いかけてきた。だけど、僕が正直に落書きをなぞった事を答えても信じてくれない。それ以前にお医者さんには落書きが見えなかった。お医者さんだけではない。皆には、病院中にある落書きが見えていなかった。

 

 ベッド、イス、机、床、壁。落書きをナイフで切ると何でも切れた。力なんていらなかった。試したことはないけれど、きっと人間も線を切ればバラバラに出来るのだろうか。

 

 なのに。誰も、信じてくれなかった。僕を、遠くからみるだけ。

 

 そして、何となく分かったのだ。

 

 黒い線は継ぎ接ぎで、世界は脆いという事を。

 

 それが怖くて夢にも見た。

 

 世界が継ぎ接ぎで壊れていく、崩れていく夢を。

 

 そしてそれが夢だと気付いて、僕は無性に誰かも分からぬ誰かを求めた。温かい誰かを。でも、それが誰なのか、僕は分からなかった。胸の奥に、空洞があった。

 

 継ぎ接ぎだらけの病院はたまらなく嫌だった。だから、黒い線の見えない場所に行きたくて、病院から抜けた。

 

 走って。走って。

 

 あてもなく走る。この空洞を埋めてくれる誰かが欲しくて。

 

 でも黒い線はなくならなかった。そして、僕の求めている人は見つからなくて。

 

 何処まで走ったのだろう。

 

 胸が痛くなって、そこが草原であると倒れてから気付いた。

 

 背中にむず痒いような草の感触があったけれど、僕はそれが気持ちいいとは思えなかった。

 

 空を見上げる。手を翳してみると、手には線が見えた。

 

 だけど、空にだけは、線がなかった。

 

「君、そんな所に寝転がってると危ないわよ」

 

 ふいに、声が聞こえた。

 

 誰もいない場所だったはずなのに、声が。

 

 声の聞こえた場所を見た。

 

 其処には赤い髪の女の人がいた。

 

「誰……?」

 

 その不思議な雰囲気の人に、僕は不思議と吸い込まれていく。

 

 赤く長い髪が、風にそよいだ。

 

「私?私はね―――――――」

 

 それが僕と魔法使い、先生との始めての出会いだった。

 



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プロローグ 影

 ――――――これは、とある少年が魔法使いと出会う前の話。
 誰にも見られることのない、月にも照らされぬ、影の出会い。


 ――――タスケテ。

 

 タスケテ、タスケテ、タスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテ。

 

 私の、願いなんて、叶った事がない。

 

 ただ私は、我慢するだけ。

 

 だって、私は、お姉ちゃんだから。

 

 ■■ちゃんは、私が守るから。

 

 私が我慢していれば、■■ちゃんには手を出させない。

 

 

 ギシギシ、ギシギシ、と音がする。

 

 私は、また―――――。

 

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

 

 動物みたいな息遣い。

 

 私は、また乱暴されて、■されている。

 

 もう痛いのは、嫌なのに。

 

 でも、私が嫌がると、■■ちゃんが、危ないから。

 

 私は、我慢する。でも、痛くて、たまらない。

 

 そんな私を■■様は、顔を歪めて、更に激しく乱暴する。

 

 その目は、モノを見ているよう。

 

 ■される。■される。■される。■される。■される。■される。■される。■される。

 

 涙も、もうでない。

 

 早く、朝になればいい。

 

 そうすれば、夜になるまで■されない。

 

 でも。

 

 朝になって、明るくなっても。

 

 私には何もない。居場所も、ない。

 

 私は、遠くから、眺めるだけ。

 

 ■■様がくぐもった声を上げた。

 

 顔に、生暖かな■■がかかった。

 

 私は、まるで、人形のようだった。

 

「よう、嬢ちゃん。嬢ちゃんに少し頼みてえ事があるんだが」

 

 昼、誰もいない私の部屋に、その人は入ってきた。昼は、私には夜よりも辛い時間だった。夜になれば、また■■様に■される。

 

 窓の向こう、■■の子供と仲良く遊んでいる■■ちゃんが見える。■■ちゃんは笑っていて、凄く楽しそうで、あの子を守りたいともう一度思う。窓の外に見える■■ちゃんだけが、私の支えだった。でも、時たま思う。

 

 なんで、私はあそこに、いないのだろう。

 

 眩しい場所に、私の居場所なんて、ない。

 

 その人は、突然目の前に現れた。

 

 妖怪のような人だった。背が高くて異様に手足が長い、着物を着た老人。

 

 怖いとは、思わなかった。

 

 心は、もう、動かない。

 

 その人は、私の事なんかどうでもいいような瞳をしていた。私の事を、人形のように見ているような目をしていた。

 

 その人は、自分を■だと言った。確かに、そのギョロリとした眼球は■のように見えた。

 

「こいつを、暫く預かって欲しいんだが」

 

 そう言って、その人はおもむろにベッドにそれを横たえた。

 

 人形かと、思った。

 

 人形だと、思った。

 

 いっそ、死体だと思った。

 

 血の気のない肌。左腕のない身体には包帯が到る所に巻かれていた。

 

 そして、その子は動いていないのに、目を開いていた。

 

 瞳の色は、蒼。深い深い虚空を思わすような、空の蒼色。

 

 生きているようには、思えない人だった、その生気の感じられない目が開かれている。それは少し滑稽に思えた。

 

 だけど、何故だろう。その蒼色をした瞳が、何よりも澄んでいて、綺麗だと思った。

 

 そんな事、思うはずないのに。

 

「なあに、■■には許可取ってる。それにあいつも親類から言われたんだ。蚤の心臓してやがるあいつだ、従うっきゃねえだろうよ。ま、俺が他の■■の連中に言ったから、ってのもあるんだがなあ」

 

 そう言って妖怪は笑っていた。この世全てを見下したかのような笑い顔だった。

 

 でも、そんな事、私には気にならなかった。

 

 ただ私は、ベッドに横たわっている少年を見続けた。

 

「嬢ちゃんにやって貰いたい事は、ひとつだけだ。■に■■をやって欲しい。手段は問わねえ。何、嬢ちゃんが■■と■■しているのは知ってる。アイツも犬みてえにずっと盛ってるわけじゃねえんだろ?それ以外の時間は、■に使え」

 

 人形の名前は■と呼ばれていた。でも、そんな事は、私にはどうでも良くて。

 

 結局、私が期待されているのは、そんな事だった。私は、そんな事を、また。そしてこの人は、私が■■様に何をされているのか知っていて、それを頼んでいるのだと、直ぐに分かった。でも、助けてくれはしないことも、直ぐに分かった。

 

 私は汚されて、穢されて、毎日辛い思いばかりしているのに。

 ■■ちゃんとも遊べなくて、外にも全然行けないのに。

 

 だって、この人は、私の事なんてどうでもいいんだ。この人は私なんか見てなくて、ずっと■を見続けていた。

 

「んじゃ、頼むぞ。嬢ちゃん」

 

 そして、その人は消えた。

 

 残されたのは、私と■のみだった。

 

 静かだった。生きている人間が、誰もいないようだった。

 

 そこには、沈黙だけがあった。

 

「……」

 

 私は■に近づいてみた。

 

 ■■様が許可しているという事は、私には拒否出来ない事だった。私の関わらない所で、私の事が勝手に決められていく。それをどこか簡素な部分で受け止めた。

 

 ■の顔に手を翳してみた。■はそれを見ていないかのように、瞬きもしなかった。まるで人形みたいだった。

 

 私も、この人形みたいになれば、痛いと感じないのだろうか。

 

 それは、私にはとても魅力的に思えた。

 

 だって、痛い事は痛いから。辛い事は辛いから。

 

 何も感じないようになったら、それは、とても幸せな事だと思う。

 

 でも、■は動かない。人形みたいな■は、生きているのかも、分からない。

 

 こんな全然動かない人形になってしまうのは、少し、ほんの少しだけだけど、怖いと思えた。

 

 外を見る。暖かな日差しが、外にはあった。■■ちゃんが、笑っている。

 

 だけど、この部屋は冷たくて、暗い。

 

 そんな場所に、私以外の誰かがいる。

 

 

 それが凄く、不思議だった。

 

 

 そして、人形に成り掛けた少女と。

 ――――人形に成り果てた少年は出会った。



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第零話 始まりの始まり

  ―――鎖の、引き千切られる音が、響いた。


 眼球を潰す。

 

 眼球はその造形に反して存外に硬く造られている。硝子体と呼ばれる無色透明なゲル状の液体が眼球の形を整え、外部からの力に反発する役目を持っているのが原因である。外界からの情報を取得するための機関だからだろう。頭蓋に収められながらも同じ五感である聴覚や味覚とは違い、薄い目蓋によってのみ守られるだけの眼球はそのように自己を硬くすることでその形状を保っている。

 

 それを、潰す。しかし、加圧による破壊は時間が掛かる。それを、さして時間の掛かる事、とは思う事なかれ。瞬間の判断によって状況が左右される戦闘時などでは、ほんの僅かな時間が命取りとなる。故に、どの様にすれば眼球を時間の無駄なく潰せるのか。

 

 答えは簡単である。

 

 瞬間的に、眼球の耐久力以上の力で、穿てばいい。

 

 即ち、指による目潰し。それも眼球を貫いて眼底を破壊するほどの威力による。

 

 人差し指に、力を込める。ただし、これは眼球を潰す事のみを想定に置いた選択ではない。

 腕を、揮った。指先が眼球を潰す。眼底を砕く。

 そして、脳を抉る。慣れ親しんだ、張りのある脳の柔らかな感触が指に感じる。

 

 びくん、と、脳の持ち主が身体を痙攣させた。

 

「う、あ、ああぁぁああああぁあうぅぅぅぅうあああ?」

 

 知性ある生命ではない、動物のような鳴き声だった。舌がない事もあるだろう。痛みによるものではなく、脳がやられたのだと推測。今、この人間は今まで感じたこともないような感触を味わっている。脳は頭蓋に守られているものであり、それを直接触れられる事などなかっただろう。

 

 眼孔に潜り込んだ指先によって抉られた脳の部分を出鱈目に動かすことで、それは涎を垂らしながら鳴き声を零し、懇願するのでもなく、声を漏らすのみ。このような手段を選ばずとも、この人間を殺すことは出来た。だが、それをしなかったのは、眼球から脳を破壊すればどのように死んでいくかを見極める必要があったからだった。

 

 眼孔から指を引き抜く。指先に血と硝子体、そして爪の間には、ぐちゃぐちゃになった脳の残骸がこびり付いていた。一瞬それを舐めてみようかと思ったが、自分はカニバリストではないのでそれは行わない。

 

 それに、あまり美味くはない。

 

 先ほど自分が脳を掻きまわした人間が着ていた服で拭き取る。

 

「そのまま、食べてしまうのかと思ったのですが、どうやら違うようですね」

 

 堅牢な室内。余りに広い空間だった。高くそびえる本棚が壁を埋め尽くした、いつも黴臭い場所である。背後の窓から差し込む光がこの部屋を浄化しようとしているようにも見える。

 

 その室内、重厚なドアの前に一人のシスターがいた。

 

「ふむ、もし私がそうしたらどうする?」

「勿論然るべき処置を。教理に反しますので」

「ほう。―――だが、それは本当に教理に反しているのかな?」

「そうです。それは禁忌でしかありません」

 

 シスターは嫌悪に染まる表情を変えず、言う。

 

 血臭漂う女性そのものに対する嫌悪だった。

 

「くっ、それは異なことを言うものだ。禁忌だからやってはいけない、とな。私たちも過去にはそんな禁忌を行っていたと言うのに。十字軍でそれは証明されている。異教徒相手に私たちは何をして、何を口にしたのかね」

 

 かつて、の話である。聖地奪還を目指した第一回十字軍はマアッラ攻囲戦にて、異教徒を惨殺しその肉を喰らった。異教徒を虐殺した後、大鍋で大人を煮込み、子供は鉄串に刺して火に炙っていたと、多数の記録書からも記されている。理由はある。十字軍は強行軍であり食料の確保があまり出来ず、更には占領したマアッラは肥沃な土地ではなかったため、飢えに耐えかねた十字軍たちは異教徒を喰らい始めたのである。

 

「勘違いは止めたまえ。摂理は善ではないのだよ。そして禁忌もまた邪ではない。神こそが唯一の善であり、それ以外は雑多なものに過ぎない。ほら、神こそ絶対であるというのに、それ以外を私たちが悪と定めるのは行き過ぎている。神の決めた事ではないというのに、私たちが悪と定めるのは、私たちこそ悪という存在に他ならない」

 

「……相変わらず、司祭全てを敵に回しそうな考えですね」

 

「既に嫌われているさ。中には私たちこそ異端だというモノもいると聞く。だが、それも意味など無い。雑多な生命は雑多なままだ。それ以外にはなれない。故に、塵は、塵に返る」

 

「……」

 

「それに、だ。私たちに教理とはあまり意味を成さないだろう?構成員を見れば一目瞭然じゃないか。吸血鬼もいる、私のような性癖を持った人間もいる。そして、『蛇』の抜け殻たるお前。ハハ、痛快だな。お前のような禁忌からわざわざ禁忌を説かれるとは」

 

 嗜虐心溢れる笑みを浮かべる。それは見ようによっては妖艶にも見える笑みであった。

 

「……」

 

「おや、だんまりかね?もう少し会話を楽しもうじゃないか。私はお前たちとは違ってここからあまり出られないのだから寂しくてね。たまの会話を楽しむことが最近の私のモットーなのだよ」

 

 ふふふ、とシスターの反応を楽しむかのように笑う。

 

「そこにいるのは、なんです?」

 

 シスターは舌打ちを漏らしながら、女性の側に置かれた人を見た。

 

 それは、もう人とは呼べぬような姿をしていた。

 

 四肢をもがれ傷口を縫合された、達磨のような姿。服を着せられているが、それは人形が着ているような可愛らしい服であった。片目を潰され、口元から涎と泡を零し、それは女性の側にあった。

 

「ああ、これか?新しい玩具だよ。お前が以前やったような事をやってみたのだが、これはあまり面白くない。何より、破壊衝動は私には無縁だしな。……良い機会だ、お前にひとつ聞きたいのだが、人形遊びの何が楽しかったのかな?」

 

「っ!!最低ですねっ、ナルバレック!」

「ああ、私は最低だよ。ではお前は最悪と言った所かな、シエル?」

 

 そう言ってナルバレックと呼ばれた女性は、残った眼球に指を突っ込みそれを抉り出す。眼球の奥から視神経の束が引き千切られた。声を上げることも出来ず、呻きの音が漏れる。

 

 その姿に、シエルはかつての自分を思い出し、すぐさま其れを払いのけた。

 

「いや、もしかしたら最悪ではなく、災厄と言った所か?町ひとつを舐り尽くして悦に溺れたお前には実に似合う」

 

 シエルの瞳が殺意に染まる。がりり、と歯を砕かんばかりに食い縛った。

 

 もしこれ以上ナルバレックが何かを言うのならば、すぐさまその顔面に鉄塊を叩き込んで、その魂ごと打ち滅ぼすだろう。

 

「まあ答えは期待しないがな。さて、一体何の様だ。下らない用件ならばぶち殺すぞ?」

 

 抉り取った眼球を掌で弄びながらナルバレックはシエルの用件を聞く。だが、シエルはナルバレックに対する憤怒と殺意を抑えるのに必死であった。ナルバレックがこのような行いをする事は、極当たり前であった。ナルバレックは人を苛める事を好んでおり、人のトラウマをいとも容易く抉る。それがナルバレックの娯楽であった。その他にも死ぬほど仕事を寄こす為、構成員全員が殺そうと思うくらい嫌われていたりする。

 

 憤りを殺すのにしばしの時間を要した後、シエルは口を開く。

 

「死徒ロアの十八代目転生体対象のあたりをつけました」

「ほう」

 

 知らず、ナルバレックから吐息が漏れた。少しの感嘆が混じる。

 

 この世には人間のみならず魔と呼ばれる存在がいる。それが神の奇跡によるものではなく、摂理に反し教義に存在ものであり、代表的なものは総称して吸血鬼とも呼ばれる。その大部分は吸血行為を行う死徒であり、それらの頂点に立つ存在が死徒二十七祖である。

 

 そも死徒は始めから吸血鬼だった者達ではない。死徒とは吸血鬼によって血を吸われたモノである。そして始めの死徒は吸血鬼として生を受けた存在、真祖の餌だった。真祖は生物として格別の規格を約束された存在であり、それから血を吸われたモノが与えられる力も別格である。原初の死徒の数は二十七。それは既に人知を越した存在であり、それに対抗するため人類、ひいては教会は異端審問のエキスパートであるエクスキューターの存在を認めた。

 

 そして、彼らのトップこそ、埋葬機関。

 

 それは吸血鬼専門の異端審問機関であり、また教会の切り札。教会の教義には存在しないモノたちを排除する存在であり、また唯一不徳を許された部署。

 

 聖遺物の回収および管理を担当した埋葬教室が始まりであり、それは長い時を経て神の代行者たる殺し屋となったのである。埋葬機関の目的は到ってシンプルだった。

 

 即ち、自然の摂理に反した人間以外の絶滅。死徒二十七祖を始め、あらゆる死徒、あらゆる魔、そして真祖でさえも撃滅させることが、彼らの目的である。そのためならば教義に反し、教会の意向さえも逆らう悪魔殺しの集まりである。

 

 その彼らが狙う死徒の一体こそ、ロア。

 

「中々あいつが顕現する前に探し出すのは骨が折れるものだが、魂が共鳴したとでも?」

「……違います。ロアの転生対象条件から割り出したものです」

 

 何か、含むような目線を無視し、シエルは言う。

 

「ふむ。場所は?」

「日本」

「極東か。確か最近どこかで、吸血鬼騒ぎの報告があったが。使えないな、日本支部の奴等。……そう言えば、あそこにはあいつがいたな」

 

 小さく呟く声にシエルは何を言っているのか聞こえていなかった。

 

 そして、埋葬機関第一位ナルバレックは、第七位『弓』のシエルに命ずる。

 

「まあ、いいだろう。……埋葬機関第七位シエルに命じる。日本へと向かい、ミハイル・ロア・バルダムヨォンを滅ぼせ」

 

「はい」

 

 そしてシエルは踵を反し、室内から退室しようとする。

 一刻も早くこの場から立ち去り、直ぐにでも日本へと向かいたいと、背中に憎悪が揺らめいた。

 

「ああ、そうだ」

 

 しかし、その背にナルバレックの声がかけられた。

 

「今回は日本の退魔に接触しろ」

「……何故です?」

 

 振り向くこともせず、シエルは問う。

 

 基本的に埋葬機関は他国の退魔組織と協力することはない。埋葬機関は埋葬機関として常に単体で行動するのである。だが、ナルバレックはそれを今回は行わないと言った。

 

「理由は二つ。日本は私たちには鬼門だ。独自の退魔組織を形成し、外部からの干渉を良しとしない。そこに外部から許可もなく入り込めばたちまち戦争だ。日本人(あいつら)何をするか分からんからな。故にだ、あちらの退魔組織と交渉を行え。手筈はある程度行おう。……そしてもうひとつ。噂によれば、一人面白い奴がいると聞いた。出来ればそいつと接触しろ。そして、もし接触を果たしたならば、埋葬機関(ここ)に勧誘しろ」

「……?」

「返事は?」

「……前者は分かりましたが、後者は納得しません。理由を」

「断る。お前は私の言う事を聞けばいい」

「では勧誘もしません」

「っち。……話を聞く限りでは、なかなか馬が合いそうな奴だということだ」

 

 埋葬機関第一位ナルバレック女史。

 埋葬教室を立ち上げた一人である初代ナルバレックから教会の埋葬機関に束ねてきた一族の女性であり、埋葬機関執務室に半ば幽閉された身でもある。異常者揃いである埋葬機関を束ねる実力者であり、若いとされる年齢でありながら死徒二十七祖三体を捉えた化け物。ナルバレック以外の名は不明であり、彼女はただのナルバレックとして存在する。

 

 しかし性格悪く、埋葬機関全員が殺そうと思うぐらい嫌われており、その悪名は敵対関係にある魔術教会にも響き渡っている。何故彼女が其処まで嫌われているのか。その理由のひとつが彼女の殺人癖であった。

 

 ナルバレックは殺す。殺す事に歓喜を感じる。殺しに悦を見出した異常者であり、人間が苦痛に顔を歪め、屈辱に震え、絶望に沈み死んでいく姿を見て悦楽を覚える人間であった。無作為に人間を殺す性癖を持った彼女の犠牲者は絶えない。埋葬機関からも何人か犠牲者は出ている。今、彼女が弄ぶ憐れな犠牲者はどこか適当なところから運んできたものだろう。

 

 そんな人間が目をかける人間など、まっとうなはずがない。

 

「……実力は?」

 

 またそんな人間が増えてたまるかと、シエルは嫌々ながらも話を聞く。

 

「ああ、実力は折り紙つきだそうだ。少なくとも、純粋な殺し合いであるならばお前を下せるほどには」

「私を?」

「まあ、これには憶測も混ざっているがな。しかし、向こうの教会からの報告と日本で起こった事件を合わせてみると、なかなか……」

 

 そしてナルバレックは犯しそうに笑う。狂気交じりに堪えきれないと身体を震わせて。その姿にシエルは舌打ちを打ちたくなる。理由はともあれ、ナルバレックが愉悦を感じることがただただ不快であった。

 

「総合的にはお前に劣るだろう。だが、限定的な条件でならば、お前は確実に負ける。ま、補欠程度と考えればいい。だが、確実に会い、確実に勧誘しろ。もし、そいつがいるならば、私の退屈も消えるだろう」

 

 待ち遠しくて堪らないと、ナルバレックの視線は遠い。

 

 埋葬機関第七位に所属するシエルは『弓』のシエルとも呼ばれる代行者であり、これまで数多くの死徒を滅ぼしてきた。未だ死徒二十七祖を倒すには到っていないが、ある事情から戦闘を優位に進めることが出来るシエルが敗北を喫するなど、そう多くはない。

 

 そのシエルが負ける。それは彼女の持つ特性を覆す何かを持っているということだろうか。

 

「名前は?」

 

 それが少し気になり、シエルは対象の名を聞いた。

 

「七夜朔」

「七夜、朔……」

「そうだ、よく覚えておけ。……もういいだろう。早く行け」

 

 ナルバレックはシエル事などどうでも良い、と見ていない。その手はギリギリ生かされた生命の腹を裂いて内部に潜り込んでいた。決して少なくない血がナルバレックを汚す。だが彼女はそれをむしろ楽しみながら、その腕を深く深く潜り込ませ、心臓を掴んでいた。最早、助かる見込みもないだろう。痙攣を繰り返すその様は死ぬ兆候であった。

 

「……分かりました。至急準備し日本に向かいます」

「ああ、早くしろ」

「ですが、その前に――――」

 

 ――――弾丸が炸裂した。

 

 驚異的な速度でシエルから射出されたそれは、視認も出来ぬ速さでナルバレックの側にいる犠牲者を打ち抜いた。その数三つ。心臓、頭部、腹に突き立ち、勢いのまま物体と化したそれを壁に貼り付ける。

 

 それは、十字架にも似た剣であった。

 

「――――私は貴方と違って、吸血鬼を娯楽の対象と見ていません」

 

 吸血鬼の残骸が、発火した。

 

 □□□

 

 夜である。

 

 寒くなり始め月は遠く、空気が澄んで星が良く見えた。夜に吊り下げられた半分の月は町を見下ろす坂の上に立てられた洋館を淡く照らし出していた。洋館は静まり返り、夜の寂しさを際立たせている。大きな洋館である。その敷地もまた広い。その外観は左右対称に展開され、翼を広げた鳥のようでもあった。

 

 その館のとあるテラス、石造りの柵に寄りかかるように、一人の少女が町を見下ろしていた。物憂げな感情を顔に滲ませ、艶めく長い黒髪の少女は僅かに吐息を零しながら、しかしその瞳は穏やかに、言葉を紡ぐ。

 

「明日……」

 

 短く、たったそれだけの言葉に、万感の想いが込められていた。

 

 明日。明日になれば、この洋館にとある人物が訪れる。いや、戻ってくる。

 

 長かった。どれほどの季節を数えたのだろう。変わりゆく町並みに、変わらぬ屋敷。そこに取り残され、時間に取り残されたよう、外観の変わらぬ屋敷に少女はいた。

 

「兄さん」

 

 かつて、この大きな館にいた男の子。その人が、戻ってくる。戻した。

 

 切欠は、父の死だった。

 

 ある事情により身体を弱めていた父は、あっけなく死んだ。■■によって、殺された。それがついこの前のことだった。それから父に代わって当主の座についた少女は、媚びた顔ですりよる大人を払いのけ、我が物顔で屋敷内を闊歩していた親戚一同を追い出し、父が逗留させていた者共は悉く追っ払った。使用人すらも殆ど解雇した。そのうちの一人には、もうこの町に足を踏み込まないことも了承させている。

 

 故に、この屋敷に人は殆どいない。少女を含め、たった三人だけである。しかし三人には屋敷は広すぎる。使わない部屋が増大し、管理も追いつかないだろう。それゆえ厨房、屋外浴場は閉鎖してある。

がらん、と人気のない屋敷はまるで死んでいるかのよう。敷地を囲う壁は高く、外界と屋敷を隔離している。町の喧騒も届かぬ屋敷は静かに沈んでいた。

 

 しかし、それも今日で終わる。

 

「秋葉さま。そろそろ中に入らないとお体に障りますよ?」

 

 夜を見下ろす少女の後方、着物姿の少女が一人、室内からテラスへと現われる。薄い紅色の髪を青いリボンで纏めた女性はその顔に柔らかな笑みを浮かべ、少女―秋葉を見る。

 

「ええ、分かっているわ琥珀。でも、もう少しだけ」

 

 琥珀の言葉にはにかみながら、秋葉は夜風に揺れる髪を流す。

 

「長かったわ。本当に、長かった」

 

「……」

 

「兄さんがいなくなって、この屋敷は時間が止まってしまった。だけど、それもお終い。ようやく、この屋敷は動き出す」

 

「確かに、今のままじゃ少し寂しいですよねぇ。翡翠ちゃんも、志貴様が帰ってくるの楽しみにしてるようですし」

 

「そうかしら?」

 

「はい。翡翠ちゃん、今日はずっとソワソワしていました。明日を待っているのは翡翠ちゃんも同じですよ」

 

「そう……」

 

 この誰もいなくなった屋敷が、それでも機能しているのは琥珀と翡翠のお陰であった。遠野当主として動く秋葉をサポートし、遠い学園に秋葉が通っている間、屋敷の全てを二人に任せている。苦労をかけていると秋葉は自覚する。だが、それでも果たしたい願いがあった。

 

 過去。秋葉、翡翠、志貴、そして■■はこの広い屋敷の敷地内で遊ぶほど仲がよかった。志貴と■■、そして翡翠が先で遊んでいて秋葉はそれについていくのが、あの頃はいつもの通例であった。そして、その秋葉の隣にはいつも――――。

 

 頭を、少し振る。

 

 そこから先は、考えてはいけない。今は、明日からの未来を想像していれば良い。

 

 しかし、それを確実のものとするためにも、■■は始末しなくてはならない。

 

 それが、遠野当主として務め。

 

「それで、琥珀はそれだけの為にここに来たのではないのでしょう?」

 

 一瞬過ぎる映像を消し、秋葉は琥珀に問う。

 

「はい。今日の報告を」

 

 それは、翡翠もさえも知らぬ、二人だけに交わされる情報であった。

 

「まず、今日全国で起こった殺人事件がおよそ六件。ですがこれは隠蔽工作が行われた数を含んでいませんので実際は十一件。更に行方不明者は総計五十名弱。そこから退魔組織からの情報を合わせるともっと数は増えます。そこから条件を当てはめ、死者の数が一人以上の事件は二つ。このどちらかには関わっているかと思います」

 

「場所は?」

 

「××県とN県」

 

「規模は?」

 

「××県では死者数五名。こちらは犯人は捕まっています。しかしN県では数が分かりません。そして犯人も不明です」

 

「と言うと?」

 

「ぐちゃぐちゃになりすぎて数が掴めないそうです。死体がバラバラではなくて、もう原型を留めていないような状況らしくて、詳細は未だハッキリとしていません」

 

「……それで?」

 

「はい。殺されたのは久我峰傘下の人間。場所は仇川マンションの最上階。隠蔽工作も行われていますので、間違いありません」

 

「そう……」

 

 報告を聞いた秋葉の表情は先ほどとは打って変わり暗い。それは凍えを無理矢理抑えているかのよう。そして、いつしかその顔には笑みが張り付いていた。暗い笑みだった。

 

「……N県。近いわね」

 

「はい」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……風が、冷たくなってきたわね。そろそろ戻るわ」

 

「……はい」

 

 部屋に戻る秋葉を琥珀は見ていた。何を思っているのか、その表情からは分からない。ただ、近い未来に喜びと悲しみが、秋葉の心に訪れることを、琥珀は何となく悟った。

 

 その秋葉の背中を琥珀は、笑みながら、見ていた。

 

 そして夜は深みを増し、月は夜空に輝きを増す。

 

 日月の繰り返しを重ね、明日は再開の時。

 

 琥珀は秋葉の部屋を離れ、一人廊下を歩いていく。その顔は少しばかりの笑みである。口角を上げた、挑発でもなく、悪意を放つわけでもない、ただの笑み。それが一体何に対しての笑みなのか、琥珀自身でさえも分からない。ただ、琥珀は―――。

 

「姉さん」

 

 廊下を進み、広いロビーに訪れると給仕服を着こなす少女に出くわす。薄い紅色の髪にカチューシャを飾る、琥珀と良く似た顔立ちの少女であった。どうやら見回りを行っていたらしく、反対側の館は既に消灯されている。

 

「あら翡翠ちゃん?もう見回りの時間だった?」

 

「そうです」

 

 簡潔かつ表情に起伏のない翡翠であるが、実は感情表現に富んでいる事を琥珀は知っていた。

 

「もう時間も遅いし、翡翠ちゃんもそろそろ寝た方がいいわ」

 

「でも、私まだ眠たくなくて」

 

「ふふ、本当に明日が楽しみなのね」

 

 琥珀の言葉に、翡翠は僅かに顔を俯かし、頬を赤く染める。

 

 

「でも、それなら尚更ですよ?睡眠不足は乙女の敵。乙女の肌が傷ついちゃう。翡翠ちゃんも、志貴様に綺麗な姿を見て欲しくはない?」

 

「そ、そんな事は……」

 

「あらら、余計に赤くなっちゃいましたか」

 

「……!」

 

 頬の火照りが増していく翡翠を、琥珀は柔らかな笑みで見つめていた。しかし、翡翠は少しばかりの不安さを顔に表す。

 

「でも、姉さん」

 

「なあに?」

 

 琥珀は翡翠といる時、必ず柔らかな対応を行う。やはり双子の姉妹であり、琥珀が姉であるからなのか、妹の発言というのは不思議な優先順位を持っている。

 

「……志貴様は、私のこと覚えているかどうか」

 

 かつてこの屋敷にいた少年が、少女たちの前から消えたのが八年前の事。それから顔を合わすことも、連絡を取り合う事もなく、少年と少女たちは歳を重ねた。少女の不安は正鵠を得ている。人間は忘れる生き物。例え、大事な事があろうとも、それも次第に薄れ掠れ磨耗し、最後には姿なく消えてしまう。そして少年の事もある。少年はあの時―――。

 

「大丈夫よ、翡翠ちゃん。志貴様はきっと覚えてくれている」

 

 それでも。人には忘れない事もある。

 

「……でも」

 

「不安になっちゃ駄目よ。それに、翡翠ちゃんと志貴さまはあんなに仲良しだったじゃない」

 

 記憶とは曖昧ながらも、断片的な切欠さえあればそれが復元する。記憶が消えることは稀である。記憶は忘れるものであり、それはどこにあるのか分からないようなもので、発見することが出来ないだけなのである。記憶の成層は消滅することなく、脳の中に残されている。

 

「だから、安心して。翡翠ちゃんは翡翠ちゃんの思うままにすればいいの」

 

「私の、思うままに?」

 

「そう」

 

 翡翠の中にある不安を取り除くのは琥珀の役目だった。そう、姉はいつだって妹の味方。

 

「でも……姉さんは」

 

「何?翡翠ちゃん」

 

「……なんでも、ありません」

 

 姉の表情を見て、翡翠は言葉を紡ぐことも出来ず、そのまま引き下がる。

 

 琥珀は笑んでいた。

 

「変な翡翠ちゃんですねぇ。兎も角、翡翠ちゃんはそろそろ寝ないといけませんよ?あとは私がやりますから」

 

「……わかりました、後は姉さんに任せます」

 

「はい。じゃあ翡翠ちゃん、おやすみなさい」

 

「姉さんも、早くおやすみください」

 

 翡翠が離れていく。それを確認し、琥珀は消灯を行うため廊下を歩く。

 

 静かな館に琥珀の歩む音が頼りなく響く。

 

「そう……」

 

 琥珀は笑んでいた。

 

「――――思うままにやればいいの」

 

 琥珀は笑んでいた。

 

「思うままに、ね」

 

 琥珀は、笑んでいた。

 

 そして――――。

 

 □□□

 

『ああ~、こちら■■。仕事は終わりだ。いつもどおりやってやったぞ。……五月蝿えなあ、手前らは何時もどおりにやりゃあいいんだよ。――――はいはい、わかったわかったワカリマシタっつってんだろ木瓜が!!喧しいんだよギャーギャー騒いでんじゃねえっ。手前が依頼したことだろうが!あ、何だ?だったら余計な仕事増やすんじゃねえって?だったら依頼すんじゃねえよ!……だからどうした?それを俺に言っても意味ねえ事ぐらい手前知ってんだろうがっ。だからなんとかしろって、何で俺がそんな面倒な事やらにゃいけねえんだよ、大体俺が止めねえ事分かってて言ってんだろソレ。……余計な仕事増やすんじゃねえって、そんなちっちぇえ事気にすんじゃねえよ、禿げんぞ?ああ禿げてたか。――――はっソレこそ笑わせるな、そんなもん意味ねえよ。さっさと無駄な抵抗やめて剃っちまえ!!――――っち、分かった分かった泣くんじゃねえよ。手前がヅラに手えだそうとしてんのは、俺と手前だけの秘密だ。――――あ?ヴァチカンがどうしたっつんだ?……埋葬機関、だと?あの殺し屋共が日本に来るってのか。いい度胸してんなあいつら、独逸に持ちかけて戦争でも仕掛けんぞ。んで何処で調べたんだ?……は?あいつらから話が来たってか?なんだソレ、キチガイどもがどういうつもりだ……?それで、埋葬機関がどうしたっつんだ。……は、莫迦だろソイツ、なんで態々接触してくんだ?死にてえのか?――――ああ、あいつらは死にたがりの殺し屋だったな。んでだ、用件は何だ?……何?ソレは直接話すってか。――――ハイハイ手前があいつらに恨みがあんのは分かったから、俺に呪詛呟いてんじゃねえ。にしても狙いがわかんねえなあ。日本にわざわざ攻めてくる理由は何だ?……ああ、それを知るために行けって事か。――――あ、おいちょっと待て、何処に行くつもりだ。……気配だと?俺には何も感じねえが。……ああ、そうだ。手前、何処に行けばいい?三咲町?――――方角はそっちに向かってるな。そっちになにがいるつんだ……わからんか。――――ああ、わかった。多分辿りつくだろう。んじゃ行くわ。――――しっかし、あそこにはつくづく縁があるってことかねぇ。なあ、お前?』

 



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第一話 反転衝動Ⅰ 表


 あの背中を、覚えている。
 だけど、それは一体誰の背中だっただろう。


 目覚めた時、いつも誰かを探している。

 

 でもそれが誰なのか分からず、そして何で自分が探しているか理解できないのに、いつもそうやって何かを求めている。それは寝起きの水分不足だとか、空腹だとか、寝不足だとか、そういった満ち足りていない状態とかではなく、自分の内側に無視できない空っぽがあって、それを持て余しているという事に近い。

 

 だが、この空白が一体何なのか、そして何で空白はあるのか、自分は知らない。いや、忘れているのかもしれないし、気のせいなのかもしれない。ただ、気のせいだというには余りに長い間、これは自分の中にあった。

 

 感傷に浸っていると、少しばかりの頭痛を感じた。

 

 ――――気持ちが悪くなる。

 

 線。

 

 視界に、黒い線が見える。

 

 天井にも、壁にも、物にも。

 

 そして、自分の体にさえも。

 

 亀裂のように線が書かれている。子供の描いた落書きの様。滲むように、だがはっきりと視える。

 

 それを見たくなくて、側に置いてある眼鏡を手に取る。何の変哲もない、ただの眼鏡である。

 

 かつて、記憶の中にいる先生からもらった眼鏡だった。

 

 これさえあれば、この世界の気持ち悪さを見ずにすむ。

 

 俺にとって何よりも大切なモノだった。先生との思い出の品というのもある。だがそれ以上に、俺はこれがなければ、真っ直ぐに生きることも出来なかった。

 

 眼鏡をかける。すると、黒い線は忽ち見えなくなって、気持ち悪さも消えていった。

 

 気持ち悪さが収まり、自分の部屋を、ベッドから体を起こして見渡す。何もない。がらんどうな室内。荷物は既に送られている。私物としては随分と少ない量ではあるが。部屋には、制服しか既にない。

 

 きっと、これはこの家から離れる寂寞に違いないと、あたりを点けた。だが、この家の異物で、有間の人と触れ合うことも躊躇っていた俺が、そんな理由で寂寞を消すには、余りに滑稽だと自覚した。

 

「それじゃおばさん。長い間お世話になりました」

 

 少ない朝食を済まし、身嗜みを整えて制服を着た後、薄い学生鞄を手に抱え、玄関にておばさんに別れを告げた。おばさんは影を顔に纏わせながら、それでも笑んでいた。俺との別れを惜しんでいるのか、と調子のいい事を考える。見やる有間の家は和風の造りで、この家にいるのは心が随分と落ち着いた。別れ難いと、寂しさに中身の虚ろが震える。

 

 でも、呼ばれたならば、そこに帰るだけ。

「向こうでも、元気で暮らすのよ」

「おばさんも、お元気で」

 

 ―――今日、俺は実家に戻る。

 

 有間の家は、俺の本当の家ではなかった。

 

 過去に事故を受け、体の弱くなった俺は実家である遠野から勘当を受け、有間の家での暮らしを余儀なくされた。理由は遠野の長男に相応しくないから、と親戚に決められたからだった。それは有間の家に行った時、二度と敷居を跨ぐなと言われた事にも現われているだろう。酷く疎まれた記憶がこびり付いていた。

 

 それから有間の家に馴染もうとして、結局出来なかった。仲は良かったと思う。おじさんも、おばさんも、勘当された俺は二人には他人でしかないのに良くしてくれた。何度か養子にならないかと、言われたこともある。人柄のよい二人に俺は、人の優しさを感じたのだ。だけど都古ちゃんとは、結局殆ど会話することも出来なかったのが、心残りだった。

 

 だが、そんな生活は今日で終わる。

 

 高校に向かう途中、目に入る坂の上の馬鹿でかい洋館。丘の上にあり、平地から見ているというのに、それでも大きい。

 

 アレが、俺の家、らしい。

 

 一ヶ月前、俺の親父遠野槙久が死んだらしい。らしいというのは、その事実を俺は新聞で知ったからだった。親のことであるというのに、そんな事を知らなかった俺は、親父という存在、遠野という存在を過去のものとして、その時既に清算していたのだろう。それを証明するように、俺はソレを遠野から知らされなかったし、知った時、何も感じなかった。それでも親父が死んだという事が分かったのは、遠野が巨大企業家であり、親父が其処のトップだったからに他ならない。遠野グループはあまりに有名な資産グループであり、そのトップが亡くなれば報道されるのも頷ける。

 

 ただ、自分もかつては其処の人間であった事は、あまり実感がない。

 

 しかし、そんな俺の認識など関係なく、先日手紙が来た。新たに成り代わった遠野当主からの手紙。

 

 戻って来い、とたったそれだけの内容の手紙だった。

 

 何を今更、とは思わなかった。

 

 ―――ただ、今の生活の終わりを感じた。

 

 それに、秋葉の事も―――。

 

 眼鏡の位置を直す。

 

「まあ、なんとかなるだろう」

 

 一人呟く。そうして思考停止。

 

 いつも通りの道を歩きながら、この道をもう歩く事もないのだと、感慨深く思っていると高校に辿り着いた。さっさと教室に向かおうと、何気なく校舎を見渡す。

 

 すると。

 

「―――――?」

 

 二階の教室。そこの窓際から、そ知らぬ女性が手を振っていた。

 

 青みがかった髪の、眼鏡の女性。

 

 にこやかに笑う女性は、こちらを見下ろしている。

 

「俺?」

 

 取り合えず手を振り返しながら、小首を傾げた。はて、あの人は誰だろう。

 

 結局疑問は教室に入っても解けなかった。誰かも分からぬ人間に手を振ることはないだろう。では、俺はあの人を知ってるかと言えば、素直に首肯できない。なら、あの人とは他人か。でも、女性は手を振っていた。多分、俺に対し。

 

「……」

 

 手を振り返した手を見る。

 

 何も、分からなかった。

 

「遠野。お前もスミに置けねえなあ。朝からいちゃいちゃしやがって!」

 

 そんな俺の首に誰かが纏わりついた。

 

「……何の事だよ、有彦」

 

 赤毛にサイドを借り上げ、制服をだらしなく着こなしながらも、それが実に良く似合う男だった。俺よりも背丈があることもその要因だろう。耳にはピアスを幾つかしており、不良としか形容できない男である。

 

 名前は乾有彦。小学から続く腐れ縁の悪友である。

 

 そして、有彦が言うのはあの人―俺に手を振った女性―の事らしい。

 

「いや、あれは向こうが勝手に……」

「そうか……勝手にか。なあんて恍けるなっ、ちゃっかりやる事やりやがって!」

 

 首を絞められる。普通に苦しい。朝から何をやっているのだろう、俺たちは。

 

「相変わらず、仲良いんだね二人とも」

 

 声の先に、一人の女生徒がいた。

 

 染めていない淡い栗色の髪を両サイドで縛った―俗に言うツインテール―女性。

 

 人懐っこそうな雰囲気を持った、クラスでは比較的仲が良い、と思われる人。

 

 クラスメイトである、弓塚さつきさんだった。

 

「にしても、どういう事だ有彦。万年遅刻魔のお前が何で朝から来てるんだよ?」

 

 有彦の束縛から逃れ、俺は窓際の席による。絞めつけられた部分が痛んだ。

 

 乾有彦は、このように朝から学校に来る人間ではないと認識している。小学からの腐れ縁はこのような妙な信頼を得ている。嫌な信頼だ。大体有彦はこの学校が進学高校でありながらアウトローを貫いている男であり、学校に来ない日だってある。周りに迷惑を掛けないような生き方をしているので、周囲も強くは言えないが少なくとも、このように朝早くから学校に来る人物ではなかったはず。

 

「おう、最近夜遊び控えてっから早くに起きちまってな。暇だから来てみたってわけだよ。最近物騒だから姉貴が五月蝿いんだよ」

 

 設置された机に寄りかかり、踏ん反り返る有彦を見て思った。

 

 いや、それが普通なんだけど。

 

 とは言え、そんな一般的な生き方を互いにしていないため、そこは強く言えない。

 

 でも、物騒?

 

「知らないの遠野君?この町で起きてる連続殺人事件の事」

 

 反応も出来ない俺に弓塚さんは親切にも教えてくれた。

 

 最近この三咲町では連続殺人事件が起こっている。それは猟奇事件と評される事件であり、殺された人間は皆全身の血液が無くなっているらしく、巷では「現代の吸血鬼」とまで言われているとか。そして被害者は既に五人にも及んでいる。

 

 こんな身近で、そんな事が起こっていると、俺は知らなかった。

 

「テレビとか見てないのか」

「ああ。ここんところ、引越しの荷造りで忙し――」

「え!遠野君引越しするの!?」

 

 俺が話している途中、いきなり弓塚さんが声を上げた。そういえば、この話は有彦と学校の先生にしか言っていない。

 

 弓塚さんを見る。この世の終わりを知らされたような、絶望と形容してもいい表情をしていた。何故だろう、あうあう言っている。……そんなに驚くような事だろうか。

 

「違うよ。住所が変わるだけで、引越し先もこの町」

「――――よかったぁ」

 

 つまり高校は変わらない事を告げると、弓塚さんは心底安心したような表情をした。色々と忙しい人だ。

 

「と、ところで……」

「うん?」

「遠野君が引っ越すのって、あの丘の上にある……」

「うん、そこだよ」

 

 三咲町に住んでいる人間なら、丘の上にある洋館と遠野の名前は簡単に繋がる。遠野の存在はソレほどまでに大きく、弓塚さんが知っているのも何ら不思議ではない。

 

 そうすると、弓塚さんはもじもじとしながら、それでいて顔を若干赤らめて何かを口にしようとしていた。もごもごと動く口元からぶつぶつと「……そう、勇気出さないと……帰ろって……」何か言っている。何が言いたいのだろう。

 

 そしてキッと顔を上げた弓塚さんは、何やら意志の強そうな瞳を俺に向けて、

 

「あ、あの遠野君。わたしも家がそっちの方なんだっ」

「へぇ……」

「だからっ、もしよかったら今日私といっ『さつきー先生がプリント運ぶの手伝ってだってー!』」

 

 もう、せんせいのばかあっ。

 

 弓塚さんの消えた廊下から、そんな声が聞こえた。

 

 ―――結局、何を言いたかったのだろう。

 

「まあ、運が無かったと思え。てか、あいつも大概だなあ」

 

 ニヤニヤと笑顔を浮かべる有彦の言葉が、少しだけ気がかりだった。

 

 □□□

 

 授業には身が入らなかった。勉強は標準ぐらいには出来るし、この学校は進学高校なのだから、ある程度真面目にやらないといけないのだが、どうも今日の事が頭から離れなかった。

 

 学校が終われば、向かう事になる遠野の事。今までの有間での日々。

 

 そして―――、妹の事。

 

 八年前、遠野から勘当された俺には、妹がいた。秋葉。それが、妹の名前。

 

 でも事故によって体を弱めた俺は、有無を言う事もできず遠野から追い出された。親父も、親戚もあまり俺の事を良く思っていなかったのが原因なのかもしれない。手続きはあっという間に済んでしまい、勘当された。妹の秋葉を、置いていくような形で。

 

 秋葉は恨んでいるだろう。何も言わず、そして、連絡も取らなかった俺の事を。もしかしたら、俺の事なんて忘れているかもしれない。それならば、そのままで良いのかも知れない。お互いに不干渉なまま、過ごしていければ、秋葉が苦しむ事も無いはずだ。

 

 だけど、今日俺は遠野に戻る。今の当主が誰かは知らぬが、随分と奇な事だと思う。

 

 勘当された俺に、戻って来いなどと。

 

 ―――何も言わない。何も思わない。それが一番悪くない。

 

 そうやって、思考を停止させる。

 

 なるようになる。なるようにしかならない。

 

 胸の空洞が、少し痛んだ。

 

「……」

 

 いつもと違う帰り道を歩く。学校から見てどんどんと大きくなっていく屋敷の外観に、不思議と緊張が高まってきた。

 

 そして慣れない道を進みながら、ふと思い出す。

 

 学校で手を振った女性の事、秋葉の事、いつも良く遊んだ女の子の事。

 

 そして最後には―――。

 

 ―――いや、それはいつも、気付けば考えている事だった。

 

 記憶の奥底に映る、―――背中。

 

 夢に出るような映像ではなく、きっと記憶の奥底、あるいは脳裏にある、背中。

 

 誰の背中か、分からない。

 

 肌蹴た上半身。それは子供の背中だった。

 

 細く、それでいて子供らしくもない引き締まった背中であり、簡単に手折れてしまいそうなほど、儚げな姿。

 

 それが一体誰で、いつ見たのか、まるで分からない。自分は子供、だったのだろうか。

 

 その背中は、まるで先に行くように前だけを向いていて、志貴には顔も分からない。

 

 でも何故だろう、そんな背中に、今の自分から見ても小さな背中に。

 

 こんなに、安心するのは。

 

「……」

 

 考察はいつも立ち止まる。いくら考えても、それが誰なのか俺には分からないのだ。そんなあやふやな感じ。模糊なイメージ。先に進まず、解明されない。

 

 だけど、不思議と不快ではない。中身の空洞が少しだけ、満たされるような感覚。

 

 これは、あるいは―――。

 

「で、でかい」

 

 気付けば、辿り着いた。

 

 かつて暮らしていて、そしてこれから過ごす事になるだろう、遠野の洋館。

 

 見上げるほどに大きな外観。その構造は正面から見て翼を広げた鳥のようにも見えた。何だこの学校のグラウンドぐらいありそうな広さは。

 

 開かれた門の前で愕然としつつも圧倒されるという、見事な混乱っぷりを展開させながらも、俺は進んでいった。門から洋館までなかなか距離がある。今なら遅くない、有間の家に戻れる、と怖気づく内心を無理矢理ねじ伏せて、これまた大きな、見上げるほどの高さある玄関に辿り着く。

 

 普通の家で、両開きの扉など、クローゼットぐらいしか思いつかないが、それが門のように設置されていた。現実味の無い場所に、自分がいるのである。それでも玄関に呼び鈴があるというのは、ちょっとした親近感が沸いた。

 

「お待ちしておりました」

 

 パタパタとした軽やかな走り寄る音の後に、玄関が開かれた。目の前には、いつか見たような、それでも靄がかった記憶の中にある光景に似たロビーが見える。奥にはグランドピアノらしきものまで置かれていた。そして、淡い紅色の髪を青いリボンで纏め、着物に白くフリルらしきもののついたエプロンをつけた女性が、其処にはいた。

 

「よかったぁ。あんまりにも遅いから、道に迷っているのかなって心配しちゃってたんですよ?日が落ちてもいらっしゃらなかったらお迎えに行こうかと思っていたんですから」

 

 妙な組み合わせを着こなした女性のいきなりの朗らかさに、軽い戸惑いを覚える。

 

「あ、ああ。心配かけたみたいだ。ごめん」

 

「え……」

 

 女性の顔が固まる。不意をつかれた、感情の無い表情だった。

 

 でも、それは一瞬の事で、それはすぐさま消えた。

 

「すいません。すぐに秋葉様のところにご案内しますね」

 

 取り付くような感じではなく、其れでいて慌てた様子も無く、一瞬の空白めいた表情がまるで夢だったかのように、少女は笑みながら先導を始めた。

 

 自分が気にする事ではないと、俺は努めて屋敷の構造を思い出そうとしながら、少女の後をついていく。ロビーを横切り、立派な内装の内部を進む。

 

 確か、この先は、リビングだったような気がする。

 

「お帰りなさいませ、志貴さま。今日からよろしくお願いしますね」

 

 先導していた少女が振り向きざまに俺を見た。

 

「ああ、こちらこそよろしく」

「どうもありがとうございます。居間はこちらですよ」

 

 辿り着いた居間には、二人の少女がいた。

 

 備え付けられた高そうな、実際高価なのだろうソファに腰掛ける深窓の令嬢のような黒髪の少女と、先導してくれた女性に似た給仕服の少女がその傍に佇んでいる。

 

「琥珀、ご苦労様。下がっていいわ」

「では、失礼します」

 

 凛とした声。琥珀と呼ばれた少女はそのまま一礼し、居間から離れていった。

 

 そして、残されたのは黒髪の少女と、給仕服を身に纏った少女。

 

「お久しぶりですね。兄さん」

 

 予想は、していた。だが、人はこれほどまで変わるものなのか。目の前にいる少女が、あの。

「兄さん?」

「秋葉、か?」

 

 記憶にいる少女は、こんなにも美しくなるなんて、想像してもいなかった。

 

「ええ、そうです。秋葉は私以外いません」

 

 若干の棘が混じる声音。

 

「そ、そうか。……久しぶりだな、秋葉。綺麗になってて分からなかった」

「……兄さんはお変わりないようで」

「……」

「体調がよろしいなら話をしましょうか。立ったまま話すのはお疲れになるでしょう」

「……ああ」

 

 目の前にあるソファに座る。やはり、考えていた通り秋葉は俺に対しあまり良い感情を持っていなさそうだった。まあ、当然だ。

 

 そして俺らは様々な事を話した。

 

 親父の死を直接伝えなかった謝罪、秋葉が当主と成り親戚一同及び使用人に到るまで殆ど追い出した事、親戚に対する悪態、俺はこれまでの生活、遠野の館に対する率直な感想など。どうにも長い年月に遠野の家の事は忘れているので、これから思い出すだろう、と最後に付け加えた。だけど、やはり秋葉は少し表情を変えて俺を見ていた。最早感覚では遠野ではなく、他人に近い俺がこんな事を言うのは変かもしれないが、でもこれから一緒に暮らす事になる秋葉には伝えたかった。

 

 そして、最後に。

 

「この子は翡翠です。これから兄さん付きの侍女にしますけどよろしいですね?」

 

 有無を言わさない秋葉の声。そして翡翠と呼ばれた女性は無表情のままにお辞儀をした。

 

 え?

 

「秋葉、お前、今なんて言った?」

 

 呆然とする俺に、秋葉は不思議そうな表情。

 

「分かりやすく言えば、召使という事です。……有間ではどうだったのかは知りませんが、これから兄さんは遠野の家で暮らすのです。兄さんには遠野としての嗜みを覚えていただかなくてはなりません。なので遠野の人間としての待遇は当然受け入れてください。それに、食事掃除洗濯それ以外の雑務、兄さんに出来まして?」

 

 何も言えない。それに、何も出来ない。情けない事であるが、生活力には自信が無い。

 

「分かった」

 

 捲くし立てるように言い放った秋葉の勢いに押された俺は、結局其れを受け入れてしまった。何とも弱いな、俺。

 

「では翡翠、兄さんを部屋に案内して差し上げて」

 

「畏まりました、秋葉様」

 

 静かに歩み寄る少女の人形めいた雰囲気に、少しばかり身構えるが、それは意味の無い事である。

 

「それでは、お部屋にお連れ致します」

「ありがとう。じゃあ、秋葉また後で」

「はい、兄さん」

 

 秋葉は、少しだけ笑んだ。

 

 ロビーを抜け階段を上がって二階へ。淡い光の中、翡翠に先導される。そして一つの部屋に辿り着く。

 

「こちらが志貴様の部屋です」

 

 案内された部屋に、俺は圧倒された。高校生が使うにはあまりに立派な造り、無駄に広い中はリビングと言い張っても通用しそうだった。これが、俺の部屋?

 

「……志貴様?」

 

 圧巻とした部屋に飲み込まれていた俺を、翡翠は僅かにだが心配そうに声をかけた。人形めいた、と先ほどまで思っていたが、どうやらそんな事は無いらしい。

 

「いや、なんでもないよ」

 

 俺は場違いな感じがしてならない。

 

「お部屋は八年前から手を加えていませんので、不具合は無いかと思われます」

 

 

「もしかして、ここって俺の部屋だった?」

 

 翡翠は戸惑いに表情を変えた。

 

「そのように聞いておりますが……」

 

 女の子にそんな表情をさせるのは良くないと、罪悪感が働いて咄嗟に言葉を紡ぐ。

 

「八年経てば違和感があるのも当然か。けどやっぱり落ち着かないな、高級ホテルに泊まりに来たみたいだ」

「お気持ちは分かります。ですが、どうかお慣れください」

 

 そう。馴れなくてはならない。でなくてはここでの生活なんて無理だ。

 

「志貴様のお荷物は全て運びました。何か足りないものはありますか?」

「いや、ないはずだけど。どうしてそんな事を?」

「……いえ、差し出がましいようですが、お荷物は足りているのでしょうか。少なすぎるような……」

「ああ、もともと荷物は少ないんだ。大丈夫」

「そう、ですか」

 

 すると翡翠は安心したように、息を吐いた。本当に、表情豊かだ。

 

 そうして翡翠は部屋から立ち去っていった。

 

 改めて部屋の中を見る。広すぎる部屋に、大きなベッド。イスも幾つか置かれて、本当にここは俺の部屋なのかと、不安感というか落ち着かなさを味わう。

 

 しかし、時機に慣れるだろう。

 

 俺は、自分の家に、帰ってきたのだから。

 

 □□□

 

 食事とは和やかな雰囲気なモノで行うものだと、俺は思っている。硬い雰囲気のまま食べる食事というのは空気に感化されて、硬くなり、冷たくなり、味気ないものになってしまう。

 

 例えば、今日の夕食のように。

 

 料理は素晴らしかった。今まで口にしたこともないような、所謂高級な料理である。恐らく食材から調味料の段階までこだわっているのだろう。庶民的な生活に馴染んでいた俺には、美味いには美味いがどうにも舌がついていかない様な料理だった。それでも、美味いと正直に頷けるモノだった。

 

「……」

「……」

 

 無言。

 

 冗談のように長いテーブルの端、対面するように座りながら、俺と秋葉は黙々と食事を進ませていた。馴染みの無いナイフとフォークに四苦八苦する俺に、秋葉は若干ではあるが苛立ちを滲ませていた。いや、そんなテーブルマナーなんて知らないぞ俺。琥珀さんと翡翠は主人と同じ食卓には立てないと、二人とも食事を取らなかった。

 

 胃袋を満たすための時間だというのに、結局胃袋を痛める様な時間となってしまった夕食を終え、俺と秋葉は食後の紅茶を飲むことにした。取り合えず、秋葉と何か同じ事をする事がいいのではないかと、思った結果だった。

 

「どうです、お口に合いますか?」

「ああ、種類は分からないけれど、美味いなコレ」

 

 食後のお茶は、夕食と打って変わって和やかな雰囲気だった。神経質な空気は消え去って、俺たちは同じ空間を楽しんでいた。

 

「有間では紅茶を嗜んだりはしなかったのですか?」

「ああ。向こうはどちらかと言えば日本茶だとか飲んでたような気がする。でも、それも趣味の範囲ではなかったなあ」

 

 あの和風な家で紅茶を飲む機会はあったが、それでも日本茶よりは少なかった。

 

「秋葉は紅茶が主か?」

「そうですね。紅茶は種類も多く、更に時間によって味が変わっていくので、様々な味を楽しめますし。今度よろしければ教授差し上げましょうか?」

「うん。秋葉が良ければ」

 

 秋葉は本当に楽しそうだった。それにつられて俺もなんだか楽しくなっていった。そして、これが家族としての時間なのかと、俺はしみじみ実感した。今まで離れ離れで交流も無かった、たった一人の肉親とこうやって同じ時間を楽しむ。そんな事が、とても心地よい。

 

 秋葉も、この時間を楽しんでいるだろうか?

 

 楽しんでくれたら、俺も嬉しい。

 

 そして気付いた。冷たく、刺々しいと思っていた秋葉だったが、話しているうちにそんな意識は変わっていき、お堅いような感じはするが、決して嫌な性格ではない。

 

 秋葉は、俺の妹なのだ、と改めてこの時実感した。

 

 すると、何故だろう。

 

 ―――空っぽな内側を感じた。

 

 今までよりも、強く、響くように。

 

「そう、言えば」

 

 だからだろう。こんな質問をしたのは。

 

「親父は、どうして死んだんだ?新聞にも書いてなかったし」

 

 少しの間を置き、秋葉は言う。

 

「お父様はお体の弱かったお方でした。なので、其れが原因で」

「ああ、そうだったか」

 

 記憶の中に映る父の姿は妙にやつれ、床に伏せている事も多かった。それが何故なのか、俺は終ぞ知らなかったが、それでも親父が健康体ではなかった事は覚えていた。

 

 そうか、親父の最期はそんなものだったか。特に記憶にもいない親父の事を思ったが、結局感慨深さは浮かばなかった。しかし、体が弱いか。

 

「やっぱり、俺も親父の影響を受けてるんだなあ」

「え?」

 

 一人呟いた言葉に、秋葉が反応を示した。

 

「ん、どうした秋葉?」

「いえ、影響がどうとか……」

「ああ、俺の体が弱いのも、親父の影響があるかもってさ。最も、俺の場合は事故が原因なんだけどな」

「そう、ですか。そういえば兄さんもお体の方が、その、あまり……」

「そうだな。貧血持ちで良く倒れるし、あまり多く食べる事も禁止されてるし」

「……今日は、大丈夫なのですか?」

「今日は調子いいな。貧血も起こしてないし、だから安心だ」

 

 そう言うと、秋葉は少しばかり柔らかな笑みを浮かべた。

 

「安心しました。もし、調子が悪かったらすぐに言ってくださいね」

 

 それを聞いて、少しだけ可笑しくなった。

 

「どうして笑うのですか。私は兄さんのことを心配していて……」

「だからだよ。秋葉結構優しいんだなって」

 

 すると、秋葉の顔はあっという間に真っ赤になってしまった。

 

「……当然です。兄さんは遠野の長男なのですから。……心配して、何が悪いんですか」

 

 そっぽを向いて小さく呟く秋葉の姿が、妙に可愛く思えた。

 

 □□□

 

 自分の部屋に戻り、そのままベッドに横になる。

 

 慣れない部屋で寝れるのかと少しだけ心配になったりもしたが、果たしてそんな事は関係なく順調に睡魔がやってきた。視線の先、天井が随分と高い。

 

 それを見ても、全く違う内装を見ても、やはりここは自分の部屋なのだろうかと、改めて思う。でも、今更有間の家に戻っても、居場所なんて無い。今日、別れを告げたのだ。

 

 帰る、か。

 

「帰って、来たんだよな」

 

 実感は無いけれど、それでも秋葉と会話して、少なくとも足がかりのような、折り合いのようなものは出来たような気がする。

 

 記憶の中にいる少女たち。そして自分。

 

 不安はある。杞憂もある。

 

 だけどまあ、これから馴染めばいいだろう。

 

 なんとかなる。

 

 今は、このまま睡魔に任せて眠るに限る。

 

 そうして、俺はまどろみ、やがて眠りにつく。

 

 内側にぽっかり空いた虚ろは、結局虚ろのままだった。

 

 □□□

 

 遠く、どこからか犬の鳴き声が聞こえる。それは月に届かんばかりに響く遠吠えであった。夜を切り裂くように、犬は吼え続ける。

 

 でも眠いから、自分には関係ないと眠り続ける。

 

 どうせ外の事。時間が経てば、犬もどこかに消える。

 

 だが、犬たちは喧嘩でもしているのだろうか。

 

 遠吠えはやがて吠え立てる犬の鳴き声へと変化していく。

 

 まどろむ意識の混濁に聴覚は次第に機能を失っていく。

 

 

 そして、犬の悲鳴が聞こえたような、気がする。

 



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第二話 反転衝動Ⅰ 裏

―――私には、好きな人がいます。


 夕暮れの空に黒が混じる頃合に、一人の女子高生が学生鞄を片手にトボトボと歩いていく。少し丸顔に愛嬌のある顔つき。左右で縛った栗色のツインテールが歩調に揺れ、町の中を歩いていく。

 

「酷いよせんせえぇ、結局こんな時間まで先生の手伝いだったし」

 

 落ち込み気味に肩を落とし、暗い表情、というか滂沱の涙さえ見える気がする。

 

 しょんぼり弓塚さつきである。

 

 本日弓塚さつきは密かな恋心のままに、勇気を出して憧れの遠野志貴という少年に声をかけ、彼が引越しをすることを知った。始め志貴がいなくなると勘違いし、いろいろ想像してしまったりもしたが、結局引越しはするが学校は変わらず、引越し先は丘の上の豪邸。しかも帰りの方向は途中まで同じだという。それを聞いてさつきは思った。

 

 これチャンスじゃね?

 

 昔、中学の頃に起こったある事が切っ掛けで、自然と目で追うようになった彼。しかし、志貴は周りにいる人たちとはどこか違い、そこにいるのにどこか遠い場所にいて、違う場所を見ている。唯一彼と親しげな乾有彦といてもである。それが余計に気になった。一体今志貴は何をしているのか、どんな事を考えているのか。

 

 中高とクラスも同じになり、触れ合う機会はあったはずなのだが、何せさつきはいざと言う時に運がないというか、怖気づくというか、そんなものが混ざり合って悉く失敗を重ねている。そもそも話しかけることだけで大事件。仲良くなるなんて天変地異だと思っていた。

 

 でも、神様はそんなさっちんを見捨てはしなかった。

 

 夢は、願いは、いつか叶う、と誰かが言っていた気もする。

 

 引越し先の方向はとちゅうまでさつきの帰宅方面と重なる。即ち帰る道行も同じに他ならない。これは一緒に帰るなんてイベントが発動可能だという事である。

 

 動揺と安心のせめぎ合いに、さつきは志貴を帰宅時に一緒に帰ろうと声をかける。ぎゅんぎゅん漲る乙女心。恋の情熱はさつきを突き動かした。

 

 しかし、である。

 

「もう、先生もタイミング悪いなあ。なんであのタイミングなんだろう」

 

 誘う正にその瞬間、先生の呼び出しに心砕かれたのである。さすが乙女心、直線は強いのに横からの衝撃には脆い脆い。

 

「すぐに終わるとか言って、全然終わらないし。もう夜だよお」

 

 なんだかんだで、人のいいさつきは誰かの頼みを断る事ができない。根っからの善人である。頼まれれば嫌とは言い辛い。その人の良さがあるからこそクラスでも人気がある。それを承知の上でさつきに用事を頼む先生もなかなか良い性格をしているが、さつきは気付きもしない。

 

 すでに夕闇が街並みを染めようとしている。夜の訪れ。昼と夜の間の時間である。街には影が差し込み、闇色をした空が夕暮れを追い立てる。冬も近くなってきたので、夜が早くなってきた。早く帰らないといけない。

 

 確かに、志貴と帰れないのは残念だ。折角そんな機会が巡り回ってきたのだ。これを活用しない手はない。今日は、駄目だった。

 

 でも、明日からはどうだろう。

 

「よしっ、明日は絶対遠野君と帰るんだからっ」

 

 チャンスはきっと今日だけではない。明日も、その次の日もやってくる。

 

 憧れのままに進んでいく弓塚さつきに不可能はない。今年の目標は遠野君と気軽に話し合える仲になる事。前途多難な目標だったが、それももう終わった。今年も既に後半に入り、ようやく目標が実現可能になりそうだった。随分と遅いスタートダッシュである。

 

 さて、さつきが決意を新たに燃やした時だった。

 

「あれ、遠野君……?」

 

 視界の端、街角の曲がり角、そこにちらりと見知ったような影が見えた、ような気がする。閑静な道並、舗装された道を挟み込むように家々が乱立している。そこの影を曲がるように、ちらりと、さつきの想い人が見えた。辺りは暗い。影は見え辛かった。でも、さつきはそれが何となく志貴の姿に見えて仕方がなかった。

 

 時間も時間。既に志貴はあの豪邸に帰宅しているはずである。彼は部活動には所属していないし、アルバイトも行っていないと何となく聞いた。だからこんな時間に外にいるのは少し不自然。

 

「(友達と遊んでいた、とか?)」

 

 自分で考えながらそれは随分と稚拙な予想だと思った。志貴の友人である有彦と遊んでいる、というのはいくらなんでもありえないと思った。他に友人がいないとは限らないが、さつきの思う志貴はそんな人間ではない気がする。何となくではあるが、彼が友人と遊ぶ姿が想像できなかったのである。

 

「(じゃあ、元の家に行くのかな?)」

 

 そちらのほうが大分マシだろう。豪邸が馴染めず、元の家に戻る。もしくは何か忘れ物をして元の家に忘れ物を取りに行く。うん、こちらの方がしっくりする。でもこんな時間に?違和感を覚える。

 

 そして、さつきはハッとした。

 

「(も、ももももしかして)」

 

 夕暮れも過ぎていく。夜は間近に迫り、少しだけ寒い。太陽が見えなくなり始めたから。

 

「(ここここ恋人に会いに行くとかっ!?)」

 

 その想像にさつきは愕然とした。有り得る、有り得るぞそんな未来が!

 

 何せ志貴はカッコいいし優しい。幾分かさつきの主観が混じっているが、少なくとも志貴の恋人がいても可笑しくない。健全な高校生だ。恋人付き合いに眉を潜める事もない。思春期を経験して女性への幻想を打ち砕くには頃合な年頃だ。

 

「す、少しだけ、少しだけ見に行くだけだし……」

 

 そんな結末は嫌だ。ずっと志貴を追っていたのである。自分の好きな人が、誰か他の人と付き合っているのは絶望以外の何物ではない。でも考えれば考えるほどさつきのビジョンは埋まっていく。誰も見ていないのはその人をずっと見ているから。側にいないのは、心がその人に向けられているからだ。そして、志貴の笑顔も。

 

「いやだ……」

 

 ぽつり、とさつきの口元から零れた。

 

「いやだよ、遠野君……」

 

 だから少しだけ。確認にために。この予想がただの空想だと信じて。

 

 さつきは志貴の影が見えた後を追った。

 

 空には星の輝きが見え始めていた。

 

 道路を進んでいくと、決して確認できない距離ではないはずなのに、影の姿が曖昧にさつきの視界の端にいた。それが何だか追いかけっこみたいで少しドキドキした。幼心にさつきは志貴との追いかけっこを自身が恋人という設定で妄想。

 

 うむ、実に好い。

 

 □□□

 

 閑静な住宅街とは打って変わった明るい街並み。途切れる事のない人工(ネオン)の輝きは、無秩序な様相を見せて人に夜を忘れさせようとする。道行く人たちは慌しそうに先を行き、すれ違う人々は何が楽しいのだろう、馬鹿みたいな笑い声を響かせる。

 

「うー。こんな所まで来ちゃったよお」

 

 あまり遅い時間に、ここには来たくなかった。昼とは違う顔を見せる、この街の二面性はさつきには辛かった。まるで今まで信じたものが偽者であるような気がするのだ。派手な服装に身を包んだ若者が多い。酒気を放つ大人の姿。ティッシュを配るアルバイト。ティッシュはもういらない。もうここに来るまでに六つも貰ってしまった。

 

「○○です。どうぞ」

「はあ、どうも」

 

 七個目。

 

 志貴の影を追い、こんな所まで来てしまった。ちょっと帰り道を外れただけで、さつきには馴染まない場所にたどり着いてしまったのである。

 

 いやだな、早く帰りたい。でも、あと少しだけ、と。自身の不安のままにさつきは歩いた。視線は先を見ている。でも、今この時になってさつきは、今自身が追いかける影が志貴ではないのではないか、と思考の隙間に入り込んでくる。志貴を疑っているのではない。ただ、今さつきが志貴と思い込んでいる存在が志貴ではない違う人だったら。どうだろう。凄い恥ずかしい。

 

 でも、そんな考えを払いのけるさつきの不安。それがさつきを突き動かしている。確認するだけ、確認するだけ、と自分に言い聞かせる。志貴が何処に行くのか、果たして目的は恋人に逢う為なのか。それともあれは志貴なのか。

 

 パチンコ店の無節操な音があちらこちらから放たれている。本格的にさつきは帰りたくなり始めた。さつきが不安と共に抱いているのは若干の恐怖であった。それらが突然さつきに牙を剥くのではないか。そんな馬鹿らしいが実にリアルな恐怖がさつきを包む。ニュースでも、学校でも、こんなところに近づいてはならない、と言われてきている。それをさつきは真っ直ぐに受け取ってきていた。

 

 でも、それでも、である。

 

 さつきの中にある仄かに淡い想い。それを今、脅かす影がある。それをどうにかしなくては、さつきはさつきでいられなくなるような気さえした。

 

「あれ……?」

 

 気付けば、影は又もや角を曲がっていく。

あそこは確か路地裏だったはず。そんな所になにがあるのだろう。

 

「うぅぅ」

 

 気後れして歩調は少し遅くなる。暗い場所は苦手だった。昔話でも、童話でも暗がりには良くないものがいて、そこに入り込めば二度と出られないと言った様な、とても不吉な場所。世上でもそんな所に入り込めば何か起きるか分からない。不良の巣窟、あるいは悪い人たちの溜まり場だ。

 

「遠野、君……」

 

 不安だ。あれが本当に自分の想い人なのか。今この時になり、さつきのなかにある恐怖はその姿を現し始めた。

 

 誰だって我が身が可愛い。恐怖とは本能が正常に働いて本人が生き延びる為に鳴り響く警告音である。警告音は静かに、囁き告げた。もう帰るべきだと。あそこに行ってはならないと。行ってしまえば、もう戻れないと。

 

 この時点で、さつきは少し帰りたくなっていた。さつきは一般家庭に生を受け、育ってきた普通の女の子だった。本能を克服する術は、志貴を想う気持ちだけであった。

 

 暗がりを進むには恐怖が足を遅くさせる。でも志貴は―――。

 

 さつきはかつて、死に掛けた事がある。

でもそこを助けてくれた志貴に、さつきは恋を知った。それは稚拙で、何とも幼い、でもそれ故純真で素直な恋だった。それを憧れと呼ぶ事もできる。それを気のせいだと、言われることもある。

 

 しかし、さつきは知っていた。それが憧れならば、こんなにも胸は苦しくない。それが気のせいならば、これ以外の想いは全てまやかしだ。

 

 記憶を巡らせる。その中にいる志貴の姿に、さつきは勇気を振り絞った。うん、大丈夫。

 

 その時であった。

 

 人ごみの中を洗われるさつきは。

 

 ――――ぞわり。

 

 と、何かを感じた。

 

「え?」

 

 ――――さつきの横を、何かが、通り過ぎた。

 

 黒っぽい、何か。

 

 背筋を逆撫でする寒気。良くない気配だった。今まで感じたこともないようなそれを感じ、咄嗟に今しがた横を通り過ぎた存在を確認した。

 

 後ろを振り向く。

 

「あれ?」

 

 何も、いなかった。

 

 黒っぽいものは何処にもいない。黒い服装をした人は何人かいた。

 

 でも、あの存在が黒いような人間はいなかった。

 

 いや、アレは。

 

 ――――本当に、人間だろうか?

「ひうぅっ!!」

 

 不器用な悲鳴を、さつきは飲み込んだ。

 

 何か、見てはいけないようなものを見てしまったような、気がする。

 

 ぞわりと不安は活性化し、さつきを追い立てた。

 

 体を反転させた。縺れるように、走る。

 

 一刻も早く家に帰りたかった。なけなしの勇気は散り散りに消え、その場所を恐怖が支配した。今まで感じたともないようなモノがさつきの中をぐちゃぐちゃにさせる。混乱に心は志貴の姿さえも曖昧にさせた。

 

 本能は既に志貴の影を一片たりとも脳裏から吹き飛ばした。

 

 さつきは走る。影にではなく、家に。

 

 空には星が瞬いて、月も見えていた。月の形は半月を少し過ぎた頃。

 

 その空は、黒と橙が交じり合って、見事な藍色を成す。

 

 □□□

 

 一瞬、視えた。

 

 しかし、それは消えてしまう。立ち止まり、辺りを探るが何も感じない。視えない。

 

 だが、あれは――――。

 

『どうした?』

 

 声が響く。金属を擦り合わせたような声。

 

 再び歩く。すれ違う人間たちは、存在に気付いてすらいない。

 

 気配は、覚えた。

 

 ならば、見つけるだけ。

 

 人ごみに紛れて、それは消えた。

 




さっちん成分が足りません。
さっちんが襲われなくてもいいじゃない。


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第三話 反転衝動 Ⅱ

 夢は、見ない。
 見るのは、思い出だけ。



 女の子がいた。

 

 小さな黒髪の女の子。

 

 女の子は花の円環を頭に飾り付け、笑っていた。

 

 暗転。

 

 女の子がいた。

 

 小さな黒髪の女の子。

 

 女の子は草の生えた地面から立つ事もできず、泣いていた。

 

 暗転。

 

 少年がいた。

 

 血に塗れた、少年がいた。

 

 暗転。

 

 少年がいた。

 

 血塗られた少年の背中を見続けた、少年がいた。

 

 □□□

 

「起きてください志貴様。朝です」

 

 ゆるゆると、目が覚める。

 

 窓からの日差しが温かい。薄く開いた目蓋の隙間から、ぼんやりと見慣れぬ天井が見える。白い天井は簡素ながらに厳かな造り。横たわっている布団も素材良く感触は極上。はてここは何処だろうか。寝起きに血の巡りの悪い頭は、どうにも上手く働いてくれない。

 

 やがて開かれた視界の端に、人の姿が見えた。霞む視界を凝らして見ると、そこには一人の少女。給仕服を身に纏った、淡い紅色の髪をした少女が、俺の横に直立していた。

 

「おはようございます。志貴様」

 

 果たしてこの人は誰だったかと考える前に、少女は一礼する。その丁寧な仕草に、なにとはなく俺は少女の姿に見とれた。精巧な人形のように整ったその顔造り。顔を上げた少女の瞳は美しき翡翠色。そうだった。昨日は分からなかった。それは彼女の名前をそのままに現した澄んだ瞳であった。

 

「あ、ああ、おはよう翡翠。わざわざ起こしてくれてありがとう」

 

 でも、長い間は正視出来ない。

 

 ――――翡翠の姿は黒い亀裂だらけだった。

 

 眼鏡をかけていない世界は落書きだらけで、其れは人間すらも例外ではなかった。

 

 眼鏡をかけようと、適当にそこらに投げ出していた眼鏡を探すが、俺が探すよりも先に、すっと翡翠から手渡された。いつまでも身を横たえておくには失礼だろうと、眼鏡をかけつつも慌てて体を起き上がらせる。部屋を見渡した事で、この見慣れぬ場所は自分の部屋なのだとようやく分かった。

 

「勿体無いお言葉です。志貴様をお越しするのも私に任された責務ですから」

 

 完璧な物言いだった。

 

 翡翠は秋葉に言われ俺に付けられた従者、らしい。生活力のない俺のために付けられたらしいが、そのような立場、生活に慣れない事と同年代の少女、それこそ高校生として自分と同じように学校へと通っていそうな年頃の少女が、俺の従者、などと言うのだ。

 

「あの、翡翠さん」

 

 でも、それを素直に受けられるほど、俺はこの状況を良しとしていなかった。

「昨日から思ってたんだけど、堅苦しいから俺の事は呼び捨てでいいよ。その変わり俺も翡翠って呼ぶからさ。昨日会った、琥珀さんにもそう伝えておいてくれないかな。翡翠」

 

 今まで普通の生活を送ってきた。有体に言えば庶民的。こんな扱いを受けるのは、少しこそばゆい。窮屈な感じが否めない。堅苦しいのは慣れていない。

 

 翡翠はしばしの時を置いた後、

 

「……分かりました志貴様。姉に伝えておきます」

 

 一礼。道のりは遠いらしい。

 

 しかし、話を聞いて少しだけ引っ掛かりを感じた。

 

「姉って、琥珀さんの事?」

「はい。申し遅れました。すいません」

 

 確かに二人は良く似ていた。雰囲気は大分違ってはいるが。朗らかな印象の琥珀さんと、静かな印象の翡翠。二人とも見かけは似ているが、中身は違う。

 

「お召し物をお持ちしましたので、こちらのほうにお着替えください。お着替えが終わりましたら居間にいらして下さい。秋葉様がお待ちしています」

 

 そう言うと翡翠は俺に着替えを手渡し、そのまま一礼し部屋を出て行った。糊の効いたワイシャツ、皺一つない制服のズボンは俺が遠野へと戻る前に送っていたものだった。

 

「てか、俺制服のまま寝てたのか」

 

 今自分は制服を着ていた。どうやら着替えもせず、そのまま眠ってしまったらしい。

 

 翡翠が部屋から出て行くのを確認した後、身につけていた生ぬるい人肌の制服を脱ぐ。その際、胸の辺りを大きな傷跡が蹂躙していたのが見えたが、最早慣れてしまっているので何も思わない。翡翠から渡された服は清潔で、少し冷たかった。

 

 着替えを済まし、部屋を出る。一人で歩く廊下は広すぎてどうにも寂しい。しかし、これだけ屋敷自体は広いと言うのに、汚れ一つ、埃の一片も見えないのが不思議である。

 

 居間に着くと、イスに座った秋葉が紅茶を飲んでいた。秋葉はここら辺では見慣れない青いイメージの制服を着ていた。制服自体は凡庸な服装だと言うのに秋葉が着ているだけで随分と上質な物の様に見え、優雅に嗜む姿から本当に紅茶が好きなのだと思った。その隣には先ほど俺の部屋に訪れた翡翠の姿もあった。

 

「秋葉、翡翠。おはよう」

「おはようございます兄さん」

「おはようございます、志貴様」

 

 秋葉に声をかけた後、テーブルを挟んで秋葉の正面に設置されたイスに腰掛ける。しかし、秋葉は兎も角、先ほど会ったばかりの翡翠は又もや一礼を返してきた。生真面目な少女だと改めて思う。気軽な仲となるには道のりは険しい。

 

「おはよう御座います志貴さん、こちらが朝食になります」

「うおっ」

 

 後方からいきなり声をかけられた。虚を衝かれ、慌てて振り向くとそこには朝食を運ぶ琥珀さんの姿があった。びっくりした。後ろに琥珀さんが現われたのに、全く気付かなかった。

 

「あ、ああ、おはよう琥珀さん」

「はい、今日の朝ごはんですよ」

 

 気さくな態度でにこやかに微笑む琥珀さんは楽しそうに朝食を配膳する。改めて琥珀さんを間近に見るが、やはり翡翠と良く似ていた。琥珀色の瞳と着物とエプロンの装い。それと青いリボンがなければ見分けもつかないほど、その顔つきは似ていた。

 

 用意された和風の朝食を食べながら、居間に設置された年代物の様な柱時計を確かめると学校に向かうには少し早く起きていた。だけど慣れない道のりを確認しながら向かうだろうし、それこそ以前の有間と比べてみたら距離が違うだろう。これぐらいが丁度いいのかも知れない。

 

 朝食は美味しかった。シンプルでありながらワカメやネギの食材及び調味料を最大限に生かした味噌汁や、炊き立ての白米、そしてふんわりと甘い食感の卵焼きなど、一般高校生が食べるような朝食としてはあまりに上等なものであった。

 

「昨日の晩御飯も美味かったけど、料理は誰が作ってるの?」

 

 ふと気になり聞いてみる。

 

 俺の問いに、秋葉の隣に移動していた琥珀さんがにこやかに応えてくれた。

 

「あは、実は私が作ってるのですよ?」

「え?そうなの?」

「はい、今現在この遠野の屋敷には秋葉様と翡翠ちゃん、それに志貴さんと私の四人しかいません。なので私が頑張って料理を作ってるのです」

 

 昨日から思っていたのだが、この屋敷にはあまりに人がいない。ガランとした印象が刻まれている。会っているのも今この場所にいる四名しかいない。だけど、まさか本当にこの四人しかいないなんて思ってもいなかった。

 

「へえ、凄いな。という事は昨日の晩も?琥珀さんって料理が上手なんだね」

「いえー、これも長年の賜物ですよ。それにしても志貴さんはお上手なのですねぇ」

 

 クスクスと口元を着物の袖で隠す琥珀さん。そう言われてみると、少しだけ照れくさくなった。でも、本当に凄いと思う。こんなに美味しい料理を作れるなんて。少しだけ空気が和んだ。そこで暫く談笑が続くかと思ったが。

 

「こほんっ」

 

 咳払い。見ると秋葉が半眼となって俺を見ていた。

 

「兄さんは私と話すよりも琥珀と話すのが良いそうで」

 

 やばい。何故か秋葉の機嫌が悪くなっていた。

 

「それに、食事をしながら談笑なんて。兄さんは遠野家の長男なんです。もう少し遠野の人間としての自覚を持ってください」

 

 確かに、少し行儀が悪い、のだろうか。言われて気付いたが、あまり良くはない、のかも知れない。しかし、秋葉の態度がやたらと怖いぞ。

 

「ごめん、秋葉」

 

 そこからは黙々と食事を食べる。

 

 朝食を済ますと翡翠が紅茶を注いでくれた。食後のお茶はこの家の習慣なのだろうか、と俺は思いながら温かい紅茶を飲む。鼻腔に紅茶の味わい深い匂いがふんだんに広がる。紅茶は良く分からないが、やはりコレも昨日の紅茶と種類は違うが良い紅茶なのだろう。

 

 秋葉と共に紅茶を飲んでいると、先程よりかは秋葉の態度も軟化したようだった。険のある眉間の皺も解される。

 

「兄さん」

 

 そんな時だった。秋葉はティーカップを置いて、俺を見た。

 

「昨日は言いそびれていましたが、屋敷の門限は七時です」

「七時!?」

 

 度肝を抜かれた。門限にしてはあまりに早すぎるだろう。高校生の身分である俺からすれば尚更の事だった。

 

「はい、七時には正門、八時には全ての門を閉めます。十時以降は屋敷の中を歩き回るのも控えて頂きます」

「それは、いくらなんでも……」

 

 無茶ではないか。そう言葉を紡ごうとした。

 

「私は―――」

 

 だけど、秋葉の有無を言わさぬ視線が俺を貫いた。

 

「今までこうして来ましたが、兄さんには出来ませんか?」

 

 威圧感すら覚える秋葉の瞳。何だろう、体からオーラのようなものすら漂っているような。

 

 覇気?

 

 しかし、其処まで言われたら俺としても出来ないとは言えない。妹が今までやってきたのだ。兄が出来ないとはあまりに不甲斐ないだろう。努力はする。

 

「努力の必要はありません。結果を出して頂ければそれで充分です」

 

 そんな、手厳しい。

 

「ただでさえ最近は物騒なんですから」

 

 一人呟くような声音を俺は聞き逃せなかった。

 

「物騒?」

 

 思わず聞き返した俺に琥珀さんが反応する。

 

「町で起こっている猟奇殺人事件の事です志貴さん。ご存知ありませんか?」

「……」

 

 そういえば昨日、学校で有彦や弓塚さんから聞かされた。殺された人間は全身の血がなくなっていて、現代の吸血鬼とまで呼ばれているとか。そんな事件が起こっていたと昨日知ったが、その事件がこのように近くて周りに影響を与えているなんて思っても見なかった。つまり俺の門限が早いのも、その殺人犯が原因、という事だろうか。

 

 しかし、それは考えても有り得ないと思った。そんなのこじ付けでしかないだろう。

 

「とにかく。今まで兄さんがどのような生活をしてこられたのかは知りませんが、遠野に帰ってこられた以上は我が家に馴染んで頂きます」

 

 ぴしゃりと秋葉が言い放つ。

 

 理不尽な部分を感じながらも、仕方ないと諦める。ちらりと隣に控える翡翠の姿を盗み見たが、何も反応を示さないと言う事は、これは既に決定事項という事なのだろう。

 

 だけどこの家に馴染む、か。

 

 俺は、帰ってきたんだよな。多分、きっと。

 

 実感が得られない。久しぶりなのか分からないが、見覚えのない自室に対しても、本当にあそこは俺の部屋なのかと思う。

 

 暫く手元に握ったままだった紅茶を口元に傾ける。

 

 喉に入り込んだ紅茶は既に冷たくなっていた。

 

「志貴様、そろそろお時間の方はよろしいのでしょうか?」

 

 翡翠に言われて柱時計を確認すると、学校に向かうには丁度よい時間となっていた。登校に費やす時間は憶測で三十分近いだろう。

 

「それじゃ秋葉、そろそろ行ってくるよ」

 

 秋葉に声をかけながら立ち上がる。

 

「ええ、兄さんお気をつけて。私もそろそろ失礼します。兄さんも勉学に励んでください」

 

 本当に手厳しいな、秋葉。

 

 居間を出て自分の部屋に置いてある学生鞄を取りに向かおうとしたところ、既に翡翠が準備をしてくれていた。感謝をしながら受け取ると「勿体無いお言葉です」と一礼を返した。制服の上着も序に受け取って、申し訳ない気持ちになりながら、そのままロビーに向かい玄関を出ようとすると。

 

「志貴さーん!ちょっと待ってくださーい!」

 

 ぱたぱたと階段を下りてくる琥珀さんの声に呼び止められた。

 

 何だろうかと、琥珀さんに振り向くと、その手には木製の箱が持たれていた。

 

「これ、昨日有間の家の方から届けられたんですよ」

「おかしいな。俺の荷物は全部持ってきたはずなんだけど」

「はあ、なんでも志貴さんのお父様の遺品だそうです。志貴さんに譲るように遺言があったとか」

 

 親父の、遺品?

 

 思わず、それを見る。

 

 親父が俺に対して何かを残す事など、ある得るのだろうか。俺を勘当した、親父が。

 

 琥珀さんから受け取ってみると、見かけに反しての重量感があった。恐らく中身に何か重いものが入っているのだろう。でも、興味はそれほど沸かなかった。俺を勘当した奴の遺品なんて、と反発にままに。

 

「まあ、いいや。琥珀さん、これ部屋に置いて……」

 

 しかし、視線を感じた。文字とするならじぃーーーー、とした感じで。

 

 見れば琥珀さんが笑顔のまま、興味深そうな顔で俺と、手に握られた木製の箱を見ている。

 

「……中身が気になるんですね、琥珀さんは」

 

「いいえ、そーんなことありませんよー」

 

 笑みのままの応える琥珀さん。その表情に変化はない。なかなか調子の良い人だと思った。

 

「はあ、じゃあ開けてみましょう」

 

 乾いた音が木霊しながら、箱は簡単に開いた。中をそのまま琥珀さんのと確認してみると、中には、何だろうか、平べったい鉄の棒のようなものが収められていた。長方形の、掌サイズの棒である。こんなものを残すなんて、親父もどうして子供みたいな嫌がらせをぶちかましてくれる。

 

「これは、ナイフですね」

 

 黙って案外子供っぽい親父に対し思考をしていると、琥珀さんが箱から棒を取り出しながら言う。

 

「ほら、飛び出しナイフってあるじゃないですか。あれと同じです。せーの、はいっ」

 

 パチン、と小気味好い音をたてながら、それは姿を現した。

 

 刃。

 

 包丁や鋏とは違った狙いで作られた鋼の刃が鉄の握り部分から飛び出してきた。

 

 芸術品のような美しさなどない、無骨な刃だった。

 

 刃文は真っ直ぐ。

 

 刀身は日本刀の切っ先にも似た造りをしているようにも思える。鎬造もそれに近い。

 

 しかし、其れよりも肉厚で耐久性のない日本刀と比べたら頑丈そうな造りだった。

 

 刃の長さは恐らく十センチ以上。

 

 その趣から鈍器のようにも見えるが、それは日常用に作られた刃物しか見た事がない俺の感性でしかない。それにこれはナイフと言うよりも短刀に近い。

 

「随分と古い物みたいですけど、造りはしっかりとしてますね。あ、裏に年号が書かれていますね」

 

 再び刃を仕舞い、琥珀さんから受け取る。

 

 確かに握りの下には『七夜』という字が刻まれていた。

 

「なな、や――――?」

 

 口ずさむ。

 

 何気なく零れた言葉の中にしっくりするような響きがあった。

 

 まるで、以前、どこかで聞いたことがあるような――――。

 

 ――――――――――っ――――――。

 

「姉さん、これは年号じゃない。七つ夜って書かれているだけよ」

 

「―――っ!」

 

 思考を切り裂くように、突然背後から声がして振り向く。

 

 先ほどまで黙り込んでいた翡翠が、いつの間にか後ろからナイフを覗き込んでいた。

 

 翡翠はその瞳に熱を宿し、亡、と魅入られたかのように刃を見つめていた。

 

「……翡翠、人が悪いぞ。そんな後ろから覗かなくたって見たかったら見せてあげるのに」

 

「―――――あ」

 

 声をかけた途端、翡翠の顔が僅かにではあるが赤くなる。

 

 そんな翡翠に少しの苦笑を見せ―――。

 

 あれ?

 

 ―――俺は。

 

 今、何を考えていたのだろう。

 

「し、失礼しました。あの……短刀があんまりに綺麗だったから、つい」

「綺麗?綺麗、というよりは、おんぼろって感じだけど」

「そんな事ありません。見事な刃文をした、由緒正しい古刀だと思います」

 

 熱心にこの刃物の素晴らしさを伝えようとする翡翠の言葉に、何だかこの七つ夜が凄く立派なものに見えてしまう。

 

「……」

 

 しかし、さっきまで何かを思い出したような気がするのだが、それは靄のように消えてしまった。記憶、なのだろうか。でも、一体何の記憶なのだろう。七夜なんて、聞いたことはない、はず。

 

 でも、だったら何で―――。

 

 七つ夜を握る手を自分の胸に押し当てる。

 

 ――――こんなにも、空白は揺れ動く?

 

 □□□

 

 学校まであと少しという新しい道の途中で、振り返る。坂の上だというのにここからでも分かる巨大さ。聳えるように、あるいは誇るように居を構えた、我が家。丘の上に立ち、周りを森で囲まれた其処はあまりに不自然であり、まるで森に佇む孤高の古城だった。

 

 家を出る途中、翡翠が門前まで送ってくれた。どうにも慣れないが車での送り迎えと比べたら遥かにマシだと自分を納得させた。

 

 校門をくぐり、教室を目指す。階段を上りながら学校の雰囲気に包まれる。滑らかな廊下。思い思いに話す生徒たち。それが随分と久々なような気がした。どうにもあの家の生活は肩肘張る。秋葉はあのような生活を今までずっと行ってきて、今回当主にまでなったのだから大変だろう。遠野グループの当主は伊達ではないはず。秋葉が望むなら不甲斐ない兄は見せられない。でも、それはそれ、これはこれである。

 

 教室に近づくと、何故か少しだけ教室が騒がしかった。馬鹿みたいな笑い声まで聞こえる。鼓膜を震わせるこの笑い声はあまりに聞き覚えがあった。

 

「もうっ、本当なんだってばぁ!」

 

「だーははははははははっ!!」

 

「ちょっと、ちゃんと聞いてってば乾君っ!!」

 

「ひーひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!!」

 

「もう聞いてってばあ~」

 

「ひははははははははっはははははははははははははははははははははは!!」

 

 神経に障る笑い声。どう考えても、どう贔屓目に候補を探っても有彦だった。

 

 そろりと教室に入る俺の目には、何やらぷんすか怒っている弓塚さんと、腹を抱えて大爆笑している有彦の姿が見えた。

 

「何してんだ、二人とも」

 

 そのまま放置してもよかったが、これ以上有彦が笑っているとあまりに目立つ。そのまま笑い死ねばいいのにと思ったが、放っておくには五月蝿すぎた。内臓に響く。大体俺の机、窓際に設置された机に固まっているので、必然的に声をかけなければならなかった。

 

「あ、遠野君おはよう!遠野君聞いてよっ、乾君ひどいんだよ!」

「よ、よう遠野」

 

 弓塚さんは、有彦に対する態度とは少し変わって俺に挨拶してきた。それに対し有彦は酷い。息も絶え絶えながら、それでも引き攣るように笑っている。笑いすぎたのか、目尻の涙が大変うざい。

 

「まあ、落ち着いてよ弓塚さん。それでどうしたの?」

 

 席に座りながら、あまりに意気込んでいる弓塚さんを宥めすかす。すると弓塚さんは、はっとしながらも少し落ち着きを取り戻し、俺を真っ直ぐに見て、体を寄せてくる。

 

「実は私、昨日」

 

「うん」

 

「幽霊見たんだよ!!」

 

「……はい?」

 

 眼鏡を外し、亀裂だらけの視界を見ながらも目頭を揉んで、眼鏡を制服の袖で拭いて、眼鏡をかける。そして再び弓塚さんを見た。

 

「……はい?」

「もう、遠野君も信じてくれないのっ?昨日私、夜に幽霊見たんだってばっ」

 

 胸の前で握りこぶし。

 

 幽霊って、弓塚さんあなた。

 

 その口ぶりに我慢できなかったのか、横で有彦が馬鹿みたいにまたもや笑い出した。ああ、そういえば有彦は馬鹿だった。周りを見ればクラスメイトもまた、くすくすと笑っていた。教室が騒がしかったのは、これが原因だったか。

 

「幽霊、ですか」

 

「そう、幽霊」

 

「昨日?」

 

「うん、昨日」

 

 真剣に俺を見つめる弓塚さんの瞳は、嘘を言っているようには見えない。でも、どう反応すればいいのだろう。朝からこのような事態に遭遇するなんて想像もしていなかった。

 

 けど、取り合えず言える事がある。

 

「……弓塚さん」

「なに、遠野君?私の話信じてくれるよね?」

「いや、まあ、それは置いといて。……弓塚さん、近いです」

 

 弓塚さんの顔との距離、1cm弱ぐらいだろうか。吐息のかかるような距離に弓塚さんはいた。やたら近い。机の上に身を乗り出すように、弓塚さんは俺に話しかけてきた。眼前に弓塚さんの顔があり、その瞳には俺の姿が見える。そして、今まで気付かなかったが、弓塚さんは肌が綺麗で、人懐っこそうな顔をしている。素直に可愛い顔つきだと思った。

 

「?―――!?にゃっ、嘘っ!?あ、ああああのえと、これは違くて、そそそそのその、誤解なの遠野君!!」

 

 最初、俺が何を言っているのか理解できていなかった弓塚さんだったが、理解が追いついた瞬間顔を一気に赤く染め、慌てて体を離し、あわあわとしていた。なんだろうか、随分と小動物のような感じがする。でも、そんなに俺の顔を側で見たくなかったのだろうか。慌てふためく弓塚さんを落ち着かせようとするが、弓塚さんは全然俺の声を聞いていない。周りはふざけて囃し立てる事はしないが、なんだろうか、俺と弓塚さんを見る視線が妙に温い。

 

「あの、弓塚さん?」

 

「う、ううううううううううううっにゃああああああああああああああああああ!!?」

 

 俺の呼び掛けに応える事もなく、弓塚さんは真っ赤にした顔を隠すように、教室からもの凄い勢いで爆走し出て行った。

 

 そんな弓塚さんをクラスメイトは「また駄目だったか……」「っく、掛け金がっっ」「いい加減遠野も分かってるだろう」「いや、あの遠野だぞ?」「……ああ、そうだったなあ」と好き好きに言っている。

 

 しかし。

 

「何だったんだろう弓塚さん」

「お前、アホだろ?」

 

 有彦だけには言われたくない。

 

 □□□

 

 授業はとんとん拍子に進んでいき、そして今の時間は昼休み、昼食の時間である。俺と有彦、そして授業開始前には教室に戻ってきた弓塚さん―それでも何故か顔はまだ赤かったが―と共に学生食堂へと向かった。

 

「にしても、弓塚が未だに幽霊なんて信じてるとはねえ」

 

 月見うどんを啜りながら有彦は言う。その後方では学食に設置されているテレビ、ビデオデッキがその下に置かれている。そこでは小難しい顔をしたコメンテーターたちが最近の事件や政治に対し、大層なご高説を我が物顔で喚いており、その映像と有彦の間抜けな顔のギャップが笑いを誘う。

 

 弓塚さんはそんな有彦の茶々に機嫌を損ねたようだった。

 

「もうっ、ちゃんと聞いてくれない乾君には何も言わないから」

「ま、信じるのは人それぞれだわなあ。くけけけけ」

「むううううう」

 

 小さく唸りながら頬を膨らませる弓塚さんだった。

 

 人は一時期、そのようなモノを信じる時期がある。それは幼年期、まだ世界がとんでもなく広くて、自分の知らない事があまりに多すぎる頃。その時に教えられた事柄の全ては真実だった。純粋に何かを感じた時、それは理屈を越えた。その理屈さえも良く分からなくて、難しくこんがらがった筋道の証明なんて想像もできない。

 

 でも、少しずつ歳を重ねていき、世界が見え始めたころ、小難しい事も理解できるようになって、そのようなモノが嘘っぱちに見えてしまう。だから、幽霊が見えると公言する人はそれを信じているか、単に見える人だけなのかもしれない。見間違いと言う事も在るだろう。弓塚さんがどちらかなのかは知らない。俺は今までそのようなもの見たこともないから何とも言えない。

 

 しかし、有彦、うどんの汁を飛ばしすぎである。

 

「有彦、其れぐらいにしておけよ。弓塚さんだって、別にからかってるわけじゃなさそうだし」

 

「遠野君……」

 

「確かにな、本人がその気じゃなくてもだ、俺はこう思っちまうぜ。こいつ頭やべえんじゃねえかってな」

 

「!!」

 

 愕然として声も出せない弓塚さんに代わって有彦の頭を殴っておく。わりかし本気で額の辺りを。「ぬおおおぉぉぉ」と有彦は額を抑えながら呻いていたが、当然自業自得だった。俺も腹が空いていたので手加減出来なかったのだろう。憐れとは思わないけれど。

 

「随分と楽しそうですね。遠野君」

 

 ふと、そこに聞きなれない声が聞こえた。仄かに漂うカレーの匂い。声の聞こえた方向に首を傾ける。

 

 俺の斜め後ろ。カレーの乗ったトレーを携え、その人はいつの間にかそこにいた。

 

 見慣れない人だった。青みがかった黒髪に眼鏡をかけた女性。レンズの奥には黒がちの瞳。うちの学校の制服を着ているのだから、この学校の生徒、だろう。落ち着いた雰囲気と、柔らかい表情から、女性が俺らのうちの誰かの知り合いであり、上級生つまりは三年生のようだ。

 

 でも、こんな人、この学校にいただろうか。

 

「――――あ、昨日の」

 

 そして、はたと思い出した。

 

 昨日の朝、俺に手を振ってきた人だった。

 

「よろしければ、ご一緒してもいいですか?」

「何言ってんスか、先輩なら大歓迎っスよ!」

 

 復活の有彦が調子の良い事を言っていた。

 

「あ。そうだ先輩」

 

 俺の正面、有彦と弓塚さんの間に座り、カレーに舌鼓を打つ女性に弓塚さんが声をかけた。

 

「何ですか?弓塚さん」

「この前言ってたお話なんですけど……」

「あ、皆で遊びに行けたらってお話ですね。それじゃ、次の休日なんてどうでしょう。弓塚さん、何かリクエストありますか?」

「え―――っと、じゃあ遊園地なんてどうですか?」

「あ、いいですね、それ」

「お、いいじゃん!俺もつきあおっかな」

 

 俺の目の前で仲のよい会話が広がっていった。その内容から気心知れた会話のようにも聞こえる。けれど、うどんを啜りながら疑問を呈する。

 

「二人とも、この先輩と知り合いなんだ……」

 

 ポツリと零した俺の言葉に、空白が降り立った。女性と話していた二人は怪訝そうな顔つきで俺を見る。

 

「何言ってんだ遠野?」

「前から皆でこうしてお昼食べてたじゃない」

 

 しかし、二人の返した言葉に疑念が高まる。

 

 前から?皆で?

 

 不確かなわだかまりが生じる。

 

 そんな記憶、俺にはない。

 

 本当に、この人が誰か全く覚えていない。

 

 いや、それどころか今まで会ったような事も――――。

 

「ひどいです遠野君!!」

 

 声高々に信じられないと叫ぶ女性。思考が掻き消された。

 

「確かにお引越しとかで疲れているのは分かりますけど」

「何で、引越しの事まで」

 

 不安感が増していく。

 

 なんだ、この感じは。

 

「遠野君がこの前自分で仰ってたじゃないですか」

「そ、そうでしたっけ?」

 

 知らない。そんな事。俺は知らない。

 

「昨日だって窓から手を振ったのにボーっとして」

「い、いや……あれは」

 

 二の句も告げられない。間断なしに言葉をかけられ質問も出来ない。頭がこの人の対応で一杯になる。でも違和感は拭えず。

 

「もしかして……私のこと、忘れちゃったんですか?」

 

 迫る瞳が、俺の目を見る。

 

 自然に俺はその瞳以外、見えなくなって。

 

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――。

 

「……すいません、忘れちゃったみたいです。シエル先輩」

 

 不意に、何もかもが、消えた。

 

 そして、すとん、と其処に入り込む。

 

「そっか、シエル先輩だった。何で忘れてたんだ……?」

 

 そうだった。

 

 この人はシエル先輩。俺たちとは仲がよくて、何かとあれば一緒にいた人だった。面倒見もよくて、俺たちは何回も頼ってばかりだった。そんな先輩の事を忘れたなんて、どうかしてる。

 

『えー……続きまして、殺人事件の続報です』

 

 疑問も消えてスッキリとした思考の空白に、その情報は歪みなくすっと耳に滑り込んだ。

 

『本日早朝、河川敷で一連の連続殺人と思われる死体が発見されました。発見された死体は死後三日経過しており……警察では付近の住民に―――』

 

 思わず、聞き入ってしまう。

 

「あー、例の吸血事件ですね。遠野君もやっぱり気になります?」

「いえ、それほどの事じゃないんです……」

 

 でも、この三咲町でこんな事件が起こり続けているとは。琥珀さんも今朝この事件について言っていたけど、本当にこの話は遠くて近い事件だと思う。同じ街で起こっているというのに、俺は昨日まで知らなくて、それほどの関心なんて聞いた当初は持っていなかった。

 

 だけどこうやって絶え間なくこの話を耳にしていると、否応なく意識してしまう。

 

 テレビのほうに意識を戻すと、この事件に対する憶測や犯人像の予想などが立てられていたが、どれもこれもが当たり障りもない情報のくせに、それが真実であると真面目くさって語っていた。それがどうにも滑稽で、俺は何だか馬鹿らしくなり、伸びきる前にうどんを啜りきる事にしたのだった。

 

 そんな俺を、何故か弓塚さんは暫く見続けていた。

 

 □□□

 

 放課後。何となく俺は教室の中に留まっていた。理由らしき理由は見当たらない。強いて言うなら気分としか言いようがない。座りながら窓の向こうからは校門を潜って家路に着く生徒たちの姿が見えた。最近この辺りも物騒な事になっているらしいので、俺も早々にその中に入らなければならないのだが、果たしてそのようには気分が乗らない。どうにもあの家に帰るにはまだ抵抗があるらしい、と俺はあてっずっぽうな理由をこしらえた。

 

 ―――無視できない、空白を感じる。

 

 右手をズボンに潜り込ませ、その中に入っている鉄の塊を握りしめながら、もう片方の手は俺の胸を抑えていた。

 

 それだけで、虚ろが消えるとは思わない。

 

 でも、抑えずには、いられなかった。

 

 少しばかり夕日が傾いている。季節から考えてもやっぱり夕暮れが早くなっているようだった。生徒たちの姿も橙に呑まれていた。

 

 そろそろ、帰らなくてはならないだろう、か。

 

 有耶無耶な抵抗感で帰らないなんて、馬鹿げているか。

 

 まばらな生徒の影に追随するような形で席を立つ。黒板の上に付けられた時計を見れば、先ほど帰りたいと思えない理由を探っていた時間から長針は殆ど変わっていなかった。どうにも俺は適当だった。

 

「あの、遠野君」

 

 階段を降り下駄箱に差し掛かると、そこには弓塚さんの姿があった。

 

 弓塚さんは俺を見かけると、顔を綻ばせた。

 

「弓塚さん……」

「帰り道が同じだから、その、もしよかったら……」

 

 そう言えば帰りの方向が同じと、弓塚さんは昨日言っていた。ならば、そのまま一緒に帰る事もありえるかと思い、了承すると、弓塚さんは凄く嬉しそうにしていた。

 

 残り少ない生徒たちがすれ違う俺たちを見ながら「おっと、遂にさつきに転機がっ」「いや、相手は遠野だぞっ、弓塚の戦力では苦戦必須だ」「まあ、確かにそうではあるが」「しかし、自体が好転した事は確かだな。ここは周りから固めていくのがベストだろう」と好き勝手に言っているが、無視する事にした。しかし、なんで見ず知らずの生徒、それこそ明らかに後輩の人間にそんな事を言われるのかは激しく謎だった。

 

 靴を履いて、俺たちは並んで家路を進んでいった。外の空気は少しだけ寒いと思った。暮れなずむ斜陽に照らされ、俺と弓塚さんは町の中を歩きながら他愛も無い話を続けていた。

 

「今日、実はお父さんが誕生日なんだ」

 

 何気ない言葉に喜びを交えて弓塚さんは言った。

 

「それで、今夜家族でセンチュリーホテルに泊まってレストランで食事をするの」

「へえ……いいね」

「そこってよく雑誌にも載ってるところでね、とってもおいしいイタリアンのお店なんだけど」

 

 本当に弓塚さんは楽しそうに、明るく話していた。

 

 俺の詰まらない対応にも嫌な顔せず、むしろ嬉しそうに。

 

 まるで、それが無理矢理そのように自分を震わせているようにも見えた。

 

 それが気になって、ほっといて置けなくなって、俺は今までの流れも全部断ち切る。それが、ただの興味本位であることは否定の仕様もない。でも、ナニカの影に取り付かれたような弓塚さんを放っておく事が、俺には出来なかった。

 

「あのさ、弓塚さん」

「なに?遠野君」

 

 住宅街に入り込んで、俺たちは分かれ道に差し掛かっていた。聞けばここまでの道が同じなのだと言う。という事は、これ以上先は一緒に帰れない。聞くなら今しかない。

 

「今日、どうしたの?何だか落ち着きがないって言うか、挙動が不審と言うかさ」

 

 ――まるで、怯えているみたいだ。

 

「……やだな、遠野君。そんな訳、ないじゃない」

 

 俺は、弓塚さんの影が増した瞳を見逃さなかった。

 

 揺れる視線に内包された、確かなぐらつき。

 

「もしかして、今日言ってた幽霊関係?」

 

 幽霊の言葉に、一瞬だけ弓塚さんの体が硬直した。分かりやすい反応。だけど、それだけ弓塚さんにとって無視できない事である、と同時に感じとった。

 

 俺たちは、自然に立ち止まった。人気のない道の真ん中で、弓塚さんは俯いて、俺はその前に回りこみながら、弓塚さんの姿を見つめ続けた。

 

「……遠野君ってさ」

 

 静かに、躊躇うように弓塚さんは語りだした。

 

「幽霊って、信じてる?」

 

「……今まで見た事がないから、なんとも言えないけれど。多分いないんじゃないかな」

 

「そう。私もそう思ってる。今まで見た事ないから、そんなのいないって思ってた。でも、それは分かってなかったからだったんだ。どこか、胸の中でそんなのがいるはずないって思い込んでるのに、それをどこかでいるんじゃないかって信じてる自分もいたりして」

 

「それは……」

 

「御伽噺みたいなものってさ、現実にはないものだって分かってるはずなのに、期待したりするんだ。白馬の王子様が助けに来てくれるような、そんな有り得ないような事。それと同じ事だって、昨日気付いたんだ。私がそれを心のどこかで信じてるから、それが出てくるんだって」

 

 ぽつぽつと語る弓塚さんの肩は、震えていた。

 

「昨日、私ね。帰り道の途中で、遠野君を見かけたんだ」

 

「え……?」

 

「昨日の、大体六時ぐらいかな。その時に」

 

「いや、俺はその時間には家に戻ってたから、多分……」

 

「―――気のせい。そうだよね、やっぱり。……昨日、私学校から帰るのが少し遅くなって、一人で帰ってたんだ」

 

 どこか納得をしたような吐息が聞こえる。

 

「先生の手伝いで、もう暗くなってきちゃったんだけど、その時に、私遠野君に似たような人を見つけて、思わず追いかけたんだ。でもその人はちらっとしか見えなくて、追いつこうと思ってても全然追いつけなくて。そうやってる間にあっちの繁華街の方についたの」

 

「……うん」

 

 昨日、俺は真っ直ぐ家に帰った。繁華街のほうには、行ってない。

 

「繁華街でもその人は見えているのに届かなくて、どんどん進んでいくんだ。私、その時になってその人が遠野君なのかって、少しだけ思ってたんだけど、どうしても気になって。そしたら、その人大通りを曲がって路地裏の方に入っていったんだ、それで……」

 

「それで?」

 

「それで、私迷ったんだけど、でも本当に遠野君だったらと思って、追っていこうと思った。でも、その時に」

 

「うん」

 

「―――何かが、私の横を、通り過ぎた」

 

 俯いたままの弓塚さんの表情は見えない。弓塚さんは体だけではなく、声まで震えていた。

 

「その時、なんて言うんだろ。今まで感じたこともないような、寒気、みたいなものを感じて、驚いて周りを探してみたんだけど、何もいなかったんだ」

 

「寒気?それに、いなかったって」

 

「うん。凄く、寒いような。おっきな氷を背中に入れたような、体中が冷たくなるような感じがあった。危ないものを目の前に突き付けられて、それを見て嫌になるような。上手くいえないような、怖さがあった。私、だから急に怖くなって、それを探してみたんだけど、全然見当たらなくて、急いで帰ったんだ」

 

「でも、弓塚さんは、見たんだ」

 

「黒っぽい何か。それが、見えた」

 

 でもそれが何なのか良く分からなくて、弓塚さんは怖くなったと言う。

 

「それで幽霊、か」

 

「うん。……遠野君は、私の話、信じてくれる?」

 

 見上げるように、弓塚さんは少しだけ顔を上げて、俺を見た。

 

 その視線は、不安に震えていた。その瞳を見て、俺は弓塚さんが嘘を言っていないと、漠然に考えた。

 

そんな弓塚さんを、放ってはおけなかった。

 

「信じるよ」

 

「え?」

 

 一瞬の空白。弓塚さんは俺が何を言っているのか理解できないような表情。

 

「俺は、弓塚さんの話を信じる」

 

「え、でも、……どうして?」

 

「だって、弓塚さんは、嘘をつかないって。何となく思ったから」

 

 安っぽい言葉。そんな言葉しか、俺はかけられない。もっと上手い言葉があるんだろうけど、そんなかっこつけた言葉が思い浮かばなかった。無様だった。

 

「そっか」

 

 でも。

 

「遠野君」

 

 弓塚さんは。

 

「ありがとう」

 

 そんな俺に、笑ってくれた。

 

 酷く安心したような、子供が拠り所を見つけたような、混じり気のない、純真の笑み。それは優しい彼女には相応しい気がするような、笑顔だった。夕暮れの柔らかな光と混じって、それは一枚の絵になるような姿だった。

 

「その、上手く言えないけれど、弓塚さんには元気でいて欲しいからさ。俺でよければ話も聞く、出来る限りでいいから」

 

 果たして俺は踏み込んでいいのかと、これ以上弓塚さんの中に入り込むには、躊躇いを覚えた。だから、聞くだけだ、と予防線を引く。俺は、卑怯だ。

 

「それだけで、いい。それで、私は充分だから」

 

 ありがとう。

 

 と弓塚さんの口元から零れてくる感謝の言葉。

 

「この話、本当は色んな人に話したんだ。お父さんにも、お母さんにも。でも誰も、私の話信じてくれなくて、笑ってた。それが、何だか寂しくなって、私」

 

 誰もまともに取り合ってくれなくて、理不尽と理解者の得られなかった弓塚さんの孤独を感じた。それを何とかしたいと思ったけれど、俺には言葉をかけることしか出来なかった。

 

「でも、遠野君は凄いな」

 

「え?」

 

「私の事、助けてくれたから」

 

「……そんな、事」

 

 弓塚さんの言葉に申し訳ない気持ちとなる。

 

 俺は、そんな人間ではない。

 

「ううん。私がそう思うから、そうなんだよ。私が思いたいから、そういう事にしておいてよ」

 

 明るい口ぶりに、これではどちらが励ましていたのか分からないと、少しだけ可笑しくなった。

 

 そんな俺に、弓塚さんも釣られて微笑んだ。

 

 そう言えば、弓塚さんとこんなに話すのは始めての事だった。

 

 改めて意識すると、この状況はかなり不思議な感じがした。

 

 今までこんな事なかったのに、弓塚さんと話し合っている。いつもなら必ず有彦がいた。有彦が調子の良い様な事を言って、それに俺が振り回されて、弓塚さんがそれを見て反応する。そんな関係だった。でも有彦もいない今、俺はこの慣れない筈の空気にキマズクなるどころか、すっかりこの空気に馴染んでいた。

 

 そして気付く。

 

 こんなにも、真っ直ぐに弓塚さんを見たのは、初めてだった。

 

「うん、遠野君に話したらスッキリしたな」

「そっか、それは嬉しいな」

 

 もう其処には、俺の知っている弓塚さんがいた。

 

「また何かあったら聞くよ」

「優しいね、遠野君」

 

 少し話しすぎたかもしれない。夕焼けは眩しさを潜め、空には黒色の夜が訪れ始めていた。それが混濁となって、藍色が見える。それはどこか不可思議な印象を俺に与えた。

 

「それじゃ、弓塚さん。また学校で」

 

 そろそろ帰らないと、秋葉に何を言われるか分からない。門限の時間にはまだなっていないと思うが、あまり遅すぎても良い顔をしないのは見なくても分かる。なんか、秋葉はそういう雰囲気を持っていると確信はしている。

 

 だから、帰らないといけない。

 

「……」

 

 だけど弓塚さんから、声が返ってこない。

 

 ――――そして、見た。

 

 弓塚さんは、固まっていた。

 

「弓塚、さん?」

 

 呼びかける。でも、弓塚さんは固まったまま、目を限界に広げていた。

 

 まるで、何か恐ろしいものにでも出会ったかのように、俺の肩越しの向こう、後ろを見ている。

 

 それに気付いた俺は、急いで後ろに振り向く。この先に、何がいるのかと。

 

「――――――――――っ!!」

 

 橙に照らされて、影の暗がりが強まる斜陽の中、俺の視線の向こうに、それはいた。

 

 ―――和装の人間だった。

 

 藍色の着流しに、下は白い七分丈。

 

 着流しは、どういうわけか俺から見て右側の袖が垂れ下がっていて、緩やかにたなびいている。

 

 左側の腰には黒い色の鞘、日本刀らしきものが佩かれている。

 

 ざんばらに伸ばされたかのような黒髪からは、顔の全貌が見えない。距離が開いているのもあるだろう。

 

 でも、その髪の隙間から、夕闇と黒髪に紛れても、それはハッキリと、見えた。

 

 ―――蒼い、瞳。

 

 虚空を思わすような、深い蒼の色。

 

 それは光すら放つように、蒼く輝いていた。

 

 その姿は影に暈されたように、茫洋。

 

 輪郭は曖昧。幻影のように霞んだ姿。

 

 でも、それは、確かにそこにいた。

 

 ――――幽霊が、そこにいた。

 

「う、あ、ぁぁぁぁ……」

 

 弓塚さんの、力なき悲鳴が頭の後方から聞こえる。

 

 何だ、アレは。

 

 声を張り上げたかった。

 

 全身に蟲たちが這いずり回るような気持ち悪さを感じる。

 

 腹の奥底から、胃液がこみ上げてくる。

 

 口の中に苦味が広がった。

 

 ――――――――――。

 

 死。

 

 それを見つけて、俺たちは意識がそれに飲み込まれていた。

 

 ――――――首。

 

 着流しから覗く、尋常ではない引き締められ方をした右腕。

 

 ――――人の頭部。

 

 生首を、それは右手に掴んでいた。

 

 

 彼らは、逢い見(まみ)えた。

 決して語られるべきではない、物語の始まり。

 葬られるべき、彼岸の断章。

 



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第四話 反転衝動 Ⅱ

夜は深みを増し、星を彩る宝石は闇夜に消えた。



 闇色が増す。

 

 冷たい夜が差し込む。忍び寄る夜の気配は深さを増し、空に広がる藍色の闇には一つ二つと小さな星が瞬いて、太陽は町の向こうに殆どその姿を消していた。街路地は疎らながらも道を歩く人がいて、その景色の合わさりは普段俺が見慣れた、それでいて心安らかとなる光景であった。視界の端に映るそれは、あまりに普段通りで何事もないかのようだった。

 

「――――っ」

 

 だが、視線の先にある存在が、その風景を侵している。そして俺はそれ以外の事柄がモノクロのような色合いを成しているような錯覚を覚えていた。だが、目は閉じられない。目を閉じれば、きっと何かが終わる。

 

 異様。

 

 それ以外の言葉が見当たらないような、男だった。

 

 藍色の着流しと、白い七分丈をはいた男。俺たちとの距離は二十メートル弱か。そこからでも男の異様さが理解できる。細身であり、それでいてかなり背が高い。少なくとも俺よりも頭一つ分以上は確実。

 

「……」

 

 すれ違う人々の話し声。

 

 それは静々と、すり足のように歩いてくる。こちらに向かって。

 

 男は裸足だった。この舗装された道を歩む事と、季節的には考えられない。物乞いとは考えもしなかった。このような男が物乞いのような存在ではない事が、俺の細胞の一片までもが警告音と共に知らせてくる。もっと逸脱したような、何か。

 

 男が近づく事で、その姿がよく見えた。

 

 ひらめく袖。それは中身が無いからだった。男は左腕が存在していなかった。もしかしたら着流しの中に左腕を仕舞っているのかもしれない、とは思えなかった。肩口からはためく藍の布はあまりに不自然すぎて、それが左腕の有無を裏付けた。

 

 着流しから僅かに覗く男の素肌は、恐れすら抱くほど鍛えられ、暴力的にそれが引き絞られていて、その肌は幾重もの傷跡が這い回っていた。

そしてその顔。

 

 長いざんばらな黒髪の隙間には削げた頬と、そして日本刀の切っ先のような鋭い眦。その瞳は西洋人形のような蒼い瞳。人工的な造りではない、吸い込まれそうな虚空を思わす深い蒼色だった。

 

「あ、あ、ぁぁ」

 

 連れ歩く女子高生の歓声。

 

 俺は動けなかった。

 

 視線は近づく男のみに注がれて、それ以外がまるで見えない。

 

 男が足を一歩前に出すたび、嘔気が強くなっていく。それは嫌悪とか、一般的生活において排他されてきた感情、それが形となって俺の体を内側から侵していく。

 

 恐怖が人間の形を現したならば、それはきっとあんな人間なのかもしれない。

 

 だって、そうだろう。

 

 男は人間の首を、その手に持っているのだ。

 

 見間違いなんかじゃない。それ以外に見えようが無い。

 

 根こそぎ食い千切られたような断面から頸椎と、でろんと力なくぶら下がる気道の繊維。開かれた口から、舌が垂れていた。妙な鮮やかささえある生首が、人間の成れの果てだと俺に認識を叩きつける。でも、それの顔は見えなかった。確認するよりも先に生理的嫌悪や恐怖が俺を絡め取り、首を見させない。そしてそれを俺は心底ありがたいと思った表情を確認したら、きっと俺は駄目になる。そのようなモノ、明確な死なんて視たくはない。

 

 乾いた革靴の足音。

 

「人、殺し」

 

 最近耳にした連続殺人のフレーズが脳内を駆け巡った。

 

 ―――これは、夢だ。

 

 漠然と、己の理性が訴える。

 

 こんな状況、ありえるはずがないと。

 

 でも、そんな理性の無駄な足掻きを嘲うかのように、男は近づいてくる。夢幻に現れる陽炎のような男は、その手に首を持ち、どんどんと近づいてくる。

 

 その異様な男の存在はあまりに強烈で、これが夢ではないと無理矢理俺を納得させていく。

 

 雑音。

 

 考えろ。考えるんだ遠野志貴。

 

 この訳の分からぬ状況を脱却するために、考えるんだ。そして気付き、閃け。それこそが――――。

 

 ――――見つける。それが――――。

 

 無意識な思考回路の囁きはおかしなモノだった。

 

 何せ聞いたことも無いような声すら聞こえるのだ。

 

 知らない。こんな、子供の無機質な声音、知るはずが無い。

 

 どうやら混乱は妄想すら幻聴すら生み出すらしい。

 

 でも、狂乱ではなかった事を今は感謝する。

 

 注視。

 

 観察。

 

 監視。

 

 見ろ。

 

 観ろ。

 

 視ろ。

 

 みろ。

 

 ミロ。

 

 そして。

 

 人々の話し声。

 

「え」

 

 この状況のあまりな不自然さに、俺は言葉を失った。

 

 ――――なんだ、これは。

 

 俺たちは、今。生首を持った男の近づいてくる道路にいる。

 

 男の存在自体異様で、そんな男が生首を持っているのだ。

 

 なのに。

 

 なのに。

 

 なのに、なんで。

 

 男に注がれた意識を剥がして、辺りを見渡す。

 

 行き交う人々。人の数は決して多くはない。

 

 帰宅途中の女子高生。

 

 サラリーマン風の大人。

 

 中身の一杯詰まったビニール袋を持った女性。

 

 携帯で話している若者。

 

 ――――周りは、何でこんなにも、普通なんだ。

 

 見える景色は、いつも通りの穏やかなものだった。普通、こんな存在がいれば嫌でも目に付く。離そうと思えば思うほどに。しかも、男は生首を持っているのだ。真贋及ばずその首は注目を浴びる材料でしかない。そして悲鳴が上がる。日本はそんな国だ、平和だからこそ、異常に敏感。

 

 でも、これは一体なんだ。

 

 混乱も、騒乱もない。

 

 それどころか、これはまるで―――。

 

「気付いて、いない?」

 

 ―――よク視えたな、手前。

 

 それは、擦り合わさる金属のような音だった。

 

 空気を切り裂くような、金属の軋みにも似た音。

 

「な、あ?」

 

 それが声だと気付くのに、少しの時が必要だった。

 

『ひひ、ひ……なんだア?珍しい奴がイると思ったが、いかんせン見栄えのしねえ奴らじゃねえかァ』

 

 近づいてくるその声は、男の声ではなかった。

 

 前髪に口元は隠されていない。口は全く動いていなかった。

 

 鋭い眦に蒼い瞳。その全てを映し出すような瞳は、俺を見ていない。

 

 無表情。感情も、ひょっとして人格すら存在しないような、まるで人形の形相。

 

 だけど、その声は聞こえる。

 

 まるで天上から注ぐような、地面から響くような。あるいは、空間を犯すような、声。

 

『まあ、いい。ンなこたぁどうでもいイ。興味も糞もねェ』

 

 不自然な声は、俺の脳を浸食する。

 

 この夢だと思い込みたい状況を、更に悪化させていく。

 

 ―――そして、状況の変化は、それだけではなかった。

 

「―――――――――」

 

 さらさら。

 

 さらさらと、男の掴む首が崩れていく。

 

 それはまるで積もる埃のようなきめ細かさで、あるいは残滓のような脆さで消えていく。首から始まりそれは顔まで崩し、更には髪まで消えてなくなっていく。

 

 なんだ、これは。

 

 まるで粒子のように消えていく首。

 

 首が、消える?

 

 そんな、莫迦な。

 

 そんなこと、ありえるはずが無い。

 

 理解が、追いつかない。

 

 なんだ、これは。

 

 骨まで消し飛んで、首は幻のように消えていった。

 

 そしてそこには、何も残らない。

 

 なんだ、これは。

 

「そう、か」

 

 そうだ、そうだよ。

 

 とうとう俺は理解した。

 

 きっとこれは―――。

 

『夢、だとイいなア?』

 

 出来の悪い悪夢に決まっている。

 

 そう言葉にしようとして、その声はそれを許さなかった。

 

 逃避は許さない、と何処からか聞こえてくる声が俺を否定する。

 

 さっきから支離滅裂だ。自分が何を考えているのか、まるで分からない。

 

「うっ―――」

 

 後方から弓塚さんの呻きが聞こえ、咄嗟に後ろにいる弓塚さんへと振り向く。弓塚さんは口元に手を当てていた。背中を丸めて吐き気を堪えている。体は震えて、今にも倒れてしまいそうなほど顔は蒼白。なのに、その目は近づいてくる男を見ていた。瞳は揺れて、呼吸は荒く。それでも弓塚さんは男から視線を逸らす事が出来ない。囚われている。突然訪れた事態に思考は落ち着かない。俺が果たして先ほどまで何を思っていたかすらも、混濁に突如として浮上しては消えていった。

 

 顔色悪く、今にも崩れ落ちてしまいそうな体。こんな弓塚さんを、俺は見たことが無い。いや、こんな状態の人を俺は今まで見たことが無かった。出来れば、こんな状況に遭遇したいとは思っていなかった。

 

 逃げ出したい。こんな事、こんな場面、夢でしかないのだと自分に言い聞かせようとも無駄だとは分かっていた。でも。

 

「とおの、くん」

 

 弱りきった弓塚さん。怯え、震え、途切れる声音にいつもの朗らかさなど無かった。こんな弓塚さんを置いて逃げるなんて、出来るはずがない。

 

 だけど、そんな俺の強がりなど嘲うかのように。

 

 男の姿が、加速した。

 

 俺たちに向かって、真っ直ぐに。

 

「――――あ、ぁぁああ」

 

 喉から微かに空気が漏れる。悲鳴にもならぬ叫び声だった。

 

 殺される――――。

 

 ぞわり、と。意識が、白熱した。

 

 殺される。俺は、俺たちは殺される。

 

 認識よりも先に、俺は理解した。

 

 男は迫る。

 

 殺される。理不尽だ。本当に、理不尽だと瞬間に思えた。

 

 こんな訳も分からない、唐突な事で。

 

 殺される。目の前の男は恐怖だった。

 

 恐怖が形を成した人間だった。

 

 人殺し。

 

 そんな存在が俺たちの目の前にいる。

 

 それが俺たちを殺そうと迫ってくる。

 

 何も出来ない。何も、出来なくなる。

 

 ―――死。

 

 そして。

 

 ―――男の腕が、眼球の直前にあった。

 

 眼鏡に触れるか触れないかの辺りで、そのまま俺を潰そうとしていた鉤爪状の五指は、不自然に固まっていた。

 

『運、いイなあ。手前らァ』

 

 どこからか声が聞こえる。

 

 それを遠くに聞きながら、俺は腕を伸ばしてきていた男を見ていた。

 

 蒼に俺の姿が映る。

 

 黒髪の隙間から見える深い蒼の瞳。それが俺を、見ている。

 

 視線が、絡む。

 

 感情も見えない瞳の色を不気味に感じながらも、俺は素朴にもこんな状況でありながら綺麗だと思った。恐怖のあまり頭がおかしくなったのだろう。

 

 でも、それは本当に僅かな時間で、数えてみても一秒にも満たない瞬間の事だった。男はあらぬ方向に顔を向けた。俺でもない、弓塚さんでもない、どこかを見ている。

 

 その方向は――――。

 

 男の姿が、掻き消えた。

 

 どういうことか、其れを俺は視る事が出来なかった。

 

 視認することも出来ず、あの圧力さえも連れて、男は嘘のように消え去った。

 

 気付けば、息が苦しくなっていた。呼吸が止まっていた。

 

「っかは、あが―――っぐ」

 

 思い切り息を吸い、胸を抱く。内容物を吐き出さないだけよかった。周囲の人が怪訝そうな顔で俺を見ている。助けてくれる事もしてくれないのか。

 

「遠野君。だい、じょうぶ?」

 

 でも、弓塚さんはそんな俺にも優しい。本人だって辛いはずなのに、こんなにも。

 

「あ、ああ。大丈夫だよ」

 顔を歪める弓塚さんに曖昧な苦笑を返しながらも、苦しみに紛れた胸の痛みに俺は戸惑いを覚えていた。

 

 だけど、痛いとは少し違う。でも、そう表現するほか無いような、言葉を許されるなら、切ないとさえ思えるような、そんな痛みだった。

 

 □□□

 

 弓塚さんを家まで送り届けた後、俺は遠野の屋敷に帰った。弓塚さんを一人で家に帰すには、弓塚さんは焦燥しすぎていたし、俺自身出来る限りでいいから誰かといたかった。別れ際に俺たちは微妙な空気を共有していた。今日起こった事柄、出会った男の存在。それらが思考から離れない。

 

「遠野君……」

 

 玄関に入る事もなく、ただ俺を見る弓塚さん。苦しげに揺れる弓塚さんの瞳を、俺は解きほぐす術を持たない。俺だって状況を把握できていないのだ。気安い慰めの言葉、あるいは気遣い、そんなちゃちな言葉で、果たしてどうにかなるのだろうか。結局、それ以上の言葉を俺たちは持っていなかった。

既に夕焼けは地平に沈んでいた。頭上には幾つかの星、そして月がぶら下がっていた。街灯の点いた道を歩き、遠野の家まで辿り着く。門限には間に合っていたが、それでもギリギリの時間。

 

「お帰りなさいませ、志貴様」

 

 門の前には翡翠の姿があった。翡翠は俺に対して一礼した後「お荷物をお預かりします」とその手を伸ばしてきた。

 

 女の子に荷物を持たせるなんてとんでもない、と俺は断ったのだが、

 

「……」

「……」

 翡翠は逡巡の後に無言の圧力を強めるばかりで動こうともしなかった。困っているような、そんな視線。気まずい雰囲気が横たわり、其れをどうする事もできない俺は結局苦笑気味に翡翠へ学生鞄を渡すのだった。

 

「あの」

 

 ロビーを横切り、自分の部屋に入ろうとして、翡翠に呼び止められた。

 

「志貴様、その。何か、不手際がありましたか?」

 

「え?」

 

 ドアを開けかけたままの状態で振り向く。そこには少し不安げな表情を表す翡翠の姿があった。しかし、俺は翡翠の発言が唐突過ぎて一体何のことを言っているのかサッパリ分からなかった。

 

「えっと、どうしてだ翡翠」

「……その」

 

 躊躇いを混じらせて翡翠は言う。

 

「あまり志貴様のお顔が優れていないご様子なので……、私が何かしたのではないかと」

 

 自覚していなかった。そんなに俺は、顔に出ていたのだろうか。

 

「いや、翡翠のせいじゃないよ。ただ、ちょっと気分が悪くて」

「そうですか。……あの、もしかして体調の方も」

「それも平気。うん、大丈夫だよ、貧血も起きてない」

「よろしければ姉さんをお呼びしますが」

「平気だってば。と言うか何で琥珀さん?」

 

 俺の体調と琥珀さんの存在はリンクしないはず。

 

「姉さんは薬剤師の資格を持っていて、薬の方にも精通しています。もしお体の調子がよろしくなかったら直ぐにでも姉さんをお呼びいたします」

 

「へー、そうなんだ」

 

 意外だと思った。琥珀さんにそんな一面があるなんて。

 

「でも、大丈夫だから。少し部屋で休んでる。夕飯の時間になったら呼んでよ」

「……分かりました。では、後ほどお呼びいたします」

 

 もの言いたげな翡翠の視線を振り切って、部屋の中に入り込む。相変わらず大きなベッドに倒れこんで、亡、と目を閉じる。

 

 今日遭遇したアレが、幻覚だなんて、思いはしなかった。

 

 何より、俺のほかにもあの場所には弓塚さんがいた。その弓塚さんが怯えていたのだから、アレが夢幻とは考えにくい。お互いに光化学スモッグのような脳に何らかの影響を与えるものにやられていたのなら、また話は別だろうが、今日そんなものは無かった。それにあの恐れや不自然さは、悪夢にしては良く出来すぎている。

 

 思考は潜る。

 

 ―――目蓋の裏にはあの男の姿。

 

 あの亡霊にも似た人殺し。でも、その首は消えて、しかも変な声まで聞こえてきた。金属を擦り合わせる不快な軋みの音。

 

 そして何よりも不可解な事は、その状況が目前であったというのに、それに俺たち以外の誰も気付いていなかった事。あの場所には少なくない数の人たちがいた。その人たちが、誰一人として騒いでもいなかった。あれは、まるであの男が存在していなかったような。

 

「……―――――」

 

 でも、それ以上の思考は続かない。続かないと言うか、進まない。行き止まりに突き当たってしまった感覚。何か刺激を与えようにも、これ以上の事は見つからない。それに、こんな話、人に言っても信じてもらえるかどうか。

 

「ああ、そうか」

 

 俺自身が信じていないのに、こんな夢物語にもならない話を誰かに言っても誰も聞いてくれはしないだろう。こんな気持ち、誰からも理解されない気持ちを、弓塚さんも―――。

 

 正解の得られない問答。ヒントも出現しない疑問。

 

 結局、不安材料ばかりの思考は長続きしない。

 

 打ち消す。

 

「でも、あの時……」

 

 なんで、俺は。

 

 あいつを見て。

 

 ―――――――――――。

 

 そう言えば、思い出す。

 

 あの男は、なんで学校の方向を見ていたのだろう。

 

 □□□

 

「兄さん?お食べにならないのですか?」

 

 食事の準備が出来たと、部屋に再び尋ねた翡翠に促され、俺はリビングというか食堂に辿り着き、冗談のように長いテーブルに腰掛けた。今日の夕食は洋風の造りとなっていて上品な見かけと匂いは食欲をそそると思う。琥珀さんが丹精に造ったのだから。でも。

 

「もし、あまりご気分が優れていないなら……」

 

 秋葉の言葉に曖昧な笑みで濁す。

 

 改めて、夕食を見る。彩り鮮やかな料理の並びは視覚でも料理を楽しませてくれるような工夫が凝らされてあった。それを見て、とても不味いなんて思えない。

 

 だが。

 

「……」

 

 それらを見ても、食欲がそそられない。

 

 口を開いてみる。其れと同時に。

 

 ――――あの生首が目の前に現れた。

 

「っく」

 

 吐き気を催しながらも、琥珀さんに申し訳ないから食べようとして、結局殆ど口に出来なかった。

 

 分かっている。生首なんて、ここにはない。

 

 でも、記憶の中にいる男が持った生首は、絶えず胃袋を苛んだ。

 

「大丈夫ですか、兄さん?顔色が……」

「ああ。……ごめん、あんまり食欲わかなくて」

「翡翠から聞いていますが、まだ体のお加減が優れないのですか?あまり無理をしないでくださいよ」

「ああ。……琥珀さんも、食べれなくてごめん。凄くおいしそうだけど、体が」

 

 本当に申し訳ない。折角造ってくれたのに、全く食べる事も出来ない俺は、琥珀に頭を下げた。

 

「いえいえ、お気になさらず。でも、もし胃の調子がよろしくないのなら薬をお持ちしますが?」

「そうだな……折角だから、頼めるかな?」

 

 薬で治るものではないと分かってはいたが、でも琥珀さんの好意を無下には出来なかった。自身の我儘で料理を食べないのだから、其れぐらいはするべきだろう。

 

「わかりました。それでは夕食が済み次第調合しますので、お部屋にお持ちしますね」

 

 そうだった。翡翠も言っていたが、琥珀さんは薬剤師の資格を持っているのだ。なら自分で薬を調合するぐらい朝飯前だろう。夕食なのに朝飯前というなかなかおかしな発想に内心首をかしげながらも、了承の意をとった。

 

「……」

 

 部屋に戻って後、俺は琥珀さんが部屋にやってくるのを待っていた。夕食を済まし、風呂に入った後の事だ。十時にはまだ早い。部屋の外に出ていても良かったのだろうが、何故だろう、そんな気分になれない。だから大人しく琥珀さんを待っている事にした。

 

 しかし、部屋でやる事はない。部屋の中には娯楽になるようなものはないし、そもそも物自体少ない。俺の所持品が少ないのもあるだろう。だから課題とかをやればよかったのだろうが、それもやる気になれない。あまりに今日の事がショックだったからだろうか。この無気力にも似た遣る瀬無さを俺は持て余していた。

 

 ベッドに腰掛けて、何となくそのまま俯く。

 

 何も考えられなかったし、何も考えたくなかった。

 

「志貴さーん。いらっしゃいますかー?お薬お持ちいたしましたよー」

 

 ドアを叩く乾いた音が軽く響く。琥珀さんの声。

 

「いるよ、琥珀さん」

 

 部屋の中に入り込んで、琥珀さんは部屋の中に備え付けられていたイス一脚をベッドの横に持ってきた。俺が対応するべきなんだろうけれど、琥珀さんの動きの自然さにそれも忘れていたのだ。

 

「さてさて、それでは志貴さん。お薬を持ってきましたけれど、より詳しく知るために幾つか問診をさせていただきますけれど、よろしいですか?」

「うん。お願いします」

「さて、それでは――――」

 

 それから幾つかの質問があった。体の状態、気分の確認を始め、具体的に何処に違和感があって、何処がいつも通りなのか。更には瞳孔の確認なんて、本当に医者のような対応を琥珀さんは展開し、いつしか俺は琥珀さんのペースに任せているままになっていた。

 

「さて、それでは最後にですが、今日は最後に何を食べましたか」

「えっと、昼にうどんを一杯、ぐらいかな」

「なかなか消化の良いものですねえ。おなか空いたりしませんか?」

「小腹が空いたぐらいだけど、別にそこまででは」

「なるほどー……。別に体調的には問題ないようですし、食べたものに問題もない。更にはどこが明確におかしいのかも曖昧です。むむむむー、困りましたねーこれは」

 

 傍目には困っていなさそうな声音だった。

 

 そして、思考の最中に琥珀さんは俺を見た。何だろう、きゅぴーんとした感じで。

 

「もうこれはあれですね。面倒なのでお注射した方がよろしいですかね」

「え、そうなの、てか今面倒って」

「はい、ここは琥珀特性のお注射でズバッと解決ですっ」

 

 すると琥珀さんは懐に手を突っ込み、次の瞬間その手には注射器が握られていた。しかし、

 

「それ、明らかに普通じゃないですよね」

 

 だって、容器の中の液体が紫色ってどういう事だ。

 

 戦慄する俺を尻目に状況はどんどんと進んでいく。

 

「大丈夫ですよ、辛いのは最初だけで次第に痛いって事も忘れてしまいますよ」

「いやいや、其れ大丈夫じゃないでしょ」

「そうですか?実験ではそんな感じな雰囲気だったのですが、まあいいじゃないですか。あんまり深く考えちゃ頭痛くなっちゃいます。ここは私に全部任せて」

 

 琥珀さんの笑みが迫力を伴う。じりじりと近づいてくる琥珀さんの張り付いたような笑みは、ハッキリと怖い。

 

 やる、琥珀さんは、やるっ。

 

「ここは任せちゃ駄目な気がするんだけどっ」

「まあまあ。ここはバシッと一発元気に逝ってみましょう!!」

「いや、ちょ、琥珀さん……っ」

 

 徐々に迫る琥珀さんに後ずさりし、思わず目を瞑ってしまった。琥珀さんを無理に突き飛ばすなんて出来ない。

 

 そして―――――――。

 

「なーんて、嘘に決まってますよ志貴さん」

「……っへ?」

 

 その言葉に目を開くと、そこには悪戯っぽく笑っている琥珀さんの姿があった。

 

 もしかして、悪ふざけ?

 

「嫌ですよ、志貴さんにわざわざそんな事するわけ無いじゃないですかー」

 

 口元に着物の袖を当てて笑う琥珀さんに、憤りも戸惑いも感じる事もできず、脱力。いつの間にやら先ほどまでその手に握られていた注射器が消えていた。恐らく着物の懐に仕舞われているのだろうが。

 

「……あのね、琥珀さん」

「あはっ」

 

 笑って済まさない。

 

 しかし。

 

「でも志貴さん。すこし顔色良くなりましたねえ」

 

 琥珀さんの言葉に、はたと気付く。俺は今、少しだけ気分が良くなっていた。琥珀さんと話をしているうちに、少しだけ暗闇が晴れたような感覚があった。もしかして琥珀さんは、これを考えて。

 

 じっと琥珀さんを見つめる。

 

「熱い志貴さんの視線、さては私にホの字になりましたか?」

 

 ……本当にそうだったのだろうか?

 

 でも、こんな遣り取りは悪くない。むしろ良い。

 

 緊張感も無い遣り取り、これは凄く慣れ親しんだ、日常の匂い。

 

 ああ、そうか。

 

 これか。

 

 これが俺の側に先ほどまで、無かったのだ。日常。俺のいる、そして俺の望む日常。俺はこの日常を大切だと当たり前のように甘受していながら、実のところちゃんとそれを気付いていなかった。日常を、今日あんなのと遭遇して、見失いかけていたのだ。

 

「でも、志貴さん今日はどうかしたのですか?もしかして何か学校であったのですか?」

 

 そして、俺は琥珀さんの声音に、今日の事を話してみることにした。もしかしたら馬鹿にされるかもしれない。信じてもらえるだなんて思いもしない。ただ、琥珀さんに俺の話を聞いて欲しいと、漠然に思った。

 

「実は今日、俺帰り道の途中で変なもの見たって言うか、会ったっていうか」

「はい」

 

 話し始める俺に、琥珀さんは真剣に耳を傾けてくれた。

 

「それが何だか不思議で、俺たちはそれに気付いているのに、周りが全然気付いていなくて。だけど、そいつは確実にいたんだ。……友達はそれを幽霊って呼んでたけど、本当に幽霊みたいだった」

「では幽霊なんですか?」

「いや、多分違う。あれは、いた。足もあったし、体も透けているようには見えなかった。ちょっとぼやけている様には見えたけれどでも幽霊じゃないと思うそいつは、何故か人の首を持ってて」

「人の、首ですか」

「うん。首を持っていたんだけど、その首が途中から消えて、そしてら何処からか声が聞こえて、でもそいつは話してなくてそしたら男は俺に走り寄ってきて俺を殺そうとしてでもそいつは俺を殺す前にどこかに消えて―――あいつは、俺を殺そうとしたんだ。本当に突然に、今まであった事もないような俺を、俺を殺そうとして。真っ直ぐに俺に向かってきて、でも俺の前で」

「志貴さん、志貴さんっ。落ち着いてください!」

 

 いつの間にか、体が震えていた。

 

 消えかかっていた恐怖を、思い出した。俺はあの時、あの男に殺されかけたと言う事実。人間の生首を見た嫌悪感。聞こえる金属音。全てが、理不尽だった。

 

「落ち着いて、ゆっくり深呼吸してください。志貴さんが見た人はここにはいませんから」

 

 肩を抑え、琥珀さんは俺を見つめた。俺を覗き込む琥珀さん。その瞳の琥珀色に思わず魅入られていながら、今日の光景が思わず過ぎる。あの男は。

 

「蒼」

 

 口から零れる。

 

「……え?」

 

「あいつは、蒼い目をしていた」

 

 そして、何も言えなくなった。

 

 互いに、無言。

 

 俺は何を話していいのか分からず、そして琥珀さんは何を思っているのかすらも分からない。

 

 室内は凍ったかのように固まり、その中で俺たちは互いを見ていない。俺は、あの男の幻影を見つめ、琥珀さんは俺を見つめていなかった。でも何処を見ているのか、判断がつかない。

しかし、それは一瞬の事だった。

 

 止まってしまった時間を動かしたのは、琥珀さんの声だった。

 

「もう、落ち着きましたか?」

 

 琥珀さんの柔らかな声音は俺を優しく包み込んで、混在する恐怖や不安を払いのけるような、そんな力があった。

 

「……ああ、ごめん。俺も、混乱していて」

 

 それでも、怖さがなくなるわけではなかった。俺は、あの時、訳も分からず死に掛けたのだ。それが今更になって、認識が追いつくなんて。

 

「鎮静剤をお飲みになります?嫌な事を全部忘れる事は出来ませんけれど、少しでも楽になれるのならば、飲んだほうがいいと思います」

「……お願いできる、かな」

 

 少しでもこの状態から逃れられるのならば、そんなものに頼ってもいいだろう。

 

 すると、琥珀さんは懐からオブラートに包まれた粉薬を取り出してきた。

 

「実は、このお薬は飲むと副作用で眠たくなっちゃうのですが、よろしいですか?」

「構わない。むしろそれでちゃんと寝れるよ。ありがとう、琥珀さん」

 

 

 

 



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第五話 人殺の鬼 Ⅰ

 記憶の中、あの人は側にいた。

 いつもいるわけではない。

 けれど、その姿を見せたとき、前を走る■■の近くではなく。
 後ろから追いかけるばかりの■■の側にいた。



 ため息ひとつで壊れてしまいそうな、張り詰めた緊張感があった。

 

 秒針の刻む音が室内を静寂とは無縁のものとしている。ただ時を刻んでいるだけだと言うのに、歯車が起こす音はやけに良く響き、広い空間の調和を乱している。耳障りなまでに聞こえる秒針音である。

 

 手元にある書類をつぶさに読み取る。端から端まで、丁寧に丹念に。そして必要なものを選んでいく。発案を吟味し、他の家の報告を懸案する。当主としての勤めである。

 

 質素ながらも確かな造りをした調度品が置かれた部屋だった。秋葉の自室である。秋葉は現在遠野グループを治める立場としての仕事に従事していた。

 

 確かに秋葉は亡くなった父に代わり当主の座に座ったが、秋葉は未だ若輩者であり、その経験も少ない。幼少期から受けていた英才教育により、会社経営などの才を花開かせているが、しかし組織の長としては未熟者でしかない。財閥組織の当主とはそんな簡単に行えるものではないのだ。一つの決断が多くの人間、または会社の命運を分けるのだ。その立場は重い。

 

 それでも秋葉が遠野家当主、ひいては遠野グループを纏め率いていけるのは、他の者の助けがあったからこそだ。かつて遠野に滞在していたものことごとくを追い出しはしたが、彼らが持つ影響力は計り知れない。そして彼らがトップである秋葉の判断の必要なものを吟味し選抜する事で、秋葉の負担を減らしている。その筆頭は久我峰である。彼らは遠野を凌ぐ資産力を保持しており、その立場も遠野では蔑ろには出来ない。久我峰当主は仕事が出来る男である。そして食えない男であった。秋葉はその腹の中が凝固するほどドロドロなものである事も理解していた。それでも久我峰を使っているのは、その腹黒さ、えげつなさも含め彼の辣腕を認めているからだった。無論それは決して好意的ではないが。

 

 そして今、秋葉は取り寄せた報告書を手にしていた。

 内容は久我峰傘下仇川について。

 

『久我峰傘下仇川トップ仇川辰無は書類を改竄し、私腹を肥やしたため処理した』

 

 要約すると、このようなもの。

 しかし、それは大いに疑問である。

 

「あの男が?」

 

 仇川は近年久我峰に吸収される形で遠野グループへと参加した企業家だった。最終的に仇川の参加を許可したのは生前の父である。秋葉も仇川が参加する際顔見せで一度あっているが、静謐の中に確かな才気を見せる実直な男だった印象がある。それをまともに信用するのは些か行き過ぎやも知れぬが、しかし秋葉は己の感覚が誤った事がないのを知っていた。

 

 話を聞く限りでは妻と幼い子供を至極大切にしていた。写真も見たことがある。ありふれた、それでいて微笑ましい家族の姿を覚えている。壮年の男と、少しばかり歳をめした女性。その間に挟まれた太陽のような笑みを零す少女。

 

 そんな男が果たして私腹を肥やすために、己の欲を満たすために会社の金に手を出すのか。

 

 それに。

 

「それだけで、あの久我峰が処理なんてするかしら」

 

 引っ掛かりではなく、確かな疑惑。

 

 久我峰は財閥を治める者として良くも悪くも大器である。資産を増やすため、会社を増やすためなら不正さえ許容する男だ。あれは恐らく秋葉よりも人間を分かっている。財閥当主ではあるが、政治家としてもやっていけるだろう。その男である。不正一つで果たしてそこまでの判断を下すのか。

 

 そして処理の内容が最悪だった。

 

 仇川は取り潰し、その財全ては久我峰が取り押さえ。仇川の人間は悉く裏で処理を行われたのこと。過激なまでの判断だ。容赦のなさは上に立つものとして必要不可欠なものであるが、一つの事象で全てが瓦解している。

 

「何か、そうする必要があったってこと?」

 

 知らず呟く。

 

 この書類は久我峰から直接取り寄せたものである。あの男は嘘は言わない。だが、何か隠している。それが何か分からない。

 

 そもそも、この書類を取り寄せたのは理由がある。

 以前、琥珀から報告があった、もしかしたらそうかもしれない事件。

 

 それをどう取るかの判断のため、今回秋葉はこの書類を取り寄せた。

 

 確かに、筋道は通っているようにも見える。

 悪い事をしたので、処理をした。そんな事。単純明快な結末。

 けれど、この中には幾つもの思惑がある。

 

 それは秋葉自身同じだ。秋葉には秋葉の思惑がある。想いはある。懸念もある。けれど、それが形として成り立っていない。

 

 そして書類を見た結果、判断は保留。もう少し調べる必要が在るだろう。

 そもそも秋葉は、それを知ってどうするのか、未だ自身でも分かっていない。

 

「―――……」

 

 テーブルの上には未だ多くの未読書類と、消化した書類が分けられて置かれている。そして今しがた読み終わった書類を置き、また一枚取ろうとして、その手は宙に浮いてそのまま引き返された。ちらりと柱時計を見る。長針も短針もさして進んでいない。 

 

 どうにも喉が渇いた。書類に伸ばしていた手を側に置かれたティーカップへ。すっかり冷めた紅茶は随分と味気なく、一息に飲み干し、カップソーサーへと置いた。

 

「秋葉様。琥珀です」

「入りなさい」

 

 緊張を崩すように、部屋の外から柔らかなノック音。

 

 室内に入ってきたのは、代えのティーポットを淹れた琥珀だった。

 

「そろそろ秋葉様が紅茶を全部飲んじゃったと思ったので持ってきたのですが、タイミングばっちりでしたね」

 

 琥珀はにこやかに今しがた空となったティーカップに秋色めいた紅茶を注いでいく。温かな匂いが仄かに漂っていた。ティーカップを手に取ると指先にじんわりと熱が伝わってきた。

 

「ありがとう、琥珀」

「いえいえそれほどでも」

 

 何気ない会話で場の空気が一変していく。それは琥珀のもつ柔らかさだった。琥珀の柔和は秋葉が放っていた緊張感を解きほぐしていくのだ。琥珀は今の遠野では一つの緩衝材としての役割を持っている。それは彼女の性質もあり、また秋葉や翡翠にはそのような役割を受け持つには些か不向きだった事もある。

 

 こんな琥珀にいくつも助けられたと、秋葉は改めて思った。

 それと同時に多大な申し訳なさも感じた。

 

「琥珀」

「はい、なんですか秋葉様?」

 

 小首を傾げるように、ソファへと腰掛ける秋葉の横に立つ琥珀へと声をかける。

 けれど、その瞳に秋葉は自分が何を言いたかったのか良く分からなかった。

 

「兄さんは、どうだった?」

 

 だから兄の事を聞いた。秋葉の中の多大なる懸念事項だった。

 

「そうですねー。お加減はよろしいようでした。体調不良と食欲不振に関してですが、肉体的には問題ありません。ただ精神的にかなり参っていたみたいです」

「精神的……」

 

 兄は体調が芳しくないらしく、食事も喉を通らず早々に自室へと戻っていった。秋葉としても心配だ。何せ兄の事である。兄は元から健康体ではない。些細な事で体調を崩す可能性があるのだ。久しぶりに遠野へと戻ってきた兄のため、気を使うのも妹としては当然だろう。

 

 だが、その兄の体調が優れていない。しかもその理由は精神的なものだという。

 

「遠野での生活が負担になっているのかしら……」

 

 まだ帰ってきて日もあまり経っていない。けれど今まで生活していた有間を離れ、格式を持つ遠野へと戻ってきた。有間での生活に慣れた兄には、遠野での生活に追いついていないのだろうか。秋葉として兄と再び共に暮らせるのは嬉しい。けれど、それは今までの兄の思いなどを無視して押し付けた結果だ。それが分かっていて、けれどなお秋葉は―――。

 

「それも確かにあるとは思います。けれど、今回は全く違うと思うんですよ」

「それは、どうして?」

「えーっと、これは言っていいのやら良くないのやら。私としても大変迷うのですが」

 

 そうして琥珀は唇に指を当てて少し迷ったように、けれどそれを口にした。

 

「どうやら、志貴さん。――――あの方にお会いしたみたいです」

 

 瞬間。

 空気が凍えた。

 

「―――――――――――」

 

 緩んだはずの空間内が固定化され、摩擦を起こす。

 秋葉を中心に空間が捩れる。

 

 僅かに、ほんの僅かに秋葉の髪が揺れる。

 窓も閉ざされた室内に風は生じない。

 しかし、秋葉は身じろぎもしていない。

 

 空間が歪むだけ。

 

「っ――――――」

 

 それでも秋葉は自身を鑑みるほどの理性を持っていた。

 故にティーカップをそろりと両手で握りしめた。温かい。

 ぎりぎりとティーカップに力が込められる。

 

「そう」

 

 搾り出すように、秋葉の声が漏れた。

 

「……あの人が、兄さんと」

 

 無理矢理自身を抑えこもうとする震えがあった。力みすぎて、自壊を促すような抑制だった。

 

 ぱきり。

 その音はやけによく聞こえた。

 秋葉の握るカップに罅割れが走る音だった。

 

「秋葉様」

 

 カップソーサーが割れんばかりの勢いで、カップが叩きつけられた。

 突然立ち上がる秋葉に琥珀は瞠目する。

 

「琥珀。出るわよ」

「え?」

「あの人を見つけ出しに行くと言ったの。聞こえなかった琥珀?」

 

 そのまま秋葉は歩を進めようとする。けれどそれは秋葉の手を握る琥珀の腕によって抑えられた。秋葉は自身を捕らえる琥珀を見る。あまりに冷たい瞳だった。

 

「何?」

 

 凍える怒りが琥珀にも向けられようとする。視線一つで息の根を止めてしまいそうな、鋭い眼差しだった。けれど秋葉の冷たい視線を受けて、琥珀は不動だった。

 

「落ち着いてください秋葉様。今の秋葉様、秋葉様らしくありませんよ」

「何が言いたいの琥珀」

 

 ぎりぎりと、硬い空気が捩れていく。全ての柔らかなものが硬質に変化していった。それはモノを無機質へと返還していくような工程で、滑らかさを失い冷たさが増していく。

「今闇雲に探しても、見つかるかどうかはわかりませんよ?それに、今は志貴さんの体調も良くないです。秋葉様のいない間にもしなにかあったら」

「翡翠がいるから問題ないわ」

「確かに翡翠ちゃんは頼りになりますけど、翡翠ちゃんの手には余る事態が起こったらどうするんです」

「―――――っ!じゃあどうすればいいのよ!!」

 

 行方をなくした感情の捌け口が声となって放出される。琥珀が志貴の名を口にすることで秋葉の激情が力を失った。それを受け琥珀は秋葉を落ち着かせるように物腰柔らかに言う。

 

「様子を見て明日以降にしませんか?それだったら志貴さんの体調も良くなるでしょうし、それに一日で果たして見つかるかどうかも分かりませんしね」

「――――それを私が素直に聞くと思っているの?」

「はい。だって秋葉様、志貴さんのこととても大切にしていらっしゃいますから」

「……」

 

 暫く、そのまま二人は見つめ続けた。秋葉はその瞳に凍えを孕ませて。琥珀はあいも変わらず笑みを張り付かせて。空気は固まっている。動いているのは、柱時計の秒針のみ。

 

「はあ……」毒気を抜かれたように、秋葉の吐息が零れた。「分かったわ」

「秋葉様」喜色を隠しもせずに、琥珀は秋葉の手を取り握った。

 

「そうね。確かに、私らしくない。ここは様子見。……琥珀には負けるわ」

 

 自嘲するように秋葉は言う。

 

「けれど、琥珀が私を止めるなんてね。しかも兄さんの名前まで使って、随分と偉くなったのね琥珀?」

 

 それは秋葉の負け惜しみだった。

 

「あはー。だって私は秋葉様のお世話をしているのですし、そりゃあ秋葉様に似ます」

 

 琥珀はただ笑むだけだった。

 

 そうして硬質ばった空気は少しだけ収まっていった。秋葉は浮き足立った己を見て急に恥ずかしくなり先ほどまで自分が座っていたソファへと気持ち急ぎ気味で座り込んだ。

 

 そんな秋葉を琥珀はニヨニヨと見つめている。秋葉は琥珀にはあまり強く出られない。心情的に彼女に対しては強気のままの秋葉ではいられなくなるのだ。事情がある。申し訳ない気持ちはふんだんだ。しかしそれ以上に、秋葉は琥珀に頼っている事を自覚していた。

 

 だからだろう。彼女に優しく見つめられるのは苦手だ。嫌いではないけれど、何となくこの柔らかな空気は離しがたいとは思うが。

 

「っこの前言っていた仇川のことなんだけれど」

 

 だから先ほど読んだ書類を指し示した。曖昧な空白を埋めたため、咄嗟だった。急に思いついたような白々しさが鼻につき、どうにも赤面が抑えられない。

 

「あなたはどう思う。この件に関して」

 

 しかし、琥珀は思いのほかにこの話に食いついたようだった。

 

「あーなるほど。私の意見でよければお話しますが、よろしいですか?」

「ええ」

「では、私はこの件は間違いないと言いましたよね。それは詳細を調べてみれば分かりますが、この件には必要なパーツが揃っているんです」

「パーツ?」

「はい。まず大量に人が死んでいる事。あれから分かったことですが死者の数は五十を下回りませんでした」

「……そんなにも」

 

 五十以上の死者。

 

 数字で考えれば楽でいい。けれど秋葉はこの件に関してはそうやって割り切る事は出来なかった。死んでいくものには愛する人がいた、大切なモノがあった、手放したくない思いがあった。彼らには、人生があったのだ。それが、死んでしまった。それを想うと、秋葉は胸の奥に重石を付けられたような鈍痛を感じた。

 

「けれど妙なんです。遺体があったのは数箇所なんですが、どうにもその殺害方法がばらばらなんです。まず最上階で見つかった遺体は一つで、エントランスに一つ。こちらの死因なんですが、最上階のほうは喉を食い千切られていて、もう一つのほうは首を断たれています。後は全部地下で発見されました。地下はもう酷いらしいです。バラバラ死体と言いますか、ぐちゃぐちゃ死体と言いますか。つまり惨殺です」

「……」

「地下で見つかったのはペースト状までに押しつぶされた死体でした。この両者の違いです。これは一つの手がかりでしょう」

「……なるほど。それは妙ね」

 

 殺害手段の違う死体。そこからある程度の想像はつく。しかし、秋葉の記憶の中にいるあの人はそのような事あまり関係がないように思えてならない。

 

 琥珀の言葉は更に続く。止まらず、淀みなく、空間を支配する。

 

「そしてもう一つなんですが、その最上階とエントランスで殺されたのが仇川トップの仇川辰無さん、そしてエントランスで見つかったのがその娘であるしほ子ちゃんだったそうです」

 

 知っている人間の死ほど辛いものはない。それに幼い子供まで巻き込まれているのだから尚更だ。なまじ写真でその姿を見て、仇川辰無と言葉を交わしただけあり、その感慨は現実。

 

「つまり、二人は仇川の血です。おそらくその二人が殺されたのは。……それは、二人が魔のある人間だったから」

「……」

 

 琥珀の雰囲気に飲み込まれる。

 

 彼女は先ほどまでの彼女でありながら、その中身を少しずつ変質し始めたような。室内はいつの間にか先ほどと立場が逆転していた。秋葉が空気を生み出すのではなく、琥珀が気配を侵食していく。

 

「実は地下にも惨殺死体ではない死体がありましたが、その死体ですが仇川唯葉さん。辰無さんの妻です。こちらは完全に殺されてます。首を断たれ、心臓を潰され、頭部を潰されています。そして調べた結果唯葉さんは反転していた可能性があるんです」

 

 琥珀は言う。

 

「この書類には久我峰さまが仇川の処理を決定したと書かれているように見えますが、遠くから見たらちょっと見方が変わります。久我峰さまが仇川をどうこうするのを決めたのです。だったらそれを実際に行ったのは誰かと言う事です」

 

 はたと、秋葉は立ち返ってみた。そして無造作に置かれていた書類を掴み、食い入るように読み直す。確かに、久我峰がこの件の判断を行ったとは書かれている。しかし、それの実行者がまるで書かれていない。不自然なまでにそこは空白だった。

 

「そして、隠蔽工作が行われたと言ったのを覚えていますか?」

「……ええ」

「実は、退魔組織が動いたと言う報告がありまして、隠蔽工作は彼らが行ったものではないでしょうか」

「――――」

 

 退魔組織。

 それが動いていたと、琥珀は秋葉を見つめていた。

 

「琥珀は何故それを知っているのから?」

「はい。実は私もこの件に関しては少し違和感と言いますか、ちょっとした不自然さを感じていましたので、興味本位に調べてみたんです」

「それを報告しなかったのは?」

「ええと、それを報告するのも兼ねて今秋葉様に訪ねてきたのですよ」

「……なるほど」

 

 秋葉は取り敢えずの納得を示したが、しかしそれは認めざるを得ないだけの事だった。秋葉が許容しようが拒絶しようが、その事実は確かにあるのだ。

 

「……だから、私はこの件。あの人が、七夜朔が関わっていると――――」

「――――琥珀」

 

 室内に、秋葉の悲鳴にも似た声が響いた。

 それは小さいながらも、確かに聞こえた。

 

 頭を垂れるように、秋葉はソファに身を沈ませた。

 先ほどの苛烈な怒りを思えば、その消沈する姿の何とか弱き事だろう。

 

「……その名前は、出さないで」

 

 囁くような声音だった。消える前の掠れた音。悲嘆だった。

 

「――――失礼しました。申し訳ありません秋葉様」

 

 深く腰を折り秋葉へと頭を下げる琥珀。秋葉はそれに応えず、ただ俯いていた。

 そして沈黙が生まれた。

 

 □□□

 

 髪がたなびく。

 

 風が少しあった。粘り気のある空気と相まって、ぬるい混濁に包み込まれる気分。鬱陶しく思い、舌打ち。

 

 ストックが切れた。

 

 与えられたモノがなくなったら補給しなければならない。それは世の中が回る真理だ。足りなくなったら足りさせる。その手段は人によるが、彼の場合はそこらの路地裏にでも孤立しているような自動販売機へと赴くことだった。

 

 ――――酷く喉が渇いている。

 

 正直何故このような面倒な思いをしなければならないのか、わからない。

 

 もっと貰っておけばよかったとか、何で自分が買いに行かなくてはならないのだとか、思わないこともない。けれど、頼れるものはいないし、欲しいと感じているのは自分だった。

 

 夜の中、滑るように歩いていく。人気もいない街中を浸り浸りと。空気が泥のように粘り気を持ち、肺の中にへばりついて離れない。荒い息。酸素を求め喘ぐように息を吸い込む。

 

 街は静かに沈んでいた。人の談笑も、呼吸も、温もりも嘘のように消えていた。それはきっとこの空気の粘着質に飲み込まれてしまったからに違いないと喉を鳴らした。

 

 ――――喉が渇いている。

 

 そうしている内に、細い道の先、道路にぽつんと光を湛える自動販売機に辿り着いた。そこは寂れた狭いT字路のど真ん中だった。自動販売機以外の光源は、遥か高くに昇る不揃いの月。しかし、入り組んだその場所に月の光は届かない。

 

 光のない場所だった。大通りを少し離れたその場所。あまり寝床からも離れていないし、いい感じ。次回からストックが切れたらここにこよう。

 

 そして。

 破壊音。

 

 自動販売機の前面を力任せにひっぺはがした。拉げた金属板をおもむろに舗装された道路へと落とす。

 

 横並びに陳列された缶を幾つか適当に見繕う。

 全て缶コーヒーだった。

 

 苛む喉の渇きを癒すため、プルタグを抉じ開け口内へと流し込む。苦い。カフェインの香ばしい匂いが鼻に抜けて、ただ不味い。

 

 一本目を飲み干した。喉の渇きは消えない。

 

 二本目を流し込んだ。喉の渇きは癒えない。

 

 三本目を飲み終えた。喉の渇きは拭えない。

 

 四本目を叩き込んだ。喉の渇きは萎えない。

 

 口元から零れる茶色の液体が喉を通らずに体を濡らした。

 

 しかし、そのような事気にする余裕がない。無視できない喉の渇き。喉元を焦がす欲求は荒立つ神経を更にささくれださせ、目に見えるものは苛立ちを覚える以外の意味を成さない。

 

 故にわき目も振らず、がふりがふりとコーヒーを流していく。

 

 五本目。

 

 六本目。

 

 七本目。

 

 そして十を数える空き缶を握り潰したところで、手持ちの缶は無くなってしまった。捻くれた缶が手元から落ちる。

 

 ――――喉は、渇いたままだった。

 

「■■■■■■っ!!!!」

 

 それは悲鳴だったのか、怒号だったのか。喉から迸る咆哮は体を張裂けんばかりに轟いた。けれど、そこは声が響くのみの場所であり、誰にも気づかれるはずがない。木霊する音は何処にも辿り着かない。誰にも辿り着かない。へばる風は声を届かせない。

 

 ――――喉の渇きが抑えられない。

 

 何故ここまで喉が渇く。

 ささくれ立つ神経に更なる苛立ちが募っていく。

 

 何故自分はこんな思いをしなくてはならない。何故自分はこのような目にあわなくてはならない。何故だ、何故だ、何故だ。

 

 繰り返される自身への問答は、すぐさま答えへと導かれる。それは直接的な、考えるまでもない事だった。

 

「あいつのせいだ」

 

 呟いた瞬間、それは激情をもたらした。

 

「っクカ――――!」

 

 引き攣る。表情は笑いだった。あまりに禍く邪悪と害意を孕んだ笑顔だった。吊り上げられた口角に歯肉が姿を見せる。力の限り食い縛られた歯の隙間から憎しみが漏れた。激情で体が破裂しそうだった。

 

「あいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツ、アイツッ、アイツッッ、アイツガァッ!!!!」

 

 行き場を無くした暴力が自動販売機へと振りぬかれる。

 

 無造作に、それでいてありったけの怒りを乗せた拳が金属と機械によって固められた塊に突き刺さる。常道なら拳が砕けるはずのものが、そのまま金属を引き千切り拳の形をした窪みが現われた。

 

 呼吸がいつの間にか荒くなっていた。

 

 木霊する憎悪。真実嘆きだった。誰もこの嘆きを聞くことはない。それがまた悲しくて、そしてそれ以上の憎しみを臓物の奥に滾らせた。

 

 全ての原因はアレにあった。

 そのせいで、自分はこのような目にあっている。こんな薄暗い夜に、汚い外に。

 

 ――――喉が、渇く。

 

 憎悪が増せば増すほど、喉が枯渇していく。

 無視できない喉の渇きが癒えない。

 

 それをどうにかしたくて喉を掻き毟る。

 

 がりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがり。

 

 喉が渇いているのに、掻いても無駄かもしれない。しかし、どうにもこの喉の渇きはナニカしなければ自分がどうにかなってしまいそうだった。

 

 ――――喉が、渇いた。

 喉の渇きで意識が少し霞んでいる。

 

 先ほどから無様な音を発する自動販売機の中に収まる缶へと手を伸ばす。駄目もとだった。しかし、手に取ろうとした缶コーヒーは逃げるように地面へと落ちていった。

 

「っちィ、っざけやがって!」

 

 陽炎のように揺れている意識。

 

 悪態を吐き、顔を歪ませ、道路へと落ちていった缶コーヒーを拾うため、体を少し屈ませ――――、

 

 ――――空気が悲鳴をあげた。

 

 唸り声を上げる風斬り音。

 空気を切り裂いて、突破して。

 

 それは先ほどまで頭部のあった場所を通り過ぎ、髪を僅かに削り落とし、自動販売機へと。

 

 轟音。

 

「―――!んな、に!?」

 

 持っていかれた髪の毛が数本、驚愕する顔面へと散っていく。瞬間自動販売機へと突き刺さった、それを見た。

 

 ―――それは刀だった。

 所謂、日本刀と呼ばれるものだった。

 

 しかし、日本刀と思われるそれの全体像を見ることは叶わなかった。

 鞘ごと自動販売機に刀は根元まで、鍔の手前、はばきまで突き刺さっていて、刀身の全容はこちらからでは見ることが出来なかったのだ。

 

 何だ、これは。

 

 ―――よゥ、景気はドうだィ。

 

 軋む、金属音。

 

 それは鳴動する地響きのように、決して耳から離れぬ金切り音。

 

『ひひ、ひ……嗚呼、手前も不幸だッたなァ』

 

 金属を擦り合わせたその軋む音が声だと言う事に暫しの時を有した。

 

 何だ、これは。

 

 聞き間違いとは、あまりに程遠い。

 それを認めるではなく、ただその事実が突き刺さっていた。

 

「なんだ……てめえッ?」

 

 意味が分からない。意味不明もいいところ。

 何で、何で。

 

「剣が喋るとか、どういうことだよおいッ?」

 

 理性が狂い始めたのか。朦朧の意識は事実を錯覚させているのか。

 それは確かに、金属の塊に突き刺さる日本刀は確かに音声を発していた。

 

 頭がおかしくなったのだろうか。

 

 気付けば、空気が重い。

 粘着質どころではない。

 

 まるで、これは。

 

 ――――空気が

    死んでいく――――。

 

 温度を奪われているのではない。空気そのものが自身を消失させていく。それはまるで死んでいくかのように。空気は無となり始める。軽さを無くした空は重くなるだけ。

 

 風は止まない。

 

 それはまるで、羽をもがれた鳥のよう。

 虚空から堕ち、地上へと叩きつけられるだけ。

 

『ここで死ンどきゃ楽だったウろにニよォ』

 

 ヒヒ、と金属が嘲う。

 先ほどまで自身が笑んだ邪悪と遜色のない悪意が、声音の中に潜んでいた。

 

 やばい。なにかがやばい。

 

 肉体が警告音を掻き鳴らしている。生命が悲鳴を上げようとしていた。

 

 何かが、起こり始めている。

 

 背骨に氷柱を生やしたような、凍える寒気が肌をなぞった。

 全身の肉が粟立つような感覚。血が冷たくなっていった。

 

「――――――」

 

 背後へと急転回。

 

 自動販売機の光が届かぬ闇の向こう、細い道の先。

 何かが、そこにはいる。説明できない、理解できない、想像できない。

 

 気配がない。気配がないのに、そこに何かがいると分かったのは、ケタケタと笑う刀の存在もあるが、それ以上に空気の異質さは異常の登場によく似ていた。

 

 それはまるで、自分のような。

 

 触れられそうな闇の中に、何かがいる。

 

 それを理解する瞬間を、肉体は待つことを選択しなかった。

 

「ふざけんじゃねえッッッ!!」

 

 許せない。

 このような状況に置かれた原因。何故ここまで震えなければならないのか。

 

 理由は分かっている。闇の向こうに何かがいるのだ、ならばそいつは邪魔だと本能が告げた。

 

 いい加減、喉の渇きも抑えられない。

 抑圧された感情は余すことなく襲撃者へと向けられた。

 

 故に、殺す。

 

「――――――ヒャッハアアアアアア!!」

 

 獣じみた加速で闇に突っ込んでいく。必ず殺してやると誓いながら。

 この憎しみを、この渇きを、この苛立ちを、この怒りをぶつけてやる。

 

 脳内は相手をどう殺すか考える。

 八つ裂きにして四肢をもぎ、そしてその首筋に口を――――。

 

 未来を考えるだけで愉悦を感じる。

 怒気と笑みを混じらせた顔つきのまま闇のなかへと入り込み。

 

「は?」

 

 ――――右手が、剥がされた。

 

 まず理性が追いつけなかった。あまりの事に思考が止まってしまったのである。視線の先には今しがたもがれた右腕の跡。

 

 掌はある。

 しかし、そこに指がない。

 

 五指が消失していた。骨と腱が顔を見せ、赤く、赤く、赤く、赤く。

 

 思考停止は刹那。しかし、その刹那瞬き一つは襲撃者の好機でしかなく。

 ――――ぞわり、と。

 背筋に虫が這い寄った。

 

「―――――――っ!!」

 

 理性は肉体を動かす事を停止させた。ならば肉を動かすのは今や本能のみ。

 かくして本能は見事にその命を生かすことに成功した。傾けられた肉体、その箇所を何かが通り過ぎた。

 

 地面を踏みしめる。刹那肉体はこの場からの離脱を選択した。

 迎撃は無理だ。相手がどのような存在なのかまるで不明。心情ではそれを否と叫ぶが、それは賢しい選択ではなかった。

 

 闇を抜ける。

 

 道路を叩きT字路を離れ、出来るだけ走る。

 寝床には行かない。行けない。寝床を見つけられては困るのだ。

 

 人の気配なく、また光のない街を錯綜する。

 

「なんだよ、あれはっ!?」

 

 感情が爆発する。姿も見せぬ襲撃者。喋る刀。突然奪われた右手。

 

 分からない。分からない。分からない。

 

 理性はこの状況に追いついていかない。今、体を動かすのは何ものにも向けられた憎悪だった。

 

 自分が何処を目指しているのか。

 決まっている。

 殺すための場所である。

 

 走る。逃げているのではない。跳躍。夜を切り裂くように、体は空を駆けた。ふわりとした感触が体を包む。それは外側からではなく、内側から力の奔流だった。

 

 夜の街を肉体は一直線に駆け巡る。地上を見下ろす建築物に挟まれるよう駆ける。少しでも速く。質量ある風を掻き切るそれは、間延びする影だった。それをどう見るか、肉体は夜を駆ける。人の姿がまるで見えないビルの合間を刻むように。

 

走った。

 

走った。

 

走った。

 

走った。

 

そして、――――閃光。

 

「っちぃ!!」

 

 それは不可視の斬撃だった。夜の闇を切り裂く妖光は、左脇腹を浅く裂いた。

 激痛。舌打ちを一つ、滑空するように地上を舐める。

 

 一体どういう事か。迫るアレは地上だろうが、空中だろうが関係なく襲い掛かる。そもそもその正体は未だ見えていないのだ。恐るべき疾さで、制止することなく夜を支配するそれは最早ただの残像でしかなかった。

 

「くそがぁっっっっ!!」

 

 最早、転がり落ちるように白色の布へと駆け込んだ。

 

 滑り落ちた場所は建設途中である工場現場だった。ドアを閉めた先に展開するそこは剝き出しの鉄骨が奇妙なオブジェのように天へと伸びていた。外観を隠すように白いシーツが垂れ下がり、外からはこの中が見えることはない。限定的に天上が切り開かれており、ドアを閉めた今、そこからしか入る事は叶わない。空には輝く半分の月。そう夜であるのだ。自身の領域だ。

 

 しかし―――。

 

 荒い息。街中を駆けずり回って、わき目も振らず無様な逃走を経て、呼吸は抑えきれない。呼吸に鉄の味が混じりこんでいた。

 

 天上から入り込む風は渦を巻き、外よりも少し強い。

 

 組まれた鉄骨へ隠れるように着地する。そこは天上からは死角とされる場所だった。工場現場の端。上から見ると、鉄柱が邪魔して姿は発見されない。

 

 忌々しげに、先ほど落とされた右手を再び見る。指がない。傷口はずたずただった。まともな傷ではない。まるで獣に無理矢理食い千切られたように削り落とされた。あれは、あの感触は何だったのか。

 

 痛む。傷口がじくじくと疼く。ありえない。このような痛みを感じる意味が分からない。激烈な痛みではない。まるで、侵食されているかのように痛む。じゅくじゅくと傷は手首を痛めつける。左脇腹からの出血が止まらない。

 

「……何故だ」

 

 何故こんな目にあっている。

 

 ―――意味がわからない。

 

 奥歯をぎりりと噛み締める。

 出血が止まらないという事態がありえない。

 そのようなもの、自身にはまるで関係のないものであるはずなのに。

 生命としての基本だ。そも、基礎が違うのだ。

 

 ―――意味がわからない。

 

「糞がぁぁあっ!!!!!!」

 

 この理不尽に対する憎悪を吐き出すにはまだ早い。

 目的を、目標にむけるため、今はまだ早い。

 

 まだ、見つけてもいないのだ。

 見つける。見つけだす。見つけて、見つける。

 

 そのために―――。

 

「――――っ」

 

 寒気にも似た気配が漂う。それは香りすら放ち、鼻腔をくすぐった。

 

 死臭。

 

 肉が腐り、血の溢れる匂い。それはそのまま死を形として視せるような気質を秘めていた。

 

 影が落ちる。

 場所は、開かれた天上。

 それは、未だ満ちぬ月輪を貫くように夜を漂っていた。

 

 亡霊。

 

 一瞬、そう見えた。夜を舞う狩人の姿は追われる身となって始めてその目に映し出された。

 藍色の残像が、そこにはいた。

 

「―――――――」

 

 亡羊だった。曖昧な男だった。

 

 佇む和装の男。長すぎる髪からその顔は見えない。はためく着物から、その左腕が存在せぬ事が証明されていた。しかし、それを補い余る男の気配。男からは何も発せられていない。存在を停止したように、男はいた。

 

 ただ、その右手には異様が握られていた。

 

 刀。形は日本刀である。生憎知識はからっきしだが、あれがまともなモノでは無い事は明らかだった。

 

 鋼色の刀身。その刃は朽ちたように罅割れ刃毀れしていて、およそ殺傷力に富んだ造形を成立させていない。握られて入るが力は込められているようにないそれは、切っ先が垂れ下がっている。真剣そのものへの恐怖にも似た感慨は浮かばない。あれでは、まともに切れる筈がないのだ。

 

 だが、それは、あまりに異様だった。

 

 ―――黒い、光。

 

 それは蒸気だった。あまりに濃すぎる闇がその刀身から噴出し、男にすらまとわりついていた。轟く風に飛ばされぬ闇は、死臭そのものだった。全ての生命を死に到らせる、腐敗と血の混じる匂いだ。

 

 そして。

 

 ―――死ネ。

 

 声が、現われた。

 

 死ネ。

 

 それは空気を震わせる音ではなかった。あの金属音でもない。

 現実には聞こえないような、幻。

 

 死ネ。

 

 闇から、それは聞こえてきた気がした。

 

 死ネ。

 

 頭の中に直接叩き込まれるような感覚。脳を蹂躙し、そのまま飛び出していきそうな声が、聞こえる、

 

 死ネ。死ネ。死ネ。死ネ。

 

 輪唱する声は、最早声とも聞こえぬ絶叫となって、襲い掛かる。

 

 死ネ。死ネ。

 

 死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ、死ネ、死ネっ、死ネエっ!!!!

 

 取り囲む死へのコールが鼓膜を叩き、脳を犯し、内蔵を埋め尽くす。

 憎悪が漂う。闇は憎悪だった。

 

 理不尽。

 何故、このような声を、憤りを、憎しみを身に受けなければならない。

 

 我慢の限界だ。理性の限界だ。本能の限界だ。この身全体が吐き気すら催す衝動を溜め込んでいる。

 

 そもそも、何故襲われなければならない。

 

 突然襲い掛かってきた藍色。影からの急襲ではない。空を構成する酸素が襲い掛かってきたような感覚があった。気配すら漂わせず、音すら発せず、それは執拗に迫った。

 

 何処から襲い掛かってくるのかも分からぬまま、無様に逃げた。夜の街を必死に駆けた。遮蔽物を飛び越え、障害物を掻い潜り、ここまでやってきた。逃げるしかなかった。

 

 理不尽だ。

 

 このイラつき。この恐怖をどうする。説明も出来ぬ不快感が飛び出して体が張裂けそうだ。腸が煮えくり返るとはこの事だろう。沸騰する憎悪は耐え難く。

 

 ――――殺してやる。

 

 注がれる月の光を浴びながら、視線の先、その男は全ての闇を飲み込んだかのように禍く存在していた。いや、事実黒い。あれは闇だ。ただ佇んでいるだけだというのに、まとわりついた闇と相まって悪夢のよう。

 

――――殺してやる。

 

「―――――っ」

 

 ぐりん、と男の顔がこちらに向けられた。ありえない。ここは死角のはず。姿は完全に隠していた。物音すら立てていない。なら何故こちらを覗く。

 

 竦む。どういうわけだ。理解できない。

 

 いや、もう既に何も不思議には思わない。ただただ不気味な藍色は、最早何でもありなような気がした。

 

 ならば。

 

『よう、暫くだな』

 

 神経を刺激する不快な金属音が周りを囲まれた工場現場に染みる。

 

 最早姿の見えるアレ。もう逃がさない。必ず殺してやる。これ以上何も奪われはしない。憎悪のなかに決意を秘めた瞳を眦が裂けるまで開き、その挙動の一切を見逃さないと。

 

 そのために、出でた。

 

 例え刺し違えても、殺してやる。

 

 互いの距離は二十メートルぐらいか。

 

 通常ならば、そのような選択は却下だ。

 だが、それを可能とする種が、ここにはある。

 

 指を失った右手。

 それを、下へと空に揮う。

 

 肉を失い、骨を失い、皮を失った付け根。飛び出す深紅。血飛沫はやがて流れ、形となり、整われ、凝固を始める。それは血の鉤爪だった。本来の指よりも長く鋭角に伸びる深紅の刃。

 

『ひひ、おもしレえもん持ってんじゃねえかァ』

 

 腰は深く落とされる。

 硬いコンクリートの地面に足は推進力を溜め込んだ。

 

『追いかけっコは終いか?もう走ラなくていいってかァ?』

 

 視線の先。

 

 長い髪に覆われずにいるその口元が、もごもごと動く。その顔が動く事は意外だった。

 だが、アレはなにを口にしている。

 

『ああ、そウだ。渡すもンがあったんだが、いキなりいなクなるからよォ。ひひ、渡す事が出来なかったァ』

 

 最早聞こえる金属音とあの男は別の発信源だと分かっている。故にいま聞こえる音は刀であり、男は喋っていない。

 

 口がもごもごとしていた。

 

 あの中には、何がある?

 気になりはするが、そんな事は関係ない。

 今から襤褸切れにする奴の何を知っても、それはすぐさま消え去るだけの事。

 

 そして、男の唇からそれは姿を現した。

 

『忘れモんだ』

 

 ぬるり、と。

 

 閉ざされた男の唇から、赤く染められた滑らかな肌色が零れた。唾液と赤に塗れたその柔らかさは、内臓とは違った張りを見せ、場違いな輝きを見せていた。

 

「―――おまえ―――――――――っっ!?」

 

 指。

 指が、口内から零れる。

 ぼたぼたと、男の口から溢れて落ちる。

 

 地面に落ちたそれは、死んだ芋虫にも見えて、現実感のなさと不気味さと気味悪さが際立つ。

 

 男の口から零れる五指。

 

 口元に人の部品を食むその姿。

 あまりに異質なその姿。亡霊なんて、とんでもなかった。

 アレはそれ以上の最悪。アレはそれ以外の災厄。

 

 ――――鬼。

 

「俺の、指をっ!」

 

 その指には見覚えがあった。

 意識しなくても、それを知っていた。生まれた時から、それを持っていた。

 

 それは、それは。

 

「―――喰いやがったなああああああああ―――っっっ!!!!」

 

 煮え立つ憎悪が遂に激昂へと変容する。

 突き動かされるように、肉体は地面を踏み抜いた。

 

 渦巻く風を突き抜けて、障壁にもならぬ空気を切る。切れた空間の裂け目から、肉体は跳ね上がる勢いのままに男へと射出された。

 

 獣じみた加速。ただ真っ直ぐに激情のまま、感情のままに駆ける。動きは恐るべき程に疾い。ただの人間には出せぬ、ありえない加速。一息に男との距離をつめ、そのまま右腕を振るいて喉から股まで掻っ捌こうとして。

 

 怪しく輝く妖光が、それを受け止めた。

 

「―――――――っくそが!!」

 

 闇色の刀が血色の爪を弾き、追撃の爪はそのまま受け止められた。

 

 間際に見える男の顔。額がくっついてしまいそうな程に距離は互いから失せた。憎しみをそのままに、激烈を瞳から滾らせ、殺意が視線となる。

 

 その時、轟く風に男の髪が揺れた。

 

「おまえ、は――――っ」

 

 長い黒髪から覗く男の相貌。

 削げた頬に、人形めいた無表情、感情を宿さぬ鋭い眦。

 

 そして、それを見て、僅かな驚愕に顔を歪めた。しかし、それにより圧迫せしめん力は更に増し、ぎりぎりと刀を押しのけようと重くなる。

 

 ぎらついた笑みが張り付いた。それは狂気を孕んだ壮絶なる笑みだった。

 

 ――――虚空を思わす、教えられた通りの深き蒼。

 そのまま覗いていれば吸い込まれてしまいそうな蒼色。

 

 それが、そこにはあった。

 

「七夜あああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

 

 禍き絶叫が憎悪と狂気を合わさり、違う何かすらも生み出して。

 月さえ落とす程の咆哮が轟音を上げた。

 




分かりました。私には纏める力が備わっていない。


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第六話 人殺の鬼 Ⅰ

 握る掌は冷たい。

 まるでこのままずっと冷たくなっていって、そのまま全ての熱を失っていくようだった。

 その危うげな冷たさに、そんな険しい現状に心が凍ててしまう。

 だから今はこの手を握ろう。

 少しでも、温かくなるように手を握ろう。
 
 私の熱を、貴方にあげます



 これが夢だと、直ぐに気付かされた。

 不定形であやふやな意識。これが幻であると、全くもって分かった。

 感触がない。匂いを感じない。息遣いが自分のものではない。体が自分のものではない。意識だけがそこにあるような感覚。

 それに、そうでなければ自分が納得いかない。

 だって、そうでなければ、本当に困るのだ。

 

 ――――藍色の和装。違和感のない隻腕。

 

 ざんばらに伸ばされた黒髪の隙間から、虚空を思わす蒼の瞳。

 連続殺人の犯人が、あの時弓塚さんと出会った人殺しが、当たり前のようにそこにいる。

 

 それを受け入れがたいと感じて、これは夢なのだと無理矢理自身を収める。でなければ、こんなに意識は客観できない。傍観できない。俯瞰できない。何も出来ない。だから、妙に冷静なのは、そうやって自分を押さえつけることで、この夢を何とかやり過ごそうとしているからだった。

 

「―――――ハ―――ハ―――ハ――」

 

 どこからか荒い息が聞こえる。それは今にも途切れてしまいそうな荒さで、それでも呼吸は強引に行われていた。しかし、呼吸では沸き立つ肉体が押さえきれない。

 

 熱い。けれど冷たくて、寒い。

 

「――――――――」

 

 左の脇腹に違和感。触れる。血が、零れていた。

 

 相反する温度を感じる。体の奥底から煮えたぎる熱さと、それを凍らせる寒さ。この反発が鬩ぎあっている。肉体が混乱している。

 

 日本刀。あの時見た、鞘の中身。男はその口元に刃毀れした日本刀の柄を咥え、陽炎のように揺らめき佇んでいる。藍色が陽炎に見えたのは、黒い蒸気を噴出させる日本刀のせいだろう。それこそ夢であると裏付ける、理解できない現象だった。

 

 その瞳。その瞳は何も見ていない。ただ、深い蒼は全てを映し出しているかのよう。

 

 冷たい。骨の髄まで冷たくなっていく。空気が冷えているのではない。

 けれど、その色は、蒼い瞳の奥に映るそれは。

 超越的な意志を瞳に湛え、それが形となったような――――。

 

 ――――そして、場面は動く。

 

 視線が動く。ありえない加速が体を震わせた。真っ直ぐに、藍色へと突撃する。潜り込むように体を沈ませる。体の昂り、肉体の限界を考慮していない筋肉の動き。

 

 瞬き一つも許さない疾さ。

 臍下まで沈んだ体は、相手の視線を掻い潜るかのように、飛び上がった。

 

 さながらそれは海面から跳ね上がる魚類の動き。肉体の酷使に太腿の血管が爆ぜる寸前だ。

 

 しかし、それは相手の意識を剥がしたも同然の動き。不意をついた動きは、死角からの襲撃を可能とさせ、そのまま藍色の命へと赤の爪は伸びて――――。

 

「―――――――っ!?」

 

 藍色の姿が爪の触れる寸前、消えた。

 霞の如くに、その姿はその場から消えうせた。

 元から其処には誰もいなかったように、影もなく 跡形もなく。

 

 音があまりに遠い。壁越しに聞こえる物音を耳に聞く感覚。

 

 音のないなか、藍色は何処に消えたのかと、瞬時に辺りを見渡すが、探す色はすぐさま見つかった。

 

 後方。五メートル以上は離れたその場所に、藍色はいた。

 

 目に映る藍の背中。背中。背中。背中。

 

 砂嵐。砂嵐が映る。映像が刹那ぶれる。

 

 奥歯を噛み砕かんばかりに歯軋りし、そのまま飛びつこうとした瞬間。

 

「―――――――――」

 

 それが見えた。

 

『ひひ、ひ!残念ダったなア』

 

 金属音。全てを嘲う金属の軋み。意識が蒙昧であっても、その耳障りな音は不快なまでに聞こえる。

 

 藍色。

 

 その右手に、なにかがある。

 

「――あ―――――」

 

 藍色の肌に、赤が伝う。背中を見せる藍の右手。

 

 塊に見えた。それは肉の塊だった。

 

 張りのある表面に赤色の管と青色の管が走っている。柔らかな肉感は繊維は赤く赤く、黒く黒く。赤い塊は、その掌に収まりながら、それでいて指の間から余る肉がはみ出して。引き千切られた血管は力なく垂れ下がり、そこから赤が漏れ、鼓動はなく、脈動もなく、ただ赤く在り、赤は流れ――――。

 

 思わず、視線は外され、胸元を見る。傷がない。目に見えるような傷はない。

 しかし、その肌の隙間から、赤が滲み、紅は侵し。次第に肌は赤くなっていく。

 

 そこは胸の中心。骨の隙間。肉の間隙。

 

 ――――心臓を、抜き取られた。

 

「あ、ああぁ」

 

 声が、零れる。赤と同じように。

 そしてそのまま、藍色は見ている先で、見せ付けるように心臓を握る。

 

 明確なまでに殺された。

 視界は明るい。けれど、意識が揺れる。

 

 そのまま、心臓を奪い返したくて、走り出そうとする。

 

 しかし、藍色はその行動を知る由もなく、心臓を握りこむ掌に力を込めていく。ぎちぎちと、次第に指の間からはみ出る肉が膨れ上がる。未だ中に収められた血液がこぼれ出る。圧迫。握る。潰す。

 

「―――――――――――」

 

 やけにそれはクリアに見えた。

 

 破裂する。肉が圧力に耐えかねて、握り潰された。

 肉は搾り取られるように潰された。

 

 それを、呆然と、見。

 

 死を見。

 

 死を。

 

 死。

 

 死。死。死。死。死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死―――――――――――――――――――――■■■■■■■■■■■■■■■■あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!??」

 

 殺さ■た。

 

 ■された。

 

 殺された。

 

 ■■■■。

 

 俺は殺され、殺さ、ころ、殺された。俺が殺された。俺こそ殺された。俺が殺された。俺は俺は俺は俺は殺された殺された殺された殺された殺された殺された殺された殺された殺された殺された俺が、俺は、俺こそ、俺、が俺が俺が。

 

 絶叫。

 絶叫。

 絶叫。

 

 死が起きた。死は起きた。死こそ起きた。

 

 俺は何処だ。何処にいる。これは夢か。現実か。いや、現実なんてどこにある。現実はいつだってここではなかった。

 

 喉からあらん限りに迸る悲鳴は、最早声ではなかった。ただの音に過ぎなかった。体を覆う何かを握りしめる。強く、強く、強く。

 

「ああ、ああああっあああああああぁぅうあああああああああああああ―――――っ!!」

 

 殺された瞬間、死を理解した。死を理解した瞬間、殺された。

 

 息が苦しい。呼吸が辛い。胸が痛い。ただ悲しい。気持ちが悪い。きもちがわるい、キモチガワルイ。

 

「――っ――!―――」

 

 心臓はあるのか。心臓はまだ動いてくれているのか。分からない。分からない。

 

 孤独。

 

「――――――――ま―――――――っ、―――――――!」

 

 刹那的な喪失感。それはどこにもなくて、だからこそ辿り着けないはずなのに、しかし連れてかれてしまう。持っていかれる。運ばれてしまう。取られてしまう。奪われてしまう。盗まれてしまう。この、命を死へと。

 

 瞬間感じたあの感覚。

 

 それはまるで、あの時のような。

 

 砂嵐。砂嵐。砂嵐。灰色の嵐が、体を攫い、視界を覆い、聴覚を巻き込む。乱雑な錯綜。有形無形が雑多なものと化し、意味を失った。

 

 それは、なんて、死―――――――。

 

「―――――――――き――、し――――――! ――?」

 

 何処からか、悲鳴が聞こえる。

 

 幼子の、母とはぐれて途方に暮れる迷子にも似た、悲鳴が。

 

 何処だ。何処だ。

 生は何処だ。

 

 布を握り潰す手を、誰かが握っている。温かい。

 

「し――――さま! ――し――きさま! 志貴さま、気を確かに!!」

 

 嗚呼、この声は知っている。

 この声を、俺は。覚えている。

 

「――――――ひ、すい―」

 

 慟哭の声音に、生命の温度を耳にした。

 

 泣き叫ぶような声を上げる翡翠。その悲痛な叫びを頼りに、死から逃亡する。囚われる前に、逃げ出す。我武者羅に、遮二無二に。無に取り込まれる前に、少しでも早く。泳いで、走って、飛んで。少しでも遠くへ。

 

「っ! そうです、翡翠です! 使用人の翡翠です!! しっかりしてください! 今姉さんが来ますから!」

 

 衰弱する一方の俺に、翡翠は泣きそうになりながら声をかけてくる。その何て力強さ、翡翠の言葉は眩しく、俺を導いてくれる。

 

 砂嵐。

 

 砂嵐を乗り越える。気持ち悪さを退けて、翡翠へと、命へと向かう。

 翡翠の掌の温かさ、生の強さを頼りに、言葉を指針に砂嵐を越えて。

 

 視覚が回復する。

 

 そして。

 

「―――――――――――――――――――――!!??」

 

 ――――最初に見えたのは、死だった。

 

 線が、線が、到るところに見える。ハッキリと、黒く、その存在は髪の毛並みに細いながらに自己主張している。天井が、壁が、家具が、布が、モノが、肉が。黒い線で描かれている。それは罅割れにも似た線で、ただ亀裂だった。そう、こんなの、前から見えていた。見えていたはずなのに。

 

 それが以前よりも、ハッキリ見える気がして。

 

 思わず、手を覆う翡翠の掌を掴む。

 

「志貴様っ!私は、ここに……っ!」

 

 翡翠の呼び掛けに、俺は、翡翠を見た。

 

「あ、―――――――ああ――――」

 

 悲鳴にもならず、絶叫にもなれず、恐れにもならず、音は漏れるだけだった。か細い声音は、力を失った。

 

 翡翠、翡翠がいる。

 

 けれど、線が見える。

 

 ――――線が、視える。

 

 翡翠の体に亀裂が走っている。

 

 見える。翡翠が、崩壊する線が見える。視える。見える。観える。バラバラになる線が。翡翠が、分解する線が。

 

 キモチガワルイ、キモチガワルイ、キモチガワルイ。

 

 キモチガ、ワルイ。

 

 胃液がこみ上げる。

確かな吐き気。

許容しがたい異物感。

 

「げ、えぁ。あ、が――――あぁえあがぁああっ!!」

 

 吐いた。反動的に上体を起こし、逆流する胃液が喉を焼いて吐き出される。昨日の昼から殆ど何も食べていないのだから、出てくるものは胃液ぐらいだった。口内から零れる酸味の効いた苦さは、どうしようもなく不味かった。 

 

「志貴様!?姉さん、早く来てください!志貴様が――――志貴ちゃんが……!!」

 

 突然吐き出す俺に翡翠は慌てふためきながら、己の信頼している姉の名を叫び、ひたすら俺の背中をさすり続けてくれた。

 

 □□□

 

「んー?じゃあ今日遠野はこれないって事ですか?」

『そうです。ちょっとお加減がよろしくないようでして』

「あー、あいつ体ちょいと弱いっすからね。んじゃよろしく伝えといてください」

 

 そう言って、乾有彦は受話器を置いた。

 

「それで、遠野くんは大事無いのですか乾くん?」

「そうらしいっすね。体調崩して寝ゲロしたらしいんですけど、今は落ち着いてるとか」

「ね、寝ゲロですか……」

 

 もっと言い方はあるだろうに、とシエルは若干口元を引き攣らせた。

 

 場所は高校の校舎。職員室の近くである。

 

 今朝方、有彦は学校へと辿り着いてから志貴は今日休むという連絡を教師から聞いたのである。確かに志貴は元から体が弱い。学校にて貧血を起こすことなどざらで、有彦自身気分を崩した志貴の対処を何度も行ってきた。彼自身は不良と呼ばれる部類の人間であるが、其処のところは面倒見が良い。小学から何かと仲良くしてきた相手というのもあるだろう。波長が合う、というか志貴と有彦は在り方が似ていて、同類であるからだった。

 

 しかし、だからと言って休みの志貴に電話をいれるほど、有彦は志貴相手に気を使っているわけではない。それなりの理由がある。

 

「しっかし、弓塚も休みらしいし。偶然か?」

「確かに、ちょっと気になりますね」

 

 クラスメイトであり、比較的仲の良い弓塚も本日は休んでいる。理由も体調不慮らしいあの二人が同時に学校を休んだ。珍しいと言うよりも奇異である。もしかして狙って同時に休んで、そのままランデブーなんかしてんのかあいつらはと、勘ぐった有彦は取り合えず一時限をサボり遠野の家へと電話を入れた次第である。

 

 すると何故かシエルがいたので、そのまま志貴の様子を聞くことにしたのである。

 

「まあ、もしかしたらそのままどっか遊びにいってんのかもしれないですし」

「あ、二人はもしかしてそんな関係でした?」

「ああ、違います。先輩は知らないんすか?弓塚のやつ、遠野にホの字なんすよ。んでも付き合ってる訳じゃないんすけどね。遠野は弓塚がそうだって全く気付いてないし」

 

 鈍感と言うか学友とは少し距離をおき、それでいてズレタ志貴と、いざと言う時に踏み出せない弓塚。相性としては最悪である。もしかしたらはあるのかもしれないが、その確立は低いだろう。

 

「なるほど。言われてみれば弓塚さんと遠野くんって、温度差があるような、壁があるような気がしますね」

 

「やっぱそう思います?」

 

「なんとなく、ですけど」

 

「全く、遠野も人が悪いって。あいつ、そういうの興味持とうとしないんすよ」

 

 やれやれ、と首を振る。

 

 今この時授業が行われている校内では二人以外の人間は廊下に出ていない。廊下には教室内から届く授業の物音と話し声、側にある職員室の物音が聞こえるくらいで、閑散とした廊下に二人の話し声は良く響いた。

 

 しかし、この話はもういいだろうと、切り上げようとした有彦の顔に影がかかった。

 

「それって、どういうことです?」

 

 シエルの顔である。斜に構える有彦を真っ直ぐにシエルは見つめてきた。その少しばかり興味を傾けた瞳の色に有彦は、苦笑しながらも口を開く。

 

「なんつーか、あいつって人から離れてんですよ。周りに迷惑掛けないってか、俺の場合俺がそうしたいから一人でいるんすけど、遠野の場合気い使いすぎで、いつの間にか離れてるんですよ」

 

 端的に表して不良の有彦と善人のような見かけである志貴の共通点はそこにあった。そもそも二人の出会いは小学校にまで遡る。その時有彦は志貴を見て、こいつは仲良く出来ない人間だと思ったものである。子供ながらの嗅覚とでも言うべきか、気の合う合わないをあの時有彦は身につけていたのだが、それが発揮されたのは志貴にも同じである。ただ、今もこうして親しくしているのは、二人が同じだから。

 

「一人でいる理由が違うんです。俺は俺のため、遠野は周りのため、みたいな。……直接聞いた訳じゃねえんですけどね。匂いってか、勘ってやつで」

「遠野くんにはそうする理由があるんですか?」

「どうだろ、正直理由はいろいろと思い当たりますけど、体が弱いだとか、家の事情がややこしいだとか。んでもこれといって直接的な理由はわかんねえっす」

「……そうですか」

 

 眉間に若干の皺を寄せてシエルは暫し考えるように唇に手を当てる。そして有彦はそんなシエルを見ながら、苦笑いを張り付かせた。

 

「ってか、興味あるんですか?こんな話」

「そうですね、少し興味があります」

「んな、弓塚といい先輩といい、何であいつに……」

 

 頭部をガシガシと掻きながら有彦は疑問の表情。一人の人物に関してあれこれと本人のいぬ間にするのは良くないとは、有彦は全く思わないが、少なくともこれほどまでの関心を示すのだから何かしら志貴の事で琴線に触れたのではないだろうか、と勘ぐった。

 

「ぬぐぐ。こうなったらアイツ一度とっ捕まえて尋問しねえと」

 

 そうして苦悶と共に何やら危ない考えを抱き始める有彦に、シエルは呆れと共に少しの羨ましさを顔に滲ませた。柔らかさの中に、僅かな引っ掛かり。それが気になって、有彦はシエルに声をかけようとした所で。

 

 ―――チャイムの音が校舎に響く。

 

 人のざわつく話し声が聞こえてきた。廊下が少し騒がしくなる。そろそろ授業終了時刻だった。そぞろに増える学生の姿に、何だか有彦は自分が聞こうとしたことがどうでもいいようなものに思えた。

 

「あら、もうこんな時間になりましたか。そろそろ授業に行きませんとね。それじゃ乾くん、ちゃんと授業受けましょうね」

「あ、ああ。んじゃ先輩」

 

 そう言って、シエルは気さくな笑みを浮かべながら離れていった。

 

 有彦は背中を見せながら離れていくシエルに、どうしようもない違和感を感じ、そして呟いた。

 

「んでも、なんであんな事話したんだ?俺」

 

 何かがスッと、有彦の心の重心を傾けた。今になったその自身に働いた不可思議に、有彦は首をかしげながらも、自身の教室へと向かうのだった。もちろん寝るためにである。

 

 □□□ 

 

 取り替えられたシーツの中に苦しみ呻きながらも気絶したように眠る志貴を、琥珀は見つめていた。

 

 志貴の額には汗が吹き出て、翡翠は甲斐甲斐しくも湿らしたタオルでそれをふき取っていく。その顔に張り付く心配の色は消えていない。むしろ時間が過ぎるほどに増しているような気さえする。視線の先志貴の眠るベッドの側、翡翠の隣には秋葉が膝をつき、苦しくも息をする志貴の手を握りしめていた。

 

「兄さん……」

 

 志貴の手を握る秋葉の手は白い。しかし、志貴の肌の色も秋葉と同等かそれ以上の白さを見せていた。まるで死体のようだと琥珀は思った。血の気の引いた肌の色は、心臓の鼓動を停止させた死者の肌だった。

 

 今朝方、志貴の絶叫が朝の執務を行う秋葉とそれを手伝う琥珀の耳をつんざいた。決して人の多くない屋敷内には、志貴の悲鳴はひび割れ響いた。断末魔の如き叫びは秋葉の体を突き動かすにはあまりに充分だった。そして二人は瞬時に動き出した。秋葉はもしものために琥珀に救護用品と薬をありったけ用意させ、すぐさま志貴の部屋に駆け寄った。そして扉を突き破るように室内へとなだれ込んだ秋葉が目にしたのは、嘔吐を繰り返す志貴と、憔悴しながらも懸命に志貴の背中をさする翡翠の姿だった。

 

 現在志貴は琥珀の応急施術により一応の落ち着きを見せ、取り替えられたシーツの中で眠りについている。しかしどうしたものかと、琥珀は冷静な思考で捉えていた。

 

「琥珀。今日になれば、落ち着くんじゃなかったの」

 

 志貴の手を握りながら、秋葉は言う。その表情は琥珀には見えない。しかし、表情が苦虫を潰したようなものになっているのだろう、と琥珀は推測。

 

「はい。診察した限りではそのはずなんですけれど――――」

「じゃあ、どうして兄さんは。……兄さんはどうして、こんなにも!!」

 

 苦しんでいるのだろう。

 

 それは言葉にならなかった。音にもならぬ秋葉の悲嘆を琥珀は聞いた気がした。

 

 昨夜行った診断の段階では、志貴は既に回復の段階に入っていた。元々精神的な問題であり、繊細なアプローチが必要なのかも知れないが、琥珀が聞く限りでは志貴は問題を認める段階には入っていた。あのまま捉えようともせず、逃げ出して内側に溜め込むことも出来ただろうが、あまり溜め込むのは良くないと判断した琥珀は志貴に働きかける事でそれを自覚させた。

 

 もしかしたら、アレが良くなかったのかもしれない。志貴の肉体は健康とは程遠い。故にアレによって肉体に何らかの悪影響が発生する可能性もあった。

 

 しかし、あの段階ではアレが琥珀のベストだった。襲い掛かる苦痛に歪む志貴の顔はなんとも情けなかった。その情けなさで回復の兆しに差し掛かるのだから、安いものであろう。

 

 だから、声を荒げた秋葉が求めるような答えを琥珀は所持していない。心辺りはいくつかある。しかし、それを琥珀が言うつもりはなかった。

 

「わかりません」

 

「わからないって、貴方兄さんを診たのでしょうっ! だったら何かあるはずじゃない!?」

「確かに私は志貴さんを診ましたけど、あの時はアレ以上の成果は認められませんでしたし、だから私としましてはアレ以上の事は分からないんです」

 

「見落としはなかったの?何か重要な事が見れていなかったんじゃないかしら?」

 

「私が行ったのは問診です。ちゃんとした設備を使って見ることもなくはないですけど、あの時は私の目からしても、あの事以外に志貴さんの負担になるようなことはありませんでした。秋葉様だったら何か分かるんじゃないんですか?」

 

「……」

 

 あくまで淡々と対応する琥珀に秋葉は志貴の手を握りながらも苛立ち混じりの視線を寄越すが、琥珀には通用しなかった。しかし、琥珀の口にするあの事に心当たりがあるからか、それとも秋葉自身分かっていないのか、口を閉ざす。それほどまでにあの事は、秋葉にとって軽視すべきものではない。それを知っているからこそ、琥珀は秋葉の気持ちを悟っていた。

 

「あの」

 

 一瞬生まれた室内の空白に、翡翠の揺れる声が入り込んだ。

 

「志貴様は、大丈夫なんでしょうか」

 

 息苦しくも眠る志貴の顔を一心に見つめながら、翡翠は答えを求める。だが、秋葉には何も言えない。原因は分かっているのだ。それを断たなければ、何も変わらない。

 

「取り合えず今は落ち着いています。衰弱していますけど、それ以外には主だった変化は見えません。けれど、よかったです。不幸中の幸とでも言いますか、寝ゲロ「琥珀」……寝ながら嘔吐していたら吐瀉物が気管を塞いで窒息していた可能性がありましたし、直ぐにでも起き上がって吐いたのはナイスな判断でした」

 

「翡翠が兄さんを起き上がらせてくれたの?」

 

「いえ……私は何も、出来ませんでした」

 

 翡翠の表情に悔恨の色が浮かぶ。しかし、翡翠が何も出来なかったわけではない。翡翠は苦しむ志貴の手を握りしめ、懸命に声をかけ続けていたのだ。琥珀や秋葉には室内に入りこんだ時には、取り乱しながらも志貴の名を呼び続ける翡翠がそこにはいたのだから、何も言えない。

 

「……翡翠、兄さんはどんな感じだったの」

 

「はい。……志貴様を起こそうとお部屋に入ったのですが、眠りながら志貴様は魘されていたようで、それで、私どうしていいのかわからなくてお声をかけたのですけど、そしたら志貴様が突然叫びだして」

 

「悪い夢でも、見たのでしょうか?」

 

「分かりません。けど、苦しんでいる志貴様を見てられないから、私、志貴様に声をかけ続けていたら、突然、目を開いて、私を見たとき、何かに取り付かれているような目を為さっていて。次の瞬間には吐いてしまわれました」

 

「……分かったわ。ありがとう、翡翠」

 

 秋葉の礼に、翡翠は力なく首を振った。実際翡翠は無力感に苛まれている。苦しんでいる主人を前に、翡翠はその苦痛を取り除く術を持っていなかったのである。それを仕方のなかったことだと、割り切れるほど翡翠は人間が出来ていなかった。そんな翡翠を見ながら、琥珀は苦笑を漏らしたのだった。

 

「でも、何かに取り付かれたようにって。兄さんは何を見たのかしら」

 

「んー、案外夢の続きだったりするかもしれませんよ?起き抜けに脳が混乱して夢なのか現実なのか分からなくなるような」

 

「……実際に兄さんの話を聞かなければ、何も分からないわね。琥珀、それに翡翠。今日は学校を休むわ」

 

 それは唐突な言葉ではあったが、琥珀と翡翠にはそれが自然に思えた。

 

「よろしいのですか?」

 

 しかし、それでも琥珀は聞かなければならないのである。秋葉は遠野のトップでありながら、未だ学生の身である。やるべき事は多く、見なければならない報告書はごまんとある。ただ、それでも。

 

「構わない。それにこんな時でないと兄さんと長くはいられないから」

 

 家族と言っても互いにそれぞれの人生があり、それは二人が共に過ごす時間をとことん奪っていった。今となっては秋葉は遠野グループ総帥であり、また県外の高校へと通う身である。本来ならば、寮に入る事が原則的なのだが、ただ兄と共に過ごしたいから少しでも多くの時間を確保したかった秋葉の努力により、秋葉は特別に自宅からの通学を許されたのだった。

 

「かしこまりました。それでは学校へは志貴さんとご一緒に一報入れときますので」

「ええ」

 

 懸念は募る一方であり、それを拭える一考に志貴の回復を待たなければならない。志貴の事は、心配だった。秋葉は昨夜琥珀に言われ屋敷を離れなかった事を正しかったと認識し、今この場に入れる事に少しの安心を覚えたが、それは増す不安に押しつぶされるばかりで、ただ秋葉は志貴の手を握りながら、言葉を紡いだ。

 

「早く目覚めてくださいね、兄さん。秋葉はいつも兄さんの心配ばかりしてるんですよ」

 

 その顔は憂いを湛えながらも、僅かな苦笑を浮かべるのだった。

 

 そんな秋葉を見つめた二人は互いに見つめあった後、琥珀は笑み、翡翠は頷いて部屋から退室していった。

 

 □□□

 

「それじゃ翡翠ちゃん。秋葉様のスケジュールを見直しておいて。私は志貴さんの学校に電話をしておきます。今日は志貴さん寝ゲロしたので休みますって」

 

 退室した後、二人は歩きながらもそれぞれ今日の予定を確認していた。秋葉が学校へと赴かないのであれば、そのスケジュールも整合しなければならない。遠野の中心は言わずとも秋葉である。そして普段秋葉は県外への高校で学んでいる事から、その時間帯を拘束されている身だった。緊急の事態が起これば解放される事になっているが、そのような事にならないよう秋葉は執務をこなしている。しかしそれでも当主として動く時間は短い。その為秋葉は寝る間を惜しみ、朝早く起きる事でそれを解消している。

 

 だが、今日は別である。秋葉は恐らく一日中いるのだからその分だけ仕事を行える。故に仕事を一息に終わらせてしまおう、と琥珀は画策しているのだった。

 

「はい。私は館内の清掃などを。姉さんはどうするの?」

 

「取り合えず時南先生の所に行ってみて相談しようかと思ってるんだけど。と言うか翡翠ちゃん寝ゲロはスルーですか」

 

 いつの間にそんなスキルを、と琥珀は若干の驚愕を覚えるのだった。

 

 時南は琥珀がかつて世話になった医学の師匠である。全うな医者ではないが腕は確かであり、そこで琥珀は医療の知識を身につけた。先代当主の方針だった。薬を調合する腕も姉弟子に学び、今でも参考になることは多いだろう。

 

「わかったわ姉さん。いつ頃行くの?無視なんてしてません」

 

「そうですねー、あんまり早くても相手にされないでしょうから昼頃に行ってみようかしら。それまでは屋敷の事もやっておくから安心してね?くれぐれも私のいない所で料理しちゃ駄目よ?そう?だったら嬉しいわ」

 

「分かりました。料理に関しては頷きかねます。ただ何を言っても無駄だと思うので」

 

「ちょ、翡翠ちゃん酷い」

 

 よよよ、と琥珀。そんな何気ない遣り取りが、二人のスタイルだった。琥珀の口調は明るい。自分を元気付けるためだと、翡翠は考えるまでもなく分かっていた。

 

 翡翠は姉である琥珀を大切に思っている。双子だから、というのもあるが、感情表現を得意としない翡翠の代わりに琥珀は良くしてくれていた。それを申し訳ないと思うのは、仕方のない事だろう。けれど、それでも琥珀の仕草を見ていたら、翡翠はほんの少しだけ険の取れた表情となるのだった。姉は偉大だとつくづく思う。

 

「あ、それと時南先生に行ったら少し帰ってくるの遅くなるかも」

 

 それを聞いて、積もる話もあるのだろうと、翡翠は一人で納得した。ならば動かなくてはならないと、翡翠は自分がすべき事を考え始める。今現在、未だ朝である。やるべき事は多い。実質三人で今の屋敷は動かされているので、一時の停滞は回避すべきである。時間の出血はよくない。と言っても、翡翠は清掃などの雑務以外は行えないのが現実だ。やはり人手不足である。翡翠しか館内の清掃、書庫整理を行える人物がいないのが現状だった。故に翡翠は今日の日程を脳内で構築させていく。

 

 だが、その思考の連続には必ず志貴の姿が見えた。

 心配だと、心から思う。

 

「姉さん。志貴様は、大丈夫なの?」

 

 それは先ほども聞いた事だ。けれど、やはり心配なものは心配なのだ。

 琥珀は翡翠のそんな姿を見て、仕様のない子だと柔らかさを笑みに馴染ませた。

 

「多分大丈夫。一時軽いショック状態にまで行ったけど、今は回復に持ち込んだ。楽観視は出来ないと思うけれど、でもそこは翡翠ちゃんの出番よ」

「私の?」

 

 いきなり自分が話しに出てくる事で、翡翠は目を見張る。

 

「そう。志貴さんが苦しんでいるなら側にいて、それで助けてあげなくちゃ」

 

「……でも、どうやって」

 

「苦しんでいる時、誰かが側にいるだけで安心できるのよ。手を握ってくれる人がいるだけで、それで充分。あとは何をしてほしいのかとかを気を使って見抜く事ね」

 

「……でも、秋葉様が」

 

「ううん。秋葉様だけじゃなくて翡翠ちゃんもいなきゃ。それに身の回りのお手伝いをするのが翡翠ちゃんのお仕事なのよ。二人で支えないとね、病気の人は不安になっちゃうものよ」

 

「……」

 

「それにしても、志貴さんは本当に大切にされてるなあ」

 

 ね、と琥珀は笑んだ。

 

 あまりに自然な笑顔だった。

 

 そのあまりに自然な笑顔に、翡翠は何も言えなくなった。

 

 □□□

 

 一人。

 それを自覚する事がある。

 

 琥珀は現在屋敷内の庭に広がる落ち葉を愛用の箒にて掃いていた所だった。太陽は朝を温めてから天上へと昇り始めている。日差しは柔らかく、それでいて不快でもない。洗濯物も大いに乾くだろう。今頃は翡翠が今朝方洗われた洗濯物を干しているかもしれない。

 

 時刻は昼に差し掛かろうとしていた。朝の慌しい一面から離れ、何気ないいつもの時間が過ぎていく。

 

 違いがあるとすれば今の時刻に屋敷内に秋葉がいる事。そしてこの屋敷の長男がいる事だろうか。

 

 二日前、勘当扱いを受けていた遠野の長男、志貴がこの屋敷に戻ってきた。

 

 先代当主が亡くなり、当主の娘である秋葉が当主となってから決められた事だ。先代当主が決めた事を変えてもいいのかと、屋敷に住む親戚たちが抗議を行ったものだが、秋葉はそれを実力にて叩き伏せ、正論によって自らの主張の正当性を述べ、それでも反感を抱く者共を追い出すと言う強引さで志貴を屋敷へと連れ戻した。かなりの無茶だった。

 

 それでも志貴と暮らしたいと言う秋葉の願いの強さを推して然るべきだろうか。

 

「まあ、私もお手伝いしたんですけどね」

 

 誰にともなく、琥珀は呟く。

 

 秋葉の願いを叶えるため、琥珀は色々と手回しを行ったのだ。渋る親戚の身辺を調べ秋葉に渡し、秋葉には言えないような手も使った。

 

 元々、親戚と秋葉の仲は悪かった。それゆえ秋葉は当主となり、徐々に親戚を追い出していったのだ。それが加速した原因が志貴であった。

 

「本当、秋葉様は志貴さんを大切にしていらっしゃいます。大切というよりも、いなくなる事を怖がっている感じでしょうか」

 

 琥珀は見逃さない。長い間屋敷で暮らした相手である。それを琥珀が分からないはずがない。故に琥珀は秋葉の願いを叶えた。秋葉の願いを叶えるためにさり気無いバックアップを行ってきたのだ。

 

 それが功を奏し、今志貴は遠野にて過ごしている。秋葉は今の生活を良しとしているし、翡翠も嬉しそうだ。琥珀としても手伝った甲斐があるというもの。

 

 しかし、その秋葉が果たして何故其処まで志貴に固執しているのか。琥珀には何となく察しがついている。秋葉は喪失を嫌う。自分のものがなくなる事を恐れている。殊更心を許すような相手に恵まれなかったのもあるだろうか。幼少から回りは大人だらけで、遠野に相応しい人間になるように言われ続けたと聞いたことがある。それゆえにいらないものばかり押し付けられて、本当に欲しいものは中々手に入らなかったのだとか。

 

 だが、それも今となっては志貴と共に暮らせているのだ。その志貴も今の暮らしをどう思っているのかは分からないが悪い気はしていなさそうだ。実情は分からない。今度それとなく聞いておくべきだろうか。

 

 本当に、全てが上手くいっているように思える。

 

「……」

 

 日常の最中に突然として誰もいない場所、あるいは誰かがいるはずなのに一人ポツンといる事がある。料理をしている時、庭で植物を育てている時。温かな空間の中、誰かが、例えば秋葉が側にいるのに、ポツンと。隙間の時間とでも呼ぶべき、そんな瞬間だ。

 

 そのたびに琥珀はそれを誤魔化す事も紛らわす事も行わない。それは無意味だと、笑う。

 

 自分は一人だ。自分はたった一人なのだと、それを撤回する事に意味は無い。例えそれを改善したくて明るく誰かと会話をしても、一人であることに変わりはないのだ。

 

 それを、琥珀は抱えている。

 

「そういえば、そろそろでしょうか」

 

 自然と、琥珀の握る箒の柄に力が込められる。ぎりぎりと、力が次第に強くなっていく。

 

 屋敷の中、今秋葉は何をしているのだろうか。志貴の面倒を見ているのだろうか。翡翠は志貴の汚したシーツを干しているのかも知れない。何となく、であるが屋敷の中心が志貴になり始めている。取り合えず皆幸せそうだ。

 

「―――――――――――」

 

 幸せそうだ。何かを排他して、誰かを忘れようとして、皆動いている。

 それを思うと、自分が一人なのだという思いが強くなっていく。

 

 志貴。

 

 あの人がいるだけで、光が強くなっていくような気がする。それは遠野の屋敷を照らし出し、皆を幸せにする。

 

 ただ、それゆえに。

 

「あの人と、会うなんて」

 

 琥珀は笑みだ。しかし、その表情の本質は笑みとは異なる。笑みと呼ぶにはあまりに陽性を放たない、おぞましいまでに笑みである。

 

 琥珀は志貴に対し、これといった複雑な感情は抱いていない。そもそも琥珀には琥珀なりの目的があるから秋葉に賛同し、志貴を屋敷へと呼び寄せた。

 

 その目的には志貴の存在が必要不可欠で、だからこそ志貴をきちんと扱っている。

 目的がなければ、そもそも関わる事もなかっただろう。

 そうでなければ、何故関わろうだなんて思う。

 あんな、人と。

 

「――――――――――」

 

 光も当てられない闇は次第に濃くなっていく。

 

 だから琥珀は箒を胸に抱いた。

 強く、強く。琥珀だけは、一人だと。

 

「時間、かな」

 

 たった一人の、あの人を思う。

 焦がれぬ刹那など、ありはしない。

 

「待っててね、朔ちゃん」

 



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第七話 人殺の鬼 Ⅰ 

 とある男の話をしよう。
 
 ただ殺すために生れ落ち、それゆえに血に塗れ続けた男の物語を。


 七夜朔は自らを人間と思っていない。

 

 人間であるはずがない、とさえ思っている。

 そう確信し、確証している。自分は人間以外の何かなのだと、思い込んでいる。

 

 何故なら、彼には望みがなかったからだった。

 

 夢がない。希望がない。理想がない。目的がない。理由がない。価値がない。意味がない。

 そして、生きようとする渇望もない。

 

 彼の中身には何も注がれる事がなかった。七夜朔という器には彼以外から注がれる意というものが何もなかった。彼には何も注がれなかった。

 

 それを是とも思わず、また非とも思わない。

 

 彼には彼のものしかなかった。彼が自ら抱いた願いしか、なかった。

 

 故に、彼は人が理解できない。他人から影響されず生きてきたものが、他人を理解できるはずがなかった。そうして彼は呼吸を続けてきた。

 

 だから、七夜朔は自分を人間だと思っていない。そんな上等な生物である、はずがない。

 もし、彼が人間であるはずならば、彼は人間の感情を理解できるはずだった。

 

 無上の至福に歓喜し、腸の煮えくり返る憤怒を抱き。

 悲嘆に声を上げて絶望し、幸福に唇を噛み締めて涙を流す。

 

 そのような事が、彼には理解できず、共感できない。

 それを彼は不幸と思わなかった。何故なら彼は幸福がどういうものかさえ理解できないのだ。

 そんな存在が、果たして人間であるはずがない。

 

 だから彼は機械だった。自らが持つ機能のままに動き、結果を生み出すだけの機械。ただ無情に、ただ無機質に、己の持つ機能のままに動く。そんな精密機械でしかなかった。

 

 そして、七夜朔の機能とは殺す事だった。それだけが彼の持ちえる唯一で、全てだった。

 

 それ以外を持つことなく、理解する事もなく、ひたすらに殺意を研ぎ澄まし、研鑽を重ねた。内臓を握り潰し、首元を打ち砕き、喉笛を噛み千切り、心臓を抉り出し、脳髄を撒き散らす。それだけが彼にできるたった一つの機能だった。

 

 そして彼の足元には屍が積み上げられ、血だまりの海が広がった。

 彼の周りに生者はおらず、亡骸が道を成した。

 

 そんな者が人間であるはずがない。人間でいいはずがない。

 

 彼はきっと侮蔑と嫌悪に塗れ、畏怖と恐怖に溺れ、憎悪と害悪に歪み、全ての負に晒される。人間を理解できず、共感も出来ず、ひたすらに殺戮を続ける彼が、人間でいいはずがない。それを果たして人と呼ぶべきか。そんな存在が、まるで化け物のような存在が、人間と呼ばれるべきか。

 

 彼はきっと化け物のような化け物なのだろう。

 それ以外にはなれない。それ以外には、成れない。成り果てるしかない。

 

 故に、彼は――――。

 

 □□□

 

 昨夜と今朝の狭間の時間。それは目蓋を薄く開いた。

 

 鉄骨に身を委ねながらも、虚空を思わす深く静謐な瞳はゆれることもない。僅かに届く人工の光も入らぬ埃っぽい暗がりに、虚空を思わすその蒼色は煌々と輝いていた。左肩から不自然に垂れ下がる中身の無い袖。妙に違和感を感じさせぬ出で立ち。

 

 そこは街中にあるどこにでもあるような工場現場だった。乾いた空気が白色の布に覆われた工場現場の中に渦巻き、淀みすらも開かれた天蓋へ吹き飛ばしていく。

 

 そんな場所に人はあまり来ない。来たとしても、今の時刻。従業員すらも立ち寄らぬ深夜に人は侵入してこない。用もない者が好き好んで立ち寄る事もしないような場所である。

 

 男はそんな場所にいた。藍色の和装に身を包み、中身の無い左側の袖を揺らしながら、その男は布を被ることなくこの工場で一眠りした。冬に移行する秋の夜を過ごすには、少しばかり肌寒い時機であるが、男はそのようなものには影響もないように、そこで眠りについた。

 

『よウ。ひひ、目醒めたカ、朔』

 

 そのままその場にて動かない男、七夜朔に対し、頑健な工場の鉄くずが声帯を持ち、口を開いたかのような金属の悲鳴にも似た声がかけられた。

 

 七夜は反応しない。響く声にも、声と呼ぶにはあまりに不快な軋む音にも、まるで聞こえていないかのように反応しない。ただ、そのような事は分かっているのか、金属は引き攣る笑いを堪える事もなかったのだった。

 

『ひひひ……』

 

 けたけたと、金属は愉快に笑う。

 

 工場現場には七夜以外の人間は見えない。それ以上に生物の気配がなかった。害虫や、害獣。それらが一切その現場にはいない。ナニカの存在を感じ取り、近づくのを嫌悪したかの如くに。

 

 故に、そこには金属しかなかった。真っ白な布。朽ちた金属。欠けた鉄骨。

 

 そして、打ち捨てられたように地面へと放り出された日本刀のみである。

 

 鞘に収められた日本刀は七夜の手元に置かれているのではない。七夜からは離れた五メートル以上の場所、それこそ投げ出されたように、それはある。

 不可思議な事に、黒漆塗りの鞘は数枚の札と数珠が巻かれ無理矢理何かを抑え込んでいるかのような印象を与える日本刀だった。これと言って刀を特徴付けるものは鞘に収められているからか見られない。 

 

 ただ一つ、それを何かと現すので在るならば、柄に骨喰(ほねばみ)と銘が刻まれているだけであった。

 そして、日本刀――骨喰は如何様な怪異か、その収められた刀身から軋むような声音を発するのであった。

 

『で、だァ。約束は今日らしいな。ひひッ、勝手なもンだ』

「……」

『朔。手前はどうすル。行くか、行かんのか』

 

 そのどちらを選択しても面白いと、骨喰は言外に囁く。どうせ俺たちには、個人には関係ないのだと、骨喰は笑った。

 

「――――」

 

 考えるまでもなかった。七夜は七夜のままで動く。誰の意志でもなく。自らの意志で。

 

 体を動かす。半端な体勢によって眠りについていたせいか、体の筋肉と関節が僅かばかりに固まっていたが、それを無視する形で立ち上がる。動きに淀みはなく、ゆらりと立ち上がった。隙間から差し込む明るい光が七夜を映し出す。

 

 温もりなく、感情も宿さぬ蒼の瞳。

 深く深く、空を思わすその蒼は、なおも蒼く輝く。

 

 そして、立ち上がるその右腕から、未だ乾かぬ朱の色が肌を伝い、錆色に垂れた。

 

『血ぐらイ拭え。獲物に餓えた獣ガ這い寄って仕方ねエ』

 

 垂れる血は溜まり、やがてソレに伝っていく。

 朔の前方。蒼く全てを映し出すような瞳の中に、ソレはあった。

 

 着物を纏った、白髪の男がそこで倒れ伏していた。投げ出され手足は強ばり、髪の隙間から見える表情は瞳を閉じながらも驚愕を張り付かせている。

 

 呼吸はしてない。

 心臓は、ない。

 

 深夜の始まりに、朔は何かを殺した。ナニカの存在が放つ気配、人外の匂い。魔の匂い。人間とは相容れぬ者の匂い。それらを感じ、朔は名も知らぬ、それが一体何なのかさえ知れない存在の心臓を抜き取り、握り潰した。

 

 その存在が何なのか、朔にとってはどうでもいい。今となってはどのような事を口にしていたか覚えていない。心臓を完膚なきまでに破壊した後、死体はそのまま放置した。それは朔の役割ではない。それは考慮する事ではなかった。その様な事、朔にはまるで関係のない事だった。

 

 アレを殺す理由すら、朔には持ち合わせていなかったのだ。

 

 しかし、朔は殺した。

 

 完膚なきまでに心臓を破壊した。心臓を握り潰し、破裂する心房を磨り潰し、千切れた肉片と化すまで握り続けた。

 

 もし、七夜朔に理由があるとするのならば――――。

 

『オい、俺を忘れてンじゃねえ』

 

 骨喰の言葉を朔は無視しながら、歩み始める。

 

 そして死体だけが残された。

 

 右腕を血流に赤く染め、地面に血痕を残しながら、勇気の如くにゆらゆらと歩むその姿。

 

 ――――その姿は、殺人鬼以外の何物でもない。

 

 頭上、開かれた天蓋。

 そこに、月はなかった。

 

 □□□

 

 日ノ本の国とは魑魅魍魎たる者の巣窟である。

 

 人が存在するからこそ、人とは対極的な魔も存在する。その関係性は喰うか祓われるかのものであり、極僅かに人間社会との共存を果たす魔もいなくはない。国としての気質とも言うべきか、周囲を海に隔離され、その国土の殆どが山であるため、古来に産声を上げた怪異はその独自性を保ち続けた。それ故に他の魔とは一線を書く者が多い。それ故に日本は独自の組織形態を形成し、それらに対抗してきた。

 

 退魔、と呼ばれるモノがいる。彼らは悪霊、あるいは怨念と言ったものや、果ては物の怪と称される存在に対応するものたちである。彼らは祓い、封するものたちであり、其処が殲滅を是とする教会とは異なる。更に行ってしまえば、彼らは魔の存在を考慮し、受容している部分さえある。それが教会と、日本の退魔が折り合わない根本の理由だった。

 

 神の教義では対応できぬものへの絶滅を第一とする教会と。

 人間の生活を守るための手段として魔に相対する退魔。

 

 彼らはそもそも目的が違っているのだから、反りが合わないのは道理である。

 

「……」

 

 其処は香辛料の香りが満たされた店内であった。スパイシーかつエスニックな香りが鼻腔をくすぐり食欲を誘う。時間は昼時であるから、店内には人が多い。中々繁盛している様子だ。なればこそ、早めにいて良かったと、シエルは改めて思った。

 

 店内の奥、一番端のテーブル席であり、そこからは硝子越しに店外の道なりや行き交う人々が良く見える。そこでシエルは片手にスプーンを握りしめ、黙々と真剣に、それでいて笑顔を惜しみもせずにカレーを口に運んでいた。

 

 食事中である。シエルはここ、メシアンのカレーを食していた。

 

 一人でカレーを食し、一口食べるごとに笑顔を零すその姿は料理人冥利に尽きるやも知れないが、一人っきりで食べているのにその満面の笑みは少々不気味ですらある事を今ここに記しておく。しかしながらシエルはただひたすらにカレーを食していた。

 

 目の前にカレーがあるのにそれ以外を優先させるのはカレーに対しての無礼である、とさえ思っている彼女はカレーを食している間、他の作業を行う事を良しとしない。嘘偽りなく、自分の全てをカレーに対して曝け出す。それはあたかも神に跪く聖職者の如く。

 

 そんな彼女の仇名はインド。正しく彼女を表した名であろう。

 

 だがこのような時間帯。食事時の頃に制服姿のシエルがいるのはあまりに不自然なようにも思える。それでいて彼女は西洋人。注目の的にならないほうがおかしい。

 

 しかし、事実はどうだろう。

 

 周囲の人々、そろそろ満席となり始めた頃に、彼女の座るテーブル席には相席する者もおらず、誰も彼女を見ていない。それどころか、誰も彼女に気付いてすらいなかった。

 あまりに不自然だ。一種異様とも呼べる。

 

 だが。

 

「失礼。相席をしても?」

 

 シエルに近づく男がいた。

 

 男は少し寄れた背広を着こなし中肉中背の男だった。穏やかな表情に銀縁眼鏡をかけた、何処にでもいるような姿の男だった。一見してサラリーマンが食事に来たような、そんな気軽さと気だるさを醸し出した男である。

 

「ええ、よろしいですよ」

 

 そして、それにシエルは眉を潜めることなく微笑で応えた。

 

 シエルの言葉に男は「よっこらせ」と零し、シエルの対面の席に座る。

 

 それから暫く二人は無言だった。二人のいるテーブルはまるで周りから切り離されたかのように喧騒が遠い。男は何も喋らず、ただ口元を緩めてシエルを見つめ、シエルはそんな男を気にすることなくカレーを堪能していった。カレーの盛られた皿が綺麗になり、そこで一段落したのち。

 

「驚きましたよ。教会の、それも埋葬機関の人間が日本の退魔に正式に接触してきたなど」

 

 口元をハンカチで拭きなおすシエルに、男は声をかけた。

 

「ええ。私も少々驚いています。けれど機関長の命令なので、命令には従わなくてはなりません」

「そうですね。私も上からの指示には逆らえません」

「お互い、苦労していますね」

「全くです」

 

 上辺だけの言葉を互いに並べる。

 

 しかしながらその苦労は推して図るべきだろう。上司に苦労する部下の構造は何処に行っても同じと言う事だろうか。二人は全く同時に己の上司を思い浮かべ、そしてため息をついた。

 

「埋葬機関第七位シエルです。今回は協力要請にお応えくださり感謝します」

「私はこの一帯を纏める退魔の人間です。今回は教会の協力要請に答えるため、ここへ」

 

 二人は、所謂日の目に当たることなき世界に属する両者である。世界には表に出すべきではない闇がある。それを殲滅し、撃滅し、封殺し、隠蔽する事が二人の仕事でもあった。そしてシエルは教会の暴力である埋葬機関に所属する者であり、今回は日本へとある存在の討伐に赴いてきた。

 

 基本的に教会は他の退魔組織に関し協力を要請することなどない。そも、彼らすら教会の教義に従わない異端である。そのような存在に対し、協力など結べるはずがない。だが、今シエルはここにいて、退魔はその目の前にいる。

 

「しかし、何故制服なのですか?」

「潜入していた学校から抜けてきて直接ここに来たので。着替える暇がなかったのです」

 

 シエルの言葉に、男の表情が僅かに曇る。

 己の管轄を他のものが勝手に潜入し探りを入れているなど、決して良い感情は与えないだろう。

 しかし。

 

「それはあまり他の者には言わないでくださいよ。手続きやら工作が増えて仕方がありません。最近はただでさえ忙しいのですから。強硬派が挙って行動を始めたら胃が持たない」

 

 気苦労を吐くように、男は肩を落とす。

 

「すいません」

 

 悪びれもせずにシエルは言う。その姿に男は更にため息を吐くのだった。しかし、その対応は、シエルの行動を黙認すると言う事に他ならない。なるほど、とシエルは男を見る。組織としてではなく、役割としての実を取る。中々賢しい人間であるようだ。

 

「しかし、ここにいるという事は協力関係を結んでもいいということですね」

「ええ。中央の命令には逆らえません。それに今は協力してくれたらありがたいです」

「今は、ですか。それは最近の吸血鬼騒動ですか?」

「まあ、それもありますが」

 

 どこか歯切れ悪く、男は肯定を示す。

 

 ここ数日。この三咲町一帯で吸血鬼騒動と称される事件が巻き起こっている。それは被害者の首元に日本の穴があり、そこから血が抜き取られているというものであり、被害者の数は増加の一途を辿る。マスメディアや警察では愉快犯の犯行と見られ調査が進められている。

 

 しかし、それは表での話しだ。

 

「吸血鬼が登場してから行方不明者の後が絶ちません。今は表沙汰になっていませんが、しかしこのまま犠牲者が増え続ければ、大変なことになります」

 

 吸血鬼は実在する。いや、正確には吸血種と呼ばれる存在は確かにいる。

 

 そして今、三咲町を騒がす犯人の正体は吸血鬼。

 

「正確な数は?」

「五十は下らないかと」

 

 情報では死者ばかり報道されているが、しかし実際は行方不明者の数が増加してる事が問題だった。現在は情報規制を行い、混乱を防いでいるが、もしそれが表沙汰になってしまえば三咲町は恐怖の町として恐慌状態になる可能性がある。余計な混乱を防ぐためには致し方ない事なのかも知れないが、住民の安全を確保するためにはある程度の情報は流すべきではないだろうか。

 

「公表は現在不可能です」

「え?」

「情報規制を行っているのは私たちではないのです」

 

 思っていることを当てられ、シエルは思わず声を漏らす。

 表情を全く変えていなかったのに、この男はシエルの疑問に答える。

 

「では、誰が?」

「遠野です」

 

 そこで、男はカップに注がれている水を口元に傾けた。

 溜飲を押さえ込めるように。

 

「現在三咲町では退魔と遠野の協定が結ばれています。なので三咲町のことに関して表も裏にも名がある遠野がそこらへんを纏めているのです」

「ですが、それでは住人の安全はどうなるのです」

「今現在、起こっている事に関しては何とも言えません。確かに報道を規制する事で無用な混乱を防ぐ事はできます。しかし、それでは安全ではないのです。どれほど隠そうとも危険には変わりありません。だから私たちは誰にも知られる事なく人々の安全を守らなくてはなりません」

「そうですか。……遠野は何故その様な事を?」

「さあ。現在の当主である遠野秋葉の決定らしいですが、詳しくは分かりません。しかし、私たちのやることに変わりはありません。ただ私たちは原因を取り除けばいいのです。所詮末端でしかない私にはどうでもいいことなんです」

 

 所詮上が何を考えているかなんてどうでもいい。

 ただ実を取り、ひたすら命令に従う。

 それはまるで軍人のような意志であった。

 

「……」

「ああ、そうだ。シエルさん。吸血鬼に関して、何か情報はありませんか?お恥ずかしい限りですが、私たちは対応に追われる一方で犯人像……犯鬼像を掴んでいないのです」

「ある程度、ならですが」

「それは話しても差し支えのない内容ですか?」

「未だ憶測でしかないようですので、教えても問題はないかもしれません。しかし、それを聞くと言う事は協力していただける、という事ですか?」

「……私に確約できる事は情報の共有ぐらいでしょうか。共闘となれば難しいかもしれません」

「それでもかまいません。情報だけでも充分かと」

 

 男は暫し黙考する。そして「協力しましょう」とだけ言った。

 

 そしてシエルは己の考えである犯人像をつかませない程度の情報を話す。全てを話すには信頼と言うものがあまりに足りない両組織である。男もそれは分かっているだろう。何も言わずに頷くだけで、深くは追求しなかった。しかし、シエルの人柄ゆえに、ほんの少しだけの確信にも似た憶測を言葉にする。

 

「もしかしたら、犯人に遠野の人間が関わっている可能性があります」

「それはつまり、遠野が犯人であると?」

「いえ、それは尚早です。ただ、可能性での話です」

「何故、そう思うのですか?」

「遠野が情報に関わっている、というのも一因ですが。あとはそうですね、勘、でしょうか」

「……」

 

 シエルにとっても、男にとっても勘というのは意外と馬鹿にならない。それは魔に関わる二人だからこそ分かる、常識外の力であった。ただ、シエルにとって違うとすれば、それは感でなく、確固たる理由があるからこそ。そして犯人の特徴が分かっているからこそ。

 

「分かりました。それとなく遠野に探りを入れておきます」

「よろしくお願いします」

 

 そこで話し合いは暫しの落ち着きを見せた。気付けば時間は少々経ち、人が少なくなり始めている。その流れに身を任せることはない。何故ならシエルには学校へと戻る理由がやってきていないし、何より目の前の男に対し、もうひとつだけ聞かなければならないことがあるのだ。

 

「もうひとつ、聞きたいことがあるのですがよろしいですか?」

「かまいません。時間にも余裕があります」

「はい、それでは」

 

 そこでシエルは一端言葉を区切る。

 

「七夜朔という人物をご存知ですか?」

 

 瞬間。恐らく七夜の名が飛び出た時、男の表情が一変する。それまでの表情、まとう雰囲気とは打って変わる。凍えるような無表情。気軽さ、気だるさは掻き消され、銀縁眼鏡の奥にある瞳はひたすらに冷たい。氷のような、瞳だった。

 

 あるいは、この表情こそ彼の真実の顔なのだろう。今までの表情は全てがフェイクであり、しかしその仮面の内側には怜悧が湛えられていたのか。

 

「どこで、その名を?」

 

 慎重に、あるいは荒を探すように、男は言葉を選ぶ。

 

「冬木の報告書から。私たちの部署の物好きな機関長にその内容が目をつけられたのでしょう。私も少しだけ目を通しましたが、詳細が全く掴めないのです」

「蟲翁(むしのおきな)の件か……」

 

 舌打ちを一つ。

 

 とある異変がここ数年の内、日本で起こった。

 

 妖怪、蟲翁が討伐されたのである。

 

 蟲翁とは、かつての資料によれば西洋より日本に渡った魔術師の一族の妖怪だった。それが時を重ね、その体を蟲に組み替えた事により各地の人間を襲い始めたのである。魔術師であることもおこがましいものだと言うのに、ただの人を襲い始めたのは許されざる事ではない。

 

 それ故幾度となく討伐隊が組まれたのだが、悉く撃退され、殲滅された。肉片すら残されずに、討伐隊は蟲翁の腹に収まったのである。そのあまりの非常識さ、強大さ、狡猾さに、ここ数十年蟲翁は放置されてきた。

 

 しかし、それが討伐されたのである。

 

 そして、討伐した人間が七夜朔という存在だった。

 

 七夜朔の存在が教会に知らされたのは、とある報告書だった。その近辺を纏める教会の男、蟲翁の討伐に共闘した男が記した報告書が、気まぐれを起こした埋葬機関ナルバレック女史の目につけられたのである。あるいは、共に性格の悪さに評定のある二人が何らかの縁を生み出したのかも知れないが。

 

「流石に、教会の人間への隠蔽は不可能だった。という事か」

 

 苦渋を舐めるように、唸りが漏れる。

 

「あなたは七夜朔を知っているのですか?」

「……」

「教えていただけますね?」

 

 念を押すシエルの言葉に、男はくぐもる。

 

「だが、それは――――」

「情報の共有」

 

 口元を濁そうとする男を、シエルは逃がさない。

 

「貴方は先ほど情報の共有なら可能だと、言いましたよね?」

「……それは今回の吸血鬼事件に関することだけだ。それ以外の情報を提供する事は認められない」

「認める認めないの問題ではありません。あなたが七夜朔を知っているかどうかです」

「……」

 

 そして二人は見つめあった。若干の敵意と、疑念を秘めた視線。シエルの瞳が、僅かに煌く。それは美しさを湛えながら、空洞のように怪しく揺らめく。

 

「強引だな、教会の人間は」

「ええ」

「傲慢だな、埋葬機関は」

「はい。それに関しては自負があります」

「魔眼まで用いるとはね。それも命令か?」

「残念ながら。確実にと言われたので」

「……七夜朔に関しての情報開示は認められない。それは最早中央でも決まっている。私の逆らえるものではない」

「……そうですか」

 

 男は相変わらずの無表情である。しかしながら、その冷たさは少しばかり変質し、若干の呆れを含ませていた。シエルの無理矢理な行動に、ありえなさを見たのであろう。交渉役としての行動ではない。

 

 命令を遵守する。それは末端の役目なら極自然なことだ。当然守らなくては成らないものである。そうでなければ、疾うに切り捨てられる。それは裏の世界の住人であるならば尚更な事だった。

 

「ただ」

 

 そこで、はたと男は言葉を止めた。

 

「中央の情報は駄目だが、私自身が聞いた話だけならば提供が出来る」

 

「……何故、教えてくれる気になったのですか?」

 

 ありがたさよりも先に、疑念がシエルを包み込み、口を開かせた。

 

 情報提供を拒んだ相手が、突然翻意し七夜朔の情報を晒す。あまりに納得のいかない事である。故にシエルは疑りの目を向ける。

 

 それに、七夜朔の情報を提供しても、この男には役得がない。七夜朔の情報はシエルが現在追っている吸血鬼とは別な案件であり、ここでシエルに話したとしても今回の三咲町には全く関係がない。組織は情報の開示を殊更に拒絶する。故に情報を話したとしても、この男の身辺に影が差し込む危険があるばかりで、実利がない。

 

 シエルの疑念を浴びて、男は柔らかく笑んだ。

 

「シエルさん。私は今日、捨て駒にされたのです」

 

 柔らかな仮面。態度が変化していった。厚い、感情を隠す仮面。

 

「埋葬機関の対応とは、恐らく貴方が思っている以上に厄介です。別に敵対していれば問題のですが、埋葬機関(貴方たち)と退魔(私たち)は今まで互いに不干渉を貫いてきた。しかし、欧州を遠く離れたこの極東の地でも教会の暴虐は聞き及んでいます。その横暴とも取れる実力行使と他を省みぬ振る舞いは、日本人たる私たちには脅威以上の恐れすら抱かしたのです。その相手が自らこちらに接触してきたのですから、上は歯噛みしたのでしょう。それ故にどうするかを検討したのです。碌な手続きすら行わずに強引な接触ならば、まだやりようがあった。敵意を剥いた相手には悠然と立ち向かえばいいのです。しかし、現実は正式な手続きを踏んだ接触です。そのような相手を無碍にする訳にはいかない。誠意には誠意を返さなければならない。突っぱねれば良かったのかも知れませんが、悲しいかな日本人の性質は真に度し難いものです。受け入れてしまった。あまりに強大な存在を懐の内にです。でなればどうするかという訳で、選ばれたのが私です」

「……」

 

 埋葬機関が他の組織に正式な接触、しかも協力要請を行ったのは、埋葬教室から始まる歴史においても前例を見ない。彼らが動いた結果は常に事後承諾だった。

 

「今、私の体には爆薬が巻きつかれています」

「なっ――――!?」

「ここら一帯、一キロ以上を地獄に出来るぐらいには威力のあるものです」

 

 シエルの目の前で、男は背広の中身を開く。背広の内側には糊の効いたワイシャツと、それを覆い尽くすように、薄いプラスチックの入れ物が到るところに張り付いていた。背広を着こなしていればまるで分からぬ凹凸のない滑らかな入れ物だった。

 

 その中には特別製の爆薬が納入されている。爆薬とテルミットを複合させたようなそれは猛火と爆炎を徒に撒き散らす代物であり、小規模な街ならば丸ごと消毒せしめる威力を誇る退魔特製の一品だった。

 

「もし、今日ここにきた埋葬機関の代行者が無作法にも実力行使に出るのであるならば、せめて一矢報いる。それが上の消極的な結論です。それ故に、下っ端であり碌な働きもしない私が選ばれたのです。捨て駒として」

「そんな事などして、意味はないはずです」

「そう。意味は無い。しかし、ただでは返さない。必ずや抵抗を行うべし。そんな命令です。どうです?あなたには理解できないかもしれません。けれど、一矢報いる。もしかしたら起こるかもしれないその時のために用意されたのが、私です。どうです、シエルさん。あなたは笑いますか?」

「―――――」

 

 シエルは絶句を、しなかった。

 ただ瞠目し男の言を聞き続けた。

 そして脳裏に映るのはかつて自らが体験した筆舌にし難い地獄だった。

 

「……笑いません」

「……」

「私はそれを笑いませんよ」

 

 そうしてシエルは男が見惚れるほどの笑みを見せつけた。

 

「――――そんな貴方だから、話す気になったのです」

 

 どこか安寧を滲ませて、男は言葉を漏らした。

 

 しかし、男は見逃したのだった。

 シエルの双眸、瞳の奥に覗く影を纏わりつかせた執念の業火を、執着の憎悪を。



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第八話 人殺の鬼 Ⅰ

 そして、遂に彼は一人になった。

 だが、彼はそれを寂しいと覚えることは終ぞありえなかった。

 何故なら、彼は孤独を知らず、寂しさが何たるかを理解できなかったのである。



 響く、鉄を打つ音。

 煉獄の如くに燃えさかる火柱。

 混じる悲嘆と憎悪の怨嗟。怒号が割れんばかりに劈き、幾重にも阿鼻の叫びは木魂する。

 やがて劫火は闇色と化し、それは狂笑に歯肉を晒した。

 

 □□□

 

「七夜朔とは、一概に言えば退魔に類する暗殺者です」

 

 どこか言葉を吟味するかのように、男は慎重に口を開く。

 

 店内は既に昼食時を過ぎたからか、客もまばらに成り始めている。しかし、そうであってもシエルと男が周囲に着目される事はない。テーブル席に展開された認識阻害の結界は少なくとも通常の人間には、この場所は制服の少女とサラリーマン風の男が一緒に食事を取っていると思われるだけで、その話している内容や、二人の組み合わせに対し違和感を抱かせない。

 

「暗殺者、ですか」

「はい、そう聞き及んでいます」

 

 暗殺者。それが意味する事は、七夜朔は純粋な戦闘者ではないという事だった。

 

「けど、退魔の者が暗殺なんて」

 

 シエルは瞬時に疑問を呈する。それは暗殺で、魔に挑む無謀を指摘している事に他ならない。

 魔とは、人間の理が通用しないからこそ魔である。その呼ばれる所以をそのままに一切の常識が通用しない相手である。

 

 埋葬機関に所属するシエルでさえ、対魔専門の純粋殲滅主義である埋葬機関のシエルでさえ勝利の掴めぬ存在は数多といる。そのようなモノに対して暗殺など、結果は見え透いている。

 

「そうです。確かに、魔に対し暗殺を仕掛けるなど、愚劣の極みでしょう」

「でしたら、なぜ」

「シエルさん。物事には、役割というものが在るのです」

「……役割、ですか」

 

 その役割ゆえに、七夜朔は暗殺者なのだと。男は言う。

 

「貴方がこうやって私の目の前に座り、私が捨て駒とされたのと同じように、人にはそれぞれ役割があります。元々、七夜一族とは殺し屋の一族でした。長い間、その業と血統を秘匿させ続け、そして暗殺を成功させ続けることでその地位を確立させてきたのですが、七夜朔はその生き残りです。七夜は混血に対する抑止です。外れた混血を処理するための退魔でした。

 

 朔が確認されたのは、約五年前。その頃から七夜朔の噂が飛び交い始めました。嘘か真か、真贋も確かめられないものばかりですがね。

 

 曰く、殺し屋。曰く、暗殺者。曰く、殺人鬼。曰く、亡霊。曰く、虐殺の輩。曰く、殺戮人形。曰く、最後の七夜。曰く、七夜の体現。

 

 あまりに呼び名が多すぎる。それこそ作為的なまでに。だから七夜朔に対しては判断が難しいのです。噂ばかりが飛び交って、報告書にも名が記されていない。正式には確認がされていない状態です。しかし、七夜朔の存在は私たちの中では既に周知のものとなっています」

 

「……物騒な呼び名ばかりですね」

 

 長の時を経て、己の価値を示し続ける事でその保全を獲得し続けた一族。

 そうなるために、一体どれ程の淘汰を行ってきたのだろう。

 

「依頼されて動くから殺し屋。姿を見せないから暗殺者。対象を選ばないから殺人鬼。実像が掴めないから亡霊。標的以外の全ても殺してしまうから虐殺の輩。一端動いたら止める事が出来ないから殺戮人形。滅びを免れた最後の一人だから最後の七夜。七夜の集約だから七夜の体現。謂れは多く存在しています。しかし、それを確認する事も困難なのです。情報が錯綜していて、どれが真実なのか、どれが真実ではないのか」

「確認できないと言うのは?」

「誰も七夜朔を見た事が無いのです」

 

 すんなりと、男は言う。

 

「見た事が無い?」

「ええ。誰も彼もが七夜朔の存在を知っているのに、誰もその姿を見た事が無いのです。しかしです、確かに七夜朔は存在している。それは間違いありません。事実、彼の所業と思われる惨状は幾つも見つかっているらしいです。ですが、中央がそれを隠している」

「それは、何故です」

「さあ。下っ端の私にはさっぱり。詳細も聞きません。そうせざるを得ない理由が中央にはあるのかもしれません……。ただ、退魔はかつて遠野が七夜を攻め込んだ際、静観したと聞きます。その七夜が復活し、退魔に復権したとなれば中央も何か起こすかもしれません」

 

 シエルの耳に、聞き捨てならない名が入り込んだ。

 

「遠野が、ですか?」

「はい。遠野は七夜を滅ぼした過去があります。その際に七夜は全滅したと、報告があったのですが――――」

「……七夜朔だけが生き残った」

「七夜朔が本当に七夜一族の生き残りかどうか分かりません。ただ、その手腕は本物です。騒がれるほどの腕は確実です。そうでなければ、殺害が不可能とまで言われていた蟲翁の討伐なぞ出来るはずがないのです」

 

 客の入りが減り始めた店内。気付けば店員も近くにはいない。メシアンは喧騒も遠く、二人の座るテーブルはどこか隔絶されたかのように、固い静けさが覆い尽くしていた。

 

「先ほど」

 

 それを気にするでもなく、シエルは懸念を告げる。

 

「七夜朔は混血専門の暗殺者だと貴方は言っていました。でも、それだったら何故混血ですらない吸血種と化した間桐臓硯を相手に動いたのです?相手は二百年以上生きた魔術師で、魔でもある存在と報告書にはありました。しかも、その一族は七夜朔の手によって全員殺されたともあります。貴方が言う役割を考えれば、これは明らかにおかしな事ではないですか」

「……」

 

 七夜の役割が混血に対する抑止、討伐要員であるのならば魔術師であり純粋な魔ですらある間桐臓硯を相手に動く。報告書と男の話を聞いた限り、シエルはその不可解さに首を傾げざるを得ない。

 

 指摘を受け入れ、男は黙考した後。

 

「シエルさん。煙草の煙は平気ですか」

「え、ええ」

 

 突然の申し出に、シエルは反射的に男の言葉を受ける。それを遠慮するでもなく男は無造作に煙草を口元へと運び、着火させた。吸い、そして紫煙が吐かれる。

 

 シエルの視線の先で、ゆらゆらと煙が揺れる。

 

「……憶測、ですが。七夜朔にはある目的があるのだと、私は思っています」

「目的、ですか?」

 

「これは、私だけの考え、というわけではありません。退魔の人間は恐らく似たような考えを持っているのかもしれません。七夜朔は恐らく己の有用性を証明し、自身の立場を確保し、強固にしようとしています。その結果のひとつが蟲翁です。彼が蟲翁を討伐した事により、七夜朔の立場は以前よりも更に磐石なものと化しています」

 

「……何故、そのような事を」

 

「一つは、七夜の復権。退魔組織に七夜を復活させて、その恩恵を確保しようとしている」

 

 かつて滅ぼされた一族の復活を願い動く。それは、長の時を経過させた一族の者という立場を考えるならば、安易に考え出される事だった。そのために、七夜の名を再び知らしめる。滅ぼされた一族、しかも七夜を名乗る存在ならば、僅かなりとも注目を集める。それがどの様な感情であれ。そして、現在裏では七夜の名は公言こそされないが、その存在は周知のものと化している。

 

 ただ、七夜朔の狙いは、それだけではない。

 復権は途上に過ぎないと、男は睨んでいた。

 

「そして、恐らく七夜朔は七夜を復権させ、ある事を行おうとしています」

 

 七夜の復権。

 

 混血の討伐。

 

 蟲翁の殺害。

 

 全てが、たったひとつの目的のために起こされたと言うのであれば、それは――――。

 

 

「それは、遠野への復讐です」

 

 □□□

 

 そこは、所謂病室のような室内だった。わずかばかりに香る薬品の匂いと、周囲を医療器具に囲まれた場所であるが、その医療器具が使用されることは稀である。それはこの場所を訪れる人間が極僅かであり、暫く客が来ない事も珍しくない事もあるが、それ以上に医者役が所謂闇医者と呼ばれる人間である事が最大の要因であった。彼の気まぐれと、意地の悪い性格に客足は遠のくばかりで、果たして医療としてやっていっているかどうかは甚だ疑問である。

 

 そんな場所にその老人はいた。時刻は昼を過ぎた頃だろうか。外は明るいがカーテンを締め切り、電灯の光が室内を照らす。窓も扉も閉め切ったそこで老人はうつらうつらと転寝気分に寝台へ寝転がり、目を瞑りながら半ば夢心地に待ち人が来る瞬間を待ち侘びていた。いかにも安楽な老人である。

 

 そして。

 

「―――――」

 

 風もないはずなのに、閉め切った部屋のカーテンが、僅かに揺れた。

 

「いつ以来じゃろうな。おぬしがここに来たのは」

 

 目蓋を閉じたまま、老人は低く呟いた。

 

 老人が寝そべる寝台から離れた位置、そこに一人の男が音もなく忍び込んでいた。

 

 如何なる怪奇か、男は完全に密室であるこの場所に、入室を果たしたのであった。

 

 藍色の和装の男だった。下は白の七分丈。右手に納刀された日本刀を握り、中身の無い左の袖に、長身痩躯は暴力的に引き締められ、長すぎる黒髪の隙間から、削げた頬と温かみも冷たさもない無感動な蒼の瞳が見える。

 

 ――――男、七夜朔はいつの間にやら、そこにいた。

 

「退魔の者からおぬしの話を聞いてまさかとは思っておったが、本当にこの街に来ていたとは、な。声をかけておいた甲斐があった。――――懐かしいものじゃ。……確か、アレは七年以上前か。刀崎の三女がおぬしをここに連れてきたのじゃったな。最終調整のために」

 

 起き上がり、胡坐を掻いて老人、時南宗玄は朔をまじまじと見やった。

 

「ほう……」

 

 その出で立ちは異様な程である。大よそ常人の領域ではない総身の鍛えられよう。蒙昧な気配。あまりに無機質な瞳など、注目する点は多々とある。しかし。

 

「あの時も思ったが。……おぬしはアイツ以上に黄理に似ておる」

 

 風貌が、出で立ちが、立ち振る舞いが。それはそのような分かりやすいものではない。

 

 かつて退魔業を営み、今となっては遠野の監視役として専属医にもなっているが、以前には七夜一族の主治医を担当していた宗玄だからわかる。

 

 七夜朔は、先代当主――七夜黄理に良く似ている。

 

 七夜とはかつて魔への抑止力として、それも混血という限定された相手を対象に動く退魔の一族だった。魔でありながら人である混血と言う、世界の修正を脱した存在を殺すために動く一族。そのために永の近親相姦を重ね、一代限りだった超能力を――魔術師でもない人間が――持つ能力を次がせる事に成功した者たち。他の血を混ぜないために他の人種を超えた身体能力を得るに到り、人体の可能性を開墾した人間。そして特筆すべきなのは、七夜が異常の存在に対する手段とはただひとつ。暗殺である事だった。

 

 彼らは暗殺を生業とする生粋の殺し屋だった。

 

 暗殺の技巧をひたすらに研磨し、鍛錬を重ねる。永の時を暗殺のためだけに費やす事で、彼らは確固たる結果を残してきた。そうする事が必然的に彼らを守る事と知っていた。それ故に彼らは結果を収め、存在価値を示し続けた。暗殺者の頂点として。

 

 そして、かつて七夜を率いていた男がいた。

 

 その男とは、混血から恐れられ蔑まされた七夜にいて尚、禁忌として口にすることすら憚れた存在であり、退魔組織では七夜の最高傑作とまで称された男。鬼神、殺人機械と多々呼び名はあれど、どれもが畏怖を象徴させ、その存在の異常さを際立たせていた。

 

 ――――名を、七夜黄理といった。

 

「まあ良いわ。診るからここ座れ」

 

 七夜黄理を時南宗玄は主治医として幾程か診察を行った事がある。それにより分かった事は七夜黄理の体とは人間の理想像を希求し、そして完成させた肉体骨子であった。七夜黄理の肉体は七夜黄理が望む結果を取得するため、その欲求に悉く応えたものであり、猫科を思わすしなやかさと柔らかさに、十全の膂力を秘めていた。そしてその後継である、朔もまた――――。

 

「どうした、座らんか。診る以外には何もせんよ」

 

 反応も示さない朔に、宗玄はため息を吐く。

 

 そして、今。

 

 時南宗玄の目前、茫洋に佇む青年こそ、七夜一族最後の七夜。

 

 七夜朔だった。

 

『朔。こコはこのジジイの言う事を聞いトけ』

 

 金属の軋む音が室内を侵す。

 

「相変わらずじゃな妖怪」

『ソう言うな。ひひひ、久しいなヤブ』 

 

 ぎぬり、と宗玄は朔の握る日本刀、骨喰をねめる。

 

「貴様にヤブと呼ばれる筋合いなどないわ。生き汚いやつめ」

『何言ッてやがる。あの時アレは滅んだ。俺はアレじゃねえンだよ』

 

 刀はそう言ってまた笑う。悪辣に嘲う。

 

 骨喰は、正確に言えば日本刀ではない。

 遠野分家、刀崎が作刀した骨刀である。

 かつて刀崎には稀代の異端が存在した。

 

 刀崎棟梁、刀崎梟である。

 

 骨師と呼ばれる刀鍛冶の一族である刀崎の技術を二代先にまで進歩させた男、とまで称された男であるが、その男が最期に作刀した逸品こそが、現在朔の所持する刀、骨喰だった。

 

 華美な装飾も施されていない鞘に幾枚もの呪札が貼られ更に白色の数珠が巻かれている。何かを抑え封じ込める働きを期待したかのような装飾である。そして鞘に負けず劣らず、刀崎の棟梁にまでなった男が鍛えた刀身が常識に囚われるもののはずがない。

 

 出来上がった骨喰には魂が宿り、擬似的な人格まで表出するに到ったのだった。

 

「……」

 

 それから暫く経ち、朔はゆっくりと宗玄の腰掛ける寝台へと近寄り、すとんと無造作に座った。一見乱雑な座りであるが、その実いつでも宗玄に殺人行為を成せる体勢なのだから怖ろしい。

 

 自らの判断によるものだろう。人の話を言うことを聞かないところも、宗玄の覚えている黄理に良く似ていた。

 

 順次、朔は着流しを肌蹴る。まず目に付くのは、その体を覆い尽くす傷跡であった。何かに切られた痕、何かに打たれた痕、何かに食まれた痕、何かに焼かれた痕、何かに貫かれた痕、何かに突き立てられた痕。それが、朔の暴力的に引き締まれた肉体に這っている。

 

「ん?なんじゃこれは。朔、おぬし最近傷を負ったか。いたるところが珍妙な事になっておるぞ。治りかけか、傷口がやたらと不安定じゃ」

「――――」

「反応ぐらいせい」

 

 寝台に座る朔を宗玄は文句を口走りながら、しかし確実に触診していく。張りと柔らかさを保つ筋肉。関節の挙動範囲の広がり具合。瞬発力。筋持久力。長年の経験と人体に精通する者としての勘により、指先から様々な情報が宗玄へ伝わっていく。その合間、宗玄の記憶の中、驚愕を覚えた子供の姿が脳裏に現れる。

 

 七年以上前の事だ。

 両手足の関節を外され、口には固定具が嵌められた朔が刀崎の三女によって運びこまれた時は眉を顰めたものだった。更に無理矢理薬によって意識を朦朧とさせていた事も印象深かった。

 

 そして、それが処置として実に適切であった事も、その時理解した。

 

 大よそ子供とは呼べぬ肉体の適応力、破滅的なまでに鍛えられ、苛め抜かれた肉体。蒙昧な意識であっても、瞳は全てを映し出し――――。

 

「どうじゃ。あれから喋れるようになったか」

「――――」

 

 朔の口内を見つめながら、宗玄は気がかりを口にする。

 

 七夜朔は言葉を話せない。

 

 かつて、朔は出血多量により瀕死状態に陥った事があった。左肩をもがれ、左上半身は破壊された。一命は取り留めたものの、出血は夥しい量であり、後遺症が残った。朔の舌は重度の麻痺状態と化し、喋る事も食物を嚥下する事も儘ならぬ身となった。

 

 朔が以前時南医院を訪れた際、七夜朔はまともに言葉も発する事ができなかった。それを憐れと宗玄は思いもしないが、なるべくして多少の治療を施した。しかし、宗玄の治療も虚しく、朔の舌は治癒出来なかった。

 

「――――」

『ひひ、ひ……相も変わらず舌は殆ど動かンよ。が、別に問題ねえダろ。契約は出来テんだ、俺が朔の代わりに話すコとも出来んだしよオ』

「貴様には聞いとらん。だいたい、貴様がおるから治るもんも治らないんじゃ」

『はっ!それを治すノが手前の仕事だろうがァ』

「治療するのには原因の根絶が基本だろうが」

 

 宗玄は半眼のままに、今も尚朔が握る骨喰を見やる。

 

 鞘に収められてもなお、宗玄の眼には視える。

 魔眼も持ち合わせていない宗玄にも、ハッキリと。

 

 ――――刀身から瘴気の如くに滲み出る、邪悪の限りが。

 

「しかし、何と禍々しい……。いかにも体に悪そうな刀だ。朔、悪い事は言わんぞ。それは即刻破壊すべきじゃろう。そのままではお前さんのためにならん。舌も回復には向かん。それは毒だ。おぬしの体を蝕んでいる」

 

「――――」

 

「のう、朔。……わしも黄理を知らんわけじゃない。だからこそ忠告をしとくぞ。あやつは既に手遅れじゃった。どうしようもなく手遅れじゃった。それはあやつも理解して追った。機械として生きながら、最後には人間になりかけ、そのまま死におった」

 

「――――」

 

「しかし、おぬしはどうだ。未だそのようにもなっとらん。おぬしは何の変化もない。それではあまりに詰まらんぞ。確かに黄理の跡を継いだ事も一つの結果じゃ。おぬしが絶滅したとされる七夜を復権させてから良く聞くぞ。七夜朔は七夜黄理の後継であると。それも悪くない。悪くはないが、果たしてそれは『おイ手前』っ、なんじゃ原因」

 

 朗々と紡がれる宗玄の言葉を止めたのは骨喰の無遠慮な軋み声であった。

 

『手前が朔と何の関係ガある』

「なに?」

『確か、手前は七年近く朔と会ってねエ。そこまで言われル筋合いなんぞこれッぽっちもねえだろウ』

「……」

 

 拒絶。骨喰の嫌らしい金属音が室内を軋ませる。それは精神を掻き乱し、脳内に侵食する不快であった。なるほど、さきほど宗玄は骨喰を毒と表したが、なかなかどうしてそれは正鵠を得ていたようであった。

 

 そして宗玄は暫し骨喰の言葉を反芻したのち、感慨深げに口を開いた。

 

「黄理だ」

 

『あ?』

 

「わしはな、黄理からもしもの時には頼まれたのよ。朔を頼む、とな。四時間近くもおぬしらの自慢を聞かされた後にの」

 

 そして、沈黙が舞い降りた。宗玄は何も言わずに朔を見る。しかし、その瞳には何かしらの色が見える。それは憐れみか、それとも情けか。淡々と朔の肉体に針を打ち込みながら、宗玄は自分がどのような顔をしているのか想像する。

 

 だが、その思考は昔に赴いていた。かつての記憶。そこはいつもの病室だった。そして黄理との最後の会合だった。そこで黄理は言葉少なに朔の心配を口にするのだ。

 

 どうしようもなく七夜黄理は手遅れであったが、アレは人間に成りかけていて、親としての自己を育んでいたのだった。その終わりがどうであれ、それがどうなるか見てみたいと、あの時は思ったものだが、それは叶わなかった。

 

「それに気にもなる。果たして正統の七夜が人間に成りえるかどうか。黄理は駄目だった。シキは結局アレだったが、おぬしはどうなるのか」

 

 ――――シキ。

 

 その名を、宗玄は口にした。

 

 朔は、その名を、知っている。

 知って、いる。

 記憶は駆け巡る。

 

 だが――――。

 

『ヒヒヒヒヒヒ』

 

 あまりに不気味な邪笑。神経を逆撫でる骨喰の声音が朔の思考を切り裂く。

 

 侮蔑と嫌悪を嘲笑に含有させて、骨喰は侵食するように言葉を紡ぐ。

 

「何がおかしい、化け物」

『なアに。あんな成り損なイ如き何ぞある』

 

 室内の空気がざらつく。

 

「何じゃと?」

 

『アレの本質は七夜じゃネエ。ひひ、アレを七夜と呼ぶニはあまりに滑稽が過ぎるッてもんだ。俺は知っテるぞ。会ったこトも興味も関心もないが、風の噂に聞いタことガある。アの餓鬼を。あの成り損ナいの出来損なイを』

 

「ほう、出来損ないか」

 

『それ以外に何ヲ言う。殺サぬ七夜なんぞ笑い話にもならネエ。馬鹿馬鹿しサが捗々しいというンだろうがァ。七夜ハ殺して何ボの一族だ。暗殺を極メてその存在意義を証明し続けタ者たちだァ。だったラよお、殺す事こそあいツらの存在証明に他ならねエ。だが、七夜は既に滅ンで、残すハ朔一人だ』

 

「……」

 

『そウだ。七夜はスでに朔ただ一人。だッたらヨう、基準は朔だ。七夜朔コそ七夜の体現。朔こソが七夜だ。それ以外は七夜ですらネエ。半端な存在ガ七夜を名乗る事すらおこがマしい」

 

「――――。――」

 

「……まあ、そいつも既におっちんジまったらしイがな。こレでもう、そレが証明されたっツう事だろ。七夜朔は七夜最後ノ一人なンだとよ』

 

 宗玄は骨喰の言に顔を顰めさせる。

 

『事実、裏じャ七夜は朔の一人しかいなイのだと認識もサれている。マあ、俺がソういう風な噂ガ立つよう仕向けたワけだがな』

 

「……全く、貴様頭おかしいのではないか?」

 

『頭すら俺にハねえんだ、そんなの関係ないサね』

 

「よく言うわ、化け物」

 

『ひひ、ひ……』

 

 退魔、あるいは混血に流れる噂の発生源は今朔の手に握られる刀であると知れば、両者はどのような反応をするのだろうかと、宗玄は考える。嘘か真かも分からぬ情報が流れ、それに右往左往する憐れな者共が溢れんばかりにいるのだろう、と組織の情けなさが浮かんでは消える。

 

 そして。

 

「ふむ。だいたいこんなものか。どうだ、朔。少しは良くなったじゃろ」

 

 触診と処置の同時進行に一定の成果が現われ、診断は取り合えず終了した。

 朔は暫し時を置いたが、肉体がどのような状態なのか確認を行わなかった。

 

「しかし、あまりに体を酷使し過ぎる。関節と幾つかの腱、それに骨自体に疲労がたまっておる。それに、傷を受けた箇所が多すぎる。おぬしの体なかなか危ういぞ。いかにおぬしがとんでもないとはいえ人体に変わりはない。おぬし、体が悲鳴をあげている事を理解しておるのか?自覚があればよい。しかし自覚すらもないのならば、もう少しいたわるべきじゃと思うぞ。無理な可動も軌道も、肉体にはつけが溜まっていく。もしもの場合が来ないためにも、こまめに体を慰めるべきだ」

 

「…………」

 

『なあに、問題ねエさ。俺がいるからよ』

 

「貴様には聞いとらんわ」

 

『朔がそう言ったんだヨ』

 

「本当か?朔」

 

「――――」

 

「何じゃ、その様な事全く言っとらんではないかっ」

 

『おいコら、何で手前がソんな事わかんダよ木瓜がっ』

 

「そのようなものきまっとる。勘じゃよ勘!」

 

『言い切りやガったな手前っ、勘ナんぞ信じるとか莫迦のスることだロうが!!』

 

「わしはそうやって生きてきたっ!!」

 

『ひひッ! やべエ、こいつ莫迦だっ!!』

 

 それから暫く老人と金属の罵りあいに発展するが、その光景を一切の興味もなく眺める朔の平らな瞳に映る両者はどうにも滑稽である。

 

 しかし、この両者どうにも噛み合う。

 

「んでだ」

 

 罵りあいがようやく終わり、宗玄の関心は朔自身に向かった。

 

「おぬし、一体何ゆえにこの街に来た」

 

 それまでの雰囲気が、不意に一変する。

 

「――――」

 

「噂に聞くぞ。おぬしが混血を問答無用に襲い掛かっているのを。その被害も尋常ではないと。生者悉く滅ぼして、屍ばかり積み重ねておぬしは一体何がしたいのか」

 

 退魔が混血に対し攻勢を仕掛けるのは幾つかの条件がある。人間社会に溶け込んだ混血はそのままならば害はない。しかし、魔としての比重が傾き、人間ではなく魔として覚醒した時、その猛威を揮い始めた時、始めて討伐対象となる。

 

 だが七夜朔はそれを破り、先祖返り、あるいは反転した混血のみではなく、人魔のままである混血すらも襲いかかり、その腕を血に染めてきた。

 

「――――……」

 

「それに、おぬし。混血のみを対象に動いておらんな。七夜の領分を越えて、色々と殺っているらしいではないか。……のお、朔。ものには限度ってものもある。退魔かあるいは混血か、はたまた他の存在から討伐隊が組まれるやもしれん。事実遠野グループはおぬしに対し睨みを効かせておる。それなのにだ、その遠野がおる三咲町におぬしが来ておる」

 

「―――、――」

 

「最近起こっている吸血鬼事件のため、ではないな?おぬしがそのような事に首を突っ込むとは思えん。故に、おぬしに聞く。何のためにここに来たのじゃ?」

 

 

 

 

「そんなの私と会うためにきまってるじゃないですかー」

 

 

 

 その声は、場違いなほど陽気に、そしてどこか空虚に聞こえた。

 

 宗玄は、扉を見やる。

 

 朔は、まるで反応しない。

 

 白い、リボン。和装の少女。

 ――――琥珀が、いつの間にやらそこにいた。  

 

 □□□

 

 全てを話し終わり、男は咥え煙草に暫し煙をふかしていた。

 銀縁眼鏡の奥、眉間に寄る皺は消えず、その視線も危うい。

 

 ゆらゆら。ゆらゆらと。紫煙が揺れる。

 

 自分の憶測は恐らく正しいと、男は思っている。シエルには言っていないがそれを実証させるものが、昨日男の下に報告書が届いていた。

 

 ――――七夜朔が三咲町に出現した。

 

 実は、七夜朔に対して退魔は特別な処置を施している。

 

 不可視な移動を展開させる朔の行方にプロファイリングを常と行う事で、それがどこにいてこれからどこに向かうのか、他の退魔の担当地区へ報告をするのである。そうする事で七夜朔にどう対処を行うかの決定が下されるのであった。

 

 そして、男は今日になってその事実を知った。組織の末端である故に情報取得の遅さが際立っていると言えよう。

 だが、その七夜朔がこの三咲町に来たのであるならば、男の考えも当て嵌まるのではないだろうか。

 遠野に対する、復讐を。

 一族という集合体は、なかなかに業が深い。

 永の歴史を積み重ねた純潔の一族。

 その血が受けた屈辱を、果たして払わずにいれるはずがない。

 

「実はですね」

 

 思考を巡らす男が吐く煙の先に、シエルの顔が見えた。

 その言葉は唐突に、男の顔を驚愕に変貌させ、思考は途切れる。

 

「私は七夜に一度会っているのです」

 

 唇に咥えられた煙草の先から、灰が落ちた。

 



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第九話 人殺の鬼 Ⅰ

 そして、柔らかくその少女は血塗れの少年に笑んだ。
 白いリボンが小首を傾げる少女の頭と共に揺れる。
 少女がその手を伸ばす。少年はそれを拒否しなかった。
 頭部から血を浴びた少年の頬に、少女は唇を当てた。
 少女が始めてつけた紅の化粧(けわい)は、妖艶と冷酷を少女に与える。
 しかしその笑顔は、きっと何よりも美しい。



 弓塚さつきは、迷っていた。

 

「うーん……」

 

 部屋着姿、俗に言うパジャマ姿で電話の前をうろうろと右往左往していた。

 

 実はさつきが所属するクラスの教員から志貴が学校を休んでいるという報告を受けたのだが、その彼に連絡をいれようか迷っているのである。

 

 現在昼を過ぎて、そろそろ小腹も空き始めた時間である。おやつの時間だった。今日のおやつはチョコレートビスケットである。学校を仮病によって休んだ彼女がぬくぬくと家の中で過ごしているのは如何なものかと思われるが、それを突っ込む人はいない。さつき自身自覚しているのだから、改めて突きつけられるのは勘弁願いたい所である。

 

「むむむむむー」

 

 昨日の影響がまだ抜けていなかったさつきは、大事をとって学校を休んだ。夢見が悪かったのか、どうにも身体の調子が優れなかった。それでも気にしなければ問題なく学校に行けたのだが、無理を推すには気分が良くなかった。なので母親に学校を休む旨を伝え、自ら今朝学校へ連絡をいれたのであるが、その時電話越しに遠野志貴も休むのだという呟きが聞こえたのであった。

 

「ぬぬぬぬぬぬー……」

 

 しかし、それを確認しようとして、弓塚は踏み出す勇気が出なかった。好きな相手が病欠をしたと言うのだから心配しないわけがない。もしかしたら自分と同じように昨日の事で休んでいるのかもしれない。そうでなくとも、声が聞きたかった。

 

 昨日、二人が出会ったあれは一体なんだったのだろう。脳は恐怖する情報を巧みに手繰り寄せるものであるが、さつきには一定以上の情報を捉える事ができなかった。二度目の会合にして直視した存在は生首を片手に佇む殺人鬼だった。それだけでもさつきは一杯一杯だと言うのに、それがこちらに向かってくるのだから堪ったものではない。そんな恐怖を共有しても、意味など無いことはわかっている。しかし、それでももしかしたら聞かされる志貴の慰めを期待して、さつきは電話をかけようとしていた。いや、慰めの言葉がなくても構わない。ただ、志貴の声を耳にしたかった。

 

 だが、こんな何気ないところで踏み出せるような簡単に決心がつけるようでは弓塚さつきではないのである。

 

「……はーあ」

 

 そうしてトボトボと弓塚は電話から離れていった。決心できずに後悔ばかりが募るばかりである。

 

 きっと一時間後には電話の前で再びうろうろしているだろう。

 

 □□□

 

 その少女は場違いなほどに明るく声を発した。朗らかさと軽やかさを合わせ、淡い紅色の髪を白いリボンで纏めた少女は柔和な笑みを浮かべながら、空気のようにそこにいた。

 

「琥珀。おぬし、いつの間にきおった」

 

 振り向きざまに挨拶もなく言葉を告げる宗玄の瞳は、少女の陽気な雰囲気に対し頑なだった。それは嫌悪や拒絶のような悪感情ではなく、面倒なのが登場した事に対する諦めから発する、溜め息にも似た反応であった。

 

「先ほど先生がこっそり話していたので、気付かれる前にこっそりと」

 

 宗玄の反応に琥珀は企みの成功した意地の悪い、それでいてどこか楽しげに応えた。

 

 琥珀と宗玄の付き合いはそれなりに長い。先代当主遠野槙久存命時、槙久の命によって琥珀は薬剤師の資格を取得しなければならなかったのだが、その時琥珀に教鞭を揮ったのが遠野との繋がりがあった時南宗玄と、宗玄の一人娘であり琥珀の姉弟子である時南朱鷺恵だった。彼らの助力により琥珀は薬学の勉学を修め、薬剤師の資格を得るまでに到ったのだが、その関係は今も続いていた。

 

「それでも、七夜朔さんにはばれていたようですが」

 

 琥珀の視線の先、そこには寝台に着流しを肌蹴たままの七夜朔の姿があった。朔は其処で身動ぎもせず、また琥珀に視線を投げかけるでもなく、先ほどと全く変化のない姿勢のままである。しかし、その重心は僅かにずれ、腰が心なしか浮ついていた。その変化を琥珀は目聡く見つけていた。

 

「それですが、今日はですね――――」

「――――何?小僧が?」

 

 宗玄と琥珀の会話に対し、朔は耳を傾けることもなかった。もとより興味もない話だった。医療関係に明るくなく、二人が話している内容が薬の効用であることすら、朔には理解できない。そも確かな教育すら受けていない朔には無用な知識であった。

 

『さすガは三咲町、ってかァ』

 

 その時、朔の脳内に骨喰の声音が侵食する。鼓膜を震わせずに聞こえるその金属の軋みは、二人の間に交わされた血の契約が果たす恩恵の一つであった。

 

『朔。あレは遠野の使用人ノ一人。手前の仇の身内ダ』

 

 言外に視ろ、と骨喰は囁く。

 

 骨喰の言葉に朔は間を置いて琥珀を視た。

 

 遠野。

 

 遥か昔に魔の血を一族に取り入れた、常識では考えられぬ所業を果たした一族の取り纏め。

 

 人は古くから存在する人外の魔に嫌悪し、そして憧憬を抱いていた。人間とはあまりに差がある生命力、知識、単純な力。その破格な力に人は恐怖し、欲した。思いつくことも禁忌極まる結論だった。故に契約を交わしてその血を取り込もうとした人間が幾重にも企みを錬り、そして魔に食われ呑まれた。人魔の間に隔たる存在の差異は、大よそ超えられるものではない。核が違うのである。その交配など不可能なはずなのだ。

 

 しかし、文献に見えるとおり人と魔の混ざり者は歴史上には存在した。不可能を踏破し、諦めを超越した、己の宿願を果たした人間は確かにいた。そんな気の触れた所業を果たした人間たちが、確かに存在した。

 

 そして遠野こそ人と魔の狭間に生きる現代の混血だった。

 

 小豆色の着物を纏う小柄な少女、琥珀。現在宗玄と会話を交わすその少女は楽しげに笑みを浮かべている。宗玄と話している事が楽しいのか、何が楽しいのか朔には分からない。

 

 少女、琥珀が遠野の者。一見すれば、分からないことだ。彼女には魔の匂いがしないのだ。

 しかし、仇だと骨喰は謳った。仇、仇だと。

 

 七夜はかつて、遠野という混血に滅ぼされたのだと、骨喰に教えられていた。

 七夜朔は故に一人である。七夜はもう朔一人なのだと、教えられた。

 

「――――。――――」

 

 朔が所持する魔眼は人間の視界を超える。常時発眼し、隠す事も消す事もない朔の蒼の瞳。今もなお虚空を思わす蒼色の瞳は通常の生物とは異なる視界を映し出し、更なる情報を見出す。

 

 魔眼は靄を捉える。

 

 匂いなく、音もなく、気配なく。靄が室内を満たしている。

 

 朝霧の爽やかさではなく、小雨の涼しさもなく、不気味な靄が重苦しい沈黙の如くに漂う。それが朔の魔眼が映し出す世界だった。それは現実には視えることのない視界。朔のみが視る事を許された世界の、あるいは生物の趨勢だった。

 

 白色の靄は琥珀の周囲にまかれ、それでいて薄く宗玄にかかっている。その宗玄もまた白色に灰の混じる色めきが噴出していた。

 

 だが、靄はそこで途切れない。

 

「――――」

 

 濃い靄が琥珀から噴出し、七夜朔の身体にまで伸びていた。それは朔に近づくほどに濃くなり、手を伸ばせば掴めてしまいそうな質量を秘めた靄だった。

 

「――――それならば朱鷺恵に聞くべきじゃろう。今はおらんが、電話すればよい」

 

 その時、朔の視界の中で二人の会話にある程度の目処が立ったらしい。内容までは把握できない。それを考えるのは朔の役割ではない。朔はただ在ればいい。思考は骨喰の役割である。

 

「お願いできますか先生?」

「おぬしがすればいいじゃろうが。何でそこまでやらねばならん」

「えー、可愛い教え子の頼みじゃないですか」

「教えただけの関係じゃろうが」

「あ、酷いですね。そんな事言っちゃうんですか先生?」

「そんな事を言って何が悪いか弟子」

 

 両手を合わして小首を傾げる琥珀の仕草に他意は一見覗けない。しかし、その意識が宗玄に向かっていない事は明らかだった。そのあまりに邪気のない様相に宗玄は更に面倒さを増すばかりだった。そんな遣り取りも幾程繰り返されたか。滑らかな言葉の報酬は決して薄い関係ではなせない時間の経過を垣間見せる。その内に宗玄は至極面倒そうに頭部を掻き毟った後に盛大な溜め息を吐きながら扉の向こうへと消えていった。

 

「さて、と」

 

 そして、扉が閉じられた瞬間、琥珀の視線が朔を捉える。

 

 琥珀から発せられていた全ての靄が朔を絡め取る。周囲に振り撒かれていた靄が、朔ただひとりに向かい、白き靄は雲海のように朔自身を飲み込んでいく。

 

 しかし、それを遮るよう。

 

 ――――泥水のような黒色が朔を取り囲む。

 

 骨喰から滲む邪悪の魂が、朔を包み込む。

 

 まるで、呪いのように。

 

『時は過ギても朔にしか関心はナしか。しツこい奴め』

 

 げらげらと愉快に骨喰は笑う。その苛立ちと邪心を孕む愉悦の笑いは生者二人しかいない空間に亀裂を走らせる。あらゆるものを見下しながら蔑み笑う、人外の笑い声であった。

 

「いえ、そんな。いつまでも朔ちゃんにとり憑いてるおんぼろさんには勝てませんよ」

 

 骨喰の蔑みを受けて、くすくすと琥珀は静かに笑む。空虚な笑みである。骨喰の言葉などに一切の価値など見出していないあまりに無機質な笑み。

 

 互いが互いに対して笑い合う。ただそれだけだというのに、何と禍々しい。室内が錆びつき、それを虚ろが侵す。二人は拳銃を突き付けあいながら笑いあっている。己の毒を弾丸に、想いを貫くために相手を殺し尽す。

 

『嬢ちャん。また会うトは思わなンだ。相モ変わらず破綻してやガる』

「全くです。私は会いたいなんてこれぽっちも思いませんでした」

『奇遇だナ。ひひ、ひ……俺もだ』

「そうなんですか?吐き気がしますね」

『同感だ。ゲロくせえ匂い染ミ付かせろ。ひひ、俺にャ嗅ぐ鼻の穴も吐き出ス内臓もネエが』

「そうですか。まあ、貴方なんて知らないんですけど」

 

 密やかに琥珀の歩が朔へと向かう。彼我の距離は短く、それこそ大きく歩めば容易く辿りつける。しかし、琥珀は急く事無くその一歩一歩を踏みしめる。その歩みは惑いなく、迷いない。朔の姿勢が琥珀を殺す意志を示していると知っていても、琥珀の歩みは止め処なく、恐れを抱く事もなし。朔の変化に気付きながらも琥珀は遂に。

 

「――――ああ」

 

 琥珀の唇から吐息が漏れた。

 

 万感の想いが言葉にもならない。琥珀の身を溶かす温もりが琥珀を包む。

 

「朔、ちゃん」

 

 側に辿り付いて、琥珀は手を伸ばす。朔の視界は琥珀を捉えている。儚く今にも壊れそうな笑みを湛えた少女を見据えている。故に朔は伸びる手に応える如く、右手に握る手放す。重心は螺旋を描き、緩やかに投げ出された足が跳ね上がる。そして琥珀の細き首を刈り取ろうとした瞬間。

 

 ――――砂嵐。

 

 白黒の砂嵐が、朔の意識に到来する。

 

「ずっと、待ってたんです。私、ずっと朔ちゃんの事を、ずっと――――」

 

 ザ――――ア―――――――――。

 

 白い、リボンの、人形のような、少女。

 

 砂嵐。砂嵐。

 

 どこかで、見たことが、あるような、映像。

 

 寝転がる朔を覗く、砕かれた破片を繋ぎ合わせたような少女の顔。

 

 その頭部に、白いリボン。

 

 これは記憶。あるいは記録。あるいは記述。

 

 ――――そんなもの。朔には有り得ないものだと言うのに。

 

 朔に記憶など存在しない。朔は兆候なく突然に現れる人殺の鬼。思い出は持ち合わせていない。いつの頃からか朔には分からぬが、朔の脳には致命的な欠陥が生じていた。果たして朔には無駄な記憶が記録もされぬ身である。そういう無用な不要は全く持って機能を働かせることなく、朔はただの殺戮人形だった。記憶も、記録も、記述も、あるいは思い出も、朔には搭載されていない。それは骨喰の機能である。ならば、血の契約から辿る骨喰の記憶なのか。

 

 しかし、今朔に視える映像は何だ?

 

 そう、知っている。知っているのだ。映像に映る少女を、朔は知っていた。

 

 だが、それが誰なのか、朔には――――。

 

 意識は朦朧に霞む。しかし、視界だけは明瞭だった。

 

 朔の身体は蒙昧なその意識に反し動こうとする。何ものであろうとも、視界に入らば解体せしめん条件反射であった。それしか知らぬ朔の取れる唯一の手段こそ、十年近くもの間朔の手によって生み出された殺人行為であった。

 

「――――」

 

 だが、身体は動かず。

 

 朔の顔に少女のたおやかな両手が添えられた。

 

 細い指先は咽び泣くように震え、包み込むように、抱きしめるように。

 

「―――、―」

 

「―――どうしましょう。言いたいことが沢山あるはずなのに、何が言いたかったのか。……私、分からなくなっちゃって」

 

『ならバ黙って沈め嬢ちゃん。大体、何でコこに朔がいると分カった』

 

「何言っているんですおんぼろさん。朔ちゃんで知らない事なんて、私にあるわけないじゃないですか」

 

『答えになってネエなあオイ』

 

 骨喰の言葉にこれ以上応える気もないのか、琥珀は朔だけを見つめ続ける。

 

 少女の顔が近づいてくる。この時になって朔は動く事が出来なくなった。頭部は固定化されたように動くことなく、朔の蒼色は琥珀色の瞳から離れない。

 

 この手はなんだ。何故、その顔(かんばせ)は近づいてくる。

 

「―――嗚呼、そうだった。ずっと、一番最初に朔ちゃんに、言いたいことがあったんだ」

 

 そして。

 

 少女の額が、朔の動けぬ額を小突くように押し付けられる。

 

「お帰りなさい、朔ちゃん。……会いたかった」

 

 目蓋を閉じながら、琥珀は静かに呟いた。

 朔の確かな感触に、少女の睫毛が震える。

 

「―――――……」

 

 朔の視界が少女の顔で覆われてる。

 目の前には白い肌を感嘆か、あるいは歓喜に頬を薄く赤へと染めている。

 

 砂嵐。

 意識は潜る。

 

 間近にある少女の笑顔は、どこかで見たあの血生臭い惨劇の光景で見えた、誰かも分からぬ小さな人形の笑顔に似ていた。

 

 □□□

 

 時は、遡る。

 

 月も見えず、太陽も昇らない間隙の時間の事だった。街頭の明かりだけが暗闇を灯し、人の気配も伝わらない夜。人々が眠り、静かに更けた夜の黙(しじま)の街中を幾人かの男女が乗車する黒の車が舗装された道なりを直走る。中にいる者は全員が黒服である。没個性を醸し出す黒服の集団であった。しかし、その顔つきは皆険しく、また気配は鋭い。明らかに常道の人間が出せる雰囲気ではない。

 

 彼らは皆、退魔の人間だった。

 

「報告。七夜朔が工事現場から遠ざかったのは十分以内」

「報告。その前には自動販売機の破損を確認」

「報告。七夜朔が三咲町に訪れたのは三日以上前との事」

「報告。恐らく七夜朔は死者の掃討を行ったものと見られる」

「報告了解。確認は終わりだ。急げ」

 

 厳かに情報を交換する退魔達。彼らはおおさっぱに括ってしまえば三咲町支部の退魔だった。日本に敷く退魔は所謂組織構成が組まれている。中央から命を発令し、それを各支部が執行するといった組織形態が行われており、中央は所謂退魔一族と呼ばれる複数の一族らによる独裁が長い間支配していた。

そして中央から離れている各支部は、中央から発せられる命を調整するぐらいにしか権利もない。長年その組織支配に物議が醸し出されているが、それが覆される事もない。現在の日本を反映しているかのようである。

 

「しかし、面倒は挙ってやってくるものだ」

「無駄口を叩くな」

 

 ぼやけ気味に愚痴を零す男性に対し集団の隊長格である冷気を伴う女性が叱咤するが、愚痴を零す事も無理からぬ事であると自身も重々承知していた。

 

 現在三咲町には吸血鬼が出現し、その被害は日を追う毎に増えていくばかりであった。吸血鬼が一体出現するだけで、一つの町が死都と化すなど稀な事ではない。吸血鬼に血を吸われた人間からそれは化け物と成り果て、そしてその化け物が人の血を吸う事でまた新たな化け物が誕生する。その繰り返しを阻止するために人間は魔へと対抗する組織を構成してきた。それが教会であり、また退魔だった。

 

 犠牲者の数は抑えることも出来ず、退魔は秘密裏に死者を見つけては大小の犠牲を払い処分する工程を地道に行っている。三咲町は混血の党首である遠野が根城にする支配地区であるため、退魔の人間にも腕利きの刺客が揃っているが、しかし彼らをしても状況に追いつく事がやっとの事で実質大本の吸血鬼の正体を捉える事も出来ない状況であった。

 

 決して彼らが無能なのではない。秘密裏に動かざるを得ない行動の制限を始め、遠野と牽制し合い情報の取得に苦心する彼らである。手段を選ばなければ、この街一つ殺菌消毒を行う事ぐらいは容易い。何も知らぬ人命を切り捨てて、街を消し飛ばす事で他への被害を抑えるという大義名分は振りかぶれる。しかし、それを行ってはならないのである。古くから政府の闇に属し保障されてきた退魔が、国民の命を切り捨ているなどあってはならない。世界大戦を二度経験し、周囲に戦火を振り撒いた国でそのような決定はあってはならないのだと政府の指針は定めっている。過激な発言は挙って潰され、消極的な態度も批難される国では変革の少ない現状維持こそ国是だった。その肯定が国民の意思は別として。

 

「七夜朔。実在するのか」

 

 事実を確信するかのように、誰かが呟く。恐らく賛同か、あるいは否定を期待しているのだろう。だがその声に反応する者はいない。

 

 皆、中央が七夜朔の情報を制限している事を周知している。それが何故なのか詳細までは知らぬが少なくとも七夜朔が存在し、劇薬であることを予想していた。その容姿も、その手段も情報はない。

 

 誅戮のためではなく、ただ魔であるがために殺害する生粋の殺人鬼。七夜を復権させた鬼神七夜黄理の後継。使い勝手によって猛毒にも神薬にもなる気鋭の鬼札。

 

 それが中央に類さない退魔の間に流れる七夜朔の情報であった。

 

 その七夜朔がこの三咲町にいる。

 

 情報を鵜呑みするならば、現状を優位に働かせる事もできるかもしれない。

 

「厄介だな」

 

 情報の詳細も知れぬ劇薬など使える事もできない。しかも、正体がつかめないのだから協力も行えない。なれば共闘など叶えるはずもなく、しかし勝手に現われては惨劇だけを残して亡霊のように消える存在である。七夜の生き残りだと考えれば、暗殺者であることは想像がつく。人伝に聞く数々の仇名にもそれを予想させるものはある。他の地区によれば、マンション一棟に住む住人すら虐殺せしめたと聞く。使い所が難しい所の騒ぎではない。情報の隠匿も楽ではないのだ。

 

 到来は予想されども、惨状を最低限に抑えきれぬなど。

 

「いや、災厄か」

 

 自身の思いつきに、女性は皮肉に笑みを零す。冷笑は車内を凍らせるには充分であった。

 

 災厄の七夜。

 

 なんだ、それは。

 

 まるで出来の悪い喜劇ではないか。

 

 かつて混血を恐怖の底に叩き込んだ七夜黄理の後継であるだけでも冗談のようであると言うのに、無秩序に殺害を重ねる七夜など笑い話にもならない。周囲を振り回して、立ち去った跡には死体だけが残される。七夜の体現と称される実力を存分に振り翳して猛威を揮うなど、災厄でしかない。

 

 それを証明するように、彼らは七夜朔が倒した死者がいるとされる現場検証に向かっているのである。もしかしたら輪禍の根源である吸血鬼なのではないかという少量の期待と、予想される結果の多分な諦観を持て余しながら。

 

「到着しました」

 

 そして彼らは報告にある工事現場へと到着した。意気も漫ろ(そぞ)に白い布の内側へと入り込んでいく。工場現場は天蓋が切り開かれた構造だからか、風が渦巻いて星の見える黒の空へと空気が僅かに立ち上げていた。滑る風が些か不愉快で、女は髪を押さえつけた。

 

 内部を散開する退魔を横目に、女は足を進ませる。柱が乱立し、鉄骨が到るところに設置された空間である。

 

「七夜からすれば、狩場もいいとこだな」

 

 決して狭くない、開けた空間である。しかしその周囲は布に覆われ、閉じられている。内部は鉄骨が様々に設置されていた、端的に言えば骨組みしか作られていないこの場所は檻のようであった。こんな場所、暗殺集団である七夜からすれば絶好の狩場である。

 

「これは……なるほど。心臓か」

 

 女の視線の先、コンクリートに舗装された滑らかな路面、工場現場の中央部からは離れたその地点には、咲き乱れた花弁のような紅の色素が散らばっていた。月明かりもなく、その赤色はただ地面を濡らしている。

 

 確かに、ここで殺し合いにも似た一方的な狩猟が行われていたようだ。

 

「しかし、何故内蔵が未だある?」

 

 死者の死とは消滅である。その肉体の名残は消えるのが常だ。元から生きていない死者が死体を残せるはずもなく、肉は灰と化して塵に消える。太陽に背き、日の光から嫌われた者達には相応しき無残な末路だ。

 

 だが、今女の目前には内臓の破片が残されている。

 

「死者ではない。しかし、存命の吸血鬼か?……一体何だ?」

 

 唇に人差し指を添えて考える。標的はどういう存在だったのか。

 

 人間、では無いはず。工場現場には幾重かの血痕が見つかった。そして、そう遠くない場所に設置された自動販売機が破壊され、その近辺には少量の血が発見されていた。まず普通の人間が標的ならばまずそこで死体となっているはずなのだ。

 

 死者でもない。死者ならばその肉片が残っているはずが無い。粒子のような塵が散る事無く残されたのならば話は別であるが、それでも肉があるはずがない。

 

 吸血鬼も論外だ。彼らは死者が時間を経た結果である。ならば、その最期の様(ざま)も同じであろう。死んでいない、とならばまた別だが。

 

 では、一体何だ。

 

「……知らぬ間に、違う魔が出現したか?」

 

 相変わらず、情報が少ない。判断材料が少ないのだ。

 

 残された肉片。人間か、はたまた存命する吸血鬼の残骸か。

 

 推論では動けない。退魔もまた組織。動く事にも瞬発力がない。しかし、これが七夜朔の所業であると、確信ではないが判断の要因が取得出来たのは上々だろう。問題が多い現状。そうでも思わなければ、あまりに遣る瀬無い。飛び越した発展の得られない現場検証に歯噛みする衝動を抑える。何事も儘ならないものなのだと、納得しなければならない。短くない時間を退魔として生きた女には、耐える事は慣れている。

 

「現在の調査報告を聞かせろ」

 

 それでも零れる溜め息を吐きながら、女は散開する他の退魔に声をかけた。

 

 やる事は多い。情報操作、現場の清掃、破壊された物品の再設置。無駄に増える仕事に七夜朔が目の前にいたらどうしてやろうかと想像することで女は内心のさざれを抑えた。

 

 そしてあらかたの調査を終えた退魔は、一つの結果を知る。

 

 

 死体は、何処にも無かった。

 



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第十話 人殺の鬼 Ⅰ

 誰かの背中を見ている。
 誰かの背中を追っている。
 いつも、そうだった。
 君はずっと、彼の背中を追い続けていた。



 ―――――――――。

 

 遠い。

 手を伸ばせば届いてしまえそうな場所にいるのに、その人の背中はどこまでも遠い。

 追いかけた。離れていく背中を、追いかけ続けた。

 けれど、その人は振り向かず、歩いていく。

 君はその人の名を叫び続け、涙さえ零しながら、走った。

 しかし、声は届かない。

 君の心も、まるで届かない。

 

 ―――――――――。

 

 でも、それでも君は絶え間なく声を張り上げ続けた。

 いつかきっと、たどり着くと信じて。

 

 □□□

 

 夢を、見た気がする。

 悲しい、夢を。

 

 だけど、その夢が何だったのか確かめるよりも前に夢はどこかへと霧散していく。詳細も分からぬまま、物悲しさだけを残して、夢は軽く綿雲のように消え去った。

 

「……」

 

 ぼんやりと、目が覚めた。

 

 意識がハッキリとしない。どこか透明な壁が目の前に反り立っているような視界。蒙昧な感覚が意識を覆い尽くしている。夢の中に快活を置いてきてしまい、そのせいで体も精神も気力が失せているのだろうか、と明瞭でない頭で思った。果たして、自分は何をしているのだろう。

 

 部屋の中には明かりが灯されていた。今まで眠っていたのだから、電気がついているのはおかしいはずだ。誰かが一度来て、そのまま電気を消し忘れたのだろうか。

 

 朝の雰囲気、ではない。朝特有の柔らかい冷たさが、ここにはない。

 

 藍色の光が窓から差し込んでいる。カーテンが閉め切られ、薄い布の向こうには茜を飲み込まんとする黒の空が広がっていた。

 

「……夕方?」

 

 いや。もうほとんど夜だ。

 

 何故自分は、こんな時間まで眠っていたのだろう。今日は平日だったはず。学校に行かなければならないはずなのに、こんな時間まで寝ているなんて。それに、もし自分が起きなくても、昨日と同じように翡翠が起こしてくれるのではないだろうか。いや、もしかしたら、アレは昨日だけの事だった?

 

 疑問が身体を動かす。咄嗟に何かを確認したくて、身体を起き上がらせようとする。

 ――――だが手を握る、小さく温かな掌が体を引きとめた。

 

 肌触り良く、繊細な白い手。その感触は滑らかで上質な絹を思わせた。

 

「秋葉?」

 

 先ほどから、疑問ばかりが口を開かせる。だけどそうせざるをえない。状況にまるで追いついていないのだ。視線の先、そこにはイスに座りながらベッドへと寝そべるように身体を寄せて、静かに眠る秋葉の姿があった。巡りの悪い寝起きの頭はこの状態に少しばかり思考を停止する。何故ここに、秋葉がいるのか。この手を握っているのか。

 

「――――――」

 

 耳を澄まさなければ分からないほど小さな寝息。その穏やかな寝息に秋葉の顔を見れば、そこには幼い少女が眠りについていた。

 

 記憶の中にいる小さな秋葉と変わらない、可愛らしい顔つきだ。遠野当主としての顔ではない。そのままの秋葉の姿だった。

 「――――――さ――」

 

 夢でも見ているのか眠りについている秋葉が僅かに、何かを喋った。しかし、それが一体何を言っているのか聞き取れない。恐らく寝言だろうと、それとなく自身を収め、口元を緩ませた。

 

 ふと、口内がどこか苦い。粘っこい酸味のような味が舌の上に残っている。

 それをどうにかしたくて、横に備えられた棚の上にある水差しに手を伸ばそうとして。

 

「―――――そうか、俺」

 

 口内の苦さは吐瀉物の味だと、理解が追いついた。

 それを認めて、志貴は自分に何が起こったのか理解した。

 

 そう。夢を見た。命の潰える喪失の夢を。何も出来ず踏み躙られる様に、死んでいく。夢の中で志貴は死んだのだ。心臓を抜き取られ、取り返す間もなく、握り潰された。あの時出会った藍色の亡霊に。あの殺人鬼に。その様が悲しく、消えていく命が寂しかった。夢であるのに、恐ろしいほどにリアルだった。

 

 そうだった。自分はそれに衝撃を受けて――――

 

「あれ?……でも」

 

 それは、今しがた見た夢ではない。何がどうと言うことも出来ないが、なんとなくそれは違うように思える。その夢は、今朝に見たものだ。もっと違う、何か大切な事を夢見たような気がする。

 

 しかし、最早夢は消えた。名残さえ失い、もう思い出せない。

 胸の虚ろはいやに震えている。

 あるいは、あの夢がこの虚ろの理由、なのだろうか。

 

 砂嵐。砂嵐。砂嵐。

 

「……兄さん?」

 

 ふと、かすかに囀る声音が耳に届く。

 

 身体を揺らして秋葉が目蓋を薄く。秋葉はどうやら寝起きが良いらしい。すぐさまに頭で働くようで、声音の主の姿を注視した瞬間に瞳は見開かれ、しかし翳りを帯びさせながら、ベッドへ寄りかかる身体を起き上がらせた。

 

「ああ、おはよう。秋葉」

 

 出来る限りの自然さを醸し出して、秋葉へと笑いかけた。

 

 秋葉の目に、志貴のその穏やかさはどう映っただろう。瞳を瞬いて、秋葉は兄の声音に反応するのが少し遅れた。

 

「……兄さん。……その、大丈夫ですか?」

「ああ。多分平気だ」

 

 多分という所に、自信の無さを如実に現している。

 

 今しがた起き状況を把握したばかりなのだ。整理も行っておらず、自分の体がどのような状態に在るのか定かではない。確か、吐いた。夢を見て、それと何かが原因で。しかし、それ以外はまるで覚えていない。

 

 それでも妹に心配をかけるのは兄としての姿ではないと思う。情けない今の姿を秋葉に見られているのに、そのような物は今更なのかもしれないが。

 

「気持ち悪さは無いし、お腹も減っている。食欲があるって事は健康体って事だろ?」

 

 影を覗かす妹にわざとおどけて、志貴は応えた。

 

 何よりも志貴がすべきなのは体中から心配を滲ませる秋葉を安心させることであった。眉を悲しげに傾かせた表情も含め、生命を確かめるように志貴の手を強く握りしめるその態度から、秋葉がどれだけ志貴を心配していたかは明らかだった。

 

 そんな志貴の心配りをどう受け取ったのであろう。秋葉は眉間に皺を寄せて俺の目を覗いてくる。

 

「お、おい秋葉?」

「兄さんが、嘘を言っているかもしれません」

 

 どうにも信用がない。

 

 確かに信じられるような事、今の今まで一度足りともしたことがない。長い別離の時には交友すらなく、お互いの状況も把握できず、家に戻ってきても心配をさせてしまうまるで駄目な兄のままなのだから。秋葉の行動も貧弱な兄を心配しているからゆえのものだと思えば、何も言うまい。

 

 それを証明するように、秋葉によって握られた手が更に強く、温かさを確かめるように握りしめてくる。その痛いほどの力が、秋葉がどれだけ心配をしていたかを物語っていた。

 

 だが。

 

「――――――っ」

 

 志貴には秋葉の姿を長く見つめるのは辛すぎた。

 

 秋葉の姿はまるで継ぎ接ぎなのだ。黒ずんだ線が秋葉の体中を蹂躙していて、触れてしまえばそのまま崩れてしまいそうな感覚がある。秋葉の身に走る亀裂。線は脆いのだ。近づきすぎれば壊れてしまう、と志貴は危惧する。何が、とは考えたくもなかった。

 

 そして志貴は違和感を覚えた。

 気のせいだろうか。

 

 ――――線が以前よりもハッキリと見える気がする。

 

 視界に走る黒色の亀裂が、どこか少し濃い。

 頭に僅かな痛みを感じた。

 

 痛みというよりも僅かに突っ掛かるような、脳内が痒いと表する事が正しいような痛みがあった。

 

 でも、ここで瞳を反らす事も出来ない。それでは嘘を言っていると公言しているようなものだ。だから真っ直ぐに笑みを湛え秋葉の瞳を見続けた。苦痛にも似た気持ち悪さを飲み込んだ。視線が絡み、少しばかりの時間が流れる。

 

 そして。

 

「……嘘は、言っていないようですね」

「まさか。嘘なんてつくはずないだろ」

「分かりません。兄さんが嘘の上手な方でしたら装う事も得意でしょう?」

「お前なあ……」

 

 最早降参だと肩を竦ませた。そんな呆れ交じりの仕草に、ようやく秋葉の仲に渦巻く不安がその質量を薄くしていくようである。顰められた眉の形が整っていく。こんな遣り取りで、秋葉の中にある影は薄れていくのだ。

 

 それが例え長い間を共に過ごす事もできなかった二人であろうとも、確かな家族の感覚である。苦笑と共に、この空間をどこか安易とは言わないまでも受け入れた。

 

「ああ、そうだ」

 

そんな雰囲気に、そう言えばと改めて思った。

 

「なあ、秋葉」

「どうしましたか?」 

「俺は返事を聞いていないんだ」

「何がです」

 

 要領を得ぬ志貴の言葉に秋葉は僅かに小首を傾げる。

 

 そんな少し子供らしい仕草が可愛らしいく思え、この顔が見られただけでも痛みを我慢した甲斐はあった気がした。

 

「おはよう、秋葉。……と言っても、もうこんばんはの方がいいのかな」

 

 出来るだけの、柔らかい笑みを秋葉に送った。

 そして、今しがた気付いたのか「あっ」と声を漏らし、暫しの時を置いた後に秋葉は眩しげに微笑んだ。

 

「おはようございます。兄さん」

 

 時機としては、それぐらいだろうか。

 硬い扉を叩く、ノック音。

 

「失礼します」

 

 静かに扉が開かれて、翡翠が姿を現した。

 

「おはようございます。志貴様、お体のほうは大丈夫なのでしょうか」

 

 翡翠は変わらない静謐さで言葉を紡いでくる。まるで先ほどの秋葉のような繰り返しだった。それを苦笑して受け入れる。

 

「ああ、おはよう翡翠。もう大丈夫だよ」

「でも、暫くは体を養生しないといけませんよ。兄さんは元から体が良くは無いのですから」

「秋葉。そんな人を病弱みたいに言うなよ……」

「あら、違いますか?」

「……違うぞ、多分」

 

 改めて言われれば、自信は無い。

 

 最近は起こらないが、かつて受けた事故の影響により志貴の体は貧血を患っている。頻発する貧血は志貴の生活を確かに不便にさせる重いもので、そう思えば病弱といわれても仕方が無く、今回の事も有って指摘をされればぐうの音も出ないことは明確であった。

 

 しかし、そんな志貴の反応に秋葉は仕方のないことだと小さな笑みを口元に浮かばせるのであった。その笑みを受けて、志貴としては最早どうしようもない。

 

「あの、志貴様」

 

 翡翠はどこか顔を曇らせて志貴に声をかけた。

 

「ああ、どうした翡翠」

「先ほどご学友の方から電話があり言伝を預かっております」

「有彦から?」

 

 今はこんな時間なのだ。学校には休みの電話は早朝に入れてあると、秋葉が教えてくれた。しかし、志貴に電話を入れるような友人は限られてくる。それこそ悪友ぐらいなものだろう。故に有彦の名を出したのだから、しかし志貴の予想は以外にも外れた。

 

「いえ。クラスメイトだという弓塚様からです」

「弓塚さんが?」

 

 意外だった。弓塚さつきから電話が来たとは。二人には共通点が少ない。同じクラスメイトであるが、しかしその距離は決して短いものではない。だがそこで、はたと思った。

 

 昨日。昨日である。二人はある共有を果たしたのだ。

 

「……」

「それでなのですが『私も今日休んじゃったから、明日学校で会おうね』と」

「そうか……」

 

 弓塚と志貴は昨日一緒に帰り、そしてあの藍色に出くわした。それの影響なのだろうか。あの藍色と出会った二人が体調を崩した。藍色の存在に、消えた首に気でもやられたのであろうか。でなければ、休む事も吐く事もなかっただろう。

 

 でも。

 

「そうか」

 

 噛み締めるように、志貴は呟いた。

 

 辛かっただろう。怖かっただろう。日常にいるはずなのに、まるで現実味の無い場所に降り立ったような感覚があの時襲った。それを弓塚も感じているはずだった。しかも、所在のない弓塚に志貴は言葉をかけることも出来ずにいたのだから、自らの至らなさを痛感した。でも、弓塚はそんな志貴に、気を使ってくれている。優しい人だ。

 

 それが、嬉しかった

 

「そうか」

「兄さん?」

「いや、なんでもない。ありがとう、翡翠」

「いえ……」

 

 そして用事は終わったのか、何事かを口に仕掛けて、しかしそのまま押し黙ってしまい、そのまま翡翠はあっさりと部屋から出て行った。一礼は欠かさずに。

 

「学校か……」

 

 学校で会う約束なんて、今まで交わした事もなかった。有彦とはある程度の約束自体を交わすこともあったが、それもくだりのないことで学校とは無縁の約束だ。だから二人は悪友なのだろうが、それが今しがた打ち破られた。

 

 何故だろうか。志貴はどこか明日学校へ行く気力を増していった。

 

「兄さん」

 

 しかし、そんな志貴にどこか秋葉は先ほどまでとは異なった表情を見せる。

「その、弓塚さんとはどのようなご関係で?」

「ああ。同じクラスメイトだって翡翠が言ってただろ?友達、かな」

「それは女性の方ですか?」

「そうだな」

「……」

「秋葉?」

「……莫迦」

 

 どこかむくれたように、秋葉はそっぽを向くのであった。

 

 □□□

 

「……志貴様」

 

 安堵に緩んだ口元から零れた声が人気のない廊下に落ちる。誰に聞かせるでも無く、しかしその言葉は狭い廊下の壁を反発して翡翠の鼓膜を震わし、今朝から固まったままの心を次第に溶かしていった。  

 

 そこは志貴の部屋から扉ひとつ隔てた廊下だった。

 扉の向こうには志貴と秋葉の声音が伝わってくる。

 翡翠は離れる事も無くその場に佇んでいた。

 

 遠野における翡翠の仕事のある程度をこなしていると、時間は瞬く間に過ぎていくように思えるが、今日だけはその感覚が狂った。今朝に志貴が体調を崩してから、気がそちらにばかり向いて仕事の傍らに時計を見た回数も数知れない。

 

 仕事は重要だと思っている。翡翠はこの遠野では使用人なのだから、仕事はこなさなくてはならない。けど、今日ばかりはその仕事へと傾ける集中力はすぐさま霧散して、頭には苦悶に顔を歪ませる志貴の事ばかり浮かんだ。

 

 清掃の合間に何かと用事を見つけては志貴の部屋へと足を向けた翡翠である。秋葉が執務室で仕事を行っている僅かな時間は、翡翠が志貴の様子を見守り続けたのだ。

 

 志貴がどれほど苦しんでいたか、その目に全て収めた翡翠なのだ。眠りにつきながら苦しみ、やがて絶叫を上げて、嘔吐した志貴の姿を翡翠は全て見ていた。主人の顔色がどれほど悪かったかを心細げに見つめ、躊躇いがちに顔から吹き出る油汗をふき取った。その危うげな生気に彼女の不安は一入に肥大していた。部屋の片づけを幾程か間違える事もあった。志貴がどうなっているか心配し、いつのまにか上の空へと赴いた事もあった。

 

「よかった……」

 

 翡翠の精神に張り巡らせた緊張が柔らかくなっていく。一時の安堵に息を吐いた。

 

 秋葉もようやく心安らいだだろう。仕事のために志貴の部屋を離れる事さえ躊躇い、頑なに志貴の手を握り続けた彼女を、側で仕事をしていたら志貴の寝つきも悪いだろうと説得したのは意外にも翡翠である。志貴の苦しむ様をその目に収めた翡翠だから、志貴の身を案じ、秋葉には休息の意味を込めて翡翠は説得したのであった。

 

 その志貴が、夕刻も深まり夜が訪れるこの時に、ようやく意識を回復した。

 

 しかし。

 

「……」

 翡翠にはその安堵を確かめる事は出来ない。

 

 扉一枚隔てた向こうに、目覚めた志貴がいる。扉越しに聞こえる兄妹の会話を耳にしながら、翡翠はその扉の側から離れる事が出来なかった。

 

 何も立ち入り禁止だと命じられたわけではない。入ろうと思えば、先ほどのようにいつでも入る事ができるだろう。そして目覚めた志貴の顔色をちゃんと確かめたかった。

 

 だが。部屋の中にいる二人は仲睦まじくて、長居し割って入る事はどこか躊躇われた。

 

 温かな室内を乱すことは避けたい。室内に満たされた柔らかな空気を硬くする事は良くない。そのような温度、自分が味わうなんていいはずがない。

 

 そうやって自分に言い聞かせ、この場にいる。

 入りたくなければ、この場にいなければいい。

 翡翠は使用人なのだ。仕事を行うために、この場を離れなくてはならない。

 

 しかし、それを思えば思うほどに翡翠の足はこの場から離れようとはせず。

 

「翡翠ちゃん?」

 

 そんな翡翠の側にその人は、いつの間にやらそこにいるのだ。

 一人でいる、翡翠の側に。

 

「姉さん……」

 

 どこかいつもよりも明るい雰囲気を滲ませながら琥珀は帰ってきていた。

 

 琥珀は今日、体調を崩した志貴の相談を行うために昼頃から時南へと赴いていた。時南は琥珀が医学の師事を行っていた人物であり、やはりその手腕は目に付くものがあるらしい。姉の処方の腕を知っている翡翠は漠然と時南の情報を耳にしていたが、その場所に姉が行くのだから師弟関係で話も弾んだのだろう。昼頃に遠野を出て、戻ってきたのが夜も間近に迫った頃である。

 

 顔つきはいつもと変わらないが、何だろうか、隠し切れぬ陽気がその体から溢れている。普段遠野からは買い物以外に外出しない琥珀にとって本来の意味以上の時間が過ごせたのだろうか。

 

「姉さん、お帰りなさい。……用事はもう終わったの?」

「ええ。こんな時間になるまで話こんじゃったけど、もう大丈夫。元気そうで安心しちゃった」

「……そう」

 

 琥珀は本当に嬉しそうに笑っていた。此処まで嬉しそうに、こんなにも中身のある笑みは翡翠にとっても久しく見ない光景であった。

 

 琥珀はいつも笑顔だ。感情豊かにする事もできない翡翠とは違い、琥珀は溌剌と笑む。陽気を満たす笑みでもって、人の少ないこの屋敷に柔らかさを運んでくるが、今目の前にある笑顔は、いつも見る琥珀の表情とは質が異なっているように翡翠は思えた。

 

 それが具体的に何なのかは分からないけれど。

 しかし、それに応える言葉がそっけないと自覚する。翡翠の心の奥にある自身へのわだかまりが言葉に温もりを失わせている。

 

 いや、翡翠にはそのようなものは必要が無いのかもしれない。

 

「それで翡翠ちゃんはどうしたの?志貴さん起きたんでしょう、入らないの?」

「……」

 

 そしてそんな翡翠を見抜いているように琥珀はいつも翡翠の核心をついてくるのだ。流石は姉ということだろうか。

 

「私は……」

「うん」

「私は、この中に入ってはいけないんです」

「え?」

「志貴様が目覚めた事は嬉しいです。秋葉様も、喜んでいます。私も、嬉しいです」

「翡翠ちゃん、なら」

「でも……私がこの中に入るのは、なんだかいけない事なんじゃないかって思うの」

「どうして?」

「……私が、使用人だから」

 

 翡翠がこの部屋に入る事は分相応ではない。今、喜びを分かち合っている二人は翡翠の仕える主人なのだ。その二人が温かな会話を交わしているのである。その中に入り込む事は、それは。

 

「それは、使用人がしてはいけない事だと、思います」

 

 先ほど入室したのは、志貴の学友から預かった言伝を志貴に伝えなくてはならなかったからだ。主人と使用人が空気を共有する事は使用人としての役割があるからである。そうでなければ、本来であれば家族ではない翡翠がこの遠野に入れるはずが無い。それを翡翠は使用人としての役割を会得しているから、ここにいるのだ。

 

 しかし、今。

 翡翠が部屋の中に入る事は、それはもう使用人としての役割を越えた話である。

 

 本当は、翡翠もこの部屋の中にもっといたかった。部屋に入って真っ先に志貴の顔色を確認したい。そして、その声音を聞き、安心したかった。

 

 だが、それは翡翠の役ではない。

 それは、使用人として踏み込んではならない翡翠の境界線だった。

 

 ここを踏み越えていく。それは、家族や親しい人間の行うべき事であり、ただの使用人でしかない翡翠には、あまりに遠い断崖であった。

 

 使用人である翡翠は、志貴や秋葉とは異なる場所にいる。まるで一人だ。

 

「……そっか」

 

 翡翠の密やかな答えを、琥珀は困ったように苦笑しながら頷いていた。

 翡翠の言いたい事は、何となく琥珀にも理解できる事であった。

 

 その意味合いはまるで異なるが。

 

「それじゃ、翡翠ちゃんはどうする?」

「私は、これからお粥の準備を「それは駄目だってば」…使用人としての仕事を、します」

「そう。じゃあ」

 

 愛しむ様な琥珀の視線。

 それはただ妹を想う、姉の瞳であった。

 

「使用人として翡翠ちゃんは病み上がりな志貴さんに何をすればいいのかしら?」

 

 琥珀の問い掛けに翡翠は、はたと思う。

 己は志貴に対して何が出来るのだろう。

 

 体を患っているかもしれない志貴のために色々と世話を行わなくてはならないだろう。水差しの水は充分だろうか。寝汗に召し物は不快になっていないか。いちようの意味も込めて着替えを持っていくべきだろう。もし汗が酷かったらシーツも新しいものに取り替えなくてはならない。

 

「あ」

 

 なんだ。

 

 考えてみれば、志貴のためにやれる事は沢山ある。そのどれもが些細な気遣いの範囲を抜け出す事ではないが、使用人の仕事である。それならば、この中に入る事も翡翠には許されるような気がした。

 

 しかし。

 

「でも、そんな片手間に……」

 

 志貴の様子を確かめたいがために仕事を行うのは、少しばかり悪い事をしているような気がする。しかしそんな心根は、志貴の使用人となる事から打算的に内心考えていた事を、その時になって翡翠は思い出した。

 

「何言ってるの。翡翠ちゃんは仕事のために志貴さんの部屋に入るんだから、誰も何も言いませんよ。それにもし秋葉様が何か言っても、仕事なんだから大きくは言えませんって!」

 

 だから大丈夫!と琥珀はなぜか力瘤を作った。

 そんな琥珀の後押しに翡翠は暫し黙考した後、力強く頷いてその場を後にした。頼りになる姉に感謝の言葉を残しながら。

 

「姉さんは駄目だと言ってたけど」

 

 使用人なのだから、お粥ぐらいは作らなければならないと、翡翠は使命感にひた走った。

 

「そういえば……」

 

 気持ち足早に廊下を歩く翡翠であるが、その半ばでふと翡翠は思う。

 

 ――――何故、今しがた帰ってきた姉が、志貴が目覚めた事を知っていたのだろう。

 

 僅かに脳裏を過ぎた思考は、消えるでも無くそのまま奥底に沈んでいった。

 

 □□□

 

「ふう」

 梅の味がエッセンスでは無く、梅の味そのものという不慣れな味わいであるお粥を胃袋に流し込んで、志貴は再び部屋にいた。翡翠の手作りなのだと聞かされ、気合で食した。暫く梅はいらない。

 

 そのまま長居しても問題は無かったのだが、秋葉たちに速く寝たほうが良いと奨められたので、多少残念であるが折角の気遣いを無碍にはすまいと甘んじて部屋に戻り、今はベッドである。そこに腰掛け、今は何をするでも無く亡羊としている。

 

 どうやら志貴が部屋を離れているうちにシーツが変えられたらしく、湿り気のあったシーツは手触り良く冷たいものとなっていた。恐らく琥珀か翡翠が行ったものだろう。秋葉がやるとは思えない。

 

「さて、どうするか」

 

 しかし、部屋に戻ってもする事は多いわけではない。如何せん今は手持ち無沙汰である。やる事は自然と限られている。学校の宿題は既に一日休んでいるのだからやっても意味は無い。いや、復習と言う点で意味はあるはずなのだが、それは宿題ではない。そして復習を自ら進んで行うのは、勤勉者ではない志貴には縁の無い事であった。

 

 では先ほどあったばかりであるが、秋葉のとこにでも行こうか。何をするわけでもないが、話し相手には申し分ない。

 

 しかし、話し相手ならば他にも翡翠や琥珀もいる。二人は今どうしているだろうか。仕事中なら仕方ないが、話すだけなら問題ないだろう。特に琥珀はそこらへん聞き上手そうだ。思えばあの二人とはちゃんと話していない。折角同じ家に住んでいるのだから、話す機会を作るべきだろう。

 

「……でもなあ」

 

 先ほど寝てろと言われたばかりなのだ。これ以上気を使わせる事は如何なものだろうか。ここで秋葉に会えば小言を言われるだろうし、他の二人に会いに行くのも気遣いに乗っかったような感じとなるのがいただけない。

 

 ならば、というかやはりというべきか。

 

「じゃあ、寝るか」

 

 仕方ない。そう呟いて、そのまま横になる。

 

 新しいシーツはなかなかに肌触りがいい。そのまま包まっていれば忽ちに眠れてしまうだろう。眠り癖みたいなものがついたのだろうか。一日中寝たからか脳がきちんと起きていないようで、ずっと眠たい気がした。食事中もどこか起き切っていない感覚があった。夕飯だと言うのに朝食のような。

 

「まあ、今日始めて食べたんだけど」

 

 それが梅味ではなく、梅のお粥なのだからなかなかに刺激的だ。

 

 しかし、それならば朝食と言う考えもありだろうか。内臓が起き始めたばかりなのだからお粥なのも胃に優しいだろう。この際、味は無いものとしておこう。

 

 だが、このまま眠ってしまうのは、一日を無駄にしたようにも思える。だから具体的にどうしたという訳ではないが、何となく遣る瀬無い。

 

「仕方ない」

 

 再び呟いて、自分を収める。そもそも落とし所なんてどこにもないのだ。

 例え、あの藍色のせいであっても、もう会うことも無いのだから。

 

「……」

 

 そのまま横になっている内に、きっと眠っている。

 そうすれば、弓塚との約束も果たせるであろう。

 約束というほど強制力もない、ただ志貴がそう想いたい約束だ。

 しかし、今は。

 その約束を果たすために眠っておこう。

 

 □□□

 ハ――――ハ―――――――――。

 仄暗い道なりを、体を引き摺るように進んでいく。

 足元が、安定しない。影と闇を貫いて、人も入らぬ街路地の裏を進んでいく。

 舗装された道路に、僅かな赤色が垂れている。脇腹を裂く傷口が疼いて仕方が無い。ぐじゅぐじゅと奇怪な音をたてながら、傷口に蛆でも涌いたような感触そこにはある。

 その痛みが、抜けない。

 脇腹に感じる痛みが、どういうわけか抜けない。

「ハ――――ハ―――――」

 獲物を見つめる獣の如き息遣いが、人気のいない路地を侵食する。

 途切れる呼吸を無理矢理に稼動させる吐息。どこにも届かぬ、声にもならない悲鳴であった。

 荒い吐息は暴力的に酸素を取り込んで、軋もうとする筋肉を動かしていく。

 しかし、こんなにも苦しいのに、どこにもたどり着かない。

「グガ―――!」

 膝が崩れ、そのまま硬い道路に体が叩きつけられた。

 無様に、転がる。

 頭の中を半鐘が木霊する。何を考えているのか、自分ですら理解できない。まるで自分以外の誰かが脳内を侵して回っているかのようだ。誰だこいつは。お前になんて用はない。

 そのまま消えて女の糞に塗れてろ。

 そうだ、そうだ。消え去れ。全部消え去れ。

 必要なもの以外全部消えて滅びろ。滅びて消えろ。

「アア――――」

 路地に跨る暗がりのなかを無理矢理動いていく。

 逃げるのではない。逃げてしまうのではない。

 そうだ、そうだ。そんな選択肢、どこにもない。

 ただ、

「アイツ―――――!」

 憎悪のままに動けばそれでいい。

 そのために、今は動け。動いて、機会を待て。

 今はまだ、雌伏の時。アイツに見つからず、今は機会を待て。

 そして、いつか。そして、いつか―――。

 アイツを殺して、粉微塵にしてくれる。

 憎悪に牙を剥く。

 そして、その瞳が、今追うべき標的を探った。

 

 

 

 

 

 以下NG。

 もし、この場面で琥珀さんが登場したら。

 

「しかし、秋葉。あれだな」

「何ですか?兄さん」

「……近くね?」

 二人の距離は最早唇にさえ届いてしまいそうな隙間しか残されぬほどに接近していた。吐息が顔にかかり、志貴の鼻腔には香りよい匂いがくすぐっている。それが石鹸の匂いなのか、服に滲む洗剤の匂いなのか。それとも、秋葉自身の体臭なのだろうか。ひたすらに良い匂いである。

「……っ!?」

 一瞬志貴が何を言っているのか理解できなかった秋葉だったが、小首を傾げた瞬間には志貴が何を言いたいのか理解した。頬を赤く染め、慌てて身を引こうとして。

「あーーーーーーーーーっ!」

 絹を裂くような、それでいてどこか楽しげな声音が室内に響いた。

 何故だろう。体中の毛穴が開いて嫌な汗が流れてきた。反応してはいけない。反応してはいけないと自分に言い聞かせて、仏の如くに内心経典を読みふけながらその人をいないものとして扱おうとした時には、既に爆弾を放ったのである。

「志貴さんと秋葉様がディープキスしてます!」

 琥珀は楽しげにニヨニヨと口元を緩ませながら二人を指差している。しかし、そんな事を言えば状況が混乱するのは分かっているのである。

「な!きっ、きききききききす!?琥珀貴方何を言ってるの!!?」

「そうですよ琥珀さん!!俺たちがそんな事する訳ないだろ!」

 志貴と秋葉の言葉に耳を貸さず、いやむしろ更に悪化させて琥珀は場を掻き乱す。

「いいんですよ恥ずかしがらなくて。しかし近親相姦とはレベルが高いですね。秋葉様やっるー!」

「ちょっと待ちなさい!何で私なのよ!」

「えー、だって秋葉様じゃなきゃこんな事しませんしー。志貴さんが寝込んでいるときに襲い掛かるのも余裕ではないかと」

「……一度貴方ときっちり話し合う必要がありそうね、琥珀」

「あ、それとも秋葉様じゃなくて志貴様でしたか?病に心配している秋葉様の優しさにつけこんであーんなことやこーんなことまでやっちゃいましたか」

「いやいやいやいや!やってませんて琥珀さん!」

「それは秋葉様に女性としての魅力が圧倒的かつ完全無欠に無いって事ですか?」

「……いや、それは」

 それを真剣に答えるのは兄としてどうだろう。妹の女性的魅力を謳う兄なんて危険すぎる。少なくとも正常な兄妹とは言い難い志貴と秋葉であるが、常識ぐらいはある。そして妹の魅力を声高々に語る兄がなかなかに逸脱している存在だとも分かっていた。

 しかし、言葉に詰まった志貴を秋葉は見逃さなかった。

「……兄さん?何故、詰まるのですか!!」

「ちょ、秋葉!?」

 一気に騒然と化したその場で選択を間違えた志貴に、先ほどとは違う眉の形で秋葉が詰め寄る。

その光景をいつの間にやら傍観者のようににやけて見つめる琥珀なのである。

それが琥珀たる所以でもあったが。

 ただ志貴にはそれを確認する術も無く、秋葉を宥めすかしながら眼鏡をかけ自身の生じた違和感を奥底に仕舞いこんで、愛想笑いを浮かべる事が今先決すべき事であった。

「いや、秋葉あのな?別にお前に魅力があるとかそんな事はどうでもいい―――」

「どうでもいい!?兄さんは私のことがどうでも言いというのですか!!」

 顔を真っ赤にさせて、先ほど志貴の直前で見せた恥じらいの赤とは全く異なる顔色に表情を変えて、秋葉は髪の毛も振り回さん勢いで怒っていた。

心なしか髪が赤いのは気のせいだろう。

「いやいや其処まで言ってないから!兎に角秋葉、少し落ち着いて……」

「私は落ち着いています!!大体兄さんは……っ!」

 

 終われ。

 



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断章 夢現(ゆめうつつ)

 
 まどろむ午睡は緩やかに夢へと意識を誘う。

 そして少女は、幼い女の子へと変わっていく。


 遠野秋葉の目覚めはどこか飽きをもたらしている。

 

 広い部屋の中、一人で起きる。ベッドは小さな秋葉の体には大きすぎるもので、大人が二人いても寝られそうなサイズだ。そんな大きいベッドを秋葉は自身の寝所としていた。

 

 いつも同じ時間に起きて、過密なスケジュールを勝手に組まれては、それをこなしていく。文句を言ってもまるで秋葉の言い分は通った事がない。厳しく接する家庭教師の顔にも飽きが来ていた。何であの人はあんなにも冷めているのだろう。あの人物を選別したのが何となくであるが父によって決められた事だと察していた。それを察するほど秋葉は聡明であったし、そして幼いが故に父の意図までは理解できなかった。

 

 しかし遠野は家柄が良く、それゆえに確かな教養を取得しなければならないらしく、遠野に相応しい人間にならなくてはいけないと押し付ける人間に満ちていた。そして彼らは時折言うのだ。もっと頑張りなさいと。そんな言葉が酷く悲しかった。

 

 結局いつも自分は何かを押し付けられるばかりで、自ら選択なんてした事が無かったのだ。それを悔しいと感じ、しかしそれを変革する事が小さな秋葉には出来なかった。

 

「はあ……」

 

 そして今日も、退屈な日々が始まる。

 

「今日はこの本を読んで理解してください。後で幾つか質問をします」

 

 そう言ってその大人は分厚い本を一方的に手渡してくる。重苦しく、内容も易しくない難解な本である。秋葉にとってこの本は面白くもないし、ただ退屈である。ひとつの机に向かってこれを読み解く時間は徒に苦痛であった。

 

 しかし、それは内容を把握できないからではない。何となくであるが、秋葉には読めなくも無いギリギリのレベルをこの大人はいつも渡してくるのだ。

 

 今よりももっと幼い頃から大人たちに囲まれて習い事を教えられ続けた秋葉である。その教養は同年代の一定基準以上を疾うに上回っている。元からの素養も良かったのか。ただ黙々と勉学を教えられ文化人としての教養を教えられ続けた秋葉であるが、大人たちの期待には応えてきた。

 

 ただ、今出来るのであれば、更なる成果を期待されることは道理であると、秋葉は気付かなかった。

 

「はい……」

 

 秋葉はただ頷く事しか出来ない。頷く以外の選択肢は秋葉には提示されない。もし此処で嫌だと言っても、他の習い事を行わせるのだ。かつて一度だけ僅かな反抗心から勉学を嫌だと断ったところ、引き続き楽器の練習を行わされたのだ。

 

 自由など許されない。大人の管理下で秋葉は育てられてきた。

 

 反抗は無意味だった。秋葉のみの時間など、睡眠と入浴時のみである。食事時はテーブルマナーを意識しなければ大人たちの冷めた目に晒される。あの視線はあまりに辛かった。幼い秋葉には他人からの悪感情を受け流す術も心意気も持っていなかった。

 

「それでは時間になるまで私はここを出払います」

 

 そう言って、その大人は出て行った。

 

 残されたのは小さな秋葉と、そんな秋葉には大きさの合わない執務机である。備え付けられたイスもそれに揃って大きい。大人用の大きさである。この机が秋葉の勉強机である。背丈もサイズもまるで合っていないのだから、秋葉には座り心地が悪い。秋葉は据わりながら自分に合うような位置をもぞもぞと探すのであるが、そのような場所は毎度の事に存在しなかった。

 

 渡された本を開いてみる。小難しい内容の本である事は開く前から分かっていた。しかし、課題として出される本はいつも頑張れば理解できなくも無い内容なのだ。そのようなレベルの本をあの大人は狙って選んでくる。そんな嫌らしさと、大人だからという理由で秋葉は部屋から出て行ったまま、そのまま戻ってこなければいいと思うが、その度大人が戻った時のあの顔を見るのは更に落胆が大きくなる。

 

 遠野には大人ばかりいる。その殆どが秋葉にとっては親戚の関係にある者ばかりであるが、その様な事秋葉にはあまりに関係が無い。彼らは大人であり、大人という存在でしかない。秋葉には優しく厳しい態度という仮面を被り接してきてはいるが、幼くして聡明の片鱗を見せる秋葉には、彼らが秋葉を次期当主候補としてしか見ていないことは明らかであった。

 

「……」

 

 遠野秋葉は現当主、遠野槙久の娘だった。

 

 母はいない。秋葉の母は秋葉を生んだ時に死んだのだと、秋葉は父から聞かされた。それを寂しいと感じたことはある。しかし、そんな秋葉を憐れんだのかどうか分からないが、父は秋葉に優しかった。

だからだろう。母を求める気持ちはそれほどまで無かった。親戚に再婚を奨められ、それを父が断った事を知っているからかもしれない。

 

 父は死んでも母を愛しているのだと、それが嬉しかった。

 

 普段、父と接する機会は多くない。忙しいからなのか、最近父は部屋に引きこもっている事が多くなった。たまに会っても秋葉には優しく接してくれるが、すぐさまどこかへと消えてしまうのだ。それを残念だと、心底思う。この遠野に於いて、父の優しさは格別であった。例えそれが、自らへの嘆きから生まれる事であったとしても。

 

『秋葉』

 

 その言葉だけはやけに秋葉の記憶に残っていた。

 

『私達はね、一人で生きて、一人で死んでいくんだよ』

 

 父は寂しい人だ。何となく、そう思う。

 悲嘆に暮れ、それでも生きている孤独な人だった。

 

 母を亡くし、側には利権を争う親戚しかおらず、全くもって心休まる事もない。

 

 それはまた、秋葉も同じであった。

 

「……」

 

 窓の向こうを見やる。そこには広い空があった。どこまでも果てしなく、遠い。秋葉にはまるで届かぬ外である。自由ではない秋葉には外で遊ぶ経験がまるで無かった。

 

 秋葉という子供はまるで鳥篭の鳥であった。鳥は空を羽ばたく。子供である秋葉も、外に出て遊びたかった。しかし、そのような自由は秋葉には許されない。

 

 これからも変わらぬ空漠の日々が続く。

 そう、思っていた。

 

 ――――そんなある日である。

 

 いつものように勉強を強制されてそれを受け入れるしかない秋葉は、重厚な勉強机に向かいながらこれまた厚い本を読んでいた。その内容をひたすらに理解し、一所懸命に把握する。

 

 何も変わらない。何も変わらない。

 そんな事実が当たり前のように転がっていた。

 

 だからだろう。

 

「?」

 

 一瞬、それが何なのか上手く理解できなかった。

 いつもの時間に変化が起こった。

 

 始めは風が強いのだと思った。風が強いから、窓が揺れているのだと、思った。

 

 だが、それは

 

「!」

 

 窓の向こうから手を振るあの人の姿で覆された。

 

 それから、秋葉の視界は一変した。

 

 秋葉を外へと連れ出し、よく習い事をサボる兄とこの前連れてこられたと言う巫淨の子供と共に一緒に遊んでくれた。外で誰かと遊ぶなんて秋葉には始めての体験であった。兄達は気弱な秋葉に優しくそれでいて素直に接してくれた。このように同年代の子供と共に、外を走り、家を探索し、森を駆けるなど、今まで紡いだ秋葉の人生ではありえないことだった。

 

 楽しい。誰かと遊ぶ事がこんなにも楽しいことだなんて、想像以上だった。

 

 だから秋葉は笑ったのだ。その人たちと笑いあった。

 こんなにも明るく笑った事は、今までない。

 

 大人たちの期待に応えるだけの人生であった秋葉には、こんなにも笑顔を振り撒く機会なかった。

 

 だから嬉しくて、楽しくて、目が醒めるその時を心待ちした。

 自由な時間である就寝の時刻が、以前よりずっと待ち遠しい。

 

 なぜなら、目覚めればもう明日なのだ。

 明日になれば、また遊べる。

 

 また、あの人達と一緒にいられる。

 そう思うと、秋葉はわくわくとして少し眠れないこともあった。

 

 それからだろう。秋葉の表情に明るさが宿ったのは。

 

 しかし、習い事をしなければならないのに、その時間を狙って遊んでいるからだろう。

 

 その時間を担当していた大人が父に報告したのだ。

 

「……」

 

 何度言っても抜け出す秋葉に業を煮やしたのだろう。子供に出し抜かれることも癪に感じたのだろう。兄らは抜け道を考える事が上手く、厳重な管理にあっても秋葉はその盲点を抜け出して、外へと向かっていった。兄らの助けもあり、秋葉はいつも外で遊んでいた。

 

 そこは父の部屋ではなかった。恐らく廊下ですれ違う瞬間を狙っていたのだろうか。長い廊下に父は物静かに佇み、叱るでも無く秋葉を見下ろし、家庭教師からの報告があったことを告げた。

 

 そして秋葉は父へと告げ口を行った大人を酷く嫌な存在と再認識を行った。自分では止められないから、わざわざ父を煩わせるその魂胆は毛嫌いする分には十全である。しかし、こうやって父を煩わせている元の原因が秋葉であることを思えば、父への多大な申し訳なさが胸の奥に溢れていった。

 

「秋葉」

 

 短く、酷く簡素な声音。

 秋葉は怒られるのだと、身を竦めた。

 

 遠野に溢れる大人たちはひたすらに嫌いである。しかし、父だけは違う。父は秋葉には優しいのだ。何かを無理矢理に強制させるわけでもない。頭ごなしに強要させるわけでもない。秋葉の身を案じる、普通の父親だった。

 

 だからその父に怒られるのは、涙が出るほどに応える。

 

「……はい」

 

 知らず、声が震えた。

 

「……勉強をせず遊んでいる、と私は聞いた」

「……はい」

 

 そこで、父は秋葉に手を伸ばしてきた。

 はたかれる、と思った。

 

「楽しいか?」

 

 それを、秋葉は良く理解できなかった。

 

 父は、震える秋葉の頬に触れ、足を畳んで秋葉へと視線を合わせた。

 思い描く最悪の未来図と今の状況が異なり、秋葉は父を見た。

 

「え……?」

「遊ぶ事は、楽しいか?」

 

 父は要領を得ない秋葉に伝わるように、声を荒げるでも無く、静かに呟いている。

 

 怒っている顔ではない。

 

 むしろ、それは――――・

 

「楽しいです……」

「勉強よりも、か?」

「はい。勉強よりもずっと。……ずっと楽しいです」

「……そんなに、大事なのか」

「はい……」

 

 稚拙な声音を並べて秋葉は父へと真っ直ぐに応えた。不安に揺れる声で、全く芯の無い言葉であったが、その思いだけは伝えたかった。

 

 秋葉は、今を良しとしたい。

 

 あの瞬間を、ずっと楽しみたい。

 

 秋葉にとって、あの時間だけは心の底から自由なのだ。あの人に連れられた時、秋葉は自由の断片を掴んだのだ。子供たちと始めて見た大空は気持ちのいいほどの青色を描き、遠野という家系の重圧もしがらみも全て家の中へと置き去りにした。

 

 楽しい。嬉しい。そんな感情だけが、あの時にはある。

 

 それだけで充分だ。

 

 それを失いたくは無い。それだけは、守りたい。

 

 だから、父の目を真っ直ぐに見つめた。

 

「……そうか」

 

 父は秋葉の答えをどう受け取ったのだろうか。頬に添えられた手は乾燥してカサカサであったが、仄かに暖かく。その感触は久しぶりに会った父の懐かしき掌であった。

 

「なら、いい」

「……お父様?」

 

 そして気付いた。

 父は、眩しげに、どこか寂しげに微笑んでいた。

 

「秋葉。大切なら、それを大切にしなさい」

 

 視線を柔らかく、父は告げて秋葉が理解をする間にその場から遠ざかっていく。

 

 何故、父が怒らなかったのか秋葉にはまるで分からない。勉強よりも遊ぶ事を優先させる事は、遠野の人間として決して受け入れられるべきものではないはず。

 

 秋葉の応えに何か感じる所があったのだろうか。後姿を目で追っても、父は振り返る事も無く歩いていく。

 

 しかし、幼い秋葉でもこれだけはわかった。

 父は、秋葉があの人たちと遊ぶ事を許してくれたのだと。

 

「うんっ!」

 

 遠くなっていく背中に、満面の笑みを零しながら秋葉は大きな返事をした。

 

「……」

 

 夢は小さな秋葉の記憶を辿っていく。

 そして、場面はその時へと近づいていた。

 

 その日秋葉はいつものように屋敷を抜け出して、遠野の敷地内にある森の広場で花飾りの円環を編んでいた。遠野に自生する植物を幾程か頂戴して、懸命ながらに編みこんでいく。決して上手ではない。始めて作っているのだ。けどそれを作ってあの人に渡したかった。出来上がった花飾りの円環をあの人は受け取ってくれるだろうか。受け取ってくれたら、喜んでくれるだろうか。

 

 期待と不安を綯い交ぜにしながら、秋葉は楽しげに花飾りを紡いでいく。

 最近では大人たちは直接的には秋葉に何かを言う事は無くなった。

 

 むしろ改善されたと言っていいだろう。

 何と遊ぶ時間が設けられたのである。

 

 抜け出す算段を考えるぐらいならその時間を遊ぶために使ったほうがいいと、限られた時間ではあるが外へと遊ぶにいける機会が作られたのだ。

 

 そして、この計らいは驚くべきことに父が図ったのだと聞かされた。

 

 父がどのような想いで秋葉の時間を考慮したのか、全ては理解できない。ただ廊下で話したとき、秋葉の返答に現状の改善を感じたのか、習い事も僅かに減らされた。本当に僅かな時間と量であるが、その時間調整を父自身が行っているのだ。そのお陰で今こうやって太陽の下遊べるのだから、文句のあるはずが無い。

 

 森は穏やかな風に葉の擦れる音が運ばれてくる。天上に樹木が重ならないその場所は柔らかな陽光が差し込み秋葉を温めていた。

 

 側にあの人はいない。何か用事があるとかで、遅れてやってくるのだそうだ。

 

 用事とは何だろうか。一緒に遊べない事は些か残念ではある。

 しかし、その文句を言える相手がそもそも側にいないのだ。ならば待つしかないだろう。

 

 今、この場には秋葉と少し離れた場所にいる子供らしかいない。秋葉が二人と共に遊ぶには、二人は活発に過ぎる。気を使ってくれるのは分かるが、もう少し調子を落として欲しいと思う。ただ、それが叶えられる事は暫く無いだろうが。

 

 そう思っていると、草を踏みしめる足音が近づいてきた。

 

「秋葉っ」

 

 そして。

 

 その声音に笑みを浮かべ、今しがた出来上がった円環を片手に顔を上げてみれば。

 

「え?」

 

 あの人の後ろに、七夜朔はいた。

 

 その人は、あの人に手を握られながら連れられてやってきたのだ。

 

 人形みたいな子供だったと秋葉は思った。

 

 子供という感覚ではあまりに掴めない、茫洋が姿を成したような子供だった。どこか擦り切れたような藍色の着流しと、どうやら左腕がないらしくいやにアンバランスな見た目だった。更にビスクドールのような蒼い瞳には感情も宿っていない事が、それを増長させていて、一瞬秋葉は人形か幽霊を連れてきたのだと思った。

 

 引っ込み思案な秋葉であるが、それでもこの状況は如何ともしがたく、大きな戸惑いを覚えた。

 

 そこに一陣の風が吹きすさぶ。

 

 秋葉の手に握られた花飾りが、微かに揺れた。

 

「―――――あ」

 

 七夜朔に秋葉は、何か声をかけようとした。

 その姿を見て、秋葉は、何か声をかけようとしたが。

 

 そこで、意識は次第に薄まっていく。七夜朔の蒼い瞳を覗きながら、秋葉の視界は曇り消えていく。そうして潜り込んでいた夢の蒙昧から、名残に連れられていく。秋葉の意識は夢と現の狭間を泳いで、幼い女の子は少女へと変わっていく。

 

 しかし、何故だろう。

 

 秋葉は七夜朔の姿を、追い縋るように見つめていた。

 唇を噛み締めて、ふとすれば、涙さえ零れてしまいそうな表情をしながら。

 

「―――――」

 

 遠く、どこからか声が聞こえる。

 

 嗚呼、戻らないといけない。

 

 そして、声音に意識を浮上させながら、思うのだ。

 

 自分は、思い出す事も許されないのだと。思い出に浸る事も、行ってはならないのだと。

 

 ただ、それでも秋葉の口元は、溢れる名残にあわせ、その名前を呟くのだ。

 

「――――さく――」

 

 声音にして聞く七夜朔の名を、秋葉は押しつぶれんばかりの重圧に苦しみながら流していく。涙は流さない。理由も無い涙なのだ。理由なんて、あるわけがないのだ。

 

 だから秋葉は目覚めと共にその面影を記憶の中から追いやる。

 

 二度と、あの時に戻れないと知りながら、名残を惜しむ己を恥じながら。

 

「兄さん?」

 

 秋葉は、目覚めた。

 



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第十一話 悪い夢

 西日の翳る刻に白いリボンの少女は部屋を出て行った。
 ――――約束です。朔ちゃん、私……待ってる。
 淡い笑みと共に、そんな言葉を残して。 


 意識が揺らぐ。意識は途切れる。断絶と再生を繰り返して意識は起動し続ける。

 

 モノクロの砂嵐が過ぎていく。

 

 何かを見ている。何かが見ている。

 これはどこに行く。これはどこに向かう。

 

 ここは、どこだ。

 

 人気のない暗がりを、足をもがれた蟲のように這いずり体を地面に擦りつけながら引き摺る。倒れ掛かろうとする上半身と止まりかける下半身のズレを無理矢理に動かし続ける。

 

 熱に浮かれる身体の奥と、喪失する末端の冷たさを持て余していた。

 

 喘ぐ様に酸素を暴食し、整えきらぬ呼吸が肺を痛める。しかしその様な事は関係ないと、痛む内臓を慮ることもせず空気を取り込んでは吐いていく。息をしなければ、そのまま沈黙してしまう。肉体も、精神も。

 

 物寂しい乾いた路地。遠くから聞こえる電子音と暗がりに侵食する目障りなネオンの輝き。喧騒は遥か、雑踏が遠く、人目も当たらぬ荒涼の路地をひた歩いている。コンクリートが剝き出しにされた壁伝いには誇らしげな無意味が落書きされ、それを馬鹿にすることも不快に思う気力すらなく、ひたすらに歩む。ささくれ立つ内心と無視できない衰弱が余裕を奪っていた。

 

 ここは、知っている。

 茫洋なままに、そう思う。

 

 閑散とした灰色の路地。上を見てみれば、そり立つ壁の隙間から細い夜が見えた。

 

 見たことが、ある。

 確かどこかで、確かあそこで。

 遠い人の気配。近い退廃の匂い。

 

 ここは、ここは――――。

 

「嗚呼ア―――――っ」

 

 ――――――っ。

 

 何かを思い出そうとして、内側から迸る声音に意識が弾き飛ばされる。振り絞るような激情の吐息。零れる息が灼熱のようだった。肉体の奥底から燃えさかる己の感情が堪える事もできずに吐き出されていく。咆哮が内側から体を突き抜け、夜を切り裂いた。

 

 その声音を構成するおぞましき狂気と憎しみが、それをより際立たせる。

 

 そこで、視界が停止する。

 そのまま立ち返るように、意識は意識を発見した。

 

 ―――――意識を覗かれている。

 

 いや、自分が見つけられたのだ。

 

 自分が自分を発見し、その事実に肉体に氷柱を突き刺した戦慄が意識を歪ませた。自己を見る自己とは何だ。それは精神が今此処に二つある事を意味しているのか。

 

 いや、何だその意識とは。

 

 自分は自分だ。自分は自分だと、言い聞かせるまでもない事実が揺らいでいる。

 

 混濁する。混合する。自分が自分であるはずなのに、そこには既に分裂を始めた自己が犇いている。

ぶれる。ぶれる。意識はぶれる。

 

 やがて自分ではない自分が、自分を突き放していく。

 

 精神を押しつぶす激情が意識を捉えて崩落し崩壊し倒壊し、回転し転換し輪転し、追放し解放し放蕩し、分解し分裂し分離し、隔離し解離し解散し、拡散し散開し開始をする。

 

 遍く轟く静謐は合切の反抗を認知せず錐揉み――――アしながら天地を断罪し怨嗟と悲嘆の混合を拒絶しアアて停止する悪意と邪気が害悪へと変貌して生贄を欲求■また死と血アア、アを望む獣の群数は■■■残骸を残さず食い散らかし胃袋のアア、―――アアア底に■■を隠しこむが空が割れてアアア。アアアアッアア響く罅の音を耳にしたとき相貌は崩壊し■■の渦へと流動する事も無く■滅して虚数にもなアア、アアアッアアアアアア―――!らぬ肉片を撒き■■し死ぬことも許されぬ大罪アアアアアア―――――アアアアアアア!!に人■は許しを乞う事も忘れ■■■に唾を吐き憤怒■もならぬ悪を持て余し■が■を始めた時■は巣くう■■の正体を知るが■■■の■し■が■、

 

 ■■の■を■り■■てやる―――――――――――――――――――――――――。

 

『「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァアアアアァァァァァァァァアアアアアァァァァアアアアアアアアーーーーーーーーーー―――――――――ッッ!!!!!!!!」』

 

 砂嵐。

 砂嵐。

 

 視界の向こうに、人間が見える。

 

 停止。

 停止。

 

 それを好機と、身体の底から奮い立ち、駆け出して。

 

 ――――断絶。

 

 □□□

 

「――――――はっ!?」

 

 息苦しさからか、目が醒めたらしい。

 気持ちの悪い汗が肌に張り付いている。

 

「―――――ハ―――――ハ―――――ハ」

 

 呼吸が嫌に荒く、耳障りだった。

 

 実感が何処か浮ついている。皮膚がもう一枚重なっているような、妙な感覚があった。まだ脳が目覚めていないらしい。目蓋を閉じて、呼吸を整える。そうしている内に妙な感覚も忽ち失せていくだろう。

 

 そして、目を開く。

 期待した効果は多少得られ、気分も少し落ち着いた。

 

「……」

 

 改めて、辺りを探ると暗かった。それはそうだ、今は夜なのだ。

 

 首を傾けると窓は閉じられ、塞がれたカーテンには鈍い夜の沈んだ静謐さがあった。明かりも灯っていない室内は窓の向こうにある夜が染み込んでいるように薄暗く、どこか寂しげだった。きっとそれは、夕暮れの起き抜けに秋葉がいたことに起因するだろう。起きた時に誰かが側にいるといないのとでは大違いだった。

 

 眼鏡をかけて、視界を凝らす。

 

「また、か……」

 

 思い、自嘲するように呟く。

 

 最近、夢見が悪い。眠るたびに、何か見る。どうにも自分は悪夢に好かれている。

 二日連続で悪い夢を見るなんて、思ってもいなかった。

 

 そしてそのままにちらりと備え付けられた時計を見やった。

 時刻は既に頂点を通り過ぎ、新たな一日を志貴は迎えている。

 

 室内は停滞していた。物音せず空気も微動だにしない部屋の中は心臓の鼓動さえ聞こえてきそうな静けさだった。固定する夜の室内にどこか寒気を感じて、水差しに手を伸ばす。容器をそのまま口元へと運び、少しだけぬるい水で咽喉を潤した。

 

「――――はあ」

 

 咽喉元を伝う水気を拭いながら、思うのは今しがた見た夢の事。

 

 自分がもう一人いるような感覚が、夢にはあった。そして、確か昨日見た夢もあんな感じだった気がする。夢なのだから何でもありなのだろうけど、それでも二日連続で見るにはどうにも気持ち悪い。

 

 自分があやふや。自己が蒙昧。自我が曖昧。

 

 決して楽しい夢ではなかった。それだけは言える事だ。ただこの苦しみを何と言えばいいのだろう。拭いがたい嫌悪感、度し難い拒絶感。どれも違う気がする。自分以外の感覚なんて知らないのだから、表する言葉を持ち合わせていない。

 

 自分が自分でない。それだけは何となく理解した。さすが夢だ。何でもありだ。

 

「あそこは」

 

 今となっては消えかけて、気持ち悪さだけを残す夢を辿る。夢見の残滓を掻き集めて、思考は巡り辿る。 

 

「確か、繁華街の方」

 

 実は、あの場所には覚えがあった。

 

 薄暗く、乾いた空気が降り注ぎどこからか簡素な騒々しさが耳に伝わってくる。煩雑な光の束と、人の喧騒。ここらかしこであのような場所は繁華街以外には覚えが無い。巷で騒がれる吸血鬼事件に惑わされる事無く賑わいを未だ見せているのは、きっとあそこぐらいだろう。眠らない場所とでも言うべき、あそこしか。

 

 だが、それは果たして本当かと詰問を受ければ首を縦に振ることは難しい。何せ夢で垣間見た刹那の意識。正確さなんてまるで無く、うろ覚えの範囲を抜けない。憶測なんてものではなく、これではただの妄想の類だ。

 

「でも、だ」

 

 それを放っておくには、この拭い難い感情はあまりに邪魔だった。解消されない不燃物を内側に溜め込んだ歯痒さとも言うべき気持ちの悪さが、夢を夢のままで終わらせない何かを訴えてくる。

 

 それに、眠くない。

 

 一日中眠っていた影響か、睡魔はその気配を遠ざけて、気だるい意識の覚醒を促していた。目蓋は重くは無く、目が冴えている。このまま眠ってしまうには眠気が足りない。ただ自分の場合だとあっけなく眠ってしまえそうだが、眠る気にもあまりなれない。まどろむ事も、この調子ならしばらくは無いだろう。

 

 悪夢を解決する。眠気を誘うために夜の散歩。夜風に当たりたい。一日動いていないから、運動不足の解消。

 

 理由を拵えようと思えば幾らでも見つかる。

 

 馬鹿らしい。

 

 今自分が何をしようとしているのか、志貴は己を笑った。己の馬鹿さ加減を思い知った。

 でも、それでも志貴は。

 

「あれは……」

 

 あれは、夢なのだろうか。

 何とも馬鹿らしい事ではあるが、志貴は夢を疑り始めている。

 

 いや、疑っているとは少し違うのかもしれない。己が見た夢を疑うなんてそもそもありえない。見たものは認識を経て己の真実となるのだ。例えそれが錯覚や幻であろうとも、それを見たという事実は変わらない。

 

 ――――暇つぶしか、あるいは予感。

 

 普段の己なら一蹴する行為である。だが、今の志貴はあまりに余裕が無かった。悪夢がもたらす影響は微かなストレスを本人に残す。それはやがて消える事も無く、忘れたままに沈んでいき、埋火のように燻りを始める。

 

 だからだろう。

 

 二日続きに見た夢に志貴は確かな変化を自覚も無く溜め込んでいた。その溜め込まれた変化は質量を持って重さを生む。安眠の妨げや快適な目覚めを損なわれて、志貴の判断は自身でも分からぬほどの差異を生み出して。

 

 内側の奥深くで、見えない虚ろの重心が傾いた。

 

「ま、何もないだろうけど」

 

 自分でもよく分からぬ意志で志貴は苦笑をしながら手繰り寄せられるように外出の準備を始めた。

 部屋を出ていく。

 

 家の中は湿っているように沈んだ雰囲気が漂っていた。

 

 □□□

 

 夜が訪れ、どれ程の時間が過ぎても人は外にいるものである。街に無人の時などあるはずもない。人気は少なくなるものだが、それでも人が全く存在しない事などありはしない。

 

 それでも夜になるほど騒がしくなる場所はあるものだった。

 

 人の雑踏。派手な服装をした若い男女。忙しげに歩む中年の男性。集団。酒気を帯びて高揚したサラリーマンや若者の甲高い笑い声。時には怒鳴り声が木霊して、そのまま人の喧騒へと飲まれていく。ぶつかりあって喧嘩にもならず、酩酊にかまけて莫迦騒ぎをする人々。流石に人は多いとは言いがたいが、辺りはネオンの輝きに満たされ、繁華街は独特の熱気を含んでいた。

 

 未だ入り口の辺りでしかないと言うのに、どこか違う世界に入り込んだような感覚がある。夜から隔絶された明るさを放つこの場所は、絶海に浮かぶ孤島のようですらある。それを飲み込んで、志貴は息をひとつ吐いて足を踏み出す。

 

 しばらく人ごみを避けて歩いていくと、何人かの人間がすれ違いざまに志貴を見やった。こんな時間に未成年がいることが珍しい事もあるだろう。だが、それ以上に。

 

「この服だしなあ」

 

 苦笑を浮かべて己の服装を鑑みる。

 濃紺に頑丈そうな材質。学校指定の制服姿である。

 

「そりゃ目立つか」

 

 ただ外出をするためなのだから服装には拘る必要もなかった。そんな訳でそこらにあった制服を手っ取り早く着たのである。今思えば安易にも程がある格好であった。

 

 十二時を過ぎて深夜。制服姿の未成年が歩くには受け付けない時刻である。更に場所が場所だった。事が事なら非行少年に見えなくも無く、視線を集めていた。じろじろとした視線が志貴に突き刺さる事も致し方が無い事ではあった。

 

 あまりに目立ちすぎれば通報も免れない。

 考えが足りずにこうなったのだから、どうにか避けたい。気持ち足早に、こそこそと端を歩いていった。

 

 実は、自分がどこに向かうのか志貴は考えていない。目的地は明快でなく、ただ漠然と繁華街へと赴いたのであり、本人としても理由が見当たらない。悪夢を見て、その場所に覚えがあっただけの事。衝動的な行動の結果志貴はここにいて、今人々とすれ違っている。

 

 それは、何かに手繰り寄せられるような感覚だった。

 志貴は目的地もなく歩いていると言うのに、どこかへと辿りつこうとしている。

 

 そのどこかとは、きっとあの場所、なのだろうか。見覚えの無い路地裏。不思議な確信が、根拠も無き確定が身体を動かしていた。

 

 始まりは悪夢だった。

 ――――では、終わりは一体何なのだ。

 

 端の道なりが一瞬途切れ、曲がり角。

 明かりが直接照らされない、細い路地がその先には伸びていた。

 

 そこは路地裏の入り口。明暗の境界線。

 

「――――」

 

 何気なく踏み出そうとして、躊躇う。

 

 何かがある。

 予感。あるいは悪寒。この路地裏は何か嫌な気配を放っている。視線の先には薄暗い路地の乾いた風が吹いて前髪を揺らす。その先は見えない。灰色と黒色の中間にある路地の色彩が不安を駆り立てる。明かりらしきものは点々と見えるが、その深遠までは覗けない。

 

 暗がりの向こうは、この繁華街とも違う雰囲気であった。

 だからだろう。夢の事もあり、足が踏み出せない。

 いざその時になって、志貴はありもしないものに怖気を抱いた。

 

「どうしよう……やめようかな」

 

 思わず、口ずさむ。

 

 そうだ。夢なんだから何だというのだろう。

 

 莫迦らしい。夢は夢でしかない。現実にはそんなものもなく、ただの空虚が広がっているのみだろう。悪夢を見たから、家を出た。

 

 あまりに莫迦らしい。自分が悪夢を見たからって、何も変わらない。

 

 夜は過ぎて当たり前のように朝が来て、いつものように太陽は昇る。自分ひとりに起こった事に何を必死になっているのだろう。ならば、このまま帰ってもいいのではないか。

 

 己を正当化させる言い訳を拵えて、足はそのまま前へと進もうとしない。異世界から更に違う場所へと赴くため、志貴には勇気が足らず不安ばかりが増していく。

 

「考えなし、うん。確かに考えが足りなかったな、俺は」

 

 そうだ。ならば、帰ろう。

 滲む仄暗き雰囲気が漂う路地裏から、あの遠野の家へと。

 

 そしてそのまま部屋に入り込んで、朝を迎えればいい。今となれば眠れるだろう。無理矢理にでも眠ってしまえばいい。自分は約束を守らなければならないのだ。

 

 弓塚さんとの、約束を。

 

 虚ろが震える。自らを律しようとする虚ろを感じる。 

 それを無視して、自分は家へと。

 

 だが。

 

「おっと、すまねえ坊主」

 

 どん、と背中に衝撃があった。

 

 思わず前のめりになって、足は倒れまいとたたらを踏む。ぐらつく体を押さえ込んで顔を振り向かせれば、顔を赤らませた中年の男性が酒臭い息を吐きながら通り過ぎていった。どうやら千鳥足にぶつかってきたらしい。思わぬ出来事に唖然としながら、気付く。

 

 自分は今、どこにいる。

 

「……あ」

 

 ぶつかった拍子に、身体は前へと否応無く進んでいった。

 明るい場所から、僅かに暗い路地裏へと。境界線を、踏み越えていた。

 

 一歩。たったそれだけなのに、まるで違う場所に入り込んだ。どこか背中にある繁華街の明かりが頼りない。冷たい暗さが勝っている。そんな場所に、入り込んだ。

 

 もう、視界は暗かった。

 

 目の前には不気味が続いていて、後方の明かりでは太刀打ちできない得体の知れなさが広がっていく。延々と薄暗さは伸びて、先は見えない。

 

 帰ろうと思う。帰ろうと、思う。

 

 こんな場所に長居は無用だ。早く踵を返し、あの光へと帰らなくてはならない。戻らなくてはならない。でなければ。

 

 ――――このまま、戻れないような気がする。

 

 何かに囚われるような、何かに飲み込まれるような気がする。

 

 不安が己を駆り立てんとする。身体は怯えていた。

 

 ――――でも、その心はどうだろう。

 

 今自分はここにいて、ここから帰ることは何故か出来ないような気がした。この場所に入り込んだならば帰ってはいけないような、この先に進まなければならないような気がする。引き込まれるような、無言の圧力が内側から脳を揺らす。帰るな、帰るなと強迫概念ではない、衝動が虚ろから発せられる。

気持ちが遣る瀬無い。でも胸の奥の虚ろは最早無視できない。

 

 生唾を飲み込んで、己を奮わす。自然と拳を握りしめた。掌は汗をかいていた。

 

「――――行こう、か」

 

 諳んじるような声音で呟かれた言葉は自分が思う以上に頼りなく、あまりに無力だった。

 

 恐る恐るという具合に、足は進む。背中の明るさは遠ざかり、静まる物音に足音まで聞こえて来る。乾いた風が繁華街の喧騒をどこかへ吹き飛ばしていく。埃っぽい臭いが肺を侵してきた。

 

 路地裏はざらついていた。

 

 細い通りに反り立つ両の建造物の表面は妙な圧迫感を放ち、空を狭めている。明かりもあまり届かない路地では足元が覚束ないで、空を見上げれば細い夜が見えた。星が頼りなく光っている。人の姿は見えない。それこそ無人のよう、生物らしき気配は時折見える虫か鼠ぐらいで、人間はいない。

 

 ――――似ている。

 あの夢の場所に。

 

 拒絶に呻く。

 

 信じたくて、信じたくない。

 あれは夢だろう。あれは、夢だろ?

 

 言い聞かせる。事実は事実だ。ならば夢は夢でしかない。夢は現実にはありえない。ならば夢は事実ではない。事実は事実以外にありえない。

 

 最早自分でも良く分からない思考が頭の中を錯綜する。

 視界の端を鼠が走っていく。路地には紙くずが散らばり、いかにも不衛生だ。

 

 ――――どくん、と心臓が高鳴り始める。

 

 何か、良くない予感が喚起の警鐘をあげている。

 転がっていた缶を踏み潰して、なおも足は誘われるように進んでいく。

 

「―――――は―――は――は――」

 

 呼吸が荒い。

 意識しなくては呼吸を止めてしまいそうな、圧迫感。

 自らの進む道なりに、一体何があるのだろう。

 

「――――は――は――――――は」

 

 全身に寒気があった。身体の芯まで寒い。

 寒気か恐れか身体が震える。

 どくん、どくん、どくん、どくん。

 脈打つ鼓動が耳障りだ。

 

「は――は――は――は――は――」

 

 過剰な色合いを見せる壁の落書き。

 それは、先ほど見たような、無意味な意思表示であった。

 どくん、どくん、どくん、どくん。

 

 気付けば、臭いが変わっている。

 埃っぽい臭いは乾いた風に流されて、嗅いだ事もない臭いが現われてきた。

 

 形容しがたい、イヤな臭い。湿っているような、時化っているような臭いだった。僅かな臭気であると言うのに、異物にも似た不快な臭いはこの先から漂って志貴を捕らえる。

 

 頭は靄がかかったように曖昧で、自分は今何を考えたのか分からない。分からないから分からない。思考は放棄。今はただ前へ、前へ。

 

 どくん、どくん、どくん、どくん。

 

 近い。もう、あと少し。分かるはずないのに、理解できる。

 

 そこに、何かがある。

 

「は――は――――は―――――――は」

 息は不安定。胸の鼓動が五月蝿い。

 

 しかし、今この時胸の虚ろは喜びに咽び泣いていた。

 やっと。ああ、やっと――――。

 

 何故喜ぶ、何故に泣く。

 

 理由も分からない、理解できない。ただ自分はこの胸の痛みが苦しいだけで、貧血ですらない痛みをどうにかしたくて、胸に手を押し付けた。

 

 そして。

 

「―――――――――――――――あ」

 

 そこは、広い袋小路であった。

 

 少し開けた天上から濃い夜の空が見える。周囲を反り立つ建築物によって覆われた行き止まり。広さは四方十メートル無い。志貴が辿った道があるのみで、これ以上先には行けない。行き詰まって、どこにも辿りつけない。つまりここが終着点。終焉。

 

「う、あ――――」

 

 荒れた息が苦しく呻る。

 灰色の路地に、それはあった。

 

 人が、女性が倒れている。

 

 影が差し込んでその全容は確認できない。年齢も、服装も、相貌も視認できない。それが女性だと分かったのは、その髪が長いという特徴から判断したに過ぎない。

 

 倒れている。人が倒れている。路地の中央に、倒れ伏している。

 何故だと疑問に思う前に、その事実が現出している。

 

 夢は、夢だ。

 事実は、事実だ。

 

 ならば、今自分は何を見ている。

 

 目を反らすな。眼を背けるな。目蓋を閉じるな。

 

 目の前には、否定もすることが出来ない事実のみが横たわり、それは決して動くこと無く停止していた。逃げる事は許されない。逃れるならばそうしたいが、もう志貴は辿りついてしまった。この終焉へと。もう、どこにも行けない。

 

「――――」

 

 その人は、あの夢に垣間見えた姿と、良く似ていた。

 消え去ろうとする意識の果てに見えた後姿と一致した姿だった。

 

 呆然と、志貴は立ち竦んでいた。

 

 この事実。この覆す事のできない真実に志貴の肉体と意識は煩雑なものと化していた。

 遠くから、繁華街の喧騒が聞こえる。それはまるで別の世界から聞こえる物音だった。

 何故なら向こうは境界の向こう。一歩踏み出した先の果てにある別次元。

 

 この場所は、もう終わっている。

 

 否定できない。否定できない。

 偶然にしては出来すぎている現状構成。

 

 似ている、なんてものではない。夢は夢なのだと、割り切る事は既に不可能だ。

 

「ああ、いや、今は……」

 

 呆然とうろたえるままに、駆け足で路面へ倒れ伏す人影へと向かう。

 何を自分はしていた。倒れている人がいるのに、それを放っておくなんて。

 

「大丈夫ですか!俺の声が聞こえますか!!」

 

 耳元で語りかけても反応はない。呼吸は聞こえない。意識がないという事なのかどうか、判断はつかない。自分は何をすべきなのか。助けを呼ぶべきか、救助をこのまま行うべきか。でも助けを呼ぶにはこの場所は遠く、電話は持っていない。助けを呼んでいるうちに手遅れになるのは不味い。ならば、無作法な手当てでも行ったほうがまだマシだろう。

 

 そう思い、闇に見えない顔を、覗く。

 

「?」

 

 一瞬、それが何なのか把握できなかった。

 

 目蓋は裂かれたように見開かれ、頬は引き攣り、口元が大きく開いてそこから舌が硬く垂れ下がっている。寄った皺までも固まって、それは停止しているよう。

 

 それは恐怖の表情だった。

 恐怖に固まった、死相であった。

 

 

 死相、死相、死相。

 

 青白い肌。生気のない瞳。潤いの無い口元。

 臭いがする。人間以外の臭気。血の臭い。腐敗の臭い。

 死体の、臭い。

 

 それらが合わさり合う事無く、個々として分離しながら臭いを放っている。

 これは、これは――――。

 

「ああ、ああああ……」

 

 全身が心臓になったかのように脈打っている。でも体は熱くなく、凍えるほどに震えていた。路面が突如として消滅して、足元から落ちてしまいそうな感覚。崩れ落ちて、そのまま倒れてしまいそう。

 

 だって、だって。

 

「死んで――――」

 

 拒絶を含んだ声音は、そこで止まった。

 

 それ以上は言ってはいけない。これ以上言葉を紡げば、きっと何かが終わる。崩壊する。だから自分は黙って、黙って――――。

 

『ナんだ、先客かァ?』

 

 背筋をなぞる、嗄れた金属音。

 金属を擦り合わせた軋み音。

 

 不快な音に鳥肌が毛羽立つのが服越しにもわかった。甲高く嗄れたそれが生物の発した声と呼ぶにはあまりに人工物めいていて、柔らかな肉体を突き刺す悪意の声だった。

 

 体を突き動かす本能のままに慌てて振り返る。

 

「―あ、ああああ―――」

 

 はためく藍の色合いは夜に紛れることなく、その片方のみの腕に握られた鞘には数枚の札が貼られ、数珠まで巻かれている。そして、長すぎる黒髪の隙間から、虚空を思わす蒼の瞳が見えた。見えてしまった。その絶対零度を、その無機質な感情を思わす蒼色を。まるで人形のような瞳を。

 

 いつの間に、その男は当然の如くにそこにいた。風を巻き起こすことなく、物音を発する事も無く、存在を感じさせることも無く。

 

 闇夜に映す影のように、あるいは茫洋たる霊のように。

 

 ――――藍の殺人鬼が、夢の中で志貴を殺した男が、再びその姿を現出させた。

 

「――――――」

 

 そして。

 むくり、と。

 志貴の後方で、影が揺らめいた。

 

「――――え?」

 

 藍色と対峙している故に、志貴は反応が遅れてしまった。始めに出会った衝撃、そして夢にさえ現われて志貴を苦しめた原因は他ならぬ藍色にこそあった。だからこそ、志貴は突然現出した藍色に竦みながらも、その意識は否応無く目前の存在へと向けられた。

 

 故に、それに対応する事が出来なかった。

 体ごと藍色に向けていた志貴の腰に、何かがぶつかってきた。

 咄嗟の事に志貴は反応できず、そのまま無様に転がった。

 

「あ、え?」

 

 衝撃にもたつき、何事かと無理矢理に体を捻らせれば。

 

「―――――――あ」

 

 目の前に、死体がいた。

 

 死体が、志貴に覆いかぶさり、その口元から真っ赤な唾液を垂らして、生気のない濁りきった瞳に志貴が映っている。

 

 腰元にぶつかってきたのは、志貴が死んでいると理解した女性であった。

 死体は動かない。

 

 それは、外的な力が加わらなければ覆される事のない事実である。何故なら死体には意志がないから。意志のない身体は活動を止めて動くことは二度とない。再び動く事など、ありえない。ありえないのだ。

 

 では、目前の死体は実は死んでいなかった?

 でも、眼前の人体は全く生きていないのだ。

 

 触れてみれば分かる。肌に張りは無く、その青白さは既に土気色。硬直する筋肉は、どうやって動いているのか分からない。

 

 危険音。

 警告音。

 

 呆然と死体の出現に理解が追いつかない志貴の手前で、死体はくぐもるような音を木霊させて、その口を大きく開き志貴の顔面へと次第に近づいてきた。

 

 まるで、志貴を喰おうとしているように。

 

 サケロ。

 

「あ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 それは、本能ゆえか。

 

 志貴の咽喉は張裂けんばかりの絶叫を迸り、己の内でけたたましく鳴り響く生命の警告音に従って死体の拘束を逃れようともがき苦しむ。

 

 しかし、どういうわけか死体の抑えが外れない。

 

 その腕は女性のものであると言うのに志貴の肉体を離さないと、握り潰すように志貴を抑え、それは成人していないとは言え男性である志貴の力では跳ね除ける事の出来ない膂力を秘めていた。

 

 涎ではない液体を口内から垂らして、徐々にと近づいてくる顔に表情は見えない。あまりに虚ろな顔つき。生気の感じられないそれが動く事は、明らかにおかしい。

 

『ほう、知らんが偶々紛れ込んだだけかァ?』

 

 必死に逃れようとしながらも、そのあまりに特徴的な金属音は志貴の耳に入り込んでくる。どうにか両手で迫る顔面を抑えつけ、視線を瞬間と逸らし男を見やる。男は微動だにせずそこにいて、志貴の事もその視界に入っているはずなのに、まるで見ていない。

 

「お、おい、アンタ!頼む……!助けてくれっ」

 

 言葉を紡ぐ前に、それは遮るような声音を発した。

 

『まアいいさ。俺達にャ関係ねえが、無能が脳ヲ凝らして嵌メやがったなァ、ひひ、ひ……』

 

 狭く閉じ込められた空間に、邪な笑い声が反響する。空気を錆びつかせて、生者を侵す悪意の声だった。

 

 しかし、志貴には看過できない言葉があった。

 

 関係ない。関係ない。

 関係ない。関係ない。

 

 自分は関係ないのだと、金属は言った。

 

 それは、つまり。

 

「なんでだよ……、なんでだよ!!」

 

 志貴は、助けてもらえない。

 直ぐ側に襲われている人間が、助けを求めていると言うのに助けないと金属は告げた。男は無表情に志貴を映し出し、決してその姿を見てはいない。

 

『オイ、お出迎えだ』

 

 響く金属音に何処か罅を入れられた志貴は必死ながらも、それを視界の端に捉えた。

 

 迫る死体の向こう、天上に開かれた夜空が見える。夜の黒色に歪な形をした月があり、その光に照らされて、それは見えた。

 

 暗い夜の空を囲い反り立つ建造物の上に人がいた。ゆらゆらと体を不安定に揺らしながら、その姿は月光に照らされながらも、顔までははっきりとは見えない。でも、それが異常だと分かる。

 

「――――なんだよ、あれ」

 

 屋上に佇む人影、数十人は下らない。服装までははっきりと見えないが、ただそれだけでもその集団が尋常の集まりでは無い事が知れる。ただの集団であると言うのに、それが放つ気配は最早人が発せられるものを越えている。

 

 それはまるで幾程も餓えた野犬のような、茫洋と飢餓感に侵された獣の群であった。

 

『いくぞ、朔。いつもの様に』

 

 どこか笑うような声音と共に、その男は志貴の側から掻き消えていく。志貴が制止する間もなく、その姿は見えなくなった。あまりに不可解な現象であった。直ぐ側にいたのに、それはまるで始めからいなかったかのように消えてしまう。影も残さず、音も消して。

 

 しかし、そこで志貴は自然と一人にならざるを得ない。

 そう、一人だ。目前にいるモノは、もう人としてカウント出来ない。

 

「■……■■■……」

 

 目の前に迫る存在は、志貴の腕だけでは抑え切る事も出来ない。

 では、何をすべきか。

 

 ナニヲスルベキダ。

 

 助けは、呼べない。助けは、来ない。

 誰かがいても、きっと意味は無い。誰も志貴を助けてはくれない。

 がちがち、と奥歯が噛み合う。食い縛って、力を込めていく。

 

 アア、ソウダ。

 

 何に期待しても無駄だ。今この時志貴はただの一人で、自分以外に頼れるものはいなくて、護ってくれる人も、もういない。

 なら、どうする。

 

 ――――、ヤルベキコトハ、ワカッテイルダロウ。

 

 ああ、分かってる。

 

 ナラ、ドウスルベキカシッテルカ。

 

 ああ、知っている。

 ちょうどよく、得物もある。

 

 それは仕舞ったままで、既にそこにあることも今の今まで忘れ去られていた。始めから、これがあることを志貴は意識していない。でも、左腕が死体を抑えつけたまま、その右手はするりと導かれる。

 

 硬い、感触。

 

 ――――嗚呼、安心する。

 

 この感触が、何とも心地よい。

 

 片腕では抑え切れず押し迫る顔面に、眼鏡がずれる。

 そうして広がるは、今にも崩れそうな亀裂の世界――――。

 

 一閃。

 



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第十二話 悪い夢

 ずるり、と。
 形容すべきは、そんな間抜けな音。
 それが人間の首を落とした音だというのは、あまりに滑稽であった。



「――――え」 

 

 右手に握られた鉄の棒、そこから飛び出す刃の無慈悲な煌きは夜の闇に於いても瞬いて、迫る女の首を凪いだ。

 

「あ、あ?」

 

 いや、それは凪いだというよりも、なぞったと呼ぶに相応しい軌跡であった。

 

 志貴が振り切った刃は首の筋を突き刺すでも無く、切り裂くでも無い。そのままの勢いで首を通った。その皮膚を、筋を、筋を、骨を通過したのである。支えを失った首は苦痛に歪む事も無く、全く不変の表情でずれて落ちるが、反しに払われた腕の一振りに跳ね飛ばされて、壁に中身をぶちまかれていた。頭部を失い、崩れ落ちる身体。それすらも何時の間にかに潜り込んだ両足が突き飛ばし、身体は路面へ投げ出され、止まった。

 

 ――――今、己は何をした。

 

 右手に納められた鉄の感触。それが夜を舐めるように振り切られていた。

 

 だが、理解が追いついていない。その瞬間を志貴は捕らえることが出来なかったのである。あの刹那に志貴の意識は数瞬飛んで、気付けば女の首を断っていた。あまつさえ、反しの一撃を放ち、その頭部を壁の彩りと化したのだ。

 

 ずれた眼鏡を慌てて戻す。度数も入っていない眼鏡であるが、これが正常の位置にいなければ、志貴は安心が出来ない。だが、荒れ狂う胸の鼓動に全身が震えて指先が落ち着かない。眼鏡を抑えようとして、掌は痙攣のように震えて仕方が無かった。

 

 その指先には女の首を落とした感触が確かに残っていた。人体を斬ったとは思えぬ柔らかな感触。それが更なる戸惑いを覚えさせえる。

 

 己の行動が把握できない。己の動きに理解が追いつかない。

 

 しかし、その震えも戸惑いも志貴は何から生まれた結果かは志貴は考えてもいなかった。

 それが生まれて始めて人体を解体したことによる、興奮である事を。

 精神ではなく肉体が。心ではなく魂が。

 その結果に歓喜し、武者震いを起こしているのであった。

 

 そんな感慨を志貴は知らず、ただ呆けるばかり。

 

 しかし。そんな志貴を嘲うように、その上空を影が過ぎる。四方を囲われた狭き空である。天上には雲がちらほら。その隙間には歪な月が吊るされて、繁華街であるのに繁華街ではない境界に位置するこの場所では、歪んだ月こそ唯一の光源。

 

 ――――月明かりに照らされて、亡霊が空を舞う。

 

 夜に群がる獣の数二十以上。正確には二十四の蠢く死体。

 

 世の理から逸脱し、死してなお、朽ちてなお活動を果たす畜生の狗共である。彼らに理性はない。何故なら思考する脳が死滅しているのだ。故に死体を動かすのは死してなお絶滅する事のない本能であった。

 

 本能はそれぞれに告げる。

 喰らえ。喰らえと。

 

 天上を囲う建築物、四方を巡る屋上に佇む死者は茫洋なままに、しかし迫る餌をねめつけている。

 

 今まさに、反り立つ壁を地面の如くに駆け上がるという莫迦げた芸当をいとも容易く行う怪物を喰らい尽くせと、本能が叫び、頭脳に命が下る。

 

 死んでいるのだから頭脳は機能を十全に果たしてはいない。脳細胞は既に死滅しているのである。思考を働かす術はない。それでもどこからか下ってくる命を、それが明確な言葉ではない苛烈な感情であっても本能が順応しているのは、その命が彼らよりも上位に座する親から伝えられている事を彼らが知っていたからだった。

 

 理性ではなく、本能で理解している。ソレこそ自分達の上位者であるという事を。

 

 故に彼らは迫る餌を誘き寄せた。

 

 人外が発する澱みとも呼ぶべき死臭は、この行き止まりにはよく溜まる。匂いたつ臭気は風に漂い、やがて狩人を誘う。匂いに敏感な狩人であるならば、それは極上の撒き餌だ。

 

 思考も計算もすることが叶わぬ彼らが策を弄し、狩りを行う。

 それは寧ろ獣同然である死者達だからこそ行える集団行動。生存の術であった。

 

 だが、彼らは何も理解していない。迫る存在がどのような存在であるのかをまるで理解していない。ソレを捕食対象として認識しながら、稚拙な対策を行いはしたが、それでも狩人たる由縁を一厘とも理解していなかった。

 

 ただ彼らは己の欲求を満たすために行動を果たすのだ。

 

『ひひ、来るゾ』

 

 死者は躊躇いも無く足を踏み出す。無論、そこに地面はない。地面は遥か真下にあり、それゆえ死者達は自由落下を始め、狩人へと向かっていく。正確には把握できぬ疾さで遡る藍色に衝突していこうと、その数四つの死者が墜落していった。

 

 恐怖は無い。地面へと激突し肉が潰れる事など、考慮する脳は死んでいる。

 死者達は腐臭を撒き散らし、涎さえも口内から吐き出して朔へと群がり――――。

 

 真上から襲い掛かる藍色の暴力に、その首と中身を空に零して堕落した。

 

 その軌道を理解できるものは、いない。

 

 遡る藍色が姿を暗まして、上空からの急降下を仕掛けたのである。

 

 落ちるだけの死者は藍色の存在に気付く事も叶わず、四つの死者は十七の欠片と成り果て地面へと零れていった。

 

 いきなり現われ直ぐ消える。それは亡霊の所業である。理から外れた亡霊の業をどう理解できようか。

 

 しかし、それを見たものは、確かにいた。

 

「な…………っ」

 

 なんだ、今のは。

 

 ただ、下にいた朔が上へと乱反射の如き軌跡を見せて出現し、真下に落ちていく死者たちへ襲撃を仕掛けたのである。どういう理屈で行われている所業であるのかを理解できはしない。ただ、それを証明するような音を、志貴は聞き逃さなかった。硬いものが破砕する音を。

 

 岩石に亀裂を走らせるような、例えばつるはしの一振りに似た音を。

 

 灰が舞い散り、粒子となって地面へと降り注ぐ。

 見やれば、無残を形成した残骸が灰へと変貌していく。いずれそれも風と飛ばされ消えていくような、まるで埃のような軽さで消えていく。

 はたと、その光景に急いで首を捻れば、今しがた己が殺した死体が、壁にぶちまけられた血痕さえも灰と化し、消えていた。

 

「―――――っ」

 

 それは、何に息を呑んだのか。自らが理解できぬ所業に出くわしたが故か、それとも理解できぬ所業を果たした者への驚愕か。状況に追いつく事が出来ず、志貴は声を忘れた。ただ漠然とだが、それを人間業と見る事は最早不可能であった。獣の動きではない。それは寧ろもっと、それ以上の何かであった。

 

 だが、そのように矮小な存在を置き去りにして、屠殺は加速していく。

 

『そら、ドうする化け物共。無様に中身を撒キ散らせて滅ンじまうぞォ?』

 

 四方を壁に囲われた空間に金属の嘲る声が反響する。だが、その言葉を聞いても人型の獣は退く気配を見せず、間欠泉の如くに突き上げる藍色の勢いを迎え撃つために姿勢を低く。飛び上がろうと迫る風の呻る音が、近づくそれの到来を告げる。

 

 ぎゃりりっ、と何かを強く噛む音。

 それは、藍色の足、鞘を握る音であった。

 

 通常、日本刀を抜刀するには捻る動作が必要とされる。柄を握る腕と共に鞘を抑える腕が無ければならない。片腕の剣士は鞘を腰元に巻いた帯などで固定させる事により抜刀を可能とするが、それは高度な戦闘時において通用するかと言えば答えは否である。出会い頭の超高速戦で瞬時の判断と俊敏さが求められる最中、隻腕の剣士が固定化された鞘から刀を抜くには些かの不安が生じる。それは鞘を抑える腕が失われているから故の弊害であった。

 

 鞘から刀を抜く手筈は確かに出来る。だが、刀から鞘を抜く行為が出来ないのである。

 

 違いは微々たる物、ではない。これは殺し合いに於いては致命的な欠陥であった。瞬時の抜刀が身を救う事は多々とある。それが辻斬りとなればなおさらに。

 

 だが、藍色はそれを超える。

 

 屋上までの距離を踏破し、そして一足。突っ張る壁の隆起に爪先をかけ、跳躍する。

 宙に、藍が姿を曝け出した。

 

 捻りこんだ下半身。

 右腕に対し、左足。

 

 足の指が、鞘を挟んで握る。手には指が五つ。足の指もまた五つ。構造も役割も違えども、それだけは変わらない。

 

 ――――ならば、足が物を握れぬ道理無し。

 

 驚異的な足の握力は鞘を抑える役目を果たし、握りしめられた指は刀から鞘を抜く行為を完了し。

 

 ――――鞘走りに、闇が火花を散らす。

 

『鏖殺の時間ダ塵芥。奈落へ驀地に撃墜シろ』

 

 耳障りな哄笑に抜刀された刀身は腐った闇を噴出させて、夜の黒色を更に濃く、月明かりを遮らんと燻りたって藍色へと羽衣の如くに纏わりつく。現出された刃は刀とは呼べぬほどに刃毀れしており、何とも無残な姿である。切れ味すらも失っているような朽ち果てた刀身である。その刀身から闇は溢れかえり、藍色を飲み込んでいく。

 

 そして、闇を纏う歪な刃は下を覗く一体の獣の頭部を情け容赦なく叩き割り、その姿を獣たちの目前に晒しだす。それは闇を纏う幽玄の亡霊。この世とは思えぬ儚さをその身に湛える藍の霊。長身痩躯、歪な姿の藍色に、脳漿を零して倒れ伏す一体へ残り二十以下となった獣は見向きもせず、空を掻き切る闇と化した藍に踊りかかった。

 

 死体は歓喜していた。遂に現われた餌の登場。屋上を支配する彼らにとってその場に現われた藍色は極上の匂いを振り撒く餌である。匂いは咽喉を刺激し、空腹を訴える。四方を囲う獣は宙すら飛んで、藍色の姿へと殺到した。

 

 右手に握る刀を藍色は構えない。迫る死肉に迎撃の構えを見せるでもない。刀は垂れ下がり、佇む姿を不安定に揺れている。自然体というよりも、それは死者を脅威とも見ていない証左。何故なら藍の筋肉に一切の硬さは無く、ただ揺れて、ゆらゆらと揺れている。

 

 空気を突破した事に髪は流れ視界は良好。藍色の視界には薄気味悪い靄。黒髪に隠されていた蒼の瞳はただ無情に靄を映す。それを刀身の闇が遮蔽して、やがて靄は藍色の周囲を回っていくが、その靄を掻い潜らんと藍色が動けばその姿は宙ではなく、屋上獣の背後へと出現していた。

 

 突如消えた藍色の姿を探そうと振り向いても時既に遅く、その獣は口内から刀身が突き出された。粘る血を刀身に濡らして、後頭部から刺さる刀身。その血を鋼は飲み込んで、真下に振り下ろせば人体は忽ち左右に泣き別れた。

 

『嗚呼、相も変ワらず舌に悪いものだナァ。腐肉ハ不味くて仕方ナい』

 

 不快な声は侮蔑の如く夜に軋む。

 

 そこで最早藍色は遂に屋上へと辿りつき、獣は喜び勇んで飛び掛る。統制も儘ならぬ、単純明快な突撃に血花が散り、阿鼻の悲鳴が劈く。一足に駆けた獣は勢いのままに藍色へと襲い掛かり。

 

 一閃煌く闇の妖光に、死者は袈裟に両断された。

 

 面妖な事に刃毀れし、切れ味など殆ど残されていないような見た目である刀身が、決して柔らかくない人の肉を開いたのである。技量もあるだろう。達人は鈍器であろうとも切れ味を生み出す理術を会得しているものだ。だが、これはあまりに切れ味が良過ぎる。

 

 ならば、他の要因がある事は不可思議ではない。

 

 気付けば鞘は藍の歯に咥えられ、足は自由。ならば翔ける事に支障はない。目では視認できぬ急加速と急停止。言葉にすればそれだけの事が瞬く間に繰り広げられていくのである。事実藍色の姿は最早誰にも捉えることが出来ない。

 

 生物の移動には予測が伴われる。相手の動作を見て、次にどのような結果となるか脳は無意識に思考し、目線を合わせている。それ故にフェイントとはかくも有効であり、それは殺し合いでは特に重宝される技術である。

 

 だが、藍色が見せる動きは、そのようなモノですらない。

 

 ――――消失。出現。

 

 多を相手に立ち回るのではない。現われ消える。残像を置き去りに出現し、時には刃を、時には三つの手足を、更には噛まれた鞘すらも振るい、藍色は一匹ずつに獣を排していく。

 

 右手に納められた柄は殊更に握り締められ、迫る一体へと叩き込む。疾い。糸の如き太刀筋は死者の体を透き通り、無残な残骸を積み重ねた。

 

 首を落とし、頭部を零して左右に裂き、上下に分けて中身を晒す。迫る死体を一遍にではない。迫る死者の背後から、上空から、真下から襲撃を仕掛けて一匹へ。

 それの繰り返しを行えば、死体は忽ち灰へと帰り、気付けばその数残り僅か。

 

「■■―――――、■……■――――っ!」

 

 真実獣の如き憤怒の叫びが夜に轟く。

 

 彼らは群である。本能の群である。身に巣くう飢餓感に頭を垂れた獣である。

 

 そんな獣が儘ならぬ状況に歯噛みし、己が空腹を満たす事が出来ぬ事は、何よりも苦痛な事であった。何故だ何故だとは、思う脳も壊死しているが、しかしこの理不尽を許容する事は有り得ぬ事。

 

 ならば、その口元から吠え立てる鳴き声が、ただの怒号であるはずはない。

 それは獣の会話である。獣同士が目的を達するために、己の腹を満たすために言葉にもならぬ共通言語を用いて狩猟を果たそうと本能に蠢いたのであった。

 

『ホう?畜生共が、無能な事を』

 

 統制もとられていなかった動きが変化を見せる。

 一方的に襲い掛かり呼吸も合わせぬ獣の動きが一変し、ひとつの屋上へと密集する。ここに来て始めて見せる群としての動きである。徒に襲い掛かるのではなく、より効率的に餌を貪るため獣の本能は咆哮の遣り取りを促した。

 

 獣の数、残り八つ。二十四いた死者は気付けば十を下回り、襲撃を受けた者は今となっては塵も残さず風に消えた。

 

 許せぬ。許せぬ――――!

 

 死者たちは血生臭い憤怒に体を捩らせた。塵と化した死者たちへの仲間意識から、ではない。そのような、まるで人間のような感情は既に持ち合わせていない。彼らは最早死体である。ならば彼らが憤るのは真実餓えであった。

 

 死者は目的意識の塊である。己の欲を、下る命を果たす為だけの存在である。

 しかし餓えを満たせず、命も果たせぬこの状況。ただの餌如きが抵抗し、あまつさえ彼らの数を減らしているのである。

 獣は憤り、本能を巡らし怒りに従事する。狡猾に、周到に。それゆえの密集。

 

 人外の速さで駆けながら、彼らは一つに密集していく。藍色の各個撃破を受けて導いた彼らの答えである。攻めにして、守りの陣形とも言うべきか。密集とはそれだけで厄介である。個々が集うとはつまり、その分の質量を一つの意志として固め厚みを持たせることである。質量が増す事はそれだけで硬さと重さを生み出す事に他ならない。発生された重量によって対象を轢殺し、蹂躙するのである。

 

 故にそれは最良の陣形であった。一概に最高とは言えぬが、しかし各個撃破を受ける今ならば悪くは無い。個々に襲われる現状、知能も働かぬ死者としては最上の選択である。群の利が図らずも機能し、どこから現われるかも知れぬ藍色に対応せしめんと、飢餓と憤怒に色めきたった。

 

 だが、目視も出来ぬ餌に集まる死者の群。

 

 それは、狼に怯える憐れな子羊のような有様であった。許しを乞うことも叶わず、ただ吠え立てることしか出来ぬ羊の群は、無情の狩人に食い殺される運命にある。

 

 

 一群集まり夜に鳴けば、闇より出でし亡霊の、虚ろな所業に声も消え、月も背いて目を閉ざす。あたかもこの世は諸行無常、腹も空かぬ狼は、戯れ遊んで羊を殺す。

 

 

 夜に吊るされた歪な月が、流れる雲にその姿を隠す。

 

 ――――風が、群の隙間を通り抜けた。

 

『莫迦メ。莫迦は莫迦らしく無様に滅べ』

 

 その声音は、群の中から聞こえた。

 空から舞い降りるかのように亡霊は姿を現し、勇む死者の中へと潜り込んでいた。

 

 それに気付いた時既に遅く。

 音は消えて、闇だけが残される。

 

『ひひ、こレにて終局だ死人(Dead Man)』

 

 ――――虐殺が、始まった。

 

 □□□

 

 ――――茫、と。

 見入っていた。

 

 天上で巻き起こされた悲劇の限り。化け物たちが化け物に蹂躙される、その滑稽たる一部始終を志貴は魅入っていた。

 

 何か、記憶にも無い映像が被り幻視する。

 ――――赤黒き沼に浮かぶ、幾つもの欠片と――――。

 何か、何か、何かを志貴は見ていた。

 

「―――――――」

 

 眼鏡ごしに映る光景は殺陣の如き立ち回りではない。殺陣とは魅せる動きである。武を打ち合わせて流麗に魅せる不殺の舞踊。舞って踊り、見得を切る。それは人が極めた優雅の妖美である。

 

 しかし、藍色の動きはそのようなモノではなかった。理性に支配された本能のような動きではない。人に、人間に、人類にあのような動きは不可能だ。だからと言って餓えに酔った獣の動きですらなかった。少なくとも獲物を仕留めるため狡猾に追い詰めるような獣ではない。獣であってもその姿を失わせる事は至極困難。擬態か、あるいは――――。

 

「―――――――」

 

 あれは寧ろ亡霊。姿は見えども捉えることが出来ない、宵闇に紛れて黄泉へと誘う幽鬼である。ならば、亡霊に殺されたものはどうなるのだろう。

 

 志貴はただ呆然とその光景を、その姿を見ていた。死者を灰へと変える藍の姿を。地上にいて、離れた場所にいる志貴だからこそ藍色の姿を完全にとは言い難いが捕捉していた。乱反射の如くに壁を立ち上り、空を駆けて落下する獣を打ち倒すその姿。屋上に降り立った時その姿は確認する事が出来なかったか、時折影とそれを追いかける死者の姿が地上から見上げる志貴からでも見ることが出来た。

 

 不思議と胸は高鳴っている。

 

 あの軌道。あの攻撃。どれもが志貴の知っている人間業から逸脱している。そのいきなり現れすぐ消える移動手段も、ちらりと見えた闇の正体も、金属の不快な嗄れ声も志貴には全くもって理解できる代物ではなかった。

 

 今すぐにでも志貴は立ち去らねばならぬはずなのに、志貴は今も空を見上げていた。あの藍色を危険と認識しておきながら、その場所から離れぬ事は真に不可解である。危険から遠ざかる事は決して恥ではない。動物は己が危機に晒された時、危機から逃げるか危険から避ける事を選択する。それこそ己の生命が保たれる手段であるからだ。

 

 だが、志貴はその場から動かない。何故なら志貴は今この時、この場から離れる事など思考に無く、ただ藍の姿を追っていたからである。

 

 高速に動くその所業。空にて襲い掛かるその理術。どれもが志貴の脳から離れない。

 

 それはさながら魅了された心地であった。

 胸が虚ろを無くして熱い。

 まるで何かに引き寄せられるような感覚。

 

 故に、志貴は動けなかった。

 夜の天上から撃たれた、刀剣の一撃に晒されても。

 

「―――――――っ!?」

 

 空を突き破りて飛来した妖刀の投擲は遠雷にも似ていた。その破壊力に対し轟く音は極僅かで、しかしその鋭さは明らか。轟音と共に硬いコンクリートを穿ったソレは深々と突き立てられて地上に潜りこんでいた。

 

 その刀身は異常であった。

 僅かに反身の刀身。その刃毀れした姿は刀としての切れ味を失っているようにさえ見える。更にその日本刀がコンクリートを深々と刺して突き立てられていた。

 だが、問題はそこではない。

 -―――すえた臭いがする。腐り、終わりを迎えた絶望の臭いだ。

 闇。刀身から噴き出す闇は、この世に跋扈する悪いもの全てを詰めた地獄の釜の底から煮え滾る蒸気のようであった。それが臭いを放ち、鼻をおかしくさせて嫌悪感を抱かせる。何か良くないものであると、理解する前にわかった。

 

『よォ、生き残り』

 

 そして、上空から壁を伝って迫る藍の姿。全て、全てが終わったのだろうか。あの獣との対峙も、その掃討も。

 その姿からでは確認できない。しかし荒れた悲鳴が消え失せた事が事態の終結を意味していた。

 

 闇は祓われ、化け物も消えた。

 

『手前、何もんだァ?』

 

「え?」

 始め、それは何処から聞こえたのかと耳を疑った。

 その声音は、目の前に突き立てられた闇から聞こえたのである。

 

『何だ気付カれてねェとでも思ってたか阿呆が?俺は見テたぞ、俺は見てイたぞォ?手前が畜生を殺した刹那を』

「…………っ」

 

 金属の不愉快な嗄れ声が志貴を揺さぶる。

 

『タだの餓鬼かと思ったが、そウじゃねえ。食い殺されルはずが逆に縊り殺しやがッた。アレは明らかに堅気の動キじゃねえ。寧ろアレはこッち側の動きだ。ダと言うのに、今は何だァ?まるでド素人じゃネえか』

 

「な、何を言って――――」

 

『イヤ、ソれも擬態か?偽り欺クのは手品の類だろう。――――しかシその畏れハ本物かァ。訳が知レねえなァ、手前。今の業、どコで覚えた?』

 

 問い詰めている金属音。

 その軋んだ声音に意識が揺れている。

 

『アア、言わなくても良いぞォ?尋問は得意じゃネエが、拷問トくれば話は別だ。朔にもソれらしい事は覚えさせてんだ。切開しねエで腸を握られる体験をサせてやろう。良いぞォ?気分が一気にハイだ。ひひ、ぞくゾくしてきた』

 

 ひたひたと迫る藍に息を呑む。本気だ。この藍色は本気で拷問が出来る人間だと、先ほどの惨劇でそれは証明されている。しかも抵抗しようものなら、瞬く間に縊り殺すだろう。

 

 それは恐れではなく、事実として志貴に突き出される。

 

『さテ、どうする餓鬼?』

 

 浸透する金属の悲鳴がぐらぐらと脳を揺らす。このままはぐらかせば、結果は目に見えている。

藍ではなく、刀から放たれる威圧に飲み込まれて、志貴は力もなく頷く事しかできない。

 

 しかし、これだけは聞いておきたかった。

 

「なあ、……あんた一体、何なんだ?」

 

 目前に藍色が佇み、志貴は思わず言葉を漏らした。その声音は自らが思う以上に硬化し、それ以上に角が無かった。

 

 警戒を遮る胸の鼓動は寧ろどこかこの状況に喜んでいるよう。

 

「―――――、――――」

 

 志貴の言葉に藍は反応しない。ざんばらに伸ばされた髪の隙間から覗く、虚空を思わす蒼の瞳は不思議と変わり、志貴を見つめている。何故だろう、茫洋に深い瞳が何となくそう思えた。しかし、その口元は動かず話す気配は見えない。それに食いつこうとした矢先、金属音が響いてそれも失せた。

 

『話スなら場所を移せ。こコは不愉快で仕方ねえ。ハイエナの気配がする』

 金属音に従うのは癪であった、ここは大人しくするべきだろうか。納得は出来ないが、ここでの抵抗は恐るべき未来を予感させた。

 そして志貴と藍色は刀の言葉に従い、その場所から離れようと一つしかない路地の道を歩き始め。

 

『……オい、俺を忘れんジゃねえ』

 

「あれ?」

 

 後ろを振り向けば先ほどから突き刺さっていた刀がぽつんと物悲しく置いていかれていた。志貴からすればこの藍色に今は従っておけばいいのだと思ったのでスルーしていたのだが。

 

 そしてその藍色は藍色で刀の訴えを聞いて暫く無感動にぱちぱちと瞬きをした後、てこてこと戻って深々と突き刺さった刀の柄を無造作に握りぐりぐりとほじくるように引き抜いた。

 

『痛えっ、この阿呆! もッと丁重に扱え!――-―強イ強いっ、ソんな反らすな! 折れル折れる、折れんけど折レる!? 力加減もセんで投げるカらこんな事になんだヨもっと考えてダなあ――――いやいやイヤイヤ、引っ掛かっテる、引ッ掛かってる!? 引ッ掛かってんのに力で抜こうとすんナ! 余計ニ刃毀れすんだろうが!!』

 

 ぎゃーすかぎゃーすかぎゃーすか。

 

「……」

 

 ぎこぎこぎこ。

 

『アアアアっ!! やめテやめて面倒くさがっテ梃子の原理で抜こうとすンな莫迦!! 折れるぞ? 折れるぞ!? あっけなく折れるぞっ!? いいのか!? いい―――っ―ギャアアアアアアアアアアアアアアア!!?」

 

「…………え~」

 

 四苦八苦する藍色の後姿と悲鳴をあげる刀の姿になんとも言えない気分になる志貴であった。

 

 □□□

 

 どこか遠く、眠らない繁華街から少し離れた屋上。

「……」

 そこで一人佇み、冷めた目で袋小路を見つめる影があった。

「なんで……、あの二人が」

 呟く言葉を飲み込んで、影はやがて夜に溶けて消えた。

 

 



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第十三話 悪い夢

 ――――うそつき。

 彼女はそう言った。



 (あとがきに頼みごとがあるため、どうかご覧ください。)


「――――志貴さま?」

 

 声をかけられ、意識を凝らせばベッドで横たわる俺の側には翡翠が少々困った表情で佇んでいた。すでに闇は消え、窓から差し込む光は眩しい。開かれたカーテンの向こうは気持ちの良い青色で、吊るされた歪な月はもう見えない。

 

 朝となっていた。夜はもう、終わった。

 

「……おはようございます、志貴さま」

「――――ああ、おはよう翡翠」

 

 一礼した後、翡翠は何か物言いたげに口元をまごつかせたが、意を決したようで声をかけてきた。

 

「あの、……志貴さま。今朝は起きるのが早かったのですか?」

 

 翡翠の視線の先に見える俺の姿は既に制服姿。

 

 いや、この場合は既にではなく、未だ制服のままでいるというべきか。しかし、そんな戯言が翡翠に通用するわけが無く、俺は苦笑と共に「そうだよ」とだけ言っておいた。ただ、何故俺が苦く笑ったのかわからず翡翠は困っている様子。

 

「ごめんな、翡翠。ただ昨日は十二分に寝てただろ?そのおかげで早く起きたんだ」

「……ですが」

「実際そうなんだ。……理由はそれでいいだろ?」

 

 どこか説明口調であるが、咄嗟の言い訳としてはなかなかではないだろうか。理由も翡翠には思い辺りがあるだろう、その証拠に翡翠はまだ何か言いたげであったが一応の納得を見せた。それとも、言葉で重ねた境界の線引きを超えることを躊躇ったのだろうか。もしそうだとしたら申し訳ないと思う。でも、だ。

 

「先に下りて秋葉に言っておいてくれないか?今日は俺が早く起きたから一緒に朝を食べれますってさ」

 

 まずこの時間なら間違いなく秋葉は起きているはず。一緒に暮らして短いがあいつは律儀で、しかも決めた事は頑なに守る、言ってしまえば堅物ではないかと思われる。でなければ俺が起きる事であんなに苛立つ事ないないだろう。その秋葉だ、毎日決まって俺よりも早い時間に起きているに違いない。この時間帯ならきっと下にいるはずである。

 

「……かしこまりました」

「ごめんな、翡翠」

「いえ。……私は、従者ですので」

 

 そう言った翡翠の表情はどこか寂しげに揺れていた。それでも今の俺には翡翠を慮る気分さえ捻出させる事出来ない心持なのだ。多少の強引さに目を瞑り、俺は天井を見上げた。

 

 夜ではない。夜ではない。もう、歪んだ夜も、藍色の闇も見えない。

 

 ――――手前は、戻れない。俺達と同じだ。

 同じ地獄の底をのた打ち回る腐った亡者よ――――。

 

 なのに、俺の耳の奥は今でも、金属の悲鳴にも似たあの嗄れ声が鼓膜を震わせていた。

 

 □□□

 

『んでだ、手前。……アレは、なんだ?』

 

 獣の臭気が不快だと日本刀、骨喰は愉快に笑った。風に流れても澱む死臭は溜まるものである。まして世の理から外れた蠢く死体ならば言うに及ばず、振り撒く臭気はただの猛毒だと、刀はケタケタと喧しく囁いた。

 

 それは朔にとっても無視できることではない、ならばお前さんは尚更であろう、と。

 どうにかこうにか無事に引き抜かれた骨喰は引き攣った余裕のない声で言った。

「…………」

「――――」

 

 夜の路地裏から離れるべく、志貴は骨喰の指示に無言で従った。背中へと突き刺さる視線に息を呑んで、歪な月の不気味な光に照らされた仄暗い道を進んだ。何か物言いたげな意識を後方に連れたつ朔へと向けているが、その威圧するでもない不気味な無機質を放つ瞳に何も言えずに渋々と歩いていく。

 

 軽く。それこそ慣れた者同士の挨拶のように、あの耳障りな声音は志貴に告げたのだ。

 

 ――――俺は刀だ、と。

 

 それを聞いて、志貴はどうしたものかと返す言葉を探り、そして失った。

 

 一体どうすればいいのだろう。刀が喋ると言う摩訶不思議を志貴の脳は処理する事も出来ず、この夜に起こった出来事に追い詰められていたが故に何の冗談だと怒りさえ煮えて、その声をかなぐり捨てようとした。しかし、有無を言わさぬ骨喰の迫力に志貴はあっけなく屈した。

 

 ある意味当然だろう。長身痩躯な薄気味悪い雰囲気を湛えた男――――骨喰の言葉によれば『朔』という名前らしい――――が突如として志貴の首筋に骨喰の刃先を向けたのである。幾ら鞘に収められているとは言え、刃物は刃物。しかも、襲い掛かる化け物を豆腐のように切り裂いていた凶器なのだ。刃を突きつけられる経験も無い志貴にとってはそれだけで充分であった。反骨精神は身を滅ぼす。故に無言の了解が志貴の心を折った。

 

 だが。 

 

「……」

 

 先を歩く志貴はちらりと朔の姿を盗み見た。

 

 この何も言わぬ男は一体、なんだ。

 

 藍の和装にざんばらと長い黒髪。そして左腕がないのか、着流しはハタハタと揺れており、この街中で裸足である。並々ならない出で立ちであり、貧困街の住人のような装いであった。しかし、それを払拭するようにその雰囲気は明らかに常道のそれではない。

 雰囲気を感じれないのだ。生物は存在する限り、如何な者であってもその気を滲ませている。それは修練された達人であっても、きっと同じだ。だと言うのに、男は何の気配も感じさせない。そしてその振る舞いだ。先ほども魅せた立ち振る舞いといい、明らかに人間ではない。何か直感めいたものが志貴に訴えかけるのだ。こいつはまともじゃない、と。

 

 だが、それよりも志貴が恐ろしいと感じたのはその瞳だった。空を思わす蒼と言えば聞こえが良い。しかし、それはただの空ではない。

 

 有象無象を呆気なく飲み込んだ虚空の蒼色だ。

 

『聞イてんのかァ、手前?』

「え?」

 

 はたと、意識は戻った。

 

『ホうほう、この期に及んで呆けるとはナ。なカなか胆の太え野郎じャねえか、なあ朔』

「―、―――」

『ひひひひひひ、全くだ』下品な笑い声を響かせて、骨喰は快活に言う。『死ヌか、手前』

 

 酷く淡白な警告であった。

 しかし、志貴はその簡素な響きに、今は知らず体が震えた。

 

「い、いやっ。考え事してて、それで――――」

『……まア、いいさ。――――マだ殺しはしネえ』

 

 志貴の言葉を遮り、どこか含みを滲ませて骨喰は言うが、まだという事はやがてと言うことであろうか。そこらへんが気にかかるが、それを聞くには後ろを振り返る勇気も度胸も志貴にはなかった。

 

 そして両者は細い路地の隙間を歩き、厭らしく骨喰は言葉を吐き出す。

 

『もッかい聞くぞ烏、脳味噌指突っ込マれて掻き回サれない事を泣いて喜べ。手前のアレは何なンだァ』

「……知らない」

『あアっ?』

「本当に知らないんだ。……自分がどうしてあんな事出来たのか」

 

 志貴は知らぬ事であるが、人体を断つのは存外に労力を要する。人間は壊れやすい存在であるが構成は丈夫であり、少なくともナイフ一本で首を落とすにはそれなりの技術と修練を積まなければならない。だが。

 

「俺は、殺すつもりなんて……なかった、なかったんだ。だけど、あの時俺はあんなに簡単に」

 

 生命を殺めた。

 

 それが志貴の心を捕縛し苦しめる。人の形を成した存在に対し、刃を突き立てる時がこようとは想像だにしなかった。

 

 あの時、ふと志貴の意識は遠くにあった。何か、ぼんやりと転寝に眺めているような感覚で、志貴はアレの首を落とした。そして、後に思ったのだ。

 

 人の肉とは、こんなにも柔らかい感触なのかと。

 

『ほう、アレを知らねエのか。…………やはリ、表の人間か?』

 

 呟くように骨喰は言う。

 

『しかし、解セねえ。それだっタら、何デ手前は化け物の首を落とセた?』

「……化け物?」

 

 息を呑む音は志貴の咽喉から聞こえた。

 それを自覚しながら、思わず志貴の足は止まる。

 

 何か聞き逃してはならない事を不可思議な刀が、藍の男が告げようとしていた。このまま振り向ければよかったのだろう。勢いのままに、後ろの存在を直視すればよかったのだ。だが、振り返るには既に遅く、志貴が処理しきれないままに骨喰の不愉快な金属音は言葉を紡ぐのだ。

 

『人間は死ねばシゃれこうベだ。死ンで腐って骨となル。骨は何も言エねえし、動けねエ。そレが常道だ。……ンだが、あいツら死にながら動いテいた。そレはな、あイつらが死者だからだァ。死者は死ンでモ生きる化け物だ。生ける屍(リビングデッド)トでも言えば分かっかァ?』

「ちょ、ちょっと待ってくれ!そんな莫迦な事ありえるか!アレは死体だって言うのか!?」

 

 溜まらず志貴は悲鳴をあげるように叫んだ。あまりに常識から離れた真実に意識は拒絶を促したのである。しかし、その反応を寧ろ笑って骨喰は甘受した。あまりに醜悪な声音である。

 

『ソうさな。殺サれた死体が屍ニ成り切れず、腐臭撒キ散らす化け物と果てタ。それがアいつ等だ。生キたままに殺さレて成り果てたのがアの生きる屍だァ。喜べ、手前は死ンダ奴を殺したンだ。ひひ、ナかなかいナいぜ、表の人間なラ特に、な』

 

「そ、そんな。そんな事があって――――」

 

『何せコの世は地獄だ。世は漫然ト蠢き、生者と死者が悲鳴を挙ゲて這いずる。助ケを求めル為に声を挙げてンのか、お仲間を増やすたメに叫んでンのかハそレぞれだが、少ナくとも仏様は優雅ニ蓮池のほトりで無様な俺らを眺めテ憐れみやがル。憐れンで、嘲ッてる。手ヲ差し伸べる事無ク、救う事無く。世の理が極楽の世なラ、糸の垂れタ下にいる俺らハ地獄の獣じゃねえか? 常道では無ク、外道の理ガ蔓延る地獄の住民だ。なら、死体ガ動いたって不思議じゃネえだろ』

 

「――――――っ!」

 

 反論する言葉が思いつかず、志貴は立ち止まる。

 一体何を言っている。一体何を言っている。

 

 まるで理解できない。

 まるで理解したくない。

 

 感情は骨喰の世迷いごとを切って捨てようとする。

 しかし、志貴の理性は骨喰の言葉を受け入れようと聞き入っていた。

 

 それは、もしかしたら答えを与えられた子羊のようで、あるいは中毒性の麻薬を求める廃人の心地だったのかもしれない。理由を渇望する者の心理は如何様にあっても、その本質は変わらない。選択肢は二つ。満たすか、餓えるかだった。

 

『ンでだ。アの死者は不可思議ナ事に死ンで元気だ。元の人間よりモ頑丈に、元気になル。蚤ノ様に飛び跳ねル事だッて出来る。ソんなあいつ等ヲ相手取ルのは、裏ノ人間の仕事。表の人間なラ瞬キの間に肉塊、お陀仏だァ。……ダが、だ』

 

 気付けば、そこは志貴が辿った道の入り口の側であった。視線の先には明るい煩雑な繁華街で疎らながらに人が歩いている。生きている、人間が。そこから溢れる光が志貴の足元まで伸びて、後少しでも踏み出せばそこに辿りつく。どうにかして金属音と藍の男を振り払えば、あそこに戻れる。

 

 でも、何故だろう。足が動かない。鉛のようにではない。足に力が入らないのだ。

 これではまるで、自分の体がここから離れたくないと訴えているようではないか。

 

『手前は違ッた。死者に襲ワれ、縊リ殺した。普通の人間なラこうはイかねえ。ソのまま潰さレて終いだ。……だカら俺は聞いてんだ。なア、俺ニ聞かせてクれ。朔に教エてくれ。……手前は、何ダぁ?』

 

 最終警告。志貴の背中に何やら感触があった。恐らく、朔の指先だろうか。このまま黙っていれば先ほどの戯言通りに志貴は生きたまま内臓を握り潰される。言葉にはし難い妙な確信があった。

 

 だけど、何を言えばいい。

 

 あの視界の事を言うには。ちぐはぐな志貴の視界を言うのはあまりに憚られた。今志貴が遭遇する事態にそのような事を考慮するのはおかしな話なのやもしれぬが、アレはそんな容易には言えない事なのだ。信じてもらえるはずがないという事もあるが、志貴はこの目の真実を墓場まで持っていく所存なのである。だから言わない。

 

 それに、話してしまえば何をされるかわからない。見えぬ事態に志貴は予見も出来ない。

 故に、違う事を話さなければいけない。

 

 だから、実に関係のない事であるが、志貴は己を誤魔化すために声を挙げた。

 

「俺は、遠野志貴だ。……ここらへんじゃ結構有名な遠野の長男だぜ。だから体鍛えて、武術だって使えるんだよ。知らないのか?最近の長男は妹を守るために護身が必須スキルなんだって」

 

 誤魔化すにはあまりに出鱈目と尽きる嘘八百であった。

 

 志貴自身、ああ言ってしまったと果てしない後悔と脂汗。口から出た言葉は荒唐無稽すぎて逆に笑えない。幾ら目の事を言わない為とは言え、あまりに酷い。これで俺の命運尽きたと内心涙を零して覚悟を――――。

 

「―――、―」

「っな?―――かはっ!!?」

 

 衝撃が肺を叩く。

 

 背中に添えられた指が志貴の肩をむんずと掴み、翻りその身を壁にたたき付けた。いきなりの事に踏ん張る事も出来なかった志貴は、背中から叩き付けられた事で息が詰まる。しかし、これで自分は終わったと思い、それでも眼前に現われた朔の姿を見た。

 

 二人の視線が交わる。

 吸い込まれそうな蒼の瞳と、眼鏡に隠された滅びの瞳。

 

 しかし、その腰元に佩かれている骨喰はその間隙さえも許さなかった。

 

『手前…………。遠野志貴か?』

「っああ、――――そうだ」

『ソうか……そうか―――――っ』

 

 そして。

 

『ひひひひひいひひひひひひひいひひひひ――――ひひひひひひひひひいひひひひひひひひひひひひひいひひひひひひひひひひひひひいひひひひひひひひっ!!!』

 

 突如として骨喰は震えるように、笑った。

 

 刀ではなく、肉体を持っていれば腹を抱えそうなほどの大爆笑。夜を劈き、空気を軋ませる金属の悲鳴にも似た笑い声は脳を壊してしまいそうな破壊力を伴い、思わず志貴は眩暈を感じた。

 

 骨喰の笑いは止まらない。まるで狂っていような笑い声を響かせながら、骨喰は言う。

 

『そうカ、手前ガあの遠野か!遠野の直系カ!!―――ひひひっ、なるホどこれガそういう事か、コれこそそうイう事か!嗚呼、朔聞いタか!コいつが遠野の人間ダとさ!!奇奇怪怪テのはきっとコんな事に違イねえぜ、ナあおい!』

 

 遠野の名前に、骨喰は明らかに尋常ではない反応を返し、志貴を嘲う。

 それはまるで、悪鬼のようですらあった。

 

「あ、あんた何を言ってるん――――っ」

『手前は、もウ戻れねえ』

 

 不意に、その言葉は澄んだ余韻を響かせていた。

 金属の悲鳴とは違う、神託の様な声。

 

「え?」

『化け物を殺シたものは化け物に殺サれる。そレが遠野なら尚更ダ。遠野ノ人間なら全くもッて同然だ』

「――――、――」

 

 眼前。茫、と無機質な蒼の瞳。鋭利な刃先を思わす眦が志貴を見つめている。蒙昧な視線であるのに、今は志貴を見つめているとわかった。それは、あるいは獲物を見つめる捕食者の瞳であったのかもしれない。

 

「――――あ」

 

 まるで、化け物ようだ。

 

『ソの魔眼殺しといい、騙さレたな。手前はどウしようもない畜生だったか! 地獄の亡者と思イきや、獄卒の一匹。世も末トはこの事だ。真逆、遠野ノ直系と朔がご対面とはおもわなんだ。アいも変わらず世界は狂気に満ちテいる』

 

 耳障りな声音。蒼の瞳。掴れた肩。

 藍の男。喋る刀。

 

 不思議と志貴は自身の死を見た。

 目前の男に無残と殺される姿が、妙にはっきりと見えた。

 

 化け物を殺した人間は、化け物に殺される。

 それが正しければ、今志貴は殺される運命にあるという事か。

 逃れられない。底なし沼のような亡者の巣窟立ち竦む志貴を捕まえて。

 

『嗚呼、手前は同類ダ。こチら側の人間だ。残念無く同等ノ畜生だ。では、同じ地獄ノ獄卒たる遠野と退魔だ、今回の件ニは無論関わらなケればならねエ、っひひ!』

 

 何を言っている。何を言っている。

 藍は殺すのか。何を、誰を殺す。

 

 それは化け物か。

 あるいは化け物を殺した自分か。

 

「だから……」震えを堪える事もできずに志貴は問うた。問わざるを得なかった。「あの時、俺を殺そうとしたのかっ!」

 

 恐れ、あるいは怒りを綯い交ぜに志貴は藍色を睨みつけた。

 

『アん? なんの事だ?』

 

「―――っ! しらばっくれるな! あんた等は俺と弓塚さんに襲い掛かったじゃないか! 首を抱えながら!?」

 

 責め立てるように志貴は言う。以前以前一度会っていると。そこで俺は殺されかかったのだと。

 

 それは、どこか悲鳴にも似た声だった。しかしどこか懇願するような響きでさえあった。心の何処かで否定を望んでいる童の叫びであった。

 だが、藍色に変化はない。相変わらずの不変さで志貴を眺めている。それが気に触ってたまらない。そして骨喰はささくれ立つ神経を逆撫でる事に長けているのであった。

 

『覚エがねえなあ。――――朔の中にモ、んな記憶はねえ。多分アレだろ、運がなかッたんだろゥ?』

 

「――――なっ!!」

 

『確かに手前とは何処かデ偶々運悪ク会っていたかもしれンな。だが、ソれは本当に何処かデ偶々運悪く会っタだけの話だ。不運ダったな」

 

「お前は―――っ!そんな―――っ」

 

 人は災いを憎む。そして遭遇しない事を幸福に思う。

 

 なぜならば災いには意思がないからだ。どんなに忌諱しても防ぐ事も出来ぬ事象に人は震えながら祈る事しか出来ない。

 

『殺す相手を一々覚える事も煩わしい。何故なら朔が化け物だからだ、人殺の鬼だからだ。鬼は殺す事に躊躇いない。何故なら鬼と人間とでは明らかに思考も信念も倫理も違うからだ。手前は蟲の法理に従うか?手前は自らが悪戯に踏み殺した蟻の理念に従うのか?答えはそうだ。答えはそれこそだ』

 

 化け物は化け物の理念に則って生きている。

 

 それ即ち自らのルールを相手に適応する事以上に愚かな事はないという事。

 

 人間が人間を殺す事に嫌悪を覚えるのは全くもって同然。

 

 しかし、化け物が人間を殺す事に、何故嫌悪を覚える必要が在るのだろう。

 

 人間と化け物は全く違う。考え方も、方法も、倫理も、生き方も。

 

 生きている世界すらも、全く違う。

 

『いチいち覚えることナど出来るものか。鏖殺の限リを尽くす悪鬼の輩だ。自ラ以外の全生命は殺人対象に過ぎネえのだよ、朔にとッてはな』

 

「―――――――」

 

『そシて手前が踏み込ンだのはそんナ場所だ。そンな糞ったれな世界だ』

 

「………………」

 

 不思議と、こんな時に志貴はふと。

 ――――明日、学校で会おう。

 弓塚さつきとの約束を思い出した。

 

 こちらが勝手に思い込んでいる約束を、志貴は思い出した。

 

『日和は閉ザされ、これかラ先は問答無用に無明荒野だ。楽しクなってきたじゃネえか。もう手前は戻れナい。血生臭い獣の共食イから、モう離れられない――――』

 

『遠野志貴。お前は踏み外した』

 

「―――――――っ!!」

 そして、志貴は駆けた。全てをかなぐり捨てるように、肩にかかる藍の腕を振り払いあの光の先へ。

 

 意味がわからない。意味がわからない。

 

 頭は情報の処理を放棄した。現状を千切って放りだし、刀が語る理解不能な言葉に体は拒絶した。

だから逃げた。逃げて、逃げて。名残を惜しむような虚脱を無理矢理殺し、少しでも遠く。流れる暗い灰色の視界。その先には明るい世界。そこへ、逃げた。

 

 それでも、嗚呼。それでもなお。

 あの神経を逆撫でる刀の声音は、遠ざかるはずの志貴の耳を捉えて話さない。

 

『――――手前は、戻れない。俺達と同じだ。

 同じ地獄の底をのた打ち回る腐った亡者よ――――』

 

 □□□

「―――兄さん?」

 

 意識は回帰する。はっとして視界を凝らせば眉間に皺を寄せた秋葉の不機嫌な表情が見えて、そして理性は現状に追いついた。

 

「私の話を無視するなんて、兄さんは私といて詰まらないのですか?」

「いや、あの。……あ、あははははは」

 

 硬い表情のままに笑む秋葉の顔は空恐ろしいものがあった。

 

 時分は既に朝食を取り終えていた。そこで時間に余裕があった俺は秋葉との時間を優先させようとしたのだが、どうやら意識はここになかったようで秋葉の言葉を殆ど聞き流していた。これは不味い。

 

「駄目ですよ志貴さん?秋葉様は志貴さんが体調の加減を崩されたことが心配で夜も眠れなかったんですから。ちゃんとお相手しなくちゃいけませんよ?」

「な、琥珀!いい加減な事を言わないで!」

 

 秋葉の隣に控えていた琥珀さんがどこか茶目っ気ある口調で言った。秋葉は否定のためか顔を赤くさせているが、それが本当なら申し訳ないと思う。

 

「そうか……ごめんな秋葉」

「全くです。幾ら体調が回復傾向にあるとは言え、本当は学校も休んで欲しいぐらいなんですよ。それなのに兄さんときたら――――」

 

 秋葉は厳しく言うが、それは確かにそうだと思う。

 

 原因不明によって体調を崩して意識すら失ったのが昨日の事。それなのに昨日今日の事で学校に行くのは、少々おかしな事なのやも知れない。事実秋葉には心配をかけた。琥珀さんや翡翠にも迷惑を掛けただろう。

 

 でも、だ。

 

「約束があるから。今日は学校に行きたいんだ」

 

 弓塚さんとの約束がある。

 昨日翡翠から伝わった、弓塚さんの言葉だ。

 

 取るに足らないような約束かも知れない。でも、俺にとってその約束は弓塚さんと繋がる唯一のもののように思えた。

 

 自分が何故こんなにも弓塚さんとの約束を、繋がりを求めているのかまるでわからない。弓塚さんがそのような事を期待しているとも思えない。

 

 でも、これはとても大切な約束のように思えた。

 

「それでもです。病み上がりの人間に無理をさせるだなんて遠野としての品位に欠けます。兄さん、自覚はおありですか?貴方が倒れるだけで大勢の方に影響を与えるのです」

「はは、そんな真逆」

「それが遠野の長男というものです。上に立つべき人間に何か在れば事態は混乱の極みにもなってしまうんですよ」

「……肝に銘じておくよ」

「本当ですか?」

 

 そう疑われると、こちらとしても遣る瀬無いものである。しかし、それを正面切って直接言葉にするには度胸がなかった。軟弱者である。

 

 しかし、改めてこの場を見渡す。

 

 正面には小言を列ねる秋葉、その横には何やらにこやかに笑っている琥珀さん。そして。

 

「なんでしょう志貴様?」

「いや、なんでもないよ」

 

 俺の隣には慎ましく翡翠が控えている。控えめに佇むその姿は本当に従者の鏡で、ぴっちりと着こなしたメイド姿から彼女の几帳面な性格が垣間見えた。先ほど邪険に扱った事を申し訳なく思いながら、しかしこうやって全員が揃っている事に心は確かな安堵を覚えていた。きっと夜にあんな事があったからだろう。寝付けなかった事に妙に落ち着きは訪れなかった。

 

 でも、今この場に皆いる。それだけでいいと思える。だから。

 

 ――――手前は戻れない。

 

 反響する金属の囁きに、顔を顰める事は無理からぬ事であった。

 

「兄さん?どうしました」

「……いや、なんでもない」

 

 黙っていろ。俺には関係ない。あんな事、忘れてしまえ。

 しかしそう思い込もうとするたびに、あの二人の姿が脳裏を刺激して止まないのだった。

 

「志貴様。そろそろお時間です」

「ああ、わかった翡翠。秋葉、それじゃあ行ってくるよ」

「……わかりました。無理はしないでくださいね」

「大丈夫だよ」

 

 ――――だから心配なんです。

 

 遠ざかる俺の耳にそんな声が聞こえたような気がした。

 

 □□□

 

 玄関へと続く廊下を歩いている時、後ろからパタパタと軽やかな歩き音が近づいてきた。

 

「志貴さーん。忘れ物ですよー」

 

 何事かと思って後ろを振り返ると、琥珀さんが俺の学生鞄を抱えていた。そういえば、俺は今手ぶらだった。どうやらわざわざ持ってきたらしいが、本当に琥珀さんには申し訳ない気持ちで一杯である。

 

「ああ、ごめん琥珀さん。助かったよ」

「いえいえ、翡翠ちゃんが忙しそうでしたので代わりに持ってきただけですよ。あ、それとも志貴さんは翡翠ちゃんが持ってきたほうがよかったですかー?」

 

 どこか含みを持たせた琥珀さんの笑みに顔が引き攣る。ここで慌ててしまえば彼女の手管に乗ってしまうのは前回の件で証明済みだ。引っ掛からないぞ俺は。

 

「そのままあの手この手で翡翠ちゃんを誑かして門の見送りで翡翠ちゃんの唇を無理矢理奪うんですね?さすが志貴さん実にあくどいです!」

「何を言ってるんですか琥珀さん!?」

 

 あ。

 

「おや、反応するという事は実際にそうするということですねっ。むむむむ、これは翡翠ちゃんのお姉さんとしては翡翠ちゃんの唇を死守しなくてはなりません!」

「いやいや俺はそんな事しませんから!」

「むむっ、翡翠ちゃんには魅力が無いとでも言うんですか?これは見過ごせないですね!」

「何この理不尽っ!?」

 

 反応してしまったツケは実にカオスである。

 

 それはさて置き。そのまま見送りをすると言う琥珀さんを連れ歩き、俺たちは玄関を出た。外は澄んだ空気で体の汚れも浄化させてしまいそうなほど。実に気持ちの良い天気である。

 

 ちらりと見ると琥珀さんはそんな天気に眩しいのか目を細めて遠くを見つめていた。はて、なにがあるのだろうと思ったが、そこまでの詮索は実に瑣末な事であった。

 

「お帰りは何時ごろになります?翡翠ちゃんに伝えておかないと?」

「え?なんで?」

「だって志貴さんが帰る時間を把握しておかないとお出迎えができないじゃないですか」

「……別に出迎えとかいらないんだどなあ」

 

 慣れていないことなので、そんな扱いを受けるのはこそばゆいと言うか、何と言うか。

 

「翡翠ちゃんがやりたいからやってるんですよ。だから志貴さんは別に気にしなくてもよろしいんです」

「んー、……納得はいかないけど。そこまで遅い時間にはならないから大丈夫だよ。門限は守るさ」

「なるほどー、それじゃあ翡翠ちゃんにも伝えておきます。あとなんですが」

 

 そこで琥珀さんは間を置いて、言った。

 

「志貴さん、深夜に何処へ行かれたのですか?」

 

 ――――心臓が大きく跳ねた。

 

「え?」

 

 何故琥珀さんが夜の事を知っているんだ。琥珀さんを見れば、何時の間にかその笑みはどこか張りついた仮面のような凄みと簡素さを持ち合わせ、ともすれば誤魔化しは許さないと言わんばかりに俺を見つめている。その目は笑っている。しかし。

 

「実はですね、昨晩の事なんですが私たちは夜中に見回りを行っているんです。こんなに大きいお屋敷ですから見回りにも一苦労なんですけど、そこで私は不思議な事に夜中にお屋敷から抜け出す人影を見つけたんです。不思議ですねー、真っ暗な深夜に何処かへと向かう人影は、私にはどうにも志貴さんの姿に見えて仕方なかったんですよね」

 

 その瞳の奥底にあるその色は笑っていない。俺を射抜いて放さない。

 

「そこで私、あんまりに気になっちゃって志貴さんの部屋にお邪魔しちゃったんですが、これまたびっくり、志貴さんの姿が何処にも見えないんです。これは一体どういうことでしょうね?」

 

 どこか訴えるように、琥珀さんは楽しげに言葉を紡いだ。

 しかしその内情は如何なるものだろう。どこか震えを堪えるように、俺の咽喉が鳴った。

 

「……それで、志貴さんはどちらに行かれたんですか?」

 

 何故ばれたのかはわからない。本当に琥珀さんが俺の姿を見たのだろうかと、判別する手段も材料も俺には無い。琥珀さんは俺を見たと言うが、それは真実なのだろう。事実、俺は家を出ているのだ。それに部屋まで確認したと言うのだ。言い逃れは出来そうにない。

 

「えっと昨日は、っというか今日になるのか。一日中寝てたから妙に眠れなくて、ちょっと洒落込んで夜の散歩にでもと思って外にいったんだよ」

「……」

「だから琥珀さんが見たのは俺で間違いないはずだ。偶々出かける俺を見かけたんじゃないか?一時間ぐらいで帰ってきたし、琥珀さんが思うような事は何もないよ」

 

 俺の言葉に琥珀さんはどこか胡乱げな雰囲気を滲ませたが別段何も言わず、「なるほど」と取り敢えずの納得を収めたようだ。

 

「あんまり夜は出歩かない方がよろしいですよ?最近物騒な事件も多々とおこっていますし、秋葉様も心配しちゃいますし。寝るために多少の疲労は欠かせないことですが、志貴さんの体調を見た私としましてはあんまりお勧めしません」

「……ごめん」

 

 流石に呆れられたか。仕方ないと言わんばかりに琥珀さんはオーバーな溜め息を吐いた。その仕草が実にアメリケンであると思う俺は実に場違いである。

 

「さて、それじゃ心配事も無くなりましたし志貴さんお気をつけて」

「ああ、言ってくるよ」

 

 俺は琥珀さんの対応にどこか柔らかな雰囲気を感じながら、そのまま振り返って足を進めた。

 

「――そ―――き――」

 

「え?」

 

 すると琥珀さんに何やら声をかけられた気がして後ろを振り向くが、琥珀さんはそんな俺に小首を傾げながらにこやかな笑みのまま。きっと気のせいだったのだろう、と思い俺は下る道を歩いていった。

 

 □□□

 

 その日、少年は一つの約束を胸に坂を下っていた。恐らく約束と呼ぶにはあまりに弱い少女の言葉に少年は陽だまりの臭いを見出したのかもしれない。ひたすらに平常を愛し続けた彼だから、太陽の暖かさや人の温もりというのはかけがえの無い事だと、理解ではなくずっと前から知っていたのだろう。それはきっと大切な物なのだと信じて疑わなかった。

 

 故に、少年の約束は果たされる。

 

 少年が取るに足らない言葉に陽だまりを見出したのと同じように。

 少女もまた己が発した言葉に少年への想いをありったけ積み込んでいたのだ。

 

「あ」

 

 その姿を少年は思わず立ち止まり見つめた。

 栗色の髪を両サイドで縛った、丸顔の少女。

 

「あ」

 

 予感があったわけではない。ただ、もしかしたらここにいたら彼が来るかもしれないと淡い期待を秘めて彼女はその場所に佇み、少年の姿を待っていた。帰りでは分かれ道。でも、行く時は交わり道。其々に異なる道なりを歩んできた二人は、細い繋がりに約束を包み込んで、出会った。

 

「「その……」」

 

 そして二人は言葉を失う。何て声をかけようかと考えていた。沢山考えてはそれを打ち捨てた。でも、それは学校での話で、通学路で対面した頃合を想定していなかったのである。多少の恥じらいと躊躇いを込めて、二人は言葉を重ねた。

 

「あの、昨日は大丈夫だった?」

「あの、体の調子はどうだった?」

 

 重なる言葉に二人は瞳を見開いて、そして沈黙の後に耐え切れず笑った。

 

 嗚呼、この人も同じ事を考えていた。

 

 どうしようもなく心配でたまらない心持が気遣いの言葉を紡がせた。

 

 このシンクロがおかしてたまらなかった。

 

 そして相手の事が自分を心配してくれている事が、ただただ嬉しかった。

 

 そうして二人はいつしか並んで歩く。

 

 雰囲気は安らいで、二人の表情もまた柔らかい。高校への道なりを二人は歩いて、話し、笑いあった。上々な陽気の気配に二人は今日の良き日を予感した。

 

「おはよう、弓塚さん」

「おはよう、遠野くんっ」

 

 □□□

 

 だから。

 

 二人が並んで歩く日々が今日で最後であると。

 

 今は誰も、気付かなかった――――。

 

 



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断章 浅き夢見し

 有為の奥山は越えている。

 もう、戻れない。


 血が、止まらない。

 

「――――ぎがっ、あぁ」

 

 ぐわんぐわんと意識が揺れている。酒に酩酊しているような気分だった。精神に何かが混ざってぐちゃぐちゃにされたようなそれに気分が害され、酷く腹が立つ。彼の思考の殆どは憤怒に支配され、頭が破裂しそうだった。だから煮詰められた憎悪はひたすらに彼の意識を苛んで仕方が無かった。

 

 ――――ここ、は何処だ。

 

 見覚えのない暗がりはどうやら自分の寝床ではないらしい。どこにでもあるような薄汚い路地裏で、上部に塗炭屋根があるような実に粗末な場所だった。乱雑に転がる瓶の破片やすえた臭いは家無しの溜まり場であるらしい。不衛生極まりないその場所は彼を苛立たせるには充分なほどで、怒りに任せて出鱈目に身動きすれば、黴の臭いが彼の体に纏わりつくようであった。

 

 しかしながら、問題はそこではない。

 

 ――――彼は何故自分がこの場所にいるのか全く覚えが無かったのである。

 

「っつあぁ…………、ったま痛え……!」

 

 脳が脈動するように痛む。ずくん、ずくん、と。鼓動のように頭部に痛みが走り、思考が瓦解しそうであった。寝起きにこの痛みは馴れたものではない。片手で頭を押さえつけても、まるで痛みは引かない。長年付き合った頭痛なのだから、これぐらいで治まるとは思っていない。それでも押さえつけなければまともに思考も出来ない痛みであった。

 

 そして悪い事に痛むのは頭脳だけではなかった。

 

「っああああああ……っ!」

 

 突き刺すような痛みが彼の脇腹を襲った。少数の蛆がその部分を食んでいるような感覚。

 

 呻き声を挙げて恐る恐る左腕を伸ばしてみれば、湿りを帯びた感触。それを眼前に晒せば触れた指先は赤色に塗れていた。それが塗炭屋根の隙間から差し込む太陽の忌々しい光に照らされて不気味にてらてらとしていた。

 

「ぁ?」

 

 どこか力なく声が漏れた。それは許容範囲を超えたことに対して理性が目まぐるしく原因を探っていたからだった。寝起きで激怒に脳内を焼き尽くされながらも彼の思考回路は実に明晰だった。彼の身に何があったのかを、彼の思考は瞬時に再生を果たしたのである。

 

 ――――あれは生温い夜。滑る風が体を撫でて、粘る空気に肺が苦しめられた。

 

 見えるは藍の着流し。片腕を喪失した人形のような出で立ち。

 

 さんばらに伸びた髪の隙間から覗く、蒼の瞳。

 

「あ、あああああああああああああ」

 

 そこで彼は、彼は。彼は。

 

――――そして、炸裂するように思い出す。

 

「七夜ああああああああああああああああああああああああああああああっっっっ!!!」

 細い路地に怨嗟の咆哮が響き渡る。それは反響して木霊さえ呼びこんで、彼の内側に渦巻く怒りをぶちまけた。右手を握りしめ、寝転がりながら地面を思い切り叩きつけた。その指は既に生え揃っている。朦朧な意識で記憶を辿れば容易に思い立つ。彼は能力で指を奪ったのだ。しかし。

 

 一瞬寒気を感じて、慌てて胸元に手を当ててみた。

 

 そうだった。記憶が確かならば、彼はあの時――――。

 

 押し当てた掌に反応は無い。

 

 内側から押し上げるような感覚はなく、鼓動は皆無であった。

 

「っくそがああああ………………っっっっ!!!!」

 

 背筋を震わせて、彼は全てを思い出した。あのおぞましき夜の事を。

 

 彼はあの藍色に完膚なきまでに遣り込められ、それでいて無様に殺されたのだ。何も出来ないまま軽くあしらわれて殺されたのだ。右指を噛み千切られ、脇腹を裂かれ、心臓を抉り取られた。いや、あの所業は抉るなんてものではない。何故なら今こうして彼の胸元には僅かな亀裂のような傷跡しかなかった。

 

 瞬時に掠め取られた心臓。

 

 あれは最早人間の所業ではなかった。

 

 ――――それでも、彼は立ち向かわなければならないのだ。

 

「あ、あああああああああああっ」

 

 化け物の如き藍色の壮絶な惨さを目にして、彼はあの時確かに恐れた。怒りに思考は白熱してはいたが、その総身は鳥肌が立ち、戦慄に体が震えた。想像を超え、対処も出来ぬままに迫る藍色に恐怖したのである。

 

 それでも彼は立ち向かった。恐怖を苛烈な憎悪で押し殺し、立ち向かって、殺された。

 

 通常であるならば、その時点で彼は既に死人だ。心臓を奪われたのである。血脈の管理者である心臓を失ったものが生きている道理は無い。

 

 それでも、彼はこうして生きていた。

 

「…………っ」

 

 ――――意識がぐらりと傾いた。貧血と頭痛、そして今しがた叫んだことによるものだ。

 

 脇腹の出血は止まることを知らず、傷口は布で押さえつけてはいるが一向に滲み出ていた。刃で鋭く切り開かれた傷は浅く斬られれば意外にも早く塞がるものであるが、その気配はまるで見えない。だが、こうしている内にも血は失せていく。

 

 しかし、心臓は既に失われているのだ。造血細胞は骨髄の中にあるからよいが、運搬に欠かせぬ心臓を奪われてはどうしようもない。それでも生きているのは、偏に彼の不死身さによるものであった。だが、失った血流は無視できるものではない。血は生命には無くてはならないもの。そのために心臓もまた必要不可欠である。

 

 ならば、奪わなければならない。何処からか調達しなければならない。

 

 そのために、彼は逃げた。

 

 無様に逃げて、逃げて、逃げた。そして彼は今もこうして呼吸を続けている。生き永らえている。未だ死んでいない。いや、死ぬわけにはいかないのだ。

 

 何故ならば、彼はあの藍色を殺さなければならないのだ。

 

『――――七夜朔が遠野への復讐を企てている』

 

 最早顔も忘れた女が、記憶の奥底で彼に囁く。

 

 あれは過去の事だ。彼はかつて牢獄の住人であった。湿った臭いが支配する陰気な牢を住まいとする囚人であった。それを彼は望んでいない。彼は望まずして人気のいない座敷牢へと押し込まれ、長い間日の目を見ない牢獄を住処としたのであった。

 

 そして、いつだったか。

 

 獄に繋がれた彼の世話を行っている女が唐突に彼へと告げたのだ。

 

 七夜朔が、あの忌まわしき男が遠野を滅ぼそうとしていると。

 

 それを聞いて、牢の中で彼は嘲った。

 

『構うものか』

 

 ある例外を除いて身内に対し冷やかな感情すら抱いていない彼である。彼は無様に殺されるかもしれない親族の姿を想像して、せせら笑った。どうせなら惨たらしく殺されればいいと、鼻で笑ったのである。

 

 何故ならそいつらが原因で、彼は牢屋に入れられたのだ。

 

 切っ掛けはあった。特筆する事もない出来事だった。暴走状態に陥った彼に父親は一撃を放って息子を殺したのである。しかし、そこで驚くべきことに彼は生きていた。と言っても瀕死に意地汚く縋っただけであったが、それでも彼は生きていた。あれは何年前の事だった。それから彼は仄暗い牢の中に閉じ込められていた。何年も、何年も。

 

 故に彼は親族に対し負の感情しか抱いていなかった。殺意と邪気を腹の底に溜めながら、彼は獄の中で息を潜めていた。

 

 そんな彼に女は告げたのだ。

 

『――――七夜朔が遠野の全滅を狙っている』

 

 不気味な事であるが、女はいつも笑みであった。まるで笑み以外の表情を知らないかのようだった。人形と言うのはきっとあんな女に違いない。

 

 そんな女を壊してみたくて、彼はかつて身に巣くう激情を女にぶつけてみたりもした。だが、恐るべき事に無理矢理に辱められても女はおぞましき笑みのままで、男は身震いすらしたのである。決して笑み以外の表情を見せず、そして禍々しい笑みを湛え、女は男を嬲るように言うのだ。

 

『――――七夜朔は遠野秋葉を殺しに迫っている』

 

 それを聞いて、彼は思い知った。事実に叩きのめされたと言ってもいいだろう。

 

 その時の彼は言うに及ばず、暴れるだけ暴れた。地下に存在する座敷牢から響く彼の発奮は地上を僅かに揺らす程で、そのときだった。彼の怒りは頂点に達したのだ。

 

 朧な記憶ながらに、彼は七夜朔という存在を覚えていた。

 

 そしてそいつがいつも遠野秋葉の側にいたことも覚えていた。何故アイツに秋葉が心を開いていたのかを彼は知らない。知りたくも無かった。彼にとって七夜朔とは限りなく目障りなだけの存在であり、他人以上に気に喰わない存在だったのだ。

 

 そして腹立たしい事であるが、七夜朔と遠野家は緊迫状態にあり幼少ながらに聡かった彼はそれを見抜いていた。故に七夜朔を排斥する事も出来ない事を理解していた。だから彼は歯噛みしてその状況を邪魔するぐらいしか出来なかったのである。何故なら、彼は七夜朔が遠野秋葉の側にいるのか、その理由に思い辺りがあったのだった。

 

 そんな七夜朔が、遠野秋葉を殺しに迫っている。

 

 彼にとっては到底許されるべき事ではなかった。

 

 そして、どうすればいいかと悩みに悩んで彼は感情のままに行動する事を望んだ。

 

 牢屋から脱出し、七夜朔を殺そうと思ったのである。特徴は既に知っていた。女が教えてくれたのだ。空を思わす蒼の瞳を持った男であると、男に口添えしたのである。不自然な事ではあるが、それを好機と男は受け入れて、手筈どおりに脱出を果たした。

 

 そして、彼はとうとう見つけたのだ。七夜朔。あの忌まわしき男を。憎い怨敵、忌々しい感情の仇敵を。

 

 彼は全力を尽くしていた。思い立つままに肉体を行使し、痛む傷口を無視して立ち向かった。血飛沫に塗れ、肉を潰そうと指を食われようとも彼は構わず絶叫をあげながら立ち向かい。

 

 彼は敗れた。心臓を潰されて、無様に敗走した。

 

 そう、彼ではアレに立ち向かえないと、彼は知らされたのである。全力では届かない。粉骨砕身の決意では辿りつかない。その命を喰らうためには海千山千の溝が横たわっていると、赤子をあやされるように彼は思い知った。

 

 それでも、それでも。

 

「認めねえ―――――――っ」

 

 それを認めるわけにはいかない。

 

「認めねえぞっ……認めねえぞ……!!」

 

 それを認めたらきっとなにもかも駄目になる。

 

 これまでの人生、牢に閉じ込められた惨めな己、そしてそれ以前の過去が。あの時に決意が、覚悟が全て不意に終わる。麗らかな思い出と、憎悪に明け暮れた現在を自ら踏み躙ることになる。

 

 そのような事を認められるほど、彼は大人しくはなかった。

 

 何より、それを認めてしまえば死ぬのは彼だけではない。

 

「秋葉――――」

 

 そう、何よりも大切なモノが殺されてしまうのだ。文字通り目に入れても痛くない大切な、それこそ自分よりも大切なモノが、あの藍色に惨殺されてしまうのだ。それは阻止しなければならない。死守しなくてはならない。

 

 長き牢での生活において己の理不尽に対する罵詈雑言と、かつての生活を思い描く妄想だけが彼を支えていたが、それにおいて遠野秋葉何よりもの存在だった。かつていた友人と共に笑いあった過去に涙と、それを破壊された激憤をもって彼の精神は健在だった。そして彼の中において遠野秋葉とは必ず守らなくてはならない無二の存在であると言えた。

 

 だから、彼は立ち向かわなくてはならない。

 

「秋葉ぁ…………っ、秋葉――――っ!」

 

 嗚咽のように彼は名前を呼んだ。搾り出すような懇願にも似た、なんて弱い声だろう。まるで親鳥から捨てられた雛の悲痛な鳴き声のようだった。

 

 しかし、その声に返ってくる言葉は無い。

 

 理由はわかっている。

 

 なぜなら彼はどうしようもなく一人だったのだ。

 

 恋焦がれた愛おしいモノは、もう側にいない。あの高い壁の向こうにいるはずだ。そして自分はこんなに薄汚れた路地裏で血を流し、苦痛にのた打ち回っている。それが惨めでたまらない。何故自分はこんな目にあわなければならない。

 

 それでも、彼は悲壮な決意を固めていた。

 

「秋葉…………、俺……守るから」

 

 全身全霊を賭けて、遠野秋葉を守る。

 

 そのためならば、死んでも構わない。

 

「ああ…………」

 

 睨み付けるように目蓋を顰めさせながら、彼はもう一度遠野秋葉の姿を思い出した。牢から脱出し、遠くから眺めた遠野秋葉は可憐な少女から成長し、美しき女性になろうとしていた。高い壁の中にいる彼女は本当に綺麗だった。それが嬉しくて、また悲しかった。

 

 そんな彼女の側にいない己を彼は呪い、そして蔑んだ。

 

 嘆いても何も変わらない事を知りながら、それでも想わずにはいられない己の弱さに。

 

 嗚呼、なんて嘆かわしい。そんな己を蔑んで、彼はそれ以上の激怒で持って悲嘆を覆い隠した。嘆きでは殺せない。悲しみでは守れない。感情の綯い交ぜと、不自然なまでに痛む頭に苦悩しながら、彼はかつての思い出を胸に、今はただ憤怒に身を任せていた。

 

 ならば、やる事は決まっている。

 

「殺す…………」

 

 必ず殺してやる。噛み締めた奥歯が軋んでたまらない。しかし今となってはそんな事もどうでもよく、彼は敵わぬと知りながらその情動を狂気で染め上げたのである。内側から破裂してしまいそうな激情と、折れてしまいそうな脆弱の恐怖に自己を磨耗させながらも、牙を研ぎ、殺意を澄ましていった。もう戻れない過去に縋りながら、唯一を守るために彼は修羅となり悲壮の覚悟を身に刻んだ。

 

 

 そして、少し泣いた。

 



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第十四話 悪い夢

 ―――世界に希望がある限り、人の絶望は決して無くならない。 


 恋というものは、些か厄介なものである。

 

 単なる思慕の感情であると言うのに、その人命、あるいは人生を大いに狂わせる事もあれば、はたまた一途な想いが時たま運命を変えることすらもあるのだから一笑だには出来ぬ摩訶不思議である。

 

 感情とは力の初動だ。力なき行動は失速するに及ばず、その道理を失墜させて堕落させてしまう。感情なき行動は茨の道を踏みしめるどころではなく、棘の茨に抱きしめられる末路が落ちだ。

 

 だが、恋はそれと一線を引く。恋はするべきだ、恋は何よりも素晴らしい。恋は甘く苦いもの。その生を潤沢に富ませ、更には幸福までも訪れるかもしれない、と声高々に恋は良いものと謳う者は歴史上にも多くいた。それほどまでに恋は人を捉えて惑わす。故に人は誰かに恋をする。

 

 しかし、本当に恋は良いものかと言えば、その答えは千差万別であろう。

 

 恋は一種の麻薬である。それも依存性の高いものだ。思考は淡い色に染まり、その行動もまた然り。歴史を紐解けば、恋によって生まれた悲劇があった。恋によって育まれた惨劇があった。狂おしいまでの愛に呑まれ、そして裏切りの道を走る者。恋のために戦争を起こし、天下万民悉く滅ぼした王。叶わぬ恋慕に涙を流し自ら毒薬を飲んだ憐れな女。彼らの理由はただ一つ。恋とは何よりも尊いものであるからだ。

 

 故に恋は悲しみの源泉である。事実、恋に芽生えた者の不幸な最後は涙に濡れた別れを経験するだろう。そして枕を濡らして叶わぬ恋に理不尽を抱き眠りにつくのだ。それを悪いという者はきっといない。何故なら恋とはそういうもの。幸と不幸が背中合わせに在る、真に不可解な感情である。

 

 だから恋の結果を知る者は誰一人としていない。筋道が通っていても、その結末には大どんでん返しはよくある事。例えその果てが例え悲劇で救いようのない末路だったとしても、恋とは良いものなのである。

 

 その日、三咲町のとある高等学校では朝っぱらからちょっとした騒ぎが起こっていた。

 

 二年生であるあの朴念仁と呼ばれる遠野志貴と、奥ゆかしき事この上ない弓塚さつきが共に登校してきたのである。公然の秘密としてさつきのアプローチがいつ大成するのか、はたまた志貴がいつさつきのアプローチに気付くのかとかねがね話のネタにされていたのは言うに及ばないが、この現場を目撃した生徒達は颯爽と高校へと向かい、この事実を言いふらしたのである。

 

 以前から弓塚さつきを応援している者は黄色い歓声を挙げ、遠野志貴の鈍感さに賭けていた男共は草葉の陰で男泣き。上を下をの大騒ぎに千切られた賭けの食券枚数知れず。今正に校内は大狂乱の乱痴気騒ぎが勃発し、終いには乾有彦を筆頭に男連合が莫迦騒ぎを始め、それにシエル率いる花の乙女愚連隊が待ったをかけて男女を分ける抗争が始まってしまった。

 

 果たしてこの騒動に終わりは来るのか……!!

 

 ――――とはいかず、本日は少々騒がしいながらに実に平和な朝を迎えたのであった。

 

 □□□

 

 弓塚さつきにとって遠野志貴との距離は埋める事が難しい。いっそ困難と言ってもいいだろう。遠野志貴自身がどう思っているかわからないが(さつきとしても気になるところではある)さつきは成る丈志貴と仲良くなりたいと思っている。それは遠野志貴が気になる存在であり、そしてそれ以上にさつきが遠野志貴を一人の異性として意識しているからだ。しかし幾ら 遠野志貴との距離を縮めようと自ら奮い立っても、いざその時になると物怖じしやすい性格故にその切っ掛けを自ら潰してしまう事などもざらで、さつき本人としても実に歯痒いのが今までの現状であった。

 

 彼女は比較的強引に事を起こす人間ではない。活発的というよりも引っ込み思案という言葉がしっくり来る性質である。それは交友関係においても通じ、しかしその性格の良さから面倒見の良い人間だと周りからは思われている。頼まれたら断る事が出来ないし、困っている人を見かけると放ってはおけなくなる。本当はそんなことないとさつき自身否定しているが、性格が性格だけに流されてしまうのである。

 

 ただ彼女はそこで終わるのではなく、諦めの悪い質でもあった。

 

 我慢強いと言えば些か誇張に過ぎ。

 頑固と言えば本人としても非常に困る。

 

 頑固と言う言葉は少々印象が悪いように思えるのだ。響きも濁音ばかりでちょっと厳つい。でも諦めないという言葉は実にしっくり来る。健気な感じもするし、誠実な気もする。ニュアンスの柔らかさが際立っているのではないだろうか。別に本人がそう思わなくても事実はそうなのであるが、それは本人もわからぬ事ではある。

 

 だから彼女は諦めないと言う意志を胸に遠野志貴への距離をつめようと日々努力をしてきたのである。

 

 それがいつ実るとも知れぬ最後の無花果の花だとしても、彼女は止まらなかった。

 

 それを苦しいと思うこともあった。好意を募らせれば募らせるほど遠野志貴との間に見出される距離は遠ざかっていく気がして、隔たりは一向に取り除かれてはくれないのだ。それを思うと苦しくてたまらなくなり、夜中には胸を締め付けられるような切なさに襲われて眠れなくなる事もあった。

 

 しかし、なんで好きになったのだろうとは一切思わなかった。さつきは遠野志貴を好きになったことに全く後悔しなかったのである。

 

 後悔とはつまり否定だ。それまでの気持ち、それまでの時間、それまでに積み重ねてきた彼の残像を全てかなぐり捨てる行為である。だから彼女は後悔しなかった。そもそも後悔を覚えることなんてないのだ。だって遠野志貴が好きなのは誰に強制されたわけでもない、彼女自身から生まれた彼女の感情なのだ。だから彼女は誰よりも幸せものであった。それを大切にして何が悪い。文句あんのかこら。

 

 それに遠野志貴を好きになってから人生がちょっと変わったような気もする。あの冬の奇跡から、彼女はいつだってその甘い痛みを噛み締めてきたのであった。

 

 そして切実の日々を越え、今さつきの気持ちがひとつの結実を迎えていた。

 

「弓塚さん?」

「え?」

 

 すぐ側から声が聞こえた。変声期を越えた男性特有の少し低い声は彼のものだと思うだけで特別なように聞こえる。それが具体的にはどのような事かは上手く説明できないが、彼の言葉は他の人よりも良く聞こえるのだ。妙に心地よく響く適度な低音はさつきの好きな彼の声で、耳元で聞こえるから少しくすぐったい。

 

 しかし、今はそんな彼の声に浸っては不味い。彼はちょっと困った顔つきでさつきの顔を覗いてきている。気付けば、近い。こんなに志貴が側にいるなんて今まであっただろうか。その距離にさつきは自分の顔が熱を帯びるのを感じた。

 

「あ、あああの、えっと……どうしたの、遠野くん?」

「いや、弓塚さんが何か黙ってたからさ、話しかけてもぼうっとしてるし、ちょっと気になって」

「そうなの? ごめんね、遠野くん」

 

 折角声をかけてくれたのにそれを聞き逃すなんて、さつき無念。申し訳ない気持ちと、惜しい事をしたという気持ちでさつきの胸中は一杯になってくる。しゅん、としてしまうのも致し方のないことだろう。しかしそんなさつきでさえ志貴は苦笑して許してくれるのだ。

 

「謝るほどのことでもないからいいよ」

「……でも」

「いいって、いいって。……あー、それよりもどうしたんだ?ぼうっとして」

 

 気をきかせてくれたのだろう、話を元に戻してくれた。そんな気を使ってくれてありがたいと思うが、気を使わせた事に申し訳のなさを感じた。ただ、それもきっと志貴は気にする事はないと笑ってやり過ごしてくれるだろう。そんな彼の人柄の良さは心地よいものがあった。

 

「ううん、なんでもない」

 

 そう、なんでもないのだ。なんでもないのである。さつきが今しがた考えていた事を遠野志貴本人に堂々と言えるはずがないのだ。状況的にではなく、さつきの精神的な理由で。でも、ちらりと志貴を見る。そこには子犬を思わすような、それでいて何処か同年代の青年とは違う雰囲気を持つ人が側にいる。だからさつきは実感する。今日はなんて素晴らしい朝なのだろうかと。

 

 学校への道なりはなだらかに続いていく。公園を通り過ぎ、街路の通りを志貴とさつきは連れたって歩き、すれ違う車の排気ガスを嗅ぎながらどうでもいいような話を交わしていた。

 

 昨日はどうしていたかを初め、今朝のニュースや占いの結果、はたまた学校での共通の話題。宿題の確認や有彦の悪口。ちょっとした気になることとか有彦の悪口とか、有彦の悪口とか。あんまりに志貴が悪口を言うので、ちょっと窘めたりもしたが。そして。

 

「え?弓塚さん中学の時同じクラスにいたのっ?」

「……そうだよ、やっぱり気付いてなかった」

 

 実はさつきと志貴は出身中学が同じで、しかも同じクラスになったこともある。それをさつきは内心嬉しく思っていたが、肝心の相手が気付いていなかったらどうしようもない。ちょっと落ち込む。

 

「ぐ……ごめん」

「……いいよ、あの頃は遠野くんとあんまり話すこと出来なかったし。……でも、これからは――――」

 

 頑張るから。口元を転がるその言葉はきっと小さすぎて志貴には伝わらない。でも、こんな決意を想い人に聞かせるのは恥ずかしいから、聞いて欲しくもない。でも、聞いて欲しいなんて気持ちもある。それがたまらなく切ない。 

 

 歩道橋を越え、もう少し歩けば学校が見えてくる。いつもの見慣れている道だ。そしてそこらには登校途中の生徒の姿もちらほらと見えた。出勤途中のサラリーマンがいれば、本当に綺麗な金髪の女性もちらりと見えた。

 

 何気ない、いつもの登校である。

 

「……」

 

 ちょっと気になって後ろを振り向けば、あの金髪の女性の後ろ姿が遠くなっていく。あんなに綺麗な人がいるんだなあ、とさつきはしんみり思った。後姿まで美人なんて、外国人女性はずるい。

 

「ま、いいか」

「?」

 

 予感があったわけではない。あの場所で待っていれば確かに遠野志貴は現れる事は分かりきった事実。遠野志貴が引っ越して帰り道が重なったのならば、少なくともあの道で会う確立は高かった。でも、以前までのさつきならばあそこで遠野志貴が来ることを待つなんてありえなかっただろう。約束にもならぬ約束を突きつけてさつきが舞い上がっていたとするならば、それは否定の仕様がない。しかし、二人はこうして今一緒に歩いている。

 

 それは否応無く、さつきの心理状態に影を指した事態にあるのかも知れない。

 

 さつきの記憶に刻まれた恐ろしい光景。片手に生首を持った男が、志貴とさつきに襲い掛かってくるのだ。まるで悪夢のような現実で、現実味のない瞬間であった。

 

 しかし、あれは紛れもなく起こった現実。恐ろしくてたまらない刹那がさつきを締め上げた。恐怖に囚われさつきは体が動かなくなり、呼吸すらも出来ない緊張状態に陥った。

 

 あの時、さつきは確かにナニカの終わりを見た。それが果たして自身の生命活動なのか、それとも友人や家族、あるいは学校の人と会うことなのか。もしかしたら、遠野志貴と一緒に歩くことが二度とない未来なのかもしれない。

 

 でも、さつきは今もこうして学校への道のりを歩き、隣には信じられないことに遠野志貴がいる。そしてお喋りをしながら登校している。

 

 こんな未来、夢にまで見た奇跡の一瞬をさつきは味わっている。

 その原因はわかっている。

 

 遠野志貴が、さつきを守ってくれたのだ。襲い掛かる藍色に対し、遠野志貴はさつきを背に立ちふさがり守ってくれたのだ。あの時は互いに一杯一杯でどうすればいいのかもわからなかったけれど、でも、あの時二人は一緒にいた。

 

「……あ、そういえば」

「ん?どうしたの弓塚さん」

 

 さつきは思い出した。すっかり忘れていた。

 自分は守られたきりで、碌に感謝の言葉ひとつ返していないことを。

 

「あのね、遠野くん――――、私あの時」

「……何、弓塚さん?」

 

 だからお礼を言おうとした。守ってくれたのだから、御礼をする事は当然だと思う。でも〝あの時〟というフレーズに、遠野志貴はどこか影をさしたようにその顔を強ばらせた。

 

「あの、ね。その、私、あの時の事を遠野くんに――――」

「いいんだ、弓塚さん」

 

 お礼がしたい。後もう少しで言えそうな言葉を遮り遠野志貴はかぶりを振って言う。

 

「あの時の事は、忘れよう。……忘れたほうが良い」

「でも」

「あんな事、思い出しちゃいけない。思い出せばきっと、弓塚さんの傷になるから、駄目だよ。……だから、忘れたほうがいいんだ」

「……でもっ」

 真摯に、どこか訴えるように志貴は言う。でも、それではさつきのこの気持ちはどうなるのだ。感謝の言葉も、謝罪の言葉も受け入れてくれない。こんな寂しい気持ちをさつきは知らなかった。

 

 それに、アレを忘れてしまえば、今はどうなる。

 こうやって二人で歩くのはさつきの心理状態が未だ不安定な事もある。不安だから誰かと一緒にいたい。それは悪い事だろうか。そして、それが切っ掛けで今こうして歩いているのだ。アレを忘れるとは、今をなかったことに等しいのではないかとさつきは思う。だから、寂しくて堪らなくなる。

 

「遠野くん、私――――」

「やっと着いたね」

 

 気付けば、もう学校に二人はたどり着いていた。校門を抜ければ他の生徒の話し声と、早朝練習を行っている生徒達の勇みよい掛け声が聞こえる。つまり二人で歩く時間はもう終わり。

 

「……遠野くん」

「ほら、そろそろ予鈴が鳴るよ。俺は何より、有彦よりも遅いのが我慢ならないんだ」

 

 最近あいつ早いからなあ、と何処か白々しく言いながら志貴は歩いていく。もうあの話題に触れたくないのだろう。確かに、あれは嫌な事だ。気分も優れないし、どうにも落ち着かない。そのお陰で学校も昨日は休みを取った。

 

 でも、忘れてはいけない。遠野志貴は心配してくれている。それはとても嬉しい。でも、アレを忘れる事はさつきにとって良くないことなのだ。今を否定しないために。錯覚でないならば、遠野志貴との距離が近づいた事に。

 

 絶対にお礼を言おう。そんな事をさつきは思った。さっちんは諦めないのである。

 

 そして。

 

「遠野くん!」先行していく志貴に声をかける。「今日放課後空いてるっ?」

 

 さつきは勇気を出す事を決心した。

 

「えっと、多分空いてるけど……」

 

 訝しげに志貴は振り返りさつきと対面する。正面に見える志貴の顔つきは幼さを残しながらも安らかな印象で、さつきはそれも好きだった。

 

「じゃあ、絶対空けててね!約束だよ!」

 

 それが何を意味しているのかを充分理解し、さつきは約束を紡ぐ。

 

 きっとその顔はいつもよりずっと赤い。

 

 □□□

 

 喧騒と静寂が入り混じる。でも、決して無音ではない。それを心地よいと感じながら改めて志貴は自分が学校にいるのだと自身のイスに腰掛け、ぼんやりと授業を聞いていた。

 

 一定のリズムで黒板を叩くチョークの音や、内容に対する説明を口にする教師の溌剌とした立ち姿。そして視界にはそれをそれぞれに受ける生徒の姿もある。その中にいる中の一人は早々に寝入ってしまっている。授業開始と同時に机に突っ伏したその魂胆に呆れながらも、それが有彦らしいと内心苦笑した。

 

 そしてもう一箇所の机ではさつきが真剣な表情で授業を聞きながら、しきりにノートへとシャーペンを走らせている。恐らく授業内容を書き写しているのだろうが、さつき一人ではなく殆どの生徒が行っている事なのだから珍しい事ではない。しかし、さつきほどの熱心さでノートを取っている生徒も珍しい。そして視線に気付いたのか、ふとさつきは志貴の方に顔を向け、始め驚いた表情を見せながらも微笑みを浮かべて小さく手を振った。それにこちらも手を振り替えして、再びぼんやりと授業を聞き流していく。

 

 何も変わらない。

 

 実に平凡でありふれた光景の中に自分はいる。皆それぞれに時間を過ごしながらも授業をこなしていく。そんな時間がもう昼休みに差し掛かろうとしていた。

 

 今朝は大変だった。昨日学校を休み、一日ぶりに登校してみると教室は随分と懐かしいような気がした。そしてそれはあの密度の濃い夜のせいに違いないと、志貴は嫌な記憶を思い出したことを後悔しながら自分の机に座ると同時に、有彦がニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべながら近づき、さつきと登校してきたことに茶々を入れ、更には昨日二人とも学校を休んでいた事からどこまで進んだのだと実に訳のわからないことをほざくものだから、意趣返しにとチョークスリパーをお見舞いしてやった。そしてふと気付けばさつきも友達にからかわれていて顔を真っ赤にしていた。そこでふとさつきと目が合えば、彼女は慌ててしまいそれすらも友人にからかわれたのであった。

 

 そして志貴はそんなアワアワとしているさつきの姿を不思議に思いながら、どこか可愛いと自然に思っていた。

 

 何も変わらない。

 

 追求と悪ふざけの応酬をやり過ごして、今日の授業は始まった。昨日休んだ事で授業の内容は少々取っ付き難いような気もするが、大体は理解できるしこのような事態にも慣れている。元から体調は芳しくないのだから、倒れて授業を受けることが出来なかったことなどざらで、特に珍しくもない事ではあった。そもそも熱心に授業を受けるほど勉学を好んでいるわけでも無し、そこらにいる生徒達と同じように興味も無く授業を消化していく。まるでいつも通りだ。

 

 だから、何も変わらない。

 

 感慨も深く、志貴は今教室にいる。実に変容もなき時間である。これが良いと、以前ならば考えもしなかった事を思う。いや、きっと内心そう思っていたのだ。でも、それを意識して思うことは今までに無かったのではないだろうか。あったとしても、ほんの僅かな時間で、気付けば何処かへと消えてしまうような感慨だ。それは軽く、質量すらないような埃の塊に過ぎなかった。散り逝く花びらのような儚さも無い、乾いた埃だ。

 

 改めて思うのだ。こんな時間、こんな日々を決して悪くはないと。寧ろ良いと――――。

 

 ――――手前は、戻れない。

 

 折角教室にいるのに、あの声が聞こえる。

 

 騒がしい。喧しい。

 

 軋む金属音が脳裏を侵して止まない。

 

 歪な月に照らされ、闇を纏う藍色の亡霊と、朽ち果てた刃を研ぎ澄ます悪意の刀剣。

 

 どれだけ時間が経とうとも、あの夜の出来事は志貴の中から消え去らないのである。腐敗の臭いが立ち込める夜を越え、清廉たる朝を迎えて日向の匂いがする昼に差し掛かろうとも。ギリギリ、ギリギリと捻りこむようにあの金属音は鼓膜を震わせる。

 

 ――――俺達と同じだ。

 

 五月蝿い、黙れ。お前の声なんて聞きたくないんだ。

 

 自分はここにいる。自分はここにいる。こんな何気ない場所で、いつものように過ごしている。それで良い。それが良い。これ以上や、これ以外なんて、きっと望むべくも無い。

 

 それでも聞こえる。聞こえる。あの苛立たしいまでに嗄れた不快な声が。

 

 ――――同じ地獄の底をのた打ち回る腐った亡者よ。

 

 ベキっ!!

 

「……遠野?どうした」

 

 教師の声に意識が戻る。

 

 気付けば、掌が硬直していた。そして、力の限りに握りしめられた掌の中にあるシャーペンが無残にも拉げていた。幾つかの小さな欠片を零して、最早真っ二つな姿であった。

 

 皆の視線を感じて少々気まずいが、そうも言っていられない。中には胡乱な有彦の視線や、さつきの心配そうな表情が視界の端にあった。

 

「いえ、……大丈夫です」

 

 そう言いながら残骸を掻き集めた。もうこれは使い物にならないだろう。いつか補充をしなければならない。無理をして使うつもりも無い。

 

「そうか、気分が良くなかったら言えよな。どうもしないけど」

 

 それは教師としてどうなんだろうか、と口にする事も無く志貴は苦笑気味に誤魔化すのであった。

 

 そして時刻は四時限目を終えて、昼休みになろうとしていた。

 

 □□□ 

 

 昼食はあまり食欲が沸かなかった。元から食が太い訳でもないが、最近特に胃袋が縮小しているように思える。それでも何か食べてしまおうと食堂で合流したシエルにカレーうどんをお勧めされた。病み上がりの志貴を考慮して消化の良い麺類を選択したのだろう、うどん用に辛味を抑え、まろみを増したカレーの仄かなエスニックな香りが何とも言えない。どろりとしたカレーは実に胃への負担が大きい。少々辛い昼食となったが勧めた人物が側にいる手前、そんな事はおくびにも言えぬ志貴であった。

 

「んーーっ、今日もなかなか美味しいです。このスパイスがまたたまりません!遠野くんはどうです?」

「そうですね、まあ、美味いと思いますよ」

 

 目前でシエルは志貴が食しているのと同じカレーうどんを美味しそうに食べている。しかしなんだろうか、至福の表情とはきっとこんな表情に違いない。感情は瞳から始まるが、シエルのそれは顔を構成する細胞の一つ一つから幸せオーラを発射しているようだった。

 しかし、以前もカレーを食べていた気もするが、カレーが好きなのだろうか。もしかして毎日食べているのかもしれない。そう思い、苦笑してまさかと今しがた去来した考えを否定した。毎日カレーなんてインド人じゃあるまいに。

 

「ですよね!やっぱりカレーはうどんにしても美味しいものです」

「ハハ、確かに、そうですね」

 

 しかし、本当に美味そうに食べるものだ、と志貴はぼんやりとした頭で思った。

 

「そんなにすか?俺もカレーうどんにすりゃよかったかなー」

「お前は取り合えずその口の周りについてる米をなんとかしろ」

 

 有彦はシエルの隣に座り、牛丼をかき込んでいる。その食べっぷりは実に豪快で潔いが食い意地の張っているようにすら見える。丼はこれぐらいがちょうど良いのだろうか。

 

 でも。

 

「あれ、そう言えば弓塚さんは」

 

 このテーブル席には志貴と有彦、更にはシエルしかいない。最近共にいることが多かったさつきの姿は見えない。しかし有彦は大げさな身振りで肩を竦めた。

 

「ああ、あいつは何か作戦会議だそうだ。他のやつらと喰ってんじゃね?」

「作戦会議って?」

「……さあな、ま、後の楽しみってことだろ。もしかしたら今日かもしれんが」

「?」

「……弓塚さんも、これでは浮かばれませんね」

 

 二人してやれやれとでも言いそうである。しかし志貴にはサッパリ分からないことであるので邪険に扱われたかと睨むつける事しか出来ない。そんな志貴を見て有彦は何を思ったかその顔を厭らしくニタニタと歪ませて、舐めるような視線を寄越すのであった。

 

「しっかし、遠野。お前、アレだろ?」

「……何がだよ」

「家で寝ゲロぶちまけたんだろ?」

「――――っぶ!!」

 

 いきなり事実を言われ、志貴は先ほどまで飲み込んでいる途中だったうどんを思わず吐きそうになった。もし吐いていたら仇名は食堂のゲロリッティになっていただろう。

 

「お、お前なんで知ってるんだよっ!」

「おお、そりゃお前。お前んちに電話したからに決まってんだろうが」

「……は?」

 

 何でそんな事を有彦が。そんな疑問を解決したのは有彦の横で苦笑いをしていたシエルだった。

 

「昨日遠野くんがお休みと聞いたので、私たちも心配したんです。だから失礼ながら遠野くんの家にお電話をかけたのですよ」

「そしたら良い感じの女の人が出て、遠野が寝ゲロしたって言ってたんだよ。しかし、遠野あの人誰だ?何かすげえ美人な予感がするぜ」

「……琥珀さん。あの人ってば――――」

 

 その時を思い出したのだろう、有彦は何やら不気味な笑みを浮かべて志貴に迫ってくる。しかし志貴にはわざわざ寝ゲロをばらす人間はただひとりしか思いつかなかった。そしてそれは正解なのだ。ある意味琥珀に対する信頼なのだろうか。

 

「でも、遠野くん。本当に大丈夫なんですか?無理は体によくありませんよ?」

 

 カレーうどんを食べ終わり、シエルは心配そうな表情を湛えて志貴を覘く。

 

「ええ、もう平気です。実は昨日一日中寝てたんで、もうすっかり」

「なんだ、俺らが真面目に授業受けてる間にお前は惰眠を貪ってたのか」

「……少なくとも、お前は授業受けてないだろ」

 

 今しがたまで殆ど寝ていた有彦が言えることではない。

 

「それにしても一体どうしたんでしょうね、前々から調子は良くなかったんですか?」

「……」

 

 ――――脳裏を去来する、化け物。蒼い瞳、片腕の和装。

 

 吐き気を催す金属の悲鳴に、腐った風。歪んだ月。

 

「……元から、あんまり体が強い方じゃなくて、多分家にもまだ慣れてないから、貧血とかも祟って。……思い当たる事は多いですけど、正確な理由までは……」

 

 記憶を払拭する。思い出しても意味が無い。忘れてしまえばいい。

 

「ま、その全部が合わさって、て事かもしれねえしな」

 

 そこまで気にするようでもなく、有彦は軽く言う。志貴としてもそれぐらいのニュアンスで充分で、これ以上あの出来事を引き摺りたくもない。だからこの話題はもうお終いだ。

 

『―――巷を騒がす吸血鬼事件の続報です。また新たな犠牲者が出たようです。今日未明、○○から人が倒れていると通報があり、警察が駆けつけたところ女性が首もとから血を流しており、病院に搬送されましたが既に死亡しておりました。調査によると―――』

 

 そして耳に入るのは点けっ放しのテレビのアナウンス。その内容に顔を顰めながら、そして連鎖するように思い出される気持ちの悪い夜の終わりを拭うように、残ったうどんを啜る。すると勢い良く啜られたうどんの音にテレビの音は聞こえなくなって、気にもしなくなるだろう。

 

 しかし、そんな志貴をシエルは含んだような表情で見続けていたのである。

 

 □□□

 

 時間を無為に消化する。時は金なりと時間は実に貴重な財産であり、時間はどんな生命であろうとも平等に与えられている。それを無駄に生きるのだから何とも贅沢な事ではないだろうか。無論やらなければいけないことは多々とある。しかし、そこに必死な感情は入り込まない。それはそこまで力を入れるような事ではないという楽観もあるだろうが、それ以上に必死になる必要が無いのである。

 

 決してルーチンワークでこなしている訳ではないが、必死とは今後の展開に関わる事である。人生や運命、大げさに言えば生死が関わるような事である。ならば学校で必死になるといえば、期末テストや進路関係だろうか。実は進学校であるこの高校では大学受験に向けて動いている生徒も中にはいる。ならば期末テストなんかも死活問題、なるほど必死になる事も頷ける。まだ十台の半ばを越えたばかりの子供が自分の将来に向けて動いているという事実には頭も上がらぬ思いだ。そう思うが、そんな早くから自分の人生を決めていいのだろうかと思わなくも無いのである。それは人それぞれだろうが、志貴はなんとなしにそう思うのだ。別に将来を憂う事も、はたまた何も考えていないわけでもないが、今を大切に安穏と生きている志貴にとっては、未来を選択するとはどうにも考えにくい事であった。

 

「夕方、か」

 

 時は放課後である。授業を終えてクラスメートは各々に消えていった。気付けば有彦やさつきもいない。誰もいない教室はどこか物悲しく広がっている。誰も座っていないイスや、整然と並立された机。少々白っぽくある黒板。人が今までいたからなのか、温もりを失った教室はさながら秋に見つかる蝉の抜け殻のようだった。

 

 今朝さつきは放課後の時間を空けといて欲しいと言っていた。約束だと、志貴もまたそれを了承していた。その用件が果たして何なのか、それは志貴にはまるで分からない。クラスでも人気の高いさつきに放課後を空けといてほしいと言われ、それは邪推しても仕方の無いことなのかも知れないが、志貴はそれはないだろうと打ち消す。

 

 でも。

 

「弓塚さん……」

 

 何かを思い描こうとする己に志貴は戸惑いを覚えていた。そんなありえない事を考えて一体どうしたというのだろう。しかし約束を交わした本人が何時の間にか消えているのである。それすらもすかされた様な気がして、残念だと思っている。不思議だ、不思議だ。きっとそう思っているのは志貴の心理状態が落ち込んでいるからに違いなかった。

 

 教室には斜陽が雪崩れていた。眩しいくらいに赤い夕暮れはいっそ血のようですらある。鮮烈に赤い太陽の光はそうとしか例えようがないくらいに輝いていて、これから夜が訪れるとは到底思えない程だった。

 

「……でも」

 

 夜は必ず訪れる。志貴が夜を越え朝を迎えたように、昼を過ぎれば夜が静かに舞い降りる。夜は苦手だ。以前までそうは思っていなかったが、最近夜には良くないことが起こる。

 

「馬鹿馬鹿しいな」

 

 気にしすぎだ。気にしすぎるから嫌な事が起こるのだ。きっと、そうに決まっている。

 

「さっさと帰るか」

 

 嫌なことからは避けるに限る。さつきとの約束は結局どうなったのかは分からないが、もう帰ったほうが良いのではないだろうか。夜なんてどこにいたって迎えるものであるが、しかし家で迎える夜と、その他で迎える夜には明確な差がある。確かな光源があり、家族がいるのはありがたい事なのである。

 

 しかし、教室を出た志貴に声をかけるものが現われた。

 

「遠野くん」

「……シエル先輩?どうしたんです、なんか用事でもありました?」

 

 青みがかった黒髪に眼鏡をかけた三年生。シエルだった。しかし志貴としては少々不思議であった。シエルは三年である。その教室は階層が異なり、二年生を締めるこの階層にいるのは少々不自然であるとすら言えた。

 

「いえ、特に用事はなかったんですけど、まだ学生さんがいないか見回りをしてたんです」

「へー、シエル先輩って何か役員なんですか?」

「そうではないんですけど、遅い時間まで学校に残っていると褒められたことではありません。最近は物騒ですから。だから遠野くんもそろそろ帰ったほうが良いですよ」

 

 随分と殊勝な事であると素直に感心した。でも、それを改めていわれるのは少々気後れするのだが。

 

「とは言え」

 

 シエルは少々茶目っ気を滲ませていた。

 

「実は私は部活があるのでまだ学校にいるのですけどね」

 

 それは、本末転倒ではないだろうか。しかし。

 

「ん?先輩って部活に入ってたんですか?」

「ええ、そうです。なんなら見学に来ますか?」

 何とはなしにシエルは尋ねてくるが、その瞳には邪気も感じられない。ならば本当に善意で誘ってくれているということだろうか。

 正直に言ってしまえば帰ることも出来るだろう。誘ってもらった手前断ることは確かに気が引ける。更にシエルは先輩なのだ。先輩の誘いを断るのはどうかとすら思える。と、脳内は目まぐるしく展開し、そしてちらりと時計を見た。まだ、時間としては早い。

「じゃあ、ちょっとだけ」

「はい、しっかりもてなしますから」

 □□□

「茶道部なんて、この学校にあったんですね」

「ええ、……とは言っても部員は私一人だけなんですけど」

 

 まず職員室から鍵を借り受けて茶道室へとたどり着いた。しかし離れが建てられて本格的の行う茶道の部屋という感じではなく、小さな部屋の置くに畳が敷かれた如何にも高校らしい茶道室であった。

 

 靴を脱ぎ、とりあえず正座をしてみるが足を崩しても構わないとシエルは楽しそうに言うので、志貴は言葉に甘えて胡坐をかく事にした。志貴がそうしている合間にシエルは準備を始めており、シャコシャコと抹茶をたてている。しかし礼節や作法など細かい部分までは把握していない志貴は、色々とシエルに教えてもらい抹茶を飲む。

 

「どうです?感想は」

「感想ですか……」

 

 とりあえず湯飲みを傾けながら辺りを見渡す。抹茶の苦味と香り高い風味が良い塩梅で、シエルの腕が窺い知れる。それに合わせ本格的ではないとは言え茶道の設備をある程度揃え様としている。更にここは校舎の隅にひっそりと作られているからなのか喧騒も遠く、生徒達も次第に帰宅しているからか静寂な雰囲気を醸し出している。

 

「うん、いいところだと、思います。お茶もおいしいですし」

「そうですかっ!?よかったあ、他に部員の方がいないからそういう事を聞ける人もいなくて」

「顧問はいないんですか?」

「んーいるような、いないようなってところです」

「……どういうことですか、それ」

 

 明瞭な返答の無いシエルの応えに志貴としては首を傾げざるを得ない。元からどこの部活に所属もしていなかった志貴の言える事ではないのかも知れないが、顧問がいない部活と言うのも珍しい。

 

「ま、それはさて置きです。今はお茶を楽しんで下さい、おかわりもありますので」

「はあ」志貴は曖昧に頷いた。「分かりました」

 

 確かに茶は美味だった。抹茶は確か有間の家で呑んだ事があるが、それも数えるほど。確かおばさんがたててくれて、一緒に飲んでいた都古は苦いと言いながらチビチビと飲んでいた気がする。味はそこまで覚えていないが、それでもこの抹茶はその中で一番美味しいのではないだろうか。茶に精通もしていない志貴が言ったところでそんな事は意味もないのかもしれないだろうが。

 

「そんなこと無いですよ。こうやって誰かに飲んでもらって、感想を聞かせてもらう事が重要なんです。それに、そんなに肩筋張らなくても平気ですよ。お茶は楽しむものなんですから」

 

 茶道に限らず、昇華された文化とは一般的には堅苦しいものと認識されがちだが、その本質とは瞬間を楽しむためのものとして民衆に親しまれてきたものである。つまり大元を鑑みれば、文化とは娯楽なのだ。それは茶も同じ。ならばそこまで気にする事もなく気軽に楽しんだほうが良い、とシエルは言う。

 

「……そう言ってくれるとありがたいです」

 

 志貴の言葉を聞き入れ、シエルは朗らかに笑った。

 

 その上品とも言えるような顔つきでちょっと幼く笑う表情は、年上の女性でありながら親しみを感じられた。特に部活や委員会にも参加していない志貴にとっては縦の関係と言うものは構築する機会もない事であり、中高と考えれば実に稀有な事である。故に志貴としては慣れない年上の先輩を相手にするというのは肩肘が張ると言うか身構えざるを得ない事であった。

 

 そして、こうしてシエルと二人っきりの状況になるというのは珍しいことでないだろうかと志貴は気付く。いつもならばここに有彦やさつきがいたはずだが、志貴の記憶を漁ってもシエルとしかいないというのは始めてな事であった。

 

「そうそう、そう言えばなんですが。遠野くんに聞きたいことがありまして」

 

 抹茶は飲み干したのか、ことりと傍らに空となった器をおもむろに置いて、シエルは志貴を見つめた。其処に気負いは無く、実に何気ないような雰囲気でシエルは言う。

 

「遠野くん、昨日は学校をお休みしたんでしたよね?」

「ええ、まあ」

 

 それは昼に話した。だったら、とシエルは前置きし。

 

「原因は何だったんです?」

 

 それは。

 

「詳しくは……俺にも良くわかりません」

 

 言える筈が無い。正確には言っても意味が無いのだ。何故なら到底信じられる話ではないのである。夢に始まり、歪な月の吊るされた夜の虐殺を。だから誤魔化すしかない。

 

「本当に?」

「……」

 

 しかし、そこでシエルはずいっと身を寄せて志貴の瞳を覗き見た。窓から灯される茜色の光がシエルを包み、その表情を打ち消していく。深遠から覘くその瞳は静寂な夜に広がる湖面を思わす。魚も鳥も眠りにつき、水面も動かぬ湖は生命の気配を感じさせない。深く底を見せないその色は怪しく揺らめいて、志貴を捕らえ吸い込んでいく。

 

「……実は、思い当たる事はあるんです」

 

 気付けばその口は、舌は動いていた。舌先は滑らかに言葉を紡いでいく。

 まるで、導かれているかのように。

 

「俺、変な奴に会ったんです。……凄く不気味で、薄気味悪い奴なんですけど、そいつが現われてから変な夢を良く見るようになって……俺はそいつに殺されるんです。反撃はするんですけど、でも殺されるんです。……そのお陰で、あんまり体も良くないっていうか」

 

 一度口を開いてしまえば、もう止まらなかった。不安、憤り、不快感が理不尽を抱いて噴出していく。何故夢で殺されたのか。そして気味の悪い夢を見なければならないのか。夢とはストレスを発散させるために脳が睡眠時に構築する幻の類である。しかし、一連の夢を見始めて志貴の精神は確実に衰弱していた。

 

 シエルは真摯な表情で志貴の話を聞いている。そこに疑念はなく、また不信を抱いているようにも見えない。こんな莫迦らしい話を聞いてもらいながらも、志貴はどこか誰かに聞いてもらいたかったのだろう、と自身に当たりをつけた。

 

「それで、俺そいつとまた会ってしまって」

「……学校を休んだのに、ですか?」

「はい。……我ながら莫迦な事をしたって思ってます。でも、あの時どうしても夢をなんとかしたくて……夢に出た場所に行って。そしたら、そいつと……。……ねえ、先輩。なんで俺は、あんな夢を見なければいけないんでしょうか」

 

 それは何処か懇願の響きに似ていた。せめて理由が欲しかった。理由がわかっていたならば、その理由を見つけて叩き潰す事もできただろう。志貴はもうあの夢に囚われたくないだけだった。夢見悪く、負担になるだけの夢など誰が好んで見るだろう。

 

 それとも、夢の起源たるあの藍色を憎めばよかったのだろうか。不気味に佇み、閃光の如くに闇を散らす〝朔〟を。金属が切れるを走らせるような声音で嘲るあの骨喰を。

 

 確かに理不尽や恐怖は感じる。少なくとも志貴がこのように憔悴する要因の一端はあの存在にあったに違いない。でも、それを憎むのはどうにも実感が遠い。直接的に危害を加えられていないからだろうか。しかし、志貴は一度襲われ、一度見捨てられた。それを考えれば怒りを感じても良い筈なのに――――。

 

「夢とは」

 

 シエルは宥めるように言った。

 

「ひとつの暗示です」

「暗示?」

 

 不可解な言葉に疑問を抱く。

 

「人の夢にはその日の出来事を一度頭の中で整理する機能があります。赤ちゃんは夢を見ることで記憶を整頓するんですけど、その他にも夢には機能があります。遠野くん、予知夢はご存知ですか?」

「……夢で先の事を知る、ってやつですか」

 

 夢は記憶の整理以外に、未来を予想する事も出来る。それが予知夢と呼ばれる夢だ。

 

「はい、遠野くんは物知りですね。人の体は眠っていても活動をしているものですが、脳もそれは同じです。確かにお休みはしてますけど、止まってはいません。それはそうですよね、脳が止まったら〝普通〟は死んでしまう。でも脳は眠りながら動いているんです。それは記憶整合のためだったり、体の調子を整えるためだったり。その能力の中の一つに未来への予想もあります。だから予知夢は脳の働きによるもの、なんですけど時たまに予想という言葉では説明のつかない未来への展開を見せることがあります。それが暗示です」

「……」

「暗示は未来だけではなく、もっと具体的なモノを見通します。一番に上げられるのは危険回避肉体が危機を予見して、それを夢として見せるんです」

 

 人は科学的に言われるのは先祖は猿だったらしく、暗示とはその名残である。本能は夢という機能を働かせて直感的に危険を予測させるのだ。この説明のつかない予測を人は本能と呼び、また第六感と呼んだ。

 

「だから気になるとは言え、それに近づく事はあまり良い事ではありません。そういうのは無視するのが一番です」

「……」

「近づいては、いけないんです」

 

 強く、シエルは言った。確かに気になったとは言え、その原因を探ろうと外出したのは間違いであった。虎穴にいらずんば虎子を得ずとは、得るものがあると確定している時点での話しである。志貴は何も得なかった。何かを得ることも出来ず、あやふやな勘を頼りに危険予測もせずに、誘われるままにあの場所へとたどり着いた。痛感の極みである。

 

 故にシエルの言葉は最もな事だった。折角夢で危険を知らせたというのに自らそれに接近するなど命知らずを通り越した愚者である。

 

「どうですか?少しは、楽になりましたか?」

「……はい。――――話を聞いてくれてありがとう、先輩。ちょっと楽になった気がします」

「それはよかったです。後輩の悩みを聞くのも先輩としての勤めですしね」

 

 だからよかった、とシエルは笑んだ。

 

 しかし、志貴は話を聞いてくれるだけ嬉しかった。受け入れたいと願っていたわけではないが、それでも誰かに話してみるとそれだけで心が軽くなるような気がしたのである。そして思うのである。きっと幽霊を見たと言っても誰にも信じてくれなかったさつきも同じ気持ちだったのだろう、と。

 

 そして志貴の脳裏にはさつきの姿が映し出されて、そこで思い切り良く約束と言う言葉を発するのだった。

 

「でも、遠野くん。なんでこんな時間まで学校に?」

 

 そういえば、とシエルは聞く。

 

「……実は弓塚さんと放課後に会う約束をしていたんですけど、どうやらすっぽかされたみたいで」

 

 頬をかきながら志貴は苦笑した。

 

 振り返ればわかるが、期待するだけ阿呆を見た結果という事なのだろう。そして何を期待していたのかすら未だ志貴は分かっていなかったのだから、ただの笑い話である。

 

 しかし、シエルは笑うでも無く溜め息を漏らすのだった。

「はあ……。遠野くん、弓塚さんは別に約束を破るつもりはありません」

「……なんでシエル先輩がそんな事分かるんです?」

「さあ、なんででしょうね。ただ女の子には色々と準備が必要なんですよ、遠野くんも其処の所わかっていなきゃ駄目ですよ」

「……そうですか」

 

 なんで行き成り説教を受けなければならないのだろう。

 

 しかし、シエルの言ではさつきは未だ約束を守るつもりらしい。何故シエルが知っているのかは不明だが、もしかしたら有彦とさつきが早々にいなくなった事と何か関係が在るのかもしれない。

それが分かっただけでも。

 

「遠野くん、嬉しそうですね」

「え?」

 

 指摘され頬に触れる。指先には、僅かに緩んだ口元の感触があった。確かに、志貴は滲むように嬉しさを噛み締めている。ただ、それを自覚していなかった。

 

 でも何に対する嬉しみなのだろうかと、内心首を傾げた。

 

「本当に、弓塚さんが苦労するのもわかりますね。……彼女にも問題はあるのでしょうけど、鈍いと言うか初心と言いますか、二人共。――――本当に分かってるんですか遠野くん?こういうのは切っ掛けが大事なんですから、それに気付いてあげなければあまりに可哀想過ぎます。男の子だから何て言い訳は許されませんっ」

「は、はあ……」

「少々説教じみちゃいましたね……そろそろ時間も頃合でしょう。有彦くんも何とかしたと思いますし」

「……有彦?」

「あ、遠野くんは知らなくてもいいことですよ」

 

 シエルの視線が窓へと移り、つられる様に志貴は顔を窓へと向ける。

 

 光は未だ明るいが、その空は落ち着きを取り戻したように眩しさは無くなっていた。その茜色は遠くから夜の気配を見せているが、それでも充分に明るい夕暮れであった。

 

「ああ、そうだ。遠野くん、悩める男の子に私から一つプレゼントです」

 

 シエルは唐突に、今しがた思いついたように掌を反対の拳でポンと叩き、その懐から一つ、小さな何かを手渡してきた。それは。

 

「指輪、ですか」

 

 それは古ぼけた指輪だった。金属で作られた指輪で、使い込まれていたのかその表面は削れており、色合いもくすんでいる。良く言えば年代ものに見える装飾品である。

 

「はい。元は私のなんですけど、何とこれを身につけているだけで邪かつ悪いものを追い払う効果が!!」

「……はあ、ありがとうございます」

 

 実に胡散臭かった。一体どういうつもりなのかわからない。しかし、恐らく好意であろうシエルの贈り物を先ほど相談を受けた手前、突っ撥ねる事など志貴に出来ない事だった。

 

「そろそろ弓塚さんが待ってます。彼女の気持ちにしっかり受け止めて下さいね」

「弓塚さんの気持ちって?」

「それは自分で考えましょう。幾らお節介でも、それは私の言う事ではないので」

 

 シエルはニパニパと笑いながら、退出させようと志貴を促す。志貴はシエルが何を言いたいのかよく分からずに、そのまま疑問を抱きながら廊下へと出て行った。

 

 廊下の窓から見える柔らかな茜色の空には次第に夜の色が染み渡っていく。

 

 それは温かさを飲み込んでいくような藍色の空で、まるでナニカの始まりと終わりを告げているかのようだった。

 

 □□□

 

「ハ――――、ハ――――、ハ――――」

 

 彼は夜が好きだった。真っ黒な夜が好きだった。だから夕方が嫌いだった。

 

 狭間の時間とも言うべきその半端な時間はじわじわとまどろむ様な遅さで変化していく。しかも茜色が消えても完全な黒になるのは更に時間が掛かるのである。早く消えてしまえばいい、と幾度願っただろう。そしてその度に願いは叶わず彼は歯噛みした。何故夕暮れはあんなにも目障りなのだと、その消滅を願った。

 

 だが、それと同時に彼は知っていた。

 

 夜の来訪を心待ちにする故に睨み続けた赤き夕暮れ。

 

 地平の彼方へと沈んでいく瞬間に、まるで迸る炎のように輝くその斜陽。

 

 嗚呼、なんて夕陽とは綺麗なのだろう、と。

 

「ハ――――、ハ――――、ハ、ハ――――」

 

 あれはいつの頃だったか、もう覚えていない。彼の記憶は瓦解しており、幽閉される以前の記憶だけが幾つも浮かんでは消えていく。

 

 記憶は彼の最後の財産だった。何もかもを失い、奪われた彼にとって脳の中にある美しき思い出だけが彼を癒し、慰め、そして苛立たせる。

 

 だからしがみついていた。時を経る事で次第に薄れていく思い出を無くしたくなくて、彼は必死に記憶を日々思い出していた。変化無く、暗い地面の底にあったその座敷牢では彼を世話する人間が一人しか訪れず、それ以外に人はいない。

 

 そんな牢に永い間閉じ込められたモノに何が起こるか。

 

 それは精神の死滅であった。

 

 まるで変わりの無い薄暗がりの牢獄。湿気によってこびり付いた黴の臭い。光の差さない密室。そして彼以外に誰もいない、その孤独。

 

 彼の精神は死に掛けていた。

 

 いや、もしかしたら彼は既に死んでいるのかもしれない。

 

 だから、彼が外にいて、夕闇を越える夜のために待っているこの時間は、彼が死んで見ている末期の夢なのかもしれない。

 

 そう思えるほど彼が牢獄に閉じ込められていた時間は、あまりに長かった。

 

 永く、彼を腐らせ、苦しめた。

 

「ハ、ハハ――――、ハ―――。……くひっ、かあ」

 

 頭上を覆う葉の天蓋から差し込む夕陽の光が忌々しく、舌打ちをした。だが、それは光だけではなく、彼の腹をさらしのように巻いた包帯の脇腹から滲む血のせいもあった。

 

 幾程経っても出血が止まらない。裂かれたとは言え、彼の特性を考えるのならば、あまりにおかしな事。既に治って瘡蓋が出来ていても良いだろう。

 

 だが、現に脇腹は完治するどころか、今もなお出血している。

 

 だから、血が足りない。

 

 運搬する心臓を失い、それは更に顕著だった。

 

「はは、は……俺はこの様、か。俺は、こんな様だったか」

 

 低く、自嘲しながらその傷跡を抑えた。僅かに伝わるその湿り気は彼の命を消費している事を明らかにさせている。熱を持っているわけでもないのに熱いと感じるのは、果たして傷が回復しようとしているからなのか、それとも。

 

 そして。

 

「っく――――!」

 

 ぐらりと意識が揺れて、頭痛が始まる。内側から張裂けそうな頭の痛みはまるで衰えを知らず、彼を苛んで止まなかった。

 

「畜生……耐える、そう耐えるんだ」

 

 己へと言い聞かせながら、彼は夕暮れが治まるその時を待ち侘びていた。しかし、それでも無くならない痛みは、彼の精神を衰えさせ、それを彼は耐えていた。

 

「あと、少し。……あと、少しなんだよ。だから……まだ――――」

 

 七夜の首を取るその瞬間。その命を潰すその瞬間までは耐えなければならない。

 

 必ずや、七夜朔を殺す。

 

 そのためには心臓が必要だった。心臓がなければ出血により彼の肉体が持たない。

 

 それが彼の敗北条件だった。そして勝利条件は七夜朔を殺し、秋葉を守ること。その為ならば、如何様な手段でも進んで使おう。彼にとってそれ以外は瑣末でしか無く、価値も無い。ならば躊躇う必要などどこにある。

 

 そのために心臓を調達する。それこそが、彼の――――。

 

「嗚――――呼」

 

 僅かに、人の気配を感じた。それこそ彼の待ち侘びた犠牲者であった。痛む肉体を押さえ込んで、耳を澄まし気配を研げば人数は二人だと分かった。もう力も朽ち果てようとしていた筋肉を無理に動かして、彼は死角である草葉の陰から、その二人を見た。

 

「―――――――――」

「―――――――――」

 

 何かを話している。それが何なのかは分からないが、そもそんなものに興味は無い。

 

 何故なら彼らは人が言うところの憐れな犠牲者で、そして憐れな犠牲者以上の価値など存在しなかった。

 

 そして彼は朧気ながらにどちらが良いかを吟味した。

 

 一人は男。眼鏡をかけている以外に特徴は見えない。

 

 一人は女。ツーサイドに栗色の髪を纏めている。

 

 考える事、数瞬。次の瞬きの内には既に決めていた。

 

「―――――っくか――ッ!!」

 

 震え始めた体を引き絞り、息を潜める事も無く彼は襲い掛かる。筋肉は嬉しいことに彼の命令を受け入れてくれた。軋む関節と圧縮された筋肉。脇腹の鋭い痛みに顔を引き攣らせ、その表情は悪鬼の如くに歪んでいた。

 

 狙いは一人。

 

 古来から、狩りの得物は弱いものを選ぶことが常道なのである。

 

「弓塚さん―――――――――――――――っ!!!!?」

 

 最中、男の悲鳴が夕闇の公園を劈いた。

 

 そして、彼の視界一杯に見える女。

 

 その向こうにある目障りな夕陽は、憎らしいほどに綺麗だった。

 



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第十五話 悪い夢

夕陽に佇む彼女の姿は、何よりも尊く見えた。


 今どきラブレターなんて流行らない。そんなからかいとも取れる有彦の苦笑と共に告げられた制止を受けても、さつきはラブレターを書いた。

 

 言葉にする事は恥ずかしく、そして直接返事を聞くことも怖かった彼女だから、己の気持ちを可愛らしい封筒にしたため、もし勇気が無くて本心を伝えることが出来なかったら、それを渡すつもりだった。

 

 彼女は己を知っていた。弁えていた、と言ってもいいだろう。

 

 ここぞと言う時に限ってタイミングが悪く、それになけなしの勇気をへし折られる事を。

 状況に甘んじる事を良しとし、己が本心を伏せ流れに身を任されるのが実に多い事を。

 

 押しが弱い、とは良く言われたものだった。クラスでも、あるいは今までの人間関係でも控えめであり、寛容だった彼女は自ら率先して自らの意見を通すことは稀だった。それならば大人しいと言う意味で彼女は認識されていたかも知れないが、彼女は何時の間にやら所謂お姉ちゃんポジションを獲得していたのである。我儘を言う事は少なく、更に何処か甘えさせてくれる雰囲気を持ち、大抵の事は甘んじて許す。そんな人柄だからさつきはクラスでも人気が高かった。

 

 しかし、だからこそ押しの弱さはある意味で致命的だった。

 

 何故なら彼女は何か一つのことに対し、一生懸命になる事が出来なかったのである。

 何が何でも譲れぬ己の矜持というものが、それまでの彼女には無かったのである。

 

 それが問題として浮上したことはない。何故ならそれは意識しての問題では無かった。問題にもならぬ問題になど考慮を払う必要も無かったのである。

 

 しかし、それはあの日、寒い冬の出来事で全てが変わった。

 

 遠野志貴。

 

 彼との出会いが、彼女を変えた。

 

 だから彼女は自ら退路を塞いだ。邪魔が無いように、学校の用事も全て終わらした。他の予定も全て断った。何故ならこの時は彼女の全てが込められている。いつだって恋する女の子は後の事を考えない。妥協で恋をするなんて、女としての本懐ではないだろう。

 

 何故なら遠野志貴への想いは彼女が唯一誰にも譲ることの出来ない想いで、たったひとつの矜持なのである。

 

 しかし心を決めて、いざその時になっても。

 彼女はその言葉を、紡ぐことが出来なかった。

 

 □□□

 

 下駄箱に向かうとさつきがいた。校舎を飲み込む茜色に映し出され、彼女は佇むように壁へ寄りかかり、下に俯いている。その表情は影になって志貴には見えなかった。しかし、その雰囲気は決して暗いわけではない。寧ろそれは覚悟を決めた―――。

 

「弓塚さん……」知らず、志貴は声をかけていた。成る丈気軽に。「やあ」

「……あ、遠野くんっ?」

 

 声をかけられてようやく気付いたようで、さつきは反射的に顔を上げた。驚いた表情がやがて後悔か、あるいは罪悪感に塗りつぶされていく。

 

「あ、あのね遠野くん。私、遠野くんとの約束破るなんて、そんな事全く―――だから、その。……ごめんなさい」

「弓塚さん。俺は別に……」

「ううん。あやまりたいから、あやまりたいんだ」

 

 そしてその唇からは謝罪の言葉が紡がれた。志貴の事を直視も出来ない彼女は、ひたすらに顔を伏せて謝り続ける。それをどうにかしたくて、でもどうすればいいのか志貴には分からなかった。しかし、それでも言いたいことがあった。

 

「いいんだよ弓塚さん。俺も気にしてないから……むしろっ」

 

 だから、少々語気を強めて志貴は言う。

 

「弓塚さんが約束を守ってくれたことが、うれしい」

 

 一度はふいにされたと思った。しかし、彼女は約束を守り、自分はここにいてさつきはここにいる。志貴はそれだけで充分だった。それ以上なんて、求めていなかった。だから嬉しかった。

 

「え、え?あ、えと、その」

 

 瞳を真っ直ぐ見つめる志貴の視線に包まれて、さつきは目を白黒とさせながらも恥ずかしそうに「私も、遠野くんが来てくれて、嬉しい」と小さく呟いた。

 

 すると沈黙が舞い降りて、二人は何も言えなくなる。

 

 きっと何かを告げたかったのだろう。でも、その何かが分からずお互いが何かを言いかけているのが見えて、己の言葉をもっていなかった。

 

 妙な雰囲気だった。

 

 校舎に反響する騒々しさはまるで遠く、二人しかいないような感覚。

 

 志貴はさつきを、さつきは志貴を見ている。それ以外は全て雑多なものと成り果てて、それ故に登場する事もない。張り詰めた空気は速さを増した鼓動のせいだろう。熱病のように熱い体はきっと夕陽のせいではない。そして、それが嫌ではなく、むしろ良い。

 

「……それで」包み込む気まずさを振り払うように、志貴は言った。「何の用なのかな」

「……うん。とりあえず、行かない?」暗に学校から離れよう、とさつきは言った。

 

 校舎から一歩足を踏み出すと、赤い光が二人を照らし出した。遠くに沈もうとする夕陽はますますその橙色を強めようとしていて、その様は弾け尽きる寸前の線香花火を思わす。真っ赤な閃光と緋の明かりはこれから先、夜になろうともその輝きを脳裏へと焼き付けるようだった。

 

 コンクリートの道を歩く二人の影は朝よりも長く伸びていく。志貴とさつきは並んで歩いて、それは時折二つに重なりそうになりながら、つかず離れずの距離を保つ。今朝よりも車の数は減っているようで、排気の臭いは気にならなかった。帰宅時間と重なり、いつもならばもう少し多く自動車は走り去っていくはずなのだが、道なりを歩いて歩道橋を越えても道路の車は少なめだった。

 

 それゆえ街の雑踏は耳にも入らず、二人の言葉少なめな会話は実に際立って仕方が無かった。

 

「……弓塚さんは、さ」志貴は言った。「どこに行ってたの?」

「あの、友達に用事があって、それで……」志貴へと申し訳なさそうにさつきは言う。

「いや……だったら良いや」

 

 自身と交わした約束を忘れないでいてくれたと、分かっただけでもそれで良い。そうして志貴は自身を抑えようとしたが、再び訪れるであろう沈黙の緞帳を嫌がった。

 

「その友達って?」

「乾くん」心臓に鉛を当てつけられた感覚を志貴は味わった。

「っ――――そう、か」

 

 普段の志貴ならばきっと聞かなかっただろう。そしてそんな志貴に驚いたのは他でもない志貴自身だった。

 何故自分はそんな事を聞こうとしたのか。それが分からず、しかし志貴はそれを一端流した。そして何故自分が有彦の名を聞いて、重苦しい気持ちを一瞬だけでも感じなければならないのか、と志貴は理不尽を通り越した何かを抱いた。

 

「あ、でも乾くんなんかどうでも良いし、何とも思ってないから!本当だよ!?」

 

 自分は何故、自分は何故。――――頭を振って、思考停止。

 しかしさつきの必死な表情を見て、なんだかそんな自分すらも馬鹿らしく思う。

 

「む、遠野くんどうして笑ってるの?」

 

 彼女の仕草に合わせてツインテールが揺れていく。

 

「んー、弓塚さんが必死だから、つい」

 

 すると余裕が出来たのか、志貴はウインク交じりに言う。そんな志貴の姿にからかわれたと思ったのだろう、さつきは「うー……」と呻ることしか出来なかった。ちょっと顔を赤くし頬を膨らませる姿は小動物を思わせ、愛らしくもあった。

 

 そんな仕草に志貴は更に笑みを深めて――――。

 

 ――――愛らしい?

 

 今自分は愛らしいと思ったか?

 

 一瞬の思考に、志貴は愕然とした。

 

 何故自分はさつきを愛らしいと思った?

 

 美少女だと思う。美人と言うよりも、その姿は愛嬌があって可愛い女性と称するのが正しいだろう。しかし、今まで愛らしいなどと考えた事はなかったはずだ。そう思うのならば今日よりもずっと前から、そう考えていてもおかしくは無いはずなのである。それなのに今、志貴はさつきに対し始めて愛らしいと感じた。それは、何故だ。

 

 志貴はちらりと隣をあるく弓塚の姿を見た。

 

 丸顔で栗色の髪を二つサイドに纏めた少女。その性格や姿からクラスメイトからも人気だと聞く。更に教師からの覚えも良く、それゆえ良く気にかけてもらっているらしい。そしてそれらの全ては彼女の魅力のひとつに過ぎないのだろう。

 

 何故なら彼女から志貴は日向の臭いを感じるからだ。柔らかな風を生み出して、陽だまりの光で包み込む日向の雰囲気、とでも表現するべきだろうか。それは有彦や他のクラスメイトからは明らかに一線を越えた、さつきだけに感じる感覚だった。

 

 だが、ならばその分だけ志貴はさつきを特別に見ていただろうか。

 

 いや、そんな事はなかったはずだ。志貴はさつきをそこまで特別視することは今までなかったはずだ。さつきは良く話すクラスメイトの一人で、それ以上の事は考えなかったはずなのだ。

 

 それが、何時の間にか変わっている。思考の幾分かはさつきのために働いている。いつからさつきを志貴は特別に見るようになった。

 

 胸騒ぎのような感覚が志貴を襲う。それはもやもやとした言葉にしがたい気持ち悪さを志貴の中に生み出して、志貴を支配しようとその勢力を増していく。

 

「ちょっと、ここ寄っていかない、かな」さつきは指さししながら言った。

 

 入り込んだのは良く側を通る、開けた公園だった。

 

 この公園は滑り台やブランコなど、ある程度の遊具が備えられた公園であり、しかし公園の広さからは少々遊具の数が物足りず、認識としては自然公園と考えたほうがしっくりくる。だからなのかもしれないが、この公園はデートスポットとして少し名が知られていた。

 

 時は随分と遅くなりつつあるゆえ、人気は疎らどころか殆ど見えず、学校帰りの小学生の姿も見えない。夕陽はいよいよ沈み往くのか、その姿は不思議な形に歪み、丸い形が押しつぶされた蜜柑のような姿へと変わり、この空から消えていく瞬間を惜しんでいた。

 

 それでも夜はいずれ訪れる。どうしようもないほどに。

 

 公園に入り二人は無言だった。遊具が疎らに配置された園内を連れ立つように歩いていくが、話題は上がらず、互いを探るような気配が漂っている。尤も、それは疑いからではない。それは寧ろ互いの距離を探り合う少年少女そのままであった。

 

 志貴は二人を包む雰囲気にやきもきする。自身の内側にある言いようの無い感覚を持て余しながらも、さつきに何か言いたかったような気がする。何か、言葉をかけてもらいたい気がする。さつきは何を考えているかも分からない。ただその口元はもごもごと動いていて――――。

 

「遠野、くん」

 

 その声は、ある意味慄然としていたかもしれない。

 さつきは立ち止まり、志貴を見つめた。

 

 その瞳の色は不安そうに揺れているが、それでもその意志の強さは光を放つかのようで、まるで燃えているかのようだった。

 

 きっと夕日が綺麗だったからだろう。彼女はこの時ひとつの光となったのだ。地平線の彼方へとゆっくりとその身を横たえようとする太陽の柔らかな斜陽は、さつきを優しく抱きしめて温かな陽だまりの匂いがする眩い光へと変えていったのだと、さつきの姿を見ながら志貴はそんな風に思った。

 

「何?弓塚さん」

 

 なるべく心臓の鼓動を抑えようと、志貴は何故かはやる胸のうちを憎く思った。しかし、そうせざるを得ないほどに心臓が熱い。何故なら夕陽に包まれたさつきの姿は眩く、本当に綺麗だったからだ。そして、まただと思った。自分はさつきを綺麗だと思っている。まるでその姿に視線や思考を心奪われている。

 

 何故だろう。いつからこんな、自分は――――。

 

「あのね………お礼を、言おうと思って」

「お礼?」

「うん。…………あの時の事」さつきは言う。「男の人に襲われた時のこと」

 

 そこで志貴はさつきが何を言いたいのか判別した。

 まだ、この人は。

 

「弓塚さん……あの事はもう」

 

 忘れたほうが良い。辛い記憶は思い出さない方が良い。

 今朝と変わらぬその言葉。そう、告げようとして。

 

「良くない」さつきは遮るように言う。「私は、良くない」

「……どうして?」

「どうしてなんだろうね。……私は、あのことを全部忘れちゃうなんてきっと出来ないし、忘れたくないって。だから、私は良くないって思うんだ」

「……」志貴はもう何も言えなくなった。

「おかしい、よね。あんな事を忘れたくないなんて。……でも、あれが」

「……」

「――――あれがなかったら、私はこうして遠野くんの前にいなかったかもしれない。もしあの時あの事がなかったら、もし遠野くんがいなかったら、もし、誰も守ってくれなかったら。……きっと私、死んじゃってたかもしれない」

「……でも、もう終わった事なんだから」

 

 全ては『もしも』の話し。今となっては訪れる事の無い仮定の話だ。そうして切り捨てようとする志貴の言は否と打ち破られた。

 

「ううん」しかし、さつきは首を振る。「それじゃ、駄目」

「駄目?」

「うん。……その『もし』がなかったから、私はここにいるの。『あの』時『あそこ』で『遠野くん』が『私』を『守ってくれた』から、ここにいて、こうやって遠野くんとお喋りもできる」

「……買い被りだよ。あの時、俺は」

 

 さつきを守った、というのは結果論に過ぎない。何故なら志貴はあの時さつきを守るためにいた訳ではないのだ。それどころか朔に呑まれないため、彼は己の意思を繋ぎとめることに必死で、あの瞬間さつきは思考を過ぎる刹那の残像に過ぎなかった。

 

「弓塚さんを守ろうだなんて、思ってもいなかった」

「……違うよ、遠野くん。だって、私は」

「違わない。本当に、違わないんだ」さつきの言を遮り、志貴は力なく言う。

「……俺は、弓塚さんが言うような高尚な人間じゃない。だって俺はあの時、自分の事にいっぱいいっぱいで、弓塚さんを守るどころか怖くて逃げ出そうとしてたんだ」

 

 人が恐怖と対峙するとき、皆一様に取りえる手段とは逃走である。

 

 恐怖の感情を拭い去ることは実に困難で、それが生命の危機と直結するならば尚更だ。生命の危機を感じ取れぬ者ほど早くその命を潰す。

 

 ならばそれは生命にとっては正しい選択。一個の生きる存在ならば、どれだけ臆病と罵られ、例えそのために生き恥を晒しても、逃走とは真実正しき行動なのである。

 

 しかし、それは群集として生きる者であるならば、侮蔑される行為に等しい。なぜならば、己の保全を唯一とし大手を振って逃げる事は、他の命を見捨てるということだった。

 

「だから、俺は駄目な奴なんだ。……弓塚さんの思うような奴じゃない。まるで下らない、度し難い人間なんだ……だから弓塚さん、俺は――――」

「違うっ!!!!」

 

 その声音は鋭く夕暮れの公園を切り裂いた。茜を纏いながら突き抜ける声音は志貴の自虐を踏み潰して、さつきは志貴を睨む。目じりに感情の高ぶりによる雫さえ乗せながら。

 

「遠野くんは駄目な人なんかじゃない!」

 

 強く、強く、まるで太陽のような強さでさつきは叫んぶ。

 

「だって遠野くんはいつも私を助けてくれた!死ぬかもしれなかった私を救ってくれた!あの時も、あの時も!だから違う、全然違うよ!!遠野くんが駄目だったら、私はここにいない、きっと何処にもいない!!」

 

 全てはIF。起こりうる可能性を秘めた幾重もの枝の末端である。

 

 しかしその全ては起こらず、時は漫然と流れて志貴は生きている。さつきは生きている。それで良し。それで良いんだと、さつきは言った。

 

「遠野くん、覚えてる?中学二年の冬の日、私あの時も遠野くんに助けてもらってたんだよ」

「え?」

 

 さつきは意を決した顔つきで胸に両手を翳し、恥ずかしげに横を向く。その視線の先には燃え上がるような夕陽の輝きが見えていた。

 

 □□□

 

 それは、三年前のとある冬の事だった。

 

 外でなくても息が白くなるような気温の中で、当時バトミントン部の部員だった彼女は一度自身の死を予感したことがある。

 

 放課後の事だった。

 

 部活動が終了し後輩や先輩の少女らと共にラケット等を体育倉庫に戻しに行った時、運悪く倉庫の扉が開かなくなり、さつき達は倉庫内に閉じ込められた。扉の立て付けが悪いとは前々から聞いていたけれど、まさか閉じ込められる破目になるとは誰も予想だにしなかった。

 

 しかし、まだその時彼女達は事態を楽観視していたのである。

 

 きっと時間が経てば扉は元に戻る。

 異変を感じた誰かが、あるいは教師が様子を見に来る。

 

 そう考えて、彼女達はその時が来るのを待っていた。あまつさえ初めての体験に少々の興奮を抱き、その状況に楽しささえその時はまだ感じていた。

 

 さつきもまたその一人だった。状況を楽しんではいないが、甘く見ていたのは事実であり、彼女は取り合えず後輩の面倒を見、先輩の動向を伺っていた。

 

 そうして、刻々と時は経った。

 

 誰も助けに来てくれない。状況が一変しない。待てど暮らせど、閉ざされた扉は沈黙していた。

 そして、少女達に燻っていた不安が爆発した。

 

 まず、動き始めたのは後輩たちだった。彼女らは一年前まで小学生だった身でもあり、このように閉じ込められる経験など皆無であり、また長い時間不安に晒される事など無かった彼女達は始め我慢していた。しかし、限界が来たのだろう。瞳から大粒の涙を流してすすり泣き始めた。さつきもそれに釣られ泣きそうになったけれど、彼女達を少しでも宥めようと、言葉を言い聞かせた。きっと助けが来る、それまで我慢だ。

 

 だが、それを見ていた先輩が叫び声を上げながら、金属バットを一心不乱に扉へと叩きつけ始めたのを切っ掛けにその場は落ち着きを失った。先輩は自分よりも年下がいる手前、自らが何とかしようとしたのであるが、それと共に泣き始めた後輩に苛立ちを感じたのも事実。それゆえ先輩はバットを振り翳した。

 

 ガン、ガン、ガン、ガン。

 

 甲高い金属の悲鳴が無秩序に狭い倉庫の中へ響いた。

 

 後輩たちはその騒音に不安を増幅させ、さらに涙を流す。そして自らが何をやっても何も変わらないと思い知った先輩も泣き始めた。

 

 そんな中でさつきもその瞳に涙を滲ませながら、後輩達の側を離れなかった。彼女がそこまで取り乱さなかったのは、恐らく他に取り乱した人間がいるからだろうが、しかし現状に対し絶望を感じ始めていたのも事実である。

 

 何でこんな目に合わなくてはならないのか。何で誰も助けに来てくれないのか。

 

 理不尽を感じながら、彼女は次第に冷たくなっていく自身の体を擦り、このまま自分は凍死するのではないか、と恐怖を抱いた、まさにその時だった。

 

『誰かいるの?』

 

 その声が、倉庫の外から聞こえたのである。

 

 そして、重苦しく沈黙を守り続けた扉が、いくら動かそうとも動かなかった目の前の扉が、動いた。

 

 そこにいたのは、子犬を思わす眼鏡をかけた少年――――。

 

 □□□

 

「それが遠野くん……、覚えてる遠野くん?あの時のこと」

「――――ああ」

 

 記憶の一部、特に思い出にはならないが、しかしあの時のことを志貴は深く覚えていた。

 

 中学生だった志貴が、倉庫に閉じ込められた少女達を解放したあの出来事を。

 

 その後倉庫は問題が発覚し改装を行ったが、志貴にとってそれはどうでもいい事だった。

 

 ただ、あの時志貴は少女たちを助けただけで、それ以上の事はしなかった。学校側から表彰を受けたわけでもないし、少女達からは感謝の言葉を幾つか貰ったが、それも気付けば忘れ去られた。志貴自身、自らが彼女達を救ったのだという自覚も持っていなかった。それゆえに誰かに言うような事もしなかった。

 

 それでも、あの出来事を覚えている。思い出としてでは無く、記憶に深く。

 

 何故ならあの時、志貴は視界に見える線をなぞって、扉の引っ掛かっている部分を裂いたのである。

 

 志貴の目に見える線をなぞれば何でも切れてしまう。それがどの様な物質で構成されようと関係なく、志貴の目は切れる部分を映し出す。それを志貴は酷く悩んでいる。それは確かに便利と受け取る事のできるものなのかもしれない。切れないものが切れるとは、悪用すればきっとあらゆる事が可能だ。

 

 しかし志貴はそうではなかった。己が見える世界の亀裂を直視することが出来なかった。

 

 その線を見るたびに志貴は酷い吐き気と嫌悪感を覚え、今は〝先生〟から貰った眼鏡をかけて線を見失っている。そうでなければ、志貴は生きていく事さえ出来なかった。

 

 だから、あの出来事は覚えている。

 

 何でも切れる物や生命悉く、線をなぞれば切断出来てしまう。

 

 それを志貴は悪い事だと、使用することさえ憚る物だと思っている。

 

 だからだろう。

 

 そんな目を使って、志貴は誰かを救ったという事実を、彼はずっと覚えていた。

 

 しかし、さつきがその内の一人だと、志貴は知らなかった。

 

「――――覚えてる」

 

 それが意味する事を志貴は思い知る。

 

 何ということだろう。

 

 遠野志貴は、弓塚さつきを二回も救っていたなんて。

 

「だから、だから……そんな悲しいこと、言わないで。私は、あの時遠野くんがいなかったら、私、私。……だから、遠野くんは駄目なんかじゃないんだ。……寧ろ、私の方が全然駄目だよ……いつも遠野くんに迷惑かけて――――」

「それは違うっ!」

 

 反射的に、志貴は叫んだ。

 

「そんなこと、ないんだ。俺は弓塚さんが生きていてくれて嬉しい。あの時、弓塚さんが怪我をしたって考えるだけでもゾッとする。それに俺は弓塚さんがいてくれて、本当に嬉しかったんだ……迷惑だなんて、一度も思ったこと無い!」

 

 辛いはずなのに、憔悴しながらも心配してくれた。

 

 電話までくれた。学校に行こう、と。あの約束を胸に、志貴はあの夜を乗り越えた。血生臭い闇の虐殺を乗り越え、歪な月が照らす化け物の殺し合いから。

 

 だから、本当に感謝している。

 どれほどその存在が彼を支えたのか、志貴は切に知っていた。

 

「でも」それでも、と志貴は唇を噛み締める。「俺は……」

 

 決して穏やかではない風が一陣吹き荒ぶ。

 

 何処かへと流れていく風は一体何を運んでいるのか。きっと風は風のままで、それ以外のものなど運んではない。それは風の意志ではない。運ばれるモノの意志。一瞬を過ぎる風にその身を、運命を任せて何処かへと飛び立っていく。

 

 夕陽の中で二人は立ち竦んでいた。公園には二人の他に誰もおらず、影は混ざらない。そしてそれ以上の距離を詰める事は出来なかった。その距離、大また五歩ぐらいの距離を縮めるためには、二人はあまりに若かった。

 

 しかし、その彼岸に佇む二人だからこそ、その視線はひたすらに互いを見つめていた。互いを見つめ、その瞳に映し出している。

 

 そして沈黙を突き破るように、軽やかな笑い声が聞こえた。

 

「ふふ」それはさつきの口元から聞こえる。嘲りも、蔑みもない、笑い声だった。

「遠野くんって、意外に頑固なんだね」

「……それを言うなら、弓塚さんだって」

 

 互いに譲らず、話は平行線を辿っていくのみ。妥協を知らないのではない。相手を砕こうだなんて考慮すらしていない。

 

 ただ、言いたいことがあった。

 

「うん、わかった。今は、それでいいよ」さつきは言った。「遠野くんが駄目な人で、いい」

 

 その声音に気負いは無く、志貴を揶揄する響きも聞こえない。

 今は別にそれでもいい。でもこれから先は、わからない。

 

「だから、そんな駄目な遠野くんに言うね」

 

 例えようも無いほどに澄んだその瞳を微笑みに湛えて、彼女は言った。

 今にも沈もうとしている夕陽の一瞬迸る緋色の光に包まれながら、彼女は笑った。

 

「私を守ってくれて、ありがとう」

 

 私を助けてくれて、ありがとう。

 私を救ってくれて、ありがとう。

 

 万感の想いを願いのように込めながら、さつきは言った。

 

 そして。

 

 ――――その姿に、志貴は分かった。

 

 やっと、どうしようもなく巡りが悪く、鈍感だと言われ続けた遠野志貴ではあるが、ようやく己を理解した。己の内側に騒がしく居座る感情の正体を。

 

「――――ああ、そうか」

 

 そうだった。全ては、あの時に始まった。

 

 あの場面から、これは始まったのだ。

 

 この胸の高鳴りは、体の火照り。視線や、思考も全部彼女一人に向けられている。何とはなしに、彼女の仕草が気になったのも、授業中に思わず彼女を見つめたのも。約束を果たそうとしたのも、全部、全部。

 

 嗚呼、何で気付かなかったのだろう。

 自分はあの時から、弓塚さつきから目が離せなかった。

 

「……遠野くん」

 

 さつきの瞳は真っ直ぐに志貴を見つめている。その視線に志貴は囚われた。

 その黒色の奥に輝く情熱に済まされたその瞳の色は、いよいよ最上の高まりを見せた。

 

 そして。

「私は遠野くんが―――――」

 

 瞬間。

 

 ――――朱色が、志貴の頬を濡らした。

 

「―――――――あ」

 

 その声は、悲しいほどに良く聞こえた。

 

 何故なら、その声は志貴とさつきから零れた吐息にも似た声音が重なったからだった。

 

 それは、仕方の無い事だったのかも知れない。

 

 きっと、誰もこんな事、望んだりはしなかった。

 

 唐突に巻き起こる事象は人の予想を超える。

 

 だから人は神を崇め、運命を呪い、己を憐れんだ。人の力では変えることの出来ない未来と、現在、そして起こった過去を生み出した元凶のために祈りを捧げ、憎んで尊んだ。

 

 しかし、それは今確かに二人に起こった。

 

「―――――」

 

 赤かった。吐き気がもよおすほど紅かった。そして紅いものは緋色の夕暮れに映えて更に艶かしく寒気すら覚える。茜の光に包まれて、それはその張りのある柔らかな表面をてらてらと光らせて、まるで生きているかのようですらあった。

 

「あ、ああ―――――」

 

 いや、それは生きている。

 どくんどくん、と脈動を繰り返して動くそれはまさに生きていた。

 生きて、生きて、まだ生きていた。

 

「あ、……れ―――――?」

 

 不思議そうに、それを見つめたさつきの咽喉を遡り、赤い液体がその口内から吹き零れる。僅かな量でしかないそれは、しかしそれでも鮮烈に紅くその存在を示しだし。

 

 ――――彼女の胸元から突き出る心臓に、ぽたりと、かかった。

 

「弓塚さん――――――――――――――――っっっっ!!!!?」

 

 絶叫が迸る。咽喉を破らんばかりに罅割れるその大音声は、きっと感情なんて宿っていなかった。あるのは測る事も出来ない衝撃と、衝動のみ。それが志貴の声を借りて鳴り、その体を動かした。

 

「あ、ぁ……」

 

 恐ろしいまでに早く動いた志貴の体は瞬きの内に彼女の元へとたどり着いた。だがそれよりも早く彼女を貫いていた腕が引き抜かれ、彼女の心臓を抜き取っていく。突き刺されていた腕を失い。彼女の体は力無く倒れ伏せようとし、その身を志貴が抱きしめた。

 

 ――――そして志貴は、始めてその存在に気付く。

 

「っか―――かぁ―っっ!」

 

 その男は、いつの間にやらそこにいた。

 

 和装の男である。目が覚めるようにくすんだ白髪の男。その表情は醜く歪み、この世の醜悪を全て身に受けたかのよう。あまりに引き攣ったその顔からは、元の顔がどのような顔つきなのかすら想像できない。

 

 さつきの心臓を奪って、その男は身を強ばらせていた。低く引き攣ったその声はやがて。

 

「―――っはははははははははははっはははははははははっはははははははかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかあぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃがあっ!!!!」

 

 笑い声へと変貌を遂げた。

 

「ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ――――――っ!!!!」

 

 いや、それは果たして笑い声なのだろうか。

 

 笑い声にしてはあまりに禍々しく、狂ったように紡がれるその音を、笑みと称すには醜すぎる。空を落とさんと吼え立てる獣の如き遠吠えとした方が、よっぽどらしい。

 

 だが、志貴は知らない。

 この世にはこびる邪悪の限りを未だ知らずに生きてきた志貴には。

 度を過ぎた悪意は何よりも純粋なモノである事を、志貴は知らなかった。

 

「――――っ、手に入れた手に入れたぞ俺は!嗚呼、なんだなんだこんなにもあっさりと手に入るのか、これが、これが!嗚呼、嗚呼!俺は今この時に遂に手に入れたっ!!」

 

 振り翳された心臓に残された多量の血が男を真紅に染め上げた。その男は興奮状態に鼻息も荒く、まくし立てるような叫び声と共に、恐らくはそんな言葉を吐き捨てた。それはあまりに罅割れており、声門を正常に働かせていないのは明確であった。

 

 だが、志貴にとってはそんな事はどうでもいい。

 

 何か良く分からないものが、そこにいる。それだけで、今は充分だった。

 それ以上に、もっと大切なことがあった。

 

「………………ゆ、ゆみづか、さん」

 

 志貴の腕の中にいるさつきは、何処か呆けるように志貴を見上げていた。

 

「―――――とおの、くん?」

 

「い、あ、待ってて、今……医者、を」

 

 感情を制御できずに、意味も無いことを志貴は口走る。意味とは結果を成した後に生まれるものである。過程においても意味は生まれるかもしれないが、見え透いた事に対し意味など生まれはしない。

 

 何故なら、志貴は既に理解してしまっていたのである。医学に対する知識が人並みでしかない志貴であろうとも、それは明確だった。

 

 さつきの傷は、致命傷だった。

 胸の中心に赤い華があった。そこから吹き零れる鮮血の泉から、突き抜けた拍子に折られた骨の断片と、びくびくと痙攣する肺が見える。

 

「――――――ゆ、ゆみづかさんっ。ああ、ああ……血、血を止めない、と……っ」

 

 それでも認めなくて、志貴はさつきの胸の中心に空けられた風穴を塞ごうと手を翳す。しかしそれでは止血など不可能であろうと恐慌状態に陥りながらも理解し、自身が身につける制服の上を破るように脱ぎ捨てて、それを押し当てた。

 

 硬い化学繊維で編まれた詰襟の学生服は治療用具には向いていない。柔らかな布で止血は可能だろうが、硬い材質の布は人体には不向きであると言える。それを証明するように、さつきの胸へと押し当てた群青色の制服からは夥しい量の出血が滲むように噴出してくる。志貴は自身を染め上げるさつきの血に愕然としながらもそれを止めなかった。

 

 時間が足りない。

 間に合わない。

 

「ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ―――――あっ!!これで間に合う!俺は七夜を殺せる!!待ってろ、もう一度!もう一度だ!!雌伏の時はもう終わったぞ!!」

 

 歓喜の言葉と共に、男は握りしめていた心臓を自身の胸へと押し潰すようにあてた。

 

 ――――うじゅる、うじゅると。

 

 生理的に嫌悪感をそそらせる音が聞こえた。

 

 それは耳を侵すような水気のある音で、ふと視線を男に向ければ、その手にあるさつきの心臓がゆっくりと男の胸の中へと馴染むように収められていく。筋肉や骨と溶け合うような状態で心臓は微弱な痙攣を繰り返し、引き千切られた血管から血流を零しながら、遂には完全にその姿を消失させた。

 

 残されたのは男の肌に付着していたさつきの血のみ、心臓は跡形も無い。

 

「――――――っ」

 

 その光景に、かける言葉など志貴には存在しなかった。

 

 唐突に訪れる人為的な惨劇は見方を変えてみれば天災だった。

 

 時を置き去りに展開される悲劇は歯止めが利かず、防ぐ事もできない。ならば、言葉など出てくるはずも無い。あまりに想像を超えた現実に人の意思はその機能を解離させてしまうのだ。

 

 ――――それでも状況は展開される。被害者を残したままに。

 

「―――――ぁぁぁぁぁあああ」

 

 遠く、その声は感情が高ぶる志貴であろうとも耳に届いた。

 呻り音と共に、豪放が射出された。

 

「はあああああああああああああ―――――っ!!!!」

 

 何処からとも無く聞こえる咆哮。

 ――――西日の緋色を切り裂いて飛来する鋼の弾丸に空気が泣き声を上げた。

 

 それは哄笑を撒き散らす男のモノとは異なる、戦意に満ちた熱砂の如き声音であった。

 

「―――――うごぉっっっっ!?」

 

 鈍い音がくぐもりながら男の肉体に襲いかかった。

 

 それは西洋剣のようであった。反り身なき刀身と直角に伸びる柄。それはまるで十字架のような剣だった。

 突き抜けた個所は三点。咽喉を穿ち、腹を貫いて額に突きたてられた。骨の有無など関係なく、肉を抉りながら真っ直ぐに刺さったその瞬間、衝撃に吹き飛ばされた男はごろごろと勢いのままに転がされていった。無様に転がり勢いは留まることを知らず、男をゆうに公園の端まで吹き飛ばしていった。

 

 そして、その女はコンクリートを叩いて影を置き去りに、獲物を狙って昂ぶる猛禽のように志貴の目の前へと現われた。

 

 翻るプリーツスカート。柔らかな色合いのサマーセーター。

 

 青っぽい黒髪は夕陽に合わさってその色合いを更に濃く、斜陽を反射する眼鏡の奥へと隠された瞳に、剣呑と鬱屈を混ぜ合わせた仄暗き闇の底を顕現させながら。

 

「――――――せ、……せん、ぱい」

 

 ――――シエルは獰猛にその両手を広げた。

 

 その指先に挟まれた、今しがた男を刺し殺した西洋剣は両手に計六本。

 

 さつきを抱きしめながら呆然と呟く志貴の目からは、剣を構えるシエルの後姿は翼を広げる鳥のように見えた。

 

 何故、シエルがここにいる。

 

 志貴の思考はもう役には立たない。目まぐるしく変化を遂げる現状に志貴の考察機能は焼ききれる寸前であった。ただそれで何かが起こり、何かが変わろうとしていく。

 

 しかし、その背中に志貴は何故だろう。

 

 ――――いつかの記憶にある、遠い背中を重ね合わせた。

 

 刃先に光が冷たく宿る。温かな夕陽を浴びて鋼の羽毛は無慈悲に輝いた。

 

 シエルの腕がしなり、羽ばたきの如くに腕を振り下ろせば、獲物を捕らえんと鉤爪は尚も倒れ付したままの男へと撃たれた。

 

 轟音を掻き鳴らしながら向かっていく刃は男の首を頭部を心臓を寸分違わず狙い澄まし。

 

 肉体へと食い込もうとした刹那、男の姿は掻き消えた。

 

「――――っく!!」

 

 奥歯を噛み砕かんばかりにシエルは顔を歪ませ、煮え滾る苛立ちをそのままにそれを見やれば、男は先ほどまでとは違う場所に佇み。

 

 ――――かわされた剣の弾丸が硬いアスファルトを粉砕し着弾する。

 

 衝撃に木々が揺れて、その葉を撒き散らした。不自然な風によって揺られた木々は何処か不気味で、影が増すその夕暮れに剣が直立するその光景は死者を弔う墓場のようですらあり、それはこの先の未来を暗示させていた。

 

「いてえ――――、いてえなあ」

 

 そして驚くべきことに、その咽喉を突き刺して前頭葉どころか大脳まで切り裂かれたはずの男は明確な意思を持って言葉を発した。だが、俯き加減に聞こえるその声は痛みに苦しむ人間のか弱き悲鳴ではない。

 

「はははっ!全くもって痛えじゃねか、ええ?おい!?」

 

 笑い声。咽喉仏を砕いた刃など関係ないと言わんばかりに男は愉悦に満たされた嘲笑を浮かべた。

ごり、ごり、と鈍い音が公園の閑散とする空間に染み渡る。

 

 男の手が、先ほどまでさつきの心臓を握りしめた掌が、殺意を持って突きたてられた鋼鉄の弾丸を握りしめ、穿る様に抜き取っていく。

 

「――――見つけましたよ、吸血鬼」

 

 低く、地鳴りのようにシエルは言葉を呟いた。

 

 その無理矢理戦慄と激情を押さえ込もうとして失敗した声音は、おぞましく歪んで聞こえる。しかしそんな怨嗟の如き言葉を受けても男は愉快に笑んでいた。

 

「おいおい、おいおいおい。俺が吸血鬼?何を言ってやがる、俺はそんな度し難い獣じゃない!血を血として食料にする低俗な俗物なんぞと同じにすんな!」

 

「……所詮、言葉は通じませんか。――――ならば吸血鬼、塵のように滅びなさいっ!!」

 

 始めから何も期待していなかったと、シエルは蔑みの視線を隠す事もせずに殺意にねめつけた。

 

 吠え立てられた獣の意志は閃光と共に戦闘を開始させようと、肉体を限界にまで引き絞らせる。極度に圧縮された筋肉は爆発にも似た運動エネルギーを生み出し、男の存在を抹殺せんと解放を訴えた。

 

 だが、それは叶わない。

 

「――――っは!お前なんぞに興味ねえよ!」

 

 罵倒の言葉を置き去りに、男はその身を屈めて走り出す。

 

 それの選択は対峙ではなく、逃走。

 

 男は跳ね上がってシエルが追いかけるよりも尚早く、夕闇の紅蓮へと飛び込んだ。その先には闇より濃い藍の空。仄暗い影の底に、その背中は消え去ろうとしていた。

 

 追跡すれば、きっとまだ間にあう。粉塵を巻き上げながら逃走しているのである、既に公園からは遥か遠ざかっているだろう。だが過信ではなく確信でもってシエルは己の力量から相手の追跡を可能としていた。しかしその行動の選択は、シエルは自身の裏切りを肯定する事であった。

 

「遠野くん!!弓塚さんは!?」

 

 敵対生命がいなくなりシエルが慌てながら近づいてくるのを、志貴は感じた。

 

 見たのではないし、その足音を聞いたわけでもない。彼はその感覚でもってシエルの接近と、その焦燥を感じたのである。

 

 だが、気を払う事など到底不可能であった。何故なら志貴は体験したのだ。

 その手を握りしめるさつきの指先が、次第に冷たくなっていくその瞬間を。

 

「――――、ああ、とおの、くん」

「ゆ、ゆみづかさんっ。喋っちゃ駄目だ、まだ大丈夫、大丈夫だから今は―――」

 

 そこから先の言葉が出なくて、それでも何かを言おうと志貴は震える自身を抑えることも出来ずに口を開こうとするが、さつきはゆるゆると首を振った。それは眠りにつく小鳥の身震いによく似ていた。

 

「なんだか、よく見えないよ……かすんで、くらくて。……とおの、くん。どこにいるの……さむい……さむいよ」

 

 さつきの指先をいくら握りしめようとも、さつきには届かない。

 

 志貴はひたすらに強く、離さないままその掌を自身の頬へと当てた。

 

 さつきの体は次第に冷たくなっていく。生命の源である血はもうその勢いが修まりつつあった。それが流す血も無くなりつつある事だと、志貴は気付かなかった。

 

「おれは、ここにいる――――ここにいるよ、弓塚さん」

 

 吐く息の音すらも煩わしかった。さつき以外の全ては遂に雑多なものと成り果てて、自身すらも志貴は切り捨てた。この瞬間に志貴自分よりも大切なモノがあると、心から理解した。

 

「――――とおの、……くん?」

「弓塚さん……」

「――――こんなに、近くにいたんだね……始めてだ――――」

 

 さつきに瞳はどこまでも澄み切っていた。

 

 夕陽の明かりを照らし、混濁の映らぬ儚き瞳は真っ直ぐに志貴だけを見つめて、その形を微かに笑みへと変えていった。雫が流れ、彼女の頬を伝っていく。

 

「とおのくん……あったかいね――――――――」

「――――あ」

 

 それに気付いた時には、もう遅かった。

 

 志貴の精神はさつきのみに集約されて、際限なく彼女を見つめ続けた。穏やかな表情を見せながら、眠るように呼吸を静かに沈ませていくさつきの姿。綺麗な瞳のままでありながら、そこに輝きは見えない。それに志貴はどうしようもなく囚われて仕方が無かった。

 

「―――――――、――――――!?」

 

 だから、その肩を強引に引っ張られてさつきから離されようとも志貴はその瞬間まで、ずっとさつきの姿を見続けた。

 

 そして視界はやがて暗闇に覆われて、やがて消えていく。

 

 眠るように意識は見失い。明かりはその灯火を消した。

 

 けれども先の見えぬ闇の中であろうとも、志貴の眼差しの向こうに、さつきはいた。

 

 □□□

 

『わたしは遠野くんが好きです』

 

 短いけれど、精一杯の気持ちを伝えたかった。

 

 本当は大好きと書きたかったし、付き合ってくださいと続きに加えたかった。しかし今はこれが精一杯。更に書き加えるのは恥ずかしいし、あこぎな感じがする。だから、さつきはこれ以上を望むべくも無かった。

 

 実はこんな短い文章を書くために何枚もの手紙を駄目にした。

 

 幾度と無く文章を書こうとしては、それを瞬時の内にこうではないと消して、終いには手紙のほうが草臥れてみすぼらしい姿となった。それに困って友人に幾つか譲ってもらい、再び書き直した。その工程を繰り返し、書きあがった文章はこんなに短いものだった。

 

 昼休みの内に書いて、本当はもっと時間をかけたかったと思い、その手紙を失くさない様にと大事に仕舞っておきながらも、なんで自分は手紙を書いているのだろうとさつきはふと我に返った。

 

 自分はお礼を言いたかったはずなのに、なんで告白をしようとしているのか。

 

 さつきは思わず赤面しながらも、自分の正しさを何となく信じることにした。

 

 さつきは臆病だ。思い立ってもなかなか実行に移せない。それは臆病と言うよりも優柔不断と評するべきなのかもしれないが、幾度と無く志貴と近づく機会を得ながらも結局話しかけることすら出来ない自身をさつきは臆病と揶揄する。

 

 だから、ここ数日は凄い事だと驚いている。

 

 突如として巻き起こった出来事を切っ掛けに何だか志貴との距離が狭まっているように感じているのだ。これは凄い事である。何故ならさつきが志貴と仲良くなろうと頑張っても彼との距離が近くなる事は無く、寧ろ遠ざかっているのではないかと思っていた。

 

 それなのに、今はそれが無くなっている、気がする。かなり二人の距離は近いのではないだろうか、と思う。誰かに否定されようなら、やっぱりそうだよね、と流されてしまいそうな思考ではあるが、しかし否定はされない。友人にもそれとなくこんな気持ちを伝えれば『構わない。存分にやれ』と背中を押された。

 

 遠野志貴との距離は縮まった。精神的な変化によってそう思えるようになった。だが、それでも告白する理由にはならない。

 

 ならば、何故だろう。

 

「うーん……」

「さっちん、どったの?」

 

 別の場所で手紙を書き終えて昼休み中に教室へと戻ってきたさつきは机に座りながら悩んでいたとき、クラスメイトに気付かれそれとなく聞かれた。

 

「ううん、なんでもないよ」

 

 しかし、こんな気持ちをおいそれと言えるほどさつきは明け透けな人間ではなかった。恋愛話は女の子の嗜みであるが、少なくともおいそれと言えるような事ではないである。

 

「そう?なんかさっちん元気無えよーに見えたんだけどさあ、まだ調子悪い系?」

「心配してくれたんだ。もう平気だよ、」

「むむ、ここはツンデレぽく『し、心配なんかしてないんだからねっ』とでも言っておくべきか……っ!」

「えーっと……」

 

 返す言葉もないさつきだった。しかしこのクラスメイト、なんだかキャラが濃い。

 

「ま、あたしは安心しましたよ。ええ、心配しましたけどそれが何か?」

「何で逆切れ状態?」

 

「だって、理由なんてないもの」

 

「……え?」

 

 すとん、とさつきの中へその言葉は落ち着いた。

 

「え、て。何かあたし変な事言いました?クラスメイトを心配するのに理由なんていらないでしょーが。そもそも理由なんて求めちゃメーよ。理由なんてイラネ。それともさっちんは理由が無いと生きられない人?」

「そ、そんなことないけど……」

「うん、だったらよろしネ」

 

 そう一方的に告げてクラスメイトはさつきの側から離れていった。と言うか一体何だったのだろうか。そもそもあんな人クラスにいただろうか。あんなキャラ忘れるはずがないのだが。さつきが突っ込む事も出来ず、その人は台風のように消えた。

 

 しかし。

 

「そっか」

 

 妙な納得がさつきの中にあった。クラスメイトは意識もせずに言ったかもしれないが、それはさつきを落ち着かせて、しっくりくるものがあった。

 

「理由なんて、なくてもいいんだ」

 

 全てのものに理由があればきっと楽でいい。因果なんて小難しいものには興味も無いが、全ての事象に繋がりがあればそれは明確で分かりやすい。しかし、それでは詰まらないという部分がある事もまた事実だ。

 

 特に、恋愛がそれに当てはまるのではないだろうか。

 

 何故その人を好きなのか。その人を愛しているのか。

 

 理由は人それぞれ思いつくことはあるのかもしれない。

 

 ルックスが良い。好きなタイプだった。話していて面白い。構ってくれるから。経済力があるから。

 

 列挙すればこれほど上がるだろう。

 

 しかし、これは切っ掛けであり、理由ではない。

 

 自ら思いつく理由なんてものは、実は理由足りえない。

 

 切っ掛けは確かに重要かもしれないが、それは初動。衝動のみでは継続されない。

 

 では、理由は何だと問えば、それはきっと誰にも分からない。恋の感情を言語化することは本当に難しいもの。何か思いつくことは在るかもしれないが、そもそも理由を求める事そのものが無粋に過ぎる。

 

 好きになった切っ掛けはある。

 

 しかし、好きな理由なんて誰にも分からない。

 

 ならば理由を求めるという事は、本来意味は無いのかもしれない。

 

 全てに理由があれば楽だろう。

 

 しかし、理由がある事が全てではない。

 

「うん。理由なんていらない、よね?」

 

 誰に言うでもなく、自身へと問いかけて、さつきは安心した。

 

 それで良い。それが良い。

 告白する理由なんて、必要ない。

 ただ好き、それで良い。

 

 そうしてさつきは誰も座っていない机へと目を向けた。教室内は生徒達がそれぞれに時間を過ごし、それをさつきは視界の端に眺めながら窓際にあるそれを見やった。

 

 そこは遠野志貴の席で、今は食堂で昼ごはんを食べているのだろう。主のいない机に気持ちを軽くさせながら、さつきはそのまま窓の向こうへと目を向けた。

 

 窓の向こうは明るい青色で、所謂秋晴れな空。やろうと思えばどこまでも見渡せそうなほどに澄んだ空だった。太陽は暖かに空気を温めて、これから冬に向かおうとしているとは到底に思えず、まして夕陽に変わるとはその姿を見て想像できない。

 

 そして、さつきは――――。

 




朔ではなく、シエルが登場するのがミソ。六です。
……いえ、焦らしているのではなく展開的にです。
ただ、六が寄り添って描写する登場人物は亡くなる可能性がある、と思ったほうがいいです。別にデッドエンド、もしくはバッドエンドまたは欝エンドが最上だと思ってはいませんが、亡くなる可能性があるからこそ丹念にその人物を描写できるという訳がわからない思考の元です。だから輝けば輝くほど、死ぬかもしれないという緊張感も持てますしね。
 しかし、私はさっちんが大好きです。志貴への想いに頑張る彼女の一途な姿勢は、もうたまらない。なので彼女は不幸でなければならないと思い込んでいる訳ではありません。ですが、日常の象徴である彼女は月姫においては非日常に巻き込まれる運命にあるのではないか、と漫画や原作をそれとなく拝見しながら思い、こうなりました。ある意味御都合主義です。批判を覚悟で書きましたが、皆様の反応に戦々恐々です。


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第一章最終話 そして彼は闇に堕ちる

 弓塚さつきが、吸血鬼事件の犠牲者となった。

 

 三咲町を騒がしている吸血鬼事件に生徒が巻き込まれた事に対し、学校側は即時休校を決定した。これが唐突な事故であるならば休校という手段はとらなかっただろう。朝礼に全校集会を開き、生徒が事故にあってしまったと報告をし、取り合えず学校は一時騒然と化すが、それでも休校にはならなかったはずだった。

 

 しかし、今この町を襲う連続殺人事件にとうとう生徒の一人が巻き込まれたということで、学校側はその活動を取りやめた。事態の終息が見えるまで生徒は自宅待機であり、それまでは学校にも立ち寄り禁止である。校舎へ赴く事が危険なのではなく、外出を控えるための促しとしての知らせだった。

 

 そして生徒達は自分たちの学校の生徒が事件に巻き込まれたことを知り、各々に動揺を示した。

 

 ある生徒は恐怖に慄き。

 

 ある生徒は理不尽に怒りを抱き。

 

 ある生徒は不安に震え。

 

 そしてある生徒はその悲報に涙を禁じえなかった。

 

 人は事件に対し鈍感である。事件で巻き起こった概要、流れ、犠牲者、加害者、その終息は情報媒体を通し獲得は出来るが、実感を得る事は出来ない。何故ならそれは彼岸の火事で、どうしようもなく他人事だからである。

 

 自己と他人の関係を哲学する事が何故これまでに議題として絶えず上がり続けているのは、自己に対し他人とはあくまで事象を展開する情報に過ぎないからである。そしてそれは直接的に意識するまで、ただの情報以上の価値は与えられないのだ。

 

 間接的に起こった事柄は情報、他人事である。他人事は自分に関係しない。ならば、それに対し実感が沸かないのは同然の事である。それが同じ町で起こったことだったとしても、そこに例外はない。

 

 自分が住んでいる町で何人も犠牲となっている事件が起こった。それに危機意識は持ちよう。暗い道を避ける事も、何となく心がけるだろう。友人と遅くまで外にいることはしないだろう。しかし、それはあくまで自らが犠牲者となり得ないという妙な錯覚が行動に移させている事に過ぎないのである。

 

 人は気をつける、という思考に対し意識を働かせるが、本当に自分が犠牲となるとは思わない。何故なら今度は自分ではないか、と思おうとしてもそこに実感が沸かないのである。今回の事件もそれに当てはまるだろう。未だ憶測として飛び交う犯人像や、たびたび起こる殺人事件に対し、直接的な関係を思い描かなかった故に、そのような事が許された。

 

 しかし、此度は違った。

 

 弓塚さつきは学校でもそれなりに名の知れた人物だった。部活に所属しているわけでも委員会に属しているわけでもない彼女が何故そこまで学校で名が知られているかと言えば、偏に彼女の人望にあった。

 

 彼女は誰にでも好印象をもたれていた。学校という集団に所属しているならば、良い印象を持たれることもあれば悪い印象を持たれることもある。しかし、さつきに悪印象を持つ生徒は誰一人としていなかった。

 

 クラスでも人気だった彼女は教師にも面倒を良く見られており、それゆえ何かと話題に上がる人物の一人だった。そんな彼女が犠牲となった事で、生徒は衝撃を受けたのである。

 

 なぜならば、学校と言う身近な集団に属している生徒からすれば、同じく生徒の弓塚さつきとはある意味同属である。そして彼女は人気も高かった。

 

 それ故、生徒は今改めてこの町で猟奇事件が起こっているのだと思い知った。

 

 一人としての例外は無く、この事件へ危機意識を持ち、己がいつ死ぬかもしれないという恐怖を抱くようになったのである。人はこの件に対し多種多様の意識を持ち、感情を抱いた。

 

 そして、それは遠野志貴も同じだった。

 

 □□□

 

『それで、お前はどうしたい?』

 

 まるで金属が叫ぶ悲鳴のように、その音はギシギシと軋んでいた。咽喉が枯渇しても出ないであろうその嗄れ声は、人間が共通して使用する言語だと気付くのに暫しの時間を労した。それは全ての嘲りと侮蔑を綯い交ぜにしたような音で、この世の全てを見下し愉悦の対象としか捉えていない悪魔の声だった。

 

 興味本意だという事は、探らなくても明確であった。邪険とそれを上回った関心が金属の問いへと変貌したに過ぎない。何を言ってもこの声音の持ち主を愉しませる結果にしかならないのは真に腹立たしい事であるが、それを飲み込んで彼は言葉を紡がなくてはならなかった。

 

「俺を手伝って欲しい」

 

 そう言った瞬間、数珠と札に巻かれた鞘に収められた刀剣は歪んだ嘲笑をあげた。

 

『ひひ――――っ!餓鬼、それが一体どんな意味を持ってるのか、手前はわかって言ってんのかい? 狂言は御魂を啄ばむ羽虫だと、わかって言ってんのかい?』

 

「ああ、覚悟はもう出来ている。――――もう逃げない」

 

 思えば、あの時立ち向かっていれば、逃避を選択しなければ今この時は訪れなかったのかもしれない。宵闇の会合は開かれること無く、彼もまたこのような場所に足を運ばずとも良かったのかもしれない。しかし、全ては過ぎた事。過去は変わらない。後悔に、意味は無い。

 

 踏み外した夢を見るなんて、許されるはずもなかった。

 

 深遠を覗き込んだ者が、化け物にならぬ道理はない。

 

『っは!覚悟なんぞ風の前の塵に過ぎねェ。言葉なんぞ余計にそうだ、見掛けを繕うのは女共だけで充分よ。しかし真逆、手前があの尼とつながり、そしてあの尼がここを知らせたとは思わなかったが……、其れだけでは在るまい』

 

 言葉を切り捨てて、壁に立てかけられた骨喰は愉快に言う。鞘から漏れる邪悪は吹き零れんほどで、この室内を暗黒で満たそうとしていた。

 

『ならば、手前が示すのはなんだ?己が怪物と化す道筋か、畜生となる手段か、魔物と化ける末路か。それとも、修羅と成り果てる意志か。聞かせろ――――手前の答えを』

 

「――――俺は」

 

 暗黒を振り払い、己が拳を握りしめ、その瞳は那由多の限りを貫く鋭利さを秘めた。

 

「仇のためならば、何にでもなってやる」

 

 その視線の先に、一人の男がいた。

 

 男は亡霊のような男だった。ベッドに腰掛けながらもその気配はあやふやで、目前にいるはずなのに何故だかその姿が掠れ、あるいはぶれる。

 

 その左腕は失われたのか根元から無い様で、藍色の着流しは左側が垂れ下がっている。しかし、それが不自然ではなく違和感は抱かない。それが当然のように、彼は人とは違って腕が一本のみ生える生物と思ったほうがしっくり来る。

 

 そして、ざんばらに伸ばされた黒髪の隙間から覗く、蒼い蒼い虚空を思わす蒼の瞳。目尻は鋭いが、その瞳に感情の色は見えない。以前西洋人形のようだと思ったが、三度対面してその印象は払拭された。西洋人形ではない。西洋人形のほうがまだ人間味があるだろう。その様は亡霊。この浮世に漂う不気味な存在である。

 

「――――、――」

 

 目の前の男、朔は言葉を聞いてもまるで動かない。その視界の中に自身は収まっているはずなのに、まるで硝子に映る人影のように注目されていないのではないかと思わざるを得ないその瞳。

 

 ただそこにいるだけなのに、身動ぎひとつしていないのに、その瞳に視線が捕捉される。蒼の瞳は万象を遍く飲み込む。蜘蛛が垂らす糸の網の如くに絡め取られた蟲は、果たしてどうなるのか。そう思うと、体が強ばった。

 

 しかし、もう立ち止まれない。

 

「だから朔、協力してくれ。――――断る事は、許さない」

 

 そのためにここまでやってきた。シエルの制止に聞く耳持たず、確固たる意思を持って、朔と対面するためにやってきた。あれほど危惧していた存在に自ら会いに行くなど、気が狂っている。愚考と断言されも止むを得ない。

 

 しかし自分ひとりで仇が取れるとは、復讐が果たせるとは、報復が可能だとは思っていない。ならば、その先駆者の手を借りたほうがより効率的に立ち向かえるとシエルに説得された。己で果たさなければならないと、言って聞かない子供の我儘を窘められ、脅されても尚止まらなかった。

 

 何故なら、あの時さつきは――――。

 

 思考が暗鬱と化した。氾濫する激情に仄暗い気持ちが脳髄を侵す。

 

 弓塚さつき。

 

 その名を思えば、彼は己が腸に獄の蟲を飼っていると自覚する。

 

『わたしは遠野くんが好きです』

 

 シエルから受け取ったさつきの手紙を、志貴は何度も読み返した。

 

 たった一文で、とても短い内容だった。しかも何度も書き直したのか、手紙は少々草臥れて消された文字の跡もそれとなく伺えた。しかし可愛らしい筆記で書かれたその文字を志貴は懇切丁寧に読んだ。何度も、何度も、何度も。

 好きだと、真正面にさつきは教えてくれた。

 

 そして悲しいほどに、その想いは彼の中に巣くう虚ろを揺さぶって仕方が無かった。

 

 手紙は端に血が付着していた。既に乾いた血は少量であり、文字を読み取りは阻害しないが、その赤茶色に志貴は唇を噛み締めた。

 

 この血は志貴の罪だった。

 

 あの瞬間に何も出来なかった志貴の愚かさだった。

 

 何故あの時、自分は何も出来なかった。動かなかった、と志貴は自身を罵った。

 

 そして、それ以上に自分の中に巣くうドロドロとした感情を肯定した。

 

 ――――ただそこにいるだけで、襲われた弓塚さつき。

 

 彼女を思えば思うほどに己は大火と化し、一木一草に到るまで焦がし尽くす紅蓮の輩と成り果てようとする。胸の内の虚ろは痛いほどに震えてたまらず、体を突き動かそうと苦しめた。

 

 しかし志貴は炎ではない。腹立たしい事ではあるが無様に喚き散らすほど、彼は現状に対し不理解ではなかった。故に、彼は動く。

 

 シエルが動けない今、動けるのは己と、あと一人しかいない。

 

「――――、―」

 

 そして、夜の最中に時はどれほど経っただろう。

 

 真っ直ぐに見つめて視線は逸らさず、藍色の化身と妖刀の姿を視界に収め続けた。

 

 それは彼の意志であり、また意地であった。

 

 必ず。必ずや、この怒りを突き立ててやろうと、彼はその心に誓ったのだ。その刃でもってその咽喉元を噛み千切ってやろうと、さつきの変わり果てた姿に決めたのである。

 

 故に、こんな所では立ち止まれない。朔と骨喰に飲み込まれはしない。

 

 朔という化け物と対峙しても怯まないその姿に、亀裂が走るような引き攣った笑いを堪えながら、骨喰は叫んだ。

 

『ようこそ、修羅の巷(ちまた)へ。――――歓迎しよう、遠野志貴!!』

 

 喝采を挙げんばかりに邪悪な哄笑が室内に響いた。

 

 しかし朔と志貴はそれを耳しながらも、その声音を遠く感じた。

 今この時、その意識の全ては目前に佇む男に向けられていたのである。

 

 歪な月に照らし出された屠殺場で、闇と対峙した少年はこの瞬間、闇に立ち向かった。

 

 ――――行くは地獄か、闇の底。

 

 行く道来た道戻れぬ道――――。

 

 ――――戻れぬと、わかって尚も少年は。

 

 その身を鬼に、修羅を進む――――。

 




 退魔ルート、またの名を七夜ルートに突入しました。原作との差異を感じていただければ幸です。あ、六でございます。

 これにて第一章が終わりました。
 実は三部構成という事をここで暴露いたします。

 第一章はこれだけ長いのに序章に過ぎなかったという事実と無秩序にばら撒いた伏線のため矢鱈と長くなりました。

 ……ごめんなさい嘘です、伏線だけではなく私の描写のねちっこさが主です。場合によっては今後も長くなるかも知れませんね。

 しかし、最近は一話一万字越え所か二万時が見えてまいりましたが、これはやべえ。話を進めようと必死になったらトンでもない事に。

 構成、知識が不十分な故に文章表現で誤魔化しておりますが、しかし二次創作とは言え、原型を留めないとは之如何に。これ本当に月姫か?

 第一章のコンセプトは『ハロー、暗闇』です。日常から非日常へのシフトを狙った章であり、これから先は混沌とした闇に自ら進んでいく、といった具合。

 それを書くために年を跨いで来んなに時間が掛かるとは……、技術と執筆体力が足りません。精進精進。


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短編めるてぃぶらっど! 七夜朔は未確認ネコの夢を見るか?

これは本編には全く関係のない作者の出来心です。
本編と繋げて考えたらしまっちゃうおじさんに仕舞われます。

軽く人物紹介。(月姫のみ)

七夜朔:遠野邸に住み着いている暗殺者。最近ニートらしい。ニートマーダー。

骨喰:朔の扱いが酷くて悩んでいる。もっと丁寧に使って欲しい。

遠野志貴:昼行灯。朔との距離は縮まっている。兄ちゃんと呼ぶのは恥ずかしい。皆の認識により朔とは事実上の兄弟となる。

アルクェイド・ブリュンスタッド:アーパー吸血姫。本編では割を食った。彼女が志貴の嫁になる場合、朔は魔に反応するためストレスで死ねる。

シエル:カレー。暴力教会の尼。男漁りはしない。死者の掃討に朔と協力している。現在朔を埋葬機関にスカウト中。

遠野秋葉:めっちゃお嬢様。巨大化はしない。朔を客人扱いにした。朔がいると交渉が優位になるので役得。また兄弟丼を狙ったり狙わなかったり。

翡翠:洗脳探偵翡翠。朔は志貴の肉親と秋葉の客人という事で朔は仕える側と認識。朔と琥珀が結婚した場合志貴とは義兄弟になるので一人勝ち。

琥珀:皆大好き割烹着。彼女の活躍によって朔もネタの餌食になりそうな予感。



「我輩は猫である。名前はまだ無い。……、んー名もなきネコが文壇で大喝采とは、世の中まだまだ捨てたものではありませんなー。その末路が紙幣最低価格なのも、なんだかおつです」

 

 夜の街中を彼女(?)はひょこひょこと軽やかに歩いていた。

 

 全長六十センチと成人の腰以下の大きさにセーターっぽいのとスカート、その腰元から尻尾がふりふり、その頭部にはまるで猫な耳が生えていた。

 

 名も無き猫は多々とあるが、しかしところがどっこいその未確認生物は真に遺憾ながらに名前を持っていた。

 

 その名もネコアルク。残念なく二頭身な雌っぽいネコである。珍妙奇天烈極まりないこの生物、こう見えても不思議で不気味な猫の王国GCV(グレートキャッツビレッジ)の住猫?である。

 

 胡蝶の夢を生きているのは人間であるが、この世は偉大なる猫が見ている夢と信じて止まない彼らは時折俗世を愉快にするため現れるネコ精霊と呼ばれるギリギリ生物な猫である。そんな彼らが住処とするGCVはこの世のどこにでもあり、どこにもない。シュレディンガーのチシャ猫の如き確立でひょっこり出てきたり出てこなかったりする奇妙な仮初の楽園である。

 

 とは言え幾度となく滅んだりロリチャイナ一人に壊滅させられたりメカなメイドが攻め込んできたりと、王国の落日はしょっちゅう迎えているので何とも言えない。

 

 そんな世も末な世界とは言わず宇宙まで飛び出してしまいそうなネコアルクであるが、本日は琥珀と絡むつもりでGCVを出歩いている。無論そのまま入れるとは思っていない。そりゃ何度もメカなメイドや遠野の妹に迎撃されれば猫も考えた。このままではいかんぜよと。

 

「にゃにゃにゃ、今頃は我が眷属たちによってあの屋敷もネコ大パニック。寧ろパンデミックなイケナイ予感が心を揺さぶるにゃー。具体的に言えばラスト一匹で混乱を食らわされた新米ポケトレって感じで」

 

 にゃーにゃー笑っているが、つまり言ってしまえばお米の国の作戦よろしく圧倒的物量による面制圧である。前線に投入したネコ戦力およそ千匹。とある独逸の少佐が戦争無視して秋葉原に突入しそうな最後の大隊(katzen dreck)である。

 

 至高のネコ缶(単価百円、人間マジさんきゅー)を餌に全速力で突貫した眷属たちを相手にメカなメイドは冗談のような大量生産で今も遠野を警備しているらしいが、そんなの関係ねえと言わんばかりに向こう見ずな全面戦争を仕掛けたネコアルクたち。

 

 そんな眷属を尻目にネコアルクは今も余裕で闊歩していた。自らは戦線に登場せず、現場は現場任せで指示だけ出す何処かの社長のような感じで憧れの社長出勤である。ネコきたない、実にきたない。

 

 未だ遅くはない夜の街中を堂々と練り歩き時たま犬に吠え立てられ、縄張り争いは連敗記録を再び更新するネコを数少ないとは言え道行く人は奇特な視線で眺めていた。気のせいと思って目を擦り、二度見してみれば余裕でいるのだ。しかし眺めるだけである。キモキャラ萌えな人しか関わりたくない。

 

 事実最近は真面目そうに見えて実はそうではない変人から熱の篭った目で見られ、危うく恋に落ちそうだった。

 

 しかし、口笛を吹きつつそろそろ足とか疲れてきた矢先、ネコアルクに戦慄が走った。

 

「むむっ、S・O・Sキャーット!……っ!こいつあトンデモネエ、実に千匹のネコからヘルプコールがきております。ならば、間違えたニャらば!ネコを助けにネコが行くー!」

 

 脳裏に正体不明の怪電波を受信したネコアルクは、その足を仕舞いこみあえてジェットを噴出。意外と高い出力に体が弾け飛びそうになるのをえんやこらと我慢して、猫は大空へと飛び立っていった。ちなみに夜である。

 

「でも千匹って、なーんか最近聞いた事のある数字なようなー、それにこの方角はあちし知ってます。落ちが実に見えてますなあ」

 

 鳥頭な猫だった。

 

 ジェット音を響かせて浪漫飛行。近所迷惑である。遊楽飛行に陥っても構わないのだが、そこはネコ、柔な根性で乗り越えた。肉球の柔らかさとどっこいどっこいな根性である。そんじょそこらの柔さではない。実際空気の壁に負けそうである。

 

 そのまま限界突破を幾度となく踏み外しそうになって、眼下に相変わらず微妙な空気の路地裏同盟を涙を流して見送りながら、ネコは夜の星空に眩暈を感じた。

 

 そしてその方角は彼女(?)の嫌な、あるいは愉快な予感通り今まさに激戦地区であるはずの遠野邸だった。

 

「分かる……っ、分かる!上空にいても数々の戦場を越えた歴戦のネコにはこの匂いが分かります。懐かしき地獄の臭い、燻られたにぼしと混ぜ合わされたマタタビの匂いがひしひしと感じれるぜ……っ!これは、戦の臭い!」

 

 そこはネコの地獄だった。

 

 美しい景観を広げる遠野邸前門の庭には今死屍累々とネコが倒れ伏していた。

 

 ネコの眷属である尖兵ネコは既に横たわっていたネコに倒れ掛かり、その横では驚愕の表情でマタタビを嗅いだネコに群がるネコたち。恐らく持参だったのだろう、あちらでは今まさに呻きながら最後のにぼしを咥え、そのまま力尽きたネコなんかもいた。

 

 ネコが沢山倒れてそれはまるで一つのネコのようにネコの塊が出来上がって、それは寧ろネコと言う生命体を借りたネコのような、つまりネコだった。ネコの山である。

 

「ふっ、さすがあちしの認めた永遠のライバル。容赦の欠片もございません。恐らくメカメイド全部隊を投下したラグナロクが繰り広げられたんでしょうな」

 

 見事、天晴れだとネコは賞賛した。ジェットのままで。

 

「しっかーし!これでお涙頂戴ものの健闘を讃えあうシーンが繰り広げられるたあ、思い込みもいい所!現実はいつもネコに冷たく厳しい!つーかー、もうちょっとネコに対して優しくしても損は無いと思うのよねー」

 

 ネコの脳裏には今までの苦労が甦った。化け猫と揶揄されて石を投げられる日々もあった。お魚咥えたドラネコよろしく焼けた秋刀魚を奪ったら琥珀に仕込み箒で襲われ、牛乳を奪えばロリチャイナにGCVは壊滅。マッドドクターの陰謀から逃れほうほうの呈でGCVに帰還すれば、やっぱりロリチャイナに壊滅された。そういえばこの前なんかは何か巨大なロボットがバイカル湖に向かって飛び立っていった。

 

「っく、汁が目に染みるぜっ!こうなればメカメイドのゴム動力も一度巻かなければならない事は必須、つまり今こそあちしの時代到来という事だニャ。ちみたちの犠牲は忘れないぜ……!」

 

 眼下にメタリックメイドの姿は見えない。むしろそのキャパシティーからさりげなくセンチメンタリズムに決めて、ネコアルクはジェットバーニヤを噴出。千載一遇のチャンスに今日も燃料が漏れている。本来の目的(眷属の救助)なんか全く持って無視してネコは遠野邸へと突っ込んでいった。

 

 その細い肉体からどうしてそんな速度がでるのか予測不能であるが、ネコの体は滾ったテンションに音速は突破出来ない。真に残念と思いながらも、このまま行ったら爆散すんじゃねえか?というぐらいの速度でもって夜の空を急転直下。

 

 一気にそのまま地面へと突き立って奇妙なオブジェとなる姿を夢に見ながらネコは遂に遠野邸侵略の快挙を成し遂げようとして。

 

「―――――。―」

 

「にゃぐは――――!!」

 

 横合いから思い切り殴りつけられた。

 

 真っ直ぐに向かう力と言うのは案外横からの力に弱い。しかし加速と重力がプラスされた前へ向かう力は存外にパワーを秘めており、例え搭載重量8キログラムとバスの停留所看板よりも軽いネコであろうともその力は侮れなくもない。それでも其処にある力はそんじょそこらのさっちんではどうしようもないものだった。

 

「ぬ、ぬぐぐぐ……!このあちしを突き飛ばすとは、一体何もの――――っ!?」

 

 それを止められて荒野を転がる埃の塊のように転がったネコは途中から楽しくなりながらも、どうにかこうにか停止した。その間に眷属の体を幾つか笑えるほど弾いたが今はそれどころではなかった。

 

「お、お前は!!なんで、お前が!!」

 

 ネコアルクは行っちまいそうなマイブラザーと出会った時以上の驚愕で持ってその人物に歯噛みした。

 

 いきなり現われてネコの邪魔した空気読めない人物は、なんだろうか寡黙というよりも無口と言う言葉のほうが断然似合いそうな男であった。藍色の着流しに白色の七部丈をはき、その左の袖は中身が無いのかひらひらとはためいている。その半端に伸ばされたざんばらの黒髪の隙間から蒼色の瞳が見えて実に厨二チックである。

 

「お前、お前は……お前は、誰だにゃ?」

 

 もしここにこの両者以外がいれば余裕でこけるなり突込みをするのかもしれないが、今いるのは倒れ伏せたネコ千匹のみで観客はもしかしたらいなかった。

 

「――――、――」

 

 しかし、この状況に対し何も言えないのは朔であった。元から何も言う事はないけれど。

 

 そも今夜襲撃があると息巻いていた琥珀と共に今夜迎撃するはずだったのだが、要請が無ければ殆ど自分から動く事もない彼である。琥珀の愉快なメカヒスイの動力が切れたから、その動力が回復しきるまで用心にと敵を待つ役割を受けたのだが、そこにはかつて七夜の森で見たきのこの山と同等に変な生物(なまもの)の屍である。死んでいないけど。

 

 倒れているのならばどうでもいいのだが、寝返り一つで傷の治る様を見てまさしくあのきのこと同じだと思いながら朔は取り合えずその視力を生かして敵が来るのを待った。暗殺者である朔の視力は夜であろうとも紫外線を見れてしまうのである。暗闇とか関係ない。

 

 そんな最中であった。何やら不可思議なネコが上空から近づき、そのまま急降下を始めたのである。彗星アタックを繰り出すそれに正直なんで飛べるのかとかは気にならなかった。ただそこらに横たわるモノと同じものが突っ込んできたという認識でもって朔は迎撃を行い、地上から飛び立って横合いからその肉体を寸断せんばかりの力でもって振りぬいたのであるが。

 

「ちょっと聞いてますそこのお兄さん?ネコは無視されると死にたくなるってご存知ですかね、これだから最近の若者のコミュニケーション能力の低下は著しくて仕方ないと嘆かれるのにゃ。あれニャ、そのまま便所飯決定になってもいいんですかな」

 

 何かめっちゃ普通に喋ってる。この耐久力は異常である。朔の膂力は人間の形をした存在を開封もしていないのに折れてしまうポッキーのような形状に変える事も出来るのだ。それなのに今そのネコは体をふにゃふにゃとさせながら、朔に何か突っ掛かっている。また今回は持ってきていないが、骨喰と同等の喋りっぷりである。変だ。

 

「―――――」

 

「んふー、これは重傷ですにゃー。ここまで話さない相手は白レンも苦労しそうだぜ。正直無口キャラは黒レン以外いらねー。それならばあちしと喋って会話の練習でもいかが?どう、最近儲かってる?それよりお名前なんてーの」

 

 何故か談笑モードに突入した。とは言え朔は話をしなくても別に困らない。話さなくても生きてはいけるのである。交渉事なども骨喰が担当した。コミュニケーション障害といわれても致し方の無いことであるが、別にネコアルクの話を止める必要性もなかった。勝手に話すならばそれでいい。雰囲気も殺し合うものではないし。空気の読めない朔であるが、別に殺す必要も感じ取れなかった。

 

「ほんとにお兄さんあちしの話聞いてます?むしろ聞いてくれよ、最近のあちしの扱いについてさあ。なんか他の作品でマスコットっぽいものが登場してますけど、このポジションは渡すつもりもありません。むしろ譲ってくれって感じ。この前なんかさー、イービルネコと共にドクターの地下帝国に入り込んだんですけどにゃ―――……」

 

 珍しく話を中断されないネコアルクは冗談なんだか愚痴なんだか分からぬ内容を朔に聞かせるが、朔にはてんで理解できない事であった。

 

 それよりも朔は目前にいる不可思議極まりない生物の存在そのものが気になった。

 

 何せこいつを倒してほしい、寧ろ殺して欲しいと蟲を潰すくらいの軽さで琥珀に頼まれた朔としては如何せんどうにもしがたい。不思議な雰囲気は感じるっちゃ感じるので、もしかしたら魔の存在なのかもしれないが、いつか七夜の里で戦ったキノコたちのような突然変異種なのかもしれない。

 

 どうにも確証はもてないが、あの時志貴は殺しては駄目だと言っていた。それを不思議と守った朔であるが、果たしてそれは今回も適応されるのだろうか。

 

 そして、はたと気付けば。

 

「お兄さんはアレですな、いわゆる構ってちゃん系な男ってやつですにゃ?ここまであちしをフリーダムにさせたやつは存在しなかったんで、逆に不安なんですけど。その左肩は相棒機と合体するのですか?マタタビいるー?」

 

 いつの間にやら朔の頭部にネコアルクが当然の如くに乗っかっていた。

 

 どうやら気に入られたのか、はたまたからかい甲斐のない相手を物珍しく思ったのやら随分と遠慮がない。朔の頭に床を扇子で叩く落語家の如く、そのご自慢の肉球でネコパンチ。あと朔に合体機能はついていない、はずである。

 

 しかしそうやっている間もネコアルクは止まらない。

 

 それをどうしたものかと朔が考えていると。

 

「きゃーーーーーー!!?化け猫!朔ちゃんの頭になんでいやがりますか!!」

 

 琥珀が鬼の形相で戻ってきた。その背後に現在稼動中のメカヒスイを従えて。

 

「おー割烹着よ、よくぞ我が眷属の襲来を退けた。褒美取らそうか?ネコ缶おひとつどうぞ」

 

「いりませんっ、!このぶさいくネコ、いいから早く朔ちゃんから離れなさい―――!」

 

 珍しく慌てている琥珀をぼけっと見ながら朔は頭上で胡坐をかいているネコを如何するべきかと考えていた。

 

「残念だったな、割烹着!今あちしはこのお兄さんをGCVの用心棒プラス必殺仕事人としてスカウトしてるんで、パス。夜中に無双を展開しながら姑にいびられる生活を送ってもらいます。ちなみに姑役は白レンね」

 

「な、―――なっ!!?ふざけるのも大概にして下さいブサイクネコさん。朔ちゃんをそんなはぐれ刑事にはさせませんよ、朔ちゃんにはこのまま遠野邸で肩身の狭いニート生活を送ってもらうんです!」

 

 いつのまにやら勧誘されていた朔だった。しかしネコに対する怒りなのか、それともこのままマジで朔がGCVに連れてかれんじゃねえかと慌てているのか、琥珀はその目じりに興奮の涙を溜めていた。

 

 だがネコアルクも然る者。人をムカつかせる表情で笑う笑う。

 

「にゃにゃにゃ!それならば、お兄さんをグレートキャッツカンパニーのSPとして雇ってしんぜよう。自給にぼし十本という高待遇でニートからも脱却。つーか、このお兄さんとあちしって気が合うって言うか、スピリットフレンドにゃのよーこれが。何かこう、気だるい雰囲気でもまんじりともせずにいる感じ。実は猫耳生えてんじゃね?」

 

「――――フフフフっ……話し合いの余地はないようですね。もう良いです。愉快な色物キャラは少ないほうが好都合!この機会に一匹ぐらいいなくなってもらいましょう……メカヒスイちゃん、GO!」

 

「ピピ、ゴ命令ヲ、ドクター」

 

「この化け猫さんを愉快にもみじおろしな感じにしちゃってください!」

 

「腹黒いにゃー!この割烹着腹黒いです!にゃらばグレートキャッツビレッジの用心棒がお相手するぜ!」

 

 この後琥珀・メカヒスイVSネコアルク・朔という異色の対戦カードが組まれ、怒り狂った琥珀とのらりくらりと生きているネコアルクの死力を尽くした戦いが幕を開けたり開けなかったり。

 

 ネコも目からビームを繰り出せば、琥珀はそれを仕込み箒で切り裂くとなかなかとんでもな状況を朔はしばし眺めた後に、寝返りをうてば元通りな眷属をしばし興味本位につんつんと指先でつっつきやがて溢れんばかりに復活したネコに飲まれかけそうになったのをメカヒスイのご奉仕パワーによる機転によって残党ネコに対する殲滅作戦が行われる事となるが、だるいので割愛。

 

 そして後日であるが、時折街中のいたるところで不気味なネコに絡まれる痩身の男が目撃され、更にそのネコを鬼の形相で追っ払う割烹着とメカなメイドが度々見かけられるようになり、何故か現われたロリチャイナがゴジラの如くGCVに登場するなど、この話もまたちょっとした騒動に発展する事になるが、これまた割りとどうでもいい話である。

 



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短編めるてぃぶらっど! とある給仕の呼称変化

 題名が思いつかんから適当に。
 ネタ話で総文字数40万字を超えるとかありえない。

 本編とは関係ないんだってヴぁ。

登場人物紹介

七夜朔:とある屋敷に住み着くごく普通の殺人鬼。

骨喰:とある殺人鬼にとり憑くごく普通な気もする日本刀。

遠野志貴:とある屋敷で暮らすごく普通だったらいいのにと思う青年。

アルクェイド・ブリュンスタッド:とある町に何故かいるごく普通ではない吸血姫。

シエル:とある学校に居座るごく普通とか笑っちゃう先輩。

遠野秋葉:とある財閥を束ねるごく普通なわけがない妹。

翡翠:とある屋敷で働くごく普通っぽいメイド。

琥珀:とある屋敷を影から動かすごく普通が裸足で逃げ出すドクターアンバー。 


 今日も今日とて遠野邸の家事(料理以外)を担当し、今も使用されることが無い部屋の整理。またこの屋敷の住人達の部屋を清掃するなど普段通りの仕事に精を出し、途中に見つけたネコアルクを洗脳した後、自身の主である遠野志貴の世話で彼と手が触れ合い顔が真っ赤になるなどのハプニングもあったが、実に充実した一日だったと翡翠は思った。

 

 琥珀がその場面を発見しちょっとした騒動まで発展しかけたのはいただけないが、その後共にパーティーのセッティングもしたので引き摺ることはなかった。それに姉に対していつまでも引き摺っているのは意味が無い。

 

 さて、そんな翡翠だがちょっと最近気になることがあった。

 

 翡翠の今後を考えるならばちょっとどころな話ではないのかもしれないが、それを面前かつ直球に関わりあうほど翡翠は器用ではなかった。翡翠は誠心誠意かつ真面目な性格であるが同時に恥ずかしがり屋なのである。

 

 しかし、未解決のままにしておけば後々何らかの支障が出る事は確実。だから翡翠は気になりはするけども、それをどうすればいいのか迷っていた。

 

 翡翠の気がかりを解決するためには、とある人物たちに着目しなくてはならない。

 

「――――」

「はい、どうぞ朔ちゃん。いっぱい食べて下さいねー」

 

 琥珀がチョイスした食べ物が載せられた皿を渡されて、朔はそれを味わうでもなく無言で食べていく。

 

「これ、わたしがつくったんですっ。朔ちゃんの好きなものたくさん作りましたので、どんどん食べて下さいね」

「――――」頷きながら朔は食べ物を一つ食べる。ちなみに今食べたのは魚の煮付けである。

「朔ちゃん、おいしい?」

「――――ん」

「本当ですか!?よかったぁ、頑張った甲斐がありました!」

 

 こくりと朔は頷く。それを見て琥珀は幸せそうに笑った。その笑みに影は無く、心の底から今を楽しんでいるような笑みである。

 

 現在客人として迎えられたシオン・エルトナム・アトラシアの歓迎会と称し、ちょっとした立食会が行われていた。

 

 無駄に広い食堂を使い今日の主役であるシオンを始め遠野の人間、何故かいるアルクェイドやシエルが笑顔で毒舌の応酬を行っている。その手には何だろうか、二人の手にはにんにくソテーにカレースパゲティと仄かな悪意が見えなくも無い。

 

 志貴に構ってほしい二人だから足を引っ張り合っていがみ合っているのだろうが、騒ぐ二人を秋葉は頬を引き攣らせながら無視している。恐らくものの一分で爆発するだろうが。

 

 ちなみにその騒動の原因である志貴はシオンと共に談笑を愉しんでいた。ざるである秋葉がいる事によりお酒が振舞われているので、志貴やシオンも既に飲んでいるのかほんのりと頬が赤い。なかなか良い雰囲気であるが、それはそろそろ終わりを迎えそうである。具体的に言えば肩を震わせるアルクェイドやシエル、果ては秋葉の手により。どうやら気付かれたらしい。

 

 しかしそんな会場の中、やはり翡翠が気になるのは琥珀と朔である。琥珀が一方的に構っているというか、客人らの相手をしながらも朔の側を全く離れない琥珀と、それを当たり前のように受け入れている朔。そして本当にわかりにくい事であるが、その朔もそれとなく琥珀に気を使っているようで、琥珀の手に持たれた皿の食品を手渡しで琥珀の口元に運んでいる。その雰囲気はオシドリ夫婦という奴だろうか。寡黙な朔とそれに付き添う琥珀の姿はなんとなくそう見える。羨ましい。

 

「……はぁ」

 

 そしてそう思い、翡翠は人知れず溜め息をついた。それは本当に微かなもので、翡翠すらも自覚しなければわからないような溜め息である。

 

 翡翠が気になるというのは琥珀と朔である。

 

 琥珀は言うに及ばず翡翠の姉である。翡翠とは違って快活かつ朗らかな性格である彼女は翡翠と瓜二つな顔をしているのにその雰囲気からかちょっと似ていない。着物姿と給仕服という違いもあるだろうが、表情が良く変わり、また気さくで人を笑顔に出来る彼女を翡翠は純粋に羨ましく思っていた。

 

 とは言え、翡翠と琥珀の仲はいたって良好。そこに暗い感情は芽生えないし、これからも彼女にそのような感情を抱く事はないだろう。しかしたまに悪戯が過ぎるのは考え物であり、はっちゃけているぶっとんだ姉である。

 

 さて、そんな琥珀の隣にいるのは彼女の主である遠野志貴の兄、七夜朔である。

 

 とある事件を経て遠野邸に住み着くようになった人物で、実は以前にも遠野にはいた。その頃から翡翠は朔と出会っているのだが、これはまあ本編を続けてからにしよう。

 

 久しぶりに再会した朔であるが、彼はどうしてか以前の彼よりもだんまりが多く、寡黙というよりも殆ど無口。とは言え昔も朔の声なんて聞いたことは無いが。遠野邸にいる無口姫レンと肩を並べるレベルである。せめてもの救いは仕草もまた彼女レベルという所だろうが、つまり矢鱈とコミュニケーションが取り辛い。

 

 志貴の肉親であり、また琥珀の大切な人物である彼とコミュニケーションが取れぬとは使用人失格であると一念発起し、彼との接触を必死に行っている翡翠であるが、気になるところとはそういうものではない。

 

「朔ちゃん、お酒はいかが?この前侵入してきたブサイクネコさんの所からちょっぱってきたお酒があるんですよ。その名も猫殺し、化け猫も地獄へ弾丸ツアー0泊7日のお陀仏コースな幻の気もしなくもないお酒です!」

 

「――――」

 

 今も見ようによっては仲睦まじい琥珀と朔の二人であるが、その関係は一体どういう風になっているのか、翡翠は全てまで把握できていないので何とも言えない事であるのだが、翡翠の身近であんなに仲が良い二人である。琥珀が翡翠と結ぶ関係とも異なり、また志貴が朔と結んでいる絆とも違う、あの二人だけの仲。

 

 果たして、あの二人は結婚するのだろうか?

 

 会場の中心では今まさに客人二人と遠野当主が取っ組み合いの喧嘩に発展し、否応なくその視線はそこに向けられるが、それでも翡翠は琥珀と朔の二人を見る。

 

 琥珀は微笑んでその光景を楽しげに眺めており、また朔は時折その体がぴくりと反応する以外に変化も見えない。どうやらアルクェイドやらシエルやら秋葉の気配に血が滾っているらしく、指先にまで血管が浮かんで少々怖いが今のところどうやら人外の自制心で押さえ込んでいる様子である。

 

 顔を驚愕に変える志貴やシオンとも違う反応で、二人は泰然とそこにいる。その雰囲気はもう熟年の老夫婦である。

 

 そう言えばこの前も琥珀と暇してた朔が買出しに行っていたが、琥珀が自然と朔の腕に自身の腕を絡めて寄り添いながら歩いていた。ぶっちゃけ志貴とそんな事も出来ない翡翠からしたら羨ましい限りだ。

 

 しかし、翡翠の感情を差し置いてもあの二人の関係は気になるところ。もし結婚するのならばそれで良いだろうし、翡翠自身も実に良い事だと思うが。

 

「どうしたの?翡翠ちゃん」

 

 そんな翡翠の前に琥珀が近づいてきた。気のせいか晴れ晴れとした笑顔である。

 

「あ、姉さん。……朔さまはもう良いの?」

「ええ、朔ちゃん成分もしっかり補充できました。ほら!」

 

 そう言って笑顔を見せ付ける琥珀である。確かに本人二割増なツヤツヤ笑顔である。五割増ぐらいなら顔から光線でも撃てそうである。

 

 どうやら朔は側にいないようで、今は黙々と食材を消化している様子である。

 

「――――」

「…………」

 

 その側にはいつの間にやらいたのかレンがもきゅもきゅケーキを食べていた。なごんで仕方がない。

 

「姉さん、あの」

「何、翡翠ちゃん?」

 

 気軽に話を聞いてくれる琥珀にありがたく思いながら、翡翠は思い切って聞いてみることにした。

 

「朔さまと姉さんは仲良いですよね」

「そうですよー、朔ちゃんと私は一緒にいるのが当然なんです」

 

 臆面もなくキラキラと言ってのけるその自信をほんの少しでも分けてもらいたいと思いながら、翡翠は「それじゃあ」と続けた。

 

「姉さんと朔さまは、結婚するのですか?」

「へ?」

 

 翡翠の言葉に目が点となる琥珀。まるで全米が感動したと言う宣伝文句に期待し見に行った映画がスプラッタものだったような表情である。てかどんな顔だ、それ。

 

「……違うのですか?」

「そ、そうですよ!私と朔ちゃんはずっと一緒にいるんだから、そ、それぐらいちょちょいのちょいです!!?」

 

 ジェスチャー混じりに琥珀はアワアワと言っているが、何を片付けるのか不明である。

 

「それじゃ、つまり結婚するという事なのね?」

 

 顔をずい、と近づかせて翡翠は確認する。しかし暫く顔を真っ赤にさせた琥珀は、ぼそぼそと小さい声で「……出来たら、いいなぁ」と呟いた。

 

「出来たら、ですか」

「……私が思ってるだけなんですけどねー、こればかりは朔ちゃんと決めないといけない事ですし」

 

 琥珀の言葉を聞いて翡翠は「なるほど」と納得した。つまり琥珀は結婚をしたいらしいが、現実的にするかどうかはまだ分からない、という事らしい。この反応を見れば明らかである。しかし秒読みはスタートしているように見えなくはない。

 

「おめでとうございます、はまだという事ね、姉さん」

「うー!うー!」

 

 権謀術数を張り巡らし、遠野邸影の支配者と呼ばれ、遠野地下帝国の主である琥珀がこんな恋する少女の如くに顔を真っ赤にさせれば、同じ女である翡翠にも分かる。ただそれにつられて翡翠の顔もほんのり赤くなるのはご愛嬌だろう。

 

「では、もし姉さんと朔さまが結婚した場合ですが」

 

「はい」

 

「私は朔さまをなんとお呼びすればよろしいのでしょう」

 

「はい?」

 

 今度は違った意味で琥珀の瞳が点になった。

 

「だってそうでしょう、姉さん。姉さんと朔さまが結婚するという事は家族になるという事。それはつまり私や志貴さまも家族になるという事だわ」

 

「まあ、そういうことになりますかね」

 

 翡翠や志貴は直接的な関係にはならないけれど、姻族として義兄弟の関係にもなる。つまり志貴と翡翠は主と使用人という関係であるが、そこに兄と妹の関係が生まれるのだ。実は密かに志貴と義兄弟になって兄と妹のイケナイ関係を夢見る翡翠であった。近親相姦おいしい。

 

「でも、そうしたら私も朔さまと兄妹になるの。私、どうすればいいのか……」

 

 朔の立場は現在妙な事になっている。

 

 志貴の肉親であり、秋葉の客人であり、琥珀の想い人であり、またシエルの仕事仲間である。アルクェイドとの仲は良く分からないが、そこまで険悪な仲には見えないし特に気にする必要はないだろう。そんな訳でごちゃった立場の朔は現在志貴が三人の喧嘩を止めるようお願いされているところだった。そして朔はこの三人の抑え役としての役割もなんか持ってたり。果たして騒動の原因である志貴がそのような事許されるはずもなく、次の瞬間には三人に詰め寄られていた。

 

「特に気に病む事もないと思うけど、ここは朔ちゃんに向かってお兄ちゃん(はーと)!と呼んじゃいますか?」

「遠慮します」

 

 流石にそれは恥ずかしい。難易度が高すぎである。

 

「えー、残念。こう、胸の前で手を組んで瞳をキラキラとさせながら「お兄ちゃん大好き!」とか言ってる翡翠ちゃん見てみたかったのに!」

「姉さん、それ私じゃないわ」

 

 もしそんな翡翠がいたら萌えて仕方ない。

 

 さて、どうしよう、と思った矢先にどうやら再び喧嘩が巻き起こったようで、八つ当たり気味に吹き飛ばされた志貴を見ながら翡翠は如何するべきかと再び考えるのであるが、ちっとも名案が浮かばない翡翠であった。

 

 別に朔に対して印象が悪いわけではない。だから身近な存在となるのも問題は無い。しかしその場合だと妹としては距離が分からないのである。妹は大変だ。

 

 しかし、そんな翡翠に琥珀は目元を緩ませるのだった。

 

「翡翠ちゃん」

 

「何、姉さん?」

 

「ありがとうね」

 

「え?」

 

 突然感謝され翡翠は戸惑った。

 

「何で姉さんがお礼を言うの?」

 

「だって、翡翠ちゃんは朔ちゃんの事も結婚の事も受け入れてくれて、しかもそんなに悩んでるって事は真剣に考えてくれているってことじゃないですか」

 

「……それは、家族の事だから」

 

 家族の事なのだから考えざるを得ない、と翡翠は思う。

 

 たった一人しかいない姉の事なのだから、尚更そうじゃないか。

 

「姉さんが幸せになってくれたら、私も嬉しいから。だから、私も頑張りたいの」

「……翡翠ちゃんは優しいのね」

 

 慈愛の視線を向けられて翡翠は恥ずかしくなった。やはりこういうところは姉妹の姉である。こういう柔らかい雰囲気は翡翠には真似できない。

 

「こほん。―――その前に姉さんが結婚できるかをどうにかしないといけないのでは?」

「はうっ」

 

 琥珀の胸に見えない何かが物理的に突き刺さったようである。

 

「っく、翡翠ちゃん言うようになりましたねっ!」

「姉さんの妹ですから」

 

 しれっと言い放つ翡翠だったが、その向こうで怪獣大戦争もかくやな三つ巴戦が勃発しているのはガン無視である。

 

「でも、少し楽になった気がします」

 

「そうなの?」

 

「はい……」

 

「よかったー、翡翠ちゃんの困った顔も可愛いけど、やっぱり堅苦しい事は考えないほうが楽しいですしね」

 

 そう言ってニパーと笑う琥珀だった。

 

「けど、やっぱり気にする事ないよ翡翠ちゃん。だって、ほら」

 

 琥珀は何気ない仕草で指を向けた。

 

 そこは吸血姫とカレーそして妹の最終戦争を離れた場所で、一撃KOされた志貴(朔によって回収されたらしい)が倒れ伏しており、その側には自分が膝枕をすべきかとアワアワしているシオンの姿があった。それを見て膝枕は自分の役目だ、と翡翠は思った。

 

「違う違う、そこじゃなくて」

 

 と、その側に目を向けられた。

 

「…………」

「――――」

 

 するとそこには、騒動なんて関係ねえと言わんばかりに退避している朔とレンが壁際に並んで、もきゅもきゅとしていた。

 

「………あ」

 

 そして翡翠は気付いた。

 

 ケーキを頬張っているレンはさて置き、今しがた朔が食しているサンドイッチは翡翠が作ったものだった。

 

 実は料理に忙しそうだった琥珀に混じって翡翠もと特製のサンドイッチを作ったのである。あまり料理の出来ない翡翠は精一杯頑張った。不慣れな手つきでパンをカットし、震える掌でサンドした。

 

 そうして出来上がったのは翡翠の好きな梅を挟んだ梅味サンドイッチである。ちょっと翡翠は頑張った。「これで志貴さんも昇天だね」と琥珀も言ってくれた。何故かその目は死んでいたが。

 

 しかし、それはパーティ会場の一角から魔王が放つ雰囲気も真っ青な何かを噴出して誰も手につけなかった一品である。だってオーラが悲鳴を上げる骸骨である。ヤバイったらありゃしない。

 

 それゆえ誰も手をつけようとしなかったのであるが、何で誰も食べてくれないのかと翡翠は志貴に進めた。翡翠、酷である。

 

 しかし志貴は劇画な顔をして食べてくれた。その際「我が生涯に一片の悔いなし……!」と呟いていたが、そんなにおいしかったのだろうか。また作ろう。

 

 しかし、それから誰にも手を作られず内心ちょっと落ち込んでいた翡翠なのだが。

 

「…………」

「――――」

 

 若干であるが、レンの視線から瀕死の傷を負いながらも頑張って生きている小動物を見ているような温さを感じながら、朔は黙々と梅サンドイッチを食べていた。

 

 その味は口に含めばエキセントリック、一口噛めばワンダーランド、飲み込めば前衛的というよりも寧ろ衛生兵である。しかも隠し味に何を使っているのか、随分とフルーティーに生臭い。どんな臭いだ。

 しかし、朔はそんな事に興味ないかのように淡々と食べている。顔は歪まないし、その口も止まらない。しかも一枚食べきったらもう一枚と運んでいく様はライン生産方式のようである。

 

 もし志貴がその光景を見たら驚愕に目を見開くだろう、それぐらい普通に食べている。

 

 その隣にいるレンは表情に出さないが、こいつはヤベエと少し戦慄していた。

 

 だが翡翠は気付かない。翡翠は純真なのである。

 

 翡翠の目には朔が美味しそうに自分の作ったサンドイッチを食べているようにしか見えなかったのだ。一心不乱に食べているその様は食いっぷりが気持ちよく、翡翠をそこはかとなく擽った。

 

 そして、翡翠なんだか呼び方で肩肘張る必要はないんじゃないか、と思った。

 朔はどんな形であれ、受け入れてくれるのではないかと考えた。

 

 それはまるで姉のようでそうではない。積極的に動く事はないが静かにいつもいる。受動的に泰然と佇ずみ安心できて寄りかかれる、頼れるその姿は。

 

「…………兄さん」

 

 知らず、翡翠の口元からそんな言葉が零れた。そしてそれは翡翠が思う以上にすんなりと彼女の内側に入り込んで、次の瞬間にはそれが自然な響きを持っている気がしたのである。

 

 しかし、こんなの恥ずかしくて言えるはずが無い。琥珀は姉さんと気にもせず呼べるが、それにまだ朔は正式に兄ではないのだ。だから翡翠はそれを胸の奥にそっと仕舞って、その時が来るまでそれは大切に取っておく事にした。

 

 そして、その時がきたら言おうと思った。きっと死ぬほど緊張して、顔から火が出るくらい恥ずかしいのだろうけど、精一杯の気持ちを込めて、そう言おう。

 

 ダブルKOならぬトリプルKOで倒れ伏すアルクェイドやシエル、秋葉を見ながら翡翠はそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うぅ、朔ちゃん味覚の許容範囲広すぎです。私が作った料理と同じ反応とか、少し落ち込んじゃいます……」 

 

 ちょっと感動した翡翠の耳に落ち込んだ琥珀の言葉は聞こえなかった。

 

 ちなみに朔が梅サンドイッチを食べていたのは、争いを遠巻きに見ていて他に食べるものが手元になかったためであるが、知らないほうが皆幸せ。



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短編めるてぃぶらっど! 俺の兄がこんなにずれてるわけがない

本編とは関係ないんじゃよ。


登場人物紹介。(遠野のみ)



遠野志貴:そこはかとないブラコン・シスコン


七夜朔:???


遠野秋葉:あからさまなブラコン


翡翠:想定内なシスコン。いつのまにかブラコンの予定。


琥珀:隠すまでも無いシスコン。


地味:オーシャン・パシフィック・シスコン。


登場しないけど遠野槙久:ファミコン。


 七夜朔は兄である。

 

 

 本人の自覚はさておき、遠野志貴及び周囲の認識上朔は志貴の兄として問答無用に扱われている。

 

 

 血縁で考えれば彼らは兄弟ではなく従兄弟の関係になるのだが、七夜の里が壊滅しているのでそれを証言できる者がいない。叔母残念。

 

 

 更に言ってしまえば遠野の長男として戸籍のある志貴とは異なって、そもそも戸籍がない。社会生活を送る上では個人を証明する諸々の書類等が必要不可欠である。

 

 

 しかし朔は社会不適合者どころではない暗殺者兼殺人鬼。社会に正面切って喧嘩を売っているとしか思えない。

 

 

 そんな訳でつまり何が言いたいのかと言うと、二人が兄弟だという証明は周囲と志貴の認識のみという事なのである。別に書類ぐらいならば秋葉かシエルが違法作製すれば問題ないし、二人としても朔のためならばやらない事もない。しかし、そもそも朔自身がそのような事考えてもいないので問題外である。

 

 

 とは言え、志貴としては折角再会し一緒に暮らしているのである。幼少の頃の記憶はそれとなく思い出してはいるが、それは記憶なのだからどうしても実感足り得ない。

 

 

「つまり、志貴さんは朔ちゃんとくんずほぐれにもっと爛れた感じで触れ合いたい、という事ですね?」

 

 

「……ニュアンスはかなーり違ってる気がするけど、概ねその通り」

 

 

 そう言う志貴は引き攣った頬を隠せないでいた。

 

 

 時は昼前、そろそろ小腹好き始めた頃合である。志貴は少々紆余曲折を経て現在琥珀の下を訪れた。

 

 

「でも、志貴さん大丈夫ですか?なんかお疲れなご様子ですけど」

「え、そ、そう?うーん、最近ちょっと疲れがたまってんのかな」

 

 

 白々しく言うが、それは引き攣った顔を隠す意味もあった。

 

 

 ちなみに何で顔が引き攣っているのかと言うと、二人のいる場所が遠野邸の裏庭に当たる琥珀庭園だからである。

 

 

 琥珀庭園は一言で表せば魔境である。

 

 

 時機とかまったく興味ないらしいひまわり畑の向こうではチョウセンアサガオがこれでもかと言わんばかりに自己主張しており、その側では一輪の彼岸花がひっそりと咲いていた。絶景とはいかないまでも感嘆とする光景である。面白いほど統一されていない。

 

 

 だが、これ位ならばまだまだ軽い。琥珀が遠野邸の裏ボスと呼び恐れられる片鱗は寧ろ此処からである。

 

 

 ひまわり畑やチョウセンアサガオが爽やかに咲き誇っている場所と比べ、明らかに腐海の臭いを放つ地区が広がっていた。

 

 

 天を貫いちまいそうなドリルの如きもみの木が螺旋回転をしながら空に向かって一斉掃射され、それが飛び立った地面には直ぐに天元突破なもみの木が生え始めている。凄まじい成長速度である。

 

 

 その隣には妙に毒々しい胞子を飛散させながら悲鳴を上げている草花が群生し、胞子の向こうは良く見えないが、サボテンがやたらと張り切って蜂のように刺す鋭いパンチを繰り出している。

 

 

 どうやら何かをサンドバック代わりに拳を打ち込んでいるようで、煙立つ胞子の向こうから「ぐはぁ!ひでぶ!やめるにゃー割烹着ー!!」とか声が聞こえるがきっと気のせいである。そうに違いないと志貴は見て見ぬふりした。

 

 

 ついでに「っち!まだ死んでませんか……」とか呟いている琥珀なんて知らない。

 

 

 しかし、ガーデニングと呼ぶにはあまりに世紀末である。

 拳王も裸足で突貫する無秩序っぷりだった。

 

 

 どんな育て方をすればこんな愉快な事になるのか。これで裏ボスの片鱗なのだから恐ろしい。志貴はそのカオスっぷりに故郷の森を思い出した。

 

 

「別にいままでの感じでもいいんだけど、さ。前よりももっと何か一緒にしたいって言うかさ、何と言えばいいのか……」

 

 

 もごもごと恥ずかしいのか、口にしがたい気持ちを志貴は言った。

 

 

「もっと構ってほしいし、構われたいと?子犬みたいですねー」

「……そう、かな。でも、そういうスキンシップとか、良くわかんないし」

 

 

 まるで彼氏に放って置かれている女の子のようである。しかし相談の内容は恋話ではないのであしからず。そもそも志貴は女ではない。ちなみに朔も女ではない、はず。

 

 

 志貴の望みというか願いは至って普通である。

 兄弟らしく接しあいたい、ただそれだけ。

 

 

 離れた時間が愛を育てるとは男女の説であるが、今まで共にいれなかった時間を埋め合わせようと色々したいのは兄と呼び慕っていた弟分にとっては当然なのである。

 

 

「んー、この積極性を皆様に見せてあげれば餌に群がる鯉のように襲われること請け合いなんですけどねー」

「え?」

「……ついでにこのどうしようもないぼんくらっぷりも何とかしないと駄目みたいです」

 

 

 やれやれ、と何気にひどい事を言いながら琥珀はオーバーな仕草で肩を竦めた。しかしその片手間に幾何学模様な葉をむしっている。何の材料にするつもりなのか分からないが、聞かないほうが身のためだろう。

 

 

「まー志貴さんがお困りのようですし、相談に乗ってあげないこともないですよ?」

「っあ、ありがとう琥珀さん!実は琥珀さんしかそういうの相談できる人いなくて断られたらどうしようかと思ってたんだよ」

「いえいえ、私が志貴さんの頼みを断るなんてそんな事あるはずないじゃないですかー」

 

 

 アルクェイドは論外。シエルはお姉さんな人物であるが一人っ子だったようで秋葉と翡翠に至っては志貴自身が兄であるのであんまり意味がない。

 

 

 そんな訳で志貴には兄とどう接すればいいのか分からない弟のそれとない冷静と情熱の間を共感できる人物がいないのである。有彦は弟なので話は出来るかもしれないが、やはり兄と姉では話が変わるだろう。

 

 

 草葉の陰で泣いているキャラ立ちに失敗したピアニストなど知らない。

 

 

 だから志貴は近しい人物で翡翠の姉である琥珀に意見を聞きに来たのである。

 

 

 ここに来る前、この旨を伝えると翡翠から「やめといたほうが良い」と切実に訴えられ終いには涙目で止められたが、それを乗り越えて琥珀の下にやってきたのだから気合の程が伺えるというもの。その上目遣いプラス涙目にキュンキュンした志貴も大概である。

 

 

 その様はさながら味方の制止を振り切って戦いに赴く勇者のようだ。つまり琥珀はラスボスなのである。

「さーて、迷える子羊を導くのはシエルさんのお仕事ですが、将来義弟になる予定な志貴さんのために琥珀も一肌脱ぎましょう!」

 

 

 桃色吐息を噴出させる花を伐採するために装着されたガスマスクの上からその表情は見えないが、まず間違いなく碌な表情ではないのは確かである。しかし、志貴は琥珀の力強い言葉に頼りになる姿を見て、頑張ろうと一人気合を入れていた。

 

 

 取り合えず作戦会議にこの場所は相応しくない、と二人は場所を移動する事にした。どこからか「ま、待て割烹着……!ふ、ふふ!例えアタシが倒されようとも、第二、第三のネコがお前のまえにゲハーーーーーっ!!?」と妙にコミカルな叫びが聞こえた気がしたが志貴は全力で無視した。

 

 

○らうんど わん!

 

 

「やっぱり二人とも男の子ですから、外で一緒に遊ぶのは外せません」

「ふむふむ」

「朝早くから友人を誘いまくるナカ○マ君のように、お外で遊んで汗やら涙やら血を流してその仲は深まる一方です!」

「ほうほう」

 

 

 いつの間にやらガスマスクを外してやけに魔女っぽいフードを被ったアンバーが妙な意気込みでもって己が持論を力説する。そこは屋敷の一階に設置されたテラスである。琥珀は怪しげな雰囲気を醸し出しながら志貴に作戦内容を伝えていた。

 

 

「つまり!朔ちゃんと仲良くなるためにはキャッチボールが一番です!」

「……そうなのか?」

「そうなのです!ボールと共に投げ出される会話は正しく言葉のキャッチボール!投げて受け取りの青春まっしぐらな触れ合いで朔ちゃんとの距離も縮まる事間違いなし?」

「うーん、確かに言われてみればそんな気も……」

「そうですよね、志貴さん!」

 

 

 どこに納得する要素があったのかは不明だが、力説されるとそんな気もしなくもない志貴。すると琥珀はそんな志貴にニヤリと口元をゆがめた。

 

 

 そんな訳でまずはキャッチボールをすることと相成った。

 

 

 とりあえずそのために朔を誘おうとまずは居場所を把握し(琥珀はどこにいようとも必ず朔を見つけ出す。なんだか怖い)琥珀が呼びにいったが、どうやら受け入れてもらえたようで、すぐさま朔は現われた

 

 

 ただ。

 

 

「なんで秋葉がいるんだ?」

 

 

 広い庭を見渡せる遠野邸一階、先ほどまで志貴と琥珀が作戦会議を行っていた外部テラスには優雅にティーカップを傾けている秋葉の姿があった。その側には翡翠までいて、琥珀が楽しそうにそこから眺めている。

 

 

「先ほど朔ちゃんを呼びにいったら秋葉様もいらっしゃったのでお誘いしたのですよー」

「私がいたら駄目ですか? 兄さん」

「……いや、そんなことな、けど」

 

 

 なるほど、と志貴は納得したが、ちらりと前方で佇んでいる朔の姿を見た。

 

 

 相変わらず寡黙というよりも無口と言う言葉がそのまま体現した姿である。藍色の着流しは左袖がはためき、その黒髪の隙間から蒼い瞳が見えた。

 

 

 一体何を話していたのだろう、と志貴は何となく気になった。

 

 

「秋葉もやるか?」

「……誘ってくれたのはありがたいですけど、今回は遠慮しておきます」

「そうか」

「兄さん達の遊びを無粋な事はしません。安心してください」

 

 

 秋葉は秋葉なりにこの場を愉しむようで、取り敢えずは観客となるらしい。その気遣いに感謝しつつ志貴は朔に向かった。

 

 

「取り合えず確認しよう。俺がこれを投げるから、そっちは投げられたボールをキャッチして俺に投げ返してくれ。それで、俺も投げ返す。――――こうやって、さ!」

 

 

「――――」

 

 

 突っ立ている朔の胸に向かって柔らかくボールを投げつけた。

 

 

 しかし少し狙いはそれて左方向に逸れてしまうが、それを朔はその場から動く事なく右手で難なくキャッチ。ちなみにボールは琥珀が持ってきた。軟球のため突指する心配も無い。さすが琥珀、朔に対する考慮に抜かりは無い。

 

 

「これの繰り返しだ。簡単だろ?」

 

 

 コントロールミスとかで見当違いのところに飛ぶ事もあるが、文句を口走りながらボールを追いかける事も、ぽくて良い。

 

 

「朔ちゃーん、頑張ってくださーい」

「いいわね、こういうの。翡翠もそう思うでしょ?」

「はい……そうですね秋葉様」

 

 

 日差しは柔らかく、良い心地である。向こうでは間延びした応援と微笑ましい会話が聞こえるが、頑張るほどのものだろうか。

 

 

 とは言え、志貴はこのシチュエーションに心くすぐられた。

 

 

 夢にまで見たとまでは言わないが、やはり兄弟で遊ぶと言う事に一種の憧れを持っていた志貴としてはなかなかおいしいことである。相変わらずどこかで泣いているピアニストはどうでもいい。

 

 

 記憶の中、あの故郷の森で過ごしていた頃もこうやって遊ぶと言うのは極端に少なく、もしかしたら無かったかもしれない。一緒に過ごしていたはずなのだが、そんな事をしていないと言うのは今思えばちょっと不思議である。

 

 

 だから志貴は過去を懐かしむためにも、こうやって遊ぶ事はとても良い案だと思った。

 

 

 しかし、時間とは残酷である。

 

 

 思い出は時に美化されて結末すらも塗り替えられるのだ。

 

 

「――――」

 

 

 朔は暫くその手に持たれたボールをにぎにぎと弄び、志貴を見た。

 そしてその手に握られていた軟球が押し潰され、指先から徐々に力が込められていく。

 

 

「いやいや、そこまで力込めなくてもいいんだよ」

 

 

 志貴はそれを見て半笑いである。せめて不器用なんだなーぐらいに思ってた。

 

 

 そんな志貴をよそに、朔の筋肉は熱を生み出して髪が不自然にざわざわと揺れる。その背中からは何だろうか変なオーラが揺らめき始めていた。具体的には海皇相手に背中を広げてみせたオーガのようである。

 

 

「あ、あれ?」

 

 

 流石に半笑いどころでは無くなって来た志貴。その頬に汗が垂れる垂れる。

 

 

「―、――――っ」

 

 

 込められた力に朔の体が限界を迎えようとふるふる震えていた。明らかに生まれたばかりの小鹿レベルの震えではない。

 

 

 元から暴力的に引き締められていた肉体が鋼鉄の如くに絞られて、腕の血管がとんでもない事になっていた。隆起した血管は今にも破裂しそうで、ここまできたら寧ろグロい。

 

 

 そして朔の眼孔に一瞬光が宿った。まるで巨人の星を目指した野球少年のようである。

 

 

「――――」

 

 

 ゆっくりと振り被られた右腕が志貴には断頭台へと設置されるギロチンのように見えた。

 

 

 そして。

 

 

 ――――ぞわり、と志貴は背筋に寒気が走った。

 

 

 あれ、これシリアスじゃねえぞとか関係無しに志貴は命の危機をリアルに感じたのである。そしてこの寒気はいつも志貴を救ったことを志貴は熟知していた。

 

 

「ちょ、ちょっと朔?」

 

 

 しかし流石にここでデッドエンドとかありえねえありえねえと志貴は内心笑った。冷や汗がとんでもない。

 

 

 とは言え、冗談で済まされては朔たる由縁ではないのである。

 

 

「――――っっ!!」

 

 

 志貴が見た事の無い出鱈目な振り被り方だった。そして朔は目視できぬ速さで腕を振り下ろしたのである。その掌に収められていたボールは笑っちゃうぐらい真っ直ぐに飛んだ。志貴の胸に向かって。

 

 

 光線の如きに突破する空気が悲鳴を上げて、巻き上げられた衝撃波に遅れて地面を抉る。

 

 

「ちょ、ま――――!?」

 

 

 転がるように逃げた志貴を誰が責めようか。穿たんばかりに射出されたボールは円形に変わり、志貴の体を型抜きのように貫こうとしていたのである。キャッチボールどころの騒ぎではないその速さに志貴は命の危険を感じた。

 

 

 キャガ――――っっ!!!!

 

 

 瞬きのなんだか戦闘機が側を過ぎ去ったような感覚が志貴を襲った。

 どうにかやり過ごした志貴は瞬時にボールが向かった先を見た。

 

 

「うっわー……」

 

 

 志貴呆然。

 

 

 幸か不幸か、そこは人通りも無い遠野の森であった。

 

 

 嘘みたいな速さですっ飛んでいったボールは群生していた木々を抉って軒並みぶち倒し、ひたすら奥へ奥へと突っ込んだ。メキメキ、とかベキベキとかすげえ聞こえる。

 

 

 砲弾が森に向かって撃たれたらこんな感じになるのだろう。

 

 

 ボールが通った後は地面が抉れて周囲には円形状に何も残されていない。それが奥へと続いてメッチャ環境破壊である。ちなみに撃たれたのは子供や環境に優しい軟球だ。

 

 

 ちらりと見れば秋葉、翡翠は固まっていた。そりゃそうだ。

 

 

 そして肝心の朔は投げきった姿のまま制止し――――。

 

 

「力みなくして解放のカタルシスはありえねぇ……」

「――――琥珀さん、アテレコは結構です」

 

 

○らうんど とぅー!

 

 

「という訳で、キャッチボールは秋葉様に怒られたので禁止になりましたが――――」

「という訳で、って何さ。むしろ琥珀さんアレなんなの!?」

 

 

 軟球がアレぐらいの速度ならば容易く破裂しそうなものである。

 

 

「ふふ、よくぞ聞いてくれました!あれは割れにくく傷つきにくい、かつ柔らかく熱にも冷たさにも強いボールをコンセプトに私が開発した特別製のボールです!私のマジカルパワーと朔ちゃんの力があればアレくらいの環境破壊ちょちょいのちょい、ゴリラが握っても壊れません!」

 

 

 ORTな軟球ボールである。それとゴリラの握力は平均約500kgf。

 それでも割れないボールはまずもって軟球とカテゴライズされるものではない。

 

 

 だからだろう。ボールは既に余裕で秋葉に没収されている。秋葉の説教付きで。

 

 

 取り合えず鬼の如くに怒られた二人と朔である(朔は全くの無反応)。志貴と琥珀は、秋葉や翡翠がいなくなった先ほどのテラスで再び作戦会議と相成った。

 

 

「結局秋葉様には叱られ、朔ちゃんはキャッチボールのほのぼのムードを全然理解できず。前途多難です」

「その一役に琥珀さんも買ってるんだからね!?」

 

 

 怒られたぐらいで済んだのだから上等であるが、思わずジト目で見る志貴。

 

 

 冗談ではなく死に掛けたのだからこれぐらい許して欲しい。あと数瞬避けるのが遅れていれば、今ごろ志貴は愉快な挽き肉と化してた。あまりに憐れなデッドエンドである。

 

 

「しかし、後悔先に立たず。後悔したって意味がありません、次を頑張りましょう!」

「……大丈夫かなー」

 

 

 そこはかとなく不安になり始めた志貴。今更である。

 

 

「まあこれは兄弟のみに通じる事ではないのですが、兄弟姉妹問わず上の人から何かを教えてもらうことは良くあることです。立場を考えれば教師と生徒、老人と孫、親と子と言えばわかります?」

「まあ、何となく」

 

 

 何かを教わるとはそれだけで会話の材料となる。

 

 

「つまり、先人の知恵を借りるという形で接すれば、それがそのままコミュニケーションに繋がるのです!年齢差の近い兄弟といえどもその経験や視点は異なりますから、きっといい刺激になります。私も翡翠ちゃんにお勉強を色々教えましたが、今考えれば良い思い出ですねー」

 

 

 そう言って遠くを見やる琥珀に志貴は内心「何を教えたのだろう」とちょっと不安に思ったり。

 

 

「とまー、そんな感じで、兄弟でお勉強会というのは如何です?」

「……でも、朔って勉強見れるのか?」

 

 

 ちなみに朔は義務教育どころか初等教育すら受けていない猛者である。

 

 

「別に学業のお勉強だけじゃなくてもいいんですよ。物の見方や、経験を語るのも立派な勉強です」

「……なるほど。納得はしたけど……大丈夫かな」

 

 

 そんな感じで勉強会が発足される事となったが、志貴の不安はど真ん中、大当たりである。志貴はあまりの事にオーバーヒート。勉強会は即刻廃止となった。

 

 

とは言えそれっぽい会話はしていたので、以下その内容をダイジェストでどうぞ。

 

 

『――――んなわけで、朔には色々と教わりたいと思うんだけど、実際何話す?――――いや、人体の効率的な解体方法じゃなくてさ。そんな人の油は面倒だとか話いらないし。だったらって、最も早い絞殺の仕方も遠慮するって。後ろから上に向かって、とか絶対使わないから、てかやらないから。……と言うか、もっとためになる話をしようぜ。――――え?ためになる話って何か?えーっと、具体的には何か役に立つ話、とかか?……だからと言って人体の弱点とかはいらないから、大丈夫だから!内蔵を直接触ったら粘膜と痙攣で滑るとか別に聞きたくなし。え?何だかんだでショック死が拷問を除いて一番苦しく殺害できるって?そんなのどうでもいいよ!――――だったらあれは?今までで苦労した話、それはどう?――――、アルクェイドがいるから退魔衝動を抑えられない?……えっと、それは、すまん。俺にも原因の一端はあると言いますか、何と言うか。……ごめんなさい』

 

 

 今まで生きてた世界が全く違うことを痛感する志貴。そして思った。

 

 

 兄は立派な殺人鬼だったようです。

 

 

○ふぁいなる らうんど!

 

 

「志貴さん、なんで諦めるんですか!折角いい雰囲気だったのに、これじゃ朔ちゃんに失礼ですよ?」

「いや、俺のせい!?」

「え、違うのですか?」

「……えっと、どうなんだろう」

 

 

 琥珀に批難された志貴であるが、勉強会とかは共通の認識やら話題がなければ成り立たないのである。殺人講義を開かれても困る一方、解体作業の効率化なら尚更だ。志貴の我慢が足りないと言えなくもないが、しかし正面から批難されたら否定も仕切れない志貴だった。

 

 

「まあ、主に志貴さんが悪いと言う点で朔ちゃんに積極的会話を求めるというのも微妙っぽい話なんですし、あんまり気にする事もないと思いますよ」

「……やっぱり俺が悪いんだ」

「私が朔ちゃんの悪口を言うはずがないじゃないですか」

「ですよねー」

 

 

 これだけ信頼されているのだから、理不尽な理由で毎回ぼこられたり巻き込まれたりする志貴としては羨ましい限りである。

 

 

「そういえば、ちょっと気になってたんですけど」

「何を?」

「どうして志貴さんは朔ちゃんを名前で呼んでるのですか?朔ちゃんがお兄さんなら、そう呼べば良いことなのに」

「……」

 

 

 指摘を受けて志貴はうぐ、と呻く。

 

 

 確かに志貴は朔を兄とは呼んでいない。それは「兄ちゃん」と呼び慕っていた幼少の頃を思えばちょっと不可思議である。志貴は琥珀の問いに誤魔化そうと口元をモゴモゴと動かすが、しかし琥珀の瞳は追及の手を緩めない。志貴が視線を反らしても首だけ動かし見つめてくるのである。

 

 

 そんな訳で志貴は暫くした後、はあ、と溜め息を一つ。

 

 

「…………いんだよ」

「え?」

「恥ずかしいんだよ、正面からそう呼ぶの成れないし。……本当は昔みたいに呼びたいし、そう思ってるけどいまいち踏ん切りがつかないと言うか、今更どうやって呼べばいいのかわからないんだ……」

 

 

 顔を羞恥から赤くして志貴は言うが、琥珀は「何この人、ちょっと可愛い」とか内心思った。しかし、以前の翡翠の相談を受けた琥珀からすれば微笑ましい事この上ない。

 

 

 とは言え、今のところは自分で頑張れそうなので、琥珀は何もしないと決めた。

 

 

「でもどうするんです志貴さん、他に案はないんですか?時間も時間ですし私もお夕食の準備をしなくてはなりませんので、そろそろお暇しなければならないのですが」

「あ、ああ。そうだね、ありがとう琥珀さん。ここからは一人で考えてみるよ」

 

 

 それでは、と琥珀は断りを入れて屋敷のなかに消えた。

 

 

 今現在空は赤く染まり夕暮れが立ち込めている。遠野邸の調理係を一身に任されている琥珀だから、そろそろ動かなくてはならないのだろう、と志貴は了承した。しかし考えようによっては志貴ひとりの方が上手くいきそうな気がするのは、決して琥珀のせいではないと願いたい。

 

 

「しかし、どうしようか……」

 

 

 口ではそういうものの、志貴の中に案が無い訳ではない。無いわけではないのだが。

 

 

「添い寝は流石に無いだろ……」

 

 

 七夜の里で暮らしていた頃は幾度となく一緒に寝たことがあった。アレは確か志貴の特権だった気がする。まちまちな思い出であるが、そんな事は思い出せる志貴である。

 

 

その際叔母の鼻息が矢鱈と荒かったのは気のせいだろう。

 

 

「とは言え、もう思いつくのはこれぐらいしかないな」

 

 

 もうこれしか思いつかない。何とも狭い選択肢である。

 

 

 とは言え、思い立ったら直ぐ行動は出来ない。羞恥やら躊躇が志貴の中をランデブーして詮方ないのだ。踏ん切りがつかぬのも無理からぬ事だろう。志貴にだって人並みの一般常識は備わっているのである。たまにふっとぶが。

 

 

「でも、なあ……」

 

 

 だが、本当にこれをやるのか? と、志貴は自分を疑った。

 

 

 志貴は当年十七、朔は十九歳。幼少の頃を思えば、まずもってそんな事をする年齢ではない。二人とも立派な男性なのだ。同じ布団で寝るとか、正直冗談だろう。

 

 

 秋葉の後輩にあたる瀬尾晶なら涎がとんでもないことに違いない。

 

 

 彼女には里の離れで朔と共に寝た時、眠る朔の頬に舌を這わしていた叔母とは違った危うさを感じる。

 

 

「……はあ」

 

 

 結局志貴は溜め息をついて、テラスから離れていった。内心もやもやが拭えないものであるが、取り敢えずは様子見と安直な考えでもって疲れた肩を回しながら今後への対策を練るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし。

 

 

 

 

 

 

 

「ふふふ、この私を差し置いて添い寝なんて。志貴さんはイケナイ人ですねー」

 

 

 

 

 

 どこからかそんな声がしたが、姿は見えず、影すら見えない。

 うふふふふ、と寒気の走る声は夕暮れに溶けて消えた。

 

 

「本当、困った人ですねー。―――――そう思いませんか、朔ちゃん?」

 

 

□□□

 

 

 その夜の事である。結局今日は添い寝は諦めた志貴はいつものように自室で一人就寝していた。微妙な疲労感があった志貴は食事を終えて早い時間ではあるが、あっという間に夢の世界へダイブした。

 

 

 夜は深みを増して月さえも空から落ちてしまいそうである。湿気は控えめで心地の良い。志貴が直ぐ眠ってしまうのも頷ける事だった。そしてそんな志貴の部屋に今猛スピードで迫る影があった。

 

 

「ふふ、待ってなさい、志貴――――!」

 

 

 なんかニタニタと涎まで垂らしそうな絶世の美女はアルクェイド・ブリュンスタッド。本編では朔によって出番を奪われ、全く登場できない悲しきメインヒロインである。

 

 

 そして現在彼女は夜の街中を言葉通り飛翔していた。民家の屋根を足場に空を飛んだり、道路に煙草を吸いながら横たわっていた灰色にネコっぽい何かを憐れなくらい跳ね飛ばしたり、兎に角そんな瑣末に彼女の考慮はどこ吹く風。彼女の脳内は今夜起こるであろう志貴との濃密な一時に集約されていたのである。

 

 

 なんで彼女がこんなに息巻いているのか謎である。しかしたまにしかないチャンスをものにしようとするのはとっても正しい事だと彼女は思っている。アーパー吸血鬼と日々呼ばれているアルクェイドであるが、彼女は彼女なりに考えているのだ。

 

 

「今いくからね――――!」

 

 

 月光が照らす宵闇の中、彼女は無邪気に微笑みを浮かべた。

 とは言え彼女を邪魔しようと目論む存在が全速力で向かっている事も忘れてはならない。

 

 

「――――っ、この気配、あのアーパー吸血鬼!また遠野くんのところにっ」 

 

 

 暴力教会のシスターは苛立ちに歯噛みし、その装備を確かめた。何せ相手は吸血鬼の祖である。ならば通常の装備では太刀打ち出来ぬことは疾うに知れており、ドラクルアンカーとして名を列ねる彼女ならば、それは尚更であった。

 

 

 今日も元気に見敵必殺。隠れ潜んでいる死者の掃討を行っていたシエルであるが、戦闘者である彼女に突如として現われた強大な気配を敏感に察知した。嬉しくはないが、最早慣れ親しんだ気配である。

 

 

「っく、こうしてはいられませんね、今すぐ向かわなくては!」

 

 

 後輩であり、好意を寄せている志貴が彼女の毒牙にかかる前にと、シエルは危機感を持って遠野邸へと向かっていった。志貴を守る為である、別にもしかしたらそのまま良い感じになるんじゃねえか、とか思ってない。

 

 

 とまあ、そんな感じで。

 

 

「――――なんで貴方がいるのよ、シエル」

「それはもう、どこかの吸血鬼を退治するため、ですよ」

 

 

 遠野邸内、上に志貴の部屋へと通じる窓が見える庭でアルクェイドとシエルは共に瞳の笑っていない笑顔で相対していた。今夜は月が綺麗だ。殺しあうにはちょうど良い。

 

 

 しかし、途中に見えた森が抉れていたのはなんでだろう。

 

 

「それで、貴方は何故ここにいるのですか」

 

 

「そんなの決まっているじゃない、これから志貴と夜を過ごすのよ」

 

 

「っ、そんなの不可能です」

 

 

「はあ?なんでシエルに否定されなきゃいけないの?貴方には関係ないじゃない」

 

 

 馬鹿にするようなアルクェイドの物言いにシエルの頬が引き攣った。

 

 

「度し難いほどに頭のお莫迦な貴方にもわかりやすく言いましょう。何故なら私が貴方の行く手を阻むからです」

 

 

「嘘ね。シエルの事だから、あわよくば志貴と寝ようとしてるんでしょ?」

 

 

「いらぬ疑いなんて貴方らしくない。さすが出番の少ない女ですね、随分と無様ですよ」

 

 

 今度はアルクェイドの頬が引き攣った。それでも笑顔の表情は二人とも崩さない。正直怖い。まさに一触即発な空気に周囲の空気がぐにゃりと歪む。いきなりクライマックスだ。

 

 

 このまま二人が戦闘を始めてしまえば幾ら遠野邸と言えども多少の損壊は免れない。既にその庭が一人の天然と愉快犯によって破壊されているのである。だから、こんな空気が罷り通るのはこの屋敷の主がいる限りありえないのである。

 

 

「こんばんは、不審者がた。お招きした覚えはないのですが、こんな夜遅くに襲撃をかけるなんて甚だ迷惑です。即刻お帰りください」

 

 

 堂々たる物言いで彼女は現われた。闇であろうとも良く映える美しき黒髪をたなびかせ、白のブラウスに赤いスカートを着こなす遠野邸の女帝、遠野秋葉は眉を顰めて登場した。

 

 

「あ、妹。こんばんわー」

「……夜分遅くにお邪魔しています秋葉さん。ええ、このアーパー吸血鬼を退け次第私も帰りましょう」

 

 

 それまでの雰囲気とか払拭して、気軽にアルクェイドは邪気なく笑んだが、シエルの言葉に顔を顰めさせる。

 

 

「ぶー、シエルだってあわよくば志貴と会おうとしてるのに私だけが悪いなんて良く言えたものね」

 

 

「ええ、私には遠野くんを守らなくてはならないと言う正当な理由がありますから」

 

 

「そんなの言い訳にすぎないわ。貴方は朔と一緒に死体退治でもしてればいいじゃない」

 

 

「……今夜七夜さんは来ませんでした。それと、今この時に七夜さんは関係ありません」

 

 

 朔は遠野邸に厄介となっている一般社会的なニートであるが、その正体は対化物に特化した暗殺者である。戦闘者としてはシエルには劣るが、殺人者としてシエルに勝る生粋の殺人鬼なのだ。

 

 

 そんな朔の腕を忙しいシエルが放っておくはずもなく、個人的契約により三咲町の化物殺しを朔は行っているのであるが、今日は何故か現われなかった。

 

 

 その腕は確かなのであるが、気紛れと言うか掴みどころのない殺人鬼はシエルとしても困っていたりする。せめて悪意や邪悪が無いのはせめてもの救いだろうか。

 

 

「……私は、お二人に今すぐ帰られるように、と言ったんですけど?」

 

 

 明らか無視されて苛立ちを見せた秋葉は腕組みする。隆起のない胸が実に憐れだ。目前にいる二人の胸を睨みつけ、すげえ舌打ちをした。

 

 

「えー、お客はもてなすもんじゃないの妹ー」

「閉じられた門どころか壁を飛んで越えた貴方が言えることではないです、アルクェイド」

「シエル先輩も、でしょう?」

 

 

 いつのまにか構図は三つ巴となっていた。あれ、秋葉は争いを止めに来たんだが。

 

 

 そんな訳でこのままアルマゲドン、もとい最終戦争な三つ巴戦を始めるのかと思われたその時、不意を打って一歩抜きん出た者がいた。

 

 

「まあ、今は私と志貴の問題なんだから、貴方達に構う事も面倒なのよね」

 

 

 やれやれ、とアルクェイドは殺気が充満するこの場に於いても彼女らしく振舞っていた。

 

 

「奇遇ですね、私も同感です。お二方さえいなくなれば私も早々に寝てしまうのですが。執務や土木業者への連絡も済みましたし」

 

 

「……確かに、夜更かしは肌にもよくありませんしね」

 

 

 一瞬秋葉が見せて気疲れの表情を二人はあえて無視した。悲壮感が半端無いのである。

 

 

 しかし、秋葉に対しシエルも何となく察したのか、多少の同情を見せたその時を彼女が、吸血姫が見逃すはずがなかったのである。

 

 

「そんな訳で、一抜けた!!」

 

 

「「――――あ!?」」

 

 

 ゴールは目と鼻の先である。アルクェイドは一瞬の隙をついて志貴の窓へと通じる木を駆け上った。いつも窓は開いているのだ。ウェルカムに開け放たれた窓に許可なんていらない。

 

 

 下でシエルや秋葉の驚愕が聞こえるが、無視である。それよりも今は志貴と触れ合う事が何よりも重要だった。

 

 

 瞬きの内に彼女は駆け上がった。そして最早あと一足でたどり着くと、最後の枝に足をかけようと飛翔したその時。

 

 

「――――あれれ?」

 

 

 アルクェイドが普段腰掛ける特等席にあたる枝に、なんかいた。

 

 

「―――――、―」

 

 

 彼は間抜け面を晒すアルクェイドがとんでもない速度で突っ込んできても静かだった。

 

 

 騒ぐとか慌てるとか無縁そうに静謐な様である。そこで彼はいつも通り、藍色の着流しをはためかせながら佇み、この世のものとは思えぬ夢の湖面を思わす蒼色の瞳で夜を映していた。

 

 

 そして、ダンプカー並みの質量で突撃をかましたアルクェイドに対し、彼はその右手でもって彼女を受け止め――――。

 

 

「うにゃあああああああああああーーーーーーー!!?」

 

 

 ――――るなんて莫迦なことはせず、その手を掴んで一度力を受け流し、基点となった彼により彼女は推進力を狂わされて志貴の部屋には一歩及ばず、ぐるんっと暴力的に振り回されて地面へと投げ出された。

 

 

「――――っく!」

 

 

 とんでもない速度で地面へと叩きつけられたが、彼女もさる者、刹那のうちに空中で体勢を立て直し、その両足で地面へと着地した。だが、衝撃までは殺せず、彼女の足元が陥没する。

 

 

 幾らアルクェイドが弱体化しているとは言え、彼女は吸血鬼。その膂力や質量は人間では支えきれるはずが無いのである。しかしそんな芸当をこなした相手はその場を動かず、みしみしと衝撃に揺れた枝に突っ立っており。

 

 

「ちょっと、なんで朔がここにいるのよ!!」

 

 

 まあ、そんな感じで朔がなんかそこにいた。

 

 

「―。――――」

 

 

「ねえってば、朔聞いてんの!私怒ってるんだからね!?」

 

 

 アルクェイドがぷりぷりと怒っているが、朔はそんなこと知らんと言わんばかりに反応を示さない。

 

 

「七夜さん、……なんでそんな所に」

「朔……よくやったわ」

 

 

 シエルは今夜現われなかった仕事仲間がいる事に目を見開き、その隣で秋葉は不遜に鼻を鳴らした。森をぶっ壊した件については見逃せないが。

 

 

「朔、今なら見逃してあげるわ。……そこをどいて頂戴」

「――――。――」

 

 

 あと一歩のところで邪魔されたアルクェイドはフーっ!と威嚇する猫の如くに毛を逆立てているが、その相手である朔は地上にいる三人を睥睨するように眺めている。この無反応はアルクェイドにとっても歯痒いもので、到底許容できるものではない。彼女は自由なのである。

 

 

 しかし、ゴール目前に遠野志貴の兄である七夜朔がいる。この時点で事態はこう着状態を迎える破目になった。三人は分かっていたのである。常識知らずなアルクェイドでさえもその意味が分かっていたのだ。

 

 

 つまりあの窓を守護する朔を超えない限り遠野志貴の下には辿り着けない事を。これは七夜朔が自分達に与えている試練だと。だが、実力行使は賢明ではない事も分かっていた。何せ相手は一筋縄どころかでは型破りの殺人鬼、そして志貴の兄である。

 

 

 志貴は自覚していないが、かなりのブラコンである。一緒に寝ようかと考える時点でOUT。そんな志貴が慕っている朔を潰すのは志貴に嫌われる事と直結するのだ。

 

 

「――――っく」

 

「―――――っ」

 

「――――はあ」

 

 

 それに志貴に嫌われたくはないアルクェイドは歯噛みし、あわよくばと考えていたシエルは戦慄し、先ほどまで仕事をやっていた秋葉はさっさと寝たかった。

 

 

 秋葉としては朔に任せてもいいが、やはり目前にいる二人を放置して自分だけ眠るのは良くない。それに朔にあまり苦労はかけたくない。森の件は許せないが。

 

 

 そんな訳で三つ巴から一人加わって三咲町の四天王揃い踏みな光景が展開される事となった。誰も彼もが互いを牽制しあって様子を見合う、見ようによっては不毛な光景である。

 

 

「―――――。―」

 

 

 そして、そんな最中に、ふと朔は一瞬開けた窓の中に視線を投げかけた。

 

 

 そこには。

 

 

「………………」

「――――――」

 

 

 黒い衣服を着用している小さな少女、レンが何食わぬ表情で志貴の眠るベッドに近づこうとしていていた。それから二人の視線が絡む。

 

 

「…………」

「――――」

「…………」

「――――」

「…………」

「――――」

 

 そしてレンは朔に向かい、びしっと親指を立てた。無言でグッド。

 

 

 それを朔は無感動に受け取りながら、とうとう動き始めたアルクェイドやシエル、また秋葉に向かって上空から襲撃をかけに行った。

 

 

「…………」

 

 

 朔を見送ったレンはいそいそと志貴の眠るベッドの中に潜っていった。

 

 

 外では乱痴気騒ぎな騒音が聞こえてくるが、志貴は穏やかに眠りっぱなしである。それに満足したレンは志貴の胸の中で、彼の夢の中に入り込んだ。

 

 

 しかし、今も尚なんかコミカルな悲鳴やら、砲撃のような音が聞こえるのに志貴が寝ているのにはそれなりのわけがある。

 

 

「あらあら、幸せそうに眠ってますねお二人とも」

 

 

 いつの間にか二人が眠るベッドの側に琥珀が佇んでいた。寝顔を微笑ましく見つめてはいるが、この部屋には先ほどまで誰もいなかったのである。彼女はいつの間に人間をやめたのだろう。

 

 

「まあ、そうでなくては朔ちゃんやレンさんが考えた意味がありませんよね」

 

 

 そう言って琥珀は外でなんか二段ジャンプとかしちゃってる朔を見やる。人間離れという意味では彼も大概である。

 

 

「志貴さんが疲れてそうだからちゃんと眠らせてあげたいだなんて、朔ちゃんが話を上げなければ全く気にもしませんでしたけど」

 

 

 切っ掛けはふとした事であるが、レンが志貴がちょっと疲れている事に気付き、朔も疾うに気付いていたので、レンは朔に相談してそれが琥珀に知られたのである。

 

 

 琥珀としては朔が気にしているというだけで動くには充分である。

 

 

 そんな訳で志貴のために今回の運びとなり、志貴ぶっちぎり睡眠作戦が始動されたのだ。作戦立案琥珀、実行レン・朔といった感じで。メンバーに不安が残るラインナップである。

 

 

「とは言え、私もそれに参加した一人なんですけど」

 

 

 その懐から幾何学模様な葉っぱを取り出す。

 

 

「人体に毒にならないくらいの睡眠薬なんて作っても面白くないんですけどね」

 

 

 はあ、と琥珀は溜め息。そして再びベッドの中にいる二人を見た。今頃レンによっていい感じの夢を見ているのであろう。志貴の口元はだらしない。どんな夢見てんだこいつ。

 

 

「志貴さんは朔さんと仲良くしたくて、朔ちゃんは志貴さんを心配するなんて、羨ましいご兄弟だなー。ちょっと妬けちゃいますよ、二人とも?」

 

 

 外で今頃安眠妨害を企てていた三人を抑えている朔を琥珀は想った。

 

 

 互いを互いに考えあっているのだから、これ以上ないぐらいに家族な二人だ。長い間離れ離れになった家族の仲が順調に行かぬのは良くあること。しかも、志貴は記憶を、朔は過去を失っているのだ。上手くいかぬ事のほうが普通である。

 

 

 それなのに、多少の支障であろうとも乗り越えようとする志貴と絶えず志貴のために動く朔はそんな事すら感じさせない。きっと互いの血が互いを求めたのだろう。あるいは魂と呼ばれるものだろうか。

 

 

 

 そして琥珀は、ふと思った。

 

 

 

 今眠りについている志貴の首を絞められたらどれほど良いのだろうかと。

 

 

 

「うーん、それは確かに魅力的ですねー」

 

 

 そんな、当たり前のように互いを想える二人を琥珀は羨ましいと思い、また嫉妬しないと言えば嘘になる。

 

 

 琥珀も人並みに女だ。想い人である朔を独り占めしたい。

 

 

 その思考の一片足りも自分以外を考えて欲しくない、と琥珀は一心に思う。

 

 

 挙動の全てや人格を余す事無く琥珀に向けて欲しい、と琥珀は切実に願う。

 

 

 ならば、その原因に当たる志貴を排除できれば、それは凄く素晴らしい事ではないか。

 

 

 無用心に首を晒す志貴を■■てしまえば、朔の全ては自分だけのものになるのに。

 

 

 でも。

 

 

「まあ、そんな事やっても意味がないですけどね。第一朔ちゃんに嫌われちゃいますし」

 

 

 それをやっても朔を縛る事はかなわない。

 

 

 そんな事をやったって琥珀の八つ当たり、自己満足にしか過ぎないのである。

 

 

 そして琥珀は朔のために成らない事はしたくない。

 

 

 そうでなければ、今この時はきっと嘘になるから。

 

 

 それだけは、嫌だから。

 

 

「……では、おやすみなさい志貴さん」

 

 

 琥珀はふっと力を抜いて布団をかけ直す。

 

 

 窓際から見える景色は本当に綺麗な夜空で、月光に澄んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『『『ざ、残像ですって!?』』』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暴れまわる三人の驚愕が琥珀の耳に届いた。

 

 

それぐらい朔に出来ないはずがない、と琥珀は楽しそうに笑った。

 




朔が地味に超人化中。なおこんな事できませんから。

でも十傑集走りは出来る。やらないけど。

あと琥珀さんが書きやすくて困る困る。


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過去編 Rhapsody in Crimson 上

 聳える高級マンション。

 

 

 N県の地方都市、その一角に佇む仇川(あだかわ)マンションは所謂高級マンションと呼ばれるに相応しい呈を成している。

 

 

 駅を近くに覗くその地域では密集するような形で多くの建築物が聳え立っており、仇川マンションはその中心部にある。マンションは仇川という響きの悪い名とは裏腹に清潔感と機能美溢れた趣となっており、外観は曲線にだが僅かに捻れ、外部をなぞるように上に辿ると次第にそれは細くなっていく。

 

 

 それは上に行くほど階層の部屋数が少ないからであり、その分だけ一部屋ごとの広さが増していくからだった。最上階に到っては一室しか設置されておらず、その地上から始まり捻れ、次第に細くなっている外観は冷たい氷柱を思わす。

 

 

 階層数は全四十。エントランスとなる一階には居住スペースは作られておらず、広い其処には趣向を凝らされた調度品が数多く設置されている。海外から高い評価を得た新気鋭の絵画や、あるいはどこぞから発掘された古めかしき壷など種類も豊富に置かれており、エントランス中心には観賞用のプラタナスが植えられていた。そこから最上階に到るまで吹き抜け状になっており、白を基調としたマンション内に一色だけある緑は清涼感すらあり、エントランスは美術館の如き様相を成していた。

 

 

 エントランスの奥には昇降の階段があり数は東側と西側の二つ。またその階段に挟まれるような形でエレベーターが二つ隣接されていた。電動式エレベーターのボックス型で、奥行き及び高さは約2メートル。狭さとは無縁の程よい造りではあるが、空間には妙な圧迫感があった。

 

 

 時分は真昼。天上の太陽が傾きかけた頃である。

 

 

『ええ、私としても心苦しい事ですかこれも致し方の無い事です。残念でしたね、辰無(たつなし)さん。ただ安心はして下さい、隠蔽工作はこちらが受け持ちます。存分に死んでも大丈夫ですよ』

 

 

「……わかっております」

 

 

 その仇川マンションの最上階、街を眼下に覘く一人の男がいた。

 

 

 最上階の部屋、玄関を抜け一本の通路を真っ直ぐに進むとリビングに辿り着く。質素な造りのリビングであった。高級マンションの最上階でありながらその内観は外観と比較して見落ちするやも知れぬが、よく見てみれば室内の調度品は趣向を凝らされた逸品ばかりであり、華美な装飾を施されぬ造りと丁重なる配置には侘び寂にも似た感慨を与える。

 

 

 白髪が混じる、静謐な顔つきをした壮年の男である。

 

 

 上質のスーツに身を包んだ男、仇川辰無は毛並みの良い絨毯を踏みしめながら、ベランダにでる窓際から外を見つめていた。瞳は何も見ていない。

 

 

『理由は聞かないのですかな?』

 

 

「理由を知っても結末は変わらない。……それに聞いたところで久我峰さまがお答え下さくださるなどと思っておりません」

 

 

 男の表情は重く暗い。しかし歪ませてはいなかった。絶望しかないと理解しながらも直向に歩む殉教者のような面持ちで男は携帯電話を使用していた。

 

 

『最期の時であろうと言うのに、その不変。流石は仇川辰無(たつむ)、という所ですか?私としては貴方の慌てふためいている姿を期待しましたのに』

 

 

「……期待に沿えず、申し訳ありません」

 

 

『そんな事少しも思っていないでしょう?』

 

 

 ふふふ、と惨たらしく電話越しの相手、久我峰斗波は笑った。

 

 

 電話の向こうにいる相手、久我峰斗波は男の上位者だった。

 

 

 近年電話越しの相手、遠野分家久我峰家の傘下に入った事もあるが、その経営における手腕や悪辣さ、冷徹さに於いて何一つとして敵わないと男は熟知している。大よそ権力や金銭の機敏さに於いて男の感覚は非常に有能であったが、それでも久我峰の影を踏めるとはまるで思えなかった。

 

 

 仇川辰無は久我峰が所属する遠野グループのように、親類が運営する財閥の出身ではない。仇川は辰無が一人で立ち上げた名であり、今ではそれなりの辣腕家として名が知られるに至った企業だった。しかし、企業としての噂を先んじて広まったのはその中心人物である仇川辰無の奇妙な噂だった。

 

 

 曰く、仇川辰無は人間ではない。

 

 

 遺伝子的に考察すればかれは間違いなく正真正銘の人間だったが、噂は彼の存在そのものではなく辰無の行いそのものにあった。

 

 

『しかし、今でも思い出しますよ。貴方と初めてお会いした当時の事を』

 

 

「……若造の向こう見ずを掘り返すのはお止め下さい。それに、今はそんな話をする時ではないかと」

 

 

『まあ、良いではないですか。私は覚えていますよ、初対面の人間に行き成り「貴方は信用のならない人間だ」と言われたあの時を』

 

 

「……」

 

 

 仇川は福祉関連の企業である。国内を始め、海外の発展途上国に対し食料の提供を行い、穀物の育て方や苗の発見方法、更には調理方法の提供などを行い、今ではそれ以外の慈善活動も手がけているが、その抜本には徹底した餓えの根絶が謳われている。

 

 

 その理由は仇川辰無本人が幼少時から極貧の生活を送り、飢餓を体験した事に始まる。

 

 

 現在日本国内において飢餓を経験する者は少ない。しかし、一握りの人間は今も尚明日も見えぬ貧しさのなか、今日を生き抜く米の一粒すらも手に入らぬ者がいる事も事実である。そして仇川辰無はその一握りの人間だった。

 

 

 仇川辰無はその日を生き抜くために木の根を齧り、降り注ぐ雨で咽喉を潤した。人肉は食さなかったが、痩せこけた犬猫を捕らえて食し、熱に魘された事もある。ゴミ箱の中に残された腐った弁当に貪りつき、幾度となく盗みを働いた。栄養不足な体では大抵逃げ切る事ができず、暴力の的にあった。だが、彼は何度も盗みを行った。

 

 

 全ては生きるためだった。親もいなかった辰無は親戚が誰なのかも知らず、たった一人で生きてきた。未だ子供の身であるからまともに働く事も出来ず、収入を得る事もなかった彼は、だからこそ餓えた者は人間ではいられない恐怖をこの上なく思い知っていた。

 

 

 社会から転げ落ちた者のたまり場で日々繰り返される獰猛な争い、一欠けらのパンのために殴り合いが開かれ、遂には人殺しまで行われるのである。そして転がる死体に金目の物はないかと浮浪児が群がり、それを大人が蹴飛ばすのだ。

 

 

 だから彼は飢えを真底理解していた。食欲こそ人を人足らしめる理性の境界線であり、飢餓に囚われた者は人ではなく畜生に成り下がるのであると。

 

 

 それだからこそ大人と成った彼は飢餓を憎んで飢えを根絶しようとした。その人が優しく出来ない理由は満たされていないからだと考え、慈善活動を行い福祉団体はては企業として活動した。幾つもの国に食料を提供し、難民への慈善活動を行った。いつしか彼は企業家として名が知られるにまで至り、今ではこうして地上を見下ろす立場にいる。かつて仄暗い地上で空を見上げていた頃とは大違いだ。

 

 

 しかし、だからこそ彼は人間ではなかった。

 

 

 彼は人の善意を信じているが、己に善意があるとは到底思えなかったのである。己がこのようにするのは飢えを憎むからで、それには人に対する善意が含まれなかった。全ては人の善意を信じ、己の愚かさを知っているが故だった。

 

 

 ひとたび畜生として地べたを這いずった彼は他人こそが素晴らしく、己はそれを際立たせる泥土でしかないと彼は知っていたのである。

 

 

 だからだろう。利益のみを追求する久我峰のやり方を彼は久我峰傘下へ参入した当時一向に認めはしなかった。

 

 

「……それに『利用しやすそうな人間だ』と返したのは貴方だと思うのですが」

 

 

『さて、そんな事記憶にはありませんが』しれ、と久我峰は言う。

 

 

『ただ、顔合わせをさせた方の慌てようはおかしかったですね。出会っていきなり険悪なムードとなるのですから』

 

 

「……私が貴方に噛み付いていただけです。事実、久我峰さまだけはあの時を愉しんでいた」

 

 

『ええ、実際愉しんでいました。懐かしいものです』

 

 

 そして久我峰は当時を思い出したのか、くつくつと笑っていた。

 

 

 久我峰傘下への参入は仇川辰無本人が望んだ事ではなかった。別に彼は財力の保持や権力増強のために動く人間ではなかったからだ。それなのに今こうして上と下との関係と成り、過去を懐かしむに至ったのは久我峰からの要望があったからである。

 

 

 成り上がりで台頭し碌な後ろ盾もないが活発な動きを見せる仇川には当時から敵が多かった。あからさまな示威行為は無論、酷い時には犬の死体(当時から仇川辰無の過去の話は有名だった)が送られてきた。

 

 

 故に久我峰の話は本人の感情を除けば有益な誘いだった。例え上の人間のやり方が気に喰わなかろうとも、辰無としては後ろ盾があればよかった。ただ、それが遠野グループで最も財力を保持する久我峰だと知ったときには辰無は珍しくその表情を崩したものだが。

 

 

『本当に懐かしい……』

 

 

「……」

 

 

 久我峰傘下への参入から少なくとも七年以上は経過している。

 

 

 あらから辰無は久我峰の下で働き続けた。遠野グループへと久我峰の擁護で参入する者は珍しく、当時は未だ健在だった遠野槙久の顔色の悪いながらに憮然とした表情や、小さな黒髪の少女、今では遠野当主である遠野秋葉の可憐な姿を含め、多種多様の感情を辰無は向けられた。

 

 

 明らかな蔑みや、僅かにちらつく懐疑、利用しようとする者の肥えた物欲などを一身に受けて、辰無は動き続けた。

 

 

 その利益のためならば容赦なく人を切り捨て、骨までしゃぶり尽くす久我峰の人間性はとことん受け入れられないものだったが、少なくとも経営者としての手腕は驚愕に値するものだと辰無本人認めているところで、だからこそ今まで彼の目的や方針に従ってきた。

 

 

 しかし、それも今日で終わりだ。

 

 

『ですが、これで末期の会話が終わってしまうのは如何にも寂しいところです。どうでしょう、最期の話題として如何にこのような事になったのか話し合いませんか?私も人並みの罪悪感を抱くぐらいは未だ人間ですからね、貴方とは少しでも長く話をしたい』

 

 

「……わかりました」

 

 

 志を共に歩んだ故に、如何に久我峰であろうとも名残は覚える、と言う事だろうか。しかし少なくともその声音には男に対する憐憫は無い。そう読み取れた。

 

 

『実際貴方は良くやりましたよ。対応を考え、対策を練り、大よそ考えうる障害の排除。情報操作を始め、その殆どを貴方は自ら行った。実直と呼べる貴方ですから、それを私は好ましく思っています』

 実直とは即ち裏を返せば冷淡ですから、と久我峰は言った。だから。

 

 

『そう言えば、唯葉さんはまだお元気ですか?』

 

 

「……っ」

 

 

 相変わらず人の心を見通す事に長けている。

 聞かれたくは無い事であろうとも、遠慮なく久我峰は言葉にする。

 

 

「……アレは、健やかに過ごしています」

 

 

 

 

『監禁して、ですかな?』

 

 

 

 

「……っ!、はい」

 

 

 怒鳴りそうになる心持を辰無は耐えた。

 

 

 変わり果てた妻を外部から遮断しようと閉じ込めている事実はそうなのだから何も変わらない。

 

 

 しかし、何故久我峰は知っているのか。妻を守るためには万策を尽くし偽装工作も完璧だったと辰無は自負している。秘密裏に計画を遂行し、誰にも事実が触れないようそれなりに上手くやってきたはずだった。それなのに、電話越しの相手である久我峰が既に知っているのは何故だ。

 

 

 あるいは、久我峰が情報をリークしたのか。

 

 

 ――――あの七夜の体現へと。

 

 

『いえ、それは違います』

 

 

 しかし、言葉にもしていないのに久我峰は否定する。

 

 

『いやはや、流石に私と言えども貴重な協力者を「嵐」に投げ出すような真似は致しませんよ』

 

 

「……それは、真ですか?」

 

 

『追求をするとは、なかなか追い詰められているようですね。ですがそれほどまでに私への信頼が無かろうとも、私はやっていませんよ。今しがたその事実を知ったのですから、そのように手を回す事など到底無理です』

 

 

「……そう、ですか」

 

 

 久我峰がこういうのならば、そういうことなのだろう。

 

 

 腹の底では何を考えているか分からぬ男である。その趣味も人格もまるで理解できない最悪な男だ。久我峰は男の中の男だった。例え真顔で嘘を吐き、笑顔で騙しもするが己が抱いた志は決して裏切らないと、辰無は久我峰を評価していた。

 

 

 その心情を推し量る事は出来ないが、『今この時』でこういうのだから、きっとそうなのだろう。

 

 

 しかし、ではどこから情報は漏れた?

 

 

『実直な事は誇るべき事だと思いますが、しかし完全ではなかった。「この世、遍く悉くには理解も出来ぬ奇怪がごまんと蔓延してるが完全は存在しない、だからこそ人は完全を目指し続ける」とは今は亡き刀崎梟の言葉ですが、どれだけ頑張ろうとも穴は必ず開いている……その穴が一体何なのか気になりませんか?』

 

 

「……はい」

 

 

 久我峰は厭らしくもわざとらしい口調だった。これが作られたものではなく、素の声音であるのだから侮れない。

 

 

 しかし、今更理由を知って何になるというのか。

 

 

 書類工作はもちろん、情報操作、目撃者の排除、あらゆる手は下したはずだ。

 だが結果はこれだ。どこからか情報が漏れて、今まさに『鬼』が迫ってきている。

 

 

 どこで間違えた。どこで下手を打った。思考は潜り込んで真実を探り当てるが辰無の中身にそれらしき影はちっとも見えない。心当たりが全く無いのだから、きっと辰無自身に原因は無いのだろう。ならばどこから情報は逃げたのだ。

 

 

 ――――いや、待て。

 

 

 今久我峰は聞き逃してはならない名前を出さなかったか?

 

 

「…………刀崎」

 

 

『ええ、そうです。刀崎のところの白鷺嬢がどこからか嗅ぎつけたようです。覚えていますかな、白鷺嬢を?刀崎家のご令嬢で家系で言えば三女になりますね』

 

 

「……ええ、それとなくは」

 

 

『だったら話は早いです。白鷺嬢、どうやら刀崎梟がお亡くなりになってから色々とやっているようですが、今頃は貴方の話を聞き及び有頂天で吹聴して周っているのでは?「仇川唯葉は気が狂い反転したのです」と、締め上げられた小鳥の鳴き声にも似た声でね』

 

 

「………………あの、雌狐が……っ!」

 

 

 ぎりぎり、と携帯電話が握りしめられ悲鳴を上げる。

 しかし、それだけでは彼の憤りは治まることを許さなかった。

 

 

 刀崎白鷺とは未だ刀崎梟が存命中に産まれた息女であり、立場で言えば梟の三女に当たる。当時七十を越えた梟が跡継ぎのために拵えた子供だったが、かつてその刀崎としての才能の欠如から彼女は無能と罵られ放逐された身の上だった。

 

 

 その刀崎白鷺が動いている。

 

 

 彼女に知られたことは厄介だ。白鷺自身は取るに足らない存在であるが、彼女に知られたという事はつまり。

 

 

『刀崎に知られたのは厄介ですが、しかしそれよりも問題なのはそれが退魔の耳に入った事です。七夜朔はもう間もなくやってくるのでしょう。あとどれほどかはご存知で?』

 

 

「……恐らく、もう二時間は掛からないでしょう」

 

 

 内心忸怩たる想いで辰無は言った。

 

 

 三時間あまりでやってくると知れただけで上等であるが、しかしその三時間でやれる事など少ない。取り合えず娘は親戚の所へと行くように言ってはあるが、耳を澄ませば近づいてくるだろう鬼の吐息が聞こえてきそうだった。

 

 

『誤差としては一分単位で考えておきなさい。彼には豪胆よりも臆病者の思考で対策を練ることが望ましいです……しかし、なるほど。確か南の方にいたらしいですが、相変わらずなようで』

 

 

「……七夜朔と、お会いした事が?」

 

 

 ふと訝しく問うと、久我峰はこの男には珍しく暫しの逡巡を経て『ええ』と応えた。

 

 

『私も以前までは遠野の館に住んでいましたが、七夜朔は一度だけ拝見しております』

 

 

 数瞬、久我峰が何を言っているのか辰無は理解できなかった。

 しかし瞬きの内にその恐るべき事実を辰無は噛み締める。

 

 

「……それは、つまり」

 

 

『はい、七夜朔は一時遠野邸にいたのです。約十年前の事です。先代当主槙久様によって七夜朔は囲われていたのですよ、遠野の館に』

 

 

「なぜ、七夜朔が……、それは真ですか?」

 

 

 それから先は久我峰本人の言葉によって遮られた。

 

 

 先ほどの懐疑とは異なる衝撃が辰無の口から問いを放った。それほどまでに、その情報は信じがたいものだった。遠野グループの本拠地に当たる遠野邸にあの『鬼』が住んでいたなど、あまりに信じられるものではなかった。

 

 

 しかし、久我峰は『本当です』と言った。

 

 

『ええ、疑うのも無理からぬ事ですが事実です』

 

 

「……」

 

 

『七夜朔は当時七夜の里が壊滅したのち、刀崎梟が確保し彼によって誑かされた親族から強要された槙久様によって軟禁状態にされておりました。期間は恐らく一年にも満たないでしょうが、少なくとも十年前に七夜朔が遠野邸にいたのは間違いありません』

 

 

「……それを、知っているものはどれ程?」

 

 

『さて、あまり多くは無いと思いますが。何せ七夜朔を囲っていたのは当時身内に甘いとは言え遠野当主だった槙久さまと、妖怪とまで言わしめられた刀崎梟です。彼らは相手取り、そんな事を自ら知ろうなどと考える事が出来る方も当時少なかった』

 

 

 確かに遠野当主と刀崎当主を相手に攻勢を仕掛けるなどという愚行を犯すものはいないだろう。目的のためならば手段を選ばぬ苛烈極まりない遠野槙久、そして手段のためならば目的を選ばぬ壮絶極まりない刀崎梟。その力は決して侮って良いものではなかった。

 

 

 しかし、事が事だ。恐らくその事実が知れ渡れば忽ちに盤上がひっくり返る。

 

 

 遠野と七夜は何年も前から敵対関係にある。遠野槙久が七夜攻めを行い、遠野の私兵が〝七夜朔〟と〝軋間紅摩〟によって壊滅状態に陥った真実を知る者は揃って口を紡ぐが、あの戦争に赴かなかった者へと語っても信じられはしないだろう。当時子供だった朔にその様な事が出来るはずがないのだと。

 

 

 それほど前から遠野と七夜、正確には遠野と七夜朔は殺し合いを繰り返してきた。いや、七夜朔によって遠野は殺されてきた。朔の復讐によって殺められた総数は数知れず、その中には欠かす事のできない人材もいた。

 

 

 そしてその凶手は留まる事を知らない。辰無は以前から遠野槙久の重体には七夜朔が原因だと思っているが、これは間違いないだろう。そして十年前に七夜朔が遠野邸にいたのが事実であるならば真実味が増すに違いない。しかし、それが真実であるならば恐るべき事だった。

 

 

 それは即ち、十年前から七夜朔の復讐によって惨劇が始まっているという事だ。

 

 

『そして私が七夜朔を見かけたのもそんな折の事ですが…………聞きたいですか?』

 

 

 珍しく久我峰が問う。

 それは相手をいたぶる手段か、あるいは考えにくいが気遣いか。

 

 

「是非に」

 

 

『……あれは本当に偶然です。私が望んだ結果でもなく、また誰かが用意した場面でもありませんでした。しかし如何なる数奇か、私は見てしまったのですよ。七夜朔の姿を』

 

 

「……」

 

 

『遠野邸で当時ご健全だった槙久さまに呼び出された私はその時、ふといつもならば気にもしない外を見たのですが……』

 

 

「はい……」

 

 

 躊躇いがちに久我峰は一呼吸を置いた。

 

 

『そこにはこちらを見ながら己の体に刃を突き立てる七夜朔の姿があったのです。私を見ながら、なんどもなんども腕に足に腹に胸に、なんども、なんども刃物を突き刺して。……血飛沫に塗れながら、真っ直ぐに私を見て』

 

 

「……それは、なんという」

 

 

 そこから先は言葉に出来なかった。

 

 

 当時話を聞く限りでは小さな子供だったらしい七夜朔がそのような自傷行為に走るなど狂気の沙汰としか思えない。いや、あるいはだからこそ七夜たる由縁なのだろうか。

 

 

『アレは人の身を纏った悪鬼です。いえ、悪鬼ならばどれほど良かったのでしょう。あれはそこらの殺人狂とは異なる正真正銘の殺人鬼です。狂気がそのまま正常と化した人殺の鬼です』

 

 

 殺人を決行する存在には少なくとも三種類いる。 

 

 

 殺人によって己が目的を達成する人間。

 殺しそのものに快楽を見出す人間。

 理由無く殺す人間。

 

 

 だが、七夜朔はそのどちらとも違うと久我峰は忠告する。

 

 

『お恥ずかしい話、私はあの時始めて七夜というものを見たのですか、身震いしましたよ。当時七夜朔はまだ小さな子供でしたが、その茫洋な佇まいとどこを向いているかも分からないその視線は今でも時たま夢に見ます。……ですが、私が真底肝を冷やしたのはその瞳でした』

 

 

「……貴方が肝を冷やしたのですか?」

 

 

『私を何だと思ってるんですか。少なくとも半分ぐらいは貴方と同じ人間ですよ』

 

 

 憮然とは違う感情で久我峰は苦笑したが、すぐさまそれも潰えた。

 

 

『あの瞳は危険です。蒼の魔眼を顕現した感情も読めぬ瞳ですが、溢れんばかりに詰め込まれた殺意が一切彼から滲まずに内側にとぐろを巻いているのですよ。分かりますか?当時幼いと言っても良い子供がそんなものを抱えている異常を。……彼は殺意の塊、ありったけの殺意しかない本物の殺人鬼です。殺人そのものを目的とし、快楽を抱かず殺人そのものを理由とする殺人鬼。常識など通用しないと心がけなさい。……でなければ、あっという間に死者の仲間入りですよ』

 

 

 知らず息を呑んだ。そして戦慄した。

 

 

 果たして、それは人間なのだろうか。

 

 

「……かしこまりました」

 

 

 辰無はそう言葉を紡ぐ事しか出来なかった。電話越しであるというのに久我峰の気迫が伝わってくる。危機感と少しばかりの悲壮を認めた声音である。飄々とした態度ですらない相手を飲み込まんとする久我峰の意志は、それほどまでに七夜朔を警戒しているということだった。

 

 

 ならば何故、久我峰の目的は――――。

 

 

『そろそろ時間でしょうね』

 

 

「……はい」

 

 

 今生の別れは刻々と近づいてきていた。迫る七夜朔に対し逃れる術は少ないながらも無くはないだろう。しかしそれは仇川辰無のみが逃れる場合だ。

 

 

 何故なら彼は人間であるからだ。

 

 

 噂によれば七夜朔は人間を殺さず、魔に対してのみその猛威を揮うと聞く。あくまで噂の域を出ぬ流言飛語であるがもしその噂が真ならば、彼は逃げおおせる可能性はある。

 

 

 だが、彼は逃げられない。

 正確に言えば、逃げない。

 

 

 妻を置いて逃げるなど出来ない、妻を連れて逃げる事も難しい。

 

 

 それを分かっているのだろう、久我峰は声をかけてくる。

 

 

『……このような事、本来ならば聞くべきではないのかもしれませんが。貴方は後悔をしていないのですか?』

 

 

「……どうなされたのですか、久我峰様。貴方らしくもない」

 

 

 珍しく垣間見える久我峰の気遣いを辰無はこれまた冗談めいた口調で流すが、久我峰はそれを許さなかった。

 

 

『そうですね。私らしくはない事です。明日には雨でも降るのではないのですか。何ならばご自分で確かめて御覧なさい』

 

 

「……それは」

 

 

 無理な事だった。

 

 

 仇川辰無が明日を迎えられないと、既に二人は理解している。朔に狙われた者が逃げおおせるはずが無い。何故なら迫ってくる存在は七夜なのだ。彼によって殺された混血は数知れず、また純然たる魔ですらも鏖殺せしめた絶滅主義者。その傍若無人さは嵐にも例えられる殺人鬼。一度彼の眼に入れば、忽ちに亡骸と化すだろう。

 

 

 しかし、伴侶を置き去りに逃げ延びるなど、辰無は出来ない。

 

 

 逃げるとは、全てを捨てると言う事だ。

 

 

 人間関係、財産、思い出や感情に至るまで、すべてと言うすべてを置き去りにして逃げる事は悲しいほどに辛い選択だ。今までの生活はもう送れず、誰とも接触できないそれを人は孤独と呼ぶ。そして辰無は孤独に耐え切れるほど人でなしではなかった。

 

 

 久我峰はそもそのような事態になる前に対処できる自信と自負がある。何故なら彼は陰謀渦巻く遠野に於いて尚腹黒さでは追随を許さぬ久我峰斗波である。久我峰斗波は腹で考えるとまで言われた陰謀の手だれなのだ。微笑んだ表情から甘い言葉で罠を張り巡らし、毒の沼地へと引き釣り込む蝮。陰謀を逆に利用して相手を地獄に叩き込む久我峰の長男なのだ。まずもって逃走などという選択肢を行うなどありえない。

 

 

『私は志し、それを叶える為この手を汚しています。別に私はそれで構わない。何故ならそれが私にとって最も価値ある事だからです。秋葉様が婚約を破棄しても尚、私はあのお方のため、秋葉様の本心を叶えるために動き続けてきました』

 

 

「……」

 

 

『そんな時に私はあなたと出会った。そして貴方も私に賛同してくれました。賛同して、私の個人的パートナーとして秋葉様を引き釣り落とそうとする者を秘密裏に処理した事もありましたね』

 

 

「……」

 

 

『けれど、全ては貴方が行わなくてもよかった事だ。貴方が行わずとも、私が行えばよかっただけの話。手間が省けた程度の事です。そしてその手間を省いた結果、貴方の末路は決まった。……だからあの日、私と共に泥沼を歩む事を選んだ貴方は本当に後悔はしていないので?』

 

 

「……――――確かに」

 

 

 静かに、辰無は言葉を紡ぐ。

 

 

 槙久が亡くなり遠野当主は未だ若者である遠野秋葉が執り行っている。しかし、それが原因で今遠野は妖しげな空気が漂っていた。秋葉は能力的には問題がなかった。ただ彼女が若いことが問題だったのだ。

 

 

 経験のない者は判断などを失敗する事が多々とある。財閥の当主、あるいはグループのトップとはその双肩に数え切れぬ命運を背負っているのだ。しかし、それでも彼女が遠野当主であるのは実績はなくとも溢れん才気でカバーを果たし、久我峰が秋葉の補助に尽力しているからである。

 

 

 久我峰も含み二人は若い。老人共も傀儡として二人を御す事が出来ると踏んだのだろう。しかし結果はこの二人によって遠野は持ちこたえ、更なる飛躍を見せんとしている。

 

 

 だからだろう。今遠野グループは二分化を見せようとしていた。元から一枚岩の財閥グループでははなったが秋葉を擁護する秋葉派と、保守派とも取れる行動を起こす者が寄り集まる刀崎派。それが明確化を果たそうとしている。

 

 

 久我峰はそれを見越し、元は婚約者である秋葉のために奔走し彼女の立場を守ろうと今も尚懸命な裏工作を行い、対陣の人間を処理している。

 

 

 そして辰無は久我峰の手伝いを買って出、今まで共に協力者として動いてきた。

 

 

「……私がいなくても問題はなかったでしょう。寧ろお力添えがどれほど微々たる物だったか、痛感も致しております。幾度自らの至らなさを思い知り、人の汚さに吐き気を覚えた事か」

 

 

 久我峰の傘下に入り、まず始めに任されたのは裏切り者の処理だった。それを彼は奥歯を噛み締め遂行した。助けてくれと懇願する裏切り者を彼は目を背けて処理した。

 

 

「私は間違っていたのかもしれません。己の領分を見誤り、存外の魍魎が跋扈する人の世を流す事も出来ない私は、久我峰様と共に歩む道を選ぶ事がそもそもの間違いだったのかもしれません」

 

 

『……』

 

 

 しかし、と辰無は言った。

 

 

「後悔は、一度たりともありませんでした」

 

 

『……』

 

 

「今でも貴方のことは気に喰わない。言葉が許されるのならば、貴方とは合わない」

 

 

 人の善を信じた仇川辰無と、人の悪を受け入れた久我峰斗波。

 

 

 彼らは生きた世界が異なった。

 

 

 貧困に喘ぎ、飢餓の苦しみを知りながら早々に人道を踏み外し人を殺めることも辞さなかった辰無は己が薄汚さをせせら笑いながら、狭い路地裏で囲われた空を見上げていた。

 

 

 富と権力を約束され、何不自由ない人は邪悪が腹の底に潜む事を潜在的に見出していた久我峰は人を嘲いながら、誰よりも高い場所で地上を見下ろしていた。

 

 

 同じ日本に生まれ育ちながら、なんという格差だろう。

 

 

 人にはそれぞれの世界がある。

 

 

 辰無には辰無の世界があり、久我峰には久我峰の世界がある。

 

 

 そしてその世界が奇縁によって触れ合った。

 

 

「ですが、久我峰様」

 

 

 どれだけ薄汚いものであろうとも、そこには必ず光がある。

 

 

 絶望の中に希望を見出す事と同じように。

 地獄の中に天国を見出す事と同じように。

 

 

 あの地上から見上げた小さな空のように。

 

 

「貴方の志はきっと尊いものだと、私は思っています。あの日貴方のお心を聞かされた私は、婚約を破棄された今でも遠野秋葉様の望みをかなえようとするそれを、きっと善いものだと受け取りました。それは今でも変わりません」

 

 

 暫し、久我峰は無言だった。無言で辰無の言葉を噛み締めていた。

 

 

『……いやはや、煽てられることは慣れていますが、……そんな所を気に入られたと直接言われるのは正直、戸惑うものですね』

 

 

「……久我峰様」

 

 

 久我峰は孤高だった。財に恵まれ権力を握り、見た目が醜かろうともその周りには大勢の人だかりがいた。しかしそれはおこぼれを預かろうと屯うハイエナで、張り付いた愛想を振り撒く事しかできない不快な存在だった。久我峰はそれさえも利用したが、結局彼の周りには利権を付けねらう俗物しかいなかったのだ。

 

 

 それを彼は悲しいと、あるいは虚しいとは思わなかった。人に期待するべきはその人がどれほどの機能を持ち、それを発揮し利益を得る事ができるかということだけで、それ以上のものはなかった。

 

 

 だと言うのに、久我峰は。

 

 

『そうですか、……貴方はもう、いなくなるのですか』

 

 

「……」

 

 

『ふむ、なんでしょうねこれは。ふむ、この感じは……私にはよくわかりませんが、――――まあ、いいでしょう』

 

 

「久我峰様」

 

 

 自身の内面に生じる心持を久我峰は把握しかねた。心を司る久我峰でありながら、彼は今この時己の中に波立つ感傷の細波をどうする事も出来ないのだった。辰無を失う事は真に惜しい事ではあるが、それも何かで埋め合わせれば良いだけの話なのだ。

 

 

 しかし、それを整理するには時間があまりに足りない。

 そして、それをどこか嫌がっている己さえいる。

 

 

『名残惜しさはありますが、そろそろ時間も差し迫った事です。これで充分ですかね、貴方のほうには何かありますか?』

 

 

 これで終わり。そう思えないほどに間際は淡白だった。元々辰無は闊達な人間ではないが、それでもこれが今生の別れだと思うと物悲しく思えてしまう。

 

 

 しかし、だからと言ってこれ以上長引かせても意味は無い。時間も無い事だ。

 それに、二人にはこれぐらいあっさりしていたほうがちょうどよかったのだろう。

 

 

「いえ、ありません」

 

 

『……わかりました』

 

 

 僅かに沈黙が舞い降りる。もう語るべきことは語った。これ以上に何かを告げることは無粋。しかし、そう思えば思うほどにこの沈黙は重たさを増していく。ただ久我峰の内心はどうなのか、それだけが気になった。

 

 

 そんな時だった。静けさが漂う室内に羽のような声音が浸透した。

 

 

「ぱぱ、準備できたよーっ」

 

 

 室内から遠くパタパタと軽やかな足音が聞こえてくる。子供の足音である。

 

 

『――――ふふ。しほ子ちゃん、ですか。彼女はどうするので?』

 

 

「……西に親戚がおります。そこに預けようかと」

 

 

『私が面倒を見ても構いませんよ?』

 

 

「……娘を手篭めにはされたくないので、遠慮いたします」

 

 

『失礼ですね。これでも私は真摯なのですよ、変態という名の』

 

 

「……」

 

 

 と久我峰が笑う。気付けばこんなにも短い遣り取りに先ほどまでの湿っぽい空気はどこかへと消え去ったようで、名残もない。きっとこんな軽やかさが上等なのだろう。

 

 

『では、辰無くん』

 

 

 そしてふと、電話越しの向こうで何故だかわからぬが辰無にははっきりと。

 

 

『いずれ地獄でお会いしましょう』

 

 

 久我峰が笑っているように思えた。

 

 

「……久我峰、さま」

 

 

 電話が切れて、味気ない電子音が耳を打つ。

 プー、プーと単調な物音には久我峰の声音は見出せない。

 しかし、それでも辰無は暫く携帯に耳を傾けていた。

 

 

 ――――プー、プー。

 プー、プー、――――。

 

 

「ぱぱ、もうわたし行けるよー?ぱぱー?」

 

 

 荷物は玄関へと置いてきてあるのか、手ぶらのままでしほ子はリビングに顔を出した。愛らしい顔が不思議そうに父を見ている。それに辰無はどこか躊躇うように携帯を眺め、そして閉じた。

 

 

「……しほ子、もういいのか?」

 

 

「うん、おばさんの家にママもいるんだよね?わたしすぐに行けるんだっ」

 

 

 しほ子は〝にへら〟と笑った。彼女は当年七歳になったばかりの少女なのだから、母が側にいない事に寂しさを覚えているのだろう。

 

 

「ママは〝りょうようする為に〟おばさんの家にいるんだよね。わたしおとなしくしてるよ、ママが早くなおるまで我慢するよ、しほ子えらいでしょ!」

 

 

「……、ああ、そうだな」

 

 

 そう言って彼女は小さな体を包みこんだ白いワンピースを軽やかに揺らした。

 

 

 彼女には心苦しく思うが嘘を告げている。未だ小さな我が子に自分達の平穏が潰える運命を知らせるにはあまりに酷だった。

 

 

 既に唯葉の生家には連絡を入れてある。ここまで来るのに幾分も世話になった彼らを最期に頼るのは悪いとは思ったが、頼れるのは彼らしかいない。彼らはしほ子の件を謹んで受け入れてくれた。既に唯葉とは会えぬ事を理解しながら、彼女の娘を引き取ってくれるのだから、心強いと思う。

 

 

 後塵は残さぬと決めている。

 

 

 久我峰にも、彼らにもたどり着かせはしない。全てを引き受けて、この命を捧げて止めてみせる。だからこれが最期なのである。

 

 

「ぱぱもあとから来るんでしょ?わたし待ってるからね、それでママとわたしと一緒に寝るって約束だよ」

 

 

 無邪気に笑う彼女の顔を見るのが辛くて、思わず顔を強ばらせる。

 

 

 向こうにたどり着き、いつか真実を知るときしほ子は恨むだろうか。悲しんでくれると父としては嬉しい。それぐらいには自分達を慕ってくれていたと言う事になるのだから。

 

 

 そして思う。自分は家族として、一人の父親として彼女を幸せに出来たのだろうか。

 

 

 全力で愛情を注いだ。彼女と共に過ごす時間を多く取った。だがしほ子にそれを聞くのは出来ない。聞けば楽になるのだろう。今この瞬間のみは。

 

 

「……そろそろ時間だ、行きなさい」

 

 

 だからしほ子の問い掛けには答えられなかった。それぐらいの自信すら持てない彼は、これ以上の嘘をしほ子に聞かせたくは無かったのだ。

 

 

「? うん、わかったよー。それじゃあいってきますー」

 

 

 少しばかり怪訝な顔をしたが、しほ子はそれを引っ込ませてくれた。笑顔で彼女は玄関へと振り向いて、辰無に細い背中を見せた。

 

 

「…………っ」

 

 

 その背中を見て、これが最期だと辰無は思い知った。暗い衝撃が彼の心を飲み込んだ。

 

 

「……ぱぱ?どうしたの?」

 

 

 しほ子の背中から包み込むように、辰無は彼女を抱きしめた。 

 

 

 腕の中にすっぽりと収まったしほ子が苦しそうに息を詰まらせて、困った顔で笑っていた。父の温もりが嬉しいのだろう。辰無はそれに構う余力すら残さずに、一心不乱の力で彼女を抱きしめた。

 

 

 強く、強く。

 

 

 

 ――――強く。

 

 

 □□□

 

 

 走る電車の天井に彼は座り込んでいた。

 

 

 流れる景色は繁栄した街並みを見せ、それが瞬く間に過ぎ去っていく。轟々と風が彼の体を吹き飛ばそうと荒ぶった。それは空気の塊で、その中を突き進んでいく物体が切り開く衝撃だった。だから、本来ならば緩やかな風であるのに、彼が感じる風量はまるで青嵐のようである。

 

 

 その風に流されて彼の黒髪が後ろへと流れていた。切っ先のような眦に、削げた頬は鋭利な印象を抱かせる面持である。そしてその作りはなかなかに整っているようではあるが、それを構成する寂寞が台無しにしており、何よりもその眼光が危うい。

 

 

 虚空を思わす蒼の瞳。それがただ茫洋に前面を見映していた。

 

 

「――。――――」

 

 

 時折跨ぐ鉄塔を身を捩ってかわし、七夜朔はただ静かに足を崩して座り込んでいた。

 

 

 己が足場として座り込み、勝手に動いている面妖極まりない物体は一体なんなのだろう。鋼鉄の塊がこれ程までの速度で走る事ができるのは、骨喰の大雑把な話しによれば〝でんき〟と呼ばれる摩訶不思議な力が関わっているらしいが、そんな事はどうでも良かった。

 

 

 彼には理解できない事であったし、理解する必要性も感じられない。

 

 

『まア、そんな訳で、ダ。あの癇癪持ちなの情報を信ずるならば、今から向かう先に化物がいるらしいなァ』

 

 

 ひひ、と帯剣された日本刀、数珠や札が巻かれたおどろおどろしい容貌である骨喰(ほねばみ)が彼の腰元で不愉快な声音を軋ませた。

 

 

「―、―――」

 

 

『んでェ、どうするよ朔。どのようにして惨たらしく殺す? 縊るか、抉るか、千切るか、はたまた散らすか。どれでも良いさ、お前の好きなように殺せ』

 

 

 雪崩れる空の風であっても金属音は朔の耳、あるいは脳に刻みこまれる。空気を震わす発声ではない、契約を交わした者だからゆえの言葉である。

 

 

 現在太陽は昇り始めて暫く経ち、そろそろ昼を越えようとしていた。恐らくもう間もなく目的地へとたどり着くだろう。正確な距離までは未だ分からないが、情報が正しければ大よそあと少し、と骨喰は言う。

 

 

『あるいは屠殺場、と言ったところか。ひひヒ』

 

 

 無論、相手が常道から外れた化物であるならばただでは済まされぬ。

 

 

 何時もこの世は諸行無常。木乃伊とりが木乃伊になる事も珍しくは無い。

 

 

 相手がどれ程のものかは分からぬが、死ぬ可能性はつき物である。

 

 

 幾度となく化物を殺した。これまでも、そしてこれからも。

 

 

 だからやがて何者かに殺される時がくるだろう。惨たらしい死体を晒す、その時が。

 

 

 それまでは今しばらくはこの血の香りが立ち込める戦場で寝静まろう。亡骸と共に。

 

 

『しかし、あの無能め。本当に情報はあってんのかァ?』

 

 

「―――――。―」 

 

 

 情報にではなく疑りではなく、本人に対する嘲りでもって骨喰は言う。

 

 

 しかし、朔に情報を探る術はなく、また探る価値も見出してはいない。

 

 

 情報に関し意味はあるだろうが、価値など存在しないのだ。

 

 

 ただ朔は殺すべき相手がいるのだからそれで良い。他はどうでも良い。

 

 

『仇川の女が反転した、か。あの無能は面倒な事を遣ってくれる。利権争い結構結構、狂気に巡って全員皆殺しだ』

 

 

 果たしてそのようにはとても思っていない声音で骨喰は呟く。

 

 

 昨日の事、日本の南にて住宅一棟を巣くう塵芥を処理した後に退魔から伝えられたによれば刀崎白鷺が仇川の情報を吹聴していたとの事。それによれば仇川辰無の妻、仇川唯葉が反転したとの情報があり、朔がF県へと討伐に相成ったのだ。

 

 

 仇川唯葉の生家は久我峰傘下の家元であり、無論久我峰に通じるからこそ混血の家柄である。その血筋は存外に古いものであり、もし反転した事が事実ならば退魔としても苦戦はするに違いなく、それゆえに〝七夜〟である朔へと討伐依頼が回された、と言うのが表向きの理由だった。

 

 

 事実は違う。これは歴然とした利権争いだった。遠野グループは決して一枚岩ではない。それの間隙を付狙う強硬派の手引きにより七夜朔が力を削ぐ、という名目がこの討伐には科せられている。

 

 

 強硬派は日本に根付く魔の根絶を訴える退魔組織の派閥であり、協力的かつ和平を望む混血、あるいは人間社会に溶け込んだ魔であろうと一切の容赦なく絶滅させる事を目的としている。人間社会の理想を貫き通す実力主義の人間らだが、現段階に於いては如何せん少数派であるためその影響力は少ない。

 

 

 恐らくは彼らによってこの討伐依頼が発声したのだろう。朔が〝七夜〟であり、成功率が極めて高いという分かりやすい構想によって。

 

 

『くせえ、くせえ。ひひ、人間ってのは如何せん臭って詮方無い。胎の底はドブの臭いがすんぜ』

だが、そのようなものは関係ない。

 

 

「―――――」

 

 

『ああ、全くもって関係無エ。目に見えるもの全ては手前の得物だ。残念なくこの世にはこびる魔を踏破しろ。轢殺した後に出来た屍の道なりこそが手前の血肉と化すだろうよナ』

 

 

 その裏に蠢く悪意、遠野グループの利権争いを叩き潰して朔は己が儘に行けば良い。

 

 

 ――――そして朔の瞳が輝きを増していく。

 

 

 煌々と鈍い光を映し出して、蒼の瞳は痛いほどに蒼くなっていく。

 

 

 ちりちりと脳裏がこそばゆくなっていき、薄霧のような靄が如実に視界へと顕現した。

 

 

 次第に白色の靄が流れる風景に紛れていく。とある場所には濃い靄がかかり、その他の場所に靄は薄っすらとあった。濃淡の違いはあれど靄は朔の視界に映る。

 

 

 魔眼は未だ標的を捕捉しない。恐らく外部にはおらず、そして距離も遠い。ならば情報は正しいということなのだろうか。

 

 

 ならば早く赴くに限ると言うもの。

 

 

 標的が離れる前に近づき殺すこそ、狩人の嗜みであった。

 

 

「―――、―」

 

 

 次第に足元の〝鋼鉄〟が速度を落としていく。何処かへとたどり着いた様子で、目的地の近場である。視界の中には人ごみが出来上がっており、皆この物体に興味がないようで下を向いている。

 

 

 朔はゆるりと腰を上げた。緩やかに速度は落ちていくとは言え、未だ早い物体が生み出す風に藍色の着流し、特に中身の無い左の袖が乱暴にはためいた。

 

 

 気を払う事もなく裸足の爪先が鉄板を蹴り上げて、その体が虚空に踊った。

 

 

 目的地は近い。

 

 

 ――――その情動なき瞳の向こう、天を穿つ尖塔。

 




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過去編 Rhapsody in Crimson 中

 ちん、と鈴を指で弾いたような機械音を響かせてエントランスのエレベーター、その扉がゆっくりと開かれた。

 

 

 誰もいない扉の中には噎せかえらんばかりの血が溜まっていて、扉が開かれた事によりそれが外へと流れていく。

 

 

 そしてその血の中に、一際目立つ金属の色合いが見えた。

 

 

 良く見るとそれは星型のブローチであり、内部に納められた家族写真には壮年の男と、美貌を湛える女性、そしてその間には太陽のような笑みを溢す少女の姿があった。

 

 

 しかし、エレベーターの床を満たす血により写真は殆ど赤く染まって良く見えないし、ブローチもまたその輝きを赤く歪(ひず)ませており、本来の美しさからは程遠かった。

 

 

 ぴちょん。

 

 

 沈黙が横たわるエレベーター内にひとつ、水の滴る音がして緩やかに波紋を生み出した。

 

 

 ぽたぽたと血の滴りは等間隔に繰り返されて、壁際に赤色の水分が伝う。

 

 

 まるで天井に何か在るようだった。誰か、いるようだった。

 

 

 そして、そこには――――。

 

 

 □□□

 

 

 政略結婚ではあったが、妻の事は大切にしてきたつもりだった。

 

 

 結婚し子供を授かる事の素晴らしさを知りつつも、なにぶん恋愛には向いていない性格だと辰無自身が熟知し、それに向いていないと知っていたから辰無は結婚願望を持ってはいなかった。だからだろう、辰無は流れに身を任せる形で久我峰からの縁談を引き受けた。

 

 

 打算が無かったとは言い切れない。久我峰の系譜に期待する価値は大きく、より久我峰との繋がりを強固に出来ると考えれば拒否する理由も無かった。

 

 

 そして出会った唯葉は穏やかな女性だった。

 

 

 決して傾国の美女とは呼べぬ容貌であるが、柔らかな目元と柔和に相手を包み込む女性らしさを始め、当時四十間際とは思えぬ美貌は二十台を思わせ、少しずれた性格や明るい所など大変魅力的な女性だった。

 

 

 辰無よりも年上であると言うのに婚期を逃して初婚という点だけは意外だったが、いつしかそれも気にはならなくなった。

 

 

 ただ、それだけでは辰無は妻を受け止めはしなかっただろう。彼の屈折した人格からして言えば、彼女の人格や態度と言うのはひとつの要因に過ぎなかった。

 

 

 しかし、それでも彼女を妻として向かいいれ、更に受け止めたのは彼女が辰無を理解したからだった。良い様の無い窮乏から這い上がった精神構造を始め、他人への異常な憧憬、己への卑下。彼を成す黒き素養の全ては他人を周りから遠ざけるには十分すぎるものであったが、唯葉はそれを理解したのだった。

 

 

 唯葉は名家に生まれ育った女性だった。彼のような最下層の暮らしを味わった人間など知りもしなかっただろう。腹を空かせて野良犬を喰い、飢えを忍んで腕を噛んだ。死体を漁って服を奪い、泥を啜って咽喉を潤した。大よそ全うな生活ではない。しかし、仇川辰無はそういう人間だった。そして上流階級に生きる存在ならば、汚い存在ほど遠ざけておくことが何よりも賢しいだろう。

 

 

 しかし、彼女は努めて辰無を理解しようとした。

 

 

 政略結婚は本人の意志が介入する余地のない呪縛だ。だから合う合わないの選定基準は論外であり、重要なのは肩書き。あるいはその背景であり、個人というものは蔑ろにされる。それを唯葉は理解しながらも、辰無との結婚を喜んで受け入れた。

 

 

 辰無は不思議だった。何故彼女は自分を受け入れようと努力したのか。どれだけ尋ねても彼女の少々変わった答えに鼻白み、格式ばった結婚を経て、いつしか時が流れた。

 

 

 性格が合っていたのだろう。冷たい虚無を抱く辰無には彼女の包容力は物珍しく思えた。

 

 

 恋愛結婚ではなかったのが良かったのだろう。恋愛結婚によって成立した男女は互いを知り尽くしている故に亀裂が生じやすく、いらぬ部分にまで視線が行きがちで容易く離縁となるらしい。

 

 

 子供が早くに出来たのが良かったのだろう。子はかすがい。古い言い回しではあるが、唯葉の胎が大きくなってから彼女を懇切大事にしてきた。出産適齢期を越えていたから、母体に何かがあってはいけないと辰無は精一杯彼女を守り補助してきた。

 

 

 しほ子が可愛らしい子供だったのが良かったのだろう。唯葉に似て愛らしい彼女はすくすくと育ち、これからの未来をそれとなく楽しみにしている己がいた。

 

 

 理由を探せば幾らでも探せる。それこそ取るに足らない些細な事柄であろうとも、理由としては充分だった。それほどまでには辰無は唯葉を妻として、しほ子を娘として認識していた。家族として認識していた。

 

 

 □□□

 

 

 目的地である仇川マンションは容易に発見できた。

 

 

「―。――――」

 

 

 昼の風が硬く朔を包みこんだ。入り組んだ街の構造に地上二十五メートルを越える高さではビル風が巻き起こり、隣接するマンションの壁へと張り付く朔の体を突き飛ばそうとしている。少々埃っぽい匂いが風に紛れて何処かへと消えていく。

 

 

 眼前に視える仇川マンションは発展を遂げているこの街に於いてもまず見ない特徴的な姿で、それはまるで天を貫く鉄塔のようだった。近代的な外観を呈する建築群の中にあるその佇まいには異様な物悲しさが秘められていた。

 

 

「――――、―」

 

 

 仇川マンションの隣に建てられたビルの側壁に朔は、壁の僅かな凹凸を頼りとして直角に佇みその様を見やっている。地上三十メートル以上の付近にある壁に直立するその姿は、まるで人の後をついてまわる不気味な影法師のようだった。

 

 

『ひひ、漸く見つけた、なァ』

 

 

 物理法則に従い今にも地上へと落下しそうな骨喰が朔の腰元からぶら下がっている。ゆらゆらと揺られた金属の悲鳴にも似た声音が地上へと降り注ぎ、道歩く人々の神経を無意識的に苛立たせていた。

 

 

『しかし、こいつア面白え。ひひひ、仇川って野郎にゃ冗句の才能があるじゃねえか』

 

 

 ケタケタと骨喰はマンション内で何が〝起こっているのか〟を容易に見透かして笑った。不気味に歪(ひず)んだ哄笑には毒々しい愉快が含有されている。

 

 

 朔はマンションの構造を見やる。

 

 

 地表から生える氷柱のような外観。空へと近づいていくと階層が狭くなっていき、先端に至っては一部屋しか存在しない。

 

 

 そして、目標は恐らくそこにいる。

 

 

 情報は聞き流していたから骨喰に任せる事にはなるが、判断は全て朔が下す。

 

 

 だからだろう。真正面から入り込もうとする朔を骨喰は止める事が出来ない。

 

 

 ふわり、と朔の体が側面を離れて落下する。

 

 

「――、―――っ」

 

 

 刹那に堕ちる。急速に増していく浮遊感が朔の内臓を押し、体を潰す。眼下には幾人かの人間が見えるが、気付かれる事はないと確信している。

 

 

 ふわりと風に漂う白色の靄が渦を巻いていく。その空白に朔は舞い降りた。

目前に反り立つ尖塔、仇川マンション。

 

 

『ひひ、手前よ少しは忍べ。暗殺者が紛れずどうすんだィ』

 

 

 自動扉が開いた瞬間に朔の鼻腔へとたどり着いた乾燥の匂いへと入り混じる、異様な臭気。大よそ一般生活を送る場所においては嗅ぐ事もない臭いだった。

 

 

 エントランスから朔が堂々と侵入した時、仇川マンション内部は死んでいた。

 

 

 一階に居住スペースが存在しない。その広々としたエントランスには絵画や骨董など趣向を凝らした調度品や芸術品が数多く展示されている。数量で考えれば十五点以上、その壁に沿って配置されたそれはここを美術館のように錯覚させる。

 

 

 否、寧ろ錯覚を目的としてこのエントランスは作られていた。

 

 

『ハっ、こいつは良イ。なかなか上等な地獄だ』

 

 

 厭らしく骨喰は言う。

 

 

 目に見える調度品の数々は確かに芸術品として価値のあるものだ。朔にはそれに類する眼はないが、骨喰からすればそれなりには骨董品として価値がある程度のものらしい。

 

 

『こいつらを視ろよ朔。薄汚えなァ、少しばかりだが埃が被ってやがるゼ。ひひ、人間がイたらこんなもン直ぐにでも拭うだろうよなァ』

 

 

 壁際に飾られた壺の表面をなぞれば、微かにざらついた感触があった。埃が僅かに積もっている。

 

 

 しかし、埃を被っているのは壺だけではない。壁に高く飾られた絵画の縁、それ以外にも置かれた芸術品は元より、エントランスには意識しなければ気付かないほどに薄っすらとした埃が被っていた。

 

 

 歩みを進めていくと観賞用のプラタナスが生えた中央部分を通り過ぎた。その芝は伸びたままで、人の手が入っているようには見えない。良く確認すれば、プラタナスの葉も幾つか萎れている。

 

 

 それはつまり、そういう事だった。

 

 

「――――、―――」

 

 

 朔はエントランスホールをひたりひたりとその床を裸足の脚でなぞる様に進んでいく。まるで物音一つしない空間内は朔の静かな呼吸音が僅かに聞こえるのみであり、湿った黙然が重く沈んでいた。

 

 

 エントランス奥に並んだエレベーターの扉に朔は差し掛かった。左右どちらも稼動はしているようだが、今現在は動いていない。二つともどうやら最上階に止まっていた。

 

 

『ボタンを押せば来るんだろうがァ……手前に操作を期待するだけ無駄だな』

 

 

 珍しく骨喰の呆れた声音が木霊するが、朔の意識は既に骨喰には向けられていなかった。小言を紡ぐ骨喰には分からぬであろうが、七夜たる朔には感じとれるその気配。

 

 

 眼下、足元。滑らかな素材で作られた扉の隙間から、臭いが滲んでいた。

 

 

「――――、―っ」

 

 

 藍色が閃く。

 

 

 腰元にぶら下がっていた骨喰が忽ちの内に抜かれ、鞘からその刀身を露にした。刃毀れした刀身は今にも折れてしまいそうな姿だった。朽ち果てた刃は寒気すら感じ、その闇が朔を黒く抱きしめた。滲み込む重圧に朔の内臓が呻き、それを咽喉元で飲み込んでいく。

 

 

 そして朔は亡霊と化して刃を揮った。

 

 

 亡霊はその刀身を扉の隙間に差し込んで、力任せに動かした。機械によって制御された扉を開く事は容易なことではないが、梃子の原理などを用いれば扉は直ぐにでもその狭間を僅かに開く。 

 

 

 本来ならば、今にも折れてしまいそうな刀でこのような事は行えるはずが無い。刀剣は鋼を鍛えられてはいるが存外に脆く作られており、耐久力に難がある。刀工の粋を凝らした刀は武具と言う領域を越えた芸術品だ。

 

 

 ひたすらに切れ味を求めた鋼の刃は、それゆえに頑丈さは度外視される。だから遥か昔の武士などは戦に於いては刀を複数所持し、一本が駄目になれば他の刀を使用した。

 

 

 しかし骨喰は妖怪刀崎梟最期の一作。

 刀崎最高峰と謳われた刀工職人が人道を踏み躙り狂気以外の何物でもない経緯によって生み落とした刀剣が、並みの刀であるはずがない。

 

 

 故にその見かけに騙されてはならない。その朽ち果てた刃に内包された禍々しさは例え機構によって統制された機械であろうと、一切軋む事無く扉を切り開いたのである。

 

 

『ひひ、お誂え向きじゃねエか。行き先は底の其処。聞いた話はそんなもんなかったンだが、なァ』

 

 

 骨喰は楽しげだった。

 

 

 恐らく人としての面影があるならば、あからさま過ぎるそれに舌なめずりでもしそうだった。

 

 

 全てをこの時点で把握し、理解しながらもそれを見下し惨劇を喜劇と受け取り愉悦に腹を抱える邪悪の刀剣。流石は妖怪が鍛えた刀と言うべきか。まともではない。

 

 

 扉の中は空洞だった。エレベーターボックスは上のほうにあるようで、朔の視線には剥き出しのコンクリートが見える以外には一本に伸びる鉄のロープが繋げる上と下との奈落が見えた。しかし、視えるのはもっと濃いものだ。

 

 

「――――。―」

 

 

 昇りたつ臭気が空洞を仄かに染めていた。恐らくは地下、むわっとする禍々しき気配は凝固するかのような濃度でもって霧散しており、肌に触れると僅かに刺激が生じた。

 

 

『嗚呼、視つけた』

 

 

 故に朔は気軽に脚を踏み出し、再びその身を宙に委ねた。

 

 

 側面を囲われた空間は一切の光源を失った暗闇だった。冷たいコンクリートから放たれる圧迫感により窒息しそうな質量が立ち上っていく。

 

 

 ――――落ちる。

 

 

 朔が堕ちるのは先ほどと異なり落下は奈落の底、そこが地獄の道行きである。

 

 

 亡者の怨念が朔を飲み込んで、その身を隠した。

 

 

 そして朔は握りしめていた骨喰を無造作に壁へと突きたてた。

 

 

 ギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャ――――!!

 

 

 勢いを殺すために突き立てられた骨喰は衝撃を切り裂く事叶わず、暗闇に火花を散らした。すぐさま消えてしまう火花が絶え間ない悲鳴のように降り注いだ。

 

 

 呼吸が難しい。臭いたつ血潮の香りが鼻を擽り、肺を侵す。

 

 

 ――――堕ちる。

 

 

 ふと見やれば朔の魔眼にはコンクリートの壁に赤い手形がぽつぽつと視えた。それは下に落下するほど数を増やしていくようで、終着の訪れを予感させる。風斬り音と共に呻き声と罵声が入り混じる阿鼻の絶叫が反響しながら聞こえてくる。そこに骨喰が刃を削る金切り声を叫ぶ事で虫唾が走った。

 

 

 ――――堕ちた。

 

 

 闇も見えぬ暗がりの暗黒が口を開く。

 

 

 間際に迫る地面へと殺された勢いによりゆるりと着地した。ぬめり気のある空気がどろりと朔を捉えた。それが骨喰の闇衣と相まって朔の周囲を覆う。しかし光源なき底の暗闇であろうとも朔の瞳は青々と蒼く、寒気がするほどの輝きでもってその道筋を映し出し、再び歩む。

 

 

 地下は不思議と澄んでいた。埃が宙を舞い、足元にも塵が積もっているが空っぽの気配が地下を支配している。そして瞬間に見えた、あの赤き手形はどこにも見えず、壁は不気味な側面を露にしていた。

 

 

 前方へと続く乾いた道が空間を広げていた。設計上エレベーター内にあるには些か不自然な横の空間であり、その先にぽつんと一枚の扉が見えた。

 

 

『ひひ、終着か』

 

 

 朔の視界には扉から溢れんばかりの嘆きが視えた。理不尽と悲嘆に絶望し、怨嗟の呪詛を呟く亡者の影が朔を捉えんと姿を見せる。しかし朔はそれを一顧だにせず、仲間を増やさんとする幽かな存在を無視した。

 

 

「―。――――」

 

 

 そして、扉の前で歩みは止まった。

 

 

 扉の向こうには確かに感じられる化物の気配。

 

 

『ひひ。莫迦は天上に昇りたがるものだガ、地下に潜るのは魔性と相場が決まってるッテもんだ。さテ、鬼が出るか蛇が出るかナ』

 

 

 骨喰の耳障りな声音と共に、扉はやけにゆっくりと開かれた。

 

 

 □□□

 

 

 しかし、そこに家族に向けられる大切だという感情に自分が含まれているか、と思えば辰無は素直に首肯することが出来なかった。

 

 

 そも辰無は家族というものを知らなかった。

 

 

 気付けば彼は一人であの極貧を生きていた。夏は腐敗したゴミの匂いを嗅ぎ、冬は霜焼けに腫れ上がる指先を懐に潜り込ませたが、彼には保護者と呼べる人はおらず、その匂いを防ぐ人も指先を温めてくれる人も辰無にはいなかった。親の名前も、顔も、そして親と言う存在も彼は知らず理解もしていなかった。

 

 

 彼の周りにも薄汚い顔ぶれの個人というものがあっただけで家族という集団には出くわした事がない。だからだろう、彼は家族というものが何なのかまるで分からなかった。

 

 

 それでも辰無は家庭を持ち、夫となり、父となった。

 

 

 会社を経営し利益を求めながらも、帰りを待つ妻を想いながら仕事をこなし、帰宅する事が少なく、一緒にいる時間が少ない娘のためにプレゼントをなるべく買った。なかでもしほ子は写真を収められるブローチを大層気に入っているようで、欠かさず身につけている様子が幾度となく見られた。

 

 

 しかし、それらは算段を伴った行動に過ぎない事も辰無は理解していた。男性で家庭を持った人物がそのような行動を取っているため、自分もそれを真似ただけに過ぎない。本当は何の意味があるのかと疑りながらも、辰無はそれらを真似て実践してきた。

 

 

 唯葉はそれを『あなたらしい』と微笑んでいた。

 

 

 しほ子はそれを『ぱぱは優しいね』と抱きついてきた。

 

 

 辰無はそのように二人が自分を受け入れてくれる事に歯痒さばかりを感じていた。

 

 

 自分はそんな立派な人間ではなく、もっとどうしよう無い畜生である事実を二人に認めさせたかった。そしていっそ自らを否定して欲しかったのかもしれない。

 

 

 魅力的な唯葉のこと、こんな男よりも魅了される男に出会った時もあっただろう。辰無よりも年上で初婚という、名家の生まれにしては少々特殊な彼女である。何かしら事情があったに違いない。

 

 

 しかしそれを聞くと彼女は『好きなひとはいたけど、結婚したいと思えるひとがいなかった』とあっけらかんに言った。

 

 

 それに何故、と問いかけると彼女は『さあ?』と言い、好きと結婚は違うのかと問うと彼女は吟味するように悩んだあと、感覚的に違うと言った。

 

 

 そして、自分と結婚したのは何故か、と問うと唯葉は笑顔で。

 

 

『なんか、こうビビっ!と来たの』

 

 

 と言った。あの時の朗らかな笑顔は彼女が変わってしまった今も忘れられなかった。

 

 

 つまり唯葉の合格基準を辰無はクリアしていた、という事なのだろうか。それが一体どの様なものなのか詳細は依然として不明であるが、ただ納得した。

 

 

 だが、そう思うほどに辰無は己の無力さを痛感し、彼女を幸せにする事も、こんな結末を迎える事も無かったはずだと悔やんでいた。

 

 

 もし、彼女がいたならばあの明るい表情で励ましてくれるのだろう。『大丈夫!』と可愛らしく力瘤を作ってくれたのかも知れない。そしてそれに気付いたしほ子が近づいて抱きついてきて、結局苦悩なども有耶無耶になったのかもしれない。

 

 

 しかし彼女は変わってしまった。彼女は彼女のままでその人格が変化してしまった。人が生きている以上、価値観やその精神においても何らかの変容は見せるものであるが、彼女の変容はそれを超えていた。

 

 

 健忘症やアルツハイマーとは異なる認識の変化。脳の機能が低下し認識能力が落ちたのではなく、肉体的には何の問題はなかった。少なくとも全うな医者の診断ではそうだった。

 

 

 精神あるいは人格と呼ばれるものが彼女を変えたのだった。彼女は彼女のままであるのに、価値観などの認識がそのままにひっくり返った。怒りではなく、虚しさでもってそれが反転なのだと、彼は自然に理解した。

 

 

 人外の血が混じる混血という存在がいると知ったのは、久我峰に聞かされた時だった。

 

 

 彼は酷く楽しそうに辰無へと告げたのである。それまで彼が生きていた世界とは異なり、しかし偏に重なっている裏の世界を。日本に存在する退魔組織と混血。さらには荒唐無稽な話ではあったが魔術師の話をそれとなく聞かされた事もある。

 

 

 自分が今まで過ごしてきた日本にそのような御伽噺が今も尚行われている事に辰無は目を見張った。そしてこの世には理不尽と不可思議が横たわり、それを知らずに生きていく事も出来た、と久我峰はこちらを逆撫でるような声音で囁くのだった。

 

 

 だからこそ、彼は彼女が〝そういうこと〟に成ってしまったのだと理解した。

 

 

 そうして思考はぐるぐると螺旋を描いて深みに堕ちていき、先も見えぬ暗闇を終着として光を失った。最果てを照らす星の道標さえ失った彼は、もうどこにも行けない。

 

 

 何も出来ない。彼女を救うことも、殺す事も出来ない。

 

 

 だから彼は全てを受け入れた。

 

 

 やがて訪れるであろう終末の時、永遠の別れが二人の前に現われるその時まで、彼は彼女を受け入れようと決めたのである。

 

 

 □□□

 

 

 埃と時間が混合した空気は金属を容易に侵食し、錆びついた扉は不快な亀裂音を響かせながら重々しく開かれた。

 

 

 部屋は個室であり、出入り口は扉一つのみ。不思議と空気は澄んでいて黴の臭いはしないが潤沢な香りは濃く、あまりの濃度に香りが固体と化してしまいそうだった。

 

 

 部屋の中心、そこには一人の女性が椅子に腰掛けていた。

 

 

 光源なき室内、仄暗い部屋にいる女の姿は明瞭に視認できない。朔の瞳からは形が視えるが、それだけだった。

 

 

 女性は眠りについているのか木製の椅子にもたれかかり、崩れた体勢によって柔らかな茶色をした髪が垂れて顔を隠している。居眠りなのか、昼寝なのか判断はしかねるが夢見が良いようで朔の耳には女の穏やかなる寝息が伝わった。

 

 

『ほう……、これは、なかなか』

 

 

 明かりの見えない室内に骨喰の声音が反響する。金属の悲鳴にも似た声音は常と変わらないが、音の悪意に混じり確かな感嘆があった。

 

 

 一歩、朔は踏みしめた。

 

 

 ぐちゅり、と何かを潰した。

 

 

 一歩、朔は踏みしめた。

 

 

 ずぶり、と何かが砕け散った。

 

 

 裸足の指先に柔らかな粘着質の弾力が纏わりつき、一歩一歩踏みしめるたびにそれらが朔の脚を絡め取る。

 

 

 そして朔は己が手、骨喰の柄をぎりりと握りしめ女の首を狙いつけたその時。

 

 

 女の傍らに置かれている小さな机の上、古びたランプシェードが明かりを突如として灯し、ぼんやりとした光が辺りを淡く照らし出した。

 

 

『ひひ、良い地獄だ』

 

 

 ――――見えたのは、赤色だった。

 

 

 赤く赤く、明かりは赤い床を照らして一面に広がる血と塊を映す。広い室内一杯に溜まっている血の湖面に混じり、壁には積まれた生者の名残が一つの塊となって置かれていた。

 

 

 腕や脚は森に積み上げられた小枝のように、内臓や脳は海岸に打ち上げられた漂着物のように。

 

 

 それが幾つも点在されており、その様子は三途のほとりで懺悔に積み上げられた石塔のようだった。

 

 

 なかには腸が巻き付けられた子供の顔まで見えている。

 

 

 そして床を良く見れば解かされた筋肉繊維がペースト状と化し、それが血と混じりぶよぶよとした感触となっていた。

 

 

 赤い惨状は床だけに留まらない。天井まで汚した血は首を奪われた者の血だろう。体内を循環している血は首を切断すると圧力によって高く噴出する。隙間なく血によって彩られた天井はその量だけ首を奪われた者がいると言う事実だった。

 

 

 詰まれている死体は数も計れず、男、女、老人、子供分け隔てなく死体として殺され詰まれている。

 

 

 そして不思議な事に壁際に詰まれた肉の塊の天辺には先ほど見れた子供の顔と同じような趣旨の奇怪なオブジェが飾られていた。

 

 

 抉られた眼球が口内に飾られており、それが一様に前を見つめる男の首。首に足を突っ込まれた死体。果ては裂かれた腹の中から取り出された胎児たちが無言で陳列されていた。

 

 

 だがそれらに共通する点は死体の大よそが欠損しており、元の形状を留めていない事にある。引き千切られた胴体を始め、破られた内臓に零された脳漿、奇怪なオブジェと人間の残骸が多々とあるが原型を保った死体とは一つとして残されていない。

 

 

 明かりが灯す範囲は狭い。しかしその狭い明かりに於いて屍の見えぬ場所は無く、高く詰まれた死体やペースト状と化した肉、ばら撒かれた内臓は数え切れない。室内の大半は未だ闇の底で、その先にあるだろう惨状は一体どれほどのものか。骨喰は愉悦をもって待ち望んだ。

 

 

「――――、―」

 

 

 朔は無言だった。いや、無反応だった。そこらに広がる死者の惨劇をその蒼き瞳に収めても尚朔は無反応のままであり、その表情に変化もなし。

 

 

 尋常の剣ではない骨喰でさえ愉悦と歓喜を感じていると言うのに、朔の内心には細波立つ感情は宿らなかった。

 

 

 恐怖は無い、嫌悪も無い。快楽も無ければ悲嘆も無い。血液を掻き分け、肉の山を横切りながらも屍山血河の有様を朔の視線はそれらを一顧だにせず、価値も見出さない。

 

 

 まるで見慣れた光景のように、あるいは馴染み深い景色のように朔は腐臭を撒き散らす肉の壁に囲われた肉の床を踏みしめた。

 

 

 そしてランプシェードの光が淡く照らす女の元へとたどり着いた。

 

 

 朔が近づいてなお女は健やかな寝息を立てて眠っていた。俯き加減に傾けられた頭部、垂れる髪が女の顔を隠している。

 

 

 亡霊は躊躇いも無く晒された首筋に骨喰の朽ち果てた刃を振り降ろし。

 

 

 ――――不可視の衝撃音が朔を襲った。

 



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過去編 Rhapsody in Crimson 下

「……これは」

 

 

 それを見つめ、久我峰斗波は呻くように呟き、そして言葉を暫し失った。

 

 

 丑三つ時の事である。彼のオフィスに突如として届いた箱の中を久我峰の手勢が確認すると、そこには一枚のビデオレコーダーが納められていた。

 

 

 そして、そのラベルシールには達筆な文字でひとつ、名前が書かれていた。

 

 

 果たしてその中に映し出している映像が如何様なものか、久我峰は安易に予想できた。

 

 

 仇川辰無。彼が最期に残した物品。

 

 

 それが持ちうる価値、意味。

 

 

 二つを考慮しても、あまりに大きい情報がこの中に眠っている。極めて慎重に扱わなければ猛毒にもなる劇薬と言うべきか。久我峰は自然と混みあがる苦笑を抑える事が出来なかった。

 

 

「ふ……ふふ、私への仕返しという奴です、か。……恨みますよ、辰無さん」

 

 

 置き土産、と久我峰は決して言わなかった。

 

 

 言う事が、まだ出来なかった。

 

 

『――――同志、久我峰斗波へ』

 

 シールには、そう書かれていた。

 

 

 □□□

 

 

 淡い光に照らされて、朔がいた箇所の背後に位置する闇の中から男が現われた。白髪の混じる壮年の男はその両手に構えられた拳銃の銃口から火薬の匂いを滲ませ、注意深く前方を見やった。

 

 

 しかしその静謐な表情とは裏腹に男は驚愕に精神を震わせていた。

 

 

 男は拳銃を扱えはするが、その腕前では動く標的に当てることが出来ない。幾ら修練を重ねても男の腕はそこにたどり着かなかった。

 

 

 ただ動かない標的であれば確実に当てる事が出来る自信だけは男にあった。停止する的ならば確実に男は当てる、と。

 

 

 だから策を練った。

 

 

 暗闇にランプシェードを灯し、そちらに意識を逸らす事で無防備になった背後を確実に動きが止まった瞬間撃ち抜く。

 

 

 作戦は上手くいった。注意は光の方角に向けられ、その五感の殆どは誤魔化されたはずだった。薄暗い暗がりの部屋、血の臭いに鼻は潰され耳は女の寝息を拾っていた。

 

 

 なのに。

 

 

「……」

 

 

 男は確かに見た。

 

 

 襲撃者、七夜の体現が背後から放たれた弾丸を〝撃たれた後〟にその姿を消し、かわした瞬間を。

 

 

『ひひ、危ねえなァ――――仇川辰無』 

 

 

 暗闇の深遠より金属の悲鳴が降り注いだ。辰無は注意深く辺りを見回しながら拳銃を構え、しかしそのあまりに聞き覚えのある声音に戦慄を禁じえなかった。

 

 

「…なぜ、なぜだ」

 

 

 そして堪えられず、辰無は呻いた。

 

 

「なぜ貴様が生きて七夜の体現と行動している、刀崎梟……!!」

 

 

 刀剣が発する耳障りな声音は妖怪刀崎梟のものに違いなかった。

 

 

 七年前、仇川辰無は久我峰傘下への参入を経たが、その頃に存命中の刀崎梟へと辰無は会ったことがある。

 

 

 そのあまりに特徴的な容貌と声音更に人格は辰無に深く刻まれており、刀崎派と秘密裏に敵対する事となった後にそれはより際立っていた。だから辰無が梟の声音を間違えるはずがない。

 

 

『ひひひ……俺は梟じゃ無ェぜ。正真正銘、刀崎梟はおっちんでる。んで骨喰はただの刀、その事実は覆らねえヨ。手前も覚えてんだろうがァ、刀崎の顛末を?』

 

 

 しかし声音は闇において厭らしく否定する。

 

 

 確かに辰無は梟の死を知っていた。

 

 

 刀崎が狂乱の内にあり、齢百を数える頃に混血の宿命である反転を化した梟が遠野によって粛清されたのは五年前の事だ。

 

 

 ただそれは情報として知りうるのみの話であり真実は分からない。更に伝え聞くところによると体力の衰退が否めなかった当時の当主遠野槙久はそれを自ら行わず、他の誰かに任せたらしい。

 

 

 詳細は定かではない。情報は貴重であるが全てが真である筈がない。隠されている事もあるだろうし、変えられている事もある。ぐるぐる、ぐるぐると辰無の冷酷な思考が巡る。

 

 

 そして、爆発的に辰無は理解した。

 

 

「……なるほど、この一連の事、全て貴様が組んだ事か」

 

 

 闇の中に辰無の声が染みる。

 

 

「刀崎白鷺が事実を嗅ぎつけた理由、七夜朔が辿りつけた訳。そして刀崎の顛末。全てお前が仕組んだのか……」

 

 

『――――ひひひ』

 

 

 骨喰は辰無の詰問に厭らしい笑いで応えた。

 

 

 肯定も否定も、行わなかった。

 

 

『まァ、いいさ。幾ら俺がアレじゃねえと言ったところで手前じゃ理解できネエだろうよ。しかし、だ。そんな堅物極まりネエ手前でもやる時はやれンだなァ』

 

 

 少なくない混乱に神経を苛まれながらも辰無は響く骨喰の声音に意識を凝らす。一瞬の空白に於いて、切り裂くように骨喰は言った。確信を秘めた愉悦の声音で。

 

 

『ここにいる死体、ここンとこにいた住人だろ?』

 

 

 ひひひ、と辰無の脳に不快な骨喰の声音が反響する。

 

 

『反転した手前の女の餌として住人を調達して、こンなとこに閉じ込めた女が腹を空かせりゃくれてやる。そんでまた腹が減りゃとっ捕まえてくる。それを繰り返して繰り返し、今となってはここは無人の城だ。ひひひ! そりゃそうだ、住人全部がいなくなっっちまったら阿呆でも気付くってもンだ!化物が腹を空かせて来るぞっ、てなア!』

 

 

 全ては半年前だった。

 

 

 その日、珍しく昼頃に帰宅した辰無は玄関の扉を空けた瞬間に妙な静寂と懐かしい匂いに出迎えられた。あの人間ではなかった生活で嗅いだ血の香り。生物が吹き零す命の流水。それが辰無の鼻を擽ったのだ。

 

 

 不可思議に思い辰無は心なし慎重な足運びでリビングへと向かった。やけに五月蝿い心臓の鼓動が静寂の室内を打ち破りそうなほどだったと記憶している。

 

 

 そして辰無は見てしまったのだ。

 

 

 リビングに隣接するキッチン、唯葉が狂ったように叫びながら、どこからか見つけたかも分からない猫の死体に向かって何度もカッターナイフを振り落としていた光景を。

 

 

 その行為を見られて唯葉は一時恐慌状態に陥ったが、暫くしてぽつぽつと己の内に起こる衝動、あるいは状態を打ち明けてくれた。むしゃくしゃとしてではない、悪戯心ですらない破壊衝動が己の中に宿り、それが何度も唯葉を突き破ってはこのような事を起こすのだと。そして唯葉はそれが混血という種族に訪れる反転だと。

 

 

 辰無は唯葉の現状を知り、賢明な行動でもってそれらを押さえ込もうとした。時には自らの首筋を差し出し、そして時には暴力により辰無自身死を覚悟した。

 

 

 だが、そのように自らを差し出すほど沈静した後の唯葉は悲しみに明け暮れて、自らの咽喉を裂こうと包丁を握りしめた。

 

 

『誰よりもあなたを傷つけることだけはイヤっっっっ!!!!!!』

 

 

 悲鳴にも似た嘆きの絶叫が今でも耳に残っている。

 

 

 辰無が良しとした行為が何よりも彼女を傷つけていた、と辰無はその時になって始めて気付いた。

 

 

 そして己を差し出す事も出来なくなって、唯葉の反転状態は次第に悪化の一途を辿り、最後には彼女の望みでこの地下へと運んだ。

 

 

 さよならと涙を流して口ずさむ彼女の唇を己が唇で黙らせながら。

 

 

「……正確には、七十八名全て私が息の根を止めた後にここへと運んだ。……彼女は殺めてなどいない」

 

 

 朝、すれ違う時必ず声をかけてくれる女性がいた。

 

 

 父親と仲良く歩く子供がいた。

 

 

 展示されている芸術品を欠かさず磨いていた老人がいた。

 

 

 その悉くを辰無は殺した。

 

 

 涙を流すものがいた。

 

 

 恐怖に言語化不可能な言葉を並べたものがいた。

 

 

 理不尽に腹を破らんほどに怒り狂ったものがいた。

 

 

 慈悲を乞うて自らを差し出し子供の命だけはと懇願するものがいた。

 

 

 分け隔てなく殺して、この場所へと運んで唯葉の食物とした。彼女の玩具とした。

 

 

 彼女が大切だから、彼女が大事だから。

 

 

 理由はそれで充分だった。それ以外に理由なんてなかった。

 

 

 他人の善性を信じるが故に、己が悪徳を肯定した男は遂に止まらなかった。繰り返される諸行は正しく悪で、それこそ己に相応しいと自虐を零しながらも男の手は命を断ち続けた。全ては妻のために、妻を受け入れる己のために。

 

 

 だからそのような物言いは許せない。

 

 

 妻が化物だなんて、認めはしない。

 

 

『ひひ、そんなこたア関係無え。第一こんな愉快なモン作り上げといて普通なんざありえねエ。手前、自分の目の前にいるのが人間だと思うか?人間を喰らう存在が人間だと思うか?それを手ェ化した手前が人間だと思えるか?人間が食われる事を承認した手前が人間だと思うか?』

 

 

「……私が人ではない事等百も承知している。……だが、唯葉がそんなものであると言うその言葉を発する口を今すぐに閉ざせ」

 

 

『ハっ!手前、刀に口でもついてるはずが無エだろうが!いよいよもって傑作だ!真正の気狂いたア、ひひひ! まるで話になんねエぜ!』

 

 

「……私が気狂いならば、お前達は何だ。徒に人を殺して何が楽しい、暗殺者とかこつけてるがやっていることは殺して金を貰う……それともやはり復讐か? 無闇矢鱈に遠野へと襲い掛かる犬畜生ではないか」

 

 

『金?ひひ、金か!ひひひ、それこそお笑い種だ。朔が金のために殺すなんて、手前の程度が知れるぞ!七夜朔は奈落の底で亡者をいたぶる鬼だ。獄卒が報酬のために地獄の魂を磨り潰していると思うか?』

 

 

「……では、復讐か」

 

 

『それこそ冗談。目的なんてありゃしねエ。この世は経過と結果だけがアるだけだ。だが、手前はなンだ?手前の女のためと言いながら何も出来ネエ人間、女を殺す事も止める事も出来ネエ男。ひひひ!笑わせるなァ、仇川辰無!無力を装って厭世家(ペシミスト)でも気取ってろ、手前の諦観が女を殺すんだゼ!』

 

 

 自身の中に亀裂が走る音を、辰無は確かに聞いた。

 

 

「……私が、唯葉を殺す、だと」

 

 

 知らず震えて、辰無は搾り出した。

 

 

『ひひひひ!そりゃそうだろ!今まで手前がなンもしてこなかった結果がこのザマだ!今の今まで手前が諦めっぱなしだったどん詰まりがこのザマなンだよ!』

 

 

 あからさまな挑発は激昂を誘うためのものか。あるいは之こそ骨喰の手筈なのか。辰無は白熱しそうな脳を無理矢理押さえ込んで、呪詛を呟くように言葉を紡いだ。

 

 

「……妖怪、私は貴様が真底嫌いだった。久我峰様は気に喰わなかったが、貴様はそれ以上だった。それ以上に真性悪である貴様を、わたしはどうしても嫌いでたまらなかったが、どうやらそれすらも誤りだったらしい」

 

 

『ほう?』

 

 

 真底人を嘲り、この世を睥睨し続けた刀崎梟。

 

 

 彼は刀崎らしい刀崎であり、だからこそ現代にそぐう事のない古代の化石だった。

 

 

 今を認めず、先を認めず、過去すら否定して。ひたすらに希求し続けたその有様。何者にも影響されず、また何者も受け取らなかった彼はある意味もっとも人間らしい存在だったのかもしれない。

 

 

 辰無は今もなお眠りから覚めぬ妻のそばに寄り添った。ランプシェードが光るそこは明るい彼女の隣で、真底辰無には似合わない。辰無は己こそが最悪だと自嘲し、遠い光を眺めるだけでよい。

 

 

 だからだろう、辰無は刀崎梟が。

 

 

「……わたしは、どうやらあなたが憎いようだ」

 

 

 俄かに殺気だった辰無の視線が、血肉の沼地をねめつけた。

 

 

 □□□

 

 

 室内は唯葉が眠る中心を光点とし、明かりの範囲外に於いてぼんやりと地獄を移す白色を境界に仇川辰無はきっとどこかで息を潜めているであろう七夜朔を見つけるために神経を尖らす。

 

 

 光源に立つ辰無からは広がる闇の深遠に滲む赤色はまるで霧のようだった。それに紛れる七夜朔はやはり尋常のものではないのだろう。

 

 

 何故ならこの部屋に於いて音は辰無の息と唯葉の寝息しかなかったのだ。

 

 

 だから七夜朔がどこにいるのか、あるいはどこに移動しているのか辰無には直接的に探すのは難しい。

 

 

 しかし、ここはひき潰された肉の埋まる血液の泉。

 

 

 血は水として室内に水面を張り、均一な平を生み出す。それは変化がなければ波打ち立たない表面であり、それが揺れ動くならばそれは即ち。それが訪れた闇の向こうに、標的がいるという事に他ならない。

 

 

 ――――乾いた音が破裂する。

 

 

 刹那の閃光に部屋が一瞬光るが、そこに七夜の体現の姿は見えなかった。

 

 

「……外した、か」

 

 

 どれだけ気配を隠し、音を消し重量を減らしたとしても、そこにいると言う事実は覆しようがない。存在する事実を否定するならば、そもそもそれはそこには存在しない存在となってしまう。

 

 

 辰無は闇を見つめなかった。鼻は噎せかえる血の臭いに機能を麻痺させている。足元の血水を注視して、意識だけは鬼が蠢く暗闇の向こうへと分散させていく。

 

 

 そしてまた細波。

 

 

 暗がりの奥底に目掛けて出鱈目に引き金を引く。掌に衝撃が走るが、またも外れた。

 

 

 本来辰無の腕では銃弾が当たることなどありえない。だが、それでも辰無は引き金を引いた。辰無も分かりきっている。自分ではアレを殺す事も出来ない、と。

 

 

 人外の身のこなしを繰り返す七夜朔は亡霊だった。

 

 

 どこにいるかまるで分からない。

 

 

 しかし表面に細波がしたならば其処に向かって銃を撃たざるを得ない辰無は、己の精神が熱を持っている事を自覚していた。細波が伝わってくるということは、着水からのタイムラグが生じているという事実を飲み込まなければならない。

 

 

 辰無はそれを理解し、当たる筈がないと導きながらも銃撃を止めない。止めたくない。

 

 

 何故なら琴線の寸断は理性の抑止を投げ打ってしまうからだ。

 

 

 許せなかった。骨喰の指摘を。骨喰の嘲笑を。全て止めて握り潰してしまいたかった。

 

 

 だが、辰無だってわかっていた。妻の変貌、辰無の諦め。刀崎への憎しみ。全てが混ざり混ざって生まれたのは、八つ当たりでしかないという事を。

 

 

 それを理解しながらも。

 

 

 撃って、撃って。

 

 

 撃って、撃って。

 

 

『外れだなァ、下手糞が』

 

 

 全て外れた。

 

 

「……っく」

 

 

 当たる筈もない弾丸に辰無は思わず歯噛みした。

 

 

 この空間は広く作られた密室で、外へと通じる道は扉一枚のみ。そして扉は開けられた気配がなく、朔がいなくなったとはありえない。それでも弾丸が的中する以前に姿形が捕捉出来ないとは。これが〝七夜〟たる由縁か。

 

 

 しかしこれだけは諦める訳にはいかない。

 

 

 唯葉を止められなかった。彼女のためと偽りながら、流れに身を任せた。全ての原因は辰無にある。自責の念が彼を動かし、己への怒りを骨喰に指摘されて銃口は敵を狙う。

 

 

「……だが、おかしい」

 

 

 薬莢が血の泉へと埋もれる音を聞きながら辰無は加熱する自身とは別の脳で考える。

 

 

 何故七夜朔は弾丸を回避できるのか。

 

 

 七夜朔は退魔組織に身を置く暗殺者であり、殺人鬼だ。暗がりで殺す者であり、人を殺す鬼。その身体機能は尋常のものでない事は、今しがたの動きで明白だ。伝え聞く容貌と重なり、明らかに光も当たらぬ闇の世界を跋扈する化物だ。

 

 

 それでも音速を超える弾丸を回避できるとは一体どういう事か。

 

 

 それは乱発する以前、正確に狙い澄ました最初の弾丸が圧倒的に物語っている。

 

 

 背後とは人類の死角だ。幾ら視界の広い人間であろうとその視界は左右百八十度を超えはしない。そこから先は全く見えない事と道理で、暗闇の中しかも不意打ちによって撃たれた弾丸をかわす事は如何に達人であろうとも回避する事は困難だ。呼吸音や僅かな筋肉の軋みによって察知する達人が存在しないわけでない。ただ、その域に達する人間が果たしてどれ程いるか。

 

 

 だが事実、背後から撃たれた後に入った回避行動でもって辰無の殺意はかわされた。

 

 

 ここに来て辰無は寒気に粟立つ肌を自覚せざるを得なかった。

 

 

 経営者である辰無に暴力で塗れた世界は過去の薄汚い溝の底だったが、今辰無が明確に踏み込んだ世界はまるでそれとは異なる。生きるための手段として他人を殺す世界と、明らかな殺意でもって殺しに迫る世界はまるで違う。生まれてからそのような世界に入り込んだわけではない辰無にとって、そのような存在がいるという事実は知識として理解していた。しかし経験として分かることはなかった。

 

 

 辰無が入り込んだ世界とはこれこそが常識なのか。

 

 

 こんな理不尽が一様に跋扈する魍魎の住処なのか。

 

 

『ひひ、何をヤっても無駄だァ。朔の魔眼にゃなにもかもがお見通しだゼ、銃口も弾道も着弾点も』

 

 

 闇の向こうからざりざりと削るような声音がどこからともなく響く。

 

 

『――――嗚呼、朔。俺にも良く視エる。アいつの奥底に眠る怯え然り、己への憤怒然り、手前を殺そうとする視線や意識もまた然り、だ』

 

 

 囁くような嘲弄が空間を軋ませる。見透かすような発言は、果たして真実かあるいは揺さぶりなのか、辰無には判断できない。

 

 

「―――――。―」

 

 

 辰無の前方に二つの光源が灯火を放った。

 

 

 闇と血、その中に蒼の光点が等間隔に煌々と光った。それは夕暮れに彷徨う蛍のような儚さではなく、幽玄に寒々と灯火を放ち、死の沼底へと誘う鬼火のような冷たい蒼の光だった。温もりを感じさせぬそれは七夜朔の瞳である、と辰無は気付いてしまった。

 

 

 何故なら、その奥底を見てしまったからだ。

 

 

 ――――瞳の深遠、溢れんばかりに充満する殺意の滾りを。

 

 

「……この、化物め」

 

 

 罵倒ではなく、ある意味隔絶した脅威、あるいは畏怖の感情が辰無から漏れた。

 

 

 奇しくも、それは彼が共に歩んだ久我峰が抱いた感情だった。

 

 

 辰無は、ここに来て己が勘違いしていた事を思い知った。

 

 

 魑魅魍魎が悠々自適と存在する場所であろうとも、人は人であると。そして、彼が出会った中で真実人間を越えた存在とは混血だった。彼らを間近に見てきた辰無は、彼らこそ上位者であり、人間では叶わぬ存在であると思い込んでいた。

 

 

 だが今、辰無はそれを否と切り捨てた。

 

 

 今、目の前にいるのはそれらと対峙し続けた存在。混血に対し復讐の牙を突き立てる鬼の輩である。

 

 

 ならばそのような鬼が人間であるはずがない。

 

 

 辰無は七夜を人間だと思っていた。人間であろうと予測し、そう思い込んでいた。それは直接相対した事がない者の稚拙な楽天、経験の無いものが語る無為な虚勢。

 

 

 事実は違う。七夜朔は人間ではない。辰無のように地べたを這いずり回る犬畜生でもない。もっとそれを超えた何かであり、あるいは混血を越えんとする何かだった。

 

 

 では、その牙はどこまで向かう。

 

 

「……やらせはしない。ここで止める」

 

 

 やがて訪れるであろう終わりは今そこにいる。今目の前で殺意を研ぎ澄ませて刃先を命に突き立てようと渦を巻いている。

 

 

 銃口は決意を宿らせ茫洋の蒼へと向けられた。静寂を伴ってではなく、いつ弾けるかも分からぬ火薬が終焉であろうとも、辰無がやることには変わりない。

 

 

 その銃弾が尽きるその時まで、命が潰えるその瞬間まで。

 

 

 そして、辰無は。

 

 

「…………っなあ!?」

 

 

 ――――柔らかく背後から抱きしめられ、その体が後方へと引っ張られていった。

 

 

 敵がいるのに辰無はそれすらもその瞬間全てを忘れて思わず背後を見やった。

 

 

 そこには。

 

 

「……ゆい、は」

 

 

 さきほどまで眠りについていたはずの唯葉が腕を伸ばし、辰無を抱きしめていた。驚愕に顔を歪ませる辰無の内心はきっと何もなかったに違いない。混沌と化した感情はすでに状態と化して彼をぐちゅぐちゃにしていた。だから残されたのは衝撃と、衝動。

 

 

「ぁ……あぁ」

 

 

 知らず零れた声は辰無のものだった。

 

 

 辰無を抱きしめる唯葉の腕の温もり、接するその体の安らぎ。刹那に与えられる〝彼女〟の奔流が今の状況と合わさり、彼自身自分が何をしたいのか理解も出来ていなかった。

 

 

 眼前の敵。訪れる終末。永遠の別れ。

 

 

 それらは今この時、その価値を辰無の中から失わせた。

 

 

 そんな者よりも、そのようなモノよりも、辰無はただ彼女の声を聞きたかった。

 

 

「……唯葉、もういいのか」

 

 

 何が良いとかは頭になかった。

 

 

 少しでも考えれば、何かがおかしい事など簡単に知れたことだというのに、体に感じる唯葉の体温、麻痺していても覚えている彼女の匂い、柔らかな質感。全てが全て、辰無を純化させていく。

 

 

 唯葉は自分が抱きしめる男を暫し見つめていた。その瞳にはこの場にそぐわない不思議さと、どこか浮世離れした雰囲気が放たれていた。

 

 

 彼女は、やがて柔らかく笑んだ。

 

 

 そして。

 

 

「――――っ」

 

 

 ――――仇川辰無の首筋に噛み付いた。

 

 

 □□□

 

 

 ぶちぶち、と仇川辰無の皮膚が食い破られて筋肉繊維が露になったとき、仇川唯葉の顔は既に傷ついた血管から零れ出る血液で真っ赤に彩られていた。

 

 

 唯葉は四十を超えたと思えぬような美貌を湛えた妖艶の女性だった。決して傾国の美女とは言えぬが、しかしそれに順ずる美しさを秘めたその相貌。その目じりにある皺や、髪が流れる艶めいた色香を振り撒くその様は麗しく、鮮血色の装飾が真に映えた。

 

 

 彼女は肌を潤すそれを気にした風でもなく、寧ろどこか楽しげに指先で青々とした血管をなぞる。血の吹き出る血管を時にはつまんだり、突っついたり弾いたりと弾力を確かめた後、唯葉は再びその顔を辰無の首元に沈めた。

 

 

 ぶちり、ぶちり。

 

 

 今度は筋肉を噛み千切るようで、しかし顎の筋肉だけでは男性の筋繊維の束や筋を引き裂く事が出来ず、首を動かしたり体を試しに揺すったりしながら、少しずつその歯を肉に埋めていく。

 

 

 時折大量の血飛沫が噴出して、彼女の身を赤く彩った。既に本日の食事、あるいは戯れは済んでいたのか、彼女が着ていたカーディガンやスカートは赤銅色の血痕が張り付くドレスに仕上がっていて、其処に今再び夫の血によるグラデーションが加わって彼女を更なる鮮やかさで染めた。

 

 

 そして彼女はとうとう肉を食い千切り、ぶちりと不気味な音が室内に響いた。

 

 

「……――――あ、ああ」

 

 

 どこか呆けるように辰無は声を漏らした。

 

 

 首元へと現れる喪失感、激痛に苛まれる肉体とは裏腹に彼の意識は少しも痛まず、ゆるりとした動きで彼の側に座る妻の姿を視界に収めた。

 

 

 唯葉は口元を真っ赤にしながら、今しがた食い千切った辰無の肉を丹念に咀嚼していた。あまりに大きく収めすぎて、その唇から時折辰無の肉がでろんと零れそうになるのを彼女はやんわりとした手つきで抑えながら、味わうように顎を動かす。

 

 

 その姿は無邪気だった。

 

 

 今しがた自身の夫の頸動脈を食べたとは思えぬほど、彼女は純白に食事を楽しんでいた。微笑を浮かべながら口をもぐもぐとさせるその様は、いっそ幼い。年齢を重ねた肉体と相まってそれは余計にそう思える。

 

 

 唯葉の腕によって抱きしめられながら、辰無は妻の姿を見やっていた。そして辰無の見ている最中に唯葉は嚥下を終えて、再びしゃぶりつく様に辰無の首元、今しがた自身で食い千切った箇所に歯を向ける。

 

 

 それを見ながら、辰無は彼女の行動を止めようなどとは思いもしなかった。どこか陶酔気味に辰無の目前で自身の肉に噛み付く妻の姿を視界いっぱいに収め、ともすれば満面の笑顔を零しそうな彼女を見つめて何も言えなくなった。

 

 

 何故、何故妻の食事を止める必要があるのだろうか。

 

 

 辰無にはその理由も意味も今この時には見当たらなかった。

 

 

 制止の言葉や拒絶の罵倒はまるで論外で、そのようなもの辰無の脳内には片隅にすら置かれていない。重要なのは彼女が辰無を美味しそうに食べている事であり、そこに辰無の感情は介入の余地がない。だから辰無は何も言わず、唯葉の姿を見続けた。

 

 

 しかし、それでも辰無には聞いておかなければならない事がある。

 

 

「……ゆいは、わたしは美味いか」

 

 

 血の喪失により力無い辰無の言葉は、存外にはっきりとした力を残していた。

 

 

 辰無の言葉を聞いているのか分からぬが、彼女は一心不乱に辰無を貪っていく。

 

 

 遂には骨までに達する彼女の食欲は留まる事を知らず、やがて抑えの効かなくなった咀嚼の侵食に彼女の胃が限界を向かえ、その食道から今しがた飲み込んだはずの肉が解された形状で吐き出された。

 

 

 しかし彼女はペースト状と化した辰無の肉を零しながらも尚辰無を食い続ける。舌を這わし、歯を叩いて、唾液に混じった血を飲み込んだ。

 

 

 それは正しく生き延びようとする生命の本能をありのままに映し出したような姿だった。

 

 

 そして辰無には、自身の肉を啄ばむその姿が愛を告げる妻の姿に見えてならなかった。

 

 

「……そうか、美味いのか。……よかった、な、ゆいは。……それは、よかった」

 

 

 その様にぼんやりと辰無は、かつての己を思い出した。

 

 

 必死に生き抜こうとして人を殺して衣服を盗み、飢餓に苦しみ同じ境遇にある犬や猫を捌いて食した窮乏の幼年時代。

 

 

 明日も知れず、また未来を考える暇すらなく、その日をその時を少しでも生きるために罪を犯し続け、遂には畜生へと身を落としながらも自分が不遇にあるわけを辰無は求めなかったし、また理由も同じであったが死ぬことだけはたまらなく嫌で、そこらに腐敗する死体を横目に見ながら、あのようにはなるまいと己に誓った小さな空。

 

 

 死ぬことは停滞だ。立ち止まってしまった奴に生きる資格は無い。

 

 

 ぎらついた目つきでもって生者を追い落とし続けた辰無が導いた結論は、諦めや厭世を抱いたものほど死んでいく現実を見定めた反抗の意志であった。

 

 

 誰にも価値を見出されないままに腐っていく死体の無様な姿は笑止と鼻を鳴らし、己が生きるためにしか死者は役に立たないと、転売目的に訪れた商売人に新鮮な死者の内臓を売り渡しながら思ったものだ。

 

 

 手元に訪れた僅かな金は浮浪者においては強奪の的であったため、あえて誰かに譲る事でそいつが元となり、再び憐れな犠牲者が生まれる。その内臓を売り渡し、またも誰かに金を譲り、それを繰り返し、繰り返した。

 

 

 そうして辰無は生きてきた。その日を生きるために、幾つもの悪徳を己の是としながら。それを罪と辰無は今でも思わない。窮乏は人間社会の天敵であるが、天敵であるが故に全ての価値は狂い、それが許容される。

 

 

 つまり仇川辰無という畜生は生まれるべくして生まれた狂いの孤児であった。

 

 

 だからだろう。

 

 

 今や意識が霞んでいこうとしているのに、辰無は妙な満足感を覚えていた。

 

 

「……ああ、だが」

 

 

 はたと辰無はふと思い出したように闇を見た。意識は曖昧と化してはいるが、しかし未だ死ぬには早い。ぼやけた視界にあろうとも、見るべきものの姿は未だ見えるつもりだ。

 

 

 ちゃぷり、ちゃぷりと静かな音が血の池に波紋を生み出していく。

 

 

 円環の血水が細波立つ。

 

 

 蒼の妖光が闇の中に二つ。次第に黒の濃霧の中、噴き出る腐った闇においても灯された蒼の不気味な光点は紛れず、それの輪郭を曖昧にさせて人の形をした影、影法師のような姿となっていたが、それは寧ろ〝亡霊〟と呼ぶに相応しい姿であった。

 

 

 瀕死の状態に成り果てようとする辰無の眼前に、茫洋な姿のままに佇む七夜朔の姿は最早隠れる必要も無いと、闇と化してその姿を顕現させた。

 

 

「――、――――」

 

 

 辰無は銃を構えようと腕に意識を回してみたが、気付くと掌から拳銃は零れて赤色の沼に沈んでいたので、それではと最期の力を振り絞ってその腕を妻の顔に触れさせた。

 

 

 指先に彼女の頬の感触は無い。どうやら神経が死んだらしい。

 

 

「……ざんねんだった、な。……お前は、私たちのおわりでは、ない――――」

 

 

 出来るだけ皮肉げに、辰無は言った。

 

 

 それは一つの終わりだった。七夜朔の目前、血飛沫によって穢れたランプシェードの明かりが照らす光の中で、二人、あるいは二匹の終焉が訪れていた。

 

 

『ひひ、なにがだ?』

 

 

 辰無の末期を蔑むように骨喰は口ずさんだ。

 

 

「……、っく、ぁ、あ。……おわりじゃない、そう、おわりでは、ないんだ……」

 

 

 辰無は出血が著しく、すでにその意識は混濁と化して彼の瞳は輝きを失っていた。故に彼の言葉は統制をも無くしてしまい、支離滅裂なうわ言にしかならない。

 

 

 ぶつぶつと、妻への言葉と終焉の否定に埋もれた声を呟く辰無の首は殆ど貪られており、筋肉繊維はべろんと剥げ、無事なのは咽喉と骨ぐらいだろうが、それも時間の問題だった。

 

 

「……ゆきつくさき、が。地獄だろうが、どこだろうが……かまわない。今までも、これ、からも。わたしは、かのじょが……いなくては――――おわり、では」

 

 

 意識が眩んだ辰無は今再び妻の姿を見やろうとしたが、その視界があまりにぼやけていたので、伸ばした指先を噛み砕いていた妻の姿はまるで見えはしない。いよいよもってまどろむ様な午睡の心地にある辰無には、無邪気に笑う妻の姿が悪魔の如き薄ら寒さを湛えている事など、まるで気付きはしなかった。

 

 

「――――が、ぁ」

 

 

 今再び血飛沫が舞った。食欲を堪える事もできない唯葉は遂に咽喉へとその舌を這わし、彼の息の根は潰える。虫の息であった辰無にそれを防ぐ術はなく、寧ろ喜びでもって彼は〝愛しい〟妻の愛を受け入れた。

 

 

 そして終わりが訪れる。

 

 

 仇川辰無。

 

 

 彼が最期に見た光景は。

 

 

 笑顔で彼を食む妻の姿だった。

 

 

 □□□

 

 

『ひひ』

 

 

 しかしながら、どこにあろうとも邪なる魔とはいるもの。

 

 

 凄絶な結末を台無しにする本当の悪魔とは、人の形すらしてはいない刀剣の魔物である。

 

 

『ひ、ひひひ。こいつハ、ひひ、面白イなァ。全くもって悲劇極まりなイ。なあ、そう思うだロ、朔?』

 

 

 びちゃびちゃと血を啜る音が支配する地獄の底で、金属の軋む音がそれを蹂躙した。

 

 

 骨喰から見ればこのような結末など茶番劇に過ぎない。一笑に値するだけまだマシの光景であり、涙はなく愉悦だけが刀身を揺する。腹を抱える腕が無い事だけが真に残念だ。

 

 

「―――――。―」

 

 

 朔は無反応に能面の如き眼光を湛えて、辰無の死体を貪る悪鬼の浅ましき姿を見やっていた。化物にしては脆弱な力だと判断し、呆気も無くその刃を表出する首筋に押し付けた。

 

 

 滲む腐った暗闇が染み渡るように仇川唯葉を包み込んだ。

 

 

 ――――死ね。

 

 

 闇に凝縮された憎悪の絶叫が輪唱しながら魔と化した唯葉に殺意を滾らせた。

 

 

 しかし彼女は死に絶えようとする最中にあろうとも、辰無の死体を食べ続けた。

 

 

 夢中に夫の死体を食べては満杯になった胃から今しがた収めた肉を吐き出す。それを繰り返す彼女の姿は獣以外の何物ですらなく、知性あるものの末路とはとても見えない。

 

 

 次第に込められていく朔の膂力に骨喰の朽ち果てた刃がぷつり、と音を立てて彼女の首を裂いた。一度裂け目が入れば寸断は容易く、慣れた手つきで朔の手腕は一つの首を落とす。唯葉は気付いていないのか分からないが、嬉しそうに辰無の咽喉を飲み込んだ。

 

 

「―――。――」

 

 

 ごり、ごり。

 

 

 頸部に当たる骨の硬さに呻る物音が異物のようであった。肉を斬り、骨へと届いた刃にかけられた力に女の首がぶれていくが、それでも唯葉は辰無を貪った。

 

 

 まるで、縋るように。

 

 

 圧せられた力は骨を切断するのではなく、潰すように侵入を果たした。 

 

 

 そして勢いのままに骨喰の刀身は空を斬った。

 

 

 彼女の首が物言わぬ物体へと成り果てるその時。

 

 

「――――さ、ん」

 

 

 彼女の頬に垂れる一筋の雫は、きっと七夜朔の見間違いにちがいなかった。

 

 

 □□□

 

 

 闇が呼吸する。

 

 

 ごとり、と音がして二人を包み込んでいた骨喰の闇が霧散する。

 

 

 唯葉と呼ばれた化物の首は縊られた。その腕の中に食べ残しされた辰無の残骸を抱きながら、二人の亡骸は離れる事無く椅子に腰掛けている。宛らそれは愛を確かめ合う男女のようであった。

 

 

「―。―――――」

 

 

 沈黙が重苦しく空間を押し潰していた。

 

 

 終焉を迎えた地獄において、沈黙するもの七夜朔以外に他ならない。ここは既に停止しているのだ。余韻も無く、人は死んでいく。殺される。

 

 

 其処に悲しみを見出すものがいるのならば良かったのだろう。其処に憤怒を抱くものがいるのならば救いだったのだろう。

 

 

 しかし、ここにいるのは物言わぬ死体と物言わぬ七夜朔。鬼に何を期待するのか。

 

 

 ならば、それを打ち破るものは人、あるいは神、そして悪魔以外の何物でもない。

 

 

『……ひひ。んまあこんなモンか、ね』

 

 

 不躾な骨喰の声音が固定化された空間に亀裂を走らせた。

 

 

『この程度の容量ならば、致し方無エ。そもこの程度の化物に期待するのが酷ってモンか。悲哀が混じってイるのはいただけないが、憎しみは確かに在んな。ならば、これで良シとするのが上等かァ?』

 

 

 ひひ、と亡骸の残滓を吸いだして骨喰は嘲笑した。

 

 

 七夜朔はしかし何も言う事は無く、その瞳の奥に二人の姿を映し出した。

 

 

『ひひ、シカトかい。んなら、アンタはどう思うんだィ。ええ? お嬢ちゃん』

 

 

「――――ひっ!?」

 

 

 ――――扉が不自然な軋み音を響かせる。

 

 

 隙間から覗く闇の向こう、ぱたぱたと軽やかな駆け足の音が木霊していった。

 

 

 □□□

 

 

 ブローチを取りに戻っただけだった。次いで父の驚いた表情を見たい。

 

 

 ただそれだけのために、仇川しほ子はマンションに戻ってきた。親戚から迎えに来た者の眼を盗み、車から急ぎ足でもって戻ってきた。

 

 

「ひっ、……ひっく、……んっ」

 

 

 星型のブローチは父がお土産として買ってきた一品で、しほ子はそれが大のお気に入りだった。中には写真が収められるように作られており、彼女は当然家族全員が揃っている写真を入れていた。

 

 

 しほ子は家族が好きだった。言葉を知っていれば愛していると声高々に叫ぶ程に。だから二番目に大切な物として家族写真が収められたブローチは至極大切にしてきた。無論、一番は家族そのものだ。

 

 

「ぅ。ああ、あああ、あああああああ……っ」

 

 

 零れる滂沱の涙に嗚咽が混じり、引き攣った表情は恐怖と絶望に彩られる。息を切らしながらしほ子はただ走り続けた。逃げ続けた。

 

 

 切っ掛けは、ほんの好奇心だった。

 

 

 マンションに戻ってきたしほ子はエントランスでエレベーターの扉が片方開かれていた事に気が付いた。中を覗いてみるとエレベーターのボックスは無く、そしてそろそろと内側に首を差し出すと眼下には奥深くまで続く空洞が落下していたのが確認できた。

 

 

 この時点まではよかった。エレベーターにはこんな空洞があるのだと思い、早くブローチを取りにいかなければと、反対側のエレベーターを使用し自宅まで戻った。

 

 

 ブローチは自室に置かれており、彼女は安心してそれを首から下げた。次いで中を開いてみると、そこには仏頂面な父親の表情と柔和な笑みを湛えた母親、それに挟まれるように手を繋いだしほ子の姿があった。

 

 

 彼女はそれを見ているとなんだか嬉しくなって、無性に父の顔を見たくなった。母はこれから向かうであろう親戚の家で療養しているのでもう直ぐ逢えるが、果たして次に父と逢うのはいつになるだろうか。しほ子は幼げながらに寂しくなった。

 

 

 写真も良いのだが、やはり本物には勝てはしない。

 

 

 そう思って父の姿を探したのだが、父親の姿はどこにも見えなかった。きっと仕事に向かったのだと半分の諦めで彼女はエレベーターに乗ったのだ。

 

 

 始めに乗ったとき、しほ子の頭の中にはブローチの事しかなかったので気付かなかったのだが、先ほど乗ったエレベーターの階層を表示するボタンの列の下に位置するケースが開かれており、そこに見慣れぬボタンがあった。

 

 

 マークの描かれていないボタンである。非常用に設置された呼び出しボタンで無いことは明確であった。しほ子は生まれた頃からこのマンションに住んでいたので、それぐらいは分かる。つまり導かれるのは、このボタンをしほ子は知らないという事であった。

 

 

 そこで悪い事にしほ子の好奇心がむくむくと浮き上がったのである。元々彼女は活発な質の少女であったし、物怖じする性格でもなかった。だからだろう用事も済んだ彼女は早く親戚の下に行かなくてはならないと理解しながらも、未知のボタンが秘める誘惑に負けてそのボタンを押したのである。

 

 

 そして、彼女は見てしまったのだ。

 

 

 療養と言われていた母が、いた空間を。

 

 

 愛する父が笑顔を浮かべる母に食われ。

 

 

 愛する母が悪鬼に殺されるその瞬間を。

 

 

『ひひ、どこに行くんだィ、お嬢ちゃン?逃げるなら早く逃げねェといけないゼ、嬢ちャんが遅ければ憐れな小娘はあっといゥまに鬼の餌食さねェ』

 

 

 背後から金属のような恐ろしき声がする。

 

 

 恐慌状態のままに彼女はその声音が悪魔の声だと信じて疑わなかった。

 

 

 だから彼女は逃げた。あらゆるものから逃げた。

 

 

 一目散に駆けて、途中転びそうになって支えた掌を擦り剥きながらも彼女は走ってエレベーターの開閉ボタンを叩いた。おそい。刹那が伸びた時間に扉が開く速度があまりに遅く感じて、彼女は思わず背後を見やる。

 

 

「ひぅ!?」

 

 

 咽喉が引き攣り悲鳴が上手く出来なかったのは、無理からぬ事であった。

 

 

 彼女の後方、そこの重い扉の前に、ソレはいた。

 

 

「――――、――」

 

 

 仄暗い通路の中で全身に闇を纏い、不気味な日本刀を隻腕に握りしめて、それはゆらゆらと揺れるようにゆったりとした歩調で歩いてくる。時折紛れる闇の中に長身痩躯の男がいて、髪の隙間から冷たい鬼火のような瞳が蒼々と灯されていた。

 

 

 瞳が、しほ子を見ている。そして追ってきている。

 

 

 未だ幼い彼女にその恐怖を耐える術はなく、彼女の足元には湿った水が滴ったがそれを恥じる余力すら彼女には残されていなかった。

 

 

「は、はやくきて、はやくきてよ――――っ!!」

 

 

 涙ながらに叫び声を上げながら、しほ子はボタンを押した。

 

 

 叩きつけるようにボタンを絶えず押している間にも、鬼はゆっくりと近づいてくる。

 

 

『嗚呼、憐れだなァお嬢ちゃン。お嬢ちゃんも血は少ないが、混血だろゥ?ならば存分に殺さなきゃなんねエ。あの女じャあ足りねえンだ、まるで精神の意欲が足りはシねえ』

 

 

 鬼の歩調はいやに無く遅くて、まるでしほ子を追い詰める事を楽しんでいるかのような。果たして鬼に捕まった人間はどうなるのか。遊びではない事実に彼女は震える。

 

 

 早く。早く。

 

 

 早く。早く――――っ。

 

 

 彼女の祈りが届いたのか、ちんと軽い音と共にようやく扉は開かれ、しほ子は割り込むようにエレベーターの中に入り込んだ。もんどりうちそうになるのを堪え、今度は『閉』のボタンを連打する。

 

 

 扉の側に設置されたボタンを押す。だから彼女からはソレの接近が良く見えた。良く見えてしまった。ソレの身から、握る刀身の刃先から滴る赤色の水。それは一体何なのか、彼女は見て、気付いた。

 

 

 それが、彼女の愛する両親の血飛沫であると。

 

 

「――――い、い、いや」

 

 

 消えそうな吐息にも似た叫びは、やがて大絶叫へと変貌する。

 

 

「いやああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!?」

 

 

 最早狂乱でもって彼女は『閉』ボタンを叩いた。

 

 

 やけにゆっくり閉まる扉。

 

 

 呻くような機械音。

 

 

 ひたりひたりと耳につく、誰かの足音。

 

 

 ――――そして。

 

 

 あと少しで扉が閉まろうとしたその時、彼女の精神が限界を迎えた。既にアレが殆ど見えなくなった事もあるだろう。彼女は壁に力なく背中を預け、ずるずると座り込んでしまった。

 

 

「ぱぱ……ぱぱぁ、ままぁ…………ひっく、うぁ、あああああああああああ――――っ」

 

 

 涙を抑える事も出来ずに、彼女は泣いた。父、母。二人の姿が脳裏に浮かんでは消える。共に過ごした日々。プレゼントをくれた父の表情。いつでも笑顔を絶やさなかった母の姿。走馬灯のように次々と一緒にいた光景が彼女を見つめていた。

 

 

 エレベーター内部に彼女の悲哀が溜まっていく。何かが終わった。きっと全てが、彼女を構成する何かが全部終わってしまった。

 

 

 さらさらとしほ子は崩れていく。彼女は砂の一粒に過ぎず、それが崩れて、砂になる。砂のように、消える。

 

 

 それでも、瞳から溢れる悲嘆の涙は絶望の粘り気がした。

 

 

 ――――――――っぎゃん!

 

 

 あと少し。ほんの少しで完全に閉じられた扉の間隙、その隙間からは殆ど外の光景は見えない。それぐらいにあと少しだというのに。

 

 

 金属のけたたましい罅割れ音がエレベーター内部を切り裂いた。

 

 

「――――ぁ」

 

 

 扉の間から一本の刃がおどろおどろしくその姿を顕現させていた。

 

 

 それは腐った闇を纏う朽ちた日本刀であり、その外観には薄ら寒さへ感じてしまう。切っ先は真っ直ぐにしほ子へと向けられていて、今にも刀身がしほ子の眼を突き刺してしまいそうだった。

 

 

『よう、お嬢ちゃン。ひひ、どこに行こウってのか。こコが手前の終焉っつウのによ』

 

 

 腰砕け、最早立ち上がる力さえも失った少女を金属音が嘲う。

 

 

 そして骨喰の刀身が左右に動かされていく。機械仕掛けの扉を抉じ開けられんとする人外の力に今にも折れてしまいそうな刀身は少しも罅割れず。

 

 

 ――――少しずつ、少しずつ扉は開かれていく。

 

 

 ぎしぎしと鈍い音を立てる扉。しほ子にはそれが存外にゆっくりと開かれているように見えた。 引き伸ばされた時間は恐れによるものだろうか。それすら幼いしほ子には分からない。

 

 

 ただ、その僅かな時間の合間にしほ子の理性はここではない何処かへ軽やかに飛翔した。

 

 

 断続された映像がしほ子の目の前で繰り広げられる――――

 

 

 しほ子は何処かの草原を歩いていく。両隣には父と母がいて、しほ子の両手を握っていた。相変わらず仏頂面な父はどこか微笑ましげに、そして美しい母は柔らかな笑みを浮かべてしほ子と父を見つめていた。

 

 

「ぱぱ、……ママ――――」

 

 

 ここから先には何があるのか。広がる若草の香り、緑色の海の最果てに暖かな光が当てられていて、言葉を交わさなくとも、あそこに向かうのだとしほ子は確信を抱いた。確信が彼女の首を動かす。しほ子は両親に目を合わせた。二人は緩やかな風に包まれながら髪を靡かせて、しほ子を見守っていた。

なんだか彼女は嬉しくなった。

 

 

 心配や不安、あるいは怠惰や飽きなど一切のここから先には見えない。それは確かな幸福をしほ子に予感させた。

 

 

 だからしほ子は空から降り注ぐ光にも負けない太陽の笑みを浮かべて――――。

 

 

『可哀想な子羊は腹を空かせた化物に喰われるノが常道ってな、ひひ。まア、その化物はもう一匹の化物を殺した化物なんだがナ』

 

 

 鬼が、エレベーター内に現われた。

 

 

 座り込んだしほ子は呆然とした心地でソレと対面した。

 

 

 ソレは人間の男のようにも見えた。しかし、それが人間であるはずが無い。

 

 

 何故ならその瞳は、その虚空を思わす瞳の蒼の中には人らしい光も温かさも無く。

 

 

 ――――おん。と音がして。

 

 

 エレベーターの扉は次第に閉じられていく。ゆっくりと閉じられる扉、その隙間から消えていく仄暗い光景をしほ子はきっと忘れないだろう。

 

 

 人工的な光が支配する個室には鬼と混血。

 

 

 七夜と混血。

 

 

 ならば、これから起こるであろう光景はただ一つ、たった一つだった。

 

 

 そして――――。

 




 殺人鬼。

 朔の魔眼。朔の目的。

 刀崎白鷺。刀崎の狂乱。

 骨喰の目的と正体。

 仇川

 人と魔。七夜と遠野。

 親と子。

 家族。

 あと、もしかしたら星型のブローチ。

 子供だから殺さないとか、殺しに理由付けるのは殺人鬼ではないと私は思うのです。

 感想おくれやす。 


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シキ編
プロローグ 光



それは、大切な約束。
忘れてはいけない、先生との約束。


 赤毛と白いシャツにジーンズ。そしてどこか古ぼけたトランクケース。

 

 その人は優しい人だった。自らを魔法使いと名乗りながらも、全然そのような振る舞いを見せず、ただ僕は良い人なんだと思った。

 

 僕はすぐその先生の事を好きになった。

 

 全てから逃げてしまおうとしたあの草原で、その人は当たり前のように僕の横に座った。誰にも相談できず、誰にも理解されなかった悩みをその人は真摯に聞いてくれて、同じように考えてくれた。

 

「それで、誰を探しているっていうの?」

 

「わからない」

 

「うん?」

 

「全然わからないんだ。その人が誰で、僕の知ってる人かもわからないんだ」

 

 胸に貼り付けられた惨い傷跡の奥底にある、空洞に思いを馳せながら僕は言う。

 

 なだらかな草原だった。空気が澄み渡り、草が仄かに香って、緩やかに風は凪いだ。隣に座っている先生の赤毛が心地よさげに揺れている。快晴の空は遠くまで見え、まるで自分も空に吸い込まれてその一部になってしまいそうな気がした。

 

 僕は先生の隣にいながらも、ここにはいない、きっと側にいた誰かの事を思わずにはいられず、きゅう、とおなかの中が痛くなった。

 

「でも、先生。僕はその人のことをたぶん知ってて、きっと大切な人だったんじゃないかって思うんだ」

 

「どうして?」

 

「……どうしてだろう。でも、……僕は」

 

 言葉に詰まった。一体自分が何を思いその人を求めているのかすらわからないのに、それを言葉にするのはとても難しかった。

 

 難しくって、息が苦しくなって、何だか悲しくて仕方が無かった。

 

 でも、先生は朗らかに笑って、応える事の出来ない僕の頭を優しく撫でてくれた。

 

「だったらその人の事を忘れちゃ駄目よ。人は忘れた事さえ忘れてしまった時、もう二度と会えなくなる。だから今はその人の事を忘れたという事だけを覚えておきなさい。縁が合えば、まったきっと出会えるわ」

 

 それだけで、僕はその人の事を好きになり、先生と呼ぶようになった。

 

 だから、先生と呼んだその人をびっくりさせたくなった。

 

 大木に走る落書き。落書きをなぞれば何でも切れる。事故を経てから見える黒い落書き。僕はそれが怖くてたまらなかったけれど、この時ばかりはそんな事も頭から離れていた。ただ先生に自分が出来ることを知って欲しかった。

 

 落書きを果物ナイフでなぞる。するとアレだけ太く育っていた木は訳もなく切れ、みしみしと音をたてながら、ゆっくりと切断面が悲鳴をあげながら倒れ伏していった。

 

「先生、すごいでしょ!」

 

 僕は先生へ振り返りながら言う。

 

「落書きが見えているところならどこだって簡単に切れるんだ」

 

 自分がそれだけすごいのか、特別なのか、あるいは異様なのか先生に教えたかった。

 

 きっと先生はびっくりして僕の事を見てくれる。僕と知り合えたことを誇らしく思ってくれる。そんな事を思いながら。

 

「こんなの誰にもできないでしょ――――?」

 

 ――――でも、それは振りぬかれた先生の掌が与える頬の衝撃に、断ち切られた。

 

「え……?」

 

 呆然と先生を見ると、先生は僕の事を睨みつけていた。

 

 その目元に憂いさえ浮かべながら。

 

「志貴……君は今、とても軽率な事をしたわ」

 

 倒れ伏した大木。生きている大樹が僕の手によって切断され、物言わぬ死に飲み込まれている。

 

 そしてその時、初めてそれがいけない事だと知った。

 

「あ……」

 

 震えて、握っていた果物ナイフが滑り落ちた。でも、それにさえ僕は気づかずにいる。先生が怒っている。その事実に足元さえ覚束ないでいた。

 

 僕の視線に合わせるように眉間に皺を寄せた先生は腰を屈め、じっと僕のことを見つめている。それが責められているようで、ただ怖かった。

 

「……ご」

 

 思わず涙さえ瞳から零れた。

 

「ごめん……なさい」

 

 柔らかい感触が僕の体を包み込んだ。気づけば、先生が僕を抱きしめてくれていた。

 

「謝る必要はないわ」

 

 先生は優しく囁いてくれた。耳元で聞こえる先生の声はどこかくすぐたくさえあった。

 

 思えば、誰かに抱きしめられるなんて目が覚めて初めてのような気がする。病院では知り合いは誰も尋ねてこなかったし、医者は診断しかしてくれない。誰かが僕の事を思ってくれて抱きしめてくれるなんて、はじめての事だった。

 

「志貴は確かに怒られることをしたけれど、それは決して志貴が悪いって訳じゃないんだから」

 

 側にいる先生は温かく、柔らかい匂いがした。

 

「でもね、志貴。今誰かが君を叱っておかないと、きっと取り返しのつかない事になる。その代わりに志貴は私のことを嫌ってもいい」

 

「ううん……先生の事、嫌いじゃないよ」

 

 涙が止まらなかった。鼻のつんとして痛い。胸の奥にある虚ろが温かくなったけれど、だからこそ際立っているようで余計に悲しく思えた。

 

「そう、……よかった」

 

 少しだけ強く、先生は僕を抱きしめてくれた。

 

 

 □□□

 

 

「すごいよ先生! 落書きがちっとも見えない!」

 

 果てしないような草原での出会いは、僕にかけ値のないものを与えてくれた。眼鏡もその内の一つだった。それをかけると視界に走る落書きが消え、空を見上げれば眩しい青色が阻害されずに見えた。あれだけ僕を苦しめていた気持ちの悪さが、まるで嘘のように見えなくなる。

 

 まるで、魔法のようだった。

 

 そういうと先生は「当然よ」と笑いながら言った。

 

「だって私、魔法使いだもの」

 

 眼鏡を外してしまえば落書きは再び見える。一時的な誤魔化しにしか過ぎず、根本から消え去る事は決してない。それでも、僕にとっては例え嘘でも落書きが見えなくなることが嬉しかった。安心して歩ける。触れただけで簡単に壊れない。それだけで嬉しかった。

 

「いい? 志貴、その線をいたずらに切ってはだめよ。君の眼は「モノ」の命を軽くしすぎてしまう」

 

 別れ際に、先生は言った。

 

 出会いが偶然のようなあっさりさであったように、別れもまた偶然のようにあっさりとしたものであった。

 

「でもそれは君個人の力よ。君の未来にはその力が必要になるからこそ、その直死の眼があるともいえる」

 

 二度と出会えなくなるかもしれないのに、僕たちの間に悲しみはなかった。心のどこかで、これで終わりではないという確信が何となく心のうちにあった。馬鹿げた考えだとは思えない。もし、運命という言葉を知っていたならば、その文字ほど相応しいものはない。それでも別れは切なく、僕はずっと先生を見つめ続けた。

 

「どうしても自分の手に負えないと判断した時だけ眼鏡を外して、自分でよく考えて力を行使しなさい」

 

 不意に近づく先生の顔。そして僕たちは額を合わせあう。先生の額から、僕の頭のなかに何かが暖かいものが伝わってくるような気がした。

 

「志貴」

 

 いよいよ、別れが近づいてくる。

 

 離れていく先生の体温がどこか名残惜しい。

 

「聖人になれなんて言わない。君は君が正しいと思う大人になればいい。そうすれば、きっと君の会いたい人にもめぐり合える」

 

 先生は僕の胸に手を当てる。そうすると、確かにそこには消え去らない虚ろがある。

 

 でも、これを忘れなければきっと出会える。例えそれがどんな出会いであれ、信じ続ければ、きっと再び会える。先生、そして。

 

 ――――どこかに見える、あの後姿へ。

 

「いけないという事を素直に受け止められて、ごめんなさいと言える君なら」

 

 先生は最後まで笑顔だった。風の中で揺れる柔らかな赤毛。トランクケースを片手に笑うその姿は、いかにも先生らしく、魔法使いには見えない。

 

 でも、先生は僕に奇跡をくれた、誰よりもすごい魔法使い。

 

「10年後には、きっと素敵な男の子になっているわ」

 

 彼女が紡ぐ言葉。

 

 

 ――――それはきっと、再会の約束。

 



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プロローグ 闇

 嘆きの川を泳いで渡り、向かうは果ての無明荒野。
 一瞬の灯火は複(かさ)ねの讐(かたき)髑髏(しゃれこうべ)が道を成す。
 光りの明日はもう来ない。暗いまどろみへと迷い惑う。



 獣の臭気がこびり付き、死臭と化した澱みが充満している。

 

 冷たい暗闇である。肌に触れてしまえば切れてしまいそうな沈黙と寂寞が重い鉄製の扉の中に漂い、呼吸さえ難しい。

 

 そしてそれは、暗い暗い地下の闇の底にいた。

 

 子供だった。壁から伸びる鎖によって手足を縛られ、更に口元には拘束具が装着されている子供である。全身を取り巻く金属によって関節の殆どを封殺されたその身は、壁と同じような固いコンクリートの地面に横たえられており、左腕を失っている事から異様に細く見える。その様は春を待つ蛇のようであった。

 

 そしてよく見れば、襤褸切れを纏う体中のいたるところで傷が目立ち、出血も多々としている。しかし、その身を拘束された少年にそれを拭う事も痛みに手をあてがう事も出来なかった。

 

 すると闇を切り裂くように、重々しい鉄製の扉が軋む音を上げながらゆっくり開かれた。

 

 そこに現われたのは着物を羽織る女だった。艶やかな立ち姿と病的なほどに白い肌、そして口元を彩る血のような紅が相まって、浮世絵から飛び出たような女である。

 

 このような場所に女の姿は限りなく浮ついているように見えたが、そのあり様は何よりもこの場所に相応しく思える。退廃的なまでに、女はどこか現実離れをした瞳のなかに拘束された子供の姿を捉え、引き攣るような笑みを溢した。

 

「あら。お目覚めかしら、七夜朔」

 

 嘯きながら女は子供、七夜朔に近づいていく。

 

 切れ長の瞳が妖しげな色を湛え、嗜虐的な虹彩を放った。

 

「何か言って御覧なさいよ、この化物め!!」

 

 そして力なく呼吸している七夜朔の体を思い切り蹴り上げた。

 

 女の力とは言え、成人した大人による蹴りは子供の身を容易く打ち砕く。

 

「――――」

 

 しかし、肉を打つ愚鈍な音に七夜朔は無反応であった。

 

 まるで女の暴力、いや女そのものが存在していないように意に介していない。事実人体を蹴る事に慣れていない女の動きによって行われた打撃である。半端に込められた力が痛みを生み出さず、ただ肉を打ったのみ。

 

 それが女を苛立たせ、更に女の暴力は苛烈化する。

 

「ほおら、何もいう事はないのかしら!惨めな屑め、私なんかに甚振られてるお馬鹿さん。あはは! あははは! あははははははははは!」

 

 嗜虐が愉悦を誘い、七夜朔の無様に侮蔑が躍る。

 

 振り上げられた脚が七夜朔の小さな体を何度も殴打する。

 

 腹を背を、腕を足を、頭部や顔を硬い踵で幾度と無く。幾ら単純な蹴りとは言え、打たれるその度に朔の体には新たな傷跡が生まれ、塞ぎかかっていた瘡蓋が破裂し血が滲んだ。

 

 だが、七夜朔はそれでも無反応だった。

 

 女のことなどまるで興味の彼方から失せている。その伏せた眼が女を捉えることもない。まるで女になんの価値も見出していないかのようだった。それが溜まらず女の腸に宿る憤怒が煮える。

 

「っく、この人形が!!」

 

 更に力を込められた蹴りが朔の顔面を捉える。

 

 鼻腔から血が垂れた。どこかを切ったらしい。それでも鼻が折れないのは僅かな身じろぎだけで打点を焦らし、被害を最小限に抑えているからに他ならない。それが腹立たしく、女は口腔から唾を吐き散らす。

 

 憤怒に囚われた女の顔は美しさとは程遠い狂乱を湛えており、ともすれば怨念のような表情である。この世の全てを憎み、恨んで死に絶えた霊魂はきっとこのような顔をするのだろう。

 

 それは、ただただ醜悪であった。

 

「なんでお前が、なんでお前なんかにあの方がご執心なのよ!お前なんか、お前なんかに!」

 

 堪えられず着物の懐から銀のきらめきが漏れる。女の掌ほどの大きさを持つ短刀が右手に納められ、何も反さぬ七夜朔へと振り落とされる。

 

 空を裂く刃、あまりに無作法な手並みから女が如何ほどの修練を積んでいないことは明らか。それでも無慈悲に輝く刃の鋭利は、蹲る子供の肉を裂くには充分程で、それは技量さえ必要とされない。

 

 しかし、それでも。

 

「軋間紅摩さまのお心を奪って――――!!?」

 

 その言葉に、その名前に。

 

 ただ痛めつけられるだけだった朔の顔が、起き上がる。

 

「――――っひ!?」

 

 女の振り下ろした刃先が空で停止する。いや、止めざるを得なかった。

 

 何故なら今、女は自身が死んだ瞬間を幻視したのである。

 咽喉を食い破り、心臓を抉り出し、脳漿を粉微塵に磨り潰され、肉体という肉体が生命を保てずに絶命する。

  

 ――――炯炯と色濃く輝く蒼の瞳。 

 

 あまりに人から離れた輝きが眼球の中で放たれる。

 

 暗闇の中にあってもそれは爛々と煌きながら、殺意を混ぜる。

 

「ぎ、あ――――」

 

 突如として呼吸が出来ない。

 

 室内を満たした七夜朔の殺意が、女を包み込みその生命を捉えた。その瞬間に女の体は頑なに怯え、肺は活動を止めた。

 

 このままでは死ぬ。ただ一人の少年に女は恐怖し、殺意に死に絶えようとしている。

 

 力が入らず女の脚が崩れる。だけど女は呼吸をすることが出来ない。部屋の闇が一気に増し、酸素を奪っていく。床に伏し、咽喉元を押さえても肺が機能を果たさない。女の肺が酸素を求めて暴れ、心臓が恐怖に破裂しそうになる。口元から涎さえ垂らし、女は空気を求めて口をぱくぱくとさせた。

 

 修羅場を越えた人間ならば、あるいは鉄火場を歩いた人外ならば、かのように筋肉が収縮を止めることはなかった。

 

 しかし女はそのようなモノを知らずにいた箱入り。殺し合いを知らず、理解もせず、経験もしないただの女が殺意にあてられ、無事にいられる道理はない。

 

 頭が働かない。

 

 意識が絵の具をぶちまけたように朦朧とする。

 

 視界は仄かに色を失い始め、舌が別の生き物のように蠢いて――――。

 

「ひひ、ひ……何してやがる」

 

 突如として、闇の中に異物が紛れ込んだ。

 

 女の背後、扉の前。いつの間にかそこに妖怪がいた。

 

 二メートルを越す長身痩躯に、猛禽類の眼球を持つ老人である。血走った眼球、瞳は濁り、まるで飢えに獲物を舌なめずりする獣のよう。その身は擦れた襤褸を纏いながらも筋肉質な肉体は否応の不自然さを見せ、気味の悪さを際立たせる。

 

 まるで怪物のような出で立ちで、刀崎梟はそこにいた。

 

「っかは!かひゅ――、かひゅ―――」

 

 しかし、そのようなものであろうとも、室内の空気が幾分かに和らぐ。霧散はしないが殺意が妖怪の気配に紛れる。無酸素状態に陥り、後わずかばかりで死に絶えようとしていた女は入り込んだ妖怪によって死を逃れた。

 

「嗚呼、相変わらず良い殺気だ。血が滾るなァ、ひひ」

 

 金属が裂かれた様な軋み音。女が瀕死の状態にまで追い込まれた殺意の中に佇みながらも、人が聞けば溜まらず耳を塞ぎたくなるような声音が妖怪の口元から溢れる。心地よさげに顔を歪ませるその口元から零れたのが、この世を全て嘲るような人外の声だった。

 

「そろそろ時だ。今日は人間と獣も混じっているぜ。精々気張れ」

 

 自身を見つめる七夜朔の瞳を柳の如しに流しながら、妖怪は朔の体に巻き付く鎖を更に頑丈に締め上げ、壁に張り付く金属を外す。

 最早雁字搦めと化した朔は関節ひとつ動かせず、妖怪の意のままだった。力点を完全に押さえられた朔は蓑虫のような姿と化しながら、妖怪の腕の中に収まる。それでも暴れようと全身を力ませて暴れる朔を妖怪は「ひひ、元気元気」と自身を滅ぼさんとする朔へと寧ろ嬉しそう笑った。

 

 その様を女はただ呆然と見つめていた。未だ荒い呼吸を繰り返しながらも、肌の白さを幾分も回復させず、噛みあわぬ歯をがちがちと振るわせた。

 

 妖怪は一族の棟梁だった。この化石のような老人は、長の時を生きる人外共を力と技術によって纏める傑物である。そして七夜朔は妖怪が最近まで遠野に預けていたお気に入りだった。女は実情を知らぬ身であるが、遠野家の現当主が何者かによって意識不明の重体へと追い込まれた際のごたごたに乗じて妖怪が招き入れたのである。

 

 それに手を出せば、女の命など枯葉の一枚に過ぎなかった。

 

「と、棟梁様っ、ももも申し訳ありません!!」

 

 思考するまでもなく、女は土下座をした。口元の涎を拭う事もなく、自身の着物を汚す埃を払う事さえない。そのような事、気にする事さえ今は出来なかった。

 

 あまりの恐怖と緊張に頭部が爆発してしまいそうだった。何故なら相手は一族の棟梁。その一声で、彼女は消されてしまうのだ。だから今彼女は思わず命を乞うた。ただ一身に頭を垂れ、許しを請うその姿は哀れみさえ誘う。

 

 しかし、妖怪は朔の身を抱え女の横を素通りする。大柄な体格にこの牢獄は狭いと身を縮ませながら。

 

「あの、棟梁様……っ」

 

「――――ああ、手前」

 

 そして、扉に差し掛かり、妖怪刀崎梟は後ろ土下座姿の女へと振り返る。

 

「いたのか」

 

 思わず、女は頭を上げる。

 

 猛禽類のように巨大な眼球が、路傍の石を眺めるように女を眺めている。

 風景の一場面と遭遇したような瞳が、まるで女を見ていない。

 

「――――あ」

 そして、女は気づく。

 

 梟にとって、女のことなどまるでどうでもいい存在でしかないのだと。

 

 今現在、刀崎梟は肩に担ぐ七夜朔にしか興味を覚えるものはないのだと。

 

「さあ、行くとしようか。手前との約束さ。ひひ、ひ……、殺し合いの始まりだ」

 

 鼻を鳴らしながら、梟は遠ざかる。重々しい扉が鈍い音を経てて閉まっていった。

 

 そして暗闇の中に残されたのは、女ただひとり。

 

「う、う、うううう……っ」

 

 呻き声にも似た嗚咽が漏れ、狭い牢獄の闇を濡らした。扉の向こうに消えた梟の背に、彼女の涙は届かない。

 

 悔しくてたまらなかった。

 

 叱咤されるならまだしも、まるでいないかのように父から扱われる。

 

 元から気にかけられる事などありはしなかった。

 女は刀工としての才能がこっそり欠けていた。

 刀崎に生まれながら才気のない娘。

 そのようなモノに、価値などありはしない。

 

 それでも出会った想い人がいた。

 

 その人の雄々しい姿に心奪われた。今まで刀崎としての価値を見出されず、軋間の血を絶やさないための苗床としての役割であったが、それでも構わないほどに心を奪われ、恋い慕った。

 

「……――――や」

 

 けれど、彼女の望みは決して叶わない。

 

 ――――軋間紅摩は彼女なぞに目もくれず、ひたすらに七夜朔を心に占めていた。

 

 全ては彼女が想う前に、果たされていたのだ。

 

「――――ななやっ!!!!」

 

 ぎしり、と歯軋りの音がして、思わず噛み締められた唇の端から血が垂れた。それは口紅と相まっていよいよ毒々しく女の白い肌を彩る。

 

 誰も自分を認めてくれない。

 

 誰も私を欲してくれない。

 

 想い人の心さえ手に入れられない。

 

 ――――惨めだった。

 

「う、う、う、うううううう……」

 

 女、刀崎白鷺は怨嗟に声を押し殺して泣いた。

 

 □□□

 

 血飛沫が舞う。

 

 首から鮮血を撒き散らす牛の巨体が崩れる。肉を抉り、骨をも掴む所業に猛る牛はたまらず野太い悲鳴をあげた。その首元、分厚い筋肉と脂肪がつまった皮膚の中に右腕を潜り込ませていた七夜朔が腕を引き抜く。

 その指先を濡らす紅色のねばっこい血が糸を引き、地に垂れた。

 

 それを見越したように、巨体を揺すりながら猛追する男が巨大な棍棒を振り上げ、骨格もろとも朔を圧死せんと叩き伏せた。子供の朔の体ほどある棍棒である。その破壊力は朔の頭蓋をひき潰し、新鮮なトマトスープと化すほどのものはある。

 

「あああああああああああああっ!!」

 

 棍棒が打ち下ろされ、声にもならぬ衝動が男の咽喉から劈いた。

 

 よく見ればその瞳に生気はなく、また理性の色は見えない。丸太のように筋張った首筋を蹂躙するように青い血管が走り、それに相応しい肉体が異様な程に膨れ上がっている。荒れ狂うような動きでもって、操られているように男は全力の一撃を七夜朔に揮った。

 

 しかし鉄製の塊が七夜朔を押し潰そうと加速した瞬間、男の腹に異様な異物感が生まれた。思考の間隙に、呻き声が零れれば思わず男の視線が腹部を見やった。

 

 それは皮膚を突き破り、腹筋の隙間へと捻りこむ七夜朔の右腕だった。

 

 のた打ち回るような痛みが男の脳を焼き尽くす。

 

 例え薬と催眠によって二度とはまともな機能を果たす事のない脳だとして、脳は脳としての役目を果たし、肉体への危険信号を激烈な痛みとして掻き鳴らす。

 

 だが、それは虚しく終わる。

 

「――――」

 

 僅かに力んだ朔の右手が瞬きの内に閃く。

 

 鮮血が吹き零れる。傷口から勢いのまま、内臓が引き釣り出された。

 

 人体の内臓、消化器官は食道から繋がる一本の縄であり、大よそ繋がっている。そしてその長さは成人男性にして全長は約九メートル。

 

 それが、一気に引き釣り出された。

 

「アアアアアアアアアアァアアァアア!!??」

 

 血を吐き出しながら男は絶叫した。悪鬼さえ震え上がるような悲鳴だった。

 

 始めに見えたのは固い大腸であった。それにつられる様に細く弾力のある小腸が紐解きながら引き釣り出され、大腸の端から大きな胃が赤々と血管を輝かせながら姿を見せた。

 

 連続するそれにより、腹からは異様な音が聞こえ、最後には食道が引き千切られ男の大絶叫は止まった。

 

 その様は奇怪のように見えた。棍棒を振り上げる男の腹から艶やかな色を放つぶよぶよとした内臓が、産まれた芋虫のように生命を宿したままに軒並み引っ張り出されていく。男からはどう見えたのだろう。自身の腹部に詰まっていた内臓を生きたままに目視した男には。

 

 ただ、死に逝く男の思考を知る術はない。元より意思を奪われた人形である。前のめりに倒れ伏し、自身の内臓に埋もれる男の考えなど誰も興味を覚えないだろう。

 

 返り血を浴びながら内臓をその手に握り潰す朔はそれに目をかける事無く、次の標的に向かう。

 

 ――――踏み込もうとした膝に、激烈な痛みが穿った。

 

 灼熱のような痛み。筋肉を千切るように、朔の左膝、そこに弾丸が撃たれていた。

 

「――――」

 

 血肉が爛れる。脳を焼き尽くさんばかりの痛み。思わず力が篭らず立ち止まる。朔の背後に硝煙を昇る銃口を抱える兵士がいた。

 

 だけど、子供の目は決して痛みに恐怖を抱いていなかった。増して痛みさえ感じているようには見えなかった。まるで自分の体と精神が分離してしまったかのように、子供は自らの傷や痛みに無関心であった。

 

 ――――そして、朔の眼が変質する。

 

 黒から蒼へと。空虚から、清澄へと。

 

 朔の肉体が翻った。足元に赤い血痕を残して消える。

 

 瞬間、朔がいた地面に砂塵が昇る。乾いた破裂音が幾度も響いた。銃弾が朔を射殺せんと打ち込められる。

 

 ――――その兵士の足元に、いつの間にか朔の姿が出現した。

 

 まるでそこは悪夢のようだった。ただ一人の少年を殺害しようと様々な生命が息巻いて走り、それら全てが少年によって丹念に殺されていく。

 

 土壁によって囲われた広い広い空間であった。周囲を木格子によって補強し、天井は完全にふさがれているため、空さえ見えない。元はコンクリートによって作られた居住マンションであったが、幾度とない破壊と損傷に補強が重ねられ、今となっては異様な異空間を生み出していた。

 

 建築物は人里から遠く離れ、逃亡する手段はない。人工的に作り上げられた孤島。

 

 その正体はマンション一棟を使用した屠殺場であった。

 

「ひひ、ひ……。まるで、地獄の羅刹のようじゃねえか」

 

 その様を硝子越しに見る男がいた。

 

 刀崎梟は厭らしく口元を歪めながら、壁の向こうで巻き起こる殺戮を眺めていた。

 

 年若い子供によって有象無象の命が散らされる。見ようによっては腹を抱えて笑える光景であった。だが屠殺は現実として起こっている。

 

 そして今刀崎梟が見つめる前で、武装化した兵士が首を錐揉みさせながら斬り飛ばされた。

 

「やっぱ、朔はいいなあ。こんなにも地獄が相応しい奴、今まで見た事がねえ」

 

 瞬き一つさえ惜しいと言わんばかりに眼球を見開きながら、梟は笑う。嘲う。

 

 何より梟が気に入っているのは、七夜朔が生身の肉体のみで殺害を果たしているという事に他ならない。

 

 今しがた牛の分厚い筋肉へと潜り込んだのも、男の内臓を引き釣り出したのも、あるいは首をもがれた兵士が、刹那の前に伝達された意思に従い体のみとなっても襲ってくる際にその半身をぶちめけたのも、全ては武装によるものではなく、朔の手足によるものであった。

 

 武人は鍛錬によって自らの五体を鈍器へと変え、やがては切れ味さえ帯びる。

 

 しかし七夜朔はどうだろう。

 

 彼は暗殺者の一族に生まれ、彼らが戦線を離れた後も暗殺者として鍛えられ続けた鬼子。七夜黄理の秘蔵っ子である。それが普通な訳ではない。

 

 そして七夜朔は未だ子供の身。成長段階の途中にある。

 

 魔眼は未だ安定をしていないが、それも時間の問題。

 

「こいつあ、ひひ……。鍛えれば七夜黄理なんて目じゃねえなぁ――――っ!?」

 

 どくん、と梟の胸が高鳴る。

 

 それは熱を放ち、血を滾らせて梟の脳髄を侵し、痛みさえ伴うほどの衝動を体に宿す。思わず屈めた身から熱波が生まれ、蒸気のように梟の身を囲うとする。荒ぶる呼吸と、見開かれた瞳がちかちかと色を豹変させようとさえした。

 

 だが、それを梟はふざけた事に気合でもって押さえ込んだ。苦痛に呻き声を溢しながらも、彼の咽喉から迸ったのは金属の悲鳴にも似た嘲笑だった。

 

「ひ、ひひ。……俺にも時間が迫ってんな。はっ、はは。これはいよいよ作刀を開始しなきゃなんねえなア。ひひ、ひひひひひひひ!」

 発作のように筋肉を痙攣させながら、梟は笑った。

 

 瞳の血走りは更に亀裂を深め、毛細血管の何処かが切れたのか、次第に白目が赤色に塗りたくられる。歯肉を剥きだし哄笑を張り上げながら、体を震わせるその様はまるで魔物のようであった。

 

 思い描く刀はすでに決まっている。

 

 朔と出会った瞬間から、経典のようにその姿は梟の脳裏に浮かんでいる。己の業と、朔の業。それらが合わさり、一つの形を生み出す。ならば、己はそれに向かって自らを捧げるのみ。

 

 刀崎の秘奥。刀崎一族は自らの腕を代償に捧げ、最後の刀を生み出す骨師。それによって生み出された骨刀は生涯最後の一品にして、生涯最高の一刀となる。

 

 しかし刀崎梟が、刀崎一族の棟梁たる妖怪が通常のもので満足できるはずがない。何故なら彼は刀崎でなお異端とされた刀崎。

 

 そのような存在が生み出す刀が、まともなはずがない。

 

 そうして、ひとしきり笑った後。

 

 刀崎梟は何とはなしに言葉を紡ぎ、背後へと振り返る。

 

 歯軋りのように奥歯を噛み締めながら。

 

「よう、手前はどう思う。ひひ、感想が聞きてえもんだなあ、――――――――荒耶宗蓮」

 

 ――――刀崎梟の背後。

 

 滑るような狂気、悪鬼の屠殺が広がる最中。

 

 地獄のような男が、そこにいた――――。

 



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第零話 what are you fighting for?

――――私は愛する人のために。

     自分自身だって破壊できる――――。


「それで、兄さんは?」

 

 報告に訪れた翡翠の姿に、遠野秋葉は書類を纏める腕を止めた。その口調の端に見えない苛立ちが燻っているのは明確であっため、翡翠は努めて冷静に報告を述べた。

 

「志貴さまからご連絡はありません。また志貴さまの学校に連絡をしたところ、昨日の段階では帰宅の途についたそうです。ですから……」

 

 彼女の視線の先、給仕服を身につける翡翠はどこか所在無さげにしていたが、しかし己の主に伝えるべき事のため、彼女の口調は自然と固くなる。

 

「今のところ、志貴さまの行方は依然として知れません」

 

 感情を宿さぬ物言いは一種相手を不快にさせるものであったかもしれない。だけど、翡翠は給仕であり、秋葉は主だった。これ以外の言など、どこにあるのだろう。

 

 執務室は無意味に広々としていた。室内に人間が三人いても全く問題のない広さを誇り、寧ろどこか寒々としている様にも思える。そしてそれに反するように圧迫感を放つ本棚と重厚な高級机が置かれ、現在秋葉は室内に一つだけ設置された机を使用し書類に目を通していた。これらは秋葉の父が生前から取り寄せたものであり、機能美と見た目のバランスが部屋に置かれ、他の調度品とそぐう様にしてある。ここら辺は生前の父、先代当主遠野槙久の凝り性が発揮されていると言えるだろう。オーダーメイドで取り寄せたそれら一級品は品格すら醸し出し、この部屋、あるいはこの屋敷の主たる人物の才気を遺憾なく発揮させている。

 

 ただ秋葉にとって、この部屋は他人を寄せ付けぬ雰囲気を匂わせていると思われる。余計な飾りなど皆無と言っても良いこの部屋に視覚を楽しませるものは何もない。仕事を行う部屋なのだから、人を寄せ付ける魅了が存在する理由がある必要もないのだろうけれど。

 

「そう、ご友人方からのご連絡は?」

 

「ありません」

 

 簡潔な翡翠の言に、秋葉は溜め息をついた。肺の奥底にたまった鬱憤を吐息にして露出させたような溜め息だった。

 

 昨日から秋葉の兄、遠野志貴の行方が知れない。

 

 前日の朝、遠野邸を出てから一度も志貴の姿が確認できない。

 

 やはり健康的な問題から学校を休めさせればよかったのか、と秋葉は胸中で呟く。自ら望んで学校に行きたいと言っていた、とは言え病み上がりの身である兄を想えば無理矢理にでも家に閉じ込めておけばよかった。兄は嫌がるだろうが、それでも秋葉にとっては譲れぬ事だった。不安なのだ。ただでさえ体の弱い兄が自分の知れぬ場所で倒れているのではないのかと。

 

 その不安を助長させるように、昨日の夜、兄の学校から連絡が届いた。

 

 その内容が、秋葉の胸の奥を締め付ける。

 

「兄さんの学校が休校。……この件に兄さんは関係しているのかしら。翡翠はどう思う?」

 

「……わかりません。志貴さまの足取りも掴めない今の情況では、私に言えることなど何も……」

 

「そう。……琥珀は?」

 

 振り返りながら秋葉は自身の後方で書類の選考を行っている琥珀に問うた。

 

 目前で佇む翡翠の双子の姉に当たる彼女は今朝から秋葉の仕事を手伝ってもらっている。秋葉が当主の座に就く以前から遠野の仕事に触れている琥珀の手腕は、秋葉の補助として心強い味方であり、だからこそ他の仕事の合間に行われる秋葉の手伝いは琥珀の仕事のうちに組み込まれている。

 

 実に優秀な人間である。

 

 その愉快犯な中身はさて置き。

 

「そうですねえ。私も志貴さんの行方はわかりません。もしかしたらご友人の家に泊まって連絡を忘れたとか、それとも連絡も取れず家にも帰れない状況に巻き込まれたとか。思い浮かぶ事はいろいろあります。……ただ」

 

「ただ?」

 

「もしかしたら、志貴さんが望んで連絡を取っていないという可能性もありますよ?」

 

 秋葉の問い掛けに琥珀は真摯に答えた。

 

 しかし、その内容は秋葉の中に巣くう不安の魔物を押し込める効能を期待できるものではなかった。故に秋葉は眉間に皺を寄せながら琥珀を見つめる。

 

「それは、何故?」

 

「さあ、私にはわかりません。もしかしたらお付き合いしているお方との逢瀬を楽しんでいるのかもしれませんしね」

 

 不安を拭わせるように、琥珀はどこかおどけて言った。

 

 だけどそれは秋葉からすれば柳眉を吊り上げるには充分すぎるものなのは明確だった。

 

「……それに関しては兄さんから直接聞くわ。ええ、もしそれが本当にそうなら良い度胸をしているとしか思えないけれど。詰問といわず、拷問の手段まで問わないわ」

 

 引き付く頬を抑えられず、秋葉の苛立ちに手元の書類に皺が寄った。

 

 もしそれが正解ならばただではおかない。遠野の人間としての自覚が足らないばかりか、妹を心配させといて結果がそれとは笑えない。

 

「――――全く、私の気も知らないで」

 

「……秋葉さま?」

 

 よく聞き取れず、翡翠が問いかけるが「なんでもないわ」と秋葉は切って捨てた。

 

 小さな呟きが思わず吐露されたのは致し方のないことなのかもしれない。ただ家族の心配をすることは、妹の身としては当然の事であり、正当な義務があるのである。

 

 ――――そう。せめて妹としての心配ぐらい、させて欲しい。

 

 それが小さな秋葉の……。

 

「もういいわ、翡翠。兄さんから連絡があれば取り次いで頂戴」

 

 頭(かぶり)を振る。

 

 へたな感傷ほど思考能力を蝕むものはない。それが不安の苛立ちと混ざれば厄介この上ない障害と成り果てるだろう。だからこそ、もうこれ以上過去と現在を繋げる今を慮る事は止める。

 

 掘り進めれば潜り込んだ証に、きっと秋葉を傷つけるアレが浮上するに違いないのだ。自ら望んでその姿を望む必要はない。

 

 

 望む資格さえ、秋葉にないのだから。

 

 

「はい、かしこまりました。秋葉さま」

 

 翡翠は静々と頭を下げ、「失礼しました」と部屋を出て行く。

 

 その姿を見送った後、秋葉は何となく執務室の窓から外を見やった。

 

 早朝を少し過ぎて、遠野の庭は緩やかな光が差し込まれている。日差しに照らされた緑と空は清澄な雰囲気を湛え、仕事さえなければそれを味わうのも良いかも知れない。ここのところ天気が良いのも関係しているだろう。湿り気さえ何処かへと消え去った空気は程よく乾燥していて、居心地が良い。

 

 ただ、それに反して秋葉の胸中は厚い靄に覆われている。

 

 兄が帰ってこず、一夜明けた。連絡もつかず、行方も定かではない。しかも昨日、兄の通う学校が休校届けが遠野の家にも届いた。その原因は学校の生徒が昨今三咲町を騒がす連続殺人事件、俗称吸血鬼事件の犠牲者になったからだと言う。

 

 そういえば、と秋葉は琥珀に聞いた。

 

「琥珀」

 

「はい、なんでしょうか秋葉さま?」

 

「今回行方不明になった人の名前って確か……」

 

「はい。一昨日志貴さんに電話をして下さったお方です。名前は、弓塚さつきさんでした」

 

「…………っ」

 

 頭が痛んだ。脳の中に錆びた針が刺さったような鋭い痛みだった。

 

「そう……そうだったわね」

 

 手元に握られた書類の一枚を机に置く。意識しなければ書類の案件を読み込む暇すらなく、それをぐしゃぐしゃにしてしまいそうだった。

 

 そして、肉体の底から生まれる不安の揺らぎが的中した事を、秋葉は確信した。

 

「……兄さんは、無関係ではなさそうね」

 

「はい。……たぶんですけど」

 

 弓塚さつきは兄の友人だと聞いている。体調不良で学校を休んだ兄に一報をくれた人物で、遠野志貴とは遠からずな関係を持つクラスメイトらしい。直接会ったことも、また声を聞いた事もない秋葉だったが、それでも友人を失った兄の心持を想えば、かける言葉さえ見つからなかった。

 

 友人知人が何かしらの事件に巻き込まれる。これほど不安を駆り立てることはないかもしれない。その恐怖ともつかない感情は正体のない化物で、心を落ち着かせる手段は自分自身にないのである。ならば、それを知った兄の胸中は酷いものだろう。

 

 秋葉も、そうだった。

 

「琥珀」

 

「はい」

 

 秋葉は静かに言った。その瞳に決意を宿して。

 

「今夜、出るわ。だから……」

 

「……はい」

 

 秋葉の意志に、琥珀はどこか味気なく応えた。

 

「ごめんなさい、琥珀」

 

「いえ、仕方の無いことですよ」

 

 苦笑するように秋葉の側に置いてある椅子へと琥珀は腰掛け、着物を崩して自らの首筋を晒した。

琥珀の肌はきめ細やかな白い色を湛えていた。

 

 首にかかる赤毛を上げれば、美しいうなじに少しだけ生える髪の毛が、どこか艶かしささえ醸し出している。細く小さいなで肩からなだらかに続くこのほっそりとした細い首筋にどれほどの魅力があるのか、女性である秋葉には全てを把握しかねたが、それでも可愛らしいと秋葉は思った。そして何となく、その肌に人差し指を這わす。

 

「……んんぅ」

 

 滑りの良い、けれど秋葉の指に吸い付くような肌だった。柔らかな皮膚の奥にある確かな筋肉と、そしてうなじを隆起させる頚椎の硬い感触へと指が触れる。指先から伝わる肌の温もりが妙な現実感を秋葉に与え、その奥底にある血潮の熱いせせらぎさえ掴めそうであった。崩された着物の首筋は秋葉を異様な心地にさせた。内側が滾り、そしてそれが滾れば滾るほどに秋葉の心が凍えて仕方がない。それでもやめられず、這わす指に中指が増えた。

 

 髪の生え際に指を届かせれば、か弱げな産毛が秋葉の指先に触れた。それらは柔らかながらに彩りのない白い毛で、琥珀の紅を垂らしたような毛髪には不相応に思えた。けれど、その食い違いが幼子の肌を思わせる。

 

 自然と近くなった琥珀の体から仄かに体臭が香った。微かに匂う女の匂い。鼻腔の奥へと燻るような匂いに石鹸の香りが混じり、それが琥珀の体から香っている。どこか子供のようなものでありながら、確かに大人の女性が持つ成熟さへと変わりつつあるその香りを秋葉は胸の奥に仕舞いこむ。

そしてゆっくりと這う指が、崩された着物の奥に隠された鎖骨の辺りを見出し――――。

 

「や、秋葉さま、くすぐったいですよう」

 

 楽しげに琥珀は紡ぐ。

 

 くすくす、と我慢しなければ笑ってしまいそうな吐息が零れた。その響きの味気なさは、人間味ではなく、ただ物質が外部からの接触に反応したような無味があった。

 

 そこで秋葉は、はっと夢から覚めたような感覚に晒された。

 

「あ、琥珀……。ごめんなさい」

 

「いえ、大丈夫ですよ。……さあ、秋葉さま、お時間も余りありません。早くすましちゃいましょう」

 

 寒気すら秋葉は感じながら謝ったが、琥珀はどこまでも気にしていないような仕草をしていた。

 

 しかし、確かに琥珀の言うとおり、秋葉に時間は無い。これから秋葉は県を越えて学校に向かわなければならないのだ。食事はすでに済ましているとは言え、あまり時間をかけてはいられない。仕事はあまり進んでいないが、帰宅後に済ましてしまえばいいだろう。

 

 だから一思いに終わらせよう。あまり気持ちの良いものではない。

 

「――――あ」

 

 細い首筋に秋葉の唇が触れる。接吻のような異物感に琥珀から息が漏れる。意図したものではないだろう。現に琥珀の肌は固くならず、紅潮もしていない。そうしていつも通りに舌で肌を湿らす。唾液の艶やかな滑り(ぬめり)に秋葉の髄がぶるりと震えた。湿りによって琥珀の筋肉の筋が緩やかな弛緩を行う。その極僅かな時間、秋葉の歯が琥珀の肌を擦り。 

 

「――――んっ」

 

 そして、秋葉の犬歯が琥珀の肌を食い破った。

 

 

 □□□

 

 

 目蓋の裏に影が染み付いている。ありもしない残像。あるいは名残が形を整え、無理矢理に現実を押し付けてくる。

 

 ――――憎らしいほど紅い夕焼けの中で、彼女はおれの前で儚く笑っている。紡ぐ口調、何気ない仕草が最早懐古さえいだかせるのは、きっと眩しい夕陽のせいではない。

 

 柔らかそうな頬を緩ませながら、彼女はおれを見つめている。

 

 その視線の優しさに、その瞳の愛おしさにおれは魅入られたままだった。胸の奥が温かい。人肌の温もりのような、熱くはないけれど確かにある温度が体一杯に注がれていくような気がした。

 

 それこそ、胸の奥で漂う空洞を忘れそうになるほど。

 

 しかし、否応がなく場面は変動する。望もうが望むまいが。

 

 ――――突如として彼女の胸を食い破る、誰かの腕。

 

 鮮血を散らす彼女。

 

 胸元から噴き出る赤色が彼岸花のように散っていく。

 

 未だ脈動する生々しい心臓。

 

 ゴムのような弾力ある生命が掌の中で圧せられた。

 

 獰猛に引き抜かれる腕。

 

 乱暴な所業にどす黒い血が混じる。

 

 力なく倒れ伏す彼女。

 

 根幹を失った肉体を支えるものは何もない。

 

 世を蔑むなにかの哄笑。

 

 それは空さえ罅割れるような声音だった。

 

 血だらけな彼女。

 

 制服まで血で染まった彼女は地面に溜まった自らの血に沈む。

 

 血溜まりを生み出す彼女の胸元。

 

 意志とは関係ない流血は留まらない。

 

 口元から血を吐き出す彼女。

 

 何か言葉紡ごうとして、舌が血に絡む。

 

 微笑む彼女。

 

 その場違いな笑みに、おれは何も言えなくなる。

 

 そして、冷たくなる彼女。

 

 全てがリフレイン。すでに起こった事実の繰り返し。それを上からなぞる様な作業行為。あの夕陽も、あの惨劇も、彼女の苦しみも。

 

 全ては終わった事。

 

「誰のせい?」

 

 彼女はおれに言う。血だらけの姿のままで言う。唇の内側から血を垂らしながら、おれの腕の中で、おれを見つめている。赤色に塗れた制服が重く、それが彼女の命の重さだと思い知らされた。

 

 嗚呼。

 

 こんなにも、彼女は軽い。

 

 まるでそこにいないような重みが命の重みだった。

 

 おれはそれを知っていた。知っていた、はずなのに。

 

「私、どうしてこんな目に合わなくちゃいけなかったの」

 

 ――――わからない。

 

「私、凄く苦しくて、痛くて、怖かった」

 

 地面に鮮血が広がっていく。それは彼女の命の血潮。血は流れて、止め処なく溢れる。次第に流れる赤はおれの体を伝い、おれを染め上げていく。蝕むように、飲みこむように。

 

「ねえ、なんで私だったんだろう」

 

 必然性。偶然性。宿命。

 

 そして、運命。

 

 何か強力な存在に導かれるように、彼女のそれはすでに決まっていた。本当にそうだろうか。本当に、そうだろうか。

 

 ――――わからない。

 

 そこには二人しかいなかった。しかし、もう一人になろうとしている。

 

 二人いるのに、それからさよなら。

 

 ――――それは、なんて寂しい。

 

「なんで、遠野くんじゃなかったの」

 

 ――――……わからない。

 

 何も宿さない瞳がおれを映している。空洞を成した眼が硝子のように不自然な清澄を見せている。生命の消える瞳だった。それは酷く懐かしい色合いで、頭が痛くなる。

 

 ずくん、ずくん。

 

 突き刺さるような刺激が脳を抉る。いっそ頭部が破壊してしまえばよかったのに。脳髄を撒き散らして意識さえも消失させてしまえば、どれほど楽だったろう。

 

 でも、目は閉ざせない。

 

 彼女の瞳、そこには何もなかったおれがいた。傷一つ負っていないおれがいる。

 

「わたしがこうなったのは誰のせい?」

 

 ――――それは。

 

 思わず呆然として、口元が動かなくなる。心臓が高鳴る。全身の毛穴が開き、鳥肌が立つ。体が底の底から震えて、気を抜けば体が瓦解してしまいそうだった。

 

 でも、心はこんなにも虚しい。

 

 気づいている。気づいているのだ。

 

 責任なんて、そんなの分かっている事じゃないか。全てが原因だ。全てが結果だ。何もかもが集約されて、辻褄を合わせる。幾重の軌道を重ね、意味の無い未来への思いを馳せようとも。

 

 それは。

 

「おれの、せい?」

 

 腕の中で弓塚さつきが、禍く(まがく)笑う。

 

 ――――視界に映る彼女の姿は、落書きだらけ。

 

 □□□

 

 夢の残骸だった。いや、あるいは意識の逃避なのかもしれない。

 

 目蓋の裏に感じる朝日。気づけば志貴は倒れ伏していた。人工物で作られた天井が遠く見える。ならば、背中に感じる柔らかさは布団のものだろうか。いつもとは異なる感触。自己主張するような反発の力は、どこか冷たい。

 

 忘(ぼう)、と視界が淡い。曖昧な色合いをしている物質は輪郭が失われている。眼鏡をつけたまま寝ていたようだが、まるで物そのものが意識から逃れようとしているかのようだった。時計は見えない。しかし、それでも暫しの時を費やせば、今己が時南医院の診察室にいることを志貴は把握した。そうすると今自分が眠っているのはそこに備え付けられたベッドの上だろう。掛け布団もかけられずにいた体はどこか気だるく、疲労ともつかぬ億劫さがある。

 

『ひ、ひひ……』

 

「――――っあ」

 

 幾分か見慣れた空間の中に響く、金属が悲鳴をあげるような軋んだ声音。嘲笑。それに連鎖するように米神が酷い痛みを発した。まるで鈍い衝撃が貫通し、前頭葉を爆散させたような激痛である。そろそろと緩慢にしか動かない腕を頭部に伸ばせば、そこは熱を持っているだけで、散り散りにならず無くなってはいない。

 

「おれは……」

 

『よう、お目覚めはいかがなァ』

 

 室内を切り裂く声音が目覚めを最悪にさせる。

 

 そうして、寝起きの苛立ちのままに体を起こそうとすれば。

 

「―。―――」

 

 その眼前に、札の貼られた鞘が現われた。

 

「……っ」

 

『ひひ。死んだ、死ンだ。これで手前は何回死んだァ?』

 

 鼓膜を介さず、直接頭に響くような金属が裂けたような声音が脳髄を揺さぶる。

 

 志貴の頭蓋、両目と鼻筋をなぞる様に視界を遮る鞘。

 

 顔面に押し付けられる鞘の気配は異様なまでに意識をそれに持っていかれ、目を反らそうとしても動かない。眼前で不遜に存在する刀は鞘に張られた札と、柄に巻かれた数珠によって封じられた邪悪の輩だった。五感に訴えてくる生理的嫌悪感に吐き気すら覚える。

 

 いや、それは目前にいる刀剣、骨喰(ほねばみ)だけのせいではない。

 

「―――、―」

 

 どこか虚ろを吐き出すような呼吸音が聞こえた。

 

 固定される視界を剥がすように、自身の隣で壁に寄りかかり座る存在を見やった。

 

 診察室の壁際。

 

 男は足を崩し、言葉を失ったように沈黙を貫いていた。

 

「――――っ」

 

 思わず、志貴は息を呑む。

 

 それは藍色の着流しに身を包んだ亡霊のような男であった。身に纏う藍色の左袖は柳のように中身を消失させ、右腕が志貴を断ち切るように骨喰を構え、横たわる志貴の顔面に触れる寸前で固定している。

 

 しかし、志貴が息を呑んだのはそこにいる男の出で立ちではなく、その瞳にあった。

 

 ざんばらに伸ばされた黒髪の奥。

 

 人ならざる輝きを宿す瞳は空を思わす蒼の色。

 

 それが睥睨するように、あるいは路傍の石を眺めるような無感情で室内を見ている。鬱蒼とした森の奥で誰にも知られず深々と広がっている湖面のような瞳は、あるいは西洋人形の眼に押し込められた硝子細工の眼球のようだった。

 

『そンな糞弱くてよォ、本当に仇が討れるとでも思ってンじゃねえだろウな』

 

 藍色の男、七夜朔は噤んだ口を開かず、その代わりのように嘲るような金属の声音、眼前の骨喰が言葉を降らす。脳髄を冒すような音が頭蓋を震わせ、虚ろだった意識を無理矢理浮上させてしまう。

 

「……なにがだよ」

 

『はっ、覚えちゃいねえかィ。そいつは随分と救いようがねエ。いや、どっちかッつうと救われてんのか。ひひ、ひ……朔はどう思う』

 

「――――」

 

 嘲弄を響かせながら骨喰は自身の持ち主である朔に問いかけたが、朔は無言のままであった。しかし骨喰は気にせず、それどころか愉快気な笑い声を発作のように劈かせながら志貴を蔑む。

 

「あんた、何言ってんだよ」

 

 胸を掻き毟るような骨喰の言に苛立ち、志貴は問うが骨喰はそれを無視して言う。

 

『それで、ど頭かち割られる寸前はどんな気分だァ?』

 

 その言葉に、志貴の米神が骨が脳髄が激烈に疼く。己の意思から離れて肉体が自らが受けた傷の過去をほじくり、爆発的に志貴は思い出した。

 

「……最悪だ」

 

『ひひ、ひ……』

 

 咽喉から昇る怨嗟にも似た志貴の声を、骨喰は喜ばしそうに笑った。それはどこか屍骸をにたつき眺めるハイエナの鳴き声にも似ていた。

 

 深夜の事だった。弓塚さつきの仇を討つため志貴は七夜朔の居場所を突き止め、協力を要請した。それを七夜朔は不明だが、骨喰は了承した。そこまではよかった。

 

 しかし、突如としてそれまで無反応だった朔が動きを見せた。

 

 今の姿と同じように壁に背を預け、足を崩している朔の体が瞬きの内に跳ね上がり、視認も出来ぬ迅さで志貴へと身を躍らせたのである。それに気づいた時は、もう遅かった。朔の振りぬかれた肉体が宙に線を引き、志貴の頭部を殴打した。どの箇所によって成されたのかさえ、志貴は分からず昏倒したのだった。

 

 そも、志貴は知る由もないが七夜朔は肉体鍛錬によって殺戮を果たす宵闇の殺人鬼。肉を繋ぐ腱、そして肉が張り付く骨に至るまで鍛えられた人外の者である。その瞬発力は言うに及ばず。彼は後方からの銃撃を弾丸が射出された後に回避する業を持つ真正の鬼才だった。

 

 その筋肉の反応、あるいは関節の軋みまで最短化された動きは初動を無くし、経過と結果の距離を限りなくゼロに貶める。その魔的な動きが、一般的高校生よりも低い体力の持ち主である遠野志貴如きが初見で読み切る事は、不可能と言って良い。

 

「意味が分からない。何であんな事――――」

 

『解らない、か?』

 

 凄むような骨喰の声音に息が止まる。

 

 鞘に収められ、刃も露出していない刀身。

 

 それだというのに、眼前を真横に塞ぐおどろおどろしい骨喰の姿が志貴の眼には、真下から見上げる厳格な断頭台の刃のように思えて仕方がなかった。それはきっと、その刀身が今まで滅ぼし尽くした生命の怨念によるものに違いなく、切り取った肉と血の臭いが眩暈のように志貴の鼻腔の中で香った気がする。

 

 そしてそれを揮う七夜朔も、また志貴にとって化物だった。

 

「―――、―」

 

 あるいは一言も喋らない沈黙の住人である朔の方が不明さで言えば骨喰よりも際立っている。口うるさく声を吐き捨てる骨喰がどのようなからくりを持つのかも気になりはするが、それよりもその担い手である朔が問題だった。

 

 骨喰は物だ。どれだけ壮大な理由があり、多大な意味があろうが骨喰は剣。誰かに握ってもらえなければ肉を裂くことも出来ぬ物体だ。武装としては脅威に違いないが、それは結局のところ誰かによって行われる所業である。

 

 だからこそ、怖いのは朔だった。

 

 物言わぬ佇まい。何をしてくるかわからない。まるで予測がつかない。

 

 亡霊。殺人鬼。

 

『ひひ、ひ……手前が遠野じゃなけりゃ、こんな事する必要もねェ……が。契約は契約だ。殺されなかっただけでもありがたく思え』

 

「……どういう事だ」

 

『仇、取りてェんだろ?』

 

 骨喰が何を意図しているのかわからず、志貴は口を結んだ。

 

『ひっ、だったらよオ。ある程度対応は必要だろ。手前が一体何を相手にぶち殺そうと決めてンのか、おれたちぁ興味がねえんだ』

 

「……」

 

『そうさなア。時分は夜が良ィ。夜は警戒心が鋭敏で、その癖理性が磨耗してイる獣の時限だ。昼よりも殺りやすい。相手が化物だろうが、人間だろうがァ、な』

 

 冷水の中に落下したような感覚が足元を寒くさせる。

 

 ――――殺す。

 

 その言葉を、志貴は初めて突きつけられた。

 

『しかし、だ。それをやろうっつウ手前が弱けりゃ、そんな事夢のまた夢だ。殺すっつうのはよ相手に勝つ事じゃネエ。相手を殺すことだ。ひひ、必要なのは一瞬の判断、決断。肉をぶっ壊し、内蔵器官をぶち壊す間際の手順。ただ、それだけだ。それだけで大抵の奴は死ヌ』

 

 相手を、殺す。

 

 敵を討ちたい。この激情を焦がす憤怒の一途をぶつけてやりたい。

 

 それは、つまり。

 

『それなのに手前はなんだァ? 遠野の人間が全く反応もできネエでくたばりやがる』

 

「それは、あんた達がいきなり……」

 

『ひひっ! 餓鬼の喧嘩じゃねえンだ。相手の事情なんて一切いらねエ。不意打ち上等。寧ろ殺し合いだったらこれ以上ない最良よナア』

 

 殺すのだから、不意を打つ。

 

 勝負ではなく、殺し合いの場。

 

 正々堂々など噴飯もの。邪道こそ賞賛される手段。

 

 あまりの正論に、何も言えなくなる。

 

 志貴の脳裏にシエルの姿が浮かび上がる。

 

 七夜朔の居場所を伝える際も拒んだシエルの歪んだ表情。

 

「―。―――」

 

 ちらり、と横に視線を動かす。

 

 そこに、藍色の殺人鬼が刃を持って佇んでいた。志貴の意志になど興味も無いように。

 

『それとも何かイ? 手前は目の前に仇がいて、今からぶち殺してやンぞ、とでも言うつもりかァ? はっ、笑える話だな。まるで憎悪が足りなイ』

 

 どこか侮蔑するように、骨喰は頭上で軋む。

 

『マジに手前、仇討つつもりあンのか? あ?』

 

 思考に罅が入ったような気が、する。

 

 骨喰の耳障りな軋み音が志貴の中に亀裂を生み出し、鋭い刃をつきたてる。

 

 そうだ。そうだった。自分は覚悟を決めたつもりだった。覚悟を決めて、悪魔と握手を交わし契約を結んだのだ。その取立ても度外視して、自らを投げ打ったのだ。

 

 それなのに、なんだこの腑抜けは? 魔物に臓腑を抉られ、文句を立てるこの様は。

 

 遠野志貴にとって、異常とは忌むべき事柄で、あった。

 

 嫌っているのかと聞かれれば素直に首肯はできかねるが、少なくとも遠ざけておきたい事ではあった。当然だ。志貴にとって平穏とは掛買いのない事で、それはきっと何よりも貴いものであると彼は心の底から信じて、いた。

 

 切っ掛けと呼ぶべき出来事は、やはり遠野の家を追い出された事であろうか。事故に合い、満足に生活する事も難しくなった身である志貴は親戚一同の総意によって有間の家へと追いやられた。

それを憎い、と当時の志貴は思わなかった。

 

 志貴の内の虚しい空洞がきゅうきゅうと締め付けられた。そのくらい。

 

 ただ、度し難い侘しさが志貴を包み、その中身にあるぽっかりとした空洞を穿った。

 

 それはやがて時を経る事に志貴自身を蝕み、いつしか志貴自身も気付かないうちに明確な虚ろを生み出した。長い時をかけて岩へ垂れる水滴は、遂には穴を空ける。志貴がその虚ろを自覚した時は、もう遅かった。

 

 誰かといるのに、孤独を感じる。

 

 悲しさを、寂しさを感じているのに涙を流せない。

 

 遠野志貴という存在は、どこか歪なあり方をしていた。

 

 だからだろう。志貴は〝異〟というものを恐れた。

 

 子供の精神は違いを見出す事に長けている。自分ではない誰か。ここではないどこか。通常ではありえない何か。それらを探し空想する。冒険心は異を求める探究心である。

 

 けれど、その自らこそが他とは〝異なったものである〟とは思わない。

 

 それは自らに異を感じたものはそれを切り捨てなければならないからだ。何故なら異となる自らを自覚した時、人は自らに迷い込む。異なる常へと惑い、光さえも見失う。

 

 ならば、どうすればいい。

 

 おれは、どこにいけばいい。

 

 ――――弓塚さん。

 

「……嗚呼」

 

 ――――なんて、無様。

 

「何も考えてなかった。本当は駄目なのに。……本当に、こんなんじゃ駄目なのになあ」

 

 感慨ではなく、嘆きにも似た呟きが自然と漏れた。

 

 今まで普通の高校生として過ごしてきた志貴には理解できない世界。理由はどうであれ、そこに片足を入れたのは志貴自らの意志によるものだ。今までの志貴のままで太刀打ちできるような、優しい場所ではないはずと予想していた。けれど、志貴は呆然と理解していなかった。

 

 殺し殺されが当たり前な人外魔境。

 

 そこに優しい世界の摂理を求めても、意味などない。

 

 ただ蟲を踏み潰されるような気軽さで殺される。

 

 ――――まるで、彼女のように。

 

『ひ、ひひ……』

 

 そして、そんな志貴を骨喰は真底馬鹿にするように嘲るのだ。

 

『そうイうこった。そんなぬりイ体たらくなまンま殺そうとするなンぞ莫迦がやるこった。だからよウ、鍛えてやるよ。朔も乗り気のようだし、な……』

 

「……なんでだ? あんたに得がないだろ」

 

 朔を意識して、志貴は問うた。

 

 しかし志貴の言葉にも、朔は反さない。

 

「――、――」

 

『享楽よ。単なる、な。……だからよ、嫌とは言わせネエぜ。そンな選択肢が手前にあるはずも無し。増して逃げようものなら、うっかりと殺しちまイそうだ』 

 

 ――――視界の端で、空間がざわついた。

 

「――――っ!」

 

 一呼吸も無い。ただ衝動のままに体が動いた。闇雲な動きで跳ね上がり、息を飲み込むよりも早く、ベッドから転げ落ちるように逃げた。床に落ちた志貴の腰に強かな痛みが走った。それは意識されたものではない、粗雑な行動だった。

 

 しかし、結果それが志貴の命を引き伸ばした。

 

 舞う埃。揺らいだ空気。風は生まれない。鋭さと緩やかさが両立された不可視の軌道。それは人間の動きではない。もっと別の何か。

 

 ベッドから落下する志貴の視線の先。

「――――」

 

 白い布地を貫くように、骨喰がベッドを貫いていた。

 

 片膝をつき、俯き加減に佇む朔の腕がまるで断罪のように骨喰を突き立てている。その刃先は先ほどまで志貴の心臓があった部分を寸分違わず穿ち、ベッドの骨組みが悲鳴をあげている。

 

 もし志貴が動いていなければ、朔の襲撃によって揮われた骨喰は胸骨を粉砕し、心臓を破裂させていただろう。朔の狙いが外れているとは到底思えない。それは今まで志貴が朔と会合した後に遭遇した所業による、ある意味恐れにも似た確信だった。

 

 しかし、事実志貴は動き、未だ死んでいない。

 

『こんな風に、なァ』

 

「……おまえ」 

 

 不快な嗄れ声が診察所の固いベッドに腰をついた志貴の耳に届く。

 

 けれど、志貴の意識はこの理不尽な行いを果たした朔に注がれた。

 

「―――、―」

 

 朔はベッドの上で、まるで許しを請う罪人のような姿で跪いている。

 

 だが志貴にはその姿が罰を座して待ち受ける静粛な人間ではなく、瀕死の生者が息絶えるその時を待ち続ける禿鷲の偉容に見えて仕方がなかった。

 



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第一話 甘い猛毒

信じる心とは、緩やかな退廃に身を任す麻薬だったのですね。

それでもたゆたうように貴方をお待ちすれば、私は蛹となって、貴方が私の身に触れるその時をお待ちしております。

例えその時に、貴方の事がわからなくなろうとも。



 時南医院の外は昼の気配がいよいよ高まり始めている。それによって暗がりの住人は影や闇へと追いやられており、日の出る時間は生者の時間帯だった。

 

「―――、―」

 

 沈黙に耳が痛くなるほどの静寂の中、七夜朔は壁に寄りかかり、じっと座っていた。

 

 彼以外に誰もいなくなった時南医院の診察室の空気はどこか味気なく、医療に関する場所だという理由だけでは説明できない簡素さが蔓延っている。窓から光が差し込んでいるというのに生気のない室内は、まるで死体安置室のような寒気さえあった。

 

『ひひ、ひ……』

 

 室内に金属が裂かれた様な声音が軋む。先ほどまで使用者のいたベッドの上、そこに放り投げられた形でもって骨喰はあった。

 

『真逆、遠野と七夜が協力するたァな』

 

「―。―――」

 

『アイツがこれを知ったらどオ思うかねェ。……七夜を恨ンだ男が残した末路がこのザマたァ。ひひ、ひ……痛快痛快。世界は愉悦に満ちている。なァ、朔?』

 

 骨喰は問い、七夜朔は応えない。

 

 骨喰の声音に感慨の色はなく、あるのは嘲笑の響きのみだった。だが、骨喰は骨喰であるが故に七夜朔以外の事象を下に見る。自身の〝宿主〟たる朔にとってそれが如何ほどの因縁であろうとも、人外の刀剣である骨喰にとってそれら全ては娯楽に等しく、そしてそれ以上に無意味であった。骨喰が妖かしの剣であるが故に。

 

「――――」

 

 しかし、朔は骨喰の声音に気づかぬようだった。瞳を閉じ、口元を開かぬ姿のままで朔がおぼろげな追想を重ねる。

 

 意識は物音を度外視し、ひたすらに潜行を重ね、そうして呼吸のように精神は伸縮する。

 

 目蓋の裏には、先ほどまでいた遠野志貴の姿があった。

 

 映像の中、志貴は咄嗟に動く。その動きはあまりに稚拙な駆動であった。それでは朔の襲撃を回避できる道理はない、はずだった。

 

 だが、志貴は事実ベッドから転げ落ち、命からがら難を逃れた。不自然な点は何も無い。寝そべり状態からの回避運動は朔の初動の後。筋肉動作、関節駆動から見てもそれは明らかだった。

 

 では、何故あの遠野志貴は朔の一手から逃れられた?

 

 素人ゆえの幸福。それはありえない。朔は暗殺者であり、また真正の殺人鬼である。そのために成り果て、在り果てた磨耗による過去の所業がそれを証明している。例え蟻の一匹であろうとも全力で殺し尽くす所存は最早病的と形容して良い。そのような存在が、動きの温い素人のたかが幸福を殺しきれぬはずが無い。

 

 何故ならあの時、朔は志貴を殺そうとして襲撃をかけたのだ。

 

 それに先日、遠野志貴は死者の襲撃を受け、それを返り討ちにしている。

 

 アンバランスなのだ、遠野志貴は。

 

 化物を殺す技量、そして覚悟を口にしながらそのスタンスは曖昧であり、正体が掴めない。決して素人ではない。骨喰はそう了見している。

 

 理由があるはずだ。

 

 朔と対峙し、生き延びた少年には何かあるはずだ。

 

 それが骨喰の見解だった。

 

「――――骨喰さま」

 

 第三者の声が診療室の中に生み出された。

 

 扉の向こう側から姿を見せた人物は黒頭巾を被り、人物を特定させぬ黒衣装を身に纏った人間だった。総身を黒で染め上げた没個性により、黒頭巾は何者でもない誰かであり、ひとつの記号としての役割を当然の如くにあらわしている。ある意味で自己を封殺した証だった。

 

 しかし、それも当然。朔と骨喰の前に出現した黒頭巾は自らの願いに従事し、そのために自らを殺した存在である。

 

『来たか、刀崎。……報告を寄越セ』

 

「は」

 

 骨喰の命令に黒頭巾はベッドの側へ近づくと恭しく跪き、粛々と頭を垂れた。容易く。

 

 それは、寝台に座す殺人鬼の前に自らの首筋を晒したと同義であった。殺戮と虐殺を重ねる暗殺者に対し、致命的な箇所を何のおくびも無く晒すその精神は如何ほどのものか。事実、朔が動けば黒頭巾の首は実った林檎をもぐように千切られる。

 

 しかし、黒頭巾はそれを知りながらも恭しく跪いていた。

 

 黒頭巾のものにとって、己が生命は〝あろうがなかろうが〟どちらでも構わないのだ。それはこの目前に跪く黒頭巾のみの話ではない。全刀崎に共通する信念である。

 

 だから生命ではなく、刀崎は自らの本能に嬉々として従い骨喰への崇敬を示す。

 

 それは忠誠を、あるいは畏敬の念を体現した狂乱だった。

 

「具申いたします。遠野志貴。現在十七歳。このあたりの高等学校に所属し、付属は2年C組。また学友との関係はつかず離れずといったところ」

 

『ひひ、ひ……それで?』

 

「は。遠野自身は貧血を患っている状態であり、それによって部活動には所属せず、また武門の道には手を出せない様子。貧血は遠野志貴が八年前、交通事故によって重態の身から受けたものと。更にそれが原因で遠野本家から追放、後遠野分家筋にあたる有間に身を寄せる。しかしここ数日の内に遠野当主が入れ替わった事によりそれが排除、以降遠野本家に復縁し遠野邸にて過ごす、と」

 

「―――。―」

 

 ぴくり、と。

 

 朔の閉じられた目蓋が震えた。

 

 しかし、それだけだった。

 

『能力は何か分かったか?』

 

「いえ。しかし彼の者が魔眼殺しを手に入れたのは、少なくとも事故後の事かと」

 

 身動ぎもせず、また淀みなく黒頭巾は調査報告を口にする。だが、そこに感情の色はなく、また抑揚すらない。まるで機械音声のようだった。

 

『しかし、追放ねェ。あの身内莫迦が、まァなンとも……』

 

「どうやら遠野当主には親戚等の圧力があった様子」

 

『ひひ、そういうこったか。……ンで、理由は』

 

「身を患う軟弱者に遠野の人間としての資格なし」

 

 簡潔に黒頭巾は言った。

 

『はっ! そら確かにそン通りだァ』

 

 当時の親戚一同が行った所業は非人道的行為やも知れない。けれど、黒頭巾からすればそこに義憤も、また悲哀も見出せない。そこにそれ以上の価値がないからだ。情報は情報であり、そこに感情は必要とされない。

 

 だが、骨喰からすればそこに嘲笑を見出すには充分すぎるほどであった。

 

『ひひ、ひひひ。遠野に相応しくない〝人間〟だァ? 人間、人間、人間か!! ひひ、ひッ! 確かにその通りだ。ンな腑抜けた野郎共から、ンなこと言われる野郎が遠野にイられるわけがねェ。遠野が人間、人間かアッ!! ひひ、ひ……笑っちまうぜエおイ! 腑抜けから追ィ出された出来損なイか。はっ! 悲劇か喜劇だな、それは。化け物共の巣窟から化物が生まれンとはなァ!』  

 

「おっしゃるとおりでございます」

 

『つまり言うと何かイ? 遠野志貴は手前の中にある物のみで化物を殺し、朔の一手を回避しちまったとォ、手前はそう言いたいノかい? 高々出来損ないが朔から生き延びたと、手前はそう言いたイたいのカぁ?』

 

「恐らくですが」

 

『ひひ、ひ……そいツは傑作だナァ』

 

 背筋を震わせながら、深々と黒頭巾は頭を垂れ、骨喰の軋んだ笑いに聞き入っていた。黒頭巾、刀崎にとって金属の悲鳴にも似た骨喰の声音は天空から降り注ぐ神託と同じ響きを秘めていた。それは黒頭巾以外の殆どの刀崎に共通する概念であり、それを誰も不思議に思わない。

 

 狂っているのだ、皆。

 

 彼らは骨喰の作刀者、今は亡き刀崎梟の魔性に心を囚われ、その身を捧げる事に何の躊躇いも持たない異常者と化していた。元からそうであった者共が、彼らより生まれし異端によって魂を奪われ、梟が死してなお心酔しきっているのである。

 

 あるいは、彼らこそ真正の刀崎と呼ばれるに相応しいだろう。

 

 刀剣に魅せられ、作刀に己が人生を捧げたから刀崎。それから外れるとは自らを廃棄したと呼んでもいい。刀崎たる刀崎である彼らからしてみれば、それは愚でしかない。

 

『ンだが、出来損ない、ねェ? なンか聞いたこトあるが、一体何だったか?』

 

 しかし、情報を聞いて怪しげなものは見えない。寧ろ遠野志貴が己の素養のみで殺しに身を投じているのだと、骨喰は確信する。

 

 そこに技量はない。過去がない。厚みの無い、薄っぺらな背景が見え隠れしている。

 

「私には皆目検討も尽きませぬ。ですが、そのような者であろうとも遠野の長子。何か腹に抱えている事は確かかと。……よろしければ首を取ってまいりますが」

 

 何とはなしに、黒頭巾は言ってのけたが骨喰はそれを否とした。

 

『遠野と戦争かア。ひひ、そいつは面白いな。ああ、全くもって楽しそうじゃねエか。……けど、殺すにはまだ早エ。ひひ、ひ……やるからには朔が縊る。こいつの手で、遠野を滅ぼす。手前じゃネエ、朔がヤル』

 

「は。差し出がましい愚考、お許し下さい」

 

 骨喰の言に黒頭巾はちらりと視線を上げ、朔を見やった。

 

 だが黒頭巾の瞳にはベッドに座る朔の気配が、如何様な事かぶれて把握できない。まるで霧に包まれたように曖昧で、時折意識しなければ目前から消えてしまうかのよう。無論朔は移動せず、そこでただ目蓋を閉じているのみ。藍色の着流しははためかず、長い手足も動く様子はない。

 

 けれど、黒頭巾はそれ以上に、視界の中に写る骨喰を見てしまった。

 

「――――ォォっ!」

 

 思わず漏れた感嘆を慌てて止め、視線を下に降ろす。

 

 しかし、それだけでは刀崎が久しく味わうことの無かった戦慄を消し去る事は出来ず、瞳に焼きついた骨喰の姿が消えることもなかった。

 

 つまり、目前に己がいようがいまいが関係ないのだ。例え、黒頭巾が朔に危害を与えようとしても、その瞬間に黒頭巾の生命は停止する。この殺人鬼の手によって。

 

 そしてそれは黒頭巾にとって、とても甘美な事であった。

 

 黒頭巾は跪きながら、この殺人鬼が揮う骨喰によって殺される刹那を夢想する。どのような手段を揮われるのか、首を断たれるか、心臓を貫かれるか、あるいは五体を寸刻みに潰されるか。どれも魅力的でならない。何故なら黒頭巾が殺されるとは、骨喰の切れ味をその身で知ることに他ならないのだ。

 

 嗚呼、何と言うことだろう! これほど喜ばしい事はあるだろうか、これほどこの世に生誕した感動を受けた日はあっただろうか!

 

 黒頭巾は己が胸の奥に未だ激情が眠っていた事に驚き、そしてそれを感謝した。

 

 ならば刀崎が〝壊滅〟した原因である骨喰に殺され、その刀身に自身の血が塗らされることが、どれほど刀崎である者にとって至福なことか、黒頭巾は本能で熟知していた。今すぐにでも殺されたい、今この時に咽喉を裂かれてしまいたい。大よそ尋常の者では理解できない欲求に身を焦がしながら、黒頭巾はその時を待つ。

 

 無論、そのような事態が今この時に訪れないと分かっていながらも、黒頭巾は骨喰の味を受ける瞬間を希求し続けた。

 

 いずれにしても黒頭巾の命は今も尚殺人鬼、そして刀崎梟が鍛造した骨刀の掌に握られている。ならば黒頭巾に選択は無く、また強要もない。ただ頭を垂れてその首筋に骨喰の一刀が振り下ろされる刹那を待つのみ。それは愛しきものを脳裏に描く、恋煩いにも似た被虐の性質であった。

 

 しかし、黒頭巾の中にある懸念がある事は放っておけるはずがなかった。

 

「骨喰様。畏れながら、言葉を口にする許可を私にお与え下さい」

 

『ンだあ、まだなンかあんのか?』

 

「は。刀崎現棟梁、刀崎白鷺様の事でございます」

 

 そこで黒頭巾は一度声を区切り、今から口にすることが如何な事か噛み締めて言った。

 

「現在刀崎は〝骨喰様の作刀により九割近い刀鍛冶師が身投げ〟し、お家としての力は失墜の中にあります。未だその時に失われた者共の損失は補えず、また今後補強の算段は見立てること叶わず。故に現段階では離脱には至っておりませんが、遠野グループに置いて刀崎の没落は避けがたいものと思われます」

 

 無機質な声音の奥、そこに密やかな熱が灯る。

 

『はっ、それがどうした。俺には関係ねェ』

 

「骨喰様のおっしゃる通りでございます。ですが、斜陽のお家は刀鍛冶としても見過ごせぬ事でございます。資金及び資材が無くては刀もろくに作れず、他家の援助を受ける事も叶いませぬ。刀を打てぬ刀崎など、ありえません」

 

『ひひ、ひ……流石は刀崎。狂いの中にいるくセに、まだ狂いを求めるカ』

 

「は。我ら刀崎故に」

 

 降ろす頭部に宿る瞳は誰にも見られるものではない。それでも黒頭巾の布越しに見える瞳は禍々しい光を確かに映していた。

 

 黒頭巾は刀崎なのだ。それ以外にはなれないし、なる気もない。だから刀崎で在りえない事実など許容できるはずもなかった。狂気でもって狂気に身を委ねる彼らの心理は、到底刀崎足りえぬ行く末を呪い、原因への怨恨を抱いている。

 

『それで、手前らは今ノ棟梁を潰してエわけか』

 

「流石のご慧眼でございます。現棟梁刀崎白鷺様は刀崎としての己を見出さず、放蕩に身を揺らし刀崎の再建を一考としていたしません。いかに骨喰様の命であろうとも、我ら刀崎を衰退に陥る〝無能〟を棟梁に置く理由が見出せません。事実刀崎梟様亡き後、我ら刀崎は現棟梁に価値を見出しておらず」

 

 それは苛烈な意志であった。一族の最高権力者である現棟梁を無能と罵り、そして存在の無用を主張する。それは凄絶と言ってもよい覚悟であった。何故なら彼ら刀崎にとって刀崎梟とは信仰の対象であり、その命令は神託なのだ。それは刀崎梟が骨喰を生み出したと同時に死に絶えても、決して違えることはありえない。

 

 だが、黒頭巾は言う。

 

「一部では刀崎白鷺様の暗殺を企てる者もおります。骨喰様の命ならば止めましょう。しかし、命がお達しになられないのならば止めはいたしません」

 

 つまり、それは骨喰の判断次第で現棟梁の首が挿げ変わるという事だった。

 

 元より崩落の一途を辿る刀崎にとって、刀崎白鷺の無能は目に余るものであった。しかしそれを棟梁へと置いたのは刀崎梟に他ならない。ならばと彼らは自らの信仰に従いそれを受け入れた。それからも分かるとおり、今の刀崎は現棟梁に一銭もの忠誠を注いでいない。理由は言葉ではなく、心情でもって判明している。梟が偉大すぎたのだ。

 

 刀崎梟。刀崎の技術を二代先にまで進歩させた怪物。

 

 そして刀崎白鷺とは、その男が設けた娘の一人であった。しかし彼女には才能がなかった。刀崎として致命的と言っても良い、刀鍛冶の才気が彼女にはごっそりと存在していなかった。それが余計に彼女を追いたて、苦しめていた。

 

 そんな女が如何なる皮肉か、今となっては刀崎の棟梁となっている。

 

 人によっては憐れだと思うだろう。屈辱と思うだろう。これ以上追い立てて一体何の恨みがあるのかと。

 

 けれど、彼女には恨みの視線を見出されるほどの価値さえ刀崎からは見出されていなかったのだ。

 

『やめとけ、やめとけ。そンなもんに構ってンなら手前らで刀崎を続けろ。首は首だ。んなもン、刀崎の腕からすれば一切の意味もねエ。放っておけ。……それによ、いざとなったら遠野から離れちまえば良イ。算段はついてンだろ』

 

「は。退魔と手を結ぶ準備も進んでおります」

 

『ひひ、ひ……ならいいじゃねエか。思うよウに、思うが侭に振舞エ。手前らは刀崎だろ、死狂いを飲み干して刀を打ち込ム真正の莫迦共だ。俺を作る為に〝手前らから望んで溶鉱炉に飛び込んだ〟阿呆共だ。そンな奴らがまともな脳髄もってるとは思えネエ。違えかイ』

 

「……はい」

 

 どこか震えるような声が黒頭巾から聞こえた。

 

 それは、疑いようもなく戦慄の震えに違いなかった。

 

 そして黒頭巾は、何故自分は骨喰に身を捧げなかったのだと、自らを憎んだ。

 

『それになァ、無能だろウが使いようはアる。ひひ……遠野全滅の引鉄とか、な』

 

 □□□

 

 黒頭巾が室内から消え、室内は先ほどと同じような寂寞が訪れた。例え機械人形のように無機質な人間であろうとも、室内には確かに人がいたのだ。それがいなくなれば、確かに人気は消えたと言える。けれどもそれを乱すものは当然いる。

 

『ひひ、……結局目新しい事はねエという事かイ』

 

 軋む声。骨喰は静寂を歪ませるように笑う。

 

『しかし、白鷺ねエ。イたか、そンな奴? なあ、朔』

 

「――。――」

 

 骨喰の問いに朔は無反応であった。そのような名前など聞いたことも無い、とでも言うように。

 

 それよりも朔は重要な事があった。

 

 黒頭巾の調査報告。そこで遠野志貴の名を聞き、朔の閉じられた目蓋の裏に何かが見えた。

 

「―、―――」

 

 一瞬、本当に極僅かな閃光にも似た景色。

 

 ――――朔は朽ち果てる寸前の身ながら、まるで誰かを隠すように前を向いている。

 

 場所はどこだろう。真っ赤な場所だ。血の池のような原っぱに朔はいる。

 

 視界もまた赤い。瞳が血に濡れて、見えるものは朧だった。

 

 空には丸い丸い月。それは蒼く翳りながらも、地上の地獄を映し出し。

 

 そして、朔の前には――――。

 

 刹那の映像。それは花火のようにすぐさま消え去り、雑音と化した。

 

 何故だろう。一瞬、何かが見えた。

 

 あるいは、これこそが朔の記憶の一部だというのだろうか。

 

「―――。―」

 

 まさか、そのようなもの存在しない。

 

 そのような記憶、自らにはないはずなのに。

 

『時間か。そろそろロードだ、朔』

 

 思考を切り裂くようにベッドの側に放り出されていた骨喰は言う。それを朔は掴み、抱え込むように蹲る。それは眠るようにではなく、どこか己を守ろうと身を丸める獣の動作に似ていた。

 

 すると刀を抜いていないのに、鞘から黒い闇が滲み出るように漏れ、朔の身を包んだ。

 

「―。―――っ」

 

 じわじわと闇色の靄が朔に這い寄る。それに合わせ、朔の意識が揺らぐ。己が己で無くなる感覚が思考を這い、混濁を経て精神が薄まっていく。それは常人にとって耐え切れぬ吐き気を催す猛毒であった。外界から内界へと入り込む、異質な意志が意識を塗り替える。

 

 やがて全身が骨喰の闇に覆われた。まるで瘴気のように朔の身を、あるいは精神は蝕まれた。そして朔は意識を失い、消滅するようにまどろんでいく。

 

『そういやあの坊主。死人に会いに行くなんザ、ひひ、ひ……。なかなかどうして、存外にやる。――――――――弓塚さつき、だったかァ』

 

 眠りへと移行する朔を誘うように、骨喰の嘲り声は鬱陶しく喋り続けた。

 



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第二話 甘い猛毒

 死。人が死ぬというのは、一体どういう事だろう。


 生きとし生ける者は、やがて死ななければならない。それは世界が定めた理であり、また神が授けて下さった慈悲なのかもしれない。


 人は全くの孤独の中、ただ一人で生きる事は出来ない。あまりの孤独に人は耐えられるように、出来ていない。だからこそ死別は悲しく、絶望をもたらせる。


 ならば、死ぬこと事が出来ない怪物は一体なんなのか。


 この世の断りから外れ、死を渇望しながらも死ぬことの許されない存在とは。


 もしかしたら、そういう者こそ化物と呼ばれる存在なのかもしれない。


 嗚呼、化物とは、この世で最も疎まれ、嫌われ、恨まれ、憎まれながらも。


 その孤独を思えば、この世で最も淋しく、哀れで、愚かな、わらべなのかも知れない。



『あなたのやろうとしている事は、完全に無意味です。はっきり言えば、あなたには無理です』

 

 

『……』

 

 

『厳しい事を言いますが、まるで無駄です。力のない者が力ある者に立ち向かう事を勇猛と言いますが、しかしながらあなたのやろうとしている事は見込みのない蛮行。それ以外の何ものでもない』

 

 

『……』

 

 

『何故なら、あれはもう人の手に負えるものではないのです。人の手では抑えきれないものに挑もうと、人は古来より知恵を凝らし、叡智を集めて挑んできました。しかしそれだけでは勝てるはずがありません。……幾つもの命が散った果てに打ち滅ぼしてきたのです。それまでに何人もの生命が果て、何代もの人命が途絶えていきました。……あれはそういうものです。そうやって滅ぼさなければならない相手です』

 

 

『……』

 

 

『なのに、あなたはそんな相手に挑もうとしている。救えない、とは言いません。……ですが、あまりに馬鹿らしい事だと思います』

 

 

『……』

 

 

『だから遠野くん、諦めて下さい。私にはあなたを止める事も、またあなたをここで殺す事だって出来るのです。そんな私さえ止める事も出来ないあなたが復讐なんて出来るはずがありません』

 

 

『……』

 

 

『全て忘れてしまえばいいんです。そうしている間に全てが終わり、何もかもが元通りです。少しだけの間でいいんです。それだけで彼女は目覚めますし、あれも滅ぶでしょう。私が言う事ではありませんが、今この町には私と真祖の処刑人。……そして殺人鬼、七夜朔さえいるのです。正直な話、あれはすでに殲滅が確定されていると言ってもいいでしょう』

 

 

『……』

 

 

『だから遠野くん、後は全部私たちに任せてください。あなたは眼を背けて、光の中に向かって下さい。こういうのは私たちの仕事なんですから』

 

 

『……』

 

 

『……』

 

 

『……先輩、俺は』

 

 

『遠野くん、その選択は賢くありません。自ら殺されに行こうだなんて、化物のすることです』

 

 

『わかってます。先輩。……だけど』

 

 

『……』

 

 

『だけど……あいつが弓塚さんを殺したのも、俺があの時何も出来なかったのも、絶対に消えてなくならないんだよ』

 

 

 □□□

 

 

 少しばかり古いアパートである。

 

 

 人の気配はするが華やかな彩は無い。風化して罅の入ったコンクリートの壁、少しばかり色落ちした階段。ある意味では極一般的な小さなアパートだ。一人暮らしで利用するならばたいしたことはなさそうだが、家族暮らしとなれば手狭は否めない。そんな外観のアパートである。

 

 

「……ほんとうにここにいるのかな」

 

 

 そんなアパートを眺めながら、陽だまりのなか志貴は途方に暮れていた。気まずげ、と言っても良い。というのも本来ならば、志貴はもっと早くこの場所に訪れていたはずだったからである。

 

 

 昨夜七夜朔への協力要請を終えた後、志貴はシエルの元を訪ねる約束を交わしていたのだが、朔の襲撃により志貴は昏倒して一夜を過ごしてしまったのだった。後の祭り、と言えばいいのだろうか。無理を承知で諦めるようにとシエルの説得を押し通り、迷惑を被らせると分かっていても、志貴は殺人鬼の居所を聞きだしたのだ。だから志貴は疾うに到着していたのに、どうにもシエルの家を訪ねる事が未だ出来ずにいた。

 

 

 あれほど心配をされ、あまつさえ脅しを受けてもなお止まる事ができなかった志貴のことを考慮してくれたというのに、志貴はそれを蔑ろにしたも同然だった。

 

 

 懐にしまわれた紙切れをもう一度手に取り地図の確認をする。紙面には近辺を簡易的に現した線と、目的地を現すマークが書かれている。ただその目印がカレーらしきものなのは何でだろう。触れてはいけないような気がする。

 

 

「仕方ない。……行くか」

 

 

 鉄製の階段を昇り、佇むのとある扉の前。そこで深呼吸をひとつし、ノックする。

 

 

「……入って下さい」

 

 

 沈黙のうちに、扉の奥から声が届く。志貴は一瞬躊躇を覚えたが、ドアノブを握った。

 

 

 部屋は暗かった。遮光カーテンにより日の光は届かず、また電灯も点いていない。僅かに入り込む明かりだけがぼんやりとした光を生み出し、部屋の中を映し出していた。

 

 

 狭い空間の中央。そこに、彼女はいた。

 

 

「――――」

 

 

 志貴は黙して彼女の側に坐った。

 

 

 布団の中で寝かされた彼女は目蓋を閉じ、決して覚めることのない永遠の眠りの中にいるようであった。肩口から除く肌は白く、生気のない表情は苦悶に彩られる事も、また安寧の色を映し出す事はなく、あくまで彼女、弓塚さつきは停止された時の中にいた。

 

 

「本来ならば、外道の法理です」

 

 

 壁際から声が発せられた。志貴が振り返ると、そこには制服姿で佇むシエルの姿があった。

 

 

「吸血鬼化される事なく、心臓を破られただけなので状態としては上々でした。死にいこうとする肉体を仮死保存状態にし、現在は失った心臓を復元するため生命力に魔力を注いで経過を見ています」

 

 

 シエルは冷徹とも取れる声音で話した。志貴はそれを黙って聞いている。

 

 

「全ての条件が揃っていたとしても復活する事は難しいですが……彼女、驚異的なポテンシャルです。魔力が異常なまでに馴染んでいます。もし、彼女が吸血鬼化でもしていたら、それこそ将来的に二十七祖入りしていてもおかしくなかったでしょう」

 

 

 事実、シエルの驚嘆は無視できない事であった。様々な条件が重なって弓塚さつきは生き延びた。しかし、それはただの奇跡では済まされない出来事である。

 

 

 魔道の中では死者の蘇生は珍しくはない。外道の者共が綿々とひた隠してきた歴史においても、死者蘇生は最もポピュラーなジャンルとして周知されている。しかし、おおよそにして彼らが蘇生と銘打つ技術は死者を対象にした肉体の操作に他ならず、その結果に誕生するのはグール、あるいは死者と呼ばれる人の成れの果てである。だからこそ死からの復活は神のみに許された御業の奇跡といわれているのだ。

 

 

 今回、シエルが行った治療はそれにそぐう形で成された。彼女が本来敵対している魔術教会に於いては王冠クラスの腕前を誇る彼女の技量を持っていたからこそ、かつてはその魔術の腕ゆえ、ネクロマンサーの技法すら会得したシエルだからこそ、死ぬ一歩手前に佇む人体の治療、肉体復元、延命を可能としていたのである。

 

 

「その、先輩。弓塚さんは……」

 

 

「今の段階ではなんとも言えません。こちらで出来る事は全て行いますが、あとは彼女次第という所です」

 

 

 それを聞いて、志貴は嗚呼、と一人ごちた。弓塚さつきという少女が今も尚その命をつないで入れるのは、彼女がいたからに他ならない。

 

 

「先輩、ありがとう、ございます……っ」

 

 

 万感の思いに志貴はシエルへと頭を下げた。ともすれば目頭の奥が熱くなり、志貴は声を引き攣らせてシエルに礼を述べた。

 

 

「礼を言われる事ではありません。私はただ自分が行うべき事をしただけの事。それに、もし彼女が吸血鬼と化していたら、私は彼女を殲滅しなければならなかったのです」

 

 

「そんな事、関係ありません。……あの時先輩がいなかったら、弓塚さんは死んでいたかもしれない」

 

 

 ――――焼きついて離れない映像。

 

 

 腕の中で冷たくなる彼女。

 

 

 夕陽に照らされた鮮血色を纏い、美しく微笑む弓塚さつき。

 

 

「だから、ありがとうございます」

 

 

 ともすればシエルは面食らった。それは彼女が今の今まで自責の念に囚われていたからに他ならない。全ては自分に責任がある。強い自意識の元行動する彼女には未然に防ぐことが出来なかったという事だけで罪である。それが目の前で行われた惨劇であれば、その想いは一入であった。だからこそ、彼女は罵倒や、あるいは冷淡な言葉を覚悟していたのだった。

 

 

 しかし、志貴はそんなシエルを許すように礼を述べるのである。

 

 

 なんだか気恥ずかしくなって、シエルはそっぽを向いた。

 

 

「遠野くん、頑固って言われませんでしたか?」

 

 

「はい、弓塚さんにも言われました」

 

 

 どこか誇らしげに、志貴は笑った。

 

 

 □□□

 

 

 対化物殲滅専門集団、埋葬機関。

 

 

 神の御使いが残した預言の守護者でありながら、その道徳に背理する化け者共の掃滅を果たす皆殺しの輩。

 

 

 赦しではなく、罪を武装に悪魔を滅ぼす狂信者。

 

 

 それが自分の正体だと、シエルは語った。

 

 

 場所はメシアン。シエル御用達と紹介されたカレー専門店である。そこのテーブル席にて志貴とシエルは向かい合うように座っていた。先日から何も食していなかった両者はシエルの提案により、この場へと脚を運んだのである。最初志貴は弓塚さつきから離れるのを渋ったが、「お腹が減っていては出来ることも出来なくなりますよ」というシエルの言に従ったのだった。食事はすでに終えている。満面の笑みで楽しそうにカレーを食べるシエルを見て、志貴はこの人本当にカレーが好きなんだな、と思った。

 

 

 一息ついて、言葉を発したのがシエルだったのである。

 

 

「どうです、驚きました?」

 

 

「まあ、それなりには……」

 

 

 とは言え、志貴としてはあまり驚くほどの事ではなかった。何せ、すでに彼はシエルの技量を見た人物であり、またあの吸血鬼と遭遇した男である。これでシエルが一般人であるというほうが疑念を深めるだろう。

 

 

「もう少し驚いても良かったんですよ?」

 

 

「はあ、そうですか……。確かに先輩がとんでもない人だというのは理解していましたけれど。あんまり、実感みたいなものがないです。……ゴーストバスターズみたいな感じですか?」

 

 

「……今のところはそれぐらいの理解でかまいませんよ。けど、……それは」

 

 

 どこか不満げなシエルである。確かに自分達の使命が某映画に登場する白色のずんぐりむっくりなマシュマロマンを退治する科学者と同列で扱われるのは、些か抵抗があったのであろう。

 

 

「ん、んっ。では、自己紹介も終えたところで今後の話でもしましょうか」

 

 

 微妙な空気を振り払うような咳払いの後、シエルはにこやかな笑みを消し去り志貴を見た。

 

 

 弓塚さつきの側から離れ、カレーを食べにきたのはシエルの要望であるが、それだけが用件ではない。寧ろ今後の建設的は話をするために外出をしたのである。無論、腹ごなしも含めた意味合いでもって。

 

 

「まずは確認です。本当に遠野くんは引く気はないのですね」

 

 

「はい」

 

 

 志貴の頷きにシエルは顔を歪めた。

 

 

「……本来ならそれは私が果たすべき事です。ですが私は弓塚さんの治癒経過のため、しばらくの間彼女の側から離れる事が出来ません。それはつまりあなたを助けてくれる人がどこにもいないという事です。十中八九、あなたは死にます。それでも、行くのですか?」

 

 

 問いへの裏切りを望むような声音でシエルは聞いた。その表情には志貴を心配するものと、納得のいっていないそれが含蓄されていた。しかし、志貴の気持ちは最早変わらない。

 

 

「先輩、俺の気持ちは変わりません」

 

 

「そう、ですか」

 

 

 一度目を伏せて、シエルはおもむろに口を開いた。

 

 

「相手は吸血鬼です。莫迦らしいほど超越した身体能力、また眷属を増やし操作する統率力、更に超越種としての再生力、また五感や瞬間的能力は正に人類以上のものを誇ります。正攻法ではまず勝てません。瞬く間にこちらが死体と化すでしょう。ですが、そのような相手を我々埋葬機関のメンバー、あるいは聖堂教会の代行者達は討ち滅ぼしてきました。何故だかわかりますか?」

 

 

「純粋に先輩達が強い、とか?」

 

 

「……あながち間違ってはいません。私たちの中には人類種を超越した能力を秘めたものたちがいるのも事実です。ですが、それは吸血鬼も同じ事。吸血鬼達を統べる吸血鬼として死徒二十七祖と呼ばれる化物たちが存在します」

 

 

 死徒二十七祖。その名を志貴は先ほどシエル自身の口から耳にしていた。

 

 

「彼らは生命という範疇さえ超えた現象として存在する者もいるのです。……ここ数日の内に討伐されたネロ・カオスは二十七祖で言えば十位につく真性の怪物でしたが、彼は自分の中にひとつの世界を内包して活動する起源の混沌であり、彼からすれば人間は捕食対象でした。まず勝ち目などありません。そのような相手に敗北するとわかっていながらも立ち向かうなんて、まともな人がすることじゃありません。……では、どうするか」

 

 

 古今より、異形の者と覇を競うように人間は戦ってきた。あるいは闘争の歴史こそが人類安寧の証左であると表現しても過言ではない。しかし、彼我の差は歴然である。それをどう埋めるか。ここに人類は叡智を注いできた。だからこそ、異形との戦法は古来からオーソドックスなものがある。

 

 

「答えは簡単です。彼らの土俵に付き合わなければいいのです」

 

 

 純粋な力と力のぶつかり合いならば、より強いほうが生き残るのは同然である。しかし、まともに戦いを望む者は稀であり、人類は知略でもって戦い続けてきた。

 

 

 伝承によれば、この地に古くいたとされるヤマタノオロチを討伐せんとしたスサノオノミコトは酒を飲ませ、酩酊のうちにその首八つを叩き落した。化物を殺すにはそれなりの対処が必要なのである。

 

 

「遠野くんは持っているのですか? そんな莫迦らしいほど隔絶した存在を相手に、殺せるものが」

 

 

「……」

 

 

 そう言われると、まともに頷く事が出来ない。志貴は如何せん安楽の中を生きる高校生である。闘争の中に身を投じようなどと、今まで考えようともしなかった普通の少年だった。無論、そんな己が吸血鬼を相手に太刀打ちできるとは、思えない。

 

 

 ただ、それを素直に受け取る事が出来ないのもまた、この志貴という少年だった。

 

 

 果たしてまともに通用するとは考えもしないが、それでも現実を鑑みれば如何に自らが愚かな事をしようとしているのかがよくわかっている。何かないか、何かないだろうか、と志貴は己を胸の内に問いかけても、あるのは虚しい穴ばかり。

 

 

 そんな志貴をこれ見よがしにシエルは嘆息し、端から期待していなかったと告げる。

 

 

「あるはずがない。それが普通です。寧ろ、あったほうがおかしいです。だから遠野くん、あなたは何もしなくていいんです」

 

 

「先輩、だから俺は……っ」 

 

 

 頭の固いシエルに対し、声を荒げようとした志貴を慰めるように穏やかな声で、シエルは提案する。

 

 

「違いますよ、遠野くん。確かに、あなたは普通の人です。ですが、それがいいと私は思います。何も持ちえないあなただからこそ、あなたは何もせず、七夜朔に任せればいいのです。彼ならば、あれぐらいの化物はあっけなく殺す事ができるでしょう」

 

 

 七夜朔。先ほどまで、同じ空間の中にいた一個の殺人鬼。殺害を呼吸のようにくり返す、人でありながら人でない者。

 

 

「希望的考察になりますが、彼は己の仕事自体はきっちり行う方だと思います。腕の方も問題なく、また契約の不履行も行わないでしょう。なので、あなたは彼が行う処理を見届ければいいんです」

 

 

 つまり、それは。

 

 

「……見てるだけでいい。という事ですか」

 

 

「はい。……本当は、目に入れる事さえして欲しくはないんです。ですが、感情の発散は誰にでも許される唯一の救いです。仇を七夜朔に討ってもらう。それが最善です」

 

 

「……」

 

 

 確かに、シエルの言うとおり現実を見るならばそれが最善。どう足掻いても届かぬ相手を他の者に任し、仇をとってもらうのは言葉だけ聞けば実に合理的であり、また魅力である。

 

 

 だが、それにはどうしても志貴の感情が納得できない。まるで癇癪を起こした子どものように志貴は意固地となっている。それほどまでに志貴の中であの時の出来事は、ひとつの呪詛として黴のようにこびりついていた。

 

 

 そして、そこまで話を聞いて志貴は違和感を覚えた。

 

 

「なあ、先輩。あんたはどうしてそんなにあいつを信用してるんですか」

 

 

「――――」

 

 

「考えてみれば、何だか前々から七夜朔を知ってるみたいじゃないか」

 

 

 志貴の疑問に対し、シエルは一度水を口に含み、どこか己の中でも消化不良のように眉を顰めた。

 

 

「信用、という言葉は違います。ですが、遠野くんの質問に答えるなら、私は確かに七夜朔を知っていると言えるでしょうね。そうでなければ、あなたに彼を紹介する事なんて出来ないじゃないですか」

 

 

「……確かに」

 

 

 説明を噛み砕き理解しながら、志貴は低く頷く。一度に聞いた事が多すぎて、すでに志貴の脳は計算処理が追いついていない状態にあるのである。しかし、志貴は聞かなければならないのだ。

 

 

「じゃあ、あいつについて何を知っているんですか?」

 

 

「……そうですね。あまり私自身多くのことを知っている訳ではありません。ただ、彼とは一度共闘しただけの関係です」

 

 

「共闘?」

 

 

 思わぬ言葉に、志貴は首をかしげた。

 

 

「はい。……先ほど言ったネロ・カオス。彼を倒すために。遭遇戦のような形で、更にお互い素性も知らない相手でしたから、あれを共闘と呼んでいいのかはわかりませんが」

 

 

 苦笑してシエルは己の発言が間違っていないと確信を持って言う。

 

 

 シエルの脳裏にはあの日の戦闘が今も尚焼きついている。抉れた舗装道路とへしゃげて根元から吹き飛ばされた木々。次から次ぎへと襲い掛かる漆黒の使い魔。彼らが放つ濃厚な獣臭と血の香り。夜の最中で巻き起こった三者の殺し合いは、戦争もかくやという状況に陥り、決定打の見えない応酬が詰みあがっていった。

 

 

 それに対峙する己と、あと一人。

 

 

「彼はまともな人ではありません。死ぬことがわかっていても突き進む事をやめない動き、そして襲撃。その軌道。幾度も七夜朔は彼に届きました。刃で、手足で、体ごとで。甚振られ、体がぼろぼろになって前に進む事さえ出来なくなりながらも、彼はあの怪物に挑んでいったのです。……正直、代行者を凌ぐ執念を感じました。人間のままで、あれほどまで昇華出来るのは並大抵の苦行を行ったとしても作れるものではありません。結局、彼を倒したのは私たちではなく白い姫君だったのですけどね」

 

 

 茶目っ気を隠しもせず、彼女は苦笑した。あの瞬間の戦歴を思い返してみれば、それは致し方のないものであった。

 

 

 突撃をくり返す七夜朔の無謀にも似た攻勢に巻き込まれる形で戦闘を繰り広げた自分と、それを戯れの如くに打ち払う混沌の吸血鬼。最終的にネロ・カオスは七夜朔の練り上げられた自我と肉体に関心を示し、七夜朔を取り込もうとまでしたのである。

 

 

 互いに歴戦を重ねた存在でありながら、間違いなくあの瞬間は七夜朔が戦闘の動静を握っていた。

 

 

「だから、彼の腕については保証します。彼ならばあの吸血鬼を打破する事が出来るでしょう。……しかし、だからと言って信用しすぎるのはダメですよ。なんて言ったって彼は殺人鬼です。警戒はしすぎるのに越した事ありません」

 

 

「……なるほど。わかったよ、先輩」

 

 

「本当ですか? なんだか遠野くんは簡単に彼に近づきそうな気がするんですど」

 

 

 胡乱な目つきであるシエルを志貴は説得できるはずもなく、志貴は甘んじて受け止めた。

 

 

 それからしばらく、二人は歓談をした。学校では何が流行っているか、食堂のお勧めは何か、普段何をしているのか、有彦が行ってきた数々の所業。途中、シエルが弓塚さつきのどこがいいのか聞くと、急に志貴が顔を赤らめるなどもあり、実に和やかな食事だったと言えるだろう。

 

 

 そして、いざ店を出ようとしたとき志貴は真剣な表情をするシエルに呼び止められた。

 

 

「遠野くん。骨喰には気をつけてください」

 

 

「骨喰って、あの五月蝿い日本刀?」

 

 

「はい。彼は悪意で構成された呪詛そのもの、あらゆる負の感情を押し込んだ妖刀です。討伐を実行するのは確かに七夜朔ですが、あの刀に一番注意を払ってください」

 

 

「どうして?」

 

 

 店先に出て、シエルは振り返り志貴を見つめた。

 

 

 その瞳には冷淡の影に、どこか嫌なものでも思い出したかのような苦い感情があった。

 

 

「恐らくですけど」

 

 

 そこで、ひとつ言葉を区切り。

 

 

「七夜朔は骨喰の支配下で操られています」

 

 

 と言った。

 



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第三話 甘い猛毒

夕刻は時の境目である。
境界線に佇み、片方とちらにも属さない確立された曖昧だ。
模糊なる時刻は夜よりも恐ろしい者達の出現を予感させる。
だからこそ斜陽は美しく、また破滅の予兆を匂わせる。
汝、心せよ。
夕暮れ時は魔物のあぎとが開いたと思うがいい。



 斜陽の光が最も明るくなるのは地平線の彼方にその姿が消え去る瞬間にこそある。

 

 

 末期の命が最後の力を振り絞って燃え上がるように、光り輝くものがいったん失せるその時にこそ、光源は己の存在を誇示するように散光するのである。

 

 

 日暮れの気配に鴉たちが泣いていた。

 

 

 群から逸れた鴉を探しているか、車座に狡猾な算段を企てているのか、鴉の鳴き声とはそれだけで不吉である。そこに明確な意味合いはなかろうともだ。

 

 

 茜色の空だった。日が傾き少し肌寒くなろうとしている。風は穏やかだが秋に入り冬の兆しが見える今日この頃は、帰りを急ぐ人たちが道行きを歩き、互いにすれ違っている。心なし早い歩みの胸中に、町を騒がす連続殺人事件の顛末が翳としてかかっているのは、誰も決して否めないだろう。先日もまた、近隣の高校に所属する女子高生が行方不明となり、すでに報道されているのである。無理からぬ事だろう。夕闇の気配とは、ある意味で真夜中の暗闇よりも不安を冗長させるものなのだから。

 

 

「……」

 

 

 日本での拠点としているアパートの一室で、シエルは鴉の鳴き声を耳にしながら、三咲町の人々に想いを馳せていた。

 

 

 シエルは人の心の機敏がよくわかる人間だった。目に見えないからこその恐怖を誰よりも知っていると言ってもいい。だからこそ三咲町の人々が足早に帰宅の途へと付き、家の中に閉じこもっていくのは好都合だった。

 

 

 眼前で眠りにつく弓塚さつきの治癒を行っているならば、それは尚更の事であった。

 

 

 人知れず、シエルは溜め息をつく。

 

 

 それは落胆によるものではなく、疲労ゆえであった。

 

 

 現在毛布を払い、血色の失せた肌を顕に全身を晒している状態であるさつきの容態が安定の兆しを見せたのは、明け方の頃である。治療開始を先日の夕刻とするならば、彼女が命の危機に瀕しておおよそ一日近くの時間が経過しているが、予断を許さぬ状況の中、常につかず離れずにいたシエルが志貴を伴いメシアンへと外出できたのは、彼女に行っていた治癒魔術による肉体復元が定着したからに他ならない。

 

 

 心臓を奪われた被害者である彼女を救うために行った事とは言え、さつきの適応力には目を見張った。本来であるならば治癒魔術に特化せず、またある事情により本人自身が治癒を必要としていないシエルが魔術礼装もなく、またろくな現代医療器具を準備していない状態であったにも関わらず、彼女が治癒魔術によって一命を留めたのはさつき自身によるものだった。

 

 

 浸透する。彼女の治癒魔術に対する適合力は人として稀に見る高さであり、そう形容する他ない。砂漠が雨水を吸収するように、彼女の肉体はシエルの施した魔術に抵抗する事無く、また治癒魔術の効果の程は期待以上のものであった。

 

 

 だが、これでよかったと安堵するには、シエルはあまりに魔を知りすぎていた。

 

 

「……何故でしょうね」

 

 

 シエルは一人、思考の渦の中に潜行していく。

 

 

 意味の無いことなどこの世には存在しないように、全ては必定に連なっている。

 

 

 さつきの怪我が通常のものであり、潜在的ポテンシャルの一言で治癒を語り尽くせるならば、問題はなかった。

 

 

 しかし、彼女がこのようになった全ての原因は吸血鬼にある。シエルは脳裏で可能性をピックアップしていく。

 

 

 心臓を奪う際の接触により彼女の中に吸血鬼の因子が入り込んだ可能性。怨敵の宿主が元々そのような能力を有していた可能性。そして彼女の家系そのものが魔的な存在に対し何らかの関連性がある。荒唐無稽に思えるものであっても、可能性があるならば検討するには十分だ。

 

 

 だが、調べた結果彼女の肉体には欠陥が見られず、そして魔的違和感は存在していない。また彼女の属する家系に於いてもそれは同じだった。親族を捜査したが調査結果はオールグリーン。

 

 

 では、一体何故。シエルの疑問が深まっていく。

 

 

 あるいは、これこそが運命と呼ばれるものだろうか?

 

 

「……」

 

 

 もし彼女が死者化乃至吸血鬼化を果たしているのならば、今のうちに首を落とすべきだ。目覚めた後に病症が発覚したならば、何かと手間である。面倒を鑑みれば今の時点で掃滅を果たす事こそ神の代行者として、そして埋葬機関としての使命の行使を成すべきだろう。感情を押し潰し、余計な思考も罪悪もなく手を下す事こそが最善だろう。

 

 

 シエルは、じっと己の手を見つめた。表面の皮膚だけ見るならば綺麗な手だ。しかし、その掌には染み込んだ血肉の香りがこびりついている。例え付着せずとも、それらはの幻影は罪の証としてシエルを打ち据える。幾度もくり返した血の虐殺の果てに今のシエルがいると思うならば、何をためらう必要があるのだろうか。

 

 

 だが、どうにもそんな気になれない。

 

 

 情が移った、とは思わない。怖気ついた、などありえない。

 

 

「……ああ、私が言っていたんですよね」

 

 

 ふと、胸に去来するものがあった。

 

 

「お節介、ですか」

 

 

 戯れのように施した彼らにとっての奇跡が、一体どこにたどり着くのか見てみたいのかもしれない。遠野志貴と弓塚さつき。この二人の関係性の道標を。

 

 

 そう思うと、どこかすんなりと受け入れられた。

 

 

 今更、そんな人間らしい感情で動いていると知れば、あの埋葬機関長がどんな嘲笑を浮かべるだろう。予想するだけで顔に苦笑が張り付く。

 

 

 けれど、今はそれで構わない。揺り篭にも似た安らかな日々に彩られた彼らに手を貸したのは自分だ。ならば、その最後まで付き合わなければならない。例え、それがどんな結末を迎えようとも。

 

 

 改めてシエルはさつきを見た。栗色の髪を床に広げた女の子。産まれたままの姿にある彼女は少女特有の柔らかさと、これから大人になろうと形成される脂肪を載せた可愛らしい少女であった。シエルも女としては自信を持っているが、彼女の女らしさとさつきのそれは種類が異なっている。人好きされそうな顔つきは笑えば愛らしく、小ぶりだが形の良い乳房はシエルも頷いてしまうような魅力を持っていた。学校で彼女が密かな人気をもっているのも致し方のない事だろう。シエルの調査によれば、数名の男子生徒が彼女に恋慕の念を抱いていたが、分からなくもない。しかし彼女の心はすでに決まっているのである。

 

 

「だから、遠野くん。死んではいけませんよ」

 

 

 先ほどまで逢瀬を交わしていた遠野志貴を脳裏に浮かべる。

 

 

 吸血鬼討伐に勇んだ少年。復讐と怒りに囚われた男。無力な人間が吸血鬼に立ち向かうなど御伽噺でもあるまい。現実は幻想のように、あるいは理想のように甘くはないのだ。本当ならば、彼を向かわせるべきではないだろう。暗示等で記憶を改竄してしまえば、それで終わってしまう話なのだから。

 

 

 だが、シエルは彼を向かわせてしまった。必死な表情でシエルに頼みつく気概に当てられたわけでない。だからと言って死なせていいと思ったわけではない。

 

 

「遠野、ですか……」

 

 

 感慨も深く、あるいは嘆きのようにシエルは彼を想う。

 

 

 シエルの憶測が確かならば、志貴には吸血鬼に対する切り札が存在するはずだ。それを彼自身は知らない。いや、思い当たっていない。しかし、彼がどれほど否定したとしても、それはあるはずだ。血というのは魂と同等であり、本人さえも抗えぬサガを秘めているのだ。それに彼は苦しむかもしれない。痛みとともに涙を流すかもしれない。

 

 

 どちらにしろ、自ら殺戮の場に飛び込んだのである。自衛の手段が発現しなければ、早々に死んでしまうだろう。全ては彼次第だろう。

 

 

 それに、もう一人の人物がいるならば多少の苦難は問題ないはずだ。

 

 

「まあ、取り敢えずは問題ないでしょう」

 

 

 ――――七夜朔。

 

 

 あれは獣のようでありながら、その実態は機械のそれだ。目的を最優先とするように誘導されている。間近でその戦法を知り、そして調査を経たシエルだからこそわかるが、七夜という血のもとに動く彼は確かに七夜だった。その有様にシエルは背筋に薄ら寒いものが走ったものだ。

 

 

 ――――骨喰を握りしめ、全方位から襲い来る混沌の獣たちに自ら突撃する殺人鬼。

 

 

 命知らずではない。あれは最早ひとつの機能だ。

 

 

 化物を殺すために動く、ただのシステム。

 

 

 だからこそ、七夜朔がいれば遠野志貴の命は最低限保障されるだろう。

 

 

 退魔と志貴の制約、そして骨喰の呪縛によって。

 

 

「さて、では今出来ることをしましょうか」

 

 

 これ以上の思考は最早マッチポンプだろう。可能性を通り越したこじ付けに近い。ならば思考を放棄し、出来る限りの事をするべきだ。

 

 

「――――Amen」

 

 

 口元で呟かれたのは魔術のトリガーワード。さつきの胸へと翳した掌が淡く輝く。魔術行使によって発生する燐光は淡い光をたたえながら、神秘を発現する。神の御業ではなく、魔道の力によって。神へと捧げる言葉で魔の理法が行使されるなど、どんな皮肉か。

 

 

 しかし、それでもシエルは祈らずにはいられない。

 

 

 それが咎を負う彼女に許された罪滅ぼし。

 

 

 当初、己の目的かもしれなかった少年に祈りの言葉を捧げるのは無粋だろう。

 

 

 夕焼けの向こう、そこから這い寄る夜の巷に飛び込んだ少年と、命をつないだ少女のために。

 

 

 □□□

 

 

 待ち合わせ場所に指定されたのは町外れの廃工場だった。空は夕暮れに藍が混じり始めていた。これから夜が訪れようとすると言うのに、このような場所に訪れるのは志貴としても遠慮したいところであったが、彼は拒絶できるような立場にある訳でもなく、また代案を持ち出せるほどの考慮もなかったために、致し方なく骨喰の言に従ったのである。

 

 

 錆びた匂いが鼻をつく。くみ上げられた鉄骨に太い鎖がぶら下がり、何に使うかもわからない鉄塊、赤茶色に変色したU字溝や鉄くずたち。近隣に同じような工場群を臨むそこはどれほど放置されたのか、外壁を覆う塗炭の表面が解けて濁る雫を落下させていた。それがぴちょんと時折垂れて人の気配が遠いこの工場内に響き渡る。しかしそれは鼠の足音と疑るほどささやかなもので、だからこそここは町から物理的に隔離された空間であると思わせる。

 

 

 そんな場所で遠野志貴と七夜朔は対峙していた。

 

 

「―――、―」

 

 

 相変わらず、七夜朔は目の前にいるはずなのにいないかのような印象だった。瞬きをしてしまえば、幻なのではなかったのかと疑うほど気配がない。聞こえない呼吸音、静謐な佇まい。そして蒼い眼光。

 

 

「……っ」

 

 

 その瞳に晒されるだけで、志貴は息を呑んだ。気付けばいつの間にか体が少し強ばっていた。

 

 

 人が放つ輝きではない、神獣か魔獣の瞳。こちらの全てを見透かし、暴き出すような力を秘めた眼差しは志貴を見つめているわけでもなく、茫洋と世界を映し出している。そんな眼球だ。

 

 

 その持ち主たる七夜朔と顔を合わせるのは今日だけで二度目であるは、志貴は未だ慣れを抱いていなかった。彼がいるだけで自らの場違いを思い知らされる。

 

 

 しかし、志貴は止まらないと決めたのだ。それは弓塚さつきの命が助かったと確認した事により、更に強くなっている。例え吹けば消える塵芥のような決意であろうとも、志貴は目を背けないと決めたのだから。

 

 

『ひひ、ひ……』

 

 

 寂寞たる空間に、歪な声音が軋む。

 

 

 さあ、始まる。

 

 

『こコは、よく来たと言ウべきかァ? どウだイ調子の方は』

 

 

「……別に、問題ない」

 

 

『さよウか、ひひ』

 

 

 志貴の声に、声音の正体である妖刀骨喰は朔の掌の中に握りしめられながら嗤った。邪笑、嘲笑、侮蔑。人を嘲るありとあらゆる感情に愉悦を上乗せたような嗤い声。

 

 

 慣れる事がないというのであるのならば、それは骨喰にこそある。喋る刀という珍妙極まりない存在でありながら、その悪性は一介の武装に収まるものではない。。言葉を聞くだけで鳥肌が毛羽立ち、自然と目を背けたくなる。鞘の中に治められた刀剣として扱うにしても、あまりに邪悪なその有様は世界中に蔓延る負がひとつの塊と化したとさえ受け取っていいだろう

 

 

 シエルはそれを指して最も注意すべき相手だと警告した。七夜朔を支配する魔物だと。

 

 

 それが本当にそうなのか、志貴には判別がつかない。ただ、七夜朔の佇まいを見れば頷ける事であった。我意もなく、また気配も見えない朔は人形そのもののようであり、邪悪たる骨喰が操っていると理解するのは難しくない。催眠か、それとも従属によるものか。シエルの言う所の魔術に対する知識が皆無である志貴には、一般的に知られている催眠術の類によるものかと思っているが、どちらにせよ今の段階ではその正体がわからない。

 

 

 ならば最大限の警戒を骨喰に払わなければならない。もしかしたら志貴さえも七夜朔のようになるのかも知れないのだから。

 

 

『ンで、だ。先刻言った通り、手前に殺す術理ッて奴を叩きこンでやる。俺らに教わるなンざ、アっちゃアならねエ話だが、なァ』

 

 

「……ああ。けど、実際何をするんだ?」

 

 

 脳裏にふと、シエルの言葉が蘇ったが志貴はそれを振り払った。確かにこの二対に全てを任せればいいだけの話かも知れない。

 

 

 志貴は未だに納得していなかった。だからこそあの化物に対抗しうる手段を得る。

 

 

 これが発覚すればシエルは怒るだろうか。無謀極まりないと罵るだろうか。もしかしたら、やはりと思って志貴を無理矢理押し留めるかもしれない。

 

 

 だが志貴はそれで構わない。それで仇を討てるならば。

 

 

 その為に今、己はこの殺人鬼と妖刀に対峙しているのだから。

 

 

『ひひ、それはダな――――』

 

 

 と、渾身の覚悟を決めていた志貴の目前で、七夜朔がいきなり骨喰をあらぬ方向に放り投げた。というかぶち込んだ。

 

 

 親の敵といわんばかりに投げられた骨喰は叩きつけたと形容しても良い速度で工場の鉄鋼にぶち当たり、どんがらがっしゃんと冗談にしか聞こえない騒音を盛大に打ち鳴らした。志貴からは影となって骨喰はあっという間に見えなくなってしまった。

 

 

「……は?」

 

 

 いきなりの事に志貴呆然。

 

 

 右腕の力だけで投げた事で朔は先ほどと変わらぬ体勢のまま微動だにしていない。しかし、右手に骨喰がないのでビフォーアフターは明らかである。そして骨喰が消えうせた事で志貴は不思議と嫌悪感もなく七夜朔を直視できるようになったのだが、なんだろうこの微妙な空気。

 

 

『ひひ、ひ……こイつぁ、ひでエよ』

 

 

 どこか向こうのほうから骨喰の声が聞こえてくる。先ほどと変わらぬ皮肉気な声質のはず、なのだが雑というかぞんざい極まりない扱いに志貴は声の中に哀愁さえ感じた。

 

 

 そう言えば、以前も朔は骨喰を残念な感じで扱っていたものだが、本当に支配関係にあるのだろうか。

 

 

 どちらにせよ、戸惑い困惑する志貴であった。

 

 

「――、――」

 

 

「ええ、と……」

 

 

『手前にゃちイとばかし朔とやり合ってもらウ』

 

 

「……あ、うん」

 

 

 気まずい雰囲気をなかったかのように話を進める骨喰だった。これが彼らの通常なのだろうか、と内心思った志貴であるが、内容の不穏当な気配だけは聞き逃せなかった。

 

 

「って、やり合うってどういう事だ?」

 

 

『何、簡単ナ事。手前と朔が殺し合ウ』

 

 

「……は?」

 

 

 あっけなく骨喰は言った。

 

 

『どっちみち、手前が踏み込ンだのは修羅の巷。斬っタはったが常ノ世よ。だから朔とやり合って馴レろ』

 

 

「いや、あんた何言って――――っ」

 

 

『何、ちゃんと手加減はサせて殺してヤる。はなからきっチり殺すワけじゃなし。じャれる程度に、な』

 

 

「―――――。―」

 

 

『それとも嫌、かイ?』

 

 

 廃工場の中に骨喰の言葉が響く。

 

 

 骨喰の言葉が道理に適っている事実は、乱暴であるが志貴にも分かっている。これから化物たちと戦わなければならないのだから、少しでも戦うという空気を味わう必要がある。だが、いざそれを目の前に出されると躊躇してしまう。何せ相手は殺人鬼。志貴が出合った中で恐らく一番外れた存在である。それが殺しにかかってくるというのだ。無理からぬ事ではあろう。

 

 

『ひひ……言っただろウ? 手加減してヤるっつってなァ。――――朔』

 

 

 暗闇へと消えた骨喰からの呼びかけに、朔はおもむろに着流しの懐へと隻腕を突っ込み、何かを志貴に投擲した。

 

 

 迫り来る何かは先ほど骨喰が投げられた勢いに比べれば遥かに遅かったが、思わず顔を庇うために翳した志貴の手の中へと小気味よい音をたてて収まった。

 

 

「鉄の……棒?」

 

 

 それは棒状に象られた鉄製の何かだった。掌よりも長く、前腕よりも短い鉄の棒。見ようによっては太鼓を打つ撥のようにも、あるいは粉を摩り下ろす擂り粉木のようにも見えなくはない。ただ志貴にとってそれはそのどれもが当てはまり、どれもが当てはまらなさそうな鉄の棒だった。

 

 

『生憎、朔にゃ手加減なンて出来やしねエからよ。こイつを使って調節しなくチゃならねエ』

 

 

 見れば、七夜朔もまたその右手に同種の鉄撥を握っていた。

 

 

『こイつは先代ノ七夜当主が使ってたもンだ。切れ味も糞もねエ、たダの棒よ。だが先代の七夜黄理はそイつで人の解体してたけどな。それを俺が回収したノよ』

 

 

「……先代の七夜当主?」

 

 

『……手前が気ニすることジゃねエ。こっちノ話だ』

 

 

 ――――七夜、黄理。

 

 

 またも、七夜の名。そしてその名の人物もまた、殺しを行っていたと骨喰は言う。

 

 

 志貴は改めて手の中にある鉄撥を見る。それは掌の中で鈍く輝いており、冷たく物々しい。骨喰の言を信じるならば、これは人殺しの道具だと言う。志貴の背中に禁忌めいた寒気が走るが、それを抑えて志貴は撥を握りしめた。実感がないというのはある。その形態は殴打するものであり、志貴にはそれが人を殺めるという現実感を持っていない気がした。

 

 

 ――――ふと、志貴もまた七夜の名がつくものを持っていたと思い当たる。

 

 

 今もポケットの中にしまってあるナイフの銘は、七夜である。

 

 

 もしかしたら、あのナイフは七夜という存在に縁が在るものなのかも知れない。ならば、何故今は亡き父はそれを自分に渡すよう遺言を残したのだろうか。そしてどうしてそのようなものが遠野にあったのか。

 

 

 調べたほうがいいのかもしれない。――――もし家に帰れたならば。

 

 

 そう言えば、昨日は家に帰ることが出来なかったなと、志貴はこの時場違いな感慨を浮かべた。

 

 

 未だ馴れる事のない実家の豪邸。そこにいる志貴の家族と昨日は会うことが出来なかった。今更のように、志貴は今の今までそれらの事を忘れていた。折角戻ってきたのに、それを自分からかなぐり捨てるような真似をするとは、志貴自身思いもしなかった。

 

 

 だが、それは同時にそれほどまでに志貴が追い込まれていた事実を曝け出していた。動物の帰省本能は忠実に働くものだが、それは危機意識が高まれば高まるほど沸騰する興奮によって掻き消されるが、それは一瞬の事である。通常、苦難とは断続して続くものではないのだ。しかし、それがまともに働いていない意味はつまるところ、長い間危機意識が高まっているからに他ならない。

 

 

 ふと、志貴はあの家に帰りたくなった。どこか他人の住まいのように感じるあの家に。

 

 

 それは一瞬の間隙だった。意識が休まる間もなく高ぶり続けた結果に訪れた中だるみとも言うべきそれは、思いのほか強いものだったが。――――じゃりという音がわざとらしく聞こえ、志貴は現実に引き戻された。

 

 

 慌てて志貴は朔と対峙する。不思議と、今度は真正面からその姿を見る事が出来た。藍色の着流し、左腕はなく風に揺らめく柳のように袖が垂れており、垣間見える長身痩躯の肉体はワイヤーで締め付けられたように鍛えられている。そしてざんばらに伸ばされた黒髪から覗く、蒼い蒼い空のような瞳。

 

 

 その姿にはこれから殴りあうような気負いがなかった。志貴が知れず緊張に体を強ばらせている最中、相手はさして変わらない様子で俯き加減のままに屹立している。

 

 

 志貴はその姿の一足一動を見逃さないよう、目を凝らして身構えた。武道を習得していない志貴にはこれから戦うという体勢を修めてはいなかったが、それでも自然と腰は落とされた。そして手元に握られた鉄撥の構えはこれでよいのか、と右手に意識が傾いた。――――瞬間に、七夜朔が志貴の目前から掻き消え、腹部が爆発したような衝撃が襲い掛かった。

 

 

「が、はっ……!!!!」

 

 

 肺から強制的に息が吐き出された。

 

 

 志貴の意識が僅かにぶれた瞬間。視界から外れた朔は膝下まで潜り込み、地を這う蟲のように低い体勢から志貴へと近づき、過ぎ去り様に鉄撥を叩きつけたのである。行ったのはただの殴打だった。だが、終生七夜黄理が愛用した暗器と限界まで練り上げられた朔の武技によって生じた打撃は、まともに受ければ肉を破って骨まで砕き振り抜く一撃と化していたのだった。

 

 

 〝死ぬほど痛い……っ!!?〟

 

 

 加減したとは思えぬ一撃に雑音交じりの悪態が内心零れる。

 

 

 無論、あくまで朔は手加減している。その証拠に志貴は殺されていない。もし朔が殺そうと全力で動いていたならば、志貴の顔面は下顎から上が爆ぜ、腹部から入り込んだ右腕が瞬時に心臓を掠め取っていた。人の術利ではなく、殺人鬼の術利にかかれば志貴程度訳もなく死んでいる。それでも志貴が未だ生き永らえているのは、確かに朔が殺さなかっただけである。とは言え、彼が与えた痛みは対象をショック死させる類のものであった。

 

 

 振り被った金属バットで打ち据えられたような鈍痛が志貴の鳩尾下の腹筋に発生し、背中まで貫く衝撃が爆発した。内蔵が破裂したような激痛に体が意志から離れてよじれる。自然と腕は腹を押さえつけていた。あまりの痛みに声すらあげることが出来ない。脳が危険信号を点滅させている。志貴は呻いて歯を食い縛り胃液が遡るのを我慢しながら、目前を見た。

 

 

 当然、そこに朔はいない。辺りにも見えない。高速で擦れ違ったままに魔眼の導きへと従い、朔は今廃工場の背景へと溶け込んでいた。

 

 

『ひひ、何しテる? 次が来ンぜぇ。さっさト体勢戻さなケれゃおっちんじまウ』

 

 

 そんな志貴を出来の悪い三文芝居を見据えたゆえの罵声の如く、骨喰の声音が痛みに悶絶する志貴の耳に入り込んできた。

 

 

 鉄撥を握りしめた時、すでに始まっていた。

 

 

 それを卑怯だと、志貴は思わなかった。以前骨喰の言の正当性が思い浮かばれたのだ。

 

 

〝手前は目の前に仇がいて、今からぶち殺してやンぞ、とでも言うつもりかァ?〟

 

 

 喧嘩に、戦争に、殺し合いに合図はない。倒さなければならない敵と相対していると言うのに合図を待つのは愚劣の限りだ。もしそのような示し合わせがあるのならば、それはスポーツに成り下がる。

 

 

 志貴がやろうとしているのは、そんな甘い世界の話ではない。もっとおぞましく、もっと凄まじい悪鬼羅刹たちが跋扈する世界の相対である。

 

 

 ならば、合図は必要ではない。求める事こそ望外だ。敵を見据えた瞬間こそ勝負の時。あちらを下し、こちらが勝利の拳を突き上げ滅ぼさなければならない。

 

 

「――――っく!」

 

 

 震える指先に鞭を打ち、鉄撥を堅く握りしめる。その詰まった鉄の感触は痛みにより頼りげなく朦朧とする意識を落ち着かせるに値するものだった。

 

 

 未だ痛む腹に顔を歪ませながら、それでも志貴は顔を上げて、傾いた眼鏡を持ち上げながら体勢を戻す。

 

 

「―。―――」

 

 

 目を、見張れ。耳を、澄ませろ。匂いの変動を嗅げ。地面の揺れに触れろ。空気の有様を味わえ。

 

 

 どこからか必ず襲撃するであろう朔を迎撃するために。

 

 

 最大限の警戒を稼動させろ、生涯初の戦いのために。

 

 

『さアて、少しハ対抗できるやツをものにしねエとなァ。死ぬホど、痛えだろウが、な』

 

 

 工場の隅で鉄くずに埋もれながら、骨喰は金属が裂けるような声で嗤った。

 

 

 骨喰に志貴を殺すつもりはない。しかし、死んでしまっても構わないという思惑もあった。そのために人の訪れない場所を選び、刀崎を遣って人払いまで済ませてある。志貴がここで死ねばすぐさま戦争が始まるだろう。遠野の長兄という価値は計り知れないものがある。多くの憤怒と悲嘆を消費して始まる戦争の予感は、骨喰にはひとつの甘美だった。

 

 

 西日が消える刹那が訪れ、獰猛な化物たちが目を覚ます夜が始まろうとしていた。

 

 

 ――――どこかで、鴉が鳴いた。

 



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第四話 甘い猛毒

僕は今、どこにいるんだろう。


 骨喰からしてみれば、鍛錬とはナンセンスである。

 

 

 刀剣の類である彼、と呼称していいかどうかは定かではないが、武具であり、どのような術理を経て言葉を持ってしても、大雑把に言ってしまえばただの物体である骨喰にとって、己を鍛えるというのは道理を判別出来ない概念だった。

 

 

 骨喰が骨喰として今は亡き刀崎梟の秘術によって生み出され、多くの犠牲をくべて形成された当時から人が己の業を高め、今より以上の場所へと到達する行為、つまり〝努力〟と銘打たれたそれは理解の範疇にない。他者同士が鎬を削りあうなど論外である。だからこそ骨喰が骨喰たる由縁である邪悪において、ある目的のために努力を行うとは噴飯するに値する行為であった。

 

 

 故に志貴を鍛えるなどと言いはしたが、あれもまたそのままの意味ではない。

 

 

 そも七夜朔に鍛錬の相手を勤める事自体どだい無理な話なのだ。

 

 

 七夜朔が本来持つ叩き込まれた殺しの手管は本能にまで刷り込まれ、一度殺意を向けた相手に幾ら統制しようとも相手を殺してしまう。嘗て骨喰が記憶しているところ、七夜の退魔衝動によって殺害対象以外の混血を殺害した経緯は幾等もある。それを抑制するどころか増長させる骨喰も大概ではあるが。

ならば莫迦正直にこちらの申し出を受け入れた遠野志貴に対し、骨喰は戯れの如くに甚振る魂胆であった。

 

 

 例えば獅子の子供が他の小動物を相手にじゃれ付いて殺してしまうのは、それは彼が獅子だからだ。その膂力、本能は仔獅子の意志とは相反して容易く相手を害してしまうもの。この獅子が七夜朔に当る。そして遠野志貴は戯れ相手の小動物でしかない。如何に志貴が遠野の血縁者であろうとも、調査結果によって判明してある情報を思えば、彼は闇を見知らぬ阿呆なのだ。そのような者が七夜朔を前に対峙しているなど愚の骨頂にも程がある。それほどまでに二人の間には隔絶した差があった。存在、あるいは魂のレベルでだ。

 

 

 とは言え、あっけなく死んでしまっては面白くない。死ぬなら死ぬで七夜朔の糧にならなければならない。致命的外傷を負わせずに、ミンチ状態となるまで叩き潰す。今回骨喰が設けた殺害プランである。骨喰が朔の殺害方法に対し口を出す事はありえないし、また彼が朔を統制することそのものは不可能だ。しかし、無理に設定した状況、七夜朔に鉄撥を持たせてそれのみを使用させるという限定条件を考えれば容易い。

 

 

 そも、その殺害方法は七夜黄理のものに近い。彼は生前鉄撥を使い対象を骨ごと磨り潰すという所業を果たしていたが、今回はそれの実演だ。様々な殺害方法がある事を朔に教えられればそれでよし。例え朔が習得せずとも、遠野志貴を殺害したならばそれも良し。

 

 

 後々に訪れるであろう、〝骨喰の目的〟のためには。

 

 

 しかし、今廃工場内で展開された光景は、七夜朔から放り投げられ廃工場にそのまま放置された鉄くずに埋もれた骨喰の思惑を、良い意味で裏切るものだった。

 

 

 ――――幾つもの鈍色が襲い掛かってくる。

 

 

 それを志貴はどうにか回避、あるいは防ごうとするが、死角から伸び上がる鉄撥の威力を相殺することさえ敵わず、ただ一方的に志貴は朔の執拗な殴打に甚振られた。その度に志貴は体の痛みに苦悶の表情を浮かべるが、痛苦を噛み締める暇を与えるような相手ではない事は承知の上で、気付けば違う部分が打撃の衝撃に晒された。

 

 

 これで一体幾たびの攻撃を受けたのか。服の下、きっと赤く腫れ上がっているだろう左肩の有様は目も当てられないほどになっている。それは今しがた打たれた部分のみではない。志貴の腹筋、大胸筋、背筋には焼印を押し付けられたような跡が、恨みのように浮かび上がっていた。

 

 

 朔が用いる戦法は至って単純。

 

 

 寄って、叩く。

 

 

 けれど、朔の動きの出鱈目さを鑑みれば彼の実直極まりない戦術も、志貴にとっては嵐のようなもの。

 

 

 何せ、志貴は戦端が開いてから一度も朔がどの場所から襲い掛かってくるのか、まるで理解できてなかったのである。

 

 

 しかし志貴も莫迦ではない。殺し合いを知らず、また暴力を知らない彼ではあったが、短い時間で朔の襲撃を幾つも身に受けた彼はある程度の収穫を手にしていた。

 

 

 まず、朔は鉄撥以外の攻撃をしてこない。それが骨喰の指示によるものか、あるいは朔の気まぐれによるものか定かではないが、少なくとも朔は自身の肉体そのものを暴力として揮う事はなかった。

 

 

 未だ朔の手筈を視認できていない志貴がそれを知りえたのは、偏に彼が晒されているひりつくような痛みにあった。

 

 

 人の体はある程度の猛威には慣れるもの。肉体のポテンシャルとの隔絶具合によっては、適応する間もなく磨り潰されるのがオチであるが、志貴の体は彼自身が思う以上に答えてくれており、一度目の猛打で内臓が破壊されていない事がそれを証明している。だからこそ、志貴は肉体に浮き出る鉄撥の感触を次第にではあるが理解していた。そして、それにより朔の鉄撥の扱いが雑である事も知れた。

 

 

 武具と言うものは揮って使用するだけのものではない。幾つもの鍛錬を重ね、武術へと昇華し遂には武芸へと上り詰めた武芸十八般もあるように、古より重ねあげた武には幾つもの手段が存在する。突き、払い、凪ぎ等、武具の使用はあらゆる選択から選び出された攻撃種類に分けられる。

 

 

 しかし、朔が揮う鉄撥にはそれが無い。

 

 

 彼はただ鉄撥という道具を用いて志貴の体を殴打しているだけだった。

 

 

 何故なら志貴は知らない事ではあるが、それは朔がこの武装に慣れてはいないのである。

 

 

 多くの武人と呼ばれる人間は己が獲物を用いた戦法は元より、様々なものを己が武具として使用する。古武術の多くは武器の使用を前提とするそれと同じように、近代格闘技術も道具を使用した戦法の会得を推奨する。武人とは徒手のみで戦うのではなく、あらゆる条件下に自身を適応させて戦う鍛錬を積み上げるのだ。

 

 

 しかし、志貴の対峙する怪物は武人でない。

 

 

 彼は殺人鬼なのだ。

 

 

 戦う手段を模索し試行錯誤した過去はなく、ただ殺しの術理を学び続けた存在だ。戦うだけの戦法を朔は知らない。彼が学び、身に備えたのは殺傷の技術のみばかりである。故に、やりようによっては撲殺も可能ではあったが、現状甚振るのみという条件は朔に思わぬ制限をかけていた。

 

 

 だからこそ、朔が鉄撥を使用する現状で志貴が生き残っているのは、骨喰の悪戯にも似た思惑が思わぬ結果を生み出した故の事であった。

 

 

 そして、全身に痛みを抱えた志貴であったからこそわかる。

 

 

 この相手は、現状志貴ではとてもではないが打破出来ぬ存在であると。

 

 

『ひひ、どうシた。もっとだ、もっと気張ッて見せろイ餓鬼ぃ!』

 

 

「――――ッ」

 

 

 とは言え、理解のあるなしに関わらず。志貴が窮地に立たされている事に変わりは無い。鍛錬と銘打たれた所業は悪辣に尽き、寧ろ身体に走る痛みを思えば志貴は煉獄に佇んでいた。

 

 

 呼吸し、殴打された衝撃が抜けると残されるのは灼熱にも似た苦痛だった。火炎で炙られたとさえ思い込んでしまいそうな痛みが、すでに志貴の身体で幾つも暴れまわっている。そして悪い事に、志貴が痛みを自覚する間さえ朔は与えてくれない。

 

 

 しかし、よじれんばかりの痛みに身悶えしてしまえば、それこそ自身の終わりだという事は志貴も理解している。僅かばかりの間隙のうちに致命的な一撃を喰らってしまうのは明白な事。未だ頭部への打撃が行われていない事が幸いし、志貴は痛覚以外と極限の緊張状態を除けば、クリアな視界を持っていた。故に志貴は痛みに脳まで痺れるような状況に置かれながら、必死に耐えていた。

 

 

 耐える。耐える。

 

 

 耐える。耐える。

 

 

『ひひッ、ひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ!』

 

 

「五月蝿いッ! 黙ってろ鉄くず!!」

 

 

 無様な志貴を嘲う骨喰の哄笑に苛立ちが増す。

 

 

 神経に突き刺さるような笑い声が空間内をささくれ立たせた。

 

 

 我慢に我慢を重ね、泣き出してしまいそうな痛みに打たれながらも、けれど志貴は決して目を閉じなかった。確かに、現状志貴では朔を打倒できる相手ではない。しかし、だからと言ってそのまま痛めつけられるのは受け入れるわけにはいかない。隔たりある両者。それを打破できぬのならば、せめて一矢報わなければならない。

 

 

 痛みの情報過多に混乱を果たしてしまいそうな脳に志貴は反し、己が五感を決して弛めはしなかった。

 

 

 ひとつ打たれれば目を凝らし。

 

 

 ひとつ打たれれば耳を澄まし。

 

 

 ひとつ打たれれば空気を嗅ぐ。

 

 

 死を臭わせる廃工場、錆ついてしまいそうな空気の中で志貴の身体は意識とは反して、痛みを覚える度に純化されていった。

 

 

 余計なものを取っ払ったように五感から会得できる情報が増していく。それは志貴には始めての感覚で、あるいは非日常的な中で発生する脳内麻薬の過剰分泌もあるだろう。ドーパミン、エンドルフィンの分泌された脳はランナーズハイと同じ条件にまで移行し、所謂脳内モルヒネに浸された状態となる。

しかし、志貴が味わう感覚というものはオピオイドを始めとする脳内麻薬の感覚とはまた異なったものだった。

 

 

 ――――殺伐。

 

 

 空気が乾いて、咽喉が張り付いてしまいそうだった。

 

 

 研ぎ澄まされていく。己がひとつの刃となって切れ味をおびていくような感覚を志貴はこの時始めて覚えた。

 

 

 それは己以外、あるいは己そのものを切り捨てて余分なものが取り払われた真実の時に会合した心地で、不思議なほど心が澄んでいく。その気になれば命を危ぶむ人殺の鬼の呼吸まで聞こえてきそうな気がした。

 

 

 接敵の猛威に命が脈動する。

 

 

 自然と握り締めていたはずの鉄撥はゆるやかな握りへと変化して、焦燥は消え去り超然とした心意気。

 

 

 不思議と、弓塚さんの姿が脳裏に過ぎ去っていった。

 

 

 ――――夕陽に映し出され、はにかむ彼女の姿。そして、血みどろと化した彼女の姿。

 

 

 脳髄がひとつ、ずくんと高鳴った。

 

 

 爆発してしまいそうな五感の感覚。工場の隅で綺羅星のような輝きが視界に現われた時。

 

 

 志貴の中で何かのスイッチが切り替わった。

 

 

 □□□

 

 

 ずっと、昔の事だ。

 

 

 もう随分昔の事であると言うのに、昨日のようにもあの日々は思える。

 

 

 それまで苦痛しか味合わされていない地獄の中で、琥珀は確かにひとつの救いを見出したのだった。

 

 

「……志貴さんはどこにいるのでしょうかねー」

 

 

 琥珀は自室の中、一人溜め息をついた。

 

 

 琥珀の部屋には遠野邸で唯一テレビが置かれている。家主であり、翡翠と琥珀の雇い主でもある遠野秋葉はテレビと言う俗極まりない物品の設置にあまり良い顔はしなかったが、琥珀の手八丁口八丁と煙に巻かれて、いつの間にか置かれても構わないことになっていた。無論、過剰に秋葉が攻め立てる事が無い上での結果だとも言えるだろう。

 

 

 現在、テレビは点けられているがモノクロの砂嵐が映し出されている。

 

 

 集中的に静かな雨が降り注いでいるような音が、琥珀以外に誰もいない部屋の中に染み渡っていく。一説によればテレビ映像の砂嵐が奏でる音は、胎児が母体の中で耳にする外の音だという調査結果がある。母体とへその緒で繋がった胎児が唯一外の世界を知るプロセスが砂嵐の音であるからこそ、幼児はテレビから流れる砂嵐の音に安心し、泣き止むと言うのである。肉体的精神的リラックスは重要な事柄だ。それは赤子であろうと、あるいは成人間際の少女であろうとも変わりは無い。

 

 

 琥珀にとって母はどのように捉えたらいいのか、未だに分からぬ相手だった。巫淨の分家であった琥珀達姉妹の母は禁忌を犯し、その結果二人はこの遠野へと連行されたのであった。

 

 

 それからの日々は琥珀からすれば地獄だ。いや、地獄と言う言葉ですら生温い。それを思えば琥珀は母を憎んでもいいはずだった。何故あのような者が自分の母なのだと思ってもおかしくはなかったはずだ。時として強い感情は肉親の情を凌駕する。ならば憎しみの念を持って母を恨む事も何ら不思議ではない事だった。

 

 

 けれど、琥珀はどうにも母を憎もうとは思えなかった。もう記憶の中では随分と擦り切れて顔の造形すらおぼろげな母ではあったが、やはり母だという思いがある事も事実ではあるしそれはきっと、彼女が原因となって始まった仕打ちがどうであれ、琥珀がめぐり合えた奇跡を思えば、取るに足らないことだったのかもしれない。

 

 

 室内は相変わらず砂嵐の音。その中へと紛れ込むように琥珀は動かない。手元には掃除用の箒が握り締められており、頑なに力の込められた指が柄を離そうとはしない。

 

 

 無意味な吐息が虚ろとなって吐き出される以外に、この部屋は生物のにおいを感じさせぬ磨耗が犇いていた。家財はある、娯楽もある。しかし、どこか生活とは掛け離れた部屋が琥珀の居場所だった。

 

 

 これで誰かが尋ねてくれば、あるいは変わっていたのかもしれない。けれど、これまで琥珀の部屋に訪れた人物は数えるほどしかなく、その回数も両手の指で計算できる程度のもの。元々、あまり琥珀の部屋には誰かが訪れる事は無かったのだ。

 

 

 それは、あるいは琥珀とかつていた同居人の存在もあったかもしれない。

 

 

「……ふふ」

 

 

 記憶の中に存在する人の姿を思うと、琥珀は笑みをこぼさずにはいられない。ともすれば箒を握る手のひらに力が込められた。琥珀が手にした箒も考えようによっては、彼との縁。ならばそれを肌身離さず携帯するのはとても自然な事である。

 

 

 遠野の親戚一同その他大勢、有象無象に関わらず彼らは琥珀との接触を好まなかった。それは偏に彼女が遠野槙久の側にいた事もある。彼女達姉妹が路頭に迷わず、あまつさえ今日全うな生活を遅れたのは先代当主遠野槙久の恩恵によるものである。それを思えば、彼らが琥珀との接触を行いたくないのも道理のこと。

 

 

 そして、理由のもうひとつは――――。

 

 

「そろそろ、ですかねー」

 

 

 外は夜の気配が深まりつつある。三咲町は噂の吸血鬼騒ぎによって、日常よりも静けさの増した侘しい場所と成り果てているだろう。これまで幾数名もの犠牲者を生み出した猟奇事件の被害が己のいつ及ぶかもわからぬ状況。よほどの阿呆ではない限り、自ら望んで外出する算段はつけないはず。

 

 

 ならば、自分もそんな阿呆の一人なのか。今夜琥珀は遠野秋葉の意向で夜の街に出立しなくてはならない。故に結局帰宅を果たさなかった遠野志貴の所在も気にはなるが、今は優先事項が異なる。

 

 

 元より、現段階では遠野志貴などどうでも良い。

 

 

 琥珀は自然とそう考えていた。

 

 

 そして、そんな自分を眺める自分に気付き、笑った。

 

 

「とは言え、焦ってはいけません。焦っては何も上手くいかないものです」

 

 

 誰もいない部屋で琥珀の独白が染み渡る。

 

 

 彼女の言葉は秋葉にも言えるし、彼女自身にも言えることだった。

 

 

 ちらり、と琥珀は時間を確認する。

 

 

「では、そろそろ向かいましょうかね」

 

 

 意識して秋葉にかまれた首筋を擦り、彼女は着物を脱ぎ捨て黒とも灰色ともつかぬ色合いの服装へと着替える。

 

 

 夜に馴染むならば、黒系統は当たり前。

 

 

 それが裏で糸を引く者の衣服ならば、尚更そうであった。

 

 

「待っててくださいね、朔ちゃん。もう少し、もう少しだから……」

 

 

 □□□

 

 

 鉄骨の足場を駆け上がり、相手の目がこちらに追いついていない事を確認しながら死角へと移動し、天井部分に当る塗炭へとさかしまに張り付く。限界まで鍛え上げられた朔の驚異的な怪力は例え左腕を消失していようとも、僅かな突起、僅かな凹凸部分があるならば、どのような立地状態であれ手足の指で体重を支える事は容易い。ならば、万力の如くに締め上げられた指先でもって天井部にさかさまの状態で制止するのは、なんら不思議な事ではなかった。

 

 

 歴戦の暗殺者である七夜朔にとって、遮蔽物というものは概念として成り立たない。空間内を構成する鉄骨、鉄くず、壁は全て朔の足場となり、この狩場を成立させている。

 

 

 そも、この場所は志貴には不利な場所である事は否めない。不明瞭な視界と更に暗くなった光景。そして狭量な空間は朔に圧倒的アドバンテージをもたらしている。ただでさえ志貴という青年は無力極まりない存在なのだ。朔にとっては獲物にすら成りえない相手に等しい。

 

 

 しかし、朔に慢心はない。そして圧倒的戦力差に気を弛ませるような傲慢もまた然り。

 

 

 彼はあくまで己がやるべき事を全うしているだけの事。例え骨喰の契約で縛られていようと、退魔の契約で身動きが出来なくとも、彼は彼としてあるように、志貴を無残な姿に変えようとしていた。

 

 

 とは言え、懸念すべき事はある。殴打によって強かに叩いた部位の感触が悪い。志貴と同じような状況整理を朔もまた行っていた。鉄撥に威力が込められた打撃は鍛えられていない肉体ならば筋繊維をたちまち壊死させるものだった。それが果たされていない。

 

 

 疑念は二度目の打撃で証明された。やはり死角から打ち据えた左肩部への一撃が朔に教えてくれた。

握りが甘い。それは鉄撥の感覚に朔自身が馴れていない証左であった。

 

 

 使い慣れぬ武装を用いての殺害が何らかの齟齬を生み出すのは致し方のない事である。殊更、七夜朔は殺人鬼なのだ。

 

 

 形式上、退魔師という肩書きを持ち、数々の化物どもを滅ぼしてきた朔であったが、それらは主に骨喰を用いての事。

 

 

 数え切れぬ呪詛と渦巻く妄執によって鍛造された骨喰は化物を殺すに相応しい物品である。

 

 

 鬼は殺す。それは納めた武によるものではなく、朔が鬼だからである。

 

 

 積み上げられた自信ではなく、綿密な事実でもって朔は彼我の戦力差を憶測し、志貴が殺傷可能な相手である事を結論付ける。

 

 

 夕闇に炙られた廃工場の中に、影が生じている。それは立ち竦む志貴の姿に他ならない。天井を覆う鉄骨に混じり、影さえ落とさぬ身動きによって朔は光さえも騙す。骨喰は朔を子獅子と例えはしたが、実態はそれに近く、また程遠い。

 

 

 契約により感覚共有を果たしている両者ではあったが、ある一点を除いては朔の統制が不可能である骨喰の見解を正解と看做すにはあまりに愚かだろう。

 

 

 鬼は鬼だ。ならば人間を殺すのは鬼しかない。たかが骨喰如きが朔を手のひらのうちに収めようなど、不可能に近い事だ。

 

 

 故に今この時、もしこのままの状況が続くならば、朔は志貴を殺傷せしめようと結論ではなく、確信でもって決定した。

 

 

 もとより対象は混血。どこに遠慮をする必要があるのだろう。

 

 

「――――――」

 

 

 だが、眼下に広がる空間を視界に収め、朔の視界に映る志貴の姿を確認した時、朔は第六感めいた直感でもって何かしらの変化を知った。

 

 

 時として追い詰められた窮鼠は猫を噛む。命の危機に晒された弱者が思わぬしっぺ返しを果たす事は道理としてよくある事。

 

 

 しかし、だからなんだと言うのだろう。

 

 

 短慮ではなく、すでに結論とした現われた結果が朔の魔眼に射影された。

 

 

 □□□

 

 

 ――――朔の視界に雲霞が生み出される。

 

 

 淨眼と呼ばれる朔の魔眼は、魔眼単体としては珍しくない超能力だった。虹彩の色合いによって定まるレベルにおいても蒼色でしかない淨眼は他者の運命へと介入も出来ぬ代物ではなく、言葉を選ばぬならば弱いと形容してもよい。

 

 

 しかし、故刀崎梟が呼び寄せたとある台密の破戒僧が行った調査により、彼が幼少期に対面した極限状態において編み出した魔眼は、すでにその時には発現されていた起源と深く関わるものだと重く吐き捨てたという。

 

 

 ――――魔眼、淨眼。

 

 

 淨眼の定義は見えぬものを可視化させる能力である。

 

 

 かつて七夜当主である七夜黄理は己に発現した淨眼によって人の思念を視認していたが、淨眼が映し出すものは物体に条件を縛られない。寧ろ淨眼の能力はもっと精神的な、あるいは霊的なものに発揮される。通常、そういうものは常人では気付く事さえ出来ないチャンネルに存在している。それを視界に可視させる能力こそ淨眼の能力たる由縁だった。

 

 

 故に淨眼の強度によれば呪術の発動すら視認可能とするものさえあり、更にそれは魔術師が術理として発動させた魔眼としてではなく、超能力としてすでに持っている天然の魔眼は魔術師が思いもよらぬもの場所まで到達する。

 

 

 そして、七夜朔の淨眼もまた余人には見えぬ世界を映し出す。

 

 

 彼の魔眼能力を知った破戒僧はひとつ意味深に頷き、言葉もなく消え去り、いつかの再会を言葉にしたという。

 

 

「こやつは最早手に負えぬ。そして、この身にも負えぬが、いずれを心待ちにしていよう」

 

 

 その破戒僧が診断した結果、朔が映すものは外界干渉意識の可視化と呼ばれる途方もない代物だった。

 

 

 人は常に意識をする。

 

 

 それは無意識の範疇に留まらず、肉体と言う内界から外部にあたる外界の情報を取得している。五感を始めとするもの、或いは第六感と呼べるもの、そして自ら意識したポイントを注視してその情報を視覚乃至聴覚によって会得する過程に意識は否応なく作動されなければならない。外界から切り離された人はそのようにして己を外界に接触させ、世界に所属するのだ。

 

 

 朔の魔眼はそれを靄として映し出す能力だった。

 

 

 例えば、人が注意して意識する身近な空間をパーソナルエリアと呼ぶが、朔の淨眼はそれを靄の濃霧、そして範囲によって己の視界に可視化させるのである。

 

 

 これによって朔は対象の意識が薄い場所から襲撃をかけ、容易に暗殺を果たす事が出来であり、対象がどこを見ているか、対象がどれほどの範囲まで聴覚で拾っているか、あるいは臭いとして嗅いでいるか、それらを複合させて位置を確認できるのだった。

 

 

 七夜朔はこの魔眼を用いて幾つもの暗殺を行い、逃亡し隠れたものを虐殺してきた。彼に淨眼が靄の視認を果たせば追跡は容易く、また隠れても数瞬で発見される。つまり、七夜朔の魔眼とは殺人鬼としてのレゾンデートルを深めるには最適なものだった。

 

 

 この能力を破戒僧は起源によるものだと言い切った。

 

 

 だからこそ、七夜朔の魔眼は未だ彼の末端に過ぎないという事は、未だ誰も知らぬことであった。

 

 

 □□□

 

 

 影が生まれ、斜陽すら消え去った暗闇の廃工場に靄がどこからか漂う。

 

 

 それは遠野志貴の意識範囲に他ならない。七夜朔の淨眼によって浮き彫りにされた志貴の意識は、彼の行動推移さえも視覚によって予測可能なものと化す。どこを見つめているか、どこを確認しているかが暴かれ、晒される。

 

 

 外界干渉意識の可視化とは、それだけで戦闘を掌握せしめる威力を秘める馬鹿げた能力であった。

 

 

 その視界を共有する骨喰もまた靄の景色を見つめられる。そして相変わらず途方もない能力であると、改めて嗤う。

 

 

 たかがチャンネルに新たな情報を加えるだけの能力。他人の運命へと干渉する魅了等に比べれば脅威の足りない単調な能力だと思える。

 

 

 しかし、魔眼の価値は使い手による。

 

 

 人の無意識に潜り込む暗殺者の業は人のものですらない。それが可視化によって晒された外界干渉意識ならば、陰行はより脅威と化す。ならば、当時最強と謳われた七夜黄理の薫陶を受けし朔の陰行が式神レベルの気配遮断を容易く行える事を思えば、それはより潜行を可能とし、対象を気付かぬままに殺傷せしめる術理となっていた。

 

 

 そして、対象の狙いが干渉意識の可視化によって明らかにされている事で、朔は例え背後で銃撃を受けても、その身体能力によってあっけなく回避が可能なのである。

 

 

 魔眼の脅威はその能力のみによるものではない。どれほど使い手が研鑽を重ねたかによって、魔眼の重要度は高められるのだった。

 

 

 自身の担い手である朔の屠殺を、文字通り体験してきた骨喰でさえそれは一笑に出来ぬものである。なまじ人を見下し嘲うであってもそうなのである。今まで朔によって標的に晒された者共の屍の数がそれを証明していると言えるだろう。

 

 

 泣き伏せる子供を無残に殺してきた。

 

 

 勇気ある男を惨たらしい死体へと変貌させた。

 

 

 全ての過去が殺人鬼の道程となり、道筋を舗装する。

 

 

 そして、骨喰は己が狙いが達成間近である事を、忍び笑いを浮かべながら愉悦に悟るのだった。

 

 

「――――、――」

 

 

 志貴の前方に降り立とうとも、靄にさえ触れなければ志貴が朔を確認できる事は極めて困難であり、忍び寄る合間も常に行い続ける気配遮断がそれを増長させて、志貴を殺傷せしめんと鉄撥を握る拳に力を込める。

 

 

 故に、頭部を陥没させる一振りを身近で振り上げようとも、無意識下に忍び寄った朔の最後の一撃を志貴は回避出来ない。

 

 

「――――ぅ」

 

 

 はずだった。

 

 

「――――ぅおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 

 

 発破とも取れる裂帛の叫びが志貴から解き放たれる。

 

 

 それは、絶体絶命の最中、命を振り絞り生を掴まんとする者が発する執念にも似た大絶叫だった。

 

 

 僅かな接触。強かに叩きつけられるはずだった鉄撥の衝撃が、衝撃と化して志貴の頭部を貫き破壊する刹那の段階。正しく一呼吸もなく、瞬きすらも出来ぬ時間という観念の入り込む余地さえない合間に志貴が首をずらし、強引に鉄撥の無慈悲な一撃をいなした。

 

 

 けれどいなした事により衝撃を持て余した鉄撥が呻りを挙げて、志貴の顔面に迫る。志貴はそれを正確に認識する事さえ出来ぬまま、全力で顔をそらした。無理な駆動に首が痛む。しかし、全身が熱っぽい痛みに晒された今、首の痛みなど望外の範疇にあった。

 

 

 甲高い。けれど、軽い音がした。 

 

 

 見やれば、志貴の鼻にかかっていた眼鏡が鉄撥に弾き飛ばされていた。志貴はそれの行方を目にする間もなく、歯を噛み砕かんばかりに食い縛り、ぎろりと朔をねめつけた。

 

 

 ――――約束よ、志貴。

 

 

 志貴の脳裏に、いつかの草原が過ぎる。

 

 

 ――――どうしても手に負えないと判断した時だけ眼鏡を外して。

 

 

 草原で交わした先生との言葉を忘れない。

 

 

 けど。

 

 

 嗚呼。あれはいつの日のことだっただろう。

 

 

 ――――自分でよく考えて力を行使しなさい。

 

 

 大事にしなさいと手渡された眼鏡を、自分は宝物のように扱っていた。それほどまでに先生の言葉は志貴の胸深くに落とされ、まるで戒律のように志貴は彼女の言葉を守り続けてきた。

 

 

 ――――けど、先生。

 

 

 眼鏡が消えたことで、レンズ越しに見えた景色が一変する。

 

 

 そこは志貴にとっては呪いとも言うべき世界が広がっていた。

 

 

 線。

 

 

 黒い線が見える。 

 

 

 あちらこちら、出鱈目に引かれた線が世界を縦横無尽に蹂躙している。壁に、物に、地面に、七夜朔にさえ。

 

 

 それは世界の綻び。物の切れ目。

 

 

 かつて志貴が逃げ出した、忌まわしき世界の真実。

 

 

 ――――けれど、先生!!

 

 

 激情のままに志貴は己が右手に握り締められた鉄撥を揮う。

 

 

 武術の手並みを習得していないはずの肉体は、思いもよらぬ速さで小さな鉄塊を抜き放った。憔悴と緊張によって疲れさえ滲む身体、痛みによじれそうな意識。それらを飲み込んで、志貴の身体はひとつの意志となり、朔が握り締めていた黒い線に潜り込んでいく。

 

 

『ひひ、ひ……』

 

 

 どこから骨喰の凄絶な笑い声が聞こえた。

 

 

 それは、あるいは驚愕にも似た感情ゆえだったかもしれない。

 

 

 中身まで鉄が詰まり、見た目のままに強固な作りなはずの鉄撥だった。

 

 

 しかし、黒い線になぞられた志貴の鉄撥は固い感触を与えず、血肉に指を埋めたような気味の悪い感触だけが伝わってきた。

 

 

 ――――そして、一線。

 

 

 切り裂かれた鉄撥の先端が宙に舞う。

 

 

 放物線さえ描いてしまいそうな鉄撥の軽やかな軌跡は、うって変わって両者の心持とは掛け離れた光景であったといえる。

 

 

 ――――どうしても、……譲れないんだよ!!

 

 

 血に塗れる弓塚さつき。志貴は彼女に誓ったのだ。

 

 

 虚しいまでに空洞の広がる胸の中。志貴の悲鳴にも似た決死の叫びは、誰の耳に届かず、虚無へと帰するばかり。達成感はない。一命を取りとめたと言うのに、あるのはあっけないまでの静寂と、何か大事なものを壊してしまったような悲しみ。荒い息に、気を抜けば膝から落ちてしまいそうな感覚に晒される。

 

 

 廃工場の硬いコンクリートに、切られた鉄撥の残骸が鈍い音を響かせ落ちる。余韻も残さずに消えたそれは、まるで何かの終焉さえも表してしまいそうな気がした。

 

 

 ともすれば、志貴の眦には涙が溜まる。

 

 

 どうしようもないほど、泣きたくなった。

 

 

「―。―――――」

 

 

 そして、そんな志貴の姿を。

 

 

 朔は静かな瞳で見つめていた。

 



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短編めるてぃぶらっど! 頑張れ白レン、私が使い魔になった理由

「っ私の、マスターに選んで、……さしあげない事もないわよ……!?」

 

 

 そう言って白い少女、白レンは若干涙目で睨みつけた。顔を真っ赤に赤い瞳をうるうる、とした感じで。元が強がりだからか今は之ぐらいで済んでいるが、その内ベソをかいてしまいそうだった。余裕とか優雅とかまるで無い姿である。そっちの人間が見たらご褒美と叫びそうだ。

 

 

「―――、―」

 

 

 それに対峙する朔としては、まるで苛めているかのような姿であるが別にそんなつもりも無い。そも何で泣いているのかも皆目検討がつかないのである。そこらへんの感情に疎い朔だった。良心は痛まないのか。そりゃそうだ、だって殺人鬼だし。

 

 

 しかし涙目で睨みつける少女と、無反応で眺めている殺人鬼の構図はなかなかシュールである。

 

 

 そして、白い少女の後方では彼女とよく似た姿の黒い少女、レンが無感動な瞳で二人を眺めていた。しかし興味は尽きないようであり、ぐっと朔に向かって親指を立てた。どうしろと。

 

 

「…………」

 

 

「――――」

 

 

「うううううううううっ!!」

 

 

 いい加減白い少女が泣きそうである。顔が赤いのは屈辱ゆえか、それとも恥ずかしさか。

 

 

 とりあえず、何故このような事になったのか状況を遡っていきたい。

 

 

 □□□

 

 

 白レンは焦っていた。必ず、自らのマスターを見つけださんと決意した。白レンはレンの鏡である。そしてレンは使い魔である事に対し、彼女の夢魔としての使われない側面と言葉によって具現化された白レンにはマスターと呼べるものはいない。

 

 

 夢の住人でしかないはずの彼女が今もなおこの世に存在できているのは、彼女が己の意思を持っているというのもあるが、彼女が生まれた原因がミス・ブルーと呼ばれる魔法使いの手によるものである。元々彼女の使い魔として使役されるはずだった白レンであった。しかしそれ故にタタリに取り込まれる事なく残存する結果となったのであるが、悪夢を見る人間がいなくなると存在できなくなる欠陥を持ち合わせている。

 

 

 そのため白レンは本物となるためにレンを取り込もうと画策し、真夏に雪を降らせ騒動を巻き起こしたのだが、失敗。このままでは己を構成することさえ出来なくなると、己が領域である『真夏の雪原』にて力を蓄えているのが現状である。

 

 

 何故、己はこうも上手くいかないのか。彼女は考えた。

 

 

 その結果がマスターの不在である。

 

 

 本来使い魔にはそれを使役する魔術師が不可欠である。現にレンは現在二人のマスターと契約を交わしており、それが彼女は現存できる理由ともなっている。

 

 

 故に彼女はマスターを欲した。自らに見合った高貴で流麗なマスターが必要なのだ。もしマスターがいるならばレンに負けることなどないし、アルクェイドとの契約を破棄さえ出来れば晴れて自由の身ともなれる。

 

 

 では、一体誰をマスターにすればよいのか、と考えた挙句候補に挙がったのは七夜朔であった。

 

 

 まず遠野志貴が第一候補に挙げられたのだが、彼はレンのマスターである。本体との決別と補完という矛盾の願望を抱く白レンからすれば、あまり意味のないことであった。

 

 

 そして次に上がったのが七夜朔であった。肉体を持ち、潜在的ポテンシャルを考察すれば遠野志貴以上のものを持つ朔ならば、必ずやレンを凌駕する存在になれると彼女は考えたのであった、が。

 

 

「こんばんは、恐るべき殺人鬼さん――――ってきゃあ!!?」

 

 

 出会い頭に殺されかけた。

 

 

 元々使い魔であり、即ち魔である白レンは朔からすれば殲滅対象である事実を彼女は見逃していた。折角己が領域内に呼び寄せたのに、言葉を交わす間もなく首をもがれかけたのである。己が領域内は擬似的な心象具現化にも似ていて、ここでの事柄は彼女より下位に存在する。故に当然襲い掛かる朔の位置を物理的に離し、会話の余地を得ようとしたのであるが。

 

 

「――――。――」

 

 

 問題は、朔が会話を必要としない殺人鬼である事であった。

 

 

 そも、朔と会話出来るのは契約を結んでいる骨喰と、何故か意思疎通が可能な琥珀のみなだけであって、ぶっちゃけ、意思疎通が殆どできない。行動レベルが文明社会人に適していない、思考レベルがそもそも人間じゃない。

 

 

 そんな相手にどうやって交渉をすればいいのか。いや、雪原であれば有無を言わさずな契約を交わすことは出来るかもしれないが、不確定要素が多く、また美しくないという理由でそれは疾うに却下されている。なので致し方なく、苦労して招待した朔を白レンは放出したのだった。

 

 

 いきなりだったのが不味かったのだろうか。それとも初対面同士で契約を結ぼうなんて、どっかの可愛らしくも憎らしいマスコット的な言葉を言ったからか。

 

 

 唯一嬉しい事は七夜朔のジェスチャーがレンと同等な事ぐらいだろうか。それも、ほんの僅かな差異であるが、無口姫から生まれた彼女からすればそれぐらいはわからいでか。

 

 

「……流石に躾が必要かしら?」

 

 

 と、白レンは雪原にて炬燵に温まりながら、今後の対策を考えた。この領域内であるならば実力で押し通せる相手ではあるだろう。しかし今後も御せるとは限らない。とは言え、彼以外の候補が見当たらないのも事実な訳であって。

 

 

 更に骨喰の問題もあった。普段持ち主件宿主である朔から蔑ろにはされているが、邪悪と狂気によって生み出された彼は、ある意味ではタタリ以上に煩わしい存在である。

 

 

『ひひ、ひ……なンだいお嬢チゃん』

 

 

「……致し方ないからあなたを呼んだまでよ、怨霊。そうじゃなければ、どうしてあなたみたいな粗悪品をもてなさければいけないのかしら?」

 

 

『ひひ!確かニそうよなア。全くもって道理だァ!』

 

 

 げらげらと癇癪のように笑う骨喰。その語気に皮肉と嘲笑が混ざっているのは明らかな事である。雪原に突き刺さるような形で顕現している骨喰は、鞘に封じ込められているというのに瘴気を噴出していた。

 

 

 もし、だ。可能性というか、明らかな事であるが七夜朔と使い魔の契約を結んだ場合、白レンはこの耳障りな妖刀と同等の扱いを受ける破目になるのだろうが、それはたまらなく嫌である。持ち主はよくこのような邪気を放つ刀をよく用い続けていると、改めるまでもなく白レンは思った。

 

 

『んでェ、お嬢チゃん。朔と契約ヲ交わしタいってかア? そリゃ無理だ、どだい無理な話だァ』

 

 

「あら、どうしてかしら。あなたのような者まで扱える人間にもう一人使い魔が増えたとしても、一体何の問題があるのかしら? それとも、その感情は嫉妬なの?」

 

 

『それコそお笑い種よ、夢魔のお嬢ちャん。手前が魔だっていウなら限りアいつの退魔衝動が発しネエなんて、思うワけかい。ええ? おイ』

 

 

「志貴はちゃんと自分で自分を抑え付けているわ。それに、それは朔自身の問題じゃなくて、あなた自身が増長させたようなものだと私は記憶しているけれど」

 

 

 皮肉に皮肉を返して白レンは言う。だが。

 

 

『ひひ、ひ……そいツあ違えねエ! アれは刀崎梟がやッたことでもあルし、俺がやっタ事でもアる。だからこそ今の朔がいるんジゃねえカ。飛び切りの災厄ヲ振り撒ク殺人鬼が、なア』

 

 

「……呆れるわ。あなた、ただ好き勝手やってるだけではなくて」

 

 

『全くモって同然だァ。鬼が人や魔の道理に合わセる必要が一体全体どコにある』

 

 

「……はあ、大丈夫かしら。こんなんで」

 

 

 白レンの杞憂は当然の事だった。

 

 

 最も本来の史実であるならば、彼女が契約を交わす相手は一夜の夢に生まれたもう一人の殺人鬼であり、一睡のまどろみに掻き消されるべき存在だった。それを相手取り契約を結べた由縁は彼が遠野志貴であり、遠野志貴でなかったからに他ならない。

 

 

 そして、もうひとつの理由は白レンがレンから剥離されてもなお、オリジナルと根幹の部分では異ならなかったというものだった。内面まで完全に再現したコピーであるといういつかの台詞はそれが原因である。ただ彼女とレンの違いはファイル名が違う。ただそれだけだ。だからこそ殺人鬼と契約を交わせた訳であり、彼女が刹那の夢に消えるはずだった運命を切り開けたのもそのためである。

 

 

 けれど、ここにその殺人鬼はいない。

 

 

 遠野志貴は遠野志貴のまま存在し、他に志貴を名乗る殺人鬼は存在し得ない。

 

 

 何故なら、殺人鬼として三咲町の主要人物が思い描く人物は七夜朔に他ならなかったからだった。

 

 

 あの三咲町を騒がし、住民を恐怖に陥れた時分、魔が魔として跋扈し、それらに向けてその辣腕を揮い、人外へと牙を向けた人殺の鬼。

 

 

 極一部のものには今もなお恐れられている殺人鬼の代名詞を欲しいままにした虐殺の輩こそ、七夜朔という暗殺者であった。

 

 

 しかし、それも後の祭りでさえない午睡の夢。

 

 

 弾けば消える泡沫の可能性の平行世界でしかない。

 

 

 んな訳で、マスター探しに必死な白レンであった。

 

 

「という訳で、仕方ないからあなたの手を借りにきたのよ、レン」

 

 

「……」

 

 

「マスターとしては及第点だけど、これはしょうがないわ。他にめぼしい殿方もいないことですし、私としては彼をしょうがなく、しょうがなーくマスターに選ぶのよ」

 

 

 名前の通り白い後ろ髪をかきあげて、白レンは優雅に言い放った。

 

 

「……」

 

 

「え、無茶するな、ですって? そんなの、契約を交わさなければ分からない事。そうじゃなくて」

 

 

「……」

 

 

「だから、気に喰わないけれどあなたの手が必要なのよ。同じ夢魔なのに彼の手にかからないあなたの手を」

 

 

 一人語りのようであるが会話そのものは成立している。場所は三度雪原である。そこで白レンはレンと対面していた。二人合わされば鏡合わせの鏡面。問答無用に襲われた白レンと、何故か仲が良いレンとの違いは一体何なのかも気にはなるが。

 

 

 というか、何故か七夜朔とレンは共にいる姿が良く目撃されている。それこそ人間姿と化した彼女がアルクェイド、志貴に次いで発見されているのが、朔・レンである。共に同じ無口同志、会話をせずまたあまり意思疎通を基本的に自ら行わぬ二人が共にいるのは、なんだか似合っているような、あるいは集団生活から排除された者通しの集会のようだが。

 

 

 つい最近も木陰で日向ぼっこをしている両者が目撃されている事を思えば、やはり仲は良いようであるが、やはり不思議な関係である事は使い魔の関係以上に否めない。

 

 

「え、最初は自分も殺されかけた? 本当に?」

 

 

「……」

 

 

「それは確かにそうよ。だって彼は退魔の極限。それに対し私たちは使い魔。正反対も甚だしいわ。けど、何故かあなたは今は七夜朔と関係を持っている」

 

 

「……」

 

 

 白レンの応えに、レンは何処か遠い目をした。

 

 

「それ以降もしばらくは殺されかけた。ま、まあそうでしょうね」

 

 

「……」

 

 

「何時間も追われ続けて夢の世界に逃げなければいけなかった。……それもそうよ、ええ、きっとそうよ」

 

 

「……」

 

 

「それでも、何故だか追いかけられた?……一体どういう生態をしているのかしら、彼」

 

 

「……」

 

 

「だから最初は諦めろ、ですって? ……そんなの嫌よ、だってあなたに出来て私に出来ないなんて、ありえるはずないもの」

 

 

 しかし、口調とは裏腹に白レンは歯噛みする。

 

 

 一体どうすればよいのか。レンの話を聞く限りでは、七夜朔は獣そのものだ。しかも目につくもの全てに襲い掛かる狂いの猛獣である。

 

 

 正直、初対面のあの時でさえ雪原でなければ滅ぼされていた可能性が極めて高い。それほどまでの相手である。しかも、彼は殺しを戯れとは思っておらず、自分がなすべきことだという使命感まで持っている節がある。手なずける云々の問題ではない。

 

 

 本当にどうしよう。

 

 

 ――――まあ、そんな訳で。

 

 

「だから、これはあなたにとっても悪い話じゃない事ですわよ、ミスター朔。私と言う優雅で高貴な使い魔を会得できれば十二分以上なメリットが得られましてよ?」

 

 

 直談判である。

 

 

 しかも現実世界にてだ。

 

 

 遠野邸の離れ、今は七夜朔の住居として扱われているその東屋にて行われた今回の直訴、仲介人はレン。お相手は朔である。中々破綻した組み合わせであった。

 

 

「―――――。――」

 

 

 静寂が離れの中に漂った。それは七夜朔がかもし出す雰囲気であり、白レンからすれば今にも飛び掛らんとする魔獣に見えて仕方がない。しかし、そんな事ではマスターは得られないと、半ば焼けぐそ気味に今回の会談へと踏み切った白レンは、覚悟を決めて対面している七夜朔を睨みつけた。

 

 

「この私がどう、と聞いているの。何か返答はないのかしら?」

 

 

「……」

 

 

 そんな白レンを若干半目で眺めるレン。視線の中に哀れみさえ見え隠れするのはきっと気のせいである。

 

 

「――。―――――」

 

 

 ざんばらに伸びた黒髪の隙間から蒼い魔眼が白レンを映し出していた。

 

 

 その中身は殺意は渦を巻いている。

 

 

 やはり、駄目だろうか。

 

 

 いやいや、そんな事はない。

 

 

 ここで諦めては何も始まらないではないかと、少し弱気になりかけている自分自身を励ましてその人外の証明たる蒼き瞳を見返す白レンは――――。

 

 

「おおっと、そうはいかんニャア! なんつーか、読者様的に」

 

 

 行き成り部屋へと侵入を果たしたネコらしきもに噴出した。

 

 

 そいつは畳張りから浮上するように会われた、やっぱりどうしようもなくネコアルクと呼ばれる生態的謎な生物らしきものであった。

 

 

「……帰って」

 

 

 白レンは呻きながら呟いた。

 

 

 そこに疲労か、あるいはストレス。

 

 

「ふ、ふ、ふ。このアタシさしおいてGCVの従業員、もといアタシ専用SPを勝手に個人契約をするなんて、さすがはネコ王国期待のプリンセス。御目がたかいにゃー」

 

 

 そう言いながら、ネコアルクは何故かよじよじと朔の身体によじ登り、ここが定位置だと言わんばかりに朔の頭へと座り込んだ。しかも朔が振りほどかないので、なんだろうか、絵的にかなりシュールな光景である。

 

 

「な、そんなわけないじゃない! だいいち朔に目をつけたのにあなたは関係ないでしょ!」

 

 

「なーにをいってるのかねーちみは、お前のものは俺のもの、つまりネコのものはネコのものという万国共通認識を知らぬとは、アタシは悲しいものですプリンセス!」

 

 

「嫌よ、何でこんなネタキャラみたいなオチに無理矢理もっていかれなきゃいけないの……ッ!第一、あんな不吉で不幸で不気味な異空間のプリンセスなんてたまったもんじゃないわ!」

 

 

「……」

 

 

「―――――。―」

 

「にゃはー、とは言え白レンもこのスピリチュアルボーイの魅力に気がついたとは、末恐ろしい通り越して、やはり期待の星というべきかしらん」

 

 

 と言いながら、ネコアルクはどこから持ち出したのか眼鏡をかけ、ワイングラスを揺らす。その悦に浸った表情が更に白レンのイライラを加速させる事は目に見えている事である。

 

 

 そして両者の遣り取りの合間に何故かちくわを持ち出したレンに対し、糸こんにゃくを振り回す朔など、空間はカオスな呈をなし始めたのだった。

 

 

 終われ。

 




 白レンの話を書こうとしたらいつの間にかネコアルクが登場していたでござる。

 中途半端な気もするけど強引に終わらせたのは、ネコアルクの暴走が止まりそうにないから。ヤバイ、ネコアルクは楽しすぎて中毒性がある。

 白レンの契約は必要に駆られただけのことであって、相思相愛にすらならない利害関係。


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超番外編 もし朔がTSをしたら

 今日は目覚めが最高であった。

 

 

 青少年によくある情欲的な夢を見るわけでも、また不条理に殺されるわけでも殺す夢を見るわけでもなく、あるいは健やかな睡眠を打ち破るアーパー吸血鬼が窓から阿呆みたいに突撃する事も無く、更には通例の如くにてんやわんやと屋敷内が騒ぎ出す事もなかった。

 

 

 無論、毎日が毎日騒乱と混沌に塗れているわけではないが、少なくとも睡眠至上主義を心ひそかに啓上している志貴には、最高の一日の予感がすでにこの時より約束されていたのである。

 

 

 窓の外は麗らかな春の気配。僅かに差し込む光の温かな柔らかさが実によく、過ごしやすい日頃であるのは明らかである。静かに揺れている木々の緑葉もそれを裏付けて、陽気な鳥のさえずりが屋内にいる志貴の耳に届いてきそうだった。

 

 

 部屋から出て食堂に向かう。今日は学校も無く、性急に済まさなければならない用件もない。こんなに麗らかな春なのである。少しは秋葉も怒気を収めてくれるだろう、などと希望的観測を脳裏に描きながら、ともすれば鼻歌さえ奏でてしまいそうな心地で志貴は歩いていった。

 

 

「おはよう、秋葉」

 

 

 予想通り、秋葉は食堂にいた。

 

 

「おはようございます兄さん。随分とゆっくりお眠りになっていたようですね」

 

 

「はは、いいだろう? 今日は何も用事はないんだ。たまにはゆっくりしたって罰はあたらないよ」

 

 

「兄さんの場合ですと、偶になどという頻度ではないです」

 

 

「あ、はは……」

 

 

 若干の皮肉を込めて、私服姿の秋葉は優雅にティーカップを傾けていた。何気ない仕草の一々が様になるのは、やはり彼女が遠野邸の主であるからだろう。

 

 

 とは言え、妹に睨まれ続けているのは精神的に良くないと、志貴は愛想笑いでもってそそくさと席に座った。

 

 

「けど、秋葉も随分と今日はゆっくりなんじゃないのか? 今頃は仕事で忙しいはずなのに」

 

 

「それはもう一区切り打っています。兄さんではないんです、やるべきことは早々に済ませています」

 

 

「……流石だな、秋葉」

 

 

「当然です」

 

 

 ふん、と鼻さえ鳴らしそうな勢いで秋葉は笑みを浮かべた。しかし、今日は毒気も少ない。通常ならばここで秋葉の怒声が飛び込んできそうなものである。やはり、秋葉も春の陽気にやられたか、と志貴は内心苦笑した。

 

 

「なんですか、兄さん?」

 

 

「いや、なんでもないよ」

 

 

 目ざとく眼を細める秋葉に、志貴は慌てて首を振るのだった。この時点で兄としての威厳を疑われるが、最早日常茶飯事である。憐れだと思えないのは、きっと志貴の普段の行いだろう。

 

 

 ――――さて、そろそろいいだろう。

 

 

 放置するのはもう充分なはずだ。

 

 

 と、志貴は腰を据えてソファに胡坐をかいて座るという何とも行儀悪い姿勢をしている者を見た。

 

 

 藍色の着流し。さらしがその隙間から覗き、股を広げる形によって着流し下着がぎりぎり見えるか見えないかの絶対領域を作り出した、女。

 

 

 すらりと長い手足、身長は志貴より少し高めだろうか、随分と華奢な姿のように思える。そして手入れされていないのか、長くぼさぼさの黒髪の隙間から覗くその顔は無表情ながら、何処か凛としていて、女性らしさが垣間見えるのだが――――。

 

 

「……えっと、誰?」

 

 

「朔です」

 

 

 志貴の問いに、秋葉は憤懣やるかたなしという風情で言い切った。

 

 

 そして志貴はもう一度、ちらりとだけ朔、らしき人物を見た。

 

 

「朔?」

 

 

「はい、そうです」

 

 

「は?」

 

 

 唖然呆然と志貴はしながらも、嗚呼、と納得の表情で窓の向こうを見た。

 

 

 外は明るく、本当に良い天気である。正に晴天の霹靂。

 

 

「琥珀さんか……」

 

 

「寧ろそれ以外の事なんて見当たりませんが」

 

 

 恐らく琥珀が面白半分で作り上げた薬を朔が勝手に飲んだのだろう。遭遇しなくても簡単にそんな光景が脳裏に思い描けるのは、志貴がすっかりカオスな状況になれてしまっているからだ。毎度お騒がせな二人の騒動になれるなど、本当はたまらなく嫌なのだが。

 

 

 そして同じくそうなのだろう。ふん、と秋葉は鼻を鳴らした。琥珀に振り回される事に慣れさえ覚え始めている自分に不快感を抱いている様子である。んで、そんな様子の秋葉を気にしているのかいないのか、朔、らしき女性は胡坐のまま沈黙を保ち、ここにはラウンジには不思議な静寂が流れていた。

 

 

 どうしろってんだこれ。

 

 

「まあ、琥珀によれば一日も過ぎれば元の姿に戻るとのことですから、今日一日普通に過ごせばいいだけの話です」

 

 

「なるほど」

 

 

「だからですね、兄さん」

 

 

 そこで、秋葉は目を細めた。

 

 

「朔に色目を使うような真似は決してしないでください」

 

 

「……はあ? んなわけないだろ、だって……」

 

 

 ちらっと、志貴は改めて朔を見やる。

 

 

「朔は朔だろ」

 

 

 長身痩躯、藍色の着流しを身に纏う女性。その左腕はないが、逆にそれが不自然ではない。朔はどう見ても朔である。例え肉親の性別が豹変したとしても、そこに欲望など沸かないはずである。というかそんな展開は薄い本だけで充分である。

 

 

 けれどそんな志貴の考えなど笑止千万というように、秋葉は頬を吊り上げた。

 

 

「どうだか。女と分かればあっけなく手篭めにする兄さんの一体どこに信用を置けばいいんですか」

 

 

「……それはいいすぎじゃないか、秋葉」

 

 

「これで言い過ぎなんて、寧ろ足りないくらいです!」

 

 

 きっぱり。そんな擬音が似合うくらい、秋葉は言い切った。

 

 

 全くもって信用のない兄である。

 

 

 しかし、あくまで秋葉は冷静であった。

 

 

「けど、今回は流石に兄さんでもどうにか出来るとは思えませんけど」

 

 

「……そういうことだ、それ?」

 

 

「今にわかります。お試しに朔に近づいてみては如何ですか?」

 

 

「何かあるのか?」

 

 

「実際に体験したらわかります。命の保障はしませんけど」

 

 

 そう言って、後は知らぬと秋葉はマイセンのカップを傾けた。

 

 

 とは言え、これほどまでに言われそれを妹からの挑戦状と受けたのは志貴である。肉親のスキンシップに命の保障の糞もないだろう、と若干むっとしながらも普段はあまり意識しないようにしていた兄弟という名目を明示化して、腰を上げようとして。

 

 

 ――――背後から、首を落とされた。

 

 

「――――は!?」

 

 

 いやいや、こんな行き成りなシリアスおかしすぎるだろうと、勿論首が落ちたのはありえぬ話。しかしながら、何かが紙一重で志貴の頭部を掠めたのは事実であって、慌てて背後を振りむくと。

 

 

「あれえ、おかしいですねえ。はずれちゃいましたか」

 

 

「こここここ、琥珀さん何してんのさ!」

 

 

 仕込み箒を振りぬいたままの姿で首を傾げる琥珀の姿があった。その隣には翡翠の姿もあり、彼女は異次元にいるような普段通りの姿で「おはようございます、志貴さま」と一礼した。思わず志貴も普通に返しそうになるほど見事な一礼であったが、琥珀の仕込み箒が怖すぎてやばい。

 

 

 その切っ先が窓辺から差し込む陽光を浴びて、艶やかに煌く。けれど、志貴にはその輝きが冷たく断頭刃に思えてならない。

 

 

 しかし、志貴の恐慌を脇目に琥珀はさも当たり前と言わんばかりに。

 

 

「ええ、だって朔ちゃんに手を出すなんて天地天命が許しても私が許すはずなんてありませんしー。だから、こう、首をちょんぎってあげようかなーなんて」

 

 

「いやいやいや、何でさっきから俺が朔にちょっかいを出す前提で話が進んでるの!? しかも何か俺殺されかけてるし!」

 

 

「え、何言っているんですか?」

 

 

 と、仕込み箒の刃を志貴の咽喉に添えて。

 

 

「私の朔ちゃんに手を出す人なんて、死んじゃえばいいんです」

 

 

 なんて飛んでもないことを言いやがった。その瞳に光はない。完全に暗黒面である。

 

 

 いつだったか大量の猫のようで猫でない生ものが遠野に襲来したさい、やったらめったら彼らに気に入られた朔が連れ出されるなんて事件が起こったものであるが、それからというものの琥珀の朔に対する執着心は天元突破を果たしていた。

 

 

 何せ、近づくものには容赦なく注射針を見せつけ、遠野地下王国にご招待する徹底振りである。ちなみに地下王国は遠野の当主である秋葉でさえ全容を把握できぬ科学となんちゃって魔法っぽいものにより作り上げられた琥珀の領地。何かとしか表現できぬ物がそこらに設置され、また跋扈する魔窟である。一度入ったが最後、地下王国から脱出できるものはホンの一握りであり、サ○ケもびっくりな難関率を今もなお誇る城塞と言っても過言ではない。

 

 

 とまあそんな感じで朔への過保護極まりない守衛を行っている琥珀であったが、流石に志貴も一撃必殺を行うとは思わなかった。

 

 

「それに前から私、どうしても志貴さんが朔ちゃんと仲よくしているのが気に喰わなくてですねえ」

 

 

「いきなりとんでもない事言い始めましたよ、この人!」

 

 

「だからこの機会に排除、もとい抹殺しようかと」

 

 

 言い直して更に殺伐とした形容となるのはこれ如何に。

 

 

「まあ、そういうわけでして朔ちゃんが戻る前の間、もし万が一の事がありましたら志貴さん、お覚悟しておいてくださいね♪」

 

 

「いや、そんな可愛らしくいわれても」

 

 

 きゃ、となんて言いながら首に添えた刃を横に滑らせる形で納めた琥珀だった。

 

 

「どうですか兄さん。流石の兄さんでもこれでは朔に手をだせないのではなくて?」

 

 

「いや、だから何で俺が兄ちゃんに手出さなきゃいけないんだってば!?」

 

 

 満足気に笑みを浮かべる秋葉へと、思わず普段の気恥ずかしさとか吹っ飛ばして朔を兄呼ばわりする志貴。

 

 

 それほどまでに憤慨し、慌てているのである。哀れ、とは思えないのはこいつの女性癖の悪さだろう。本編ではとてもお目にかかれぬ駄目人間っぷりである。何せ琥珀以外の殆どの女性から好意を持たれているのだから。ほんと死ねばいいのに。

 

 

 けれど、とそこはかなとないブラコンの事実をここのところ自覚しつつある志貴は、視線の先にいる女と化した朔を観て。

 

 

「はい、見るのもアウトですよー」

 

 

 目前から直角に角度を変えて襲い掛かる刃に度肝を抜かれた。まるでどこぞのヒットマンスタイルを得意とするボクサーの左フックのような速度で放たれたそれは、志貴を眼鏡ごと切り裂く寸前で。

 

 

「姉さん。少し落ち着いたほうがよろしいかと」

 

 

 翡翠の羽交い絞めによって食い止められた。

 

 

 

「どいてください翡翠ちゃん。女にはどうしてもやらねければいけないことがあるんです!」

 

 

「それが志貴さまの首を落とすのとどう関係があるのですか」

 

 

 いつもの無表情にどこかあきれを含めた翡翠だった。

 

 

 とは言え、朔の女体化というだけのこと。それでいつもの日常が変わるはずがない、という認識が遠野家に蔓延するはずはなく、こういう事は大体問題そのものが勝手に騒動を引き起こすものだというのが遠野での共通認識である。

 

 

「――――。―」

 

 

「えっと、朔。……どうしたんだ」

 

 

 衆人皆目が目する前で朔が少しだけ緩々と揺れだした。それに合わせて腰まで伸びた髪がゆらゆらと揺れ、その隙間から意外にも眉目秀麗な女顔が見えて、背後から発せられる殺気に志貴がびくびくとするのは、最早ご愛嬌と言う事にしておこう。とは言え、今は朔の事が先決であると意を決して志貴は声をかけたのであったが。

 

 

「――――。――」

 

 

 晒しへと指を引っ掛け、どこか窮屈そうにしている朔を見てピンときたのは琥珀である。

 

 

「ああ、なるほどー。さらしがきついんですね」

 

 

 意思疎通を行っていないのに何故分かるのかというのはとりあえず置いておこう。兎も角、朔の胸部に巻かれたさらしは確かに少しきつめに縛られており、呼吸をするには痛みさえ生じそうなほどであった。何せ、そのさらしは朔自身が巻いたものである。女性観念を肉体的なものでしか知らぬ朔には胸部の膨らみを覆い隠す理由などてんでわからぬ事ではあったが、恐らく琥珀か秋葉に教えてもらったのだろう『恥』という概念に乗っ取り、半ば強引にさらしは巻かれたのであった。

 

 

 が、元が男である朔にそんな器用な事は出来るはずもなく。

 

 

 しゅるしゅる、と。

 

 

 志貴の面前で朔はいきなりさらしをほどき始めた。

 

 

「な、ちょ朔!?――――ごはっ!!」

 

 

 ごきり、と音がしたのは驚愕に眼を引ん剥いた志貴の首を琥珀が捻ったものである。

 

 

 ほぼ真後ろに向けられた志貴の頸椎が無事なのは、一体どうしてだろう。

 

 

「ちょっと朔! 兄さんがいる前でそんなことしてはいけません! 兄さんも早く出て行ってください! 翡翠、朔を手伝ってあげなさい」

 

 

「わかりました。朔様、さらしはもっと緩くしめなければ自分が苦しいだけです」

 

 

「さあさあ、これから朔ちゃんの生着替えですので、志貴さんは出て行ってくださいねー」

 

 

 と、志貴は声を出す暇もなく琥珀に背を押され部屋から追い出される。

 

 

 ――――が、志貴が廊下に出る直前、琥珀はぼそりと「覗いたら殺しますからね」と満面の笑顔で言われ、理不尽な事ではあるが命ほしさに志貴は、全力で首を振り自室へと舞い戻る破目になったのであった。

 

 

 けれど、途中気になったのは屋敷中を震わせる「よっしゃああああああああああ!!」という全身全霊で叫んだ秋葉の声音だったが、一体なんだったのだろう。

 

 

 きっと志貴は知らないほうがいいことなのかもしれない。知ったら恐らく秋葉と琥珀に殺されるだろう。

 

 

 しかしながらも、幾ら巨大な屋敷とは同じ空間に住む訳であるから、一日中会わないなんてことは出来はしない。ここまでくれば学校が休日であったのが恨めしいほどである。何せ、朔と屋敷内にて遭遇するたびにどこからともなく現われた琥珀によって襲撃されるのである。

 

 

 例えば廊下で擦れ違っても。

 

 

「ああ、朔――――のわっ!?」

 

 

「……ち、外しましたか」

 

 

 と、こんな具合に一々殺されかけるのであるから溜まったものでない。しかも琥珀がやたらと刃の扱いに慣れているのだから、いい感じに運がなければ志貴は午前中にお陀仏と化していただろう。

 

 

 そんな事が毎度の事行われるのである。ここまでくれば触らぬ神になんとやら、志貴は朔との物理的接触を控えようとなるべく物静かに今日と言う日を過ごす事にしたのだった。

 



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第五話 人殺の鬼 Ⅱ

 夢を朧に懺悔と捧げ、裁きは血となり、誰も逃れられない。


 ――――ずきん。ずきん。ずきん、ずきん。

 

 

 頭が、痛む。

 

 

 いや、頭だけではない。筋肉が痛み、骨が軋み、咽喉は涸れ、肌が焼けるように熱い。特に、頭部が割れるように痛む。

 

 

 理由はわかっている。

 

 

 ずきん。ずきん。

 

 

 網上げられた視界。黒い線の這いずり回る世界が、あちらこちらに駆け巡り、まるで眼球そのものに侵入してきそうな威圧を放っているが、それは、異なっている。

 

 

 これが世界の真実。

 

 

 脆くて壊れやすい、世界の死――――。

 

 

 自分にしか見えない、この世を構成する結合部分。眼鏡がなければ、この目が映す世界はあまりに冷酷で、退廃の臭いが侵食し、嗚咽さえ溢してしまいそうになる。

 

 

 ずきん。ずきん。

 

 

『面白ェもんモってんじゃねえかァ、手前。ひひ、ひ……』

 

 

 そして、その世界を根本から崩壊させてしまいそうな金属音の軋む声が、歪な金切り声を上げた。あまりに不快な音は耳を塞ぎたくなるが、耳朶を覆う両手の蓋でさえ貫通させてしまうという未来が、場違いな予想として浮かび上がる。そのような些事なぞ妖刀の声音には一切通用しないのだ、という事実が空間を捩じ切っていくようだった。

 

 

『切れ口を見る、淨眼ッてえとこカね、モノがモノなら不死までぶち殺セそうだなア』

 

 

 揺らめく意識を意地で食い止めながら、凭れかかる頭を上げる。眼鏡を失い、蜘蛛の糸のような視界を映し出す。

 

 

 そこには、亡霊がいた。

 

 

 先ほどよりも短く、鋭利な先端となった鉄撥を握り締める藍色はゆらゆらと揺れている。

いや、本当にそうだろうか? 

 

 

 もしかしたら、自分が揺れているのかもしれない。何せ足元に力は入らず、気を抜けば身体が傾いてしまいそうだった。

 

 

 ――――ずきん。ずきん。

 

 

 内側から犬が食い破ってきそうな痛みが頭部に走る。脳そのものに牙が食い込んでいるような感覚に、吐き気さえこみ上げてくる。

 

 

 痛い、痛い。痛い。痛い。

 

 

 痛イ。痛イ。痛イ。痛イ。

 

 

「―――――。―」

 

 

 亡霊は気遣わしげな眼差しを向けることもなく、あくまで風景を眺めるような眼差しで世界を映している。その蒼い眼差しが、映している世界は一体どんなものなのか、志貴には判別できない。また、そのような余裕もないが、どこかで冷静な己が、こいつは自分の事を見ているのか? と疑問符を浮かべた。

 

 

「は――、は――」

 

 

 けれど、言葉は形とならず、浅く息を吐くことしかできない。

 

 

 おおおおおおおおおおーーーーーーんんんん。

 

 

 どこか、子供を亡くした母親の泣き声を思わす風のうなり声が聞こえた。廃工場の開かれた扉から入り込んだ風がうねりを上げたのだ。

 

 

 それが排熱する身体に心地よささえ与える。

 

 

『これデも修羅場は潜ッてきたが、ここまでの奴ァ滅多にいネえ。斬り払えば如何様なもンでも断ち切っチまうなんゾ、ひひ、ひ……傑作だ。あいツの得物がコの果てだなンてよォ』

 

 

「―――、―。――」

 

 

 鉄分でしか形作られなかった鉄くずたちに紛れて、骨喰の悪意が這いよる。

 

 

 衰弱の一方へと向かう志貴に向かって。

 

 

『喜べ朔。ご同類だァ、こいつア生粋の殺人鬼だ』

 

 

 嘲笑、邪笑が軋み脳髄を侵食する。思考同士が高質化して、磨耗させる。

 

 

 ぞくり、と背筋が震えた。

 

 

 いま、あいつは、あの鉄くずは何を言い放った? 

 

 

『人を殺ス術を生まれナがらに持ッテ、コの世に現われ出でタ。人殺の輩。蝶よ花ヨと持ち上げらレて育ったカは知らネいが、存外に面白エ。元かラこいつハ殺しの才があっタんさ』

 

 

 殺人鬼。人を殺す鬼。

 

 

 妖刀は、どこからともなく確かにそう嘯いた。それはまるで宣告のような重みを持って、志貴の意識を塗りつぶさんとする。

 

 

 背中が冷たくなっていく感触は、脂汗か、あるいは冷や汗か。

 

 

『流石は遠野の長子、とデも言うべきかァ。こいつハ、なルほど道理だ。遠野の阿呆共ガ遠ざけた理由も解せるってェもんヨ。自分らの懐に殺シの鬼は必要ねえっテか。ええ? オい』

 

 

 そう、自分は遠ざけられ、遂には排され追い出された。

 

 

 幼い頃、有間へと向かう車の中で見やった遠野の屋敷は、最早踏み込めぬ居所と化して、あまつさえ二度と敷居を跨ぐなと言う御触れまで言い放たれたのだ。

 

 

 けど、それがショック、だった訳ではない。なんとなく、胸の内が淋しくて、虚しかった。

 

 

 もしかしたら、彼らが己を追い出した理由は遠野志貴という存在そのものが、彼らにとって危険分子だったから、なのだろうか?

 

 

「――――う」

 

 

『あ?』

 

 

 けど、ただひとつ。

 

 

 たったひとつだけ。

 

 

 ただひとつだけ、認められないものがあった。

 

 

「……違、う!」

 

 

 一気に息を吸い込み、眼前の殺人鬼をねめつける。

 

 

「俺は、お前みたいな奴なんかじゃない」

 

 

 噛み締めるように呟いた言葉は掠れて上手く発音できなかった。

 

 

 だから、叫ぶ。

 

 

「俺は、お前みたいに平気で人を殺せる化物じゃないんだッ!!」

 

 

 志貴の叫びが廃工場の塗炭壁に反響する。

 

 

 それは、骨喰の言葉に対する反骨にして、目前で茫洋と佇む七夜朔への宣言であった。

 

 

 例え、非道と呼ばれても構わない。外道と呼ばれても良い。弓塚さんのためならば、どのように呼ばれても構わない。何にでも、何者にでもなってやろう。この忌み嫌う眼さえ、疎まない。そう腹に決めた。

 

 

 だが、ただ人を殺すためだけの存在にはならない。

 

 

 眼鏡がなければぐじゃぐじゃになる世界の断片。黒くのた打ち回るひび割れ。そこをなぞらえば、忽ちのうちに何もかもが切り落とされる事はとっくの疾うに知れている。それはいけない事なのだと、あの草原で教えられたのだから。

 

 

 けれど、せめて先生との約束を破ろうとも。

 

 

 約束を交わした自分だけは、裏切れない。

 

 

『ひひ、ひ……言ウねえ、糞餓鬼』

 

 

 愉快な声音が廃工場に劈いて、夜闇を切り裂いてしまいそうだった。

 

 

 星を落とし、月さえも貶める悪鬼の哄笑。

 

 

 それは、昼にも夜にも属さぬ者しか発せぬ瘴気の嘲いであった。志貴を嘲い、死へと誘う魔眼さえ笑い、あまつさえ志貴の決意そのものを甚振り嘲笑する、凄絶の笑いであった。

 

 

 弓塚さつきへの壮烈な報いの感情は、最早志貴自身気付かせぬ楔となり果てようとしている事は、骨喰は目で見えなくとも容易として知れる。あらゆる負と憎悪によって鍛造された骨喰には、志貴が近い将来、鮮血に染まる結末をあっけなく向かえる瞬間が見えた。

 

 

 血だまりで嘆き、苦しみながらも、壮烈な笑みを浮かべて止まぬ遠野志貴の姿を。

 

 

 だから、骨喰は失笑を溢す。

 

 

 堪えきれぬ滑稽さと、あまりの愚かしさに。

 

 

『ま、手前がそウ思うならソう思えばいイさ。手前だケが、そう思ッていレば良い』

 

 

 その言葉を契機に、朔は志貴に背中を向けた。

 

 

 蒼穹の残像が流れ、藍色の着流しがはためき、宵闇に紛れて溶ける。

 

 

 霞みゆく視界。

 

 

 けれど、ここで意識を失えば、きっと帰れない。

 

 

 家へ。明日へ。日常へ。家族の、もとへ。

 

 

 実感は模糊として雲のようなものだけれども、今はただ、誰かの顔が見たい。

 

 

 だから、眼は逸らさない。目蓋を閉じてはいけないと、疲労に塗れて今すぐにでも倒れてしまいそうな自分を奮い立たせた。

 

 

 そして、志貴は夜にほどける朔の背中を見た。

 

 

 すると、不思議と輪郭がはっきりと捉えられて、細くて引き締まった背中が見えた。

 

 

 ――――ああ、この背中を、俺はどこかで見たことがある。

 

 

 間際に過ぎ行く、映像。雄々しく、しなやかで、まるで豹のような背中を。

 

 

 でも、あれは一体誰の背中だっただろう?

 

 

「……待て」

 

 

 不思議と、声が出た。けど、それは己の意志ではない。

 

 

 根幹の、あるいは魂から噴出した声だった。

 

 

「……まって、くれ」

 

 

 けれど、遠のく背中は決して立ち止まってはくれない。最も、聞き及んでいるかさえ妖しい。 

 

 

 ゆらゆらと揺れながら、やがて空白へと紛れるであろう藍色の背中を追い続ける。その眼差しは睨みつけていると言っても良い。とはいえ、その瞳に悪の象徴を恨む者が放つ狂奔の危うさはなく、あるのは寧ろ追い縋る弱者のそれに似ている。

 

 

 それは安寧と平穏を暗闇に垣間見る儚き者の瞳だ。

 

 

 それは絶望の中に救いを見出す勇ましき者の眼だ。

 

 

 だからだろう。

 

 

 胸の中が熱い。まるで安らいでいるように、温もりを覚えていく。そんな事が己に起こっていると知らず、志貴は焦燥と疲労、そして安らぎの中で立ち竦んだのだった。

 

 

『……ひひ、マた忘れらレるノか、俺ハ』

 

 

 苛立ちを覚える声音の筈が、哀れみさえ誘うような愉悦として聞こえたが、当然知らぬふりをしながら。

 

 

 合掌。

 

 

 □□□

 

 

「―――――。―」

 

 

 郊外の風は工場群の排する臭いと合わさり、鼻腔にさわる。廃工場の屋根に座り、遠くに固まる光源群が眩しく輝く様を、朔は眺めていた。けれど、その瞳に情景は映っておらず、瞳に宿されるのは無情なる空虚のみであった。

 

 

 その右手には、未だ消えぬ感触が掌を伝っていた。握り締められた鉄塊。生命を撲殺するために振り被られたそれが、斬り飛ばされた感触が。

 

 

 いや、正確には斬り飛ばされたという比喩は正しくはない。あれはなぞらえられたと表現すべき軌跡だった。

 

 

 達人の域に到達した人間の中には斬鉄を習得し、鉄を文字通り刃でもって切り裂く術を会得する者もいるが、朔の印象では達人の斬鉄と遠野志貴のあれは異なる現象だった。

 

 

 鉄分によって構成される鉄の塊を裂いた。言葉にすればそれだけの事ではあるが、それが出来る者は限られている。そして、そのためには良く研がれた刀剣が用いられる。

 

 

 しかし、あの場面、正に朔が志貴の脳から背骨まで掻っ捌こうとしたその時、何かが起こった。生命の危機に晒された生物は時として思わぬ行動を為すものである。それは、幾人もの生命を断ち切った朔の経験からも理解できる。

 

 

 とは言え、志貴が為した現象は朔自身も遭遇した事がない未知の一撃だった。

 

 

 窮鼠猫を噛む。追い詰められた弱者が反撃の兆しを見出さぬまま反撃に打って出て、思わぬ痛手を喰らう事である。あの時、遠野志貴は確かに弱者であった。ただ殺される運命に立たされた存在でしかなかったはずだ。

 

 

 だが、あの時、何かが起こった。正確にはわからぬが、遠野志貴自身の雰囲気が変わったと言うべきか、あるいは心理状況に明確な変化が起こったと言うべきか――――。

 

 

 そして、あの一振り。直線ではなく、緩く円を描いた軌跡によって斬られた鉄撥の断面。

 

 

 ざらつきすらなく、まるで切り取られたような鉄撥は、抉られたわけでも、溶けたわけでもないのに、あっけなく切り裂かれた。

 

 

 朔は徐に立ち上がり、ぶんと一振り腕を揮った。

 

 

 それは、あの瀬戸際に志貴が垣間見せた一撃の軌跡だった。死を打ち払った気勢の一振りである。

 

 

 斜に構え、振り向き様の角度。脚部の重心移動。腰の旋回、伝播した膂力が指先まで行き渡る癖までを完全にトレースした――――。

 

 

 一閃。

 

 

 夜の空を裂いて、鈍色の残光を描き、切り上げた鉄撥。

 

 

 天井に積もった埃が舞い上がり、不思議な間となって朔の武技を飾り立てる。その情景はまるで、天空から舞い散る雪のようでさえある。

 

 

 しかし、朔はその光景とは逆さに違和感を機敏に感じ取った。

 

 

 姿勢から力の伝達、標的の距離に入るまでの時間。

 

 

 全てが模倣された一閃だった。

 

 

 けれど、何かが違う。

 

 

 完全に同じ軌道が繰り広げられた、はずだった。

 

 

 しかし、どのように考えても鉄撥を切り落とせるとは思えない。ましてや、それは同じ質量の鉄撥によるもの。丸みを帯びる表面、まして円柱の形を成した鉄の塊が行えるとは思えない。卓越した業という問題ではなく、もっと根本的な何がある。

 

 

 それが、わからない。

 

 

 その正体を骨喰は『切り口を見出す』魔眼だと言いのけた。

 

 

 魔眼の類には本人しか見せぬ世界を映し出すものがある。それは朔もそうだ。『外界干渉意識』を可視化させる朔の淨眼は、本人さえも抜本的には理解できぬ、まさしく感覚で捉えうる領域を繰り広げる。

 

 

 では、あの時見せた遠野志貴の魔眼も同じ類に相違ないだろう。

 

 

 しかし、本当にそうだろうか。あれは切れ込みを映し出す魔眼の影響なのだろうか。

 

 

 珍しい事ではあるが、朔は骨喰の言を無条件に受け入れるのではなく、懐疑の思考がもたげる。

 

 

 仮定として切れ込みを見出す能力の類だと見せても、あの一瞬に見せた志貴の動きがそれを狂わせる。まるで扱いなれているかのような握りこみ、そして一閃。例え魔眼の影響だとしても、果たしてそこまで素人が切れ込み部分を咄嗟になぞらえられる事が出来るか否か。あの動きによって果たされた結末は、あるいは病的とさえ表現してもよい。

 

 

 と、そこで、朔は徐に自らへと問いかけた。

 

 

 ――――何故、己が気にしているのか?

 

 

 気にしている、という言葉も妖しい。寧ろこれは気にかけているとも言うべき事柄ではないか。

 

 

 いや、ありえない。ありえるはずがない。

 

 

 何故なら七夜朔は殺人鬼。殺す対象を気にする理由がどこにあるのだろう。あるはずがない。そもそも、気にすると言う容体すらありえぬはずである。

 

 

 ただ殺してしまえば良い。

 

 

 ただ打ち滅ぼしてしまえば良い。

 

 

 そう、それは今すぐにでも変わらないはず。きっと未だ遠くには行っていないはずの遠野志貴を追跡し、その首を落としてしまえばそれで済む話だ。

 

 

「――、――――。―」

 

 

 だが、動かない。

 

 

 そもメリットやデメリットの概算は骨喰が行うべきであって、朔には何ら関係ないはずであるが――――。

 

 

「――。――――」

 

 

 そこで朔は掌に骨喰がいないことに気付く。どうにも一度手放すと、あっけなくその存在を忘れてしまいがちになりやすい。契約による弊害が出ているのだろうか。朔には分からない。分かろうとも思わないけれど、あの耳障りな雑音が聞こえないと静謐な風音がよく聞こえた。

 

 

 遠野、志貴。

 

 

 七夜朔が殺すべき対象。滅ぼすべき一族の長兄。

 

 

 しかしながら、なぜだか朔にその実感は沸かない。殺すべき対象は有象無象、それこそ反応するがままに殺傷せしめてきた。それは退魔衝動のままに動いた結果であり、また幾重も潜り抜けた修羅場から得た結末によるものだ。

 

 

 魔物がいた。

 

 

 混血がいた。

 

 

 魔性がいた。

 

 

 魔術師さえいた。

 

 

 中には、蟲に心臓を巣食われた少女さえいた。絶望色の眼を彩った少女だった。

 

 

 それら全てに通ずる事象は、朔の退魔衝動が反応した事にある。

 

 

 だが、遠野志貴に対してその閃きはない。魔としての血が薄いのだろうか。時としてそのように魔を薄めて人間生活の営為に溶け込める者も存在する。しかし、朔はそれさえ見逃さないのだ。遠野志貴が遠野である限り、彼の中に脈々と受け継げられた魔性の血脈は決して消えはしない。

 

 

 しかし、朔が未だに無反応なのは事実。

 

 

 あるいはもっと言えば、それは――――。

 

 

『ひひ、ひ……イい加減、戻っテほしいんダがなァ』

 

 

 脳に直接響く金属音が、思考を摩滅させた。

 

 

 嘲り哄笑する骨喰の声音、あるいは要請であった。

 

 

『こンな鉄くせえとコに放置されチゃたまったもンじゃねえ。あの糞餓鬼もドっか消エちまったし、さっサと拾いにコい。……頼むゼ、おいマジで』

 

 

 それを右から左に聞き流し、朔は再び腕を揮った。遠野志貴がいつこの場所から遠ざかったのかは気付かなかったが、それほどまでに己は思考に潜伏していたのだろうか。

 

 

『魔眼殺シに騙されチゃいたが、ありャ人間のもんじゃねエ。ひひ、うまクいきゃあ神代か伝説の再現だァ。一体全体どンな生をうケりゃ、あんなけったイなもんつけられんだカ。……、まアんなモんどうでもいイさ。全てひっくルめたっテどうでもいい』

 

 

 そう言い切り、一息だけの間隙があった。

 

 

 否、生物ではない骨喰に呼吸などありはしない。

 

 

 彼は狂乱と悪意に生み出された概念なのだから。命と言うものさえ存在し得ない。

 

 

『ひひ、ひ……朔。手前ハ今まで通リ何も考えなくテいい。思考観察考察調査研鑽研究、ぜんブ放棄して、ただ殺スためにつっぱシりゃいいサ。そうしタら、もっト上にいく。モっと、もっと高イ場所に、孤高にィ。ひひ、ひひひひひひひひひひひひひひひひ!』

 

 

「――――。―――」

 

 

 嗄れ声が脳髄を冒すように劈いて、そこで朔は考える事さえ煩わしくなり、頭を働かせる事をやめた。元より、耳元で掻き鳴らされる半鐘のように響く骨喰の声は全てをどうでもよくさせる不思議な効力を持っていた。なので、何気ない動作で朔は骨喰を拾いにいこうとして、今一度立ち止まり、遠野志貴の残像を目前に映し出した。

 

 

 ひゅいん、と風斬り音が残される。

 

 

 再び振り被られた鉄撥は、先ほどとやはり同じ軌跡を描いた。

 

 

 鉄撥の断面が斬り捨てた先は、暗闇が支配する工場群とは程遠い光を灯す街並みだった。

 

 

 □□□

 

 

「はあ」

 

 

 溜め息ともつかぬ息継ぎが夜のしじまに溶けて消える。ついでに痛みさえもどこかへと消えてしまえばいいのにと、未だ痛む各部を思いやりながら、志貴は疲労困憊の身を引きずり、帰宅の途へとついていた。

 

 

 通過していく夜の住宅地は、しんと静まり返っていた。

 

 

 あるいは、そういう時間帯、そして場所を闊歩しているからやもしれないが、人気のない夜の闇は光を遠ざけ、生気さえ吸い取ってしまいそうな滑り気があった。不気味、とは違う。もっと、歪で魔的な雰囲気が街中に漂っている。

 

 

 それがこの街のどこかに魔物が潜んでいるからかなのか、志貴にはわからない。

 

 

 ただ、心のどこかでその魔物との会合を切望している己がいる。

 

 

 あるいは、眼鏡もつけずにいるせいなのかもしれない。

 

 

 朔によって弾き飛ばされた眼鏡はどこかへと消え、夜の暗影では見つけることも出来なかった。しかし、それでもよかった。黒い線がのた打ち回り、まるで血管のように走った世界は気を取られてしまえば忽ちのうちに頭痛を催すが、もう、自分は取り返しのつかない場所へと足を踏み入れたのだという真実が、視界として現れたのは、あるいは正しかったのかもしれない。

 

 

 それが、さつきに対するせめてもの償いだった。己が苦痛に苛まれる過程など度外視した、あまりに無謀な行為。

 

 

「は、はは……こんなボロボロでよくもまあ」

 

 

 自嘲気味にあげる言葉も今は虚しい。事実として横たわる身体の疲労は到底無視できるものではないと分かっている。そんな調子の悪い身体で、そもそも不調が絶えぬ肉体で魔性なる者に挑もうなどと言うのだから、笑わせる。

 

 

 いや、もっとも万全な状態であろうとも勝ちを拾えるとは無論思えない。元より志貴の身体は頑丈に出来ていない。八年前の事故によって弱り伏せた身体は脆く、一日に二度も貧血で倒れ伏す頃さえあったのだ。

 

 

「……」

 

 

 脳裏に思い描くはさつきを殺した相手。哄笑高らかに吠え立てる人外の姿。呆然として、どういう姿をしていたのかまるで判然できないけれど、あの笑い声だけは覚えている。憎しみと、歓喜を綯い交ぜにしたような、まるで悪の象徴のような笑い声。

 

 

「……俺は」

 

 

 何も出来なかった。自分は、あの時過ぎ去り行く時の中、残酷に経過する悲劇にいながら、何も出来なかった。

 

 

 それが、じわじわと志貴を苛む。

 

 

 心臓を奪われ、腕の中で冷たくなっていく弓塚さつきの姿が脳裏から離れない。いや、手放したくない。あれこそ遠野志貴の罪なのだから。

 

 

 無力は罪だ。弱さは悪だ。目の前で傷つき、失われていく命、それも明確な感情を抱いた相手が、自らの眼前で襲われた。なのに、自分はそれに追いつけなくて、ただ呆然としていて、思考さえ出来なくて――――。

 

 

 だから、押し潰して報わなければならない。

 

 

「……っ」

 

 

 知らず、奥歯を噛んだ。強く、強く。

 

 

 そんな志貴の苦味を知らず夜は黙々と続いていく。

 

 

 途中、何度か転びそうになった。それは緊張から解放された弛みなのか、それとも疲労のせいなのか判別はつかない。寧ろ、そんな事はどうだっていいさえ気がしている。それほどまで志貴は肉体、精神ともに追い込まれていた。

 

 

 何せ志貴が先刻まで対峙していたのは殺人鬼。シエルさえも注意を促した妖刀を片手に持つ、鬼である。

 

 

 事実として志貴は朔の屠殺を観ている。

 

 

 四方を囲まれながらも、宙を駆け上がり化物退治をやってのけた存在だ。正直、人間かどうかさえも疑わしい。そんな桁違い、あるいは場違いな存在である。

 

 

 その殺人鬼が見せた鏖殺に、志貴は目を奪われたのだ。

 

 

 だからこそ、その恐ろしさは理解していたつもりだった。

 

 

 けれど、実際にこの身に受けて分かった事は数少ない。師事を受ける身としては嘆かわしい事ではあるが、志貴が朔によって得たものなどたかが知れている。

 

 

 それは本気で殺される者の心意気。

 

 

 正直、志貴は最後の衝突にて死んだと思った。痛苦で、殴打で、精神の磨耗によって。ぎりぎりまで引き伸ばされた緊張の糸が悲鳴を上げ、肉体が壊死寸前だった。それら等の要素も確かにある。

 

 

 だが、最後に朔が背後から急襲を仕掛けた瞬間。

 

 

 あの時、自分はまさに殺しの標的と化したのだった。始めて遭遇した時のものとは違う、あるいは路地裏で対面した時とも異なる、殺害対象として本格的に認識された瞬間。殺意だけを煮詰めた瞳が志貴を捉えた。

 

 

 あの時の感覚は、時間を置いてなお志貴の根幹に突き刺さっている。

 

 

 まるで崩落するような感覚が心胆を蝕み、目前が刹那輪郭を失った。

 

 

 あれが、死、なのだろう。

 

 

 死そのものではなく、殺される者しか味わえぬ、喪失の感覚。

 

 

 恐怖。

 

 

 怯えて怯む、弱者の果て。

 

 

「けど、俺はまだ生きている」

 

 

 拳を握り、感触を確かめる。痛み、熱ぼったいが、確かに感じる生命の温もり。

 

 

 それを志貴は潜り抜けた。狭き門だっただろう。あるいは奇跡とさえ形容してもよい確率でもって生き延び、返しの一撃を放った。不思議と、放っていた。

 

 

 その瞬間の事は覚えていない。

 

 

 ただ、無我夢中だったとしか言えない実感。

 

 

 我武者羅とも異なる、自分が自分でなくなったような刹那だった。

 

 

 まるで自分がそのままひっくり返って、反転してしまったような時間だったとも言える。

 

 

 違和感なく揮われた鉄撥が、黒線へと潜り込んで走る。

 

 

 しかし、どのように自分がそれを行ったのか、まるで覚えていない。

 

 

「……どうやったったんだろ」

 

 

 記憶が飛んだとしか思えない空白に、朧気な映像が浮かび上がりかけるが、それは全てが終わった後に対面した朔の姿だった。

 

 

 切っ先を弾き飛ばされてなお、無感動を貫く長身痩躯。見上げなければ表情さえ伺えぬ身長の差もあいまって、項垂れる人形のようでさえあった。

 

 

 精緻な動きでありながら、その実体は暴力そのもののような殺人人形。

 

 

 ざんばらに伸びた黒髪の隙間から覗く蒼い瞳、それが脳裏から離れない。殺意を濃縮し、とぐろの巻いた殺しの意欲を。

 

 

 今思っても、よく己はあの危機を脱したものだと、骨喰の嗜虐的な企みを知らぬ志貴は、恣意的な殺人の可能性を思い、ぶるりと再び身震いをした――――、とそこで住宅地を抜けた道行きで、視界の端に赤色の緩やかな何かが過ぎり、直感的に志貴は立ち止まる。

 

 

 見やる方向は街路地を抜け、複雑な道なりとなる細い道路で、確かあそこは繁華街へと続く道でもあったはず。そこに、赤色の髪が消えていった。

 

 

 しかし、それだけの事が理由で志貴が足を止める道理は無く、寧ろ彼が注意を向けられたのは、微風に運ばれて香る、臭いであった。

 

 

 それは、ある一定の者にしか分からぬ微細な香り。

 

 

 骨喰が発する瘴気とは異なる、まるで魔のような臭いだった。

 

 

「――――っ」

 

 

 気付けば、走り出していた。

 

 

 思うように動かぬ体が悲鳴を上げ、腫れ上がった皮膚が引き攣り、これ以上の駆動を拒み痛みとなって危険信号を促したが、それでも止まらなかった。

 

 

 曲がり角に消えた魔の感覚は未だ行方が分からない。

 

 

 しかし、あの気配だけは逃してはならないと、志貴は必死に足を運んだ。

 

 

 全速力とは程遠い速度である。太ももが着火したように熱くなり、これ以上は限界だと肉体が弱音を吐いている。けれど、止まらない。止まるわけにはいかない。

 

 

 何せ、血潮が騒いでいるのだ。

 

 

 けたたましく、追いかけろと吠え立てているのだ。

 

 

 全身がまるでひとつの意志と化しているように、志貴は走った。稚拙な足並で、疲労を重ねた身体はすぐさま息を切らしながらもだ。さながら肉体は精神の下位と化していた。

 

 

 街並みは姿を変えて、路地は更に暗くなっていく。当方からざわつく音が届くのは、繁華街に近づいているからなのか。狭い路地裏は嗅ぎなれぬ異臭を放っていた。

 

 

 とは言え、志貴にとってそんな事はどうでもいい。全ては瑣末に過ぎない。

 

 

 そして、いざとなって駆けつけてみれば。

 

 

 そこは何時ぞやに彷徨ったあの路地で。

 

 

「兄さん!?」

 

 

「志貴さん?」

 

 

 そこにいるのは、何故か驚愕に顔を染める妹と、黒一色を身に纏う琥珀の姿であった。

 

 

 黒い線が縦横無尽に書きなぐられた視界。そこに佇む二人もまた、あてがえば忽ち崩落してしまいそうな線を身体に刻んでいる。

 

 

 けど、そこにいるあれは何だ?

 

 

 ――――あの、女は一体、誰だ。闇に溶ける事無く輝きを放つ、黒髪の女は、一体何だ。知っている。知っているはずなのに、違和感が拭えない。それでも心に宿るのは安堵。

 

 

 どくん、どくん。

 

 

 心臓の激しい鼓動に頭が破裂してしまいそうだ。

 

 

 どくん、どくん。

 

 

 咽喉は涸れて、肺が苦しい。

 

 

 そして、口内からは血の味。

 

 

 嗚呼、ようやく自分は――――。

 

 

「兄さん、どうしてここに!」

 

 

 女が何かを叫んでいる。悲痛な表情。

 

 

 ――――けれど、その顔にも這い回る、線。そして、この香り。

 

 

 意識が靄をかけられたように薄まっていく。

 

 

 身体が限界を迎えたのだろう。最早、立つことさえ出来ない。

 

 

 まるで氷が解けるように、ここにきて志貴の身体は崩れ落ちそうになる。

 

 

 決して消えはしない死の世界を見るのも辛くて、目蓋が自然に落とされかけた。

 

 

「――――っ!――――――!」 

 

 

 それでも朧な意識を失う寸前まで、志貴の名を呼ぶ女の声だけは消えはしない。

 

 

 何故かその呼び声が、自分はこんな感じなのだったのかな、と弓塚さつきの襲撃された場面が想起させたのは、幾分か納得のいくところであった。

 

 

「ゆみづか、さん……」

 

 

 だって、朧な景色に見える女の顔が、志貴には弓塚さつきに見えてしかたがなかったのだ。

 

 

 □□□

 

 

 埃の臭いに混じり獣臭があった。

 

 

 それはかつてここで何かが起こったことを現し、つまりここに何かがいたことを意味している。

 

 

 だからだろう、散策という手段でもって街を練り歩く秋葉は琥珀を連れ、人の寄り付かぬ場所を重点的に尋ねた。

 

 

 今現在遠野の屋敷は翡翠ひとりしかおらず、女一人と言うのは危うげな予感を伴うものであるが、まずもって安心だろう。防備は備わっているし、翡翠も仮には遠野に関わる人間だ。ある程度の自衛をもっているはずだ。そうでなければ、とてもあの家の使用人など務まらない。

 

 

 けれど普段は寄り付こうとすら思えぬ場所に入り込んだ事から、失敗の兆しはあったのだろうか、と秋葉は目前で呆然と膝を落としかける兄の姿に忘我となりながら、感じていた。けれど、それでも咄嗟に動けたのは幸運としか言いようがない。

 

 

 慌てて兄の元へと駆け寄り、その肩を脇の下から支えようとするが、やはり男性の肉体、しかも脱力仕掛けた身体は女の身では支えきれるものではない。

 

 

 しかし、志貴の身体は秋葉の腕力によって辛うじてだが支えられていた。

 

 

 華奢な肉付きで、筋力など通常の一般女性と変わらぬはずの秋葉が志貴の身体を支えられたのは、ただ単に秋葉の身長が志貴よりも低いと言うだけのことであった。

 

 

「兄さん、兄さん!しっかりしてください!」

 

 

 必死に呼びかけるが、志貴の反応は芳しくない。意識は失っていないが、失神寸前と言ったところか、眼の輝きは曖昧に揺れている。

 

 

「琥珀、兄さんに手当てをして」 

 

 

 見やれば身体のいたる箇所に幾つもの傷がつけられていた。打撲痕、そして擦り傷。そして、眼鏡すらかけられていない。とても全うな状態ではなく、何かに巻き込まれた上での結果だと秋葉は早々に見切りを付けたが、生憎と現代医療の知識を必要以上に所有していない秋葉には、応急処置さえ難しい。故に、秋葉は少なくとも医療に精通している琥珀へと呼びかけたのだが、返事は聞こえない。

 

 

「琥珀! 何しているの、早く治療を……」

 

 

 焦燥と苛立ちに琥珀へと視線を向けた秋葉が見たのは、棒立ちに佇む琥珀の姿であった。その様はまるで動力を失ったゼンマイ人形のようで、微動だにせず、瞬きさえ行われていない。

 

 

「……匂いが」

 

 

「……え?」

 

 

 ぽつりと呟かれた言葉は琥珀自身さえ意識していない、零れた内心であった。琥珀の視線は志貴に向けられているわけではない。否、志貴の傷に向けられているが、そこにあるのは秋葉のようなショックではなく、寧ろ不思議そうな視線であった。

 

 

「なんで志貴さんから、さくちゃんの匂いがするんですか」

 

 

 一瞬の空白があり、ぞわりと秋葉の肌が粟立った。

 

 

「――――あなた、何を言って」

 

 

「どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして」

 

 

 ぶつぶつ、と琥珀は自失したままに呟いていく。

 

 

 そこにいたのは感情の抑制が効かない幼子のような少女であったが、秋葉にはその姿が壊れた機械人形が欠陥により、何度も同じフレーズをくり返すあの妙な不気味さに見えた。背筋に走る戦慄を秋葉は禁じえなかった。

 

 

 そして、何より秋葉には無視できぬ言葉が耳に入ってしまった。

 

 

「朔って、……琥珀、あなたどういう事」

 

 

 それは存外に強い口調であった。無視できぬ恐れを抑えて、秋葉は言葉を紡ぐ。けれど、琥珀は相変わらず「どうして」という言葉をくり返すだけであった。その姿に秋葉は言いようのない薄気味悪さを覚えた。

 

 

「琥珀!」

 

 

「――――……あ。秋葉さま?」

 

 

 路地裏に反響するほどの声音が飛び出て、そこにしてようやく琥珀は、はっと自失の境地から抜け出したようであった。

 

 

「あなた、大丈夫なの?」

 

 

「はい、大丈夫ですよ。どうしたんですか、秋葉さま」

 

 

 秋葉の問いに琥珀はさも不思議そうに小首を傾げた。

 

 

 先ほどの豹変などなかったかのよに佇む琥珀の姿は、まるで秋葉が見ていた琥珀が幻覚ではなかったのではないのかと思わせるほどであった。

 

 

「琥珀、……とりあえずさっきの事は置いておくわ。それより今は兄さんを優先して車の手配をお願い」

 

 

 努めて冷静に秋葉は配車を願い、琥珀は先ほどの様相が嘘のように手際よく電話をかけた。その様をそれとなく観察しながら、秋葉は身近に感じる兄の体温に一時の安堵を覚えた。久しく顔を見る事さえ出来ない状況にいたが、まずもってその命が無事である事を嬉しく思う。けれど、何せ兄は身体が弱い。予断は決して許されないの状況なのは確かである。

 

 

「兄さん」

 

 

 再び呼びかける。しかし、返事が返る事はなかった。どうやら意識が曖昧なようだ。何を経ればこのような状態に陥るのか分からないが、少なくとも厄介な事に首を突っ込んでいる事は確かだろう。そう思うと、心配のあまりに身が張裂けそうになる。

 

 

「帰ったら、色々と聞かせてもらいますからね」

 

 

 だからだろう。兄へと言葉を紡ぐ秋葉の形相は優しさと、少しの強がりが見え隠れしていた。

 

 

 車が届いたのはそれから十分もかからなかった。何せ場所が場所であるため、一先ずは移動が先決であると、琥珀と共に兄を抱え車が入りやすい路地へと向かったのだった。

 

 

 車内。そこで秋葉は気恥ずかしさを覚えながらも、兄に膝枕をした。太ももに感じる頭部の重さ、そして僅かに開かれていた瞳が閉じられ、やがて規則正しい呼吸が聞こえると、どっと身体の力が抜けた。思わぬ展開に自らも知らず緊張していたのだろう。顔が赤いのはきっと気恥ずかしさに違いない。

 

 

 静かに車は遠野への帰路へと向かった。夜の街並が流れて通り過ぎる。

 

 

 少なくとも今夜は終いだ。これ以上の散策は秋葉としても気乗りがしない。それに、折角兄と出会えたのだ。何故か傷ついている兄の治療を行わなければならない。家にも帰らず、日を跨ごうとも姿を見せなかった兄の事を想い苛立ちを覚えたのは数え切れず、それは正しく心配から来る感情であった。だから、今は志貴の身を癒す事が先決であった。

 

 

 とは言え、無視できぬことがある事も事実であった。

 

 

「……琥珀」

 

 

 静かな車内。運転手の気遣いによりブレーキングさえゆったりとした走行は静寂さえ訪れさせ、秋葉の声ははっきりとした意思となり、助手席に座る琥珀へと向けられた。しかし。

 

 

「はい、なんですか秋葉さま?」

 

 

 振り向き様に笑みを浮かべる琥珀の様は、まるで空白であり、中身が空っぽな笑顔は人形のようであったので、そこから先の言葉を紡ぐ事が秋葉には出来なかった。

 




 さて、久しぶりに本日のおさらい。
 志貴、強がる
 骨喰、画策の予感
 志貴、家族が心配してたのに他の女の事を考える
 翡翠、出番が少ない。でした。扱いづらいのよ、翡翠。
 しかし意識失ってばっかりだな、うちのしっきーは。


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第六話 人殺の鬼 Ⅱ

 眼前に現われ出でた異様なる者の姿を見て、少女は死神がやってきたのだと思った。


 蒼く輝く瞳は切っ先にも似ていて、闇よりも尚禍々しい殺意を渦巻かせる眼は、間違いなく死神の目であった。


 ならば、自分の命もここで終わるのだろう。何せ死の神が到来したのだ。どう足掻いても自分の命運はここで刈り取られる。


 よかった、と思った。


 絶望の中で生き続けた少女は死の夢想で己を慰める事しか出来なかったのだから。


 いやだな、と思った。


 温かな団欒に溶け込む事を許され、それが得がたいものだと知っていたからだ。


 死にたくない、と思った。


 瘴気を放つ鈍色の銀線が振り翳されながら、何故だか、そう思えた。



 とある場所。とある時間。時は逆行し、とある場面を映し出す。

 

 

 そこは濃厚な御香の匂いが漂う一室の空間だった。芳しい煙は幾筋も立ち上り、陰鬱な雰囲気にある室内を少しだけ和らげている。和室作りの部屋は梁に吊るされた行燈がぼんやりと明かりを照らしているが、薄暗さは遠のくばかりか、寧ろ闇が増しているような気さえ起こさせる場所だった。流れる気配は粛然としており、一粒の言葉が無と化して消えてしまいそうな予感を起こさせる。

 

 

 むべなるかな、ここは世界の裏側、闇を司る者達の総会であった。

 

 

 そう考えれば薄暗闇が宿った室内は、それぞれの顔を秘匿させる役割を示しており、囲いとして吊られた簾が更にそれを増長させていると言えるだろう。

 

 

「して、一連の騒動、どうとらえる」

 

 

 まずは一人、老人の声音から始まった。彼は今回行われている会合の司会、言わば一応体裁どられた退魔組織の長と呼ばれる立場にある。その声音は痩せ衰え、掠れた響きであったが、言葉は重く室内に浸透した。

 

 

「混血殺し。魔術師殺し。そこに繋がりはあるのだろうか」

 

 

「ある。何故なら殺された者共は皆は魔に関わりがあるが故に」

 

 

 魔、という言葉に室内の彼らは鼻白むことなく頷いた。

 

 

 自然界の産物でありながら人の流れから外れた者共を等しく魔と呼ぶ。それは古来より伝承として語り継がれた昔話に登場する妖怪であったり、また鬼であったりと様々な姿形として伝わっているが、それら皆に通じるものは人とは異なる化物と呼称される類の者達である。

 

 

 だからこそ、人は自衛として魔を排斥し、やがて退魔と呼ばれるひとつの役割が生まれた。今宵行われている今回総会も退魔の話し合いである。

 

 

「ならば一体誰が行っている。浅神か、それとも巫淨か」

 

 

「否。それはあるまい。そもここにいる者達に彼らを切り捨てる利が存在しない」

 

 

 退魔と呼ばれる者にも多種多様な者達が存在する。それは一族として血脈を受け継ぐ者達であったり、秘術の行使によって魔を封じるものなのであるが、ただ彼らが魔を退けるためだけに存在するかと言えば、決してそうではない。しかもこの場に居合わせる者達はそれぞれが退魔の長、あるいはそれに順ずる立場ばかりの者であり、決して己が役割のみを履行している訳ではない。更にいえば退魔と討伐対象にある混血は協定が結ばれている。特に混血の代表格である遠野とは強固な協力体制さえも敷かれている。それは、遠野との協定に旨みがあるからである。

 

 

 組織とはただ目的のみのためだけに運用されるものではない。そこに利がなければない。そのメリットデメリットを話し合うのが今日この日であったが、顔を隠しながら話し合う議題は彼らでも無視はできない事柄であった。

 

 

 ここ数年の内に幾人もの混血、あるいは日本に根ざしている魔術師が討伐されているのである。中には一族もろとも皆殺しにされた混血もいる。そしてその虐殺を捜査している最中に新たな虐殺が行われる。ここに至り、流石の退魔もいたちごっこに付き合わされるつもりもなく、性急な解決案をそれぞれに求めていた。何せ正体の見えぬ相手は徒に行われているのではないのかと勘ぐりたくなるような規模と、その行動範囲によって退魔の手から今もなお逃れており、リストアップさえ行われぬ有様なのである。

 

 

 そのため急遽会談が開かれた。秘密裏に行われた今回の会合は誰の耳にも入らぬように、厳重な警備が施されており、それは無論呪的防備も兼ね備えているため、まずもって使い魔でさえ近づく事は出来ぬ簡易的な砦と化していた。

 

 

「然り。我らからすれば薄氷の上を歩くようなもの。正当性もなく動けば遠野も黙ってはおるまい」

 

 

 重苦しく巌のような声音が空間を物理的に押し潰すかのようだった。

 

 

「しかも虐殺は正しく無差別。反転反逆関係なく討たれている」

 

 

「ふむ。そして対象は魔、ばかり」

 

 

 それぞれに発せられる声は掠れたもの、罅割れたものと様々であったが、朗々と響くそれらは確かに上へ立つものの気概があった。ここにいるのは実力もさながらその知略でもって今の地位を確立させたものばかりであり、その姿は見えぬがそれぞれに放つ気配は覇気、あるいは妖気となって匂い立たせていた。

 

 

 しかしながら議題は堂々巡りをくり返す。

 

 

「何者の手筈か」

 

 

「外の者が入り込んだというのは如何か」

 

 

 間髪入れずに滑り込んだ意見を、顔の見えぬ誰かが簾越しに鼻で一蹴した。

 

 

「よそ者が入り込んだとして、この一件にどのような意味がある。快楽的思考かよほどの莫迦ではない限り態々このような騒動を起こす事もあるまい」

 

 

「それに、そのような莫迦であるならば我らがこのようにして一同に会わずとも疾うに教会の狗共が駆逐しているであろう。違うか」

 

 

 否定の言葉は重く、そして息苦しささえあった。

 

 

 極東という小さな島国においては、かつての大戦以前より外来の魔術師乃至教会、あるいは化物が来日を果たしている。文献によれば六百年続くマキリ家もまた日本へやってきた魔術師の一族である。そのように入り込んできた者共と互いに忌み合いながらも協力体制を敷いているのが、現状退魔組織の有様であった。

 

 

 かつての大戦による弊害は、所謂裏の世界に属する退魔も例外ではなかった。波濤のように押し寄せる新たな文化に潜り込んで訪れる外来の者達。また知識。しかも人員的乃至組織的な問題として運営を行えるのが精一杯だった退魔組織は、強気の姿勢に出れることも出来ず薄氷の協定を結ぶ事によってその体裁を保っていた。

 

 

 それでも、日本の退魔組織が今日まで他の者から一目置かれているのはその凝固さにある。日本がまだ鎖国を行っていた頃、他国との交流を殆ど断った状況で退魔は大陸とは異なる道を歩み始め、遂には独自の術理を得るに至った。その道筋、その地脈の揺ぎ無さは妄執とさえ言える執念でもって推し進められ、結果今日の退魔組織が成立していると言っても過言ではない。

 

 

 しかし、組織と銘は打てどもその有様は『名ばかり』と揶揄されても否めないのもまた現状であった。

 

 

「では、やはり内部のものか」

 

 

「で、あろうな。聞くところによれば、殺された混血達や魔術師たちに因縁はなく、因果もまた繋がってはおらん。全て悪魔の所業であるかのように出鱈目だ」

 

 

 悪い冗談を言うように、誰かが鼻で笑う。この簾や暗闇の帳が意味するところはこの場がただ情報交換のみを目的として使用されているからであり、そこから発生するであろう害を少なくさせるためのものだった。だからこそ幾ら揶揄や罵言が飛び交おうとも、そこから先の争いには発展しない事が最大限の目的であった。

 

 

「……本当に悪魔の仕業であったならばどれ程幸いであったことか」

 

 

「然り。あれらは全て人の手によるもの」

 

 

「しかも相当の手練によるものだ。でなければ、あそこまで無残な事にはならんよ」

 

 

 ここにいる全員はすでに現場の情報を会得しており、現場写真にも目を通している。そうして彼らが目にしたものは、まるで物の怪の蹂躙にでもあったかのような死体の有様であった。惨殺された混血は数知れず、今もなお増加の一途を辿っている状況を鑑みれば、退魔組織であろうとも到底無碍に出来るものではない。

 

 

「酔狂か」

 

 

「あるいは恣意的なものか」

 

 

「志向的なものは見えぬが」

 

 

 誰かがひきつった笑い声を上げた。

 

 

「どちらにせよ、はた迷惑にかわりはない」

 

 

「故に誰何の程を知らなければならない」

 

 

 そして、一様に皆沈黙した。

 

 

 黙考し、事件の犯人を推察するが思い当たるものはいない。近年このような騒動を巻き起こすような輩は自滅の道を歩み、やがて討伐されるのが当然の結末であったが、その姿、あるいは形跡さえ見せぬ虐殺者の行方に思い当たるものはここにいない。それも致し方なし、現場に残されているのは無残な姿と化した死体のみであって、手筈人の手がかりになるようなものは何一つとして発見されていないのだから。

 

 

 ただ一度だけ、その名を口ずさんだもの以外は。

 

 

「……七夜」

 

 

 室内に亀裂が走りそうな緊張が走った。

 

 

 それは戦慄と表していいものだったかもしれない。それぞれに地位を収めた彼らは一筋縄では行かぬ相手であり、驚嘆とは無縁に近い立場にいるからこそ、ただ一言呟かれたワードはさざめきのように広がっていった。

 

 

「……何を莫迦な。彼らは滅んだ。遠野によって」

 

 

「しかし、あの手並み、あの容赦の無さは七夜の者しか思い当たらぬ」

 

 

「では死人が動き回っているとでも?」

 

 

 七夜とは退魔においてはすでに過去の亡霊だった。

 

 

 混血の宗主によって滅ぼされた一族の危機を聞き及んで黙殺したのは彼らである。だからこそ、その結末が如何な者であったかは聞き及んでいるし、また知識として識っている。七夜は遠野に破れ、滅ぼされたのだと。

 

 

「何せ紅赤朱を登用してまで動いたと聞く。七夜が生き残っているなどありえはせん」

 

 

「是」

 

 

 肯定の声音は寧ろ希望を賭して搾り出されたものだった。

 

 

「だが、もし生き残りがいたとしたら」

 

 

「……」

 

 

 再び、沈黙が舞い降りた。それは先ほど降り注いだ静けさよりも重々しく、また殺伐としたものであった。それほどまでに事は重大なものだった。退魔一族七夜。人間としての限界を極め、ただ超能力のみを行使するだけで任務を達成する恐るべき集団。確かに滅んだという報告が持ち上がっているが、そこに生き残りがいたならば?

 

 

 可能性を用いだせば切りがないのは事実であるが、机上の空論とは異なり、そこには希望がない。――――と、皆尋常ではない予感に戦慄した。静謐と化した室内の床、その中央に虚ろを突破して轟音が着弾した。

 

 

 気配もなく射出されたそれは木目に深く突き刺さり、帳越しに口を閉ざしていた者達は突然の変化に瞠目する。

 

 

 皆が注視する先に突き刺さっていたのは、おどろおどろしい瘴気を放出し、闇色の腐臭さえ放つ日本刀のような何かであった。否、事実黒々とした闇が呪いのように滲み出ている。それは空気を汚し、御香の臭いを凌駕する死の香りを撒き散らす。

 

 

 柄に巻かれた数珠、その刃は朽ち果て、今にも自壊してしまいそうな有様ながら、異形としか言いようのない刀であった。

 

 

「――――何者か」

 

 

 それでも誰一人動じる事無く、侵入者へと対応できたのは流石と言うべきであったか。この場の仕切り役でもあるしわがれた声が徐に口を開いた。しかし、口を開いたのは姿を見せぬ侵入者ではなかった。

 

 

『ひひ、ひ……。何者カ? 何者かァだと?』

 

 

 錆びた金属を擦り合わせたような軋み音が室内を満たした。まるで空間に歪な亀裂を走らせるような声音は、闇色の瘴気の中、突き立つ刀から伝わり、ある者の畏れにも似た呟きを溢させた。

 

 

「……その声。真逆、刀崎梟か」

 

 

「否。あやつはすでに討伐されておる」

 

 

 金属音のような声音の持ち主は退魔でもまた名の知れた存在のものであった。刀崎梟。作刀の一族を狂乱の内に没落させた狂気の男。刀剣に魂まで奪われた老人の者に相違ない。

 

 

 だが、梟は混血の宿命として反転し、討伐されたはずであった。

 

 

 しかしながら、刀が口ずさむ雑音は一度耳にしてしまえば忘却する事も出来ぬ彼の刀崎梟のものに他ならない。

 

 

『応よ。その通りダ。刀崎梟はおっちンでる』

 

 

 ぎゃぎゃぎゃ、と耳障りな嘲笑を放ちながら妖刀は言う。

 

 

『そしテ、ここニは俺がいる。そして、もう一人ガな』

 

 

 その言葉に何事かと皆首を傾げ、思い当たった瞬間には頭上へと視線を投げかけた。

 

 

 するとそこには天井の梁にさかしまな姿でぶら下がる何者かがいた。

 

 

 薄暗闇に全容ははっきりとしないが、行灯がぼんやりと映し出す光よりも遥かに炯炯と輝く蒼い瞳は、獣性そのもののようであった。恐らく、彼こそがこの妖刀を抜き放ち、投擲した張本人であり、また幾重もの警備や呪的防備を掻い潜りこんできた侵入者でまず間違いはないだろう。

 

 

 だが、それ以上に皆その瞳の輝き、否、眼差しそのものに心奪われ、竦みあがった。

 

 

 虚ろでどこを見つめているかも判別できぬ眼。ただ鋭い切っ先にも似た眼差しの奥底、蒼穹の輝ける青を模した瞳は濃縮し、凝縮された殺意が不気味な塊と化して渦を巻いていた。その有様にある者は呻き声を上げ、ある者は悲鳴を堪えた。何故なら、彼らはそのような瞳に心当たりがあって当然の者達なのだ。

 

 

「七夜……」

 

 

『ひひ!そうさナ。ここにいルのは七夜朔。ソれ以外の何者でハなく、そレ以外の何者にもなレぬ純粋の殺人鬼よ』

 

 

 朗々と紡がれる骨喰の声は聴衆に成り下がった者達に怯えをもたらせるには充分であった。

 

 

 今しがた誰かが空言のように呟いた机上の空論が、現実となって現われたのである。それだけならばまだ驚嘆さえ寄越さなかっただろう。だが、もし彼らが知っている七夜という存在が彼らの知っている通りであったならば。

 

 

「―――――。―」

 

 

 暗闇の中、その偉容を見せなかった蒼き瞳が瞬き後、掻き消えた。――――瞬間、ごとりという重く硬い音が室内に木霊した。そして、簾に鮮烈な赤色が飛び散り、それは勢いを留めず中央に突き刺さっている骨喰の刀身を濡らした。

 

 

 帳越しに起こされた惨殺を見て、幾人の者達は心胆を震わせた。七夜の者は魔に過剰反応を示す退魔衝動に特化した一族。そして、捲くし立てるように行われた所業に怯えさえ脳裏に過ぎらせた。

間違いない。こやつは七夜。それ以外にありえない。

 

 

 そうでなければ、このような前置きのない殺人は行えない。

 

 

『そうよナぁ、朔。こコには幾人も臭ェ奴らがいルなあ。退魔の癖に魔を宿しタ阿呆どもがな。次ハ誰だァ? 誰を狙うンだあ』

 

 

 骨喰の殺害宣言に戦慄したのは血に魔を宿す者達だった。此度の会合で命を脅かされるなど、終ぞ思いもしなかった者ばかりである。しかし、惨殺は現実として巻き起こった。そして遂には声を荒げる者まで現われた。

 

 

「貴様が七夜だというのならば、これが意味する事を解して行っているのであろうな!」

 

 

「然り!我ら退魔に魔手を揮うとは一体如何なる事か」

 

 

「貴様も早く止めよ!衛兵はどこにありや!」

 

 

 だが、彼らの叫び声は次の瞬間には悲鳴へと変貌して部屋に反響した。再び、三度と血飛沫が舞い上がり、生者の絶叫が死者の絶望となって変異していく。

 

 

『無駄ヨ。何者も朔ノ邪魔は出来ねエ。何者であろウとも朔の邪魔はさせネえ。何せ俺ハ首輪でなけリゃ鎖でもネエ。タだのオンボロ刀よ』

 

 

「つまり、守衛の者共は全滅か」

 

 

 ただ一人、この場を総括していた者だけが、狂騒とは無縁な声音を発した。

 

 

 驚くべきはその胆力であろうか。すぐ隣にいた者が帳越しに殺されてもなお平静を保つその様は、退魔組織を束ねる者として許されただけのことはある。だからこそ七夜朔本人には交渉の余地はないと早々に意識を変え、室内の中央に突き刺さったままの妖刀に問いかけたのだった。

 

 

『ひひ、ひ……。まあ、そうよナ』

 

 

「ならば致し方なし。……で、何が目的だ」

 

 

 仮にも退魔を率いる立場にいる者を幾人も惨殺しているのである。目的がなければ、それこそ七夜とは悪魔に違いなかった。

 

 

『まア待て。慌てテも損するばカりだ。朔が全滅させルまで、アと少しだからよウ』

 

 

「それこそ待ってもらおうか。態々七夜が手を下すのを待つ必要を感じぬ」

 

 

『あ? しかたネえだろう? 何せ朔は七夜で、そこラにいるのは魔なんだかラよ』

 

 

「……」

 

 

 血臭が漂い始めた。

 

 

 決して狭くはない部屋ではあったが、つまりそれほどまでの血が流れたという事である。現に帳の隙間から滲み出る流血がひとつの血溜まりと化して、頭上から見ればその惨事は目を逸らしたくなるような有様になりつつある。首を失い、倒れ伏した体が崩れ落ちる音が、ひとつ、ふたつとした。

 

 

 その音を聞き、簾越しに仕切り役の老人は死体処理を手配しなければと、冷酷に思考し、改めて骨喰に問い詰める。

 

 

「ではお主らはわしを殺さぬと」

 

 

『当然だろゥが。なンたって用事は手前にこそあんダからよォ』

 

 

「わしに、か?」

 

 

 意外な用件に老人は暫し口を閉ざして、ようやく収まりのついた悲鳴の声音が屠殺の終了である事を知った。死者の数は三人、あるいは四人だろうか。それぞれの簾から流れ出る鮮血はやがて臭い立つ血の香りと化しており、正確な総数までは判断できなかった。

 

 

 だが、今のところ死体の数はどうでも良く、侵入者の目的こそ知るべきだった。そして思いつくものはひとつだけだった。

 

 

「つまり七夜を切り捨てた復讐か?」

 

 

 かつて、遠野が七夜を探っていると知り、両者がどういう結末を辿ろうとも構わぬとして静観を行った退魔組織に対し、復讐の刃を向けるのは道理とも思えたが、すぐさま思考は否と唱えた。

 

 

 すでにあの時には七夜と組織は盟約を破棄していたが、それを勘違いして八つ当たりにも似た行動を起こすとは思えない。そして復讐の牙を向けるならば、まずは直接的な原因である遠野にこそ歯牙が向けられる方が道理である。もし、それが分からぬほどの道化であるならば話は別であるが。だからこそ、老人は挑発混じりに問いかけたのであったが、返礼は骨喰の歪な嘲笑であった。

 

 

『ひひひひひひひ! そいつア面白エ! 確かにそれモそれでアりだろうよ。んが、今回はちょイとばかし違ェ』

 

 

「では、なんだ」

 

 

 気付けば言葉を発しているのは両者のみとなっていた。七夜の標的にならず、命を散らせずに済んだ者達は静観をしているつもりか、口を噤んで老人と妖刀の会話を注視している。それを内心老人は情けない、と見下し、七夜の目的を知るため言葉を紡ぐ。

 

 

「例えお主達に何か他の目的があろうとも、ここまでの事を仕出かしておいてそれを果たす保障はどこにある。これでは恫喝と代わりはない」

 

 

『ひひ、ひ……恫喝と来タか。これごトきで、これぐラいの有様で恫喝なンぞ聞いて呆れるなァ。こレでも朔は自制していルかもしれねえんだぜェ?』

 

 

「なるほど。お主では七夜を止められぬ、という事か」

 

 

『ちイとばかし手順ってェもんガ必要でね。だからよゥ、今の状態じゃ無理だわナ』

 

 

 嘲うかのように骨喰は笑う。その実、嘲っているのだろう。それが何に対してかは、この場にいる者では理解できぬ事ではあったが。恐らく、知るのは骨喰のみであろう。

 

 

「して、お主らの目的を聞いてわしらに一体どのような利がある?」

 

 

『七夜朔とイう暴力装置』

 

 

「……つまり、七夜を退魔組織に再び復権させるという事か?」

 

 

 自ら退いた身である七夜が再び退魔組織に復権する。それが意味するところは大きい。

 

 

『おっと、勘違イはいけねえなァ。七夜はスでに滅びて朔一人。退魔に組みするのは朔だけだァ』

 

 

「一人だけ、だと? それこそ土台叶えられるはずもない。個人で出来る事など程度が知れる」

 

 

 老人の言葉を骨喰は邪笑で迎え入れた。その笑いに空間が軋み、硬質化する。まるで悪意そのものであるかのような笑い声であった。

 

 

『七夜黄理ヲ知り、軋間紅摩を知っテる奴が言う台詞とは思えねエなあ、ええオい?』

 

 

「……して、七夜朔とやら両名に並ぶほどとでも嘯くか」

 

 

 両者の名を出されれば流石の老人も口ごもらずを得なかった。暗殺者としての術利を極め、人としての臨界を極めたと評された鬼神七夜黄理。そして存在そのものが秘匿されるべき鬼の末路、軋間紅摩。共に鬼と唄われた両者の名を骨喰は豪語する。個人のみで大破壊を行える人物が他にも外界には存在している事を老人は知っている。だからこそ、先ほどの言葉は苦し紛れの苦悶に過ぎなかった。

 

 

『さアて、どうだカな。そいツあ手前の目で確カめろ。目の前ノ事も含メて、なァ』

 

 

 最早呻き声さえ聞こえぬ空間で、とりあえず七夜朔の殺害は終わったらしいと視線を動かしながら周囲を見定めた老人は、七夜朔を取り込んだ場合の利害を考慮する。確かに直接的手段として暗殺を行使する七夜は、退魔組織として欲しい人材ではある。

 

 

 だが、それは必要不可欠な存在である、というわけではない。あくまで必要条件を満たしているだけであり、しかもその手腕は未知数。どれ程の使い手かは先ほどまで行われていた惨事で理解できるが、その上限が果たしてどこまであるのかが分からぬ相手を取り入れるには、あまりに今ここで失われた損失と、今まで奪われた流血が多い。しかしながら、それを為してもなお復権を唱えると言うのであるならば、それだけの何かがある事には間違いない。

 

 

 では、その何かとは一体なんだ?

 

 

 よほどの利益をもたらさぬ限りは七夜の復権など望むべくもない事等分かっているだろう。ならば、一連の惨殺事件と今ここで行われた殺しの手筈を鑑みれば、七夜朔が手を下した事に相違はないと断定できる。そこで失われた利益と合わせても、七夜が退魔に再び戻れる事なぞ容易ではないのは明らかだ。

 

 

 なのに、なのにである。

 

 

 骨喰は未だおぞましい笑い声を上げているのであった。

 

 

『まア、ここで手土産のヒとつでもくレてやらァ。なあ、朔ヨ』

 

 

 嘯く声音が神経に障る騒音にしか聞こえぬ骨喰の言葉がひとつの契機だったのだろう。簾越しに座っていた老人の頭上から、ぼとりと重たい何かが落とされ、自然と老人はそれを手に取る形となり、目を剥き、総身に震えを走らせた。

 

 

 ――――そこにあるのは首だった。

 

 

 しかし、ここにいる者たちの首ではない。恐らくどこからか運び込まれたもの違いないが、ただ老人は落下してきた首の面容に驚嘆を覚えたのであった。

 

 

 ひどくしわがれ、落ち窪んだ両目に生気はなく、また毛髪もない。髑髏の表面に萎びた皮膚が張り付いているような顔である。声さえ発すれば好々爺のような印象を受けるやも知れぬが、この首の持ち主がそのような人畜無害とは無縁な存在である事を老人は深く理解していた。

 

 

『蟲の翁。間桐臓硯の首だァ。ひひ、ひ……手前らモ困ってたんダろう? こいつに』

 

 

 誰も言葉を発することが出来なかった。無言は時として絶対なる肯定となる。

 

 

 蟲の翁とは間桐臓硯の通称である。

 

 遥か昔、彼は外来した魔術師一族の当主であり、名をマキリ・ゾォルケンから改めた者だった。臓硯は言葉通り、肉体を無数の蟲で構成した魔術師であり、退魔としても幾度となく討伐の手を伸ばしていた相手だった。それは臓硯が己を構成するための糧として人肉を必要とし、つまり人を襲う化物だったからである。故に退魔組織は間桐臓硯が己の領地から離れ、行脚を始めた際には討伐せしめんと討伐隊を派遣したのであったが、その悉くが全滅という屈辱を味わっている。裏を返せば、それほどまでに強力な魔であり、また厄介極まりない怪人であるのだが、その首が今老人の手に収まっている。

 

 

 これが偽者だという可能性は直に触れている本人がありえぬと断じた。何故なら、臓硯は蟲で肉体を構成しているが故に本来人が持つ人体を失っている。肉を失い、その代用として本体を蟲に変貌させた魔術師の肉体が蟲であるという手触りを、老人は確かに感じていた。しかし、だからこそこのようにあっけなく討伐できる相手ではない事を老人は知っている。幾ら肉体を潰せども無数の蟲によって再構成を果たす彼の魔術師は、到底人の手には負えぬ怪物として退魔でも手出しが出来ぬ対象だった。

 

 

「この首が間桐臓硯を構成していた蟲の残骸である可能性もある」

 

 

 搾り出された反論は呻き声を伴っていた。

 

 

『ひひ、疑り深イねェ。確かにそレは蟲の翁の残骸ヨ。最早潰えた蟲の命ノ亡骸に他ならネエ。保存すルほウが面倒だッたってもンよ』

 

 

「……」

 

 

『けどヨ、あッけないもんダったぜェ? アの蟲野朗、簡単に滅んでヤがる』

 

 

「―――――!」

 

 

 今度こそ老人は絶句した。交渉のイニシアチブをとられても過言ではない。それほどまでに間桐臓硯を滅ぼしたという言は老人に衝撃をもたらした。あの不死と称され、魔術の末にたどり着くとされる妄執に取り付かれた化物があっけなく討伐されたという事実がもし本当ならば、七夜朔の腕は予想を遥かに超えている。いや、最早朔は七夜という一族の範疇に収まらないだろう。

 

 

 七夜は混血殺しを主に生業する一族であり、だからこそ外部からの血を要れず、近親相姦のみでその血脈を受け継ぎ、秘奥を継げてきたが、それはあくまで殺しの手筈のみのはずだった。

 

 

 だが、今回七夜朔が討伐したと報ずる相手は退魔の如何なる手錬でも一蹴にされてきた正真の怪異である。それを討ち滅ぼしたというのであるならば、只者ではない。老人は急いで外部へと連絡し、間桐臓硯の死が事実であるかどうかを退魔及び周囲の教会関係者に問い合わせた。

 

 

 もし返答の程が真実であるならば、七夜朔は一個の暗殺者では収まり切れない真実の殺人鬼なのだから。

 

 

『六百年がどウとか、聖杯ガどうとカ末期に言ってたが、大しタこたアねえ。化物が殺されるのは全クもって道理だァ。それが鬼の手並ミによるもんだっタら、尚更そうダと思わねエか?』

 

 

「……して、主らは何を望むか」

 

 

 当然の疑問として、老人は手に収まっていた首を横に置きながら聞いた。間桐臓硯を討伐できる手腕、そしてその功績は確かにこの場の惨殺を帳消しにしても良い程のものである。それほどまでに長い間退魔組織は蟲の翁が及ぼす害に手を拱いていた。しかし、それほどの腕を持ちながら一組織に所属しようという魂胆が解せない。七夜朔の手腕を持ってすればフリーランスの暗殺者として暗躍すれば引く手数多であろう。

 

 

 魔術師を例に挙げれば魔術師殺しとして暗殺を行うものが存在するのである。目的を最優先と取るならば、余計なしがらみさえ発生する組織は煩わしさとなるだろう。ならば、七夜朔もまた自由の身として組織に組みする必要もないと、老人には思われた。寧ろ、彼らにメリットがあるようには考えられない。――――と、僅かな数瞬思考に潜り込んでいた間隙を、何者かの気配が埋め尽くした。

 

 

「―――――。―」

 

 

 簾越し、ぼんやりと灯された明かりの中で佇む男は、床に突き刺さったままの状態である骨喰の側に屹立していた。

 

 

 見上げるほどの長身痩躯。ワイヤーで引き締められたような肉体の表面には幾つもの切創、あるいは判別できぬ傷跡が這っている。その装束は藍色の着流しに、血には染まらぬ白の七分丈を履いている。損失しているのか左腕はない。そして炯炯と空を思わせる蒼色の瞳。その中身に殺意が渦を巻いているのが距離を隔てていても察することが出来た。

 

 

 ――――鬼。あるいは亡霊か。

 

 

 漠然とではなく、はっきりとした感慨でもって老人は姿を現した朔をそう思った。鬼気迫る圧力のようなものは無いが、注視しようと視線を集中させようとすると一重にも二重にもぶれて見えるその有様は尋常の類ではなく、化生の部類に属しかけている者だと断じれた。

 

 

 そして、対面して老人は正しく了見した。

 

 

 まず間違いなく、これは七夜の生き残りだと。

 

 

『ひひ、ひ……トり合えず七夜朔を退魔に復権さセろ。たダし、表沙汰にゃスんな』

 

 

「公表はしないという事か。しかし、何故だ? 七夜の名は魔への抑止にも繋がるだろう」

 

 

『阿呆が。そのほウが動きやすイからに決まってるだろゥ?』

 

 

「……なるほど。では、お主らを知る者はここにいる者たちという事だけと言うのか」

 

 

 老人の発言に死を免れた者達は一様に頷いた。あのような暴虐極まりない存在が自分たちに向けられるなど溜まったものではないと考えたのであろう。ひた隠しされてはいたが、彼らには拭いようもない必死さがあった。凡そ恐れとは無縁な者達ばかりだった事が仇となったのだろう。情けない、と老人は再び内心溜め息を吐いた。

 

 

「して、それでお主達は何を得る。更なる虐殺か、それとも安寧か」

 

 

『んなもン、端から決まってる』

 

 

 そして、骨喰は朔に引き抜かれながら、再び歪な笑い声を発した。

 

 

「遠野への復讐か」

 

 

『それコそ疾うに決まってやガる。……いや、そレこそ道中の過程ニすぎネエ』

 

 

 否定をせず、鞘に収められながら骨喰は嘯く。するとあれほど振り撒いていた黒々とした瘴気は消えうせ、残るのは腐臭の残り香と、耳障りな嗄れ声。

 

 

『七夜朔をもっト高みに立タせる。俺の望ミはただそれだケよ』

 

 

「……高み?」

 

 

 老人が疑問を口ずさむ前に、いつの間にか七夜朔は消えていた。

 

 

 物音ひとつ無く、まるで始めからそこに誰かがいなかったかのように形跡は残されていない。あるのは滲み溜まっていく流血と、傍らに置かれた怪人の頭部のみ。彼がそこにいたと言う事実はそれのみ。

 

 

「……あるいは、七夜黄理を超越するか」

 

 

 誰も知らず、老人は感慨深く一人呟いた。

 

 

 そして、間桐臓硯が間違いなく討伐されており、一族諸共皆殺しにされていたという旨を、臓硯が根城としていた冬木市にある教会の神父から報告を老人が受けたのは、それから少し経った後の事であった。

 



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第七話 人殺の鬼 Ⅱ

 夢を見る。夢を観る。夢を、視る。


 深く、深く、まるで沈むように意識は潜り込んでいく。どこを目指しているかは分からない。ただ、そうしなくてはいけないような気がしたから、闇の中を泳いでいく。上も下も関係なく、闇雲にひたすら深く。深遠は見えない。頭上もまた然りで、そも自らがどのような姿勢で泳いでいるかさえ定かではない。

 

 

 そうして進んでいくと、光が見えた。最初ぼんやりと世界を照らす光は、光源と呼ぶにはあまりに小さくて、夜闇に一匹だけ飛行する夜光虫のようだった。

 

 

 そして、命を散らすように、閃光が迸り、思わず目を閉じる。

 

 

 目蓋の裏に薄っすらと光る輝き。それは明かりというよりも、光と呼ぶほど眩しいが、鬱蒼と茂る森の青葉に太陽は遮られ、日陰の中は涼しささえあった。そう、外にいま自分はいる。何故、だと疑問を浮かべる前にこれが夢の類、あるいは幻である事に気付けたのは、遠野へやってきてから最早幾度も見続けた夢への馴れだった。その光景を自分は棒立ちとなって見ている。まるで俯瞰しているように、自分が動かなくても勝手に情景は変化していく。

 

 

 風に吹かれ、さわさわと擦れる緑葉たち。夏なのか、随分と日差しは眩しく、思わず目を覆いたくなるほど。だけれど、目は背けられない。

 

 

 何故なら、これは夢。夢に自由意志はない。

 

 

 日向の臭いが自然と鼻に入ってきた。久しく感じられなかったそれは、もう昔に失われた記憶の残骸で、今の自分とは掛け離れていると自覚できる。幾ばくの感慨が逡巡にように現われては消える。

 

 

 人工物に囲われた世界で、姿も見えぬ誰かを探す自分。弓塚さつきを襲った誰かを追いたてる自分。

 

 

 だけど、それは何のためにだろう。

 

 

 漠然と考える。考え無しの衝動だった事は明白だ。さつきを手がけたアイツに激情をぶつけたい。理不尽な事象に対し、自らを叩きつけてやりたい。ただ、それは思考の果てにではなく、思うがまま、気付いたらと言っても過言のない考え無し。

 

 

 けれど、その果てに向かって、自分はどうしたい。

 

 

 彼女のために、という想いが体を突き動かしているのは事実だった。何も出来なかった自分、目の前の惨劇をただ目の当たりにすることしか出来なかった事への後悔、自責の念が粘り気の強い泥のようにこびり付いている。だから、自分は行動しているのだ。

 

 

 問い質すのか。何故あのような事をしたのかと、真正面からあの存在に。

 

 

 明確な答えが返ってくるとは思えない。最早あの男は獣性のままに狂乱していた。そも言葉が通用するかどうかすら怪しい。

 

 

 それとも、殺すのか。

 

 

 あの耳障りな騒音を響かせるおんぼろ刀の言うままに。

 

 

 あの藍色の殺人鬼が手がけるように、己はアイツを。

 

 

 ――――殺す。

 

 

 思考に過ぎったワードが身体を硬直させる。それは殺害という禁忌にではなく、自然とそんな言葉を考えた自分に対して。おぞましさというよりは、あまりに現実離れをした感情だ。けれど、それを自分はひとつの意志として浮かび上がらせた。

 

 

 つまり、自分はアレを殺したいのだろうか?

 

 

 分からない。

 

 

 結局、思考はどうどうめぐり。

 

 

 幾ら声に出して、言葉として現そうとも、虚弱な決意でしかない。自分程度が出来ることなど高が知れるというものだ。

 

 

 分からない。

 

 

 けれど、自分はそれを行えるのだろう。相対して、まともに相手取れるとは思えない。でも殺そうとすれば、必ず殺そうとする。

 

 

 この眼、何でも切断してしまうこの眼をもってすれば、訳も無くあの命を断てる。それはきっと、吸血鬼だとか、化物だとか関係なしに。

 

 

 もしかしたら、あの殺人鬼さえも、自分は殺せるかもしれない。

 

 

 そんな可能性に、身震いがする。興奮ではなく、また武者震いなんてものじゃない。これは、たぶん恐怖だ。今までの自分を否定する行為に身を委ねるだろう故の、恐れ。そも、自分にはあの殺人鬼を殺す理由が無い。

 

 

 もし理由も無く殺すとすれば、どちらのほうが殺人鬼なのか。

 

 

 けど、弓塚さつきを傷つけたアイツを殺してしまえば、自分もそんな怪物になってしまうのだろうか。

 

 

 分からない。

 

 

 ――――泣き声が、聞こえる。

 

 

 誰かが泣く声がする。幼い女の子が声をあげて、しゃくり上げている。黒髪の少女が顔をくしゃくしゃにして、涙を流している。

 

 

 ――――自分は、きっと仇をとるのだろう。

 

 

 そういう格好つけた言葉を借りながら、アイツを殺したいのだろう。憎しみにも似た激情を、怒りという感情に誤魔化して。

 

 

 森の中。血が流れて、土に染み込んでいく。赤々とした流血が緑を侵し、枯れたような模様を作り出している。

 

 

 そして、血みどろになった小さな自分。誰かに跨り、悄然としながらも、視線を固定して返り血を浴びた自分。

 

 

 僅かに鼻腔を抜ける血の香り。

 

 

 呆然なままに、血は温かいのだな、などと場違いな感慨が浮かぶのは、現実から逃れるため。

 

 

 そう。

 

 

 きっと自分は忌諱もなく殺すのだ。

 

 

 ――――あの時のように。

 

 

 けれど、あの時とは一体、何のことだろう?

 

 

 □□□

 

 

「……失礼します、志貴さま」

 

 

 返礼がないと弁えながらも翡翠は瀟洒に腰を曲げた。従者としての基本は徹底的に叩き込まれている。だから例え主人が深い眠りから未だ目を覚まさぬ様子であろうとも、せめて様子見はだけは、と不安を押し殺す言い訳を前面に押し出して、志貴の部屋を訪れたのであるが、やはり彼女の主は未だ夢の中にあった。

 

 

 それを不満とは思わない。ただ、このまま志貴が目を覚まさないのではないのかという漠然とした不安が首をもたげている。

 

 

 それも当然だろう。深夜、三咲町の路地裏で偶然にも秋葉と琥珀に会った志貴は、それまでに疲労や、どこかしらにあった緊張、そして貧血のために失神をしかけ、連れて帰られた頃にはすでに意識を失っていたのである。

 

 

 しかし手当ての途中、何度か意識を浮上させた志貴は自らの意志で歩き、自室で眠りについたのだった。その際声をかけた秋葉に返事さえ寄越さぬ歩みは、まるで夢遊病者のようであった。

 

 

 これで不安を持たぬならば従者としては失格だ。静々と成る丈音をたてずに志貴の元へ近づくと、つんと湿布のきつい臭いがした。志貴を着替えさせるために、上着等を脱がせた秋葉や翡翠たちが最初に目にしたのは、暴行を受けたとしか思えぬような痣の数だった。

 

 

 青痰の他にも腫れ上がり、炎症を起こしていた箇所まで見つけては流石に治療の必要ありと見て、薬理の知識がある琥珀の手筈により、取り敢えずの治療が行われている。しばらく痛みは残るだろうというのは志貴の手当てをした琥珀の談である。

 

 

 こういうとき、役割というものもあるが、主人が怪我をしていると言うのに手当てを自らが行えないのは内心翡翠も穏やかではなかった。何故自分はそのような手解きを受けていないのか、知識を得ていないのかという自責の念が彼女を蝕んだ。

 

 

 側で見れる志貴の顔は無表情。穏やかな眠りについている。苦悶の表情を浮かべていないので少しだけ心休まった。

 

 

 一昨日、翡翠が志貴の部屋に訪れると魘され呼吸を荒げていた志貴を見つけた時は慌てた。そして、無理矢理起こすと嘔吐まで起こしたのである。翡翠が恐慌状態になるのも無理はなかったと、秋葉は言っていたが、従者としての翡翠はそれからしばらく情けなさを引き摺らなければならなかった。

 

 

 本来でならば抱えなくても良い苦しみだったかも知れないが、必要以上に責任を感じた翡翠からしてみれば主の不調は自分に原因があるのではないのか、という思考まで過ぎってしまう。と、翡翠が又もや深い悔恨の渦中に身を委ねようとした最中、目前にある志貴の目蓋が薄っすらと開いた。

 

 

「……あ、れ?」

 

 

 心待ちにしていた主人の第一声は、そんな何処か間抜けたものであった。

 

 

「おはようございます。志貴さま」

 

 

「あ、ああ、うん。……ここは」

 

 

 未だ意識が鮮明ではないのか、志貴はぼやけた眼をしていた。返す言葉もまた、覇気がない。とは言え、彼女の主人はそのような気力とは無縁だろう。

 

 

「遠野のお屋敷です、志貴さま。差し出がましい事ですが、昨晩の事は覚えていないのですか」

 

 

「えっと、……うろ覚えであんまり」

 

 

 横たえていた身体を持ち上げながら志貴は、不思議がるように首を傾げた。移動した体からふんわりと湿布の匂いがした。

 

 

「志貴さまは繁華街で発見されてそのまま意識を失い、秋葉さまの手筈でこちらに運ばれてきたのです」

 

 

「秋葉が?」

 

 

 驚いたように志貴は口を開いた。その様子では本当に昨夜のことは覚えていないらしい。

 

 

「そうか。……それで、秋葉は?」

 

 

「秋葉さまはすでに通学しておられます」

 

 

「……そっか。お礼ぐらいはしておきたかったけど」

 

 

 その時、志貴の表情に僅かだけ影が差し掛かったのを翡翠は見逃さなかった。

 

 

 けれど、それを追求する事は出来なかった。それだけの事でしかないが、その勇気を翡翠は持ち合わせていなかった。

 

 

「……」

 

 

「ん? 秋葉はもう学校に入ってるのか?」

 

 

「はい」

 

 

 一瞬沈黙が舞い降りた。

 

 

「で、今は何時?」

 

 

「先ほど十時を過ぎました」

 

 

「……やばい、完全に遅刻だッ!!」

 

 

 慌てて体を動かそうとする志貴を制したのは、他でもなく翡翠の小さな掌だった。

 

 

「ご心配はいりません。志貴さまの学校は昨日休校を発表されています」

 

 

「……は? なんだって?」

 

 

 怪訝に顔を顰める志貴の視線を耐えて、翡翠は事のあらましを簡潔に説明した。

 

 

 時分は昼になろうとしている。窓から差し込む日差しは温かく、過ごしやすい一日だった。すでに自らの学校へと赴いた秋葉からは好きなだけ休ませておくようにという言伝を申し付けられているので、無理に志貴を動かす必要は無い。時間を気にせずにゆっくりと休養をして欲しいと、翡翠は思った。それほどまでに志貴の肉体はボロボロとなっていたのである。翡翠がそう考えるのも無理からぬことであった。

 

 

 それでも、志貴がこうして穏やかに目を覚ましてくれた事が翡翠には嬉しかった。

 

 

 だから翡翠は出来る限り志貴の心配の種にならぬようにと、どうして学校が休校となったのかを話した。

 

 

 生徒が行方不明になっていること。噂によれば吸血鬼事件に巻き込まれた事。故に、学校側がこれ以上生徒を危険にさらす事は出来ない、という理由でもって一連の事件が沈静化されるまで休校を決定した事。

 

 

 そして行方不明になった生徒の名前が、弓塚さつきである事。

 

 

 すると、話を続ける翡翠の面前で志貴はみるみる顔を強ばらせたのであった。その形相はとても複雑すぎて、翡翠には志貴が何を思っているのか全く読み取れなかった。

 

 

「それ、本当か?」

 

 

「はい」

 

 

「……」

 

 

「志貴さま?」

 

 

「そうか……」

 

 

 脱力したように、志貴は再びベッドにその身を横たえた。

 

 

 視界に広がる自室は相変わらず広々としており、違和感が拭えない。それでもこの場所が自分の家の中だとすぐさま判別できたのは、志貴が思っている以上に、遠野への親しみが出てきたということだろうか。いや、親しみという柔らかなものではなく、ただ安心できる場所にいたかったというだけかも知れない。

 

 

「ですから、志貴さまはごゆっくりとお休みになるほうがよろしいと思います。秋葉さまもご心配になられていました。志貴さまが昨日お帰りにならず、お怪我をして見つけられたとの事です。私も……」

 

 

 翡翠には珍しく少し多弁となっていた。心配によるもので、少しでも主人の心が安らげばと思っての事であったが、翡翠の言葉に志貴は心ここにあらずと言わんばかりに、どこか距離的なものではない遠方へと想いを馳せているようだった。

 

 

「帰ってきたんだよな」

 

 

「……志貴さま?」

 

 

 うわ言のように呟かれた志貴の言葉は、彼自身も意識して溢したものではなかった。それでも志貴が浮かべた表情が自嘲のものであると分かった翡翠は、何か声をかけたくて、けれど何を言えばいいのか分からず、戸惑いの最中にいた時の事だった。

 

 

 ――――志貴の寝巻きに赤色が滲んだのは。

 

 

「志貴さま……お怪我を」

 

 

「……え?」

 

 

 それが血であると認識した瞬間、翡翠は一気に恐慌状態へと陥った。顔は血の気が引き、憔悴なんて可愛いものではない。胸元に傷は見当たらなかったはずであった。けれど、現にこうして血が滲んでいるという事は見逃していた、と言う事だろう。

 

 

 しかし、それでも志貴の目から見て翡翠の状態は明らかに正常な様子ではなかった。幾ら血に慣れ親しんでいないとは言え、唇を震わせ青ざめる翡翠の顔は、死人にでも出くわしたかのような有様であった。

 

 

「あ、……ああ、わ、私が手当てを」

 

 

「いや、いい大丈夫だ! 翡翠、落ち着いてくれ」

 

 

「ででも、でも、その血が……」

 

 

「古傷が開いたんだよ、きっと。翡翠も知ってるだろ? 俺が昔事故にあって出来た時の傷だよ。それが開いたんだ」

 

 

 翡翠を落ち着かせるように、志貴は自らの出血に驚きながらも物腰柔らかな口調で話し、胸元を抑えた。血が溢れ出るような感触はなく、まるで体から思わず零れ落ちてしまったような出血だったらしい。じんわりとシャツに滲みながらも、布に水分を吸われた鮮血はすぐさま染みになってしまうような、そんな出血であった。

 

 

 だから落ち着けと志貴は言う。幾分志貴自身も突然の流血に驚いたものだったが、自分よりも冷静さを失っている翡翠の姿に、翻って冷静さを見出したのであった。

 

 

 しかし、それでも翡翠の様は尋常ではなかった。従者という役割柄冷静さを欠くのは、彼女としても己自身許せるものではなかっただろうが、その翡翠色の眼が揺れる様は、まるで怯えていると形容する他ない。

 

 

「……ですが」

 

 

「だから大丈夫だ。な?」

 

 

「……でしたら、お着替えを持ってきます。すぐにでもお持ちしてきますので、少しお待ちください」

 

 

 何か物言いたげな翡翠であったが、主人に強く言われては何も言えず、強ばった表情のままに部屋を出て行った。あれほどまで無表情であった翡翠が、その仮面を外すとなると、何か血にトラウマでも持っているのだろうか。

 

 

 その後、駆ける様な音が志貴の室内にも届いてきて、本当に急いでいるのだなあ、と彼は他人事のように胸を撫でた。そこに水っぽさはない。すでに止まったのだろう。けれど、何故出血したのか分からない。自覚症状がなかったのか、痛みが無かったのである。

 

 

 翡翠が部屋を出てすぐに胸元を開き、古傷の痕を確かめてみたがそこが開いている様子はなく、出血した原因がさっぱりであり、どこか不気味なものさえあった。と、そこで志貴はようやく自身の体に巻きつけられた包帯や湿布に気付いた。

 

 

「あれ、……琥珀さんかな?」

 

 

 的確に痛められた場所を癒すために施された治療の跡は、上半身と言わず太ももに至るまで貼られており、いつの間にこんな事をと一瞬志貴は思ったが、先ほど秋葉たちに保護されたと言う翡翠の言葉を思い出し、きっとくまなく体を調べられたのだろうと判断した。

 

 

 きっと、秋葉が戻ったら自分が今まで何をしていたのか問い詰められるに違いない。

 

 

 そう遠くは無い未来に、志貴はどのような言い訳を用いようかと苦笑を浮かべるのであった。

 

 

「まあ、でも」

 

 

 と、志貴は今の所、翡翠が落としていった着替えに衣服を取り替えるため、腰を上げるのだった。

 

 

 □□□

 

 

 翡翠が廊下の向こうから顔を青白くさせながら走り寄ってくる時、琥珀はただ事ではないと思いはしたが、そこは姉らしく落ち着かせるように柔らかく言葉をかけた。

 

 

「どうかしましたか、翡翠ちゃん?」

 

 

「あ、あの志貴さまが……」

 

 

「志貴さんがどうかしたんですか? そろそろお目覚めになった頃だと思うけど」

 

 

「はい……志貴さまはお目覚めになったのですが、ただ、その……」

 

 

 そこで一瞬翡翠は口ごもり、僅かに震える唇を堪えて言葉を紡いだ。

 

 

「胸の辺りから出血をなさって……」

 

 

「……ああ、なるほど」

 

 

 そこで琥珀はようやく得心したと、掌を打ち合わせ翡翠の様相が尋常ではない事に納得した。

 

 

「またトラウマがでちゃいましたか」

 

 

「……はい」

 

 

 未だ収まらぬ青白い表情を歪ませながら、翡翠は頷いた。

 

 

 翡翠は血色恐怖症というトラウマを抱えている。個別的な心因性の症状であることから一般生活を送る上で問題はないが、時偶に出血と遭遇すると翡翠は忽ちパニック状態に陥る。そして彼女の症状は対象が赤いもの全般でなく、血のみに限定された恐怖症だった。通常の人間であるならば、まず出血に良い感情は浮かべないものであるが、翡翠の場合はそれに対する恐怖感、不快感が強く表出し、それは酷い時になれば眩暈を起こし、極端な場合だとパニック症状を引き起こす。

 

 

 恐怖症を抱える患者はなるべく恐怖の対象となるものへの接触を避けるような生活をしており、それの徹底を行う。無論、翡翠の症状がどのようなものから来るものなのか到底理解している琥珀も、なるべく彼女が流血の場面を見ないように工夫をしているし、翡翠もそれは同じだ。彼女自身が怪我をしないよう注意は常に払われているし、またそのような場面に遭遇する事がないよう当主である秋葉とも打ち合わせを行っている。

 

 

 故に、昨夜に行われた志貴の治療には翡翠を関わらせなかったのであるが、まさか本人の目前で志貴が出血をしてしまうとは琥珀も慮外な事であった。とりあえず目立った傷は手当てを施したのだが、どこかに見落としでもあったのだろうか。

 

 

 こんなとき、姉として琥珀がやるべきことは簡単だ。

 

 

「なら大丈夫ですよ、ほーら翡翠ちゃん」

 

 

「……はい」

 

 

 ぎゅっと、琥珀は翡翠の体を抱きしめる。翡翠は最初遠慮するかのように身を強ばらせたが、次第に力を弛ませ、最後には身を委ねるように琥珀の腕の中に収まった。

 

 

 人間の包容力には心を安らげる効果がある。それは動物の子が親に擦り寄り心を癒す動作と変わりなく、体の緊張を解し、恐怖感を和らげる効力だった。無論、医療を知識として持つ琥珀もそれを知って翡翠を抱きしめたのであって、例え打算的な想いがそこに加わろうとも、姉妹が抱き合うそこには妹を思う姉の心意気というものも確かに存在していた。

 

 

 そこに、望外の望みがひた隠しされていようともだ。

 

 

「ごめんなさい、姉さん」

 

 

 恥ずかしがるように、あるいは申し訳なさそうに翡翠は漏らした。首筋に当る翡翠の吐息はむず痒さを琥珀は感じた。

 

 

「いいのよ翡翠ちゃん。困ったときはお互い様っていうじゃないですかー。だから、今は一杯甘えていいんですよ?」

 

 

「……うん」

 

 

 二人の背丈に差は無く、翡翠は琥珀の首もとに顔を埋める形で頷いた。

 

 

「それで、志貴さんの様子はどうでしたか?」

 

 

「……昨夜の事は覚えていないみたいです。それで、出血の事は大丈夫だと仰られていたのですが、その、血が染み出ていたので、お召物をもってこようかと……」

 

 

「うーん、志貴さんも困った方ですねえ。翡翠ちゃんを困らせるなんて」

 

 

 琥珀の腕の中で微かに翡翠の体が震えた。きっと志貴の胸元から血が滲み出た光景を思い返したのだろう。その様に、まるで幼子のようだと琥珀はどこか心の奥底で思った。

 

 

 恐れに震え、庇護を求める様はか弱き幼児のそれである。世の男性が見やれば庇護欲を掻きたてられるであろう姿に、琥珀は〝そこが翡翠ちゃんの可愛い所でもあるんだけれど〟と笑みを浮かべた。

 

 

「それじゃあ、志貴さんのお着替えは私がやっておくから、翡翠ちゃんは少し休んでおいたらいかがです?」

 

 

「……でも、姉さん」

 

 

 主人の事は自分の役目だという言葉を吐く前に、琥珀は癇癪を起こした子供を説き伏せるように優しい口調で問いかける。それが翡翠を叩き伏せる言葉だと知りながらも。

 

 

「それに、今の翡翠ちゃんだとまともに志貴さんのお相手が出来ますか?」

 

 

「……っ」

 琥珀の言葉は確かに正鵠を得ていた。出血に怯え震える翡翠がそのまま志貴の下へ赴いても、再びトラウマに苛まれる可能性がある。しかも、今度こそパニック状態になるかもしれない。それでは先ほどの二の舞だ。給仕の役目を碌に出来ないのは目に見えている。 

 

 

 ただ、翡翠は琥珀の提案に暫し受け入れる事が出来なかった。志貴の世話をするのは自分の役目、自分の仕事だという明言の下、彼の側に少しでもいたいという願い。それを知っていながら琥珀は翡翠には無理だと言うのである。

 

 

 けれど、きっと血の跡を確認している志貴の下に行くのは到底勇気を持てなかった翡翠は、暫しの空白を置いて了承の意を首肯で伝えたのであった。

 

 

 言葉で伝えきれなかったのは、せめてもの反抗というわけではなく、再び浮上した血のイメージが彼女の内臓を苛んだ故に他ならない。

 

 

 ――――真っ赤な血。

 

 

 真っ赤な子供――――。

 

 

 己自身の肉体に切っ先を振り翳し続ける、人形。

 

 

 それは人が行う所業ではなく、まして子供行えるようなものですらなく――――。

 

 

「翡翠ちゃん?」

 

 

「……あ、姉さん」

 

 

 潜行しかけた意識が再び浮上し、フラッシュバックに囚われていた翡翠は、小さく言葉を漏らして姉の瞳を見た。琥珀色の瞳は揺れる事無く、真摯に翡翠を見つめている。その瞳に映るのは、小さな翡翠の姿。

 

 

「では、私がお着替えを持っていきますからね。ついでに志貴さんの容態も気になりますからねえ」

 

 

「……はい。お願いします、姉さん」

 

 

 微かに呟かれた声音が震えていたのは、きっと翡翠の気のせいではない。

 

 

 増して、それが琥珀の言葉に何かしら危ういものを感じたからなど、嘘に決まっている。

 

 

 翡翠が申し訳なさ気に立ち去った後、琥珀はそれまで浮かべていた柔和な笑みを消して、静々と廊下を歩いていった。恐らく、翡翠の意識はあと少しで消えるだろう、という怜悧な計算を行いながら。

 

 

 姉妹として血の繋がった二人というものもある。けれど、それ以上に翡翠の精神的脆さを経験則として理解している琥珀は、後に彼女がどうなるかを読み定めていた。そんな妹を介抱するつもりはない。可哀想ではあるが、心因性によるトラウマは他人の手には余るケースが多いという事も琥珀は熟知していたし、志貴の様子が気になるというのも事実である。ならば、琥珀が必要以上の手心を加えるのは寧ろ症状を悪化させる可能性さえ否定できないのだ。

 

 

 昨日のうちに検査をした所、遠野志貴の体に打ち込まれていた外傷は、打ち所が悪ければ致命的外傷として日常生活に響くものさえあった。しかし、それでも比較的軽い計慮であり、最悪の場合は死に至る可能性をも持っていたのである。外傷として大きく上げられる腹部や太ももなどはまだ良いが、肩部などもう少し痛める場所をそれてしまえば頭蓋にダメージを与えうるものだった。

 

 

 患部の治療を施した琥珀は、痣となった箇所にどれほどの衝撃が襲ったのかが手に取るように分かった。志貴の体に這う傷は人を殺す者による手筈に他ならぬ、と。決して暴漢などが戯れに起こした悪意による結果ではない、と。

 

 

 ならば、誰が一体?

 

 

 そこで浮かべた疑問符を琥珀は三度笑みを貼り付けて排除した。顔に浮かび上がる笑みは中身の無い空っぽな笑い顔であり、琥珀の仮面であった。

 

 

 決まっている。誰があの傷を負わせたのかなど、琥珀には手に取るようにわかる。秋葉さえ傍らにいなければ、暫し陶酔によって傷跡に指を這わせたいほどに、琥珀は理解できた。何故なら、志貴には微かにだが匂いがこびり付いていたからだ。

 

 

 医療に携わってきた琥珀だからこそ分かる、血の香り。

 

 

 それもただの血ではない。潤沢かつ濃厚に凝縮された死と血の香りが、志貴の肉体から放たれていたのである。まずもって、志貴がそれまで誰といたか、琥珀は考えなくとも分かる。それほどまでに慣れ親しみ懐かしささえ覚える、求め続けた香りだったのだ。

 

 

 ただ、それならば何故志貴とあの人が行動を共にする理由があるのか。それだけが琥珀には明確に判断できない。志貴は志貴で何かしらを講じているのは明らかであるが、あの人が志貴と行動を共にする事は、決して琥珀にとっては流してはいけないことだった。思わず、強く奥歯を噛み締める。ぎりぎりと軋み鳴る歯は、琥珀の心を代弁しているかのようだった。

 

 

 何故ならそれは、琥珀の根幹をも揺るがす事態なのだから。

 

 

「まあ、志貴さんに直接聞けばいいだけの話ですけどねえ」

 

 

 豹変するように、軽薄な笑みを携えて琥珀は進む。そう言えば着替えが必要なのだと翡翠は言っていたけれど、実は彼女が着替えを志貴の部屋に着替えを持ち込んでいる事を琥珀は知っている。すでにそのような会話を彼女達は事前に行っていたのだ。だから、翡翠が着替えをもってこなければならないというのは有り得ぬ事であるし、恐らくパニックになった翡翠が咄嗟に出した言葉なのだろう。それを知りながら志貴は翡翠を止めなかったのだろうか、それとも、それほどまでに翡翠が起こした恐怖症の状態は酷かったのか。まあ、どちらでもよいが。真実はこの目で確かめればよい事。

 

 

 何れにせよ、歯車は揃いかみ合っている。後はどう動いているかを確認できればそれで良い。今の段階で事を明らかに起こすのは浅はかである、と判断した琥珀は気を引き締めながらも、その脳裏にだけは己が思惑が軌道に乗りつつある最果てを夢想せずには入られなかった。全ての道筋はどのような道程を辿ろうとも、彼女の目的に辿り着くのだから。

 

 

「嗚呼」

 

 

 人知れず、彼女自身思わず声音が漏れた。それは淫靡な艶を秘めながらも、どこか空疎な嘆息であった。

 

 

「楽しみですねえ、朔ちゃん」

 

 

 廊下にくすくすという、着物姿をした女の浅い笑い声が響き渡った。胸に秘めた、暗鬱な想いに心を弾ませながら。

 

 

 ――――目的地の室内に、誰もいないことを知らぬままに。

 

 

 □□□

 

 

 その頃、ちょうど琥珀と入れ違いの形で自室を出た志貴はすぐさま外出の手筈を整えたが、目的地に赴く前にと、思い立ったがまま館内を移動した。目的地は今は亡き父親の書斎である。最早顔も思い出せぬ父に書斎へと向かうのは、もやもやとした想いを抱かせるものだったが、それもやがて消え去り扉の前に辿り着くと、嫌な感覚は次第に薄れていった。

 

 

 亡き父の室内は驚くほど綺麗に片付かれていた。恐らく翡翠か琥珀が日常的に掃除をしているのだろうが、主のいなくなった部屋だと言うには、清廉な気風さえ流れている。そして壁際を囲うように設置された本棚には、志貴では題名さえ読む事が出来ないような文字のものもあり、父が勤勉家であったという一面を志貴はその時始めて知った。

 

 

 それも致し方のない事であろう。志貴は幼い頃に遠野から勘当を受け、有間へと追いやられた身である。脳裏に馳せる父の姿はおぼろげで輪郭を保たず、それが本当に父の姿なのかとさえ疑りたくなるほどであった。否、志貴は父に限らず自身が未だ遠野にいた頃の記憶が朧に霞んでいて、誰も彼もが影を被ったかのように顔も体格も判別できない有様だった。ただ覚えているのは、秋葉と遊んだ頃の小さな自分と、それを連れ立つ赤毛の女の子、そして――――。

 

 

 そこから先も最早思い出せない。TV画面の砂嵐でも映し出されたかのように、記憶は掻き消されていく。それほどまでに、この屋敷で過ごした日々は志貴という少年の心には思い出や記憶を刻まなかった。それも仕方のない事だろう、と志貴は一人適当な本を取りながら納得した。自分は大人たちに嫌われていたのだ。そうでなければ、二度と敷居を踏んではならないなどという罵言を言われる訳もなく、また事故に遭遇したとは言え遠野家の長男を追い出す事などありはしないのだ。

 

 

 しかし、今考えればそれはおかしな話だった。何故、体の弱った長男が勘当を受ける事になったのか。もし、本当に遠野を次ぐかもしれない長男の身柄が弱りきっていたならば手厚く遇する事ぐらい、簡単に想像できる。遠野にはそれほどの財力もあるし、また権力も凄まじい。政に疎い志貴でもそれぐらいは分かる。

 

 

 考えてみれば、ますますおかしい話だ。事故で体の弱った志貴を、遠野に相応しくないと言って追い出すには道理が伴っていないような気がする。

 

 

 やはり、自分は大人たちに嫌われていたのだろう。そうでなければ、わざわざ追い出されはしなかったのだと、自らの身を棚に上げながら、志貴は適当に分厚い本のページをぱらぱら捲った。けど、さっぱり分からない。何かの専門書らしきものには、志貴には説明しても到底理解できぬ単語が羅列されていた。

 

 

「……何か、ヒントになるものはないかな」

 

 

 そも、志貴が父の書斎へ足を運んだのは、七夜というワードを調べるためであった。

 

 

 あの殺人鬼、そして今は取り敢えずの協力者である七夜朔を始め、遠野の名を聞いた妖刀、骨喰の異常な反応。そして、七夜黄理。それらの事柄が、何故か知らぬが自らに関わっているような気が志貴にはしたのだった。

 

 

 それを関連付けたのには理由がある。

 

 

 父が形見として残したとされる短刀、七つ夜。勘当をした息子に与えるにしてはあまりにおかしな一品である。これが年代物の価値ある名刀であるならば、まだ財産としての形で残されたのだという得心をするものだが、ポケットに収められたままのナイフはどう見ても古ぼけた骨董品にしか見えない。翡翠は由緒あるものである、というように言っていたような気もするが、果たして本当なのか。

 

 

 ただ、一度だけ使用されたとき。即ち、あの四方を死者達に囲まれた夜の際、無意識の内にこの短刀を揮ったものだったが、驚くほど手に馴染んだ記憶だけはある。人の形をしたもの、それも常に蠢き揺さぶる人体を相手に、まるで自分の手足そのもののように扱えた。

 

 

 それを思えば、何か自分に縁の在る物かも知れないという志貴の推察は、己が思っている以上にすとんと胸の奥で馴染んだ。

 

 

 けれど、どこでこのナイフと自分がつながっているのか、まるで分からない。しかも短刀の銘は七つ夜。どう考えても、あの殺人鬼と関連があるだろう。

 

 

 七夜朔。藍色の着流しを纏った、人でなしに。

 

 

 そう思い、では亡くなった父が何故この刃を己に託したのかを知りたく、志貴は父の書斎へと足を運んだのであったが、今の所ヒントどころか切っ掛けさえ掴めないのが現状であった。何せ、書斎は大きく、また蔵書は膨大である。ちょっとした図書室の広さに置かれた本棚の中へと詰め込まれた本たちは静寂を保ちながら、ひたすらに押し黙っていた。それが志貴にはまるで何かを隠しているかのようにさえ思えた。

 

 

 きっと、何かがあるのだ。あやふやではあるが、どこか確信めいた閃きでもって志貴は目に付く本を手に取るが、やはり己が直感と関係するようなものはなにもない。無言の圧力さえ放つ本たちはその秘跡を開いてはくれない。

 

 

「……これも違う、か」

 

 

 ともすれば、零れる声音には気疲れなようなものさえあった。これで、もし何もヒントらしきものが見つからなければ正しく徒労である。起き抜けの行動で何も成果が得られないのは、志貴としても頂けない。

 

 

 目を凝らす事に疲れたのか、目元が重いと眼鏡の位置をずらそうとして、そこで志貴は己が眼鏡を失ってしまっている事を思い出した。縦横無尽に世界を走る黒い線は、見えているが、頭痛はしない。けれど違和感があった。だからだろう、どうにも朝から不快感が拭えなかったのは。翡翠の言葉にも耳を傾ける事も少なく、心ここにあらずと言う様に身を横たえたのは。

 

 

 眼鏡を失ってしまった事の喪失感はしばらく消え去らないだろう。あれは視力矯正用の眼鏡ではなく、外界を遮断する特製の眼鏡。先生から貰った大切な一品だったのだ。後生大事にしなければならないと、志貴は思い出そのもののように扱っていたのだ。その草原で出会えたひとつの奇跡を、志貴は無くしたという形で蔑ろにしたも同然の事を行ったのである。寂寞が胸を締め付けるようだった。それは志貴の求めて止まぬ日常が遠のいたからやも知れない。

 

 

 さつきが襲われ、学校は休校となった。アレほどまでに続くと思われていた今までの日常が、もう随分と遠方にあるような気がしてならない。そして、失われたからこそ分かる大切さというものがあるのだと、志貴は実感した。

 

 

 けれど、もう立ち止まれないのだ。この肉体を動かし、駆動させる燃料はすでに投下されている。弓塚さつきへの想いが膨れ上がり、それを傷つけたアイツへの激情は燃え上がっている。ならば最早、立ち止まるつもりはない。この遠野志貴という生涯を賭けてもいい。アイツにぶつけてやりたい。叩きつけてやりたい。そんな感情が志貴を支配している。

 

 

 それは、志貴自身も気付かぬ心の足枷となっていた。弓塚さつきという人間へ感情を傾ければ傾けるほど溜まっていく鬱屈は、彼自身の思考を固定化させるほどの重みを持ち、捕らえて離さない。先生との思い出を破り捨ててまで事を行おうとしているのが、その良い証拠であろう。今の志貴ならば、躊躇いを覚えずにこの眼を使う事さえ厭わない。そんな危うさが志貴自身を支配していた。――――と、思考が沈降していく最中に大腿筋が痛み、思わず蹈鞴を踏みかけた。その拍子に勢い余った腕が本棚に当たり、ばらばらと幾つかの本が音をたてて落下した。

 

 

「あちゃあ。こんなんじゃあ、なあ……」

 

 

 前日に行われた修練という名の甚振り。四方八方から襲い掛かる七夜朔の容赦ない猛攻。そのダメージが未だ抜けていないのだろう。彼の実力を未だ把握していない志貴には分からぬ事ではあるが、それでも朔の手並みが順調ではなかった事を思えば、蒼痰だけで済むほうが奇跡であったのだが、それを知る由もない志貴は、やはり自分は人外たちには届かないのだろうか、という忸怩たる思いが錯綜した。

 

 

 しかし、志貴の当惑はある一方では正しい事で、そしてある一方では間違っている。彼は確かに戦闘、否、殺し合いに於いては素人。それは変えようのない事実であるし、志貴もまた否定できない。けれど、彼があの夜に見せた最後の一撃。致命傷を与えるはずだった朔の思惑を凌駕し、あまつさえ骨喰さえも呆れ果てさせた一振りは、確かに人外への脅威となるものであった。何故なら、七夜朔に喰らいつく人間など今まで存在せず、またその絶命の刹那を彼は自力で逃れぬいたのである。

 

 

 それを志貴は知らない。知らぬままに、己が未熟さを悲嘆する。

 

 

 何故自分はこんなにも駄目なのだろうかと責める。このままではさつきの仇など取れないというのにと、そんな思いに駆られる。思い浮かべるは布団に横たわる弓塚さつきの姿。血の気の失せた、様変わりした姿。

 

 

「弓塚さん。……大丈夫かな」

 

 

 無論、シエルを疑っての言葉ではない。けれど、心配なものは心配である。シエルが任せろと言ったのであるから、そこは信頼している。彼女が一体どのような存在であるかモ又、朔同様に知らぬ志貴ではあったが、彼女にはさつきを任せられる何かがあった。だから大丈夫なはずなのだ。間違いはない。魔道に詳しくもない志貴はそう結論付け、思考を再び切り替える。どちらにせよ、志貴ではさつきの治癒など出来るはずもなく、また現代医療の限界というものもある。彼女に任せるしかないのだ。そう自分に言い聞かせて、志貴は床に落ちた本をひとつひとつ拾い上げていく。その内容は先ほどと同じように理解できない。英語でもラテン語でもない、文字を読み取る事なぞ志貴には不可能と言っていいだろう。

 

 

 しかし、最後のひとつとして残された本を何とはなしに広げた時、彼は思わず瞠目した。

 

 

「久我峰。軋間。刀崎。有間。……これって、もしかして」

 

 

 彼が手に取ったのは遠野家の分家草本であった。遠野から追い出された身である志貴が何故それだけを理解できたのかは、有間という家名にある。その家に彼は今までいたのだ。遠野分家の有間として。だからだろう、彼はこの本には何かあると言う直感のままにページを捲り、ひとつのページに行き当たった。

 

 

「両儀、浮淨、浅神……これは違う分派なのか?」

 

 

 彼がその本にめぐり合えたのはひとつの運命だったのかもしれない。運命とは数奇な偶然を謀った必定の理。ならば、志貴がその本を落とし、そして手に取ったのはひとつの定めだったのだ。

 

 

「……ッ」

 

 

 思わず、息が止まった。そのページに記された文字。それは今志貴が狂おしいほど求めていたワードであった。ただ二文字だけしか書かれていない文字ではあったが、その単語が秘める魔性は志貴の視線を奪って離さない。

 

 

「――――七夜」

 

 

 意図して零れた呟きは畏れにも似た感情そのままであった。

 

 

 総身を這いずる戦慄に、志貴は身震いした。

 




 はい、原作改変が出てきました。本来は男性恐怖症である翡翠が何故異なる恐怖症を抱える事になったのかは後にでも。しかし、遅々として展開が進まない……。
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第八話 人殺の鬼 Ⅱ

 惜別の羽を纏い、ただ己が肉体は殺すためにあるのだと、理念に従いし殺人鬼は、やがて行く果てが修羅道であろうとも、遂に望外の事だった。



 十一時を過ぎたあたりで屋敷を抜け出そうとした志貴は、廊下で思わぬ場面に遭遇した。壁際に備え付けられたソファで翡翠が眠っているのである。疲労が溜まっているのであろうか、と志貴は思いながら側を通過したが、給仕姿のままである翡翠の顔が未だ青みを残しているのを見出し、先刻に彼女が志貴の出血で慌てふためいたのを思い出した。やはり、血が苦手なのだろうか。肘掛に身を寄せる姿で眠りに伏す翡翠は安寧の眠りとは程遠い様子で、唇も少し震えている。だったら悪い事をしたな、と思う。

 

 

 きっと嫌な夢を見ているのだろう。時折動く口元から寝言のように言葉が零れるが、一体何を言っているのか志貴には上手く聞き取れなかった。

 

 

 とは言え、折角眠っているのに起こすのは悪いと、「ごめんな、翡翠」と志貴はそのまま翡翠の傍らを素通りし、屋敷を抜け出した。

 

 

 坂道を下り、徐に振り返ると豪奢な遠野邸が見えた。随分と遠いな、と何故か感慨が浮かぶ。自らが帰る場所であると言うのに、少しでも離れるとまるで他人の家だ。最近まで有間の家に厄介になっていた身の上なのだから、それも仕方のない事やも知れないが、それでもいつかは馴れなければいけないのだ。何せ、自分は遠野の人間なのだからと、彼は自分に言い聞かせた。

 

 

 坂道を下りながら思うことはこれから赴く時南医院にいるであろう殺人鬼である。あの本に七夜の名が記されているのならば、きっと遠野と七夜には何かしらの繋がり、あるいは因縁があるに相違ない。これからはより覚悟を決めていかなければならないだろう。それが一体どのような覚悟なのか分からぬまま、志貴は時南医院へと向かった。

 

 

 時南医院までの道のりを志貴は心持ゆったりとした足取りで歩いた。昼には化物を探す必要性はなく、また影の住人であると言う事実にようやく思い立った志貴は、少なくとも明るいうちは大丈夫だろうと判断したのである。だから、道行く人々を観察し、三咲町に思いを馳せる余裕さえ今の彼には出来ていた。

 

 

 昼頃ということだけあり、人通りは多かった。夜とは異なり、僅かな騒がしささえある。子連れの親子、友人同士、携帯を弄りながら歩むサラリーマン姿の男性が通り過ぎ、どこか遠くで車のパッシング音が聞こえた。まずもって長閑な風景である。眼の前にある光景を見ると、ますます自らが場違いな世界に足を踏み入れた違和感が浮上して、せめて今の間ぐらいはこの空気を楽しもうと深呼吸をしたが、肺に入ってきたのは穢れた空気のみで、思わず顔を顰めた。空を見上げると雲が多い。雨が降る様子はないが、今日は涼やかに過ごせそうである。

 

 

 それからしばらく経ち、時南医院の扉を志貴が開いたのは時計の針が三十分をさした頃合だった。閑静な住宅地にある時南医院は一見すれば病院とは分からぬような住まいであり、まさか周囲の住人もここに殺人鬼がいるとは思いもよらないだろう。志貴だってシエルから居場所を聞き出さぬ限り、このような自分に縁のある場所を殺人鬼が根城にしているとは思えなかった。それほどまでにこの場所は潜伏地としては好条件である。

 

 

 室内に入ると空気が沈んでいくような静寂が隅々まで広がっていた。そして、診察室に向かうと目的の人物がいたが、その様に志貴は訝った。

 

 

 七夜朔はベッドに横たわりながら眼を閉じていた。それだけならまだ良いが、その総身を骨喰の黒々とした瘴気が包み込む、まるで羽毛布団にように包まれている。骨喰は鞘から引き抜かれていないのにだ。

 

 

『ひひ、ひ……何か用かイ、糞餓鬼』

 

 

 ベッドの傍らに放置された状態にある骨喰が目敏く志貴に声をかけた。相変わらず耳に鳴れぬ嗄れ声だった。

 

 

「ああ、用事ってほどじゃないんだけどな。……けど、そいつどうしたんだ」

 

 

『眠ってンのさ。いや、眠っテいるトはちぃとばカし違えガねぇ』

 

 

「眠るって、こいつ寝るのか」

 

 

 意外な事に志貴は瞠目したが、考えれば当然の事だった。幾ら虐殺を重ね畏れを抱かせる殺人鬼であろうとも、朔は生物である。生物には睡眠が必要不可欠である事は志貴も常識として知ってはいたが、いざその場面に直面するまで志貴はこの殺人鬼はそういうものとは無縁の存在であると、いつの間にか思っていた。

 

 

『そリゃそうサ。何せ動き回るカらよう、寝ルってのは動くタめの基本ダろォ。手前、莫迦か?』

 

 

「……いや、そいつはそんなのしないって思ってた」

 

 

 言外に人間でさえ思っていなかったと志貴が言うと、骨喰はさも愉快そうに嗤った。

 

 

『ひひ、そリゃ傑作だなァ。まあ、今こいツがしてんのハ睡眠ってエ代物じゃネエけどよォ』

 

 

「どういうことさ?」

 

 

『精神の解体清掃(フィールド・ストリッピング)ってエやつなんだガな、コいつが朔にゃ効果覿面なンさ。俺ガ催眠を施してなァ』

 

 

「……なるほど?」

 

 

 本来、催眠による意識解体は自己催眠の術であり、術式としての難度はさほど高度ではないが、それを他者に施すのは話が別である。元々一時的に人格を無意味な断片と化す行為は抵抗感を与えるもので、好んで実践するものは滅多におらず、また目覚めるまで肉体は生ける屍となるため忌諱するものが殆どだ。その催眠を他者に施すのは対象が無意識に抵抗するため困難を極めるものであるが、契約を交わされた朔と骨喰、両者の間ではそれが難なく行える利点が存在していた。

 

 

 しかし、その難解さを志貴が知る由もなく、彼は納得したような、そうでもないような曖昧な表情を浮かべながら首を傾げた。

 

 

『あとちイとバかしで起きるだロうよォ。だガ、糞餓鬼何こンな早くかラ来てやガんだァ?』

 

 

「……いや、特に理由はないけど。なんだか、なるべくあんた等といた方がいいって思って」

 

 

『気持ち悪ィ事をいうな手前、ひひ!』

 

 

「確かに、……なんでだろう」

 

 

 馬鹿にしたように短く骨喰は嗤った。

 

 

 実を言えば志貴には朔と早急に会わねばならない用件が会ったわけではない。大火のように揺るがぬ『弓塚さつき』のためという目的はある。そしてそのため、確かに協力者としてその力を借りるという言葉を交わしているが、両者の間には明確な契約が成されているはずもなく、また曖昧な協定である事は否めない。そして、前日に行われた修練以降、志貴は両者から何をするのかというような指示を言われた訳でも、更に時間が指定されていた訳でもない。状況を鑑みれば、志貴はまるで引力に吸い込まれたように朔たちの下へ来た事になる。志貴自身が首を傾げるのも無理からぬ事であった。

 

 

 時南医院は真っ白なシーツが敷かれたベッドに黒々とした瘴気が塊のようになっている以外には、相変わらずの様相をなしていた。棚には用途の不明な薬瓶が置かれ、治療道具が幾つも転がっていおり、ベッドの横には未開封の小さなダンボールが置いてあった。

 

 

「そう言えば、時南の爺さんはどうしたんだ?」

 

 

 当然想起した疑問を志貴は口にした。

 

 

『あア、アのヤブか。アイツはこコにゃいねエよ』

 

 

「……まさかとは思うけど、殺したのか?」

 

 

『ひひッ! そりャ確かに面白エ、が、別に殺シちゃいねエよ。この街の根城とシて使うからよ、追イ出したダけよォ』

 

 

「本当か、それ?」

 

 

『まァ、朔が殺そうトした所で俺は止めネエし、止メられネエしなァ』

 

 

「止められないって……朔はお前が操ってるんじゃないのか」

 

 

 眉を顰め、志貴は問うたが返ってきたのは歪な哄笑だった。

 

 

『それコそ無理な話よなァ。何せ俺はタだのおんぼろ刀だぜェ? 役割が違エのさ』

 

 

「役割……」

 

 

『おウ、俺は朔の脳よ。こイつは物事を記憶スる事が出来ネエからよゥ、俺が代ワりに記憶をしテそいツを朔の脳に叩き込んデるのさァ。ひひ、ひ……言い方を変えリゃ、俺ハ外部記憶装置ッて所か。今もヨ、解体清掃しなガら記憶を俺からロードしテるのよォ』

 

 

「記憶する事が、出来ない?」

 

 

 若干の驚愕を経て、志貴は瘴気に抱擁された状態で眠る七夜朔を注視した。目蓋を閉じて睡眠している事から蒼い瞳は見えない。そしてあれほどの辣腕を誇る殺人鬼が左腕以外にも障害を抱えている事が、志貴には意外であった。

 

 

「どうしてだ? 何か脳に障害でもあるのか」

 

 

『……ひひ、手前がそレを言うカね』

 

 

 嘲笑でもって揶揄するように骨喰は言った。今、確実に部屋の中に亀裂が走った。愉快や邪悪以外の感情以外を見せなかった骨喰が始めて、それ以外の感情を発露させたのである。言外に己には関係のない話ではないと、志貴はようやく悟った。

 

 

「どういう意味だ……」

 

 

『糞餓鬼、手前の親父槙久の手によルもんだァ。アの野朗が小細工をしやガってヨう、お陰で朔の記憶、保存、再生、確認機能が殆どパンクしやガった』

 

 

 忌々しそうに声音を歪めて骨喰は呟く。

 

 

 しかし、志貴には自身の父の名がここで来るとは思わず、眼を見開いたまま固まった。

 

 

 遠野槙久。顔も覚えていない父が、七夜朔に手を加えたという。

 

 

 そして、それと同時に志貴はやはり七夜と遠野が無関係ではない事を確信した。己の稚拙な考察がようやく道を切り開いたような気がした。

 

 

「なあ、あんたらと遠野ってどういう関係なんだ?」

 

 

『なンだァ? 手前ラ仕出かシた事も知らネえのか糞餓鬼』

 

 

 呆れを多分に含んだ言葉は室内を反響させるざわめきを持っていた。

 

 

『手前ら遠野が七夜を滅ぼしたノさ』

 

 

「……え」

 

 

 骨喰の言に絶句し、志貴は目を剥いて横たわる朔を見た。この妖刀の言葉を信じれば、七夜の一族は全て皆殺され、滅ぼされた事になる。そしてそれは同時に、七夜朔は身内が存在しない事に直結した。自らの境遇も中々類を見ない不幸を兼ね備えた人生であったが、朔もまた同じような、その種類は異なれども心に苦痛を抱えているという事なのだろう。そんな事を知らずに志貴は生きてきた。ならば、他の遠野は、または秋葉は存じているのだろうか?

 

 

 そして、そのような事に遠野が関わっている事が志貴には衝撃をもたらせた。何分特殊な家柄である事は、以前まで殆ど部外者の身であった志貴でさえ認める所ではあるが、それでも人の命を奪うような事を行ってきたとは思えなかった。

 

 

 しかし、志貴は頭を振る。まさか、という思いが去来した。そして骨喰の言葉が真実であると受け入れたくはなかった。いつものように嘯かれた狂言であると信じたかったのである。自らの家族である遠野が人殺しに関わっているなど、まさか自らの直感で思い浮かべた遠野と七夜の因縁がそのように根深いものだとは創造だにしていなかったのだから、志貴が拒絶の感情を抱くのも致し方のない所である。

 

 

〝もっと調べてみるか〟

 

 

 最早踏み出した足は泥濘に嵌り、抜け出すことは出来ない。それでも前に進むと決めたのだから、志貴はこの時更なる暗闇へと足を進めることを心に誓ったのだった。その内なる決意を知らぬままに骨喰は『そロそろ、だなァ』と軋み声で嘯いた。

 

 

『朔が目ェ覚めンぞ』

 

 

 果たして骨喰の宣言が契機となったのか、今まで朔を包んでいた瘴気が渦を巻いて収まり、鞘の中に戻っていった。そうすると志貴ははっきりと朔の顔を見ることが出来て、思わず前のめりに寝顔の朔を注視した。

 

 

 ざんばらの伸ばされた黒髪の隙間が枕元に広がっていて、朔の相貌はただ目蓋を閉じているだけのように静謐であり、また無表情であるが穏やかであった。藍色の着流しから除く皮膚には幾つもの傷跡が見えて、彼が数え切れぬ修羅場を潜り抜けたことがそこから知れる。

 

 

 本当に眠っているのか、と志貴はそこで改めて朔が自分と同じ生物である事実と遭遇したかのような心地に晒されたものだが、志貴の視線の向こうで朔の目蓋がゆっくり開かれた。そして他人の気配を感じたのか、志貴へとその蒼き眼差しを向けた。寝ぼけ眼の様子はなく、まだ状況を判別できていないだけのようであるが、暫し、二人の視線が交差し絡み合う。

 

 

 ようやく志貴は朔と出逢ったような気がした。

 

 

 □□□

 

 

 暫し、己が体の調子を確かめるように朔は手首を捻ったり、あるいは指の関節を曲げたりとしてから体を起き上がらせたが、そこに志貴は隙らしきものを見出せなかった。寝起きで、未だ意識も浮上して間もない頃合であろうと言うのに、一々の仕草や、あるいは今の状態も一見無防備に窺えるが、幾ら夢想すれども志貴は朔に敵う自分自身を思い描く事が出来なかった。それも当然であろう。二人の力量にはそれほどまでの格差があるのだ。それを志貴は前日に理解していたが、やはり、己の力量不足を内心嘆かざるを得なかった。

 

 

「――、――――」

 

 

『快適なオ目覚めかァ、朔?』

 

 

 精神の解体清掃を経た肉体に疲労はなかったが、節々に違和感が残るのだろうか、朔は肉体の稼動範囲を十全に動かせる事を一々調べながら、復調が十二分である事を感覚で知った。このような時、時南宗玄がいれば改めて肉体管理をする事が可能であったが、現実には宗玄はここにおらず、現状朔の管理をしているのは骨喰のみという形になる。

 

 

 今までがそうであったので、これからも宗玄の恩恵を得られずとも問題はないだろうが、やはり完全な状態を目指すのがベストであろうというプロ意識からではなく、ここが動かせぬのならば他の骨肉を動かせばよいという思考の下、朔は契約を交わしている骨喰以外の第三者、志貴を視界に入れた。

 

 

 そこで朔は記憶した遠野志貴と現在の志貴の姿に相違がある事を気付く。どうやら昨晩まで装着していた眼鏡を失い、素顔を晒しているらしく、骨喰からロードした記憶と異なっていた。こういう時、己で記憶できぬというのは面倒な一面を浮かべる。ターゲットの相貌と容姿に違いが生じていれば、朔はまともに記憶を頼る事無く手当たり次第に感じた魔と命の気配へと襲い掛かるのだから、まるで飢餓に苛む猛禽のようである。

 

 

「―――、――。―」

 

 

「……」

 

 

「―――。―――」

 

 

「な、なんだよ」

 

 

 妙な間に気まずくなった志貴が口を開くが、相変わらず朔は無反応だった。いや、朔が口を開く場面など志貴は遭遇した事がないが――――、と志貴が戸惑っているのを尻目に朔はようやく動き出し、腕を伸ばした。そこには先ほど志貴が見たダンボールが置かれており、朔は蓋に貼り付けられたガムテープを無造作に破く、のではなくダンボールの蓋ごと無理矢理ひっぺはがした。盛大な音をたてて開けられたダンボールの中身は何なのかと、志貴は少々気になり覗いてみると、そこには幾つものゼリー飲料が敷き詰められており、種類は豊富で、メーカーもそれぞれ様々であった。

 

 

「なんだ、それ?」

 

 

『ひひ、見テわかんねエのかァ。飯ダよ、飯』

 

 

「……は? それが?」

 

 

『おウよ、栄養素ヤ必要最低限のエネルギーを摂取できんダから、手ッ取り早いじゃネえか』

 

 

「つまり、あんた等はそれを毎日飲んでるのかよ……」

 

 

『ひひ、ひ……手前も喰うカい?』

 

 

「確かに腹は空いているけど……」

 

 

 呆れを含んだ志貴と骨喰の間で行なわれた遣り取りを黙殺するような形で、朔は適当に飲料ゼリーをひとつ取ると口で蓋を強引に開け、そのまま吸い出した。

 

 

 ずちゅううううううううううう。

 

 

 盛大な音をたてて飲み込まれたゼリー飲料はあっという間に容器を萎ませた。

 

 

 そんな朔に微妙な視線を向ける志貴は、何故だか頭を抱えたくなった。

 

 

 以前から世俗離れをしているという思い込みを朔に対して行なってきた志貴であったが、どうやらそれは間違っていないらしい。ゼリー飲料は確かに効率的にエネルギー摂取を行なえるものではあるが、それは決して食事と呼べるものではないではないだろう。少なくとも今まで多少の制限をかけられた生活を送ってきた志貴であったが、朔のようにストイックというか、手抜き極まりない食事を取ってきたつもりはない。というか手っ取り早いからだなんて、どこの江戸っ子だ。

 

 

 そして志貴の呆れを知らぬまま、朔は違う種類のゼリー飲料へと手を伸ばす。

 

 

 何かが違うだろう、と志貴は思い、ひとつ心に決めた。

 

 

「よし、わかった」

 

 

「――――、――」

 

 

『あア?』

 

 

「俺が昼飯作ってやるから、少し待ってろ」

 

 

 そういうや否や、勝手知ったる他人の家、長年通院していた事から台所の場所まで熟知している志貴は自分でも簡単に出来る料理を作り始めた。材料は冷蔵庫にある物から適当に、調味料の目安も目測で、実に男らしい料理っぷりである。

 

 

 実の所、志貴に朔へと料理を提供する必要性は存在しない。そして志貴自身料理が得意という訳ではないので、腕を揮うという意味はない。

 

 

 ただ、あのような適当極まりないものを食事として認識しているのは、あまりにおかしいだろうという魂胆の下、半ば衝動的に志貴はフライパンを握り締めたのだった。志貴自身朝から何も食べていないので空腹と言う要因もあるが、それ以上に取り敢えずの協力者がまともな食事すらとっていないというのは如何なものだろうかという思考のままに、志貴は野菜を炒めた。

 

 

 塩胡椒をふりかけ、豚のコマ肉を合わせて炒めれば肉と野菜の良い香りが漂い始める。本当はお米も欲しいところではあったが、炊飯器の中はものの見事に空だったので、今から炊くのは面倒だと思った志貴は、食事はおかずのみという事で簡単に作り上げた。その手並みは手際良いとは決して言えないものであったが、手順どおりに作ればまず失敗などしないような簡単な料理なので、志貴ぐらいでも容易に作れるものだった。

 

 

「ほら、喰えよ」

 

 

「――――――」

 

 

 皿に盛り付けられた湯気立つ野菜炒めを見て、暫し朔は動きを止めた。志貴が料理をしている合間に空けたゼリー飲料は三つとなっており、腹は未だ膨れていない。栄養素が足りないのは事実であり、またこのままでは動けないのもまた然り。

 

 

『享楽よなァ。朔に飯なンざ作るッてよォ。一体どンな風の吹きマわしだァ?』

 

 

「いいから黙って喰えよ」

 

 

 骨喰の戯言を一蹴し、机の上に置かれた皿越しに志貴は朔を見た。彼は逡巡を経たのだろうか、徐に腰を上げると志貴の対面に座った。そしてその時になって志貴は、右腕のみで食べるのは面倒だろうな、と場違いな思いを抱きながら、黙って箸を掴んだ。

 

 

 口に広がる味は薄めであり、これは志貴があまり濃い食べ物を口にするのを禁止されているからである。時南医院は昔から志貴が世話になっている場所であり、この家の家主である宗玄に言われた注意事項を志貴は丁寧に守っているのだったが、この味ならば許容範囲だろうと、野菜のしゃきしゃきとした感触に豚肉の味わいが広がる食事を堪能しながら、未だ口をつけぬ朔をちらりと見た。

 

 

「――――。――」

 

 

「毒なんて入ってないから、大丈夫だって」

 

 

『ひひ! もし毒ナんて入ってたら、即刻お陀仏よ朔は』

 

 

「なんでだ? 朔ぐらいなら毒ぐらいでどうにかなるようには思えないけど」

 

 

『こイつは内臓の吸収がいいカらナぁ。アっという間に効イちマうのさ』

 

 

「……ふーん」

 

 

 仕方無しに骨喰の耳障りな言葉の相手をしながら、志貴は辛抱強く朔が料理に手をつけるのを待った。そうしていると志貴の内なる願いが通じたのか、彼は箸を掴み一口だけ野菜を摘んだ。

 

 

「――――。――」

 

 

 時を置き、噛み締めるように咀嚼する朔の姿は存外に幼稚な面影さえあり、そして味を確認したのか彼は次々と野菜炒めを口の中に入れていった。

 

 

〝気に入った、訳じゃなさそうだな〟

 

 

 一定に動かされる腕の動作は機械的であり、どう思っても食事を楽しんでいるようには思えない。それでも志貴は、とりあえずの協力者が自分の料理を食べてくれた事に若干の嬉しみと、空腹が満たされていく感覚に酔いしれるのだった。

 

 

 そうして、普通の少年と殺人鬼、ついでにおんぼろ刀という奇妙な構図で始まった食卓は、志貴が時たま話しかけ、相も変わらず無言のままの朔に、骨喰が笑うという光景が広まり、恙無いままに続いていくのだった。

 

 

 天上は日が昇り、暗闇は影に追いやられていく。魔の気配もまた同じく、日陰に潜み姿を現さない。

だからだろう、志貴は暫し時を忘れ、今この時に満たされたような感覚を覚えたのだった。

 

 

『飯食わせたタらって、鍛錬にャ手え抜かネエぞ』

 

 

「う……わかったよ」

 

 

「――――――」

 

 

 いつの間にか、テーブルに置かれた皿は二つとも空になっていた。

 




今回かなり短めです。

ほのぼのパート、あるいは日常パート……なのかしら。小さく纏めた感じですね。

ちなみにこの小説はBLものではないので、悪しからず藁


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第九話 人殺の鬼 Ⅱ

 一人殺せば殺人者で百万人殺せば英雄となる。
 ならば、殺人鬼となるには何人殺せばよい?



『糞餓鬼』

 

 

 

 妖刀骨喰が徐に話を始めたのは、皿を片付け終わった頃の事だった。

 

 

 

 互いにある程度腹が膨れ、少なくとも数時間は空腹に悩まされる事はないだろう。つまり、それはいざという時に動けることを可能としているのだから、遠野志貴は骨喰が鍛錬、あるいは討伐かに向かって動くものだと思い、ベッドに胡坐で座りなおした朔を視界に収めながら、骨喰の声音を聞き入れたのだが、続いた言葉は志貴にとって存外な言葉であった。

 

 

 

『ソの眼だけドよゥ、あンま使うナ』

 

 

 

「……へ? どうしてだ」

 

 

 

 思わず声を荒げる寸前、一息に呼吸を飲み込んで志貴は理由を問う。

 

 

 

 志貴にとってこの『眼』は魔に対抗できうる唯一の手段と形容しても過言ではない。それが弓塚さつきのためならば、志貴は意気望んで使用する心意気であった。

 

 

 

 なのに、骨喰は、人外の妖刀はそれを否定するのだ。

 

 

 

『切レ口を見出す眼、あるイは何でモ斬れチまう眼ってェのは確かに脅威ダろう。化物たちにトって対抗手段にナるだろウよ。それハ俺が保障してやる。手前ノ魔眼は充分使エる。他でもネエ俺が言ってルんだ、間違いネえヨ。認メてヤる、糞餓鬼。手前の眼はとんでもねえ代物だ。……シかしなア、そいつは軽くなっチまうんだよ。殺すッつうことがヨ』

 

 

 

 いつか、あの草原で聞かされた先生と同じような内容を骨喰は言う。しかし、その口調も内容も、あの時のように優しい物ではない事は当然であった。

 

 

 

「軽くなる……?」

 

 

 

『手前ハ最早畜生に堕落すル道程を歩み始めてイる。いや、遠野トいう時点で畜生にハ変わラないだろウがよ。その眼ヲ使って殺スって事は命を奪うってェ事の感触を無意味にさセちまうのさ。ひひ、アるいはそれコそ遠野にゃ相応しい末路なノかもしれネエがなア』

 

 

 

「それをお前達が言うのか?」

 

 

 

 多分の呆れを含ませて志貴は言う。遠野が畜生であると言う言葉は、真実らしきものを聞いた今、否定する気にもなれなかった。例え否定したとしても返ってくるのは嘲笑だと志貴もわかってきたのだった。

 

 

 

「殺人鬼と、殺す事を推奨するおんぼろ刀が言う台詞じゃないと思うけど」

 

 

 

『だカらさァ。朔は殺シの手筈をきっチり理解シていル。人間が、化物ガ、或イは魔がどんな風に死んで殺サれるかの筋道を知ってイる。多少、荒々しいがなあ』

 

 

 

 総身の産毛が逆立つように耳障りな声音が志貴を包み込む。

 

 

 

『ひひ、ひ……。何せ、七夜黄理ガ術利を叩き込ミ、刀崎梟がプロセスを叩キ込ンだんだ。如何に命が脆く、儚く、ソして強靭でアるか徹頭徹尾理解さセてあル。だカらこそ、殺すとイうただ一つノ手段を朔は遂行できテいるのサ。……ケどなァ、糞餓鬼。手前がその眼を使った殺害ってエのはきっとソういうもンじゃねえだロ。お前ノ目は殺スためのモんじゃなくテ、相手ヲ死なすたメの代物さ』

 

 

 

「それって、どう違うんだ。なんだか矛盾しているようにしか聞こえないぞ」

 

 

 

『筋道が違ウのサ。……そレに、あんマりに強い力ってェのはそれに依存しがチだ。他の手段を講じレない阿呆にナりがちとナる。そウいうのは、ソういウので確かに通用すルもんだロうよ、アる程度の者相手ならなァ。が、手前の獲物はソういう訳じゃネえんダろ? 真性の化物、魔なんダろうゥ。たったソれだけの眼に引ッ張られる形で殺ソうなンざ、俺ャ嗤っちまうわな』

 

 

 

「……けど、朔だって魔眼を使ってるじゃないか」

 

 

 

 呻くように志貴は言葉を返した。己が敵に唯一対抗できる手段を否定されているのだから、彼の気持ちは複雑きわまりないものと化していた。しかし、そんな矮小な志貴の反抗心を骨喰は嗤って返すのであった。

 

 

 

『ひひ、ひ……手前ハ真逆朔が魔眼のミで殺し尽くしテいるとデも言うのかイ。魔眼ダけしカ使わずニ虐殺を重ねテきたと、本気で思っテいるノかい。ソうだとシたら本気で手前救エねえぜ』

 

 

 

「朔は、違うのか」

 

 

 

「―――――。―」

 

 

 

 視界の端に座る朔は目蓋を閉じている。自身の話をされているのに無反応である。黙考しているのかと思ったが、果たして何を考えているのか志貴には未だ理解できない事だ。

 

 

 

『コいつは特別殺しニ特化した血を宿し、ソの技量モしっかリ叩き込まれテる。なアに、深くは考えなクてもいイ。用は殺しに関して、朔は純度が違うのさ。手前と違って才能ダけじゃなク、ソれを練磨し昇華シ極限まで上り詰めタ。だカら殺人鬼トして、あるイは暗殺者トして名が知レてるのさ。アイツに手を出シたらヤバイ、アイツに狙われたらオ終いだ、て風にナぁ』

 

 

 

 骨喰は純度と表現したが、ようはプロセスの問題であった。志貴が持つ眼は視界に囚われた万物の脆い部分を表出し、志貴はそれをなぞらえる事によって物を解体する事が可能である。それは命も同じだろう。未だ志貴は人を殺した事もなくば、また動いている生命を奪った事のない少年でしかなく、骨喰が言う殺しのプロセスは受け入れる事が難しい事柄であった。それは志貴が理解したくない、という話ではなく、志貴が未だ殺しを重ねぬ青少年であるがための話であり、裏に触れたばかり故に常識と非常識の狭間を彷徨う心を持て余しているからだった。何が良くて、何が駄目なのかが未だ了解できぬのも無理からぬ事である。

 

 

 

 そもそも基準が滅茶苦茶なのだ。死して尚徘徊し襲い掛かる死者と、それを掃討する殺人鬼。今までの常識では通用しない世界である事は明白。だからこそ、志貴は自身が唯一手にしていた非常識を活用しようと決心を抱えたのだが、挙句の果てに裏へと足を踏み出すきっかけとなった片割れが、それを否と言い渡すのである。これでは志貴が混乱するのも致し方の無いことであった。

 

 

 

「じゃあ、どうすればいいんだよ」

 

 

 

 当然のように、志貴は縋るような気持ちで呟いた。

 

 

 

「俺は弓塚さんの仇を取れればそれでいいんだ。それだけでいいんだ。だから、俺はこの眼を使っても構わないって思ってるのに、それが駄目だなんて……」

 

 

 

『だかラこそダ』

 

 

 

 昂然と骨喰は高らかにその嗄れ声をがなりたてた。

 

 

 

『アイツが憎クてたまらナい! アイツが呼吸しテいる事が許せナい! 思い出すダけで腸が煮エくりかエそうなほど恨みガ溜まっテいる! 充分じゃネエか。コれ以上なイってくラい百点満点ノ憎悪だ怨念だァ!』

 

 

 

 声音を軋ませて叫ぶ骨喰の声音は、この空間に存在するありとあらゆるものを侵食してしまいそうだった。だからだろう、志貴も苛立つはずのその声音に聞き入ってしまう。

 

 

 

『だかラぶっ殺ソうってぇ決めたんだろ。だカらこそ塵芥ニしてやロうって決めたンだろう。ナのに手前はタだ魔眼だケに頼っテぶち殺そうと思ってヤがった。けどなァ。手前はソれで満足カい? たダ魔眼を使ッて憎念を叩きつける事無ク、それコそあっけナく殺しちマって、お前は満足ナのかい?』

 

 

 

「……ッ!」

 

 

 

 咄嗟に返す言葉が出なかったのは、志貴自身に気付かせなかった核心へと迫るものがあったからだった。

 

 

 

 憎んでいる事に違いはない。

 

 

 

 恨んでいる事にも相違ない。

 

 

 

 けれど、殺すという事に実感が掴めないのは事実だった。

 

 

 

 言葉では、あるいは文字では幾らでも殺すなど表現できる。だが、その反面行為として行なうにはあまりに現実離れしているのだ。幼児が戯れに虫を踏み躙るのは、命の価値を理解していないが故の残酷さだ。しかし、志貴は倫理を知り育った普通の少年であり、とても命を、それも人型の生命を殺そうなぞ思えはしない。

 

 

 

『朔は殺せル。微塵の躊躇もナく、一片ノ後悔もなク鏖殺出来る。こいつは真性の殺人鬼だかラだ。では、手前はドうだ。糞餓鬼、遠野の長子よ』

 

 

 

 どくん、とひとつ心臓が高鳴った。

 

 

 

 気付けば先ほどまで食卓を囲んでいた奇妙な雰囲気は消え去っていた。空気は凍りつき、肌寒さえ感じさせる。それは骨喰が紡ぐ言葉にではなく、ベッドに座り込む七夜朔が醸しだす殺意だった。充満する殺気に骨が軋み、咽喉が渇いていく。この問答は、言葉を違えればこのまま首を縊られてもおかしくない分水嶺だった。内臓を締め付けられるような感覚が襲い、思考を摩耗させていく。察すれば、志貴が紡ぐ言葉次第ではこのまま殺されても致し方のない雰囲気が、この室内を支配していた。

 

 

 

 だから志貴は必死で考える。己はどうしたいのか。己はどうればいいのか。

 

 

 

 弓塚さつきの仇を取るためという呪文の下、己は一体何をしたいのか。

 

 

 

『なんナら朔が殺してヤってもイい。朔が殺シ、手前ハ高みの見物にデも洒落込めばいイ。心臓ヲ抉り、頭ノ脳漿を握リ潰し、全身の骨をバらして内臓を引キ摺りだしテもいい。だが、手前はどウする。どうスるんだ、遠野志貴?』

 

 

 

 彼ならば、七夜朔ならば行なうだろう。何の理由もなく、ただ本能がままに殺しを重ね、屍を積み上げていくだろう。想像しなくても、志貴にはその情景がありありと浮かんできた。悲嘆と怨嗟を踏み潰し、憤怒と寂寞を磨り潰しながら、躍動する姿は殺人鬼の名を冠するのに相応しい。

 

 

 

 全てを朔に任せてしまえばいい、とシエルは言った。暗黒の泥土に踏み込んだ志貴にせめてものアドバイスとして、その手を血で汚させないために、彼女は志貴へと告げたのである。それは、確かに楽な選択である。恐らく何をせずともこの殺人鬼はやがてさつきの仇を見つけ出し、確実に殺してくれるだろう。

 

 

 

 けれど、そうすれば志貴の懊悩と激情は一体どうなる。仇が朔に滅ぼされる光景を遠目に見て、志貴は胸がすくような思いに駆られるのか。否、その時胸に去来するのはただの空疎、空漠ではないのか?

 

 

 

 結果として仇の死を見つめただけであって、この手を下さぬとも済んでしまうという現実に、志貴はきっと耐えられないのだ。

 

 

 

 しかし、それでも。

 

 

 

 それでもである。

 

 

 

「……わからない」

 

 

 

『アあ?』

 

 

 

「わからないんだ。まだ、俺は……このままじゃ駄目だっていうのは分かっているのに」

 

 

 

 あまりに掛け離れた目的は珠玉の意志を求める。それは絶壁の崖を登ると決めた冒険家とは異なり、チャレンジャー精神によるものではなく、ただ怯え震えながらも己がやらねばいけない事を託されたと思い込んだ弱者のそれだ。

 

 

 

『……ッは! 中途半端な野朗だァ』

 

 

 

 志貴の搾り出した苦悩を骨喰は鼻で嗤った。正しくそれは嘲笑だった。

 

 

 

『生粋ノ殺人鬼と思いはシたガ、どウにも手前ハ中途半端に過ギる。温室暮ラしを揺り篭ダと思い違エたかァ。朔ヲ相手に飯作ったり、オまけに俺と談笑するナんざ気狂いノする事ダぜ』

 

 

 

「……ああ、そうかもな。俺はどっかで狂っちまったのさ。あの夕暮れから、な」

 

 

 

 ――――思う事は弓塚さつきの事ばかり。彼女の事を思うと胸が痛んで仕方がない。

 

 

 

 そして、心を苛むと分かっていながらも志貴の意志は仇を取るというワードの下、脳裏に彼女の姿を映し出し、己が罪の意識を積み重ねていく。それは最早足枷というよりも呪いという形容のほうが相応しく、彼はすっかりその泥濘に囚われてしまっている。

 

 

 

 けれど、彼はそれで構わなかった。それで良いと自らに言い聞かせてきた。それしか己が彼女に行なえる手向けはないのだと、思い続けてきた。

 

 

 

 心臓を奪われ、今も尚死に瀕しているさつき。そのために出来る事は何だとくり返し己へと問えば、現われ出でるのはさつきの血に染まった己の姿。あの日暮れの流血に染まった志貴は最早罪人なのだ。

 

 

 

 いっそ、アイツを殺せと命令されたならば、どれだけ楽だったのだろう。

 

 

 

 しかし、決意を固めたのは彼であり、目的を定めたのまた志貴自身であった。果たせなければなるまい。成せねばなるまい。曖昧な事は認めざるをえないが、それでも目標を決めてしまったのは己のみなのだ。シエルの制止を振り払い、骨喰の嘲笑を受け止めながら。

 

 

 

 なのに、志貴は未だ行く果てを見出していない。骨喰が中途半端だと揶揄するのも、無理からぬ事であった。

 

 

 

『まあイいさ。今はマだそれでいイだろウ。ひひ、ひ……なラば後は行動アるのみっテか』

 

 

 

 故に、骨喰は道を示す。志貴の模糊を押し潰し、蒙昧をひき潰すための悪意でもって。

 

 

 

『考えル前に行動すル。愚者のようでアりなガら、ソの様は賢明だァ。……後ハ慣れるノみ。狩りにデるぞォ、殺シにイくぞォ。阿弥陀の唄ヲ歌いなガら、ハレルヤと手を打チ鳴らしナがら、な』

 

 

 

「こんな真昼間からか?」

 

 

 

『だかラだ。お天道様ガ昇ってイるかラこそ、奴らガいる場所ハ限らレるってもンよ』

 

 

 

 その時、両者の会話を打ち切るように簡素な電子音が流れた。ぷるるる、と鳴り響くそれは少し場所の離れた所に設置された電話だった。

 

 

 

『ひひ、チょうどか。オい糞餓鬼、俺を電話の方マで持ッてけ』

 

 

 

「……いいけど、大丈夫なのか? 俺が触っても」

 

 

 

『さアなあ。ドうなるこトやら』

 

 

 

 意地悪く甲高い声で嗤う骨喰の要望に応えようかどうか志貴は悩み、ちらり、と本来の持ち主である朔の方へと視線をやったが、彼はだんまりを決め込んでいる様子で、決して動く気配がなかった。

 

 

 

 これが普通の刀剣の類であるならば志貴も逡巡はしなかっただろう。しかし、自分を持ち運べと嗄れ声で放すおんぼろ刀は見た目そのものから危うい雰囲気を漂わせ、更に鞘から抜けば濁り腐った瘴気を撒き散らせる代物である。まずもって健全な神経の持ち主ならば視界にさえ入れたくなくなるような刀だ。それを手に持つなどまずもってありえない。

 

 

 

『サあどうしタ。早クしろ。なアに、取っテ喰ッたりはしねエよ』

 

 

 

「朔が持てばいいんじゃないか?」

 

 

 

『アイツは駄目だ。機械音痴なンだよ、ボタンひとツさえ押せやしネエ』

 

 

 

 志貴の葛藤を知ってか知らずか、骨喰は愉快気に囁く。その間にも電話は鳴り止まず、志貴を急かす様に鳴り響いている。

 

 

 

「……ああ、わかったよ」

 

 

 

 仕方なく溜め息をつき、諦観でもって志貴は覚悟を決めて、骨喰へと指を伸ばした。しかし、志貴が内心想像していたような出来事は起こらず、骨喰の重心はするりと志貴の掌に収まっていった。その際に、柄に巻きつけられた数珠がじゃらりと音をたてた。

 

 

 

「あれ、なんともない」

 

 

 

『ひひ、ひ……手前、俺の事をどンな風に思ってヤがったんだか。少なクとも鞘に封じ込メられてタら人間が触レても平気なノよ』

 

 

 

 鞘に巻かれた呪札や数珠にはそのような意味があるのか、と志貴は意外な想いを抱きながら、電話口を取りその側に骨喰を立てかけ、受話器を傍らに置いた。

 

 

 

『あア、俺だ。そう、俺ダよ俺。ひひ、ソう口やかまシくがなるな』

 

 

 

 どうやら長くなりそうなので、手持ち無沙汰に朔は先ほどの居場所に戻り、離れているにも関わらず耳元で叫んでるような骨喰の声音にうんざりしながら、瞳を閉じたままの朔を何気なく見た。脱力をしたその姿は、転寝でもしているかのようだった。

 

 

 

「―。―――――」

 

 

 

 何もしないでいれば大人しそうな佇まいであるのに、やはり何かしら危うげなものが漂っているのは、己の中に渦巻く殺意を彼が抑える気もないからだろう。あの目蓋の裏には蒼穹を思わせる瞳が獲物を待ち侘びているのだ。己が殺傷する獲物はどこにいるのだと。

 

 

 

 そう思うと、何故朔はこれほどまでに突き抜けているのだろうと志貴は不思議に思った。最早人の限界を突破した動きは脳裏に焼きついて離れない。その想いは理不尽な感情と言ってもいいだろう。彼が切り開いてきた過去を知らぬ志貴は、今目前にある彼しか知らない。故の慟哭であり、その悲嘆を噛み締める志貴をまた朔は知らぬ。

 

 

 

 どれ程の修練が彼を定め、そして形成していったのか。

 

 

 

 どれ程の後悔を噛み砕き、そして昇華させていったのか。

 

 

 

 互いに知らぬまま、二人は同一の空間で呼吸をし続けた。

 

 

 

 ――――、一体どれだけの時間が流れたのか、着信を切った無機質な電子音が向こう側から聞こえてきた。

 

 

 

『いイぜェ。依頼だぁ、正しく丁度いい』

 

 

 

 眼前でゆるやかに朔が立ち上がり、無造作に骨喰を拾い上げた。

 

 

 

『ソん時にこそ、手前の真価を見定めてヤんよ。今度こそなァ、ひひ、ひ……』

 

 

 

 残酷な反響を広げて、骨喰は唄うように嗤った。

 

 

 

 □□□

 

 

 

 間延びしたようなチャイムの音と共に、授業は粛々と始められていった。

 

 

 

 教師の説明は難解であり、一度では手ごたえを掴めぬ内容であるのは、この学校のレベルの高さが周囲の高校よりも遥か上にあるからであり、しかも生徒達は全員女性しかいない。所謂お嬢様学校と呼ばれるに相応しい格式は、授業ひとつひとつ取っても決してその称号を貶めない程高純度なものだった。故に教師は生徒が理解できるよう、要所要所に要点を話し、授業を受ける側の生徒達は必死にノートを取る。無駄口ひとつ呟かれない時間が流れていく。

 

 

 

 その中に秋葉も生徒の一人としていた。

 

 

 

 昼を過ぎて最初の授業は大抵眠気との戦いを強いられるものであるが、生憎と彼女はそのような瑣末とは無縁であり、それでいてノートを取りながら、脳裏に過ぎ去っていくのは恐らく家にいるはずであろう兄の事であった。昨晩思わぬ場所で再会した兄は傷つき疲れ果てていた。一体彼が何に巻き込まれ、何に首を突っ込んだのか、結局朝になっても目覚めぬ兄からは何一つとして聞き出すことが叶わなかったが、面倒な事態に遭遇している事には間違いないだろう。

 

 

 

〝こんな時期に、兄さんも面倒な事を〟

 

 

 

 自然と心根に呟かれた兄への悪態であったが、それを表に出さず秋葉は今しがた黒板に書かれた図式に注釈をつけて、自らの解釈をノートに添えた。

 

 

 

 決して彼女も兄を悪く言いたい訳ではない。寧ろその本音は兄への心配からくるものだったが、それとこれとは話が別であった。昨晩三咲町を騒がしている吸血鬼事件への解決に向かった秋葉たちであったが、真逆行方知れずとなっていた兄と遭遇とは秋葉も望外の事だった。しかもその姿が傷だらけであったことも質が悪い。運命の悪戯ではないのか思わずにはいられないようなタイミングで、あの時秋葉は兄と出会ったのだ。

 

 

 

 故に本来であるならば犯人を追い立てるため、もっと練り歩く予定であった散策を急遽練り上げ早々に遠野へと引き返した。それを悔やまれるとは思わない。あの時点では、あれがベストの選択であったと秋葉は自負している。ただ、やはりという想いが彼女の脳裏にちらつくのは事実であり――――。

 

 

 

〝琥珀も琥珀で……〟

 

 

 

 そして、問題はそれだけではない。あの時、心ここにあらずな状態と化した付き人が漏らした言葉が現在最も秋葉の気がかりな事であった。もし、もし彼女の言葉が真意であるならば〝彼〟があの街に潜入している事になる。琥珀の報告によれば、〝彼〟は近い場所にいた事は事実であるが、三咲町に近づく事はないと踏んでいた。しかし、蓋を開けてみればどうだろう。そのような事、秋葉の希望則でしかないというのに。

 

 

 

 結局、その事も秋葉は琥珀から聞きだすことが出来なかった。何か問いかけてはならない警報が己の中で鳴り響いたのだった。それを聞けば全てが台無しになるような、そんな感覚が。

 

 

 

 けれど、もし本当に〝彼〟が三咲町にいるのならば、それは一体どのような皮肉であろう。まるで全ての運命が集結していくようだった。ならば契機は一体なんだったのか。聡明な秋葉であってもそれはわからない。全ては正しく運命という名の偶然でしかないのか?

 

 

 

 そうであるならば、救いがない。否、もしそうでなかろうとも救いは存在しない。

 

 

 

 何かが狂い始めている。怜悧に秋葉は思う。全ては順調そのものであったはずだ。親戚一同を追い出し、兄を招来する。どこにも問題はなかったし、多少の強権を使ったが、久我峰がバックアップに回ったことでそれもスムーズに事は進んだし、抜かりはなかったはずだった。しかし、何かが狂い崩落を始めているような気がしてならない。その足音は秋葉の背後を捜し歩き、そして秋葉自身へと張り付いて止まないのだ。

 

 

 

 無理はしていなかったはずだ。どこをどう考察してもそう計算できる。では、どこで狂い始めたのか。

 

 

 

 兄を呼び戻した時か。それとも父がとうとう衰弱死した時か。

 

 

 

 あるいは、あの夏の日か。

 

 

 

 ――――もしくは、自分たちが出会った時か。

 

 

 

 ありとあらゆる可能性が眼をぎょろつかせて秋葉を監視する。

 

 

 

 そして言うのだ。全ては自らが遠野であるから故にだと。

 

 

 

 当然だ。宿命からは逃れられない。全ては秋葉が知る由もないままに行なわれ、済まされたこと。とは言え、その血脈がそれぞれに揃えば何が起こるかは明白である。何故、自分が過去の清算に付き合わなければならないのか、と不満に思うことはない。ただ虚しい。

 

 

 

 しかし、己が裁量から溢れ出た結末がいつか下ろうとも、秋葉の心はすでに決まっていた。それは悲壮な覚悟であり、また決別を意味する所であった。

 

 

 

 それを早計だとは思えない。すでに全ての可能性は出揃っているのだ。混ぜられた運命のカードはコールをやがて持ちわびている。その時になって秋葉がどうするのか、あるいは他の人間がどのような選択をするのか脳裏に思い描きながら、やがて訪れるであろう結末をなるべく考えないようにして、秋葉は授業に集中する事にした。けれども、消し去ってしまおうと思えば思うほどそれは姿を現し、秋葉を葛藤させる棘となる。

 

 

 

 そして気付いた。己は授業の内容をノートへ取っているはずなのに、空白に全く無関係な文字がいつの間にか記されていた。

 

 

 

 朔。

 

 

 

 ただ一字。たったそれだけの文字が秋葉の視線を離させてはくれない。血の気が引くとは正にこの事かと、秋葉は〝朔〟の文字に心奪われた。

 

 

 

 いっそ気付かなければよかったのに、と秋葉はその文字を消しゴムで消していく。しかし、朔と記されたノートの後はくっきりと残り、その残像が眼にこびり付いて仕方がなかった。

 

 

 

 □□□

 

 

 

 住宅地を抜け、わき道を逸れていくと三咲町に住んでいる志貴でさえ知らなかったような道に出る。

先導する形で道を行く朔の後方に付き添いながら、志貴は辺りを見回してみたが、ここがどこに位置するのかまるで分からなかった。それでも人通りは在るもので、彼らは異形たる朔の姿に全く気付く事無く通り過ぎていった。これもまた、朔の能力なのだろう。陰行と呼ばれる気配遮断、そして魔眼によって映し出される世界から人の五感に触れられぬように動き回る朔の歩みは、重心がぶれているようにさえ思えたが、それは素人目から見たときの感想であり、朔はあえて重心を悟られないようにしているのだと、志貴は気付いた。

 

 

 

 それほど目的地は遠くないという骨喰の言の下、歩き続けて一時経った。もう、ここは三咲町ではないのではないのかと疑りなるほどの遠出だった。時刻は確認できていないが、恐らくは三時前ぐらいになろうとしているのではないか。温かな光は少しだけ失せて、気温が下がりつつあるのを志貴は感じた。

 

 

 

「なあ、どこまでいくんだ?」

 

 

 

 朔の方はどうせ無反応だと割り切って、志貴は彼の右手に握り締められた骨喰へと声をかけた。

 

 

 

『なアに、あト少しだ。もウ眼と鼻と先さァ』

 

 

 

「……それ、さっきも言ってただろう」

 

 

 

 実はこの会話も幾度となく繰り返されている。しかし、志貴が抗議の声をかけるためにあげた声を骨喰は嘲笑をあげるのだった。この声音に擦れ違う誰も反応しない事が志貴には不思議でたまらなかった。

 

 

 

「――――、――」

 

 

 

 そして先を行く朔もまた揺らぎながら歩み、誰にも注視されない。この異様は目立つ類のものであるはずだが、真横を通り過ぎた主婦も、また前方から走行してくる車のドライバーさえも朔に気付いた様子はない。

 

 

 

 あくまで自然の風景として朔はそこにいた。否、あるいは存在そのものが気付かれないままに、志貴だけそこにいた。故に、彼がぶつくさと文句を言ってもそれは独り言にしかならない、という事だろうか。それはそれでなんだか恥ずかしいものである。

 

 

 

 足並は寂れた町外れに向かっていた。これから先に志貴は行ったことがない。

 

 

 

 あまり活動的ではない志貴は家にいる事のほうが多く、寧ろ朔と出会ったことで知識としては知っていたが廃工場へと赴いたし、またこのように見知らぬ土地を向かっている。

 

 

 

 これがもっと志貴が小さく、幼ければ冒険心が逸り胸躍ったやも知れぬが、志貴は十七歳の青年であり、そして共に歩むのは正体不詳の殺人鬼と、喋るおんぼろ刀。古臭いRPGに登場する勇者達のようなメンバーか、あるいはライトノベルにでも登場するようなメンバーだった。

 

 

 

「なあ、いい加減何をするか教えてくれよ。どこに行くかはこの際もうどうでもいいからさ」

 

 

 

『ひひ、ひ……何、ヤる事は単調サ。単調すギて鼻で嗤うレベルよ』

 

 

 

 明確な答えは返ってこない。否、このおんぼろ刀はどこかで言葉遊びを楽しんでいる部分がある。つまり、今の段階ではこちらに伝えるつもりはないのかと、志貴は胡乱気な瞳で前方の両者を見やった。藍色の背中はゆらゆらと揺れ、呪的に封じられた骨喰は時折数珠の音を鳴らしながら進んでいく。

 

 

 

 元より、志貴に後退するという選択肢は存在しない。二人に教示を受ける身の上というのもある。だが、それ以上に二人についていかなければ、自分はきっと何も果たす事叶わず終わるだろうという通念が志貴を突き動かしていた。それに最早ここまで来てしまったのである。嫌と言えども無事に帰らせてくれる保障はどこにもないし、またここから自分の足のみで自宅へと帰るにはあまりに遠すぎた。タクシーを拾えばどうにかなるかもしれないが、残念ながら志貴には現在財布がない。

 

 

 

 彼はいつの間にか袋小路に佇んでいた。

 

 

 

「……」

 

 

 

 その事に今しがた気付いてしまった志貴は憮然としながらも、遣る瀬無さを覚えずにはいられなかった。――――と、突然目前を歩んでいた朔の歩みが止まった。どうやら終着したらしい。

 

 

 

『ひひ、よウやくってエ所かい』

 

 

 

 そこは建設途中のビルだった。所々にガラスで製造されているモニュメントが設置されており、未だ完成には時間がかかるだろう、骨組みと僅かな壁しか製造されていない。そして一番高い箇所にはクレーンと、その下方にはバラけた鉄骨が敷き詰められていた。

 

 

 

「どこだ、ここ」

 

 

 

『ッハ! 知ラねえのか遠野ノ長子。コこはシュラインってえビルの建設予定地だァ。手前ん所ノ遠野も建設にャ関わってンだぜェ?』

 

 

 

「そうなのか? けど、俺は全然そういう事には関わってないから全く知らないぞ」

 

 

 

『知っテて言ってんだよ、ひひ』

 

 

 

「……」

 

 

 

 性格の悪い刀である。

 

 

 

 人払いは済まされているのか、周囲に人はいなかった。普段この時間帯ならば建設業に携わる人々がごった返し、辺りには重機の騒音と人の大声が木霊しているはずなのだが、今現在シュラインは人気もなくひっそりとしていた。朔は一度止めた歩みを再び始め、堂々と敷地内に入っていく。釣られて志貴も慌てながらその後をついていった。

 

 

 

 一度足を踏み込むと、この建築物がどれだけ高く聳え立つのか中々想像できなかった。建設途中の建物というものは大体そういうものであるが、ここの建築に自らの家が関わっていると聞くと余計に志貴は、いずれ出来るであろう壮観なビルの偉容を思い浮かべずにはいられなかった。

 

 

 

 しかし、このような場所に一体何があるのだろうか、とビルの骨組みへと足を運びながら志貴は考えた。

 

 

 

 骨喰は電話口の向こう側にいるであろう人間と話を済ませ、依頼とだけ口に以降まともな内容を話していない。そもそも、まともな言葉を交わすつもりさえないらしく、追求は嘲いと共に流された。

しかし、そろそろいいだろう、と志貴は再度骨喰に声をかけようとした。――――が、それは瞬きの内に朔が掻き消えた事で遮られた。

 

 

 

 そして、悲鳴とも聞こえるような咆哮が雑音と化して響き渡った。

 

 

 

 志貴はその声を知っていた。いや、知らぬはずがなかった。

 

 

 

 ――――それは、以前志貴を襲った化物たちの叫び声だったのである。

 

 

 

「なッ!?」

 

 

 

 気付けば、それは上空で始まっていた。

 

 

 

 幾人もの人でなしが足場から降り立ち、地面へと着地していく。その寸前、僅かに身を強ばらせる瞬間に、ある人型の化物は首を失い、あるものは胴体が泣き別れを果たし、そして上半身だけ吹き飛ばされた。全ては姿を追えぬ朔の成す仕業であろう。彼らは理性を失った瞳を虚ろに閉ざし、粉微塵となっていく。

 

 

 

 まるで出来の悪い三文芝居にでも遭遇したかのような心地で、志貴は未だついていけぬ状況の中で、己の所在を確かめていた。

 

 

 

 未だ三体しか倒されていないのか、辺りからは続々と化物たちが顔を覗かせている。目測で計れば凡そ十は下るまい。小規模な群である。しかし、何故このように日が昇っている時間帯に彼らがいるのか、と志貴が辺りを見渡せば爆発的に理解できた。

 

 

 

 この場所は建設途中であるが故に上空が骨組みで編み上げられ、更に巨大なクレーンまで備え付けられている事から、内部は巨大な影として空間が作られていた。ならば彼らがここに出現することも道理であった。太陽から逃れた者共が隠れ住まう巣穴がつまりはこの建設途中のビルだったのだ。という事は、ここは魔の巣窟に他ならない。自らの住処を襲われた化物たちが襲い掛かってくるのは明白な事だった。

 

 

 

「おい! 俺はどうしたらいいんだよ!」

 

 

 

 姿を捉えきれぬまま不安に駆られ志貴は叫んだ。あちらこちらで血飛沫が破裂している事から、朔は化物共の掃討を断行しているらしいが、この決して狭くはない空間で縦横無尽に飛翔する朔の姿はまるで水を得た魚のようであり、志貴では影さえも発見できない。

 

 

 

 焦燥が志貴を包み込む。真逆いきないこのような場面に連れられてしまうとは望外の事だったが故にである。そして己には何か武装できるものはないのかと、ポケットを探った時、その硬い感触に指が当った。

 

 

 

 七つ夜と銘打たれた短刀がポケットの中に眠っていた。

 

 

 

『ひひ!手前ハ暫く暈ケたようにデもしてロ』

 

 

 

 どこからか骨喰の耳障りな声がしたが、その発声源は常に移動していて所在が掴めない。

 

 

 

『こコは朔の狩場だァ。誰ニも邪魔はサせやしネエ!』

 

 

 

「だからって、ここにいたら危ないだろ!?」

 

 

 

『ひひ、ひひっひひひっひひひひっひひひひひひひひひいひひひいいひいひひいひ!!』

 

 

 

「……ッ! 聞けよ襤褸刀!!」

 

 

 

 聞く耳持たずの骨喰に悪態をつきながらもなるべく日の当たるところへと移動しつつ、志貴は急激に高まる動悸にいつの間にか口で呼吸をしていた。

 

 

 

 いきなり始まった殺し合いという名の刹那、一方が駆り立て、一方が返り討ちにあう。

 

 

 志貴がその光景をようやく視界に収めたのは、いつの間にか抜かれたのか骨喰の黒々とした瘴気が、不気味な塊として脈々と蠢き、這いずりまわり始めたからに他ならない。

 

 

 

 そうでなければ志貴は延々と朔の居場所を特定する事さえ出来ず、あっという間に終わり行く殺戮の観客に成り下がっている。否、最早すでに志貴は一顧だにされぬ観客の一人に成り下がっているのだ。襲い掛かる亡者達は隙間から差し込む光に逃げ込んだ志貴を相手にする事無く、ただ走駆する朔に翻弄されている。これはもう殺し合いなどではない。

 

 

 

〝狩場〟

 

 

 

 先ほど骨喰が哄笑と共に叫んだ言葉そのものの光景が目の前で繰り広げられていく。

 

 

 

 これではいつかの焼き直しだ。あの暗闇で行なわれた惨殺劇とまるで同じだった。志貴はただ見ることしか出来ず、朔の手並みに圧倒され、息を呑む。

 

 

 

 この足場が多重に組まれた空間は疾うに朔の独壇場と化していた。彼は多角に移動し、人では不可能と思える可動さえ意図も容易く果たし、今もまた死者の首が粉々となって消し飛んだ。過程に何を施して行なったのか目視出来ぬ速度は鳥類の飛行ではなく、不可解な現象にさえ成り果てようとしている。事実、志貴は今しがた頭部を砕かれた亡者が一体何をされたのか理解できなかった。ただ黒い塊が残像を置き去りにして通過していった、だけのようにしか見えなかったのである。

 

 

 

 志貴はその光景に圧巻されながらも、どこか惨めな気分となった。これが今の自分の立ち位置でしかないのだと、言葉ではなく行動でもってまざまざと見せ付けられている現状に忸怩たる思いがこみ上げてくる。しかし、志貴は陽だまりから足を踏み出せない。これが己の限界なのだと、今更のように思い知らされる。

 

 

 

 あるいは自分も朔のようになれたら、と志貴は脳裏に想像する。そうすればこのように怯まず、恐れずあの化物たちへと勇猛果敢に立ち向かう事も出来るし、弓塚さつきの仇も難なく取れるやもしれない。しかし、そのためにはどれ程の時間をかけ、練磨を経てば良いのか。途方もない屍を重ねぬ限り、己はあのようには慣れないという確信が志貴に芽生えた。

 

 

 

 それでも、その眼に輝く瞳の色は、志貴自身気付かぬ事ではあったが、純然なる憧憬の眼差しであった。そして今また更に頭部から両断され、右半身と左半身が裂けていった手並みを見て、志貴は目を、心を奪われる。圧倒、なんてものではない。まるで魂そのものが朔の殺戮に囚われ、逃れられない。

 

 

 

 自然と志貴はポケットに入れたままだった手を開き、掌に短刀を握り締めた。七つ夜と銘打たれたそれは一度しか使われた事のない代物である。当然、志貴はこれを満足に揮う事は叶わないだろう。しかし、その掌の皮膚に触れた硬い感触は志貴の心を不思議と落ち着かせた。

 

 

 

 何故だかわからない。ただ、この遣る瀬無さと憧れに戸惑う心に区切りを打ち込んでしまいたかったというものもある。けれどそれ以上に、自分も勇気を振り絞りたかった。

 

 

 

『ひひ!雑魚ばかリだ、芥子粒バかりダ! 全くもっテつまらネエなあ、全クもって飽き飽きスる、そうは思わないか? えエ? 朔ゥ!』

 

 

 

 血祭りという言葉以外の形容が見当たらない。あちらこちらで鮮血が迸り、ぶちまけられていく。そしてその中を愉快気に嗤う骨喰の嘲笑。嗚呼、それはまるで舞踊のようでさえありながら、疾風の如くに加速する様は黒い流星のようだった。

 

 

 

 そして、目に見える化物たちが残存数二匹となったところで、それまで禍つ風の如くに飛翔し続けていた朔が、ぴたりと動きを止めた。何故だ、と疑問を浮かべると。

 

 

 

『さア、問答の再会ダあ』

 

 

 

 軋み響く骨喰の哄笑が、置き去りにされていた志貴の心を鷲掴みした。

 

 

 

 よく見れば上空の足場にいる化物たちは両手両足を砕かれており、まともな形状を保てておらず、それが朔の容赦なき蹴りの一撃によって地面へと落下してきた。ばん、と盛大な音をたてて墜落した化物は背中の骨がへし折れたのか、体そのものが可笑しな方向に曲がっており、志貴にはその様が子供に壊された玩具のようにさえ思えた。確かに朔の力量を思えばこのように無意味に生き永らえさせる理由は無い。ならば、痙攣し口から泡を吹きながらも芋虫のように這いずる事さえ出来ない化物は一体何なのか。不可解な朔の行動に嫌な空気が流れ込んできた。

 

 

 

『糞餓鬼、手前ハ仇を取りてェ』

 

 

 

 上空の足場から俯瞰するように、黒い瘴気に包まれた朔が志貴を見下ろしていた。

 

 

 

「――――、―。――」

 

 

 

 その瞳に濃縮された殺意の渦は未だ収まりを見せず、炯々と亡者達を睥睨している。ならば殺せばいいものの、あえて生かしているという事は何かがあるのだろう。

 

 

 

『が、手前ハ未だ殺しヲ知らぬ童貞だァ』

 

 

 

 朗々と響く声音は反響しあい、まるで神託のように志貴を取り込んでいく。

 

 

 

『何時ぞやカは咄嗟の事だッたが、今度ばカりハ違え。手前ノ意志、衝動デはなク、手前の意識デ持って殺してモらおうか、ひひ』

 

 

 

「……なんだよ、それ」

 

 

 

 嘲笑が紡ぐあまりのおぞましさに、声が震えた。

 

 

 

『片方はソの眼を使っテもイい。が、モう一体は使ッちマったらいケねえ。何、簡単ナ事だァ。首をモぐなり、心ノ臓腑を抉るナり手前の好キにすればいイ』

 

 

 

「なんなんだよ、それ!」

 

 

 

 思わず、上空に佇む両者に向かって叫ぶ。

 

 

 

「意味がわからないぞ、こんな事に一体何の意味が……ッ!」

 

 

 

『意味ぃ? 意味ダとォ? んなモん手前ノ無知に実感を叩キ込むために決まッてるジゃねえカ。それ以外ニどうシて俺がわざワざ朔の殺しを止メなきャならねエ。悪いが、こっちダって必死に朔を止めテるんだぜェ? 殺シたくて殺したクてたまラないってなア。ひひ、ひ……』

 

 

 

 とてもそうとは思えぬ声音で骨喰は嘯く。

 

 

 

「――――、――」

 

 

 

 しかし、遠目から見て瘴気に抱かれた朔の体が僅かに震えているのを見つけてしまった志貴は、それが事実である事を思い知る。

 

 

 

「だからって、こんな事しなくても……」

 

 

 

『本当にソう思うのカい。もシ本当にそウ思うのダとしたラ、手前はマすます救えネエなぁ。練習モせずに、殺しノ感覚を知ラずに仇ヲ取りてエとかホざくナら、手前ノ末路は決マったも同然だァ。屍と成り腐ッて朽ちて果テる末期が口ヲ開いて待ってるぜェ?』

 

 

 

「……ッ、だけど」

 

 

 

 眼前で虫の息と化している化物共を見やる。彼らは僅かに身動ぎするだけの力しか残されておらず、そして移動しようにも周囲を日差しによって遮られているため、移動する事さえ叶わない。それは自然に作られた化物達の牢獄だった。檻に囚われてなお彼らはのたうち、何とかしようとしているのか、首をあらぬ方向に曲げたり、砕けた足をもがきながら、地下室からくぐもって聞こえる風のようなおどろおどろしい呻り声をあげている。

 

 

 

 そんな彼らを見て志貴は、ここに来てようやく骨喰が志貴を依頼に連れ立ったのかその理由に感づいた。つまり彼は端から志貴に化物を自らの意志で殺させるため、わざわざ志貴を朔の狩場まで連れて来たのだ。それだけが彼の目的だったのだ。

 

 

 

 悪辣かつ陰湿な骨喰の狙いに志貴は冷や汗を流せずには入られなかった。そして未だ覚悟を決めず、言いよどむ志貴に対し骨喰は囁くのだ。それは、まさしく悪魔の囁きだった。

 

 

 

『そイつらも憐れナもんよなァ。ひひ、元々人間だっタ奴ラが血を吸ワれて死人トなり、そノくせ未だ蠢キ餌を求メて徘徊してる』

 

 

 

「こいつら、元は人なのか!?」

 

 

 

 思わぬ台詞に志貴は瞠目し、驚愕をもって化物達を見た。確かに形は人のそれである。けれど、その褐色色の肌や、理性を失った瞳に濁りきった輝きは魔性のそれであり、とても元々人間であったなどとは思えない。しかし、いつぞや志貴が襲われた夜に彼を殺そうと蠢いたのもまた、あのような造形をした化物だった。殺せば粉塵となって消え去る理法外の化物。

 

 

 

『おウよ。そイつらは死ンでも死にキれねエ惨めな亡者よ。なラ、いッそのこト楽にしてしマうのがァ道理だと思ワねえかァ?』

 

 

 

「……この人達を助ける事は」

 

 

 

『ない』

 

 

 

 即答だった。間髪入れず、志貴の動揺を甚振るように骨喰は断言した。

 

 

 

『一度死人とナっちマった奴らが元に戻るナんざ、もしあっタとしテも誰もしやしネえ』

 

 

 

「……それは、どうしてだ」

 

 

 

『面倒だロうがァ』

 

 

 

 縋るような志貴の言葉を一蹴して骨喰は瘴気を撒き散らす。風下にいるからか、志貴の鼻腔に骨喰の死臭が届いた。

 

 

 

「めん、どう……?」

 

 

 

『ひひ、ひ……糞餓鬼、手前はまアだ勘違いヲしてやガる。コの世は慈悲で動いチゃイねえし、憐憫で回ッちゃいネエ。そンなもん死後ノ仏様にでモ望むこッた。……いいか、糞餓鬼、コの世を動かすハいつダってソんな優しイ感情じゃねえノさ』

 

 

 

「……っ」

 

 

 

『そレでも手前が己の道を貫くなラば、ソこにイる奴らを殺してヤるのが救いだと思うがなァ。ひひ、ソの懐に仕舞いこンだ獲物でなァ』

 

 

 

「―。―――――」

 

 

 

 志貴の体内を複雑な感情が奔走していく。今まで培ってきた道徳、常識が錯綜しあい、そして今という現状に押し返され、非道徳という現実が押し寄せてくる。それはまるで波濤のように志貴を飲み込んで、もがけばもがくほど苦しくなっていく。呼吸が荒いのは、緊張のためか、それとも禁忌に触れるためか。

 

 

 

 ――――わからない。

 

 

 

 何が何だか自分でも知らぬままに、志貴は選択を迫られた。否、これは最早選択を過ぎ去った決定事項なのだろう。志貴が亡者を殺す、元人間を殺すというすでに定まった事柄なのだ。故に骨喰はにやにやと嗤い、朔は静観を決め込んでいるのだ。あくどい、なんて想いはこの時には浮かんでこなかった。ただ、どうすべきなのかという感情だけが頭角を現し、志貴を攻め立てる。

 

 

 

 あいつ等は哀れな存在なのだ。

 

 

 

 あいつ等は運がなかったのだ。

 

 

 

 だから化物となり、死して尚動き回る亡者となっているのだ。だから人間ではない。人間ではないのだ。そう自分に言い聞かせて、それでも尚納得のいかない自分に気付けば、志貴は当惑のままに再び上空を見上げ、朔の姿を見やった。

 

 

 

 あそこにいる殺人鬼ならば、あそこで佇む殺人鬼ならば迷いなく、惑いもなく鏖殺出来るのだろう。現に先ほどまでそうではなかったか。彼は己が思うままに駆け巡り、化物を殺し、滅ぼした。そこに迷いは見えなかった。

 

 

 

 人でなし。それは誰に向けられた言葉なのか。未だ痛みに身悶える化物の事か。それともそれを難なく処理した殺人鬼の事か。あるいは、これから自らが行なうであろう未来の自分の事か。

 

 

 

『ドうした糞餓鬼、早くヤっちまワねえか』

 

 

 

「……」

 

 

 

『それとモ、びビったかァ。別二そいツらじゃナくても良イんだぜェ? 例エば有間の連中トかを狙っテも俺たチは構わねエんだぜェ』

 

 

 

「ッ! それは駄目だ」

 

 

 

 咄嗟に、思考する事無く反射するように志貴は吼える。

 

 

 

 有間の家で過ごした日々は安穏の記憶として志貴の中に収められている。

 

 

 

 それを自ら切り崩すなど、あってはならない。

 

 

 

 だからこそ骨喰は有間の名を出した以降、骨喰は愚弄する事はなく志貴がどうするのかを観覧するように押し黙った。

 

 

 

 昼の明かりが僅かに翳る。夕暮れが近づこうとしているのだろう。シュライン内部に届く光は淡く、

それでも取り残された化物達を囲う太陽の日差しは変化を見せない。そのまま見届けてしまえば、やがて彼らは時間の経過と共に日差しの中に入り込んで、滅びてしまうのかもしれない。

 

 

 

 けれど、それは本当に正しい事なのか。否、そもそもこの一時に正しさなど入る余地すらない。全てはすでに志貴の手へと委ねられている。最早これは己がやらなくてはいけない事なのだ。

 

 

 

 ――――ポケットに入れたままだった右腕を抜く。掌には硬い感触があるが、寧ろその硬質な肌触りは志貴の表面的な何かを削り取ってしまいそうな感覚があった。それは心と呼べるものなのか、それとも常識という名の忌諱感なのか、志貴には判別できない。もし判断できたとしても、正常な状況にいない志貴ではどちらでもよかったのかもしれない。

 

 

 

 ぱちん、と音をたてて仕込みナイフが飛び出した瞬間、腕が、指先が震えた。日差しを浴びて輝く刃の無慈悲な煌きは、これから行われる事への暗示を伴っていた。

 

 

 

 そろり、と足は踏み出された。半ば夢遊病者のような足取りは、果たしてこれから殺す化物と志貴、どちらのほうが死人と呼ぶのに相応しいか。少なくとも、顔を顰めさえ、青白くさせている志貴もまた死人と同類に近い状態だろう。

 

 

 

 ぐるぐる、ぐるぐる、と視界は回り、脳内は思考停止を始める。

 

 

 

 そこには天も地もなく、故に七夜朔と骨喰は姿を消し、いるのは志貴とのた打ち回る死人のみ。いつの間にか観客であったはずが、遂に舞台のスポットライトを浴びたというのに、その心持は冷え凍り、罅割れてしまいそうだった。

 

 

 

 どくん、どくん。

 

 

 

 耳元で心臓が脈動しているような気がした。

 

 

 

 でも、それは嘘で、体そのものが心臓となっているような感覚。

 

 

 

 どくん、どくん。

 

 

 

 足取りは遅く、心臓が脈打つたびに立ち止まってしまいそうな眩暈を覚える。それでも目指すべき未だ暴れようとする対象の姿だけは憎々しくも、やけにはっきりと映し出されている。

 

 

 

「は――――、は――――」

 

 

 

 呼吸の荒さに唇が震えた。あまりの気持ちの悪さに立つ竦んでしまいたかったが、頭上から見下ろされる朔の視線に怯えさえ感じた志貴にそれは許されなかった。

 

 

 

 どくん、どくん。

 

 

 

 どくん、どくん。

 

 

 

 間近に屹立し死人を見下ろすと、彼らは志貴の存在にようやく気付いたようでどうにか動こうとするが、人体を動かす主要な箇所を破壊された彼らに成す術はなく、志貴にはそれが裏返しにされた虫がどうにかして体を反転させようともがく姿にしか見えなかった。

 

 

 

 だからまず一体、こいつらは人ではないのだと自分に改めて言い聞かせ、ナイフを振り上げた。スーツ姿の化物はどこにでもいるような人と同じような姿をしていたが、最早その存在が明らかに違うと志貴がようやく思い知ったのは、彼の眼が映す光景にあった。

 

 

 

 黒い線。それが化物の体を蹂躙していた。注視すれば吐き気を催すほど、化物は死に満ちていた。生きている人間とはあからさまに太く這った黒線は押してしまえば崩れてしまいそうなほど、化物の体が脆く、そして弱い事を志貴は知った。

 

 

 

 ――――ならば殺さなくてはならない。

 

 

 

 これが人間でないのならば、これだけ死に近いのならば殺さなくてはならないと、もう一度自分自身に言い聞かせ、志貴はナイフを一閃した。煌く刀身は男の左胸元から首まで続き、そこに潜り込んだナイフはまるで泥沼に触ったような感触を志貴に伝えた。

 

 

 

 最初の死人はあっけなくそれで死んだ。血を噴出することなく、灰と成り塵と化した。

 

 

 

 本当にあっけない。まるで人の形をしたものを殺したような感覚すら与えず、化物の一体は消滅した。

 

 

 

 問題は、その傍らで今も尚身動ぎするもう一体の化物だった。そいつは女の姿をしていて、どこか既知感を志貴にもたらした。そして気付いた。そいつは最初に襲ってきた化物に似ていた。

 

 

 

 こいつもまた殺さなくてはならない。しかも、今度は眼を使わずに。寧ろ、体中に這う崩壊の線を思えば、線に触れぬ方が難しいとさえ思える。化物は未だ呻り声を挙げ、近づく志貴を警戒するように牙を剥いている。そんな様でさえ、嗚呼こいつらは本当に人間ではないのだという事実を志貴に知らしめるのみ。

 

 

 

 けど、どうやって殺せばいいのだろう。志貴は三度上空にいる朔を見やった。確か、彼はよく首を狙っていたが、自分もそのようにすればいいのだろうか、と志貴は夢現のような感覚のままに、ぼんやりと考えた。

 

 

 

 何れにせよ志貴のナイフでは長さの問題もあり、人体を胴から両断するのは不可能と言っても良い。技量的、あるいは膂力的なファクターを強化すれば、あるいは可能なのかも知れないが、ナイフを揮う志貴に当然それは見込めぬし、もし技量云々が備わっていたとしても、やはり人型をナイフで唐竹に両断するのは無駄な労力を必要とさえする。故に志貴が呆け様に考えた方法はこの現状だと満点に近い。ただ、それは対象がただの人であったならば、という注釈がつくだろうが。

 

 

 

 と、志貴がゆらゆらと呆然とした足並で最後の化物に近づき、そのナイフを振り上げた瞬間を上空で静観を決め込んでいたはずの骨喰は見逃さなかった。

 

 

 

 肉厚の刀身、ひたすら頑丈さだけ求められた刃。

 

 

 

 その柄は黒く、打たれた銘は七つ夜。

 

 

 

『槙久の野朗メがァ』

 

 

 

 吐き出される感情はドス黒く、そしてひたすらに邪悪であった。

 

 

 

『道理で見つかラねエはずだ、道理で探セなかッたはずダ。奴め、隠シてやガったのか』

 

 

 

 苛立ちを隠しもせず、骨喰は志貴が握る短刀を見やり、ぶつくさと文句を並べる。

 

 

 

 志貴が握り締めるあれこそは怪物、刀崎梟さえ見つけ出せず散逸したとされる七夜の宝物。その切れ味は暗殺一族七夜が宝刀と証し、また決して七夜以外が揮う事を成さなかった伝説の銀色。終ぞ、作刀の怪人でさえ見ることが出来なかった輝きが、今陽光を浴びてその真価を見せ付ける。

 

 

 

 ――――ひゅん、と風が斬られた。

 

 

 

 一息に振り落とされた刃は肉を切り裂き、咽喉へと潜り込んだ。刀身と肉の隙間から僅かに血と呻きが零れる。張りのあるものを破ったという感触は志貴にはない。しかし、そのまま深く突き刺そうと力を込めると頸骨の硬い感触に当った。

 

 

 

 これ以上は無理だ。そう思い、ナイフを引き抜こうとすれば化物の頸部に入った力によって、なかなか抜く事は出来なかった。寧ろ、引き抜くには振り下ろすよりも力を必要とした。

 

 

 

 最早化物は瀕死の状態にあった。しかし未だしぶとく足掻き続け、どうにか馬乗りになっている志貴を跳ね上げようと身もだえしている。

 

 

 

 ――――殺さなさくちゃ。

 

 

 

 忘我のままに、志貴は血を吸い挙げた刀身に再び力を込めた。今度こそ、今度こそと指先にまで入り込んだ力は伝達し、冷やかに艶めく刃を震わせた。

 

 

 

 そして、一閃。

 

 

 

 横凪ぎの一撃は深く、抉るように首を切り裂き、今度は骨まで砕いて頭部を首から切り離す事に成功した。

 

 

 

 さらさらとそれまで馬乗りになっていた化物の肉体が粉塵と成り、風に飛ばされていく。すとん、と今まで座っていた支えを失った志貴はそのまま地面に座り込む形となった。

 

 

 

 頭は何も考えられなかった。寧ろ、先ほど自らが行なった殺害が脳内にリフレインして、それ以外の何も思い描く事さえ出来ない。

 

 

 

 ――――これが、殺すという事か。

 

 

 

 漠然と、そう思う。

 

 

 

 命を断つのと、命を殺すほどでは遥かに異なる断絶を志貴は知った。

 

 

 

 力の抜けた体は根幹を失ったかのように項垂れ、首を上げることさえも難しい。志貴がいる場所には彼以外には最早何もない。暗闇の中で塵と化した化物達にも取り残され、志貴はたった一人で自失した。けれど、それを許さぬものこそが邪悪であった。

 

 

 

『ひひ、ひ……マあ及第点ってェ所カね』

 

 

 

 天上から降り注ぐ軋んだ声音に志貴は力なく上を向いた。不思議と首筋がぎしぎしと鳴った。そこには黒い瘴気を禍々しく放出する骨喰と、そしてその闇に羽衣のように包み込まれた朔の姿があった。先ほどと何も変わらず、先ほどと少しも変わらずに。

 

 

 

『ドうダい糞餓鬼、そレが殺すってェ事だ。命ヲ殺すッてえ事だ。眼を使っタのトは明らかに違ェだろウ?』

 

 

 

「……ああ、そうだな」

 

 

 

 呆然と座り込んだまま、志貴は骨喰に応える。その精神の磨耗は計り知れぬものがあった。前日に行なわれた殺し合いなど生温い消耗である。

 

 

 

『童貞卒業だなァ。コれデ手前も血塗られタ真っ赤よ』

 

 

 

「―――。―、――」

 

 

 

 朔の視線は真っ直ぐに志貴を見つめている。その殺意渦巻く蒼き瞳を一直線に、志貴を見ている。

 

 

 

『気ニなる事ハ多々あレども、まア今の所はドうでもいイさ。今の所はナ。取り合えず課題は終了、ってかァ? 依頼モ終わっタ事だシ万々歳っテえ所だな』

 

 

 

 ひひひ、と骨喰は愉快気な声を漏らした。それを悄然と聞きながら、その右腕に残る人体を解体した感触を噛み締めていた。ナイフを片手に握り締めたまま、まざまざと見せ付けられた生の断末魔が消え去らない。

 

 

 

「……なあ、朔」

 

 

 

 頭上の足場にいる殺人鬼へと志貴は問いかける。答えなど無いと分かっていながらも。

 

 

 

「これで、よかったんだよな……?」

 

 

 

「―。―、―――――」

 

 

 

 慰めの言葉は無く、労いの言葉もまた彼の口からは零れない。当然だ、志貴はそれを知りながら、聞いたのだから。

 

 

 

 それでも、何故だろう。志貴には口を閉ざし、静謐な眼差しを向ける朔の姿が志貴の行いを肯(うなべ)ているように見えた。

 





命は儚く尊いものです。だから大切にしましょう。
――――でも、それはどうしてですか?


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過去編 Hello darkness 上

 決して快適とはいえぬ空の旅だった。

 

 

 欧州のエアポートから飛び立った機体にただでさえ大柄な体を座席へと押し込み、青い空の景色を窓際から眺めている。雲の下は雨でも降っているのだろう。眼下には途切れなく雲海が広がっている。濛々とした雲が不気味に横たわる光景は、寧ろ心地よささえ感じた。

 

 

 ファーストクラスの広々とした空間に乗客は疎らであった。しかし、整然と揃えてある座席からはそれでも幾ほどかの不躾な視線が寄越された。上等な身なりの人間達の姿は有象無象に他ならないが、それでも鬱陶しく思える。

 

 

 途中それを疎んじ、認識阻害の魔術を座席一帯と自らにかけてそれらを遮断し、更にエンジンの駆動音を聞こえなくする事で、ようやく落ち着いた。

 

 

 始めは乗客全てを喰らいつくすか、と思いもしたが、今己がいるのは空を飛翔する飛行機の中であり、現在飛翔する鉄の塊は上空12000メートルの高さにある。人間全てを喰らい尽くした結果、忽ち機能を維持することが出来なくなった飛行機が辿る末路は考えるまでもない。

 

 

 メリットデメリットを考えた場合、面倒になるのは明らかであり、今の己が満腹状態であるのを考えれば、無駄食いは良くないと自重したのである。文明発展のシンボルとも言える飛行機に乗り込むのは些か気乗りがしなかったものだが、それも旅路がてらの余韻を味わう時間が設けられたと思えば気を許せるというものだった。

 

 

 搭乗する前に食事をしていて正解だった。村ひとつ分の住人を平らげただけの事はある。量は少なかったが、腹持ちが良かったらしく今のところさしたる問題は浮上していない。昼の村をただ闊歩するだけで腹が満たされるのだ。何せ空の旅は長い。一度食事を始めてしまえば加減が効かないのだ。

 

 

 肉体そのものが底なしの胃袋とでも言えばいいのだろうか。つまり、彼はそういう存在だった。

 

 

 今頃あの廃村を教会が必死で浄化作業しているのだろう。たかが代行者風情がどう足掻いても自分に敵うはずはないが、埋葬機関が動けば些か面倒である。それも面倒、というだけの話であるが、と柔らかい背もたれに身を寄せた。

 

 

 やはり窮屈ではある。しかしこれから始まる遊戯を思えば、少しの我慢も必要だった。

 

 

 極東の小さな島。世界地図では日本と呼ばれるその国には、とある用件があった。これを仕組んだ者の思惑を推測するならば、用件というよりはただの遊びであるとも言えなくはないが、自然と張り付く乾いた笑みに頬が引きつくのを男は止められなかった。それは笑みというにはあまりに枯渇し、苦笑と呼ぶにはあまりに影の密度が濃い。しかし、それは瞬きの内に収まり、刻印のような皺を寄せる重々しい顔つきへと忽ち戻っていく。

 

 

「……戯れ、か」

 

 

 ――――真祖狩り。

 

 

 死徒二十七祖が第十七位、『白翼公』トラフィム・オーテンロッゼが提唱した娯楽である。

 

 

 元々真祖は自然発生した生命体であり、自然界がバランスを調整するために生み出した吸血種である。そして彼らによって血を吸われた人間が死徒となり、やがて真祖からの支配を逃れた死徒たちが死徒二十七祖を名乗り始めたのが、死徒二十七祖の始まりである。

 

 

 死徒と真祖。

 

 

 原初彼らの関係は従僕から始まった。しかし、それは最早過去の事である。

 

 

 かつて、真祖たちは自ら生み出した処刑道具『白き姫君』によって殆ど滅ぼされた。これにより今現在死徒に対する真祖の影響力は極一部を除けば皆無と言っていい。

 

 

 現在死徒二十七祖は派閥競争や領地拡大等、さながら貴族のような争いを暇つぶしに行っている。何故そのような愚かな行為をしているのかと言えば、それぐらいしか彼らには娯楽がないのだ。

 

 

 死徒二十七祖の命は他の生命体と比べ遥かに永く、それはあまりにも詰まらない時間の流れを意味している。

 

 

 だからこそある者は自身を現象化させ限りある命と化し、またある者は命題のために動く。死徒の中には彼のように目的意識を持って死徒となった者も存在するが、それも極僅かだろう。

 

 

 だからこそ戯れに提唱された真祖狩り。自然発生する真祖を狩る道楽である。あるいはそこに嘗て身に受けた過去からの意趣返しが見え隠れするのは気のせいではないだろう。

 

 

 白翼公は死徒二十七祖では最大勢力であり、その発言力は並々ならないもの。故に彼の掲げた遊び、真祖狩りは死徒全域にわたる号令の一端として発令されていた。

 

 

 それは男、死徒二十七祖第十位ネロ・カオスも例外ではない。

 

 

 序列からすればトラフィムとネロは上下の地位に座位するが、白翼公トラフィムは死徒の中で最古参の一角にあたる吸血鬼。現在まで生き残った彼の吸血鬼としての力はネロ・カオスにも未知数であり、また死徒二十七祖最大派閥の力も伊達ではない。例え古臭い思考の持ち主と他の死徒から揶揄されようとも、彼の総力という点では無視できないものがある。

 

 

 ただ、ネロ・カオス個人としては白翼公の戯れはどうでも良い。彼は魔術師上がりの吸血鬼であり、おおよそ他というものに興味は無い。ただ追求する事にこそ価値が在る。そうやって呼吸をしてきた彼である。だが、彼は魔術師であるが故に真祖という素体に関心があった。

 

 

 だからこそ、彼は目覚めた真祖の処刑道具『白き姫君』を追って、日本まで訪れるに至ったのである――――。

 

 

 これから始まる狩りの遊戯に思いを馳せながら、ネロは静かに目を閉じた。睡眠乃至休息はネロにとって縁のないものと化しているが、力を溜める意味でも無駄な行動は慎むべきである。だから彼は魔術によって外界から己を遠ざけ、その戯れに付き合わされた原因に嘆息を吐きながら、闇よりも濃い泥の黒色を纏う男は目を閉じた。

 

 

 □□□

 

 

 記憶かどうかはわからないが、時として脳裏に浮かび上がるものがある。

 

 

 ――――己は随分と小柄で、外見的特徴を考えれば子供の頃だろうか。

 

 

 七夜朔はベッドに横たわっていた。

 

 

 高い天井が見えて、おぼろげな視界を映す眼球を動かせば部屋もまた広い事が伺い知れる。負傷により体が上手く動かせず、身動きひとつで痺れるような痛みが包帯を巻かれた全身に駆け巡った。

 

 しかし思うように体が動かせないとは、甘えのようなものだろう。

 

 

 体を動かすのは意志の力だ。意志が強靭であれば例え死人でも体は動く。ならば、未だ息を吐いて心臓を動かす己が動けぬ道理はないだろう。

 

 

 重心を移動させて、ベッドから転がり落ちた。着地が中途半端な形となり、受け身を取れず床に体が叩きつけられた。木目の見える床はひんやりと冷たく、痛みに腫れぼったい熱を持った体には心地がよかった。

 

 

 恐らく屋敷の中だろう。朔には縁もない調度品が幾つも室内には設置されていた。見上げるほどに巨大な本棚、毛並みよい絨毯、壁際には頑健な机も見える。見るものが見たならば、調度品に凝らされた贅に溜め息をこぼすだろうが、朔にはそれら全てが遮蔽物以外の何ものでもなく、自然とその強度と室内の空間を把握した。

 

 

 ――――ぱち、ぱち。

 

 

 と、己が置かれている状況を調べている最中に部屋の中で軽い音が聞こえた。小さなその音は今にも消え入りそうで頼りなく、耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうな破裂音だった。けれど、朔にはそれで十分だった。

 

 

 ゆっくりと体を起き上がらせる。何故か力が伝達しにくく、支える右腕は面妖な事に震えていた。どうやら左腕を失ったばかりらしい。回復の兆しを見せぬ体は言う事をなかなか聞いてくれず、鍛え上げた肉体が嘘のように力を失っていて、気を抜けば倒れ伏してしまいそうだった。

 

 

 ――――ぱち、ぱち。

 

 

 それでも、その音は消えなかった。単調なリズムで打たれる手打ち音は朔の先から聞こえてくる。だから朔は動いた。どうにか起き上がった身で足を踏み出すと、膝から崩れ落ちてしまいそうな感覚に陥る。歯を食い縛り、力の限り踏ん張ってそれを耐え、頼りげない爪先に力を入れて、また足を踏み出す。

 

 

 くり返す動作は未熟にも程があり、魔に恐れられた殺人鬼としての姿はそこになく、ふらつきながら歩むそれは死者の行進のようでさえあった。ただ一言で言うならば、無様に尽きる。

 

 

 ぱち、ぱち。

 

 

 ただひとつの音源。部屋の中を等間隔に響く人が掌を叩く音。その音に導かれて、歩く。

 

 

「おいで。ここまで、おいで」

 

 

 幼げな声が聞こえた。音源を辿り、虚ろな視線を寄越せばそこに小さな少女が佇んでいた。少女はゆっくりと歩く朔を導くように手を叩いている。今にも倒れ伏せそうな朔に手を伸ばしている。

 

 

「さくちゃん、ここまでおいで」

 

 

 そして、汗さえ滲ませて傷口に沁みる己を省みずに朔は少女の側へと近寄っていく。そんな少年を見つめる少女の琥珀色をした瞳は一心に定まり、朔以外を映し出さない。まるで世界に二人だけしかいない閉じられた部屋の中で、あと少し、あと少しと言葉少なに声をかける少女の導きに従い、少年は歩いていくのだった。

 

 

 ぱち、ぱち。

 

 

 ぱち、ぱち――――。

 

 

 音が止み、気付けば朔は少女の目前まで辿り付こうとしていた。もう手を伸ばせば届いてしまいそうな距離が二人の間を隔たり、少年は力を込めて右腕を挙げかけるが、力及ばず足元から崩れ落ちそうになりかけて。

 

 

「がんばったね、さくちゃん」

 

 

 少女のか細い腕が朔の腕を捕まえた。

 

 

 どこか空虚な笑みを浮かべながらも少年が己の下に辿り付いた事が本当に嬉しそうで、少女は掌に握った少年の腕を宝物のように柔らかく包み込んだ。白色のリボンが揺れる。琥珀色の瞳が揺れる事無く朔を見つめていた。

 

 

 そして少女の唇が歪な形を象りながら朔の口元へと近づいて――――。

 

 

『ひひ、ひ……。おい、朔』

 

 

 潜在していた意識が汚泥のような悪意に塗りつぶされ、朔の意識が戻っていく。

 

 

 軋み音は全てを切り裂いて、少女の姿さえも不快な金属音に切り裂かれ、どこかへと消え去っていった。

 

 

 そして後には何も残らず、眼は目の前の世界を映し出す。

 

 

 ――――ビル伝いから睥睨する地上はあまりにも汚らしい。

 

 

 夜である。人工の明かりが照らす町だった。

 

 

 多くの人間と人工物に溢れかえった街並みは地下に広がる蟲の巣のようであり、それらがわらわらと蠢いている。どこか意思を無くした機械のような動作で移動する人間達は明確な目的を抱いて動いているのか。どこに向かうか、あるいはどこかに戻るのか。

 

 

 上空から地上を眺める存在を道行く人間達は気付かなかった。とは言え、道行く人々が気付かないのも無理からぬ事である。

 

 

 夜である事もそうだが、地上三十メートルの付近に位置する建築物の側面に人が直立立ちしている事実など、どうやって気付けばいいのだろう。

 

 

 重力に逆らい、壁に足の裏をつけて、まるで大地を踏みしめるような姿で屹立する人影を。

 

 

 ならば例え彼がいる場所を誰かが見たとしても、発見する事などまずありえない。

 

 

 何故ならば、彼は、七夜朔とはそういうものなのだ。

 

 

「――――」

 

 

 藍色の着流し。左腕のない中身を風にたなびかせながら、朔は重力にしたがって垂れ下がる黒髪の隙間から眼下に広がる地上を見つめている。いや、眺めている。その切っ先のように鋭い蒼い瞳の有様は、眼球に映る景色を情報として収めているに過ぎない。輝かしいまでに澄んだ蒼眼はそう思わせるものがあった。

 

 

 その片手には奇怪な刀を握っていた。幾つもの呪札を鞘に貼り付け、柄には数珠を巻いた日本刀である。一体何を封じているのか、納刀の隙間から嫌な気配が漏れ出ている。

 

 

『三日三晩。よウやっと、到着ってかァ。ひひ、ひ……』

 

 

 そして驚くべき事に、刀は言葉を発していた。錆びた金属同士を擦り付け合うような聞くに堪えない声音で話すこの妖刀は銘を『骨喰』と言った。

 

 

「―――。―」

 

 

 骨喰の嘲りにも似た声に朔は反応しなかった。まるで言語を失ったように、彼は無言を貫きながら、すんすんと鼻を鳴らした。

 

 

 町というものは多くの臭いに溢れている。

 

 

 人の体臭。機械の香り。人工物の臭い。食物の匂い。それらが入り交ざり、複雑な集合と化してひとつの塊のように臭気は淀んでいる。

 

 しかし、よく訓練された警察犬が僅かに残された物品から事件の手がかりとなる匂いを嗅ぎだすように、個にはどれだけ澱み薄くなろうとも確立した匂いというのが必ず存在している。それは町に入り込んだ異物が放つ臭気もまた同じだった。けれど、それは人間が成せるものではない。

 

 

「――――」

 

 

『なんだア? ひひ、ひ……面白エのが入り混じッてやがるな』

 

 

 骨喰は驚愕ではなく、愉快でもって声を張り上げた。

 

 

 町に幾つもの魔臭が紛れている。それもかなり特異な匂いだ。まるで塊のような臭気が幾つもある。それらが強大であり、上手く判別が出来ない。

 

 

 魔の気配を辿る術理。それは七夜朔、あるいは七夜一族の本能とも呼べる感覚だった。

 

 

 意識するしないに関わらず、人とは異なった生物の気配を嗅ぎ取る。例え臭気がごった返す町であろうとも、必ず臭気の根源を探し当てるそれは人の所業と言うよりも、最早統制さえ利かない獣の本能である。けれど、巨大な魔の気配が三咲町に集まりすぎて詳細が知れない。あるいは虱潰しに鏖殺するか。――――と、町を漂う臭気のひとつが丘の頂に向かっていた。濃い。まるで黴のようにこびり付いた魔の気配。どこか馴染み深い、人外の臭い。

 

 

 見つけ出したならば、動かぬ理由はなく、夜空に雲がかかり、月を覆い隠さんとする天上の中、七夜朔は壁を蹴りつけた。

 

 

 □□□

 

 

 日本に来るのは始めてだったが、まずその文化レベルに驚いた。

 

 

 事前知識で日本は高度経済成長を経て急速に発展し、技術レベルにおいては欧州各国あるいは先進国に比肩するほどの国であるとは知っていたが、極一部に混ざっていた資料書の中には今も尚忠義溢れる侍が主をたて、影に闇に隠れる忍びがいて、移動手段は馬である、などという眉唾な物もあり、それら偏ったイメージを合わせれば日本の文化レベルは精々都会化の真っ只中にある片田舎ぐらいのものだった。

 

 

 しかし実際に脚を踏み入れてみれば印象はかなり変わる。

 

 

 人工物の多さは恐らく欧州を越えるだろうし、日本ブランドと呼ばれる精巧な技術力の高さが至る箇所で散見できた。行き交う車に整備された道路。そして空を狭める建築物。西欧の趣とは異なった日本の風景はこの国の意地さえ感じた。

 

 

「まずは自分で見るべきとは本当ですね」

 

 

 感嘆の声を漏らしながら、彼女は一応アジトとして確保しているアパートへと向かった。事前に現地の教会所属協力者の手引きによって確保されたその場所は三咲町で活動する分には申し分のない立地であった。

 

 

 そこは安いアパートだった。認識阻害によって人が入り込む事は無く、更に事前調査によれば他に人も住んでいない事から、例え自分が標的に狙われたとしても住民が巻き込まれる心配は無い。日本でのアジトとしては悪くないといえるだろう。

 

 

 現地に到着したのは夜明けの頃だった。それからシエルは標的がいるはずの学校へと向かい、制服を調達してから生徒の一人として乗り込む事にした。

 

 

 学校の潜入はあっけないものだった。

 

 

 恐らく退魔乃至混血関係の手がかかっているであろうとの危惧が拍子抜けするほど容易く、シエルは高校に入り込む事が出来た。あまりの状況にシエルはしかし、現地の退魔組織の危機意識の欠落を見出した。

 

 

 そこでシエルは朝早から学校へと向かってくる生徒ひとりひとりに暗示をかけて情報を会得し、その片手間に自分が元からここの生徒であると錯覚させるために情報操作を行う。これで彼女は三年生の生徒として高校へ潜伏が完了した。

 

 

 準備には少しの時間が必要だったが、それも問題なかった。

 

 

 周辺地域の足固めとして練り歩き、如何なる場所であろうとも対処できるよう立地を脳に叩き込んだ。その恩恵としてカレー専門店メシアンを見つけたのは僥倖だった。

 

 

 ちなみに食べてみるとかなりの美味であった。美味しい食事は生活に欠かせぬ要素であり、過酷な戦いが予測される今回の遠征ではありがたい出会いだった。それがカレーとなるならば尚更の事。とある出来事によってカレーを愛して止まない彼女にとってカレーのあるなしは命にも関わる、何せポテンシャルやテンションが変動するのである。

 

 

 だからこそ彼女がカレーを求めるのは必然の事、いや運命とさえ形容してもいい。嗚呼、ビバカレー。どうして貴方はそんなにカレーなの? などと思いながらシエルは一口一口に幸福を感じて一皿平らげた。

 

 

 それから彼女はメシアンの常連として幾度も足蹴無くその店へと赴く事になるのだが、今回の話には関係ないだろう。

 

 

 夜になると再び彼女は町を練り歩いた。しかしそれは調査とは他なる散策である。死徒を探す自体は容易い。彼らは暗闇の眷属であり、日のある内は行動を起こさない。強固な個体であれば異なるが、彼女の遭遇した死体は吸血鬼に襲われた犠牲者に過ぎず、悉くが簡単に対処できた。

 

 

 問題は親玉だった。

 

 

 彼女の調べたところ、今回のターゲットとして狙いをつけた少年に動きはなかった。周囲に不審な動きも無く、実際に動き回っているか定かではない。しかし、事実として町は吸血鬼騒ぎが起こっている。必ず親玉は動いているのだ。

 

 

 後は確証が得られれば彼女はすぐさま動き、ターゲットを殲滅する。それが例え本人の意志から離れた所業であり、本人は憐れな犠牲者にすぎようとも、救世者ではなく断罪者でしかない彼女は救わない。

 

 

 救わずに滅ぼす。助けずに抹殺する。

 

 

 それこそ教会の異端審問専門であり、扱いそのものが異端である埋葬機関第七位の成すべき事であった。

 

 

「……ロア」

 

 

 夕闇の中、低く呟く彼女の瞳は怨嗟と憎悪に揺れる。

 

 

 脳裏に浮かぶはあの日々の地獄絵図。

 

 

 町中を舐り尽くし、好きだった隣人達を人形代わりに弄ぶ――――。

 

 

「……」

 

 

 首筋がずきりと痛む。これ以上穿り出したくないと体が受け付けていないのだろう。けれど、思い浮かぶ情景の原典は全てあの煉獄へと回帰する。

 

 

 シエルはひとつ溜め息を吐き、夕暮れの街並みを、かつて滅ぼした故郷に重ね合わせた。

 

 

 目蓋の奥が痛む。しかし、涙は流さない。きっと気のせいだ。

 

 

 □□□

 

 

 三咲町の坂の上には豪奢な屋敷がある。一息に町を見下ろす館の様はまるで監守塔のようであり、堅牢な雰囲気を思えば牢獄のようでさえあった。

 

 

 夜の気配は深くなりつつある。館内から人の息遣いは聞こえず、夜は梟の声が聞こえる以外には静寂を保ちつつあったが、どこからか重く響く獣の呻り声がすると梟の鳴き声は止んで、沈黙が舞い降りた。

 

 

 道路脇。夜の闇より現われたるそれは、最初泥のような何かだった。

 

 

 コンクリートから滲み出るように現われた泥はやがて形骸を形成し、巨体を揺する黒犬へと姿を買えた。黒犬は、その犬としてはありえぬ巨体から魔獣の類だと容易に知れた。猛々しく揺らめく毛並みに、獰猛さをそのままに爛々と輝かす瞳から理性の光は見えず、剥かれた牙が獲物を探している。まるで腹を空かせた獅子のように、黒犬はその厚い鉄柵の門構えを前にしながら、遠吠えを上げた。その様は犬と言うよりも狼であった。

 

 

 黒犬がここに現われたのは、何も偶然ではない。餌食を求める性は獣の道理、潤う事なき本能である。ならば獲物の匂いを嗅ぎ探り、この場へとやってきたのは彼の手柄だった。

 

 

 体を揺すりながら誘い火のように遠吠えをあげる黒犬は歓喜の最中にある。餌食を前に興奮するのは人も獣も変わりはしない。

 

 

 しかし、獣の食事と言うのはおおよその所邪魔立てが入るもの。

 

 

『ひひ、ひ』

 

 

 耳障りな声が耳に入り込んだとき、黒犬は不思議な心地に晒された。

 

 

 一瞬の浮遊感と共に、頭部が硬い地面を叩いた。

 

 

 そして目前に己の体を目の当たりにして、彼はようやく己の首が落とされた事を知った。

 

 

 刹那の出来事で理解は追いつかない。

 

 

 ただ不思議だった。衝撃はあったのかも知れないが、それでもそれがわからぬとは。

 

 

 首元から溢れ出す血溜まりは生温かい。

 

 

 その中で黒犬は意識を遠のかせたのだった――――。

 

 

 死に逝く魔犬を目の当たりにする七夜朔は、感情の宿らぬ瞳で眺めていた。

 

 

 錆び付き刃毀れした刃の骨喰から噴出する闇を纏う彼は、幽鬼か化生のようであり、倒れ伏す黒犬よりも魔という言葉がよく似合っていた。

 

 

『こいつア……使イ魔って奴かァ』

 

 

 興味深げに骨喰は嘯く。

 

 

 彼らの面前、瞬きする間に黒犬の体は溶け出し、遂には零れ出た出血さえも混ざって泥のようなものと化していた。

 

 

 まかりなりにも退魔として暗躍する彼らは、闘争をくり返す合間に使い魔の類と遭遇した事がある。魔道に関わる者ならば容易に使役できる使い魔は魔術師を代表とする魔道の基礎段階として習得できる術理の一部だ。その役割をざっくりと述べるならば感覚器官の延長と捉えてよく、言葉通り目となる存在である。

 

 

 無論、使い魔と一言で表現しても操る対象の霊格は千差万別である。単純化された使い魔を始めとし、精霊をはじめ、挙句の果ては過去に存在した英雄を降霊する途方もない術まであるとされる。とは言え、それは大魔術であり、然るべき手順と腕を持たなければならないので、魔法一歩手前の大魔道である。このように使い魔は術者の力量を示すものであり、強力な魔を従える者はそれだけ異様な存在なのだ。

 

 

 故に、この使い魔を使役する存在が如何なる魔性を秘めるか、骨喰は察する。正に生物として生み出された魔を操る魔術師、あるいは魔そのものの姿を推移するが。

 

 

『ま、大したことはネエ。いつぞヤの蟲野朗と同じだ。簡単ニ狩れる』

 

 

 如何なる者だろうと抹殺する。愉快極まりなく骨喰は豪語した。

 

 

 軋む金属音は傲慢とも取れる言葉だった。

 

 

 どのような者が相手だろうが関係ない、必ず殺そうとすでに見出された真実を告げるような軽い口調で吐き出されたそれは、正しく自信の裏づけに他ならない。

 

 

 確かに、骨喰の発言は最もなところ。七夜朔が積み上げてきた屍の総数を思えば、そして七夜朔が殺人鬼として積み重ねた技量を思えば、殺せぬ相手など存在しないだろう。幾つもの屠殺をくり返し、嘆きや怨嗟を殺してきた。ならば七夜朔が殺せぬ存在はない。骨喰はそう思っている。それは翻れば己そのものの自信だ。驕り慢心甚だしいとは正にこのことだろう。連綿とくり返される妄執ではあるが、だからこそ底の見えぬ不気味さを骨喰の言は秘めている。

 

 

 ただ惜しむらくは、両者が吸血鬼の頂点がどれほどの怪物か知らないでいること。それだけの話だ。

 

 

「―――――。―」

 

 

 ふと、七夜朔は最早影さえ残さぬ死骸の残骸から目を外し、聳え立つ屋敷を瞳に映した。

 

 

 西洋の館を思わせる出で立ちは、あるいは古城のようでさえある館だ。とは言え、朔には感慨は浮かぶはずもなく、あるのは屋敷がかもし出す気配のみ。

 

 

『ひひ、ひ……相変わらずここハ。……朔、こコが手前ノ仇の根城。こレ見よがしの伏魔殿だァ』

 

 

 闇よりも深い黒々とした声で骨喰は囁く。

 

 

 覆い隠す城壁にも似た外壁。

 

 

 しかし、溢れんばかりに漂う魔窟の臭気。

 

 

『手前の一族が滅ぼされたノも、手前が約束ヲ守れなかっタのも、仇が見当タらなイのも、全部ぜーンぶここノやつらのセいだ。ひひ、ひ……』

 

 

 肌が粟立つ感覚。全身を駆け巡る拒絶の反応。

 

 

 骨喰の言によるものではない。

 

 

 退魔者だからこそわかる、遠野邸の強大な気配が朔を包み込んだ。

 

 

 朔の肉体を構成する筋肉、骨、血潮と内臓が敵を見つけたと歓喜の絶叫を上げている。ぎりぎりと軋み音を上げる筋繊維に蒼い瞳が輝きを増して、熱砂のような殺意が渦を巻いた。事実朔の肉体は熱を生み出し、外気が低ければ蒸気さえ生み出してしまうほどだった。

 

 

 それを止める術を朔は持たない。そして持つつもりもない。己が衝動のままに、目の前に打ち倒すべき魔がいるからこそ、愉悦を持たず、憤怒を持たず、計画性も目的もない。ただ殺すだけ。それだけが朔の行動指針であり、性能であった。それは機械的というよりも、己が本能のままに動く生物の欲求にも似ていた。

 

 

 そして朔はひとつ、地面踏み抜いて――――。

 

 

「そのように怨霊を率いて、どこに向かおうというのですか」

 

 

 降り注ぐ声を耳にした。

 

 

 □□□

 

 

 朔の後方、道路脇に立つ街灯の天辺。そこに人影はあった。

 

 

 修道女が身に纏うカッソクを女は着ていた。

 

 

 けれどそこに教会の清廉さや質素さはなく、かもし出す雰囲気は戦闘者のそれであり、黒一色に染まる修道服は夜へ紛れるようだった。

 

 

『ひひ、ひ……覗きはよくねエなあ、嬢ちャん』

 

 

「黙りなさい、死霊如きが」

 

 

 骨喰の戯言を一蹴し、修道女シエルは油断のない目つきで眼下の人物を見定めた。闇に抱きしめられながら屹立する人影、その長身と遠目から見てもわかる頑健な肉体はシエルと同業者のものである。しかし、その蒼い魔眼の輝きと骨喰が漂わせる瘴気は危険な存在であると、シエルは脳裏の警告音で知った。

 

 

 感情を伺わせない、空の蒼の瞳。それが誰でもいない世界を映し出している。

 

 

 そして、死臭と血臭を隠す気もなく溢れさせる骨喰の闇。意識しなければ視界になど入れたくないような嫌悪感に目を細めて、シエルは天上から泰然と声を降り注いだ。

 

 

「何者ですか」

 

 

「――――、―」

 

 

『何者、何者かァ。けひ! こいつァ久々の問答だ。今更ながらの問イ掛けだワな』

 

 

「死霊には聞いていません。私はあなたに聞いているのです」

 

 

 しかし、シエルの呼びかけにも朔は無言を貫いた。

 

 

 いや、正確には答えられる脳に障害を持ち言語を失った朔は言葉を持っていなかった。

 

 

『無駄無駄無駄無駄。手前、そんな臭イ振り撒いた尼如きニこいつがまともナ反応する訳はネエだろウ?』

 

 

 空間に亀裂を入れるような軋み声で骨喰は言う。――――と、七夜朔の姿が掻き消えた。

 

 

 豪、とシエルは風を感じた。

 

 

 荒ぶる強風ではない。それは死を誘う禍風だった。

 

 

 シエルが思わず瞬きをする。すると、目前に七夜朔がいた。

 

 

「――――! いきなりですかっ」

 

 

 駆け上がるでもなく、言葉を選ばないなら行き成りそこに出現したと形容しても過言ではない移動術。魔力を感じなかった事から、単純な肉体での移動速度。その一動作にシエルは舌を巻く。そして心臓を狙う刺突の切っ先がシエルに向かって振り被られた。

 

 

 一直線に臓腑を抉り貫こうとする罅割れた刃は不意打ちとなって、確かにシエルの肉体へと突き刺さろうとする。しかし、心に常とするは戦闘者であり、断罪者であり、また魔への暗殺者であるシエルだからこそ、朔が燻らせる殺しの気配を咄嗟に感じ取ることで、半歩重心をずらして街灯から降り立つ事で襲い掛かる刃を回避した。

 

 

 だが、落下の途中、ぞわりと背筋が震えた。

 

 

 ――――死ね。死ね。死ね。

 耳に響く死の絶叫。

 

 

 死ね。死ね。死ね。

 

 

 肉体を滅びつくさんと唄う亡者の声音。

 

 

 死ね。死ね。死ね――――!

 

 

 それは魂まで及ぶ滅びの歌だった。憎悪と怨嗟の声が木霊する。刀身の匂い立つ闇から幾数もの惨憺がシエルに向かって幻聴を聞かせる。魂まで捉えるほどの嘆きと憤怒が、声を伴ってシエルへと襲い掛かる。

 

 

 それは、いつかシエルが耳にした地獄の騒音だった。

 

 

 物言わぬ死者たちが訴える生者への憎しみだった。

 

 

 背後から、七夜朔が電信柱を走っていた。裸足の指先で電信柱を叩いて掴み、シエルに向かって推進する。急襲めいた移動に舌打ちひとつ、身動ぎでもってシエルはその場を離れることで、彼我の距離は開かれた。

 

 

『悪いなァ、ひひ。こいつは我慢知ラずなんだ。目ノ前に魔がいるナら、それコそ抑えがきかねエ』

 

 

 急襲を仕掛けてなお、骨喰の言には謝罪の感情は込められていなかった。寧ろ愉快でたまらないという嘲りさえ声音にはある。

 

 

「……そのようですね。ですが、それなら貴方たちこそ魔ではないですか」

 

 

『ひひ、ひ……ちげえネエ』

 

 

 げらげらと骨喰は嗤う。神経に障る嘲り声だ。これまで人知を超えた化物たちと幾体も退治してきたシエルだったが、骨喰ほど悪意と邪気、憎悪と憤怒等あらゆる負の感情を持つ怪物と遭遇するのは始めてのことだった。

 

 

 物質そのものと化した化物の類がこの世に存在する事はシエルも周知している。かの二十七祖の末席にあたる第二十七位は己自身を錠前に変え、研究の成果を自らでもって封印していると耳にしている。

 

 

 しかも、それが魔術師の類ではない存在が持つ武具なのだから尚更の事。眉根を寄せて、未だ戦闘態勢を解かないままにシエルは問う。

 

 

「……私は埋葬機関第七位、シエルです。恐らくあなた方は退魔の者でしょうが、再度問い質します。あなた方は何ですか」

 

 

「――。――――」

 

 

「現在こちら側はそちら側に対し協力要請を行う手筈を整えています。なので私たちが争う事は好ましくありません。なので――――」

 

 

『で?』

 

 

 シエルが紡ぐ言葉を途中で切り捨てて、骨喰は嘲った。

 

 

 ありったけの邪気と瘴気を臭わせながら。

 

 

『んな事関係ネエ。それコそ朔には意味ネエ。目の前ニ魔がいるンだったら、縊リ殺すだけだァ。……こいツが七夜朔なラば尚更ダ。違えかイ? 尼ァ、皆殺しの輩さンよ』

 

 

 鼻白み、シエルは対峙する七夜朔を直視した。

 

 

「――。―――」

 

 

「なるほど、ナルバレックが関心を持つのもわからなくはないですね。貴方のようなものが共にいるならば、必定の事」

 

 

 闇に紛れながらも煌々と輝く魔眼の輝き、藍色の着流しから覗くワイヤーで引き絞られたような肉体、そしてその妖しい雰囲気と佇まいは人間というよりも魔的だった。

 

 

 七夜朔。ナルバレックが是非に勧誘をと告げた人物。

 

 

 日本へと訪れる前、教会でシエルが七夜朔に対し調べると姿を始め年齢及び出自は一切不明だった。てだれの教会関係者、あるいは日本の退魔組織と関わり在るものを介しても殆どの情報は得られず、唯一手に入れた情報は七夜朔が凄腕の退魔能力に特化した殺人鬼である旨のみだった。

 

 

 退魔。そして殺人鬼。

 

 

 この繋がりの見えない文言からシエルは七夜朔とは凶暴な人格を持つ厄介な人物だと想像していた。

 

 

 しかし、今シエルの目の前にいるこれはなんだ

 

 

「―――――、―」

 

 

 つぶさにシエルは七夜朔を見やる。

 

 

 確かに、先ほど魔物を屠殺した技量を見れば賞賛の具合も頷けるというものだった。対象に気付かせず、首を斬り落とした後で殺したと発覚させる速度でもって振り落とされた刃。あのような刃毀れした剣ならば切れ味など皆無に等しいだろうが、刃の能力か、それとも朔の武技か、あっけなく頸椎を寸断した腕は確かに熟練のもの。

 

 

 しかし、その威容と比べ意思の感じさせぬ佇まいは七夜朔に対してちぐはぐな印象を与えた。

 

 

 自分の知る退魔の人間とも、あるいは殺人鬼とも違うこの威容は一体何なのか。

 

 

 それは外れてなお理解できぬ場所に佇むものに対する警戒と疑念だった。

 

 

「簡潔にお話します。七夜朔、貴方が今何を倒したかは把握していますか?」

 

 

 しかし、内心ささくれ立つ感情を表に出す事無く、シエルは言葉を紡ぐ。

 

 

『ひひ、なンだ……手前の獲物だッたかァ?』

 

 

「……あれは教会でさえ容易くは手出しできない化物の末端です。それを退治したのならば、貴方は狙われる可能性が高い」

 

 

 骨喰の物言いを意図的に無視し、シエルは続ける。

 

 

 すでに彼女がここへと到着した時には朔が魔獣の首を落とした頃合だった。しかしシエルが垣間見た化生の末路は彼女の持つとある情報源と一致しており、ひとつの不安が彼女の胸中に過ぎった。

 

 

 数日前のこと、シエルが日本へと飛び立つ頃に北欧の寒村で怪事件が起こり、村民悉く行方不明と化している。寒村が人里からは離れた僻地にある事が災いし、事件が発覚したのは丸一日経った頃の事だった。

 

 

 そこで現地に派遣された代行者が発見したのは大量の血痕と、そこに混ざる獣の剛毛であった。僅かな情報量ではある。だが代行者である彼女には凡その予測が計算されていた。

 

 

 敵はシエルでさえ完全装備を持ち出さなければ相手取りたくない怪物。人から魔道に、魔道から魔へと上り詰めた元人間だ。長い歳月のあいま幾つもの代行者が滅ぼされ、数え切れぬ犠牲者が生み出されている。だからこそ、シエルは忠告を行ったのだが――――。

 

 

『ひひッ! そレこそだ、それコそが願っタり叶ったり、ソれこそが本望本懐ヨな!』

 

 

 やることは変わらない。殺す事に変わりはない。

 

 

 例え如何な化物が相手だろうとも必ず殺す。

 

 

 寧ろ、対象が近づいてくるならば好都合。

 

 

 だから骨喰は嗤うのだ。

 

 

『それトも、化物は化物が殺すトでも言うノかァ? ひひ、ひ……手前、そンな匂いさせヤがって。腐ッた血と屍の匂イが染み付イてやがル。鏖殺に虐殺を重ネた屠殺の果テしか嗅げネエ匂いダぁ』

 

 

 予測されていなかった言葉が夜の道路に劈いた。

 

 

 がつん、とシエルは脳が揺さぶられた気がした。

 

 

 七夜朔と骨喰は契約を行い感覚共有のラインが繋がっている。朔の視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。そして第六感とも称される超感覚が常時骨喰にも流れ込んできているのだ。だからこそシエルが行ってきた所業は訳も無く骨喰によって看過された。

 

 

 それはきっと地獄を生み出し、殺しを重ねる彼らだったからこそ判る事だった。途方も無い血の道を歩んだ朔には、シエルが匂わせる死臭は馴れきった香りでさえあった。

 

 

『どウだい尼ァ? 楽しカったか? 殺シは愉快だッたか? それトも悦楽か快楽だったかァ? 今マで積ミ重ねた屍の数は幾つダア?』

 

 

「……」

 

 

 歯噛みして、シエルの瞳は凍えるような温度を放った。

 

 

 拭い去りたい過去。

 

 

 忘れてはならないシエルの原罪。

 

 

 在りし日よりシエルを苛み続ける傷――――。

 

 

 指摘されるまでもなく、わかり続けていた事だった。この身はすでに汚泥と腐臭にまみれるべきなのだと、地獄よりなお地獄であるあの暗がりで、咎と共に理解していた。罵倒され、後ろ指を差され、今すぐにでも死に果てるべきなのだと思い続けてきた。全て納得の上だ。承知の上だ。

 

 

 そう、わかっているはずなのに。

 

 

 何故こんなにも骨喰の言葉を不快に思うのか、シエルには皆目わからなかった。

 

 

『朔ニゃ誤魔化せネエよ。どレだケ臭いを落としても、どれダけ違エ臭いを振り撒イても、体臭は消えはしネえ。そンナ輩が尼ってエのが傑作だァ。……だガよ』

 

 

 ひひひ、と不快な金属音が実体を持ってシエルを嘲う。

 

 

『俺はよゥ、ひひ、ひ……手前ノ善人面が鼻ニついテ仕方がネエ。常識ブったつモりだかしラねえし、何ノ興味もネエ。だがよォ、喜悦慟哭悲嘆憤慨なぞがアる殺害なンぞが――――』

 

 

「―――、―――」

 

 

 ふいに、骨喰が言葉を切った。

 

 

 何事かと思い、シエルははたと気付く。

 

 

 周囲から音が消え、生物の呼吸が聞こえなくなっていた。

 

 七夜朔の膝が深く落ちて、背中が丸まった。

 

 

 その姿は獲物に飛び掛る寸前に、力を溜めつける様にも似ていた。

 

 

 そして、それまで押し黙るだけだったシエルもまた、表情を変えてあらぬ方向へと顔を向けた。

 

 

 夜の闇に紛れて、獣の呻り声が聞こえてくる。

 

 

 朔たちの足場に撒き散らされた黒い泥が揺らめく。生命を落とされた使い魔の形骸でしかなかったはずの泥が泡を発して煮え立つ。それはまるで呼び水のように震えて、己が主の到来を待ち望んでいた。

 

 

 夜の道路。そこに男は現われた。

 

 

 男は黒かった。身にまとう硬質のコート、そしてその影となった体もまた黒く、ただ猛禽類を思わせる金色の瞳は凶暴な理性を湛えていた。

 

 

 しかし、それだけが彼を構成するものではないことは容易と知れた。ただ傲然と屹立し、あくまで自然体の佇まいでありながら、彼が放つ禍々しい瘴気は人間が触れてしまえば忽ちに気をやってしまうようなものであった。

 

 

 だからだろう、男の姿を視認したシエルは予想できた未来でありながら事実として現われた彼にくぐもった舌打ちを溢した。

 

 

「ふむ――――」

 

 

 男は、その場で佇む両者を物質の観察を行う瞳で眺める。顔は刻まれた深い皺と相まって、人の姿でありながら獣の相貌にさえ見えた。

 

 

「よもや、姫君が到来した思い足を運んでみたが……代行者と怨霊がいるのみとは」

 

 

 翻るコートの内側が不気味に蠢く。

 

 

 そこには、夜にも勝る粘着質の闇が広がっていた。

 

 

「まあよい、旅先の腹ごなしも享楽のひとつ……」

 

 

 厳かに、男は呟いた。

 

 

 男が無意識に解き放っていた殺気が質量を生み出し、爆散する。

 

 

 その凄絶さに草がさざめき、空気さえ硬質を帯びていく。人外めいた膨大な殺気にシエルは無意識だが息を呑み、そして朔は潤沢の殺意を滾らせた。

 

 

 今この時、存在するという理由のみで男は空間の支配者となったのだ。

 

 

「晩餐の時間だ」

 

 

 ――――魔獣が牙を剥く。

 

 

 かつて■■■■■・■■■■という男がいた。

 

 

 彼は欧州の名だたる魔術師の家に生まれ、幼少時から類稀な才能を持ち合わせていた。魔術の世界においてまず重要なファクターは血筋である。魔術師は一代ではなく、一族でなす探求者だ。綿々と一族の秘術を紡ぎ合わせてやがて果てへと到らんとする魔術師の宿命を思えば、確かに彼は天才と称されるべき頭脳を持ち合わせていた。

 

 

 やがて彼は周囲の期待をそのままに魔術協会のひとつ、彷徨海へと在籍した。

 

 

 彷徨海は北欧に根を張った複合協会として、時計塔、アトラス院に並ぶ魔術協会三大部門のひとつとして数えられており、またの名を移動石柩と銘打たれている。

 

 

 別名の由来は彷徨海という本式名からも読み取れる通り、彼が所属した協会は海を漂う巨大な山脈だったからである。

 

 

 北は大西洋。その海中を彷徨う巨大な山脈は時折陸地に上がり、その雄姿を見せることがある。海面より飛沫を上げて現われる岩肌を見た周辺住民が、果ては幻の大陸が現われたのかと仰天に駆られ、次の瞬間には周辺海域に施された認識阻害の魔術が彼らの記憶を改竄させるので、移動石柩は衆目に晒されぬまま今も存在する巨大な魔術協会だった。純粋な規模であるならば時計塔はもとより、アトラス院にさえ比肩を許さぬ巨大な魔窟。

 

 

 そこに彼はいた。

 

 

 正確な在籍年数は不明だが、少なくとも彷徨海に所属していた旨の書状が千年前に発見されている。そこで彼は多くを学び、多くを吸収していった。彷徨海でも彼は魔術師としての才を存分に発揮し、遂には鬼才とまで称されるに至ったが、彼はそれだけでは満足がいかなかった。

 

 

 更なる未知を。更なる叡智を。更なる未踏を。

 

 

 周囲の賞賛を無碍に扱い、彼は更なる飛躍を目指した。

 

 

 それは正に魔術師として当たり前の思考であった。己が目的以外を排斥し、己が目的のみを珠玉の命題として掲げる姿は真の魔術師としての手本とさえ言ってもよい。

 

 

 ただ、彼の場合はそれ行き過ぎたのだろう。

 

 

 探訪の果て、更なる最果てを目指した彼は遂には人をやめ、吸血鬼に成り果てた。

 

 

 それが、かつて■■■■■・■■■■と呼ばれた男の生涯である。

 




ネロ・カオスが窮屈そうな感じで飛行機に乗っている姿を想像すると面白いよ。


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