Real-Matrix (とりりおん)
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Matrix-0
黎明は闇に散る薔薇と共に…… 1


 何物もそれ自体意味を持たない。

 

 ただ其処に存在するのみ。ある形質を纏っている、それ以外に何も持たない。

 上滑りだと思うならば、考えてみるがいい。

 意味を与えるのはただ意識を持ちし存在であり、それの主観であり、独断。

 

 傲慢な、独断。

 それ以外に、何がある。

 

 0も1もいわゆる無限に考え得る表象の一つであり、それに何の意味もない。元来数ですらありはしない。

 奇跡の果てに、因子が絡まり合い生まれる命は。

 それに意味はない。意味など与えられない。何者もそんな権利を持ちはしない。

 

 だがそれは美しい。意味などなくとも。

 

 意味などなくとも生命はそこにあり、美しく輝いている。

 涙が流れる程に。

 羨望に、嫉妬に、涙が流れる程に。

 

 私を不要な存在だと、無意味な存在と決めたのは。

 私を生まれ落ちるその前に拒絶したのは。

 世界だ。光ある世界。

 それはあまりに傲慢な独断で、私を締め出し、虚無の闇に打ち捨てた。

 無価値なものは世界に要らぬと。価値無きものはすなわち無意味と。

 

 私の意識に権利をくれ。

 私の存在に意味を与える権利をくれ。

 私の哀しみはねじ曲がった。分かっている。

 

 けれども止められない。

 光を恨むことを。

 世界を恨むことを。

 ――意味ある存在を、葬ってやる。

 

 ***

 

 昼夜、天を覆い尽くすは黒雲だ。

 

 陽光も、月光も一筋すら通さず、厚く垂れ込める。今にも篠を突く雨が降り注ぎ、雷鳴が轟きそうな危うさが漂っている。

 

 だが実際には完全に渇水し、ひび割れて大きな裂け目を幾つも作り、草の一本も生やさぬ広漠な大地にも、黒霧が立ちこめる。彼方を見晴るかす事は叶わない、まさに五里霧中である。

 

 そして、何者かの呪詛あるいは悪意を思わせる、邪な気配が辺り一帯に充満する。それがまるで黒雲と霧という形を成しているのだと思わせる程だ。此処が、ダークエリアという深淵、いわば地獄界の直上に位置しているからなのだろう。

 

 一人の騎士が荒野を駆けていた。

 

 おおよそこの禍々しい空間には似つかわしくない、華やかで美しい騎士だ。暗黒の中で彼の姿だけぼんやりと紗幕を通したように浮かび上がっているのは、彼自身が輝きを放っているからなのだろうか。すらりと均整の取れた肢体に纏うのは薔薇輝石の色をした流麗な鎧で、肩から黄金色の帯刃が伸びており、彼が足の運びを変える度風になびくように揺れる。

 

 晦冥を抜けた先には、さながら日を受けて綺羅綺羅しい細氷の柱のような光の楼があるのを彼は知っている。そして、其処へ向かって足を馳せているのだ。

 

 この電脳世界――デジタルワールドに数個存在する、別位相世界へのエレベーターの内の一つだ。アクセスポイントと呼ばれたりもするが、その事実は半ば風化した伝説と化されていて大衆の与り知る所ではない。他世界への干渉によるみだりな節理の「歪み」を懸念して、意図的にこの世界の守護者がそうしたのだ。

 しかし、時として「歪まねばならない」場合もある。その為にこのアクセスポイントは存在していると言えよう。

 

 何を隠そう、彼――ロードナイトモンは自身守護者聖騎士集団ロイヤルナイツ――の一員であり、アクセスポイントの存在を秘匿した者の一人なのだ。

 

 彼はその秘する異世界への扉たる煌めきを目指しているものの、自分が異界へと行くためにそこを目指しているのではない。

 

 振り返ると、後ろから、薄紫のなめらかな体毛をした不思議な動物が付いて来ているのが見える。

 名はドルモンという。大きさは大型犬ぐらいだろうか。しかしその外見は奇妙である。狐のような尻尾にぴんと尖った両耳。爪は大きく鋭い。そして何より額に埋め込まれた、逆三角形の赤い宝石のようなものが、この生物の特異性を雄弁に物語る。

 ドルモンはロードナイトモンの飛ぶように軽やかな足取りとは反対に、せわしなく短い四肢を動かし精一杯眼前にぼんやり見える姿に付いていこうとしている。その様子が本当に微笑ましいと思えると同時に、騎士の胸の内に寂寥の念が込み上げて来る。

 

 今はまだ見えて来ないが、光柱に辿り着いてしまったら、もう永らく、いや、もしかするともう二度と――ドルモンとは逢えなくなってしまうだろうと分かっているから。

 そう、この可愛らしい連れをへとある異世界へと送る事こそ彼の目的であった。

 節理を歪め、デジタルワールドを元に戻すために。

 

 ***

 

 よく噛み、よく食べる奴だ――それが、保護を委託されたドルモンに対するロードナイトモンの第一印象だった。

 自分をじーっと見るなり、がっつりと手に噛み付いて来た時、大切にしていた庭園の花を食い荒らされた時。心底ロードナイトモンは怒りを覚えた。なんだこの獣は、と。

 それでもきちんと誠意を込めて世話をし、守ってやり、やがて愛着が湧き、当初憎たらしかったはずのドルモンの性が可愛く思えるまでに至ったのは、ロイヤルナイツとしての使命感が成せる業だったのだろう。

 

 ぼんやりと沈潜しながら歩を進めていると、背後の方で今までしていた地面を蹴る音がふっと途絶えた。

 反射的に身を返して足を止めると、眼下にドルモンがへばってうずくまっている様子がそれとなく認められた。

 

 「ドルモンもうだめ~。やすみたい~」

 

 弱々しく声を絞り出し、くーんとすがるような鳴き声まで付ける。

 

 「もう少し頑張れないか?」

 

 「むり~。もうつかれた~」

 

 問い掛けに頑としてそう言い張る小動物。薔薇色の騎士は、こんな気味の悪く「美しくない」場所に必要以上に留まりたくなかったがゆえにしばしの間逡巡したが、薄紫色のこの動物に優雅な足取りで歩み寄ると、それを左腕で何やら術でも用いたようにふわりと俵担ぎした。

 

 「お前はかなり重たいから、本当はこんな事はしたくないのだがな」

 

 「やった~。ドルモンおんぶ、おんぶ~」

 

 ロードナイトモンが漏らした本音などどうでも良く、ドルモンは休める事に無邪気に喜んだ。目を閉じて、ロードナイトモンという快適な乗り物に身を委ねる。

 

 彼の肩が辛くならないうちに、遠方に遥か天まで立ち昇る光の柱が微かに見えてきた。

 ロードナイトモンの心が再び感傷に痛んだ。彼処に辿り着いてしまうと、もうドルモンとは今生の別れなのかも知れないのだ。ドルモンと過ごした日々は期限付きの契約でしかなかったのだと改めて思い直す事になった。

 

 突如、ドルモンに休ませておけば良かったという後悔の念が波濤の如く彼に押し寄せた。勿論、それはドルモンの為なんかではない。ドルモンともう少し一緒に居たかったという彼自身の為だ。こんな場所に長く留まるのを良しとしない彼の美意識とやらも、掠れてしまう程に。

 

 然れども、ロードナイトモンは聖騎士ロイヤルナイツの一員にして、デジタルワールドの「希望」を然るべき時まで護るという大任を帯びた者。私情を挟む余地など何処にもありはしない。抱いている思いをおくびにも出さずに、ただただ薔薇色の騎士は前進する。

 

 すると、ドルモンが堰を切ったようにわんわんと泣き出した。

 

 「やっぱりやだ~!ドルモン、おわかれやだ~! かえろうよ~、かえろうよ~!」

 

 足をばたつかせてわめくドルモンをしなやかな腕でしっかりと押さえつけながら、彼はひたすら歩を進める。そして静かに諭すように言った。同時に自らに言い聞かせるように。

 

 「もうここまで来てしまったのだぞ。覚悟を決めるんだ」

 

 「やだやだ~! ロードナイトモンとおわかれやだ~!」

 

 しかしひたすら幼子のように泣き立てるドルモンを、ロードナイトモンは責める気になれなかった。事実、ドルモンはまだほんの子供であるし、彼のわがままは叶えてやるべきなのだ。

 それというのも、ドルモンの半生に、彼の意思などというものは全くなかったからだ。全ては必然的に押しつけられたものでしかない。

 それでもドルモンが自分との別れをこうして惜しんでくれる。ロードナイトモンは救われたような気がした。

 

 「ご機嫌麗しゅう、ロードナイトモン様」

 

 薔薇色の騎士は直ちに感情を捨て去った。

 

 だしぬけに、強烈な妖気――そしてそれに潜むように含まれた殺気が二人の背後から襲いかかって来た。ロードナイトモンが声がしたのと殆ど同時に身を翻したのは流石というべきだろう。即座に右手に装備した大振りの盾の様な武器を構える。ドルモンの方はと言えば、泣くのをぴたりとやめてぶるぶると身を震わせ、騎士の鎧にがっちりしがみつく。

 

 「――貴様は……!」

 

 一面の黒霧の中でもはっきりと浮き立ったその姿を認め、ロードナイトモンは呟いた。

 濃艶。真っ先に思い浮かべるならその言葉だろう。胸元の開いた黒衣の上に藍紫を纏う、結ったぬばたま色の髪に黄金のかんざしを差した美女は、それだけを見るなら人間にも見えるだろう。しかし、その背から生えた大小二枚の漆黒の翼、袖から覗く獣染みた金の五爪が、彼女が尋常ならざる存在である事を示す。

 

 「――七大魔王、“色欲”のリリスモン……!!」

 

 「ロードナイトモン様。初お目にかかります」

 

 緊迫感にさいなまれている二人とは違って、余裕に満ちた様子で左手を口元に当てて妖女は笑った。

 七大魔王――その身に大罪を背負い、デジタルワールドの暗黒に君臨する恐るべき禍つ者達。その名を知らぬ者などいるはずがない。勿論、ドルモンだって知っている。

 言葉面は大変上品に聞こえるが、何故か嫌悪感にも似た感覚を覚えたのは、“色欲の”魔王ならではの何かがあったからだろう。

 

 「何故、かような場所にいらっしゃるのかしら?」

 

 「それは貴様とて同じ事だろう」

 

 ロードナイトモンは動揺を一切表に出さずに冷たく言い返す。

 彼の言う通りであった。七大魔王がダークエリア――まさにこの真下にあるわけだが――の地下宮殿から表に出てくるのは、ただ事ではないのだから。

 

 「久々に外に出てみたら、珍しい公達の御姿が見えたから追ってみたのよ。それも、騎士達の王にしてロイヤルナイツの一員である貴方様がいらしたので」

 

 飄々とした笑みを浮かべながらリリスモンは言った。しかし、その外出した理由の一端でも知りたかったロードナイトモンからすると、彼女の言葉は答えになんぞなっていなかった。

 それにしても、何故自分達の尾行なぞしたのだろうか。ロイヤルナイツをここぞとばかりに始末するために? それはそれでおかしい。後ろから強襲すれば実に簡単な話なのだから、自分達はさっさとやられているはずだ。それとも――?

 いや、そんな事は後で考えて然るべきだ。

 

 「ドルモン、私から降りるのだ。走れ。場所は――無論分かるな?」

 

 「う~」

 

 「行け! 絶対に振り返るな!」

 

 「うん~」

 

 ロードナイトモンの殆ど激昂に近い命令で、この哀れな小動物は震えながらも、疲労の取れた体で――その代わり恐怖感と緊張を新たに得たが――器用に聖騎士の肩からひょいと飛び降りると、視界の果てに映る微かな光へと一直線に駆けて行った。

 その様子に向けて、二つの蠱惑的な視線が向けられている。

 

 「あらあら、可愛いデジモンだこと。どちらに向かわれるのでして?」

 

 妖艶なる魔女はぞくりとするような笑みを浮かべ、決定的な言葉を唇の間から滑らせた。

 

 「もしかして、“アクセスポイント”かしら?」

 

 ロードナイトモンは一瞬凍り付いた。

 厭な予感が当たってしまった。だが何故その言葉を知っている――?

 思い巡らす暇はなかった。

 

 「やはりそう?」

 

 束の間無言でいたロードナイトモンに対して、リリスモンが一層口の端を吊り上げて鎌を掛ける。

 その直後、紫に彩られた唇を開き、ほうと吐息を漏らす。

 途端、吐息が変じた。

 周囲の黒霧よりも遥かに暗く、おぞましい霧に――。

 それが捕らえようとしているのは、懸命に走るドルモンの後ろ姿だ。

 ロードナイトモンの知る限り、それは「絶対に触れてはいけない」呪いの吐息。触れてしまったら最後、死してなおその痛みに苦しみ続けるという禍つ吐息――。

 

 「そうはさせん!」

 

 ロードナイトモンは一声叫び、刹那、自分が霧の進行方向から右方に飛びずさる。

 鎧の帯刃が何本も素早く空を裂いて伸び、黒い霧に立ち塞がった。

 黄金の刃に当たって霧は文字通り雲散霧消したが、刃が末端から粒子に分解されて空塵と化してゆく。その浸食はロードナイトモンの鎧の留め具まで及んで、帯刃がまる三本消滅した。

 

 「わたくしの“ファントムペイン”をお防ぎになるなんて……流石」

 

 リリスモンがわざとらしく驚いて見せる中、虚空の粒子データが煌めきながら集束し、再び目映い色の帯が形成される。色欲の魔王は今度は本気で目を丸くする。しかしそれは同時に楽しんでいるようでもあった。

 ロードナイトモンの方はといえば冷静さを保つのに必死だった。もし帯刃が鎧の「付属品」でなかったのなら、帯刃は再生しないどころか、とっくにロードナイトモン自身が消滅していたであろう。

 

 ロードナイトモンは、守護騎士ロイヤルナイツの一員として、危険な任務を幾つもこなし、数え切れない死地を潜り抜けてきた。それゆえ、彼は何時如何なる危機に対しても泰然としていられる、精神の境地に達しているといえよう。

 けれども、今回は違った。

 確かにこれもまた危険任務である事には違いないが、過去のそれとは一線を画している。

 電脳核の鼓動を微かにでも乱す不規則なパルス――これは恐怖だ。

 

 しかし、いくらそれに己を乱されようとも、寧ろ己を殺し、何としてでもこの七大魔王をこの先に進ませる訳にはいかない。

 しかしここで、最も引っかかる疑問をロードナイトモンは呈する。

 

 「――何故、知っているのだ」

 

 「アクセスポイントの事かしら?」

 

 「無論」

 

 「そのような事、貴方様がお知りになってどうなさるの。貴方様だからこそ教えて差し上げるべきなのかも知れないけれど」

 

 「――どういう意味だ?」

 

 「貴方だからこそ」――様々な波紋を広げるその言葉。しかしロードナイトモンの問い掛けを無視し、リリスモンは相変わらず顔に笑みを貼り付けたまま言った。

 

 「……いいえ、これから死んでゆく御仁には、やはり知る必要のない事ではなくって?」

 

 「……成る程」

 

 この妖女――リリスモンは、自分に一切の事情を教える気は無いが、勝利する気は満々らしい。

 

 「ならば、問答無用というわけか」

 

 静かにロードナイトモンの闘気が爆発し、薔薇色の鎧からしゅるしゅると四本の帯刃が伸びる。

 今度は守る為の帯刃ではない――切り刻むための帯刃だ。



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黎明は闇に散る薔薇と共に…… 2

 「“スパイラルマスカレード”!」

 

 ロードナイトモンが宙高く跳躍し、しなやかな体躯を踊るように旋回させながら猛進する。

 薄紅色の闘気(オーラ)が華々しく宙で爆ぜ、吹き散らされた薔薇の花弁の如く視界を埋める。

 色欲の魔王を切り裂かんと乱舞する黄金色の帯刃とそれが相まって、幻想的な美景が演出された。

 

 しかし、流石に七大魔王、それに目を奪われる事は決してない。そればかりか、まるで自分の方が美しいと言わんばかりの鷹揚な態度だ。

 

 「あら、何て美しい事。噂に名高い『薔薇の騎士王』様、やはりお目にかかれて光栄ですわ」

 

 余裕に満ちた表情でそう言い放って見せると、迫り来る薔薇と黄金の嵐を、悠然と迎え撃つ。

 

 「けれども、貴方様が暗愚でいらっしゃることは残念でなりませぬ。まさか、先程起こった事をお忘れでしょうか?」

 

 リリスモンは、ドルモンを護った帯刃を消滅させた事をほのめかす。

 それを言い終えると同時に、艶めかしく彩られた唇から、ふっと呪われし吐息を放たれる。

 散逸する薔薇、乱舞する帯刃の全てが闇に呑まれる。

 美景が漆黒の霧然としたものに包まれ、じわじわと浸食されるように消失してゆく。

 

 しかし、当の薔薇の騎士の姿は、既にその場になかった。

 

 暗黒の吐息の霧を躱し、リリスモンの右の懐に滑り込むように彼は現れる。そして、右腕に備え付けた大振りの盾を思わせる武器――パイルバンカーの下部を標的の脇腹に狙い定める。

 その距離は限りなくゼロに近い。

 これならば、ロードナイトモンの必殺の一撃を――音速を超えた衝撃波を外す事なく放てる。

 

 「“アージェント――」

 

 矢先。

 ガキンという硬い音がして、衝撃波の射出口が塞がれた。

 リリスモンの禍々しい黄金の右手が、握り潰さん勢いで射出口に爪を食い込ませていた。

 事実、パイルバンカーに少し亀裂が入っている――いや、それだけではない。

 亀裂が入った部分から――更には、爪が触れただけの部分から、淡黄色が錆茶色に醜く変貌を遂げていっているのだ。

 ロードナイトモンは息を飲んだ。

 

 「わたくしの“ナザルネイル”は触れるもの全てを腐食させる魔爪。ご存じだったかしら」

 

 艶然と笑みを浮かべるリリスモンの顔が、ロードナイトモンの方に向けられた。

 決して知らなかった訳ではない。ただ、正直ロードナイトモンはこの七大魔王の反応速度を見くびっていたのだ。

 薔薇輝石の騎士はありったけの力をその細腕に込めて魔爪からパイルバンカーを引き離すと、遥か後方の安全地帯まで後ろ向きに跳躍した。

 背後の地平をちらりと見やると、黒霧の遥か先にドルモンの姿は霞んでしまっているようだった。

 

 「だいぶ焦っていらっしゃるようね、ロードナイトモン様。貴方様は本来、大勢の部下を統率して敵を殲滅させる事を得意なはず。つまり、自ら敵を一瞬で殲滅しうる派手な技はお持ちでないわ。……どうかしら?」

 

 リリスモンは相変わらずの笑みを秀麗な顔に貼り付けたまま、本音の吐露を誘い出すように訊く。

 勿論それにロードナイトモンが答える筈もないし、答えてもらおうというつもりもリリスモンにはない。ただ単に、彼の様子が引きつるのを見て楽しんでいるのだ。

 攻撃するでもなく、黒霧の中光を発する美しい騎士を見やりながら、妖艶な魔王は続ける。

 

 「そんな貴方様の事、部下のいくらかでも伴って此処を通行すべきだけれども、それは目立つからとお避けになったのではなくて? 例えわたくしの様な存在に出遭う事は想定なさっていたとしても、あまり目に付かないのを優先なさりますわよね?」

 

 「……よく喋るな、色欲の魔王」

 

 

 冷ややかな声を絞り出すロードナイトモン。リリスモンは何が言いたいのか、彼にはついぞ分かりかねた。

 しかし、彼女の言う通りでもある。

 然れども、そんな事情はどうだっていい。

 

 流石と言うべきか。七大魔王、油断も隙もない。どう倒せばよいのか――ロードナイトモンにとってはそれが一番の問題だ。

 先程の様な戦局を繰り返すのはさながら千日手の愚行に他ならない。ならばどうする……?

 

 ロードナイトモンは高速で電脳核(デジコア)の思考機構を稼働させる。

 その結果、出た答えは一つしかなかった。

 しかしそれを実行すれば、もうドルモンと再び逢える事など永遠になくなってしまう――同時にその答えが出た。

 束の間よぎるドルモンとの日々。それが、季節を過ぎた花のように儚くしおれ散っていく様がふっと見えた気がした。

 然れどそれもほんの一瞬。ドルモンにそう言ったように、覚悟を決めた。

 

 ロードナイトモンの足が強く地を蹴り、弾丸の如く飛び出す。

 その向かう先は――黄金の爪を構え、獲物を串刺しにせんと待ち受けるリリスモンの正面だ。

 

 「わたくしには決して勝てないと分かって、自殺にでも及んでいらっしゃるのかしら?」

 

 リリスモンはまるで意味が分からない様子で、ロードナイトモンの突撃してくる方向へ自ら飛び出して迎え撃つ。

 

 「いいでしょう、喰らいなさいな、この暗黒の魔爪――“ナザルネイル”を!」

 

 瞬刻、リリスモンの猛然と繰り出した金色の五爪が、ロードナイトモンの前方を守っていたパイルバンカーの右を擦り抜けて--薔薇輝石色の鎧の胸を貫いた。

 

 「ぐあっ……」

 

 堪らず呻き声を漏らしたロードナイトモンの鎧の貫通され、ひび割れた部分から華やかな色が抜け、次いで濁った赤銅色に変わり--粒子へと変じてゆく。

 しかし彼は微塵も動揺してなどいなかった。ロードナイトモンは苦しみも厭わず、まるで自ら突き刺さって行くように更に体を前に出した。

 

 「愚かな方ね。もう少し先刻のような攻防を続けようと思えば、時間は引き延ばせましたのに」

 

 悠然と高笑いするリリスモンに、だが、ロードナイトモンは泰然として返した。

 

 「もう時間稼ぎの必要はない。それに――愚かなのはどちらかな。私は確かに派手な技を持たないが、眼の前の敵をどうにかすることは出来る」

 

 これこそがロードナイトモンの狙いであった。 

 リリスモンとの距離を、限りなくゼロに近づける事が。

 そして、リリスモンの防御手段を奪い去る事が。

 右腕のパイルバンカーが、リリスモンの腹部に突き付けられていた。

 それに気付いて声を上げた色欲の魔王だったが、最早遅すぎた。

 

 「“アージェントフィアー”!!!」

 

 ゼロ距離から放たれる衝撃波は音速を遥かに超え、リリスモンの腹部を打ち抜き――そして暗黒地帯を劈いた。

 色欲の魔王は自失したように己の消し飛んだ空洞を見やり――金属音のような声で絶叫した。

 

 ***

 

 一頻り声を上げた後、リリスモンはようやく右手を薔薇色の鎧から勢いよく引き抜いた。

 串刺しで半ば宙ぶらりん状態になっていた彼は、どさりと地に崩れ落ちた。

 

 「……肉を切らせて骨を断つ、賛辞を呈しましょう」

 

 艶麗な顔に幾つも皺を作り、息を切らしながらも、リリスモンが口を開く。

 腹部に空いた大穴から、少しずつ崩壊を起こしているのがはっきり見える。データの微粒子が漏れ出す光のように流出しては消える。放って置いては、いずれリリスモン自身が完全に消滅するだろう事は明白だ。

 

 「このままではわたくしはデータの残滓でしかなくなる。退却するしかありませんわね……。しかし」

 

 ロードナイトモンの胸に空いた、自分のそれよりも小さい穴を右手の黄金の爪で差して苦しげに笑う。

 

 「貴方様はどのみち生きられませぬ……。何故なら、電脳核(デジコア)にわたくしの爪が達したから……」

 

 電脳核――デジタルワールドに生きる者達の脳であり、心臓部分だ。これにその者を構成するために必要な全てが記され、また、存在の中核となっている。これが壊れてしまえば――もうその者はその者で居られなくなる。ただのデータの屑と化してしまう。

 

 ロードナイトモンの胸の抉られた痕のような亀裂から錆色は広がり、見る見るうちに0と1で綴られた彼のDNAが虚空に流れ出していく。薔薇色の騎士は跪いた姿勢のまま動く事も叶わず、ただ自分という存在が薄れなくなってしまうのを待っているかのように思われた。

 

 しかし、先程崩れ落ちたのにもかかわらず未だその姿は典麗で、決して姿勢を崩してはいなかった。美しいままだ。

 確かに彼は跪いている。けれども、それは眼前の魔王に対してではない。

 己の正義に対して、そして従うべき大いなる節理に対して。 

 

 「そんな事は……分かりきっている。だが……貴様をこの先へ進ませない……その役目は果たした」

 

 どうしても掠れてしまう声をロードナイトモンは絞り出す。それこそが自分の責務であるといわんばかりに。

 

 「今回は引きましょう……然れど、貴方様の命を賭けた努力は結局は無為だったと示される時が来るのよ」

 

 リリスモンはロードナイトモンの言葉を認めざるを得なかったが、捨て台詞のように禍言を吐いた。

 

 左腕で消し飛んだ部分を庇いながら、すぐさま高貴の色をした衣の袖をふっと翻すと、彼女の姿は闇に同化したようにその場から無くなってしまった。

 

 ロードナイトモンに悲愴の色はなかった。自分は大勢の者を守るという大仰に見える事をやってのけた訳ではない――だが、「未来」を守り通すという何人にも出来ない事をやり遂げたのだと。彼は本懐を遂げたのだ。

 リリスモンが何故自分を追って来れたのか、どうして追ってきたのかという疑問が消えた訳ではないし、寧ろ今自分が最期の時にあるというのに深まってしまっている。

 しかし、己の務めが終わった今、それを払拭する事、そしてデジタルワールドを救うのは――ドルモンの役目になった。

 そう、自分の努力が無駄になる事など……

 

 ……決して有り得ない。ドルモンが居る限り。

 

 最後の言葉は、だが、その姿と共に、既に周囲の黒霧に溶けるように、永遠に消えてしまっていた。大輪の薔薇が散逸する様にも似て。 

 

 ***

 

 ドルモンは走った。ひたすらに走った。

 大好きなロードナイトモンと別れなければならない時がやってきた事を噛みしめながら。段々と鮮明になってきた朧気だった光の柱が、急にぼんやりと揺らめきだした。気が付いたら、両目に涙があふれていた。

 

 ふと、ずっと後ろの方から、何か怖い叫び声のようなものが響いてきた。きっとそれはあのデジモンの声だ。自分の知っているロードナイトモンは、こんな声を出したりしない。

 少し嬉しくなった。溢れ出す涙が少しおさまる。

 

 (ロードナイトモンがあのひとをやっつけたんだ~。いつかまたドルモンはロードナイトモンにあえるんだ~)

 

 細い希望の糸が繋がってくれた気がした。これから自分が行くのはどんな所か見当も付かず、不安だらけだが、その糸を辿っていけばまた一番好きで一番安心できる、自分だけの場所に戻ってこられる気がした。

 

 ふと、暗黒を一片の花びらが舞ってきた。

 薄紅に染まった雪片にも似た――。

 訳もなく惹かれて、ドルモンはその方へ頭を突き出した。

 しかしそれはドルモンの鼻の頭にふわりと載ると、溶け出すように消えてしまった。

 色は決して派手ではないけれど、華やかさがあって、暗闇の中しっかりと存在感を見せている。自分を導いてくれるような。

 まるで――

 

 遠くで電脳核(デジコア)の脈動が、止まっていくのがドルモンに伝わってきた。

 

 ドルモンは全てを分かってしまった。

 淡い期待は、垣間見えた優しい色のように無くなってしまった。再び涙が溢れ出す。

 

 「えぐっ、えぐっ」

 

 今、自分は本当に独りぼっちになってしまったのだ。戻る道なんかなくなってしまったのだ。

 いや、最初からそんなもの幻で、ロードナイトモンが自分を連れて此処に来た時から道なんかとうに断たれていたのだろう。

 そう思った途端、大海の真っ直中にぽつりと取り残され、今にも溺れ死ぬのを待っているような気持ちになった。

 

 「ドルモン、どうしたらいいの~……?」

 

 ドルモンは涙をぼろぼろと零しながら、立ち止まって後ろを振り返った。向こう側なんて見えるはずもない。黒い煤を思わせる霧の膜が目の前を覆い尽くしているのだから。まさに、今の自分の状況を表しているようではないか。

 

 遙かなる常春の空中庭園、咲き乱れる花々、その中に構えられた荘厳な宮殿。甲冑の騎士達、彼らを治める薔薇輝石の騎士。平和で幸せな、いつまでも続くのだと思われた日々。鮮やかな記憶の映像が波濤のようにドルモンに押し寄せ、苦しさで息が詰まりそうになる。

 もう戻れないのだ。黒霧の向こう側に消えてしまって、もう戻れないのだ。

 

 ――行け、絶対に振り返るな。

 

 その時、最後に聞いたロードナイトモンの声が、思い出の中の声よりもはっきりと――彼がそう今の瞬間ドルモンに訴えかけているかのように聞こえた。

 

 そうだった。自分には、後ろを見ている暇なんかなかった。立ち止まってこんな風に戸惑っている暇もなかった。ロードナイトモンが作ってくれた時間が――無駄になってしまう。自分のために命を捨てて作ってくれた時間が。

 

 ドルモンは再び走り出した。ひたすらに走った。

 

 やがて闇を切り裂き現れる巨大な光の柱。燦めく氷晶のエレベーターが黄昏の色に染められたような崇高さすら漂わせるそれは、天も地も突き抜けるようにそこにある。

 

 頭は溢れんばかりの悲しみと不安で満ちている。どうしたら良いのかよく分からずに混乱している。けれども、ためらいや戸惑いは消えた。代わりに覚悟は決まっている。

 眼前に待ち構える、天から降り注ぐ大瀑布のようでもあり、そびえる果てしない塔のようでもある光の柱へと――異なる世界への路へと、ドルモンは思い切り飛び込んで行った。

 

 重力を失った感覚に襲われる。ふわふわしていて、何だか落ち着かない、それでいて身を任せたくなるような心地よい感覚。

 視界が穏やかな、山吹色の薄光に包まれる。何故かそれは眠りを誘うようで、体のありとあらゆる部分から力が奪い去られてゆく。

 

 ドルモンはゆっくりとまぶたを閉じた。この電脳世界に別れを告げるように。そして、新たな世界でまた生まれるように目覚めるまでしばし眠るように。

 

 ――ドルモン、行ってくるからね~。リアルワールドに~。

 

 心の中の言葉は、ロードナイトモンに向けられたもののようでもあり、デジタルワールドの全てに向けられたもののようでもあった。

 

 



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……斜陽は闇を宿す非理性と共に

プロローグその2です。
ひたすら戦闘! という感じなので、つまらないかも知れません。


 獣性剥き出しの咆哮が、焦土の大気をびりびりと震わせる。

 強烈な雌黄に輝く両眼に、理性の色は見られない。

 鋼鉄然とした足が地を踏みつける度地は割れ、その断末魔が響き渡る。

 

 闊歩する蹂躙者は、身の丈7、8メートルはあろうかと思われる巨躯を誇る二足で屹立する竜だ。紺青を基調とした装甲で身を覆うためか、機械的だ。左手は五本指だが、右手にはその代わりに突き出た鋭利な槍先がぎらりと燦めく。

 

 ――コードネーム「BAN-TYO」を始末せよ。

 

 電脳核に木霊し――聴覚を支配するのは、その強迫観念めいた命令、ただそれのみ。

 誰が命令か? 何のため命令か? それは絶対なのか? 全てはとうに忘却の彼方だ。

 それとも、これは自分の悲憤の叫びに他ならないのか?

 撃墜された唯一のタンクドラモンという汚名を自分に着せた、憎い相手を殺したいという強い渇望からなのだろうか――?

 

 いや、もはやそんな事にすら疑問を感じない。例え理性があったとしても、それは思考する方へではなく、己の凶行を助長する方に働くのみだから。

 

 「ウィルス種の波動を感じる。つまり――この俺、サイバードラモンの除去対象という訳か」

 

 突如眼前に出現した竜人の存在を両眼に映し取り、巨竜は足を止める。

 背はせいぜいあって2メートル程度で、巨竜より遥かに小さい。全身の体表を黒いラバーで覆い、背からは所々ぼろぼろになった深紅の鋭い翼を生やす。

 

 「完全体か、はたまた……いずれにせよ、デジタルワールドにとって脅威となる存在は――消し去るのみだ」

 

 竜人――サイバードラモンは、青い装甲に身を包む巨竜を見上げ、口の端を吊り上げる。両腕を掲げる。

 

 「データの屑と化すがいい!“イレイズクロー”!!!」

 

 不可視の超振動波が空間の揺らぎとなっては放たれ、かすりでもしたもの全てを消し去らんと巨竜に襲いかかる。

 しかし、装甲竜は背から四枚の白いバーニアエンジンの翼を噴射すると、上空に飛び上がり消滅の波動を完璧に避けた。

 

 「ほう、躱すか。面白い!」

 

 再び両腕からイレイズクローを放とうとサイバードラモンは構える。しかし、第二撃が繰り出される事は永久になかった。

 

 ――行く手を遮る者は、排除する。

 

 次の瞬間、空中から地上へ突進してきた巨竜の右手の槍が、サイバードラモンを串刺しにしていた。

 驚愕で、竜人の表情が硬直する。

 

 「ばかな……俺の特殊ラバー装甲は、如何なる攻撃も防ぐはずなのに……」

 

 その言葉も虚しく、巨竜が右手を胴体から引き抜くと、サイバードラモンの姿はたちまちデータの粉体と化して消え去ってしまった。

 

 巨竜は今しがた塵芥のように抹殺した竜人の事は何も無かったように、ただただその双眸は遥か地平の彼方を望んでいる。

 

 ――コードネーム「BAN-TYO」を、始末せよ。

 

 相変わらず彼を支配するのはかの言葉だ。それを実行するために前進する、邪魔する因子が出現すればそれを駆除する、そのアルゴリズムが全てだ。

 

 青き装甲竜は忘れもしない。自分の身体を無残に切り裂いた銀の刀身、それを携える獅子の顔持つ獣人の風体。何であれ、その図像に一致するものを視界の果てに求め続けるのだ。究極的破壊の対象として――。

 

 破壊音を立てて地を揺らしながら、巨竜は斜陽が照らす陸の果てへとそうとは知らず向かっていた。その先は終わりを見晴るかせない広大にして深淵な海――「ネットの海」の領域だ。水面が橙の光をきらきらと反射する様が遠方からでも眩しい。

 

 巨竜は渚の様になった場所に足を踏み出すと、何の躊躇もなく――アルゴリズムがそうさせているのだろうが――水に入っていった。凄まじい飛沫が吹き上がり、派手に散っていく。

 

 浅い海床の砂を踏みつけながら、尚も巨竜は前進する。水に浸かった脚の部分を視界に認め、辺りを遊泳していた小魚の類が蜘蛛の子を散らしたようにその場を去る。

 

 ――しかし、巨竜に嬉々として向かってくるものがあった。

 

 水深の浅い部分に生息する何匹もの海竜――シードラモンがその長躯を空中に踊らせる。頭部は黄色の、胴体は浅黄色の鱗に覆われる。いわゆる手足は無く、水蛇に等しい。

 

 彼らの目には一様に興奮の色が見える。獲物を発見して喜んでいるのだ。

 

 間髪入れず、シードラモン達の口が大きく開かれ、凍気が吐き出される。一瞬にして大気の水分が凝結し、巨大な氷柱と化す。

 

 「“アイスアロー”!!!」

 

 一斉に槍を投擲する勢いで巨竜の胴体に矢が飛来する。その矢勢、鋼鉄をも貫かんばかりだ。

 しかし、巨竜は大して意にも介さなかった。軽く左腕を捩るように振り回すと、飛んできた氷矢は小気味よい音を立てて砕け散ってしまった。

 

 シードラモン達の顔に驚愕の表情が現れ、次いで恐怖の色が現れた。

 

 ただ一体、業を煮やして正面から巨竜の装甲を貫かんと空中を真っ直ぐに突撃してくるものがあった――

 ――が、それも言うに及ばず愚かな事に過ぎない。

 

 巨竜の右腕が神速で突き出され、シードラモンの開きかけた口から尾を一瞬で引き裂く。声すら上げる事も許されず、哀れな水竜は真っ二つになった体をさらけ出したまま虚空に消滅していった。

 同族の酸鼻を極める姿を目に焼き付けるといよいよシードラモン達は恐れを成して、海中に潜りそのまま姿を消していった。

 

 ***

 

 巨竜はシードラモン達を追う事はなく、ネットの海の深みへと歩みを進めてゆく。その方向に求める標的があるかどうかも分からぬままに。

 

 やがて全身が水に浸かる程深い水域に差しかかる。

 電脳海の水面の下は透明で、岩礁の存在、赤珊瑚に似たものの群が形作るテーブル、ゆらゆらと水流に身を任せる海藻がはっきり見える。巨竜が居るせいか、全く他の存在は見当たらないものの、穏やかな印象を受ける。

 しかし――

 

 突如、押し寄せてきた凄絶な波濤によって平穏は破られた。

 それは巨竜の体躯をも遥かに超える高さで、水の壁のように迫り来る。

 巨竜は背の翼を噴出させて天に逃げようとしたが、波を越えるには高さが足りなかった。あっという間に到達したそれに飲み込まれ、轟音と共に仰向けに海中に沈んでゆく。

 

 それだけでは終わらなかった。何かが水流を起こしながら怒濤の勢いで巨竜の背の下を通ったと思えば、それが巨竜を乗せて高々と持ち上がり、より水深のある領域へと彼を投げ出したのだ。

 

 激しい水飛沫を上げながら巨竜が海中に沈んだ時、彼が目にしたのは――

 

 黄金の光沢を持つ金属に身を固めた、巨大な水竜――それも、シードラモンとは比べものにならぬ程の、全長は百メートルを優に超すであろうと思われる、そのうねる体躯だった。

 

 「先程、シードラモン達が慌てて逃げて来るのを見たのでな。彼らが恐れを成すとはただ事ではない」

 

 体勢を整え、水上へなんとか跳び上がった巨竜のすぐ目の前に、水竜の顔がぬっと現れる。金属で覆われ陽光を照り返す眩しい頭部は、その大きさだけで巨竜の全長を凌駕する。

 

 「この近辺にシードラモンを害しうるだけの力を持つ者は、メガシードラモンや――この私、メタルシードラモンのみ。しかし我らが同族を害するなどあり得ぬ事。時に貴様――見ない姿だが、何処の者だ?」

 

 巨竜を、赤く知性的な光を湛えた両眼が射るような眼差しを向ける。声は低く、敵意に満ち溢れている。

 例の命令が果てしなく耳の中で鳴り続けていたが、メタルシードラモンの誰何ははっきりと彼に聞こえた。

 しかし、それはその質問に答え得るという意味ではない。

 目の前に立ちはだかる強大な敵、メタルシードラモン。巨竜の認識は、やはり相も変わらず――。

 

 言葉を発さずにいる巨竜に対して、鋼鉄の水竜はあくまで冷徹な態度で言い放つ。

 

 「――そうか、答えぬか。まあいい。いずれにせよ、我らの領海に無断で侵入し、あまつさえ危害まで加えんとしている輩を放逐する訳にはいかん。このメタルシードラモンが、討伐してくれる!」

 

 メタルシードラモンの鼻先の大きく開いた砲身に見る見るうちにエネルギーが充填されていく。

 

 「“アルティメットストリーム”!!!」

 

 視界の一切が閃光の炸裂に包まれる。

 小太陽の爆発もかくやというエネルギー弾は、巨竜の全身をその激流の中に飲み込んで尚、勢いを失う事なく空を水平に貫く。

 

 しかしそれでは巨竜を完全に葬り去る事は叶わなかったようだ。

 

 「ほう、我が必殺技を受けて消滅しないとは!」

 

 感心した様子のメタルシードラモンの眼前で、目映い光の流れから不意に装甲を纏った青い巨躯が飛び出し、宙に舞い上がる。

 その鎧は半分ほど損傷し、生身の体が剥き出しになっているが、どうやら深刻な損害ではないらしい。

 

 ――行く手を遮る者は、排除する。

 

 右手の必殺の槍を構えると、そのまま重力に任せて水竜の鼻面へと突進する。

 その加速度も相まって、槍は凄まじい力で金属を破壊せんとする。

 

 だがしかし。

 激しく金属の打ち鳴る音が響いたのみで、かすり傷すら付ける事は出来なかった。

 無表情のまま、凍り付いたような巨竜の顔を見やって、メタルシードラモンは低く笑った。

 

 「素晴らしい硬度だな。しかし、私のクロンデジゾイド合金製の体表には劣る」

 

 クロンデジゾイド合金――クロンデジゾイドメタルと、生物体の融合であり、最高級の硬度と、滑らかさという両者の長所を併せ持つ存在だ。それを破壊しうる術は皆無に等しいだろう。

 ならば、と巨竜は素早く槍を引き、その勢いで更に上空へと跳ぶと、今度は口をかっと大きく開く。

 その喉の奥に渦巻くのは、光無き暗黒の波動だ。

 

 天地鳴動。

 大音声の哮りと共に巨大な闇が吐き出される。

 空間が歪み押し潰され、夕映えの輝きが一瞬にして無明に飲まれる。

 メタルシードラモンは瞬時に海中深くへと潜っていったが、闇の波動は海の底をも抉り出した。

 金色の合金製の体表にばきばきとひびが入り、破片が剥がれ――更には、肉体を穿った。

 

 やがて波動がおさまった時、明らかになるのは至る所に穴が空き、酷い様相を呈しているメタルシードラモンの巨躯だ。

 

 「よもやクロンデジゾイド合金を剥がし取り、尚且つ我が肉体を抉るとは――」

 

 水面に顔を出した彼は殆ど苦痛に耐え忍びながら、それでもなお不敵に言い放つ。

 

 「だが、私をそれで倒したつもりにはなるなよ」

 

 再びメタルシードラモンは猛スピードで水面下深く潜り、全身を塔のように巨竜に向かって突き上げる。

 巨竜は素早く身を躱そうとしたが、到底猛進するメタルシードラモンの速さには及ばなかった。

 

 間欠泉のように吹き上がった水を全身に浴びながらがばりと開いたメタルシードラモンの顎が迫る。そのまま鋭い歯列が全身を噛み千切らん勢いで巨竜を捕らえた。

 メタルシードラモンの体が急降下し、海の深くに再度猛突撃する。其処で彼の口が乱暴に開かれ、巨竜を放り出す。

 そして--音速で猛進してきたメタルシードラモンが、ほぼ無力な状態の巨竜を真正面から突き飛ばす。

 空中より、俄然速い。

 その余りの勢いにかろうじて残り身を覆っていた装甲が破砕し、0と1となって失せる。

 巨竜は咆哮せんとするが、無論水中では声が出ない。ごぼごぼという苦しげな音となって水泡を起こしたに過ぎない。

 

 そこに爆砕するは高エネルギー弾。とどめの一撃として、無情にもメタルシードラモンが放ったアルティメットストリームの激流を巨竜は今度こそ逃げる術もなく浴び続けた。

 

 「なかなか強かったが――このメタルシードラモンと相まみえたのが運の尽きだったな」

 

 鋼鉄の水竜の声が聞こえたような気がしたが、こんな間際にあっても相変わらず己の聴覚を支配するのは――

 

 ――コードネーム「BAN-TYO」を、始末せよ。

 

 巨竜の電脳核に虚しく響き続ける声。それも、段々と薄れてゆく。

 何処まで沈んでいくのか分からない。意識が遠のいてゆく。体からはデータの列が流出し続け、自分の姿を保っていられなくなる。

 

 既に死んだものとして意識を向けていなかったメタルシードラモンは知りようもないが、やがて、体の殆どを失って小さい姿になってしまった竜の姿が、確かに海底の蒼へと消えていった。 



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Matrix-1
二世界の交錯地点 1


久々の更新です&本編入ります。


 ――誰も座らないまま、永い時を待っている椅子がある。余りにも大きすぎて、誰も腰掛けられない程の椅子が。

 しかしそれは誰かの為に用意された椅子だ。何時の日かその者が座す事を待ち続ける…… 

 

 ドルモンはゆっくりと目を開けた。どれ位眠っていたのかは分からない。一瞬のような気もするし、永遠のように長かったような気もする。脳裏を過ぎったのは、ロードナイトモンが何時も口にしていた言葉だ。どういう意味なのかは良く分からない。だけれども、何時も自分に向けて言っていた。

 

 うずくまっていた状態の体をむくりと起こし辺りを見回すと、あの光の柱はないし、果てない黒き大地もない。ドルモンは自分が異様な空間にいると気付いた。

 

 地面は一様に白い。何か白いものが、もともとあった地面の上に積み上がっているようだ。三角屋根または平たい屋根の、そこまで高さはない建物が道を隔ててこちら側とあちら側にきちんと並んでおり、その入り口と思しき場所の周辺はきれいに白いものが避けられていて、別の場所に積み上がっている。

 

 至る所に建っている灰色の柱の下部には、黒と黄色の虎模様の板が巻き付けてある。上の方を見ると、細い線やら太い線やらが巡らされているのが分かった。ついでに空の色を眺めやると、それは鉛色だった。初めて見る色だ。

 

 何もかも、見た事のない異質な空間。

 そう、ここが。

 

 (リアルワールドってこんなところなんだ~……)

 

 正確には、これはリアルワールドの一部の地域だけに限った光景なのだが、まあ仕方ない認識だ。ドルモンの世界とは今まで、一日中澄み渡る青い空の元、種々の花々の咲き乱れる大庭園とその中央にそびえ立つ天を衝くような美しく荘厳な城――そして、あの恐ろしい暗黒地帯――それだけだったのだから。

 

 ドルモンの、辿り着くまでに感じていた不安や恐怖よりも、好奇心と期待が勝り、胸が躍る。

 早速、自分の横にうずたかく積み上がっている白い山に大口を開けてかぶりつく。

 ふわふわと柔らかくて軽い感触。しかし。

 

 「つめたい~!!!」

 

 ドルモンはのたうち回った。あまりの冷たさに頭がきーんとする。口の中では大量の白いもの――もとい雪が体温で即座に溶け、水となって溜まっている。ドルモンは冷水をぺっぺっと吐き出すと、激しく後悔した。

 

 (なんでもくちにいれちゃだめってロードナイトモンにいわれていたのに~、やっちゃった~)

 

 ドルモンは興味を覚えたものを何でも口に入れるかかじるかする習性があるのだ。ずっと昔、そのせいでロードナイトモンをこっぴどく怒らせ、かなり躾けられたのだが、どうしても本能というものの根本は矯正できないらしい。

 

 再びうずくまりながらちらっと向こうに目をやると、道路の向こう側から三人ほど、楽しそうにおしゃべりをしながらこちらに歩いてくるのが見えた。

 小学生だろうか、あまり背の高くない小柄な少年達だ。うち二人は厚ぼったいスキーウェアの様なものを着ているが、もう一人は何故か半袖短パンという季節感のなさ過ぎる格好をしている。

 

 ドルモンはまだきんきんと冷える口を渋っ面で閉じて、さっと雪山の中に飛び込んだ。まだ積もったばかりなのだろう、固さはなく、ドルモンがその中にすぐ隠れるには十分だった。それに、寒さは体毛がどうにかしてくれるので大丈夫だ。

 

 (これが~……にんげん~?)

 

 目だけ出してドルモンは近づいて来る三人組をまじまじと物珍しそうに見る。

 二本の腕を持っていて、二本の脚でまっすぐに立って歩いている。それが大抵の人間の特徴だそうだ。

 彼らがリアルワールドの主要な住民であること、デジタルワールドを作ったのも人間の中の一人であること、デジタルワールドにいる全ての者は、リアルワールドに存在するものをモデルとして作られていること。

 そして、「テイマー」は、人間しかなれないこと。

 などなど、ロードナイトモンに教えられた事を思い出す。

 

 とすると、ロードナイトモンもこの人間をモデルにして出来たんだろうか? それにしてもちんちくりんだ。

 

 (でも~ロードナイトモンずっとせがたかくてきれいだった~。こんなんじゃない~)

 

 少年達はまだ幼い子供なのだからそんな事は当たり前なのだが、これも仕方ない。

 

 と。

 半袖短パンの少年と、ドルモンの視線が交錯してしまった。

 じーっと見つめ合う悪戯っぽい黒い瞳と無邪気なトパーズ色の瞳。その間、約三秒。

 

 「あれ何だ?」

 

 半袖短パンの少年は立ち止まり、雪山の隙間からのぞく奇妙な二つの目を指差し他二人に話しかける。

 スキーウェアの少年達はそれにつられて立ち止まり、訝しげに指の差す方向を見る。

 しかしそこには白く積もった雪山があるだけだ。

 

 「何だよお前変なやつだな、ただの雪山じゃん」

 

 「冬にそんな格好して歩いてるから、頭おかしくなって変なもん見えたんじゃねえの?」

 

 「ち、違えよ! ホントに今、あそこの雪山から何か見てたんだって!」

 

 半袖短パンは仲間の冷たい態度に声を張り上げて必死で訴える。

 当のドルモンはといえば、雪山にしっかり潜ったのでもう姿を見られる心配はない。

 

 しかし、それは浅慮というものだった。

 

 「じゃあ、あそこ掘ってみればよくね?」

 

 「あ、それ名案」

 

 少年達は意外にも頭の回転が速かった。三人の子供達はドルモンの潜伏している雪山に近付くと、各々容赦なく雪をかき出し始めたのだ。

 

 (やめて~! ドルモンしんじゃう~!)

 

 がつがつと雪をかくその勢いの凄まじさに、ドルモンは殺されると勘違いした。体がすくんで動けない。ロードナイトモン、せっかく守ってくれたのにごめんね。ポロリと涙が零れる。

 でも、どうせ死ぬなら――ひとまずは――死んだふりをしておこう。ドルモンは目をぎゅっと閉じた。

 

 やがて、少年達の努力によって雪山の殆どが崩壊し現れた、目をぎゅっとつむって丸まっている生物--紫の毛並み、犬のようだが所々違う容貌、狐のそれのような尻尾、ぴんと張った耳、背中に生えた短く黒い羽。

 三人は目をぱちくりと見合わせた。

 

 「ほら、いただろ」

 

 「てゆうかこれ……犬?」

 

 「違うだろ。羽生えてるし、色あれだし」

 

 「まさか、モンスター……?」

 

 その言葉に、恐怖と好奇心が入り交じった表情でお互いに顔を見合わせる少年達。

 モンスターというのは確かに正解かも知れない。

 

 「どうする? このまんまにする? 連れて帰る?」

 

 「えーそれはヤバイ。母さんに怒られる」

 

 「オレも」

 

 「じゃあ、とりあえず写メ撮る。クラスのみんなに送ろーぜ」

 

 スキーウェアを着た少年の一人がポケットから携帯を取りだし、ちょうどドルモンの全貌が分かるようにパシャリと写真に収めた。

 その謎の機械音に、ドルモンは思わずびくっとする。

 

 (ドルモンいまなにされたの~? こわい~)

 

 「あ、すげえ。いい具合に撮れてんじゃん」

 

 「あとでおれにもくれよ!」

 

 「これクラスにばらまいたら、大ニュースだぜ!」

 

 携帯を持つ少年と、その画面を熱心に覗き込みはしゃぐ二人の少年。とりあえず死は免れたが、ドルモンは何かとんでもないことが起こっているのだと恐怖した。体がすくんでいようがなんだろうが逃げなければまずい。

 

 ドルモンは死んだふりを直ちにやめ、雪煙を起こしながら、脱兎の如く全速力で走り出した。 

 

 「あっ、逃げた!」

 

 「捕まえろ~!」

 

 雪をもろに被りながら、少年達はたった今写真に収めた不思議な生物の後を追う。

 しかし、少年達が走り始めた頃には、もうドルモンの姿は道路の遥か向こうの点だった。到底追いつけるものではないと三人は即行で諦めた。

 

 「えええあいつ速くね!?」

 

 「絶対モンスターだからだよ!」

 

 ドルモンをそこらの犬や猫と一緒にしてはいけない。その通り、彼はモンスターなのだ。ドルモンが全力で走れば、サラブレッドの三分の二は速い。

 しかし、体力は別問題だ。

 

 「ドルモン~……もうだめ~……」

 

 リアルワールドに来る前にも言ったような事を息を切らして呟きながら、電柱の前でぐったりしたドルモンの姿があった。

 

 ***

 

 「ありがとうございました」

 

 龍輝は頭を下げて挨拶をすると、花屋から薔薇の大きな花束を抱えて出た。

 

 薄紅色、淡黄色、深紅、薄紫と言った色とりどりの艶やかな大輪の薔薇が十本束になって純白のラッピングでまとめてあり、持ち手にはピンクのリボンが綺麗に結んである。鼻を少し近づけると、ラッピング越しに何とも言えない甘い香りがして、龍輝はくらっとなった。

 

 ややくせっ毛のある黒髪で少し背の高い、年齢の割には――彼は17歳である――何処か子供っぽい印象を与える少年に薔薇の花束などというのは何だか似合わない。

 とはいえ、龍輝は別に自分の趣味でこれを買ったわけではない。病気で入院中の母親のためである。彼女は花全般、特に薔薇を愛しているのだ。

 親思いの龍輝は貯金してあったお小遣い三千円分を全てはたいて、高級なフラワーギフトを購入したのだった。

 

 今日高校は終業式の関係上午前中に終わってくれた。空は鉛色だがまだ明るい。今から母の入院する市立病院に立ち寄って、この花束を置いていくつもりだ。

 花屋から市立病院まで最短でいくには、住宅街にある自宅の前を一度通らなければならない。龍輝はその狭い小路を目指して、道を右なりに歩いて行く。

 

 それにしても寒い。制服の上からファー付きのレザージャケットを着込み、目の細かい編み手袋をはめているのにもかかわらず、冷気がそれを素通りして体に入ってくる。零下10度はあるのではないだろうか。ぶるりと身震いしながら、足を無理矢理速く動かす。でないと凍り付いてしまいそうだ。

 

 すると。

 龍輝は目をしばたたき、ついで眉根を寄せた。

 ちょうど病院までの道にある、うずたかく積み上がった雪山に挟まれた電柱の真ん前に、紫色の動物「らしき」ものが寝ているのだ。

 

 (何だあれ?)

 

 ごくごく当たり前の疑問を抱きながら、それにそーっと近付いて行く。

 

 ためつすがめつ不思議な生物を観察する。大きさは大型犬ぐらい、顔は犬っぽいが何か違う、短い上向きの耳、白いお腹、尻尾の先、足の付け根、額に付いた逆三角形の赤い何か。目は閉じているが、開けたらどんな感じだろう。

 犬や猫などの普通の動物ではない。しかし――なかなか可愛い。

 

 龍輝は興味を覚え、身をかがめてつんつんと人差し指でそれの顔を二度三度つついた。そんな事をしても逆襲されない、大丈夫だという根拠のない確信があった。

 不思議な生物は突然の刺激にびくんと身を震わせる。

 

 (……起きてるんだろうか?)

 

 龍輝はその反応を面白がって、もう一度つんつんとつついた。

 紫の動物がゆっくり目を開いた。目全体の大きさは犬や猫のそれよりもう少しあり、愛らしい。瞳は澄んだトパーズ色だ。かなり疲れているようで、目尻が下がっている。

 

 「ん~~~」

 

 まどろんでいる人間が寝言を言うときの反応のように、謎の動物は唸り声を上げた。その声質までが若干人間のそれに似ていたので、龍輝はびっくりしたが、不思議と気味は悪くなかった。

 

 (母さんの所に行くのはもう少し後でいいよな)

 

 龍輝はすっかりこの動物を観察、もといいじるのに夢中になってしまった。

 

 そっと体を撫でてみると、体毛は上質な絹のように滑らかで柔らかく、触り心地が大変良いと分かった。また、尻尾を優しくむんずと掴んでみると、これまた弾力があって素晴らしい。ぐったりと地面に寝た手にあしらわれた肉球のぷにぷにと可愛らしい柔らかさもなかなかだ。

 

 しかし、それら全てより一際目を引く、額で自己主張をする逆三角形の赤い宝石――それだけには、どうしても手を触れることが出来なかった。触るな――そんな警告が、このカボションカットのつるりとした宝玉体から発せられているような気がしてならない。

 

 はっと気が付くと、大きな黄色の瞳が疲れた様子ながら、こちらをじっと見つめていた。

 その目線は正確には--龍輝の右腕に抱えられている巨大な花束に穴が空きそうな程向けられている。色とりどりの艶やかな花の群れをひたと見据えているのだ。

 

 (花?)

 

 この動物は花に何か興味があるのだろうか。龍輝は首を傾げるも、すぐさま腕に抱えていた花束を両手で持ち替え、動物の方へ近づけてみた。

 突如、その不思議な動物はさっきまでの疲れようが嘘のように起き上がったと思うと、花束に鼻の頭をぐっと押しつけた。

 

 (な……なんだ!?)

 

 龍輝がどぎまぎしていると、謎の動物は鼻をふんふんと鳴らし、薔薇の香りを胸一杯に吸い込んだ。その表情はとろんとしており、本当に幸せそうだ。本当に先程の疲れ果てた様子は何処へやら。見たことがないのでよく分からないが、エステでアロママッサージを受けている女性はこんな感じだろうと想像した。

 

 (余程薔薇の匂いが好きなのか? 珍しい動物だなー)

 

 と龍輝が思っていると。

 

 「ロードナイトモンのニオイする~」

 

 「……え?」

 

 不思議な動物が喋った。

 龍輝は一瞬言葉を失って固まった。



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二世界の交錯地点 2

主人公サイドはほとんどグダグダです。
自サイトではなかったロイヤルナイツサイドの視点を、後半部分に新たに書き足しました。


 動物が――いや、動物かどうかも実は謎だ――が喋った。何か謎な単語を聞こえたが、ひとまずはどうでもいい。動物が喋った!

 

 人間以外のものが言葉を話すなんて――インコなどは例外として――あり得るのだろうか? 

 一瞬これは学校が休みに入るという浮かれた心持ちが見せている幻想なのではないかという思いが頭を過ぎったが、ぴゅーと凍気を孕んだ風に吹きすさばれ、現実に戻った。そう、これは現実なのだ――。

 

 しかし寒風のお陰で冷静になってみると、これは明らかに自然界に存在する、例えば犬や猫の様な動物ではない。そういうものが喋ったとしたらびっくり仰天だが、この不思議な生物はその通り不思議なのだ、喋るくらいするのはもしかすると普通かも知れない。

 さてしかし、どう反応したものかと彼が思案していると。

 

 「えぐっ、えぐっ」

 

 「?」

 

 不思議な動物が涙ぐみ始めた。一体どうしたというのか。

 最初は疲れた様子、ついで幸せそうな様子、そしてこれ。全くめまぐるしく態度が変わるな、と思いつつも、龍輝は花束を地面に置き、その生物の頭をそっと撫でてやった。

 べそをかく子供をあやすお母さんのような感じで――優しい言葉を掛けてやる。普通の動物なら、こうはいかないだろう。

 

 「どうしたんだ? 悲しい事でもあったのか?」

 

 ぼろぼろと大粒の涙を白い雪の上に落としながら、不思議な生物は答える。涙には感激のそれが混じっているに違いなかった。

 

 「やさしいね~……えぐっ」

 

 不思議な生物――もといドルモンは先程自分を殺そうとした人間三人組を思い出しながら、自分の頭上を優しく撫でる手袋の感覚に、ほろりとなった。実際には殺そうとしたのではなく、単に雪山を崩してドルモンを携帯で写真撮影しただけなのだが、この際それはどうでもいいだろう。

 

 「ドルモンのだいすきなロードナイトモンが~……しんじゃったこと~……おもいだして~……えぐっ、ぐすっ」

 

 「ロードナイトモン?」

 

 若干素っ頓狂な声を上げて単語を繰り返した龍輝であったが、すぐに彼は冷静になった。国語を得意教科とする彼にすれば、謎の単語が立て続けに二つ登場するのはセンター試験の常なのだ。

 

 まず、ドルモンとは彼、この不思議な生物の一人称であり、すなわち彼の名前である。また、ロードナイトモンとはドルモンの愛していた故人である。それが詳しく誰であるのか、また何故死んだのかは当然分からなかったが、情報は十分だ。

 これと合わせて、さっきこの生物が薔薇の香りを嗅いで言った台詞「ロードナイトモンの匂いがする」だったか――について考えてみる。ロードナイトモンとやらはおそらくいつも薔薇の香りを漂わせていたとかそんな感じで、この花束から発せられる香りが彼――或いは彼女――を連想させたに違いない。

 ところで、語尾のモンとは何だろうか。

 

 これは深い、ついで面白い事情があるような気がする。これは話を聞かねばなるまい。

 しかし龍輝は自分の顔が冷たくなり過ぎて寧ろ熱くなっている事にふっと気が付いた。頬が真っ赤になり、じんじんと痛い。

 

 

 「ドルモン、だよな? ここは寒いから、別な場所に行かないか?」

 

 「うん~。ドルモンさむい~」

 

 ドルモンは涙を零しながらぶるぶると震えてみせた。ドルモンの毛は防寒作用が高いのだが、泣いたせいなのか、体温が下がっていた。

 それに、ドルモン自身、どの道行く当てはないのだ。ここは自分を害さない優しい人間に付いていくしかない。

 

 「じゃあ、ちょっと付いて来い」

 

 龍輝はそう言うと花束を持ち上げて再び右腕に抱え、自宅方面へ歩いて行く。紫色の動物ものろのろとそれに付いていく。

 

 ***

 

 龍輝は母子家庭である。

 

 父とは幼い頃に死別した。兄弟姉妹もおらず、今は母が入院中なので、家にいる人間は自分一人である。

 ここ最近は自分が料理を作るなど自活能力がないために、コンビニ弁当やインスタント食品に頼る日々が続いている状態だ。掃除だって、自分の部屋を片付けるのがせいぜいだ。

 

 母が倒れてから、彼女がどれだけ大きな役割を果たしてくれていたか身に染みて分かった。退院まであと二週間ほどと聞かされているが、果たしてこんな生活ぶりでその期間やっていけるのだろうか、と龍輝は心配だ。

 

 彼とドルモンは二階に上がり、龍輝の部屋に入る。廊下は外気ほどではないにしても寒いが、部屋に入ると暖房が付けてあるのか、一気にもわんと暖気に包まれて心地良くなる。

 

 「ここ、おへや~?」

 

 「そう、俺の部屋」

 

 ドルモンは泣き止んでいたが、少し潤み気味のトパーズ色の両目できょろきょろと内部を見回す。

 あまり大きくはない一段ベッド、灰色のカーテン、白い景色を映す窓、きちんと片付いた勉強机、本が所狭しと並べられた棚。壁には何も貼っていない。

 まあ普通の部屋であるが、ドルモンにとっては新鮮だった。

 

 (ロードナイトモンのおしろとぜんぜんちがう~)

 

 ドルモンの知っている唯一の建造物がそれであるからだ。

 リアルワールドでいうところの、ノイシュヴァンシュタイン城の様に壮麗な造りの白亜の城。列柱に支えられた天井、通路に敷かれた赤絨毯、ずらりと控えた騎士(ナイトモン)達……共通点がない。

 

 龍輝は背負ったリュックサックと花束を床に下ろし、さてどうしようとしばし考えた。

 ドルモンを此処に置いておいて、色々後で話を聞かせてもらったり、あわよくばペットとして密かに飼ったりする訳だが、今何もしてやらずに放っておき、外出するのは悪い印象を与えるだろう。

 

 (そうだ……ああいうの、食べるんだろうか?)

 

 龍輝は思いついたように、机の横に下がっているビニール袋から買いだめして置いたスナック菓子の袋を開け、中身をたっぷり大きな皿にのせドルモンに差し出す。

 

 「こういうの好きか?」

 

 目の前に山の様に積まれた見たことのない食べ物たち。

 焦げ茶色のブロック――チョコレート、薄っぺらくて少し歪曲した、きつね色の小片――ポテトチップス、捻れの付いた短く真っ直ぐな薄黄色の棒――えびせん、細長い、上半分に茶色いものが塗られている棒――ポッキー。

 

 「なにこれ~」

 

 ドルモンは興味津々でそれらを見つめ、やはりふんふんと鼻を鳴らして匂いを嗅いでいる。

 薔薇の香りとはまた違った、糖分の醸し出す甘い匂いと、微かな塩分の匂いが鼻孔をくすぐる。

 

 「食べてみな」

 

 龍輝が言うと、合図のようにぱくりとまずは茶色のブロックを一つ口に含む。意外にずっしりと重い。

 それはすぐにとろりと溶け、甘さがじわりと口中に広がった。何とも言えない素晴らしい味。デジタルワールドにこんなものはないと思う。

 

 「おいしいか?」

 

 龍輝がそう聞くと、ドルモンはきらきらと両眼を輝かせて言う。

 

 「うん~。おいしい~! ぜんぶたべていいの~?」

 

 それを聞いて龍輝は思わず口元をほころばせた。

 

 「いいよ。俺ちょっと出掛ける所あるから、帰ってくるまでそれまでそれ食べたりそこのベッドで寝たりしてな。あまり走り回ったりするなよ」

 

 龍輝は自分のベッドを指差しながらそう言った。口調は完全に子供に言い聞かせるときのそれだった。

 彼は薔薇をまたよいしょと抱えると、扉を開け出て行こうとする。そこを。

 

 「まって~」

 

 えびせんをぼりぼりと食べながらドルモンが呼んだ。

 

 「何だ?」

 

 「おなまえ~、なんていうの~?」

 

 とても無邪気で可愛らしいが、何処か真剣な表情のドルモン。

 名前は普通少なからずこれらかも関係を続けたい者にしか聞かないだろう。

 

 「俺は龍輝っていうんだ。よろしくな」

 

 「リュウキ~? モンはつかないの~?」

 

 「モン……? ドルモンとかのモンか?」

 

 「うん~」

 

 頷いてみせるドルモン。ロードナイトモンとやらの語尾にもついているし、きっとドルモンの世界では、名前の語尾に「モン」が付くのが普通なのだろう。

 

 「付かないよ。モンなんて付いてる奴、見た事ないな」

 

 「そうなの~? ふしぎだね~」

 

 「そうか? とにかく、行ってくる」

 

 「いってらっしゃい~、リュウキ~」

 

 ドルモンに手を振り、扉の外に消える龍輝。

 明らかに二人は、たったさっき出会ったばかりの他人ではなかった。

 

 ***

 

 切り立った崖に、騎士は立っている。

 断崖にぶつかり、散る白波の声を静かに聞きながら。

 

 大柄な体躯に白を基調とした荘厳な鎧と紅蓮のマントを纏った騎士で、大振りな円形の盾と、西洋槍を携える。

 盾は清冽な金で縁取られており、中央には赤い三角形とそれを取り囲む小さな三角形があしらわれている。不可思議な図柄だ。

 

 騎士はぼんやりと遠方を眺めていた。暗雲が煤煙の如く立ち籠める、禍々しい一帯、それを脆い氷柱のように地から天へと貫く発光群が見える。

 あの下には魔族と幽鬼が跋扈し、大罪を背負いし魔王までが住まう、デジタルワールドの冥府「ダークエリア」がある。黒霧は、その瘴気によって生み出されているという噂すら流れている。馬鹿げていると彼は思わない。ダークエリア内にある用件で立ち入った事のある彼は、かの場所で実際にその汚染された大気の如き瘴気を浴びた経験があるのだ。

 

 黙って見ている所で何もなりはしないし、自分に出来る事は何一つ無いと頭の中では分かっているが、こうしていないとどうも心がざわめくのを抑えられない。

 デジタルワールドの行く末が、彼らに委ねられたも同然とあれば。

 

 (ロードナイトモンは、ドルモンは、無事であろうか――)

 

 騎士が溜息を吐くような仕草を取った時。

 

 「我が朋友よ――デュークモンよ。なにゆえそのような場所に突っ立っているのだ」

 

 突如背後から呼びかけられ、思わずびくりとなる。

 

 その毅然とした声質、親しげな物言い――かの者は敵ではない。しかし、随分と迂闊だったなと騎士はひっそりと反省した。

 例えぼうっとしたい時であっても、守護騎士たる者、電脳核(デジコア)波動センサーを切らない事、警戒を怠らない事が求められるだろうから。

 

 やれやれ、心配に取り憑かれてしまい我ながら情けないと思いつつ、騎士がマントをひらりと靡かせ振り向く。

 目映い黄金の鎧を纏った、二足歩行の青き竜の姿がそこにあった。

 

 「マグナモン、貴殿こそこのような場所をわざわざ訪うとは、中々酔狂ではないか」

 

 「何、潮風に当たりたかっただけだ」

 

 そう言うと、黄金の竜戦士、マグナモンはデュークモンの隣へと歩み寄った。デュークモンはほんの少し訝しげな顔をしたが、何も言わなかった。

 ネットの海の潮気を孕んだそよ風が吹き抜け、二人の体を優しく撫でた。

 海原は果てしなく、彼方の景色は薄れ行くようだ。デジタルワールドの大陸や島嶼はおしなべてこの母なるネットの海に抱かれるように浮かぶ。この断崖から世界を俯瞰すると、それが手に取るように分かる。

 二人は暫く、無言で遠方を眺めやっていた。しかし、目に入るのはどうしても同じ風景――暗黒地帯である。

 それに飽きてしまったかのように、やがてマグナモンが口を開く。

 

 「デュークモン、俺が此処に来たのは、実は潮風に当たるためだけではなくてな」

 

 壮麗な騎士の態度は、ごく泰然としていた。

 

 「やはり、そんな所だろうと思っていた」

 

 「そうか」

 

 マグナモンは隣に立つ盟友をちらりと見やると、再び地平線の彼方に見える黒霧立ち籠める地に目を向けた。そして覚悟を決めるように肩を一旦落とすと、またデュークモンに向き合って告げた。何処か弱々しい、低い声で。

 

 「ロードナイトモンが……デリートされた」

 

 デュークモンは澄んだ黄玉色の両眼を見開き、朋友の瞳を見た。マグナモンは辛そうに目をふっと逸らしたが、その綺羅綺羅しい石榴石の瞳には、哀しみとも遺憾とも取れぬ感情が渦巻いているのが見えた。

 

 「……何と」

 

 「……イグドラシルのロイヤルナイツ管理サーバからかの者の反応が消えたと、ドゥフトモンから伝達があったのだ」

 

 デュークモンは視線を落とし固まった。小刻みに瞳を震わせながら。

 あまりの事に暫く言葉が出てこなかった。

 心をウィルスの様に蝕んでいくのは、ひとえに「何故、何故、何故」その思いだけ。

 

 「何故……我々の計画は、完全に内密なものの筈ではなかったのか。何故、ロードナイトモンが……何者がそのような真似をしたのか!?」

 

 朋友の半ば涙声になった問い掛けに、マグナモンはゆっくりと頭を振った。デュークモンと思うことは全く一緒だ。故に、答えを持たない。

 

 「俺にも分からぬ。しかし、一つ言える事は、ロードナイトモンを消し去れる存在など、デジタルワールド広しといえどもそうは居ない――」

 

 ロードナイトモン――薔薇輝石の華麗なる騎士王を、刈り取れるのは同じロイヤルナイツの盟友達か、蒼穹におわす三大天使か大罪を背負いし七大魔王か、デジタルワールドの神位格たる四聖獣か――そんな存在だけだ。

 ロイヤルナイツが同志に仇をなすなど考えも及ばない。ならば、他の存在がロードナイトモンを? それは偶然か? それとも意図的に? 我々の計画が漏洩していたとでも?

 

 息を付かせぬ様に湧き上がってくる疑念の数々に、デュークモンは文字通り呼吸が苦しくなる思いだった。大盾でがつんとごつごつ角張った岩肌の地面を叩くと、やっと心を落ち着かせる。

 流れていた暫しの沈黙の後、デュークモンはようやく口を開けた。

 

 「あのデジモンは……我々ロイヤルナイツの希望は?」

 

 「ソレハ忌々シクモりあるわーるどニブジテンソウサレタ……ろーどないともんトイウ大キ過ギル犠牲ヲ払ッテナ!」

 

 「!?」

 

 おぞましい、暗黒淵の底から響いてくるような声が代わりに答えた。

 



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守護聖騎士と異形の魔王

一週間以上空いてしまいましたが、第6話投稿です。


 「何者だ!」

 

 黄金鎧の竜の鋭い一喝を合図に、ロイヤルナイツ二者は悲哀を即座にぬぐい去り、非情なる守護騎士と化す。

 マグナモンは両手を構え、デュークモンは尖鋭な円錐状の西洋槍を上に突き出し迎撃の態勢を取る。

 

 声の主の姿は全く確認出来ない。しかし、両者の電脳核(デジコア)波動感知センサーは、かの者がかつてない程強大な力を保持している事を各々に告げている。

 敵の属性は中立種の「データ」。推量するに、下手をすれば自分達ロイヤルナイツにも匹敵するかそれ以上の存在だろう。最大限の警戒線を張り巡らし、ロイヤルナイツは見えざる敵がどう出るかひとまず窺う。

 

 「クカカカカ……」

 

 おぞましい嗤い声が響き渡った。

 突如、二人の前方の虚空で黒雲が発生する。先程まで二人が眺めやっていた暗黒地帯の霧――あれが塊と化したような。

 間違いなく、これが強烈な電脳核(デジコア)の波動を発信している。

 一旦標的が視覚に訴える存在となったならば、話は簡単。目に見えるものを始末すればいい。しかし、ロイヤルナイツ二人は決して早まらない。敵が何の目的で来たのか、どういう情報を持っているのか、それを出来うる限り引き出すまでは相手をデリートしに掛からないのが、組織構成員の鉄則だ。

 

 「クカカ……ワタシヲ攻撃シナイデオイテクレルトハ、随分ト紳士ダナ、ろいやるないつ共。後悔スルコトニナルゾ……?」

 

 それを知ってか知らずか、黒雲はそう余裕に満ちた言葉を発する。

 黒雲は膨れあがりながらもくもくと変形し始めた――脚に、胴体に、腕に、翼に、そして頭部に。やがて一つの完成体を成す。

 ロイヤルナイツ二者は息を呑んだ。

 面妖な怪物だ--何に例えるべきかおよそ見当も付かない。ただ、そのあまりに特異な特徴を挙げるならば、ぎょろぎょろと光る巨大な黄色の目玉が頭部に一つという事だ。

 

 その姿にデュークモンは見覚えがあった。暗黒淵深くに蠢く魔性――その一体。彼をダークエリアへと立ち入らせてくれたとある者に説明を受けた事があるのだ。

 

 「デスモン……堕天せし魔王か……!」

 

 「クカカカ……如何ニモ。貴様トハ何処カデ遭ッタコトガアッタカナ」

 

 ダークエリアでな、とデュークモンは心中で答える。

 この異形の魔王は、元は高位天使の座にあった。それが、天に反逆せし行動を取って、闇に堕とされたのだ。しかし魔王でありながら悪行に手を染めず、あくまで中立の立場を取り続ける――「来たるべき時」に、その身を漆黒に変え、破壊神と化すまでは。

 そして、眼前に浮かぶこの魔王の(からだ)は――灰白色。

 

 「まさか貴様が……ロードナイトモンを手にかけたというのではあるまいな!?」

 

 だからドルモンが無事にリアルワールドに渡れた事なんぞ知っているのだな――マグナモンの激昂にも似た問い掛けに、単眼の堕天使はかろうじて聞き取れる程低い声で笑った。デスモンの笑い声は、乾ききった枯れ木がばきばきと折れるような音に酷似している。

 

 「ワタシデハナイ。『ワタシ以外ノ魔王』トダケ言ッテオコウ。実際ニコノ目デ見タ訳デハナイガナ……クカカカカ」

 

 「他の魔王だと……!?」

 

 マグナモンが咄嗟にデュークモンの顔を覗き込んだ。甲冑の騎士も目を合わせ、静かに首肯する。今や二者の思いは同じだ。

 間違いない。魔王連中ぐるみでロードナイトモンを抹殺し、ドルモンをも消去する計略を立てていたのだ――そう確信する。

 しかし、ドルモンが無事にリアルワールドへ転送されたという知らせで安心する余裕などない。どうやって自分達ロイヤルナイツの計画が実行される事を突き止めた? 新たな疑問が浮き彫りになる。それを聞いたところで、デスモンが素直に解答をくれるとも思えない。

 

 しかしどうしてもはっきりさせねばならないのは、デスモンが未だその身を漆黒に染めてはいない事についてだ。デュークモンは訊く。

 

 「デスモンよ、貴様は仮にもまだ中立の立場を保持しているはず……我らロイヤルナイツに敵対するも、他の魔王共に肩入れするも、あり得ぬとばかり思っていたが」

 

 「ソウダ、ワタシハ未ダ中立。シカシ、命令ナラバ本意ニアラズトモ実行スルノガだーくえりあノるーる……ククク」

 

 衝撃的な答えだった。デスモンが自分の意思で此処に来ているのではなく、何者かの命を受けているに過ぎない。命令ならば自分の立場をねじ曲げる事も厭わないのだ。そして、デスモンを上回る力を持っているであろう魔の者といえば、数える程しか存在しない。

 

 「誰の差し金だ」

 

 「ククク……貴様ラナラバ見当ガ付イテイルノデハナイカ」

 

 答えになっていない答えに、マグナモンは舌打ちをした。向こうに教える気は更々ないらしい。

 異形の魔王は地の底から響くような声で再び嗤い、守護騎士達の反応を嘲る様に楽しんでいる風だった。

 

 「ククク……ソンナ事ハ置イテオイテナ。ワタシガサル事ヲ知リ得タノハナ、『ぷれでじのーむ』ニ接続シタアル者カラ、カノでじもんガ生キテイルト聞イタカラダ」

 

 「……何と言ったか?」

 

 信じられず、問い直すデュークモンを嘲るようにデスモンが答えた。

 

 「クカカカカ……『ぷれでじのーむ』ト貴様ラガ呼ブモノニ接続シタアル者ガ、間接的ニアノでじもんガ生キテイルノヲ突キ止メタト言ッテイルノダ」

 

 デュークモンは雷に打たれたようになった。マグナモンも然り。しかし、受けた衝撃の度合いはデュークモンの方が遥かに大きかった。

 

 「プレデジノームに接続……それが出来るのは、このデュークモン以外には何者も居ないはず!」

 

 「クカカ、ソレハ貴様以外ノ『コノ次元ニ存在スル者』ガ、トイウ限リデハナ」

 

 「如何なる意味か!?」

 

 「マア、分カラヌノモ無理ハナイ。貴様ニハ記憶ガナイヨウダカラナ」

 

 「……?」

 

 まるで意味が分からない。この次元に存在する者? 自分に記憶がないから、その意味を理解できない? この異形の堕天使が何を言っているのか、デュークモンにはさっぱり理解できない。

 情報処理機構を錯綜させてしまった彼に、マグナモンが力強い声で言い聞かせる。

 

 「デュークモン、奴の言う事に惑わされるな。プレデジノームへのアクセス権を持つのは、お前以外にいる筈がない! それ故にお前はロイヤルナイツに所属しているのではないか!」

 

 真紅の外套なびかす騎士の双眸の淀みを消すには、十分過ぎる言葉だった。デュークモンは、あらゆる者に言い聞かすかの様に大音声(だいおんじょう)を張り上げた。

 

 「そう、このデュークモン以外にいる筈がない……こ奴ののたまうのは、戯言に過ぎぬ!」

 

 「ククク……マア良イ。冥土ノ土産トシテ心ニ留メテオクトイイ……クカカカカ」

 

 その台詞にデュークモンもマグナモンもきっと眉根を寄せる。この魔王がわざわざ現れた目的がたった今はっきりした。

 

 「でゅーくもん……貴様ガ生キテイルト後々面倒ナコトニナリカネナイ。ぷれでじのーむニ接続デキル貴様ガイレバナ」

 

 「それが魔王共の都合という事か」

 

 デュークモンが皮肉めいた語調で呟くのをさらりと無視し、デスモンはその不気味な単眼をマグナモンの方に向けた。

 

 「シカシ、折角ろいやるないつガ二体モイルノダ……マズハ、ソノ目障リナあーまー体風情ヲ片付ケテクレルトシヨウ」

 

 「何だと!?」

 

 マグナモンが烈火の如く逆上し、両眼を吊り上げた。

 彼はロイヤルナイツで唯一、「デジメンタル」と呼ばれる特殊な物体の作用によって力を得た「アーマー体」と呼ばれるデジモンだ。彼らの力はおしなべて、あって成熟期程度である。しかし、マグナモンは一線を画する力を持ち、だからこそデジタルワールドの守護騎士の一員となれた。だから、「所詮アーマー体」と十把一絡げに侮られるのが最も許しがたいのだ。

 

 「デュークモンに手を掛けさせるまでもない! この俺が貴様を葬り去ってやる!」

 

 「マグナモン……!」

 

 「デュークモンよ。お前が聖槍グラムを振り上げるにも及ばないぞ。奴は俺で十分だ!」

 

 心配そうに声を漏らすデュークモンにマグナモンは向き直り、ひたと彼を見据えた。その紅い瞳の輝きには、憤怒以外の強い心が確かに宿っていた。

 デュークモンはずっと構えていた槍をすっと降ろす。

 

 「……分かり申した」

 

 デュークモンはひとまずは静観すると決めた。ただでさえプライドの高い朋友がその傷ついたプライドを修復しようとしているのだ、他者が手を出したら彼の矜持は余計に傷つく。例え、これが相手の煽りで思うつぼに嵌まった状況だとしても、だ。

 それに、デュークモンはマグナモンが如何に強いか分かっている。信じ切った上での決断である。無論、彼がデリートの危険に晒された時は、一も二もなく、自分が出る所存ではあるが。

 

 「クカカカカ……貴様ニコノワタシガ倒セルカナ、あーまー体」

 

 デスモンが三本の黒爪を生やした両手を広げて見せると、その中央に頭部の単眼と同じくぎょろりと光る目玉が埋まっているのが明らかになる。

 

 「塵モ残サズ消エルガイイ!“デスアロー”!」

 

 デスモンの両掌の目がかっと光り、矢の如き光線がマグナモン向けてまさに矢継ぎ早に発射される。

 マグナモンは死の矢の雨を俊敏な動きで躱してゆく。的を外れた光線の矢は上空で打ち上げ花火のように爆ぜ、消滅する。

 しかし矢が黄金の鎧の肩を――そして腰をかすった時、その部分が砕かれ瞬く間に二進数の塵と化した。

 ロイヤルナイツ両者とも、唖然とする。

 

 「馬鹿な……堅固を誇る鎧が!?」

 

 「俺の……クロンデジゾイド製の鎧を破壊するだと!?」

 

 マグナモンには信じられなかった。最高強度を誇るクロンデジゾイド綱で拵えられた鎧は、生半可な攻撃ではかすり傷すら付けられない。デュークモンの纏う鎧も高純度のクロンデジゾイドで造形されているが、ロイヤルナイツの守りの要と渾名されるマグナモンのそれには硬度で及ばない。

 それが、かすっただけで部分的にとはいえ粉塵に帰されるとは。

 

 「ククク……ワタシノ死ヲ司ル矢ニ物ノ堅サハ問題トナラナイ。触レタ物全テヲ消シ去ルノミヨ。死ニタクナケレバ、セイゼイ逃ゲ回ッテ見セルコトダナ。あーまー体」

 

 「いい加減その呼び方はやめろ!」

 

 両掌からデスアローを乱射させつつ見下した態度を取る余裕のデスモンに、マグナモンは青筋を立てる。

 

 それにしても、相手方の攻勢が衰える様子がまるでない。こう躱し続けた所で、埒があかないのは明白だ。

 デスアローそれ自体を無効化する手立てを講じなければなるまい――

 デュークモンが固唾を呑んで閃光飛び交う空中の死地を見守る。

 

 尚もデスモンの掌から放たれる矢の雨に当たらぬよう、敏捷な動作で身を翻しながら、マグナモンは技を繰り出す隙を窺う。

 そしてその須臾を、マグナモンの紅い双眸は逃さなかった。自分の周囲を飛び交う死の矢が、全て一定以上の距離自分から離れる時を。

 

 「聖なる耀きよ、邪なる力より我を守りたまえ!」

 

 マグナモンが大喝し、力を解き放つと、全身から燦爛たる金光が放たれる。

 

 「“ライトオーラバリア”!」

 

 球状の燦然と輝く遮断膜が一瞬のうちに形成され、降り注ぐ死の矢の光線を全て水を弾くように消滅させる。

 バリアの内側に入り込んでしまったものは性質上消去出来ない。マグナモンは、全てのデスアローを締め出した形でバリアを繰り出せる時を狙っていたのだ。

 異形の魔王は単眼を思い切り歪め、矢の発射を中断して両手を握りしめた。

 

 「小癪ナ……我ガ“デスアロー”ガ通用セヌトハナ」

 

 デスモン自体の属性は「データ」だ。しかし、その技は破壊の「ウィルス」。聖なるワクチンの力により駆逐させる事が出来る。その原理によりマグナモンは我が身を守った。

 ロイヤルナイツで随一とも言える障壁形成能力。魔王相手であろうが、十二分に通用した瞬間だ。

 流石はマグナモン――と、デュークモンは無言で賞賛を送る。

 

 「今度はこちらの番だ――」

 

 マグナモンが光輝のバリアを解き、両手を水平に広げると、掌中に球形プラズマが生成された。

 雷霆を一所に収縮させたかの如きに目映い輝きを放つ。

 

 「“プラズマシュート”!」

 

 放り投げられたそれはデスモン目がけて一直線に飛び、真珠色の閃光が炸裂した。

 咄嗟に上空に飛び退ったデスモンだったが、完全には避けきれず、右半身の翼が焼失――いや、蒸発した。

 浮遊のバランスを崩した異形の魔王が、ぐらりと右側に傾く。禍々しい様相の翼は、飾り物ではないようだ。

 

 「よし、左翼ももぎ取ってしまえば、奴は地を這う虫も同然……」

 

 デュークモンがそう口にしたのも束の間。

 デスモンの背から黒霧が噴出し、もくもくと翼の形を取り――見る見るうちに、元通りに実体化した。

 目を見開くロイヤルナイツ二者。

 再生能力を持っているなど――デリートされてしまった薔薇輝石の朋友にも同様の力があった事を思い起こし、理由なき怒りに胸中を乱される。

 

 「クカカカカ……ソノ程度デワタシガ倒セルト思ッタカ。あーまー体。“デスアロー”ヲ防イダノハ褒メテヤルガナ……ククク」

 

 平衡状態を取り戻した魔王は、何事もなかったかのように宙に浮き、相変わらずのおぞましい嗤い声を上げた。

 




マグナモンのプラズマシュートは、アニメの全身からミサイルという設定ではなく、公式の設定を取りました。
デスモンの喋り方は完全に平仮名片仮名逆転で行こうと思ったのですが、技名を平仮名にするとまぬけな感じがすると思ったので、それはそのままにしておきました。

何かございましたらよろしくお願いします。


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守護聖騎士と異形の魔王 2

引き続きバトルです。


 再生プログラムは、恐るべき代物だ。

 幾度破壊され粒子に変ぜようとも、周囲に浮遊する0と1の断片を拾い上げ、再びその煌びやかな姿を取り戻す、ロードナイトモンの鎧より伸びる黄金の帯刃もその一つだった。

 デジモンは微々たるデータの破損ならば、数列間の欠損を0と1の自動挿入により自然回復させる。しかし余りにも破損データ量が多すぎると、電脳核(デジコア)は欠損部分に元々どういう数列が存在していたか推測できず、修復できない。

 このデジモン最大の欠点を補強できるのがかのプログラムで、理論上は電脳核(デジコア)を破壊されない限りはどれだけ負傷しようと絶対にデリートされない。だがその代わり作成するのは至難の業で、デジモンに組み込むのもまた至難の業。自負にかけてそんなもの要らぬ、というロイヤルナイツ勢で唯一ロードナイトモンは作成に成功したものの、電脳核(デジコア)に再生プログラムを組み入れることが出来なかったので、帯刃しか再生させられなかった。

 

 眼前のデジモン――デスモンに、とてもプログラムを作る能力があるようには見えない。ならば自ずと、この魔王にプログラムを組み込んだのは、唯ならぬ力を持ち合わせる存在――恐らく七大魔王の一角――という結論に至る。

 さて、その再生プログラムは翼だけに適用されたものか、はたまたは。しかしいずれにせよ。

 

 「電脳核(デジコア)を直接破壊せぬ限り切りが無かろうな――」

 

 デュークモンの言葉にマグナモンは歯噛みし、然りと頷いた。策を求め冷然としているつもりかも知れないが、明らかに紅眼に焦燥の色が透けて見えている。

 

 「ああ、こうなれば、下手な鉄砲も何とか――だ」

 

 相手方がデスアローを乱発したのと同じ風にやってやる。やけを起こしたような台詞を呟いたマグナモンに対し、デュークモンは一瞬眉を顰めたが、口出しはしなかった。一度静観を決め込んだ身。マグナモンがデリートの危機に陥るまでは、手出しもしないという事で姿勢を一貫させる。

 

 「焦熱に、電脳核(デジコア)の跡も残さず蒸発し果てるがいい!」

 

 マグナモンの両掌に目映く爆ぜる球形プラズマが生み出される。  

 

 「“プラズマシュート”!」

 

 宙で泰然と静止する異形の魔王向けて、それを立て続けに投擲する。デスモンは今度は下方に退いて避けたが、そう甘いものではなかった。

 第三撃、第四撃、更には第五撃--いや、数えるのも煩わしい程の球形プラズマが、一瞬の間も置かず流星群の如く襲いかかってきたのだ。

 

 デスモンの巨大な単眼の捉える世界が、烈しい耀きに満たされる。視覚センサーが焼き切れる程に――構成する数列が四分五裂し、消滅する程に。デュークモンも遠目でも目が眩みそうになり、双眸を素早く伏せる。

 だがしかし。

 デスモンの眼は尚も薄ら寒くなるほどにぎょろりと開かれていた。いや――疾うにこの世界を、見てはいなかった。

 

 「クカカカカ……愚カナ」

 

 嘲笑う地の底より響くような声だけが、ロイヤルナイツ二者の存在する次元に残される。

 閃光の炸裂する中、デスモンは姿を消していたのだ。

 

 「消えた……!?」

 

 プラズマシュートを乱発しながら異変に気付くマグナモン。プラズマ生成を中止し、呆然と立ちすくむ。

 

 「ククク……最初ニ言ッタダロウ。貴様ニコノワタシガ倒セルカノト。あーまー体」

 「!」

 

 忽然と、背後より身の毛もよだつ重低音の声がした。

 黄金の竜戦士は警戒と別の理由で身を固くし、さっと振り返る。

 光線が放たれた。

 一所に収束した濃密な黒霧、そこからただ一本突き出た腕――その開かれた掌底に埋められた単眼より。

 

 「ぐおっ……」

 

 生体感覚センサーを振り切らせる激痛に呻く。マグナモンの纏う黄金鎧の左胸側部が穿たれ、守られていた生体部分まで貫かれた。

 

 「マグナモン!」

 

 デュークモンが思わず声を上げる。手を出すか、出さまいか――その瀬戸際で逡巡し、かちゃかちゃと槍を鳴らす。

 振り返ったはずみで狙いが逸れたものの、仮に反応が遅れていたとしたら胸の中心部を――電脳核(デジコア)をもろに死の矢が鎧諸共貫いていただろう。

 何とか後方へ――崖の外、海側へと飛び退き、浮力生成プログラムを起動して宙に浮かぶ。

 しかし、後ろに逃げようとも同じ事だ。

 再び死の光線が背後より閃き、今度は剥き出しになった右脇腹を突き抜いた。青い竜体を構成していた0と1が虚空に散り、灼けるような激痛が全身を駆け巡る。思わず気が散り、浮力生成プログラムが停止しかけマグナモンは海に墜落しそうになった。

 

 「ぐうっ……」

 

 苦痛に顔を歪めるマグナモン。デリートされるという程の損傷では幸いないが、意識に時折ノイズが入る。それを何とか堪えるようにし、マグナモンはひとまずはと再びライトオーラバリアを展開させる。デスアローの脅威を回避した形だ。

 迂闊だった――とマグナモンは内省する。デスモンと遭遇した時、奴の姿は確認不能だった。あれを別次元から移動最中だったものと考えると、デスモンが瞬間移動能力を有している事は容易に予想が付く。

 一方で、デュークモンは早い段階で気が付いていた。それ故に、マグナモンがプラズマシュートを乱発するという暴挙に出ようとした時嫌な態度をしたのだ。

 しかし、最善の攻略法がマグナモンにないのもまた事実だ。

 最初の時は一所に留まっていたようだから、波動センサーを集中して前方に存在していたのを確認できた。しかし、何度も瞬間移動を繰り返されるのでは、攻撃を命中させる事は闇夜に針を通すも同じ。

 

 「クカカカカ……あーまー体如キガワタシノ相手ニナロウ筈モナイ……ククク」

 

 今度はマグナモンの前方の虚空に黒霧の塊がもやもやと出現し、嘲りの言葉を吐く。泰然として傲岸不遜。何者かの掌上にあろうとも、魔王は魔王か。

 

 「舐めやがって……!」

 

 痛みを耐え、マグナモンは精一杯凄んでみせるが、それも苦しい。

 このままでは防戦一方、自分はいずれ消耗して果てるのがとどのつまり。自分の体面も矜持もあったものではない。

 

 こうなれば、全方位に自分の聖なる力を解放する必殺技を展開するか――いや、それはいくら何でも馬鹿げた試みだと思い直す。

 マグナモンの技の属性は「ワクチン」、デスモン自身の属性は「データ」。ワクチンはウィルスを駆逐しようとも、逆にデータに侵食される三すくみの関係の内にある。聖なる力といえども半端なものは掻き消されるだろう。全方向に技を長時間維持して放つとなれば、自ずとその威力は減退するからほぼ確実にデスモンに無効化されるであろうし、デスモンが異次元に逃げられるとあれば、こちらとて追う術もなし。

 

 せめて何処に出現するのか把握出来るのならば。

 自分一人の力では、あの異形の魔王を倒せそうにない。そればかりか、逆にこちらがやられる。

 

 自分は誇り高き聖騎士ロイヤルナイツの一員。組織に所属する者であり、最終的には己よりそれを優先すべき。情けなさと怒りに心が震えるが、マグナモンは一旦意地を捨てる事にした。

 異形の魔王に背を向けることなく、崖の上で事態を見守るデュークモンの元へ飛び退る。

 

 「ククク……ワタシニ恐レヲ成シテ逃ゲ帰ルカ」

 

 「貴様こそ、俺を始末するのではなかったのか?」

 

 「クカカカカ……モウ少シ貴様ガ踊ル様ヲ見テイタイトイウダケノ話ヨ、あーまー体」

 

 いちいちアーマー体と強調される事に苛立ちを覚えながら、ふん、いつまでそう言っていられるだろうな--という台詞をマグナモンは心に留め置く。

 

 「マグナモン」

 

 いよいよ協力が必要か、と問おうとするデュークモンに、マグナモンは可聴域ぎりぎりのささめき声で言う。

 

 「デュークモン、次元擾乱をマッピング出来るか?」

 

 甲冑の騎士は一瞬でその意味を、朋友の必要としているものを理解する。

 

 「あい分かった。この時間では、簡易版しか造れぬだろうが……良かろう?」

 

 「十分だ」

 

 「良かろう。ならば、このデュークモンの周囲をしばし守ってはくれまいか」

 

 「ああ、言うまでもない!」

 

 切り立った崖の上、デュークモンは静かに目を閉じ、意識を集中させる。傍から見れば祈っている風にも見える。いずれの時空次元を漂うとも分からぬ浮遊プログラム――プレデジノームへの接続を試みようとしているのだ。

 今のデュークモンは全ての意識を一点に集中させた状態、攻守に気を遣る余裕は一片たりとも無し。況してや、デュークモンを覆うはマグナモンのそれより強度の劣るクロンデジゾイド製の鎧。デスアローが飛んできたとしたら容易く破壊される事は明白だ。

 マグナモンは紅蓮のマントの後ろに回り込むと、ライトオーラバリアを応用した輝く遮断膜を二者の周囲に張り巡らせる。

 

 「ナニヲ企ンデイル?」

 

 何処かからかデスモンの低声が響いてくるが、気にする必要はない。ただ、今は時を待てば良いだけだ。その間、マグナモンは脇腹を灼くような痛みを耐え、バリアを維持すればいい。それが中々に困難であるのは言わずもがなだが、ロイヤルナイツたる者、その程度の事で音を上げるのはいよいよ情けない。

 

 暫しの後。デュークモンの回線の束と化した意識が次元の壁を貫き――異なる世界を彷徨う準原始プログラム、プレデジノームへの接続を果たす。

 

 (プレデジノームよ、このデュークモンの意思が伝わっているか――)

 

 デュークモンは思考を糸のように繋がったラインを通じて送る。伝達された電脳核(デジコア)内を駆け巡るインパルスは、解読(デコード)されて理解される。

 累卵の如く連なった「1」の羅列が返ってきた。プレデジノームは、無を示す「0」と有を示す「1」のみで意思を表す。つまり、YesとNoだ。この場合は、Yes。

 

 (仮に今手を付けている作業があるならば、それを直ちに中断し、我が要請に応えよ)

 

 再び1の長い連なり。

 

 (視野を全方位に広げ、次元擾乱を視覚化する変換プログラムを直ちに製作せよ。此方の次元で実体化されるように)

 

 一瞬の逡巡もなく流れ込んでくる1の連なり。

 そして、デュークモンが意識を一点に収束させ続け、尚も超次元のラインを保とうとすると、突如再び1の連なりがそこを通過してきた。

 完成したという事だとデュークモンは悟る。

 彼が目を開けて意識を分散させると、眼前には不可思議な物体が浮遊していた。

 透明な半透膜で覆われた卵のようで、内部に複雑な電子回路と共に0と1の断片が満たされている。

 プレデジノームの産物だ。デュークモンは円錐槍でそれを軽く弾くようにして、マグナモンの方へ飛ばす。

 

 「マグナモン、受け取るがよい! それで一時的に視覚センサーを書き換えよ!」

 

 「ああ!」

 

 マグナモンは優しく掴むように右手で物体を受け取った。

 途端にその外膜が溶け出す様に崩壊し、立体構造を成す0と1が目まぐるしく入れ替わり、新たに進化した視覚機構を生み出す。それが完成したとき、マグナモンの紅い双眸に映る景色は今まで通りでは有り得なかった。

 上方に果てしなく広がる天空、自分の背後にて真紅のマントを靡かせるデュークモンまでもがその方に目を向けずともはっきりと確認出来る。死角がまるで存在していない。正に、自分を中心に全てがマッピングされているも同然。凄まじい機能だ。あらゆるデジモンがこんな視覚を備えていたら、デジタルワールドはどうなっているのだろうか?

 

 これが、魔王共が厄介物とするデュークモンの能力――謎のプログラム・プレデジノームに電脳物体を造らせる事が出来るという力。広大なデジタルワールドの中で、ただ聖騎士デュークモンのみが持ち得る力だ。

 

 「デュークモン、感謝する……!」

 

 「礼など無用、任務遂行の必要経費であろう」

 

 しらっとそう答えるデュークモン。元々一人でデスモンと相対しているのは言ってみれば自分の我が儘に過ぎないのに、そう言ってくれる甲冑の騎士の優しさがマグナモンの身に染みた。

 ロイヤルナイツ二者のそんな様子を単眼をぎょろつかせて眺めるデスモンが、何をちょこまかとやっている、と言いたげに訊く。

 

 「クカカカカ……何ヲぷれでじのーむニ造ラセタ?」

 

 「そのように振る舞って居られるのも今だけにするもの、と言っておこう」

 

 毅然と返答するのはデュークモンだ。その黄玉の瞳には、あくまでぶれない信頼の光が宿っている。

 少しも態度を変えぬデスモン。どうあっても自分がアーマー体如きにやられる筈がない、奴の言うのは戯れ言、と高をくくっているのか。

 

 マグナモンはバリアを解除するとプラズマを掌中に生み出し、異形の魔王の方へと投げつける。

 

 「“プラズマシュート”!」

 

 「クカカカカ……馬鹿ノ一ツ覚エカ。ソノ手ハ通用セヌト証明ズミダガ」

 

 デスモンは嘲笑すると、その姿を黒霧に変えて消え、球形プラズマの直撃を避ける。目映い雷の球は、黒霧の塊を擦り抜けて彼方へ消えてゆく。一旦別次元に退き、再びマグナモンを急襲する腹づもりだろう。

 しかし、今書き換わっているマグナモンの視覚センサーの前では、それは無駄というもの。

 彼には、自分の真上に出現せんとしているデスモンの姿が、今や0と1の擾乱状態としてはっきり見えている。

 




思ったより長くなりましたが、まだ次回に若干続きます。
デジタルモンスターなんだから、デジタル性を意識しよう……と思ったらこんな感じになりました。
とりあえずデュークモンすごいぜという事で一つ。


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異次元への埋葬

※3/21、残酷な描写タグを外しました。外すの忘れてました。あれは、最初血液データを採用しようと思っていた頃の名残で、戦闘で血飛沫が飛びまくる予定があったのです。

今回は何だか書きづらかったので、時間が掛かりました。すらすら文章が書ける方が本当に羨ましいです。


 マグナモンは体の中心部に、持ちうるエネルギーの全てを収束させる。

 宇宙生まれし特異点の如く、膨大なエネルギーが一点に凝縮されてゆく――やがて爆発するために。

 

 マグナモンの上方に形成される0と1の渦が徐々に密度を増し、塩基が連結されゲノムへと昇華されるように連なっていく。

 表象を得て、この次元に奴が――デスモンが現れ始めた時。その時が唯一にして最大の好機だ。

 別次元を経由する瞬間移動に於いて、その移動を中断するのは胴体を切断したまま放逐するも同じ。電脳核(デジコア)が転送される中途で中断するとしたら、それはより致命的だ。

 つまり、途中で襲撃を受ける羽目になっても、受けると分かったとしても、移動をやめる事は出来ない。

 マグナモンは息を殺し、瞬きを止め、相変わらず疼く脇腹の痛みを堪え――静寂の元に時を待つ。

 

 「クカカカカ……ぷれでじのーむニ何ヲ造ラセタノカ知ラヌガ、無意味ダッタヨウダナ」

 

 ひび割れた低い嗤いと共に、黒霧が実体を取り始める。黒爪を生やした手がマグナモンの頭部を鷲掴みにするように伸び、掌底の単眼がぎょろりと現れる。

 その瞬間、マグナモンは跳躍した。

 すぐさま、浮力生成プログラムを起動し宙に静止する。背後に紅き双眸を向ける事もなしに、黄金の彼の両腕がデスモンの灰白色の腕をひしぎ上げた。その凄まじい力に腕が潰されそうになり、デスモンが呻き声を上げる。

 

 「グ、グガガガガアア……!」

 

 予想だにしなかった事態――それにさしもの魔王も慌てふためく。腕が思い通りに動かせない。このままでは、必殺のデスアローもマグナモンに当たらず、空撃ちになってしまう。

 二体の闘いを静観するデュークモンは、無言で小さく頷く。

 

 「貴様……ワタシガ見エテイルトデモ言ウノカ!?」

 

 「俺がさっき何をしていたのか見ていなかったのか? 案外その馬鹿でかい眼も飾りらしいな!」

 

 「グ、ガガガ……あーまー体メ……言ワセテオケバ……!」

 

 後ろ向きのまま平然と挑発してみせるマグナモン。彼の紅き双眸の輝きは脇腹のひびらきにもぶれる事なく落ち着き、力強い。己の勝利を確信しているのだ。

 プレデジノームの力こそ借りてしまったが――最終的に倒すのは自分自身。デスモンの眼が憤怒にぎらつくのにも決してひるむことなく、所詮アーマー体と侮られるのも此処までだと、瞳の輝きは宣言する。

 

 「さあ、さんざん軽んじたそのアーマー体に斃される番だぞ……! 我が聖なる輝きに、浄滅され消え果てるがいい!」

 

 マグナモンの中心に集束した聖なるエネルギーが、臨界点に達する。

 それが今、解き放たれる--聖騎士ロイヤルナイツが一員、マグナモンの必殺技が。

 

 「“エクストリーム・ジハード”!」

 

 太陽コロナの輝きが一気に膨張し、炸裂する。

 一帯は光の爆発に飲み込まれ、天高く昇る陽すら暗い消し炭に等しい。

 爆ぜるプラズマの輝きを凌駕するその眩しさに、遠目で見ているデュークモンでさえ視覚が焼き切れそうになり、大盾を持ち上げ視界を覆った。

 

 ワクチンはウィルスを駆逐するが、逆にデータに侵食される三すくみの内にある。

 マグナモンの秘めし力は聖なるワクチン、対してデスモンを構築するのはそれを無に帰する羅列のデータ。

 その式に当てはめるならば不利だ。

 だが、圧倒的データ数量を以てすれば、等式を破壊し――超越する。

 

 デスモンを構成するデータが眩光に呑まれ、千切られ、不可視の領域まで断片化され、虚空に消える。

 しかし、瞬間移動を中断する事は出来ない。この次元に実体化するデータは、出現と共に消滅を余儀なくされる。

 異形の魔王に残された道は、デリートのみ。

 

 「グガガガ……グギャアアアアアアーーー!!!」

 

 身の竦むような断末魔を上げながら、異形の魔王は躯を溶け崩れさせてゆく。崩壊した肉片や黒翼、爪は、蒸発するように黒霧へと状態変化し、色褪せ、そのまま周囲の浮遊データに混じり消える。

 頭部に嵌まっていた黄色の巨眼だけが尚も、周囲の肉を失いながらぎょろぎょろと輝き続けるのは何ともおぞましい。

 

 エネルギーを放出し終えたマグナモンは、デスモンの腕が無くなったことで両腕を解放されると、浮力生成を中止し崖の上に降り立った。

 ほぼ同時に、紅き両眼から0と1の列が漏洩し、代わりに外部よりその分を補填するかのように0と1が流入する。プレデジノームの生成したプログラムによって視覚に施した変化が解け始めたのだ。

 間もなく、普段の視覚センサーが捉える景色が戻って来る。プログラムが無理矢理書き換えられたというのはリアルワールドで言う所の「病気」のようなもので、余程の事でない限り治癒される、即ち自然と元に戻るらしい。

 デュークモンの方は、眩光が退いたので盾を下ろした。

 

 「勲功だ……マグナモン……!」

 

 労いの言葉を独りごちる。自分がプレデジノームの力を貸してやったから彼が勝利を収められたという驕った考えは、微塵も脳裏を過ぎらない。

 マグナモン自身も、微量にデータが漏れ出している脇腹の痛みを忘れ、強大な敵を克したという余韻に束の間浸る。ひとまずは、助力が無ければ勝利できなかったとか、野暮な事情はよけておき――。

 その時だった。

 

 「ククク……クカカカカカ!」

 

 合間に割れた雑音の入る、狂ったようにけたけたと嗤う声。

 突如、デスモンの巨大な眼がかっと妖しく耀き、巨大な赤い光線を放った。

 期せぬ急襲に、流石のロイヤルナイツ二体もやや反応が遅れる。

 

 「!?」

 

 光線は紙一重で避けたマグナモンの右横を擦り抜け――デスアローを喰らい欠損した部分を掠りそうになったので、何とかして避けた――後方に立つデュークモンへと襲いかかってゆく。

 咄嗟に聖なる大盾を前に振りかざし、光線が自分に直撃するのだけは防ごうとした彼であったが、無意味な行動であった。

 光線は何と盾を擦り抜け――デュークモンの本体に到達したのだ。

 壮麗な甲冑の中央を貫いた光線はその直径を増し、やがてデュークモンの全身が赤い薄光に飲み込まれた。

 衝撃と被る損傷を予測して、反射的に身を縮める。

 

 「……?」

 

 しかし予想に反して、衝撃も、データ損傷もない。攻撃されたわけではないようだ。

 ならば、何が起こったというのか。

 デュークモンの双眸が、己の周りを赤光に溶けるように淡い薄光が漂い始めるのを捉えた。目を凝らすと、それが0と1の集合体に他ならないと分かった――

 ――自分の躯より、漏れ出た。

 一気に全身がすっと冷え込む。

 

 ――身体がデータ分解されている!

 

 背後を振り返ったマグナモンも、デュークモンの身に起きた異常事態を呆然と見つめる。

 まさか、最後の最後でデリートされるなど――!

 マグナモンは現実に対するせめてもの反抗のように、脇腹の痛みが意識に割り込ますノイズを無理矢理ねじ伏せ、朋友の名を叫んだ。

 

 「デュークモン!!!」

 

 またも同志を失う事になるのか。聖騎士ロイヤルナイツとして使命を背負った身ならば命を失う事も辞さぬ、また常に失うべきものと腹をくくるのが掟、そんなのは百も承知だ。

 だが、こんなのは認められるものか。断じて。自分が全力を尽くし、デスモンを葬り去り、目的ごと闇に消し去ってやる筈だったのに。

 努力は無為の内に潰えたも同然、結局敵に目的を達せられる羽目になるなどと、認められようか。

 デュークモンの澄んだ黄玉の瞳は小刻みに震え、普段は毅然とし泰然としている筈の彼でさえ、甘受したくない現実をどう受け止めれば良いのか分からなくなっているようだった。

 

 「クカカカカ……あーまー体ヲ道連レニスル事ハ出来ナカッタカ。安心シロ、ソレハでりーとサレテイルトイウコトデハナイ」

 

 もう殆ど姿を失い黒靄の残滓になった――それももうじき霧散しそうなデスモンの声が、前方の虚空から響いてくる。声だけは、どんな状態でも出せるようだ。

 デリートされている訳ではない。短時間である程度把握したデスモンの気質からして、それが嘘のようにはロイヤルナイツ達には思われなかった。だが、彼らを安閑とさせまいとする事実がすぐさま降りかかる。

 

 「起動サレタノハ、『しんぷれっくす・とらんすみっしょん』ぷろぐらむ、……クカカカカ!」

 

 「何……だと!?」

 

 ロイヤルナイツ二者が、同時に凍り付く。

 デジタルワールドとリアルワールドを相互に行き来できる超次元の通路たるアクセスポイントは、「デュープレックス・トランスミッション」、即ち双方向転送プログラムに基づく存在。それとは異なり、次元間を一方通行しか出来ないのが、シンプレックス・トランスミッション。

 一度別次元に転送されたが最期、退路はない。つまり――転送先から真逆方向のシンプレックス・トランスミッションの孔を開けるか、転送元の次元からデュープレックス・トランスミッションの孔を開けてやらない限り、永久に異次元に幽閉される事になる。

 

 デュークモンが、異次元に埋葬される。

 

 「クカカカカ……最初カラ貴様ヲでりーと出来ナクトモ問題ハナカッタノダ……コノ次元カラ永遠ニ消シ去レレバソレデ良シダ……ククク」

 

 自分をけしかけて相対させたのは、唯の遊びに過ぎなかったとでもいうのか。

 何のために自分は奮闘したというのか。

 何者かの糸に操られていようとも、魔王は魔王らしく他者を嘲弄するというのか。

 

 焦熱の如き憤激に、今にも暴れ狂い、叫び狂いそうになったマグナモンだったが、冷静になれ――とすんでの所で己を叱咤した。

 望みはまだ残っている。次元歪曲の痕跡を追求すれば、その調査結果を元にしてデュープレックス・トランスミッションの孔を空ける事も可能ではないか。そう、それさえ実行すれば後々デュークモンを救えるではないか。それまで、デュークモンは幾らかの時間異次元を彷徨わねばならない事にはなるが、そんなのはやられた内にも入らないはず。

 

 「デュークモン、俺が委曲を尽くして全てをドゥフトモンに報告する! そうしたら時を移さずに簡易アクセスポイントを生成する。それまで決してくたばるな!」

 

 しかし、デスモンがその台詞をすぐさま一笑に付し、望みを容易くへし折った。

 

 「無駄ダ――転送後即座ニ次元間ノ孔ガ修理サレルぷろぐらむモ起動サセタカラナ……クカカカカ!」

 

 「何だと!?」

 

 奈落の底に叩き落とされる。

 次元間の孔を修理するということは即ち塞ぐということ、次元を接続した痕跡を残さず、完全隔離を成立させるということ。

 デュープレックス・トランスミッションの可能性は容易く断たれた。いや、断たれる前に可能性などありはしなかった――。

 

 「ククク……最後ニ教エテオイテヤロウ。起動条件ハ、ワタシノ電脳核(でじこあ)ガ破損スルコトカ、躯ノ80%ガ消シ飛ブコトダッタ……クカカカカ!」

 

 けたたましい嗤い声だけを残し、デスモンの巨眼は黒靄と化して雲散霧消し、完全に消え去った。

 

 デスモンはデリートされた。勝ち誇ったような、見下すような、全てを嘲るような嗤い。その響きだけがこの次元に残される。

 だが、最後の魔王の言葉。それはマグナモンの心に居座り続ける。情報処理機構の全てを蝕むように。

 紅き瞳の輝きは曇り果て、視線は虚空を泳ぐ。この次元の何処も見てはいない。

 もう戻れはしない異次元へと否応なしに旅立つデュークモンが、見かねたように静かに口を開いた。

 

 「マグナモン――このデュークモンの事はどうにも出来ぬ、死したものと思え。疾く我々の城に戻るがよい。貴殿も、その負傷を放っておくと大事に至るであろう」

 

 「しかし――」

 

 「時間を無駄にするでない!」

 

 余りに激しく、そして突き放すような語調にマグナモンは正気に戻り、ついでたじろいだ。

 胸部から上しかこの次元に残っていない状態のデュークモンは、強い語調に反し、達観したような態度であった。

 自分の運命を受け入れたような。双眸に浮かぶは、諦念の光なのかも知れない。

 黄金鎧の竜は、甲冑の騎士が姿を薄れさせてゆく様子をまんじりと見つめるばかりであった。朋友に対する最後の言葉を探すが、ただ一言以外見つからない。

 

 「――分かった」

 

 返事の代わりに、真紅に染め抜かれたマントが一瞬翻ったように見えた。デュークモンを構成するデータ粒子の全てが、異次元へと飲み込まれ終える。

 それと同時にシンプレックス・トランスミッションの薄赤い通路は収縮し、糸の如く細くなり、遂には跡形もなく消え失せてしまった。

 

 崖に打ち寄せ弾ける白波。そして、束の間の凪。

 再び穏やかな静けさが訪れる。

 

 マグナモンはただ一人残された。

 デュークモンにはすぐ戻れと言われた。そうするのが正しい事は分かっている。だがその場に立ち尽くし、今し方起こった事を呆然と反芻する。

 全ては茶番。デスモンはデュークモンを異次元に放逐させる為のプログラムの入れ物。

 自分を挑発して勝負をさせたのは、ただの遊び。デュークモンがどの道異次元に葬られる運命ならば、自分を負傷させた方が稼ぎが良いと考えたわけだ。

 つまり、最初から自分達は――デスモンを裏で操る輩の掌上で転がされていた。

 最高位の聖騎士集団、ロイヤルナイツとしての誇りが、その事実を決して認めない。許さない。

 沸々と湧き出てくる電脳核(デジコア)を煮やす感情。マグナモンは吐き捨てた。

 

 「ふざけやがって……」

 

 きつく拳を握りしめる。竜爪がたなごころにぎりぎりと食い込み、痛覚を深く刺激するがそんな事は気にも留めない。

 ロードナイトモンに続き、デュークモンまでもが。ロイヤルナイツの席が、立て続けに二つも空座になる事態に陥るなどと。

 デュークモンに限って、古代竜の聖騎士がロイヤルナイツという組織を創始してからの最古参に限って、むざむざと異次元で朽ち果てる訳はない。マグナモンはそう信じたかった――

 ――信じたかったが。相手は非常に用意周到と先程の戦闘から推し量れる。プレデジノームに接続出来るデュークモンを厄介者として遠ざけるのであれば、最後の最後でプレデジノームの力を使い、異次元より帰還出来るデバイスを造れるような余地をデュークモンに残すというへまをやるとは、到底考えられない。

 望みなど、無いに等しいというのか。

 

 「畜生……畜生があ!!!」

 

 マグナモンの悔恨と瞋恚の叫びが、虚しくその場に轟いた。




ロイヤルナイツサイド、これにて終了。勿論、この後どうなったのかも後ほどやります。
物語を多方面から描いて、それぞれが絡まり合いながら終わりへと向かって行く、というのを上手く文字に表せるのが目標です。これからも宜しくお願いします。


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招かざる侵入者

自サイト掲載分はたったの2500字くらいの分量しか無かったのですが、気合いで倍増させました。正直、つなぎの回だったり。


 ドルモンはひたすら皿の上の菓子を食べながら、至上の幸福感に包まれていた。物を掴むようには出来ていない前肢の構造上、口を直接皿に近づけて菓子を食べるせいで口回りがスナック菓子のかすだらけである。

 

 (これもおいしい~。あれもおいしい~。ドルモンしあわせ~)

 

 一通り食べ終わると、皿の上に残った残滓をぺろりと舌で回収し、口回りに付いたものも前肢で拭って綺麗に舐め尽くすという意地汚さを発揮した。ロードナイトモンにきちんと躾けられなかったのか、というと決してそういう訳にはあらず。獣型のデジモンには獣型のマナーが、人型のデジモンもまた然りというデジタルワールドに於ける一般論に認められる行動を取ったというだけである。もっとも、高貴な人間のように獣染みた下賤さを忌み嫌ったロードナイトモン本人は、がっつき舐め尽くすようなドルモンの食べ方にあまりいい顔をしなかったのもまた事実ではある。

 

 リアルワールドに到着してからすぐさま災難に見舞われたが、同時にすぐさま安住の地を見つけ、尚且つ素晴らしく質の高い食糧にありつけるとは、大変幸運だと言えよう。

 ドルモンは親切で優しい人間・リュウキに非常に良い印象を持っている。何と言ったって、行き倒れていた見ず知らずの自分を――それどころか常識から外れたような存在とも言える自分を――拾ってくれた上に、この上なく美味しいご馳走を振る舞ってくれたのだ。

 彼の都合はどうあれ、出来るだけ一緒にいたいとすらドルモンは思っている。自分の探し求めなければならない「テイマー」を見つけるまで、それか「テイマー」の方が自分を捜し当ててくれるその時まで――いや、彼がその「テイマー」であって欲しいとドルモンは密やかに願っている。

 しかし、ロードナイトモン曰く「テイマー」はそのデジモンに相応しい人間が選ばれるものの、巡り会える確率は砂浜にたった一粒のある砂を探すのにも等しい。だからリュウキがテイマーでない可能性の方が遥かに高いのだ。

 別の人間が己のテイマーとして選ばれ邂逅するのを待つか、長らく出逢えないならば、何とかこんとかという組織が自分を迎えに来るから心配無用だ――そうだが、その時は残念だが仕方無いと諦めるしかない、と一応はドルモンも理解している。頭では――電脳核(デジコア)の情報処理機構では、分かっている。

 けれども、「テイマー」はどうしてもリュウキでなければならないと、電脳核(デジコア)の感情領域が声高に叫んでいる。それ程までに、ごく短い時間のうちにリュウキに心惹かれた事を当のドルモン自身も不思議に思うくらいである。空中庭園という、外界より締め出された閉鎖的楽園で気心の知れた相手とだけ関わり合う生活を今の今まで送って来たせいで、心は負の刺激に耐性が低い――つまり純真で脆弱だ。それ故リアルワールドに来てすぐ遭った災難に打ちのめされた後に優しくされたという落差で、ほだされているだけなのかも知れない。 

 

 もしくは、ドルモンは一番大切だった存在を失ったばかりで――無意識に、空いてしまった巨大すぎる穴を埋めてくれる存在を求めているところから、自分とこれから何者にも切りがたく、解きがたい関係を結ぶことになる「テイマー」を、早く得たいと思っているからなのかも知れない。

 

 幸せを感じている時であっても、ドルモンのデジタルの心はひび割れて、0と1が流れ出してしまいやがて壊れてしまうような疼痛を感じている。

 その姿は極彩色の花のように鮮明に、その存在感は栴檀の香りのように格調高くデジコアの記憶野を支配する。それは自分の親のような存在だった者が――ロードナイトモンが生きていた頃は、心安らぐ表象であったのに、今は違う。思い起こされたならそれは――フラッシュバックに等しい。

 しかし、鬱々と哀しみにくれているだけでは心に悪いだけだ。その悲嘆を綺麗さっぱり忘れ去ってしまいたいなどとは勿論爪の先程も思ってはいないが、ずっと塞ぎ込んで何もしたくないとも思わない。

 

 もう終わってしまった事に対してこだわり続けうじうじするのは、最も悪かろう事の一つと知るべき――ロードナイトモンに口を酸っぱくする程言って聞かされた、騎士たる者かくあれという事項に数えられる。この場合の騎士とは別に誰そに忠誠を誓い、誰そを守る役目を担った者という意味ではなく、騎士道を心得、それに決して外れる事のない者を指すらしい。ドルモンは、騎士道について「とてもいいひとのすること」という認識しかしていないが。

 

 何はともあれ、絶対に――振り返ってはいけない。背後にもはや道はない。戻る場所だって――美しく平和なあの空中庭園世界だって――戻る手立てがないのならば、無いのと同じ。

 自分はリアルワールドに送り込まれた。そこの住民となり、これからはデジモンとではなく、人間と生きていくよう宿命づけられているのだ。絶対に、振り返ってはいけない。ドルモンは再び心を決めた。

 ロードナイトモンの言葉の残響はドルモンの情報処理機構に轟き続け、やがて小さくなり消えるだけの木霊とはまるで違う存在として、ドルモンが消えるその時まで留まり続けるのだろう。

 

 「ごちそうさま~」

 

 すっかりお菓子を食べ終わってしまったので、ドルモンは肉眼で汚れが確認出来ない程綺麗な紙皿を器用に両前肢で挟み、近くにあったごみ箱に――中にくしゃくしゃに丸められた紙や冊子が捨てられていた事から、それが使い捨てのものを捨てる容器だと判別した――すとんと落とした。ごみを処理するという習慣は、城で身に付けさせられた。

 

 別段何もする事がなくなってしまったので、ドルモンはごろんと床に四肢を投げ出して寝転がった。何となしに天井を見上げると、つましさが漂う、模様も何も無くひたすらに白いだけの広がりが目に入った。思わず黄玉の瞳をぱちぱちと瞬き、やがては目を逸らしてしまった。視線を集中させる目印のようなものが無いと、目のやり場に大変困りどうしたものか分からなくなるものである。

 そうしてつまらなそうにごろりと体を右横に向けると、ちょうど本棚が目に入った。黒檀造りらしく、しかも四段構えの構造という、高校生の一人部屋にはあるまじき物品である。首を少し持ち上げて上から下まで眺めると、びっしりと隙間無く本が収納されているのが分かった。

 

 「ほんがいっぱいある~」

 

 大変興味深そうに、ドルモンは口元をほころばせた。見てくれは犬や狐のような畜生の類だが、文章を読み理解するという芸当をやってのけることが出来るし、そればかりか楽しむのである。

 

 「うんしょ~」

 

 ドルモンは身を起こして本棚まで歩き、前肢を上げて棚の一番下に並んでいる本を一冊取った。あまり厚さがないものでかつ、爪で本を傷付けてしまわないよう、表紙の硬そうなものを選んだ。無論題名や内容など、知った事ではない。

 こう見えて、意外と読書家なのだ、と本人は信じている。実際、ドルモンはロードナイトモンに文字の読み方書き方――前肢の構造上ペンは持てないので書くのは爪で板に彫るとかだ――、文法、文章読解などはきっちり教わり、色々な本を読み漁った。しかし、喋り方だけはどうしても幼いままである。いや寧ろ、幼いのに喋り方以外がしっかりしていると言った方がいいのか。

 

 早速引っ張ってきた本を広げながら床に置くと、中には綺麗な白い生物の絵ばかり描かれていた。猫だったり、鳥だったり、ライオンだったり、鰐だったり。勿論ドルモンはそんな動物の名前も存在もいざ知らず。これがリアルワールドの普遍的な動物なんだと勘違いした。

 

 (リアルワールドのいきものって、にんげんいがいはみんなまっしろなんだ~)

 

 成る程そうなのか、と紫色の愛らしい動物はそれで納得してしまった。リアルワールドでは世界は白いので――これもまたとんでもない誤解である――きっと体が白いと敵に見つかりにくいのだろう、という一見辻褄の合った勝手な解釈を突き通す。

 

 しかし此処で問題が一つあった。何か絵の近くに細々と字と思しきものが書いてあるようだが、さっぱり読めないのだ。

 紫色の幼き動物は、怒ったように目をきっと吊り上げた。

 

 「なんで~」

 

 全く謎であった。おかしい、リュウキとは普通に話が通じたのに。

 デジタルワールドの文字と違って、簡単そうな文字は概して丸みがあって直線が少ない。と思ったら概ね直線で構成されている簡単そうな文字も見つかった。複雑な文字の方は結構角張っているが、デジタルワールドの文字よりうんと書くのがめんどくさそうだ。

 ドルモンは一瞬どうにか解読しようと頭をひねったが、絶対無理だと一瞬で悟り、本をぱたんと閉じてしまった。リュウキが帰ってきたら是非読み方を教えてもらわねばなるまい、とドルモンは決意する。

 

 (はやくリュウキかえってきてよ~。つまんない~。ドルモンとあそんでよ~)

 

 ドルモンはふてくされてぷうと頬を膨らませた。言いつけられた通り寝るのが一番らしい。ドルモンは本を元の場所にえいやと戻しにまた身を起こす。そして窓の方へ行くと後ろ肢で立ち上がり――ちなみにこの姿勢はとても疲れるので長くは持たない――、全開になったカーテンを前肢で挟むようにして閉めようとした。

 その時だった。

 窓の外に見える雪を屋根に積もらせた家々、電柱、鉛色がかった空、何処までも白い地面――その景色の中忽然と、奇妙なものが現れたのをドルモンの双眸が捕らえた。

 飛翔する、翼はためかす漆黒の巨体。

 異様に細長い両腕、鋭利な爪の先の深紅、そしてまた四つの禍々しい眼を塗り尽くすも鮮血の色。

 一体だけではない――二体いる。

 それは、白き世界に似つかわしくない、全く異質な存在、そしてその世界を破壊するべき存在のような、許されざるとして浮き立っていた。

 ドルモンは黄褐色の両眼を見開いて固まり、ついでぶるぶると震え上がり、そして――確信した。

 招かざる客であり、自分と同じ存在がやってきたのだと。

 

 「デジモンだ~……! わるいデジモン~……!」

 

 ドルモンは唸った。あの漆黒の邪竜を見たことはない。だが、何となく分かる。

 あれは、デジタルワールドの奈落――ダークエリアの眷属だ。あの恐ろしき七大魔王が一員、色欲のリリスモンに面と向かった時と、同じ種類の何かを感じる。それは、破壊の「ウィルス」属性を持つ邪なる存在特有の波動だというのは、ドルモンはいざ知らず。

 おそらくは自分と同じ方法で――要は「アクセスポイント」経由で、こちらの世界にやってきている。

 その目的は何か。ドルモンは薄々感づく。

 

 (きっとドルモンをさがしてる~)

 

 ぶるぶるとドルモンは震え上がり、さっと身を屈め窓の下に隠れた。発見されれば、ドルモンは確実に、立ち所に殺される――デリートされてしまう。ならば部屋にこうして隠れ続けていた方がいいのか。 

 それは無駄である。如何に安全そうに思える場所に隠れていたとしても駄目なのだ。デジモンにしか分からない電脳核(デジコア)が発する0と1で綴られた生体反応の波動は、如何なる障害物であろうと擦り抜けて伝わる。デジタルワールドでならば、高密度の0と1で構成された物体があればそこで波動の伝播を遮る事が可能だ。しかし、此処はリアルワールド。事情はまるで異なる。ドルモンは今、全方位に自分の存在を知らしめようとしているのと同じ状態だ。ロードナイトモンやリリスモンのような強大な力を持つデジモンと違いドルモンの発する波動は微弱なものだが、それでも感覚を研ぎ澄ましよく注意をすれば受信でき、更には発生源を突き止める事とて可能だ。

 

 

 発見されるのも、時間の問題である。あの黒竜共が此処にドルモンが潜伏している事を突き止めたら、奴らは遠慮や配慮もなくリュウキの家の外壁を破壊して侵入して来るだろう。そうしたら、自分の安住の地もなくなってしまうし、何よりリュウキがどういう反応をするだろうか。

 ドルモンはどうしてもそんなのは嫌だった。自分が死んでしまったら――デリートされてしまったら、命を賭して自分を守ってくれたロードナイトモンの努力が無駄になってしまう。だけれども、決してリュウキに悲しい思いをさせたくはなかった。

 いや――リュウキを悲しませないだけでは足りない。彼を悲しませず、かつ自分も生き残らなくてはならないのだ。

  

 (リュウキにあまりはしりまわったりしちゃだめっていわれたけど~……いいつけやぶっちゃう~。ごめんね~……)

 

 ドルモンは覚悟を決めた。全身がつりそうになるのを耐え、精一杯体を垂直に伸ばして窓の取っ手に手を掛け――幸い施錠はされていなかった――、がらっと開けた。

 そして何の躊躇いもなく一気に――七メートルもの高さから飛び降りる。

 

 ごわっと雪を踏む音を立てて、ドルモンは着地した。

 もう震えてはいない。顔を上げ、両眼をきりりとさせ、敵方を確認する。先程よりも高い場所を飛翔しているようだ。だいたいこちらとの距離は家四軒分程かと思われる。そう、決して遠くはないのだ。

 まずは、奴らに先回りするように広い場所まで駆け抜け、それまで何とかあの黒竜共に気付かれないようにし――

 ――それから、倒す。

 

 無謀以外の何でもない話だ。しかし、ドルモンの凛とした黄玉の瞳に、恐怖、疑問――どの翳りもなかった。

 身を低く構え、肢に力をぐぐぐと溜め――地を全力で蹴る。その凄まじい勢いに、雪塵がぶわりと吹き上がった。

 



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デジタル・リアルファイト 1

活動報告でも書きましたが、これからは二週間に一回の投稿ペースとなります。


 歩道と建物の上には雪が積もって白くなり、所々に避けられて積み上がっている。道路に面した側にはぽつぽつと泥水が撥ねた跡がある。対照的に、広い交差点は流石車の往来が激しいからなのか、それともロードヒーティングが効いているのか、雪の一片も幅十五メートルほどもあろうかと思われる道路の上にはなく、その灰色の無機質なセメント然とした様相を呈している。

 ぴきりと音を立てて凍り付いてしまったような空気を、エキゾーストの穏やかな唸りが溶かすように震わせる。

 住宅街の小路を真っ直ぐに進んで交差点に出ると、一気に視界が開ける。背丈が変わらないはずの建物でも、それ故か低く見えてしまう。

 それなりに近所ではあるのだが、小学校も中学校も高校も最寄りの駅も御用達のスーパーも真反対側にあるので、龍輝はあまりこの交差点街に来た事はない。

 市立病院は、この交差点を左に曲がったところに巨体を構える。確か6階か7階はあると聞いた事があるような気がする。龍輝は母がいるのは、5階と聞かされている。

 

 割合背の高い少年は心なしか緊張した面持ちで交差点を左へと行き、寒さのせいだけではない少し震えた足取りで目的の場所を目指す。不慣れな事をしたり見知らぬ場所に滞在している時には、周囲の様子も五感が正常に機能しているのかも判然としないような状態に陥るのが龍輝の常だが、灼ける程に冷え込んだ空気を吸って呼吸器が凍結しそうになり、嫌でも惚けていられないのであった。

 左右に大きく震えようとする脚を真っ直ぐに保とうと力を込めて歩きながら、彼は考え事をしていた。これから母に対面する時には、まるで初対面の他人のように接し、あまり長居せずに帰るのだろうというような想像と、ドルモンの事である。

 突然何かの縁で自分の前に現れ、拾い面倒を見ると決断してしまった奇妙な生物。この世界の常識に照らし合わせると、非常識で不可思議な生物。その外見は勿論、人語をごく自然に話すという芸当をやってのける驚嘆に値する生物だ。この次元とは異なる世界からやって来たのであろう事は明白だが、話すのが日本語である事やこの世界の生物の特徴をいくらか兼ね備えている事を鑑みると、さる異世界はこの世界とその様相がそうかけ離れている訳ではなく、寧ろ何らかの関係性があるものとも推測できる。

 どういう世界からやって来たのか。どうやってこの世界へとやって来たのか、何故来たのか、行き倒れていたのか。語尾のモンとは何なのか、同じくモンが付くロードナイトモンは一体何者なのか。色々と気になる所であるし、帰宅したらドルモンがきっと語ってくれる事だろうと龍輝は楽しみにしている。母には悪いし、非常に申し訳ないとも一応思っているのだが……さっさと用事を済ませ、帰宅したいというのが彼の本音だ。

 

 「おい! あれなんだよ!」

 

 突如背後で大声が上がり、龍輝は一瞬で現実へと引き戻された。

 脚が震えるのを堪えつつ、立ち止まって振り向くと、歩道を歩いていた若い男性が上空を指差して凝視している。その隣を歩いていた連れらしき男性がつられて空を見上げ、同じように驚愕に目を見開き、表情を固まらせている。それは、恐怖にひきつった顔――とも取れた。

 何事かと首を傾げつつ、好奇心から龍輝も空を仰いだ。

 愕然と固まる。

 

 「何だ……あれ」

 

 はっきりと声に出す。

 存在を信じられないものが、容認できないものが――今、上空にある。

 鉛色の天に浮き上がった闇のように羽ばたいているのは――二体の悪魔の如き竜。

 異様に細長い腕、標的を切り刻む為だけに存在するように鋭利な爪、そして寒空に誇示するは常軌を逸した巨躯。鮮血を固化させたような四つの眼は禍々しく輝き、何を見ているのか、そもそも何か見えているのかも分からない。ただただ龍輝はぞっとし、寒さ以外の理由で身震いした――血の流れまで凍結しそうだ。

 今日は立て続けに現実離れしたものと遭遇するな――と吃驚しながら、龍輝は足早に立ち去ろうとした。あの異形もおそらくはドルモンと同じく異界からの訪問者。だが、ドルモンとは違い関わり合いを持つのは言うべくもなく危険だろう。あの巨竜に興味がないわけでは決してないが、過ぎたる興味は身を滅ぼす。龍輝は持ち前の沈着ぶりを発揮していた。

 ――が、次の瞬間に双眸が捉えたものが、彼にその場を離れる事を許さなかった。

 

 鉄球。

 二体の邪竜目がけて、鉄球が弾丸の如く飛んでいったのだ。

 冬天を一直線に貫く鈍い光沢を放つ鉄塊。それは竜の腹部を打ち抜かんばかりの勢いだったが、前方に浮遊している個体が気付きざまに真紅の爪を振り下ろすと、いとも簡単に真っ二つに割れた。

 半分に分かたれた鉄塊は重力に身を任せるままに落下してきたが――何とそれは、地上に到着する前に雲散霧消して跡形も無く失せてしまった。

 

 龍輝は阿呆のようにぽかんと口を開けた。信じられない、何がどうなっているのかも――さっぱり分からない。流石の彼も頭が半ば真っ白になったが、取り敢えず何かに導かれるように鉄球の発射源を目で探した。 

 そして――本当に信じられないものを見た。

 交差点の中央に四つの足で仁王立ちし天の異形を見据えるは、紫の体毛に覆われた、大型犬くらいの世に存在し得ないはずの不思議な生物――

 龍輝の脳髄に高圧電流が迸る。

 

 「ドルモン!?」

 

 少年が唐突に張り上げた声に通行人は皆びくっとなり、謎の存在共から龍輝に目を移す。

 当のドルモンは、花束を抱えた少し長身で黒髪くせ毛の少年の方を見ると、凛々しく吊り上がっていた目を垂れさせ、申し訳なさそうに伏せる。

 

 「ごめん~、ドルモンリュウキのいうことちゃんときかなかった~。あとでりゆうはなすから~……」

 

 今度は四つん這いの犬のような奇怪な生物が言語を発した事に対して通行人が驚く番だったが、そんな暇はあるはずも無し。

 

 「危ない!」

 

 龍輝の咄嗟に上げた一声と同時に、上空から猛烈な速力で黒い悪魔竜が一体、ドルモン目がけて爪を振り下ろしながら地表に突進してきた。

 真紅の鉤爪が血濡れた危険な輝きを放ち、ドルモンの体を捉えようとしたが、その対象は敏捷に後方に飛びすさり、当たったらひとたまりもないであろう二撃の危機を回避する。

 ドルモンは体勢を崩すこと無く着地し、息を弾ませる。

 轟音を伴って、交差点の道路中央がえぐり出される。割れたコンクリート破片が幾らか龍輝達のいる歩道の方へ飛んだ。

 

 「うわっ……」

 

 心臓を鷲掴みにされた気分になり、龍輝は反射的に後方へ跳んだ。あんな重たいものが体に当たりでもしたら、ひとたまりもない。

 すると素早く、ドルモンが口をかっと開いて立て続けに鉄球を吐き出し、飛んできたコンクリート片を全て木っ端微塵にした。程なく、鉄球も虚空に消え失せる。

 龍輝は唖然とした。面妖な邪竜に対する恐怖はある程度立ち消え、混乱が彼の心中を支配していた。

 一方、その場に居合わせた人間は口々に恐怖の叫び声を上げながら、自動車はエンジンを嘶かせながらその場から遁走する。あっという間に、その場には龍輝とドルモン、そして二体の異形のみが残された。

 

 何故このような事態が起こっているのかまるで訳が分からない。

 玄関に鍵を掛けて出たのに、どうやってドルモンが家から出たのかというのは龍輝はこの際どうだって良かった。

 多分全ては三十分以内に起こった事だ。花屋で薔薇を買って店を出て、病院に行く途中で喋る不思議な生物ことドルモンを路上で拾って、一旦家に連れて帰って、外出して、帰って来たら色々話を聞こうと思っていたら、そのドルモンが交差点で怪物と戦っていて。

 色々常軌を逸した事が起こりすぎて、龍輝の脳内は混沌としている。誰か説明してくれと彼は声を大にして言いたかった。

 

 ドルモンは真紅の爪の猛攻を機敏に避けながら、続けざまに滑空する黒い標的に向け大きく開いた口から鉄球を吐き出す。

 

 「“ダッシュメタル”~!」

 

 怪物はだが、ひらりと身を躱して全ての鉄の弾丸の軌道から逃れる。当たるはずだった相手を失った鉄球は空中で消え失せる。

 

 龍輝は瞬きもせず、厳冬の寒さも忘れ、生唾を呑んで状況を見守っていた。

 ドルモンはすばしっこく攻撃を躱し続けているが、あの怪物も然りだ。状況は膠着している。

 しかし、均衡状態も長くは続かなそうだ。

 ドルモンの体力消耗が目立ってきている。動きは少しずつ精彩を欠き鈍くなってきており、息がかなり上がっているのが遠目にも分かる。それに比べ、巨大な邪竜は悠々と飛翔している。

 

 突如、黒い邪竜の紅眼がドルモンをぎろりと睨み付け、かっと妖しい光を放った。

 眼光と呼ぶには眩し過ぎるそれが紫色の動物の全身を照らすと、その体がうつぶせにぐったりと倒れる。

 龍輝は酷い胃痛に襲われた。

 

 「ドルモン……!」

 

 「ううう~」

 

 苦しそうに呻くドルモン。しかし、その体は麻痺したように全く動かない。

 そこに、上空から黒い邪竜の紅蓮の爪が容赦なく襲いかかる。

 

 ――このままでは、ドルモンは……

 

 龍輝は、自分でも全く信じられない速さで動いた。

 一歩間違えば、自分がどうなるかという恐怖を感じる暇もなかった。

 

 「ドルモンー!!!」

 

 龍輝は無我夢中で花束を放り投げた。

 道路にうずくまるドルモンに向かって全力で走り飛び込みし――両腕でドルモンを歩道の方に引きずり出す。

 一瞬遅れて目標を逸れた獲物を狩る爪は、先程のように勢い余って道路を抉り出す。再びコンクリート片が宙を舞ったが、龍輝の目には全く入らない。幸いな事に、それが命取りになる事にはならなかった。

 

 「リュウキあぶない~……ころされちゃうよ~……にげて~」

 

 弱々しく泣きそうになりながら、そして息を切らせながら言うドルモンに対し、龍輝は卒倒しそうになるのと心臓が口から飛び出しそうになるのを何とか我慢し声を張り上げた。

 

 「ドルモンだって殺されてしまうじゃないか!」

 

 逃げろ、と言われても今更逃げられないように龍輝の心には圧力が掛かっていた。本当にたったさっき出逢ったばかりの仲だが、自分は行き倒れていたドルモンを拾ったいわば責任者であり、かの哀れな小動物を無視しこの状況から逃げ失せるなんて、許されたものではないと彼は強く思う。

 最悪自分の命までも危険に晒されるような状況で、そんな馬鹿正直に義理堅く行動するなんてそれこそ馬鹿げている事かも知れない。だが、道理に外れるくらいなら死んだ方がましだ、というのが龍輝の信条だ。

 逃げたくないのはそれだけではない。色々聞きたい事があるのに、ドルモンが死んでしまったら何もかも謎のままで終わってしまう。そんな理屈を抜きにしても、ドルモンが死んでしまうなんて嫌だ。せっかく、たったさっき会えたばかりなのに。日常と、非日常の狭間で。

 

 「ドルモン~、リュウキがきずつくのいや~……。にげて~……」

 

 紫の動物の懇願を、龍輝は頭を振って無下にした。

 

 「そんなこと言ったって!」

 

 「うえあぶない~~~!」

 

 今度はドルモンの警告で、龍輝は上方に咄嗟に目をやると、真紅の爪がすぐ近くに迫っていた。

 自分が避けたら、ドルモンに直撃する。しかし、ドルモンを引っ張ろうにも、間に合わない。

 客観的に見ても、主観的に見ても、自分が避けた方が断然いいに決まっている。ドルモンを見捨ててあそこに転がっている花束を拾って、病院にさえ行けば、ほんの束の間見えた非日常からは永遠に遠ざかって、また普通の平穏な生活に戻れるのだから。

 平和で平凡な生活を、死んで捨てるなんて大馬鹿だ。母よりも、学校の友人よりも、「得体の知れない」生物を取るなんて、傍から見たら馬鹿で不道徳に見えるだろう。しかし龍輝は、自分はその馬鹿で不道徳的な事を正しいと信じてやっているのだ。仮に大怪我をしてもすぐ近くに病院があるから大丈夫だと無意識に思っているのかも知れないが、何よりそうしなければならないと強く信じているから。

 それが、自分の責任なのだ。

 

 酷く時間が長い。

 粘稠な蜂蜜にでもなったみたいだ。

 彼は逡巡の間に、目をぎゅっと瞑った――恐ろしい「結果」から逃れるように。

 

 須臾経って。

 刹那経って。

 一瞬経って。

 一秒経って。

 二秒経って。……

 

 その「結果」は訪れなかった。

 まさか、見逃してもらえたのかなどという万に一つも有り得ないような事を考えながら、ゆっくりと目を開き、頭を上げる。

 そうして、龍輝の両眼に映ったものは。

 無数の0と1の羅列の帯で構成された、薄光の半球が一人と一匹の周りを包んでいた。

 真紅の爪は半球の表面で停止を余儀なくされている。全力を込めているのか、漆黒の細腕から爪に掛けて小刻みに震えている。忌々しげに口を歪める漆黒の竜。間近で見ると人間三人くらいの大きさがあると分かった――圧倒的だ。龍輝の胸の内に改めて恐怖が湧き起こってきた。

 

 ――それより、この光は一体――?

 

 龍輝は、ふと左手の違和感に気付いて手に目の前に持って来る。

 

 「……何だこれは……?」

 

 いつの間にか握られていたもの――

 ドルモンの紫の体毛と同じ色の、四隅が凹んだようになった端末。中には精密な回路が埋め込まれているのが透けて見える。ちょうど自分の指がおかれているのは上部に二つ、下部に一つの白くて丸いグリップ部分。中央には――光の帯を外界へ発する円いディスプレイ。どうやらその光の帯が、この自分達を護る半球を形成しているらしい。

 助かった――それに胸を撫で下ろすよりも、龍輝は何がどうなっているのか、ますます理解出来ず混乱した。

 

 いつの間にか麻痺症状の治ったらしいドルモンがむくりと体を起こすと、まだ自分の胴体を掴んでいる両腕をするりと擦り抜けて、周囲をきょろきょろと見回す。

 

 「リュウキ~?」

 

 自分を探す声の元気な様子に、龍輝は昏倒しそうになりながらも少し安心して、ひとまず返事を寄こしてやる。

 

 「俺は此処だよ」

 

 歩道に座り込む龍輝の姿を見つけて、ついでその左手に握られた光を放つ端末を見て――ドルモンは喜びに両目を輝かせた。

 

 「リュウキ~、やっぱりドルモンのテイマーだったんだね~!」



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デジタル・リアルファイト 2

 「は……テイ、マー?」

 

 紫の動物の口から、嬉々として発せられた単語。龍輝はゆっくりとそれを復唱する。

 テイマー。tamer。字義通りならば使う者――調教者。

 飼い主ではなく、ownerでもなく、tamer。その意味する所は余りに深淵に思え、疲労困憊した龍輝の頭脳には、酷く重かった。

 だから思考を放棄し、率直に尋ねる。

 

 「テイマーって、何だ?」

 

 今は一切の疑問は後回しにして、差し迫った問題を解決する――今自分達を保護してくれているこの薄光放つ半透膜を突き破り、今にも襲いかかってくるかも知れない漆黒の邪竜を倒す――べき時だ。言うまでもない。

 確かに倒す術が見出せないでいるというのはある。だがそれ以上に、テイマーとは何か。その意味を、その本質を理解する事こそ、行動の指針になってくれる。そしてそれを知らない事には、問題を解決する権利すら与えられない。龍輝は直感的にそんな気がしたのだ。

 ドルモンは小躍りを続けながら、上擦った声で答える。

 

 「デジモンといつもいっしょにいてくれて~、デジモンをつよくしてくれるにんげんのことだよ~!」

 

 「一緒にいて、強くする……?」

 

 龍輝は、手に握られている不可思議な装置を見つめた。光の帯の放出は既に止まり、ディスプレイは大人しくなっている。

 これを持っているという事が、即ちドルモンと常にある、そして強くする者たる証。自分は何故だかそれに選ばれた。そういう事なのだろう。

 そしておそらく、未知の単語「デジモン」は、ドルモンという個を一般化した存在。だがそれは一体何なのか。

 

 「……デジモンって、何だ?」

 

 「デジタルワールドっていうところにすんでるいきもの~。ドルモンもデジモンだよ~!」

 

 「デジタル……?」

  

 やはりドルモンは、薄々そう気付いていたように、この世界の住民ではなかったのだ。

 その上、デジタル。つまりは二進数のデータ世界よりやって来た、データの存在。

 実際の質量を持たず、それ故に制限無く増殖し、はたまたは消滅し、ただ視覚によってのみ捉えられ、然るべき知識によってのみ意味を与えられ、理解される存在――データ。

 ともすれば、ドルモンだけでなく、たった今光の結界を爪で突き破ろうと躍起になっている黒竜も然り。データの世界からやってきていて、その躯はデータで出来ている、という事で間違いない。

 龍輝の背筋をぞわりと悪寒が駆け抜けた。現代社会の科学の最先端が容易く超えられた事に対する戦慄なのか、或いは――彼には解らなかった。

 

 同時に、たかだかデータが、こんな風に鮮明でリアルな姿と性質を造っているなどとは信じられなかった。

 嬉しそうな表情をしたり、涙を流したり、幼い子供の様に喋ったり、疲れた様子を見せたり。幾ら複雑なデータプログラムを造り、ロボットに組み込んだところで、そんな芸当を完璧にやってのける話など聞いたことがない。肉を纏った動物よりも情感豊かな表現が出来るなど。

 それに、たかだかデータの存在がより複雑で精巧で、膨大で時に精神を圧迫するデータの森羅よりも圧倒的な「現実」に干渉できるのだろうか。お菓子を美味しそうに食べたり、地面を爪で抉り出したり。

 

 (――有り得ない、こんな事。訳が分からない)

 

 龍輝は小さく息を吐いた。冷気でそれが煙の様に白く流れた。

 何もかもが有り得ない。情報処理と合理的解釈が、全く追いつかない。思ったよりも、うんと大変な事態になってしまったのだ。ドルモンを秘密のペットとして部屋に住まわせるだけのはずだったのに、ともすれば自分の命すら危うくなっているではないか。

 しかも、その自分はテイマーだかという存在だときた。その証拠として、奇妙な装置を握らされている。

 

 何もかもが有り得ない。だが、残された選択肢は一つしかない。受け入れる以外にない。これは現実以外の何物でもない。夢から醒めるのを待つことは出来ない。

 現にドルモンが危機に晒され、次いで自分も危機に晒されているこの状況から、逃げ出せる事など有り得ない。

 ならば、もはや余計な事を考えず、立ち向かうしかない。

 龍輝は自身の義務を確認するように、自身に言い聞かせるように――はっきりと口に出した。

 

 「ドルモン――あいつを何とかするぞ」

 

 紫の毛並みの小動物はしばし静止して目をぱちくりさせたが、やがて破顔すると再び楽しそうに小躍りし始めた。

 電脳世界の小動物――ドルモンは、然りと首を縦に振り、力強く返事をする。

 

 「うん~!」

 

 突如、カメラのシャッターを切るような音が高らかに鳴り、デバイスのディスプレイに唐突に白い文字列が表示された。龍輝の双眸がそれを映し取る。

 

 『Name - Devidramon

  Level - Adult

Type - Evil Dramon

  Attribute - Virus』

 

 (これは……あいつの、データ?)

 

 瞬時に、彼の思考はデータ処理然とした無機質なものに切り替えられる。

 あの悪魔然とした竜の詳細をこのデバイスが知らせてくれているのだろう。あれがデビドラモンという名前で、禍々しい容貌の通り邪竜であるという事、そしてウィルスの権化である事は分かった。アダルト、つまり大人である――というのだけはどういう事かよく解らない。

 龍輝がその表示データを見終わり、記憶として保存し終えると直ぐさま、見計らった様に画面が今度は別の文字列を表示した。

 

 『Available

- Vaccine Modify ver.1

- Virus Modify ver.1 』

 

 (ワクチン? ウィルス?)

 

 あの黒竜――デビドラモンのデータらしきものが映った時、「ウィルス」という表記があった。それと関係しているのだろうか。龍輝は憶測する。

 幸い英語が結構分かるので、現れた単語の意味を理解する事が出来た。この場合は――ワクチン化ver.1と、ウィルス化ver.1が、使用可能ということらしい。これが、デビドラモンを倒す布石となるのだろうか。

 ワクチン、ウィルス。両者の関係は一目瞭然。

 ウィルスを除去するのがワクチンである。ならば。

 

 (ワクチン化の方を使えばいいのか――?)

 

 そう結論を出しかけた時、未だ言語にならないその思考に応答するように、またしてもディスプレイ上の情報が変化する。

 白銀の光を発する数列の帯がドルモンに向かって放出され、その体を薄光の繭が包んでゆく。

 ドルモンは突然の事態に慌てる。

 

 「わわわ~~!」

 

 (な、何だ!?)

 

 あっけにとられる龍輝の目の前で、ドルモンの体がその外形を残したまま完全に透け、フレームの中流れる0と1の激流と化し――繭を形成するデータとそれが入れ替わる。

 データが書き換わったのだ。

 特定の塩基間にある塩基配列を挿入し、新たな遺伝子が発現するように。

 

 今なら分かる。デジモン――デジタル・モンスター。

 こういうことなのだと。

 凄絶な現象を目の当たりにしながら龍輝は実感し、ドルモンがデータの存在である事を心から理解する。

 

 (――凄い)

 

 心無しか、純粋に感動してしまった。

 だがそれも一瞬の事。すぐに、脅威を退ける手立てを講じる事に龍輝の意識は集中する。

 ドルモンが「ワクチン化」されたのはいい。次にどうするかが問題だ。

 

 (俺がこの結界内にいて、ドルモンを何とか外に出して攻撃させるのが妥当だな)

 

 だが、即座に却下を強制される。

 びきびきっ、と卵殻が割れる様な強烈な音がした。

 デビドラモンの真紅の五爪が、光の半透膜にひびを入れたのだ。

 0と1で出来た薄片が飛散し、結界の内側に恐るべき凶器が突き出される。

 一度風穴の空いた場所から突破するのはたやすい事だ。

 熟慮の猶予などない。

 

 (――まずいな)

 

 龍輝の視界が心の臓が脈動でぶれる。

 速やかに決定を下さねばならない。しかし、ドルモンがむやみに攻撃をした所で、また巧みに躱され、戦いは堂々巡りになるだろう。いや、それよりもドルモンが疲弊して同じ事になってしまう可能性の方が高い。

 このバリアが自在に出せるなら、もう少し楽になりそうなものなのだが。龍輝は眉を顰めた。

 今の間にもどんどん爪は浸食している。

 

 「リュウキ~」

 

 ドルモンは不安そうに名前を呼ぶ。否――じれったそうに呼ぶ。

 その体はもう数列の流れではなく、解像度の高い鮮明なリアリティだが、力が漲っているように錯覚させられる。その力を使うのを今か今かと待っているようにも。

 そして、龍輝を見つめる何処までも澄み渡ったトパーズの双眸。そのまっすぐな眼差しは、求めているようだ。

 ――「テイマー」の指示を。

 

 龍輝はドルモンの視線に、軽く頷いて見せる。

 こうなったら、一か八かでもいい、行動あるのみだ。

 

 「ドルモン、あの爪に向かって、攻撃してくれ」

 

 「うん~」

 

 ドルモンは待ってましたとばかりに口をかっと開き、鉄球を射出する。

 

 「“メタルキャノン”~!」

 

 結界を突き破るデビドラモンの紅蓮の爪に弾丸の如く発射された鉄球が炸裂し、小爆発を起こす。

 爪が一瞬で消し飛び、0と1の屑と消える。

 それだけではない。爪からデータ消失が浸食していくように、デビドラモンの不気味な細長い腕がまるまる一本失せた。

 呆気に取られたように口をあんぐりと開けるデビドラモン。一方、龍輝は心の中で安堵の溜息を付き、ガッツポーズをした。

 

 (よし、ワクチンがウィルスを駆逐したんだな!)

 

 黒き邪竜は続いて鬼の形相になり、残っているもう一本の腕を結界の風穴に突き立ててくる。

 頭に血が上って冷静な判断が付かないのだろう。分かり切った、馬鹿な真似である。

 

 「ドルモン、もう一度攻撃だ!」

 

 「“メタルキャノン”~!」

 

 残りの腕も鉄球によって消散させられ、デビドラモンは足の生えた達磨のようになった。

 あと残されているのは、鋭そうな尾と――逃げ回る為の足、翼だ。

 邪竜の直接的攻撃手段はもはや無いに等しい。

 

 (あとは、ドルモンが結界を出て、麻痺させられる前に何とか一発喰らわせられれば――)

 

 またしても龍輝の思考に反応するように、結界がガラスの破砕音を立て自然に崩壊する。

 龍輝は即座にドルモンに呼びかける。

 

 「ドルモン、あいつにとにかく一撃を食らわせるんだ!」

 

 「うん~!」

 

 薄紫の姿が龍輝の視界の端で勢いよく飛び出し、羽ばたいて後退する邪竜を追う。

 デビドラモンは最早逃げる事に徹するようだ。ドルモンを先程麻痺させた紅蓮の邪眼の光を使おうという気はないらしい。やはり知能が足りないようだが――そちらの方が断然ありがたいのは言わずもがな。

 

 息を呑んで見守る龍輝の前で、繰り広げられるのはワンサイドチェイスゲームだ。追っては逃げ、追っては逃げ。鉄球を放っては躱され、放っては躱され。しかしドルモンはやはり体力があまりないのか、段々と動きが鈍重になって、精細さを欠いてきている。龍輝は口の中がからからに乾き、固唾を呑む。

 

 チェイスゲームは完全に一方的なものではなかった。

 デビドラモンが突如長い尾を前方のドルモンに向かって振り回した。

 凄まじい速さだ。龍輝の目には残像しか見えない。

 しかし、その尾の先が鉤爪のように開き、ドルモンを捉えようとしているのだけははっきり映った。

 ――まずい。

 

 「ドルモン!!!」

 

 思わず龍輝は大声を上げた。額に滲む汗が真冬の冷気で凍るのも気付かない。

 然れども、それは杞憂だった。

 一瞬後には、破壊音を立てて道路に突き刺さったデビドラモンの尾と後方に、すれすれで飛び退いたドルモンの姿があったから。

 かなり深々と突き刺さった尾を、殆ど後ろ向きで体を捩った姿勢で抜こうと必死のデビドラモンと、息を切らしながらも無傷のドルモン。

 

 ほっと胸をなで下ろすと同時に、龍輝はテイマーとしての指示を出す。

 いや、それは指示ですらない。自分の思いの叫びだ。

 

 「ドルモン、最後だ! 行け!」

 

 「“メタルキャノン”~!!!」

 

 ドルモンの口から全身全霊で打ち出された鉄球が、黒き邪竜の背をぶち抜く。

 ウィルスを駆逐するは、ただワクチンのみ。

 身の毛もよだつ大絶叫が凍てつく大気を破壊するかの如く上がり、龍輝はデバイスを持ったまま両耳を塞いだ。

 デビドラモンの胴体中央に巨大な空洞が開く。平穏に仇為す害悪の権現たる数列の連なりが止めどなく流出し――

 ――そして。

 龍輝の手にしたデバイスの画面に、吸い込まれるようにその数列がなだれ込んで来た。

 ディスプレイに、ぱっと新たな表示が現れる。

 

 『Undefined Data:Installed 

volume:178』

 

 気が付くと、デビドラモンの黒く禍々しい巨躯は跡形も無く消えていた。その構成データの全てが、このデバイスに取り込まれたということなのだろう。龍輝はそう推測する。

 続いて、前方からのろのろと駆け寄ってきたドルモンの全身から、白光を放つ数列の帯が抜けて行き、虚空で霧散した。入れ替わりに、虚空より銀糸の様な数列が流入する。

 再び龍輝は思う。デジモン――デジタルモンスター。こういうことなのだと。

 

 「はあー……」

 

 龍輝は次の瞬間、地面にどさりと崩れ落ちた。

 ドルモンが自分の疲弊ぶりにも構わず、急いで龍輝にすり寄る。

 

 「リュウキ~、だいじょうぶ~!?」

 「ああ、疲れただけだ」

 

 無理もない、緊張の糸がぷつりと切れたのだ。訳の分からない非常識な事の連続で、しかも死地に立たされたのだから、心身頭脳共に疲労して当然である。

 ドルモンもかなり疲れた様子だが、龍輝は更に疲れている。 

 

 しかし、ここでへばっている場合ではないと龍輝はしゃんと立ち上がった。今現在は幸いこの場にいるのは自分達だけだが、最初にこの場に居た人達が通報していないと限らない。加え、デビドラモンの凄まじい断末魔は広範囲に渡って轟いてしまった。もう少ししたらしつこく、煩いマスメディアや場合によっては警察が押しかけて来ないとも限らないのだ。そうなったら、大変だ。

 ドルモンの姿を大勢の人に見られるような事になるのも色々面倒だ。と言う訳で、まずは、早くドルモンを一旦家に帰す必要がある。それから疲れたので休むとして、今度こそ病院を目指す。

 

 龍輝は左手の不可思議なデバイスを何とかズボンのポケットに押し込むと、歩道に転がっている花束を拾って雪をぱっぱっとほろい、端的に言う。

 

 「ドルモン、一回家に帰ろう」

 

 「うん~。ドルモンつかれた~」

 

 そういう問題ではないのだが、ドルモンは素直に従った。二人とも寒さのせいだけではなく何となくがくがく震える足を急かせつつ、周囲を気にしながら元来た道を戻って行く。

 

 この時、一人と一匹はすっかり失念していた。

 現場にいたデビドラモンは――二体であった。もう一体を、二人は倒していないのである。

 そのもう一体――上空で傍観していたデビドラモンが遥か彼方へと飛び去って行くのに、二人は全く気付かずじまいであった。




デジヴァイスの機能はちょっと趣向を凝らしてサイバネティックにしてみました。
そう簡単に進化させるつもりはないので……その点はご容赦ください。

あと、今回特に台詞少ないですが、本当にやばい時って喋るどころではないと思うんです。


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地獄界の貴公子

やっとこさ第12話投稿。
別サイド編は次話に続きます。


 風は止むこと無く、音も無く吹きすさぶ。

 

 涅色の淀む混沌は、色欲の渦巻きだ。

 電脳の無機的世界において、その淫欲は孤独な数たちの結合欲となる。虚空を漂う極微細な0と1はその欲により引き合わされ、連なり、意味あるものへと昇華する。あるものは果てしない結合の過程を経て魂となり、中核となり、やがて一つの実体を成す。

 こうして絶えず電脳の生命が生まれる。だがそれも、浄罪の暴風に晒され、繊細な生まれたばかりの電子生命も、容易く四散して再び意味を持たぬ孤独な数へと還る。

 色欲の大地では、こうして絶えず破壊と創造が繰り返される。

 

 

 天は昏い。何層にも垂れ込める厚い黒雲は、この世界を光より隔絶する壁の如し。

 時折閃く稲妻によって、鬱々とした静寂と闇が破られるに過ぎない。渇ききりひび割れた大地を、迅雷が断罪するように灼き焦がしてゆく。

 

 此処は大罪を背負いし諸魔王、燦々たる栄光溢れる天より墜とされし堕天使、そして死した魂が彷徨する暗鬱な世界、ダークエリア。その第二圏、七大魔王に列席する“色欲の”リリスモンが統括する地である。

 

 かの魔王の館は、ただでさえ暗い中更に濃紫の霧に常時覆われた一帯にひっそりと佇む。全三階建てのこのこぢんまりとした幽玄な洋館は、「紫雲薫る館」という芳名で呼ばれる。

 ダークエリアの何処を探してもかの如く雅な名の館はあるまいが、邸の大きさと豪勢さでその主の権力如何が分かるというきらいがあるダークエリアに於いては、今一つ弱い印象を与えるのであった。

 加えて、此処は第二圏というダークエリアの浅瀬から少しばかり進んだだけのような領域だ。より深部の領域を統治する魔王の方が力としても強大という認識傾向もあるため、リリスモンの魔王としての力は拠点の大きさ云々は別にしても、概して軽視されやすい。

 

 その「紫雲薫る館」、某一室にて。

 

 「ふうむ、成る程」

 

 一人の男が、悠然と脚を組んでソファに腰掛けていた。

 

 嫌でも目を引くような風貌だ。随分と奇特だが、同時に典雅でもある。二本の雄々しい角を生やした獣のマスクをすっぽりと被り、狼の獣毛の様な長い銀髪を揺らめかせる。すらりとした長身には、浅黄色の縦縞模様が入ったタキシードを纏う。その上には、赤と白を基調とした外套を羽織る。

 マスクよりのぞいた口元は微笑みを絶やさず、胡散臭い、或いは飄々とした印象を与える。

 

 「しかし、その件は私もどうにも致しかねますな。その消息を絶った究極体ですが、『たったさっき』新たに造られたデジモンなんでしょう? なら、幾ら森羅マッピングシステムといえどもデータが登録されていないから照会不可能、つまり追跡不可能ですよ」

 

 男は左手に手鏡のような端末を載せ、そのディスプレイに向かって喋りかけている。狭波長域(タイトバンド)での会話なので、会話相手にしかその内容は聞こえないし、傍から会話を拾う事も出来ない。傍聴や盗聴を防ぐ事の出来る、密談における必需システムである。

 

 「次元擾乱マッピングの方で、な……何とか足取りを追えないものでしょうか?」

 

 「そのシステムは、寧ろそちらがお持ちでしょう?」

 

 

 緊急事態なのか、冷静さを明らかに欠いている会話相手に対し、男は達観し尚且つ事態を楽しんでいるような悠然とした態度である。喋り口から滲み出るそれに相手方も気後れし、ますます慌て訥弁気味になってゆく。

 

 「あ、はい……此方に、あり、ます……」

 

 「だとしても言っておきますが、無理でしょうね。そのシステムは、往々にして空間、次元の歪曲移動をする輩にしか利用価値がありません。その究極体が、そういう移動方法を採るとも限らないでしょう? それに、万が一そういう移動をするのだとしても、消息知れずなら広範囲をサーチしなければならなくなる。精度は自ずと下がります。結局は追跡不可能」

 

 物分かりの悪い生徒に懇切丁寧に説明してやる教師の様に、男は詳細に話してやる。ただ、この場合は「この程度の事は分かっているはずだろう」という種類のものに違いない。

 相手が無言でいるのを、自分の言った事を理解したのか、或いは理解しようと躍起になっているものだと男は解釈する。いずれにせよ、次に彼が突きつける結論には何ら影響がない。

 

 「そういう事で、今回はそちらがどうにかして頂きたい。まあ、出来ない可能性の方が高いでしょうけれどね。私の方では尚更どうしようもない」

 

 「はあ……申し訳、ありませんでした……」

 

 大変頭が高い態度である。男はかろうじて相手が口に出した謝罪の文言をさらりと無視し、とどめの釘刺しとばかりに続ける。

 

 「それに、ですよ。最初に言っておくべきだったでしょうけれども、私は確かにメタルエンパイアの客将のようなものですがね。便利屋とも違うし、尻ぬぐい役という訳にも行かないんですよ。D-ブリガードという半ば秘密組織の特性を持つものの事に関してなら、尚更、ね」

 

 「え、ええと……それは」

 

 釘を深く打ち込んでやる。酷く重苦しい沈黙が流れた。ディスプレイ越しに、リアルワールド風に言えば「血の気が引く」音が聞こえて来そうである。

 男はより笑みを深くし、追撃を掛ける。その人を食ったような不遜な笑みは、さながら掌上で球を転がすか、玩具を弄ぶ時のものだ。

 

 「いや、私はこれでも性悪ではないし、姑息でもありませんから、ここぞとばかりに外部に機密情報を垂れ流すような真似は致しませんよ。ご安心下さい。ただ、ですよ」

 

 男は端末に唇を寄せ、低く囁く。耳元で脅しを掛けるように。

 

 「今回の件で、私はお宅より一段上の所に上ったという事をお忘れなく。では」

 

 「ア、アスタモン様――」

 

 相手は何か言いたそうにしていたが、貴族然としたこの男――アスタモンは親指を軽くディスプレイの中央に触れさせると、容赦なく端末の通信を切った。ぱたんと畳み、右袖の中にそっと差し入れる。

 

 今相手は顔を湯気が出る程真っ赤にしているかも知れないな、と想像しアスタモンはくくっ、と短く笑った。

 

 相手から相談を持ちかけられたのに、逆に伸すような真似をしてしまったが彼は少しも悪びれない。何と言っても一人対大帝国のビジネス、この位強い姿勢を見せなければやっていられないという姿勢の表れである。

 

 

 アスタモンは、自分が戦闘に於いても交渉に於いてもかなりのやり手であるというのを自覚していた。「ダークエリアの貴公子」なる通り名も然り、七大魔王以下の魔族ならばおそらく最も力のあるデジモンであろう。同時に、完全体でありながら並み居る究極体を凌駕する実力を持ち、ダークエリア中央部に所属している身でもあるので、羨望の的でありながら同時に嫉妬の的でもある。

 地獄界には敵も障害も多い。寧ろ味方よりも多い。身を守り、尚且つ地位を保つ為には、何より己が何に於いても強くあらねばならない。一瞬でも弱腰になる事は、アスタモンにとって死を意味するのである。それにしても、今回の相手方は随分な小物であったようだが。

 

 (メタルエンパイアにダークエリアはサイバー面で遥かに劣っているはずなんだが。あちらが森羅マップを持っていなくて、こちらは持っている――というのは、随分と奇妙な話だな)

 

 デジタルワールド全域で、最もサイバネティクス系の技術が発達しているのは英明な王、キングチェスモンと勇猛な女王、クィーンチェスモンの治める機械大帝国「メタルエンパイア」だ。ダークエリアにかろうじてあるサイバーシステムも、かの帝国からの輸入ものである。

 しかし、あらゆるデジモンの所在を特定出来る神の目の如きシステム「森羅マッピング」は、ロイヤルナイツともう一つはダークエリアにあるのみ。尤も、そのダークエリアにある一つも、所詮はロイヤルナイツ達のそれの劣化コピーに過ぎない。それでも、想像を絶する働きをしてくれる事に間違いはないのだが。

 

 そして、アスタモンは今の連絡で最も気に掛かる事を思い巡らす。

 

 

 (人工的に造られた究極体――か)

 

 アスタモンは、今し方手に入れた情報をゆっくりと味わう。新鮮で瑞々しい、だが同時にひどく甘美で中身の詰まった果実だ。噛めば噛むほど、その甘みが滲み出て口一杯に広がる。

 

 人工的に生み出された究極体デジモン。大変に心惹かれる話題である。

 

 メタルエンパイアの秘密軍事組織、機械化旅団「D-ブリガード」からたった今入った緊急連絡。その旨は、撃墜された完全体デジモンを回収して暗黒物質適応実験の検体にした所、異常進化した挙げ句暴走し、研究所を飛び出し消息を絶ったという事だ。

 誕生したばかりの、しかも人工的に造られたデジモンとなれば、イグドラシルのデータベースには登録されていない。イグドラシルはデジタルワールドの全能神にして唯一神。全てのデジモンの自然進化の系譜はイグドラシルの知りうる所であり、その例に漏れる事はない。だが、あくまでそれは「自然進化の」場合のみ。

 

 よって、人工的に造り出されたデジモンは、道理より外れたイレギュラーな存在という事になる。

 

 データベースに載らないデジモンの情報は参照しようもない。要は兵器転用した場合、事前情報などが流出しない限り、敵の方としては対策の取りようがないのだ。

 上手くその世界の条理から外れた兵器を運用してやれば、蹂躙――一方的な殺戮劇とて不可能ではない。

 メタルエンパイアは陸海空対応の兵器デジモンの開発に取り組んでいるが、その最大の利点は実は「イグドラシルのデータベースに記録されない」事にある。しばらく時間が経てば、自動的にデータが拾われてデータベース内に保存されるのがとどのつまりだが、それまでの空白期間内に仕掛ければ、絶大な威力を発揮させる事が出来る。

 

 貴公子は、組んだ左足の膝頭をぐいっと自分の方に引き寄せた。

 

 (何とかその究極体を捕らえ、手なずけられないものかな。対ロイヤルナイツのこの上なく強力な兵器になりそうなものの)

 

 アスタモンは普段から笑んでいる口元を、更に綻ばせる。空想が実現する可能性は決して高く見積もれないが、事がその通りに運んだならどんなだろうと想像してアスタモンは一人悦に入る。

 

 

 (その究極体に、現職のロイヤルナイツでも特に厄介そうな連中――紅き聖騎士デュークモン、竜帝エグザモン、ここら辺――を相手取らせたいものだ。そしてこの私はその他を――と)

 

 アスタモンは、傍らに立てかけてあった銃を持ち上げ、膝の上に置いた。

 二連のマシンガンだ。ほっそりとして美しい漆黒の銃身は静謐な艶があり、眠りに就いているようにも見える。事実、久しく火を噴いていない。装飾品として持ち歩いてやるというのも悪くはないが、そろそろ活躍の機会を与えてやりたいというのが、持ち主の素直な気持ちである。

 

 だが、帝国とのパイプ役という枢要な地位にある事を考えれば、おいそれと戦線に立って銃撃戦を演じるのは許されたものではない。自分がダークエリア中央の主要ポストに就いているという満足感と同時に、大変な残念さもある。

 今は公人として私欲を捨て去るべきであろう。アスタモンは一つふうと溜息を吐くと、思考を切り替えた。

 

 (次元擾乱マッピング――か)

 

 

 先程、相手が口にした事である。

 異次元空間を経由して別の地点に移動する事の出来る輩、その所在を特定できる高度な技術だ。ダークエリアでは、実用化はおろか、技術の断片すら入ってきてはいない。

 具体的には、デジモンのテクスチャ領域や機能領域を一切無視して全て「純粋な」0と1のみで捉え、その位相変化によって場所を割り出す。

 詰まるところ、それ以外の用途はほぼ皆無だ。よって、相手方より連絡のあった消息を絶った究極体が空間移動術でも使用しない限り、全くの役立たずとなる。

 しかし此処で、アスタモンは次元擾乱マッピングで移動する対象を特定出来る、もう一つの可能性を閃いた。

 

 

 (――もう一つあるじゃないか。いやこれは、気付いて然るべきか)

 

 ダークエリアの貴公子は自嘲気味に口を歪めた。

 空間移動術のみならず、次元を擾乱させる方法がある。それは、そういうシステムを使用して移動する場合だ。

 局所的なトランスミッションシステムから、長距離移動を一瞬で可能にするそれまで。更には――次元世界を超えるものまで含まれる。

 

 (アクセスポイントから、リアルワールドへ――)

 

 未だその所在の殆どは濃霧の中に閉ざされた、二世界の中継地点、アクセスポイント。万が一、そこを通って異なる次元世界――リアルワールドにその究極体デジモンが到達したのだとしたら。

 そこまで想像を膨らませて、アスタモンは突然現実的な思いに引き摺り下ろされた。

 

 「いや、まさか。妄想も程々にしないとな」

 

 はっきりと独語すると、貴公子はくくっとくぐもった短い笑い声を上げた。こういう笑い方が彼の常らしい。

 

 (そう言えば、ロードナイトモンとやらの匿っていたデジモンも、無事にリアルワールドに逃げおおせたのではなかったかな)

 

 その姿を実際に見たことはないが、名前はドルモンとかいう成長期デジモンであるらしいというのをアスタモンは知っていた。どうやら秘めた可能性を全て発揮すれば、七大魔王数体を同時に相手取り尚且つ勝利を収める力を発揮できるそうだが、流石に誇張された噂だろうと思う。

 

 デジタルワールドの守護騎士ロイヤルナイツとあろう者が、総力を挙げてたかだか成長期でいつ究極体に進化するかも分からないデジモンに全てを賭けるような真似をするなど、馬鹿馬鹿しい事この上ないというのが率直な感想だ。実際にロイヤルナイツの席を一つ犠牲にした――その事に、何の価値があるのか。甚だしく疑問である。

 

 (まあ今頃は、デビドラモンの手によってデータの屑に成り果てているだろうがな。秘めた可能性とやらも含めて)

 

 自分の主――リリスモンが特定した秘するリアルワールドへの門、アクセスポイント。そこから万が一の可能性というものを憂慮して、ドルモンを抹殺する為に差し向けた刺客、「複眼の悪魔」ことデビドラモン。そのダークエリアでも屈指の邪悪さと凶暴性に、成長期如きが太刀打ち出来るはずもない。

 

 ロイヤルナイツの努力は、いよいよ徒労に終わるのだ――。アスタモンは、残酷な喜悦に笑みをより一層深めた。ドルモンとやらなど、脅威でも何でもなかった。鼠の巨大な影のようなものだ。寧ろ、残存しているロイヤルナイツの邪魔が入る方が余程警戒すべき事項であろう、と。

 ただ、命と引き換えにリリスモンを長期の再起不能状態に陥らせた薔薇輝石の騎士王の功績は、評価してやるつもりだ。

 

 ふう、ともう一つアスタモンは溜息を吐いた。

 今の所、自分の出番というものは無いらしい。あれこれと想像の翼を広げるのも良いが、そうした所で現実世界はどうにもならない。

 

 「さて、少しばかり暇を潰しに行く事にしよう」

 

 ダークエリアの貴公子は愛用の銃を携えてゆらりと立ち上がり、前方の扉より颯爽と出て行った。




ダークエリアの構造は、ダンテの神曲をベースにしています。


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濁れる闇

いつもより1000字は多くなってしまいました。



 シャンデリアの灯りで、高貴の色に彩られた爪が妖しい光沢を放ち、白魚のような手が浮き立つ。もう一方の醜悪な怪物然とした黄金の手はそっと袖に潜ませている。誤って触れたものを腐り落ちてしまわせないように。

 グラスを傾けると、くぷり、とグラスの蒼い中身が揺れた。

 喉に流し込んだ液体が五臓六腑に染み渡ってゆき、じわりと全身を心地好い熱さに包んだ――が、ずきりという鈍重で激烈な痛みが襲いかかり、彼女は艶麗な顔を歪めた。

 

 思わず自分の腹部に目を落とす。そこには、でかでかと巨大な風穴が空いている。

 膿んだ傷口が見えるとか肉が抉れているとかいう生々しいものではなく、ただ衣装の一部が消し飛んだりして綺麗な円を造っているだけだ。だが、なるたけ迅速に処置を施さねば、見るに堪えない状態になり、遂には彼女自身がデリートという路を辿っていたであろう。

 だからこうして魔族を癒やす黒羽毛のソファに腰掛けて、穴がこれ以上開いてゆきデータが流出するのを食い止め、尚且つ徐々に修復されるのを待つ代わりに、四六時中じっとしている事を強要されている。

 

 (ロードナイトモン――薔薇輝石の騎士王)

 

 彼女――色欲の魔王、リリスモンは目を閉じてぼんやりと沈潜し、自ら手に掛けた相手の事を考えていた。

 あらゆる物を腐食させる魔爪で貫いた敵、己の命と引き換えに自分にこの傷を負わせた敵。

 そして敵ながら、憎むと同時に賞賛すべき敵。だがそれ以上に――自分達ダークエリアの眷属からすると、「騎士道」とかいう偶像にしがみつく実に愚かな者の一人でもあった。

 

 愚直なまでに騎士道に殉ずる――そうする事が、何か実利を彼らにもたらすのだろうか? 形あるものを得させてくれるのだろうか?

 確かにロードナイトモンは自らの死を賭して“ロイヤルナイツの希望”若しくは“デジタルワールドの希望”である幼稚な成長期デジモン――ドルモンを守り抜き、無事にリアルワールドに送り届けた。しかもこの七大魔王が一角、“色欲の魔王”たる自分を当分の間行動不能にしてくれた。

 

 だがそれも結局は虚しい。価値などなかった。ロイヤルナイツという連中は大層ドルモンに期待を掛けていたようだが、まるで自分らの力が信用できないばかりに神話に縋っている風ではないか。伝説神話の類など、躯の殆どを尾ひれで埋め尽くされた、干からびた死骸に過ぎないというのをよもや分かっていないはずはない。まるで目を瞑って現実を直視するのを避け、白昼夢に耽っているようだ。

 そうでないとしても、自分が送り込んだ凶悪な闇竜、デビドラモンによってドルモンとやらは今頃くびり殺されている事であろう。

 

 実に滑稽だ。そして思わず涙を零してしまう程に愚かで哀れだと、リリスモンは心の中でせせら笑った。いや、実際に嗤っていたかも知れない。

 

 (わたくしには……やはり分かりませぬ。それ程までに空しさを愛し、偽りを求めるのが)

 

 四聖獣や三大天使など、殆どただの「シンボル」でしかない存在と異なり、実際に稼働しているネットセキュリティ最高位の騎士共にこんなきらいがあるのでは、デジタルワールドも救いようがない。

 

 ――やはり、粛清……浄化の必要がありますわね。 

 

 その作業も然程労力は要らないかも知れない――艶麗な魔王は、ぞっとするような底知れぬ深い笑みを湛えると、グラスの中身をもう少しばかり喉に流し込んだ。

 

 するとその時、リリスモンの正面の扉から何かが擦り抜けるように入ってきた。

 

 「リリスモン様……!」

 

 音もなく宙を走るように入ってきたのは、まさに幽霊、死神然とした風体の者だった。鼠色の布地にすっぽりと身を包み赤いマントを羽織り、身の丈程もある鎖鎌を担いでいる。顔らしき顔もないが、相当切羽詰まった状態であろう事は声からしても明らかだ。

 

 (はて、どのファントモンかしら。アザルに派遣したファントモン?)

 

 同じデジモンといっても一体だけではないし、個体識別番号も名前も付いているわけでもないので見分けるのは困難だ。色欲の魔王は首を傾げつつ姿勢を正すと、相変わらず笑みを浮かべたまま尋ねた。

 

 「ファントモン、ご機嫌麗しゅう。どうしました、そんなに慌てて?」

 

 「そ、それが……」

 

 死神――ファントモンは微かに前傾すると、口籠もった。何とか落ち着こうとしている様だ。

 

 

 「只今アザルより戻って参りましたが……その、私を除く完全体6体成熟期11体……全て、アザルに潜入する前に殲滅させられました……」

 

 忽ちリリスモンの顔から笑みが消え、双眸が拡大し、石の様に固まった。思わず身を前に乗り出す。

 

 「何者なの!? そんな真似をしたのは……」

 

 「“暴食の魔王”、ベルゼブモン……様、です……」

 

 パリン。

 激烈な破砕音がした。

 ワイングラスが床に落ち、粉々に砕け散った。ファントモンが衣の下でひっと短い悲鳴を上げる。

 蒼い中身が一滴余さず零され、黒羽毛のカーペットにじわじわと染み込んでゆく。

 ぎりぎりと握りしめたリリスモンの両の手が、小刻みに震える。

 

 

 「失礼致します、リリ――」

 

 間が悪く扉がギギギと開く。悠然と入ってきたのは、二連銃を携えた貴公子然とした風体のデジモン――アスタモンだった。

 しかし呼びかけた相手の様子が目に入るなり、彼の不敵な笑みはさあっと失せ、舌が凍り付き――そして全身が凍り付いた。

 

 「あの蝿の王……糞山の王めがあ!」

 

 耳をつんざく怒号。

 余りの剣幕とに、その場に居合わせた者の息がぐっと詰まる。アスタモンは肩をびくりと震わせ、唖然とした。

 彼は半開きの扉から身を乗り出したまま、おっかなびっくり獣のマスクの下から目だけ動かして部屋内の詳しい状況を確認する。

 割れたガラス片が散乱したカーペットは、一部がやたらてらてらと濡れて光っている――中身のまだ入ったワイングラスを投げ落としたのだろう――。そして、その張本人であろう者――リリスモンは、ソファに腰掛けたまま身を乗り出し、自分など、いや、そこにふわふわ浮かびおどおどしているファントモンまでも目に入っていないという様に鬼の形相で拳を握りしめ、震えている。

 

 七大魔王が一角、“暴食の魔王”ベルゼブモンとの間に何かがあったのだろう。元々“色欲の魔王”が“暴食の魔王”をいたく嫌っていた事は有名であり、余程の被害を受けたのであればこの怒り様も当然かも知れない。――が。暇潰しのつもりで、ごくごく軽い気持ちで入ってきたつもりだった者の身にとっては、現状は相当応える。

 リリスモンは怨嗟の怒号を続ける。溜まっていた鬱憤を今だとばかりに吐き出す様に。

 

 「今度は我らダークエリアの眷属まで己の欲望を満たすための慰みものにするとは! そして知らぬとは云え我らの妨げとなる……断じて許せぬ……!」

 

 両耳を塞ぎたい衝動に駆られながら、どうやら部下を徒にデリートされたらしい、とアスタモンは見当を付けた。詳しい事情は知る由もないが、そこでふわふわしているファントモンがたった今事を伝達しに来たのだろう。

 

 「ファントモン、アスタモン!」

 

 「……はっ、何でございましょう」

 

 「は、はい……」

 

 リリスモンの鋭い、だが掠れている声の呼びかけに、二人は驚きながらかろうじて応えた。実際より吃驚しているのは、未だに完全に部屋に入れずに半身だけ乗り出した状態でいるアスタモンだった。自分の事など怒りのあまり目に入っていないものとばかり思っていたのだ。

 

 「“血塗られし瞋恚の館”へ赴き、事の次第を説明するのです。そして、究極体数体を駆動してくれるように約束を取り付けなさい……あの蝿めを屑も残さず叩き潰してくれるために!」

 

 最後の言葉は怪物が発したのかと錯覚する程であった。リリスモンの顔は羅刹さながらの凄まじい剣幕だ。アスタモンは私が行く必要はあるでしょうか、と言い掛けたが、寸前で言葉を飲み込んだ。この状況で何か言ったら、瞬く間に殺されるような気がしたのだ。

 色欲の魔王は、今だけ憤怒の化身に成り果てたように、テーブルを左掌で思い切り叩いた。砕け散りそうな勢いだ。

 

 「粛清よ……粛清! これは粛清! 不遜にも七大魔王の椅子に座りながらも自分の地位がどれだけのものか一切自覚せず、領地を放逐し、気狂いのように戦いだけを求める、糞喰らいの、鉄血喰らいの、腐肉にたかる小蝿の王! それに対する! 本当ならばわたくしが自ら赴きたい所だ――」

 

 そこに、愚かにもファントモンが非常に質の悪い油を注ぎ入れた――もとい余計な事を口にした。

 

 

 「誠に恐れ多いことながらリリスモン様、究極体級のデジモンならばバルバモン様麾下の方が遥かに多く――」

 

 アスタモンの顔がこわばった。馬鹿が、能無しが。空気を読め。要らぬ事を言うな――。

 

 「黙れえ!」

 

 ヒステリックな叫びと共にリリスモンは再び左手を振り上げ、激しくテーブルの面を叩いた。破裂のそれに似た音で部屋内の大気がびりびりと震える。

 

 「あの古狸の名前を出すなあ! わたくしの前で!」

 

 アスタモンはもはや遠目にリリスモンの顔を見る勇気も無かった。色欲の魔王は、暴食の魔王以上にバルバモン――強欲の魔王を嫌っている、というより寧ろ憎悪しているのだった。その程度たるや、言葉で表現してもしきれない。

 

 

 「あの狸爺をこれ以上つけあがらせてやるものですか! 協力を仰いだ所で、此方に究極体級が居ないのを嘲弄しいつもの財産自慢が始まる! それに森羅マッピングの使用権も招集権も全部あの爺が独占している!」

 

 息を荒げながら、尚もリリスモンは続ける。腹の傷に響かないのか、過呼吸にならないのか、その怒号に圧されずにいられる冷静な者がこの場に居たのなら、甚だ心配するだろう。

 

 「それだけではありませぬ!蝿の王をあの古狸が配下に引き入れようとしているのをわたくしが知らないと思って!? それにアザルへの派遣はわたくしの独断! どういう意味か分かりますわよね!?」

 

 リリスモンの眼は血走り、虚空を泳いでいた――というより、見えない相手を空間を超えて睨み付けていた。どういう意味か分かっているのかそうでないのか、いずれにせよファントモンは宙で左右にがくがくと無言で震えている。迂闊な発言を詫びるべきか、詫びた所で焼け石に水だろう――と二途に思い悩む様に。

 

 「アスタモン、外に出ていなさい……わたくしがいいと言うまで」

 

 「は……?」

 

 

 

 一瞬アスタモンにはその意味が分からず、きょとんとして固まった。大体軽はずみな事を言ってリリスモンの機嫌を甚だしく損ねたのは自分でなくて、ファントモンの方だ。間が悪く入って来てしまったのは確かだが、締め出される程の事だろうか。

 約一秒間考えて、アスタモンはやっと得心がいった。そして、ファントモンの方をちらりと見る。此奴に表情というものが無くて、正直良かったと思った。

 

 「……了解しました」

 

 ダークエリアの貴公子はするりと部屋の外に出、扉をしっかり閉めた。古い扉が軋む音がいやに耳障りだ。

 彼は身を翻して扉に背を向け、楽しい事を考えて気を紛らわそうと決めた。扉は古いが防音が完璧な部屋の中で今何が起こっているかを想像するだけ無駄であり、無駄に精神を磨り減らす事にもなる。聞こえなくていい聞こえない音、見えなくていい見えないものに恐れおののく必要などないのだ。

 

 「アスタモン、もう入ってよろしくてよ」

 

 暫く下らない事を思い巡らせて時間を潰していると、先程の羅刹の如く怒声からは一転、耳を疑う程嫋やかな声が扉の向こうよりした。とはいえ、普段の声はこれでありあれが異常なだけだ。

 

 「……失礼致します」

 

 彼はやや躊躇しつつ扉を開け、中に入った。

 宙に浮かぶ死神の姿は跡形もなく消え失せていた。ソファにはさっきの激昂ぶりは夢だったかと思うほど穏やかな様子のリリスモンが座っていた。

 デジモンの命一つで済んだのだから色欲の魔王の瞋恚など大した事はないのかも知れない、とアスタモンは思った。憤怒の魔王のそれは遥かに勁烈に過ぎ、眼に入るもの全てを滅ぼさない事には鎮まらないのだから。

 

 さて、一体どういう事情が蝿の王との間にあったのか、それを知らなければならない。

 

 

 「恐れながら、リリスモン様……一体如何なる事がおありなのでしょうか?」

 

 

 そうアスタモンが訊くと、艶麗な色欲の魔王は身を震わせたように見えた。湧き上がる怒りと戦っているのか。

 

 

 「……わたくしが先日アザルに部下を幾らか派遣したのは知っていますわよね?」

 

 「アザルと言いますと……『黙示のアザル』の事でしょうか?」

 

 「そう、『黙示のアザル』。どういう場所かはお分かりでしょう?」

 

 「無論、存じております」

 

 その場所はダークエリアではなく、光ある地上界に存在する。地下に埋もれたただの砂っぽい巨大な遺跡に過ぎないのだが――実際には違う。ロイヤルナイツでさえ、七大魔王でさえ恐れを成し逃げ出すような存在が深部に眠っていると目されている。それが具体的にどんな存在なのかはアスタモンは知らないが。

 

 「派遣した完全体7体、成熟期11体がファントモンを残して全員、あの蝿の王――ベルゼブモンの凶弾に斃れたというのよ」

 

 「ふうむ」

 

 アスタモンは顎に手を当てる姿勢を取った。暴食の魔王の姿を実際に見た事はない。しかし、かの者が二丁銃を操り、「鉄の獣」とやらを駆って戦いに臨む話は有名だ。その神速で繰り出される銃撃を逃れる術などないという。ファントモンとて標的になったのならば例外ではなかっただろうが、生き延びて戻って来たのはおそらくあの死神の実体が「この次元に存在していなかった」からであろう。流石の神速の銃撃といえども、異次元にまで達しなかったということか。

 だとしたら、この目の前に座っている艶麗な妖女はどのようにしてファントモンを――と考えかけて、アスタモンは思考を止めた。

 

 

 

 「了解しました。“血塗られし瞋恚の館”――でしたね。そこに私が事情を説明し、更に麾下のデジモンを派遣して頂けるよう交渉しに伺えばよろしいので?」

 

 リリスモンは然りと頷いた。

 

 「そうよ。さあ、直ぐに行って唯一の我が同士、デーモンに約束を取り付けてくるのです……!」

 「了解しました。それでは行って参ります」

 

 そう言いつつ、アスタモンは微かに口を歪めた。傍目に絶対分からない程度の――渋っ面である。

 

 (第五圏――か)

 

 さっきこそ状況が状況だったのでろくに考えなかったが、よく考えるとダークエリア第五圏は、鮮血色の泥沼、スティージュの中に広がるひどく気味悪い空間ではないか――という事だ。憤怒の魔王デーモンが統治する場所というだけあって、そこかしこから己の堕天を不当だと激昂するデジモン達が居て、非常に殺伐とした雰囲気が漂う。

 魔王の邸宅同士はテレポーティングシステムで直結しているため、心底気味の悪い沼を潜って館まで行く必要性は全くないのだが、血の霞でけぶったような空気の邸宅それ自体アスタモンは苦手であった。加え、ダークエリア住まいの究極体デジモンにはアスタモンをいけ好かなく思っている者も多く、そういう意味でもアスタモンはどうにも気が進まないのである。

 

 しかし、上司――リリスモンは今こそ収まっている様に見えるが、腹の内は――といってもあの通り消し飛んでしまっているが――相当煮えたぎっている。この状態の色欲の魔王にほんの僅かでも逆らうような真似をすると、即座にデリートされだろう。実際にたった今、消されたうつけがいた訳であるし。

 此処は素直に従うのがリリスモンの為にも――自分の為にもなる。

 だが一方で。 

 

 

 (暴食の魔王――ベルゼブモン様。私が斃すというわけにはいきませんかね)

 

 自分にはメタルエンパイアとのパイプとなる役割があり、またリリスモンの伝令であるという重要なポストにいる。おいそれとそれを投げ出して戦いに赴く訳には行かない、束縛された立場にある。

 実際には、アスタモンは自分の立場を自由に乏しいものだと感じた事はない。だが今、ベルゼブモンという名を眼前に突きつけられ、正直気分が高揚するのを抑えられない。

 

 ベルゼブモンは、リリスモンの名にかけて、怒りにかけて、そして障害を取り除く目的に於いて抹殺されるべきだ。

 だが同時に、同じ銃使いとして――どちらの方が優れているのか試してみたい気持ちはある。右手に携えた二連銃の引き金を、軽くカチリと引いてみる。

 

 (いつか相対する事が出来るその時まで――暴食の魔王よ、生きていてもらいたいものですな)

 

 ダークエリアの貴公子は身を翻して扉の向こうに消えながら、人知れずその胸の内で願った。誰にも打ち明けるつもりはない、打ち明けてはいけない思いだ。

 

 地獄界の闇は深いが、それは何色もの絵の具を混ぜ合わせたような濁りだ。

 




詩篇4-3のテキストをちょっとだけお借りしてリリスモンの台詞に利用しました。別に宗教的な意味とか、コンテクストとかはありません。

アザル=atharはアラビア語で「遺跡」ですが、もしかしたら発音はアダルの方が近いかも知れなかったです。が、私個人の好みによりアザルを採用しております。



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Other Digitals in Real

ようやく投稿。また長くなりました。


 びゅん。

 二つの刀身は超速で空を切り裂き、標的の胴体に半月の弧を描き襲いかかってゆく。

 残像すら残らぬ、弾指の内に繰り出された苛烈な剣撃。まともに喰らえば最期、躯が一繋がりになっている事はもはやあるまい。

 互いに相手を殺す気は皆無。だが、殺す気で掛からねば掠り傷も与えられぬ。なればこその激烈な斬撃。

 二枚の刃の進路に、互いが立ちはだかる。

 軌跡は宙で交わり、高らかに金属音を打ち鳴らす。張り詰めた大気は弦を弾いたように震える。

 微かに聴覚を撫でる、舌打ちの音。慚愧の念からの呟き。刹那、離れる二剣。

 だが休戦などではない。幾許も経たぬうちに路は交わり、再び邂逅する。

 

 片方はその長さ五尺はあろうかと思われる非常に幅広の両刃剣だ。中心を走る真紅の部分に、絡み合う白蛇と黒蛇のレリーフが施されている。

 もう片方は、何の変哲もない真直の長剣である。それは相手と比べるとあまりにも心許なく、到底激烈に過ぎる一撃を受け止める事など不可能のように思われる。しかし、最早視覚で捕らえる事など不可能な速度で繰り出され空を破壊するそれは、完璧に大剣の勢いを殺ぐ事に成功している。

 

 「いっつも思うんだけどあんたさあ、何でそんな細っこい剣であたしの全力が防げるわけ!?」

 

 変わり映えしない局面に業を煮やした大剣使い――剣と同じ身の丈の、蛇を模した兜を目深に被り、蒼い三つ編みを左右に垂らした軽装の少女だ――が、剣撃を繰り出しながら声を荒げる。細い片腕のみで大剣を打ち振る姿は、さながら小さき鬼神だ。

 長剣がしなるように空を薙ぎ、又もや虚空を疾駆する大剣の行く手を阻む極細の壁となる。

 剣士がふっ、と漏らすのは微笑――否、嘲笑だ。

 

 「学習能力がないですねえ。上手くいなしているからに決まっているでしょう。全く、筋肉馬鹿とはこういう人の事を指すんだとつくづく思いますよ。神話の中のミネルヴァ女神は知恵を司っていますのにね」

 

 これでもかという位毒を含ませた口調。純白の体躯をした鳥人の戦士、と言うべきであろうか。長身の成人男性と然程背が変わらぬ彼は、鷲の頭部に似たヘルメットを被り、翼を模したマントを羽織っている。彼の右肩に激しい剣戟にも拘わらずしおらしく留まっているのは、黄金の美しい鳥だ。

 

 ぷつり、或いはかちん、という音が少女の頭部より聞こえたような気がした。彼女は激情を一層燃え盛らせる。大剣が振り下ろされる速さが心なしか増したようだ。

 

 「あーうっさいうっさい! 神話と現実は別! だいたいあたしも好きでミネルヴァモンって名乗ってるんじゃないの! それに……」

 

 鳥人は又も少女――ミネルヴァモンの繰り出した一撃をあしらい、ついでに話も聞き流す。キン、キンと金属が衝突する絶え間ない音を背景音楽にしながら。

 ふう、と溜息が緊迫した空気を伝っていく。

 

 「ロイヤルナイツの成員数が半数を切ってしまった今、我々が空いた大穴を埋められるだけの気概を持って活躍せねばならない時が来ます。それが……オリンポス十二神族が一柱とあろう者が、こんなに弱くていいんですかねえ?」

 

 「あ……あたしが弱いぃ!?」

 

 小柄な狂戦士は目庇の下目くじらを立て、顔を茹で蛸のように真っ赤にした。

 

 「反則技ばっかり使うロイヤルナイツのお偉いさん方と比べられても困るんですけど!? ものが違うんですけどものが!」

 

 「技に反則も何もありませんよ。敵を倒せるか否か、だけでしょう」

 

 「微妙に論点ずらさないの! あたしが言ってんのは、別格の連中と同列にあたしを語られちゃあ困るっていう話! あんたはロイヤルナイツの腐っても補欠みたいなもんだから、まあ同じ土俵で考えていいけどさ! あたしにまでああいうレベルを要求するってのは、ちょっとおかしくない!?……」

 

 そうミネルヴァモンが言い終えた瞬間、視界から鳥人の姿が丸っきり消え失せた。

 事態の急変に、彼女は剣を構えたまま静止させる。

 出し抜けに、感覚センサーを蝕む強烈な冷気。

 超速で飛び回る原子は時を止められたように、動きを完全に静止させる。満ちる非情なる静寂。大気は張り巡らされた緊張の糸ごと凍り付き、ミネルヴァモンの周囲空間は大紅蓮地獄に一変する。

 

 ――あいつ、反論出来ないからって強硬手段に訴えるとか、反則でしょ!

 

 ミネルヴァモンは怒りと寒さの両要因にぎりぎりと歯を食いしばり、全身の震えと格闘した。0と1で出来たデジタルな存在でさえこうであるのに、血肉を纏いし生物ならば、一瞬にして血塗れの氷華と化すだろう。

 一秒後、消えたと思った鳥人が、実は低姿勢で自分の懐に潜り込んできたのだと分かった時には、もう遅かった。

 悔しすぎるが、これにて幕引きのようだ。

 白く立ち上る絶対零度の冷気を纏った長剣が一閃、ミネルヴァモンの剥き出しになった両脚を斬り上げる。

 

 「“フェンリルソード”!!!」

 

 「うわああー!!!」

 

 ミネルヴァモンは後方へ跳んだが完全に刃の切っ先から逃れる事は叶わず、どんと尻餅をついてへたり込んでしまった。

 相手方にもデリートの意思はないため、剣先が脚を掠めた程度に収まったが、それでも良く研がれたナイフで刺すような痛み――熱さが奔る。過ぎた冷たさは、転じて熱さとなるものだ。

 それにしても、自分は純粋に物理的攻撃のみで戦っているのに、せこすぎる。ミネルヴァモンは凍傷になって赤くなっている部分を押さえながら、足をばたつかせて抗議した。

 

 「反則! 最低! 下劣! 鬼畜! 外道! くたばれ!」

 

 「技に反則も何もありません。二度も言わせないで下さい。強力な技を持っていないあなたが悪いんですよ」

 

 わめき散らすミネルヴァモンに対し、純白の鳥戦士は、鞘に剣を収めながらしれっと答えた。長剣が休まった状態になると共に、圧倒的な冷気も瞬く間に失せる。 

 彼の口元にはうっすらと意地の悪い笑みが浮かべられていた。少女は兜の下から、それだけで相手を殺傷できそうな程鋭い目線で憎たらしい純白の鳥人を射抜き、捨て台詞を吐く。

 

 「ふ、ふん。あたしだって、建物に配慮して、技出すの控えてんだからね……あたしが必殺技出したらあんた調子に乗っていられなくなるんだからね!」

 

 その言葉が終わるのとほぼ同時に、ミネルヴァモンの背後にあるドアが軽くノックされ、がちゃりと開いた。

 入ってきたのは、すらりとした長躯に灰色のスーツとスラックスを纏い、黒いネクタイをしっかり締めた青年だ。艶のある黒髪を丁寧に撫でつけており、精悍な顔付きからは若さを感じさせる。

 二体のデジモンの視線が彼に集中する。

 

 「佐伯さん!」

 

 蒼い三つ編みの少女は振り向いて訪問者の姿を認めるなり、しゃんと立ち上がって直立不動の姿勢を取った。正直膝頭の少し上がひびらくので結構辛いが、この男の前でみっともない格好を見せるのは無礼に当たるという信条があるのだ。

 

 「二人とも、また遊んでいたのか。なんだかんだ言って仲がいいな」

 

 済ました様子で悠然と立つ鳥人の剣士、短躯を精一杯伸ばして肩肘を張っている少女、双方を眺めやると、スーツの男――佐伯は、愉快とばかりに口元を緩ませた。尤も、現場の様子を見ていたのなら、あれが遊びだったなどとは口が裂けても言えないだろう。

 佐伯の台詞が無神経だ、からかうな、気に食わない――と食ってかかったのは凶暴な小動物、ミネルヴァモンだ。

 

 「あ、遊んでないし! れっきとした訓練! しかも正々堂々とした勝負……のつもり! あたしはね!」

 

 そう言って眉を顰め、純白の鳥人の方を意味ありげに見やる。視線を受けた彼は、影のある笑いを湛えながら言った。

 

 「こいつの我が儘を聞いてやらないと煩くて敵わないから、仕方無くして付き合ってやっただけです」

 

 案の上ミネルヴァモンが一瞬で気色ばみ、声を尖らせた。

 

 「佐伯さん、こいつ後でシメといてよ。先輩だからって調子に乗りすぎなんだよね!」

 

 「自分でそうすればいいじゃないか」

 

 あまりにそっけない返事。出来ないから言ってるんでしょ――ミネルヴァモンはますますむきになって噛みつこうとした。

 しかし、佐伯が次に発した言葉により、やりきれない怒りはそっくりそのまま驚きへと転化する事になる。

 

 「それはさておき、すぐに来てくれ。――『デジヴァイス』が、リアライズした」

 

 ミネルヴァモンの口は、言葉を発そうと開いたそのままの形で固まる。鳥戦士も直ぐさま口元から皮肉な微笑を消し去り、神妙な面持ちになる。

 

 “デジヴァイス”――それは、Digital Device、或いはDevice of Digital-Monsterを意味する造語である。電子生命体・デジモンを補助する機能を備えた小型のコンピュータであるそれは、真に選ばれし人間だけが手にする事の出来る、一握りの高潔なる騎士のみ勝ち得られる聖杯のような存在だ。そう簡単に顕現(リアライズ)するものではないし、況してや目にする事も出来ない。名前だけが流布しているだけで、極端な話現物を拝める事など永遠に無いとすら二体は思っていた。

 

 神話が事実であった様な衝撃に打ちのめされる。暫しの沈黙を破り、二体のデジモンは吃驚に任せ思い思いの声を上げる。

 

 「ちょっと待ってよ。それって……例のデジモン? っぽいのがこっちにリアライズしてから幾らも経ってないのに、もうテイマーが現れたって事!?」

 

 「いくら何でも早過ぎないでしょうか。我々がリアライズの座標・出現デジモンを特定している間に、テイマーが出現するなどとは……」

 

 佐伯は首を軽く横に向け、一層低い声で言った。彼自身、否定出来るならば思い切って否定したいが、そうは行かぬのが現といった心地のようだ。

 

 「俄には信じがたい話ではあるが……事実だ。それが『プレデジノーム』の意思という事なのだろう。――それと、やや時間を置いて出現したデビドラモンを、そのデジモン――ドルモンが、テイマーの力を借りて撃破した“らしい”という事も付け加えておく」

 

 息を呑み、ミネルヴァモンと純白の鳥人は互いに目を見合わせる。視線の交錯に余計な感情の混合はない。更なるどよめきが彼らの間に湧き起こった。

 

 ***

 

 「デジヴァイスの座標は最高精度で特定(キャプチャ)した」

 

 佐伯は巨大なディスプレイ正面の椅子に腰掛け、彼の両サイドにそれぞれミネルヴァモンと鳥人が控え、画面を覗き込んでいる構図だ。

 普通一般のスライドより二回りも三回りも大きな体を見せているディスプレイには、極限まで拡大された衛星写真が映っている。住宅やガソリンスタンド、スーパー、コンビニ、更には地面や建造物の屋根に積もった雪まで如実に示されたそれの中心部――一戸建て住宅の内部と思しき場所だ――では、橙色の丸がゆっくりと点滅している。右下部に表示されているのは、小数点第六位まで計測された緯度と経度だ。

 

 「後はデジヴァイスが何処に動こうとも、常に位置を捕捉出来る」

 

 グーグルアースが更にその性能を高めたような鮮明な映像に、ミネルヴァモンは釘付けになる。システムの名前は確か――“ヘイムダル”、リアルワールドの北欧神話というものに登場する神だったはず。自らもリアルワールドの神話から名前を取っているだけあり、神話にはそこそこ理解がある。

 変光星の様に明滅するオレンジの点が、ヘイムダルの見つめる先――つまり、デジヴァイスの位置を表すマーカーの役割を果たしているのは確実だ。だが、どうしてこれ程までに恐ろしく高い精度で、海水から塩粒一つを探し当てるような事が出来たのだろうか?

 

 「待って、どうやってデジヴァイスの位置を特定したの? 電子機器たった一個の位置を正確に測るなんて、いくら何でも不可能じゃない?」

 

 ミネルヴァモンの尤もな問いに対し、佐伯はまるで前もって用意されていた解答を読み上げる様に、滞りなく説明した。

 

 「森羅マッピングの“ムニン”があるだろう? あれとリアライズの時間測定を併用した。デジモンのリアライズに掛かる時間は、体格に依らずレベルに比例する……つまり、電脳核(デジコア)の複雑性に依存する事は実証済みだ。デジヴァイスには通常デジモンにあるような電脳核(デジコア)が無いから、幼年期デジモンよりも速くリアライズする」

 

 「な、なるほどね」

 

 とりあえずそう反応しておいたが、肉体派で強いて言うなら文系にカテゴライズされるミネルヴァモンには、質問しておいて何だがちんぷんかんぷんな話であった。しかし、佐伯を挟んで左側に立っている憎い奴に対する劣位性を認めるわけにはいかない。ちなみにそいつ――長身痩躯の純白の鳥人はというと、完全に理解したという様子で相槌を打っていた。

 小さき戦士はメラメラと対抗心の炎を燃やし、負けじと声を上げた。

 

 「とにかく! デジヴァイスの位置が分かった以上、テイマーの位置が分かったも同然って事だよね。これからその――すぐに連絡を取らなきゃ!」

 

 黒髪の青年はディスプレイの方を向いたまま、こくりと頷く。長躯の鳥戦士も然り。

 

 「そういう事になる。だが……正直、デジヴァイスが如何なる機能を備えているのか、全く不明だ。連絡機能があるのかどうかも分からない。万が一あったとしても、我々からの連絡は不可能だろう。そこで――」

 

 「――此方からテイマーの方へ、デジモンを転送(トランスミット)し話を取り付けねばならない。という事ですね?」

 

 流れるように言葉を引き継いだのは純白の鳥戦士だ。青い三つ編みの少女が、先を越されたと一瞬だけ苦虫を噛み潰したような顔をする。

 

 「その通りだ」

 

 佐伯は再び首肯し、声のトーンを低くしてやや遅めに述べる。

 

 「テイマーの方には、我々が何者であるか、デジタルワールドの事、そしてデジタルワールドで何が起きたのか、起こっているのか……また、ロイヤルナイツとは何か。正確に説明し、理解して頂かねばならない。加え、協力して頂けるようにする必要もある」

 

 ミネルヴァモン、鳥人は共に身じろぎもせず、真剣な面持ちで彼の言葉を一字一句咀嚼した。

 佐伯は言い終えると椅子をくるりと左側に向け、真っ直ぐ純白の鳥戦士の方を見据えた。それを受け、当の本人は右拳を左胸に押し当てる仕草を取る。

 

 「――ヴァルキリモン」

 

 「はっ」

 

 「君は実質ロイヤルナイツの一員のようなものであるし、デジタルワールドと直接連絡を取れている立場でもある。更には内状を最も良く理解している。私は君が使者として最適であろうと思う」

 

 「光栄の至り」

 

 純白の鳥戦士――ヴァルキリモンは、右手を体にぴたりとくっつけ、右脚を引き、左手を水平に差し出す姿勢を取った。それをじっとりとした視線で見やると、ふん、とミネルヴァモンは静かに鼻を鳴らし内心毒づく。格好付けやがって。

 その時彼女は一つの素朴とも言える疑問に行き当たったので、素直に口にした。

 

 「佐伯さん、ヴァルキリモンを転送(トランスミット)するのはいいとしてさ。間違って一般ピープルに見られたらまずくない? デジモンの存在って、佐伯さんとか一部の人間除いてそれ以外には知られちゃ色々面倒なんじゃないの?」

 

 黒髪の青年は、またしても間を置かずに回答して見せる。

 

 「ならば、半デジタル状態で転送(トランスミット)すればいい。視覚には捕らえられない状態でありながら、移動は自由に出来る幽霊の如き状態だ。周囲の様子を窺いながら、リアライズするタイミングを計ればいい」

 

 「そんな事ができるの!?」

 

 「勿論だ。既に道具は用意してある」

 

 目庇の下で瞠目するミネルヴァモンをよそに、佐伯はスーツの胸ポケットに手を入れ、潜ませていたものを取り出した。小型の細長く白い直方体の端末で、USBメモリに大変良く似通っている。彼が親指を表面に滑らせると、やはりUSBメモリの様にカバーがスライドしてコネクタ部分の金属が剥き出しになった。

 

 「ヴァルキリモン、使い方は分かるだろうが念のためまた説明しておこう。上のボタンでリアライズ、中央のボタンであちら側に移動、下のボタンで帰還だ。反対側の側面にあるつまみのスライドで、リアライズを半リアライズに切り替えられる。くれぐれも金属部分を自分に向けて使うようにな」

 

 「問題ありません」

 

 ヴァルキリモンは差し出された端末を、左手の真白い指でそっと掴み優雅に一礼した。

 「フレイヤ、お前は置いていくからね」

 

 純白の鳥人が顔を右に向け、彼の肩を止まり木にする黄金の鳥にそう呼びかけると、鳥は清澄な声で囀りながらぱたぱたと飛んでゆき、蛇を模した兜の上にちょこんと乗った。

 

 「ふーんだ」

 

 ミネルヴァモンがわざとらしくむくれ、大剣を持ち上げて切っ先で頭上の鳥を突っ突いてやると、ヴァルキリモンは怒るでもなく、口元に意地の悪そうな笑みをうっすらと浮かべた。

 だがその表情も一瞬見せただけの事、彼は立ち所に業務用の真顔を繕う。例の右拳を左胸に押し当てる姿勢を取ると、佐伯に向かい頭を下げた。

 

 「それでは、行って参ります」

 

 「宜しく頼んだ」

 

 純白の鳥人は肯んじると、端末のコネクタ部分を自分の胸に向け、側面中央のボタンを押す。

 すると、金属部分の奥――端末の深部より、一直線に淡く薄光する光帯が放出された。それは目を凝らせば0と1の累々とした連なりである事が分かる。

 数列の光帯がヴァルキリモンの胸部を貫き透過する。彼の純白の長身痩躯は、みるみるうちに0と1の因子に分解されてゆき、細氷の如く燦めきながらやがて影も残さず消失してしまった。

 




今回でMatrix-1終了……かも知れないし、次で終了かも知れません(未定です)。
でも次は確実に龍輝サイドに戻ります。

ところで。
神話におけるヴァルキリーは女。でも、ヴァルキリモンってどう贔屓目に見ても男ですよね……?


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遭遇に次ぐ遭遇

デコード漬けになったりなんだりで、投稿が遅くなってしまいました。ごめんなさい。
それともう二つ謝罪しなければいけない事があります。まず、今回文字数多いのに話がろくに進まない事です。もう一つは、前回後書きの宣言にも拘わらずこれでMatrix-1が終われなかったという事です。


 ずずず。

 すっかり伸びきってしまったうどんをすっかり冷めた汁から無感動に啜りながら、朝川龍輝少年は自由帳の最初の数ページをぱらぱらとめくる。たったさっき余白を埋めにかかったばかりのもので、殆どは真っ白だ。だが埋まっている数ページを読み込んでいる彼の眼差しは真剣そのもので、あたかも試験本番に向けてセンター古語を総ざらいしている受験生のようである。

 一方、一連のトラブルの原因である――と言っても龍輝が自ら関わっていったのでそう断じるのは無責任だが――犬のような狐のような、紫の体毛で覆われた妙ちきりんな生物、ドルモンは床に腹ばいになって寝ている。安らかな表情で身じろぎもせず、時々むにゃむにゃと喃語している。夢路を彷徨っている最中だろう。先刻命の遣り取りをしたばかりというのに、この緊張感のなさと来たら。全く羨ましいな――と龍輝は恨みがましそうな目でドルモンをじろりと見やった。彼はといえば、あの壮絶な体験――デビドラモンと相見えた時の事がふとした瞬間脳裏を過ぎる度、全く生きた心地がしないのだ。この先あんな目に何回遭えばいいのか……胃が痛い。

 

 彼が目を通している自由帳の暫定名称は「デジモンノート」――というまあ捻りが無いもので、ドルモンの事、デジモンの事、デジタルワールドの事、あの不可思議で超常的な精密機械――ドルモンによると、“デジヴァイス”というれっきとした呼称があるそうな――について、判明した事実、そこから推測できる事項を書き連ねていく記録帳だ。買ったまま使い道もなく放逐されていたノートに生き甲斐を与えてやれたので、大変有意義な事である。

 現在埋まっているのは一ページ半だ。不測の事態に対して考えを練る為には、決して狼狽えない事、そして情報をなるたけ収集できる事が必須だ。龍輝とてそんなにデジモンに遭遇したいかというとそうでもないし寧ろなるべく遭遇したくないので、情報はドルモンとデジヴァイスから搾り取れるだけ搾り取りたい。まだまだ情報が欲しいところだ。

 

 そういうわけで、ここ一、二時間の実体験とドルモンが疲れて寝てしまう前に行った事情聴取より、一ページ半の情報を抽出できたわけである。

 まず、しっかり押さえておかねばならなそうな用語の定義を列挙すると。

 

 デジモン――デジタル・モンスターとは二進数の電子生命体で、デジタルワールドというこの次元とは位相を異にする世界が郷里である。

 

 デジタルワールドに対して、この世界の事をリアルワールドとデジモン達は呼んでいる。

 

 ドルモンや先程交戦したあの禍々しい黒竜、デビドラモンはデジモンに分類される。

 

 デジモンにはデータ・ウィルス・ワクチンという三属性があり、おそらくは三すくみの関係にある。

 

 Child――子供、Adult――大人というレベルも存在する。

 

 テイマーとは、デジヴァイスを用いてデジモンをサポートしつつ、その戦いに参与する先導者であり、指導者であり、後援者である選ばれた存在である。

 

 デジヴァイスとは、テイマーに与えられた多分にその意識とリンクしてシステムを稼働させる、特殊な機器である。対象のデジモンのデータを分析したりデータを吸収したり、或いは0と1を消費して、属性を書き換えたり障壁を形成したりも可能である。デジタルワールドに帰属する機器であるとほぼ断定できるが、文字は何故か英語で表示される。

 

 レベルについては、デジモンを直に知っているのは僅かに二体――即ちドルモンとデビドラモンだけなので、子供と大人という段階が広汎に言えるかどうかは現時点では不明だ。デビドラモンはAdultであったのでChildはドルモンだという事になるが、先程こっそり採ってみたドルモンのデータは、

 

 『Name - DORUmon

  Level - Child

  Type - Beast

  Attribute - Data』

 

 というものであった。

 まだドルモンに成長の余地があるという事の表れなのであろうか? テイマーというものは要するに、発展途上段階にあるデジモンと共に戦いながら成長の手伝いをする者の事であるのだろうか? 

 また、ドルモンのアルファベット表記の「ドル」の部分が何故大文字表記なのかという疑問も残るが、熟慮しても現時点では解答に漕ぎ着けないと思われるので、それについて龍輝はあまり気にしない事にしておいた。

 

 また、上記の一般的な事柄に加えて、ドルモンという個体に目一杯フォーカスして見えた事柄を列挙すると。

 

 ドルモンは、ロードナイトモンというデジモンに、数年間育てられていた。

 

 このロードナイトモンというのはデジタルワールドの守護の座にある“ロイヤルナイツ”という大変誉れある集団に所属していた。平たく言うと「凄いデジモン」であった。

 

 暮らしていたのは、遥か天空に浮かぶ庭園世界で、その中心に聳え立つ壮麗な城だった。そこから出た事は、今まで一度も無かったとの事。

 

 ドルモンには何やら絶大な力が秘められており、それを以てデジタルワールドの危機を救うために、此処リアルワールドのテイマーの元へ派遣された。よってテイマーにはドルモンの潜在能力を最大限まで引き出す義務があるらしい。

 

 育ての親であるロードナイトモンは、ドルモンをリアルワールドに連れて行く途中で「リリスモン」というデジタルワールドの七大魔王という大変恐ろしい集団の一員に殺されてしまう。ドルモンはロードナイトモンのお陰で無事に逃げおおせたが、心に度しがたく深い傷を負ってしまった。

 

 突如として交差点に出現したデビドラモンは、そのリリスモンがドルモンを抹殺するために送り込んできた刺客であった可能性があるらしい。ドルモンは相手が自分が龍輝の家に潜伏している事を発見し、家を壊しに来るかも知れなかったので、それを防ぐために窓を開けて外へ出たのだとか。

 

 また、デジタルワールドには独自の文字が存在する。しかし、ドルモンと日本語で会話が普通に出来ている事から、その文字は日本語に対応している可能性が極めて高い。更に、デジヴァイスの表示文字は英語であるので、英語にも対応しているかも知れない。此処から述べられるのは、デジタルワールドとリアルワールドは深い関係性を持つはずだという事だ。

 

 文字の件はひとまず忘れて、ドルモンに纏わる話を整理すると、非常にえらい事になっているようだと龍輝は頭を抱える。

 

 空中庭園だとかはファンタジー過ぎるし、ロイヤルナイツとか、七大魔王とかも勿論ファンタジー過ぎるが、名前を聞くだけで何か背筋を悪寒が駆け抜けるようなものがある。特に七大魔王。それがドルモンを亡き者にしようとしているのだとしたら、その保護者である自分の命も必然的に危ない事になる。

 

 そうは言っても龍輝は無責任な男ではない。それどころか責任が服を着て歩いているような男だ。ドルモンを見捨てるような真似は未来永劫、金輪際しない。だからこそ頭が痛いのだが。

 

 このように情報がある程度集まったはいいが、龍輝はどうしたらいいのか全く分からない。

 というか、偶々ドルモンを拾っただけの縁で此処まで大層な話に巻き込まれる――どころかその主役になりつつあるなんてどういう了見なんだろうか。

  

 ドルモンがこちらの世界に来なければならなかった根本的な理由とは何なのか。要は――デジタルワールドで一体何が起こったというのか?

 自分は――朝川龍輝という17歳の青二才は、何故“テイマー”などという大層な地位に任ぜられてしまったのだろうか?

 具体的には何をすればいいのか?

 

 何にも増して具体策の如何が重要であるのだが、それなりに蓄積された情報量に反して、そういう肝心なことが何も分からない。ドルモン自身何故自分がリアルワールドに来なければならなかったのか何も分かっていないのは大問題だ。

 それには目を瞑ってやる事としても、具体策如何という問いに対して、デジモンとの戦闘を重ね経験値を積んでいくのが答えなのだとしたら。龍輝としては御免被る話である。そう何度もデビドラモンのようなデジモンと死ぬ思いをして戦わねばならないのは堪ったものではない。心臓が持たないだろう。

 もし神という存在があるのだとして。どうしてこうも無責任なのだろう。仮にデジタルワールドとこの世界が浅からぬ関係性を持っているのだとしても、異世界の、それも全く事情を分かっていない人間の元に使命を押しつけるなんて。

 

 (どうしてこうなった……)

 

 ノートを一旦ぱたんと閉じ、夜の底よりも深い溜息をはあーと吐く。人生とは理不尽である。龍輝少年は齢十七にして身を切るような真実を目の当たりにしてしまった。

 とりあえず予てからの使命であった母親の見舞いは無感動に淡々と済ませ、花を置いてさっさと帰ってきてしまったが、それもこれもデジモン故なのである。龍輝の脳内はデジモンという謎の電子生命体にウィルスよろしくすっかり侵食されている。そしておそらく、今後は脳内のみならず実生活を侵食される可能性すらある。繰り返すが、偶々ドルモンを拾った縁というだけなのに。

 

 ゲームが面白いのは、実際に自分が勇者で魔王を斃さねばならない使命を背負っておらず、あくまで勇者を上から傍観する立場である限りに於いてだ。観客というポジションに安んじるのが一番楽で楽しい。

 

 やけ酒を呷るが如く龍輝がプラスチックのカップから冷たい汁をがぶ飲みした。が、そこではたと気付いた。

 ドルモンの方が余程可哀想じゃないか。まだ幼いのに、デジタルワールドのメシアたる役目を文目も分かぬまま押しつけられ、親のような存在を失い、一人で霧中に投げ出されたのだから。しかも、その姿を想像だに出来ない異世界に。ドルモンは偶々ドルモンだったという理由で、冷酷な運命に引き摺られていかねばならなかった。 

 そう考えてみれば、何故かテイマーに選ばれてしまった事や、お先真っ暗……とまでは行かなくてもどうすればいいのか分からない状況にも、甘んじられる気がした。途端にすうっと、龍輝の頭やら腹やらから痛みが引いていった。

 

 のは良かったのだが。

 

 突如、静寂を破るものが出現した。ドルモンの喃語ではない。

 龍輝の思考回路、五感が直ちに臨戦態勢に入る。

 ポーンポーン。サイバネティックで柔らかな高音が響いている。

 喩えるなら――エレキギターで、ナチュラルハーモニクスを規則的なリズムで鳴らしているのに近い。いや、あの音がもう少し歪んだと言った方がより近いか。

 程なくして、龍輝はその音源が何なのか気が付いた。机の上、右方に置いておいた四隅の凹んだ濃紫のデバイス――デジヴァイスだ。       

 

 (デジヴァイスが……鳴っている?)

 

 非常事態。龍輝はきりっと眉根を寄せる。

 龍輝が即行で空のカップを竹箸ごとゴミ箱に放り投げデジヴァイスを手にすると、その瞬間に警報音は止んだ。その代わりにディスプレイの明度が数段階上がり、文字が表示されているのが明らかになる。

 

 『Caution!

  Digimon Appearing』

 

 (ドルモン以外のデジモンが、近くにいる……!?)

 

 白く発光するセンテンスを両眼に映し取ると龍輝ははっと息を呑み、次いで軽く舌打ちをする。出来れば避けたい事態だったが、早速そうは行かなくなったらしい。

 加えて彼はある恐ろしい事に気が付き、さあっと血の気が失せるのが分かった。そう言えば、最初にドルモンとデビドラモンが対峙しているのを目撃した時、上空に居たデビドラモンは二体だった。しかし、自分達が倒したのは一体。では――もう一体は?

 

 「ドルモン起きろ、ドルモン! 緊急事態だ!」

 

 龍輝は床に寝そべっている紫色の動物を全力でがくがくと揺さぶった。その激しさたるや、乗って健康になるフィットネス機器の速度を最大限まで引き上げたような感じだ。

 最初こそドルモンは激震にも素知らぬ顔で眠りの底にいたが、段々安らかな笑顔が消えていき、遂に瞼が僅かに持ち上がってトパーズの瞳が隙間からのぞいた。

 

 「ん~~~。リュウキどうしたの~? ドルモンせっかくねてたのに~……」

 

 「デジモンだ! 臨戦態勢に入らないと!」

 

 「ふえ~~~……?」

 

 龍輝の鬼気迫る表情と語調――何より話の内容に流石のドルモンも両目をぱちくりさせると、途端に驚いたような表情をして、今度は横にごろごろ転がって暴れ始めた。

 

 「たいへん~~~! しんじゃう~~~~!!!」

 

 「ドルモン落ち着け! 落ち着かないと、死にたくなくても死んでしまうぞ!」

 

 「ドルモンしぬのいや~~~!!!」

 

 「だから落ち着くんだ!」

 

 ばたばたと泣きながら暴れるドルモンに何とか龍輝はのしかかると、デジヴァイスを持っていない右手に全体重を掛けて押さえつけた、というか押し潰した。これから出撃または迎撃しなければならないというのに押さえつけるとは些か矛盾しているような気もするが、細かい所は気にしない。

 ドルモンは白い毛に覆われた腹部に掛かる凄い圧力に、苦しそうにきゅーと鳴いて漸く沈静化した。そうして事態も沈静化したものと思われた――が。次に待っていたのは驚愕だった。

 

 「これは……お騒がせして大変申し訳ありませんでした」

 

 男の声がした。柔らかで、良く練られた声が。

 神の啓示の如く、何処からともなく。

 

 「――!?」

 

 龍輝は思わず目を見開いて辺りを見回した。ドルモンは龍輝が腹から手を離してくれないので、息苦しくてそれどころではないらしい。

 

 (今の声は、一体……)

 

 恐らくデジモン――だが、デビドラモンの来襲を予想していた龍輝にとっては、後頭部をがんと殴られる位の衝撃はあった。

 整理整頓された机、整然と本の並んだ棚、きちんとしたベッド。可視光線の吸収反射という世界の限りでは、そこには自分の部屋が相も変わらぬ小綺麗な様相を呈しているだけである。変化はない。

 だがその時。まさしく白昼夢の様な事象が発生した。

 

 ドアの近くに姿を見せ始めたのは――煌めく細氷の粒子群。

 その量と密度を指数関数的に増大させていくと、やがて十重二十重に螺旋を描き出した。その内部に生まれるは薄光を放つ空間。蛇に巻き付かれた卵の様な。 

 龍輝が固唾を呑んで刮目していると、やがて薄光の卵殻中央に微少な亀裂が生じ、見る間に全体へ足を広げていった。

 そうして防護膜も細氷の蛇も粉々に砕け跡形も無くなり、その中からさながら雛の如く生まれ出でたものは。

 

 純白の鳥人。

 非常に高さのある、均整の取れた体躯。新雪の如くに清浄な羽毛を持つ鳥、それが人間の戦士の姿を取って現れたような。

 腰から下げた一振りの長剣、中身が一杯に詰まった矢筒、純銀の胸当て、篭手。大天使ミカエルの様に侵しがたく崇高な雰囲気を纏っている。しゃがんでいる状態の龍輝にとっては、その位非常に神々しく圧倒的であった。

 

(これも……デジモン、なんだよな……?)

 

 超常現象に対する耐性はこの一、二時間で相当高まったものと思われたが、それでも龍輝は目を見開き硬直しないわけにはいかなかった。デジモンというと獣染みたものしか今の所知らない――たったの二体ではあるが――彼にとって、眼前の光景は異質に過ぎる。

 殺意はなさそうであるし、敵でもなさそうである。もし敵だった場合、万が一にでも勝てる気がしない――というか生き残れる気もしない。しかし――何故こんな所にデジモンがいる?

 考えても仕方無いので、取り敢えず、情報収集の一環としてデジヴァイスに相手のデータを採ってもらう。デジモンノートを引っ張ってくる余裕がないので、ひとまずは測定結果を見るだけだ。

 

 『Name - Valkirmon

  Level - Ultimate

  Type - Warrior

  Attribute - Free』

 

 ディスプレイは無感情に語る。だがそのセンテンスは龍輝は愕然とさせ、次いで戦慄させた。

 

 (アルティメット……究極!? 子供(Child)大人(Adult)だけじゃないのか……? しかも属性はフリーって……)

 

 子供、大人という生温い成長区分を通り越して、現れたのは究極の域に達した者。その上、三属性の枠組みから自由になっている。既成観念でごりごりに凝り固まる前とはいえ、その冷然としたデータには軽く身震いさせられる程の力があった。

 相手が攻撃してこない以上、今後も攻撃されない事が期待されるのでそれに関しては安心だが。暫くの間、龍輝は本当にどうしたらいいのか分からず、ディスプレイに視線を釘付けたまま動けず、声も出せないでいた。

 

 「その……あなたは一体、どちら様ですか……?」

 

 やっとの事で絞り出せたのはややナンセンスな問い掛けだった。相手の鳥人はそれに対し、微かに口元を緩めたかのように見えた。

 そして次の瞬間龍輝が最も驚いた事に、彼は――恐らくヴァルキリモンというのであろうデジモンは――、流麗な動作で跪いてみせたのだ。騎士が、主君に対して忠誠心を示す時のように。そして、その唇から滑り出された言葉にもまた、驚かされる羽目になった。

 

 「ドルモン、そしてそのテイマー殿。初めまして。わたしはヴァルキリモンと申します。改めて、お騒がせしてしまったようで申し訳ございません」




デジモン初心者の龍輝君に寄った視点で話を書いていたら、どうしても説明と内面の描写が多くなって、話が進みませんでした。これだけお待たせしたのに申し訳ないです。でも……後悔はしていません。
次で色々判明しますし話も進ませるので、もう少しだけお待ち下さい! とりあえずテスト勉強に戻ります……


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テイマーの使命、空白の席

いざ書いてみると、10000字くらいになっていてビビりました。
やっと色んな事情を明かせました。


 龍輝はなるべく何も考えず、たった今発生した事態の一部始終を反芻した。人間界(リアルワールド)の常識を棄て、素直になりなさい。自然(デジタル)に身を委ねなさい――今まさに異次元の彼方よりデジタルワールドが自分に語りかけているような気がする。まあ行ったことは疎か見たこともない世界ではあるが。

 

 デジヴァイスが突然アラーム音を発したと思ったらそれはデジモン来襲のお知らせであり、てっきり倒すのを忘れていたデビドラモンが出向いて来たのかと思えば違い、しかも部屋の中に天使――もとい人型のデジモンが降臨し、何故か自分達の事を知っており、しかも敬語を使い、跪いた。更に、謝罪したのである。

 どうやって部屋に入って来られたのか。そもそも一体何がどうなっているのか。

 脳が情報流入過多で機能停止する前に、ノートという別のハードにデータを移しておいて正解だった。しかしある事実はそれ一個で絶大なデータ容量を誇り、龍輝の脳を圧迫する。圧縮不可能、拡張子変更不可能、削除不可能。

 そう、テイマーが責任重大な職業だというのは十二分に理解したが――まさか敬語で話され、跪かれるレベルの話だとは思ってもみなかったのである。

 

 腹を押し潰され仰向けのままダウンしているドルモン、床に座り込んだままドルモンから手をどけるのを忘れて固まっている龍輝、跪いている姿勢の大天使――ではなく、ヴァルキリモン。ちなみに戦乙女(ヴァルキリー)という名が付いているものの、龍輝の目には男性以外にはとてもじゃないが見えなかった。

 朝川龍輝の部屋に存在している以上三つの生命体は、暫く名状しがたい沈黙の内に静止していた。暫くといってもせいぜい一、二秒程度の事ではあるが、龍輝には恐ろしく長い間のように感じられた。どうしたらいいのか皆目見当も付かず、精神的に危機に陥っていたからである。

 

 「あの……」

 

 龍輝は漸く、と言うべきか、声を出した。

 

 「とりあえず、立って頂けないでしょうか?」

 

 テイマーがデジタルワールド的にはものすごくえらい立場の者であるとしても、リアルワールド的には普通一般の高校2年生であり、寧ろ年長者にぺこぺこしなければならない社会的に低い立場の人間である龍輝としては、跪かれる立場にまで急激に押し上げられるのは相当負担になっていた。更に、相手は異世界――デジタルワールドの住民なのだとしても、自分より遥かに高貴な身分の存在であるようにしか見えない。そのギャップが余計にきつい。

 龍輝の言葉に対して、純白の鳥戦士――ヴァルキリモンは顔を僅かに上げたように見えた。なので何となく色よい答えが期待できそうな感じがしたが、それは龍輝の勘違いであった。

 

 「有り難く存じます。しかしテイマー殿……わたしが貴殿をそういう意図がないとしても見下す姿勢を取るなどとは、とても恐ろしくて出来ません」

 

 「えっ……」

 

 声が途中で詰まる。テイマーとはそこまで偉い、まさか大王とか皇帝のような存在なのだろうか。

 しかも生まれて初めての「貴殿」呼ばわり。龍輝はそんな単語は、国語辞典か小説の中でしか見た事が無かった。果たして日本人男性の何%が、生涯で「貴殿」呼ばわりされる経験があるのか。

 

 「況して、わたしはただでさえ貴殿のプライバシーを侵害するような真似をしている。それについても、今一度謝罪を致します――本当に申し訳ありません」

 

 状況が状況なので、龍輝は言われるまでプライバシー権を侵害されていた事に気が付かなかった。まあ、気が付いたところでそんな些細な事はどうだっていい。

 何だか逆に自分が申し訳ない気分である。初めて会う相手、それも人間の若造風情に頭を下げ、謝罪を繰り返し、跪かねばならないヴァルキリモンは、恐らく大変不快な思いをしているだろう。そこまで考えて、龍輝は自分が平生の冷静さを取り戻している事に気が付いた。

 彼はさっきまで抜けたようになっていた腰をしゃんと立たせると、何とか両足で立ち上がる。自分も跪いている相手を見下す姿勢になるのが不遜な感じがして嫌だったが、そこはぐっと堪える。

 

 「いや、あの……別に大丈夫です。気にしていません。それに、どうか立って頂けないでしょうか。跪かれる理由も良く分からないのに跪かれたくないです」

 

 ***

 

 そういう訳で、只今龍輝と訪問者――ヴァルキリモンは客間のソファにテーブルを挟んで腰掛けている。

 ドルモンはあのまま部屋の床に放置してある。元々すやすや眠っていたところを無理矢理叩き起こしてしまったという所以があるし、ヴァルキリモンもドルモンは居合わせる必要がないと言うので、引っ張ってくる必要はない。今頃はまた眠りに就いているだろう。

 

 「……つまり、ヴァルキリモン――さんは、予てからその……ロイヤルナイツ? から、ドルモンがリアルワールドに来るからテイマーが見つかるまで保護し、テイマーが見つかったら見つかったで協力を取り付けるように頼まれていた……という事でいいですか?」

 

 龍輝は持ってきたデジモンノートの余白に早速新情報を書き入れる。ヴァルキリモンはノートとペンを見た事が無いらしく、「それは何ですか?」と最初に聞いてきたが、よく考えると電脳世界の住民がアナログな筆記具を使うはずもないので不思議でも何でもないのであった。

 ノートに既に書き込んでいるドルモンの証言――「ロイヤルナイツっていうすごくえらくてつよいひとたち」を元にすると、相当に誉れ高き集団と直接関係を持ち、その上重要な任務に就かされているこのヴァルキリモンもまた、相当高位のデジモンである事は明らかである。そんな存在に畏れ多くも自分は跪かれたのか、と龍輝はぶるっと身震いした。

 

 「そうです。詳しい話は別途させて頂きますが、概略はその通りです。しかし、さん付けはどうかおやめ下さいますよう」

 

 「あ、はい。じゃあ――ヴァルキリモン、で」

 

 「それで結構です。――さて、本題に入ってよろしいでしょうか」

 

 「大丈夫です」

 

 龍輝はノートの右側のページ最上部にペン先を置いた。

 

 「わたしが本日参りましたのは、先程も申し上げた通り、是非協力して頂くためにこの方の事情――我々の世界、デジタルワールドで発生した事態、発生している事態について説明致す為です。しかしそれにあたって、まず基本事項についてご存じかどうか確認させて頂きます。よろしいでしょうか?」

 

 「はい、大丈夫です」

 

 「ではまず、“デジモン”についてはどの程度ご存じでしょうか?」

 

 龍輝はノートをぱらっとめくり文字列に目を通しつつ答えた。

 

 「この次元とは位相が異なる“デジタルワールド”に住む二進数から成る電子生命体で、ワクチン・データ・ウィルスの三属性があって、子供? と大人? と究極? というレベルがある……この位です」

 

 「十分です。レベルについては間違いがありますが、それについて詳しくは後ほど」

 

 「あ、はい。分かりました」

 

 デジヴァイスのディスプレイ表示が日本語ではなく英語で、しかしこうしてデジモンと会話する時には日本語でコミュニケーションを取るというのだから、齟齬が生じるのは仕方なさそうだ。ともあれ、龍輝はデジモンのレベルについてメモした箇所を丸で囲い、「要修正」と傍らに小さく書いた。

 

 「では、“ダークエリア”については?」

 

 初めて聞く単語だ。しかも物騒な響きがある。龍輝は頭を振ったついでに、まっさらなページを開き直しペン先を触れさせる。

 

 「いえ……全く何も」

 

 「“ダークエリア”とは、デジタルワールドの地獄界です。デジモンが外的要因――戦闘などで死亡した場合、彼を構成していたデータは直ちにダークエリアに転送され、ある一定のスパンでまとめて消去されます。そして、魔族や魔王――殊に“七大魔王”が住まう場所でもあります。地理的に言うと地下に存在しており、生きたまま訪う事は一応可能です」

 

 龍輝はペンをささっと走らせる。死者がその罪状の為に苦痛を受け「死んでもまだ死ねない」仏教の地獄や、キリスト教の地獄とは事情が異なるらしい。人生は一度きりで死んだら何も無くなるという点に於いては、龍輝の死生観と同じであるので受け入れやすい。一方で、ちゃんと現世に入り口が存在しているという点ではギリシャ神話などと共通しているのでこれもまた受け入れやすい。

 

 「七大魔王については?」

 

 ノートにメモを続けながら、龍輝は単語の響きを吟味する。それは確か――ドルモンの大切な保護者を死に追いやった恐るべき輩だったはずだ。だが、それ以外に何も知らないので、無知であるのと同義になる。

 

 「いえ……全く」

 

 「デジタルワールドの魔族――一般に“ナイトメアソルジャーズ”と呼ばれます――その頂点に立つ、強大無比な力を持った者達です。それぞれリアルワールドでいうキリスト教の『七つの大罪』を冠し、一体を除いてはダークエリアに居を構えます」

 

 「七つの大罪」――龍輝は宗教関係にはそこまで詳しくないが、それ自体が罪というよりは罪に導く可能性のある欲求や感情の事だというのは知っている。確か、「傲慢」「憤怒」「強欲」「嫉妬」「色欲」「怠惰」「暴食」だったはずだ。それを背負った魔王如何ならんとは、余りにもスケールが大きく推し量る気にもなれない。

 

 「サーバを不安定にしかねない強大な力、いざというとダークエリアのみならずデジタルワールド全域をも掌中に収めようとするその野心――彼らの動向は常に“ロイヤルナイツ”の監視対象です。――さて、最後ですが……“ロイヤルナイツ”については?」

 

 「いえ、全く」

 

 龍輝は前項と同じ理由でそう答えた。

 

 「“ロイヤルナイツ”とは、デジタルワールドのセキュリティ最高位に位置する十三体の聖騎士です。彼らは最高神であるホストコンピュータ“イグドラシル”に仕え、その命令通りに動くのが主な役割です。サーバの安定性保持、が使命といって差し支えないでしょう」

 

 成る程、確かにドルモンも言っていたように「すごくえらくてつよい」存在のようだ。改めてその存在に直接頼みごとをされるこのヴァルキリモンもまた非常に偉い存在である訳だが、そういう存在に跪かれた自分はデジタルワールド的にはそういう位置づけなのか。龍輝は改めて湧き起こってくる畏れに軽く身震いした。

 

 「さて、此処からが話の本題になるわけですが……」

 

 ヴァルキリモンが軽く座り直して姿勢を改めた。龍輝もそれにつられ、背筋を若干伸ばす。心なしか、心臓が脈打つにあたって酷く熱くなっているようだ。

 

 「ロイヤルナイツ諸将は、彼ら以外何者も持ち得ない至上の特権を持っていました」

 

 「特権?」

 

 「そう、死してもダークエリアに残留データを送られず、再び元の姿のままで蘇る事が出来るという特権です」

 

 つまりそれは、ロイヤルナイツは不死であるという事を意味する。

 しかし、それならば何故ロードナイトモンは「殺されて死んだ」のだろうか? そこで龍輝ははっとした。ヴァルキリモンは、「過去形で話している」。

 

 「此処で一つ質問をさせて頂きます。何故、ロイヤルナイツはかような特権を得ていたのだとお思いでしょうか?」

 

 「え、えっと……」

 

 突然の問い掛けであったので、龍輝はかなり狼狽えて固まった。が、この程度の事で思考停止するとは、入試本番になったらどうするんだ、と自分を叱り付けて平素の冷静さを取り戻す。解答は直ぐに導き出せた、が正しいかどうかは不安が残る。

 

 「……ロイヤルナイツはデジモンというより寧ろセキュリティシステムで、システムの欠損は大変まずい事になる可能性がある……から?」

 

 「その通りです」

 

 ヴァルキリモンがそう満足そうに首肯したのを見て、龍輝は幾分ほっとした。もし答えを間違えたら、テイマーの器ではないと少なからず失望されたのではないかと怖かったのだ。

 

 「イグドラシルのかの聖騎士方に対する認識は、当然このヴァルキリモンも含めて他のデジモンに対するそれと著しく異なっていました。『デジモン』というよりは、『セキュリティエージェント』として見ていたのです。そして同時に、誰一人として替えの利かない最上のデジモン達で構成されているのだとも」

 

 プログラム的に言うと、エージェントとは高度化され、自律性を持ったオブジェクトの事であり、各自の役割分担、連携を理想としている。成る程、その図式に聖騎士を配置する事は無理がないな――と龍輝は得心した。その傍ら、何か首を傾げたくなる違和感もあるが――今はじっくり考える時間ではない、とひとまず思考の脇に避け置く。

 

 「しかし、イグドラシルは突然――ロイヤルナイツを見捨てました。即ち、彼らから不死性を奪い去りました」

 

 「それは……どうして!?」

 

 「イグドラシルは、ロイヤルナイツが完璧なエージェントとは成り得ない事に気付いたからです」

 

 その理由を、龍輝は一瞬で分かってしまった。違和感の正体だ。ドルモンやヴァルキリモンのように、リアルワールドの生物と何ら変わりなく意思を持ち、感情を持った存在を高遠な理想である「セキュリティエージェント」に割り当てようとすると、ある点に於いて絶対にしっくり嵌まることはない。

 

 「――感情があるから?」

 

 ヴァルキリモンは答えを受けて、項垂れたように見えた。

 

 「その通りです。ロイヤルナイツが譬えセキュリティの寓意(アレゴリー)であっても、所詮は寓意。無情で完璧なまでに冷徹なエージェントとは成り得ない。イグドラシルはロイヤルナイツを塵芥の様に捨て去ったのです。最早無用の長物として」

 

 イグドラシルの命を受け、デジタルワールドの均衡を保つのが存在意義だった者が、頂きから地べたに一気に墜落するのは一体どんな気分だったろうか。聖騎士の誇りを奪われたのに、決闘でそれを取り返せない悔しさはどうだろうか。どういう虚しさと無力感の中に投げ出されただろうか。慮れない、慮れる訳が無い。

 どうしてそんな残酷な真似をするくらいなら、最初から「完全無欠の」エージェントを造り出し、守護の座に据えなかったのか。全能のホストコンピュータなら、そのくらい簡単ではないのか。

 様々な思い――取り分け怒りが一気に込み上げてきて、龍輝は胸が詰まりそうになった。

 

 「随分……勝手な最高神ですね」

 

 左手をぎりりと握りしめる。きちんと切っているはずの爪が掌に食い込む。

 

 「それに、どうしてその時になって初めて気付くんでしょうか。ホストコンピュータなら、最初からそんな事分かっているんじゃないでしょうか。感情がある者は、無機質にはなれないと」

 

 「テイマー殿、まさしくそれなのです。我々でさえ少し考えてみれば分かるその事実に、イグドラシルとあろう者が気付かぬはずがない。もっと単純で非生物的プログラムの方が、高いセキュリティ性を発揮すると……!」

 

 そう答えたヴァルキリモンの語調は、柔和さの花を散らせ憤怒の棘を覗かせていた。彼もまた、最高神の独善に怒りを押さえられないのだろう。況してやその最高神の治める世界が故郷なのだ、未だ其処に行った事がない龍輝より怒りが強いのは当たり前である。そして――絶望や悲愴ではなく怒りは、反抗する者の意思である。

 

 「……そんな矢先でした。七大魔王、その一角を占める“怠惰の魔王”ベルフェモン……デジタルワールドの時間で千年に一度目覚め、理性無き破壊の権化と化すかの魔王が覚醒したのは」

 

 何というタイミングだろう。千年に一度の災厄と、よりによって時期を同じくするなんて。ずっと眠りに就いているのも伊達に眠りこけているのではなく、力を蓄積しているのだとしたら、それが解放された時の凄まじさは一体どうなるのか。

 

 「直ぐさま、かの魔王を斃し危険分子を取り除くため、ロイヤルナイツの内実に6体がダークエリアに赴きました。何とかベルフェモンを鎮める事は叶いましたが、実に4体もの聖騎士が殉職されました」

 

 魔王1体に、最高位の聖騎士を6体もぶつけなければならない。そして、それでも尚十分過ぎるとは断じられない次元の話に龍輝は目眩がするのを禁じられなかった。

 

 「そして、犠牲になった聖騎士はもう復活する事はなかった……と?」

 

 「そうです。更に……ロイヤルナイツの席が永久に空白になるという事態はこれだけでは終わりません。オメガモン様――ロイヤルナイツでも屈指の実力を誇る方が、直接イグドラシルのコアに赴き、真意を確かめに行くと仰りました。イグドラシルは自分達を守護聖騎士の座から投げ出しておきながら、代わりとなるセキュリティシステムを創造する素振りも見せず、自分達を尚もヴァルハラ宮に居させている。実に矛盾している、と」

 

 何に付けても中途半端に過ぎる処遇、とても電脳世界の最高神がする事だとは龍輝には思えない。まるで、ロイヤルナイツの名誉を奪うだけの行為の様だ。そのオメガモンの言い分には、全く同意できる。

 

 「そうして、イグドラシルの深部に単身乗り込んだまま、帰っていらっしゃる事はありませんでした」

 

 「――それは……イグドラシルに、殺された?」

 

 「……そうではないか、と」

 

 ヴァルキリモンの声色からは棘が抜けていたが、今度は弱々しささえ感じさせるものに変質していた。

 己にもはや不死性は無い事を知りながら、尚死を恐れぬ騎士としての勇敢さをオメガモンは有していたに違いない。もはやホストコンピュータとしては、まともな思考を放棄していると言わざるを得ない存在に対しても。龍輝は今は亡き聖騎士の美徳に賞賛を送ると同時に、ひどくやるせない気持ちになった。無情とは、こういう事だ。

 

 「――それから暫くが経ちました。ダークエリアでも魔王の目立った動きは見られず、ベルフェモンの件以来事態は沈静化したように思われました。そんな中、ドルモンが発見されました」

 

 いよいよ、自分達に話が絡んでくるようだ。イグドラシルに対し、負の感情を抱いている暇はない。龍輝はより一層気を引き締めて耳を傾ける。

 

 「ドルモン、が?」

 

 「そうです。ドルモンはすぐにロイヤルナイツによって保護され、全体会議でロードナイトモン様――『薔薇輝石の騎士王』と渾名される方に預けられる事が決定しました。ドルモンがある程度まで成長し、リアルワールドでテイマーと上手くやっていけるだろうと判断されるようになるまでの期限付きで」

 

 龍輝はノートにペンを走らせながら、納得する。ドルモンがロードナイトモンと一緒に住んでいたのはこういう事であったのか。ドルモンにその事を聞いたときの嘆きようといったらなかったので、きっとロードナイトモンはロイヤルナイツ全体が一様に認める程の素晴らしい保護者たる者だったのだろう。

 

 「ドルモンがそんな破格の待遇を受けたのも、偏にドルモンこそがロイヤルナイツのSiege Perilous――『空白の席』の主になる者として予てから予言されていたからです。それも、皮肉なことにイグドラシルより」

 

 「Siege Perilous……」

 

 その言葉の意味する所に、心の臓が小刻みに震え、ペンを持つ指先がおぼつかなくなるのを龍輝は感じた。溜まった唾をごくりと嚥下する。

 宗教の類には片々的な知識しかない龍輝であったが、その代わり神話や伝説は好きで良く本を読んでいるので分かる。Siege Perilous――アーサー王伝説に登場する円卓の席の内、相応しい者以外が腰掛けると命を落とすという「危険の座」だ。その席に座する事になるのは、全円卓の騎士で最も若く、最も高潔にして偉大なるガラハド卿。彼が磔刑に処されたキリストの血を受けたという、伝説の聖杯を探索する事に成功するのだ。

 

 「開闢以来その姿を現すことは一度たりともなかった、そして全ロイヤルナイツで、比肩しうる者のない程強大な力を持つと定められた聖騎士です。デジタルワールドが未曾有の危機に陥った時に初めて出現するとされておりましたが」

 

 「それでは……ドルモンが生まれたのは、正に未曾有の危機が起こっているとデジタルワールドが判断した、から?」

 

 「まさしくその通りかと思います。イグドラシルではなく、デジタルワールドが判断したのだと」

 

 イグドラシルではなく。何にも増して大切な部分かも知れなかった。

 ホストコンピュータとしての権能を著しく損ねている存在なんかではなく、一個の魂を持った電子的有機生命体としてのデジタルワールドの意思こそが、ドルモンを生み出した。その世界に生きる存在――デジモンの息遣いが寄り合って、一個の巨大な意思を形成している。セキュリティの崩壊と、均衡の崩れに対する底なしの危惧を。

 

 「そしてもう一つ。その空白の席の主はリアルワールドの人間がその役目を担う『デジモンテイマー』により姿を現す事になるとも、予言にはあります」

 

 「それが……僕である、と?」

 

 「その通りです」

 

 ドルモンを――ガラハド卿のように、あらゆる騎士を凌ぐ武勇を身に付け、真に清き者のみ手に出来る聖杯に触れる権利を持てる騎士に成長させるのが、自分の役目。龍輝のぼんやりとしていたヴィジョンは、画素数が増えたように鮮やかなものに変貌した。その代わり、責任重大さも倍加した。

 ドルモンのあの蒸留水の如き純粋さを騎士の高潔さへと。眠れる獅子の力を、猛る獅子王のそれへと。出来るだろうか? 果たして、自分に務まる大役なのか? 龍輝はもはや疑問を持たなかった。やれるから、デジタルワールドは自分を選んだのだ、と。

 

 「……現在、ロードナイトモン様、『紅の聖騎士』デュークモン様までもがダークエリアに旅立たれ、ロイヤルナイツの成員数はたったの5名にまで減ってしまいました。このままでは、守護の座が手薄になっているのを見計らって、魔王が進出してくるのは時間の問題です。いや、実際に彼らは動いています。今のままでいけば……」

 

 突然、ヴァルキリモンが椅子から崩れ落ちるように降り、跪いてみせた。

 龍輝は驚いてペンを止め、純白の鳥戦士の姿を凝視して固まった。今度ばかりは「跪くな」と言えなかった。彼の――騎士の最大限の請願表現、それをやめろというのは、拒絶であり、相手に対する侮辱だ。

 

 「テイマー殿、どうか力をお貸し頂きたい。まさしく真に選ばれた方であり、唯一希望への捷路を開くであろう貴殿に。貴殿に何の関係もない世界の話であり、貴殿の尽力が貴殿ご自身の生活とは何ら関わりを持たぬ事は重々承知しております。それを承知で、このヴァルキリモン、お願い致します」

  

 立てた膝に掛けた腕、それに食い込む位ヴァルキリモンが頭を下げた。

 龍輝は甚だしく疑問であった。今や、誰がこの頼みごとを無下にするというのだろう。彼の話を聞いていたなら、心ある者は断る理由がないのだから。

 

 「無関係なんかではありません。僕はドルモンを拾いました。そして、ヴァルキリモンの話を聞いて、イグドラシルに対して怒りや悲しみを覚えました。感情を共有した時点で、無関係なはずがありません」

 

 龍輝は今までにない毅然とした口調でそうはっきり告げると、今度はすっくとソファから立ち上がった。跪くヴァルキリモンを遥か目下に見下ろす構図だ。

 しかし、龍輝に自身の優越性を意図するような意味は何もない。ただ、堂々たる意思を、それに相応しい姿勢で示してみせるという儀礼ゆえ。そして、相手の礼に従いて、その懇願の一切を受け入れるという意思表示のため。

 

 「僕は、必ずドルモンを空白の席の主へと成長させます。ヴァルキリモン、貴方に――ロイヤルナイツに、協力させて頂きます。ゆくゆくは、その一員として」

 

 「テイマー殿……感謝致します」

 

 ヴァルキリモンの声が急に滲み、掠れた。バイザーの隙間から、一筋の流れが白い頬を伝っていく。

 それはきっと、ロイヤルナイツ全員のもの、そしてデジタルワールドのものだったのかも知れない。




これにてMatrix-1終了です。次話からは新章突入です。


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Matrix-2
聖なる疑惑と邪推


お久しぶりです。実に……二ヶ月ぶりでしょうか。やっとスランプを脱して更新出来ました。
今回も長く、その上一場面しか書けませんでした。話が進むことを期待していた方、何卒ご容赦を……。


 一面が白い。理想の白だ。一切の可視光と穢れをにべもなく撥ね付けた、至高の純白だ。

 

 タイル同士の隙間や上方と下方の境界を示唆する野暮ったい存在は無い。有限な規模の建造物内にあるのだから果てしない筈はないのだが、白きこの空間は宇宙空間の如く視覚には捉えられる。球体表面を滑るように一方向へと流れる電子情報の光は回路を浮き彫りにし、失いそうになる方向感覚を繋ぎ止める。

 

 マグナモンは浮かんでいる。

 床から天井を突き抜け、空間の中央を貫くように存在する角柱の中に、彼は居る。――とはいえ、角柱は透明性が究極的に高く、絶対に視認できない。そしてその硬度は最大限精錬されたクロンデジゾイド鋼にも匹敵し、並の究極体どころか、それこそロイヤルナイツが暴れた所で傷一つ付かない。

 柱内には、微細な0と1の片々が大量に浮遊している。これらはマグナモンの穿たれ覗き穴のようになっていた脇腹の傷に流入して塞いだり、時折彼がアクセスするイグドラシルのデータベースの内容呼び出しに使用されたり、それなりに忙しい。

 

 

 マグナモンは今、眼を固く閉じている。

 視覚から入る情報量は非常に多い。これをシャットアウトするだけで情報処理機構への要らぬ負担を減らせるし、思考の海へ沈潜しやすくなる。それに、この自分以外の全てが白く一様な空間を長時間視ていたら、いくらロイヤルナイツでも気が狂いそうになる。かといって眼を閉じるのも癪だったりするのだが、こんな所に居なければならないのは、偏に治療のためである。

 

 

 (何て不便な体になってしまったんだ)

 

 

 マグナモンは思う。

 かつてロイヤルナイツには、至上の特権があった――「幾ら死んでも生き返る」という特権が。些細な負傷は勿論、重傷を負う事すら何の問題もなかった。体を張ってセキュリティ最高位の守護騎士としての責任を果たすことは義務でこそあれど、覚悟を伴うものではなかった。

 

 自分達の命はあまりにも安いものだった。それに引き換え、他のデジモン達の命の何と儚く尊かったことか。いや――今だって尊い。けれども、こうしてイグドラシルに見放され、「その他大勢」と同じ存在に成り下がってしまうまでは――ダークエリア行きを運命付けられているデジモンはそっと扱わねばならない壊れ物であり、ロイヤルナイツとはそれを繊細な手つきで管理する者である、という図式がはっきりしていた。必要とあらば少数の「壊れ物」を木っ端微塵に破壊して多数の「壊れ物」を守らねばならないとしても、繊細な心を失う理由はなかった。

 ロイヤルナイツは、剛胆さとデリケートさを兼ね備えた者の集団だとマグナモンは考えている。戦いに臨むには胆力を備えていなければならない。守ろうとする意思は愛に由来せねばならない。愛ではなく守護騎士としての義務に帰属させる方が妥当と言えようが、マグナモンはロイヤルナイツに名を連ねる聖騎士達の温かい心を信じていた。

 

 壊れ物になってしまった自分達は、その他大勢と同じく、繊細な心を以て慈しむべき存在になった。場合によっては、自分の命を優先して他の「壊れ物」が砕け散っていくのを容認しなければならない事もあった。いや――それは必然的であり続けた。

 ロイヤルナイツという組織は基本功利主義を立脚点とする。同じ壊れ物なら、より多くの壊れ物を守れる力を持つ方を選ぶ――即ち、必要とあらば自分だけ助かる方を選ばねばならなくなった。

 

 自分だけが助かる事を選び続ける事で、いつしか本当の腰抜けになってしまうのは怖かった。死してデータの屑になるより怖かった。騎士たる者は如何なる時も勇敢であらねばならぬ、と。

 だが冷静になってみると、自分は勇敢どころか無謀で、その上馬鹿以外の何物でもなかった。デスモンの挑発に乗せられ、まんまとその掌上で踊らされただけ。自分は素直に身を引き、デュークモン一人にデスモンを相手取らせれば良かったのだ――結局彼が異次元空間に転送されてしまう事になるのならば。デュークモンが全力で戦えば、無傷でデスモンを葬り去れた筈だ。「紅の聖騎士」は、自分より圧倒的に強いから。

 

 しかし、此処で首をもたげてくるものがある。「騎士の誇り」という奴だ。

 誇りに傷を付けられて、泣き寝入りする騎士など居ない。居たとしたら、そいつは騎士ではなくただの腰抜けだ。騎士ならば、決闘で相手を殺して名誉を回復する。他人に肩代わりをしてもらうなど、言語道断、恥だ。死んだ方がいい。

 聖騎士という存在に深く根を下ろしているこれは非常に面倒なものだ。功利主義という現実性を重んじながら、誇りという精神性に従わなければならない。私利を優先すれば独断と誹られ、滅私奉公すれば誇りを棄てたとなじられる。ならば自分はどうあればいいのか? ――分からなくなる。

 

 そういう時は決まって思うのだ。自分はもう、イグドラシルより――主より見放された身であり、居所を失い、行動原理も失ってしまった身ではないのかと。要はもう「騎士ではない」。譬え騎士道から外れようとも構わないし、功利主義に従わなくともそれは個人の思想問題なのでどうだっていい話だ。

 熟考せずともそれは自明な話なのに、依然としてロイヤルナイツの聖騎士達は――いや、聖騎士「だった」者達は――イグドラシルの命や加護無しでも変わりなくデジタルワールドの守護騎士としての活動を続けている。一般的に考えれば、それは己無くして、誰がデジタルワールドの安寧を守るのだ……という強い意志の力に他ならないだろう。しかし、マグナモンはこうも感じていた。「まるで全員、呪いに掛かっている様だ」と。勿論――自分も含めて。

 ちょうどその時だった。

 

 「――!」

 

 マグナモンの波動感知センサーが、電脳核(デジコア)の波動を捉えた。

 何者かが近くに来ている――と言うと大袈裟だが、近くに他のロイヤルナイツが来ているのだろう。センサーが感知したのは喩えるならばそよ風で髪がなびいた程度の微弱なものだが、近距離に対象が居るのは間違いない――というのも、ロイヤルナイツは全員自分の電脳核(デジコア)の波動を最小限に抑えられるのだ。この波動は、戦闘の際最も物を言う。強烈な波動は、敏感な相手に自分の位置をともすれば正確に知らしめてしまう事になるからである。

 

 やがてマグナモンの眼下の空間が陽炎の如く揺らぎ、侵入者の姿を露わにした。

 竜人だ。

 威風堂々たる体躯には透明感溢れる青碧の甲冑が纏われており、背には彼の身長と同程度の硬質の大翼が二枚生える。両手首にはめられた篭手のようなブレスレット、胸部を装飾するV字型の金属が印象深い。

 マグナモンは体の力を抜いた。

 

 「――アルフォースか」

 

 「マグナモン。容態はどうだ」

 

 黄金鎧の竜戦士は、心の中で訂正を入れた――「ロイヤルナイツは皆、呪縛されている」という私見についてだ。アルフォース――正しくはアルフォースブイドラモン、彼は別である。

 元々イグドラシルの命に従うこともそこそこに独断行動を幾度となく繰り返していたアルフォースブイドラモンは、イグドラシルによるロイヤルナイツの「解雇」の後も一切変わる事が無かった数少ない一人である。

 

 「かなりいい。あと半日もすれば全快だろうな」

 

 「そうか、そいつは良かった」

 

 青碧の竜人は、そう言って微笑んだようだった。マグナモンの中では、デュークモンの次に気が優しいと位置づけられている程柔和な聖騎士である――といっても、他のロイヤルナイツは我が強く棘のある連中ばかりである、という単純な事情があったりする。

 

 「ところでマグナモン、少しばかり話に引き留めてもいいか?」

 

 当のマグナモンにとっては有り難い話だった。こんな空間に一人で居続けたら、身体の方は治癒されても精神がおかしくなりそうだ。

 

 「ああ、願ってもない。なんだ?」

 

 「いや――下らない、というべきか、一笑に付されても仕方の無い話なのだがな。それでも構わないか?」

 

 「長い話なら尚良い」

 

 「そいつは有り難い。余程暇なのか――まあ、見て分かるがな」

 

 アルフォースブイドラモンは殆ど虚無の空間を眼だけを動かして一望し、微笑した。

 

 「イグドラシルの事なんだが……最初に訊こう。お前はあの『解雇事件』を、どう受け止めている?」

 

 黄金鎧の戦士は微かに眉根を寄せた。どんな話かと期待していたら、ついさっきまで自分が考えていた事と同じのようでげんなりしたのだ。もう少し明るい話題を所望していたのだが。

 

 「一般論と大差ない。その通り、『解雇された』のだと解している。イグドラシルのその後の、こう言っては何だが――怠慢ぶりを見ていると疑問だが、ともあれ俺達は切り捨てられたのだとしか言えんな」

 

 「ふ、そうだろうな。大概の奴は素直にそう感じるだろう。地位と共に確固たる存在意義も失い、途方に暮れ、その結果として過去という亡霊に捕らわれるのを選択する……という訳だ」

 

 マグナモンは微かに苛立ちを覚えた。何だって、こんな奥歯に物が挟まったような、ロイヤルナイツの存在意義を丸っきり否定したような言い方をするのだろうか。かの聖騎士の性格は決して悪いわけではないが――いや寧ろ良い方なのだが――時折こういう所が勘に障る。

 

 「つまりお前はどう考えているのだ?」

 

 「俺は……ロイヤルナイツは、イグドラシルにより『解放された』のだと思っているがな」

 

 紅玉色の瞳孔が不可抗力的に拡大する。想像だにしなかった台詞だ。

 

 「解放――だと?」

 

 「ああ。始めに言った通り、馬鹿馬鹿しいと思って聞いてくれて一向に構わない。この俺は、イグドラシルは己の騎士にかつて掛けた呪縛を解いたのだと思うな」

 

 「呪縛?」

 

 単語こそ同じだが、マグナモンにとって自分の言うそれとアルフォースブイドラモンの言うそれが全く違う意味合いである事は明らかだった。だが、アルフォースブイドラモンが意味する所はまるで想像が付かない。過去の地位に未だ縛り付けられている今のロイヤルナイツにこそ、呪縛が掛けられているというものではないのか。

 

 「安寧へ俺達を解放してくれたのだ、イグドラシルは。終わりなき任から解放し、生ける屍であった俺達を……死という安寧へと」

 

 「……馬鹿な」

 

 マグナモンは咄嗟に声を荒げた。

 

 「死が安寧であるなどと。そう愚直に信じ込む程、この俺は腰抜けではない!」

 

 「まあ、そう怒らないでくれ。繰り返すように、これは只の俺の『私見』に過ぎぬからな」

 

 温厚を通り越して呑気そうにそう語るアルフォースブイドラモンの声に、マグナモンはやや腰を砕かれた。

 

 「ふん……アルフォース、お前の言う事に誤謬が無いとして、だ。俺達以外に誰がデジタルワールドのサーバ安定性を保持するのだ? 誰が魔王の脅威から地上を守るのだ? 四聖獣も、三大天使も――天にまします御方は、実際的な働きは何一つしない……静観するだけだ。イグドラシルが我々を『解放』したという事は、同時にこのデジタルワールドを『見棄てた』という事に他ならぬぞ?」

 

 青碧の竜戦士は頷いたようだった。

 

 「そうだな。そして、俺はその通りやも知れんと思う」

 

 「この世界は、見限られたと……思うと?」

 

 自分で言っていて寒気のする台詞だとマグナモンは思った。何の抵抗も無い様子で、アルフォースブイドラモンはそれを肯んじる。

 

 「ああ。幾度となく魔王の脅威より光ある世界を守護してきた俺達であったが……その必要ももはや無い、という訳だろうな。それがどういう意味なのかは分からんが」

 

 その言葉に、マグナモンはロイヤルナイツの間では普遍的に信じられている事実――「ロイヤルナイツはセキュリティエージェントとして相応しくないから放逐された」――を含意していると思しき部分を見て取れなかった。

 

 「このデジタルワールドが――崩壊へと向かって行くのが神意に適うとでも? それは一体……どういう事なのだ?」

 

 アルフォースブイドラモンはゆっくりと頭を振った。

 

 「繰り返すようだが、分からん。あくまで俺の推論――邪推の延長だからな。考えるにしても……材料が足りなさ過ぎる」

 

 「邪推であって貰わねば困る。どうあってもデジタルワールドに終焉が訪れるというのであれば……『空白の席』の主を顕現させるという俺達の努力は、一切合切無駄という事になるからな」

 

 強い口調で言い切るマグナモンに、アルフォースブイドラモンも同感といった具合に強く首肯した。

 

 「全くだ。ロードナイトモンの死も、サー・佐伯の尽力も、見つかったらしい――とお前から聞いたんだったな――テイマーに、与えられる艱難辛苦(かんなんしんく)の日々も……無意味となってしまう」

 

 「ふん、例え話であっても、余りこういう物騒な話をするべきだとは思わぬな」

 

 それに対して青碧の竜戦士は両腕をがっちりと組み、如何にも威厳に溢れた様子で答えた。

 

 「予想や疑惑をひた隠しにしておく事こそ建設的ではないと思うがな。そうだ、この際もう一つ話をしておこう。ある意味、一番物騒な話かも知れんがな」

 

 「今度は何だというのだ」

 

 話をし始めた最初の頃に比べて、マグナモンは明らかに不機嫌さを口調に滲ませていた。

 

 「デュークモンについてだ」

 

 「デュークモン、だと?」

 

 マグナモンの声音に、驚愕の音調がやや混ざった。

 

 「ああ。奴こそ、疑惑を抱くべき者ではないだろうか」

 

 「……何を言っている?」

 

 マグナモンは両目を顰めた。あたかも、狂人を見るときのような目付きだ。

 青碧の竜戦士はそれには些かも気が付いていないようで、澄ました表情で今度は誘導尋問の如く問いを投げかける。否、それは問いというよりも「話題提示」に過ぎなかった。

 

 「ドルモンと……ロードナイトモンの件を覚えているだろう? どうして彼らがあの場所を通ると知られてしまった?」

 

 マグナモンは言い捨てた。非常に重要な事であるはずなのだが――何故かそれについて考えたくない。

 

 「……さあな」

 

 「お前も薄々感づいているのではないのか? 我らロイヤルナイツの中に、魔王との内通者がいる――かも知れないという事に」

 

 今やマグナモンは不快感を少しも隠そうとはしなかった。アルフォースブイドラモンの口調は穏やかでこそあれど、話の持っていき方には残酷さすら感じるのだ。譬うなら――トラウマの治療のために、過去の悪夢のような経験を記憶のヴェールを引っ剥がして当人の眼前に置くような。

 

 「それがデュークモンだとでも言いたいのか? たちの悪い戯れ言はいい加減に止めろ」

 

 「本当にたちが悪いのかどうか、俺の話を最後まで聞いてから判断してもらいたいものだが」

 

 「……」

 

 本来ならば「話せ」とでも言うべきなのかも知れないが、マグナモンは少し唸ってみせただけで無言でいた。話の続きを催促する気にもなれないし、そうしたら最期のような気すらしたのだ。

 言うべくもなく、アルフォースブイドラモンは勝手に話を進めた。

 

 「今回、お前は堕天せし魔王――デスモンと交戦したらしいが、奴の目的はデュークモンであったのにも関わらず、デュークモンは一切抗戦せず、お前が終始戦闘したというではないか」

 

 客観的な事実認識としては間違ってはいない――のだが、幾分悪意が含まれたような口振りにマグナモンは辟易した。

 

 「これに加えて、過去についても思いなしてもらいたい……つまり、ベルフェモンが最後に覚醒した時の事とを。あの時、実に我らの半数――6体が死地に赴いた、俺も含めてな。あの時、デュークモン……奴は最後まで参戦を渋った」

 

 「お前は詰まるところ何が言いたいのだ……アルフォース! デュークモンが自分の保身しか考えていない……とんだ野郎だとでも言いたいのか!?」

 

 次の瞬間、マグナモンの全身を悪寒が奔った。今、自分は何という事を口走ってしまったのだと。実際にそのような事は露も考えていないとしても、恐ろしい事だ。

 そしてもっと恐ろしい事に――アルフォースブイドラモンは口角の端を僅かに上げた。

 

 「全くその通りだ、マグナモン。加えて奴は素性が知れない。どうやら以前の記憶が無いそうだな。その上……ウィルス種である」

 

 「ふざけるな!」

 

 雷喝。

 流石の立派な風采を誇る青碧の竜戦士も、これには肩をびくりと震わせないわけにはいかなかった。反射的に頭上のマグナモンを見やると――両拳を握りしめ、全身を震わせながら次の怒号に向けて準備をしているようだった。今に限ってはその真紅の双眸は――デジモンに血液など流れていないが――まさしく血走っている。

 

 「その程度の差別的な、浅はかな理由で……デュークモンによりによって謀反の大罪を押しつけようとは! 見下げ果てたぞ、アルフォース!」

 

 マグナモンはわめいた。ウィルス種だから、データ種だからという理由で何者も差別してはならない。当たり前の中の当たり前だ。ロードナイトモンとデュークモンが良い模範であるし、寧ろワクチン種が自惚れず彼らに倣わねばならない程だ。

 また、「聖騎士」は何を以て「聖」と成すかと言うと――マグナモンはこう解している。聖なるものとは即ち神聖不可侵なものであり、物質世界よりも高次元に存在を占める。それと交信をして意を受け、或いはその聖なる存在の為に――つまりは高次元な目的の為に尽力する者こそが聖騎士である。よって、聖騎士自身の「物質的な」性質は何ら問題にはされない。無論、その細やかな素性についても、だ。

 そんなマグナモンの心中はいざ知らず、アルフォースブイドラモンは怒りの矛先を容易く回避すると同時に反撃した。

 

 「マグナモン、お前には二つ気を付けなければならない事がある。一つは、『激情は骨を腐らせる』という事だ。二つ目は――『他者を信用し過ぎるな』という事だ。お前は、そうだな――性格的に単純すぎる」

 

 「くっ!」

 

 完全に話を逸らされたが、全く以て正しい指摘である事がマグナモンには悔しすぎた。言いたい事は山程あるが、電脳核(デジコア)の情報処理機構は坩堝を掻き回したように混沌としている。こんな時ほど、自分が感情的で冷徹さに欠けるのが悲しい。

 一方のアルフォースブイドラモンは、既に踵を返して白い空間から出る寸前だった。

 

 「暇は潰せただろう? それでは、またな」

 

 「……っ」

 

 相変わらず穏やかな口調でそう告げ、アルフォースブイドラモンはその姿を揺らめく蜃気楼の如く掻き消した。

 マグナモンは黄金のアーマーの下で、ぎりりと歯を噛み締める。

 

 「何が『一笑に付されても仕方が無い』だ。ふざけた事をさんざん言い散らしやがって……!」

 

 姿が完全に視界から失せてしまったのを確認し、マグナモンは憎々しげに吐き捨てた。ぎりぎりと拳を握りしめる。この仕草は苛立ったときの癖であるのだが――今回は特に甚だしい。

 確かに「暇は潰せた」が、それ以上に胸糞悪い事この上なかった。奴は――アルフォースブイドラモンは、仲間を疑い、未来を諦めろとでも忠告しに来たのだろうか。

 既に0と1の血小板によって塞がれた脇腹の傷が、灼けるように熱い気がした。

  



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闇の闘士との邂逅

ようやく……ようやくデュークモンのターンです。


 一面が黒い。一切の可視光と穢れをにべもなく撥ね付けた、至高の黒だ。

 

 光あるデジタルワールドと位相を異にするこの空間は、同じ電子空間でありながら虚空に走る回路が全く見受けられない。漂着し沈滞しているデータが雑然としており、しかもほぼ未分化の状態で存在意義をしかと持っていないせいだ。ただそのデータどもはひたすら不快なものであり、その内容を認識し得る者が触れ情報処理機構にて解析をしたならば、まともな精神状態をまず保てないような代物だ。

 

 空間には視覚的な広がりも方向性もまるで無い。紙を広げたようにただひたすらのっぺりとしており、どれ程進もうが景色がまるで変わり映えしない。更に、漂流しているデータの性質が空間の厭わしさに拍車をかけている。

 何らかの理由により此処にいるのを強制されている不運な者の精神力を、少しずつ着実に削っていくであろう事は想像に難くない。脱出する方法を見つけ出す前に、狂気に走るか自ら命を絶ってしまう可能性は高いだろう。肉体的なり精神的なり苦痛を与え続けられるよりも、「永遠に何もない」方が、時によっては遥かに恐ろしい拷問なのだから。

 

 ***

 

 黒でべったりと塗りつぶされたキャンバスに、高貴な色が上塗りされていた。

 真紅、黄金、そして白銀だ。

 光源など何処にも見当たらないのにもかかわらず、自ら輝きを放っているかのように鮮烈なそれらは、不定形のデータの混沌の中唯一確固たる、そして強い存在意義を持っているかのようで、あまりに場所にそぐわない様相を呈していた。

 三つの尊き色は、果てがあるとも分からない均質な闇の中をひたすら何処かを目指して突き進んでゆく。そのテクスチャーを貼り付けた異質な存在――即ち不幸にもこの空間に留まる事を強いられた者――は二つであった。

 

 一つは、騎士である――紅蓮の外套を緩やかにはためかせ、曇りなき白銀の甲冑に身を包み、目映い黄金で外周を縁取った大盾と円錐形の槍を携える。総じて明度や彩度が高い色を纏っているが、与える印象は至って静謐なもので、しかも卑俗さではなく誇り高さと高潔さを備える。

 彼の濁りなき黄玉に譬えうる双眸は、正面をしっかりと見据えていた。その視線はこの空間にあっては驚くべきことに、確固たる信頼と、希望に支えられているのが感じ取れる。

 

 騎士の目線の先にいるのは、もう一つの存在――言うなれば、幽鬼である。

 騎士が盾と槍を用いて空間を掻き分けるようにして進んでいるのに対し、彼は急に姿が闇に溶け消えたと思うと、より遠方に突如姿を現すという様に移動する。その神出鬼没然さはまさしく夜陰を彷徨う亡霊であり、電子生命体の活動でありながらサイバネティックに見えないそれに、剛胆な騎士も初見では少なからず吃驚したのであった。

 幽鬼の全身を覆う漆黒の鎧はこの画一的な空間とほとんど同化し視認が難しいが、肋や足の部分に施された真紅の意匠、それと同じ色をした腕の代わりにある長剣は骨や血管のように生々しく浮き上がって見えるし、肩部にある巨大な目玉がしきりに動きながらぎょろぎょろと周囲をねめ回しているのはいやらしい程目立っている。それらの不気味なことと言ったらこの上無いが、背まである長い金髪の煌びやかさがそれを幾分和らげていた。

 

 「――近いぞ」

 

 幽鬼は低く呟いた。おどろおどろしい外見に似合わず、妙に透き通ったよく通る声である。

 彼は少しばかり右後方を向き、騎士に視線を寄こした。それを受け、彼は西洋式の槍の尖端をやや上方に向け、前方を庇うように大盾を構える。

 

 

 「デュークモン……決して抜かるなよ。お前が足を引っ張ろうものなら、瞬く間にオレもお前も此処でデータの塵に混じる事になる」

 

 幽鬼の後方を行く騎士――デュークモンは、台詞を真剣に受け止めつつ相手に倣って返した。

 

 「百も承知。此処を脱出するには、それ相応の代償は必要だという事であろうからな。貴殿の方こそ油断するなかれ、ダスクモン?」

 

 「ふん、オレはこれでも古代十闘士の継承者だからな。『闇のスピリット』の力を甘く見るなよ?」

 

 幽鬼――ダスクモンの不敵な笑いと共に、鮮血に濡れたような長剣の刀身が妖しく煌めいた。

 

 ***

 

 時は少し前に遡る。

 

 「我が神、我が神、何故我を見捨て給いし」

 

 デュークモンはそう叫びたい心境だった。

 

 神というのは勿論ロイヤルナイツを放逐して久しいイグドラシルの事ではないし、デュークモンが願えばどんな有用な働きもしてくれる謎の原始プログラム「プレデジノーム」の事でもない。存在しているのかどうかも分からない神に向かって喚き立てたい程、彼の精神は追い詰められた状態にあった。

 

 どろどろとタールの如く粘稠に流れる空間が、四肢に纏わり付いてくる。

 堕天せし魔王、デスモンが死ぬ間際に起動したプログラムにより此処に放り出され、かなりの時間が経ったような気がする――おそらく二日か三日くらいだろう――が、移動には全くもって慣れない。足を落ち着ける地面や床が一切なく、全身はさながら底無しのタール沼に沈んでいる。

 流動体の空間はその抵抗力で甲冑を纏った巨体の移動を困難なものにする。槍と盾をオール代わりにして空気を掻き分け進むも、抵抗力に加え殆どゲル状の空間の稠密さにはろくな推進力が得られない。非常に冷静かつ温厚な彼にとってすら、苛立たしく気が狂いそうな事この上ない状況だ。

 

 加えて、この不快極まりない空間を造り上げているのは、同様に不快極まりない内容を意味するデータに違いなかった。実際、データ探知センサーに引っ掛かる浮遊データから、呪詛や怨嗟の音無き呟きが延々と聞こえてきて電脳核(デジコア)情報処理機構に浸透していくのだ。

 しかし、厄介なことにセンサーをオフにする訳には行かない。データ取得を放棄するというのは即ち情報収集を諦めるという事であるし、このけったいな空間から脱出するのを諦めるという事である。プレデジノームの接続圏外になってしまった今、泥臭く脱出方法の尻尾を探す以外にないのだから。

 

 黄玉の瞳が上方を見上げた。デジタルワールドの空に視認できる電子回路はなく、一面乾溜液の濁った黒で塗りたくられている。もはや上方と下方の境界面も分からない。距離感もない。

 はあ、とデュークモンは鎧の下で溜息をついた。デジモンはレベルが上がるにつれて、情報処理機構内が高度に様々なデータを仕分けしてくれるようになるため、外界からの情報流入を断って自己の情報整理をするために眠る必要がなくなる。こんな時こそ眠って意識を手放してしまえたら良いのに、とふと幼年期のデジモンやリアルワールドの人間が羨ましくなる。

 精神力はがりがりと削られていく一方だ。

 そうして、さしものデュークモンも精神的に疲弊し、進むのを止めようと思いかけた時だった。

 

 「――!」

 

 彼は思わず身震いした。

 波動感知センサーをねぶられた様な感覚だ。

 

 (何者かに見られている――?)

 

 そのようだが、センサーが馬鹿になってしまったのか、どの方角、どの位離れた場所に自分を凝視している対象がいるのか判然としない。

 

 取り敢えず槍を構えその場に静止していると、ぼんやりと前方から何者かの姿が浮かび上がってきた。

 

 体格は人間とほとんど変わりない。ほとんど闇に溶けそうな鎧を纏い、対照的に煌びやかな金髪をなびかせる。腕の尖端には手の代わりに恐竜の類の頭蓋骨を模したものが取り付けられており、その喉の奥から真紅の長剣が伸びている。デュークモンを真っ直ぐ見ているのは、刀身と同じ色の瞳である。

 一見するとダークエリアに居を構える魔王の騎士のようだが、実際にダークエリアに立ち入った事のあるデュークモンはこのようなデジモンを目にした事はない。

 相手を黄玉の瞳で見据えたまま黙っていると、先方が口を開いた。

 

 

 「ふ、襲ったりするつもりはない……そうする価値は無いからな。誰だ?」

 

 「――デュークモンと申す。初見披露」

 

 相手の台詞に何か毒気を抜かれ、デュークモンは臨戦態勢を解いて名乗った。

 

 「デュークモン、か。見た所、かなり誉れの高い騎士のようだな」

 

 相手はもの珍しそうな目でデュークモンの白銀の甲冑や紅蓮の外套、槍や盾を観察しながら言った。

 

 「一応は――な」

 

 実際誉れ高いどころではない。デュークモンはネットセキュリティ最高位の騎士――世間ではまだそれでまかり通る――ロイヤルナイツの一員である。

 ロイヤルナイツのネームバリューはすさまじく、詐称して方々で恩恵に与ろうとする輩は決して少なくない。しかし、その圧倒的な知名度に比べ、具体的な構成員については大衆の知るところではないのだ。それ故、詐称もまかり通ってしまう。

 従って、相手がデュークモンの事を知らなくとも少しもおかしくはないのだ。しかし、相手に自分がロイヤルナイツである事をわざわざ示そうとはデュークモンは思わなかった。権威を振りかざすのは好かない。

 

 「(しか)して――貴殿は?」

 

 「オレの名はダスクモンだ」

 

 デュークモンの全く聞いた事のない名前である。イグドラシルのデータベースにはくまなく目を通しているはずなので、知らないデジモンなど余程の事がない限り存在しない。よもや新種のデジモンというやつだろうか。

 

 「貴殿、何故かような場所に?」

 

 「オレは此処で生まれ此処で育った。リアルワールドは勿論デジタルワールドにも行った事はない」

 

 「――ほう?」

 

 黄玉の瞳が好奇心の光をちらつかせた。デジモンはデジタルワールドで誕生するものとばかりデュークモンは思っていたが、どうやら違うらしい。

 

 「大多数のデジモンからすると、オレの半生は特異に思えるだろうな。フォービドゥンデータがDNA代わりなのだから」

 

 フォービドゥンデータとは、この空間に蔓延している怨恨の塊やら残虐非道な内容のデータを指しているのだろう。

 

 「リアルワールドのサイバー空間、或いはデジタルワールドから流れ出した悪逆なデータ、その漂着地がこの空間だ。『闇のスピリット』を核として、そのフォービドゥンデータ、それと自然淘汰されたデジモンの無念やら何やらが丁度良く凝固して生まれたのがこのオレ、ダスクモンというわけだ」

 

 「闇のスピリット――とな?」

 

 デュークモンの瞳が少し見開かれた。ダスクモンの恐ろしげな生い立ちよりも、興味を惹かれたのは別の部分であった。

 

 スピリットというのは、デジタルワールド古代期に史上初めての「究極体」として出現した十闘士の遺産であるマテリアルだ。それらは天にまします三大天使に引き継がれた後、世界を属性毎に区分した十のエリアに一つずつ配置される運びとなったらしいが、そのエリア区分は今や跡形も残っていないし、スピリットは何処へ行ったのか全く不明なのだ。それこそロイヤルナイツが皇帝竜の聖騎士によって正式に発足するよりも前の話である、誰も正確なことを知っているわけがない。

 その半ば風化した伝説と化しているスピリットの一つが、よりによってこんな場所に流れてきていたとは。

 

 「それでは貴殿は、古代十闘士の継承者か?」

 

 

 「その通りだ。まあしかし、その肩書きが現代で通用するかどうか分からんな。……ところでデュークモン、お前は何故こんな場所にいるのだ?」

 

 「このデュークモンの存在を快く思わぬ者に、一方向転送(シンプレックス・トランスミッション)プログラムで飛ばされたのだ」

 

 当たり障りのない程度にデュークモンはそう話しておいたが、これではまるで自分が嫌がらせやいじめに遭ったように聞こえるかも知れない。

 

 「それは難儀だったな。大方自分ではお前を殺すだけの力がないからと言って陰湿な手段に訴えたんだろう」

 

 冗談めかしたダスクモンの台詞がわりと核心に迫っていたのは驚きだった。実際にはデスモンがそうだと明言したわけではないので推測でしかないが、デュークモン自身は奴に己を斃すだけの力はなかったと見ている。

 

 「このデュークモン、やるべき事は山程ある。かような場所で足止めを喰らっている訳には行かぬ」

 

 「――俺が脱出の方法を知っていると言ったら?」

 

 デュークモンの双眸がきっと鋭くなった。今彼にとって最も肝要な話であり、最も慎重にならねばならない種の話題である。意外にも早く脱出の手掛かりが掴めたようだが、希望が須臾の夢幻に過ぎなかったら意味はない。

 甲冑の騎士の警戒しているような表情を一瞥し、ダスクモンは相手に実際的な思考を喚起させるために言った。

 

 「嘘ではないさ。此処がならず者のデータの溜まり場ならば、その通い路なるものが無ければおかしいだろう?」

 

 言われてみれば確かにその通りだ、とデュークモンはすぐさま疑念を払拭し表情をいくらか和らげた。ダストシュートが無ければ、ごみは落ちてくる事はないのだ。この空間でデータが自然発生するという憶測は最初から数のうちに入っていない。0と1の累卵であるそれは全てリアルワールドに起源を発し、閉じられた空間で生まれるような代物ではない。

 

 「お前は脱出したい、オレもこんなつまらん場所からさっさと脱出したい、オレは方法を知っているが、一人ではそれを実行できない――」

 

 「――よって、このデュークモンの協力が必要だという訳か」

 

 デュークモンが言葉尻を受け、ダスクモンは目で頷いた。

 

 「そうだ。決して悪い話ではない。お前はオレがお前を騙そうとしているという懸念をしている――かどうかは知らないが、オレとしては、これは千載一遇のチャンスだ。お前を騙す理由などあるわけがない」

 

 デュークモンが確かにダスクモンが自分を(たばか)っている可能性を考えたのは事実であるが、その必要性は全く見当たらないのもまた事実であった。ダスクモンの話は至って合理的で矛盾点が見当たらないのである。

 デュークモンがこの一様に黒いのっぺりとした空間を巡ってみた結果、気味の悪いデータの屑があちらこちらに浮遊しているだけで、意識を持ち自律的に行動するデジタル生命体――つまりデジモンなど、自分以外には誰もいなかった。帰納的にはこの空間全体がそうなのだろうと思われるので、要するにデジモンなど全くいない空間なのだ――ダスクモンは例外であるが。まさしくデュークモンは“まれびと”であり、唯一無二の協力者となろう者なのだ。そんな貴重な存在を、自分からみすみす逃す手はない。

 

 「なれば、その脱出する方法というのは具体的に如何なるものなのか?」

 

 「ああ。簡単に言うと、此処にはとにかく巨大な化け物がいる。そいつはリアルワールド、そしてデジタルワールドからのデータの通り道を塞ぐほど巨大だ。そいつをデリートすれば、安全にオレ達は此処から抜け出せるというわけだ」

 

 思ったよりも随分単純な方法だが、化け物とは何なのか気に掛かるところだ。そして、「この空間にはダスクモン以外のデジモンがいない」という先の自分の推論を早速撤回せねばならない。

 

 「巨大な化け物、とな?」

 

 

 「あれもまた『フォービドゥンデータ』の権化だろう……見てくれは大蜘蛛に似ている。初めのうちはほんの小さな、取るに足らんようなものだった。一応デジモンではあったがな。長い時間を経て大量に発生したそれらは互いに融合し、巨大なデジモンへと変則的な進化を遂げた。そう、あれはおそらく……幼年期から究極体へと」

 

 デュークモンは驚愕に思わず息を呑んだ。幼年期といえばデジモンの進化段階最初期、究極体というと最終進化段階だ。ダスクモンの言う通りならば、その巨大な化け物は間にある三つの進化段階をすっ飛ばして進化したことになる。

 

 「そんな進化があり得るのか」

 

 「常識的には有り得ないがな。オレは直接見た……巨大な蜘蛛のようなデジモンが、小さな海月(くらげ)に似たデジモンを吸収しているのをな。だから、あれは元々小さな海月が集合して誕生したデジモンではないかとオレは思っている」

 

 「そやつを倒せるだけの算段はあるのか? 」

 

 「心配されなくとも。基本的にオレは機敏に動き回って奴の機動力を落とす――そこへお前が派手な技を電脳核(デジコア)にお見舞いしてやればいい」

 

 これまた随分単純な方法であるが、それが最も効果的であろうことは明らかだった。デュークモンはこの粘稠な空間に足を取られ思うように動く事が叶わぬ反面、ダスクモンは幽鬼の如く瞬間移動をする事が可能である。加え両腕の剣は斬撃に特化しているように見える――つまり敵の足を斬り落とす事が容易そうである。デュークモンは事実“派手な技”を持っているので、彼の役割はおのずと動きが鈍くなった敵に重たい一撃をお見舞いしてやる事となる。

 

 「成る程、支持致す。貴殿の力に大いに期待を掛けようではないか」

 

 デュークモンは素直に心の内を言葉で表した。

 ふと彼はダスクモンは完全体なのか、それとも究極体なのか気になったが、それよりも気になった事があったので彼は尋ねてみた。

 

 「貴殿は此処から脱出する事が叶ったなら、どうするつもりであろうか?」

 

 ダスクモンは何処か遠い目をして答えた。

 

 「オレはとある奴を探している。そいつにはオレ自身勿論遭ったことなぞないが、どうあってもそいつの存在を抹消しろと、オレの中でやかましく騒ぎ立てる奴がいるのでな」

 

 何者かの怨嗟が精神から剥がれ落ち、此処に漂着し、ダスクモンを形成するデータの一端となったのだろうか。リアルワールドでもデジタルワールドでも、新たに生まれる生命自身は何も自身に負うところはない。迷惑極まりない話どころか、可哀想であるとさえデュークモンは感じた。

 

 「大人しくそいつを始末してやれば、オレの中の警報も鳴り止むのだとしたらそうする価値は十二分にある。もっとも、顔を合わせた事のないそいつには恨みもないし、そいつもオレの事を知っているはずがないがな」

 

 見知らぬ奴におよそ真っ当とは言えないような理由で命を狙われる者にとっても、十分迷惑な話である。しかし、デュークモンには今そのような事を考えるのは野暮だと思われた。

 

 「そやつを始末した後は、どうするのだ?」

 

 「さあな、後で考える。どうせ直ぐにそいつが見つかるわけはないからな。始末できなかったときには返り討ちに遭って死ぬのも悪くはない。どちらにせよオレはうるさいアルゴリズムから解放されるしな」

 

 ダスクモンにとっては、まずは呪縛から己を解き放つ事が生きる目的なのだと言えよう。まずは己の生まれた場所、次にあずかり知らぬまま身に受けてしまった呪わしいアルゴリズムを。

 

 (呪縛……か)

 

 ロイヤルナイツ全体に掛けられた、亡霊の如きそれ。主から見放されても尚、自分の存在価値を騎士という地位にのみしか見出せぬ哀れな者達。デュークモンもその一人であるのは言わずもがなであった。ダスクモンとは決定的に違うのは、それを呪縛だと理解していながら、それに掛かっている事に甘んじている――寧ろそれを良しとしている所だ。

 

 「お前は? 自分をこんな目に遭わせた奴に復讐……などしそうには見えんな」

 

 ぼんやりとしていると、ダスクモンが話しかけてきたのでデュークモンは我に返った。

 

 「ああ……生憎、そやつはもう死んでおるのだ」

 

 「ふっ、そうなのか。残念だな」

 

 ダスクモンは可笑しそうに言った。だがそれも一瞬のこと、直ぐに真剣な雰囲気をよろう。

 

 「兎にも角にも、全ては脱出してからの話だ。早速だが、オレは大蜘蛛の化け物がどの方向にいるのか感知できる。後は――分かるな?」

 

 そう問い掛けられ、デュークモンは即答した。

 

 「無論。貴殿に付いていく事としよう」

 

 今や、デュークモンの命運はダスクモンが握っているようなものだ。彼を信用しないと、何も始まらない。

 そうしてデュークモンは、このどろどろとした闇の中を再び突き進んで行く事となった。今度は光へ向かってだ――何しろ、水先案内人がいるのだから。




次回バトルです。
※11/3,超若干改稿しました。


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"Armageddon" 1

戦闘は2回に分けようと思います。
もしかしたら3回になる可能性は……それなりに高いです。


 「デュークモン、見えるな。あいつだ」

 

 声に促され、純白の甲冑を纏う騎士は遠方を――自分達の目的である怪物を見やった。途端にその目付きが一層険しくなる。

 

 「……うむ」

 

 デュークモンは、半ば唸るように応答した。流石ダスクモンは一度以上怪物の姿を目にしているだけあってか――それとも出自などの意味で自分と同類であるからか、さして気分を害していない様子だ。頼もしくさえ見える。

 

 怪物は、右方の壁に張り付くように存在していた。

 半ばから山なりに折れ曲がった細い肢は6本であるものの、ダスクモンの言う通り、蜘蛛のような姿態をしている――加え、いとも巨大だ。遠近感や距離感が失われているため正確な大きさの程は把握できないが、遠目に見ているはずなのに自分の5倍はあるようにデュークモンには見える。とにかく巨大だ。

 また、その全身像は「醜悪な合成獣(キマイラ)」と言って差し支えないものだ。三本角が突き出た頭部、全身を守り固めている濁った黒色をした装甲、足の末端から突き出た三本の鉤爪、節に分かれ先端に鋭い屈曲した針が付いた尾――選別と分化の過程を経ていないデータの混沌から生まれたというその出自を、端的に示しているらしい。

 

 一旦その醜怪さから目を離すと、ちょうど巨大な体に覆い被さられるように、白い薄光を放っている線が何本か目に入った。一様な光の束というよりは、粒の小さな細氷の集まりに陽光が当たって煌めいている風だ。

 あれがデータの通り道というやつだろう。デュークモンが想像していたよりも距離としては長い。途中から突然ぷつりと断裂しているように見えるのは、複数の次元に跨がって存在しているためであろう。

 

 あの怪物を倒さないことには、到底無事に道を通り抜けられそうにない。やるべき仕事は一つ――デュークモンもダスクモンも、いよいよ張り詰めた雰囲気を纏う。

 

 「とりあえずは、奴に接近するぞ――気を付けろ」

 

 正面を向いたまま、やや低い声でダスクモンがデュークモンに呼びかける。返答を待たず、彼の姿が闇に溶け、より遠方に滲み出るように再び出現した。

 デュークモンは返事をする代わりに、今まで通りタールの如くに粘稠な黒い空間を掻き分けて思うようにゆかぬ移動を続けた。

 時折ちらりと確認する怪物の様子は、奇怪――というより不可解である。壁に張り付くような格好のままその場から全く動かず、頭を巡らす事もなく、たまに舌を口内から出し入れするのみだ。動かないのはおそらくデュークモンと同じ理由で「動けないから」だろうが、それとも獲物を待っているのだろうか? そうだとしたら、何故自ら獲物を探さないのだろうか? 意味の分からない事ほど気味の悪いものはない。幸いなことに、まだ自分達がちょこまかと動いている事には気が付いていない様子ではある。

 

 幾分時間を掛けて怪物に大分接近することに成功したデュークモンとダスクモンだったが、彼らの目には段々怪物の大きさの程が鮮明になってきた。

 巨大、なんてものではない。そんな形容詞は生温いだろう。デュークモンは「竜帝エグザモンに比肩する体躯」であると思った。エグザモンとはロイヤルナイツの一体にしてデジタルワールド最大級のデジモンであり、途方もないそのデータ質量を持つその真の姿を普段現す事が禁じられている程の重量級である。

 一瞬、果たしてあれを倒し得るのかという疑問が脳裏をよぎったが、可能不可能の問題ではない――倒さねば「ならない」のだ。倒して、怪物が今覆い被さっている超次元のデータ通路に入り込まねばならない。

 

 不意に、ぎょろりと怪物の瞳孔が二体の方に向けられた。

 見つかったのだ。

 

 「うっ」

 

 思わずデュークモンの喉から声が漏れる。

 二体の背筋が凍った。発見されずに接近する事など不可能――それはダスクモンもデュークモンも無論分かっていた。しかし、あの視線は本能的な恐怖を呼び起こし、それから逃れられなかったのだ――ネットセキュリティの守護騎士・ロイヤルナイツに名を列し、それに相応しく非常に肝の据わったデュークモンでさえ。

 遠巻きに怪物を見て平然としていたダスクモンとて例外でない。彼の体組織がこの空間を満たす悪逆なデータである点で怪物と同類であるとしても、組成量の桁が違いすぎる。

 

 そして、「眼球」という存在をこれほどまでに不快に感じたことは、デュークモンには未だかつてなかった。

 少なくとも自分の記憶がある限りでは、一度もない。デスモンの顔に中心にただ一つ付いた雌黄の巨眼でさえ、これに比すると可愛らしいものだ。

 ダスクモンの鎧に埋め込まれた数多くのそれでさえ――確かに瞳孔が血管が透けたように赤く、剥き出しになっている眼球がせわしなくぎょろつく様子は気味が悪くないといったら嘘になるが――およそあの怪物のものに比べると何でもない。

 

 怪物の目は濁った黄緑色であった。その質感といい色といい、細菌を喰らった白血球の死骸か、白蝶の幼虫を丸めて眼窩に押し込んだもののようだ。およそガラス体と水晶体が膜の中に収まっているもののようには見えない。

 

 しかし嫌悪感に足を取られてはならない。ダスクモンは早速起こすべき行動について厚かましくもデュークモンに指示を出す。

 

 「デュークモン、オレはあいつの肢を斬り落とす。お前は何とか奴の腹の下に――っ!」

 

 怯んだダスクモンは言葉を続けられなかった。

 だしぬけに、怪物の顎が上下にがっと開いたのだ。

 切り立った連峰の如き白い歯列が現れる。黒く塗りつぶされた空間や、己の体表面と対比を成していて鮮烈だ。次いでその奥からのぞいたのは舌だ。今度ははっきりその様相が見える――厚い肉質のもので、唾液にまみれている。獲物を咀嚼するのを待ちわびているように、或いは相手を挑発しているかのように、でろでろとせわしなく動いている。

 そして次に現れたのは――深淵の如き喉だ。

 しかし見せていたのは闇ではなかった。白く輝くエネルギーの集束だ。

 

 超高温ゆえに白く見えている、太陽コロナの如く――デュークモンは危険を悟り、すぐさま大盾の陰に身を隠せるよう思うように動かぬ体を動かす。

 しかし怪物が動作が完了するのを待ってくれるわけはなかった。

 

 火炎が咆哮した。

 視界が橙赤色に染まる。

 局所に極限まで集中されたエネルギーは爆炎へと変換され、たゆたうデータの屑を、そして存在する生命を全て焼却せしめるように空間を奔る。一帯は焦熱地獄へと変貌する。

 

 ダスクモンは瞬間移動し、迸る火炎の軌跡から何とか逃れた――がしかし、凄まじい熱風が具足に覆われていない顔の部分に吹きつけて来た。彼は反射的に目を閉じて身をよじる――顔が焼け爛れそうに思われたのだ。

 直撃を避けた自分でさえ尋常ではない熱に当てられたのに、どう見ても直撃だったデュークモンは――一体どうなってしまったのか?

 

 「デュークモン!」

 

 熱さが引いてから、彼は相方に大声で呼びかけた。

 応答はない。

 ダスクモンは動揺した。まさか、炎の洗礼により昇天してしまったとのか? 自分の見立てによると、デュークモンの力無くしてあの化け物に打ち勝つ事は到底不可能であるのに、早々にその希望が摘み取られるというのか。

 やがて激しい炎が霧消し視界が晴れる。

 ダスクモンは顔に付いた二つの目だけでなく、鎧の諸部分に付いた目玉を総動員して周囲を見回した。

 やがて鎧の右肩部に埋め込まれた目玉が、彼の後方で大盾の陰に身を隠した騎士の姿を捉えた。灼熱により具足が溶解されているような様子は見当たらない――ダスクモンはふうと息を吐く。もっとも、彼の見立てではデュークモンはそう脆いデジモンではないはずだった。

 

 「……無事だったか」

 

 「何とか……な。聖なるイージス無くば、このデュークモン今頃はデータ分解されていたであろう」

 

 デュークモンは僅かに震えが感じ取れるような声で言った。リアルワールド風に言うならば、彼は今「冷や汗を掻いている」ことだろう。

 神聖なるイージスはマグナモンの纏うクロンデジゾイド鎧ほど高い防御力を誇るわけではないが、それでも十分すぎる程高い守護の力を持ち合わせる。だからデュークモンは聖盾イージスを炎の軌道に持って来ることと、その裏に隠れられるように身を丸める動作を完遂すれば問題なかったのだが、如何せん移動が思うようにできないのは死活問題――それが間に合うかどうかは分からなかった。防御の動作が一秒でも遅れれば、高純度クロンデジゾイド鎧といえども溶解されずに残っていたかは甚だ疑問が残るところだ。

 

 それはともかくとして、相手に攻撃を当てない事には話が始まらない。ダスクモンは怪物のせいで中断せざるを得なかった言葉を、もう一度詳しく言う。

 

 「さっき言いかけた事だが――オレはあいつの肢を切り落とし、機動力を落としておく――元々思うようには動けんだろうがな。お前は何とかその姿勢のまま相手の腹の下に潜り込め!」

 

 その言葉が終わらぬうちに、幽鬼の姿はゆらりと闇に溶けた。

 

 「承知」

 

 デュークモンが盾の裏に隠れたままそう返事をした時にはもう、ダスクモンは怪物の足の一本――右前肢に到達していた。

 全身に対して細く見える肢だが、その太さたるやダスクモンが横に5体並んだ程はある。この手のものは一太刀で斬り落とす事は不可能であるが、傷さえ付けてしまえばダスクモンならば「エネルギーを搾り取る技」で傷口からどんどんデータを吸収し、肢を断裂させる事が可能だ。

 流石のダスクモンも、移動に不自由しないとしても剣を振り回す事は出来ない。よって、剣を真直に怪物の脚に突き立てる。

 

 「まずは一本、もらうぞ……!」

 

 ダスクモンは剣に力を込める。

 しかし、そんなに事情は単純ではなかった。

 剣は対象を突き通すことなしに、外表面で静止を余儀なくされたのだ。

 

 「くっ、硬いな……」

 

 剣の切れ味に関しては非常に自信を持っており、かつ怪物の肢の硬度など大したものと思っていなかったダスクモンにとっては予想外の事態だった。何とか掠り傷でも付けられないかと剣に更に力を傾けたが、全く無駄というものだった。

 

 (肢は後だ。まずは眼を潰した方がいいか)

 

 そう考えるや否や、漆黒の幽鬼の姿は再び闇に掻き消える。

 視覚から得られる敵の情報は多大だ。特にこののっぺりとひたすら黒い空間にあっては「図」と「地」が明確に分離しているので、「図」――つまり相手が何処にいるのか特定しやすい。眼が潰れてしまえば、相手の位置を把握するのが非常に困難になるのは勿論、相手が何をしているのかも分からなくなる。

 それに、如何なる生物――ひいてはデジモンであっても眼球は柔らかく、容易く刃で貫き通せる。ダスクモンを構成するある残虐なデータが、彼にそう教えている。

 

 ダスクモンは怪物の眼前に一瞬で現れる。

 彼の身長の2倍ほども直径がある、気味の悪い色をした眼球がぎょろりと回転し、視界に入ってきた異物を睨み付ける。

 血に濡れたような刀身が鈍く燦めき、眼球に真直に突き立てられる。今度こそ突き通せるだろうという確信の元、ダスクモンは腕に力を込める。

 

 結果は万人の予想を裏切るものだった。いや――当の怪物はこれを当然の事として予見していただろう。

 剣は角膜の前で止まっているのだ。

 

 (馬鹿な、たかが角膜だぞ……!?)

 

 ダスクモンは渾身の力で眼球を覆う膜を貫き通さんとする。だがそれも虚しく、怪物の角膜に傷一つ付けることができない。

 本来ならば薄くて弾力があり、潤沢であるはずのそれは、硬質なガラス膜の如く存在していた。しかしその硬度は脆いガラスのそれではなく、まさしく鋼鉄だ。

 

 (これ以上は無駄か。せめて掠り傷でも付けられれば、話は別なんだが……)

 

 ダスクモンはいよいよ忌々しげに舌打ちをした。剣を全力で振り回せるなら、おそらく問題はないのだ。

 こうなれば全身で最も柔らかそうな口の中を狙おうとも考えたが、いくら何でもそれは危険だとすぐに案を棄却する。あの灼熱の炎に、瞬く間に焼き尽くされてしまうだろう。それに、重要なのは肢を斬り落とすことであって、それ以外の箇所はどうだっていいのだ。

 

 (ならば、進化(・・)するか――?)

 

 一瞬最終手段が選択肢として脳裏を過ぎったが、それこそ一番やってはいけないと、彼は首を振ってアイディアを思考から締め出した。

 あんな理性無きおぞましい姿は断じて他者に見せられない。あの姿を現すとしたら、真に事態が逼迫した時――デュークモンがデリートされてしまった後だ。己のもう一つの姿は、それ程までに醜悪で他者に見られたら最後、プライドが千々に切り刻まれ地の底に失墜する。

 

 この時、ダスクモンは自分が迂闊であることに気付いてはいなかった。そう――敵を前にして、考えに耽るという迂闊さに。

 

 「ダスクモン、そこから離れよ!」

 

 彼を我に返らせたのは背後からのデュークモンの鋭い一喝であった。

 

 「!」

 

 気が付くと、眼前にあったのはでかでかと開けられた怪物の口だったのだ。まずい、あの炎が来る――と身構え、ダスクモンは瞬間移動に備える――

 ――が、それよりも相手の方が早かった。寧ろ、ダスクモンが遅すぎたのだ。

 

 「ぐおっ……!?」

 

 鋭い歯列が真紅の刀身を捕らえた。

 

 「ダスクモン!」

 

 デュークモンが思わず声を上げる。

 一気に冷静さを失うダスクモン。捕らえられたのは眼球に突き立てた方ではない剣であった。片腕に意識と力を集中させていたために、そちらが留守になってしまったのだ。

 得意の瞬間移動――“ゴーストムーブ”は、障害物を擦り抜けることができない。障害物に囲まれた時と、このように体の一部を掴まれた時には弱くなってしまう。故に、この状況から抜け出すには力業を通す以外ない。

 

 「くうっ、離せ……!」

 

 何とか剣を怪物の大口から引き抜こうとするも、その努力も虚しく、バキン、と派手な破砕音を立てて剣は半ばから折れた。破片が花弁のように散る。

 怪物は、信じられない事に――今噛みきった金属の塊をガリガリと噛み砕くと、そのまま喉の奥へと流し込んだのだ。ごくりと生々しい嚥下音が鳴る。

 

 「馬鹿な……オレの“ブルートエボルツィオン”が……」

 

 ダスクモンは呆然と呟いた。剣は自分の手も同然。それが今無残にも折られ、相手の腹の足しとなったのだ。これほど無念で苦しいことはあるだろうか。

 デュークモンにとっても、武器が失われるのは大きな問題だった。譬え相手の超硬度を誇る体表を貫き通せないとしても、剣が一本あるのとないのとでは大きな違いだ。

 まだ一本の腕は残っているが、その事実が喪失という事実を幾らも緩和するわけはなかった。ひとまず、己の二の轍を踏まないためにデュークモンの方へと移動する。




次回、アーマゲモンが多分もっとキモくなります。


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"Armageddon" 2

投稿遅れまして申し訳ありません。
今回凄い長くなりました。


 停滞した昏き混沌の中。片や自信を剣もろともへし折られた幽鬼、片や持てる力の半分たりとも出せず懊悩する騎士。脱出画策者の拙策拙攻を嘲笑うかのように、忌まわしき出自の異形はその巨眼で彼らをねめつけ、唾液に塗れた肉厚の舌をでろでろと上下に動かす。万が一理性というものを持ち合わせていたら、それはただひたすら愚かな侵入者を弄び、戯れる事を助長するのみに使われているのであろう。

 

 幽鬼――ダスクモンは、苛立たしさと悔しさ、そして怒りの混合した感情に歯噛みしていた。

怪物の足を一本ずつ切り落とす事で、力を削ぎ落とすと同時にその組成データを妖剣“ブルートエボルツィオン“より吸収し、必要とあらば後でデュークモンに明け渡してやる算段であったのに、まず計画の第一段階で頓挫してしまった。それどころか、己の腕にも等しき剣が一本、怪物の栄養物になってしまったのだから。

 

 騎士――デュークモンは、甚だしい焦燥感を覚えていた。

創世の予言書に記された通りロイヤルナイツに任ぜられ、幾度となく神の命によって危険な戦いへと身を投じようとも、味わった事のない激しい感覚だ。電脳核が異常に発熱し、パルスの振動数が上昇するのに合わせ、視界が微かに上下にぶれる。

 

 かの七大魔王に列席する者と対峙した時も、地上界に現れた堕天使を粛清した時も、一切を破壊しようと大地を蹂躙した機械竜を破壊した時も……あれらは本当に危殆な状況ではなかったというのだろうか。彼処に全てを睥睨し嘲笑するように鎮座する魑魅、あれが何よりも強大であるというのだろうか。

 

 それでも、何とかしなければならない。如何なる状況下に置かれようとも――。デュークモンは己に言い聞かせ、そして問いかける。お前は誰だ? デジタルワールド最高位の守護騎士、ロイヤルナイツが一人、デュークモンだ。我が命は限りある儚いものとて、惜しむものではない。譬え蛮勇であれ、振り絞るべきだ。足掻ける限りは、如何に泥臭く愚かしく見えようとも、やれる事ならば全て試すべきだ。

 

 ならばどうすべきか。デュークモンは高速で思考を回転させる。――恐らく、自分の槍とてダスクモンの折られた剣と同じで、何の役にも立たないだろう。振るえねば真に力を発揮できぬこの聖なる業物は、どろどろとタールの様に高粘度の空間内では無力に等しい。

 だが自分の武器は一つではない。そう――盾がある。防御する為だけにあるのではない、聖なる大盾がある。

彼の電脳核は今や、一つの答えに辿り着いていた。デュークモンは、隣の虚空に浮かぶ共闘者に呼びかける。

 

 「ダスクモン、作戦は中止だ」

 

 漆黒の幽鬼は、顔に付いている二つの目玉と、纏っている鎧に埋め込まれている多くの目玉とを、一斉にデュークモンに方にぎょろりと向けた。

 

 「……何のつもりだ?」

 

 「このデュークモン最大の技を、この場から叩き込む」

 

 生半可な物理攻撃が通らぬ以上、そして電脳核に直接技を叩き込める位置まで移動するには、危険すぎる事がはっきりしている以上――獄炎の息を吐かれたら最期、一度目と同じように運良く防げる保証は全く無い――、残された選択肢は僅かしかない。それに全てをつぎ込んでみるのみだ。デュークモンは決してやけを起こしたわけではない。

 ダスクモンは一瞬瞳孔を拡大させ狂人でも見るような顔をしたが、直ぐさま性格に騎士の意図を汲み取った。しかし次の瞬間には狂人を見るような顔に戻った。

 

 「大技を連発して奴の躯を削りきろうとでもいうのか? どういう技なのか知らんが……いたずらにお前の命が削れるだけかも知れんぞ!?」

 

 「悠長に構えている暇ではない! 命を危険に晒してでも、危険を回避せんと努めるべきであろう……未だ可能性が潰えていないのならば!」

 

 純白の甲冑に身を包んだ騎士は毅然として言い放った。ダスクモンはその語調の強さに思わずひるみ、口をつぐむ。それ以上の反論を許してくれそうな雰囲気ではないのだ。

デュークモンは非常にゆっくりとした動作で――ねっとりとした空間の妨げゆえだが――大盾を自らの真正面に据え、遠方に鎮座する怪物の方に向ける。

 彼は力の全てを集中した。

 大盾の表面外周を飾る黄金の三角が、一つずつ赤く点灯し始める。

 その度、盾の中央にあしらわれた赤い三角とそれを取り囲む三つの逆三角の図柄にエネルギーが充填されてゆく。エネルギーの密度が高まる度、中央の図柄が発する輝きは激しいものとなる。

 刮目しているダスクモンにも、空間を隔て尋常ではないエネルギーが圧縮され、大盾に集中しているのがはっきりと感じ取れた。物理的な圧力さえ受けているような感覚だ。

 

 「“ファイナル・――」

 

 デュークモンは静かに、壁に張り付くような姿勢のまま視線を泳がせる怪物を見据えた。

 

 「――エリシオン”!!!」

 

 閃光が放たれる。

 全ての可視光が縒り合わされた、最もまばゆい光の束。若い恒星の輝きのように、常昼の楽園を照らす光のように、河底に沈む汚泥にも等しい広がりを、清浄で神聖な光線が妨げなく真直に貫いてゆく。

 閃光が、あやまたず大蜘蛛の右前肢に炸裂する。

 

 「やったか――?」

 

 期待を込めた様子で彼方を仰ぎ、呟いたのはダスクモンだった。 あの強大無比な技をその身に受けては、如何に恐ろしく尋常ならざる魑魅の類といえども、無傷ではいられまい――殆ど確信する。

 しかし、その結果は――あまりにも予想とも、期待とも違っていた。

 

 「――無傷だと」

 

 絶望の底に叩き落とされる。騎士も、幽鬼も、惚けた様に呟くばかりだ。

 黄玉と深紅の双眸に映り込むは、赫灼たる光線の束をその身に受けようが受けまいが、そんなのは関係ないとばかりに君臨する巨体。怪物は、少しばかり眩しかったとでも言いたげに、混濁した黄緑の両眼を細めるような仕草を取っただけであった。

 金剛石を撫でるそよ風にも等しい――自分の全力の攻撃を評するならば、それが最も相応しい表現のようにデュークモンには思われた。この技――聖騎士デュークモンの最大の技、ファイナル・エリシオンを受けてただで済んだ者など開闢以来皆無だった。その堅固な歴史を、デュークモンと、そしてダスクモンの抱いていた期待もろとも打ち砕いたのだ。

 

 紅蓮の外套なびかす騎士は呆然として視線を落とした。

 だがそれでも尚、彼は諦めまいとしていた。破砕させられたプロバビリティーの砂粒にも等しい細片を握りしめながら、彼はひたすら心の内で繰り返していた。何とかしなければ!!! 何とかしなければ!! 何とかしなければ! 何とかしなければ。何とかしなければ、何とかしなければ…………

 

 突然の出来事だった。輪郭のない薄らぼやけた、それでいて酷く重量のある記憶が、濁流となってデュークモンの情報処理機構に押し寄せてきたのは。胸の奥、心臓と頭脳を司る錐体がどんどん高まる内部圧力に悲鳴を上げる。両手さえ塞がっていないなら、胸の辺りを押さえたい程だ。

 

 何とかしなければ……あの時もそう思っていた……あの時もこんな状態だった……どうやって生き延びたというのだろう……デリートという道を辿る以外なかったはずの状態から……あの時……一体いつの事だろう……ロイヤルナイツに任ぜられてから……それよりも遥かに昔……予言……イグドラシルの……それとも別の……預言……黙示……

 

 訳が分からなかった。こんな事に気も時間も取られている暇ではないのに――記憶の浜辺に打ち寄せ飛沫を上げる波濤に、抵抗する意思すら飲まれていく。

 

 「うあぁぁ……っ」

 

 純白の騎士は呻き声を上げた。かろうじて上がったと言った方が正しいかも知れない。

 

 「――デュークモン?」

 

 突如上がった共闘者の苦悶の声に、ダスクモンは甚だ当惑した。自身の最大の技が全く通用しなかった絶望のあまり、精神が不安定になってしまったのかと最初は思ったが、それにしては様子がおかしい。寧ろ、過去の恐ろしい記憶を閉じ込めておく蓋が開いてしまったような風だ。

 

 「ううっ……このデュークモンは……我は……自分は……私、は……!」

 

 「落ち着け! 大丈夫か、デュークモン!?」

 

 ダスクモンが、自己同一性の危機に陥ろうとしているらしい純白の騎士に大声で呼びかける。運命共同体として、相方が危険な状態に置かれるのは歓迎される事ではない。

 

 「くっ……ううっ……私は……」

 

 「デュークモン!」

 

 「ぐ……す、済まぬ。ああ。大丈夫だ……何でもない」

 

 純白の騎士はひとしきり苦しそうに呻くと、相当憔悴したように短く詫びた。言葉とは裏腹に全く大丈夫そうな様子ではないが、現実には戻って来られたらしい。ダスクモンはひとまず安心した。

 しかし一体どうしたのか、彼がそう思うのと同様に、当のデュークモン本人すら疑問だ。何故今、こんな逼迫した時になるべきではない状態になってしまうのか……寧ろ、その逼迫ぶり故にこんな状態になったのか?

 言うまでもなく、そんな事を思い巡らせている場合ではない。

 デュークモンはふうと深く息を吐いた。虚空の一点に全神経を集中させ、一切思考するのを止める。

 数秒間心を空にしていると、彼の電脳核処理機構は驚く程の速さで元の秩序だった内部環境を取り戻した。今まで一度も実践した事のない瞑想であるが、効果は劇的なようだ。

 そうして平生の冷静さを取り戻した純白の騎士は、きっぱりと言い切る。

 

 「……ダスクモン。不可能だ――あやつを倒す事は。デリートは不可能だ」

 

 深刻さや絶望感どころか、清々しさすら纏った語調だ。

 数瞬流れる張り詰めた沈黙の後。当然、ダスクモンは目を剥いて反駁した。

 

 「ならばどうするのだ? 分かるだろう、奴が邪魔で、通路に侵入できん事が。あれを倒すのを諦めるのは、即ちこの忌々しい場所に墓標を建てること――ともすれば奴の腹の足しになり墓も建ててもらえないということだぞ?」

 

 言うまでもなく、彼は「頭では」諦念の境地に達していた。こうして口を尖らせても、虚しいだけだという事も分かっていた――あの巨大な混沌から生まれ出でた異形を、悪逆なデータの権化を消去する事などもう無理だとも。あれ程強大な、尋常でない程のエネルギーが収束した技がまるで無力だったのを現にこの目で見たのだから。

 しかし、「頭」と「心」が一致してしまった時全ての希望が断たれ、可能性の薄光が消え失せて闇に放り出されてしまう――同時にそれを恐れているのだ。

 純白の甲冑纏える騎士は、穏やかにいなすように頭を振った。

 

 「デリートは不可能だ。このデュークモンの最大にして最終の手段が、ただの目くらまし程度にしかならなかったのだ。貴殿がまだ別の技を持っているというのならば、もう少し話は明るかろうが」

 

 痛いところを突かれたとばかりに、ダスクモンはぐっと顔を顰めた。デュークモンの方は無論彼の秘めたる事情を知ってなどいないのだが、台詞の後半部分はダスクモンが隠し事をしているのをそれとなく糾弾しているような響きすらあった。

 ダスクモンは、彼が隠している事――即ち己のもう一つの姿を曝け出すのは、真に状況が逼迫してからだと相も変わらず固く決意していた。この漆黒の幽鬼のプライドは相当高く、自分の醜悪な部分を理性的存在者の目に晒してしまうなど絶対にあってはならないのだ。だから、デュークモンが死にでもしない限りは、最後の手段は決して明かしてはならないのだ。

 

 「……しかしこのデュークモン、そこまで諦め切った話はしておらぬ。……元を正せば、我らの目的は此処から脱することであって、あの怪物を倒す事ではない。そうであろう?」

 

 次に発せられたデュークモンの言葉に、ダスクモンははっとした。確かに原点に立ち帰って考えてみれば、大蜘蛛の怪物を倒すというのはこの不快極まりない空間から脱する手段なのであって、決して目的ではない。

 しかし、怪物を倒すという方法をおいて他にやりようがあるというのか。何せ、怪物の巨躯で脱出経路に蓋がされてしまっているのだから。

 

 「確かにそうだが、あれを倒さん事にはどうしようもないだろう。それともお前には、別の方法が見えているというのか?」

 

 デュークモンは首肯した。

 

 「至極単純な話、あやつをどければ良い」

 

 臆面もなく語られたその言葉に、ダスクモンは目を見開いた。

 

 「どけるだと?」

 

 「それ以外あるまい」

 

 ぴしゃりと言い切るデュークモンに対し、ダスクモンは怪訝な目で彼を見やる。大体、こうして話をしている間にあのあまりに巨大で強大な異形が襲いかかって来るのではないか、というおそれもある。先程から、彼はずっと遠方に鎮座する大蜘蛛の様子から目を離さないでいるが、あの気味の悪い巨眼で自分達の方をぼんやり見定めたままだ。焦眉の急である。

 

 「デュークモン、お前がふざけた話をするなどとは決して思うまい。しかしな……奴が動かねばならないというのは、余程の事だぞ。奴がオレ達を葬り去ろうと思うのなら、動かずともあの業火で燃やし尽くせばいい話だからな」

 

 「貴殿の言う通りではある。しかしたった先程起こった事を思い返してみよ。貴殿の剣を奴が喰らったこと――あれはつまり、捕食対象と見なしていたことに他ならぬぞ?」

 

 ダスクモンは低く唸った。もはやない肘から先が妙に痛むためと、思い起こすのも厭な話が出ているためだ。相当己の剣に対して妄執があるらしい。

 

 「ふ、奴には理性など多分ないのだぞ? あれがそんな“真っ当な”理由によって為された行為とは到底考えられんな」

 

 デュークモンは微かに頭を振った。

 

 「ならば尚更だ。あやつが本能だけで動いているのだとしたら、理性を以てしてよりも賢い方法をとるであろう……獲物を屠るという点に限ってはな」

 

 本能なるプログラムは生体維持に最も有効に働く、これはデジタルモンスターにとっても当てはまる話である。本能に基づいて取られる行動の主たるものには「捕食」と「防御」の二つがあるが、他のデジモンのデータをロードしなくとも良い程データパフォーマンスの優れたデジモンは、前者をしばしば忘れる傾向にある。ダスクモンもその例に漏れない存在だったという事だ。

 漆黒の幽鬼は少し考え込むように目を伏せると、ふんと鼻を鳴らした。その態度には尚も訝しんでいるという事が滲み出る。

 

 「お前の言説に従うとしてだ、あれはオレのブルートエボルツィオンを最良の食糧として見ているという事になるぞ?」

 

 「そう言えるであろうな。無論何故かは分からぬが……。ともあれ、我々がせねばならぬのは、あやつをあの場所から引き剥がす事だ。その為には、心ならぬ頼みだが……貴殿が囮になってはくれまいか」

 

 デュークモンが、しかとダスクモンを見据えた。その眼差しは真剣そのもので、攻撃的な要素を一切感じさせないが、しかしその申し出に対して是と答えなければならぬと感じる程の圧力は備わっていた。とはいえ、ダスクモンの方には拒否する正当な理由などない。彼もまた、「可能性がまだ潰えていないのならば、命を危険に晒してでも、危険を回避せんと努めるべきだ」という意見には同意せざるを得ないのだ。

 漆黒の幽鬼は頷いた。

 

 「ふ、いいだろう。元々命の掛かった試み、薄氷を踏む事など今更だ」

 

 「感謝する」

 

 デュークモンは短く謝辞を述べる。

 だがそれを聞き終わらないうちに、漆黒の幽鬼の姿は彼の側から消え失せた。そして、最危険地帯――大蜘蛛の文字通り目と鼻の先に一瞬で現れる。

 すると――今まで焦点を定めていなかった怪物の瞳孔が、突如己の視界に闖入してきた者に向かってがっちりと固定されたのだ。正確には――これから喰らう予定の、妖しく煌めく紅蓮の剣に向かって――だ。

 その様子を双眸にしかと映し取り、ダスクモンは喜悦に思わず笑みを漏らした。

 どうやらデュークモンの言った通り、自分の剣に興味を持っているらしい。それも、一次的欲求というやつの次元で――現に、怪物はたった今じゅるりと醜悪に舌なめずりをして見せたのだ。その低次元な欲求のせいで剣が無残に失われたのは勿論腹立たしいが、皮肉にもそのお陰で活路が見出された訳である。

 何と言っても、このまま上手い具合に事が運べば、自分の兼ねてからの願いである外界への脱出、それが自分の存在理由であると言わんばかりに、やかましくある者を「始末せよ」と騒ぎ立てるアルゴリズムから解放される事――夢が現実になるかも知れないのだ。

 

 「そら、貴様の欲しいものだぞ?」

 

 ダスクモンは挑発的な台詞を吐き、これ見よがしに紅蓮の剣を突き付けてやる。手の届きそうな位置にある夢に対して、少々心が躍ってしまっているのだ。

 大蜘蛛は、のろのろと六本の脚を動かし始めた。何とか餌にありつこうと必死になっているらしい。

 

 あとは忍耐勝負だ。恐怖を感じる暇はない。ダスクモンの全神経は、眼前に迫る敵と適正な距離を取る事と、残された一本の剣を餌食にさせない事のみに注がれる。先程のように、注意がいっていなかったが故に怪物への供物となってしまうだけは絶対に避けたい。そうなってしまった時点で――次の手が尚も存在するかどうかは分からない。無い確率の方がうんと高い。

 

 深紅の刀身が、怪物はそれを喰らおうとかっと巨大な口を開け、鋭い歯の峰を露わにする。やっと求めるものにありつけそうだという時、紙一重でダスクモンがゆらりと姿を消し、より遠方へ再び現れる。そして剣を見せつけるように突き出す。怪物はますます欲望を滾らせ、追えば追うだけ遠ざかる逃げ水の如き餌の元に必死で辿り着こうとする……その繰り返しだ。

 怪物もこの空間にあっては動きがままならず、餌の元まで来るのに多大な時間が掛かる。よってダスクモンはその分だけ長く集中力を持続させなければならないが、怪物の執着心もまた凄まじいものだ。こう何度もじらされて、いい加減に腹が立たないのだろうか? もし業を煮やして、殺しに掛かって来でもしたら――それこそ一巻の終わりではあるが。

 

 (オレとしては有り難いが……どうして此処までブルートエボルツィオンに執着するんだろうか。あの馬鹿でかい図体に比べたら塵芥程度で、腹の足しにもならんだろうに)

 

 ダスクモンは、心の片隅でちらりと思う。

 

 一方、大蜘蛛が完全にダスクモンに気を取られているその隙に、デュークモンは牛よりも遅い歩みで纏わり付いてくる黒い空間を掻き分け進み、脱出口へと漕ぎ着けていた。

 細氷から成った管のようにちらちらと燦めきながら、何処かへと伸びるそれは、大分昔に見たアクセスポイントにかなり類似した外観だ。デュークモンに近いのと、もう少し離れた箇所にあるのとで二本ある。片方はデジタルワールドに、他方はリアルワールドに繋がっているのだろう。

 末端部はデュークモン程度の体躯なら余裕をもって入れる断面積で、0と1の微細な結合体がひっきりなしに闇に流出し、淀んだ大気に溶解するのがはっきりと見える。この抜け道はどうもデータが一方通行のようだが、何とか滝登りよろしく逆行する事は出来るだろう。

 いよいよ、脱出の時が来たのだ。

 

 (ダスクモン、済まぬが先に失礼致す。どうか無事であれ……!)

 

 どうせダスクモンに何かあっても、自分が駆けつけて助勢するなどという事は出来やしない。相手を置き去りにする形になってしまう事に後ろめたさを感じながら、デュークモンは心中詫びを入れる。

 純白の甲冑纏える騎士はその姿を優しい輝きの中に消した。

 黄玉の瞳に映る景色が、一面の沈鬱な涅色から、一面の綺羅綺羅しい白色に一気に塗り変わる。急激な明度差に、デュークモンは反射的に目をしばたたいた。

 環境の変化はそれだけではない。突然あの高粘度のタールの海を泳ぐような感覚は一瞬にして消え去り、全身が抵抗力から自由になった。また、どうやらこの通路は幸運な事に、アクセスポイントの様に反対方向に向かう者にも寛容――つまり、双方向性であるらしい。緩やかに流れる大河に身を任せるが如く、体が自然と先へ先へと引っ張られてゆくのだ。

 

 さて、この通路は果たしてリアルワールド行きなのか、デジタルワールド行きなのか。デュークモンとしては出来れば後者であって欲しいが、リアルワールドに行くとなると――ロイヤルナイツの良き協力者であるサー・佐伯と対面できる可能性がある。それだけではない。ドルモンと、そのテイマーとなりし人間に遭遇できるかも知れない。現実は前者の方であっても、見通しは幾らか明るいと言えそうだ。

 

 ***

 

 (そろそろか?)

 

 ダスクモンは目を凝らし、遠方に際立って見える美しい細氷の路を見る。すると、紅蓮の外套が細氷の燦めきの中へと消えたのが目に入った。

 

 (――よし!)

 

 待っていたとばかりに、瞬く間に幽鬼はその姿を闇に掻き消す。

 視界から忽然と、完全に求めるものが失せてしまった怪物は、訳も分からずおろおろし始めた。ひたすら眼球をぐるぐると回転させて周囲を舐めるように見回すが、何処にも獲物はない。ただ、金髪の鮮烈さと血に濡れたように紅い刀身だけが、濁りきった巨大な眼球に残効の如く焼き付いて離れぬのみだ。

 逃れた獲物――ダスクモンは得意の瞬間移動を繰り返し、怪物の視界に入らないように注意しつつ元来た道を軽やかに戻ってゆく。目指すは輝かしいデータの通い路――夢にまで見た外界への抜け道だ。

 

 やっと、漸く、抜け出せるのだ。この忌々しい生まれ故郷から。デジタルワールドなり、リアルワールドなり、こんな空間より遥かに開放的で、色彩に富み、多くの生命体が存在しているのだろう。自身を構成するデータの塊、そして周辺に漂う悪趣味なそれからしか外界の情報を知らないダスクモンは、実際にそれを目の当たりに出来る時が近付いているのを感じて、笑みが零れるのを禁じ得なかった。

 

 突如、ごぼり、と何かが鳴る音が背後で響いた。

 

 (……何だ?)

 

 ダスクモンの表情に翳りが差す。

 厭な予感に突き動かされ、彼は進みながら鎧の肩部に埋め込まれた目玉をぐるりと回転させる。そうして――悪寒が背筋を駆け抜けた。

 後ろを向いた怪物の口ががばりと開き、そこから何か白いものが大量に流れ出しているのだ。その中に赤いものが混ざっているのも分かる。否、ただ雑多に混ざっているというのではない――それらは白いものの中心部に付いている――目玉だ。

 今や、ダスクモンは現実に引き戻され、一体何が起こっているのか仔細に理解していた。

 

 (海月を……吐き出しただと……!?)

 

 そんな真似が何故可能なのか、そんな真似を何故したのか、そんな事はこの際どうでも良かった。海月の大群は、明らかにダスクモンの方へと近付いているのだ。

 寄ってたかって、自分を喰らう気なのか。だとしたら、脱出してもその到着先でまた一悶着あるという事だ。面倒だ、と彼は舌打ちをした。手放しで脱出を喜べる状況ではないという訳である。

 果たして、どちらの脱出口へと逃げるべきか。ダスクモンは思案する。

 

 (デュークモンが入って行った路を選べば、奴は迷惑かも知れんが、あの海月どもを素早く始末する事が出来るだろう。しかし……)

 

 彼は結局別の道を選ぶ事を決めた。その方が自分にとって都合が良いかも知れない事に気が付いたからだ。

 

 (ふ、来るがいいさ。貴様ら如きが束になったところで、このオレは屠れん!)

 

 漆黒の幽鬼もまた、細氷の燦めきの中へと姿を消していった。

 

 ***

 

 デュークモンは白光に包まれ、流れ落ちてくるデータの塊を浴びながら、ぼんやりと思索に耽っていた。一体この路は何処に続いているのだろうか、などという事ではない。自分にとって、より深刻な問題について彼は考えていた。

 先刻、堰を切ったように溢れ出してきた夥しい記憶の数々……あれらは一体何だったのだろうか?己の身に起こった話であるはずなのに、まるで他人の事のように感じる。奇妙な話だ。

 精神統一をして氾濫を治めたつもりではあったが、まだ意識の表層を幾らかの記憶が漂っている。デュークモンはそれらを掬い上げ、吟味してみた。

 「あの時」、「デリートされる筈だった」――一体何の事だろうか? まるで自分の身に覚えがない。それ程までに危険な体験をしているというのなら、決して忘れるわけがない。

 ふと、デュークモンは思い出した。「お前には記憶がないようだからな」――自分をこの場所に転送した張本人、堕天せし魔王デスモンが口にした言葉だ。あれは本当の事だと言うのだろうか。そうであるのなら、何故デスモンが知っているというのだろう?

 プレデジノームに接続できる者が他に存在するというような事ものたまっていたが、一体どういう事なのか? それと記憶の話がどう繋がるというのか?

  

 溢れんばかりの疑問が彼の心を占めていた。そもそも、どうして自分はプレデジノームに接続出来るのだろう? 何故自分だけがその資格を持っているのだろうか? いや、それ以前に、プレデジノームとは何なのか? 原初的な言語以前のプログラムだというのは、答えにはならない。もっと、その存在の根源を、根拠を明らめるような答えが必要だ。そうでなければ、胸のつかえが取れない……同じように、自分は何者なのだろう? 自分が必死にしがみつくところのもの、ロイヤルナイツであるというアイデンティティは自分の全てではないのだろうか?

 

 

 この時、彼はつゆ知らなかった。ダスクモンも予想だにしていなかった。――デュークモンの入った脱出口から、海月の大群がひしめき合って昇ってきている事を。



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魔女と竜兵

 昼間なのに締め切られたカーテンの内側には、奇妙な光景が広がっている。

 白い木製テーブルの脇に置いてあるコンポのスピーカーからは洋楽ロックが流れ出し、怒濤のような演奏とまくし立てるような歌とで空気を荒々しく震わせる。スピーカーは入り口の方に向けられ、部屋に入るものを威嚇するようだ。

 音楽をじっくり鑑賞するでもなく軽く聞き流しながら、彼女はテーブルの上に一枚一枚タロットカードを丁寧に並べていく。

 神秘的な美女だ。背までまっすぐ伸びた艶やかな黒髪、鋭さと気怠さを同居させた流麗な切れ長の眼、それにはめ込まれた黒真珠の如き瞳、それらとは対照的に新雪のように目映い肌。すっと通った鼻梁と程よい厚さの唇も見事で、名うての彫刻家によって造形されたようだ。アジアンビューティーという言葉は彼女の為にあるのだろう。

 

 彼女――亘理忍は、巷、主に大学構内で自分が魔女だと囁かれていることを知っている。それは外見がそのようであるというばかりでなく、彼女が文学部で魔術やら占星術やら錬金術やら――要はオカルティックな主題を熱心に研究しているからだ。表情の乏しさと卓越した美貌が相乗効果で生み出す近寄りがたい雰囲気も手伝って交友関係は極端に狭く、数少ない友人でさえ一歩大学を出れば彼女が何をしているのか全く知らない。

 いつだか小耳に挟んだ話によると、「亘理さんって秘密結社とかに入ってたり家で怪しい実験やってたりしてそうだよね」という評判らしい。どうせそんな事を口走るのは女だ。“薔薇十字団”とか“黄金の夜明け団”とか、もっというと“フリーメイソン”にも興味があるのは事実だが、決して関わり合いたくはないし、いわゆる怪しい実験というやつだって、興味はあるが試してみようとは思わない。偉大なる錬金術師ニコラ=フラメル様の書物を読んで実験を追体験するだけで十分だ。全く世間とはたちが悪いものだが、火のない所に煙は立たないので文句は言えない。ただ、彼らには忍が自宅でこんな激しくて乱暴な曲を聴いているとは予想も付かないはずだ。

 もっと静かでしっとりとした、例えばクラシックのような曲がかかっていると雰囲気が出るものだということは忍も重々承知している。しかし、どうしても部屋をうるさくしておかねばならない理由があるのだった。 

 忍はカードを繰る手を止め、残りのタロットをデッキにして床に置いた。テーブルの上には今や十枚のタロットカードが大アルカナ小アルカナ問わず、整然と並べられている。絵の種類は“ライダー版”と呼ばれる最もよく知られたもので、通販で廉価で入手したものだ。注釈書も国内で最大数に昇るので、一番勉強しやすい。

 

 「さあ、コマンドラモン。今回のお題は『不安』よ。この中から、何となく不安を覚えたり厭な気分になったりするような絵柄のカードを三枚選んでみて」

 

 「イエス、シノブ。……うーん、難しいです」

 

 難儀そうに唸る声が、テーブルの向かい側でした。

 異様な存在がそこに腰掛けていた。プレートキャリア、ヘルメット、全身を硬質で滑らかな鱗、それら全体に隙間なく貼り付けられた、蛋白石のように見る角度や光の具合によって色彩を変えるテクスチャー。「恐竜の軍人」、一番的を射た表現だろう。床には黒々とした無機質なアサルトライフルの痩躯が横たわっている。数ある種類の中でもこれはM16A4というやつで、レシーバーだかレールだかのお陰で光学機器の容易な付け替えが可能らしい。銃器のことはからきし分からない忍は、それを覚えるだけでも精一杯だった。

 

 忍は詰まるところ、この異邦人――コマンドラモンと安全に会話するために、音の障壁を発生させて防音対策をしているというわけだ。お互いに相手の使う文字が理解出来ないため筆談という手段はとれない。一人暮らしをしているわけでもない忍にとって、彼と情報をやりとりするには他人にばれないように会話する他ない。軍人の格好をしている恐竜を匿っている、しかもアサルトライフルを持ち込んでいるということが知れたら、どんな目に遭うのか考えるまでもない。

 

 「直感で選ぶのよ。タロットに型にはまった正解なんてないし、もっと気楽に考えること」

 

 「気楽に、適当に……」

 

 恐竜の軍人――コマンドラモンは気難しそうに腕を組み、テーブル上のタロットカードを一枚一枚つぶさに眺めている。仔細に検討しているのだろう。適当に選べといわれても、そう簡単にいくかと言いたげな表情だ。 

 暫しの熟考の後、彼は自分の意見を固めた。

 

 「これとこれと……これでしょうか」

 

 大きな三本の鉤爪が生えた手が、少し躊躇いがちに三枚のカードを順々に指差してゆく。

 

 「この三枚でいいのね?」

 

 「イエス、シノブ」

 

 その言葉を受けると、忍は手早く他のカードを回収して床に置いたデッキに混ぜた。テーブルの上には選ばれた三枚のカードのみが残っている。乗馬した騎士が金貨を持っている“ペンタクルのナイト”、棒を持って立っている人物の背後に更に棒が八本描かれている“ワンドの9”、そして寝台に横たわる人物の足下に一本、壁に三本剣が描かれた“ソードの4”である。

 

 「なるほど……変わったカードを選ぶのね」

 

 無表情なのは相変わらずだが、忍の声には楽しさが滲み出ていた。ワンドの9が不安を煽るというのは、忍も共感できる。ソードの4が休息を表すカードでありながらも、何処か緊張感に包まれているため多少不安を煽られるのも分かる。しかし、ペンタクルのナイトの何処に不安になるような要素があるというのだろう。他三人のナイトに比べると、非常に落ち着いた体をしてはいるけれども。堅実な男はつまらないかも知れないが、安定性は抜群だ。

 

 (そういえば、最近龍輝君どうしているのかしら)

 

 ペンタクルのナイトをじっと見ていると、何故か唐突にそう思った。

 このアルカナが体現する堅実さや真面目さといった気質、それが彼を思い起こさせたのだろうか?理由は分からない。

 龍輝というのは、忍の近所に住んでいる三つ年下の少年だ。勉強ができることで有名で、将来はどこそこの大学に入るのだというような噂が沢山立っているが、彼の志望大学が一体何処なのか真実知っているのは彼の母と忍だけだ。その大学は今まさに忍が通っているところであり、もしかしたら龍輝が自分の後輩になるかも知れないのだ。そういうわけで忍は彼を応援している。友人は少ないしそもそも作る気もない忍であったが、龍輝だけは別だ。

 少し自分の世界に没入してしまったようだ。忍は急いで現実に引き返した。

 

 「えーと……じゃあ、まずこのペンタクルのナイト。何故これを選んだの?」

 

 「うーん、それはこの騎士が……」

 

 コマンドラモンがまさに答えようとした時、突としてそれは起こった。

 がちゃり。激しい音を立ててドアノブが回り、勢いよく扉が開け放たれる。

 忍は慌てて口をつぐむ。心臓が高く飛び跳ねる。

 

 (敵襲よ!隠れて!)

 

 忍は眉根を寄せ、視線にメッセージを乗せて全力で飛ばした。イエス、シノブと目線で応答する彼は、さして慌てた様子もなく淡々とM16A4を手にした。全身のテクスチャーが、漆黒の銃身が、周囲の色彩に対応して迷彩パターンを決定する。一瞬にしてコマンドラモンの姿は部屋の景観に同化した。

 

 「ねーちゃんあのさー」

 

 間抜けな声を出しながら入ってきたのは、半袖半ズボンの活動的な少年だった。

 いやというほど目にしている姿ではあるが、忍はその度呆れざるを得ない。今は冬である。夏でもあるまいし、室内とはいえ半袖半ズボンなど非常識だ。更に恐ろしいことに、この餓鬼は外でも一年中半袖半ズボンである。よく今まで風邪を引いたことがないものだとかいう以前に、正気を疑うような格好だ。おそらく脳炎でも起こしているのだろう。コンポの音量つまみを小の方に回しながら、忍は少し棘のある口調で言った。

 

 「またあんたは。ノックぐらいしてから部屋に入りなさい」

 

 「別にいいじゃん! ねーちゃんはカードいじってるか本読んでるか音楽かけてるか以外ないんだし」

 

 どうやらばれていないらしい。しかし、ノックについて注意した事など今まで一度もないので、もしかしたらそれは万に一つ怪しまれているかも知れない。

 

 「それは事実だけど、マナーくらい身に付けておきなさい。社会に出たとき苦労するわよ」

 

 「オレまだ小学生だし~」

 

 「口だけは中学生くらいね」

 

 全くこいつは、と口の減らない弟に対し忍はもう一度目を顰めてやった。ところが単純な悪がきは忍に褒められたと勘違いして少し嬉しそうな顔をしている。

 

 「へへーん。ところでさねーちゃん、いいものがあるんだけど」

 

 「どうせろくでもないものでしょうね」

 

 「今回はマジでいいもんだって!てか凄いもんだって!」

 

 「ふうん」

 

 忍の態度はひどく冷めている。またどうせ友達の変顔を撮影して加工したものとか、悪い意味で小学生らしいつまらなさだろう。期待するだけ無駄だという心情だ。

 

 「この写真見てくれよ。すごくね?」

 

 「ふうん」

 

 少しも関心のなさそうな返事をしつつ、忍は画面を覗き込む。

 彼女は僅かに目を見開いた。

 携帯電話の画面に映っているのは、奇妙な生物だった。雪上でうずくまる、紫の体毛に覆われた全身を見れば犬のような、しかし尾を見れば狐のような動物。背中の黒い付属物は、よもや翼だろうか? 加え額には逆三角形の紅いつるりとした金属。何とも可愛らしい合成獣だ。

 

 「これ……」

 

 「ああ、うちの近所の話だよ。しかも三日前。これ、ぬいぐるみとかじゃなくて本物だぜ。本物のモンスター! だって、オレ達が近付いて写真撮った途端にばーって逃げてったんだぜ!?」

 

 「ふうん、そうなの」

 

 同じ言葉だが、今度は声音に興味が滲み出ている。忍の背後でも少しざわついた空気が漂い始めた。彼――コマンドラモンも同じ異形の“モンスター”として少なからず興味を惹かれているのだろう。

 だが、彼女の声から心を読み取れなかった少年は、ひどく残念そうにしている。

 

 「あれ、ねーちゃん全然驚いてなくね!?」

 

 「いや、ものすごく驚いているわよ」

 

 すかさず弁明する忍。弟が期待していたであろう程ではないが、彼女はちゃんと驚いていた。といってもそれは常識の範囲内では有り得ない生物が存在していたことに対してではなく、常識の範囲内では有り得ない生物が立て続けに、それも自宅の付近に出現したことに対してである。コマンドラモンを拾ったのも、つい三日前のことだ。

 

 「これ、すごいわね。あんたこんな高度なCG加工出来ないでしょう?」

 

 嫌みったらしい姉の口振りに、半袖短パンの少年は口を尖らせた。

 

 「何それ。ホントにさ、いちいちねーちゃんオレのこと馬鹿にするよね」

 

 「実際馬鹿だからしょうがないわ」

 

 適当に返しておきつつ、忍はふと気掛かりになった。この謎の生物を激写した決定的映像は、どのくらい広まっているのだろう?

 

 「あんた、このこと友達にばらしたりしている?」

 

 「いや?ぶっちゃけめんどくさいからまだみんなに送ってない。浩輔はもしかしたらもう送ってっかも」

 

 「そう。ところであんたのクラスで携帯持ってるの何割くらい?」

 

 「分かんね。三割くらい?」

 

 情報伝播力は果たして高いのか低いのか、測りかねる。弟は訝しげな顔をして姉を見た。

 

 「なんでそんなこと聞くの?」

 

 「いや、少し気になっただけ。……ところで用が済んだらさっさと出て行きなさい。あんたが居たら部屋の景観が乱れる」

 

 「ねーちゃん冷たいなー」

 

 辛辣な台詞と手を払う仕草で弟を追い出すと、忍はふうと息を吐きながら、コンポの音量調整つまみを大の方へ回した。

 

 「コマンドラモン……あれを見た?」

 

 「イエス、シノブ」

 

 コマンドラモンが、少しずつ染み出すようにテーブルの向こう側に現れた。

 

 「間違いなく、自分と同じデジタルモンスターです。推定では獣型の成長期、種族名、属性は未確認につき不明。個体の戦闘力も不明」

 

 「なるほど、ほとんど謎というわけね」

 

 この二日三日でコマンドラモンはデジタルモンスター――デジモンに専門の研究者よろしく通暁していることが分かったが、その彼が殆ど何も分からないというのだから、あのキマイラは相当特殊で希有な存在のようである。

 

 「あなたもうちの近所で見つかったけれど、何か関係でもあるのかしら」

 

 「詳しいことは何とも言えませんが……同一線上の出来事という可能性が極めて高いです」

 

 彼は言葉を切って難しそうな顔をした。

 

 「おそらく、デジタルワールドのある地点から何らかの働きかけがあったものと思われます。二世界の境界を破るだけの力……尋常ならざる強大な力です。聖騎士ロイヤルナイツの干渉があった可能性も否定出来ません」

 

 「ロイヤルナイツ?」

 

 黒真珠の瞳に微かに好奇心の光がちらついた。

 

 「デジタルワールドの均衡を保つ、セキュリティ最高位の騎士十三体の総称です。デジタルワールドを統括する神であるホストコンピュータ“イグドラシル”に直接仕える存在ゆえ、与えられている権限は並のものではありませんし、その力も強大です」

 

 「イグドラシル!北欧神話ね」

 

 デジタルワールドはこの世界――リアルワールドを元にして創造されているらしいという事はコマンドラモンの外見、彼と言葉が通じていること、彼の名前などより明白であったが、果たしてどんな風に種々のデータが混合して一世界を築き上げているのか。その世界でどんな大事件が起こって、こちらの世界に影響を及ぼしているというのか。興味を掻き立てられないわけがない。

 

 「何か……面白そうなことになったわね」

 

 好きこのんでオカルトの類に深く突っ込んでいくだけあって、何もかもどうでも良さそうな顔をしておきながら、実はどんなことにも――殊風変わりで危険なことに強い興味がある彼女のことである。反応は妥当なものだっただろう。

 しかし、恐竜の軍人にとっては全くそうではなかった。

 

 「今更ですが。シノブは……恐怖を感じないのですか?」

 「?」

 

 忍は面食らい、コマンドラモンの顔をまじまじと見つめた。彼はまっすぐに忍を見返していた。彼女はこの恐竜の軍人の瞳が思いの外美しいことに気が付いた。鮮黄色のそれは透明度が高く、濁りがない。

 

 「リアルビーイングからすると、自分は異形で、恐ろしく、到底受け入れられる存在ではないはずです。しかも自分は何故リアルワールドにいるのか、その記憶もなければ……自分がどういう者なのかさえよく覚えていない」

 

 「……ええ」

 

 忍は既に彼の事情は聞いていた。気がついたらリアルワールドの地面で倒れていたこと、自分が何処で何をしていたのか分からないこと、自分のデジタルモンスターとしての種族名が「コマンドラモン」であることだけが、アイデンティティーであることなど。

 

 「そんな自分をシノブは受容し、あまつさえ信用して家に置いてくれています。自分と同じデジタルモンスターでさえ、そんな事が出来るものは少数だ。……シノブ、貴女は何故このコマンドラモンを受容できるのです?何故、デジタルワールドに純粋な興味を抱けるのです?」

 

 もっともな質問だ。だが、忍の答えは些か常軌を逸していた。

  

 「好奇心の前には、どんな心配や恐れも無力よ」

 

 コマンドラモンは目をしばたたいた。半分吃驚からの、半分呆れ返りからの。彼は惚けた様に「好奇心」と呟いた。

 

 「シノブ、例えば自分はアサルトライフルを所持しています。その気になれば貴女を射殺することができます。……お分かりですよね?」

 

 「射殺されたら、それはそれで本望かも知れないわ」

 

 至って淡々と語られたその答えに、もう一度コマンドラモンは目をしばたたいた。

 

 「あなたに射殺されるというのは、錬金薬の合成に失敗して爆発を起こして、挙げ句巻き込まれて死んでしまうのと同じよ」

 

 「……シノブ、意味が理解できません」

 

 「要するに、過ぎた好奇心が身を滅ぼすということよ」

 

 しかし、それは寧ろ望むところである。それが彼女の信条だ。

 コマンドラモンには、それがどうしても理解できない。上官命令に逆らい、「どうなっているのか興味があったから」という理由だけで敵陣の真っ直中へと駆けて行く兵士がいるとしたら、誰も彼を擁護する者などいないだろう。死んで当然だと皆口を揃えるだろう。それが忍なのだ。如何に浅慮で道理に欠けた行動か、一目瞭然だ。

 それにもかかわらず、コマンドラモンは忍が馬鹿だとは思えなかった。彼女が心の求めるままに行動しようが、決して破滅に向かうことはないし、最高の結果がもたらされるとさえ感じるのだ。何故そう感じるのか。その信条には全く共感できないが、圧倒的な強さを以て事態を如何様にもできる究極体――かの者と同じだからではないだろうか。

 それは一体誰のことなのか。コマンドラモン自身にも実はよく分からない。自分自身についての記憶と共に、忘れ去ってしまった者なのかも知れない。

 

 「シノブは……寛容というか、少し呑気ではありませんか」

 

 「あなたも大概よ」

 

 すかさず叩き付けられた言葉に、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするコマンドラモン。それを楽しそうな目で眺めながら、忍は畳みかける。

 

 「私にタロットを習っている時点で。それも、熱心に」

 

 一瞬はっとすると、恐竜の軍人は恥ずかしそうに顔を伏せた。忍は静かに微笑んだ。幽艶で知的で、何もかも分かっているという微笑だ。

 

 「さて、レッスンに戻りましょう。ペンタクルのナイトの何処に、不安な要素を見出したの?」 

 

 スピーカーからは、相変わらず激しい洋楽ロックががんがん流れている。

 

 ***

 

 深海から上がった人魚姫というのは、地上の大気の軽やかさと何処までも開けた世界に胸を躍らせたのかも知れない。だが、彼の心情はそんなにロマンチックなものではないし、寧ろ深刻だ。

 

 凍雲に閉ざされた鈍色の空。しんしんと降り続け白い山を作る雪。ぽつりぽつりと道を行く人の少なさ。寂寥感を掻き立てる寒風に紅蓮の外套をはためかせながら、純白の騎士――デュークモンは、トタン屋根の上から寒々しい街景を眺めていた。

 

 彼は閉ざされたデジタル空間からつい先程脱出したばかりだが、もはや次にどうするか考えていた。最善なのは、守護騎士はサー・佐伯に合流するか、ドルモンとそのテイマーを探し当てるかだ。それらが可能ならば心配事の半分以上は減ったも同然だが、そんなのは盲亀浮木もいいところだ。リアルワールドの広さを甘く見てはいけない。 

 しかし、サー・佐伯やテイマーの方からコンタクトを取ってくるという可能性は存在している。サー・佐伯の所では、四六時中デジタルモンスターのリアライズを監視しているはずだ。もしかすると、ヴァルキリモンがこちらに寄こされるかも知れない。それを待った方が得策のようだ。

 だがまずは、自分の身を上手いこと隠しおおせることを考えねばならないだろう。異世界といえども、喧噪を持ち込むのはロイヤルナイツとして褒められた行為ではない。

 

 デュークモンは静かに閉眼した。座禅でいうところの「三昧」、それに近い状態に精神を置く。縒り合され一つの事柄だけに集中した意識は、さながら鉄条の如く精神世界を突き抜ける。

 

 (プレデジノームよ、このデュークモンの声が聞こえるか――)

 

 1の連なりが波となって意識に流れ込む。通信状態は良好らしい。

 

 (手短に言う。コマンドラモンタイプのテクスチャーといえば分かるであろうか?)

 

 今度は0の羅列――答えはNoであるらしい。プレデジノームは、最近のデジモンについてはよく知らないようだ。仕方無いので、デュークモンは要望を仔細に伝えることにした。

 

 (逐一周囲の迷彩パターンを判断し、体表面色を変化させるシステムが欲しい。できるだろうか?)

 

 返ってきたのは、累卵の如く連なった0の列だった。

 デュークモンは少し動揺した。今まで殆どどんな無理難題にも応えてくれた神が、Noと言った。「できない」と言われたことは実は以前にもあるが、数え切れない回数の中の二、三回に過ぎない。

 

 (出来ない?無理だと?)

 

 再び流れ込む0の連なり。不可能であるというわけではないらしい。

 つまり、プレデジノームは己の意志でデュークモンの要求を撥ね付けているのだ。こんなことは今まで一度もなかった。だが何ゆえなのか?

 

 (――よもや、そのようなせせこましい事をしている場合ではない、とでも申すのか?)

 

 返答はない。

 もはやこれ以上の通信は無意味だ。デュークモンは縒った糸を解くように意識を解放し、プレデジノームとの接続を切った。

 もしかすると、他のロイヤルナイツの事を慮れ、という警告だったのかも知れない。デュークモンにはプレデジノームがあるが、他の者は隠身の術など持ち合わせてはいないからだ。それとももっと直接的に、「俺を頼りすぎるな」というメッセージだったのかも知れない。

 どちらにせよ、反省はしている。己の非に跪ける謙虚さは、デュークモンの賞賛されるべき美徳であろう。

 

 直後だった。

 黄玉の瞳が、視界の端に何かを捉えた。

 急いで屋根から下に目を向ける。半透明なゼラチン質の体。中央に埋め込まれた充血したように赤い単眼。異形の生命体の姿は――海月に似ている。ぞっとするような姿だ。

 それがわらわらと、雪に覆われた地面を這っているではないか。

 デュークモンには直ぐさま思い出された。あの空間で共闘した不思議な者――ダスクモンが口にしていた言葉を。

 

 ――オレは直接見た……巨大な蜘蛛のようなデジモンが、小さな海月に似たデジモンを吸収しているのをな。

 

 (このデュークモンと同じ路を通ってきたということか――?)

 

 「きゃあああああーーー!!!」

 

 絹を裂くような悲鳴が上がった。

 たった今道を通りかかった女性が、あれの姿を見てしまったのだ。地べたにどんと尻餅をつき、腰が抜けたまま立ち上がれない。

 転んだ拍子に、ポケットから携帯電話がするりと滑り落ちる。雪に半分埋まったそれに、単眼の海月たちが餌を見つけたように群がってきた。

 姿を見られてはいけないなどと考えている場合ではない。聖槍グラムを構えながら、デュークモンは颯爽と屋根から飛び降りた。

 



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Unknown Creatures

皆さん、お久しぶりです。何と、5ヶ月ぶりの投稿となってしまいました……本当に申し訳ありません!
前回までの話を忘れている方が殆どだと思いますので、簡単にまとめておきますと、
デュークモン、リアルワールドに来る。屋根から飛び降りて、女性を助けようとする。以上です。
今回はその続きからになります。
あと、文体変わってしまったかも知れません。


 雪が派手に飛沫を上げ、膝下で白波のように散る。

 だが、淀み張り詰めた冬の静寂は、破られない。

 デュークモンは、その大柄な体躯にもかかわらず、体重のない者のように軽やかに、すっくと降り立った。視界の端には、腰を抜かしたまま立てないでいる、ひどく柔弱な様子の女性がいる。

 ぎょろり。一斉に、数多の単眼が闖入者の方に向けられた。目標物だった精密機械への前進が停止される。

 小刻みに震える、か細い悲鳴が漏れた。

 

 「あ……あ……」

 

 女性が、いよいよ血の気を失って後ろにふらりと傾いた。海月の化け物は彼女ではなく、その背後に現れた純白の騎士の方を注視しているのだが、女性は自分が睨まれたと思ったのだろう。

 いずれにせよ、衆多の紅い巨眼がぎょろつくのは、デュークモンとて気分の良いものではない。

 

 「ご婦人、どうか案ぜられるな」

 

 デュークモンは女性の前まで歩み出ると、低く朗々と響く声で告げた。

 

 「自分が、あれを始末致すゆえん」

 

 広い背の後ろで、恐怖と困惑の入り交じる気配が漂った。

 仕方のないことだ。突として何処からともなく現れた異様な存在に、そう声を掛けられても慰めになどならないだろう。かえって種々の混乱を招くだけだ。デュークモンには百も承知であった。

 だがそれでも、罪なき者を守り抜き、世の安寧を脅かす存在を排除する。電脳世界だろうが現実世界だろうが、それがロイヤルナイツの――騎士の務めではないかと、電脳核(デジコア)に刻み込まれた己の存在理由が、高らかに叫ぶ。

 主に省みられず、打ち捨てられし黒騎士といえども、何者にも消せはせぬ本能だ。

 

 デュークモンは円錐状の槍を、正眼に構えた。ベルトの二本巻かれた細腰を、僅かに落とす。

 大技を繰り出すまでもない。相手を屠るのは、嬰児をくびり、花を手折るのにも等しい。

 だが、あの海月どもだけを抹消するとなれば、中々に骨が折れる。

 電脳核を疾駆するインパルスが、ただ一つの回路に集中した、その刹那。

 

 紅蓮の外套が、新雪を染める鮮血の如くはためく。

 女性の茶色い瞳が捕らえたのは、それだけだった。

 

 一陣の風の如く、デュークモンが前方に疾駆した。

 冷えた大気が鋭く切り裂かれる。聖槍グラムが光を受けて清冽に燦めき、一閃、円弧を描く。

 まさに神速、空を切る音すらしない。

 軌道上に乗ったそれら異形は声も上げず――もとより声など持ち合わせてはいないのだろうが――半透明のゲル状の肉片を撒き散らす。それは瞬く間に、砂の城が崩れるが如く、二進数の塵に帰された。その残滓が、凍てつく大気に溶け出して消えてゆく。

 

 酸鼻を極める光景が、女性のまなうらに焼き付く。

 だが、一瞬のうちに起こった事態への驚愕が、恐怖を凌駕した。

 女性は呆けたように目と口を開き、体が臀部から冷えていくのも忘れ、なおも雪の絨毯に座り込んだままでいた。

 

 デュークモンはグラムの先端を下ろした。

 しかし、すぐに構え直し、黄玉の瞳を見張る。

 海月が二匹、雪に埋もれながらも、這い出す虫のように蠢いたのだ。

 

 運良く槍の軌道から外れたのだろう。仕損じたことを、デュークモンは心の片隅で悔いた。

 だがそれとて一瞬のこと。

 今度は、一匹も漏らさず仕留める――眼光鋭く、槍を非情に振るう。

 

 しかし、それは虚空を薙いだだけであった。

 

 腰を浮かせたままの姿勢で、双眸を僅かに狭める。

 何が起こったというのか。

 デュークモンはそれを確かめようと、凝然として目下の空間を見つめる。

 

 彼は瞠目した。

 海月は、躯を溶け崩れさせていた。

 半透膜のようなそれは、朧かに輪郭を保っているものの、外界との隔てを殆ど失っていた。中身は目まぐるしく0と1が遊泳するデータの激流と化し、そして。

 肥大していた。周囲の空間さえ吸い尽くすように膨れあがり、体積を何倍にも増して。

 やがて、ゆらゆらとはためきながら、端が千切れた。そして別の端も、更に別の端も。その乖離した半透明な片鱗から、プラナリアの如くに、原型を取り戻してゆく。

 一匹、また一匹。中央に埋め込まれた単眼が開き、少しずつ血走った色に目覚める。

 

 やけを起こしたようにデュークモンが槍先で払ってみたが、やはり空を虚しく切っただけであった。焦燥感と吃驚との捻れに、電脳核(デジコア)の深奥が不穏な熱を帯びる。

 

 (このようなことがあり得るのか――?)

 

 これら異形は、自らを半ばただのデータの集合と化して、消滅の危機から逃れたのだ。

 少なくとも幼年期に、できるような真似ではない。

 しかも、分裂しているのか。或いは自身をコピーしているのか。それならば、何処にそうするだけのデータが転がっているというのか。

 ちかりと、デュークモンの脳裏に閃いたものがあった。

 

 (こやつらと共に、フォビドゥンデータとやらが流入してきたな)

 

 それならば、そこかしこに汚泥のように忌まわしいデータ群が浮遊しているということになる。電脳核のセンサーにはそうした存在が一切引っ掛からないが、アクセスポイントを中継するにあたって、分解されて意味を失った可能性は否めない。

 仮定が正しいのならば、事態は相当面倒だ。

 しかし、まずは女性に携帯電話を返し、逃がすことが先決である。

 

 デュークモンは何の躊躇いもなく聖楯イージスをその場に放り投げると、雪に埋もれている携帯電話をつと拾いに行った。クリアレッドのそれは、せいぜいデュークモンの指一本分しかなかったので、破損させないように慎重につまみ上げる。

 少し衝撃を与えたところで壊れてしまうような、甲斐性なしではないことを確認すると、女性のもとに、デュークモンは携帯電話を投げて寄こした。

 

 「ご婦人、乱暴な真似をお許しになられよ!」

 

 謝罪の言葉を言い終わらないうちに、携帯電話は一跳ねし、雪のクッションに埋まった。女性はおずおずとそれを拾い上げる。淡い陽光を受けて艶めくクリアレッドのそれと純白の騎士の背中を交互に見つつ、震える声でいらえた。

 

 「あ……ありがとうございます」

 

 「礼には及ばぬ。お怪我はないか? お立ちになれるか?」

 

 「だ、大丈夫、です……」

 

 「それは何より」

 

 明らかに自分の姿やら正体不明さのせいで威圧してしまっているのを意識しつつ、デュークモンはできるだけ穏やかな声音をこしらえた。

 

 「よろしいか、急ぎの用事がおありでないのなら、疾く帰られよ。そして、今し方見たことはなるべく他者に話さぬよう。……もう一度申すが、よろしいか?」

 

 「は、はい……」

 

 「ご無事を祈る」

 

 デュークモンはよろよろと駆けだしていく女性の背中を見送ると、イージスを持ち前の膂力で難なく持ち上げ、再び抹消しなければならぬ相手と対峙する。

 

 敵は、寸刻のうちに大変化を遂げようとしていた。

 

 一匹の海月が薄く延ばしたように大きく広がり、同じ姿をした相手を自身のうちに包み込んだ。外辺部は溶け出し、紅い眼球さえも色を失い消える。そうして次から次へと別固体を呑み込み、際限なく膨張し、再び0と1の奔流と化してその姿を鋳込む。やがて、卵形の形状が、陽炎にも似て揺蕩しながらも、朧気に拵えられていった。

 

 それはデュークモンの注視する前で、気体から液体に、そして固体に変化した。緩やかに固着したそれは、繭の輪郭が徐々に鮮明になってゆく。

 

 出し抜けに、幾重にも縒り合されたコードのようなものが、しゅるりと伸びた。それは首であり、三本の鉤爪を生やした脚であり。

 

 反り上がった頭上の血に染まったような角、前身をかろうじて支える心許ない六本の脚。異形の巨大な蜘蛛の姿が浮かび上がる。それは生えたばかりの足の感触を確かめるように、地面を踏みならした。ばしゃりと雪が無残に飛び散り、眠る地面が下からのぞく。

 顔は平板で無機質であり、何の表情もなかった。それゆえにかえって狂気染みている。眼前に立ちはだかる騎士の姿を映しているのか、それともこの次元にはない何かを凝視しているのか。誰にも、判然としない。

 

 (……よもや完全体にまで、進化を遂げるとは)

 

 電脳核の波動から情報を読み取ったデュークモンは、いわゆる常識が脆く崩れていくのを感じた。進化は段階を踏んでするものであるのに、いとも簡単にこの異形はそれを飛ばした。

 しかし、無数に寄り集まった幼年期が、合体して究極体と化す――進化の系譜を根底から覆すような輩だ、この程度のことが起こっても当然かも知れない。

 

 蜘蛛がやにわに、顎が裂けんばかりに口を開けた。

 喉奥に収束されるは、高エネルギーの眩耀だ。

 それは、あの偉容を誇る面妖な大蜘蛛の、一切を灰燼に帰すような獄炎をデュークモンに思い起こさせた。

 

 間髪入れず、業火が一直線に吐き出される。

 視界が朱に染まった。

 

 だが、彼は微塵も動揺しなかった。

 弾丸の如く、前方に飛び出す。高密度のエネルギー弾が迫り来る中を、真正面から突っ切ってゆく。

 

 グラムの持ち手から、力を流し込んでいく。先端へと波及するように、槍身全体に静謐なる力が満ちていく。二進数の連結間に蓄積されたエネルギー、それが解放されているのだ。

 

 橙赤色に輝く灼熱の濁流が、黄玉の瞳に映る全てを覆い尽くす。金星の表面で吹き荒れる嵐さながらに、エネルギーが暴れ狂う。呑み込んだもの全てを焼き焦がし、灰にし、蒸発させてしまうであろう熱流が、轟々と渦潮よりも激しく、デュークモンを襲う。

 

 だがそれを恐れる必要も、避ける必要も、彼には欠片もない。高純度のクロンデジゾイドの鎧を、雪が溶ける熱ほどに温めることさえ叶わないのだから。それどころか、高貴の色に染め抜かれた外套を、そうすることすら叶わないのだから。

 そして、聖なるグラムに満ちた力の、足下にも及ばないのだから。

 

 「“ロイヤルセーバー”!」

 

 円錐形の槍が、吹きすさぶ突風よりも、落雷よりも尚速く、大蜘蛛の空いたままの口を貫き通し――喉を穿った。

 一瞬も経たぬうちに繰り出されたその一撃に、首を形成していた繊維の束が引きちぎれる。叫喚は上がらなかった。声帯さえ、もはや存在していないからだ。

 失われたその箇所から破壊が侵食していくように、みるみるうちに蜘蛛の躯が分かたれていった。聖なるエネルギーの奔波に体組織が接合を破壊され、散逸した箇所が虚空に舞い上がってゆく。縒り糸がほどけるように、電脳の細胞は孤独な二進数のヌクレオチドへとのべつまくなし還ってゆく。首も、頭部も、脚も、胴体も――もはや原型の一端すら留めない。

 

 完全に、全てが無に帰した。

 

 デュークモンは、敵の残滓さえも霧散させてしまうように、グラムを軽く払った。

 視界は今や晴れ渡っている。底まで冷え込んだ、真冬の寂静たる景色が広がるのみだ。

 

 彼は今し方敵を抹消した感触など忘れて、思考に耽っていた。立ち位置は既に、元いたトタン屋根の上へと移動している。

 

 胸のわだかまりが消えない。

 

 初め、何故あの海月どもは携帯電話に群がったのか? これについては、容易に予想はつく。データが書き込まれた部分が目当てだったのだろう。ただ、それを喰らおうとしていたのか、それとも破壊が目的だったのか。それは分からない。しかし、フォビドゥンデータが漂着していた、そしてそれを増殖に用いたという憶測が的を射ているのならば、寧ろ後者の方が当たっているような気はした。

 

 何より、あれはどういった存在なのか? デジタルモンスターであることは、電脳核(デジコア)の波動を感じたことから確実だ。しかし、あのように増殖したり、共食いをして巨大化したり、自らを半ばデータと化して難を逃れたり――正しい段取りを踏まずに、何段階も一気に進化を遂げるデジモンなど、見たことも聞いたこともない。

 それは、偏にあの暗黒空間から出でたものだから、と言ってしまえば、それまでなのだろうが。

 

 ふと、視界の外縁で、何かが動いたような気がした。

 デュークモンは嫌な予感を覚え、素早くそちらに視線をやる。

 

 異形が蠢いていた。わらわらと。

 その数、先程殲滅したものの比ではない。

 

 (まだ、残っていただと――!?)

 

 自分が見逃していたとでもいうのだろうか。自分の手落ちを叱咤したい衝動に駆られるその前に、彼はある恐ろしい仮説を立てた。

 空間の境界に穴でも空いていて、あれらが入り込んできているのではないだろうか、と。

 これでは埒があかない。そう歯噛みした瞬間。

 

 宙を、閃光が飛び交った。

 

 黄玉の瞳はその全貌を捕らえた。

 全部で十本だ。上空からほぼ同時に放たれている。

 弾指、海月の化け物の中央を、あやまたず閃光が貫いた。それはあたかも逃れられぬ天誅の如く。

 半透明の異形は、微少な核を砕かれことにより、存在を保っていられなくなり霧消してゆく。

 

 ゲルに埋め込まれた眼球の中央を、深々と突き刺しているものの正体は、矢だった。デュークモンはそれを目視した瞬間、仕手の正体を悟った。それは、兼ねてから向こうからの接触を期待していた相手でもあった。

 

 「……ふう」

 

 高所で、溜息が白く流れた。

 周囲に広げる波紋を最小限に抑える術を心得た、修験者が発する電脳核の波動。センサーの精度を究極にまで高め得た者で、尚且つ精神を集中させなければ、それを感じ取ることはできなかったであろう。

 

 デュークモンが天を仰ぐと、高々と聳え立つ電柱の頂上に、純白の鳥人が事もなげに佇立していた。左腰には一振りの剣を佩き、右腰には空っぽになった矢筒が下がっている。彼はそれを惜しそうに一瞥すると、独りごちた。

 

 「たかが幼年期に、手を煩わせねばならないとは……全く。こういう繊細な仕事は、わたしに任せて正解でしたけれどね」

 

 あの脳筋ではなくて、と付け足すのを忘れない。それから、何処からともなく小型のノート状の端末を取り出し、耳に当てる。

 

 「サー・佐伯。アクセスエリアNo.3に出現したアンノウンは、今のところ殲滅できています。それと……」

 

 純白の鳥人は逡巡することなしに電柱から飛び降り、デュークモンの前にぴたりと着陸した。少しもトタン屋根を揺らさずに。

 

 「デュークモン様と、接触致しました」

 

 端末越しにそう告げ、返答を聞き終えるなり、彼は端末を懐に滑り込ませた。そして流れるように典麗な動作で、純白の鎧纏える騎士の前に跪く。

 

 「ヴァルキリモン……やはり来てくれたか」

 

 「デュークモン様!」

 

 形式上の儀礼もそこそこに発せられたその呼びかけには、はちきれんばかりの喜びと、驚きと、そして疑いが込められていた。

 

 「あなた様は、ダークエリアに送られたのだと伺っておりましたが……何と、ご無事であったとは……!」

 

 慌てふためくヴァルキリモンとは正反対に、デュークモンは訝しげに双眸を細めた。

 

 「ヴァルキリモン――今なんと?」

 

 「? ダークエリアに送られたのだと、ドゥフトモン様から確かにお伺いして――」

 

 不可解だとばかりに、デュークモンの眉根が寄る。

 

 「どうして、そのようなことになっている――?」

 

 ロイヤルナイツの司令塔にして情報の中枢たるドゥフトモンが、情報を改ざんしたというのだろうか? そんなことをしなければならない理由は考えつかない。あるとしても、考えたくもない類のものに相違ない。

 

 では、自分を除いた唯一の事件当事者であるマグナモンが、事実を誤って伝達したとでもいうのだろうか? 良くも悪くも直情的で、誠実なあの黄金鎧の竜戦士が、そんなことをするなどとは決して考えられない。

 

 何処で、なにゆえ事情がねじ曲がったのか。まるで状況が把握できない。

 それはヴァルキリモンも同じだった。お手上げとばかりに、渋面を伏せた。

 

 「――こちらとて、話は又聞き状態ですので、実際の事情は分かりかねますが……確かに、訳が分かりませんね。――あっ」

 

 彼ははっと頓悟したような表情をすると、急いで懐から再び例の端末を取り出し、デュークモンにも音声が聞こえるように設定を変えると、画面に向かって呼びかけた。

 

 「サー・佐伯、わたしです。ヴァルキリモンです」

 

 『ああ。どうした?』

 

 「ヘイムダルでデュークモン様の位置情報を特定願います」

 

 『了解だ』

 

 しばらくの間、沈黙が流れた。張り詰めた面持ちで、デジモン二体はそれを守る。一分程度経ったと思われるそのとき、端末越しに呟きが零れた。

 

 『……出ない』

 

 「え?」

 

 ヴァルキリモンが、思いがけず半音高くなってしまった声で聞き返した。

 

 『データベースにあるデュークモンのデータと照合しつつ、特定しようとしたが……そもそも、データベースにデュークモンのデータが存在していないという結果しか出ない』 

 

 「なっ……」

 

 鳥人は端末を握りしめたまま呆気に取られ、騎士は殴られたような衝撃に立ち尽くす。二者はどうしたらいいのか分からないという風情で、視線を交錯させる。

 ややあって、デュークモンが何かに気付いた様子で問い掛けた。

 

 「ヴァルキリモン、こちらのデータベースは、独立したものか?」

 

 「いいえ、基本的にはイグドラシルのそれと連動しています。あちらから、データを引っ張って来ているようなものです。ですから――」

 

 ヴァルキリモンはそこまで言うと、あっと口を閉じた。その理由を察しつつ、デュークモンは首肯する。そして、厳粛に後を受けた。

 

 「何者かがイグドラシルのデータベースから、このデュークモンの存在を抹消した――ということであろうな。そして、そのような真似が出来る者は――」

 

 「――ロイヤルナイツのみ、でしょうね」

 

 漆黒のバイザー越しに、純白の鳥人はいつになく深刻な表情をした。

 



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Unknown:Knight/Assasin

1年半ぶりの更新だ・・・・・・! しかし、内容はつなぎになってしまったのでお許しを!
次回からは派手にドンパチする予定。

前回までの簡単なあらすじ(デュークモンside)

➀デュークモン、デスモンに搭載されたプログラムにて異次元にボッシュート
②ダスクモンに遭遇、協力してアクセスポイントを塞ぐアーマゲモンの魔の手から逃れ、リアルワールドへ
③クラゲが付いてきた! 集まってでっかい蜘蛛の化け物になった! けど瞬殺!
④クラゲがわらわら、始末しきれない! →加勢に入ったヴァルキリモンと無事接触。でも何故か自分はダークエリアに送られたことになっているし、データベースから自分のデータ削除されてるみたいだし、どうなってやがる!→ロイヤルナイツのせい・・・・・・?


一体どういうことなのか。

 

 何が起きているのか。

 ロイヤルナイツがその同胞を死したものとして、それどころか、元より存在せぬものとせしめたなど。

 想像だにしない事態に対し、デュークモンより寧ろヴァルキリモンの方が動揺した様子だった。切羽詰まった様子で端末を握り直す。

 

 「デュークモン様、直ちにデータ復旧作業に取りかかりましょう。ヴァルハラ宮のデータベースには直接赴かねば干渉出来ませぬが……此方だけならば、デュークモン様の三次元データを計測して、データベースに再登録することが可能です」

 

 「うむ……」

 

 デュークモンは暫し沈黙を守ったが、やがてゆっくりと頭を振った。

 

 「いや、寧ろ――このままにしておいた方が良いのやも知れぬ。ドゥフトモンにも、経過を報告する必要はなかろう」

 

 「――それは」

 

 バイザーの下で一瞬瞠目したヴァルキリモンだったが、二秒ほど熟考したのち、この守護騎士の真意を悟る。

 

 「それでは……貴方様が、ダークエリアに送られたのだということを装って?」

 

 「然り。その方がかえってこのデュークモン、行動しやすくなろう」

 

 デュークモンは首肯した。

 

 「今や、森羅マッピングも純粋に我々だけのものとは断言出来まい。ヴァルハラ宮の深部が乗っ取られているやも知れぬし、認めがたいが――同胞に背信者がいないとも限らぬ。更には――可能性としては考慮に値せぬだろうが、あれのテクノロジーを外部に売り渡し、誰そに複製させたとしたらどうであろうか」

 

 彼の言葉は中程から、喉から血を絞り出すような凄惨な響きを帯びていた。性善説の信奉者であることを五感で理解させる程に。

 ヴァルキリモンは、この紅蓮の外套はためかす騎士の言わんとするところを理解した。

 ドルモンをリアルワールドに送り込むルートが漏洩していたのも、ロードナイトモンが殉職したのも、情報の横流しがあったからではなく、最初から全て位置を特定され、動きを追われていたからだという可能性が否めないのだと。

 

 然るに、導き出される結論は一つ。

 

 「従って、このデュークモンが“存在していない”のならば、好都合。行動を追跡される危険性は目に見えて減少する」

 

 「それは、確かに……」

 

 ヴァルキリモンは何ともいえぬ表情で項垂れて見せた。

 

 デュークモンがそうした恩恵に預かれるのならば、それに越したことはないが、手放しに受容できる状況では決してない。

 

 これがロイヤルナイツの仕業だとして、デュークモンを「存在していない」ことに仕立て上げて、一体何者が得をしようというのだろう。ロイヤルナイツ此処間の微妙な緊張関係というものを把握し切っているわけではない、それも専らリアルワールドに身を寄せている補佐役に過ぎない彼にとって、この問題は難解に過ぎた。

 

 そして、本来清廉であらねばならぬはずの守護の座がこれ程胡乱に成り果ててしまっている現状に、憂いを覚えるばかりだった。ロイヤルナイツは束ねた矢のように鏃の向かう先を揃えなければならない。地方の自警団などとはわけが違う。聖騎士は電脳世界の安定という大義に身命を賭す、滅私奉公の徒たることを永久に宿命付けられた、純然たる守護の権化でなくてはならない。

 

 そのあり方を、拙し宿世、神の呪縛と憐憫の情を抱く者が居るのだとしても、逃れることは許されない。

 

 問題の中心にある当のデュークモンはしかし、それ程悲観的には考えていないようだった。

 

 「案外これは、敵の仕業ではないのやも知れぬぞ」

 

思いがけず肯定的な発言に、ヴァルキリモンは少なからず当惑した。

 

 「――と仰いますのは?」

 

 「現状を吟味してみれば、我々にとっては利点しかないのだ。専ら、このデュークモンの動きを追跡し、亡き者にせんと目論むのは――敵の方であろう。丁度デスモンがそうであったようにな。このデュークモンを不穏分子として注視する意図を持っているのでもない限り、我々の味方が動向を逐一監視するのに労力を割いたりはせぬはずだ」

 

 「つまり、デュークモン様の情報がデータベースから抹消されることによって、不利益を被るであろう対象は、デュークモン様の動向を把握しておきたい敵でしかない、と」

 

 「左様。大方それで正しいのではなかろうか」

 

 「成る程……そういった考えはありませんでした」

 

 聖騎士集団に対して、あたかも融通が利かず、奇策の一つも弄しないような堅苦しい印象を抱いていたが、その謬見は修正されねばならないようだ。ヴァルキリモンは押し黙って内省した。

 そうした彼の胸中を見抜いてか、デュークモンが宥めるように言い足した。

 

 「うむ、普通の神経ならばやらぬこと。然れど、我々には割合搦め手を好む者がいるのでな」

 

 それが一体何者を指した言葉なのか、ヴァルキリモンには皆目見当も付かなかった。しかし、デュークモンを見やるに、思い当たる数名の候補を密やかに数え上げているようであった。

 

 「いえ……しかし、報告をしたのはドゥフトモン様です。これがドゥフトモン様の仕業かどうかまでは分かりかねますが、いくら何でも、事の次第について説明はされるのではないでしょうか」

 

 「当人と口裏を合わせているのであろう。我々が今し方推測したことが的を射ているにせよ、当人が何も語らぬのであれば、それは尚も単なる推測に過ぎぬ。よそに話して聞かせた所で情報漏洩には成り得ぬからな。それはさておき、ヴァルキリモン――」

 

 「はっ」

 

 名を呼ばれた鳥人はしゃんと背筋を伸ばし直し、右拳を左の胸に押し当てる姿勢を取った。改めて、聖騎士の補佐たる者としての立場を、敬礼を以て明示せしめる。

 

 「これは、如何なる状況なのか」

 

 ヴァルキリモンが、佐伯から説明を受けた通りに話す。

 

 「アクセスポイントを起点として、何者かがデジタルとリアルの境界を穿孔しているようです。その実態及び目的は正確に把握出来かねますが……膨大なデータ量で構成された生命体であることは間違いありません」

 

 ――膨大なデータ量で構成された生命体。

 デュークモンの脳裏を、粘稠な闇に覆い被さる、巨大な蜘蛛のおぞましい姿がよぎった。

 あまり思い起こしたくないそれに、彼の黄玉の瞳に翳りが差す。やはり、あれはあの時ダスクモン共々黙って見逃してくれたわけではなかったのだ。

 

 そして、空間が穿孔されているのではないか、という嫌な予感は当たっていた。

 

 「サー・佐伯が、補修作業にあたってくれています。それが済むまでの間は、どうしても流入してくるあのアンノウンを倒し続けなければなりません。今現在は落ち着いているようですが、補修が完了するまでは警戒を解けません」

 

 「不毛なことこの上ないが……やむを得ぬか」

 

 不本意そうにグラムの先端を地面から持ち上げるデュークモンであったが、ヴァルキリモンが手を下に降ろすような動作でそれを止めた。

 そして、決定的な一言を投げかけた。

 

 「いいえ、此処は一つ――ドルモンのテイマー殿に任せてみましょう」

 

 デュークモンの瞳孔が拡大する。唐突に話に上ったその言葉はあまりに重大で、彼が面食らうには充分だった。

 

 眼前の純白の鳥人が意味する所は一つだった。

 

 ドルモンは無事にリアルワールドに逃げおおせた。

 

 そして間を置かず、テイマーが発見された。

 

 盲亀浮木の奇跡の衝撃が、情報処理機構を激しく打擲して痺れさせる。

 デュークモンはただただ言葉をおうむ返しにする他なかった。

 

 「ドルモンの――テイマー、だと?」

 

 「はい」

 

 ヴァルキリモンの声には淀みがなく、その芯には抑えきれぬ欣喜すら通っていた。

 

 「先日、その者と話を付けて参りました。洞察力に長け、正義感の強い芯の通った方で、まさしくテイマーに相応しいように思われました――が。実戦経験がないに等しいのがいずれ隘路となりましょう。よもやそれが黄泉への隘路でないとも限りませぬ」

 

 電脳の生命にとって、命あっての実戦経験は積みがたい。しかし、生き延びる為には積み続けなければならない。

 

 如何に温厚で争いを好まぬ性格の持ち主であっても、それは仮面に過ぎない。血を血で洗う、片方が息絶えるまで終わりを迎えない生存競争こそを渇望する闘争本能が、紳士淑女の仮面を剥ぎ取ったその下に必ずその醜貌を潜めている。

 

 殺るか、殺られるか。詰まるところその0と1の両極端しか持たぬデジタルモンスターにとって、実戦経験とは一度毎に命を失うやも知れぬ賭けを繰り返すことによってしか積み重ねられない。

 

 だから、相手を選ぶのは重要だ。

 

 ドルモンは必ず最後まで生き延びなければならぬ、救世主の胚芽だ。故に、勝てる算段のある勝負を選び続けなければならない。

 

 成長期と幼年期程度では話にならないが、それは一般的な話だ。今や、相手は単なる幼年期ではない。漏水のようにリアライズし、集合して変異を遂げる、進化の法則を破壊する異分子だ。

 予行訓練としては、最適な相手と言えよう。

 デュークモンは納得した様子でいらえた。

 

 「確かに、あやつらは見積もったところせいぜい幼年期……単体ならばドルモンが遅れを取ることはあるまい」

 

 しかしあくまで、単体ならばというだけの話だ。

 

 「――だが、相食むことによって進化するという、型破りな力を持っている。このデュークモンが相対せしときは、完全体にまで到達したのだ」

 

 「!? それは……」

 

 ヴァルキリモンは息を飲んで狼狽えた。

 

 先刻、此処に転送される前――佐伯の元で目にしたものが思い起こされる。

 

 “ヘイムダル”の視野――レーダー範囲内に出現した、完全体相当の存在がリアライズしたことを示す電脳核の反応。

 

 究極体相当の反応が付近に出現した瞬間から間を置かず、儚く消失したその反応。

 

 幼年期のみならず、完全体までもがリアライズしてきたのだとばかり思っていたが、あれはそういう事だったのかと得心すると同時に、叩き付けられた事実に表情が歪んだ。

 

 どうあっても、早急に次元の虫食いを修復してもらわねばならないようだ。

 増援が大挙して押し寄せて来て、敵が強大になり過ぎるその前に。

 

 「ふむ……迅速な各個撃破が要求されますね」

 

 「テイマー殿には、前もって情報を渡しておいた方が良かろうな」

 

 デュークモンの意見は尤もだった。

 しかしヴァルキリモンは、龍輝の能力に一切を賭けることを躊躇わなかった。

 これは確実に勝てる賭けなのだと、半ば盲目的ですらある答えが組み上がっていた。

 

 「いいえ、その必要はないかと。サー・龍輝はデビドラモンを倒した功績がおありです」

 

 「! 何と、デビドラモンを?」

 

 デュークモンが再び瞳孔を拡大させる番だった。

 

「複眼の悪魔」と綽名される、邪悪さを焼き付けられたデータの凝りでしかないかの邪竜は、ともすれば成熟期でも無抵抗になぶられるダークエリアの傑物だ。

 

 血塗られた邪眼の輝きにねぶられたなら四肢の自由を奪われ、夜闇を映した長尾の先端には、鋼鉄をも容易く穿孔する鉤爪が仕込まれている。その巨躯を四枚の翼を持って軽々と浮かせて烈空し、獲物を確実に仕留めるのだ。

 

 間違っても、成長期に太刀打ちできる相手ではない。

 

 それを、倒したなど。

 

 「わたしとて、その現場は直接見ておりません。しかし、デジヴァイスの力に借りたとはいえ――あのデビドラモンを目前にして、よくぞ逃亡しなかったものと思います。サー・龍輝も、ドルモンも」

 

 「うむ。ダークエリアに巣くう魔性は、心魂の底まで凍てつかせる邪の波動を放つ。あれらにまみえて尚勇邁たり得るとは・・・・・・」

 

 デュークモンは衷心より頷き、尚も驚愕に満ちた声音でささめいた。

 

 普通、逃げられるものなら逃げる。

 尤も、それはダークエリアの徒に相対した時に限らない。

 押しつけられた十字架を背負わずにいいのならば、打ち棄てておくのみ。

 誰かが背負わねばならぬならば、行き会わせた他者に押しつけて逃げるのみ。

 況してそれが、己の安住していた常識を、根底から崩壊せしめる破滅的因子との邂逅ならば尚のこと。

 

 リアルビーイング達は皆、異形の存在など夢物語の住民で、現実に姿を現すことなど有り得ないと無意識のうちに思い込んでいる。

 物語は、己がそれよりも高次元にあって俯瞰出来る立ち位置にいるときのみに楽しめるものだ。

 それが現実のものであろうとき、もはやそれは娯楽として享受できる代物ではない。

 首筋を滑る白刃でしかない。

 

 栄誉あるテイマーに選定された者とて、心根は恐怖で凍えるばかりだったかも知れない。

 

 しかし、敢えてひしゃげる程の十字架を背負う道を進んだ。

 剥き出しの首筋に、白刃をあてがわれることを厭わなかった。

 

 それが喩え、“ノルンの予言書”に記された通りの行動でしかないとしても――。

 

 天地開闢以来、一度たりとも姿を見せていない空白の座の主。電脳核(デジコア)の深奥でその高潔なる姿を昏々と眠らせるドルモンと、それを永劫の眠りから目覚めさせるべく天に選ばれしテイマー。

 

 充分期待して良い胆力と知力の持ち主のようだ。

 

 デュークモンの言葉は、純然たる希望に満ちたものだった。

 

 「是非とも、お目通りしたい」

 

 ヴァルキリモンも然りとばかりに同意した。早く本家本元のロイヤルナイツに引き合わせたいのか、何処ともなくせわしない雰囲気を漂わせながら。

 

 「既にサー・龍輝に連絡は付けておきました。そう遠くない場所にお住まいですから、来て頂けるかと思います。僭越ながら、試すような真似をしたこともお許しになってくれるかと――」

 

 唐突に、言葉が切れた。

 

 弾指のうちに、純白の鳥人はクロスボウを構え直している。

 そして矢筒から一本抜き取り、番える。それは残像しか追えぬ速度で成された。遥か古代より幾千回と繰り返してきたかのような、芸術的ですらある流麗な動作で。

 

 デュークモンと会話をしながらも、自身の構成データを削り取って抜かりなく矢筒の中身を補充しておいたのだった。

 

 番えられた矢の向く先は、遥か目下。

 

 雪上に再び何処からともなく染み出すように現れた海月の化生を、漆黒のバイザーの下の双眸は逃さなかった。

 

 忌々しげに舌打ちをし、呪詛を吐く。

 

 「この畜生が……!性懲りもなく……!」

 

 まさに神速、矢が烈空した。

 

 鏃は雪の白を透かしてたゆたう半透明のゲルの中心――即ち深紅の単眼の瞳孔を、あやまたず貫く。

 

 ――筈だった。

 

 血走った眼を貫いたのは、矢ではなかった。

 

 究極体二体の極限まで錬磨されたセンサーは、真にとどめを刺したものの正体を、瞬きよりも短い時の内に捉えた。

 

 それは赤く炸裂したエネルギー弾だった。

 

 騎士達は極自然に、既に冷え切った大気に掻き消されたその軌跡を追った。

 10メートルばかり先。

 赤い屋根の三階建て住宅の前に立つ、一本の電柱の下。

 自分達が立っている場所からはちょうど影になっている、その位置。

 狙撃手はそこに潜んでいる――或いはいた――らしい。

 姿が見えないのだ。

 

 周囲の風景と同化しているのか、既にその場を去ったのか。

 研ぎ澄ませた感覚器を以てしても、それは判然としなかった。

 今は感知範囲外にいるのか。

 

 視線を戻すと、半透明の体は二進数の屑に変じ、冷気の如く流れ出して跡形もなく消滅していた。

 半瞬遅れて、薄く雪の積もった地面に矢が突き刺さり、跡を追うように風塵さながらに霧消した。

 

 「今のはもしや、件のテイマー――龍輝殿か?」

 

 「いいえ、違うようです」

 

 問い掛けに、やや呆然とした面持ちで、ヴァルキリモンがクロスボウを背負い直しながら頭を振った。

 

 ドルモンの電脳核(デジコア)の波動は、龍輝の自宅を訪問した際に既に感知して知り得たところだ。

 

 先程短時間だけ感知出来たのは、あのような、一般的成長期にありがちな、気配がだだ漏れの波動ではない。

 

 脈動の性質からいって、狙撃手も成長期ではあろうと推測できる。

 成熟期ほど強力ではない。だが、幼年期にしては堅固過ぎるのだ。

 

 そして何より、その脈動は非常に抑制されている。気配を殺し、張り巡らされたセンサーを擦り抜け、敵を意識外にて闇に葬送する。ただそのために研ぎ澄まされたような印象すら受ける。

 ヴァルキリモンは一つの恐ろしい仮説を立てるに至った。

 

 ――暗殺者だろうか。

 

 「これは――ドルモンではありません」

 

 提示された回答に、デュークモンは眉根を寄せた。

 

 「……我々の他に何者かがいるということか」

 

 「そうなります」

 

 生残するロイヤルナイツの中に背信者がいるという強い疑惑。

 何者かがデジタルとリアルの境界を破らんとしている非常事態。

 そして――自分達の与り知らぬ何者かが、このリアルワールドに身を潜めているという事実。

 

 情報処理機構を覆い尽くす暗雲を追い散らすことなど、究極体の力を以てしても到底出来そうになかった。

 



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闇を抉るは飛龍の爪 Independent Wyvern

バトルパートになるはずだったのが日常パートになる・・・・・・はずだったのがバトルパートの手前で終了という形になりました。二転三転してホントすみません・・・・・・


 マグナモンがネットの海に臨む断崖にてデスモンを討伐し、負傷した躯のまま帰還して間もなく。デスモンに転送プログラムにて放逐され、未だ負のデータの溜まり場をデュークモンが浮揚していた頃。

 

 ヴァルハラ宮――聖騎士達の城にして、世界樹の名を冠した電脳世界の唯一神、「イグドラシル」が最深部に鎮座するとされる聖域。

 

 地上7,000メートルか8,000メートルに達そうかという険峻な銀嶺の頂きに偉容を誇るその大宮殿は、あたかも塵界の喧噪とは無縁であるかのように、寒々とした静寂の中に佇んでいる。

 

 聖騎士の象徴である十三の尖塔は天を衝かんばかりで、円形を成して聳え、彼方の神域を抱くように群れる。うねる北極光の移ろう極彩色をした障壁を越えることが叶ったのならば、日の差さぬ凍える極夜の漆黒を映し取った外壁を目にすることが出来るだろう。

 

 高潔や正義の権化として戦いに身を投じる者達の居城としては、およそふさわしくないであろう色を。

 

 しかし、聖騎士団を発足させ、城の建設を提唱した皇帝竜はこう言った。

 

 ――純白ならば、染まってしまう。脆すぎると。

 

 確固たる信条の元、騎士は行動しなければならない。

 

 心が揺らいではならない。もはや何ものにも染められない漆黒として、その信念の命ずるままに戦わねばならない。

 

 そしてまた、時には犠牲を厭わず信念を満足させることを覚えねばならない。清廉なる正義とは呼べぬであろう信念を。

 

 その証として、城は黒くする。

 

 しかし、皇帝竜とて、無軌道に信念を掲げよといったわけではない。

 神意を逸さない限りにおいて、信念を貫けと言ったに過ぎない。

 

 だがもはや、ドゥフトモンは知らない。神意とは何かを。

 

 彼は不毛な自問自答を繰り返す。

 

 ――神意とは何だ。

 

 予言に依りて我々をセキュリティ最高位の騎士に任じておきながら、何の前触れもなく見限り、咎もなしに不死性を剥奪し、命に限りある脆い存在に堕したのが神意なのか?

 

 神は死んだのだ。

 

 喩え大樹は未だ枯れずに屹立しているとしても、死んだも同然ではないか――

 

 その千々に散逸しそうな心を、かろうじてドゥフトモンを繋ぎ止めていたのは、聖騎士達を束ねる者としての地位だった。

 

 ドゥフトモンはロイヤルナイツ創設時に皇帝竜より司令塔に封ぜられ、爾来ヴァルハラ宮に常駐し、有事の際にはロイヤルナイツ全員に事の次第を通達し、必要とあらば指示を出す権利を行使してきた。

 

 かつて束ねていた矢数は十二もあった。

 

 しかし、ベルフェモン討伐に駆り出された同胞は、神の加護を失って冥府のあなぐらを漂う二進数の塵と成り果てた。

 

 イグドラシルに神意を問うべく赴いたオメガモンには、何の咎あってか天誅が下された。

 

 ロードナイトモンは“希望”を逃がす代償に、魔王の凶刃に斃れた。

 

 デュークモンは異空間に放逐され、帰還は叶わぬやも知れない――。

 

 今や、矢の総数はたったの5本。

 

 握り込んだものは余りにも少なくて、掌底に爪が食い込みそうだ。

 

 だが、手放すわけにはいかない。自身の自己同一性を守り通す為にも。

 

 最後の一本だけが残っても。

 

 黄金の鬣を緩やかに波打たせる黒豹を模った簡素な甲冑を纏い、背より天使のそれに似た純白の翼を二枚生やした聖騎士は、悲愴ですらある覚悟に突き動かされて、ディスプレイの前に佇立していた。

 

 ディスプレイ以外の一切に背を向けた状態の彼は無防備という他ないが、波動感知センサーは意図的に切ってあった。センサーを起動し続けるのは単純に疲弊するからというのが一つ、そしてそれ以上に――彼を背後から強襲するような輩が侵入するような事態は、金輪際発生しない、してはならないという“安全神話”への盲目染みた信頼ゆえだった。

 

 しかし、突如階下から掛かった声に、その神話が崩壊する音をドゥフトモンは聞いたような気がした。

 

「失礼する。通達を受けて来たぞ」

 

 硝子が砕ける様にも似てドゥフトモンの思考が破られ、背筋を悪寒にも似たインパルスの激流が這い上がっていく。

 

 (何者――!!!) 

 

 インパルスが回路を疾駆し終えるより前に、最大級の警戒態勢へと突入する。あらゆる感覚器が極限まで精度を高めて稼働し出す。

 

 ――全く気配がなかった。いや、今もない。

 

 声を聞くまで、何者かが居ることにすら気付かなかった。

 

 奇妙だ。幾ら訓練しようとも、電脳核の波動を完全に停止させることなど、心臓を止めることと同様に不可能であるのに。

 

 対象に接近しなければ波動を感知出来ぬとはいえ、全く感知出来ぬなど有り得ない。

 

 究極体である、もしくはそれに準じた力を有する者が然るべき修練を積んだならば、草木が伸びる音を聞き分けるが如く、絶えず震える大気の中から生命の鼓動を拾う力を習得するのだから。

 

 何より、全く聞き覚えがない声だった。

 

 超速で電脳核の深部に圧縮して格納されている、膨大なメモリーデータを照会しても、該当結果は一つもなかった。

 

 このような、険があり、高慢であり、それでいて鷹揚な声など知らない――

 

 本能に追い立てられるまま、腰に佩いた白銀の円錐剣を抜剣する。涼やかな金属音が奔り、刀身が空間を満たす淡い白色光に濡れて冷たく艶めく。

 

 抜剣の勢いのままに背後を振り返り、切っ先から収束したエネルギーの光線を声のした方向に放った。

 

 急だったゆえ、力を完全には練り切れておらず、大した威力は期待できない。

 

 だが、敵ならば牽制として上出来。ダメージを与えられれば儲けもの。

 

 味方なら――これしきの攻撃は難なく躱すはずだ。

 

 果たして、闖入者は後者だった。

 

 ゆらりと左側に体を傾けると、射線から身を外すことで事なきを得る。ドゥフトモンが矛先を向けてくる数瞬前には、既に動作に移っていたのだった。

 

 ほぼ同時に光線は彼の首と右肩の間の僅かな空間を擦り抜け、クロンデジゾイド製の内壁に衝突した。瞬く間に幾筋かに分かれて壁を四方八方に奔り、彗星の尾のように消え去る。

 

 緊密な二秒ののち、ドゥフトモンは深紅の双眸に来訪者の姿をしかと収めることが出来た。

 

 5メートルばかり離れた階下に立っていたそれは――竜人。

 

 堂々たる体躯に、純白を基調とし、そこかしこに竜爪を模った黄金の突起をあしらった鎧を纏っている。大きく広げられた双翼は濃紺に染め抜かれた外套のようだ。

 

 両腕をがっちりと組んで階下からドゥフトモンを軽く仰ぐその様は自信に満ち溢れているようでもあり、彼の反応を心底面白がっているような節さえあった。

 

 ドゥフトモンは、自分のメモリーデータにその姿がしかと存在しているのを確認した。

 

 だが、その為人までも良く知っているわけではない。

 

 ふうと軽く溜息を吐いて警戒を解くと同時に、別の意味での警戒を強める。

 寧ろ疑問に近いが。

 

 「――デュナスモンか」

 

 「これは挨拶か?」

 

 竜人――デュナスモンは腕を組んだまま、傾けていた体をいつの間にか直立に戻していた。

その様子を半ば憮然とした面持ちで眺めながら、ドゥフトモンは剣を静かに収めた。

 

 珍しい客人にも程がある。

 

 ロイヤルナイツが、イグドラシルという創世樹にして唯一神を主とし、その枝葉に従っていたときから、この竜人は呼ばれなければヴァルハラ宮を訪うことは一度たりともなかった。

 

 ヴァルハラ宮より西方に浮かぶ、風薫る桃源郷に聳え立つ、古色蒼然とした孤城「パレス・キャメロット」の主にして、孤高の風来坊。

 

 それが自ら赴いてくることなど。

 

 何をしに来た。

 何が目的なのか。

 

 同じロイヤルナイツでありながら、疑わずにはいられない。

 あたかも一本だけ鏃が逆向きの矢の如し。

 

 「・・・・・・誰そが来たのか、全く分からなかった」

 

 「そうか」

 

 「転送陣を使わなかったのか」

 

 「・・・・・・使用したが?」

 

 おかしな事を言う、と言いたげな口調で返される。

 しかしドゥフトモンにしてみれば、この事態の方が余程おかしなものだった。

 

 第一の間から第五の間、そして中央の第三の間から長い回廊を通って辿り着ける十三の騎士の尖塔、生体データの損傷修復用空間、イグドラシルのコアへと至る長き回廊――オメガモンが神意を問いに単身赴き遂に帰らなかったその時から、禁足地と化している――を有する広大なヴァルハラ宮は、それらしい内装として長い螺旋階段は用意されているものの、ロイヤルナイツがわざわざそれを上り下りすることは皆無に等しい。

 

 というのも、セキュリティコードを入力すれば使用可能な転送陣が方々に用意されているので、それに乗れば極めて簡便な移動が保証されるのだ。

 

 しかし、使用されたならば必ずその記録が残り、ドゥフトモンが今し方向き合っていたディスプレイの右側部に最新の履歴として表示される。

 

 ――はずなのだが、履歴はアルフォースブイドラモンが第三の間から己の尖塔へと移動したところで止まっており、そこから更新されていない。

 

 回路を疾駆するインパルスが、疑惑の指向性を持ってドゥフトモンの思考を支配し出す。

 

 ――よもや、履歴が残らぬようにプログラムが改造されたのか。

 

 ロックをその都度解除せずとも、誰にでも転送陣を使用できるような細工をされたのか。

 

 更に踏み込めば。

 

 ドルモンをリアルワールドに送る計画の決行日や、デュークモンの位置を横流ししていたのは此奴ではないのか――

 

 須臾のうちに、インパルスが幾十幾百もの回路を疾走し、膨大な思考過程と結果をドゥフトモンにもたらす。

 

 だが、考えても詮無きことばかりだった。証拠は一つもないのだから。

 

 それにしても、気配が感じられないことといい、この不可解な現象といい――不気味な奴だ。

 

 ドゥフトモンは、自分の電脳核が粘稠な溶液の中で何度も転がされるような錯覚に陥っていた。

 

 「手短に言うが」

 

 そんな相手の心中など知る由もなく、或いは知っていてもお構いなしに、デュナスモンは両腕をほどくと、階段を昇りながら訥々と話し出した。

 

 一段上る度に、踵に龍の蹄をあしらった長靴と段がぶつかり、玉が触れあうかのような涼やかな音が響く。

 

 その清音を耳にしながら、何故気配が――電脳核の波動が感知できないのか、ドゥフトモンは首を捻らざるを得なかった。

 

 確かに、これは生きている。

 

 断じて、ダークエリアの淵から這い上がってきた幽鬼などではない。

 

 自分のセンサーが狂わされているのだろうか。

 それとも――。

 

 「デュークモンの件で、具申がある」

 

 「聞こう」

 

 「デュークモンは、ダークエリアに送られたということにしておけ。データベースから抹消しておくと尚良い」

 

 デュナスモンが階段を昇りきり、ドゥフトモンの横に立った。

 

 間近で改めて見るその体躯は、圧倒的であった。2m近くあるドゥフトモンよりも、更に一回りも二回りも大きい。同じく二足歩行の竜であるアルフォースブイドラモンに比肩する巨躯だが、纏う雰囲気は彼よりも遥かに峻烈であり――異様だ。

 

 電脳核の波動は相変わらず感知できない。しかし、そういった生体活動領域を司る二進数の累卵を奔るインパルス――という単なる現象を超越した、もっと高次の真実か、或いは真理か――喩え感覚を絶たれても分かるような何かに自分は直面しているという認識だけは、ドゥフトモンの中に然りと存在していた。

 

 だが、気を張らねばならない。

 

 よりによって同胞に臆するなど、騎士の――司令官の恥。

 

 ドゥフトモンは胡乱な目を拵え、竜人に向き直る。

 

 「目的は?」

 

 「情報攪乱だ」

 

 至って簡潔な回答。

 

 是とも否とも言えず、ドゥフトモンは暫し押し黙った。

 

 デュナスモンが何を言いたいのか、汲み取るのは容易だった。要は、相手に戦力が一つ減ったと誤認させ、ここぞと云うときにデュークモンを隠し球として機能させるのが目的だ。

 

 だが、“真面目な”ドゥフトモンには、そういった搦め手の発想はなかった。また、主義的な観点から、賛意を示しがたかった。

 

 伝達された内容に忠実に報告書を作成し、方々に伝達する。虚偽の情報を織り交ぜるなどして、その指針を逸した行動をみだりに取るべきではない。

 

 デュナスモンの言い分は理解出来るが、司令官として、やはり譲るわけにはいかない。

 

 「しかしだ……正確かつ精緻な情報の伝達が、我々に残された手段ではないか。あまり敵の裏を掻こうとしても下手を打つことになりかねぬ。この昏迷した状況の中で、これ以上の混乱を招くのは望ましくないだろう」

 

「賛同出来んな」

 

 だがその正当な反駁を、デュナスモンは容易く切り捨てた。

 

 「裏切り者がいて、真実の情報を売り渡しているかも知れないだろう。それともお前は――『ロイヤルナイツは一枚岩である』という確たる証拠でも握っているのか? お前自身が背信者である可能性すら、否めんぞ」

 

 腹の底がすっと冷え込み、次いで灼熱の激流が湧き上がってくるのをドゥフトモンは感じた。

 

 侮辱。最大級の侮辱だ。

 

 叙任されて以来、堅実に、そして忠実に司令塔としての役割を果たし、与えられた使命に爪の先程の疑問も持たなかった、衷心からの聖騎士としての自分への。

 

 喩えその可能性を指摘されるだけであっても、背信者呼ばわりだけは許しておけぬ――

 

 一度は収めた剣の柄に、再び手が掛かる。

 

 だが、抜剣したい衝動は、内なる声にすんでの所で押し止められた。

 

 (冷静になれ。此奴の言っている事は正しい、怒れども仕方がない)

 

 そう、仕方がないのだ。

 

 今や誰が疑われても仕方がない状況なのだ。

 

 己とて例外ではない。絶対的信頼を得る手段などない。寧ろ、真っ先に疑われてもおかしくはない。情報を集約し、良いように方々に横流しする権利すら持ち合わせているのだから。

 

 大体、決闘を申し込んで名誉を回復したとして、どうするのか。

 

 ロイヤルナイツがもはや五体しか残っていない現況、内輪で相争って疲弊することは余りにも愚かしい。

 

 ようやっとのことで己を沈静化させると、ドゥフトモンはやや弱々しい声音でいらえた。

 

 「貴殿の、言う通りだ」

 

 そして、言いたくもない、自虐的な問いを投げかける。

 

 「仮に、私が背信者であるとしたら・・・・・・どうする」

 

 「特別どうもしない」

 

 相変わらず無情な艶めきを放つ真紅の双眸で、自分より幾分小柄な黒豹の騎士を見下ろしたまま、デュナスモンは言い放った。

 

 「勝手に端末を操作させてもらうだけだ。――お前をデリートした上でな」

 

 ドゥフトモンは身を強張らせた。

 

 “お前をデリートした上で”。

 

 底冷えする凍土の極夜を思わせる、その低声。

 波動は魂の内側へと入り込むように、電脳核内で直に、警告として鳴り響く。

 

 おそらく、本気で言っているわけではない。

 裏切り者だと疑われているわけではない。

 それは明白だ。

 だがそれは、突として背骨に鉄棒をねじ込まれたような衝撃を伴っていた。

 

 声が、ほんの僅かに――千分の一波長程の乱れを伴っていることを、ドゥフトモン自身も認識していなかった。

 

 「・・・・・・出来るとでも?」

 

 「ああ」

 

 肯定。

 

 特段自信があるといった風情でもない。

 

 「オレが強いのではなく、お前が弱いのだ」――そういった含みだ。

 

 ――竜は、百獣の王すら嬰児のように縊る。

 

 そんな箴言か戒告か、ドゥフトモンの脳裏を過ぎる。

 

 軽んじられた事に対する怒りなど湧かなかった。ドゥフトモンは畏れを前にして、臓腑を焼き尽くすような激烈な瞋恚を覚えたことすら、忘れ去ろうとしていた。

 

 「反対に、オレが背信者だとは疑わんのか?」

 

 問い掛けに、ドゥフトモンは僅かに首を振った。

 もはや疑うだけ愚かだ。

 そうであるならば、自分の躯は疾うに二進数の屑へと散らかされているはずだ。相手はそれを呼吸するが如く実行できる力を有しているのだ。

 剣を交えずとも、既に全身でそれを理解させられている。

 

 「・・・・・・なら、何故私をさっさと始末しない? 端末の制御権が欲しいのだろう?」

 

 「分かっているじゃないか」

 

 初めから答えを確信していたような風だった。

 

 要は、お前は信用していると言いたいらしい。

 

 だが、ドゥフトモンは少しも喜ばしさを感じなかった。

 

 皇帝竜に刀礼を施され、聖騎士に叙任された時。

 

 ベルフェモン討伐の緊急召集がかけられた時。

 

 数える程しか、この竜人とは顔を合わせていないにもかかわらず、全て分かったような口を利かれるのは、気味が悪くすらある。

 自分が相手の性質を把握しかねる場合には、尚更。

 

 ともあれ、ドゥフトモンに、是を口にする以外の選択肢はなかった。

 

 「……“デュークモンはダークエリアに送られた”、そう方々に伝達しておこう。データベースからも直ちに抹消する。――しかし」

 

 ドゥフトモンは敢えて一歩踏み出し、威圧感を放ちながら佇んでいる竜人との距離を詰めた。相手は、それをどうとも思った様子はなかった。

 

 「二つ問わせてもらう」

 

 「何だ」

 

 「貴殿は、デュークモンが真にダークエリア送りになってしまうとは考えていないのか」

 

 「いない」

 

 返答に、間は半秒となかった。

 

 そして続く答えは、ドゥフトモンの想像を逸したものだった。

 

 「デュークモンが、下郎の下策を前にしてくたばるわけがないだろう」

 

 思わず息を呑む。

 

 有無を言わせぬ、あまりに強い語調。

 何より、今までの物言いと違い、遥かに感情的だった。

 

 先程ドゥフトモンをデリートすると脅迫した時のように、己の強さに対する絶対的自信に裏打ちされているのを――否、あれ以上の自信、信頼を置いているのだと、否が応でも感じ取らねばならない程に。

 

 だが、それは不可解なことこの上ない事だった。

 

 何故、デュークモンを信頼しているのだろうか?

 

 寧ろ、全電脳世界でデュークモンのみが接続可能な、“プレデジノーム”なる神秘の原初プログラムの力をば信頼しているのか。

 

 デュークモンと特別親しい間柄なのだろうか。

 

 だが事情の一切をつまびらかにするには想像を絶する困難を伴う事は考えるまでもないことだと直観し、ドゥフトモンは増幅するばかりの無為な思考を停止させた。

 

 「では、二つ目だ。・・・・・・貴殿、一体何を考えている。自発的に来訪し、尚且つ提言までするなど、有史以来無かった珍事だぞ」

 

 「話す義理はない」

 

 叩き付けるような即答。

 

 ドゥフトモンは別段失望しなかった。もとよりまともな回答は期待していない。

 

 それ以上に、とりつく島のなさは、もはや爽快ですらあった。

 

 「それだけか?」

 

 「・・・・・・そうだな」

 

 「そうか」

 

 そうして挨拶もなしに、デュナスモンが踵を返しかけた時だった。

 

 けたたましく鳴り響き始めたサイレンと赤光に、空間中が満たされる。

 

 二体の聖騎士は、反射的に背後を見やる。

 

 万象をモニタリングしているディスプレイは赤く点滅を繰り返し、警告文を中央に表示させている。

 

 『Caution! Raiders Appearing』

 

 危機感を煽る色、音、文言、全てがドゥフトモンの電脳核を直に強かに打擲する。

 

 脈動が激しくなってゆく。電脳核が熱い。呼吸の――思考のパルスが乱れる。

 

 終始自若としていたデュナスモンですら、眉を顰めたようだった。

 

 決して起こってはならない、直視したくない、認識したくない一つの真実が、浮き彫りになってゆく。

 

 今度こそ、神話に終止符が打たれたのだ。

 

 「侵入者・・・・・・だと」

 

 「鼠が紛れ込んだな」

 

 各々独語する騎士。

 この極寒の霊峰の頂きに、敵が登ってきたのだ。

 




ということで前から名前だけは出ていたドゥフトモンと、デュナスモンお披露目です。次回こそ絶対にバトルです。


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闇を抉るは飛龍の爪 Rage of Wyvern 1

 重々しく閉ざされた、見上げる程に高いヴァルハラ宮のブラックデジゾイド製の門扉は、ロイヤルナイツにしか開けることが出来ない。何重にも施された封印を解くデジ文字と数字が入り乱れた16桁のパスコード――夜が明ける度に変わる――を知るのは、デュークモンも含めるならば、現在6体しかいないはずだ。

 

 重苦しく不穏な熱を伴った電脳核の鼓動に、表層意識が徐々に乱されるのを感じながら、ドゥフトモンは可能性を羅列した。

 

 ――パスワードを割り出したのか。

 

 だがそれは、現実的にはほとんど起こり得ない。当該のロック――門扉の前まで来なければならないが、パスワードを割り出すのに内部システムに侵入するのが、如何に愚かな試みであるかは言うまでもない。ロイヤルナイツが赴かずとも、門扉に内蔵された警備システムが不届き者を一瞬で二進数の塵にする。幼年期も成長期も、究極体も皆神の前に等しく、その存在を地上から永遠に拒絶されるのだ。

 

 そもそも、門扉の前に辿り着くこと自体が恐ろしく困難な所業だ。転送プログラムによる遷移先をそこに設定すれば簡単なように思われるが、ヴァルハラ宮を頂上に冠する霊峰の全域が結界によって守られており、そうしたプログラムの作動は拒絶される。

 つまり、この急峻な銀嶺の岩肌に手を掛けて登って来るしか方法はない。それは、大気濃度の低下に伴う意識の混濁と、細胞の一つ一つを凍り付かせるような冷気に打ち克つということだ。成就する見込みのないことに命を賭けてまで、そんな真似をする数寄者が果たしているだろうか。

 

 それよりも遥かに高い可能性は、思考を拒みたくなる類のものだ。即ち。

 

 ――内部で手引きした者がいるという可能性。

 

 敵は、内部から侵入した確率の方が高いという可能性。

 

 蟻一匹すら通さぬ立派な門を構えていようとも、雨漏りや壁崩れがあっては元も子もない。

 

 「床下から這い出て来たと見た方が現実的だな」

 

 デュナスモンも同意見のようだった。

 ドゥフトモンとは異なり、動揺した様子は欠片も見られなかったが。

 彼の心中では、一度は払拭されたはずだった疑念の暗雲が再び渦巻き始めていた。

 あくまでも飄々とした態度を貫くこの竜人に訝しげな視線を投げかけながら、このタイミングでの敵の侵入について、否が応でも考えてしまうのだった。

 

 何故、デュナスモンが此処を訪れた直後なのか。

 やはり、気配も無しに転送陣を利用した際に、何かシステムに細工をしたのではないか。

 各々の聖騎士に与えられた、己の居城へと続く転送陣の設けられた尖塔。プライバシーの守られた空間である其処は、充分抜け道となり得る――招かざる者共の。

 

 ばさり、と双翼が広げられる。

 

 「ちょうどいい。オレが鼠取りをしてきてやる」

 

 特別感情は込められておらず、許可も求めていない風であった。

 ドゥフトモンは押し黙ったままでいた。

 やはり、これが茶番であるという懸念は捨てきれないのだ。これを布石に、デュナスモンが信用を稼ごうという魂胆ではないとは言い切れない。

 だが、彼の出動を認めない理由もなかった。

 この「第五の間」のコントロールパネルの制御権を手放してまで、自ら敵の相当に赴くなど、それこそ愚かな真似だ。

 そして、ドゥフトモンはデュナスモンの出動を積極的に認めるべき理由を見出している。

 

 (隠された龍の爪牙の鋭さたるや、如何ばかりか――それを見極める良い機会だろうな)

 

 ベルフェモン討伐の勅令が下された際にも、決して討伐隊員に名乗りを上げなかったこの竜人の実力は如何ばかりか、実際に目の当たりに出来る千載一遇の機会だ。

 それは全く個人的な好奇心に因るものではなかった。あくまでも、聖騎士団の司令塔に任ぜられている者として、個々の力量を正しく把握しておく義務があるという考えに基づくまでだ。

 

 それならば事前情報を与えずに送り出すのが正しい実力把握の前提ではあるが、流石に時流がそれを許されないだろうとドゥフトモンは重々承知していた。

 マグナモンが相対して負傷した単眼の魔王は、電脳核の破損とデータの大部分が流出する事で起動する厄介なプログラムの器であった。予想など微塵もしていなかったそれによって、デュークモンが異次元に放逐されるという事態が招かれてしまった。

 実際にそのようなケースが存在するのだから、此処は、分析出来る限りの情報を与えておいて然るべきだ。

侵入劇がデュナスモンの茶番であり、既に相手の手の内は知り尽くしているというのならば無用だが、万が一の場合に備えて保険は掛ける。謀反者だと決定したわけではないのだから。

 

 ――万が一は、万が一にもないだろうと、ドゥフトモンは半ば決めつけてはいるが。

 

 彼は再びディスプレイに翠緑の瞳を向け、自動的に敵のデータをある程度解析してくれるシステムの出した答えを、機械的に読み上げる。

 

 「敵は3体……究極体・データ種と、完全体・ウィルス種が2体。データ解析段階にて異常検知のため、データベース照会は不可能。全個体、旧来のデータベースに未登録の――」

 

 「そのくらいでいい。後で教えろ」

 

 だが助言は無下に、打擲するような語調で遮られた。思わず怯み、言葉を切る。

 いつの間にか、デュナスモンの巨躯は転送陣の上に載っていた。虚空に浮かぶパネルを鋭い爪先で弾き、今まさにセキュリティコードを解除しようとしている。

 

 遥か階下の竜人を見下ろしながら、ドゥフトモンは心底狼狽えていた。先程の問答で、この竜人が不用心ではない、そればかりか思慮深い部類に属する事は既に知り得た通りだ。当然マグナモンの報告を受けてやって来た訳であるから、敵について懸念もしているはずだ。それにも拘わらず助言を聞かないとは――

 ――余程堅固な自信があるらしい。先程、自分をデリートすると宣言してみせた、傲岸不遜さと同意の自信が。

 

 ならばと、彼は手にしたクリップ型の端末を階下に放り投げた。色彩の定まっていないそれは、蛋白石に似た煌めきをちらつかせながら軽やかに落下した。

 

 「・・・・・・これを持っていくが良い。解析出来次第、通達する」

 

 「ああ」

 

 片手でコード入力の作業を続けながらも、あやまたず自分の方に投げられた端末をデュナスモンはもう片方の手で掴むと、襟の高いゴルゲットに挟むようにして引っ掛けた。途端通信端末はゴルゲットの色に同化し、見えなくなった。

 竜人の姿もまた、既にない。

 ドゥフトモンは無言で、ディスプレイの表示をモニタリングに切り替えた。

 

 ***

 

 竜人の躯は一度二進数のヌクレオチドの集合体へと分解されたあと、数秒と置かずに、第一の間の中央に設置された転送陣上に出現する。それらは送られてきた構成データ情報とデータベースに登録された基本データを元に、寸分も違わず元の姿へと再構成される。その間は一秒もない。

 

 ヴァルハラ宮、第一の間。

 

 外門より続く、2、3メートル程しか幅のない狭い回廊を通った先に開ける空間は、アーチ型に組まれた白亜の列柱が脇を固める壮麗な儀式の場である。

 

 第二の間へと続く扉の手前は一段小高くなっており、空間の中央を貫くように敷かれた紺碧のタイルがそこに吸い込まれるように続く。転送陣は道の中央に存在しており、デジ文字の文章が円形に書かれたそれは銀白色に発光して目を惹く。

 

 イグドラシルの予言に導かれて聖騎士の座に就く者は、紺碧の道の両脇に控えた他の聖騎士の立ち会いの下、叙任されるという習わしがある。尤も、刀礼を施されるべき者は未だ顕現しない空白の席の主のみであり、刀礼を施す主たる、聖騎士団を創設した皇帝竜の消息も、杳として知れない。

 

 その皇帝竜は、白亜の彫像となって周囲を睥睨していた。左右の列柱の中央にはそれぞれ迫り出した台座が設けられており、四足歩行の偉容を誇る竜と、手にした剣を天高く掲げた騎士の白亜像が鎮座する。それは皇帝竜の有していた、二つの姿――力と知性という二極を現しているという事実は、聖騎士ならば当然に知っている事であり、第一の間に足を踏み入れた際には、まず二つの像に向かって敬礼の姿勢を取るのが礼儀であるという事もまた、暗黙の了解である。

 

 だが、デュナスモンは堂々と礼儀を欠いた。かつて己にセキュリティの最高守護者という地位を下賜した者の像には目もくれず、入り口付近で群れている敵の一隊に鋭利な視線を投げかけるのみだ。

 

 報告通り、敵は3体だった。

 

 20メートルあまり離れた虚空に浮かぶのは、異形。

 その姿は、何に喩えるべきか判然としない。

 漆黒の角、三本の爪、頭部中央でぬめぬめと輝く、剥き出しの巨大な単眼。

 石灰色の硬皮に覆われた、堕天せし魔王の姿が浮かんでいた。

 

 (ああ、此奴が報告にあった奴だな――デスモンとかいう)

 

 しかし異形の存在に対し目が留められたのはほんの二秒程度であり、さしたる興味もない様子で視線は背後へと移る。

 そこには、これまた異様な風体の者が二体控えていた。

 

 一体は、一切の肉がそげ落ちた、骨のみの堕天使だった。擦り切れた蝙蝠のそれに似た翼を生やし、先端部に黄玉の嵌め込まれた身の丈程もある杖を携えている。落ち窪んだ眼窩から覗く瞳は、視線を投げかけた者を呪わんばかりだ。

 最も禍々しい部位は、剥き出しの肋骨の中央に埋め込まれた巨大な電脳核である。禍々しい波動が絶えず発され、静謐な大気に擾乱をもたらしているのをデュナスモンは皮膚で感じ取った。

 

 (ダークコアか。此奴は確か――スカルサタモン)

 

 禍つ骨に与えられた名称を、デュナスモンは記憶の底から一掬いする。

 通常、電脳核は胸部に相当する部分に人間の心臓と同じく分厚い体組織の中に隠されていて、外部に晒されることなど有り得ない。しかし、肉の大部分を失った生ける屍も同然である暗黒の徒ならば、その限りではない。悪逆なる波動を放ち続け、大気に異常をきたす。

 ダークコアを備えている者を地上で目にする事は稀である。そして、あってはならない事態でもある。

 

 しかし、デュナスモンが興味を抱いたのは、もう一体の従者の方だった。

 

 いや、従者ではないだろう、と彼は考え直した。デスモンともスカルサタモンとも、余りにも異なる風体をしていたからだ。

 加えて、このヴァルハラ宮の騎士道文化的な典麗さと比しても、甚だ異彩を放っていた。

 

 それは立烏帽子と束帯を身に付け、首元と肩に太極図をあしらっていた。その姿は、さながらリアルワールドにかつて居た陰陽師である。しかし墨染めの指貫から覗く剥き出しの足は三本の爪を生やした毛深い獣のもので、烏帽子の下にある面は無論人間のものではなく、狐そのものだ。

 色合いは暗く、陰影を纏わり付かせているようである。

 

 (東方の者だな。何故こんな連中に同伴しているかが分からんが)

 

 だがデュナスモンが思案するよりも前に、神経に障るような高笑い――金属の表面を引っ掻くような嗤い声がけたたましく響き渡った。

 

 「キヒヒヒヒャ、デスモン様、こりゃまた珍しいお方がおいでになりましたよ」

 

 「クカカ、貴様ハ確カ・・・・・・でゅなすもんダッタカ。司令官殿ガオ出迎シテクレルト思ッタガ、コレハマタドウシテドウシテ。中々来ラレヌヨウナ名所ニハヤハリ足ヲ運ブ価値ガアルトイウモノヨ」

 

 黄疸に侵されたような単眼が、瞬きもせずにぎょろついた。隠しもしない高慢さの滲み出る哄笑は、枯れ木がへし折られる破砕音に酷似しており、聞き取りにくい低声は、遥か地の底の闇から這い上がってくるような響きを伴う。

 

 「お前はデスモンだったか――マグナモンにやられたとかいう」

 

 公害と呼んで差し支えない声の応酬に、デュナスモンは聴覚センサーを切りたくなりながら言い捨てた。後半部はわざと声を大きくする。

 

 「ワタシハあーまー体如キニ遅レヲ取ルヨウナ出来損ナイデハナイゾ、クカカカ・・・・・・」

 

 「そうか」

 

 デュナスモンは一歩前に進み出ると、朗々たる声で言い放った。

 

 「量産型でも性能にそこまでばらつきがあるのか。良いことを聞いた。テストしてやろうか? 基準を満たしているかどうか」

 

 「な・・・・・・」

 

 雌黄の眼球が激しく歪み、びきびきと破裂音を伴って血走った。

 

 「き、貴様、ダークエリアに君臨する“破壊の堕天使”にあらせられるデスモン様に対して、何ということを! 不敬罪で裁判に掛けてくれるぞ!」

 

 「コノワタシニ対シ何タル口ノ利キ方! 貴様、誰ニ拝謁シテイルカ分カッテノ大言壮語カ! 減ラズ口ヲ更正サセテヤル!」

 

 漆黒の三爪が開き、掌底に埋め込まれた眼球が露わになる。

 同時に、スカルサタモンの構えた杖の先端で、宝玉が不気味な輝きを増してゆく。

 破壊の閃光が爆ぜた。

 

 「“デスアロー”!!!」

 

 「ダークエリアを漂う塵と消えてしまえ! “ネイルボーン”!!!」

 

 致死の矢が烈空し、その中央を目映い光線の束が真っ直ぐに貫く。

 一本、二本ではない。文字通り、矢継ぎ早に連射される。

 忽ち、空中は光で塗りつぶされた。

 

 「おっと」

 

 光線が放たれたその瞬間――それよりも早かったかも知れない――、デュナスモンは濃紺の双翼を大きく広げた。

 僅かばかり腰を落とすと、一瞬でその場から飛び立つ。

 否―跳んだ。

 天井すれすれの虚空で宙返りした彼の左手の爪の隙間を、濃紺の翼の僅かな切れ目を、角の間を――光線が縫う。

 

 的を外し、内壁に到達したそれは、しかし消滅することはなかった。

 光が刺さった場所から、壁に針が空けた程の穴が空き――瞬く間に、周辺部を錆色へと変えていった。

 須臾のうちに瞳孔が焼き付けた光景に、紅蓮の双眸がすいと細められた。

 

 (侵蝕された――? あんな攻撃如きに?)

 

 そう訝ったのも束の間、デュナスモンは思考を断絶した。

 曲芸飛行が始まる。

 閃光の飛び交う空中を、旋回し、巨躯を捻り、致死の矢と光線の束を完璧に避ける。コンマ一二秒のうちに光線の軌道と次に放たれる一撃の軌道を見抜き、同じくコンマ一二秒のうちに安全圏へと、精妙極まりない最小限の動きで躱す。

 張り巡らされる光のピアノ線の間を、白銀の鎧纏える竜人は潜り抜ける。

 

 極限まで高められた集中力と集中力の相克。

 ただ一体蚊帳の外にあった陰陽師は、眉一つ動かさず死地を見上げていた。表情はまるでない。

 ほんの、十数秒の出来事に過ぎなかった。

 当事者にとっては、極限まで濃縮された、永遠のようだった。

 永遠を抜けて、先に音を上げたのは、ダークエリアの眷属共だった。

 データ枯渇と蓄積された疲労により、徐々に矢勢が落ちてくる。

 息が上がりつつ、喉の底から悪声を絞り出す。

 

 「チョコマカトコザカシイ・・・・・・黙ッテソコニ居直レ!」

 

 「何ですかあいつは! 特別な力も使っていないのに、攻撃がまるで掠りもしないですよ! 軽業師みたいにひょいひょいと・・・・・・」

 

 対するデュナスモンは何の感情も抱かぬ様子で、やがて光の雨が止んだことを確認すると、ひらりと地上に降り立った。

 像の台座に風穴が何個か空けられているのがちらりと目に入ったが、やはり何ら感想を抱かない。

 

 「情けないな。二体掛かりで、しかも不正プログラムを使用しておきながら、この為体か。改良版の開発を提案する」

 

 「何を――」

 

  相手の反抗を遮って、デュナスモンは一段声を大きくした。

 

 「お前達、誰かの手引きで中から入ったものだとばかり思っていたが、どうやら、違うようだな。ロックを解除したのではなく――“破壊して”入って来られたのだろう?」

 

 沈黙。

 動揺の漣が広がる。

 それを微細に察知すると、デュナスモンは畳みかける。

 

 「お前の光線で、壁が蜂の巣状態になった。お前達如きの技で、あんな風に腐食するほどやわな造りはしていない」

 

 「ふん、どうだが――」

 

 「プログラムを仕込まれている以外にない。そう、“破壊”ではなく、二進数ならば問答無用で消去してしまうようなものをな」

 

 数秒の沈黙。

 スカルサタモンは杖にもたれ掛かってわなわなと震えていたが、やがてデスモンは、如何にも貫禄のある体を取り繕って高笑いを始めた。

 

 「クカカカ・・・・・・素晴ラシイ洞察力ダ、感服シタゾ」

 

  相も変わらぬ、不快感を呼び起こす嗤い声がデュナスモンの聴覚を聾する。

 

 「ソノ炯眼ニ敬意ヲ表シテ教エテヤロウ。ワタシトすかるさたもんニ組ミ込マレテイルノハ――Xぷろぐらむダ」

  デュナスモンが眉根を寄せた。

 

 「Xプログラム?何だそれは」

 

 「デスモン様、それ以上のことはいけませぬ」

 

 狐の道士が、沈黙を破ってささめく。

 

 「それを喋ってしまってよろしいので?」

 

 骨の堕天使も追従するように続く。

 が、意に介さぬ様子で、異形の堕天使は大袈裟に両手を広げてみせた。

 

 「マア良イデハナイカ。知ッタトコロデ関係ナイノダカラナ。コレカラ屍ヲ野ニ晒ス者ニトッテハ!」

 

 「さっきこそ躱されたが、貴様がバテて光線が掠りでもしたら、チーズのように穴ぼこになってしまうんだぜ、キヒヒヒャ!」

 

 「そうか。出来るかどうか、製品テストを続けてやろう」

 

 そう適当にあしらうと、デュナスモンは声を抑えて、ゴルゲットに挟んである端末に語りかける。

 

 「――聞いたか、ドゥフトモン」

 

 有り難い事に端末を預かっているので、第五の間にて侵入者の解析作業に取りかかっているドゥフトモンに伝えれば、別に自分が情報を抱え落ちた所で関係ない。

 尤も、くたばる自信など微塵もなかったが。

 端末はヴァルハラ宮で用いられる技術ゆえ、殆ど時間差が生じない筈だとデュナスモンは決めて掛かっていた。

 

 だが、応答がない。

 二秒経とうが、三秒経とうが、応答がない。

 真紅の双眸が怪訝に細められた。きちんと音声を拾ってもらえる程度に話しかけたつもりだったのだが。

 その時、仮想ディスプレイが虚空に浮かび上がり、無情な文言を表示した。

 

 『Out Of Range』

 

 (――圏外?)

 

 その一行が瞳孔に焼き付いた瞬間、思考回路を超速でインパルスが疾駆し、瞬く間に一つの答えを叩き出す。

 

 ――この一帯が封鎖されているのだ。

 

 今度は、金属の摩擦音に似た哄笑が聴覚を侵害した。

 

 「キヒヒヒャ、もしかして通信機器でも使おうとしたのか? 無駄よ無駄。ここら一体は既に異空間なんだからよ!」

 

 「やはりそうか」

 

 自分の推測が正しかったことを確認するや否や、彼は既に別の存在へと目を向けていた。

 

 「道士――お前の張った結界だな?」

 

 水を向けられた狐面の陰陽師は身じろぎもせず、何も言わない。

 

 デュナスモンは出し抜けに、掌底から炎を噴射した。

 

 それは敵のいる方角ではなく――四足歩行の龍の像の安置された、台座の足元目がけてだった。

 

 「クカカカカ・・・・・・何ヲシテイル! 気デモ狂ッタカ! ワタシ達ヲてすとスルノデハナカッタカ?」

 

 「さっきの軽業で疲れ果てて、愚行に走ったかよ!キヒヒヒヒャ!」

 

 外野が騒ぎ立てるが、デュナスモンは何も言わず、台座の足元に視線をやった。

 果たして、赤い炎の舌が、虚空に存在していたものを舐め取っている。

 舞い上げられ黒く炭化しているのは、文字が墨書きされた、朱塗りの符だった。

 

 「当たりか」

 

 ぱちぱちと手を叩く音、たじろぐ声が起こる。

 

 「お見事です・・・・・・デュナスモン様」

 

 「馬鹿な、どうやって見破ったというのだ!?」

 

 「隠行ノ術モ掛ケラレテイルハズダガ・・・・・・どうもん貴様、シクジッタノカ!?」

 

 「勘だ」

 

 そう流すデュナスモンだったが、あくまでもれっきとした知識に基づいた行動だった。

 開闢以来幾星霜、未だに謎と神秘に満ちた秘境と称されるデジタルワールド東方には、不可思議な術を操る術師が居るという。

 彼らが用いるのは主に、呪言を墨書きした符だ。結界を張る際には、四方或いは八方、厄災の出入りを防ぎたい箇所に符を張るという方法が採用される。

 この一帯が異空間、結界の中ならば、方角に沿って符を剥がしていけば元の空間に戻って来られるはずだ。

 

 今燃やしたのは、第一の間の入り口側を南として、真西に位置していた符である。最も自分の近くであり、尚且つ符を何枚使用していようが、ほぼ確実に配置されているであろう四方の一つであったので、試してみたまでだった。

 

 (厄除けの符とは違う。これは全方位対応の結界だ。だとすると、広間の少なくとも八方には符が配置されていることになるが――)

 

 道士は相変わらず無表情で状況を静観している。

 真に警戒すべき相手は誰か、デュナスモンには明白だった。

 

 「――面倒だな」

 

 心底面倒そうに、デュナスモンは構えの姿勢を取った。

 




あんまり全力でぶつかり合うバトルじゃなくてすみません。
追記ですがゴルゲットは鎧の首の部分です。首当てとかにしてルビふった方が良かったかな…


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