麻雀を打ちたい (158)
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九蓮宝燈を和了った日

 あれは、ある嵐の夜。

 繁華街から少し外れた通りにある、薄汚れた雀荘での出来事だった。

 

「――ツモ。8000・16000!」

 

{1112345678999}

 

 何をツモって和了ったのかはもう覚えていない。

 奇跡の塊とも言えるその形に酔いしれていたから。

 倒された手牌は(ソーズ)の九蓮宝燈。

 それも純正と呼ばれる九面待ちでの和了――正真正銘、人生最後の和了だった。

 

 

 

 ――その日、あっさり死んじまったんだから。

 

 

 

 あの頃の自分はどうかしていたと今になって思う。

 学生時代、ふとしたきっかけで麻雀という遊戯にはまった。

 それに心底惚れ込んだ俺は、麻雀で飯を食っていきたいと志し、ついには学校を辞めて旅に出た。

 母親に泣かれ、父親に勘当されたのは、さすがに堪えたが、一月もすれば考えなくなった。

 俺は情のない人間なのか? 

 一時はそう思い悩んだが、後に勘違いだとわかった。ただ、麻雀に魅了されて周りが見えてなかっただけだった。

 

 

 

 ――なんて、愚かな。

 

 

 

 元は玄人(バイニン)だったという作家の書いた主人公に憧れた。

 彼の様にどんな強敵が相手でも持ち前の技術と運、そして機転で勝ちを拾う。そんな麻雀打ちになりたかった。

 一昔前だったらもう少し楽だったのだろう。

 バブルも弾け、十余年が過ぎ去った今、賭け麻雀に対する風当たりは強かった。

 点ピン(1000点=100円)よりも上のレートで場を開帳する雀荘の数は、当時と比べめっきり数を減らしたらしい。断定系でないのは、バブル時代の俺はまだ賭場に入る事すら出来ない年齢(ガキ)だったからだ。

 それでも、人目を盗んでやってるヤツは居るもので、俺も何とかそんな場所を見つける事が出来た。

 でも、現実は甘くなかった。

 格上の相手と打つのは心が躍った。ああ、まさに今麻雀を打っていると自分に心酔できた。

 勝ったり、負けたり、勝ったり、負けたり、負けたりした。

 負けたりの数が多くないかって? 当たり前だ。

 自分より強い相手と長期間打ち続ければ収支は確実にマイナスになる。

 旅の大半を占めたのは、食っていく為、種銭を稼ぐ為、様々な雀荘を訪れては格下の相手(カモ)を探す日々だった。

 こんなはずではなかった。

 両親と友人の顔を思い浮かべ――泣いた。

 理想と現実の違いに耐えきれず、ついには実家に電話をかけた。

 耐えられない、帰りたい――そう母親に伝える。

 しかし、返ってきたのは「バカ野郎! 夢を中途半端にしてトンボ帰りする息子を私は産んでないわ!」という言葉。

 むりやり絞り出した様な母親の声に、どんな気持ちで俺に言ったのかを考え――俺はまた泣いた。

 

 

 

 ――もう後戻りは出来ない。

 

 

 

 それからは狂った様に麻雀に打ち込んだ。

 背水の陣とは良く言ったもので、そこから急に俺の雀力は伸びて行く。

 勝って、勝って、勝って、また勝った。

 強敵との対局時に覚える高揚感、そして勝った時の全能感を味わい尽くした。忘れたくなかった。

 それはどんな純度の高い麻薬でも、絶世の美女とのセックスでも、味わう事の出来ない最高のエクスタシーだった。

 もう麻雀なしの生活なぞ考えられなくなっていた。

 

 

 

 ――だから、破滅する。

 

 

 

 あの日は、事前に目を付けていたレートが高い割に客の質(麻雀の腕)が高くない場所(養殖場)で荒稼ぎをしていた。

 巻き上げた札を無造作にバッグへと突っ込み、コートの内側へとしまい込んだ。

 そして、雀荘の店主から「二度と来るな!」という視線を背に受けながら店の外へと扉をくぐる。

 麻雀という遊びは金がかかる。

 だから、金をむしられ尽くすと客は雀荘に来なくなるのだ。

 なので、店主が恨みがましい視線を自分に向けるのは当然であり、特定の店で勝ちすぎるのは本来やってはならない行為であった。

 ただでさえ、不景気で金持ちの数が少ないのだ。

 少ない賭場と少ない客。太らせて、毟って、また太らせて、また毟る。そういう風にうまく立ち回る事を要求されていた。

 何度も不義を繰り返すと、最悪の場合、その界隈を支配する恐い人にちょめちょめされる。

 そうならなくても仲間からはハブられる上、他の店に話が流れどこもかもが出入り禁止――実質的な追放処分――となる。

 都合がよく分かってなかった最初の頃は、何地区かで出禁を喰らったものだ。

 バカだったと自分でも思う。あの小説の主人公もそう言っていたではないか。

 でも今日だけは許して欲しい。どうしても金が要ったのだから。

 

 

 

 ――次は本命(まもの)だ。

 

 

 

 外に出ると雨が降っていた。

 いつもなら不快なだけのそれも、その日の俺にとっては何故か心地よかった。

 風は強かったが、小雨という事もあり、傘もささずに顔に当たる水滴の感触を楽しんだ。

 箸が転んでもおかしい年頃とはちょっと意味が違うが、とにかく俺は上機嫌だった。

 時折、魔物が雀荘に現れる。

 それは様々な形をしていて、いかにもな見た目のゴツゴツとした男だったり、物腰のやわらかな老紳士だったり、まだ成人式を迎えてないのではないかと思うほど幼い女だったりもした。

 少なくとも、見た目だけでそいつが魔物かどうか判断する事は出来ない。

 今回現れたのは年齢不詳、頭の頂点から足下まで黒で固めたあやしげな男の姿をしているらしい。

 断定系でないのは、他人から聞いた話だからだ。

 決して広い業界ではないこの界隈では、ちょっと有名になるとすぐに知り合いが増える。

 そう長い間この街に根を張っていた訳ではないが、類は友を呼ぶとは良く言ったもので、俺と似たような思考回路を持つ麻雀打ちが何人か居た。

 そして、やつらが出たら教えてくれるのだ。

 おい、出たぜ、と。

 

 

 

 ――そんなもの、聞かなければ良かったのに。

 

 

 

 “出た”という雀荘に着いて、そいつがどこの卓に座っているどいつなのか、俺にはすぐにわかった。

 目を合わせただけで凍り付く様な怜悧な視線と、絶対王者を思わせる尊大な態度。

 上から下まで黒で固めた男――こいつが魔物だ。そう確信した。

 その鋭い視線は獲物に餓えた若さの様なものを感じさせたが、何十年も賭場に巣くっているかの様な落ち着きも併せ持ち、正に年齢不詳。

 見た目は秀麗だが、コイツが放つ、平気で数人は殺してそうなオーラ――瘴気と言った方が正しいだろう――が、彼をヒトだとは思わせない。

 卓に着かずともわかる。コイツは今まで対峙したどんな魔物よりも強い。

 男の座っている卓には男を合わせて三人しかいない。まだ面子が揃っていない様だった。

 

 

 

 ――打てますか?

 

 

 

 ヤツからそう呼びかけられた気がした。

 今考えれば、俺の自惚れから来る思い過ごしだったのかも知れない。

 実際に声を掛けられた訳ではなく、ヤツは値踏みする様な視線でこちらを眺めていただけだった。

 だが、その時は恐怖よりも喜びが勝った。

 俺はコイツと打つ権利を手に入れたのだという。

 武者震いで脚ががくがくと震えた。

 そして始まる。

 

 

 

 ――長い様であっという間だった人生最後の勝負が。

 

 

 

 勝負は半荘三戦。

 

・1000点=10000円

・25000点持ちの30000点返し

・順位ウマ20-30

・焼き鳥罰符10000点

 

 一般的に高レートと言われる点デカピンの十倍にもなるが、魔物達が現れるのは決まってこんな目玉が飛び出る様なレートの場だけなのだ。

 警察にバレると間違いなくブタ箱行きである。だが、魔物達の幸運か凶運か、そのどちらかはわからないが、邪魔者(けいさつ)を寄せ付けない。

 同格以下の相手と打っていて、捕まりそうになった事は何度もあれど、魔物と打っていて、横やりを入れられた経験はない。

 ルールを改めて見て、少し珍しいなと思った。

 レートが――ではない。ウマがだ。

 店長に聞いてみると、二位のウマが大きいのはあの男が強すぎるが為の苦肉の策であり、普段は10-30だと言う。

 だが、俺は大して気にしなかった。

 黒ずくめの男とは初対面だが、他二名とは面識があり多少なりともその人となりを知っていた。

 一人はサラリーマン風の格好をした中年のおっさん。あくまでもサラリーマン“風”なだけで実際は世間一般で言う無職であり俺と同業だ。

 もう一人は好々爺然としたじいさん。孫と楽しくお散歩にでも出かけてくれれば良いのだが、内実は獲物を骨の髄までしゃぶり尽くす畜生である。

 他にも俺は知っている。コイツらが二着で良しとする程プライドのない打ち手でない事も。

 

 

 

 ――さあ、やろうか。

 

 

 

一戦目

一位64900 俺+85 △85万

二位15600 じいさん+6 △6万

三位12000 おっさん-38 ▲38万

四位7500 男-53 ▲53万

 

 一戦目はあっさり俺がトップになった。

 九蓮宝燈という奇跡の塊をこの手で掴んで。

 そして、半月は遊んで暮らせるだろうという紙幣の束が渡される。

 和了れば死ぬ――九蓮宝燈にはそんな迷信があるが、俺は欠片も信じていなかった。

 そんなの運がないヤツが死ぬだけで、俺には関係ない。そう思っていたから。

 この調子で残りも勝つぞと意気込んだ。

 しかし、その後二戦は――。

 

 

 

 ――御無礼、ロンです。あなたのトビで終了ですね。

 

 

 

 相手を見下しきった憎たらしい笑みを口元に浮かべ、男は締め括った。

 自分の上家に座る、直撃を貰いトンだじいさんは、口をぱくぱくとして言葉を出せない様子である。

 俺はトビこそしなかったが、二戦連続でヤキトリであった。

 幸い他二人が沈んでくれたのと、20-30という珍しいウマのおかげでペナルティを払ってもプラス収支ではあった。

 しかし、俺にはこのまま引き下がることはできなかった。

 いくらなんでもわかる。一戦目は手を抜かれていたのだ。

 こんなお情けに預かるくらいなら、スッカラカンになった方がましだった。

 俺はあまりにも青臭く、真剣勝負という名の美酒に餓えていた。

 

 

 

 ――頼む! もう一戦だけ打ってくれ!

 

 

 

 あまりにも無鉄砲で、あまりにも愚かな願いをしてしまう。

 しかし、悪魔は願いを叶えてくれる存在であった。

 条件付きではあったが。

 

 

 

 ――レートを上げませんか?

 

 

 

 一も二もなく、その場に座る全員が悪魔の提示する条件を呑んだ。

 わざわざ強者と打ちに来る様なヤツは揃いも揃って負けず嫌いであり、敗走は許されざるものだと自身にルール付けをしていた。

 もちろん、そんな思惑も悪魔の想定通りだったのだろうが。

 アレは人の姿をした鬼――人鬼だったと思う。

 その後の展開は語るまでもない。

 

 

 

 ――御無礼、ツモりました。

 ――御無礼、ロンです。

 ――御無礼、御無礼、御無礼、御無礼。

 

 

 

 あの男が何回御無礼と言ったのか、それすらわからなくなる程に和了られ続けた。

 その間、俺は放銃も和了も、もしかすると副露さえしていなかったのかも知れない。

 何もさせてもらえないまま対局は終了した。

 しかし、何故か俺のバッグは僅かばかりだが金で重くなっていた。

 店長が言う、「あの男は、自分の邪魔をしなかった相手をお情けでプラス収支になるようにしているんだ。最も本人は何も言わないから推測だけどね」と。

 その言葉を聞いて俺はその場に崩れ落ちた。

 

 

 

 ――なんたる、無様。

 

 

 

 俺は負けたとはいえ、あの男と卓を囲めたことに誇りを持っていた。

 あんな強いやつに勝負の相手として選ばれたんだと。

 しかし、それは勘違いだった。

 あの男にとって都合の良い、利用するには丁度良い腕前の打ち手。

 それに該当するのが、たまたま俺だっただけだ。

 どれだけその場に座り込んでいたのかわからないが、俺が冷静な思考を取り戻した頃には雀荘から客の姿が消えていた。

 その後のことはもう朧気にしか覚えてない。

 外に出ると既に嵐は過ぎ去っており、空には朝日が昇っていた。

 寝ぐらというには上質なカプセルホテルに戻ることもなく、ただふらふらと街中を歩いていて――何かが頭に衝突した。

 体がアスファルトに叩き付けられ、視界は鮮血の赤に染まる。

 

 

 

 ――勝ちたかった……な。

 

 

 

 薄れ行く意識の中で、俺はあの男のことを思い浮かべた。

 母親でも父親でもなく、あの憎たらしい男のことを。

 

 

 

 ――願わくば、もう一度あんな魔物と戦いたい。

 

 

 

 信じてもいない神に祈った。

 まだ死ねない。

 まだ戦い足りない。

 まだ、まだ、まだ、まだ……。

 

 

 

 ――麻雀を打ちたい。



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命名――杉乃歩

 ――目が覚めると純白の世界だった。

 

 

 

 と言っても摩訶不思議な空間に迷い込んだ訳ではなく、至って普通の病室だったのだが。

 ベッドに横たわったまま目だけを動かして周りの様子を観察する。

 この部屋に俺以外のベッドは置かれていない、どうやら個室の様だ。

 結構ヤバイ状況だったのかなと、まだフル稼働していない脳みそで考えた。

 右手側には窓。ベージュのカーテンが掛けられており、外の景色は見えなかった。

 左手側にはフルーツてんこ盛りのカゴが置かれており、その隣では脳天気な顔をした女がリンゴを食っている。

 ちょっと待て、お前は誰だ? そもそもそのリンゴは俺へと誰かが持ってきたものなんじゃないか?

 銀髪ショートカットの端正な顔立ちをした女、年の頃は二十歳前後というとこか。椅子に座っているからわかりにくかったが、どうやら身長もそうとう高い。180センチ以上はあるだろう。

 こんな目立つやつは俺の知り合いには居なかった。

 看護師という線はない。何というか男子高校生の様な格好をしている。

 という事は俺の頭に何かを直撃させてくれた張本人、もしくはその身内だろうか。

 俺の頭にぶつかったのが何だったのかも気にならなくもなかったが、まあどうでも良い。

 ただ一つ確かな事がある。

 どうやら俺は生き長らえたらしい。

 つまり――、

 

 

 

 また麻雀が打てる――これ以上の喜びはなかった。

 

 

 

 そう感慨に耽っていると、目から熱い雫が流れ落ちた。

 我ながら重傷だと思う。

 また麻雀が打てるというだけで涙してしまうとは。

 

「お、おいッ? 起きたのか? つーか何で泣いてるんだ? 大丈夫か?」

 

 銀髪の女はリンゴを一気に飲み込むと、矢継ぎ早にまくし立てる。

 どうやら食い意地が張っているらしい。落ち着きのないこの様子から、もう少し歳は下なのかなと思った。

 大人びた容姿をしているが、案外高校生くらいなのかも知れない。

 

「やっぱ何かされてたって事か! クソッ許せねえ……こんなにかわいい女の子を」

 

 何かもくそも、頭を強く打ったんだ。

 ん? こいつの言い分からすると、どうやら犯人は不明らしい。

 つまり、こいつの正体は、倒れていた俺を助けてくれた善良な市民Aという事なのか。

 今時珍しいタイプだ。いい女になるだろうと勝手に判断を下す。

 

「大丈夫だ。俺は味方だからな。ここにお前を襲ってくる不埒なヤローはいねえ」

 

 ふむ、あれがもし賭場を荒らした事による報復ならば、俺は生きているはずがない。

 何かをぶつけるという回りくどい方法ではなく、鉛玉を撃ち込めば解決する話なのだから。

 そうとわかれば、いつまでも黙りこくっている訳にはいかない。

 俺の口から何も問題ないと彼女に伝えるべきだろう。

 

「頭に何かがぶつかっただけで、誰かに襲われた訳では……って誰の声だこれ」

 

 声変わり前の少年の様な甲高い音が流れた。

 俺は成人した男だぞ?

 少し前に銀髪の女が不穏な事を言っていた様な気もするが……まさか。

 

「おい!? やっぱりやばいんじゃないか? 自分の声がわからないって……記憶喪失?」

 

 「とりあえず医者だ医者!」と言って、銀髪の女は大急ぎで病室から出て行った。

 ナースコールのスイッチを押せば良かったのでは……と思わなくもないが、俺は俺でそれどころじゃない。

 体を起こし、自分をまじまじと観察する。

 

「手が……小さい」

 

 特別ゴツイ方ではなかったが、日常的に牌を握っていた事から通常人よりは太かった指が、三分の二スケールに縮小されている。

 皮膚も薄く、ぷにぷにでまるで女の手みたいだと思った。

 

「という事は……もしや」

 

 口ではそう言ったが最早確信していた。

 胸部へと手を滑らせると、そこには「ふにっ」とした双丘が存在していた。

 ややサイズは足りないが、まあそういうのが好きなやからもいる。

 

「……ない」

 

 さらに下へと手を移動させた結論がこれだ。

 

 

 

 ――今の俺は女になっている。

 

 

 

 信じられない事だが、信じるしかない。

 助かったと思ったが、どうやら全然助かっていなかった様だ。

 目が覚めれば女になってましたというよりも、死んだ後、女に生まれ変わりましたと言った方がまだありえそうな気がしたからだ。

 でも、まあ良いかと思えた。

 男であるという事にプライドを持っていなかったのか、と聞かれれば非常に痛いのだが。

 

 

 

 ――女でも麻雀は打てる。

 

 

 

 この一言に全ては集約出来る。

 一度は死を覚悟した身。もう一度チャンスがあっただけでも儲けものであり、その体に文句を付けるのは贅沢というものだ。

 問題は、今の体の外見である。

 ブサイクか否かというのも気にならないかと聞かれれば嘘になるが、それよりも重要なのは、ぱっと見何歳くらいに映るかだ。

 体付きからして幼児体型という程ではないにしろ、かなり若そうな感じである。

 明らかに未成年に見える様なら雀荘に入る事すら出来ない。

 

「かがみ、かがみ……かがみはどこだ」

 

 しかし、病室内にかがみは備え付けられていなかった。

 このまま医者が来るまでおとなしくしておく他ない。

 そういえば俺の荷物――というか金はどうなったのだろう。

 何だかんだで百万くらいあったはずだがと、辺りを見回すが、見慣れた黒いバッグの姿はない。

 そりゃそうか。今は別人なのだから。

 前の俺の荷物を今の俺が持っているというのは不自然極まりない。

 しかし、今後はどうするべきなのだろう。

 金はないし、元より身よりもない。

 働いて種銭を稼ごうにも、戸籍がない。

 となれば危ない橋を渡るしかない。男の場合ちょっと危険な肉体労働程度だが、女の場合は語るまでもない商売だろう。

 流石にそれはごめん被る。男に抱かれる趣味はない。

 

「おーい! 医者を連れてきたぞ!」

 

 扉が壊れるのではないかという勢いで銀髪の女が突入してきた。

 ここは病院だから静かにするべきだろう。その程度の常識は俺ですら持ち合わせている。

 まあ俺の事を心配してくれたのだから、全く悪い気は抱かないのだが。少々この女の将来が不安になった。

 

「はぁはぁ……」

 

 息絶え絶えな中年の女医が少し遅れて入室した。

 ただでさえ多忙な勤務医という身分ながら、激しい運動を強要されたのだ。

 若干頼りなく見えたが、まあ仕方ないだろう。

 

「……お」

 

 お?

 何だろう、「おはようございます」だろうか? 「お体の調子はいかがですか」だろうか?

 

「おぇぇぇぇぇ」

 

 吐いた。

 女医が盛大に吐き出した。

 

「ちょ!? あんた医者だろ? なにしてんだよ!?」

「うっぷ……」

 

 結局、まともな診断は数時間後にスライドされたのだった。

 

 

 

 銀髪の女とはすぐに仲良くなった。

 学生の上、住み込みで働いているという彼女とは週に二、三回しか会えなかったが、とにかくウマが合った。

 学校であった面白い事、勤め先でのハプニング等、聞いていて相手を飽きさせない。

 聞き上手なタイプではなく、話し上手なタイプだった。

 それでいて彼女も麻雀が好きだというのだから、俺は色々な事を聞いた。

 好きな役は? どんなスタイル? 流れは信じる? といった具合に。

 

「タンヤオと役牌」

「鳴き中心だなあ」

「むしろ信じないヤツの方がおかしいぜ」

 

 麻雀の面でも俺と気が合うかも知れない。

 俺の様な博打打ちという刹那的な生き方ではないが、勝負師としては似たようなものだ。

 何でも彼女の学校には麻雀部があり、大会でも良いところまで進んだと言う。

 麻雀部がある高校というのは聞いた事があるが、高校生の麻雀大会というのは初耳だった。

 どんなレベルかはわからなかったが、弱くはないだろうと感じた。この感覚が間違っていた事はない。一度彼女と打ってみたいなと思う。

 そう伝えると、「いいぜ、いつでも受けて立ってやる」という男前な返事を貰った。

 

 

 

 それから数週間の時が流れた。

 今俺は、寒空の下で彼女と肩を並べ、とある場所へと向かっている。

 

 

 

 ――外傷後健忘症。

 

 

 

 これが俺に付けられた病名だ。

 実際は記憶を失っている訳ではないが、この体で元は男でした等と言っても頭のおかしい人にしか思われないだろう。

 そもそもの自分が健全な精神構造をしているとも言えない気がするが。

 

「お~い(あゆむ)、何ボーっとしてんだ?」

 

 杉乃歩(すぎのあゆむ)というのは俺の新しい名前だ。

 どうやら俺は杉林の中に倒れていたらしく、名字はそこからとって杉乃(すぎの)とされた。

 名前の歩は記憶のない俺がこれから歩んでいく道のりを……などと考えられて付けたらしい。

 通常こういった身元不詳の上、記憶喪失の患者が出た場合、捜索願が出されている人物と似通ってないか調べられた後、専門の施設へと入れられる事になると聞いた。

 しかし、俺はそうはならず、俺を発見した銀髪の女――井上純(いのうえじゅん)――の雇い主である龍門渕家が保護者が見つかるまで面倒を見てくれる事になった。

 何でも龍門渕家のご令嬢が、「最後まで面倒を見ずに放り出すのでは、龍門渕家の名が廃りますわ!」と啖呵を切ったとか。

 かっこいいというか、ちょっと恐いというか、変わった女がいるんだなと少しそのお嬢様に興味を持った。

 

「どうした? 緊張してんのか?」

「いや、別に」

「相変わらず中身はかわいくねえな……」

 

 俺がぶっきらぼうに答えると、純はつまらなさそうに口を尖らせた。

 今日はついに退院し、その龍門渕家へと挨拶に行くのである。

 “中身は”と評された様に、俺の外見は見目麗しい絶世の美少女……とまでは行かないが、かわいらしい女の子である。

 どこにでもいそうなレベルという注釈は付けるけど。男子学生ならクラスに一人くらい居るだろ? あっ、この娘かわいいなっていう女の子が。

 年齢はどう高めに見積もっても高校生程度で、中学生とでも言った方が自然だった。

 実際、仮の戸籍にも15歳(中学三年生相当)として記載された。

 何故そうなったかと言うと、まだ高校一年生だという純が「お前の方が年下だろ、外見的に」と言ったから。

 そんなに適当で良いのだろうか。そして俺は言いたかった、「お前より大人びた高校一年生はいない」と。

 一刻も早く成人したい俺にとっては全く歓迎できる事ではなかったが、勝負でも何でもないのに恩人に噛みつく程、礼儀知らずでもなかった。

 

「早く大人になりたいもんだ」

「ませてるなあ……わからなくもないが、学生っていう身分の良さは、手放して初めて価値がわかるもんだ。今はその身分を享受しておけよ」

「……お前何歳(いくつ)なんだ?」

「ジューロク」

「絶対うそだろ」

 

 二人して笑い合う。

 彼女は、時折年齢不相応な説教じみた話をする。

 とても他人事の様には聞こえず、過去にそれなりの修羅場の体験があるのだろうなと感じさせられた。

 それもまた井上純という女の魅力なのだが。

 今の体が女ではなく男であれば……口説いていたかも知れない。

 

「お前、いい女だな」

「当たり前だ」

 

 からかい半分に言った俺の台詞に、純は自慢げに胸を張った。

 ちょっと頬を赤く染めてみるとか、慌てふためいてみるとか、そんなかわいらしい反応を期待したが、どうやら相手は強敵らしい。

 女子校の王子様的な見た目をしているので、こんな言葉は聞き慣れているのかも知れない。

 

「おっ、あそこだあそこ。見えるか?」

 

 純が指を差す方向には、遠目で見てもバカでかい門があった。

 龍門渕家というのは想像以上にすごいところらしい。

 しかし、俺の心の大半を占めているのは、最期の時と変わらなかった。

 

 

 

 ――ああ、麻雀を打ちたいなあ。



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同類

 ――世界が違う。

 

 

 

 それは俺とあの黒ずくめの男という様な話ではなく、純粋に環境が違うという意味でだが。

 龍門渕家は想像以上の豪邸だった。

 到着するなり通された客間。そこはまるで高級ホテルの一室の様だった。

 頭上にはシャンデリア、足下にはまるで綿の様にやわらかい感触の絨毯が敷かれている。

 壁を見てもいかにも高そうな絵画が飾られていた。

 俺が座っているソファも、体を埋め込めばどこまでも沈んでしまうのではないか。そう錯覚してしまうくらい柔らかい。

 こんな場所が初体験という訳ではない。賭場が開帳されているのが、たまたまそんな場所だったという事が多かっただけではあるが。

 高レートの場を開くのは金持ちというのが相場であり、なおかつ腕前はそこまで高くない事が多い。俺はそんな場所を見つけると足繁く通った。

 しかし、相手が格下とわかっていても、勝負は勝負。気の休まる暇なんてなかったし、もし休めれば容赦なく喰われる。

 こうして、まじまじと観察するだけの精神的余裕がある状態は新鮮だった。最もそれはそれで何とも落ち着かないという感想を抱くのが、俺という人間だが。

 そんな中、唯一の味方である純が、「ちょっと待ってろ」と言い残し、部屋を出た。

 俺が到着した事を主人に知らせに行くのだろう。

 何とも心寂しかったが待つしかないと、ふかふかのソファへと体を沈め長期戦に備える。

 すると数分もしない内にドアがノックされた。

 

「失礼いたしますわ」

 

 現れたのは勝ち気な目をした金髪の少女と、燕尾服を着た眉目秀麗な若い男だった。少し遅れて純もやってきた。今回は黒を基調としたメイド服を纏っている。これが正装なのだろう。

 状況から察するに、金髪の少女が俺を引き取ると決めた龍門渕家のご令嬢と判断して間違いなさそうだ。

 見た目にはまだ子供子供した部分はあるが、堂々としていながらも決して失礼に見えない態度。人の上に立つものとしてのオーラを携えた、器の大きい人間だという第一印象を抱いた。

 そう思いつつも、頭の片隅では麻雀も強そうなタイプだと弾き出しており、俺は既に抜けられない沼に捕らわれているなと、少し自分に恐怖した。

 

「杉乃歩さんでよろしかったでしょうか? わたくしは龍門渕透華(りゅうもんぶちとうか)と申します。以後お見知りおきを」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします。この度の御厚意に心より感謝申し上げます」

 

 優雅で、それでいて決して高慢ではない。そんなやわらかな女だ。

 

「お前……敬語使えたのか?」

 

 俺が挨拶を交わしていると、視界の隅にぎょっとした顔を浮かべている純が映った。

 失礼な事を言う。

 確かにろくな教養を持ち合わせていないという自負はあるが、俺だって敬語くらい使える。

 

「ふふっ、純から聞いていた通りおもしろい方ですわね」

 

 ほら見ろ、透華に笑われたじゃないか。

 純には普段の十倍くらい冷たい視線を送ってやった。

 

「お恥ずかしい所をお見せしました。えっと……」

 

 この場合彼女をどう呼ぶのが正解なのだろうか。

 龍門渕さん? 透華さん? 透華様? 悩ましいが、お嬢様というのも定番か。

 

「透華と呼び捨てにしてくださって結構ですわ。わたくしも堅っ苦しいのは大嫌いですの」

 

 そう言って透華は鼻を鳴らす。

 一瞬本気で嫌そうな顔を見せたので、本当に堅苦しいのは嫌いらしい。

 俺としても大歓迎ではあるが。

 堅苦しくやれと言われればやるが、やらなくていいのならやりたくない。

 悲しい事に博打打ちには年齢制限がある。なのでこの先――少なくとも成人するまで過ごす場所になるのだ。

 余計な気を使うのは避けたかった。

 

「公式な場でのみ透華お嬢様、もしくは透華様と呼んで頂ければ問題ありません。ええ、問題になどさせませんとも」

 

 そう言って透華は一瞬サディスティックな表情を見せる。

 公式な場というのが何なのか、俺にはいまいちわからなかったが。

 それにしても俺をこの家で預かる事に関し、かなり無理をしたのだろうなとは理解出来た。

 これだけ格式の高い家なのだ。どこの馬の骨かわからない子供を預かるという事に、内部で反発がない訳がない。

 

「という訳で普段は敬語禁止、名前も呼び捨てで――そうですわね、純に接するのと同じようにわたくしに接しなさい!」

 

 返事は?

 そう訴えかける様に、透華は俺へと右手を向ける。

 透華に後光が差している様に見えた。

 

「わかったよ、透華」

 

 ああ、最近俺は良い女に出会ってばっかりだ。

 自身が女の体になってしまったのが、本当に悔やまれる。

 

 

 

 ――かんぱ~い!

 

 

 

 グラスのぶつかり合う音が鳴った。

 場所は龍門渕家の別館(といっても一般的なペンション以上の広さはある)。

 既に夜の帳は降りており、空には半月が浮かんでいた。

 そこで何が行われているかと言うと、俺の歓迎会だ。

 俺の他、五人の女の子が参加している。

 

 一人は龍門渕透華。

 俺を引き取る事を決めてくれた、第二の恩人とも言える人物。金色のロングヘアーに、サファイアブルーの目。その勝ち気な瞳からはカリスマ性の様なものが見て取れた。かなり気さくな人物で敬語禁止、名前も呼び捨てにする様にと言い渡された。

 

 一人は国広一(くにひろはじめ)

 透華の専属メイドをこなしていると聞いた。黒髪ショートの小柄な女の子。何故か俺に気の毒そうな視線を向けていた。大抵の事では動じないメンタルを持っているつもりだが、何か言ってくれないと流石に不安になる。

 

 一人は沢村智紀(さわむらともき)

 別館の主の遊び相手を務めているらしい。ちなみに純も同じ役目だとか。黒縁メガネの似合う知的な女性だ。かなり無口で「よろしく」以外の言葉を交わした記憶がない。

 

 一人は天江衣(あまえころも)

 この別館の主人であり、透華の従姉妹だという。髪や瞳は透華と同じ色だが、小学生中学年程度にしか見えない幼い容姿である。しかし、俺では解読出来ない様な難解な単語を駆使して話す。何か話かけられると、とりあえず愛想笑いを返したが、その度にゾクリと背筋が凍った。こいつは――魔物だ。

 

 少女達は、主役であるはずの俺を差し置いて、わいのわいのと盛り上がっている。

 そんな彼女達の姿は、俺には眩しすぎた。

 過ぎ去った青春時代を振り返ってという程、俺も歳をとったつもりはない。

 だが、少なくとも成人を迎えていた身であり、現役女子高生のテンションには中々ついて行けない部分もある。

 気を使った純や一が、時折こちらに話題を振ってくれるので、何だかんだで俺も参加は出来ている……と思いたい。

 そんなこんなで龍門渕家の人々は、俺という異物の存在を受け入れてくれている様だ。

 客間で透華と挨拶を交わした後、執事と思わしき男――萩原(はぎわら)というらしい――に説明を受けたが、龍門渕家での俺の待遇はかなり良いものだった。

 

・学費:無料

・食費:無料

・家賃:無料

・衣類:無料

 

 至れり尽くせりとは正にこの状態だろう。

 衣食住全てを賄ってくれる上、何と月々小遣いまで貰えるとの事。それでも金が足りない場合は、ちょっとしたアルバイトを紹介すると説明された。

 純の様にメイドでもすれば良いのだろうか? 家事なんか、ここ数年した記憶がないだけに不安が大きい。代打ちとかそんな仕事はないのだろうか。それなら得意分野だし、情けない話だが相手が魔物でもない限り、勝利をもぎ取る自信がある。

 まあ透華にせよ、萩原にせよ、そんな物騒な仕事を回してくる様な人には見えなかったが。

 これからの生活を思うと、透華、そして透華を紹介してくれた純にも、ただただ頭が下がる。

 

「おお~い! 飲みようが足りねえぞ~っと!」

 

 ぬふふと、少し下品な笑みを浮かべながら純が俺のコップへとコーラを注ぐ。

 飲みと言えば、俺はあまり酒を口にした事がなかった。

 アルコールを摂取すれば、抜けるまでの数時間、脳の回転は鈍るし、タバコに関しても同じ事が言える。最も後者については、雀荘に行けば大抵の場合、強烈な副流煙を喰らっているので、気にする意味はあまりなさそうだが。

 飲む・打つ・買う。この三拍子が揃っていないと博打打ち――またの名をクズ――とは呼べないという風潮もあったが、俺は否定したい。買うについてはどうぞお好きにの一言だが、飲んでいるヤツは大抵が三流だ。その理由は前述したばかりである。

 振り返れば振り返る程、本当に麻雀漬けの日々を送っていたものだと感慨深くなる。

 

 

 

 ――やはり俺はおかしい。あの生活が恋しいと思えてしまう。

 

 

 

 今、周囲にはかわいい女の子だらけという、男ならば天国だと感じるシチュエーションだが、俺にはそろそろ限界が迫っていた。

 もう一月あまり、牌を握っていない。

 麻雀で食っていくと志して以来、牌を握らなかった日はない。

 例えインフルエンザに罹っていたとしても、体を引きずりながら雀荘に通った。

 今では非常に申し訳ない事をしたと思う。恐らくその雀荘の中でインフルエンザが猛威を振るったのだろうから。

 魔物が居る――目の前に。

 ――たたかえ、戦え、闘え。

 ――たおせ、倒せ、斃せ。

 もうだめだ、必死に道筋を逸らそうとしても、頭が勝手に麻雀を打つ方へと誘導してくる。

 ちらちらと視界に入る、部屋の片隅に置かれている自動卓。

 あれが俺にささやいている気がした。

 

 

 

 ――これ以上自分をごまかせない。

 

 

 

「なあ――打たないか」

 

 自動卓を指さして、俺は提案した。

 すると先ほどまでの乱痴気騒ぎが嘘の様に静まり、肌を刺す様な静寂が部屋を包み込んだ。

 それぞれが、信じられないものを見るかの様に、俺へと冷たい視線をなげる。

 

「おっと、そう言えば約束してたな……いつでも相手になるって」

 

 そんな気まずい空気を切り裂いたのは純だった。

 好戦的な笑みをこちらに向け、そう言う。

 すぐに意識を切り替えられるその器用さに好感を覚えた。

 

「ちょっと純! 聞いてませんわよ? 歩さんが麻雀を打てるという話は」

「言ってなかったっけ? わりィわりィ」

「初耳ですわ!」

 

 透華は純に感情を爆発させた。

 まるで、俺が麻雀を打てると何か問題があるかの如く。

 魔物を晒したくない理由でもあるのか? そう勘ぐってしまった。

 

「うわぁ……想像出来うる最悪の事態だ……」

 

 一は頭痛を抑える様に額に手を当てた。「ボクは見学でお願いするよ」と言って一歩退いた。

 

「……気を強く持って」

 

 無言で騒ぐ。何とも難解な行動をとっていた智紀が、久々に口を開いた。それ程の事態なのだろう。

 

「歩は……衣と麻雀を打ってくれるのか?」

 

 不安げに、何かを恐れる様な視線で衣は俺を見つめる。

 妙だなと思った。

 魔物と呼ばれる存在は、他者を蹂躙しても眉一つ動かさない鬼畜か、もがき苦しむ様を見て興奮を覚えるサド野郎か。その二種類が多い。

 衣は異質だ――そのどちらにも属さない様に見えた。まるで――他者を傷つける事に怯えている様なその仕草から。

 そして、理解する。

 俺がという人間がどういう存在なのか。それがわかっていない彼女達は、魔物と打つ事で俺が壊れるのを恐れているのだろう。

 

「衣と打ちたい」

 

 そんな事、どうでも良い。俺は麻雀を打ちたいだけなのだから。

 負けなんか何千何万と経験している。その数だけ絶望もしてきた。それでも俺は――まだ牌を握っていられる。

 あの男に弄ばされた後も、牌を置こうとは思わなかった。

 

「本当か!?」

 

 俺を見上げる衣の視線には、強い力が籠もっていた。

 本当なのか? 嘘は許さない、許せない。お前が壊れようと知った事はない。自分の気が済むまで打ち続けるぞという。

 

「ああ。俺は壊れない」

 

 俺がそう返すと、衣は満面の笑みを浮かべた。その姿は、飼い主を見つけた子犬の様で、木の実を口いっぱいに頬張るリスの様で――獲物を見つけた悪魔の様だった。

 

 

 

 ――ああ、やっぱりそうか。こいつはあの男の同類(おともだち)だ。

 

 

 

「なっ!?」

 

 純以外の面々は目を見開いて驚きを露わにする。何でその事をと。

 確かに、遠目で見ただけなら、衣はかわいらしい少女だろう。

 だが、近くに寄って感じればわかる、わからないはずがない。

 

 

 

 ――俺はお前(まもの)を打ち倒したいが為、死してなお、この場に立っているのだから。



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試験

 ――リーチ。

 

 

 一番好きな役は何か?

 そう問われれば、俺は迷う事なくこの役の名を答える。

 俺は、どちらかというと鳴きを中心に据えた雀風である。

 好きな役がリーチというのは、打ち筋と矛盾しているかの様に思えるかも知れない。

 だが、俺は鳴き型だからこそリーチが好きなのだ。

 鳴き――副露するという行為にはどういった意味があるか考えた事があるだろうか。

 細かい話は割合するが、他家の捨て牌を使って面子を作るという行為は、「自力で有効牌をツモる自信がない」と言っているのと同意だと考えている。

 麻雀というのはツイている時よりも、ツイていない時の方が多いゲームである。

 基本的に一局につき、一人のプレイヤーしか和了する事ができない。

 単純計算で75%はツイてない局なのである。さらに流局になる確率を加味すれば、実に80%近くの局で自分にとってうれしくない結果が出るのだ。

 面前に拘っていれば、よほど格下の相手を打たない限り、和了率は25%を超える事はないだろう。

 だから鳴いて他人の(うん)を喰い取る。

 そうやって無理をする事で、自分と同レベルかそれ以上の相手と卓を囲み、和了率25%以上を残せる様になる。

 まあこの理論にも、「相手が面前派ならば」という大きな穴があったりするのだが。

 何にせよ、他家の捨て牌(うん)を喰う事なく聴牌出来る時――リーチが出来る時――というのは、それだけツイているという事なのだ。

 だから、先制リーチを打てば大抵和了れる。そういう風に出来ているのだ。「俺の場合」という注釈は付くが。

 勝つという事は、いかにリーチが打てる状況の持ち込めるかに限りなく近い。

 俺はそう考えている。

 

 

 

 

 ――ああ、やっとだ。やっと牌にさわる事が出来る。

 

 

 

 からからと回るサイコロ、じゃらじゃらという洗牌の音、どれもが新鮮で懐かしかった。

 「レートはどうするんだ?」と言おうとして、相手が未成年なのと、自身が文無しなのを思い出した。汚れてるなあと自分の事が少し嫌になる。

 それにしても、今日はそう長く打てないというのが残念極まりない。俺としては、自分か衣のどちらかがぶっ倒れるまで打ち続けたかったのだが、「勝負は半荘一戦ですわ。明日は学校があるのですから」という透華の一言により却下された。

 そうか今日は日曜日だったのかと、曜日感覚のなくなっている自分に愕然としながらも、まあ良いかという珍しい感情を抱いた。

 これから寝食を共にするのだ。毎日でも衣とぶつかり合う事は出来る。

 だからと言って、いい加減な打牌をするつもりは全くないが。じっくりと味わいながら魔物を倒したいと思う。

 今回も、これからも、全身全霊を持ってして勝ちに行く。

 

 

 

 ――トップ以外の着順に価値は皆無なのだから。

 

 

 

ルール

・東南戦 25000持ち30000点返し

・喰いタンあり 後付けあり 喰い替えなし

・赤ドラあり(赤五萬一枚・赤⑤筒二枚・赤5索一枚の計四枚)

 

 

 

東一局0本場 ドラ:西 親:杉乃歩

東家:杉乃歩

南家:龍門渕透華

西家:井上純

北家:天江衣

 

 起家というのはあまり好きではない。

 相手がどんな打ち手なのか、それを理解していないと手痛い一撃を喰らう事になる。これは俺がただの麻雀好きから麻雀打ちへと転身してすぐ、身を持って教えられた事である。

 だから、序盤は相手を観察しながら対局を進めて行く訳で、俺はあまり攻勢に出ない。もちらん和了らないという意味ではないし、リーチに対する反応を見る為、クソみたいな牌姿(ひどい場合はノーテン)で曲げる事もたびたびある。

 そんな訳で、俺の場合、理想は北家であり、その次は西家、南家と続く。実際の所、どこでも勝率にさほど開きはなく、ただのジンクスなのだが。

 これは初対面の相手との対局の場合に限る話であり、お互いのやり口を知り尽くした様な相手の場合は違ってくる。親番は早ければ早い程嬉しい。もちろん、これもただのジンクス、というか好みの問題だ。

 一般的には、放銃さえしなければ確実に二位以上で親番に突入出来る南家が一番良いとは聞く。

 まあ今は出来る範囲で攻めつつ観察するとしよう。

 俺に嘘を言っていないのだとすれば、純の打ち筋はある程度だが想像出来る。流れを重視するという、俺に近いスタイルだろう。

 問題は他二名。

 透華と衣についてはデータが全くない。あせらずに真髄を見極める。

 優劣を付けるのはあまり良い事ではないのだが、特に衣には注意を払う必要があるだろう。

 あの男と同じ雰囲気を纏っているのだから。

 どう料理してくれよう。それを考えるだけで、胸は高鳴り、顔は熱を帯びていく。愛しい愛しい魔物(こいびと)が目の前に居るのだ。もちろん、逆においしく頂かれる可能性も高いが、それは遠慮願いたい。

 

配牌 ドラ:{西}

{一二赤五七②④⑨3457東東北}

 

 この局は和了れそうにないなと思った。

 長い間麻雀から離れていた為か、あまり俺の運が牌に馴染んでいない。

 連風牌の対子と赤牌を一枚持っていて、配牌が悪いというのはおかしいと思うかも知れないが。

 牌を握った時のすかっという軽い手応え、それが俺に教えてくれるのだ。ツキのない今、お前ではこの手牌を面前で聴牌まで育て上げる事は出来ないぞと。

 一度深呼吸をして気持ちを落ち着ける。

 そして冷静になった頭が判断を下した。鳴きを駆使して、{東}と何かのシャボ待ちで聴牌出来れば上等というレベルだろうと。

 卓上を見渡し、他家の理牌が終わったのを確認して、{北}を打つ。

 二巡目、三巡目、四巡目……変わらず手応えはない。まだ時間がかかるという事か。

 五巡目、衣が零した{6}へと、反射的に手が動いた。

 

「チー」

 

五巡目 手牌

{一二赤五七②④34東東發} {横657} 打{一}

 

 喰った。衣の(うん)を。

 自分に運が向くまで、のんびり待つのは俺の性に合わない。

 集まって来ないのならば、無理矢理奪うまでの話だ。

 

六巡目 手牌

{二赤五七②④34東東發} {横657} ツモ{③}

 

(少しだけ……戻ったか?)

 

 軽石の様に手応えのなかったツモが、ふやかした高野豆腐程度には重くなって来た。

 打{二萬}で二聴向。

 

七巡目 手牌

{赤五七②③④34東東發} {横657} ツモ{五} 打{發}

 

 ようやく一聴向に届いた直後、「リーチですわ!」と下家の透華が牌を曲げた。

 

東家:杉乃歩 {五赤五七②③④34東東} {横657}

捨て牌

{北⑨白北一二}

{發}

 

南家:龍門渕透華 {■■■■■■■■■■■■■}

捨て牌

{①白北一南横④}

 

西家:井上純 {■■■■■■■} {中中横中} {横一二三}

捨て牌

{⑥⑧北白⑨三}

 

北家:天江衣 {■■■■■■■■■■■■■}

捨て牌

{南九二發}

 

 案の定先制された訳だ。

 まあ想定通りの流れではあるが。

 俺に第二の生を与えてくれたのが麻雀の神かどうかは定かでないが、ただ一つ確実な事はある。天運をセットにはしてくれなかったという事だ。

 注意すべきは下家だけではないと、肌がぴりぴりする。

 幾多の敗北により俺の身に染みついた獣の様な危険察知能力。それが「この局は無理だぞ」とささやいていた。

 

(二家……いや、まさか三家聴牌か?)

 

 嫌な予感がした。

 俺にツキがない分、他家の手は早いはずなのだ。

 全員張っていても不自然ではない。

 

「引かねえぜ」

 

 純はそう言って{赤⑤}をツモ切った。

 捨て牌からすると萬子のホンイツ。リーチに立ち向かうという事はよほど待ちが多いのか、打点が高いのか。そのどちらかだろうか、最悪の場合両方満たしている可能性もある。仮に染まっていないにしても、一枚も見えていない自風牌の{西}(ドラ)を抱えている可能性が高く思えた。低くても満貫、絶対に振り込めない。

 

(ハードだな……)

 

 少なくともリハビリついでに打って良いレベルの卓ではない。

 アーケードの脱衣麻雀もビックリの難易度だ。

 そして次は大本命。(まもの)はどう動く? その一挙手一投足を見逃さまいと、視線を凝らす。

 衣のしなやかな指が手牌の中の一枚へと伸びる。

 そして――打{赤5}。

 

「おおう……」

 

 捨てられた牌を見て、純が思わず声を漏らしてしまった。

 気持ちは良くわかる。俺も苦笑いを浮かべたくなった。

 だが、それより先に口が動く。

 

「チー」

 

手牌 ドラ:{西}

{五赤五七②③④東東} {横赤534} {横657}

 

 そして打{④}。聴牌はとらない。

 

(あやしすぎる……)

 

 片和了りとはいえ、親の満貫を捨てるのは勿体ないと感じるだろう。だが、これはこれで正解のはずだ。なぜなら、魔物達が理解不能な打牌をする時、それは誰かを嵌めている時で間違いないのだから。攻撃にも、守備にも、あいつらには素直さがない。誰かを陥れる事に執着しているのだ。

 その矛先は間違いなく俺に向いている。純を罠に掛けるのならば、萬子を切ってくるはずである。

 

「ツモですわ! 2000・4000」

 

透華手牌 ドラ:{西} 裏:{南}

{五五六六七②②234567} ツモ{七}

 

 次のツモで、透華が高らかに和了の宣言をした。

 メンタンピン――麻雀の花形とも言える綺麗な手だ。

 

(四七萬待ちのメンタンピン、高め一盃口……やっぱりか)

 

 和了られたとはいえ、俺の気分は悪くなかった。

 ほら見ろ。打{七萬}ならば、高めに振っていたじゃないか。俺は間違っていない。おまけに裏ドラ表示牌が二枚しかない和了り牌の内一枚。例え{七萬}が安牌だったとしても、俺に和了り目があったのかどうかは、非常に微妙だったと言わざるを得ない。

 千点棒を四本取り出す。

 この安っぽい感触を指先で味わったのは一月ぶりだ。その記念すべき初点棒? の理由が他家に払う為にというのは何とも情けない限りである。

 透華が点棒をしまい込むと、卓上の点数表示に変化が出た。

 

東家:杉乃歩 21000(-4000)

南家:龍門渕透華 33000(+8000)

西家:井上純 23000(-2000)

北家:天江衣 23000(-2000)

 

 手牌を伏せ、中央の穴へと落とす。

 その際、さりげなく山を崩し、本来の透華のツモ(俺が鳴かなかった場合のツモ)を確認するのも忘れない。

 

({七萬}ッ! いける……な)

 

 いきなり親被りでラス転落の憂き目に遭った。とはいえ気にしてはいない。何度も言うが俺は逆に手応えを感じている。

 あの時、反射的に赤5索を喰ったが、そうしていなければ一発が付いて跳満になっていたのだ。

 俺の勝負勘は決してさび付いてなんかいない。そう確認出来た。

 まだ運は付いてきてくれないが、それは時間が解決してくれるだろう。

 勝負は東四局――衣の親番。

 そこに照準を合わせ、この小さくなった手で掴めるだけの運、それをこつこつとかき集めていくしかない。

 流石に直撃を喰らわせる等と自惚れた事を言うつもりはないが、親被りくらいはさせてやる腹づもりである。

 そして、その勢いのままに続く俺の親番で一気に形勢を決める。

 

(うれしい事に、お眼鏡にもかなった様だ)

 

 俺がちらりと視線を送ると、それに気が付いた衣はにやりと口元を吊り上げた。

 

(試したな……このやろう)

 

 もし俺があそこで振っていれば、こいつは落胆したのだろう。その程度なのかと。だが、俺は回避した。とりあえず土俵に立つ資格はあると認めて貰えたらしい。

 こいつらに何が見えていて、俺に何が見えてないのか。それは未だにわからない。もしすると、もう一度死んでもわからないのかも知れない。

 だが、俺にでも魔物相手に勝利を拾う事は出来る、出来た。その勝利の為に、何度負けを捧げたのかは口にしたくないが。

 圧倒的劣勢、今日はツキにも見放されていると来た。それでも、あきらめない。渡り合う事は出来る。ならば噛みつく事も出来るはずだ。

 だから――、

 

 

 

 ――やっぱり、麻雀は面白い。そう思えるのだ。

 

 

 

 さあ、勝負は始まったばかり。喰うか喰われるか、このギリギリの綱渡りを精一杯楽しませて貰おう。



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 ――場が重たくなった。

 

 

 

 そう感じたのは東二局が始まってすぐの事だった。

 まるで水中にいるかの様に、体に抵抗を感じる。

 恐らく、衣が何かをしているのだと思い、俺の左手側に座る彼女へと目を動かした。

 衣の席の後には大きな窓があり、俺の席からは綺麗な半月を見る事が出来た。

 

(やけに月が大きい……気のせいか?)

 

 室内の灯りの影響で、弱々しくしか感じられないはずの月光が、異常に眩しく見える。

 根拠は全くないが、これも衣の影響だと思った。

 魔物達は自分に有利なフィールドへと場を変化させる。流れの形成とでも言えば良いのだろうか。それが今、行われているのではないか。

 純と透華に視線を移すと、二人揃って苦虫を噛みつぶした様な顔を一瞬だけ浮かべ、俺に見られていると気が付くと平穏な表情に戻した。

 

(仕掛けてくる……!)

 

 そう確信し、俺は警戒を強めた。

 少なくとも純と透華は衣の力を知っているはずであり、彼女達の反応は大きな情報源である。

 それを信用して裏をかかれれば情けない事この上ないが、純はともかく透華は嘘を吐く事に価値を見いだせないタイプだと思う。ならば信用しても問題ないだろう。

 

東二局0本場 ドラ:{③} 親:龍門渕透華

東家:龍門渕透華

南家:井上純

西家:天江衣

北家:杉乃歩

 

一巡目 手牌 ドラ:{③}

{八九②⑦24799南西北白} ツモ{⑨}

 

 七種八牌。

 満貫を親被りさせられたからか、それとも衣の支配からか、俺の配牌は酷いものだった。

 この状況を打破するには(うん)が必要不可欠であり、小手先の技術なぞ、力で押し切られる事を今まで嫌という程教え込まれた。

 東一局で勝負勘に衰えがない事は確認出来たが、運ばかりはすぐには戻ってこない。今の俺は魔物にとって吹けば飛ぶ雑兵でしかないだろう。やはり、一月も牌に触れていなかった事によるツケは大きいらしい。

 

(一局程度ではどうにもならないか……)

 

 案外どうにかなってしまうのではないかと思っていたが、そうは甘くないらしい。

 しかし、ないものねだりをしても仕方がない。今、自分に配られたカードで勝負するしかないのだ。

 前局で衣の運を喰った(喰わされた?)おかげか、辛うじて上の三色、そしてチャンタが狙える形ではある。

 だが、それを面前で成し遂げる程の運を今の俺は持ち合わせていない。

 となれば、当然{七萬}・{⑧}・{8}を鳴いて手を進めて行く事になるのだが、上家は件の衣である。

 

 

 

 ――どこまで鳴かせてくれる?

 

 

 

 それが最大の不安点だった。 

 俺の必要牌をガッツリ抱え込みながら和了るという悪魔じみた打ち回し。

 それを実現するだけの力を衣は持っている様に思えたし、あっさり討ち取られる自分、それも容易に想像出来た。

 

(……だからと言って何か出来る訳ではないんだが)

 

 第一打は{西}。

 衣の自風牌をとっとと手放しておく。

 まだ勝負の時ではない。焦るなよと自分に言い聞かせた。

 

二巡目 手牌 ドラ:{③}

{八九②⑦⑨24799南北白} ツモ{七} 打{4}

 

 容赦なく{4}を切り飛ばす。

 効率だけを考えるのならば、打{南}が正着だろう。

 チャンタを狙うにしても、第一打で{西}を選択している以上、矛盾している気がしなくもないが、これで良い。

 魔物の自風牌なんて不発弾をいつまでも抱えるつもりはないし、そもそもが和了れる気のしない牌姿だ。

 守備に偏りすぎた考えかも知れないが、和了り目が薄いと見れば、良形搭子でもない中張牌は序盤に落としてしまう。

 三巡目、ツモ{⑧}打{2}。四巡目、ツモ{北}打{南}。手は順調に育つ。

 

五巡目 手牌 ドラ:{③}

{七八九②⑦⑧⑨799北北白} ツモ{白} 打{②}

 

(一聴向……変だな……)

 

 あれよあれよという間に一聴向まで進んだ手牌に違和感を覚えた。

 今の俺にそこまでの運はないはずなのだから。

 これはこの後のツモがよほど悪いのか、衣に何か操作されていると考えた方が無難だろう。

 そして、案の定と言うべきか、何も動きがないまま十六巡目の純の打牌が終わった。

 

東家:龍門渕透華 {■■■■■■■■■■■■■}

捨て牌

{西一①東四8}

{發④7⑨④7}

{東⑥發⑧}

 

南家:井上純 {■■■■■■■■■■■■■}

捨て牌

{一①二南赤⑤東}

{⑥發赤⑤7⑤②}

{中①二三}

 

西家:天江衣 {■■■■■■■■■■■■■}

捨て牌

{二中3西3南}

{中②九④西⑤}

{3四二}

 

北家:杉乃歩 {七八九⑦⑧⑨799北北白白}

捨て牌

{西42南②六}

{四東七①六發}

{南中八}

 

 全員が揃いも揃って面前のまま。

 鳴きを多用する俺と純がいながら、終局を目前として、何も動きがないというのはあまりにもおかしい。

 捨て牌が二列目に入った頃からは、純以外はツモ切りを繰り返していた。

 

(俺に鳴いて貰いたかったのか?)

 

 純の不自然な打牌にそう思った。

 見る限り、誰一人有効牌を掴む事が出来ていないのだろう。

 だから鳴いてツモ筋をズラせと。

 しかし、残念ながらポン材と合致する牌は姿を見せなかった。

 

(強制面前縛り? 確かに強力だが、その程度で魔物は名乗れない)

 

 衣がその程度な訳がないし、そもそも絶対に鳴く事が出来ないのならば、純が足掻く事もありえない。無駄だとわかっているのだろうから。隅々にまで意識を伸ばす。五感を最大限に活用しちょっとした変化でさえ見落とさない。

 

(索子が引けない……これはたまたまか?)

 

 一局程度ならそう珍しくもないが、二局連続で配牌と他家の捨て牌以外で索子を手の内に入れていない。ここまで来ると、偶然ではなく必然――作為的な何かを感じる。もしかすると、これも衣の力なのだろうか。

 

(違和感が拭えない……)

 

 牌をツモらされているという、無気味な感覚。今の俺には、強引にその支配を抜け出すだけの力がない。

 どうすれば良いのか、未だ結論の出ないまま、着々と終局が迫ってきている。

 そんな時、衣が久々にツモ切り以外の動作を見せた。

 

「――鳴くか?」

 

 衣は挑発的な笑みを俺に向け、牌から指を離す。

 魔物達(こいつら)は的確に人の心を揺さぶってくる。いつもの事だ、気にしてはいけない。そうは理解していても、まるで全てを見透かされている様で、ドキンと心臓が跳ね上がった。

 

「チー」

 

手牌 ドラ:{③}

{七八九⑦⑧⑨9北北白白} {横879} 打{9}

 

 しかし、俺の麻雀打ちとしての本能は優秀らしい。

 表情はピクリとも動かず、露わになった{8}を素早く奪い取ると、{7}が四枚見えている事を再確認し、{9}を打った。ほぼ間違いなく、今のはスルーするのが正解だったのだろうと思いながら。

 それでも鳴いたのは、衣が何をするのか、一度この眼に焼き付ける必要があるからだ。

 この牌をスルーする事で危機を先送りする事は出来たのかも知れない。だが、それをいつか乗り越えねば勝てないという事に変わりはない。ならば、ここは衣の余興に乗ってやろうではないか。

 その後の透華、純の捨て牌で衣は動きを見せなかった。

 そして、

 

「リーチ」

 

 残り一巡となった時、大仰な動作でツモ切りリーチを打った。

 純は悔しそうに顔を顰め、透華は唇を噛む。それを見て俺は確信を深めた。

 

(これを和了るのか……)

 

 その時の衣は、魔物独特の他者を見下しきった怜悧な瞳をしていた。

 ああ、これだ。俺はこの顔が見たかったんだ。

 恐怖すら覚えるだろうその雰囲気に、俺は何故か魅了される。

 

十七巡目手牌 ドラ:{③}

{七八九⑦⑧⑨北北白白} {横879} ツモ{九} 打{九}

 

(現物……)

 

 当たり牌を掴ませる様な力ではないらしい。

 つまり、残る可能性は一つだけ。

 透華、純と最期の打牌を終わらすと、衣が嗤った様に見えた。

 そして――

 

「ツモ」

 

 牌を掴んだその瞬間、口元を歪め、牌の柄を確認すらせず、和了宣言を行った。

 衣は確信していたのだ。海底牌(それ)は自分の和了り牌で間違いないのだと。

 

「――海底撈月。4000・8000!」

 

衣手牌 ドラ:{③} 

{一一三三③③455北北白白} ツモ{4}

 

 海底撈月――その役の意味は、海面に映る月を撈い取るという事。

 なるほど、正真正銘、月の少女だったという訳か。

 一人納得していると、衣は俺に視線を投げ掛けた。

 

 

 

 ――ついてこれるか?

 

 

 

 俺はそう語りかけられた気がした。

 目は口ほどにものを言う、という慣用句の意味が良く分かる。

 あまりにも神秘的で――あまりにも寂しそうな、孤独を感じさせる衣の表情。俺はただ美しい思った。

 

「ふにゅ?」

 

 何も反応を見せない俺を不思議に思ったのか、衣は首をかしげ、あどけない童女の様なやわらかな顔になった。

 先ほどの未亡人の様な老成した女を思わせる顔、今の見た目相応の顔。どちらが衣の本当なのかはわからない。

 綺麗なのは前者で、かわいいのは後者。だけど、そのどちらよりも、俺は麻雀を打っている時のあの憎たらしい顔の方が好きだ。

 だから、俺も視線で返す。

 

 

 

 ――追い抜いてやるさ。

 

 

 

 伝わったかどうかはわからない。

 だが、一瞬――衣が微笑んだ気がした。

 

東家:龍門渕透華 25000(-8000)

南家:井上純 19000(-4000)

西家:天江衣 39000(+16000)

北家:杉乃歩 17000(-4000)



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 ――道が見えた。

 

 

 

 狙うべきなのは七対子か対々和だろう。

 衣の形成する流れが、「手なりで進める限り、その余剰牌はほぼ確実に他家が鳴く事の出来ない牌になる」というものだと仮定しよう。

 その推測が正しいのなら、対策が取れない事もない。

 衣の支配の効力が、他家を鳴かせないという事にあるのなら、必然的にツモれる牌が偏るはずである。さらに、下家のみに作用する索子が引けなくなるという縛りを考慮すれば、牌を重ねるのは難しくない。本来34種類の牌で絵合わせを行うゲームが、実質25種類以下の牌で行う事になるのだから。

 ついでに言うなら、透華は自分のスタイルを貫いている様に見えたが、純は現状を打破する為に、恐らく俺をアシストしてくれるだろう。利害関係が一致しているのだ、ツモ筋をズラしたい純と、ポンをしたい俺。自分以外は敵である麻雀というゲームで、他人を信用するのはどうなんだと思わなくもないが。

 本当の勝負局は東四局だが、衣の勢いを断つ意味でこの局で和了っておきたい。そして、次局で親被りさせ、南一局、俺の親番で一気にかたをつける。

 簡単に攻略出来るとはこれっぽっちも思っていない。だが、今の状況から考えられる最善はこれだ。やりきるしか俺に道はなく、むしろ一本でも道が通っている事に感謝するべきなのだ。

 

 

 

東三局0本場 ドラ:{④} 親:井上純

東家:井上純

南家:天江衣

西家:杉乃歩

北家:龍門渕透華

 

一巡目手牌 ドラ:{④}

{四八九①⑤⑥466南西白中} ツモ{發}

 

 相変わらずクソみたいな配牌だった。

 少々運を喰っただけで回復する様な生ぬるい不調ではないらしい。

 喰いタンだろうが、役牌のみだろうが、何でも良い。一度和了り、俺へと流れを無理矢理集める他ない。だが、そう簡単に行かせてくれないのも理解している。対々和か七対子という時間のかかる役でしか和了れそうにないのだから。

 

(対子は一つだけか……)

 

 縦に伸ばしやすい場――対子場――が形成されているとしても、配牌に対子が一つしかないというのは中々の痛手である。

 トイトイではなくチートイを狙うとしても、最低でも五巡はかかるのだ。

 

(とりあえず……鳴かせるッ!)

 

 自分の和了りを捨てる訳ではない。和了る為には現状を打破する必要があり、場を動かす事が不可欠なのだ。

 俺は{4}を第一打に選択した。

 この牌姿なら、大抵の打ち手は{①}か客風牌の{南}を打つだろう。

 だからこそ、そこが突破口に繋がっていると確信している。そんな打牌は普通ならありえない、もちろん魔物達も凡人がそんな打ち方をするとは想定していないはずだから。

 

「ポン」

 

純手牌

{■■■■■■■■■■} {4横44}

 

 発声したのは純だった。

 俺の河から{4}を奪い取ると、己の右手側へと叩き付ける。

 

(動いたッ!)

 

 いきなりうまく行ったのはたまたまでしかないが、やはりそうだ。セオリー外の打牌をすれば、鳴かせる事が出来る。

 じろりと衣に怜悧な視線で睨み付けられた。俺はどこ吹く風と受け流す。内心にやりとしながら。

 

(狂ったぞ……)

 

 ここまでは予定通り。しかし、これからが正念場であった。

 ツモ筋がズレた事でどうなるのか、きっちり観察する必要がある。

 二巡目、ツモ{南}打{①}。三巡目、ツモ{西}打{四}。四巡目、ツモ{赤⑤}打{⑥}。

 

五巡目手牌 ドラ:{④}

{八九⑤赤⑤66南南西西白發中} ツモ{八} 打{九}

 

(……同じだ。一聴向まではあっさり進む)

 

 東二局も一聴向までは調子良く手が進んだ。

 

(やっぱり、俺の予測は間違っていない……)

 

 中盤以降でとても和了れそうのない牌姿のままだと、オリる打ち手も少なくない。当然その打牌は、純粋な聴牌効率を重視したものとは違ってくる。そうなれば、他家が鳴く事が出来る牌を放出してしまう可能性が高まり、衣の描いたストーリー通りには進まなくなる。なので、一聴向まで手を進めさせる――オリという選択肢を頭の中から消し去る為に。

 

(しかし……ズラす事に意味はないのか?)

 

 不調の俺が無駄ヅモなしで一聴向まで進むというのは、経験則上かなりのレアケースと言える。

 衣の支配は消え去っていない可能性が高く思えた。

 

(いや、まだ数巡待つ……俺が動けずとも、純や透華が動く可能性がある。結論を出すには早すぎるだろう)

 

 変わらず空気は重い。

 だが、それだけでは判断材料に成り得ない。

 ブラフを張って相手を騙すのは魔物の常套手段だからだ。

 

(実のところ自分は絶不調……何て可能性もゼロではない)

 

 それでも、トータルではきっちりプラス収支に持ち込むのが魔物という存在であり、その恐ろしさである。ヤツらは常人の遙か上を行く。魔物の不調と凡人の絶好調を比較しても、魔物が勝る。

 

六巡目手牌 ドラ:{④}

{八八⑤赤⑤66南南西西白發中} ツモ{五} 打{五}

 

(無駄ヅモ……)

 

七巡目手牌 ドラ:{④}

{八八⑤赤⑤66南南西西白發中} ツモ{三} 打{三}

 

(連続……やはり、ツモ筋に意味はないのか?)

 

 そして八巡目、純の河に{6}が顔を覗かせた。

 

「ポン」

 

手牌 ドラ:{④}

{八八⑤赤⑤南南西西白發中} {6横66}

 

 俺は反射的に鳴いた。

 七対子の一聴向から聴牌までの時間は平均十数巡はかかると言う統計データがある。

 流れ論者の俺がそれを語るのは滑稽な上、たかだか二巡でこれ以上先に進むのか、進まないのかは判断しかねる状況である。だが、俺は動く事にした。どちらにせよ、不調の俺が面前で一聴向以上に仕上げるのは難しいのだろうと判断して。

 そして打{白}。

 

「ポンですわ」

 

透華手牌

{■■■■■■■■■■} {横白白白}

 

 透華も動いた。打{八}。

 

「ポン」

 

手牌 ドラ:{④}

{⑤赤⑤南南西西發中} {八八横八} {6横66}

 

 当然鳴く。打{發}。

 

「ポンだ」

 

純手牌

{■■■■■■■■■■} {發横發發} {4横44}

 

 純が手を晒す。打{赤⑤}。

 

「ポン」

 

手牌 ドラ:{④}

{南南西西中} {⑤横赤⑤赤⑤} {八八横八} {6横66}

 

 当然の打{中}。

 急激に場が回り始めた。魔物を蚊帳の外に置いたまま。

 衣の支配の影響で、一聴向までは自動的に手が進む。純は恐らく手を崩していただろうが、二副露なら張り直せただろう。透華はここまで全く動いていなかっただけに、一副露=聴牌と判断出来そうだ。三家聴牌と考えた方が無難だろう。

 いかに優れていようが、ツモをトバされれば何も出来ない。衣の下家という立場に初めて感謝した。

 ツモをトバされ、衣はどう感じているのだろうか。

 怒っている? 逆に感心している? 悲しんでいる?

 俺は衣へと目線を流したが、当の本人は何でもなさそうにのほほんと構えていた。

 

(それもそうか。純が毎度この戦法をとっているのならば、見慣れた光景なんだろうな)

 

 その後は、今までとは違った趣のツモ切り合戦が繰り広げられた。

 もう回し打ちをする余裕は誰にもない。

 誰かの和了り牌を掴んだヤツが負けだ。

 そして数巡後、

 

「ロン。8000」

「うげぇっ」

 

 純の捨てた南で俺が和了った。

 

手牌 ドラ:{④}

{南南西西} {⑤横赤⑤赤⑤} {八八横八} {6横66} ロン{南}

 

(14000点差……跳ツモで逆転だが、厳しいな)

 

 今回は衣のツモをトバしつつ和了るという作戦がうまく行ったが、当然失敗した場合も考慮する必要がある。衣の和了には、リーチ・一発・ツモ・海底と手役がなくとも四翻が確定しているのだ。衣は、最低でも満貫、恐らくアベレージで跳満程度は持っていく超火力の打ち手。

 残り11000点の純がトブまでそう時間はかからない。

 

(俺と透華は、跳満以上の手を純から和了る事が出来ない。純が衣を削ってくれるのがベストだが……)

 

 それは望み薄だと理解している。

 何と言っても彼女は魔物なのだから。

 だが、それも俺が衣を追い抜けるだけの点棒を抱えていれば問題ない。

 

(最良は1000・2000以上のツモ和了り、最低でも衣に和了らせない)

 

 もちろん、衣に一発ぶち当てるのが理想だが、それを計算に入れるのはあまりにも馬鹿げていると言わざるを得ない。

 今の自分に出来る事をこなすのが一番であり、そこから勝利に結びつける方法を模索するべきなのである。麻雀好きから麻雀打ちになり、高望みは身を滅ぼすという事を嫌でも理解させられたからだ。

 

東家:井上純 11000(-8000)

南家:天江衣 39000

西家:杉乃歩 25000(+8000)

北家:龍門渕透華 25000

 

 

 

東四局0本場 ドラ:{五} 親:天江衣

東家:天江衣

南家:杉乃歩

西家:龍門渕透華

北家:井上純

 

(ここが勝負だ……)

 

 俺が和了れば勝利が一気に近づくが、衣が和了ればほぼ負けが確定する。

 最悪他家に差し込んででも衣の親を蹴らねば、勝機はない。

 

(いける……か?)

 

 配牌にずっしりとした重みを感じた。

 東一局の軽石に始まり、東二局と東三局が高野豆腐、そして今回は鉛程度には重量感がある。

 一度和了った事により、運も一気に戻って来つつある様だ。

 

一巡目 ドラ:{五}

{五六八八②⑥⑦⑦⑨345中} ツモ{④} 打{中}

 

 タンピン系の軽い牌姿。

 鳴いて速攻、面前でもそう時間はかからないだろう。

 二巡目、衣が{③}を打った。急所にピンズドだが、俺はスルーした。

 

(ツモに手応えがある……だからそれは鳴かない)

 

 ここで鳴くと逆にリズムを崩してしまいそうな気がした。

 それを衣も理解していたのだろう。だから、わざわざ俺が欲しい牌を切ってきたのだ。

 

二巡目 ドラ:{五}

{五六八八②④⑥⑦⑦⑨345} ツモ{③} 打{⑨}

 

 大丈夫だ、今回は張れる。

 今までの様に、ツモらされていたのではない。俺が、自分の意思で牌をツモっている。だから、この後も手が進むはずだ。三巡目、四巡目と無駄ヅモを引いたが、焦らない。

 

五巡目 ドラ:{五}

{五六八八②③④⑥⑦⑦345} ツモ{八}

 

 打{⑥}で{四七}待ちの聴牌。罠はないはずだ。俺が聴牌出来たのは衣の計算外なのだろうから。

 河を眺める。相変わらず体は重い。まるで重力が数倍に膨れあがった様な抑圧感がある。衣の支配は消えていないという事だ。

 だが、それでも聴牌出来たという事は、今の俺なら和了れるという証左に他ならない。

 

(迷う必要はない……今の流れなら俺がツモるッ!)

 

「リーチ」

 

 {⑥}を曲げ、千点棒を取り出す。

 この時の興奮は、何度味わっても俺を飽きさせる事がない。いつも、頬が緩みそうになるのを堪えようと必死になってしまう。あるいは堪えられていなかったのかも知れない。

 それ程に、リーチの瞬間というのは快感だった。

 

「――ッ! ポンッ!」

 

純手牌

{■■■■■■■■■■■} {⑥横⑥⑥}

 

 純が{⑥}を喰い取った。

 この反応は嬉しかった。同じ流れ麻雀を身上とするものだからこそ、わかったのだろう。次のツモで俺が和了ると。だからズラす。

 だが、純の行為は一巡遅かった。

 俺がリーチする前だったなら、流れは分断され、和了れなかったかも知れない。

 しかしすでに牌は曲げられており、堤防を構築している。

 流れは変わらない、いや、変えられない。

 

 

 

 ――もう、俺は止まらない。

 

 

 

「ツモ。3000・6000」

 

六巡目 ドラ:{五} 裏:{⑦}

{五六八八八②③④⑦⑦345} ツモ{四}

 

 確かな手応えと共に、手牌をさらし、和了宣言をした。

 

(条件クリア……次の親で決めるッ!)

 

 ふと衣へと視線を移すと、興味深そうに俺を観察していた。

 その両目に宿る闇は、どんな黒よりも昏く、深淵を思わせるものだった。

 

「これより歩が向かうは暗欠道……心して通るがよい」

 

 衣の発言の意味は、俺には理解出来なかった。

 だが、間違いなくまた何かをするのだろう。そう確信した。

 

東家:天江衣 33000(-6000)

南家:杉乃歩 37000(+12000)

西家:龍門渕透華 22000(-3000)

北家:井上純 8000(-3000)



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バカ

 ――支配する必要がない……という事か?

 

 

 

 ふと、軽くなった体に違和感を覚えた。そして嫌な予感が頭を過ぎる。

 衣から放たれるオーラには翳りがない。いや、むしろ強まっているとすら思えた。

 先ほどまでの海の底に居たかの様な抑圧感はなくなり、まるで体に羽が生えたかの如く体が軽い。今の自分なら、魔物が相手でも決して見劣りしないのではないかと思えるくらいに。もちろん、それは錯覚なのだろうと理解しているのだが。

 

(今まで以上に警戒しないとな……)

 

 先ほどまでの衣は、海底でツモ和了るというスタイルで、自分が狙われる事はないとわかっていた。それだけに俺も大胆な攻めが出来た。

 だが、この局は違う。十中八九、衣は俺を殺しにかかる。いつも以上に守備的に――それでいながら普遍的な打牌は避けねばならない。

 

南一局0本場 ドラ:{二} 親:杉乃歩

東家:杉乃歩

南家:龍門渕透華

西家:井上純

北家:天江衣

 

配牌 ドラ:{二}

{二二四赤五六七八③③④456西}

 

(この配牌で攻めるなって言うのか?)

 

 今が勝負の場でなかったら、俺は盛大にため息を吐いただろう。しかし、それは許して欲しい。

 面前ならメンタンピンドラ3で跳満、喰い仕掛けてもタンヤオドラ3で満貫になる今日一番の好牌姿。守備的に行くならば、打{③}で平和を確定させつつ、安牌に{西}を残す。攻撃的に行くならば、打{西}で受け入れを最大限に広げる。

 だが、そのどちらもがありふれた打ち方であり、魔物達にとっては格好の獲物であろう。むしろ{③}と{西}は絶対に切ってはならない牌なのだ。{③}も{西}も使い切る形で和了りに向かわなければならない。

 

(……索子を落とす)

 

 初手で打{5}とすると、衣がニヤリと笑みを深める。

 その反応は俺が予想通りの動きをしたからか、それとも想定外の動きをして興味を持ったからかは判別出来なかった。

 

二巡目手牌 ドラ:{二}

{二二四赤五六七八③③④46西} ツモ{⑦} 打{4}

 

三巡目手牌 ドラ:{二}

{二二四赤五六七八③③④⑦6西} ツモ{八} 打{6}

 

「な、何をやってますの……?」

「何も」

 

 俺の河に手出しで並べられた{456}の順子を見て、透華が口元を引きつらせた。もちろんその疑問に答える必要もなく、お茶を濁す。

 萬子や筒子の染め手をするには、ロスが大きすぎるし、そこまでする必要のない点差でもある。常識的には考えられない打牌だろう。もちろん、魔物達もそんな打ち筋は想定していないと勝手に想像している。

 

「想像以上の変人ですわね……記憶がなくなるとこうなるのでしょうか?」

 

 透華はものすごく失礼な言葉を続けた。

 確かに随分変わった思考回路を持っていると自分でも理解はしているが、この性格は元からである。そもそも、記憶喪失になると皆が皆、俺の様になるのなら、記憶喪失の人間は隔離病棟に直行だろう。

 

「くくっ」

 

 純が堪えきれずに笑い出した。こいつはこいつで憎たらしい表情を浮かべている。後でシメよう。体格差的を考慮すると逆に俺がシメられそうな気もするが。やはり麻雀で黙らせるのが一番だろう。

 こんなにも和やかなムードで魔物と打った経験はなかった。純粋に金を賭けていないというのもあるがろうが、彼女達の人徳が成す業の様な気がした。

 

「ポン」

 

衣手牌

{■■■■■■■■■■■} {七横七七}

 

 一瞬にして場が静まり返った。

 衣が透華の捨てた七萬を素早く喰い取った。

 そして、背筋が凍り付く様な冷たい視線で俺を睨む。

 

(“私の事を忘れるな”ってか? 忘れる訳がないだろう……)

 

 俺が何の為にこんな回りくどい方法を取っているのか。それはお前(まもの)を倒す為に他ならない。

 

四巡目手牌 ドラ:{二}

{二二四赤五六七八八③③④⑦西} ツモ{④} 打{七}

 

「チー」

 

透華手牌

{■■■■■■■■■■■} {横七六八}

 

 透華が{七}を喰った。

 まあ当然だろう。ここで鳴かなければ{六八}の嵌搭子が埋まる事は永遠にないのだから。

 そして打{7}。

 

「ポン」

 

衣手牌

{■■■■■■■■} {7横77} {七横七七}

 

 もう一度、衣が鳴いた。

 そして、ちらりと俺へと挑発的な視線を送る。

 必要ないんだろ? 出しちまった方が良いんじゃないか?

 そう語っている様だった。

 

(……俺はガン牌なぞ出来ないが、お前の手は透けて見える)

 

衣手牌

{■■③③⑦⑦西西} {7横77} {七横七七}

 

 トイトイのみ等という安い手のはずがない。

 最低でも満貫。それが衣の超高火力麻雀だ。

 恐らく、その手の中には三色の確定する{⑦}か、ドラの対子があるのだろう。

 ドラは俺が二枚使っている以上、{⑦}の可能性がかなり高く思えた。

 

(絶対に出す訳がない……)

 

五巡目手牌 ドラ:{二}

{二二四【五】六八八③③④④⑦西} ツモ{六} 打{四}

 

 惚れ惚れする様なツモで瞬く間に一聴向。

 ツイている時というのは大抵の場合、何をやってもうまくいく。

 だが、運の総量というものは一定である。ツイていたり、ツイていなかったりを繰り返して、平均するとある一定の量に落ち着く。だからこそ、そこで無理すると後のぶり返しが恐ろしいのだが。

 

(今回は一戦勝負……出し惜しみをする余裕はないし必要もない)

 

「ポン」

 

衣手牌

{■■■■■} {⑦横⑦⑦} {7横77} {七横七七}

 

 三度、衣が鳴いた。

 間違いなく張っただろう。

 

六巡目手牌 ドラ:{二}

{二二赤五六六八八③③④④⑦西} ツモ{西}

 

(聴牌……さあ、めくり合いと決め込もうか)

 

 そして打{⑦}。

 その瞬間、体に怖気が走った。

 

(しまっ……まさか、ここまで衣の思い通りだったのか!?)

 

 セオリーをガン無視しながらも、順調に進んだ手牌。それは俺がツイているから、だから無理をしても大丈夫なのだろうと思っていた。

 でもそれは半分正解で半分不正解。

 俺がツイていたのは事実、だがそもそも無理をする必要はなかったのだ。

 そのまま手なりで進めて即リーをしていれば、あるいはこの局で勝負が付いていたのかも知れない。

 だが、それはIFの話であって、今の俺には関係のない話だった。

 今までの一打一打、そして思わせぶりな言葉、視線、表情。それらは全てこの局で俺を嵌める為に張られた伏線。

 

(これは衣の……)

 

 

 

 ――衣の思い描いていた局面だ。

 

 

 

「ロン」

 

 静かに衣が言葉を紡ぐ。

 倒される手牌を俺はただ愕然としながら眺めているしかなかった。

 

衣手牌

{⑤赤⑤⑥⑧} {⑦横⑦⑦} {7横77} {七横七七}

 

「7700」

 

 ニヤリと衣が嗤う。

 その口元は、あの黒ずくめの男とよく似た形をしていた。

 

東家:杉乃歩 29300(-7700)

南家:龍門渕透華 22000

西家:井上純 8000

北家:天江衣 40700(+7700)

 

 

 

 あれほど自分に言い聞かせていたではないか。

 魔物とは攻撃にも守備にも素直さがない。その全ての行動は誰かを嵌める為に行われているのだと。

 だが、俺は魔物の上を行った気になって、途中から考えていなかった。いや、それも衣に思考を誘導された結果なのかも知れない。

 

(手強いなあ……)

 

 俺は衣を侮っていたのだろう。

 魔物でありながら他者を傷つける事を恐れる不思議な少女。

 俺の本能は目の前のそいつは危険だぞと警告を発していた。だが、俺の理性はこの少女の事をどう思っていたのだろうか。

 

(哀れだと……そして、傲慢にも助けたいと思った……か)

 

 目の前に座る小さな少女がとてつもない大きさに見えた。

 例えるならば、俺は蟻で衣は象。

 窮鼠猫を噛むという言葉があるが、ネズミと猫、蟻と象ではそもそも比較対象のサイズが違いすぎる。

 万に一つネズミが猫を撃退する事があっても、蟻が象を倒す事はありえない。例えそれが子象であったとしても。

 

(レベルが違う……)

 

 言い訳でしかないが、俺は本調子ではない。

 だが、だからと言って負けが許される訳ではない。どんな状況でも勝ちを拾うのが俺という麻雀打ちに架せられた使命である。

 

(……)

 

 目を瞑り、耳を澄ませ、大きく息を吸い込む。

 胸が熱い、頭が熱い、手が熱い。

 俺はまだ麻雀をやり足りない。

 もっともっと打たなければならない。

 

(跳ツモか6400の直撃でひっくり返る……この程度で絶望はしない)

 

 心が負ければ、麻雀でそいつに勝つ事は絶対にありえない。

 だから、俺は心のエンジンにガソリンを注ぎ込む。

 もっと燃えろと、もっと動けと。

 

「あの……歩さん?」

「透華っ!」

 

 俺を心配する透華の声、まだ勝負の途中だとそれを制止する純。

 

「あ、あ……」

 

 そして動かなくなった俺を見て、今にも泣きそうな表情になる衣。

 また壊してしまった――とでも思っているのだろうか。

 数十秒前に浮かべていた悪魔の笑みと、現在の童女の様な悲哀の表情。今にも涙がこぼれ落ちそうで、実際数分も経たない内に大泣きしそうな気すらした。

 俺はその姿を目にしたくなかった。

 堪らなく嫌になる。

 そんな表情をさせてしまう自分が。衣の本気を受け止めてやれない俺自身の事が。

 だから、変えなければならない。

 自分を、衣を。

 

「嫌いだ」

「えっ……」

 

 俺がそう言うと衣は目尻に大粒の涙を浮かべた。

 この世の終わりを目にしたかの様に、顔を絶望色に染め上げて。

 

「歩さんっ!」

「歩っ! テメェ!」

 

 血相を変えて透華と純が俺に詰め寄った。

 家族を傷つけるものは許さない。二人の表情はそう物語っていた。

 だが、俺はそれを無視して衣へと言葉を投げる。 

 

「泣き顔は嫌いだって言った」

「へっ?」

 

 きょとんと目をまんまるにして衣が俺を見上げる。

 

「歩は――恐くないのか? 衣の事……」

 

 恐る恐る、確かめる様に衣は問う。

 お前は魔物に恐怖心を抱かないのかと。

 そんなの決まっている。

 だから、胸を張って答えてやった。

 

「俺は――好きだな。麻雀を打っている時の衣が」

「――本当か!?」

 

 喜びというよりは驚きの色が濃すぎる反応だった。

 確かに信じられないのだろう。(おれ)魔物(ころも)が相容れる訳がないと。

 だが、そんな尺度で俺を測って貰っても困る。

 

「俺が嘘を言うとでも?」

「わからない……衣にはわからぬのだ。衣と麻雀を打って、その後も衣と共に在ってくれるのは、透華に一、純、そして智紀。此処にいる四人だけ。それ以外は……全て去った。だから、歩の言う事が真なのか偽なのか、衣には判断出来ない」

 

 再び不安げな表情で衣は指折り数える。

 右手の指を四本立てると、それ以上進む事はなかった。

 

「なら、俺で五人目だな」

「でも……」

 

 また何か余計な事を考えているのだろう。

 衣は俯いて顔を見せない。

 これ以上何を言っても無駄なのかも知れない。

 だから、俺は透華に顔を向ける。

 

「サイコロ回せよ。いつまで経っても始まらないだろう?」

「あっ……ええ、そうですわね」

 

 一瞬、呆然とした透華の表情は衣によく似ていた。

 各人の手元に配牌が揃った後も衣は動きを見せない。

 

「俺は衣の様な打ち手を“魔物”と呼んでいる」

 

 魔物という言葉を聞いて、衣はビクンと体を震わせた。

 

「そんな魔物とぶつかるとどうなるか。圧倒的な力差の前に絶望し、二度と牌をさわれなくなるやつも少なくない」

「うぅ……」

 

 やっぱり受け入れてくれないではないかと、衣は悔しさと悲しさで涙を落とす。

 

「だが――」

「えっ?」

「魔物に魅了され、魔物に憧れて、魔物を目標にして、麻雀を続けるバカもいる」

「其奴は底抜けの阿呆だな……」

 

 自嘲気味に衣が呟く。

 

「そうだな……だけどそんなやつの気持ちは良く分かる」

 

 

 

 ――俺もそのバカの一員だから。

 

 

 

 俺がそう言うと、一拍置いて、その場にいた俺以外の人間が笑い出した。「キミって面白い人だねえ」一が腹がはち切れんばかりに抱えながら、「流石の俺もそこまで言えねえ」純がクサイものを見たかの様に、「変人……っぷ」智紀が吹き出す様に、「アーハッハッ、ヒーヒッヒッ」透華は最早言葉をしゃべる事が出来ないらしい。

 愚かだと、無謀だと、蛮勇だと言いたいのだろうか。確かにそうかも知れない。

 

「歩は……莫迦なんだな」

「ああ」

「衣は莫迦が嫌いだった。でも、」

 

 

 

 ――今日から好きになれそうな気がする。

 

 

 

 そう言った時、衣は喜怒哀楽の入り乱れた今日一番の変な顔をしていた。



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杉乃歩についての考察――龍門渕透華

 ――おかしな方ですわね。

 

 

 

 ひょんな事から引き取った杉乃歩、いえ、名無しの少女と言った方が正確でしょうか。彼女と共に暮らす様になり、一週間の時が流れましたが、日々本当に変な人だと感じさせられます。男の人の様な言葉遣いは純を連想させましたが、どうも二人には何か根本的に異なっている部分がある様なひっかかりを覚えました。純はああ見えて純情で、乙女な部分があります。普段の態度はそんな本質を包み隠す擬態とでも言えば良いのでしょうか。しかし、歩さんはそのかわいらしい外見とは裏腹に、年頃の少女らしい嗜好をまったく持っていない様に見えます。服装に無頓着だったり、甘いものより辛いものの方が好きだったり。

 最初の印象は、無愛想な、感情をなくしてしまったかの様な、そんな寂しい人物だというものでした。同時に、実際記憶を失っているというのだから、それも仕方ない事なのかとも思いました。しかし、一度牌を握れば彼女は別人の様に生き生きとした表情を浮かべます。その顔はわたくしがよく知っている従姉妹――天江衣――によく似ていて、でも決して同質ではない。むしろ真逆なのかも知れません。

 両者の間には大きな壁があるのですから。

 確かに歩さんの強さには驚かされました。あの日は結局、南二局に純が跳満を振り込み終了。衣が一位、歩さんが二位、わたくしは三位でした。でも、それに驚きを覚えたのはわたくしだけではないでしょう。夜の衣、それも初めての対戦でありながらハコらなかった打ち手をわたくしは今まで見た事がありません。一も純も智紀も、今でこそ攻略法を確立し、勝てはしなくとも好戦する様になりましたが、初戦は手も足も出なかったのですから。

 

(昼の衣よりは強いかも知れません……)

 

 歩さんにとっては意味のない事を考えてしまいました。

 彼女は、衣が全力を出せるのは夜だけだという事をたった一度の対局で察知し、常に衣がフルパワーを出せる状況でしか卓を囲もうとしません。しかし、それは彼女の理念からすると当たり前の事なのでしょう。

 

(魔物に魅了され、魔物に憧れて、魔物を目標にして、麻雀を続けるバカ)

 

 あの日の晩、彼女が衣へと告げた言葉は一字一句違える事なく記憶しています。

 記憶をなくしたと言っている割に、そんな変な信念だけは覚えている。

 衣の全力を受け止めるその瞬間、それは彼女にとって夢の様な一時なのでしょう。

 本当に変な方です。

 

(もっと知りたいですわね、彼女の事を)

 

 記憶が戻らないとそれは叶わぬ事なのかも知れませんが、何となく彼女は記憶が戻ってもこのままの様な気がします。

 

(まあどちらにせよ、時間はたっぷりあるのです。じっくりねっとりあなたの事を感じさせてもらいますわ)

 

 

 

 今、わたくし達は、再び週末を迎え、何をして遊ぼうかと、衣の部屋で話し合っています。

 先週の日曜日は、歩さんに龍門渕家の事を説明するのに一日丸々を使ってしまいました。

 親睦を深める為にも、みんなでどこかに出かけるというのも良いかも知れません。

 

「ここ……行きたい」

 

 珍しく智紀が自分から発言をしました。

 ノートパソコンの画面をわたくし達の前へと向けます。

 決してノリが悪いという訳ではありませんが、物静かな智紀が自分から意見を言うというのは何だか新鮮で、だからこそ良い事の様に思いました。

 

「え~と……ルーフトップ? メイドさんと打てる雀荘……って趣味丸出しだね、ともきー」

「つーか遠いな……何時間電車に乗れば良いんだ?」

「それもあるけど……本命はこっち」

「ん? 今週末は藤田プロが来店? ああ、夏にあったプロアマ親善試合で衣の次だった人だね。戦ってみたいの?」

 

 純の苦情をスルーし、一の質問に智紀はこくこくと頷きます。

 幼少期から牌に触れていたわたくし達と違い、智紀の麻雀歴は精々一年程度。センスはあるのですが、どうしても五人の中では一番下の成績となってしまいます。おっとりした見た目とは違い、反骨心の強い智紀は、自分を高める事に努力を惜しみません。その性格には非常に好感を覚えます。

 

「女子プロか……悪いが俺はあんまり興味ないな」

「……どうして?」

「麻雀打ちっていうか、タレントとしての側面が強い印象があってどうも……な」

 

 拒絶されるとは思わなかったのか、ショックを受けた様子で理由を問う智紀に、歩さんはばつが悪そうに顔を逸らしながら答えました。確かに、女流プロの中には、大した腕前を持っていないクセに、見た目が良いという理由だけで、協会からプッシュされている人が少なからずいます。

 

「あー、わかるかも。でもタレント活動していても強い人はいるよ? はやりんとか、他にもはやりんに……最期にはやりんだね」

「誰だ?」

「あっ、歩ちゃんは知らないか。瑞原はやりプロって言ってまあ見た目はあれだけど強いプロが居るんだよ」

「一が強いって言うなら本当に強いんだろうな、あと歩ちゃんは止めろ。何で純はくんなのに、俺はちゃんになるんだ」

 

 藤田プロは若手のホープとも言える存在で、最近メキメキと頭角を現してきた打ち手です。決して、見た目だけで持ち上げられている凡庸な雀士ではないと、一が説明しました。

 歩さんも流石に納得したのか、神妙に頷きましたが、どこか非難めいた視線で一を睨みます。

 

「う~ん……その方がおもしろそう、だからかな」

「な!?」

「せ、性格わりィ……」

 

 歩さんの抗議を、一はいたずらっぽい笑みを浮かべ却下します。

 その会話と端で聞いていた純は、げんなりと顔色を沈めました。

 確かに、一にはひとをからかって遊ぶ悪い癖がある様な気がします。それも、本当に嫌がる事はせず、言われた相手が許容するかどうかの当落線上で綱渡りの様に弄ぶのです。小悪魔タイプとでも言えば良いのでしょうか。将来、彼女の伴侶になる人は苦労する事になるでしょう。

 

「ともかく……明日はルーフトップに遠征するという事で良い?」

「むぅ……げに申し訳ないが、衣は留守番させてもらう。その日は人が大勢集まるのだろう?」

「あっ……ごめん、やっぱり止める」

 

 脱線しすぎた会話を元に戻そうと智紀が確認をとろうとしましたが、衣がストップをかけます。

 人混みを何よりも嫌うこの子には、藤田プロ目当てに大勢の客が訪れるであろうその場は、苦手なものでしょう。

 

「ん? 気にせずに行けばいい、衣は自分がわがままを言っているだけなのだと理解している。逆に止められる方が辛い。だって衣達は家族なんだから」

 

 衣の一言が、わたくしの心を強く打ちました。

 家族――この言葉が衣の口から初めて聞けた時……わたくし、恥ずかしながら泣いてしまいました。

 衣の両親がお亡くなりになって以来、閉ざされていた彼女の心は、わたくしがどんなに手を尽くしても完全に開かれる事はありませんでした。しかし、歩さんはたったの一晩で衣の理解者となり、衣を好きだと、麻雀を打っている衣が好きなんだと言ってのけました。そして、自分は衣に惹かれているのだ、憧れているのだ、と熱っぽく続けました。その時の衣は、久しく見せていなかった本当の笑顔、決してまがい物ではない純真な笑みを浮かべていました。流石のわたくしもこれには少々嫉妬しましてよ。

 

「……わかった。強くなって衣に勝ってみせる」

「待っている……とは言わぬ。追いついてみろ」

 

 智紀と衣の何気ないやりとり。

 これも歩さんが来る前には見られなかったものでした。

 

 ――麻雀を打つ事でしか、自分の存在を認められなかった衣。

 自身が本気で打つと他者が傷つくと知りながらも、それ以外に自分を表現する方法を持たなかった少女。言うなれば彼女は太陽、決して月ではありません。だって月には人間が到達出来るのですから。生命を育むその光も、近づきすぎればその身を焦がされる。故に彼女は孤独でした。

 

(ですが、それは全て過去形で……)

 

 ――麻雀を打たない自分を認められない歩。

 誰が届かぬと言っても、それを信じず太陽へと手を伸ばす愚か者。だけど、蝋で翼を固めたイカロスとは違い、彼女の翼は炎で出来ていた。だから、周囲の人間を置き去りにしながらも太陽へと到達し、その孤独を解消させてしまいました。

 

(こんな事になるとは……思ってもいませんでしたわ)

 

「藤田ってのはどんなヤツなんだ?」

「藤田は衣を子供扱いする失礼で三流のゴミクズプロだ」

「……本当か!?」

「ああマジだぜ。あいつは衣を子供扱いしやがった」

「うん、ボクもそのシーンを見たよ」

 

 強敵と打てる事がよほど嬉しいのか、歩さんは頬を緩めています。

 勘違いしていると伝えたいのですが、この状態の彼女に事実を教えれば、ショックで自殺してしまいそうな気がしました。

 その要因となる様な事を言った衣も問題ですが、フォローする気ゼロの純と一にはもっと問題があります。

 ええまあ……嘘は言っていないのですが。

 比喩的表現ではなく、その言葉通り、ナデナデしたり、抱っこしたり、頬ずりしたりと、子供扱いするのが藤田プロで、麻雀の腕前なら……衣の方が上でしょう。無論それは衣の異常性を加味してのですが。技術という意味ではプロである藤田さんの方が当然上回っていると思います。

 

「ん? ちょっと待て……俺って雀荘に入れるのか?」

 

 ふと正気に戻って、歩さんは不安げな表情を浮かべます。

 その粗雑な口調と、かわいらしい表情のアンバランスさはちょっと何かそそるものがありました。

 

「まー問題ないんじゃない? そのお店ノーレートでしょ」

「なんだ……ってそういう問題なのか!?」

「古ィ価値観もってんな……お前の中身おっさんじゃねェか?」

 

 歩さんはノーレートであるという事で肩を落としましたが、再び驚愕の表情を浮かべ叫びました。

 確かに、十八歳未満の雀荘への入店は風営法で禁止されています。

 一昔前は、麻雀と言えば、賭博であったり暴力であったりと、裏社会を連想されるゲームでもありました。

 しかし、現実にはノーレート雀荘に限り明らかに未成年が打っていても咎められる事はなくなっています。

 二十一世紀になり、麻雀の全世界で競技人口は一億人を超え、一気にメジャーなゲームへと化しました。

 世界ジュニア戦が開催される等、その中には子供も多く含まれており、今、麻雀協会はクリーンなテーブルゲームであるという事をイメージ付ける為、必死になっています。

 そして、麻雀は子供が打っていてもなんらおかしくないゲームである。という認識が世間に広まりました。

 ノーレートに限るとはいえ、未成年が雀荘に立ち入る事が出来る様になったのは、麻雀協会の努力のたまものでしょう。

 無論賭け麻雀がなくなった訳ではなく、現在でも点ピン程度までならそこら中の雀荘で行われているといのも事実ですが。

 

「お、おっさんは止めてくれ……」

「ならおばさんで」

 

 歩さんが珍しく本気で嫌そうな顔をします。

 すかさず一が追い打ちを掛けましたが、そう言う問題ではありません。

 まあそれはわかっていて一も言っているのでしょうけど。

 

「なぬっ!? それでは歩よりおねーさんな衣はお婆さんになってしまうのか!?」

 

 驚愕の表情で衣が叫びました。

 ええ、こんな場面を見ていると藤田プロの気持ちがわからなくもありません。

 

「いやァ……衣は違うだろ、なあ国広くん」

「そうだね、衣はねえ、純くん」

 

 純と一も今、わたくしと同じ感情を抱いているのでしょう。

 表情にこそ出しませんが、智紀もそうだろうと思います。

 

「衣は――こども」

 

 四人の口が同じ言葉を発しました。

 やいやいと騒がしかった部屋が一瞬にして静寂に包まれます。

 衣へと視線を移すと、笑顔で青筋を立てるという器用な方法で怒りを表現していました。

 

「こどもじゃない! こ・ろ・も だ!」

 

 衣は「純の莫迦! 一の莫迦! 智紀の莫迦 透華も莫迦!」と咆哮し、口を尖らせます。

 あまりからかってはいけませんが、何とも普通であるこの様な光景は今まであまり見られませんでした。

 今の龍門渕家が、本当に衣が子供としていられる場所になってくれたのかと、思うとまた涙が溢れてきそうになります。

 

 

 

 ――こんな小さな幸せがいつまでも続きます様に。

 

 

 

 衣とまた東京のファミレスに行くのだと約束していますし、歩さんの服も買いに行かなければなりません。いつまでも皆のお下がりを着せているのではあまりにももったいない素材です。

 

 

 

 ――まだまだ遊び足りませんわ!



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失ったもの

 ――どうやら早く着きすぎたらしい。

 

 

 

 ルーフトップという雀荘に無事到着したが、その扉の前には「closed」という板が掛けられていた。

 始発の電車で向かうという、アグレッシブさを発揮した智紀、そして俺。

 ちなみに他のメンバーは留守番である。

 衣は人混みが嫌いだからと言い、透華はそのお守り。透華専属のメイドである一も自動的にセットだ。

 残る純は、眠いという軟弱な意見をのたまい、部屋から出てくる事はなかった。

 そんな少数派な俺達を待ち構えていたのは、開店時間という強敵だった。

 雀荘というのは客が居るか居ないかは別として、(風営法違反だが)二十四時間開いているものという認識だった。しかし、どうやらノーレートの場合そうではないらしい。

 わざわざノーレートの雀荘に通ったりしなかった俺には全くわからない事だった。

 

「どうする?」

「……待つ」

 

 というやりとりが行われた後、寒空の下、十数分の時間が流れた。

 時節は十二月。長野県の冬は凍てつく寒さであり、意識が朦朧としてくる。数分前に買ったホットコーヒーがアイスコーヒーへと姿を変えつつある。

 隣に居る智紀へと視線を向けるが、彼女は平然としていた(後に北海道出身だという話を聞いた)。

 特別寒くも暖かくもない地区出身の俺と、雪国出身の智紀では、寒さへの耐性が全然違うらしい。

 

「おいっ! あんたら死ぬ気か!?」

 

 ウェーブがかった緑色の髪をした天使が俺に声を掛けてきた。

 何故かメイド服を纏っている。今、その姿が天界で流行しているのだろうか?

 しかし二度も死ぬ事になるとは思ってもいなかった。

 天使が来たという事は、俺は天国へと向かうのだろうか。

 天国にも麻雀があるという事を祈るばかりである。

 

「何を訳わからん事言いよる! とりあえず中に入ってどうぞ」

 

 強引に首根っこを掴まれて、俺は扉の中へと引きずり込まれた。

 暖房の効いた暖かい空気が、俺の意識を現実へと押し戻す。

 そこは見慣れた、だが初めて見る雀荘の光景が広がっていた。

 所狭しと並ぶ十数台の自動卓。

 開店前だというのにほんのり匂うタバコ臭。

 懐かしく、俺のあるべき場所はここだと感じさせる空気が流れていた。

 

「ほれ、ホットコーヒーじゃ。勝手にミルクと砂糖は入れておいたが返品は受け付けんぞ」

 

 そして空いている椅子へと座らされると同時に、湯気の立つマグカップを渡された。

 熱すぎず、それでいて決して温くはない丁度良さのコーヒーだった。

 

(うまい……)

 

 極寒地獄から天国へと移動した為、補正が掛かっていた気もしなくなかったが、とてもうまかった。

 雀荘で出されるコーヒーと言えば、色の付いた苦いお湯というのが相場だったので、非常に驚きを覚えた。

 

「砂糖マシマシで……」

 

 隣では智紀が注文を付けていた。この態度の大きさはいったい何なのだろう。

 物静かで、清楚なイメージを持たせる外見からは想像出来ない。どれだけの人々がその毒牙にかかったのやらと邪推してしまう。

 どうでも良いが、押しが弱そうに見える割に、人一倍我が強い智紀は間違いなくSであろう。

 ちなみに純と透華はSの殻を被ったMで、一と衣はMの殻を被ったSだと思う。本当にどうでも良い。

 

「……ずうずうしいのう」

 

 そしてメイドさん(仮)は口では嫌そうに言いつつも、素早く角砂糖をマグカップへと放り込んだ。

 脊髄反射レベルで奉仕が身に付いているらしい。

 本職のメイドというものをここ一週間見てきたが、負けず劣らずと言ったレベルである。

 なお、なんちゃってメイドである純と智紀は、そのレベルにはほど遠いとだけ言っておこう。

 前者は「奉仕とかありえねー」とメイドにあるまじき暴言を吐き、後者は「メイドの気持ちになるという心構えが重要」と力説していた。

 

「まこ、お客さん?」

 

 若い女の声が聞こえた。

 その声の方向へと視線を移すと、そこにはセーラー服の少女が座っていた。

 

「ああ、客には違いなさそうじゃが、ずいぶんとはた迷惑な客じゃ。うちの雀荘の前で凍死しようとする」

 

 失敬な。

 俺は自分以上に善良な客は居ないと自負しているのだが。

 入店してから疲労でぶっ倒れるまで打ち続けるのだから、場代で相当貢献して来たはずだ。

 その結果客が散った雀荘も少なくない気がするが、それは営業努力で補って欲しい。程度を覚えてからは客から過度に搾り取ったりはしていないのだから。

 

「あらあら、大変ね」

 

 くすりとセーラー服の少女は微笑んだ。

 その人なつっこい表情は、何ものにも代え難い財産だと感じた。

 人に好かれやすいというのは、誇って良い才能だろう。少なくとも俺は持ち合わせていない。

 

「笑えんわい。店で死人なぞ出したらたちまち寂れてしまうわい」

 

 それをメイド(仮)は一蹴する。

 まあ確かにそうだろう。いかに店に落ち度がなかったとしても、死人が出た場所に好きこのんで行くやつは少ない。俺は風速次第で行くが。

 

「ところでお二人はやっぱり靖子じゃない藤田プロがお目当てで来たのかしら? ってあなたもしかして沢村さん?」

 

 セーラー服の少女は俺達へと話題を振ると、智紀を見て眼を大きく開いた。

 

「なんじゃ知り合いか?」

「違うわよ。私が一方的に知ってるだけ。ほら龍門渕高校の」

「ああ! 次鋒の沢村さんか! おー、どっかで見た顔じゃと思ったわい」

 

 どうやら智紀は有名人らしい。

 大会で良いところまで進んだという話だけは純から聞いていたが、本当にかなりの位置まで上り詰めたのだろう。

 今さらだが、この世界は俺の生きていた世界とは又違う場所である。

 麻雀の競技人口が全世界で一億人を超えている上、棋士の様に対局がTV放送される程、浸透しているのだ。

 その流行ぶりは、前の世界で表すなら、野球に近いだろうか。ただ、男子・女子は別々の扱いなので、実質野球の二倍の人気があると言っても過言ではない。

 夏休みには甲子園と同じ感覚で麻雀のインターハイが放映され、またプロ野球中継と同程度の頻度で麻雀のプロリーグの対局が地上波で放送される。

 俺からすると信じられない光景だ。

 麻雀は、どちらかと比べるまでもなく、賭博・ヤクザといった暗い、アングラ色の強いイメージが先行する遊びだった。

 それがこの世界では、親子がキャッチボールをするのと同じくらいのニュアンスで、家族麻雀が行われている様に感じられた。

 NHKで子供向けの麻雀番組が放送されているのを見て、心底驚いた。なんだこれはと。

 そんな広い世界で有名になるという事が、いかに困難であるかは考えるまでもない。

 

「ねえ私と打たない? 私もちょっと麻雀には自信があるのよ。今なら場代もおまけするわよ?」

「ちょっ、あんたは何勝手に……」

「乗った」

 

 メイド(仮)が何やら言っているが、場代なしなら打たない手はないだろう。

 今日打つ分の金は萩原から預かって来たが、なるべく温存するに越した事はない。

 将来的には旅打ちもしたい。金はいくらあっても困らないのだ。

 

 

 

 ――やれるな?

 

 

 

 智紀へと目を向けると、こくりと頷いて、肯定の意を返してきた。

 

「こっちはオッケーだ」

「ふふっありがとう。腕が鳴るわね」

「はぁ……また部長は勝手に物事を決めて……」

「まあたまには良いじゃない。それは置いといて、私が制服を着ているのはなんでだと思う? 部活中だからなの。もち麻雀部よ」

 

 それもコスプレの一種だと思っていたとは口が裂けても言えない。言ってはいけない。

 

「……っ」

 

 智紀の無表情が一瞬崩れた。彼女も同じ事を思っていたのだろう。

 

「何その視線……」

 

 ジト目で睨まれて、何でもないと俺と智紀は同時に首を横に振った。

 

「なら良いけど」

 

 だが、彼女が麻雀部というのは朗報である。

 これだけ麻雀が浸透している世界なのだ、競技人口が多い以上、俺の世界より平均レベルも圧倒的に高いだろう。

 事実、市井の女子高生の中に天江衣という魔物が存在していた。衣の周りの人間もまた、俺の世界ならメンタル面ではどうかわからないが、腕前だけなら裏で生活する事も不可能ではないレベルと言えた。

 だから、女子高生と言えど、侮る理由にはならないし、つまらないとも思わなかった。

 

「という訳で改めて自己紹介を。私は清澄高校麻雀部部長・竹井久(たけいひさ)! よろしくっ!」

「同じく副部長・染谷(そめや)まこじゃ。この雀荘の娘でもある。よろしゅう……場代サービスなんぞした事がばれたらこってり絞られそうじゃわい」

 

 片方は元気に、もう一方は陰気に。

 対照的なあいさつだった。

 しかし、対局前に名を交わすというのも珍しい経験だ。

 ちょっと間違うと鉛玉が飛んで来かねない場所で、対局以外で相手に喧嘩を売る事もないので、よろしくお願いします程度のあいさつはするが、賭場で名前を名乗るバカはそうそう居ない。

 

(極少数の存在を除いて……そう、あの男の様に)

 

 

 

 ――傀と呼ばれています。

 

 

 

(いや、あれは名乗っている内には入らないか)

 

 そもそも、「呼ばれています」という言い方は自己紹介に当たるのだろうか?

 そんな風に、俺が全然関係ない事を考えていると、智紀が爆弾発言を落とす。

 

「知っているみたいだけど、沢村智紀。こっちの小さいのが歩、私の妹」

 

 小さいって……いや小さいのは確かだが、一つ上の一よりも身長は微妙に高いぞ。

 微妙にという部分で自分にダメージが返って来るのだが。

 そもそも俺は妹じゃない。

 

「俺は妹じゃな」

「歩は妹」

「ちがっ」

「妹」

「ちが」

「妹」

「ち」

「妹」

 

 もう妹でも良くなってきた。

 何がしたいのだろう。智紀の思考が全く読めない。麻雀を打っている時なら大体わかるんだが……。

 

「あらあら、沢村さんは妹さんに嫌われているのかしら」

 

 久がくすくすと笑う。

 だから妹じゃないと……言っても否定されるからもう口に出さないが。

 というか見た目でわかるだろう。俺と智紀に外見上で似通っている部分はない。

 

「じゃあ始めましょうか」

 

 久はそう言って卓上に牌を四枚並べた。

 

(何か嫌な予感がするな……)

 

 勝負師としての勘が俺にささやく。油断するなよと。

 こうやって会話の主導権を握れるタイプの人間は得てして麻雀も強い。

 一度流れを掴むと離さないからだ。

 

(でもこの感覚は……嫌いじゃない)

 

 一瞬、コンマ一秒にも満たない時間だが、背筋がぞわりとした。

 こいつ、魔物じゃないにしても、何か持っている。そう確信し、思わず口元が緩んだ。

 

 

 

ルーフトップルール

・喰いタンあり、後付けあり、喰い替えなし

・東南戦25000点持ち30000点返し

・順位ウマなし

・赤ドラあり(萬子×一枚・筒子×二枚・索子×一枚の合計四枚)

・カンドラは明カン・暗カンともに即めくり

・ダブロンあり

・30符4翻は子8000点・親12000点

 

 

 

東一局0本場 ドラ:{四} 親:染谷まこ

東家:染谷まこ

南家:杉乃歩

西家:沢村智紀

北家:竹井久

 

一巡目手牌 ドラ:{四} 

{三五五七③④134458中} ツモ{北}

 

 悪くない配牌だった。

 すっかり逃げてしまっていた俺の運も、一週間欠かさず牌を握り続けた事でずいぶん戻ってきた。

 当初に比べれば、かなり思い通りの打牌が出来る様になって来たものだと思う。

 ただ一点を除いてだが。

 さてこの牌姿の場合、何から切るだろう?

 大多数が打{北}とすると思う。

 だが俺は打{8}とする事が大半になった。

 

十三巡目手牌 ドラ:{四} 裏:{東}

{三四五五六七八②③④345} ツモ{赤五}

 

捨て牌

{81北南白中}

{發白南横4九⑥}

 

 そして最終形がこうだ。

 メンタンピンツモドラドラという幸先の良いスタートだが、問題はそこではない。

 

 

 

 ――どうやら索子に愛想を尽かされたらしい。

 

 

 

 その事実に気が付いたのは、龍門渕家に転がり込んで二日目の話だった。

 初日、俺が索子をツモれなかったのは、衣の支配の為だと思っていた。

 だが翌日、衣の対面となっても、上家になっても、当然下家でも索子はツモれなかった。

 そしてようやく気が付いたのだ。いや、思い出さされたと言った方が正しいだろう。俺はあの九蓮宝燈を和了って以来、一度も索子をツモっていないと。

 この事実に気が付いた時、かなりショックを受けた。いつになったらまた引ける様になるのだろうか、もしかすると一生引けないのかも知れないと。

 だが、決して悪い事だけではなかったのかも知れない。

 三色や平和が作りづらくなる反面、一色手や字牌絡みの手はかなり和了りやすくなった。平均打点、聴牌スピードも上昇した様に感じられる。それもそのはず、牌理が他人よりも簡単になったのだから。

 今なお当然、喪失感はある。だが、俺はこれはこれと考えて、今出来る最良の一手を打ち続ける事にした。

 そして同時に考えた。この性質を生かして、魔物の隙を突く事が出来るのではないかと。

 

 

 

 ――失ったものが大きければ大きいほど雀運はついて回る。

 

 

 

 あるプロがこう言った。

 バカげていると思うだろう。

 だが仮に、それが事実だとすれば、己の命を失い、麻雀においても三十四分の九を失った俺という存在はどうなるのだろう。

 魔物と渡り合えるだけのポテンシャルを備えていてもおかしくないのではないか。

 だから挑戦し続けると決めた。

 

 

 

 ――再び死ぬその時まで、俺は牌と共に在ろう。

 

 

 

東家:染谷まこ 19000(-6000)

南家:杉乃歩 37000(+12000)

西家:沢村智紀 22000(-3000)

北家:竹井久 22000(-3000)



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悪待ち

 ――ふぅん。やるわねえ。

 

 

 

 そう言って久は、無造作に垂らしていた髪をゴムで縛り、お下げにする。

 その瞬間、彼女の顔が人好きするやわらかい表情から、獰猛な肉食獣へと変化した。

 この二面性が魔物達の持つギャップにどこか似通っていて、俺は久の評価を上方修正した。

 

(おもしろい女だ)

 

 将来、成長した彼女は、俺の様な魔物ハンターになるのか、それとも魔物そのものになるのか。

 それはまだ判断出来なかったが、ただならぬ素質を持っていると思った。

 

「きんちょーして、戦闘モードになるのを忘れていたわ」

「あんたでも緊張する事があるんか?」

「失礼ね、これでも繊細な乙女なのよ?」

「乙女はもっとマナーが出来ているもんじゃと思っとったわい」

 

 久とまこは軽口を叩き合っているが、先ほどまでの緩んだ空気が一気に引き締まった。

 どうやら緊張していたのは本当らしく、ようやくスイッチが入ったという様子である。

 

「さあ、お待たせして悪かったわね。ここからは正真正銘の全力でぶつかるわ!」

 

 

 

東二局0本場 ドラ:{中} 親:杉乃歩

東家:杉乃歩

南家:沢村智紀

西家:竹井久

北家:染谷まこ

 

「リーチ」

 

久捨て牌 {■■■■■■■■■■■■■}

{北南東九一三}

{⑤9横五}

 

 いささか強めに叩き付けられたのは{五}だった。

 まこは無難に{三}を手牌から抜き打ってオリの様相。

 次のツモで俺も聴牌し、追っかけるかどうかの判断を迫られる。

 

十巡目手牌

{赤五五五六④⑤⑥⑦⑧⑧白白白} ツモ{③}

 

(こっちだな……)

 

打{五}

 

 俺の選択は聴牌とらずの回し打ち。

 追いついたとはいえ、俺が回り道をした訳でもなく、久に先制聴牌を許しているのは覆り様のない事実。

 こんな状況下で、俺と久のどちらがツイているのかは考えるまでもない。

 だからこそ、正直な打牌をすれば大抵喰われる。浮き牌が当たり牌だったり、リーチは通っても一発でツモられてリー棒を損したりと。

 

「一発ツモ――裏々で3000・6000!」

 

十巡目久手牌 ドラ:{中} 裏:{⑧}

{六六七八九⑧⑧23344赤5} ツモ{六}

 

 俺の感覚通り、久はあっさりツモ和了った。

 それも俺が追っかけていれば打っていただろうものに相違ない和了り牌で。

 

(それにしてもひどい捨て牌だ……)

 

 和了り牌の{六}は{三九}が見えていて、両スジ。{⑧}も{⑤}が捨てられていてスジ。どちらも安全そうに映る牌である。

 この牌姿なら確かに必要のない牌ではあるが、平然と迷彩を凝らしてくる女子高生というのはどうなんだと、もやもやした感情を抱いてしまう。

 雀荘に出入りする女子中学生であるお前はどうなんだ、というツッコミはご容赦願いたい。

 

(こいつは――バカに違いない)

 

 最終形と捨て牌から察するに、{五六六}と索子のどちらかが埋まれば聴牌の形だったのだろう。

 そして索子が埋まってこの形になったのだろうが、どうしても不自然さが先行する。

 仮に{五六六七八九⑧⑧23344}から{赤5}をツモったとしよう。

 それならば、俺はほとんどの場合、打{九}リーチをする。なぜならタンヤオ・平和という役が付くし、その方が待ちが多いからだ。

 

「まいどありー、手加減は出来ないけどよろしくね」

 

 普通、こんな台詞を対局相手に言われると腹が立つものだが、久に限ってはそんな感情を抱かなかった。

 彼女には人を寄せ付ける不思議な魔性がある。

 とはいえ、お得意様に成り下がるつもりはない。やられたらやり返す。

 

東家:杉乃歩 31000(-6000)

南家:沢村智紀 19000(-3000)

西家:竹井久 34000(+12000)

北家:染谷まこ 16000(-3000)

 

 

 

東三局0本場 ドラ:{三} 親:沢村智紀

東家:沢村智紀

南家:竹井久

西家:染谷まこ

北家:杉乃歩

 

一巡目手牌

{二四赤五六七⑤⑥⑦⑧⑨19西} ツモ{九}

 

 ずいぶんと俺向きの配牌だと思う。

 索子と字牌の処理を終えると、平和の見える好形手に変化した。

 

三巡目手牌

{二二四赤五六七九赤⑤⑤⑥⑦⑧⑨}

 

まこ 打{八}

 

「チー」

 

四巡目手牌

{二二四赤五九赤⑤⑤⑥⑦⑧⑨} {横八六七} 打{九}

 

 喰わなくとも聴牌まで届きそうではあるが、俺は鳴く。

 経験則上、前局和了った久の手は俺よりも高く仕上がっているはずだ。

 だから、目先の打点よりこの局を確実に和了り流れを引き戻す事を第一に考える。

 

久 打{二}

 

「ポン」

 

五巡目手牌

{四赤五赤⑤⑤⑥⑦⑧⑨} {二横二二} {横八六七} 打{⑨}

 

「お急ぎかしら?」

「ああ」

「せっかくだからゆっくりして行けば良いのに」

「あいにく麻雀に速度制限は設けられてないからな」

 

 聴牌。この瞬間、この局は十中八九貰ったと思った。

 索子を引けないという現象には大きなメリットがある。それは段違いに上昇した聴牌から和了までのスピード。

 一般的に両面待ちならおおまかに三十四分の二の確率でツモれる事になる。だが、索子の引けない俺は二十五分の二でツモれるのだ。

 

「リーチ」

 

智紀捨て牌 {■■■■■■■■■■■■■}

{9發一東横2}

 

 智紀が序盤とはいえ二副露相手に強気のリーチを打つ。

 特徴のない平和系の捨て牌である。恐らくは両面以上の好形聴牌、勝算ありと判断して押したのだろう。

 ――だが遅い。

 

(リー棒の無駄だ)

 

 今の俺を速度で上回れるとすれば、流れに乗っている久だけだろう。

 聴牌さえしてしまえば、待ちの多さなんか関係ない。「ツイてないヤツ」は「ツイているヤツ」に勝てない。

 その枷から抜け出す方法もなくはないが、それは智紀の領分ではない。

 だから、智紀が当たり牌をツモるか俺に掴まさせるかするよりも、俺が自分の和了り牌を引く方が早いのだ。

 

久 打{1}

まこ 打{2}

 

六巡目手牌

{四赤五赤⑤⑤⑥⑦⑧⑨} {二横二二} {横八六七} ツモ{七}

 

(――当たる訳がない)

 

打{七}

 

 無スジの{七}をノータイムでツモ切った。

 この局、俺は智紀に当たらない。智紀が真っ直ぐな麻雀を打っている限りは。

 

久 打{四}

まこ 打{9}

 

 久もまこも完全にオリている。

 この状況を独力で打破出来るのは久のみ。まこでも差し込みなどを使って破れなくもないが、その気はない様だ。

 

(もらった)

 

 山へと手を伸ばし、牌を掴むと確かな感触が返ってきた。

 盲牌なんかする必要もない。わかる、流れが俺に伝えてくれている。

 

 

 

 ――これは俺の和了り牌だ。

 

 

 

「ツモ。2000・4000」

 

七巡目手牌 ドラ:{三}

{四赤五赤⑤⑤⑥⑦⑧} {二横二二} {横八六七} ツモ{三}

 

東家:沢村智紀 14000(-5000)

南家:竹井久 32000(-2000)

西家:染谷まこ 14000(-2000)

北家:杉乃歩 40000(+9000)

 

 

 

東四局0本場 ドラ:{九} 親:竹井久

東家:竹井久

南家:染谷まこ

西家:杉乃歩

北家:沢村智紀

 

「リーチ」

 

久捨て牌

{46六3六白}

{⑧横東}

 

八巡目手牌

{二三四五五六六七七2277} ツモ{赤⑤} 打{六}

 

(攻められない……)

 

 リーチに七対子の一聴向で押すのはあまりにもばかばかしい。素直に現物落としで対処する。

 これが純粋に筒子の染め手ならば、いくらでもやりようがあるのだが、この竹井久という女は素直ではない。平然と萬子や索子で待ち構えている可能性がある様に思えた。その上に運を掴む力は半端でないと来た。前局、和了ったのは俺だというのに、平然と先制リーチを打って来たのだ。

 相手を引っかける待ちというのは、運を掴む力の衰えた玄人(ばいにん)がするものであるという話がある。逆に言えば、流れに乗っている久がする必要はないという事だ。流れに逆らう行動を取るとたちまちツキは逃げてしまい、置物と化してしまう事も少なくない。

 だが――

 

智紀 打{三}

 

「それよ」

「あっ……」

 

 久は二度目の悪待ち和了を決めて見せた。

 染め手か七対子かはたまたチャンタなのか。変則手が濃厚な河にスジを放り込むのは危ない気もするが、現物がなければスジを信用するしかない。

 デジタルな打ち手の智紀が親リーに真っ向勝負を挑むとは考えにくく、これはオリを選択しての打牌だったのだろう。

 だからこそ放銃が痛い。

 呆然とする智紀を尻目に嬉々としながら裏ドラをめくる。

 

「――裏々は12000!」

 

久手牌 ドラ:{九} 裏:{三}

{三①②③④⑤⑥⑦⑧⑨北北北} ロン{三}

 

(ずいぶんと歪な異能(ちから)を持った女だ)

 

 悪待ちの欠点は和了り牌が少ない事の他、打点が低くなりがちな事だ。それを裏ドラという形でカバーしている。

 放銃してしまった智紀の残りは僅か2100点。だが、これは智紀に落ち度がある訳ではない。不調というのは本当に自分の調子が悪くて陥るケースは希である。実際は他家がツキすぎているだけという状況が大半だ。

 今回は俺と久に流れが集中しているから、正攻法で俺達を打ち崩そうと思えば、返り討ちに遭う。無論、流れを信じない打ち手には関係ないと一蹴されるのだろうが。

 

(次で和了れなければ俺の負けだな……)

 

 決して俺が久より格下だとは思わない。十数戦~百数戦といった中~長期スパンの勝負なら負ける気はさらさらしない。

 これでも賭け麻雀で生計を立てていた身だ。魔物以外が相手なら悪くとも五分五分の成績を残せるだろうという自負がある。

 俺と久が他家の点棒を奪い合う状況で、点差が広がったかと思えば、次局であっさり振り出しへと戻る。

 だが、この均衡状態もそう長くは続かないだろう。

 

(智紀が……持たない)

 

 だからと言って差し込みで延命処置を施すのは愚策でしかない。

 長期戦になれば、ペース配分をしなかったツケが必ず回ってくる。長引けば、久もだが、俺の運がガクッと落ちる瞬間が訪れるだろう。そうなればまこや智紀に足下を掬われる可能性すらある。

 当然、彼女もそれを理解しているだろうから、次で決める気になっているだろう。

 

東家:竹井久 44000(+12000)

南家:染谷まこ 14000

西家:杉乃歩 40000

北家:沢村智紀 2000(-12000)

 

 

 

「私ね、分の悪い賭けが好きなの」

 

 ポツリと久が零した言葉にどんな真意が含まれていたのか、その瞬間はわからなかった。

 誰もが勝てっこないとあきらめたくなる様な魔物達。それを倒そうとやっきになっている俺はいかほどに分が悪い賭けをしている事になるのだろうか。

 だから、俺はただ言葉通りに捉えて、「へえ……それは気が合いそうだな」と答えた。

 

「あらら……想定外の言葉ね。と言っても悪い意味じゃないわよ? お姉さんちょっとびっくりしちゃったわ。そしてあなたの事が好きになっちゃった。どうかしら、良かったら清澄に来ない? 歓迎するわ」

「ダメ、あげない」

 

 智紀が条件反射の如く、一拍も間を空けずに答えた。

 

「これ、他人様の妹さんを無理矢理勧誘すんな」

「何も無条件とは言わないわよ……この半荘で私がトップだったら――というのでどう?」

 

 数秒の沈黙を挟んでまこが叫んだ。

 

「アホかーッ! アンタがダンラスならまだしも、親番の上、断然トップじゃろうが! それは条件とは言わん!」

「あら、まこでも沢村さんでも、もちろん妹さんでも良いわ。とにかく私を一位の座から引きずり下ろしたら問題ないのよ? ずいぶん良心的な条件だと思わない?」

 

 久はニヤニヤと挑発する様な視線を向ける。

 それは俺にでも、まこにでもない。智紀へと向けてだ。

 「様な」と付ける必要はないのかも知れない。紛れもない宣戦布告なのだから。

 

「……わかった。その条件でやる」

 

 神妙な顔つきで智紀が頷いた。

 久の発言とまこの態度を見るに、久は三対一の状況でも自分は負けないと言っているのと同意である。

 智紀としてもここまで舐めた発言をされると、プライドが傷ついたのだろう。

 いつもの無表情を崩し――他人から見れば多少、身内から見ればかなり――闘志むき出しの攻撃的な(かお)をしていた。

 

「ちょっ! 沢村さんもこいつの言う事は本気にせんで下さい!」

「ねえ……もう認めましょうよ。まこもわかってるんでしょ?」

「……何がじゃ」

「この四人の中で一番強いのは誰かって事よ」

「あんたは何を……」

「それは私でもまこでも、沢村さんでもない」

「妹さん……か?」

「そう。欲しいのよ……彼女が。まこは知ってるでしょ? 私の夢」

「それは……インターハイに出るちゅう事か」

「五十点。私は団体戦で出たいのよ。だってつまんない(さびしい)でしょ……個人戦(ひとりぼっち)は」

「だからと言って、他人様の家族を勝手に賭けの対象にしたらいかんじゃろ!」

「なら――当人と交渉しようかしら。歩さん……で良かったわよね、あなたはどう?」

 

 は、愚問でしかない。

 当然――

 

(ん?)

 

 俺が答える寸前に、カランカランと来客を示す鈴の音が鳴った。

 入ってきたのは、黒色のパンクファッションで身を固めた長身の女。

 だが、ただものではない。

 一瞬呼吸をする事すら忘れてしまうほど、その女に目を奪われた。

 彼女の中に眠る魔物がアピールしているのだろう。「主役を差し置いて何をやっているんだ」と。

 

「やあ、なにやらおもしろい事になっているみたいじゃないか。私も入れてくれないか?」

「藤田さん!? 今日はずいぶんと早いお着きで」

「何かありそうな気がしたんでな……」

 

 藤田は今時珍しいパイプを取り出し、おもむろに火を付けた。

 まこがこれまでの経緯を藤田に説明すると、藤田は俺へと向き直る。

 

「お嬢ちゃんはどうするんだ?」

「断る理由がない」

「何故――?」

「勝つのは――俺だから」

 

 そう俺が返事をすると「そうか、それは良かった」と笑顔になる。

 

「そんじゃ、わしが外れますんで、藤田さんはここでよろしいでしょうか? ちょっと……いや、大分負けとるんですが」

 

 まこが苦笑いを浮かべながら藤田へと席を譲った。

 

「んー……良い席じゃないか。ついでにいつものカツ丼大盛りを頼む」

 

 まこは「了解ですー」と言って別室へと姿を消した。

 藤田は卓上の点数を見ると笑みを深める。

 一般的に、負けている席に座るのはツキが悪くなると言って嫌う打ち手が多いが、藤田はむしろ歓迎している様にすら見えた。

 そして、まこの席がさも自分のものだったかの様にどっかりと腰を落ち着ける。

 作るのか、それとも出前を取るのか。それはわからないが、カツ丼を持ってくる為に行ったのだろう。

 

「あっちゃー……これは選択肢ミスったとしか言えないわね。まさか靖子がここで入るとは……」

 

 久が天を仰ぐ。

 さっきの四人の中で俺が一番強いと言っていたくせに、勝つのは自分であると疑っていなかったらしい。

 もちろん、俺が久の立場だったとしても同じ事を思っていただろうが。

 

「ん? 何か勘違いをしているな、私どっち側にも付かないぞ」

「まあいいわ。自分の力で成し遂げなければならない事がある――今回はそれよ」

「でも私が一位になっても沢村の妹さんはいらんなあ。そうだ……天江を一日貸して貰おうか。うん、それで良い」

 

 「出来るか?」と靖子が尋ねると、「多分大丈夫」と智紀が答えた。

 一日レンタルという事は、半荘三十戦くらいか? 不眠不休の麻雀に衣が耐えられそうにない気もするが。

 

「……私達が勝った場合は?」

 

 智紀の問いで、初めて俺達側にリターンがない事に気が付いた。そもそも賭けが成立してなかったのだ。

 麻雀が打てればそれで良い。俺という人間がいかに欠陥品であるかがわかった瞬間でもある。

 

「そうだな……何でもするさ。私に出来る事ならばな」

「私もそれでいいわ」

「ん? 今なんでもするって……」

「女に二言はない!」

「そう……」

 

 啖呵を切る久に対し、智紀は緩やかに口元を吊り上げた。 

 

 

 

東四局1本場 ドラ:{⑥} 親:竹井久

東家:竹井久

南家:藤田靖子

西家:杉乃歩

北家:沢村智紀

 

 

 

 ――再び卓は回り始める。



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女王様/お姫様

 ――空気が締まった。

 

 

 

 先程までは力と力のぶつかり合う、さながら闘技場のような卓。それはある種の心地良さもあり、いつまでも味わっていたいような高揚感を伴うものだった。

 だが、藤田が加わった事でがらりと変わる。まるで背後から覗かれているかのような、気味の悪さ。心なしか、照明すらも暗くなったように感じられる。

 これは、鬼ごっこのようなものなのかも知れない。

 鬼がだれかとは言うまでもなくReversal Queen(まくりの女王)――藤田靖子――その人以外にあり得ない。

 ヤツから与えられた26秒(26000点)のハンデを貰って逃げるのが俺の役目。常識的に考えれば、身体能力の近しい者同士の勝負であれば、鬼が追いつけるはずもなく俺の勝ちで終わるのが当然。しかし、相手は魔物。例え、半分の距離を歩いていようと、少し本気を出せばあっという間に俺の背後へとその姿を現すのだろう。

 藤田が放つオーラは威圧感なんていう生やさしいものではない。言うなれば、それは殺気。見つけた獲物を必ず仕留めるというスナイパーの視線。徐々に荒くなってくる呼吸音、張り裂けんばかりに脈打つ心音。もしも、俺に魔物との対戦経験がなければガタガタを奥歯を鳴らし、無様にも失禁すらしていたかも知れない。

 だが俺は今、嬉しいと感じている。体は歓喜の波に震え、否応にも口元は吊り上がっていく。

 

(なんて、なんて幸せなんだ俺は……!)

 

 元の世界では、魔物と高い頻度で卓を囲む事がかなわなかった。また他家や俺自身の資金切れで打ち続ける事が出来なくなるという事態も少なくなかった。

 それがこの世界では、牌を再び握るようになって以来、一日たりとも魔物と卓を囲めなかった日はない。それは、衣と同居しているからという理由もあるだろうが、麻雀人口の多さがそのまま魔物の多さにも直結している気がする。

 

(俺は、この世界で牌を握る為に生まれて来たのだろうか)

 

 そう錯覚してしまうくらいに、この世界は俺にやさしい。

 だから、環境に甘える訳にはいかない。

 ハングリーさを失った勝負師には、引退の道しか用意されていないのだから。

 

 

 

 ――勝つ。

 

 

 

 ただ一言、呟く。

 それだけで、体を呪縛するオーラが消し去り、視界がクリアになった気がした。

 

 

 

東四局1本場 ドラ:{⑥} 親:竹井久

東家:竹井久

南家:藤田靖子

西家:杉乃歩

北家:沢村智紀

 

「靖子には悪いけど――この局で終わりにするわよ!」

 

久捨て牌 {■■■■■■■■■■■■■}

{①三三七八横赤5}

 

 威勢よく久が宣言した。

 

「……っ!」

 

 その台詞に一番大きな反応を示したのは智紀である。残り僅か2000点、場棒を含めれば30符2翻のツモでトビ終了となってしまう。

 

(ズラさないとまずいな……)

 

 恐らくだが、そう時間を置かずに久がまたツモる。

 並大抵の打ち手ならば、藤田に萎縮してツキを手放してしまってもおかしくない。

 だが、これは想像でしかないが、久と藤田はそれなり以上に親しい間柄。何度も卓を囲んだ経験があるはずだ。だから、今さら動じる事なく自分を貫き通せているのだろう。

 

(とはいえ、俺が動くのだけはごめんだ)

 

同巡手牌

{七八八赤⑤⑤234555北北}

 

 俺の手牌は役なしドラ1の一聴向。決して良い形とは言えないが、それでも悪い形とまでは言い切れない。それなりにツキが残っているはずだ。

 ここで手を崩す鳴きをする事は、和了りを放棄する事に他ならない。

 

(さあ、どう動く女王様よ!)

 

 藤田は紫煙を吐くと、どこか優雅さのある動作で手牌から抜き打った。

 

藤田 打{4}

 

(そうだな、そう来ないと魔物じゃない)

 

 {23}でチーそして打{北}でタンヤオへと向かうのが、久のツモをずらしつつ俺が和了りに向かう自然なルートに見える。

 だが、死んでもその手には乗らない。それは、藤田が思い描いた未来でしかないのだから。

 俺は手牌を晒さず、山へと手を伸ばした。

 

「ほう……」

 

 藤田が意味深に頷く。

 ひとまず第一関門は突破という事だろうか。俺は間違えてない。だというのに、それすらも想定内という藤田の態度は無性に腹立たしいものがあった。

 

六巡目手牌

{七八八赤⑤⑤234555北北} 打{八}

 

 打{七}で{⑤北}のシャボ待ちで聴牌。

 だが、これは聴牌に取ってはならない。

 追っかけリーチを打とうとした牌で討ち取られるというケースは多く、それはツキの性質上当然のものである。面前の勝負に限れば、多くの場合ツイているヤツが一番早い。だから他家の余剰牌が当たり牌になる。

 だから、後手に回ってしまった時点で真っ直ぐに和了りに向かうという行為は避けなければならない。

 

打{北}

 

(どう動く――藤田)

 

 これが想定内だというのなら、その解決策を用意しているはずだ。

 一つでも多く藤田の手札を晒させる。

 

「ポン」

 

 と藤田が動く。

 

「あら? 一発消しとはプロのくせにちゃちい麻雀をするわね」

 

 そう茶化す久だが、本心ではないのだろう。その顔は先ほどまでの不敵な笑みを(かたど)っていなかった。

 

「ちゃちいかどうかは――終局後に判断してもらいたいな」

 

 藤田は紫煙を吐き出すと、牌を打ち出した。

 

藤田 打{⑥}

 

「ちょっ……{⑥}(ドラ)!?」

 

藤田手牌

{■■■■■■■■■■} {北北横北} 

 

 藤田の選択に、久は目を大きく開き、呻くように声を絞り出す。

 だが藤田は一瞥もくれず、ただ一言「鳴かないのか?」と独り言のように呟いた。

 

「……ポンッ!」

 

 一瞬、惚けた顔をしていた智紀が、唇を噛みながら{⑥}を倒す。

 ぼそりと「……同じだ」と呟いた。

 

智紀手牌

{■■■■■■■■■■■} {⑥横⑥⑥} 打{⑦}

 

 天江衣という人外を相手にし続けている智紀にとって、藤田のその行動は見慣れたものだったのだろう。

 一体どこまで見通しているのだろうかという驚異的な洞察力。

 そしてそれからもたらされる、悪魔的な打ち回し。他人のペースに乗せられて和了るというのは何度味わっても気味が悪く、もやもやしたしこりをぬぐい去ることが出来ない。

 だが、そこまで理解していながらも智紀はそれに乗るしかなかった。

 箱下なしのルールである以上、持ち点が1000点を下回ればその時点で勝負は終了だ。

 たったの1000点、一本場である今は、久の30符2翻のツモで吹き飛んでしまう。

 そんなあっけない幕切れを魔物が許す訳がない。だから、この局和了るのは久ではない。俺でもない。だが、藤田でもない。

 もうここまで言えば誰にでもわかるだろう。

 この局、智紀が和了る。

 そう決めつけられているのだ。

 

 

 

 ――藤田によって。

 

 

 

 だが、それを指咥えて眺めているのが俺の性格ではない。

 何が何でもそのシナリオを崩す。

 例え今回失敗しようとそこで生じた本来の流れとの差異は、バタフライエフェクトとなり終盤で効力を発揮する。

 

「うわー、何か嫌な予感しかしなくなってきたわね……」

 

 久は、そう零しながら恐る恐る牌をツモ切る。

 

久 打{⑤}

 

 当然鳴く。

 

手牌

{七八八八234555} 打{北} {赤⑤横⑤⑤}

 

(追いついた……!)

 

 副露により、ツモ筋が入れ変わって、久は不調者の筋になっている。ならば、ツモ和了りの目はかなり薄い。

 つまりこれは俺と智紀がサシの勝負をしているようなものだ。

 

(これはお前の予定にあるのか? 俺が智紀とやり合える状態でいるという事は)

 

 とはいえ、この程度で魔物を上回った気にはなれない。

 それを覆すだけの何かを持っていないと、それはバケモノたり得ないからだ。

 

「ロン。8300」

「はい」

 

智紀手牌

{123789白白發發} ロン{白} {⑥横⑥⑥}

 

 この攻防は藤田の差し込みで終了した。

 まずは引き分けというところか、女王様?

 

東家:竹井久 43000(-1000)

南家:藤田靖子 5700(-8300)

西家:杉乃歩 40000

北家:沢村智紀 11300(+9300)

 

 

 

「君、中々面白いな」

 

 牌を流し込み、次の山が迫り上がって来るまでの僅かな期間、藤田が話しかけてきた。

 賞賛か純粋な興味から来たものなのか判断は付かなかったが、藤田の言葉に俺は「そりゃどうも」と謝辞を述べる。

 

「若いのに随分と打てる……まるで一昔前の玄人を見ているかのようだった」

 

 その認識は間違っていない。

 元の世界での俺の生き方は、藤田の言う一昔の玄人のものとそう変わりはないだろう。

 競技として発展しているこの世界とは違い、麻雀でしか喰っていけない世界から落伍した者と、アウトローな人種だけで構成されていたのが俺の世界だ。

 魔物には第六感で打つ直感タイプと、バケモノじみた洞察力で打つ玄人タイプがいる。

 ヤツらは多かれ少なかれ両方の特徴を併せ持っているが、衣は前者が色濃く、藤田は後者に偏っていると思った。

 前者には、何かの間違いで勝ちを拾える事がある。衣に勝った事がない俺が言うのは滑稽でしかないが、ヤツらにはムラがある。衣が昼間より夜の方が強いのと同じように。

 だが、後者は――いや、後ろ向きになるのは止めよう。

 負けるかも知れないなどと、余計な事を考えていて勝てる相手ではない。

 

「カツ丼おまたせしました」

 

 その言葉と同時にまこがカツ丼を持って表れた。

 

「お、いつも通り()()()()()()()だな。いただきます」

 

 藤田はガツガツと優雅さを全て捨て去りがさつに咀嚼する。

 それは、Reversal Queen(まくりの女王)の素の姿なのかも知れない。

 もっきゅもっきゅと喉ごしを楽しむかのように掻き込むその姿は、実年齢よりずいぶんと幼く映り何とも愛らしく見えた。

 そんな二面性が見えるところに、やはりこいつも衣と同じ人種なのだと確信を深める。

 それと同時に、こんな人間らしい部分があるからこそ、魔物を追い続けられるのかも知れないと思った。

 彼女達が、血も涙もないあの男のような人鬼であれば、俺はとっくの昔に心を折られ、立ち上がれなくなっていただろうから。

 カラン。どんぶりと箸がぶつかる乾いた音が鳴った。

 

「さて、ここからは私のテリトリー……逃げ切って見せろ、お姫様」

 

 鋭い眼光で俺を貫く藤田の顔は、やはり美しく、この魔性から俺は逃れられないのだと錯覚させられただろう。

 

 

 

 ――その頬にご飯粒が付いていなければ。

 

 

 

「ん? どうした私の顔に何かついているか?」

「ついてるわよ……ご飯粒」

「あっす、すまん……」

 

 久に注意されて、顔を拭う藤田は、威厳の欠片もなかった。

 

「そんな部分も一緒……」

 

 その様子を見てこくこくと頷く智紀は、衣と藤田を重ね合わせていたのだろう。

 

 

 

南一局0本場 ドラ:{一} 親:藤田靖子

東家:藤田靖子

南家:杉乃歩

西家:沢村智紀

北家:竹井久

 

 この局は何が何でも流さなければならない。

 現時点で藤田が流れを掴めているとは思えない。だが、親番を引き、連荘でもすれば状況は百八十度変化する。

 だからこそ、この局に要求されるのは究極の早和了り、最悪他家に差し込んででも南二局に突入する必要がある。

 

(だというのに……!)

 

配牌

{一一一②⑨⑨2266南白中} ツモ{⑥}

 

(どうしようもなく手が重い……ドラ3は歓迎だが、対子手でしか和了れそうにない形だ)

 

 役牌を重ねるか、鳴いてトイトイ、重なり次第で七対子かという配牌。

 

(確かに打点は欲しい……だが藤田に和了られたら何の意味もない)

 

「チー」

「ポン」

「チー」

 

 三度の発声は全て普段無口な智紀のものだった。

 

智紀手牌 {■■■■} {横⑤④⑥} {中中横中} {横三一二}

捨て牌

{東9二發③4}

 

(最速で聴牌することだけを考えた仕掛け……十中八九そば聴だ)

 

 愚形搭子を二つ処理している以上、手元に残っているのは好形搭子の可能性が高い。

 {344}か{445}からの打{4}――つまり、{25}待ちか{36}待ちにしていると読めた。

 

(差し込めと言っているのか?)

 

 これは智紀のSOSなどではなく、戦略として一時的に共闘しようというサインだろう。

 「お前なんかいつでも抜き去ることが出来るんだぞ」と、耳元で囁かれているような不快感。真後ろに藤田が立っているような感覚をぬぐい去ることが出来ない。

 

(わかったよ。欲は捨て去って着実に藤田の親を蹴る……これが正解のはずだ)

 

 藤田を流れに乗せてしまえば、勝機はほぼゼロだ。

 ここで1000点捨てるだけで、藤田の親番を確実に終わらせられるなら、そうすべきなのだろう。

 

「ロン。2000」

 

智紀手牌

{②②4赤5} ロン{6} {横⑦⑤⑥} {中中横中} {横三一二}

 

 智紀の手牌がぱたりと倒された。

 

(このメガネ……ちゃっかり赤ドラ使ってやがる……!)

 

 俺がやり場のない怒りに震えていると、パタリと牌の倒される音が聞こえた。

 

「悪いな……ダブロンはありだったか?」

 

藤田手牌

{五五五⑤⑤⑤2266西西西} ロン{6}

 

「三暗刻、対々和は12000。やられっぱなしっていうのは嫌いでね」

 

 奇遇だな、俺もそうだ。クソッタレ。

 口にこそ出さなかったが、俺は顔を大きく顰めていただろう。

 

東家:藤田靖子 17700(+12000)

南家:杉乃歩 26000(-14000)

西家:沢村智紀 13300(+2000)

北家:竹井久 43000



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